錬金術 / Michael Maier逃げるアタランタ

錬金術 / Michael Maier

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底本・参照: Science History Institute
翻訳経路: 1618年刊本のラテン語・ドイツ語からの新規日本語訳。既存の現代語訳からの重訳ではない。
収録範囲: 1618年版全50篇、序文・献辞・楽譜の文字・巻末索引と訂正。917対訳単位。声部で反復する二行詩は一度対訳し、反復・音節配置・音符は原図参照。難読等12単位に留保。
日本語訳の利用条件: CC0
追加日: 2026-10-02 / 更新日: 2026-10-02
原著: Atalanta fugiens
出典元ライセンス: Public Domain Mark 1.0 / 歴史的な本文と図版はパブリックドメイン。図版の出典はScience History Institute、同館のPublic Domain Mark 1.0表示に従う。現代のFurnace and Fugueの翻訳・校訂本文・録音は用いていない。日本語は本読書版のための新訳。
翻訳文ライセンス: CC0
1618年版全50篇、序文・献辞・楽譜の文字・巻末索引と訂正。917対訳単位。声部で反復する二行詩は一度対訳し、反復・音節配置・音符は原図参照。難読等12単位に留保。

扉・著者の詩・献辞・序文

1618年刊本の銅版扉 原典スキャン5
1618年刊本の銅版扉Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

逃げるアタランタ、すなわち、自然の秘密についての新しい錬金術のエンブレム。銅に彫った図と、それに添えた格言・短詩・注解によって、一方では目と知性に向けられ、他方では、三声からなり、そのうちの二声が二行詩を歌うのに適した一つの単純な旋律に対応する、およそ五十の音楽的フーガによって、耳と心の慰めに向けられたもの。格別の楽しみとともに、見、読み、熟考し、理解し、判断し、歌い、聴くための書。

著者ミヒャエル・マイヤー。帝室宮廷伯、医学博士、騎士等。オッペンハイム。ヒエロニュムス・ガラーの印刷所より、ヨハン・テオドール・ド・ブリの費用で刊行。1618年。

注 肩書の略記は確実に読める範囲を訳した。

アイグロ。アレトゥーサ。ヘスペルトゥーサ。ヘラクレス。ウェヌス。ヒッポメネス。ヒッポメネス。アタランタ。

注 扉を囲む図中の人名。綴りは原刻に沿う。

著者の短詩。

俊敏な若者はヘスペリデスの園の宝を手にした、
キュプリスの女神が三つの林檎を与えたのである。
彼は逃げる乙女を追い、その目前の地にそれを転がした。
そのため乙女は立ち止まり、遅れを取った。
たちまち彼が駆け抜け、たちまち彼女も東風より速く前へ出る。
そこで黄金の贈り物を二度目に地へ投げ、
彼はまた、乙女の鈍る足取りを引き留めた。
だが彼女はまた背を向けて逃げてゆく。
恋する者が三度目の重みを投げるまで、これは続いた。
かくてアタランタは勝者への褒美として、その者に従った。

ヒッポメネスは硫黄の力、彼女は逃げやすい
メルクリウスの力であり、競走で女は男に敗れた。
二人が欲情に満ちた愛をもって抱き合うと、
キュベレーの神殿では、怒りが女神を駆り立てた。
報復する女神は二人に獅子の皮を着せ、
それから彼らは赤い身体となり、野獣になった。

注 原文 corrigit ira Deam の動詞は文脈上取りにくい。女神が怒りに動かされる意として訳した。

この競走に最もよく似た姿を表すため、
私のムーサは、あなたに三つの声でフーガを贈る。
一つの声は単純なままとどまり、足を止めさせる林檎を表す。
第二の声は逃げ、第三の声は正しくそのあとを追う。
これらはあなたの耳に、エンブレムは目に差し出される。
だが理性は、そこから秘密のしるしを求めるがよい。
私がこれらを感覚の対象としたのは、知性がこの誘いに導かれ、
隠れている貴いものをつかむためである。
世界が持つ富のすべて、医術が持つ救いのすべてを、
二頭の獅子は供給することができる。

テューリンゲンの帝国自由都市ミュールハウゼンの、きわめて高貴で、名高く、卓越した市参事会へ。徳と学識と真の心の高貴さにおいて抜きんでた紳士諸氏へ。また、その勤勉な法律顧問、両法博士にして深い法律知識を備え、皇帝公認の桂冠詩人でもある、皇帝公認の桂冠詩人でもある、皇帝公認の桂冠詩人でもある、皇帝公認の桂冠詩人でもある、皇帝公認の桂冠詩人でもある、きわめて親愛なるクリストフ・ラインハルトへ。常に敬意をもってお仕えすべき私の主人である皆様お一人お一人に、このささやかな好意と感謝の証しを、きわめて恭しく捧げ、献じ、差し出します。ミヒャエル・マイヤー、医学博士、帝室宮廷伯、騎士・桂冠詩人等。

注 両法とは教会法と世俗法。肩書の一部は略記のまま原文に保存した。 P. C. Cæs. は皇帝公認の桂冠詩人(Poeta Coronatus Caesareus)の称号として訳した。

尊貴にして賢明な紳士の皆様。エリス王オイノマオスの娘ヒッポダメイアを妻に迎える花婿ペロプスへ、ウルカヌスが贈ったあの三脚台について、次の話が伝えられています。それは類いまれな技術で作られていたので、ペロプスはあらためてデルポイのピュティオス・アポロンに奉献しました。その後、そこから、その神に霊感を受けた処女によって神託が告げられたというのです。

同じように、ウルカヌスの手で仕上げられたこの三脚台が私の手元に来たので、ペロプスの例に動かされ、最もふさわしい場所と団体に、そして何よりもまず尊貴なる皆様に、これを奉献し、お届けしようと決めました。それはここから神託を取り出すためではありません(もっとも錬金術の神託なら、ここにも欠けてはいないでしょう)。そうではなく、私の進んでお仕えしたい気持ちと好意を、いくらかでも公に証しするためです。数年前、私が旅の途中に訪れたとき、当時私は故皇帝ルドルフ二世陛下の医務顧問を務めていましたが、皆様は主君に対して抱かれるお気持ちを、その臣下である私に示してくださいました。それは最も善意に満ち、皆様の地位にまことにふさわしいものでした。

注 三脚台は本書の三声構成などを重ねた比喩。敬称の重ね字は原文の略記を保った。

それ以来、私は、できる限り言葉を尽くして皆様の徳を他の土地の人々に称えるだけでなく、自分の心を実際の行為によってもっと明らかに、もっと豊かにお示しすることにも努めてきました。それは何らかの小さな文学上の贈り物によるほかないと考え、また、この『逃げるアタランタ』に幾分かの労を費やしてきたので、どのような出来であれ、そのすべてを尊貴なる皆様に献じたいと願いました。その点で、私は現代と古代の著述家にならっています。彼らは、スキピオ、すなわち支えとなる杖、案内者、あるいは同行者なしに世に出て、人々の口の端に上ることを決して望みませんでした。もし倒れたなら、誰が彼らを助け起こしたでしょうか。

注 Scipio は人名と「杖」の両方を響かせる表現として訳した。

どうか皆様を、この小著の後援者と呼ぶことをお許しください。私の知る限り、皆様がこの、実に不確かな研究に手や心をお向けになったからではありません。重責ある公務から、それだけの余暇が残るはずもないからです。そうではなく、皆様なら学問のいかなる分野でも十分にお守りくださると私には思われ、また、今の私には、これより尊く、あるいは誠実な題材がほかに思い浮かばなかったためです。もちろん、悪用は除いてのことです。ともあれ、皆様は私の試みを、紙の安さによってではなく、心の真実によってお量りくださるでしょう。そのことを私は確信しています。そしてこれからも、皆様を最も敬う者の一人として、私をお扱いになり、お数えくださるでしょう。どうかご健勝で。1617年8月、マイン河畔のフランクフルトにて。

読者への序文。

心正しい読者よ。人間が、その構成において宇宙の縮図を表していること、また三種類の生を生きるよう定められていることは、誰もが認めている。すなわち第一に、母胎内での植物的な生である。そこで人間は、ひとまず植物のように成長し、大きくなる。第二に感覚的な生、つまりこの世での生である。そこでは、ほかの動物と同じように、主として感覚によって導かれる。ただし、不完全ながらも知性を使い始める点で、それらとは異なる。そして最後に、神と、そのかたわらに仕える知性的存在、すなわち善い天使たちのもと、別の世界で送る知性的な生である。

今の生では、神的な本性に近づくほど、人は知性によって探究すべき、精妙で、不思議で、珍しい事物を喜び、楽しむ。それとは反対に、家畜のたぐいへと傾くほど、そうしたものには惹かれず、いっそう身体的な感覚に縛られる。私たちは両方の例を見る。一方には、より学識があり、諸技芸と諸学問に磨かれ、それらに身を捧げる人々がいる。他方には、身体の快楽、欲情、食欲、外見の華美、その他同じようなものに身を捧げる人々が、はるかに大勢いる。

さて、知性を磨くために、神は自然のうちに無数の秘密を隠した。それらは数えきれない学問と技芸によって、火打石から火を打ち出すように取り出され、利用に供される。その中で錬金術の秘密は、決して末位に置かれるものではない。神的なものの探究に次いで、あらゆるものの第一であり、最も貴い。それを探究すべきなのは、街頭を渡り歩く詐欺師や、錬金術師を装う偽物ではない。彼らはこのことでは竪琴の前の驢馬であり、正しい学問と意図から最も遠い者たちだからである。そうではなく、高い資質を持ち、自由人にふさわしい教育を受け、より大きなことを探究するために生まれた人々が探究すべきである。それらの秘密は、非常に精妙で、威厳に満ち、神聖で、珍しく、奥深く隠されている。したがって、感覚より先に知性によって把握されなければならない。それは、感覚に頼る作業や手による実験よりも、著者たちを読み、彼らを相互に、また自然の働きと比較することから生じる深い思索によってなされる。あらかじめ理論がなければ、実験は盲目なのである。

この種の知性的学問に最も近いものとして、見ることのできる対象と聴くことのできる対象を扱う学問が数えられる。たとえば光学、すなわち透視法、そして絵画である。絵画を「無言の詩」と呼ぶ人々がおり、逆に詩は「語る絵画」と呼ばれる。また、声楽であれ器楽であれ、音楽もそこに含まれる。古代の哲学者たちは音楽を大いに修めたため、宴席で竪琴を断った者は無教養とみなされ、ミルトスの枝を手に歌うよう強いられた。テミストクレスについても、そう伝えられている。ソクラテスも音楽の教育を受け、プラトン自身もまた受けた。プラトンは、音楽の調和を喜ばない者は、その身も調和的に組み立てられてはいない、と判断した。ピュタゴラスもまた音楽によって非常に名高かった。彼は朝と夕に音楽の合奏を用いて、弟子たちの心を整えたという。

音楽には、その音楽的な旋法の違いに応じて、感情をかき立てたり、和らげたりする独特の力がある。こうしてギリシア人の間では、フリギア旋法は戦闘的であるといわれた。戦時に戦闘へ入るとき、それに合わせて歌われ、兵士たちの心を奮い立たせる特別な力を持っていたからである。現在では同じ用途に、それに代わってイオニア旋法が用いられる。かつてイオニア旋法は恋愛的であると考えられていたが、今ではフリギア旋法がそう考えられている。このことから、旋法は互いに入れ替わったものと私たちは推測する。ミレトスのティモテオスは、軍事におけるアレクサンドロス大王を、さらに活発で勇ましくするためにフリギア旋法を用いたと伝えられる。キケロも『法律について』第二巻でこれに言及している。

注 旋法に関する同定・古代著作への参照はマイヤーの記述をそのまま訳し、現代の音楽史によって訂正してはいない。

これに対して、レスボスのテルパンドロスはイオニア旋法を用いた。内紛によって互いに騒乱していたラケダイモン人に招かれ、歌の甘美さでその心を深く和らげたため、人々は友好に戻り、争いをやめた。そのため、スパルタ人の判断では、レスボスの歌い手たちは常に第一位に値した。ファビウスは音楽についてこう述べる。「音楽は、高潔で楽しい慰めであり、自由人にふさわしい精神に最もふさわしいものである。」

そこで、この三つ、すなわち、より霊的な感覚である視覚と聴覚、そして知性そのものの対象を、一つの眺め、一つのまとまりの中に収め、理解すべきものを心へ、一度に、同時に、よりよく浸透させるために、私たちは光学と音楽を、感覚と知性を結び合わせた。つまり、見ても聴いても珍しいものを、この学問に固有の錬金術的エンブレムに結びつけたのである。ほかの技芸が、道徳や、自然の秘密とは異なる事柄についてエンブレムを公にするなら、それはその技芸の目標や目的から外れているように見える。なぜなら、それらは万人に理解されることを望み、また理解されるべきだからである。錬金術はそうではない。それは貞淑な乙女が格子越しに見られるように、またディアナのように、色とりどりの衣をまとった姿で見られなければならない。その理由は別の場所で述べた。

私がいうのは、この四つである。第一は詩的・寓意的な物語、第二はウェヌス、すなわち銅に、ウェヌス、すなわち優美さを欠くことなく刻まれた絵画的エンブレム、第三は知性によって探究されるべき錬金術の最も秘密な事柄、そして最後は珍しい音楽である。これらを一冊の書の中で、一度に、同時に受け取り、あなたのために捧げられたものとして役立ててほしい。その利用が感覚的であるよりも知性的であるなら、それだけ後に有益で楽しいものとなるだろう。だが、最初は感覚に委ねられるのであっても、感覚から知性へ、まるで戸口を通るように移ることは疑いない。いずれかの感覚を通って入り込まなかったものは、知性の中に何もない、といわれるからである。生まれたばかりの人間の知性は、まだ何も書かれていない白紙の板のようなものと考えられる。しかし感覚を媒介にすれば、それを筆として、何でもそこへ書き込むことができる。

注 ウェヌスは女神名であると同時に銅の錬金術的名称であり、優美の意味も重ねられている。

また、一般に「知らないものを欲することはない」といわれる。探究者であり使者である感覚は、いわば指揮者であり裁定者である知性に対し、知りうるものすべてをまず運び込み、知らせなければならないからである。それは、ある都市の門、つまり自分たちの器官を見張る衛兵のようなものだ。

このエンブレム集の題名が奇怪で不釣り合いに思われないように、その理由について少し付け加えよう。アタランタは、その逃走によって詩人たちに称えられた。彼女は競走ですべての求婚者を追い抜いた。そのため、敗れた彼らには、勝利の褒美として約束された乙女の代わりに、死が訪れた。しかし、より大胆で用意周到な若者ヒッポメネスは、走る途中で三つの黄金の林檎を一つずつ投げ出し、彼女を破って手に入れた。彼女がそれらを拾っている間に、彼は先へ出て、すでに決勝点へ達したのである。

このアタランタが逃げるように、音楽の一つの声は常にほかの声に先立って逃げ、もう一つの声はヒッポメネスのように追いかける。しかし二つの声は、第三の声において安定し、固められる。この第三の声は単純で、同じ長さの音価からなり、黄金の林檎のようなものである。この乙女はまた、純粋に錬金術的な存在でもある。すなわち、逃走のさなかに黄金の硫黄によって固定され、引き留められた哲学的メルクリウスである。これを止める術を知る者は、望み求める花嫁を得る。知らなければ、自分の財産の喪失と破滅を得ることになる。ヒッポメネスとアタランタは、神々の母の神殿、すなわち容器の中で結合すると、獅子になる。言い換えれば、赤い色を獲得するのである。

またこの乙女は、異常な大きさの猪が殺されたとき、男たちに先んじて勝利を収め、そのためメレアグロスから褒美を贈られた。ステタイオスのアスクレピオス神殿では、岩を打って水を引き出し、渇いた喉を潤した。これらは実際には寓意であり、エンブレム的な話であって、歴史的事実ではまったくない。それゆえ、この女傑を知性によって思い起こすために、このエンブレムの論考へその名を与えたいと思った。ことに、彼女のために投げ出された林檎は、ヘスペリデスの園から、甘美の女神ウェヌスによってヒッポメネスへ与えられたものだからである。

注 Stethæum はこの版の地名・神殿名の表記。現代地名へ断定的に置き換えない。

これらの小曲、すなわち音楽的フーガでは、各二行詩をその三つの声に合わせ、適切に歌って表せるよう配慮したことが分かるはずである。一つの単純な声に、これほど多様なフーガを適合させたのであるから、心ある理解者なら誰でも、このいわばエンブレム的な形象化を、またそこにおける適合と、各々の小さな音へ二行詩を適合させた労を、好意的に受け取り、無意味なものとはみなさないだろう。なぜなら、ある商人たちは絵画の技巧を高く評価し、多額の金銭で買い取るが、そこで欺かれるのは目だけであり、それを自然にきわめて近いと判断しているにすぎない。それなら、知性と複数の感覚に役立ち、楽しみに加えて大きな効用を期待できるこれらの形象を、学識ある人々が尊重し、高く評価しない理由があろうか。健やかであれ。

風はこれをその腹の内に運んだ。

第1フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第1フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第I番。下方四度で

風はこれを腹の内に運んだ。

アタランタ、すなわち逃げる声部。ヒッポメネス、すなわち追いかける声部。投げられた林檎、すなわちとどまる声部。

北風ボレアスの風をはらむ腹に閉じ込められた胎児が、
ひとたび生きてこの世の光のもとに生まれ出るなら、

注 同じ二行の歌詞が三声部に配される。楽曲内の語句の反復は譜面を参照。

第I番・ラテン語エピグラムのドイツ語訳

風の腹にあって、なお隠れて生きる胎児が、
この光のもとへ引き上げられるなら、
あらゆる高名な英雄の知恵と行いを遠く越えよう、
技と強い力と、その身体の働きによって。
不適切にも時の来ぬうちに生まれぬよう見守れ。
正しい時宜を得て、生きて地上へ来るように。

風はこれをその腹の内に運んだ。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第1エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第I番。自然の秘密について

風はこれをその腹の内に運んだ。

エピグラム第I番

北風ボレアスの風をはらむ腹に閉じ込められた胎児が、
ひとたび生きてこの世の光のもとに生まれ出るなら、
その者だけで英雄たちのあらゆる功業をしのげよう、
技と手業、強い身体と精神によって。
切開によって取り出された子とも、役に立たぬ流産児とも、
逆子ともならず、よい星のもとに生まれた者となるように。

注 Caeso は母の腹を切って取り出された子、Agrippa は足から生まれた子を指す古代の名称として訳した。

論説第I番

自然のあらゆる秘密を最も熱心に探究したヘルメスは、その『エメラルド板』に、自然の業を簡潔ながら生き生きと描き、その中で「風はこれをその腹の内に運んだ」と述べている。これはいわば、父を太陽、母を月とする者が、この世の光のもとへ生まれる以前には、鳥が飛ぶとき空気に支えられるように、風を帯びた蒸気によって運ばれるということだ。蒸気すなわち風は、動く空気にほかならず、それが凝固して水になる。この水に土が混ざって、あらゆる鉱物と金属が生じる。それどころか、鉱物と金属そのものが蒸気から直接に組み立てられ、凝固するとされる。したがって、それを水に置くと考えても蒸気に置くと考えても、結局は同じことになる。両者とも風の質料だからである。より間接的ではあるが、鉱物と金属についても同じことがいえる。では、風に運ばれるべき者とは誰か。錬金術的に答えれば、それは水銀の内に運ばれる硫黄であり、ルルスの『小遺言書』第32章と他のすべての著者が証言している。自然学的には、まもなくこの世の光のもとへ生まれる胎児である。算術的には立方の根、音楽的には二重オクターヴ、幾何学的には流れる線の始まりである点、天文学的には土星・木星・火星という惑星の中心であるともいう。これらは異なる対象であるが、互いに適切に比較すれば、風の胎児を容易に示すだろう。この仕事は各人の、大小それぞれの勤勉さに任せるべきである。もっと明瞭に、次のように理解してほしい。すべてのメルクリウスは蒸気から成る。つまり、土を伴って空気の希薄さへと引き上げる水と、空気を水のような土、あるいは土のような水へと戻らせる土から成る。その中では諸元素が徹底して混ざり、互いに圧し合わせられて、ある粘りある本性になっているから、容易には分離しない。揮発するものに従って上方へ行くか、固定したものとともに下方にとどまるかする。前者は普通のメルクリウスに、後者は哲学的メルクリウスと固定した金属に見られる。後者では固定した元素が揮発する元素に勝り、前者では揮発する元素が固定した元素に勝る。メルクリウスが他の神々の使者、通訳、また走り回る仲介の奉仕者のように呼ばれ、その頭と足に翼を付けた姿で表されるのも、理由のないことではない。それは風の性質をもち、風そのもののように空中を飛ぶ。このことは普通のメルクリウスで実際に証明されており、そのために多くの者が損害を受けている。

ルルス、同所。「風はこれをその腹の内に運ぶ」とは、硫黄が水銀の内に運ばれるということである。また第47章。「石は空気の腹の内に運ばれた火である」。

しかし彼は二匹の蛇が交差して巻きつく使者の杖を持ち、それによって魂を身体から導き出して再び戻し、ほかにもこの種の相反する働きを数多く行うので、哲学的メルクリウスの象徴をきわめてよく表している。したがってメルクリウスは風である。この風は、硫黄、すなわちディオニュソス、あるいは好むならアスクレピオスという、まだ未完成の胎児を母の腹から、さらには焼けた母の身体の灰から受け取り、成熟できる場所へ運ぶ。胎児とは硫黄であり、天の太陽によって北風ボレアスへ注がれ、成熟して産み落とされることになったものである。ボレアスは懐胎の期間を終えると双子を産む。一人は白い髪でカライスと呼ばれ、もう一人は赤い髪のゼテスである。錬金術の詩人オルペウスの記すところによれば、このボレアスの息子たちは、コルキスから黄金の羊毛を奪い取るため、イアソンに従ったアルゴナウタイの中にいた。ハルピュイアに悩まされた盲目の予言者ピネウスを救い出せたのは、このボレアスの息子たちだけだった。彼は救ってもらった恩に感謝して、アルゴナウタイに旅路のすべてを説明した。ところでハルピュイアとは腐敗をもたらす硫黄にほかならない。ボレアスの息子たちが適切な年齢に達すると、それは追い払われ、不完全なもの、すなわち有害な揮発物に悩まされていたものが、その災いに服さない完全なものとなる。それが今度は医者イアソンに、黄金の羊毛を得る道を示す。これらの風については、ほかの著者たちとともに、われらがバシリウスも触れ、第6に明瞭に述べる。「まずウルトゥルヌスと呼ばれる二重の風が来て、続いてノトゥスと呼ばれる単一の風が来なければならない。それらは東と南から激しく吹く。その運動がやみ、空気から水ができたなら、霊的なものから身体的なものが生じると、確信してよい」。リプリーも『門』第8で、われわれの幼児は空気の中、すなわち風の腹の中で生まれ直さなければならないと述べる。『哲学者の階梯』第6段も同じ意味で、「賢者の子は空気の中で生まれることを知るべきである」と述べ、第8段では「空気の精気はともに空気へ昇りながら愛し合う。ヘルメスが、風はこれをその腹の内に運んだというとおりである。われわれの子の生成は空気の中で行われ、空気の中で生まれる者は賢明に生まれるからである。それは地から天へ昇り、また地へ降り、上なる力と下なる力を集める」と述べている。

その乳母は大地である。

第2フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第2フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第II番。下方五度で

その乳母は大地である。

アタランタ、すなわち逃げる声部。ヒッポメネス、すなわち追いかける声部。投げられた林檎、すなわちとどまる声部。

ロムルスは牝狼の毛深い乳房を、ユピテルは牝山羊の乳房を吸ったと伝わり、
その言い伝えには信を置くべきだという。

注 同じ二行の歌詞が三声部に配される。楽曲内の語句の反復は譜面を参照。

第II番・ラテン語エピグラムのドイツ語訳

ロムルスは牝狼に、ユピテルは牝山羊に
乳を与えられたと、言い伝えは証しする。
ならば賢者たちの子も、大地から
乳を恵まれて育てられたといって、何の不思議があろう。
獣たちが、確かにこれほど偉大な英雄たちを養ったのなら、
大地を乳母とする者は、どれほど偉大になろうか。

その乳母は大地である。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第2エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第II番。自然の秘密について

その乳母は大地である。

エピグラム第II番

ロムルスは牝狼の毛深い乳房を、ユピテルは牝山羊の乳房を
吸ったと伝わり、その出来事は信ずべきだという。
賢者たちの柔らかな子の身体を
大地が自らの乳で養ったとわれらが述べても、何の不思議があろう。
小さな獣がこれほど偉大な英雄たちを養ったなら、
地上世界を乳母とする者は、いかほどになろうか。

論説第II番

逍遙学派と正しく判断する哲学者たちは、養うものが養われるものの実体へ変わり、それに同化すると考える。ただし、同化は変化の前ではなく後に起こる。これは最も確かな公理とされる。養うものがすでに養われるものと似ていて同一であるなら、なぜ本質の変化が必要なのか。変化が起これば、もはや同一でも類似でもなくなるのではないか。また、木や石やその類のもののように、養われるものに同化できないものが、どうして栄養として取り入れられようか。第一の考えが無意味であるのと同様、第二の考えは自然に反する。生まれたばかりの人間が動物の乳で養われるのは、自然に反しない。それは同化できるからである。ただし母自身の乳は、他のものの乳よりもはるかに容易に同化する。そこから医師たちは、幼児が常に実母の乳で養育されるなら、健康、実体と気質の類似、また丈夫さに役立ち、他の乳なら反対になると結論する。似たものは似たものを喜び、無言の一致と協調によって、あらゆる点でできる限りその跡をなぞる。これが自然全体の調和である。同じことは哲学者たちの自然の業にも起こる。その形成は、母の胎内の幼児と同じく自然に支配される。そこに父、母、さらに乳母までが比喩的に割り当てられるとしても、いかなる動物の生成より人工的だというわけではない。動物と人間の両性は、ある快い技巧によって二つの種子を結びつける。結合した種子から、連続する変化を経て胎児ができ、それが成長し、大きくなり、生命と運動を得て、その後は乳によって養われる。しかし女性は受胎・妊娠の時期には、熱、食べ物と飲み物、運動と休息、その他において節度を保たなければならない。そうしなければ流産し、宿った胎児は失われる。この「六つの非自然的事柄」に関する配慮も、医師がその技術に従って処方する以上、技術的なものである。同じように、哲学の業でも種子が結合していなければ、結合させなければならない。しかし、卵では雄鶏の種子と雌鶏の実体が一つの容れ物の中に一緒にあるように、どこかですでに結合しているものが見つかれば、哲学者たちの業は、動物の生成よりもなお自然なものとなるだろう。

注 「六つの非自然的事柄」は、古い医学で生活環境・養生に関わる諸条件をまとめた術語。ここでの母乳等に関する記述は歴史的原文の主張である。

だが哲学者たちの証言どおり、一方が東から、他方が西から来て一つになると認めよう。そうしたものに与えられるのは、自らの器の中での混合、穏やかな熱、栄養以外に何があるか。器は確かに人工のものだが、そのことは本質的な相違を生まない。巣を雌鶏自身が作っても、農家の女が普通そうするように一定の場所へ整えてやっても、卵の生成と、そこからの雛の孵化は同じことである。熱は自然のものだ。それが炉の穏やかな火から来ても、糞の腐敗から来ても、太陽と空気、母の内臓、あるいは別のものから来ても変わりはない。こうしてエジプトでは、炉を用いる技術によって、卵を孵す自然の熱を与える。蚕の卵、さらには鶏卵さえも、乙女の胸のぬくもりで孵したという記録がある。したがって技術と自然は互いに手を貸し、一方が他方の代理となる。それでも自然は女主人であり、技術は侍女であり続ける。なぜ大地が哲学的な子の乳母と呼ばれるのか、疑問に思う者もいよう。土は元素の中で最も水気がなく乾燥しており、乾燥こそその固有の性質だからだ。答えるなら、ここでいう土は元素そのものではなく、諸元素から成る土である。このことは『哲学の一週間』の第一日ですでに十分に述べ、その本性を説明した。これは天の乳母である。胎児を溶かし、洗い、湿らせるからではなく、凝固させ、固定し、色づけ、純粋な体液と血へ変えるからである。養うことには、長さ、幅、深さ、つまり身体のすべての次元に及ぶ成長が含まれる。ここにもそれがあり、哲学的な胎児にそれを与えるのは土だけなので、土を乳母と呼ぶのは当然である。ただし、この驚くべき大地の液では、他の乳と反対のことが起こる。他の乳は変えられる側であり、変える側ではないが、この液はきわめて強い力のため、養われるものの本性を大いに変える。牝狼の乳がロムルスの身体を勇敢で戦いに積極的な性質へと整えたと信じられているのと同様である。

布を洗う女のもとへ行き、お前も同じようにせよ。

第3フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第3フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第III番。下方四度で

布を洗う女のもとへ行き、お前も同じようにせよ。

アタランタ、すなわち逃げる声部。ヒッポメネス、すなわち追いかける声部。投げられた林檎、すなわちとどまる声部。

隠された教えを探ることを愛する者は、怠るな。
役立つものは何でも、手本として取り入れよ。

注 同じ二行の歌詞が三声部に配される。楽曲内の語句の反復は譜面を参照。

第III番・ラテン語エピグラムのドイツ語訳

秘密の教えに熟達したい者は、
すべてを手本として心に留め、賢く考察せよ。
女を見て学べ、亜麻布をどのように洗うかを。
温めた水を注ぎかけ、灰を混ぜている。
この女にならえば、すべてがうまく、見事に運ぶ。
黒い身体を、水はすっかり清めて洗うからだ。

布を洗う女のもとへ行き、お前も同じようにせよ。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第3エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第III番。自然の秘密について

布を洗う女のもとへ行き、お前も同じようにせよ。

エピグラム第III番

隠された教えを探ることを愛する者は、怠るな。
役立つものは何でも、手本として取り入れよ。
見えないのか、女が布の汚れを落とすため、
いつもその上から湯を注いでいるさまが。
彼女にならえ。そうすれば、お前の技は空しく終わらない。
水が黒い身体の滓を洗い去るからである。

論説第III番

亜麻布に、土の残滓などの汚れがついて染みを作り黒ずませたなら、次に隣接する元素、すなわち水で洗い落とす。そして布を空気にさらし、第四の元素である火に当たる太陽の熱によって、水分を滓と一緒に引き出す。これを何度も繰り返すと、汚れて悪臭を放っていた布が清らかになり、染みもなくなる。これが女たちの技であり、彼女たちは自然そのものから学んだのである。実際、動物の骨を空気にさらしておくと、初めは黒く汚れていても、雨で何度も濡れ、続く太陽の熱で再び乾かされることを繰り返し、ついにはこの上なく白くなるのを見る。イサアクもこれを指摘している。同じように哲学的な基体でも、どのような未熟さや滓があろうと、それに固有の水を注ぎかけることで清められ、取り除かれ、身体は大きな明澄さと完全さへ導かれる。焼成、昇華、溶解、蒸留、下降、凝固、固定その他、錬金術のすべての操作は、ただ一つの洗浄によって成就する。不純なものを水で洗う者は、それだけで、多くの操作の形によって完成されるのと同じことを成すからだ。『哲学者たちの薔薇園』が述べるように、君主ドゥエネクの汗で汚れた亜麻布は、火で洗い、水で焼かなければならない。そのため、火と水は互いの性質を交換したようにも見える。あるいは、哲学的な火は普通の火と同種ではなく、水についても同じように考えるべきなのである。生石灰とギリシア火については、他の可燃物の本性とは反対に、水で燃え立ち、決して消されないことが確かめられている。樟脳も、前もって火をつければ水の中で燃えるという。またアンセルムス・デ・ボートの証言によると、ガガテスという石は、着火すると水よりも油のほうで容易に消える。油はそれと混じり、燃える物体を窒息させるからである。水は油性物と混じれないので、全体を完全に覆って沈めない限り、燃える物体に道を譲る。しかしこれは容易ではない。その石はあらゆる油と同じように、水の上へ出ようとするからだ。同じく、ナフサ、石油、その類のものも、燃えているときには水をさほど恐れない。リエージュ地方の地下の石炭について、地中で燃えた場合には水では消せず、粉状の土をかぶせることによってのみ消せると記す者がいる。コルネリウス・タキトゥスも、同様の火について、水ではなく、棒と身体から脱いだ衣服によってようやく押さえられたと語っている。

したがって火には、燃え立ち方にも消え方にも大きな違いがある。液体の違いも劣らず大きい。乳、酢、酒精、強水、王水、普通の水は、火との関係において互いに非常に異なる。それだけでなく、物質自体が火に耐えることもある。たとえば古代に富者たちが珍重し使用した、あのビュッソスの布である。それは水でなく火で洗い、滓を焼き尽くすことで元の清潔さを取り戻した。這う動物サラマンドラの毛から不燃の灯芯ができるなどと、他の人々がどんなたわごとを述べても、耳を貸すべきではない。タルク、羽毛状明礬、その他その類の物質から、かつて火で清めるのを常とする織物が作られていたが、その技術を知る者、すなわちアントウェルペンの女性が嫉妬によって命を奪われたとき技術も失われ、その後は配合を再発見できなかった、と事実として語る者もいる。ここでは可燃性物質について述べているのではない。哲学的基体を調製するときは、これらすべての相違に照らして考えなければならない。ここでの火、水、そして物質そのものは普通のものではない。哲学者にとって火は水であり、水は火である。その水は同時に洗い、焼成し、その火も同様である。洗うべき布も、ビュッソスあるいは調製したタルクの性質を備えている。その配合と調製の技も、誰もが知るものではない。それを洗うために彼らは灰汁を作るが、樫の灰やその塩からではなく、他のものより堅固な金属の塩から作る。また普通の水ではなく、水瓶座のもとで氷や雪へ凝結した水を使う。それは停滞した水や池沼の水よりも細かな部分からなるため、黒く汚れた哲学的身体の内部へ、よりよく浸透して洗い清めることができる。

注 ビュッソス、タルク、羽毛状明礬などは原文の歴史的呼称を保った。ここに示される燃焼・消火法は歴史的主張の翻訳であり、現代の安全手順ではない。

兄弟を姉妹と結び合わせ、彼らに愛の杯を飲ませよ。

第4フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第4フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第IV番。上方四度で

兄弟を姉妹に結び合わせ、彼らに愛の杯を与えよ。

アタランタ、すなわち逃げる声部。ヒッポメネス、すなわち追いかける声部。投げられた林檎、すなわちとどまる声部。

最初の姉妹が兄弟に妻として与えられなかったなら、
いま世界にこれほど多くの人間の子孫はいなかっただろう。

注 同じ二行の歌詞が三声部に配される。楽曲内の語句の反復は譜面を参照。

第IV番・ラテン語エピグラムのドイツ語訳

この世の人類は、これほど増えてはいなかったろう、
姉妹が兄弟のもとへ向かわなかったなら。
ゆえに同じ血から生まれた二人のきょうだいを結び合わせよ。
夫と妻が心を一つにし、婚姻生活を送るように。
甘い葡萄の汁を愛の杯に注ぎ、彼らに飲ませよ。
それは、子を授かる希望へ向けて、大きく強い力を与える。

兄弟を姉妹と結び合わせ、彼らに愛の杯を飲ませよ。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第4エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第IV番。自然の秘密について

兄弟を姉妹と結び合わせ、彼らに愛の杯を飲ませよ。

エピグラム第IV番

最初の姉妹が兄弟に妻として与えられなかったなら、
いま世界にこれほど多くの人間の子孫はいなかっただろう。
ゆえに、同じ父母から生まれた二人を喜んで結び合わせ、
閨の中で女と男となるようにせよ。
二人に、神酒のような液を満たした友愛の杯で乾杯せよ。
そうすれば愛が、子を授かる希望を生むだろう。

論説第IV番

神の法と国家の法は、自然により近い血縁で結ばれた者同士が婚姻することを禁じている。家系図において直系で上や下に位置する者、また傍系でつながる者がそれに当たり、その禁止には確固たる理由がある。しかし哲学者たちが、母と息子、父と娘、兄弟と姉妹を婚姻で結びつけると語るとき、彼らはこの法に反することを語っても行ってもいない。基体が違えば属性も異なり、原因が違えば結果も異なるからである。哲学者たちの登場人物は、そうした区別から自由である。それは、何ら罪を問われず互いに夫婦となったアダムの息子と娘たちと同様だ。禁止の最も大きな理由は、人類が姻戚関係と友愛によっていっそう堅く結ばれ、共同し、家同士が代々敵対する派閥へ分かれないようにすることだと思われる。アダムの最初の兄弟姉妹についてはこの目的が損なわれずに保たれていたので、彼らの婚姻を妨げるものはなかった。当時、人類は彼らだけであり、彼らとその両親以外には誰も生きていなかった。したがって、血縁で結ばれていたのと同じく、婚姻によっても結ばれる必要があった。しかし人々が増え、無数の家族に分かれると、兄弟が姉妹を娶らぬようにする、この正しく公正な理由が成立した。哲学者たちにおいて姉妹が兄弟に嫁ぐ理由は別である。実体が類似しており、似たものが似たものと結びつくためだ。この種に属するものはただ二つあり、種の点では互いに似ているが、性は異なる。一方が兄弟、他方が姉妹と呼ばれる。したがってこれらは、最初の血縁ある人間たちと同じ自由と条件、さらに避けがたい必要のもとに、正当に一つの婚姻へ結びつけられなければならない。兄弟は熱く乾燥し、そのためきわめて胆汁質である。姉妹は冷たく湿り、粘液質の質料を多く含む。性質の配合においてこれほど異なる本性は、愛、生殖力、子孫の繁殖において、通常きわめてよく一致する。きわめて硬い鋼を鋼に打ち合わせても、脆い火打石を火打石に打ち合わせても、燃え広がる火を容易には起こせず、硬いものと脆いもの、すなわち鋼と火打石を打ち合わせて初めて起こせる。それと同様、熱い男と火のような女からでも、両者とも冷たい組合せからでも、生きる力のある子は得られない。男の冷たさは不妊だからである。男が温かく、女がより冷たいときに得られる。人間の体質の幅の中では、最も温かい女も、男性の中で最も冷たい、ただし健康な男より冷たいとされる。レヴィヌス・レムニウスは『自然の隠れた驚異について』でこれを論証している。

注 近親婚は物質の結合を説明する錬金術的比喩として論じられる。男女の体温・生殖等の説明は当時の体液説に基づく原文の主張。

したがって、哲学者たちが姉妹と兄弟を結び合わせるのは正しい。雌鶏、雌犬、牝山羊、牝羊、その他の獣に子を産ませたい者は、雄鶏、雄犬、牡山羊、雄の獣というように、それぞれ最もよく似た同種の動物を添える。そうすれば望みは裏切られない。獣の血縁関係を見るのではなく、それぞれの血統の良さと本性の適合だけを見る。同じことが木の幹とそこに接ぐ枝にもいえる。さらに金属の本性にもいえる。金属は何よりも実体の類似と同質性を備えており、何かを自分と結合させるには、それを要求するのである。しかし兄弟と姉妹を結び合わせても、フィロテシウム、つまり惚れ薬のような愛の杯を飲ませなければ、生殖力を得ず、愛に長くとどまることもない。この杯によって心が静まり和合するので、酔った者のように、ロトのごとく、恥じらいを捨てて互いに交わり、非嫡出ではない正統な子を生む。人類が医学に大きな恩を受けていることを、誰が知らないだろう。その恩恵と働きにより、現在世界には何万もの人々が存在している。もしその両親や祖先が、不妊の原因、すなわち直接・間接の妨げを取り除かれることで欠陥から救われ解放されていなかったなら、また母たちが流産から守られていなかったなら、彼らは存在しなかったはずである。したがってこの愛の杯が新婚の二人に与えられるのも、同じ理由からである。すでに述べたことから誰にも分かる三つの理由、すなわち愛の持続、不妊の除去、流産の防止である。

注 原文の動物名列挙は ove に対して caprum と印刷されている。本文の不整合を現代的な動物名へ改変せず訳した。

女の乳房の上にヒキガエルを置き、乳を飲ませよ。女は死に、ヒキガエルは乳で肥大する。

第5フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第5フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第V番。下方五度で

女の胸にヒキガエルを置いて乳を吸わせ、女を死なせよ。するとヒキガエルは乳によって非常に大きくなる。

アタランタ、すなわち逃げる声部。ヒッポメネス、すなわち追いかける声部。投げられた林檎、すなわちとどまる声部。

女の胸に冷たいヒキガエルを置け、
幼児のように乳の杯を飲むように。

注 同じ二行の歌詞が三声部に配される。楽曲内の語句の反復は譜面を参照。

第V番・ラテン語エピグラムのドイツ語訳

すばやく女の乳房にヒキガエルを置け。
子供と同じように、それを乳で養わせよ。
吸い出した養分によって大きな姿へ成長させ、
女はすべてにおいて死へ向かうようにせよ。
その後、そこから薬を取り出せ。その気高い力は、
人間の心臓に、いかなる毒も取りつかせない。

女の乳房の上にヒキガエルを置き、乳を飲ませよ。女は死に、ヒキガエルは乳で肥大する。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第5エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第V番。自然の秘密について

女の乳房の上にヒキガエルを置き、乳を飲ませよ。女は死に、ヒキガエルは乳で肥大する。

エピグラム第V番

女の胸に冷たいヒキガエルを置け、
幼児のように乳の杯を飲むように。
乳房を空にして、巨大な塊へと育たせよ。
女は衰弱して自らの命を失うだろう。
そこからお前は気高い薬を作る。
それは人の心臓から毒を追い払い、病を和らげる。

注 ablactet は通常「離乳させる」だが、この標語ではドイツ語および論説が示す授乳の意味に従った。錬金術の寓意であり、実際の行為の推奨ではない。

論説第V番

哲学者たちの集団はみな、彼らの業とは男と女にほかならない、という点で一致している。男の役割は子を生ませ、女を支配すること、女の役割は受胎し、身ごもり、産み、乳を与え、子を育て、男の支配に服することである。宿した胎児が世に生まれる前には血で養うように、生まれた後は乳で世話し養う。そこで自然は、柔らかな幼児のために、消化しやすく適した食べ物を女の乳房の中へ準備した。それはこの世の道程の最初の食糧・旅の糧として、幼児の到来を待つ。こうして幼児は乳で養われ成長するが、パンを細かくする道具、つまり歯を得ると、適切に離乳される。自然が別の、より固い栄養を備えたからである。しかしここで哲学者たちは、女の乳房の上にヒキガエルを置き、幼児のように乳で養わせるべきだという。幼児のための乳を、毒をもち人の本性に敵対する獣であるヒキガエルへ与えるというのは、哀れで恐ろしい光景であり、不敬でさえある。蛇や竜が牝牛の乳房を吸い尽くす話は、われわれも聞き、読んできた。牛で機会があれば、ヒキガエルも同じことを望むかもしれない。ある農夫が眠っている間に、ヒキガエルがその口と唇の内側にしっかり取りつき、力ずくでなければ、どんな工夫でも追い払えなくなったという話が知られている。しかし力を加えると、ヒキガエルが防御や攻撃の武器に使うとされる毒を吐き、死の危険が伴うので、試みるべきではなかった。そこで反感の作用から、この哀れな人間を救う方法が見つかった。非常に大きな蜘蛛とヒキガエルは、死に至るほど互いを憎み合うのである。農夫はヒキガエルをつけたまま、たいへん大きな蜘蛛が巣を張っている場所へ直ちに運ばれた。蜘蛛はヒキガエルを見るやその背へ降り、自分の刺で刺した。ヒキガエルが何の害も受けなかったので、二度目に降り、今度はもっと強く突き刺した。するとヒキガエルはすぐ膨れ上がり、人に何の害も与えず、死んで口から落ちた。しかしここでは反対のことが起こる。ヒキガエルは口でなく女の乳房に取りつき、その乳で成長して、巨大な体と力をもつようになる。一方、女は力を使い果たし、衰えて死ぬ。毒が胸の血管を通じて容易に心臓へ伝わり、それを汚染し、生命を絶つからだ。これはクレオパトラの例から明らかである。彼女は生きたまま勝者の手に引き渡され、凱旋行列に引き回されることを避けようと、自ら死を選び、毒蛇を乳房に当てた。

テオフィルスは『哲学者たちの集会』で、女と結び合わされた竜に言及する。

しかし、哲学者たちが女に毒ある爬うものを当てるよう命じるほど残酷だと、誰も考えないようにしてほしい。このヒキガエルはその女自身の胎児、すなわち異常な出産によって生まれた息子である。そのため自然の権利によって母乳を享受し、養われなければならない、と知るべきである。母の死は息子の意志ではない。母の腹の中で形を得て、出産までその血によって育った者が、母を毒することなどできなかったからだ。女からヒキガエルが生まれるのは、確かに不吉なことであるが、他にもそうした出来事があったとわれわれは知っている。英国の著述家ウィリアム・オヴ・ニューバラはその記録に、次のように書く。その正確さは他の人々の判断に任せよう。ウィンチェスター司教の領内のある採石場で大石を割ると、中から金の鎖をつけた生きたヒキガエルが見つかった。不吉なことをもたらさないよう、司教の命令で同じ場所に隠し戻し、永遠の闇へ沈めたという。ここでのヒキガエルもそのようなものだ。金をもって際立つのであり、外側に人工の鎖をつけてはいなくても、内側に自然の作るもの、すなわち石を備えている。その石を、人々はボラクス、ケロニティス、バトラキティス、クラポディナ、ガラトロニウムと呼ぶ。その石は、あらゆる動物の毒に抗する力において金をはるかに上回る。損傷したり失われたりしないよう、容器や覆いとして金に嵌め込むのが常である。ただし、本物は動物から取り出したものでなければならない。普通行われるように地中から掘り出した石をその形に整え、代用品として使うなら、心臓を助ける最良の鉱石の中から選ぶべきである。哲学的ヒキガエルは実際にそこに見いだされるのであり、あの物語作者のいう採石場に見いだされるのではない。金をもつのも見栄のための外側ではなく、内側である。闇の閉ざされた場所に隠れているヒキガエルが、何のために身を飾るのか。たそがれに甲虫と出会ったとき、うやうやしく挨拶してもらうためか。その金の鎖を作った地底の金細工師とは誰か。ひょっとすると、同じ著者によれば聖マルティヌスの国から、いや地中そのものから現れたという緑色の子供たちの父か。同様に二匹の犬も採石場から現れたというのだが。

注 毒への効能や奇譚は原著の歴史的主張。石の諸名称は現代物質に同定せず音写した。

お前たちの金を、白い葉状の土に播け。

第6フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第6フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第VI番。下方四度で

白い葉状の土に、ただ金を播け。

アタランタ、すなわち逃げる声部。ヒッポメネス、すなわち追いかける声部。投げられた林檎、すなわちとどまる声部。

農夫たちは肥えた土に種子を託す、
自分たちの熊手で土を葉状にほぐした後に。

注 同じ二行の歌詞が三声部に配される。楽曲内の語句の反復は譜面を参照。

第VI番・ラテン語エピグラムのドイツ語訳

農夫たちは、鉄の歯で十分に砕いた
肥えた土に、その種子を播く。
一方、賢者たちは、自らの金を
葉のような、真っ白い土へ投じよと教える。そこから金が生まれるためだ。
これを正しく行うため、農夫の仕事をよく見よ。
金は小麦のように育ち、固有の命を持つからだ。

お前たちの金を、白い葉状の土に播け。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第6エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第VI番。自然の秘密について

お前たちの金を、白い葉状の土に播け。

エピグラム第VI番

農夫たちは肥えた土に種子を託す、
自分たちの熊手で土を葉状にほぐした後に。
哲学者たちは、薄い葉のような姿をした
雪白の畑に、金を散らして播くことを教えた。
後のことを行うには、前のことをよく見よ。
金が芽生えることを、小麦の中に、鏡を見るように見いだすだろう。

論説第VI番

プラトンによれば、国家は医者と医者からではなく、医者と農夫から、つまり異なる職能をもつ人間たちから成り立つ。とりわけ農夫と医者を挙げるのは、自然を模倣し、改良し、完成させる働きが、この二者において非常にはっきりしているからである。どちらも自然の基体を取り上げ、技術に従って、必要なのに不足しているものを加え、あるいは余分なものを除く。したがって双方の技は、ヒッポクラテスによる医学の定義と同じく、不足分を補い、余剰を除くことと定義できる。農夫のすることは、自然に任されていた畑を耕し、畝を作り、砕土し、肥やしすなわち施肥を行い、種を播き、残りの成長と収穫は自然に任せること以外に、何があるか。自然は太陽の熱と雨を与え、それによって種子を増やし、やがて刈り取られる穀物へと育てる。その間、草が芽を出すと、農夫はあざみやその他あらゆる妨げを取り除き、熟した穀物を刈り、刈ったものから藁、籾殻、その他の余分なものを除く。同じように医者も、別の観点からは錬金術師も、さまざまな療法によって、人の身体にある健康を保ち、失われた健康を回復しようとする。病の原因を除き、病を治し、症状を鎮め、余分な血を瀉血で減らし、不足する血を適切に整えた食生活で回復し、有害な体液を浄化によって排出する。このように、知性と技術の働きにより、無数の仕方で自然を模倣し、補い、正す。これらは周知のことなので、むしろ錬金術に目を向けよう。錬金術は、その秘密の用語と操作法において、とりわけ農業の働きを証ししている。農夫に種を播く土があるように、錬金術師にもある。畑を肥やす糞があるように、錬金術師にもあり、それがなければ何事も成らず、収穫も望めない。農夫には増殖させたい種子がある。錬金術師にそれがなければ、ルルスのいうように、顔も肖像も一度も見たことのない人を描こうとする画家のまねをすることになる。農夫は雨と太陽の熱を待つ。実際、錬金術師も、自分の業にふさわしい熱と雨を与える。多言を要しようか。錬金術は農業に完全に対応し、その代理であって、あらゆる点でその働きを表す。ただし、きわめて完全な寓意のもとにそうするのである。

このため古代人は、ケレス、トリプトレモス、オシリス、ディオニュソスという、黄金の神々、すなわち錬金術に関わる神々を登場させた。あたかも人間に、自分の土地へ穀物の種を投ずることを教え、農業、葡萄の繁殖、酒の使用を示すかのように描いたのである。無知な者たちは、これらをすべて農作業に関することへとねじ曲げたが、それは誤りだ。これらは自然の最も秘められた秘儀であり、農業という覆いのもとで俗衆には隠され、賢者には明らかにされる。このため哲学者たちは、自分たちの金を白い葉状の土へ播くべきだという。それは、小麦の播種を手本と見なし、まねるべきだという意図であろう。『小麦についての論考』の著者とヨドクス・グレヴェルスは、その記述でこれをみごとに行った。両者とも、小麦を生み出す農業の個々の作業を、金の播種、すなわちティンクトゥラの生成へと美しく対応させている。白い土は砂質なので、農夫にはあまり収穫を与えず、黒く肥えた土のほうが望みに適う。しかし哲学者には、白い土が葉状にされ、すなわち十分に調製されているなら、何より役立つ。彼らは自分たちの糞でそれを肥やす方法を知り、農夫たちはまったく知らないからである。播種とは世界の繁殖であり、個体として持続できないものを、種として存続させる営みである。これは人間、動物、植物にある。植物では両性を兼ね、前二者では二つの性が分かれている。だが金属では大いに異なる。金属においては、点の流動から線、線の流動から面、面の流動から立体ができる。この点は、線、面、立体より前に星々が生み出した。すべての始原だからである。自然は長い時間を隔てて流動を加えた。すなわち天のポイボスが地下に小さな息子を生み、メルクリウスがその子をウルカヌスへ養育のために、ケイロンすなわち手を使う職人へ教育のために差し出したのである。これはアキレウスについて、母テティスに火のもとへ置かれ、強くされたと記されるのと同じだ。彼はケイロンから、ほかのこととともに音楽とキタラを奏でる技を学んだ。ところでアキレウスとは哲学的基体にほかならず、その息子ピュロスは赤い髪をもつ。この二人なくしてトロイアは陥落しなかった。このことはわれわれの『ヒエログリフィカ』第6巻で詳しく示した。だから、アキレウスとその英雄的徳性・行為を述べる本書で、付随的とはいえ音楽を扱うことにも理由がある。音楽がこれほどの英雄を飾ったなら、この小著にも多彩さと好ましさを添えないはずがあろうか。聖書が証すように天使たちは歌う。ピュタゴラスが説くように諸天は歌い、詩篇の作者がいうように神の栄光を語る。詩人たちによればムーサとアポロンも歌う。人間も、幼児さえも歌い、鳥も歌い、羊と鵞鳥も楽器の中で歌う。それなら、われわれも歌うことは筋違いではない。

注 羊と鵞鳥が「楽器の中で歌う」とは、楽器の材料などを通じて発音に関与することを表す言い回し。

ゆえにオウィディウスはいう。「ピリュラの子は、少年アキレウスにキタラを習熟させた」。

注 Phyllirides はピリュラの子ケイロン。引用の動詞 praefecit は本書の印刷に従って転記した。

巣から飛ぶ雛が生じ、それが再び巣へ落ちる。

第7フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第7フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第VII番。上方三度、または十度で

若鳥は巣から飛び立ち、また巣の中へ落ちる。

アタランタ、すなわち逃げる声部。ヒッポメネス、すなわち追いかける声部。投げられた林檎、すなわちとどまる声部。

ユピテルの鳥は岩のくぼみに巣を作り、
そこに身を隠して、自らの雛を育てる。

注 同じ二行の歌詞が三声部に配される。楽曲内の語句の反復は譜面を参照。

第VII番・ラテン語エピグラムのドイツ語訳

鷲は岩のくぼみに巣を作り、
そこに隠れて自分の雛たちを養った。
その一羽は、翼で軽々と舞い上がることができたが、
翼のないもう一羽は、それを許そうとしなかった。
ゆえに飛ぶ鳥は、出てきた巣の中へ再び落ちる。
彼らの頭を後ろへ結び合わせよ。そうすれば、お前はそれを得るだろう。

巣から飛ぶ雛が生じ、それが再び巣へ落ちる。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第7エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第VII番。自然の秘密について

巣から飛ぶ雛が生じ、それが再び巣へ落ちる。

エピグラム第VII番

ユピテルの鳥は岩のくぼみに巣を作り、
そこに身を隠して、自らの雛を育てる。
その一羽は軽い翼で舞い上がろうとしたが、
羽のない兄弟の鳥に引き止められた。
こうして飛ぶ鳥は、去った巣へ戻る。
彼らの頭を尾に結び合わせよ。そうすれば、お前の手は空ではなくなる。

論説第VII番

医者たちの先導者ヒッポクラテスは、人体の体液は種類が異なり、数も複数であって、一つだけではない、そうでなければさまざまな病は生じえない、と断言する。このことは世界の元素についても真実だと、われわれには分かる。もし元素が一つしかなければ、他のものへの変化も、生成も、消滅も起こらない。それどころか万物が一つの不変なものであり、気象現象、鉱物、植物、動物が自然に生じることもないだろう。このため至高の創造者は、異なり相反する本性、すなわち軽いものと重いもの、熱いものと冷たいもの、湿ったものと乾いたものから、この世界の体系全体を構成した。親和性によって一つが他へ移り、こうして、本質、性質、力、作用が大いに異なる諸物体が合成されるようにしたのである。完全に混合されたものの中には、火と空気のような軽い元素も、土と水のような重い元素もあり、均衡によって互いに調整されているので、一方が他方から逃げ去らず、それぞれが他のものに、隣り合うものが隣り合うものに、容易に捕らえられ保たれる。土と空気は互いに反し、火と水も同様である。しかし火は、両者に共通する熱によって空気と、乾燥によって土と、友好を結ぶ。同じように空気は水と、水は土と結ぶ。こうしてすべては姻戚、むしろ血縁の絆で結ばれ、一つの組成の中にともにとどまる。その組成に軽いものが多ければ、重いものを伴って引き上げ、重いものが多ければ、軽いものを伴って押し下げる。このことは、翼ある鷲と翼のない鷲の二羽で説明される。前者が飛ぼうとすると、後者が引き止めるのである。鷹と鷺の戦いには、その明白な実例がある。鷹は速い飛翔と敏捷な翼で上空へ上がり、鷺を爪でつかみ裂くが、鷺の重みのため二羽とも地面へ落ちる。反対のことは、アルキュタスの人工の鳩、すなわち自動機械に見られた。そこでは軽いものが重いものを引き上げた。つまり内部に閉じ込めた精気によって、木製の身体が空中へ運ばれたのである。哲学的基体では、最初は量において軽いものが重いものに勝るが、それでも重いものの力には負ける。時が経つにつれ鷲の翼は切り落とされ、二羽から一羽の巨大な鳥、すなわち駝鳥ができる。それは鉄を食い尽くすことができ、立派な羽を持ちながらも、重みに妨げられて、空を飛ぶより地上を走る。

この鳥、または同じような鳥について、ヘルメスは次のように書いたと、『曙』の著者は第5章で証言する。「私は賢者たちに尊ばれる鳥を見た。それは白羊宮、巨蟹宮、天秤宮、磨羯宮にあるとき飛ぶ。そしてお前は、それを純粋な鉱床と岩山から得て、永続するものとして自分のものにするだろう」。セニオルも『図板』で同じ鳥を述べる。そこには飛ぶ鳥と羽のない鳥の二羽が描かれ、容易に離れられないよう、互いに相手の尾を嘴でくわえている。これこそ自然全体の仕組みである。重いものを軽いものによっていつも引き上げ、逆に軽いものを重いものによって押し下げるのだ。『完全な秘術』の著者もそう説明し、七つの鉱物の精気を惑星に、同数の金属の身体を恒星になぞらえ、後者を前者と婚姻させねばならないとする。錬金術師アリストテレスも述べる。「精気が身体と魂を溶かして、それらが固有の形で存在するようにしても、それを捕らえなければ固定したままではいない。捕らえるとは、初めにそれを調製したもとの身体と結び合わせることである。その身体の中で精気は逃走を止められ、身体の存続に結びつけられるからだ」。ボヌスが述べるように、樟脳では軽い元素、すなわち空気と火が重い元素に勝る。そのため全体が蒸発して空気中に消えるという。水銀、硫黄華、アンチモン華、鹿の血の塩、サル・アルモニアク、その他同類のものでは、土は空気とともにアランビックへ飛び、空気から離れない。金、ガラス、アダマス、スミリ石、柘榴石、その類のものでは、火に強くさらされても、諸元素は損なわれず、きわめて長く結合したままで、土が他の元素を引き止める。他の可燃物では、一つが他から分かれ、分離が起こるので、灰が底に残り、水・空気・火が上へ向かう。したがって目を向けるべきなのは、最後の組の不均等で、結合もさほど強くない組成でも、最初の組の、より持続的とはいえ揮発性である混合でもない。中間の組の堅固さ、恒常性、固定性である。そうすれば羽のない鳥が羽のある鳥を引き止め、固定した実体が揮発する実体を固定する。そうならなければならないのである。

注 armoniaco は歴史的物質名としてサル・アルモニアクと訳した。アダマスとスミリ石も現代物質へ厳密に同定していない。

卵を取り、火の剣で打て。

第8フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第8フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第VIII番。上方八度で

注 この箇所の印刷は Fuga IV だが、連番およびエンブレムに従えば第VIII番に当たる。

卵を取り、灼熱の剣で打て。

アタランタ、すなわち逃げる声部。ヒッポメネス、すなわち追いかける声部。投げられた林檎、すなわちとどまる声部。

世界には、あらゆる鳥よりも高貴な鳥がある。
その卵を探すことに、一心に努めよ。

注 同じ二行の歌詞が三声部に配される。楽曲内の語句の反復は譜面を参照。

第VIII番・ラテン語エピグラムのドイツ語訳

この世には、他の鳥より高きものが見いだされる。
その卵を知恵によって探すことを務めとせよ。
白身は黄色の卵黄を包んでいる。それを細心の注意で、
灼熱の剣によって焼け。そうするのが務めなのだ。
マルスに火の神を助けさせよ。するとそこから、
火と鉄を打ち破れる若鳥が生まれる。

卵を取り、火の剣で打て。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第8エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第VIII番。自然の秘密について

卵を取り、火の剣で打て。

エピグラム第VIII番

世界には、あらゆる鳥より高貴な鳥がある。
その卵を探すことに、一心に努めよ。
柔らかな白身が、黄色の卵黄を包む。
慣例どおり、灼熱の剣を慎重にそれへ向けよ。
マルスにウルカヌスを助けさせよ。そこから生まれる
若鳥は、鉄と火に勝つ者となるだろう。

論説第VIII番

鳥の種類は多くさまざまで、数を限れないばかりか、名さえわれわれに知られていない。大洋の小島に、年の一定の時期に現れるルクという巨大な鳥については、象を伴って空中へ持ち上げられるという。インドとアメリカは、さまざまな色の鸚鵡、烏、それらに似た鳥を産する。しかしこれらの卵を探すことは、哲学の意図ではない。エジプト人は毎年、鉄の武器で鰐の卵を襲い、あたかも公に宣戦したかのように追及する。一方、哲学者たちは自分の卵を火で打つが、それを壊して滅ぼすためでなく、生命を得て成長するためにそうする。そこから魂を備え生きた雛が生まれるなら、それは消滅ではなく生成と呼ぶべきだからである。確かに卵としての形相を失うことで卵であることをやめるが、より高貴な形相を受け入れることで、二足で飛ぶ動物となり始める。卵の中には雄と雌の種子が、ともに一つの屋根、つまり殻の下で結ばれている。卵黄は雛とその根本的な肢体・内臓を構成し、雄の種子が内部で形を与えるもの、作用因となる。白身は雛の原型、すなわち経糸に対して、質料すなわち緯糸と成長を与える。外の熱は第一の動かすものであり、自然の衝動または導きによって、諸元素の循環と相互転化を通じ、新しい形相を導入する。水が空気へ、空気が火へ、火が土へ移り、これらがすべて結びつくと、星々から種に固有の形相が降り、一定の鳥の種の一個体となる。すなわち、その卵と、卵に注がれた種子が属する種の個体となるのである。火の剣で打たれるというのは、ウルカヌスが産婆の役割を果たし、自らの斧によって雛に出口を与えるときのことだ。ユピテルの頭からパラスを出したようにである。バシリウス・ウァレンティヌスがいうのもこのことで、メルクリウスはマルスの命令でウルカヌスに牢へ閉じ込められ、完全に腐敗して死ぬまで解放されなかった。しかしその死は、新しい生の始まりである。卵の腐敗すなわち死が、雛の新たな生成と生命をもたらすのと同様だ。人間の胎児も、母の胎内で唯一享受していた植物的生命を終えると、この世の光への移行、すなわち出生を通じて、別のより完全な生命を得る。さらに、われわれ自身も、いま営むこの生を奪われた後には、別の、最も完全で永遠の生が待っている。

このようにルルスは、多くの箇所で、この火の剣を鋭い槍と呼ぶ。火は槍や鋭い剣のように身体を穿ち、多孔で通り抜けられるものとするので、水が浸透してそれを溶かし、硬さから柔らかさと扱いやすさへ導くことができるからだ。あらゆる鳥の中で最も貪食な海烏の胃には、細長く丸い生きた虫が見つかる。それは鳥にとって、いわば熱の道具である。鳥が捕らえた鰻や魚にただちに襲いかかり、われわれ自身がかつて観察したように、きわめて鋭い針のように穿ち、自然の驚くべき働きによって、ごく短時間で食い尽くす。このように熱が刺すのと同じく、刺すものが時として熱の代わりを務める。したがって、哲学者たちの卵を切りつけ、あるいは打つべきものを火の剣と呼ぶのは、理由のないことではない。しかし哲学者たちは、それをむしろ卵を温める穏やかな熱と理解してほしいのである。『哲学者たちの集会』でモルフォレウスは、次のように明らかにする。「賢明なる諸君、雛の生成という例がわれわれに示すように、まず緩やかな火で湿気を焼き去らなければならない。火を強めるときは、銅の身体とその精気が逃げ出して失われないように、器を四方から密閉せよ」。では、どの鳥の卵なのか。同書でモスクスはいう。「私はこういう。われわれの白く、星を帯び、輝く粉と、白い石からでなければ、いかなる道具も作られない。その粉から、卵に適した道具が作られる。しかし彼らは、卵の名も、それがどの鳥の卵かも述べなかった」。

注 原文の in in の重複を保持。aeris は本文で æris と印刷され、ここでは銅を意味する aes の属格として訳した。Morfoleus はこの印刷に従う。

木を老人とともに露に湿った家に閉じ込めよ。彼はその実を食べ、若者になるだろう。

第9フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第9フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第IX番。上方五度で

木を老人とともに、露に満ちた家へ閉じ込めよ。彼はその実を食べ、若返るだろう。

アタランタ、すなわち逃げる声部。ヒッポメネス、すなわち追いかける声部。投げられた林檎、すなわちとどまる声部。

知恵の庭には、黄金の林檎を実らせる木がある。
われわれの老人とともに、この木を手に取れ。

注 同じ二行の歌詞が三声部に配される。楽曲内の語句の反復は譜面を参照。

第IX番・ラテン語エピグラムのドイツ語訳

知恵の庭には、黄金の実をつける木が見つかる。
それをわれわれの老人に添えよ。
二つを、露に囲まれたガラスの家へ閉じ込め、
何日も、そのように閉じたまま生きさせよ。
すると男は、不思議にも、ほどなくその木の実を食べ、
かつて年を重ねたひどい老人だった者が若くなる。

木を老人とともに露に湿った家に閉じ込めよ。彼はその実を食べ、若者になるだろう。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第9エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第IX番。自然の秘密について

木を老人とともに露に湿った家に閉じ込めよ。彼はその実を食べ、若者になるだろう。

エピグラム第IX番

知恵の庭には、黄金の林檎を実らせる木がある。
われわれの老人とともに、この木を手に取れ。
露に満ちたガラスの家へ両者を閉じ込め、
幾日も二つを結び合わせたままにせよ。
すると彼は、驚くべきことに、木の実を飽くまで食べ、
かつて老人であった者が若者となる。

論説第IX番

長さ、幅、深さにおいて成長するもの、つまり生まれ、養われ、大きくなり、最盛に達し、繁殖するものは、また衰えもする。すなわち力を減じ、死に、完全に崩れ去る。これはすべての植物と動物に明らかである。したがって人間にも、成長の極に達すると衰退、すなわち老いが起こり、死が訪れるまで少しずつ力を失う。老齢の原因は、油をほぼ使い切った灯火が弱り、薄暗く照らす原因と同じである。灯火に灯芯、脂、炎の三つがあるように、人間では生命に関わる器官、内臓、四肢が灯芯、根本湿気が脂、生得の熱が炎である。違いは、灯火の炎が光るのに、生得の熱は火ではなく単なる熱なのでまったく光らないこと、また脂は油性だが根本湿気は種子的な原理に属するため粘りがあることだけである。油の不足で灯火が消えるのと同じく、人間も他の病がなくても、老いから衰弱、老人性の消耗、そしてついには死へ至る。鷲については、老いると嘴が大きく曲がって食事を妨げるので、自然によって嘴が落ちて若さに戻るようなことがなければ、餓死するだろうと伝わる。同様に鹿は角を落とし、蛇は皮すなわち脱皮殻を捨て、蟹は甲殻を脱ぐことで若返るように見える。しかし実際にそうなのではなく、見かけだけである。使い尽くした根本湿気が回復するわけではないからだ。人を若返らせるものは、死そのものと、その後に続く永遠の生の始まり以外にはない。もっとも、外見と力をいくらか回復させ、皺と白髪を除く点では、薬が見つかるという者がいる。ルルスは第五精髄について、アルノルドゥスは調製した金について、そう主張する。しかしここで哲学者たちは、老人を若者にするには、ある木とともに露に湿った家へ閉じ込めなければならず、すると彼はその木の実を食べ、そのようにして若さを取り戻す、と述べる。そうした木が現に自然界に存在するとは、一般の人々にはほとんど信じられない。医師たちは木の実であるミロバランについて、白髪を除き、血を清め、寿命を延ばすといった、これに類する驚くべき働きを記す。しかし多くの人々がこれを疑問視する。ただし他の薬物同様、血液の塊から混じった滓を清め、白髪を黒く染めるという付随的な作用だとするなら別である。ミロバランは髪と眼の瞳をその黒で染めると伝えられている。マルシリオ・フィチーノは『学者の生命の保持について』で、長寿に達するためには、美しく若い女の乳房から毎日乳を吸うのが役立つと書いている。その代わりに毒蛇の肉を食べることを称揚する者もいる。

注 根本湿気(humidum radicale)と生得の熱(calor nativus)は当時の生命論の術語。治療・長寿に関する記述は歴史的原文の主張であり、現代の医学的推奨ではない。

しかしこれらの方法は、老齢そのものよりも苛酷であり、たとえ効き目が確実であっても、千人に一人でさえ使うべきか疑わしい。パラケルススは『長寿について』に、想像力だけによって、病人は他人の健康を、老人は他人の若さを自分へ引き寄せられると書く。しかしこの著者は、この点では経験でなく自らの想像だけを用いたように見える。二重の瞳をもつプシュッリ人や魔女たちが、見るだけで子供や家畜に呪いをかけることには、疑いがない。ここからウェルギリウスの「ああ、誰の眼が、私のか弱い子羊たちを呪うのか」という句もある。ただしこれらは接触なしに起こる。それに対して、この木が老人を若さへ戻すのは接触による。この木には甘く、熟した、赤い実があり、容易に最良の血へ変わる。消化がよく、最良の栄養なので、余分なものや滓を身体に少しも残さない。一方、老人は白い粘液に富み、肌の色も髪も白い。その体液、色、髪は、これらの実を食べることで変わり、若者に属する赤いものとなる。このため哲学者たちは、石は初め老人、つまり白く、次いで若者、つまり赤くなるという。赤が若さの色であるのに対し、白は老齢の色だからだ。さらに、老人を木とともに閉じ込めるのは、戸外でなく家の中、乾いた家でなく露に湿った家でなければならない、と付け加えられる。閉じた場所で木が生まれ育つのは奇跡とされるが、その場所が湿っていれば、長く生き続けることに疑いはない。木の養分は湿気と、空気を帯びた、すなわち肥沃な土である。それは幹と枝へ上がり、そこで葉、花、実を生み出すことができる。この自然の働きには全元素が協同する。火は作用因として最初の動きを、空気は細かさと浸透性を、水は滑らかさを、土は凝固を与える。空気や水の余分が上がっていれば、空気は水へ、水は土へ戻るからだ。火とは生得の熱を意味する。それは種子とともに伝わり、星々の力によって、種子がもと来た実に似た実を、職人のように作り形づくる。露を帯びた蒸気は、木を湿らせて実を結ばせるだけでなく、老人がその実でいっそう容易に若返るのにも役立つ。穏やかな熱と湿気で、皺が寄り乾いた皮膚を柔らかくし、満たし、回復させるからだ。実際、医師たちは衰弱と老人性の消耗に際して、適切な判断のもとに、ぬるい浴を命じ処方し、大きな効用を得ている。しかしよく考えれば、その木は老人の娘であり、ダプネのようにその種の植物へ変えられたものだ。だから老人が、その娘から若さを期待するのは当然である。彼自身が、娘の存在する原因であったのだから。

注 邪視、若返り、温浴等の記述も原文の歴史的主張として訳した。

火に火を、メルクリウスにメルクリウスを与えよ。それでお前には十分である。

第10フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第10フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第X番。下方二度で

火に火を、メルクリウスにメルクリウスを与えよ。それでお前には十分である。

アタランタ、すなわち逃げる声部。ヒッポメネス、すなわち追いかける声部。投げられた林檎、すなわちとどまる声部。

世界の構造全体は、この鎖によって結びつき、支えられている。
すなわち、すべて似たものは、自分に似たものを喜ぶということに。

注 同じ二行の歌詞が三声部に配される。楽曲内の語句の反復は譜面を参照。

第X番・ラテン語エピグラムのドイツ語訳

全世界の建造物は、この鎖に懸かる、
それぞれが自分に似たものと交わるという鎖に。
こうしてメルクリウスは同族へ、火は
火へ結びつけられる。この貴い技の目標をそこに置け。
ウルカヌスはヘルメスを動かし、ヘルメスは今度は
キュンティアを解く。彼女はお前に、アポロンよ、すばやく仕返しをする。

火に火を、メルクリウスにメルクリウスを与えよ。それでお前には十分である。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第10エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第X番。自然の秘密について

火に火を、メルクリウスにメルクリウスを与えよ。それでお前には十分である。

エピグラム第X番

世界の構造全体は、この鎖によって結びつき、支えられている。
すなわち、すべて似たものは、自分に似たものを喜ぶということに。
こうしてメルクリウスはメルクリウスと、火は
火と結ばれる。これをお前の技に定められた目標とせよ。
ウルカヌスはヘルメスを動かすが、翼あるヘルメスは、
キュンティアよ、お前を溶かす。そしてアポロンよ、お前は姉妹によって溶かされる。

論説第X番

この命題を文字どおりに受け取れば、火とメルクリウスの量を増やすだけで、基体に新たな性質をもたらすことはない。似たものを似たものに加えれば、そのものは同じ性質を強めるからだ。このため医師たちは、反対のものは反対のものによって治され、取り除かれるという。火が水によって消され、火を加えると養われることを、われわれは見る。詩人も「葡萄酒の中でウェヌスが、火の中で火が荒れ狂う」と述べ、同じ考えを示す。しかし答えるなら、火と火、メルクリウスとメルクリウスは、互いに大いに異なる。哲学者たちには多くの種類の火があり、メルクリウスにも多くの種類がある。さらに同じ熱と冷たさでも、場所や位置が離れているだけで同種の別のものとは異なり、自分に似たものを自分へ呼び寄せる。たとえば身体のある部分にしみ込んだ火の熱が、同じ熱によって引き寄せられ、引き出される。また冬の寒さでしびれ、ほとんど死んだようになった手足は、外から直接熱を加えるのでなく、冷水へ浸すことで回復することを、われわれは観察する。強い光が弱い光をかき消すように、強い熱も弱い熱を、強い冷たさも弱い冷たさをかき消す。ただし外からの熱と冷たさは、すでに器官や四肢にしみ込んだものより弱くなければならない。そうでなければ以前と同じ作用が起こり、似たものによって似たものが引き出されるどころか、いっそう増強されるからだ。冷水で冷たさを、熱で火の熱を引き出すのは、自然に適っている。反対のものへの急激な変化はすべて、自然にとって危険で受け入れがたいが、徐々に段階を踏むような変化は耐えられるからである。そこでわれわれは、一つの火は内なる火で、哲学的基体にすでに植えつけられている、すなわち本質的に存在するものであり、もう一つは外なる火だという。メルクリウスについても同様に理解すべきである。内なる火は、火のような性質・力・働きをもつために、転義的に火と呼ばれる。外なる火は、本義における火である。ゆえに技の目的を実現するには、外なる火を内なる火へ、そのようなメルクリウスをメルクリウスへ与えなければならない。硬いものや生のものを煮熟によって柔らかくし、熟させるには、火と水を用いる。水は硬さを解き、密な部分へ浸透し、熱が水に力と運動を加える。たとえば豌豆を煮る場合に明らかである。豆はもともと完全な形を保ち硬いが、水で膨らみ、崩れ、粥状になる。火の熱が沸騰を通して水を希薄にし、より細かい、ほとんど空気のような実体に変えるからだ。同じように火の熱は、果実や肉の生の部分を水中で解き、水とともに空中へ消散させる。同様に、ここでの火とメルクリウスは火と水である。また同じ火とメルクリウスは、成熟した部分と未熟な部分でもある。未熟な部分は煮熟して成熟させねばならず、成熟した部分は火と水の働きによって余分なものから清めねばならない。

注 火傷・低体温への処置の記述は歴史的理論の翻訳であり、現代の応急手当の指示ではない。

さて、この二つの火と二つのメルクリウスが、この技にとって第一に、また不可欠なものとして必要なことを、ここで簡潔に示そう。エンペドクレスは万物の二原理を、争いと友愛と定めた。争いによって消滅が、友愛によって生成が起こるという。このような争いは火と水の間に明白に見られる。火は可能なら水を蒸発させ、逆に水は火に加えられれば、それを消す。しかし同じ両者から、ある友愛によって生成が生じることも明白である。熱によって水から新しい空気が生じ、同じ熱によって水が石へと硬化する。このように、この二元素をいわば最初のものとして、他の二元素も、ひいてはすべてのものの産出も生じる。水は天とすべての身体的なものの質料であった。火は形相としてこの質料を動かし、形づくる。同じく、ここでは水すなわちメルクリウスが質料を与え、火すなわち硫黄が形相を与える。この二つが働きに至り、溶解、凝固、変質、着色、完成によって相互に動かし合うには、道具としての外的な助けが必要だった。それがなければ結果は生じない。鍛冶が槌と火なしには何も成せないように、哲学者も自らの道具である水と火なしには何も成せない。この水を「雲の水」と呼ぶ者がおり、この火は「誘起された火」と呼ばれる。雲の水という名なのは、疑いなく、それが五月の露のように蒸留され、きわめて細かな部分からなるためだ。五月の露を卵殻に閉じ込めると、太陽の熱で卵、あるいはその容れ物を高く持ち上げるといわれるように、この雲の水、すなわち露も、哲学者たちの卵を上昇させる。つまり昇華させ、高め、完成させるのである。同じ水はきわめて鋭い酢でもあり、身体を純粋な精気へ変えた。酢が、奥深く浸透することと収斂することという異なる性質をもつように、この水も溶解と凝固を行う。ただしそれ自体は凝固しない。基体そのものに由来するものではないからだ。この水はパルナッソスの泉から取られる。その泉は他の泉の性質に反して山の頂にあり、翼ある馬ペガソスの蹄によって作られた。さらに実際の火がなければならないが、それぞれの段階を手綱のようにして調整しなければならない。太陽が白羊宮から獅子宮へ進むにつれ、常に近づきながら、生長するものへ徐々に熱を増していくように、ここでもそうしなければならない。哲学者たちの幼児は、乳によるように火で養う必要があり、成長するほど、いっそう豊かに与えなければならないからだ。

ラトナを白くせよ、そして書物を引き裂け。

第11フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第11フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

第11フーガ。上方六度。

ラトナを白くし、書物を引き裂け。

逃げるアタランタ。追うヒッポメネス。とどまる林檎。

ラトナの双子の子らを知らぬ者はいない。
古い伝承によれば、ユピテルから生まれた子らである。

注 同じ二行詩を三声が歌う。音節の配置、歌唱上の語句の反復と楽譜全体は、この頁の原刊画像に保存した。

第11篇。ラテン語短詩のドイツ語訳。

誰もがラトナの双子の子らをよく知っている。
伝承が証すとおり、ユピテルから生まれたという子らを。
ほかの者たちは、これを太陽と月がことごとく結ばれたものと呼ぶ。
そこには多くの黒い斑点が見られる。
それゆえラトナの顔の色を、すっかり白くせよ。
また書物に害されぬよう、それを細かく引き裂け。

ラトナを白くせよ、そして書物を引き裂け。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第11エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

第11エンブレム。自然の秘密について。

ラトナを白くせよ、そして書物を引き裂け。

第11短詩。

ラトナの双子の子らを知らぬ者はいない、
古い伝承によれば、ユピテルから生まれた子らである。
ほかの者たちは、彼女を月と混ざり合った太陽の光と伝え、
その顔には黒い斑点があるという。
それゆえ、ラトナを白くするよう努めよ。害をもたらす
曖昧な書物は、ためらわず引き裂け。

第11論説。

著者たちの書き方は実に多様であるため、真理を探す人々は、この術の目的を見いだすことを、ほとんど絶望してしまう。寓意的な言葉は、それ自体が理解しにくく、多くの誤りの原因であるが、とりわけ、異なる事物に同じ語が用いられ、同じ事物に異なる語が用いられる場合にはそうである。そこから抜け出そうとする者は、これほどの闇の下に隠れた真理を見通せるほど神のような才知を備えているか、あるいは、何が真で何が真でないかを試すための、尽きない労力と費用を持っていなければならない。しかし哲学者たちは、一方だけでは足りないという。鋭い才知だけで手の仕事がなくても、手の仕事だけで才知がなくても足りず、理論だけで実践がなくても、またその逆でも足りない。十万もの迂路、誤り、字面の偽り、逸路、曖昧さを避け、自然の真の道を進み続けられるほど識別力のある人はいないからである。それゆえ哲学者たちは、「まだ誤ったことのない者は、まだ始めてもいない」といい、誤りは、何をすべきか、何をすべきでないかを教える教師だという。同じ人々はまた、実験だけによって真理に達しようとするなら、たとえ千年生きたとしても、生涯を蒸留と再蒸留に費やしてしまうこともある、と繰り返し説いている。

学びと著者たちの読書なしには、ほとんど進歩できないことを、『愚者の矯正者』は次のように示している。「学びは無知を取り除き、人間の才知を真の認識と、あらゆる事物の知識へ導く。それゆえ、まず学びによって、この甘美な仕事についての知を獲得し、自然についての言葉によって才知を研がなければならない。その中に真理の認識があるからである。したがって、仕事に携わる者が学びを軽んじなければ、そこから生じる果実を甘く味わうだろう。だが、学ぶことを嫌いながら、それでも仕事をしようとする者は、自分の術が、それによって改良したいと望む自然を模倣しているかどうかを考えるがよい。その者には、哲学者たちの秘密を完全な目的へと整えることは不可能だからである。賢者たちはこのような者について、驢馬が干し草へ向かうように実践へ進む、といっている。彼らは何に鼻を突き出しているのかを知らない。知性を欠いた外的感覚が、視覚と味覚を通して餌へ導く、その限りで知るだけである。」以上がその言葉である。

注 Corrector fatuorum は錬金術書の名称・呼称として訳した。

しかし、学びは尽きることのない、計り知れない深さの海である。過度の学びで身をやつし、どの文字をも、たとえ多くのほかの箇所と一致しているものまで、実行に移そうと試み、その間に身体の力、人生、名声、財産、能力を空しく使い果たし、あるいは損なう者がないよう、哲学者たちはこのエンブレム的な言い方を用いる。すなわち、ラトナを白くし、その書物を引き裂かねばならない。読者自身の心が引き裂かれないために、というのである。実際、多くの書物は、著者自身にしか理解できないほど曖昧に書かれている。少なからぬ書物は、嫉妬から他者を惑わせるために残された。むしろ、その進行を遅らせ、苦労なしには目標へ到達できないようにするため、あるいは、自分が以前に書いたことを曖昧にするために残されたのである。

だが、ラトナを白くするとはどういうことなのか。そこを探究することこそ、仕事であり、苦労である。『ラッパの響き』は、ラトナとは太陽と月から構成された不完全な身体だと断言する。詩人と最古の著述家たちは、ラトナを太陽と月、すなわちアポロンとディアナの母とし、ほかの者たちは乳母とする。最初に生まれたのはディアナであり(月と白さが最初に現れるからである)、その後、同じ日に兄弟アポロンを産む際には、彼女が産婆の役を果たしたという。さて、ラトナはエジプト人の十二の象形的な神の一人であり、そこからこの寓意やほかの寓意が他民族へ広まった。その真意と意味を理解していたのは、ごく少数のエジプトの祭司だけであって、ほかの者たちは皆、このような話を、自然界には存在しない別の対象、すなわちさまざまな男神や女神へ当てはめて解釈した。そのため、かの地にはウルカヌスに次いで、黄金で覆われ、飾られた、きわめて豪華なラトナの神殿があった。彼女は哲学者たちのアポロンとディアナの母だったのである。

このラトナは褐色で、黒ずんでおり、顔には多くの斑点がある。それらは技術によって、すなわち白化によって取り除かなければならない。鉛白、昇華したメルクリウス、油に変えたタルクなどから白くするものを作り、皮膚の外側に塗り固め、覆って白くする者もいる。しかし、このような白い塗膜は、どんな息吹や液体によっても落ちてしまう。内側まで浸透していないからである。哲学者たちは、このような着色には関心を持たない。それは身体の内部の実体を染めるより、目を欺くために用いられるものだからである。彼らが望むのは、ラトナの顔が浸透によって白くなり、皮膚そのものが変化することである。すなわち、偽りではなく、真にそうなることである。では、それはどのように生じるのかと問われよう。私は答える。まずラトナを探し、認識しなければならない。たとえ卑しい場所から取り出されたのであっても、より高貴な場所へ昇華されなければならない。反対に、より高貴な場所から取り出されたなら、より卑しい場所、すなわち糞の中へ沈められなければならない。そこでは実際に白くなり、白い鉛になるだろう。それを得たなら、その後の成功、すなわち赤い鉛を疑う必要はない。それは仕事の始まりであり終わりである。

注 鉛白・水銀などについての歴史的な説明であり、皮膚に塗ることや操作を勧めるものではない。「白い鉛」「赤い鉛」はこの文脈の錬金術語として保持した。

サトゥルヌスが息子ユピテルの代わりに呑み、吐き出した石は、人間たちの記念としてヘリコンに置かれた。

第12フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第12フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

第12フーガ。上方二度。

サトゥルヌスが息子ユピテルの代わりに呑み、吐き出した石は、人々の記念となるようヘリコン山に置かれた。

逃げるアタランタ。追うヒッポメネス。とどまる林檎。

なぜこれほど多くの詩人がヘリコンを語り、
誰もがその頂を目指さねばならないのか、理由を知りたいか。

注 同じ二行詩を三声が歌う。音節の配置、歌唱上の語句の反復と楽譜全体は、この頁の原刊画像に保存した。

第12篇。ラテン語短詩のドイツ語訳。

詩人たちがなぜしばしば、
ヘリコンへすべての願いを向けよと語るのか、知りたければ、
そこには記念として、広く名高い石がある。
サトゥルヌスがユピテルの代わりに呑み、また吐いた石である。
言葉の響きだけを見るなら、あなたは賢くない。
その石が錬金術の石であったことは、十分に明らかだからである。

サトゥルヌスが息子ユピテルの代わりに呑み、吐き出した石は、人間たちの記念としてヘリコンに置かれた。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第12エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

第12エンブレム。自然の秘密について。

サトゥルヌスが息子ユピテルの代わりに呑み、吐き出した石は、人間たちの記念としてヘリコンに置かれた。

第12短詩。

なぜこれほど多くの詩人がヘリコンを語り、
誰もがその頂を目指さねばならないのか、理由を知りたいか。
その頂の最も高いところには、記念として石が置かれている。
ユピテルの代わりに父が呑み、吐き出した石である。
言葉の響くままに事柄を捉えるなら、あなたの考えは誤っている。
なぜなら、それはサトゥルヌスの錬金術の石だからである。

注 第五行の ceu は「…のように」。言葉の字面だけを採る読みを戒める。

第12論説。

サトゥルヌスの寓意は、さまざまに受け取られてきた。天文学者たちは惑星の配列の最上位のものへ、錬金術の初心者たちは金属の最下位のもの、すなわち鉛へ当てはめた。異教の詩人たちは、彼をユピテルの父、天の息子とし、神話解釈者たちは時間とした。しかし、これらの人々はそれぞれの見地から正しく考え、自説にもっともらしい理由を持つように見えても、サトゥルヌスについて語られるその他の事柄を説明できない。なぜ子らと、ユピテルの代わりの石を呑み、吐き出したのか。なぜ真理の発見者なのか。なぜ鎌、蛇、黒さ、気難しさを特徴とし、足が不自由なのか。最後の人々は、こう説明すれば最もよく解釈できると考える。時間は真理を開き、闇から取り出す。蛇のように巻きながら滑り去り、鎌を振るうようにすべてを死によって打ち倒す。自分の子、つまり自ら生み出したすべてのものを呑み込むが、硬い石は消化も消耗もできないので、いわば吐き戻すのだ、と。これらは確かに一部は適合するが、事柄の真実と、そのすべての事情には合致しない。

しかし経験ある哲学者たちは、自分たちの仕事では最初にサトゥルヌスが現れるという。これが実際に存在するなら、誤っているはずはない。真理は闇の中に見いだされたのであり、そこには黒さ以外の何ものもない。それゆえ『哲学者たちの集会』では、「黒さの後に来る色は何であれ、称賛に値する」といわれる。また「自分の質料が黒くなるのを見たなら喜べ、それは仕事の始まりだからである」ともいう。そして『薔薇園』がアルノルドゥスから引くように、「最初に黒くなるとき、それを仕事の鍵と呼ぶ。黒さなしには仕事は成らないからである」。また『鏡』からは、「仕事に携わるとき、初めに黒い色を得るようにせよ。そうすれば、腐敗させており、正しい道を進んでいると確信できる」と引かれる。続いて、「この黒さは土と呼ばれる。それは、黒さが上に際立つまで、穏やかな煮熟を何度も繰り返すことによって生じる」という。それゆえ同じ人々は、サトゥルヌスは土を、メルクリウスは水を、ユピテルは空気を、太陽は火を占めるという。したがって、黒さがサトゥルヌスであり、真理のしるしであり、ユピテルの代わりに石を呑む者である。黒さ、すなわち褐色の雲は、まず石を覆い、見えなくするからである。

それゆえモリエヌスは、「いかなる身体も、魂を失うと暗く、光のないものとなる」と述べる。またヘルメスはいう。「その脳を取り、非常に強い酢、または子供たちの尿で、それが暗くなるまで磨れ。これが済むと、それは腐敗の中で生き、死ぬ以前にその上とその身体の内にあった褐色の雲が戻ってくる。」この石は、白くなると、再びサトゥルヌスに吐き出される。そのとき、ヘシオドスが書くように、人間たちの記念としてヘリコンの頂に置かれる。実際、黒さの下には白さが隠れており、その腹から、つまりサトゥルヌスの胃から引き出されるのである。

それゆえデモクリトスはいう。「念入りな洗浄によって錫を清め、その黒さと暗さを取り去れ。そうすれば、その輝く白さが現れる。」また『集会』では、「乾いたものを湿ったものへ、すなわち黒い土をその水へ結びつけ、白くなるまで煮よ」といわれる。アルノルドゥスは『新しい光』第四章で、このことをよく説明している。「したがって、煮熟の間に黒さをもたらしていた湿気は、白い色が現れ始めると、自らが乾かされたことを示す。」さらに少し後で、「師は私に、この褐色が上昇するのは、その黒さの腹から白さが引き出されることだと語った。『集会』にいわれるとおりである。それが黒いのを見たなら、その白さは、最初に現れる黒さの腹の中に隠れていると知れ」と述べる。同じ黒さはサトゥルヌスと呼ばれるとともに、鉛とも呼ばれる。それゆえ『集会』でアガディモンはいう。「貨幣と呼ばれる黒さが出てくるまで、銅を煮よ。私たちの術の物をよく混ぜよ。すると、ただちに黒さを見いだす。それが賢者たちの鉛であり、賢者たちは書物の中でそれについて多く論じてきた。」エミガヌスの、「サトゥルヌスの輝きは、空気へ昇るとき、暗くなってしか現れない」という言葉もこれに関わる。また『薔薇園』ではプラトンが、「サトゥルヌスの第一の処理は、腐敗させ、太陽へさらすことである」と述べる。

注 引用人名・書名はマイヤーの帰属を反映する。「銅」「錫」「鉛」は錬金術的用語の可能性を残す。

これらから明らかなように、哲学者たちがサトゥルヌスについて何かを語るとき、その意図は世間の受け取り方とはまったく異なる。このサトゥルヌスはユピテル、つまり褐色がかった白さを生む。ユピテルはラトナからディアナ、すなわち完全な白さを、またアポロン、すなわち赤さを生む。これが、完成したすべての色の継起的な変化である。サトゥルヌスから吐き出されたこの石は、人間たちの記念として山頂に置かれたといわれる。それはまことに真実なのである。

哲学者たちの銅は水腫を患い、癩病のナアマンがヨルダン川でそうしたように、川で七度洗われることを望む。

第13フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第13フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

第13フーガ。上方四度、または十一度。

賢者たちの銅は水腫を患い、癩病のナアマンがヨルダン川でそうしたように、川で七度洗われることを望む。

逃げるアタランタ。追うヒッポメネス。とどまる林檎。

賢者たちの銅は病み、激しい水腫で膨れ上がる。
そのため、癒やしをもたらす水を求める。

注 同じ二行詩を三声が歌う。音節の配置、歌唱上の語句の反復と楽譜全体は、この頁の原刊画像に保存した。

第13篇。ラテン語短詩のドイツ語訳。

賢者たちの銅は、身体に水をたっぷり余らせている。
それゆえ水を求め、その中でよく身を洗おうとする。
ナアマンがヨルダン川によって癩を退けたように、
それも水で七度、よくこすり洗われる。
だから、あなたの身体たちを甘い川の中へ投げ入れよ。
そうすれば、病むそれは、すぐにその助けを受けるだろう。

哲学者たちの銅は水腫を患い、癩病のナアマンがヨルダン川でそうしたように、川で七度洗われることを望む。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第13エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

第13エンブレム。自然の秘密について。

哲学者たちの銅は水腫を患い、癩病のナアマンがヨルダン川でそうしたように、川で七度洗われることを望む。

第13短詩。

賢者たちの銅は病み、激しい水腫で膨れ上がる。
そのため、癒やしをもたらす水を求める。
ナアマンがヨルダン川で癩の穢れを取り去ったように、
それは自分の水で三度と四度、洗われる。
だから、あなたの身体たちを甘い水へ投げ入れよ。
その水はまもなく、病に救いの助けをもたらす。

注 古い病名 lepra は文脈上の歴史語として訳し、現代の特定疾患と同定しない。固有名 Naman はナアマンの異綴り。

第13論説。

シリア人ナアマンが、預言者の命令でユダヤへ行き、ヨルダン川で七度洗ったことは、預言者の言葉に対する信頼に帰せられる。しかし、その洗浄によって癩から解放されたことは、神の全能の奇跡である。血液と人体の根本的な部分に入り込み、全身に及ぶ癌のように存在する癩は、外側から洗うだけでは治すことも取り除くこともできないからである。ましてヨルダン川のような冷水ではできない。同じように、水腫に苦しむ哲学者たちの銅が、水で洗うことによってそこから解放され、さらには不完全なものが完全へ、病むものが健康へ回復し、ほかの病むものにもその健康を分け与えられるようになるのは、奇跡に近い。自然には、それに似た例がほかにないからである。また、職人によって導かれ、適切な対象と外的な作用因が与えられない限り、最も完全な哲学者たちのティンクトゥラを生み出すことは、自然の通常の道ではない。

注 この論説の疾病説明・処置は17世紀の医学思想の記録であり、現代の医学的事実や治療指示ではない。

同じように、脱臼を元へ戻すことは、自然そのものではなく技術に属する。それにもかかわらず、人間の出産では、仙骨が不思議にも開いて、胎児が戸口を通るようにそこから出られるという。この点で、至高至善の神は、自然を通して自然を超えた働きを行う。同じように、石が完成することは、実際には自然的であっても、自然を超えた何かに見える。それゆえ『薔薇園』で哲学者は述べる。「知れ。私たちの石は空気的で揮発性であり、表に現れた面では冷たく湿っているが、隠れた面では熱く乾いている。表に現れるその冷たさと湿り気は、水の煙であり、自分とすべてのものを腐らせ、黒くし、壊し、火から逃げる。隠れている熱さと乾きは、熱く乾いた金であり、最も清い油であり、身体に浸透する。それは逃げやすくない。錬金術で染めるのは熱さと乾きであって、それ以外ではないからである。だから、表にある冷たさと水性の湿り気を、隠れた熱さと乾きに釣り合わせよ。それらが一緒になり、結合し、浸透し、染め、深く入り込む一つのものとなるようにせよ。これらの湿り気は、火と、その火の段階によって、穏やかな調節と、ふさわしく節度ある熟成を伴いながら、壊されなければならない。」そこにはこのように書かれている。

もしそれが真なら、どうして水によって水から解放されうるのか。これにはこう答えねばならない。性質において熱く乾いた水も存在する。多くの温泉がそうであり、哲学者たちのものは、その中で洗われるべきなのである。これこそ、彼らが「火で洗い、水で焼け」という意味である。洗う火と、焼く水は、名称以外に違いがなく、効果と作用において一致するからである。したがって、この水、あるいはこの火によって、その銅は余分な湿り気を洗い落とされ、すなわち乾かされなければならない。

水腫の者が、半年間あらゆる飲み物を絶つこと、熱い砂や牛糞へ埋めること、温めた炉の中に入れること、発汗、その他無数の手段によって治療された経験を、私たちは知っている。また、カールスバートや、マインツに近いヴィースバーデンのような、乾かす温泉による経験もある。同じ方法で、この病人も治療されなければならない。あるときは水で、あるときは炉の熱い空気で、あるときは糞で、またあるときは砂と断飲によって。これらは両方の場合に、こちらでもあちらでも用いられる、きわめて有効な手段だからである。しかし、そのすべてにおいて働くものは熱であり、余分な水を排出口、あるいは身体の毛孔から導き出して消費する。外部の熱は内部の熱、すなわち生命の精気を刺激し、有害な湿気を無用の排泄物として追い出させる。その湿気によって、自然の熱は、それまで敵によって押さえ込まれるように抑圧されていたのである。この治療には大きな注意と用心が必要であり、一つの内臓を助けるうちに、ほかの内臓を傷つけてはならない。

注 断飲、糞・熱砂・炉への埋没などは危険な歴史的記述であり、実行すべき治療ではない。

四日熱について、私たちは、医師のプラトン的な検証により、次のようなことを経験した。ゴムや樹木の粘液に似た、濃く粘る体液が、すべての静脈と血液の塊から集まり、大静脈を通って背中の深部まで下る。そこで、血液から漿液性の湿り気を取り出す腎静脈、あるいはその開口部を塞ぐと、それらの働きが弱まり、身体にはより多くの漿液が残る。こうして、対処しなければ、ほかの内臓に最初から損傷がなくても、短期間のうちに水腫が生じうる。ここでは利尿薬はほとんど、あるいはまったく役立たず、下剤はなお役立たない。ただし、時の経過とともに詰まったものが減り、排出されるなら別である。発汗薬も明らかに害となる。より精妙な部分を外へ出し、より粗大な部分を残すからであり、続ければ力を衰えさせる。膀胱へ向かう道が閉ざされると、自然は毛孔を通じて、漿液を排出する道を自ら見いだすのが常である。したがって、こちらがスキュラ、あちらがカリュブディスであり、自分の身を守ろうとする者は、その両方を避けなければならない。

注 四日熱などの説明は当時の体液医学に基づく。Platonica Medici comprobatione の意味は明確でなく、語を保持した訳とした。

しかし、肝臓や脾臓の損傷から生じる水腫は、いったん定着すると、治療がきわめて困難である。これに対し、哲学者たちの銅では、治療は不可能ではない。その病態は、本質的・一次的なものよりも、偶発的・二次的なものだからである。ただし、四日熱における過剰な漿液について述べたように、注意深く始めなければならない。つまり、乾かしすぎて衰弱へ陥ったり、湿らせて治療困難な水腫へ陥ったりしないようにするのである。

これは自分の尾を呑み込む竜である。

第14フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第14フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

第14フーガ。下方八度。

これは自分の尾を食べる竜である。

逃げるアタランタ。追うヒッポメネス。とどまる林檎。

恐ろしい飢えは、蛸に自分の足をかじることを教え、
人間にも人肉の食事で身を養わせた。

注 二行詩は三声で反復される。音節配置・歌唱上の語句の反復は楽譜画像に保存した。

第14篇。ラテン語短詩のドイツ語訳。

飢えは、多くの足を持つ魚に自分の足を食べさせ、
人間にも人間の肉によって身を養わせる。
同じように、竜は自分の尾を噛み、呑み込むことをいとわず、
その身体の一部を自分の食物として味わう。
それは剣と飢えと幽閉によって馴らさねばならない、
自らをすべて食べ、吐き、自らを殺し、生命を作り出すまで。

これは自分の尾を呑み込む竜である。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第14エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

第14エンブレム。自然の秘密について。

これは自分の尾を呑み込む竜である。

第14短詩。

恐ろしい飢えは、蛸に自分の足をかじることを教え、
人間にも人肉の食事で身を養わせた。
竜は尾を歯で噛み、腹へ呑み込むとき、
自分の大部分を自分自身の餌とする。
鉄と飢えと牢で馴らさねばならない、
自らを喰い、吐き戻し、自らを殺し、産むまで。

第14論説。

古人は、蛇を呑み込んだ蛇は竜になるといった。盗賊や刺客が自分と同じ種に対してそうするように、それは同族に猛威を振るうからである。アフリカには、このようなものが非常に大きく、また非常に多く存在し、アレクサンドロスの軍の大部分を滅ぼしたとされる。エチオピアの一民族アサカイオイのところには、最も大きなものが生まれる。それらは格子のように絡み合い、頭を上げ、よりよい餌場へ向けて帆走する。インドの王たちは二匹の竜を飼っていたと伝えられる。一匹は八十キュビト、もう一匹は九十キュビトの大きさだった。近年の観察によっても、アンゴラの近くでは今なお、船の巨大な帆柱に匹敵するものが見つかると知られる。同様に、インドとアフリカのある山々には大量の金があるが、誰も近づいて持ち去らぬよう、竜が守っていると伝えられる。竜は、山から流れ落ちる泉や小川へ集まるのであり、こうして偶然にも金のそばで見張りをしているといわれるのである。

注 竜・大蛇の博物誌は原著者の伝承の紹介であり、動物学上の事実を認定するものではない。キュビトは古い長さの単位。

それゆえ哲学者たちは、黄金の羊毛やヘスペリデスの園など、自分たちの宝に、また、カドモス、サトゥルヌス、アスクレピオス、メルクリウスといった錬金術的人物・対象に、これほど多くの竜や蛇を結びつける。メルクリウスの使者杖には、雄と雌の二匹の蛇が巻きついている。しかし彼らが竜によって意味するのは、錬金術の対象以外の何ものでもない。それゆえ彼らは、「山々、竜たち、土と泉がレービスを与える」という。また、竜は自分の尾を呑むといい、その非常な飢えを示す。ほかの者たちはこれを、自らへ戻り、円環をなす一年について説明するが、初めには、哲学者たちが自分たちの事柄へ適用したものである。彼らはこの竜によって、同族の別のものを呑む蛇を理解してほしいのである。これは厳密には硫黄と呼ばれる。そのことは皆が無数の箇所で証言している。

注 原本の引用句は Rebis の直後にコンマを置いていない。列挙された名詞は、terra 以外に主格・対格の形の区別がなく、別の構文解釈の余地がある。

ルルスは『小遺書』第三十一章でいう。「子よ、これが硫黄であり、自分の尾を呑む蛇と竜であり、吼える獅子、あらゆるものを切り裂き、死なせ、砕く鋭い剣である。」また『薔薇園』はいう。「竜は、その兄弟姉妹とともに殺されなければ死なない。」続いて、「竜とは、身体から取り出された水銀であり、それ自身の中に身体、魂、霊を持つ」という。この水は、同じ箇所で別名を「悪臭のある水」と呼ばれ、元素の分離の後に得られるものである。また、竜が自分の尾を呑むというのは、動きやすく、毒があり、湿った部分を消費するときのことである。その結果、尾がなくなると、より太く、より鈍く見える。実際、その運動と動きやすさは、大部分、尾によって生じていたのである。

ほかの動物は足を支えとするが、竜、蛇、この種の虫は、身体の収縮と伸長を足の代わりに用いる。そして、注ぎ出された水のように、こちらへ、あちらへと折れ曲がりながら、ある曲線を形づくる。ほとんどすべての川で、その流れが蛇のように曲がり、回り道をするのを見ることができるように。それゆえ、水銀を蛇と呼び、メルクリウスに蛇を添えたのには理由がある。水銀も、いわば尾を引き、転がる重さをもって、こちらへ、あちらへと走るからである。蛇が這うように、メルクリウスもまた這う。それゆえ、その足と頭には翼がある。アフリカには飛ぶ蛇がいると伝えられ、イビスに滅ぼされなければ、あらゆるものを荒らすという。それゆえイビスは、エジプトの聖なる像に数えられる。一つには国全体にもたらす明らかな効用のため、もう一つには、ごく少数の人々しか理解しなかった隠れた理由のためである。

この竜は、尾を噛み取り、古い皮を脱ぐと、若さとともに新しい皮を得るといわれる。こうして自然は、カラス、ワタリガラス、鷲、鹿だけでなく、蛇の一族にも長い命を与えたのである。蟻は老いると翼を得る。多くの虫も同様である。人間は老いると土に葬られるが、土から甦ると永遠の生へ捧げられる。どの蛇でも焼けば粉になり、その粉は、あらゆる毒に対し、害なく大いに効くものとして服用されるという。同じような解毒剤は、すでに自分の尾を呑んだこの竜からも作られなければならない。毒蛇では尾を切り取るのが常である。それは、運命と身体の災いに対する、きわめて確実な治療薬となる。

注 蛇の粉の服用・解毒作用は歴史的主張として訳した。安全性・有効性を認めたり、服用を勧めたりするものではない。

乾いたものと湿ったものからなる陶工の仕事が、あなたを教えるように。

第15フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第15フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

第15フーガ。下方三度。

乾きと湿りからなる陶工の仕事に、教えを受けよ。

逃げるアタランタ。追うヒッポメネス。とどまる林檎。

見よ、陶工がいかに速い轆轤の回転で器を形づくるかを、
足を使いながら粘土を水に混ぜ合わせるときに。

注 二行詩は三声で反復される。音節配置・歌唱上の語句の反復は楽譜画像に保存した。

第15篇。ラテン語短詩のドイツ語訳。

注 原刊の番号は XI。ここは第15篇である。

轆轤で器を作る陶工を見よ。
彼は足で水を粘土の中へ動かし入れる。
彼が頼るのはこの二つであり、適量の湿り気が
乾いた粉を湿らせ、その渇きを取り去るようにする。
この例が教えたとおり、あなたもそうせねばならない。
水が土に勝たず、また土に負けもしないように。

乾いたものと湿ったものからなる陶工の仕事が、あなたを教えるように。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第15エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

第15エンブレム。自然の秘密について。

乾いたものと湿ったものからなる陶工の仕事が、あなたを教えるように。

第15短詩。

見よ、陶工がいかに速い轆轤の回転で器を形づくるかを、
足を使いながら粘土を水に混ぜ合わせるときに。
彼が頼るのは二つの物、湿り気が技術によって
乾いた粉の渇きを鎮めることである。
この例から学んだあなたも、同じように行え、
水が土に勝ちすぎず、土に負けすぎもしないように。

第15論説。

この世界が土と水の結合によって一つの丸い身体へ固められたように、陶工の仕事も、同じ元素、すなわち乾いたものと湿ったものから、部分ごとに組み立てられるように見える。一方が他方を調節するためである。もし土に水がなく、土のそばに大洋、海、湖、川、泉が存在しなかったなら、土は何も生み出さず、不毛のままだろう。同様に、水が土の窪みに受け入れられず、その周囲にとどまるなら、容易に土をすべて覆ってしまい、そのため土は住めないままだろう。しかし、一方が他方へ友好的に入り込み、互いに混ざり合うことで、水が土の乾きを、土が水の湿りを和らげるので、両元素の豊かさと有用さが見られる。同じように、陶工は泥を水に混ぜ、そこから扱いやすい塊を作り、轆轤で形を与え、温かな空気へさらして徐々に乾かす。その後、火の強さを加えて十分に硬くし、器を丈夫な石へと結び固め、水にも火にも耐えるようにする。哲学者たち自身も、自然の仕事で同じように進めると証言し、したがって陶工たちから教訓を得るべきだという。

確かに、乾いたものと湿ったもの、つまり土と水については、両者に大きな近縁性がある。しかし、焼き方と、結合される元素の質料および形相において、非常に大きな違いがあることは疑わない。陶器は人工的な形相を持つが、哲学者たちのティンクトゥラは、まったく自然的な形相を持つ。その質料が陶器の質料より優れているだけに、その形相もまた、はるかに高貴である。両方の仕事は確かに土に関わるが、哲学者たちの仕事には、空気の天へ上ったことのないものは何もないといわれる。陶工の仕事では、粗大で澱を含む土が優勢である。両方の結果は石だが、あちらは普通の石、こちらは哲学者たちの石である。

この名称に惑わされたある人物は、人工の石、すなわち煉瓦を大量に一つの箱へ、白い火打石を別の箱へ、一定期間入れておいた。その上で悪魔的な呪文が唱えられ、後者は銀へ、前者は純金へ変わるはずだとされた。ところが、これらこそ哲学者たちの石であると思われたため、新しい金銀が一定の時に現れるのを待つ間に、さまざまな物を買うため多額の金銭が使われた。しかし、その時になっても金銀は現れず、石も期待された金へ変わらなかったので、死がその恥を終わらせた。実際、金や銀を、自然にはそれらを含まないものから求めるべきではない。悪魔的魔術は、これら神的な仕事の中には居場所を持たない。その両者は、悪魔的魔術の創始者と敬虔な人、地獄と天ほどにも隔たっているのである。

同じように、たとえ真の哲学者たちの石を持っていても、イサクが注意するように、それによって不可能なことまで達成できると思い込んではならない。自然の法によっても国家の法によっても、誰も不可能なことへ拘束されないからである。したがって、その石による宝石の変成や、ガラスに鍛える性質を与えることについては、それが可能か、この自然にふさわしいかを、各自で判断すべきである。ゲベルは、哲学者たちが多くを寓意によって語ると断言し、自分についても、明瞭に語ったところでは何も語らず、比喩によって語ったところでは、籾殻の下の麦のように真理を隠したという。人は蒔いたものを刈り取る。このことは植物と動物に当てはまる。もっとも、蒔かれたものから、ときには異なる種が生じることもある。これを、それらのように種によって殖えない金属へ適用すべきかどうかは、考察を要する。

金属では、部分はただ同質的なもの、硫黄と水銀であるが、植物と動物では異質的、すなわち器官的な部分が存在する。金属には種の受け入れ場所がなく、植物と動物にはある。金属には栄養、成長、あらゆる方向への拡大が見られず、植物と動物には著しく見られる。さらに、金属は元素から構成された重い物であり、ただ混合のみを認めるが、植物と動物には、混合に加えて、植物的あるいは感覚的な魂もある。それでも、地下には、今は金でないが、千年後には自然によって金となる何かがあるということは、疑いなく真である。これが金の種に類比されるものだと、誰が否定しようか。また、金と金を作る本性は、後者の形相がより高貴であっても、一つの起源から生じるので、金の種が知られれば、この本性についても明らかになる。哲学者たちは、それは乾いたものと湿ったもの、すなわち硫黄と水銀であり、二つの山から最も純粋なものを求めねばならないと断言する。

こちらの獅子が持たない翼を、もう一方は持つ。

第16フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第16フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

第16フーガ。上方五度。

この獅子には翼がないが、あちらにはある。

逃げるアタランタ。追うヒッポメネス。とどまる林檎。

四つ足の獣に勝る獅子は、胸も爪も強く、
恐れず戦い、逃走を隠す。

注 二行詩は三声で反復される。音節配置・歌唱上の語句の反復は楽譜画像に保存した。

第16篇。ラテン語短詩のドイツ語訳。

力と爪で獣たちに勝る獅子は、
まったく恐れず戦い、逃げる姿を見せない。
その獅子に、翼を持つ雌獅子を添えよ。彼女は彼を持ち上げ、
二匹とも空中で生きられるようにしようとする。
だが彼はしっかりと立ち、地上にとどまる。
この自然の像を見よ。それが自然の働く道を示す。

こちらの獅子が持たない翼を、もう一方は持つ。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第16エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

第16エンブレム。自然の秘密について。

こちらの獅子が持たない翼を、もう一方は持つ。

第16短詩。

四つ足の獣に勝る獅子は、胸も爪も強く、
恐れず戦い、逃走を隠す。
その足へ翼ある雌獅子を結びつけよ。
彼女は飛び、雄を自分とともに持ち上げようとする。
だが彼は動かず地上に立ち、飛ぶ者を引き留める。
この自然の像が、あなたに道を示すように。

第16論説。

獅子がほかの動物に勝るのは、身体の大きさや力によるよりも、気高さによることが経験から知られている。狩りの最中に人目にさらされ、大勢に圧迫されると、背を向けることを恥じ、少しずつ退く。狩人の視界を離れると、急いで逃走する。隠れることで不名誉が消えると考えるのである。追うときには跳ぶが、逃げるときには跳ばない。その骨は充実していて空洞がほとんどなく、互いに打ち合わせると、鋼と火打石のように火を発するほど硬いといわれる。何よりも火を恐れる。その実体は太陽の本性から来ているように見える。勢いと熱においてほかの動物に勝ることが、太陽が星々に勝るのと同じだからである。また、その目は常に火を帯びて開いており、太陽が開いた火の目で大地を見つめるのと同じである。子を守って戦う雌獅子は、槍を見て怯えないよう、目を地面へ据える。雄獅子は豹との交わりを察知すると、不貞の雌獅子を罰し、全力で処罰に立ち上がる。そのため雌獅子は、罪と匂いを川で洗い流すか、自分の罪を知り、雄を恐れ、逃げる間男に同行する。

注 獅子の習性は古い博物誌の伝承として訳した。

哲学者たちは、この獣の不思議な本性を考察し、獅子についてさまざまな寓意を作り出した。それらは、いわば象形文字のように、彼らの秘密の仕事を証しする。獅子が一定で、堅固で、欺きや疑いを持たぬ動物だと認めて、自分たちの哲学的合成物の主要な部分をこれになぞらえた。獅子が逃げないように、その部分も逃げない。獅子の骨が堅固であるように、その部分も固定し、征服されない。これに対し、雌獅子が常に不貞と無縁とは限らないように、月あるいはメルクリウスも、あらゆる汚れを欠くわけではない。無知な者によって、あるときはこちら、あるときはあちらの質料に結びつけられる。そのため、真の婚姻というより、自然において異なる事物の不義の結合となる。豹と雌獅子から生まれたものは、首と肩を飾る美しい鬣を持たない。その印を備えるのは、雄獅子から孕まれたものだけだからである。それゆえ、哲学的な雌獅子を、彼女自身の雄へ結びつけよ。そこから真正で気高い子獅子が生まれ、その爪から容易に見分けられるだろう。

ただし、それはどんな雌獅子でもよいのではなく、翼ある雌獅子でなければならない。自分の翼の速さを頼りに、雄獅子との戦いに入ることのできるものだ。雄の過度の怒りに押しつぶされず、もし雄が理由もなく狂乱すれば、逃走を考えられるようにするためである。雄は、逃げようとする彼女を引き止めるうちに、彼女へのより大きな愛に駆られ、争いの後に和解が成る。しかし、翼ある雌獅子をいったい誰が見たのか、翼が雌獅子に何の役に立つのか、とあなたはいうだろう。キタイロン山の近くには深い谷があり、そこには飛ぶ雌獅子だけが見られる。同じ山の頂には、ヘラクレスが殺したものと同じ種類の赤い獅子がいる。

それゆえ、雄獅子を捕らえ、谷へ連れてゆかなければならない。まもなく翼ある雌獅子と結ばれるだろう。彼女もまた、容易に征服されることを受け入れる。すなわち、似た者が似た者に征服されるのである。その後、両者をその谷から山頂へ昇華させなければならない。そうすれば、以後は決して互いに逃げず、破られることのない契りのもと、常にともにとどまるだろう。獅子を捕らえるのが容易でなく、多くの危険を伴うことは認める。それでも行わなければならない。伝えられるところでは、雄獅子は雌獅子とともに餌を取らず、別々に歩き回る。そのため、それぞれを探し、狩ることは別々になされるべきである。しかし、両方の子獅子を幼いころ、つまり最初に歩き始めるとき、出生から二か月を過ぎたころに探し出し、成長した後、先に述べたように結び合わせるなら、まったく危険がなくなる。なお、彼らは春に、目を開けて生まれる。この点は観察すべきである。また、獅子は出産後、巣が見つからぬよう曲がった道を進む。そのため、細心の注意と用心によって探し、子らを連れ去らなければならない。

注 雄・雌の獅子の捕獲と結合は、作品内の錬金術的寓意として読む。

火の四重の軌道が、この仕事を支配する。

第17フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第17フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

第17フーガ。上方三度。

四重の火の球が、この仕事を支配する。

逃げるアタランタ。追うヒッポメネス。とどまる林檎。

自然の仕事を模倣するあなたは、四つの球を求めねばならない。
その内側で穏やかな火がそれらを動かすように。

注 この二行詩は三声で歌われる。歌唱上の反復と音節配置は楽譜画像に保持した。

第17篇。ラテン語短詩のドイツ語訳。

自然の仕事をよく測り知ろうと思うなら、
火に満ちた四つの球を求めることを忘れるな。
最下のものはウルカヌスのもの、第二はメルクリウスを示す。
第三は月を持ち、最上のものへ太陽が昇る。
それが自然の火である。この鎖を、すべてあなたに託そう、
それがこの術のうちで、あなたの手を導くように。

火の四重の軌道が、この仕事を支配する。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第17エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

第17エンブレム。自然の秘密について。

火の四重の軌道が、この仕事を支配する。

第17短詩。

自然の仕事を模倣するあなたは、四つの球を求めねばならない。
その内側で穏やかな火がそれらを動かすように。
最下の球はウルカヌスを表し、次はメルクリウスを
明らかに示す。第三の球は月を持つ。
第四はアポロンよ、あなたのもので、自然の火とも呼ばれる。
この鎖が術のうちで、あなたの手を導くように。

第17論説。

哲学者たちは、自然の仕事に必要な四種類の火について、多くの箇所で述べている。ルルス、『階梯』の著者、リプリー、その他大勢である。それゆえ『階梯』によれば、ライムンドゥスは火についてこう述べる。「ここには反対の作用があることに注意しなければならない。反自然の火が、固定した身体の霊を雲の水へ溶かし、揮発性の霊の身体を固まった土へ締めつけるように、逆に自然の火は、固定した身体の溶けた霊を球状の土へ凝固させ、反自然の火によって固定された揮発性の霊の身体を、雲の水ではなく哲学者たちの水へ溶かすのである。」

リプリーは第三の門で、これらの火について、より明瞭にこう語る。「あなたが知るべき火は四種類ある。自然の火、非自然の火、反自然の火、そして木を燃やす元素的な火である。私たちが用いるのはこれらの火であって、それ以上ではない。反自然の火は身体を苦しめなければならず、それ自体が、私があなたにいうように、地獄の火のごとく激しく焼く竜である。自然の火は第三のメンストルウムであり、その火はすべてのものに自然に内在する。機会によって生じる火を、私たちは非自然の火と呼ぶ。たとえば、腐敗させるための灰や浴槽の熱である。これらの火なしには、あなたの質料が分離され、同時に新しい結合に釣り合うようになるための腐敗へ、何ものも至らせることはできない。したがって、あなたのガラス器の内部に、元素的な火よりも有効に身体を焼く火を作れ。」以上が彼らの言葉である。

注 menstruum は錬金術の溶媒・生成の媒体を指す語。単純な現代の溶媒名へ同定せず「メンストルウム」とした。 引用末尾の Hæ illi は原本の印刷に従って保持した。

これらが火と呼ばれるのは、火の力を持つからである。自然の火は凝固させ、非自然の火は溶かし、反自然の火は腐らせ、元素的な火は熱と最初の運動を与える。その間には鎖のような順序がある。第二は第一によって、第三は第二によって、第四は第三と第一とによって同時に、活動へ促される。一方が作用するもの、他方が作用を受けるものであり、また同じものが、異なる観点から作用し、作用を受ける。磁石によって連なり、互いに触れて結びつく鉄の輪や棒に見られることが、これらの火にも見られる。元素的な火は磁石のように、その力を第二、第三を通じて第四まで送り、相互の作用を通して一方を他方へ結びつけ、付着させる。そして、上位のものの間の内的作用が完了するまで、そうする。第一は事実においても名称においても元素的な火、第二は空気、あるいは空気的なもの、第三は水性、あるいは月の性質のもの、第四は土性のものである。第一について何かいうのは余計である。見る者、触れる者の誰もが知っているからだ。

残る三つは、竜、メンストルウム、水、硫黄、メルクリウスである。竜というのは、毒性を分かち持ち、同種の蛇を呑み込み、自らへ混ぜられた身体を砕き、変え、すなわち溶かし、凝固させるからである。メンストルウムというのは、それらから哲学者たちの胎児が生み出され、出生まで養われるからである。ルルスの『第五精髄について』第三区分は、植物的と鉱物的の二種のメンストルウムを挙げ、リプリーは『門』の序文で三種を挙げる。しかし実際にはそれらは一つであり、一致する。胎児の生成は、それらすべてが一緒になることで生じ、その誕生に先立って白い水が出る。この水は胎児の実体ではなく余剰に属するので、取り除かねばならない。

水というのは、火の中で水の性質、すなわち水にふさわしい流動性と液状性を示すからである。水にはさまざまな驚くべき性質がある。その中には石化する水もあり、人間の建築に適した非常に硬いトゥファへ凝固する。哲学者たちの鉱物的な水は、それらによく似ており、硬くなって石の抵抗力へ変わる。また硫黄とも呼ばれる。それ自身の中に硫黄の力を持つからである。『集会』でイクシミディウスが述べるように、自然の硫黄はほかの硫黄と混ざって一つになり、二つの硫黄は一つによって溶かされ、一つは二つから分離され、硫黄は硫黄によって保持される。

では硫黄とは何か。同じ書でダルダリスはこう説明する。「硫黄とは四元素に隠れた魂である。それらは術によって取り出されると、自然に互いを保持し、結合する。しかし、硫黄の腹にある隠れたものを、水によって処理し、よく清めれば、その隠れたものは自分の本性に出会って喜び、水も同じように、自分と等しいものを喜ぶ。」またモシウスはいう。「私は今、それが何であるかをあなたがたに告げよう。第一は火性の水銀、第二はその中で合成された身体、第三は硫黄の水である。この水によって一つのものが洗われ、磨られ、処理され、仕事が完了するまで続く。」硫黄についていわれたことは、同じ数のメルクリウスについても理解すべきである。実際、そのモシウス自身は後でいう。「カンバルの水銀はマグネシアである。しかし、水銀、あるいは石黄は、混ぜ合わせた合成物から上昇する硫黄である。」証言は無数にあり、誰にでも容易に見つかるので、ここへさらに多く引くことはやめよう。

注 Cambar、magnesia、auripigmentum などはこの引用の術語として保持する。現代物質名への一対一対応は確定していない。

これら四つの火は、いわば球と軌道の中に収められている。つまり、それぞれに中心があり、その中心から、あるいは中心へ向けて、その運動が進む。それでも、一部は自然、一部は技術によって結ばれ、一つは他のものなしには何も、あるいはわずかしか働かず、むしろ一方の作用は他方が作用を受けることであり、その逆でもあると観察される。

火は火にすることを好み、金にすることは好まない。金にするのは金である。

第18フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第18フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

第18フーガ。上方七度。

火は火のようにするが、金にはしない。金にするのは金である。

逃げるアタランタ。追うヒッポメネス。とどまる林檎。

自然に属する作用者は、何であれ、周囲へ力を送り、
自分の力を増やそうと望む。

注 この二行詩は三声で反復される。歌唱上の語句の反復と音節配置は楽譜画像に保存した。

第18篇。ラテン語短詩のドイツ語訳。

自然のうちで働くどんなものも、その周囲へ
力を行き渡らせ、そのことで増大が生じうる。
こうして火は、近づくすべてを火のようにする。
原因なしに、それほど高貴な仕事をもたらすものは何もない。
金は火の力を与えられず、火も金の力を与えられない。
すべてのものには、自然に自分の種が宿っている。

火は火にすることを好み、金にすることは好まない。金にするのは金である。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第18エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

第18エンブレム。自然の秘密について。

火は火にすることを好み、金にすることは好まない。金にするのは金である。

第18短詩。

自然に属する作用者は、何であれ、周囲へ力を送り、
自分の力を増やそうと望む。
こうして火は、出会うすべてを火のようにする。自らの原因なしに
高貴な仕事を生み出すものは何もない。
金はそれ自体では何も燃やさず、火は何も金にしない。
すべてのものは、自らに宿る種を認める。

第18論説。

宇宙のあらゆる個物において、自然が働く仕方は、一つの単純な運動を完成させるため、単純な過程を用いることである。人体の解剖においても、それは明らかだ。一つの筋肉はただ一つの運動、すなわち引き寄せる運動に役立ち、伸ばす運動には、最初の筋肉に拮抗する別の筋肉が役立つ。したがって、ある肢体を円形に動かすには、円形に配置された複数の筋肉によって行われる。同じように、火の作用も一つで単純である。すなわち、熱し、火にし、さらには自分に似せ、近づけられたすべての可燃物を燃やす。それゆえ、アヴィセンナは『石の凝固について』でいう。「塩の場所へ落ちるものは塩になり、火へ落ちるものは火になる。ただし、作用する性質の力と、作用を受ける性質の抵抗に応じて、早いものも遅いものもある。アラビアには、そこにあるすべての身体を、自分の色に染める場所がある。」

こうして、個々の自然物は、自然によって注ぎ込まれた力を持ち、自分へ混ぜられ、あるいは近づけられたものへ作用し、その本性と形相を自分に似せ、変化させる。植物と動物における種の繁殖による生成は、単純な身体や単純に混合された身体では、力の注入と同化に当たる。天の光である太陽は、自分から地へ光線を投げる。それが凹面鏡や焼き鏡に集められると、そのような原因から生じたものであることを示し、いわば太陽から投射できる形相のように見える。それゆえ太陽光線は、広く引き伸ばされ、広範囲に散らばった火の炎にほかならないと分かる。それは、凹んだ透明で円い器具や、反射する凹面の鋼の鏡によって集められ、再び自らへ凝縮されると、炎のように輝き、前にあるものを焼く。

注 太陽光と炎の同一視は原著の自然哲学であり、現代の光学的説明ではない。 原本は qui collectis と印刷されるが、構文上は collecti が期待される。訳では「集められると」と解した。

同じように、元素から構成されたある身体には、ある力が蒸気のように散らばっている。それを集め、一つへ引き寄せると水になり、その水から土になる。それゆえアヴィセンナは先に挙げた箇所でいう。「土の性質が水に勝つと、水から土ができる。逆も同じである。ところで、ある巧みな人々が乾いた物を凝固させようとするときに用いるものがある。それは二つの水からなり、処女の乳と呼ばれる。それがその最も確かな作用である。」以上が彼の言葉だ。磁石の力を二倍、あるいは数倍にできると請け合う者たちもいる。私たち自身、銀に包まれ、重さはわずか一ポンドほどの磁石が、二十八ポンドの鉄の錨を引き寄せ、支えるのを見た。この中の力が増され、強くされていなければ、不可能だっただろう。それは疑いなく、散らばった力を、いわば一つの点、あるいは極へ呼び戻すこと、もしくは大きな身体からより小さな身体へ、その同じ力を引き寄せることによって行われたのである。

また、サトゥルヌスの硫黄性の気を普通のメルクリウスへ注ぎ、その中で凝固するまで保てば、普通のメルクリウスを絶えず鉛へ変える、鉛を作る石ができるという者もいる。ある者たちは、アンチモン、あるいはその星状レグルスから、銅の匂いによって、卵を一つ食べるほどの時間で銅を作れると豪語し、さらに、あらゆる金属を作ったともいう。だが、彼らには相応の信頼を与えることにしよう。もっとも、このことは私にはもっともらしく思えない。黄金の詩人の、「大麦を望む者は、結局大麦を蒔く。金の中には金の種がある」という言葉に従い、金から金を導こうとする者は、いっそう大胆である。いっそう幸運かどうかは分からない。

確かに、どの自然物にも自分を増やす何らかの力がある。しかし、それが実際に発現するのは、少なくとも植物と動物においてであり、金属、鉱物、地下から掘り出される物、あるいは気象的な物においてではない。ある植物は、小さな種一粒から生じ、しばしば千粒以上の種を生み、こうして増殖し、繁殖する。それも毎年である。動物も、それぞれの本性に従い、多数あるいは少数の子を持つ。しかし、金、銀、鉛、錫、鉄、銅、水銀が、そのように自分自身や自分の種を増したということは、決して見いだされていない。もっとも、一つが他のものへ変わり、より高貴になった例は、きわめてしばしば見いだされたとされる。

それでも哲学者たちは、火に火を作る原理があるように、金には金を作る原理があると断言する。しかし、求められているのは、その媒介によって金が作られるティンクトゥラである。それは、自分固有の原理と生成の中で探究されるべきであり、他のものの中でではない。なぜなら、火が火を、梨の木が梨の木を、馬が馬を生むなら、鉛は銀でなく鉛を、金はティンクトゥラでなく金を生むはずだからである。さらに、哲学者たちに固有の金がある。彼らは、それを仕事の終わりに、発酵の種として金を作る石へ加えるべきことを否定しないばかりか、必ず必要だと断言する。発酵の種は発酵させられるものを自分の本性へ導き、それなしには合成物全体は決して完成へ戻れないからである。

四つのうち一つを殺せば、たちまちすべてが死ぬ。

第19フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第19フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

第19フーガ。下方六度。

四人のうち一人を殺せば、すぐに全員が死ぬ。

逃げるアタランタ。追うヒッポメネス。とどまる林檎。

二の二倍の兄弟が長い列に立つ。一人は右手に土の重みを、
もう一人は水の重みを支えている。

注 この二行詩は三声で反復される。歌唱上の語句の反復と音節配置は楽譜画像に保存した。

第19篇。ラテン語短詩のドイツ語訳。

四人の兄弟が長い列に立つ。一人は目に見えるように
土を手に持ち、もう一人はとても澄んだ水を持つ。
残る者たちは空気と火を持つ。全員を
たちまち死なせたければ、一人だけを死で襲え。
するとすぐに、彼らは死に、その命を終える。
自然の絆によって、互いに結びついているからである。

四つのうち一つを殺せば、たちまちすべてが死ぬ。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第19エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

第19エンブレム。自然の秘密について。

四つのうち一つを殺せば、たちまちすべてが死ぬ。

第19短詩。

二の二倍の兄弟が長い列に立つ。一人は右手に土の重みを、
もう一人は水の重みを支える。
残る者たちの取り分は空気と火である。滅ぼしたければ、
あなたはただ一人だけを死によって押しつぶせ。
すると、血族の死によって全員が取り去られる。
自然の相互の絆が、彼らを結んでいるからである。

第19論説。

詩人たちは、スペインの王ゲリュオンが三つの身体を持ち、紫色の牛を飼っていたと作り話をする。その番人には、二つの頭を持つ犬と、七つの頭を持つ竜が置かれていた。ゲリュオン自身は、メドゥーサの血から生まれたクリュサオルの子であり、竜はテュポンとエキドナの子だと伝えられる。これらは、字面どおりにはいかなる歴史にも事実の真相にも合わず、錬金術的寓意にはあらゆる点で合うので、私たちがそれらに加えるのも理由のないことではない。ゲリュオンの三つの身体によって、私たちはヘルメスの考えに従い、一人の父に現れた三つの顔を理解する。あるいは、同じ数の元素を念頭に置き、ほかの者たちが望むように四つとも取れる。四角形から三角形が作られねばならず、前者が円から作られたように、後者は円へ戻るからである。さて、ゲリュオンの身体、あるいは元素は、血縁と自然的な結合が非常に強いため、一つが倒され、あるいは殺されると、手による力を何も加えなくても、残りもひとりでに崩れ、腐敗する。

二つの身体を持つ者では、一方が死ぬと他方も衰えることが知られている。私たちはイタリアで、四歳の、二重の身体を持つ少年を見た。彼に付着する兄弟の頭は彼の身体の内に隠れ、それ以外は臍のところまで垂れ下がっていた。そこで二人は結びつき、あるいは生まれつきつながっていた。垂れ下がった方ははるかに小さく、他方に運ばれていたが、その手や足に強く触れると、大きい方が痛みを感じた。また小さい方の食物が尽きると、大きい方も飢えを感じた。これが自然の結合と共感であり、一つの身体の肢や部分、あるいは他の身体と生まれつき結ばれたものが影響を受け、互いに動かされる仕方である。そのうち一つが健康で無傷であっても、残りが必ず健康で無傷とは限らない。しかし、一つがひどく傷つけば、残りも苦痛を共有し、同じ災いで滅びる。隣人が大きな利益を得ても、こちらには何の利益も来ないが、火事に遭えば、大きな害が来るのと同じである。隣の壁が燃えるとき、それはあなた自身に関わることなのだ。

注 結合双生児についての記述はマイヤーの歴史的な観察・解釈を訳したもので、現代の医学的説明ではない。

それゆえ、この四人の兄弟の一人が死ぬことで、ほかの三人も死ぬというのは、真実から外れたことではない。それはさまざまな仕方で起こりうるからである。たとえば、同じ出産で同じ父母から生まれ、始まりだけでなく命の終わりも同じである場合がある。そうしたことが起きた例を私たちは読む。おそらく星の傾向によるのだろう。あるいは、心だけでなく身体の肢でつながっているためかもしれない。また、心の驚愕、強い想像力、疫病、あるいは契りに基づく誓願によっても起こりうる。

インドでは、大ムガルの支配下、彼はいまティムールの子孫の第九代として統治しているのだが、ピュタゴラス派と呼ばれるある異教の民が暮らす。その間では古来、今に至るまで、夫が死ぬと妻も火で焼かれる習慣が守られている。あるいは現在では、妻は皆から見捨てられ、死んだ者のように扱われ、永久に大きな不名誉の中で生きる。これは、妻たちが自分も死ぬ覚悟なしに、毒で夫の命を断たないようにするためだとされる。同じように、哲学者たちの仕事では、兄弟の一人が死ぬと、ほかの者も火で滅びる。それは強制されてではなく、悲しみと不名誉のうちに生き残らぬために、自ら進んでである。

注 民族名、王統の代数、寡婦殉死の理由づけは原著者の歴史的な認識を訳し、事実として追認していない。

あるいは、一人が棍棒、鉄、石で襲われるなら、その者は兄弟たちとの内戦を始める。竜の歯から生まれ、イアソンに、また別の場所ではカドモスにも立ち向かった土生まれの者たちに見られるように。そして皆が互いに殺し合って倒れる。空気を持つ者に触れ、あるいは傷つけてみよ。その者は、隣接する二人、水を持つ者と火を持つ者に同時に襲いかかる。しかしこの二人は、両側から、土を持つ者と、最初に争いを起こした者へ対抗する。そして、互いに傷を与え、受け取り、その傷で絶えるまで続く。兄弟とはそういうものだ。深く激しく愛し合うほど、一度憎み合い始めると和解できず、死ぬまで追い詰め合う。それは、最も甘い蜂蜜が熱すぎる胃や肝臓で腐ると、最も苦い胆汁になるようなものである。

だから、生きているものを殺せ。ただし、死んだものを甦らせるようにせよ。そうでなければ、殺されたものの死は、あなたに何の益もない。そのものが甦るとき、死はそれを明らかにし、ヘルメスが証言するように、死、闇、海はそれから逃げるからである。穴を見張っていた竜は太陽の光線から逃げ、死んだ私たちの息子は生き、王は火から来る。ベリヌスも『薔薇園』にある自らの比喩で、同じことを示していう。「あなたが、一部は私を私の本性から、一部は私の妻を彼女の本性から取り出し、その後、その本性たちを殺すとき、このことが成るように。そして私たちは、新たな、身体を持たぬ復活において起こされる。その後はもう死ぬことができないからである。」

注 生死と殺害は、ここでは錬金術の質料の変化を擬人化する。末尾の引用は extraxeris(単数)から occidatis(複数)へ人称・数が変わる原文を保った。

第3章。

注 ヘルメスへの言及に添えられた欄外の章番号。

自然は自然に、火を征服するよう教える。

第20フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第20フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

第20フーガ。下方三度。

注 この頁は infrà(下方)と印刷するが、巻末索引では suprà(上方)である。原刊の食い違いを保つ。

自然は自然に、火に打ち勝つことを教える。すぐに全員が死ぬ。

注 末尾「すぐに全員が死ぬ」は第19篇の標語と同文で、原刊ではこの頁にも印刷されている。誤植の可能性を残して収録した。

逃げるアタランタ。追うヒッポメネス。とどまる林檎。

すべてを呑む炎は竜のように、乙女の比類ない美を
力で征服しようと、執拗に迫った。

注 この二行詩は三声で反復される。第一声の voat は他声・短詩の vorat に従い補った。語句反復と音節配置は楽譜画像に残す。

第20篇。ラテン語短詩のドイツ語訳。

すべてを喰う炎は、竜のように、
乙女の姿を力ずくで喰らおうとした。
そのため、涙に濡れた彼女は、ある男に見られた。
彼は助言と行動によって助けようと示した。
すぐに盾の下へ彼女を覆い、敵を待ち受け、
その後、敵の脅しをすっかり侮るよう彼女に教えた。

自然は自然に、火を征服するよう教える。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第20エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

第20エンブレム。自然の秘密について。

自然は自然に、火を征服するよう教える。

第20短詩。

すべてを呑む炎は竜のように、乙女の比類ない美を
力で征服しようと、執拗に迫った。
それゆえ涙に濡れた彼女が、たまたま一人の男の目に入ると、
男は哀れな彼女に助けを差し出す用意があった。
すぐに盾で彼女を覆い、敵へ向かい、
これほどの脅しを心で軽んじるよう教えた。

第20論説。

哲学者たちが互いを見分ける共通の合言葉は、自然が自然によって導かれ、教えられ、統べられ、征服される、というものである。弟子が女教師によって、侍女が女主人によって、臣下が女王によって、さらには娘が母によって、同族が同族によって、そうされるのである。このことがどれほど真実かは、人間の子育てや、学問の教育、統治、その他の日々の行為の経験から明らかである。プリニウスはナイチンゲールについて、一羽が他の一羽に歌を教え、注意して聴き、観察し、模倣し、打ち勝ち、あるいは負けて悲しむと書く。また、競争に敗れると、喉が裂け、歌の途中で死んで倒れることもあるという。さらに、あらゆる種類の鳥が、まだ羽毛も生えそろわぬ柔らかな雛を、飛ぶことへ慣らし、教え始めるのを私たちは見る。こうして、飛ぶ習慣を得させるのは自然だけでなく、技術や練習でもある。ただし、その行為を行う能力と器官を与えるのは自然だけであり、それがなければ、教育や技術も土台や居場所を得られない。

同じように、ラバは牝馬に走ることを、仔犬は犬に吠えることを、子狐は策略を教えられる。生命と感覚を持つ自然、あるいは自然の種で、他の自然、すなわち自分の子を導き、教え、統べたり、別の自然、すなわち親に征服されることを受け入れたりしないものはない。植物ではこのような教育は見られない。しかし、手入れや人の手が大きな力を持つことは観察される。作物がまだ草の段階なら、無用な薊や毒麦を取り除くことができる。木がまだ細い枝の段階なら、曲げ、望むとおりに育つよう強いることができる。

注 原本の hinni は馬と驢馬の交雑種を指す hinnus の複数形であり、ラバと訳した。

同じように、金属と哲学者たちの対象では、一つの自然が、火の中で他の自然を支え、保ち、守る。このことは鋳造師や試金師、なかでも自然物の教師たちにはよく知られている。鉄は、まだ幼く、彼らのいうところの霊的な状態にある銀や金に、大きな助けを与え、産婆の手を差し伸べる。それらが鉱石中で、カドミア、砒素、あるいは奪う者であるアンチモンと混ざっているとき、鉱石を焼く炉の火へ鉄が投じられれば、そうなる。同じように、鉄そのものも、鋼に変える際には、海岸で見つかる白い石によって、燃え尽きぬよう守られる。溶かす金属の粉が強すぎる火で失われぬよう、透明なガラスの粉、あるいはガラスの胆汁を上へ投げ入れる者もいる。哲学者たちは、その代わりに自分たちのエウディカを用いる。モリエヌスは、これもガラスの胆汁であり、ガラスの容器の中に求めるべきだという。

注 Cadmia、fel vitri、Eudica は歴史的な術語。現代の特定の薬品へ断定せず保持した。

火の熱は、急速な燃焼によって身体そのものを消費する。しかし、そこへエウディカが加えられるなら、それは、土へ変わった身体をあらゆる燃焼から守る。身体は、もはや自分の魂を保たなくなると、すぐに燃えてしまうからである。エウディカ、すなわちガラスの澱は、確かにあらゆる身体によく適合する。それを生かし、整え、あらゆる燃焼から守るからである。以上がローマ人モリエヌスの言葉である。したがって、これが他の自然へ、火に対して戦い、それに慣れることを教える自然である。弟子を育てる女教師であり、よく見れば、臣下を統べる女王であり、母を高貴にする娘である。

これが、香り高い母と婚姻で結ばれ、彼女から、両親よりはるかに高貴な子を生む赤い従者である。これが、アキレウスの息子ピュロスであり、赤い髪、黄金の衣、黒い目、白い足を持つ若者である。これが、竜に対して剣と盾で武装し、その口から、アルビフィカ、ベヤ、あるいはブランカと呼ばれる無垢の処女を救い出す、首飾りを帯びた騎士である。これが、怪物を殺すヘラクレスであり、恐ろしいケトスへ差し出されたラオメドンの娘ヘシオネを、怪物から救い出した者である。これが、メドゥーサの頭を示して、エチオピア王ケペウスとカッシオペの娘アンドロメダを海の怪物から守り、鎖から救い出して妻にした、あのペルセウスである。これが、都を母として危険から救い出すため、古代ローマの解放者、浄化者たち、マルクス・クルティウス、ルキウス・スカエウォラ、ホラティウス・コクレス、マンリウス・カピトリヌスなどになぞらえられる者である。

注 母名は原本の Cassiopes に従いカッシオペとした。スカエウォラの頭文字 L. は原刊の表記を保った。

ある仕事の完成へ向かう自然の方法と道は、一つのものから別のものを、不完全なものからより完全なものを導き、可能性から現実を生じさせることである。すべてを一瞬で完成するのではなく、一つの後に一つを完成する。また、これだけでなく、まず自分の代理者を置き、生死の権能、すなわち他のものを形づくる力を委ねる。たとえば、人間の生成では十か月という長い過程を用い、アリストテレスの考えに従えば、最初に代理者かつ主要臓器として心臓を作る。次いで心臓が、栄養、生命、感覚、生殖能力に必要な残りの肢体を描き、形づくり、完成させる。そして、病気や外力によって妨げられない限り、収縮と拡張、すなわち動脈の拡張と圧縮を通じて、それらへ生命と生命を与える精気を分け与える。こうして、一つの自然は他の自然を教える。あなたはこれを、哲学者たちの仕事の最も明らかな例として、書き留め、従うがよい。

注 胚発生・心臓・動脈については原著の自然哲学・生理学を訳したもので、現代の医学的説明ではない。

男と女から円を作れ。そこから四角形を、そこから三角形を、そして円を作れ。そうすれば哲学者たちの石を得る。

第21フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第21フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第21番。上方四度。

男と女から円を作れ。そこから四角形を、そこから三角形を作り、さらに円を作れ。そうすれば賢者の石を得るだろう。

逃げるアタランタ。追うヒッポメネス。留まる林檎。

注 三声の声部名。原譜では名前などを適宜略記している。

女と男が、汝にとって一つの円となり、そこから
各辺の等しい四角形が立ち上がるようにせよ。

注 この二行の歌詞は三声で反復される。音楽上の語句の繰り返しは楽譜を参照。

第XXI番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳。

男と女から、まったく丸い円を作れ。
続いて、四つの角のある図形を直ちに描け。
すぐそれを、ちょうど三つの角のある別の図形に変えよ。
そしてこれから再び丸い円を生じさせよ。
そうすれば石ができあがる。それを理解できないなら、
幾何学の教えを理解することに励め。

男と女から円を作れ。そこから四角形を、そこから三角形を、そして円を作れ。そうすれば哲学者たちの石を得る。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第21エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第XXI番。自然の秘密について。

男と女から円を作れ。そこから四角形を、そこから三角形を、そして円を作れ。そうすれば哲学者たちの石を得る。

エピグラム第XXI番。

女と男が汝にとって一つの円となり、そこから
各辺の等しい四角形が立ち上がるようにせよ。
ここから三角形を導き出し、それをあらゆる方向に丸い
球へと戻せ。そのとき石が生まれるだろう。
これほど大きな事柄がすぐに心に浮かばなくても、
幾何学者の教えをつかめば、すべてが分かる。

論説第XXI番。

かのきわめて名高い哲学者プラトンは、すべての技芸と学問の基礎となる認識は、人間の精神にいわば現実に刻み込まれ、押印されており、それを思い出し、繰り返すことによって、誰でもあらゆる教えを把握し、知ることができると説いた。これを証明するため、彼はまだ幼く、無知で、読み書きの教育も受けていない少年を登場させ、幾何学の問いを順次与える。すると少年はすべての問いに正しく答え、望むと望まざるとにかかわらず、すなわち自覚しないまま、このように難しい学問の奥の間にまで到達していることが分かる。そこでプラトンは、子供たちがあらゆる教えや学科を初めから学び取るのではなく、ただ想起によって心へ呼び戻し、再び思い巡らせるのだと定めた。これは彼の「大年」にも通じる。彼によれば、天の一巡に先立つ四万八千太陽年前にも、同じ人物、事物、行為が、現在と同じ仕方で存在していたのである。しかし、この説には真実の根拠が何もなく、夢にまったくよく似ていることは、誰もが理解する。

私たちの内に、認識のある種の火花、すなわち実践と教育を通じて現実化しなければならない単なる可能性が備わっていることは、否定しない。しかし、それが事前の修練なしに諸技芸と諸学問の苗床となるほど、大きく、またそのような性質を持つことは否定する。すると別の人々は問うだろう。「それなら学問や技芸はどこから生じたのか。人間が発見したのでなければ、初めに天から、あるいは異教の神々から授けられたのか」と。私は答える。灰の下に燃える炭が十分な量で隠れており、ただ灰を取り除いて取り出しさえすれば、食物を煮炊きしたり、冷えた私たちの四肢を温めたりするのに足りる、と言うことと、そこには小さな火花だけが隠れており、それが煮炊きや加温に役立つようになるには、人間の勤勉、技術、配慮によって、それに適した火口を用いて養い、育て、増大させなければならず、そうしなければ容易に消え、すべて冷たい灰になってしまう、と言うこととは別である。後者をアリストテレス派が、前者をプラトン派が主張する。だが後者には理性と経験が賛同し、前者にはただ空想、すなわち想像が賛同する。

ここで問うことができよう。プラトンは幼い子供たちでさえ幾何学を現実に知っていると断言したのに、なぜ自分の学校の入口に、幾何学に不案内な者は入れないと掲げたのか。大人はひょっとすると子供より無学なのか。それとも子供のときに知っていたことを、成長すると忘れ去ったのか。

そう考えるべきではない。獣は生まれたばかりでも自然に教えられて、火、水、転落、そのほかこれに類する危険を嫌い、避けるのを私たちは見る。一方、幼児は傷つくか、翼を焼いて落ちる火の虫のように、蝋燭の炎で指を少し焼くまでは、こうしたことを理解せず、避けもしない。なぜ小さな蜜蜂や蝿や蚊は、火から危険が生じることを経験によって知らないのに、そのすばやい飛翔によって火へ飛び込まないのか。自然がそれらには教え、生まれたばかりの人間には教えなかったからである。もし幾何学が子供にそれほど自然で容易なものなら、なぜプラトン自身は円積法を知らず、その弟子アリストテレスが、それは知りうるが、まだ知られてはいないと断言するほどだったのか。

しかし自然哲学者たちがこれを知らなかったわけではないことは、彼らが、円を四角形に変え、これを三角形を経て再び円へ変えるよう命じていることから明らかである。彼らが円によって意味するのは、角のない、最も単純な物体であり、四角形によって意味するのは四元素である。つまり、見いだしうる限り単純な物体的形を取り、それを元素の四つの色に分ければ、等辺の四角形が生じる、と言っているようなものだ。この方形化が自然学的で、自然にかなうものであることは、誰でも理解する。そこからは、数学的で、純粋に理論的な、すなわち物質から抽象された円積法からよりも、はるかに多くの利益が国家にもたらされ、はるかに多くの光が人間の精神にもたらされる。

その円積法を学ぶには、立体を扱う幾何学者を探し、立体図形、たとえば球と立方体の深さを把握して、用途、すなわち手を使う実践へ移さなければならない。球の容量または周長が三十二フィートなら、その球の容量に等しくなるには、立方体の一辺はどれほどになるか。逆に、球がそれだけの周長で三十二単位の容量を収めるなら、同じ量を収めるための立方体の一辺はどれほどか。あるいは球や立方体に収まる容量単位から、それぞれの周長のフィート数を考察するのである。

注 原文は容量と周長、長さの単位を混在させているため、そのまま訳した。

同じように哲学者たちは、四角形を三角形へ、すなわち身体、霊、魂へと導かなければならないとする。この三つは、赤化に先立つ三つの色に現れる。すなわち身体、つまり土はサトゥルヌスの黒さに、霊は水として月の白さに、魂、つまり空気は太陽の黄色さに現れる。そのとき三角形は完成する。しかし今度はこれを円へ、つまり変わることのない赤さへと変えなければならない。この操作によって女は男に変わり、男と一つのものになる。そして完全数の最初のもの、六は、一、二を通じて完成され、再び一へ戻る。その一のうちに安らぎと永遠の平和がある。

注 末尾の数論的な構文は圧縮されている。原文の「per unum, duo(一、二を通じて)」を保持した。

白い鉛を得たなら、女たちの仕事を行え。すなわち、煮よ。

第22フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第22フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第22番。上方七度。

白い鉛を得たなら、女たちの仕事を行え。すなわち、煮よ。

逃げるアタランタ。追うヒッポメネス。留まる林檎。

注 三声の声部名。原譜では名前などを適宜略記している。

たやすい仕事で多くを成し遂げたい者よ、
サトゥルヌスの顔、その黒い顔に雪を撒け。

注 この二行の歌詞は三声で反復される。音楽上の語句の繰り返しは楽譜を参照。

第XXII番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳。

少しの苦労で多くを成し遂げたい者よ、
サトゥルヌスの黒い顔へ、いくらかの雪を振りかけよ。
そうすれば、きわめて白く澄んだ鉛を得るだろう。
その後に残るのは、ただ女の仕事だけである。
女が鍋を火の上に置いておくように、それを煮よ。
ただし鱒は、それ自身の水の中で溶けるようにせよ。

白い鉛を得たなら、女たちの仕事を行え。すなわち、煮よ。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第22エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第XXII番。自然の秘密について。

白い鉛を得たなら、女たちの仕事を行え。すなわち、煮よ。

エピグラム第XXII番。

たやすい仕事で多くを成し遂げたい者よ、
サトゥルヌスの顔、その黒い顔に雪を撒け。
すると、真っ白な鉛の質料が与えられるだろう。
その後には、女の仕事以外は何も残っていない。
そこで煮よ。鍋を火の上に置く女のように。
ただし鱒が、それ自身の水の中で溶けるようにせよ。

論説第XXII番。

分かれ道に、道を示す標識と銘文を伴うメルクリウス像を置き、迷う旅人を正しい道へ導く習わしがある。それと同様に哲学者たちも、寓意に満ちて曖昧な自分たちの書物のあちらこちらへ、鋭い格言を散りばめる。真理を探究する者が、それによって注意を促され、いわば手を取られて正しい小道へ導かれるためである。このエンブレムの銘文も、その一つである。その意味は、哲学的な銅から鉛を、鉛から錫を作らなければならない、ということである。ゲベルは錫を白い鉛と呼び、またサトゥルヌスがメルクリウスとともに洗浄を経て、どのようにユピテルへ移るかを教える。それゆえ、この道案内が同じことを繰り返すバットスのようであっても、哲学者たちの牛がどこにいるかを明かすときには、それを信頼すべきである。彼は「牛は山々にいた、そしてその山々の下にいた」と言う。じつにアルノルドゥスが『新たな光』第一章で証言するように、山々をさまよう多くの人は、この動物を見分けられない。だがそれらは、公然と、きわめて安く売られている。

山の頂では、夏でも時に雪が見られ、雲はきわめてしばしば見られる。それらを蒸気や水として用い、黒い鉛を洗い清め、白く変えるのである。一方、最も深い谷や山々の鉱坑には、氷が凝結して硬くなった水晶が、鏡石や滑石とともに見いだされる。滑石から油を作れば、顔を白く美しくするものとして推奨される。とりわけ、澄んで流動するメルクリウスは、よく調製すれば、サトゥルヌスの斑点を取り除き、彼をユピテルの玉座へ引き上げる。ただし、ここでサトゥルヌスとユピテルを普通のものと解してはならない。普通の金属は自然学的な作業には入らず、長い調製によって浄化され、自然学的なものにされた金属が入るからである。

サトゥルヌスはあらゆる異教の神々、いや、むしろ黄金の者たちの父であり、秘奥への第一の門である。「これによって諸学の門が開かれる」とラーゼスは書簡で述べる。その後を継ぐのは息子ユピテルである。彼は父を王位から追い落とし、これ以上息子をもうけないよう去勢した。海へ投げ込まれた男性器からは、女たちのうち最も美しいウェヌスが生まれた。調製された白い鉛であるユピテルから、残りの惑星が生まれた。すなわちユノからマルス、マウレタニアの山アトラスの娘マイアからメルクリウス、ラトナから月と太陽が生まれた。この四者は、ただ煮ること、すなわち女たちの仕事によって世に出る。

ここで煮ることとは、熟成と、未熟な部分の分散を意味する。それは哲学の容器の中でウルカヌスによってなされる。操作の仕方に関して普通の煮炊きだと思ってはならないが、目的に関してはそれと一致する。女が水の中で魚を熟させる、すなわち余分な湿り気をすべて魚から水と空気へ解き放って、柔らかくし、沸かし、煮るように、哲学者も自らの対象を扱う。最も鋭い酢よりも強い、その対象自身の水の中で、浸し、融かし、溶解し、凝固し、固定するのである。それはヘルメスの容器の中で行われる。その接合部は、水が蒸発して容器の中身が焼けてしまわぬよう、当然ながら、きわめて厳密に閉じられていなければならない。これが容器の上の容器、哲学者たちの鍋、老人が汗をかくラコニア式の浴室である。

魚、伊勢海老、蟹、あるいは採りたての豆を、二重の鍋で煮る人々がいる。これらを上の鍋へ、水だけを下の鍋へ入れ、蒸気が逃げないよう輪状の接合部を設けて、鍋を上下に重ねる。この方法なら、立ち上る水蒸気だけが中身を貫いて熟させ、水の中で煮た場合よりもはるかに完全に、柔らかくしなやかにする。これこそ哲学者たちが最も賞賛する方法であり、これによって硬いものを柔らかくし、結合したものを解き、密なものを希薄にする。

樹上の果実を熟させ、煮て、完成させるのは、空気、すなわち感覚には捉えられない蒸気であって、生の冷たい水そのものではない。ヘスペリデスの園の黄金の林檎を染め、色づけるのも空気である。よく考えれば、生肉を食べられるように煮る水の沸騰も、水が希薄になり、空気状の蒸気に転じることにほかならない。泡とは水の内部に含まれた空気であり、その空気が水から自らの領域へ向かい、水が自らの中心へ沈むと、泡は容易に消えるからである。

ロドスでパラスが生まれ、太陽がウェヌスと交わるとき、黄金の雨が降る。

第23フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第23フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第23番。上方五度、または十二度。

ロドスでパラスが生まれ、太陽がウェヌスと寝るとき、黄金の雨が降る。

逃げるアタランタ。追うヒッポメネス。留まる林檎。

注 三声の声部名。原譜では名前などを適宜略記している。

驚くべき出来事である。だがギリシアは私たちに、それが真実だと保証した。
ロドスの人々の間で語り継がれた、その出来事を。

注 この二行の歌詞は三声で反復される。音楽上の語句の繰り返しは楽譜を参照。

第XXIII番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳。

ギリシア人が真実として私たちに教えるのは、驚くべき出来事。
それは昔、ロドスで名高かった。
黄金からなる実り豊かな雨が降ったと、彼らは証言する。
太陽がウェヌスと、恋の炎のうちに横たわったとき、
またパラスがユピテルの脳から現れ出たときに。
同じように汝の器にも、雨のように黄金が現れねばならぬ。

ロドスでパラスが生まれ、太陽がウェヌスと交わるとき、黄金の雨が降る。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第23エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第XXIII番。自然の秘密について。

ロドスでパラスが生まれ、太陽がウェヌスと交わるとき、黄金の雨が降る。

エピグラム第XXIII番。

驚くべき出来事である。だがギリシアは私たちに、それが真実だと保証した。
ロドスの人々の間で語り継がれた、その出来事を。
太陽がキュプロスの女神と愛に結ばれたとき、
雲から黄金の雨が落ちたと、人々は伝える。
またパラスがユピテルの脳から飛び出したときにも。
このように黄金が、自らの器の中で雨水のように降り注ぐように。

論説第XXIII番。

黄金の雨がかつて地上へ降ったと主張することは、寓意として解さないかぎり、狂気であろう。雲の中に砂金の流れる川や金鉱はないから、そこで黄金が生成されたとは言えないし、黄金は蒸気とともに引き上げられたと考えられるほど軽くもない。だが比喩なら、そのすべてを認め、許容する。パラスが実際にユピテルの脳から生まれ、太陽が姦通によってウェヌスと結ばれたことが真実であるのと同じだけ、黄金の雨が降ったことも真実なのである。こう言うのは、この両方が起きたことを疑うためではなく、寓意として語られた言葉から、普通の文字どおりの意味を除くためだ。このエンブレムの言葉をそのまま追えば、これほど不合理なものはないが、その意味を追えば、これほど真実なものはない。

ロドス島は、蛇が多いため、最初はオフィウサと呼ばれ、次いでその地に咲き誇る薔薇園からロドスと呼ばれ、最後には、そこに立ち、世界七不思議の一つに数えられた太陽の巨像から、コロッシコラとも呼ばれた。古の哲学者たちは、自分たちのメルクリウス的質料が生の状態では蛇のように振る舞い、後に調製され、煮られると薔薇の深紅の色を帯びるため、ロドス島からいくつかの類比を取った。太陽、すなわちアポロがウェヌスと交わったとき、この島に黄金の雨が降ったとしたのも同じ理由による。この初めは比喩的に語られたことが、ロドス人の誇りを高めた。そのように偉大な神々が自分たちのもとで子作りに励んだというので、彼らは途方もない大きさと費用で、いわば太陽の偶像を建立したのである。

歴史書が伝えるところでは、この巨像は高さ七十キュビトで、その両脚の間を、帆を広げた船が通れるように据えられていた。指は普通の彫像ほどの大きさがあり、親指を抱きかかえることのできる者はわずかだった。作者はリュシッポスの弟子、リンドスのカレスで、十二年をかけて制作した。五十六年後、地震で倒れたが、横たわった姿もなお驚異であった。エジプトのスルタンがロドスを占領したとき、この像の銅を九百頭の駱駝に積んだと伝えられる。

注 巨像の姿と沿革についての著者の伝承を、そのまま訳している。

「惑星の間で太陽が占める位置を、金属の間では黄金が占める」と哲学者は言う。また黄金が何より太陽に割り当てられるのは、その熱、色、力、本質による。それゆえ、ウェヌスが小さな太陽たちを身ごもるとき、黄金の雨は太陽の生成にふさわしい。ウェヌスの顔には薔薇色があり、これが太陽の種へ注ぎ込まれるなら、そこから生まれる子は、まことにロドス、すなわち薔薇でなければならない。

これが薔薇に似た美しい哲学者たちの息子であり、すべての者の目と心を自らへ誘い、引き寄せ、愛されるにふさわしい者である。この子が生まれたときに奇跡が起きても不思議はない。彼自身が、そのあらゆる行為において驚異となり、黄金の雨を引き起こすであろうからだ。彼は太陽の息子アウゲイアスの兄弟である。アウゲイアスは父の遺産として牛を持っており、その糞場をヘラクレスが一日で清めた。また彼は、イアソンに奪われた黄金の羊毛を所有していたアイエテスの兄弟でもある。

母を持たず、ユピテルの脳から出てきたパラスについては、トリトン川のほとりで生まれたためトリトニアと呼ばれたと伝えられる。彼女は知恵を司る女神として描かれる。知恵の座である脳から生まれたと言われるのは、もっともである。彼女がいつこの世の光のもとに現れたか、人々の記憶にとどまるよう、ロドスではその誕生も黄金の雨で飾られた。王の戴冠や王家の継承者の誕生といった公の歓喜や祝祭の折には、黄金の雨のように、群衆へ金貨が撒かれることがある。パラスの誕生のときにも、それと同じことが起きたのである。というのもパラスとは知恵、すなわちソフィアであり、右手に健康、左手に富を携え、人々の健全さと利益に配慮するものだからだ。

ペルセウスは彼女に、蛇と毒蛇の髪で恐ろしい姿をし、ものを石に変えるメドゥサの首をもたらした。彼女はそれを盾につけ、自らの敵である未開で粗野な民に向けて用い、彼らを石へ変えた。じっさい、知恵、すなわち自然哲学は、信じようとしない憎悪者や嫉妬する者を、感覚も理解も失った呆然たる者にする。その手段こそ、先に述べた三体のゲリュオンの父、クリュサオルが生まれたもの、すなわち石化させるゴルゴンの血であり、これは哲学者の石のティンクトゥラにほかならない。

狼は王を食らい、自ら焼かれることによって、王を生命へ返した。

第24フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第24フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第24番。下方五度、または十二度。

狼は王を食らい、自らが焼かれたとき、王を返した。

逃げるアタランタ。追うヒッポメネス。留まる林檎。

注 三声の声部名。原譜では名前などを適宜略記している。

貪り食う狼を捕らえることに努めよ。
その食欲を鎮めるべく、王の身体を狼に投げ与えよ。

注 この二行の歌詞は三声で反復される。音楽上の語句の繰り返しは楽譜を参照。

第XXIV番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳。

貪欲な狼を捕らえることを、汝の務めとせよ。
王の身体をその前へ投げ、呑み込ませよ。
それを薪の上に置き、ウルカヌスに火を点けさせよ。
その恐ろしい獣が燃え尽きるように。
これを繰り返せば、王は死から蘇り、
獅子の心を持ち、誇らしく大胆に進んでくる。

狼は王を食らい、自ら焼かれることによって、王を生命へ返した。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第24エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第XXIV番。自然の秘密について。

狼は王を食らい、自ら焼かれることによって、王を生命へ返した。

エピグラム第XXIV番。

貪り食う狼を捕らえることに努め、
王の身体を投げ与えよ。それによって狼の貪欲が
鎮まるように。そして狼を薪の山に置け。そこにウルカヌスが
火を起こし、獣が灰へ帰るように。
これを幾度も幾度も行え。そうすれば王は死から蘇り、
獅子の心を持って誇らしくなるだろう。

論説第XXIV番。

狼の飢えと貪食がどれほど激しいかは、よく知られている。食物がなく、飢えが極まれば、土を食う。大きな家畜を襲う際にも土で腹を満たすという。その荷物によって重くなり、容易に振り落とされず、より強く抵抗するためである。囲いに入れば、自分の腹に足りるだけを殺すのではなく、貪欲のあまり群れをことごとくあちらこちらで絞め殺す。狼はアポロとラトナに捧げられた聖なる獣である。ラトナの出産に立ち会ったからだ。狼がそばにいなければ、ラトナは出産できなかったのである。それゆえ、自らの誕生を祝った狼がアポロに喜ばれると考えるのは当然である。また、その目が夜に輝き、光を放つからでもある。

そこでこの激しい飢えに取りつかれた狼に、息絶えた王の身体を投げ与える。それは、すべて食い尽くして無に帰させるためではなく、狼自身の死によって、王に生命と力を取り戻させるためである。狼の尾には、ある種の、何とも言いがたい愛の力があり、それが半死の王へ注ぎ込まれる。王はそれによって以前の健康と美しさを取り戻し、あらゆる人から深く愛されるようになる。キケロが伝えるところでは、ヒュルカニア人が犬を養ったのは、死者を投げ与えて食わせるためにほかならなかった。同じようにマッサゲタイ人も、病死者を犬の餌にする。だが哲学者たちは王を狼に与える。

彼らは、死者の身体を糞と同じように扱い、王でさえ糞の山へ捨てたサバ人の慣習を好まなかった。また死者の首を足へ結びつけ、冗談や笑いとともに急いで運び出し、場所を選ばず埋めたトログロデュタイ人の慣習も好まなかった。むしろここでは、同胞の身体をまず野獣に引き裂かせてからでなければ埋葬しなかったマゴイの慣習に従おうとした。あるいは、老いに先を越されぬよう、冠をかぶり、神々への賛歌を歌いながら、生きたまま焼かれることを命じたインド人の慣習である。しかし、これらすべての人々にこの慣習を課したのは最後の運命であり、そこには復活や生命の再生への希望はなかった。哲学者たちの場合は、まったく異なる仕組みになっている。

彼らは、死んで狼に呑まれた王から、生きて強く若い王が現れ、その代わりに狼が火で焼かれることを、まったく確実に知っている。狼はこのように腹を重くすれば、容易に殺せる。しかし王は死んでいても、マルスまたはキュクノスの力を持ち、傷つけられることも滅ぼされることもない。では、この狼はどこで狩ればよく、王はどこから取ればよいのか。

注 Cygnea は「白鳥の」または神話上のキュクノスに関わる語。ここでは傷つかない人物への暗示としてキュクノスと訳した。

哲学者たちは答える。狼は獲物を捕らえようと山や谷をあちこちさまよっており、その洞穴から引き出して、使用のために保っておかなければならない。一方、王は東方から来て、長旅の苦痛に疲れ果て、ついに倒れる。悲しみもその死を早める。異国人の間では自分がまったく尊ばれず、安く見積もられ、わずかな金貨で奴隷に売られてしまうのを見ているからである。

ただし、狼はより寒い地方から取らなければならない。寒い地域に生まれる狼は、外気の寒さから飢えがさらに大きくなるため、アフリカやエジプトの狼よりも凶暴だからである。これに呑まれた王は、獅子の胸を持って生き返り、その後はあらゆる野獣を従わせることができる。彼は六人の兄弟の中で、最も年少なので、外見は最も卑しいが、多くの苦難と不幸の後、ついにはきわめて強大な王国へ到達する。

それゆえ『薔薇園』でグラティアヌスは言う。「錬金術には、一人の主から別の主へ移される、ある高貴な物体がある。その初めには酢を伴う不幸があり、終わりには喜悦を伴う歓喜がある」。同じ箇所でアラヌスは言う。「あらゆるものの中から、一つのものを選ばなければならない。それは鉛色で、澄んで流動する金属の姿を持ち、熱く湿り、水のようであり、かつ焼くものである。それは生きた油、生きたティンクトゥラ、鉱物の石、そして驚くべき効力を持つ生命の水である」。

王が自国の境を越えて旅するのは、必ずしも安全ではない。身を隠そうとして正体を知られれば、敵から裏切り者と見なされて投獄される。正体を明かして進んでも、軍隊を伴わなければ同じ危険にさらされる。このインドの王にも同じことが起きた、あるいは死が先に訪れなければ起きていたであろう。これが、第二、第三の操作をより首尾よく行うため、哲学者たちが用いる第一の昇華、洗浄、高貴化である。これなしに、王がまだ臆病で、眠たげで、病んでいるままなら、その後の操作には何の価値もない。

まず王は臣民から税と貢納を取り立て、それで自分の衣服や、そのほかの必需品を調えなければならない。その後には十分に富み、望むたびに、すべての臣民へ新しい衣服を分け与えられるようになる。大きなものは、たいてい小さな始まりから生じ、後には小さなものを引き上げ、望むなら大きなものさえ押さえつけられる。その例は、初め小さかった都市が、後には大王たちを支配し、村々を、広大で人口の多い町へ変えたことである。

竜は、その兄弟と姉妹、すなわち太陽と月とともに殺されなければ、死なない。

第25フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第25フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第25番。下方五度、または十二度。

竜は、その兄弟と姉妹、すなわち太陽と月に殺されなければ、死なない。

逃げるアタランタ。追うヒッポメネス。留まる林檎。

注 三声の声部名。原譜では名前などを適宜略記している。

竜を死によって打ち倒し、すぐに生き返って
地を這わぬようにするのは、小さな技ではない。

注 この二行の歌詞は三声で反復される。音楽上の語句の繰り返しは楽譜を参照。 林檎声部では non が脱落して「小さな技である」となる誤植がある。他の二声およびエピグラムの本文に従って訳した。

第XXV番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳。

竜に打ち勝ち、
二度と這い出さず、生き始めないようにするのは、容易な技ではない。
その兄弟と姉妹が共に、棍棒で頭を打ち砕く。
それ以外の者は、竜を殺そうと企てることができない。
アポロが兄弟、ディアナが姉妹であり、
彼によってピュトンが、彼女によってオリオンが殺された。

竜は、その兄弟と姉妹、すなわち太陽と月とともに殺されなければ、死なない。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第25エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

論説第XXV番。

注 図版ページにも原本は Emblema ではなく Discursus と印刷されている。

竜は、その兄弟と姉妹、すなわち太陽と月とともに殺されなければ、死なない。

エピグラム第XXV番。

竜を死によって打ち倒し、すぐに生き返って
地を這わぬようにするのは、小さな技ではない。
兄弟と姉妹その人が、共に力を合わせ、
棍棒でその顔を打つ。異質なものは死を与えない。
ポイボスがその兄弟、キュンティアがその姉妹であり、
前者の手でピュトンが、後者の手でオリオンが倒れた。

論説第XXV番。

黄金の羊毛を獲得するには、何よりもまず竜を殺さなければならなかった。多くの者がこの難事を試みたが、むなしく終わり、竜に打ち負かされ、致命的な毒で殺された。それは竜の毒に対する備えが不十分で、どのような策略で竜を殺すべきかを教えられていなかったためである。しかしイアソン、すなわち医師は、いかなる種類の治療法もおろそかにしなかった。彼はメデイア、すなわち精神の思慮から、さまざまな薬を受け取り、その中には太陽と月の像もあった。それらを用いて、首尾よく勝利とその賞、すなわち黄金の羊毛を得た。それゆえ竜は太陽と月、あるいはその像によって取り除かれたのであり、これは哲学者たちが随所で繰り返し説くことである。

実際、『薔薇園』の著者は他の著者たちから次のように引いている。「ヘルメス。竜は、自分の兄弟と姉妹とともに殺されなければ死なない。一方だけによってではなく、両者、すなわち太陽と月によって同時に殺されるのである。哲学者。メルクリウスは、自分の姉妹とともに殺されなければ決して死なない。すなわち月または太陽とともに、それを凝結させなければならない。注意せよ。竜は物体から抽出された水銀であり、自らのうちに身体、魂、霊を持つ。これについて言う。竜はその兄弟と姉妹、すなわち太陽と月とともにでなければ死なない。すなわち、月のゆえに、自らのうちに湿と冷の性質を持つ、抽出された硫黄とともにである。それらとともに竜、すなわち初めに同じ物体から抽出された水銀が死ぬ。これは哲学者たちの永続する水であり、腐敗の後、元素の分離の後にできる。その水は別名、悪臭の水とも呼ばれる」。彼の言葉は以上である。他のすべての著者も同意するので、一人一人の権威を引く必要はない。

エペイロス人は、ピュトンが殺されたことを記念して、アポロの神殿で竜を崇拝した。竜は象に対して、生来の敵意と憎しみを持つ。象の目と喉を狙い、ついに象は地面へ倒れるが、その身体の重さで同時に竜をも殺す。そこから竜の血が私たちの地方へ運ばれる。竜の目には宝石ほどの価値があり、その視力はきわめて鋭く、明瞭である。そのため、ヘスペリデスの林檎や、すでに述べたコルキスの黄金の羊毛のように、しばしば宝物を守る役目に用いられた。古人はまた、これを象徴としてアスクレピオスに添えた。

しかし錬金術師たちが竜を自分たちの作業へ当てはめるのは、実物としてではなく寓意としてである。竜は常にメルクリウスを意味し、それが固定されていても、揮発性であっても変わらない。そのためメルクリウスは、使者の杖に絡み合う二匹の蛇とともに描かれる。竜とは巨大な蛇だからである。サトゥルヌスは、自分の尾を食べる一匹の蛇とともに描かれ、ヤヌスも同様である。

アポロの子で、医術、すなわち哲学者たちの医術の発明者であるアスクレピオスには、蛇が捧げられる。彼はその姿でエピダウロスからローマへ運ばれ、疫病がやんだのは彼のおかげだと考えられたため、そこで絶えず崇拝されたと信じられている。さて哲学者たちの竜は、常にきわめてよく目覚め、生きており、容易には傷つけられない。それは皮の厚さと、武器として備えた歯や毒の鋭さによる。普通の竜は毒を持たないと言われるが、この竜は毒を欠かず、注意深く扱われなければ、出会う者に誰彼かまわず吐きかける。

それゆえ、血縁者の策略が加わらなければ、力だけで竜に勝てることはまれである。詩人が「友という名によって欺くのは、安全でありふれた道だ」と言ったのは真実である。ただし、ここ以外の場所、別の事柄では、「たとえ安全でありふれた道であっても、そこには罪がある」。旅回りの薬売りやいかさま師は、子供の体内の虫を、同種の別の虫の粉で殺して追い出すという。すなわち兄弟をその兄弟姉妹によって殺すのである。同じように、この竜も兄弟と姉妹、すなわち太陽と月と一緒に殺さなければならない。ここから竜も惑星の一つであることが分かる。すなわち、すでに『薔薇園』から明らかなように、物体から抽出されたメルクリウスである。

ギリシアの著者の中には、ヘロデがユダヤ人を治めていたとき、一匹の竜が美しい結婚適齢の娘を愛し、その寝床に寄り添ったと伝える者がいる。また皇帝ティベリウスが、別の竜を愛玩し、いつも自分の手で餌を与えていたとも伝える。哲学者たちの竜も、正しく扱えば凶暴さを捨て、人間の友となるが、そうでなければ敵対する。プリニウスの引用する歴史家クサントスは、殺された竜の子が、その親によって、バリスと名づける草で蘇らされたと証言する。だが私はこれを、真実の歴史というより、哲学者たちの寓意と見なす。錬金術においてのみ、死んだ竜に生命が、生きた竜に死が、交互に与えられるからである。

しかし人は問うだろう。竜はどこで、どのように捕らえるべきなのか。哲学者たちは、ごく短い詩句で答える。「山々、竜たち、大地、泉がレビスを与える」。捕獲についてはタキトゥスを見よ。アフリカで見かけられた巨大な竜を捕らえ、皇帝ティベリウスのもとへ運ぶため、多数の人がどれほど注意と勤勉を尽くして見張ったかが記されている。すなわち、竜がいつも通る道を石の間に囲い込み、次第に狭い場所へ追い込んだ。そこで網と縄に閉じ込め、ついには棍棒と打撃で従わせ、多くの荷車に積むほどの荷として船へ運び、ローマへ送ったのである。

人間の知恵の実りは、生命の木である。

第26フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第26フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第22番〔配列上は第26番〕。下方二重八度。

注 フーガ番号は原本では XXII と誤植されている。配列と詩の番号は XXVI。

人間の知恵の実りは、生命の木である。

逃げるアタランタ。追うヒッポメネス。留まる林檎。

注 三声の声部名。原譜では名前などを適宜略記している。

人間の営みには、富と健やかな生命をもたらす知恵より
偉大な知恵はない。

注 この二行の歌詞は三声で反復される。音楽上の語句の繰り返しは楽譜を参照。

第XXVI番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳。

人間の営みについて、私たちに知らされた知恵に、
富と長く健やかな生命をもたらすものより偉大な知恵はない。
その右手は、苦しみなく高齢へ達することを示し、
左手は、誰かが望んだことのある限りの多くの財を示す。
誰でも理性と手の働きによってこれへ至るなら、
そのあらゆる行いで、生命の木の実りを感じるだろう。

人間の知恵の実りは、生命の木である。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第26エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第XXVI番。自然の秘密について。

人間の知恵の実りは、生命の木である。

エピグラム第XXVI番。

人間の営みには、富と健やかな生命をもたらす知恵より
偉大な知恵はない。
その右手は長い歳月にわたる健やかな生涯を持ち、
左手は山なす財を収める。
理性と手の働きによってこの知恵へ近づく者には、
この人生において、木の実りにも似た実りがあるだろう。

長寿と健康。

注 図中、知恵の右手の帯。

栄光と無限の富。

注 図中、知恵の左手の帯。

論説第XXVI番。

トゥッリウスは、人間がほかの動物の種と異なる本質的な違いを、次のように見事に描いた。「鳥が飛ぶため、馬が走るために生まれたように、人間は推論するために生まれた」。獅子、熊、虎がその獰猛さを、象や牡牛が身体の強さを、鷲、隼、鷹が鳥を捕らえる力と翼の速さを発揮し、示すのに対し、人間は理性、精神の推論、知性によって、それらとほかのすべてに優る。したがって、獣の獰猛さ、身体の力、速さ、その他この種の性質がどれほど大きくとも、理性だけによって和らげ、従わせ、追い越せないものはない。理性は人間的なものでも、土から生じたものでもなく、詩人が言うように、天から人間の身体へ送り込まれた「神的な息吹の小さな一片」だからである。

それは時には記憶、時には知的能力と呼ばれる。そこに実践、すなわち経験が加わると、人間にとって最も貴重な知恵が生まれる。実践は、このように高貴な子の父、理性、あるいは記憶は母とされる。それゆえ、「実践が私をもうけ、母なる記憶が私を産んだ」という有名な言葉がある。しかし問われるのは、何が真の知恵であり、人間の探究に最も値するものかということである。知恵についての見解は無限にあり、誰もがそれを自らの想像に引き寄せているからだ。

答えるべきは、人間の事柄における知恵は、ただし魂の救いに関わる神的な事柄は常に別として、詭弁的な屁理屈でも、弁舌巧みで飾り立てた言葉でも、詩句の響きでも、文法家の批評的な細論でもなく、正不正を問わず、策略、偽誓、欺瞞、嘘、無慈悲、貧者の汗によって金銭や財産を積み上げる狡猾さでもない、ということである。それはほかでもなく、人類にきわめて有益な実践と結びついた、錬金術の真の認識である。これこそすべてを凌ぐ知恵であり、右手を東へ、左手を西へ伸ばして、大地全体を抱きしめる。

ソロモンは『知恵の書』で、知恵について分別をもって論じる。第八章九節、十八節には、こうある。「知恵と親族である者は永遠の存続を持ち、その友は純粋な楽しみを持ち、熱心にそれを求める者は大いなる喜びを得る。知恵と交わることには退屈がなく、そのそばにいることには倦怠もなく、喜悦と歓喜がある。葡萄酒と音楽も人間の心を喜ばせるが、知恵はそれらよりも楽しい」。

『シラ書』第四章十三節。
『知恵の書』第八章十六節。
『シラ書』第四章二十節。

注 欄外の典拠表示を原本どおり収録。現行版の章節と一致しない場合がある。

「知恵は、それをつかむすべての者にとって生命の木であり、それを守る者は幸いである」。ラクタンティウスはそれを魂の糧と呼ぶ。「知恵ある者は尊ばれ、知恵を重んじる者は、それによって高められ、栄誉を受ける。知恵は子らを引き上げ、それに固く従う者は栄誉を享受する。そこから後世に伝わる不滅の名も生まれる。それはあらゆるものよりも強く、町にいる十人の権力者よりも、知者を強くする」。

預言者バルクの言葉も、この世俗の知恵に適用できる。「それゆえ真の知恵を学べ。そうすれば、長寿、富、喜び、平和を授けるのは誰かを知るだろう」。また『知恵の書』第九章十七節では、知恵は神の認識における秘められた思慮であると断言される。「知恵はすべてをもたらし、その手の労働から無限の富が生じる。いや、すべての善はそれから出ており、大いなる富と財はその手にある。それと結びつく者は、それによって栄誉とともに高められる」。また『シラ書』第一章二十六節には、「知恵の宝庫には理解と知識の敬虔さがある」とある。別の箇所では、それを感覚の訓練、あるいは知性の教えと呼ぶ。

『知恵の書』第十章十節。
『箴言』第三章十八節。
ラクタンティウス、第三巻十三章。
『箴言』第三章三十五節。
『シラ書』第一章二十四節。
『シラ書』第四章十二、十四節。
『知恵の書』第六章二十一節。
『知恵の書』第八章十三節。
『知恵の書』第十章十二節。
『コヘレトの言葉』第七章二十節。
『バルク書』第三章十四節。
『知恵の書』第八章五、十八節。
『知恵の書』第七章十一節。
『シラ書』第一章二十四節。

注 欄外の典拠表示を上から順に収録。現行版の章節と一致しない場合がある。

哲学者モリエヌスは、これについて言う。「この学知こそ、その主人をこの世の悲惨から引き離し、来たるべき善の認識へ立ち帰らせるものである」。それが神の賜物であることも、同じ著者は次の言葉で証言する。「神はこの神的で純粋な学知を、ご自身の忠実な者と僕たち、すなわち、万物の最初の本性以来、その驚くべき力によってこれを授けると定めていた者たちに授ける」。そしてすぐ後に言う。「この事物は、至高の神の賜物以外ではありえない。神は望むままに、その僕と忠実な者のうち、望む者にこれを委ね、示す。それゆえ、すべてにおいて全能の神にへりくだり、完全に従うべきである」。さらに後に言う。「王よ、あなたはまた、この大いなる業が、いと高く、いと大いなる神の秘奥、秘密の中の秘密にほかならないことを知るべきである。神はこの秘密を、ご自身の預言者たち、すなわちその魂をご自身の楽園に置かれた者たちへ託された」。

注 maximi は原本で magni の上に訂正されている語に従った。

これが生命の木と呼ばれるのは、それ自身のうちに永遠の救いを持つからではなく、いわばそこへの道を示し、この人生に有用な実りをもたらすからである。この人生は、健康、運命の恵み、精神の善といったそれらを欠くことができない。これらがなければ、人間は生きていても死んでおり、獣と変わらない。たとえ外見が、本来そうあるべき人間の姿を表していても、そのより優れた部分においては、人間ではないのである。

鍵なしに哲学的薔薇園へ入ろうとする者は、足なしに歩こうとする人にたとえられる。

第27フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第27フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第27番。上方八度。

鍵なしに哲学者たちの薔薇園へ入ろうとする者は、足なしに歩こうとする人に等しい。

逃げるアタランタ。追うヒッポメネス。留まる林檎。

注 三声の声部名。原譜では名前などを適宜略記している。

知恵の薔薇園は、さまざまな花で咲き誇る。
だがその門は常に、堅い閂で閉ざされている。

注 この二行の歌詞は三声で反復される。音楽上の語句の繰り返しは楽譜を参照。

第XXVII番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳。

知恵の庭は、さまざまな種類の薔薇で飾られている。
だがその扉はいつも、錠で固く閉ざされている。
それを開く卑しいものが、世の中に見いだされる。
それがなければ、汝は地上を足なしに歩くも同然である。
高いパルナッソス山へ登ろうとしても、むだである。
平らな道でさえ、一本の脚でかろうじて立てるだけの汝には。

鍵なしに哲学的薔薇園へ入ろうとする者は、足なしに歩こうとする人にたとえられる。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第27エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第XXVII番。自然の秘密について。

鍵なしに哲学的薔薇園へ入ろうとする者は、足なしに歩こうとする人にたとえられる。

エピグラム第XXVII番。

知恵の薔薇園は、さまざまな花で咲き誇る。
だがその門は常に、堅い閂で閉ざされている。
それにただ一つの鍵となるのは、世間では卑しいとされるもの。
それがなければ、汝は脚なしに道を進むだろう。
パルナッソスの高みへ登ろうとしても、むだである。
平らな地面でさえ、かろうじて身を支えられるだけの汝には。

論説第XXVII番。

エリクトニオスについて、次のように記されている。知恵の女神パラスと格闘していたウルカヌスの精液が地へこぼれ、そこから生まれた彼は、蛇の足を持ち、人間の足を持たなかった。パラスの知恵なしに、ウルカヌスの働きだけを頼みとする者たちも、これによく似た子を生む。すなわち、異形で、足がなく、未熟な子であり、自らを支えることも、他者の役に立つこともできない。人間が四つ足で、つまり手と足を同時に使って進むのは惨めだが、足をまったく失い、代わりに腕を使うのは、はるかに惨めである。這う虫のように進む者は、虫の本性へ退化したように見えるからだ。人間の二本の脚は、実際の歩行に欠かせない器官である。それは、目なしには見えず、手なしには触れるものをつかめないのと同様である。

同じように医学、およびあらゆる実践的技芸にも、それを支える二本の脚、すなわち経験と理性があるとされる。そのどちらか一方がなければ、その技芸は欠損して不完全となり、伝承や教訓も完全ではなく、定めた目的にも到達できない。とりわけ錬金術には、二本の脚のような二つの対象があり、一つは鍵、もう一つは閂の紐である。これらによって、四方を閉ざされた哲学的薔薇園が開き、正しく入る者に道が与えられる。ここへ入ろうとする者が一方を欠けば、足の不自由な人が、駆けて兎を追い越そうとするのと同じことになる。

四方を閉じられ、囲われた庭へ鍵なしに入る者は、暗夜に忍び入り、薔薇園に何が育っているかも見分けられず、盗んだものを楽しむこともできない盗人に似ている。鍵とは、きわめて卑しいもので、正しくは「諸章において知られる石」と呼ばれ、ロドス、すなわち薔薇の根である。これなしには芽は出ず、蕾は膨らまず、薔薇は咲かず、千重の花びらを開きもしない。だが、この鍵をどこで探すべきかと問うことができよう。私は神託とともに答える。それはオレステスの骨が見つかったと言われる所、すなわち「風々、打つもの、打ち返されるもの、人間の破滅が、共に見いだされる所」で探すべきである。これはリュカスが解釈したように、金属を鍛える職人の工房を意味する。神託は、風々によって鞴を、打つものによって槌を、打ち返されるものによって金床を、人間の破滅によって鉄を指し示そうとしたのである。

黄道の徴を正しく数え、見分けることができれば、実際にその北半にこの鍵を、南半に閂の紐を見いだすだろう。それらを手に入れれば、扉を開けて入るのは容易である。

入口に入ったところで、恋人アドニスを伴うウェヌスを見るだろう。彼女は自らの血で、白い薔薇を深紅に染めたのである。そこには、ヘスペリデスの園と同じように、薔薇を守って眠らず番をする竜も見られる。薔薇の香りは、そばに大蒜を植えると強まると言われる。それは大蒜の持つ熱の程度が高いためであり、この熱によって大蒜は冷たい毒に抵抗する。薔薇が目と鼻にきわめて心地よい色と香りを得るには、太陽と大地の熱が必要だからである。また普通の硫黄の煙は、赤い薔薇の触れた部分を白くするが、反対に礬の精、あるいは強水は、濃く持続する赤色を戻す。普通の硫黄は哲学的硫黄に敵対するが、それを破壊することはできない。一方、溶解する水はそれと親しく、その色を保つのである。

薔薇がウェヌスに捧げられるのは、ほかの小さな花々に優るその美しさのためである。薔薇は、報復を受けることもなく侵されないよう、自然が武装させた処女なのである。菫には武器がなく、足で踏みつけられる。薔薇は棘の中に身を隠し、内側には金髪を、外側には緑の衣を持つ。賢い者でなければ、それを摘み、棘から分けることはできない。そうでなければ指に刺さる棘を感じるだろう。同じように、きわめて用心深い者以外は、哲学者たちの花を摘めない。蜂の巣で小さな蜂と針を、蜜の中で胆汁を味わいたいのでなければ。

略奪者の手を持って、密かに薔薇園へ入った者は非常に多い。だが持ち帰ったのは苦痛だけ、すなわち灯油と労力を無駄にしただけだった。そのため『賢者の集い』でバクッセルは言う。「私たちの書物は、それをただ一度、二度、三度と読む者に、大きな害を与えるように見える。彼らは理解にも、あらゆる努力にも挫折し、さらに最悪なことに、この術へ費やした財産、労苦、時間まで失うからである」。少し後にはこうある。「成し遂げた、世界を手にしたと思っているときに、自分の手の中には何も見つからないだろう」。

王はラコニア式の浴室に座って浴し、 ファルートによって黒胆汁から解放される。

第28フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第28フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第28番。上方九度、または十二度。

注 原本の数値は 9 と 12。通常の複音程の対応としては整合しないが、そのまま収録した。

王は空気の浴室で浴し、ファルートによって黒胆汁を除かれる。

逃げるアタランタ。追うヒッポメネス。留まる林檎。

注 三声の声部名。原譜では名前などを適宜略記している。

緑の獅子の紋章を輝かせるドゥエネク王は、
胆汁で膨れあがり、かたくなな気性であった。

注 この二行の歌詞は三声で反復される。音楽上の語句の繰り返しは楽譜を参照。

第XXVIII番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳。

盾に緑の獅子を掲げるドゥエネク王は、
胆汁が多すぎるため、ひどく荒々しい気性に見えた。
そこで医師ファルートを呼び寄せると、彼は助けると約束し、
すぐに空気のような水の浴室を作った。
王はガラスの穹窿に囲まれ、その中で幾度も浴した。
ついに露に濡れて、胆汁から解放されて生きるまで。

王はラコニア式の浴室に座って浴し、
ファルートによって黒胆汁から解放される。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第28エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第XXVIII番。自然の秘密について。

王はラコニア式の浴室に座って浴し、
ファルートによって黒胆汁から解放される。

エピグラム第XXVIII番。

緑の獅子の紋章を輝かせるドゥエネク王は、
胆汁で膨れあがり、かたくなな気性であった。
そこで医師ファルートを呼び寄せた。医師は健康を約束し、
泉から空気のような水を与えた。
ガラスの穹窿の下で、その水を用いて幾度も洗い、
湿った露によって、ついに胆汁がすべて追い払われた。

論説第XXVIII番。

人間には三つの消化がある。第一は胃、第二は肝臓、第三は静脈の中で起きる。それと同じ数だけ、それぞれに対応し、余分なものを毎日運び出す、全身的な排泄物の排出がある。すなわち第一は便を通じるもので、第一の消化に固有である。第二は尿を通じ、第二の消化に対応する。第三は全身の毛穴からの発散、あるいは発汗を通じ、第三の消化に対応する。最初にはキュロス、次にはキュモス、最後には露、すなわち露状の実体が作られ、身体の個々の部分へ与えられる。

注 ここでの消化・体液の説明は著者の時代の生理学。chylus、chymus はその歴史的用語として音写した。

第一の消化の排出物、すなわち糞便は、粗く、胆汁性で、脂じみており、腸を通って後方の出口へ運ばれる。滞った場合には、穏やかな、中程度の、あるいは強い浄化薬、すなわち下剤で排出される。第二の排泄物は液状で、より薄く、胆汁性で、塩辛い。静脈から腎臓と膀胱を水路のように通って引き出され、その沈殿物が尿の指標となる。第三の余剰物はさらに薄く、たいていはきわめて細い毛穴からひとりでに発散するか、体液の漿液とともに汗として運び出される。この排出は発汗剤で助けられ、前の排出は利尿剤で助けられる。

古代のギリシア人とローマ人は、この最後の滓を排出することに大いに気を配った。そのため、さまざまな遊戯や運動を行った。たとえば、朝の全身摩擦、油を塗ること、相撲、拳闘、競走、手で打つ球、網を用いる球、大きな球による球戯、そして川や人工の浴場における毎日の洗浄と入浴である。これらの便宜のため、ローマには実に多くの壮麗な建物が造られ、私たちにはそれをまねるより、驚嘆するほうが容易である。一例はディオクレティアヌスの浴場で、大部分が今も残り、私の記憶に誤りがなければ大天使たちに捧げられている。なんと高く、堂々とし、輝かしい建造物であることか。

金属を扱う術にも、前に述べたものとほぼ同じ種類の消化がある。第一は、それ固有の仕方で大年、すなわち最上の天球の一巡の中に起き、第二は最下の天球の一巡、第三は中間の天球の一巡の中に起きる。哲学者たちは、この排泄されるべき余剰の重荷を技術の助けによってより具合よく引き出すため、さまざまな方法を考案した。洗い清めること、浄化、入浴、ラコニア式の浴室などである。これらによって、医師が人間の身体に行うことを、哲学者の作業の中で実現したのである。

それゆえドゥエネクはファルートによってラコニア式の浴室へ導かれ、そこで汗をかき、第三の消化の滓を毛穴から排出する。この王の病は憂鬱性、すなわち黒胆汁性である。それゆえ他のすべての君主よりも権威と評価が低く、サトゥルヌスの気難しさと、マルスの胆汁性、すなわち怒りっぽさを非難されていた。そこで彼は、死ぬか、可能なら治療されることを望んだ。懇願と報酬に動かされ、課されたこの務めを引き受ける医師が一人見つかった。

この寓意は、ベルンハルドゥス、アラヌス、『ドゥエネクについての小論』、そのほか数えきれない哲学者の著作にきわめて頻繁に現れる。したがって、他の細部はそれらに求めるべきであり、ここでは付け加えない。ここでは、どの消化の排泄物が入浴によって引き出されるのかに注意すれば十分である。事柄全体の要点は、ここにかかっているからだ。

温泉や温浴では、身体の中に閉じ込められた熱が、血液とともに皮膚の表面へ呼び戻される。そのため顔と全身に美しい色が与えられる。その色が現れれば、皮膚を染める憂鬱性の黒さを次第に排出し、すべての体液を正し、後に最良の薔薇色の血を生み出せるしるしとなる。その身体の体質全体を改善することが必要である。それは良い血に逆らい、冷たく乾いているが、血は反対に熱く湿っているからだ。それが可能かどうかは、医師が予後の徴候によってあらかじめ知り、告げるべきである。

かつて、卑しい職人を大君主や王子と取り違え、ついには確かな徴候から、その出自と育ちの実態に気づいた人々がいた。術者は、こうならないように気をつけ、まず王の真の子を選ばなければならない。その子が黄金の飾りで輝かず、見下げられる粗末な服をまとい、さらに鉛色で憂鬱性の顔色をしていても、それゆえに退けたり、代わりに別の者を探したりしてはならない。よく洗えば、農民のもとで育ったキュロス、パリス、ロムルスと同じように、王者の本性がすぐに現れるからである。

ただし、浴室はラコニア式、すなわち蒸気を用い、汗を出させるものでなければならないと心得よ。水が王の柔らかな肉を焼いたり、毛穴を塞いだりしてはならない。それでは利益より害が大きく、王の病状は治らないであろう。入浴後に王へ着せる衣服については、誰も心配することはない。かつてアルキノオス王の娘が、難破して裸になったユリシーズに衣服を与えたように、この王にもきわめて貴い衣を送る者が現れ、太陽の息子と正しく認められるようになるからである。

サラマンダーが火の中に生きるように、石もまたそうである。

第29フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第29フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第29番。下方九度〔「または」に続く数値は欠落〕。

サラマンダーが火の中に生きるように、石もまたそうである。

逃げるアタランタ。追うヒッポメネス。留まる林檎。

注 三声の声部名。原譜では名前などを適宜略記している。

サラマンダーは燃える火の中に、それに勝る力で住み、
ウルカヌスよ、汝の脅しをものともしない。

注 この二行の歌詞は三声で反復される。音楽上の語句の繰り返しは楽譜を参照。

第XXIX番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳。

サラマンダーは激しい火の中でも、傷つかず力強く生き、
ウルカヌスよ、汝の脅しをまったく顧みない。
同じように、絶え間ない火の中に生まれた哲学者たちの石も、
炎の恐ろしい燃え上がりを軽く見る。
前者は冷たく、火を消して、傷つかずに立ち去る。
だが後者は熱い。それゆえ同じ熱の中に立つ。

サラマンダーが火の中に生きるように、石もまたそうである。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第29エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第XXIX番。自然の秘密について。

サラマンダーが火の中に生きるように、石もまたそうである。

エピグラム第XXIX番。

サラマンダーは燃える火の中に、それに勝る力で住み、
ウルカヌスよ、汝の脅しをものともしない。
同じように、絶え間ない火の中に生まれた石も、
炎の激しい燃え上がりを拒まない。
前者は冷たく、熱を消して自由に出てゆく。
だが後者は熱く、それゆえ同じ性質の熱がこれを助ける。

論説第XXIX番。

動物の住む元素は二つ、水と空気であり、いかなる生き物も生き続けられない元素も同じく二つ、土と火である。前の二つは、第一、第二の性質において、中庸で釣り合いの取れた組成を持つ。後の二つは極端であり、その物体はあまりに粗密が偏り、一方は粗大すぎ、もう一方は微細すぎる。粗大さは他の物体を受け入れず、微細さは受け入れるものの、貫き、焼いてしまう。人間が地下室や鉱坑で生きられるのは、空気がそこまで降り、その場所が空虚にならないように満たすためである。だがここでは、各元素をそれ自体として論じている。水の中には、信じがたい数、多様さ、繁殖力を持つ魚が生きており、じつにあらゆる動物の中で最大のものもそこにいる。空気の中には、人間、四足獣、鳥、這う虫、昆虫が生きる。地中の隠れた場所をさまよう霊について言われることは別である。それらは動物ではないからだ。

火の中には、サラマンダーだけが生きると言われる。サラマンダーは這う虫で、蜥蜴によく似るが、歩みは遅く、頭は大きく、色も異なる。私はアルプス、すなわちシュプリュゲ峠で、雷雨の後に岩の洞穴から出て道にとどまっていたものを見たことを覚えている。その土地の農夫が、それを「アイン・モルヒ」と呼ぶと教えてくれた。身体のまわりには、ねばりつく粘稠な湿り気があり、それによって火の中を害なく自由に通り抜ける。しかし哲学者たちのサラマンダーは、これにたとえられるとはいえ、まったく別のものである。

注 ein Molch はドイツ語で「一匹のイモリ類」。原文の火への耐性の記述は歴史的な説である。

前者は火の中で生まれるが、後者は決してそうではない。ただ火へ落ちても、自らの豊富で極度の冷たさと湿り気によって、すぐには焼けず、炎を自由に通り抜けられる。前者は熱く乾き、後者は冷たく湿っている。すべてのものは母胎の本性を反映し、あるいは生まれた場所や故郷に似るからだ。火は自分に似たものとして、熱く乾いたものしか生まない。一方、雨で満たされた湿って冷たい岩の洞穴は、この冷たく湿った虫を生み出す。前者は本性の類似によって火を喜び、後者は反対の性質によって火を消すか、しばらくの間、その力を自分から退ける。

キュプロスの銅の炉から、火の中に生まれたピュラウスタという虫が飛び出すと言われる。だが私には、これも寓意としてでなければ真実とは思えない。火は持続すれば、どの動物の身体でも破壊し、焼き尽くすからである。土さえ焼いてガラスにし、より固い木を灰にし、そのほかすべての複合物も同様にする。ただし、メルクリウス的なものなど、わずかな例外がある。それらは、その内部で部分が分離することなく、全体のまま残るか、全体のまま火から飛び去る。

ウルカヌスはきわめて厳格な処刑人であり、元素から混じり合ってできたものすべてを、自らの審査と裁判へ呼び出す。ただし、女帝である自然の特権や恩許によって、その法廷から免除されたかのような、いくつかのものを除く。それらに対しては、他のアレオパゴスの裁判官たちを加えなければ、彼一人では何の権限も持たない。それらは彼の暴力に対してサラマンダーであり、その暴力を恐れない。

アヴィセンナは『門』において、物体のさまざまな気質を列挙する。それらはすべて不均衡であり、したがって火やその他の損傷によって壊れうる。しかし彼は、きわめてよく均衡したものを一つ伝える。それは熱と冷、乾と湿をそれぞれ同じだけ持つ。ただし医師たちの言い方に従えば、重量によってではなく、適正な釣り合いによってである。これこそ、作用するよりも作用を受けることの多いものである。その中で、火が自らに敵対する水を、自らに親しい空気へ解き放とうとしても、土は水と一体になっているため、この分解を許さない。そして複合物の内部の火も、土の親友であるため、土のこの判決に賛成票を投じる。

そこでウルカヌスの裁判は止まる。彼はさらに別の抜け道を使い、いつものように土を焼いて灰にしようとする。だが土に付着する水は抗弁を提出し、自分は土に、空気は自分に、そして反対側では火が土に結びついていると示す。それゆえ土を灰にしようとする者は、ほかの元素も灰にしなければならない。こうして出し抜かれたウルカヌスは、皆の笑いものにならないよう、自らの裁判を中止する。この物体は最も真のサラマンダーに似ており、その中では諸元素が力の天秤の上で釣り合っている。

これについて『薔薇園』の著者はゲベルから引いて言う。「また、この哲学者は、メルクリウスのこの実体が殺されることを求める。しかし、そのメルクリウスは、万人に明らかなように、あの尊ぶべき石の中に自然に存在する。ゆえに、以下同様。また、この哲学者は、メルクリウスのこの実体が固定されることを求める。それは、多くの注意と工夫を伴う固定の方法を教えていることから明らかである。だが、この貴石の実体が最も強固に固定されていることを、誰が疑うだろうか。それを知る者で疑う者は、確かにいない」。ここから明らかなのは、固定によって石をサラマンダーの本性へ、すなわち火を避けず、拒みもしない最高の固定性へ至らせなければならないということである。火にきわめて忍耐強く耐えることを学ぶ前には、サラマンダーにはなれず、それには長い時間が必要である。

注 原文中の「Ergo &c.(ゆえに、以下同様)」は著者自身の省略表記。翻訳側で省略したものではない。

夜の間、火の熾きの下に置かれ、ついには非常に激しい熱に耐えられるようになったアキレウスとトリプトレモスについては、後のエンブレム第三十五番の論説で述べる。彼らもまた、習慣と慣れによってサラマンダーの性質を得たのである。習慣は第二の自然である。しかし自然がその能力を分け与え、いわば教師として変化を始めていなければ、習慣は何も、あるいはほとんど何も成し遂げられない。そのため、氷を火に対して固定することは不可能だが、水晶なら可能である。自然がこの固定をすでに始めているからだ。同じように、水性で揮発性のメルクリウスも、それ自身の本性では固定できず、夫となった硫黄の抱擁によってのみ固定できる、と考えなければならない。この硫黄が哲学者たちのティンクトゥラであり、あらゆる飛翔する霊を固定する。

雄鶏が雌鶏を必要とするように、太陽は月を必要とする。

第30フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第30フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第30番。下方七度、または十四度。

雄鶏が雌鶏を必要とするように、太陽は月を必要とする。

逃げるアタランタ。追うヒッポメネス。留まる林檎。

注 三声の声部名。原譜では名前などを適宜略記している。

太陽よ、私が力を添えなければ、あなた独りでは何もできない。
雌鶏の助けなしには、雄鶏が役に立たないように。

注 この二行の歌詞は三声で反復される。音楽上の語句の繰り返しは楽譜を参照。

第XXX番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳。

太陽よ、私が力を働かせなければ、あなた独りでは何も成し遂げられない。
雌鶏なしに雄鶏を飼ってもむだであるように。
そして私、月もまた、そばにいてくれるあなたの助けを求める。
雌鶏もまた雄鶏を強く求めるように。
自然が一つに結び合わせようとするものを、
恥じることなく引き離す者たちは、賢くない。

雄鶏が雌鶏を必要とするように、太陽は月を必要とする。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第30エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第XXX番。自然の秘密について。

雄鶏が雌鶏を必要とするように、太陽は月を必要とする。

エピグラム第XXX番。

太陽よ、私が力を添えなければ、あなた独りでは何もできない。
雌鶏の助けなしには、雄鶏が役に立たないように。
そして私、月もまた、あなたの即座の助けを求める。
雌鶏が雄鶏を求めるように。
自然が一つに結ばれることを強く求めるものの、
その絆を解こうとする者は、思慮を欠いている。

論説第XXX番。

アヴィセンナは『魂について』で何度か、雄鶏が寄り添った雌鶏の卵でなければ、この術に用いてはならないと注意している。すなわち男性の力なしには女性の対象は何の効力もなく、逆に雌鶏なしには雄鶏も役に立たないということである。増殖が起きるには、この二つの性が哲学者たちの庭で結びつかなければならない。哲学者たちが雄鶏から取った類比を用いるのは、他の鳥の雄よりも、とりわけこれが硫黄の力に対応するからである。一羽が多くの雌鶏を支配でき、自分は一羽一羽に対して十分な力があると考え、同じ糞山に競争相手がいることを容易には許さない。

雄鶏はマルスの鳥である。詩人たちの物語によれば、マルスとウェヌスの姦通を太陽に見られないよう、太陽を見張るべきだった少年ガルルスが姿を変えられたものだからである。また闘いではきわめてマルス的で、敵と死ぬまで争う。哲学者たちの作業では、雄鶏は太陽を表し、雌鶏は月を表す。それゆえ太陽と月を結びつける必要は、雄鶏と雌鶏を結びつける必要と同じである。雄鶏は太陽に捧げられてもいる。太陽が来れば起き上がり、太陽とともに眠りにつく。しばしば空を仰ぎ、鎌のような尾羽を高く持ち上げ、雌鶏を守って蛇と戦う。光の使者であり、ラトナの出産に立ち会ったため、彼女に愛される。ラトナは太陽と月を生んだので、雄鶏は母と息子の両方へ割り当てられる。しかし太陽、月、ラトナは錬金術的対象に対応し、雄鶏と雌鶏も同じである。

この雄鶏と雌鶏もまた卵から生まれ、再び、雛へ孵るべき卵を残す。同じように哲学者たちにも、同じ種類の鳥へ変わる固有の卵がある。ただし、卵を抱く雌鶏の、絶え間なく続く熱のような、適度な熱で温められることが条件である。他の鳥では雄も卵の上に座るのに、雄鶏だけは、この務め、あるいは負担から免れているかのように振る舞う。そのため卵を孵し、雛を育てる配慮と労苦は、すべて雌鶏にかかる。

ここに雌鶏の勤勉さと熱心さを見ることができる。どれほど急いで食べ、飲み、排泄し、卵が冷えないうちにすぐ戻ることか。さらに、どれほどの力と勢いで雛を守り、どれほどの優しさで羽のない雛を翼の下に迎えて覆い、どれほどの声を鐘のように響かせて呼び集め、まとめておくことか。また、どれほど熱心に硬い屑や穀粒を砕き、嘴を小刀のように使って雛へ与えることか。これは驚嘆に値する自然の働きである。そしてこれらすべては、人間の食物として卵や鶏の子が欠けないためなのである。

同じように哲学者、すなわち術者も、あらゆる操作において、きわめて入念に、先を見越して進む。雄鶏のいた場所から卵を探し集め、風卵でないかを調べ、次に清め、調製し、巣のような容器へ置き、適切な熱を与える。その熱によって、混ぜ合わされた対象は日ごとに互いに作用し、作用を受ける。そして長い時間の後、さまざまな色を経て、一つの色と本質へ到達するまで続く。

注 風卵は雄の関与なしにできた卵を意味する歴史的用語。

この作業では、溶解、凝固、昇華、上昇、下降、蒸留、焼成、固定が、中間の工程として遂行される。硬く密に結合したものは変化できないので、まず溶解を行い、液状にして柔らかくする。溶けたものは、次に凝固するのが適切である。ただし以前の硬さへではなく、蜜のような扱いやすさへと凝固する。一方、昇華は純粋なものを不純なものから分け、卑しいものをより尊く、低いものをより高くする。したがって昇華も欠かせず、むしろすべての女主人、教師のようなものである。昇華が行われると、一部は高く昇る。これが上昇であり、他の部分は再び降りて、下降が起きる。次に蒸留を幾度も差し挟むことで全体が澄み、底に残ったものは焼成される。この両方が固定され、こうして作業は完成する。

これらすべての個別操作を、総称である「煮ること」の下へまとめても、目的から大きく外れることはない。あちらこちらへ散って走る雛たちが、みな一羽の母、あるいは乳母である雌鶏の下へ集まるように、これほどさまざまな操作の道筋や方法も、女の仕事、すなわち煮ることへ一緒に集まるのである。太陽の高みへ引き上げられるべきものは月であり、これらすべては月のために行われる。すなわち太陽と月の永続する婚姻が目指される。それが成れば、あらゆる使節の派遣、婚約、結合、ためらいが終わり、両者は一つの寝床、一つの肉となり、相互の変わらぬ愛、永遠の平和、解けない盟約が生まれる。

月なしの太陽は大して評価されず、太陽なしの月は卑しい身分、低い出自のものである。だが月は夫である太陽から、輝き、尊厳、力、すなわち心身の堅固さを受け取り、太陽は月から子孫の増殖と種族の繁栄を受け取る。これについて『薔薇園』の著者は言う。「私たちの石の中に、そのどちらか一方しかなければ、医薬は決して容易に流れず、ティンクトゥラも与えないであろう。もし与えても、他方が存在する分だけしか染めないであろうし、メルクリウスは煙となって飛び去るであろう。その中にティンクトゥラを受け入れる器がないからである」。またゲベルは『試験の書』で、太陽と月が技術によって一緒に一体化されれば、容易には分離されないことを示している。

海を泳ぐ王が、大声で叫ぶ。「私を救い出す者は、大いなる報酬を得るであろう」

第31フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第31フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第31番。上方4度

海を泳ぐ王が、大声で叫ぶ。「私を救う者は、大いなる贈り物を受けるであろう」

逃げるアタランタ

追うヒッポメネス

足をとどめる林檎

冠の重みに頭を押される王が、広大な海を
泳ぎ、大声を上げて言う。

注 三声部で繰り返される同じ歌詞をここに一度訳出。音符の配置に伴う音節分割・語句反復は楽譜画像を参照。

第31番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳

金の冠で頭がひどく重くなった王は、
深い海を泳ぎながら、こう声を張り上げる。
「なぜ私を助けぬのか。なぜ皆、走り寄ってこないのか。
水難から救い出されれば、私は褒美を与えられるのに。
知恵があるなら、私をわが王国へ連れ帰れ。そうすれば、いついかなる時も、
貧困や辛い肉体の病が、お前たちを苦しめることはない」

海を泳ぐ王が、大声で叫ぶ。「私を救い出す者は、大いなる報酬を得るであろう」 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第31エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

論説第31番

注 この図版ページの見出しは原本では Emblema でなく Discursus と印刷されている。

海を泳ぐ王が、大声で叫ぶ。「私を救い出す者は、大いなる報酬を得るであろう」

エピグラム第31番

冠の重みに頭を押される王が、広大な海を
泳ぎ、大声を上げて言う。
「なぜ助けを差し伸べぬ。なぜ皆、駆けつけてこない。
水から救われれば、お前たちを幸せにできるかもしれぬのに。
知恵があるなら、私をわが王国へ連れ帰れ。そうすれば、
貧困も、いかなる肉体の病も、お前たちを圧迫しない」

論説第31番

古来、あらゆる教育の初歩は、泳ぐ技術と読み書きの教えであった。それゆえ、粗野で無教養な人については「泳ぐことも文字も知らぬ」と言いならわされた。古人は、水泳がしばしば身体を救い、水の危険から逃れさせるのに役立ち、学問の知識は精神を運命の波から救うと考えたのである。また、水泳は戦時にはとりわけ軍務に役立ち、学問は平時の家庭生活に役立った。動物には、自然の備えた武器がすぐ使える状態である。一方、人間には、外からの暴力に対抗するため、その代わりに手と知性が授けられ、知性が武器を考案し発明し、手がそれを作って用いる。同様に、これらの動物には泳ぐ能力が生まれつき備わるが、人間にはまったく備わらない。動物は幼い時でさえ、水泳によって水から逃れることが多いが、同じ水で人間は、年長者でも最も頑健な者でも溺れる。そこで、自然によって欠けるところを技術の使用で補うため、子供たちに水泳の練習を課す必要があった。それは誰の生命にも常にこの上なく役立つ。大貴族、諸侯、王たちも、身を守るため同じ練習をした。身分の異なるところに生まれたからといって、運命の偶発事からまったく自由なのではなく、ほかの人間と同じくそれにさらされているからである。

もしディオニュシウスが泳ぐことも学問も知らなかったなら、僭主としてシチリアの王国を追われた際、コリント湾で難破し、海の波の中で死んでいただろう。しかし、泳いで危険を免れ、コリントへ赴いた。そこで少年たちを教える学校を開き、人文学を教授し、王から学校教師となって、王笏の代わりに鞭を持った。「コリントのディオニュシウス」という諺はここから生まれた。同じように、哲学者たちの王子が泳げなければ、とうに水に沈んでいた彼の叫びを聞く者も、救援する者もなかっただろう。ゆえに水泳は、いかなる身分の人にも必要で、極めて有益である。広大な海の波からすぐに解放してはくれなくても、他者に救われるまでの生存時間を与えてくれるからだ。さて、先に述べた王は、非常に長く身を保ち、今なお叫んでいる。しかし海の広さと王の遠さのため、聞きつけ、あるいは目にする者はごくわずかである。おそらく泳いで非常に大きな岩、すなわち石に達し、波の勢いが勝る時には、そこで身を支えているのであろう。

だが、その海はどのような海なのかと問われる。私は答える。北回帰線の下にある、エリュトラ海、すなわち紅海である。その底には磁石が極めて豊富にあるため、鉄で組み立てられた船や鉄を積んだ船が通るのは安全ではない。磁石の力で、たやすく底へ引き寄せられるからだ。先の王はそれを知らず、船が沈んでほかの者たちが死んだ時、ただ一人、泳いで逃れた。彼には立派な紅玉の輝く冠が残った。その冠によって容易に王と認められ、自分の王国へ連れ帰ってもらえるのである。

では、この王子は、自分を固有の王国へ連れ帰った者に、どのような善きものを分け与えることができ、また与えようとするのか。もちろん、エジプト最後の王プトレマイオスが、その父をエジプト王位に復帰させたポンペイウスに与えたような、裏切りと死ではない。健康、病の除去、病からの生命の保全、必要な物の使用と豊饒の角、名誉と愛を与えるのである。これらは平凡でも中程度でもなく、この生における最高の糧と飾りである。鉛のように鈍い者でもなければ、誰がそれを望まずにいられよう。誰が王に向かって泳がず、手を差し伸べて小舟へ引き上げずにいられよう。ただし、王を助ける間に冠を海へ落とさないよう注意しなければならない。その場合、彼はもはやほとんど王と認められず、臣下にも迎えられまい。すべての者の崇敬するピュロプスが失われ、すべての者に健康を約束するベゾアールの石が消えてしまうからである。そこで『薔薇園』はアリストテレスの次の言葉を引用する。「王たちが王冠においてそれゆえに尊ばれ、医師たちが病人を治療するのに用いるものを、汝の石として選べ。それは火に近しいからである」。治療の効力がなければ、冠はまったく価値を持たない。

では、救われた王に何をしてやるべきか。飲み込んだ水からは発汗を促すものによって、冷えからは火の熱によって、手足の麻痺からは適度に温かい浴によって、飢えと絶食からは適切な食養生を施すことによって解放しなければならない。ほかの外的な害からは、それぞれに反対する、健康に役立つ治療によって解放する。その後、王にふさわしい婚姻を整えねばならない。時が来ると、そこから、最も望まれ、すべての者に最も愛され、最も美しく豊かな生殖力を持つ子が生まれる。この子は、権力、王国、領土、人民、富、財力において、すべての祖先を凌駕し、敵を従える。戦争によってではなく人間愛によって、暴政によってではなく、彼に生まれつき固有の慈悲によってである。

珊瑚が水の下で成長し、空気の中で固まるように、石もまたそうである

第32フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第32フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第32番。上方5度

珊瑚が水の下で育ち、空気によって固くなるように、石もまたそうである

逃げるアタランタ

追うヒッポメネス

足をとどめる林檎

シチリアの海の波の下で育つ湿った植物が、
ぬるい水の下に枝を殖やした。

注 三声部で繰り返される同じ歌詞をここに一度訳出。音符の配置に伴う音節分割・語句反復は楽譜画像を参照。

第32番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳

シチリアから遠からぬ海で育つ湿った植物が、
温かい水の下に、美しく小枝を広げた。
その名は珊瑚。たちまち固いものに変わる、
寒い国々から乾いた風が吹けば。
それは石となり、赤い色と多くの枝を保つ。
これこそ、自然の石にふさわしい実例である。

珊瑚が水の下で成長し、空気の中で固まるように、石もまたそうである 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第32エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第32番。自然の秘密について

珊瑚が水の下で成長し、空気の中で固まるように、石もまたそうである

エピグラム第32番

シチリアの海の波の下で育つ湿った植物が、
ぬるい水の下に枝を殖やした。
その植物は珊瑚と名づけられ、いっそう固くなる、
北風が凍てつく天極から霜を送り出すと。
それは石となり、多くの枝葉とともに赤い色を
保つ。これは自然の石にふさわしい象徴である。

注 第5行の原本は fronte と印刷される。文脈から fronde(枝葉を伴って)に相当すると解して訳した。

論説第32番

哲学者たちは自分たちの石を植物的と呼ぶ。植物のように生い立ち、成長し、大きくなり、殖えるからである。事情を知らぬ者には、これは驚くべき、真理から外れたことに見える。石はこのように生い立ちも成長もせず、溶融する金属とも何の関係もないのは明らかだと考えるからだ。しかし、その判断は誤っている。自分たちの理解力を尺度として宇宙の広大さを測り、自分たちの知らないものは自然界に存在しないと思い込むからである。石が水中で育つことや、水中に生まれた植物が石になることを、経験と著者たちの一貫した証言が裏づけなければ、誰が信じただろう。珊瑚を固め、染める石化の力、着色の力はどこにあるのか。水中か、空中か、地中か。彼らが主張するように、水中にある間、その植物が柔らかく、曲げられるものであることは、もっともらしい。しかし、その本性は極めて土的である。切り取って冷たい風にさらすと、固まり、石のように折れる性質を得る。冷たく乾いた空気が余分な水の部分を乾燥させるからだ。北風は吹くことで乾燥をもたらす。そして残る土的な身体は、土の性質である冷たさと乾燥によって凝固する。各々に固有で本来の力を考えるなら、収縮は土にのみ属し、水にも空気にも属さないのである。

さらに海は、別の土地では三つの薬用の石を与える。それらは一部は植物の類から、一部は動物の類から、あるいはむしろ一部は自然の秘密から取り出されたもので、真珠、琥珀、灰色アンブラである。真珠の産出と採取は私たちに知られているが、ほかの二つはそうではない。琥珀はスダウィアの海辺、岸において、キルキウスすなわちコルスという風が激しく吹いた後に集められる。疑いなく、地の鉱脈から海へ湧き出すか、水によって洗い出され、波に押されて岸へ来るのである。というのも、私たちは鉄や銀の鉱物が琥珀に付着しているのを見たが、それは地中でなければ起こりえない。ところで、ある小片の中には、蠅、蚊、蜘蛛、蝶、蛙、蛇が見える。私たちも琥珀を旋盤で丸くした玉を120個持っていたが、それぞれ蠅、蚊、蜘蛛、蝶を幾つか含み、ある一片には九つもあった。これは自然の特別な驚異にほかならない。こうなるのは、別の箇所で示したように、天の流出と形成的な想像力による。

注 自然史の説明は著者の時代の見解をそのまま訳出している。灰色アンブラ等の歴史的呼称から現代物質の同定を断定していない。

灰色アンブラも同様に東インドと西インドの岸で見つかることは、否定できない。これを、先に述べた琥珀と同じく、樹液ないし樹脂に属するものとする人もいるが、地の鉱脈から出ると考える者の判断のほうがもっともらしい。アンブラや琥珀を産む木は、どこにも見られないからだ。もしそうした木があるなら、水の外の日当たりのよい場所で生育することは間違いない。そこで私たちは、両方のアンブラを地下の鉱脈すなわち石に属させる。真珠を動植虫に、珊瑚を植物に属させるのと同じである。

哲学者たちの石は、これらの石、とりわけ珊瑚に似ている。珊瑚が水の中で成長し、土から養分を取るように、哲学の石もメルクリウス的な水から成長し、その中の土的なものをすべて、自身を大きくするために取り込み、余分な湿りは蒸発する。また、凝結によってその赤い色は強まる。近頃の著者たちはそれを珊瑚のティンクトゥラと呼ぶが、自然の石に起こるのと変わりはない。その石は最後の凝固で赤くなり、極めて赤い珊瑚のように見える。これがティンクトゥラである。しかし、珊瑚が冷たさと乾燥で固くなるのに対して、石は熱と乾燥で固くなり、熱を強めると同じように溶ける。これはほかの石の本性と異なる。ほかの石は溶けてもガラスになるが、この石には決してそうしたことが起こらない。

珊瑚がさまざまな大きな効力のある薬に調製されるように、哲学者たちの珊瑚は、あらゆる草の力を自身に移し取っている。それ一つだけで、すべての植物から作られるすべての薬と同じだけの力を持つ。植物に薬効と治療の力を注ぐ天の太陽が、この自分の息子、地上の代理者に、ほかのすべてより多くを授けたからである。これが、植物的、動物的、鉱物的である哲学的珊瑚である。それは広大な海に隠れ、無知な人の目の前に出され、手に渡されるのでなければ、認められない。ただし、水中で極めて慎重に切り取らなければならない。さもないと汁と血を失い、真の形を欠く土的な混沌しか残らなくなる。珊瑚を採る難しさはすべてこの点にあり、それ以外の難しさはほとんどない。私が言っているのは余分な湿りである。それは分離されなければ石を殺し、珊瑚の赤さが現れるのを許さず、存在するかぎり凝結を認めないのである。

死人に似て暗闇に横たわるヘルマプロディトスは、火を必要とする

第33フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第33フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第33番。下方5度

暗闇の中に死人のように横たわるヘルマプロディトスは、火を必要とする

逃げるアタランタ

追うヒッポメネス

足をとどめる林檎

見よ、二つの頭と二つの性を持つ彼は、死骸のように
見える。湿りを失った後だからだ。

注 三声部で繰り返される同じ歌詞をここに一度訳出。音符の配置に伴う音節分割・語句反復は楽譜画像を参照。

第33番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳

二つの頭を持つヘルマプロディトスは、死んだ人に似ている、
湿りを奪われたために、大きな苦痛を被る時には。
彼が暗い夜に身を隠すなら、もっと火を与えねばならない。
そうすれば、直ちに彼の生命は戻ってくる。
石の力はすべて火にあり、赤い硫黄はすべて金の中にある。
そして白いメルクリウスは、ただ銀から出て来る。

注 第1行末に属する Todt(死んだ)が第2行末に (Todt と回し組みされている。日本語では通常の語順に戻して訳した。

死人に似て暗闇に横たわるヘルマプロディトスは、火を必要とする 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第33エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第33番。自然の秘密について

死人に似て暗闇に横たわるヘルマプロディトスは、火を必要とする

エピグラム第33番

見よ、二つの頭と二つの性を持つ彼は、死骸のように
見える。湿りを失った後だからだ。
暗い夜に隠されているなら、火を必要とする。
火を彼に与えれば、すぐに生命は戻る。
石の力はすべて火のうちに、硫黄の力はすべて金のうちに
隠され、メルクリウスの力は銀のうちにある。

論説第33番

冬が迫ると、蛙と燕は水に沈んで死んだように横たわり、新しい春には太陽の熱の作用で感覚と運動を取り戻し、感覚的生命の活動を行う。これは自然の秘密の一つである。だが、真冬でも、水中で見つかったものを温かい空気や暖房室へ運ぶと、夏と同じように、すぐ動き始める。ここから、彼らに欠けているのは、内部に閉じ込められた自然の熱を呼び起こし、活動させる外部の熱だけだとわかる。同じように哲学者たちは、自分たちのヘルマプロディトスについて言う。暗闇に横たわって死んだように見えるなら、彼は火の熱を必要とする、と。暗闇に横たわるというのは、陰鬱で極めて寒い冬の夜の間に放置される、すなわち冷たさの徴である黒さの中にとどまることである。そこから火の強さを増して白さへ導き、さらに増して赤さへ導かねばならない。ボディルスが『群衆』で言うように、熱なしには何も生じない。熱の強すぎる浴は滅ぼし、冷たければ逃走させるが、適度であれば身体に適合し、快いものになる。

注 燕の越冬に関する記述などは著者の歴史的自然観であり、現代の生物学的説明ではない。

同じ書でボネルスは言う。「生きているものはすべて、神がそう望まれるならば、死ぬこともある。ゆえに、湿りを奪われたその自然は、幾夜も放置されると死人のように見える。その時、この自然は火を必要とし、その身体と霊が土へ変わるまでそうである。その時、それは自分の墓にある死人のような粉となる。これらが終わると、神はそれに霊と魂を返され、あらゆる弱さが除かれて、私たちの自然は強められ、改良される。したがって、そのものを恐れずに焼かなければならない」、等々。こうして、ほかのすべてを壊す火が、これを組み立てる。ほかのものには死を与えるものが、これには生命を与える。火によって修復され、炎によって新たになり、灰の中から蘇って出て来る不死鳥は、ただ一つである。哲学者だけが知るこの不死鳥こそ、焼かれ、生命へ呼び戻される。ほかの者たちが、どこにも存在せず、物語の中でしか見られない、何やら飛ぶ鳥について、どのような夢想をしようとも。

哲学者たちの語るヘルマプロディトスは、男性と女性の混合した自然を持ち、熱が作用すると一方が他方へ移る。すなわち女性から男性になる。哲学者たちの作業において、これはさほど不思議と思うべきではない。歴史の記述を信じるなら、性を変えた者は非常に多かったと見出されるからだ。詩人たちはカイネウス、イピス、テイレシアスに言及している。たとえばポンタヌスは『星について』において言う。

それでも自分の性を悔やんで、カイネウスになることを望むか、
あるいは完全に女性の姿へ変わりたいと望む。

また、アウソニウスは言う。

もとの姿に戻されたカイネウスは嘆く。

このように、リキニウス・クラッススとガイウス・カッシウス・ロンギヌスが執政官だった時、カッシヌムで少女が少年になった。またプリニウスによれば、リキニウス・ムティアヌスは、アルゴスでアリストンを見たと伝える。この人は以前アリストゥサという名で、結婚もしていたが、その後ほどなく髭と男性器が生じ、妻を娶ったという。プリニウス自身も、アフリカでティスドルム市民ルキウス・コッシキウスが婚礼の日に男性へ変わったのを見たと言う。必要なら、これらが真実であることは、ほかの多くの例によっても裏づけられよう。熱が増したために生殖器、すなわち男性器が身体の外へ突き出したのであることは、確かである。

注 性の変化の説明は著者の歴史的医学観を訳出したものであり、現代の医学的説明ではない。

医師たちが言うように、女性は男性よりはるかに冷たく、男性が外に持つものを内に隠している。それゆえ自然が男性と女性のどちらを生み出すべきか定めかねると、内部では男性を企図していても、外部には女性を表したのである。そこから、成長に伴って熱が増し、運動も加わると、隠された器官が突き出して、万人の目に見えるように姿を現した。同じように、哲学者たちのもとでは、熱を強めると女性が男性になる。つまりヘルマプロディトスは女性の性を失い、強く厳格な男性となって、女性的な柔弱さや軽薄さを自身にいささかも持たなくなる。このように、かの有名なボローニャの医師ガスパーレ・タリアコッツィが、巧みな外科術によって、両性を備えた貴族の少年を、完全な男性に変えた、というより完成へ進めたのを、私たちはかつて見た。子を生む能力も備わると期待された。その陰茎に、それまで欠けていた新しい穴を作り、下方の女性のものに似た穴を塞いだのである。

哲学者たちは、このような手作業をいっさい必要としない。月の冷たさと湿りがあれば女性と呼び、太陽の熱と乾燥があれば男性と呼ぶ。四つの性質がすべて同時にあれば、レビスまたはヘルマプロディトスと呼ぶ。したがって女性の転換、すなわち冷たさと湿りが男性へ変わることは容易に起こりうる。それは述べたように、火の熱だけで生じる。熱は余分な湿りをより分け、分離し、自らの形相を哲学的な基体の中に定めるからである。この形相こそティンクトゥラである。

彼は浴の中で受胎され、空気の中で生まれ、赤くなると水の上を歩く

第34フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第34フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第34番。下方8度

彼は水浴の中で受胎され、空気の中で生まれ、赤くなると水の上を歩く

逃げるアタランタ

追うヒッポメネス

足をとどめる林檎

浴は少年の受胎で、空気はその誕生で
輝く。そこから赤くなった彼は、足下に水を見る。

注 三声部で繰り返される同じ歌詞をここに一度訳出。音符の配置に伴う音節分割・語句反復は楽譜画像を参照。

第34番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳

彼の受胎は水浴の中で起こったが、空中で
彼は生まれ、赤くなって水の深みの上を行く。
彼はまた山々の頂で白くなる。賢者たちにとって、彼こそ
唯一の、好ましい心の喜びなのである。
それは石であり、石ではない。この天上の気高い賜物を、
神の贈り物として得る者は幸福である。

彼は浴の中で受胎され、空気の中で生まれ、赤くなると水の上を歩く 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第34エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第34番。自然の秘密について

彼は浴の中で受胎され、空気の中で生まれ、赤くなると水の上を歩く

エピグラム第34番

浴は少年の受胎で、空気はその誕生で
輝く。そこから赤くなった彼は、足下に水を見る。
彼は山々の頂で白くなる。
学識ある人々の唯一の関心であり続ける彼は。
石であって石ではない、この天の気高い賜物を、
神の授けによって得る者は、幸福になるであろう。

論説第34番

人々の思い込みや追従は、ある者たちに、ほかの者に勝る驚くべき、しかし確かに作り話の出生を与えた。たとえばアレクサンドロス大王はマケドニア王フィリッポスからではなく、ユピテル・アンモンから生まれたとされ、ロムルスとレムスはマルスから、プラトンはアポロの幻影に犯された処女ペリクティオネから生まれたとされた。このように異教徒は、自分たちが神々から出たと示そうとした。医師ヒポクラテスの息子テッサロスも、ほかのこととともに、自分の起源がアポロに遡るとアテナイ人を説得しようとしている。しかし私たちは、こうしたことを信じない。彼らが血統の起源に置く者たちは、人間としても神としても存在しなかったと知っているからである。たとえ死すべき人々の間に、いわば神のような英雄がいたとしても、これらの話は、臣下、弟子、その他、彼らの行いをすべて偉大なものとして世に売り込む者の追従から捏造され、偽りの書物によって民衆の考えの中へ染み込ませられたのだと、私たちは認める。

哲学者たちが自分たちの息子に、普通でない受胎と出生を帰すのは、これとは別のことである。この息子は、世に生まれたほかのすべてのものに勝る特性を持つ。受胎が浴の中で起こり、誕生が空気の中で起こるからだ。冷たさと乾燥が過度であるため不妊の女性は、温浴によって大いに助けられ、受胎できる状態に整えられることを、私たちは知っている。しかし、受胎そのものが浴の中で起こらなければならないとか、実際に起こったというのは、聞いたことがない。この息子だけにそれがあてはまるらしいのは、ほかと大きく異なる驚くべき自然の力によるのである。別の箇所で彼らは、その受胎は器の底で、誕生は蒸留頭で起こると言う。この表現のほうが、いっそう明瞭である。浴の水があるなら、それは器の上部でも中部でもなく底にあり、蒸留頭には空気のような蒸気があるからだ。それゆえ受胎が起こると、彼は蒸留頭へ上り、白い色のうちに誕生する。

底では黒さが支配する。それについて『薔薇園』は言う。「受胎とは、土が黒い粉へ溶解され、メルクリウスを幾らか保ち始める時である。その時、男性は女性へ、すなわちアゾートは土へ作用するからだ」。また少し後で言う。「受胎と婚約は、器の底の腐敗の中で起こり、生まれるものの生成は、空気の中、すなわち器の頭部、つまり蒸留頭で起こる」。浴の中の受胎とは、糞の中の腐敗にほかならない。同じ『薔薇園』は次のように続ける。「身体は腐敗しないかぎり何もせず、メルクリウスとともにあるのでなければ腐敗できない」。そしてすぐ後にはこうある。「腐敗は温かく湿った糞の極めて緩慢な火によって生じさせ、ほかの火によっては決して生じさせないこと。何も上昇しないようにする。何かが上昇すれば諸部分の分離が起こるが、男性と女性が完全に結合し、一方が他方を受け入れるまでは、それが起こってはならない。その徴は、完全な溶解による表面の黒さである」。

注 原文の「in in」は重複印刷のまま記録し、日本語では通常の構文として訳した。

彼の誕生は白く、山々の頂、すなわち空気の中、あるいは蒸留頭の中で起こる。ロシヌスはエウティキアに向けて、これを次のように説明する。「賢者は言った。それぞれの鉱床から物を取り、それらをより高い場所へ上げ、それらの山の頂から送り出し、それらの根へ戻せ」。また後にはこうある。「山々によって彼が意味したのは蒸留釜であり、山々の頂によって意味したのは蒸留頭である。この比喩に従って送り出すとは、その水を蒸留頭を通して受器に受けることだ。根の上へ戻すとは、それらが出てきたものの上へ戻すことである。彼が蒸留釜を山と呼んだのは、山の中で太陽と月が見つかるからだ。同じように、この山々、すなわち蒸留釜の中でも、彼らの太陽と月が生じる」。以上が彼の言葉である。

その後、彼は赤くなり、水の上を歩き始める。すなわち、火の中で溶かされ、メルクリウス的な水のようになっている金属の上を歩くのである。彼は水の支配者であり、ネプトゥヌスのように水の上へ権力を及ぼし、海の王であり山々の所有者だからだ。ペルシア王クセルクセスについて、ギリシアへ遠征しようとした時、海とアトス山へ使節を派遣し、海は波の勢いで、山は炎の勢いで、自分を害さないよう申し渡し、さもなければ両方を罰すると伝えたという。しかしこれは耳の聞こえぬ者に語った話であった。海は彼の船を何隻か沈め、アトスは火によって少なからぬ船を失わせた。それで王は怒り、あたかも海と山々の支配者であるかのように、海を定まった回数だけ打たせ、山の大部分を海へ投げ込んだ。だがこれは、それほどの王の思慮深さよりも無謀さを示している。私たちが論じている者は、布告によってではなく実行によって、すべての水から障害と汚れを取り除き、その上を自由に歩く。そればかりか、さらに大きなことに、水を凝固させる。以前は船を浮かべていた水が、今度はその固さで車を支えるようにするのである。彼は山々を谷と同じ高さにし、火の炎を恐れない。それゆえ望む所へ、ヘラクレスの柱から、インドの最果ての岸にあるディオニュソスの柱まで、自由に進む。

ケレスがトリプトレモスを、テティスがアキレウスを、火の下にとどまることに慣らしたように、術者も石を慣らす

第35フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第35フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第35番。上方7度

ケレスがトリプトレモスを、テティスがアキレウスを、火の下で耐えることに慣らしたように、術者は石を慣らすべきである

逃げるアタランタ

追うヒッポメネス

足をとどめる林檎

トリプトレモスと、戦場で屈強なアキレウスを見よ。
母の教えによって、いかに激しい熱に耐えることを学んだか。

注 三声部で繰り返される同じ歌詞をここに一度訳出。音符の配置に伴う音節分割・語句反復は楽譜画像を参照。

第35番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳

トリプトレモスと、戦いに勇敢なアキレウスを見よ。
母によって、いかに熱に耐える備えをさせられたか。
前者をケレスが、後者をテティスが、火の中で鍛えた、
夜の間に。そして昼には乳を与え、よく世話をした。
賢者たちの薬も、同じように扱わなければならない。
母の胸にいる子供のように、火によって養われねばならない。

ケレスがトリプトレモスを、テティスがアキレウスを、火の下にとどまることに慣らしたように、術者も石を慣らす 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第35エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第35番。自然の秘密について

ケレスがトリプトレモスを、テティスがアキレウスを、火の下にとどまることに慣らしたように、術者も石を慣らす

エピグラム第35番

トリプトレモスと、戦場で屈強なアキレウスを見よ。
母の教えによって、いかに激しい熱に耐えることを学んだか。
前者を女神ケレスが、後者をテティスが、夜には
火の中で鍛え、昼には乳に満ちた胸を差し出した。
賢者たちの祝福された薬も、同じように、
乳房に向かう子供と同じように慣れ、火を享受できるようになるべきである。

論説第35番

かのスパルタ人の立法者リュクルゴスは、習慣、および善くも悪くもある慣行がどれほどの力を持つかを、劇場の集会で、人々に目で見える例によって示した。一度の出産で生まれた二匹の子犬を連れて来て、中央に粥を満たした壺と野兎を置いたのである。一匹は食べ物と兎を見ると、食べ物を捨てて兎を追った。そうすることに慣れていたからだ。もう一匹は兎を無視して壺を空にした。こちらもそうすることに慣れていたからである。それが終わると彼は言った。「見よ。自然が等しく、極めて似たものとして生んだ者においてさえ、教育と幼い時からの慣れが、これほどの力を持つのを、ここで見るであろう」。したがって、この方法で自然を改善し、あるいはより善いものへ導くのが適当である。自然は蝋のようで、悪徳にも徳にも容易に曲げられるからだ。彼が政治の事柄で真実と示したことは、自然の事柄でも同じであると、哲学者たちも認めている。

人間と動物において習慣がどれほど力を持つかは、世界中に日々の実例が見られる。植物にも少なからぬ例がある。しかし鉱物と金属にも同じものが認められるというのは、より稀な経験である。それでも哲学者たちは、数えきれぬ箇所でほのめかすように、それに適した火に慣らすことで、自分たちの石を固定する。母の胸で乳によって養われる子のように、石は火によって養われねばならないからだ。そこでエミガヌスは言う。「乳を飲む子供を見よ。その妨げをするな」。またボディルスは言う。「取り出された胎児は、乳によってのみ養われ、また幼い間は火そのものによって少しずつ養われる。いっそう焼かれるほど骨は強められ、青年期へ導かれ、そこに達すると自足する」。アルノルドゥスも『薔薇園』第2書第7章で言う。「しかし、この薬そのものを、長い間火の上で焼き、乳房にいる子供のように養わなければならない」。

最古の哲学者たちも、トリプトレモスとアキレウスが火の下に横たわることに慣らされ、鍛えられたという寓話によって、これと同じことを示そうとした。二人はいずれも、錬金術の基体にほかならないものを表す。そうでなければ、これは味気ない話で、ほかの道徳的な事柄に当てはめるにも、学識ある人の耳へ繰り返し聞かせるにも値しない。ケレスは乳母のようにトリプトレモスを昼には乳で養い、夜には火の下へ置いた。そのため少年はよく育ったが、父エレウシウスがある時これを見ていた。それゆえケレスはエレウシウスを殺し、少年トリプトレモスには蛇に引かれる車を贈った。彼はその車で空を通り、世界のあらゆる場所へ赴いて、人間たちに穀物の種の蒔き方を教えた。

しかし、このトリプトレモスは、このように火の下で養われた哲学者たちのティンクトゥラである。それは蛇、すなわちメルクリウスに引かれ、哲学者たちの種を彼らの土へどう蒔くかを人間に教えた。同じことは、別の箇所で示したように、そのために世界を巡ったオシリスにも、人々に葡萄酒の使用を教えつつ世界を旅したディオニュソスにも帰される。この三者、トリプトレモス、オシリス、ディオニュソスは、同じ意味と役目を持ち、いやむしろ一つの事物なのである。最強の勇士としてトロイア戦争へ送られることになっていたアキレウスも同じだ。その父はペレウス、すなわち土、あるいはペレウス山であり、母は海ないし水の女神テティスである。この二者からアキレウスが生まれる。二人の婚礼ではエリスの金の林檎が持ち出され、それがトロイア戦争の最初の原因となった。それゆえ、その婚姻から生まれた者が戦争の遂行者となったのは、故のないことではない。アキレウスは母によって、前述のトリプトレモスがケレスによってされたのと同じ仕方で鍛えられたとされる。これについては『ヒエログリフ』第6書で十分述べたので、ここで繰り返すのは不要と考える。

したがって石の養分は火である。だが、ある者が誤って考えるかもしれないように、そのために長さ、幅、深さが伸びたり、重さが増したりするのではない。石が火から得るのは、ただ効力、成熟、色であって、残りはすべて、食糧や旅の糧のように自分とともに持って来る。異なる場所からその諸部分を集め、浄化し、結合すると、必要なすべてを自身に持つからである。そこで『薔薇園』において哲学者は言う。「この水は、胎をなすために必要なすべてを、自らとともに運ぶ」。始めから終わりまで、同質でない外来のものは何も加えられず、異質なものでないかぎり何も分離されない。しかも誰もが、何かを始める前に、トリプトレモスの車につなぐべき竜を、よく知っておくよう注意しなければならない。それらは翼を持ち、揮発するものだ。それらを知りたいなら、哲学的な糞の中に見出すであろう。それらは糞であり、糞から生まれる。そして、マリアが、黒魔術の器ではなく汝の火の調整であると言う、あの器なのである。それなしには何も成し遂げられない。私は汝に真理を明かした。それは、信じがたい労苦と、多年にわたる少なからぬ出費によって、古人の記録から汲み取ったものである。

石は地上に投げ捨てられ、山々へ高く上げられ、空気に住み、川で養われる。すなわちメルクリウスである

第36フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第36フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第36番。下方7度

この石は地上に捨てられ、山々の上へ上げられ、空気の中に住み、川の中で養われる。これがメルクリウスである

逃げるアタランタ

追うヒッポメネス

足をとどめる林檎

石は卑しい屑であり、道にたまたま横たわり、
そこから富者も貧者も手に入れられると言われる。

注 三声部で繰り返される同じ歌詞をここに一度訳出。音符の配置に伴う音節分割・語句反復は楽譜画像を参照。

第36番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳

石は捨てられた卑しいものだと言われる。
道に横たわり、富者も貧者も正当にそれを得ることができる。
また、高い山々に見出せると言う者もある。
空気の中だと言う者、水辺の草地で養われると言う者もある。
それぞれの意味において、すべて真実だ。私は汝に望む、
山々でこの贈り物を見定めよ。そこが最も見つけやすい場所である。

石は地上に投げ捨てられ、山々へ高く上げられ、空気に住み、川で養われる。すなわちメルクリウスである 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第36エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第36番。自然の秘密について

石は地上に投げ捨てられ、山々へ高く上げられ、空気に住み、川で養われる。すなわちメルクリウスである

エピグラム第36番

石は卑しい屑であり、道にたまたま横たわり、
そこから富者も貧者も手に入れられると言われる。
ある者たちは石を山々の高い頂に、ある者は
空気の中に置いた。他の者たちは川で養われるとした。
それぞれの意味において、すべては真実となる。しかし私は汝に願う、
山のある所に、これほど大きな贈り物を求めよ。

論説第36番

石の名と力を一度でも聞いた者は、まったく信じない者でないかぎり、たいてい、それがどこで見つかるかを尋ねる。そこへ、いわば一直線に走って行こうとするのである。哲学者たちは二通りに答える。第一に、アダムが楽園からそれを持ち出した、それは汝のうちにも私のうちにも、すべての人間のうちにもある、飛ぶものたちが遠方からそれを運ぶ、と。第二に、それは地、山々、空気、川に見出される、と。では、どちらの道を進むべきか。こちらか、あちらか。私の考えでは、それぞれの観点から両方を進むべきである。ただし後者のほうが、私たちには好ましく、安全に見える。地上へ投げ捨てられたと言われるのは、まず土の元素が暗く黒い身体の中に現れるからである。次に、それが卑しく低価格のもので、旅人の通る道や糞そのものの中で踏まれるものだからである。

そこで『薔薇園』は言う。「たとえ私が真の名で呼んでも、愚かな者たちは、それが石だとは信じまい」。またモリエヌスは、それは多く見つかるのかと尋ねるカリドに答える。「それは、賢者の言う通り、富者にも貧者にも、寛大な者にも吝嗇な者にも、歩く者にも座る者にも属する。それは道に投げ捨てられ、各々の糞塚で踏まれる。すでに多くの者が、それを取り出そうと糞塚を掘ったが、そのことで欺かれた」。ムンドゥスも『群衆』で言う。「売る者がそれを知っていたら、それほど安い値では売らないだろう」。アルノルドゥスも、石は望むだけ大量に無料で手に入り、そのために誰かに尋ねる必要もないと断言する。これはすべて真実である。人情のない者でもなければ、水と土を求める者に、誰がそれを拒むだろうか。

遥かな昔のキンブリ人は、ローマ人に同じ贈り物を求め、得られなかったため、大軍を広げてイタリアへ入り、執政官たちとともに何千ものローマ人を殺した。歴史が証言する通りである。土は万物の母としては最も貴重だが、腐敗したものの最後の質料としては、最も卑しい。泥や汚泥より卑しいものはないが、それは水と混じった土にほかならない。一塊の土ほどありふれたものがあろうか。それでもネプトゥヌスの息子エウリュピュロスは、それを客への贈り物として英雄アルゴナウタイに差し出した。拒まれずに感謝をもって受け取られ、後に水に溶かされたその土から、メデイアは多くを予言した。土は水の中で溶解されねばならないからである。さもなければ水も土も、何の力も持たない。

このように石は地上へ投げ捨てられる。しかし、捨て置かれたままにはとどまらず、山々へと高められる。アトス、ウェスウィウス、エトナ、および世界のさまざまな場所に非常に多く見られる、それらに似た火を噴く山々へと。これらの山では永続する火が燃え、石を昇華させ、最高の位へ引き上げるからである。石が山々の中で、硫黄と水銀から未加工の姿で育つように、山頂では成熟し、完成される。そこには、火を調整するために欠くことのできない草も生える。この冷たく湿った草を火へ投げ込むと、反対のものによって火の激しさが和らげられるからだ。

石は山々から空気へ移り、そこに住まいを見つける。空気が、それを取り囲む家になるのである。これは、風の腹の中で運ばれ、空気の中に生まれると言うことにほかならない。これらの表現については、すでに述べた。最後にメルクリウスは川、すなわち水の中で養われる。そのためアテナイ人は彼を讃えて水を運ぶ祭りを行った。『薔薇園』が言うように、哲学者たちの石の質料は水であり、それはかの三者の水のことだからである。この理由で、メルクリウスは三つの頭を持つとも言われた。すなわち海の、天の、地のメルクリウスであり、水、土、空気の中にいるからだ。また彼は、ウルカヌスに育てられ、盗みの巧さで名高いと伝えられる。揮発するメルクリウスは火に慣れることを教えられ、自分と混ざったものを一緒に持ち去るからである。

彼は古くエジプト人に法律と教えを授け、さらにテバイの祭司たちにも世界の大部分にも宗教を授けた。というのも、別の箇所でより詳しく示したように、エジプト人は錬金術の制度から国家の仕組みと祭儀を得、そこからギリシア人が、ギリシア人からローマ人が、ローマ人から非常に多くの民族がそれを得たからである。彼は岩、すなわち石でアルゴスを殺し、バットスを試金石へ変えた。多言は要るまい。錬金術者のすべての書は、ただメルクリウスだけを繰り返し説き、この一行でその力を十分に確証する。「賢者たちが求めるすべては、メルクリウスの中にある」。それゆえ、彼が空気、火、水、土のどこにとどまろうとも、見つかるまで探さなければならない。彼は放浪し、錬金術の神々に仕えるため、あたかも足で使いをする従者として、ここへ、あそこへと走るからである。ある人々がアンゲリアを彼の娘とするのは、この職務を示している。

大いなる業には三つで十分である。白い煙、すなわち水。緑の獅子、すなわちヘルメスの金属。そして悪臭のする水

第37フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第37フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第37番。上方8度

大いなる業には三つで十分である。白い煙、すなわち水。緑の獅子、すなわちヘルメスの金属。そして悪臭のする水

逃げるアタランタ

追うヒッポメネス

足をとどめる林檎

大いなる業の種は三つ、悪臭のする水と、
雪のように白い蒸気、そして緑の皮を持つ獅子。

注 三声部で繰り返される同じ歌詞をここに一度訳出。音符の配置に伴う音節分割・語句反復は楽譜画像を参照。

第37番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳

大いなる業には三つのものが属する。悪臭のする水、
そして雪のように白い煙と、まことに緑の獅子である。
水はあらゆる元素の母。石が
作られるには、最初も最後も水でなければならない。
緑の獅子はヘルメスの銅、また石と呼ばれる、
書物の章々で。白い煙は水と知られる。

大いなる業には三つで十分である。白い煙、すなわち水。緑の獅子、すなわちヘルメスの金属。そして悪臭のする水 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第37エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第37番。自然の秘密について

大いなる業には三つで十分である。白い煙、すなわち水。緑の獅子、すなわちヘルメスの金属。そして悪臭のする水

エピグラム第37番

大いなる業の種は三つ、悪臭のする水と、
雪のように白い蒸気、そして緑の皮を持つ獅子。
母なる水は残りの元素を生んだ。賢者たちが
石を作るには、水こそが最後であり最初である。
緑の獅子はヘルメスの金属であり、書物の章々で知られる
石である。そして白い煙は水である。

論説第37番

どの建物の建築にも、基礎、壁、屋根という三つの本質的なものが必要であり、一つでも欠ければ完成には至らない。同じように、哲学者たちの合成物を完成するにも同じ数が求められ、ここではそれらが固有の名で呼ばれている。『曙』の著者は第20章で、元素の分離についてこう語る。「土はそこに残される。他の三元素が、その中に根づくことができるようにするためだ。土がなければ、元素は、その上に新しい宝物庫を建てるための基礎を持たないだろう」。この基礎を、ここでは悪臭のする水と呼ぶ。『薔薇園』の証言によれば、それはすべての元素の母であり、哲学者たちは初めにも終わりにも、それから、それによって、それとともに、かのもの、すなわちエリクシルを調製する。

悪臭のする水と呼ばれるのは、硫黄の臭気と墓の臭いを自ら発するからである。これは、ペガソスが蹄でパルナッソスを打って湧き出させたあの水であり、アルカディアのノナクリス山が、その稜線の岩から噴き出させる水である。その力が極めて強いため、馬の蹄の中にしか保てない。『薔薇園』の名づける竜の水とはこれであり、ほかのものを何も加えず、蒸留頭によって作られねばならず、その製作中には非常に大きな悪臭がある。この言葉を聞いて、人間や動物の糞の蒸留に取りかかった者たちがいた。その作業では確かに極度の悪臭を感じたが、糞の中には糞しか見つからなかった。

しかし、哲学者たちを糞の中で働く糞虫だと思わぬよう、悪臭があっても、それはすぐに大いなる芳香へ変わると知るべきである。ルルスが自分の第五精髄について証言する通りだ。正しく作られたなら、その香りは非常に甘美で、家の高い場所に置くと、飛ぶ鳥を引き寄せ、そこへとどまらせるという。彼はこの第五精髄を糞の中へ置く。その極めて穏やかな熱から、この芳香が生じるのである。ある者たちはこれを強い葡萄酒で試したが無駄であった。それでルルスを虚言のかどで責めたが、むしろ愚かさを責められるべきは、ルルスの葡萄酒を一度も味わったことのない彼ら自身だった。かの黄金の詩人は、ルルスをよりよく理解して、『金製造術』第1書にこう歌った。

だが彼が意味したのは、表面上言っているように
見えた事柄ではなく、その時、滴り落ちる葡萄酒を
混ぜていたのでもなかった、等々。

悪臭のする水の次に、緑の獅子が現れる。それについて『薔薇園』は言う。「汝は緑色について尋ねた。その緑色のゆえに、銅は癩に罹った身体だと考えたのである。そこで私は汝に告げる。銅の中で完全なものすべては、その中にある、ただその緑色だけなのである。この緑色は、私たちの大いなる業によって、すぐに私たちの最も真なる金へ変わる。私たちはそれを経験した。しかし、私たちの鉱床に生じると見える、緑色で液状のドゥエネクなしには、決して石を調製できない。ああ、万物を生み出す、祝福された緑よ。そこで、植物も果実も、緑の色がないところで芽生えて現れるものは一つもないと知れ。同じように、このものの生成も緑であると知れ。それゆえ哲学者たちは、それを芽と呼んだ」。以上が『薔薇園』の言葉である。

注 duenech は原文の歴史的名称を音写。特定の現代物質には同定しない。原文 Nullo は文脈上「いかなる仕方でも〜できない」と解した。

これが哲学者たちの金と銅であり、章々で知られる石、煙、蒸気、水、太陽の光と結びつく月の唾である。この緑の獅子は竜と戦うが、竜に負かされ、時とともに食い尽くされる。しかし獅子が腐敗すると、サムソンに殺された獅子の場合のように、その口から甘いものが生じると期待される。勝った竜は獅子の肉で腹を満たしすぎ、やがて破裂して死ぬ。獅子の脂は、それだけでも日々の熱病を治し、それを塗った者は王や人民のもとで好意と寵愛を得るのだから、この竜からは、非常に多くの病状に極めて有用な、最も優れた薬を作ることができる。

第三に白い煙が続く。それが凝結すれば水となり、洗い、溶かし、石鹸のように染みを拭い去ることで、水の働きを果たす。これが「自然に反する火」である。ぜひこれを見つけるよう努めよ。この名は、自然が念入りな配慮で組み立てたものを解きほぐし、破壊することで、自然に反するからである。この火は葡萄酒の精や油を燃やしたものではなく、不燃性の質料から成り、持続と熱が均等である。光も燃焼も伴わず、大いなる力と効能を持つ火なのだ。光らないので、暗闇の中でこれを見つけるのは少なからぬ難事だが、作業に正しい方法で適用することは、はるかに難しい。その条件と性質については、さまざまな箇所ですでに十分に記した。

レビスはヘルマプロディトスのように、メルクリウスとウェヌスの二つの山から生まれる

第38フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第38フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第38番。上方7度

レビスはヘルマプロディトスのように、メルクリウスとウェヌスの二つの山から生まれる

逃げるアタランタ

追うヒッポメネス

足をとどめる林檎

古人たちは二重のものをレビスと呼んだ。一つの
身体に男と女があり、両性具有だからである。

注 三声部で繰り返される同じ歌詞をここに一度訳出。音符の配置に伴う音節分割・語句反復は楽譜画像を参照。

第38番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳

古人たちは二つのものを、一つの名でレビスと呼んだ。
一つの身体に男と女が一緒にあるからだ。
二つの山の上でヘルマプロディトスは選び出された、
ウェヌスがメルクリウスのために生んだ者は。
女であり男でもある、この二重の性を軽んじるな。
それは後に、汝のため王を生むことができるからだ。

レビスはヘルマプロディトスのように、メルクリウスとウェヌスの二つの山から生まれる 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第38エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第38番。自然の秘密について

レビスはヘルマプロディトスのように、メルクリウスとウェヌスの二つの山から生まれる

エピグラム第38番

古人たちは二重のものをレビスと呼んだ。一つの
身体に男と女があり、両性具有だからである。
慈しみ深いウェヌスがヘルメスのために生んだヘルマプロディトスは、
二つの山で生まれたと言われる。
二重の性を軽んじるな。同じ男性であり、
一人の同じ女性であるものが、汝に王を与えるからだ。

論説第38番

ソクラテスは、どこの人かと問われて、「コスモポリテス、すなわち世界の市民だ」と答えた。身体としてはアテナイに生まれたにせよ、心では世界全体とその内にあるものを、故郷として自由に巡っていると示そうとしたのである。賢者にとっては、善く生きられる土地はどこでも故郷だからだ。同じように、哲学者たちに、彼らのヘルマプロディトスはどこの者かと尋ねるなら、世界の者であり、元素のある世界の隅々にいる、と答える。それは賢者たちの息子であって、彼らと同じ故郷を持つからだ。しかし誰かが二度もそれ以上も生まれることはなく、初めてこの光の中へ出て来るのは、複数の場所でなく、一つの場所である。そこでソクラテスがアテナイ人と認められるように、レビスも二つの山の住人と考えられる。すなわちメルクリウスとウェヌスの山であり、この両親からヘルマプロディトスの名を与えられた。彼の家の神々は山の神々、故郷は高い所にあり、それゆえ彼は高い身分の生まれなのである。

立派な業績を遂げるうえで、気高く大きな故国は、確かに少なからぬ助けになる。そこでは自国民が外国人より優先され、公職へ引き上げられ、低い土地に起こるように無名のまま埋もれることがなく、こうして故国から何らかの光が彼らへ届く。しかし、家庭の資力が乏しくとも、自分自身の徳によって身を起こし、自らの光を故国に与えることは、それ以上である。このように、非常に多くの人に知られなかったこれらの山は、ヘルマプロディトスの輝かしい業績と、全世界に名高いその名によって、名声を得る。哲学者たちの書物に少しでも親しんで、レビスを知らなかった者がいるだろうか。二つの頭を持つ両性者を見もせず、気づきもしなかった者がいるだろうか。彼はインド人のもとにまで知られ、その名声はアレクサンドロス王の名声よりも広く拡がっている。

学識ある人、あるいは優れた軍事的才覚、技術、学問によって名高い人を見て話をするため、遠い土地から旅に出る者は非常に多い。しかし、レビスのかの山々がどこに見出されるのかさえわかれば、それよりはるかに多くの者がそこへ向かうだろう。モリエヌスがローマを発ち、どれほどの熱心さと配慮によってアレクサンドリアのアドフェルスを探し、ついに見つけたかは、彼自身がその書で証言している。彼は、口の利けぬ教師たちからではなく、生きた師から、この事物、すなわちレビスの生まれた場所を学び、面前で見たのであるから、いっそう幸いな者と考えられ、神に感謝すべきである。

理性と書物の示す手がかりに教えられ、自力でレビスの故郷を探す者たちも、それに劣らぬ不断の努力と勤勉を用いねばならない。だが、書物には時として明瞭さがあるように見えても、大いなる暗さが四方からそれを囲んで覆い、その暗さのため、明瞭さはほとんど認めることも見分けることもできない。したがって、この中では慎重に進まなければならない。薬として編まれた書物が、毒として用いられることのないように。それらは確かに広大な大洋である。その上をさまよう熟練の航海者たちは、磁石が北極を示すので、天文器具によって緯度、すなわち地平線上における赤道の高さを知ることはできるが、経度、すなわち幸運諸島に近い第一子午線から何度離れているかは、決して知ることができない。それゆえ東西の間のどこにいるかが不確かである。では、ここで何をすべきか。同じ航海者たちがするように、理性をもって経験に問うて、岬、島、その他の個別の標識によって遠い航路を定めることを、経験から学ぶのである。不注意に砂州や岩礁に乗り上げないためだ。ただしこちらでは、うまくいかなくても危険はより小さく、うまくいけば利益はより大きい。あちらでは、財産と生命が一時間で失われるのだから。

注 緯度を赤道の地平高度とする表現も、原文のまま訳した。

哲学的メルクリウスの山は、ノナクリスでも、通常その出生地と考えられるアトラスでもない。二つの頂を持つパルナッソスであり、一方にヘルメス、もう一方にウェヌスが住む。ここにはアポロとムーサたちもおり、ペガソスの泉ヒッポクレネと、常緑の月桂樹もある。名の上では一つの山だが、実際には二つである。ヘルマプロディトスが一つの身体に二つの頭と二組の器官を持つように。しかし、千人のうち誰が、この山の頂を目指して進み続けるだろう。何やらさまざまな障害に妨げられて、麓で止まってしまわぬ者がいるだろうか。その中央の臍に達する者さえ、どれほど少ないことか。

高みを目指す者にとって、登ることは容易でなく、多量の汗が
その者を高く運ぶ。不眠のまま夜の灯油に身を捧げ、
自分でたった今褒めたものを消すのである、
永遠の葉冠の栄誉を授けられたいと願う者は。

それゆえ、一万人のうちただ一人だけが、これらヘラクレス的な苦難を克服して山頂に足を据え、不滅の月桂冠という褒賞を享受するとしても、不思議ではない。学ぶ心を持ち、徳と学問に身を捧げ、善い精神を備える者が皆その褒賞を喜び、グリュロスたちと猟犬どもは望みを果たせぬように。ただそれだけを願うべきである。

オイディプスはスフィンクスを破り、父ライオスを殺した後、母を妻にする

第39フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第39フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第39番。上方3度または10度

オイディプスはスフィンクスを破り、父を殺すと、母を妻にする。この謎の意味はこうである。石は本質において三角形、性質において四角形である

逃げるアタランタ

追うヒッポメネス

足をとどめる林檎

謎めいた言葉によってテバイで恐れられたスフィンクスを、
オイディプスは自分から死ぬように、術をもって追い込んだ。

注 三声部で繰り返される同じ歌詞をここに一度訳出。音符の配置に伴う音節分割・語句反復は楽譜画像を参照。

第39番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳

謎によってテバイ人をひどく恐れさせたスフィンクスを、
オイディプスは巧みな術によって死へ追いやった。
問われたのは、「朝には四本の足、昼には
二本だけ、そして夕方にはまた三本の足を持つものは何か」。
その勝利者は、道を譲ろうとしなかった父を殺し、
自分の母を正当に妻として迎える。

オイディプスはスフィンクスを破り、父ライオスを殺した後、母を妻にする 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第39エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第39番。自然の秘密について

オイディプスはスフィンクスを破り、父ライオスを殺した後、母を妻にする

エピグラム第39番

謎めいた言葉によってテバイで恐れられたスフィンクスを、
オイディプスは自分から死ぬように、術をもって追い込んだ。
問われたのは、朝には足が二の二倍、
正午には二本、夕方には三本になるものは何かということ。
そこから勝者となって、道を譲らぬライオスを殺し、
自分の母だった者を妻にした。

論説第39番

哲学者バカッセルは『群衆』で言う。「汝らが求めるものは、決して安価なものではない。汝らは最大の宝と、神の最も優れた賜物を求めているからだ。探究者たちよ、哲学者たちが以前から告げてきたことを知れ。正しいものは、誤りを通してでなければ識別されない。そして、この術と作業における誤りほど、心に苦痛を生むものはない。成し遂げた、世界を手にしたと思うその時、自分の手の中には何もないと気づくだろう」。古代の哲学者たちは、スフィンクスを提示することで、同じことを示そうとした。それによって、術の暗さと難問とを表すかのように。

それゆえエジプト人は、オシリスを讃えて行われるイシスの祭儀で、頭を剃り、冠をかぶり、身体の全体を足まで届く白い亜麻の衣で包んだ祭司たちが執り行う事柄を、隠されたまま、民衆に知られぬままにしておくため、祭壇の前にシガリオンと呼ばれる沈黙の像を立てた。列席者は、言葉を慎み、その像へ目を向けるよう命じられた。同じ理由で、祭壇の角にはスフィンクスの像も置かれた。それらは聖なる事柄の秘められた知識を示したのである。ボワサールが古人の文献から示す通りである。スフィンクスは、ある種の怪物で、極めて難解な謎をテバイ人に差し出す。しかし彼らだけでなく、以前にはエジプト人に、後にはこの術を志すすべての者に、同じことをする。そして哲学者たちの書物の中で、テバイの門前にいるかのように見張っている。誰かが怪物の傍らを素通りするだけなら、害は受けない。だが心や知性の大胆さを頼りにその謎を解こうとする者は、解けなければ、自ら破滅を招く。すなわち、この作業の誤りによって、心の苦しみと財産の損失を招くのである。

このような寓意を歴史の出来事として受け取る者は、喜劇詩人の言う通り、脳の代わりに茸、心臓の代わりに瓜を持ち、まっすぐな道で迷う者ほどの知恵しかない。文字どおりに受け取れば、あまりに子供じみた、老婆にふさわしい話だが、そうでなければ、深遠な教えの証拠であり徴である。確かにアフリカには、スフィンクスという名の怪物的な獣がいると言われる。しかしここで論じているのはそれらではない。作り話のスフィンクスの起源と名称が、それらから採られたように見えるとしても。哲学者たちのスフィンクスは、人間の言葉、すなわちギリシア語を理解して用い、精妙な謎と謎めいた問いを出した。それらには、ほかの誰にもそう簡単には見られない、並外れた知性と学識の鋭さが現れる。動物はそうしたものから遥かに隔たっている。哲学者たちの教えがこのようなものであることは、多少なりともそれらに親しんだ者なら容易に理解するだろう。

一つのことが語られ、別のことが意味されるところでは、多義性が誤りを生むからである。このことは哲学者たちだけには許されるばかりでなく、命じられてもいる。

こうしてテバイの都がスフィンクスの謎に長く苦しめられた後、ついにオイディプスという者が現れた。差し出された問いに彼が答えると、スフィンクス自身が岩から身を投げざるをえなくなった。では、オイディプスとは誰か。テバイの王の息子である。彼が生まれた時、父は自分が息子に殺されると神託で告げられ、オイディプスを殺すよう命じた。足に通した綱で木に吊られ、捨てられた彼は、別の農夫によって救われ、育てられた。成長しても足は腫れていたが、スフィンクスの出した謎を解くことで、誰にも勝る生き生きした知性を十分に示した。スフィンクスには非常に多くの謎があったと伝えられるが、オイディプスに示された主要なものはこれであった。「朝は四足、正午は二足、夕方は三足のものは何か」。

オイディプスが何と答えたかは知られていない。しかし、これを人間の年齢と解した者たちは誤っている。まず何よりも四角形、すなわち四元素を考察すべきだからである。そこから半球、すなわち白い月へ進む。そこには直線と曲線という二本の線がある。さらに、身体、霊、魂、あるいは太陽、月、メルクリウスから成る三角形へ進む。そこでラシスは『書簡』で言う。「石は存在において三角形であり、性質において四角形である」。第21エンブレムとその解説もまた、このことに関わっている。

さて、オイディプスには父殺しと近親相姦の烙印が押されている。この二つは、考えうるかぎり最も忌まわしい罪だが、それでも彼を、本来彼のものとなるべき王位へ進ませた。自分に道を譲ろうとしなかった父を殺し、王妃、すなわちライオスの妻で自分の母でもある者を、妻に娶ったからである。しかしこれは、歴史としても、真似るべき例としても、誰かのために書かれたのではない。哲学者たちが自分たちの教えの秘密を明らかにするためだけに、作り上げ、寓意として導入したのである。実際、この作業では両方が起こる。第一の作用因、すなわち父が、自らの結果、すなわち息子によって除かれ、滅ぼされる。その後、その同じ結果が、第二の作用因を、自分と一つになるまで結びつける。こうして息子は母と婚姻によって結ばれ、武力、結婚、継承という、いわば三重の権利によって父の王国を得る。足が腫れているのは走れないからであり、『最大の秘密』にある通り熊のよう、あるいは歩みの遅い蟇のようである。彼は他のものを固定する固定物で、火から逃げも恐れもしないからである。哲学者は、この卑しく見える媒介をこそ、何よりも必要とする。

二つの水から一つを作れ。それは聖性の水となる

第40フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第40フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第40番。下方6度

二つの水から一つを作れ。それは健康の水となる

逃げるアタランタ

追うヒッポメネス

足をとどめる林檎

澄んだ流れを噴き上げる二つの泉がある。
その一方は、少年の温かい水を供給する。

注 アタランタ、ヒッポメネスの二声に共通する歌詞。林檎声部には次項の異文がある。

澄んだ流れを立ち上げる二つの泉がある。
その一方は、少年の温かい水を供給する。

注 林檎声部では他二声の salientes(噴き上がる)に代わり surgentes(立ち上がる)と印刷される。

第40番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳

二つの泉が、力強い流れで、澄んで甘く湧き上がる。
一つは少年の泉で、温かい水を豊かに与える。
もう一つは冷たく、乙女の小さな泉と呼ばれる。
これを混ぜ、二つの水からただ一つになるようにせよ。
そうすれば、この水は双方の混じり合った力をすべて内に保つ、
ユピテル・アンモンの泉が温かく、かつ冷たいように。

二つの水から一つを作れ。それは聖性の水となる 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第40エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第40番。自然の秘密について

二つの水から一つを作れ。それは聖性の水となる

注 ラテン語の標語は sanctitatis(聖性の)と印刷され、ドイツ語標語 Gesundheit(健康)とは異なる。それぞれ原文どおりに訳した。

エピグラム第40番

澄んだ流れを噴き上げる二つの泉がある。
その一方は、少年の温かい水を供給する。
他方は冷たい水を持ち、それは乙女の水と呼ばれる。
これを先の水と合わせ、二つを一つの水にせよ。
するとこの流れは、双方の混合された力を保つだろう、
ユピテル・アンモンの泉が熱くも冷たくもあるように。

論説第40番

水の驚異は、数も規模もあまりに大きく、大冊でも収めきれないほどであり、さまざまな著者が各所で論じてきた。しかし、とりわけ二つの哲学的な水が讃えられる。それらは、ほかのすべての水の力と性質に匹敵するばかりか、それらを超えるとも言えるからである。シュバリス、マケドニアのアクソス、ボイオティアのメラスという川は、その水を飲んだ家畜を黒くする。一方、クラティス、メワニアのクリトゥムヌス、ケピソスの川は、黒い家畜を白くする。カンパニア地方のシヌエッサの水は、男女両方の不妊をなくす。アプロディシオス川は女性を不妊にする。メソポタミアのカブラ泉の水は快い香りを持ち、ペロポネソスのアニュグロスの水はひどく臭い。ユピテル・アンモンの泉は、昼には冷たく、夜には熱く、朝と夕にはぬるくなって、交互に変わる。ほかの例で時を費やさぬようにしよう。互いに反対することさえも含め、すべては哲学者たちの水によって成し遂げられる。

注 泉の性質や治療効能は著者の歴史的記述を訳したもので、現在の医学的推奨ではない。

これらについてルルスは、『第五精髄について』第3区分の軟化を論じる箇所で言う。「こうして術には二重の考察がある。すなわち、一つの金属の一つの自然から、組成において相反する二つの液を作ることである。一方は固定し、凝固させ、硬化させる力を持ち、他方は揮発し、固定されず、柔らかい。しかしこの第二の液は、第一の液によって硬化され、固定され、凝固される。これら双方の液から、凝固し、固定され、硬化した一つの石が生じる。それは、凝固していないものを凝固させ、柔らかなものを硬くし、硬いものを柔らかくする力を持つ」。ここから、その二つの水が何であり、なぜ一つの水にまとめねばならないかが明らかとなる。石は溶けるので水と呼ばれ、逆に水は粉砕されるので石と呼ばれるからである。

ただし、これらの水は異なる場所から、時には長い道のりを経て引かれる。ローマで乙女の水道やほかの人工的な泉について見られるように。そして、二つから一つが生じるよう、合流させて混ぜねばならない。一方が温かい力を持ち、他方が冷たい力を持つなら、混ぜられた時には混合された力を得て、驚くべき仕方で互いを調整するからだ。ここから、あらゆる種類の病と病状を追い払い、人間を確かな健康へ戻す、最も優れた薬水と温泉が生まれる。

自然は確かに、その秘められた合成の技によって、大地の懐で多くの水を、鉱物のさまざまな力とともに混合し、混ぜ合わせる。それらは多くの病人に有益である。しかし、適切な調整を伴って技術が加わり、全身的な排出処置や、ほかの先に行うべきことを済ませたうえで、混ぜるべきものを互いに混ぜれば、その合成物はいっそう強い効力を持つだろう。それは人工的に見えても、純粋に自然的である。異なるものから、一つで単純な、同質のものが生じるのであり、それは技術だけでは決して作れないからだ。混和や混合は技術によって起こせるが、自然の助けなしには、真の自然的な結合は起こせない。それは自然だけが行うのである。

テリアカでは、さまざまな単味薬が人工的に混合され、粉砕と発酵によってそれが行われる。しかし軽率でないかぎり、これを自然的な合成、まして同質的な薬であると主張する者はいないだろう。諸実体の人工的混合については、それらが最小の部分に至るまで互いに入り込んでいるわけではないことが明らかである。人間の技では再び互いを見分け、分離することができないとしてもそうだ。一方、すべての性質の混合については、テリアカの各単味薬の第一次性質が、一つの第五精髄へ移ったのか、それとも以前と同じく各々の粉や実体のうちに、基体のうちの付帯性、あるいは壁の上の色のようにとどまるのかが問われる。ではさらに、第二次、第三次、第四次の性質については何と言うべきか。すべての性質は、なお各々の固有の基体に付着し、真の自然的混合によって互いに合成されてはいない、と考えるのがもっともらしい。そうでなく、性質が自分の身体を離れるなら、どの人工的合成物にも、第一次、第二次等という性質の段階の数に応じて、身体を欠き、分離可能な四つの第五精髄があることになるが、実際はそうではない。

野兎の凝乳質については、血が薄いために出血する時には、それを止め、いわば凝固させるが、凝固して塊になっている時には、同じ血を切り分けて溶かす、と書かれている。同じように、酢、鉛、その他の多くのものにも、使い方の違いに応じて相反する作用がある。自然がそれらを驚くほど巧みに混ぜたからである。哲学的な水も同様に、異なる、相反する力を持つ。自然が技術の助けを得て、相反するものからそれを混ぜ合わせ、一つの分割できない実体にしたからである。これと混ぜられるべき他のものとの関係で言えば、それは第五精髄にほかならない。

アドニスは猪に殺される。彼のもとへ駆けつけたウェヌスは、血で薔薇を染めた。

第41フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第41フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第41番。下方3度。単純声部、すなわち基礎声部を逆行させる。

アドニスは野猪に殺される。ウェヌスは彼を助けようとして、血で薔薇を赤く染めた。

逃げるアタランタ。追いかけるヒッポメネス。足を止めさせる林檎。

注 三つの声部の役名。略記は展開した。

ミュラは自分の父によって、美しいアドニスを身ごもった。
キュプロスの女神の愛し子を、猪が死に倒した。

注 三声部でこの二行を歌う。基礎声部の歌詞は逆順で配置される。

第41番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳。

ミュラは自分自身の父によって、アドニスを産んだ。
ウェヌスが深く愛する彼を、野猪が怒りにまかせて殺す。
ウェヌスは駆け寄り、その途中で薔薇の茂みに足を傷つける。
それゆえ、その血で白い薔薇は赤くなった。
女神は泣く。シリア人も泣き、誰もがこのことで悲しむ。
そして彼女は、すぐに彼を柔らかな萵苣の中に横たえた。

アドニスは猪に殺される。彼のもとへ駆けつけたウェヌスは、血で薔薇を染めた。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第41エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第41番。自然の秘密について。

アドニスは猪に殺される。彼のもとへ駆けつけたウェヌスは、血で薔薇を染めた。

エピグラム第41番。

ミュラは自分の父によって、美しいアドニスを身ごもった。
キュプロスの女神の愛し子を、猪が死に倒した。
ウェヌスは駆け寄り、足を傷つけ、その血によって
かつて白かった薔薇に、みずから赤みを与えた。
女神は泣く。シリア人も泣き、世界はともに悲しむ。
そして彼女は、彼を柔らかな萵苣の中に横たえた。

論説第41番。

神話解説者のある者たちが、アドニスの寓意をいかに不適切に説明しているか、すなわち、あるときは彼を太陽に、彼を殺した猪を毛深い冬に、またあるときは彼を穀物の種子に結びつけ、種子は六か月を地中のプロセルピナのもとで、同じ六か月を地上のウェヌスのもとで過ごすとすることについては、別のところで十分に論じ、反駁した。ここでは、あらゆる事柄の符合に基づき、アドニスによって理解すべきものは哲学的な太陽であると断言する。そこで次の詩句がある。「ディオニュソスも、太陽も、アドニスも、すべて同じものである」。またオルフェウスはいう。「多くの名を喜ぶアドニスよ、芽生えを生む者であり、同時に少年でも少女でもある者よ」。

これらはすべて、天の太陽についてでは決してなく、哲学的な太陽について理解しなければならない。こちらは両性を示すが、あちらはそうではないからである。同じように、アドニスに帰されるものはディオニュソスと太陽にも帰され、その逆も成り立ち、オシリスについても同様である。さて、アドニスは猪に殺される。これはきわめて鋭い酢、すなわち溶解する水によるということである。その水には猪のような、雷のような牙があり、それでアドニスを傷つける。哲学的な太陽はこの猪に致命傷を負わされ、その肢体は溶け、引き裂かれるからである。しかしウェヌスは恋人を助けようとし、彼が死ぬと萵苣の中に置いて守った。同じように、オシリスもテュフォンに殺されて多くの部分に切り分けられるが、妻のイシスはそれらを集め直し、結び合わせて葬った。

オシリスの死に続いてエジプトで毎年行われたのと同じ哀悼が、アドニスの死に続いてシリアと隣国でも行われた。そこでは何日かのあいだ泣き声と嘆きが聞こえ、その後には喜びのしるしと舞踊が示された。死んだ者が天へ上げられ、今また生きているかのようにである。ここから彼らの宗教、すなわち異教の迷信の虚妄が生まれ、悪魔が機会を与え、偽りの奇跡を仕組んだために、それは際限なく増大した。

アドニスは、彼らの物語によれば、キュプロス王キニュラスとその娘ミュラのあいだに生まれた。歴史として見れば、忌まわしい近親の交わりから生まれたといわれる。しかし寓意として見れば、それは禁じられるどころか、とりわけ必要なのである。母と息子、または父と娘が結合し、そこから子が生まれなければ、この術において何も完成しないからである。ここでは、夫婦の血縁が第一親等または第二親等というように近いほど実り豊かであり、逆に遠いほど実りが乏しい。これは人間の婚姻では容認されない。ゆえにオイディプスは実の母を娶り、ユピテルは姉妹を娶る。オシリス、サトゥルヌス、太陽、赤い僕、ガブリティウスも同様である。

太陽は、『薔薇園』に引用されるベリヌスの比喩で、アドニスについて、すなわち自分自身についてこう語る。「知るがよい。父なる太陽は私に、すべての力にまさる権能を与え、栄光の衣を着せた」。続けて、「私は唯一の者で、父に最もよく似ている、等々。私は僕たちを彼らの力と本性から引き出し、彼らのあらゆる仕事において、父が私に与えた私の輝きと美しい光を彼らに着せる。私は卓越した者であり、すべてを高め、また低くする。私の僕のうち、私に打ち勝てる者は、ただ一人、私に敵対する力を与えられた者を除いて誰もいない。その者は私を破壊するが、私の本性を破壊するのではない。その者こそサトゥルヌスであり、私の肢体をことごとく分離する。その後、私は母のもとへ行く。母は、分割され分離された私の肢体をすべて集める。私は自分のすべてを照らし、父サトゥルヌスから、また私に敵対する母からも来る道において、光を明らかに現れさせる」。

ここまで述べたことはきわめて明白であり、諸著者の読書に多少なりとも親しんだ者であれば、その心の眼から暗闇を払い、太陽の光を明らかにする。この光は、ここに示した事物と人物の符合の中に、十分にはっきり見て取れる。真実であるものは、寓意の覆いの下に隠されていても、驚くべき一致をもって互いに証し合うからである。偽りであるものは、自分自身とも他のものとも争い、それぞれ異なる方向へ離れてゆく。

錬金術に従事する者には、自然、理性、経験、読書が、導き手、杖、眼鏡、灯火であるように。

第42フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第42フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第42番。上方4度。対位法。

錬金術に従事する者には、自然、理性、経験、読書が、導き手、杖、眼鏡、灯火となるように。

逃げるアタランタ。追いかけるヒッポメネス。足を止めさせる林檎。

注 三つの声部の役名。略記は展開した。

自然を導き手とし、術において喜んでその後に従え。
自然そのものが旅の連れでなければ、おまえは道に迷う。

注 三声部で同じ二行を反復して歌う。erras「おまえは迷う」などに音楽上の反復がある。

第42番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳。

自然をおまえの導き手とし、遠くからでも
進んで従わねばならない。自然が導かなければ、おまえは道を誤る。
理性を杖とせよ。経験はおまえの視力を
強めるべきである。遠く広く置かれたものを見られるように。
読書は暗闇に明るく澄んで輝く灯火のようであれ。
それによって、事柄と言葉の危険を避けられるように。

錬金術に従事する者には、自然、理性、経験、読書が、導き手、杖、眼鏡、灯火であるように。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第42エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第42番。自然の秘密について。

錬金術に従事する者には、自然、理性、経験、読書が、導き手、杖、眼鏡、灯火であるように。

エピグラム第42番。

自然を導き手とし、術において喜んでその後に従え。
自然そのものが旅の連れでなければ、おまえは道に迷う。
理性は杖の助けを与え、経験は眼を
強めよ。遠く置かれたものが見分けられるように。
読書は暗闇の中の明るい灯火となれ。事物と
言葉の積み重なりを、注意深く避けられるように。

注 strues は「積み重なり、堆積」。道の障害物と、錯綜する言葉・事柄を重ねた表現。

論説第42番。

旅人に起こりうる災難は数限りない。とりわけ夜間、滑りやすく危険な場所を徒歩で旅しようとするならそうである。そのためには、旅費と頑健な体のことはいうまでもなく、四つのものが絶対に必要となる。第一に、通過する土地に通じた同行者か案内人である。知らない者が知らない者を導けば、盲人の場合と同じことが起こり、穴には落ちなくても、両者とも迷路と迂路へ転落する。第二に棒または杖であり、道の滑りやすさで害を受けないようにする。第三に健康な眼である。盲人や眼を病む人には、そのような旅はきわめて危険だからである。第四に灯火または燃える松明であり、道の分岐や危険を見分けられるようにする。同様に、哲学的な薬を探求するという至難の旅に身を委ねる者は、費用と体力のほかに、これらに一対一で対応する四つ、すなわち自然、理性、経験、読書を必要とする。その一つか二つでも欠ければ、残りはわずかしか、あるいはまったく役に立たない。哲学の車は、これらを四つの車輪として進むからである。その車輪は一つも欠くことができず、余分にあっても役には立たない。

自然は、まず自然自身が供給する基体としての自然的な物体と霊を前提とする。その後、術がそれに働きかけ、調製し、浄化し、適したものとすることによって、術が目的として約束するものを、そこから作れるようにする。こうして陶工は水と土を、ガラス職人は灰と砂を、鍛冶工は鉄、銅、錫、鉛、銀または金を、革なめし工は生皮を用い、他の者もそれぞれ別のものを用いる。錬金術の技術者も同様に、自分の材料に目を向ける。他の職人には、材料は初日からでもよく知られている。しかしこの者には、始めてから長年、しばしば一生涯とまではいわないまでも、材料が未知のままである。自然は確かに材料を指し示すが、自然の刻印を曇らせ、認められなくするものが多い。ゆえに最初の目標は、自然がその働きにおいてどう進むかを深く観察し、錬金術の自然的な基体を、過不足なく得られるようにすることである。こうして自然は、この大いなる旅の導き手かつ同行者となり、その足跡に従うべきものとなる。

第二に、理性は杖のようであれ。歩みを確かにし、足を安定させ、よろめかせないためである。推論を欠けば、人は誤謬へ滑り落ちやすい。そこで哲学者たちはいう。「何を聞いても、それがそのようにありうるか否か、理に照らして考えよ」。不可能なものを信じ、あるいは行うように促される者は、記憶が弱く、理解が鈍く、想像が愚かであるために、偽を真として受け入れ、真を偽として退け、自分自身を欺く者にほかならない。哲学者たちはまた、何といわれようとも言葉には頓着せず、何が意味されるかという事柄だけに心を配る、言葉は事物のためにあり、事物が言葉のためにあるのではない、と述べる。たとえば、哲学的なティンクトゥラによってガラスに可鍛性が与えられる、と誰かがいうとしよう。理性がそう告げるなら、なぜ私はこれを信じないことがあろうか。

第三に、経験は、遠方を見られる眼鏡を与える。眼鏡とは、人の眼の弱さを助け補正する光学の道具で、技術によって発明され作られたものである。これとよく似ているのが、あらゆる種類の鉱物質について、自ら試み、見、あるいは確かなものとして聞いた実験である。記憶に蓄えられた実験が多ければ多いほど、推論はそこから多くを取り出し、相互に、また他のものと比較して、何が真であり、何がそうでないかを認識できる。

第四に、読書は知性の中に明るい灯火をともすようであれ。それがなければ、どこも暗闇と厚い雲に覆われる。しかし良き著者を読むことは、何度も繰り返さねばならない。そうでなければ何の役にも立たない。そこで『集会』のバカッセルはいう。「それゆえ、気長であり、喜んで忍耐に親しむ者は、この術の正しい道を進む。しかし、われわれの書から早々に成果を得られると思う者は欺かれており、一度でも触れるくらいなら、そもそも見ないほうがよかったのである」。その後にも同じ箇所で言葉が続く。

語る禿鷹に耳を傾けよ。彼は決しておまえを欺かない。

第43フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第43フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第43番。下方5度、または12度。対位法。

言葉を話す禿鷹に耳を傾けよ。彼は偽りによっておまえを欺かない。

逃げるアタランタ。追いかけるヒッポメネス。足を止めさせる林檎。

注 三つの声部の役名。略記は展開した。

山の高い頂に禿鷹が立ち、
絶えず叫ぶ。「私は白く、そして黒い」。

注 三声部で同じ二行を、語句を反復しながら歌う。

第42番〔原刷の番号。内容は第43番〕。ラテン語エピグラムのドイツ語訳。

注 原刷の見出しは XLII。

山の高い頂に座る禿鷹は、大声で叫ぶ、
絶えることなく。「私こそ白い者、黒い者、
檸檬色の者、赤い者だ。私は嘘をつかない」。同じものは、また鴉でもある。
翼を切り落とされていても、その鴉は飛ぶ。
暗い夜にも、太陽が高く昇る真昼にも。
というのも、こちらの鳥もあちらの鳥も、術全体の出発点だからである。

語る禿鷹に耳を傾けよ。彼は決しておまえを欺かない。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第43エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第43番。自然の秘密について。

語る禿鷹に耳を傾けよ。彼は決しておまえを欺かない。

私は黒く、白く、檸檬色であり、赤い。

注 銅版画の巻物に記された言葉。

エピグラム第43番。

山の高い頂に禿鷹が立ち、
絶えず叫ぶ。「私は白、そして黒、
檸檬色、そして赤といわれる。一つも偽りはない」。同じものは
鴉でもあり、その鳥は翼なしで飛ぶことを常とする。
暗い夜にも、真昼の光の中にも。
なぜなら、どちらの鳥もおまえの術の始まりだからである。

論説第43番。

話す鳥、すなわち人の声をまねる鳥、鸚鵡、鴉、コクマルガラス、鵲の声は、日々いたるところで耳にする。プリニウスは、自分が『博物誌』を刊行したころ、皇帝クラウディウスの妻アグリッピナが、人の言葉をまねる鶫を飼っていたと記す。また若いカエサルたちは、ギリシア語とラテン語に慣らされ、絶えず新しいことを、時には長い言葉の連なりにして話す椋鳥や小夜啼鳥を飼っていた。この種の鳥に出会うことは珍しくないので、いまではそれほど驚くべきこととはされない。練習と習慣づけによって、幅の広い舌をもつ鳥はすべて、このように声を発し、おしゃべりになりうるからである。しかし哲学者たちのいうあの禿鷹は、声を発するとしても、それを練習から学んだのではない。その本性が、それらの言葉を無言のうちに表しているのである。

哲学者たちは、その禿鷹が絶えず叫び、自分が誰で、どのような者であるかを大声で宣言するという。この点で彼は、自分の称号と相続領を布告の冒頭に必ず明示したがる大君主たちをまねている。それは高慢のしるしとしてではなく、人々に、自分がどの領国を支配し、どこに相続権を主張するかを知らせるためである。同様に、哲学の鳥がどのような色を、いわば紋章や称号の標章として備え、他の鳥にまさっているのかを知ることは、大いに重要である。『薔薇園』がヘルメスから引くところでは、彼はいう。「私は白いものの黒であり、赤いものの檸檬色である。確かに私は真実を語り、嘘をつかない」。彼は自分が黒、白、檸檬色、赤であると断言し、実際そのとおりである。後の三つの色をまだ現実には所有していなくても、その継承を待っているからである。そこでロシヌスは『神的解釈の書』でいう。「黒く、白く、赤く、檸檬色である石を取れ。それは驚くべき鳥であり、夜の黒さの中でも昼の明るさの中でも翼なしで飛ぶ。その喉にある苦みから着色が得られ、その血から純粋な水が得られる。アレクサンデルがいったように、息子よ、四色の石を取れ」。これらすべての主要な色が、順番に石の上に現れることを、哲学者たちの書はうんざりするほど繰り返している。

注 引用中の nigrum albi、Citrinus rubei は、原文どおり属格を保って訳した。

さて、哲学的な基体がなぜ禿鷹と呼ばれるかを述べるのも無益ではあるまい。禿鷹のうち黒いものが優勢であり、貪欲だが、体が大きいためにゆっくり飛ぶ。この鳥は雄の種なしで孕み、交尾せずに子を生み、生まれた子は百歳に達するほど長生きするといわれる。高い岩壁に巣を作り、誰もその巣に触れたことがない。雛はたいてい二羽見られる。蛇に対する助けとなる。東風によって孕む。卵を産み始めると、インドの地方から、胡桃のような、内部に動いて時々音を立てるものを含む物体を運んでくる。それを身近に置くと多くの雛を生むが、そのうち一羽だけが残り、イムスルスと呼ばれる。カエリウスに引用されたポントスのヘルモドロスは、禿鷹があらゆる動物のうち最も無害であると証言する。人間が蒔き、植え、育てるものに一切触れず、さらに生き物を何一つ殺さないからである。また、同族の意識のようなものから、死んだ鳥であっても食べない。そのため鳥占いでは最上とされた。ローマ市創建の物語が示すとおりである。

哲学の鳥は、これら禿鷹の性質をほぼすべて示すので、ヘルメスその他の者たちがこれを禿鷹と呼ぶのも理由のないことではない。その鳥も飛ぶのが遅く、色は黒い。自分自身から孕む。『薔薇園』の終わり近くにはこうある。「それは、自分自身を娶り、自分自身を孕ませ、その日に子を生む竜である、等々」。またロシヌスはサラタントにいう。「それは自分自身と交わり、自分自身を孕ませ、一日に子を生む蛇である、等々」。この鳥はきわめて長く生き続け、自分を増殖させる。ウェルギリウスが不死鳥について記すことは、同じ鳥なのだから、こちらにも等しく当てはまる。「足の速い鹿の寿命を、鴉は三倍上回る。だが再生する鳥フェニクスは、鴉の寿命を九倍にする」。

注 人名 sarratant は原刷の綴りを保存した。

この鳥の巣に届くことは非常に難しい。メルクリウスの蛇と戦い、これに勝つ。つまり、太陽が月と戦うのである。風から孕まれ、その腹に運ばれ、大気の中に生まれる。内部に音を立てる小石をもつアエティテスという石は、多くの者によって「全体」と呼ばれる。哲学の巣には、少なくとも一羽のイムスルスが見いだされる。哲学の鳥もまた最も無害な鳥である。誰にも害を与えず、知る者すべてを益し、鳥占いでも最上だからである。しかし、なぜ山に巣を作り、そこに座ってこのように叫ぶのか。ロシヌスがラシスを引いて答える。「右と左にあるきわめて高い山々を眺め、そこへ登れ。そこにわれわれの石が見いだされる。また、あらゆる種類の顔料と霊、あるいは種々のものを産する別の山にも、同じようにそれがある」。モリエヌスもいう。「木々に覆われた高い山々へ登れ。そこにわれわれの石が見いだされ、隠されているからである」。またヘルメスはいう。「祝福された石を取れ。それが抽出される赤い石を粉砕し、洗え。その石は山中に見いだされ、ときには、とりわけ古い下水溝に見いだされる」。

テュフォンは策略でオシリスを殺し、その肢体をあちらこちらへ撒き散らす。しかし名高いイシスがそれらを集めた。

第44フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第44フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第44番。上方5度、または12度。基礎声部のみを比例関係に置く。

注 proportione は音価の比例による演奏指示。

テュフォンは計略でオシリスを殺し、その肢体を散らす。広く名高いイシスが、それらを再び集め合わせる。

逃げるアタランタ。追いかけるヒッポメネス。足を止めさせる林檎。

注 三つの声部の役名。略記は展開した。

シリアにはアドニスが、ギリシアにはディオニュソスが、エジプトにはオシリスがいる。
彼らはいずれも、智の太陽にほかならない。

注 三声部で同じ二行を歌い、末句を反復する。

第44番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳。

シリアにはアドニス、同じくギリシアにはディオニュソス、
エジプトにはオシリスがいる。賢者たちには、これらが太陽として与えられる。
イシスは姉妹であり、母でもあり、オシリスの妻でもある。
テュフォンがその肢体を分けると、彼女は再び一つの体へつなぎ合わせる。
だが彼には男性の器官が欠けていた。水中に失われたのである。
なぜなら、硫黄を生んだ硫黄は、消え去るからである。

テュフォンは策略でオシリスを殺し、その肢体をあちらこちらへ撒き散らす。しかし名高いイシスがそれらを集めた。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第44エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第64番〔原刷の番号。内容は第44番〕。自然の秘密について。

注 原刷の見出しは LXIV。

テュフォンは策略でオシリスを殺し、その肢体をあちらこちらへ撒き散らす。しかし名高いイシスがそれらを集めた。

エピグラム第44番。

シリアにはアドニス、ギリシアにはディオニュソス、エジプトにはオシリスがいる。
彼らはいずれも、智の太陽にほかならない。
イシスはオシリスの姉妹、妻、そして母としてここにいる。
テュフォンが彼の肢体を切り分け、彼女はそれをつなぐ。
しかし恥部は波間へ散らされ、海へ流れ去る。
硫黄を生んだ硫黄は、そこにないからである。

論説第44番。

オシリスの寓意については、別のところ、すなわち『ヒエログリフ』第1巻で、その真の起源である錬金術へと立ち返らせ、十分に説明した。したがって、同じものについては同じことをいうべきだとはいえ、ここで反復するのは余計だと考える。しかしそれでも、ここでは並行する論説を設け、古代錬金術の境界内に終始とどまることにする。その全体は詩人たちによって歌われ、形象化されてきたのである。おまえは私に、オシリスが神、あるいはエジプトの王であったと納得させようというのか。信じるよう説得されたとしても、私は信じまい。諺にいうとおり、犬の臭いと豚の臭いはまったく違うからである。神であることはきっぱり否定する。おまえも異教徒、または正しい理性から逸れた意見の持ち主でなければ、私に同意するだろう。王でもなかったことは、別のところで考察したあらゆる事情から示される。彼は太陽、ただし哲学的な太陽なのである。この名が随所で彼に与えられるのを読んだ俗人たちは、この世界を照らす光以外の太陽を知らないので、それと解釈した。哲学者たちの太陽が世界の太陽から名を取るのは、あの天の太陽に由来する、あるいはそれに適合する自然の性質を含むからである。

したがって太陽とは、オシリス、ディオニュソス、バッカス、ユピテル、マルス、アドニス、オイディプス、ペルセウス、アキレウス、トリプトレモス、ペロプス、ヒッポメネス、ポルックスである。月とは、イシス、ユノ、ウェヌス、オイディプスの母、ダナエ、デイダメイア、アタランタ、ヘレナである。またラトナ、セメレ、エウロパ、レダ、アンティオペ、タレイアでもある。これらは複合体の部分であり、その複合体は操作の前には石と呼ばれ、あらゆる金属の名でも、マグネシアの名でも呼ばれる。操作の後には、オルクス、ピュロス、アポロン、アスクレピオスとなる。付随するものは、テュフォン、ピュトン、猪である。技術者はヘラクレス、ウリュッセス、イアソン、テセウス、ペイリトオスである。彼ら技術者が耐え抜いた労苦と危険は数限りない。ヘラクレスの功業、ウリュッセスの漂泊、イアソンの危険、テセウスの企て、ペイリトオスの足止めを見よ。これは材料と教えの大きな一巻をなし、そこではウルカヌス、メルクリウス、サトゥルヌスが、あらゆる頁を行き来する。サトゥルヌスは万物の父かつ不可欠の条件として、メルクリウスは質料と形相として、ウルカヌスは作用因としてである。

太陽は姉妹の月を妻に迎える。ユピテルはユノを、サトゥルヌスはレアを、オシリスはイシスを娶る。ディオニュソスはユピテルの雷に焼かれた母セメレから救い出され、父ユピテルの腿の中で成熟させられる。アスクレピオスも母コロニスから救い出される。成長したディオニュソスは、インドまで遠征して、新しい酒の飲み方を人間に教える。オシリスとトリプトレモスは穀物の播種と利用を、アスクレピオスは医術の施し方を教える。ギリシア人がディオニュソスと呼ぶ者は、ローマ人にとってはバッカス、エジプト人にはオシリス、シリア人にはアドニスである。

オイディプスは父を殺し、母を娶った。ペルセウスは祖父を殺し、テュフォンは兄弟オシリスを、猪はアドニスを、トリプトレモスの乳母ケレスはその父エレウシウスを殺した。ヒッポメネスは黄金の林檎でアタランタに勝ち、ペロプスの父タンタロスは戦車競走でヒッポダメイアを手に入れた。オシリスは切り分けられたのち、母であり姉妹であり妻でもあるイシスによって再び接合された。少年ペロプスは煮炊きされ、ケレスに肩を食べられたが、象牙の肩を補われて生き返った。アキレウスとトリプトレモスは、夜には炭の下に置かれ、昼には乳で養われた。後者は乳母ケレスに、前者は母テティスにである。アキレウスとヘレナはトロイア戦争の原因となった。ヘレナは動機因として、アキレウスは作用因としてである。ヘレナは卵から生まれた。アキレウスを生んだペレウスとテティスの婚礼では、ヘレナ略奪の最初の原因となったエリスの林檎が投げ込まれた。

注 ヒッポダメイア獲得をタンタロスに帰すのは原文どおり。一般的な神話に合わせてペロプスへ書き換えてはいない。

ポルックスはアルゴナウタイに加わった。彼らは、もし実在したのであれば、トロイア戦争開始のおよそ五十年前に生きたとされる。そしてヘレナはポルックスと同じ卵から出てきた。したがってパリスにさらわれたとき、ヘレナは老婆であったことになる。メデイアはエリュシオンの野でアキレウスと結婚したが、そのときには歯の抜けた老婆であったはずである。もっとも、イアソンの父アイソンに施したように自分にも若返りを施したのかもしれない。ケレスがペロプスを若返らせたため、彼が「二度若者となった者」と呼ばれるようにである。ペルセウスはパラスから翼ある馬を受け取り、そのお返しとしてメドゥサの首を持参した。彼にはメルクリウスが鎌形の剣を、他の神々も別の武器を与えた。トリプトレモスはケレスから、翼ある竜を付けた車を受け取った。ユピテルの頭からパラスが生まれたとき、ロドスには黄金の雨が降った。太陽がウェヌスと交わったときも同様であった。そしてユピテルは、黄金となってダナエと、白鳥となってレダと、郭公となって姉妹ユノと、牡牛となってエウロパと、サテュロスとなってアンティオペと交わった。かくして、あらゆる事柄に符合が存在するのである。

太陽とその影が業を完成させる。

第45フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第45フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第45番。上方3度。基礎声部を転回し、冒頭の音 d から始める。

太陽とその影が、業を完成させる。

逃げるアタランタ。追いかけるヒッポメネス。足を止めさせる林檎。

注 三つの声部の役名。略記は展開した。

基礎声部を転回し、冒頭の音 d から始めよ。

注 譜面横の演奏指示。転回対象の譜面・歌詞は上下逆に印刷されている。

天の明るい松明である太陽は、密な物体を貫かない。
それゆえ、太陽と反対の側には影が残る。

注 三声部で同じ二行を歌う。一部の語句には音楽上の反復がある。

第45番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳。

天の澄んだ光である太陽は、密な物体を通り抜けられない。
それゆえ、太陽から見えない場所には影が残る。
影はあらゆるものの中で、きわめて卑しいものではあるが、
それでも天文学者たちには有用なものとして喜ばれる。
しかし太陽とその影は、賢者たちにさらに多くの贈り物を与えた。
両者は黄金の術を、実際に完成させるからである。

太陽とその影が業を完成させる。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第45エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第45番。自然の秘密について。

太陽とその影が業を完成させる。

エピグラム第45番。

天の明るい松明である太陽は、密な物体を貫かない。
それゆえ、太陽と反対の側には影が残る。
影はあらゆるものより卑しいとはいえ、
その利用によって天文学者に多くの便益をもたらした。
だが太陽とその影は、賢者たちにより多くの贈り物を与えた。
黄金をもたらすこの影が、術の業を完成するからである。

注 最後の aurifera は女性単数で、文法上は umbra「影」を受ける。

論説第45番。

円形ないし球形の宮殿で、一か所にともされた火が周囲の壁の上部も下部もすべて照らし、ただ中央に置かれた机や板が遮って暗い影を生む場所だけが除かれるように、天という大宮殿、あるいは美しく造られた劇場に置かれた太陽も、天の内側全体と、そこに含まれる透明で光を受け入れる物体、すなわちあらゆる惑星と恒星を、その光線で照らす。ただし、中間にある地球の密な体が妨げる場所は別である。そこには夜と呼ばれる黒く暗い影がとどまり、太陽の出現に追い払われ、代わって光が注がれて見えるまで続く。したがって影と夜は、太陽光の欠如ないし不在であり、逆に昼は、その照射と周囲への広がりである。影は太陽のまなざしに耐えられないので、太陽が反対側にあるのに応じて、地球のこちら側、あちら側へと逃れ、身を隠す。太陽と影は互いに一度も見合ったことがない。自然が許せばどの瞬間にも可能なはずだが、太陽は影が自分の敵といわれるのを聞き、逃げる影をつねに追い続け、それを疲れさせて捕らえることは決してできない。ブキャナンが天球についての書で美しく歌ったとおりである。

哲学者たちは、あの大いなる太陽とその影を範例として、それにならい、自分たちの太陽にも黒く、曇った、逃げる影があると観察した。それゆえヘルメスはいう。「息子よ、光線からその影を取り去れ」。すなわち、ウルカヌスの支配する第一動天によって、おまえの太陽を巡らせ、いま影の夜に覆われているおまえの地の部分も、明るい太陽光を享受するようにせよ、ということである。もし第一運動によって、天の蒼穹全体とその中のすべてが、自然日の一日、すなわち二十四時間ごとに一回転せず、太陽が固有の、第二の、年周と呼ばれる運動だけで動くなら、われわれの下にいる対蹠地の人々は、ほぼ半年の間ずっと夜を過ごし、われわれは一日の昼を過ごすことになる。その後は逆に、彼らが昼、われわれが夜となり、一年全体が一つの夜と一つの昼から成り立つ。ちょうど現在、両極の下では、この交替が経験と理性によって真実であると確証されるようにである。しかし神の摂理はまったく別のことをよしとした。それゆえ惑星に第一と第二の二重の運動を定め、こうして一年を多くの日に分けた。

注 宇宙構造と運動の説明は著者の地球中心的な体系に従う。

その影と太陽は、ともに昼と夜を作る。これは太陽単独ではできないことである。太陽の役目は、向かい合う場所と物体をすべて照らすことであって、影を作ることではないからである。ただし自分の不在によって、偶然的に影を生じさせる場合は別である。同様に、哲学的な太陽も自分の影とともに昼、すなわち光と、夜、すなわち暗闇を作る。その暗闇とはラトナ、またはマグネシアである。デモクリトスは、その影を火の薬で消し去り、焼き尽くさねばならないと教える。『黄金の食卓』第3巻の冒頭に明らかなとおりである。天文学における影の有用性はきわめて大きく、影なしではその学問はほとんど完成できない。錬金術師たちも、自分たちの術が完成に達することを、その影に帰している。ここで影のない太陽とは何か。鐘のない撞木と同じである。撞木は音を生じさせる最初の運動をするが、音を出すのは鐘である。あちらは撥、こちらは楽器、あちらは舌、こちらは大きな口である。

影はきわめて卑しいもので、非存在に近い。哲学者たちの影も同様に、彼らのいう「黒よりも黒い黒いもの」、あるいは海藻よりも価値のないものである。それ自体のためではなく、人間の評価と豊富さのためにそうされるのである。火より役立つもの、水より貴重なもの、花や愛すべきものすべてを与える土より愛すべきものがあるだろうか。空気より快いものがあるだろうか。それが遮られれば、すべての快さが失われる。それでも、それぞれの広大な領域に人間の用のためにふんだんに存在するので、倒錯した想像によって、きわめて卑しいものと見なされる。普通の影も哲学的な影も、同じように評価される。地下の暗がりに長く暮らした者は、突然明るい太陽光の中へ連れ出されると、視力と眼の鋭さを失う。同様に、哲学的な影だけにとどまって作業し、それに太陽を結びつけない者は、判断力と心の眼を奪われ、成果を得られずに終わる。

天の太陽が正午に高く昇ると、熱はいっそう大きく、影はいっそう小さくなる。こちらでも同様に、熱が増すと影が減り、その逆も成り立つ。ゆえに太陽が磨羯宮にあり、南の側からわれわれの頭上へ再び向きを転じるときに始めるべきである。最初の操作は白羊宮までに終わる。その後、獅子宮まで女たちの仕事が始まる。そしてさらに労苦から労苦が生じ、一年が蛇のように頭で尾をつかむ、すなわち完結するまで続く。

二羽の鷲が、一羽は東から、もう一羽は西から来て出会う。

第46フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第46フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第46番。往復するフーガ。

二羽の鷲が、一羽は東から、もう一羽は西から来て出会う。

逃げるアタランタ。追いかけるヒッポメネス。足を止めさせる林檎。

注 三つの声部の役名。略記は展開した。

第一声部は初めから開始せよ。第二声部は終わりから、初めに向かって歌え。逆行せよ。

注 最終の「逆行せよ」は林檎の声部に付く。

ユピテルはデルポイから二羽の鷲を放ち、
東と西の地方へ向かわせたと伝えられる。

注 三声部が同じ二行を歌う。逆行のため、一部の歌詞は逆順に置かれる。

第46番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳。

ユピテルはデルポイから二羽の鷲を放った。
地が尽きるほど遠い東と西へ向けて。
地の中心を知り、確かめたかったからである。
すると、伝えられるところでは、二羽は同時にデルポイで再び姿を見せた。
しかし、それらは二つの石なのである。一つは東から、もう一つは西から来る。
両者は合流し、一つにしっかりと結び合わされる。

二羽の鷲が、一羽は東から、もう一羽は西から来て出会う。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第46エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第46番。自然の秘密について。

二羽の鷲が、一羽は東から、もう一羽は西から来て出会う。

エピグラム第46番。

ユピテルはデルポイから二羽の鷲を放ち、
東と西の地方へ向かわせたと伝えられる。
世界の中央の場所を調べたいと願ったとき、
伝承によれば、二羽は同時にデルポイへ戻った。
だがそれらは二つの石であり、一つは東から、
もう一つは西から来て、よく合わさるのである。

論説第46番。

キケロは『神々の本性について』で、最古のアポロンはウルカヌスから生まれたアテナイの守護者であると伝える。この説は、当然そうすべきように寓意へ移して理解すれば、まったく真実である。ウルカヌスは、アポロンである哲学的な太陽を生み出すからである。しかし、ユピテルから生まれたという説が一般に広まった。さてラトナが、ユピテルによって孕んだ双子アポロンとディアナを胎内に宿していたとき、嫉妬深いユノは、恐ろしく巨大な蛇ピュトンを遣わし、妊娠した彼女を追い回して苦しめさせた。哀れな女は長い漂泊ののち、ついに舟でオルテュギア島へ、そこで女王となっていた姉妹アステリアのもとへ運ばれた。島はほぼ全体を海に覆われていたが、産気づいたラトナに場所を与えた。そのため、以前は「アデロス〔見えない〕」だった島が、「デロス〔明らかな〕」と呼ばれた。そこで彼女は子らを産んだ。最初に胎から出たのはディアナで、兄弟アポロンの出産に苦しむ母の産婆となった。このため妊婦たちは出産の際に彼女の神威を呼び求め、ルキナ、あるいはイリテュイアと呼んだ。彼女は生まれた赤子の眼を開き、光を見せるからである。

こうして生まれ成長したアポロンは、母を苦しめたピュトンを矢で殺し、さらにキュクロプスたちを殺した。彼らが、彼の息子アスクレピオスを殺すための雷を、ユピテルのために作ったからである。ユピテルは、アスクレピオスが馬に引き裂かれたヒッポリュトスを生き返らせたため、彼を雷で撃って冥界へ落とした。これらが純粋に錬金術の事柄であることは、われわれが多くの箇所で示した。ラトナ、キュンティア、アポロン、ピュトンは、この術に必要なものであり、語られたとおりの相互関係にある。しかし、オルフェウス、リノス、ムサイオス、ホメロスなどの最古の詩人たちが、これを著作によって広めたため、無知な者たちのあいだでアポロンの宗教と崇拝が生まれるきっかけとなった。それゆえアポロンはヨーロッパとアジアの多くの場所で礼拝され、無数の神殿が建てられた。とりわけデルポイには、古来の信仰ゆえに崇敬される神殿があった。そこには王侯によって、純金と銀からなる、重く巧緻な多数の像が納められていた。また、あらゆる身分の人々が信仰のために聖所へ納めた、きわめて高価な奉納品もあった。パウサニアスは、ヒッポクラテスが驚くべき技巧の青銅製骨格を神殿の丸天井に吊るしたと伝える。

また、あの有名な三脚もアポロンに奉納された。ペロプスが、エリス王オイノマオスの娘ヒッポダメイアを妻に迎えた際に捧げたもので、ムルキベルが作ってペロプスに贈った三脚である。それは神殿の中央に据えられ、巫女ピュティアはその上に座って、深い裂け目から噴き出すダイモンの息吹を受け、それに憑かれて予言し、将来の出来事の成り行きを尋ねる者たちに返答した。デルポイはボイオティアのパルナッソス山麓に位置していた。神殿の近くには、カッシオティスという神託の泉があった。燃える松明を近づけると消し、遠ざけると突然火がついて燃え上がった。この泉の水を飲むと予言の力が与えられたが、飲む者たちの寿命は短くなった。

注 デルポイをボイオティアに置く地理記述、および泉の表記 Cassiotis は原文どおり。

こうしてヨーロッパとアジアのあらゆる地方から人々がデルポイの神託へ集まったので、詩人たちはその場所、すなわちパルナッソスが地の中央にあるという物語を作り、ユピテルが二羽の鷲を放ってそれを確かめたという例によって証明した。しかしこの話は歴史的な確証に支えられていないので、錬金術の事柄に帰することは真実から遠くない。とりわけ、前述のように、アポロン全体が起源において錬金術的だからである。後にダイモンがその名のもとに人間の迷信を強め、予言を与えたとしてもである。二羽の鷲は二つの石であり、一つは東から、もう一つは西から来る。哲学者たちはこのことを多くの仕方で示した。ユピテルがこれらを放ったのは、彼の武器を運ぶ者たちだったからである。

鷲はアポロン、すなわち太陽の友であるように見える。雛を太陽に向かわせて試し、その光に耐えられなければ、血筋にふさわしくないものとして追い出すからである。その羽は、他の物と一緒に置かれても腐らず、他の鳥の羽を食い尽くし、容易に金箔を受け入れるといわれる。老衰でも病気でもなく、飢えによって死ぬ。上嘴の鉤状の曲がりが伸び、餌を取れなくなるからである。その部分を落とすと、泉に三度身を浸し、こうして若さへ戻るといわれる。それゆえ詩篇の作者はいう。「おまえの若さは鷲のように新たになる」。飛ぶもののうち、鷲は決して雷に打たれない。竜とは争い、そのため竜は鷲の卵を狙う。こうした自然の賦与する性質すべてが、哲学者たちが自分の術において鷲を称え、石をそれにたとえる理由となった。その例は彼らの書に無数に見いだされるので、ここではこれ以上挙げない。

東から来る狼と西から来る犬が、互いに噛み合った。

第47フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第47フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第47番。上方の二重8度。

東から来る狼と西から来る犬が、互いに噛み合った。

逃げるアタランタ。追いかけるヒッポメネス。足を止めさせる林檎。

注 三つの声部の役名。略記は展開した。

第11音から始め、逆行せよ。

太陽が昇るところから狼が来る。一方、太陽が海へ
沈むところから犬が来る。両者とも胆汁で膨れ上がっている。

注 三声部で同じ二行を歌う。逆行する箇所および語句の反復がある。胆汁は怒りを表す。

第47番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳。

狼は日の昇る方から、犬は日の沈む方から
走って来る。この二匹には胆汁が大量にたまっている。
あちらがこちらを、こちらがあちらを、激怒して噛んだ。
そして互いに狂暴さをもって引き裂いた。
これらは二つの石であり、誰にも無償で与えられる、
あらゆる場所と時に。おまえはこれらを、よく保っておけ。

東から来る狼と西から来る犬が、互いに噛み合った。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第47エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第47番。自然の秘密について。

東から来る狼と西から来る犬が、互いに噛み合った。

エピグラム第47番。

太陽が昇るところから狼が来る。一方、太陽が海へ
沈むところから犬が来る。両者とも胆汁で膨れ上がっている。
激情に駆られ、あちらはこちらを、こちらはあちらを噛み、
両者の開いた口は狂暴に見えた。
これらは双つの石であり、いたるところで無償で
すべての者に、いつでも与えられる。おまえはこれらを手に保て。

論説第47番。

イサク、アルノルドゥスその他の哲学者たちは、多くの箇所で、われわれに無償で与えられる二つの石に言及した。その中でアウィケンナは、それらが糞の中に打ち捨てられ、俗人には顧みられず横たわるが、両者を結合すれば大いなる業を完成すると述べる。ある者たちは、金にまさると自らを誇り、金に勝った西方のメルクリウスを讃える。しかし何よりよく二つの石を記述するのは、『太陽と月の結婚の助言』の著者が引く、アリストテレスの書簡である。そこにはこうある。「この術には、驚くべき本性をもつ白と赤の二つの主要な石がある。白い石は日没に水の面の上へ姿を現し始め、真夜中まで身を隠して、その後深みに向かう。赤い石は逆の働きをする。日の出から正午まで水上に昇り始め、その後深みへ降りるのである」。

したがって、これらの石は、先に述べたユピテルがデルポイで放った鷲である。また、地の異なる、あるいは反対の地方から来る狼と犬でもあり、ラシスが書簡で証言するように、一方が他方を噛み、両者とも狂暴になった。これらの石は、まことに真正なベゾアールである。ベゾアールの最上のものは東インドから送られ、野獣の腹から取り出される。別の、効力の劣るものは、西インドのペルーから来て、飼いならされた動物から採られる。同様に、東はきわめて凶暴な狼を、西は人に親しい犬を与える。つまり硫黄は東方から、メルクリウスは西方から来る。後者は柔らかく扱いやすいが、前者は胆汁質で怒りっぽい。この二つは出会うや否や、互いに噛みつき始める。大きさにおいて際立つ犬は、狼を倒して半死半生にし、最初の勝利を得る。しかし狼は力を取り戻し、その後犬を倒し、倒れた犬を死に至るまで攻め立てる。その間、犬に与えたのに劣らず大きく致命的な傷を、自分も犬から受ける。そして互いの咬傷によって、両者はついに弱り果て、殺し合う。

狼について、ロシヌスはエウティキアにこういう。「それは二者に勝つ兵士であり、強められ、きわめて貴重で、きわめて強い力を備え、出会う物体を貫く。外観は白く、試してみれば赤い。それは月を妻に迎えた男性である。ある者たちはそれを、きわめて貴重な結合をもつ金で、その凝固したものは決して溶けず、痕跡も消えないもの、神が聖なる、選ばれた哲学者たちに賜ったものだと考える。知れ、自然はその伴侶を敵として捕らえたのである」。以上が彼の言葉である。続けて、「硫黄はきわめて強く、火に抗して戦うものであり、包み込み、また包まれる。これらが結合すると、きわめて貴重な色が生じる。本来逃げ去る硫黄も、その後はもう逃げることができない。魂がそれを貫き、同様に魂のティンクトゥラが体を貫いて混じり合い、体は魂を包み込み、その自然な逃走を妨げたからである」。さらに、石のどちらが強いかという問いに答える。「石でない石は、敵であるもう一方より強い。しかし赤いものは、自分の強さで仲間を強めたものよりも強い」。

したがって東方の狼は西方の犬より強い。とはいえ勝利の成果を手にするのではなく、敵とともに死ぬ。しかし両者から、染める毒が生じる。狼と犬の違いはわずかである。モロッソス、すなわち巨大な犬は狼の姿かたちを示し、もとは狼で、長い世代を経て飼いならされたように見えるからである。同じように、硫黄とメルクリウスの違いもわずかである。前者は後者から、あるいは後者は前者から生じるからである。実際、メルクリウスは硫黄を生んだが、硫黄はメルクリウスを浄化して、そのようなものにした。

このことについて、同じロシヌスは「その色はどこから来るのか」という問いに、「そのきわめて強い苦みから」と答える。彼女が「その苦みと強さはどこから来るのですか」と尋ねると、「その金属の不純さから」と答える。彼女はいう。「その赤い色が際立つことはないのですか」。答えは「ある」。さらに彼女は「火より熱くなることもないのですか」と問う。彼は答える。「それに比べた火は、火に比べた水のようなものである」。彼女は「では、火より強いのですか」と問い、彼は「否」と答える。彼女は「それなら、なぜ火より強いと断言するのですか」と尋ねる。彼は答える。「火と火が出会うと、一方が他方を食らうからである」。

注 問いと答えの見かけ上の矛盾は原文どおり。

したがって、一方が他方の養分と食物となり、一方が減る分だけ他方が増え、増すほうが優勢となって竜が蛇を飲み込むまで続くことは明らかである。大きな戦いでは、より大きな損害を受けた者たちが、戦場と勝利を得ることがしばしばある。犬も同様に、倒されはしても、完全に敗北して死んだわけではない。敵をあまりにしっかり捕らえているので、敵は犬なしには生きられず、犬も敵なしには死ぬことができないからである。

王は飲んだ水から病を得、医師に治療されて健康を得る。

第48フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第48フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第48番。上方5度、または12度。単純声部を転回し、初めから。

王は飲んだ水によって病を得るが、医師に治療されて健康を得る。

逃げるアタランタ。追いかけるヒッポメネス。足を止めさせる林檎。

注 三つの声部の役名。略記は展開した。

この声部を転回し、冒頭の音 d から終わりまで進め。

富と民の数によって強大な王は、泉の水を好み、
自分の望む水を僕たちに運ばせた。

注 三声部で同じ二行を歌う。末尾の声部は転回用に上下逆に印刷される。

第48番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳。

財と人々を多く擁する王は、何よりもある泉の水を
好み、召使いたちにそれを運ぶよう命じた。
何度も飲んだあげく、血管がその水で重く満ちたと感じ、
すっかり顔色を損なって、名高い医師たちに引き受けられた。
その医師たちが、汗、便、そして口を通して彼を浄化すると、
すぐさま彼の頬は、薔薇のように赤くなって現れた。

注 最初の語は原刷の Einm を保存した。

王は飲んだ水から病を得、医師に治療されて健康を得る。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第48エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第48番。自然の秘密について。

王は飲んだ水から病を得、医師に治療されて健康を得る。

エピグラム第48番。

富と民の数によって強大な王は、泉の水を好み、
自分の望む水を僕たちに運ばせた。
それを飲み、また飲むと、やがて血管がそれで満ち、
顔色を変えた王は名医たちに引き受けられる。
医師たちによって、汗、腹、
そして口を通して浄化されると、両頬はたちまち薔薇色に染まった。

論説第48番。

あの強大なペルシア王クセルクセスは、暑さの中、乾いた荒野を軍を率いて進み、渇きに苦しんでいたとき、一人の兵士が差し出した一杯の濁り水を拒まず、大いに喜んで飲み、それを贈り物として持参した兵士に、非常に大きな報酬を与えた。実際、ごく最近の記録が伝えるところによれば、いまペルシアの領内を旅しても、甘い水の泉を見いだすのはきわめてまれだという。よどんだ水は塩辛く、地面そのものも、表面にきわめて多量の塩分を呈するからである。同じように、哲学者たちが述べる王も渇きに苦しみ、甘い水を豊かに用意するよう命じ、運ばれてくると満足するまで飲んだ。メルリヌスの寓話から誰にでも明らかなとおりである。

病んで顔色の変わった王の治療は、さまざまな医師が引き受けた。エジプト人たちは薬を飲ませて、まだ未熟な体液を動かした。ヒッポクラテスによれば、体液は流動してさまようものでないかぎり、まず熟成させてから排出すべきである。流動している場合には、重要な部位や内臓へ勢いよく押し寄せないよう、すぐに外へ導かなければならない。このため王には、失神の前兆や意識喪失といった危険な症状が生じた。しかし最後に、病が慢性化してから到着したアレクサンドリアの医師たちは、王を元の健康へ戻したので、より幸運であったとされた。このような偉大な王を治すのは、労に値する。治った王は医師に、好意ある手と穏やかな顔を差し向けるからである。

注 体液の熟成と排出は著者の時代の医学観に従う記述。

多くの治療が、さまざまな王から十分に報われたことをわれわれは読む。たとえばデモケデスはサモスの僭主ポリュクラテスから二タラントンを受け、エラシストラトスは、継母ストラトニケへの恋に病むアンティオコス王を治したことで、その息子プトレマイオスから百タラントンを受けた。プリニウスによれば、エラシストラトスはクリュシッポスの弟子で、アリストテレスの娘から生まれたという。フランス王ルイ11世の医師ヤコブス・コテリウスも、王から毎月四千クラウンを俸給として受けた。他のもっと近代の例には触れない。しかし、ここでいう王の治癒には、これらよりはるかに大きな報酬が与えられる。『薔薇園』ではヘルメスとゲベルがこういう。「ひとたびこの術を完成させた者は、百万年生き、毎日四千人を養わなければならないとしても、欠乏することはない」。セニオルもこれを確認していう。「エリクシルの作られる石をもつ者は、そのように豊かである。それは火をもつ者が、自分に危険も欠乏も生じさせず、望む相手に、望むとき、望むだけ火を与えられるのと同じである」。

注 医師の系譜・王名の関係は原文の記述を保存した。

デモクリトスの父は、クセルクセスの軍勢に宴を供するほど富裕であった。また、非常に裕福なピュティウスという者は、同じ王に全軍の五か月分の俸給と食糧を申し出た。ただし、五人の息子のうち末の一人を、老いの慰めとして家に残し、王の軍営へ行くことを強いられずにすむよう許してほしいという条件であった。しかし野蛮な王はピュティウスの願いに激怒し、末の息子を二つに切り分け、全軍が通る王道の両側に、杭に打ちつけるよう命じた。サベリクスが『エンネアデス』第3集第2巻に記すとおりである。だが、彼らの財産も、この王の富に比べれば無に等しい。この王の富には尺度も数もないからである。

治癒し、水から解放されたこの王を、すべての王と他国の権力者たちは尊敬し、恐れた。そしてその驚異を見ようとするときには、よく洗ったメルクリウス一オンスを坩堝に入れ、王の爪、髪、または血から黍一粒ほどのものをその上に投じ、炭火に軽く風を送り、炭とともに冷えるに任せた。すると、私の知るような石が見いだされた。これこそベルンハルドゥス伯が述べる王である。王は六人の廷臣それぞれに、自分が所有するのと同量の王国を与える。ただし、王が浴中で若さを取り戻し、さまざまな衣、すなわち黒い胴衣、白い肌着、紫紅の血で飾られるまで待つことが条件である。そのとき王は、一人一人に自分の血を分け与え、自分の富を彼らにも共有させると約束する。

哲学的な子は、オリオンのように三人の父を認める。

第49フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第49フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第49番。上方5度。基礎声部、すなわち逃げる声部を転回し、冒頭の d から始める。同様に単純声部を転回し、終わりの g から始める。

哲学的な子は、オリオンのように三人の父を認める。

逃げるアタランタ。追いかけるヒッポメネス。足を止めさせる林檎。

注 三つの声部の役名。略記は展開した。

この声部を転回し、冒頭の d から始めよ。終わりから始め、この声部を g で転回し、a へ下行せよ。

注 前半はアタランタ、後半は林檎の声部に付された演奏指示。

物語は語る。ポイボスとウルカヌスとヘルメスが、
牛の皮に種を縫い込んだという。

注 三声部で同じ二行を歌う。アタランタ声部は上下逆、林檎声部は逆順の歌詞を伴う。

第49番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳。

ポイボス、メルクリウス、火の神は、物語が示すように、
牛の皮の中へ、それぞれの力ある種を入れた。
そしてともに、偉大なオリオンの三人の父となった。
同様に、智の息子にも三人の父があるという。
太陽が第一、ウルカヌスが第二の父と認められ、
第三には技術者が、その父と呼ばれる。

哲学的な子は、オリオンのように三人の父を認める。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第49エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第49番。自然の秘密について。

哲学的な子は、オリオンのように三人の父を認める。

エピグラム第49番。

物語は語る。ポイボス、ウルカヌス、ヘルメスが、
牛の皮に種を縫い込み、
ともに偉大なオリオンの三人の父となったという。
いや、智の子も同様に三人の父をもつと伝えられる。
太陽が第一、ウルカヌスが第二と
いわれ、術に優れた者が、この子の第三の父である。

論説第49番。

さまざまな男に身を売る女たちは、異なる種が混じり合うため、生き続けられる子を身ごもることがまれである。自然は、人間と大半の動物の生殖において、きわめてまれな場合を除いて、重複妊娠を許さないからである。したがって、子は一人であれ複数であれ、一人の父と一人の母から生まれる。このことは、別の考え方をした者たちの物語とその結末からも明らかである。とりわけ、ヘンネベルク伯ヘルマンの妻、あのマルガレータの例がある。彼女は1276年に三百六十五人の子を産んだ。全員が洗礼を受け、男児はヨハン、女児はエリーザベトと名づけられ、その後に死んだ。彼らの墓は、オランダのハーグから海の方へ一里離れたラウスドゥネンの教会で、洗礼に用いられた青銅の鉢と、その物語を記した碑文とともに、いまなお見られる。

注 生殖についての主張と三百六十五人の出産の物語は原著の記述であり、現代医学上の事実として提示するものではない。

その理由はこうだという。伯爵夫人は、貧しい女が双子を腕に抱いているのを見て、その女を姦通した者と呼んだ。一人の男から一度の懐胎で複数の子が生まれるはずはなく、必ず異なる男たちによるはずだと考えたのである。そこで、その罪に身の潔白を知る貧しい女が呪いの言葉を発すると、夫人は一年の日数と同じだけの子を、一度に、一人の男から胎内に宿した。これは確かに奇跡だが、神の報復によって生じた自然の働きである。しかし哲学的な業においては、通常なら自然に反することも、寓意の衣のもとで容易に受け入れられる。そこでは一人の子に三人、あるいは二人の父があり、母も同様だといわれる。『薔薇園』が引用するライムンドゥスはいう。「われわれの子には二人の父と二人の母がある。そしてその子は、火の中で全実体から大切に養われたため、決して死なない」。ディオニュソス、すなわちバッカスも、二人の母をもつと呼ばれる。母が焼かれたとき、父がまだ未熟な彼をその腹から救い出して自分の腿に縫い込んだので、父が母になったのである。

しかし、これはオリオンの受胎に、いっそう明らかに示される。彼は、アポロン、ウルカヌス、メルクリウスの混じり合った種が、十か月のあいだ牛皮の中に閉じ込められたのち、生まれたといわれる。この覆いの下に、誰にでも明らかなわけではない自然の秘密が隠れていなければ、これらは単なる作り話にとどまらず、まったく異常な話となるだろう。ルルスは『遺言』の理論篇で、同じ哲学的な子に、同数でほぼ同じ父たちを割り当てる。すなわち太陽であり、これはアポロン、あるいは天の太陽であって、この生成の最初の創始者である。それは、言い表せない隠れた、すなわち星辰的な力によって、哲学者たちに知られるある質料に、女の子宮に働くように働きかけ、その中に自分に似た息子、すなわち子を生み出す。その子に後には、父の権利として、自分の武具と諸力の標章を授け、遺すのである。すなわち、未熟なものを成熟させ、染まらず浄化されていないものを染め、浄化する力である。

注 牛皮に閉じ込められる期間は、原刷で per 10 menses と読める。

太陽が千年で成し遂げることを、その息子は半時間で果たすからである。それゆえ、息子の力を太陽の千倍も強くするため、父は彼をウルカヌスと技術者の双方に訓育を委ね、その高貴な資質を磨かせ、力を増幅させる。幼いころから慣れることが、大きな意味をもつのは明らかだからである。同じ目的から、アキレウス、イアソン、ヘラクレスも、教育のためケイロンに預けられた。クロトンのミロンは、少年のころ子牛を担いでいたので、習慣によって、成人して牡牛を持ち上げた。太陽に加えてウルカヌスと技術者も、この子の父と呼ばれるのは正当である。第一の父は子を存在させ、後の二者は、子をこのように、かくも偉大にしたからである。生んでもらったことに対する親への報酬が釣り合いようのないのと同じく、教育に対する教師への謝礼も、釣り合う額を払うことはできない。親は体を形作り、教師は心を形作る。心が体より尊いなら、教師への感謝も親への感謝に劣るべきではない。

さてオリオンの誕生では、メルクリウスが質料を、アポロンが形相を、ウルカヌスが熱、すなわち外的な作用因を与えた。哲学的な業においても、同じように行われるのが適切である。こうして三人の父は、一人の子を生むために協力したと見なされ、その子のうちに哲学者たちの喜びがある。

竜は女を、女は竜を殺し、同時に血を浴びる。

第50フーガ。三つの声部の楽譜、ドイツ語標語と詩を含む1618年刊本の頁
第50フーガの原刊楽譜Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

フーガ第50番。下方3度、または10度。

竜は女を、女は竜を殺した。そして両者とも血を浴びせられる。

逃げるアタランタ。追いかけるヒッポメネス。足を止めさせる林檎。

注 三つの声部の役名。略記は展開した。

毒をもつ竜のために、深い墓を掘れ。
女をその竜へ、しかるべき結びつきで固く結べ。

注 三声部で同じ二行を歌う。

第50番。ラテン語エピグラムのドイツ語訳。

毒竜のために深い墓を掘らせよ。その竜に女は、
自分の体を固く結びつけられるべきである。
竜が夫のように彼女との愛を味わっているあいだに、
女は死に、竜とともに地中へ葬られる。
そこから竜もまた死に、赤い血を浴びせられる。
これがおまえの業の、ひるまず進むべき真の道である。

竜は女を、女は竜を殺し、同時に血を浴びる。 1618年刊本の銅版画とラテン語短詩
第50エンブレムCourtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

エンブレム第50番。自然の秘密について。

竜は女を、女は竜を殺し、同時に血を浴びる。

エピグラム第50番。

毒をもつ竜のために、深い墓を掘れ。
女をその竜へ、しかるべき結びつきで固く結べ。
竜が婚床の喜びを味わっているあいだに、
女は死ぬ。竜も彼女とともに土で覆われよ。
その後、竜の体は死へ引き渡され、血に
染まる。これがおまえの業の真の小道である。

論説第50番。

竜の住まいは地の洞穴にあり、人間の住まいは地上のすぐ近くの空気の中にある。この二つは互いに反する元素であり、一方が他方に作用するよう、哲学者たちは両者を結合せよと命じる。女によって〔鷲を〕理解する者たちもいる。たとえばバシリウスは第2の鍵でいう。「鷲が高山に巣を設けることは有益でない。山頂の雪の冷たさで、雛が死んでしまうからである。しかし、長いあいだ岩の中に住み、地の洞穴から這い出る冷たい竜を鷲に加え、両者を冥界の座に置くなら、プルートーは風を吹きかけ、冷たい竜から揮発性の火の霊を引き出す。その霊は大きな熱で鷲の羽を焼き、汗を催す浴を生じさせ、山頂の雪が溶けて水になるほどにする。それによって鉱物性の浴がよく調えられ、王に幸運と健康を与える」。

冷たい竜が自分から火なる霊を放つことは、確かに驚くべきことである。しかし、蛇を燃やすと、そばにいる者を害する毒の炎を発するという経験が、このことの真実を示す。黄金の羊毛、ヘスペリデスの園、カドモスに関わる竜やその類が、錬金術の宝を守り、炎を吐くといわれるのも無意味ではない。この竜は地下の岩の狭い場所に住んでいる。そこで捕らえ、鷲または女に結びつけなければならない。女になら墓の中で、鷲になら、好むなら巣の中でそうする。というのも竜の本性は、通常、鷲の卵を狙い、鷲と死闘を演じることだからである。ギリシアの著者の中には、かつて竜が少女を愛し、彼女と交わったと伝える者もいる。それなら、哲学者たちが、自分たちの竜を女と一つの洞穴へ閉じ込めるべきだとすることに、何の不思議があろうか。

注 蛇の燃焼については、原著の自然観に属する記述。

グレウェルスは赤い竜と黒い竜を山の最深の淵で結合させ、火で焼く。そして黒い竜たちが死ぬと、山の番人が四方からそれらを探し集め、山の中へ運び込むと述べる。メルリヌスは、その『幻視』が偽作でないならば、白い竜と赤い竜に言及する。これらの竜が何であれ、一方が女であっても雌の竜であっても、両者は互いに作用し、ついには両方が死んで、傷から血を流し、それを浴びる。ここでは、竜によって地と火の元素、女によって風と水の元素が意味される。それゆえ『ラッパの響き』は、「竜とは、そこから水を蒸留した後、底に残る質料である」と述べる。

またヘルメスから引いていう。「天と地の間に存在する空気の水は、あらゆるものの生命である。その水は体を霊へと溶かし、死んだものを生きたものにし、男と女の婚姻を成す。まことに、この術の恩恵すべてを成すのである」。さらに地についてこう述べる。「なお理解せよ、われわれが踏んでいるこの地そのものは真の元素ではない。むしろ、それ自身の真の第五元素によって元素化されたものである。そして第五の元素的実体は、その元素化された体、すなわち地がそこから形作られた体を離れない」。続けて、「しかし地の中心には処女と真の元素があり、火はそれを焼くことができない。これが、われわれの語る竜である。それは地の中心まで入り込み、そこには大きな熱があるため、自らの内に燃え盛る熱を宿し、それによって女、すなわち鷲を焼く」。

さて、女あるいは鷲は、空気的な水である。ある者たちはこれを白い鷲、あるいは天の鷲と呼び、普通のメルクリウスや昇華した塩類から作ろうと苦心する。その際、この術については盲人でありながら、リンクスのような鋭い眼をもつふりをする者たちの導きに従っている。しかしベルンハルドゥス伯は書簡でいう。「まことにおまえにいう。自然的な還元によって金属種を溶かす水は、その金属に質料と形相においてとどまり、金属自体が再び凝固させることのできる水以外にはない」。そして続けて、「凝固のときに物体とともにとどまらない水は、溶解のときにもその物体に適していない」。少し後には、「まことにおまえにいう。諸本性を自然に蝋状に軟化させて結びつけ、染められるべき他の物体の中へ自然に薬を導入する油は、外来の別のものから作られるのではなく、ただ溶かされるべき体の内臓からのみ作られる」とある。

したがって、このことを理解すれば、鷲と女、さらには竜と、この術のほぼすべての秘密が理解される。それらをわれわれはここまで、教えの子らに対して、自然の懐をおそらくあまりにも広く開きながら、示し、説明してきた。これによって、神に栄光があるように。

フーガ索引・音楽の訂正

原刊フーガ索引 原典スキャン216
原刊フーガ索引Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

アタランタのフーガ索引。

二度のフーガ。
第10番。下方へ、b と a。
第12番。上方へ、a と b。
第28番。上方へ、または九度、g と a。
第29番。下方へ、または九度、a と g。

注 索引は模倣声部の音程と方向、および音名を挙げる。音名は原字を保存し、現代の調名には置き換えない。

三度。
第7番。上方へ、または十度、f と a。
第15番。下方へ、a と f。
第17番。上方へ、f と a。
第20番。上方へ、d と f。
第39番。上方へ、または十度、g と b。
第41番。下方へ、g と e。
第50番。下方へ、b と g。

四度。
第1番。下方へ、d と a。
第3番。下方へ、d と a。
第4番。上方へ、d と g。
第6番。下方へ、g と d。
第13番。上方へ、a と d。
第21番。上方へ、a と d。
第31番。上方へ、a と d。
第42番。上方へ、a と d。

五度。
第2番。下方へ、d と g。
第5番。上方へ、a と d。
第9番。上方へ、b と f。
第16番。上方へ、d と a。
第22番。上方へ、d と a。
第23番。上方へ、または十二度、g と d。
第24番。上方へ、または十二度、d と a。
第25番。下方へ、または十二度、d と g。
第33番。上方へ、g と d。
第33番。下方へ、d と g。
第43番。下方へ、d と g。
第44番。上方へ、d と a。
第48番。上方へ、d と a。
第49番。上方へ、d と a。

注 原刊の索引は33を二度印刷し、32と46を載せていない。誤植の可能性があるが、黙って番号を直さず原文を保持した。

六度。
第11番。上方へ、f と d。
第19番。下方へ、d と f。
第38番。上方へ、b と g。
第40番。下方へ、d と f。

七度。
第18番。上方へ、g と f。
第30番。下方へ、または十四度、f と g。
第35番。上方へ、g と f。
第36番。下方へ、f と g。

八度。
第8番。上方へ、d と d。
第14番。下方へ、d と d。
第26番。二重に下方へ、d と d。
第27番。上方へ、d と d。
第34番。下方へ、d と d。
第37番。上方へ、g と g。
第45番。上方へ、d と d。
第47番。上方へ、g と g。
終わり。

原刊の音楽訂正表 原典スキャン217
原刊の音楽訂正表Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

音楽を愛する人への注意。

私はこれまで、エピメテウスよりもプロメテウスの役を果たしたいと思ってきた。そのため、これらの音楽的フーガに関することはすべて、最も注意深く書き、見直した。しかし、よく考えて決めたことでも、ときには悪い結果に終わる。こうして、私自身が不在の間に、どうしたわけか、これらのフーガの多くの音符が入れ替わり、望んだとおり正しく印刷されなかった。そこで私は、主として前に掲げた歌について、ここに訂正の注意を記すことを余儀なくされる。音楽に通じた者なら、私が注意しなくとも、各フーガが、個々の音符の音価、上行、下行のすべてにおいて、それ自身と相似でなければならないことを容易に認めるだろう。ただし、一つの声がほかの声を異なる音高で追う点は別である。したがって、どこかに正しく置かれていない箇所が見つかれば、自分で印刷上の誤りを直せるはずである。ひとまず、ざっと通読した際に気づいたいくつかの誤りを、例としてここに掲げる。音楽の通常の表し方からは外れるかもしれないが。

注 プロメテウスとエピメテウスの名は「先に考える者」と「後から考える者」を対比する。音価は原語名を音写する。二分割を前提とすればセミブレウィス、ミニマ、セミミニマ、フーサの順に半分ずつとなる。現代譜への置換や演奏用校訂は行っていない。

第2フーガ、16頁、3行、第4音はセミミニマとし、a でなく d に置く。歌詞 Romulus の上。

第6フーガ、32頁、1行、第6音は e のセミブレウィスとする。歌詞 pingui の上。

第9フーガ、44頁、1行、第19音は f のセミブレウィスとする。歌詞 aurea の上。

同じフーガ、3行、第15音の a のセミミニマは余分なので、完全に削除する。

第11フーガ、52頁、1行、第5音の g は、セミブレウィスでなくミニマでなければならない。歌詞 sobolem の上。

同所、2行、第2音の g は、ミニマでなくセミブレウィスとする。歌詞 fert の上。

第12フーガ、56頁、3行、第13音、音高「8」の音はフーサとし、先行するセミミニマには付点を付ける。歌詞 Helicona の上。

注 音高の箇所は原刊で数字8のように印刷される。g の誤植とも考えられるが確定せず、その読みを保つ。

同所、4行、第15音はセミミニマでなく、d のミニマとする。歌詞 petendus の上。

第13フーガ、60頁、4行、第1音は e のミニマとする。歌詞 Inde のところ。

第14フーガ、64頁、1行、第6・第7音は b と a のフーサとする。歌詞 humana の上。

同所、6行、冒頭の b の音部記号は位置が移されている。

第16フーガ、72頁、4行、第4音の a はセミミニマとする。

第17フーガ、76頁、「14行」、f の音はセミブレウィスでなくミニマとする。歌詞 ignis の上。

注 原刊は lin. 14. と印刷する。行数として不自然であり、音符番号の脱落・誤植等の可能性があるが補訂しない。

第19フーガ、84頁、1行、第14音のミニマは、c でなく d に置く。歌詞 ordine の上。

同所、2行、冒頭をこのようにする〔譜例〕。歌詞 terræ quorum の上。すなわち第1音は c のセミブレウィス、第2音と第3音は d のミニマ、第4音は c のセミブレウィスとする。

注 ここに挿入された訂正譜例は、この頁の原刊画像に収録した。

同所、4行、第2音は g でなく e のセミブレウィスとする。

第22フーガ、96頁、4行、第1音は b のミニマとする。歌詞 Saturni のところ。

第23フーガ、100頁、1行、第23・第24音の d と c はフーサとする。歌詞 fecit のところ。

同所、3行、第7音の付点音符は c のミニマとする。歌詞 mira のところ。

第24フーガ、104頁、1行、第13音のセミブレウィスは、e でなく g に置く。歌詞 cura のところ。

第25フーガ、108頁、4行、第5音の b は、セミミニマでなくミニマとする。歌詞 funere のところ。

第26フーガ、112頁、3行、第12音の f はフーサとする。

原刊の音楽訂正表 原典スキャン218
原刊の音楽訂正表Courtesy of Science History Institute / Public Domain Mark 1.0底本の図版

第27フーガ、116頁、3行、冒頭の休符は二つのミニマ分、すなわち二つの半拍分の長さとする。また最後から二番目の a の音は、セミブレウィスでなくミニマとする。歌詞 rosetum のところ。

第28フーガ、120頁、1行、休符のすぐ前の第15音は e のミニマとする。歌詞 fulgent のところ。

第29フーガ、124頁、1行、最後の二つのセミミニマを d と f に置く。歌詞 potentior のところ。

同所、3行、第12音の後に、g のセミブレウィス一音がまるごと欠けている。歌詞 Salamandra のところ。

第30フーガ、128頁、1行、第11音は、d でなく f のセミミニマとする。歌詞 agis のところ。同所、第19音の後の点を削除する。

残る二十のフーガ、またその他すべての音符、詞句、論説の中で、今述べた以外に何らかの誤りに出会ったなら、心正しい読者、歌い手は、それを私たちのせいではなく、どこからともなく私たちにもたらされた不都合のせいと考え、自ら好意をもって訂正していただきたい。

図版と出典

1618年刊本の銅版扉(本文の図版)
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第1フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第1エンブレム(本文の図版)
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第2フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第2エンブレム(本文の図版)
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第3フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第3エンブレム(本文の図版)
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第4フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第4エンブレム(本文の図版)
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第5フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第5エンブレム(本文の図版)
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第6フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第6エンブレム(本文の図版)
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第7フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第7エンブレム(本文の図版)
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第8フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第8エンブレム(本文の図版)
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第9フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第9エンブレム(本文の図版)
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第10フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第10エンブレム(本文の図版)
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第11フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第11エンブレム(本文の図版)
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第12フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第12エンブレム(本文の図版)
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第13フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第13エンブレム(本文の図版)
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第14フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第14エンブレム(本文の図版)
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第15フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第15エンブレム(本文の図版)
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第16フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第16エンブレム(本文の図版)
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第17フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第17エンブレム(本文の図版)
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第18フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第18エンブレム(本文の図版)
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第19フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第19エンブレム(本文の図版)
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第20フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第20エンブレム(本文の図版)
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第21フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第22フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第23フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第24フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第25フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第26フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第27フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第28フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第29フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第30フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第30エンブレム(本文の図版)
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第31フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第32フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第33フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第34フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第35フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第36フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第36エンブレム(本文の図版)
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第37フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第37エンブレム(本文の図版)
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第38フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第39フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第40フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第41フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第42フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第42エンブレム(本文の図版)
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第43フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第43エンブレム(本文の図版)
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第44フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第44エンブレム(本文の図版)
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第45フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第45エンブレム(本文の図版)
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第46フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第46エンブレム(本文の図版)
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第47フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第47エンブレム(本文の図版)
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第48フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第49フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第49エンブレム(本文の図版)
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第50フーガの原刊楽譜(本文の図版)
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第50エンブレム(本文の図版)
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原刊フーガ索引(本文の図版)
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原刊の音楽訂正表(本文の図版)
Courtesy of Science History Institute

原刊の音楽訂正表(本文の図版)
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