錬金術 / Heinrich Khunrath永遠の叡智の円形劇場(1609年版)
錬金術 / Heinrich Khunrath
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原刊全文を対象とする2598対訳単位。序論・注解とも365節の並列本文を収録、全299本文画像・297固有頁、原刊図14点。銅版60単位と本文等11単位に判読・補読・解釈上の留保がある。
肖像・標題・特許・献辞・序文
ライプツィヒのハインリヒ・クンラート、神的叡智の忠実な愛好者、両医学博士の肖像。われらの救い主イエス・キリストの誕生より1602年、42歳。

教えの忠実な子に。
ヤハウェ。
「私の恵みがあなたに十分であるように」。
導き手として。
注 最後の PRO DUCE は机上の筆記板にある文言。神の言葉は『第二コリント』12章9節を踏まえるが、原図の動詞 sufficiat を保持した。
神よ、あなたは若い時から私を教えてくださいました。それゆえ私は、あなたの驚くべき業を告げ知らせます。詩篇71篇17節。
注 机上の開かれた本の文言。画像では上下逆向きに描かれている。
神学。錬金術。魔術。カバラ。医学。聖書。
注 肖像左下に描かれた蔵書の背・表紙の題名。MEDICINA は円形枠で一部が隠れるが、三行に分かれた可視文字から読める。
詭弁家よ、この人の書物を非難するな、と私は言う。
そなたの仕事は、ハインリヒの円形劇場に道を譲れ。
彼は聖なる神的力の促しによって、正しくこれをなし遂げた。
この書かれたものは、けっして真理に背かない。
彼は純粋な叡智を守り、飾り、
傷つけられた叡智を回復し、濫用を清めて光を与えるからだ。
生ある間に、人と神に仕えようと望んだ。
クンラートの名とその兆しが、ともに響き合うように。
「計画において偉大な者」として、ヤハウェの賜物を称えるように。
最後に残るのは、モモスの嘲りを軽蔑し、
このように書き続けて、多くの人の役に立つことだけだ。
彼は才に恵まれ、術によって磨かれているのだから。
M・アンドレアス・リッキウス。
注 行頭の頭文字による折句は CONSILIUM DEI(神の計画)。MAGNUS CONSILIO と KHUNRATH の名を結びつける語遊びを原文のまま収録。
カンペンのヨハン・ディリクスが彫刻。マクデブルクにて。
唯一真なる永遠の叡智の円形劇場。
キリスト教カバラ的、神的魔術的、また自然学・錬金術的であり、三重の三一にして普遍的なもの。
導く者は、ライプツィヒのハインリヒ・クンラート、神的叡智の忠実な愛好者、両医学博士。
ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ。
悪魔よ、退け。
幾千人のうち、ひとりにさえめったに与えられない。

ヨッドの一字から、ヤハウェの四文字名へと展開する神名。
堅忍することによって。
これらは確かに、エロヒムの神的な力なしには成らない。
注 上部三角形では神名の文字が一字、二字、三字、四字の階段状に配置される。ヘブライ文字の母音点は省いた。円形の銘は肖像を囲む。
シェメシュ、太陽。
エシュ、火。
カオス。マグネシア。
傍らにあれ。
ルアハ・ホフマー・エル、神の叡智の霊。
〔右上の小さな三角形二つの内部の極小文字は、確実な判読に至っていない〕。
注 太陽・炎・左柱頂の球体・左右の柱の札・右柱頂の三角形に分布する文字。未確定の文字は図を保持し、推測で補わない。
祈ることによって。働くことによって。
驕ることなく。怯むことなく。
尊い記憶のために。称えられるべき不滅のために。
注 左右対称の飾り札の語句を対応順に収録。左の語は TEMERE ではなく TUMIDE と判読した。
モモスの腹わたも張り裂けるがよい。
1602年。
嫉妬は徳の伴侶である。
注 帯の銘、左右の年記、紋章を囲む銘。モモスは非難・嘲笑を人格化した神。
下にあるものは、上にあるもののようである。
神の霊、天を仲立ちとして。
太陽。メルクリウス。月。
皇帝陛下の特許を得て、初版印刷の日から十年間。
注 下部の景観と星・惑星の対応。MERCURIUS は惑星・神格・錬金術原理を兼ねるため、ここでは「メルクリウス」とした。
皇帝特許の要旨
神聖なる皇帝陛下の特許により、銅版師、彫金師、彫刻師、印刷師、書籍商、その他いかなる書籍取引に従事する者も、ライプツィヒの医学博士ハインリヒ・クンラートの著作と図画を、本人またはその相続人の意向と同意なしに複製してはならないと定める。これには、ラテン語およびドイツ語による医学、錬金術、カバラ、その他多くの秘伝に関する作品で、他所から収集したものも、自ら著述・考案したものも含まれる。なかでも『唯一真なる永遠の叡智の円形劇場――キリスト教カバラ的、神的魔術的、自然学・錬金術的、三重の三一にして普遍的なもの』などがこれに当たる。各版の初刊日から数えて十年間、神聖ローマ帝国および陛下の世襲の王国・領地内では、同じ字体・形式でも別の字体・形式でも、全部または一部を模倣・再版し、他所へ再版のために持ち出し、あるいは他所で彫版・印刷されたものを持ち込み、公然または密かに販売・頒布することを禁ずる。
これに反して、この皇帝特許と禁止を侮り、無視し、または無謀にも侵害しようとする者は、そのように不正に再版され持ち込まれた冊子をすべて没収される。クンラート、その相続人、または彼らの代理人は、それらを発見した場所で、この件に関してわれらが与える権限により、または当地の役人の助力によって、これを差し押さえることができる。さらに純金十マルクの罰金を、詐欺を処罰する皇帝国庫と、前記博士またはその相続人の利益のために、等分して納めなければならない。この処罰は免除されないものと定める。
プラハ、1598年6月1日。
注 歴史的な出版特許の本文を訳したもの。ここに掲げる十年間の特許は、現代の著作権表示を意味しない。marchæ は当時の重量・計算単位であるマルク。
ルドルフ。
神聖なる皇帝陛下の直命により
A・ベンク。
赤い封蝋による皇帝陛下の印章を添える。
永遠にして目に見えず、ただひとり賢く、あらゆるもののうちで最善であり、無限かつ全能である方、
יהוה אלהים צבאות〔万軍の神ヤハウェ〕、
神々の神、存在するものすべての存在、一にして三である方に。
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。
父と、時が満ちて受肉された子イエス・キリストと、聖霊に。
宇宙全体にある、創造され形づくられたすべてのものの、永遠の作者、保全者、統治者に。
自らの普遍的でこのうえなく慈悲深い主、庇護者に。子として畏れ、ひたすら愛し、もっともへりくだって礼拝し、ふさわしい献身をもって永遠に正しく賛美すべき方に。
注 ヘブライ語の母音点は省いた。JHSVH はカバラ的な五文字のイエス名をラテン字で表した表記。
第二に、畏敬すべき、天の軍勢すべての強大な霊的な軍団に。すなわち、神より私に賜わり、教え守るその務めをもって進んで私に付き添う、火炎のようなヤハウェの奉仕者たちに。
第三に、自らの忠実な隣人のひとりひとりに。すなわち、神と真理と術を愛する隣人〔ギリシア語の複合語と、それを言い換えるドイツ語〕に。何にもまして愛すべき人々に。
注 ギリシア語複合表現は印刷の分綴に従った。ドイツ語は意味を重ねて説明している。
第四に、自分自身に。すなわち、主がきわめて惜しみなく委ねられた賜物の力量に応じて勤める、神の僕、その道具である自分に。この言葉が自慢とも誹謗とも受け取られぬように。
第五に、いと聖なる聖書全体に。教え、戒め、正し、義において訓練するのに役立ち、神の人が完全になって、あらゆる善い業に備えられるようにする聖書に。
〔傍注:『テモテへの第二の手紙』3章16節〕
第六に、驚くべき自然に。全宇宙でエロヒムに仕える自然に。また、その子、「哲学者たちのマグネシア」と呼ばれるものに。けっして嫌忌すべきものではない自然の神的な力と光に、仰ぎ見るにふさわしいその力と光に。
そして最後に、
注 原文は括弧の閉じ方が不整合。「自然の子」と「自然の神的な力と光」との関係は、この長い献辞の構文に従って訳した。マグネシアを現代化学の酸化マグネシウムとは同定しない。
第七に、神についてのもっとも喜ばしい知らせを地上に広める、ひとつひとつの学問と術に。とりわけ、いっそう高く秘奥に属するもの、すべてを試す火の助けによって、分離と結合の術で遂行されるものに。
注 Spagyricè はスパギリアの方法によって、すなわち錬金術的な分離・結合の術によって、という意味。
唯一真なる永遠の叡智の円形劇場。
また、その叡智に、あたかも聖なる奥の間で仕えるきわめて貞潔な乙女たちのように寄り添うもの、すなわちカバラ、魔術、錬金術の円形劇場でもある。地上のあらゆる善い学問、また人類に役立つ術のうちで、この三つより尊厳があり聖なるものはなく、その大宇宙的・小宇宙的・神的な用途と実りが、この世でも永遠にも救いをもたらすという点で、これらに勝るものはない。
それらは祈りの場と作業の場において、大宇宙と小宇宙にかかわる驚くべき多様な技を尽くし、このいと聖なる驚異の女主人に、きわめて賢く、真の神的叡智と哲学によって仕える。いっそう聖なるキリスト教哲学こそ唯一真なるものだという、その真理の規準に従って、またルアハ・ホフマー・エル〔神の叡智の霊〕の導きと助力により、真理の代わりを偽って務める忌まわしい詭弁の悪魔的な仮面から、必要な浄化を受ける。そして普遍的な巧みさにより、原型を手本として純粋に形を改められ、本来の三一的で普遍的な単純性と善性へ、ふさわしく回復・再建されたものなのである。
注 献辞から続く書名の長い修飾句。三つの術を「叡智」に仕える乙女として人格化している。
キリスト教カバラ的、神的魔術的、また自然学・錬金術的であり、三重の三一にして普遍的なもの。
すなわち、ここでは神的叡智と哲学を通して、真の叡智と、その探求、つまりいっそう純粋な哲学の泉が教えられる。自然の本質的な神的力と光は、大宇宙には普遍的に、その子である賢者たちのマグネシアには集約され、普遍的かつ実在的に存する。それらを真に理解する源泉、また神が私たちの心に自ら記された権利・律法を理解する源泉が示される。聖書を巧みに理解し正しく解釈する方法の流れ、さらに生命の樹、善と悪、正しいことと醜いことについての知の流れも示される。
注 tertriunum は著者が反復する「三重に三一である」という象徴的形容。本書では一貫して「三重の三一」と訳す。
この著作は理論的であるとともに実践的であり、目で確かめた経験がその証人となる。モモスとゾイロスよ、立ち去れ。これは真に卓越した作品で、あらためて校閲され、四枚の円形図とその他の象形図を円形劇場のかたちで備える。図は銅に巧みに彫り込まれている。
真理はいたるところで、人目を憚らぬもっとも不正な暴力にさらされ、誹謗の重みに疲れ果ててうめき、悲しいことにほとんど倒れようとしている。本書は、この真理をできるかぎり滅亡から救い、立ち上がらせるため、また他の善良で勤勉な人々にも同じ試みをなし遂げる、非難されるべきでない契機を与えるために世に出された。敬虔な心から、キリスト教世界の共同の使用と利益のために、必要に迫られて、いまようやく、ほとんどようやくというほど遅れて公刊する。ただし、私の願うように十分よくできているなら、それでも十分早いのである。
注 モモスは非難・嘲笑の神、ゾイロスは古代の辛辣な批評家。ここでは敵対的批評の象徴。
真の叡智において、誰に、何が、どこで、何の助けによって、どれほどの間、なぜ、いかにして、いつ、可能となり、またなされるべきかを、キリスト教的に教える。また、来世でも現世でも実りをもたらす人間の至高の善、神の特別な賜物であり、三重の三一にしてもっとも普遍的なもの、すなわち次のものを教える。
ヤハウェと、その遣わされたイエス・キリストと、聖書の書という三一のものについての、認識、親縁、合一、享受。
三一である自己自身についての認識。
大宇宙と、それが与える子、すなわち賢者のマグネシアという、ともに三一であるものについての、認識と享受。
つまり、正しい叡智によって、透明な鏡の中のように、三つである全体を普遍的に示すのである。
注 原刊では三欄の表状配置。左から「神と聖書」「自己」「宇宙とその子」であり、欄の対応を保って順に訳した。
その隠された秘義を啓示する三一の鍵は、光の父が神的な慈悲の宝庫から惜しみなく授けられた範囲において、この著作の著者のもとに、しかるべく留め置かれている。その鍵は、聖く公平で正しい三一の法、すなわち信仰、正当な沈黙、善い業という法のもとでのみ与えられる。これらは、少なくとも感謝する心には当然かかわるものである。
その鍵を受けるべきは、鍛錬と教えの子、いと聖なる叡智を志す者、清廉で忠実な、愛される相続人だけである。聖なるものを犬に与えたり、悪魔性に深く取り憑かれた豚の前に真珠を投げたりしてはならない。すべてがすべての人に適するわけではない。何を、誰に、どこで、なぜ、どのように、いつ、どれほど与えるかという区別がある。
感謝、畏敬、愛、祝福、傾聴、驚嘆、当然の尊敬を表すために、もっともへりくだって聖別し、務めとして献じ、友として差し出し、しかるべく捧げ、敬虔に託し、深い敬意をもって贈り、熱心にここに置く。
ライプツィヒのハインリヒ・クンラート、神的叡智の忠実な愛好者、両医学博士。
霊感を吹き込み、燃え立たせ、励まし、与える三一のヤハウェに教え導かれた、発見者にして著者。
神の約束に従ってメシアが遣わされてより1604年。
ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ。悪魔よ、退け。
三度も四度も、あらゆる誹謗者よ退け。ひとりの例外もなく。
一にして三であるヤハウェに、賛美、誉れ、栄光あれ。アーメン。
注 この献辞の日付は1604年。巻全体の刊年1609年とは区別する。utriusque medicinæ は著者の「両医学」博士という称号として保持する。
好意ある読者にご挨拶を
親愛なる、好意ある読者よ。ここに、円形劇場というこの卓越した著作を、完全な、仕上げられたかたちであなたに差し出す。著者であるライプツィヒのハインリヒ・クンラート、両医学と哲学の博士は、この著作において、神的・人間的・大宇宙的・小宇宙的な叡智、すなわち神的魔術、キリスト教カバラ、自然学・錬金術にかかわる叡智を、驚くべき勤勉さで万人の前に掲げた。目で眺め、心で観想し、祈りの場と作業の場において行為によって追究するためである。
著者自身は早すぎる死に襲われ、わずかではあるが未完成の部分を残した。臨終に当たり、死後のこの著作を私の手で出版するという重荷を、到底それに堪えない私の肩に負わせたのである。私が彼ときわめて親しく交わっていたためであり、また、この著作を刊行する計画と、彼が遺した他の秘事とを私にも知らせていたためでもあった。
そこで私は、彼が出版を心から望んだかたちはこのようなものだと、正確に理解したとおりに世へ出すべく、熱心に努めた。多くの点で万人を満足させられなかったとしても、この企ての大きさを考えていただきたい。そして、それ以上に優れた仕事をなさるがよい。
なお、この著作の目的について、短く注意を促しておこう。人間の心が、知ることを生来どれほど切実に望んでいるかは、誰もが認めることである。学問のために、いったい何巻の書物が繙かれ、いくつの苦労が耐え忍ばれ、いかほどの費用が投じられ、どれほど夜を徹した研究、不眠、労苦が費やされることか。それらの果てには、空しさや欠乏、しばしば衰えた体力や心の錯乱さえある。影にすぎない哲学へ至る道と入口を、人間の理性はこれほど困難なものとして示すのである。
だが、本書の神的叡智は違う。第一に、これほど多くの労苦と費用を要しない。叡智自身があなたに語るのを聞きなさい。「叡智を愛する者は容易にそれを目にし、求める者はそれを見出す。叡智は自らを慕う者に先んじて姿を示す。夜明けからそれを求めて目覚めている者は苦労しない。自分の戸口に立つ叡智を見出すからである」。
第二に、叡智はそれほど多くの苦労に取り巻かれてはいない。「叡智との交わりには苦みがなく、ともに暮らしても倦むことがなく、喜びと楽しみがある」。したがって、私たちのこの叡智はもっとも容易であり、おのずから与えられる。神の真の賜物は、すべてこのようなものである。これに対して、世の欺き、幻惑、妄想、悪魔の詭弁は、多くの労苦と費用を要する。
〔傍注:『知恵の書』6章13–15節、8章16節〕
注 聖書の章節は原刊の表示を保持し、現代の版の節番号へ無断で置換しない。
最後に、この著作を軽蔑しないよう勧めたい。まだ読んでいないものを裁き、理解していないものを侮るのは、愚かで浅はかな者のすることである。尋ねよう。あなたが星々を識別できないからといって、星々を軽蔑してよいのか。豊かな母なる大地が与える植物について、その徴と隠れた力を見抜けないからといって、投げ捨て踏みにじってよいのか。人間の知性は、役立たずで愚かしい産物をどれほど生み出すことか。それなのに、あなたはしばしばそれらに蔵書の第一の場所を与え、あなたの哲学の食卓では上座に着かせている。
ゆえに、この円形劇場があなたの目に示すのは、飾り立てた哲学や愚かな哲学ではなく、唯一真なる永遠の叡智の饗宴であることを忘れないでほしい。これを無視して侮れば、あなた自身に大きな害と滅びを招くであろう。
健やかであれ。この円形劇場を享受し、神の認識、自己自身の認識、自然の識別へ、魂の照明、霊の純潔、身体の健康へと進まれたい。
名高いシュトルベルク伯領、ブロッケン山の近くのヴェルニゲローデにて。処女による救いの出産の年1609年3月15日。
エラスムス・ヴォルファルト、敬具。
注 Bructerus はここではハルツ地方の山を指す地名。署名末尾の S. は挨拶の省略形と解した。
テオフィルス・アレティウスの頌詩。名高いライプツィヒのハインリヒ・クンラート先生、両医学博士にして、真の叡智とその探求の復興者による、あの偉大で驚くべき円形劇場に寄せて。
神の言葉の隠れた秘義を、
誰かがいっそう深く見つめ、その奥へ身を入れるなら、
そこには人と天上のものとの交わりばかりが見えるだろう。
これほど大きな恵みに祝福された魂は幸いである。
死すべき身体にありながら天使の言葉を聞き、
人間の胸のうちに神の声を感じるとは。
その日々はどこへ去ったのか。天上の者が降りてくる、
天の黄金の梯子はいまどこに隠れているのか。
誰が聖なる入口を開き、神聖な力のもとへわれらを導くのか。
そのようなことを目指す者は、信じてほしい、険しい道を歩む。
星々の光に住む神的な力が、
誰の目にも明らかに映るわけではないからだ。
けれども、かつて天使の知性が人との交わりを喜んだと信じるなら、
そこには秘められた術があるのだろう。古の父祖たちはそれを知っていた。
だがそれは沈んだ。太陽が深い大海へ沈むように。
やがて形をなさぬ闇と癒しがたい迷いが力を増し、
偽りは冥界から頭をもたげた。
叡智の濁りない泉とは、神聖なカバラ、
サバの乳香の香りをまとったマギたちの保つもの、
そして、緑なるものと、秘められた融ける塩とが名を与えたものである。
神の力によらずに、この三重の叡智を得る者はいない。
神を語り、星を知り、医するディアナなる叡智を。
神の息吹なしに、偉大で高き者となる者はいない。
三一の叡智はひとつの祝福された泉から流れる。
天上の息吹、万物に浸透する知性の泉から。
それは大地を生かし、海、星々、空気を満たす。
平和の王が私の証人となろう。
その胸に、海岸の砂ほど多くの叡智の宝石を保ち、
その心に、叡智が高い城を築いた王が。
注 Theilogam は印刷どおり。通常の theologam に相当する語と解する。VIRIDE と SAL fusile は錬金術への婉曲な指示だが、具体的物質名へ置換しない。「平和の王」はソロモンを指す。
この王は幾度、心の底から溜息を重ねて、
レバノンの山から美しい鳩を呼び寄せたことか。
ただひとりの生涯の伴侶として選んでいたからだ。
「わが愛する者よ、来たれ。そなたのもっとも親しい花婿、
エルサレムの王が願う。聖なる神的な力にかけて誓おう。
私はそなたに忠実で貞潔な夫となる」と。
アブラムは、目の前で語るヤハウェの言葉に頼ってこの叡智に熟達し、
カルデアの民のもとを離れ、これをエジプトにもたらし、
イドマヤの地にも明かした。
ヤコブよ、これによって事物を知る学がそなたに明らかになり、
ヤハウェ、神の梯子、開かれた天の王宮が見えた。
そなたは斑のある子を生ませて群れを満たす。
ラケルの子もこれを保った。エジプトの王の天来の夢を
慎重に解き明かし、来たることを知る預言者として、
神秘の杯を通して未来を告げるときに。
エジプトの宮廷で育ったモーセも、この叡智を飲み込んだ。
後にこの光と神的な光の双方に輝いて、
二重の光で、ヤハウェそのものの前に立つことができた。
まだ清廉で、醜い貪欲の罪に染まらなかったバラムも、
これによっていと高き神の秘奥を正しく探り、
民に聖なる祝福を与えるすべを知った。
アラビアの賢明な女王は、これによって謎を出した。
それ以上賢い王はいなかった、イサクの子孫の王に。
これによってダニエルはマギに勝り、
ペルシアの王の学府は、教えを受けた彼を高めた。
彼は二人の王にきわめて悲しい運命を宣告した。
一方は王位から落ち、もう一方は獣のようになった。
注 詩中の聖書人物の順序・地名は原著のまま。ラケルの子はヨセフ。「二人の王」の記述は『ダニエル書』のベルシャツァルとネブカドネツァルを暗示する。
三たび偉大なるヘルメスは、これによっていかに大きな名声を得たことか。
この叡智は神を礼拝し、キリストの揺り籠を訪れた。
ロイヒリンは『驚くべき言葉』によって、同じ叡智を教えた。
慧眼のアグリッパは驚くべき言葉でこれを伝え、
スイスのヘルメス、ムーサの子もこれを伝えた。
愚者には嫌われ、賢者には大いなる光であり、
その叡智は人間の感覚さえ超えている。
ドイツよ、このケルススというポイボスを得たことを喜べ。
ステラトゥスも蜜のような詩にこれを収める。
これこそ、信じてほしい、あの知なのである。
自然の真の光と、広大な世界の隠れた力を開き示す知。
これはもっとも明るい光である。
これなしには、万物は深い闇に沈んで横たわる。
これがそなたの松明、この光が先導者となって、
あらゆる事物の隠れた奥の間へ、すみやかに導くだろう。
かくしてそなたは、この驚くべき劇場をむなしく重くする者でも、
怠惰な観客でもなく、探究者、そして演じる者となる。
いつも外をさまよう客ではなく、もっとも親しい客となる。
この知はまた星々の運行と力を明らかにし、
事物の変転を探って、定められた時を記す。
注 「スイスのヘルメス」「ケルスス」はパラケルススを指す。ポイボスはアポロンの別名。Stellatus はここでは著者名として保持し、確実でない同定を加えない。
この知によって風の力と海の潮が知られた。
作物の誕生と生命はどこから来るのか、事物は何によって成長するのかを教え、
大地の鉱脈から宝を取り出すことを教える。
この知は万物の三つの原理を解き明かす。
これは神的叡智の説得の力であり、それらに勝るものがあるなら、その力でもある。
神を父として生まれた女神、神々の花嫁、
賢者の群れが敬う、万物の母である。
女神よ、医術はそなたの発明である。そなたの神的力に追われて退くのは、
身体を緩ませる水腫、結節をつくる痛風、
悲しいことに生きた身体を屍のように汚す、不潔な癩病、
咳を伴い、熱い炎で奥深くの乾いた骨を食らう消耗病、
急激な卒中の体液、
ヘラクレスの病の、口を汚して荒れ狂う恐怖。
そなたは、これまで征服されなかったこれらの怪物を打ち破り、追い払う。
やさしい母よ、ようこそ。長く待ち望まれた光よ、ようこそ。
そなたはついに来て、天から雲を払いのけた。
注 疾病についての称賛は歴史的な著者の主張であり、治療効果を認定するものではない。「ヘラクレスの病」は伝統的なてんかんの呼称。語義の歴史性を残すため、現代の個別診断へ一律に置換していない。
ハインリヒよ、この叡智ひとりを友に選んだことを、私は祝う。
医神の子らたる賢者たちの不滅の誉れよ。
神に喜ばれるカリスたちの子、神的なプロメテウスよ。
天にふさわしい者よ。そなたは新しい円形劇場で、
古のすべての劇場にもほとんど見られなかった驚異を世に出す。
怠惰な嫉妬、愚かな蛙の声、冥界の嘶きは、
いっそう善い前兆の前に退け。
ああ、その仕事の幸いなこと、汗の甘さ、配慮の祝福されたこと。
ああ、実りの豊かさ、長い道の苦労さえ、なんと喜ばしいことか。
そなたのために黄金の、宝石のような粉が生まれるとき、
それはそなたを天上の者たちの光のうちへ置くであろう。
ムーサたちの誉れ、わがピュラデスよ、ネストルの歳月を生きよ。
健やかであれ。医学、錬金術、神聖なカバラの頂を越え、
もっとも高い頂点を据えるまでは、
地を去って天の住まいへ昇ることのないように。
長く生き、確かに健やかであり、幸いに死を迎えよ。
注 gemmaneus は原刊の語形を保持。「宝石のような」と解した。ピュラデスは忠実な友、ネストルは長寿の象徴。
ライプツィヒの名高いハインリヒ・クンラート先生、両医学博士、卓越した当代第一の哲学者、敬愛すべき後援者による『円形劇場』の刊行に寄せる短詩。
あら探しを喜ぶ者よ、ここでは何もあら探しをするな。
あらゆる仕事は、この自然の円形劇場に道を譲れ。
至高の医師クンラートが、神的な促しと真理への愛によって、
深い理解から引き出し、築いたものである。
彼は叡智の聖なる用い方を照らし、
倒れた叡智を回復し、損なわれた部分を清める。
この力量で彼に匹敵する者は世にいない。
獅子は爪によって知られ、彼はこの神的な術によって知られる。
書物が広まれば、そこからもっとも大きな栄光が生まれるだろう。
神の賜物はさまざまだが、これは確かに高貴な賜物である。
十万人、あるいは十万人を超す人々のうちでさえ、
これほどの才を得る者はひとりいるかどうかだ。
M・ツーベル、桂冠詩人。
注 各詩行の頭文字を連ねると CONSILIUM DEI(神の計画)となる。日本語では意味を優先し、この折句は原文に保持する。P. L. は poeta laureatus の省略。
もっとも名高く学識豊かなハインリヒ・クンラート先生、著名なる両医学博士の円形劇場について。
世界の外から世界全体を見つめたい者、
自分の外へ出て自分を知ろうと努める者は、
古の荒れ果てた劇場や、
その見世物によって空虚になった新しい劇場へ行く必要はない。
むしろ不浄な世界を脱ぎ捨て、自分自身も脱ぎ捨て、
行く手を絡め取る霧を逃れよ。
そしてクンラートよ、そなたの劇場の舞台へ降り立て。
天上の善い火の小さな炎を先導者として。
そこでは神聖な叡智が、エメラルドの鏡によって、
大宇宙が何をし、小宇宙が何をするかを示す。
ヘルメスの万能薬と、アスクレピオスの衛生の女神が治め、
どちらも、ふさわしい者たちに、ふさわしい富を与える。
自由なる天才の子クンラートよ、嫉妬が憤っていても、
そなたはそれらを広く開かれた劇場で明らかにする。
そのまま進め。そなたの劇場の基礎は堅固にとどまるだろう。
大宇宙があるかぎり、小宇宙があるかぎり。
ザクセン選帝侯の教会政務秘書ヨハンネス・ゾイシウスが、もっとも親しい友に、尊敬と愛をこめて献ずる。1604年3月15日、ドレスデン。
注 オルケストラ orchestra は古代劇場の舞台前の空間を指す。ここでは入場する場として「舞台」と訳した。
神的叡智を愛する者から、影にとどまる哲学者への呼びかけ。テオドルス・アクィリヌス、桂冠詩人。
詭弁家よ、なぜ捨て去った空虚なムーサたちを、
私の関心のうちへ呼び戻すのか。
神に献げられた胸は、詩の女神たちを拒み、
アポロンにも開かれてはいない。
かつては、そのような愚かな思い込みがあった。
見せかけ、闇、夢にすぎぬものが。
デルフォイの洞穴から、耳の聞こえぬポイボスを呼び出し、
ムーサたちを神と呼び、
神の賜物として与えられた語る力を、
泉や林や山々に求めるという思い込みが。
いまや別の力が心を動かす。さらに偉大な神が、
別の生き方を求める。
人からご自身の賜物を取り戻し、
生命の父のために生きることを求める。
暇であれ仕事であれ、空しいことや
作り話の書物に身を委ねるのを禁じ、
ご自身の法に従い、ご自身の光を見ることを求める。
哲学者や弁論家の巧みな術、詩人の虚構が、
それを曇らせようとしていても。
彼らは偽りに偽りを重ねて心を染め、
舌だけを鍛える。
救いをもたらすために、真理を明らかにするものを、
何ひとつ差し出さない。
注 Qui corda falsis, atque falsis は原刊で同語の反復が見えるため、そのまま保持した。
最高の真理の根源、善の源泉であり火種である神を
保たない者が、いったいどのように善や真を保てよう。
誰もキリストのうち以外では、その神を見ない。
キリストは真理の光、道の中の道、
父の力、知性、手、働き、
正義の太陽、善きものの泉、神の花、
神から生まれた方、世界の創始者、
死すべきわれらの生命、死そのものの死、
そして徳の師である。
われらのための神、またわれらのために人となった方は、
われらを身にまとい、ご自身を脱ぎ捨て、
人と神との間に、また人々相互の間に、
永遠の交わりを結ぶ。
この方が天からの輝きをわれらの胸に投げかけると、
怠惰な身体にこびりついた病める汚れを拭い、
心のあり方を新たにする。
清らかな喜びとの交換に、以前楽しんでいたものをすべて取り去り、
主の権利によって、われらの心、口、時間のすべてを、
ご自身のものとして求める。
ご自身が思われ、理解され、信じられ、読まれ、
畏れられ、愛されることを望まれる。
注 原文 Exhaurit omnes quod iuvabat antea は構文に不整合がある。対象を「以前楽しんでいたものすべて」と解して訳した。
この方のために時間をあけ、学び、身を献げ、
この方にすべてを託す者を、どうか、
怠惰だとか、心がねじれているとか思わず、
不信心だと責めないでほしい。
キリスト者に敬虔さが欠けることなど、どうしてあり得よう。
キリスト者であることは敬虔さの証拠であり、
キリストに服さぬことは不信心の証拠である。
両者は互いに照らし合う。
この名高い劇場の著作、まことに神秘に満ちた著作が、
そのことをそなたに教えるであろう。
永遠の一と三が、そなたの心に宿るようにせよ。
この善い終着点と目標を、これらの光景は示す。
それらによって、そなたは神を享受できるのである。
叡智の泉、至善至大なるキリストへの神的叡智の祈り。クリスティアヌス・コルダトゥスによる。
キリストよ、私を賢くしてください。
あなただけが父の叡智であり、あなたとともに知る者こそ、真に知る者です。
この深い暗闇で、誰が私に光を与えるのでしょう。
真の救いへ至る甘美な道を捉えるための光を。
あなたのもとに逃れます。あなたは人間のための光そのもの、
あらゆる被造物があなたを通して昼を知った方です。
私に自然の光を与え、闇を退けてください。
あなたの霊が、私たちの胸を照らしますように。
私はこれほどの誉れにふさわしくないと、確かに認めます。
キリストよ、私は惨めで、多くの罪を負う者です。
けれども、流されたあなたの血を信頼します。
その小さな一滴が、私の汚れを清めるでしょう。
あなたが私に生命をくださるなら、あなたの慈悲によって、
生命に必要なあらゆる恵みもくださらないことがあるでしょうか。
さらにあなたは、あなたの名によって父に求めるものは何でも、
確かに受け取るであろうと言われます。
私は自分の利益を求めず、空しい名誉を求めません。
あなたひとりが、私の誉れ、私の利益となるでしょう。
また、貪欲に眺めるような富も、私に与えないでください。
すべては滅び、世の富に堅固なものはありません。
私の企てに息を吹き込み、心を天上の火で満たし、
術から重苦しい影を取り去ってください。
キリストよ、あなたが道を示してくださるなら、
何も暗いままではなく、私は容易に自然の奥の間へ導かれるでしょう。
私は賛美の報いとして、大いなる感謝をお捧げします。
人間は、それ以上に大きな、あなたに返せるものを持たないからです。
注 Christiani Cordati は署名として保持。「心あるキリスト者の」という普通名詞的な読みも可能で、個人の実名と断定しない。
以下に続く序説の、全般的な導入と概観。
唯一真なる永遠の叡智の円形劇場、キリスト教カバラ的、神的魔術的、また自然学・錬金術的な円形劇場へと導くこの序説は、人類全体、すべての人々、その全員とひとりひとりへ、それぞれに、普遍的に向けられている。
唯一真なる永遠の叡智の円形劇場の概要。
キリスト教カバラ的、神的魔術的、また自然学・錬金術的であり、三重の三一にして普遍的な円形劇場。
ライプツィヒのハインリヒ・クンラート、神的叡智の忠実な愛好者、両医学博士。
第一の導入の前、18葉の位置に入れること。
注 折込の内容概観図。原刊の挿入指示も収録。以下の各単位は原図の括弧と欄の論理的な対応に沿って読む。

人よ、光の父なる神が引き寄せることによって、学べ。そもそも、そのためにこそ、そなたは世界に来たのである。
第一に、神と、その遣わされたイエス・キリストを認識し、聖書を理解することを学べ。
それを、神と、その遣わされたイエス・キリストと、聖書のうちに、またそれらから学べ。
自分自身のうちに、また自分自身から学べ。
大宇宙と、その与える子、賢者のマグネシアのうちに、またそれらから学べ。
第二に、自分自身を知ることを学べ。
自分自身のうちに、また自分自身から。
神と、その遣わされたイエス・キリストと、聖書のうちに、またそれらから。
大宇宙と、その与える子、賢者たちのマグネシアのうちに、またそれらから。
第三に、大宇宙と、それが与える子、哲学者たちのマグネシアを認識することを学べ。マグネシアとは、普遍的な、完全を超える哲学者の石のための、適切で完全な基体であり、錬金術の助けによる自然的再生を通して、完全を超えたものとなるべきものである。すなわち第一質料的であり、それゆえ普遍的かつ水銀的なものである。
これを、大宇宙と、その与える子、賢者たちのマグネシアのうちに、またそれらから学べ。この子は、その親と同一本質であり、その栄光の輝き、その第一質料的な実体の普遍的な刻印である。そのうちには、自然の充満がすべて、身体をもって、集約的・普遍的に宿る。
また、自分自身のうちに、そして自分自身から学べ。
神と、その遣わされたイエス・キリストと、聖書のうちに、またそれらから学べ。
注 ὁμοούσιος は後続ラテン語 Consubstantialis と同義で「同一本質」。原図の ☿ に付く形容語尾 iale を「水銀的」とした。
こうして、もっとも明るい鏡の中で見るように、また真の叡智の、三重の三一にして普遍的な、もっとも澄んだ泉から汲むように、聖霊がそなたに分かち与える賜物に応じて学ぶ。
キリスト教カバラ的に、すなわちキリスト教カバラの方法によって。
神的魔術的に、すなわち魔術、神的叡智の方法によって。この唯一の叡智は、善く、多様で、多くの形を持つものである。『エフェソ人への手紙』3章10節の「多彩なもの」、『知恵の書』7章22節の「多くの部分を持つもの」がそれを示す。それと同じく、その顕現の手段も善く、多数で、多様である。公にされたもの、秘められたもの、さらに秘められたもの、もっとも深く秘められたものがあり、高い哲学者たち、邪悪ではない者たちには、十分に知られ、巧みに観察され、敬虔に用いられる。
自然学・錬金術的に、すなわち自然と技の錬金術の方法によって。「自然に適った錬金術に従って」と、ドイツ語でもいう。
これらの方法を、この円形劇場は教える。
注 折込の原語 KABALICE を保持。本文に多い KABALISTICE と意味は同じ。
祈りの場で祈り、作業の場で働くことによって。
神的叡智をもって、三つである全体を知り、汲み取るであろう。神的なもの、小宇宙、大宇宙の全体を。
すべてを、すべてのうちに。
この世における至高の善、三重の三一にして、もっとも普遍的な善を。
そして、人よ、そなたのこのうえなく幸いな生命の終着点を。
これが叡智。これが最高の哲学。これがそこへ至る、神的叡智の、三重の三一の、普遍的で直線的な、唯一真なる道である。この道によって、他の善きものも、ああ、いかに無数で、いかに驚くべきものも、われらに加えられる。その他の道はすべて、表面だけにとどまるか、周囲を巡るだけか、あるいは偽りで無に等しい。
見よ。読め。観察せよ。理解せよ。詳しく調べよ。試せ。判断せよ。用いよ。享受せよ。
あらゆる石を動かせ。
エロヒムは、労苦を代価として、すべてを売り与える。
詩篇92篇。
4節。ヤハウェよ、あなたはその業によって私を喜ばせてくださいました。私はあなたの手のなされたことを歓び歌います。
5節。ヤハウェよ、あなたの業はなんと偉大でしょう。あなたの思いはきわめて深い。
6節。悟りなき人はこれを知らず、愚か者はこれを理解しません。
ルアハ・ホフマー・エル、神の叡智の霊よ、傍らにあれ。
ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ。
悪魔よ、退け。
繰り返し繰り返し、すべての誹謗者よ退け。ひとりも例外なく。
アーメン。
注 「あらゆる石を動かせ」は手段を尽くすことを勧める成句。引用の節番号は原刊に従った。ELOHIM に複数動詞 vendunt が続く原文の語形を保持。
この序説は、真の叡智の探求と正しく哲学する方法に属する、七つの正しい段からなる神秘の梯子にたとえられる。この梯子によって、神が呼び導き、守護の霊が促し、知性が協力し、正しく勤勉な労働が仕上げることで、神的叡智に基づく上昇が行われる。それは、真の叡智と、ヤハウェ自身がもっとも明白に是認される賢明な告知者との、真に賢い教えに従い、前記の円形劇場の門へ至る上昇である。その門は狭く、小さく、蔑まれていても、十分に尊厳と威厳を備えている。
最後まで堅固に持ちこたえる、教えの忠実な子は誰でも、この門へ、この門を通って、喜んで入るであろう。そしてその中で、三重の三一にしてもっとも普遍的な、かの至高の善を幸いに獲得する。第一に、神と、その遣わされたイエス・キリストの認識、および聖書の真の理解。第二に、自己自身の認識。第三に、大宇宙と、その与える子、哲学者たちのマグネシアの認識である。マグネシアは、普遍的な、完全を超える哲学者の石のための、適切で完全な基体であり、錬金術の助けを受けた自然的再生によって、完全を超えたものにされるべきものである。
第一のものは、神、イエス・キリスト、聖書のうちに、またそれらから。第二は、自己自身のうちに、また自己から。第三は、大宇宙とその子、賢者たちのマグネシアのうちに、またそれらから得られる。すべてをすべてのうちに得るのである。そのために人間は、三一のエロヒムによって、身体、霊、魂から成る三一のものとして組み立てられ、とりわけこの地上の楽園に置かれた。こうして獲得した善を、比類のない宝と褒賞として、神的叡智に即して享受するであろう。
注 ギリシア語の語尾・アクセントを通常の表記に整えた。意味は「宝と褒賞」。GENIUS と INGENIUM は原文で区別されるため、前者を守護の霊、後者を知性とした。
この序説を構成する節の数は、一年の日数と同じ、三百六十五である。真に叡智を学ぶ者が一年を通して毎日一節ずつ、精密な観想の秤にかけ、鋭く量り、勤勉な心で考察し、繰り返し反芻すべきものだからである。そうすれば、この救いをもたらす神的叡智の教えという心の食物は、いっそうよく、いっそう幸いに、魂の甘美な回復と、心のきわめて有効な滋養へと変わるだろう。
かくして一年をまるまる費やし、しかも光の父が遣わすルアハ・ホフマー・エル、すなわち神の叡智の霊の助けと支えによって、ただ表面を舐め、唇の先で味わうだけでなく、深く、繰り返し呑み込み、いわば味わい直し、真に、さらに言えば精髄そのものとして理解できるようになる。真の叡智と、この純粋に哲学する方法が、何であり、どのようなものであり、どれほど大きく、どれほど甘美であるか、そしてその教えがいちばん奥に何を育んでいるかを。
これは、特に入門したばかりの者にとって、一日、一週間、ひと月の労働や勉学ではない。経験に教えられ、真実を語る者の言葉を信じてほしい。
しかし、豊かに調えられたこのきわめて豪華な、いや神的叡智の食卓を、ふさわしく味わうのは容易ではない。まして、もっとも喜ばしく味わうには、その前に十分な火の照り返しと試練を受け、十字架の火によって十分に砕かれ、硬さから柔らかさへ導かれ、理解を与えるその苦難によって大いに鍛えられなければならない。また、悔い改めの涙の水によって、不純から清浄と潔白に至るまで、キリスト教的に洗われなければならない。さらに哲学者のやり方で、この不浄な世の虚栄をすっかり脱ぎ捨て、はるか後ろへ置き去りにし、この方法によって霊的なものとなって、この饗宴のためによく準備され、正しく整えられていなければならない。
こうして幾度も試され、厳しく吟味され、きわめて精密に検査され、ついに十分正直で堅固だと認められた者は、叡智そのものの教えの、忠実な子や従者の仲間に、正当に受け入れられる。その名簿に登録され、前述の荘厳な神的叡智の食卓にふさわしく席を占め、その宴の客として正しく数えられるのである。
さて、この七段からなる序説の梯子そのものの概要を以下に述べる。
注 reverberatio は火の照り返し・反射炉による加熱をも指す語。ここでは霊的試練と錬金術操作の比喩が重なるため、両者の含意を残した。
第一段の要旨
第一段は、賢者、すなわち真に完全な神的叡智の人に、また前述の叡智そのものに、貪るように、喜んで耳を傾けることである。ドイツ語で言えば「すみやかに、喜んで、楽しみと歓びをもって」ということである。この賢者は、神によって任じられ、権限を委ねられた、唯一真なる永遠の叡智の、壮麗にして王たる告知者である。
賢者と叡智はともに、人類への格別の善意に燃えて、全人類、すべての人々、全員とひとりひとりを、忠実かつ熱心に招く。まずは自らのもとへ、その後には神的な魔術、すなわち叡智を愛し、驚嘆し、学ぶことへと招く。すなわち、神的叡智に属する、いっそう聖なる、唯一正当で真なる哲学へと招くのである。
そして双方から重々しく述べられる理由により、敬意と献身をもって、入門したばかりの弟子がするように、異議を唱えずに従う。これが第一段である。
注 ギリシア語 ΜΑΓΕΙΑΣ に、ΣΟΦΙΑΣ とラテン語 SAPIENTIÆ という同義の説明を添える。著者が魔術を叡智と結びつける用法を保持した。
第二段の要旨
第二段は、神エロヒムの呼びかけと、光の父なる神が引き寄せる働きによって、この神的な種を受け取った後、幸いに始まった服従を、良心に逆らって抵抗することなく、堅固に続けることである。
そして唯一真なる永遠の叡智を、全心、全魂、全力、全精神をもって愛する。ひとりひとりが天より慈悲深く与えられ、分かち持たされた賜物に応じて、自らを余すところなく差し出し、委ね、内面のすべてから愛するのである。この叡智は、宗教においても、人類にきわめて有益なすべての学問・術においても、また正しい哲学においても、あらゆる真理、徳、善い知、真の認識と理解の、唯一で普遍的かつ永遠の起源、泉、基礎である。したがって、神的叡智に属する、真に聖なる、唯一正当で真なる哲学の母でもある。その叡智の探求を、熱烈に続けるのである。
これに対し、人間的、肉的、世俗的で、偽り、思い込み、あるいは叡智もどきにすぎないものは、すっかり捨て去るべきである。それは、高尚な言い回し、詭弁と説得の言葉、弁舌の巧みさ、すなわち修辞の飾り色に満ち、虚栄を求める雄弁で膨れ上がっている。使徒パウロは神の命令によって、これを避けるよう忠実に勧めている。
この偽の叡智は、神的で真なる叡智と競おうと驕り、高慢に自らを高め、誤った推論をもっともらしく語って欺く。悪魔的に生まれ、自らに似た道具であるその賛美者たちを通して、きわめて有害に広められる。偽造され、非嫡出で、むしろ冒瀆的なものであり、闇、悪徳、誤謬、誘惑、あらゆる混乱、偽の哲学の母である。この偽の哲学を、第三の天と楽園の秘義を知る、主の選ばれた器は、「空しい欺き、あるいは惑わし」と呼んだ。
真の叡智自身と、その王たる告知者は、ここでそれを生き生きとした固有の色で巧みに描く。人はそれを、あたかも屑を、それがふさわしい豚だけに渡すように、勝ち誇って捨て、自分からきわめて遠くへ隔てなければならない。諺にいう犬や蛇以上に憎み、最後の息まで厳しく嫌悪し、呪い、忌み嫌うべきである。
また怠らず不断に、力を尽くして他の人々もその崇拝から呼び戻し、戒め、わずかにも抱擁したり従ったりしないようにする。いまもつねにも避けるべきものを、早くから憎むようになるためである。
注 σκύβαλα は「屑・汚物」。偽哲学に対する強い罵倒は原著の修辞を保持したもの。
a 『コリント人への第一の手紙』2章4、5、13節。
b 『ローマ人への手紙』8章7節。『コリント人への第二の手紙』2章12節。
c 『コリント人への第一の手紙』1章20節、3章19節。
d 『コリント人への第一の手紙』2章1、4節。
e 『コリント人への第一の手紙』1章17節。
f 『コロサイ人への手紙』2章4節。
g 『使徒行伝』9章15節。『コリント人への第二の手紙』12章1、4節。
h 『コロサイ人への手紙』2章8節。
おお、まことに見事な子孫ではないか。
注 b の「2. Cor. 2. v.12」は原刊の表示を保持。この文脈では『第一コリント』2章12節が想定されるが、原文を無断訂正しない。末尾の感嘆は反語。
第三段の要旨
第三段は、ヤハウェの恵みによって、唯一真なる永遠の叡智が、何であるか、どのようなものか、いかに美しく、輝かしく、優れているか、またどれほど偉大なものかを知ることである。それは、いっそう純粋で健全で真なる哲学、いや、神的叡智の全体と正しく哲学する方法にとって、ただひとつの根、基礎、始まりであり、唯一で普遍的かつ永遠のものである。さらに、前述の真の哲学とは、厳密には何であるかを知ることでもある。
第四段の要旨
第四段は、誰が真の叡智を与えるか、どの博士または師のもとで、あるいはどこで、これを求め、見出すべきかを知ることである。叡智はどこから来るのか。どの書物で伝えられるのか。それらの書物において、初めからすべての被造物、とりわけ人間に、いくつの方法で自らを現してきたのか。
また今日に至るまで、大宇宙と小宇宙のいたるところで無数の仕方で姿を示すとともに、聖書のうちにいかに明白に現れるのか。とりわけ、偽りでない神的霊感によって、叡智の光線、神の霊によって実際に照らされている人々に、いかに現れるのかを知るのである。
注 SPIRITU DIVINI の語形は印刷どおりで、文法的には不整合がある。文脈上は「神の霊」の意と解した。
第五段の要旨
第五段は、真の叡智が誰に与えられ、誰には与えられないかを知ることである。誰がその真正で正統な忠実の学徒、すなわち正しい神的叡智の人・哲学者であり、誰が詭弁家か。いかにして、どのような探求または方法によって叡智を求めるべきか。叡智はどこへ来て、誰に分かち与えられるのか。何の助け、どのような手段をもって、いつ、いくつの方法で、ヤハウェの加護と承認のもとに、叡智を願い求めて受け取ろうとし、受け取るべきであり、受け取ることができるのか。
最後に、神より得られたこのいっそう純粋な哲学の高い秘義について、それを開示してよいのか、何を、誰が、誰に、なぜ、どのような重大な理由によって、どれだけ、いかなる法または条件のもとで、いかにして、どの場所で、いつなら、危険なく提示し、語り、教え、明かし、さらに伝達すべきなのか、あるいはすべきでないのかを知ることである。
第六段の要旨
第六段は、真の叡智の善と賜物とは何か、叡智の探求、すなわち真の哲学の鍛錬とは何かを知ることである。その正用、濫用、実り、目的は何か。そこから、どれほど大きく、どれほど多様な宝が、ヤハウェの意志に近く、それに従って、教えの子たちに確実にもたらされるかを知ることである。
注 原文末尾の perveniat は主語 Thesauri と数が合わないが、印刷どおり保持。
第七段、最終段の要旨
第七の、最後の段は、どのような種類の詭弁家であれ、塵ほども気に留めないことである。彼らは虚栄を愛し、偽りを求める。「空しいものをそれほど愛し、嘘をそれほど好む者たち」とドイツ語でもいう。彼らは誹謗によって真理に噛みつき、唯一真なる叡智、またそれから生まれた、この『永遠の叡智の円形劇場』における唯一正しい哲学の方法、すなわち神的叡智に属する正当な方法を、軽々しく侮り、断罪する。さらに、これを愛する忠実な従者、真理と叡智を敬虔に探す人々をも、同じように扱う。
むしろ彼らすべてを、寛大に、真の哲学者として、藁ほどにも思わず、怯むことなく、こちらからはひと吹きの息ほどにも値を置かないこと。そして、神がひとりひとりに与えた恵みに応じて、認識した真理を告白し、哲学的に擁護するために、進んで準備し、すっかり態勢を整えること。こうして真理を後世へ有益に伝え、しかるべく分かち与えることである。
さらに感謝しつつ喜ぶべきである。もはや迷路をさまよう、片目で、目のかすんだ、憶測するだけの詭弁家ではなく、永遠の叡智と真理に導かれ、真理の直線上を一切逸れることなく歩む、真に知る哲学者となったのだから。そしてついには、ごく少数の、神的叡智に教えられ、普遍的真理を見て知る者たちだけに、喜ばれる者となる。これはまことに、軽んじるべきでない真理のしるしである。
注 ne gry は「ごくわずかなものすらない」の成句。差別的な身体の比喩を含む論敵への侮蔑は、原著の歴史的修辞として訳す。
真理を軽蔑するがゆえに、あらゆる詭弁家の結末は、確かに悲劇的であろう。この世でそうならなくても、最後の審判では必ずそうなる。真理が暴力を受けているのを見る者、また真理のために圧迫される者は、みなその審判に訴える。
序説・全365句の二種のラテン語本文
序論。第一の段階。序説の第一段階。
旧訳、すなわち通行訳。
新訳。『箴言』はヘブライ語から、『知恵の書』はギリシア語からの翻訳。
節番号。聖書の参照箇所。節番号。
「わが子よ、聞け」とソロモンはいう。彼は預言者にしてイスラエルの王であるダビデの子、賢い王であり、唯一真実なる永遠の知恵を告げる偉大な伝令、誰にもまして卓越した者である。「わが子よ、私の箴言を聞け。知恵と訓戒を知り、分別の言葉を理解するために。」
「わが子よ、聞け」とシェロモーはいう。彼は預言者にしてイスラエルの王であるダビデの子、賢い王であり、唯一真実なる永遠の知恵を告げる偉大な伝令、誰にもまして卓越した者である。「わが子よ、私の箴言を聞け。知恵と教導を知り、理解の言葉を悟るために。」
そして、教えによる教育と、正義と、裁きと、公平を受け入れるために。
教導と理解、正義と裁き、正しき諸々の道を受け入れるために。
未熟な者に機敏な判断を、若者に知識と理解を与えるために。
単純な者に賢明な判断を、少年に知識と思慮を与えるために。
ここから知恵を学ぶからである。真の知恵を学ぶことの力、効用、成果。
賢者は聞いていっそう賢くなり、理解ある者は舵を手にする。
注 gubernacula は文字どおり「舵」。指導・判断の力の比喩を残した。
賢者は聞いて学びを増し、理解ある者は助言を獲得する。
注 gubernacula は文字どおり「舵」。指導・判断の力の比喩を残した。
箴言とその解釈、賢者たちの言葉とその謎に心を留めるであろう。
箴言と語られた表現、賢者たちの言葉とその謎を理解するために。
わが子よ、聞け。私の言葉を受け入れよ。そうすれば、あなたの生涯の年は増し加わる。
わが子よ、聞け。私の言葉を受け入れよ。そして、あなたの生涯の年が増し加わるように。
私はあなたに知恵の道を示し、公平の小道に沿って導く。
私は知恵の道を歩むようあなたを教え、まっすぐな小道を踏み行かせた。
その道に入れば、あなたの歩みは妨げられず、走ってもつまずくものはない。
歩むとき、あなたの歩みは狭められず、走ってもつまずかない。
私もまた父の子であり、母の目には幼く、かけがえのない一人子であったからだ。
私が父にとって幼い子であり、母の子らの中でただ一人の大切な者であったとき。
私も確かに、すべての人と同じ死すべき人間であり、初めに造られた者の土からの血統に属する。母の胎内で肉として形づくられた。
私も確かに、すべての人と同じ死すべき人間であり、初めに土から形づくられた人から生まれた者である。
十か月のあいだ、人の種と、眠りに伴う悦びとから、血の中で凝り固まった。
注 原文の古代的な受胎・形成の記述を訳した。
母の胎内で十か月をかけて肉として形づくられ、男の種と眠りに伴う悦びとから、血の中で凝り固まった。
注 原文の古代的な受胎・形成の記述を訳した。
生まれると、私も皆に共通の空気を吸い、同じように造られた地上へ降り立ち、皆と同じ最初の声を、泣きながら上げた。
さらに、生まれると皆に共通の空気を吸い、同じ不便と災いにさらされた地上へ降り立ち、皆と同じ最初の声を、泣きながら上げた。
私は産着に包まれ、多くの世話を受けて育った。
私は産着にくるまれ、養育の世話の中で育てられた。
すべての人は、生に入るときも去るときも、同じ境遇にある。『ヨブ記』10章10節。
王たちのうちにも、誕生の始まりが異なっていた者は一人もいないからだ。
いかなる王にも、別の仕方で生まれる始まりはなかったからだ。
それゆえ、生への入口はすべての人に一つであり、出口も同じである。
すべての人が生へ入る入口は一つであり、出口もまた同じなのである。
『ヨブ記』1章22節。『テモテへの第一の手紙』6章7節。
注 最初の節番号22は刊本の参照を保持。
そして父は私を教えていった。「あなたの心に私の言葉を受け入れよ。私の戒めを守れ。そうすれば生きるであろう。」
父は私を教え、こういった。「あなたの心は私の言葉をしっかり保て。私の戒めを守れ。そうすれば生きるであろう。」
知恵を得よ、分別を得よ。忘れてはならず、私の口の言葉からそれてはならない。
知恵を獲得せよ、理解を獲得せよ。忘れてはならず、私の口の言葉からそれてはならない。
知恵を手放すな。知恵はあなたを守る。知恵を愛せよ。知恵はあなたを保つ。
知恵を去らせるな。知恵はあなたを守る。知恵を愛せよ。知恵はあなたを保つ。
知恵の始まりとは、知恵を得ることだ。あなたのあらゆる所有において、分別を獲得せよ。
知恵の始まりである。それゆえ知恵を獲得し、あなたの全財産をもって理解を獲得せよ。
知恵をつかめ。知恵はあなたを高く上げる。知恵を抱きしめれば、知恵によってあなたは栄光を与えられる。
知恵を高く上げよ。知恵はあなたを高く上げる。知恵を抱きしめれば、あなたを栄光ある者とする。
あなたの頭に豊かな恵みを与え、輝かしい冠であなたを覆う。
あなたの頭に豊かな恵みを与え、美しい冠をあなたに授ける。
おお、わが子よ、私の教えを忘れるな。あなたの心は私の戒めを守れ。
おお、わが子よ、私の教えを忘れるな。そして、あなたの心は私の戒めを守れ。
それらはあなたに、長い日々と、生涯の年と、平安を加えるからだ。
それらはあなたに、長い日々と、生涯の年と、平安を加えるからだ。
慈しみと真実があなたを離れぬようにせよ。それらをあなたの首に巻き、心の板に書き記せ。
慈しみと真実があなたを離れぬようにせよ。それらをあなたの首に結び、心の板に書き記せ。
学べ。真の知恵と、それをたゆまず学ぶことは、長い生涯と平安をもたらす。
そうすれば、神と人々の前に恵みと良き教養を見いだす。
そうすれば、神と人々の目にかなう恵みと良き理解を見いだす。
それらを目から離すな。それら、すなわち私の言葉を、あなたの心の中に守れ。
それらを目から離すな。むしろ、それら、すなわち私の言葉を、あなたの心の中に守れ。
それらを見いだす者には命となり、全身の肉には健やかさとなるからだ。
それらを見いだす者には命となり、その全身の肉には健やかさとなるからだ。
あなたが歩くときには、ともに歩ませよ。眠るときには、あなたを守らせよ。そして目覚めたら、それらと語れ。
あなたが歩くとき、それ――律法または戒めの教え――はあなたを導く。眠るときにはあなたを守り、目覚めれば、それ自らあなたと語り合う。
命令は灯火、律法は光であり、訓戒による叱責は命の道だからだ。
命令は灯火のようであり、律法は光のようであり、教導による叱責は命の道だからだ。
知恵を得よ。金よりも優れているからだ。分別を獲得せよ。銀よりも貴いからだ。
知恵を獲得することは、貴重な金を獲得するより、はるかに優れている。理解を獲得することは、選び抜かれた銀を獲得するより、はるかに優れている。
それゆえ今、わが子よ、私に聞け。私の口の言葉から離れるな。第11節、最後になって呻かぬために。第12節、そして、遅すぎる時になって、「ああ、なぜ私は訓戒を嫌い、心は叱責を受け入れなかったのか」といわぬために。
それゆえ今、子らよ、私に従え。私の口の言葉から離れるな。第11節、自らの最後に吠えるように嘆かぬために。第12節、そして、遅すぎる時になって、「ああ、どうして私は教導を憎み、私の心は叱責を軽んじたのか」といわぬために。
「私を教える人々の声に聞かず、師たちに耳を傾けなかったのか。」まことに、まことに、私はあなたにいう。
「私を訓育する人々の声に従わず、私を教える人々に耳を傾けなかったのか。」まことに、まことに、私はあなたにいう。
わが子よ、あなたの精神が賢くなるなら、私の心はあなたとともに喜ぶ。
わが子よ、あなたの心が賢くなるなら、私の心は喜び、私自身も喜ぶ。
神と人々の目の前に恵みと成功を見いだすには、どうすべきか。その律法または戒めの教えを守り、観想することへの勧め。
あなたの唇が正しいことを語るとき、私の腎も喜び躍る。さあ、進もう。
注 renes「腎」は内奥の感情を指す聖書的身体表現を保持。
あなたの唇が正しいことを語るとき、私の腎もまた喜び躍る。
注 renes「腎」は内奥の感情を指す聖書的身体表現を保持。
知恵――ホクマー――は叫び、分別――ビナー――は自らの声を上げているではないか。見よ、それこそ知恵自身である。あるいは、この二者自身である。
注 ヘブライ語の母音符号は省略し、子音字と刊本のラテン字転写を保持。
知恵――ホクマー――は叫び、理解は自らの声を上げているではないか。
注 ヘブライ語の母音符号は省略し、子音字と刊本のラテン字転写を保持。
高くそびえる頂で、道の上で、小道の中ほどに立って。
高い場所の頂に、道の傍らに、小道の交わる場所に立って。
町の門のそば、その戸口で語り、こういう。
町の入口の門の場所、戸口に入るところで叫ぶ。
おお、人々よ、私はあなたがたに呼びかける。私の声は人の子らに向かう。
おお、人々よ、あなたがたに私は叫ぶ。私の声は人の子らに向かう。
未熟な者たちよ、機敏な判断を理解せよ。愚かな者たちよ、心を留めよ。
単純な者たちよ、機敏な判断を理解せよ。愚かな者たちよ、心で理解せよ。
聞け。私は大いなる事柄を語ろうとしており、私の唇は、正しいことを告げるために開かれるからだ。
聞け。私は尊い事柄を語り、私の唇が開かれることは、正しきことどもとなるからだ。
私の喉は真実を語り、私の唇は不敬なものを忌み嫌う。
私の口蓋は真実を語り、私の唇が忌み嫌うものは不敬だからだ。
私の言葉はすべて正しく、その中には曲がったものも、ねじれたものもない。
私の口の言葉はすべて正義のうちにあり、その中には曲がったものも、ねじれたものもない。
理解する者にはまっすぐであり、知識を見いだす者には公平である。
それらはすべて、理解する者には正しく、知識を見いだす者たちにはまっすぐである。
私の訓戒を受け取れ。金銭ではない。金よりも、教えを選べ。
私の教導を受け取れ。銀ではない。そして選び抜かれた金よりも、知識を受け取れ。
知恵はもっとも貴いあらゆる財宝よりも優れ、望ましいものは何一つ、それに比べることができないからだ。
知恵は真珠よりも優れ、望ましいものをすべて集めても、それには及ばないからだ。
それゆえ今、子らよ、私に聞け。私の道を守る者は幸いである。
それゆえ今、子らよ、私に従え。私の道を守る者は幸いである。
知恵は自らを推奨し、すべての人を自分のもとへ呼ぶ。
訓戒を聞き、賢くなれ。それを投げ捨ててはならない。
教導を聞き、賢くなれ。それを退けてはならない。
私に聞く人は幸いである。日々、私の戸口で目を覚まして待ち、私の入口の柱のもとで見張る人は。
私に耳を傾け、日々、私の戸口のそばで目を覚まして待ち、私の入口の柱を見守る人は幸いである。
知恵は外で呼びかけ、広場で声を上げる――もっとも賢い王は、さらにまたこのようにいう。
知恵は外で叫び、広場そのもので声を上げる――もっとも賢い王は、さらにまたこのようにいう。
群衆の先頭で叫び、町の門の戸口で言葉を発し、こういう。
騒ぎ立つ人々の先頭で叫び、門の入口で、町の中で自らの言葉を語る。
未熟な者たちよ、いつまで幼さを愛するのか。愚かな者たちはいつまで自分を害するものを欲し、分別のない者たちは知識を憎むのか。
単純な者たちよ、いつまで単純さを愛するのか。嘲る者たちはいつまで嘲りを求め、愚かな者たちは知識を憎むのか。
私の戒めに立ち返れ。見よ、私はあなたがたに私の霊を注ぎ出し、私の言葉を示そう。
私の叱責に立ち返れ。見よ、私はあなたがたに私の霊を注ぎ出し、私の言葉を知らせよう。
私が呼んだのに、あなたがたは拒んだ。手を差し伸べたのに、目を向ける者はなかった。
私が呼んだのに、あなたがたが拒み、手を差し伸べたのに、心を留める者がなかったために。
あなたがたは私の助言をすべて軽蔑し、私の叱責を顧みなかった。
あなたがたは私の助言をすべて無効にし、私の叱責を望まなかった。
私もまた、あなたがたが滅びるときに笑い、恐れていたものがあなたがたに訪れるとき、嘲るであろう。
私もまた、あなたがたが打ち砕かれるときに笑い、あなたがたの恐れが訪れるとき、嘲るであろう。
突然の災いが襲いかかり、滅びが嵐のように押し寄せ、苦難と窮迫があなたがたの上に訪れるときに。
そう、あなたがたの恐れが荒廃のように訪れ、打ち砕くものが旋風のように来て、苦難と窮迫があなたがたの上に訪れるときに。
知恵は、詭弁家たちによって軽蔑されることを嘆き、知恵を侮る者たちの滅びを予告する。
『イザヤ書』65章12節、および66章4節。『エレミヤ書』7章13節。
そのとき彼らは私を呼ぶが、私は聞き入れない。朝早く起きて求めるが、私を見いださない。
そのとき彼らは私を呼ぶが、私は聞き入れない。朝早く私を捜すが、私を見いださない。
彼らは訓戒を憎み、主を畏れることを受け入れなかったからである。
彼らは知識を憎み、エホバを畏れることを選ばなかったからである。
私の勧めに従わず、私のあらゆる戒めをそしったからである。
私の勧めに従わず、私のあらゆる叱責を侮ったからである。
それゆえ彼らは自分の道の実を食らい、自分の企てで腹を満たすことになる。
それゆえ彼らは自分の道の実を食らい、自分の企てで腹を満たすことになる。
未熟な者たちの背反は彼らを殺し、愚者たちの繁栄は彼らを滅ぼす。
思慮の浅い者たちの安逸は彼らを殺し、愚者たちの繁栄は彼らを滅ぼすからである。
しかし私に耳を傾ける者は、恐れなく安らぎ、災いへの恐怖を除かれて豊かさを享受する。
しかし私に従う者は安心して住み、災いへの恐怖から解かれて安らぐ。
したがって、賢者は正しく賢明に結論し、次のように戒める。
知恵は力にまさり、分別ある人は強い人にまさる。
ギリシア語写本には存在しない。
『箴言』16章32節。『コヘレトの言葉』9章18節、7章20節。
それゆえ王たちも聞き、悟れ。地の果てを治める裁き人たちよ、学べ。
それゆえ王たちよ、聞き、心を向けよ。地の果てを治める裁き人たちよ、学べ。
賢者は権勢ある者たちを、正義と知恵へと勧める。
多くの人々を支配し、諸国民の群れの中で自らを誇る者たちよ、耳を傾けよ。
民を統べる者たち、諸国民の多さを誇る者たちよ、耳を傾けよ。
権力は主から、威力はいと高き方から、あなたがたに与えられたからである。その方はあなたがたの行いを問い、その思いを探り調べる。
支配権は主から、権力はいと高き方から、あなたがたに与えられたからである。その方はあなたがたの行いを調べ、その計画を隅々まで探る。
『ローマの信徒への手紙』13章1節。
あなたがたは王国の奉仕者でありながら、正しく裁かず、正義の法を守らず、神の意志に従って歩まなかったからである。
あなたがたは神の王国の奉仕者でありながら、正しく裁かず、法を守らず、神の意図に従わなかったからである。
神は恐ろしく、速やかにあなたがたに現れる。指導者に対しては、最も厳しい裁きが行われるからである。
神は恐ろしく、突然あなたがたに臨む。権勢ある者たちには、最も厳しい裁きが執行されるからである。
小さき者には憐れみが与えられるが、権力者はその力に応じた激しい責め苦を受ける。
最も低き人々には憐れみがふさわしいが、権力者は厳しく取り調べられる。
神は誰の身分にも免じず、誰の偉大さをも恐れない。小さき者も大いなる者も神御自身が造り、すべての者を等しく心にかけているからである。
万物の主は誰の身分にも容赦せず、偉大さをも恐れない。最も低き者も最も高き者も御自身が創造し、すべての者を等しく顧みているからである。
『申命記』10章17節、『歴代誌下』19章7節、『ヨブ記』34章19節、『シラ書』35章16節、『使徒言行録』10章34節、『ローマの信徒への手紙』2章11節、『ガラテヤの信徒への手紙』2章6節、『エフェソの信徒への手紙』6章9節、『コロサイの信徒への手紙』3章25節、『ペトロの手紙一』1章17節。
力ある者には、いっそう激しい苦痛が待ち受けている。
権力ある者には、厳しい取り調べが待ち受けている。
主に逆らって成り立つ知恵も、分別も、計略もないからである。
エホバに逆らって成り立つ知恵も、理解も、計略もない。
なぜなら、主よ、あなたの御手を逃れることはできないからである。世界そのものも、正しい人々のために報復する。
なぜなら、誰かがあなたの御手を逃れることは不可能であり、世界そのものが、正しい人々のために報復するからである。
被造物もまた、悪人に正当な報復を行う。『知恵の書』5章18節から章末まで、および19章。
それゆえ王たちよ、私のこれらの言葉はあなたがたに向けられている。私たちの賢者が再びこう呼びかけるのには、十分な理由がある。知恵を学び、滅びることのないためである。
それゆえ支配者たちよ、私の言葉はあなたがたに向けられている。知恵を学び、踏み誤ることのないためである。
正義を守った者たちは正しく裁かれ、正しいことを学んだ者たちは、答えるべきことを見いだすからである。
聖なる務めの法と責務を敬虔に守った者たちは聖なる者と認められ、それらに教え導かれた者たちは、答えるべきことを持つからである。
それゆえ私の言葉を慕い、それらを愛せよ。そうすれば訓戒を得る。
注 中央欄の参照は「Vers.8.」と印刷されている。本文は通行のラテン語節番号では『知恵の書』6章12節に当たる。
それゆえ私の言葉を求め、切に望め。そうすれば教導を得る。
注 中央欄の参照は「Vers.8.」と印刷されている。本文は通行のラテン語節番号では『知恵の書』6章12節に当たる。
民の王たちよ、玉座と笏を喜ぶのなら、知恵を愛せよ。いつまでも治めるためである。
それゆえ諸民族の王たちよ、玉座と笏を喜ぶのなら、知恵を尊べ。いつまでも治めるためである。
『民数記』27章16節、『列王記第二』14章11節〔現在の『サムエル記下』〕、『列王記第三』3章9節〔現在の『列王記上』〕。
民を導くすべての者たちよ、知恵の光を愛せよ。ああ、愛せよ。
ギリシア語本文にはない。
賢者の多いことは全世界の健全さであり、賢い王は自分の民を安定させる支えだからである。
賢者の多いことは世界の安寧であり、分別ある王は民を安定させる支えである。
それゆえ私の言葉によって訓戒を受けよ。それはあなたがたの益となる。
したがって私の言葉によって教えられよ。そうすれば益を受ける。
それゆえ死すべき人々よ、知恵を学べ。そして、
地を裁く者たちよ、正義を愛せよ。
地を裁く者たちよ、正義を愛せよ。
『列王記第三』3章3節〔現在の『列王記上』〕、『イザヤ書』56章1節。
第二。序説の第二段階。
子らよ、父の訓戒を聞き、心を向けよ。分別を知るためである。
子らよ、父の訓戒を聞け。理解を知るために心を向けよ。
賢者は、知恵とその実り、その道を求め、その道に堅くとどまり続けるべきことを教え、戒める。
私はあなたがたに良い贈り物を与える。私の法を捨ててはならない。
私はあなたがたに良い教えを与えるからである。私の法を捨ててはならない。
わが子よ、主の訓戒を捨てず、その方に戒められるときもくじけるな。
わが子よ、エホバの矯正を捨てず、その叱責を受けても嫌になってはならない。
神からの矯正は喜びをもって受けるべきである。『ヘブライ人への手紙』12章5節、『ヨハネの黙示録』3章17節。
主は愛する者を戒め、父のようにその子を喜びとするからである。
エホバは愛する者を叱るからである。それは父が深く愛する子を叱るのと同じである。
訓戒をしっかり保ち、手放すな。それを守れ。それがあなたの道だからである。
注 画像の旧訳欄は「via tua」(あなたの道)。新訳欄の「vita tua」(あなたの命)と異なるため、その差を保持した。
矯正をつかんで、手放すな。それを守れ。それがあなたの命だからである。
真理を買い求めよ。知恵と教えと理解を売ってはならない。
真理を買い求め、売ってはならない。知恵と教導と理解を買い求めよ。
朝にも種を蒔き、夕べにも手を休めてはならない。
朝に自分の種を蒔き、夕べにも自分の手を休ませてはならない。
光は甘美であり、太陽を見ることは目に喜ばしいからである。
まことに光は甘美であり、太陽を見つめることは目に喜ばしい。
怠け者よ、蟻のもとへ行き、その歩みをよく考え、知恵を学べ。
怠け者よ、蟻のもとへ行き、その歩みを見て、賢くなれ。
怠け者は、働くこと、そして知恵に励み、それを探究することへと勧められる。
蟻には指導者も、教師も、支配者もいないのに、
蟻には指導者も、監督者も、主人もいないのに、
夏に自分の食べ物を用意し、刈り入れの時に食べる物を集める。
それでも夏に自分の食べ物を用意し、刈り入れの時に自分の糧を集める。
怠け者よ、いつまで眠っているのか。いつ眠りから起き上がるのか。
怠け者よ、いつまで眠っているのか。いつ眠りから起きるのか。
もう少し眠り、もう少しまどろみ、もう少し手を組んで眠ろうとする。
わずかな眠り、わずかなまどろみを取り、眠るためにわずかのあいだ手を組んでいると、
すると窮乏は旅人のように、貧困は武装した男のようにやって来る。しかし勤勉であるなら、あなたの収穫は泉のように湧き、窮乏はあなたから遠く逃げ去る。
するとあなたの窮乏は旅人のように、貧困は盾で武装した男のようにやって来る。
刈り入れの時に集める者は賢い子である。しかし夏にいびきをかいて眠る者は恥辱の子である。
夏に集める者は理解ある子である。しかし刈り入れの時に眠る者は恥をもたらす子である。
さて、愚かで騒がしい女がいる。誘惑に満ち、まったく何も知らない。
愚かな女は騒ぎ立てる。思慮が浅く、何も知らない。
彼女は自分の家の戸口に、町の高い所に置いた椅子に座り、
自分の家の戸口で、町の高い所の座に腰を下ろし、
道を通り過ぎ、自分の旅路を進む人々に呼びかけようとして、
道を通り過ぎ、まっすぐ自分の道を行く人々に呼びかけ、こう言う。
「未熟な者は誰でも私のところへ立ち寄れ」と。また思慮のない者にこう言う。
「思慮の浅い者は誰でもここへ立ち寄れ」と。また心の欠けた者にこう言った。
「盗んだ水はひときわ甘く、隠したパンは美味しい。」
「盗んだ水は甘く、隠したパンは美味しい。」
しかしその者は、そこには巨人たちがいて、彼女の食卓の客たちは陰府の深みにいることを知らない。彼女に近づく者は陰府へと下るが、彼女から離れる者は救われる。
思慮の浅い者は、そこには死者たちがいて、彼女に招かれた者たちは陰府の深みにいることを知らない。
七十人訳による。
注 第102句旧訳欄の後半「Qui enim applicabitur…salvabitur」に付された典拠表示。
ああ、わが子よ、私の言葉を守り、私の戒めを自分のために蓄えよ。子よ、主を尊べ。そうすれば健やかでいられる。その方のほかに、異なる者を恐れてはならない。
ああ、わが子よ、私の言葉を守り、私の戒めを自分の内に蓄えよ。
七十人訳による。
注 第103句旧訳欄の後半「Fili, honora DOMINUM…alienum」に付された典拠表示。
知恵へと、そして戒めを守ることへと促す勧告。
私の命令を守れ。そうすれば生きる。私の法を、自分の目の瞳のように守れ。
私の戒めを守れ。そうすれば生きる。私の法を、自分の両目の瞳のように守れ。
それらを指に結び、その法を心の板に書き記せ。
それらを指に結び、それらを心の板に書き記せ。
知恵に「あなたは私の姉妹だ」と言い、分別を自分の友と呼べ。
知恵に「あなたは私の姉妹だ」と言い、理解を自分の親族と呼べ。
それがあなたを、よその女から、言葉を甘くする見知らぬ女から守るためである。
それがあなたを、よその女から、自分の言葉を柔らかくする見知らぬ女から守るためである。
あなたの心が彼女の道に引きずられ、その小道に欺かれることのないようにせよ。
あなたの心が彼女の道へそれ、その小道をさまようことのないようにせよ。
彼女は多くの者を傷つけて倒し、どんなに強い者たちも彼女によって殺されたからである。
彼女は多くの者を傷つけて倒した。彼女に殺された者たちはみな強者だったからである。
彼女の家は陰府への道であり、死の奥底へと通じている。
彼女の家は陰府への道であり、死の寝室へと下って行く。
知恵があなたの心に入り、知識があなたの魂を喜ばせるなら、
知恵があなたの心に入り、認識があなたの魂に甘美なものとなるとき、
知恵は、不信仰な者たちの道と、詭弁家たちとの姦淫から解き放ち、良い道へと導く。
良き判断があなたを守り、分別があなたを保つ。
思慮があなたを守り、理解があなたを保つ。
悪い道から、また曲がったことを語る者から、あなたが救い出されるためである。
それがあなたを悪い道から、邪悪なことを語る者から救い出すためである。
彼らは正しい道を捨て、暗い道を歩む。
彼らはまっすぐな小道を捨て、暗い道を歩もうとする。
彼らは悪を行うと喜び、最悪の事柄に歓喜する。
彼らは悪を行うことを喜び、悪のねじれた行いに歓喜する。
その道は曲がり、その歩みは恥ずべきものである。
その小道は曲がり、自分たちの道を歩む彼ら自身も曲がっている。
あなたがよその女から、言葉を柔らかくする見知らぬ女から救い出されるためである。
つまり、それがあなたを見知らぬ女から、自分の言葉を柔らかくするよその女から救い出すためである。
その女は若き日の導き手を捨て、自分の神との契約を忘れた。
その女は若き日の導き手を捨て、自分の神との契約を忘れている。
彼女の家は死へと傾き、その小道は陰府へ向かっているからである。
彼女の家は死へと傾き、その小道は死者たちのもとへ導くからである。
彼女のもとへ入る者は誰も戻らず、命の小道をつかむこともない。
彼女のもとへ入る者は誰も戻らず、命の小道をつかむこともない。
あなたが良い道を歩み、正しい人々の小道を守るためである。
つまり、あなたが善人たちの道を歩み、正しい人々の小道を守るためである。
わが子よ、なぜよその女に惑わされ、他の女の胸に抱かれようとするのか。
わが子よ、なぜよその女と楽しみ、見知らぬ女の胸を抱こうとするのか。
主は人の道を見、そのすべての歩みをよく調べる。
人の道はエホバの目の前にあり、その方が人のすべての小道を量り調べるというのに。
不信仰な者は自らの不正に捕らえられ、自分自身の罪の縄に縛られる。
不信仰な者自身は自らの不正に捕らえられ、自分自身の罪の縄に拘束される。
その者は訓戒を持たなかったために死に、その大きな愚かさのうちに欺かれる。
その者は教導に耳を傾けなかったために死に、その大きな愚かさのために道を誤る。
それゆえ、あらゆる用心をもって自分の心を守れ。命はそこから出るからである。
それゆえ、何を守るにもまして自分の心を守れ。命の流れ出るところはそこだからである。
心。
曲がった口を自分から退けよ。そしる唇を自分から遠ざけよ。
口の邪悪さを自分から退け、唇の悪さを自分から遠ざけよ。
口。
あなたの目は正しいことを見よ。あなたのまぶたは、自分の歩みに先立って前を見よ。
あなたの目はまっすぐに見よ。あなたのまぶたは、前方にある自分の道をまっすぐに向けよ。
目。
自分の足の小道をまっすぐにせよ。そうすれば、すべての道は堅く定められる。
自分の足の小道をよく量り考えよ。あなたのすべての道がまっすぐにされるようにせよ。
足、すなわち歩み。
右にも左にもそれるな。悪から自分の足を遠ざけよ。
右にも左にもそれるな。悪から自分の足を退けよ。
あなたが賢ければ、それは自分自身のためになる。しかし嘲る者であれば、あなた一人で災いを負うことになる。
あなたが賢ければ、自分のために賢いのである。しかし嘲る者であれば、あなた一人で罰を受けることになる。
要約。
知恵と訓戒を捨てる者は不幸である。そのような者たちの希望は空しく、労苦は実らず、その業は役に立たない。
知恵と訓戒を無に等しいと見なす者は惨めだからである。そのような者たちの希望は空しく、労苦は実らず、その業は役に立たない。
第三。序説の第三段階。
知恵とは何か、どのように生じたかを、私は語ろう。神の秘義をあなたがたから隠さず、その誕生の初めから探究し、その知識を光のもとに置き、真理を素通りすることはしない。
知恵とは何か、どのように生じたかを、私は語ろう。奥義をあなたがたに隠さず、その最初の起源から知恵の認識を探究し、明らかに示し、真理を素通りすることはしない。
知恵の内には理解の霊があるからである。それは聖なるもの、唯一なるもの、多様なるもの、精妙なるもの、識別するもの、よく動くもの、汚れなきもの、確かなもの、優しいもの、善を愛するもの、鋭敏なものであり、善を行うにあたって何ものにも妨げられない。
その内には霊があるからである。それは知性的、聖、単一、多様、精妙、活動的、輝かしい、汚れなき、明晰な、害を与えない、善を熱心に求める、鋭敏な、妨げられない、恵みを施す霊である。
人間を愛し、慈しみ深く、揺るぎなく、確かで、不安なく、あらゆる力を備え、すべてを見通し、あらゆる霊を捉える、知的で、清く、精妙な霊である。
人間を愛し、揺るぎなく、確かで、不安なく、すべてを見抜き、知性ある、清い、きわめて精妙なすべての霊を貫き通る霊である。
知恵は、動くすべてのものにましてよく動くからである。またその清さによって、至るところに達する。
知恵がその敏捷さで凌がない運動は一つもないからである。知恵はその純粋さのゆえに、万物に行き渡り、それらを貫き通る。
知恵は神の力の息吹であり、全能者の輝きから出る純粋な流出だからである。それゆえ汚れたものは何一つ知恵の中に入り込まない。
それは神の力の息吹であり、全能者の栄光から流れ出る純粋なものだからである。それゆえ汚れたものは何一つその中に入らない。
それは実に永遠の光の輝きであり、神の威光を映す汚れなき鏡、神の善性の像である。
それは実に永遠の光の輝きであり、神の力を映す、いかなる汚れも付かない鏡、神の善性の像である。
『ヘブライ人への手紙』1章3節。
また、この知恵は太陽より美しく、星々のあらゆる配列にまさり、光と比べてもそれより優れている。
また、それ自身、太陽より美しく、星々のあらゆる配置の上に置かれ、光と比べてもそれより優れている。
光の後には夜が続くが、悪は知恵に打ち勝つことがない。
光の後には夜が来るが、悪は知恵に打ち勝つことがない。
それゆえ知恵は、一方の果てから他方の果てまで力強く達し、万物を穏やかに整える。
知恵は一方の極みから他方の極みまで力強く及び、万物を有益に統べる。
知恵はまた輝かしく、決して衰えることがない。
知恵はきわめて輝かしく、決して衰えることがない。
神とともに住むことが、その高貴さに栄光を添える。万物の主も知恵を愛された。
神とともに生きるということが、その高貴さを輝かせる。そして万物の主は知恵を愛された。
知恵は自分を慕う者たちに先んじ、自分のほうからまず姿を現す。
知恵は自分を熱心に求める者たちに先んじ、自分を知ってもらおうと姿を現す。
知恵自身が、自分にふさわしい者を探して巡り歩き、道々で彼らに喜ばしく姿を見せ、そのあらゆる思慮のうちに彼らを迎えるからである。
知恵自身が、自分にふさわしい者を巡り歩いて探し、道々で好意をもって彼らに姿を見せ、そのあらゆる思いのうちに彼らを迎えるからである。
私はこの知恵を愛し、若いときから求めた。これを自分の花嫁として迎えようと努め、その美しさを恋い慕う者となった。
注 欄中央の出典表記は「Sap.8.」のみ。節番号は本文の対応から補った。
私はこの知恵を愛し、若いときから求め、自分の花嫁として結ばれようと努めた。そしてその美しさへの愛に心を奪われた。
注 欄中央の出典表記は「Sap.8.」のみ。節番号は本文の対応から補った。
私は偽りなくこれを学び、惜しみなく分かち合う。その誉れを隠すこともない。
私は欺きなくこれを受け取り、惜しみなく分かち合う。その富を隠すこともない。
さて、知恵は自分自身について次のようにいう。
主は、その道の始めに、初めから何かを造られるよりも前に、私を所有された。
イェホヴァは、その道の始めに、古来の御業より前に、私を所有された。
『知恵の書』9章9節。
私は永遠の昔から、古く地が造られる以前から、定め置かれていた。
私は永遠の昔から、初めから、地よりも前に、首位を占めていた。
『集会の書』24章14節。
深淵がまだ存在しないとき、私はすでに宿されていた。水の泉もまだ湧き出てはいなかった。
深い淵がまだなく、水にあふれる泉もまだなかったとき、私は形造られた。
山々が重い塊として据えられるよりも前、丘々よりも前に、私は生み出されていた。
山々が基を据えられるより前、丘々より前に、私は形造られた。
神はまだ地も、川々も、世界の地の枢も造ってはいなかった。
神はまだ地も、広々とした野も、世界の塵の最初のものも造ってはいなかった。
神が天を備えられたとき、私はそこにいた。確かな法則と円周によって深淵を囲まれたときにも。
神が天を備えられたとき、私はそこにいた。深淵の表面に円を描かれたときにも。
上方の天空を固め、水の泉を釣り合わせて配置されたときにも。
注 新訳の「fontes fontes」は原本の重複を保った。
上方の天を固め、深淵の泉を、泉を強められたときにも。
注 新訳の「fontes fontes」は原本の重複を保った。
海をその境界で囲み、水がその限界を越えないように法を定め、地の基を量って据えられたときにも。
海にその定めを、水にはその岸を越えないように定めを置き、地の基を描かれたときにも。
私は神のかたわらにいて、すべてを組み立てていた。日ごとに喜び、いつも神の前で遊んでいた。
私は養い育てられる子のように神のもとにいて、日ごとに喜びのうちにあり、いつも神の前で遊ぶ。
地上の世界で遊び、人の子らとともにあることが、私の楽しみであった。
私は神の地の世界で遊び、人の子らとともにいることが、私の楽しみである。
私、すなわちホクマー(知恵)は、思慮のうちに住み、学識ある思考に参与する。
私、すなわちホクマー(知恵)は、明敏さのうちに住み、思考に関する知識を見いだす。
主への畏れは、悪と不遜と高慢を憎む。私は邪な道と、二枚舌の口を忌み嫌う。
イェホヴァへの畏れとは、悪を憎むことである。私は高慢と不遜と悪しき道と、曲がったことを語る口を憎む。
私は私を愛する者を愛する。朝早く目覚めて私を求める者は、私を見いだす。
私は私を愛する者を愛する。私を求める者は、私を見いだす。
私は正義の道を歩み、公正の小道のただ中を行く。
私は正義の小道に沿って導き、公正の小道のただ中へと進ませる。
もう一度、賢者に耳を傾けよう。
主は知恵によって地の基を据え、分別によって天を堅く定められた。
イェホヴァは知恵によって地の基を据え、理解によって天を堅く定められた。
その知恵によって深淵は湧き出し、雲は露となって凝り集まる。
その知識によって深淵は裂け開き、天は露を滴らせる。
誰が天に昇り、また降りたか。誰がその両手に風を収めたか。誰が衣に包むように水を束ねたか。誰が地のすべての果てを立ち上がらせたか。その者の名は何か、その子の名は何か、あなたは知っているか。
誰が天に昇り、また降りたか。誰がその握りこぶしに風を集めたか。誰が衣のうちに水を集めたか。誰が地のすべての果てを堅く定めたか。その者の名は何か、その子の名は何か。知っているなら答えよ。
それゆえ、わが子よ、蜜を食べなさい。それは良いものであり、蜜蜂の巣はあなたの喉にこの上なく甘い。
わが子よ、蜜を食べなさい。それは良いものであり、蜜蜂の巣はあなたの口に甘い。
知恵の教えも、あなたの魂には同じである。それを見いだせば、終わりの時に望みを抱くことができ、その望みは滅びない。
知恵についての認識も、あなたがそれを見いだすなら、あなたの魂に同じく甘いものとなる。そして報いがあり、あなたの期待は断ち切られない。
第四。序説の第四段階。
知恵、知識、理解は神の賜物である。
主は知恵を与え、その口から分別と知識が出る。
イェホヴァは知恵を与え、その口から認識と理解が出る。
主は正しい者たちの救いを守り、素直に歩む者たちを庇護される。
主は正しい者たちのために実質あるものを蓄え、全き道を歩む者たちの盾となられる。
正義の小道を保ち、聖なる者たちの道を守られる。
彼らが公正の小道を守るためである。主はその慈しみ深い者たちの道を守られる。
そのときあなたは、正義と公正と公平を、また良い道のすべてを理解するであろう。
注 原本では節番号の代わりに星印が付く、169と170の間の無番号引用。
そのときあなたは、正義と公正とさまざまな正しさを、また良い道のすべてを理解するであろう。
注 原本では節番号の代わりに星印が付く、169と170の間の無番号引用。
あなたを祝福するためには太陽に先立って起き、光の昇るときにあなたを礼拝すべきだと、すべての者に知られるためである。
あなたに感謝するためには太陽に先立って起き、光の昇るころにあなたに挨拶すべきだと、知られるためである。
主よ、あらゆる悪から解き放ってくださるのは、あなたである。
イェホヴァよ、あらゆる悪から救い出す方があなたであると、あなたは私たちの敵に教えられた。
主よ、生と死に対する力を持ち、死の門へと下らせ、また連れ戻されるのは、あなたである。
イェホヴァよ、あなたは生と死に対する力を持ち、陰府の門へと下らせ、また連れ戻される。
主の祝福が人を富ませる。そして彼らに苦悩が伴うことはない。
イェホヴァの祝福は人を富ませる。イェホヴァはその祝福に悲しみを付け加えられない。
主の御名はこの上なく強固な塔である。正しい者はそこへ走り、高く上げられる。
注 原本の出典は「Prou.18 Vers.18.」と印刷されているが、引用本文は箴言18章10節に対応する。
イェホヴァの御名は堅固な塔のようである。正しい者はそこへ走り、高く上げられる。
注 原本の出典は「Prou.18 Vers.18.」と印刷されているが、引用本文は箴言18章10節に対応する。
人の心には多くの思いがある。しかし主の御旨こそが存続する。
人の心には多くの思いがある。しかしイェホヴァの計らいこそが存続する。
馬は戦の日に備えられる。しかし救いを授けるのは主である。
注 旧訳の「DOMINO」は画像上の印刷を保った。統語上はDOMINUSが期待され、訳は文意に従った。
馬は戦の日に備えられている。しかし救いそのものはイェホヴァに属する。
注 旧訳の「DOMINO」は画像上の印刷を保った。統語上はDOMINUSが期待され、訳は文意に従った。
多くの者が支配者の顔を求める。しかし、一人ひとりに対する裁きは主から出る。
多くの者が支配する者の顔を求める。しかし、一人ひとりに対する裁きはイェホヴァから来る。
水路のように、王の心は主の御手のうちにある。主は御心のままに、それをどこへでも向けられる。
水の流れのように、王の心はイェホヴァの御手のうちにある。主は望まれるすべての方向へそれを向けられる。
人の道はすべて、自分自身には正しいと思える。しかし、心を量られるのは主である。
人の道はすべて、その人の目には正しい。しかし、心を量られるのはイェホヴァである。
くじは懐に投げ入れられるが、その結果を定められるのは主である。
くじは懐に投げ入れられるが、そのあらゆる決定はイェホヴァから来る。
それゆえ、心を尽くして主に信頼し、自分の分別に頼ってはならない。
心を尽くしてイェホヴァに信頼し、自分の理解に頼ってはならない。
神に信頼すべきである。
あなたの行いを主に明らかにしなさい。そうすれば、あなたの思いは正しく導かれる。
あなたの行いをイェホヴァに委ねなさい。そうすれば、あなたの思いは堅く定まる。
『詩編』37編5節。『ペトロの手紙一』5章7節。
それゆえ、死すべき人よ、あなたのあらゆる道において主を認めなさい。そうすれば、主ご自身があなたの小道を正しく導かれる。
あなたのあらゆる道において主を認めなさい。そうすれば、主ご自身があなたの小道を正しく導かれる。
自分自身を賢いと思ってはならない。神を畏れ、悪を離れなさい。
自分の目に自分を賢い者としてはならない。イェホヴァを畏れ、悪を離れなさい。
神は私に、与えられたものにふさわしい事柄を、思いにかなって語る力を授けられた。神ご自身が知恵の導き手であり、賢者たちを正す方だからである。
神は私に、思いにかなって語り、与えられるものの尊さに応じて考える力を授けられた。神ご自身が知恵の導き手であり、賢者たちを指導する方だからである。
私たちも、私たちの言葉も、すべての知恵も、仕事に関する諸々の知識も訓練も、神の御手のうちにある。
私たちも、私たちの言葉も、またあらゆる分別と技芸の知識も、神の御手のうちにある。
神ご自身が、存在するものについての真の知識を私に授けられた。
神は、自然のうちに存在するものについての真の認識を私に授けられた。
さて、神が与えられる、この〔知恵〕は、
注 188の直前に置かれた導入句。後続の「SAPIENTIA」と連続して読む。
知恵は自らのために家を建て、七本の柱を切り出した。
知恵は自分の家を建て、自分の七本の柱を切り出した。
いけにえを屠り、葡萄酒を調合し、食卓を整えた。
自分のいけにえを屠り、自分の葡萄酒を調合し、また自分の食卓を用意した。
女の召使いたちを遣わして、城砦と町の城壁へ人々を招かせた。
注 新訳の「civitates」は画像の印刷形を保った。意味は「町の」を要求するため、訳ではcivitatisに相当する構文として解した。
女たちを遣わし、町の高い場所の頂から、呼びかけていった。
注 新訳の「civitates」は画像の印刷形を保った。意味は「町の」を要求するため、訳ではcivitatisに相当する構文として解した。
「未熟な者は、私のもとへ来なさい。」そして、分別のない者たちに語った。
「単純な者は誰でも、こちらへ立ち寄りなさい。」また、思慮のない者にもいった。
知恵はすべての者を自分のもとに招く。
「来て、私のパンを食べ、あなたがたのために私が調合した葡萄酒を飲みなさい。」
「来て、私のパンを食べ、私が調合した葡萄酒を飲みなさい。」
それゆえ、幼さを捨てて生きなさい。そして分別の道を歩みなさい。(その道を私は忠実に示し、父の心をもってあなたがたに勧める。)
単純な者たちよ、自分たちの道を捨てなさい。そうすれば生きる。そして理解の道を進みなさい。
第五。序説の第五段階。
善い者は主から恵みを汲み取る。しかし、自分の思いに頼る者は愚かである。
善い者はイェホヴァから御好意を汲み取る。そして悪しきことを企む者を、神は罪に定められる。
悪人たちは公正を考えない。しかし主を探し求める者たちは、すべてを悟る。
悪人たちは公正を理解しない。しかしイェホヴァを求める者たちは、すべてを理解する。
主の祝福は正しい者の頭上にある。しかし不義が不信心な者たちの口を覆う。
祝福は正しい者の頭上にある。しかし不信心な者たちの口は不義を覆い隠す。
すべて嘲る者は主に忌み嫌われる。主は素直な者たちと親しく語り合われる。
曲がった者はイェホヴァに忌み嫌われる。主の密かな交わりは正しい者たちとともにある。
主ご自身が嘲る者たちを嘲り、柔和な者たちには恵みを与えられる。
まことに主ご自身が嘲る者たちを嘲り、へりくだる者たちには恵みを与えられる。
邪な心は主に忌み嫌われる。主の御心にかなうのは、素直に歩む者たちである。
注 原本では節番号の代わりに星印が付く、198と199の間の無番号引用。
心の曲がった者たちはイェホヴァに忌み嫌われる。道を全うする者たちは、主の御好意を受ける。
注 原本では節番号の代わりに星印が付く、198と199の間の無番号引用。
心の曲がった者は善いものを見いださず、舌を翻す者は災いに陥る。
心の曲がった者は善いものを見いださず、自分の舌を翻す者は災いに陥る。
自らの素直さに従って歩む貧しい者のほうが、邪な道を行く富む者より優れている。
自らの全き道を歩む貧しい者のほうが、道が曲がっていながら富んでいる者より優れている。
『箴言』19章1節。
愚かな者が富を持っていても、知恵を買えないなら、何の役に立つのか。
愚かな者の手に、知恵を買うための代金があって、何になるのか。その者には思慮がないのに。
主への畏れは知恵の訓戒である。そして謙遜が栄光に先立つ。
イェホヴァへの畏れは知恵の教導である。そして栄光の前には謙遜がある。
高慢のあるところには、侮辱もある。しかし謙遜のあるところには、知恵もある。
高慢が来るとき、恥辱も来る。そしてへりくだる者たちとともに知恵がある。
『箴言』16章5節。そもそも、すべて高ぶる者は主に忌み嫌われる。
注 203の後に続く無番号の補助引用。旧訳の「.n.」はenimに相当する略記として訳した。
『箴言』16章5節。心の高ぶる者はすべて、イェホヴァに忌み嫌われる。
注 203の後に続く無番号の補助引用。旧訳の「.n.」はenimに相当する略記として訳した。
分別ある者の心に知恵は憩い、学びのない者たちすべてを教え導く。
注 新訳はSAPIENTIAに対して男性形「ipse」を印刷する。その形を保った。
理解ある者の心に知恵は憩う。しかし愚かな者たちのただ中でも、それは知られる。
注 新訳はSAPIENTIAに対して男性形「ipse」を印刷する。その形を保った。
賢者たちと歩む者は賢くなる。愚かな者たちの友は、彼らに似た者となる。
賢者たちと歩む者は賢くなる。しかし愚かな者たちの友である者は、打ち砕かれる。
魂の知識がないところに、善はない。
また、知識を伴わない欲求は良くない。
また、嫉妬に衰え果てる者と道をともにするつもりはない、と賢者はいう。そのような人は知恵にあずかる者ではないからである。
私は、嫉妬によってやせ衰える者と道をともにするつもりはない。そのような者は知恵にあずかる者とならないからである。
葡萄酒は放縦なものであり、酔いは騒がしいものである。これらを楽しむ者は誰でも、賢い者とはならない。
葡萄酒は人を嘲る者にし、シェカル、すなわち強い酒は人を騒ぐ者にする。それを楽しむ者は誰でも、賢い者とはならない。
賢者の心は教えを求め、愚かな者たちの口は無知を食物とする。
理解ある心は知識を求め、愚かな者たちの口は愚かさを食物とする。
主への畏れは知恵の始まりである。愚かな者たちは知恵と教えを軽んじる。
イェホヴァへの畏れは知識の始まりである。愚かな者たちは知恵と教導を軽んじる。
主への畏れは命の泉であり、それによって人は死の破滅を避ける。
イェホヴァへの畏れは命の水脈のようであり、それによって人は死の罠を離れる。
知恵の始まりは主への畏れである。そして聖なるものについての知識は分別である。
知恵の始まりはイェホヴァへの畏れである。そして聖なるものについての知識は理解である。
それゆえ、あなたの心が罪人たちを羨んではならない。むしろ、一日じゅう主への畏れのうちにありなさい。
あなたの心が罪人たちを羨んではならない。それよりむしろ、一日じゅうイェホヴァへの畏れのうちにありなさい。
あなたは終わりの時に望みを抱くことができ、あなたの待ち望むものは取り去られないからである。
確かに報いがあり、あなたの望みは断ち切られないからである。
死すべき者たちよ、善い心で主を思い、素直な心で主を求めなさい。
人々よ、善い心で主を思い、素直な心で主を求めなさい。
主を試さない者たちは主を見いだし、主に信仰を置く者たちには主が現れられるからである。
主を試さない者たちは主を見いだし、主を疑わない者たちには主が御自身を示されるからである。
『申命記』4章29節。『歴代誌下』15章4節。神をどのように求めるべきか、また誰によって見いだされるか。
曲がった思いは人を神から引き離す。また、試されて明らかになった神の力は、思慮のない者たちを戒める。
曲がった思いは人を神から引き離す。そして神の力は、試されるとき、思慮のない者たちを責める。
悪意ある魂に知恵は入らず、罪に支配された体に住むこともない。
注 旧訳欄の節番号は「128」と誤植されている。新訳欄と前後の順序により218とした。
悪しき魂に知恵は入らず、罪に従属した体に住むこともない。
注 旧訳欄の節番号は「128」と誤植されている。新訳欄と前後の順序により218とした。
もしあなたが知恵を呼び求め、分別に心を傾けるなら、
注 原本の出典は「Prou.2. Vers.1.」。本文は箴言2章3節に対応する。
そう、もしあなたが理解に向かって叫び、理解に向けて声を上げるなら、
注 原本の出典は「Prou.2. Vers.1.」。本文は箴言2章3節に対応する。
金銭のように知恵を求め、宝のようにそれを掘り出すなら、
銀のようにそれを求め、宝のようにそれを探し出すなら、
そのとき、あなたは主への畏れを理解し、神についての知識を見いだすであろう。
そのとき、あなたはイェホヴァへの畏れを理解し、神についての認識を見いだすであろう。
主よ、あなたを知ることは完全な義であり、あなたの正義と力を知ることは、不死の根である。
あなたを知ることは完全な義であり、あなたの力を理解することは、不死の根である。
この知恵のゆえに私は願い求め、悟りが私に与えられた。私は呼び求め、知恵の霊が私のうちに来た。
それゆえ私は願い求め、分別が私に与えられた。私は呼び求め、知恵の霊が私に訪れた。
私は知恵を王国と玉座にまさるものとし、それに比べれば富は無に等しいと考えた。
注 新訳は男性形「illum」を印刷する。直前223のspiritusを受けるものと読める。
私はそれを王笏と玉座にまさるものとし、知恵に比べれば富は無に等しいと評価した。
注 新訳は男性形「illum」を印刷する。直前223のspiritusを受けるものと読める。
宝石をこれと比べることもなかった。すべての金も、知恵と比べれば僅かな砂にすぎず、銀も、その前では泥のように見なされるからである。
宝石をこれと比べることもなかった。金も知恵と比べれば僅かな砂であり、銀もこれと比べれば泥と見なされるからである。
私は健康と美しさにまさって知恵を愛し、光に代えてこれを持とうと定めた。その輝きは消えることがないからである。
私は健康と容姿の美しさにまさって知恵を愛し、光よりもむしろ知恵を享受したいと願った。その輝きは抑え消すことができないからである。
知恵を愛する者には、確かに知恵は容易に見え、これを求める者には見いだされる。
知恵を愛する者には容易にはっきりと見え、これを求める者には見いだされる。
知恵は自分を慕う者たちに先んじ、自分のほうからまず姿を現す。
知恵は自分を熱心に求める者たちに先んじ、自分を知ってもらおうと姿を現す。
夜明けから目覚めて知恵を求める者は、労苦することがない。自分の戸口に知恵が座っているのを見いだすからである。
朝早く起きて知恵を求める者は、労苦することがない。自分の戸口に知恵が座っているのを見いだすからである。
それゆえ知恵について思い巡らすことは、完全な悟りである。知恵のために目覚めている者は、すぐに心安らかになる。
知恵について思い巡らすことに取り組むのは、分別の完成である。知恵のために目覚めている者は、ただちに心安らかになる。
知恵自身が、自分にふさわしい者を探して巡り歩き、道々で彼らに喜ばしく姿を見せ、そのあらゆる思慮のうちに彼らを迎えるからである。
知恵自身が、自分にふさわしい者を巡り歩いて探し、道々で好意をもって彼らに姿を見せ、そのあらゆる思いのうちに彼らを迎えるからである。
知恵の始まりは、訓戒をこの上なく真摯に求めることだからである。
知恵の始まりは、教導をこの上なく真摯に求めることであり、教導を心にかけることは愛だからである。
それゆえ訓戒を心にかけることは愛であり、愛とは知恵の掟を守ることである。そして掟を守ることは、不朽の完成である。
愛とは知恵の掟を守ることである。そしてまた、掟を守ることは不死を保つことである。
そして不朽は、人を神に近しい者とする。
さらに不死は、私たちを神のごく近くへと近づかせる。
それゆえ知恵を慕い求めることは、永遠の王国へと導く。
それゆえ知恵を求めることは、王国へと導く。
それゆえ私は家に入ると、知恵とともに憩う。その交わりには苦さがなく、ともに暮らすことには倦怠がなく、ただ楽しさと喜びがあるからである。第18節。私は知恵を自分に迎えようと、巡り歩いて探していた。
注 新訳の末尾は男性形「eum」。原本の形を保った。
私は家に入ると、この知恵のうちに憩う。その交わりには何の苦さもなく、ともに暮らすことには何の煩わしさもなく、ただ楽しさと喜びがあるからである。第18節。私はそれを自分のもとに迎えようと、巡り歩いて探していた。
注 新訳の末尾は男性形「eum」。原本の形を保った。
軽率に何かを語ってはならない。神の前で言葉を発しようと、心を急がせてもならない。神は天におられ、あなたは地の上にいる。それゆえ、あなたの言葉は少なくあるべきである。
口を急がせてはならない。神の前で言葉を発しようと、心を急がせてもならない。神は天におられ、あなたは地の上にいるからである。それゆえ、あなたの言葉は少なくあるべきである。
神の前で軽率に発言してはならない。
また、神に何かを誓願したなら、それを果たすのを遅らせてはならない。不誠実で愚かな約束は神の御心にかなわないからである。何を誓願したにせよ、それを果たしなさい。
神に誓願を立てたなら、それを果たすのを遅らせてはならない。神は愚かな者たちを喜ばれないからである。それゆえ、誓願したことは果たしなさい。
誓願。『申命記』23章21節。
誓願を立てた後で約束を果たさないより、誓願しないほうがはるかによい。
誓願しながらそれを果たさないより、誓願しないほうがよい。
不信心な者たちのいけにえは主に忌み嫌われる。正しい者たちの誓願は喜ばれる。
不信心な者たちのいけにえはイェホヴァに忌み嫌われる。しかし正しい者たちの祈りは主の御心にかなう。
『集会の書』34章23節。
言葉について学んだ者は、良いものを見いだす。主に望みを置く者は幸いである。『箴言』28章25節。主に望みを置く者は癒やされる。
物事を理解する者は良いものを見いだす。イェホヴァに信頼する者は幸いである。『箴言』28章25節。イェホヴァに信頼する者は豊かに養われる。
神に信頼する者たちは真理を理解する。そして忠実な者たちは、愛のうちに神に安んじる。神に選ばれた者たちには、賜物と平和があるからである。
神に信頼を置く者たちは真理を理解する。そして忠実な者たちは、愛のうちに神にとどまる。神の聖なる者たちには恵みと憐れみが向けられ、神に選ばれた者たちは顧みられるからである。
主は不信心な者たちから遠く離れておられるが、正しい者たちの祈りは聞き届けられる。
イェホヴァは不信心な者たちから遠く離れておられる。しかし正しい者たちの祈りは聞き届けられる。
律法を聞かないように耳をそむける者は、その祈りも忌まわしいものとなる。
律法を聞かないように耳を遠ざける者は、その祈りさえ忌まわしいものとなる。
自分の罪を隠す者は順調には進まない。しかし罪を告白して捨てる者は、憐れみを得る。
自分の罪を覆い隠す者は決して栄えない。しかし罪を告白して捨てる者は、憐れみを得る。
憐れみと真実によって不義は贖われ、主への畏れによって人は悪を避ける。
憐れみと真実によって不義は贖われ、イェホヴァへの畏れによって人は悪を離れる。
それゆえ、悪を行う者たちは道を誤る。しかし憐れみと真実は、良いものを備える。
悪を企む者たちは道を誤るのではないか。しかし、善を思う者たちには憐れみと真実がある。
それゆえ、正義と憐れみを追い求める者は、命と正義と栄光を見いだす。
注 両欄とも関係節と主節の動詞の数が一致しない。旧訳はsequitur/invenient、新訳はsectantur/invenietという印刷形を保った。
正義と憐れみを追い求める者たちは、命と正義と栄光を見いだす。
注 両欄とも関係節と主節の動詞の数が一致しない。旧訳はsequitur/invenient、新訳はsectantur/invenietという印刷形を保った。
私は才ある少年であり、善い魂を授かっていた。
注 原本の出典は「Sap.18. Vers.19.」。本文は知恵の書8章19節に対応する。
私は少年であり、優れた才能の資質を備え、善い魂を授かっていた。
注 原本の出典は「Sap.18. Vers.19.」。本文は知恵の書8章19節に対応する。
そして私はいっそう善い者であったので、汚れのない体に入った。
注 欄中央の「Vers.20.」は直前の誤記「Sap.18.」を受けるが、実際の対応は知恵の書8章20節。
いやむしろ、私は善い者であったので、汚されていない体に入った。
注 欄中央の「Vers.20.」は直前の誤記「Sap.18.」を受けるが、実際の対応は知恵の書8章20節。
神が与えてくださらなければ、私は自制を保つことができないと知ったとき、そして、それが神の賜物であると知ること自体が知恵であったのだが、私は主に近づき、主に祈り求め、心の奥底のすべてから語った。
注 欄中央の「Vers.21.」は60頁の誤記「Sap.18.」を受けるが、実際の対応は知恵の書8章21節。本文は61頁上端へ続く。
神が知恵を与えてくださるのでなければ、自分はこれを得ることができないと悟ったとき、そして、これが誰の恵みであるかを理解すること自体が分別に属していたのだが、私は主に近づいて祈り、心を尽くして語った。
注 欄中央の「Vers.21.」は60頁の誤記「Sap.18.」を受けるが、実際の対応は知恵の書8章21節。本文は61頁上端へ続く。
私の父祖の神、憐れみの主よ。あなたは御言葉によって万物を造られました。
父祖の神、憐れみの主よ。あなたは御言葉によってすべてを創造されました。
また、あなたの知恵によって人間を立て、あなたの造られた被造物を治める者とされました。
また、あなたの知恵によって人間を造り、あなたの創造されたものを治める者とされました。
それは、公平と正義をもって地上の世界を秩序づけ、まっすぐな心で裁きを行うためです。
聖さと正義をもって世界を統べ治め、正しい心で裁きを行うためです。
あなたの御座の傍らに仕える知恵を私にお与えください。私をあなたの僕たちの中から退けないでください。
あなたの御座の傍らに座る知恵を私にお与えください。私をあなたの僕の数から除かないでください。
私はあなたの僕、あなたのはしための子であり、弱く短命な人間、裁きと律法を理解するには未熟な者だからです。
私はあなたの僕、あなたのはしための子です。弱く命短い人間であり、裁きと律法を理解できるほどの者ではありません。
人の子らの中でどれほど完全な者であっても、あなたの知恵がその者に欠けていれば、無に等しいと見なされます。
たとえ人の子らの中で完全な者であっても、あなたの知恵がなければ、何の価値もないと見なされるからです。
あなたは私を、あなたの民の王、あなたの息子と娘たちの裁き手として選ばれました。
注 旧訳の filiorum tuarum は画像に見える印刷形を保持した。通常期待される形は filiorum tuorum。
あなたは私を、あなたの民の王、あなたの息子と娘たちの裁き手に選ばれました。
注 旧訳の filiorum tuarum は画像に見える印刷形を保持した。通常期待される形は filiorum tuorum。
あなたは、あなたの聖なる山に神殿を、あなたの住まわれる都に祭壇を建てるよう私に言われました。初めからあなたが備えられた、聖なる幕屋をかたどって建てるためです。
あなたは、あなたの聖なる山に神殿を、あなたの住まわれる都に祭壇を建てるよう私に命じられました。初めからあなたが備えられた聖なる幕屋にならうものです。
それゆえ真の知恵は、絶えざる祈りと願いによって天から招き求めねばならない。知恵を得るためのソロモンの祈り。
『列王記第三』3章9節。『詩篇』115篇16節。『歴代誌第一』28章5節。『歴代誌第二』1章9節。
注 順に第255、256、258項の欄外参照。原刊の書名・番号体系を保持。
知恵はあなたと共にあり、あなたの業を知っています。あなたが地上の世界を形づくられたときにも傍らにあって、何が御目にかなうか、何が戒めに照らして正しいかを知っていました。
知恵はあなたと共にあり、あなたの業を知っています。あなたが世界を造られたときにも傍らにあって、何が御目に喜ばれるか、何があなたの戒めに照らして正しいかを知っています。
あなたの聖なる天から、あなたの威光の御座から、知恵を遣わしてください。私と共にあって、私と共に働き、何があなたに喜ばれるかを私が知るためです。
聖なる天から知恵を下し、あなたの栄光の玉座から遣わしてください。知恵が私のもとにあって共に働き、何があなたに喜ばれるかを私が悟るためです。
知恵は万物を知り、理解しています。私の業において私を慎み深く導き、その力のうちに私を守ってくれるでしょう。
知恵は万物を知り、理解しています。私の行為において私を節度正しく導き、その栄光のうちに守ってくれるでしょう。
そうすれば私の業は受け入れられ、私はあなたの民を正しく治め、父の王座にふさわしい者となるでしょう。
そうすれば私の業は受け入れられ、私はあなたの民を正しく裁き、父の玉座にふさわしい者となるでしょう。
人間の誰が神の計らいを知ることができるでしょう。誰が、神の望まれることを思い測れるでしょう。
人間の誰が神の計らいを理解するでしょう。神の望まれることを、誰が心に捉えられるでしょう。
死すべき者たちの思いはおぼつかなく、私たちの見通しは確かではありません。
死すべき者たちの思いはおぼつかなく、私たちの見解は誤りやすいからです。
朽ちてゆく身体は魂を重くし、地上の住まいは多くのことを思う精神を押し沈めるからです。
朽ちる定めの身体は魂を重くし、地上の住まいは思い煩いに満ちた心を押し沈めるからです。
地上にあるものさえ、私たちはようやく推し測るだけで、目の前にあるものを見いだすにも苦労します。それなら天にあるものを、誰が探り究められるでしょう。
地上にあるものを、私たちはかろうじて推測で捉え、手元にあるものを見いだすにも苦労します。それなら天にあるものを、誰が究めたでしょう。
いと高きところからあなたが聖霊をお与えにならなければ、誰があなたの御心を知るでしょう。
注 旧訳には新訳の「知恵を与える」に対応する句が印刷されていない。原刊の差異を保持。
あなたが知恵を与え、いと高きところからあなたの聖霊を遣わされなければ、誰があなたの計らいを知るでしょう。
注 旧訳には新訳の「知恵を与える」に対応する句が印刷されていない。原刊の差異を保持。
そして、地上にいる者たちの道が正され、人々があなたに喜ばれることを学ぶとするなら、どうしてそれが成り立つでしょう。
注 旧訳の疑問形・接続法を保持し、前項から続く問いとして訳した。
このようにして地に住む者たちの道は正され、彼らはあなたに喜ばれることを学んだのです。
注 旧訳の疑問形・接続法を保持し、前項から続く問いとして訳した。
主よ、初めからあなたに喜ばれた者は皆、知恵によって癒やされたからです。
注 節番号19は原刊の番号体系。現代の多くの聖書では9章18節の末尾に含まれる。
そして彼らは知恵によって救い保たれました。
注 節番号19は原刊の番号体系。現代の多くの聖書では9章18節の末尾に含まれる。
さらに、私はあなたに二つのことを願いました。死ぬ前に、それを私に拒まないでください。
私はあなたに二つのことを願いました。死ぬ前に、それを私から遠ざけないでください。
むなしさと偽りの言葉を、私から遠ざけてください。物乞いの窮乏も富も私に与えず、ただ生活に必要な糧だけをお与えください。
むなしさと偽りの言葉を、私から取り除いてください。貧しさも富も与えず、私にふさわしい食物で養ってください。
満ち足りて否認へと誘われ、「主とは誰か」と言うことのないように。また窮乏に迫られて盗み、わが神の御名によって偽りの誓いをすることのないように。見よ。
満ち足りて否み、「エホバとは誰か」と言うことのないように。また貧しくなって盗み、わが神の御名をみだりに用いることのないように。
この勤勉な努めの後にこそ、ついに知恵が続いて来る。
注 rectificatio は「正すこと・適切に整えること」。原刊の新訳の表現を、他の聖書訳へ置き換えず訳した。
しかし、事を正しく整える卓越した力は知恵にある。
注 rectificatio は「正すこと・適切に整えること」。原刊の新訳の表現を、他の聖書訳へ置き換えず訳した。
さて、教えの子よ、エホバの恵みによって、このように知恵、あるいはその特別な賜物を幾つか得た者よ、
賢者にも機会を与えよ。そうすれば彼には知恵が加わる。正しい人に教えよ。彼は急いでそれを受け入れる。
賢者に戒めを与えよ。彼はいっそう賢くなる。正しい人に教えよ。彼は学びを増す。
しかし、愚かな者たちの耳には語るな。彼らはお前の言葉にある教えを軽んじるからである。
愚かな者の耳には語るな。彼はお前の言葉にある分別を侮るからである。
正しい者の父は喜びに躍る。賢い子をもうけた者は、その子を喜ぶ。
正しい者の父は大いに喜び躍り、賢い子を生む者は、その子を喜ぶ。
命を与える戒めを聞く耳は、賢者たちのただ中にとどまる。
命を与える戒めを聞く耳は、賢者たちのただ中にとどまる。
訓戒を投げ捨てる者は自分の魂を軽んじる。しかし戒めに従う者は、分別ある心の持ち主となる。
訓戒を怠る者は自分の魂を侮る。しかし戒めを聞く者は、分別ある心を得る。
訓戒を捨てる者には窮乏と不名誉がある。しかし叱責する者に従う者は、栄誉を受ける。
矯正を捨てる者には貧困と不名誉が訪れる。しかし戒めを守る者は、尊ばれる。
嘲る者を教え諭す者は、自ら侮辱を招く。不敬な者を叱る者は、自ら汚点を生む。
嘲る者を叱る者は、自ら不名誉を受ける。不敬な者を戒める者は、自分に汚点を受ける。
嘲る者を叱るな。お前を憎むことのないように。賢者を叱れ。そうすればお前を愛するだろう。
それゆえ嘲る者を戒めるな。お前を憎むことのないように。賢者を戒めよ。そうすればお前を愛するだろう。
たしかに嘲る者も知恵を求めるが、見いださない。分別ある者たちには学びは容易である。
嘲る者は知恵を求めるが、見いださない。しかし理解ある者にとって、知識は容易に見いだされる。
分別ある者の顔には知恵が輝く。愚かな者たちの目は地の果てを見ている。
理解ある者の目の前には知恵が現れる。愚かな者の目は地の果てに向いている。
少年も、その営みから知られる。その行いが清く正しいかどうかが。
少年も、自分の行いによって知られる。その業が清いか、また正しいかどうかが。
欺きながら歩む者は秘密を漏らす。しかし忠実な者は、友から託されたことを隠して守る。
欺きながら歩む者は秘密を漏らす。しかし忠実な心は、事柄を隠して守る。
秘密を漏らし、欺きながら歩き、むやみに唇を開く者とは交わるな。
秘密を漏らす者は、欺きながら歩む。唇で人を誘う者とは交わるな。
多くの人は慈悲深いと呼ばれる。しかし忠実な人を、誰が容易に見いだせるだろうか。
多くの人は、それぞれの慈悲を言い立てる。しかし誠実な人を、誰が見いだせるだろうか。
それゆえ、お前を信頼している友に対して、悪事を企てるな。
お前と共に安心して暮らしている友に対して、悪いことをたくらむな。
善に悪をもって報いる者、その家から災いは去らない。
注 原刊では旧訳と新訳が別の節に対応している。中央参照は Prov.17:3。旧訳本文は Prov.17:13。新訳は画像上「& camino」と印刷され、通常ここに期待される「金」に当たる語は見えないため補わない。
銀には精錬のるつぼがあり、炉にも〔原文に脱落または誤植の疑い〕。しかし心を試すのはエホバである。
注 原刊では旧訳と新訳が別の節に対応している。中央参照は Prov.17:3。旧訳本文は Prov.17:13。新訳は画像上「& camino」と印刷され、通常ここに期待される「金」に当たる語は見えないため補わない。
第六。序説の第六段階。
「あらゆる善きものが、あの知恵と共に私のもとに来た」と賢者は証しする。「知恵の手を通して、数えきれない誉れも来た。」
あらゆる善きものが、知恵と共に私のもとに来た。その手を通して、数えきれない富も来た。
私はそのすべてを喜んだ。この知恵が私に先立っていたからである。しかし私は、知恵がこれらすべての母であることを知らなかった。
私はそのすべてを喜んだ。知恵がそれらの生みの親だからである。しかし私は、知恵自身がそれらの母であることを知らなかった。
知恵は人々にとって無限の宝である。それを用いた者たちは、訓戒の賜物によって認められ、神との友愛にあずかる者となった。
知恵は人々にとって汲み尽くせない宝である。それを用いた者たちは、訓戒の賜物によって認められ、神と友愛を結んだ。
神御自身が、存在するものについての真の知識を私にお与えになった。地上の世界の秩序と、諸元素の力を知るために。
神は、自然のうちに存在するものの真の認識を私にお与えになった。世界の構成と、諸元素の力を理解するために。
時の始まりと終わりと中ほど、循環の移り変わりと、時の満了を。
時の始まりと終わりと中ほど、夏至と冬至の交替、季節の変化を。
習性の変化と、時の区分、一年の巡りと、星々の配置を。
注 旧訳の Morum mutationes は画像で確認した印刷本文。「習性の変化」と訳し、新訳にない句も保持した。
年々の循環と、星々の位置を。
注 旧訳の Morum mutationes は画像で確認した印刷本文。「習性の変化」と訳し、新訳にない句も保持した。
動物の性質と、野獣の怒り、風の力と、人間の思考、低木の違いと、根の効力を。
注 新訳末尾は facultas と印刷されているように読める。文法上予想される facultates へは修正していない。
動物の性質と野獣の怒り、風の力と人間の思考、植物の違いと根の効力を。
注 新訳末尾は facultas と印刷されているように読める。文法上予想される facultates へは修正していない。
隠されたものも、見通せないものも、私はすべて学んだ。万物の造り手である知恵が、私に教えたからである。
ついには、隠れたものも明らかなものも、私はすべて知った。万物の造り手である知恵が、私に教えたからである。
知恵は一つでありながら、万事をなしうる。自らのうちにとどまりながら、すべてを新しくする。そして諸々の世代を通して聖なる魂へと移り、神の友と預言者を立てる。
知恵はただ一つでありながら、万事をなしうる。自らのうちにとどまりながら、すべてを新しくし、あらゆる時代を通して聖なる魂へと移り、神の友と預言者を生み出す。
神は、知恵と共に住む者以外は、誰も愛されないからである。また、
神は、知恵と親しく交わる者以外は、誰も愛されないからである。
人の道が主に喜ばれるなら、主はその人の敵たちさえも和睦へと向けられる。
人の道がエホバに喜ばれるなら、エホバはその人の敵たちさえも、その人と和睦させられる。
知恵はまた、神の訓戒を教える者であり、神の業を選び分ける者である。
知恵は神の知識に通じ、その秘義にあずかり、神の業を選び分ける者である。
人生で富が求められるのなら、万物を造り出す知恵より豊かなものがあるだろうか。
人生で富を所有することが望ましいのなら、万物を造り出す知恵より豊かなものがあるだろうか。
もし理解が働いて業をなすのなら、存在するものの中で、知恵以上に巧みな造り手は誰か。
もし分別が働き、業を成し遂げるのなら、自然界で知恵以上に巧みなものは何か。
もし正義を愛する者があるなら、知恵の働きは偉大な徳を備えている。知恵は節制と分別、正義と勇気を教えるからであり、人間の生において、これらより有益なものは何もない。
もし正義を愛する者があるなら、知恵の働きこそ諸徳である。知恵は節制と分別、正義と勇気を教えるからであり、人間の生において、これらより有益なものは何もない。
もし豊かな知識を望む者があるなら、知恵は過去を知り、未来を推し測る。言葉の機微と論題の解き方を知り、しるしと驚異が起こる前からそれを知り、時と世代の成り行きを知っている。
さらに、多くの事柄に通じることを望む者があるなら、知恵は昔の事柄を知り、未来を推測し、言葉の機微と謎の解釈を理解し、しるしと驚異、季節と時の成り行きをあらかじめ知っている。
それゆえ私は、知恵を迎え、共に暮らすことを決めた。知恵が善きことについて私と語り合い、私の憂いを慰める言葉となると知っていたからである。
それゆえ私は、日々の暮らしと交わりのために、知恵を自分に結びつけると決めた。知恵が善きことへの助言者となり、思い煩いと苦悩の慰め手となると、確かに知っていたからである。
知恵によって私は人々の間で名声を得、若くても長老たちの間で尊敬されるだろう。
知恵によって私は民衆の中で栄誉を得、若くても長老たちの間で尊敬を得るだろう。
私は裁きにおいて鋭敏と認められ、権力ある者たちの前で驚嘆されるだろう。君主たちの顔も、私に驚嘆するだろう。
私は裁きにおいて鋭敏と認められ、権力ある者たちの前で驚嘆されるだろう。
私が黙っていれば人々は待ち、私が語れば私に目を向け、私がさらに語り続ければ、その口に手を当てるだろう。
私が黙っていれば人々は待ち、私が語れば注意深く聞き、私が詳しく論じている間は、その口に手を当てるだろう。
さらに私は知恵によって不死を得、私の後に来る者たちに永遠の記憶を残すだろう。
知恵によって私は不死を得、後の世の人々に永遠の記憶を残すだろう。
私は諸々の民を統べ、諸国民は私に従うだろう。
私は諸々の民を治め、諸国民は私に従うだろう。
恐るべき王たちは、私のことを聞いて恐れるだろう。群衆の中では善良な者、戦いの中では勇敢な者と見なされるだろう。
恐るべき暴君たちは、聞けば私を恐れるだろう。群衆の中では善良な者、戦いの中では勇猛な者と見なされるだろう。
私はこれらを独り思い、心の中に思い起こした。知恵を思うことのうちに、不死なるものがあるのだと。
注 旧訳には immortalis と印刷されている。通常の immortalitas に黙って修正せず、また cogitatione(思惟)と新訳 cognatione(親縁)の差を保持した。
私はこれらを独り思い巡らし、心を尽くして考えた。知恵と親族のように結ばれることのうちに、不死があるのだと。
注 旧訳には immortalis と印刷されている。通常の immortalitas に黙って修正せず、また cogitatione(思惟)と新訳 cognatione(親縁)の差を保持した。
知恵との友愛には善き喜びがあり、その手の業には尽きることのない誉れがあり、その語りとの取り組みには知恵があり、その言葉を交わすことには輝かしい名声がある。
知恵との友愛には善き喜びがあり、その手の働きには尽きない富があり、知恵との出会いと対話には分別があり、言葉を交わすことには栄誉がある。
知恵への賛美。
知恵を見いだし、分別に満ちあふれる人は幸いである。(「分別をあふれ出させる」とも読まれる。)
注 中央欄は Prou.13. と読めるが、本文の対応箇所は箴言3章13節。旧訳の異読注も本文に含めた。
知恵を見いだす人、理解を明るみにもたらす人は幸いである。
注 中央欄は Prou.13. と読めるが、本文の対応箇所は箴言3章13節。旧訳の異読注も本文に含めた。
知恵を得ることは金銀の取引に勝り、その実りは最上で最も純粋である。
注 旧訳後半の「primi & purissimi fructus eius」は、fructusを主格複数、繋辞を省略した独立句と解して訳した。一般的な聖書本文に合わせて金への比較を補ってはいない。
知恵による利得は銀の取引による利得に勝り、その収穫は金に勝るからである。
知恵はいかなる財宝よりも貴い。望まれるものは何一つ、知恵に比べることができない。
知恵は真珠よりも貴い。お前が望むものは何一つ、知恵に匹敵しない。
知恵の右手には長い日々があり、左手には富と栄誉がある。
知恵の右手には長い日々があり、左手には富と栄誉がある。
知恵の道は美しく、その小道はすべて平和である。
知恵の道は喜ばしい道であり、その小道はすべて平和である。
知恵をつかむ者たちにとって、知恵は命の木である。これをしっかり持つ者は幸いである。
知恵をつかむ者たちにとって、これは命の木である。それをしっかり持つ者たちは幸いである。
知恵は、口のきけない者たちの口を開き、幼子たちの舌を雄弁にするからである。
知恵は、口のきけない者たちの口を開き、幼子たちの舌を雄弁にしたからである。
知恵自身はさらに語る。「私と共に助言と公平がある。分別は私のもの、力も私のものである。」
助言と知恵は私のもとにある。私は理解そのもの、力は私のものである。
私によって王たちは統治し、立法者たちは正しいことを定める。
私によって王たちは統治し、君主たちは正義を定める。
私によって君主たちは支配し、権力ある者たちは正しいことを定める。
私によって君主たちは支配する。諸侯も、地上のすべての裁き手も。
私と共に富と栄誉、壮大な財宝と正義がある。
私と共に富と栄誉、揺るがぬ財産と正義がある。
私の実りは金と宝石に勝り、私の収穫は選り抜きの銀に勝る。
私の実りは金と精金に勝り、私の収穫は選り抜きの銀に勝る。
私を愛する者たちを富ませ、その宝庫を満たすために。
注 新訳の esse perpetuum は文字どおり「永続する存在」。単に財産と置き換えず、その表現を保持した。
私を愛する者たちに永続する存在を相続させ、その宝庫を満たすために。
注 新訳の esse perpetuum は文字どおり「永続する存在」。単に財産と置き換えず、その表現を保持した。
私を見いだす者は命を見いだし、主から救いを汲み取る。
私を見いだす者は命を見いだし、エホバから好意を汲み取る。
しかし私に対して罪を犯す者は、自分の魂を傷つける。私を憎む者は皆、死を愛する。
しかし私に背いて罪を犯す者は、自分の魂を侮る。私を憎む者は皆、死を愛する。
まことに私によってお前の日々は増し、命の年々がお前に加えられる。
私によってお前の日々は増し、命の年々がお前に加えられるからである。
「わが子よ」と、われらの賢者は再び父のように諭す。「これらをお前の目から失わせるな。律法と助言を守れ。」
わが子よ、これらをお前の目から離れさせるな。律法と思慮を守れ。
そうすれば、それはお前の魂の命、お前の喉の飾りとなる。
そうすれば、それらはお前の魂の命、お前の喉の飾りとなる。
そのとき、お前は正義と裁き、公平と、すべての善き道を理解する。
そのとき、お前は正義と裁き、正しき諸々の行いと、すべての善き道を理解する。
そのとき、お前は自分の道を確信をもって歩み、その足はつまずかない。
そのとき、お前は自分の道を確信をもって歩み、その足はつまずかない。
眠るときも恐れることはない。安らいで休み、その眠りは心地よい。
横たわるときも恐れることはない。休むとき、その眠りは心地よい。
突然の恐怖にも、お前に襲いかかる不敬な者たちの勢力にも、おびえるな。
突然の恐怖にも、不敬な者たちの荒廃が訪れるときにも、お前は恐れない。
主がお前の傍らにいて、お前が捕らえられないよう、その足を守ってくださるからである。
エホバがお前の信頼となり、その足が罠にかからないよう守ってくださるからである。
知恵は、これに従う者たちを苦しみから解放した。
知恵は、自らを敬う者たちを苦難から解放した。
それゆえ、自分の財産と、すべての作物の初穂をもって主を敬え。
お前の富と、すべての収穫の初物をもってエホバを敬え。
『トビト記』4章7節。『ルカによる福音書』14章13節。
注 第340項の欄外参照。
そうすれば、お前の倉は満たされ、搾り場は葡萄酒であふれる。
そうすれば、お前の倉は豊かに満たされ、搾り場は新しい葡萄酒で張り裂けるほどになる。
お前自身の水槽の水を飲め。お前自身の井戸から流れる水を飲め。
お前自身の水槽の水を飲め。お前自身の井戸の内から流れる水を飲め。
〔知恵は〕私たちが自らの労働によって生き、その労の実りを他の人々にも分け与えることを望む。
注 laborib. は laboribus の略。eosque は「それらをも」の意で、先行する労働を受ける。訳では文脈上の「労の実り」とした。
お前の泉は外へ広がれ。広場には、水の流れが広がれ。
注 新訳の & の重複を原刊どおり保持した。
お前の泉を外へ流れ出させよ。そして広場で、お前の水を分け与えよ。
注 新訳の & の重複を原刊どおり保持した。
それらをお前だけのものとして持て。見知らぬ者たちがお前と分け合うことのないように。
それらはお前だけのものとなれ。お前と共にいる他人のものとはならないように。
なぜなら、まことに善き労苦の実りは栄光に満ちる。そして知恵の根が築かなかったもの〔後半は原刊の構文が不整〕。
注 旧訳には enim (enim) の重複と quæ non condidit radix SAPIENTIÆ がある。拡大画像でも condidit と確認できる。並行する新訳からは「倒れない根」を意図した誤植の可能性が推測されるが、本文は改めず、不整を明示した。
善き労苦の実りは栄光に満ち、分別の根は枯れ落ちないからである。
注 旧訳には enim (enim) の重複と quæ non condidit radix SAPIENTIÆ がある。拡大画像でも condidit と確認できる。並行する新訳からは「倒れない根」を意図した誤植の可能性が推測されるが、本文は改めず、不整を明示した。
第七。序説の第七段階。
不敬な者たちの小道を喜ぶな。悪人たちの道を気に入るな。
不敬な者たちの小道に入るな。悪人たちの道に入るな。
その道から逃れ、それを通るな。身をそらして、その道を捨てよ。
その道を捨て、それを通るな。その道を避け、通り過ぎよ。
人には正しく見える道がある。しかしその行き着くところは死へと導く。
人の目には正しい道がある。しかしその出口は、死の道である。
正しい者たちの小道は、輝く光のように進み、昼の満ちる時まで明るさを増す。
注 新訳の lucifer はここでは明けの明星・朝の光を指す普通名詞。悪魔の固有名としては訳していない。
正しい者たちの小道は、明けの明星の光のようである。進みゆき、昼の満ちる時まで明るさを増す。
注 新訳の lucifer はここでは明けの明星・朝の光を指す普通名詞。悪魔の固有名としては訳していない。
不敬な者たちの道は暗い。彼らは、どこで倒れるかを知らない。
不敬な者たちの道は闇のようである。彼らは、何につまずくかを知らない。
老年はたしかに尊い。しかしそれは、長く続いた歳月のことでも、年の数で測られるものでもない。人間の分別こそ白髪なのである。第9節。汚れのない生こそ、老年の成熟である。箴言16章31節。正義の道に見いだされる老年は、尊厳の冠である。
尊ばれる老年とは、長い生を得たことでも、年数によって定められるものでもない。第9節。人間にとって分別こそ白髪であり、何の汚点もない生こそ老年の成熟である。箴言16章31節。白髪は栄光の冠である。それは正義の道に見いだされる。
ことわざにいう。若者は自分の道に従い、年老いてもそこから離れない。同書27章22節。愚かな者を、ひき割り大麦のように臼に入れ、上から杵で打ち砕いたとしても、その愚かさは彼から取り除かれない。なぜなら、コヘレト1章15節。曲がった者たちは容易に正されず、愚かな者たちの数は限りないからである。
注 旧訳は教え育てる命令文を含まず、「ことわざにいう」として叙述する。末尾のコヘレト引用も両訳の差を保持した。
少年を、その歩むべき道に従って教え育てよ。年老いても、その道から離れない。同書27章22節。しかし愚かな者を、砕いた小麦と共に臼に入れ、杵で打ち砕いたとしても、その愚かさは彼から離れない。なぜなら、コヘレト1章15節。曲がったものはまっすぐにできず、欠けているものは数えられないからである。
注 旧訳は教え育てる命令文を含まず、「ことわざにいう」として叙述する。末尾のコヘレト引用も両訳の差を保持した。
嘲る者は叱責されても耳を貸さない。
注 新訳の語尾 tionem. は印刷上、本文行の上方右側に移されている。increpationem としてつないだ。
嘲る者は戒めを聞かない。
注 新訳の語尾 tionem. は印刷上、本文行の上方右側に移されている。increpationem としてつないだ。
それゆえ、愚かな者には、その愚かさに応じて答えよ。彼が自分を賢いと思わないように。
愚かな者には、その愚かさに応じて答えよ。自分の目に自分が賢く映ることのないように。
たしかに、愚かさの中で自分に自信を持つ愚人に会うより、子を奪われた雌熊に会うほうがまだよい。
人にとって、愚かさの中にいる愚者に会うより、子を失った雌熊に会うほうがまだよい。
愚かな者の道は、その者の目には正しい。しかし賢い者は助言を聞く。
愚かな者の道は、その者の目には正しい。しかし助言に従う者は賢い。
人を正しく叱る者は、舌のへつらいによって欺く者よりも、後になって、いつかは当然、その人の好意をいっそう得る。
後戻りする人を戒める者は、舌でへつらう者よりも、いっそう好意を得る。
首をかたくなにし、叱る者を侮る人には、突然の滅びが襲いかかり、癒やしがその後に続くことはない。
戒められても首をかたくなにする人は、突然打ち砕かれ、癒やされることはない。
まっすぐな道を歩み、神を畏れる者は、不名誉な道を行く者から侮られる。
注 旧訳では侮られる対象が正しく歩む人、新訳では侮られる対象が神となる。両訳の構文上の違いを保持した。
正しく歩む者はエホバを畏れる。しかし自分の道を曲げる者は、エホバを侮る。
注 旧訳では侮られる対象が正しく歩む人、新訳では侮られる対象が神となる。両訳の構文上の違いを保持した。
正しい者たちは不敬な人を忌み嫌い、不敬な者たちは正しい道にある人々を忌み嫌う。(しかし、)
不正な人は正しい者たちの忌むものであり、まっすぐな道を歩む人は不敬な者の忌むものである。
正しい者たちの誠実さは彼らを導き、曲がった者たちの欺きは彼らを滅ぼす。
正直な者たちの全き誠実さは彼らを導く。しかし背信者たちの邪悪さは彼らを滅ぼす。
主の道は誠実な者の力、悪を行う者たちの恐怖である。
エホバの道は全き者の力、不正を行う者たちの恐怖である。
人を恐れる者は、すぐに倒れる。主に望みを置く者は、引き上げられる。
人を恐れることは罠を仕掛ける。エホバに信頼する者は、高く上げられる。
神の言葉はすべて火で精錬され、神に望みを置く者たちの盾だからである。
神の言葉はすべて、いわば火で清められている。神に望みを置く者たちの盾である。
神の言葉に何も付け加えるな。叱責され、偽り者と見いだされることのないように。
神の言葉に付け加えるな。神に戒められ、偽り者と見破られることのないように。
第一段の解釈と注解
解釈と注解。
ライプツィヒのハインリヒ・クンラート、神的叡智の忠実な愛好者、両医学博士による。
これによって、前掲の序説の本文は、言葉の不明瞭さからだけでなく、むしろ高い神的叡智にかかわる事物の不明瞭さから救い出される。言葉の説明はすでに他の人々によって十分になされてきたが、事物については、これまで誰もこのようにはなし遂げていない。鼻の利く批評家よ、どうか反例を示してみよ。
神的叡智の真理の、普遍的で三一の規準に従う。その規準とは、聖書、大宇宙の自然の書、そして小宇宙における良心の証言である。三一のヤハウェの助けによって、この火の時代についに、正しい仕方で、しかもきわめて切実な必要に応じて、本文を明らかにするのである。
第一。序説の第一段の解説。
ここに第一段の図を入れること。
注 挿図の挿入指示は原刊本文に属するため収録。底本では銅版図が巻末にまとめられている。
注 巻末の出版者の読者への告知では、各段の図を挿入するという指示は誤植で、図は欠けていないと訂正される。
『箴言』のヘブライ語からの、『知恵の書』のギリシア語からの新訳。
旧訳、すなわち通行訳。
聖書の該当箇所。
注 原刊の新訳・旧訳の欄見出し。以下では並列引用をそれぞれ収録する。綴り TRALATIO は原刊に従う。
「わが子よ、聞け」とシェロモーはいう。彼は預言者にしてイスラエルの王であるダビデの子、賢い王であり、唯一真実なる永遠の知恵を告げる偉大な伝令、誰にもまして卓越した者である。「わが子よ、私の箴言を聞け。知恵と教導を知り、理解の言葉を悟るために。」
「わが子よ、聞け」とソロモンはいう。彼は預言者にしてイスラエルの王であるダビデの子、エルサレムの賢い王であり、唯一真なる永遠の叡智を告げる偉大な伝令、誰にもまして卓越した者である。「わが子よ、私の箴言を聞け。叡智と訓戒を知り、分別の言葉を理解するために。」
注 注解で再掲されるこの旧訳本文には、序説の同じ節にない in Jerusalem(エルサレムにおける)がある。
『箴言』1節、同2節。
ソロモン、神的叡智の託宣者。
真の叡智の探求の力、用い方、実り。
注 中央の聖書参照には章番号が印刷されていない。引用箇所は『箴言』1章1–2節。
以下、序説の解説
「聞け」。感覚、すなわち身体の耳だけでなく、理性、理解、精神の耳でも聞け。耳があっても聞かず、目があっても見ない者の数に入らないためである。この不浄な世の君主は、悪意ある高慢によって自ら盲目となり、その者たちを聞こえず、語れず、見えない者にしてしまった。
「子よ」。ヘブライ人にとって「子」は、ラテン語の「人」または「男」と同様に用いられる。そのため賢い王は、すべての人に呼びかける際、この普遍的な語を用いる。叡智はすべての人を呼ぶからである。『箴言』8章4節、9章4節。受肉した叡智はいう。「労苦し、重荷を負う者はみな私のもとへ来なさい。私があなたがたを休ませる」。とりわけ、すぐれた意味でいう「子」は、永遠の叡智の教えと訓練の子、忠実で愛される相続人を意味する。
「偉大な告知者」。彼が王であり、王の子であり、ヤハウェ自身、叡智の神的な霊によって、照らされ、教えられ、導かれているからである。『列王記第三』3章。この人は経験をもつ者であり、さらに天を超える叡智によって、この役目のために賢く選ばれ任命された者であるから、最大の信頼を寄せるべきである。
注 『列王記第三』は古い聖書書名区分による現行『列王記上』に当たる。本文の呼称は保持する。
「叡智を知るために」以下。ここに列挙されるものは、すべて慈悲深く寛大な神の善と賜物である。神は、その純粋な善性から、叡智の聖なる霊を通して、ご自分の者たちに、さまざまな仕方で、すなわち手段を介して、あるいは直接に、それらを与える。時と場所に応じ、神聖な御名の栄光に役立ち、授けられる本人とその隣人に益になると見られるところに従って、異なる人々に与えられるのである。
神はひとりの人にすべてを与えない。教えの子たち、すなわちいっそう忠実で、しかるべき巧みさを備えた者には、それにふさわしいものが伝えられる。また、さらに少数の特に選ばれた者には、いっそう善く、秘かで、確実で、えり抜きのものが、適合するように分かち与えられる。
そのため『百合』は、哲学者の石について、「神が人間のうちに忠実な心を認められるなら、確かにその人へ真理を内々に知らせるであろう」という。
注 Lilium は引用される錬金術書の略題として訳した。引用の著者同定はここでは確定しない。
したがって、神を畏れることに、全身を委ねよ。この円形劇場の第二図に記した、キリスト教カバラ的な十の衣を身に着け、神より与えられた力のかぎりに、二を退け、三を四を通して一の単純性へと還元せよ。全心、全魂、全力、全精神をもって、神の国とその義を求めよ。少なくとも神的叡智に即して求めようと努めるなら、ヤハウェは、そう望むあなたを退けない。最善なる方の促しを受け、善いことにおいて善く望んだだけでも、十分だからである。
「さらに先へ進めなくても、あるところまで進むだけの価値はある」。「力が欠けていても、その志は称賛に値する」。ドイツ語でいえば「服従は神に喜ばれる」。また神は、聖パウロの証言するように、灯る灯心を消す方ではない。
注 最後の聖書表現は通常『イザヤ書』42章3節や『マタイ』12章20節と結びつくが、原著の「パウロ」という帰属を修正せず訳した。数の記述は象徴的なカバラの文脈。
あなたの目標が神の栄光と悪魔の排斥であり、あなた自身と隣人の益になるなら、結合と合一の梯子を昇り、認識の十段を降りつつ、祈り働くことによって、ヤハウェに求めるものを幸いに得るであろう。なぜ、誰に、いつ、どれほど与えられるかには、しかるべき区別があるからだ。それどころか、真に存在するすべてのものの認識へ、感覚、知、信仰のいずれかによって、最低から最高まで昇ることができるであろう。
主は、ご自分を畏れるあなたの願いをかなえられる。これほど確かなことはない。詩篇145篇19節。本書169節、334節を見よ。したがって、あなたの内に悪魔が孕ませた疑いは、すべて去れ。賢く励みながら、神を信頼し、神を信じよ。確かな信頼と、揺らがない信仰をもてば、求めるものが見つかり、与えられ、受け取り、実現する。
ああ、不信という獣よ。信仰を増してくださるよう神に祈れ。信仰は神の賜物である。主よ、どうかこれを私から取り去らないでください。
そして、教えによる教育と、正義と、裁きと、公平を受け入れるために。
理解をもたらす教導、正義、裁き、そして正しき諸々の道を受け入れるために。
注 序説の対応箇所と異なり、ここでは INTELLIGENTIÆ と印刷される。
「そして受け入れるために」。神より来る教導は、大いなる熱心さと、天的で聖なる憧れをもって受け入れるべきである。ここでいう、教えられた理解にも注意せよ。それは普通で、ありふれて、誰にでも手に入る理解ではない。天的・神学的な、また大宇宙的・小宇宙的な教導を味わう理解である。
その理解は、人間の魂にかかわる「正義」、身体にかかわる「裁き」、霊、品行、各人の職務と召命を整える「正しさ」に分けられる。神に向かう神的な事柄では聖く、人々に向かう人間的な事柄では正義にかなって、自分自身に向かう固有の事柄では正しく行うためである。
未熟な者に機敏な判断を、若者に知識と理解を与えるために。
単純な者に賢明な判断を、少年に知識と思慮を与えるために。
「幼い者に与えられるために」。ここで「幼い者」と呼ぶのは、39節と同じく、自分自身の思案によっては事を切り抜けられない、素朴な人々である。そのため彼らは、主と、その助け手である神の叡智からの助力を待ち望む。彼らは自分を賢いとは思わない。『箴言』3章7節。この世の賢者たちのようではない。『ローマ人への手紙』12章16節。神は後者にご自身の叡智を隠されたのであり、われらの救い主はそのことについて天の父に感謝する。「これらを幼い者に明かされた」と。『マタイ』11章25節。
「機敏さ」。ここでいう機敏さは、世の欺きに捕らえられ、惑わされないための慎重さと警戒を意味する。蛇のように賢く、鳩のように素朴であるためである。『マタイ』10章16節。すなわち、聖パウロが『ローマ人への手紙』16章19節で解釈するように、「善において賢く、悪において無垢」であること。だから素朴な人々よ、機敏さを理解せよ。悟りなき者よ、心を留めよ。
「知識」以下。ここでは知識と思考を結びつける。われらが思索を学び、思索することで知を探り、探ることで神に祈り、祈ることで働くようになるためである。
賢者は聞いて学びを増し、理解ある者は助言を獲得する。
賢者は聞いていっそう賢くなり、理解ある者は舵を手にする。
「さらに賢くなる」。後の日が前の日の師となるように、賢者は賢者の師となる。教えの子たちの間にも段階があり、ひとりが他より優れる。しかし、誰も軽蔑されてはならない。「広大な田畑を称え、小さな田を耕せ」と、ウェルギリウスは正しく戒めた。
ソロモンはこういうのである。理解を備え、私の命令を守る者は、ありふれた術だけでなく、さらに秘密の、奥深い術も得て、それによっていっそう賢くなる。そして判断、叡智、経験によって確かな力を得ると、知り得るあらゆる事柄について、日ごとに巧妙な計画と精緻な発見を、神的叡智の仕方で獲得するであろう、と。
叡智に努める者は、より賢い者、もっとも賢い神から、その叡智を受け取らなければならない。神的叡智に即して祈り、自然学・錬金術に即して働くことによって。
「計画」。なすべき事柄の道理であり、つねに神、人間、自分自身を顧みる。救いをもたらす結末が続くように、祈りによって、神からこれを受け取るのである。
箴言と語られた表現、賢者たちの言葉とその謎を理解するために。
箴言とその解釈、賢者たちの言葉とその謎に心を留めるであろう。
「たとえ」。秘義と隠された事柄に満ちた秘密の言葉は、神の叡智が明らかにしないかぎり、誰にも理解できない。サバの女王はそのような謎でソロモンを試したと記されている。父祖ヨセフと王たる預言者ダビデも、それらを神から教えられた。預言書や『ヨハネの黙示録』には、そのような言葉が多く含まれる。エジプト人もこれによって名高く、象形のしるしによって秘義を隠した。
そこから、マギたちが驚くべき技によって、神的、神学的、政治的、自然的な秘義と、事物の隠れた本性を描く、あの神秘的な像が生まれた。ヘルメスの『エメラルド板』の謎や、哲学者の石の卓越した図像も、そこから生まれる。
賢者たちの覆いの中から真理の甘露を求めて渇く者よ、ここでその道と方法を学べ。古の賢者の、あらゆるカバラ、魔術、錬金術に属する謎、たとえ、寓意、神秘の言葉を理解するに至る道である。106節にあるように、叡智を姉妹とし、分別を親しい友とするなら、神的叡智によって、すべてを理解し学ぶであろう。
「解釈」。ヘブライ人のいい方では、言葉の尺度と重さである。ここには、カバラ学者のゲマトリア、テヴォス・ラシェ、ネオテリケンが属する。あるいは、ロンドンのジョン・ディーが、パリの人々に向けた『箴言集』と、『象形のモナド』の冒頭に置いたマクシミリアン王への序文で表現する、幾何学、ノタリコン、ツィルーフである。
ディーは、徴に基づく後者を、実在のカバラ、すなわち「存在するものの」カバラと呼ぶ。他方、ありふれたものを、文法的カバラ、すなわち「語られるものの」カバラと呼ぶ。それは、人間が書き記せる、もっとも末端の文字にとどまる。
ここには、二十七年前、名高いヨハンネス・オレアリウス、神学博士、名高いユリア大学のヘブライ語教授が、カバラを称えてプラハのパウルスに書き送った詩を添えたい。
注 カバラ術語の転写は原刊の綴りを保持。Teuos rasche は頭文字の操作を指す語。ディーに関する主張はクンラートの説明として訳す。ギリシア語の省略字を通常の完全形に展開した。
律法からは一点も、一つのイオタも失われない。
預言の筆で書かれた文字は一つも。
その保証者キリストが、そう明言された。
これほど小さな記号に、これほど大きな重みがあると、誰が信じられよう。
キリストに生まれたラビが、イエスの名について、
ヘブライの泉から汲み出したものを見よ。確信するだろう。
カバラ全体に、これより美しいもの、
敬虔な心にこれほど甘美なものはないと信じよ。
だからこの聖なる学問を支え、祈りも添えてほしい。
このパウルスが、さらに多くの秘義をキリストに献げるように。
わが子よ、聞け。私の言葉を受け入れよ。そうすれば、あなたの生涯の年は増し加わる。
わが子よ、聞け。私の言葉を受け入れよ。そして、あなたの生涯の年が増し加わるように。
「増し加えられる」。自然学的錬金術を仲立ちとして、その女主人たる叡智は、鍛錬の勤勉な子に、惜しみなく授ける。この錬金術は、この世で真の叡智に忠実に従う侍女、自然の秘事を扱う奥の間の乙女のようなものである。叡智が授けるのは、植物、動物とその各部、鉱物、石、宝石、真珠、金属の貴重な精髄と、健康をもたらすうえで、もっとも有効な微細の力である。さらに、われらの回復と保全のための、もっとも真実な普遍薬である、哲学者の石さえ授ける。それらを正当な医学の用い方で用いることから、日々の長さが生まれる。『箴言』3章2節、9章11節。
注 錬金術による延命・治療は原著の歴史的主張。現代医学上の効能として断定するものではない。
私はあなたに知恵の道を示し、公平の小道に沿って導く。
私は知恵の道を歩むようあなたを教え、まっすぐな小道を踏み行かせた。
「叡智の道」。叡智の王道は主への畏れであり、それによって神性の星々へと進む。「公平の小道」は、神の言葉の法と命令である。これらは精神、霊、身体の光であり、灯火である。この円形劇場が論じる、人間の至高の善、神の賜物、三重の三一にして普遍的な善を、幸いに獲得するための光である。まっすぐに歩む者は幸いだ。三たびも四たびも幸いだ。
その道に入れば、あなたの歩みは妨げられず、走ってもつまずくものはない。
歩むとき、あなたの歩みは狭められず、走ってもつまずかない。
「走る」。行動する生活でも、観想する生活でも、あなたの生涯全体の競技場、すなわち走路において。
「妨げをもたない」以下。哲学と空しい欺きによって、神的叡智の真理の中心から、世の詭弁や悪魔的な偽りの、滑りやすい周辺へ誘い出されない。中心には真理、周辺には偽りがある。中心にいるよう努めよ。「中道を行くのが、もっとも安全」だからである。
私が父にとって幼い子であり、母の子らの中でただ一人の大切な者であったとき。
私もまた父の子であり、母の目には幼く、かけがえのない一人子であったからだ。
「幼い」。幼い子や少年、若者も、年少のうちから真の叡智の鍛錬によって教え、育てるべきことを、この箇所の例と命令は明らかに教える。すべての者をか。そうできればよいのだが、どんな木材からでもメルクリウス像を彫れるわけではない。「曲がった木は、けっしてまっすぐではない」という半詩行も、ガレノスに見える。
では、どのような者を教えるのか。249節にあるように、すぐれた才能の素質を備え、善い魂を授けられた者をである。その者たちが老齢に達するまで待つ必要はない。ホラティウスが正しくいうように、「新しい壺が最初に染み込ませた香りを、長く保つ」からである。幼いときから慣れることは、それほど大きな意味をもつ。賢者は『箴言』22章6節でいう。「若者は自分の道に従い、年をとってもそこから離れない」。適切な時に教えなければ、善い素質も歪められ、惑わされることがある。
また若者は、王の例に従い、幼いうちは親に、そして親の代わりを務める忠実な師に、従順で、よく従うよう戒められる。
注 ギリシア語の省略表記を通常の綴りに展開した。「どんな木でもメルクリウス像にはならない」は素質の違いをいう古典的な諺。原著の教育観として訳す。
私も確かに、すべての人と同じ死すべき人間であり、初めに造られた者の土からの血統に属する。母の胎内で肉として形づくられた。
私も確かに、すべての人と同じ死すべき人間であり、初めに土から形づくられた人から生まれた者である。
『知恵の書』7章1節。
生命へ入るときも、去るときも、すべての人間は同じ境遇にある。
「私もまた、死すべき人間である」。誰かがいうだろう。「なぜ神はご自身の秘義を私に明かし、自然の秘密を私に伝えられるのか。私にだって。私は何者なのか。罪人であり、それゆえ死すべき者ではないか。したがって、この序説に述べられる神の大いなる善と賜物、すなわち永遠の叡智の無限の宝にふさわしくない者ではないか」と。
そのような人に私は答える。「確かに、それにふさわしくないと認める。しかし、それを必要としているのだ」と。賢い王の言葉を聞け。彼は父ダビデの命令に従って、まだ完全には歩んでいなかった。高き所で犠牲を捧げ、香を焚いていたからである。それでも一夜の夢のうちに、上なるものと下なるものすべての叡智を、神によって満たされた。『列王記第三』3章。さらに、事を行う分別にも満たされ、並ぶ者がいないほどになった。その彼が、「私もまた死すべき人間で、すべての人に似ている」といったのである。
注 indignus(ふさわしくない)と indigus(欠乏し必要とする)を対置する語遊び。
私は続けていう。ベツァルエルもそのような人であった。それでも神の霊、叡智、理解、あらゆる仕事の知識に満たされ、金、銀、青銅、大理石、宝石、さまざまな木材から作れるものすべてを考案できた。彼には協力者アハリアブが与えられ、熟練者すべての心に、モーセが命じたことをすべて作るための叡智を、主が置かれた。『出エジプト記』31章3節。
ダビデも同様である。彼は学問を習わなかったにもかかわらず、神の霊の注油によって、羊飼いから預言者、神的な事柄の卓越した教師となった。その詩篇を神的な事柄で満たしたため、どれほど精妙な詩人でも、彼にはるかに及ばない。彼は罪人、姦淫をなした者、人を殺した者であった。それでも、悔い改めによっていつも立ち直るたび、義人という名を失わなかった。
『ヤコブの手紙』5章17節は、いまの反論に適切に応じていう。「エリヤは、われわれと同じようにさまざまな情に動かされる人間だった」。使徒である自分自身も、普通の人々から除外してはいない。「彼が地上に雨が降らないように祈ると、三年六か月、雨が降らなかった。また祈ると、天は雨を与え、地は実りを生じた」と。
なおも反論して、あなたはいうだろう。「友よ、自分を彼らと比べてはいけない。神は、その特別な道具を、特別なことのために特別な仕方で用いられたのだ。彼らとあなたの召命の違いを考えれば、自分で別の判断をするだろう」と。
善き人よ、あなたの言葉にはもっともな点がある、と私は答える。そして本当に、私を思いとどまらせたであろう。もしも、この序説のいたるところで、叡智そのものと賢者の双方による、これほど多く、大きく、重要な普遍的な呼びかけ、招き、注意、勧告、さらには厳しい神の怒りという罰を伴う警告が、私を呼び戻していなければ。また、すべての人を招き、誰ひとり除外せず、何度も反復され、まもなく注解する、永遠の真理の普遍的な約束が、私を支え、励ましていなければ。
私は、あなたの疑いを積み上げた欺きの荷車よりも、ただひとつ真実であるこの約束を、はるかに信頼する。したがって、私を招き、神的なものを受けるよう神より促す叡智と賢者に、賢く従うであろう。神が私を除外なさらないのに、なぜ自らを除外しなければならないのか。
また別の者は疑い、「私は若く、まだ白髪にもなっていない」といおう。私は答える。神は人の身分によってえこひいきされない。38節、184節、299節を見よ。神に喜ばれる、学識ある老齢は、ただ歳月の多さだけにあるのではない。351節にあるとおりである。ヨセフ、ダビデ、ソロモン、ダニエル、エレミヤ、テモテ、そしてわれらの時代にも無数にいる、悟りなき者ではなく、神の恵みにより叡智の尽きない宝をもつ人々の若い時代が、あなたの慰め、手本となるように。
さまざまな言語、たとえばヘブライ語、ギリシア語、ラテン語などが不足している、あるいはまったくできない、という反論にも同じ答えをしよう。神は、母語ただ一つだけを知る者からも、賢者や教師を起こされる。あらゆる民族から、無数の例をすぐに挙げられる。口と叡智を与えるのはヤハウェである。『出エジプト記』4章11節、『マタイ』10章19節、『マルコ』13章11節、『ルカ』12章11–12節。
ダビデはいう。「主の霊が私を通して語られ、その言葉が私の舌を通した」。『サムエル記下』23章2節。神の聖なる人々は、聖霊に霊感を与えられて語った。『ペテロの第二の手紙』1章21節。だから、神の恵みを疑う理由はない。その慈悲は、神を畏れる者の上に、永遠から永遠まである。詩篇103篇17節。このように根拠のない例外論は、あなたの怠惰や不信を弁護できない。216節、324節を見よ。
善き神よ、序文の範囲という規則が筆を制しなければ、どれほど長い名簿を、古代から挙げられることであろう。異教徒も除かず、さまざまな言語を知らなかった者が大半を占める、学問と術の発見者たち。そして現代の、それらを再興し育てた人々。すべて神に起こされ、神的叡智をもって教え導かれた者たちである。
これらの人々はみな、私、あなた、われわれと同じく、死すべき者であり、それどころか罪人でもあった。今日われわれの神は、当時の彼らの神と同じである。われわれは、ただひとり同一の創造者エロヒムの作品であり、全員がその像と似姿に造られた。神が遣わす同じ善い霊たちの奉仕、慰め、守り、保護、道の案内を受けている。同じ世界において、同じ自然を享受している。そして、時が満ちて受肉した、ただひとつ同一の永遠の叡智の、もっとも真実で普遍的な約束は、他の人々と同様にわれわれにも与えられている。
あなたはいうだろう。「それほど誇る約束とは何か。なぜそこまで信頼するのか」。私ははっきり答える。この序説で、受肉すべきものとしてすでに聞き、またこれからも聞く叡智、その同じ叡智が受肉した方、真理そのものが、こういわれた。
『ヨハネ』14章12節。「まことに、まことに、あなたがたにいう」。すなわち、すべての人々、全員、ひとりひとり、人類全体にいうのである。「私を信じる者は、私の行う業を自分も行い、それより大きな業さえ行う。私は父のもとへ行くからである。あなたがたが私の名によって父に求めるものは何でも、子において父が栄光を受けられるよう、私が行おう。私の名によって何かを私に求めるなら、私が行おう」。本書174節を見よ。
『マタイ』17章19節では、弟子たちがひそかにイエスに近づき、「なぜ私たちはあの悪霊を追い出せなかったのですか」と尋ねる。イエスは「あなたがたの不信のためである」と答えられた。今日もまさに同じである。「まことにあなたがたにいう。からし種ほどの信仰があれば、この山に、ここからあそこへ移れといえば、移るであろう。あなたがたに不可能なことは何もない。ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行かない」。
『ルカ』17章6節で主はいう。「からし種ほどの信仰があれば、この桑の木に、根こそぎ抜けて海に植われといっても、従うであろう」。これが答えである。したがって、同じ章の5節でキリストの弟子たちがしたように叫ぼう。「主よ、私たちの信仰を増してください」。キリストに名を捧げたあなたが、神的叡智の訓練によって、十字架につけられたイエス・キリストの名において父に願い、信じることを学ぶなら、すべてを行うことができるであろう。
注 奇跡を可能にする信仰についての主張・聖句の本文は原著に従う。現代聖書の校訂本文との一致を強制していない。
疑う者よ、あなたはさらにいい張る。「キリストがそう語ったのは使徒たちだけに対してだ。『マルコ』16章17節の、『私を信じる者にはこのしるしが伴う。私の名で悪霊を追い出す』という言葉も同じだ。だから、普遍教会のすべての奉仕者に、ましてすべてのキリスト者に、あらゆる時と場所で、普遍的に当てはまるわけではない」と。
では尋ねよう、先生。次の言葉も使徒たちに向けたものではないか。「聖霊を受けなさい。あなたがたが赦す罪は赦され、留める罪は留められる」。『ヨハネ』20章22節。また、「全世界へ行って、すべての被造物に福音を宣べ伝えよ。信じて洗礼を受ける者は」以下。『マルコ』16章15節。もちろん、そうである。ならば、前の言葉が使徒だけに向けられたものなら、なぜこちらもそうではないのか。前者があなたがたを除外するなら、なぜ後者は、あなたがたのいうように、かえって包含するのか。区別を命じる規定を示してほしい。
信仰の力についての約束が普遍的でないなら、なぜ説教において、それをすべての人への慰めとして用いるのか。普遍的であるなら、なぜ、もっと厳しい言葉を使わずにいえば、作り話をするのか。ああ、ねじれた頭よ。『ヘブライ人への手紙』11章は、私の側に立ってあなたがたに反対する。
すべてのキリスト者の師が戻られたなら、あなたがたの不信と心の頑なさを、厳しく責められるのではないかと私は恐れる。良心の証言によって真実だと認め、その方が自分たちにも語られたと知りながら、信じなかったからである。
注 Catholica はここでは普遍性をめぐる議論の語であり、現代の宗派名だけに限定しない。
したがって、永遠の叡智の善と賜物を、神的叡智によって獲得することに、誰も絶望してはならない。信仰と真理において主を呼ぶすべての者にとって、主の手は短くなってはいない。信仰によって足の不自由な人が癒された『使徒行伝』3章の物語を勧めよう。
わが兄弟よ、いま目と精神によって、われらの円形劇場全体を観想せよ。永遠の光の中で、すべての真理の光を見出すことを教えるであろう。ただし中心に達しようとする観者は、叡智の霊によって照らされていなければならない。そうでなければ、神よりわれらを通して示された神的叡智も、闇夜となる。
さらに付け加える。自らの生来の怠惰と、キリスト教にかなわぬ不信を、「教会を奇跡によって確証するためだったから」と、巨人族のような傲慢さで弁護しようとするのは冒瀆である。93節を見よ。われらには、永遠の真理の普遍的な約束がある。一度与えられ、永遠に有効で、いつまでも失われない約束である。キリストが『マタイ』17章20節で証言するように、神の驚くべき善と賜物を妨げるのは、あなた自身の不信である。
至善至大なる神の約束は、つねに不変で、堅固で、有効であったし、いまもそうであり、将来もそうである。神の印章、本書の第一図にあるエメト、すなわち真理によって強められ、確証されている。ただ、あなた自身の悪意と不信によって、その働きと結果を軽々しく払いのけたり、妨げたりしないよう注意せよ。
注 EMES はヘブライ語「真理」אמת の当時の転写。現代日本語では通常「エメト」。
いわゆる神学者の多くは、説教壇から信仰について、歴史上の話として多くを喋る。しかし、働く信仰の力が現にあることを、その結果によって塵ひとつほども示さない。その者たちは、私は善い神学者のことをいっているのではないが、口でいうことを、生き方と行いによって否定する。
父祖たちの時代にも、われらの記憶する時代にも、侮るべきでない神学者によって、それとは反対のことが行われたのを、私は知っている。あなたがた自身も知り、他の者も知って証言するだろう。信仰によって驚くべき稀な業を行い、願いをかなえるべきである。宗教の教義を確証するためではない。あなたに注意されなくとも、それが十分すぎるほど確証されていることを私は知っている。そうではなく、この点を心に留めてほしいが、「信仰」によって「信者」と呼ばれる者にふさわしく、信仰の力と、困窮する隣人への慈愛の務めを、キリスト教的に実践するためである。
したがって、どれほど年老いていても、どれほど論争好きな弁舌に富んでいても、あらゆる種類の悪徳、高慢、偽善、貪欲、憎悪、嫉妬、酩酊、しばしば宗教で覆い隠した放縦に汚れ、働く信仰の賜物と精神の光をなおざりにし、獣的な情念に従う者を、真の神学者だと誰にも信じてほしくない。
原理。各人が神的なものを受けるだけ、それだけの信仰をもち、信仰をもつだけ、それだけの驚くべき力をもつ。
私がいう信仰は、『ヤコブの手紙』2章の死んだ信仰ではない。それは、悪魔が聖者ではなく、死んだ人が生きた人ではないのと同じく、真の信仰ではない。『ペテロの第二の手紙』1章に述べられる、生きて働く信仰である。
要するに、キリスト教的に信じ、神的叡智に即して生き、この円形劇場の法と教えに従って、断食しつつ霊と真理のうちで祈れ。神を証人としていう。賢くともに働くなら、神の栄光のため、困窮する隣人と自分自身の正当な益のため、そして悪魔の排斥のために、ヤハウェにキリスト教的に求めることは実現する。335節を見よ。
「すべての人に似ている」。最初に形づくられたアダム、林檎を食べたあの者から生まれた、地より来る人間であり、他の人々と同じ境遇、同じ法に服する。そのため、今日は王、明日は屍。「死は王笏と鍬を等しくする」。
注 原著は禁断の実を malum と呼ぶ。これは「林檎」と「悪」の同綴異義を含み得るが、ここでは果実を食べる構文に従う。
十か月のあいだ、人の種と、眠りに伴う悦びとから、血の中で凝り固まった。
母の胎内で十か月をかけて肉として形づくられ、男の種と眠りに伴う悦びとから、血の中で凝り固まった。
『ヨブ記』10章10節。
「十か月」以下。庶民と同じく、膀胱と腸の間に位置する母の子宮において。そこから、ローマの解剖学者レアルド・コロンボは叫ぶ。「人よ、尿と糞の間に生まれたのに、なぜ空しい尊大さを誇るのか」。わが兄弟よ、自分が何であるかを考えてほしい。そうすれば驕るのをやめるだろう。生まれるときは悪臭、生きる間は泡、死ねば虫の餌ではないか。
聖書では人間はまた「泥」と呼ばれる。『創世記』2章7節、『ヨブ記』10章9節。「塵」とも。『創世記』3章19節。「灰」とも。『創世記』18章27節。「土と灰よ、なぜ驕るのか」。『集会の書』10章9節。
われらは泥、もっとも醜い滓であるのに、
なぜ驕るのか。いつ滅びるかさえ知らないというのに。
注 身体についての表現と胎生説は歴史的原文のまま訳す。リアルドゥス・コルンブスは16世紀の解剖学者。
さらに、生まれると皆に共通の空気を吸い、同じ不便と災いにさらされた地上へ降り立ち、皆と同じ最初の声を、泣きながら上げた。
生まれると、私も皆に共通の空気を吸い、同じように造られた地上へ降り立ち、皆と同じ最初の声を、泣きながら上げた。
「最初の声」。それは何か。おそらく男児はア、女児はエであろう。両法博士である貴族フォン・アイプが結婚を論じて記し、産婆たちも観察によって肯定するとおりである。
「泣きながら」。こうして子は、アウグスティヌスのいうように、来たる自らの災難の預言者となる。ゆえに『ヨブ記』13章1節に、「女から生まれた人間は、生きる時が短く、多くの苦悩に満ちる」とある。シラの子は40章で理由を加える。セネカの証言するとおり、「ひとつの災いの終わりは、次の災いの準備」だからである。
ヨブはそれを深く経験し、7章3–4節でいう。「私は空しい月日を得、苦しい夜々を数えた。眠れば、いつ起きるのかといい、また夕べを待ち望み、夕べまで苦痛に満ちる」。したがって、「死ぬ日は、生まれる日よりよい」。『伝道の書』7章2節。
注 「ヨブ13章1節」は原刊の誤った参照を保持。引用は通常14章1節に当たる。男女の産声についての区別は原著の歴史的な説である。I. U. D. は両法博士。
私は産着に包まれ、多くの世話を受けて育った。
私は産着にくるまれ、養育の世話の中で育てられた。
王たちのうちにも、誕生の始まりが異なっていた者は一人もいないからだ。
いかなる王にも、別の仕方で生まれる始まりはなかったからだ。
「王たちのうちにも誰も」以下。それゆえペトロニウス・アルビテルはいう。「ああ、ああ。人間の全体とは、なんと無に等しいものか」。
「始まりをもった」。驕る理由を何ひとつ持たないためである。われわれは全員、同じひとつの損なわれた塊から作られている。
それゆえ、生への入口はすべての人に一つであり、出口も同じである。
すべての人が生へ入る入口は一つであり、出口もまた同じなのである。
『ヨブ記』1章21節。『テモテへの第一の手紙』6章7節。
「終わりも同じである」。すべての者に定められた普遍的な法は、一度死ぬことである。『ヘブライ人への手紙』9章27節。「すべての者が死の道を踏まねばならない」。ホラティウス『歌集』第一巻。コルネリウス・ガルスは正しくいう。
すべての者に死への道は同じである。
だが、生き方と死に方は、みな同じではない。
だから兄弟よ、この生命が煙よりも儚く、影よりも空しいことを考えよ。われらの生命の日々は影のように逃れる。『歴代誌上』29章15節、『ヨブ記』8章9節、14章2節、詩篇109篇23節、144篇4節、『伝道の書』7章1節、『知恵の書』2章5節、5章9節。
煙のように消える。詩篇102篇4節。織り手が織物を切り離すより速く過ぎ去る。『ヨブ記』7章6節。走者より速い。『ヨブ記』9章25節。蜘蛛のように思いをめぐらす。詩篇90篇9節。夜のひと時の見張りのようである。詩篇90篇4、6節。
われらの生命は風である。『ヨブ記』7章7節。しばらく現れ、やがて消える蒸気である。『ヤコブの手紙』4章14節。雲のように通り過ぎる。詩篇7篇9節。すべての肉なるものは草、その栄光は野の花に似て、朝は咲き、夕べには落ちる。『イザヤ書』40章6–7節、『ヨブ記』14章2節、詩篇90篇4、6節、『集会の書』14章18節。
注 引用・章節には原刊の誤記や旧い翻訳本文に依存するものがある。例として「雲のように」は通常『ヨブ記』7章9節だが、原刊の Psal. を保持した。ガルスへの帰属も原著に従う。
王たる預言者は、一方でこの人間の生命の脆さを、他方で神の威厳の無限の大きさを考え、驚きに捉えられ、呆然としたように声を発する。「人間とは何ものなので、あなたはこれを心に留められるのですか」。詩篇8篇5節。
同じ思いは、勇敢な将軍、きわめて強大な王であるクセルクセスにも、涙を流させた。あるとき高い場所から、限りない人々と数えきれない軍勢を見たとき、いま見ている者は、百年後にはひとりも生き残らないだろうと思ったのである。
したがってキリスト者と公言するあなたは、この生命の短さを、善良さと廉直さによって補え。どれほど長くではなく、どれほど善く生きるかを考えよ。死より確かなものはなく、死の時刻ほど不確かなものもないのだから、神への畏れのうちに聖く生き、善く死ぬことを学べ。
そして父は私を教えていった。「あなたの心に私の言葉を受け入れよ。私の戒めを守れ。そうすれば生きるであろう。」
父は私を教え、こういった。「あなたの心は私の言葉をしっかり保て。私の戒めを守れ。そうすれば生きるであろう。」
「そして生きる」。地上で長く生き、その後は最後のヨベルにおいて、永遠に生命を享受するであろう。生命の言葉から、生命が流れ出る。神の言葉は霊であり、生命である。したがって、生命を与える言葉を守る者は、報いとして生命を受ける。
注 Iobilæus は解放の年であるヨベルの語。本書では終末の解放を指す表現として用いられる。
知恵を得よ、分別を得よ。忘れてはならず、私の口の言葉からそれてはならない。
知恵を獲得せよ、理解を獲得せよ。忘れてはならず、私の口の言葉からそれてはならない。
叡智と、その実りと道を求めるよう命じる。
「叡智を得よ」。賢者は300節でいう。「神は、叡智とともに住み、これと親しく交わる者以外を愛されない」。
「逸れるな」。神の言葉から離れる者は、神ご自身、叡智の泉に近づくことがけっしてできない。
知恵を手放すな。知恵はあなたを守る。知恵を愛せよ。知恵はあなたを保つ。
知恵を去らせるな。知恵はあなたを守る。知恵を愛せよ。知恵はあなたを保つ。
「叡智を手放すな」。叡智を手放す者は、叡智からも当然手放される。叡智を侮る者は、逆に叡智から侮られるにふさわしい。
「これを愛せ」。愛せよ。そうすれば愛される。注目すべきことに、賢者は子を真の叡智へ教え導くとき、この序説のいたるところで、叡智を教えるのと同じほどの力を、叡智への愛を勧めることに注ぐ。叡智を愛することが、ほとんど叡智への準備を整えることになるかのように。ああ、愛の大いなる力よ。真の信仰に生きる者の愛は、すべてをなし得る。230節を見よ。
知恵の始まりである。それゆえ知恵を獲得し、あなたの全財産をもって理解を獲得せよ。
知恵の始まりとは、知恵を得ることだ。あなたのあらゆる所有において、分別を獲得せよ。
「叡智の始まり」。あなたの理論的・実践的なあらゆる行為において、計画の舳先と船尾、すなわち始めと終わりとなるのは、神の叡智の霊、ルアハ・ホフマー・エル、大いなる計画の使者であるようにせよ。異教の古代でさえ、賢く「ユピテルからムーサの歌を始めよう」といった。このユピテルとは、ヤハウェ、叡智そのもの、ムーサたちのムーサのことである。
「すべての財をもって」。身体、心、運命の恵みと呼ばれるものによって、あなたの持つすべてのものに先立って、全心、全魂、あらゆる力、全精神をもって、神が叡智を吹き込み、与えることによって求めよ。ゆえに賢者は251節でいう。「私は主のもとに近づき、祈り、心のすべてから語った」。
注 Prora et puppis は船の舳先と船尾を用いる、全体または根本方針を示す比喩。
知恵を高く上げよ。知恵はあなたを高く上げる。知恵を抱きしめれば、あなたを栄光ある者とする。
知恵をつかめ。知恵はあなたを高く上げる。知恵を抱きしめれば、知恵によってあなたは栄光を与えられる。
「あなたを高める」。その宝庫を管理する宝物係となるためである。この世で、叡智の尽きない宝の相続人に任じられる。その宝がどのようなものかは、後にさらに詳しく明らかになる。そして、安息の安息、最後のヨベルにおいて、永遠の王国を所有するであろう。
あなたの頭に豊かな恵みを与え、輝かしい冠であなたを覆う。
あなたの頭に豊かな恵みを与え、美しい冠をあなたに授ける。
『箴言』1章9節。
「恵みの増し加え」。優美な恵みの花環である。あなたは神の恵みの月桂冠を、民衆の前だけでなく、被造物すべての前で戴くであろう。他の多くの人々に勝って、多くのことを知るからである。25節と308節、およびその後のいくつかの節を見よ。
叡智は、教えと鍛錬の子、自らの忠実で愛される相続人たちに、この恵みの飾りを、ここで聖なる約束として述べるだけでなく、現世と来世の双方で、実際に与える。
「輝かしい冠」。すべての徳の泉である神への畏れによる、誉れの冠である。セネカはいう。「輝かしい徳は、冥府の河の水にけっして沈まない」。
おお、わが子よ、私の教えを忘れるな。あなたの心は私の戒めを守れ。
おお、わが子よ、私の教えを忘れるな。そして、あなたの心は私の戒めを守れ。
学べ。
「子よ」。もっとも愛しい子という呼び名は、忠実に教える者の父親らしい情愛を示す。
「守るように」。私の法の代わりに、悪い、詐欺的で、欺く霊があなたの心を占め、そこに住まいを定めることがないように。
それらはあなたに、長い日々と、生涯の年と、平安を加えるからだ。
それらはあなたに、長い日々と、生涯の年と、平安を加えるからだ。
真の叡智と、その倦むことのない探求は、生命の年月と平安をもたらす。『申命記』8章1節、30章16節。
「平安」。それには二つある。外的で、この時とこの世に属する平安。賢者は『箴言』16章7節でいう。「人の道が主に喜ばれるなら、その敵さえも和解へと向けてくださる」。そして内的な、心の、永遠で天を超える平安。受肉した叡智ただひとりが、賜物として与えるものであり、不浄な世界には与えられない。
それに至る真の方法は、身体的にも霊的にも、外的にも内的にも、自分自身と戦うことである。この円形劇場の第二図にあるように、二なるものをキリスト教的に退けること、すなわち自らの悪徳と激しく戦い、叡智のうちに打ち勝つことである。
地上のわれらの生命すべてが戦いであるのだから、『ヨブ記』7章1節、「信仰と善い良心を保ち、善い戦いを戦え」。『テモテへの第一の手紙』1章18–19節。この霊的な戦いの武器を、パウロは『エフェソ人への手紙』6章13節以下に述べる。この競技では、まず自分自身に勝った者が勝つ。イスラエルの人でなければ勝てない。320節を見よ。
詩篇144篇1節のダビデとともにヤハウェを呼ぼう。われらの手にこの戦いを教え、指を戦に訓練し、有害な二元性の獣に勝つ力を与えてくださるように。真の心の平安は、われらの平和であるイエス・キリストだけにあり、またキリストの功績に依り頼む真の信仰にある。『ローマ人への手紙』5章1節。あらゆる理解を超える神の平安が、キリスト・イエスにおいて、われらの心と理解を守りますように。
注 「イスラエルの人」はここでは聖書的・霊的な人格の呼称として現れる。著者の解釈への参照320節を保持。
慈悲と真理はあなたを見捨てないであろう。それらを首に巻き、心の板に書き記せ。
注 序説の deserant に対し、注解では deserent と印刷されるため、未来の叙述として訳した。
慈しみと真実があなたを離れぬようにせよ。それらをあなたの首に結び、心の板に書き記せ。
慈悲と真理を見出す方法。
「慈悲」以下。すべての行為と労苦のうちで、神の慈悲と真理に取り囲まれる人は、なんと幸いなことか。この人は、祈り働くことによって、望むものを幸いにヤハウェから得る。至高の善を求める人々よ、この二つに全身を委ねるよう勧める。
「それらを巻け」以下。私の法が、つねに口、心、喉、舌にあるようにせよ。心の目にも身体の目にも、その法を掲げ、昼も夜も、生涯を通じて、これを黙想し、読み、学べ。あなたの心が吐露するのは、悪魔の言葉ではなく、主の言葉であるように。
「心の板に」。その板には、神によってわれらのために法が書き込まれている。
そうすれば、神と人々の前に、恵みと教えを見出すであろう。
注 序説の bonam はこの再掲では省かれている。
そうすれば、神と人々の目にかなう恵みと良き理解を見いだす。
神と人々の目の前に、恵みと成功をいかにして見出すか。
「恵みを見出す」以下。偉大な者、すなわち善い者に喜ばれるのは、大きな徳である。真に偉大なのは善いものだけだからである。同じく、至善至大なる方に喜ばれるのは、最大の徳である。『マタイ』3章17節では、天から声が聞こえた。「これは私の愛する子、私の心にかなう者である。この者に聞け」。
あなたがこの方に耳を傾け、原型としてキリスト教的に倣うなら、あなたも真の子のうちに神の養子となり、愛される方のうちに愛され、叡智のうちに賢くなって、神に喜ばれる。叡智とともに住むからである。300節。神の友となり、293節、299節、本文にあるとおり恵みを見出す。21節、308節とその後のいくつかの節を見よ。
注 原著は洗礼時の声と「この者に聞け」という変容の場面の言葉を続けて引用する。参照を原文どおり保持した。
それらを目から離すな。むしろ、それら、すなわち私の言葉を、あなたの心の中に守れ。
それらを目から離すな。それら、すなわち私の言葉を、あなたの心の中に守れ。
その教え、法、命令を守り、観想するよう勧める。
「心のただ中に」。感覚されるものから離れた精神が、ひとり最奥まで神のうちに退くとき、その昇華・高揚のもっとも深い奥の間で、神の言葉を眼前に保て。心の最奥から神の記憶と畏敬が去れば、その後には悪魔的、肉的、世俗的な幻想が入り込むからである。
注 原文 Mens は構文上 Mentis が想定されるが、印刷の語形を保持する。
それらを見いだす者には命となり、その全身の肉には健やかさとなるからだ。
それらを見いだす者には命となり、全身の肉には健やかさとなるからだ。
「生命である」。それらは生命の泉から出て、生命を与える、生命の言葉である。経験した者以外には、これはわからない。レビ人たちの群れは、生命の甘美さを味わったことがなく、今後も味わうことがない。すべての人は、神が自らを憐れみ、叡智の子の数に加えてくださるよう祈れ。そうして生命である神を享受するために。
「肉の健康」。われらの肉は、肉的な情念、欲望、貪欲、すなわち腐敗し膿む傷によって、悲しいことに死に至るほど傷ついている。これを癒せるのは、すべてを生かす神の生きた言葉だけである。それは、この円形劇場の第二図にあるとおり、二なるものを退けることによって行われる。
注 レビ人は聖書上の祭儀奉仕者であり、ここでは著者が形式的な聖職者を批判する比喩。原著の論争的な一般化をそのまま訳す。
あなたが歩くときには、ともに歩ませよ。眠るときには、あなたを守らせよ。そして目覚めたら、それらと語れ。
あなたが歩くとき、それ――律法または戒めの教え――はあなたを導く。眠るときにはあなたを守り、目覚めれば、それ自らあなたと語り合う。
「歩くとき」以下。どの場所でも、どの時でも、昼は太陽の灯火によって、夜は月の灯火、あるいは人の技で燃やした灯火によって、主の法と言葉を黙想せよ。それは聖書に、大宇宙に、小宇宙に、伝えられ、書かれている。唯一賢い方の叡智に呼びかけ、口と心でヤハウェとの対話を、神的叡智の仕方で行え。
忠実な願いと敬虔な祈りによって、ルアハ・ホフマー・エル、すなわち神の叡智の霊を招け。あなたに親しく、すべての計画、労苦、生活全体の作者と師となってくださるように。祈りの場では、あなたの最善を望む神の叡智に相談し、作業の場では、公にされたものでも秘められたものでも、その助言に賢く従え。後悔することはない。
まず何よりも、これまで述べたように、敬虔に、しかるべき畏敬をもって、黙想と独語によって、ヤハウェに神的叡智の仕方で近づくなら、聖霊の注油によって、神的な息吹を与えられ、神に動かされ、恍惚へ運ばれ、姿を変えられ、教えられることを経験するであろう。
封印は取り除かれ、聖書、自然、自分自身という、三重の三一にして普遍的な書が、あなたのために開かれるだろう。それは七つの印によって封じられている。この印については別の箇所で述べる。精神と身体の目によって、幸いな花嫁の喜びを見るであろう。叡智のキリスト教カバラ的、自然魔術的、自然学・錬金術的な仕事から、きわめて富んだソロモンの財を得るであろう。そして、この円形劇場の第二、第三、第四図にあるように、自然学、自然医学、自然学的錬金術などにおいて、真の叡智の無限の宝を所有する。
日は日に言葉を注ぎ、書は書を開き、夜は夜に知を告げるからである。これが賢者たちの、真に哲学する方法である。この賢い方法によって、三重の三一にして普遍的な神の書の中に、至高の方の全能、慈悲、無限の善性が、あなたに見える姿で現れる。その御名はヤハウェ。その栄光の威厳に天は満ち、地は満ち、海は満ち、すべてが満ちる。ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ。ああ、すべてを見る、幸いな幻視よ。
「目覚めて」。第一に、感覚的な眠りから、夜明け早く、まだ寝床に横たわっているうちに。次いで、罪のまどろみから。悔い改めによって心の闇夜を払い、すべての真理の太陽があなたの中に昇るように。160節を見よ。
命令は灯火のようであり、律法は光のようであり、教導による叱責は命の道だからだ。
命令は灯火、律法は光であり、訓戒による叱責は命の道だからだ。
「命令は灯火であるから」。ヤハウェよ、どうか、聖書に、大宇宙に、小宇宙に書かれたあなたの言葉が、私のあらゆる行為において、足元だけでなく、精神、理解、理性、感覚にも灯火となりますように。そしてその三一の言葉だけから、あらゆる事物の真理を探し求められるよう、慈悲深く与えてください。ホフマー・エル、神の叡智よ。あなたは道、真理、生命である方。アーメン。
知恵を獲得することは、貴重な金を獲得するより、はるかに優れている。理解を獲得することは、選び抜かれた銀を獲得するより、はるかに優れている。
知恵を得よ。金よりも優れているからだ。分別を獲得せよ。銀よりも貴いからだ。
「叡智を得よ」。ここには、古いこの言葉がよく当てはまる。
黄金より善いものは何か。碧玉。碧玉よりは。徳。
徳よりは。神。神性よりは。何もない。
注 次頁にもこの句への解説が続く。ここで引用詩そのものを独立した単位として収めた。
神、徳、哲学者の石、黄金、すべてを、神の叡智は祈りの場と作業の場で与える。哲学者の石は、緑と血の色をもつ碧玉によって、きわめて適切で、秘義を含む仕方で、哲学的に指し示されている。45節を見よ。「すべての善きものが、叡智とともに私のもとに来た」。291節。
それゆえ、黄金に勝る分だけいっそう熱烈に叡智を、銀に勝って貴い分だけいっそう熱烈に分別を求めよ。金銭的な富は、影であり、煙のように消えるものにすぎず、不敬虔な者の役には立たない。報復の日には、不正の宝も役に立たない。叡智は生命の樹であり、義だけが死から救う。その義は、宝が無限で、ゆえに尽きることのない、受肉した永遠の叡智が、われらに賜物として与えるものである。『箴言』10章2節、11章4節、詩篇49篇、『集会の書』5章10節、『ゼファニヤ書』1章13節、『ゼカリヤ書』9章。
それゆえ今、わが子よ、私に聞け。私の口の言葉から離れるな。第11節、最後になって呻かぬために。第12節、そして、遅すぎる時になって、「ああ、なぜ私は訓戒を嫌い、心は叱責を受け入れなかったのか」といわぬために。
それゆえ今、子らよ、私に従え。私の口の言葉から離れるな。第11節、自らの最後に吠えるように嘆かぬために。第12節、そして、遅すぎる時になって、「ああ、どうして私は教導を憎み、私の心は叱責を軽んじたのか」といわぬために。
「いま」。これほど繰り返し戒められ、報いによって招かれ、やさしい言葉で引き寄せられたのだから。叡智を得ることが栄光、生命、喜びであるのと同じく、叡智を侮ることは、恥辱、死、永遠の嘆きと叫びなのである。
「私を訓育する人々の声に従わず、私を教える人々に耳を傾けなかったのか。」まことに、まことに、私はあなたにいう。
「私を教える人々の声に聞かず、師たちに耳を傾けなかったのか。」まことに、まことに、私はあなたにいう。
「教える者の声を聞かなかった」以下。自然、聖書、自分の良心のうちで語り、教える神に、注意を払わなかったのである。
「師たちに」。すなわち、真に師である者たち、神の秘義と自然の秘密の善と賜物を豊かに備えた、善い学問と術を教える者たちに。私がいうのは、162節のベレシトとメルカバの業である。聖書、自然の大いなる書、正しい良心の、法と証言に即して、キリスト教カバラ的、自然魔術的、自然学・錬金術的に教える。異教的、詭弁的、作り話のように教えるのではない。
叡智の霊は、神より与えられた、生きている賢明で経験豊かな師たちを通して、また語らない師たち、すなわち賢者の書物を通して、われらを教える。聖霊の鍵が書物を開くのである。また、まったく直接の霊感だけによって、あるいは秘かな啓示によっても教える。
神的叡智の人は、このようにして善い学問、秘められた術、哲学者の石、その石が世俗で呼ばれる固有の名、さらに調製の方法、つまり術の二つの秘密、それらすべてを学ぶことができる。
注 Beresith(ベレシト)は創造、Mercava(メルカバ)は神の車に関する秘義を指すカバラ術語。本文の綴りと162節への参照を保持。
したがって、君主であれ貴族であれ、神と真の賢者の前に悟りなき者、愚か者と呼ばれ、いつの日かその愚かさを悔いることがないように、善く諭す教師に従え。「友の忠告は善いものだ」と、ホメロス『イリアス』第十二巻もいう。その教師は、あなたを神的叡智に即して正し、悪徳と誤謬から、いわば再生させようと努めているのである。ユウェナリス『風刺詩』第七歌。
神々は、師が聖なる親の代わりとなることを望んだ。
アレクサンドロス大王は称賛に値する。彼は立派にも、自分は父と同じほど、師アリストテレスに恩義があるといった。父からは生きることの始まりを、師からは善く生きることの始まりを受け取ったからである。
注 ギリシア語の連字を展開した。ホメロスの引用の表現・巻の指定は原著に従う。
しかし、これらすべては神の意志に依存する。人間として望む者や、自力で走る者に依るのではなく、憐れみ、先立って進む神に依るからである。パウロは『ローマ人への手紙』9章16節と7章18節でいう。「望むことは私にできる。しかし、善をなし遂げることは見出せない」。だから、協力してくださる神が必要なのだ。
少し後の22節ではいう。「内なる人に従えば、私は神の法を喜ぶ。しかし、自分の肢体の中に、精神の法と戦い、肢体のうちにある罪の法の中へ私を捕らえる、別の法を見る」。だから、完成させてくださる神が必要なのだ。
このように神は昔から協力してくださった。『集会の書』51章11節。キリストも、全世界に遣わされ、すべての被造物に福音を宣べ伝える使徒たちに協力し、その後に続くしるしによって彼らの言葉を確証された。『マルコ』16章最終節。だから、神があなたを憐れまれるよう、慈悲深い方の慈悲を、忠実な心で切に祈れ。
わが子よ、あなたの精神が賢くなるなら、私の心はあなたとともに喜ぶ。
わが子よ、あなたの心が賢くなるなら、私の心は喜び、私自身も喜ぶ。
「賢くなるなら」以下。われらの賢者は277節で正しくいう。「賢い子を生んだ者は、その子を喜ぶ」。ここでも同じである。善い教えを適切なところに置き、真珠が牛の蹄に踏まれずにいると見て、親は歓び、師も歓びにあふれる。私も、われらのこの円形劇場を見る機会を得たすべての人に、このことをいう。
あなたの唇が正しいことを語るとき、私の腎もまた喜び躍る。
あなたの唇が正しいことを語るとき、私の腎も喜び躍る。さあ、進もう。
「正しいことを語るとき」以下。すなわち、私の有益で忠実な教えについて、あなたが真実を認めたときである。たとえ悪意ある巧みさで真実を黙殺したとしても、その沈黙が私を殺すわけではない。私はキケロとともにいう。「事実の証拠があるところで、言葉が何のために必要なのか」。正しいことをしたと自覚する心は、評判の嘘を笑う。私のものは、ただ善い人に喜ばれればよい。
テルトゥリアヌスのこの言葉は慰めとなる。「世に断罪されるとき、われらは主によって赦される」。さて、進もう。
知恵――ホクマー――は叫び、理解は自らの声を上げているではないか。
知恵――ホクマー――は叫び、分別――ビナー――は自らの声を上げているではないか。見よ、それこそ知恵自身である。あるいは、この二者自身である。
叡智は自らを勧め、すべての人を自らのもとへ呼ぶ。
「叡智は叫ぶ」。どこでか。全宇宙である。自然と被造物の書、聖書、各人の良心の書の中で、いや、あらゆるものの中で、その姿を見せる。星々は輝くことによって叫び、われらを永遠の光へと招く。風は叫び、万物に宿る主の霊を告げる。水は叫び、楽園の水晶の河へ、哲学者たちの秘められた水へ、われらを呼ぶ。大地は千の声、花々、果実によって叫び、自然と哲学に属するさまざまな色を描く。震え揺らぐときにも大地は叫ぶ。われらが世界の崩壊を理解するためである。
「自らの声をあげる」。どのような声か。三一の声。自然、聖書、そして神の正義の火花である良心の法の声である。この普遍的な声を、われらは感覚、理性、理解、精神の耳で汲み取る。祈りの場で祈り、作業の場で働き、小宇宙的・大宇宙的、自然学的、自然医学的、自然学・錬金術的に受け取る。この円形劇場の第二図と第四図にあるとおりである。神の声は、すべてのうちに、すべてを通して、すべてについて、すべての者へ響く。185節の解説を見よ。
高くそびえる頂で、道の上で、小道の中ほどに立って。
高い場所の頂に、道の傍らに、小道の交わる場所に立って。
「道の上に」。全宇宙の道、すなわち宇宙全体に存在するすべてを通してである。この円形劇場の第四図に注記したとおり。
「道々のただ中に」。あらゆる場所で、すべての者、全員、ひとりひとり、全体の前に。神、天使、人間、世界の前に。
町の門のそば、その戸口で語り、こういう。
町の入口の門の場所、戸口に入るところで叫ぶ。
「門の傍らで」。公共の場、万人の見ているところで、すべての被造宇宙を通して、誰もが公然と聞けるように。誰ひとり弁解できないためである。古人は町の門で裁判を行った。49節を見よ。
「語る」。どんな声でか。まことに驚くべき声である。しかしフーゴーのいうように、驚くべき方が驚くべきことをなさるとしても、不思議ではない。これらの叡智の声、さまざまな言語については、この円形劇場の第四図の注記と、私が出版した『ゼベル』の序文を見よ。
注目すべきことは、いと高き方の叡智が、われらの愛を愛し、われらが叡智を愛するようにと、ご自身の高みの玉座から、われらの低さの深みまで、これほど降りてくださることである。そして、その不滅の光を、われらの死すべき泥と結び、一つにしてくださる。157節の解説を見よ。この驚くべき発酵は、死すべき者を不死なる者にする。ここでの哲学者の石は、自然を超える魔術的な、真に神的なもので、キリスト教カバラ学者たちだけに知られている。
叡智よ、心の目を開き、あなたを見させてください。耳を開き、あなたを聞かせてください。感覚、理性、理解を清め、あなたを理解させてください。心の舌に触れ、あなたを味わわせてください。最後に、どうか、あなたの磁石の引力によって引き上げ、あなたの霊の火によって昇華させ、あなたと結び、一つにしてください。
注 Zebel は著者が刊行したと述べる書の題名として保持。磁石・発酵・昇華の錬金術語彙が、霊的合一の説明に用いられている。
おお、人々よ、あなたがたに私は叫ぶ。私の声は人の子らに向かう。
おお、人々よ、私はあなたがたに呼びかける。私の声は人の子らに向かう。
「人々よ」以下。ここで「人々」は、ヘブライ語の用法では、生まれと教養によって高貴な者たちを指す。「人の子たち」は、低い身分、無名、庶民の人々を指す。神は身分によってえこひいきされない。どの出自、階級、年齢、状態であれ、神を畏れ、義を行う者を受け入れられる。『使徒行伝』10章35節。それゆえ、1節のとおり、叡智は区別なくすべての人を呼ぶ。
神の前では農民も貴族と同じ価値がある。双方が同じひとつの代価によって、悪魔の支配から贖われたからである。こちらの価値は、あちらと同じだ。いや、血筋だけの貴族は、善良で正直な庶民より、塵ひとつほども善いわけではない。この世においてさえそうである。謙虚という徳が、人を高貴にする。
真の高貴さが何か、知っているか。ユウェナリス『風刺詩』第七歌を聞け。「高貴さは、ただ徳だけである」。頼るべきは徳であり、血筋ではない。徳に心をかけなければ、人間は軽蔑すべきものだ。生まれ、富、職務、名誉によって、人は上位にあり、偉大であると呼ばれることはある。しかし、より善い者となるのは、ただ徳による。庶民のもっとも低い者にも徳はあり得て、血筋のもっとも高い者に徳が欠けることもあり得る。
注 ギリシア語 μηδὲ γρὺ は「ほんのわずかもない」。ユウェナリスの名句の歌番号は原刊の7を保持したが、通常は第8歌の句として知られる。
名ばかりの貴族について、あるイタリア人は巧みにいう。「貴族とは、獣の上に座り、手の上にも獣を載せ、周囲を獣に走らせ、獣を追い、追い立てる獣である」。ああ、そのような貴族にぴったりの描写ではないか。アルフォンソ王も、無学な王を「冠を戴いた驢馬」と呼んだ。別の者は、富、家系、貴族の身分、子孫を誇ることに対し、こう歌った。
自由な身分で、名高い両親から生まれていても、
それでも大きな獣であり得る。
父の誉れを加え、名高い親類を揃えても、
それでも大きな獣であり得る。
富を持ち、数多い立派な調度を備えても、
それでも大きな獣であり得る。
結局、何者であろうと、分別がともにいないなら、
はっきりいおう、いつまでも大きな獣なのだ。
注 貴族の騎乗・鷹狩り・猟犬を伴う狩りを、動物との反復で風刺する。原著の社会批判として訳した。
さて、高貴さの父であり作者である神が、誰を高貴にしようと望まれるのか聞け。『列王記第一』2章30節。「それゆえイスラエルの神、主はいう。私はかつて、あなたの家と父の家が、永遠に私の前に仕えると確かに告げた。しかし今、主はいう。そのようなことはもはやない。私を尊ぶ者を、私は栄光ある者にし、私を侮る者は、卑しめられる」。
注 旧い書名で『列王記第一』とあるのは、現行の『サムエル記上』に相当する。
単純な者たちよ、機敏な判断を理解せよ。愚かな者たちよ、心で理解せよ。
未熟な者たちよ、機敏な判断を理解せよ。愚かな者たちよ、心を留めよ。
「幼い者」。誤って説得され、惑わされ、容易にあちらこちらへ押し流される素朴な人々。3節も同じである。真の叡智に祈ろう。叡智は、素朴で真に謙虚な人々を、真理の驚くべき甘美さで回復させ、言い尽くせぬ喜びと光で晴れやかにしてくださる。われら全体と、祈りの場・作業の場での労苦を、天の祝福と神的な恵みで満たしてくださるように。
注意すべきこと。持続する幸福な成功は、すべて神の意志から来るのだから、カバラ、魔術、錬金術に携わる者は、この願いをかなえていただくという点で、欠落を生じて過ちを犯さないようにせよ。ヤハウェがあなたを慈しみ、天を超える太陽の光線が、あなたとあなたの仕事に照り映えるよう努めることを忘れるな。
「機敏さ」。善い機敏さという意味である。巧みさ、鋭敏さ。本序説では、これらの語を善い意味で用いる。
聞け。私は尊い事柄を語り、私の唇が開かれることは、正しきことどもとなるからだ。
聞け。私は大いなる事柄を語ろうとしており、私の唇は、正しいことを告げるために開かれるからだ。
「聞け」。あくびをしながらではなく、細心の注意をもって、叡智の言葉を聞き、見て、観察せよ。
「大いなる事柄について」。まことに大きく、至大なる方の最大の叡智にふさわしい事柄である。心を動揺から清め、注意深く聴くべきものである。理解を神的叡智によって清め、神の照明の手が鍵を錠に合わせるように、理解を真理に適合させて、深く探り、問い、観察せよ。そうすれば、理論でも実践でも卓越した叡智の実りを得るであろう。
「正しいことを告げるために」。したがって、自然的なもの、自然を超えるもの、神的なものについて、聖書、大宇宙、小宇宙に記された永遠の叡智の言葉と、調和して一致しないものは、正しくも真でもあり得ない。不浄な世が、どれほど巧みに、望むだけ、悪魔の詭弁を飾り立て、弁護しようとも。
私の喉は真実を語り、私の唇は不敬なものを忌み嫌う。
私の口蓋は真実を語り、私の唇が忌み嫌うものは不敬だからだ。
『ヨハネ』14章6節。
「真理」。真理そのものは、純粋な真理だけを語ろうとし、それだけを語ることができる。受肉した真理はいう。「私は道、真理、生命である」。その口には欺きが見出されなかった。
真の叡智に倣って、その学徒はみな真理を思索し、その唇は、不敬虔な者、嘲る者、愚か者を忌み嫌うであろう。たとえその者が、血筋や世俗の学識の高貴さで、どれほど優れていようとも。神を証人としていう。私は、そのようなケンタウロスやトラソーたちを、皮の屑ほどにも、何ほどにも思わない。自分と同類の者にとってだけ高貴で、神と賢者にとっては卑しい者たちである。そのような者は、私の目には忌むべきものだ。
真の高貴さを少しでも損なうつもりはない。割れた壺は、どこにでも見つかると、あなた自身も知っているではないか。
注 トラソーは古代喜劇のほら吹き兵士の名で、ここでは大言壮語する者の比喩。ケンタウロスと割れた壺も、論敵を指す原著の罵倒的比喩。
私の言葉はすべて正しく、その中には曲がったものも、ねじれたものもない。
私の口の言葉はすべて正義のうちにあり、その中には曲がったものも、ねじれたものもない。
「正しい」以下。叡智の言葉は、すべてがそうであるように、ここでの言葉も、純粋な託宣だと考えよ。実際そのとおりである。神の知性の奥殿から賢く語り出された、真実で、正義にかない、正しい言葉なのだ。正義、善性、叡智、生命の泉からは、正しく、善く、叡智に満ち、生命を与えるもの以外は流れ出せないからである。
それらはすべて、理解する者には正しく、知識を見いだす者たちにはまっすぐである。
理解する者にはまっすぐであり、知識を見いだす者には公平である。
「正しい」以下。明瞭で、近づきやすく、理解しやすい。だが、誰にとってか。理解する人、すなわち賢者、真の叡智を追う人にとってである。その叡智だけから、われらには理解の仕方と、享受するための所有が与えられる。
ここで賢者が「理解する人」と呼ぶのは、語源に通じ、ヘブライ語、ギリシア語、ラテン語など、それぞれの言語の特性に従って、文字どおり何かを理解する者ではない。意味の核を捉え、髄に達する者である。「理解する者」という名は、叡智と呼ばれる理解に由来する。
自然学的錬金術の哲学者たちは、この人々について、「われらは、理解し知る人々のために書く。知らない人々のためではない」といっている。私はさらに加える。祈りの場、作業の場、あるいは賢い師を通じて、小宇宙的または大宇宙的に、叡智の光線に照らされていない者は、無知で、目が見えず、真の叡智の仕事について何ひとつ真実を知らない。何も理解せず、すべてを憶測している。ゆえに、そのすべての理論も、すべての労働も空しい。
私の訓戒を受け取れ。金銭ではない。金よりも、教えを選べ。
私の教導を受け取れ。銀ではない。そして選び抜かれた金よりも、知識を受け取れ。
叡智は黄金に優先されるべきである。
「私の訓戒を受けよ、金銭をではなく」以下。賢者は、金銭ではなく叡智を、富裕ではなく神の国とその義を、探し求めるよう勧める。王たる預言者ダビデは、この術をよく知り、実践した。詩篇119篇14節でいうように。「あなたの証しの道を、あらゆる富を喜ぶように喜んだ」。
私は厳粛に断言しよう。金銭愛、あるいは強欲、すなわち貪欲は、哲学者の石を得る者がこれほど少ないことの、小さくない障害である。人々は金銭的な富だけを、全身で渇望している。あたかも哲学者の主要な目的が、金銀を豊富にもつことにあるかのように。間違っている、間違っている。この円形劇場の第三図と第四図は、カバラ、魔術、自然学的錬金術の実用を通じてもたらされる、もっとも高い叡智の実りを、あなたに教えるであろう。
注 原文 Physico-Chemicam usum は文法的に不整合があるが、意味は「自然学的錬金術の用」に取った。
黄金と銀は、哲学者の石の実りの中では、もっとも低い場所を占める。ところが、われらの時代の作業者たちは、ただ富と世の空しい名誉のために、叡智の宝を求める。それが彼らの目標なのである。しかし、本来、それほど考えるべきでないものはない。
先に神の国とその義を求めれば、金と銀も含め、その他のものはすべて加えられるであろう。それなのに、彼らは後のものを先にし、ドイツ語でいうように「馬を荷車の後ろにつなぎ」、正当な目的を掲げない。そのため、真理の直線から逸れ、遠くをさまよい、むなしいものの中で惨めに消えていく。
それゆえ哲学者は正しくいう。「神が忠実な心を見出されるなら、確かにその人に知識と術を明かされるであろう」。
知恵は真珠よりも優れ、望ましいものをすべて集めても、それには及ばないからだ。
知恵はもっとも貴いあらゆる財宝よりも優れ、望ましいものは何一つ、それに比べることができないからだ。
「いっそう善い」以下。30節、314節、315節のとおり、叡智はすべてを与えるからである。したがって、黄金、銀、どれほど儲かる世俗の商いよりも、不浄な全世界の空しい栄光よりも、はるかに貴く、選ぶに値し、望ましい。この世の不浄な者たちは、それをまったく信じない。「金持ちの搾り取り屋どもは、そんなことを信じない」とドイツ語でもいう。
だが、自分が死ぬことを真剣に考える者は、世の不浄なものをすべて容易に軽んじる。いつか聖く死ぬために、善く生きることを学べ。敬虔に生きるために、死ぬことを学べ。324節、317節、318節、127節を見よ。
注 Schindhund は搾取者を罵る強い語で、逐語的には「皮を剥ぐ犬」に近い。原著の社会批判的な罵倒として訳す。
それゆえ今、子らよ、私に従え。私の道を守る者は幸いである。
それゆえ今、子らよ、私に聞け。私の道を守る者は幸いである。
「いま」。私、叡智が何であり、どのようなものであり、どれほど大きいかを聞いた、その後に。
「私の道を守る者」。すなわち、私の命令を守り、行う者である。受肉した叡智であるキリストは、『ヨハネ』15章14節でいう。「私が命じることを行うなら、あなたがたは私の友である」。同13章17節では、「これらを行うなら幸いである」。『ルカ』8章21節では、「神の言葉を聞き、行う者たちが、私の母、私の兄弟である」。神の叡智が命じたことを行うのが、その道を歩くことである。
だから、生命を得ようと望む者は、生命を身にまとうために、生活を改めよ。キリストは原型である。この方を知り、身にまとい、倣う者が、賢者、幸いな者、真のキリスト者である。
注意すべきこと。この皮膚の中に留まるかぎり、われらは世界に存在し、生きなければならない。それでも日ごとに不浄な世から逃れ、これを離れるべきである。どうすればよいのか。心、言葉、行いにおいて、世俗の不浄なものに固執しないこと、すなわち不浄な世とともに世俗的に生きないことである。そのときわれらはキリストを身にまとい、神的叡智の生活によって、原型に倣う。これが神に近づくことである。近づいた者は照らされ、結ばれ、一つになる。
善い霊たちとの交わり、いっそう高い観想、神化する合一を望む者は、至善至大なる霊のうちに、霊的で、善く、精神の高い者となる必要がある。同じ性質のものが結びつき、一つになるのであって、異なる性質のものではないからだ。
世の周辺において、このように自分を失うことは、中心、すなわち神において自分を見出し、自分の中に神を見出すことである。132節を見よ。
この叡智の道によって、キリストとともに世から退くことができる。日ごとに世に生き、人々と交わり、世俗的に生きる者たちのただ中にいてさえも。あなた自身は世俗的にではなく、キリストのうちに、キリストとともに、神的叡智によって生きる。
キリストは罪人、徴税人、ファリサイ人、異端者などと交わり、食事をされた。あなたもそうできる。ただし、甚だしい罪人、徴税人、ファリサイ人、異端者などとして振る舞わないならば。中心に留まれ。カバラのあの言葉は、このことを意味する。「外へ出ることがどれほど善くても、中に留まるほうが、さらに善い」。
ヤハウェよ、私のうちに留まり、私もあなたのうちに留まれますように。私をキリストを担う者にしてください。この不浄な世の浅瀬から浮かび出て、暗礁を越え、あなたの道を守りながら、救いの港に、安全に、喜ばしく、堅い足取りで立つことができますように。アーメン。
注 Christophorus は「キリストを担う者」。聖クリストフォロスの名と共通の語を含むが、ここでは著者自身への祈り。
教導を聞き、賢くなれ。それを退けてはならない。
訓戒を聞き、賢くなれ。それを投げ捨ててはならない。
訓戒を聞く者は賢くなる。
「訓戒を聞け」。神的叡智を学ぶことが、どんなネクタルやアンブロシアよりも甘いことを理解できるのは、幼いころから賢者の戒めに従うことを学び、そのようにして先に訓練の苦さを味わった者だけである。
だから賢者は、これほど熱心かつ忠実に戒める。自分自身の意志を神の意志に従わせ、われらのもっとも忠実な師、神の霊ルアハ・ホフマー・エルが、精神の耳にやさしく囁くものを、注意深く聴けと。ああ、聖なる訓練よ。
私に耳を傾け、日々、私の戸口のそばで目を覚まして待ち、私の入口の柱を見守る人は幸いである。
私に聞く人は幸いである。日々、私の戸口で目を覚まして待ち、私の入口の柱のもとで見張る人は。
「私の戸口で目を覚ましている者」。永遠の叡智の戸口と門柱は、三つある。第一に聖書。第二に被造物と自然、すなわち天の軍勢の霊的な軍団すべてを伴う大宇宙全体と、身体・霊という面から見た小宇宙。最後に、人間のうちの神的な精神、あるいは魂である。
ああ、170節のとおり、朝から叡智のこれらの戸口で目を覚まし、日ごとに、28節と158節のとおり、耳を傾け、神的叡智の目で見、生涯その門柱で、真の叡智が驚くべき仕方で語り、答え、教えるのを賢く見守る者は、三たびも四たびも幸いであり、現世でも来世でも祝福される。この者は、望むなら、このようにすべてを知るであろう。5節。本円形劇場の図を見よ。
注 原文は三つといいながら自然を大宇宙・小宇宙へ展開している。聖書/自然と被造物/人間の神的な精神という上位の対応で訳した。
知恵は外で呼びかけ、広場で声を上げる――もっとも賢い王は、さらにまたこのようにいう。
知恵は外で叫び、広場そのもので声を上げる――もっとも賢い王は、さらにまたこのようにいう。
叡智は、自らが詭弁家たちに侮られることを嘆き、侮る者たちの滅亡を予告する。
「叡智」。ヘブライ語を文字どおりに訳せば「叡智たち」である。ホフモートという複数形で記される。その理由は、叡智が多様な霊、『知恵の書』7章22節、また多彩なもの、『エフェソ人への手紙』3章10節だからである。この円形劇場の第三部、第四問を見よ。
「外で告げる」。大宇宙と小宇宙で、37節のとおり、公に、すべての者に明らかに告げる。死すべき者たちが、裁きの日に弁解できないためである。『ローマ人への手紙』1章20節。
聖書だけでなく、すべての被造物と自然、そして人間の良心も、万物の三一の創造者・形成者を、驚くべき仕方で語る。「一本一本の草さえ、神の現存を教える」とキリスト教の詩人が正しく歌ったとおりである。叡智は、自ら、つまり神の叡智、無限の善性と力を、神的叡智、自然学、自然医学、自然学的錬金術、自然魔術、超自然魔術、カバラによって、宇宙全体においてわれらの目前に置く。高い場所からのように、すべての者が、あらゆる時と場所で、聞き、見、観察し、認識できるようにする。
注 Hhochmoth は חכמות の当時の転写。複数形の意味付けは著者による解釈。
群衆の先頭で叫び、町の門の戸口で言葉を発し、こういう。
騒ぎ立つ人々の先頭で叫び、門の入口で、町の中で自らの言葉を語る。
「門の戸口で」。古代に町の門で裁いた裁判官たちのように、公共の場所、万人の目の前、人々の群れの中で。そこでは叡智が人々を区別し、裁判を整え、法を定め、正義を執り行い、報復を加える。それによって、義なる神の驚くべき裁きが現れ、明らかになり、世界を治めるのが人間の知恵ではなく、神の摂理と叡智であることが、すべての者の目に明白となる。
正しい裁判官が玉座から裁きを下し、もっとも正当で、思いがけない報復によって判決を公布するとき、大地は震え、沈黙するからである。
単純な者たちよ、いつまで単純さを愛するのか。嘲る者たちはいつまで嘲りを求め、愚かな者たちは知識を憎むのか。
未熟な者たちよ、いつまで幼さを愛するのか。愚かな者たちはいつまで自分を害するものを欲し、分別のない者たちは知識を憎むのか。
『イザヤ書』65章12節、66章4節。『エレミヤ書』7章13節。
「幼い者」。ここでいう幼い者は、3節と同じである。
「幼さ」。未熟、愚鈍、怠惰をいう。
「愚か者」。201節と205節のとおり、彼らは悪意を好む。高慢な者は心の驕りと神・隣人への蔑みを、誹謗する者は誹謗を好む。これは、正当な悲しみから出た、叡智の嘆きである。悟りなき者、愚かな者たちよ、どこへ突き進むのか。
私の叱責に立ち返れ。見よ、私はあなたがたに私の霊を注ぎ出し、私の言葉を知らせよう。
私の戒めに立ち返れ。見よ、私はあなたがたに私の霊を注ぎ出し、私の言葉を示そう。
「立ち帰れ」。いたるところに満ちている愚か者、不健全な心の者たちよ、正気に戻れ。
「私の霊をあなたがたに差し出そう」。私の霊を注ぎ、あるいはあなたがたの上へ吹きかけよう。その霊は理解の水脈、叡智の泉、知識の河であり、身体的な富も霊的な富も含めた、尽きることのない宝庫である。ペルシアの財宝のすべてにも、はるかに勝る。106節、223節。
「示そう」。どのようにか。聖書、大宇宙、小宇宙によって。キリスト教カバラ、神的魔術、自然学的錬金術を通して、あなたがたに益をもたらすあらゆる事柄について、私の考え、意志、判断を知らせよう。この三一の探求こそ、真の普遍的な神的叡智である。142節。
私が呼んだのに、あなたがたは拒んだ。手を差し伸べたのに、目を向ける者はなかった。
私が呼んだのに、あなたがたが拒み、手を差し伸べたのに、心を留める者がなかったために。
「手を伸ばした」。沈黙と注意を求める者、あるいは指で招く者のように。神秘的な意味では、叡智の手はすべての被造物でもある。それらによって、われらは創造者へ引き寄せられるからである。どちらへ向き直っても、叡智は手を差し伸べ、その善性と善意の小川を示し、差し出すことによって、われらの友情を求める。
あなたがたは私の助言をすべて軽蔑し、私の叱責を顧みなかった。
あなたがたは私の助言をすべて無効にし、私の叱責を望まなかった。
注 この箇所は fecisti(単数)と印刷されるが、後続 noluistis は複数。序説の fecistis へ無断訂正せず保持した。
「私の助言を侮った」。この不浄な世への愛と誘惑に捕らえられ、目をくらまされ、私の法と教えを嘲ることによって、私自身、すなわち神を嘲り、聖霊の導きをなおざりにしたのだ。ああ、心の狂った者たちよ。悪い計画が計画者にもっとも悪い結果をもたらすように、嘲りもまた、嘲る者に返るのである。
私もまた、あなたがたが打ち砕かれるときに笑い、あなたがたの恐れが訪れるとき、嘲るであろう。
私もまた、あなたがたが滅びるときに笑い、恐れていたものがあなたがたに訪れるとき、嘲るであろう。
「私もまた」以下。神に嘲られるのは、まことに恐ろしい。神に見捨てられた人間ほど惨めなものはない。ファラオ、サウル、フランチェスコ・スピエラ、その他きわめて多くの例が、それを証する。名誉、目、良心が戯れを受け入れないように、神も戯れを受け入れない。神的威厳は侵してはならないものである。
注 Franciscus Spiera は16世紀の宗教論争で絶望の例として語られた人物。著者の宗教的評価として訳す。
そう、あなたがたの恐れが荒廃のように訪れ、打ち砕くものが旋風のように来て、苦難と窮迫があなたがたの上に訪れるときに。
突然の災いが襲いかかり、滅びが嵐のように押し寄せ、苦難と窮迫があなたがたの上に訪れるときに。
「苦難と窮迫」。信じる者たちも、苦難と窮迫を受ける。しかし、その結末や行き着く先は、まったく違う。悪から救い出す主を、友として持つからである。不敬虔な者、嘲る者、愚か者は、訪れの日を悟らず、その助力をまったく欠く。そのため惨めに滅び、報復の女神たちに割り当てられ、冥府の取り分となる。
そのとき彼らは私を呼ぶが、私は聞き入れない。朝早く私を捜すが、私を見いださない。
そのとき彼らは私を呼ぶが、私は聞き入れない。朝早く起きて求めるが、私を見いださない。
「聞き入れない」。祭りが終わってからやって来るからである。時にかなって来るのが、何よりもよい。『マタイ』25章の、五人の賢い乙女と五人の愚かな乙女、合わせて十人のたとえによって、どうか戒めを受けよ。
恵みの時に、精神の灯火のための聖霊の油を、魂のための教えを、無償で得よ。神によって点された精神の灯火に燃料があり、あなたがたに実りをもたらして輝くように。それは、世の闇の中に輝き、闇の権力を追い払う、光の父の光から来る。その方から、すべての善と完全な賜物が来る。だから早く、真の叡智の声を聞いたとき、耳を塞いではならない。
「見出さない」。叡智へ至るただひとつの王道、主を畏れる道を歩まないため、正しく求めず、見出しもしないからである。彼らは詭弁と、愚かな世俗の叡智の熱狂的な妄想の中を歩む。それゆえ、真理から引き離すこの暗い道々によって、直線から左へ逸れてしまう。夜明け前から起きていても、何の役にも立たない。
したがって学ぼう。神なしに神を求め、見出し、知ること、また神なしに神について語ることは不可能である。ゆえに、「光なしに神について語るな」といわれる。教会が歌うように、その神的な力なしに、その光なしに、人間のうちには何もなく、害のないものは何もないからである。
彼らは訓戒を憎み、主を畏れることを受け入れなかったからである。
彼らは知識を憎み、エホバを畏れることを選ばなかったからである。
私の勧めに従わず、私のあらゆる戒めをそしったからである。
私の勧めに従わず、私のあらゆる叱責を侮ったからである。
知り得るどの事柄においても、人間が真理の直線から逸れる理由。
「それは、彼らが」以下。だから、聞く耳のある者は聞け。真理の霊が人の子たちに、何をいわれるのかを。
それゆえ彼らは自分の道の実を食らい、自分の企てで腹を満たすことになる。
それゆえ彼らは自分の道の実を食らい、自分の企てで腹を満たすことになる。
「だから彼らは食べる」以下。ならば、自らの学びと労苦の実りを享受するがよい。それは神的叡智の実りと、正反対に対立する。どのような実りか。もちろん、立派なものだ。虚栄、欺瞞、詭弁、すべての悪の根である貪欲、神が抵抗される高慢、偽りの自信、愚かさ、絶望、恥辱、悲しみ、その虫が死なない悪い良心の刺し傷、混乱、そして地獄である永遠の死である。
自らの邪な計画を、満腹するまで、いや吐き気がするまで味わうがよい。真の叡智に従おうとしなかったため、神の正しい裁きによって、堕落した思いへ引き渡され、闇、偽り、誤謬、誘惑の霊に従うようになり、全体が腐った膿へと変わる。自分で望む者に不法はなされない。彼らが神を捨てたのだから、反対に神も正当に彼らを捨て、自らの曲がった計画によって、曲がった仕方で自分を治め、滅ぼすに任せられた。彼らの滅亡は彼ら自身から来る。望んだのだから、手にするがよい。
注 egregii「立派な」は反語。「望む者に不法はない」は格言を用いた原著の宗教的議論。
思慮の浅い者たちの安逸は彼らを殺し、愚者たちの繁栄は彼らを滅ぼすからである。
未熟な者たちの背反は彼らを殺し、愚者たちの繁栄は彼らを滅ぼす。
「幼い者の背反」以下。この離反、あるいは反抗が、彼らを滅亡へ導く。悪い計画は、計画者にとってもっとも悪いからである。
「愚か者の繁栄」。世のことが世間の目から見てうまく進むと、不敬虔な者の心は目をくらまされ、救いとなる戒めを受け入れにくくなる。十字架と苦難は、悔い改めを呼ぶ神の声である。
しかし私に耳を傾ける者は、恐れなく安らぎ、災いへの恐怖を除かれて豊かさを享受する。
しかし私に従う者は安心して住み、災いへの恐怖から解かれて安らぐ。
「私に聞く者」以下。336節、337節と、その前後のいくつかの節を見よ。敬虔さは悪への恐れをもたらさず、生命の希望と報いをもたらす。生命の樹であり、その実りは平安と霊の喜びだからである。
「豊かさを享受する」。主は貧しい者を善きもので満たし、富める者を空のまま帰す。主を畏れる者の家には、栄光と富がある。
それゆえ賢者は、正しく賢明に結論し、戒める。
知恵は力にまさり、分別ある人は強い人にまさる。
ギリシア語写本には存在しない。
『箴言』16章32節。『伝道の書』9章18節。『集会の書』7章20節。『知恵の書』6章1節。
「叡智は力に勝る」以下。叡智はすべての善の泉だからである。この序説のいたるところで、賢者から賢く教えられるとおり。45節、327節を見よ。まことに、神の叡智はあらゆる力に勝る。しばしば、ただ一つの真摯で敬虔な祈りによって、大きな権力が砕かれるからである。
モーセは手を上げて、アマレクの力を砕いた。『出エジプト記』14章11節。ヨシャファトは一つの賛歌によってアンモンとモアブの子らの力を砕き、軍勢を散らした。『歴代誌下』20章22節。ダビデは、どれほどしばしば、その賛歌でサウルや他の敵の凶暴さを砕いたことか。事物の隠れた自然を理解する者は、民衆が奇跡と思うような証しを、多く示すことができる。歴史も、多くの英雄が自然の力に助けられたことを証している。
また、すぐれた分別によって、勝利や訴訟上の成果を得たり、民を救ったりすることが、どれほどあることか。ヨセフの叡智によってエジプトが、ダニエルの叡智によってペルシアが、モーセの叡智によってイスラエルの民が救われたではないか。ここでは確かに、叡智が力に勝っていた。
注 アマレクとの戦いの参照は原刊に Exod.14,11 とあるが、通常は17章11節に当たる。誤記を保持し注記した。
それゆえ王たちよ、聞き、心を向けよ。地の果てを治める裁き人たちよ、学べ。
それゆえ王たちも聞き、悟れ。地の果てを治める裁き人たちよ、学べ。
賢者は権力者たちに、正義と叡智を勧める。
「だから王たちよ、聞け」。すべての防備を武器と兵士に置く者たちよ、なぜむしろ叡智の兵士を雇わないのか。神的カバラと天上の魔術に励み、叡智と分別の武器で戦い、あなたがたの国々を救う者たちを。ヨセフやダニエルのような人を探せ。徳、神的叡智、自然の叡智に、もっとも堅固な防備と武器を持つ者たちを。
ここでも賢者は、王たちという名で、すべての行政官、教会・政治・学校の指導者や統治者を意味している。その指令と統治に、全世界の運営がかかっている者たちである。
多くの人々を支配し、諸国民の群れの中で自らを誇る者たちよ、耳を傾けよ。
民を統べる者たち、諸国民の多さを誇る者たちよ、耳を傾けよ。
「群衆を治める者」以下。政治の世界だけでなく、教会と学校の世界でも同じである。大学や学府などで、真の叡智、その善と賜物の解釈者、所有者と呼ばれることを喜ぶあなたがた。大勢の若者をまとめ、すなわち治め導くあなたがたも、私はいう、またあなたがた自身も職名が証するようにそういうのだが、王たち、すなわち人々の統治者である。
だから賢者はいう。あなたがたも叡智を学び、教えよ。心の病んだある異教徒たちの熱狂的な妄説からだけではなく。あの闇の住人アリストテレスが、彼らの首領、旗手である。むしろ、聖書と自然の書という泉から、そして、神的叡智によって清められ、神に照らされたあなたがた自身の内に語られる、神ご自身から、学び教えよ。
注 アリストテレスや学校教育への敵対的評価は原著の論争的な立場を保持したもの。
したがって、真の叡智を愛する者は、前記の書物の法と証言に照らして、すべてを試し、判断せよ。神の自然的な教師である火は、自然学的錬金術によって真理を証言する。三段論法を反駁する経験は、実践の印章によって真理を確証する。だから学校で支配すべきは、嘘をつく人間の権威ではない。聖書、自然、あなたがたの正しい良心に即した、神の意志の真理だけである。
「大勢の人々」。誇るべきは民の数ではなく、賢い統治である。それは、敬虔、徳、祈り、分別によって、人々の心を動かし、あなたがたに結びつけ、務めに留め、有益なことを見通し、害を予見し、逆境を打ち払える、賢い人々の助けによって行われる。
支配権は主から、権力はいと高き方から、あなたがたに与えられたからである。その方はあなたがたの行いを調べ、その計画を隅々まで探る。
権力は主から、威力はいと高き方から、あなたがたに与えられたからである。その方はあなたがたの行いを問い、その思いを探り調べる。
『ローマ人への手紙』13章1節。
「いと高き方からの力」以下。国々、大勢の民、それらを支配する権力を持つだけでは足りない。民を治める叡智と分別も、主に求めなければならない。求めることで探究し、探究することで把握し、把握したことを実行するのである。
万物の至高の統治者から、民への権力と、それを正しく用いる叡智が流れ出る。だから、自分自身の、ただ人間的な計画だけによって民を治めてはならない。神的叡智によって探り、把握すべき、神の助言によって治めよ。
注 原文末尾 est は先行する複数の consiliis/quæ と数が合わないが、印刷どおり保持。
「あなたがたの業を問いただす方」以下。だから暴君たちよ、異国人に対しても自らの臣民に対しても行う暴政について、答える言葉を用意せよ。神学的詭弁家たちよ、あなたがたが傲慢に患う、熱狂的、不敬虔、冒瀆的で癒しがたい論争病について。法を歪める者たちよ、精力的に行う不正について。偽の医師や、一部の学者たちよ、正しい学者もいるのだから全員ではないが、自然の秘密について見えず、足を引きずるような、あなたがたのある旗手・庇護者たちについて、答えを用意せよ。
あなたがたは悪意をもって、聖書と自然の書、神ご自身、その叡智の霊の語ることを後回しにし、自然のもっとも巧みで鋭敏な解釈者である火、そして真理を声高に証言する経験にも耳を傾けない。その結果、庇護者たちのきわめて有害な権威が、感覚、理性、精神を歪んだ仕方で染め上げ、支配する。
その権威に染まり惑わされたあなたがたは、救いをもたらす教えのもっとも必要な部分において、時には自分自身の良心が抗議するにもかかわらず、もっとも愛すべき青春の花を、誤って染め、有害に惑わせ、妄想へ追いやる。これほどの悪を行うあなたがたには、裁きの日に、災いあれ、災いあれ。
注 Theosophistæ は本書の肯定的な Theosophi と区別される、神的な事柄をめぐる詭弁家の呼称。原著には専門家・学者への強い論難がある。
これは作り話ではない。私より前に、多くの聖なる教父が、この悪魔的な害を心から嘆いた。私とともに嘆くのは、先代と現代のもっとも学識ある人々である。ロイヒリン、エラスムス、ルター、ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ、フィリップス・テオフラストゥス・パラケルスス、ヴィゲリウス、そして真の叡智の探求で名高い、ほとんど数えきれない人々。いや、真理が損なわれず保たれることを、心から望むすべての人である。
だから、これほど繰り返し戒められたのなら、そろそろ正気に戻り、善い方へ向き直れ。教える方法と学ぶ方法の、歪んだあり方を改め、ついに真理へ勝利の棕櫚を譲れ。だが私は、狂犬が首紐を耐え忍ぶかどうかを恐れる。ああ、なんという時代、なんという風俗か。
注 Vigelius の人名は確定しないまま原形に近い転写を用いた。末尾はキケロの有名な嘆きの句。
あなたがたは王国の奉仕者でありながら、正しく裁かず、正義の法を守らず、神の意志に従って歩まなかったからである。
あなたがたは神の王国の奉仕者でありながら、正しく裁かず、法を守らず、神の意図に従わなかったからである。
「その王国の奉仕者」。ここから、王国は神のものであり、君主たちには一時だけ委ねられていることが明らかである。王と君主たちよ、あなたがたはただ神とその王国の奉仕者なのだから、自分の意志ではなく、あなたがたの主なる神の意志によって、王国を治めよ。神の正義は神の意志である。叡智の霊によって、それを探れ。そうしなければ、まだ正しく裁くことを学んでいないのである。
「正しく裁かなかった」。正しく教えなかったのである。ある嘘をつくギリシア人たちの奴隷であるあなたがたは、幼い若者を惑わし、堕落させる者であったし、いまもそうである。ああ、有害な厚かましさよ。
だから、われらの賢者と、これほど多くの、これほど偉大な、叡智の忠実で愛される解釈者たちに戒められたのなら、照らされていないある異教徒たちの、光についての偽りを捨て、カスピ山脈の向こうへ追放せよ。そしてついに真理へ向き直れ。
この円形劇場の法と教えに従い、祈り働きながら、神的叡智、キリスト教カバラ、神的魔術、自然学的錬金術によって、天を超える叡智の普遍的で三一の泉へ、憧れて急げ。すなわち、聖書、自然の書、そして悔い改めの方法によって再生され、神的叡智の光線に照らされた、自分自身のもとへ。そこで天上の水を汲み、精神が満たされるまで飲め。
注 原文 falsitatum luminis は構文に不明瞭さを残す。異教的な「光」についての偽りを退ける文脈に従って訳した。
その水脈を、詭弁によってではなく、神的叡智によって探れ。そこには叡智の鉱床が見出され、そこから生きた水が、自然学、自然医学、自然学的錬金術、自然魔術、超自然魔術、倫理、政治、カバラ、神的叡智、すべての真理へと湧き出すだろう。
ダナエウスの『キリスト教自然学』と『キリスト教倫理学』は、この主題を扱う他の人々の仕事や著作を挙げるまでもなく、真理の敵対者たちを恥じ入らせるであろう。
「正義の法」。神的な正義の法。聖書、自然、あなたがたの良心のうちに、神によって置かれた、三一の法である。
「神の意志」。前述のものに、聖書的、大宇宙的、小宇宙的に啓示され、伝えられた意志である。
注 Danæus はランベール・ダノーのラテン名。書名は原文に基づく訳題。
神は恐ろしく、速やかにあなたがたに現れる。指導者に対しては、最も厳しい裁きが行われるからである。
神は恐ろしく、突然あなたがたに臨む。権勢ある者たちには、最も厳しい裁きが執行されるからである。
「現れる」。主は確かに来られ、遅れることはない。『ハバクク書』2章3節。
「もっとも厳しい裁き」。奉仕者たちが王の顔を恐れるように、あなたがたも、自分たちが仕える至高の王を畏れよ。民に加える暴力と、正義を傷つける不法は、自らに向かう大きな力を引き起こす。正義は、不正にそれを執行する者に対して、剣を抜くのである。
小さき者には憐れみが与えられるが、権力者はその力に応じた激しい責め苦を受ける。
最も低き人々には憐れみがふさわしいが、権力者は厳しく取り調べられる。
「小さな者には与えられる」以下。多く与えられた者からは、多くが求められるからである。
「だが権力ある者は」以下。高い木が伐られ、あるいは雷に打たれると大きな音を立てるように、大きな権力を濫用した者は、悲劇的で恐ろしい最期を迎える。だから、計画を導き、助力を与え、結果を導く、叡智の霊が必要なのである。
万物の主は誰の身分にも容赦せず、偉大さをも恐れない。最も低き者も最も高き者も御自身が創造し、すべての者を等しく顧みているからである。
神は誰の身分にも免じず、誰の偉大さをも恐れない。小さき者も大いなる者も神御自身が造り、すべての者を等しく心にかけているからである。
『申命記』10章17節。『歴代誌下』19章7節。『ヨブ記』34章19節。『集会の書』35章16節。『使徒行伝』10章34節。『ローマ人への手紙』2章11節。『ガラテヤ人への手紙』2章6節。『エフェソ人への手紙』6章9節。『コロサイ人への手紙』3章25節。『ペテロの第一の手紙』1章17節。
「人の身分」。どれほど偉大で名高くても、叡智に仕えず、ヤハウェへの畏れを内に宿さない者は、神に喜ばれない。ヤハウェの霊が去った者は、サウルとともに滅亡へ落ちる。神的なものが何もない者を、神の助言者たる叡智は見捨てる。
「小さな者と大きな者」。賢者が『箴言』でいう、貧しい者と富める者である。
「すべてを等しく顧みる」以下。神がすべての人々を顧み、その善意の光線を万人に注ぎ、善性をすべての者に分かち、誰をも妬まれないと理解すること、これが真の叡智である。ゆえに、誰も蔑んではならず、誰も圧迫してはならず、誰も忌み嫌ってはならない。
神は、大きな者を小さな者以上に気遣われない。会計を求め、「管理の報告をせよ」と命じる時、より大目に見るために貴族を庶民より少しでも優遇することはない。ドイツ語でいえば、「誰にも免除はなさらない。片方にももう片方と同じように、背中に打撃を加えられる」。38節、41節を見よ。
権力ある者には、厳しい取り調べが待ち受けている。
力ある者には、いっそう激しい苦痛が待ち受けている。
「強い者には」以下。神と人間に逆らって力を濫用する強者を、神はいっそう強く打ち倒される。強者は大きな力によって倒され、小さな者は立ち上がらせられなければならないからである。「監察は烏を許し、鳩を苦しめる」という言葉が、ここでは聞かれないように。神は、正しい正義を用い、執行される。
注 最後の一文はドイツ語。「烏を許し鳩を罰する」は、強い悪者を逃し弱い者を罰する不公正の格言。
主に逆らって成り立つ知恵も、分別も、計略もないからである。
エホバに逆らって成り立つ知恵も、理解も、計略もない。
「主に逆らって」。すべての真の叡智は神から来るのだから、真の叡智が神に逆らって戦うことはできない。神に逆らう叡智は、神の叡智ではなく世の叡智であり、神ではなく悪魔を作者にもつ。したがって、それは愚かさである。闇が光と戦うのは、蠅が象に立ち向かうようなものだ。
神の叡智は、どんな人間の哲学も曇らせられない光である。あらゆる人間的・蛇的な巧みさよりも明るい。それゆえ、あらゆる詭弁を貫き、打ち破り、勝利の棕櫚を得るだろう。真の叡智の時刻、その日が明けるとき、影にとどまる哲学の仮面はすべて消える。
正義の太陽イエス・キリストが昇ると、聖ならざる諸宗教の影と仮面がすべて消え、偽りの宗教の闇が、その輝く太陽をいまなお消そうとしても徒労であるのと同じように。神が定めたものを、人間が変えることはできない。また、ユダヤ人たちがエルサレムの神殿を建て直し、復興しようとしても徒労であるのと同じように。まもなく、新しい神的叡智の光が現れる時が来るであろう。われらの小賢しい人々が消そうと努めても、空しいであろう。
注 他宗教とユダヤ人の神殿再建に対する否定的な記述は、原著のキリスト教的論争の立場を示す歴史的文章であり、本訳が支持する見解ではない。
なぜなら、誰かがあなたの御手を逃れることは不可能であり、世界そのものが、正しい人々のために報復するからである。
なぜなら、主よ、あなたの御手を逃れることはできないからである。世界そのものも、正しい人々のために報復する。
被造物さえ、悪い者たちに正しい報復を加える。『知恵の書』5章18節から末尾まで、および19章。
「あなたの手」以下。神の手は、すべての被造物のうちにある。それには、助ける手と報復する手の二つがある。太陽が輝き、空気が息を吹き、大地が春の生命を生み、水が潤すとき、われらは神の手の助けを感じる。
他方、太陽が作用を拒み、風の暴力が襲い、大地が不毛となり、水が溢れ、被造物すべてがわれらに報復し、神が大宇宙全体をわれらに向かわせ、天から雷、疫病、飢饉を降らせるとき、われらは神の報復の手を感じる。神はその手に天と地を包み込まれるため、その手を逃れることは不可能なのである。
小宇宙に目を向ければ、神にとって、精神を取り去り、代わりに狂気と激昂を入れ、叡智を取り去って獣に変えることは、いかに容易なことか。ネブカドネツァルの例がそれを証する。したがって、すべてのうちに神の助ける手を認め、すべてのうちにその報復する手を畏れなければならない。
注 天変地異や精神状態を神の罰と結びつけるのは、この歴史的原著の宗教的説明である。現代の因果説明や医学的判断を示すものではない。
それゆえ支配者たちよ、私の言葉はあなたがたに向けられている。知恵を学び、踏み誤ることのないためである。
それゆえ王たちよ、私のこれらの言葉はあなたがたに向けられている。私たちの賢者が再びこう呼びかけるのには、十分な理由がある。知恵を学び、滅びることのないためである。
「支配者たちよ」。ここでは、テュランノスという語を、善い意味で王や君主を指して用いる。ギリシア語でテュランノスとは主、または王である。トログスもいう。「善良な人々の間での節度が認められて、そのような威厳の高みへと上げられた王たちは、その強さのゆえにテュランノスと呼ばれた」。テュランネオーは「統治する」という意味である。そこからエウリピデスの「王は賢者との交わりによって賢くなる」という言葉がある。
このように、古人の間では、その名は侮辱ではなく、王という名以上に憎まれるものでもなかった。しかし後に悪が増し、王が高慢に治め始めると、正しい法と公平な律法ではなく、暴力と恣意によって支配する者だけへ、その名が移された。その残酷さによって、名は悪い評判を得たのである。64節では、ギリシア語本文は彼らをバシレイス、すなわち王たちと呼ぶ。
ただし、ここで意味するのは政治の行政官だけでなく、前述のように、教会と学校の統治者も含む。
注 Tyrannus を常に現代的な「暴君」としない理由を、著者自身が説明する箇所。ギリシア語の連字・省略を通常の綴りに展開した。
「叡智を学ぶために」。真の哲学者にふさわしく、真の叡智を学べ。なぜなら、あなたがたの大半は、これは確かなことだが、叡智の善と賜物の小川である学問と術そのものよりも、その玄関や皮殻に留まり、迷路のような道々を歩いている。まして叡智の核や、叡智そのものに達してはいない。
あなたがたは、叡智の侍女、奥の間の乙女ともいうべき諸術に、いちばん外の敷居から挨拶することさえ、ほとんどない。理論や実践の接吻で、その蜜のような唇に、神的叡智の仕方で口づけるには、なお遠い。それどころか、足で踏みにじり、呪詛の雷で悪魔的に打つ。悲しいことに、ただ濫用があるという理由だけで。そして、それらを愛するキリスト者たちを、キリスト教にかなわぬ仕方で断罪する。113節を見よ。
われらの祖先の多くが嘆いたのはこのことだった。われらもこれを嘆き、後世の人々もこれを嘆くであろう。もっとも古いカバラ学者とマギ、すなわち賢者たちの、賢く哲学する方法が覆され、詭弁が支配し、この不浄な世の、すべて愚かな賢者たちが、悪化の道とあらゆる罪悪へ落ち、彼らに従う者を、ああ神よ、ともに滅亡へ引きずっていくことを。112節とその後のいくつかの節、また28節、187節を見よ。
聖なる務めの法と責務を敬虔に守った者たちは聖なる者と認められ、それらに教え導かれた者たちは、答えるべきことを持つからである。
正義を守った者たちは正しく裁かれ、正しいことを学んだ者たちは、答えるべきことを見いだすからである。
「義を」。神的な義をいう。聖書、自然、われらの良心に、神によって伝えられ書かれた義である。この義を守る者は、正しく裁かれる。叡智自身が父の前で証言し、その者たちが教えと鍛錬の子であり、叡智の忠実で愛される者だったし、いまもそうだと述べるからである。
「聖なる者と認められる」。正義と聖性の影だけを追い、ギリシア語で「敬虔の形だけをもつ者」、ドイツ語で「神を敬う見せかけだけをもつ者」がそうなのではない。真の正義、敬虔、聖性の道具となり、その者を通して、生きた信仰と聖霊が、真に義と敬虔の業を行った者が、聖なる者と判断される。すなわち、敬虔と救いをもたらす信仰の、生きた証しを持ち、それらの証しが本人に代わって答えるのである。
「正しいことを学んだ者」。知り得るあらゆることのうちで、真実で、正しく、義にかなうことを学んだ者である。どこから学ぶのか。神の普遍的で三一の書、すなわち聖書、自然、そして清められ、神に照らされたわれらの精神の書からである。ヤハウェは、精神の精神であるからだ。どのようにして学ぶのか。この円形劇場が教えるとおり、神的叡智、自然学、自然医学、自然学的錬金術などによって。祈り、働くことによって。187節。
それゆえ私の言葉を慕い、それらを愛せよ。そうすれば訓戒を得る。
それゆえ私の言葉を求め、切に望め。そうすれば教導を得る。
「そして訓練を得る」。それに伴い、この序説のいたるところで、われらの賢者が数え上げた、訓練のすべての益と実りも得るのである。
民の王たちよ、玉座と笏を喜ぶのなら、知恵を愛せよ。いつまでも治めるためである。
それゆえ諸民族の王たちよ、玉座と笏を喜ぶのなら、知恵を尊べ。いつまでも治めるためである。
『民数記』27章16節。『列王記第二』14章11節。『列王記第三』3章9節。
「永遠に統治するために」。永遠の叡智の相続人となるために。叡智の花である、敬虔と徳の花だけが、永遠だからである。
民を導くすべての者たちよ、知恵の光を愛せよ。ああ、愛せよ。
ギリシア語本文にはない。
「叡智の光」。政治、教会、学校のいずれであれ、人々を治めるすべての者は、永遠の叡智の光を愛せ。私がいうのは、神の真理の神的な光、神から生じ、聖書、自然の書、そして神的叡智によって清められた人間の、浄化された魂・精神のうちに輝く光である。この光に対して、世は夜の梟のようなものだ。
永遠の光から来る永遠の光よ、どうか神的な光線で私の精神を照らしてください。私という小宇宙のミネルウァの神殿に、どうか輝いてください。唯一真なる永遠の叡智のうちに、私の中のあなた、あなたの中の私を、知るために。アーメン。170節。
あなたの光によって、私は三一の光を見るであろう。聖書、自然、われらの精神の光である。それは無知と余分なものの闇に、ああ、恥ずかしいことに、覆われている。226節を見よ。
注 ミネルウァは古代ローマの知恵の女神。ここでは人間の知性の内的な神殿の比喩。
賢者の多いことは世界の安寧であり、分別ある王は民を安定させる支えである。
賢者の多いことは全世界の健全さであり、賢い王は自分の民を安定させる支えだからである。
「全世界の健全さ」。多くの人が尋ねる。なぜ世界全体が悪のうちに置かれているのか。私はこの箇所の教えに従って答える。すべてが愚か者で満ちているからである。そうでなければ、世界は不浄ではないはずだ。賢者が多いことこそ、全世界の健全さなのだから。
では、なぜこれほど悟りなき者が多いのか。32節のとおり、賢者の戒めに従わないからである。なぜ従わないのか。自らの悪意のためであり、その悪意が彼らを責めるであろう。『エレミヤ書』2章19節。自分で望んだのだから、受け取るがよい。
「賢い王」以下。ソロモンは『伝道の書』10章16節で叫ぶ。「王が子供である民に災いあれ。支配者たちが朝から食べる民に災いあれ」。政治、教会、学校の王が子供、すなわち205節のいう悟りなき者である場合だ。「王が徳によって高貴であり、支配者たちが、放縦のためでなく力を養うために、しかるべき時に食べる国は幸いである」。
民の堅固な状態は、王の叡智と分別にある。弱さは、酒食に滅ぼされる大食漢たちの放縦にある。乾いた魂こそ、まことにもっとも賢明である。バッカスの酒壺のようなあなたがたは、このことに注意し、その歪んだ生活と飲酒の仕方を改めよ。「さもなければ、飲んだくれて愚か者となり、病み、貧しくなり、ついには悪魔のもと、地獄そのものへ落ちる」とドイツ語でもいう。305節。
注 「乾いた魂」は古代自然哲学の知恵と節制を結ぶ表現。現代的な脱水を勧めるものではない。
それゆえ私の言葉によって訓戒を受けよ。それはあなたがたの益となる。
したがって私の言葉によって教えられよ。そうすれば益を受ける。
「私の言葉によって」。あなたがたに伝える私の法と教えによってである。それらは、この円形劇場で、普遍的で三一の泉から、しかるべく示される。叡智の実りを望む者は、その樹、すなわち神の言葉を心に植えよ。そうすれば、その実りを食べるであろう。
注 原文 plantet in corde tuo は三人称命令と二人称所有格が混在する。訳文では勧告の意味を明らかにした。
だから、死すべき者たちよ、叡智を学べ。そして、
地を裁く者たちよ、正義を愛せよ。
地を裁く者たちよ、正義を愛せよ。
『列王記第三』3章3節。『イザヤ書』56章1節。
「義を」。聖書、自然の書、あなたがたの正しい良心において、正しく公平であることをいう。
「裁く者たち」。教会、政治、学校において裁く者たちである。
ここに第二段の図を入れること。
注 この図の挿入指示は、巻末の出版者の読者への告知で誤植とされ、図の欠落を意味しないと明言される。
第二段の解釈と注解
第二。序説の第二段の解説。
賢者は、知恵とその実り、およびそれへ至る道を求め、その道を揺るがず歩み続けるよう、教え、戒める。
子らよ、父の訓戒を聞け。理解を知るために心を向けよ。
注 欄間出典:Prou. 4 Vers. 1.(箴言4:1)
子らよ、父の訓戒を聞け。賢慮を知るために心を向けよ。
「子らよ、聞け」。賢者はここで、知恵とその実りを幸いに獲得する正しい道を示す。すなわち父の訓戒を聞くことである。それによってまず悪しき情念が矯められ、人は神的な光を受け入れることができるようになる。肉が抑えられるほど、霊はいよいよ照らされるからである。教えを聞き、聞いて従い、従うことによって神に導きを願うことが、真の照明の始まりである。
私はおまえたちによい教えを授ける。私の律法を捨てるな。
注 欄間出典:Vers. 2.(箴言4:2)
私はおまえたちによい賜物を授けよう。私の律法を捨てるな。
「よい賜物」。それは善であり、しかも賜物である。どのようなものか。それ以上のものはない最高善、普遍的なもの、三重の三一なるものである。すなわち、ヤハウェ、被造物と自然、そしておまえたち自身を認め、知り、それらと同族であることを知り、一つとなり、享受することである。この幸いな獲得を、私たちのこの『円形劇場』は扱う。だが、どうすればよいのか。知恵自身が「私の律法を捨てるな」と答える。それは、こういっているかのようである。「ああ、お願いする、最愛の子らよ。私の律法を捨てるな。見よ、忠実に私につき従い、私の律法のうちにとどまるなら、私は無限の善と賜物をおまえたちに授けよう。それらは、聖書として、また大宇宙と小宇宙として伝えられ、書かれた私の〈ことば〉のうちに隠されている。」
注 Tertriunum は、神・大宇宙・小宇宙にわたるクンラートの三重の三一という術語として訳した。
神の矯正は喜びをもって受けるべきである。
わが子よ、主の訓戒を退けるな。主から懲らしめられても気落ちするな。
注 欄間出典:Prou. 3. Vers. 11.(箴言3:11)。文は次頁へ続く。
わが子よ、ヤハウェの矯正を退けるな。その叱責のためにうんざりしてはならない。
ヘブライ人への手紙12:5。黙示録3:17。
注 後者の数字17は原刊どおり。本文の叱責への言及からは黙示録3:19との関連が考えられるが改訂しない。
「気落ちするな」等。あらゆる苦難は、悔い改めへ招く神の声である。それゆえ詩篇119:71はいう。「あなたが私を低くされたことは、私にはよいことでした。あなたの掟を学ぶためでした。」ヤハウェは慰めて詩篇50:15にいう。「苦難の日に私を呼べ。私はおまえを救い出す。」だから、断食し、怒りとためらいを持たずに祈れ。「怒りを持たずに」とは、自分が神の配慮なしに、または不当に苦しめられると思って怒らないことである。ああ、敬虔な者さえ、なんとしばしばこうした試みに遭うことか。経験者を信ぜよ。「ためらいを持たずに」とは、神がおまえたちを助けてくださると固く信じることである。したがって訓戒を、父の恩恵として受けよ。それによって悔い改めと、神の憐れみを知ることへと招かれるのである。苦難のうちに神から助けられる経験をすることで、信仰は確かになる。試みられなかった者が、いかなる事を知っていようか。苦難は実践の学校であり、経験を生む。
主は愛する者を懲らしめ、父がその子を喜ぶように、その者を喜ばれるからである。
注 欄間出典:Vers. 12.(箴言3:12)
ヤハウェは愛する者を叱責される。ちょうど父が深く愛する子を叱責するように。
「主が愛する者を」等。アサフの詩である詩篇73全篇がここに関係する。これを読め。
矯正をつかみ、手放すな。これを守れ。それこそがおまえの命だからである。
注 欄間出典:Prou. 4. Vers. 13.(箴言4:13)
訓戒を保ち、手放すな。それを守れ。それこそがおまえの命だからである。
「訓戒」。すべてに有益な教えと敬虔、すなわち主を畏れることである。「命」。したがって命を得ようとする者は、自分の生を改め、知恵の道を歩むべきである。命なしに命を得ることは不可能だからである。訓戒の実りは命であり、粗暴さの実りは滅びである。
真理を買え、売ってはならない。知恵と教導と理解を買え。
注 欄間出典:Prou. 23 Vers. 23.(箴言23:23)
真理を買え。そして知恵も、教えも、理解も、売ってはならない。
「真理を買え」。主から意志を汲み取り、自らに真理を備えようと努めよ。神によって照らされていない異教徒たちの、偽りのくだらない言説を、真の知恵より上に置くな。知恵を売らないとは、このことである。第201節を見よ。世は欺かれたがるが、おまえは賢く教えられることを望め。では真理はどうして買うのか。いかなる銀貨によってでもない。敬虔な探究と、絶えざる祈りと、祈祷所および作業所における倦むことのない労苦によるのである。
注 Oratorium/Laboratorium は祈りと実験的作業の対応を示す術語であり、現代の実験室だけに限定しない。
朝におまえの種を播け。夕べにも、おまえの手を休ませるな。
注 欄間出典:Eccl. 11. Vers. 6.(コヘレトの言葉11:6)
朝にもおまえの種を播け。夕べにもおまえの手を休ませるな。
「朝に播け」等。大宇宙の天が、朝夕の露で地を肥沃にし、小宇宙をも爽やかにするように、おまえも朝には敬虔な祈りの種を播き、夕べには神への賛美の種を播け。また古人が暁をムーサたちの友と呼んだように、おまえは暁を善い天使たちの友と考えよ。神への祈りは、最も豊かに実る種である。惜しみなく与えること、善行、施しは、最も実り多い種である。愛の業は、最もよく繁る種である。生涯全体を改めることは、最上の種である。若さの花盛りから老いの夕べに至るまで、この種を播き続けよ。ついに永遠の命の刈入れが続いて来るまで。
光は甘美であり、太陽を見ることは目に快いからである。
注 欄間出典:Vers. 7.(コヘレトの言葉11:7)
光はまことに甘美であり、太陽を見つめることは目に快い。
詩篇104:2。
「光」等。神は至高で、最も清らかな、汚れなき光である。キリストは真の光であり、義の太陽である。聖霊は知恵の光、照らす輝きである。天使は光である。真理、道、喜びは光である。光は神のまといであり、衣である。ああ、かの永遠で無限な光を精神の目で見つめ、精神によってそれに触れるとは、なんと快いことか。救い主において、造られず、しかも受肉した光を信仰によって抱き、天使たちのうちに造られた光を観想すること。大宇宙の自然の光のうちに輝くものを、天の諸光体において驚き仰ぎ、小宇宙の魂のうちに輝くものを呼び覚ますこと。そして祝福された石、哲学者たちの太陽のうちに、あの驚くべきウリムを見ること。この光は甘美で快く、暁より明るく、月より美しく、太陽より輝かしい。なぜならこれは、救い主の輝き、光を放ち、栄光を受けた御顔と、光の白さに白く光る衣との像だからである。「私の愛する方は白く、赤みを帯びている。」再生され栄光を与えられた私たちの身体が、天の諸光体のように輝くとき、その方にきわめてよく似たものとなるだろう。ああ、甘美な光、目に快い光よ。
注 VRIM(ウリム)はヘブライ語に由来する祭司的光の名。原刊ではラテン文字。lux と lumen の対は、両者を単純に現代物理学の「光」と「照度」に分けず訳した。
怠け者は、労働と、知恵の学習および探究へと奮い立たされる。
怠け者よ、蟻のところへ行け。その道を見て、賢くなれ。
注 欄間出典:Prou. 6. Vers. 6.(箴言6:6)
怠け者よ、蟻のところへ行け。その道をよく考え、知恵を学べ。
「蟻のところへ行け」。蟻だけでなく、どのような動物のところへも行け。それら一つ一つのうちに、知恵または賢慮の火花が輝いていることを経験するだろう。アヴェンティヌスは『バイエルン年代記』の長い話によって、コウノトリが夫婦の貞潔をこの上なく重んじることを示している。それゆえ、自分の伴侶の姦通を見つけると、口でそれを見破ることができるのだが、その母が姦通によって宿した雛もろとも噛み裂き、引き裂くという。犬の忠実さについては、ヤーコプ・ミキュルスの、なかなか優美なファライコス韻律の詩がある。その冒頭は次のとおりである。
四つ足の獣の中で、犬は忠実。
四つ足の獣の中で、犬は喜び。
四つ足の獣の中で、犬は主人を
認め、敬い、守る、云々。
犬の忠実さの多くの優れた例は、プルタルコスの『動物の巧知について』に見よ。ユリウス・カエサル・スカリゲルの最も愛らしい子犬アダマンティウスにおける、忠実、堅忍、勇猛、愛らしさ、柔和さの範型は、主人の『詩集』第一部にあるその犬の墓碑詩が教える。ほかの動物の例も、ほとんどどこにでも事欠かない。
注 原刊の Sapentiæ は綴りを保持。
象は陸の動物のうち最大で、教えを受け入れ、温和で、賢慮に富み、記憶力が強く、人間を好む。これはプリニウス『博物誌』第八巻と、ユストゥス・リプシウスの『書簡集』による。今日の経験もまたそれを証しする。私たちの時代にアントウェルペン、リスボン、ウィーンで、象がどのような寛大さの証拠を示したかを、信頼できる目撃者たちは知っているからである。ヒバリ〔alauda〕の名は、学者たちによれば「賛美」〔laus〕に由来する。ヒバリは神を驚くほどよく讃え、その賜物と善について感謝するからである。地面から糧の穀粒を一つ取る前に、高く飛び上がっては降りることを七度繰り返すのが、観察されたことさえある。神を讃え感謝することは、まさに理性的な行いではないか。こうしたことでは、動物は多くの非人間的な人間より、はるかに賢い。誰が燕に、それほど巧みな家を自らのために築くことを教えたのか。ヤケの子アグルはいう(箴言30:24以下)。「地には最も小さいものが四つあるが、それらは賢者より賢い。蟻は弱い民でありながら、刈入れの時に自分の食物を備える。小兎は力のない民でありながら、岩に寝床を置く。蝗には王がいないが、すべて群れをなして進む。ヤモリは手でよじ登り、王の宮殿に住む。」ここには動物のうちにある知恵と賢慮の痕跡を論じる広大な領域が開かれるが、今はきわめて多くの例の代わりに、このわずかな例で十分としよう。
注 Φιλάνθρωπον は「人間を好む」。lepusculus は原刊の動物名「小兎」として訳し、現代の聖書翻訳での動物同定に置き換えない。
次のことも付け加えよう。プルタルコスは、いわゆる「理性なき生き物」〔zōa aloga〕、すなわち獣が、実は「理性的なもの」〔logika〕、すなわち理性を備えたものだと考えた。完全な理性とまではいわずとも、少なくとも理性と諸徳のいくつかの火花または微粒を備えるといえたはずである。ラクタンティウスもそう考え、私たちの時代にはギヨーム・オンキアクスが数の神秘に関する特別の著作でこれを擁護している。彼らは皆、私の判断でも、正しく考えた。神的知恵の火花があらゆる動物、すなわち地を歩むもの、水に住むもの、飛ぶもののうちに光る以上、それらはまったく理性がないのではなく、ただ賢慮の程度において人間より低いだけだからである。人間のうちには、はるかに豊かな知恵が輝く。もしある動物たちに創造者から言葉の賜物が許されたなら、それら自身が、反対する者にある程度答えてしまうのではないかと思う。人間とて、すべてが同じ程度に賢く、賢慮を備えているわけではない。舌の言葉の欠如は、業と行いの言葉が補うだろう。判断は経験者たちに委ねよう。ローマ人への手紙8:22にいう被造物の呻きは、無意味なのではない。おまえは詩篇の「理解を持たぬもの」を反証に出す。だが、まことに弱い反証である。理性を欠いているわけではないのに、激しく、怒りっぽく、粗暴な人間についても、同じことをいうではないか。神はその業のうちに驚くべき方である。宇宙全体は、個々にも全体としても、神の善、全能、知恵を語り、認め、公言する。ただ、大宇宙の仕方で語る神に注意を払い、その神を理解する者たちがいてくれさえすればよいのだが。
注 ギリシア語は ζῷα ἄλογα/λογικά と判読。Guilielmus Onciacus は原刊のラテン名を保持し、未確認の同定を加えない。
蟻には指導者も、監督者も、主人もいないが、
注 欄間出典:Vers. 7.(箴言6:7)
蟻は指導者も、教師も、君主も持たないが、
「指導者」。目に見える、外的な指導者のことである。内なる指導者なら持っている。すなわち自然という、この上なく忠実で賢い女教師であり、蟻を愚かに教えはしない。
それでも夏に食物を備え、刈入れに食べ物を集める。
注 箴言6:8。原刊のこの頁に独立した節番号表示はない。
夏に自分の食物を備え、刈入れに食べるものを集める。
「夏に備える」等。私たちは蟻からさえ、働かなければならないことを賢く教えられる。私たちの誰もが、神的叡智に即して祈り、賢く働くべきである。だからパウロはエフェソ人への手紙4:28で、各人が自分の手で善いことを働き、困窮する者に分け与えるものを持つよう命じる。怠惰を憎む神の御心はこれである。暇は悪徳を生むからである。怠惰はサタンの枕である。エゼキエル書では、ソドムの罪に怠惰も数えられ、16:49にこう読まれる。「これがソドムの不義であった。高慢、パンの飽食、豊かさ、そして彼女とその子らの怠惰である。彼らは困窮する者、貧しい者に手を差し伸べなかった。高ぶり、忌むべきことを行ったので、見たとおり私は彼女らを取り去った。」ここでいう閑暇とは空虚なもの、恥ずべき休止と手空きのことである。それは快い悪、生を蝕む腐敗、あらゆる善を消耗させる病である。後の第205節でいう、品位ある自由人の閑暇ではない。尊ぶべき古人は、ミネルウァに頼りながら自分の手も動かすべきだと、正しく教える。しかも夏に、すなわち好機にそうするのだ。第170節を見よ。だから真の知恵を学び、そのために働くことを、明日や遠い先へ延ばすな。今日、今日こそ祈り、学び、観察し、真理の霊が神的叡智としておまえに示すことをすべて書き留めよ。今日、今日こそ働き、身体、霊、魂のために知恵の食物を用意せよ。キリスト教的カバラ、自然魔術、自然錬金術の学徒よ。用事から用事が生じ、ついに二度と抜け出せない迷宮が生まれることを、理性の天秤でよく量り考えよ。だから善い忠告に従い、善い仕事、精神の仕事も手の仕事も、決して一日延ばしにしてはならない。「おまえが善いことをし、働こうと思うなら、それを早くせよ。」生は短く、術は長いからである。
注 原刊の necessitatem patiendi は文法上不整だが原文のまま収録。anota も原刊どおり。Physico-Chemia は歴史的な自然錬金術の意味。
怠け者よ、いつまで眠るのか。いつ眠りから起き上がるのか。
注 欄間出典:Vers. 9.(箴言6:9)
怠け者よ、いつまで眠るのか。いつ自分の眠りから起きるのか。
「眠りから」。怠惰の眠りだけでなく、悪意、嘲り、不信、無知、怠慢の眠りからである。それは名誉にも、命にも、魂にも身体にも、この上なく有害である。箴言20:13。「眠りを愛するな。貧困に押しつぶされないためである。目を開けよ。そうすればパンで満ち足りる。」
少し眠り、少しまどろみ、少し手を組んで眠る。
注 欄間出典:Vers. 10.(箴言6:10)
少しの眠り、少しのまどろみを取り、少し手を組んで眠ると、
「少しまどろむ」等。その「少し」は、限りなく大きくなりがちである。「初めの小さな誤りは、終わりには大きな誤り」という言葉のとおりである。怠け者は遅延することで、自分自身と神の賜物から逃げ去る。
すると、旅人のように欠乏がおまえのもとに来る。貧困は盾で武装した男のように来る。
注 文は頁をまたぐ。箴言6:11。
すると、旅人のように欠乏がおまえのもとに来る。貧困は武装した男のように来る。しかし、おまえが勤勉なら、その収穫は泉のように訪れ、欠乏は遠くおまえから逃げ去る。
祈れ、そして働け。神は遅滞なく与えてくださる。
「欠乏と貧困」。パンだけでなく、知恵、賢慮、理解の欠乏である。自然の事柄、人為の事柄、機械的技芸などにおいても、形而上の事柄、神的な事柄においてもそうである。次の諺はここによく当てはまる。「労苦を拒む者は、名誉を拒む。」「名誉と重荷とは連れ立って来る。」「便益を受けたい者は、重荷をも受けよ。」箴言10:4もいう。「怠けた手は欠乏をもたらし、力ある者たちの手は富を備える。」同14:23。「あらゆる善い働きには豊かさがある。だが言葉が非常に多いところには、しばしば欠乏がある。」口に出した話だけからは、何の実も生じないからである。低地ドイツの人々はいう。「言うだけでは、したことにならない。」主の名において手を動かさなければならない。そのとき進歩や利益が続いて来る。「勤勉なら」等。ここから次の諺が出る。「まっすぐに、くじけずにいる者は、しばしば大いに恵みを受けた。」家長は最初に寝床から起き、最後に床へ入るべきである。
注 ドイツ語の語形 Auffrechte は最終eを含むと判読したが、活字がやや紛らわしく、この語末の読みは暫定。「まっすぐに」の意味で訳した。
夏に集める者は、理解ある息子である。しかし刈入れに眠る者は、恥をもたらす息子である。
注 欄間出典:Prou. 10 Vers. 5.(箴言10:5)
刈入れに集める者は、賢い息子である。しかし夏にいびきをかく者は、恥辱の息子である。
「刈入れに」。好機、または適切な時の刈入れのことである。「機会の前髪は長いが、後ろは禿げている」からである。皇帝フェルディナントの言葉を心に留めよ。「別のときには丸一年が与えなかったものを、一日がしばしば与える。」それゆえ物事を行う際には、時、場所、人、機会を見定めよ。各人は、物事をよく成し遂げるために神から与えられた機会を、しっかり利用せよ。パウロも同じ趣旨で、時に仕えるよう命じる(エフェソ人への手紙5:16)。夏は一年にだけあるのではない。青春、生涯、好機、時、友人、教師、昇進、身体・魂・運命のものと呼ばれる諸々の善にも夏がある。おまえの善いゲニウス、すなわち善い霊は、できるし、望んでいる。おまえを駆り立て、おまえが自らのうちに善い動きを感じるとき、霊はできるし、望んでいるのである。その動き、その永遠で外的な促しは、神の召命である。その召命のうちに、使徒の教えに従って、祈り、働きながら、忠実にとどまるべきである(コリント人への第一の手紙7:20)。第170節と第177節を見よ。
注 æterna & externa は原画像に従う。文脈上「内的・外的」の対が予想されても、interna へ無断で改めない。Genius は古い守護霊・導く霊の意味。
愚かで騒がしく、誘惑に満ち、まったく何も知らない女。
注 欄間出典:Prou. 9. Vers. 13.(箴言9:13)
愚かな女は騒ぎ立て、浅はかで、何一つ知らない。
「愚かな女」等。この愚かな女は、世俗の知恵である。天上の知恵のいかなる光線にも照らされていないため、愚かと呼ばれる。聖霊の照明なしに人間の才知が生み出すものは、ことごとく極度の愚かさである。この愚かさから、騒がしく、やかましく、乱れた争論、問い、微細な議論、詭弁が生じ、ついには風と煙に消える。それでもなお、この愚かな娼婦は、顔料で顔を塗り、紫の衣をまとい、自分の詐術と誘惑で多くの者を餌食にする。立派そうな称号で自分の愚かさを覆い、弟子たちを愚かさのあらゆる段階を通して、最上の仮面にまで導く。この女については、第107節と第117節にさらに見よ。
彼女は自分の家の戸口、町の高いところにある座に座る。
注 欄間出典:Vers. 14.(箴言9:14)
彼女は自分の家の入口、町の高い場所の椅子に座る。
「入口に」等。知恵の戸口が真に神への畏れと絶えざる祈りであるように、愚かさの家の戸口は神についての無知と、自分勝手な空想である。その空想は言葉のくだらない細工にとらわれ、傲慢に自分を誇示する。家の玄関が通例美しく華麗であるように、愚かさの戸口も、言葉の大仰な膨らみによって飾られる。「高い場所に」等。世俗の知恵は、化粧と空疎な言葉の媚び以外に何も持たないが、それでも町の高いところに自らの座を築いた。すなわち、自分には知恵があるという評判を得、人々を自分への賛嘆に駆り立て、まるで何かの神のように万人から崇められる。その一方で、真の知恵は抑えつけられ、追い払われる。書記、ファリサイ派、祭司長たちが高いところに座っていた、すなわち大きな権威を持っていたとき、真の知恵である私たちの救い主キリストが打ち倒されたように。
道を通り、自らの歩みをまっすぐ進める者たちに、呼びかけていうためである。
注 欄間出典:Vers. 15.(箴言9:15)
道を通り、自分の旅を続ける者たちを、呼び寄せるためである。
「道を通る者たち」。多くの者は、空しい称号、名誉、給金、学識への賞賛によって愚かさの境へ引き寄せられ、陰に籠もった饒舌な哲学に安住する。そして真の知恵を知らない。真の知恵は、まったく別の道で探究し、獲得しなければならないのである。この道を、最も賢い王は『知恵の書』で私たちに示す。ああ、この最も短く、最も惨めな生の道を通る者たちよ。賢く敬虔に、自分の歩みをまっすぐにすることを学べ。永遠の知恵の門へ、そして門へと導かれるために。
注 portam & portam は原刊で同じ語が重複する。portum(港)などへ改めず、訳にも重複を残した。
幼い者は誰でも、私のところへ寄れ。そうして彼女は、分別のない者にいった。
注 欄間出典:Vers. 16.(箴言9:16)
浅はかな者は誰でも、こちらへ寄れ。そうして彼女は、心を欠く者にいった。
「分別のない者にいった」。世俗の知恵に欺かれるままにしている者は、愚かで分別がなく、正気を失っている。世俗の知恵は、煙のように散って消える名誉、快楽、富で、浅はかな者を餌食にする。知恵の子らは、謙遜によって名誉を、節制によって快楽を、寛厚によって富を、涙によって喜びを、祈祷所と作業所における経験によって知識を求める。
盗んだ水はもっと甘く、隠されたパンはもっとおいしい。
注 欄間出典:Vers. 17.(箴言9:17)
盗まれた水は甘く、隠されたパンはおいしい。
「盗んだ水」等。祈りと涙を通じて、神から、あるいは神的魔術とキリスト教的カバラの仕方で得られたのではないあらゆる知識は、盗んだ水であって、神から与えられたものではない。それゆえ光の父から来る完全な賜物ではなく、欺き、仮装され、何の益もない。それが甘いのは、肉を死なせることも、真の悔い改めも、神への真の畏れもなく得られるからである。それゆえ肉に甘い。「隠されたパン」。ひそかに獲得されたものであり、魂を養う知恵と命のパンではない。世俗の快楽、空しい富と名誉のパンである。それゆえ肉にはおいしいが、魂には致命的である。
浅はかな者は、そこに死者がいることを知らず、彼女に招かれた者たちが冥府の深みにいることを知らない。
注 欄間出典:Vers. 18.(箴言9:18)
彼は、そこに巨人たちがいること、彼女の宴の客が冥府の深みにいることを知らなかった。
彼女に結びつく者は冥府へ下るからである。彼女から立ち去る者は救われる。
注 この追加句には Ex Septuaginta.(七十人訳から)という明示がある。
知恵と、戒めを守ることへの勧め。
「冥府の深みに」等。これが汚れた世俗の知恵の終わりである。それに染まり、膨れ上がり、思い上がった者は皆ここに至る。ここで彼らの輝きは闇に、贅沢は悲惨に、快楽は苦痛に、喜びは泣き叫びに、名誉は恥辱に、富は忌まわしい醜悪さに変わる。この生で、永遠の知恵と神的な光と聖霊の住まいでなかった者は、闇と冥府の恐怖と悪霊の住処になる。闇に光を、虚偽に真理を求めたからである。ああ、永遠の真理よ、私たちを教えてください。永遠の道よ、私たちを導いてください。永遠の命よ、私たちを生かしてください。永遠の光よ、私たちを照らしてください。永遠の救いよ、私たちを救ってください。私たちの宴が冥府の深みにあることなく、いと高きところで永遠の知恵の食卓に座り、永遠に神を見ることで満たされますように。
ああ、わが子よ。私の言葉を守り、私の戒めを自分のもとに納めよ。
注 欄間出典:Prou. 7. Vers. 1.(箴言7:1)
ああ、わが子よ。私の言葉を守り、私の戒めを自分のために納めよ。
子よ、主を敬え。そうすれば健やかであろう。主のほかに異なる者を畏れてはならない。
注 この追加句には Ex Septuaginta.(七十人訳から)という明示がある。
「わが子よ」。おまえは卑しい世俗の高慢によって、賢者の勧告と、父として兄弟として語る私の勧告を軽んじているが、神がおまえをより善い方へ転じてくださるように。「私の戒めを自分のために納めよ」。悪霊と欺く者たちは、人間の知性の前に、多くの、ほとんど数え切れない障害を置き、それによって救いをもたらす回心と照明への道を塞ぐ。考えてみよ。世にはいくつの誘惑があるか。人の心を鳥黐のように引き留める快楽は、いくつあるか。詩人が歌うとおり、「おまえたちの甘言は、まったく鳥黐だ」。阿片を用いる者がそれによって眠りに落ちるように、人間の精神もステュクスの、冥府の阿片によって、忘却の眠りと天上の事柄についての深い忘却へ落ちる。それゆえ賢者はここで、神的叡智の子がその戒めを心の最も奥深い聖所に納め、忠実で絶えない記憶によって守るよう勧める。神の生きた言葉が人間の胸から消えると、照明と知恵の霊は退き、代わって闇と愚かさの霊が入るからである。
注 in intimos cordis penetralibus は原刊の格の不一致を保持。
神の〈ことば〉を観想するよう勧める。それによって私たちは精神と身体の淫行から引き戻される。
私の命令を守れ。そうすれば生きる。私の律法を、おまえの目の瞳のように守れ。
注 欄間出典:Vers. 2.(箴言7:2)
私の戒めを守れ。そうすれば生きる。私の律法を、おまえの両目の瞳のように守れ。
「そうすれば生きる」。それらを見いだす者にとって、それらは命だからである。第27節を見よ。ああ、なんとすばらしい、知恵に満ちた言葉か。瞳が視覚の光線と見るための光の座であるように、神の戒めは人間の精神における光であり、輝く光線である。
それらをおまえの指に結び、心の板に書き記せ。
注 欄間出典:Vers. 3.(箴言7:3)
それをおまえの指に結び、心の板に書き記せ。
「それを指に結べ」。記憶の指輪にするかのように、である。これが、神的叡智の探究者たちにとって、善い霊の助力をもたらす指輪である。「私の戒めをいつも心に結び、おまえの喉に巻け」(箴言6:21)。「私が今日命じるこれらの言葉を、おまえの心に置け。子らに語り、家に座るときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを思い巡らせよ。それらを手の上のしるしとして結べ。それらはおまえの目の間にあり、動くものとなる。家の敷居と戸にそれらを書け」(申命記6:6)。すべては私たちを教えるために書かれたと知れ。それゆえここで学べ。「心の板に」。これが効力あるソロモンのペンタクルムである。死霊術師または邪悪な魔術師たちの、空想的で冒瀆的なあのものではない。このペンタクルムを、おまえの精神の首から吊るすべきである。この『円形劇場』の第四図を見よ。
注 PENTACVLVM は護符・印章としての「ペンタクルム」。単純な五芒星と断定しない。Nigromantici/Cacomagi は著者が非難する黒魔術・悪しき魔術の実践者。
知恵に「あなたは私の姉妹」といい、理解を親しい身内と呼べ。
注 欄間出典:Vers. 4.(箴言7:4)
知恵に「あなたは私の姉妹」といい、賢慮をおまえの友と呼べ。
「知恵にいえ」等。善なる神よ、これはどういうことだろう。永遠の知恵に「あなたは私の姉妹」といい、神の賢慮を私の友と呼ぶとは。死すべき私が、そのようなことをあえていえようか。どうしよう。賢者に賢く従おう。知恵自身の刺激に駆られて心の底から願い、再生の原初の質料である悔い改めの涙を、内なる喜びのあまり流しながら、私はヤハウェの知恵にいう。これからも常にいい続けよう。「私の友、私の美しい方、私の鳩となってください。あなたを選び、あなたにいいます。あなただけが私の喜びです。私の精神の園へ来てください。来て、来て、来てください。ああ、私の愛しい心、私の喜びよ。おお、ホホマヘル、ああ、ベナヘル。」ああ、私たちへの真の知恵の到来は、なんと実り豊かなことか。アテナイの哲学者ソクラテスが、その印章に刻んで持っていたという次の言葉を、私はたいそう好む。「人間の友はその知恵、敵はその愚かさである。」唯一真実なる永遠の知恵について、これを敬虔にキリスト教的に理解するなら、引用した箇所における私たちの賢者の言葉に、これ以上よく合うものがあるだろうか。友はイエス・キリスト、人にして神である方、私たちのために肉となった神の知恵である。不確かな事態にこそ見分けられる確かな友、いや、この上なく優しい兄弟である。敵を愛して死ぬ者こそ、偉大な友ではないか。このことにおいて原型に忠実に倣うなら、私たちはキリスト教的カバラ、自然魔術、自然錬金術の仕方で、神的叡智に即して、すべてを知り、なし得、獲得できる。初めから主に喜ばれた者は皆、知恵によって保たれた(第270節)。『知恵の書』第十章全体を見よ。
注 ὕλην は「質料」。IHSVH はイエスの名を表すキリスト教カバラ的五字名。Hhochmahel/Benahél は原刊の呼びかけの綴りを残し、確証のない語源的意訳を加えない。Θεάνθρωπος は神人。
さらに、いと善き兄弟よ、あなたはマタイ8:20でいわれた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には頭を横たえるところがない。」どうか私のうちに頭を横たえてください。私はすべてをあなたに開き、すべてあなたのものです。あなたがお休みになるためというより、私の身体と霊と魂に、あなたから永遠の休み、〈安息〉が与えられるためです。聖アウグスティヌスも『黙想』第七・八章で、私たちのこの言葉と一致して、こういう。「私の神よ、私は大きな愛であなたを愛し、さらに愛したいと願います。願う限り、また当然そうすべき限り、いつもあなたを愛することをお与えください。あなただけが私の志向のすべて、私の黙想のすべてとなり、昼は絶え間なくあなたを思い、夜は眠りのうちにもあなたを感じますように。私の霊があなたに語りかけ、私の精神があなたと語り合いますように。あなたを見る聖なる光によって私の心が照らされ、あなたを導き手、統べる方として、徳から徳へ進み、ついにはシオンで、神々の神なるあなたを見ますように。今は鏡を通して謎のうちに、しかしそのときには顔と顔を合わせて。アーメン。」教えの子よ、私の意図するところを汲み取れ。
注 Augustinus, Meditationes は原刊の帰属表記として保持し、著者帰属の現代的確定を示すものではない。
異なる女から、自分の言葉を柔らかくするよその女から、おまえを守るためである。
注 欄間出典:Vers. 5.(箴言7:5)
よその女から、自分の言葉を甘くする異なる女から、おまえを守るためである。
「よその女から」。この女については第117節で述べる。彼女との淫行は永遠の破滅へ導く。口には蜜を持つが、心には、内臓を蝕む砒素性の胆汁を持っているからである。
注 ad æternum ... perniciem は原刊の語形を保持。
おまえの心を彼女の道へ曲げるな。彼女の小道でさまような。
注 欄間出典:Ibidem Vers. 25.(同、箴言7:25)
おまえの精神を彼女の道へ引き去らせるな。彼女の小道に欺かれるな。
「引き去らせるな」等。世俗の知恵は娼婦であり、虚栄、傲慢、高慢、快楽、名誉、富といった肉的誘惑で人間の精神を誘う。しかし、それらによって人間の精神は照らされず、むしろ闇で暗くされ、腐敗し、汚される。その小道もまた欺きに満ち、人間の真の目的である真実にして永遠の知恵へと導くのでなく、死と混乱へ導く。神的知恵は処女であり、汚れた精神とは結びつかず、婚約も結婚もしない。神への畏れに満たされた精神と結びつき、自らの清らかさでそれらを照らし、知恵の泉、原初の光であるキリスト・イエスへ導き、キリストと結び合わせる。後の第117節を見よ。
彼女は多くの者を傷つけて倒し、最も強い者たちも皆、彼女に殺されたからである。
注 欄間出典:Vers. 26.(箴言7:26)
彼女は多くの者を傷つけて倒し、最も強い者たちも皆、彼女に殺されたからである。
「多くの者を傷つけて倒した」。この娼婦と寝た多くの男たちは、中には他の点では性質がそれほど悪くなかった者もいたが、彼女の微細な毒に、流行病のように重く侵された。そしてようやく臨終の苦悶に至って、わずかな慰めを感じるのがやっとだった。多くの最強の者たち、すなわち同類の者から博学でこの上なく賢いと見なされた者たちは、実際にはこの上なく愚かだったのだが、かくも無知な知恵の暗闇の中で致命傷を受け、倒れて惨めに息絶えた。その例は無数に挙げられる。彼らは自分たちの空しさのうちに滅び、闇の深淵に葬られて横たわったままである。だから子よ、他人の例から学べ。「他人の危険によって用心深くなる者は幸いだ」からである。
彼女の家は冥府への道、死の奥深くへ通じる道である。
注 欄間出典:Vers. 27.(箴言7:27)
彼女の家は冥府の道、死の寝室へ下る道である。
「冥府の道」等。それらが来たところへと導く道である。神的知恵のまっすぐな道は、天上の永遠のものへ導き、命の奥深くへ入る。これに対して冥府の道は不敬虔の道であり、死の苦しみのさらに奥へ導く。真実にして神的な知恵の終極は命であり、偽りの世俗の知恵の終極は死である。あの蛇の狡知は死を世に導き入れたが、神的知恵、受肉した神の子は、世に命を与えた。
注 原刊 ad viæ は文脈上 at viæ(しかし道は)に相当する誤植と思われるが、本文は ad を残し、訳は対比として処理した。
知恵は、不敬虔な者たちの道と詭弁家との淫行から解放し、善い道へ導く。
知恵がおまえの心に入り、知ることがおまえの魂に甘美となったなら、
注 欄間出典は Prou. 2. Vers. 7. と印刷されるが、本文の聖書箇所は箴言2:10。原刊の数字を訂正せず記録した。
知恵がおまえの心に入り、知識がおまえの魂の喜びとなったなら、
「もし入ったなら」。おまえの心が知恵の甘露を味わったなら。「喜びとなったなら」。生の営みと日々の交わりのために彼女を自らに結びつけると決め(第307節)、心を尽くして「あなたは私の姉妹」といい、賢慮を自分の友と呼び(第106節)、彼女を花嫁として迎え(第146節)、彼女と共に安らぐ(第236節)ほどに、である。ああ主よ、あなたを愛する者たちへの甘美さは、なんと豊かなことか。
思慮がおまえを守り、理解がおまえを保つ。
注 欄間出典:Vers. 11.(箴言2:11)
助言がおまえを守り、賢慮がおまえを保つ。
「助言がおまえを守る」。人間の助言でなく、ヤハウェがいと高きところから送った神的な助言である。おまえの精神の足が、欺きと誤りの石につまずかないためである。このようにして地上の人間の道は正され、人々は生と行いについて、救いをもたらす助言を学ぶ。
悪い道から、よこしまなことを語る男から、おまえを救い出すためである。
注 欄間出典:Vers. 12.(箴言2:12)
悪い道から、よこしまなことを語る人から、おまえが救い出されるためである。
「悪い道から」。すなわち、世俗的・この世的知恵の教説からである。その哲学は真理の光をまったく欠くので、全体が詭弁的で愚かであり、神の前では愚かさである。パウロがコリント人への第一の手紙1:20で証言する。それゆえコロサイ人への手紙2:8にはいう。「人間の伝承と世の諸要素に従い、キリストに従わない哲学と空しい欺きによって、誰かがおまえたちを欺くことのないよう気をつけよ。」すなわち神の息と神的照明を欠き、自分の空想的、世俗的な賢慮に頼る哲学によって、ということである。それは、聖書と自然と良心の書に、神によって書かれ、伝えられ、示された真理の光に頼らない。「よこしまなことを語る者」。どの知識分野においてでもそうである。その者が悪魔学者であろうと、法を歪める者、悪医、偽自然学者、詭弁家、あるいは他の誰であろうと、真理の外観で取り繕い、正しいものに代えて偽りを置く者である。今日では、あらゆる身分の領域で、正義を愛する者が皆嘆くことだが、その者たちが各所で運営の舵を握っている。そのため、この時代、賢者たちの間で知恵の教えを純粋に公言することさえ、ほとんど安全ではない。悪意の煙はそれほど強くなった。神々から生まれ、全身を真理に捧げる者がいれば、狂人、無知な者、不信心者、ときには異端者と呼ばれ、憎まれ、死の危険さえ定められ、侮辱を受け、しばしばこの世の光を享受することを奪われる。これが、汚れた世における知恵の愛好者たちへの報酬である。私たちの頭である受肉した知恵自身も、このような不当な扱いを受けた。肢体である私たちも、同じことを忍耐して受けよう。最善なる方のために最悪の者たちから苦しめられることは、最高の幸福だからである。ああ、時代よ、風俗よ。神があの者たちに縄と終わりを与えてくださるように。神的叡智の愛好者は皆、アーメンといえ。
注 Diabologus/Iureperuersus/Cacomedicus/Pseudophysicus は著者の侮蔑的な造語・称呼。funem & finem は「縄と終わり」の語呂を保つ。神学・法学等の通常名へ無断で訂正しない。
まっすぐな道を捨て、暗い道を歩む者たち。
注 欄間出典:Vers. 13.(箴言2:13)
まっすぐな小道を捨て、暗い道を歩む者たち。
「捨てる者たち」等。すなわち、知恵の真の小道を捨てる者たちである。そのため知恵も逆に彼らを見捨て、まったく正当に、退けられた思いに引き渡す(ローマ人への手紙1:28以下)。こうして彼らは暗い道を歩み、ふさわしくないことを行い、あらゆる不正に満たされる。教会、政治、学問の立場から地を裁く者たちよ、どうかこれらをよく考えてほしい(第65節以下)。彼らは淫行、狡猾、貪欲、悪意に満たされ、妬み、殺人、争い、欺きに満ち、悪い性癖を備え、陰口をきき、中傷し、神を憎み、侮辱し、高ぶり、誇り、悪事を考え出し、親に従わない。理解を欠き、約束を決して守らず、愛の情から離れ、契りを知らず、憐れみを持たない。真の知恵の子であること、そう呼ばれることを望み喜ぶ者は誰でも、いかなる階級、身分、能力に属しようと、このリュディアの試金石に自分の良心を擦りつけ、自分の行為と業を吟味せよ。これらの〈徴〉は、そのような者たちが確かなもの、堅固なものを何も正しく知らず、ただ憶測しているだけだと、きわめて確かに示す。憶測している間、彼らは常に学び、論争しているが、真理の終極へ決して到達しない。プブリウス・クロディウスとウァロの諺によれば、「あまりに論争すると真理を失う」からである。
注 SIGNATVRÆ は内的な性質を示す「徴・しるし」。Lapidi Lydio は金属の品位を調べるリュディア石(試金石)の比喩。
悪を行うことを喜び、悪のよこしまさに踊り上がる者たち。
注 欄間出典:Vers. 14.(箴言2:14)
悪を行ったとき喜び、最悪の事柄に踊り上がる者たち。
「悪を行ったとき」。この上なく欺瞞的な者たちが、真実に代えて偽りを、公平に代えて不正を、正しい法に代えて不法を、ひそかに置き、それを弁護したときである。彼らにとって法と正義、真理と良心は、公の売り物であり、無知で不敬な群衆のあいだで空しい名声を捕まえる手段にすぎない。その群衆は真実によって評価することが少なく、思い込みによって評価することが多い。白を黒に変える者たちは滅びよ。「最悪の事柄に」。だが彼らは災いだ。容易には赦されない罪、良心に背く罪を犯すからである。
その道はよこしまであり、その歩みは恥ずべきものである。
注 欄間出典:Vers. 15.(箴言2:15)
その小道はよこしまであり、彼らは自分の道でよこしまになっている。
「よこしまな道」。ああ、どうしてよこしまでないことがあろうか。彼らは、高慢、詭弁、虚偽、争い好きな論拠や小さな結論、欺きと偽りの、この上なく有害な仮面を、高ぶった眉で悪意をもって、真理の美しい顔より上に置くのだから。それゆえ彼らの歩みは、まことに恥ずべきものである。
身体の淫行と同じく、理性と精神の淫行も避けなければならない。
異なる女から、自分の言葉を柔らかくするよその女から、おまえが救い出されるためである。
注 欄間出典:Vers. 16.(箴言2:16)
つまり、自分の言葉を柔らかくするよその女、異なる女から、おまえを救い出すためである。
「異なる女から」。賢者はここで、単に肉の淫行だけでなく、感覚、理性、精神の淫行も扱う。第108節から明らかなとおりである。悪い会話が善い習俗を損なうように、偽りの教説は善い精神を損なう。世俗の知恵は、小狐のように狡く、膨れ上がり、高慢で、争いのために論争し、大言壮語し、空しい言葉のおしゃべりで意味のない音を垂れ流す。そして弁証法の奇術によって、親愛なる読者よ、私は正しい使用と濫用を区別しているが、詭弁の迷路を通じて誘惑の網を張る。これこそ、あの誘惑する、媚びる、異なる女、よその女(箴言7章)、愚かで騒がしい女である。彼女はこの上なく偽りの称号によって、自分を真の知恵として、悪魔的に愚者たちへ売り込む。パウロによれば、地上の知恵ほど、神の前で真に愚かなものはないのに。それは、真に賢くなりたい者が学び捨てなければならないものである。哲学の事柄について、老齢に達し、学識と経験に秀でた哲学者ルドヴィクス・ヴィヴェスの言葉を聞け。彼は自分の技に通じた職人として信ずべきである。彼はいう。「若いころ高ぶって哲学の宝と考えていたものが、いま回心し、老いた私には、糞にすら値しないものと見える。それらは敬虔な生と必要な学びを妨げただけだった。」以上が彼の言葉である。聖なる教父たち、ヒエロニュムス、アンブロシウス、アウグスティヌス、キュプリアヌス、ヒラリウス、バシリウス、キュリルス、テルトゥリアヌス、ベルンハルドゥス、プルデンティウス、イシドルス、その他多くの敬虔で博学な人々もまた、常に論争的で、異教的、地上的な世俗哲学の研究に費やした労力を、大いに悔いた。時間と場所が許せば、彼らの著作が十分に証しする長い一覧を作ることができる。皆そこで多くの労苦を尽くした後、ついには、それが真理、堅実な知識、神の律法、キリストの宗教にとっての疫病であるという点で一致する。だから逃げよ、若者たちよ、この娼婦から逃げよ。そして皇帝マクシミリアン一世の例にならい、異教的または不敬に哲学する者たちを、鶯としてでなく蛙として聞け。悪魔に妨げられず、理解できる者は理解し、自らを改めよ。
注 引用・人物の評価は著者が述べる歴史的主張として訳した。原刊の Ethnicè は異教的の意。
「よその女から」。異郷の、ギリシアの、偽る女からである。彼女は聖霊の内なる証言によって裏づけられない。なぜなら知恵は、修辞学の化粧され飾り立てられた言葉によっても、三段論法のねじれによっても獲得されないからである。そのようなもので、このよその女は幼い者、不注意な者を、ああ、恥ずべき娼婦的な自分への愛へと誘惑する。知恵はむしろ、神的に、霊感によって照らされた精神の光が知性の上に降り、信じる自由意志を動かすことによって得られる。これこそあらゆる事柄を知る最も高貴な道である。「自分の言葉を柔らかくする女」。弁証法的に、修辞的に、である。セネカはいう。「甘言は蜜を塗った毒である。たやすく信ずる者は、たやすく欺かれる。」それゆえキケロは正しくいった。「たやすく信じないことが、知恵の力と筋である。」またエウリピデスはいう。「賢い不信より人にとって善く有益なものはない。」だから今こそ、人々よ、これほど多くの偉大な人々の警告によって、この女を避けることを学べ。若い無知の熱に浮かされて誤った彼らの過誤を真似するより、年齢を重ねてより賢くなった彼らの悔い改めに倣え。
注 Enthusiasticè は現代の「熱狂的」でなく、神霊に満たされ霊感を受けるという歴史的意味。
彼女は若い日の導き手を捨て、自分の神との契約を忘れた。
注 欄間出典:Vers. 17.(箴言2:17)
彼女は青春の導き手を見捨て、自分の神との契約を忘れた。
「若い日の導き手」。神自身である。神は世界の初めから、大いなる自然の書、小宇宙と大宇宙のうちに神的に伝えられた律法、書かれた御言葉において、その知恵を通じ、悪から真理の王道へと呼び離し、招いてこられた。今日も招き、呼んでおられる。「自分の神との契約」等。それは、真理のうちにとどまらなかった親、すなわち悪魔の例に倣ってのことである(ヨハネ8:44)。彼女はその悪魔の、この上なく従順な娘である。この女を結婚によって自分に結びつける者は皆、自分の神との契約を破滅的に忘れ、悪魔の婿となる。そして神と被造物と自然と、全人類の敵を、姻戚の親として持つことになる。「なんと立派な仲間であろう。」おまえが用心するように、私は友として忠告する。
注 原刊 socrum は通常「姑」を意味する女性形だが、文脈の敵は悪魔。原文を保持し、訳は「姻戚の親」とした。独語の「立派な仲間」は皮肉。
彼女の家は死へ傾き、その小道は冥府へ向かうからである。
注 欄間出典:Vers. 18.(箴言2:18)
彼女の家は死へ傾き、その小道は死者たちへ導くからである。
「傾いている」。彼女の教説は、この生においても永遠においても、身体、霊、魂の滅びへ導く。しかし「賢者の律法は命の泉であり、死の破局から離れさせる」(箴言13:14)。
彼女のところへ入る者は皆、戻らず、命の小道をつかまない。
注 欄間出典:Vers. 19.(箴言2:19)
注 原刊 reuertētur の横線付きeは省略鼻音を展開し reuertentur とした。
彼女のところへ入る者は皆、戻らず、命の小道をつかむこともない。
「入る者たち」等。教えたり実践したりして彼女を扱い、彼女を喜び、彼女と仲間になり、彼女を抱き、従う者たちである。彼女の混酒器から飲む者は、キルケの杯に酔わされたかのように、突然まじないをかけられ、人間から獣と汚れた豚へ変えられる。「命の小道」。十の小道である。この『円形劇場』第二図にそれらを見よ。再生の十の衣を神的叡智に即してまとい、その小道を歩く者は、神と結ばれる。それらの小道は、小宇宙と大宇宙に昇る知恵の星を先導の光として、東方から来るカバラのマギたちを(第170節のとおり)、命の泉、知恵の大海へ幸いに導く。
注 十の衣・十の小道は著者のカバラ的再生論の術語として保持。Circæ はキルケー。
善い者たちと共に歩め。
つまり、おまえが善い者たちの生を歩み、正しい者たちの小道を守るためである。
注 欄間出典:Vers. 20.(箴言2:20)。原刊は per vitam bonorum と印刷される。viam へ改めない。
おまえが善い道を歩み、正しい者たちの道筋を守るためである。
「善い道を歩むため」。善い道とは、知恵、義、聖化、贖い、真理、命の道である(コリント人への第一の手紙1:30)。「主の道はすべて憐れみと真理である」(詩篇25:10)。善い道とは、謙遜、柔和、堅忍、寡黙、信仰、愛、希望、忍耐の道である。ヨハネ8:31で、受肉した知恵は、自分を信じたユダヤ人たちにいった。「おまえたちが私の言葉にとどまるなら、真に私の弟子となり、真理を知る。そして真理がおまえたちを自由にする。」それゆえ勧めるが、知恵の言葉にとどまれ。この上なく忠実で、欺くことを知らない女教師である知恵の弟子となり、すべての真理を知るためである。カバラの徒、マグス、自然錬金術師よ、自然的な事柄、自然を超えた事柄、神的な事柄において善い道を歩み、真理の教えによって誤りと逸脱から解放されよ。「正しい者たちの道筋」。諸徳と敬虔の模範、とりわけ私たちの救い主キリストの生に倣うことである。それゆえ使徒はいう。「私がキリストに倣うように、おまえたちも私に倣う者となれ」(コリント人への第一の手紙11:1)。祈祷所と作業所では、この道を進むべきである。実にこの道そのものが、この『円形劇場』で一望のもとに、また序説では、唯一真実なる永遠の知恵の奥殿へ私たちを導く七つの段階を通して、おまえに示される。
わが子よ、なぜ異なる女に惑わされ、よその女の胸に抱かれているのか。
注 欄間出典:Prou. 5. Vers. 20.(箴言5:20)
わが子よ、何のためによその女と楽しみ、異なる女の胸を抱くのか。
「なぜ惑わされるのか」等。神的知恵は、花嫁として愛し、抱くべきである。最も賢い王も、彼女を自分の妻に迎えようと決めていた。彼女はまことに喜んで私たちの精神と結婚する。またこの目的のために、受肉した神の知恵は、その受肉によって人類と結婚した。見よ、神の知恵がいかに深くおまえに結びつき、人間の本性から自らの住まいを用意し、そこに神性の充満全体が住むようにしたかを。ああ、なぜおまえは娼婦、すなわち汚れた世俗の知恵の胸に押し入るのか。天上の乙女が、清らかで、貞潔で、汚されず、恵み、賜物、不滅の恩恵に満ちて、すでに長いあいだおまえに恋い焦がれているというのに。だから、この乙女を迎え妻とするためには、神的な愛が必要である。世への愛は、あの娼婦、この上なく醜い情念にふける世俗の愚かな知恵を追い求め、舐めまわす。
人の道はヤハウェの目の前にあり、主はその小道のすべてを量られるからである。
注 欄間出典:Vers. 21.(箴言5:21)
主は人の道を見、その歩みのすべてをよく見ておられる。
「人の道」等。おまえの精神が世俗の物事、名誉、快楽、富を渇望するとき、おまえの道はよこしまであり、最高善から逸れている。「その歩みをよく見られる」。おまえの熱中、計画、策略、罠、狡猾、愚かな欲望が、おまえの歩みである。それらを主はよく見、天使たちは眺め、良心は訴え、見張り、悪魔たちは数える。すべての者の心と腎を探り、精神のあらゆる思いを理解する神は(歴代誌上28:9)、心の邪悪を忌み嫌い、おまえが悔い改めないなら、それを処罰するため、復讐を行う被造物たちに引き渡す。これらは、神が忌み嫌うすべての者に報復を加える。だが、神に見捨てられることこそ最大の惨めさ、いや地獄そのものである。
注 心と腎は聖書的な内面の表現であり、臓器に関する現代的な診断を意味しない。
不敬虔な者を、自分自身の不義が捕らえる。自分の罪の縄によって縛られる。
注 欄間出典:Vers. 22.(箴言5:22)
不敬虔な者を、自分自身の不義が捕らえる。自分の諸々の罪の縄によって締めつけられる。
「不義」。あらゆる不義は、自らに罰と打撃を加える。自分固有の病を生まない悪徳はない。徳そのものが、自分にとって最も美しい報酬であるように、あらゆる悪徳は、自分にとって最悪の報酬である。あらゆる種は、自分固有の実を生むからである。憐れみの実りは憐れみであり、親切の報酬は親切である。逆に、無慈悲の実りは無慈悲と残酷さである。「罪の縄によって締めつけられる」。罪はまことに最大の隷属と捕囚であり、不敬虔な者を、罰から逃れられないほど締めつける。神的知恵は自由人の自由であり、人間の精神を、愚かさの鎖、闇の迷い、悪徳の罠、絶望の網から解放する。
彼は訓戒を持たなかったため死に、自分の多大な愚かさのうちに欺かれる。
注 欄間出典:Vers. 23.(箴言5:23)
彼は教導を聞かなかったため死に、自分の多大な愚かさのために迷う。
「迷う」。神的知恵の光に照らされていない人間の精神は、誤りに満ちている。そのため、その最も小さな行為すら誤りを免れない。神を見れば誤り、自然を見れば妄想し、自分を見れば思い違いをし、隣人を見れば欺かれる。要するに、天の最小の星も、地の小さな草も、誤りなしには見ることができない。その思考がすべて誤りだからである。まさしくこれが愚かさの多大さであり、死と滅びのほか何ももたらせない。人間は光の泉から闇の深淵へ落ちたのであり、神から知恵の霊を得ない限り、そこから決して這い上がれないのである。
心。
だから、あらゆる守りをもっておまえの心を守れ。そこから命が出るからである。
注 欄間出典:Prou. 4. Vers. 23.(箴言4:23)
だから、何を守るにもましておまえの心を守れ。そこから命の流れ出す口があるからである。
「おまえの心」。知恵は心に座を持つ。それゆえ愚かな知恵がこの座を占め、満たしてしまわないよう気をつけよ。あの古い蛇は精神を盲目にし、多くの罠によって自分の毒を注ぎ込む。欲情で心を汚し、高慢で膨らませ、怒りで燃やし、憎しみで荒らす。これらはすべて悪魔の業である。おまえはこの毒から心を守るよう気をつけよ。そして心を保ち、天上の知恵、神への畏れ、心を清める腐敗しない信仰、偽りのない愛、揺るがぬ希望、折れぬ忍耐、この上なく愛すべき謙遜へと開け。おまえの心を、祈りと祈願の作業場、この上なく聖なる呻きの楽器、敬虔の住まいとせよ。
注 charitate は原刊の語形のまま。infractæ はこの列挙では「折れない」の意味として訳した。
口。
口のよこしまさを自分から取り除き、唇の邪悪を遠ざけよ。
注 欄間出典:Vers. 24.(箴言4:24)
邪悪な口を自分から取り除き、中傷する唇を遠く離れさせよ。
「邪悪な口」。言葉と行いにおいて、堅実さと重みを身につけよ。おまえを見守る天使たちは堅実で重みある霊であり、あらゆる軽薄さを憎むからである。彼らは真実を語り、真理を愛する霊である。これに対して背いた霊たちは、嘘つきで、欺き、嘲り、軽薄で、移り気である。彼らが嘘を語るとき、自分自身から語り、自分の宝庫を開く。中傷者である悪魔は、偽りの父だからである。神は真実な方、キリストは真理、聖霊は真理の霊である。神的知恵だけが、真であり、いっそう真であり、この上なく真である。
目。
おまえの目はまっすぐを見よ。まぶたは前方のおまえの道をまっすぐに向けよ。
注 欄間出典:Vers. 25.(箴言4:25)
おまえの目はまっすぐを見よ。まぶたはおまえの歩みに先立て。
「おまえの目」等。おまえの精神の目を、常に絶え間なく、神の憐れみ、正義、知恵、全能、真理、慈しみへと向け、キリストの生の模範に倣うことへと向けよ。このようにして、おまえの生は正しく導かれる。太陽のうちに義の太陽を、星々のうちに選ばれた者たちを、花々のうちに楽園を、人間のうちに自分の惨めさを見よ。父なる神のうちに無限の恵みを、キリストのうちに愛すべき兄弟関係を、聖霊のうちに分かち与えられる愛を、天使たちのうちに栄光への変容を、大宇宙のうちに神の摂理を、小宇宙のうちに神の知恵を見よ。
注 原刊は diripitur(引き裂かれる)と読めるが、文脈上 dirigitur(導かれる)の誤植と考え、訳は「導かれる」とした。
足、または歩み。
おまえの足のために小道をまっすぐにせよ。そうすればおまえの道はすべて確かになる。
注 欄間出典:Vers. 26.(箴言4:26)
おまえの足の小道を量れ。おまえの道のすべてがまっすぐにされるように。
「おまえの足」。足は、正当な召命の務めを意味する。まず、その事を行う正当な召命を持つようにせよ。次に、召命の外で何一つ試みないようにせよ。そうすればこの上なく不幸な結果になるからである。奉仕する霊である天使たちは、私たちの召命のある特定の種類に、神から配属されている。詩人は詩篇91:11で「おまえの道において、彼らはおまえを守る」といっている。したがって召命の道の外では、彼らはおまえを見捨て、おまえは破滅の石に自分の足を打ちつけることになる。
右にも左にも逸れるな。おまえの足を悪から遠ざけよ。
注 欄間出典:Vers. 27.(箴言4:27)
右にも左にも逸れるな。おまえの足を悪から離せ。
「右へ」等。順境に思い上がる者は右へ傾き、逆境に打ちひしがれる者は左へ傾く。約束につられて正道から逸れる者は右へ、脅しによって逸れる者は左へ曲がる。過度に勇み立つな、過度に気落ちするな。中を進めば最も安全である。貪欲であっても浪費家であってもならず、寛大であれ。ただし財を湯水のように流さず、またしがみついて宝を隠しもしないようにせよ。どちらも悪であり、そこから足を離すべきだからである。悪魔と世は右にも左にも罠と網を広げる。贅沢の罠で捕まえられなければ、貪欲の縄と鎖で捕まえようとするのであり、それらによって人間の心は破滅へ沈められる。
おまえが賢いなら、自分のために賢いのである。しかし嘲る者なら、自分一人で罰を償う。
注 欄間出典:Prou. 9. Vers. 12.(箴言9:12)
おまえが賢いなら、自分自身のためにそうなのだから。しかし嘲る者なら、自分一人で災いを負う。
「おまえが賢いなら」等。だから嘲る者たちに従い、自分を害する妄想にふけるより、真の知恵に従い、自分の益のために賢くなる方がよい。自分のために受け取らない者は、空しく賢い。不敬虔は自分自身に復讐する。
注 sapit/capit は「知る・味わう」と「つかむ・得る」の語呂を含む。
総括。
知恵と訓戒を無に等しいとする者は惨めだからである。そのような者たちの希望は空しく、その労苦は実を結ばず、その業は役に立たない。
注 欄間出典:Sap. 3. Vers. 11.(知恵の書3:11)
知恵と訓戒を捨てる者は不幸である。その者たちの希望は空虚であり、労苦は実りなく、その業は役に立たない。
「知恵と訓戒」。知恵と主への畏れを振り払い、吐き出し、足で踏みつけ、見捨てるおまえが、どうして幸福であり得ようか。「彼らの希望は空虚である」。彼らはあらゆる神秘、知り得る秘密をいつも探しているが、真理の終極へ決して至らない。そして自分の思考、意見、労苦の空しさのうちに、きわめて惨めに消え失せる。真の知恵とその始めである主への畏れを捨てるので、神的叡智に即して祈ることも、賢く実りあるように働くこともできない。主に逆らう計略は力を持たないので、この汚れた世の愚かな賢者たちが全員手を組んでも、その感覚、理性、精神にバベル、すなわち混乱が生じる。彼らは退けられた思いに引き渡され、一つのものを他のものと取り違え、あるいは取り違えて作業することによって、誤りから誤りへ落ちていく。
賢者の石を求める者たちよ、このことに留意せよ。この『円形劇場』第四図に賢く記されたものを、カバラ、魔術、錬金術、神的叡智などの仕方で理解し、知り、所有し、実現しようとする者たちよ。まず自分自身を、神的叡智に即して、次のように処理することを学べと私はいう。神が憐れみ、与え、働いてくださることによって、結び目を解かれ、罪の汚れから抽出され、不純物の余分から解放され、溶かされ、分離され、浄められ、結合されるようにせよ。ああ、神の神秘の深淵よ。この神的結合の一点においては、自分で望む者や走る者にかかっているのではなく、憐れむ神にかかっている。エン・ソフ、エン・ソフ。そして神の火の神的な術によって、完成をも超える段階へ昇華され、すなわち高められ、神自身と共に霊と真理のうちに、精神において発酵させられるようにせよ。それを、賢者の石やその他の知恵の宝を、知恵の鉱床から掘り出し始める前に行えと、私はいう。この鉱床こそ、神的叡智の探究者たちの、真の普遍的マグネシアである。さもなければ、真実を語る者を信じてほしいが、おまえたちはエチオピア人と煉瓦を洗うことになる。
注 Lapidem Philm. は Lapidem Philosophorum(哲学者たちの石、賢者の石)の略記。
注 溶解・分離・精製・結合・昇華・発酵の錬金術操作を、霊的再生へ重ねる箇所。その連続をすべて保持した。MAGNESIA は歴史的な普遍的錬金術質料であり、現代の酸化マグネシウムに同定しない。
注 Ensoph はヘブライ語 אין סוף(無限)のラテン文字転写として原刊に現れる。原刊にヘブライ文字はない。
注 「エチオピア人と煉瓦を洗う」は当時の「徒労」を示す諺。原文の歴史的な肌の色に関する表現を隠さず訳し、現代的な価値判断として提示しない。
私たちのこの『円形劇場』が扱うこれらのものは、神の善と賜物であり、かつてそうであり、今後も常にそうであって、ただ神のみに依存する。高く、栄光に満ち、あらゆる正義と善に満ちた神は、望む者に与え、または取り去られる。注意せよ。人間は、白くされるべき煉瓦であり、立っている身体である。神は、それを生かす魂である。聖霊は絆であり、その力によって結合が起こる。聖霊は染め変え、永遠の王国への入口を与える。ああ、大宇宙と小宇宙の再生における、驚くべき調和よ。再生を熱心に求める者だけが、それも神の特別な導きによってのみ、これらの再生を理解するだろう。ほかの者には、これらはボヘミアの森、迷いに満ちた暗い森なのである。
注 tingit は錬金術的な染色・変成を兼ねるため「染め変える」と訳した。人間=身体、神=魂、聖霊=絆という比喩は原刊の構造を保持した。
ここに第三段の図を挿入すること。
注 原刊の組版指示なので本文と区別して保持した。出版者は巻末PDF300の読者への告知で、各段の「図を挿入する」という指示は印刷上の誤りであり、図は欠けていないと訂正している。この行を欠図の証拠とはしない。
第三段の解釈と注解
第三。序説の第三段の解説。
知恵とは何か、どのように生じたかを、私は語ろう。奥義をあなたがたに隠さず、その最初の起源から知恵の認識を探究し、明らかに示し、真理を素通りすることはしない。
知恵とは何か、どのように生じたかを、私は語ろう。神の秘義をあなたがたから隠さず、その誕生の初めから探究し、その知識を光のもとに置き、真理を素通りすることはしない。
「生じたか」すなわち存在するに至ったか。永遠なる知恵が、永遠なる方から、神性の探り尽くせない永遠の胎より、どのように生まれたか、ということである(詩篇110・3)。「神の秘義」すなわち神の奥義。秘義という語の第一の意味である、恩寵を実際に働かせる徴だけでなく、神・自然・人間について、知ることが必要で、美しく有益なすべてのものが、秘義と呼ばれる。真の知恵は三重の三一であり、神学・医学・天文学を含むからである。あるいは『知恵の書』第7・8章のいうとおり、神的奥義の認識、政治的な管理と統治の分別、自然全体の事物の秩序、その原因と作用、天上のものの効力、地上のものの力を含む。これらから、創造主の全能・知恵・憐れみ・真理・正義・審判が驚くほどに輝き出る。
その内には霊があるからである。それは知性的、聖、単一、多様、精妙、活動的、輝かしい、汚れなき、明晰な、害を与えない、善を熱心に求める、鋭敏な、妨げられない、恵みを施す霊である。
知恵の内には理解の霊があるからである。それは聖、唯一、多様、精妙、雄弁、活動的、汚れなく、確かで、優しく、善を愛し、鋭敏であり、何ものも善を行うことを妨げない。
知恵の霊。
「知恵の内には霊がある」など。霊は「唯一に生まれ、多様なるもの」〔ギリシア語〕であり、そのように呼ばれる。唯一の種、あるいは独り生まれたもの、しかも多様なものである。神のあの単純で唯一なる本性から生じ出て、この世界の無数の部分へ、いわば枝々を通して広がるからである。この神の霊に多様性が帰せられるのは、霊がその内で活動する事物へ注ぎ込まれた効力と力の多様さのためでもある。第223句、および本『円形劇場』第三図の問い4・6を見よ。アウグスティヌスは正しく「多の内の一は神に喜ばれる」と述べた。そして私は「一の内の多も」と付け加える。「精妙」薄く軽やかで、身体的な重さや厚みに圧迫されず、軽快で妨げられない。それゆえ「よく動く」〔ギリシア語〕、すなわち最大の速さを備えて活動する。「輝かしい」光沢があり、明るい(第137・138句)。「汚れなき」汚染されず、純粋で、あらゆる染みや汚点がない。本性によって明るく輝かしいので、その輝きも純粋である。「神は光であり、神の内には少しも闇がない」(ヨハネ第一書1・5)のとおりである。「妨げられない」妨げられることを知らず、あるいは妨げられ得ない。その力で万物を貫き、障害を打ち破るからである。
人間を愛し、揺るぎなく、確かで、不安なく、すべてを見抜き、知性ある、清い、きわめて精妙なすべての霊を貫き通る霊である。
人間を愛し、慈しみ深く、揺るぎなく、確かで、不安なく、あらゆる力を備え、すべてを見通し、あらゆる霊を捉える、知的で、清く、精妙な霊である。
「確かで、不安なく」安全で、思い煩いがなく、安らかで静穏である。「あらゆる力を備え」何でもできる、すなわち全能を備える。全能なる神の霊だからである。神でなければ全能ではあり得ない。
知恵がその敏捷さで凌がない運動は一つもないからである。知恵はその純粋さのゆえに、万物に行き渡り、それらを貫き通る。
知恵は、動くすべてのものにましてよく動くからである。またその清さによって、至るところに達する。
「運動は一つもない」など。知恵はあらゆる運動にましてよく動く。すなわち自らの運動の速さによって、すべての運動を凌ぎ、その純粋さと精妙さのため万物を貫き進む。子よ、賢者たちが永久運動について哲学したとき、何を意図したかを、ここで熟考せよ。この運動は、ヘルメスの言葉を借りれば、「あらゆる強さに勝る強い力」である。ここで引用するのは、祝福された緑の豊饒さ、すなわち哲学者たちのウェヌスにちなみ『エメラルド板』と呼ばれる板であり、この主題を論じるために書かれたものである。「なぜなら、それはあらゆる精妙なものに勝ち、あらゆる堅固なものを貫くからである」。それは万物に魂を与え、生かし、賢明に動かし、力強く保つ。古人すべてと正統の教父たちは、まことに正しく敬虔に、自然を「神の声」〔ギリシア語〕と断言した。この自然を、抽象的にも具体的にも、普遍的にも個別的にも、神的叡智に即して知ったなら、真実をいう私を信じよ、あなたは賢者たちの永久運動を知っている。第154・178句、および本『円形劇場』第三図の賢者の石の定義と解説を参照せよ。そこで学び、神が神的叡智に即してともに働き、あなたに真理を吹き込み示してくださるよう祈ることを忘れるな。私は君主たちの宮廷で、木や鋼などによる永久運動を機械的に探す者を多く知っている。ああ、それはむなしい。彼らが、本書の第二・第三図に示されるように、聖書・自然・自分自身を、神的叡智、自然学、自然医学などに即して探究したなら、賢者たちの両世界において、永久であるばかりか、永遠で神的かつ自然的な運動を実際に見いだしたであろう。この普遍的なもの、唯一真なるものを、惑わす霊に妨げられた空しい群衆は理解しない。盲人が盲人を導くから、彼らの労苦は空しい。詭弁家たちの示すのは、動かされねばならない運動であり、自ら動かす運動ではない。
それは神の力の息吹であり、全能者の栄光から流れ出る純粋なものだからである。それゆえ汚れたものは何一つその中に入らない。
知恵は神の力の息吹であり、全能者の輝きから出る純粋な流出だからである。それゆえ汚れたものは何一つ知恵の中に入り込まない。
知恵とは何か。
「息吹」霊、ヘブライ人のいうルーアハである。「神の力の」本質において神的であり、「すべてのものの内のすべて」である(第303句)。エン・ソフよ、エン・ソフよ。深いものよ、深いものよ。私は口を閉ざす。ただし、次のことは黙っていない。受肉したこの知恵と、賢者の石が何であり、どのようで、どれほどのものであるかとを、予型的に比較せよ。また逆にも比較せよ。大世界の保全者と小世界の救済者とのこの驚くべき調和の内に、「宇宙へ流出する神の力の息吹」という驚嘆すべき奥義を見いだすであろう。これについては、汚れた世界へ真珠を投げて踏みにじらせるより、沈黙するほうがよい。両者は卓越した意味で〔ギリシア語〕そのように名づけられる。パウロのコロサイ書1・20からも知るとおり、神は子、すなわち神人〔ギリシア語〕を通し、その十字架の血によって、地にあるものも天にあるものもすべて和解させ、平和にする。聖なる十字架とは、本『円形劇場』第一図にある、十字架につけられたキリスト自身であり、十字の形で悪魔の王国に勝つものだからである。古いマギたちのこのしるしにおいて、私たちも神的叡智によって勝つであろう。またエフェソ書1・10には、「天にあるものも地にあるものも、すべてを新たにする」とある。これは天使・太陽・月・星々・空気だけでなく、地上の獣・木々・草・地そのもの・海・川・泉・水中に生きるものもいう。人間のゆえに地は呪われたからである(創世記3・17)。それゆえ被造物も解放を求めて呻き、今に至るまで私たちとともに産みの苦しみをしている(ローマ書8・22)。それ自身の声で、「私たちを悪から救いたまえ」と叫んでいるのである。キリストの血が実際に地へ流されたのも、奥義なしではない。同じように経験から、大世界の普遍的な子、すなわち神的世界〔ギリシア語〕も、驚くべき仕方でその力を広げ、人類に働くことが明らかである。
注 θεόκοσμον は当該活字の読みに従う。聖書引用と錬金術的解釈は著者自身の論法として訳出。
今日、あまりキリスト教的とはいえない論争をする一部の神学者たちも、いっそう古い族長・カバリスト・マギ、すなわち賢者たちを見倣い、このことに労を費やせばよいのに。普遍的な自然の書において、実在する予型によってメシアを読み、見、触れ、認識することを学ぶのである。そうして自然の光にも導かれ、知恵の霊の手に引かれるなら、多弁な論争によるよりはるかに真実に、神・キリストの位格と職務・キリスト教のすべての信仰箇条についての教えを認識し理解するであろう。自然の書は聖書を説明し、その逆もまたそうだからである。それゆえ、知恵の最古の塩、自然の普遍的なヴィトリオルを知ることを学べ。それはただ知恵の鉱床の内だけに、普遍的に見いだされる。そうすれば、万物の内の万物を神的叡智に即して知るであろう。世間の見方では、この鉱床ほど恥ずべき、蔑まれ、辱められるものはほとんどないとしても、世界が不当に蔑むものを、神的叡智を愛する者は、ふさわしく讃える。第157・162・187句と本書全体の各所を見よ。ヤハウェよ、私が内にはおびえず、外には偽の神的叡智を説く者たちの雷を恐れないよう、お与えください。アーメン。あなたは、私が真理に渇くことをご存じです。
「流出」カバリストたちは聖なる源泉に基づき、神の流出を十と数え、これをセフィルート、または今日多くのヘブライ人が発音するようにスフィルスと呼ぶ。これは「数え上げ」または「流出」の意味であり、そのうち知恵を第二に数える。これらについては本『円形劇場』第一部と、カバリストたちの著作の各所を参照せよ。第174句を見よ。神から流出するものは、確かに神的である。知恵は神の流出であるから、神的で永遠である。神の流出は神性の火花であり光線である。「私は神から出た」(ヨハネ8・42)、「あなたが私を遣わした」、「私は父から出た」(同17・8)という表現に注目すべきである。この流出の箇所によって、第167句の真の哲学の定義が確証される。「全能者の輝きの」など。このため、受肉した知恵はヨハネ17・4でいう。「父よ、私は地上であなたの栄光を現し、私に行わせようと与えられた業を成し遂げました。今や父よ、世界が存在する以前にあなたのもとで私が持っていた栄光をもって、あなたご自身のもとで私に栄光をお与えください」。少し後には「私はあなたから出た」、すなわち流出した、とある。カプニオン『驚異をなす言葉について』第二巻第17章を見よ。「汚れたものは何一つ」賢くなるため、前の文と後の文、序説と本書の図、さらにその逆を、知恵をもって比較することを学べ。この基礎からも、自然学的・化学的な普遍的賢者の石が、なぜ悪魔の諸力に抵抗し、それに劣らず優れた無数のことを驚異的に行うかが分かるであろう。本書第四図を見よ。
それは実に永遠の光の輝きであり、神の力を映す、いかなる汚れも付かない鏡、神の善性の像である。
それは実に永遠の光の輝きであり、神の威光を映す汚れなき鏡、神の善性の像である。
「永遠の光の輝き」神的で永遠の光は、永遠の昔から、確かに輝きなしにはなかった。したがって、ここで論じる知恵は永遠であろう。これが、闇の中に輝き、闇が捉えなかったあの光である(ヨハネ1・5)。
「汚れなき鏡」など。この鏡と、大宇宙・小宇宙における、個別的であり普遍的でもある、そのもっとも秘された実在的予型について、ハルポクラテスのように沈黙して熟考せよ(第222句)。たとえ望んでも、汚れた世界のため、すべてを語ることは許されない。それゆえ、この奥義は心の奥深くに蔵しておけ。ウリムとトンミムが何であったか(出エジプト記28・30)、キリスト教的カバラ、神的魔術、自然学的化学によって探究せよ。奥義を明かす天の神(ダニエル2・28)は、望む者にそれを与えることができる。「神の善性の像」キリスト教的カバリストは、この像を神的叡智に即して用いる。悪しき魔術師たちの像は遠ざけよ。「神はかつて預言者たちを通して、幾度も、さまざまな仕方で父祖に語ったが、この終わりの日には子において私たちに語った。神はこの子を万物の相続者と定め、またこの子によって世界を造った。子は神の栄光の輝き、神の実体〔ギリシア語ヒュポスタシス、存立〕の像〔カラクテール〕であり、その力の言葉によって万物を支え(第154句)、罪の清めを成し遂げ、高き所で神の威光の右に座す。天使たちより優れた名を相続しただけ、それだけ天使たちより優れたものとなった」(ヘブライ1・1以下)。この方は神の像である(コリント第二書4・4)。
また、それ自身、太陽より美しく、星々のあらゆる配置の上に置かれ、光と比べてもそれより優れている。
また、この知恵は太陽より美しく、星々のあらゆる配列にまさり、光と比べてもそれより優れている。
「太陽より美しい」当然である。それは永遠の義の太陽(マラキ4・2)であり、万物の上に輝き、高き所から私たちを訪れる曙(ルカ1・78)だからである。それゆえソロモンはシール・ハシリーム、すなわち『雅歌』6・9でいう。「昇る暁のように進み出る、この女は誰か。月のように美しく、太陽のように選ばれ、整列した陣営の軍勢のように畏るべき者は」。「光と比べても」など。光については第261句を見よ。
光の後には夜が来るが、悪は知恵に打ち勝つことがない。
光の後には夜が続くが、悪は知恵に打ち勝つことがない。
「その後には」など。これは太陽、すなわち大空にあって昼を司る大きい光を指す(創世記1・16)。「悪は打ち勝たない」この知恵は、堅固で、定まり、揺るがない真理の岩であったし、今もそうであり、これからもそうである。これに対して地獄の門は勝ったことがなく、今後も決して勝つことがない。その腹から生ける水の川が流れ出るであろう(ヨハネ7・38)。その実在する予型が、自然の大きな書における賢者の石である。しるしを示すものと示されるものとを正しく知る人は幸いである。イエス・キリストの位格・受難・復活、賢者の石の質料・調製・栄光化された身体における完全以上の完成、そして神の像と似姿に造られたあなたの、身体・霊・魂に即した再生は、普遍的な調和によって多くの秘密をあなたに明らかにする。聖書と自然の書との調和に注意せよ。一方の書から他方の書を、知恵をもって読み理解することを学べ。自然と自分自身において聖書を読み、聖書と自分自身において自然を読み、聖書と自然において自分を読め。そうすれば賢くなるであろう。あなたは、聖書と自然においてヤハウェとその遣わしたイエス・キリストを見いだす。普遍的には賢者の石において、個別的には造られた全宇宙において一つ一つの被造物を通して、また自分自身においては両方の仕方で見いだす。自然を普遍的には、書かれた言葉と受肉した言葉から、またその内に見いだし、自然自身から、またその内に、賢者の石とあなた自身の内に見いだす。個別的には聖書と両世界の部分に見いだす。自分自身を、自分自身から、その内に、自然と被造物から、その内に、さらにキリストと書かれた言葉における神から、その内に見いだす。前に述べたとおり普遍的にも個別的にも、本『円形劇場』の法則と教えに従い、神的叡智、自然学、自然医学、自然学的化学、自然魔術、超自然魔術、カバラによって、神的な流入・光・運動を通して行うのである。これこそ、普遍的に、予型的に、万物の内に、また万物へ向かう万物である。ここに知恵がある。
知恵は一方の極みから他方の極みまで力強く及び、万物を有益に統べる。
それゆえ知恵は、一方の果てから他方の果てまで力強く達し、万物を穏やかに整える。
引き続き知恵を讃える。
「一つの果てから達する」など。全世界の機構を統治する、かの知恵の霊は、天に包まれたすべてを占め、貫き、満たす。それは唯一で単純だが、無数で、把握しきれず、言い表し得ない特性・贈り物・理念・知識・効力・事物の種子的原理・霊的で生き生きした力を備えている。それらは驚くほど区別され、人間の精神は、その多様さを十分に讃え、理解することができない。これらの霊は、万物の生成と消滅、その種に固有の効力を生む者であり起源である。自然全体の認識はこれらにかかっている。こうしてこの知恵の霊は、万物の内、また万物に対して、すべてであり、すべてをなし得る。「すべてを整える」普遍的な永久運動だからである。私はわずかを語り、しかし確かに、より多くを喜んで賢者の熟考に残す。ヤハウェがあなたの助言者となるよう祈れ。そのとき初めて理解するであろう。私が望むのは知恵の子、すなわち注意深く、神的照明の太陽の光線に刺激され、心のへりくだった柔和な者であって、生意気に早熟な、また高慢な物知り、すなわち詭弁家ではない。
知恵はきわめて輝かしく、決して衰えることがない。
知恵はまた輝かしく、決して衰えることがない。
「明るい」まことに、きわめて明るい。全能なる神の輝きからの純粋な流出、永遠の光の輝きであり、知性的世界、大世界、小世界を照らすからである。また万物の上に輝く太陽でもある(第78・137句)。「知恵は決して衰えない」その理由は永遠だからである。永遠なるものだけが、永遠に腐敗を被らない。注意せよ。決して衰えないものは永遠である。知恵はそのようなものである。それゆえ永遠であり、したがって神である(第156句)。
神とともに生きるということが、その高貴さを輝かせる。そして万物の主は知恵を愛された。
神とともに住むことが、その高貴さに栄光を添える。万物の主も知恵を愛された。
「その高貴な生まれを栄えあるものにする」など。永遠なる知恵が永遠なる神と永遠にともに暮らすことが、その高貴な生まれをすばらしく輝かせる。神から生まれたものが、どうして神と親しく暮らさないことがあろうか。したがって知恵と親しい者たちも、それぞれにふさわしい仕方で、そうではないか。受肉した知恵はいう。「私は私の父、あなたがたの父、私の神、あなたがたの神のもとへ上る」(ヨハネ20・17)。「私のいる所に、あなたがたもいるためである」(同14・3)。このため彼らは神の友となり、預言者に立てられる。神は友から友へ語るように、間接にあるいは直接に、彼らに自らの秘密を明かし、尽きることのない知恵の宝庫から、無数の善いものと賜物を吹き込み、分け与える。それゆえ神の像と似姿に人として造られたあなたは、創造主を見倣い、神の知恵をも愛せよ。こうして神的叡智によって造り直され、この点で原型に一致して生き、永遠の命に至るためである。「万物の主はこれを愛した」受肉した知恵もいう。「父よ、あなたは世界が据えられる前から私を愛された」(ヨハネ17・24)。また同章26節には、「あなたが私を愛されたその愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるため」とある。
知恵は自分を熱心に求める者たちに先んじ、自分を知ってもらおうと姿を現す。
知恵は自分を慕う者たちに先んじ、自分のほうからまず姿を現す。
知恵は、それを求める者に自らを差し出す。
「先回りする」など。自らを切望する者たちに先んじ、先に知られるため、自らを彼らに示し、進んで差し出す。それほどに人の子らとともにあることを喜ぶのである(第145・157句)。賢者がここで使うギリシア語プタネインとは、ある事柄で先手を取ることをいう。相互の愛や恩恵におけると同じように、知恵を認識しようとする営みにおいても、知恵は彼らに先立って自らを差し出す。誰にか。それを切望し、それを愛する者たちに(第18句)。願い求め、呼びかける者たちにである(第142・223句)。
知恵自身が、自分にふさわしい者を巡り歩いて探し、道々で好意をもって彼らに姿を見せ、そのあらゆる思いのうちに彼らを迎えるからである。
知恵自身が、自分にふさわしい者を探して巡り歩き、道々で彼らに喜ばしく姿を見せ、そのあらゆる思慮のうちに彼らを迎えるからである。
「自分にふさわしい者」など。真に、すなわち心を尽くし(第251句)、魂を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、聖書、大宇宙、小宇宙に即して知恵を愛し、求め、聞き、見、観察し、昼も夜も神の律法を神的叡智によって黙想する者たちである。しばしば汚れた世界の前で嘲笑されながら、そうする。正しい者の素朴さは嘲られるからである(ヨブ12・4)。しかし、真の知恵を悪意をもって蔑む世界は災いである。逆に知恵から蔑まれ、しかも永遠の損失を被るであろう(第198句)。最後まで堪える者は冠を受ける。絶えざる黙想によって、私たちの精神は天上の事柄において鍛えられ、確立され、不動となるからである。信じてほしい、それは一日の労ではない。善いもの、霊的なもの、神的なものを受け入れられるようになりたいなら、悪から善へ、身体的なものから霊的なものへ、感覚的なものから精神的なものへ、地上のものから神的なものへと、一歩ずつ移らねばならない。上昇には段階がある(第218句)。
注 PDF134のノンブルは42(配列上は62相当)。原刊の誤植を保持。
「自ら巡り歩く」など。すなわち世界中のどこでも、あらゆる時と場所において、真の知恵を本当に心にかける者がいないか、くまなく探す。自分を愛する忠実で愛しい者たちへの気遣いと好意を、行為によって、すなわち無限の宝をその人に分け与えることによって、示し明らかにするためである(第142・144・160句)。あなたが知恵を探せば、逆に知恵から探され、磁力のように引き寄せられる。あなたは見いだし、また見いだされるであろう。「人が知恵に向かって振る舞い、身を処するように、知恵もまたその人に報いる」〔ドイツ語〕。「道で」その道とは何か。聖書、自然、そして悔い改めによってキリスト教的に清められた私たちの精神の書にほかならない(第61句)。これらの知恵の道を知恵をもって歩み、神的叡智によって祈り、知恵をもって働くなら、神的な知恵は驚くほど、驚嘆すべき仕方で私たちに自らを示す(第48句)。
注 PDF134のノンブルは42(配列上は62相当)。原刊の誤植を保持。
「あらゆる思考の内で」など。知恵は、彼らの見解、判断、精神の内で、好意をもって思い描かれ、把握され、形を与えられる。ここで読まれるギリシア語ファンタゼスタイとは、想像し、思考と精神によって何かに形を与えることだからである。こうして知恵は、自らを親しく彼らに示し分け与えるように、その精神と思考の内で働くという。神が現れる相手、神が自らを見せる相手、神の知恵が姿を示す相手である人は、神を見る。それは、聖書、自然、そして神的叡智によって洗われ清められた精神の鏡において、並々ならぬ仕方で起こる(第336句)。人の内に働く神的な力は大きく、十分には評価し尽くせない。理性に優れた人は、神の意志と命令によって被造物を支配し、必要に応じて目の前のものを使うだけでなく、遠いものや隠されたものへも行き渡り、神の導きによって、その霊性と才知を用い、享受する。経験に富み教え導く時代がいったい何を生み出さないことがあろうか、これはまことに驚くべきことである。いや、あの理性とロゴスが、この死すべき小虫の内に何を蔵さないことがあろうか。この小虫には、永遠のすべて、世界機構全体の広さ、高さ、深さを知ることが与えられた。造られたものを知って創造主を見つめ、理性的精神の力ある原理という、この形而上学的な頂を聞き、理解するためである。自己のこの全体を理性で捉え、精神で敬い、感覚する力をもってまさにそれを息づかせ、その存在のすべてをそれに属させよ。そして最後には、鋭い人間的哲学を後にして、父に似ることを努めよ。神が造ったものはすべて、非常によかったからである。知恵を愛する者はみな、「神がお与えになりますように。アーメン」といえ。
注 PDF134のノンブルは42(配列上は62相当)。原刊の誤植を保持。
私はこの知恵を愛し、若いときから求め、自分の花嫁として結ばれようと努めた。そしてその美しさへの愛に心を奪われた。
注 PDF134のノンブルは42(配列上は62相当)。原刊の誤植を保持。
私はこの知恵を愛し、若いときから求めた。これを自分の花嫁として迎えようと努め、その美しさを恋い慕う者となった。
注 PDF134のノンブルは42(配列上は62相当)。原刊の誤植を保持。
「私はこれを愛した」当然である。後にいうように、主ご自身が知恵を愛するからである。兄弟よ、あなたもこれを愛するよう、私は勧める。悪魔の実の娘である降霊術、悪しき魔術、詭弁術を愛してはならない(第118句)。私も、賢者の命令(第106句)と知恵自身の招きに従って、知恵を愛する。知恵もまた私を愛し、私が決してその愛から離れないよう、ヤハウェよ、恵みをもってお与えください。アーメン。ああ、汚れた世界の知らない、神的な愛の驚くべき術よ。知恵の媚薬の杯を味わう者は幸い、それに酔う者はこの上なく幸いである。「私はこれを探し求めた」など。朝早く、人生の早いうちから、幼い年頃から、知恵とそれを学ぶことへの愛が私の心に燃え上がった青年期から、ということである。だが、どのように求めたか。本『円形劇場』の法則と教えに従い、神的叡智によってである。神的叡智の愛好者の忠実な助言に従え。断食しつつ敬虔に祈り、黙想し、独語を実践し、聞き、見、観察せよ。そして知恵をもって働き、知恵の約束を信じよ。神は信頼する者を見捨てることを知らない。このように主を探し求める者は、万物に気づき、理解する(箴言28・5)。第9・96・170句を見よ。
注 PDF134のノンブルは42(配列上は62相当)。原刊の誤植を保持。
「私の花嫁として迎える」花婿と花嫁が、この上なく固い結びつきで結ばれるように、私も永遠の知恵と、とこしえに結ばれたい。神がそうしてくださいますように。知恵は私の小さな鳩、私の美しい者、私の麗しい者である。どうか、神秘の側女シュネムのアビシャグよ、私の懐に横たわり始めておくれ。聖なる熱で私の精神を温め、お前の抱擁で冷えた手足を温めておくれ。愛しい魂よ、愛しい心よ。「私はその姿を愛する者となった」私はその姿を愛した。私の友はすべてにおいて美しいからである(第320句)。神に照らされたプラトンに従って異教徒キケロが知恵について正しく書いたとおり、知恵が肉眼に見えたなら、すべての人に驚くべき愛を呼び起こしたであろう。神的叡智を愛する私たちもそうすべきように、精神の眼で知恵を見たソロモンに、それがいかなる、どれほどの愛を呼び起こしたかは、この箇所から十分明らかである。神的知恵は、美を競う万物の形相を包む。父なる神の美を、いったい誰が十分に思い描けるだろう。人の子らにまさって姿麗しい、かの方を、誰が十分に驚嘆できよう。万物を生かす聖霊の喜ばしい小さな炎を、誰が十分に愛せよう。知恵の美は、天使の内では燦然たる輝き、星の内では閃光、天では光輝、空気では光、地では緑、水では澄明、花では色、動物では均整、人間では優美と姿、魂では理性、信じる者の内では信仰である。最も愚かな者でなければ、誰がこれを自分の花嫁に選ばずにいられよう。誰がこの美に魅了されずにいられよう。どこへ向こうとも、天上のものを観想しようとも地上のものを観想しようとも、知恵はあなたに顔を示す。しかし事物の内なる美と形相を見つめること、これこそ知恵の寝室、この花嫁のもっとも親密な口づけである。それゆえ私の姉妹よ、美しい者よ、私に開いておくれ。お前の真の顔を見せておくれ。事物の外なる形と美だけでなく、その内なる、もっとも奥深い美を見せておくれ。心を私に開かなければ、お前は私を愛していないのだから。
私は欺きなくこれを受け取り、惜しみなく分かち合う。その富を隠すこともない。
これらを偽りなく学び、妬みなく分け与え、その誉れを隠さない。
注 注解本文の読みに従い Hæc と転写。序説の Hanc と異なる。
列王記下13章〔原刊の参照表記〕。
注 欄外には「2.Reg.13.」と印刷。アビシャグの記事の参照としては整合しないが、補正しない。
「偽りなく学んだ」期待を裏切られずに、あるいは誤りなく、ということである。賢者は知恵について抱いていた期待を裏切られなかった。その教えが真実であり、有益で、実り多いことを経験したからである。「妬みなく分け与える」第207句を見よ。
今や知恵は、自分自身について、次のように語る。
ヤハウェは、その道の始めに、古来の御業より前に、私を所有された。
主は、その道の始めに、初めから何かを造られるよりも前に、私を所有された。
知恵の書9・9。
「主は私を所有した」すなわち、私を得た、または生んだ。「得る」を意味するカナーという語は、創世記4・1の「私はヤハウェから男を得た」において、「所有する」または「生む」の意味に置かれる。真理に反して「私を造った」と読む者もいる。「その道の初めに」道、すなわち主の存在は、永遠なる方の、永遠の昔から永遠のものである。したがって神の知恵も永遠である。始まりとは永遠そのものである。中傷する者よ、神の道の始まりを私にいってみよ。そうすれば、神の知恵の始まりをあなたにいおう。したがって、文脈全体から明らかなように、知恵は被造物ではなく、あらゆる被造物の創造者である。
私は永遠の昔から、初めから、地よりも前に、首位を占めていた。
私は永遠の昔から、古く地が造られる以前から、定め置かれていた。
シラ書24・14。
「永遠の昔から」神の知恵の永遠性を悪意をもって否定する悪魔よ、立ち去れ。ヤハウェがお前を叱責されるように。「私は首位を持った」世界が造られる前に、神と等しい権能を持った。ここで読まれるナサクは、ヘブライ語で「支配する」を意味するからである。『知恵の書』11・18以下を見よ。
深い淵がまだなく、水にあふれる泉もまだなかったとき、私は形造られた。
深淵がまだ存在しないとき、私はすでに宿されていた。水の泉もまだ湧き出てはいなかった。
「私はすでに懐胎されていた」誰によってか。ただ神によってである。神のほかには、何もなかったからである。どこにか。探り尽くせない神性の胎、あるいは懐の内に。「胎から、明けの明星より前に、私はお前を生んだ」(詩篇110・3)。土なる者よ、あまりに高いことを知ろうとするな。歩みを止めよ。問いただすお前を、威光が押し潰すことのないように。
山々が基を据えられるより前、丘々より前に、私は形造られた。
山々が重い塊として据えられるよりも前、丘々よりも前に、私は生み出されていた。
「山々が重い」など。逐語的には、水に沈められ、地に固定され、あるいは置かれる前、ということである。「私は産み出されていた」神的な懐胎によって懐胎されたように、出産によって産み出され、生まれた。私たちには把握し得ず、したがって語り尽くせない仕方で、神から生まれたのである。愚かに問いただす者には、エン・ソフ、無限、深淵、夜である。聖書の単純な真理を賢く信じる忠実な者には、光、太陽である。技芸を記す者や職人たちは、それぞれの技芸に熟達した者を信じる。ピタゴラス派は「師自らがいった」〔ギリシア語〕に安んじ、メッカブリーム、すなわちカバリストたちは「エモル・ハハミーム」、賢者たちがいった、という言葉に安んじた。キリスト教徒と名乗るあなたは、キリスト教徒の「信ぜよ」〔ギリシア語〕に従え。誰をか。あなたが信を置く、その方をである。神によって懐胎され、生まれたものは、正当に神の子であり、そう呼ばれるにふさわしいのではないか。どうしてそうでないことがあろう。
神はまだ地も、広々とした野も、世界の塵の最初のものも造ってはいなかった。
神はまだ地も、川々も、世界の地の枢も造ってはいなかった。
「そして広場を」また、外にあるものを、ということである。これは水の外に姿を現す、居住可能な地の部分を意味する。それをすぐ後で、世界の塵の頂、あるいは頭と呼んでいる。いわば、まだ地の面を覆いから出さず、まだ居住できるものにしていなかった、というのである。
神が天を備えられたとき、私はそこにいた。深淵の表面に円を描かれたときにも。
神が天を備えられたとき、私はそこにいた。確かな法則と円周によって深淵を囲まれたときにも。
「確かな法則によって」など。地の中心、すなわちその中でもっとも純粋なものを配し、深淵、すなわち水と土を球形あるいは円形にまとめ、世界の下方の球を構成したとき、創造主エロヒムは、それに確かな法則を植え付け、定めた。その意志なしに、その法則を越えることは、敢えてできず、実際にもできない。これはヤハウェの広大な知恵と無限の忍耐を示す、きわめて明白な証である。注意せよ。「もっとも純粋な土は土の中心に見いだされる」という表現は、両種の哲学者に用いられる。すなわち、目が曇り足を引きずる者たちにも、見える者たち、王の道を歩む者たち、真の知恵の教えの子らにも用いられる。しかし自然学的な土の中心がどこにあるかを、あの哀れな片目の者たちは知らない。彼らの空想など退けよ。実地に学びたいか。教えよう。ウルカヌスのもとへ行け。彼は、ネプトゥヌスのきわめて澄んだ手を産婆として、いかなる地的な身体からも、そのもっとも白い中心を自然学的化学によって現し、あなたのすべての感覚に示すであろう。あなたはそれを見、触れ、味わい、聞き、嗅ぐであろう。それ以上を望むのか。哲学者は私を理解するが、詭弁家は理解しない。私がいったこれは重大である。本書第三図を見よ。
上方の天を固め、深淵の泉を、泉を強められたときにも。
上方の天空を固め、水の泉を釣り合わせて配置されたときにも。
「上方にアイテールを堅くした」創造されたアイテール的霊、すなわち天を堅くし(創世記1・1)、その言葉によって固めて、大空をそのように据えたとき、ということである(同1・6)。天が何であるかについては、本書第三部の問い5と第261句を参照せよ。それゆえ、一部の物知りたちの空論は消え去れ。彼らは、世界機構全体の自然は、今の時代には先祖や父たちの時代ほど活発で、健やかで、無傷で、強健ではなく、天は落下して8000マイルも下がり、太陽・月・星々は以前の光を多く失い、草・花・果実などや、地上・水中・空中の動物は、百年または千年前ほどの効力・有効性・作用を持たない、と物語る。それどころか、自然全体は今なお日に日に老いて弱まり、私たちの罪のために力を失うという。真実ならば大変な言葉である。諸君、自然の本性、すなわち自然とは何か、その存在とは何か、その法則が何であり、どれほどで、どのようなもので、誰が何の用途のため被造物に与えたかを理解していたなら、別の話し方をしたであろう。天について、どうか答えよ。円形に堅く据えられた円周が中心へ落下するのを、一度でも見たか。「主の言葉によって天は堅くされ、その口の霊によって天のすべての力が堅くされた」(詩篇33・6)と読まないのか。また「大空があれ。神は大空を天と名づけた」(創世記1・8)とある。落下したのなら、何という大空であろう。さぞ見事なものであろう。これが主の言葉による、かくもすばらしい天の堅固さなのか。ああ、物知りたちよ。さらに神はいった。「天の大空に光るものがあり、昼と夜を分け、しるし・季節・日・年となり、光を放って地を照らせ」。そのようになり、神は二つの大きな光、昼を司る大きな光、夜を司る小さな光、さらに星々を造った(同14節以下)。これらはヤハウェの口の霊によって堅くされた、天の力ではないか。太陽・月・星々が、今も千年前と同じくよく昼夜を分け、しるし・季節・日・年となり、光を放って地を照らし、昼夜を司ることを、正気の誰が否定しよう。事実そのものが語るところに、さらに長い証明が何のために必要か。
注 PDF138と140は同じ印刷頁66の重複撮影。欠損の少ない138で本文を校合し、一度だけ訳出。
神の声は、「地は緑の草、種を結ぶ草、その種類に従って実を結び、地上で自らの内に種を持つ果樹を芽生えさせよ」、「水は生ける魂を持つ這うものと、地上の天の大空の下を飛ぶものを生み出せ」、「地は種類に従って生ける魂、家畜、這うもの、地の獣を生み出せ」といった。創世記第1章のこの神の声は成就した、と私はいう。生み出されたものは、「生めよ、増えよ」という神の祝福によって生かされ、強められ、世界の初めから増え、殖えてきた。今日も増え、殖えている。一度限り永続するものとして神に植え付けられた法則の力により、全世界が火によって更新されるまで、増え、殖えるであろう。「主の言葉は永遠に存続する」(イザヤ40・8)。またヤハウェはいう。「私の口から出る私の言葉も、そのようになる。空しく私に戻らず、私が望むすべてを行い、遣わされた務めを成し遂げる」(同55・11)。「したがって、今日も草は千年前とまったく同じによく育つ」〔ドイツ語〕。どうか答えよ、次の言葉は何を意味するのか。「天は私の座、地は私の足台」(イザヤ66・1、マタイ5・35、使徒行伝7・49)。「万物はユピテルに満ちている」。ヤハウェがあなたの助言者となるよう祈れ。良き友よ、あなたの持ち出すパウロのローマ書8・22は、あなたの助けにはならない。そこには被造物の呻きが述べられるだけで、自然の衰弱は述べられていない。ああ、万物を芽生えさせる祝福された緑よ。本書第一・第二・第三図の緑を観想せよ。神的叡智を求める者よ、あなたはルーアハ・エロヒムを見いだす。カバリストよ、宇宙を巡る緑の線を。マグスよ、自然を。自然学的化学者よ、緑の獅子、緑のドゥエネク、アドロプ、第五精髄を。これで十分である。ハルポクラテスが呼び戻し、退却を命じるのに、天の沈黙の封印を急いで破る者があろうか。あなたがたの数学的観測や証明に答えるため、一つだけ特別なことを付け加えよう。地球は、その生き生きした中心と永久運動の生長力によって大きくなり、成長して天に近づいた可能性がある。天が落ちて地に近づいたのではない。しかし今はこれで十分。この教えは、よりふさわしい場所に取っておく。
注 印刷頁66–67はPDF138–141に重複する。PDF139の左側は紙片で部分的に隠れるため141で補った。
海にその定めを、水にはその岸を越えないように定めを置き、地の基を描かれたときにも。
海をその境界で囲み、水がその限界を越えないように法を定め、地の基を量って据えられたときにも。
「海に境界を」海が自らの定められた境界の内にとどまり、その内で戯れ、満ち、引く理由は、唯一の神の定めである。詩篇104・9とヨブ26・10もこれを確証する。主はこれを、私たちに対するその力と善意の、永続する驚異的な証として示す。そうでなければ、水はたちまち再び地全体を覆ったであろう。それゆえ感謝の心で喜び、叫ぼう。「私たちが呑み込まれなかったのは、全能なる神の憐れみによる」と。
私は養い育てられる子のように神のもとにいて、日ごとに喜びのうちにあり、いつも神の前で遊ぶ。
私は神のかたわらにいて、すべてを組み立てていた。日ごとに喜び、いつも神の前で遊んでいた。
「私はあった」エヘイェ。注意せよ。出エジプト記3・14で、神はモーセに「エヘイェ・エセル・エヘイェ」、私は、私があるであろう者であるであろう、といった。さらに、「イスラエルの子らにこういえ。エヘイェ、私はあるであろう、という方が私をあなたがたに遣わした」といった。七十人訳とウルガータは、これを未来形ではなく現在形で「私はある者である」と訳した。ヘブライ語では未来形が現在形の代わりに用いられることが多いからである。ヘブライ人たちは、この表現は永遠を意味すると記し、常にあった、あり、あるであろう神の、この上なく、あらゆる点で、永久に変わらぬ堅固さを示すと主張する。「私はある、またあるであろう」といえるのは、神だけである。神について語るとき、すべての時は一つになるからである。ヨハネは黙示録1・4で、この神の名をギリシア語で「ある方、あった方、来る方から」と表した。すなわち、ある方、あった方、あるであろう方から、ということである。主の祈りでも同じく「天にいます私たちの父」という。また別の箇所で、受肉した知恵イエス・キリストは「私は道、真理、命である」、さらに「アブラハムより前に、私はあった」と語る。この軽んじるべきでないカバラ的事項は、神が望まれるなら、しかるべき場所で詳しく扱われるであろう。すなわち、唯一真なる永遠の知恵の『円形劇場』の詳説、第一図における神の名エヘイェの解説である。さあ、中傷者よ、時間の内で受肉した知恵の神性と永遠性の双方を否定する、そのこの上なく有害な妄言をやめよ。「私はあった」、エヘイェ、すなわち神、万物を整える神の知恵である。
注 黙示録のギリシア語引用は原刊の短縮・不規則な格を保持。
注意せよ。私たちの賢者がここで知恵についていうのと同じことを、ヨハネ第1章は言葉についていう。したがって肉となった言葉と、この世で受肉した神の知恵は同一であり、神、神の子である。永遠から永遠へ、あった、あり、あるであろう。不敬な者よ、これに何というのか。世界が造られる前に存在するものは、何であれ神である。知恵は世界の創造前に存在する。ゆえに知恵は神である。福音書記者ヨハネは、言葉が初めにすでに存在したと賢者から学び、それが神のもとにあったと直ちに推論する。初めより前に存在するのは神だけだからである。初めより前にあるものは必然的に神なので、二柱の神を想定しないよう、言葉そのものが神であるとも正しく推論する。創造の始め、あるいは初めは、それより前に造られたものをすべて排除する。それは造られたものの初めだからである。しかし言葉の持ち主である神は、初めにそれによって万物を造った自らの言葉を、造りはしなかった。そうでなければ、それは初めより前には存在しなかったであろう。では何か。神は自らから、神からの神を、永遠なるものから永遠なるものを生んだ。ほかに何も考えられない。今やこの狂信的、異端的、冒瀆的でこの上なく有害なアリウス派の言葉は消え失せよ。かつての無に戻れ。「神の子がまだ存在しなかった時が、かつてあった」という言葉である。アリウスがそこで時間、永遠、あるいは何を含意しようとしても、同じである。すべての反三位一体論者に対する、自然の書から大宇宙的・小宇宙的に取られた、これは金剛石のような論証である。月下の万物を試し裁く火、この世界でもっとも打ち負かしがたい神の自然学の教師の教えが、自然の大きな書を自然学的化学によって解き明かし、創造主が三一であることを示す。三一の被造物が、普遍的にも個別的にも、初めに天と地を造ったエロヒム(創世記1章)が三一であることを告白し、表し、教えるのを、あなたは感得する。次に、人間を構成する身体・霊・魂は、三一の人間がそれに従って造られた、神的で三一の似姿を十分に表す。私は似姿と像を区別する。要するに、万物は三一である。三一なる方によって造られたからである。これが、自然の内で被造物を通して響く神の驚くべき声である。本書第三図、命題1、区分7を見よ。
「私は喜んだ」ヤハウェもまた、この知恵、すなわち子を喜んだし、今も喜ぶ。子にとって神ご自身、フー、すなわち「同じ方」「その方ご自身」は、永遠から永遠へ喜びである。このフーは、カプニオン『驚異をなす言葉について』第二巻第16章が神の名の一つとして挙げる。受肉した知恵について、父の証言がある。「これは私の愛する子、私の喜ぶ者である。この者に聞け」(マタイ17・5)。それゆえ、私たちのために子を遣わした父の意志と命令に従い、神の子が、聖書、大宇宙、小宇宙に書かれたその言葉において、自らについて何を語るかを聞こう。アリウスや、悪魔の鱗である熱狂者たちに聞いてはならない。もし知恵が世々より前にあり、神の子であり、世界を造る父のそばにあり、今も人との交わりを喜び、永遠に存続するなら、信仰の健全な誰が、それが永遠であること、またそう宣言することを疑おうか。「戯れる」永遠の昔からの神的な遊戯においてであり、それゆえ言い表し得ず、語り尽くせない。何をいおう。神的な事柄では、人間の弱さは無知と夜であり、いや、まったくの無である。それゆえ、キリスト教徒の「信ぜよ」に場所を与えよ。誰をか。あなたが信を置く方をである。信じることで神に服し、服することで神を畏れ、畏れることで正しく生き、正しく生きることで心を清める。清い心によって、あなたの信じるものを見るであろう。
私は神の地の世界で遊び、人の子らとともにいることが、私の楽しみである。
地上の世界で遊び、人の子らとともにあることが、私の楽しみであった。
「世界で戯れる」など。本書第四図に記したように、その驚くべき声と驚くべき働きによって、大宇宙的にも小宇宙的にも戯れる。さまざまな力と効き目、霊的なものと身体的なもの双方の賜物と善によって、知恵自身と、無限の父の全能と尽きることのない善意を、無数の仕方で私たちに示す。自然の書、聖書、悔い改めによって洗われ清められた私たちの精神の内で、驚くべき仕方で語り教えるのである。また統治し、守り、畏れさせ、慰め、生かし、永遠の命をもたらし、サタンと地獄の門に対して防護するゆえに、知恵は地上で戯れる。「人の子らとともにいる」実に時が満ちたとき、知恵自身が人となり、身体をもって人々の間に住み、交わるほどであった。こうして人への好意を示した。何をいおう。奇跡の大きさへの喜びと驚嘆に満たされ、私は言葉を失う。注意すべきことがある。アレクサンデル・デ・アレス、ヨハネス・スコトゥス、その他のスコラ神学者は、たとえ罪が世界に入らなかったとしても、神の子は人類への広大で言い表せない愛のために受肉したはずである、と主張した。神の像と似姿に造られた人間への、神的知恵の愛について、それほど良い望みを抱いたのである。トマス・アクィナスは異なる考えだが、自分には確かなことはないと十分に認め、自分が知るのは、彼が望んだゆえに自らを捧げた、ということだけだという。さらに近代の『命題集』注釈者のなかでも特に巧みなガブリエル・ビールは、いずれかが啓示されるまでは、この事柄について双方の立場からもっともらしく論じられる、と明言する。このことは教会が判断するがよい。
最後に、永遠の知恵は、人間の聖なる精神をかくも喜び、その精神を自分自身へと変容させる。繰り返された経験がこれを確証している。こうして人は精神において、神の善き天使たちの交わりと聖所へ、いや、この世にあってさえ神ご自身へ移り、神は人の内に住む。王として、再生した三一の、真に普遍的な小宇宙的玉座に座すのである(第132句)。ああ、神へと移る、このもっとも神的な移行よ。それは二なるものを退けることによってのみ生じる。神と人の意志に不和や不一致を持ち込んだ悪魔など、退け。決して自己と不和にならなかったこの一、すなわち神は、一を望み、相争うすべての二に反対する。神が私を完全にモナスの単純さへ導いてくださるよう、私は昼も夜も、キリスト教的な謙遜をもって溜息をつき、呼び、祈り、泣く。それは空しくない。神的叡智に即して私自身が望むなら、目覚めていても眠っていても、時に神的な力の何ものかが私に臨んだ、あるいは臨むことを否定するなら、私は嘘をつくことになる。ただし、誇りを語ることからは遠ざかりたい。ハレルヤ。本書第二図が扱うモナスの単純さへの還元とは、人が再生され、全き状態へ回復され、自らの不和によって離れた神へ神的な仕方で戻り、新しい人となり、神に結びつけられ、照らされ、一つにされ、いわば神化されるための方法、道である。私たちは魂に即して、それほど神性を受け入れ得るので、天使の精神さえ飛び越えて、神と一つになることが許される。すべての不和、すなわち二から一へ戻ることは、「一に反しないもの」だけを失うことによって、神的叡智に即して生じ得るし、生じなければならない。それ以外では不可能である〔この否定語は原文どおり〕。知恵があるなら、ここから普遍的賢者の石の再生を、調和に即して学ぶであろう。知恵の導きのもと、自然学的化学によって働くなら、大宇宙と小宇宙の再生における驚くべき調和を、真実に認めるであろう。これが三一の神学、聖書的・大宇宙的・小宇宙的で、普遍的で完全以上の神学である。
注 「quod UNI contrarium non est」は文脈上逆説的だが、画像の non を保持して訳した。
注 Mentirer, si negarem ... non adfuisse の否定の重なりは原刊どおり。訳は前後の自己証言の趣旨による。
すべての人は、ここで、このように学べ。そうすれば聖書を、聖書的にも大宇宙的にも小宇宙的にも理解し、自然と自分自身を知り、神を創造主・贖い主・聖化する者、すなわちすべてのものの内のすべてとして認めるであろう。この神を認め、知った神に倣うことが知恵である。このように人は、その玉座、すなわち精神そのものへ戻される。精神によって人は神と呼ばれる。「私はいった。あなたがたは神々であり、みな、いと高き方の子である」(詩篇82・6)という託宣のとおりである。これは、この上なく真実である。鼻高々で、世俗的で汚れ、多弁な偽の神的叡智の徒がいる。彼らは私たちのこの言説の力や核心を捉えられず、それゆえ中傷する。それも不思議ではない。知恵の霊の照明を欠き、悪魔の霊的な憑依によって目をくらまされ妨げられ、その教えの精髄を理解することも味わうこともできないからである。彼らへの返答に、聖パウロのコリント第一書第1章の言葉を置こう。「私は賢者の知恵を滅ぼし、賢い者の分別を退ける」と書かれている。賢者はどこにいる。書記はどこにいる。この世の論争家はどこにいる。神はこの世の知恵を愚かにしたではないか。神の愚かさは人間より賢く、神の弱さは人間より強い。神は賢者を辱めるため世界の愚かなものを選び、強いものを辱めるため世界の弱いものを選び、存在するものを滅ぼすため世界の卑しいもの、蔑まれるもの、存在しないものを選んだ。すべての肉がその前で誇らないためである。これが、真で、正統で、三一で、効力ある神的叡智である。それはかつて哲学者たちの高慢と君主たちの不敗の笏とを真理に従わせ、今日も従わせ得る。肉はこれを裁けない。しかし聖書のどこにも、キリストが、数多くの奇跡は記されていても、愚か者を賢者にしたとは読まない。「それなら、どうして私がそれを企てるべきなのか」〔ドイツ語〕。
私、すなわちホクマー(知恵)は、明敏さのうちに住み、思考に関する知識を見いだす。
注 原刊は scientia(scientiam でない)と印刷。語尾を補正しない。
私、すなわちホクマー(知恵)は、思慮のうちに住み、学識ある思考に参与する。
「学識ある思考に参与する」卑俗、猥褻、不敬、冒瀆、醜悪な思考や言葉、無益な愚かな話や下品な冗談(エフェソ5・4)に参与するのではなく、隣人に狂暴に、病的な悪意をもって荒れ狂う罵詈にも参与しない。真の知恵を求める者は、これらを避け、まったく無縁であれ。学識あるエラスムスは敬虔な心でいう。「胸の墓の内に腐った死体が横たわり、そこからこのような悪臭が立ち昇って、周りの者を次々に汚染する」。その言葉は天のソフィアの香油をまったく香らせない。敬虔な者の身体は、知恵の聖なる霊の、よい香りを放ち、よく教える神殿である。不敬な者の身体は死体の墓である。魂を失ったどんな死体よりも、神から離れた魂はいっそう死んでいる。その徴が、ああ、このような悪臭なのである。どんな身体の死骸も、四日間葬られた魂の悪臭が神とすべての天上者、すなわち善き霊たちの鼻を害するほどには、人の鼻に臭わない。もしそこに命、すなわち神があるなら、舌は神の生きた言葉を語るであろう。
本書第二図にあるように、二を退け、四を通して三をモナスの単純さへ還元することを努めよ。肉に現れた知恵、すなわち十字架につけられたイエス・キリストの名において、神から与えられた力に応じて、神的叡智に即してそうせよ。こうしてあなたの身体・霊・魂、あなたの全体が、イエスの名において集められたなら、祈祷室でキリスト教的に断食しつつ知恵を黙想し、霊と真理において敬虔に独語を行え。確かにホクマ・エル、ヘブライ語で「神の知恵」を意味するものが、あなたの思考・祈り・独語・黙想に参与する。それはあなたの内に清い心を造って保ち、あなたの内奥に正しい霊を新たにし、聖く、賢く、巧みな思考をあなたの内に見いだし、分別の霊であなたを満たす(出エジプト記28・3)。神的に霊感を与える仕方で〔ギリシア語〕、すなわち神から吹き込むことによってあなたを教え、本書の表題にあるように、ヤハウェ、被造物と自然、そしてあなた自身についての、承認・認識・親縁・合一・享受の真理へ導く。そうすれば最善の神にとって、あなたは善い人にとってのその手のようなものになる。神があれと命じるもので神に対してあることが、私の喜びである。要するに、神的叡智に即して信じ、生き、祈り、働け。私が語ったことを、ほかの人々と同じく、あなたも確実に経験するであろう。しかし信仰においてためらう者は、神から何かを得られると思ってはならない。ヤコブの公同書簡第1章6・7節もそのことを証しする。原理を否定する者に対しては原理について以外に論争すべきでないように、信仰を欠く者は、真の信仰のほかには何についても祈り働く務めはない。すなわち、神の賜物である信仰が神によって自らに吹き込まれ、内に生まれ、増し、保たれるよう求めるのである。それを持てば、必要で有益なすべてを神的叡智によって神から得、祈りも働きも、あなたのために幸いに進むであろう。
ヤハウェへの畏れとは、悪を憎むことである。私は高慢と不遜と悪しき道と、曲がったことを語る口を憎む。
主への畏れは、悪と不遜と高慢を憎む。私は邪な道と、二枚舌の口を忌み嫌う。
「主を畏れることは悪を憎む」など。なぜか。主として畏れるその主が、善なる方だからである。傲慢と高ぶりを憎むのは、至大で、永遠で、畏るべく、強い方を畏れるからである。邪な道を憎むのは、すべてを見、熱情深く、正しい方を畏れるからである。二枚舌の口を忌み嫌うのは、最善で、唯一賢く、真実な方を畏れるからである。こうして主を畏れることは知恵の初めであり、それは忍耐強く、憐れみ深く、善意に富むヤハウェを享受することである。本書第二図を見よ。これが、その像と似姿に私たちが造られた原型(創世記2章)の範に従い、私たちが造り直されることである。主を畏れる人は幸いである。信じるこの人には不可能なことがない。主が、その方を畏れる者の願いを実現するからである(詩篇145・19)。
私は私を愛する者を愛する。私を求める者は、私を見いだす。
私は私を愛する者を愛する。朝早く目覚めて私を求める者は、私を見いだす。
「私を愛する者を愛する」応報の法則による。愛する者は愛されるに値する(第145句)。「朝早く目覚める者」若いころから、昼も夜も、夜明け前、寝床から起きる前にも、私の三一の律法、すなわち自然・聖書・良心の律法を黙想し、目覚めて私を探す者は、私を見いだす(第28句)。こうしてエルカナも妻たちとともに朝早く起き、主を礼拝した(列王記上1・19〔現在のサムエル記上〕)。
私は正義の小道に沿って導き、公正の小道のただ中へと進ませる。
私は正義の道を歩み、公正の小道のただ中を行く。
「正義の道で」忠実な魂が神的知恵と婚約し、知恵が敬虔な精神を天の婚姻によって自らと結ぶやいなや、知恵はその花嫁を正義への愛で飾り、不正、すなわち神と隣人への害への憎しみで満たす。そして照らされた魂に、神の栄光を輝かせ、あるいは隣人の救いを進めるすべてについて、巧みで、正しく、真実で、腐敗のない判断を与える。神の栄光と民の救いは、正義と裁きに成り立つからである。
もう一度、賢者に聞こう。
ヤハウェは知恵によって地の基を据え、理解によって天を堅く定められた。
主は知恵によって地の基を据え、分別によって天を堅く定められた。
「主は知恵によって据えた」など。それゆえ、世界の創造、カオス、原初のヒュレーすなわち第一質料、自然と呼ばれる世界霊魂について、正しく教えを受けたいなら、また中間者、すなわち天であるアイテール的霊について、それが神の意志によって月下の球で質料と形相、身体と魂という両端を結び一つにすることについて、上方に堅くされたアイテール的霊、そこから「大空」と名づけられた天について、原理、元素、その果実について、最上の天から最下の地の中心までに含まれるすべて、大宇宙と小宇宙の装い全体について、教えを受けたいなら、ということである。これはカバリストたちの「ベレシートの業」、すなわち自然の知恵である。推測でなく確実に知るため、ベレシートにおいて学び、教えられ、形づくられたいなら、本書の法則と教えに従い、ヤハウェの知恵へ神的叡智に即して近づけ。それは、万物がそれによって造られ、造られたものでそれなしに造られたものは何一つない、神の言葉である(ヨハネ1・3)。聖書、自然の書、神に照らされたあなたの精神の内で、驚くべく教えるこの知恵を聞き、見、観察せよ。それこそ唯一真実な教師であり、自然的・超自然的・神的な、すべての真理へ導く者であると分かるであろう。キリスト教的カバリスト、自然魔術者、自然学的化学者よ、本書が教えるように祈り働き、知性の五十の門を知恵をもって通って行け。カバリストたちがその研究にこれほど汗を流すこれらの門は、神の僕モーセが神から受け、創世記第1章に驚くべき順序で記されたものである。聖霊の油を注がれたあなたは、ヤコブの梯子を登るように、メルカヴァの業へと上るであろう。それは神性の知恵、より高い観想に関する真に霊的な知識であり、父であり兄弟であり友である神を享受させる。これが安息日の安息日、最後の永遠のヨベルである。
これが、ヤハウェによってサトゥルヌス的に世界の中心へ置かれた賢者の石を見いだす、王の道、普遍的な道である。多くの者が不安を抱えて誤って探し、今も探している石である。ほかの道はすべて迷宮の迂回路である。十数の内に哲学的に輝く奥義を持つ、普遍的なサトゥルヌスの塩を知るあなたは、沈黙せよ。牛には干し草を、鸚鵡には砂糖だけを与えるべきである。ああ、愚かで不敬な者たちよ。聖霊の塗油を後回しにし、異教の不実な哲学者の一部、すなわち悪しき霊と誤謬の教師たちから学ぼうと苦労する。だが、神の手に導かれて自分自身の内へ入り、その言葉そのものにおける聖霊の聖なる息吹によって、永遠で、この世で受肉した、唯一真なる知恵から受け入れ、認識すべきものを、そこで受け入れ得たはずなのである。唯一のヤハウェの知恵だけが、その三一の書、すなわち聖書・自然・あなたの精神の鏡において、私たちを賢く教えるべきであり、教え得るし、教えようとしている(第260句)。「天を堅くした」天であり、天と呼ばれるアイテール的霊を堅くした。そこから大空という(創世記1章)。「主の言葉によって天は堅くされ、その口の霊によって天のすべての装いが堅くされた」(詩篇33・6)。第261句と本書第三図、問い5を見よ。
その知識によって深淵は裂け開き、天は露を滴らせる。
その知恵によって深淵は湧き出し、雲は露となって凝り集まる。
「その知恵によって」誰の知恵か。ヤハウェの知恵である。永遠なる神の知恵なら、どうして知恵も永遠でないことがあろう。「深淵」ここで深淵に関する重要な教えに注意すべきである。深淵とは、自然的・超自然的・霊的・神的・永遠的・地獄的な事物の、もっとも深く、奥まり、隠され、探り尽くせず、言い表せない原因・起源・座・泉・奥所であり、驚くべき作用を生じ、人間理性のいかなる鋭さによっても捉えられないものである。創造の深淵がある。モーセは「闇が深淵の面にあった」という(創世記1・2)。聖書の深淵がある(エゼキエル47章、シラ書1・2および24・8)。摂理の深淵がある(詩篇139篇全体)。神の全能と知恵の深淵がある(イザヤ40章)。予定の深淵がある(聖パウロ、エフェソ1・4、ローマ9章)。キリストの愛・贖い・功績の深淵がある(ヨハネ3章、ローマ5章)。神の裁きの深淵がある。「あなたの裁きは大きな深淵」(詩篇36・7)。「神の計らいは深淵の内にある」(シラ書38章)。人間の悲惨と罪、邪な心の深淵がある(エレミヤ17・9、エゼキエル26・19)。地獄の深淵がある(黙示録9・1、2)。最後に永遠の命と喜びの深淵があり、そこではすべてに終わりと境界がない。「深淵は彼を高くした」(エゼキエル31・4)とは、無限の至福と繁栄をいう。
これらのうち、今の目的にかかわる創造と摂理の深淵だけを説明しよう。創造と自然的事物の深淵とは、もっとも純粋で単純な元素、すなわち土・水・空気・大空の中心にある、目に見えない、きわめて純粋で永続する、奥深く秘された泉・起源・宝庫・湧出源である。そのもっとも隠された宝庫には、種を保存する事物の種子的原理が、世界の解体に至るまで常に保たれる。動物、植物、鉱物、川、風、嵐、晴天、時節、時代、あらゆる事物の形・比率・あり方がそれである。それらによって、定められた時に事物はこの世界の可視的な舞台に現れ、人間生活全体の共同体と、自然全体の進行・流入・流出を管理する。オルフェウスは「夜、万物の生成」〔ギリシア語〕と始まる讃歌で、この自然的深淵を、夜、闇、霧、いかなる死すべき者も裸の姿を見たことのない、目に見えぬディアナと呼ぶ。摂理の深淵とは、神の計らいのもっとも奥深い秩序であり、自然と人間生活全体の管理者である。時節、時代、変化、年、月、日、時、分、自然的事物、人間の行為、務め、召命、研究、危険、災厄、苦難、解放、人間の生と死を生み、調整し、配分する。知恵の深淵は『知恵の書』第7章に描かれる。
誰が天に昇り、また降りたか。誰がその握りこぶしに風を集めたか。誰が衣のうちに水を集めたか。誰が地のすべての果てを堅く定めたか。その者の名は何か、その子の名は何か。知っているなら答えよ。
誰が天に上り、また下ったのか。誰がその手に霊を収めたのか。誰が衣に包むように水を束ねたのか。誰がすべての境界を起こしたのか。その方の名は何で、その子の名は何か、あなたは知っているか。
「その方の名は何か」など。賢者は受肉した知恵、そして言い表し得ず驚くべき名ヤハウェについて預言する。祈祷室で神の名をいかに賢く用いるべきかは、詩篇作者が詩篇18・2、3で教える。「主よ、私の力、私の岩、砦、私を救い出す者、私の神、私の岩、私の守り手、私の救いの角、私の避け所」。またモーセは出エジプト記34・6でいう。「主よ、私たちの神よ、善にして、恵み深く、憐れみ深く、慈悲深く、忍耐強く、憐れみと善意に富む方よ」。しかしイエスの名はすべての名にまさる名であり、天・地・地下のすべての者が、その名において膝を屈する。精神が信仰と呼びかけによって、正しく神的叡智的かつ神秘的に整えられているなら、この名があらゆる神的奇跡の作用因となる。イエスの名に自らを結び、接合し、正しく一つにしたこの信仰に、天のすべての効力、地上のすべての力、悪魔のあらゆる力、罪と悪魔の王国から人の身体と心を侵すすべてのものが従う。
わが子よ、蜜を食べなさい。それは良いものであり、蜜蜂の巣はあなたの口に甘い。
それゆえ、わが子よ、蜜を食べなさい。それは良いものであり、蜜蜂の巣はあなたの喉にこの上なく甘い。
「蜜」アテナイオスは、病気のデモクリトスが数日間蜜だけで生き、蜜がなくなると死んだと記す。ディオゲネス・ラエルティオスは、死に近づいた彼が温かいパンの匂いによって命を三日延ばしたと記す。命のパンである永遠の知恵(ヨハネ6・35)の蜜のような教えは、清く汚れのない心の口で敬虔に食べられるなら、罪の病に倒れ死に瀕したあなたを回復させるだけでなく、永遠の死からも守る。小さな蜂が露と花から蜜を作るように、天的・霊的・神的な露、すなわち聖霊と、あなたの精神の花、すなわち信仰・愛・希望・呼びかけから、神的知恵の蜜が調えられる。そのごくわずかな一口を敬虔で忠実な魂が味わうだけでも、全世界のすべての甘さ、喜び、快楽にまさる。それゆえ詩篇作者は「あなたの言葉は、私には蜜と蜜の巣より甘い」という(詩篇19・11、119・103)。主よ、あなたの甘さが、世界のすべての苦いものを、私にも甘くしてくださいますように。それゆえ岩、すなわちキリストからの蜜を食べよ。そのもっとも癒す香油によって、身体・霊・魂において、無に帰せしめる腐敗から解かれるためである(申命記32・13)。これがなければ、あなたは死ぬに任される。このもっとも甘い蜜には、賢者たちが賢くそう呼んだ知恵の塩が隠される。この表現が、俗悪に哲学する者たちの間でさえ私たちの時代まで生き残ったのは、確かに神の善意の驚くべき証である。あの哀れな小人たちは、神に誓って、自分が何をいったか理解していなかったのだから。この表現の力は秘されている。子よ、学べ。
知恵についての認識も、あなたがそれを見いだすなら、あなたの魂に同じく甘いものとなる。そして報いがあり、あなたの期待は断ち切られない。
知恵の教えも、あなたの魂には同じである。それを見いだせば、終わりの時に望みを抱くことができ、その望みは滅びない。
「教えも同じく」など。それは神の蜜の花、天を超える露のマンナだからである。口に蜜、心に蜜であるイエス、肉となった父の知恵は、岩(コリント第一書10・4)、教会がその上に建てられる岩(マタイ16・18)である。「知恵の認識」など。真の知恵の認識は精神の内なる光であり、無知の闇と、誤った不確かなあらゆる見解を追い払う。この認識は、光と闇、身体と影ほどに、見解や不確かな推測とは異なる。私たちの精神を照らしてくださるよう、神に祈り願わなければならない。それゆえ気をつけよ、気をつけよ。闇から、背教者で嘘つきである悪しき霊たちから、光を求めてはならない。影から、すなわち真の光に照らされず、自分の知恵に膨れ上がり、思弁的空想や自分の夢を知恵として押しつけ、売りつける人々から、真の光を求めてはならない。「終わりに希望を持つ」など。後の第224句を見よ。
ここに第四段の図を挿入すること。
第四段の解釈と注解
第四。序説の第四段の解説。
ヤハウェは知恵を与え、その口から認識と理解が出る。
注 原刊の番号は168。序説との対応および連続順では167に当たる。次句も168と印刷される。
主は知恵を与え、その口から分別と知識が出る。
注 原刊の番号は168。序説との対応および連続順では167に当たる。次句も168と印刷される。
知恵・知識・知性は神の賜物である。
「主が与える」など。それゆえ聖ヤコブは、その書簡1・5でいう。「あなたがたのうち知恵を欠く者は、すべての人に惜しみなく与え、とがめない神に願え。そうすれば与えられる。ただし少しも疑わず、信仰をもって願え。疑う者は、風に動かされ翻弄される海の波に似ている」。それゆえその人は、至高の者でも最小の者でも、貴族でも平民でも、「大ハンスでも小ハンスでも」〔ドイツ語〕、主から何か、何一つでも受けられると思ってはならない。心の二重な人は、すべての道で定まらない(第216・251句)。したがって真実のとおり、ヤハウェが知恵を与えるなら、何らかの技芸によって人間的にこれを習得しようと苦労し、自分の分別だけに頼るのは空しい。聖霊の鍵のない書物は、何の役にも立たない。ゆえにJ・C・スカリゲルは『演習』359・1で正しくいう。「学問の研究における私たちのこの旅は、上からの光なしには、哀れな迷走にすぎない」。ヤハウェのもとで、神的叡智に即して、すなわちキリスト教的カバラ、神的魔術、自然学的化学によって、祈祷室と実験室において、小宇宙的・大宇宙的に知恵を求めなければならない。それを吹き込み与える主から、願い得なければならない。神の賜物だからである。それゆえ、カバラ的実践への神的な熟達のゆえに永遠に記憶されるべき、博識のカプニオンは、『驚異をなす言葉について』第一巻第7章で、知恵への愛からその名を得る哲学を、「神の息吹、神的な照明」と正しく定義する。しかし真の知恵が神の息吹、神的照明であるように、汚れた世界の知恵は、実際には愚かで知恵がなく、悪魔の息吹、精神を盲目にするものである。使徒が証するように悪魔はこの世界の支配者であり、全世界はその範に従って形づくられる。それゆえその知恵は、神と、神の霊に照らされた人々の前では愚かさである。神の恩寵の導きによって、知恵の大洋から、その三重の三一である普遍的な書の導水管を通して、私たちの精神の楽園へ、真の知恵の川を引かなければならない。汚れたこの世界の支配者とその鱗たちの腐った悪臭の池から、詭弁と誤謬の水路を通して引いてはならない。前者は神的・人間的事物の真で救いをもたらす知識を与える。後者は悪徳に満ち、膨れ上がり、狐のように狡く、詭弁的で、不毛な、汚れた世俗の知恵を与える(第187句)。
主は正しい者たちのために実質あるものを蓄え、全き道を歩む者たちの盾となられる。
主は正しい者たちの救いを守り、素直に歩む者たちを庇護される。
「正しい者たちの救いを」神的知恵の果実は無限である。その最高のものは魂の救いであり、神によって守られ、永遠の宝として正しい者のために蓄えられる。ヘブライ語本文がほのめかすように、事物の存在そのもの、あるいはすべての事物に存在を与えるものが、正しい者の宝である。それは、すべてのものの内のすべてである神ご自身にほかならない。したがってヤハウェご自身が正しい者の救いであり、悪魔や敵対する人間の矢、大宇宙の悪しき影響に対する、正しい者の盾である。これが、夜の恐怖、昼に飛ぶ矢、真昼の悪霊、闇に歩く疫病に対する、いと高き方の陰、全能者の保護である(詩篇91篇)。これらすべての悪は、完全さの内、すなわち神ご自身とその子イエス・キリストの内を歩む者に触れない。
彼らが公正の小道を守るためである。主はその慈しみ深い者たちの道を守られる。
正義の小道を保ち、聖なる者たちの道を守られる。
そのときあなたは正義と裁き、正しさの数々、そしてすべての善い道を理解する。
そのときあなたは正義と裁き、公平、そしてすべての善い道を理解する。
「聖なる者たちの道を守りつつ」これは神的知恵のすぐれた果実である。神の好意と恩寵によって、敬虔な者たちは正義の道を外れないよう守られる。神的知恵は絶えざる光であり、闇の内で道を示し、心を誤謬から呼び戻し、愚かな計画から解き放ち、空しい思いを抑える。知恵はいう。「私はあなたに有益なことを教える。あなたに理解を与え、歩むべきこの道を教え、あなたの上に私の眼を据える」(詩篇32・8)。永遠の知恵よ、私たちを教え、永遠の規準よ、私たちを導き、永遠の規則よ、私たちを形づくってください。
神よ、あなたの聖なる意志が何であるか、私を教えてください。
従順な手と、従い行く足取りをお与えください。
見よ、あなたは常に私の神であられるのだから、正しい道に、
あなたのその霊と神的な杖とが、私を導きますように。
あなたに感謝するためには太陽に先立って起き、光の昇るころにあなたに挨拶すべきだと、知られるためである。
注 中央参照欄は Sap.16. Vers.18. と印刷。引用内容は16:28に対応。原刊の18を記録。
注 印刷頁79の柱は GRADUS TERTII と誤植されているが、第四段の本文である。
あなたを祝福するためには太陽に先立って起き、光の昇るときにあなたを礼拝すべきだと、すべての者に知られるためである。
注 中央参照欄は Sap.16. Vers.18. と印刷。引用内容は16:28に対応。原刊の18を記録。
注 印刷頁79の柱は GRADUS TERTII と誤植されているが、第四段の本文である。
「太陽に先立つ」太陽、ヘルメスによれば眼に先立つことである。それは目に見える太陽、すなわち大空の大きな光だけでなく、神的な太陽でもある。その光が私たちの内に昇るとき、ヤハウェよ、あなたへ迎えに出て、出会い、近づき、会う。嘆願、祈り、願い求め(テモテ第一書2・2)、そして感謝によってそうする。感謝はさらに与えることへの招きだからである。適切な場所と時にあなたに先立ち、あなたの祝福の光線が私たちの精神にも行為や労働にも恵み深く流れ込むようにする。あるいはすべての事柄について、神的叡智に即してあなたに相談し、あなたと話し合う。このため箴言19・11には、子供はその取り組みから、その業が清く正しいかどうかを知られる、とある。注意せよ。荒野でユダヤの民の食物であったマンナは、太陽の光で溶けて流れ去らないよう、日の出前に集めねばならなかった。同じように神的知恵のマンナも、朝の祈りという小さな器に集め、知恵の戸口で朝早く目覚めていなければならない。私たちの内にある私たちの太陽が、大宇宙の太陽に先立つように。内なる小宇宙の天の太陽が、外なる大宇宙の天の太陽より早く昇るように。光と知恵を運ぶアイテールの見張りたちも、内なる闇を追い払うため同時に臨むからである。私たちの内に昇る太陽を、『雅歌』は「私は眠るが、私の心は目覚めている」と描く。詩篇78・25がマンナを天使たちのパンと呼ぶのは、理由のないことではない。神的知恵によって超自然的に生じたマンナは、神的知恵の果実だからである。したがって神の口から出る知恵こそ、天使たちが喜ばしく養われる真のパンである。イエス・キリストは父の言葉、父の知恵なので、信じるキリスト教徒の真のマンナである。毎日が伴ってくる苦難に精神が揺さぶられ、心配に溶け去る前に、絶えざる心、眠らず見張る心で、これを受け入れねばならない。
注 箴言19・11等の参照番号は原刊どおり。現行の章節と一致しない箇所も本文中で改変しない。
注 印刷頁79の柱は GRADUS TERTII と誤植されているが、第四段の本文である。
「光が昇るときに」すなわち早朝、朝の薄明、日の出、曙に、ということである。善を求める者は夜明けに起きてよくするからである(箴言11・27)。曙はムーサたちに喜ばれ、まことに黄金の時である。それは自然的一日のみならず、あなたの人生、敬虔な献身、精神の善い着想などの曙でもある。そうしたものがあなたの内に生じると、直ちに行え。カバラの学派ではその生起を「曙」と呼ぶ。善き霊の衝動によって、内に善い動きを感じ、心が燃え、広がり、その業を成し遂げようと勢いづくとき、小宇宙的にも大宇宙的にも祈祷室へ入り、祈り、黙想し、神的叡智に即してキリスト教的な独語を行え。すでに時、場所、天、星々、ゲニウス、天の軍勢、神、すなわち万物が、あなたに好意を示し仕えていると知れ。本書の法則と教えに従い、ヤハウェがあなた自身、自然、聖書の内で何をあなたに示し答えるか、聞き、見、観察せよ。実験室にも入り、前述の神的でカバラ的な、すなわち受け継いだ者たちの教え、真の賢者たちが古くから行ってきた教えに従い、知恵をもって働け。そうすれば神は遅滞なく与える。聖なる、あるいは善き霊の刺激を感じるとき、これらの実践を延ばすな。機会は額に髪があり、後ろは禿げているからである。ソロモンと経験が証するように、万物にはその時がある。それゆえ運命が引く時と所へ、従順に従って行かねばならない。王なる詩篇作者は勧める。「今日、ヤハウェの声を聞いたなら、理解のない騾馬や馬のようになるな」(詩篇32・9)。したがって大宇宙的にも小宇宙的にも、日が昇るときに神を呼べ。沈むときではない(第96句)。
注 印刷頁79の柱は GRADUS TERTII と誤植されているが、第四段の本文である。
ヤハウェよ、あらゆる悪から救い出す方があなたであると、あなたは私たちの敵に教えられた。
主よ、あらゆる悪から解き放ってくださるのは、あなたである。
「救い出す方」など。最善至大の神は、その知恵の光線を驚くべく配し、人々の救いと助けのために、さまざまに分配する。神的知恵は空虚でむなしい知識ではなく、助ける力であり、無限の助力を持って、人の救いへ向けるからである。人類は、ああ嘆かわしいことに、犯した罪のために、さまざまな、いや無数の災いにさらされているが、神の知恵はそれと同じだけの、霊的にも自然的にも効く治療を含む。忠実な侍女、付き従う者たちを通して、自らの深淵から、それらを忠実に私たちへ分け与えるのである。
ヤハウェよ、あなたは生と死に対する力を持ち、陰府の門へと下らせ、また連れ戻される。
主よ、生と死に対する力を持ち、死の門へと下らせ、また連れ戻されるのは、あなたである。
「死の門へ導き」など。見よ、これが神的知恵の学校、工房〔ギリシア語〕である。自らを敬う者を死なせるのは、同じ者を生かすためであり、死の門へ導くのは、同じ道によって天の門へ高めるためである。知恵は砕かれた、へりくだった心を求め、まさにそこに自らのための壮麗な住まいを建てる。したがって、人を砕くとき、その人を築く。壊すとき、新たにする。低くするとき、高くする。暗くするとき、新たな光を注ぐ。人の交わりから遠ざけるとき、天上者たちとの交わりへ導き入れる。
ヤハウェの祝福は人を富ませる。ヤハウェはその祝福に悲しみを付け加えられない。
主の祝福が人を富ませる。そして彼らに苦悩が伴うことはない。
「主の祝福」など。神的知恵の果実は、身体・心・精神の、あらゆる種類の賜物と善である。すべての被造物は、その精神を王の玉座として、被造物の女王・女主人である知恵が住む人々だけに、自ら進んで仕え、豊かに集まる。神の栄光と、神に愛される、永遠の命の相続人である人々に仕えることこそ、被造物の自由、その主要かつ固有の目的だからである。神の定めによって、奉仕する霊である天使たちが彼らに自ら仕えるなら、天使の奉仕に服するほかの被造物も、なぜ同じことをしないであろうか。最初に造られた人の不従順が呪いの原因となり、あらゆる災い、元素の不毛、物資の欠乏を伴ったように、敬虔と神への畏れは祝福の原因である。この祝福は、神の口から進み出る、生かすある力にほかならず、事物の自然を増殖させ豊かにし、いわば群れを成して豊かに広がらせる。族長・王・その他の聖人たちの例も、これに加わる。さらに、真の知恵を泉とするこれらの富は、流れ来るときに悲しみを伴わず、去るときにも悲しみを生まない。神に愛される敬虔で忠実な者は、富の泉である知恵そのものを持つからである。これは金(第30句)、あらゆる最も高価な財宝(第5句)、金と宝石(第327句)より優れている。その理由は、万物を与えるからである(第291句)。
ヤハウェの御名は堅固な塔のようである。正しい者はそこへ走り、高く上げられる。
主の御名はこの上なく強固な塔である。正しい者はそこへ走り、高く上げられる。
「主の名は最も強い塔」詩篇91・14に「私は彼を守る」とある。なぜか。「彼が私の名を知ったから」である。神の名は神の全能・知恵・憐れみである。この大きく驚くべき名に身を委ね、これだけに頼る者は、まことに最も堅固な砦に囲まれる。神の名はすべての効力と権能を包む。したがってヤハウェとイエスの名を信頼する者は、すべての効力と権能で武装される。この神的な防衛と天使の陣営があるなら、敬虔な者と戦う人間の力はすべて散らされ、影へと解かれる。これが退けば、最も強い城壁と王国でさえ倒れ、荒廃する。ダビデ王は逃亡と救援のさなか、目に見える防備を持たず、外なる陣営や砦に守られていなかった。それでも、いと高き方の守り・保護・陰のもとでは、最も堅固な都市を占領した場合より安全であった。それゆえ、次の人々とともに神の名を呼ぶことを学べ。セト(創世記4章末節)、アブラム(同12・8、13・4)、アブラハム(同21・33)、モーセ(出エジプト記34・5)、アロンとその子ら(民数記6章末節)、イスラエルの民(申命記26・2、28・10、32・3)、ダビデと全イスラエル(歴代誌上13・6、16・2、8、詩篇115・4)、ソロモン(第三列王記8・23、43、歴代誌下6・20)、エリヤ(第三列王記18・24)、エリシャ(第四列王記5・11)、アサ王(歴代誌下14・11)、裁く者ヨシャファト(同20・6、9)、イエス・シラク(51・14)、エレミヤ(哀歌3・55)、炎の中のアザリア(ダニエル3・26)、燃える炉の中のシャドラク、メシャク、アベドネゴの三人(同52節)、祭司たち(マカバイ第一書7・37)、キリストの弟子とすべての聖なる敬虔な者たち、主の祈りにおいて(マタイ6・9、さらにヨハネ14・13、15・16、16・23)。「ああ主なる神よ、あなたの名は全地において、何と驚くべきものか」(詩篇8篇1節と末節)。「いと高き主の名に歌おう」(同7篇末節)。「あなたにあって喜び、歓喜し、いと高き方よ、あなたの名に歌おう」(同9・2)。「その名はヤハウェ」(ユディト9・10、16・3)。「ヤハウェ・ツェバオト、万軍の主が私の名である」(イザヤ51・15)。「主の名を呼ぶ者はみな救われる」(ヨエル2・32、使徒行伝2・21、ローマ10・13)。その名は、受肉した永遠の知恵、イエス・キリストにおいて人々に現された(ヨハネ17・6)。
注 列王記の一〜四の番号およびその他の聖書参照は、原刊に従って保持。
神の名と、十のスフィロス(第137句)、すなわち神の流出、あるいは彼らのいう数え上げについての、カバリストの教えはここに関係する。これらによって、三一のエロヒム全体は、かくも大きな威光にふさわしい装飾と衣服をまとうようにして、万物の総体へ進み出た。至福なる者の精神そのものが、神的叡智に即してその衣の房に触れるたびに、神は答える。「誰かが私に触れた。私自身も、力が私から出たのを感じた」(第222・252句)。これらは本書第一図で扱った。神が許されれば、その解説で、しかるべき時にさらに詳しく扱うつもりである。なぜこの『円形劇場』にヘブライ語を持ち込んだか、と尋ねる人もあろう。しかし、聖事の首長ゾロアスターの、この祭司的定めの力を知っていれば、悪く解釈しないに違いない。「聖なる事柄では、異国の名を決して変えてはならない」。異国の名とは、ヘブライ語の名を意味するのである。
人の心には多くの思いがある。しかしヤハウェの計らいこそが存続する。
人の心には多くの思いがある。しかし主の御旨こそが存続する。
人は計画し、神は定める。
「多くの思い」など。同じように、「心を整えるのは人、舌を導くのは主である」(箴言16・1)。「籤は懐に投じられるが、主によって定められる」(同33節)。人が心を整えるとは、計画し、小さな頭の中で順序を立て、心で熟慮することである。しかし神は定め、計画と労働に結果を与える。したがって、私たちの感覚・理性・精神・手による理論と実践、行為と労働を成功させ統べるのはヤハウェだけなので、私たちはへりくだった心で、霊と真理において、その助けを願わねばならない。あらゆることにおいて、よく意志し、知り、あり、なし得ることを与え、吹き込んでいただくためである。神が望めばすべてはうまく進み、望まなければ悪く進む。知恵の研究とその労働は、それ自体で意志し走る人によるのではなく、憐れみ、先立つ神によるからである。その名が世々に祝福されますように。アーメン。主よ、私の精神・知性・理性・感覚の眼を開いてください。そうすれば、あなたの三一で普遍的な律法、すなわち自然・聖書・私の良心の律法の驚くべきことを見るであろう(詩篇119・18)。「主よ、あなたが訓育し、あなたの律法から教える人は幸いである」(同94・12)。これは前述の三一で普遍的な律法である。「主よ、私たちにではなく、私たちにではなく、あなたの名に栄光を与えるべきである」(同115・1)。それゆえ思いを守れ。唇に規律を保たせよ。「舌が精神より先走らないように」〔ギリシア語〕というキロンの助言に従え。舌はいわば争乱をあおる扇なので、誰もが最大の注意で抑えるべきである。このためゼノンは、舌を精神に浸してから語るよう命じた。常に考えよ。「舌よ、どこへ行くのか」と。聞くには速く、語るには遅く慎重であれ。
注 キロンのギリシア語格言は合字を展開。σου の小活字はやや不鮮明なため暫定読み。
馬は戦の日に備えられている。しかし救いそのものはヤハウェに属する。
馬は戦の日に備えられる。しかし救いを授けるのは主である。
「馬は備えられる」など。神的知恵は世界とすべての世俗の力、それどころか悪魔の力に勝つ。すべての被造物は神的知恵に譲り、降伏するからである。敵と戦う天の星々もこれに仕える。アイテールもこれのために戦い、結束した風々が戦場へ来る。したがって神的知恵を正当に使うことを知る者は、もっとも強力な敵を縛り、足枷につなぐことができる(詩篇149・8)。誰にもまして、あの勇猛な戦士ダビデは、この術に見事に通じていた。「ある者は戦車、ある者は馬に頼るが、私たちは私たちの神、主の名を呼ぶ」と彼はいう(詩篇20・8)。「主は弓の力、盾、剣、戦を砕く」(同76・4)。彼は幾度、祈りだけで軍に力を加え、目覚ましい勝利を得たことか。ヨシャファトは讃歌によって無数の軍勢を敗走させた(歴代誌下20・22以下)。ヒゼキヤの祈りを聞いた主の天使は、一夜にアッシリアの陣営で十八万五千人を打った(第四列王記19・35)。これらはすべて、全世界の事柄と支配権を唯一統べる神的知恵の勝利である。王国、都市、公国、帝国に多くの崩壊と混乱が起きても、神的知恵は最善至大の神の永遠の正義に従い、すべてをきわめて賢明に配分する。
多くの者が支配する者の顔を求める。しかし、一人ひとりに対する裁きはヤハウェから来る。
多くの者が支配者の顔を求める。しかし、一人ひとりに対する裁きは主から出る。
「多くの者は君主の顔を求める」すなわち君主との親密さと恩顧を得ようとする。しかし王であり、宮廷人でもある預言者の助言を聞け。「君主を、救いのない人の子らを信頼するな」(詩篇146・3)。また「人を信頼するより、主を信頼するほうがよい。君主を頼るより、主を頼るほうがよい」(同118・8、9)。人の意志は変わりやすいが、神の意志は堅固で、不変で、永続するからである。「山々が動き、丘々が震えても、私の憐れみはあなたを離れず、私の平和の契約は揺るがない、とあなたを憐れむ主はいった」(イザヤ54・10)。ダニエルが宦官の長から好意と憐れみを得るようにしたのは主なる神である。望めば、あなたにも与えることができる。それゆえ、千人の君主に身を任せるより、ただ神だけを信頼するほうが、安全で、優れている。
水の流れのように、王の心はヤハウェの御手のうちにある。主は望まれるすべての方向へそれを向けられる。
水路のように、王の心は主の御手のうちにある。主は御心のままに、それをどこへでも向けられる。
「王の心もそのように」など。神が思いのままに、人の思考・行為・労働を進め、また無にすることは、日々の経験が証している。それゆえ「神的な力は人間の事柄の内で戯れる」という言葉は真実である。ヤハウェは、望む者に、望むとき、業にも人にも、祝福も呪いも吹き込む。神ご自身が王を立て、退け、高め、低くし、築き、壊し、祝福し、呪う。万物はその全能の手の内にある。それゆえ、神の誉れ、隣人あるいは自分自身の益となることを君主たちの前で行う必要があるなら、神の愛の内にあるため、神的叡智に即して祈り、働け。ああ、私たちの本書が教えるこの神的な、神の愛の術よ。あなたが神の友であれば、あなたの求めることが神に喜ばれるなら、君主も友となり、寛大で、恵み深く、親切となる。主は望む方へ彼らを向けるからである。常に「主よ、あなたの意志がなりますように」と付け加えるべきである。アレクサンドロス大王がティルスを攻め、援助を断られたため軍とともにエルサレムへ向かったとき、大祭司ヤッドゥスが祭司服を着て迎えに出、その心を変えたという物語はよく知られる。ローマへ向かったアッティラについても、同じようなことが読まれる。アハシュエロスはエステルによって心を変え、一日のうちにユダヤ人を滅ぼすことをやめる。それゆえ見よ、学べ、判断せよ。賢者が星々を支配するように、人々の心と精神をも支配し得るのではないか。怒れる神も、願う声によって心を変える。人間ならなおさらではないか。だが、どのように、どの術で、どの営みで、どの光線でか。神的知恵の光線によってである。ラバンが夢で「ヤコブには親切に語り、それ以外の話し方をしないよう気をつけよ」という声を聞いたのが、術も特別な神的知恵もなしに起こったと思うほど、単純であってはならない。アレクサンドロス大王が夢に、祭服を着た大祭司が自分を迎えに進むのを見たのは、偶然だと思うか。耳を澄まし、この知恵を探究せよ。キリスト教徒が、私たちのもっとも激しい敵、悪魔の全勢力にまさる権能を神から受けたなら、悪魔に支配される人間の心に対しても、なぜ受けないことがあろうか。
人の道はすべて、その人の目には正しい。しかし、心を量られるのはヤハウェである。
人の道はすべて、自分自身には正しいと思える。しかし、心を量られるのは主である。
「人のすべての道」など。深い闇が人々の心を覆い、そのため自分の心のもっとも奥まった所を見つめ、吟味できない。どのような意図で人が行為と計画を遂行するかは、人の眼からそれを隠しても、霊を量る神だけが知る。すべての心を探り、精神のすべての思いを理解するのは、主ご自身だからである(歴代誌上28・9、詩篇7・10)。「心を知る者」〔ギリシア語〕として、神だけが万人の心を知る(使徒行伝1・24)。多くの人間の行為は、きわめて巧妙に化粧され、正しさと正義、愛と慈愛の泉から出た正しいものだと、人が誓うほどである。しかしその目的は自己愛、自らの名誉、自らの利益である。真の知恵の光は、これら悪魔の霧をすべて追い払い、神の正義の秤でそれらを量り、光の内で神の面前に立たせ、明らかにする。私たちの行為は、人間理性の光に照らせば善く、正当で、正しく見えても、神的知恵の光に近づければ、もっとも不適切で、偽り深く、不正なものに見える。
くじは懐に投げ入れられるが、そのあらゆる決定はヤハウェから来る。
くじは懐に投げ入れられるが、その結果を定められるのは主である。
「籤は懐に投じられる」など。秘され、奥深く、私たちから隠れ、疑わしく、秘密に属しながら、同時に有益で救いをもたらし、極度の窮境と必要のうちにはどうしても必要な事柄について籤が投じられるなら、それは不法で聖書に禁じられるどころか、主自身によって定められる。すなわち神の摂理によって統べられ、真の神の答えなのである。そのことについて、聖書には明白な命令、証言、明記された実例がほとんど無数にある。証言は次のとおり。「主ご自身が彼らのために籤を投じ、その手が彼らに量って分けた」(イザヤ34・17)。イスラエルの民にカナンの地を分ける際のことである。また賢者は「籤は争いを鎮め、強い者たちの間をも裁く」という(箴言18・18)。それゆえ神的預言者は、正しく自分の籤を主に委ね、「主よ、私の籤はあなたの手の内にある」という(詩篇31・16)。実例も聖書の各所に多い。モーセの兄アロンは、証の幕屋の入口で、主の前に二匹の山羊について、一つを主のため、一つを放逐の山羊のためとして、籤を投じるよう神に命じられた。主の籤が当たった山羊を罪のために捧げる、などとある(レビ記16・8)。イスラエルが神の契約を破り、禁じられた献納物を取ったため、敵であるアイの町の人々に打たれ、逃げざるを得なかったとき、ヨシュアはその罪を籤で調べた。まず部族、部族から氏族、氏族から家、家から男、すなわち違反そのものの当事者を探り出した(ヨシュア7・14以下)。預言者サムエルが、イスラエルのため王を選び、籤によって指名するとき、全部族を近づけると、籤はベニヤミン族に当たった。その部族と氏族を近づけると、マトリの氏族に当たり、ついにキシュの子サウルに至った(第一列王記10・20)。少し後、24節でサムエルは民全体に「主が籤によって選んだ者を確かに見るがよい。全民の中に彼に似る者はいない」という。王である預言者ダビデが、それぞれの務めに従い主の家に入る仕方を、レビ人に籤で分けたことは、歴代誌上24章で読める。同じくヨナは、船さえ危険になるほどの大嵐の原因であると籤で発見された(ヨナ1・7)。ハマンの前で壺に投じられた籤は、アダルと呼ばれる第十二月にユダヤ民族を殺すべきであると示した(エステル3・7)。もしユダヤ人が、同4・1、2にあるように、粗布を着て頭に灰を振り、大声で神を呼び、熱心に祈り、断食、叫び、涙によって悔い改め、神から恩寵と憐れみを得なかったなら、神の意志の解釈者である籤による、ユダヤ人殺害の判決は、疑いなく決して変更も撤回もされなかったであろう。
新約の実例も見たいなら、マティアが、ユダが背いて自分の場所へ去った奉仕と使徒職の地位を、籤によって得たではないか(使徒行伝1章末節)。神はこの目的を見て、カナンの地を籤でイスラエル人に分配するよう命じた。「籤で当たったものを、人数が多くても少なくても受け取れ」という(民数記26・56)。また33・54には、「私が所有地として与えた地を籤で分けよ。多人数には広く、少人数には狭く与え、各人に籤の当たったとおり相続地を与え、部族と家族に従って所有地を分けよ」とある。この籤引きの慣習は常に使われてきた。古代ローマ人も、籤札によって独裁官・執政官・元老院議員・護民官を選んだ。今日も多くの場所、ほとんどあらゆる所で、各身分の職務、贈り物、相続財産などが籤で分配される。それゆえシラ書14・15には、「お前の苦しみと労働を、籤による分配で他人に残すのではないか」とある。しかしこれだけいえば十分である。この神的な占いの術、ゲオマンティアを確証し確立するすべてを、ここに挙げるのは目的ではない。これまで述べたことから、籤の調整者・統治者・創始者・支持者・擁護者・推進者が神ご自身であることは、真昼の光より明らかである。
注 ローマの官職選任と籤については著者の歴史的主張をそのまま訳し、現代の制度史に置き換えない。
心を尽くしてヤハウェに信頼し、自分の理解に頼ってはならない。
それゆえ、心を尽くして主に信頼し、自分の分別に頼ってはならない。
神を信頼すべきである。
「信頼せよ」など。自分自身を疑い、自分を捨て、あなたとあなたの事柄を神に委ねよ。「あなたの心配を主に投げかけよ。そうすれば主があなたを養う」(詩篇55・23)。神があなたの指針となる。「私の助けは、天と地を造った主から来る」(同121・2)を標語とせよ。主に希望を置く者は、身体・霊・魂において引き上げられ、ヘブライ語の響きでは「肥やされる」。こうして大宇宙的にも小宇宙的にも、内にも外にも、健全な身体に健全な精神が宿る。要するに、あなたのすべての行為と労働において、ヤハウェを船首と船尾、アルファとオメガとせよ(第329句)。神の霊感・助け・導きなしに、高いことを知ろうとするな。万物の内の万物である神のみにおいて、神的叡智によって、あなたはすべてをなし得る。「自らの分別に頼るな」聖書・自然・自らの正しい良心の律法を高慢に後回しにし、自分の分別・想像・計画・狂信的な労働に頼る者は愚かであり、そのすべての道を愚かに歩くであろう。世界は異教的に、幸運はいつも私たちの分別の伴侶だと考える。そこから「各人の性格がその運を形づくる」、「各人は自らの分別によって自らの運の鍛冶である」という諺がある。それゆえセネカは「理性に従い、偶然を軽んぜよ」といい、ユウェナリスは「分別があれば、どの神の力も欠けない」という。しかし私たちの賢者は反対を教える。運の創始者であり主であるヤハウェが運を送り、分別と成功を取り去り、あるいは与えるのである。自然学的化学の労働においても、このことに注意せよ。祈りによって主から、よく知り、あり、なし得ることを得なければ、その労働は自然の真理の直線に従って始められ、成し遂げられることがない。
したがって祈祷室で、神的叡智に即して汗を流さなければならない。神が私たちを教え、聖霊を私たちから取り去らず、私たちとその労働を祝福し、精神・感覚・理性が悪魔の戯れや幻に惑わされないよう守り、手足が業を壊さないよう守ってくださるためである。賢い異教徒キケロは、多くの計画と推論において一部は挫折し、一部は自分の知恵と勤勉さへの信頼のために、非常に重い罰を受けた。世俗の分別で何を成し遂げたかは、亡命地から書き送った数多くの悲しみに満ちた悲劇的な言葉が証する。それらは『アッティクス宛書簡』第三巻と、オクタウィウスへの最後の書簡にある。そのため殺されるにあたり、「ああ、私は一度も賢くなかった」と叫ぶ。それゆえ詩篇33・17は正しい。「馬は救いのためには頼りにならない」。また127篇には「主が町を守らなければ」などとある。コヘレト11・5には、「霊の道が何か、妊婦の胎で骨がどのように組み合わされるかを知らないように、万物を造る神の業を、あなたは知らない」とある。したがって私たちの理性や才知の無謀さは、自分だけと自分を比べ、特別で固有の神の祝福なしに、人生・行為・労働を統べ、自分の運と成功を作り、善いことを行うのは自分の意志と力にある、と思うほどの分別を自らに誇ってはならない。むしろ全能で憐れみ深い神の手に、キリスト教的に万物を置き定め、賢者が賢く勧めるとおり、心を尽くして主に信頼せよ。祈祷室と実験室におけるすべての道、すなわち行為と労働の初めから終わりまで、そうせよ。神的叡智を求める者がこの点で過ってはならないなら、自らの迷宮にいる詭弁家には、なおさらそうである。この汚れた世界の大迷宮を手探りする私たちにとって、ヤハウェの意志はアリアドネの糸より確かな案内者である。それゆえカバラ・魔術・錬金術を学ぶあなたは従い、この試金石に照らして自分を吟味せよ。主に信頼するなら、主から意志の救いを汲み、すべてはうまく進み、実践にも理論にも三重四重に幸いとなり、聖書と経験そのものが証するように、永遠に辱められないであろう。
このためニカノルは、ユダヤ人には守護者として神があり、神が定めた律法に従うので、神によって傷つけられないのだ、と語った(マカバイ第二書8・36)。あるフランスの城で、糸を紡ぐ女性を描いた古い掛布に記された次の詩句も、同じことを意味する。その意味についてフランス王フランソワはしばしば議論した。「神は糸を紡ぐ者の精神をオリュンポスに結ぶ」。すなわち神は召命に従う労働を助け、「糸紡ぎの女の糸をつなぐ」〔ドイツ語〕。さらに、働く私たちに神から求めるよう命じられるその助けは、精神をオリュンポスに結び、「私たちに天を仰いで思い、祈るよう命じる」〔ドイツ語〕。私は第317句のヘルメスの箇所、「自らの魂を惜しまなかった者は」などを、空しく引用したのではない。そこには、自然学的化学の普遍的な石における神的な結合と合一の秘密が隠される。それについて公にもっと語ることは、決して賢明ではない。第132句を見よ。
あなたの行いをヤハウェに委ねなさい。そうすれば、あなたの思いは堅く定まる。
あなたの行いを主に明らかにしなさい。そうすれば、あなたの思いは正しく導かれる。
詩篇37・5。ペトロ第一書5・7。
「あなたの業を主に明らかにせよ」など。神的叡智を学ぶ者はみな、これに最大の注意を払え。祈るあなたも、どの知の領域で働くあなたも同様である。何事も始める前に、神的叡智に即して主に相談せよ。主ご自身があなたの指針となる(第181・329句)。
あなたのあらゆる道において主を認めなさい。そうすれば、主ご自身があなたの小道を正しく導かれる。
それゆえ、死すべき人よ、あなたのあらゆる道において主を認めなさい。そうすれば、主ご自身があなたの小道を正しく導かれる。
「あらゆる道で」など。あなたのすべての事柄と労働において、父の知恵であり、私たちのために知恵となったその方ご自身を思い、教師として前に置き、従え。この方の内には鉱床の内のように、知恵と知識のすべての宝が隠される(コロサイ2・3)。また同3・17で使徒は、「言葉でも業でも、何をするにせよ、すべて私たちの主イエス・キリストの名において行え」と命じる。それゆえすべての人は、ヤハウェの受肉した知恵を通して、ヤハウェのもとで知恵の賜物と善を、神的叡智に即して求めよ。その方ご自身、フーだけが、私の思考、労働、手の歩みを導きますように。その方だけが幸いな成功を与えるからである。ああホクマエル、神の知恵よ。ああビナエル、神の分別よ。イエス、ヤハウェの受肉した知恵よ、私を憐れみ、祈祷室と実験室で私たちに真理を教えてください。アーメン。本書第二図と第106句を見よ。
自分の目に自分を賢い者としてはならない。ヤハウェを畏れ、悪を離れなさい。
自分自身を賢いと思ってはならない。神を畏れ、悪を離れなさい。
ローマ書12・16。カトリック、すなわち普遍的な信仰。
「賢いと思うな」知識で膨れ上がる世俗の学園の賢者たちがするようであってはならない。「彼らは煙と技巧でいっぱいである」〔ドイツ語〕。「神を畏れよ」これが人間のすべてである(コヘレト12・13)。これこそ真にカトリック、すなわち普遍的な信仰である(知恵の書1・1、使徒行伝10・35)。第299・301・342句を見よ。これがキリスト教的に悔い改めることである。
神は私に、思いにかなって語り、与えられるものの尊さに応じて考える力を授けられた。神ご自身が知恵の導き手であり、賢者たちを指導する方だからである。
神は私に、思いにかなって語り、私に与えられるものにふさわしいことを考える力を与えた。神ご自身が知恵の導き手であり、賢者たちを正す方だからである。
「神が私に与えた」悪魔ではない。神の賜物である(第187句)。神は今日も千年前と同じく、私に、あなたに、ほかの人々に与える。私たちはただ、自分自身を妨げ、自分に対する務めを怠らないよう注意しよう。神は常に、私たちが知恵を受け取ろうとする以上に、知恵を与える用意がある。
「思いにかなって語る」すなわち、心の着想や思考をきわめて容易に表す、語りの適切さと能力である。この言葉の力は、能弁あるいは雄弁と呼ばれる。「考える」など。神から与えられるものについて、ふさわしく考えることである。神が知恵を愛する者に賢く示し、忠実で愛しい学徒に答えることを、聞き、見、観察するのは、特別な神の賜物だからである。神は多くの者に語るが、彼らは語り答える神を理解せず、注意もしない。それどころか、ああ悪いことに、注意を受けても、歪んだ教師たちと自らの悪意に惑わされ、神的叡智に即して注意し理解することを望まず、拒む。神はあらゆる場所、あらゆる時に私たちに語り、天・空気・地、いや私たち自身の内にも、注意を促す明るい鏡を置く。だが悲しいかな、普遍的に語る神の声を聞く者はごく少ない。神の言葉を聞くことは群衆のものではない。それゆえ彼らはモーセに叫んだ。「あなたが私たちに語ってください。私たちは聞きます。私たちが死なないよう、主が私たちに語らないでください」(出エジプト記20・19)。このため、すべては愚か者で満ちる(第35・37・190・197句)。さらに、考えるだけでなく語ることも必要である。正しく感じても、感じたことを巧みに明瞭に語れない人がいる。それゆえ、それ自体は善いものも、適切に扱われなければ、善いものとしての魅力を失うことが分かる。「神ご自身が知恵の導き手である」フー、その方ご自身、主(第156句)は、人に知恵、雄弁、語りの節度を与え、賢者の指導者、統治者、船首と船尾である。直ちに続いて、私たちも私たちの言葉も、その手の内にあると述べるからである。
私たちも、私たちの言葉も、またあらゆる分別と技芸の知識も、神の御手のうちにある。
私たちも、私たちの言葉も、すべての知恵も、業に関する知識の修練も、その手の内にある。
「その手の内に」など。それゆえ、私たちが受ける苦難や試練も、神の確かな計画によって起こると、賢く忍耐強く認めねばならない。パウロはいう。「私たちは主に裁かれるとき、この世界とともに断罪されないよう、矯正される」(コリント第一書11・32)。無思慮に、偶然にそうなるのではない。キリストも、父の意志なしに雀が死ぬことを否定する(マタイ10・29、ルカ12・6)。原型である神の像と似姿に造られた人間なら、なおさらである。苦しめられ、誘惑され、試練を受けるキリスト教徒には、これは大きな慰めである(第84句)。「すべての知恵と業の」など。あらゆる分別、理論と実践、私たちのすべての行為と労働、祈祷室と実験室、いや生涯全体で、真の知恵とその果実を得るために神的叡智に即して行われるものをいう。したがって賢者の石もまた、自然と技芸の最高善、いと高き神の賜物である。それゆえ『太陽と月の塊の結婚』の著者はいう。「この知を持つには、神のために清められた精神が必要である。これは神の賜物、秘密の中の秘密であり、哲学と哲学者たちの姉妹だからである。霊感によって神から存在を得ているからである」。錬金術師よ、ここで、このように、賢者たちの祝福された普遍的な石を、普遍的に、神的叡智に即して求めることを学べ。個別的に、詭弁的にではなく、普遍性においてである。誤用である個別主義においてではない。カバラと真の魔術についても、同じ判断をせよ。「すべての最善の賜物、すべての完全な贈り物は、上から、光の父から下る」(ヤコブ1・17)。
神は、自然のうちに存在するものについての真の認識を私に授けられた。
神ご自身が、存在するものについての真の知識を私に授けられた。
「その方ご自身が私に与えた」誰がか。神である。悪魔でも、降霊術師に親しい悪しき霊でもない。「すべての最善の賜物、すべての完全な贈り物は上から、光の父から下る」(ヤコブ1・17)のであり、闇の支配者からではない。あの悪党は精神を暗くし、照らさない。盲目にし、真理を見させない。偽りの父、分裂の霊であって、合一の霊ではないからである(第167・185句)。「存在するものについて」実際に存在するもの、すなわち神的および人間的事物、ヘブライ人のメクバリーム、つまり神から受け取った者たちがいう、メルカヴァの業とベレシートの業についてである。「真の知識」意見ではなく、偽りとあらゆる誤りから遠く離れた知識である。学識ある人々が定めたように、天の下にある万物について、人間的な仕方では、真に知識と呼ぶものではなく、むしろ意見しか得られない(第142句)。それゆえ本書の法則と教えにより、ただ神のもとだけでこれを求め、神だけから期待すべきである。大多数は意見を持つが、知る者はごく少ない。意見を持つ者は、知っていない。
注 「non humanitus ... quam」の構文は原刊でも不整合。意味の対比(人間的意見と神からの知識)を保って訳出。
さらに、神が与えるこの知恵は、
知恵は自分の家を建て、自分の七本の柱を切り出した。
知恵は自らのために家を建て、七本の柱を切り出した。
知恵の家。
「家を」それはどの家か。すなわち三一の家である。第一に自然と被造物、つまり霊的被造物を含む大世界全体と、小世界である人間の身体と霊。第二に、人間へ神から吹き込まれた精神、あるいは魂。第三に、聖書、すなわち聖書として書かれた神の言葉である。「七本の柱」知恵がその上に自らの三一の家を据え、築いた柱である。それは、身体・霊・魂という大宇宙の三本の柱、身体・霊・魂という小宇宙の三本の柱である。見よ、六本の柱がある。聖書に言葉を書き記す文字が、一つの柱、第七の柱である。見よ、聖なる七数である。
注 原刊の括弧式組版を文章化。大宇宙と小宇宙それぞれの身体・霊・魂、および聖書の文字という七項の対応を保持。
自分のいけにえを屠り、自分の葡萄酒を調合し、また自分の食卓を用意した。
いけにえを屠り、葡萄酒を調合し、食卓を整えた。
饗宴。
「いけにえを屠った」すなわち自ら進んで、ただその寛大さの恵みによって、すべての者を招き、霊的にも身体的にも、時間的にも永遠的にも尽きることのない自らの善と賜物を捧げたし、今も捧げる。憐れみ深く与えることを喜び、なし得、望む。真に神的叡智を愛する、忠実で愛しいすべての者が、神的なネクタルに満たされ、天のソフィアのマンナに満腹し、知恵の尽きることのない宝庫に与るためである。神に賛美あれ、私もその数に入ることを、真に知っている。ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ。悪魔など退け。
女たちを遣わし、町の高い場所の頂から、呼びかけていった。
女の召使いたちを遣わして、城砦と町の城壁へ人々を招かせた。
侍女たち。
「侍女たちを遣わした」真の知恵の侍女は、実践を通して知られ、経験によって確証され、人間生活に誠実に有益な目的を持つ、あらゆる善い学知と技芸である。学識ある古代は、善い技芸の内には、神とその知恵についてのよい評判が広まっている、と正しく考えた。神はそれらを通して、その奥義・秘密・秘事について私たちと語るからである(第74・261句)。しかし真の知恵の侍女には、広く用いられ、多くの人に知られる普通のもののほかにも、より秘された、いわば閨房に仕える乙女たちを数えねばならない。ああ嘆かわしいことに、原罪によって人間の内の神の像が汚されたのとほとんど同じように、悪魔とその道具たちが、詭弁のこの上なく汚い泥を振りかけ、ひどく穢したにもかかわらず、そうなのである。それらはすなわちカバラである。ただしユダヤ人の間に普通の文字上のカバラ、ノタリエケン、ギメトリア、テウォスラシェ(第5句)という低次のものではなく、神的な太陽の流入・光・運動によってのみ神的叡智の徒に知られる、より秘され、はるかに高いものである。次に魔術、それに近い観相術、額相術、手相術、および事物の自然的徴についての教え全体。さらに錬金術、娘であるゲオマンティアを伴う占星術、その他いくつかがある。これらは驚くべき女主人に、驚異的に、いわば奇跡的に語り仕える。
注 カバラの技法名は原刊活字に従う暫定転写。Teuosrasche は通常の語形に自動訂正しない。
しかし兄弟よ、どうか気をつけよ。この汚れた世界の支配者の嘘や、偽の技芸者たちの悪徳・誤謬を、それ自体は汚れていない学知と技芸そのものに、誤って帰してはならない。それらの嘘や誤りは、まだ神的叡智によって洗われ清められていない、世俗的な真理の探求者、すなわち愚か者たちに対し、真の知恵の命と意志によって、正しくふさわしい罰として、真理を装って進んで身を差し出すのである。こうして徳が悪徳の代わりに、しばしば罪を負わされた。「聖なるものが俗化されるのは、俗なる人が俗に用いるからだ」と正しくいわれる。善いものも、濫用へ転じれば悪となる。しかし「清い者にはすべてが清い」(テトス1・15、ローマ14・20)。また「神を愛する者には、万事がともに善のために働くと、私たちは知っている」(ローマ8・28、第261句)。すべては、観点と用法の違いによって、善にも悪にもなる。自然全体の中で、正当でよい使用とともに濫用をも持たない学知や技芸を、どうか誰か一つ挙げてみよ。前述のものだけが、いかなる特権によって例外となれたのか。ゆえに正義が行われ、各人にそのものが与えられ、誰も害されないように。神は罪に汚れた人を造り直す。汚された秘教的な学知と技芸もまた、造り直すべきである。それら自体は神的叡智の手段として保ち、神を畏れて賢く用い、詭弁的で不敬なものを退けよ。「汚れた子は洗うべきであり、汚れた湯と一緒に投げ捨ててはならない」〔ドイツ語〕。中傷者よ、あなたが知らないからといって、ほかの者が知ることを禁じられているのではない。聖書、教会法と市民法、教父たちから、車いっぱいの反論を挙げられることは知っている。しかし真実で正当な使用と濫用を区別することで、あらゆる饒舌家のあらゆる反論に、十分答えよう。哀れな無知の者の過ちは赦し、悔い改めを願うべきである(第157・187・294句)。
「招かせるために」など。導くため、すなわち、それらを仲立ちとして、神的叡智を愛する忠実で愛しい者たちが、自らの神的な女主人の承認・認識・合一・享受へ至り、知恵の尽きることのない宝に与るためである。その宝は、聖書的・大宇宙的・小宇宙的な三一の家の城砦の内に、人間の罪ゆえにきわめて高い、無知と余剰の城壁によって厳重に囲まれ、隠される。賢者たちはいう。メルカヴァとベレシートの業における賢者で、何らかの秘された媒介を通して、神が自分に語り、答え、教えることに気づかなかった者は、ほとんどいない。その媒介によって、神的叡智の方法に即して、神的なものを人間的に感得したのである。
「単純な者は誰でも、こちらへ立ち寄りなさい。」また、思慮のない者にもいった。
「未熟な者は、私のもとへ来なさい。」そして、分別のない者たちに語った。
知恵はすべての者を自らのもとへ招く。
「幼い者」単純な者。第3句にあるとおりである。
「来て、私のパンを食べ、私が調合した葡萄酒を飲みなさい。」
「来て、私のパンを食べ、あなたがたのために私が調合した葡萄酒を飲みなさい。」
「来なさい」など。受肉した知恵も、そのようにいう。「労苦する者はみな、私のもとに来なさい。私があなたがたを休ませよう」(マタイ11・28)。「渇く者は私のもとに来て、飲むがよい」(ヨハネ7・37)。
単純な者たちよ、自分たちの道を捨てなさい。そうすれば生きる。そして理解の道を進みなさい。
それゆえ、幼さを捨てて生きなさい。そして分別の道を歩みなさい。(その道を私は忠実に示し、父の心をもってあなたがたに勧める。)
「分別の道を」分別と知性の道、すなわち認識の諸段階、神との合一の梯子である。人の子らとともにあることを喜ぶヤハウェの知恵が、その善意の憐れみによってこの梯子を下り、一方私たちは、完全性の徴である十数の再生の衣を悔い改めによってまとい、神的叡智に即して上る。そのとき聖霊の仲立ちによって、私たちは神に近づき、結びつけられ、一つにされ、ここでも永遠においてもヤハウェを享受する。これらの道を、本書第二図で見よ。
ここに第五段の図を挿入すること。
第五段の解釈と注解
V 序説の第五段階、その解説。
善い者はイェホヴァから御好意を汲み取る。そして悪しきことを企む者を、神は罪に定められる。
善い者は主から恵みを汲み取る。しかし、自分の思いに頼る者は愚かである。
「恵みを汲み取る、など」神の恩寵が人間を善い者にするように、神の恩寵は、敬虔と神への畏れとの住まいとなっている者を養い、多くの恩寵の賜物で飾る。賜物には種々の段階がある。太陽の光線が曇ったガラスを暗く照らし、少し透明ならいっそう照らし、もっとも澄んで透き通っていればもっとも明るく照らすように、人間の精神も、ある程度浄化されていれば永遠の知恵の光線に照らされるが、なお薄暗い。悪徳からさらに浄化されればいっそう明るく照らされ、もっとも清められてほとんど万事を忘れていれば、神をある仕方で内奥において見ることによって、もっとも明るく照らされる。救い主は『マタイ』5章8節で証言する。「心の清い者は幸いである、その人々は神を見るからである」。また『ヘブライ』12章14節、「聖さを追い求めよ。それなくして誰も神を見ない」。では、この見ることとは何か。神的な秘義を知ることであり、詩篇作者が『詩篇』51篇8節で神の隠れた知恵と呼ぶものである。悪事を企む者は誰もこれを神から汲み取らず、むしろ内外の闇に満たされる。これこそ真の断罪である。
悪人たちは公正を考えない。しかし主を探し求める者たちは、すべてを悟る。
悪人たちは公正を理解しない。しかしイェホヴァを求める者たちは、すべてを理解する。
「裁きを理解しない」日常生活には、真に主の裁きである出来事が多く起こる。しかし不信心な者はこれを理解せず、神の驚嘆すべき思慮を顧みず、何かの偶然に起こると考える。神的な知恵の霊を授かった者は、人間の救済または滅亡を予示することをも識別する。それどころか、人間のあらゆる行為について、それがどんな結果あるいは終局に至るかを判断する。神の裁きは大いなる深淵である。「しかしイェホヴァを求める者は、など」ああ悲しいことに、人間理性の暗さは大きい。それは神の啓示なしには、神のいかなる業についても、その道理、原因、目的を見通せない。どの手段、どの道によってこの種の啓示に至るべきかを、われらの賢者は黄金の公理によって明らかに教える。「主を求める者はすべてを理解する」。族長ヨセフ、預言者ダニエル、その他非常に多くの者がその例である。『ヨブ』32章7、8節の言葉は記憶に値する。「私は、長い年齢が語り、多くの歳月が知恵を教えるものと期待していた。しかし見るところ、人間のうちには霊があり、全能者の息吹が理解を与えるのである」。
祝福は正しい者の頭上にある。しかし不信心な者たちの口は不義を覆い隠す。
主の祝福は正しい者の頭上にある。しかし不義が不信心な者たちの口を覆う。
「主の祝福、など」かつて王、大祭司、愛される客には香油が塗られた。また祝福するときには頭に手を置いた。そのように神的な知恵は、自分を崇める者に霊の香油を塗り、客を贈り物で飾り、正しい者の頭に救いの手を置く。頭が人間の飾りと栄誉であるように、神的な知恵は、頭のもっとも尊厳ある冠として、人間にこの上なく美しい飾りを添える。それゆえ、膝を折って知恵の玉座のかたわらに立ち、へりくだった口と心で、絶え間なく、揺るぎなく、霊的な祝福を切に求めよ。すると祝福は滴る香油のように、お前の頭上に下るだろう。しかし傲慢、驕り、侮辱、汚れだけを泡立たせる不信心な者の口は、恥辱に覆われる。
曲がった者はイェホヴァに忌み嫌われる。主の密かな交わりは正しい者たちとともにある。
すべて嘲る者は主に忌み嫌われる。主は素直な者たちと親しく語り合われる。
不信心な者は呪われ、敬虔な者は祝福される。
「嘲る者」心が曲がり二枚舌で、神からそれ、神への畏れを捨てる者である。そのためある人々は「イェホヴァは離反者を忌み嫌う」と訳した。すなわち、善なる知恵の霊がどれほど高みに引き上げたとしても、神的な観想と行為の高所に背を向け、この不潔な世の低みへ傾く者のことである。「素直な者たちと」正しく、完全で、汚れなく、善良で、偽装も隠蔽もない者たちと、賢者によればイェホヴァは神智学的に語る。聖書、大宇宙、小宇宙に神的に書かれた自らの言葉によって、祈祷室と実験室においてまで、カバラ的に、自然魔術的に、自然化学的に、その秘義と秘密を啓示し分かち与える。それゆえ哲学者はいう。「もし神が忠実な心を見いだしたなら、必ずその者に自分の秘密の真理を明かすであろう」。このようにイェホヴァを助言者とする者は幸いである。この『円形劇場』の第四図を参照せよ。「その語り合い」おお、驚くべき神の驚くべき語りよ! 神の声は万物のうちに、万物を通じ、万物について、万人に向かってある。神はいつでもどこでも私たちと語る。神は聖書、大宇宙、小宇宙という仕方で語ることをよしとされた。神の像と似姿に形作られた私たちには、イェホヴァが聖なる聖書、自然、私たち自身のうちで響き、轟き、語り、答えるのを、聞き、見、観察する務めがある。神が耳の聞こえぬ者に歌うことのないためである。この『円形劇場』の順序上の第四図に記されるとおりである。第35、37、342節を見よ。
主ご自身が嘲る者たちを嘲り、柔和な者たちには恵みを与えられる。
まことに主ご自身が嘲る者たちを嘲り、へりくだる者たちには恵みを与えられる。
「嘲る者を嘲る」まことに神自ら、報復の法によって彼らに同じものを返し、道化たちを笑いものにする。彼らは知恵を嘲り、その知恵から今度は嘲られる。受肉した知恵のもっとも公平な法はこれである。「お前たちが量るその同じ升で、お前たちも量られる」。イェホヴァは聖なる者とともに聖であり、汚れなき人とともに潔白であり、選ばれた者とともに選ばれ、曲がった者とともに曲がっておられる。『詩篇』18篇25節のとおりである。「柔和な者に」へりくだる者に、ということである。神はこうした者を高く上げ、傲慢な者を低く下ろすからである。謙遜すなわち柔和、および神への畏れにおいて神の前で自分を低くすることは、知恵の実とともに神のうちで栄光をもって自己を見いだし、高められ、昇華されることである。神は心のへりくだる者を引き上げ、高い者とするからである。第202節を見よ。
注 原版欄外の参照番号「184」を保持。
心の曲がった者はイェホヴァに忌み嫌われる。道において完全な者は、神の御好意である。
注 通し番号の代わりにアステリスク。
曲がった心は主に忌み嫌われ、その御心は素直に歩む者たちの上にある。
注 通し番号の代わりにアステリスク。
「曲がった心」すなわち、第51、201、205節にいう愚者である。「素直に歩む」汚れなく、罪なく、完全さと誠実さのうちに、堕落せず、悪徳に従わず、主の御好意に従って、ということである。受肉した知恵を身にまとい、自分たちがその像と似姿に形作られた原型に倣うのである。こうした者について『詩篇』147篇11節はいう。「主の御好意は主を畏れる者の上にあり、その慈しみに望みを置く者のうちにある」。二重性の皮をかぶっていないこうした者には、そのすべての行為において、善を意欲し、知り、存在し、なし得ることがイェホヴァから吹き込まれる。それゆえ祈る者よ、働く者よ、お前は素直に歩め。
心の曲がった者は善いものを見いださず、舌を翻す者は災いに陥る。
心の曲がった者は善いものを見いださず、自分の舌を翻す者は災いに陥る。
「心の曲がった者」曲がった心には曲がった舌も結びついている。その舌は心の宝蔵を開き、自分のために破滅の穴を備える。曲がった者の舌は自らの破滅をなし遂げるものであり、このように不信心な者は自分の舌によって滅びる。ここから、あの曲がった学者たちが現れる。彼らについて「学識ある者、ひねくれた者」という諺が生じた。すなわち、上で私たちが論じた、あの愚かで鈍い娼婦を熱狂的に愛し、今なお偶像として崇める者たちである。他方、心が正しく素直な者は、神的で秘められた知恵、神の玉座のかたわらに立つ者、神、聖なる聖書、自然、技芸のあらゆる秘義の真実にして忠実な女教師を、自らの花嫁として迎える。このようにして永遠の知恵の善きものと賜物を汲み取る。第187、294節を見よ。
注 fidemque は原版どおり。文脈上は fidamque の意味。
自らの素直さに従って歩む貧しい者のほうが、邪な道を行く富む者より優れている。
自らの全き道を歩む貧しい者のほうが、道が曲がっていながら富んでいる者より優れている。
「貧しい者のほうがよい、など」貧者は素直な信仰によって、ただ神と知恵にのみ堅く結びつき、自らの素直さのうちにもっとも賢明に歩む。神に喜ばれるからである。神に喜ばれることこそ最高の幸福、真の富である。自分の境遇に満足し、貪欲、傲慢、空しい名誉、快楽から離れた精神をもち、素直さと完全さのうちに歩むことは、知恵の大きな部分をなす。「富む者より、など」不潔な世は地上の財貨を貪る。それらは悪への刺激、心の腐敗、傲慢と虚栄を煽るふいご、快楽の小枕であり、最後には報酬の代わりに、それに執着する者すべてを永遠の破滅へ突き落とす。
愚かな者の手に、知恵を買うための代金があって、何になるのか。その者には思慮がないのに。
愚かな者が富を持っていても、知恵を買えないなら、何の役に立つのか。
おお、富める愚者よ!
「愚者に、など」賢者がここで愚者と呼ぶのは、第205節のように神への畏れのない者だけではない。高慢で、傲慢で、理由なく怒る者、つまり「頑固で独りよがりの夢想家、不当な騒ぎ屋」でもある。その者がいかに財産に恵まれていようとも、「どれほど金持ちで、同類から高く評価されようとも、やはり愚か者である」。パウロは『ガラテヤ』6章3節でいう。「何者でもないのに自分を何者かだと思う者は、自分自身を欺く」。カトーはいった。「空しい栄光に苦しめられる愚者は、こうしたことをする」。さらに、悪を行うことを考える者は愚者と呼ばれる(『箴言』24章8節)。実際、神ご自身も、神の法の秘義も、神の言葉の秘義も、すなわち書かれた言葉と受肉した言葉の秘義も、自然の秘密も、真に心に留めない不信心な嘲笑者は、神の御前では愚者である。彼らはこの不潔な世においてどれほど卓越し高貴であろうとも、裁きの日には立ち得ず、愚者であるゆえに永遠の恥辱を受ける。第205節を見よ。「知恵を買えないのに、など」知恵は金銭で売られず、相続によって子供に伝わりもしない。心の底からイェホヴァに祈りを注ぎ、恵み深い方の慈愛から、それを求め、得なければならない。その方が恵み深く送ってくださるように、と。要約すれば、霊と真理において知恵を祈り求め、その宝を幸いに獲得するために、賢く働くべきである。それゆえ、この『円形劇場』の法と教えに従って、祈祷室と実験室に賢く入らなければならない。第87節を見よ。注意せよ、ここで愚者は世俗的に学識ある者とも理解でき、富は神への畏れを欠いた知性の賜物とも理解できる。「語学に通じた愚者、愚かな語学者」、文字に通じた愚者であって、真に教えられた者ではない。
主への畏れは知恵の訓戒である。そして謙遜が栄光に先立つ。
イェホヴァへの畏れは知恵の教導である。そして栄光の前には謙遜がある。
「主への畏れ、など」第159、210節のとおり。「謙遜」心の謙遜である。柔和、すなわち気質の穏やかさと温順さである。ちょうど高慢が転落に先立つように。『箴言』16章18節では、高慢は破滅に先立つ。それゆえ、祝福された乙女は賛歌でいう。「主は、その心の思いにおいて高ぶる者を散らし、権力ある者を座から引き下ろし、へりくだる者を高く上げられた」。『ルカ』1章51、52節。
高慢が来るとき、恥辱も来る。そしてへりくだる者たちとともに知恵がある。
高慢のあるところには、侮辱もある。しかし謙遜のあるところには、知恵もある。
「高慢があるところ、など」イェホヴァは高慢な者を忌み嫌う。高慢な者が神の威厳に逆らうため、神も高慢な者に逆らうからである(『一ペトロ』5章5節)。へりくだる者は神の恩寵にのみ頼るため、神はへりくだる者に恩寵を与える。高慢な者は神の玉座を狙うので、神は計画の誤りや不運な結果によって彼らを罰する。そのすべての計画と結果が、彼ら自身の恥、不面目、破滅に変わるようにする。一方、へりくだる者を光と、理解、助言、勇気、力、認識の霊の賜物で飾る。これらの賜物は、統治と人間の行為における幸いな成功の泉である。「主に忌み嫌われる、など」神は、私たちが全生涯において享受するものは神の善きものと賜物であると知り、口と心で告白し、私たち自身の思慮や力に何も帰さないよう望まれる。「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、御名に栄光をお与えください」(『詩篇』115篇1節)。「忍耐する者は傲慢な者にまさる」(『伝道の書』7章9節)。
分別ある者の心に知恵は憩い、学びのない者たちすべてを教え導く。
理解ある者の心に知恵は憩う。しかし愚かな者たちのただ中でも、それは知られる。
「心に」精神に、ということである。それは知恵のハギアステーリオン、すなわち聖所であり、小宇宙におけるミネルヴァの神殿である。このように『箴言』17章24節で賢者はいう。「思慮ある者の顔には知恵が輝く」。また『伝道の書』8章1節、「人の知恵はその顔に輝く」。すなわち、人相学的に、額相学的に、ということである。
注 metaposcopicè は原版表記。通常の metoposcopicè に相当する。
賢者たちと歩む者は賢くなる。愚かな者たちの友は、彼らに似た者となる。
賢者たちと歩む者は賢くなる。しかし愚かな者たちの友である者は、打ち砕かれる。
「賢者とともに、など」すなわち、自然の書と聖なる聖書の教え、および自らの良心の証言に従う者たちとともに、ということである。このようにする者は、忠実に祈り、賢く働くことにより、まっすぐでこの上なく確実な道を通って、神的事物と人間的事物の最高の知へ上り、真に賢くなる。万事をそれらの法と証言に照らせ。それらなしに語ることを、真理を学ぶ私たちは恥じる。わが子よ、もしお前の精神がこのように、カバラ的に永遠の知恵の光線によって照らされたならば、こうなる。メルクリウス・トリスメギストスによれば、神ご自身が私たちの知性の眼であり、その光なしには、私のいうとおり、知性は自然的事物においても超自然的・神的事物においても盲目のままである。私たちは聖なる聖書、自然、自己認識のいずれの光も決して見ないからである。そのときお前は、この言い表せない光に導かれ、あらゆる誤謬の闇を安全に歩む。そのとき、すべての学問の種類を、善いものも悪いものもそれぞれの仕方で、傷つくことなく、自由に、実り豊かに究められる。そのとき、ユリシーズのように、キュクロプスの洞窟に入っても、冥府に下っても、無傷で帰ってくる。ここではH・C・アグリッパの言葉を用いよう。彼の真正な著作から私は、彼が善良な哲学的福音伝道者であると知っている。その言葉が前提とするのは、神智学的な精神であって、黒魔術的な精神ではないからである。ロートパゴイやシュルティスへ赴いても無事に帰り、キルケーの杯を飲んでも姿を変えられず、スキュラのそばを航行しても危うくならず、セイレーンたちを聞いても眠り込まない。使徒のいうように、あらゆるものを裁き、自らは誰にも裁かれない者となる。
注 括弧の対応に原版の乱れがある。訳では論旨を明確にした。
「愚者の友」ありとあらゆる悪徳の種類から集められた汚物を、われらの賢者も、徳のもっとも重々しい擁護者であるストア派も、愚かさと呼ぶ。聖書では悪意および愚かさと呼ばれる。同じく、あらゆる点で完成した善良さは、双方によって知恵と名づけられる。愚者、すなわち悪徳ある者、悪い者との交わりを避けよ。第201節に述べたとおり、悲しいことに、ほとんどすべての身分、学問、技芸がこうした者で満ちている。このような悪魔的な愚者との親交ほど害をなす毒も疫病もない。カバラと魔術を学ぶときは、黒魔術師を、その道具である彼らの悪魔そのものを避けるように避けよ。錬金術では、詭弁的に論じ、実作業する者を避けよ。彼らは愚者だからである。挨拶さえするな。まして親しい者とするな。隣人は隣人から疫病にかかる。「忠実な者よ、神を信じよ。死すべき人を信ずるには慎重であれ。その者が信頼に値するか、まずよく見よ」。多くを信じ、わずかしか見なかったなら、非常に大きな損失を招く。ユウェナリスはいう。「葡萄は隣の葡萄を見て黒ずむ」。習慣や交際の力は、どちらの方向にも大きい。少数の、しかも善い者とともに歩むべきである。各人は、自分が交わりを喜ぶ相手と同じような者である。「それ自体から知れない者も、仲間から知られる」。仲間は仲間の影である。しかし知恵は悪意に勝る(『知恵』7章30節)。ゆえに、肉となった神の知恵のうちで、私たちは悪意に対する勝利を得られる。ただ、その知恵のうちで賢くなるならばである。そのうちで私たちは勝利もする。それゆえ、自分とともに一人であれ、しかし孤独ではない。一なる方のうちにあるからである。三一者のうちにある三一者であれ。受肉した知恵はいう。「二人または三人が私の名によって集まるところ、私はそのただ中にある」。男と女は二つ、身体・霊・魂は三つの異なる本質である。それらは、十字架につけられたイェスフ・キリスト、父の受肉した知恵の名によって、神智学を学ぶ一人の人格のうちに集められて、一つである。この者、この諸者のただ中には、かつてあり、今あり、来たる方、神、神の知恵、神的知恵の霊がおられる。そのときお前は、スキピオより正しく真実に、「閑暇のときほど忙しいときはなく、独りのときほど独りでないときはない」、また「閑暇において、より多くのことをなす」といえるだろう。おお、幸いな閑暇よ、決して怠惰なものではない! 不潔な世はこれを理解しない。この閑暇を享受するのは神の友だけであり、世俗的、非聖的に賢い愚者たちの友ではない。厚顔な人間はこれを理解しないだろう。
注 IHSVH は原版の五文字形神名表記を保持。
また、知識を伴わない欲求は良くない。
魂の知識がないところに、善はない。
「知識のないところ、など」節度ある計画のないところでは、事柄は誤った実行によって損なわれる。それゆえ知恵は、自らを愛し忠実に崇める者に、万事を慎重に、思慮深く、敬虔に、節度をもって行い、常に終わりを見据えるよう教える。反対に、知恵を欠く俗衆は、神への畏れもなく、神に相談せず、事業へ突進する。愚者は愚かな計画によって、激流や急な川に流されるように運ばれる。性急さは先を見ず盲目であり、神を忘れることがそれを悪く導き、最悪の結末へ至らせるからである。
私は、嫉妬によってやせ衰える者と道をともにするつもりはない。そのような者は知恵にあずかる者とならないからである。
また、嫉妬に衰え果てる者と道をともにするつもりはない、と賢者はいう。そのような人は知恵にあずかる者ではないからである。
悪意をもって嫉む者は、神的な知恵にあずからない。
「嫉妬にやつれる者と、など」私は分かち合わず、何も共有せず、嫉む者とは交わらない、ということである。哲学者の習わしは、嫉まないことだからである。そのため敬虔な古代は、ムーサたちの扉を開くべきだとした。しかし無差別にすべての者へではない。では誰へか。教えと訓練の子らだけにである。神の賜物は、純真で自由な精神にのみ、純真かつ惜しみなく分かち与えられるべきだからである。悪魔に取り憑かれた豚に真珠を投げてはならない(第344節)。きわめて博学なツヴィンガーは、『ヒポクラテス表』37頁で正しくいう。「昔の技芸の威厳はこうであった。秘義に入った者にしか伝えられなかったのである。あるいは肉声によって伝えられ、その聞き手はアクロアタイと呼ばれた。ヘブライ人のカバラはここから名を得ている。あるいは書によって伝えられたが、世俗の群衆を遠ざけ、理解する者だけに秘義を伝えるように、暗い記述であった」(第43節)。「まさにその公然たる安売りが、技芸から権威を、また軽蔑されることによって効力までを盗み去るように見える。技芸の秘義を軽率に部外者へ明かす者は鞭打ちに値する。それと同じく、嫉妬のために入門者にさえ伝えようとしない者も、当然非難されるべきである」。以上が彼の言葉である。引用したわれらの賢者の言葉、および第147節の言葉は、この意味で思慮深く解釈すべきである。鼻を利かせるお前は、自然と技芸における最高善について自然化学的に哲学する者が出し惜しみする、と反論するかもしれない。哲学者ロシヌスを聞け。「この事柄を知る者が出し惜しみするのは、神の裁定である。この世の貪欲のためではなく、悪者がこれを知っていっそう非聖的な行いに進み、哲学者たちがその罪の申し開きをしなければならなくなるのを防ぐためである」。見よ、先に引用したツヴィンガーの言葉にも、十分に立派で、充分で、正しく公平な答えがある。
注 ἀκροατὰς=聞き手、聴講者。inuidia は嫉妬と秘義の出し惜しみの両義で用いられる。
葡萄酒は人を嘲る者にし、シェカル、すなわち強い酒は人を騒ぐ者にする。それを楽しむ者は誰でも、賢い者とはならない。
葡萄酒は放縦なものであり、酔いは騒がしいものである。これらを楽しむ者は誰でも、賢い者とはならない。
「葡萄酒は放縦なもの、など」ヘラクレイトスはいった。「愚かさを隠すのは難しいが、酒の中では不可能である」。カトーは、「一人の例外を除けば、素面で国家の転覆に赴いた者はかつて一人もいない」といった。プラトンは、「節制の乏しい生活で賢者になる者は決しておらず、節度ある者になる者はさらに少ない」といった。セネカは、「酒によって生まれ、狂気の習慣によって固まった悪徳は、酒なしでも力をもつ」といった。ゆえに知恵は杯から汲むものではない。しかし族長ヨセフの銀杯、彼がその中で未来を預言し占った杯から飲めるようにとは、切に願うだろう(『創世記』44章5節)。実際、この杯が最高の神的魔術の技によって、哲学的エレクトルムから、天文学的に鋳られたことを、誰が否定するだろうか。秘義の長アウレオルス・フォン・ホーエンハイムがこのエレクトルムについて後世に遺した文書は現存する。知恵は『雅歌』8章2節で、自らを愛する者たちにこのような杯を差し出し、天上のネクタルで酔わせる。あらゆる自然的知恵の守護者である、かの天上の影響力と星辰の宝は、知恵に渇く素面の魂へ、もっとも喜んで流れ入り、自らを注ぐ。「しかし天は、酔いしれて狂った愚者どもを、汚らしい者、うすのろのままにしておく」。
注 ドイツ語 vnfleter は拡大画像で確認した原版表記。Unfläter(不潔な者)の古形に相当。哲学的エレクトルムは歴史的な錬金術的合金概念。
賢者の心は教えを求め、愚かな者たちの口は無知を食物とする。
理解ある心は知識を求め、愚かな者たちの口は愚かさを食物とする。
「無知を食物とする」異教の著者は正しくいう。「無知な人間ほど不正なものは、どこにもない」。「生まれ育ったとおり、愚者のままでいる」。
主への畏れは知恵の始まりである。愚かな者たちは知恵と教えを軽んじる。
イェホヴァへの畏れは知識の始まりである。愚かな者たちは知恵と教導を軽んじる。
主への畏れ。『集会の書』1章16節。『詩篇』110篇。
「主への畏れ」これは罪ある者が責め苦を恐れる恐怖ではない。神学者が奴隷的と呼ぶそれは、激情であり、罪ある良心の虫であって、悪い心、すなわち自らの悪を意識する精神を毎日かじり、焼くものである。そうではなく、神ご自身から来る、神的で救いをもたらす、子としての畏れと呼ばれるものである。カバリストたちに倣っていえば、愛よりも高く優れたものである。第212、232節も同様。「愚者は軽蔑する」それゆえ、この私たちの『円形劇場』を軽蔑する者は愚者である。その理由は、その教えが知恵の泉から流れ出たことにある。事実そのものが語っている。
イェホヴァへの畏れは命の水脈のようであり、それによって人は死の罠を離れる。
注 velut が二度続く原版の重複を保持。
主への畏れは命の泉であり、それによって人は死の破滅を避ける。
「命の泉」不従順、神への軽蔑、自己愛、高慢が、死とすべての災難の始めであり泉であり、まことに死と地獄の破滅および罠であるように、信仰と神的な愛に結びついた、子としての畏れと呼ばれるイェホヴァへの畏れは、真に命の泉であり源泉である。聖霊は神への畏れの霊、すなわち神への畏れの作者だからである。この聖なる畏れに、神は特別のエウドキア、すなわち御好意を抱き、父が一人子を喜ぶようにそれを喜び、その者に知恵の秘奥を明かす。知識、理解、認識の霊がその者の上に留まるのである。
知恵の始まりはイェホヴァへの畏れである。そして聖なるものについての知識は理解である。
知恵の始まりは主への畏れである。そして聖なるものについての知識は分別である。
「知恵の始め」第210、232節を見よ。『ヨブ』28章28節。「見よ、主への畏れ、それこそ知恵であり、悪を離れることが理解である」。子として神を畏れることこそ、まさしく愛である。神を畏れることは愛することである。おお、このきわめて実り多い『愛する技術』よ! この私たちの『円形劇場』は、いかに忠実にそれを教えていることか。これは神的である。あのオウィディウスのものは世俗的で不潔である。
それゆえ、あなたの心が罪人たちを羨んではならない。むしろ、一日じゅう主への畏れのうちにありなさい。
あなたの心が罪人たちを羨んではならない。それよりむしろ、一日じゅうイェホヴァへの畏れのうちにありなさい。
「羨むな、など」カコゼーリア、すなわち悪しき模倣と、世俗的な行状、道化的な行状、快楽、欲情、享楽、高慢、野心、奢侈、高利貸し、怒り、支配などの愚かな模倣は、多くの者に究極の破滅をもたらした。そのような世俗の仮面へと変わるな。イエス・キリストを身にまとい、その像へと変えられよ。「終日」全生涯、お前の生涯のすべての日に、ということである。そのとき初めて、それ以前ではなく、この『円形劇場』の第二図にあるように、知恵が上から滴らせるマンナと、超天上的なネクタルの雨を、また知性の羊毛によって水の雨を、心の燃焼によって火の雨を受けるだろう。そして真理に渇く魂の舌で、主がいかに甘美で快いかを味わうだろう。お前の全体、身体・霊・魂は、水の流れのほとりに植えられ、時に応じて実を結び、その葉が落ちない木のようになる。お前が行うすべては栄える。イェホヴァの知恵がお前とともに祈り、働くからである(第261節)。このようにして賢者の石にも至るだろう。『詩篇』1篇3節。また「敬虔はすべてのことに役立つ」という言葉がまったく真実であることを、経験するだろう(『一テモテ』4章8節)。
確かに報いがあり、あなたの望みは断ち切られないからである。
あなたは終わりの時に望みを抱くことができ、あなたの待ち望むものは取り去られないからである。
「終わりに持つであろう」お前は至高者の助けのうちに住み、天の神の守りのうちに留まるからである。主にいう。「あなたは私の支え、私の庇護所、私の避難所、私の神である。私はこの方に望みを置く」。『詩篇』91篇全体を見よ。他の詩篇が悔悛、祝福、呪詛、解放、復讐などの詩であるように、この詩篇は、私のいうところ、すべての逆境に対する解毒と防御の詩である。ヘブライ人はこれを認め、キリスト教徒はこれを実証した。お前自身も、毎日ダビデの詩篇をダビデのように祈るなら、経験するだろう。しかしダビデのように祈るのは、大きく稀なことである! 十字架と苦難の学校で十分に鍛えられた者だけが理解する。この者たちにとってのみ、詩篇集は祈りをもっとも豊富に備えた貯蔵庫、万能薬である。私が少しでもこれを学べたことについて、神を讃えよ。この秘密については、さらにふさわしい場所で詳しく述べよう。「お前の希望は断たれない」知恵はお前を欺かない。あらゆる欺瞞を欠くからである。お前は知恵から、もっとも真実で甘美な永遠の実を受ける。反対に世俗の知恵は、欺瞞、誤謬、不確実さに満ちているため、救いの実を後に残さず、悲惨、心の痛み、誤り、責め苦、絶望、死を残す。
死すべき者たちよ、善い心で主を思い、素直な心で主を求めなさい。
人々よ、善い心で主を思い、素直な心で主を求めなさい。
「主について」また主の業、善きもの、賜物について、ということである。聖なる聖書、自然の書、お前たちの良心の証言における、主の真理の意志に従って。「素直さのうちに」鳩の素直さのうちに、すなわち完全さのうちに、原型に倣って、ということである。悪魔的な蛇の狡猾さや奸智によってではない。聖なる素直さは、永遠の知恵の真理の友である。決して偽るな。悪いことがお前を強いて悪人にすることのないようにせよ。たとえ周囲がすべて悪くとも、最善者の助けにより、自分の内において善くあれ。欺かれぬよう思慮深く、欺かぬよう素直であれ(『マタイ』10章16節)。悪い計画は、その計画者にとって最悪である。
主を試さない者たちは主を見いだし、主に信仰を置く者たちには主が現れられるからである。
主を試さない者たちは主を見いだし、主を疑わない者たちには主が御自身を示されるからである。
『申命記』4章29節。『歴代誌下』15章4節。神はいかに求められるべきか、誰によって見いだされるか。
「主を試みない者」神の法が「お前の神、主を試みてはならない」と戒めるのは無駄ではない(『申命記』6章16節、『マタイ』4章7節、『ルカ』4章12節)。熱情の神であるイェホヴァは冗談を容れない。これに、この『円形劇場』第四部の第十規則を関連づけよ。魔術を復興し更新する改革と、反対に黒魔術を根こそぎにする絶滅についてである。そこで「提示」が論じられるとき、お前は私を理解するだろう。第142、217、251節を見よ。神智学的に相談する者が神を試みるのではなく、軽率に、冗談で、傲慢にそうする者が試みる。「現れる」エンファニゼタイ、すなわち明らかになる。この語は、神が敬虔な者に自らを開示し表明し、あるいは認識されるべきものとして示す認識を意味する。それが媒介的であれ直接的であれ、大宇宙的であれ小宇宙的であれ、どの仕方で起こっても同じである。そのように、肉において現れた永遠の知恵、イェスフ・キリストは『ヨハネ』14章21節でいう。「エンファニソー・エマウトン、私は自分自身を現し、明らかにする」。第142、195節を見よ。そして理解する者となれ。「信仰をもつ者、など」賢者は、テーン・アピスティアン、すなわち不信仰が、真理を認識し、神の賜物を得ることの妨げとなると教える。不信仰とは、神が自ら進んで恵み深く差し出す賜物を、私たちがひねくれて払い落とす左手のようなものである。経験に教えられ、私は断固としてそういう。信仰が奇跡への門、主から驚くべき善と賜物を得る手であるように、不信、すなわち不信仰は、奇跡を失い、また追い払うことであり、イェホヴァから偉大で驚くべきことを願い得て、それを私たちを通じて成就することの妨げである。神智学者は神にとって、人間にとっての自分の手に当たるからである。それゆえ、どれほど讃えても足りないカプニオンは『奇蹟をなす言葉について』第二巻第六章で正しくいう。「神は人間と契約を結ぶ。しかし誰とでもではなく、聖さ、敬虔、信心、そして何より信じることの確信によって輝く者とである」。また別の著者は神との精神的合一についていう。「私たちにこれを拒むのは神ではなく、私たちの罪である」。罪の中でも不信仰は決して小さくない。正しい者がその信仰によって生きるように、見る者は信仰によって見る。キリスト教の詩人は歌う。「神は、信頼する者を見捨てることを知らない」。哲学者モリエヌスはいう。「何かを恐れる者はみな、真理において完全ではない。賢者が何かを恐れることは、まったくふさわしくない。恐れればすぐに絶望するからである。絶望すればその心は揺らぎ、いかなる仕方でも自らの意図の成果を得られない」。第167節を見よ。ここで精神を働かせよ。それゆえ私たち皆、キリストの弟子たちとともに叫ぼう。「主よ、私たちの信仰を増してください」。見るために信じよ。十分に語った。
注 Capnio はヨハン・ロイヒリンの人文主義名。
曲がった思いは人を神から引き離す。また、試されて明らかになった神の力は、思慮のない者たちを戒める。
曲がった思いは人を神から引き離す。そして神の力は、試されるとき、思慮のない者たちを責める。
「曲がった思いは引き離す、など」神は純潔な知性であり、純潔な心、身体、霊、魂によって、呼び求められ、探し求められ、見いだされ、保たれることを望む。パウロはいった。「娼婦の肢体であると同時に聖霊の肢体であることはできない」。神の恩寵によって、悪徳への憎しみとともに徳への愛がお前のうちに生まれ強められるように、神に祈れ。これが神への畏れである。「その力、など」すなわち神の力であり、身体、霊、魂へのきわめて大きな危険なしには試みられない。不信仰な者にはこの二つの悪徳、いわばそれを示す徴がある。一つは不信、もう一つは神に向けた大胆さと無謀さであり、このように神を試みる。ここから学べ、つまらない質問や、自分や隣人を害する高慢な願いなどによって、イェホヴァを試みるな。第216節を見よ。
悪しき魂に知恵は入らず、罪に従属した体に住むこともない。
悪意ある魂に知恵は入らず、罪に支配された体に住むこともない。
「悪意ある魂には入らない、など」理由は、似ていないもの同士には合一がないからである。光と闇、善意ある者と悪意ある者、真理と虚偽、善と悪に、どんな一致があろうか。二を退けなければ、一者の単純さへの還元は起こらない。先に自己から離れ、自己を否定しなければ、イェホヴァとの合一も起こらない。「悪を離れて善を行え」(『詩篇』34篇15節)。歪められた自分自身から立ち去り、この『円形劇場』の法と教えに従って、原型の範に即して形を改めよ。受肉した知恵に忍耐強く従い、神智学的に倣え。そのとき知恵の霊ホフマエルがお前に宿る。そのとき父イェホヴァ、兄弟なる十字架上のイェスフ・キリスト、友なる聖霊がお前に入り、王として、自らの小宇宙的宮殿または玉座、すなわち三一で、再生し、真に普遍的なお前自身に住み、座する。この『円形劇場』第二図のとおりである。悔悛の洗い(『イザヤ』1章16節)によってより善いものへと変成し、お前は神と結びつき合一し、超天上の太陽の光線で照らされる。心の清い者となり、お前の内に神を、神の内にお前を、すべての内にすべてを見る。地上的な者は地上的なものを受け、世俗的な者は不潔な世の支配者から世俗的なものを受ける。霊的な者は、神から委ねられた奉仕の仕方の下で、善霊たちから大宇宙的にも小宇宙的にも霊的なものを受ける。神的な者は、神ご自身から神的なものを受ける。十分に清くない者は、どうして清いものに触れようと敢えてするのか。地上的、世俗的な者よ、霊的・神的事柄について判定するのをやめよ。お前は一度もその甘美さを味わわないものを、盲人が色についてするように裁いている。第46、157節を見よ。お前は私とこの書を世俗的で不潔だと判断した。あまりに世俗的な仕方で判断していないか気をつけよ。第46節を尋ねよ。「罪に従属する」それゆえ知恵の子よ、罪を犯すな。神ご自身が見ておられるからである。どこにおいても主の目は善人と悪人を見ている(『箴言』15章3節)。目を造った方が、どうして見ないことがあろう。耳を植えた方が、どうして聞かないことがあろう(『詩篇』94篇9節)。お前の守護天使(『詩篇』91篇11節)、神の奉仕者(104篇4節)がかたわらに立つ。良心は千人の証人として抗議し、人類の最も激しい敵である悪魔は告発する。罪へと誘われるわが兄弟よ、どうか、お前が行い考えるすべてを常に見て証言する守護天使を眼前に置け。また、あらゆるものがその眼に開かれ、天の上に座して深淵を見通す監察者なる神を眼前に置け。一人のちっぽけな人間が証人でも公然と行うのを恥じるほど汚らわしいことを、お前に近くいる天使、神、天上の全合唱隊が見て忌み嫌う前で行うのを、恐れないのか。ええい、お前はどこへ落ちてゆくのか。
そう、もしあなたが理解に向かって叫び、理解に向けて声を上げるなら、
もしあなたが知恵を呼び求め、分別に心を傾けるなら、
「呼び求めるなら」神の慈悲と神の全能の助けを嘆願することが敬虔であるように、神智学的に知恵を得るため、終わりの時代に受肉したイェホヴァの知恵そのもの、ホフマエルを呼び求めることは、まさしくキリスト教そのものである。われらの賢者は、まだ受肉するべきその知恵を呼び求めた。
銀のようにそれを求め、宝のようにそれを探し出すなら、
金銭のように知恵を求め、宝のようにそれを掘り出すなら、
「探し求めるなら」不潔な世の虚しいものを、それがどれほど輝かしく金持ちであろうとも、キリスト教徒として知恵の後に置き、知恵を求めるなら、ということである。しかしお前はいうだろう、「どこで、何の助けで、なぜ、どのように、いつか」。聞け。祈祷室と実験室で、この『円形劇場』の法と教えに従い、第48節に記した超天上のソフィアの扉を叩け。神の許しにより、お前はそれを見いだす。「宝のように、など」地上の土や岩山の深みからは、善いものへの刺激となる富が掘り出される。知恵の大地は三一の普遍的な書である。すなわち、聖なる聖書、自然、神によって照らされた私たちの知性の書である。このきわめて豊かな大地の鉱脈を、本『円形劇場』の法と教えに従って探れ。イェホヴァが賜ることで、お前は知恵を見いだすだろう。そこから宝のように、キリスト教カバラ的に、神的魔術的に、自然化学的にそれを掘り出し、思慮深く胸の小箱へ納めよ。これらを正しく書く私は、敢えてお前に約束する。お前は神に喜ばれ、主から御好意を汲み取り、知恵を通して神から、自分の事業、計画、労働において、善く意欲し、知り、存在し、なし得ることを得る。そしてこのように身体、霊、魂の救いを引き出すだろう。真実を語る者を信じよ。どんな災難や逆境の冬も、神に密着する信頼の、実り豊かに願いを得る熱を、回復不能なほど消すことは決してない。それは、建てる者たちが捨てた知恵の石(『詩篇』118篇22節)から回復できる。この岩は、肉となった知恵、イェスフ・キリストである。天上の火の種床と、永遠の命へ湧き上がる生ける水の水脈をもつ。「これは主のなさったことであり、私たちの眼には奇跡である」と、詩篇作者とともに私はいう。
注 irritamenta bonorum(善いものへの刺激)は原版どおり。前出の irritamenta malorum と異なる。
そのとき、あなたはイェホヴァへの畏れを理解し、神についての認識を見いだすであろう。
そのとき、あなたは主への畏れを理解し、神についての知識を見いだすであろう。
神の知識。
「そのとき」前述の方法で神智学的に知恵を求め、探究した後に、ということである。賢く知性と手を働かせる者を、神々、エロヒムは助ける。広い道を走ってムーサたちに至ることはできない。すなわち世俗的に、ということである。広い道はこの世の道、大学の道だからである。「神の認識」生半可な物知りよ、お前はあまりキリスト教徒らしくもなく、神は私たちに認識できないと否定する。この言葉についてわれらの賢者と争うがよい。おお、悪魔的な頭どもよ!
注 negas ... non posse には二重否定の文法的な乱れがある。訳は論旨に従い「神を認識できることを否定する」と解した。
あなたを知ることは完全な義であり、あなたの力を理解することは、不死の根である。
主よ、あなたを知ることは完全な義であり、あなたの正義と力を知ることは、不死の根である。
「あなたを知ること、など」神の確固として完全で真実な認識は、完全な正義であり、そのうちにあらゆる徳を包む。神を知るとは、神の本性について賢く論じるだけではない。『二ペトロ』1章4節のペトロとともに「神の本性」と呼ぶことを許されたい。神の法、すなわち神の正義の声と、大宇宙的・小宇宙的に書かれた神の言葉のうちに明示された、その意志を理解し実行することでもある。すなわち神を畏れ、その慈悲を信じることである。『エレミヤ』9章24節はいう。「人はこのことを誇れ、私を知ることを。私が裁きと正義と慈悲を行う主であることを」。すなわち、罪人を罰し、受肉した知恵、十字架上のイエス・キリストのゆえに悔い改める者を赦し、私を畏れ私を信じる者へ慈悲を示すことである。『一ヨハネ』2章3、4節。「その掟を守るなら、それによって私たちはこの方、神を知ったと分かる。神を知っているといいながらその掟を守らない者は偽り者であり、そのうちに真理はない」。『詩篇』147篇11節はこの教えの要を次のようにまとめる。「主の御好意は主を畏れる者の上、その慈悲に望みを置く者の上にある」。キリストは『ヨハネ』17章3節でいう。「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わしたイエス・キリストを知ることである」。この方だけが不死の根である。実際、被造物と自然を知ることは知恵の大きな部分、自己を知ることはより大きな部分、神を知ることは最大で最高の部分である。アウグスティヌスは実に正しく、真実に、賢くいった。「主よ、私が自分を知ることをお与えください。そうすればあなたを知りましょう」。私からも繰り返させてほしい。「イェホヴァよ、私の意欲を助け、完成させてください」。アーメン。
付け加える。神化する光が共に輝くとき、三一なる神的威厳の三一の鏡のうちで、身体と知性の眼をもって自分を見、眺め、観想するとき、お前は自己を知る。この鏡とは、創造された宇宙、書かれかつ受肉した言葉、神が私たちに吹き込んだ魂である。神智学的、自然学的、自然医学的、自然化学的、自然魔術的、超自然魔術的、カバラ的に自己を観想するのである。そのときお前は自分がどのような者かを見、身体、霊、魂の欠点、瑕疵、汚点を見る。そこで王なる詩篇作者とともに『詩篇』51篇をもって、悔悛しつつイェホヴァに叫ぶ理由をもつ。「神よ、あなたの大いなる慈悲によって私を憐れみ、あなたの憐れみの豊かさによって私の不義を消してください。私を不義からいよいよ洗い、罪から清めてください」。以下も同じである。主よ、汚れたものを洗い、乾いたものを潤し、傷ついたものを癒やし、道をそれたものを導いてください。そのときお前は洗われ清められる。そのとき、このように神智学的に洗われ浄化され、神を知る。心の清い者は幸いであり、その者たちは神を見るからである(『マタイ』5章8節)。そのときお前は神の国とその正義を求め、見いだしたのであり、他のすべてが、大宇宙的にも小宇宙的にも、お前に加えられる。次節に記される知恵の霊の善きものと賜物であり、神智学的に祈り、賢く働いたならば、である。それゆえ、正しく自己を知った者は幸いで賢い。自己と神を知る者には、万事が知られ得る。この『円形劇場』の第二図を見よ。「知ること」どこからか。聖なる聖書と自然の書、そして神性の光線で照らされたお前自身からである。
それゆえ私は願い求め、分別が私に与えられた。私は呼び求め、知恵の霊が私に訪れた。
それゆえ私は願い、理解が私に与えられた。私は呼び求め、知恵の霊が私のうちに来た。
「私は願った」彼は大学で文学の研究に従事せず、ギリシア人、弁証家、修辞家などの講義を聞かず、今日もっとも普通に用いられる学習法も使わなかった。このような哲学の方法は、使徒パウロにより『一コリント』1章19節以下、『コロサイ』2章8節で退けられる。そうではなく、この世のあらゆる華々しさと宝に超天上のソフィアをまさるものとした彼は、願い、呼び求めたのである。まことに賢明であった。
アウグスティヌスは、三つのものを見たいと願った。語るパウロ、繁栄するローマ、肉体をもつキリストである。私は賢者の石を所有し、そのあらゆる実りと効用とともに、二十年間完全に享受することを願う。それを神智学的に用いたなら、この世でも来世でも、真に幸運で幸福な者となるだろう。注意すべきことがある。まず彼のうちに心の燃える欲求が生じる。そのために、ということを第144節で見よ。その後に呼び求め、すなわち祈りが続く。お前も同様にせよ。自己に立ち返り、神から、神のうちにあることとして、自分には何も不可能だと思うな。助けようとし、現に助ける神の約束がお前にはある(第10節)。主を信頼せよ。キリスト教カバラ的に観察すれば理解するだろう。神智学的に意欲せよ、そうすれば獲得する。この基礎に、この『円形劇場』の私たちの祈祷室は建てられ、『マタイ』6章6節によって確証される。これはキリスト教的な警戒と確信に属し、大胆な無謀さに属するのではない。堅く信じ、神への畏れのうちに生き、霊と真理において断食しつつ祈り、賢く働け。遅滞なく与えられる。お前は神の友に定められ、知恵とその実りにあずかる者となる。神に酔う知性は、鏡の中に見るように、自らのうちに神を、神のうちに自らを、さらには意欲し願うすべてを見る(第138節)。これがカバリストたちの小宇宙的な月であり、神的太陽への接近、直径的対向、離脱によって満ち、満月となり、欠ける。月が満ちるときには神の命によって善霊が来る。満月のときには神ご自身が来る。欠けるときには、闇の諸権力に捕えられ、真理の正しい小道から惑わされないよう神に祈れ。
「私の内に来た」いつか。先に願い、呼び求めてからでなければ来なかった。これは一昼夜の仕事ではない。神の恩寵により得るべき報酬のために汗を流さねばならない(第142、145節)。ここで足を止め、ハルポクラテスのように沈黙してこれを黙想せよ。これは、言葉よりも沈黙によって達せられ、讃えられ、推奨される事柄の一つである。真の知恵は紙の本から、それ自体として、人間的に学ばれるのではない(第142節)。神的に私たちへ流れ入り、私たちのうちに来る。他の諸学のように私たちの研究から光を受けず、光を自ら携え、自分の貯蔵庫からであるかのように、ふさわしくないわけではない人々へと自ら輝き照る(第145節)。文字それ自体は何の役にも立たない。神的に私たちへ来る超天上のソフィアの霊こそ、訓練し、教え、生かし、照らし、書を説明し、解釈し、解き明かす。イェスフ・キリスト、すなわち父の知恵だけが、書、すなわち聖なる聖書、自然、神が私たちに注いだ知性の書を受け取り、その封印を解くにふさわしい。ハレルヤ。正しくいわれる。「聖霊の恩寵が働くところでは、哲学者たちが隠しても何の役にも立たず、恩寵がないところでは、彼らが明かしても何の役にも立たない」。これがまったく真実であることを、経験に教えられ、私は一度ならず知った。判断力を働かせ、個々の言葉と表現の強調を吟味し、秘教的な哲学者を何度か読み、またある者たちとは直接話し合ったにもかかわらず、彼らが真理を語っていたのに、その真意を理解しなかったことを私は覚えている。その後、しかるべき時に、疑いなく神の慈悲によって、知恵の霊が無知の覆いを私から取り除いた。すると四分の一時間、いや一瞬のうちに、それ以前の丸一年より多くを理解した。神の恩寵により私のかたわらに立つ、私の善き守護霊の教示によるのだと思う。霊は望む場所、望む時に吹くからである。知性を捕虜として従わせた(第307節)へりくだり従順な者に、知恵の霊によって神の賜物が授けられ、巧妙で精緻な、不潔な世俗人からは奪われ隠されることは、人間のあらゆる理性を超える。「それはまさに真実であり、誰が気に入らなくともそうなのである」。知恵の霊による開示、それが媒介的であれ直接的であれ(第32、74節以下、187節)、それなしに本から学ぼうとする者は、篩で水を汲む。書はただの指標にすぎず、イェホヴァに何のための祈りを注ぐべきかを示す。神がそのまったく自由な意志に従って秘義を啓示し、自然の秘奥を分かち与え、秘密を教え、あらゆる真理を吹き込むように、と。
それゆえ、第167節に置かれ、第65節に繰り返されたこのことは、確固不動である。哲学は神の息吹、神的な照明である。主が知恵を与えるからである。そのため、神的な霊感なしに偉大な人となった者はかつて誰もいない。キケロも『神々の本性について』第二巻でこれを観察して記した。それゆえ、私たちの祈祷室のようにイェホヴァを助言者とする者は幸いであり、三重にも四重にも幸いである。その者は主から、自分のあらゆる行為と労働において、御意志、すなわち善く意欲し、知り、なし得、存在することを汲み取る(第329節)。私はヨアンネス・クリュソストモスとともに、熱く胸の底から祈る。慈悲深く恵み深い神が私の祈りと呻きを聞き入れ、心の耳を開き、私のうちに信仰を封印し、神的な秘義を受け入れ得る知性、節度ある推論、義務と徳に満ちた生涯を、私と真の知恵を熱心に追い求めるすべての者にお与えになるように。私たちが常に、神に属し、全生涯にわたって救いとなるものを考え、黙想し、心にかけるように。アーメン。知恵を愛するすべての者は、アーメンといえ。
「知恵の霊」ホフマエル(第52、106節)。驚くべき、真に神的な方である。創造するからである。『ヨブ』33章4節、「主の霊が私を造った」。『詩篇』104篇30節、「あなたが霊を送ると、彼らは創造される」。遍く広がって万物を支え、養い、生かし、完成させる(『詩篇』138篇7節、『ローマ』8章11節、『一コリント』2章4節、『知恵』1章7節)。「主の霊は全地を満たした」。万物はユピテルに満ちる(第154節)。知恵と言葉を語る力を与える(『マタイ』10章20節)。それゆえキプリアヌスはいう。「『民数記』においてバラムに対して雌ろばにさえ語らせた神にとって、その告白者に不屈さと語る確信を吹き込むことは難しくない」。奇跡を行う(『ローマ』15章)。「しるしと驚異の力において、聖霊の力において」。神の深みを探る(『一コリント』2章10節)。「霊はすべてを、神の深みさえ探る」。善きものを分配する(『一コリント』12章11節)。ゆえに、すべての善と賜物の恵み深い分配者であるこの方ただ一人に、それらを求めよう。悪しき霊に求めてはならない(第185、205、251、298節)。悪魔に唾棄あれ、アーメン。神の子とする(『ローマ』8章14節)。「神の霊に導かれる者は皆、神の子である」。聖化する(『ローマ』1章4節)。教会を治め、奉仕者を任ずる(『使徒言行録』13章4節)。『イザヤ』48章16節、「主なる神とその霊が私を遣わした」。恩寵と平和を与える(『黙示録』1章4節)。義とする(『一コリント』6章11節)。「私たちの主イェスフ・キリストの名において、また私たちの神の霊において義とされること」。自由にする(『二コリント』3章17節)。「主の霊のあるところに自由がある」。再生させ、心を善行と祈願へ動かす。このため祈りの霊とも呼ばれる(『ゼカリヤ』12章10節)。民をエジプトから導き出した(『イザヤ』63章13、14節)。「主の霊は家畜のように彼を導いた」。罪を赦す(『ヨハネ』20章23節)。「聖霊を受けよ。お前たちが誰の罪を赦しても」。これは、赦すのは霊であり、お前たちではない、というに等しい。秘義を啓示する(『ヨハネ』16章13節)。それゆえ、あらゆる聖なる啓示と幻視の作者であり、そう呼ばれ、隠された事柄の教師である。信仰を与える(『一コリント』6章11節)。敬虔な動きを起こす(『ローマ』8章26節)。信者を教える(『ヨハネ』16章13節)。要するに、この霊の力と助力によってお前はすべてができる。お前は神智学的にこの方に仕えよ。するとこの方が、祈祷室と実験室において、お前とお前のものを普遍的に治めるであろう。
注 原版の Iustificationes、聖書の章節番号を訂正せず保持。
なぜ知恵の霊が多重または多形と呼ばれるか(第49、134節)は、すでに述べたことから十分すぎるほど証明される。ゆえにパウロは『一コリント』12章4節以下でいう。「恩寵には区別があるが霊は同じである。奉仕には区別があるが主は同じである。働きには区別があるが、すべてのもののうちですべてを働く神は同じである。各人には役立つために霊の現れが与えられる。ある者には霊によって知恵の言葉が、別の者には同じ霊に従って知識の言葉が、別の者には同じ霊において信仰が、別の者には一つの霊において癒やしの恵みが、別の者には力ある業の働きが、別の者には預言が、別の者には諸霊の識別が、別の者には種々の言語が、別の者には言葉の解釈が与えられる。これらすべてを、一つで同じ霊が、望むまま各人へ分け与えて働く」。また『一コリント』7章7節、「各人は神から自分の賜物を持ち、ある者はこのように、別の者はあのように持つ」。イェホヴァの名は世々限りなく祝福されよ、アーメン。付け加える。この神の霊は、賢者に三重の仕方で親しい。第一、神的に。直接には流入、光、運動によって、間接には聖書によって、また引き受けた人間の肉において。第二、大宇宙的に自然によって。この自然は『創世記』1章のルーアハ・エロヒム、あるいは世界霊魂である。普遍的には、すなわち普遍的な力と働きによっては、賢者の石のうちに。個別的には、創造された全宇宙にわたる個々の被造物、霊的なものも身体的なものも、それらから成るもののうちに。第三、小宇宙的に人間のうちに。それはソーマティコース、すなわち身体的、具体的には、第五精髄の点で身体と霊のうちにあり、単純な仕方では、神的な息吹の一片である魂または知性のうちにある。この『円形劇場』全体を精密に見渡せば、哲学者の仕方に従って、これらについて各所にさらに多くを見いだすだろう。悪魔と、そのもっとも有害で汚らわしい親交に唾棄あれ。再び唾棄あれ。パウロがアラトスから教えるように、私たちは神のうちに生き、動き、存在し、また神の種族でもある(『使徒言行録』17章28節)。それゆえ、キリストが自らの血によって自分に聖別した神の神殿を汚さず、神の霊が私たちのうちに住まわれるようにしよう(『一コリント』3章16節)。
注 RVACH ELOHIM はヘブライ語「神の霊」のラテン文字転写。
私は知恵を王国と玉座にまさるものとし、それに比べれば富は無に等しいと考えた。
私はそれを王笏と玉座にまさるものとし、知恵に比べれば富は無に等しいと評価した。
知恵のためにどれほど励むべきか。『ヨブ』28章18節。
「私は知恵を王国より上に置いた、など」第45、317、318、327節を見よ。真の知恵は、当然この世の事柄や事業に優先させるべきである。それだけが自然の秘密を開き、尽きない宝を与え、幸いな天使たちと交わらせ、神と結びつけ、真に幸運で幸福な者にするからである。知恵はすべてを与える。善人には善を、悪人にはそれに値するゆえに悪を。
宝石をこれと比べることもなかった。金も知恵と比べれば僅かな砂であり、銀もこれと比べれば泥と見なされるからである。
宝石をこれと比べることもなかった。すべての金も、知恵と比べれば僅かな砂にすぎず、銀も、その前では泥のように見なされるからである。
「貴い石」ここでわれらの賢者が賢者の石について語っていると推測するのも、不適切ではあるまい。因果を示す接続詞、「すべての黄金は、など」が続くからである。この石を正しく適用したときの力には、他の多くの力とともに、劣った金属を優れた金属、すなわち銀と金に変成する力もある。「泥」文字どおりである。人間の誤りを取り除けば、銀とは土と水から成る白い泥、金とは水と土から成る赤い泥であって、凝固し固定されたものにほかならない。賢い賢者の言葉はこうである。「金を崇拝する者はみな、徳の資質を憎み、立派な技芸を憎む」。
注 Philm. は Philosophorum の略記。金属についての記述は歴史的錬金術の説として訳した。
私は健康と容姿の美しさにまさって知恵を愛し、光よりもむしろ知恵を享受したいと願った。その輝きは抑え消すことができないからである。
私は健康と美しさにまさって知恵を愛し、光に代えてこれを持とうと定めた。その輝きは消えることがないからである。
「知恵を光として持つこと、など」知恵は闇に輝き、世へ来たが、世が認めなかった光だからである(『ヨハネ』1章)。知恵を光として持とうと決める者は、賢者とともに賢くなる。それゆえ『シラ書』最終章には、「私は手を高く伸ばした。その知恵において私の魂は輝き、私の無知を照らした」とある。ホフマエル、神の知恵よ、どうか私の知性、手、足にとって光と灯火であってください。私の小宇宙的および大宇宙的な二つの祈祷室と、実験室において。諸国民の光、心々の光明よ、あなたの照明の光線によって私の心を照らし、知性の無知の闇を追い払い、私の行為と労働を秩序づけ、それに幸いな成功の祝福を注ぎ、万事において真理を私に示し分かち与えてください。アーメン。第78節を見よ。
知恵を愛する者には、確かに知恵は容易に見え、これを求める者には見いだされる。
知恵を愛する者には容易にはっきりと見え、これを求める者には見いだされる。
「容易に見られる、など」おお、聖なる聖書の中に、自然の中に、また精神的に自己の中に知恵を見ること、このもっとも幸いで、いや神化する幻視よ! これ以上に快いこと、幸いなことがあろうか。しかしこれは心の清い者にしか起こらない。神々から生まれた者だけがなし得た。第52、195、218節を見よ。「知恵を愛する者」神は走る者を引き寄せるからである。第145、160節を見よ。「見いだされる」それゆえソロモンは『伝道の書』7章25節で嘆いていう。「高い深淵、あるいは深い、深いもの、それを誰が見いだすだろうか」。ヘブライ語ではこのように読まれる。あたかも「おお、この不潔な世の、真理の道の直線から惑わす、これほど多く大きい愚かさの中で、知恵を見いだすことは何と難しいか」といわんばかりである。知恵が「見いだされる」のは、人間的に、すなわち人間の思慮、推論、想像、思弁によって獲得されるより、神的に流れ入るからである。「主は知恵を与える」(『箴言』2章6節)。また「知恵を見いだす者は幸いである」(3章13節)。それゆえ、見いだすのは少数者に属する。どうか教えてほしい、誰のことか。次に賢者は賢い答えを与える。「知恵を求める者」いかにしてか。この『円形劇場』の法と教えに従って、神を畏れ、断食して祈り、神智学的に生き、賢く働くことによってである。知恵に向かって朝早く目覚める者(第160節)、知恵を試みない者(第216節)が見いだす。諺にいうように、神は万物を労苦と引き換えに売るからである。神智学的に手を働かせる者を、神々、エロヒムは助ける(第92節とその後の数節)。しかし、これほど尊ぶべき神性と光明の輝きが私たちの上に煌めくのは、私たちの功績や聖さによらず、慈悲深い神の賜物による。これに『イエス・シラ書』最終章全体を関連づけよ。私はこれを最高の評価でお前に薦める。
知恵は自分を熱心に求める者たちに先んじ、自分を知ってもらおうと姿を現す。
知恵は自分を慕う者たちに先んじ、自分のほうからまず姿を現す。
「先回りする、など」この解説は上の第144節を見よ。
夜明けから目覚めて知恵を求める者は、労苦することがない。自分の戸口に知恵が座っているのを見いだすからである。
朝早く起きて知恵を求める者は、労苦することがない。自分の戸口に知恵が座っているのを見いだすからである。
「夜明けから目覚める者」第96、170節、およびこの序論の各所に記されたとおり。「扉の前に座る知恵、など」何の扉か。お前の感覚、理性、悟性、知性の扉である。この『円形劇場』の法に従い、聖なる聖書と自然の書、自己のうちで語り教える知恵を、聞き、見、観察したいと望み努めるすべての者に、知恵は間接的にも直接的にも備わっているからである。ああ、すべての者が、自分のそばに座り、自分に差し出される知恵を感じ知るならば、どれほど幸いであろう!
それゆえ知恵について思い巡らすことは、完全な悟りである。知恵のために目覚めている者は、すぐに心安らかになる。
知恵について思い巡らすことに取り組むのは、分別の完成である。知恵のために目覚めている者は、ただちに心安らかになる。
「知恵について考えること、など」第18、142節を見よ。結婚しようとする者が親しい会話から始めるように、永遠の知恵との結婚を望む者は、それについて敬虔で、聖く、もっとも美しく愛らしい思いを抱く。そして、諸王の中でもっとも賢い者が『箴言』の初めの諸章と『知恵の書』7章に描く、もっとも美しい知恵の像を心の眼前に置く。知恵の充満について抱くこれらの思いは、天上の磁力を賦与された絆であり結合であり、神的な知恵との語らいと独語の苗床である。真の知恵はかくも優しく、親しく、人に情け深いため、もっとも甘美な返答なしに恋する者を去らせることはない。内なる、隠れた、悟性的かつ知性的な声で答え、ときには喜びの口づけともっとも神的な動きによって答える。『雅歌』1章1節のとおり、「その口の口づけで私に口づけを。その実は私の喉に甘い」。
知恵自身が、自分にふさわしい者を巡り歩いて探し、道々で好意をもって彼らに姿を見せ、そのあらゆる思いのうちに彼らを迎えるからである。
知恵自身が、自分にふさわしい者を探して巡り歩き、道々で彼らに喜ばしく姿を見せ、そのあらゆる思慮のうちに彼らを迎えるからである。
「自分にふさわしい者を、など」この解説は上の第145節を見よ。
知恵の始まりは、教導をこの上なく真摯に求めることであり、教導を心にかけることは愛だからである。
知恵の始まりは、訓戒をこの上なく真摯に求めることだからである。
「訓練への欲求」訓練、すなわち忠告、矯正、叱責、悪い道と悪徳ある生活から離れよとの勧告を愛する者は、知識を愛する。非難を嫌う者は愚かである(『箴言』12章1節)。苦難と十字架による神の訓練もそのようなものである。神がそれを私たちに送り、許すのは、私たちを悔悛へ呼ぶためである。その中で私たちは神的な慰めを経験し、それによって、自分たちがイェホヴァに愛され、教えられ、守られていると知る。「苦難は理解を与える」(『イザヤ』28章19節)。それゆえパウロはいう。「苦難は忍耐を、忍耐は試練を経た確かさを生む」。すなわち私たちに向けられた神の意志の認識である。敬虔な古代は正しくいった。「試みられない者が何を知るか」。懲らしめを拒むお前は、私たちの祈祷室と実験室から追放されよ。私はお前に告げる。お前はキリスト教カバリスト、自然魔術師、自然化学者には決してならず、詭弁家のままであろう。自分の十字架を忍耐強く背負う者は、キリストの十字架も担い、キリストを身にまとって倣う。この者には徳の扉が開かれ、知恵の永遠の王国へ入れられる。訓練を逃れる者は締め出される。狭い苦しみを経て、尊厳ある高みに至る。キリストとともに天に昇る前に、私たちはまずキリストとともに冥府にいなければならない。「愛」愛と聖なる欲求が介在しなければ、結合と交わりは起こらない。娼婦的な愛、すなわち世俗的で虚しい愛に染まった者は、天上の知恵との結婚にふさわしくないからである。私を信じよ。地上のものを望む者は、天上のものを望まない。そして愛する者は、誰であれ愛されるにふさわしくあれ。この知恵への聖なる愛は、絶えざる祈りによって点された聖霊の小さな炎である。それが私たちの心で光るとき、天上の知恵への最初の入口が開く。知恵を愛したことは、ほとんど獲得したことだからである。神的な知恵は愛においてかくも忠実なので、自分への聖なる愛を受けると、愛する者を愛し返し、その愛の聖なる欲求を満たさずにはいられない。
愛とは知恵の掟を守ることである。そしてまた、掟を守ることは不死を保つことである。
それゆえ訓戒を心にかけることは愛であり、愛とは知恵の掟を守ることである。そして掟を守ることは、不朽の完成である。
「それゆえ訓練への配慮は」ここから、主への畏れのもっとも実り豊かな効用が何であり、どのようであり、どれほど大きいかが明らかになる。
さらに不死は、私たちを神のごく近くへと近づかせる。
そして不朽は、人を神に近しい者とする。
「不朽はそうさせる、など」二を退けることによって再生した人間(第118節)は、永遠で不死なる存在である神にもっとも近い者、友となり(第299節)、この生でも来るべき生でも、結びつき合一する。まことに「心の清い者は幸いである。その者たちは神を見るからである」(『マタイ』5章8節)。
それゆえ知恵を慕い求めることは、永遠の王国へと導く。
それゆえ知恵を求めることは、王国へと導く。
「永遠の王国へ」すなわち神の王国である。この生に始まり、来るべき生に完成するその王国とその正義をまず求めるなら、他のすべて、すなわち知恵の無量の宝と無限の実りが、お前たちに加えられる。この王国は安息日の安息日、最後のヨベルである。これらについて私たちはカバリストの教えにより、この『円形劇場』第二図で述べた。また、生きる者の地、すなわち不死であり、永遠の命である。そこでは、顔と顔とを合わせて神の栄光を見、永遠から永遠へ神を享受し、もっとも甘美で快い喜びを味わう。要するに、この私たちの『円形劇場』が教えるように、まず普遍的に三一の普遍なるものを求めよ。すなわち神を認め、自分自身を知り、自然と技芸における最高善、すなわち賢者の石を知ることである。私は敢えて断言する。そのとき、キリスト教的に祈り、賢く、異なるものに応じて異なる仕方で働くなら、神の御心にかなえば(第1節)、いかなる可知的対象についても、個別的・特殊的なすべてがお前に加えられる。主の手から美の王国と麗しさの冠を受ける。主は右手でお前を覆い、聖なる腕(ψ)で守るからである(『知恵』5章17節)。「お前は至高者の助けに住み、天の神の保護に留まる」(『詩篇』91篇1節)。神の手に導かれ、神の驚くべき業を見るだろう(『知恵』19章8節)。いつでも、どこでも、神がお前のかたわらに立つ(同20節)。
注 原文中の括弧付き記号 ψ をそのまま保持。
私は家に入ると、この知恵のうちに憩う。その交わりには何の苦さもなく、ともに暮らすことには何の煩わしさもなく、ただ楽しさと喜びがあるからである。第18節。私はそれを自分のもとに迎えようと、巡り歩いて探していた。
それゆえ私は家に入ると、知恵とともに憩う。その交わりには苦さがなく、ともに暮らすことには倦怠がなく、ただ楽しさと喜びがあるからである。第18節。私は知恵を自分に迎えようと、巡り歩いて探していた。
「自分の家に入って、など」ダニエルもそのように自分の家に入った(『ダニエル』2章17節、6章10節)。注意せよ。知恵の助けはすべて、公的か私的かのいずれかである。これまでは公的なもの、今は私的なものを論じる。家で知恵とともにもつ個人的な喜びを示す。祈祷室の家で神智学的に黙想と独語を行うことによる喜びである。その祈祷室は外的、可視的でもあり、モナスすなわち一性からそう呼ばれる修道的な小礼拝堂である。また内的、不可視的でもあり、悔悛によって清められた心と、神によって照らされた知性の祈祷室である(第223節)。また自然化学的実験室の家にも入る。ここで私たちは、知性が地上の事柄の汚染から離れ、秘められた観想によって深く神に密着する仕方を教えられる。それによって、自らの部屋の奥で、超天上的、大宇宙的、小宇宙的な楽しみを、キリスト教カバラ的、神的魔術的、自然化学的に享受し、口と心で喜びつつ、『イザヤ』24章16節とともに「私の秘密は私に、私の秘密は私に」と叫べるのである。「楽しみと喜び」内なる喜び、秘められた喜び、それを得た者だけに知られる喜びであり、この世の喜びとともに消えたり奪われたりせず、永遠の喜びへと積み重なる。「私は巡り歩いて求めた、など」どこでか。主の法、自然の書、私自身のうちで。ではどのようにか。知恵を愛することによって(第18、142、146節)。神を畏れることによって(第210節)。知恵の扉で目覚め、その戸口の柱を見守ることによって(第48節)。知恵を信じ(第216節)、渇望し(第260節)、夜明けから知恵へと目覚め(第229節)、願い、呼び求めることによって(第223、251節)。知恵を自分の光として持ち(第226節)、自分のもとへ迎えてともに暮らすと決意することによって(第307節)。同じことを、そう同じことを、この『円形劇場』の法と教えに従って私たちも行うなら、真の知恵は私たちにも来る。ただ神智学的にこれを求めよう。知恵は自らを渇望する者に先回りする(第144節)。
口を急がせてはならない。神の前で言葉を発しようと、心を急がせてもならない。神は天におられ、あなたは地の上にいるからである。それゆえ、あなたの言葉は少なくあるべきである。
軽率に何かを語ってはならない。神の前で言葉を発しようと、心を急がせてもならない。神は天におられ、あなたは地の上にいる。それゆえ、あなたの言葉は少なくあるべきである。
神の前で軽率に言明してはならない。
「軽率に何かを語るな」心を探る方は、清く、奥深く、誠実な心からの語りかけを愛する。『詩篇』19篇15節のとおりである。「私の口の言葉と心の黙想が、いつもあなたの御前で御心にかないますように。主よ、私の助け、私の贖い主よ」。それゆえ、神に語りかけるお前の言葉は、唇ではなく心の奥から生まれよ。軽率な言葉よりも、心の奥から出る溜息で神と語る方がよい。敬虔な者の溜息は、聖霊が私たちの内で呻くときに聖霊から出るが、言葉はたいてい人間の想像から出るからである。霊の言葉と口の言葉には大きな違いがある。
神に誓願を立てたなら、それを果たすのを遅らせてはならない。神は愚かな者たちを喜ばれないからである。それゆえ、誓願したことは果たしなさい。
また、神に何かを誓願したなら、それを果たすのを遅らせてはならない。不誠実で愚かな約束は神の御心にかなわないからである。何を誓願したにせよ、それを果たしなさい。
誓願。『申命記』23章21節。
「神に何かを誓ったなら、など」賢者は旧約の習慣に従って語る。困難に置かれた敬虔な者は、神にエウカリスティカ、感謝の犠牲を約束するのが常だったからである。ハンナが神に息子を求めた際、その子を主にお返しすると誓い約束したように(『サムエル記上』1章11節)。エフタも同様である(『士師記』11章30節)。詩篇作者は「お前たちの神、主に誓願を立て、それを果たせ」という(『詩篇』76篇12節)。また「一度お前の唇から出たことは守れ」(『申命記』23章23節)。このような誓願は、神への最高の愛、もっとも聖なる欲求、誠実な心の感謝から生じ、ためらわず神に果たすべきである。こうして族長ヤコブは、夢で天への梯子を見た後、目覚めて神に誓った。その場所に神の家を建てる、すなわちそこで神の認識と真の礼拝、およびメシアについての教えを広める、と(『創世記』28章20節)。新約において私たちは、洗礼の中で子としての従順を神に誓い、聖さと正義、信仰、忍耐、謙遜のうちに、この誓願を神に果たす。それゆえ、新約の誓願をこう定義する。誓願とは第一の石板に属する礼拝を履行する義務である。それは神への畏れ、信仰、愛、忍耐、祈願、感謝、告白、神の名の宣明である。これらの誓願は、すべてのキリスト教徒が必ず神に果たすべきである。他方、特別の誓願とは、貧者への通常の寛大さに加えて、神の栄誉または人々の救いを進める特別で独自の善行を、私たちが自分に義務づけることである。それはあらゆる偽善なしに、軽率にではなく、深く誠実な心の感謝からなされる。祈りによって神から得た恩恵が、隣人にも満ちあふれるようにという目的である。
誓願しながらそれを果たさないより、誓願しないほうがよい。
誓願を立てた後で約束を果たさないより、誓願しないほうがはるかによい。
「約束を果たさない」どのような心で誓願を立てるべきかは、前節で述べた。今、これを加える。神に何かを誓ったなら、それが第一の石板の礼拝であれ、すなわち「私はあなたの名を兄弟たちに語る」(『詩篇』22篇23節)、また「不義な者にあなたの道を教える」(51篇15節)のようなものであれ、第二の石板の慈悲の業であれ、神への感謝の証、祈りの封印として誓い、果たすべきである。その封印によって、お前の誠実と感謝を神に結びつけるのである。もしこれを破り、誠実を守らなければ、確かにお前は神を動かして、お前への恩恵と寛大さを撤回させ、その善きものを取り戻させることになる。
不信心な者たちのいけにえはイェホヴァに忌み嫌われる。しかし正しい者たちの祈りは主の御心にかなう。
不信心な者たちのいけにえは主に忌み嫌われる。正しい者たちの誓願は喜ばれる。
『集会の書』34章23節。
「不信心な者の犠牲は忌まわしい」ここでは真の礼拝と偽の礼拝の違いが示される。偽善者は、信仰も善い良心の完全さもまったくなく、自分たちの外的な礼拝、言葉を聞くこと、祝祭の挙行、秘跡の使用、長い祈り、高慢で見せかけの施しを神に差し出す。ゆえにそのすべての業は神の前で忌まわしい。曲がって清められていない心から出るからである。しかし誠実な信仰から業を行う神の真の礼拝者は、すべての、もっとも小さな業においてさえ、神に大いに喜ばれる。愛から差し出した冷たい水の一飲みさえ、神には巨大な宝と見なされ、神の小箱と宝物庫に納められるほどである。
言葉について学んだ者は、良いものを見いだす。主に望みを置く者は幸いである。『箴言』28章25節。主に望みを置く者は癒やされる。
物事を理解する者は良いものを見いだす。イェホヴァに信頼する者は幸いである。『箴言』28章25節。イェホヴァに信頼する者は豊かに養われる。
「言葉に教えられた者」すなわち知恵の教えに教えられた者である。神への畏れによってどのように探究すべきか、絶えざる祈りによってどのように獲得すべきか、愛と欲求によってどのように結びつき合一すべきかを教えられる。おお、すばらしい教え、聖なる言葉よ。幸福に満ち、時間的・永遠的なすべての善の豊潤さと脂に満ちる。「主に望みを置く者」この希望の実は永遠の幸福である。『詩篇』146篇5節。「ヤコブの神を助けとし、自らの神なる主に望みを置く者は幸いである。この方は永遠に誠実を守る」。自分の知恵、勤勉、才能、富への自信に膨れ上がる者は、もっとも愚かでもっとも不幸である。知恵の霊が死すべき事物から退くと、それらは滅亡へ倒れ込み、所有者にとって疫病となるからである。
神に信頼を置く者たちは真理を理解する。そして忠実な者たちは、愛のうちに神にとどまる。神の聖なる者たちには恵みと憐れみが向けられ、神に選ばれた者たちは顧みられるからである。
神に信頼する者たちは真理を理解する。そして忠実な者たちは、愛のうちに神に安んじる。神に選ばれた者たちには、賜物と平和があるからである。
「真理を理解する」この受肉した知恵は『ヨハネ』8章31節でいう。「私の言葉に留まるなら、お前たちは真に私の弟子であり、真理を知るだろう」。私のいう真理とはすべての真理である。神智学、法学、自然学、自然医学、自然化学、自然魔術、超自然魔術、キリスト教カバラにおける真理であり、聖なる聖書、自然の書、知恵の霊の油を神的に塗られたお前自身から、またその内において、祈り働くことによって知る。主に祈れ。上から主によって、悔悛により洗われ清められたお前の知性の容器へ、超天上のソフィアの霊の雫が露となり滴るように。それに酔い、自己、すなわち自分の愚かな思慮を忘れ、その方自らがお前に示すものに賢く従うように。その方がお前のかたわらに立つことで、お前が真理に留まり、真理がお前の内に留まるように。永遠の真理の導きなしには、人間的・神的事物の真理を決して味わわず、賢者にもならないからである。
主は不信心な者たちから遠く離れておられるが、正しい者たちの祈りは聞き届けられる。
イェホヴァは不信心な者たちから遠く離れておられる。しかし正しい者たちの祈りは聞き届けられる。
「主は遠く、など」神の現前を享受しないことは最大の悲惨、神が現前し恩恵を与えてくださることは最大の幸福である。不信心な者は自分の祈りを聞き入れられない。これほど惨めで不幸なことはない。嘆願とともに王の面前から追い払われることが臣民にとって最大の軽蔑と破滅であるように、神に聞かれないことは究極の滅びである。反対に、われらの賢者がここで『詩篇』155篇18節とともに歌うことは最大の慰めである。「主は、主を呼び求めるすべての者、真理をもって主を呼び求めるすべての者に近い。自分を畏れる者の願いを成し遂げ、その嘆願を聞き、彼らを救う」。
注 Psalmus 155,18 は原版の誤記。引用内容は通常の詩篇145,18–19に相当。
律法を聞かないように耳を遠ざける者は、その祈りさえ忌まわしいものとなる。
律法を聞かないように耳をそむける者は、その祈りも忌まわしいものとなる。
「しかし耳をそらす者、など」聞く耳をもつ者は、真理の霊が人の子らにいうことを聞け。悪を離れて善を行い、神を畏れて正義を行い、善く忠告する者に従え。そうでなければ、祈祷室でも実験室でも、善いものを何も願い得ず成し遂げられない。聖なる聖書、自然の書、自分自身のうちで語り、教え、戒める知恵を聞かぬよう、自らの耳をそらす者は、というのである。「その者の祈り、など」神に喜ばれる犠牲であるべき祈りは、悔い改め、砕かれ、へりくだった心から出なければならない。そうでなければ神にとって忌まわしい。木が気に入られなければ、その実がどうして喜ばれようか。むしろ、聖く汚れない生活の全体が、神にとって祈りであり、受け入れられる犠牲、もっとも喜ばれる礼拝である。神の前では言葉ではなく行いそのもので語るべきである。そうしなければ、私たちの祈りは罪となる(『詩篇』109篇7節)。
自分の罪を覆い隠す者は決して栄えない。しかし罪を告白して捨てる者は、憐れみを得る。
自分の罪を隠す者は順調には進まない。しかし罪を告白して捨てる者は、憐れみを得る。
「そしてそれらを捨てる」回心と真の知恵の探究においては、良心に反する罪を捨て、心、魂、霊、身体を清めることが絶対に必要である。神の慈悲と恩寵の器、聖霊の住まい、神の救いの道具となるべきならば。洗え。清くあれ。非聖的な者は遠ざかれ。汚れた者は誰も入るな。汚染された者は誰も神の山に近づくな。自分を聖化せよ。明日、主の栄光を見るだろう。このようにイザヤは理由なく預言を始めるのではない。1章16節、「洗え、清くあれ、お前たちの思いの悪を私の眼前から取り去れ、曲がった行いをやめ、善行を学べ。そのとき初めて私のもとへ来い。お前たちの罪が緋のようでも、雪や羊毛のように白くされる」。使徒はいう。「お前たちの全体、身体、魂、霊」(『一テサロニケ』5章23節)。また『ローマ』12章1節、「神の慈悲によって願う。お前たちの身体を、生きた、聖なる、神に喜ばれる犠牲として差し出せ」、など。
注 ギリシア語引用は原版の語順(身体・魂・霊)を保持。
憐れみと真実によって不義は贖われ、主への畏れによって人は悪を避ける。
憐れみと真実によって不義は贖われ、イェホヴァへの畏れによって人は悪を離れる。
「慈悲と真理によって」慈悲とは、私たちへの神の慈悲を、また別の箇所では隣人に対する私たちの愛を意味する。ここで真理とは、神について正しく考え、神だけに真実の誉れを帰す、真実な心である。神は約束に従って、霊と真理において呼び求める私たちを赦し、ともにいて助け、秘密を分かち、秘義を啓示し、無数で無限の善きものと賜物を与えるからである。ソロモンは神を畏れる者に悪を離れるよう教える。子としての畏れ、まさしく愛である畏れによってである(第210節)。神を信じ、神に信頼し、心から隣人を愛する者に教える。それゆえ隣人に慈悲深く真実であれ。神から神的な慈悲と真理に満たされるためである。
悪を企む者たちは道を誤るのではないか。しかし、善を思う者たちには憐れみと真実がある。
それゆえ、悪を行う者たちは道を誤る。しかし憐れみと真実は、良いものを備える。
「悪を行う者」実はその種より優れたものにはなれない。人は蒔いたものを刈り取る。マケドニア王アルケラオスは、三人の正統な相続者を殺して王国を奪った後、ついには若者に殺された。その若者は王の肝臓に剣を突き刺した。そのため彼について次の詩句が作られた。「他人への災いを企む者は、自分の肝臓への災いを企む」。慈悲と真理は、敬虔と神への畏れを重んじるすべての者にとって、二人の侍女、忠実な道連れである。
それゆえ、正義と憐れみを追い求める者は、命と正義と栄光を見いだす。
正義と憐れみを追い求める者たちは、命と正義と栄光を見いだす。
「正義に従う者、など」正義を蒔く者は正義の実を刈り取る。それは栄光、名誉、幸福、善い良心の喜び、命である。しかし不義と不信心からは、不名誉、不幸、良心の呵責、醜い死以外は何も生まれない。異教の喜劇詩人もこれを書き残した。「徳は最善の報酬である。徳は万物にまさる。まことに徳はすべての善を内に含む」。
私は才ある少年であり、善い魂を授かっていた。
私は少年であり、優れた才能の資質を備え、善い魂を授かっていた。
「才能に恵まれ、など」善い素質に生まれ、あるいは悪くない本性を授けられ、内なる召命によって知恵の研究へ呼ばれた、ということである。ここで読まれるエウフュイアという語は、知性と心の生来の善さを意味し、ラテン人は通常これをインドレス、素質と呼ぶ。どんな木からでもメルクリウス像ができるのではなく、ふさわしく適した木からできるからである。このように神によって呼ばれる者に私は勧める。運命が引く方へ、この上なく従順に従え。神の定めに逆らって、自分に主の怒りを招かぬためである。第96、170節を見よ。
いやむしろ、私は善い者であったので、汚されていない体に入った。
そして私はいっそう善い者であったので、汚れのない体に入った。
「私は汚された身体へ来た」身体、霊、魂の清さに努めた、ということである。それこそ私たちを天使たちにもっとも親しくし、聖霊を受け入れるに足るものとする。純潔を愛するかの霊ホフマエルは、不貞ほど激しく他のいかなる悪徳にも抵抗せず、神智学的な洗いによって乙女のようになった知性の内ほど、どこでも等しく憩い喜ぶことはない。ご自身が汚れのない知恵の霊だからである(第134節)。第158、218節を見よ。朝、服を着ると、汚れが付かぬよう顔を洗う。ならば、愛らしく美しいものとして主に差し出すために、どれほどいっそうの注意で心を洗うべきであろうか。
注 見出し coinquinatum(汚れた)は原版の誤植。直前の聖句と解説内容は incoinquinatum(汚れのない)を示す。
神が知恵を与えてくださるのでなければ、自分はこれを得ることができないと悟ったとき、そして、これが誰の恵みであるかを理解すること自体が分別に属していたのだが、私は主に近づいて祈り、心を尽くして語った。
神が与えてくださらなければ、私は自制を保つことができないと知ったとき、そして、それが神の賜物であると知ること自体が知恵であったのだが、私は主に近づき、主に祈り求め、心の奥底のすべてから語った。
知恵とは、知恵が誰の賜物であるかを知ることである。それゆえ真の知恵は、絶えざる祈りと願いにより天から呼び寄せられる。
注 accersitus の文法的不一致を保持。
「それ以外では知恵を得られない、など」別の仕方では知恵を所有できず、他のいかなる名の道、手段、方法によっても、達し、獲得し、所有できない、ということである。異教的に哲学する者の書からも、黒魔術師の召喚書からも、悪魔的な使い魔からも得られない。人間的に、知性の鋭さ、傲慢な推論、あるいは愚かな世俗の知恵で膨れ上がったどんな人間からも得られない。ただ唯一の最善にして最大なる神のもとにおいてのみである。この『円形劇場』全体が教えるように、その方だけが、望む時に望む者へ、神智学的に知恵を与える。すべての完全な賜物はその方から来る(『ヤコブ』1章17節)。賢者の石、永久運動、真の知恵の他の宝を誤って求める者よ、これに注意せよ。かくも幾度も忠告されているのだから、いい加減に正気に返れ。私はこの私の『円形劇場』によって、教えの子らに兄弟として仕えよう。その代わり、彼らの内で私の記憶が常に祝福に置かれるように。「誰のものかを知ることが知恵だった、など」実に、知恵をどこで、誰のもとで、どんな助けによって、なぜ、どの方法または道で求めるべきかを知るのが知恵である。これは神の導きにより、この私たちの『円形劇場』で、私たちが神智学的に十分に示した。空しく誇ることがあってはならない。モモスどもの腹は裂けるがよい。イェホヴァの名は世々限りなく祝福されよ。この方は、虚しさと倦怠の長く無数の、労多く金のかかる迂回の後(第187節)、虚偽と誤謬の闇から、ついに私を神と自然と自己認識の港へ、いくぶんなりとも導いた。聖なる聖書、自然の書、正しい自分の良心の証言という真理の規準に従い、身体、霊、魂に即して、祈祷室では神智学的に祈り、実験室では賢く働くことにより、神的に、大宇宙的に、小宇宙的に導いた。ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ。悪魔とその鱗に唾棄あれ。賢者は不潔な世を何とも思わない。主よ、あなたの聖霊を私から取り去らず、あなたの救いの喜びを私に返し、統べる霊によって、カバラ的、魔術的、自然化学的に私を強めてください。いつもあなたの光の内に真理の光を見るためです(『詩篇』51篇13節)。
「私は主のもとへ行った」人間のもとへでも、偽哲学者の学校へでも、悪霊へでもない。悪霊がどれほど光の天使の姿に変わろうとも、いかなる悪魔、アスタロト、ベリト、フローラン、ええい、メフォストフィロス、バロ、レミッセスのもとへも行かなかった。悪臭を放つフォエダの醜い姉妹たち、疫病のような獣たち、同じ極悪な仲間のあらゆる者のもとへでもない。身体的であれ霊的であれ、いかなる被造物へも、それ自体として単純に向かったのではない。ただ唯一の、霊的、永遠、至知、至善、至強、無限なる存在、イェホヴァ・エロヒム・ツェバオト、諸霊、天、地、海、創造された宇宙に含まれるあらゆるものの創造者のもとへ向かった。知恵を与えることは、世界の初めから、この唯一の霊に属し、今も常にも属し、これからも属する。他の何者にも属さない。ただし第一者から委ねられた奉仕の仕方の下では別である。神ご自身は栄光を他者に与えない(『イザヤ』42章8節)。強い、熱情の神であり、同等者を容れないからである。
注 固有名 Fœda は原版表記。具体的指示対象は不確定。
「そしてその方に嘆願した」神智学をもっとも熱心に愛する者は主に会いに行った。すなわち至高の神、全宇宙の全能の創造者ただ一人に近づき、他の誰にも近づかなかった。お前はいうだろう、ではどのように、どの方法、どの道でか。祈ることによってである。偽カバリストが行うような、黒魔術的、すなわち悪魔的・迷信的な聖別、悪魔祓い、呼びつけや呪縛によってではない。霊と真理における祈りだけで十分であった。黒魔術は、その師、弟子、疫病のような学校全体とともに、滅びへ去れ。私はこの『円形劇場』第四図に、その根絶的な廃絶と、惨めに歪められた真の魔術のキリスト教カバラ的改革および永続的な再建を示した。これを精密に観想せよ。注意せよ。真の知恵を学ぶ者は確かに霊を願い、呼び出し、助けとなり親しくなるよう呼ぶ。しかし誰を、どんな霊をか。実にホフマエル、すなわち神イェホヴァご自身の知恵以外ではない(第223節)。わが子よ、お前も同じようにせよ。そうすれば賢くなる。第28、106節を見よ。「心の奥から私はいった」表面的に、通りすがりに、うわの空で、口だけで心は遠く離れたまま、不潔な世が常にしゃべり散らすようにではない。霊と真理において、全身をもって、すなわち身体、霊、魂を原型の範に従って改め、言葉と生活でその原型を表し、全心をもって、知性を神へ高く引き上げ昇華し、神とその知恵以外には何も考えずに、である。ここで神智学的な祈りの方法と儀礼を見よ。聖書から証明できるように、われらの賢者や同類の者が大きく困難な事柄に用いた方法である。敬虔な古代は、十字架につけられるべき、また十字架につけられたイェスフ・キリストにおいて、この方法により無駄なくイェホヴァに近づいた。この『円形劇場』第一、第二、第四図の絵と文字を鋭く見れば、それはお前に知られる。ここでは、もっとも秘められた鍵が必要だろう。それでもいくらか語ろう。きわめて博学なカプニオンの『奇蹟をなす言葉について』第三巻第19、20章を、神智学的に清められた知性で観想せよ。後悔はしない。その敬虔で博学な人は、嘲笑者や愚者の軽薄さのため、秘められた覆いや極秘の象徴を風に散らすことを望まず、むしろ教えの子らの耳へ囁こうとした。確かにそれらは、上なるものの影として描かれた像、しるし、標識、象徴である。それによって私たちは、抽象のある道筋、類比の道、あるいは肉をまとった私たちに可能な他の道理や方法で、超天上的・霊的実体、力、働きを思うよう動かされる。賢者にはこれで足りよう。
私の父祖の神、憐れみの主よ。あなたは御言葉によって万物を造られました。
父祖の神、憐れみの主よ。あなたは御言葉によってすべてを創造されました。
神から知恵を得るためのソロモンの祈り。
「慈悲の主よ」慈悲を必要とする者は慈悲の神に、正義を必要とする者は正しい方に、力を必要とする者は全能者に嘆願する。それゆえ、その思いと関心をもち、驚くべき業の完成を望むお前たちは、私がこの『円形劇場』第一図に記した神の名を、眼と心で見渡せ。聖書からさらに多くを集めることもできる。そしてこの集会、この軍勢、この聖なる名のほとんど軍団ともいえるものから、お前たちが取り組むその働きにおいて、特にどの名を敬虔に用いるべきか選べ。天上の者の巨大な合唱隊は、これらの神性の象徴に神智学的に従うことができるからである。ホメロスの詩句によれば、ユピテルが動いたとき、神々の誰も自分の座に留まろうとはしない。神的な名は、ヘブライ語であり、そのためある者にはあまり知られていなくとも、単純で誠実な信仰と純粋な心でそれを語り聞く者には、大いに役立つと信じるべきである。かたわらにいて理解する天使たちは、その者を助けるよう招かれる。第174節を見よ。これらについては、神の許しにより、その場所でさらに述べる。
また、あなたの知恵によって人間を造り、あなたの創造されたものを治める者とされました。
また、あなたの知恵によって人間を立て、あなたの造られた被造物を治める者とされました。
「被造物を治めるように、など」元素をさえも、ということである。化学者たちは正しく、自然学的にそう語る。神の像、すなわち真の正義と聖さにおいて(『エフェソ』4章24節)、また神の似姿に、すなわち人格は一であり、本質は身体・霊・魂という三つの異なるものによる三として形作られた人間は、その支配の多様な力によって、全能の原型を表すべきだったからである。
聖さと正義をもって世界を統べ治め、正しい心で裁きを行うためです。
それは、公平と正義をもって地上の世界を秩序づけ、まっすぐな心で裁きを行うためです。
「地上の世界を秩序づけるように」書かれた十戒の法だけでなく、人間の良心、すなわち神的正義の火花に、正しい創造者エロヒムが神的に植え込んだ法にも従って、ということである。これは神の像の証しである。
あなたの御座の傍らに仕える知恵を私にお与えください。私をあなたの僕たちの中から退けないでください。
あなたの御座の傍らに座る知恵を私にお与えください。私をあなたの僕の数から除かないでください。
『列王記第三書』3章9節。
「あなたの玉座のかたわらに立つ知恵」神の座のかたわらに立つ知恵が、自分の労働にも立ち会うなら、その者はどうして誤り得るだろうか。イェホヴァの座は永遠からあるので、その栄光の玉座のかたわらに立つもの、すなわち、この序論でわれらの賢者が語る知恵も永遠である。そうでなければ、議論がそのように跳ね返るため、こういわざるを得ないが、悪魔よ、お前も永遠であることを否定しない神が、永遠から愚かで、馬鹿で、正気でなかったことになる。もしそうなら、愚かな方がどうして、いつか知恵を造れたのか。これを語るどころか、考えるきっかけさえ与えるお前を、イェホヴァが叱責されるように。「あなたの僕たちから」王の子は神の子らに、知恵を愛する者は神の僕らに、王は神の奉仕者らに数えられることを望む。万事において神に賢く仕えるためである。それゆえ知恵の霊も求める。
注 vt redundatur の語法は不自然だが原版どおりに保持。
私はあなたの僕、あなたのはしための子であり、弱く短命な人間、裁きと律法を理解するには未熟な者だからです。
私はあなたの僕、あなたのはしための子です。弱く命短い人間であり、裁きと律法を理解できるほどの者ではありません。
『詩篇』115篇16節。
「理解するには小さく、など」知恵が治めなければ、すべての人間は愚かである。神的な真理が照らし導かなければ、すべての人間は偽り者である。不潔な世の前でどれほど偉大であっても同じである。イェホヴァをお前の助言者とするよう努めよ。
たとえ人の子らの中で完全な者であっても、あなたの知恵がなければ、何の価値もないと見なされるからです。
人の子らの中でどれほど完全な者であっても、あなたの知恵がその者に欠けていれば、無に等しいと見なされます。
「たとえ誰かが完全であっても、など」あたかもこういうようなものである。誰かが、宮廷に生まれようと囲いに生まれようと、世俗の知恵にこの上なく恵まれ、狡猾で人を欺く宮廷の小狐、あるいは誤った争論的な小結論を弄び、知りながら良心に反して戯れる詭弁家であっても、主の知恵を欠くために、神の御前では愚者であり無であり、いやスキュバロン、廃物である。異国の女、よその女について上に述べたことを見よ。
あなたは私を、あなたの民の王、あなたの息子と娘たちの裁き手に選ばれました。
あなたは私を、あなたの民の王、あなたの息子と娘たちの裁き手として選ばれました。
『歴代誌上』28章5節。『歴代誌下』1章9節。
「あなたは私を王に選んだ、など」神智学を愛し学ぶ者は誰でも、この祈りを模倣して、自分の祈りを形作ることができ、またそうすべきである。ただし各自の召命の違いに従って、変えるべきところを変える。たとえば、「主よ、あなたは私を神学者、法律家、医師、自然学者、統治者、教師、職人などに定め、あなたの教会を建て、正しいことを教え、病人を癒やし、自然の書を問い、法と正義を執行し、青年を教育し、これやあれを作るよう命じられた。それをなすために、私に知恵をお与えください」など。
あなたは、あなたの聖なる山に神殿を、あなたの住まわれる都に祭壇を建てるよう私に言われました。初めからあなたが備えられた、聖なる幕屋をかたどって建てるためです。
あなたは、あなたの聖なる山に神殿を、あなたの住まわれる都に祭壇を建てるよう私に命じられました。初めからあなたが備えられた聖なる幕屋にならうものです。
「あなたの聖なる山に」かつては秘義を伴って山において、今は霊において礼拝されることを、諸霊の父は望まれる。主よ、私たちの心を高くあなたに向けられるよう、恵み深くお与えください。そして聖書的、大宇宙的、小宇宙的に書かれたあなたの言葉を通じ、ヤコブの梯子を通るように、知性によってあなたへ、あなたの内へ上ることができますように。アーメン。
知恵はあなたと共にあり、あなたの業を知っています。あなたが地上の世界を形づくられたときにも傍らにあって、何が御目にかなうか、何が戒めに照らして正しいかを知っていました。
知恵はあなたと共にあり、あなたの業を知っています。あなたが世界を造られたときにも傍らにあって、何が御目に喜ばれるか、何があなたの戒めに照らして正しいかを知っています。
『箴言』8章22節。『ヨハネ』1章3節。
「あなたの業を知る知恵」万物は、もっとも知恵ある言葉(第156、162節)によって造られ、造られたもので、その言葉なしに造られたものは何一つないからである(『ヨハネ』1章3節)。注意せよ。どの職人も自分の技芸については信頼すべきであり、万物は知恵によって造られたのだから、あらゆる善い可知的事物における教師として知恵を選べ。この一者だけの教えを信じよ。この知恵が、この『円形劇場』の法と教えによって、お前を自然化学的、魔術的、カバラ的な、すべての真理へ導く。「何がお気に召すか」どうして知らないことがあろう。それは父の知恵、その玉座のかたわらに立つ者、永遠なる方の永遠からの助言者だからである。
聖なる天から知恵を下し、あなたの栄光の玉座から遣わしてください。知恵が私のもとにあって共に働き、何があなたに喜ばれるかを私が悟るためです。
あなたの聖なる天から、あなたの威光の御座から、知恵を遣わしてください。私と共にあって、私と共に働き、何があなたに喜ばれるかを私が知るためです。
「知恵を送ってください」知恵を与え送るのは神であり、人間でも、いかなる書でも、人間的にはない。神のもとで見いだされ、人間や他のいかなる被造物のもとでもない(第167、187節)。神的太陽の流入、光、運動によって私たちに分かち与えられる。それゆえ私たち皆、心から叫ぼう。「神的な諸天よ、上から露を降らせよ。至知者の雲よ、知恵を雨として降らせよ。私の知性の大地が開き、新しい人を芽生えさせよ。その人が原型の範に従って形を改め、永遠に生きるように」。
「あなたの聖なる諸天から」自然全体のもっとも真実な記録者モーセは、『創世記』1章1節でいう。「初めにエロヒムは天を創造した」。真実である唯一の方に、真理の太陽の流入、光、運動によって導かれ、語らされたからである。この天は、その本性と実体によって、ヘブライ語では本来シャマイムと呼ばれる。あたかもエシュ・ヴァ・マイム、火と水、すなわち水的な火または火的な水である。ギリシア語ではアイテール、あたかもアイタエールであって、「燃える」というアイソーと、「霊・息」というアエールから来る、燃える霊である。「霊的に燃える水、水的で火的な霊、火的な霊の水」、エーテル的な液である。アリストテレスが、世界の永遠性について自分の虚偽を確立するために他者をきわめて愚かに非難し、どれほど反対にしゃべろうとも同じである。エロヒムはこれを、世界の全宇宙へ三重に分配した。
注 αἰθαὴρ は著者による αἴθω+ἀήρ の語源的合成として読んだ。シャマイムの語源説明を含め、歴史的解釈をそのまま訳す。
第一に、下方において、神はこれを土と水に入れた。そこに世界霊魂の座と乗り物があるだけでなく、二つの両極を結ぶ媒介、結合し一つにする絆ともなるためである。その両極とは第一質料と形相、すなわちヒュレーと世界霊魂、自然、ルーアハ・エロヒムである。第162、187節、およびこの『円形劇場』第三図の第5問以下に、いっそう詳しく見られる。下方の球全体はシャマイム、天、エーテル的な霊に満ちている。神の意志によって万物を通して万物の内へ拡散し、月下の塊のあらゆる身体を貫いたからである。経験が証言するように、全地と全大洋の周囲において、その火花を欠くものは何も見いだされない。ここでは元素とその産物に混じり、凝結・凝固し、あるものでは固定されて住み、見いだされ、活動する。自然の巨人である火は、一つひとつを裁き、これを凝結と固定の束縛から自然化学的に解き放ち、目で見え、あらゆる感覚に接する霊へ溶解する。混じり合った余剰物から分離することによって浄化し、こうして原初の自由へ戻す。これが下方の第一天である。その火花は葡萄酒のアルコールであり、霊、水、火である。お前が示し得るあらゆる物から、自然化学者の実験室は、自然学の詭弁家にはまったく知られない技によって、シャマイム、すなわち天を顕現させ、取り出す。これを読み聞く詭弁家よ、生意気な舌に轡をつけよ。何かを非難する前に、自然化学的に学ぶことを忘れるな。いつか「思いもしなかった」と、賢者にふさわしくないことをいわぬためである。炭を恥じるな。神ご自身も最後の裁きの時に火を恥じない。そのとき諸天は大いなる勢いで過ぎ去り、元素は熱で解け、地とその上の業は焼き尽くされる(『二ペトロ』3章10節)。世界は今日、哲学者たちによって自然化学的に裁かれ、最後の日には神ご自身によって、火により神智学的に裁かれる。
第二に、上方において、神はこれを元素やその余剰物と混ぜず、それ自体をそれ自体の内で、ただし自然によって生かされたものとして、凝固し、固め、硬く堅い身体に構成し作った。すなわち堅くした。「主の言葉によって諸天は固められ、その口の霊」、ルーアハ・エロヒム、神的流出(第137節)、「によって、その全勢力も固められた」からである(『詩篇』33篇6節)。「その霊は諸天を飾った」(『ヨブ』26章13節)。神は『創世記』1章6節で「ラキアあれ」といわれた。すなわち、堅固で、確固として、緊密な延長または広がりである。そのためラテン人はフィルマメントゥム、ドイツ人は「堅固なもの」と正しく呼んだ。それはどんな青銅や金剛石より硬く、持続するからである。「もっとも堅い諸天は、いわば青銅で鋳られた」(『ヨブ』37章18節)。それゆえ、自分の光や火の熱によっても、運動の速さによっても減少せず、まして主の最後の日より前に消費されはしない。「イェホヴァだけが諸天を広げた」(『イザヤ』44章24節、45章12節)。「無のように諸天を伸ばし、住むための幕屋のように広げる」(40章22節)。『イザヤ』34章4節は的確にいう。「諸天の全軍勢、すなわち装飾は衰え、諸天は巻物のように巻かれる」、ドイツ語で「まとめて巻き取られる」。リベルとは木に付着する内側の樹皮である。「その全軍勢は、葡萄やいちじくから葉が落ちるように落ちる」。水の中間に、水と水との間隔、区別となるものを置き、水と水とを分けよ。そして神は大空を造った。それは、神が水の下に置き、それによって水を高みに留める、もっとも堅固な穹窿のようである。そして大空の下の水を、その上の水から分けた。そのようになった。神は大空、ラキア、延長、広がりを「天」と呼んだ。すなわちシャマイムであり、火的な水の本性と実体に由来する。ラキアが外的な量と質、すなわち質料の延長と堅固化に由来するのと同様である。それゆえ今や誰も、大空の上に真の水があることを疑ってはならない。「諸天の上にあるすべての水よ、主を祝福せよ」(『ダニエル』3章60節)。「天」、大空と呼ばれるシャマイム、「を皮のように広げ、水でその上部」、もっとも外側の表面、「を覆う方よ」(『詩篇』104篇3節)。「天の天よ主を讃えよ。諸天、すなわち第一天と第二天の上にある水も、主の名を讃えよ」(148篇4節)。
注 『イザヤ』と『創世記』の引用が中途で接合される原文構成を保持。天の物質性・硬度は著者の歴史的自然哲学。
しかし超天上の水がどのようなものか、どの種類、実体、本性に属するかを、私たちは神智学的に問わねばならない。それゆえ神的太陽の流入、光、運動に教えられ導かれて、主の名において私はいう。超天上の水は、燃え尽きずに燃えるかのエーテル的な液と、まったく同じ種類、同じ実体である。その液は私たちの父祖の時代に、イタリアのパドヴァのきわめて古い墓で、陶製の小壺の中、さらに一方が金、一方が銀の二つの瓶の中に見いだされた。そのきわめて純粋な液の力によって、この灯火は非常に多くの年のあいだ燃えた。ペトルス・アピアヌスとバルトロマエウス・アマンティウスが、その古碑文集に記したとおりである。ヘルモラウス・バルバルスも、『ディオスコリデスへの補遺』の水一般を論じる箇所でこのことに言及する。「また化学者たちの天上の水、いやむしろ神的な水がある。デモクリトスとメルクリウス・トリスメギストスもこれを知り、あるときは神的な水、あるときはスキタイの液、あるときはプネウマ、すなわちエーテルの本性と事物の第五精髄から成る霊と呼んだ。それから飲用金、かの誇られながらまだ見いだされていない賢者の石、および砂が成る」。まだ見いだされないとは、化学の詭弁家によって、ということである。悲しいことに、ほとんどすべてが彼らで満ち、彼らには永遠に見いだせないだろう。神智学者については反対であることを、この『円形劇場』で十分に示した。同じ著者はいう。「私の考えでは、この種の液を指すのが、ごく最近、パドヴァの領地の小町アテステ近くで見つかった碑文である。その煉瓦造りで脆い工作物は、そこで土地を耕す農民の不注意な手によって壊された」。以上が彼の言葉である。チューリヒの医師コンラート・ゲスナーは、『ルナリア草と夜に光るものについて』5頁で、この非常に古い異教の気配を漂わせる碑文を次のように記す。
盗人どもよ、プルトーに捧げた聖なる贈り物に触れるな。
この壺に隠れるものは、お前たちには知られていない。
マクシムス・オルビウスは、大いなる労苦によって熟成させた元素を、
この小さな器の下に封じたからである。
豊穣の角をもつ豊かさの女神が、守り手としてそこにあれ。
これほど貴い液の価値が失われぬように。
四元素論者は、四元素的に語っている。
この壺の内にはさらに小さな壺が見つかり、次の詩句が刻まれていた。これについては、医術を愛するエウオニュムス・ゲスナーの『秘密の治療法について』の序文も見よ。
ここから去れ、極悪の盗人ども。
その出しゃばった眼で、お前たちは何を望むのか。
翼つき帽子をかぶり伝令杖をもつ、お前たちのメルクリウスとともに去れ。
マクスムスは至大なるプルトーへ、この贈り物を聖なるものとして捧げた。
以上も同じ箇所にある。
古い著者は『隠された世界霊の黙示』で、この水の真実性を重々しく確証する。とりわけ、このエーテル的な霊、シャマイム、天は、完全を超えて栄化された水的身体のうちに存在し、技巧を凝らした灯火で、感覚的に見える形で、自ら減少も消費もせず永遠に燃えると、厳かに断言する。私たちの時代にも、新たな燃料を注がず絶えず燃え、きわめて芳香あるエーテル的液を満たしたこの種の灯火が、低地ドイツとギリシアのきわめて古い墓や洞窟で見つかったことを、歴史記録と信頼すべき人々が証言していると私たちは知る。この超天上的な液の火は、かくも偉大で驚異的、いやほとんど超自然的な性質をもち、器をきわめて固く閉じれば燃え、器を開けばその炎は私たちの空気によって、その内で消える。「それは、私たちの普通の水や火とは、まったく別の水と火である」。それゆえ自然化学的哲学者たちはいう。「私たちの水は火であり、俗人の火以上に身体を焼く」。それは超天上的な火の水に属するシャマイムだからである。全能なる創造者エロヒムは、この真に驚くべき、驚くべき業をなす水を、この元素的領域においてさえ見いだすよう定め、許した。誰にか。ただ賢者にであって、自然学の詭弁家には決してではない。ではどこにか。確かに唯一の知恵の鉱床においてである。それは賢者たちのマグネシア、賢者の石の正当で真正な質料である。そこへ神イェホヴァは、天だけでなく土と水も置き、賢く保存した。すなわちこの全世界のヒュレーまたは種子であり、今日なお原初の普遍的状態に存在し、世界霊魂の普遍的火花によって生かされている(この『円形劇場』第三図、第7問)。
注 常燃灯などの記述は著者が伝える歴史的説であり、現代科学上の実証を意味しない。
そこから、あたかも大宇宙を普遍的に一望させる基体の内に、またそれから、自然化学的に調製し、さらにキリスト教カバラ的にそれを扱うことにより、創造者と、創造者が遣わした十字架上のイェスフ・キリスト、自然とすべての被造物の認識を、普遍的に探り掘り出すためである。したがって、真理に適合することとして、第一と第二の諸天の上にあるもの、すなわち超天上の水、シャマイム、火の水、第三天、神の幕屋、天使たちの聖所の認識、また自己の認識も掘り出すためである。こうして普遍的に一望する自然の書から、創造者の驚くべき知恵、力、善がいかなるものか、神智学者に知られるのである。これらから、賢者の石のキリスト教カバラ的に神的な使用について、十分な根拠をいとも容易に示せるだろう。この『円形劇場』第四図のウリムとトゥミムの箇所を見よ。ただし、天上的で隠された啓示の封印を破り、神の秘義を広く明かすことが許されるならば、である。教えの子には、今はこの『円形劇場』が各所で供すること、および私が示したことだけで足りるとしよう。その者の神智学的な黙想にも、探究すべき何かを残すべきだと考えたからである。神智学者は天の使用だけでなく、その実体、本質、本性を哲学的に考察すべきである。私が示したのは、超天上の水は、賢者によって下方の事物の自然の内にも見いだされ、もっとも純粋で、微細で、火的で、明るく、完全を超えるゆえに不朽で、自らの内に永久に固定され、すなわち存続しながら、それでも液体で流動的、点火可能だが燃え尽きないということである。その用途は、最高の上なる領域にあり、シャマイム、すなわち第三天を構成することにある。その近い側の表面は水的で、もっとも外の表面は火的、燃え盛る火、燃える水である。どうだろう。ここ下方において、ただ大宇宙を普遍的に一望させる基体に限られるとしても、通常のあり方と理屈に反して、超天上的な実体と本性をもつ、かくも高貴な水、かくも驚くべき水的な火があり、賢者だけに賢く見いだされるなら、最高の上なる領域、すなわち大空より上、その用途のゆえに神的と呼ばれる超自然的世界には、どれほどなおさらであろう。そうでなければ、知恵の鉱床は、実在する範型によって大宇宙の普遍なるものを表さないことになる。自然化学的に賢い者たちの間で、反対を考えることさえあってはならない。まして断定し語ることなど。
続けよう。イェホヴァの言葉の力によって、いわばある把持と螺旋装置によって天が高く持ち上げられ、前述のように大空が構成されたとき、直ちに、即座に、同時に、天と地との間に大きな空間、深い間隔が生じた。これが「場所」と呼ばれるものである。谷なしの山がなく、初めは結ばれていた手が後に離れ分かれるとき、その間に空間がないことはあり得ないように、天と地も、互いを分離し、引き離し、区別するこの昇華がなされた後、間隔と距離なしには存在できなかった。『エゼキエル』8章3節、「霊は私を地と天との間に持ち上げた」。まず空虚な場所が生じたはずであり、その後、下方の領域から日々蒸発して上へ向かう水分、絶え間ない蒸気と発散物、すなわち種々の気象の材料によって、また無数の地上的な身体によって満たされたはずである。それらがそこに存在し、縦横に成長し、呼吸し、動くためである。これは驚くべき神の、驚くべき大宇宙的実験室であり、自然が主宰し働く、永続的、普遍的な実験室である。
さらに神はいわれた。「天の大空に光るものがあれ」。すなわちラキア・シャマイム、天の広がり、固められた水的エーテル霊の広がりである。「それらは昼と夜を分け、しるしと時節、日と年のためにあり、天の大空で光って地を照らせ」。そのようになった。神は二つの大きな光を造り、大きい方は昼を、小さい方は夜を治めるようにし、星々も造った。それらを天の大空、すなわちラキア、固められたシャマイムの延長・広がりに置き、地を照らし、昼と夜を治め、光と闇を分けるようにした。注意せよ。星々がどのようにしるし、ヘブライ語でアオト、すなわち指示するしるしであり、大宇宙の書の天上の巻における、いわばアルファベットとなるか。父として私たちを顧みる神が、それらによって種々の重大事を私たちに語り、将来起こる、迫り来ることを、起こる前に示し、予告し、予言する仕方については、神の許しにより、別のところで詳しく説明しよう。第35、353節を見よ。これが高い第二天、純粋にエーテル的な領域である。これには太陽、月、星があるが、実は下方の第一天にも、その仕方で自らの星がある。賢者たちはこれを知り証言する。両者は互いに調和的、共感的な運動によって動く。下なるものは上なるもののようであり、その逆も同様である。この運動が、私の述べた表示の確実性を裏づける。神はその業において驚くべき方である。要するに万物は、小宇宙的にも大宇宙的にも、共に流れ、共に息づき、共に感じるものなのである。最後には『イザヤ』51章6節の証言により、天の大空は、火によって凝結の束縛を解かれ、煙のように溶ける。凝固、固化、堅固化する前のものへ戻され、すなわち自由な霊となるからである。
第三に、もっとも高く、ラキア・シャマイム、すなわち天の大空より上において、神はシャマイムを第一天のように元素と混ぜず、ましてその排泄的な余剰物で汚さず、第二天のように固く硬い身体へ凝固・堅固化もしなかった。むしろ全能の力によって、それ自体をそれ自体の内で完全以上に完成させ、少し前に教えたような、永遠に存続する超天上の水を構成した。その火を顕現させることで、最外面において自らを消費せず常に燃え、煙なく、もっとも白い光で輝くものとした。これがもっとも明るいエンピュレウム、火の天、いや光そのものであり、近づき得ない神が、神性に適合するものとして住まう光である(『一テモテ』6章16節)。そのためプラトンは、神が火的な本質の中にあることを、インドのバラモンたちから神的に学び、第五精髄を神性の住まいと定めた。おそらく同じ意味で、トマス・アクィナスは、神とその天使たちは燃える水の火を欠くことができず、日々それを用いると、冒瀆なしに語った。『哲学者たちの曙』の著者は第19章で反対と考えるが。欠くことができないのは、欠こうと望まなかったからである。神は最高、上方、下方において、威厳の座と玉座として、また種々の用途にかなう媒介として、それを用いることを望まれた。主がそうよしとされたのだから、お前もそれをよしとせよ。これが天の天、または諸天の諸天、シャマイムである(『申命記』10章14節、『列王記第三書』8章27節、『詩篇』115篇16節、『ネヘミヤ』9章6節)。下方と最下方の二つに対して第三天であり、パウロは神的な磁石の引力によって、知性においてそこへ運び去られ、人間が語ることを許されない秘密の言葉を聞いた(『二コリント』12章2節)。それは無量、最高(『申命記』4章32節)、最後である。聖なる聖書は、それ以上またはそれより高い天を述べないからである。私たちの父なる神の顔を常に見る私たちの天使たちのハギアステーリオン、聖所である(『マタイ』18章10節)。最高幸福の楽園、幸いな知性たちの座と玉座である。おお、私が魂たちのあの会議と集いへ出立する日、何と輝かしい日であろう! ここではキケロの『老年について』の言葉をキリスト教的に用いる。さらに、主なる神ご自身、フーは天の高みにおられる(『申命記』4章39節)。十字架につけられた私たちの主イェスフ・キリストは、復活から四十日目に、その天へ、またそれを超えて昇り、「諸天より高い者」とされた(『ヘブライ』7章26節)。「すべての諸天の上に昇り」(『エフェソ』4章10節)、父なる神の右に座し、そこから来て(『使徒言行録』1章10節、『マタイ』26章64節)、生者と死者を裁き(『マタイ』25章31節、『使徒言行録』10章42節)、火によって世界を裁く(『イザヤ』66章15節、『二ペトロ』3章7節)。
注 HV はヘブライ語の「彼」に由来する神名的表記。ギリシア語 ὑψηλότερος τῶν οὐρανῶν は字体を正規化。
これらの聖なる諸天(『詩篇』102篇20節)、主なる神ご自身が高みにおられる天(『申命記』4章39節、『ヨシュア』2章11節、『伝道の書』5章1節)、このご自身の聖所、この高い天の住まい(『申命記』26章15節、『歴代誌下』30章27節)、その聖なる栄光の玉座(『イザヤ』63章15節)、その聖なる家(『バルク』2章16節)、その栄光の聖なる神殿、その王国の玉座(『ダニエル』3章53節)から、われらの王たる神智学者は、知恵が自分に送られるようイェホヴァに願う。私たちも、私たちの神智学的祈祷室で、霊と真理においてその方に願おう。まことに神智学的な仕方で、私たちにも送られるだろう。
系論。私たちのこの教えによって真正に解説されたシャマイム、すなわち天は、きわめて有益に次のことを教える。光、ヘブライ語でアオル(『創世記』1章3節)、輝きと照明の作者、また配置の仕方により昼の作者でもある光(第139節)が、どこから来て何であるか。いかにして闇から(『二コリント』4章6節)、確定した堅固な神の命令の力で輝き出て、昼が生じたか。シャマイム、すなわち天、したがって全カオスは、その内なる火的な光がまだ神的に顕現していなかったため、暗く見えないものであった。それが輝くのは、暗い場所で葡萄酒の霊から火が顕現するのに等しい。この光がなければ、神のこの無量の業である宇宙は、私たちにとって未知で暗いままだったろう。また、いかにしてウル、すなわち火が日々自然に生じ、技によって顕現するか。火は熱なしには存在できないので、常に自らの結果である熱を示し証する。この熱は確かに万物において、あらゆる形相と形姿の守護者である。万物には自然によって生かされたシャマイムがあるからである。またそれは、事物の内の自然的な作用、物を行い産み出す作用の刺激であり、外にも内にも、自然的かつ人工的な道具的原理であり、神が定めた駆動的、運動的、あるいは作用的原理である。それは魂に、小宇宙的にも大宇宙的にも、もっとも忠実な助産師のようなものとして与えられた。魂はこうしてシャマイムを媒介として、自らの賦質を種々の仕方で事物に内在させる。なぜ、またどの観点で熱が、神的、天上的、元素的、自然的、内在的または生得的であり、そう呼ばれ、ある比例によって太陽と星々の熱に対応するのか。これら、すなわちこの熱の作用がなぜかくも多様であるのか。また、各々に固有のものを帰し、決して俗な意味ではない、どの意味で哲学者たちの次の言句を解釈すべきか。「天は生かされている」「流入、光、運動によって下なるものに働く」「元素が本性上は反対であるのに混合し互いに結びつく最大の原因は天である」「天は第一質料に対し、夫が愛する妻に対するのと同じ関係をもつ」「下なる事物を愛する」「男が女へするように大地に種を注ぎ、下なる身体を生む」「万物の親である」「神が私たちに働く道具である」「生じるすべてのものの原因である」「形相を与え、準備された質料に形姿を入れる」「この世界が含むすべてを治める」「種子を実らせる」「あらゆる豊穣は天から撒かれる」、その他同様の言葉である。そのとき、お前は自然の秘密について正しく哲学できる。よく区別する者は、よく教え、よく学ぶ。
注 ギリシア語の終止アクセントは正規化した。原版の熱・火・天の相互対応を保持。
「あなたの偉大さの座から」主は『イザヤ』66章1節で「天は私の座である」といわれる。『詩篇』103篇19節、「主は天にその座を備えた」。123篇1節、「天に住むあなたへ、私は眼を上げる」。10篇4節、「主、その座は天にある」。『マタイ』6章9節、「天におられる私たちの父よ」。注意せよ。神的な高みの玉座から来るのは、神的、永遠的なものだけである。ゆえに、神的流出である知恵(第137節)は、被造物のように創造、形成、発生、製作されたのではなく、永遠なる神的父から、神的・永遠なるものとして生まれた。その仕方は、狂信的な想像で把握するより、忠実な心でキリスト教的に信じるべきものである。
「私とともにいて、など」親しい霊が私に備わるように、ということである(第223節)。自分の自然化学的作業を望む終わりへ至らせたいお前は、最善最大の神に祈れ。善き助力の霊がお前に立ち会うように。この霊が、あらゆる混乱の作者である最悪の敵、悪魔から、きわめて忠実に作業を守るだけでなく、賢く働くよう励まし、作業に害を生じさせる過失を何か犯さぬよう戒めるためである。賢者たちの実験室を主宰することは、決してふざけ事と考えてはならない。そこには聖所のように敬虔に入り、お前とお前の作業を守る善き守護霊を怒らせないよう働くべきである。この世の豚どもにはまったく理解できない。哲学者だけが私の意図と意味を理解し、それに従うだろう。私にも助力の霊があり、ともに祈り、ともに働き、知性、悟性、理性、思考、感覚、あらゆる行為と労働を、賢く教え、導き、整え、助け、進め、幸運にし、幸いにするように(第28、145、158、181、292節)。これは大きな秘義であり、極少数の者しか認めていない。キリスト教徒を名乗るお前は、これなしには、自然の原理において、それから出発し、自然の方法に従って、技術的に正しく進もうとも、賢者の石を望む完成へ決して至らせられない(第132節)。キリスト教哲学者と見られ、呼ばれ、存在したい者よ、生活と行為においてそうあれ。それは神の賜物であり、ヘルメスや他の者は神的霊感によってその秘密を得た。大宇宙的には身体、霊、魂から成る。そのため私たちも小宇宙的に、この『円形劇場』の法と教えに従い、身体、霊、魂をもって、神智学的に祈り、カバラ的、魔術的、自然化学的に汗を流し働くべきである。三一なるイェホヴァが、三一なるお前とその労働に協働し、三一の普遍的自然化学的な業を達成するにあたり、善く意欲し、知り、存在し、なし得ることを吹き込み、与え、恵んでくださるよう、神智学的に働くことを忘れるな。理解できる者は理解せよ。十分に語った。
注意せよ。ある善い学問や技芸は、ときに不確実であり、そう呼ばれる。それはそれ自体に由来して不確実だからでも、それをできると自負する者が扱い方をときに誤って知るからでもなく、作業する術者に神の御意志が欠けるからである。「すべては神の祝福にかかっている。神から幸運をも得なければならない」。尋ねよう。全能なるイェホヴァが神的な呪いによってお前を罰し、罪のゆえに自分の賜物を取り去り、知恵の宝と実りを奪おうと望まれたなら、どうしてできないことがあろう。万物を造り、望めば自然の秩序さえ逆転させる方なのだから。ヨシュアの願いにより、太陽が天の中ほどに立ち、一日のあいだ沈むのを急がなかったとおりである(『ヨシュア』10章13節)。ヒゼキヤの願いにより、神はアハズの日時計で既に下った線を、影に十段逆戻りさせた(『列王記第四書』20章11節)。三人のヘブライ人、シャドラク、メシャク、アベドネゴは、燃えるバビロンの炉の中へ投げ込まれたが、火に触れられなかった(『ダニエル』3章21節以下)。これらは、自然を全能の手中に持ち、望むまま治める神の全能によって起こる。それゆえ神の意欲を私たちは願い得なければならない。偉大なミランドラ伯ピコも、「パン、すなわち全自然の神を引き寄せない者は、無駄に自然へ赴く」といったとき、同じことを意味した。この言葉のために、ある大いに権威ある人物から不当に攻撃されているけれども。このことは、この『円形劇場』の法と教えに従い、神の許しにより、祈祷室で神智学的に行い得る(第190節)。要約。秘められた学問と技芸は、至高者から委ねられた、より高貴な働きの力が結びつかなければ、不確実であり続ける。すなわち、神的な力によって生かされ、強められなければ、である。これはソロモンが「主から御意志を汲み取る」(第329節)、「知恵とともに住む」(第300節)といったのと同じである。
知恵は万物を知り、理解しています。私の行為において私を節度正しく導き、その栄光のうちに守ってくれるでしょう。
知恵は万物を知り、理解しています。私の業において私を慎み深く導き、その力のうちに私を守ってくれるでしょう。
「知恵はすべてを知る」それゆえ、お前の友、姉妹、花嫁となれば、万事について賢くお前を教えることができ、また望む。第187節で約束したからである。その言葉はすべて正しく、その内には歪みも曲がりもない(第42節)。「節度をもって」酔わずにというだけでなく、巧みに、賢く、真理のまっすぐな線上で、ということである。
そうすれば私の業は受け入れられ、私はあなたの民を正しく裁き、父の玉座にふさわしい者となるでしょう。
そうすれば私の業は受け入れられ、私はあなたの民を正しく治め、父の王座にふさわしい者となるでしょう。
「私の業は受け入れられる、など」いつか。知恵がともにいて、ともに祈り、働いたときだけである。そのように私たちも神において賢くなり、望むすべてをなし得る。しかし神智学を学ぶ私たちが望むのは、神ご自身が望むことである。それゆえ、『詩篇』1篇にあるように、この『円形劇場』の法と教えに従って行うことは、何であれ栄えるだろう。
人間の誰が神の計らいを知ることができるでしょう。誰が、神の望まれることを思い測れるでしょう。
人間の誰が神の計らいを理解するでしょう。神の望まれることを、誰が心に捉えられるでしょう。
『イザヤ』40章13節。『ローマ』11章34節。『一コリント』2章16節。
「人間の誰が、など」これは下の第297節と同じ異論である。それへの返答は第268節を見よ。
死すべき者たちの思いはおぼつかなく、私たちの見通しは確かではありません。
死すべき者たちの思いはおぼつかなく、私たちの見解は誤りやすいからです。
「私たちの思い、など」それが、それ自体として、絶対的に私たちに由来する私たちのものであり、ただ自分の思慮にのみ頼る限り、私たちは推測するのであって、知るのではない。私たちの思考、思弁、推論、発明、実作業はすべて、神的な真理と力の霊感によって生かされ強められない限り、不確実である。「そうでなければ、それらは空想である」。
朽ちる定めの身体は魂を重くし、地上の住まいは思い煩いに満ちた心を押し沈めるからです。
朽ちてゆく身体は魂を重くし、地上の住まいは多くのことを思う精神を押し沈めるからです。
「朽ちる身体、など」パウロも外なる人を「朽ちつつある者」と呼ぶ。その者は自らの欲望とともに腐敗させ、腐敗させられる。それゆえ二は退けられねばならない。この『円形劇場』第二図を見よ。「地上の住まいは押し下げる、など」私たちの知性は、罪のため朽ち、死すべき身体に宿り、暗い牢獄に閉じ込められるように拘束される。そのため人間は自分から、自力で、神を正しく認めることも、自然と自己を知ることもできない。ゆえに神に祈るべきである。神への愛における神智学的な修練を通して、肉の情動を悔悛によって打ち勝ち克服し、知性が神的、霊的、自然的事物の観想と取扱いへと運び去られるように。また牢獄の底から神的に上へ引き出され、住まいの頂に置かれるように。そこから、以前底にあって見えなかったものを見始め、その仕方で、イェホヴァおよび神から委ねられた善霊たちとの、もっとも甘美な語らいを密かに享受し、神的ネクタルに酔い、こうして全宇宙の認識と享受へ至るように(第145節)。これは神的な愛を忠実に学ぶ者だけが理解する。
注 ギリシア語 φθειρόμενον の一部は古活字の連字。文脈に従って展開。
地上にあるものさえ、私たちはようやく推し測るだけで、目の前にあるものを見いだすにも苦労します。それなら天にあるものを、誰が探り究められるでしょう。
地上にあるものを、私たちはかろうじて推測で捉え、手元にあるものを見いだすにも苦労します。それなら天にあるものを、誰が究めたでしょう。
「かろうじて判断する、など」第187節を見よ。
いと高きところからあなたが聖霊をお与えにならなければ、誰があなたの御心を知るでしょう。
あなたが知恵を与え、いと高きところからあなたの聖霊を遣わされなければ、誰があなたの計らいを知るでしょう。
知恵の霊が送られる。
「あなたが霊を与えなければ」第264、297節の異論への、賢者自身の賢い返答である。パウロは『一コリント』2章11節で、神の霊と、その霊自らが開示または啓示する者だけが、神の秘奥を知るという。天におられる神は、秘義、深いもの、隠れたものを啓示する(『ダニエル』2章28節)。要するに、神の知恵において、イェホヴァが望まれるなら、私たちは万事を知り、理解し、なし得る。また、誰もが自らの言葉の最善の解釈者であるなら、自然、聖なる聖書、自己のもっとも真実な認識を、真理そのものからよりも確実に真実に汲み取れるところが、どこにあろうか。真理そのものである神を、どうすれば私たちの助言者とできるかを、この私たちの『円形劇場』は神智学的に教える。そこでピタゴラス的に学ぶことを忘れるな。父より先の子となるな。兄弟として忠告する。「送ってくださらなければ」これに、この『円形劇場』第二図の言葉、「それゆえ、お前たちはまず敬虔に洗われているのがふさわしい」、など、以下の言葉を関連づけよ。「あなたの聖なる霊」知恵の霊である(第223、261節)。悪魔的な悪霊ではない。もっとも高い所からであり、地獄の深みからではない。間接的にも来る。それは光の天使を通してであり、闇の獣を通してではない。また自然的または人工的な道具を通して来る。神はさまざまな驚くべき媒介によって私たちに働く。ご自身が驚くべき方だからである。それらはこの世界劇場において真の知恵に忠実に仕え、私たちが神的なものを人間的にいっそうよく受け取り、知り、理解できるようにする。善い学問と技芸は、知恵のある種の女奉仕者、または女使徒だからである。教えるためにこう呼ぶことを許されたい。知恵はそれらを世に送り、自らの驚異をなす女主人の尽きない宝について、訓練と教えの子ら、知恵の愛される忠実な相続者たちに、福音、すなわち喜ばしく善い知らせを宣べ伝えさせた。
注 piè lotos(敬虔に洗われた)を拡大画像で確認。
そして、地上にいる者たちの道が正され、人々があなたに喜ばれることを学ぶとするなら、どうしてそれが成り立つでしょう。
このようにして地に住む者たちの道は正され、彼らはあなたに喜ばれることを学んだのです。
「こうして彼らの道は」第28、74、157、158、187、294節を見よ。他の者、たとえばわれらの賢者、いやすべての賢者が、そのように、すなわちこの方法、この道で学んだのだから、私たちもその足跡に従うべきである。神的霊感なしに偉大な人となった者はかつて一人もいないからである。彼らが学んだのと同じ知恵の霊から、同じ仕方で賢く学び、私たちも賢者となるためである。書かれたすべては、私たちへの教えとして書かれたからである。
主よ、初めからあなたに喜ばれた者は皆、知恵によって癒やされたからです。
そして彼らは知恵によって救い保たれました。
「あなたに喜ばれたすべての者、など」知恵とともに住む者以外は神に喜ばれないのだから(第300節)、私たちも知恵とともに住めるよう神智学的に努めるべきである。そのとき神に喜ばれ、神に愛され、この『円形劇場』の法と教えに従い、真の信仰において祈り働くことにより、万事を願い得る。清い心における堅い信仰は、もっとも力強いものである。
二つのことをあなたに願った。私が死ぬ前に、それを私から遠ざけないでください〔原文には否定辞の脱落〕。
注 原版 prohibeas に否定辞 ne が欠ける。序論と文意に従い訳で補った。
さらに、私はあなたに二つのことを願いました。死ぬ前に、それを私に拒まないでください。
むなしさと偽りの言葉を、私から取り除いてください。貧しさも富も与えず、私にふさわしい食物で養ってください。
むなしさと偽りの言葉を、私から遠ざけてください。物乞いの窮乏も富も私に与えず、ただ生活に必要な糧だけをお与えください。
「二つを私はあなたに願った」もっとも賢い王は、内なる人と外なる人、その生活を考え、両方の統治を神に願う。魂には虚しさと偽りからの守りを、身体にはほどよい財産状態を望み祈る。人間は自分だけに任されれば、知性の闇と誤謬へ落ち込み、外的な幸福と成功も失うからである。身体全体と外的生活の無事は、敬虔と、知恵の泉である主への畏れから流れ出る。そのため人は、水の流れのほとりに植えられ、時に応じて実を結び、葉が落ちず、何を行っても栄える、かの木となる(『詩篇』1篇3節)。「虚しさ」虚しさとは、不潔な世俗の知恵でなくて何であろう。それは愚か、盲目、軽率、高慢で、神を知らず、迷信的、偶像崇拝的で、神を軽蔑し、反乱好きで、残忍、血まみれ、大胆、非人間的、他人の不幸を喜び、不安、偽善的、争い好き、厚顔、無節制、凶暴、貪欲、中傷的、虚言的、詐欺的、欺瞞的、傲慢、二枚舌、奸計に満ちる。要するに、生まれながらの人間に生得の、かの蛇の狡猾さと悪意にほかならない。また最初に造られた人の嘆くべき堕落、常に永遠の破滅へ傾き進む恐ろしい崩壊である。「偽りの言葉」彼は偽りを、神の真の認識と呼び求めに対置する。神の認識と祈願は永遠の祝福と幸福の泉であるが、偽り、すなわち神についての無知、偶像崇拝、迷信、神と祈願への軽蔑は、時間的・永遠的な呪いの深淵だからである。富も貧困も彼は望まない。なぜなら、
人の心は、たいてい順境において放縦となる。
この世の輝く光、イエスは貧しかった。
注 第271–272節の合併解説。epichærecaca と philonica はそれぞれ他人の不幸を喜ぶこと、争い好きの意味。
満ち足りて否認へと誘われ、「主とは誰か」と言うことのないように。また窮乏に迫られて盗み、わが神の御名によって偽りの誓いをすることのないように。見よ。
満ち足りて否み、「エホバとは誰か」と言うことのないように。また貧しくなって盗み、わが神の御名をみだりに用いることのないように。
「満ち足りてしまわぬように、など」賢者は、生活のほどよい便宜を願うべきである。詩人は富と財産を「悪への刺激」と呼ぶ。ファラオは富と権力の絶頂において、無思慮に傲慢に「イェホヴァとは誰か」といった。ゆえに過剰な富が彼を滅ぼした。心を頑なにし、多くの超自然的でまったく神的な奇跡にもかかわらず、尊び、畏れ、認めようとしなかった、より高く強い主を、紅海で経験したからである。それゆえ私たちの秘教的哲学のうちに黄金の山だけを求める者は誤る。それは愚者のことであって賢者のことではない。知恵は神を崇め愛するのであり、金をではない。この天上の花嫁は、貪欲、放縦、高慢、気取りをすべて欠き、単純で安価だが上品で清潔な装いで歩む。順境を控えめに用い、逆境を耐えるため自らを準備する。いや、神的・自然的秘義の宝を集めるため、貧困、重荷、労苦を支え、容易には逆境に屈しない。
善い者を甘言は膨れ上がらせず、苦難は打ち砕かない。
打ち勝たれない信仰の真の喜びが、彼らを助ける。
しかし、事を正しく整える卓越した力は知恵にある。
この勤勉な努めの後にこそ、ついに知恵が続いて来る。
「矯正の卓越性、など」人間の本性がいかに歪み堕落しているかは、日々の弱さ、思い違い、闇、誤謬が十分に証言する。それゆえ曲がった本性の矯正と改善を、一瞬ごとに行うべきである。このエパノルトーシス、私たちの矯正の目的は知恵である。あらゆる悪の最たるものは私たちとともに生まれるが、皆それを許し、その改善を望まない。すなわちフィラウティア、自己愛である。それによって各人は生来自己の友となり、自分の意見を喜ぶ。しかし各人があまりに自分を気に入るこの病こそ、実際には人生のあらゆる誤りと罪の泉である。それゆえ知恵を崇める者よ、真の知恵の光を目指したいなら、本性と自己愛の再建は絶対に必要である。
しかし、教えの子よ、イェホヴァの恩寵によって、このように知恵、またはその特別な賜物のいくつかを得たお前は、
賢者にも機会を与えよ。そうすれば彼には知恵が加わる。正しい人に教えよ。彼は急いでそれを受け入れる。
賢者に戒めを与えよ。彼はいっそう賢くなる。正しい人に教えよ。彼は学びを増す。
「急いで受け入れる」さらに大いなる感謝と、労苦へのふさわしい報酬をもって、である。これらは知恵の愛される忠実な相続者の徴である。恩人を忘れ、あるいは子でありながら愚かにも父より先になろうとする者、つまり「卵が雌鶏より賢くなりたがる」者たちは恩知らずであり、その家から悪は離れない。
賢者の徴。
愚かな者の耳には語るな。彼はお前の言葉にある分別を侮るからである。
しかし、愚かな者たちの耳には語るな。彼らはお前の言葉にある教えを軽んじるからである。
賢者はどこで、なぜ語るべきでないか。
「愚かな者たちの耳に、など」この戒めを忘れるなと、兄弟として忠告する。神、人間、諸霊、自然の秘義、秘奥、秘密について、誰の前でも、いつでも、何もかも語り哲学するのが、適切で妥当で安全というわけではない。すでにしばしば述べたように、誰に、いつ、どこまでかがある。ときには多数者のように語り、少数者のように判断すべきである。時、場所、人に合わせるべきである。また、ある信仰ある人が正しく忠告したように、何らかのサトゥルヌスがお前の秘密の証しとなる書を見ることがないよう注意せよ。この戒めを忘れた多くの者に起こったように、恥ずべきことに牛の蹄の下へ置かれ、踏みつけられぬためである。私自身も常にこれを覚えていられたなら! 悪魔に取り憑かれた豚に真珠を投げるな。適切な時と場所で黙ったことは、しばしば有益だった。
正しい者の父は喜びに躍る。賢い子をもうけた者は、その子を喜ぶ。
正しい者の父は大いに喜び躍り、賢い子を生む者は、その子を喜ぶ。
「賢い子を生んだ者、など」自分の種から実子を身体的に生むだけでなく、教え、教育、救いをもたらす戒めによって、教えと訓練の子を賢く生むことでもある。第34節を見よ。ここから賢者たちにきわめて普通の表現、「おお、わが子よ、わが子よ」が生じる。
命を与える戒めを聞く耳は、賢者たちのただ中にとどまる。
命を与える戒めを聞く耳は、賢者たちのただ中にとどまる。
「聞く耳、など」耳の入口から不従順と悪意が人間の心へ入ったように、忠告と懲らしめの声を聞くことで、知恵が知性へ入る。また悪魔の声を聞くことで人間の全心が腐敗し汚されたように、聖なる聖書、自然の書、自己の内で神の声を聞くことで、人間の心は腐敗、悪魔的な汚れ、無知から解き放たれる。神は知恵の研究を、この生では、より大きな光、理解、知識、事物の霊的・自然的認識、助言、信仰の力、慰め、公的・家内的統治の成功によって飾り報い、この生の後には不死の報酬によって報いるからである。
訓戒を怠る者は自分の魂を侮る。しかし戒めを聞く者は、分別ある心を得る。
訓戒を投げ捨てる者は自分の魂を軽んじる。しかし戒めに従う者は、分別ある心の持ち主となる。
「訓練を、など」医療を無視する者が身体の健康を憎み軽んじ、この身体的生命の敵であるように、魂の医療である訓練を無視する者は、自分の魂の敵、殺し手である。また、主を畏れ悪を離れる者には、臍の健康と骨の潤いがある(『箴言』3章8節)ように、その反対に、主への畏れと訓練を軽んじる者には、老朽、衰弱、消耗、かじる良心の虫がある(『詩篇』32篇3節)。「心の所有者である」すなわち、自らの情動、怒り、憎しみ、喜び、悲しみ、恐れ、快楽の主人である。これらの情動を正しく治め調整することを学んだなら、その者は確かに万事においてより思慮深く行動し、自分の心の所有と統御とともに、栄光と名誉を所有するだろう。
矯正を捨てる者には貧困と不名誉が訪れる。しかし戒めを守る者は、尊ばれる。
訓戒を捨てる者には窮乏と不名誉がある。しかし叱責する者に従う者は、栄誉を受ける。
「欠乏と不名誉、など」真の知恵の道からまったく逸れた生来の人間を、知恵そのものが無数の矯正によって絶えず正す。道へ連れ戻し、内在し生得の愚かさから解放するためである。賢い人間がこの矯正を受け入れれば、矯正者たる知恵によって多くの報酬で飾られる。その中には立派で正当な富、また名誉もある。しかし愚かな人間が訓練を拒めば、知恵はその者から退き、不信心の娘たち、貧困と不名誉が続いて来る。
嘲る者を教え諭す者は、自ら侮辱を招く。不敬な者を叱る者は、自ら汚点を生む。
嘲る者を叱る者は、自ら不名誉を受ける。不敬な者を戒める者は、自分に汚点を受ける。
「嘲る者を教える者、など」それゆえ、秘義、秘奥、秘密を託す相手がどのような者か、慎重に見定めるべきである。悪魔が恩知らずのカッコウを起こさぬためである。
嘲る者を叱るな。お前を憎むことのないように。賢者を叱れ。そうすればお前を愛するだろう。
それゆえ嘲る者を戒めるな。お前を憎むことのないように。賢者を戒めよ。そうすればお前を愛するだろう。
賢者の徴。
「嘲る者を責めるな、など」煉瓦やエチオピア人を洗うような無益なことになるからである。ドイツ人のあの言い回しを考えよ。「いったい悪魔が私に愚者どもを糞として押しつけたのか。すべての愚者を賢くしようとすれば、ずいぶん忙しいことだろう」。こうした者を避けよ。聖なるものを犬に与えるな。エピクロス派や無神論者は、叱責すればさらに狂暴になる。しかし敬虔で、教えを受け入れ、神を畏れる者は、知恵と他の多くの優れた賜物において進歩する。
注 Æthiopem lauabis は古典以来の「無益な試み」を意味する、人種的偏見を含む歴史的諺。原文を省略せず訳した。
嘲る者は知恵を求めるが、見いださない。しかし理解ある者にとって、知識は容易に見いだされる。
たしかに嘲る者も知恵を求めるが、見いださない。分別ある者たちには学びは容易である。
「嘲る者は求める、など」嘲笑好きで鼻を利かせる性向は、真の知恵を決して受け入れられない。知恵は素直で学ぶことを欲する心を愛し、蜜房と蜂蜜で養い、知恵のネクタルで酔わせるからである。プトレマイオスはいう。「認識に適した魂は、最高度に学問の修練に励む者よりも、多くの真実に達する」。しかし、この知性の適性は天の賜物であり、祈ることで得られる。
理解ある者の目の前には知恵が現れる。愚かな者の目は地の果てに向いている。
分別ある者の顔には知恵が輝く。愚かな者たちの目は地の果てを見ている。
「思慮ある者の顔に、など」すなわち賢者の顔は慎み深いが、愚者の眼は落ち着きなくさまよい、軽薄さの指標となる。顔は心の絵だからである。「水に覗き込む者の顔が映るように、人々の心は思慮ある者に明らかである」(『箴言』27章19節)。また「自分の家畜の顔をよく知り、自分の群れを顧みよ」(同23節)。「人の知恵はその顔に輝き、もっとも強い方がその顔を変える」(『伝道の書』8章1節)。それゆえピタゴラスのように、何日かにわたって、額相学的、人相学的、手相術的に人や弟子を調べよ。すべての被造物は自然による一定の標識としるしで描かれ飾られ、自然の神的な特徴、すなわち一定の比例、形、姿で印づけられている。それによって、内的で潜在する霊と、事物の隠れた性質について判断できる。いや、事物の隠れた性質と潜在する霊そのものが、一定の外的標識としるしによって自己を示し、自らの本性と資質に応じて、賢者に知られたいと望むような徴、形、比例、姿を形成する。この徴は自然魔術の始まり、いわばアルファベットと最初の元素である。そのように、この絵は特に人の顔と姿において認識すべきである。自然全体の徴は、小宇宙に合流するからである。ここで自然の文字と聖刻文字的標識は、一定の意味と文章を作り、賢者や、この自然の文字と文芸を知る者にはよく理解される。自然は偽らず、自らについて偽の証言をしない。その探究者がこの書法を十分に理解するよう学びさえすれば、自然は彼らを欺かない。天にはそのしるしがある。火、空気、水、土、植物、動物、鉱物、金属にはそれぞれの徴がある。天使、すべての預言者、使徒、聖人にはそれぞれの標識がある。いや、救い主ご自身も、人の子のしるし、十字架の形をもつ。
注 人相学・額相学・手相術による人格判断および徴の理論は著者の歴史的説として訳した。
少年も、自分の行いによって知られる。その業が清いか、また正しいかどうかが。
少年も、その営みから知られる。その行いが清く正しいかどうかが。
「その営みから」自然的な特徴または徴としての行為から、ということである。注意せよ。偉大で卓越した人は三つの仕方で起こされる。第一、すぐれた知性には神によって小さな火が植えられ、それによって卓越した事柄をなすよう駆り立てられる。その火は幼い頃から折々姿を見せ、閃く。族長ヨセフ、ダビデ、ソロモン、ダニエル、ヨシヤなどに見られるとおりである。彼らは母胎から、神の摂理の器、神の業の道具に選ばれている。第二、星々の自然的な影響と、星々の実りが成熟に達し、世に何か自然的な恩恵を示して自分たちの宝から産み出そうとするとき、受胎の初めからそのような知性を一定の方向へ傾ける。あらゆる自然的知恵は星々にあるからである。ここから、種々の事柄と能力における、種々の術者が現れる。そこで詩人は歌う。
天上の才能はその年齢より早く立ち上がり、
ありがたくない遅延の損失に耐えかねる。
第三、人間の内にはある内的な天があり、聖霊と、信仰と祈りによって得た聖霊の特別な賜物によって照らされる。ここにカバラ的な霊と、鋭敏なテオフラストス的哲学の学校が隠される。
欺きながら歩む者は秘密を漏らす。しかし忠実な者は、友から託されたことを隠して守る。
欺きながら歩む者は秘密を漏らす。しかし忠実な心は、事柄を隠して守る。
「忠実な者、など」信仰、祈り、沈黙によって、多くの天上の秘義と自然の秘奥が得られる。それゆえ預言者イザヤは24章16節で歌う。「私の秘密は私に、私の秘密は私に」。またダビデは『詩篇』51篇8節で、「あなたの知恵の不確かなものと隠れたものを、あなたは私に示した」という。それゆえ使徒パウロもいう。「キリスト・イエスの内には、知恵と知識のすべての宝が隠されている」(『コロサイ』2章3節)。それゆえ求め、探し、叩け。これらは使徒が『二コリント』12章4節で述べた、楽園と第三天の、かのアッレーター、言い表せない言葉である。
事柄について沈黙を守ることは、すぐれた徳である。
反対に、黙すべきことを語るのは重い罪である。
秘密を漏らす者は、欺きながら歩む。唇で人を誘う者とは交わるな。
秘密を漏らし、欺きながら歩き、むやみに唇を開く者とは交わるな。
「秘義を明かす者、など」神的であれ自然的であれ、より秘められた事柄を望む者は誰でも、恒心、重厚さ、沈黙に自らを慣らす必要がある。秘義を啓示する善い天使たちはそのような者なので、不安定、軽薄、おしゃべりな者をすべて遠く避ける。あらゆる不安定さ、軽薄さ、多弁の極端な敵である。それゆえ知恵の子よ、お前もこのような軽薄で多弁な人を避け、自らに破滅を招くな。
多くの人は慈悲深いと呼ばれる。しかし忠実な人を、誰が容易に見いだせるだろうか。
多くの人は、それぞれの慈悲を言い立てる。しかし誠実な人を、誰が見いだせるだろうか。
「多くの人は慈悲深いと、など」すなわち多くの人は聖人と思われ、そう呼ばれるが、真に善く忠実な者を誰が見いだすだろうか。神だけが人の心を見、飾られ偽られたすべてを、誠実で真実なものから識別するからである。それゆえ人々とはもっとも慎重に交わるべきである。友情においても、へつらい、甘言、迎合ほど大きな疫病はない。多くの名で呼ばれようとも、これは、軽薄で欺瞞的な人間、喜ばせるためにすべてを語り、真理のためには何も語らない人間の悪徳として記すべきである。キケロ『ラエリウス』。
それゆえ、お前を信頼している友に対して、悪事を企てるな。
お前と共に安心して暮らしている友に対して、悪いことをたくらむな。
「企むな、など」真の知恵に浸された知性、ソフィアの子は、人間社会の医師であり、破壊者ではない。高貴な知恵を受け入れる心は、真理と正義を愛し、あらゆる詭弁と不義の敵だからである。とりわけ隣人の隠れた過ちを覆い、正すにあたって、あらゆるエピエイケイア、寛容を用いる。新たな罠によってその人に新たな悪を企むことなど、はるかに遠い。ソフォクレスはいう。「友に欺かれることほど残酷な傷はない」。「もっとも身近な者が、しばしばもっとも害をなす」。
銀にはるつぼ、金には炉がある。しかし心を試すのはイェホヴァである。
注 第290節の左右欄は異なる聖句。左は箴言17:3、右は17:13。原版の組合せを保持。
善に悪をもって報いる者、その家から災いは去らない。
「悪を返す者、など」感謝が、神の愛する真実と正義を含むように、恩知らずは偽りと不義から作られる。神はこれらの疫病を激しく憎み、もっとも忌み嫌うので、恩知らずが神に罰せられることは疑いない。クセノフォンのあの言葉も記憶に値する。「恩人への感謝に慣れていない人々は、その後神に対しても恩知らずとなる」。「しかし心を試すのはイェホヴァ」十字架と苦難の火によっても、心と腎を探られる。火はすべてを試すからである。もし神が忠実な心を見いだしたなら、必ずその者に秘密を明かし、自らの賜物と善きものを恵むだろう。「神は、いつ、どこで、祝福すべきか、妨げるべきかを、よく知っておられる」。
ここに第六段階の図を挿入する。
注 印刷・製本上の挿入指示。実際に後続する折込図は「世界を構成する三者」の対応表。
世界を原初に構成するものは三つである。次の者たちが教えるとおり。
注 無頁番号の折込対応図。以下は各欄を上から下へ読み、欄順に配列。共通横断行は独立単位とした。

これらは、最初の、創造された、三一の、普遍的な存在、カオスである。
注 第一欄の土・水と天を括る大括弧から、中央欄へ水平に延びる共通行。
第一欄 モーセ。
一、土と水。油性で、粘り、しぶとく付着し、膠状の土。その周囲と上に注がれた水。この二つの元素、いわば「ヒュレー元素」としてそう呼ばれるものから、かの水的な塊、ただ一つの身体が、そのとき存在するように。
注 Hylementis は hyle(質料)と elementis(元素)を重ねた造語。
二、天。(第261節、およびこの『円形劇場』第三図の第6問。)
三、ルーアハ・エロヒム。すなわち水の上を覆う神の霊。『創世記』1章。(第261節と、この『円形劇場』第三図の第4問を見よ。)
注 ヘブライ語をラテン文字で転写。末尾の figuram ... tertiæ は原版の文法的乱れを保持。
第二欄 ヘルメスと、もっとも古い賢者たち。
一、身体。「下なるもの」と呼ばれる。
二、霊。世界のエーテル的な霊であり、霊的身体、身体的霊であり、万物を貫く。「上なるもの」。
三、魂。世界の魂であり、あらゆるものを芽生えさせる、祝福された緑性である。緑の獅子。緑のドゥエネク。
注 Dvenech は原版表記。錬金術の物質名として音写し、通常物質に同定しない。
第三欄 古代の哲学者たち。
一、質料。ヒュレー。作用を受けるもの。
二、媒介。それは、いわば身体ではなく、すでに魂であるかのようなもの、あるいは魂ではなく、すでに身体であるかのようなもので、二つの両極を結ぶ。アリストテレスは真理の光を奪われ、ここに原理の代わりに自分の「欠如」を置いた。原因の代わりに結果を置いたのである。
三、形相。モルフェー。事物に存在を与えるもの。作用するもの。
第四欄 自然化学者たち。
一、自然の硫黄と塩。すなわち、脂肪質で油性の土、および手を濡らさない乾いた水。ヘルメスの太陽と月。
注 原版では「土/太陽」と「乾いた水/月」を左右に対応配置する。ここで硫黄・塩は錬金術的原理。
二、水銀。すなわち、自らが結びつく自然の火花の本性に応じて働くエーテル的な霊。大空の惑星メルクリウス、すなわち水星に似る。水星は多様でまったく変わりやすい本性をもち、熱いものとともに熱く、冷たいものとともに冷たくなる。結びつく相手の本性に従うからである。
注 ☿rii は惑星記号と語尾を組み合わせた Mercurii の表記。
三、自然。本質。
第五欄 これらには、四元素論者たちの次のものを対応させ得る。
一、土と水。
二、空気と火。
三、第五精髄。
系論。これら三つの第一原理の状態を、自然学的、自然医学的、自然化学的など、異なる観点から考察するならば、すなわち、第一にそれぞれ単独で、あるいは互いに混じったものとして、第二に抽象的に、あるいは具体的に、第三に純粋に、あるいは不純に、第四に溶解・揮発・流動したものとして、あるいは凝結・固定したものとして考察するならば、お前は異論の迷宮から幸いに抜け出せるだろう。なお硫黄には脂肪性で煤状の排泄物、塩には鈍い土、水銀には水性の液がある。教えの子には、今はこれで足りよう。
注 terra surda は直訳「聾の土」、作用を示さない残土の意として訳す。phlegma は錬金術的な水性留分であり、現代の痰に限定しない。
第六段の解釈と注解
第六。序説の第六段の解説。
賢者は証言する。知恵とともに、すべての善いものが私に訪れ、その手を通じて、数えきれぬ誉れが与えられた。
知恵とともに、すべての善いものが私に加わり、その手を通じて、数えきれぬ富がもたらされた。
「私に訪れた、等々」。第314、315、334、338節を見よ。「その手を通じて」。この円形劇場の法則と教えに従って、祈りの場と実験の場で行う、知恵の神的な手仕事を通じて、という意味である。汚れた世俗の商売によるのではない。第317節。それゆえ『詩篇』128篇2節には「あなたは自らの手の労働の実りを食べる」とある。「あふれる激流は、知恵の水脈、あるいは泉である」。『箴言』14章4節。
注 聖書参照のProv.14,4は原刊本どおり。現代の節対応への修正はしていない。
私はすべてを喜んだ。知恵が私に先立っていたからである。そして、それらすべての母が知恵であることを、私は知らなかった。
私はすべてを喜んだ。それらをもたらす者が知恵だからである。しかし、それらの母が知恵自身であるとは、私は知らなかった。
「知恵が私に先立っていたから、等々」。すなわち、知恵は理論においても実践においても私とともにあり、私とともに祈り、私とともに働いていた、ということである。第261、302節。「それらすべての母である」。要するにこういうことである。訓戒の子、すなわち主を畏れることの子でない者は、真の知恵――神のあらゆる善と賜物の母――を姉妹としても、花嫁としても持っていない。知恵が友でない者は、祈ってもむだであり、働いてもむだである。主から救いと恵みの意志を汲み取っていないからだ。第329節。したがって、その者は知恵の無限の宝の相続人とはならない。それゆえ、一者の単純さへと還元されることに、全身全霊を傾けよ。そうすれば得られるであろう。第157、158、213節と、この円形劇場の第二図を見よ。
知恵は人々にとって尽きることのない宝である。それを用いた者は、訓戒の賜物によって認められ、神との友愛を結んだ。
知恵は人々にとって無限の宝である。それを用いた者は、訓戒の賜物によって認められ、神との友愛にあずかる者となった。
神との友愛。
「無限の宝、等々」。知恵そのものが永遠で、測り知れず、全能で、無限だからであり、それゆえその宝も尽きることなく無限なのである。世界の始まり以来、知恵は常に与えてきた。今日も与え、永遠に惜しみなく与えようと望み、また与えられるだけの源泉を失うことはない。
「神との友愛」。すなわち、父であり、兄弟であり、友である神、至高の善を享受したのである。この円形劇場の第二図を見よ。私たちは、聖書、自然の書、自らの良心の証言によって、その至高の善を知り、観想し、愛し、崇めるために造られた。それをいつまでも享受するために贖われた。この唯一のものだけが、ほかでは満たされない人間の魂を、十分に満たすことができる。なんと実り豊かな友愛であろう。注意せよ。友同士ではすべてが共有されるのだから、神の友となった人間が神から得られないものなど、何があろうか。
神の友となるよう、神的叡智に従って努めよ。そうして霊と真理のうちに断食しながら祈り、この円形劇場の教える事柄に賢く働け。そうすればヤハウェがあなたのもとに来て、遅滞なく与えるであろう。あなたは友なる神、友なる知恵から、救いと恵みの意志を汲み取ったからである。知恵は、神との友愛を結ばせる仲介者である。神への畏れのうちに、人を神へ結びつけるからだ。そうなれば、神的秘義と自然の秘密において、正しく望み、知り、あり、なしうる力を神から得る。その授与は、神からの働き、光、動きによって直接なされることも、神があなたのもとへ送る賢い師、またはあなたがそのもとへ送られる師によってなされることもある。第32節。第299節も見よ。
「訓戒の賜物によって、等々」。神への畏れによって、という意味である。それは知恵の始まりであり、第210節のとおり、私たちを神に受け入れられる者とする。
神は私に、自然のうちにあるものについての真の認識を与えた。それによって、世界の構成と諸元素の力を理解するためである。
神自身が私に、存在するものについての真の知を与えた。地上世界の配置と諸元素の力を知るためである。
「神自身が私に与えた」。前掲の第187節を見よ。「知るために」。何を、どのようなものを、どれほど知るのか。神的事柄の秘義だけでなく、続く箇所で明らかになるように、すべてを知るのである。しかし、どのようにしてか、とあなたは再び問うであろう。神のこのうえなく自由な意志に従い、直接に、また間接に、と私は答える。すなわち、神的叡智、自然学、自然医学、自然錬金術、自然魔術、超自然魔術、カバラによって、この円形劇場全体の法則と教えに従って、である。列挙した語は少ないが、その意味はきわめて広く及ぶ。定義を求めるのか。もっともなことだ。では与えよう。
注 PDF224の印刷頁番号は145で、PDF222の145頁と重複するが本文は異なる。両方とも収録。
神的叡智とは、三重の仕方――すなわち聖書、大宇宙、小宇宙において――普遍的に成り立つ神学であり、驚くべきヤハウェの、驚異を生む神学である。第157節。それは、すべてのものの中で、すべてを通して、すべてについて、すべての者に向かう神の声である。第35節。
注 MicroCismicè は印刷形を保持。通常の MicroCosmicè を意図すると思われる。
自然学とは、二つの世界、すなわち大世界の全体と小世界についての認識と取り扱いである。小世界は、大宇宙から受けた身体と霊に即して考察される。伝承、自然、技術を通じ、普遍的には聖書、賢者の石、私たち自身から、またそれらの中で、個別的には両世界の諸部分から、またそれらの中で、認識し取り扱うのである。
自然医学とは、大宇宙と小宇宙において、自然という大きな書を認識する術である。それによって、普遍的にも個別的にも、大世界の中に自分自身を読み、逆に自分自身の中に大世界を読むことができる。人間の身体の健康を守り、病を退けるための術である。第297節。
ここに徴表の学が関わる。
自然錬金術とは、自然の方法に従い、自然的事物を錬金術的に溶解し、浄化し、正しく再結合する術である。その対象は、普遍的なものも個別的なものも含め、下界のあらゆる事物である。普遍的な対象とは、大宇宙においては賢者の石、小宇宙においては人体の諸部分をいう。ただし、かつての姿をそのまま再現するという中傷は退けられねばならない。
もっとも古い賢者たちの魔術を、普遍的な意味に取れば、それはヘブライ人における、きわめて完全で欠けるところのないカバラの研究と同じものである。これらの賢者たちは、ペルシアではマギ、ギリシアでは哲学者、ラテン人には賢者、インドではギュムノソフィスタイ、またギリシア語でブラフマネス、エジプトでは祭司とメクバリーム、ヘブライ人には預言者とカバラの学者、バビロニア人およびアッシリア人にはカルデア人、ガリアのケルト人にはドルイド、バルド、セムノテオイと呼ばれた。その魔術は、神的事柄の崇拝、霊的存在の取り扱いとそれらとの交わり、自然的事柄の探究を、敬虔かつ賢明に行うことから成っていた。ただしヘブライ人たちは、同じ競技場にありながら、いっそう慈しみ深い導き手によって、他の者たちをはるかに先行していた。
注 古代の諸文化に関する呼称と同一視はクンラートの歴史的叙述を訳す。
これに対し自然魔術は、ベレシートについての業、すなわち自然の知恵に関する業に限られる。第162節。それは自然的な技によって、大宇宙と小宇宙の両方で、驚異的なことを成し遂げる方法である。
超自然魔術は、自然魔術との対比、および教えの便宜のためにそう呼ばれる。それは、神の燃え立つ奉仕者である善い天使たちと、神から委ねられた務めの範囲に従い、目覚めているときにも眠っているときにも、直接にも間接にも、敬虔かつ有益に交わることである。
カバラとは、神の啓示を象徴的に受け取ることである。それは神的叡智によって授けられ、直接に、あるいは適切な媒介を通じて――その媒介によって私たちは神的なものを人間として感じ取れる――普遍的にも個別的にも受け取られる。その目的は、神とメシアを救いに至る仕方で認識すること、分離された形相、自然を大宇宙と小宇宙において、また私たち自身を認識し、結びつき、享受すること、さらに聖書の真の意味を理解することである。
カバラの神的な研究。
これで定義は得られた。必要にして十分な説明は、神の助けによって適切な時に、この私たちの円形劇場を哲学的に解説したものが、教えの子らに豊かに示す。今はこれで満足せよ。自分が知らないものを中傷してはならない。
一般的な学問ではかなり博識なある人物が、その詩の中で、魔術、錬金術、カバラについて、ひどく浅薄な判断を下した。彼の名誉のために、名は伏せておく。「人は誰でも、ある事柄を自分が理解する仕方に従って判断する」。このような者たちは、非難よりむしろ憐れみに値する。彼らの嘲笑は、真理を少しも傷つけない。それが指摘するのは、正当で真実な使用よりも、むしろ濫用だからである。濫用があるからといって、事物の本質は失われない。技を行う者の欠点が、技そのものの不名誉に結びつくべきであるかのようにいうのだ。同じ理屈なら、聖書にさえ異端の烙印を押すことができるであろう。だが、いったい何の権利によってか。
さらに付け加えよう。ある人が、「この円形劇場で私たちに示しているものを、あなたはどこから得たのか」と問うかもしれない。私は、私たちの賢者とともに率直に答える。ある種の厳しい批評家たちに答えるため、いっそう喜んでそうする。ただし、私の言葉には一切傲慢な意図がないことを、もっとも適切で厳粛な法的形式によって宣言する。すべての哲学者のうちでもっとも小さい私に、神が与えたのである。私は主から受け取った。直接に、また間接に。「だが、どうやってなのか」と、あなたは再びいうであろう。答えよう。すでに聞いたとおり、神的叡智、自然学、自然医学など、先に述べた方法によってである。
私は、もっとも高い事柄を探究しようとする大きな熱情を抱き、神の火に燃え立たされて、さまざまな民族の哲学者たちの記念物を探し集め、くまなく調べた。最古の人々、古人、近代人のものを問わず、象徴的、神秘的、象形的、比喩的、謎めいた仕方、譬え、寓意、奥義、秘密、あるいは明白な仕方で、彫られ、描かれ、書かれたものを、自国でも外国でも、自ら、あるいは他の人を通じて、購入や交換など、時と機会の許す手段で求めた。
私は神的叡智の学徒、カバラの学者、魔術の賢者、自然錬金術師、すなわち真の賢者たちの書を開き、読み返し、また読み返した。啓明を受けていない異教的な哲学者や詭弁家の書も同様に読んだ。キリスト者に許され認められる嘆願と願いをもって、望み、呼び求め、祈った。すると、それにふさわしい唯一の者、父の知恵であるイエス、IHSVHが、それらの書を開いた。この事実が自ら語っている。開いたのはそれらの書だけでなく、三重に普遍的な神の書、すなわち聖書と、大世界・小世界の二つの世界でもあった。そしてその封印を取り去った。第223節と、この円形劇場の第二図を見よ。こうして今も日ごとに、一つの書が別の書を説明し、解釈している。
私は十五歳の年からずっと、ウルカヌスの工房でたゆまず働いてきた。費用は確かに少なくなかったが、神に感謝すべきことに、自分の財産から賄った。一人で、また仲間とともに、私に忠実な者とも不実な者とも働き、うまくいくことも失敗することもあった。一度も失敗しない者が、どうしてうまくできようか。害をもたらしたことが、私を教えたのである。技術を産婆として、自然が教えるものを観察した。なんと実り豊かな自然錬金術的カバラであろう。自他の発言と仕事、予感する心に浮かんだ考えを、私は熱心に記録した。怠惰な父たちよ、あなたがたいびきをかいていたとき、私は働きながら目を覚ましていた。
注 ウルカヌスの工房は火を用いる技芸・錬金術の実験場を指す比喩。
見たこと、読んだこと、聞いたこと、学んだことについて、私は昼も夜も懸命に思いを巡らせた。立っても、座っても、歩いても、横になっても、太陽の下でも月の下でも、川岸や川辺で、草地、山、林、森で、さらには、脳の動物精気を回復させるために薫香をたいた部屋で、心を強く動かす灯火や蝋燭の傍らでも、そうしたのである。
私はさまざまな人々と暮らし、語り合った。誰からでも学ぶべきだと考えるのは、決して愚かなことではないと思ったからだ。老人と若者、修道者と俗人、君侯と名門に生まれた者、学者と無学な者、純朴な者と狐の皮をかぶった者、分別ある者と愚かな者、農夫と文字を知らぬ者、富者と貧者、神的叡智の学徒と神学をめぐる詭弁家、善い者と悪い者、白い者と黒い者と接した。私は子どもじみた、あるいは老婆じみた語りをしているのではなく、学知に即して語っている。接したのは、少なくとも認識のためであって、是認のためではない。人を罪に定めるのは、悪を知ることではなく、それを行うことだからである。
理論や観想に熟達した者、実践に経験を積んだ者、職人とも交わり、その工房をしばしば訪ねた。「高く学んだ者たちと同じように、遠く、深く学んだ者たちとも」、すなわち船乗りや鉱夫とも交わった。各々、自分の技に熟達した者は信頼すべきだからである。ユダヤ人、キリスト者、諸派の人々、さらには無神論者にも耳を傾けた。すべての人に聞き、誰をも軽蔑しなかった。
注 ドイツ語は遠く航行する船乗り・地下深く働く鉱夫・高い学識を持つ者を対比する言葉遊び。albis/nigrisは原文の白/黒という対置を保持し、特定の民族的分類とは断定しない。
私は、ライムンドゥスのきわめて有益な助言に従い、世を旅して歩く者たちに好意ある顔を向けた。その中の何人かに、少なからぬ善いものを見いだしたからである。真実を告白しよう。紫衣や絹やビロードの下に愚かさが隠れ、逆に汚れた外套の下に知恵があることを、私は一度ならず経験した。貧しい賢者や、粗末な服を着た賢者を恥じてはならない。私はそう勧める。困窮する者を助けよ。後悔はしないであろう。
私は神的叡智に従って神に問い、聖書、自然、私自身のうちで、神が語り答えるのを観察した。その聖霊の忠告と導きにより、私は霊を識別する賜物を得た。『コリント人への第一の手紙』12章10節。また善と悪を感じ取り、見分ける力を得た。『ヘブライ人への手紙』5章14節。それによって、ここで示す善を保持し、取り除いた悪を退けたのである。
私は長く旅をし、経験によって何かを知り、確かな判断力を備えていると思われる人々を訪ねた。それは常にむだに終わったわけではない。私に恵み深いヤハウェが、彼らの心を動かし、整え、傾けたので、彼らは神秘、奥義、いっそう深い秘密について、覆いを置かず、友好的に私と論じ、語り合った。中には、注意深く真理を渇望する教えの子を得たことを喜ぶ者もいた。彼らは、書斎や蔵書を調べ、実験室を見、作業を観察することを快く許してくれた。多大な費用とヘラクレスにも等しい苦労を払い、幾年もかけて探究したことを、兄弟のように明かしてくれた。
さらに調製物を贈ってくれた。その中には、神の驚くべき采配により――神を証人としていう――ある人から得た普遍的な緑の獅子と、獅子の血があった。これは普通の金ではなく、哲学者たちの金である。私は自分の目で見、手で触れ、舌で味わい、鼻で嗅いだ。神はその業において、なんと驚くべき方であろう。そうした調製物を贈られ、私は困窮する隣人に対し、もっとも望みのない症例で、きわめて実り豊かに用いた。彼らは慈悲深いヤハウェに促され、調製法も誠実に明かしてくれた。
注 物質の味見や医療効果は著者の歴史的な自己証言であり、安全性・有効性を認定するものではない。
このようにして、パウロの『テサロニケ人への第一の手紙』5章21節の教えどおり、「すべてを吟味し、善いものを保持する」必要があった。私はこのように学び、学びを重ね、哲学しなければならなかった。これらのうち、学者たちの大学で教えられ学ばれるものは、ごく一部にすぎないからである。私たちは神の大学で、逍遥的に、すなわち歩き回りながら研究し、学ぶべきである。これが、驚くべき神が私に与えた、驚くべき方法である。単にそう思うのでなく、知るために私が歩んだ道である。第28、157節。
誰が与えたのか。私がいうには、神だけである。直接に、また間接に。ただし、その委任を受けて、自然、火、技術、生きた師と無言の師、身体を持つ善い師と霊的な善い師も、目覚めているときにも眠っているときにも、与えたのである。第32、157節。だからこそ私は、キリスト者の謙虚さのうちに、祝福された乙女とともに、感謝する心で正しく歌う。「力ある方が、私に大いなることをなさった」。『ルカによる福音書』1章49節。
そして王なる預言者とともに、こういう。「主は憐れみ深く、慈悲に富み、忍耐強く、豊かな慈悲を持つ。いつまでも怒り続けず、永遠に威嚇し続けることもない。私たちの罪に応じて私たちを扱わず、私たちの不義に応じて報いることもなかった。天が地より高いように、主を畏れる者の上に、その慈悲を力強く示した。日の出が日の入りから遠いように、私たちの不義を私たちから遠ざけた。父が子らを憐れむように、主は主を畏れる者たちに慈悲を示す。主は私たちがどのように造られたかを知り、私たちが塵であることを覚えているからである」。『詩篇』103篇8節以下。
次のことを真実で確かであると、固く信じよ。キリスト者の悔い改め――神を畏れ、悪から離れること、第159節――を通じて、罪から常に立ち上がる者は、神を畏れる者という名を失わない。ここで私が書き教えることに、もし誰かが不快を覚えるなら、その人は哲学的に整えられた実験室へ出向き、技術と自然の仕事を見て、そこから事物の形、実体、性質を観察すればよい。嫉妬に破裂しそうになりながら、神の奥義と真理の光に対して、あらゆる愚かなことを書き連ねる前に、そうするがよい。
注 timentes Dei nomenの構文は原刊本の形を保持し、「神を畏れる者という名」と解した。
系論。王ゲベルは、その『神性の書』からわかるように、錬金術において多くのさまざまな労苦を、むなしく、またさまざまな仕方で尽くしたのち、ついに、一つの夢の幻視によって、神から教えられた。それは、唯一の普遍的な賢者の石の、普遍的な三一性における唯一の真の材料と、それを正しく調製する方法についてであった。確かに、事物の数だけ石がありうるが、それらは個別的な石である。特殊なものからは特殊なものしか、個別的なものからは個別的なものしか生じない。普遍的なものは普遍的なものから生じる。「個別主義」は語法の誤りなのである。このような夢の幻視を生じさせることは神にとってもっとも容易であり、信じ、神的叡智に従って祈り働く者が、それを願い求めて得ることも不可能ではない。
注 particularismus est soloecismus は原文の語戯と論争的断定を直訳した。ゲベルへの著作帰属も著者の叙述に従う。
『大薔薇園』の著者は、当時、自分では獅子の段階までしか見ていなかったにもかかわらず、完成に至る業の全体を描いた。「私は知っている」と彼はいう。神の働きによって教えられ、自然の光に導かれて、「業は必然的に、そのような性質へ至る」と知っていたのである。これを知ることは、神から知るのでなければ、あるいはその性質を教える師から学ぶのでなければ、不可能である。
トレヴィザン伯ベルンハルトは、私と同じ学習方法を用い、実際の作業で完成させる二年前には、すでにこの術を知り抜いていた。フェラーラのロンバルド人ボヌスは、祝福された普遍的な石を完全に調製する前に、『新しい貴重な真珠』を書いた。その書の第15章でこう述べている。「私たちは多くの賢者の書を見て、自分たちの能力とささやかな才知に応じて研究した。実際の操作と作業に専念することは、まれであったけれども」。以下略。本人の書を見よ。
同様に、ディオニュシウス・ザカリウスや、同じ競技場を走った多くの者も、神から――神の慈愛の助けを受けて――授かったのである。この研究では、教えが実験に先行しなければならず、その逆であってはならない。ラーゼス、アヴィセンナ、その他の哲学者たちの例にならおう。彼らは、精妙で、力強く、長く続く思索によって、実験に先立ってこれらを知っていたことを、書き残して私たちに伝えた。
注 訳文の「以下略」は原刊の &c.(等々)に対応する。翻訳者が原刊本文を省いたことを示すものではない。
私が知り、書いていることを、神は先に述べた方法で私に与えた。誇ることなく真実を認めて、何が悪いだろうか。すべてのもののうちにすべてを働かせる方が、私に知恵を与え、聖書と二つの世界の神秘、奥義、秘密について、何ほどかを知るようにした。もっとも高い段階に達してはいないにせよ、謙虚に神に感謝する理由を持てる段階には達している。第4節。
パウロはいう。「各人には、益となるために霊の現れが与えられる」。『ローマ人への手紙』12章7節、以下略。しかし、これらすべてを働かせるのは同じ一つの霊であり、その望むとおり、一人一人に分け与える。その御名が世々限りなく祝福されますように。「すべてのものには、その時がある」。『伝道の書』3章1節。これまでは、先に述べた方法で学ぶ時であった。今は、自分の記憶を助けるために、書き、描き、注記する時である。今後は、神が望み、与えてくださるなら、祈りの場と実験の場ですべてを完全な終わりへ導き、三一の用途、すなわち神的、大宇宙的、小宇宙的な用途へ、完全に移す時となるであろう。悪魔など、退け。神がこれを成し遂げてくださいますように。アーメン。
注 Rom.12,7の参照は刊本どおり。引用文と現代の聖書節対応の不一致は修正せず保持。
注 訳文の「以下略」は原刊の &c.(等々)に対応する。翻訳者が原刊本文を省いたことを示すものではない。
「地上世界の配置」。世界の構成を、という意味である。
注 解説は次頁へ続く。次頁冒頭のquomodoをここでは補っていない。
世界がどのように成ったかを、ということである。第150節とそれに続くいくつかの節を見よ。この円形劇場の第三図に述べた、第一の三一なる普遍的存在を正しく考察し、また神が普遍的な仕方である特有の塊の中に置き、封じ込め、賢者の神的叡智による使用のために残しておいたその遺存物を、実験室で自然錬金術的に扱う術を知るなら、世界を構成する創造主エロヒムの驚くべき技のすべてが、あなたの感覚に現れるであろう。私は「創造する」とはいわず「構成する」という。経験が証するように、神はそのように望み、定めたからである。ここから、自然錬金術の哲学者たちの普遍的なものに属する普遍的マグネシアが何であるかを学べ。一方をすっかり知れば、他方も知る。そのとき、第28、157、162節と、この円形劇場の第四図に私が注記した事柄を理解するであろう。そこで私は賢者の石の三一の用途を扱った。これらを見るのは賢者のみである。世の忘恩のために、私は意に反して唇に指を当てねばならない。神を証人としていう。それでもこの円形劇場の第二、第三図では、教えの子らに忠実に仕えたし、以下においても仕えるであろう。なぜなら、「諸元素の力」とは、それらが生み出した実りの力も含むからである。創世記第1章。予備的な自然錬金術による分析を先に行えば、自然医学的な使用によっても、これらを知るであろう。
注 冒頭はPDF227末尾からの続き。Magnesiaは原著の歴史的術語として保持。
時の始まりと終わりと中間、至の交替、そして季節の変化を。
時々の始まりと完成と中間、移り変わりの交替、そして時々の満了を。
「始まりと完成」。これは天上のアルファベットともいうべき星々から、天文学と星学に熟練した師によって読み取られ、知られうる。星々はしるし、季節、日、年のためにあるからである。創世記1章14節。「至の交替」。転回の変化、つまり太陽の転回であり、それは二つある。一つは冬のもので、このとき太陽は私たちに近づき始める。もう一つは夏のもので、このとき太陽はそれ以上進まず、教えるために考案された、より低い円へ退き始める。二つの至は「ヘーリウー・トロパイ」、すなわち太陽の転回と呼ばれ、またトロピクスとも呼ばれる。「季節の変化」。時々の移り変わりである。これにはミザルドゥスの『永久気象暦』と、スクルテトゥスの『永久気象予報』を参照せよ。また農夫たちの実践と観測もそうである。彼らも、いつも間違うわけではない。
注 Astromon.は印刷どおりの略記を保持。
年の運行と星々の配置を。
気質の変化、時々の区分、年々の循環、星々の位置を。
「気質の変化、等」。人間の身体の体質の変化である。それらは天と星座の配置および構成に応じて変わり、動き、傾けられる。そればかりか、人間の行為も、それによって難しくも易しくもなる。太陽の下にあるものはすべて、一定の行為に定められた、それぞれ固有の時をもつからである。「年の運行」。年々の輪、すなわち循環と、星々の位置である。年を成り立たせる太陽の繰り返される転回は、一般に年々の回帰と呼ばれる。
動物の本性、野獣の怒り、風の力、人間の思考、草木の相違、根の効力を。
動物の本性と野獣の怒り、風の力と人間の思考、植物の相違と根の諸能力を。
「動物の本性」。以下を参照せよ。「野獣の怒り」。猛獣の怒りに満ちた衝動である。これを「情念」と訳す者もいるが、それは種の代わりに類を用いている。テュモエイデスとは、獣と人間のうちで怒りの座である部分だから、ここでは獣の怒りうる力を意味する。「風の力」。風の生成、特性、効力、働き、そして空気の健全さと不健全さである。「人間の思考」。知恵自身を証人としていうが、私たちの時代にも、真の知恵は、その忠実で愛する侍女、つまりいっそう秘められた善い神的叡智の学問と技芸を通じて、第74、190節、これを幾人かの敬虔で善良な人々に授けた。その中にはローマ帝国の柱たる人物もいる。彼らは、私にとって未知の人々ではなく、きわめて親しい人々である。私は真実で確かな証拠によってこれを示せるが、それらはもっと適切な場所、おそらくこの円形劇場のこのうえなく秘められた『鍵』のために取ってある。だが第264節でもいわれるように、心を知る方である神だけがそのようなことを知るのではないか、とあなたはいうであろう。そのとおりである。賢者自身が第268節で、あなたに賢明に答えている。
注 inter quosの前の開き括弧は原文にない。Greek θυμοειδὲςのアクセントは判読に基づく正規化。
「草木の相違、等」。自然物の徴についての教え、すなわち「徴の術」は、ここできわめて大きな位置を占める。自然物は、神によってその身に刻まれ、付与された指示のしるしを通じて人間と語り合い、その力と能力を示し、自らがいかなるものかを壮麗に明かすからである。私たちすべての最初の父アダムは、この知によって導かれ、地上のあらゆる生き物と天のあらゆる鳥に、その本質に即した固有の名を付けた。創世記2章19節。その助けによってソロモンは、自分の内に自然の光が昇ったので、レバノンの杉から壁に生えるヒソプまでの樹木について論じ、家畜、鳥、爬うもの、魚について述べることができた。列王記第三4章33節。これは自然という書物にある自然医学的なアルファベットであり、学ぶことを拒む者は、医学において片目で足の不自由な者のままであろう。フィリップス・テオフラストゥス・パラケルススは、これを忘却の闇から、きわめて実り豊かに光の下へ呼び戻した。ペトルス・ラムスがまったく正しく証言するように、彼こそ真にゲルマニアのアスクレピアデスである。ナポリのヨハンネス・バプティスタ・ポルタは、『植物観相学』である程度これを説明した。私はパラケルスス以後のすべての者のうちで最初に、ポルタの『植物観相学』がまだドイツに出回らず、私も見ていなかったころ、バーゼル大学のきわめて高名な医学部の助言と決議に従って、医学博士号を得るため、至高のエホヴァの助けのもと、二十八の論題を掲げ、公にこれを講じ、弁護した。キリスト紀元1588年8月24日のことである。私は生きるかぎり、驚異なる神の栄光と誉れのため、その助けによって、力を尽くして弁護し続ける。自然学者が自然物の徴について説くことは、戯言ではない。ある戯言売りがそれに反対していう戯言こそ戯言なのである。「根の効力」。この点では自然錬金術的分析が大きな助けとなりうる。
注 学位論議の年は画像で1588。OCRの1583を訂正。原文の括弧の不均衡は保持。
最後に、隠されていることも明らかなことも、私はすべて知った。万物の作り手である知恵が、私に教えたからである。
隠されていることも予見されないことも、私はすべて学んだ。万物の作り手、知恵が私に教えたからである。
神の知恵は、神秘的奥義と秘密を啓示する。
「隠されていることは何でも、等」。聖書、自然、そして日常生活において、神秘として、奥義として、秘密として隠されていることをいう。「万物の作り手が教えた、等」。間接にも直接にも、鏡を通して、眠っているときにも目覚めているときにも、さらには籤を通じても、である。しかし、いかなる助けによって、どのようにしてか。この序説の随所と、この円形劇場の第四図に、十分な答えがある。ルーアハ・ホクマエル、神の知恵の霊よ、第1、223節、どうか私を教えてください。これまでと同じくこれからも、ただあなたによって教えられ、導かれ、形づくられることを私は望み、渇望し、願います。神の神秘を尋ね、自然の奥深く秘められた秘密を、いや隠され予見されないすべてを探るあなたがたに、兄弟として忠告する。決して黒魔術師、悪霊、光の天使に変装する悪魔の使い魔たちに近づいてはならない。コリント人への第二の手紙11章14節。逃れよ、彼らから逃れよ、と勧める。真の知恵を求めるなら、すべての善いものがあなたがたに来るからである。第291節。この円形劇場の法と教えに従って、ただ知恵のみを求め、ただ知恵のみに聴け。黒い術は、その師たる冥府に任せよ。ダニエルにならって、隠された事柄の啓示を神のもとに求める術を学べ。その方法はダニエル書2章17節以下と、この円形劇場の第四図に見いだせる。
知恵は一つでありながら、すべてをなしうる。自らにとどまりながら、すべてを新たにし、諸国民を通じて聖なる魂へ移り、神の友と預言者を作る。
知恵は唯一でありながら、すべてをなしうる。自らにとどまりつつすべてを新たにし、一つ一つの時代を通じて聖なる魂へと移り、神の友と預言者を生み出す。
「一つ」。唯一の全能なる神に属する唯一のものであり、真に普遍的、すなわち万物にわたるものである。それゆえ、すべてのもののうちに、すべてのものに対して、すべてをなしうる。一つ、あるいは唯一であるがゆえにすべてをなしうるとは、驚くべく注目すべきことである。ああ、あらゆる驚異を超える驚異、三一なるものは万物である。第303節。「諸国民を通じて、等」。神は人を分け隔てしない。あらゆる民、人民、国民のうちで、神を畏れ、義を行う者、つまり悪を離れ善を行う者、詩篇37篇27節、は神に受け入れられる。使徒行伝10章34、35節。これが普遍的な宗教である。第184節。これこそ人間のすべてである。伝道の書12章13節。この宗教に名を連ねる者は、かつて割礼を受けておらず、今日洗礼を受けていなくとも、神の友、真の知恵の参与者となる。私は可視的な教会の集まりの外で生きた者、生きている者についていっている。人を罪に定めるのは秘跡の欠如ではなく、その軽蔑である。また洗礼には水流によるものだけでなく、霊の息吹によるもの、すなわちその道の測りがたい驚異なる神の霊の火による、驚嘆すべきものもある。神の像と似姿に形づくられたいかなる者からも、それを惜しんではならない。これは永遠で全能、慈悲深い知恵、かつては受肉すべきもの、時が満ちて受肉したもの、つまり十字架につけられるべき、そしてつけられたイエス・キリスト、すべての者に対する普遍的救い主の働きによる。異教徒や不敬虔な者たちの中にいながら、異教的でも不敬虔でもない生き方をした無数の者が、その例となる。もし神の友でなかったなら、この序説の随所に列挙される知恵の尽きない宝を、神の恵みによって所有することは決してなかったはずである。
「自らを移す」。したがって、前にカプニオンから引用したように、神の息吹と神的照明は神によって与えられ、送られるのであって、人間の何らかの技によって、人間的に学ばれるものではない、というのは正しい。ただし、神からそれを授かるためのある種の神的叡智の儀礼、つまり神的魔術の儀礼を、私は非難しない。それらを公に語ることは、このうえない冒瀆である。「神の友」。キケロが『友情について』で正しく述べたように、友はもう一人の自分のようなものだから、カプニオンが『驚異の言葉について』で述べる、神と結ばれた人間は、いわば人間的な神、あるいは神的な人間になるという言葉も真実である。第293節を見よ。
わが兄弟よ、神の友となり、知恵の霊の流入、光、動きによって満たされ、照らされ、導かれるなら、あなた自身のヘルメス・トリスメギストス、あるいはベツァレル、アハリアブ、ピュタゴラス、ソクラテス、プラトン、デモクリトス、ヒポクラテス、ゲベル、カリド、ハリ、モリエヌス、パルメニデス、ホメロス、ウェルギリウス、オウィディウス、ライムンドゥス、アルノルドゥス、イサアク、ウルマンヌス、ベルンハルト、パラケルスス、ザカリウス等々そのものとなることができる。この言葉を嫉妬なく受け取ってほしい。かつて無知のために驚嘆していた彼らの紙の書物の援助や助言を、もはや必要としないほどに、である。あなたは、すべての賢者が飲む、同一の知恵の大洋から飲むからである。それゆえ、これまであなたが他の人々に従ったように、後代の人々はあなたに従うであろう。ポイマンドレス、すなわち神的な力の精神によって、神に教えられる仕方で教えられ、サムエル記第二23章2節のダビデとともに、「主の霊が私を通して語り、その言葉が私の舌を通して語った」といえるようになる。哲学者は自然とその偉大な書物の作者ではなく、解釈者にすぎない。ただし一人は他の者よりも的確に捉えた。それぞれ、自分に与えられた賜物に応じて、である。あらゆる人の紙の書物がことごとく失われたとしても、学問と技芸はこの神的叡智の方法によって回復されうる。最初に教えた方は、自分の友となったあなたをも、親しく教えるからである。その方はそう望み、約束した。常に与えてきたし、与える源が尽きることもないので、常に与えることができる。
学識と敬虔さを備えたミヒャエル・ネアンダーがある特別な書物で教えたように、十六歳の若者を、その方法に従って人間的に教育し、完成した学堂の哲学者にできるとすれば、あらゆる善の源、賜物の授け手たる方は、どれほど容易に、ご自身のキリスト教カバラ的、神的魔術的な方法によって、多くの実例が教えるように、あなたを完全で成就した神的叡智の人にできるだろうか。第10、187、342節を見よ。ああ、エホヴァの知恵、ホクマエル、人の子らとともにあることを喜びとする方よ、第157節。私を洗ってください。そうすれば清くなります。第222節。私のものとなり、私の内で喜び、私の精神と結びついてください。私が神の友となり、あなたにあって喜び、全身全霊で神の内へ移ることができますように。
「預言者を作る」。神的啓示を受け、その解釈者として未来を予告する者が、本来の意味で預言者または予言者と呼ばれる。預言者は、天使の出現と教示、幻視、謎、形象を通じて、預言するための教えを授けられる。
注 文はPDF232冒頭へ続く。
また明瞭で明示的な言葉、神の霊の内なる息吹によって、目覚めているときも眠るときも、直接にも間接にも神の託宣を受けるのである。民数記第12章と、この円形劇場の第四図を見よ。「霊をどのように見分けるのか」とあなたはいうであろう。聴け。霊の識別は神の賜物である。コリント人への第一の手紙10章10節。善い霊のしるしは真理であり、神はこれによって、ご自身のものすべてに印を押す。エメス、真理こそ神の印である。この円形劇場の第一図。また敬虔さもそのしるしである。善い霊は、誰をも唯一の神への恭順と真の敬虔さの追求へ導くからである。悪い霊のしるしは偽りと、真の神からの誘惑による離反である。たとえ時には真実のことを勧め、語り、行っても、その使用と目的において、聖書、自然、私たちの良心に神から与えられた法と矛盾してはならない。これについて申命記第13章を見て読め。何をするにも神的叡智に従って行い、神と隣人への愛と自分の良心を顧みよ。これこそ思慮深く行い、目的を顧みることである。
注 直前頁から続く列挙。原文の聖書参照1.Cor.10,10は保持。悪霊の記述に続くnon tamen pugnentは原文どおりで、文脈上やや不整合。
あなたは反論する。「善い者たちの中には、あの狡猾な悪者がいつも入り込み、光の天使に変装して、用心のない単純な者を惑わす」と。私は答える。敬虔な者、つまり神を畏れる者をその敵から守り、あらゆる悪から保護するのが、神の善い天使たちの務めであることを、私たちは神の言葉から知っている。詩篇34篇8節。「主の天使は、主を畏れる者の周囲に陣を置き、彼らを救い出す」。詩篇35篇4、5、6節。「私の命を求める者は恥じ、辱められよ。私に悪を企む者は退き、恥じよ。風の前の塵のようになり、主の天使が彼らを追い詰めよ。その道は暗く滑りやすくなり、主の天使が彼らを追いかけよ」。また詩篇91篇10節以下。「悪はあなたに近づかず、災いはあなたの幕屋に近づかない。主はあなたについて天使たちに命じ、あなたのすべての道であなたを守らせたからである。彼らはあなたを手に載せて運び、あなたの足が石につまずかないようにする」。これらを信頼し、私は祈りによって神に近づき、私に答える神を注意深く待ち受ける。
神は、知恵と交わりをもつ者以外、誰をも愛さないからである。
神は、知恵とともに住む者以外、誰をも愛さないからである。
神に愛されるように、知恵を求めよう。
「神は誰をも愛さない、ただし、等」。この賢者の声は、読んでいた私の心を打った。神を証人としていう。善い神よ、これは何ということか。知恵とともに住む者以外、神は誰をも愛さないという。しかし、知恵とともに住むのは、その道を歩む者、心を尽くして神を愛し、隣人を自分自身のように愛する者、まず何よりも神の国を求める者、神を畏れ、義を行う者だけである。すなわち神的叡智の人であり、彼だけが真の知恵の住人、その女主人に驚くほど従順で、身体、霊、魂のすべてをもって知恵のみに献身し仕える者、少なくともそのようになろうと努める者である。第1節。それは人間の全体を要求する。永遠の知恵と汚れた世という二人の主人に仕えることはできない。隣人にも私たち自身にも、このように敬虔で聖く、立派な実りをもたらす学びにおいては、こういわれる。「世の友は神の敵」、そしてその逆もまたしかり。ヤコブの手紙4章4節。
人の道が主に喜ばれるなら、主はその敵までも和睦へと向かわせる。
人の道がエホヴァに喜ばれるとき、主はその敵をも、その人と和解させる。
「喜ばれるなら、等」。主に喜ばれるために、知恵の道を歩め。第7節。知恵とともに住む者以外、神は誰をも愛さないからである。第300節。そうすれば主は、あなたの敵にあなたとの和睦を強いるか、知恵の書11章21節にあるように、その力の霊によって彼らを散らすであろう。それゆえ、アンモンの子らの指導者アコルは、ユディト記5章17、19節でいう。「この民が、その主なる神の礼拝から離れたとき以外、彼らを踏みにじる者はなかった。そして自分たちの神への礼拝から離れたことを悔いるたびに、神は彼らに抵抗する力を与えた」。
注 人名Achorは刊本どおり。
知恵は神の知に熟達し、それを秘儀として授けられ、神の業を選び定める者だからである。
また知恵は神の訓戒を教える者であり、神の業を選び定める者である。
「教える者、等」。神の業についての知を教え、選び、発見する者であり、いわばある種の祭司、このうえなく巧みな女教師である。聖書の神秘と自然の秘密の探究・発見においても、訓戒、つまり神への畏れにおいても、そうである。第14、5、158節。
注 節参照の順序14,5.&158は原文どおり。
人生において富の所有が望ましいのなら、すべてを働かせる知恵よりも豊かなものがあろうか。
人生において富を求めるなら、万物を働かせる知恵よりも豊かなものがあろうか。
知恵はすべてを与える。
「富を求めるなら、等」。ただし、それによって高慢になったり、世俗的なやり方で世俗の財を築くためではなく、立派に生き、神の施し手となり、この大きな救護院において困窮する隣人を助けるためである。この目的で富を願うなら、賢明に真の知恵に近づけ。知恵は、あなたが実験室で知恵をもって行う手仕事から、神の代理としてあなたも与えることのできるものを授けるであろう。第291、317、319節を見よ。知恵の労働による富は神の賜物である。第326節。「すべてを働かせる」。知恵は、すべてのもののうちにあり、すべてのものに対する万物だからである。第299節。このわずかな言葉の意味は、このうえなく広く、いや無限である。この円形劇場の教えに従い、ここで神的叡智に即した精神の労働を行え。あなたは驚異を経験するであろう。第137節を見よ。真の哲学者たちは、これらを知り、所有し、享受することによって、汚れた世を軽んじた。ここからローマのモリエヌスの言葉が生まれた。「すべてを自らのうちにもつ者は、他者の助けを必要としない」。またフィリップス・テオフラストゥス・パラケルススはいう。「自分自身のものでありうる者は、他人のものとなるな」。黄金の自由である。
注 参照節137は画像の数字を保持。
もし知性が働くのなら、存在するもののうち、知恵よりも優れた作り手が誰かあるだろうか。
もし思慮が活動して業を成し遂げるのなら、自然界に知恵よりも巧みなものがあろうか。
「もし知性が、等」。感覚、理性、思慮、知性、技によって何かを行い、成し遂げられるのなら、すべてを与え、知り、理解し、働かせる知恵よりも巧みなものが、自然界に存在し、見いだされうるだろうか。「作り手」。経験が確認するように、知恵は、自然においても生活においても、存在し、しかも善いものであるすべてを作る者だからである。だから、あなた自身と、あなたの祈りの場、実験の場の上に知恵を置け。親しい霊があなたの上にあって、教え、導き、守り、すべてのことにおいて善く知り、意志し、存在し、なしうる力を授けてくれるように。
もし義を愛する者がいるなら、知恵の労苦は徳となる。知恵は節制と思慮、正義と勇気を教え、それらより人生に有益なものは人間にないからである。
そして義を愛する者がいるなら、知恵の労苦は大きな徳をもつ。知恵は節度と思慮、正義と剛毅を教え、それらより人生に有益なものは人間にないからである。
「義を愛する者がいるなら、等」。正しく公正なことを愛する者は、第81節、知恵を仲立ちとしてそれを得るであろう。第39節とそれに続くいくつかの節が教えるとおりである。知恵は人々の品性を整え、徳を身につけさせることにも携わり、十戒にかなう生き方を目指させる。「節度」。それはあらゆる徳の門である。乾いた魂は、もっとも思慮深い。肥えた精神は上ではなく下へ向かう。悪魔が酒飲みの小さな脳へ糞として落とす酩酊は、どんな便所よりも汚い。第79節。エフェソ人への手紙5章18節のパウロに聴け。「酒に酔ってはならない。そこには放蕩がある。むしろ聖霊に満たされ、詩篇と賛歌と霊の歌をもって互いに語り、心の中で主に歌い、私たちの主イエス・キリストの名によって、常にすべてのことについて神なる父に感謝せよ」。彼はこのようにいう。
キリスト教にかなって行われる断食は、過度の飲食と許されない快楽を慎み、心の悲しみと謙遜、罪の告白、ただ神の慈悲を求める祈りを伴うものであり、箒のようなものである。それによって私たちは掃き清められ、もっとも聖なる客が、ご自身の新たにされた普遍的・三一的・小宇宙的な神殿へ来られるために浄められる。この円形劇場の第二図と第218節。断食は肉を抑え、無謀さを追い払って謙遜を生み、貞潔の光をともして知性を鋭くし、精神を高め、健全な思案を与え、病を追い払い、恵みによって神の恵みを得るからである。「正義」。その中にあらゆる徳を包含する正義である。「それらより有益なものはない、等」。このように生きるとき、私たちは神の友とされるが、そうでなければ決してそうならない。悪意ある魂へ知恵は入らず、第218節、神は知恵とともに住む者以外、誰をも愛さないからである。第300節。
さらに、多くの事柄の経験を望む者がいるなら、知恵は昔のことを知り、未来を推し量り、言葉の機微と謎の解釈を理解し、しるしと驚異、季節と時々の成り行きを予知する。
また豊かな知を望む者がいるなら、知恵は過去を知り、未来を見積もる。言葉の機微と論証の解明を知る。しるしと異兆を、それらが生じる前から知り、時々と時代の成り行きを知る。
「豊かな知を、等」。秘められた学問、秘密の技、多くの事柄についての経験をも望む者がいるなら、知恵は過去、現在、未来を知っている。しかも知恵は、自分だけがそれらを知ることを望むのではない。自分を真に求める者、すなわち忠実で愛する者に、自分のいっそう忠実な侍女、いわば寝室付きの乙女たち、第74、270節、つまりいっそう秘められた善い学問と技芸を仲立ちとして、この円形劇場の法と教えに即して神的叡智の仕方で啓示し、分かち、与え、その人の労働に幸運な成就を吹き込むことを、力強くなしえ、喜んで望み、友として喜ぶ。「言葉の機微を知る」。言論の欺きと謎の解答である。謎とは、南方すなわちシェバの女王がソロモンに出したような、暗く複雑な言葉である。列王記第三10章1節、歴代誌第二9章1節。また譬え、寓意、隠喩、その他の比喩の解釈である。第5節。「論証の解明」。知恵は真理であり、あらゆる詭弁的三段論法を反駁する経験が、それを裏づけるからである。「しるしと異兆、等」。知恵自身が知るだけでなく、すでに述べたように、人間にも明かす。どのようにか。寝室付きの乙女たちの告知による。真実をいえば、彼女らは時には私とも親しい。キリスト者に対して、キリスト教にかなった仕方で、である。「時々と時代の成り行き」。それゆえ知恵は預言者を立てることができ、実際に立てる。第305節。
注 預言者への参照v.305は刊本どおり。
それゆえ私は、知恵を迎えてともに暮らそうと決心した。知恵は善について私と語り合い、私の倦怠を慰める言葉となることを知っていたからである。
そこで私は、知恵を日々の生活と交わりの伴侶にしようと決めた。知恵は善いことについて私に助言し、心配と苦労を慰める者になると、確かに知っていたからである。
「決心した、等」。これは神的で、このうえなく幸いな決心である。ホクマエルよ、あなたは私の内で私のために、同じ決心を定めた。この決心に堅く揺るがず私を保ってください、と祈る。アーメン。「迎えてともに暮らす」。知恵を姉妹、友、第106節、花嫁、第146節、として迎え、自分に結びつけること、知恵の親しい霊が私の内に、第223節、私の精神の歓びの園、すなわち楽園へと来るためである。「知って」。推測するのでなく、確かに知っている。知恵が自分を助けるかどうかの疑いは、知恵を学ぶ者の内へ入り込んではならない。そうでなければ、その善い決心の望ましい目的を得られない。第1、216節。
「善について私と語り合う、等」。神の御座に侍する知恵、第255節、はすでに私の友となり、神の友である私にとって、知恵の業を賢明に実り豊かに営むための瞑想と独語、第28、158、162、170、336節等、においてもっとも賢い助言者、また同時に心配と苦労を慰めるもっとも忠実な者となることを、知っているのである。教会が正しく歌うように、知恵は労働の中の休息、熱気の中の涼しさ、涙の中の慰め、甘い回復だからである。疑いの中でよい助言を、心配と苦労の中で喜ばしい慰めを与えると知っているのである。これを理解するのは、忠実で、経験した者だけである。彼らにおいては、情念に満ちた感覚と単に人間的な理性が静まり、神によってともされた精神の光が知性の上に注ぎ、信じる自由な意志を動かす。これが知識へのもっとも高貴な道である。マルクス・トゥッリウスが『アルキアス弁護』で文学について見事に書いたことは、はるかにいっそう適切に、真の知恵の学びへ移し用いることができ、またそうすべきである。彼はこういう。「この学びは青春を養い、老年を楽しませ、順境を飾り、逆境に避難所と慰めを与える。家では喜びを与え、外では妨げず、私たちと夜を過ごし、ともに旅し、田舎へ行く。仮に私たち自身がこれに触れ、自分の感覚で味わうことができなくても、他の人の中にこれを見るときには、感嘆すべきである」。以上が彼の言葉である。ゆえに、知恵とともに住み、知恵がともに住んでいる人は、もっとも幸いである。
知恵によって私は群衆の中で名声を得、若者でありながら長老たちの間で誉れを得るであろう。
知恵によって私は民衆の間で栄誉を得、若者でありながら長老たちの間で尊敬を得るであろう。
「知恵によって私は名声を得る、等」。その理由は、無知が驚嘆の母であり、驚嘆が名声、栄誉、尊敬を生むことにある。彼らはあなたが知ることを知らないからである。また知恵自身が輝かしいので、第142節、教えと訓戒の子ら、忠実で愛する相続人たちをも輝かしくする。その始まりは現世にあり、完成は来世にある。若者であれ高齢者であれ、第21、25節、知恵が慈しみをもって授けた賜物と善いものによって、民衆の前でも民の長老たちの前でも、輝かしくなる。彼らは、すべてのもののうちに万物であった、あり、あるであろう神自身のうちにあるからであり、それこそ私たちの真の栄光と勝利である。
私は裁きにおいて鋭敏と認められ、権力者たちの前で驚嘆されるであろう。
私は裁きにおいて鋭敏と認められ、権力者たちの前で驚嘆され、君主たちは顔を向けて私に驚嘆するであろう。
知恵の実り。
「鋭敏と認められる、等」。エホヴァの知恵を助言者にもつ者よりも、誰が正しく鋭く裁けるだろうか。「権力者たちの前で」。権力者たちが賢者に驚嘆し、聴き、愛し、従うなら、彼らは幸いであり、三重にも四重にも幸いである。そのとき彼らのことはうまくいく。王たちは賢者との交わりによって賢明になるからである。第74節。
私が黙っていれば彼らは待ち、語れば注意深く聴き、詳しく論じれば自分の口に手を当てるであろう。
彼らは黙っている私を待ち、語る私に目を注ぎ、私が長く話すと、自分の口に手を置くであろう。
「黙っている私を待つ、等」。彼らは特別な何かを期待し、私が語るのを大きな期待をもって待つであろう。「以前にいわれたこと以外は何もいえないのだから、私がどんな特別なことを述べられるだろう」と考えるな。ああ、哀れな者よ。それはあなたの不信と怠惰の明白な証拠である。まるで知恵の霊が尽き果てて、古人たちの内におけると同じようには、今日あなたの内で新しく未聞のことを発見できず、あるいは望まないかのようではないか。いつまで他人の才の奴隷でいたいのか。「口に手を置く」。このように口に手を当て、近づけることは、ギリシア人がフィレーコイア、すなわち聴くことへの愛、と呼ぶ、深い熱意と喜びを表す。このように沈黙する者は、聴聞の場と、もっとも深い静けさを作るからである。
さらに私は知恵によって不死を得、私の後に生まれる者たちに永遠の記憶を残すであろう。
知恵によって私は不死を得、後世に永久の記憶を残すであろう。
「知恵によって不死を得る」。知恵は永遠の名声を与えるからである。異教徒のいった「賛美に値する人を、ムーサは死なせない」が真実なら、私たちの賢者のこの言葉はなおさら真実ではないか。正しい人の記憶は賛美とともにあるが、不敬虔な者の名は腐り果てるからである。箴言10章7節。賢者の記憶は、常に祝福のうちにある。書物は記憶の器、賢者たちの永続する名声だからである。この円形劇場によって、神に賛美あれ、私、ライプツィヒの医学博士、神的叡智を愛するハインリヒ・クンラートも、善良な人々の間に立派で善い記憶を後世へ残すであろう。悪魔とその鱗どもを侮るためにも。私は言葉の化粧を求めなかったが、表現の装飾より事柄の真実を求めたことを知ってほしい。この徳のしるしを、神の恵みによって示そうと望んだことについて、私はわが神に感謝する。知恵の書5章14節。
私は諸民族を治め、国々は私に従属するであろう。
私は諸民族を秩序づけ、国々は私に従うであろう。
「諸民族を秩序づける、等」。教えによっても政治によっても、である。「国々は私に従う」。王だからである。
恐ろしい王たちも私のことを聞いて恐れるであろう。民衆の中で私は善い者と見なされ、戦いでは勇敢な者と見なされる。
恐るべき暴君たちも聞けば私を恐れ、群衆の中で私は善い者、戦いでは勇猛な者と見なされるであろう。
「私を恐れる、等」。私は敵対者と敵にとって恐るべき者となる。主から私の花嫁として授けられ、私とともにある知恵が、彼らに恐怖を起こさせるからである。「群衆の中で、等」。平和のときには、義によって民衆の前で善い者と見なされる。人は義によって善い人と呼ばれるからである。戦いのときには、力に勝る知恵によって、勇敢な者となる。第63節。
私はこれらを自分の内で考え、心に思い返した。知恵を思うことのうちには、不死なるものがあるのだ、と。
注 原文immortalisとcogitationeは印刷どおり。対欄のimmortalitatem/cognationeに合わせて改めない。中央聖書節はVers.14と印刷。
私はこれらを自分の内で熟考し、心を尽くして吟味した。知恵との親縁のうちに不死があるのだ、と。
真の知恵の実りと効用。
「これらを自分の内で考え、等」。ついでに、表面的にではなく、心の中で熱心に注意深く、これら、すなわち知恵の宝、労働、実り、効用を、精神の秤にかけて吟味するのである。私たちの賢者は、知恵のために引き受けた労働に、瞑想と学びを結びつけた。この点でも私たちは熱心に彼にならい、祈るとともに働かねばならない。祈りの場での学びと瞑想なしに働いてはならない。「不死なるものがある、等」。ここで彼は、前に詳しく述べた知恵の効用を概観している。
また知恵との友情には善い喜びがあり、その手の労働には尽きない富があり、知恵との交わりと対話には思慮があり、言葉を交わすことには栄光がある、と。
知恵との友情には善い喜び、その手の業には衰えることのない誉れ、その言葉をめぐる問答には知恵、その言葉にあずかることには輝かしさがある。
「知恵との友情には、等」。ここで知恵の子に三つのことが推奨される。第一に永遠の知恵との友情、次にその労働、最後にその対話である。しかし、まず知恵との堅固で不可侵の友情を結ばなければ、誰もその労働と対話にあずかれない。それは、汚れた世俗の知恵を捨て、拒むのでなければ不可能である。そのとき初めて、永遠の知恵との友情から、真実で純粋な、後悔を伴わない喜びを汲み取ることができる。その労働からは立派な富を、対話からは思慮と栄光を得る。
注 ギリシア語ἀμεταμέληταは刊本の語形を保持。
知恵を見いだし、思慮にあふれる人は幸いである。別の読みでは、「思慮を流れ出させる」ともいう。
注 異読注の開き括弧に対応する閉じ括弧は刊本にない。
知恵を見いだす人、理解を光の下へもたらす人は、幸いである。
知恵の賛美。
「見いだす人は幸い、等」。知恵を見いだした者より幸いな者が、いったいあるだろうか。全宇宙に、知恵よりも優れ、高貴で、有益なものはない。その理由は、知恵が神を、自分自身を与え、人を神の友とし、預言者を立て、長い日々、誉れ、富、すべてを与えることにある。第314、315節を見よ。ゆえに、死すべき人間の誰が、知恵を求めず、生涯を通じて愛さずにいようか。最後に残る者をひどい疥癬が捕らえ、世の敷居の外へ追放するがよい。
知恵を得ることは金銀の取引に勝り、その実りは第一級で、もっとも純粋である。
注 左欄の句読点とprimi & purissimiの構文は刊本どおり。対欄と同じ文章へ改めない。
知恵による利益は銀の取引の利益に勝り、その収穫は金に勝るからである。
知恵の賜物と実り。
「金の取引より、等」。ただ金銭上の富、金と銀のため、疲れを知らぬ活動をもって営まれる、金融、利貸し、一部は詐欺的なもの等々、あらゆる世俗の取引より、ということである。知恵は、二つの祈りの場において、神の霊感に発する精神的な神的叡智の実践によってのみ得られる。知恵の少なからぬ実りは、実験室での賢明な手仕事の営みによって得られる。ヘルメスは第1章でいう。「この長い生涯において、私は実験をやめず、魂にも労苦を惜しまなかった。この術と知は、ただ生ける神の霊感によって得た。神はその僕である私に、それを明かすことをよしとされた」。その少し後には、「この知を、間接にも直接にもあなたがたに教えた神に感謝せよ。神は感謝する者を愛するからである」と。
注 partitemは印刷上の形を保持。
「第一級で、もっとも純粋、等」。知恵は、単一者の単純さへ戻された人間、あるいは神的叡智に従ってそう戻ろうと努める人間に、神の賜物である最高善を授ける。すなわち、エホヴァ、被造物と自然、人間自身についての認知、知識、親縁、合一、享受、つまり普遍的にすべてを授ける。この三重の三一性のうちに、完全を超え、真実で、最高で、普遍的であり、ここでも永遠にも実り豊かに続く至福がある。神のすべての神秘、私たちに知ることを神が望む神秘、自然の秘密、あらゆる道徳と正しい法の理法、過去・現在・未来についてのあらゆる知識は、唯一真実である永遠の知恵の尽きない泉から湧き、流れ出し、私たちへ導かれるからである。それらは知恵の書物、すなわち聖書、大宇宙、小宇宙の驚くべき言葉を通じて、不思議な仕方で私たちに啓示され、伝えられ、教えと訓戒の子らによって聴かれ、見られ、観察される。誰もが容易にコリントスへ行けるわけではない。まして知恵の宝庫へは、なおさらである。神的叡智に従って祈り、賢明に働かねばならない。キリスト教カバラ、神的魔術、自然錬金術の仕方で、この円形劇場の法と教えに従い、祈りの場と実験の場という競技場で走り、汗を流さねばならない。ブラベイオン、すなわち勝利の賞は、勝者に授けられるのであり、悪徳の眠りに眠る者や怠け者にではない。
知恵はすべての財産より貴く、望まれるものは何一つ、それと比べることができない。
知恵は真珠よりも貴く、あなたが望むすべてのものも、それに等しくない。
「すべてのもの」。その栄光が空しい、世俗のものである。知恵はそれ自体のために知られ、探究される。その内には金と銀が内在する事柄としてあり、外的なものとしてあるのではなく、同時に真理の探究があるからである。知恵の労働、つまりキリスト教カバラ、神的魔術、自然錬金術の労働によって、賢者の石が得られる。それは自らを通じて、自らから太陽と月を与える。他のあらゆる技芸は、それ自体のためではなく、外的な金と銀のために学ばれるのに対して、である。それゆえ知恵は、自分自身から、その慈しみの尽きぬ泉から、先に述べた仕方で、無数の富、無限の宝、精神、身体、運命に属すると呼ばれる善いものと賜物を、きわめて豊かに与える。第45、224、327節を見よ。
その右手には長い日々、その左手には富と栄光がある。
知恵の右手には長い日々、その左手には富と栄光がある。
「長い日々、等」。この世で真の知恵の忠実な侍女、いわば自然の秘密を扱う寝室付きの乙女である自然錬金術を仲立ちとして、女主人たる知恵は、勤勉な訓戒の子に、植物、動物とその諸部分、鉱物、石、宝石、真珠、金属の貴重な精髄と、健康のためにきわめて強力に働く精妙なものを、慈しみ深く授ける。そればかりか、私たちを回復し保存する、もっとも真実な普遍薬たる賢者の石をも授ける。これらを正当な医学の仕方で用いることから、長い日々が生じる。富は、前述の祝福された普遍的な石の驚くべき力から生じる。その力により、低位の金属は実際に高位の金属、すなわち銀と金へ転換され、存在と形相の双方において、きわめて実り豊かに変成される。最後に栄光は、完全を超える石を、キリスト教カバラ的かつ神的に用いることから生じる。この円形劇場の第四図を見よ。右手が左手より尊いのと同じだけ、健康で長命な生の状態は、金銭上の富よりもはるかに優先されるべきであることに注意せよ。第326節を見よ。
知恵の道は美しく、その小道はすべて平和である。
知恵の道は喜ばしい道、その小道はすべて平安である。
「知恵の道は美しい」。わが姉妹たる知恵は、その教えと労働の真理、実りから生じる効用のゆえに、すべてにおいて美しい。「平和である」、あるいは「平安」。神自身が人間に吹き込んだ心の落ち着かなさを、自然の技巧にかかわる事柄においても、実り豊かに鎮め、燃える欲求を十分に満たし、人間全体を静かで安らかにし、真の平安によって、第23節、内にも外にも平和にするからである。この落ち着かなさについては、この円形劇場の第三部、第1項、証明5を見よ。
知恵は、それをつかむ者たちにとって命の木であり、それを保つ者は幸いである。
知恵は、それをつかむ者たちの命の木であり、それを保つ者たちは幸いである。
「命の木」。身体、霊、魂に関して、現世でも来世でも、そうである。ここで命の木は、神、自分自身、自然についての知と理解することもできる。この三つの知は知恵の実りだからである。したがって、効果とその結果を、指し示す徴として見て、知恵の労働、つまりキリスト教カバラ、自然魔術、自然錬金術の業を賢明に行う神的叡智の人々は、正しい者の名簿にも登録されていると判断し、結論しなければならない。彼らは知恵を、その実りとともにつかみ、保つからである。正しい人の実りは命の木である。箴言11章30節。受動的にも能動的にも、である。これは、神的叡智に従ってカバラ、魔術、錬金術に励む者にとって大きな慰めであり、神的召命の保証である。
知恵は、口のきけない者の口を開き、幼子の舌を雄弁にしたからである。
実に知恵は、口のきけない者の口を開き、幼子の舌を雄弁にする。
「知恵は口を開いた、等」。真の雄弁は知恵と結ばれ、多くの事柄についての誤りない知から生まれる。知恵の真の宝庫から汲み出される霊的、神的、自然的な事柄そのものが欠けるところでは、その内容の乏しさが、難しい問題を前に人を沈黙させるか、あるいは心を、神、天使、人間に憎まれる、不適切で空しく愚かな多弁と空言へ溢れ出させる。偽りの雄弁は、あの蛇の狡猾さから生まれ、人々の心を欺くため、多くの言葉の媚び、彩り、説得を必要とする。
知恵自身はさらにいう。私とともに助言と公正があり、思慮は私のもの、勇気は私のものである。
私のもとには助言と知恵があり、私は理解そのものであり、力は私のものである。
「私のもとには助言と知恵」。それらは、この汚れた世の愚かな賢者たちのもとにあるのではない。彼らは教会と政治のさまざまな地位にあって、悪魔の狡猾さによって不敬虔に支配し、あるいはある学校で、異教的に、つまり真の知恵に逆らって、ある異教徒たちの妄想に従い、傲慢に、そして悲しいことに罰せられもせず、若者を惑わせる。真の知恵は、すでに述べたように、聖書、自然、精神という書物の内で、それらに基づき、神的叡智、自然学、自然錬金術、自然魔術等の仕方で、単純な真理と真実な単純さをもって教えるのである。助言、知恵、思慮、勇気は、永遠の知恵のみのものである。その霊の息吹なしに、誰も真の賢者、哲学者、助言に優れる者、思慮ある者、勇気ある者にはなったことがない。その霊感と照明なしには、真実で、堅固で、健全な教えは一つもない。
私によって王たちは統治し、君主たちは正義を定める。
私によって王たちは統治し、立法者たちは正しいことを定める。
「私によって、等」。私の法によって、である。それは私の知恵と正義の火花であり、それゆえ私自身と合致する。私自身が私の法であり、正義、真理、国の救いと魂である。私は自分の意志に従って統治者を立て、支配権を移す。
私によって君主たちは支配し、支配者たちと地上のすべての裁判官もそうする。
私によって君主たちは命令し、権力ある者たちは正しいことを定める。
「君主たちは命令する」。逐語的には「君主として振る舞うであろう」、すなわち君主、領主、皇帝の職務を果たすということである。今日ドイツ人の間に暮らすヘブライ人たちは、「王は統治した」をドイツ語で「王は王した」と訳す。しかし、すべての君主が知恵によって統治するのか。そうではなく、第160節にあるように、知恵を愛し、早朝から知恵のために目覚めている者だけである。宴会と飲酒を愛し、腹を神とし、神々を装いながらバッコス祭の生活をする者ではない。
私とともに富と栄光、壮大な財と正義がある。
富と栄光、揺るがぬ財産と正義が、私とともにある。
「富と栄光、等」。多くの大きな財産、常に永遠に続く財だけでなく、金銭上の、一時的な財でもある。ここから、富も無条件に非難すべきではないことが分かる。知恵の労働から得られるなら、それは知恵の特別な賜物だからである。どうか、たった一つの普遍的な自然錬金術の業についてでも、この円形劇場の第三部と第四部に真実をもって注記された、変成の用途または実りを考察してほしい。カバラと魔術の業については、今は進んで沈黙する。真の知恵を理論と実践の双方で学ぶあなたがたは、自然の中で技を通じて働く知恵の力と秘密に驚き、永遠の知恵の自然的宝が真実であることについて、真理のうちに確信を強めるであろう。第30、314、315、319節を見よ。
注 confirmeniniは刊本の字形どおり。
私の実りは金と精金に勝り、私の収穫は選りすぐりの銀に勝る。
私の実りは金と宝石に勝り、私の産物は選りすぐりの銀に勝る。
「勝る、等」。神自身の証言による。列王記第三3章11節。そこにはこう書かれている。「ソロモンは主を愛し、父ダビデの戒めに従って歩んだ。ただし高き所で犠牲を捧げ、香をたいていた。主はギブオンで夜の夢を通じてソロモンに現れ、『何を与えてほしいか、願うがよい』といった。ソロモンはいった。『それでは、あなたの民を裁き、善悪を識別できるよう、あなたの僕に教えを受け入れる心をお与えください』。ソロモンがこのようなことを願ったので、その言葉は主に喜ばれた。主はソロモンにいった。『あなたがこのことを願い、自分のために長い日々、富、敵の命を求めず、裁きを識別する知恵を求めたので、見よ、私はあなたの言葉のとおりにし、知恵と理解ある心を与えた。あなた以前に、あなたに似た者はなく、あなた以後にも起こらないほどである。さらに願わなかったもの、すなわち富と栄光も与えた。これまでのあらゆる日々の王の中に、あなたに似た者はいなかったほどに。もしあなたが私の道を歩み、父が歩んだように、私の定めと戒めを守るなら、あなたの日々を長くしよう』。ソロモンは目覚め、それが夢であったと悟った。エルサレムに来ると、主の契約の箱の前に立ち、焼き尽くす供え物を捧げ、和解の犠牲を捧げ、すべての家臣のために大宴会を催した」。永遠の知恵の実りはすべて善い。そのうち神的なものがもっとも善く、あらゆる時代を通じて続く。第45、224節を見よ。
私を愛する者を富ませ、その宝庫を満たすためである。
私を愛する者に永続する存在を相続させ、その宝庫を満たすためである。
知恵の目的。
「富ませるため」。身体、霊、魂を、通常の言い方で身体、精神、運命の善いものと賜物と呼ばれるものによって、富ませる。時間の中でも永遠にも続くものによって、である。「宝庫」。身体、霊、精神の宝庫、そして運命のものと呼ばれる宝庫。内的なものと外的なもの、身体的なものと霊的なものである。
私を見いだす者は命を見いだし、主から救いを汲むであろう。
私を見いだす者は命を見いだし、エホヴァから好意を汲むからである。
「命を見いだす」。知恵は命の泉である。渇く者はそこへ来て飲むがよい。ヨハネによる福音書4章14節、イザヤ書55章1節、黙示録21章6節。永遠の命だけでなく、知恵による自然錬金術の労働の実りから、この世でのいっそう長い一時的な命をも見いだす。長い日々はその右手にあるからである。第319節を見よ。「救いを汲む、等」。主に喜ばれ、主はその人に好意を示し、そのすべての行為と労働を祝福で満たすであろう。それにより、その人はエホヴァから意志を得る、すなわち、神的叡智に従って祈り働く中で望み願うすべてについて、自分の意志に即して、善く意志し、知り、存在し、なしうるようになる。要するに、主がその人の倉庫となり、そこから望むものを何でも受け取るのである。第181節を見よ。
しかし私に逆らって罪を犯す者は、自分の魂を軽んじる。私を憎む者はみな、死を愛する。
しかし私に対して罪を犯す者は、自分の魂を傷つける。私を憎む者はみな、死を愛する。
「私に対して罪を犯す」。知恵の法、教え、これほど忠実で友好的な勧告を、卑しく嘲笑し、良心の証しに逆らって平然と軽蔑する者は、永遠の知恵に対して重い罪を犯し、神の威厳への不敬罪を犯す。その者は悪魔に目をくらまされ、自分自身に不正を行う。身体、霊、魂から、大宇宙的にも小宇宙的にも、神の祝福を奪い、自分全体を押しつぶすからである。
だが私によって、あなたの日々は増し、命の年々があなたに加えられるであろう。
私によって、あなたの日々は増し、命の年々があなたに加えられるからである。
「私によって、等」。私の祝福と、私の導きのもとにあなたが祈りの場と実験の場で行う手の労働の実りによって、である。それらについては、この序説の随所で述べている。
わが子よ、と私たちの賢者は再び父らしく諭す。これらを目から失わせるな。法と助言を守れ。
わが子よ、これらを目から離すな。法と思慮を守れ。
神の言葉とその助言に従う者には、すべてが順調に進むことを約束する。
「目から」。身体の目だけでなく精神の目の前にも、昼も夜もそれらを置け。「法」。その中に健全な教えと真理自身が憩っている。
それらはあなたの魂の命となり、喉の飾りとなるであろう。
それはあなたの魂の命となり、あなたの喉に美しさを添えるであろう。
「あなたの魂の命」。神の法と言葉によって、死にかけた魂には、キリスト教の仕方で命、すなわち神が回復される。魂が死ぬことは、極度の不幸である。それゆえ、魂が常に生きているよう、生ける知恵の法と助言を守れ。魂の命とは、命の泉なる神、父の言葉、人々の光と命、そして信仰によって私たちの魂を生かす、父と子の霊のほかに何であろう。魂の死とは、命の泉なる神から離れること、生かす言葉を失うこと、霊的な光を奪われることのほかに何であろう。その後には霊的な闇が続き、そこには闇の霊どもが住み、誤りと地獄の恐怖を携えてくる。それらは魂の牢獄、永遠の死の鎖である。
そのときあなたは正義と裁きと正しさ、そしてあらゆる善い道を理解するであろう。
そのときあなたは正義と裁き、公正、そしてあらゆる善い道を理解するであろう。
知恵の実りと効用。
「そのとき」。すなわち、金銭を求めるように知恵を賢明に求め、宝を探すように熱心に調べ、掘り出したときである。第220節。太陽に先立って起き、光の昇る方へ向かって礼拝したときである。第170節。「あらゆる善い道」。身体的、自然的、人間的、世俗的な事柄においても、霊的、超自然的、神的、永遠の事柄においても、である。賢者はいう。「知恵とともに、すべての善いものが私に来た」。第291節。
そのときあなたは、自分の道を確信をもって歩み、足がつまずくことはない。
注 中央参照はProu.3. Prou.33.と印刷。
そのときあなたは、自分の道を信頼とともに歩み、足がつまずくことはない。
「確信をもって歩む、等」。私たちの命なる神が味方であるなら、誰が私たちに敵対できるか。神が支えるなら、誰が倒せるか。あなたはただ、心を尽くしてキリスト教的に勝利を願え。受肉した神の知恵の生きた肢体となり、この円形劇場の法と教えに従って、神的叡智の仕方で原型にならうよう努めよ。そうすれば、身体のうちにあるあなたは、その頭においてすべてをなしうる。あなた自身ではまったく弱いが、かの方においては、なしえないことはない。これが私たちの栄光、私たちの勝利である。これが、カバラ、魔術、錬金術において、善く意志し、知り、存在し、なしうる力を、エホヴァから授かる神的叡智の道、すべてのもののうちの万物である。
眠るとき、あなたは恐れない。安らぎ、その眠りは甘美なものとなる。
横たわるとき、あなたは恐れない。休むとき、その眠りは甘美なものとなる。
「眠りは甘美なものとなる」。眠っている間にも、処女のような精神、すなわち悔い改めの洗いによって罪の汚れから清められた精神の鏡の中で、喜びをもたらす教えに満ちた幻視によって、神から勧告され、教えられ、導かれるであろう。安らかな精神は、絶えることのない宴のようである。箴言15章15節。それゆえアウグスティヌスはいう。「良心において富む者は、紫衣に包まれた富者よりも、地上で安らかに眠る」。睡眠中の幻視、夢の啓示、すなわち予知的・神的な夢について、簡潔にこう心得よ。魂が非難されるべき心配の重荷から自由で、健全な身体の中で節度と健全さを備え、悪徳の主人、情念の女王となり、自分を治め、神的叡智によって自分の内へ入り込むなら、創造された全宇宙の秘密を理解し明かすこと、善い霊と結ばれること、古い事柄を思い返し、新しい事柄を観想し、未来を予感すること、最後に、生みの親とその神秘を、その親の照射によって、鏡の中のように神的に映し出すことに、正当に取りかかる。魂は宇宙の創造主の神的な息吹の一片だからである。
要するに、神の知恵の霊と結ばれ、悔い改めによって洗い清められ、神的叡智の翼で高められ、神への愛の火によって昇華され、ハギアステーリオン、すなわち善い霊たち、つまり神の天使たちの聖所へ上った私たちの精神は、これは人が目覚めていても眠っていても起こりうるのだが、カバラ的に受け入れることによって霊的な事柄を経験する。天上を超えた事柄を観想し、超自然的な事柄から、またその中で、多くの自然的な事柄を見る。自分自身だけによるのではなく、感覚と感覚されるものの仲立ちによっても、である。さらに低い諸力が眠り、吸収されたとき、すなわち脱自、自己からの超出、神への最高の携挙においては、最高のもの、つまり神的なものを経験し、言い表しえない仕方ですべてを見て捉える。
神の霊の息吹を受けたメルクリウス・トリスメギストスの『ポイマンドレス』の冒頭を、その教えの卓越性のゆえに、ここに添えておきたい。彼はいう。「私が事物の本性を考え、精神の眼差しを高いものへ向けていたとき、身体の感覚はすでに眠っていた。満腹や疲労のために眠気に圧倒された者に起こるように、である。すると突然、巨大な身体の何者かを見るように思われた。その者は私を名で呼び、こう叫んだ。『メルクリウスよ、何を学び、理解したいのか。私はポイマンドレス、神的な力の精神である。何を望むか考えよ。私はどこにおいてもあなたとともにいる』。私は答えた。『事物の本性を学び、神を知りたいのです』。これにポイマンドレスは、『あなたの精神で私を捉えよ。そうすれば、あなたが望むすべてについて教えよう』といった。そういうと姿を変え、突然すべてを啓示した」。
注 defatigatigationemは刊本の重複綴りを保持。
聖キプリアヌスは『書簡集』第9巻第9書簡でいう。「私は自分に何が示され、主がほかの事柄とともに何を私へ明かすことをよしとされたかを覚えている。それらを笑うべきもの、つまらぬ幻視と見なしてはならない。ヨセフの兄弟たちが彼について、『見よ、夢見る者が来た』といったように」。以上が彼の言葉である。これが兄弟の、兄弟についての判断なのか。まことに嘲笑的である。世俗の兄弟たちが、私についても同じ逆さまな判断を下すとしても、不思議はない。いずれにせよ、神が間接または直接に啓示する人々を、空しい夢想家のうちに数えるべきでないことは確かである。キケロはいう。「私たちの内には、予感し、占う何かがある」。それは何か。善悪を予感する精神である。現代と古代の多くの例は、もっと適切な場所へ譲る。そこでは詳しい説明とともに多くを示すため、注意深く取ってある。結びとして、ユリウス・カエサル・スカリゲルの『食後詩集』から、夢の真実についての次の言葉を加える。「真実の夢を否定する者は、夢を見ながら語っている。/私たちは一度ならず、実に頻繁にそれを見いだした。/そして感知なしに過ぎる夜は、きわめてまれである」。私は真理をよく知る者として、自分のためでなくトマス派の人々のために、これらを引いた。ああ、心配から解き放たれることより幸いなものがあろうか。
注 キプリアヌスの巻・書簡番号は刊本どおり。詩行は原文の三行を保持した内容。
突然の恐怖も、不敬虔な者の荒廃が訪れるときも、あなたは恐れない。
突然の恐怖も、あなたへ襲いかかる不敬虔な者たちの勢力も、恐れるな。
「恐れるな」。眠っていても目覚めていても、幽霊の幻に恐れさせられない。汚れた世の目には偉大である多くの人々に、私たちの時代にもそれが起こったことを、私は知っている。また悪い良心の復讐の女神たちに駆り立てられることもない。良心の力は大きい。善い良心は老年の優しい乳母、悪い良心は哀れな者を骨髄まで食い尽くす。良心が安らかにあるところには、いかなる喜びも欠けず、それが悪いところには、いかなる悲しみも欠けない。人間にとって魂の安らぎより甘美なものはない。知恵の書17章10、11節、18章17節を読め。
注 nulla tristitiaは前句のdeestを補って解釈。
主はあなたの傍らにあり、あなたが捕らえられないよう、その足を守るからである。
エホヴァはあなたの拠り所となり、あなたの足を罠から守るからである。
「主は、等」。エホヴァは壁、すなわち神的叡智の人々を取り囲む火の円である。偽魔術師たちの、作りものの描かれた円など、去るがよい。エホヴァは防護の囲いによって、ご自身を畏れる者を取り囲み、敵の脅しを閉め出し、あらゆる敵対勢力を遠くへ追い払う。「主の天使は、主を畏れる者の周囲にある」。詩篇34篇8節。「捕らえられないように」。敵対者の力、狡猾さ、偽りの教えによって、という意味である。あなたは悪魔の詭弁的な罠によって、真理の直線から逸らされることもない。それゆえ、全能の主なる神の助言と助けを願え。そうすれば、祈りの場と実験の場において、ベレシートとメルカヴァの業、すなわち人間的・神的事柄の知である哲学と神学を、モリエヌスの言い方を借りれば、直線上で、つまり真理の直線的な道から少しも逸れず、幸いに獲得させていただける。あなた自身が正しく望みさえすれば、正しく成る。あなたが信じ、祈り、働くとおりに、あなたに成るであろう。ついにはこういうだろう。「私たちが呑み尽くされなかったのは、神の慈悲による」と。
知恵は、自分に仕える者たちを苦難から解放した。
知恵は、自分に従った者たちを苦しみから解放した。
注 右欄の節番号は317と誤植。対応する左欄339に合わせて管理。
「苦難から解放した」。まず知恵は、多くの神的・人間的事柄についての知で精神を満たし飾り、そこから心は甘美な喜びによって回復される。人間の精神は、神と自然の知へ高く昇れば昇るほど、大きな喜びと甘美さに満たされるからである。それにより心は創造主への愛にますます燃え、神と結ばれ、そこから良心の静けさと晴朗さが生じる。次に知恵は、自分に仕える者を、ヨセフを牢獄から解放したように苦難から解放する。王の夢の解釈と説明によって、牢獄から知恵の光線がほとばしり輝いたので、彼は牢獄から解放され、王に近い尊位へ引き上げられた。
それゆえ、あなたの財産と、すべての収穫の初物をもって主を敬え。
あなたの富と、すべての産物の初物をもってエホヴァを敬え。
トビト記4章7節。ルカによる福音書14章13節。
「主を敬え、等」。世俗的に生きて悪魔を敬うのではない。あなたにもたらされるもの、受け取ったもの、受け取るもの、これから受け取るものが、神の賜物と善いものであると、感謝の心で認めよ。申命記第26章の初物を捧げる儀式は、それを表す。このように感謝は、霊的なことでも世俗的なことでも、さらに与えるよう神を招くことである。この基礎から、この円形劇場の第三図の第二の付論、十分の一税についての付論が組み立てられる。この大きな救護院で神の施し手となり、神の慈悲の好意によって授けられた善いものと賜物から、感謝しつつ、明るい顔と心で、困窮する隣人への慈悲の業を行うなら、あなたは主を敬っている。すべての人に与えよ。キリスト教や宗教のためでないとしても、せめて人間性のために。この点で、悪い者にも善い者にも太陽を昇らせ、例外なく、各人にも万人にも衣食を与える、至善至高の原型にならうのである。神は喜んで与える人を愛する。コリント人への第二の手紙9章7節。敬虔な人々をキリストにあって愛し、不敬虔な人々をキリストのために愛せ。キリストは、まだ敵であった私たちを先に愛し、贖うためにご自身のすべてを費やした。前者は善い者だから抱き、後者もまた、善い者にするために抱け。憎むべきは悪徳であり、人間ではない。「貧しい者の叫びに耳を閉ざす者は、自ら叫んでも聞かれない」。箴言21章13節。自分が量るその秤で、自分も量られるからである。マタイによる福音書7章2節。
そうすれば、あなたの倉は満たされ、搾り場は葡萄酒で溢れるであろう。
そうすれば、あなたの倉は豊かに満ち、搾り場は新しい葡萄酒で張り裂けるであろう。
「あなたの倉、等」。主は祝福の晩の雨と朝露をあなたに降らせ、あなたの倉の床を、大宇宙的にも小宇宙的にも、身体、霊、魂に即して、外にも内にも満たすであろう。神はイスラエルのように、あなたを高い土地に置き、畑の実りを食べ、岩から蜜を、硬い岩から油を吸い、牛の乳酪、羊の乳、子羊と雄羊の脂肪、雄山羊と小麦の精髄を食べ、きわめて純粋な葡萄の血を飲めるようにするであろう。申命記32章13、14節。
自分の水溜めの水、自分の井戸の流れを飲め。
自分の水溜めの水、自分の井戸の中から湧く流れを飲め。
自分自身の労働によって生き、その実りを他者に分かつことを求める。
「水を飲め、等」。これは、神が慈しみ深くあなたに授けた善いものと賜物を、外的なものだけでなく内的なものも、用いよ、といっているに等しい。他人の意見の奴隷や猿となり、真理のまっすぐな道から逸れた、つまり愚かな師の言葉と見解に、誓って従おうとしてはならない。その師が神学者、法律家、医師、自然学者、錬金術師、魔術師、カバラ学者等の誰であれ、古さや権威のため世間で力をもっていても、そうである。信じよ、偉大な人物は大きな誤りを犯す。「学のない男は異端を起こさぬ。ひどく学識ある者こそ、ひどく歪んだ者」。年齢も愚かさを防いではくれない。神から照らされた者には誰にでも、哲学的自由の権能によって、神的叡智に従い哲学することが許されているのだから、各人は自分の守護霊と才知を用い、享受せよ。各人は、聖書、自然の書、自分自身の内で語り、教え、答えるエホヴァを、聴き、見、注意深く観察せよ。
あるきわめて学識豊かな人の証言によれば、神々、エロヒムを感得しなかった者で真のピュタゴラス派であった者はいない。それと同じく、私はいう、自分の内で語る主を聴かなかった者は、ダビデに従う者ではない。詩篇85篇9節。自分の内に知恵の聖なる霊の塗油を味わわなかった者は、真のキリスト者ではない。神は人を分け隔てせず、普遍的な宗教の教えに従い、第184、304節、あらゆる民の中で、神を畏れ義を行う者を受け入れる。使徒行伝10章35節。それゆえわが子よ、霊と真理において祈り、神的叡智に従って生きるあなた自身、すなわちあなたという人格が聖霊から塗油されることを、疑うな。第10節。私たち一人一人は、神の恵みが働き、流れ入り、与えることによって、真理の教えを知るべきであり、また知ることができる。本人がキリスト教の仕方でそれを望みさえすれば、である。第157節。そうして神に基づいて自分自身と他者を諭し教え、他人の目で見るだけ、他人の耳で聴くだけでなくなるためである。
自分の身体と家族を養うために、家に食糧を蓄えておくことが各人の益になるように、神から照らされた精神の倉に、いつでも取り出せる真理の教えを備え、自分と他者の助けとすることが、各人の益となる。見よ、守護霊が私の耳を引き、鼻高々の愚者たちの中傷と嘲りを予告している。私はどうすべきか。真理を黙っておくべきか。断じてそうではない。真理には常に、悪魔に駆り立てられ、真理を圧迫するが圧殺はできない敵対者がいるものだと、私は知っている。真理は愚者を、いっそう愚かにするであろう。
あなたの泉を外へ広がらせよ。広場には水の流れを。
あなたの泉を外へ流し、広場であなたの水を分け与えよ。
「泉を外へ流せ、等」。自分の労働の実りから、困窮する隣人に、キリスト教の仕方で愛の業を行え。ラザロを忘れるな。与えよ、そうすればあなたがたにも与えられる。あなたがたの持つもので、受け取らなかったものが何かあるか。
それらをあなた独りのものとし、よそ者をあなたとともにあずからせるな。
それらはあなた独りのものとし、よそ者と共有するな。
「あなた独りのものとせよ」。確かにすべての善は分かち与える性質をもつが、無差別に誰にでも伝えうるわけではない。すべてがすべての人に適するのではなく、誰に、いつ、どれほどか、がある。これはナジアンゾスの人から、私たちがすでにしばしば正しく引用しているとおりである。タルムードの次の言葉を心に留めよ。「友は多くもて。しかし自分の秘密を明かすのは、千人に一人にも、ようやくであれ」。あなたの胸に横たわる者に対しても、口の戸を守れ。翌日に悲しむことのないように。その日が何を運ぶか、あなたは知らないからである。ご自身の弟子たちに、私はあえて弟子たちにというが、こう語ったキリストにならえ。「神の国の神秘を知ることは、あなたがたには与えられた。しかし他の者には譬えで語られる。彼らが見ても見ず、聴いても悟らないためである」。ルカによる福音書8章10節。この教えを心に留めた、キリスト教哲学者ローマのモリエヌスは、王カリドのもとを去ろうとするとき、自然と技の最高善を完成させ、完成したものを残したが、その知と技を王に明かしはしなかった。それゆえアラヌスはいう。「息子よ、おまえの口に番人を置け、苦い者どもに備えて」。したがって私も、ある深い秘密について秘めた仕方で語るなら、怒らないでほしい。哲学者には、奥義が卑しめられず、自ら神の呪いを招かぬよう、賢者たちの教えを破らないことがふさわしい。
注 ドイツ語für die bitterは画像の字形を採用するが語義に不確実さが残る。
善い者たちの労働の実りは栄光あるものであり、思慮の根は枯れ落ちないからである。
善い者たちの労働の実りは栄光あるものであり、倒れない根、それは知恵の根である。
「善い者たち」。エホヴァの知恵の導きと教えによって、単一者の単純さへ戻されようと、力を尽くして努める人々である。彼らは水の流れのほとりに植えられた木のようであり、時に応じて実を結び、その葉は落ちず、行うことはすべて栄える。詩篇第1篇全体を見よ。神から、彼らの、愚者たちのではなく、行為、労働、業へ、善く意志し、知り、存在し、なしうる力が吹き込まれる。長老ザディト、ハムエルの子が、普遍的な自然錬金術の業を論じて短く示唆したように、である。私たちはこの序説の解説の随所で、それをもう少し明らかに説明した。受け取れる者は受け取れ。ここには、ごくわずかな者しか気づかぬ、大いなる奥義が隠されている。私のこの忠実な勧告によって、愚者たちが賢くなってくれればよいのだが。
ここに第七段の図を挿入せよ。
第七段の解釈と注解
第七。序説の第七段の解説。
不敬虔な者の小道を楽しむな。悪人の道を喜ぶな。
不敬虔な者の小道へ入るな。悪人の道を進むな。
「楽しむな、等」。ついに知恵のこの第七段へ登ったなら、悪い人々の習性と情念に、奔流にさらわれるように流されないよう注意せよ。天使的な堅固さを求め、偶像を礼拝する女たちが王ソロモンの心を傾けるように、世の誘惑があなたの心を傾けることのないようにせよ。
その道を捨て、そこを通るな。避けて通り過ぎよ。
その道から逃れ、そこを通るな。避け、離れ去れ。
「そこから逃れよ」。ヨセフは貞潔を愛して、上着を残したまま、あの淫婦から逃れた。あなたもこの汚れた世から逃れよ。空しい栄光、汚れた快楽、卑しい貪欲のために、自分の不死なる魂から、その永遠の栄光、不死の歓びと楽しみ、永遠の富を奪い取り、剝ぎ取ってはならない。
人の目に正しく見える道があるが、その行き着く先は死の道である。
人に正しく見える道があるが、その最後は死へ導くからである。
「導く」。あなたが知恵を捨てるなら、知恵もあなたを捨て、深い闇、思案の誤り、結果の不幸、死の断崖へ投げ落とすからである。快楽と栄誉の道が正しく見えても、その結末は災厄である。快楽は短く一時的で、決して純粋ではなく、常に苦しみと良心の呵責が混じり、後には心の悲しみと身体の病を残すからである。
しかし正しい者の小道は、輝く光のように進み、完全な昼に至るまで増してゆく。
正しい者の小道は明けの明星の光のようであり、進み、完全な昼に至るまで明るくなる。
「明けの明星の光」。敬虔な人々の心に昇るそのポスフォロスは、キリスト・イエス、この世に来るすべての人を照らす真の光である。キリストは精神の闇を追い払い、信仰の灯、愛の炎、希望の光線、謙遜の星、柔和の輝き、敬虔の光彩、神への畏れの小さな火、祈りの光、不屈の忍耐の光芒、慈悲の星、正義の稲妻をともす。ついに肉の暗い夜が消え、新しいエルサレムの昼、すなわち光が全き姿で輝くまで。
しかし不敬虔な者の道は闇のようであり、彼らは何につまずくのか知らない。
不敬虔な者の道は暗く、彼らはどこで倒れるのか知らない。
「不敬虔な者の道は暗い」。敬虔な人々のうちで光が増すように、不敬虔な人々のうちでは闇と狂乱が増す。彼らの全生涯は、神と永続する善について、したがって人がキリスト・イエスにあって光となる、あの新しい命全体についての無知に満ちた夜だからである。それゆえ、これら不敬虔な者の闇、誤り、狂乱からは、不断の、しかも思いもよらぬ破局以外は生じず、最後の滅亡にまで至る。
尊ばれる老年は、長い命を得たことでも、年数で定められるものでもない。第9節。人間にとって白髪とは思慮であり、老年の年齢とは、いかなる汚れにも染まらない生き方である。箴言16章31節。白髪は栄光の冠であり、義の道で見いだされる。
老年は確かに尊敬に値するが、長さや、数え上げた年数によるのではない。白髪とは人間の分別である。第9節。老年の年齢とは、汚れのない生き方である。箴言16章31節。義の道に見いだされる老年は、尊厳の冠である。
尊ぶべき老年とはどのようなものか。
「老年は尊敬に値する、等」。老年の尊厳と権威は、命の長さや長い歳月によって評価されるべきではなく、むしろ知恵と思慮によって評価されるべきである。それらにその年齢の飾りがあるからである。また、重大な罪のしみで損なわれない生活、すなわち純粋で完全な、清く貞潔に送られた生活による。こうして真の老年を成り立たせ、老いた年々を飾るものは二つ、思慮と生活の完全さ、すなわち清さである。若い年齢それ自体は、私たちが愚かないくらかの老人と同じほどよく、時には少しよく識別することを妨げない。理解は年齢からではなく、才知と神的霊感から来るからである。年数や日数の多さが真の知を与えるのではなく、主の霊から天的に注がれた才知が、幼子にさえ知恵を与える。ヨブ記32章8節で、ブズ人バラキエルの子エリウが、いくつもの理由によってこれを証言している。
サムエルは幼いとき、主の霊を受けた。サムエル記第一第3章。ダビデの英雄的な知恵、勇気、成功は、知恵の霊が特別に臨在することの効果、聖霊の特別な働きであった。それらは自然の賜物だけではなく、その精神には神の子の光が、その意志と心には聖霊の燃える動きがあったのである。彼はまだ二十歳にもならぬとき、神の命令でサムエルから油を注がれ、聖霊に満たされた。サムエル記第一16章13節。その場にこの汚れた世の賢者たちがみなサムエルとともにいたなら、エッサイの息子たちの中で年長の者が統治により適していると、間違いなく判断したであろう。サムエル自身も、初めは外見に欺かれたように。しかし神は年齢、生まれ、その他の肉的な特権を顧みず、青年ダビデに王国を渡し、他の兄弟を後にして彼を高め、強め、守り、助けた。ダビデは兄弟たちの嫉妬を忍耐強く耐えた。彼は自分について、サムエル記第二23章2節でいう。「主の霊が私を通して語り、その言葉が私の舌を通して語った」。また詩篇119篇99、100節でいう。「私はすべての教師より理解した。あなたの証しが私の瞑想だからである。私は老人たちより理解した。あなたの戒めを求めたからである」。また130節。「あなたの言葉の開示は照らし、幼子に理解を与える」。
ソロモンは若いときに知恵を受けた。列王記第三3章12節。十二歳の少年ダニエルは、聖霊に満たされた。神はダニエル、アナニア、ミサエル、アザリアの四人の少年に、ダニエル書1章17節、あらゆる書物と知恵について知識と訓練を与え、ダニエルにはあらゆる幻視と夢の理解を与えた。王が彼らに尋ねた知恵と理解にかかわるどんな事柄についても、王国全体のすべての占い師と魔術師より十倍優れていると、王は認めた。シラはいう。「まだ若く、迷い出る前から、私は祈りの中で公然と知恵を求め、若いときからそれを探究した」。集会の書最終章18節。使徒パウロは、若者テモテが若さゆえに軽蔑されることを望まない。コリント人への第一の手紙16章11節。エレミヤは主から聴いた。「私は子どもだ、というな。私が遣わすどこへでもあなたは行き、私が命じるすべてを語るのだから」。エレミヤ書1章7節。また伝道の書4章13節には、「将来に備えることを知らない老いて愚かな王より、貧しくとも賢い少年が勝る」とある。これらは聖書の泉から汲んだ例である。もしほかの例にも話を広げるなら、善い神よ、どれほど広い語りの領野がここに開けるだろう。しかし、いくつかだけを示そう。
注 ダニエルの年齢、集会の書とコリント書の節参照は刊本どおりに保持。
名においても実においても大王であったアレクサンドロスには、まだ若いころから驚くべき自然の力があり、思案においてもっとも賢い老人にも勝った。その鋭い才知によって、現在の事柄をきわめてよく判断し、未来の成り行きを見通すことができたからである。ヴェネツィア人が東方の皇帝へ、まだ髭のない者たちを使節として遣わしたとき、暴君は侮辱のために遣わされたかのように怒った。するとその一人が臆せず答えた。「年齢だけによって人間とその学識を判断すべきではありません。もしそうなら、山羊のほうが人間より上になるでしょう」。徳が高める人を、若いというだけで退けてはならない。
私たちの時代にも、あの偉大な将軍たち、ナッサウのマウリティウス、トランシルヴァニアのジギスムンドゥス、オーストリアのドン・ヨハン等が、特別な流入によってそのために生まれ、若者でありながら老人たちに対して何を、どれほど成し遂げたかは、歴史をまったく知らない者以外には明らかであろう。世界の最高の君主、至善至高なる神は、世俗の王国を安定させ、あるいは移すと決めたとき、このような道具を起こし、権威、すなわち畏敬、正義、知恵、助言、成功の幸運を授ける。彼らの企てを妨げられる人間は、いかに強大でも一人もいない。彼ら英雄は、不敗で超自然的な力を身につけ、武装させられるからである。ただし彼らの事績と名は、朽ちうる天にのみ記される。そこから熟練した天文学者は、私はあの俗な計算をする香具師たちではなく、東方のマギの術に通じた者たちをいうのだが、すべての真実で卓越した事績を取り出し、歴史書がすべて失われても、はるかに確実に再び文字に記すことができる。無知な者には信じがたいだろう。これに対して、ヨセフ、サムエル、ダビデ、ソロモン、ダニエルのように、若い年齢と身体の中で徳を力強く働かせた教会の英雄たちの名と事績は、朽ちうる天ではなく永遠の天に記され、すべての選ばれた者に読まれるであろう。
注 Donb Iohanは印刷形を保持。
したがって善い素質に年数は要求されず、徳に輝き、手の働きにも優れる者に、年齢の到来を待つ必要はない。ウァレリウス・マクシムス第3巻第1章の次の言葉が、ここにぴったり当てはまる。「すでに徳において成熟した者を、誉れにはまだ時期尚早と見なすのは不当である」。私たちの時代にも例は決して欠けていない。神に賛美あれ、今日も、髭より先に才知と事物への素早い思慮が訪れた者が幾人かいる。ペルシウスが『諷刺詩』第4篇で歌ったように、身体は若者、精神は老人である。反対にドイツ人はいう。「年老いた愚者もいる」。とりわけ万事が愚者で満ちている以上、そうである。また「年齢は愚かさの薬にはならない」とも。そして「老人は二度子どもになる」。なぜか。諺のとおり、老いとともに妄想が増すからである。「白髪とは分別である、等」。これは黄金の言葉、心に留めるべき言葉であり、神的叡智において賢明で思慮ある若者を卑しく軽蔑する愚かな老人の長い髭に、投げつけるべき言葉である。英雄的な賜物を備えた者は、年齢に先立って成年の心と配慮をもつ。
「老年は尊厳の冠、等」。これは異教徒の間でもまったく真実である。オウィディウスが『祭暦』第6巻でいうように、「かつて白髪の頭には大きな敬意が払われ、/老人の皺には、それにふさわしい価値があった」。どのような老年にか。賢者は答える。義の道に見いだされる老年に、である。ダニエル書にあるあの二人は、不義の道に見いだされたので、老人であったにもかかわらず、当然のこととして石打ちにされた。老いが誠実さと変わらぬ生活の完全さを加えるのでなければ、人々が誠実さと知恵とともに老いるのでなければ、老年は何の益をもたらすか。確かに、真に賢い若者は珍しい鳥であることを認める。しかし、そのような者はかつて見いだされ、今日見いだされ、今後も見いだされるであろう。
諺にいう。若者は自分の道に従い、老いてもそこから離れない。同書27章22節。愚者を臼に入れ、挽き割り穀物のように、上から杵を打ち下ろして砕いても、その愚かさは取り去られない。なぜなら伝道の書1章15節にいうように、曲がった者は直しがたく、愚者の数は無限だからである。
子どもをその歩むべき道に従って教えよ。老いてもそこから離れない。同書27章22節。愚者を臼の中で、砕いた小麦に混ぜ、杵で砕いても、その愚かさは去らない。なぜなら伝道の書1章15節にいうように、曲がったものは真っすぐにできず、欠けたものは数えられないからである。
「若者はその道に従う」。悪事、狡知、欺き、邪悪、偽り、高慢、情欲、怒り、冒瀆、嫉妬、中傷、奸計の霊は、幼いころから子どもの才知を攻撃する。それゆえ、善い訓練によって、敬虔と主への畏れのうちに育てられなければ、それら悪霊は、分別のない心の中で支配権と住処を保つ。そればかりか、躓きと悪い手本を通じて子どもの心へ移り、入り込む。だから救い主は、マタイによる福音書18章6節で、幼い者に躓きを与える者へ厳しい災いを宣告する。祈りの力によって、取り憑かれた者から悪霊が確かに追い払われるように、とりわけ本人が心の奥底でともに祈り、嘆息するなら、闇の霊はそのような力と祈る霊に長く耐えられないのだから、敬虔と神への畏れの実践によって、子どもたちは悪霊の敵対的攻撃から実際に守られる。それゆえ偽りと汚れの霊は、上位の力、天的で敬虔な教育が来る前に、人間の最初の住処を占め、本性の悪と原初の汚れによって腐敗した意志、および不純な情念の中に根を下ろそうと、執拗に力を尽くす。次に、畑の種が日々育ち、花と実になるように、本性にある悪徳の種も、抑えられなければ日ごとに育ち、年齢とともに根づく。同じように、正しい教育によって敬虔と神への畏れの種が心に植えられれば、それらも育ち、敬虔の花と善行の実となる。
注 solis viribusは刊本の語形を保持。これは原著の霊と教育についての歴史的記述である。
嘲る者は、戒められても聴かない。
嘲笑する者は、叱責を聴かない。
「嘲る者、等」。鼻で笑う者、早熟な物知り顔、汚れた世の人であり、神への畏れと、神を愛する者たちの忠実な矯正を平然と軽蔑し、神的叡智の学校の法に逆らって、軽率にも彼らより世俗的に生きる者たちを上に置く。理由は、悪い人々が神の裁きを考えないことにある。しかしその裁きは、嘲る者たちに恐ろしく、十分に早く、十分に正しく行われるゆえに早く、現れ、現世においても正義を行い、良心の虫が彼らを激しく食い苛む。
それゆえ愚者には、その愚かさに応じて答えよ。自分を賢いと思わせないために。
愚者には、その愚かさに従って答えよ。自分の目に賢く見えることのないように。
「愚者に答えよ、等」。答えるべきもっともな理由があるなら、慎み深く反駁してよい。その反駁は、敬虔な読者と聴き手に有益で健全な事柄を含み、ある人々を強め、ある人々を癒すものでなければならない。しかし敵対者と罵り合ってはならず、そのような仕方で愚者の愚かさに答えて、彼と同類に見られてはならない。勝利は中傷のうちではなく、真理のうちにあるからである。
愚かさにふける愚者に出会うより、子を失った雌熊に出会うほうが、人にはましである。
自分の愚かさを頼みにする愚者より、子を奪われた雌熊に出会うほうが、確かにまだよい。
「よりよい、等」。彼らは真理より争いを欲し、自分の意見を頑固に守り、異論を唱える者を、このうえなく憎々しく非難する。それゆえ時に応じることを忘れるな。「怒りが走っている間は、走る怒りに道を譲れ。/あらゆる激情には近づきがたい入口がある」。
愚者の道は、その目には正しい。しかし助言に従う者は賢い。
愚者の道は、その目には正しい。しかし賢い者は、助言に耳を傾ける。
「愚者の道は正しい、等」。「誰もが自分の棍棒を気に入る。それゆえ世界は愚者で満ちている」。こういう人々の無理解に合わないものは、異端で不正でなければならない、というわけだ。まったくそのとおり、とでもいおうか。賢者は聖書、自然の書、正しい良心の証しなしに語ることを恥じる。誰もが自分の悪徳にへつらい、心の中で生んだ自説を、猿が自分の子を抱くように抱き締める。
人を正しく戒める者は、当然ながら、いつか後になって、舌の甘言で欺く者よりも、その人の好意を得るであろう。
後戻りする人を戒める者は、舌でへつらう者よりも、好意を得るであろう。
「舌の甘言によって、等」。アレクサンドロス大王は、追従者と忠実な臣下を区別していった。「ヘパイスティオンはフィラレクサンドロン、アレクサンドロスを愛する者であり、クラテロスはフィロバシレア、王を愛する者である」。そしてヘパイスティオンを愛したが、クラテロスをより尊び、高く評価した。前者は愛想のよさゆえに愛され、後者は徳ゆえに尊敬に値すると判断されたのである。
戒める者を項を硬くして軽蔑する人には、突然の滅びが襲い、癒しは訪れない。
戒められても項を硬くする人は、突然砕かれ、癒されることはない。
「戒める者を、等」。リウィウス『歴史』第三デカド(十巻群)第2巻。「私はしばしば聞いた」と彼はいう。「第一の人物は、自ら何が有益かを考える者、第二は、善く忠告する者に従う者である。自ら考えることも、他者に従うことも知らない者は、最低の才知をもつ」。私たちには心と才知の第一の位が与えられなかったのだから、第二の、中間の位を保とう。そして命令することを学ぶ間、思慮深く従うことを決心しよう。
注 Decad.3は第三デカド(十巻群)であり、巻番号の原記を保持。
正しさのうちを歩む者はエホヴァを畏れるが、自分の道を曲げる者は神を軽蔑する。
正しい道を歩み、神を畏れる者は、恥ずべき道を進む者から軽蔑される。
「正しい道を歩む、等」。つまり主を畏れる者は、自分の道と生活を正しく賢明に整えるが、神を軽蔑する者は、自分の道と命を損ない、極度の危険にさらす。父テラモンがアイアスに、勇敢に戦え、しかし勝利は神に求めよ、といったとき、アイアスは狂気と高慢に満ちた人のように、「神が助ければ臆病者でも勝てる。自分なら神なしでも勝てる」と答えた。しかしこうして道を曲げ、命を覆し、絶望して自ら進んで身を投げたのである。
注 末尾は原文proprio ... studio。剣を意味する語を原文へ補っていない。
正しい者たちは不敬虔な人を忌み嫌い、不敬虔な者たちは正しい道にある人々を忌み嫌う。
注 Abominatur iustiの数の不一致は刊本どおり。
不正な人は正しい者たちの憎むところであり、正しい道を行く人は不敬虔な者の憎むところである。
「不敬虔な人」。不敬虔なのは神の知から疎外され、神を軽蔑する者、あるいは偽善者、信仰において不安定な者である。イザヤ書57章20節。「不敬虔な者は、休むことのできない荒れた海のようである」。信仰、生活、習慣、心において神の言葉から離れている者が不敬虔なのである。真の信仰を授けられ、それによって照らされ、生活、精神、心においてキリストの像へと変えられた、正しく敬虔な人は、そのような人を忌み嫌う。神の像と悪魔の像が激しく争い、互いに対立するように、神とキリストの像を帯びる正しい人は、サタンの像のある不敬虔な者と対立し、逆もまたそうだからである。
正しい者の完全さは彼らを導き、背く者の歪みは彼らを滅ぼす。
正しい者たちの素直さは彼らを導き、邪悪な者たちの欺きは彼らを破滅させる。
「正しい者の素直さ、等」。この言葉の明瞭な説明は、詩篇第37篇である。その全体を読め。
エホヴァの道は、完全な者には力、不正を行う者には恐怖である。
主の道は、素直な者の力であり、悪を行う者たちには恐怖である。
「そうする者たちには恐怖、等」。ここに善い良心と悪い良心の違いがある。キケロ『ミロン弁護』。「良心の力は双方において大きく、何も犯さなかった者は恐れず、罪を犯した者は罰を常に目の前に思い浮かべようとする」。良心の力と、人間の内にある判断の力〔ギリシア語の判読は不確実〕、あるいは敬虔さは、心から消し去ることも、完全に消滅させることも決してできない。
注 第一のギリシア語は拡大画像でも判読に不確実さがありκριτικήを暫定転写。第二はὁσιῶδες。引用中cupiantは刊本の読みに従い、通常のキケロ本文へ改めない。
人を恐れる者はすぐに倒れるが、主に望みを置く者は支え上げられる。
人への恐れは罠を置く。しかしエホヴァを信頼する者は高く上げられる。
「人を恐れる者はすぐに、等」。詩篇第146篇の全体を読め。
火で練られた神のすべての言葉は、それに望みを置く者の盾だからである。
神のすべての言葉は火で清められたようであり、それに望みを置く者の盾である。
「神のすべての言葉、等」。ここに注意し、学び、心のもっとも奥へ収めよ。神の言葉はあなたの盾であり、信仰は神的な真理と約束に依拠する。また、神の言葉は火で練られ、清められているとはっきりいう。つまり鉱滓、欺き、偽りがなく、信じる者に確かに勝利をもたらすのである。例はヘブライ人への手紙第1章にある。それゆえ詩篇第19篇は、神の言葉への見事な賛辞を歌う。第9節。「主の正しい定めは真っすぐで、心を喜ばせる。主の戒めは明るく、目を照らす」。第10節。「主への畏れは聖く、世々限りなく続く。主の裁きは真実で、正しい」。第11節。「多くの金や宝石よりも望ましく、蜜や蜜の巣よりも甘い」。第12節。「あなたの僕もこれらを守る。それらを守ることには大きな報いがある」。
注 Hebr.1.は原記どおり。
その言葉に付け加えるな。神に叱責され、偽り者と見破られないために。
その言葉に何も付け加えるな。責められ、偽り者と分かることのないように。
「何も付け加えるな、等」。理由は、すべての人は偽り者であり、神だけが濁りのない真理の泉だからである。それゆえ神の法は汚れなく、魂を立ち返らせ、主の証しは確かで、幼子に知恵を与える。詩篇19篇8節。神の言葉は永遠で、永遠よりあり、真理そのものに由来する真実で、非の打ち所なく、信じる者の魂を回復する。それは神と救い主についての認知を含み、この認知が永遠の命だからである。ヨハネによる福音書17章3節。また正しく生きるための規則と規範であり、汚れなく、純粋で、完全で、成就し、不正も空しさも含まない。魂を誤りから立ち返らせ、悪から呼び戻し、神の像を回復する。それは確かで欺かない。神は約束を守るからである。粗野な者、学のない者、世間から愚者とされる者に、コリント人への第一の手紙第2章、知恵を与え、良心を静める。神への真の礼拝、秘跡を伴う誤りのない約束、信仰、希望、愛、謙遜、忍耐、祈願、神の御名の賛美を示す。
知ってほしい。ごく幼いころから、賢者たる王の書物の中で、先に掲げた序説の言葉を読むたびに、いつも次の思いが私の心に浮かんだ。疑いなく、私の内で語る神の声の促しによる。「ここで知恵の実りと宝について読んでいる事柄は、確かに偉大で、ほとんど信じがたい。しかし少しも偽りでも、作り話でも、捏造でもない。ああ、どうすればこれらを知るに至るのか」。神は知っている。私がどれほど真理に渇いていたか、言い表せない。そこで私は、真理を示してくださいと神に祈った。ルーアハ・ホクマエル、神的な知恵の霊は、第294節で述べた方法によって、この円形劇場全体で私が扱う事柄の真理すべてへと、私を導いた。このようなことを、神的叡智を愛する者、唯一真実な永遠の知恵の忠実で愛された相続人たちへ明らかにした神に、いと高き所に栄光あれ。
注 原記quâ dixitは三人称。294は画像確認済み。
賢者の教えから取った、次のわずかな言葉をもって結びとする。
わが子よ、これら以上を求めることには気をつけよ。多くの書物を作ることには終わりがなく、多くの学びは肉体の苦しみである。
注 結語の聖句は連続箴言番号を付されていない。
賢王はいう。わが子よ、これら以上を求めるな。多くの書物を作ることには終わりがなく、絶え間ない思索は肉体の苦しみである。
話のすべての結論は聞かれた。神を畏れ、その戒めを守れ。これが人間のすべてだからである。
それゆえ、語りの結論をみなともに聴こう。神を畏れ、その戒めを守れ。これが人間のすべてだからである。
神はすべての業を裁きにかけ、善であれ悪であれ、隠されたすべてのことを裁くからである。
行われるすべてのことを、神はあらゆる過ちについて、善であれ悪であれ、裁きにかけるであろう。
注 pro omni erratoの独特な表現は印刷どおり。
それゆえ、死すべき人よ。
宴の家へ行くより、喪の家へ行くほうがよい。そこでは、すべての人の終わりを思い出させられるからである。生きている人は、何が来るのかを考えよ。
宴の家へ行くより、喪の家へ行くほうがよい。それがすべての人の終わりであり、生きている者はそれを心に置くからである。
ああ。
それゆえ、伝道者は正しくいった。「空の空。空の空、すべては空である」。
伝道者は真実をいった。「空の空。空、空の空、すべては空である」。
注 vanitasが重複する原文を省略せず保持。
教えの忠実な子らのすべてと、万人と各人とともに、私、ライプツィヒのハインリヒ・クンラート、神的叡智を忠実に愛する者、両医学の博士も、いう。すなわち、その「すべて」とは、唯一真実なる永遠の知恵、その正統な教え、そしてこの神的叡智と哲学の学びを離れて、世界のどこであれ、存在し、見いだされ、現存し、読まれ、あるいは行われる、あらゆるものである。
以上、述べた。
付言する。
さて、以上を序として述べたのち、仕上げとして、死すべき人々よ、あなたがたに願う。エホヴァを礼拝し、知恵にいくらかでも心を寄せるあなたがたに、私は願う。聖なる聖書、大宇宙たる自然の書、そして神が私たちの心に記した法に基づく、唯一真実なる永遠の知恵の、健全で救いをもたらす教えを、これほど繰り返し諭されたのだから、軽んじないでほしい。その教えは、神的叡智を愛する、忠実で愛された子である私が、この言葉に嫉妬がないように、神の促しと恵みにより、この円形劇場で提示したものである。私は本書の仕事において、これまで神に対し、人間に対する手のようなものであり、エホヴァに賛美あれ、今もそうである。私は真理の単純な普遍性と、真理の普遍的な単純性において、キリスト教カバラ、神的魔術、そして自然錬金術の仕方で、文章と図によってそれを示した。それらは詭弁による作り物でも、恥知らずな捏造でもなく、聖なる聖書、自然の書全体、神から人間に注がれた良心が、聖く、厳粛に、反駁しえない仕方で裏づけるものである。このような三一の方法によって、私以前には誰もしていなかったように、正統に、鮮明に示したのである。空しい自慢なしに真実を認めることが、なぜ私に許されないだろうか。さあ今、神的叡智に従い、その七段の階段を通って、知恵自身の円形劇場そのものと、その門へ登り、そこへ入れ。そこに掲げられた七つの法をもっとも忠実に守り、偽善のない献身をもって入れ。悔い改めによって、また無知と、誘惑の霊が生む幻想の汚れから正しく清めた、精神、理性、身体の眼で、知恵を注意深く観想せよ。そして現世と永遠における自らの救いのために、賢明にそれに従え。アーメン。
キケロ『ミロン弁護』、また『サルスティウスに反対する第三演説』。良心の力は大きい。クインティリアヌス第5巻。良心は千人の証人である。
注 書誌参照は原記どおりで、著者帰属の校訂は行わない。
以上、述べた。
正しい道をよく学んだ者は、入り組んだ旅路のかなりの部分を、すでに歩み終えたのである。
モモスとゾイロスへの言葉
第七段の解説。モモスとゾイロスに。こざかしい物知り先生に。
あげつらうのは誰にでも容易だが、まねるのは難しい。
自分では倣えないものでも、誰だって非難することはできる。
もっと上手にできるのなら、さあ、もっと上手にやって、見せてくれ。それを正しく、よく、しかもいっそう上手に成し遂げてから、初めて私の仕事を非難するがよい。そのときには、私が君に感謝することさえ分かるだろう。
ある書物のごく一部分から全体を判断するのは、無作法である。まずその書物をすべて十分に調べ、しかるべく理解していなければならない。
ライプツィヒのハインリヒ・クンラート。神的叡智の忠実な愛好者、両医学博士。
図版への導入
『円形劇場』第一図への導入
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍のヤハウェ。
かつてあり、いまあり、これからある方。
天は満ち、全地はその栄光の威厳に満ちている。
ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ。
一 身を洗い、清くあれ。
二 ヤハウェのみを万物の造り主とし、その他の諸力は仕えるものと心得よ。
三 誓願と祈りは第一者に、讃歌はそれより下位の者たちに向けよ。
四 もし下位の者たちに願いを向けることがあっても、その意図は、第一者から委任された奉仕の範囲を越えるものであってはならない。
イサゴーゲー、すなわち『円形劇場』第二図への短い導入。
ゆえに私たちは、まず敬虔に身を洗い、悔悛によって清められたうえで、神化する光に自分をささげ、純粋な信仰をもって、へりくだって身を委ねるのがふさわしい。そして、永遠の叡智が上から露のように降らせるあのマンナ、天より高いところから来る甘露、水と火との雨が、地上に滴る雫のように、私たちの心、魂、力、精神へ、すなわち身体・霊・魂へ、あるいは再生した小宇宙の三つ組へと下るのを、忍耐して待つべきである。騒ぎ立てる感覚を閉ざし、静かな精神とあらゆる清い情念をもって、堅く留まり、直接にも間接にも、眠っているときも目覚めているときも待つのである。こうして神によって燃え立たされ、照らされ、光を与えられ、聖化され、ヤハウェを享受し、神的なものを身に受け、さらには言い表せない仕方で神へと引き上げられ、いわば神化されるのである。
その間も、あの測り知れない憐れみの海、あらゆる善の無限の大洋を讃え、礼拝する。とりわけ独語の祈りにおいて、日々、そして多くの場合は朝ごとにそうする。その海から私たちへと光線が引かれ、流れが滴り、きわめて神的な小川が湧き出す。それは、十字架につけられたイエシュア・キリストという驚異の言葉と、神性を指し示すと同時に現前させるヤハウェのあらゆる聖なる名と言葉から来るものだけではない。これらは私たちにとって、神性の感覚に触れる住まいであり、私たちを教える記憶のしるしである。また私たちの内の魂と精神の願望を刺激し、助け、高め、私たち自身の内外における驚嘆すべき働きを力強く推し進める。そればかりか、あらゆる驚異からもその流れは来る。ヤハウェのみが驚異をなすからである。
ああ、これらへの驚嘆、瞑想、愛、感得へと引き上げられる人は幸いであり、三度も四度も幸いである。こうして私たちは最高の神性が真に現前するのを感じるであろう。驚異なるヤハウェが、私たちの内に、自然の内に、聖書の内に、驚くべき仕方で語るのを、偽りなく聞き、十分に見、実り豊かに観察するであろう。また善き天使たちが、親しく私たちに付き添い、忠実に戒め、ヤハウェの恵み深い命令によって親密に教え、私たちの道を安全に導くことを、欺きなしに経験するであろう。そこで地にひれ伏し、この讃歌、またこれに似たほかの讃歌を、聖なる事柄へ心を奮い立たせるのにふさわしいイオニア式の調べと抑揚で唱えるべきである。
注 PDF265の印刷頁番号は138。前後から期待される188と異なるが、原本の印刷をそのまま記録した。
すべてのものの生み主、造り主、
天上の者たちの王、守護霊の光、人間の希望、
暗いプレゲトーンの亡霊たちを震わせる方、
天上の住民が言い尽くせぬ愛を寄せる方、
タルタロスの者たちの抗しがたい恐怖、
地上に生まれた者たちが広く崇敬する方、
主よ、私たちの主、私たちの神よ、
王、万物の支配者、〔第三のギリシア語称号は語形・訳未確定〕、
唯一の神、同一なる神、恵み深い神よ、
上から来たり、私たちの内へ降りてください。
あなた、あなた、あなたよ、
ここに座してください。
動かないものを動かしてください。
何が偽りかを戒めてください。
何が真実かを教えてください。
注 PDF265の印刷頁番号は138。前後から期待される188と異なるが、原本の印刷をそのまま記録した。
注 讃歌の第三のギリシア語称号は原版2550×3750画素の拡大でも語形を確定できない。可視の Προμηθε… を暫定転写し、意味を補っていない。対応箇所は底本PDF265頁の讃歌の第三のギリシア語称号。
入門の規則
五 私たちからヤハウェへ、またそこから私たちへ飛び交う天使たちは、畏敬とおそれをもって迎えられるべきである。
六 彼らに対しては、よく知られた試験に従って、喜ばしい服従を示すべきである。
七 あなたがたがこうしてその秘義を扱おうと近づく聖なる事柄は、ふさわしい者には明らかにし、俗なる者には隠しておけ。
さらに、至聖なる聖書から、被造物から、またヤハウェ自身から、ヤハウェを知れ。すなわち、あなたの精神のうちに直接昇るその方自身の光によって、神智学的に、自然的に、カバラ的に知れ。
汝自身を知れ。至聖なる聖書という書から、全宇宙の自然という書から知れ。後者は大宇宙全体であり、また小宇宙、すなわち身体と霊におけるあなた自身でもある。最後には、神と結びついたあなたの精神という書から知れ。神智学的に、自然学的に、自然医学的に、自然錬金術的に、自然魔術的に、超自然魔術的に、カバラ的に知れ。
イサゴーゲー、すなわち『円形劇場』第三図への短い導入。
自然を、普遍的にも個別的にも知れ。至聖なる聖書という書から、自然自身という書から知れ。この自然の書とは、大宇宙の全体であり、小宇宙、すなわち身体と霊における人間でもある。最後に、善き天使たちから間接に、あるいは清められたあなたの精神の鏡のなかで神自身から直接に知れ。神智学的に、自然学的に、自然医学的に、自然錬金術的に、自然魔術的に、超自然魔術的に、カバラ的に知れ。
一 賢者の石は存在する。その石を、以下のものが証しする。
注 PDF268・269の印刷頁番号はそれぞれ192・193。PDF270も193と印刷されるため、重複を訂正せず記録した。
経験、あらゆる事柄について、それだけでも十分な教師である経験が、誤ることなく証言する。これに反論するのは、愚かという以上ではないか。その石が力強い効能を示すのを、ただし他人の調製したものであったが、ローマ教皇も皇帝陛下も見た。世界の少なからぬ王たち、ローマ帝国の幾人かの選帝侯も見た。諸侯、伯爵、男爵、貴族、また徳と学識のゆえに貴族に次ぐ博士たちも見た。それどころか、ユダヤ人、異教徒、キリスト教徒、さらにトルコ人をも含む、あらゆる民、身分、階級に属する多数の人々が、各地で、聖職者も世俗人も、学ある者も学なき者も、技術によって現れた自然の驚異に仰天しながら、自分の目で見、自分の手で触れた。私は知ったうえで語っている。私はこれらすべてを証人として挙げる。自然錬金術を鞭打つ者よ、彼らに尋ねるがよい。真理を愛する彼らは、真理を助けるため、事実がこのとおりであると喜んで証言するであろう。
注 PDF268・269の印刷頁番号はそれぞれ192・193。PDF270も193と印刷されるため、重複を訂正せず記録した。
二 真実で確かな理性、賢者たちの忠実な導き手が、重々しくこれを確証する。ここでは紙幅の狭さがその理由を添えるのを妨げるが、別の、より広い場所には、きわめて容易に示せるその論証を収めた。
注 PDF268・269の印刷頁番号はそれぞれ192・193。PDF270も193と印刷されるため、重複を訂正せず記録した。
三 これほど多く、これほど偉大な賢者たち、きわめて重い権威をもつ著者たちが、この事柄についての記録を各所に残し、調和した一つの声で、時には至聖なる誓いまで立てて、軽々しくではなく断言してきた。彼らはみな学識と善良さを備えた人であるから、反対のことが十分証明されるまでは、真実を語る人であり、そう見なされる。だが、その反証はいったいいつなされるのか。どの職人も自分の術については信頼されるべきだというなら、この事柄について、無知な者よりも彼らを信頼すべきではないか。どの術の職人も、自分の仕事の道理を論じ、語り、判断することに最もよく通じ、最も真実に即しているのだから。
注 PDF268・269の印刷頁番号はそれぞれ192・193。PDF270も193と印刷されるため、重複を訂正せず記録した。
四 自然は、この世界の機構のなかで、決して怠ることのない神の侍女であり、その働きの多くの道と仕方によって、昼も夜も忠実に私たちを説き、その石について確信させる。神智学者たちはこれを伝え、経験ある者たちは確証した。母なる自然は、自分の普遍的な息子について、普遍的に証しする。
注 PDF268・269の印刷頁番号はそれぞれ192・193。PDF270も193と印刷されるため、重複を訂正せず記録した。
五 精神は、人間の魂の、より高くより明るい火花であり、神的で不死である。神は精神に、その本性に植え込まれた願いから、持てるかぎりの力をもって最高・最善のものへ向かう性質を与えたので、精神は絶えずその石を求める。この善への欲求は神に由来する。その刺激、経験した者にしか分からない魂の落ち着かなさ、賢者の石を得ようとする燃える願望を、もし石が自然界に存在しないのなら、神自身が、人より賢明で、知恵深く、敬虔である者、またそうであった者のうちにさえ、無駄に植え込んだことになろう。ここで悪徳に染まった者のことは言っていない。だが、何一つ無駄にはなされない。
注 PDF268・269の印刷頁番号はそれぞれ192・193。PDF270も193と印刷されるため、重複を訂正せず記録した。
六 この石が自然のうちで示す、至聖なる神の三一性、創造された宇宙全体、さらに受肉した神のロゴス、すなわち約束され、遣わされたメシアとの、またキリスト教のかくも高く深い秘跡と奥義との、まことに驚嘆すべき予型的な一致は、健全な精神をもつすべての者に、石が真実に存在すると信じ、告白することを正当に迫る。もし私が真実によらず語っているなら、恥を受けよう。知る者だけが判断するがよい。まことに、まことに、私はあなたがたに言う。一方があるなら、他方もある。
注 PDF268・269の印刷頁番号はそれぞれ192・193。PDF270も193と印刷されるため、重複を訂正せず記録した。
七 最後に、創造主は被造物を通しても知られようと望む。聖パウロが『ローマ人への手紙』第一章で証しするとおりである。それゆえ神は、世界の初め以来、自らの器である或る人々に、恵み深く賜ることができ、またそう望んだ。その意志は経験が証しする。神はすべてを一人には与えない。神の憐れみは永遠であるから、今もなお、次のことを望んでいる。すなわち、創造主の驚くべき叡智、無限の力、測り知れぬ善意などがいかなるものか、つまり神自身がいかなる方かを、被造物の驚くべき予型によって、人類の目前に知らせることである。それは大宇宙そのものと、各所にあるその部分とから、ただ個別の認識によって知られるだけではない。大宇宙の息子から、技術、すなわち自然錬金術の解釈を通じ、普遍的な基体のうちに普遍的に、より豊かに、より明瞭に知られるのである。それによって人類は、これほどの善と賜物の与え主である三一なるヤハウェを、より明らかに認識し、その方だけに驚嘆し、崇敬し、感謝する心で讃え、いっそう深く黙想し、分かちがたく結ばれ、再び一つになることを学ぶ。
ゆえに、最高に賢いヤハウェには、ご自身を示すのに最も適すると判断したこの道を選び、見いだすことがふさわしかったように、私たちには、その方の選んだ道を是認し、受け入れ、従うことがふさわしい。神がこのように定め、私たちに示した自然の書と鏡のうちで、自然の息子から、この自然錬金術的な仕方で、神自身を救いにかなうよう認識するのである。賢者の石に、私たちは確かに普遍的でこの上なく輝かしい鏡をもつ。それは至聖なる聖書の解釈によって、神の御子のうちに神を認識するのと同様である。また、この世界が世の終わりに火によって更新されるように、初めにはどのように、誰によって造られたかを、火によって有益に見て理解し、最後には私たち自身をも実り豊かに知るのである。
注 PDF268・269の印刷頁番号はそれぞれ192・193。PDF270も193と印刷されるため、重複を訂正せず記録した。
二 賢者の石とは何か。
賢者の石とは、「神の霊」ルーアハ・エロヒム、すなわち水の上に覆いかぶさっていたもの〔創世記一章〕である。それは、ヤハウェのみが純粋な善意からそう望んだことにより、天を仲立ちとして、大宇宙の処女の胎、すなわち原型となる、創造された混沌、空虚でむなしい地と水との内に宿り、真の、感覚に捉えられる身体となった。それは大宇宙の息子として光のもとに生まれ出た。愚かな者の目には、卑しく、形が悪く、いわば最下位に見える。しかし親と同じ実体をもち、親に似る、小さな世界である。人間や、人間の内外から採った何物かを想像してはならない。それは普遍的で、三一で、両性具有であり、目に見え、触覚・聴覚・嗅覚・味覚に感じられ、場所を占め、有限である。それは、自然錬金術の産婆の手を借り、自分自身によって再生し、一度引き受けた自らの身体が栄光化されるなかで、顕現する。その便益ないし用途はほぼ無限であり、普遍的な三一性において、小宇宙にも大宇宙にも驚くべき救済をもたらす。
退け、滅びの子よ、おまえ自身、水銀よ。おまえから調製されたものは、どれほど巧みに見せかけを施しても、すべておまえとともに退け。おまえは罪人の予型であって、救い主の予型ではない。救われることはでき、またそうされるべきだが、救うことはできない。おまえは誤謬、破滅、死へ導く仲介者の像であり、真理、増大、生命へ導くあの善き仲介者の像ではない。
自然の普遍的な息子、知っておけ、それはサトゥルヌスの塩である。この塩は、自然に属するもののうちで、自然的かつ普遍的に、かつて支配し、今支配し、これからも支配する。その特有の融けうる仕方で、いつでもどこでも、自然のなかに自らによって存続し、起源においても力においても普遍的である。聞いて注意せよ。「最古の塩は石である」。秘義なのだ。その核心については、十という数のうちに、ハルポクラテスにならって沈黙を守れ。受け取れる者は受け取るがよい。私は語った。塩は、重大な理由なしにではなく、賢者たちによって「叡智の」という添え名で飾られた。彼らは、塩と太陽ほど世界に有益なものはないと言った。ここを研究せよ。
注 化学物質名は原著の象徴的語彙を保持した。「サトゥルヌスの塩」を近代的な特定化合物へ同定していない。
注 ギリシア語 πρωτοτύπου は旧活字の合字を原版拡大で確認して転写した。
三 なぜ石と呼ばれ、なぜ賢者たちのものと言われるのか。
なぜ正しく「石」と呼ばれるのか、また、目は見えても盲目で、耳は聞こえても耳の聞こえない俗衆の間で、どんな名で呼ばれるのか、それを誰にでも明かすことを、神自身が厳しく禁じた。叡智の司祭たちの著作に伝えられた、確かな理由があるからである。それゆえ哲学者たちはみな、これを公にするくらいなら、むしろ死ぬことを望んだ。それは、その溶解とともに、神の正しい裁きにより、術の最も秘密なる秘密であり、つねにそうであった。そしてヤハウェ自身が強く熱心な守護者であるから、これからもそうであろう。ふさわしくない者に対して当然これを惜しむ賢者たちが、破門の雷撃をもって正当に封じた秘密なのである。
それでも、哲学者自身が哲学的に述べる言葉を引こう。彼らは言う。その生成と再生も石のそれと同じだからである。すなわち粘りと膠着性のある湿ったものと、土性の乾いたものとから生じる。また、その煮熟は濃くなることで進み、それによって永続的に固定した石に硬化し、石のように砕くことができるからである。アルフィディウスは、「もしこの石に固有の名があるなら、その名は石であろう」と言う。ほかの者は「石でない石」と言う。これらは哲学者の哲学的な言葉である。もっと明瞭な答えは、精神の奥深くにしまわれたままであるべきだ。私たちに向けて神の怒りを呼び起こさないためである。
この隠れた石は賢者たちのものであり、愚者や無学者のものではなく、不敬虔な者や良心に背いて悪徳に染まった者のものではない。では、哲学者、すなわち真の叡智を愛する者とは誰か。この『円形劇場』の第二部によって、あなたは十分に教えられる。兄弟として、考えるべき二つの公理を残しておく。「それぞれの意図の終点から、その起点が明らかになる」。また、「あるものの原因が隠れているときは、そのしるしと結果から、その原因の探究へ進む」。これで満足せよ。
四 水の上に覆いかぶさっていた「神の霊」、ルーアハ・エロヒムとは何か。創世記。
ルーアハ・エロヒム、「神の霊」は、聖なるヤハウェの聖なる霊、息、呼吸である。それは、全能であり、すべてを保持する神の力の蒸気である。また第一の、最高の動者の、生命を生む豊かさが、その神性の最奥から放つ、生命を与え、力を発揮する、ある流出ないし放出である。すなわち、のちに存在する世界で生み出され、成り立つべき万物の、イデア、範型、形相、種子的・根源的・根本的な理法、制作する意志、作用する原因の流出である。これらは原型なる最高の造り主の精神のうちに、ホクマー、すなわち叡智のうちに、その善が原因となって構想され、あらかじめ存在していた。
創造者であり建立者であるエロヒムが、その言葉によって語り、命じたとき〔創世記〕、これらは、この世界という劇場において、神が存在を望んだすべてのものを生み出し、存在させた。月下の球界では、天の介在によって、地と水、すなわち共通で普遍的な質料、第一質料を身にまとったのである。
さらに言おう。ルーアハ・エロヒムは、万物の内的で実体的・本質的な形相、世界の普遍的な魂である。自ら存立する実体的な力であり、この世界のすべての被造物が存立する原因である。創造されていないので、真の第五精髄である。また、最も日常的な言葉で言えば、ものそのものの自然であり、ものに実体を与える自然である。世界全体とその諸部分に内在する神の神性、神的な理法であり、それらの生みの親、造り主である。この神の霊は、本質においても数においても一つである。この一つの、目に見える物体的宇宙の普遍的な魂は一つである。しかしそれは多様、多形である〔知恵の書七章二二節、エフェソ人への手紙三章一〇節〕。その多様な光線と火花は、第一質料の全体の巨大な塊のあちこちに散り、分かれる。そして、のちに場所と身体の大きさと境界とにおいて分け隔てられた世界の各部分にも、一つの普遍的な魂の無数の火花が、それぞれ別々に、今なお宿っている。
五 天とは何か。
天とは、物体的なアイテールの霊、あるいは霊的なアイテールの身体である。それは腐敗を受けず、世界の機構全体を貫く。上方では主の言葉によって堅くされているため、「蒼穹」と呼ばれる。下方では月下の物質の塊全体に組み込まれている。下にあるものも上にあるものも、一つの同じ本質と実体をもつ、一つの天である。ただし下方の天は、洞察力ある自然錬金術の働きによって、人間の用のため、感覚に現され、取り扱うことができる。
六 ルーアハ・エロヒム、「神の霊」は、いかにして天を仲立ちとして、大宇宙の、処女の胎、すなわち原型となる、創造された混沌、空虚でむなしい地と水との内に宿り、真の、感覚に捉えられる身体となったのか。
注 ギリシア語 πρωτοτύπου は旧活字の合字を原版拡大で確認して転写した。
両極端のものは、しかも適切な仲立ちなしには、結び合わされ、結合し、一つになれない。これは真に哲学する者たちの一致した言葉であり、共通の判断である。ルーアハ・エロヒムは、本質において神的な霊であり、創造されず、最も単純で、物体的な大きさを一切もたず、自発的に、それ自身で動く。多様、すなわち多形で、形相に満ち、それどころか万物の形相そのものである。一方、暗い深淵は三一であり、すなわち天、むなしく空虚な地、水である。それは神自身が無から、つまり実体的な、あるいは自存する物質的原理なしに、最初に創造した存在である。創造することは神だけに固有である。この存在は物体的で、混然と混じり、みずからは運動を起こせない質料である。何かが両極端と呼べるなら、実にこの二つがそうである。
そこで、霊的な身体であり、物体的な霊でもあるため、その仕方において両極の双方にあずかる天が、仲立ちとして介在する。これはヤハウェだけの恵み深い意志による。ルーアハ・エロヒムは、周囲のあらゆる領域と最も隠れた部分に降り、自分を低くし、みずからの生殖力の火花と光線を最も深いところ、中心部に散らして、創造された存在の全体に、その中心にまで浸透した。そして、あの巨大で粗く、混乱し、形のない塊、すなわち混沌、来るべき世界の苗床、泥の質料、処女なる質料を、自分自身である形相によって形成し、最も純粋な魂によって生かし、孕ませた。この質料は、それまでまだ宿したことも、生み出したこともなかった。それは、トーフー・ワ・ボーフー、空虚でむなしかったものを、貫き、満たし、熱を注ぎ、生命を与え、豊かにした。暗かったものを照らし、混乱したものを区別し、粗く磨かれていなかったものを飾り、整理も構成もされていなかったものを整えた。そしてその胎、すなわち中心、最奥の内に宿った。天なるアイテールの霊が、先に言ったとおり仲立ちとなり、それは身体となり、物体的なものとなって凝結した。その全体を、今もなお動かし、支え、保っているのである。
いま、この予型的な秘義を観察し、驚嘆せよ。大宇宙と小宇宙、すなわち人類、それぞれの保持者・救済者が宿るという秘義である。小宇宙の救済者について、私たちは「言は肉となった」と書かれているのを読む。大宇宙の救済者については、カバラによって「ルーアハ・エロヒムは身体となった」と知る。また前者については「神が肉において現れた」、後者については「神の霊が身体において現れた」と言う。後者は大宇宙の息子であり、神であるとともに被造物である、普遍的なもの。前者は神の御子、神人、すなわち神であるとともに人間である。一方は大宇宙の胎に、もう一方は小宇宙の胎に宿り、どちらも処女の胎に宿った。エン・ソフ、エン・ソフ。深みの深み、高みの高みよ。
私は冒瀆することなく言う。自然の書において、鏡におけるように、賢者の石、大宇宙の保持者は、十字架につけられたイエシュア・キリスト、全人類すなわち小宇宙の救い主の予型である。石からキリストを自然的に知れ。キリストから石を神智学的に学べ。ここで私は至聖なる聖書の書から何一つ奪わない。驚異なる神は、驚異的な教え方・学び方をよしとした。同じ方法が私にもあなたにも喜ばしいものであれ。どうかキリスト教の兄弟たちに判断していただきたい。私もキリスト教徒であり、神の恵みによって、そうあり続けたいと願っている。
七 大宇宙の息子は、どのように、どこで光のもとに生まれたのか。それは愚者の目には卑しく、形が悪く、いわば最下位にあるが、親と同じ実体をもち、親に似る、小さな世界である。人間ではない。普遍的で、三一で、両性具有であり、目に見え、触覚・聴覚・嗅覚・味覚に感じられ、場所を占め、有限である。
どこでか。普遍的な聖なる地、今も幸いに住んでいるその地、サトゥルヌスの王国においてである。「大宇宙の息子」とは、親の種と血とから形づくられ、その胎から自然に光のもとへ出されたということである。「愚者の目には卑しく、形が悪く、いわば最下位にある」。それは世の嘲笑の的である。しかし賢者の目には最も貴重である。イエシュア・キリストは、自然のなかにこれ以外の予型を求めなかった。「親と同じ実体をもち、親に似る」。親の種と実体とから生じたからである。「普遍的」とは、身体・霊・魂において、また力と働きにおいて普遍的だということである。
その身体は普遍的である。世界の種から、普遍的な第一質料の本質と実体とから成り、始原的で普遍的な質料、すなわち初めに創造された地と水との一片だからである。それは今なお普遍的な状態にある。神の意志によって、月下の球界のほかのすべての身体が、世界霊の個別的な光線と火花、つまり個別的な性質や本性をもつものによって、種に定められ、いわば個別化され、特殊・個別の状態にあるのとは違う。その霊も普遍的なあり方をもち、魂もまた普遍的である。その魂は、普遍的な世界霊の普遍的な火花、すなわち本性、性質、働きにおいて普遍的な火花だからである。ここでは普遍性だけが通用し、個別性は語法の誤りである。自然錬金術師の万能のものは、普遍的なものからしか生じない。似たものはすべて似たものから生み出される。種がそうであれば芽もそうである。
したがって、どんな種類、名前、効能であれ、すべての特殊的・個別的な質料は、立ち去り、ここから遠く、カスピ山脈の向こうにまで去るがよい。求められるのは普遍的なもので、個別的なものは退けられる。三一なる普遍的なもののうちにあるものを、多数の個別的なもののうちに求めるのは、無駄で誤っている。「ものの数だけ石がある」という言葉は真実である。ただし「個別的な」という語を補って理解すべきである。大宇宙の普遍的な息子からのみ、唯一の普遍的な石が生じる。また「すべてのものから石が生じる」ともいうが、個別的なものからは個別的な石が、普遍的なものからは普遍的な石が生じる。「すべてのものの内に」とは、それぞれの仕方で個別的にということであり、私たちの一つの普遍的な混沌の内には、普遍的に存在する。
さらに付け加える。その石は、最初の創造において、この目に見える物体的宇宙全体とその諸部分を構成した、まったく単純に普遍的であるものから成る。そのただ一つの理由によって、その石は、ただし自らの受難ののちに再生したとき、自分自身によって、自分自身から、最初に創造された存在の特殊的・個別的な実りに、いわば同族に対するように、その驚くべき力を、普遍的に、しかもすべて同時に働かせる能力をもち、それ一つで十分なのである。真の賢者たちは正しく考える。かくも驚異的に有効なこの力は、普遍的な世界霊の普遍的な火花に固有のものであり、普遍的な身体のうちにしか存しないと。それゆえ私たちの石は、「普遍的」という名を当然に受ける資格を得ている。また正当に「万物」と呼ばれることができ、呼ばれるべきなのである。
「三である」とは、合成体すなわち全体としては一つであり、またそのほかに、あるいはそれを措いて、驚くべき効力においてそれに似る別のものはないということである。「三一である」とは、本質と存立においてそうだということである。すなわち地と水という一つの身体から、結び合わせる仲立ちである、天というアイテールの霊から、そして魂から成り、普遍的な世界霊の火花によって生かされている。この三つは、区別され異なる三つの位格、あるいは存立である。それゆえ私たちの石は三であり一である、すなわち三一である。地上的、天上的、そして神的なのである。
またそれは植物的、動物的、鉱物的であり、そう呼ばれる。少し前にも示したとおり、実体と存在において、植物・動物・鉱物、すなわち地上・水中・地下のすべてのものが由来したのと同じものだからである。またそのため、それらに驚くべき働きを及ぼすことができるからである。また、それらが石の構成物と同じものによって養われ、保たれ、逆に石もまた、その仕方で、それらの構成物によって養われ、保たれるからである。最後に、塩・メルクリウス・硫黄という、異なり区別された三つの実体から、三一なる石として合成されるので、三一である。
要するに、このかくも驚くべき石の、確実で固有の質料は、一つであり三である。すべての哲学者はそれから確かな大いなる業を真に調製する。それは、自分自身の、異質でも特殊でも種に限定されたものでもない、普遍的な三性のうちに統一されている。個別的な三性ではない。また、それは三つに分かれた普遍的な一性のうちにある。
さらに古人は正しく判断し、推論した。世界は一つだから神は一つであり、逆に神は一つだから世界は一つであると。至聖なる聖書も別の世界には言及しない。もし複数あるなら、確かに言及したであろう。そこから私は不合理でなく推論する。世界が一つなら、普遍的な賢者の石も一つであり、一つの世界の一つの宇宙と、その一人の創造者・建立者を普遍的に表す、と。なぜ世界は一つだけで、普遍的な賢者の石も一つだけなのかと問うなら、私は答える。神がそれ以上を望まなかったからである。理由は、「神は望むことをすべて行った」からである〔詩篇一一五篇三節〕。なぜ望まなかったのかは、その方に尋ねるがよい。その方だけが知る。
「両性具有」については、目の前の図を鋭く観察せよ。十分な答えを読み、見るであろう。これに続くほかの点は、それ自体で十分に明白である。定義の残りの箇所では、言葉は理解力があることを前提としている。
八 なぜ自ら再生することによって顕現するのか。また自然錬金術の産婆の手によって、一度引き受けた自己の身体が栄光化されるなかで、どのように顕現するのか。
最初の問いには、先に述べたことから、十分な答えを得られる。残るのは、「自然錬金術の産婆の手によって、栄光化された身体の内に、どのように」という問いである。知っておけ。三一なる操作過程においてである。
一 普遍的な自然錬金術の業の第一の操作過程では、さまざまな作業と器具、手と火との多様な技によって、アドロプ、すなわちその言語でサトゥルヌスを意味するもの、言い換えれば賢者たちの鉛から、凝結の束縛を巧みに緩めると、サトゥルヌスの心臓、私たちの緑のドゥエネク、ウェヌスの硫礬が得られる。これが祝福された石にふさわしい質料である。隠れ潜む緑の獅子は、その本性に適した誘惑と愛撫によって、自分のサトゥルヌスの山の洞窟から誘い出され、姿を現す。鋭い槍で貫かれた獅子の傷から濃く豊かに流れ出る血を、残らず注意深く集める。ヒュレー〔質料〕とリリ、泥、濡れて湿り、水気を含んだ泥状のアダムの地が、目に見えるようにされる。それは大宇宙、私たち自身、そして私たちの力ある石の、最初の創造の質料である。賢者たちが「地の血」と呼んだ葡萄酒が、哲学者の普遍的な葡萄から得られる。これはライムンドゥスの赤い葡萄酒であり、その赤さ、すなわち力の色のために、濃厚で密で暗く、「黒より黒い黒」と呼ばれる。
魂が身体に結びつき、一つの塊に合わされているその絆が、緩められ、解かれる。霊と魂、すなわち魂を与えられた霊は、身体から次第に離れ、徐々に分けられる。その間に、固定したものは揮発性となり、不純な身体は日ごとに腐敗し、破壊され、死に、黒くなり、灰となる。子よ、この灰を軽蔑するな。それはあなたの身体の王冠なのだから。その下には私たちの小人が隠れ、巨人たちを打ち負かし、縛りつける。
注 ギリシア語 ΥΛΗ(質料)は原版画像で確認。LILI は原著の呼称を音写した。
二 第二の操作過程は、女たちの仕事、子どもの遊びである。一つの水晶のような丸い容器を用い、その大きさを質料の量に正しく釣り合わせ、自然魔術の技でヘルメス式に、さらに神智学者によってカバラ的にも封じる。一つのアタノール炉、一つの火を用いる。身体・霊・魂は、最も入念な注意とヘラクレスのような労苦とによって、外側を洗われ、清められ、浄化され、再び組み合わされ、混ぜられる。それらは自ら腐敗し、人の手の協力なしに、自然だけの働きによって、溶かされ、蒸留され、分離され、昇華され、結合され、混ぜ戻され、結ばれ、再統合される。こうして固定したものは完全に揮発性となる。また自ら凝結し、さまざまな色を帯び、焼成され、固定される。こうして揮発性のものは固定され、更新された、新しい世界が成立する。
表面すなわち外側を浄化したこれらを、自然の重さと割合に従って混合する際には、ごく少数の者しか知らない三重の組成の秘密を、最大限に注意して守り、用いることを忘れるな。そうでなければ、魂を与えられた霊は身体と結ばれず、逆に身体も霊と再統合できない。これを正しく成し遂げると、先の混沌から、来るべき新しい世界の、普遍的な本性をもつ新しい混沌が生じる。それは展開され、分離され、分離されたものは美しく整えられる。すなわち、内的で根源的、中心的な自然の神的な働きであり、手の作業は一切加えられない。これが起こったと知るとき、あなたは自分の内に動きを感じ、ああ、喜びの涙を流すであろう。身体・霊・魂が再生するとき、原罪が神の愛の火によって、神的に除かれ分離されることを、確かに理解するからである。
私は作り話を書いてはいない。あなたは自分の手で触れ、自分の目で見るであろう。アゾート、すなわち哲学者の普遍的なメルクリウスを。それは内なる火と外なる火を伴い、避けがたい必然によって、共感の調和において、オリュンポスの火と自然魔術的に結合している。このアゾートだけで、私たちの石を得るには十分である。ウルカヌスのこの最奥に隠された秘密をよく知り、職人から、反復した実習から、あるいは神自身がカバラの仕方で教えることから、球状に丸い三一なる炉のなかで正しくこれを用いることを学ばなければ、たとえ正しい質料を用いても、あなたは無駄に空しく労することになる。
注 ここでの調製・治癒・変成に関する主張は原著の歴史的記述であり、現代の実験手順や医療上の有効性を保証するものではない。
闇が深淵の面に現れる。賢者たちの夜、サトゥルヌス、アンチモンが現れる。錬金術師たちの黒化、烏の頭が現れ、結合のさまざまな時に、世界のすべての色が現れる。神の使者である虹も、孔雀の尾も現れる。旧約と新約において虹について語られる秘義に注意せよ。
最後に、灰色、白さ、黄色が過ぎ去ると、あなたは賢者の石、私たちの王、支配者たちの主が、そのガラスの墓の婚姻の間、そして玉座から、この世界の舞台へ現れ出るのを見るであろう。栄光化された身体において、すなわち再生し、完全を超えて完成したものとして現れる。つまり、それは光り輝く紅玉であり、その輝きは最も均整がとれ、最も微細で最も清められた諸部分は、混合の調和した平和のうちに、分かちがたく一つに結ばれ、最高度に均等である。水晶のように透明で、緻密で、きわめて重い。火のなかでは樹脂のようにきわめて容易に融け、水銀が逃げ去るより先に、蝋のように、ただし煙を出さずに流れる。油が紙に染みるように、堅く閉じた身体の内へ入り込み、貫く。どの液体にも溶け、液状となり、それと混ざる。ガラスのように砕けやすい。粉ではサフラン色であるが、一塊の全体ではルビーのように赤い。この赤さは、完全な固定と、固定した完成の徴である。それは永続的に色づけ、染める。どのような試験の苦難のなかでも、燃焼性の硫黄や食い荒らす水の試み、最も激しい火の迫害にさえ耐え、固定し、つねに存続し、燃え尽きず、サラマンドラのように留まる。そしてあらゆるものを正しく裁く。それは、その仕方において、すべてのもののうちの万物なのだから。「見よ、私はすべてを新しくする」と叫ぶ。
三 第三の操作過程では、賢者の石と、大宇宙の諸部分との、分かちがたい合一が起こる。それが発酵であり、そう呼ばれる。調和の秘義に注意せよ。カバラにおいて、単一者の単純さへ還元された人間と神との合一に当たるものが、自然錬金術では、完全を超えて完成し、栄光を帯びた私たちの石と、大宇宙の諸部分との発酵に当たる。また、人間が神と合一すると、神によって、いわば人間的な神、あるいは神的な人間となり、すなわちいわば神化されるため、自分の望むことができ、その望むことは神自身の望むことである。同様に、賢者の石も、大宇宙の諸部分とともに発酵すると、発酵種の働きによって、望むいかなるものにも自分を変え、万物の異なる本性に応じて、さまざまな仕方で、すべてをすべてに働きかけ、自分をあらゆるもの、全体、一つひとつ、普遍的全体に等しくする。
教えの子よ、ここからあなたは、哲学者たちが自分のアゾートを、身体に付着するメルクリウスという名で呼んだ理由を、いくらか知ることができる。それを完全に知れば、あなたには真にこう言うことができる。「よく始めた者は、仕事の半ばを終えている」。ところで賢者の石は、ただ地や水とだけ発酵させられるのではない。それらの実り、植物・動物・鉱物とも、すなわち植物・動物・鉱物からスパギリアの術で調製した薬とも発酵させられる。それらの力を高め、この祝福された石の神的で普遍的な火によって、その可能性から現実の働きへ、それも完全を超えるほどに導くためである。また金属とも発酵させられる。すなわち、最高の白さに達した石は、白のために純銀と、血のように赤い石は、赤のために精製された金と発酵させる。この仕事は三日間のものである。
九 その便益とは何か。また、小宇宙と大宇宙の双方に、普遍的な三一性において、驚くべき救済をもたらす、ほぼ無限の用途とは何か。
再生し、完全を超えて完成した石は、普遍的な三一性において働く。すなわち、普遍的な身体・霊・魂に従い、小宇宙と大宇宙の双方の身体・霊・魂に、普遍的に働きかける。賢者たち、そしてこの術に最も熟練した職人たちが伝えたとおりである。自然の秘密を問い究めるのに、この術ほど鋭敏なものはなく、彼らは信頼されるべきである。働きは直接にも間接にもなされる。力が行為のうちに存するように、この石の用途は投射のうちに存する。自然錬金術の事柄について、自然錬金術師の用語を使うのである。その用途は次のとおりである。
神的用途。
それはウリムである。これが現前し、トゥンミムもあるとき、三重に最高なるヤハウェは、それによって、最も重大で奥深い事柄について、神智学者にカバラ的な答えを与え、語り、その声を発する。それは世界の創造の最もふさわしい類像であり、男と女としての人間の形成、また痛ましく嘆くべき彼らの堕落の類像でもある。美しく、貞潔で、敬虔な結婚の、この上なく明瞭な模範である。
それは神的なロゴス、全人類すなわち小宇宙の贖い主・救い主の受肉の予型である。その方は聖霊によって聖なる処女の胎に宿った。それは、その言葉に尽くせない、全く無垢なる受難、救いをもたらす死、崇敬すべき埋葬、慰めに満ちた陰府への降下、生き生きとした栄光ある復活、地上で処女の胎内に引き受けた身体を伴う栄光ある昇天、そして最後に、全能の神の右に座ることの予型である。
それは、生きる者と死せる者、そして全世界に対して、火によってなされる、最後の畏るべき審判の、誤ることのない実証である。罪の赦し、闇の不純からの解放の、この上なく慈悲深い実例である。私たちの肉の復活、それも大いなる更新と栄光を伴う復活の、生きた証言である。また、一人ひとりの魂が、自分自身の霊と固有の身体と結ばれ、永遠に解かれなくなることの、最も真実な証言である。私たちの霊的かつ身体的な再生の型であり、安息日の中の安息日、すなわち永遠の至福の、最も完全で最も明瞭な鏡である。至聖なる神的三位一体の、分かちがたい合一の秘義の、生きた像である。
注 PDF281–282の表の左列。列をページをまたいで続け、本文の読順を維持した。
小宇宙的用途。
この普遍的な松明は、外にも内にも正しく用いられると、人間の精神のうちに自然の光を驚くほどに灯す。なぜそうでないことがあろう。それ自身が、世界の闇のうちに輝く自然の光そのものだからである。その光があなたの内に昇るとき、あなたは被造物から創造主を知り、敬虔で信心深い古代の人々に約束されたメシアをも知る。また、賢者たちの永久運動とは何かを理解する。それは愚者たちが長い間愚かにも探し求めて、まだ見いだしていないものであり、彼らによって、あるいはそのような仕方で、永遠に見いだされることはない。
それは、取り憑かれた者から悪霊を追い出し、寄せつけない。なぜできないことがあろう。自然には、悪しき諸力が退く個別的な力がある。ならば普遍的な力にも退くはずではないか。混乱の作者は、調和した釣り合いに耐えることができない。
適量の使用によって、それは才知を鋭くし、高貴にする。同様に、優れた記憶力と賢慮をもたらす。外からの暴力がないかぎり、絶えない快活さと、正しい大胆さ、すなわち精神の勇気を、驚くほどに呼び起こす。それは私たちを回復させ、保つ、最も真実な普遍的な薬である。神の助けによって、身体・霊・精神のいずれに属するにせよ、外の病も内の病もすべて、にせ医者には不治であるものさえ、力強く追い払う。そして、受け入れる準備のできた人間の全体を、神がその人に定めた生の終わりまで、才知にも身体にも生気と健康をもって保つ。
注 PDF281–282の表の中央列。治癒・悪霊払い等は原著者の歴史的主張として訳出した。
大宇宙的用途。
正しく発酵させられた石は、卑なる金属を貴なる金属へ、形においても存在においても、真実に変成させ、莫大な利益をもたらす。そこから、貧困を追い払う測り知れぬ富と、金銀で得られるすべてのものを得ることができる。それは火打石から、まがい物ではない、本物の真正な宝石を作り、水晶からは、大きな輝きを放つルビーないし紅玉を作る。ガラスを鍛え伸ばせるもの、飲めるものにする。多くの真珠から一つの真珠を、技によって作り上げる。
この石のアゾート、すなわち哲学者のメルクリウスは、物体を第一質料へ還元する。それ自体が、普遍的な形相によって生かされた第一質料だからである。また私自身が見たように、金属、水晶、宝石、真珠、火打石、すべての石、小宇宙の石さえ、そして鉱物をも、真に飲めるものにする。動物を病から解放し、その力の充実のうちに保つ。単味薬の個別的な精髄と発酵させ、正しい方法でほとんど死にかけた植物に施すと、それを生かし、蘇らせる。その植物に生まれつきある湿りを、普遍的な恒久的湿潤によって強め、その時点で迫っている死から救うのである。
ふさわしい灯火の器のうちで、その恒久の水を技によって点火すると、永遠に絶えることなく燃える。要するに、それは下方の球界のあらゆる実りにも、月下のあらゆる霊にも、驚くべき効力をもつ。これらすべては、重大な理由によって、この石に自然に従うからである。
注 PDF281–282の表の右列。「小宇宙の石」など原著の表現を保持し、特定の医学的結石と断定しない。
要約して言えば。
賢者の石の質料は、天にも地にもあるあらゆる驚異の、壮大な対象であり基体である。また全宇宙の奇跡と秘密の、きわめて広大で驚異的な劇場でもあり、至聖なる聖書と自然という二つの書を、実在によって解き明かす。これを入念に観想することから、私たちは、上向きの高い階段によるかのように、ヤハウェの認識へ神智学的に登り、また下向きの身近な階段によるかのように、自然と自分自身の、より内奥の、真実で完全な認識へ、自然的・感覚的に引き寄せられる。それは実に、正しく憐れみ深い神の永遠の善、叡智、全能の、測り知れぬ大海であり、私たちに向けられたその慈愛の大きな証しである。
見よ、ここに、普遍的に三一なる用途、すなわち神的、小宇宙的、大宇宙的な用途がある。それらはさらに、自然学的、自然医学的な用途に分かれる。つまり人間、植物、動物、鉱物、金属、水中・地下のすべてのもののための用途である。また自然魔術的、超自然魔術的、神智学的、カバラ的な用途にも分かれる。
賢者の石は、伝えられるように、増殖させることができるか。
できる。しかも質においても量においてもである。賢者の石の増殖とは、ほかでもなく、発酵に先立ち、栄光化された石を、その普遍的な泉、すなわちアゾートの内に再び溶かして、第二の操作過程に従い、普遍的な自然錬金術の業を反復することである。増殖の業を繰り返すほど、その業はより速く、また力においてより完全に成し遂げられる。このようにして無限に続く。
四つの系論。
一 この仕事全体を発酵まで完成させる費用は、食費と衣服代を除けば、最高でも三〇ターラーの額を超えない。私は知る者から兄弟として教えられ、知ったうえで語っている。これと違うことを言う者は誤っている。
二 世の財産の十分の一を敬虔な目的のため神に費やし、残りの十分の九を世俗の用に当てるのが常である。それに対して神智学者には、この石の十分の一だけを世俗の用に費やし、残りの十分の九を、隣人のうちにあって困窮する神だけに費やすのがふさわしい。この大きな救護院において、それこそ神の施し手に固有の仕事である。
三 十字架につけられたイエシュア・キリスト、全人類すなわち小宇宙の救い主の予型は、自然の書のうちに、鏡に映るように、大宇宙の保持者、すなわち賢者の石として存在する。ゆえにこの石からキリストを自然的に認識し、キリストから賢者の石を神智学的に学べ。このように、敬虔で信心深い古代の人々は、約束されたメシアについて、自然によっても、自然の内でも、自然からも、確信を得た。こうして、至聖なる聖書を何とも思わない異教徒やトルコ人も、ああ神よ、自然の書から、感覚と理性に即して真理を確信させられ、神の恵みの協力によってキリスト教へ回心しうる。ユダヤ人についても同様である。
四 至聖なる聖書の秘義を、自然という書と自己自身のうちにも正しく読むことを学び、またその逆も学んだ者は、永遠の叡智の宝の驚くべき発見者となるであろう。一つの書が、もう一つの書を解き明かすからである。驚異なる神は、この驚異的な語り方・教え方をよしとした。私にもあなたにも、同じ方法が喜ばしいものであれ。エン・ソフ、エン・ソフ、エン・ソフ。
謎。
すべての内なる万物である第一のものは、第三の万物に、第一・第二の万物から、すべての内なる万物である第一・第二のものを渡した。それによって、すべての内なる万物と万物とを、普遍的に認め、知り、所有するためである。その名は何か、知っているなら答えよ。助言を聞け。この『円形劇場』の教えと法の道を歩め。そうすればヤハウェは、父のように、すべてを教えるであろう。
注 原文は OMNIA/OMNI、primum/secundum/tertio の反復を用いる謎であり、指示対象を訳者の推測で置換していない。
自然と術の封印は単純さである。私は語った。
イサゴーゲー、すなわち『円形劇場』第四図への短い導入。
人間は、心を尽くし、魂を尽くし、すべての力を尽くし、精神を尽くして、神の恵みに促され、動かされつつ、ヤハウェを認識し、自己を知ることによって自己を否定し、自然の光を知ることによっても不浄な世を軽んじようと努める。それは憐れみ深い神の賜物だからである。
一 キリスト教的な誠実さの白衣、すなわち素朴さ、正しさ、廉直さを聖くまとい、腰を神の真理の黄金の帯で締め、キリスト者の自由の帝王の笏を持って、世と悪魔と肉の欲望・情念を支配しながら、この世の舞台に進み出る。
二 神の恵みが助けることを思い出させる指輪を、薬指に飾る。これは力ある普遍的な約束を思い出させるもの、その口に偽りが見いだされなかった方自身が与えた約束である。その方は言う。「まことに、まことに、あなたがたに言う。私の名によって父に何かを求めるなら、父はあなたがたに与える。求めよ、そうすれば受ける」。
三 真に普遍的なものの徴である「ヘー」の印を、祭司の冠、黄金の額板、あるいは王冠に代えて、内なる人の額に神によって記され、それによって覆われ、飾られる。
注 冒頭は単独のヘブライ文字 ה と読める。
四 悔悛の涙と新たな服従の聖水を、十字架と患難からなる真のヒソプの撒水具によって、キリスト者として注がれる。
五 神と結びつき一つになった自分の精神の眼前に、首から掛けられたものがある。死をもたらす罪の汚れから清められた自らの心の、真に黄金の板の上に、最も燃え盛る神の愛の朱砂を用い、純粋な信仰の筆で消えないように描かれ、さらに堅固な希望の槌で強く刻みつけられた、五文字の名「イエシュア・キリスト」、十字架につけられた神であり人である方である。その方は、四文字の名ヤハウェの文字通りの刻印であり、父のヒュポスタシス、すなわち存立の像である。父の封印であり、ただの像、エイコーンであるだけでなく、放つ光そのもの、父の栄光の真の輝きである。神の言葉、神の力、受肉した神の叡智である。見よ、敵対する者を打ち負かし、逃がす印である。五文字と五つの傷との、驚異の言葉の、驚異のペンタクルである。力を備えたアルマルデルである。
注 ヘブライ神名・ギリシア語の綴りは原文の神秘的な文字数の議論を保つため併記した。
六 キリストへの純粋で生きた信仰の手が、神によって動かされ導かれつつ、神の言葉という両刃の剣で描いた、ヤハウェの火の円の中に囲まれる。それによって、全能なるエロヒム・ツェバオートを守り手として、地獄の門に対し、最も破られがたく守られる。
七 最高に賢く、最も善く、最も力があり、無限で、熱心な霊との、盟約と合意の契約のために行った、永遠に解かれない誓いを、忠実に守る。その誓いによって、人は身体・霊・魂という三一の自分全体を、三一なるその方に引き渡したのである。これはキリスト教の洗礼において、至聖の儀式、すなわち聖なる流れの水による洗いと、至聖なる息吹の油による塗りとをもって、一度聖く立てた誓いである。そして、自らの血によってその人を贖った方自身に与えた信義を、邪悪にも破ってはならない。言っておくが、あなたはその方に対して証書をもつ債務者であり、あなた自身の血によって、相互に義務を負っているのである。
八 永遠の光から出た光の灯火と蝋燭が、神によって自分の精神の内に灯され、絶えず燃え、それによって照らされる。
九 最高・最善の霊なるヤハウェが軽んじない全焼の供物、すなわち苦しめられた霊と砕かれた心を、その方に忍耐して献げる。精神と言葉の手を洗い、神へ飛び昇る敬虔な帰依と燃える祈りを薫香とする。
十 最後に、願いを定める。それは、軽率な、軽薄な、ふざけた、空虚な何らかの願いであってはならない。許され、正しく、それゆえ神に逆らわず、自分自身または隣人にとって、最も有益か必要なものであるべきだ。その願いを、へりくだり、死をもたらす罪の汚れから悔悛によって清められた精神に、しっかり書き込む。この精神こそ、悪しき魔術師ではなく神智学者たちの、純粋で清い、真の処女の羊皮紙である。まっすぐな思考と正しい想像を筆とし、知ろうとする最も燃える願望の朱砂を用いて記す。そして、その方へ自分を高める旨を述べ、至高者にへりくだって献げる。
キリスト者の断食において、身体の余分な食物からだけでなく、邪悪な欲望や情念からも離れ、心と身体の膝を謙虚に折り、神の慈悲によって、望むものを幸いに得ることを、疑わずに望む。修道士のような、あるいは隠者のような祈祷所の小礼拝堂、すなわち奥処において、朝から目覚め、聖なる叡智を求めてヤハウェに向かい、口と心によって、十字架を担い、十字の形で、すなわち霊と真理において、絶えることなく〔次頁へ続く〕。
祈りながら、その人は、驚異なるヤハウェの、驚くべき仕方で響き、轟き、語る、驚異の声を、次のものの内で、聞き、見、観察する。
至聖なる聖書の内で。歴史的に、すなわち文字どおりに。道徳的に。比喩的に。上昇的解釈によって。自然学的に。予型的に。カバラ的に。神智学的に。
自然の内で。大宇宙的かつ小宇宙的に。神智学的に。自然学的に。自然医学的に。自然錬金術的に。自然魔術的に。超自然魔術的に。カバラ的に。
自分自身の内で。魂に従って、神に結ばれ、あるいは神の光に照らされた精神の鏡の内で。眠っているときも目覚めているときもである。また、自分自身の良心の千人もの証人たちが、私たちの心に神によって記された法に従い、真実を証言するように。
天を通して、地を通して、水を通して、空気を通して、星、火、雲、風、岩、宝石、石、鉱物を通して。地上・水中・空を行く動物を通して。あらゆる植物、草、種、舌〔原文の語。木材の誤植か〕、低木、果実を通して。数、文字、点を通して。身体と身体の諸部分、そして霊における人間を通して。その霊は、身体の内でも身体なしでも、自然に親しい霊であり、賢者たちのホムンクルスである。調製の途上にあるときにも、再生によって栄光化されたときにも、賢者の石を通して。それどころか、すべての被造物を通して、目に見えない、すなわち自然物ではないものを通してもである。天と地獄との霊的な軍勢の全軍、つまり善い天使と悪い天使がそのようなものである。また、目に見える、すなわち自然的な被造物から生じたすべてを通して。それらが本来の自然物であっても、職人の勤勉な手で巧みに作られたものであってもよい。これらは、人間として神的な事柄を感得するため、私たちに適切に仕える媒介なのである。
ああ、すべての内で、すべてを通して、すべての者に向けられる神の声は、なんと驚くべきものか。その目的は、神の意志に従い、どのような過去・現在・未来の事柄についても、ヤハウェの意志を、欺かれず正しく知り、認識し、予見することである。また、自然の内に置かれながら、神を導き手として、私たち自身が自然を超えて支配し、ある事柄を容易に実現し、成し遂げることである。その原因は、しばしば自然的な原因であっても、この世の賢者たちには知られず、それゆえ世俗の哲学に最も熟練した人々にさえ、驚くべき、信じがたい事柄と思われる。それらは、永遠の叡智を敬う者、その忠実で愛された弟子たちにだけ知られ、ふさわしいのである。
要するに、神智学者は望むことができる。そして望むのは神自身が望むことである。神の内で、彼はすべてをなしうる。見よ、どこで、いかなる助けによって、なぜ、どのように、いつ、信じる者に不可能がないかという秘密がここにある。
注 列挙中の lingua は原画像の読みに従う。文脈上 ligna(木材)の転倒誤植の可能性があるが、黙って置き換えていない。
さらに、神智学者は次のような者である。
一 健全な身体に健全な精神をもち、不浄な世俗の仕事や心配の重みに押し潰されていない者。
二 どのような詭弁家とも歩まず、永遠の叡智と至聖なる普遍的真理の小道を堅く踏み、揺るがぬ心をもって、願いを得る最後までそこに忍耐する者。それは熱心な神の賜物だからである。
三 時のうちの心配事の空しさ、空想、またこの不浄な世の惨めな知恵がもつ華やかな悲惨、真に取るに足りない、たちまち過ぎ去る戯言や作り話に絡め取られず、昼も夜も、永遠の叡智の黙想と仕事に全身を傾ける者。
四 ヤハウェの友となった者。すべての賢者たちの唯一の普遍的な教師、日の最も古い者、最も純粋で、また最も忠実なこの方から、その方の最も自由な意志に従って、正しく教えられた者である。それは直接にも、間接にもなされる。間接とは、霊的または身体的な師、ヤハウェの善き使者を通してということである。また書物、すなわち至聖なる聖書と自然の書、さらに自然の解釈者たちの紙の書物を通しても教えられる。それらのどれが真正であるかについては、火の試験とともに、その人の内で正しく判断する神の霊だけが、すべてに対する最も公平な審査者となる。
五 他人、とりわけこれらの善と賜物にふさわしくない者の意向と金銭の奴隷でなく、自分自身である程度豊かで、ふさわしい食物と衣服を心配しなくてよい者。欠乏する者や自由でない者が哲学するのは、不可能だからである。自由な術は、自由な人間を、その全体として求める。
六 自然錬金術の仕事で、手を用いて実践し、十分に鍛えられ、経験を積んだ者。
七 この世界の最も美しい劇場における、永遠で言い尽くせぬ威厳の、決して怠ることのない侍女である自然を知る者。神は恵みによって、自然をすべての賢者の忠実な導き手とした。その自然を、神的叡智の愛好者、すなわち哲学者として知り、従順に見守る者である。
八 自分はその奉仕者なのだから、自然を優しく導き、自然の働きはきわめて緩やかだから、ゆっくり導く者。敵のように怒った暴力で強いず、自然の原理に即し、熱心な技によって、賢明に自然をまねる者。
九 勤勉な堅忍と、労苦に耐える忍耐によって、仕事の実り、真の叡智の実りを、喜ぶ心と穏やかな顔をもって、ヤハウェの意志に従い、忍耐して待つ者。それらは神的な精神にしか与えられない。彼はそれを賢く敬虔に用いるという堅い決意をもつ。つまり、小川を兄弟たちへ流し出し、泉は神を畏れつつ独り保持するのである。この大きな救護院で神の施し手として働く者の務めは、これである。
十 公の書記ではなく、ハルポクラテスとなる者。そして、これほど大きく、これほど父らしい善と賜物のため、不死の神に、静かな喜びと沈黙をもって、尽きない感謝をささげる者。自分に危険を招き、他人に悪事のきっかけを与え、そのためにヤハウェの怒りで惨めに焼き尽くされることのないようにするのである。
二つの系論。
一 十字架につけられたイエシュア・キリスト、全人類すなわち小宇宙の救い主の予型は、自然の書のうちに、鏡に映るように、大宇宙の保持者、すなわち賢者の石として存在する。ゆえにこの石からキリストを自然的に認識し、キリストから賢者の石を神智学的に学べ。このように、敬虔で信心深い古代の人々は、約束されたメシアについて、自然によっても、自然の内でも、自然からも、確信を得た。こうして、至聖なる聖書を何とも思わない異教徒やトルコ人も、ああ神よ、自然の書から、感覚と理性に即して真理を確信させられ、神の恵みの協力によってキリスト教へ回心しうる。ユダヤ人についても同様である。
注 原著はPDF284の系論をここで反復しており、訳文も省略せず再掲する。
二 至聖なる聖書の秘義を、自然という書と自己自身のうちにも正しく読むことを学び、またその逆も学んだ者は、永遠の叡智の宝の驚くべき発見者となるであろう。一つの書が、もう一つの書を解き明かすからである。驚異なる神は、この驚異的な語り方・教え方をよしとした。私にもあなたにも、同じ方法が喜ばしいものであれ。エン・ソフ、エン・ソフ、エン・ソフ。
注 原著はPDF284の系論をここで反復しており、訳文も省略せず再掲する。
謎。
すべての内なる万物である第一のものは、第三の万物に、第一・第二の万物から、すべての内なる万物である第一・第二のものを渡した。それによって、すべての内なる万物と万物とを、普遍的に認め、知り、所有するためである。その名は何か、知っているなら答えよ。助言を聞け。この『円形劇場』の教えと法の道を歩め。そうすればヤハウェは、父のように、すべてを教えるであろう。
注 原著はPDF284の謎を反復する。
すべては、ただ最善・最高なる神ヤハウェの誉れ、讃美、栄光のため、その力、叡智、善を認識し、讃えるために。困窮する隣人と自分自身との用、時のうちにも永遠にも、数え切れないほど救いをもたらす用のために。そして悪魔とその腐った鱗どもを、この上なく軽蔑し、永遠に忌み嫌うために。ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ。悪魔に向かって、ええい。
全巻の結語
エピローグ、すなわち全巻の結語。
全巻の概要。
死すべき人々、最良の観客たちよ、今やあなたがたは聞いた。天より高い叡智の、王たる最も賢い伝令者と、その解釈者であり神的叡智の忠実な愛好者である私を通して、いや、永遠なる方の永遠の叡智そのもの、唯一真なる叡智から聞いたのである。叡智とは何か、いかなるもので、いかに大きいか。それに対立するものは何か。その宝、用途、作用、実りは何か。その叡智自身と尽きない宝とを幸いに得るため、あらゆる者、全員、一人ひとり、全体が、どれほど、どこで、どのような助けによって、なぜ、いかに、いつ、祈り、働くべきか。どの方法、どの道で求めるべきか。誰に、誰には与えられず、誰によって、何を目的として与えられるか。あなたがたは『円形劇場』そのものを見た。
ああ、序論で『円形劇場』の教えを読み、『円形劇場』のなかで序論の教えを見ることによって、真の叡智の、キリスト教カバラ的、魔術的、自然錬金術的な、この円形劇場の演目と見世物とを、あなたがたが賢く観想し、正しく理解したなら。自分の祈祷所と実験室で、あなたがた自身も忠実に行い、練習し、神智学的に模倣したなら。しかし私は、幾千人のうち一人さえ難しいのではないかと恐れる。真実を語る者を信じてほしい。真理の港へ船を着けることは、誰にでもできるのではない。聖書的に、大宇宙的に、小宇宙的に、三一なる普遍性のうちで、神と、神が遣わしたイエス・キリストと、自分自身と、大宇宙と、神が与えた大宇宙の息子、哲学者のマグネシアとを知ることは、誰にでも属するわけではない。
神々、すなわちエロヒムから生まれた者だけが、それをなしえた。すなわち第二図にあるように、二を退け、三を四によって一なるものの単純さへ還元した者、あるいは神の恵みの協力によって、そう還元することを心から努める者たちである。
誰がこの『円形劇場』を理解し、誰が理解しないか。
あなたがたに次のことを語ったのは、愚者でなく予言者だと知れ。まだ悔悛によって洗われ清められていない者、自然の書の下の部分を自然錬金術によって説明する火、すなわちこの世界という大学の神の教授、その疲れを知らない聴講者でない者、聖書的・大宇宙的・小宇宙的に普遍的でない者、叡智の霊に照らされていない者、その者は、この『円形劇場』の髄と甘露を味わうことはない。
不純な者、十字架と患難の学校で敬虔に鍛えられなかった者、自然錬金術のウルカヌスに仕えない者、詭弁家、にせ自然学者、悪い医者、迷路をさまよう者、円周に留まる者、人を欺いて個別のものに偏る者、手品師や悪魔的な者が、神の秘義と自然の秘密について、何を真実に理解し、何を確固として知り、何を実り豊かに扱いうるだろうか。このかくも聖なる訓練と教えの子でない者は、立ち去り、この『円形劇場』を判断する前に、神智学的に学ぶがよい。
ここで求められる読者、聴講者、観想者、判断者はどのような者か。
私が求める読者、望む聴講者、欲する観想者、必要とする判断者とは、神智学、自然学、自然医学、自然錬金術、自然魔術、超自然魔術、カバラにおいて、聖書的・大宇宙的・小宇宙的に訓練され、正統で、普遍的な者である。神的な太陽の流入、光、運動によって光線を受け、照らされ、燃え立たされ、愛のうちに善へと促される者。ピュタゴラス的な者であって、父より先走る早熟な子でない者。異教的・世俗的にではなく、神智学的に、すなわち至聖なる聖書、自然の書、正しい良心の法と証言に従って、論じ、哲学する者である。そのような読者、聴講者、観想者、判断者が来るがよい。ほかの者は来るな。俗なる者たちは、ここから遠く離れよ。
誰にこの『円形劇場』を伝え、誰には伝えないか。
したがって、この『円形劇場』を求める者が誰で、どのような者で、どれほどの者かを、注意深く見極める必要がある。そして、真の、普遍的な、三重に三一なる哲学と、真に普遍的な賢者たちが用いる哲学の方法を、誰に委ねるべきか、ヤハウェに神智学的に尋ねねばならない。どんなよそ者の耳にも、どんな汚れた良心にも、これらを軽々しく語るべきでは決してない。ナジアンゾスのグレゴリオスが言うように、いつでも公に神について論じてよいわけではない。同様に、神と自然の秘義、奥義、秘密について論じるのも、まったく安全というわけではない。誰に、どの人々に、どれほど語るか、ということがある。
叡智の言葉は、それほど安価なものではない。高貴な血統に生まれたとしても、俗に、不浄に生きる無学な者たちに、たとえキリスト者の名で数えられても、無分別に開かれるものではない。彼らは何一つ、高いことを賢く理解し、受け取り、味わわないからである。教えられず、地を這う小人であり、自分の空想的な小さな脳で、すべてを逆さに測る。それは糞に甘露を注ぎ、豚に真珠を投げ、驢馬の下に薔薇を敷くようなものであろう。奥義は公にされると安くなり、俗化されるとその恵みを失う。
無学な者たち。牛にナツメグが何の役に立つのか。
注 Moschaten はナツメグ。牛にその価値は分からないという諺。語義の照合にはトリーア辞書網の Muskat-nuß 項も参照:https://woerterbuchnetz.de/?lemid=M03391&sigle=PfWB
軽薄な者たち。
軽薄で、人間という名にふさわしくなく、移り気で、生活は汚れ、言葉は卑猥で、嘘をつき、叡智の法と教えよりも役者、道化、馬、犬の世話を優先し、どの秘密も作り話だと思い、ほかの不浄な世俗のものを讃嘆する者たちに、奥義の宝庫を開くことは、立派な行為なのか、そうでないのか。私は正当に問う。諸君、どうか明確に答えてほしい。私の考えでは、それをする者は聖なるものを冒すのである。
俗なる者たち。
俗なる者たち、すなわち真の叡智を学び愛することから全く離れた者たちがいる。空しい詭弁を蜘蛛の巣のように張り、自分と、より弱く素朴な他人とを絡め取る者たちである。真理に逆らって弁証家の所見を子どものように口走る者たち。傲慢なおしゃべりによって、優れた才知が奥深い事柄を正しく研究し問い究めるのを妨げる者たち。荒々しく落ち着かぬ馬のように、堅い首を真理に屈することを拒み、私たちの御者、すなわちキリスト教の愛の内にある神への畏れを、放埒で傲慢に振り落とし、叡智の道から遠く逸れる者たち。真理の直線、真の中心から、喜んで偽りの円周へさまよい出る者たち。彼らがただ一つ見張り、目指すのは、人を欺く罠の問いによって何かを縛りつけるか、素朴で忠実に述べられたことを、ひねくれた仕方で解き崩すことである。
そのような者に叡智の宝を差し出すのは、最も恥ずべきことであり、同時に無益ではないか。とりわけ彼らは、真の哲学とキリスト教の愛について無知である以上に、その最も激しい敵なのだから。もしこの問題について、そのような者が告発者、さらには裁判者に据えられたら、どうなるであろう。正しく理解されず、あるいは悪意をもって解釈された健全な教えの火花から、直ちに巨大な誹謗の火災を燃え上がらせようとするのではないか。その火は最果てのインド人にまで広がり、天にまで巻き上がるであろう。善い守護霊が彼らをよりよい心へ連れ戻してくれればよい。神の秘義と自然の秘密について、彼らが純粋な精神と真の理解をもって、ただ一語でも聞き、判断することは不可能である。
訓練と教えの子たち。
では、どこへ私は向かうべきか。私のこの賜物を、誰のもとにふさわしく預けるべきか。ただ訓練と教えの子たちのもとにだけである。すなわち、普遍的な三一性における真の叡智のこの学びを尊び、心から喜ぶ者たちである。ああ、『円形劇場』よ、神が注いだ私の才知の産物よ、神の恵みを産婆として生まれたものよ、ただ真に賢い者たちの間で栄えるがよい。俗なる大衆のことを、私は気にしない。
私は大衆を、地位でなく心によって測る。物事の空しい像を、最も真実な事物であるかのように讃嘆する者は、どんな身分、階級、地位にあっても、大衆である。年長者がそう定め、上位の者がそう定め、人々の大多数がそう定め、そう行うからといって、それを真実または正しいものと思うな。真理の普遍的で三一なる基準、すなわち至聖なる聖書の法と教え、自然、純粋で正しい良心の証言とに合致するときにのみ、真実または正しいのである。いや、兄弟よ、大多数を喜ばせるという、そのこと自体によって、あなたはそれを疑わしく思うべきだ。昔から大衆は、生き方においても考え方においても、最悪の導き手である。悲しいことに、人間の事柄が、それほどよく運んで、最悪のものが最多数に好まれなかったことはない。時には、より優れた地位の者にも、良心に反して好まれる。
こう考えないように注意せよ。「誰もがこう定めている。私の祖先はこの足跡をたどった。あの大哲学者、大神学者、大統治者らもこの意見である。大学でもそう教えられる。これはすべての教授の教説である。聖職者もそう教え、政治に携わる者もそう考え、判断する。彼らは決して大衆ではない」と。ああ、神の叡智のあらゆる真理より自分を高くする、その悪魔的な哲学の仕方よ。それは、鎖につながれタルタロスへ投げ込まれるにふさわしい。偉大な名前に、少しも動かされるな。人間の権威に寄りかかることほど有害なものはない。
大衆。
真理の試金石。
神智学者は、至聖なる聖書、自然の書、正しい良心の法と証言に照らし、すべてを調べ、試し、判断する。こうしない者は、いかなる知りうる事柄においても、真理の曙を見ることはない。これが真理の唯一の試金石、真理の三一なる基準、普遍的で三一なる原型ないし模範、唯一真正なものである。ここから爪の先ほどでも離れる者は、正しさと真実から離れ、道の外を走る。
それゆえ、真理の頂を切望するわが兄弟よ、あなたの心は、大衆の行為とも意見とも、できるかぎり遠く隔たっていよ。大衆の口に頼る者は、欺かれ、また欺く。賢者だけが私を喜ばせる。その同じ賢者に、私たちの『真の叡智の円形劇場』は喜ばれるであろう。とりわけ、繰り返し読み、神智学的に観想し、その教えを祈祷所と実験室で賢く実行へ移すときに、そうなる。
この『円形劇場』は賢者だけを喜ばせる。
個別の事柄の知識を、どのように獲得するか。
もし、私が多くの個別的事項を省略したと不平を言う人がいるなら、その人には、これが普遍的な『円形劇場』であると知ってほしい。その法と教えに従って、神智学的に祈祷所へ、賢く実験室へ入るがよい。神は、ご自身によしとし、あなたの益になるなら、キリスト教カバラ的、神的魔術的、自然錬金術的に、あらゆる個別的事項を明かし、教えるであろう。
おや、私はスズメバチを怒らせ、もしかすると恩知らずのカッコウどもも怒らせているのではないか。「確かに私は愚か者たちを狂わせ、空想家たちを私に向かって武装させる」。それでも、叡智の霊が助けるなら、私にも、真の哲学のほかの弟子たちにも、普遍的で三一なる真理の棍棒が欠けることはない。それによって、公にも私にも、彼らの無礼な攻撃をはね返し、押さえ込むであろう。
この『円形劇場』の有用性。
私たちのこの『円形劇場』がどれほど有用か、私はただ自分の言葉からだけでなく、事柄そのものから評価してほしい。事柄そのものが、十分に語るからである。マルティアリスは言う。「生き残る書物は、守護霊をもたねばならない」。この『円形劇場』は、善い守護霊をもっている。「この作品は、神に感謝すべきことに、その作り手を讃えている。それは私も知っている」。
キケロが『トゥスクルム荘対談集』第四巻で述べる次の言葉は、滑稽で、ほとんど余計な口出しである。「永遠の全体と全世界の大きさを知る者に、人間の事柄のうち何が偉大に見えるだろうか」。それに対し、私たちは神智学的にこう言う。聖書的・大宇宙的・小宇宙的に、永遠なる神自身を知り、自然と被造物のすべてを知る者に、この光を享受する間、何が偉大に見えないだろうか。その人は、たぶんキケロのように、二つの世界全体の大きさを数学的に知るだけでなく、あらゆる本性、特性、性質を、自然学的、自然医学的、自然錬金術的、自然魔術的、超自然魔術的、カバラ的、神智学的に知っているのである。
人間よ、創造主があなたを形づくり、救い主が贖い、聖霊が聖化したのは、まさにこのためである。至聖で三一なる普遍的なものを知り、それを、この世でも永遠にも実りある神智学的三一性において、賢く享受するためである。また、驚異の創造主とその驚嘆すべき被造物を、謙虚に讃嘆するためである。賢者は、創造主は言うまでもなく、被造物の観想へ深く降りるほど、ヤハウェの叡智、善、全能をふさわしく讃嘆するいっそう多くの機会を与えられる。これが私たちの『円形劇場』である。ここに、普遍的に万物がある。「ここから何も学べないなら、いっそう秘密の事柄については、あなたには見込みがない」。
兄弟としての戒め。
最も愛する兄弟たち、教えの子たちよ、私はあなたがたに戒める。この『円形劇場』の法と教えに従い、聖なることを聖く扱え。秘義が無知な大衆の前で、あるいは公の場で俗化され、あなたがた自身が牛の蹄に踏みつけられないためである。私たちの主、私たちの師は、聖なるものを犬に与えることを禁じ、弟子たちにだけ、「あなたがたには」、大衆にではなく、「神の国の秘義を知ることが与えられたが、ほかの者たちには」、つまり大衆には、「たとえによって語られる」と言った〔ルカ八章一〇節〕。神の偉大な業について、あなたがたの間で兄弟として語り合うがよい。神智学者の集まり、すなわち真の叡智の真理を心から愛し、渇望し、従う者たちの集まりで、悪魔とその鱗どもへの軽蔑にもなるように語り合え。
悪魔が妨げをもたらす仕掛け。
なぜこの『円形劇場』を建てたか。
善なる神よ。真理の敵である悪魔は、長い年月、どれほど多く、どれほど大きな妨害の仕掛けで私を襲ったことか。最高なるヤーを証人として言うが、ほとんど数え切れない。それによって、私をこのかくも敬虔な目的から、労苦と費用をかけて引き受けた仕事から、断念させようとした。この『円形劇場』を建て、その中にヤハウェの叡智、全能、善に対する、誉れ、讃美、栄光の著しい記念碑を立てるのを妨げようとしたのである。それは隣人にとって愛の記念物、私自身にとって忘れやすい記憶を助ける備忘、悪魔にとって公然たる憎悪の証し、永遠の「退け」となるものである。
善なる神よ、と私は言う。この闇の者は、誘惑と試練のどれほど多くの仕掛けで私を襲ったことか。あるときは教えの高さを、次には才知の弱さを、また多大な費用と仕事の難しさを持ち出した。今度は新奇さや独自性を気取るとの烙印を、再び俗に哲学する者たちの中傷を、いっそう秘された学問と術のために受ける、ほとんど汚名に等しい悪口を、同じ学部・研究分野の偽りの兄弟たちの妬みを持ち出した。それどころか、そうしたものは何万にも及んだ。
しかし私は、神的な叡智と勇気の霊によって強められ、励まされた。この霊が、私の精神を照らして瞑想させ、真の確信を与えて書かせ、口を開いて語らせ、今もまた語るために口を開く。私は運命が呼ぶところに従った。この霊の導きと力によって、敬虔な熱心を貫き、すべての仕掛けを神智学的に打ち破った。ヤハウェが資力と力を与えたので、ついに苦しみ、妨げ、不運を、紅海のように幸いに渡り、さまよう者の迷路から無事に、傷なく逃れ出た。見よ、陸地が見える。
それゆえ、ああヤハウェ、霊的な存在、三一なる方、永遠、最高の叡智、最善、最強なる方よ。エフイェ・エセル・エフイェ〔私はある、私はあるところの者〕、ヤー、ヤハウェ、エロヒム、エル、エロヒム・ギボール〔力ある神〕、エロハイ〔わが神〕、ヤハウェ・ツェバオート〔万軍の主〕、シャダイ〔全能者〕、アドナイ・メレク〔主、王〕よ。畏るべく、真実で、強く、熱心で、正しく、忍耐強く、憐れみ深く、慈愛に富み、すべてを見る方、父、御子、聖霊よ。天と地と水との創造主、宇宙全体が含む万物の建立者よ。
私、ハインリヒ・クンラートは、すべての人と同じく、最初に形づくられたアダムにおいて、叡智、善、正義、真理、聖性、多様な力、不死に関して、あなたの像に従って造られた。また位格において一つ、本質において三つ、すなわち地の身体、天の霊であるシャマイム、神によって吹き込まれた魂から、あなたの似姿に従って人間として形づくられた。そして恵みによってキリストの内に再び形づくられた。この私は、至高なるあなたに、最もへりくだって、大いなる最高の感謝をささげる。若いころの初めから、真の叡智を得るため、悔悛をもって幾度となくあなたへ注ぎ出した私の祈り、涙、誓願、嘆息を、あなたは慈悲深く聞き入れてくださった。また純粋なご慈愛から、この三重に三一なる普遍的な『円形劇場』が扱う事柄の真理を、私に示してくださった。
私は心を尽くし、あなたの憐れみに願う。あなたの聖なる天から、ルーアハ・ホクマー・エル、あなたの叡智の霊を私に遣わしてください。この霊が、親しい者としていつも私に付き添い、正しく導き、賢く戒め、教えてくださるように。私とともにいて、祈り、働き、あらゆる自然学、自然医学、自然錬金術、自然魔術、超自然魔術、カバラ、神智学の事柄について、すべてにおいて、よく望み、知り、あり、なしうる力を与えてくださるように。私の生涯のあらゆる行いにおいて、真理の道から逸れず、正義の光が私を照らし、理解の太陽が私の精神と心のうちに昇るように。
注 列挙された神名は原文のラテン文字転写を保持し、明確なものだけ意味を訳に添えた。
ああヤハウェ、善のうちに、善へ向かって、私があなたにとって、人間にとっての自分の手のようなものとなりますように。あなたの叡智の、普遍的で、三重に三一なる、聖書的・大宇宙的・小宇宙的な真理だけに従いますように。その普遍的で三重に三一なる宝庫、すなわち至聖なる聖書、自然、純粋で正しい良心という書々のうちに、神の友となって、叡智、真の哲学、そして哲学する正しい方法を、正しく探し求めますように。
どうか、あなたの天より高い太陽の流入、光、運動によって、私の全体を幸いにしてください。どうか恵み深くお許しください。健全な身体に健全な精神をもち、あなたがその真の理論と実践を驚くべき仕方で私に知らせた事柄を、完全な完成にまで導くため、資力と力が私に十分ありますように。そして生きている間、実り豊かに、最も自由にそれらを用い、あなたの誉れ、讃美、栄光のため、私のキリスト者としての誓願に従って、隣人と私自身の正しい利益のため、また悪魔とその鱗どもへの永遠の「退け」のために働けますように。
主よ、私の右にも左にも、前にも後ろにも、上にも下にも、いや周囲のすべてに、あなたの炎の奉仕者、善い、私の天使がいますように。あなたから委任された奉仕の範囲で、空気の領域に潜む盗賊、すなわち悪霊を追い払い、その悪意を押さえ、ほえながら歩き回る獅子から私を守り、私を呑み込ませないようにしてください。そして悪に囲まれた私を、滅びないよう戒め、守ってください。
主よ、すべての悪から私を解放してください。そして移りゆくものの間を通るとき、永遠の善を失わずにすみますように。父であり、兄弟であり、友であるヤハウェを享受し、この世でも永遠にわたっても、最も実り豊かな普遍的救済に至れますように。父の受肉した叡智、私たちの主、十字架につけられたイエス・キリストによって、またその方のゆえに。あなたは三一性において、神として世々とこしえに生き、支配する方です。アーメン。
私たちの書斎より、キリスト紀元一六〇二年。ライプツィヒのハインリヒ・クンラート。神的叡智の忠実な愛好者、両医学博士。
出版者より読者へ・刊記
善意ある読者に、挨拶を。
善意ある読者よ、各段階の解説の末尾には、誤って次の言葉が紛れ込んだ。「第一、第二、第三、第四、第五、第六、第七段階の図を挿入せよ」。しかし、それぞれの段階にそれぞれの図があるわけではない。『円形劇場』そのものは、それに属する図によって成り、それぞれの導入を備えている。このことを知らせたかったのは、この作品に何か欠けていると思わないようにするためである。健やかであれ。
ハーナウにて、ギルヘルムス・アントニウスが印刷。一六〇九年。
神聖なる皇帝陛下の特許をもって、初版印刷の日から十年間。
原刊銅版十図とその銘文
ああ、もし隠された諸学と善き諸技芸を、優れた技芸の実践者だけが評価するのであれば、それらは幸いである。技芸を憎むのは、それを知らぬ者だけである。

ある書物の一部分だけから判断するのは、礼を欠くことである。まずその書物全体をよく通覧し、正しく理解していなければならない。
ヒエロニュムス『ホセア書注解』。怠惰に眠っている者が、他人の労苦や徹夜について論じるほど容易なことはない。労苦を免れている者たちは、労苦する者たちを妬む。
非難することは誰にも容易だが、模倣することは難しい。自分には従えないものを、誰でもあげつらうことはできる。愚か者には最善のものさえ気に入らない。
注 ギリシア語の活字を通常の綴りで転記。durumq; の接続略号は小さく不鮮明。
恵みの女神たちの怒りのもとに生まれ、何でも悪い方に解釈して、あらゆる善いものを貶める者たちがいる。しかし確かに、誹謗者は盗人より悪い。
注 GRATIS は GRĀTIIS(恩寵・美の三女神たち)の格言的用法と解したが、図の字面は GRATIS。
セネカ『道徳について』。群衆があなたを嘲笑していないなら、あなたはまだ幸福ではない。幸福でありたいなら、まずこのことを軽蔑するよう心がけよ。他人、それも悪人や無知な者たちに軽蔑されることである。
注 冒頭の deriserit は字形どおり。文法上は deriserint が期待される。
真理は圧迫されるが、押し潰されはしない。確かにそのとおりだ。しかし、誹謗は何を偽らないだろうか。その悪意から安全なものは何一つない。それでも、人は悪い行いを慎むがよい。嘘の方は、きっと対処のしようがある。
私のいるところで褒めそやし、いないところで罵る者を、疫病が打ち倒せ。
セネカ、第77書簡。無知な者たちの悪口は平静な心で聞くべきである。高潔なものへ向かって歩む者は、軽蔑されることそのものを軽蔑しなければならない。
最善のものは妬みの餌である。無知と妬みは誹謗の親である。しかし、無知も妬みも誹謗も、真理に道を譲るがよい。
注 図には invida と見える。意味上の invidia(妬み)として訳した。
雨を降らせようが晴れにしようが、ヤハウェですら万人を喜ばせはしない。まして、この私、博士ハインリヒ・クンラートなら、なおさらである。妬む者たちの狡猾な誹謗から、いったい誰が逃れられようか。
噂は、他の何物よりも速く走る災いである。しかし、正しいことを行ったと自覚する心は、噂の嘘を笑う。罪がないことは、大きな慰めである。
誹謗は確かに恐ろしい疫病であり、剃刀よりも鋭い。それでも、真理に対して常に勝つわけではない。ついには善い大義が、善き人々のもとで勝利を収める。
邪悪な者や、神の神秘と自然の秘密を知らぬ者に笑われることは、ほとんど称賛されるに等しい。そのような者を喜ばせることこそ、非難されることである。少数の、それも神智学に通じた者を喜ばせることは、真理のしるしである。
悪魔、あらゆる真理の敵は、この私の周りを取り囲ませたのか。高慢で、強情で、毒と胆汁に満ちた空言を吐く者ども、さらには、非霊的な聖職者であれ世俗の者であれ、嘘つきや悪口屋ども、勝手気ままな誹謗者や中傷する悪魔の雄蜂ども、侮蔑する糞蠅ども、神も名誉も忘れた悪魔の頭ども、名誉を盗み、恥ずべき嘘をつく詩人ども、出しゃばりで高等学校や私塾の学識をひけらかす学者先生ども、悪辣な錬金術の荒々しい愚か者、間抜け、いい加減な仕事人、へぼ職人ども、兎頭の[罵倒語の細部不詳]うつけども、妬み深く恥知らずな的撃ちども、利口ぶった[一語判読不確実]、そしてあらゆる軽薄な物笑い屋や放埒な悪ガキどもで。けだものどもに唾を!
注 図の左外縁から上辺、右外縁へ続く罵倒文。古綴り・造語が多い。hoh:r の略記、pengelischen の字形、überklüge の後の語は確定できない。訳では判読不確実を明示。冒頭は Hat。
誰にも気に入られる人など、いったい、いつ、どこにいたのか。
苦労の果てに待つのは、忘恩である。かつてもそうであり、これからもそうだろう。
誰が、すべての人に「アーメン」と言わせるほど、ぴたりと的を射ることができようか。
敵の口が真理の根本を語ることなど、めったにない。これは確かである。
それゆえ、信じてほしい。このような口やかましい連中が私に対してでっち上げた嘘を、私は悪魔の下水溝から立ちのぼる最も臭い息ほどにも評価しない。
注 原図は halitꝰ(halitus の略)。quam と目的語との接続は古い表現のまま転記。
妬む者がどれほど多かろうとも、それでも神の御心は成る。
יהוה〔ヤハウェ〕。ハインリヒ・クンラートよ、災いに屈するな。むしろ、いっそう勇敢にそれに立ち向かえ。私はあなたと共にいる。
私を印章のように、あなたの心の上に置け。この永続する真理の星は輝いて、道を示す。יהשוה〔イェホシュア、イエスを表す五文字神名〕。このように、万物。
注 二重円は内周、外周の順に転記。五文字神名は星状に配列される。SIC OMNIA の間に目の図。
ベエルゼブブ。蠅どもの君主。滅ぼしてしまおう。愛する兄弟たちよ、大胆に誹謗せよ。何かしら必ず残る。真理にも容赦するな。
毒に満ちた舌ども[語の読みは不確実]。悪魔論者たちの長。彼は冒瀆する。彼を呪われた者とせよ。マラナ・タ。
注 蛇状の帯の VENOSÆ は VENOS[...] に見えるが曲がった末尾は確定できない。羽の銘は二段を続けて DIABOLOGORVM と読む。
恥ずべき嘘をつき、名誉を盗む詩歌。[冒頭不確実]おしゃべり箱。
注 右の鳥人の頭上の弧と鳥の口の近くの小銘。後者の冒頭は Talefe に見えるが確定しない。
何だと。女たちの部屋の小箱に逆らうのか[最後の語の読みは不確実]。反キリスト的な詐欺師。出しゃばりな詩人のろば。
注 左人物の衣。第一銘の最終語は Gynæcei(女性の部屋の)と読む可能性が高いが、不鮮明。scrinium は箱・文書箱。第二・第三銘は判読できる。
彼らは私を愛する代わりに、私を中傷した。しかし私は祈っていた。
私の助けは、天と地を造られたヤハウェから来る。
イェホシュア・キリストと哲学者の石との象徴的な調和。また、その逆も。
注 中央最上部の尖った石。「哲学者の」は Phit: の略記による。
あらゆるものを、スパギリカの仕方でも試し、裁く火。
主要な諸言語における、事物を指し示す、固有で真正な名称。
自然の法則と聖なる聖書の証言にかなう、哲学者たちの正統な一致。
手仕事の術。神の恩寵によって私に与えられた賜物に応じ、あるものは私自身のものであり、あるものは他の人々から私のもとに伝わったものである。
注 DEI grat: dato の略記の展開は文脈に基づく。
自然の光に忠実にかなう、師の伝承。
われわれのこの土星的マグネシアから賢者の石を得た、と教えの子らの間で、確かな、学識ある、一貫した証言がなされている者たちの経験。
注 ♄nia は土星記号に語尾を添えた略記で、Saturnia(土星的な)と読んだ。
神の聖書の、神聖にして侵すべからざる、誤りのない書。
正しい使用と濫用との、鋭敏で正統な区別。
自然の神的な刻印。自然の事物の、自然な徴表と呼ばれるもの[末尾の dicta の読みは不確実]。
注 最終語は dicta と読むのが自然だが、細い彫線と語尾が重なるため確定しない。
大宇宙である自然の書における、自然の秩序と連続。神の御意志と制定に従って、永遠に不変である。
賢者たちの多くの秘められた神秘が隠れる象形文字についての、賢明な探究と適用。
光の父なる神によって、聖霊の霊感を通して直接に、あるいは善き天使などを通して間接に、なされる秘密の啓示。
自然の神性と光の、大宇宙的な、真実を語る書。
共通観念、すなわち、われわれの心に神によって書かれた法から、われわれと共に生まれる共通認識と、自然に生じる良心。そこから、良心の証言、誠実な自然の判断、健全な理性、哲学とあらゆる技芸における教説の判断基準、そして確実性の規準が生じる。
注 最下段の石は、左右の文章を水流をまたいで一行ずつ続けて読む。第四行左端の [natura] は像に隠れた部分の文脈的補読。ortæ と Conscientia の形態の不一致は原文どおり。
賢者たちの、自然の普遍的な洞窟。今なお立ち、いつでも、どこでも、存続するであろう。真理に渇く人々のために。
注 洞窟上の開いた本は左右をまたいで行ごとに読む。
私は知恵の塩の強い獅子、自然に三にして一なるもの。第一質料的で、普遍的で、メルクリウス的な族から出て、土星的マグネシアから生まれ、私だけが勝利する。
注 ☿iali は Mercuriali、♄nia は Saturnia の記号略記。Magnesia と前後句の統語関係には曖昧さがある。
賢者たちの象徴的な竜。きわめて賢明で、きわめて秘められた世界霊。それによって万物は魂を与えられ、生かされ、生成され、再生され、保たれる。
注 竜を巡る帯と盾の銘。Mundi に続く属格形は原文のまま。
すべての者に同じ一つを、というわけではない。
注 中央の水流に沿う斜めの銘。
メルクリウス〔水銀〕、太陽〔金〕、月〔銀〕、土星〔鉛〕などの錬金術記号、および円・十字・星型の記号。
注 中央の積み石に刻まれた記号群。非言語的記号は原図で確認できるよう列挙した。形だけでは対応物質を一意に決められない記号の名称は推定しない。
ヤー[読み不確実]。[十字型記号]。[…]『円形劇場』[略記不確実]34および45。一つの[以下は確実に読めず、訳を保留]。
注 頂上の卵状の多面石。黒い彫線が文字を横切る。右面の連続句を EX VNICO VNIVERSA とする先行の仮読は、字形に十分な根拠がなく撤回した。確定できる参照数字と読める断片だけを残した。
眩惑の霊。[語頭不確実]おしゃべり屋。靴屋は靴より上を批評するな。AB[…]16[数字不確実]。
注 左の飛ぶ悪魔、鳥人の頭上、最左人物の前垂れ、右人物の脚にある小銘の順。最後の脚の字は布の折れで途中が隠れる。
これだけは確かに知っている。糞と争えば、勝っても負けても、いつも私が汚される。他人の無知に耐えられる者の熟練は、大きい。妬みで破裂しそうな者は、そのまま破裂するがよい。
大事において、多くの人を喜ばせることは難しく、万人を喜ばせることは、この上なく難しい。自分があることを知らないからといって、誰かがそれを知っていることまで否定してはならない。理解でき、知恵を持てる者は、理解し、知恵を持つがよい。できない者は、黙るか、学ぶか、去るか、あるいは今のままでいるがよい。
ある者は重んじ、別の者は軽んじて嘲笑し、第三の者は考察する。それがどうしたというのか。各人は、自分が理解する仕方、あるいは自分の心情の向かうままに、判断するのだ。
すべての者、一切の者、全体としても一人一人としても、過去・現在・未来の者、すなわち、死んだ者、ここにいる、あるいはここにいない生きた者、また将来の者、いかなる家柄、身分、地位、境遇の者であろうとも、彼らを正当に軽んじるために。私がここで指しているような者どもについては、後に述べることから明らかになるが、私は全員合わせても、いつでも、一息ほどの価値すら認めない。まして一アスの価値など認めない。彼らは、あるいは愚かな無知から、あるいは悪魔的な妬みから、あるいは生まれつきの、もしくは悪意をもって身につけた、放埒で抑えの利かぬ中傷欲から、あらゆる嘘と嘘つきの父である不浄な悪霊に駆られて、私自身、私の良き評判、そして、ヤハウェに讃美あれ、真に神智学的・哲学的な私の著作に敵対している。これらの著作でモモスは破裂するがよい。反対者は、神智学的・哲学的に反証してみせるがよい。さらに、神の栄光と隣人の利益に最大限向けられた、私の神智学的・哲学的な労作にも敵対している。これらの労作は、聖なる聖書と自然の神性と光、さらに賢者たちの伝承・教説・定め、ここに記した十五項目に、正統に据えられ、基礎づけられている。これこそ、神の配慮・秩序・制定によって堅固にされた、私の教説の基礎なのである。
注 下縁の献辞前半。多くの鼻音省略線と q; を展開し、行末ハイフンを接続した。原文の長い構文は56番へ続く。
彼らは哲学者らしくも、ましてキリスト者らしくもなく、むしろ醜い狂乱者の仕方で、中傷する舌の毒をもって残酷に罠を仕掛け、邪悪に誹謗するのである。確かに私は、神学者や哲学者のもとで、真に神学的、あるいは哲学的な仕方によって反論し討論することを、かつて一度も拒まなかった。今回もそれを避けてはいない。ここに、普遍的なこの応答を、一度かぎり、永久のために提示する。各人はここから自分に向けられた個別の答えを認めるがよい。これに関して彼らは、これで片をつけられ、答えを受け取ったものとせよ。そうでなければ、いったい、いつ争いは終わるのか。忠実な教えの子らはみな、きっと真理に賛同するはずだ。文字と図像の双方によって、攻撃のためでなく、防御のために、これを提示する。必要があるときに、すべての善き人、すべての誠実な正直者に許され、認められる、最も正当な反駁の権利も同時に用い、前記の者どもに、より正式な仕方で対処するのである。これほど多数で甚だしく、ほとんど数えきれない中傷者の群れのただ中で、しかも何度も傷つけられ、挑発されて、私、ライプツィヒのハインリヒ・クンラート、神智学の忠実な愛好者、両医学博士は、やむなくこれを提示することを余儀なくされた。驚くべきことではない。最善のものはいつも少数者しか喜ばせず、今日では中傷から安全なものはほとんどないのだから。永遠の言葉の受肉から1602年。
注 55番に続く献辞後半。IVRE quoaq; の中央の略形は不明瞭。「神智学」「神学」はそれぞれ Theosophia、Theologia を区別した。
私はあまり高ぶりたくはない。しかし黙っているつもりもない。
すべての愚か者を一人残らず賢くしようとする者は、大変な仕事を抱え込むことになるだろう。そもそも、誰にそんなことができるのか。この私、博士ハインリヒ・クンラートにそれができるとか、そうすべきだとかいうことは、なおさら言うまでもない。
יהוה〔ヤハウェ〕。神性とともに光があり、光のうちに神性がある。

唯一真なる永遠の知恵の円形劇場の門。
あらゆる石を動かせ。
注 「あらゆる手段を尽くせ」を意味する諺。原図はアクセントなしの大文字。
神託。
聖霊の衝動によって。
注 分かち書きされた岩の小銘。先頭語の末尾はやや不鮮明。
汝自身を知れ。
注 洞門周囲を巡る銘文。
三にして一。
注 原寸画像で再確認したが、岩の三行の文字は斜線に埋もれ、TRI / VNI / VM のようにも見える。TRINVM VNVM の読みに確実性はない。三一性を指す意は保持した。
自分自身と共に、ひとりであれ。ただし、孤独にならぬように気をつけよ。
かの神的魔術的・大宇宙的・普遍的な修練場の略図。これは自然の大きな公共競技場であり、ヤハウェ・エロヒムが、すべての者に、あらゆる者、一人ひとりの者に惜しみなく築かれたものである。ここでは、天、星、大地、海、水、石、植物、動物、鉱物、金属を通して、さらには海の胎内、地の内部や表面、あるいは天の下に生まれるすべてのものを通して、自然の神性と光が、驚くべきヤハウェの驚異をなす知恵を、倦むことなく教え、公に明らかにする。この知恵は、全能の神の全能なる指によって作られた、自然という普遍的で大いなる書物に刻まれている。自然の神性と光は本質的・実在的に存在し、永遠の知恵の賢明な火花として、自然的魔術によってこれを顕す。
教えの忠実な子らの忠実な父祖・先達、古代のマギ、賢者、哲学者は、みな、はるかな昔から、さまざまな努力をもって、この修練場の長さ、幅、高さ、深さのすべてを探究した。彼らには世界そのものが書物、その各部分・各領域が頁、その無数の実りが文字と言語であった。彼らは、自然という大いなる世界の書を、高く、深く、広く学び、驚嘆する者たちであった。唯一真なる神智学的哲学に忠実な学徒たちは、今日でも、神の権威と賢者たちの模範に従い、知恵と忠実さをもってここを訪れることを恥じない。しかも、それは決して無益ではない。
すなわち、神の恩寵によってエロヒムの神性と光を天から吹き込まれ、照らされつつ、彼らは祈り、働きながら、精神、理性、感覚を通して、ここから知を汲み取るのである。一方では、神的自然の印章、すなわち象形的な特徴を通して。これらによって事物そのものが人間にカバラ的に語りかけ、自分が何であるかを説明する。他方では、きわめて鋭いウルカヌス的解剖を通して。こうして、この世界的宇宙のうちに賢明に顕された、唯一真なる永遠の知恵の、堅固で完全な認識を、自然的にも、自然を技術によって扱う仕方でも、あたかも哲学の最も澄んだ泉から汲み取る。それにより、彼らは単に推測する者ではなく、知る者として、真正な自然研究者、真の哲学者になる。すでに多くの者がそのようになり、今もなり、これからもなる。
この正統で真に神智学的な哲学の方法によって、私たちは被造物を通して、自然という明るく澄んだ鏡を見るように、創造主を、すなわちその永遠の力と神性を見て知ることができる(ローマ1章20節)。また、創造主が遣わしたイエス・キリストを、私たち自身を、さらに自然の神性と光の尽きることのない宝を、自然学的・哲学的に見て知ることができる。こうして、それらによって、いつでもどこでも正統に、賢明に哲学し、善く生き、幸いに死ぬことを学ぶ。片目しか持たぬ詭弁家たちには、これは不可能である。これこそ、いっそう純粋な哲学の頂点である。中傷者よ、恥を知れ。考案者は、ライプツィヒのハインリヒ・クンラート、神智学の忠実な愛好者、両医学博士。メシアが遣わされてから1602年。
注 IEHSV[M] の語末は画面の継ぎ目付近でやや不鮮明。文法上は対格 IESUM に相当する。
神の霊感なしに、かつて偉大な人物となった者は誰もいない。
注 天井梁の銘。右端の FVIT は不鮮明で、文法と見える字痕により補った。

このように、万物。
注 祈祷幕屋の円錐頂部。見える IC / NIA を、斜線下の字痕と303頁の同じ銘との照合により SIC OMNIA と補読。補った字を角括弧で示す。
祈祷所。יהוה〔ヤハウェ〕を助言者とする者は幸いである。
חכמה〔ホクマー、知恵〕。א〔アレフ〕。H・V・N・R[ほかの文字は不鮮明]。
注 幕屋庇の銘。垂れ飾りのラテン文字列は一部だけが正面を向く。著者名を想起させるが、見えない文字を補わない。
このことに励む者には、神自身が共におられる。
注 幕の縦方向の文字を下から上へ読んだ。
光なしに神について語るな。
祈りが煙のように立ち昇れ。神に受け入れられる捧げ物として。
ヤハウェは、ご自分を畏れる者たちの願いをかなえてくださる。詩篇145篇。
注 祈祷所の右の開いた本。右頁から左頁へ続けて読む。facit と voluntatem の一部の字画は小さく、詩篇145篇19節の句および見える文字との照合による読解。図形を描いた左の本には、確実に読める連続文字列を認めない。
眠りながらも目を覚ましていよ。
試みたことは、いつか成功する。
注 実験炉の横梁。左端は透視図法で隠れ、TATVM 以下が見える。TENTATVM として補読した。
経験。
ゆっくり急げ。
熟成させるべし。
[…]働け[…]。
注 柱の脇の屑籠の銘は斜線と重なり、Labora に当たる字形以外は確定できない。
聖なる音楽は、悲しみと悪しき霊どもを追い払う。なぜなら、יהוה〔ヤハウェ〕の霊は、敬虔な喜びで満たされた心に喜んで宿るからである。
注 食卓前縁の銘。細かい斜線で一部の字画が隠れるが、語句はほぼ確実。末尾は名詞句で動詞を補って訳した。
天の露。アゾート。質料。血。地。メルクリウス〔水銀〕。[その他の容器の略記・記号は判読困難。]
注 棚の容器に付されたラベル。SANG は sanguis(血)の略と読んだ。容器に部分的に隠れる字は補わず、同定不能な物質名は確定しない。
ライプツィヒのハインリヒ・クンラート、神智学の愛好者、両医学博士。神の恩寵により考案。アントウェルペンのパウルス・ファン・デル・ドールトが彫版。H・フリースが描いた。
大宇宙的な、すなわち自然の、術を通して得られる普遍的な最高善。三一なるヤハウェの賜物。一なるものの単純性へ立ち帰った人間に与えられる。大世界の、三にして一なる、男女両性を備えた普遍的な子から、三一の操作において、普遍的に三一である使用と目的へ。

アシュ〔火〕。エロヒム〔神〕。
注 上の光中の אש と、雲中の三角形にある אלהים。母音記号は省いた。
哲学者の石。術が奉仕することによって現れる自然の驚異。普遍的なエリクシル。自らの栄光ある身体における第五精髄。[一部判読不確実]の不燃の塩。賢者たちの石鹸。神智学者たちの普遍的な地。[…]ヤハウェの幕屋。[…]炉[読み不確実]と巣。
注 雲の四段の銘を上から順に転記。第三・第四段の複数字が雲の彫線に重なり、拡大しても確定できない。INCOMBVSTIBILE と TABERNACVLVM は明瞭。IGNVM の先頭に L がある可能性があり、その場合「木」。推測による完全な文への置換を避けた。
この二つから、自然の普遍的で三一なる泉を合成せよ。粘りある深淵、海である。重い水、[lymosa に見える語、泥状のものか]、粘着性をもち、きらめく水、そして普遍的な第五精髄の火花をはらんだ塩気ある[海]。
注 左右上段を囲む弧状の銘。複数の形容詞の語尾と NATVRA の格は不確実。内側の文章は左右の弧をつないで転記した。
エーテル的な霊。天、魂の座。それとの結合へ向かう、[imperitur の読み不確実]純粋な火、すなわち、われわれの硫黄。同質のものを集め、異質のものを分ける。精妙で純粋な空気、普遍的メルクリウス、最も清らかな天の露。それは自らの起源から絶えず灌漑することによって、地と[記号で示されたもの]を[一部の語形不確実]豊穣へと時々刻々育てる。流動して不安定な実体を希薄化し、その運動に[一語不確実]の敏捷さを与え、あらゆる混合を容易にする。
注 左上の点刻地の文章。im-peritur に見える語、中央の記号列の後、終盤の motus と agilitatem の間は判読不確実。丸に横線などの記号を通常の物質名へ決めつけて展開していない。
白い鷲の粘着性の水。われわれの普遍的な王のための泉の水。天を引き寄せる地上の磁石。[動詞の読み不確実]、下なるものと共に上なるものを。大世界の母胎、すなわち子宮。その中で、ルーアハ・エロヒム〔神の霊〕は、天を媒介として宿り、身体となった。そしてその光が自然的・化学的な再生によって顕現するとき、エーテル的な霊、すなわち天を媒介として、塩の魂を、受胎と身体の[一語不確実]のために求める。女性の種子ベヤ。霊的な月。ルナリア。
注 右上の波線上の文章。中ほどの manifestur に見える語と、sal-is 以下の構文は不確実。原図では句の一部が人物の羽の下へ隠れる。RVAH ELOHIM はラテン文字によるヘブライ語の転写。
生命の水であって、葡萄の水ではない。礬質で火性の水、そして水性の火。われわれの石の揮発性の部分。その塩を再び注ぎ入れると、普通の腐食性の水や火よりも自然な仕方で、いっそうよく物体を溶かし、結合させる。哲学者たちのメルクリウスと硫黄。湿った蒸気と、効力のある息。粘着性で脂性の、[ropiosa と見える形容詞]実体。塩の凝固のために、穏やかな混合によって、すなわち特に硫黄の働きによって、[調整される、語形不確実]。最も鋭い酢、そして賢者たちの[星形記号]。
注 左下長文の前半。vitriolina は原綴。ropiosa は copiosa(豊富な)の可能性もある。proprò に見える語および temperas の語尾は明瞭でない。星形記号は名称未確定。
それは、われわれの少し酸味のあるエーテル的な霊であり、われわれの硫黄の中にある魂、すなわち大世界の魂の普遍的な火花、普遍的自然の火花である。それは魂を与えられた、真に普遍的な霊であって、自らの魂を失った身体を、適切な洗浄によって清めたのち、再び魂づけ、生かす。われわれの赤い、普遍的な葡萄酒。これは大地の血であり、聖書にもあるように、その中に魂が宿る。さらに、[語不確実]透明で明るい水、清められたアダム。美しい王。男ガブリキウス[綴り不確実]の種子。ソラリアと[SOLI ARIÆ の語形不確実]。その哲学者たちのメルクリウスと太陽は、何物にもまして輝く。銅。われわれの金、それも飲むことのできる金。俗人の水銀など遠ざけよ。七度[記号]された、われわれの金、調理され清められた哲学者の[記号]。自らの身体の飾り。
注 左下長文の後半。地球図と雲の端で数語が狭められる。Gabricii、SOLI ARIÆ、および末尾の錬金術略記は不確実であり、既知の定型句を無標示で補っていない。☿=メルクリウス、☉=太陽。
処女の普遍的な地。すなわち、個別的な自然ではなく、普遍的な自然の地。白く純粋なもの。全体の中心。これが発見されると、鋭敏な探究の労苦によって、あらゆるものが克服され、幸いにも掘り出される[原文構文には不確実な点がある]。乾いた、葉状の、疎なもの。われわれの石の固定された部分[Aeris の接続は不確実]。凍結させ、凝固させ、固定するもの。大地の塩。自らの緑によって、あらゆる不毛のものを豊かにする普遍薬。術の芳香物。そして賢者たちに共通のもの。これは、手を濡らさない乾いた水である。霊も魂も持たない貴重な身体。不純で余計で腐敗可能な、卑しく偽りのものから解放されたもの。その卑しいものは、分離の終わりに黒くなるのをわれわれは見た。これは堕落のために、最初に造られた者に付着したもの、すなわち、耳の聞こえぬ、死すべき、呪われた地のことである。
注 右下長文の前半。CENTRVM の後の構文、Aeris と FIXA の関係には判読上の疑いがある。fœundans は c を欠く字面だが、文意は fœcundans。
注 原寸高解像度画像の独立再照合により、ギリシア語をτῷ πρωτοπλάστῳ(最初に造られた者に)と読んだ。アクセント・下書きイオタは通常の綴りに整えた。他の文の不確実箇所は保持。
自らに固有の生気の発酵素、その固有で生きた受容器と種床。自らの不滅で不死の魂の、この上なく快い小庭であり、地上の楽園。白化したラトン。われわれの普遍的な葡萄酒の酒石。哲学的な焼成の燃焼によって、最高度の白さに変えられた普遍的なもの。洗われたエヴァ。美しく麗しい女王。ベイア。輝く月。ルナリア。生きた銀[語形不確実]。そして哲学者たちの、最も秘密にされた土星。
注 右下長文の後半。銀の前は viva または viva の略形に見える。一般的な argentum vivum(水銀)の定型句へ勝手に置き換えず、疑いを示した。
ああ、祝福された緑よ。アゾート。粘着性と油性をもち、永続する湿気。処女たちの乳。組み合わせよ。固定せよ。レビス〔二つのもの〕。万物。溶解せよ。凝固させよ。
注 孔雀、双頭像の周囲・首・胸・両腕の銘。
[左の水流上の小銘は一部不確実]私の獣[…]。飛ぶ竜、死なないもの[…]、その兄弟と共に[…]、叫ぶ。「お前を貪り食う」。[右の水流上の小銘]固定された、困難に[…]。竜の姉妹は、恐れず答える。「私も代わりにお前を食う」。
注 左右の噴流は彫線と文字が重なり、上の短い湾曲銘に複数の不確実箇所がある。下の発言 TE DEVORO / TE VICISSIM VORO は明瞭。DRACO の説明の連続した語を確定できない箇所は省略記号で明示。
第一質料。火。空気。水。地。作用する本質。作用を受けるもの。分離せよ。溶解せよ。魂。霊。身体。抽出せよ[綴りの一部不確実]。精製せよ[略記]。[ヒュレー=質料か]。[記号と神名らしい文字列]。世界もまた、火によって新たにされるであろう。
注 人物が持つ同心円内の全文字を、外周から内側、作用語の順に列挙。HYLE と YA の続きは彫線に埋もれており、後者を確実な神名としては扱わない。記号は硫黄記号と曲線状の文字記号。
ルーアハ・エロヒム〔神の霊〕[括弧内と続く略記は判読不確実]が、水の上を覆っていた。天。形なく空しい地。水。暗黒の深淵。最初に創造された存在。カオス。三にして一なる普遍的なもの。
注 下部の暗い球の外周から中心へ読む。ラテン語の略記二箇所を推測で補わなかった。
ライプツィヒのハインリヒ・クンラート、神智学の愛好者、両医学博士。神の恩寵により考案。アントウェルペンのパウルス・ファン・デル・ドールトが彫版。
יהוה〔ヤハウェ〕。原型。唯一のものにおいて。

永遠であり、畏るべき方。真実であり、嫉妬する方。最も偉大な方。正しい方。忍耐深い方。強い方。憐れみ深い方。ただ一人、知恵ある方。慈しみに富む方。最も善く、すべてをご覧になる方。
注 天上の光線内の十の神的属性を左から右へ列挙。
神への畏れ。節制。謙遜。正義。忍耐。剛毅。慈悲。賢慮。慈愛。貞潔。
悪を捨て、三にして一となった[語形不確実]、精神と火から成る普遍的なアダムは、再生することによって昇華されるがよい。
注 徳目の下の横線上。triu[n]unitus の中央の綴りと MENTIGNEVS は造語的であり、triununitus の字形は確定しない。MENTIGNEVS は mens(精神)と igneus(火の)を結ぶものとして訳した。
ただイェホシュア〔イエス〕だけが、その書物を受け取り、その封印を開くにふさわしい。ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ。
注 左上の開いた本。下には七つの封印。
律法の書に記されているすべてのことを守り続け、実行しない者は、みな呪われる。申命記27章。
二なるものが退けられるがよい。すると三なるものは、四なるものを通って、一なるものの単純性へと導き戻されるであろう。
注 外周の大文字の一周分。小文字の別の文は238番。
ヤハウェが父であり、十字架につけられたイェホシュア・キリストが兄弟であり、聖霊が友であられるように。神はご自身の玉座に、すなわち、三にして一となり、再生され、真に普遍的な者となったあなた自身のうちに、座されるであろう。
注 大文字の外周文の下に巡る小文字の一周分。
信仰。黙想。認識。愛。希望。祈り。結合。絶えざる交わり。親密さ。相似。一致へ至る梯子。
注 中間の環を右上から時計回りに読む。SCALA VNIONIS は小さな十字枠に分けて S/c/a/l/a/Vn/i/o/n/i/s と記す。
対象。媒介。外的感覚。内的な共通感覚。表象力。下位の判断。上位の判断。理性。知性。精神。認識の諸段階。
注 内側の環を右上から時計回りに読む。GRADVS COGNITIONIS は小さな十字枠内に分割された文字列をつないだもの。
粗布と灰の中での悔悛によって溶かされ、さらに神の恩寵によって取り除かれた塵から、燃える涙の普遍的な水を、十字架と苦難の火に即して、忍耐強く抽出せよ。再生の状態へと。
注 四角の右辺の銘。regenerationis Statum とその前後の統語関係は不確実。ignem は字形に従い、既知の定型句で改変しない。
新たな従順の水から、聖霊のうちで、神の愛という福音的で生命を与える火によって、断食の中で敬虔に消化され、賢明に溶かされた水から、分離することによって、霊的な空気が引き出されるがよい。それは慈愛の火に生かされた、澄みきった信仰の空気である。そして。
注 四角の左辺の銘。ad separando はそのように見えるが、原文の語形として不確実。語順は原図を保ち、日本語では関連する修飾をまとめた。
アダムという小宇宙、男女両性を備え、その形成においても本性においても普遍的であり、すべての点で地上的で、罪のために卑しく不浄となったものを、十戒という炎の悔恨の杵によって、粉状の土塊へと、反射熱で打ちながら解体せよ。その土塊は、回心の豊かな塩によって緑を生じる。
注 四角下辺の銘。折り目が androgynum、vilem、CONTRITIONIS、CONVERSIONIS、exolvito の一部を隠す。見える前後と語形による補読。pulveram は pulver[e]am の可能性がある。
人間の目的、真実にして最高の善は、父であり、兄弟であり、友であるヤハウェを享受すること。永遠のヨベル、大いなる安息日である。
注 三角形の外側の三辺を上から右回りに読む。
緑の霊の線。カバラ学徒たちの身体。宇宙を旋回する魂。
注 三角形の輪郭文字。底辺の CABALI / STARVM は CORPVS をはさみ、CABALISTARVM を成す。
まず神の国とその義を求めよ。そうすれば、これらすべてはあなたがたに加え与えられる。
人間。[額の文字はタヴと見える一文字のほか、折り目に隠れている]。[…]祈れ。働け。[再生された、か][キリストにおいて、か]。霊。ヤハウェの知恵によって燃え立たせられた[…]。[われわれの、か]、そして[全体の、か][…]。[撒き散らすことに関わる語か、判読不確実]。[…]その方の、そしてその方に倣う者。神を畏れ、その命令を守れ。
注 中央の三面・両手を挙げる像。中央の縦折れが顔・胸・胴の文字を実際に遮る。判読できる左右の字だけを保存し、神秘的図像の定型から全文を創作しない。像の周囲の点線の帯も含む。
ライプツィヒのハインリヒ・クンラート、神智学の愛好者、両医学博士。神の恩寵により考案。アントウェルペンのパウルス・ファン・デル・ドールトが彫版。
י/יה/יהו/יהוה〔神名を一文字ずつ展開した四段の配列〕。万物。
注 上端の三角形内の四段。通常の散文ではないため配列として示した。

エーン・ソーフ。限りなきもの。
エヘイェ〔私はある〕。ヤー。ヤハウェ。エール〔神〕。エロヒム・ギボル〔力ある神〕。エロア〔神〕。ヤハウェ・ツェバオト〔万軍の主〕。エロヒム・ツェバオト〔万軍の神〕。シャッダイ〔全能者〕。アドナイ・メレク〔主なる王〕。
注 中心の周囲に置かれた十の神名。母音記号は省いて転記した。第三名の周辺字画は光線と重なり、他の文字を含むかどうか確定できない。
イェホシュア〔イエスを表すキリスト教カバラの五文字神名〕。
注 五文字は内側の輪に別々に配される。ここでは一続きに示す。
ケテル〔王冠〕。ホクマー〔知恵〕。ビナー〔理解〕。ヘセド〔慈愛〕。ゲブラー〔力〕。ティフェレト〔美〕。ネツァハ〔勝利〕。ホド〔栄光〕。イェソド〔基礎〕。マルクト〔王国〕。エメト〔真理〕。
注 雲間の十のセフィロト名と、下部の光円内の「真理」。
タルシシム[読み不確実]。聖なる生き物たち。車輪〔オファニム〕。アラリム。ハシュマリム。セラフィム。御使いたち。エロヒム。神の子ら。ケルビム。イシム〔人々〕。
注 十戒の区画の内縁に記された十の天使階級名。第一名の直前にある字痕は隣の区画と重なり不確実。
注 第一の区画の内縁には חיות הקדש の前に תרשישים と見える文字列がある。別名または重なった文字列の可能性があり、疑問符を付して追加した。
アレフ、ベート、ギメル、ダレット、ヘー、ヴァヴ、ザイン、ヘット、テット、ヨッド、カフ、ラメッド、メム、ヌン、サメク、アイン、ペー、ツァディ、コフ、レーシュ、シン、タヴ。
注 ラテン語の環状銘の内側に巡るヘブライ語二十二文字。文字名を訳文として示す。
心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛せよ。また、隣人を自分自身のように愛せよ。
このしるしによって、あなたは勝つ。まことにこの方は神の子であった。
注 中央の人物を囲む銘。語順は円を巡って読む。
私はあなたの神ヤハウェ、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。私のほかに、他の神々を持ってはならない。
注 外周の第一の区画。母音記号を省いた。
自分のために、上の天、下の地、また地の下の水にあるものの彫像も、いかなる像も作ってはならない。それらにひれ伏しても、それらに仕えてもならない。私はあなたの神ヤハウェだからである。
注 第二の区画。聖書本文の続きを図にない語で補わない。
あなたの神ヤハウェの名をみだりに唱えてはならない。その名をみだりに唱える者を、ヤハウェは罰なしには置かれない。
安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働き、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神ヤハウェの安息日である。
注 第四の区画は本文を短く抜粋する。放射線と文字の重なりのため、一部の綴りは聖書句との照合により読んだ。
父と母を敬え。あなたの神ヤハウェが与える地で、あなたの日々が長くなるためである。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
隣人に対して偽りの証言をしてはならない。
隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、また隣人に属するいかなるものも欲してはならない。
ライプツィヒのハインリヒ・クンラート、神智学の愛好者、両医学博士、神の恩寵により考案。アントウェルペンのパウルス・ファン・デル・ドールトが彫版。
俗なる者たちよ、ここから遠く離れよ。すべてのもののうちに、すべてのもの。

一。身を洗え。清らかになれ。
二。ヤハウェを、万物を生み出す唯一の方と認めよ。それ以外の諸力は、奉仕するものと認めよ。
三。至高の第一者には誓願と祈りを捧げ、下位の者たちには讃歌を捧げよ。
四。もし願いが下位の者たちに向けられることがあるとしても、第一者から委任された奉仕という仕方においてでなければ、そのような意図を持ってはならない。
五。われわれからヤハウェへ、またそこからわれわれへと飛び交う天使たちは、崇敬と畏れの対象であるべきである。
六。彼らに対しては、知られた証しに従い、喜んで従順であれ。
七。あなたがたがこのように神秘を扱うために来た聖なる事柄は、ふさわしい者には明かされ、俗なる者には隠されてあるべきである。
これは確かに、真に神的な神秘である。見る者すべて、とりわけいっそう深く見る者を、それに対する驚嘆と愛へと、当然ながら引き込むものなのである。
注 左側の二つの大きな岩にまたがる文章。
ヤハウェが与えてくださるならば、善く意志し、知り、なしうること、そして存在すること。
唯一真なる永遠の知恵の円形劇場の門。これは確かに狭いが、十分に荘厳であり、ヤハウェに捧げられている。それゆえ、この門へは、その神秘の梯子、すなわち、この書の前に置かれた序説の梯子、ここで図像によって示された、七つの神智学的段階をもつ真に哲学的な梯子を通って昇る。その上昇を行うのは、ただ忠実な教えの子らのみであり、父なる神による、直接の、純粋に神的霊感による牽引によっても、さまざまな媒介を通した牽引によっても行われる。中傷者には唾を! そして、このように神の息を吹き込まれた者たちにのみ、門前に輝く七つの神託の法に従って、中へ入る機会が与えられる。彼らは身体と精神の目によって、キリスト教カバラ的に、神的魔術の仕方で、さらに自然学的・化学的に、創造主の知恵、善性、力がどのようなものであるかを見、観想し、問い究めることができる。それは、彼らが詭弁的に死ぬことなく、神智学的に生きるため、また、このようにして、神と自然から教えを受けることによっても、正統な哲学者となり、純正な哲学をもって、真に哲学的に主の業を語り、かくもご自分の友である彼らを幸いにしてくださった神を、ふさわしく讃えるためである。建立者は、ライプツィヒのハインリヒ・クンラート、神智学の忠実な愛好者、両医学博士。イェホシュア・キリストの誕生から1602年。
注 下縁の献辞全文。ギリシア語の大文字小文字・アクセントは判読可能な範囲で通常の綴りに整えた。原図の Theosophicè と Sophisticè の対照を訳し分けた。
銀を金へと変成させる特殊な処方。同じ鉱物の赤い油、華、ガラスのティンクトゥラから作るというもの。恥辱。
注 外環の最上部から時計回りに420番までを読む。☽・☉・☿・♄ などは図の錬金術記号を可能な範囲で転記。☽=月/銀、☉=太陽/金。Minereæ の語形は不確実。

水銀[記号略記]の固定。こちらの粗い水銀を金にするというもの。また鉛を金にするというもの。ふん、まったく的外れだ。哲学者たちの[記号で示された物質]は、これらとはまるで別物なのだ。実りのない自信。
注 水銀記号に付いた小文字と、Philosophorum の前の一連の記号は確定できない。これらを具体的な物質名として創作していない。
普通の水銀を、普通の仕方で凝固させて、銀または金にしようとすること。欺瞞。
部分と部分の混合。あらゆる試験で、良質のクラウン金貨またはハンガリー金貨の金として通るはずだというもの。しかし、真理の術をまったく欠いている。詭作。
自然学者たちのカトリコン、すなわち普遍薬、いや、愚かな連中の言い方をすれば、多数の「普遍薬」。それは、植物から作る多種多様な変成のティンクトゥラで、水銀を銀または金にするという。たとえばクサノオウ、モウズイカなどから作るというもの。[末尾のドイツ語二語は判読不確実]。誤った空想。
注 Chelidonia と Wullkraut は植物名。末尾は大字で記された罵倒句らしいが判読未確定。
銀を金にする特殊な処方。さまざまに調製された硫黄を用い、[単位記号]から二、三、四、さらにはもっと多くを得るという。賢ぶる者たち[語の読み不確実]がそう望むならば。親愛なる諸君、変成させることと分離することとの区別を学びたまえ。そうすれば、混乱から抜け出せる。粉飾。
注 原寸から正立させて再照合し、独語部分の全体を確定した。数量の前の単位記号と Soph[o]nes に見えるラテン語の一語のみ保留。
偽哲学的なホムンクルス。悪い使い魔の助力によるもの。絶望。
変成をもたらすティンクトゥラ、エリクシル、さらに特殊な処方。金属のアマルガム、銀と金を水銀と合わせたものから、または、しばしば[記号]された甘い[物質]とその水から。あるいは、銀や金などの金属体から取った、身体を与えられたメルクリウスから。あるいは[記号を付した水銀]と共に、作るというもの。思い上がった思い込み。
注 金属記号の連鎖と Dulci に係る記号の名称は未確定。通常の化学操作を推定して補わない。
金を銀へ導入すること。鉄のクロッカス[記号不確実]、赤鉄鉱などから、入っただけすべてが金になるという。ただ溶解と反応[語の展開不確実]に何かが不足するだけだという。また、固定した金、普通の石灰、滑石、柘榴石、そのほかのさまざまな物質からも作るという。そうとも、もし銀や材料が力に耐えられるなら、君もきっと分離できるだろう。誤謬。
注 導入される金属の記号、中心のドイツ語の動詞二箇所、および calch. の略記は不確実。末尾 sch[ei]den は見える前後による補読。
変成用の粉末、そして、好き勝手なセメント処方。銀から金に、各[単位記号]につき二、三ロート、あるいはそれ以上を作るという作業。また、ライン金貨を、目減りなしにクラウン金貨やハンガリー金貨の金にするという。さらに[一部判読不確実]、削り屑、亜麻布などを、銀や金の液で染み込ませ、焼き尽くすことによって、銀または金にするという。混乱。
注 ロートは当時の重量単位。sproße、probe に見える二語と、その前後の字形は未確定。
普遍薬、いや、多くの、さまざまな「普遍薬」、すなわち、白と赤へ変成するティンクトゥラ。鉱物から、たとえば[各種の鉱物記号]や金などから、あるいは鉛などの金属から、さらに偽マグネシアから、またはメルクリウス化された銀や金から作るという。それらを第一質料に還元することもなく、第一質料と、自然的な再生による完全性を超える完成を経ることもなく、作るというもの。空しい希望。
注 鉱物記号列は同定不能な形を含む。per Materiæ primæ 以下の格の接続は原図でも圧縮されており、不確実。
階梯化と固定化の水、霊、塩、鉱物の水を用いて、銀を金にするというもの。また、[記号]、あるいは金のアンティマ[語形不確実]によるもの、または[記号]の霊から作った赤い金の結晶によるもの。そのほかの詭作的な金の溶液や、腐食性の霊のさまざまな浸透作用によるもの。さらに、[一語不確実]の形で、銀の[記号]の円錐から金を作るというもの。詐欺。
注 Antimam は Animam(魂)の可能性がある。Spiritu の後の省略と末尾のドイツ語一語は確定しない。
普遍薬、いや、多くの、さまざまな「普遍薬」、すなわち、銀や金への変成用ティンクトゥラ。人間全体、または動物、その部分、あるいは排泄物から作るという。たとえば、血、精液、尿、糞、汗、後産、卵、蜂蜜などから。空しい夢。
白と赤へ変成させると称する、あらゆるティンクトゥラと特殊処方。それらは、普遍的根源から自然にかなって生じるものではない。また、ガラス製の宝石を、本物として扱うこと。無知。
注 ☉ の置かれた箇所と、GLÆSASTICHE の綴りは原図に従う。ドイツ語とラテン語を掛け合わせた造語を「ガラス製の」と訳した。
固定した銀。それが金になるように、セメント処理、あるいは固定の水と呼ばれるものによって、溶融中に処理するという。最後には[ドイツ語の操作名二語が判読不確実]によって、溶融中に、またセメント処理によっても金を得ようとする。金銭の喪失。
注 Da werß、Gratulieren、Augeres に見える語は確定できない。末尾 erkalten は erhalten(得る)の可能性がある。
増量。すなわち、普通に水銀と呼ばれるものや、その[記号]から金を増やすということ。粗製のまま固定したものを、単独で、あるいは鉱物の蒸留水や霊によって、あるいは学識者たちの[逆三角記号]によって、沈殿させ、固定し、添加と浸入によって増やすというもの。無駄な労苦。
注 第一行以下の数個の鉱物記号は確定不能。Der は per の誤読または古い字形の可能性がある。
鉱石、あるいは濃縮物。金属と称するものを添加して作ること。欺き。
銅を銀に見せる白化、さらにそれを銀として固定すること。また、赤いものを金に見せること。虚偽。
注 ♀ は金星/銅の記号。pro ☽ の後の語順と括弧は、湾曲した行を接続して示した。
辰砂を加工して銀または金にしようとすること。しかし、むしろ覚えておくがよい。美しく輝くものが、すべて銀や金なのではない。この仕事を進めるなら、[一語不確実]、それが何であるかを正しく確かめよ。愚かさ。
注 ドイツ語の wille、vogel、lehn に見える語の字形は確定できない。文意の近い格言に置き換えず、疑いを注記した。
鴨を蒸留焼成することと、乳清を使う作業。また、バジリスクを焼いて、銀を金へ変成させるというもの。貧困。
注 Enten と Molchen の語頭はやや不鮮明。ドイツ語の古綴りを保存。
哲学者の岩。それは大世界の子であり、自然の偉大なるパン〔すべて〕である。その仲間たちにもまして、可溶の知恵の塩と、不燃の治癒の油で塗油されている。すなわち、人間、植物、動物、鉱物、金属、石、いや、あらゆる物質的事物の普遍的医薬である。自然の火の種床を持ち、生ける水、幸いなる生命へと湧き上がる生命の水の脈を持つ。それは自然の中における、イェホシュア・キリストの象徴的な像である。この唯一の岩の上に、自然の光の神性は、スパギリカ的に、かつ正統に哲学する人々の、普遍的な集いを築いた。この救いは、それ以外のいかなる自然の存在の中にもない。詭弁家たちの門も、この岩に勝つことはない。
注 中央大銘は左右の段を一行ずつまたいで読む。qui と PETRA の文法上の性の不一致は原図どおり。医学的効能を述べる部分は著者の錬金術的・神学的主張の翻訳。
私、第一質料的で普遍的な哲学者の石なしには、術の子らよ、あなたがたは何もなしえない。私、大いなるエリクシルは、あなたがたにとって道であり、真理であり、生命である。なぜなら、普遍的医薬について、誰も、すでに置かれたもの以外の基礎を据えることはできないからである。その基礎とは、かの偉大なる神であり、われわれの救い主であるイェホシュア・キリストの、自然の大いなる書の中における、象徴的で自然的な、大いなる像である。
長い日々。栄光。富。財宝。[A・Ωのような字、および三角形内の記号。]
注 中央上部の竜状像の左右の羽、頭、尾の小銘を収録。記号の一部は折り目と重なる。
腐敗させることによって。[尖端内の小文字は不確実]。アゾートの量。配合。増殖。[REVER で始まる操作語、末尾不確実]。精製。火の神ウルカヌスと海の神ネプトゥヌスの仕方で。発酵。普遍的な石を特定化すること。溶解。[末尾 ANDO の操作語]。投射。適用。
注 星形堡塁の六つの尖端と二つの下部張り出しの銘。下部左の脇面の操作語は隠れており、COAGVLANDO と推測しうるが確定しない。
アタノール、火[…]。[一部不確実]自然の[…]。[語尾 VS]封印された[…]。
注 中央の星形の内側上辺・斜辺に刻まれた細い文字。ATHANOR と IGNIS、NATVRÆ、SIGNATVS は判読できるが、全周の連続文は線の密集と途切れのため確定できない。
神が望まれるならば。白と赤へのティンクトゥラ。小エリクシル。さまざまな特殊処方。ヤハウェ。[左右の巻物の残る細字は判読不確実。]
注 左右の使者状人物をめぐる巻物。白・赤は錬金術上の完成段階。
すべての人に開かれているわけではない。神智学的に祈れ。自然学的・化学的に働け。願い求めること[語の読み不確実]。そこから作られるべき適切な質料を知ること。正当な質料の調製。信仰。忍耐。善き業[冒頭の読み不確実]。
注 門、門の左右、階段、基部、二本の尖柱、中央台座の順。階段の縦文字と台座の冒頭は折り目・前景像と重なる。
未熟な者たちは、賢者たちが高く評価し、驚嘆するものを嘲笑する。
INRI〔「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」の頭字語〕。IHS〔イエスの名の略号〕。[背景の柱には一字型の記号があるが、語としては確定しない。]
注 右下の円形建物の十字架付き紋章、および左下遠景の柱。ほかの帆・旗・屋根や小人物群には、連続した明瞭な文字を認めない。
第一質料的で、普遍的で、自然的な、最も堅固な城塞の図示。その質料、形相、全構成、そして存在のすべてにおいてメルクリウス的であり、マグネシア、すなわち「マグネス・ヤー〔ヤーの磁石〕」、あるいは「大いなるアエス・ヤー〔ヤーの銅〕」ともいうべきものと呼ばれる。この唯一の城塞の中にのみ、ヤハウェは普遍的医薬、すなわち哲学者たちの普遍的な石、つまり自然の最高善を置かれた。それは神ご自身の善性の恩寵によって人類に差し出され、同時に、無償で、何の代価もなく売り出されている。あらゆる詭弁家たちには、この城塞は永遠に未知であり、攻め落とすこともできない。彼らはこれまで長く、空しくそれを探し求め、いわば包囲してきた。彼らの特徴は、空しいものを愛し、嘘を喜ぶことである。「空しいものをひどく愛し、嘘をたいそう好む」。実践者たちを、この神智学的な試金石に擦りつけてみるがよい。彼らの正体は、鮮やかに明らかになるであろう。
注 下縁の献辞前半。図の語源遊戯 Magnes-IAH / ÆS-IAH を保持。英語や現代化学の語源説明に置き換えない。
この城塞に到達し、それを哲学的に知ること、すなわち、異論の余地なく知り、正しく認識することは、これこそ術の第一の秘密であるが、誰にでもできるわけではない。まして、その純正で最も純粋な、第一質料的、普遍的、メルクリウス的、塩的、三一なる中心に、スパギリカ的に到達することはなおさらである。すなわち、哲学者たちの第一質料的、普遍的、塩的メルクリウスであり、事物の自然の中で、生来の他のものに対し、ただ唯一勝利するものである。それは、知恵、自然、術、そして賢者たちのメルクリウス的な塩である。ウルカヌスとネプトゥヌスの調製という術の第二の秘密によって、それに到達し、それを現実に得て、自然的な再生によって、術の助けをもって、完全性を超える段階へ昇華させることは、誰にでもできるものではない。エロヒムから生まれた賢者たち、神の息を吹き込まれた者たち、そして彼らの教えの忠実な子らのみが、この業のために神から選ばれ、呼ばれ、遣わされている。彼らは、神智学的に祈り、自然学的・化学的に働くことによって、これらは神智学的哲学の修練であるが、第一のもの、または[次節へ続く]。
注 献辞中段。長い文が432番の AMBO へ続く。
真の哲学者たち、すなわち知恵を愛する術の実践者たちにとって、第一のものは、神の御心に従って普遍的医薬へ至る、この卓越した術の、最初の高度に隠された秘密、あるいは始まりである。彼らの第一の関心は、非哲学的な世間が求めるような銀や金の製造にはなく、普遍的なものについて確実なことを知ることにもある。そして、それはいつでもそうであり続ける。事実はこのとおりであり、ほかではない。詭弁家よ、誘惑の霊に駆られて、好きなだけ吠えるがよい。さて、彼らはそれぞれに与えられた賜物に応じて、忍耐をもって、第一のもの、または二つのものを同時に手に入れる。この図は、普遍的な哲学者の石を認識し、さらに神が許されるならば、正しく調製する術の基礎、その正当な使用と真正な実りを、真理の狭く中央を通る道によって示す。同時に、その濫用、その起源、その従者たちを、虚偽の広く外周を巡る道によって示す。これらを図像によって描き、正統に論証するものである。図を制作したのは、ライプツィヒのハインリヒ・クンラート、神智学の忠実な愛好者、両医学博士。キリスト紀元1602年。
注 献辞後半の独語挿入句の構文は長く、im Vniversal wissen の接続は曖昧だが、語を落とさず訳した。Phiticum は哲学的なという略記の展開候補。
ヘルメスの秘義の言葉。

真実であり、偽りなく、確実であり、最も真実である。下にあるものは上にあるもののようであり、上にあるものは下にあるもののようである。それは、一なるものの驚異を成就するためである。
万物が一なるものから、一なるものの思念によって生じたように、万物はこの一なるものから、適応によって生まれた。その父は太陽、その母は月。風はそれを自らの胎内に運び、大地はその乳母である。
全世界のあらゆる完成力の父はこれである。それが地へ転じるならば、その力は完全である。あなたは地を火から、精妙なものを粗大なものから、大いなる英知をもって穏やかに分離せよ。
注 TELESMI は「完成・成就の力」を表す語として訳した。
それは地から天へ上昇し、再び地へ下降して、上なるものと下なるものの力を受け取る。かくしてあなたは全世界の栄光を得る。それゆえ、あらゆる暗闇があなたから逃れ去る。
これはあらゆる強さのうちで最も強い力である。すべての精妙なものに打ち勝ち、すべての堅固なものを貫くからである。こうして世界は創造された。ここから驚くべき結合が生まれる。その方法がこれである。それゆえ私は、全世界の哲学の三部分を有する者として、ヘルメス・トリスメギストスと呼ばれる。太陽の働きについて私が語ったことは、これで完結する。
ドイツ語で。真実であり、偽りなく、確かであり、このうえなく真実である。下にあるものは上なるものに等しく、上にあるものは下なるものに等しい。それにより、人は唯一なるものの奇跡、すなわち驚異を獲得し、実現できる。そして万物が、これを思念した唯一なる者の意志と命令によって、ただ一つのものから創造されたように、万物は、その同じ一なるものから、適切な配置と結合によって芽生え、出て来る。
注 wunderlichen の後は目的語省略を含む初期近代ドイツ語。意味を補って訳した。
太陽はその父、月はその母であり、風はそれを腹の中で運んだ。その養育者、すなわち乳母は大地である。これは、この全世界のあらゆる完全性の父である。それが地へ転じるとき、その力は完全になる。そこで、大地を火から、精妙なものを厚く粗大なものから、十分な慎重さと理解をもって、きわめて穏やかに分けなさい。
それは地から天へ昇り、天から再び地へ降りて、こうして上なるものと下なるものの力を得る。かくしてあなたは全世界のあらゆる栄光を得る。そのため、あらゆる無理解と無力があなたから去る。これは、すべての力のうちで最も強い力である。あらゆる精妙なものに打ち勝ち、あらゆる堅固なものを貫くことができるからである。
注 原寸再照合により、Derhalben の後を werden から weichen(退く)へ訂正した。
こうして世界は創造された。そこから不思議な結合が生じ、さまざまな驚異が成し遂げられる。それらを成し遂げる道がこれである。それゆえ私は、全世界の知恵の三部分を有する者として、ヘルメス・トリスメギストスと呼ばれる。太陽の業について私が述べたことは、すべて成就した。
メルクリウス・トリスメギストス『ピマンドロス』より。私が万物の本性を考え、精神の眼を上なるものへ向けていたとき、身体の感覚はすでに眠っていた。満腹や疲労のために眠りに落ちる人々に起こるのと同じである。そのとき突然、私は巨大な身体を持つある者を見たと思った。その者は私を名で呼び、こう叫んだ。「メルクリウスよ、おまえが聞き、見たいと望むのは何か。何を学び、理解したいのか」。そこで私は「あなたは誰ですか」と言った。その者は言った。「私はピマンドロス、神の力としての精神である。何を望むか考えよ。私は至るところでおまえと共にいる」。「万物の本性を学び、神を知りたい」と私は言った。これに対して彼は言った。「おまえの精神で私を抱け。そうすれば、望むすべてのことを私が教えよう」。こう言うと彼は姿を変え、突然あらゆるものを顕した。
注 語の切れ目から MENS DIVINA POTENTIA と読める。「神的な力である精神」と解した。
忠実な教えの子の一人ひとりにも、同じことが起こるように。アーメン。
かの石造の凱旋ピラミッドの図示。この世界の根源的・始原的・普遍的な湿気について、また天が燃えて解体され、灼熱する諸元素が溶け、地とその上の業が焼き尽くされた後にも存続する新しい地の種についてのものである(イザヤ65章17節、ペトロ後書3章13節、黙示録21章1節)。その種は中心の懐で豊かに養われる。これらは世界の至るところに、マグネシア、すなわち普遍的な哲学者の石に適切な基体、およびそこから出る賢者たちの第一質料的で普遍的なメルクリウスが他のすべてに対して帝王のように勝利することについて、いっそう堅固な教えを示す、きわめて明るい灯火・真実の書物として、神によって築かれた。[一部の構文・語形は不確実]それらは奇跡のようにきわめて堅固に固定され、まさしく土星のごとく、現在の世界を覆う、岩石を剥ぎ取り万物を裁く火による大火、腐敗、浄化、普遍的更新にまで耐える。それらはネプトゥヌス、ユノー、ウルカヌスと、その勤勉かつ警醒する奉仕者たち、そして最古にして確実、きわめて洞察に富み、聖なる、驚嘆すべき驚異をなす術である錬金術に属する。この術は、トマス・アクィナスの証言にもあるように、人を聖人として見出すか、あるいは聖人にするほどである。これらすべてのゆえに、自然の神性と光のきわめて確かな定めにより(賢者には一言で足りる)、上なる事柄の啓示によって神聖とされた哲学者たちの秘密の、きわめて安全で侵すべからざる聖域として指定された。忠実な教えの子らよ、私の忠実な警告に従い、この偽らぬ象形的・教説的な書から、神智学的哲学、精神、感覚、術によって、その用途と実りを見極めよ。あなたがたがそれに値する限りにおいて。ライプツィヒのハインリヒ・クンラート、神智学の忠実な愛好者、両医学博士が、スパギリカの術が正当に受けるべき讃美のため、驚嘆・愛・敬意・感謝の心から、喜び勇んでこれを制作した。受肉したロゴスの誕生から1602年。
注 下縁の長い献辞。構文接続およびいくつかの略記は確定できない。疑わしい箇所は原綴を保持し、訳に断定を加えなかった。
注 p は per の略記。☿ はメルクリウス(水銀)記号。
注 原寸再照合により imperatoriè(帝王のように)と読める。従前の impetoniè という疑読を訂正した。命令形 dignoscito も字形に基づき訂正。
人々に見る気がないなら、松明も灯火も眼鏡も、何の役に立とうか。

図版と出典
1609年刊本所収のハインリヒ・クンラートの肖像と周囲の銘文(本文の図版) / 対応する訳文
1609年刊本の建築意匠の標題紙と銘文(本文の図版) / 対応する訳文
神・自然・人間の関係を示す原刊の三一的概観図(本文の図版) / 対応する訳文
第五段の注解に挿入された原刊の対応図(本文の図版) / 対応する訳文
原刊銅版、多数の人物・動物・寓意像と銘文を配した景観(本文の図版) / 対応する訳文
原刊銅版、山々・道・門と人物を配した寓意的景観と銘文(本文の図版) / 対応する訳文
原刊銅版、祈りの場と実験室を描いた円形の室内図と銘文(本文の図版) / 対応する訳文
原刊銅版、十字形の人物と同心円、聖書的・カバラ的銘文(本文の図版) / 対応する訳文
原刊銅版、三角形・正方形・円環を重ねた神秘的構成と銘文。中央の折り目を含む(本文の図版) / 対応する訳文
原刊銅版、哲学的・神学的諸銘文を配置した円形図(本文の図版) / 対応する訳文
原刊銅版、放射状の扉をもつ門と周囲の寓意像・銘文(本文の図版) / 対応する訳文
原刊銅版、多面形と六芒星を中心に配した図と多数の細字銘文(本文の図版) / 対応する訳文