錬金術 / 偽ニコラ・フラメル偽フラメル 象形寓意図の書
錬金術 / 偽ニコラ・フラメル
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1624年英訳版のフラメル本編全9章と関連前付、150原本頁、186対訳単位、図版12点を埋め込み。同冊の別著作Artephius・Pontanusは対象外。英語経由・偽託帰属を明示。
1624年英訳版の扉・献辞・読者への言葉

ニコラ・フラメルが、パリのサン・ティノサン墓地のアーチに描かせた象形図像についての、その解説。
これにアルテフィウスの『秘密の書』、およびヨハネス・ポンタヌスの『書簡』を併せる。賢者の石の理論と実践の双方について。
フランス語とラテン語の本から、忠実に、また、この事柄の威厳が求めるとおり敬虔に、英語へ訳したもの。
注 扉は合本全体の題名を掲げる。本対訳で全訳するのはフラメル名義の『象形図像』と冒頭の関連前付であり、別作品であるアルテフィウスとポンタヌスの本文は含めない。
エイレナエウス・オランドゥス訳。すなわち「真実を、真なるものによって解き明かす者」。
注 Vera veris enodans は訳者名 Eirenæus Orandus のアナグラム。
善き人々の宴へ、善き人々は招かれずとも赴く。
注 扉のギリシア語格言。合字を展開し、アクセントと分かち書きを読みやすく整えた。
ロンドンにて、トマス・ウォークリーのために T・S が印刷。ブリテンズ・バースの「鷲と子供」亭にある彼の店で販売。1624年。
注 T. S. は書誌で Thomas Snodham と同定される。
ひときわ優れた美徳を備えた貴婦人へ。奥方様。
注 献呈先の固有名はこの所蔵本の印刷では空欄。推測で補わない。
このような賛辞にふさわしい方は多くありません。その少数の方々も遠く散らばっていますので、お名前だけでなく、当然受けるべき称号によっても、誰もがあなたを知るのは難しくありません。どうか私の大胆さをお許しください。私はあなたにお目にかかったことがなく、あなたも私をご存じありません。あるいは私の不運の噂がお耳に届いたことがあるかもしれませんが、それでも私は、あなたの美徳に最善の奉仕を捧げる義務を感じ、ここに謹んでこのものをお献げします。もし神があなたの心を探求へ向け、眼を開いてそれを見ることを許され、あなたが理解なさったなら、月下のあらゆる事物のうち、人間にかつて伝えられ、分かち与えられた、最大で値のつけられない秘密であると評価なさるに違いない、と私は確信しております。
燃える慈愛の限りない泉から出る、あなたの敬虔さと施しの行いは、貧しい人の必要に応じ、あらゆる形で広がっています。そのため私は、あなたと、あなたのような方々のために、これらの小さな書物を私たちの日常の英語で刊行させたのだと、世に告げずにはいられませんでした。こうした秘密は通常、学問の言語という小箱の中に閉じ込められていますが、慣習は、女性の大部分にそれらの言語を学ぶことを求めません。とはいえ、分け隔てのない神の恵みによって、その事柄自体へ到達した、多くの女性の例がないわけではありません。
しかし、全能者から授かるそれが、どれほど稀で、限られた者のために留め置かれた祝福か、私はよく知っています。その希望で誰かをおだてるつもりはありません。ただ、この機会に、自然がその鉱物と地下の王国を巡る凱旋の戦車へ眼を向けていただけるなら、容易に違いが分かるでしょう。一方には、そこへ押し込められ、密集した天の豊かな力があります。それは、円周から出発したときには遠く離れていた線が、中心へ近づくと互いに触れ合うようなものです。他方には、植物の緩く弱い構成があります。植物は自然の別の配列のもとにあり、天の霊をそれほど豊かに受け取ることも、保つこともできません。この天の霊は、あらゆる元素的物体の生命であり、どこでも働かずにいることはなく、最も隠れて見えるところにこそ、最も豊かにあります。
そのほか、忙しく立ち働く、学問のない同国人たちの中には、この祝福された学を大胆に標榜する一方、その実践では眼の見えない者が、大勢おります。もし彼らの誰かが、私の願うとおり、これらの論書を読んで納得し、一方の書から取り組むべき真の質料を、他方からそれを扱う正しい進み方を教えられるまで、時間を失い、金を費やすことを差し控えるなら、あなたのために心から神を讃えるがよいのです。すべての善人から正当な評価を受けるべきあなたの高貴な功徳へ、私は自分の労苦という、このささやかな貢物を捧げました。
私自身についていえば、数々の苦難のただ中で、これらの研究から、実に豊かな助けと慰めを得ました。神の特別な助けがなければ、その苦難は耐えがたいものでした。この助けと慰めによって、神、善人、真理のために、これから何をし、何を忍ぶことになろうとも、すでに私の決意において、それらは軽く、容易なものとなっています。父なき者の父、寡婦の裁き手、助けなき者の希望である方が、あなたとあなたの方々にとって、すべてであられますように。そう祈る者、
あなたの謙虚な僕、
エイレナエウス・オランドゥス。
私たちの神、主の輝きが、私たちの上にありますように。私たちの手の業を、私たちの上に導いてください。私たちの手の業を導いてください。詩篇90・19。
注 引用番号は刊本のまま。現行の一般的な節番号では詩篇90・17に相当し、版によって篇番号も異なる。
私たちの神である主の、輝く美しさが私たちの上にありますように。私たちの手の業を、私たちの上に導いてください。私たちの手の業を、どうか導いてください。詩篇90・19。
いったい誰が、小さな日々を侮ったのか。彼らは喜び、ゼルバベルの手にある錫の石を見るだろう。この七つは、全地を行き巡る主の眼である。ゼカリヤ4・10。
注 lapidem stanneum は直訳して「錫の石」。文脈上は建築に用いる下げ振りのおもりだが、後世の聖書訳へ置き換えない。
誰が、小さな事柄の日を侮ったのか。彼らは喜び、ゼルバベルの手の錫の石を見るだろう。その七つとともに。それらは主の眼であり、全地をあちらへこちらへと走り巡る。ゼカリヤ4・10。

読者へ。
あることは、お前自身が心の中で考えつくだろう。
ほかのことは、神霊も教えてくれるだろう。
注 ギリシア語の合字を展開し、綴りとアクセントを読みやすく整えた。ホメロス『オデュッセイア』第三歌の句。
これらの一部は、自分の胸の内で、みずから思い量るだろう。
一部は、神々のうちの誰かが、お前へ教えてくれるだろう。
これらの一部へは、お前の心がお前を促すだろう。
ほかの一部は、どこかの神が、行い方を教えてくれるだろう。
さらに。
運命がお前を招くならば。しかし、そうでなければ、どんな力でも
勝ち取れず、硬い鉄によっても引き抜くことはできない。
注 ウェルギリウス『アエネーイス』第六巻の黄金の枝の一節。
運命がお前を招くならば。そうでなければ、どれほど力を振るい、
どれほど硬い鉄を使っても、そこから掘り出せない。

もう一度。それでは、さらば。
神意の姿はさまざまであり、
神々は、思いもよらぬ多くのことを成し遂げる。
期待されたことは実現せず、
期待されぬことには、神が道を見いだした。
この出来事も、このような結末となった。
注 ギリシア語の合字を展開し、分かち書きとアクセントを正規化した。エウリピデスの劇の結尾に見られる定型句。
移ろう運命は巡りを変え、
さまざまな姿を取ることをよく心得ている。
神々は、思いがけぬ多くのことを成し遂げる。
実現すると望むことは成らず、
誰も可能だとは思わぬことを、
神意はしばしば成就させる。このことも
私にとって、そのような結末を得た。
運命には多くの姿がある。
私たちは、望みを超える多くのことが成るのを見る。
確かと思うことを、神はしばしば押しとどめ、
夢にも思わぬことには、道を見いだされる。
このことも、私にはそのように運んだ。
お前にもそうなるよう、私は願う。
エイレナエウス・オランドゥス。
折込全図と図中の銘文


おお、全能の父よ。
注 救い主の上、左の天使の巻紙。
おお、善きイエスよ。
注 救い主の上、右の天使の巻紙。
おお、永遠の王よ。
注 左下の楽器を持つ天使の巻紙。末尾の E は曲がった部分へ回り込む。
私が行った悪を消してください。
注 聖パウロの足元に跪く男の巻紙。
ニコラの頭文字 N。
注 左の器に記される字。本文第1章が Nicholas を表すと説明する。
キリストよ、どうか憐れみ深くあってください。
注 聖ペトロの足元に跪く女の巻紙。CHRE は Christe の省略。本文では CHRISTE PRECOR ESTO PIVS と展開される。
天使たちの主よ、幸いあれ。
注 右下の天使の巻紙。DOMNE は Domine の縮約として読む。
フラメルの頭文字 F。
注 右の器に記される字。本文第1章が Flammel を表すと説明する。
人は神の裁きへ来る。
注 下段の男の周囲の巻紙。
まことに、その日は恐るべき日となる。
注 下段の女の周囲の巻紙。
死者たちよ、起きよ。私の主の裁きへ来れ。
注 下段の二天使から右端の獅子の口へ続く巻紙。MEI は獅子の図に分かれて印刷される。
ニコラ・フラメル、およびその妻ペルネル。
注 折込図下部、左側のフランス語銘文。改行による PER- / RENELLE は連結した。
罪なき幼子たちが、ヘロデ王の命令によって、どのように殺されたか。
注 折込図下部、右側のフランス語銘文。右端の文字が切れているため、角括弧内の U と N は文法と字列から補った。原図も併載して欠けを確認できるようにした。
祈り・序説
ニコラ・フラメルの象形図像の書
わが神なる主が永遠に讃えられますように。主はへりくだる者を卑しい塵から引き上げ、ご自身に望みを置く者たちの心を喜ばせ、その恵みによって信じる者たちに慈しみの泉を開き、地上のあらゆる幸福をめぐるこの世の天球、すなわち円環を、その足もとに置かれます。われらの信頼が常に主のうちにあり、われらの幸福が主への畏れのうちにあり、われらの本性を回復する栄光が主の憐れみのうちにあり、われらの揺るぎない確信が祈りのうちにありますように。そして全能の神よ、あなたは慈しみによって、この地上で、あなたの取るに足りない僕である私の前に、この世の富の宝をことごとく開いてくださいました。同じように、その大いなる寛大さによって、私がもはや生きる者の数に入らなくなったときには、天の宝を私に開き、あなたの神聖な御顔を仰がせてくださいますように。その威厳は言葉に尽くせぬ喜びであり、それに心奪われる歓喜は、生きている人間の心にはかつて思い浮かびもしなかったものです。あなたの愛する御子、われらの主イエス・キリストのために、これを願います。主は聖霊との一致のうちに、あなたとともに世々限りなく生きておられます。アーメン。
書記である私ニコラ・フラメルが、幼子殉教者の墓地において、サン・ドニ通りの大門から入り、右手の道を進んだ第四のアーチに置いた象形図像の解説
序文
私ニコラ・フラメルは公証人であり、この千三百九十九年、パリに住み、サン・ジャック・ド・ラ・ブーシュリー礼拝堂の近く、公証人通りにある自分の家で暮らしている。私の両親は、私を最も妬む者からさえ正直な人々と認められていたが、その資力が乏しかったため、私はラテン語をわずかしか学ばなかった。それにもかかわらず、神の恵みと、天国の男女の福なる聖人たち、とりわけガリシアの聖ヤコブの執り成しによって、哲学者たちの書物を理解する力には事欠かず、そこに深く秘められた秘密を学んだ。それゆえ、この大いなる恵みを思い起こすときには、生涯のどの瞬間にも、その場所が許すなら膝をつき、そうでなければ心の中で全霊をこめて、このうえなく慈しみ深い神に感謝を捧げずにはいられない。神は正しい者の子が戸ごとに物乞いして歩くのを決してお許しにならず、その祝福を全面的に信頼する者たちを欺くこともない。
注 語り手の1399年という自己記述は、偽フラメル文書内の主張であり、歴史的自伝としての真正性を保証しない。
さて、私ニコラ・フラメルは、両親の死後、公証人として、財産目録を作成し、勘定を整え、後見人と被後見人の支出を合計するという、われらの書記の仕事で生計を立てていた。そのころ、二フロリンで、非常に古く大きな、金で飾られた一冊の本を手に入れた。それはほかの本のように紙や羊皮紙でできておらず、私の見たところ、柔らかい若木の薄い樹皮だけでできていた。表紙は真鍮で、しっかりと製本され、全面に文字、あるいは奇妙な図形が刻まれていた。私には、それがギリシア文字か、それに似た何か古代の言語であろうと思われた。確かなのは、それを私には読めなかったということである。また、それがラテン語でもガリア語でもないことはよく分かった。これらの言語なら、われらも少しは理解するからである。中身については、樹皮の葉に刻みが施され、鉄の尖筆を用いて、見事な丹念さで、美しく整った彩色のラテン文字が書き込まれていた。
その本は七葉を三組、合わせて二十一葉から成っていた。各葉の上部にそのように番号が付されていたのである。そして七葉目ごとに、必ず文字がなく、その代わり、最初の七葉目には一人の処女と、彼女を呑み込む蛇たちが描かれていた。次の七葉目には、蛇が磔にされた十字架があり、最後の七葉目には砂漠、すなわち荒野が描かれ、そのただ中を多くの美しい泉が流れ、そこから無数の蛇が現れて、あちらこちらを行き来していた。
注 1624年版の画像は明瞭に「a Virgin, and Serpents swallowing her vp」とする。参照用のウェブ転写にある「a Rod ... it up」は採らない。
最初の葉には、金色の大きな頭文字でこう記されていた。「ユダヤ人アブラハム、君主、祭司、レビ人、占星術師にして哲学者より、神の怒りによってガリア人の間に散らされたユダヤ民族に、平安を送る。」その後には、祭司あるいは書記でもないのにこの本に目を注ぐすべての者に対する激しい呪詛と呪いが満ちており、「マラナタ」という語が何度も繰り返されていた。
この本を私に売った者は、その価値を知らなかった。買ったときの私も同様であった。この本は、不幸なユダヤ人たちから盗まれたか奪われたか、あるいは彼らが古く住んでいた場所のどこかに隠されているのが発見されたのだろうと私は思う。本の第二葉では、著者は同胞を慰め、悪徳、とりわけ偶像崇拝を避け、地上のすべての王に打ち勝ち、ご自身の民とともに永遠に栄光のうちに統治するメシアの到来を、穏やかな忍耐をもって待つよう勧めていた。疑いなく、これはたいへん賢明で理解力に富む人物であったに違いない。
第三葉とそれ以後のすべての記述では、囚われの同胞がローマ皇帝への貢税を払い、また私がここでは語らないほかのことを行えるよう助けるため、著者は平明な言葉で金属の変成を教えていた。傍らには容器を描き、色とそのほかの一切について知らせていたが、第一の作用体についてだけは一言も語らなかった。ただし本人の言うところでは、第四葉と第五葉の全面にわたり、きわめて巧妙で優れた技術によって、それを絵と図に示したのである。とはいえ、よく分かるように巧みに図示され彩色されていても、伝承によって伝えられる彼らのカバラに熟達し、彼らの書物をよく研究していなければ、誰一人それを理解できなかったであろう。
注 Agentは錬金術的に作用を及ぼすものを指し、ここでは「作用体」と訳す。
したがって第四葉と第五葉には文章がなく、彩色された、あるいは彩色されたかのような美しい図像が一面に描かれていた。それほど仕事が精緻だったのである。まず、足首に翼を持つ若者が描かれていた。手には二匹の蛇が巻きついたカドゥケウスの杖を持ち、それで自分の頭を覆う兜を打っていた。乏しい私の判断では、それは異教徒の神メルクリウスに見えた。その若者に向かって、大きな老人が翼を広げて駆け、かつ飛んできた。頭には砂時計を取り付け、手には死神のように鎌を持ち、それを用いて恐ろしく激しい様子でメルクリウスの足を切り落とそうとしていた。
第四葉の裏面には、非常に高い山の頂に、美しい花が描かれていた。その花は北風に激しく揺さぶられ、根もとは青く、花は白と赤、葉は純金のように輝いていた。周囲には北方の竜とグリフォンが巣を作り、棲みついていた。第五葉には、香りよい庭園の中央で花咲く美しい薔薇の木があり、うろのある樫に沿って這い上がっていた。その根もとでは、きわめて白い水の泉が沸き立ち、深みへとまっしぐらに流れ落ちていた。ただし水はまず、それを求めて大地を掘る無数の人々の手の間を通っていた。彼らは盲目だったため、それに気づく者はいなかった。ただ、ときおりその重さに注意を向けた者だけが、それを知ったのである。
第五葉の最後の面には、大きな湾刀を持つ王が描かれていた。王は自分の面前で、兵士たちに大勢の幼い子どもを殺させ、その母親たちは、情け容赦のない兵士たちの足もとで泣いていた。幼子たちの血は、その後ほかの兵士によって集められて大きな容器に入れられ、太陽と月がそこへ水浴びに来た。この物語は、ヘロデに殺された幼子殉教者の物語と大部分で重なっていた。また私は、この本から術の大半を学んだ。そのため、この秘められた学問の象形的な象徴を彼らの墓地に置いたのである。それが理由の一つであった。以上が最初の五葉に記されていた事柄である。
ほかの文字のある葉のすべてに、明瞭な良いラテン語で何が書かれていたかは、あなたがたに示さない。示せば神は私を罰されるであろう。なぜなら、それは、この世の人間すべての頭が一つだけであれば、それを一撃で切り落とせるのに、と願ったというあの男よりも、さらに大きな悪を犯すことになるからである。
こうしてこの美しい本を手元に置いた私は、昼も夜も、その研究以外には何もしなかった。そこに示された操作はすべてよく理解できたが、どの物質から始めればよいのか分からず、そのためひどく気が沈んで孤独になり、何度もため息をついた。つい先ごろ結婚し、わが身のように愛していた妻ペルネルは、これにたいへん驚き、私を慰め、何とかしてこの苦悩から私を救うことはできないかと熱心に尋ねた。私はどうしても黙っていられず、すべてを話し、この美しい本を妻に見せた。妻はそれを目にした瞬間、私と同じほど魅了され、美しい表紙や彫刻、図像や絵姿を眺めることに、このうえない喜びを覚えた。とはいえ、その意味については私と同じくほとんど理解できなかった。それでも妻と語り合い、それらの解釈を得るにはどうすればよいかと思いを巡らすことは、私にとって大きな慰めであった。
ついに私は、第四葉と第五葉の図像と絵姿をすべて、できるだけ忠実に住まいの中へ描かせ、パリで最も学識のある人々に見せた。しかし彼らも私以上には理解しなかった。賢者の石を教える本にある図だと説明すると、大多数は私もその祝福された石も嘲笑した。ただ一人、医学の学位を持ち、この学問を熱心に研究していた、アンセルム先生と呼ばれる人物だけが例外であった。先生は私の本をぜひ見たいと望み、それを見るためなら、この世で何でもしたであろう。しかし私はいつも、本は持っていないと言い、ただその方法を詳しく説明した。先生は、最初の絵姿が、すべてを呑み込む「時」を表していること、文字のある六葉の数に従えば、石を完成させるには六年が必要であることを私に教えた。それが済んだら砂時計をひっくり返し、もはや煮てはならない、と言った。
しかし私は、本に述べてあるとおり、この絵は第一の作用体を示し教えるためだけに描かれたのだと伝えた。すると先生は、六年間に及ぶこの煮熟は、いわば第二の作用体なのであって、第一の作用体も確かにそこに描かれている、それは白く重い水であり、疑いなく水銀である、と答えた。そしてそれを固定することも、その足を切り落とすこと、すなわち揮発性を取り去ることも、幼い子どもの最も純粋な血の中で長く煮熟しなければできない、と言った。というのも、その中でこの水銀を金と銀に結びつけると、まずそれらとともに絵にあるような草となり、その後、腐敗によって蛇となるからである。その蛇をすっかり乾かして火で煮熟すると、金の粉末となり、それが石になるというのであった。
注 Argent viueは水銀。ここは物語内のアンセルムによる誤った解釈であり、次段で血の使用を明確に否定する。
これがもとで、私は二十一年もの間、千通りもの混ぜ合わせを試みた。しかし血は一度も使わなかった。それは邪悪で卑劣なことだからである。私の本には、哲学者たちが「血」と呼ぶのは金属の中にある鉱物の霊であり、とりわけ太陽、月、水星の中にあるものだと書かれていたので、私はつねにそれらを結び合わせることを目指していた。それでも、これらの解釈は大部分、真実というより巧妙な思弁であった。そのため、本に記された時期に、私の作業の中で所定の徴が現れず、いつも初めからやり直さなければならなかった。
注 broulleryesは種々の混合や試行を軽蔑的にいう古語。Sunne、Moone、Mercuryには金、銀、水銀に対応する錬金術的含意がある。
とうとう、これらの図像を理解する望みをすべて失った私は、最後の頼みとして、スペインのどこかの会堂でユダヤ人の祭司にその解釈を求めると、神とガリシアの聖ヤコブに誓願を立てた。そこでペルネルの同意を得て、図像の写しを携え、巡礼者の服を着て杖を取った。その姿は、私がこれらの象形図像を置いた墓地の、まさにそのアーチの外側で見ることができる。そこでは、壁に沿って両側に行列も置き、石のあらゆる色が現れては消えていく順序を表し、次のフランス語の言葉を添えた。
行列は神を大いに喜ばせる、
それが信心をもって行われるならば。
すなわち、
行列は神を大いに喜ばせる、
それが信心をもって行われるならば。
注 直前のフランス語に対して1624年英訳者が添えた英語訳も省略せず訳出した。
これは、石の色を論じたヘルクレス王の書、『イリス、すなわち虹』の書き出しに、いわば相当する。その言葉は「Operis processio multum naturæ placet」、すなわち「作業の進行は自然を大いに喜ばせる」である。この暗示を理解するであろう大学者たちのために、私は特にそこへこの言葉を置いた。さて、そのような姿で私は旅に出た。歩み続けてモンジョワに着き、次いで聖ヤコブの聖地に達し、深い信心をもって誓願を果たした。
注 processionは宗教的な「行列」と錬金術の作業の「進行」を掛けた表現。
それを済ませた帰途、レオンで私はブローニュの商人に出会い、その人から一人の医師を紹介された。医師はユダヤ人の出で、そのころはキリスト教徒となり、先に述べたレオンに住んでいた。高い学問に非常に通じた人で、カンチェス先生と呼ばれていた。写しの図を見せるやいなや、先生は大いなる驚きと喜びに心を奪われ、それが写されたもとの本について、何か消息を知らせられないかと、すぐに尋ねた。私は、先生が質問に用いたラテン語で、誰かがこの謎を解いてくれるなら、本について良い知らせを伝えられるだろうと答えた。先生はたちまち熱意と喜びに満ち、その冒頭を解き明かし始めた。手短に言えば、先生はこの本のありかを知ることを喜び、私はその話を聞くことを喜んだ。先生は確かにこの本について多くの話を聞いていたが、先生によれば、それは完全に失われたと信じられていたものだった。そこでわれわれは旅の計画を決め、レオンからオビエドへ、そこからサンソンへ進み、フランスへ向かって船出した。
注 Boloynは原綴。ここではフランスのブローニュを指すものとして訳した。Sansonも原綴を保ち、現代の港名へ推定置換しない。
旅はかなり順調であった。この王国に入って以来、先生はすでに図像の大部分を、このうえなく正しく私に解き明かしてくれていた。点や細かな印に至るまで大いなる奥義を見いだし、私には驚異と思われた。ところがオルレアンに着くと、この学識ある人は重い病に倒れた。船上で苦しんだ激しい嘔吐が、その後も続いていたのである。先生は私に見捨てられることを絶えず恐れ、その恐怖に比べられるものはないほどだった。私はいつも傍らにいたが、それでも先生は絶え間なく私を呼んだ。結局、発病の第七日が終わるころ、先生は亡くなった。私はひどく悲しんだが、できる限りのことをして、オルレアンの聖十字架教会に埋葬してもらった。先生はいまもそこに眠っている。神がその魂をお受け入れくださいますように。先生は善きキリスト教徒として死んだのである。私自身が死に妨げられないかぎり、必ずその教会にいくらかの収入を寄進し、先生の魂のために毎日ミサが唱えられるようにしたい。
私が帰り着いたときの様子とペルネルの喜びを見たい者は、このパリの町で、私の家のすぐ脇にあるサン・ジャック・ド・ラ・ブーシュリー礼拝堂の扉に描かれた、私たち二人を見てほしい。そこでは私はガリシアの聖ヤコブの足もとで感謝を捧げ、ペルネルは、自分が幾度となく祈り求めた聖ヨハネの足もとに描かれている。
こうして神の恵みと、幸いなる聖処女、および福なる聖ヤコブと聖ヨハネの執り成しにより、私は望んでいたすべて、すなわち第一の諸原理を知った。ただし、その最初の調製法はまだ知らなかった。それはこの世の何にもまして難しいことだからである。しかし三年ほどの長い試行錯誤の末、ついにそれも手に入れた。その間、私は研究と作業以外には何もしなかった。アーチの外側、その二本の柱に沿って行列を置いた場所で、聖ヤコブと聖ヨハネの足もとに私の姿が見えるとおりである。私は手に数珠を持って絶えず神に祈り、本を注意深く読み、哲学者たちの言葉を吟味しては、その言葉だけから思い描いたさまざまな操作を試し、検証していた。そしてついに望んでいたものを見いだし、その強い匂いと香りによって、すぐにそれと分かった。
これを得ると、私は容易に大業を成就した。第一の作用体の調製法を知り、その後は本の字句どおりに従ったので、望んだとしても失敗しようがなかったからである。最初に投射を行った相手は水銀で、その半ポンドほどを、鉱山から得られるものより優れた純銀に変えた。これは自分で試金し、ほかの者にも何度も試金させた。時は、人類が救済されてから一三八二年、一月十七日の月曜日、正午ごろで、私の家において、ペルネルだけが立ち会っていた。
注 projection(投射)は錬金術における変成剤の投入を指す。変成の記述は作品内の主張として訳している。
その後も常に本の一語一語に従い、同じ量の水銀に赤い石を投射した。これも同じ家でペルネルだけが立ち会い、同年、続く四月二十五日の夕方五時ごろのことであった。その水銀を、私は実際に、ほぼ同量の純金へと変成させた。それは確かに普通の金より優れ、より柔らかく、より展性に富んでいた。
注 底本は「fiue and twentieth」(25日)。高解像度画像でfiueを確認した。
私は真実として言える。ペルネルの助けを借りて、これを三度行った。妻は作業を手伝っていたので、私と同じほどよく理解していた。独力で行おうと決意していれば、疑いなく完成に至ったであろう。一度成し遂げれば、私には実際それで十分であった。しかし容器の中で、自然の驚嘆すべき働きを見つめ、観想することに、このうえない喜びと楽しみを見いだしたのである。そこで私がそれを三度行ったことをあなたに示すため、このアーチには三つの炉が見えるはずである。それを見分けるだけの知識があるなら分かるが、われらの操作に用いるものと同じ炉である。
私は長い間、ペルネルが自分の幸福のあまりの喜びを隠しきれないのではないかと恐れていた。その喜びの大きさは、自分のそれから推し量っていた。また、われわれの持つ大いなる宝について、親族の間で何か口を滑らせないかと案じてもいた。極度の喜びは、深い悲しみと同じように判断力を奪うからである。しかし、至高の神の善意は、貞淑で賢い妻を与えるという祝福だけで私を満たしたのではなかった。妻はそのうえ、理を理解するだけでなく、理にかなうことをすべて実行でき、普通の女性たちよりも慎み深く、秘密を守ることのできる人であった。何よりきわめて信心深かった。それゆえ、子どもを持つ望みがなく、すでに年を重ねていることを知ると、私と同じように神に心を向け始め、二人で慈悲の業に身を捧げるようになった。
注 底本の「giue or selues」は文意上「giue our selues」。転写は印刷形を残し、訳は文意に従う。
私がこの注解を記したのは、千四百十三年の年末であり、忠実な伴侶が亡くなった後のことである。その死を、私は生涯嘆き続けるであろう。この時までに、妻と私はすでにパリの町に十四の救護院を設立して収入を付与し、三つの礼拝堂を基礎から新築し、七つの教会に多額の寄付と十分な地代収入を与え、その墓地の多くの修繕も行っていた。ブローニュで行ったことはこのほかにあり、そちらもここで行ったことにさほど劣らない。私たち二人が個々の貧しい人々、とりわけ寡婦や貧しい孤児に施した善行については語るまい。その人々の名と、どのように施したかを述べるなら、私の報いがこの世で与えられてしまうだけでなく、それらの善良な人々にも迷惑をかけるだろう。私は神が彼らを祝福されるよう祈っており、この世の何と引き換えでも、そのようなことはしたくない。
注 Hospitalsは現代的な病院に限らず、病者・貧民を受け入れる救護施設を含む。
この町にこれらの教会、墓地、救護院を建てるにあたり、私は、幼子殉教者の墓地の第四のアーチ、すなわちサン・ドニ通りの大門から入り、右手の道を進んだところに、この術の最も真実で本質的な徴を描かせようと決意した。ただし、ユダヤ人アブラハムの金装の書にある図をまね、覆いと象形的な外皮の下に置くこととした。図は、それを見る者の能力と理解に応じて、二つのことを表しうる。第一に、審判の日と善きイエスの到来に際して起こる、将来の、疑いないわれらの復活の奥義である。イエスがわれらを憐れんでくださいますように。これは墓地にふさわしい物語である。第二に、自然哲学に通じた人々に対しては、大業の主要で不可欠なすべての操作を意味しうる。
これらの象形図像は、天上の生命へと導く二つの道として役立つであろう。第一の、最も明らかな意味では、後に示すとおり、われらの救済の聖なる奥義を教える。もう一方では、石について少しでも理解のある者すべてに、作業を順にたどる道を教える。誰であれこれを完成させれば、悪から善への変化によって、あらゆる罪の根である貪欲がその人から取り除かれる。そして以前どれほど悪しき者であったとしても、気前がよく、穏やかで、敬虔で、信心深く、神を畏れる者となる。それ以後は、神から得た大いなる恵みと憐れみ、そして神の驚嘆すべき御業の深さに、絶えず心を奪われているからである。
以上が、これらの形をこのような姿で、この墓地という場所に置くよう私を促した理由である。もし誰かがこの計り知れない恵みを得、この豊かな金羊毛を獲得したなら、私がそうしたように、こう考えてほしいのである。この世の空しいものにすぎない土地や財産を買い、神から授かったタラントンを地中に埋めたままにしてはならない。むしろ兄弟たちに慈愛の業を行うべきである、と。そして、自分がこの秘密を死者の骨の間で学んだこと、自分も間もなくその死者の数に入ること、この生の後には、無益で空しい一言に至るまで裁く、正しく畏るべき裁判官の前で申し開きをしなければならないことを、忘れないでほしい。
注 talentには、貨幣単位タラントンと神から託された賜物の両義があり、福音書の「タラントンの譬え」を踏まえる。
したがって、私の言葉をよく吟味し、図像をよく知って理解し、第一の始原と作用体についての知識をまずほかで得た者は、神の栄光のためにヘルメスの大業を完成させてほしい。この図像と注解の中には、それらについての手がかりも説明も、確かに見つからないからである。その際には、カトリックの、使徒継承の、ローマの教会をはじめ、ほかのすべての教会、墓地、救護院を忘れず、とりわけこの町の幼子殉教者の教会を思い起こしてほしい。その墓地で、彼はこれらの真実の実証を観想したはずだからである。そして、人知れず貧窮している者、見捨てられた正直な人々、弱い立場の女性、寡婦、身寄りのない孤児たちのために、惜しみなく財布を開いてほしい。そうありますように。
第一章 神学的な解釈
第一章 著者である私の意図に従って、これらの象形図像に与えうる神学的解釈について
私はこの墓地に納骨堂を寄進した。それは墓地の中央、この第四のアーチの真向かいにある。その納骨堂の柱の一つに、私は炭で輪郭を描かせ、粗く彩色して、全身が黒い一人の男を描かせた。男はこれらの象形図像をまっすぐに見つめ、その周りにはフランス語で「Ie voy merueille done moult Ie m'esbahi」、すなわち「私は驚異を見て、たいそう驚いている」と記してある。この像も、墓地の中央の図像のあるアーチの東・西・南側に置かれ、神の御子の聖なる受難と復活を表す、金箔を施した鉄と銅の三枚の板も、通常の神学的意味によるほかには解釈すべきではない。ただし、この黒い男は、自分が注意深く見つめる象形図像に示された金属変成の中に、神の驚嘆すべき御業を見ることを、驚異と呼んでいるとも言える。恐ろしい審判の日に墓から甦るはずの、これほど多くの遺体が葬られているのを見ることを、驚異と呼んでいるのと同様である。
注 フランス語銘文は印刷どおりdoneと転写する。文意上は関係代名詞dontに相当すると解し、底本に続く英語訳も参照して訳した。
一方、図像の右手にある土製の容器を神学的意味で解釈する必要はないと思う。その中にはペンとインク壺があるが、紐を取り除き、ペン入れとインク壺を合わせれば、むしろ哲学の容器となる。聖ペトロと聖パウロの像の両脇にある、それに似たほかの二つも同様である。その一つにはニコラを表すN、もう一つにはフラメルを表すFが入っている。これらの容器は、これと同じような容器の中で、私が大業を三度成し遂げたということ以外には何も意味しない。さらに、このペンとインク壺、そして私の名の頭文字を表すために、容器を盾形紋章の形に置いたと考えたい者は、そう考えてもよい。どちらの解釈も正しいからである。
次の「NICHOLAS FLAMMEL, ET PERRENELLE SA FEMME」、すなわち「ニコラ・フラメルと、その妻ペルネル」という銘文も、神学的意味で解釈してはならない。それは、私と妻がそのアーチを寄進したということしか意味しないからである。
その後の第三、第四、第五の画面については、傍らに「COMMENT LES INNOCENTS FVRENT OCCIS PAR LE COMMANDEMENT DV ROY HERODES」、すなわち「ヘロデ王の命によって、幼子たちがどのように殺されたか」と記してある。神学的意味はその銘文によって十分に分かるので、われわれは上方にある残りのものについてだけ語ればよい。
セーブル、すなわち黒い地に、黒と青で描かれ、互いの中へ絡み合う二匹の竜がある。一匹には金色の翼があり、もう一匹には翼がまったくない。これらは、本性として鎖のようにつながる罪を表す。一つの罪は別の罪から起こり、生まれるからである。そのうちには、やすやすと来るのと同じく、やすやすと追い払えるものもある。それらは毎時われらに向かって飛んでくる。しかし翼を持たない罪は決して追い払えない。聖霊に対する罪がそれに当たる。翼の金色は、罪の大部分が、金への不浄な渇望から来ることを表している。この渇望によって、多くの者がどこから金を得られるかと懸命に聞き耳を立てるのである。また黒と青は、これらが地獄の暗い穴から出てくる欲望であり、われらは徹底してそれを避けなければならないことを示す。この二匹の竜は、道徳的意味では、いつもわれらの周りにいて、恐ろしい審判の日に正しい裁判官の前でわれらを告発する悪霊の軍勢を表すとも考えられる。彼らが願い求めるのは、われらを篩にかけることだけである。
その隣には、紺青と青の地に橙色の男と女が描かれている。これは男女がこの世に希望を置くべきではないことを意味する。橙色は絶望、あるいはこの場合のように希望を手放すことを示すからである。また、二人の背景である紺青と青は、われらが来るべき天上の事柄に思いを向け、男の帯状の銘文にある「HOMO VENIET AD IVDICIVM DEI」、すなわち「人は神の審判に来なければならない」、あるいは女の銘文にある「VERE ILLA DIES TERRIBILIS ERIT」、すなわち「その日はまことに恐ろしい日となるであろう」と言うべきことを示している。こうして、罪である竜たちから身を守ることで、神がわれらを憐れんでくださるようにするのである。
注 女性の銘文VERE ILLA DIES TERRIBILIS ERITとその英訳は1624年版にあるが、参照ウェブ転写では脱落している。
その次には、シノープル、すなわち緑の地に、甦る二人の男と一人の女が描かれている。一人は墓から、ほかの二人は大地から出てきており、三人ともきわめて白く清らかな色をしている。手を目の方へ上げ、目は高い天へ向けている。この三つの身体の上には、楽器を鳴らす二人の天使がいて、あたかもこれらの死者を審判の日へ呼び出したかのようである。というのも、その二人の天使のさらに上には、手に世界を持つわれらの主イエス・キリストの像があり、一人の天使がその頭上に冠を置いているからである。その天使をほかの二人が助け、それぞれの銘文で「O pater Omnipotens」「ô Iesu bone」、すなわち「おお、全能の父よ」「おお、善きイエスよ」と述べている。
注 Synopleは紋章学の緑色を表す語。rouleは巻物状・帯状の銘文欄。
この救い主の右側には、白と黄色の衣服をまとい、剣を持つ聖パウロが描かれている。その足もとには、黒と白の襞あるいは折り目の見える橙色の長衣を着た男がいる。この像は私を生き写しにしたものである。男は両手を合わせて罪の赦しを求め、その手の間から伸びる帯には「DELE MALA QVÆ FECI」、すなわち「私が犯した悪を拭い去ってください」と記されている。
反対の左側には、赤みがかった黄色を着た聖ペトロが鍵を持って立ち、橙色の長衣をまとって跪く女に手を置いている。その女はペルネルを生き写しにしたもので、両手を合わせ、「CHRISTE PRECOR ESTO PIVS」、すなわち「キリストよ、どうか憐れみ深くあってください」と記した帯を持っている。その後ろには一人の天使が跪き、帯に「SALVE DOMINE ANGELORVM」、すなわち「天使たちの主よ、御身に挨拶を捧げます」と記している。聖パウロのいる側、私の像の後ろにも、もう一人の跪く天使がいて、同じように帯を持ち、「O REX SEMPITERNE」、すなわち「おお、永遠の王よ」と述べている。
これらすべては、復活と将来の審判という説明に照らしてあまりにも明らかであり、容易にその解釈に当てはめられる。そのため、このアーチはそれを表す以外の目的では描かれていないように見える。したがって、これについてこれ以上長く留まる必要はない。最も未熟で無学な者でも、この解釈を与える方法は十分に分かるからである。
甦る三人に続いて、青い地に、さらに橙色の二人の天使がいる。その帯には「SVRGITE MORTVI, VENITE AD IVDICIVM DOMINI MEI」、すなわち「死者たちよ、起き上がれ。わが主の審判へ来たれ」とある。これも復活という解釈に役立つ。
その後に続く最後の図像も同様である。それは、紫の地に描かれた朱色の男で、やはり朱色に描かれた、有翼の獅子の足をつかんでいる。獅子は、男を喰らおうとするかのように喉を開いている。これは不幸な罪人の像であると言える。その者は、自らの腐敗と悪徳の昏睡の中に眠り、悔悛も告解もせずに死ぬ。そして疑いなく、この恐ろしい日に悪魔へ引き渡される。悪魔はここでは、咆哮する赤い獅子の姿に描かれ、その者を呑み込み、喰らい尽くすのである。
第二章 哲学的な解釈
第二章 ヘルメスの大業に従う哲学的解釈
私は心から望む。賢者たちの秘密を探し求める者が、来るべき生命と復活についてのこれらの観念を精神の中でたどったなら、まずそこから自分のためになるものを得てほしい。次には、以前よりも慎重になり、私の図像、色、帯状の銘文の深みを測り、探り、とりわけ銘文を探究してほしい。この術において、銘文は日常の意味で語っているのではないからである。
その後は、自問してほしい。なぜ聖パウロの像が、普通は聖ペトロを描く右側の場所にあり、反対側では、聖ペトロの像が聖パウロの像の位置にあるのか。なぜ聖パウロの像は白と黄色をまとい、聖ペトロの像は黄色と赤をまとっているのか。また、二人の聖人の足もとで、あたかも審判の日にいるように神へ祈る男と女は、なぜさまざまな色の衣服を着ており、甦る者たちのように裸でも、骨ばかりでもないのか。なぜ、この審判の日の図の中で、この男と女を聖人たちの足もとに描いたのか。本来なら、天にではなく、もっと低い地上にいるべきではないか。
また、帯の銘文で「SVRGITE MORTVI, VENITE AD IVDICIVM DOMINI MEI」、すなわち「死者たちよ、起き上がれ。わが主の審判へ来たれ」と言う橙色の二人の天使は、なぜこの色を着て、しかも本来の場所から外れているのか。楽器を奏でるほかの二人と一緒に、天の高いところにいるべきではないか。なぜその背景は紫と青なのか。そして何より、死者に語りかけるその帯が、なぜ赤い飛翔する獅子の、開いた喉の中で終わっているのか。
こうした問いや、そのほか当然に問いうる数々の問いを経た後、精神の目を大きく開き、次の結論に至ってほしい。これらすべては理由なく行われたのではなく、この外皮の下には何か大いなる秘密が表されているに違いない。だから、その秘密を自分に明かしてくださるよう、神に祈るべきである、と。
このように段階を踏んで信念がそこへ至ったなら、さらに次のことも信じてほしい。これらの図像と解説は、哲学者たちの書物を一度も見たことがなく、金属の諸原理を知らないため、この学問の子弟と呼ぶことのできない者たちのために作られたのではない。第一の作用体を知らないまま、これらの図像を完全に理解できると思うなら、疑いなく自らを欺き、何一つ知ることができないだろうからである。
したがって、私の言葉が容易には理解できなくても、誰も私を責めてはならない。責められるべきは私よりもその人である。あらゆる学問の門を開く鍵である第一の作用体について、この神聖で秘められた解釈の手ほどきを受けてもいないのに、なおも秘密を惜しむ哲学者たちの、最も精妙な観念を理解しようとするからである。それらはすでにこれらの原理を知る者のためにしか書かれていない。そして、その原理はどんな本にも決して見つからない。哲学者たちはそれを神に委ねており、神が望む者にそれを啓示されるか、さもなければ師の生きた声を通じ、カバラ的な伝承によって教えさせるからである。そうしたことは、ごくまれにしか起こらない。
注 enuiousはここでは単なる妬みではなく、秘術の知識を他者に明かすのを惜しむ姿勢を指す。
さて、わが子よ、このように呼ばせてほしい。私がすでに高齢に達したこともあり、また別の意味でも、あなたがこの知の子弟であるかもしれないからである。神が、あなたに学ぶ力を、そして後には神の栄光のために働く力を与えてくださいますように。では、注意深く私の言葉を聞きなさい。ただし、先に述べた諸原理を知らないなら、この先へ進んではならない。

この形をした土製の容器を、哲学者たちは自分たちの「三重の容器」と呼ぶ。その内部の中央には段、あるいは床があり、その上には生温かい灰で満たした皿が置かれている。その灰の中に、哲学の卵が据えられる。すなわち、術によって調えたもの、たとえば紅海の泡や水銀の風の脂で満たされたガラス瓶である。あなたがペン入れとインク壺の形に描かれているのを見るのは、これである。この土製の容器は、皿と瓶を入れるために上部が開いている。その下には、あなたが知るとおり、開口部から哲学の火が入れられる。このようにして、三つの容器と、三重の容器があることになる。
注 PDF78の冒頭に、この節の容器を表す木版図がある。Philosophicall Eggeは錬金術の密閉容器を示す伝統的比喩。「紅海の泡」「水銀の風の脂」は原文の象徴語として保持した。
秘密を惜しむ者たちは、これをアタノール、篩、糞、マリアの浴、炉、球、緑の獅子、牢獄、墓、尿瓶、小瓶、そして丸底の長頸瓶と呼んできた。私自身も、四年二か月前に書いた『哲学の梗概、あるいは摘要』の末尾で、それを若鶏の家、住まいと呼び、皿の灰を若鶏の籾殻と呼んだ。普通の名はオーブン、すなわち焼き窯である。ユダヤ人アブラハムが、釣り合いの取れた火とともにそれを描いていなければ、私は決して見つけられなかったであろう。秘密の大部分は、その火の釣り合いに存するからである。
注 Athanorは錬金術炉、Balneum Mariæは「マリアの浴」(湯浴)、Pouletは若鶏。Bolts-headは丸い胴と長い頸を持つ錬金術用容器。siueは長いsを正規化した読みで、ウェブ転写のfiueは採らない。
それは、われらの若い王に生命を与える真の自然的な熱を含む、いわば腹、あるいは子宮だからである。「この火が窯にふさわしく量られていなければ」と、イアシクスの子、ペルシア人カリドは言う。「それが剣で点火されるなら」とピタゴラスは言う。「容器を火にかけ、火の熱を感じさせるなら、それはおまえの耳を平手打ちし、その髄の奥から花が立ち昇る前に焼いてしまい、白ではなく赤い色で出現させるだろう。そうなれば、おまえの作業は台無しになる」とモリエンは言う。火が小さすぎても同様である。その場合、諸本性は冷たいため、互いを一緒に熟成させるだけの運動を得られず、あなたは決して終わりを見ることができない。
注 Clibanicallyはclibanus(窯・炉)に由来する副詞として「窯にふさわしく」と訳した。三人の権威を連ねる原文の条件節の切れ目は、そのままの修辞として保持。
したがって、この容器の中のあなたの火の熱は、ヘルメスとロシヌスの言うように、冬に応じたものでなければならない。いやむしろ、ディオメデスが言うように、白羊宮から巨蟹宮へ、とても静かに飛び始める鳥の熱に応じたものでなければならない。知っておきなさい。幼子は初め、冷たい粘液と乳に満ちている。あまりに激しい熱は、われらの胎児の冷たさと湿り気の敵である。また、この二つの敵、すなわち冷と熱というわれらの二つの元素は、少しずつでなければ、決して完全には抱き合わない。まず浴の穏やかな熱の中で長く一緒に暮らし、長い煮熟によって不燃性の硫黄へ変えられて初めて、それが可能になるのである。
注 flegmeは体液論的な粘液。Winter、Aries、Cancerなどはここでは作業の時期と火度を表す象徴として語られる。Sulphurは近代化学の単体硫黄と単純に同一視しない。
ゆえに、あなたの誇り高く気位の高い諸本性を、均等と釣り合いを保ちながら、穏やかに治めなさい。一方を他方よりも優遇すれば、本来敵同士であるそれらが、嫉妬と乾いた胆汁の怒りによってあなたに腹を立て、その後長くため息をつかせることになりかねないからである。
注 Chollerは胆汁と怒りを掛けた語で、乾燥という体液論的性質も含む。
それに加えて、あなたはそれらを、この穏やかな熱の中に絶えず、すなわち昼も夜も保たなければならない。冬、つまり諸物質が湿っている時期が過ぎるまでである。それらは一緒に温められることによって和解し、手を結ぶからである。もしこれらの本性が、たった半時間でも火のない状態に置かれたなら、永遠に和解できなくなってしまうだろう。ゆえに、『七十の教訓の書』に「その熱が休みなく、途絶えず持続するよう注意し、一日たりとも忘れることのないようにせよ」とある理由が分かる。そしてラーシスは言う。「過度の火をもたらす性急さには、いつも悪魔と誤謬が付き従う」と。
ディオメデスは言う。「黄金の鳥がちょうど巨蟹宮に達し、そこから天秤宮へと進むとき、火を少し強めてもよい。同じように、この美しい鳥が天秤宮から磨羯宮へ飛ぶときもそうである。それこそ待ち望まれた秋、収穫の時であり、いまや熟した果実の時なのだ。」
第三章 二匹の竜

第三章 地と同じく、黄みがかり、青く、黒い色をした二匹の竜
この二匹の竜をよく見なさい。これらはこの哲学の真の原理、すなわち始原であり、賢者たちは自分の子供にさえ、あえて示さなかった。下にいる翼のないものは、固定したもの、すなわち雄である。上にいるものは、揮発するもの、すなわち雌で、黒く暗く、何か月ものあいだ支配を得ようとする。前者は硫黄、すなわち熱と乾燥と呼ばれ、後者は生ける銀、すなわち冷と湿と呼ばれる。
注 固定性・揮発性、硫黄・水銀は本文の錬金術的な対概念。「生ける銀」は Argent vive(水銀)。
これらは水銀的な源、硫黄的な起源に属する太陽と月であり、絶え間ない火によって王の衣をまとわされる。それは両者が結ばれ、その後に第五精質へ変わり、どれほど緻密で硬く強固であろうとも、金属に属するあらゆるものを打ち負かせるようになるためである。
これらこそ、古代エジプト人が、頭で尾を噛む円形に描いた蛇や竜である。同じ一つのものから出て、そのものだけで十分であり、その回転と循環のうちに自らを完成させることを示すためであった。また、古代の詩人たちが、ヘスペリデスの乙女たちの園にある黄金の林檎を、眠らずに守り見張ったと物語った竜も、これらである。
黄金の羊毛を求めて冒険したイアソンが、美しいメデイアの調えた煎じ汁、あるいは液を注いだ相手もこれらである。この物語は哲学者たちの書に満ちあふれ、真実を語るヘルメス・トリスメギストス、オルフェウス、ピュタゴラス、アルテフィウス、モリエヌスから、その後の人々、そして私に至るまで、これを書かなかった哲学者は一人もいない。
注 補助的なウェブ翻刻では脱落する Pythagoras, Artephius を、1624年刊本の印刷に従い残す。
これらはユノー、すなわち金属的自然が与え、送り込んだ二匹の蛇である。強いヘラクレス、つまり賢く知恵ある人は、仕事の始まりに、揺り籠の中でこれらを絞め殺さなければならない。すなわち征服して殺し、腐敗し、朽ち、生み出すようにするのである。また、メルクリウスのカドゥケウス、すなわち杖に巻きつき、絡みついた二匹の蛇もこれらである。彼はその杖で大きな力を行い、望むままに姿を変える。「一方を殺す者は他方も殺す」とハリはいう。一方はその兄弟とともでなければ死ねないからである。
さてこの二つを、アヴィセンナはホラーサーンの雌犬とアルメニアの雄犬と呼ぶ。この二つを一緒に墓の器へ入れると、互いを激しく噛む。その強い毒と猛り狂う怒りのため、いったん相手に噛みついてからは、寒さに妨げられないかぎり決して離れない。ついには、垂れる毒と致命傷によって、双方とも体のあらゆる部分が血まみれになる。そして最後には互いを殺し、自分たちの毒液の中で煮込まれる。その毒は死後の両者を、生きた恒久の水へ変える。それに先立って、両者は腐朽と腐敗のうちに最初の自然な形を失い、その後にただ一つの、より高貴で、よりよい新しい形を取るのである。
これらは、私の『哲学摘要』の冒頭に記した雄と雌の二つの種子である。ラーシス、アヴィセンナ、ユダヤ人アブラハムによれば、腎臓と内臓の中で、四元素の働きから生じるという。これらは金属の根源的な湿気、硫黄と生ける銀である。ただし商人や薬屋が売る通常の品ではなく、私たちがあれほど愛する、美しく貴い二つの物体を与えてくれるものをいう。
注 Reynes は腎臓。種子や体液の語彙は本文の自然哲学の比喩として訳す。
この二つの種子は、生ける者たちの地には見いだされない、とデモクリトスはいう。アヴィセンナも同じことをいうが、太陽と月の糞、汚物、腐ったものから集めるのだ、と付け加える。ああ、これらを集めるすべを知る者は幸いである。後にそこから、あらゆる苦痛、病、悲しみ、疾患、衰弱を制する力をもつ霊薬を作るからである。それは死と力強く戦い、神の許しに従って定められた時まで生命を延ばし、この世の惨めさに勝ち、人をこの世の富で満たす。
注 triacle は解毒剤・万能薬を意味する歴史語。効能は本文の主張であり、現代医学上の効能を認めるものではない。
この二匹の竜、すなわち金属の原理について、先に引いた私の『摘要』では、敵がその熱によって相手の敵を燃え立たせ、その際に注意しなければ、空中に毒の煙と悪臭を見るだろう、と述べた。それは炎においても毒においても、蛇やバビロニアの竜の毒ある頭より、なお恐ろしいものなのである。
注 原文 a stinking は名詞の省略を含む不規則な表現。「悪臭」と解した。
この二つの種子を竜の姿に描いた理由は、その臭気がきわめて強烈で、竜の臭気に似ているからである。またガラス器の中に立ち上る蒸気は、この二匹の竜を描いた色と同じく、暗く、黒く、青く、黄みがかっている。この蒸気と溶かされた物体の力は、実にこの世にそれ以上のものはないほど毒性が強い。その力と悪臭によって、生きているものをすべて死なせ、殺すことができるからである。哲学者は器を壊さないかぎり、この臭気を感じない。配合物の腐敗から生じる外観と色の変化を見ることによってのみ、そのようなものだと判断する。
したがってこれらの色は、私たちの完全な物体が噛まれ、溶解することによって与えられる腐敗と生成を表す。この溶解は、助けとなる外部の熱、そして私たちのメルクリウスの毒がもつ、ポントス的な火の性と、驚くほど鋭い力から生じる。その力は、抵抗するものをすべて純粋な雲、すなわち指にも感じられない粉へ変え、解きほぐす。こうして熱が、根源的で金属的な、粘りのある、あるいは油のような湿気に作用し、これと抗争すると、基体に黒さを生じさせる。
注 Pontique は「ポントスの」のほか、渋み・鋭さ・腐食性を示す錬金術的用語として用いられる。特定の現代物質へは同定しない。
というのも質料は、溶けると同時に腐り、黒くなり、孕んで生み出そうとするからである。あらゆる腐敗は生成である。だから黒さは大いに望まれるべきものなのだ。それは、テセウスの船がクレタから勝利して戻った際の黒い帆であり、彼の父の死を招いたものである。この父も同じように死ななければならない。この不死鳥の灰から別の不死鳥が生まれ、息子が王となるためである。
確かに、作業の始まり、石の時期にこの黒さを見ない者は、ほかにどんな色を見ようとも、この術にまったく失敗し、その混沌からはもう何もできない。腐敗させなければ、正しく働かせたことにならないからである。腐敗しなければ朽ちず、生成もせず、したがって石は、生長し増殖するための植物的生命を受け取れない。
私はもう一度、まったく真実のことを告げる。たとえ真の質料を用いていても、始めに配合物を哲学者の卵へ入れ、すなわち火がそれらを動かしてからしばらくたったとき、この烏の頭、最も黒い黒のうちの黒を見なければ、初めからやり直さなければならない。この誤りは回復不能で、修正できないからである。とりわけ橙色、あるいは半ば赤い色を恐れなければならない。始めに卵の中でその色を見れば、間違いなく石の瑞々しさとみずみずしい汁気を焼いているか、すでに焼き尽くしたのである。
注 juelinesse は字形に従い保持。文脈上、液汁に富む生命力・瑞々しさを意味すると解した。
得るべき色は、四十日のあいだに、この竜たちの黒さと同じく、完全な黒へ仕上がらなければならない。したがって、これらの本質的なしるしを得られない者は、時機を失しないうちに作業から退き、確実な損失から自分を救うがよい。
また、よく心に留めて知りなさい。この術では、単に黒さを得ただけでは何にもならない。それほど容易に得られるものはないからである。世のほとんどすべてのものは、湿り気と混ぜれば、火によって黒くできる。しかし必要なのは、完全な金属的物体から生じる黒さであり、長いあいだ続き、五か月未満では消えず、その後ただちに望まれた白さが続くものである。これを得れば十分ではあるが、まだすべてではない。
青みと黄みを帯びた色は、溶解と腐敗がまだ終わらず、私たちのメルクリウスの色も、ほかのものと十分に混ざり合って腐っていないことを表す。したがって、この黒さとこれらの色は、この初期段階で、質料と混合物が腐り始め、日光の中に見える塵の粒よりも小さな粉に解け始めていることを、明らかに教えている。この粉は、後に恒久の水へ変わる。
この溶解を、秘密を惜しむ哲学者たちは「死」「破壊」「滅亡」と呼ぶ。自然の諸性がその形を変えるからであり、死者、墓、埋葬所についての多くの寓意もここから生じた。ほかの人々は「焼成」「裸化」「分離」「粉砕」「焙焼」と呼ぶ。配合物が変わり、ごく小さい破片と部分へ分けられるからである。また別の人々は「第一質料への還元」「軟化」「抽出」「混合」「液化」「元素の転換」「精微化」「分割」「埋葬」「練和」「蒸留」と呼ぶ。配合物が融け、種子へ戻され、柔らかくなり、ガラス器の中で循環するからである。
注 Erituration は刊本の語形を保つ。文脈上 trituration(粉砕・磨砕)に相当する。envious は知識を他者に明かすことを惜しむという含み。
さらに「クシル」あるいは「イリス」「腐敗」「腐朽」「キンメリアの闇」「深淵」「地獄」「竜」「生成」「進入」「沈水」「完成」「結合」「受胎」とも呼ばれる。質料が黒く水っぽくなり、自然の諸性が完全に混ざって互いに結びつくからである。
太陽の熱がこれらに働くと、まず粉、あるいは脂っこく粘る水へ変わる。その水は熱を感じると、煙とともに、つまり風と空気とともに、若鶏の頭へ向かって高く飛び上がる。配合物から融け出して引き出されたこの水は、そこから再び下り、下る際に残りの芳香ある配合物を、できるかぎり分解し、溶かす。全体がやや脂っこい黒い煮汁のようになるまで、いつもこのことを繰り返す。これをなぜ「昇華」「揮発」と呼ぶのか、いまや分かるだろう。高く飛び上がるからである。「上昇」「下降」と呼ぶのは、ガラス器の中で上り、下るからである。
注 Poulets head は器具上部を指す擬物的な名称。「芳香ある」も原文 Aromaticall を保持する。
しばらくすると、水はさらに濃くなって凝固し始め、瀝青のように真っ黒になる。そして最後には物体と土が現れる。秘密を惜しむ人々はこれを「テラ・フェティダ」、すなわち「臭い土」と呼んだ。このとき、どの自然な腐敗にも劣らず自然な完全な腐敗によって、この土は臭くなり、腐ったものや、まだ本来の湿気を含む死体で満たされた墓のような臭いを発するからである。
この土をヘルメスは「テラ・フォリアタ」、すなわち「葉の土」と呼んだ。しかし本当の固有名はレトンであり、これは後に白くしなければならない。カバラの徒でもあった古代の賢者たちは、『変身譚』において、カドモスの仲間を呑み込んだマルスの蛇の物語でこれを描いた。カドモスは槍で蛇を刺し、空洞のある樫の木に縫いとめて殺した。この樫の木に注意しなさい。
注 Leton は錬金術文献の laton/laiton に連なる名称。ここでは合金を現代化学的に確定せず、音写する。
第四章 男と女の結合

第四章 紺碧と青の地の上に橙色の長衣を着た男と女、および二人の巻紙について
ここに描かれた男は私自身に生き写しであり、女はペルネルを生き生きと表している。私たちが実物どおり描かれたことに、この目的のための特別な理由があるわけではない。必要なのは雄と雌を表すことだけで、私たち二人に似せる必要はなかった。しかし画家は、ここに私たちを置くことを望んだ。ちょうどこのアーチの上の方、聖パウロと聖ペトロの像の足元に、若いころの私たちを描いたようにである。また別の場所、私の家の近くのサン・ジャック・ド・ラ・ブーシュリー礼拝堂の扉の上にも、同様に描いた。ただし、そこには特別な理由がある。サント・ジュヌヴィエーヴ・デ・ザルダンの扉の上にも私が描かれており、そこで見ることができる。
そこで私は、一つは雄、もう一つは雌という二つの物体を、ここに描かせた。この第二の操作では、まだ完全ではないものの、男性的なものと女性的なものという二つの自然、あるいはむしろ四元素が、真に結びつき、婚姻していることを教えるためである。また、熱と冷、乾と湿という、生まれつき敵同士である四者が、親しく互いへ近づき始め、仲介者と和解者の働きによって、古い混沌以来の敵意を少しずつ捨て始めることを示すためでもある。
この仲介者、和解者が何であるか、あなたは十分に知っている。熱いものと冷たいもののあいだには湿気がある。湿気は、その熱によって熱いものに、その湿りによって冷たいものに、双方と血縁・姻戚関係をもつからである。だから、この和解を始めるために、先行する操作では、すでに配合物すべてを溶解によって水へ変えたのである。そしてその後、この和解を完全に成し遂げるため、水を凝固させ、黒のうちでも最も黒い、この土へ変えた。冷たく乾いた土は、敵同士である乾と湿に自分が縁をもつと認め、両者を完全に鎮め、和解させるからである。
注 湿気が「その熱」によって熱に通じるという叙述は刊本のまま訳した。通常の四元素説へ合わせて本文を修正しない。
それならば、初めは水、いまは土へと変えたことによって、四元素すべての最も完全な混合を見ているのではないか。今後、ほかの変換についても教えよう。すべてが白くなれば空気へ、完全きわまる紫になれば火へ変わるのである。したがって、ここでは二つの自然が婚姻し、一方が他方によって孕んでいる。この受胎によって、一方は雄の体へ、雄は雌の体へ変わる。つまり、ただ一つの体となる。これが古人のいうアンドロギュノス、またはヘルマフロディトスであり、彼らはまた「烏の頭」あるいは「変換された自然」とも呼んだ。
注 Androgyne/Hermaphrodite は、ここでは錬金術的な両性の結合体を表す象徴語。
私がここにこのような姿で描くのは、あなたが和解した二つの自然を得ているからである。賢く導き、治めれば、それらは器の子宮に胎児を形作り、後には無敵で不朽の、きわめて力強い王を生み出せる。それは驚くべき第五精質となるからである。これで、この表現の主たる、最も欠かせない理由が分かるだろう。
よく注意すべき第二の理由は、どうしても二つの物体を描かなければならなかったことである。この操作では、凝固したものを分ける必要がある。生ける神によって植物的な魂を授けられた幼子が生まれたとき、後に生命の乳という養いを与えるためである。これは最も驚くべき、秘められた秘密である。理解を欠いたために、これを求めても見いだせなかった者をみな愚者にし、肉体の眼、あるいは精神の眼でこれを見た者をすべて賢者にした。
そこで、この凝固した体を二つの部分、二つの分量に分けなければならない。一方はアゾートとして働き、もう一方、白くすべきレトンと呼ばれるものを洗い清める。洗われる方は蛇ピュトンである。すべての配合物が水であったとき、大洪水の水が集めた土の泥が腐ったところから生じたこの蛇は、アポロン神の矢、黄色い太陽、すなわち太陽と同等の私たちの火によって、殺され、征服されなければならない。
洗うもの、あるいはむしろ、もう半分によって繰り返すべき洗浄は、かの蛇の歯である。賢い仕事師、勇敢なテセウスは、その歯を同じ土へ播く。そこから武装した兵士たちが生まれるが、彼らは最後には互いを打ち破り、対立によって、自らを同じ土の性質へと解体させ、仕事師には正当に獲得した勝利を持ち帰らせる。哲学者たちが幾度も書き、繰り返したのは、このことである。「それは自らを溶かし、自らを凝らせ、自らを黒くし、自らを白くし、自らを殺し、自らを生かす。」
注 刊本は Theseus(テセウス)。一般的な神話に合わせてカドモスまたはイアソンへ置き換えない。
二人の背景を紺碧と青に描かせたのは、私が、最も黒い黒さからようやく抜け出し始めたことを示すためである。紺碧と青は、暗い女が私たちに初めて見せる色の一つであり、湿気が熱と乾燥に少し場所を譲ることを意味する。男と女がほぼ全身橙色なのは、私たちの諸物体、あるいは賢者たちがここでレビスと呼ぶ私たちの一つの体が、まだ十分に熟成しておらず、黒、青、紺碧の生じるもとである湿気が、乾燥によって半ばしか征服されていないことを示す。乾燥が支配すれば、すべては白くなる。乾燥が湿気と戦い、または釣り合っているときには、すべてが部分的に、いま述べた色になる。
秘密を惜しむ者たちは、この操作の配合物を、ヌンムス、エテリア、アレナ、ボリティス、コルスフレ、カンバル、アルバル・アエリス、ドゥエネク、ランデリク、ククル、タブリキス、エビセメク、イクシルなどとも呼び、これらを白くするよう命じた。
注 異名の列挙は原刊の綴りを保ち、意味の確定しない名称は音写した。
女の体の周囲には、巻紙の形をした白い輪がある。レビスがまさにそのように白くなり始めること、まずこの白い輪に沿って、外縁から始まることを教えるためである。『スカラ・フィロソフォルム』、すなわち『哲学者たちの梯子』という書は、こういう。「最初の完全な白さのしるしは、頭の上を横切る髪の小さな輪が現れることである。それは質料を囲んで、器の側面に、ある種の柑橘色、あるいは黄みがかった色で現れる。」
注 原刊の Scala Phylosophorũ の末尾の略号を -um と展開した。
二人の巻紙には「Homo veniet ad judicium Dei」、すなわち「人は神の裁きへ来る」と書かれている。女は「Verè illa dies terribilis erit」、すなわち「まことに、その日は恐るべき日となる」と語る。これらは聖書からの一節ではなく、来たる裁きについて、神学的な意味に従って語る言葉にすぎない。
私がその言葉を置いたのは、目に見える粗い外形と、ごく自然な技巧だけを見る人に対して用いるためである。そのような人は、意味を復活だけに関するものと解するだろう。同時に、この学の譬えを集め、リュンケウスの眼を得て、見える対象より深く見通す人にも役立つようにした。したがって、「人は神の裁きへ来る。確かに、その日は恐るべき日となる」とある。これは、こう述べたのと同じである。「これは完全の色に至り、裁かれて、その黒さと汚れをすべて取り除かれ、霊化され、白くされなければならない。」
まことに、その日は恐るべき日となる。しかし確かに、『アリステウスの寓意』に見いだすとおり、「恐怖は八十日のあいだ、水の闇の中、夏の極暑の中、海の苦難の中で、私たちを牢に閉じ込める」。私たちの王が白くなり、死から生へ戻り、その後すべての敵を征服するには、まずこれらすべてが過ぎ去らなければならない。この白化は、ほかのすべてよりも困難である。それまでは一歩ごとに誤りうるが、その後は器を壊さないかぎり、誤ることはない。この白化をもう少しよく理解してもらうために、続く図もあなたのために作った。
第五章 聖パウロの剣と白化
第五章 金で縁取られた白と黄色の衣を着て、抜き身の剣を持つ、聖パウロに似た男の像。その足元には、橙色と黒と白の衣を着て、巻紙を持ち、跪く男がいる。

全身を黄みがかった白の衣で包み、聖パウロの姿をした、この男によく注意しなさい。よく見ると、彼は体をひねり、抜き身の剣を取り、足元に跪く男の首を切るか、何か別のことをしようとしている。跪く男は橙と白と黒の衣を着て、巻紙に「DELE MALA QVÆ FECI」、すなわち「私が行った悪をすべて消してください」と語る。これは「TOLLE NIGREDINEM」、すなわち「私から黒さを取り去ってください」といったのと同じであり、この術の用語である。寓意では「悪」が「黒さ」を意味するからである。『哲学者たちの集会』にも、「黒さに至るまで煮よ。それは悪と思われるだろう」という言い方がしばしば見られる。
では、剣を取るこの男が何を意味するか知りたいだろうか。それは、烏の頭、すなわち多くの色の衣を着て跪く男の頭を、切り落とさなければならないことを表す。この姿と図は、ヘルメス・トリスメギストスの『秘密の術の書』から取った。そこには、「この黒い男の頭を取り去れ。烏の頭を切り落とせ」とある。つまり、「私たちの黒いものを白くせよ」ということである。
高名なドイツ人ラムスプリングも、『象形図の注解』でこれを用い、こう述べている。「この森には全身を黒く覆われた獣がいる。誰かがその頭を切り落とせば、獣は黒さを失って、きわめて白い色をまとうだろう。それが何を意味するか理解したいか。黒さは烏の頭と呼ばれ、それが取り除かれると、その瞬間に白い色が来る。つまり、もはや雲が現れなくなれば、この体は頭がないといわれるのである。」これが彼の実際の言葉である。
賢者たちはほかの箇所でも、同じ意味で、「デ・レクサと呼ばれる毒蛇を取り、その頭を切り落とせ」などと述べた。すなわち、黒さを取り去れということである。また石の増殖を表す際にも、このような迂言を用いた。ヒュドラという蛇を物語り、頭を一つ切り落とすと、その場所から十の頭が生じるとしたのである。石は、この烏の頭を切り落とすたび、つまり黒くしてから白くするたび、言い換えれば、新たに溶かして再び凝固させるたびに、十倍へ増えるからである。
この抜き身の剣に黒い帯が巻きつけられ、その両端にはまったく巻かれていないことに注意しなさい。この輝く抜き身の剣は、白のための石、あるいは白い石であり、哲学者たちは幾度も、この姿で表してきた。したがって、この完全で輝く白さへ到達するには、黒い帯の巻き方を理解し、それが教えること、すなわち吸液の分量に従わなければならない。
注 imbibition は液を与え吸収させる操作を意味し、本版では「吸液」と訳す。
何も巻かれていない両端は、始まりと終わりを表す。始まりについては、初回の吸液を静かに、ごく少量だけ行い、生まれたばかりの幼子に与えるように、少しの乳を与えるべきことを教える。著者たちのいうイシルを溺れさせないためである。終わりでも、王が満ち足り、もう欲しがらないことが分かったら、同様にしなければならない。
注 Isir は刊本の字形。エリクシルを指す異形と考えられるが、固有の語形を保った。
この操作の中ほどは、黒い帯を完全に五巻き、五周させることで描いた。この時期には、豊富に与えなければならず、処女の乳が質料全体を取り囲むほどにする。私たちのサラマンダーは火を糧にし、火の中に生き、実際に火そのものであり、何ものをも恐れず火の中を走る生ける銀、すなわち水銀だからである。
この帯の巻き、あるいは周回をすべて黒く描かせたのは、それらが吸液を、したがって黒化を表すからである。しばしば述べたように、火は湿気とともに黒さを生む。この完全な五巻き、五周は、この操作を完全に五度行うべきことを示すと同時に、一度の吸液に一か月ずつ、満五か月で行うべきことも教える。ハリ・アベンラゲルが「物の煮熟、あるいは煮沸は、五十日の三倍で行われる」といった理由はここにある。ただし、始めと終わりの少量の吸液を数えれば、七度になることは確かである。
そこで、最も秘密を惜しむ者の一人は、こう述べた。「私たちの烏の頭は癩に冒されている。だから、それを清めようとする者は、再生の川ヨルダンへ七度沈めなければならない。預言者が、癩に冒されたシリア人ナアマンに命じたように。」ここには、わずか数日の始め、中ほど、そして同じくごく短い終わりが含まれている。
注 「癩」は聖書的比喩を反映する歴史語。現代の特定の疾患の診断として読まない。
そこで私はこの図を与えた。跪き、ほかの何も求めていない私の体を白くしなければならない、と告げるためである。自然は常に完成へ向かう。それをあなたは、処女の乳を加え、その乳によって質料を煮熟することによって成し遂げる。この乳は体の上で乾くと、剣を取る者の衣と同じ黄白色に、体を染める。あなたのコルスフレも、この色に至らせなければならない。
聖パウロの像の衣には、金色と赤い柑橘色の幅広い縁取りがある。ああ、わが子よ、もしこれを見るなら神を讃えなさい。いまや天からの慈悲を得たのだから。そこで吸液させ、染めなさい。幼子がたくましく強くなり、水と火を相手に戦えるようになるまで続けるのである。これを成し遂げれば、デマゴラス、セニオル、ハリが「母がつい先ごろ産んだ幼子の腹へ、その母を入れる」と呼んだことを行うことになる。彼らが母と呼ぶのは、吸液と発酵に用いる哲学者たちのメルクリウスであり、幼子と呼ぶのは体である。このメルクリウスは、その体を染め、色づけるために出ていったのである。
注 teine は染める・着色する意の古形として訳した。
そこで私は白化を表すために、この二つの図を示した。まさにこの箇所で大きな助けを必要とする。ここでは誰もが欺かれるからである。この操作は、実際に迷宮である。一瞬に千の道が現れるうえ、終わりへ進むには、始めと正反対のことをしなければならない。先に溶かしたものを凝固させ、先に水にしたものを土にするのである。
これを白くしたなら、鼻から火と煙を吐く魔法の雄牛を征服したのである。ヘラクレスは、汚物と腐敗と黒さで満ちた厩を清めた。イアソンは、コルキスの竜へ煎じ汁、あるいは煮汁を注いだ。そしてあなたはアマルテイアの角を手にした。それは白いにもかかわらず、残りの生涯を栄光と名誉と富で満たしうる。これを得るには、ヘラクレスのように勇敢に戦わなければならなかった。このアケロオス、この湿った川は、きわめて強い力をもち、そのうえ、しばしば姿を変えるからである。こうしてあなたはすべてを行った。残りに困難はないからである。
これらの変身は『エジプトの七つの封印の書』に詳しく記されている。そこには、すべての著者も同じく述べるとおり、石は黒さを完全に捨て、最も輝く大理石や、炎を上げる抜き身の剣のように白くなるまでに、想像しうるあらゆる色をまとう、とある。たびたび融け、たびたび自ら凝固する。内にある植物的な魂が、同じ時に行わせるこれら多様で相反する操作のうちに、柑橘色、緑、赤となる。ただし真の赤ではない。黄、青、橙にもなる。ついには乾燥と熱に完全に征服され、無数の色はすべて、聖パウロの衣の色である、驚くべき柑橘色を帯びた白さへ終着する。それはほどなく抜き身の剣の色となる。その後、より強く長い煮熟によって、ついに赤い柑橘色を取り、さらに完全な朱の赤となって、永遠にそこへ安らう。
ついでに、忘れず注意しておこう。月の乳は、太陽の処女の乳と同じではない。したがって白化の吸液には、黄金の赤のための吸液よりも白い乳が必要だと考えなさい。この移行で、私は失敗するかと思った。ユダヤ人アブラハムがいなければ、実際に失敗していただろう。このため、抜き身の剣を取る像を、あなたに必要な色で描かせた。それは白くするものの像だからである。
第六章 復活と白い石
第六章 緑の地の上に、全身白い三人の復活者、すなわち蘇る者たち、二人の男と一人の女。下方に二天使、その天使の上に、世界を裁くために来る救い主の像があり、完全に柑橘色を帯びた白い衣を着ている。
このように緑の地を描かせたのは、この煮熟において配合物が緑になり、黒の後に現れるほかのどの色よりも長く、この色を保つからである。この緑は、とりわけ、私たちの石が植物的な魂をもち、術の巧みな働きによって真の純粋な樹木へ変わり、豊かに芽吹き、その後に無数の小枝や枝を伸ばすことを示す。『薔薇園』はいう。「ああ、幸いなる緑よ、お前はすべてを生み出す。お前なしには、何ものも増大し、生長し、増殖できない。」
輝く白をまとって蘇る三人は、私たちの白い石の体、魂、霊を表す。哲学者たちは、悪人から秘密を隠すため、こうした術語を通常用いる。彼らが体と呼ぶのは、私たちが白くする、黒く、暗く、闇に包まれた土である。魂と呼ぶのは、体から分けたもう半分であり、神の意志と自然の力によって、その吸液と発酵を通じ、体へ植物的な魂を与えるものである。すなわち、芽を出し、増大し、増殖し、輝く抜き身の剣のように白くなる力と効力である。霊と呼ぶのは、染める力と乾燥であり、霊のように、あらゆる金属的なものへ浸透する力をもつ。
注 tincture は染める性質・変成力を指す歴史用語であり、現代の「チンキ剤」と同一視しない。
私たちの石には人間と同じく体、魂、霊がある、と彼らがいつでもどこでも述べる十分な理由を示そうとすれば、あまりに長くなる。ただ、体と魂と霊を備える人間が、それでも一人であるように、いまやあなたがもつのも、ただ一つの白い配合物であることに、よく注意してもらいたい。それにもかかわらず、その中には体と魂と霊があり、切り離せないように結ばれている。この体、魂、霊について、明瞭な比較や説明を与えるのは容易である。しかし解き明かすには、神が、ご自身を畏れ愛する者への啓示として留めている事柄を、どうしても語らねばならない。したがって、それらは書かれるべきではない。
そこでここには、体と魂と霊を、すべて白く、蘇るかのように描かせた。この操作で太陽と月とメルクリウスが蘇ること、つまり空気の元素となり、白くされることを示すためである。これまでは黒さを死と呼んだ。同じ比喩を続ければ、白さを生命と呼ぶことができる。生命は、復活とともに、復活によってしか来ない。
これをさらに明瞭に示すため、体は、閉じ込められていた墓の石を持ち上げる姿に描かせた。魂は土に埋められるものではないため、墓からは出て来ない。髪を乱した女の姿で、墓のあいだにいて、自分の体を捜すように描かせただけである。同じく墓に入れられない霊は、墓からでなく、土から出て来る男の姿に描かせた。三者はすべて白い。こうして黒さ、すなわち死は征服され、白くなった三者は、それ以後、朽ちることがない。
いま眼を上へ向け、冠を戴き、蘇り、やって来る王を見なさい。彼は死と闇と湿気に勝った。私たちの救い主が来るときの姿で、その王を見なさい。救い主は清く純粋な魂を永遠にご自分へ結びつけ、不純と汚れは、ご自身の神聖な体に結びつくにふさわしくないものとして、すべて退けるだろう。同じように、ここに私たちの白いエリクシルを見なさい。ただし、このように語ることについて、まずカトリック的、使徒的、ローマ的教会に許しを願い、善良な魂のすべてに、この譬えを使うことを許してほしいと願う。この白いエリクシルは、今後すべての純粋な金属的性質を、離れないように自らへ結びつけ、自己の最も精良な銀の性質へ変え、不純なもの、異物、異質なもの、つまり別種のものをすべて退ける。
神に祝福あれ。その善意によって、私たちがこの輝く白さを見つめられる恵みを与えてくださる。それは、どんな複合された自然よりも完全で輝かしく、不滅の魂に次いで、生ある物質、生なき物質のすべてより高貴である。なぜならそれは第五精質であり、王なる預言者ダビデのいうとおり、灰吹き皿を通り、七度精錬された、最も純粋な銀だからである。
復活した者たちの頭上で楽器を奏でる二天使が何を意味するか、解釈する必要はない。この奇跡的な働きにおける神の驚くべき業を歌う神的な霊であり、裁きへ呼び出す天使というより、むしろそのような存在である。両者をはっきり区別するため、一方にはリュート、他方にはオーボエを与えた。私たちを裁きへ呼ぶ天使に通常与えられるトランペットは、どちらにも与えなかった。救い主の頭上にいる三天使についても、同じことがいえる。一人は彼に冠を戴かせ、ほかの二人は付き添い、巻紙に「O PATER OMNIPOTENS, O JESU BONE」、すなわち「おお、全能の父よ。おお、善きイエスよ」と記して、永遠の感謝を捧げている。
注 hautboy は hautbois の英語形。ここではオーボエ系の木管楽器を指す。
第七章 二天使と赤化

第七章 紫と青の地の上にいる、橙色の二天使、およびその巻紙
この紫と青の地は、白い石から赤い石へ移るとき、太陽の処女の乳を少し吸わせなければならないこと、そしてこれらの色が、石の上で乾かした水銀的な湿気から出て来ることを示す。この赤化の操作では、吸液させても黒はあまり現れず、紫、青、そして孔雀の尾の色が現れる。私たちの石は乾燥においてたいへん強く、メルクリウスが触れるやいなや、その自然は似た自然を喜んで結びつき、貪るように飲み込む。だから湿気から生じる黒さは、ほんの少ししか姿を見せず、しかも紫と青の色の下に隠れる。すでに述べたように、乾燥がすぐさま絶対的に支配するからである。
また、あなたのために、この二天使には翼を描かせた。配合物の二つの実体、水銀的なものと硫黄的なもの、固定的なものと揮発的なものが、完全に一緒に固定され、器の中でも一緒に飛ぶことを示すためである。この操作では、固定した体が、すべて霊的となって穏やかに天へ昇り、そこから土へ、またあなたが望むあらゆる場所へ下る。火の上で常に動く霊に、どこまでも従うのである。両者は一つの同じ自然となり、複合物はすべて霊的、霊的なものはすべて物体的となった。先行する操作によって、私たちの大理石の上で、これほど精微にされたのだ。したがって、ここで諸自然は天使へ変成する。つまり霊的で、きわめて精妙なものとなり、いまや真の染める力となるのである。
いま、柑橘色を帯びた赤いメルクリウスを加えて赤化を始めることを忘れてはならない。しかし多く注いではならず、状況に応じ、一度か二度だけにする。この操作は、乾いた火、乾いた昇華と焼成によって行われるべきだからである。
実に私はここで、書かれたものとしてはめったに見いだせない秘密を告げている。それほど、秘密を惜しむ心から遠いのである。神の御心ならば、誰もが思いのままに金を作る方法を知ればよいと思う。そうすれば、高利貸しや訴訟に頼らず、聖なる族長たちに倣って暮らし、美しい家畜の群れを牧場へ導けるだろう。最初の父祖たちがしたように、一つのものを別のものと交換するだけでよい。ただし、それを得るためには、いまと同じく働かなければならない。それでも、神を怒らせ、ことによると悪い結果をもたらす変化の道具となることを恐れ、自然の秘密のすべての扉を開ける鍵をどこへ隠したか、描いたり書いたりしないよう用心しなければならない。その場所の土を開いたり掘り返したりすることも避ける。ただ、神が知ることを許したすべての人に、十月、太陽とメルクリウスに照らされる天秤の宮、すなわち天秤座がどのような性質をもつかを教える事柄を、示すだけで満足しよう。
天使たちを橙色に描いたのは、白い配合物がもう少し熟成、あるいは煮沸され、紫と青のうちの黒さが、すでに火で追い払われたことを知らせるためである。この橙色は、長く待ち望んだ美しい黄金の柑橘赤と、すでに一部を追い払い消し去った紫と青の残りとの、混合だからである。さらにこの橙色は、諸自然が熟成し、神の恵みによって少しずつ完成されていることを示す。
「SVRGITE MORTVI, VENITE AD JVDICIVM DOMINI MEI」、すなわち「死者たちよ、起きよ。私の主なる神の裁きへ来れ」と記した巻紙は、ほかの意味よりも、ただ神学的な意味のために置かせた。それは全身赤い獅子の喉で終わる。増殖の場合を除いて、この操作は、隠修庵のケシの花と、描かれた獅子の朱色にそっくりな、真の赤紫を見るまで中断してはならないことを教えるためである。
注 saving for multiplying は、完成後に増殖のため操作を再び行う場合を別にする、という留保として訳した。
第八章 聖ペトロの鍵と増殖
第八章 柑橘赤の衣を着て、右手に鍵を持つ、聖ペトロに似た男の像。左手は、足元に跪いて巻紙を持つ、橙色の衣の女の上に置かれている。

橙色の衣を着たこの女を見なさい。若いころのペルネルに、まことに自然によく似ている。女は、右手に鍵を持つ男の足元に、両手を合わせ、跪いて願う姿で描かれる。男は慈悲深く願いを聞き、その後、左手を彼女へ伸ばす。これが何を意味するか知りたいだろうか。女は石であり、この操作で、男の姿に描かれた哲学者たちの太陽のメルクリウスへ、二つのもの、すなわち増殖と、より豪華な装いを求める。いまこそ、それを得る必要があるため、男はその肩へ手を置き、願いを聞き入れて与えるのである。
しかし、なぜ女を描かせたのか。女でなく男を描かせても、あるいはむしろ天使を描かせてもよかった。いまや諸自然はすべて、霊的でも物体的でもあり、男性的でも女性的でもあるからである。それでも女を描くことを選んだのは、女がほかの何よりも、これらを望んでいると分かるようにするためである。これらこそ女にとって、最も自然で固有の願いだからである。
注 女性の欲望を一般化する記述は、原著の時代的な比喩であり、本版がその見方を支持するものではない。
さらに女が増殖を求めていると示すため、祈りを向ける相手の男を、聖ペトロの姿で描かせた。彼は鍵を持ち、開閉し、縛り、解く力をもつ。秘密を惜しむ哲学者たちは、増殖について、「APERI, CLAVDE, SOLVE, LIGA」、すなわち「開け、閉じよ、縛れ、解け」という、ありふれた術語以外では決して語らなかったからである。「開く」「解く」とは、常に硬く固定している体を、柔らかく、流動的で、水のように流れるものにすることである。「閉じる」「縛る」とは、その後、より強い煮熟によって凝固させ、再び体の形へ戻すことである。
注 ラテン語の順序では SOLVE=解け、LIGA=縛れとなる。英語本文は最後の二語を binde, loose の順で訳しているため、その逆転を本文に保持した。
そこでこの場所には、鍵を持つ男を表す必要があった。いまあなたは、開き、閉じ、すなわち芽吹き増大する諸自然を増殖させなければならない、と教えるためである。溶かして固定するたびに、これらの自然は量、質、効力において十倍ずつ増える。この数から百へ、百から千へ、千から万へ、万から十万へ、十万から百万へ、そこから同じ操作によって無限へ至る。私も三度そうした。神に讃美あれ。
こうしてエリクシルが無限へ至るなら、その一粒が、大洋のように深く広大な量の溶融金属へ落ちただけで、その金属を染め、最も完全な金属へ変える。すなわち、吸液と発酵をどのように受けたかに従って、銀または金へ変えるのである。その際、最初の凝固において金属と結びついた不純なものと異物は、ことごとく排除され、はるか遠くへ追い出される。
このため、聖ペトロの姿をした男の手に鍵を描かせた。石が増殖のために開かれ閉じられることを望んでいる、と示すためである。また、どのメルクリウスを用い、いつ行うべきかを示すため、男には柑橘赤の衣を、女には橙色の衣を与えた。ピュタゴラスの沈黙を破らぬよう、これで十分としよう。女、すなわち私たちの石が、聖ペトロの豪華な装いと色を求めている、と教えるには、これで足りる。
女の巻紙には「CHRISTE PRECOR ESTO PIVS」、すなわち「イエス・キリストよ、私を憐れんでください」とある。これはこういったのと同じである。「主よ、私に恵み深くあってください。ここまで来た人が、強すぎる火ですべてを台無しにしないようにしてください。確かに、いまから私は敵を恐れることがなく、どんな火も私には同じです。それでも、私を入れる器は常にもろく、壊れやすいのです。火を上げすぎれば器は割れ、砕け散って私を運び、不幸にも灰の中へ撒き散らすでしょう。」
だから、ここでは火に注意し、この驚くべき第五精質を、忍耐をもって穏やかに治めなさい。火は強める必要があるが、強めすぎてはならない。そして至高の善に祈りなさい。鉱山と宝物を守る悪霊が、あなたの仕事を壊したり、器の中にある第五精質の理解しがたい動きを見つめるとき、あなたの眼を惑わせたりすることを、許さないでくださるように。
第九章 翼ある獅子と完成

第九章 暗い紫の地の上にいる赤紫の男。朱のように赤い、翼のある獅子の足をつかんでいる。獅子は男を奪い、運び去ろうとしているように見える。
この紫で暗い地は、石が十分な煮熟によって、すべて柑橘色と赤である美しい衣を得たことを告げる。それは、同じ衣を着た聖ペトロへ、女が願い求めたものである。また、完全な柑橘色で示される十分で完璧な熟成によって、古い橙色の衣を脱ぎ捨てたことを告げる。この飛ぶ獅子の朱赤は、純粋で鮮明な粒染めの緋、真のザクロの赤に似ており、いまやすべてが正しく均整のとれた完成へ達したことを示す。
注 skarlet in graine はケルメス等による堅牢な緋染めをいう歴史的な表現。Granadored はザクロの赤と解した。
そしていまや、それは獅子のようになり、純粋な金属的自然をすべて呑み込み、自らの真の実体、すなわち最良の鉱山のものよりも精良な、真で純粋な金へ変える。また、石はこの男を、惨めさの谷、すなわち貧困と病弱の不便から運び出す。その翼によって、エジプトの死んで淀んだ水、すなわち死すべき人間のありふれた思いから、栄光のうちに引き上げる。この生とその富を軽んじさせ、昼も夜も神と聖人たちを思い、至高天に住み、永遠の希望の泉から甘い湧き水を飲むようにさせるのである。
注 英文では獅子・石を受ける he/she が交替する。日本語では指示対象に応じて訳した。Emperiall Heaven は文脈上、最高天・至高天を意味する。
神に永遠の讃美あれ。神は私たちに、この最も美しく、あらゆる点で完全な紫を見る恵みを与えてくださった。この、岩に生える野のケシの快い色、このティルスの、輝き炎を上げる色は、変質も変化も受けない。天そのものも、その黄道も、もはやこれを支配する力をもたない。その、眼をくらませる明るい光線は、天上を超える何かを人間へ伝えるかのように見える。それを見る者、知る者を、同時に驚嘆させ、震えさせ、畏れさせるのである。
おお主よ、これを正しく用いる恵みをお与えください。信仰を広め、私たちの魂の益となり、この高貴な王国の栄光が増すように。アーメン。終。