文学 / ジョナサン・スウィフトガリヴァー旅行記Gulliver’s Travels into Several Remote Nations of the World

『ガリヴァー旅行記』の装画。海辺で小人たちに囲まれたガリヴァー。

文学 / ジョナサン・スウィフト

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原著・底本

原題
Gulliver’s Travels into Several Remote Nations of the World
著者
ジョナサン・スウィフト
編者
W・スコット卿
原典の利用条件
パブリックドメイン(米国)
Project Gutenberg 利用条件
Universitätsbibliothek Paderborn — CC BY 4.0
収録範囲
Project Gutenberg第829番の全四部39章、前付と底本注七件。本文が参照する二図と図中文字は1726年版由来の別資料から補う。

日本語訳

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表紙

装画
日本人文
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CC0 1.0

本書のために制作した独自装画。原刊の装丁とは異なります。

追加日: 2026-10-21 / 更新日: 2026-10-21

Project Gutenberg第829番の全四部39章、前付と底本注七件。本文が参照する二図と図中文字は1726年版由来の別資料から補う。

ガリヴァー旅行記
世界のさまざまな
遠い国々への旅

ジョナサン・スウィフト神学博士 著
ダブリン、聖パトリック大聖堂首席司祭

[初刊、一七二六―二七年。]

出版者から読者へ

[初版に記されたとおり。]

この旅行記の著者、レミュエル・ガリヴァー氏は、私の古くからの親しい友人であり、母方には血縁もある。およそ三年前、ガリヴァー氏は、レドリフの自宅へ好奇心の強い人々が押しかけるのにうんざりし、故郷ノッティンガムシャーのニューアーク近くに、住みよい家の付いた、ささやかな土地を買い求めた。今ではそこで隠居の暮らしをしているが、近隣の人々からは、なお厚く敬われている。

ガリヴァー氏は、父親の住んでいたノッティンガムシャーで生まれたが、一族はオックスフォードシャーの出だと、本人が話すのを聞いたことがある。その裏づけとして、私も同州バンベリーの教会墓地で、ガリヴァー家の墓や墓碑を、いくつも見かけた。

レドリフを去る前、氏は以下の原稿を私に預け、私がよいと思うように扱ってよいと言い残した。私はこれを三度、注意深く読んだ。文体は、たいへん平明で簡潔である。唯一気になるのは、旅行家の常として、著者が少々細かく書きすぎることだ。全体には、真実らしさがはっきりと漂っている。実際、著者は正直なことであまりに名高かったので、レドリフの近隣では、何かが確かだと請け合うとき、「ガリヴァー氏が言ったのと同じくらい、本当だ」と言うのが、一種のことわざになっていたほどである。

著者の許可を得て、この原稿をお見せした、何人かの立派な方々の勧めにより、私は今、あえてこれを世に送り出すことにした。少なくとも、しばらくの間は、若い貴族の方々にとって、政治や党派についての、ありふれた駄文を読むより、よい楽しみになるだろうと願っている。

もし私が、航海中の風や潮、磁針の偏差や方位に関する無数の記述、船乗りの言葉で細々と述べられた、嵐の中での操船の仕方、さらには経度や緯度の説明を、思い切って削らなかったなら、この本は、少なくとも今の二倍の厚さになっていただろう。この点で、ガリヴァー氏が多少不満を持たれるのではないかと、懸念している。しかし私は、できるかぎり、一般の読者の理解力に合う本にしようと決めたのである。ただし、私が海事に無知なために、何か間違いを犯したとすれば、その責任は私一人にある。また、著者の手を離れたままの、詳しい原稿全体を見たいという旅行家があれば、いつでも、その希望にお応えする用意がある。

著者について、さらに詳しいことは、本書の初めの数ページをお読みになれば、ご満足いただけるだろう。

リチャード・シンプソン

ガリヴァー船長から、従兄弟シンプソンへの手紙

一七二七年、執筆。

君が、あれほど強く、何度もせがんだために、私は、まとまりもなく、訂正もしていない旅行記を出版することにした。その際、どちらかの大学の若い紳士を雇って、順序を整え、文体を直させるようにと指示した。私の助言で、従兄弟のダンピアが『世界周航記』のときにしたのと、同じである。君には、求められさえすれば、このことを公に認めてもらいたい。しかし、何かを省いてよいと承諾する権限を、君に与えた覚えはない。まして、何かを付け加えてよいと言った覚えは、なおさらない。したがって、後者に当たるものは、一切、私のものとは認めないと、ここに宣言する。とりわけ、敬虔にして栄光ある記憶を残された、アン女王陛下についての一節である。もっとも私は、人間という種族の中では、誰よりも陛下を敬い、重んじていた。だが君も、君の差し込み屋も、考えてみるべきだった。わがフウイヌムの主人の前で、私たちと同じ造りの動物を褒めるのは、私の本意でもなければ、礼にかなうことでもない。そのうえ、書かれたことは、まったく事実に反している。私は陛下の治世の一時期、イングランドにいたので知っているが、陛下は首席大臣を通じて政治を行われた。それどころか、二人の大臣が相次いでその任に就いた。初めはゴドルフィン卿、次はオックスフォード卿だった。つまり君は、存在しなかった事柄を、私に語らせたのだ。同じように、計画家たちの学院についての記述や、フウイヌムの主人に私が語った話の、いくつもの箇所でも、君は重要な事情を省いたり、言葉を濁したり、変えたりして、私自身、自分の著作とは、ほとんど思えないほどになっている。以前、これについて手紙で少しほのめかしたところ、君は、波風を立てるのが怖かったのだと答えた。権力者たちは出版物を厳しく見張り、当てこすりに見えるものは何でも――君は、たしか、そういう言葉を使った――意味を探るだけでなく、罰しようとするのだ、と。しかし、どうか教えてほしい。これほど何年も前に、しかも五千リーグほども離れた場所で、別の治世のもとに語ったことを、今、群れを治めているという、どのヤフーに当てはめられるのか。ことに、そのころ私は、そんな連中の支配下で暮らす不幸を、ほとんど考えても、恐れてもいなかったのだ。まさにそのヤフーどもが、フウイヌムに車を引かせ、まるで馬のほうが獣で、自分たちのほうが理性ある生き物であるかのように、運ばれているのを見るとき、もっともな不満を抱くのは、むしろ私ではないか。実際、これほど異様で、忌まわしい光景を見ずに済むことが、ここへ引きこもった主な動機の一つなのである。

君自身と、君に寄せた信頼に関しては、これだけ述べておくのが適当だと思った。

次に私は、自分の判断力のひどい乏しさを嘆く。君や、そのほかの何人かの懇願と、誤った理屈に丸め込まれ、みずからの意見に大いに反して、旅行記の出版を許したからだ。君が、世のためになるからと言い張ったとき、私は、いったい何度、考えてほしいと頼んだことか。ヤフーは、教訓によっても、手本によっても、まったく改めようのない動物なのだ、と。実際、そのとおりだった。当然期待してよかったはずなのに、少なくとも、この小さな島の中で、あらゆる弊害と腐敗が、すっかり終わるのを見るどころか、警告を発して半年以上たった今も、私の意図した効果が、この本から、一つでも生まれたとは聞けない。党派や派閥が消え去り、裁判官が博学で公正になり、弁護士が正直で慎み深く、いくらかは常識も持つようになり、スミスフィールドで、法律書を積み上げたピラミッドが燃え上がり、若い貴族の教育が、すっかり改められ、医師たちが追放され、雌のヤフーに、徳、名誉、誠実さ、分別が満ちあふれ、宮廷や大臣たちの朝の謁見の場が、隅々まで除草され、掃き清められ、才知、功績、学識が報われ、散文や韻文で出版の名を汚す者は皆、自分たちの紙の原料である綿だけを食べ、インクだけで渇きを癒やすようにと宣告されたら、手紙で知らせてほしいと、私は頼んだ。君に励まされたために、私は、これらや、そのほか千もの改革を、固く当てにしていた。実際、それらは、本書の教訓から、明らかに導かれることなのだから。そして、ヤフーの本性に、徳や知恵へ向かう、ほんのわずかな素質でもあったなら、その一族につきまとう、あらゆる悪徳と愚行を改めるのに、七か月あれば十分だったことは、認めねばなるまい。それなのに君は、どの手紙でも、私の期待に応えるどころではない。反対に、毎週、われらの運び屋を、中傷文、解読の手引き、批判、覚え書き、続篇などで、いっぱいにしている。読めば私は、国の大人物を当てこすり、人間性を貶め――連中は今でも、ずうずうしく、そう呼ぶのである――、女という性を罵ったと、非難されている。また、こうした束の書き手たちは、互いの間でも、意見が一致していない。私を、自分自身の旅行記の著者とは認めない者もいれば、私がまったく知らない本の著者に、仕立て上げる者もいる。

また、君の印刷屋は、ずいぶん不注意で、私の幾度もの出航と帰還の時期を混同し、日付を間違えている。年も、月も、月の何日かも、正しく記していない。しかも、出版後、原稿はすべて処分されてしまったというし、私の手元にも写しは残っていない。それでも、もし第二版を出すことがあるなら、入れてもらおうと、いくつかの訂正を送った。ただ、その訂正も、私が責任を持って保証できるわけではない。このことは、判断力があり、偏りのない読者に任せ、よいと思うように調整していただこう。

海のヤフーたちの中には、私の海事用語に、あちこち不適切で、今はもう使わないと言って、けちをつける者もいるらしい。私には、どうしようもない。まだ若かった、初めての航海のころ、私は、もっとも年老いた船乗りたちに教わり、彼らの話すとおりに覚えたのだ。しかし、その後わかったのだが、海のヤフーも、陸のヤフーと同じく、新奇な言葉を好む。陸の連中は、毎年、言葉を変えてしまう。そのため、故国へ帰るたびに、昔の言い方が、すっかり変わってしまっていて、新しい言葉が、ほとんど理解できなかったのを覚えている。また、好奇心から、ロンドンのヤフーが、私の家へ訪ねてくるときも、こちらも向こうも、相手にわかるように、自分の考えを伝えることができないのである。

もしヤフーの非難が、いささかでも私の心を動かすものなら、大いに不満を述べる理由があろう。連中の中には、私の旅行記を、私の頭から出た、ただの作り話だと、大胆にも考える者があり、フウイヌムやヤフーなど、ユートピアの住民と同じくらい、実在しないのだと、ほのめかすまでに至っているからだ。

確かに、認めねばなるまい。リリパット、ブロブディングラグ――誤ってブロブディンナグとせず、そう綴るべきだった――、それにラピュタの人々については、その実在や、私の記した事実に疑いを差し挟むほど、思い上がったヤフーがいるとは、まだ一度も聞いたことがない。真実は、たちまち読者の胸を打ち、確信させるからである。それなら、フウイヌムやヤフーについての私の話は、どうして、それより信じがたいのだろう。後者について言えば、この国にさえ、何千という実例があるではないか。フウイヌム国にいる仲間の獣たちと違うのは、一種のわけのわからぬ言葉をしゃべり、裸で歩かないということだけである。私は連中を改めるために書いたのであって、気に入られるために書いたのではない。一族がそろって褒めそやす言葉よりも、私の厩で飼っている、あの二頭の堕落したフウイヌムのいななきのほうが、私には価値がある。あれほど堕落していても、彼らからは、なおいくつかの徳を、悪徳の混じることなく、学び続けられるからだ。

この惨めな動物どもは、私が自分の正直さを弁護するほどまでに堕落したと、大胆にも考えるのだろうか。私もヤフーではあるが、偉大な主人の教えと手本によって、二年のうちに、嘘をつき、ごまかし、だまし、言い逃れるという、地獄のような習慣を、取り除けたことは、フウイヌム国じゅうに知られている。もっとも、ひどく難しかったことは認める。何しろ、私の種族全体、とりわけヨーロッパ人の、魂の奥深くに、根づいているものだからだ。

この腹立たしい件では、まだ不満があるが、これ以上、自分も君も煩わせるのは、やめておこう。率直に認めねばならないのは、最後に帰国して以来、どうしても避けられない事情から、君たちの種族の、何人かと、とりわけ自分の家族と交わったために、私のヤフーとしての本性の中で、いくらかの腐敗が、よみがえってきたということだ。そうでなければ、この王国のヤフー族を改めようなどという、これほど馬鹿げた計画を、試みるはずがなかった。しかし、そうした夢のような企てとは、もう永久に手を切った。

一七二七年四月二日

第一部 リリパットへの航海

第一章

著者が、自分と家族について、いくらか説明する。初めて旅に出ようと思った事情。難船し、命からがら泳いで、リリパット国の岸へ無事にたどり着く。捕虜にされ、内陸へ運ばれる。

父はノッティンガムシャーに、わずかな土地を持っていた。私は五人の息子の三男だった。十四歳のとき、父は私を、ケンブリッジのエマニュエル・カレッジに入れてくれた。そこで三年暮らし、熱心に勉強したが、仕送りはごく乏しかったにもかかわらず、私を養う費用は、父の少ない資産には重すぎた。そこで私は、ロンドンの高名な外科医、ジェームズ・ベイツ氏の徒弟となり、四年間、そのもとにいた。父がときどき送ってくれる、わずかな金は、航海術や、数学のそのほかの分野を学ぶために使った。旅を志す者には役立つ学問であり、いつか自分も旅に出る運命だと、私は常に信じていたからである。ベイツ氏のもとを離れると、父の家へ帰り、父と叔父ジョン、そのほかの親類の助けで、四十ポンドを集めた。また、ライデンで暮らす費用として、年に三十ポンドを出してもらう約束も取りつけた。そこで二年七か月、医学を学んだ。長い航海に役立つと、わかっていたからである。

ライデンから帰ると間もなく、恩師のベイツ氏の推薦で、エイブラハム・パネル船長の指揮するスワロー号の船医となった。船長とともに三年半を過ごし、レヴァント地方や、そのほかの土地へ、一、二度の航海をした。帰国すると、ロンドンに落ち着こうと決めた。恩師のベイツ氏も、その考えを励ましてくださり、何人かの患者を紹介してくださった。私はオールド・ジューリーの小さな家の一部を借り、身を固めるよう勧められて、ニューゲート街の靴下商エドマンド・バートン氏の次女、メアリー・バートン嬢と結婚した。妻は、四百ポンドの持参金を持ってきた。

しかし二年後、恩師ベイツ氏が亡くなり、ほかには友人も少なかったので、私の仕事は傾き始めた。同業者のあまりに多くが行っている、悪い医療のまねを、私の良心が許さなかったからだ。そこで妻と、何人かの知人に相談し、もう一度、海へ出ることに決めた。二隻の船で相次いで船医を務め、六年の間、東インドと西インドへ、何度か航海し、いくらか財産を増やした。暇な時間は、古今のすぐれた著者の本を読むことに使った。いつも、かなりの数の本を携えていたのである。また、陸にいる間は、人々の習俗や気質を観察し、その言葉を学んだ。記憶力がよかったので、語学は、たいへん得意だった。

最後の航海が、あまりうまくいかなかったため、私は海にうんざりし、妻や家族と、故国で暮らすつもりになった。船乗り相手の仕事が得られることを望んで、オールド・ジューリーからフェター・レーンへ、そこからワッピングへ移ったが、商売にはならなかった。三年の間、好転を待った末、南海へ向かおうとしていたアンテロープ号の船長、ウィリアム・プリチャードから、有利な申し出を受け、引き受けた。一六九九年五月四日、私たちはブリストルを出帆し、初めのうち、航海はたいへん順調だった。

その海域で、どんな冒険をしたかを細かく述べて、読者を煩わせるのは、いくつかの理由から適当でない。そこから東インドへ向かう途中、激しい嵐に襲われ、ヴァン・ディーメンズ・ランドの北西へ流された、と言えば十分だろう。観測によれば、私たちは南緯三十度二分にいた。過酷な労働と、ひどい食べ物のため、乗組員の十二人が死に、残りも、たいへん弱っていた。その地方では初夏に当たる十一月五日、ひどく霞んだ天気の中、船乗りが、船から半ケーブルも離れていないところに岩を見つけた。しかし風が強すぎたため、船はまっすぐ岩へ押しつけられ、たちまち砕けた。私を含む六人の乗組員は、ボートを海へ下ろし、どうにか船と岩から離れた。私の計算では、三リーグほど漕いだところで、もう働けなくなった。船にいた間の労働で、すでに疲れ果てていたのである。それで波に身を任せると、半時間ほどして、北からの突風で、ボートは転覆した。ボートにいた仲間や、岩へ逃れた者、船に残った者たちが、その後どうなったかは知らない。ただ、皆、死んだのだと思う。私は、運の向くままに泳ぎ、風と潮に押し進められた。何度も足を下ろしてみたが、底には触れなかった。だが、もう力が尽き、これ以上もがけなくなったころ、足の立つ深さに来ていると気づいた。そのころには、嵐もかなり収まっていた。海底の傾斜は、たいへん緩やかで、岸へ着くまで、一マイル近く歩いた。時刻は、夜の八時ごろだったと思う。それから、さらに半マイルほど進んだが、家も住民も、何のしるしも見つからなかった。少なくとも、弱り切っていたので、私の目には入らなかった。ひどく疲れていたうえ、暑さもあり、船を離れるときに、半パイントほどのブランデーを飲んだせいもあって、強い眠気を覚えた。たいへん短く、柔らかな草の上に横たわると、これまでの生涯で覚えのないほど、ぐっすり眠った。九時間ほどだったと思う。目が覚めたときには、ちょうど夜が明けていたからだ。起き上がろうとしたが、身動きができなかった。あおむけに寝ていたのだが、両手両足が、左右から地面に固く縛りつけられ、長く、豊かだった髪も、同じように留められていた。そのほかにも、脇の下から太腿にかけて、体を横切る何本もの細いひもを感じた。上を見るほかはなかった。日差しは暑くなり始め、光が目を刺した。周りで、ざわざわした物音がしたが、その姿勢では、空のほかには何も見えなかった。しばらくすると、左脚の上を、生き物が動くのを感じた。それは、ゆっくり胸を進んで、ほとんど顎のところまで来た。できるだけ目を下へ向けると、身長六インチにも満たない、人間の姿をした生き物で、手には弓矢を持ち、背には矢筒を負っていた。その間にも、同じようなものが、少なくとも四十人は、初めの一人の後をついているらしいと感じた。私は、あまりに驚いて、大声を上げた。すると皆、恐れて後ろへ逃げ、後で聞いたところでは、私の脇腹から地面へ飛び降りて、けがをした者もいた。しかし、連中はすぐ戻ってきた。そのうちの一人は、私の顔を正面から見られるところまで、思い切って近寄り、驚いたように、両手と目を上へ向け、甲高いが、はっきりした声で、「ヘキナ・デグル」と叫んだ。ほかの者も、その言葉を何度か繰り返したが、そのときの私には、意味がわからなかった。読者にも想像がつくとおり、その間じゅう、私は、たいへん不安な気持ちで横たわっていた。ついに、身を振りほどこうともがくと、運よく、左腕を地面に留めていたひもを切り、杭を引き抜くことができた。左手を顔のところまで上げてみて、どんなふうに縛られているのかが、わかった。同時に、ひどい痛みをこらえて、強く引くと、頭の左側の髪を縛るひもも、少し緩み、頭を二インチほど、どうにか回せるようになった。だが、私が捕まえる前に、小人たちは、また逃げ出した。そこで、ひどく甲高い大きな叫び声が上がり、それがやむと、一人が「トルゴ・フォナク」と大声で叫ぶのが聞こえた。その瞬間、左手に百本以上の矢が飛んできて、それぞれが針のように刺さるのを感じた。それだけでなく、ヨーロッパで砲弾を放るように、空へ向けて、さらに一斉に矢を放った。その多くは体に落ちたのだろう。感じはしなかったが、顔に当たったものもあったので、すぐ左手で顔を覆った。矢の雨がやむと、私は悲しみと痛みで、うめいた。それから、また身を振りほどこうとすると、初めより、もっと多くの矢が放たれ、中には、槍で私の脇を突こうとする者もいた。幸い、厚い革の胴着を着ていたので、槍は通らなかった。私は、じっとしているのが、いちばん賢いと考えた。そのまま夜まで待つつもりだった。左手は、もう自由なのだから、たやすく逃れられるはずだ。住民も、私の見た者と同じ大きさばかりなら、どれほど大きな軍隊を集めようと、対抗できると思われた。だが運命は、別の道を用意していた。人々は、私がおとなしくなると、もう矢を放たなかった。しかし物音から、数が増えているのはわかった。私から四ヤードほど、右耳の向こう側で、一時間以上、人が働くような、こつこつという音が続いた。杭とひもが許すかぎり、そちらへ頭を向けると、地面から一フィート半ほどの高さに、住民四人を載せられる台ができていた。登るための梯子も、二つか三つ、かかっていた。そこから、身分の高そうな者が、長々と演説をした。私には、一言もわからなかった。ただし、先に言っておくべきだったが、この中心人物は、演説を始める前に、「ラングロ・デフル・サン」と三度叫んだ。これも、先の言葉も、後になって繰り返し聞かされ、説明を受けた。すると、すぐに五十人ほどが来て、頭の左側を留めていたひもを切った。おかげで、頭を右へ向け、話す男の姿や身振りを見られるようになった。男は中年で、付き添う三人の誰よりも背が高かった。そのうち一人は、衣の裾を持つ小姓で、私の中指より、少し長い程度に見えた。残りの二人は、両側から男を支えていた。男は、弁論家らしい振る舞いを、あらゆる形で見せ、脅しのくだりや、約束、憐れみ、親切のくだりが、いくつもあると見て取れた。私は、もっとも従順な態度で、わずかな言葉を返し、左手と両目を太陽へ向け、太陽を証人に呼ぶようにした。しかし、船を離れる何時間も前から、何も食べておらず、飢えて、ほとんど死にそうだった。自然の要求があまりに強く、待ちきれない様子を見せずにいられなかった。厳密な礼儀の規則には反したかもしれないが、しばしば指を口へ当て、食べ物が欲しいと示したのである。ハーゴ――後に知ったが、大貴族をそう呼ぶ――は、すぐに理解した。台を下り、私の体の両脇に、何本か梯子をかけるよう命じた。百人以上の住民が、肉の詰まった籠を持って登り、私の口へ向かって歩いてきた。王が、私について最初の知らせを受けると、ただちに命じて、用意させ、送ってきたものだった。いくつかの動物の肉があることはわかったが、味からは、区別がつかなかった。羊肉のような形の、肩肉、脚肉、腰肉があり、たいへんよく料理されていたが、雲雀の翼より小さかった。私は二つ三つを、一口で食べ、マスケット銃の弾ほどのパンを、一度に三つ取った。人々は、できるかぎり早く運んできて、私の大きさと食欲に、ありとあらゆる驚きのしるしを示した。次に私は、飲み物が欲しいと、別の合図をした。食べる様子を見て、少量では足りないとわかっていたらしい。たいへん器用な人々で、持っている中でも、もっとも大きな樽を一つ、見事な手際でつり上げ、それから私の手のほうへ転がし、上蓋をたたき抜いた。私は、それを一息に飲み干した。半パイントも入っていなかったのだから、無理もない。薄いブルゴーニュの葡萄酒に似ていたが、それより、はるかにおいしかった。二つ目の樽が運ばれてきたので、同じように飲み、もっとくれと合図したが、もうなかった。こうした離れ業を見せると、人々は歓声を上げ、私の胸の上で踊りながら、初めと同じく、「ヘキナ・デグル」を何度も繰り返した。そして、空になった二つの樽を、下へ投げるよう合図したが、その前に、「ボラッチ・メヴォラ」と大声で叫び、下にいる人々へ、道をあけるよう警告した。樽が宙を飛ぶのを見ると、一同から、「ヘキナ・デグル」の声が上がった。白状するが、私の体の上を、行き来している間、手の届くところへ来た四、五十人を捕まえ、地面へたたきつけたいという誘惑を、しばしば感じた。しかし、すでに味わった痛みを思い出し、しかも、それが連中のできる最悪のことではないかもしれないと考えると、また、私は名誉にかけて約束をしたのだ――自分の従順な態度を、そう解釈していた――と考えると、そうした思いは、すぐに消えた。そのうえ、これほど費用をかけ、盛大にもてなしてくれた人々には、今や私も、客の礼を尽くす義務があると思った。しかし心の中では、この小さな人々の大胆さに、いくら驚いても、驚き足りなかった。私のような大きな生き物は、見るだけでも恐ろしいはずなのに、片手が自由であるにもかかわらず、震えもせず、その体へ登り、歩き回る勇気があるのだから。しばらくして、私がもう食べ物を求めないとわかると、皇帝陛下から遣わされた、高位の人物が現れた。閣下は、私の右脚の細いところへ登り、十人ほどの供を連れて、顔まで歩いてきた。王の印のある信任状を取り出し、私の目のすぐそばへ掲げると、怒りは見せず、しかし、決然とした態度で、十分ほど話した。しばしば前方を指さしたが、後でわかったところでは、半マイルほど先の首都の方角だった。陛下と評議会は、私をそこへ運ぶと決めていたのである。私は、わずかな言葉を返したが、通じなかった。それから、自由な手を、もう一方の手へ当て、続いて、自分の頭と体を示し、解放してほしいと伝えた。ただし、閣下や供の者を傷つけないよう、手は閣下の頭の上を通した。男は十分に理解したらしかったが、不賛成を示して首を振り、私は捕虜として運ばれねばならない、と手ぶりで示した。ただし、別の合図で、食べ物も飲み物も十分に与え、たいへんよく扱うと、わからせてくれた。そこで私は、もう一度、縛めを破ろうかと考えた。だが、顔と両手は、矢の痛みで、すっかり水ぶくれになっており、まだ刺さったままの矢も多かった。敵の数も増えている。そう気づくと、私は、連中の好きなようにしてよいと、合図した。ハーゴと供の者たちは、たいへん礼儀正しく、明るい顔で退いた。間もなく、大勢の叫び声が聞こえ、「ペプロム・セラン」という言葉が、何度も繰り返された。左側に、多くの人が集まり、ひもを緩めるのを感じた。おかげで右を向けるようになり、小便をして楽になることができた。大量の小便が出て、人々は大いに驚いた。私の動きから、何をしようとしているか察し、すぐ、その側の左右へ道をあけた。私から、すさまじい音と勢いで流れ落ちる、奔流を避けるためである。ただ、それより前に、人々は、たいへんよい香りの軟膏のようなものを、顔と両手に塗ってくれていた。そのため、数分もしないうちに、矢の痛みは、すっかり消えていた。そうしたことに加え、栄養のある食べ物と飲み物で、元気を取り戻したため、私は眠くなった。後で確かめたところでは、八時間ほど眠ったという。それも、そのはずで、医師たちが皇帝の命令で、樽の葡萄酒に、眠り薬を混ぜていたのである。

どうやら、上陸後、地面に眠っている私を初めて見つけた、その瞬間から、早くも急使が皇帝に知らせ、評議会で、先に述べたような方法で私を縛ること――私の眠る夜の間に行われた――、十分な食べ物と飲み物を送ること、首都へ運ぶ装置を用意することが、決まったらしい。

この決定は、たいへん大胆で、危険に見えるかもしれない。同じ場合、ヨーロッパのどの君主も、まねをしないだろうと、私は確信している。しかし私の考えでは、きわめて寛大であると同時に、賢明でもあった。仮に、私が眠っている間に、槍や矢で殺そうとしていたら、初めて痛みを感じた瞬間に、必ず目を覚ましただろう。怒りと力が、十分に奮い立てば、縛っていたひもを、引きちぎることもできたはずだ。その後は、連中に抵抗する力はなく、慈悲を期待することもできなかっただろう。

この国の人々は、数学に非常にすぐれており、学問の保護者として名高い皇帝の、庇護と奨励によって、機械の技術でも、たいへん高い完成に達していた。この君主は、材木や、そのほかの重い物を運ぶため、車輪を取りつけた装置を、いくつも持っている。もっとも大きな軍艦も、しばしば、材木の育つ森で造り、こうした装置に載せて、三、四百ヤード先の海まで運ばせるのである。その軍艦には、長さ九フィートもあるものがある。そこで、すぐに五百人の大工と技師が働き始め、国にある中で最大の装置を、準備した。地面から三インチの高さに上げた木の枠で、長さ七フィートほど、幅四フィート、二十二個の車輪で動くものだった。私の聞いた歓声は、この装置が着いたときのものだった。私が上陸してから、四時間後には出発したらしい。横たわる私と並行になるよう、その装置が据えられた。しかし、一番難しかったのは、私を持ち上げ、この車へ載せることである。そのため、高さ一フィートの柱が八十本、立てられた。職人たちが、私の首、両手、胴、両脚に巻きつけた、多くの帯へ、荷造りひもほどの太さの、たいへん丈夫な綱を、鉤で留めた。九百人の、もっとも力のある男たちが、柱に取りつけた多数の滑車で、その綱を引いた。こうして、三時間もかからず、私は引き上げられ、装置へつり込まれ、そこに固く縛りつけられた。これは、すべて後で聞いた話である。この作業の間じゅう、酒に入れられた眠り薬の力で、深く眠っていたからだ。皇帝の馬の中でも、もっとも大きなものが千五百頭、私を首都へ引いていくために使われた。それでも、一頭の高さは四インチ半ほどである。首都までは、すでに述べたとおり、半マイルだった。

出発して四時間ほど後、たいへん滑稽な出来事で、私は目を覚ました。どこかの不具合を直すため、車がしばらく止まると、二、三人の若い住民が、私の寝顔を見たくなったのである。装置に登り、音を立てぬよう顔へ近づいて、その一人、近衛の士官が、短槍の鋭い先を、左の鼻の穴へ、かなり深く差し込んだ。それが藁のように鼻をくすぐり、私は、激しいくしゃみをした。連中は、人知れず逃げ去り、私が、なぜ急に目覚めたかを知ったのは、三週間も後だった。その日の残りは、長く行進し、夜には、両側に五百人ずつの衛兵を置いて、休んだ。半分は松明を持ち、半分は弓矢を持って、私が動こうとしたら、いつでも射る構えだった。翌朝、日の出とともに、また進み、正午ごろ、城門から二百ヤード以内のところへ着いた。皇帝と宮廷の全員が、迎えに出ていた。しかし、高官たちは、陛下が私の体へ登って、身を危険にさらすことを、どうしても許さなかった。

車の止まった場所には、古い神殿があり、王国じゅうでも、もっとも大きい建物とされていた。数年前、忌まわしい殺人で汚されたため、信仰に熱心なこの国の人々には、もはや聖なる場所ではないと見なされていた。そのため、世俗の用途に回され、装飾も調度も、すべて運び出されていた。この建物を、私の宿にすることになった。北に面した大きな門は、高さ四フィートほど、幅は二フィートに近く、私は、たやすく、はって通れた。門の両側には、小窓が一つずつあり、地面から六インチも離れていなかった。その左側の窓へ、王の鍛冶師が、九十一本の鎖を通した。ヨーロッパの婦人が、時計をつるす鎖に似て、大きさも、ほぼ同じだった。それを、三十六個の南京錠で、私の左脚へ留めた。神殿と向かい合い、大きな道の向こう、二十フィートほど離れたところには、高さが少なくとも五フィートある、小塔が立っていた。皇帝は、宮廷の主だった貴族たちと、そこへ登り、私を眺めたという。私からは見えなかったので、これは聞いた話である。同じ目的で、町から十万人を超える住民が出てきた、と見積もられた。衛兵がいるにもかかわらず、時を変えて、梯子を使い、私の体へ登った者は、一万人を下らなかったと思う。しかし、まもなく、それを死罪で禁じる布告が出た。職人たちは、私が逃げられないことを確かめると、体を縛っていたひもを、すべて切った。そこで、私は立ち上がったが、これまでの生涯で、こんなに気の滅入ったことはなかった。だが、私が立ち、歩くのを見た、人々の騒ぎと驚きは、言葉では表せない。左脚をつないだ鎖は、長さ二ヤードほどで、半円の範囲を、前後に歩けるだけでなく、門から四インチ以内のところに留められていたので、神殿の中へ、はって入り、体をいっぱいに伸ばして、寝ることもできた。

第二章

リリパット皇帝が数人の貴族を伴い、囚われている著者を見物に来る。皇帝の容貌と服装。著者に国語を教える学者が任命される。穏やかな気質によって好意を得る。ポケットを調べられ、剣と拳銃を取り上げられる。

立ち上がれるようになると、私はあたりを見回した。これほど楽しい眺めを見たことはないと告白しなければならない。周囲の国土は、どこまでも続く庭園のようであり、たいてい四十フィート四方に囲われた畑は、幾つもの花壇を思わせた。畑の間には半スタング[301]ほどの林が点在し、最も高い木でも、私の見たところ七フィートほどだった。左手には町が見え、まるで劇場で都市を描いた舞台背景のように見えた。

私は数時間前から、自然の要求にひどく迫られていた。最後に用を足してからほとんど二日もたっていたのだから、無理もない。差し迫った必要と羞恥心との板挟みになり、大いに困った。思いつく最善の方法は、わが家へ這い込むことだった。そこでそのとおりにし、後ろの門を閉めると、鎖の長さの許すかぎり奥へ進み、苦しい重荷を体から下ろした。しかし、このように不潔な行いをしたのは、この一度きりである。公正な読者には、私の事情と窮状とをよく、偏りなく考えていただいたうえで、多少の酌量をお願いしたい。それ以後はいつも、起きるとすぐに、鎖いっぱいのところまで出て、屋外で用を足すことにした。そして毎朝、人が来る前に、このために任命された二人の召使いが、一輪車で汚物を運び去るよう、十分に手配された。一見したところさほど重大とも思われないこの事情を、これほど長々と述べはしなかっただろう。ただ、清潔さという点での私の品行を、世間に対して弁明しておく必要があると思ったのである。聞くところでは、私を悪く言う者たちの一部が、この件やほかの折にも、それを好んで疑問に付しているそうだからだ。

この一件が済むと、新鮮な空気を吸いたくなって、私は家から出てきた。皇帝はすでに塔を下り、馬に乗ってこちらへ進んでいたが、そのため危うく大変な目に遭うところだった。馬はよく調教されていたものの、目の前で山が動くようなこの光景にはまるで慣れておらず、後ろ脚で立ち上がったのである。だが皇帝はすぐれた乗り手で、供の者が駆け寄って手綱を押さえ、陛下が下馬する暇を得るまで、鞍から離れなかった。馬を下りると、鎖の届かない距離を保ちながら、たいそう驚いた様子で私をあちこちから眺めた。そしてすでに支度を整えていた料理人と酒係に、食物と飲み物を私に与えるよう命じた。彼らはそれらを車輪のついた一種の荷車に載せ、私の手の届くところまで押してきた。私は荷車を取り上げ、たちまち全部空にした。二十台には肉が、十台には酒が入っていた。肉を積んだものは、一台につきたっぷり二口か三口になった。酒は土の小瓶に入っていたので、十個の容器の中身を一台の荷車にあけ、一息に飲み干し、残りも同じようにした。皇后と若い男女の皇族たちは、多くの貴婦人に付き添われ、少し離れたところで輿に座っていた。しかし皇帝の馬に異変が起こると、輿を下りて皇帝のそばへやってきた。ここで、その皇帝のお姿を描写しよう。背丈は宮廷の誰よりも、私の爪の幅ほど近くも高い。それだけでも、見る者に畏敬を起こさせるには十分である。顔立ちは力強く男らしく、オーストリア風の突き出した唇と、弓なりの鼻を持ち、肌はオリーブ色、顔をきりっと上げ、胴も手足も釣り合いがよく、どの動作にも優美さがあり、立ち居振る舞いには威厳があった。当時は盛りを過ぎた二十八歳と四分の三で、そのうちおよそ七年間、きわめて幸福に統治し、戦いにもたいてい勝っていた。よく拝見するため、私は横向きに寝そべり、顔を皇帝の顔と同じ高さにした。皇帝はわずか三ヤードのところに立っていた。その後には何度も手の上にお載せしたので、この描写に間違いはない。服装はたいへん質素で簡素、形はアジアとヨーロッパの中間だったが、頭には宝石をちりばめ、頂に羽飾りをつけた、軽い黄金の兜をかぶっていた。万一私が逃れ出たときの防御のため、抜き身の剣を手にしていた。長さは三インチ近く、柄も鞘も金で、ダイヤモンドが飾られていた。声は甲高いが、たいへん澄んでいて発音も明瞭なので、私が立ち上がっていても、はっきり聞き取れた。貴婦人も廷臣も皆このうえなく華麗な服を着ていたから、彼らの立っている一画は、金銀の模様を刺繍したペティコートを地面に広げたように見えた。皇帝陛下は何度も私に話しかけ、私も返事をしたが、双方とも一音節も理解できなかった。祭司や法律家らしい者も何人か居合わせており――服装からそう推測したのだが――、命じられて私に話しかけた。私はわずかでも心得のある言語を残らず試し、ドイツ語、オランダ語、ラテン語、フランス語、スペイン語、イタリア語、地中海の共通語で話したが、どれも無駄だった。二時間ほどたつと宮廷の人々は引き揚げ、私には厳重な護衛がつけられた。無作法を、そしておそらく悪意ある行為を、群衆から防ぐためである。群衆は、近づけるだけ近づいて私を取り巻きたがり、なかには、家の戸口で地面に座っている私へ、厚かましくも矢を射る者までいた。その一本は危うく左目を射るところだった。そこで大佐は、首謀者六人を捕らえるよう命じ、縛って私の手に引き渡す以上にふさわしい罰はないと考えた。兵士の何人かはそのとおりにし、槍の石突きで彼らを押して、私の手の届くところへ追いやった。私は六人をまとめて右手に取り、五人を上着のポケットに入れ、六人目は生きたまま食べてしまうような顔をしてみせた。哀れな男はすさまじい悲鳴を上げ、大佐も士官たちもひどく気を揉み、とりわけ私が小刀を取り出すのを見るとそうだった。だが私はすぐに安心させた。穏やかな顔をして、男を縛る紐をただちに切り、そっと地面へ下ろしてやると、男は走り去った。残りも一人ずつポケットから出し、同じように扱った。私の慈悲のこのしるしを、兵士も民衆もたいそう喜んでいるのがわかった。この話は宮廷へも伝えられ、私の評判を大いに高めた。

夜になるころ、私は苦労して家へ入り、地面に横たわった。それから二週間ほどは、ずっとそうして寝た。その間に皇帝は、私のための寝床を用意するよう命じた。普通の大きさの寝床が六百台、車で運ばれ、家の中で組み合わされた。彼らの寝床を百五十台縫い合わせると、必要な幅と長さになり、それを四重にしたのである。それでも、滑らかな石の床の硬さを和らげるには、まことに心もとなかった。同じ計算で、敷布、毛布、上掛けも用意してくれたが、長く苦労に慣れてきた者には、まずまずのものだった。

私が来たという噂が国中に広がると、金持ちや暇人や物好きが、おびただしい数、見物にやってきた。そのため村々はほとんど空になり、皇帝陛下が幾つかの布告や国家の命令によってこの不都合に備えなければ、耕作や家事がひどくなおざりになったに違いない。陛下は、すでに私を見た者は家へ帰り、宮廷の許可なく、私の家から五十ヤード以内へあえて近づかぬよう命じた。おかげで国務大臣たちは、かなりの手数料を得た。

その間、皇帝はしばしば会議を開き、私をどう扱うべきかを審議した。のちに、機密を誰にも劣らず知っている身分の高い親友が、確かな話として教えてくれたところでは、宮廷は私のことでさまざまな難題を抱えていた。私が束縛を破ることを恐れ、また食費がたいへんな額になり、飢饉を招きかねないと案じていた。ときには私を飢え死にさせるか、少なくとも顔と手を毒矢で射て、すぐに始末しようと決めたこともあった。だが考え直してみると、これほど大きな死体の悪臭は、都に疫病を起こし、おそらく国全体へ広がるかもしれなかった。この相談の最中、軍の士官数人が大評議室の戸口へ来て、うち二人が入室を許され、先に述べた六人の罪人に対する私の振る舞いを報告した。それが陛下と会議の全員に、私にとってたいへん好ましい印象を与えたので、勅令が発せられ、都から九百ヤード以内の村はすべて、私の食糧として、毎朝、牛六頭、羊四十頭、その他の食物を納め、相応の量のパン、葡萄酒、その他の酒も添えることになった。陛下は、その代金を間違いなく支払うため、国庫を引受先とする支払命令を出された。この君主は、主として自分の直轄領から上がる収入で暮らしており、大きな事態でもないかぎり、臣民から臨時の税を取り立てることは滅多にない。ただし臣民は、戦争の際には自費で従軍しなければならない。また、私の召使いとして六百人を置くことが決まり、生活のための食費が支給され、戸口の両側のたいへん便利な場所に天幕が建てられた。同じく、三百人の仕立屋がこの国の様式で私の服を一着仕立てること、陛下の最もすぐれた学者六人が私に国語を教えること、最後に、皇帝、貴族、近衛隊の馬を、私に慣れさせるため、私の見えるところでたびたび訓練することが命じられた。これらの命令はすべてきちんと実行された。三週間ほどで、私は国語の勉強に大いに進歩した。その間、皇帝は何度もわざわざお訪ねくださり、教師たちを助けて教えることまでしてくださった。私たちはもう多少の会話を交わせるようになっていた。私が最初に覚えた言葉は、「どうか自由をお与えください」という願いを伝える言葉で、毎日、膝をついて繰り返した。私の理解できたところでは、返事は、「それには時が必要で、評議会の助言なしに考えることはできず、まずルモス・ケルミン・ペソ・デスマル・ロン・エンポソをしなければならない」というものだった。つまり、皇帝とその王国に対する和平を誓わねばならないのである。ただし、あらゆる親切な扱いをするとのことだった。また、「忍耐と慎重な行いによって、皇帝と臣民の好意を得るように」と忠告された。「適任の役人に持ち物を調べるよう命じても、悪く思わないでほしい。おそらく武器を幾つも持っているだろうが、これほど巨大な人物の体格に見合うものなら、危険な品に違いない」とも望まれた。私は、「陛下にはご満足いただけるはずです。御前で服を脱ぎ、ポケットを裏返すことも喜んでいたします」と申し上げた。これは一部を言葉で、一部を身振りで伝えた。陛下は答えて、「国法では二人の役人が調べなければならない。そなたの同意と手助けなしにはできないと承知しているが、そなたの寛大さと公正さを十分信頼しているので、役人の身をそなたの手に委ねる。取り上げたものは何であれ、出国のとき返すか、そなたのつける値で代金を払おう」と言われた。私は二人の役人を手に取り、まず上着のポケットへ、それからほかのポケットへ次々に入れた。ただし、二つの隠しポケットと、調べられたくないもう一つの秘密のポケットは除いた。そこには、私以外には何の重要性もない、ちょっとした必需品が入っていた。一方の隠しポケットには銀時計、もう一方には財布に入れた少量の金貨があった。この二人の紳士は、ペンとインクと紙を携え、見つけたものをすべて正確な目録にした。書き終えると、皇帝に届けられるよう地面へ下ろしてほしいと頼んだ。私はのちにこの目録を英語に訳したが、一言一句そのとおりに記すと、次のようになる。

「第一に、大いなる人間山の右の上着のポケットを」――クインバス・フレストリンとは、私はこう解する――「最も厳重に捜索したところ、ただ一枚の大きな粗布だけを発見した。その大きさは、陛下の最も主要な謁見の間の敷物にできるほどであった。左のポケットには、同じ金属の蓋のついた巨大な銀の箱があったが、われわれ調査役には持ち上げられなかった。開けてくれるよう頼み、われわれの一人が中へ足を踏み入れると、一種の粉塵が脛の半ばまで積もっていた。その一部が顔まで舞い上がり、われわれは二人とも立て続けに幾度もくしゃみをした。右の胴着のポケットには、白く薄い物質を何枚も折り重ね、人間三人分ほどの大きさにした、とてつもない束があった。太い綱で結わえられ、黒い模様がついており、われわれは恐れながら、これを文字と考える。一字の大きさは、われわれの手のひらの半分近くあった。左には一種の機械があり、その背から、陛下の宮殿前の柵に似た、長い棒が二十本突き出していた。われわれは、人間山がこれで頭を梳くものと推測する。われわれの言うことをわからせるのがたいへん難しいため、いちいち質問して煩わせはしなかったからである。身体の中央の覆い」――ランフロという語を私はこう訳すが、彼らが指したのは私の半ズボンだった――「の右側の大きなポケットには、人間ほどの長さの、中空の鉄の柱があった。その柱より大きな頑丈な木片に取り付けられ、片側には巨大な鉄片が突き出し、奇妙な形に刻まれていたが、何のためのものかはわからなかった。左のポケットには、同種の機械がもう一つあった。右の小さいポケットには、白と赤の金属でできた、丸く平たい、大小さまざまなものが幾つかあった。白いもののなかには銀らしく見えるものがあり、たいへん大きく重いため、同僚と私の二人がかりでも、やっと持ち上げられるほどだった。左のポケットには、不規則な形の黒い柱が二本あった。ポケットの底に立ったわれわれには、その上端に手を届かせるのさえ難しかった。一方は覆いがあり、全体が一つながりに見えたが、もう一方の上端には、われわれの頭の二倍ほどある、白く丸い物質が見えた。どちらの内部にも、とてつもなく大きな鋼の板が収められていた。危険な機械かもしれないと案じたので、われわれは命令して見せさせた。人間山はそれを鞘から取り出し、自分の国では一方で髭を剃り、もう一方で肉を切るのを習いとしていると言った。われわれの入れないポケットが二つあった。人間山はそれをフォッブと呼んだ。中央の覆いの上部に切られた大きな裂け目が二つあるのだが、腹に圧迫されてぴたりと閉じていたのである。右のフォッブからは大きな銀の鎖が下がり、その下端には不思議な種類の機械がついていた。その鎖の先にあるものを何でも引き出すよう指示すると、半分が銀、半分が何か透明な金属からできた球体のようなものが現れた。透明な側には、奇妙な模様が幾つか輪を描いて並んでいたから、われわれは触れられると思ったが、指が透明な物質に遮られるとわかった。人間山はこの機械をわれわれの耳に当てた。すると水車のような音が絶え間なくしていた。これは未知の動物か、あるいは彼が拝む神ではないかとわれわれは推測し、どちらかといえば後の説に傾いた。というのも、人間山は、これに相談せずに何かをすることは滅多にないと断言したからである。ただし、ひどく不完全な説明だったので、われわれの理解が正しければの話だが。人間山はこれを自分の託宣者と呼び、人生のあらゆる行為の時刻を指し示すと言った。左のフォッブからは、ほとんど漁師用にもなりそうな大きさの網を取り出したが、財布のように開閉する仕掛けで、用途も同じだった。その中には、重々しい黄色い金属の塊が幾つもあった。本物の金なら、途方もない価値があるはずである。

「このように、陛下のご命令に従って、すべてのポケットを入念に捜索したのち、われわれは腰に巻かれた帯を認めた。ある巨大な動物の皮でできており、左側には人間五人分の長さの剣が下がり、右側には二つの区画に分かれた袋ないし弾薬袋が下がっていた。一つの区画には、陛下の臣民三人が入れるほどの広さがあった。その一方には、われわれの頭ほどの大きさで、持ち上げるには強い腕を要する、きわめて重い金属の球ないし丸玉が幾つかあった。もう一方には、ある黒い粒が山をなしていたが、一粒ずつは大きくも重くもなく、われわれの手のひらに五十粒以上載せることができた。

「以上、人間山の身体の周囲に見いだした品々の正確な目録である。人間山はわれわれに対し、たいへん礼儀正しく、また陛下の勅命に相応の敬意をもって接した。陛下のめでたき御治世第八十九月四日、署名し、捺印する。

クレフリン・フレロック、マルシ・フレロック」

この目録が皇帝に読み上げられると、陛下はたいへん穏やかな言い方ではあったが、列挙された品々を差し出すよう私に命じた。最初に求められたのは曲刀で、私は鞘ごと取り出した。その間、陛下は、供をしていた精鋭の兵士三千人に、少し離れて私を取り囲み、弓矢をいつでも放てるよう構えよと命じた。だが私の目は陛下にすっかり注がれていたので、それに気づかなかった。次に陛下は曲刀を抜くよう望まれた。海水で多少錆びてはいたが、大部分はたいへんよく光っていた。言われたとおりにすると、たちまち全軍が、恐怖と驚きの入り交じった叫びを上げた。太陽が明るく輝いており、私が手で曲刀を左右に振ると、その反射が彼らの目をくらませたのである。きわめて豪胆な君主である陛下は、私の予想ほどにはひるまず、刀を鞘へ戻し、鎖の端から六フィートほど先の地面へ、できるだけ静かに下ろすよう命じた。次に求めたのは、中空の鉄の柱の一つ、つまり私の小型拳銃だった。私は取り出し、陛下の求めに応じて、その用途をできるだけ説明した。そして火薬だけを詰めた。火薬は弾薬袋がよく密閉されていたため、幸い海でも濡れずに済んでいたのである。これは、用心深い船乗りなら誰でも、とくに注意して備える災難である。まず皇帝に怖がらないよう注意してから、空へ向けて発射した。今度の驚きは、曲刀を見たときよりはるかに大きかった。何百人もが、撃たれて死んだかのように倒れ、皇帝さえ踏みとどまりはしたものの、しばらくは平静を取り戻せなかった。私は曲刀と同じように二挺の拳銃を引き渡し、次に火薬と弾丸の袋も差し出した。ただし火薬については、どんな小さな火花でも燃え上がり、皇帝の宮殿を空へ吹き飛ばしてしまうので、火から遠ざけておかれるようお願いした。時計も差し出すと、皇帝はたいへん熱心に見たがり、近衛兵のうち最も背の高い二人に、棒を肩に担いで運ばせるよう命じた。イングランドの荷運び人が、エールの樽を担ぐのと同じやり方だった。絶え間ない音と分針の動きに、皇帝は驚いた。彼らの視力はわれわれよりずっと鋭いので、動きも容易に見分けられたのである。陛下は学者たちの意見を求めた。その説がさまざまで、見当外れだったことは、私が繰り返さなくても読者は十分想像できよう。もっとも実際には、私も彼らの言うことを完全には理解できなかった。そのあと、私は銀貨と銅貨、大きい金貨九枚と小さいのが幾つか入った財布、小刀と剃刀、櫛と銀の嗅ぎ煙草入れ、ハンカチと日記帳を引き渡した。曲刀と拳銃と弾薬袋は、車で陛下の倉庫へ運ばれたが、残りの品は私に返された。

前にも述べたとおり、調査を免れた秘密のポケットが一つあった。中には、目が弱いためときどき使う眼鏡と、携帯用の望遠鏡と、そのほか幾つかの小さな便利な品が入っていた。皇帝にとっては重要なものではないから、名誉にかけて告げる義務があるとは考えなかったし、手もとから離せば、なくしたり壊されたりする恐れもあると思った。

第三章

著者がきわめて珍しい方法で皇帝と男女の貴族を楽しませる。リリパット宮廷の余興について。著者は幾つかの条件のもとに自由を与えられる。

穏やかで行儀のよい私の振る舞いは、皇帝と宮廷、さらには軍隊と国民一般の心まで、かなりよく捉えたので、私はじきに自由になれるのではないかと望みを持ち始めた。この好意を育てるため、できるかぎりの手段を尽くした。国の人々も、私から危害を受ける不安を次第に感じなくなった。私はときどき横になって、五、六人を手の上で踊らせてやった。しまいには男の子も女の子も、私の髪の中へ思い切って入り、かくれんぼをするようになった。国語を聞いて理解し、話すことにも、もうかなり上達していた。ある日皇帝は、この国のさまざまな見世物で私をもてなそうと思われた。巧みさでも豪華さでも、私の知るどの国をも凌ぐものだった。そのなかで私が最も楽しんだのは、長さ二フィートほどに張られ、地面から十二インチの高さにある、細い白糸の上で演じる綱踊りだった。これについては、読者に少しご辛抱を願い、いくらか詳しく述べることをお許しいただきたい。

この芸を演じるのは、高い官職と宮廷での厚い寵愛を求める候補者に限られる。幼いころからこの技を仕込まれるが、必ずしも貴族の生まれでもなく、自由な学芸の教育を受けてもいない。死去や失脚によって――失脚はよくあることだが――高い官職に空席が生じると、五、六人の候補者が皇帝に願い出て、陛下と宮廷の方々を綱踊りでもてなす。落ちずに最も高く跳んだ者が、その職を継ぐのである。大臣自身もしばしば、腕前を披露して、技量が衰えていないことを皇帝に納得していただくよう命じられる。財務長官フリムナップは、張り綱の上で、帝国中のどの貴族よりも少なくとも一インチ高く跳べると認められている。イングランドの普通の荷造り糸ほどの太さしかない綱に据えられた木皿の上で、彼が続けざまに何度も宙返りするのを、私は見たことがある。私の友人である内務首席書記官レルドレサルは、贔屓目でなければ、財務長官に次ぐ第二位だと思う。そのほかの高官は、ほぼ同じ程度である。

こうした余興には、しばしば命取りの事故が伴い、記録にも多数残っている。私自身、候補者が二、三人、手足を折るところを見た。だが、大臣自身が巧みさを見せるよう命じられたときは、危険ははるかに大きい。以前の自分や同僚を上回ろうと張り合い、あまりに無理をするので、落ちたことのない者はほとんど一人もおらず、なかには二、三度落ちた者もいる。私の来る一、二年前、フリムナップは、たまたま地面に置かれていた皇帝の座布団の一つが落下の衝撃を和らげなかったら、間違いなく首の骨を折っていたと聞かされた。

もう一つ別の余興もある。これは特別な折に、皇帝と皇后と宰相だけの前で披露される。皇帝は長さ六インチの美しい絹糸を三本、卓上に置く。一本は青、もう一本は赤、三本目は緑である。これらの糸は、皇帝が特別な寵愛のしるしを与えて引き立てようと思う人々に、賞として差し出される。式は陛下の大謁見室で行われ、候補者は、先のものとはまるで違う器用さの試練を受けることになる。新世界でも旧世界でも、そのようなものに少しでも似た例を、私は見たことがない。皇帝は一本の棒を、両端が地平線に平行になるよう手に持ち、候補者は一人ずつ進み出て、棒が上がるか下がるかに応じ、あるときは上を跳び越し、あるときは下を這いくぐって、前へ後ろへ何度も行き来する。皇帝が棒の一端を持ち、宰相が他端を持つこともあれば、宰相一人に全部任せることもある。最も敏捷に演じ、跳んだり這ったりするのを最も長く続けた者が、青い絹糸を授かる。二番には赤、三番には緑が与えられ、皆それを腰に二重に巻きつけて身につける。この宮廷で、こうした帯のどれかを飾っていない大人物は、ほとんど見当たらない。

軍隊の馬も宮廷の厩の馬も、毎日私の前へ引き出されていたので、もうおびえることはなく、驚きもせずに足もとまでやって来た。乗り手たちは、私が地面に置いた手を、馬に跳び越えさせた。皇帝の猟師の一人は、大きな駿馬に乗って、靴を履いたままの私の足さえ跳び越えた。まことにすばらしい跳躍だった。ある日、私は運よく、たいそう風変わりな方法で皇帝を楽しませることができた。長さ二フィート、普通の杖ほどの太さの棒を何本か運ぶよう命じてほしいとお願いすると、陛下は御料林の管理官に、そのように指図せよと命じた。翌朝、六人の木こりが、それぞれ八頭立ての車を一台ずつ伴ってやって来た。私は棒を九本取り、二フィート半四方の四角い形にして、地面へしっかり立てた。次に別の四本を取り、地面から二フィートほどの高さで、各角に水平に結びつけた。それから立っている九本の棒にハンカチを留め、太鼓の皮のようにぴんと張るまで、四方へ広げた。水平の四本はハンカチより五インチほど上に出て、各側の手すりとなった。出来上がると、皇帝に、最良の騎兵二十四騎からなる一隊をこの平地へ出し、演習させてほしいとお願いした。陛下はこの案を認められたので、私は、すでに騎乗し武装した者たちと、訓練に当たるしかるべき士官を、一人ずつ手で持ち上げた。隊列を整えるとすぐに二組に分かれ、模擬戦を演じ、先の丸い矢を射、剣を抜き、逃げたり追ったり、攻めたり退いたりした。要するに、私がこれまで見たうちで、最もすぐれた軍隊の規律を示した。水平の棒が、兵士や馬が舞台から落ちるのを防いだ。皇帝はたいそう喜び、幾日もこの余興を繰り返すよう命じ、一度は自分を持ち上げさせて号令を下すことまでなさった。また、大変苦労して、皇后ご自身にも、覆いのある輿のまま、舞台から二ヤード以内のところで私の手に支えられるよう承知させたので、皇后は演習の全体をよくご覧になれた。幸い、この余興では大きな事故は起こらなかった。ただ一度、隊長の一人の気の荒い馬が、前脚で掻いてハンカチに穴をあけ、脚を滑らせて、乗り手もろとも転倒したことがある。だが私はすぐに両方を助け、片手で穴を塞ぎ、もう片方の手で、持ち上げたときと同じように、一隊を下ろした。倒れた馬は左肩を痛めたが、乗り手には怪我がなかった。ハンカチもできるだけ繕ったが、それ以後は、このような危ない企てのために、その強さを当てにすることはやめた。

私が自由になる二、三日前、このような芸で宮廷を楽しませていると、急使が陛下へ知らせを届けに来た。臣民の何人かが、初めて私を見つけた場所の近くを馬で通りかかり、たいへん奇妙な形の大きな黒いものが地面にあるのを見たという。その縁は周囲に広がって、陛下の寝室ほどの幅があり、中央は人の背丈ほどに盛り上がっていた。最初は生き物かと恐れたが、草の上で動かずにいるから、そうではない。何人かでその周りを幾度も歩き、肩車をして上へ登ると、上面は平らで滑らかだった。踏み鳴らしてみると、中が空洞だとわかった。恐れながら、人間山の持ち物かもしれないと思い、陛下のお許しがあれば、わずか五頭の馬で運んで来ようと請け合った、とのことだった。私は何のことかすぐにわかり、この知らせを心から喜んだ。思うに、難破のあと初めて岸へたどり着いたとき、私はひどく取り乱していたので、寝入った場所へ来る前に帽子を落としたらしい。漕いでいる間、紐で頭に留めておき、泳いでいる間じゅうもかぶっていた帽子だったが、陸へ上がってから脱げ落ちたのである。何かの拍子に紐が切れたのだろうが、まるで気づかず、海で失ったものと思っていた。私は皇帝陛下に、その用途と形を説明して、できるだけ早く運ばせるよう命じていただきたいと懇願した。翌日、荷車の御者たちが運んで来たものの、あまりよい状態ではなかった。彼らはつばの縁から一インチ半以内のところに二つ穴をあけ、鉤を二つつけ、それを長い綱で馬具へ結び、イングランドの半マイル以上も、こうして帽子を引きずって来たのである。それでも、この国の地面はたいへん滑らかで平らだったため、傷みは私の予想より少なかった。

この出来事の二日後、皇帝は都とその近郊に駐屯する軍勢に待機を命じ、きわめて珍しい方法で楽しもうと思いつかれた。私に、無理なくできるかぎり脚を開き、巨像のように立ってほしいと望まれた。次に、老練な将で、私の熱心な庇護者でもある将軍へ、軍隊を密集隊形にし、歩兵は二十四人、騎兵は十六騎を横一列に並べ、太鼓を鳴らし、旗をなびかせ、槍を立てて、私の下を行進させるよう命じた。この軍勢は、歩兵三千人と騎兵千騎からなっていた。陛下は、行進する兵士は一人残らず、私の身体に対し最も厳格な礼儀を守るよう、死刑をもって命じた。しかしそれでも、若い士官の幾人かが、私の下を通りながら目を上へ向けるのを防ぐことはできなかった。正直に告白すれば、当時の半ズボンはたいへんひどい有様で、笑ったり驚いたりする機会を多少は与えたのである。

自由を求める上申書や請願書を、私は数えきれないほど出していたので、とうとう陛下は、まず内閣で、次に全員の出席する評議会で、この件を取り上げられた。反対したのは、こちらには何の落ち度もないのに、好んで私の不倶戴天の敵となっていたスカイレシュ・ボルゴラムだけだった。だが、評議会の全員が彼に反対して可決し、皇帝も承認された。この大臣はガルベット、すなわち国の海軍提督で、主君の信任がたいへん厚く、実務にも通じていたが、気難しく、ひねくれた性質だった。ついには説き伏せられて承諾したものの、私を自由にする条件と、私が遵守を誓うべき条項は、自分で作成するという点を押し通した。その条項を、スカイレシュ・ボルゴラム自身が、書記官次席二人と数人の高官を従えて持って来た。読み上げられたあと、私はその履行を誓うよう求められた。まずは自国の方式で、次にこの国の法律に定められた方式で誓った。後者は、左手で右足を持ち、右手の中指を頭の頂に置き、親指を右耳の先に当てるというものだった。だが読者は、私が自由を取り戻した条項を知るとともに、この国に独特の文体や言い回しについても、多少知りたいと思うかもしれない。そこで私は、できるかぎり一語一語に忠実に、この文書全体を翻訳しておいたので、ここに世間へお目にかけよう。

「ゴルバスト・モマレム・エヴラメ・グルディロ・シェフィン・マリー・アリー・グー、リリパットの至強の皇帝、宇宙の歓喜にして恐怖、その領土は五千ブルストラッグ、すなわち周囲およそ十二マイルに及び、地球の果てまで達する。あらゆる君主の上に立つ君主、人の子らよりも背高く、その足は地球の中心まで押し下げ、その頭は太陽に突き当たる。そのうなずきに地上の諸王は膝を震わせ、春のように快く、夏のように心地よく、秋のように実り多く、冬のように恐ろしい、至高の陛下は、近ごろわが天上の領土に到来した人間山に、以下の条項を提示する。人間山は厳粛な誓いによって、その履行の義務を負うものとする。

「第一、人間山は、わが大璽を付した許可なく、わが領土を離れてはならない。

「第二、わが明示の命令なく、あえて都へ入ってはならない。入る際には、住民が屋内にとどまれるよう、二時間前に予告するものとする。

「第三、右の人間山は、散歩を主要な街道だけに限り、牧草地や穀物畑に足を踏み入れたり、横たわったりしてはならない。

「第四、右の道を歩く際は、わが忠良なる臣民、その馬、その車のいずれをも踏まぬよう、細心の注意を払い、また臣民の同意なく、誰をも手に取り上げてはならない。

「第五、急使に特別の迅速さが求められる場合、人間山はひと月に一度、使者と馬をポケットへ入れ、六日行程の道を運び、また求められれば、右の使者を無事にわが御前へ連れ帰る義務を負う。

「第六、ブレフスキュ島にいるわが敵に対して、わが同盟者となり、現在わが国への侵攻を準備中のその艦隊を破壊すべく、全力を尽くさねばならない。

「第七、右の人間山は、暇なときにはわが職人たちを助け、主要な御苑の塀の笠石や、その他の王室の建物に使う大石を持ち上げる手伝いをするものとする。

「第八、右の人間山は、ふた月以内に、海岸を自ら歩いて歩数を計算し、わが領土の周囲を正確に測量して提出するものとする。

「最後に、以上の条項すべてを守ると厳粛に誓うことを条件に、右の人間山には、わが臣民千七百二十四人を養うに足る飲食物を日々支給する。また、自由にわが御前へ出ることと、そのほか、わが寵愛のしるしを許す。わが御治世第九十一月十二日、ベルファボラックの宮殿にて下す」

私はこの条項に、たいへん喜び、満足して、宣誓し署名した。ただし、そのうちには、私が望むほど名誉なものではない条項もあった。それはひとえに海軍大提督スカイレシュ・ボルゴラムの悪意から出たものだった。するとすぐに鎖の錠が外され、私は完全な自由の身になった。皇帝ご自身が、わざわざ式の一部始終に立ち会う栄誉をお与えくださった。私は陛下の御足にひれ伏して感謝したが、陛下は立つよう命じられ、数々の恵み深いお言葉をかけてくださった。虚栄だと非難されるのを避けるため、ここには繰り返さないが、さらに、「すでに与えた恩恵にも、今後与えるかもしれない恩恵にも、十分ふさわしい、役立つ臣下となってくれるものと望む」と付け加えられた。

私が自由を取り戻すための最後の条項で、皇帝がリリパット人千七百二十四人を養うに足る飲食物の支給を約束していることに、読者はお気づきだろう。そのしばらくあと、宮廷の友人に、どうしてこの決まった数になったのかと尋ねた。すると、陛下の数学者たちが四分儀を使って私の身長を測り、彼らの十二倍だとわかったので、体の形が相似であることから、私の身体には彼らの身体が少なくとも千七百二十四人分含まれ、したがって、その人数のリリパット人を養うのに必要なだけの食物が要るはずだと結論したのだ、と教えてくれた。このことから読者は、この国の人々の才知と、この偉大な君主の、慎重で正確な家政とを、うかがい知ることができよう。

第四章

リリパットの都ミルデンドと皇帝の宮殿について。帝国の情勢をめぐる著者と首席書記官の対話。著者が皇帝の戦争に力を尽くすと申し出る。

自由を得て最初にした願いは、都ミルデンドを見物する許しをいただくことだった。皇帝は容易に認められたが、住民にも家屋にも何一つ損害を与えぬよう、とくに命じられた。私が町を訪れる予定は、布告によって住民へ知らされた。町を囲む壁は、高さ二フィート半、幅は少なくとも十一インチあり、その上を馬車がたいへん安全に一周できる。十フィートおきに堅固な塔が脇を固めている。私は西の大門をまたいで越え、二本の主要な通りを、きわめて静かに、横向きになって進んだ。上着の裾で家の屋根や軒を傷めることを恐れ、短い胴着だけを着ていた。従わなければ身の安全は保証しないとして、全住民に屋内にとどまるよう、たいへん厳しい命令が出ていたものの、通りに取り残されている人がいるかもしれないので、踏まぬよう細心の注意を払って歩いた。屋根裏の窓も屋上も見物人でいっぱいで、旅行の間にこれほど人の多い場所を見たことはないと思った。町は正確な正方形で、周壁の一辺は五百フィートである。交差して町を四区画に分ける二本の大通りは、幅五フィートだった。小路や路地は、私には入れず、通りすがりに見ることしかできなかったが、幅十二インチから十八インチだった。町には五十万人を収容できる。家は三階から五階建てで、商店や市場には物資が豊かに揃っていた。

皇帝の宮殿は、町の中央、二本の大通りの交わるところにある。建物から二十フィート離れた、高さ二フィートの壁に囲まれている。私は陛下からこの壁をまたぎ越す許可をいただいた。壁と宮殿の間はこれほど広いので、どちら側からも容易に眺めることができた。外の中庭は四十フィート四方で、その内側にさらに二つの中庭がある。いちばん奥には王室の居室があって、私はぜひ見たいと思ったが、たいへん難しかった。一つの中庭から次へ通じる大門は、高さわずか十八インチ、幅七インチしかないのである。しかも、外の中庭の建物は少なくとも五フィートの高さがあり、壁は切石で頑丈に造られ、厚さ四インチあったものの、建物全体に甚大な損害を与えずにまたぎ越すことは不可能だった。一方、皇帝も宮殿の壮麗さを私に見せたいと強く望まれたが、それができたのは三日後のことだった。私はその三日を使い、町から百ヤードほど離れた御苑で、最も大きな木を幾本か、小刀で切り倒した。その木で、高さおよそ三フィート、私の体重を支えるだけの強さを持つ腰掛けを二つ作った。住民に二度目の告知がなされると、私は二つの腰掛けを手に持ち、再び町を通って宮殿へ向かった。外の中庭の脇へ来ると、一方の腰掛けの上に立ち、もう一方を手に取って屋根の向こうへ持ち上げ、第一と第二の中庭の間にある、幅八フィートの空間へ静かに置いた。こうして建物をまたいで、片方の腰掛けからもう片方へ、たいへん楽に移り、鉤のついた棒で、最初の腰掛けをあとから引き上げた。この工夫で、いちばん奥の中庭に入れたのである。横向きに寝そべり、わざわざ開けておいてくれた中階の窓へ顔を寄せると、想像できるかぎり最も華麗な部屋が見えた。そこには皇后と若い皇族たちが、それぞれの居室におり、主だった侍従や侍女が周りに控えていた。皇后陛下はたいへん優しく私に微笑み、口づけするよう、窓から手を差し出してくださった。

だが、この種の描写をこれ以上重ねて、読者の楽しみを先取りすることは控えよう。こうしたことは、現在ほとんど印刷に回せる段階にある、もっと大きな著作のために取ってある。その本では、建国から長い歴代の君主に至るまでの帝国の全般を描き、戦争、政治、法律、学問、宗教、動植物、独特の風俗習慣を、その他のたいへん興味深く有益な事柄とともに、詳しく述べている。今ここでの主な目的は、私が帝国に九か月ほど滞在していた間、国民や私自身の身に起こった事件や出来事だけを物語ることだからである。

自由を得て二週間ほどたった、ある朝、内務首席書記官と呼ばれるレルドレサルが、召使いを一人だけ連れて、私の家へ来た。馬車を離れたところで待たせ、一時間お話を聞いてほしいと頼んだ。彼の身分と人柄のよさに加え、私が宮廷へ請願していた間、幾度も親切に取り計らってくれたことがあるので、私は喜んで承諾した。彼がもっと楽に私の耳へ声を届けられるよう、横になろうと申し出たが、それよりも話の間、手に載せてほしいということだった。彼はまず、自由の身になったことへの祝辞を述べ、「その件では自分にも多少功績があると言わせてもらえるでしょう」と言った。しかし、こう付け加えた。「もっとも、現在の宮廷の事情がなければ、これほど早く自由にはなれなかったかもしれません。と申しますのも、外国の方々には、われわれはたいへん繁栄しているように見えましょうが、二つの大きな災厄に苦しんでいるのです。国内には激しい党争があり、国外からは強大な敵の侵略の危険が迫っています。第一の件ですが、この帝国には、七十か月ほど前から、トラメクサンとスラメクサンという名の二つの党が争っていることを、知っていただかねばなりません。靴の踵の高低で互いを区別し、その名もそれに由来します。確かに、高い踵のほうが昔からの国制にふさわしいと言われています。ですが、それはどうあれ、お気づきのとおり、陛下は政務にも、王権によって任命するすべての官職にも、低い踵の者しか使わぬと決めておられます。とくに陛下ご自身の踵は、宮廷の誰のものより、少なくとも一ドルル低いのです。ドルルは、およそ十四分の一インチの長さです。この二党の憎しみはたいへん激しく、互いに食事も、酒も、会話もしません。人数では、トラメクサン、すなわち高踵派がわれわれより多いと見ていますが、権力は完全にわれわれの側にあります。皇位継承者である皇太子殿下には、高踵派に傾くところがあるのではないかと、われわれは心配しています。少なくとも、片方の踵がもう片方より高いことは、はっきり見て取れ、そのため歩き方がぎくしゃくしています。さて、こうした内紛の最中に、ブレフスキュ島から侵攻の脅威を受けているのです。そこは宇宙にあるもう一つの大帝国で、広さでも力でも、陛下のこの帝国にほぼ匹敵します。というのも、世界にはあなたと同じほど大きな人間が住む王国や国家がほかにもある、とあなたが断言なさったと聞いても、わが国の哲学者たちは大いに疑い、むしろ月か星の一つから落ちて来られたのではないかと考えたがるのです。あなたほどの大きさの人間が百人もいれば、陛下の領土の作物も家畜も、たちまち食べ尽くしてしまうのは確かですからね。さらに、六千か月にわたるわが国の歴史にも、リリパットとブレフスキュの二大帝国以外の土地は、何も記されていません。この二つの強国が、先ほど申し上げかけたとおり、過去三十六か月、たいへん頑強な戦争を続けているのです。きっかけは次のようなことでした。食べる前に卵を割るとき、昔ながらの方法は太いほうの端を割るのだったことは、誰もが認めています。ところが今の陛下の祖父が、まだ子供だったころ、卵を食べようとして古来のやり方で割り、たまたま指を一本切ってしまったのです。そこで父帝は勅令を発し、重い罰をもって、すべての臣民に卵の細いほうの端を割るよう命じました。人民はこの法律にたいへん憤慨し、わが国の歴史によれば、これをめぐって六度の反乱が起き、ある皇帝は命を、別の皇帝は皇位を失いました。この内乱をいつも煽ったのはブレフスキュの君主たちで、鎮圧されると、追放された者たちは必ずその帝国へ逃れて庇護を求めたのです。細いほうの端を割るのに従うくらいならと、時を異にして処刑された者は、一万一千人に上ると算定されています。この論争について、分厚い本が何百巻も刊行されましたが、太端派の書物は長く禁じられ、党員は全員、法律によって官職に就く資格を奪われています。この騒乱の間、ブレフスキュの皇帝たちは、たびたび大使を通じて抗議し、偉大な預言者ラストログが『ブランデクラル』第五十四章で説いた根本の教義に背いて、宗教の分裂を起こしていると、われわれを非難しました」――『ブランデクラル』は彼らのコーランである――。「しかしこれは、聖句の無理な解釈にすぎないと考えられています。書かれているのは、『すべての真の信徒は、適切な端から卵を割るべし』という言葉だからです。どちらが適切な端かは、私のつたない意見では、各人の良心に、あるいは少なくとも最高統治者が決める権限に、委ねられているように思われます。さて、太端派の亡命者たちは、ブレフスキュ皇帝の宮廷でたいへんな信用を得、また国内の同党からも内々に多くの援助や励ましを受けたため、三十六か月もの間、両帝国の間で血なまぐさい戦争が続き、勝敗は一進一退でした。その間、われわれは主力艦四十隻と、それよりずっと多くの小艦船、さらに最良の水兵と兵士三万人を失いました。敵の損害は、われわれより幾分大きいと見積もられています。ですが今、敵は多数の艦隊の装備を整え、まさにわが国への上陸を準備しています。そこで皇帝陛下は、あなたの勇気と力を深く信頼され、こうした国情をお伝えするよう私に命じられたのです」

私は書記官に、皇帝へ恭しく忠誠の意を伝え、「外国人である自分が党争に干渉するのはふさわしくないと考えますが、あらゆる侵略者から陛下のお身と国をお守りするためには、命を賭ける覚悟です」とお知らせしてほしいと頼んだ。

第五章

著者は奇策によって侵攻を阻止する。高い栄誉の称号を授けられる。ブレフスキュ皇帝の使節が来て和平を求める。不慮の火事で皇后の居室が燃え、著者が宮殿の残りを救う。

ブレフスキュ帝国はリリパットの北東に位置する島で、わずか幅八百ヤードの海峡で隔てられている。私はまだその島を見たことがなく、侵攻の計画を知らされると、敵船の何隻かに見つかるのを恐れ、その側の海岸に姿を現さぬようにした。敵はまだ私について何の情報も得ていなかった。戦争の間、両帝国の交渉は、死刑をもって厳禁され、こちらの皇帝は、あらゆる船舶に出航禁止を命じていたからである。私は敵の全艦隊を奪い取る計画を立て、それを陛下に伝えた。斥候の確かな報告では、艦隊は港に碇泊し、最初の順風が吹き次第、出帆できるよう備えていた。海峡で何度も測深した経験豊かな船乗りに、その深さを尋ねると、中央部では満潮時に七十グラムグラッフ、すなわちヨーロッパの尺度で六フィートほどで、ほかの場所はせいぜい五十グラムグラッフだと教えてくれた。私はブレフスキュに向き合う北東の海岸へ歩き、小山の陰に横たわって小さな望遠鏡を取り出し、敵の碇泊する艦隊を眺めた。軍艦がおよそ五十隻と、多数の輸送船からなっていた。それから家へ戻り、最も丈夫な綱と鉄棒を大量に取り寄せるよう命じた。そのための命令権は与えられていた。綱は荷造り糸ほどの太さ、鉄棒は編み針ほどの長さと太さだった。強くするため綱を三重にし、同じ理由から鉄棒も三本ずつ撚り合わせ、先を曲げて鉤にした。このように五十個の鉤を同数の綱に取り付けると、北東の海岸へ戻り、上着と靴と靴下を脱ぎ、満潮の半時間ほど前に、革胴着のまま海へ入った。できるだけ急いで浅瀬を渡り、中央では三十ヤードほど泳いで、また足をついた。半時間もたたずに艦隊へ着いた。敵は私を見ると恐怖のあまり船から飛び込み、岸へ泳いで逃げた。岸には三万人を下らぬ人々がいた。私は道具を取り、各船の船首の穴に鉤を掛け、綱の他端をすべて一つに結んだ。この作業の間に、敵は何千本もの矢を放ち、多くが手や顔に刺さって、ひどく痛むばかりか、作業の大きな妨げになった。何より心配だったのは目だった。とっさに一策を思いつかなければ、間違いなく失明しただろう。ほかの小さな必需品とともに、一つの秘密のポケットに眼鏡を入れてあった。前に述べたとおり、皇帝の調査役の捜索を免れたポケットである。それを取り出して、できるだけしっかり鼻に掛け、この武装のおかげで、敵の矢もかまわず、大胆に作業を続けた。矢は何本も眼鏡のガラスに当たったが、少しずれる程度のほかに影響はなかった。鉤を全部掛け終え、結び目を手に取って引き始めた。だが、どの船も錨で堅く繫がれているため、一隻も動かず、この企てで最も大胆さを要する仕事が、まだ残っていた。そこで綱を放し、鉤は船に掛けたまま、錨に繫がる綱を、小刀で思い切って切っていった。その間に、顔と手には二百本ほどの矢を受けた。次に、鉤を結んだ綱の端の結び目を取り上げ、敵の最も大きな軍艦五十隻を、いともたやすく引いていった。

私の意図をまるで想像していなかったブレフスキュ人は、最初、驚きのあまり呆然としていた。私が綱を切るのを見て、ただ船を漂流させるか、互いに衝突させるつもりだと思っていたのである。だが、艦隊全体が整然と動き、私が綱の端を引いているとわかると、悲しみと絶望の叫びを上げた。そのすさまじさは、ほとんど描写も想像もできないほどだった。危険のないところまで来ると、しばらく立ち止まり、手や顔に刺さった矢を抜いた。そして前に述べた、初めて来たときに与えられたものと同じ軟膏を塗った。それから眼鏡を外し、一時間ほど潮が少し引くのを待って、獲物を連れたまま海峡の中央を歩き渡り、リリパットの御用港へ無事到着した。

皇帝と宮廷の全員が岸に立ち、この大冒険の成り行きを待っていた。船が大きな半月形になって進むのは見えたが、胸まで水に浸かっていた私の姿は見分けられなかった。私が海峡の中央へ進むと、今度は首まで水に浸かったので、彼らの心配はいっそう募った。皇帝は、私が溺れ死に、敵の艦隊が攻撃して来るものと決め込んだ。だが、その不安はすぐに解けた。一歩ごとに海峡が浅くなり、ほどなく声の届くところまで来ると、私は艦隊を繫いだ綱の端を持ち上げ、大声で、「リリパットの至強の王、万歳!」と叫んだのである。この偉大な君主は、私が上陸すると、考えうるかぎりの賞賛をもって迎え、その場で私をナーダックに叙した。これは彼らの間で、最高の栄誉の称号である。

陛下は、また機会を見て、残る敵船をすべて自国の港へ運んで来てほしいと望まれた。君主の野心とは、かくも底知れぬものなのだ。陛下が考えているのは、ブレフスキュ帝国全体を一つの属州にし、副王に統治させ、太端派の亡命者を滅ぼし、そこの人々には卵の細い端を割ることを強制して、世界全体のただ一人の君主になることにほかならないようだった。だが私は、正義の面からも政策の面からも、多くの論拠を挙げて、この計画を思いとどまらせようとした。そして、「自由で勇敢な民を奴隷にする道具には、決してなりません」と、はっきり抗議した。評議会でこの件が審議されたとき、大臣のうち賢明な人々は私と同じ意見だった。

私が公然と大胆に述べたこの宣言は、皇帝陛下の策謀と政策に真っ向から反するものだったため、陛下は決して私を許せなかった。評議会でも、きわめて巧妙な形でこのことを持ち出された。聞くところでは、最も賢明な人々の一部は、少なくとも沈黙することによって、私と同意見の様子を示したが、陰で私に敵意を抱く者たちは、遠回しに私を非難するような言葉を、口にせずにはいられなかったという。このときから、陛下と、私に悪意を抱く一団の大臣たちの間に陰謀が始まった。それは二か月もたたないうちに表面化し、危うく私を完全に破滅させるところだった。君主に対するどれほど大きな功績も、その情念を満足させるのを一度断ったことと秤にかけられれば、かくも軽いのである。

この勲功から三週間ほどたつと、ブレフスキュから正式の使節団が来て、恭しく和平を申し入れた。和約は、こちらの皇帝にきわめて有利な条件で、まもなく結ばれた。条項を述べて読者を煩わせることはしない。大使は六人、随員はおよそ五百人で、主君の威光と使命の重要さにふさわしく、たいへん華麗な入城だった。交渉の間、私は、宮廷で当時得ていた、少なくとも得ているように見えた信用を用い、幾度か彼らのために取り計らった。条約がまとまると、私がどれほど好意を尽くしたかを内々に聞いた大使閣下たちは、正式に私を訪問した。まず私の勇気と寛大さに多くの賛辞を述べ、主君である皇帝の名によって私をその国へ招き、噂にいろいろと聞いた驚くべき怪力を、少し見せてほしいと頼んだ。私は快く応じたが、その細部を述べて読者を煩わせることはしない。

しばらくの間、閣下たちがこのうえなく満足し、驚くほどに楽しませたあと、主君の皇帝へ、どうか私の最も恭しい敬意をお伝えいただきたいとお願いした。その徳の名声が世界中を感嘆で満たしているのは、まことに当然のことであり、帰国する前に、ぜひその御前へ参上するつもりだと申し上げた。そこで次にこちらの皇帝に拝謁する栄誉を得たとき、ブレフスキュの君主を訪ねる包括的な許可を願い出た。皇帝は認められたものの、見たところ、たいへん冷淡な態度だった。理由は見当もつかなかったが、ある人が、「フリムナップとボルゴラムが、大使たちとあなたの交わりを、不忠のしるしだと申し立てたのです」と耳打ちしてくれた。私の心には、そのようなものはまるでなかったと断言できる。宮廷や大臣というものについて、私はこのとき初めて、ぼんやりとした考えを抱き始めた。

付け加えておくが、大使たちは通訳を通して私と話した。両帝国の言語は、ヨーロッパのどの二つの言語にも劣らぬほど異なり、両国とも自国語の古さと美しさと力強さを誇り、隣国の言葉を公然と軽蔑しているからである。それでも、こちらの皇帝は、敵の艦隊を奪って得た優位を盾に、大使たちに、リリパット語で信任状を差し出し、演説も行わせた。しかし、両国の交易や商業の往来が盛んなこと、互いに絶えず亡命者を受け入れていること、また双方の帝国に、世間を見て人や風俗を知り、洗練された人間となるため、若い貴族や裕福な郷紳を相手国へ送る習慣があることから、沿海部に住む身分ある人、商人、船乗りで、両方の言葉で会話できない者は、ほとんどいないと認めねばならない。私も数週間後、ブレフスキュ皇帝へ敬意を表しに行ったとき、それを知った。適切なところで物語るように、この訪問は、敵の悪意により大きな不幸に陥っていた私にとって、たいへん幸いな出来事となった。

読者は覚えておられるだろうが、自由を取り戻すための条項に署名したとき、あまりに卑屈なものとして、私が嫌った条項が幾つかあった。切迫した必要以外の何ものも、私を服従させることはできなかっただろう。だが今は、帝国で最高の位にあるナーダックとなったので、そのような奉仕は私の威厳にふさわしくないと見なされ、皇帝も、公平に申し上げれば、一度もそのことを持ち出されなかった。しかし、陛下のために――少なくとも当時の私にはそう思われた――たいへん目覚ましい奉仕をする機会が、まもなく訪れた。真夜中、戸口で何百人もの人が叫ぶ声に突然起こされ、私は少なからず恐怖を覚えた。バーグラムという言葉が、絶え間なく繰り返されていた。宮廷の者数人が群衆をかき分けて来て、すぐに宮殿へ来てほしいと懇願した。侍女が物語を読みながら眠り込むという不注意をしたため、皇后陛下の居室が燃えているのだという。私はたちまち起き上がった。前方の道をあけるよう命令が出され、月明かりもあったので、誰を踏むこともなく、どうにか宮殿へ着けた。すでに居室の壁には梯子が掛けられ、桶も十分用意されていたが、水場が少し離れていた。桶は大きな指貫ほどの大きさで、人々は懸命に、できるだけ早く私に渡したが、火勢がひどく、ほとんど役に立たなかった。上着があれば、たやすく覆って消せたのだが、不運にも急いだため置き忘れ、革胴着だけで来ていた。事態はまったく絶望的で、嘆かわしく思われた。この壮麗な宮殿は、私には珍しいほど機転を利かせて、突然一策を思いつかなければ、間違いなく焼け落ちていただろう。前の晩、私はグリミグリムという、たいへんおいしい葡萄酒をたっぷり飲んでいた。ブレフスキュ人はこれをフルネックと呼ぶが、こちらのもののほうが上等とされ、強い利尿作用がある。まったくこのうえなく幸運な偶然により、私はまだ、その一滴も排泄していなかった。炎のすぐそばへ寄り、消そうと奮闘したために体が熱くなり、酒が尿となって効き始めた。私はそれをたいへんな量、しかも適切な場所へうまく放出したので、三分で火はすっかり消え、建設に幾時代も費やした壮麗な建物の残りは、破壊から救われた。

もう夜が明けていた。私は皇帝と喜びを分かち合うまで待たず、家へ戻った。たいへん大きな奉仕をしたとはいえ、その方法を陛下がどう受け取られるか、わからなかったからである。国の基本法では、いかなる身分の者でも、宮殿の構内で小便をすることは死罪だった。しかし陛下から、「正式に赦免する手続きを取るよう、大司法官に命じる」というお言葉が届き、私は多少慰められた。もっとも、この赦免はとうとう得られなかった。また内々の確かな話として、「皇后は私の行為にこのうえない嫌悪を感じ、宮廷の最も遠い一画へ移り、例の建物を自分のために修復させることは決してしないと固く決心された。そして最も親しい側近の前で、復讐を誓わずにはいられなかった」と聞かされた。

第六章

リリパットの住民、学問、法律、習慣、子供の教育法について。著者のこの国での暮らし。ある高貴な婦人の名誉を弁護する。

この帝国の描写は別の論考に譲るつもりだが、ひとまず好奇心のある読者のため、大まかなことを幾つか述べるのもよいだろう。住民の普通の背丈が六インチにやや足りないように、ほかのすべての動物も、草や木も、正確にそれに釣り合っている。たとえば最も背の高い馬や牛は四インチから五インチ、羊は一インチ半前後、鵞鳥は雀ほどの大きさで、そこから順々に小さくなり、最も小さいものになると、私の目にはほとんど見えなかった。だが自然は、リリパット人の目を、彼らが見るべきあらゆる対象に適するようにしている。たいへん正確に見えるものの、遠くまでは見えない。近くのものに対する視力の鋭さを示すなら、普通の蠅ほどもない雲雀の羽を料理人がむしっているのや、若い娘が、見えない針に見えない絹糸を通しているのを、私はたいへん面白く眺めたものだ。最も高い木は七フィートほどある。大きな御苑の木の一部のことで、その梢には、私が握り拳を上げて、やっと届くほどだった。ほかの植物も同じ割合だが、これは読者の想像に任せよう。

彼らの学問は、あらゆる分野で幾時代も繁栄してきたが、今はわずかしか触れない。だが文字の書き方はたいへん独特で、ヨーロッパ人のように左から右へでもなく、アラビア人のように右から左へでもなく、中国人のように上から下へでもなく、イングランドの貴婦人たちのように、紙の一隅からもう一隅へ、斜めに書くのである。

死者は頭を真下にして葬る。一万一千か月たつと皆が復活し、その間に、彼らが平らだと考えている大地は上下逆さまになるから、その結果、復活のときには、すぐ足で立てる状態になっている、という考えを持つからである。学者たちはこの教えの不合理を認めているが、慣習は今も、民衆に合わせて続けられている。

この帝国には、たいへん独特な法律や慣習が幾つかある。もしわが愛する祖国のものと、これほど正反対でなければ、いくらか弁護してみたくもなるだろう。ただ、それが十分に実行されていればよいのだが。まず述べるのは、告発者に関するものだ。この国では、国家に対する犯罪はすべて、最も厳しく罰せられる。だが被告が裁判で無罪を明らかに証明すると、告発者はただちに不名誉な死刑に処される。そして無罪の者には、失った時間、さらされた危険、獄中の苦しみ、弁護のために要したあらゆる費用について、告発者の財産や土地から四倍の賠償が与えられる。それでも足りなければ、王室から十分に補われる。皇帝も、何らかの公的な寵愛のしるしを授け、その無罪が町全体へ布告される。

彼らは詐欺を窃盗より重大な罪と見なし、したがってほとんど必ず死刑にする。彼らの論では、ごく普通の理解力でも、注意と警戒によって財産を盗人から守ることはできるが、正直さは、それよりすぐれた狡猾さには身を守る術がない。また、売買や信用取引の絶え間ない交渉は不可欠なのだから、詐欺が許され、黙認され、あるいは罰する法律がなければ、いつも正直な商人が破滅し、悪党が利益を得る、というのである。あるとき、主人の命令で受け取った大金を持ち逃げし、主人に損害を与えた罪人のため、私が皇帝に取りなしをしたのを覚えている。情状酌量のつもりで、これはただの背信にすぎないと、つい陛下に申し上げると、皇帝は、罪を最も重くする事情を弁護として持ち出すとは、私の考えは言語道断だと思われた。実のところ、国が違えば習慣も違うという、ありきたりの答え以外、私はほとんど返す言葉がなかった。告白すれば、心から恥ずかしかったのである。[330]

賞と罰は、あらゆる政治の回る二つの蝶番だと、われわれは普通言う。だが、リリパット以外のどの国でも、この格言が実行されるのを、私はついに見なかった。この国では、七十三か月間、国法を厳密に守ったと十分に証明できる者は誰でも、身分や暮らしの状態に応じた特典と、そのために設けられた基金から、相応の金額を受け取る権利を持つ。また、スニルパル、すなわち「遵法者」という称号も得る。それは名前に添えられるが、子孫には伝わらない。われわれの法律は、褒賞については何も述べず、刑罰だけで履行を強制すると話すと、この国の人々は、それをわれわれの政治の途方もない欠陥と考えた。そうした理由で、彼らの裁判所にある正義の像には、周到な用心を表すため、前に二つ、後ろに二つ、左右に一つずつ、六つの目がついている。右手には口を開いた金の袋を持ち、左手には鞘に収めた剣を持って、罰するよりも褒賞を与えるほうに心が向いていることを示している。

あらゆる官職の任命に際して、彼らは大きな能力よりも、よい品行を重んじる。政治は人類に必要なのだから、普通程度の知力があれば、何かの役職には適しており、一時代に三人も生まれることのないような、崇高な天才の持ち主だけに理解できる秘儀として、公共の事務の運営を、摂理が定めたはずはないと信じているのである。それに対し、誠実、正義、節制などは、誰にでもできると考える。こうした徳を実行し、経験と善意を添えれば、専門の学習課程が必要な分野を除き、誰でも国のために奉仕する資格を持てる、とするのである。しかし、すぐれた知的才能が道徳的な徳の欠如を補うどころか、そういう人物の手ほど危険な手に、公職を委ねることはできないと考える。また少なくとも、善良な性質の持ち主が無知から犯す誤りは、腐敗に向かう性向を持ち、その腐敗を取り仕切り、増やし、弁護する大きな能力を備えた者の行為ほど、公共の福祉に致命的な結果を及ぼすことは決してない、と考えていた。

同様に、神の摂理を信じない者は、いかなる公職にも就けない。王は自ら摂理の代理人を称しているのだから、自分の行為の根拠となる権威を否認する者を君主が用いることほど不合理なことはない、とリリパット人は考えるのである。

これらや、以下に述べる法律について話すとき、私が意味するのは、ただ本来の制度であると理解していただきたい。堕落しやすい人間の本性によって、この国の人々が陥っている、このうえなく恥ずべき腐敗を指すのではない。綱踊りによって高い官職を得たり、棒を跳び越え、その下を這いくぐって、寵愛や栄誉のしるしを得たりする、あの不名誉な慣行については、今の皇帝の祖父が初めて導入し、党派や派閥の勢いが次第に強まるにつれ、今日の程度まで発展したものだと、読者に注意しておいていただきたい。

彼らの間では、忘恩は死罪である。ほかの幾つかの国でもそうだったと、われわれは書物で読んでいる。彼らはこう論じる。恩人に悪をもって報いる者は、何の恩も受けていない残りの全人類に対しては、必ずや万人の敵となるはずだ。したがって、そのような者は生きるに値しない、と。

親子の義務に関する彼らの考えは、われわれとはきわめて異なる。種を繁殖させ、存続させるための男女の結合は、自然の大法則に基づくのだから、男と女もほかの動物と同じく情欲に駆られて結びつき、わが子への愛情も同じ自然の原理から出るのだ、とリリパット人は言い張る。それゆえ、生ませたことについて父に、世に産み落としたことについて母に、子が何か恩義を負うとは、決して認めない。人間の生の悲惨を考えれば、生まれること自体が恩恵ではなかったし、親もそれを意図したわけではない。愛の交わりの最中、その考えはほかのことに向いていたのだから。このような理屈や、それに似た理屈から、彼らは、自分の子の教育を任せる相手として、親ほど当てにならない者はいないと考える。そこでどの町にも公立の養育所があり、小作農や労働者を除くすべての親は、男女の幼児が二十か月になると、養育と教育のために送り出さねばならない。この年齢には、教えを受け入れる素地が多少できると考えられている。この学校には、さまざまな身分と男女に応じて、幾つかの種類がある。一定の教授たちがおり、親の地位にも、子の能力や気質にもふさわしい生涯に備えさせることに、十分熟達している。まず男子の養育所について少し述べ、それから女子のものに移ろう。

貴族や名家の男子の養育所には、重々しく学識豊かな教授と、それぞれの助手が置かれている。子供の服も食事も質素で簡単である。名誉、正義、勇気、慎み、慈悲、信仰、愛国心の原則を教えられ、たいへん短い食事と睡眠の時間、そして運動からなる二時間の遊びを除いて、いつも何かの仕事に従事する。四歳までは男性に服を着せてもらうが、その後はどれほど身分が高くても、自分で着なければならない。付き添う女たちは、われわれなら五十歳に相当する年齢で、最も下働きの仕事しか行わない。子供たちは召使いと話すことを決して許されず、多かれ少なかれ一団になって遊びに出かけ、その際はいつも教授か助手の一人が立ち会う。こうして、われわれの子供たちにありがちな、愚かさや悪徳の悪い感化を、幼いうちから受けずに済む。親が面会を許されるのは年二回だけで、一回は一時間に限られる。会ったときと別れるときには口づけをしてよいが、その際は必ず教授がそばに立ち、耳打ちしたり、甘やかす言葉をかけたり、玩具や菓子などの贈り物を持参したりすることは許さない。

子供の教育と養育のために各家庭が納める費用は、期日どおりに支払わなければ、皇帝の役人が取り立てる。

普通の郷紳、商人、小売商、職人の子供の養育所も、身分に応じておおむね同じように運営される。ただ、商工業に就く予定の者は十一歳で徒弟に出されるのに対し、身分ある人の子は、われわれの二十一歳に当たる十五歳まで、学習や訓練を続ける。ただし最後の三年間は、拘束が次第に緩められる。

女子の養育所では、上流の娘たちは男子とほぼ同じように教育される。ただし服を着せるのは、きちんとした同性の召使いである。自分で着られる五歳になるまでは、いつも教授か助手の立ち会いのもとで行う。そして、こうした養育係が、恐ろしい話や愚かな話、あるいはわが国の小間使いがよくするようなくだらないことで、あえて娘たちを楽しませたとわかれば、町を三度引き回しながら公然と鞭打ち、一年間投獄し、国中で最も荒れ果てた地方へ生涯追放する。こうして若い貴婦人たちは、男に劣らず、臆病者や愚か者であることを恥じ、礼節と清潔の範囲を超える、あらゆる身の飾りを軽蔑する。男女の違いによる教育の差も、私には見当たらなかった。ただし女子の運動はいくらか穏やかで、家庭生活に関する心得を多少教えられ、学問の範囲も狭く定められていた。彼らの格言では、上流の人々の間では、妻はいつも理性的で感じのよい伴侶でなければならない、いつまでも若くはいられないのだから、というのである。娘が十二歳、すなわち彼らの結婚できる年齢になると、親か後見人が、教授たちに深い感謝を表して家へ連れ帰るが、その際、娘や仲間たちが涙を流さないことは、ほとんどない。

低い身分の女子の養育所では、性別とそれぞれの階層にふさわしい、あらゆる種類の仕事を教える。徒弟になる予定の者は七歳で出され、そのほかは十一歳まで置かれる。

こうした養育所に子供を預ける貧しい家庭は、できるだけ低く抑えられた年ごとの費用とは別に、子供の持参財とするため、毎月、収入のわずかな部分を養育所の管理人に納めなければならない。そのため、すべての親の支出は、法律で制限されている。自分の欲望に従って子供を生み、その養育の重荷を公共に残すことほど不正なことはない、とリリパット人は考えるからである。身分の高い人々については、身のほどに応じた一定の金額を、子供一人一人に割り当てる保証をさせる。この資金は常に、よく節約され、最も厳密な公正さをもって管理される。

小作農や労働者は、子供を家に置く。彼らの仕事は、ただ土地を耕し栽培することなので、その教育は公共にとってさほど重要ではないからである。ただし、そのうちの老人や病人は、救護施設で養われる。この帝国には、物乞いという商売がないのである。

ここで、九か月と十三日の滞在中の、私の召使いやこの国での暮らし方について、少し話すのも、好奇心のある読者には面白いかもしれない。私はもともと機械仕事が好きで、必要にも迫られたので、御苑のいちばん大きな木から、まずまず使いよい机と椅子を自分で作った。シャツと、寝床用や食卓用の布を作るため、二百人の針子が雇われた。彼らが手に入れられるかぎりで最も丈夫で粗い布を使ったが、それでも何重にも重ねて縫い合わせねばならなかった。最も厚いものでも、上質の薄麻布より幾段か細かかったからである。彼らの麻布は普通、幅三インチ、一反が三フィートである。針子たちは、私を地面に寝かせて寸法を取った。一人が首のところに、もう一人が脛の半ばに立ち、丈夫な紐の端をそれぞれ持って張り、第三の者が、一インチの定規でその長さを測った。それから右手の親指を測り、それ以上は求めなかった。親指の周囲の二倍が手首の周囲であり、それから首や腰へと同じように進める、という数学上の計算と、私が地面へ広げて見本にした古いシャツのおかげで、ぴったり仕立てられたのである。服を作るためには、同じように三百人の仕立屋が雇われたが、寸法の取り方は別の工夫によった。私が膝をつくと、地面から首まで梯子を掛け、一人が登って、襟から床へ下げ振りの糸を垂らした。それがちょうど上着の長さになった。だが、腰回りと腕は自分で測った。服は私の家で作られた。彼らのいちばん大きな家でも、収めきれなかったからである。出来上がると、イングランドの貴婦人が作る継ぎ接ぎ細工のように見えたが、ただ私のものは全部同じ色だった。

私には料理人が三百人いた。家の周りに建てられた、小さく便利な小屋に家族と住み、そこで各人二皿ずつ、私の食事を作った。私は給仕を二十人、手で持ち上げ、食卓に置いた。さらに百人が下の地面に控え、肉料理の皿を持つ者もいれば、葡萄酒やほかの酒の樽を肩に吊るす者もいた。上の給仕たちは、私の求めに応じ、綱を用いてたいへん巧みにそれらを引き上げた。ヨーロッパで井戸の桶を引き上げるのと同じである。彼らの肉一皿はたっぷり一口、酒一樽はほどよい一飲みになった。羊肉はわれわれのものに劣るが、牛肉はすばらしい。腰肉があまりに大きく、三口に分けねばならないこともあったが、これは珍しい。私が骨ごと食べるのを見て、召使いたちは驚いた。わが国で雲雀の脚を食べるのと同じなのだが。鵞鳥や七面鳥は、たいてい一口で食べた。われわれのものより、はるかにうまいと認めねばならない。もっと小さい鳥なら、二十羽か三十羽、ナイフの先ですくい上げられた。

ある日、皇帝陛下は私の暮らしぶりを聞き、「自分と皇后、そして若い男女の皇族たちに、あなたと食事をする幸せを」――恐れ多くも、そのようにおっしゃった――「与えてほしい」と望まれた。そこで皆様が来られ、私は食卓の、自分のちょうど向かい側にある儀式用の椅子に皆様を座らせ、その周りを護衛が囲んでいた。大蔵卿フリムナップも、白い職杖を携えて付き添っていた。彼がたびたび渋い顔で私を見ているのに気づいたが、気に留めぬふうをして、わが愛する祖国の栄誉のためにも、宮廷の人々を驚嘆させるためにも、いつもより多く食べた。この陛下のご訪問が、フリムナップに、主君へ私を悪く言う機会を与えたのだと考える、内々の理由が幾つかある。この大臣は、もともとの気難しさに似合わないほど、表向きは私をちやほやしたが、以前から陰で私の敵だった。彼は皇帝に、「国庫が窮乏していること、高い割引を受け入れて資金を調達せねばならず、国庫証券は額面より九パーセント安くなければ流通しないこと、私のために陛下はすでに百五十万スプラッグ以上を費やしたこと」――スプラッグは最も高額な金貨で、飾りのスパンコールほどの大きさである――「そして結局、皇帝は最初の適切な機会に、私を帰らせるのが得策であること」を申し立てた。

ここで私は、私のために罪なく苦しんだ、あるすぐれた婦人の名誉を弁護しなければならない。財務長官は、夫人が私に激しい恋情を抱いたと告げ口した、悪意ある者たちの讒言から、妻への嫉妬を思いついた。宮廷では一時、夫人が一度、内密に私の住まいへ来たとの噂が流れた。これはまったく忌まわしい虚偽であると、私は厳粛に宣言する。根拠は何もなく、ただ夫人が、罪のない親しさと友情をさまざまな形で示してくださっただけである。家へよく来られたことは認めるが、いつも公然とであり、馬車にほかの三人を乗せずに来られたことは、一度もない。普通は妹と幼い娘と、とくに親しい知人の誰かだった。これは、宮廷のほかの多くの貴婦人にもよくあることだった。今でも私は、周りの召使いたちに問いただそう。戸口の馬車に、どんな人が乗っているか知らなかったことが、一度でもあるかと。そういうとき、召使いから知らせが入ると、私はいつもすぐ戸口へ行き、敬意を表してから、馬車を二頭の馬ごと、たいへん注意深く手で持ち上げ、机の上へ載せた。六頭立ての場合は、先導の御者が必ず四頭を外した。机には、事故を防ぐため、高さ五インチの取り外せる縁を、周囲全体に付けてあった。客をいっぱい乗せた馬車と馬を、一度に四組、机の上に置くこともしばしばだった。私は椅子に座り、顔を彼らのほうへ寄せた。一組の人々と話している間、御者たちはほかの馬車をゆっくり机の周りに走らせた。こうした会話で、たいへん愉快に午後を過ごしたことが幾度もある。しかし、財務長官にも、その二人の密告者にも、名を隠して誰かが私を訪れたと、証明できるものならしてもらいたい。二人の名はクラストリルとドランロである。名を挙げてやるから、あとは好きにするがよい。例外は書記官レルドレサルだけだが、彼は前に述べたとおり、皇帝陛下の明示の命令で遣わされたのだった。私自身のことは措くとしても、高貴な婦人の名誉に深くかかわる点でなければ、これほど長くこの細部に立ち入らなかっただろう。もっとも当時、私はナーダックの栄誉を得ており、財務長官自身はそうではなかった。誰もが知るとおり、彼はただのグラムグラムであり、イングランドで侯爵が公爵より一つ下であるように、一階級低い称号である。ただし官職上の権利により、彼が私より上席だったことは認める。この虚偽の告げ口を、私はのちに、ここで述べるのは適切でない偶然によって知った。そのため財務長官は、しばらく妻に冷たい顔を見せ、私にはさらに冷たい顔を見せた。最後には誤解が解け、妻と仲直りしたものの、私は彼からの信用をすっかり失い、皇帝ご自身への影響力も、急速に衰えていくのを知った。実際、皇帝は、この寵臣にあまりに左右されていたのである。

第七章

著者は大逆罪で告発する計画を知らされ、ブレフスキュへ逃れる。そこでの待遇。

この国を去る次第を述べる前に、二か月前から私に対して組み立てられていた内密の陰謀について、読者にお知らせしておくのがよいだろう。

このときまで、私は生涯、宮廷とは無縁だった。低い身分ゆえ、その資格もなかったのである。偉大な君主や大臣の気質については、聞いたことも読んだことも十分にあったが、ヨーロッパとはたいへん異なる原則で治められていると思っていた、これほど遠い国で、そのように恐ろしい結果に出会うとは、まるで予期していなかった。

ブレフスキュ皇帝へ参上する支度をしていたところ、宮廷の有力者が一人、夜、覆いのある輿に乗って、きわめて内密に私の家へ来た。その方が皇帝陛下の激しい不興を被っていたとき、私はたいへん力になったことがあった。名を告げず、会いたいということだった。輿かきを帰し、私は貴族を輿ごと上着のポケットに入れ、信頼する召使いに、具合が悪くて寝たと言うよう命じた。それから家の戸を閉め、いつものように輿を机の上へ置き、そのそばに座った。普通の挨拶が終わると、その方の顔が心配に満ちているのに気づき、理由を尋ねた。すると、「あなたの名誉と生命に深くかかわることなので、辛抱して聞いていただきたい」と言った。帰ったあとすぐに覚え書きを取ったので、話のおおよそは次のとおりである。

「ご承知いただきたいのですが、近ごろあなたのことで、評議会の委員会が幾度も、最も秘密のうちに開かれました。そして陛下が最終の決意をなさったのは、ほんの二日前です。

「スカイレシュ・ボルゴラム」――ガルベット、すなわち海軍大提督である――「が、あなたの到来以来、ほとんどずっと、不倶戴天の敵だったことは、よくご存じでしょう。もとの理由は存じませんが、ブレフスキュに対してあなたが大成功を収め、提督としての彼の栄光が大いにかすんで以来、憎しみはさらに増しました。この人物が、夫人のことであなたを憎んでいると誰もが知る大蔵卿フリムナップ、将軍リムトック、侍従長ラルコン、大司法官バルマフと組み、大逆その他の死罪で、あなたへの弾劾条項を準備したのです」

自分の功績と無実を自覚していた私は、この前置きで、我慢ならず口を挟もうとした。すると彼は黙っていてほしいと懇願し、次のように続けた。

「あなたから受けたご親切への感謝として、私は審議の全容についての情報と、弾劾条項の写しを手に入れました。あなたのお役に立つため、首を賭けてのことです。

「『クインバス・フレストリン、すなわち人間山に対する弾劾条項。

第一条。

「『カリン・デファー・プルーネ皇帝陛下の御代に制定された法律により、宮殿の構内で放尿する者は何人といえども、大逆罪の刑罰に処せられるべき旨が定められているにもかかわらず、右のクインバス・フレストリンは、右の法律を公然と破り、陛下の最愛の皇后の居室に生じた火事を消すとの口実のもと、悪意をもって、反逆的に、かつ悪魔のごとく尿を放出し、右の宮殿の構内に位置する右の居室に生じた右の火を消した。これは当該の場合に定める法律等に違反し、義務等に背くものである。

第二条。

「『右のクインバス・フレストリンは、ブレフスキュ帝国の艦隊を御用港に運び入れたのち、皇帝陛下より、右のブレフスキュ帝国の残る船をすべて奪い、同帝国を属州にして、わが国から赴く副王に統治させ、太端派の亡命者全員のみならず、太端派の異端をただちに捨てない同帝国の人民もすべて滅ぼし、処刑せよと命じられた。しかるに右のフレストリンは、最もめでたく、穏やかなる皇帝陛下への不実な反逆者のごとく、罪なき人民の良心を強制し、その自由と生命を奪いたくないとの口実をもって、右の奉仕を免除されたいと請願した。

第三条。

「『ブレフスキュの宮廷より、陛下の宮廷へ和平を請うために来た大使らに対し、右のフレストリンは、不実な反逆者のごとく、援助し、助勢し、慰め、楽しませた。しかも彼は、大使らが、つい先ごろまで皇帝陛下への公然の敵であり、右の陛下と公然の戦争をしていた君主の、臣下であることを知っていた。

第四条。

「『右のクインバス・フレストリンは、忠実な臣民の義務に背き、現にブレフスキュの宮廷および帝国への渡航を準備しているが、それについて皇帝陛下から得たのは口頭の許可のみである。そして右の許可を口実に、不実かつ反逆的に右の渡航を企て、それによって、つい先ごろまで前記の皇帝陛下の敵として公然の戦争をしていたブレフスキュ皇帝を、援助し、慰め、助勢しようとしている』

「ほかにも幾つか条項はありますが、最も重要なのはこれらで、その要旨をお読みしたのです。

「この弾劾についての幾度もの審議で、陛下が深い寛仁のしるしを数多く示されたことは、認めねばなりません。あなたの功績をたびたび挙げ、罪を軽くしようと努められました。財務長官と提督は、夜にあなたの家へ火をつけ、将軍は毒矢で武装した二万人を率いて待機し、あなたの顔や手を射て、最も苦痛に満ちた不名誉な死を与えるべきだと主張しました。召使いの何人かには、シャツや敷布に毒液を撒く秘密の命令を出し、あなたがすぐに自分の肉をかきむしり、このうえない苦悶のうちに死ぬようにするというのです。将軍も同意したので、長い間、あなたに敵するほうが多数でした。ですが陛下は、できることなら命だけは助けようと決心なさり、最後には侍従長をこちらへ引き入れました。

「この段階で、いつもあなたの真の友と証明してきた内務首席書記官レルドレサルが、皇帝に意見を述べるよう命じられ、それに従って話しました。そして、あなたが彼に抱いていた好意に、ふさわしく応えたのです。あなたの罪は重大だと認めながらも、なお慈悲の余地はある、それは君主にとって最も賞賛すべき徳であり、陛下がその点で名高いのは、まことに当然のことだと言いました。あなたと自分の友情は世間によく知られているので、尊き評議会の方々は、自分があなたに肩入れしていると考えるかもしれないが、受けた命令に従い、率直に考えを申し上げる、と述べました。もし陛下が、あなたの功績を考慮され、ご自身の慈悲深いお気質に従い、命を助けて、ただ両目を潰すよう命じられるなら、この方法で正義はいくらか満たされ、全世界が皇帝の寛仁と、その顧問となる栄誉を持つ者たちの、公正で寛大な処置を賞賛するであろうと、恐れながら考える、というのです。目を失っても体力は妨げられず、陛下のためには依然役立てる。盲目は危険を見えなくして、勇気を増してくれる。敵艦隊を運んで来るうえで最大の難関だったのは、あなたが目を心配したことだった。最も偉大な君主さえそれ以上のことはしていないのだから、あなたも大臣たちの目を通して見れば、それで十分だ、と言いました。

「この提案は、評議会全員の激しい不賛成を受けました。提督ボルゴラムは平静を保てず、怒って立ち上がり、反逆者の命を助けよという意見を、書記官がよくもあえて述べられたものだと言いました。あらゆる真の国家理性に照らせば、あなたの功績は、罪を大いに重くする事情なのだというのです。皇后の居室の火を放尿で消せた者は――この点を、彼はぞっとした様子で口にしました――、別の折には同じ方法で洪水を起こし、宮殿全体を水没させるかもしれない。敵艦隊を運んで来られたその力は、不満を抱くや否や、艦隊を運び戻すためにも使える。あなたが心中では太端派だと考える十分な理由もある。大逆は、公然の行為に現れる前に、まず心に始まるのだから、その点であなたを反逆者として告発し、死刑に処すべきだと主張しました。

「財務長官も同意見でした。あなたの扶養費によって、陛下の財政がどれほど窮地に陥り、じきに支えきれなくなるかを示しました。目を潰すという書記官の案は、この害を除くどころか、おそらく増大させる。ある種の家禽を盲目にするという、よく行われる習慣を見れば明らかで、そうするとよけいに餌を食べ、早く太るではないか。また、裁判官である神聖なる陛下と評議会は、良心において、あなたの有罪を十分に確信している。それは、法律の厳密な字句が求める形式上の証拠がなくても、死刑にするに足る論拠だと申しました。

「ですが皇帝陛下は、死刑にしないと固く決意され、寛大にも、両目を失うだけでは軽すぎる罰だと評議会が考えるなら、ほかの方法はあとで加えればよい、とおっしゃいました。そして、あなたの友である書記官は、もう一度聞いていただきたいと恭しく願い、あなたを養うため陛下が大金を費やされているという、財務長官の反論に答えました。皇帝の歳入をただ一人で処理している閣下なら、あなたの支給分を次第に減らすことで、容易にこの害を防げるというのです。食物が足りなくなれば、あなたは弱って衰え、食欲を失い、その結果、数か月のうちにやせ細って死ぬ。死体も半分以上小さくなっていれば、その悪臭もそれほど危険ではない。死後すぐに陛下の臣民五、六千人が、二、三日で骨から肉を切り取り、車に山と積んで運び、感染を防ぐため遠方に埋めればよい。そして骨格は、後世の人々の驚嘆の記念として残せる、と言いました。

「こうして、書記官の深い友情のおかげで、事全体に折り合いがつきました。少しずつ飢え死にさせる計画は、秘密にしておくよう厳命されましたが、目を潰すという判決は記録簿に記載されました。反対したのは提督ボルゴラムだけです。彼は皇后の手先で、あなたの死を要求し続けるよう、皇后陛下から絶えずけしかけられていました。皇后は、自分の居室の火を消すのにあなたが用いた、あの不名誉で違法な方法のために、あなたへ変わらぬ悪意を抱いていたのです。

「三日後、あなたの友の書記官は、家へ来て弾劾条項を御前で読むよう命じられるでしょう。そして陛下と評議会の深い寛仁と恩寵によって、ただ目を失う刑だけを科す旨を伝えるのです。それにあなたが感謝し、謙虚に従うことを、陛下は疑っておられません。あなたが地面に横たわる間、陛下の外科医二十人が立ち会い、きわめて鋭い先の矢を眼球へ射込んで、手術が滞りなく行われるようにします。

「どのような手段を取るかは、あなたの慎重な判断に任せます。私は疑われぬよう、来たときと同じく内密に、すぐ帰らねばなりません」

その貴族はそうして帰り、私は一人残されて、心中、数々の疑いと困惑に悩んだ。

この君主と大臣たちが導入した慣例があった。確かな話では、昔の慣行とはたいへん異なっていたそうだ。君主の恨みか、寵臣の悪意を満足させるため、宮廷が残酷な処刑を決めると、皇帝は必ず評議会全員に向かって演説し、ご自身の深い寛仁と慈愛を、世界中の誰もが知り、認める資質として述べるのである。この演説はただちに国中へ公表された。そして、陛下の慈悲を褒め称えるその言葉ほど、人民を恐れさせるものはなかった。賞賛が長くなり、強調されるほど、刑罰は非人道的で、罰せられる者は無実だと、見て取られていたからである。しかし私自身については、生まれでも教育でも、宮廷人になるよう定められていなかったため、物事の判断にたいへん疎く、この判決の寛仁や恩寵を見いだせず、穏やかというより厳しいものと、ひょっとすると誤って、考えたことを告白しなければならない。ときには裁判を受けてみようかと思った。各条項に挙げられた事実は否定できなくても、いくらかは情状酌量の余地があると期待したからだ。だが生涯に多くの国事裁判の記録を読み、その結末はいつも、裁判官がよいと思うよう指図して決まると見てきたので、これほど重大な局面で、これほど強力な敵を相手に、あえて危険な判断に身を委ねることはできなかった。一度は抵抗する決意に強く傾いた。自由に動けるかぎり、帝国の全軍でも私を屈服させるのは難しく、石を投げて都を粉々にするのもたやすかっただろう。だが、皇帝に立てた誓いと、受けた恩恵と、授かったナーダックの高位を思い出すと、私はすぐにこの計画を恐ろしく思い、退けた。宮廷人式の感謝を、もうそれほど早く覚えたわけでもないので、陛下の今の厳しい仕打ちが、過去のあらゆる恩義を帳消しにするとは、自分を納得させられなかった。

ついに私は一つの決心をした。そのため多少の非難を受けるかもしれないし、それも不当とはいえないだろう。告白すれば、私の目が助かり、その結果、自由も守られたのは、私自身のたいへんな軽率さと経験不足のおかげだからである。もし当時、のちにほかの多くの宮廷で見たような、君主や大臣の本性や、私ほど憎まれていない罪人への扱いを知っていたなら、これほど軽い罰には、大喜びですぐさま服していただろう。だが若さの性急さに駆られ、ブレフスキュ皇帝へ参上するための皇帝陛下の許可もあったので、この機会に、三日が過ぎる前に、友である書記官へ手紙を送った。得ていた許可に従い、その朝ブレフスキュへ発つ決心をしたと知らせたのである。そして返事を待たず、艦隊のある島の側へ向かった。大きな軍艦を一隻取り、船首に綱を結び、錨を上げてから服を脱ぎ、脇に抱えて来た上掛けとともに船へ入れた。そして船を引きながら、あるときは歩き、あるときは泳いで、ブレフスキュの御用港へ着いた。人々は長らく私を待ち受けていた。国と同名の首都へ案内するため、二人の道案内をつけてくれたので、門から二百ヤードのところへ来るまで手に持ち、そこで、「書記官のお一人に私の到着を伝え、陛下の命をここでお待ちしているとお知らせください」と頼んだ。一時間ほどで、「陛下は皇族と宮廷の高官を伴い、お迎えに出ておられる」と返事が来た。私は百ヤード進んだ。皇帝と供の者たちは馬を下り、皇后と貴婦人たちは馬車を下りたが、おびえたり、心配したりする様子は見えなかった。私は地面に伏して、皇帝と皇后の手に口づけした。陛下には、「約束に従い、わが主君の皇帝のお許しを得て、かくも強大な君主にお目にかかる栄誉をいただき、わが君主への義務と両立するかぎり、できるだけの奉仕を申し上げるため参りました」と申し上げた。自分の失脚については、一言も触れなかった。まだ正式には何も知らされていなかったので、そのような計画をまったく知らぬ者として振る舞えたからである。また、私が皇帝の支配の及ばぬところにいる間に、秘密を明かすとは、合理的には考えられなかった。もっとも、この点では、私が間違っていたと、すぐにわかった。

この宮廷での待遇は、偉大な君主の寛大さにふさわしいものだったが、その詳細を述べて読者を煩わせることはしない。また、家も寝床もなく、上掛けにくるまって地面に寝なければならなかったための、不便についても省こう。

第八章

著者は幸運な偶然によりブレフスキュを去る手段を見つけ、幾つかの難儀ののち、無事に祖国へ帰る。

到着の三日後、物珍しさから島の北東の海岸へ歩いて行くと、半リーグほど沖に、裏返ったボートらしいものが見えた。靴と靴下を脱ぎ、二、三百ヤード歩いて海へ入ると、それが潮の力で近づいて来るのがわかり、まもなく本物のボートだとはっきり見えた。どこかの船から嵐で流されたものだろうと思った。そこでただちに町へ戻り、艦隊を失ったあとに残った最も大きな船二十隻と、水兵三千人を、海軍中将の指揮のもとで貸していただきたいと、皇帝陛下にお願いした。艦隊が海上を回る間、私は最短の道で、最初にボートを見つけた海岸へ戻った。潮はボートを、さらに近くまで運んでいた。水兵たちは皆、私が前もって十分な強さに撚り合わせておいた綱を備えていた。船が来ると、私は服を脱ぎ、ボートまで百ヤードのところへ来るまで海を歩き、そこからは泳がなければならなかった。水兵が綱の端を投げてくれたので、ボートの前の穴に結び、他端は軍艦に結んだ。だが、足が立たずに仕事ができないので、苦労はほとんど役に立たなかった。やむを得ず後ろへ泳いで回り、できるたびに、片手でボートを前へ押さねばならなかった。潮も味方してくれ、どうにか顎を水の上に出しながら足のつくところまで進んだ。二、三分休んでから、またボートを押し、そうして水が腋の下より高くないところまで来た。これで最も骨の折れるところが済んだので、一隻の船に積んであった、ほかの綱を取り出し、まずボートに、次に供をしていた九隻の船に結びつけた。風もよく、水兵が曳き、私が押して、岸から四十ヤード以内へ着いた。潮が引くのを待つと、水に入らずにボートまで行けた。そして二千人が綱や仕掛けを使って助けてくれ、どうにか底を下にして起こすと、ほとんど傷んでいないことがわかった。

作るのに十日かかった櫂を使って、ブレフスキュの御用港までボートを運ぶ苦労の詳細を述べ、読者を煩わせることはしない。私が到着すると、これほど巨大な船を見て驚きに満ちた大群衆が集まった。私は皇帝に、「幸運にもこのボートが手に入ったので、これに乗って、祖国へ帰れるどこかの土地まで行きたいと存じます」と申し上げ、修繕の資材を入手するよう命じていただくことと、出発の許しをお願いした。陛下は親切に多少引き留めたあと、快くお認めくださった。

この間、こちらの皇帝からブレフスキュの宮廷へ、私に関する急使が来たと何も聞かなかったのを、私はたいへん不思議に思っていた。だがあとで内々に聞かされたところでは、皇帝陛下は、私がその計画を少しでも知っているとは夢にも思わず、こちらの宮廷でよく知られていた許可に従い、約束を果たすためだけにブレフスキュへ行き、儀礼が済めば数日で帰ると信じておられたのだという。ところが、不在が長くなると、ついに心配になり、財務長官と一味のほかの者たちに相談したあと、弾劾条項の写しを携えた高官を遣わした。この使節は、ブレフスキュの君主に、「主人は、ただ目を奪うだけの罰で満足するという、深い寛仁を示したこと、私が司法から逃れたこと、そして二時間以内に帰らなければ、ナーダックの称号を奪い、反逆者と宣言すること」を申し立てるよう命じられていた。使節はさらに、「両帝国の平和と友好を維持するため、主人は、兄弟たるブレフスキュ皇帝が、私を反逆者として処罰できるよう、手足を縛ってリリパットへ送り返す命令を出すことを期待している」と付け加えた。

ブレフスキュ皇帝は、三日間協議してから、多くの丁重な言葉と釈明を含む返答をした。「縛って送るという件は、不可能だと、兄弟たるそちらも承知しているはずである。自分は艦隊を奪われたとはいえ、和平の成立に際し、この者が多くの親切な取り計らいをしたことには、深い恩義を負っている。だが、両君主の懸念も、じきに解けるだろう。この者は海岸で、自分を乗せて海へ出られる巨大な船を見つけ、本人の手助けと指図によって修繕するよう、こちらで命じてある。数週間で両帝国とも、このように耐えがたい厄介者から解放されることを望む」と言った。

使節はこの返答を持ってリリパットへ帰った。ブレフスキュの君主は、事の一切を私に話し、同時に、引き続き自分に仕えるなら、恵み深い保護を与えると申し出られた。ただしそれは、このうえなく厳重な秘密としての話だった。私はその誠意を信じたものの、どうにか避けられるかぎり、もう二度と君主や大臣を信頼しないと決心していたので、ご好意にふさわしい感謝をすべて表しつつ、恭しく辞退したいとお願いした。そして、「幸運か不運かはともかく、運命が一隻の船を与えてくれた以上、これほど強大なお二人の君主の不和のもととなるよりは、大海へ身を投じようと決心しております」と申し上げた。皇帝には少しも不満な様子がなかった。ある偶然から、この決心をたいへん喜んでおられ、大臣の大半も同じだと知った。

こう考えて、私は予定より多少早く出発を急ぐことにした。私を早く去らせたくてたまらない宮廷も、そのためには喜んで力を貸した。五百人の職人が雇われ、私の指図に従い、最も丈夫な麻布を十三重に縫い合わせて、ボートの帆を二枚作った。私は彼らの最も太く丈夫な綱を十本、二十本、三十本と撚り合わせ、苦労して細綱や太綱を作った。海岸で長く探した末、たまたま見つけた大石を錨にした。ボートに塗るなどの用途のため、牛三百頭分の脂を得た。櫂や帆柱にするため、最も大きな用材の木を幾本か切り倒すのには、信じがたいほど苦労した。ただし、粗仕事が済んだあとに滑らかに削るのは、陛下の船大工たちが大いに手伝ってくれた。

一か月ほどで準備がすべて整うと、私は人を遣わし、陛下のご命令を伺い、暇乞いをした。皇帝と皇族は宮殿から出て来られた。私はうつぶせになり、陛下がたいへん優しく差し出してくださった手に口づけした。皇后も若い皇族たちも同じようになさった。陛下は、一つに二百スプラッグずつ入れた財布を五十袋と、ご自身の全身の肖像をくださった。肖像は傷めぬよう、すぐに手袋の片方へ入れた。出発に際しての儀礼はあまりに多く、今ここで述べて読者を煩わせることは控える。

私はボートに、屠殺した牛百頭と羊三百頭、それに釣り合うパンと飲み物、そして四百人の料理人が用意できるだけの調理済みの肉を積んだ。また、祖国へ持ち帰って繁殖させようと、生きた牝牛六頭と牡牛二頭、それと同数の牝羊と牡羊を連れて行った。船で飼うため、干し草の大きな束と、穀物の袋を用意した。住民も一ダースほど、喜んで連れて行きたかったが、皇帝はこれだけは決してお許しにならなかった。ポケットを入念に調べさせたうえで、陛下は、「本人が同意し、希望していても、臣民の誰をも連れ去らぬこと」を、私の名誉にかけて約束させた。

こうしてできるかぎりすべてを整え、一七〇一年九月二十四日、午前六時に出帆した。南東の風に乗り、北へ四リーグほど進んだところで、午後六時、北西半リーグほどのところに小島を認めた。さらに進み、無人らしく見える島の風下側に錨を下ろした。それから少し食事を取り、休んだ。ぐっすり眠った。目覚めて二時間後に夜が明けたので、少なくとも六時間は眠ったと思う。晴れた夜だった。日の出前に朝食を済ませ、錨を上げると、順風だったので、携帯用羅針盤を頼りに、前日と同じ針路を取った。私のつもりでは、できるなら、ヴァン・ディーメンズ・ランドの北東にあると信じる理由のあった島々の、どれかへ着きたかった。その日は一日、何も見つからなかった。だが翌日の午後三時ごろ、計算ではブレフスキュから二十四リーグ進んだころに、南東へ向かう帆を認めた。私の針路は真東だった。呼びかけたが返事はなかった。しかし風が弱くなったため、追いつきつつあるのがわかった。できるだけ帆を張ると、半時間のうちに向こうも私を見つけ、旗を掲げて一発砲を放った。愛する祖国と、そこに残してきた大切な家族に、もう一度会えるかもしれないという、思いがけない望みに感じた喜びは、たやすく言葉にできない。船は帆を緩め、私は九月二十六日、午後五時から六時の間に追いついたが、イングランドの旗を見たときには、胸が躍った。牛と羊を上着のポケットに入れ、わずかな食糧を全部携えて乗り込んだ。その船は、北海と南海を経由して日本から帰る途中の、イングランドの商船だった。船長はデトフォード出身のジョン・ビデル氏で、たいへん礼儀正しく、すぐれた船乗りだった。

私たちはそのとき南緯三十度にいた。船には五十人ほど乗っており、そこで昔の仲間のピーター・ウィリアムズという男に出会った。彼は船長に、私が信用できると話してくれた。船長は親切に接し、最後にどこから来て、どこへ行くつもりなのか教えてほしいと言ったので、私は簡単に話した。しかし船長は、私がうわごとを言っており、遭遇した危険のせいで頭がおかしくなったのだと思った。そこでポケットから牛と羊を取り出すと、たいそう驚いた末に、私の話が本当だとはっきり納得した。それから、ブレフスキュ皇帝にいただいた金貨と、陛下の全身の肖像と、その国のほかの珍品を幾つか見せた。私は二百スプラッグずつ入った財布を二つ贈り、イングランドへ着いたら、牝牛一頭と、仔を宿した牝羊一頭を差し上げると約束した。

航海は大部分たいへん順調だったが、その詳細を述べて読者を煩わせることはしない。一七〇二年四月十三日、私たちはダウンズに着いた。不幸はただ一つ、船の鼠に牝羊を一頭さらわれたことだった。穴の中で、肉をきれいに食い尽くされた骨を見つけた。残りの家畜は無事上陸させ、グリニッジのボウリング場の芝生で放牧した。ずっと逆を心配していたのに、草がたいへん細かかったため、実によく食べた。船長が最良の乾パンをいくらか分けてくださらなければ、こんなに長い航海で生かしておくことも、到底できなかっただろう。それを粉にし、水と混ぜたものが、ずっと餌だったのである。イングランドにいた短い間、私は家畜を、多くの身分ある人やほかの人々に見せて、かなりの利益を得た。そして第二の航海に出る前に、六百ポンドで売った。最後の帰国以来、この家畜の種が相当増えたことを知った。とくに羊は、羊毛が細かいので、毛織物の製造に大いに役立つものと期待している。

妻子と一緒にいたのは、わずか二か月だった。外国を見たいという飽くことのない望みが、それ以上とどまることを許さなかったからである。妻には千五百ポンドを残し、レッドリフのよい家に住まわせた。残る財産は、暮らしを豊かにしたいと願い、一部は金、一部は商品として携えた。いちばん年上のおじジョンが、エッピングの近くに、年およそ三十ポンドを生む土地を遺してくれていたし、フェター・レーンの「黒牡牛亭」の長期借地権も持ち、そこから同じだけの収入があった。だから、家族を教区の救貧に委ねる心配はなかった。息子のジョニーは、おじにちなんで名づけられ、文法学校に通っていて、見込みのある子だった。娘のベティは、今ではよい結婚をし、子供もいるが、当時は針仕事を習っていた。私は妻と息子と娘に、互いに涙を流して別れを告げ、スーラトへ向かう三百トンの商船アドヴェンチャー号に乗り込んだ。船長はリヴァプールのジョン・ニコラスだった。だが、この航海の話は、『旅行記』の第二部へ譲らねばならない。

第二部 ブロブディンナグへの航海

第一章

激しい嵐の描写。水を汲むために長艇が出され、著者もその国を探るために同行する。岸に取り残され、住民の一人に捕らえられて、農夫の家へ運ばれる。そこでのもてなしと、いくつかの出来事。住民についての説明。

生まれつきの性分と運命により、動き回って落ち着けぬ暮らしを定められていた私は、帰国から二か月後、再び祖国をあとにした。一七〇二年六月二十日、ダウンズ泊地から、コーンウォール出身のジョン・ニコラス船長が指揮するアドヴェンチャー号に乗り、スーラトへ向かったのである。たいへん都合のよい風が続き、喜望峰に着いて清水を補給するため上陸した。ところが船の水漏れが見つかり、荷を下ろして、そこで冬を越した。船長が悪寒を伴う熱病にかかったため、三月末まで岬を離れられなかったのである。そのあと出帆し、マダガスカル海峡を過ぎるまでは、順調な航海だった。しかし島の北方、南緯五度ほどのところへ来ると、十二月初めから五月初めにかけては、いつも北から西の間の方角から、一定の強さで吹くはずのその海域の風が、四月十九日、いつもよりはるかに激しく、いっそう西寄りから吹き始め、そのまま二十日間続いた。その間に私たちは、モルッカ諸島の少し東、赤道から北へ三度ほどの位置まで流された。これは、船長が五月二日に観測して確かめたことだ。そのころ風がやみ、まったくの凪になったので、私は大いに喜んだ。だが、あの海域の航海に十分な経験を持つ船長は、皆に嵐の備えをするよう命じた。実際、その翌日、南モンスーンと呼ばれる南風が吹き始め、嵐になったのである。

吹きすさぶ風になりそうだったので、船首の斜檣帆を畳み、前帆を収める準備をした。しかし船が荒波を受け始めたため、大砲が皆しっかり固定されているのを確かめ、後檣帆を畳んだ。船首は大きく風下へ向いていたので、帆を減らして風に立てたり、すべての帆を畳んで漂流したりするより、波を背に受けて走るほうがよいと考えた。前帆を縮めて揚げ、その帆裾の綱を船尾へ引いた。舵柄は、風上へいっぱいに倒した。船は見事に風下へ回頭した。前帆の引き下げ綱を留めたが、帆が裂けたので、帆桁を下ろし、帆を船内へ取り込み、付いているものをすべて解いて外した。実に激しい嵐で、波は異様な、危険な砕け方をした。私たちは舵棒の引き綱を引いて、舵取りを助けた。上檣は下ろさず、そのまま立てておくことにした。船は波を背にして、たいそううまく走っていたし、自由に動ける海面がある場合、上檣を立てたままのほうが船は安定し、波の中をよく進むと知っていたからである。嵐が過ぎると、前帆と主帆を揚げ、船を風に立てた。それから後檣帆、主檣の上帆、前檣の上帆を揚げた。針路は東北東、風は南西だった。右舷の帆の下隅を引き入れ、風上側の帆桁回し綱と吊り綱を緩めた。風下側の帆桁回し綱を引き込み、風上側の帆の張り綱で前方へ引き、それをぴんと張って留めた。そして後檣帆の下隅を風上へ引き寄せ、帆を風ではらませながら、できるだけ風上に詰めて進んだ。

この嵐と、それに続く強い西南西の風の間に、私の計算では、五百リーグほど東へ運ばれた。そのため、船で最も年老いた水夫にも、自分たちが世界のどの辺にいるのかわからなかった。食料は十分あり、船は頑丈で、乗組員も皆健康だった。だが、水だけは、ひどく欠乏していた。さらに北へ向きを変えれば、大タタール国の北西部や、氷に閉ざされた海へ出てしまうかもしれないので、同じ針路を進むのが最善だと考えた。

一七〇三年六月十六日、上檣にいた少年が陸地を見つけた。十七日には、大きな島、あるいは大陸が、はっきり見えるところまで来た。どちらなのか、私たちにはわからなかった。その南側には、小さな岬が海へ突き出し、百トンを超える船は入れない、浅い入り江があった。入り江から一リーグ以内のところに錨を下ろすと、船長は、十分に武装させた十二人の部下を、長艇で送り出した。水が見つかった場合に備え、水を入れる容器も持たせた。私は、その国を見て、できる限り探検したいので、一緒に行く許しを願い出た。上陸しても、川も泉も、住民の気配もなかった。そこで部下たちは、海の近くに清水がないかと岸辺を探し歩き、私は一人、反対側へ一マイルほど歩いた。そこは、どこも不毛な岩地だった。やがて疲れ始め、好奇心を引くものもなかったので、入り江のほうへ、ゆっくり下って戻った。すると、海が目の前に広がり、仲間はすでにボートに乗り、命からがら、船へ向かって漕いでいるのが見えた。ほとんど役に立たなかっただろうが、声をかけようとしたとき、巨大な生き物が、海の中を、精いっぱいの速さで彼らのあとを追っているのに気づいた。水はその膝よりいくらか深い程度で、途方もない大股で進んでいた。だが仲間には半リーグの先手があり、付近の海には鋭い岩が数多くあったので、怪物はボートに追いつけなかった。これは、あとで教えられたことだ。私は、その成り行きを見届ける勇気などなく、最初に歩いた道を全速力で駆け戻り、それから急な丘に登ったのである。そこからは、国土の様子がいくらか見渡せた。見ると、至るところ、よく耕されていた。だが最初に驚いたのは草の高さで、干し草用にしているらしい土地では、二十フィートほどもあった。

私は大きな道に出た。少なくとも、そう思ったのである。住民にとっては、大麦畑を通る、ただの小道にすぎなかった。しばらくそこを歩いたが、左右はほとんど見えなかった。収穫が近く、麦が少なくとも四十フィートの高さに育っていたからだ。この畑の端まで、一時間も歩いた。畑は、少なくとも百二十フィートの生け垣で囲まれ、木々は、高さの見当さえつかぬほど、そびえていた。隣の畑へ移るために、生け垣を越す踏み段があった。四段あり、一番上まで来ると、石をまたいで渡るようになっていた。私には、それを登ることは不可能だった。一段一段が六フィートの高さで、一番上の石は二十フィートほどもあったからだ。生け垣に隙間がないかと探していると、隣の畑から、その踏み段へ向かってくる住民が一人、目に入った。海で私たちのボートを追っていた者と、同じ大きさだった。普通の教会の尖塔ほどの高さに見え、見当では、一歩が十ヤードほどあった。私は恐怖と驚きに打ちのめされ、麦の中へ駆け込んで隠れた。そこから見ると、その男は踏み段の頂上で、右手の隣の畑を振り返り、拡声用のラッパより何倍も大きな声で呼んだ。声があまりに高い空から響くので、初め私は、てっきり雷だと思った。すると同じような怪物が七人、刈り鎌を手にしてやって来た。鎌は一つ一つ、大鎌六本分ほどの大きさだった。初めの男ほどよい身なりではなく、その召使いか雇い人らしかった。男が何か言うと、私の隠れている畑の麦を刈り始めたからだ。私はできるだけ遠ざかろうとしたが、動くのはひどく難しかった。麦の茎の間が一フィートもないところがあり、体を押し込んで通るのが、やっとだったのである。それでも何とか進んでいくと、風雨で麦の倒れている一角に出た。ここでは、一歩も前へ進めなかった。茎が入り組んで、這って通ることもできず、倒れた穂の芒は、硬く尖っていて、服を突き通し、肉に刺さった。同時に、百ヤードも後ろではないところに、刈り手たちの音が聞こえた。苦労ですっかり気力を失い、悲しみと絶望に打ちひしがれた私は、二つの畝の間に横たわり、ここで命が終わってくれればと、心から願った。見捨てられた寡婦となる妻と、父を失う子供たちを思って嘆いた。友人や親類が皆止めたのに、二度目の航海を企てた、自分の愚かさと頑固さを悔やんだ。この恐ろしい心の動揺の中でも、リリパットを思い出さずにはいられなかった。あそこの住民は、私を、世に現れたことのない最大の驚異と見なしていた。私は帝国の艦隊を片手で引き、その他の行いもできた。それらは、何百万人もの証人があるのに、後世の人々には、ほとんど信じられないまま、あの帝国の年代記に永久に記録されるだろう。この国では、私たちの中にリリパット人を一人置いたのと同じほど、私が取るに足りなく見えるのだと思い、その屈辱を考えた。だが、それさえ、不運のうちでは、一番軽いものに思われた。人間は体が大きいほど、野蛮で残酷になるものだとされている。ならば、この途方もなく大きな蛮人に、最初に捕まったとき、口の中の一口分になる以外、何を期待できるだろう。大きい、小さいということは、比較によってしか成り立たないと説く哲学者たちは、確かに正しい。運命の気まぐれで、リリパット人たちが、自分たちと比べて、彼らが私と比べたときと同じくらい小さい民族を、発見することも、あったかもしれない。そして、この巨大な人間の種族さえ、私たちがまだ発見していない、世界のどこか遠い場所では、同じようにはるかに大きな者たちに、かなわないのかもしれないではないか。

恐れ、途方に暮れながらも、こうした考えをやめられずにいると、刈り手の一人が、私の横たわる畝から十ヤード以内まで近づいた。次の一歩で踏みつぶされて死ぬか、その鎌で真っ二つにされると思った。そこで、その者がまた足を動かそうとしたとき、恐怖のあまり出せる限りの大声で叫んだ。すると巨大な生き物は、一歩を小さくとどめ、しばらく足もとを見回したあげく、ついに地面に横たわる私を見つけた。男は少し考えた。小さな危険な動物を、引っかかれたり噛まれたりせずに捕まえようとする者の、あの用心深さだった。私もイングランドで、ときどきイタチを捕まえるとき、そうしたことがある。やがて男は、思い切って、後ろから私の胴を人差し指と親指でつまみ、形をもっとよく見ようと、目から三ヤード以内まで持ち上げた。意図は察せられたし、幸いにも気をしっかり保てたので、私は少しももがかないことに決めた。地上六十フィートを超える高さに持ち上げられ、指から滑り落ちるのを恐れる男に、両脇をひどくつままれていたのに、である。あえてしたのは、太陽のほうへ目を上げ、両手を合わせて、懇願の姿勢を取り、今の自分の境遇にふさわしい、へりくだった悲しげな声で、いくつか言葉を口にすることだけだった。私たちが、殺したいと思う、小さな忌まわしい動物によくするように、今にも地面にたたきつけられると思っていたからである。だが幸運にも、男は私の声や身振りを気に入ったようで、珍しいものとして見るようになった。意味はわからなくても、はっきりした言葉を発音するのを聞いて、大いに驚いていた。その間も私は、うめき、涙を流し、脇腹へ顔を向けずにはいられなかった。男の親指と人差し指に押されて、どれほどひどく痛むか、できる限り知らせようとしたのだ。男も意味を察したらしい。上着の裾を持ち上げ、その中へ私をそっと入れると、すぐに主人のところへ走っていった。主人は裕福な農夫で、畑で私が最初に見た、あの人物だった。

農夫は、召使いから、私についてできる限りの説明を受けたらしかった。二人の話しぶりから、そう思ったのである。農夫は、小さな麦わらの切れ端を一本取った。杖ほどの太さがあった。それで私の上着の裾を持ち上げた。自然が私に与えた、何かの覆いと思ったらしい。顔をもっとよく見ようとして、髪を息で吹き分けた。雇い人たちをまわりに呼び、あとでわかったことだが、畑で私に似た小さな生き物を見たことがあるかと尋ねた。それから、私を地面に、四つん這いの姿勢でそっと置いた。私はすぐに立ち上がり、逃げるつもりがないとわかるよう、ゆっくり行き来した。皆、私の動作をよく見ようと、まわりに輪になって座った。私は帽子を脱いで、農夫へ深々とお辞儀をした。膝をつき、両手と目を上へ向け、できる限り大きな声で、いくつか言葉を述べた。そしてポケットから、金貨の入った財布を出し、うやうやしく差し出した。農夫は手のひらに受け取り、何なのか見ようと目に近づけ、それから、袖から取り出した針の先で、何度かひっくり返したが、さっぱりわからなかった。そこで私は、手を地面に置いてほしいと身振りで伝えた。それから財布を取り、開いて、金貨をすべて、その手のひらへあけた。四ピストールのスペイン金貨が六枚のほか、小さい硬貨が二、三十枚あった。農夫は、小指の先を舌で湿らせ、一番大きい金貨を一つ、次にもう一つと、つまみ上げたが、それが何かは、まるでわからないようだった。財布へしまい、財布をポケットへ戻せと、身振りで言った。何度か、受け取ってもらおうと差し出したあと、私はそうするのがよいと考えた。

このころには農夫も、私が理性のある生き物に違いないと、確信していた。たびたび話しかけたが、声は水車の音のように、私の耳を貫いた。それでも、言葉の発音は十分はっきりしていた。私はいくつもの言語で、精いっぱい大きな声を出して答え、農夫も、たびたび耳を私から二ヤード以内に近づけた。だが、すべてむだだった。互いに、まったく意味がわからなかったのである。農夫は召使いたちを仕事へ戻し、ポケットからハンカチを出すと、二つに折って左手に広げた。その手を、手のひらを上にして、地面へ平らに置き、乗るようにと身振りで示した。厚さは一フィートもなかったので、乗るのは容易だった。私は従うべきだと考え、落ちるのを恐れて、ハンカチの上へ体を伸ばして横たわった。農夫はさらに安全を期して、ハンカチの余りで頭のところまで包み、そのまま、家へ連れて帰った。そこで妻を呼び、私を見せた。だが妻は、イングランドの女がヒキガエルや蜘蛛を見るときのように、悲鳴を上げて後ずさった。それでも、しばらく私の振る舞いを見て、夫の身振りにどれほどよく従うかを知ると、すぐに安心し、しだいに、たいへん優しく扱うようになった。

正午ごろ、召使いが昼食を運んできた。農民の質素な暮らしにふさわしく、腹のふくれる肉料理が一皿だけ、直径二十四フィートほどの皿に載っていた。食卓についたのは、農夫と妻、三人の子供、老いた祖母だった。皆が座ると、農夫は、自分から少し離れた食卓の上に、私を置いた。床から三十フィートの高さだった。私はひどく怯え、落ちないように、できるだけ端から離れていた。妻は肉を少し細かく刻み、パンをちぎって木皿に載せ、私の前へ置いた。私は深々とお辞儀をし、ナイフとフォークを取り出して食べ始めた。皆はそれを見て、たいそう喜んだ。女主人は女中に、小さな酒杯を持ってこさせた。それは二ガロンほど入り、飲み物でいっぱいにされた。私は、その器を両手で苦労して持ち上げ、できる限り大きな英語の声で、いともうやうやしく、奥様のご健康を祝して飲んだ。皆があまりに大笑いしたので、その音に、耳が聞こえなくなりそうだった。酒は薄いリンゴ酒のような味で、悪くはなかった。主人が次に、自分の木皿のそばへ来いと身振りをした。だが食卓の上を歩いている間も、私がずっと動転していたことは、寛大な読者なら、容易に察し、許してくださるだろう。そのため、たまたまパンの皮につまずき、うつぶせに転んだ。怪我はなかった。すぐに起き上がると、善良な人々が大いに心配しているのがわかったので、礼儀として脇の下に挟んでいた帽子を取り、頭の上で振り、三度、万歳と叫んだ。転んでも、何の害もなかったと示すためである。ところが、主人――以後は、そう呼ぶことにしよう――のほうへ進むと、隣に座っていた、十歳ほどのいたずらな末息子が、私の両脚をつかんで、ひどく高く持ち上げた。私は手足を震わせた。だが父親が私をひったくるように助け、同時に、少年の左耳を、ヨーロッパの騎兵一個隊でも地に倒れそうな力で、ひっぱたいた。そして、食卓から連れ出せと命じた。だが私は、少年に恨まれるのを恐れた。私たちの国の子供たちは皆、生まれつき雀、兎、子猫、子犬に、どれほどいたずらをするか、よく覚えていたのである。そこで膝をつき、少年を指さし、息子を許してほしいのだと、できる限り主人へ伝えた。父親はそれを聞き入れ、少年は席へ戻った。私は少年のところへ行き、その手に接吻した。主人はその手を取り、私を優しくなでさせた。

昼食の最中、女主人の可愛がっている猫が、その膝へ飛び乗った。私は背後で、靴下を織る職人が十二人働いているような音を聞いた。振り向くと、その動物の喉を鳴らす音だった。女主人が食べ物をやり、なでている、その頭と片方の前足を見て見積もると、牛の三倍はありそうだった。その顔つきの獰猛さに、私はすっかり怯えた。食卓の反対の端、五十フィート以上離れたところに立ち、しかも女主人が、飛びかかって爪で私を捕らえるのを恐れ、しっかり押さえていたのに、である。だが実際には、危険はなかった。主人が私を、猫から三ヤード以内に置いても、猫は少しも気にとめなかった。私は以前から、獰猛な動物の前で逃げたり、恐れを見せたりするのは、追われ、襲われる確実な方法だと聞いており、旅の経験でも、それが本当だと知っていた。そこで、この危険な場面でも、まったく平気な顔をしようと決めた。私は猫の顔の真ん前を、恐れげもなく五、六度行き来し、半ヤード以内まで近づいた。すると猫は、むしろ自分のほうが私を怖がるように、身を引いた。犬については、さほど心配しなかった。農家ではよくあるように、三、四頭が部屋へ入ってきた。そのうち一頭は、大きさが象四頭分のマスティフで、もう一頭は、それより背がやや高いが、体はそれほど大きくないグレイハウンドだった。

昼食がほぼ終わるころ、乳母が一歳の子を抱いて入ってきた。子供はすぐに私を見つけると、玩具に欲しがって、赤ん坊お得意の雄弁で、金切り声を上げ始めた。ロンドン橋からチェルシーまで聞こえそうな声だった。母親は、ただ甘やかしたさに、私を持ち上げ、子供へ近づけた。子供はすぐに私の胴をつかみ、頭を口へ入れた。私が大声でわめいたので、小悪魔は驚き、手を放した。母親が下にエプロンを差し出してくれなかったら、私は確実に首を折っていた。乳母は赤ん坊をなだめようと、がらがらを使った。大きな石を詰めた、中空の容器のようなもので、太綱で子供の腰につないであった。だが何の効き目もなく、最後の手段として、乳を含ませるほかなかった。正直に言うと、あの巨大な乳房を見たときほど、何かに嫌悪を感じたことはない。大きさ、形、色を、好奇心のある読者に伝えるため、何にたとえたらよいかもわからない。前へ六フィート突き出し、周りは十六フィートを下るまい。乳首は私の頭の半分ほどもあり、乳首も乳房も、斑点、吹き出物、そばかすで、色合いが入り混じり、これほど吐き気を催すものは、なかった。乳母は授乳しやすいよう座り、私は食卓の上に立っていたので、間近に見えたのである。ここで私は、イングランドの淑女の白い肌について考えた。私たちにあれほど美しく見えるのは、ただ同じ大きさだからで、欠点は拡大鏡でしか見えない。実際に試してみると、最も滑らかで白い肌も、拡大すれば、ざらつき、粗く、色が悪く見えるのである。

リリパットにいたころ、あの小さな人々の肌が、世界で最も美しく見えたことを思い出す。親しい友人だった、現地の学識ある人物と、このことを話したとき、地面から見る私の顔は、手の上へ載せられて間近から見る場合より、はるかに白く、滑らかに見えると言っていた。近くで初めて見たときには、ひどくぎょっとしたという。彼は、「肌に大きな穴がありありと見え、剃り跡の髭は、猪の剛毛の十倍も太く、顔色はいくつもの色が入り混じって、まったく気持ちがよくない」と言った。もっとも、私自身のため、一言言わせていただけば、肌の白さは、同国の男の大半に劣らず、あれほど旅をしても、日焼けはほとんどしていない。反対に、あの皇帝の宮廷の貴婦人たちについて話すと、友人はよく、「ある者にはそばかすがあり、別の者は口が大きすぎ、また別の者は鼻が大きすぎる」と言った。私には、そのどれも見分けられなかった。こうした考えは、確かに、十分わかりきったものである。それでも書かずにはいられなかったのは、読者に、あの巨大な生き物たちが、本当に不格好なのだと思われたくないからだ。公平に言わねばならない。彼らは姿のよい人々であり、とりわけ、主人は、ただの農夫ではあったが、その顔立ちは、六十フィートの高さから眺めると、たいそう釣り合いが取れて見えたのである。

昼食が済むと、主人は雇い人たちのところへ出かけた。その前に、声と身振りから察すると、妻へ、私をよく世話するよう、きつく言いつけていた。私はたいそう疲れ、眠くなっていた。女主人はそれを見て取り、自分の寝台に私を寝かせ、清潔な白いハンカチを掛けてくれた。ただし、軍艦の主帆よりも大きく、粗い布だった。

二時間ほど眠り、家で妻や子供たちと過ごす夢を見た。だから目を覚まし、広さ二百から三百フィート、高さ二百フィート以上の巨大な部屋で、幅二十ヤードの寝台に、一人で寝ているとわかると、悲しみは、いっそう深まった。女主人は家事のため出かけ、私を中に残して、鍵を掛けていた。寝台は、床から八ヤードも高かった。用を足すため、降りる必要があったが、あえて呼ぶ勇気はなかった。呼んだとしても、私のような声では、寝ている部屋から、家の人々がいる台所まで、あれほど離れていては、むだだったろう。こうしていると、鼠が二匹、帳を登ってきて、寝台の上を、鼻を動かしながら行ったり来たりした。一匹が、ほとんど顔に触れそうなところまで来たので、私は驚いて起き上がり、身を守ろうと短剣を抜いた。恐ろしい動物たちは、大胆にも両側から襲いかかり、一匹は前足を私の襟に掛けた。だが幸い、危害を加えられる前に、その腹を切り裂けた。そいつは私の足もとに倒れ、もう一匹は、仲間の運命を見て逃げ出した。しかし逃げる背中に、たっぷり一太刀を浴びせたので、血を滴らせていた。この手柄のあと、私は、息と気力を取り戻そうと、寝台の上をゆっくり行き来した。この動物は、大きなマスティフほどの大きさで、すばしこさと獰猛さは、比較にならないほど上だった。眠る前に剣帯を外していたら、必ずや引き裂かれ、食われていたに違いない。死んだ鼠の尾を測ると、二ヤードに一インチ足りなかった。しかし、まだ血を流す死骸を、寝台から引きずり下ろす気には、どうしてもなれなかった。まだ命が残っていると気づいたが、首を横に力いっぱい斬り、完全にとどめを刺した。

ほどなく女主人が部屋へ入ってきた。血まみれの私を見ると、駆け寄って、手の上に取り上げた。私は死んだ鼠を指さし、笑顔を見せ、そのほかの身振りでも、自分は傷ついていないと示した。女主人はたいそう喜び、女中を呼んで、火箸で死んだ鼠をつかみ、窓から放り出させた。それから、私を卓の上に置いた。私は、血まみれの短剣を見せ、上着の裾で拭ってから、鞘へ戻した。そのころ、人に代わってもらえない用事を、一つならず急いで済ませる必要があり、床へ下ろしてほしいのだと、女主人に伝えようとした。下ろしてもらってからは、恥ずかしさのため、扉を指さして、何度か頭を下げる以上のことは、どうしても表せなかった。善良な婦人は、かなり苦労した末に、やっと私の望みを察し、再び手の上に取り、庭へ運んで、下ろしてくれた。私は脇へ二百ヤードほど歩き、見たり、ついてきたりしないでほしいと身振りで伝え、スイバの二枚の葉の間に隠れて、そこで自然の求めを果たした。

このような細かな事柄や、それに似たことを、長々と述べるのを、穏やかな読者には、お許しいただきたい。卑しい考えに沈む俗人には、どれほど取るに足りなく見えようとも、思索する者にとっては、思考と想像力を広げ、公私の生活の益に、それらを役立てる確かな助けになるはずである。私が、この旅をはじめとする旅行の報告を世に差し出すのも、ただ、そのためだった。学識や文体の飾りを気取らず、何より真実を心がけたのである。だが、この航海の光景は、すべてが私の心に強い印象を残し、記憶に深く刻まれている。そのため、紙に記す際には、重要な事情を一つも省かなかった。もっとも、厳しく読み返したうえで、初稿にあった、それほど重要でない箇所を、いくつか消した。旅行者は、退屈でつまらない話をすると、よく非難されるし、ことによると、それも不当ではない。自分もそう責められることを、恐れたからである。

第二章

農夫の娘についての説明。著者は市の立つ町へ、次いで首都へ運ばれる。その旅の詳しい事情。

女主人には、九歳の娘がいた。年のわりに利発で、針仕事がとても上手く、人形の着替えも巧みだった。母親と娘は、夜までに、人形の揺りかごを私に合わせて整えた。揺りかごを小だんすの引き出しに入れ、鼠を避けるため、その引き出しを吊り棚に載せた。あの人々と暮らしている間、ずっと、これが私の寝床だった。ただし、私が言葉を覚え始め、必要なことを伝えられるようになるにつれ、しだいに具合よく改められた。この娘は、たいそう器用で、私が一、二度、その前で服を脱ぐと、もう着せたり脱がせたりできるようになった。もっとも、自分でさせてくれるときには、その手間をかけることはなかった。手に入る限り、いちばん上等の薄い布で、シャツを七枚と、その他の肌着を作ってくれた。とはいえ、実際には、袋地よりも粗かった。それらはいつも、自分の手で洗ってくれた。娘はまた、言葉を教える先生でもあった。私が何かを指さすと、自国語でその名を教えたので、数日もすると、何でも欲しいものを言って、求められるようになった。たいへん気立てがよく、身長は四十フィートもなくて、年のわりには小柄だった。娘は私に、グリルドリグという名をつけた。家族もその名を使い、やがて王国全体に広まった。ラテン語のナヌンクルス、イタリア語のオムンチェレティーノ、英語のマニキン、つまり小人という意味である。あの国で無事に生き延びられたのは、主として、この娘のおかげだった。滞在中、私たちは一度も離れなかった。私は娘を、私のグラムダルクリッチ、すなわち、小さな乳母と呼んだ。私に注いでくれた世話と愛情を、こうして敬意をもって記さないなら、私はひどい恩知らずとなろう。娘にふさわしいお返しをする力が、自分にあればと、心から願っている。というのも、あまりに十分な理由から恐れるとおり、私は、悪意はなくても、不幸にも、その不名誉を招く道具になってしまったのかもしれないからである。

このころ、主人が畑で、不思議な動物を見つけたということが、近所に知られ、噂され始めた。大きさはスプラックナックほどで、体のどの部分も、そっくり人間の形をしており、あらゆる動作でも人間をまねる。自分だけの小さな言語を話すらしく、すでに、こちらの言葉をいくつも覚えた。二本の脚でまっすぐ歩き、おとなしく優しく、呼べば来て、命じられれば何でもする。世にも見事な手足を持ち、肌は、貴族の三歳の娘より白い、というのである。近くに住む、主人と特に親しい別の農夫が、その話の真偽を確かめるため、わざわざ訪ねてきた。私はすぐに連れ出され、卓の上に置かれた。命じられるままに歩き、短剣を抜き、また収め、主人の客にお辞儀をし、その人の言葉で、ご機嫌を尋ね、よく来られましたと言った。小さな乳母が教えてくれたとおりである。この男は、年を取って目がかすんでいたので、私をよく見ようと、眼鏡を掛けた。すると、その目は、部屋の二つの窓から差し込む満月のように見えたので、私は、腹の底から笑わずにはいられなかった。家の人々も、笑うわけを察して、一緒に笑った。老人は愚かにも、それを怒り、顔をつぶされたような様子になった。大変なけちと評判の男だったが、私には不運にも、主人へ、まったくその評判にふさわしい、忌まわしい助言をした。近くの町で、市の日に私を見世物にしろと言ったのだ。町は馬で三十分、家から二十二マイルほどのところにあった。主人と友人が、こちらを時々指さし、ひそひそ話すのを見て、何か悪いことがあると察した。恐ろしさのあまり、その言葉のいくらかが耳に入り、意味もわかったような気がした。だが翌朝、小さな乳母グラムダルクリッチが、母親から巧みに聞き出した話を、すっかり教えてくれた。気の毒な娘は、私を胸に抱き、恥と悲しみのために泣き始めた。粗野な俗人たちが、手に取って、押しつぶして殺したり、手足を折ったりするかもしれないと、案じていた。また、私が生来、慎み深く、名誉にどれほど細かく気を配るかも、よく見ていた。金のために、人々のうち最も卑しい者にまで、公の見世物としてさらされるのを、私がどれほどの屈辱と思うかも、知っていた。娘は、お父さんもお母さんも、グリルドリグは自分にくれると約束したのに、去年と同じことをするつもりだとわかった、と言った。去年も子羊をくれるふりをしながら、太るとすぐ、肉屋に売ってしまったというのだ。私自身については、乳母ほど深く気にしてはいなかったと、正直に言える。いつか自由を取り戻せるという、強い希望があり、それを一度も失わなかった。怪物として連れ回される不名誉についても、私はこの国では、まったくの異邦人なのだと考えた。もしイングランドへ戻れたとしても、そんな不運を、私の恥として責めることはできまい。同じ境遇に置かれれば、グレートブリテンの国王御自身でさえ、同じ苦しみを受けねばならなかったはずだからである。

主人は友人の助言に従い、次の市の日、私を箱に入れて、近くの町へ運んだ。小さな娘、私の乳母も、馬の後ろの小鞍に乗せて、一緒に連れていった。箱は、どの側も閉じていて、出入りする小さな扉と、空気を入れるため、錐で開けた穴が、いくつかあった。娘は気を配って、横になれるよう、人形の寝床の掛け布団を、中へ入れてくれていた。それでも私は、三十分だけの旅だったのに、ひどく揺さぶられ、気分が悪くなった。馬は一歩が四十フィートほどで、速足の上下の動きが高く、その揺れは、大嵐の船が持ち上がり、落ちるのと同じほどだった。しかも、その回数は、はるかに多かった。旅の距離は、ロンドンからセント・オールバンズまでより、少し長かった。主人は、よく使う宿屋で馬を降りた。そして宿の主人と、しばらく相談し、必要な準備をしたあと、グラルトラッド、つまり触れ役を雇い、町中に知らせた。緑の鷲の看板の宿で、スプラックナックより小さな、奇妙な生き物が見られる、というのだ。スプラックナックとは、あの国の、姿のよい動物で、体長は六フィートほどある。その生き物は、体のどの部分も人間に似ており、いくつもの言葉を話し、百もの面白い芸をする、と触れさせたのである。

私は、宿でいちばん大きな部屋の、卓の上へ置かれた。部屋は、三百フィート四方近くあったろう。小さな乳母は、卓のすぐそばの低い腰掛けに立ち、私を世話し、何をするか指図した。主人は混雑を避けるため、一度には三十人しか、私を見ることを許さなかった。私は娘の命じるまま、卓を歩き回った。娘は、私が理解している範囲の言葉で質問し、私は、できる限り大きな声で答えた。何度か向きを変え、客たちに、うやうやしく挨拶し、よく来られましたと言い、その他にも、教わった言葉を口にした。グラムダルクリッチが杯として与えた、指ぬきに満たした酒を持ち上げ、皆の健康を祝して飲んだ。短剣を抜き、イングランドの剣士のように、振り回した。乳母は、麦わらの切れ端を一本くれた。それを長槍にして、若いころ覚えた操法を演じた。その日、私は、十二組の客に見せられ、そのたびに同じばかげた芸を繰り返させられ、疲れと苛立ちで、半死半生になった。見た者が、あまりに驚くような話を広めるので、人々は、扉を壊してでも入ってきそうだったのである。主人は自分の利益のため、乳母以外、誰にも私を触らせなかった。危険を防ぐため、卓のまわりには、誰の手も届かないだけ離して、長椅子を並べておいた。だが、いたずらな学校の少年が、私の頭めがけ、まっすぐハシバミの実を投げた。ごくわずかな差で外れた。小さなカボチャほどもあり、ひどい勢いで飛んできたので、当たれば、必ず私の頭は砕けていたろう。それでも、その悪童が、こっぴどくぶたれ、部屋から追い出されるのを見て、私は満足した。

主人は、次の市の日にも、また私を見せると、公に知らせた。その間に、私のため、具合のよい乗り物も用意した。そうするのも、もっともな理由があった。初めての移動と、八時間続けて客を楽しませたため、私は立つことも、一言話すことも、ほとんどできないほど疲れていたのである。体力が戻るまで、少なくとも三日はかかった。しかも家にいても休めぬように、評判を聞いた、周囲百マイルの近隣の紳士たちが皆、主人の家まで見に来た。妻子を連れてきて、三十人を下ることはなかった。あの国は、人口がたいへん多いのだ。主人は、家で見せる場合、たった一家族でも、部屋いっぱいの客と同じ料金を要求した。そんなわけで、しばらく私は、町へ連れていかれなくても、一週間のどの日にも、ほとんど楽になることがなかった。ただし、彼らの安息日である、水曜日だけは別だった。

主人は、私がどれほど金になりそうかを知り、王国の主要な都市へ、連れていくことに決めた。そこで長旅に必要なものをすべて用意し、家の仕事の始末をつけると、妻に別れを告げた。そして、私の到着から二か月ほどたった、一七〇三年八月十七日、私たちは首都を目指して出発した。帝国の中央近く、家から三千マイルほどのところにある都だった。主人は、娘のグラムダルクリッチを、馬の後ろへ乗せた。娘は、箱を腰に結びつけ、膝に載せて、私を運んだ。箱の内側は、手に入る限り柔らかな布で、すべて覆い、底には綿を十分に入れ、人形の寝台を備えてあった。肌着や、その他の必需品も用意し、できるだけ快適にしてくれていた。同行者は、家の少年が一人だけで、荷物を持ち、馬で後ろからついてきた。

主人の計画は、途中の町という町で私を見せ、商売になりそうなら、村や高貴な人の屋敷へ、街道から五十マイルでも百マイルでも、脇道を行くことだった。私たちは、ゆっくり旅をし、一日に百四十か百六十マイルを超えては進まなかった。グラムダルクリッチが、私をいたわるために、わざと、馬の速足で疲れたと訴えたからである。私が望むと、娘はよく、外の空気を吸わせ、景色を見せるために、箱から出してくれた。ただし、いつも引き綱で、しっかり私をつないでいた。五、六本の川を越えたが、ナイル川やガンジス川より、何倍も幅が広く、深かった。ロンドン橋のあたりのテムズ川ほど小さい流れは、ほとんど一つもなかった。旅には十週間かかった。私は、多くの村や個人の家のほか、十八の大きな町で、見世物になった。

十月二十六日、私たちは、彼らの言葉でロルブルグルード、すなわち、宇宙の誇りと呼ばれる首都へ着いた。主人は、王宮から遠くない、都の主な通りに宿を取り、私の姿と体の特徴を詳しく記した、普通の形式の広告を出した。広さ三百から四百フィートの、大きな部屋を借り、私が芸をするため、直径六十フィートの卓を用意した。落ちないように、端から三フィート内側を、同じく三フィートの高さの柵で囲んだ。私は日に十回見せられ、誰もが驚き、満足した。今では、この国の言葉を、まずまず話せるようになり、話しかけられることは、一語残らず、はっきりわかった。そのうえ、文字も覚え、あちこちの文を、どうにか読み解くことができた。家にいた間も、旅の合間の時間にも、グラムダルクリッチが教えてくれたからだ。娘は、小さな本をポケットに入れていた。サンソンの地図帳より、それほど大きくはなかった。若い娘たちが使う、ありふれた教本で、彼らの宗教について、簡単に述べたものだった。娘はそれで文字を教え、言葉の意味を説明してくれた。

第三章

著者は宮廷へ召し出される。王妃は主人の農夫から著者を買い取り、国王へ引き合わせる。著者は陛下の大学者たちと論じ合う。宮廷に住まいが用意される。王妃の厚い寵愛を受ける。祖国の名誉を弁護する。王妃に仕える小人との争い。

毎日、繰り返し働かされるうち、数週間で、健康状態は大いに変わった。主人は私で稼げば稼ぐほど、欲が深くなった。私はすっかり食欲を失い、ほとんど骨と皮になっていた。農夫もそれに気づき、間もなく死ぬに違いないと考え、できるだけ上手く金に換えようと決めた。こうして思案し、腹を決めていると、宮廷から、サードラル、すなわち、儀典に当たる侍従がやって来た。王妃と女官たちの楽しみのため、私をすぐに連れてこいという、主人への命令だった。女官のうち幾人かは、すでに私を見に来ており、容姿、振る舞い、分別について、驚くような報告をしていた。王妃陛下も、付き添う人々も、私の物腰を、この上なく喜んだ。私は膝をつき、お足に接吻する栄誉を願い出た。だが、この恵み深い妃は、卓の上に載せられた私へ、小指を差し出した。私は両腕で抱え込み、その先を、きわめてうやうやしく、唇へ押し当てた。祖国と旅行について、いくつか一般的なことを尋ねられ、できるだけはっきり、できるだけ少ない言葉で答えた。「宮廷で暮らすなら、満足できるか」と尋ねられたので、卓の板に向かって深く頭を下げ、うやうやしく答えた。「私は主人の奴隷でございます。けれども、自分の身を自分で決められるなら、陛下にお仕えすることへ、生涯を捧げるのを誇りに思います。」王妃は、それから主人へ、「よい値でなら、この者を売る気はあるか」と尋ねた。私が一か月も生きられないと案じていた主人は、喜んで手放すつもりで、金貨千枚を求めた。その場で渡すよう命令が下った。金貨は、一枚がモイドール金貨八百枚ほどの大きさだった。しかし、あの国とヨーロッパの、あらゆるものの大きさの割合や、あちらで金が高価なことを考えに入れると、イングランドの千ギニーほどの額にも、まずならなかった。私はそこで、王妃へ申し上げた。「今や、私は陛下の、最もへりくだったしもべ、臣下でございます。それゆえ、お願いがございます。いつもこれほど親切に、気を配って世話をし、その仕方も、よく心得ているグラムダルクリッチを、陛下の御用にお取り立てくださり、引き続き、私の乳母と教師を務めさせていただきたいのです。」

王妃陛下は願いを聞き入れ、農夫の同意も、たやすく得た。娘が宮廷へ取り立てられるのを、農夫は大いに喜び、気の毒な娘自身も、喜びを隠せなかった。かつての主人は、私に別れを告げ、よい奉公先に置いてやったと言って、引き下がった。それに対し、私は一言も返さず、ただ軽く頭を下げただけだった。

王妃は、私の冷淡さに気づき、農夫が部屋から出ると、その理由を尋ねた。私は、あえて陛下に申し上げた。「かつての主人に負う恩は、畑で偶然見つけた、哀れで無害な生き物の頭を、たたき割らなかった、ということ以外には、ございません。その恩には、王国の半分を連れ回して見世物にした稼ぎと、今、私を売った代金で、十分すぎるほどお返しをしました。それ以来の暮らしは、私の十倍も丈夫な動物さえ、死なせるほど、苦しいものでございました。一日中、毎時間、群衆を楽しませる、絶え間ない苦役のため、健康をひどく損ねました。命が危ないと、主人が思っていなければ、陛下は、これほどお安い買い物は、できなかったでしょう。しかし今は、自然界を飾る方、世界の寵児、臣民の喜び、創造の世にまたとない不死鳥であられる、かくも偉大で善良な妃陛下のお守りのもとで、ひどい扱いを受ける恐れも、すっかりなくなりました。ですから、前の主人の心配は、取り越し苦労だったとわかるよう、望んでおります。すでに、陛下の、この上なく尊い御前にあるおかげで、気力が蘇るのを感じているのでございます。」

これが、私の言葉の大意である。ひどく不適切な言い回しと、ためらいを重ねながら述べた。後半は、すべて、この国の人々に特有の言い方に、ならったものだった。宮廷へ運ばれる間に、グラムダルクリッチから、そうした句を、いくつか教わっていたのである。

王妃は、私の話し方の不十分さを、大いに大目に見たが、それでも、このような小さな動物が、これほどの機知と分別を持つのに、驚いていた。私を御自身の手に取り、そのとき私室にこもっていた国王のもとへ運んだ。国王陛下は、重々しく、厳めしい顔つきの君主で、ひと目では私の姿をよく見ず、冷ややかに王妃へ、「いつからスプラックナックを可愛がるようになったのか」と尋ねた。私が陛下の右手に、腹這いで横たわっていたので、それだと思ったらしい。だが、限りない機知とユーモアを持つ妃は、私をそっと書き物机の上へ立たせ、自分のことを国王へ話すよう命じた。私は、ごく手短に述べた。私を目から離すことが我慢できず、私室の戸口で待っていたグラムダルクリッチも、中へ通された。そして、私が父親の家へ着いてから、これまでに起きたことすべてを、裏づけた。

国王は、領土内の誰にも劣らぬ学識を持ち、哲学、とりわけ数学を学んで育っていたが、私が話し始める前、姿を詳しく眺め、まっすぐ歩くのを見たときには、巧みな職人の作った、時計仕掛けの一品ではないかと考えた。この国では、その技術が、たいへん高い完成度に達していたからである。だが私の声を聞き、言うことに筋が通り、理性があるとわかると、驚きを隠せなかった。どうしてこの王国へ来たかという、私の説明には、少しも納得しなかった。グラムダルクリッチと父親が示し合わせて、もっと高く売れるように、一組の言葉を仕込んだ、作り話だと思ったのだ。そう考えて、さらにいろいろ尋ねたが、それでも、筋の通った答えが返った。難があるのは、異国の訛りと、言葉の知識の不完全さ、そして、農夫の家で覚えたため、宮廷の洗練された言葉遣いに合わない、いくつかの田舎言葉だけだった。

陛下は、三人の大学者を召し出した。この国の習慣に従い、ちょうど、その週の伺候の番に当たっていた人々である。しばらく、私の姿を、たいそう細かく調べたあと、その見解は分かれた。ただし、普通の自然法則に従って生まれたものではない、という点では、全員一致した。足の速さでも、木登りでも、地中へ穴を掘ることでも、自分の命を守れる造りになっていないから、というのだ。きわめて厳密に歯を調べた結果、肉食動物だと観察した。だが、四足獣の大半には力でかなわず、野鼠や、その他のものには、すばしこさで負ける。だから、蝸牛や、その他の虫を食べるのでなければ、どうして生きていけるのか、考えられないという。しかも、そういうものを食べることは、私には不可能だと、数々の学問的な議論をもって、証明しようとした。博識家の一人は、私が胎児か、月足らずで生まれたものではないかと考えたようだった。だが、ほかの二人が、それを退けた。手足は完全に出来上がっているし、髭から明らかなとおり、すでに何年も生きている、と指摘した。剃り跡を、拡大鏡ではっきり見つけたのだ。普通の小人とも認めなかった。私の小ささは、あらゆる比較の限度を超えていたからである。王妃の気に入りの小人は、この王国で、それまで知られたうち最も小さかったが、三十フィート近くあった。長い議論の末、全員一致で、私は、ただのレルプラム・スカルカスだと結論した。直訳すると、自然の戯れという意味である。まことに、ヨーロッパの近代哲学に、ぴったり合った判定だった。その教授たちは、アリストテレスの徒が、自分の無知を隠そうとして、むなしく用いていた、隠れた原因という古い逃げ口上を軽蔑し、あらゆる難問を解決する、この見事な方法を発明した。それによって人類の知識は、言葉にもできないほど進歩したのである。

この決定的な結論のあと、私は、一言二言、聞いてほしいと願った。国王に向かい、陛下へ確言した。「私の来た国には、同じ背丈の男と女が、何百万人もおります。動物も木も家も、すべて、それに釣り合っております。したがって、この国の陛下の臣民の誰もと同じように、私も、自分を守り、食べ物を得られるのでございます。これで、あの方々の議論には、十分お答えできたと考えます。」それに対し、学者たちは、ただ軽蔑の笑みを浮かべ、「農夫が、たいへんよく仕込んだものだ」と言うだけだった。はるかに理解力の優れた国王は、学者たちを下がらせ、幸い、まだ都を去っていなかった農夫を召し出した。まず一人で問いただし、それから私と娘にも引き合わせると、私たちの話は、本当かもしれないと考え始めた。王妃に、私を特によく世話させるよう頼み、私とグラムダルクリッチが、互いに深い愛情を持つと見て取って、引き続き彼女に、世話の役を続けさせるのがよいと考えた。娘には、宮廷内に、具合のよい居間が用意され、教育を見守るため、家庭教師のような婦人が一人、着替えを助ける女中が一人、雑用をする召使いが、ほかに二人ついた。だが、私の世話は、すべて娘だけの役目とされた。王妃は御用の家具職人へ、グラムダルクリッチと私が相談して決めた模型に従い、私の寝室となる箱を作るよう命じた。この男は、たいへん器用な職人で、私の指示どおり、三週間で、十六フィート四方、高さ十二フィートの木の部屋を仕上げた。上下に開く窓、扉、二つの小部屋があり、ロンドンの寝室のようだった。天井になる板は、二つの蝶番で持ち上げ、下ろせるようにした。王妃の家具調度師が、すっかり整えた寝台を、中へ入れるためだった。グラムダルクリッチは、毎日、寝台を取り出して風に当て、自分の手で整え、夜になると下ろして、私の上で屋根に錠を掛けた。小さな珍品作りで有名な、細工の上手い職人が、象牙に似た材で、背と枠のある椅子を二脚、卓を二つ、そして持ち物を入れる戸棚を、作ってくれた。部屋は、すべての壁面、床、天井にまで、綿を入れた。運ぶ者の不注意による事故を防ぎ、馬車に乗るときの揺れを和らげるためである。鼠が入らぬよう、扉に錠をつけてほしいと頼んだ。鍛冶屋は、何度か試した末、彼らの間で、それまで見られた中で、最も小さいものを作った。私がイングランドの紳士の屋敷の門で見たものには、それより大きいものがあったからである。グラムダルクリッチが失くすといけないと思い、鍵は何とか、自分のポケットに収めて持った。王妃はまた、手に入る限り、最も薄い絹で、私の衣服を作らせた。イングランドの毛布より、さほど厚くはなかったが、慣れるまでは、ひどく動きづらかった。この王国の流行の仕立てで、半ばペルシア風、半ば中国風に似ており、たいそう重々しく、きちんとした服装だった。

王妃は、私をそばに置くのが、たいへん気に入り、私がいなければ、食事もできないほどになった。私は、陛下の食卓の、左肘のすぐそばに、自分の卓と椅子を置いてもらった。グラムダルクリッチは、私の卓の近くの床に置かれた踏み台に立ち、助け、世話をした。銀の皿や食器、その他の必需品も、一式そろっていた。王妃のものに比べた大きさは、ロンドンの玩具屋で見た、人形の家の調度品と、それほど変わらなかった。小さな乳母は、それらを銀の箱に入れ、ポケットに持ち、食事のとき、必要に応じて渡してくれた。いつも、自分できれいに洗っていた。王妃と一緒に食べるのは、二人の王女だけで、姉は十六歳、妹は、そのとき十三歳と一か月だった。王妃は、肉の一切れを、私の皿へ置いてくださり、私はそこから、自分用に切り分けた。私が小さな食事をするのを眺めるのが、お楽しみだった。というのも、実際には少食の王妃でさえ、一口に、イングランドの農夫十二人が一食で食べられるほど、口へ入れたのである。私は、しばらくの間、それを見ると、ひどく気分が悪くなった。大人の七面鳥の翼より九倍も大きいのに、ヒバリの翼を、骨ごと歯で、ばりばり噛み砕いた。十二ペンスのパン二つ分の大きさの、一切れを口へ入れ、金の杯から、一飲みに、一ホッグスヘッドを超える量を飲んだ。ナイフは、大鎌の刃を柄へまっすぐつけたものの、二倍の長さがあった。匙、フォーク、そのほかの道具も、すべて同じ割合だった。あるときグラムダルクリッチが、好奇心を満たそうと、宮廷のいくつかの食卓を見に、私を連れていった。あの巨大なナイフとフォークが、十本か十二本も、一緒に持ち上がるのを見て、それまで、これほど恐ろしい光景を見たことはなかった、と思ったのを覚えている。

毎週水曜日には、前にも述べたように、それが彼らの安息日なので、国王と王妃が、王子や王女たちと一緒に、国王の部屋で食事をする習慣だった。私も今や、国王のたいへんなお気に入りになっており、その折には、小さな椅子と卓が、陛下の左手、塩入れの一つの前に置かれた。国王は、私との会話を楽しみ、ヨーロッパの風俗、宗教、法、政治、学問について尋ねた。私は、できる限り十分な説明をした。理解はたいへん明晰で、判断もきわめて正確であり、私の話すことすべてに、賢明な考察や意見を加えた。ただし、白状しなければならない。私の愛する祖国、貿易や海陸の戦争、宗教の分裂、国政の党派について、いささか詳しく語りすぎると、国王は、育ちから来る偏見に負けた。私を右手に取り、もう一方の手で優しくなでずにはいられず、大笑いしたあと、「お前はホイッグか、トーリーか」と尋ねたのである。それから、背後に控えた宰相のほうを向いた。宰相は、ロイヤル・ソヴリン号の主檣ほどもある、白い杖を持っていた。国王は言った。「人間の偉大さとは、何と取るに足りぬものか。このような小さな虫けらにも、まねができる。それでも、こやつらには、爵位や名誉の区別があるに違いない。小さな巣や穴を作り、家とか都市とか呼んでいるのだろう。衣装や馬車で、見栄を張り、恋をし、戦い、論争し、だまし、裏切るのだ。」こうして語り続ける間、私は、怒りで何度も赤くなり、また青ざめた。学芸と武力の女主人、フランスを懲らしめる者、ヨーロッパの裁定者、美徳、信心、名誉、真実の座、世界の誇りであり、羨望の的でもある、気高い祖国が、これほど軽蔑されるのを聞いたからである。

だが、侮辱に怒ってみせられる立場ではなかったし、よく考えると、本当に侮辱されたのかも、疑わしくなった。数か月も、この人々の姿や交わりに慣れ、目に映るすべてのものが、それに釣り合う大きさなのを見るうち、初め、体の大きさや容貌に感じた恐怖は、薄れていった。もし、そのころ、イングランドの貴族や貴婦人の一団が、着飾り、誕生日の祝典の礼装をつけ、最も宮廷らしい仕方で、もったいぶって歩き、お辞儀し、ぺらぺらしゃべって、それぞれの役を演じるところを見たなら、正直に言って、国王やその大臣たちが私を笑ったのと同じくらい、彼らを笑いたくなっただろう。それどころか、王妃が私を手に載せ、鏡へ向けてくださると、二人の全身が、一度に見え、その比較ほどおかしなものはなく、自分を笑わずにはいられなかった。だから私は、本当に、自分が普段の大きさより、はるかに縮んでしまったのではないかと、思い始めたのである。

私を、何より怒らせ、屈辱を与えたのは、王妃の小人だった。この国で、これまでにないほど背が低かったので――本当に、三十フィートに少し足りなかったと思う――自分よりはるかに小さい生き物を見ると、ひどく横柄になった。王妃の控えの間で、私が卓の上に立ち、宮廷の貴族や貴婦人と話していると、通りかかるたび、わざと威張り、大きく構え、私の小ささに、たいてい一つ二つ、気の利いた嫌味を言った。それに対し、私が仕返しできたのは、兄弟と呼び、相撲を挑み、その他、宮廷の小姓がよく口にするような、言い返しをするくらいだった。ある日、食事のとき、この意地の悪い小僧は、私が何か言ったのに、ひどく腹を立てた。陛下の椅子の枠によじ登り、何の疑いもなく座っていた私の胴をつかみ、大きな銀のクリーム鉢へ落とすと、一目散に逃げた。私は頭まで沈み、泳ぎが上手くなければ、ひどいことになっていただろう。その瞬間、グラムダルクリッチは、たまたま部屋の向こう端におり、王妃も驚きのあまり、助けるだけの落ち着きを失っていたからだ。それでも、小さな乳母が駆けつけ、私が一クォートを超えるクリームを飲み込んだあとで、引き上げてくれた。寝床へ運ばれたが、服一着を、すっかり駄目にした以外、害はなかった。小人は、こっぴどく鞭打たれ、さらに罰として、私を投げ入れた鉢のクリームを、飲み干させられた。それ以後も、寵愛は戻らなかった。まもなく王妃が、身分の高い貴婦人へ与えたので、私は二度と、その姿を見ずに済んだ。実にありがたかった。あれほど意地の悪い小悪党の恨みが、どんな極端なことにまで進むか、わかったものではなかったからである。

それ以前にも、あの男は、卑劣ないたずらをしたことがあった。王妃も笑い出したが、同時に、心から腹を立て、私が寛大にも取りなさなければ、すぐに追い出していただろう。陛下は、髄の入った骨を皿へ取り、髄をたたき出すと、また元どおり、骨を立てて、鉢へ戻していた。小人は機会を狙い、グラムダルクリッチが食器棚へ行っている間に、娘が食事中の私を世話する、踏み台へ登った。私を両手で持ち上げ、両脚を押し合わせ、骨の穴へ、腰を越えるところまで押し込んだ。私はしばらく挟まったまま、ひどく滑稽な姿になった。一分近く、誰も私がどうなったか、気づかなかったと思う。叫ぶのは、体面にかかわると思ったからである。だが、王侯が、温かいうちに肉を食べられることは、めったにないので、脚に火傷は負わず、靴下と半ズボンが、ひどい状態になっただけだった。私の願いによって、小人の罰は、こっぴどい鞭打ちだけで済んだ。

王妃は、私の怖がりを、よくからかい、あなたの国の人々は、皆あなたほど臆病なのかと、たびたび尋ねた。それには、こういうわけがある。夏になると、この王国では、蠅にひどく悩まされる。忌まわしい虫は、一匹がダンスタブルのヒバリほどもあり、食事中、絶えず耳のまわりで、ぶんぶん音を立てて、ほとんど休ませてくれなかった。ときには食べ物にとまり、気持ちの悪い糞や卵を残した。それは私には、はっきり見えたが、この国の人々には見えなかった。大きな目でも、小さいものを見るには、私ほど鋭くなかったのである。鼻や額にとまることもあり、そこで、ひどく痛いほど刺し、実に嫌な臭いを放った。博物学者たちが、この生き物を、天井に逆さに歩けるようにすると説く、あの粘る物質も、たやすく見分けられた。この忌まわしい動物から身を守るのには、苦労し、顔へ来ると、びくりとせずにはいられなかった。小人は、私たちの国の学校の少年のように、この虫を何匹も手につかみ、私の鼻の下で、突然放すのを常としていた。わざと怖がらせ、王妃を楽しませるためだった。私の対処法は、空を飛んでいるところを、ナイフで切り刻むことだった。その器用さは、大いに感心された。

ある朝のことを覚えている。グラムダルクリッチは、晴れた日に、外の空気を吸わせるため、いつもするように、私の箱を、窓辺へ置いてくれた。イングランドで鳥籠にするように、窓の外の釘に掛けてもらう勇気は、なかったのである。私は、上下窓の一枚を上げ、朝食に甘い菓子を食べようと卓についた。すると、匂いに誘われた二十匹を超えるスズメバチが、部屋へ飛び込んできた。同じ数のバグパイプの低音管より、大きなうなりを立てていた。一部は菓子を奪い、小片にして運び去り、ほかは頭や顔のまわりを飛び、音で私を混乱させ、その針で、この上なく恐れさせた。それでも私は、勇気を出して立ち上がり、短剣を抜き、空中の敵に打ちかかった。四匹を仕留めたが、残りは逃げ、すぐに窓を閉めた。この虫は、ヤマウズラほどの大きさだった。針を抜いてみると、長さは一インチ半で、針のように鋭かった。すべて大切に取っておき、その後、ほかの珍品とともに、ヨーロッパ各地で見せたあと、イングランドへ帰ると、三本をグレシャム・カレッジに寄贈し、四本目は手もとに残した。

第四章

国土についての説明。現代の地図を訂正する提案。国王の宮殿と、首都の様子。著者の旅の仕方。主な神殿についての説明。

ここで、この国について、自分が旅した範囲内で、読者に簡単な説明をしよう。私が行ったのは、首都ロルブルグルードのまわり、二千マイル以内だった。いつも私がお供した王妃は、国王の巡幸に同行しても、それ以上遠くへは行かず、陛下が国境の視察から戻るまで、そこにとどまったからである。この君主の領土は、全体で、長さ六千マイルほど、幅は三千から五千マイルに及ぶ。そこで私は、日本とカリフォルニアの間には、海しかないと考える、ヨーロッパの地理学者たちは、大間違いをしていると、結論せざるをえない。私は以前から、タタールの大陸と釣り合うだけの陸地が、反対側にも、なければならないと考えていた。だから彼らは、この広大な土地を、アメリカの北西部へつなぎ、地図と海図を訂正すべきである。その仕事なら、喜んで手を貸すつもりだ。

この王国は半島で、北東は、高さ三十マイルの山脈で終わっている。頂に火山があるため、まったく越えられない。最も学識のある者にも、山の向こうに、どのような人間が住むのか、そもそも住む者があるのかさえ、わからない。他の三方は、大洋で囲まれている。王国全体に、海港は一つもない。川の流れ出すあたりの海岸は、尖った岩だらけで、海も、たいていひどく荒れるので、彼らの最も小さい舟でさえ、出るわけにはいかない。そのため、この人々は、外の世界との交易から、完全に閉ざされている。だが大河には舟が満ち、上等な魚も豊富にいる。海から魚を得ることは、めったにない。海の魚は、ヨーロッパと同じ大きさで、したがって、捕るだけの値打ちがないからだ。このことから、自然が、あれほど異常な大きさの動植物を生み出すのは、この大陸だけに限られると明らかになる。理由の判定は、哲学者たちに任せよう。それでも、たまたま岩へ打ち寄せられた鯨を、ときどき捕り、庶民は盛んに食べる。人が一頭を肩に担ぐのに、やっとという、大きな鯨も見たことがある。珍しいものとして、籠に入れ、ロルブルグルードへ運ばれることもある。国王の食卓で、一頭が皿に載っているのを見た。珍味とされていたが、国王が好んだようには見えなかった。実際、大きさを気味悪く思ったのだろう。もっとも私は、グリーンランドで、もう少し大きいものを見たことがあった。

この国には人が多く、五十一の都市、百近い城壁のある町、そして数多くの村がある。好奇心ある読者を満足させるには、ロルブルグルードを述べれば、十分だろう。都は、真ん中を通る川の両岸へ、ほぼ等しく分かれて広がっている。家は八万軒を超え、住民は六十万人ほどいる。長さは三グロムグラング、イングランドの五十四マイルほどで、幅は二グロムグラング半である。これは、国王の命令で作られた王室の地図で、私が自分で測った。その地図は、私のため、わざわざ地面へ広げられ、百フィートもあった。私は裸足で、差し渡しと周囲を何度も歩測し、縮尺から計算して、かなり正確に測定した。

国王の宮殿は、整然とした一つの建物ではなく、周囲七マイルほどの、建物の集まりである。主要な部屋は、普通、高さ二百四十フィートで、幅と長さも、それに釣り合う。グラムダルクリッチと私には、馬車が一台与えられ、娘の家庭教師が、よくそれに乗せて、町の見物や、店回りへ連れ出した。私も、いつも箱に入って同行した。もっとも、私が願うと、娘はしばしば箱から出し、手に載せてくれたので、通りを進みながら、家や人々が、いっそうよく見えた。私たちの馬車は、ウェストミンスター・ホールほどの広さで、高さは、それほどではなかったと思う。ただし、あまり正確には言えない。ある日、家庭教師が、いくつかの店で、御者に馬車を止めさせた。物乞いたちは、機会を狙って車の脇へ群がり、ヨーロッパ人の目が、かつて見たこともない、恐ろしい光景を、私に見せた。乳房に癌のある女がいた。途方もなく膨れ、穴だらけで、その二つ三つには、私がたやすく潜り込み、全身を隠せるほどだった。首に、羊毛五包より大きな瘤のある男もいた。別の男は、両脚が木の義足で、それぞれ二十フィートほどあった。しかし、何より嫌だったのは、服の上を這う虱だった。害虫の手足が、肉眼で、ヨーロッパの虱を顕微鏡で見るよりも、はるかにはっきり見え、豚のように掘り返す、突き出た口も見えた。私がそれを見たのは、初めてだった。適当な器具があれば、一匹、解剖してみたくなるほど、好奇心を持っただろう。だが不運にも、器具は船に置いてきていた。もっとも、その眺めは、実際、あまりに気持ちが悪く、すっかり吐き気を催すものでもあった。

普段、私を運ぶ大きな箱とは別に、王妃は、旅に都合のよい、小さめのものも作らせた。十二フィート四方、高さ十フィートほどだった。もう一つの箱は、グラムダルクリッチの膝には、やや大きすぎ、馬車でも場所を取ったからである。同じ職人が作り、設計は、すべて私が指示した。この旅用の小部屋は、正確な四角形で、三つの面の中央に、それぞれ窓があり、長旅での事故を防ぐため、各窓の外には、鉄線の格子をつけた。窓のない第四の面には、頑丈な輪釘を二つ固定した。馬に乗りたいときには、私を運ぶ者が、そこへ革帯を通し、自分の腰へ締めた。これはいつも、私が信頼できる、慎重で誠実な召使いの役目だった。国王と王妃の巡幸に従うときでも、庭園を見たくなったときでも、あるいは、グラムダルクリッチの具合が悪い折、宮廷の高貴な婦人や大臣を訪ねるときでも、そうだった。私は、まもなく、最も地位の高い官吏たちにも知られ、好意を持たれるようになった。自分の長所よりも、両陛下の御寵愛のためだったろうと思う。旅の途中、馬車に飽きると、馬上の召使いが箱を帯で締め、自分の前の座布団に載せた。そこでは、三つの窓から、三方の国の景色が、十分に見渡せた。この小部屋には、折り畳み式の寝台と、天井から吊ったハンモック、椅子二脚、卓一つを備えた。馬や馬車の動きで放り回されぬよう、椅子と卓は、きちんと床へねじ留めしてあった。長く航海に慣れていたため、その揺れは、ときには、たいへん激しくても、私の気分をあまり悪くしなかった。

町を見たくなると、いつも、この旅用の小部屋で出かけた。グラムダルクリッチは、国の流儀の、覆いのない輿のようなものに乗り、箱を膝に載せた。四人が担ぎ、ほかに二人、王妃の仕着せを着た者が付き添った。私の噂を、たびたび耳にしていた人々は、たいそう見たがって、輿のまわりへ群がった。娘は親切にも、担ぎ手を止めさせ、もっとよく見えるよう、私を手に取ってやった。

私は、主な神殿、とりわけ、王国で最も高いとされる、そこの塔を見たいと、強く願っていた。そこで、ある日、乳母が連れていってくれた。だが正直に言えば、失望して帰ってきた。地面から、いちばん高い尖塔の頂まで測っても、高さは三千フィートにすぎなかったからだ。あの国の人々と、ヨーロッパの私たちとの大きさの違いを考えれば、それほど感心するものではなく、記憶が正しければ、割合では、ソールズベリーの尖塔に、まったく及ばなかった。ただし、生涯、並々ならぬ恩を受けたと認め続ける国を、悪く言いたいのではない。この有名な塔は、高さに欠けるところを、美しさと頑丈さで、十分すぎるほど補っていることは、認めなければならない。壁は百フィート近くの厚さがあり、四十フィート四方ほどの切石を積んで造られていた。あらゆる側面には、実物より大きい、神々や皇帝の大理石像が、それぞれの壁龕に置かれ、飾っていた。私は、そうした像の一つから落ち、誰にも気づかれず、瓦礫の中にあった小指を測った。長さは、ちょうど四フィートと一インチだった。グラムダルクリッチは、それをハンカチで包み、ポケットへ入れて、持ち帰った。ほかの小さな珍品と一緒に、取っておくためである。この年頃の子供がそうであるように、娘も、そういうものを、たいへん好んでいた。

国王の厨房は、まことに立派な建物で、頂が丸天井になっており、高さは六百フィートほどある。大きな竈の幅は、セント・ポール大聖堂の丸屋根より、十歩だけ狭い。帰国後、私は、その丸屋根を、わざわざ測ったのである。だが、厨房の火格子、途方もない鍋や釜、焼き串の上で回る大きな肉塊、そのほかの細部まで述べたなら、ほとんど信じてもらえないかもしれない。少なくとも厳しい批評家は、旅行者がよく疑われるように、少し話を大きくした、と考えそうだ。その非難を避けようとして、私は、反対の極端へ走りすぎたのではないかと恐れる。もし、この報告が、王国の総称であるブロブディンナグの言葉へ訳され、あちらへ送られたなら、国王も国民も、偽って小さく描かれ、侮辱されたと、不平を言うだけの理由があるだろう。

陛下が厩に飼う馬は、六百頭を超えることは、めったにない。普通、背の高さは五十四フィートから六十フィートだった。だが、儀式の日に出御するときには、威儀のため、五百騎の近衛が付き従う。私は、それこそ、この世で見られる、最も壮麗な光景だと思った。少なくとも、陛下の軍の一部が、戦闘の隊列を組むところを見るまでは、そう思っていた。そのことは、また別の機会に述べる。

第五章

著者に起こった、いくつかの冒険。罪人の処刑。著者は船を操る腕前を披露する。

小さな体のせいで、いくつもの滑稽で厄介な事故に遭わなければ、あの国で、かなり幸せに暮らせたはずだった。そのうちの幾つかを、思い切って話そう。グラムダルクリッチは、よく小さいほうの箱に私を入れ、宮廷の庭園へ連れていった。ときには箱から出し、手に載せたり、地面へ下ろして歩かせたりした。小人が王妃のもとを去る前、ある日、私たちについて、庭園へ来たことを覚えている。乳母が私を地面へ下ろし、男と私は、低く育てられたリンゴの木のそばで、すぐ近くにいた。私は、つい機知を見せつけたくなり、男と木を結びつける、ばかげた洒落を言った。彼らの言葉でも、私たちの言葉でも、小人と小さな木を、同じように引っかけられるのである。すると、意地の悪い悪党は、機会を狙い、私が、その木の一本の下を歩いているとき、頭の真上で木を揺すった。そのため、ブリストルの樽ほどもあるリンゴが、十二個、耳のまわりへ転がり落ちてきた。私がたまたま屈んだところへ、一個が背中に当たり、うつぶせに倒れた。それ以外に怪我はなかった。こちらが先に挑発したのだからと、私が願い、小人は許された。

別の日、グラムダルクリッチは、滑らかな芝地で、私を遊ばせておき、少し離れたところを、家庭教師と歩いていた。そのとき突然、激しく雹が降り、私は、ただちに、その勢いで地面へ打ち倒された。倒れてからも、雹の粒が体中をひどく打ち、まるでテニスの球を投げつけられているようだった。それでも何とか四つん這いで進み、レモンタイムの植え込みの、風下側へうつぶせに伏せて、避難した。だが、頭から足まで、ひどい打ち身を負い、十日間、外出できなかった。これも、まったく不思議ではない。あの国では、自然が、そのあらゆる働きに、同じ割合を守っているので、雹の粒は、ヨーロッパのものの、千八百倍近い大きさになる。私は好奇心から、重さと寸法を測ったことがあるので、経験に基づいて、そう断言できる。

だが、同じ庭で、もっと危険な事故があった。小さな乳母は、私を安全な場所へ置いたと考え、持ち運ぶ手間を避けて、箱を家に残したまま、家庭教師や、知り合いの婦人たちと、庭の別の場所へ行った。私は、自分の考えに浸りたかったので、よくそう頼んでいたのである。娘が不在で、声も届かない間に、庭師の主だった者の一人が飼っていた、小さな白いスパニエルが、たまたま庭へ入り、私のいる場所の近くを、うろついた。匂いをたどり、まっすぐ来て、私を口にくわえると、尾を振りながら、飼い主のところへ走り、そっと地面へ置いた。幸い、たいそうよく仕込まれていたので、歯の間で運ばれても、まったく傷つかず、服も裂けなかった。だが、私をよく知り、たいへん親切にしてくれた、気の毒な庭師は、ひどく恐れた。両手でそっと持ち上げ、具合はどうかと尋ねたが、私は驚き、息も切れて、一言も話せなかった。数分たって正気に戻ると、庭師は、無事に小さな乳母のもとへ運んでくれた。このころ娘は、私を置いた場所へ戻っており、姿も見えず、呼んでも答えないので、気が狂いそうに苦しんでいた。庭師に、犬のことで、きつく叱った。だが、この件は内々に収められ、宮廷には知られなかった。娘は、王妃のお怒りを恐れたし、私自身も正直なところ、こんな話が広まるのは、評判のためによくないと考えたのである。

この事故で、グラムダルクリッチは、今後、外では、決して私を目から離さないと、固く決心した。私は長く、その決心を恐れていた。そのため、一人にされたときに起きた、小さな不運な出来事を、幾つか隠していた。一度は、庭の上を旋回していたトビが、私へ急降下してきた。思い切って短剣を抜き、密に枝の張った棚仕立ての木の下へ駆け込まなければ、必ず、その爪で連れ去られていた。別のときには、新しいモグラ塚の上へ歩いて登り、その動物が土を掘り上げた穴へ、首まで落ち込んだ。そして、服を汚した言い訳に、覚えておくほどでもない嘘を、作った。また、一人で歩き、気の毒なイングランドのことを考えていたとき、たまたま蝸牛の殻につまずき、右の脛を打ち傷つけたこともあった。

そうして一人で歩くとき、小さめの鳥たちが、私を、少しも恐れないように見えるのを、嬉しく思ったのか、屈辱と思ったのか、自分でも言えない。鳥たちは、一ヤード以内を跳ね回り、近くに生き物が一匹もいないのと同じほど、平気で安心しきって、虫や、その他の餌を探した。あるツグミは、大胆にも、グラムダルクリッチが、朝食にくれたばかりの菓子を、くちばしで、私の手から奪った。どの鳥でも、捕まえようとすると、勇敢に向き直り、指をつつこうとしたので、その届くところへ、手を出すわけにはいかなかった。それから、何事もなかったように、跳ねて戻り、また虫や蝸牛を探した。だがある日、私は太い棒を持ち、力いっぱい、ヒワへ投げた。幸運にも打ち倒し、両手で首をつかんで、勝ち誇って乳母のもとへ走った。しかし、気絶しただけだった鳥が、正気を取り戻した。腕を伸ばし、爪の届かぬところに持っていたのに、頭や体の両側を、羽であまりに打ちたたくので、二十度も、放そうかと思った。だが、まもなく、召使いの一人が助け、鳥の首をねじ切ってくれた。翌日、王妃の命令で、それを昼食に食べた。記憶の限りでは、このヒワは、イングランドの白鳥より、やや大きく見えた。

女官たちは、よくグラムダルクリッチを、自分の部屋へ招き、私も連れてくるよう頼んだ。見たり、触ったりして、楽しむためである。しばしば、頭から足まで、私を裸にし、自分の胸もとへ、体を伸ばして寝かせた。これには、ひどく嫌な思いをした。正直に言うと、皮膚から、たいへん不快な匂いがしたからだ。あらゆる敬意を抱いている、あの優れた婦人たちを、悪く言うために述べるのでも、そうしたいのでもない。小さい体に応じて、私の感覚が鋭かったのだと思う。そして、あの高貴な方々が、恋人や互いにとって不快だった度合いは、イングランドで、同じ身分の人々がそうであるのと、変わらなかったろう。それに、香水を使ったときより、自然の匂いのほうが、はるかに耐えられた。香水の下では、すぐに気を失ってしまったからだ。リリパットの親しい友人が、暖かい日、私がかなり運動したあとで、遠慮なく、私の強い匂いに不平を言ったことは、忘れられない。私は、その点で、たいていの男に比べ、落ち度は少ないほうなのに、である。だが、その人の嗅覚は、私に対して、私の嗅覚が、この国の人々に対するときと同じほど、敏感だったのだろう。この点では、女主人の王妃と、乳母のグラムダルクリッチに、公平でなくてはならない。二人の体は、イングランドのどんな婦人にも劣らず、よい匂いがした。

乳母に連れられて、この女官たちを訪ねるとき、いちばん不快だったのは、まったく大事にする必要のない生き物のように、何の遠慮もなく扱われることだった。私を化粧台の上へ置いたまま、目の前で、すべて服を脱ぎ、肌着を着た。その裸の体を、じかに見ることは、私には、決して誘惑的ではなく、恐怖と嫌悪以外の感情を、少しも起こさせなかった。近くで見る皮膚は、ひどく粗く、でこぼこし、色が入り混じっており、所々には木皿ほどもある黒子があって、荷造り糸より太い毛が垂れていた。体のほかの部分については、これ以上言うまい。また、私がそばにいても、三トン樽分を超える容量のある容器へ、少なくとも二ホッグスヘッド分、飲んだものを出すことを、少しもためらわなかった。女官たちのうち、最も美しい、陽気でふざけ好きな十六歳の娘は、ときどき、その乳首の一つへ、私をまたがらせた。ほかにも、いろいろないたずらをしたが、あまり詳しく述べないことを、読者にはお許しいただきたい。だが、私は、あまりに嫌だったので、この若い婦人には、もう会わずに済むよう、何か口実を考えてほしいと、グラムダルクリッチに頼んだ。

ある日、乳母の家庭教師の甥である、若い紳士が来て、処刑を見に行こうと、二人を強く誘った。その紳士の、親しい知人の一人を殺した男の、処刑だった。グラムダルクリッチは、生来、心が優しかったので、ひどく気が進まぬまま、説き伏せられて同行した。私自身も、そうした見物は嫌いだったが、並外れたものに違いない、と思うものを見たいという、好奇心の誘惑に負けた。罪人は、そのために設けた処刑台の椅子へ固定され、長さ四十フィートほどの剣の、一撃で首を落とされた。静脈と動脈から、途方もない量の血が、たいへん高く噴き上がり、その続いた間は、ヴェルサイユの大噴水も及ばなかった。首が処刑台の床へ落ちると、すさまじい衝撃音を立て、少なくともイングランドの半マイルは離れていたのに、私は、はっと飛び上がった。

王妃は、私の航海の話をよく聞き、気が沈んでいると、あらゆる機会に慰めようとしてくださった。そして、帆や櫂を扱えるか、少し船を漕いで運動すれば、健康によいのではないか、と尋ねた。私は、どちらも、よく心得ていると答えた。本職は、船の外科医、あるいは医師だったが、困ったときには、普通の水夫の仕事を、しばしばしなければならなかったからである。しかし、この国で、それをどう行えるかは、わからなかった。最も小さな渡し舟でも、私たちの国の一等軍艦ほどあり、私が扱える舟なら、この国のどの川でも、浮かび続けられそうになかった。陛下は、私が舟を設計すれば、御用の建具職人に作らせ、走らせる場所も用意すると言った。職人は器用で、私の指示に従い、十日で、すべての帆装や道具を備え、ヨーロッパ人八人が、楽に乗れる遊覧用の舟を仕上げた。できあがると、王妃は大いに喜び、それを膝に抱えるようにして、国王のもとへ走った。国王は、試しに、私を乗せて、水を満たした水槽へ入れさせた。だが狭すぎて、二本の短い櫂を、動かすことができなかった。もっとも王妃は、前もって、別の案も考えていた。建具職人に、長さ三百フィート、幅五十フィート、深さ八フィートの、木の水槽を作らせたのである。水漏れを防ぐため、十分に瀝青を塗り、宮殿の外側の部屋で、壁に沿って床へ置いた。水が古くなり始めたら抜けるよう、底近くに栓をつけ、召使い二人で、たやすく三十分のうちに満たせた。ここで私は、よく、自分の楽しみのため、また、私の技と身軽さを、たいそう面白がる、王妃や女官たちのために、舟を漕いだ。ときには帆を揚げた。すると、私の仕事は、ただ舵を取るだけになった。婦人たちが扇で風を送り、疲れると、小姓が息を吹いて、帆を進めてくれたからだ。その間、私は、思うままに右舷へ、左舷へと舵を取り、腕を見せた。終わると、グラムダルクリッチが、いつも舟を自分の小部屋へ運び、乾かすため、釘に掛けた。

この運動の最中、一度、もう少しで命を落とす事故に遭った。小姓の一人が、舟を水槽へ入れると、グラムダルクリッチに付き添う家庭教師が、世話好きにも、私を乗せようと持ち上げた。ところが、私はその指の間から滑り落ちた。世にも幸運な偶然がなければ、四十フィート下の床へ、間違いなく落ちていた。親切な婦人の胸当てに刺してあった、大きな留め針が、私を受け止めたのである。針の頭が、シャツと半ズボンの腰帯との間へ入り込み、グラムダルクリッチが駆けつけて助けるまで、私は、胴のところで、宙に留まっていた。

別のときには、三日ごとに、私の水槽を新しい水で満たす役の召使いが、不注意にも、気づかず、巨大な蛙を桶から滑り落とした。蛙は、私が舟へ乗るまで隠れていたが、そのとき、休む場所を見つけて、這い上がってきた。舟は片側へひどく傾き、転覆を防ぐため、私は全体重を反対側へかけ、釣り合わせなければならなかった。蛙は入ってしまうと、一跳びで舟の長さの半分を飛び、それから、私の頭の上を、前へ後ろへ跳ね、忌まわしい粘液で、顔や服をべたべたにした。顔立ちが大きいせいで、考えられる中で、最も醜い動物に見えた。それでも私は、グラムダルクリッチに、一人で相手をさせてほしいと頼んだ。短い櫂の一本で、しばらく、ひどく打ちつけ、ついに舟の外へ跳び出させた。

だが、この王国で、これまでに受けた最大の危険は、厨房の役人の一人が飼っていた、猿によるものだった。グラムダルクリッチは、何かの用事か、訪問のため、私を自分の小部屋に残し、鍵を掛けて出かけた。たいへん暖かい日だったので、小部屋の窓も、普段、広さと便利さのために使う、大きいほうの箱の窓と扉も、開けてあった。卓につき、静かに考え事をしていると、何かが小部屋の窓へ飛び込み、端から端へ、跳ね回る音がした。私は、ひどく驚いたが、席は立たずに、思い切って外をのぞいた。すると、ふざけ好きな動物が、駆け、上下に跳ね、ついに箱へ来るのが見えた。たいそう楽しげに、好奇心いっぱいに、扉や窓から、のぞき込んだ。私は、部屋、つまり箱の、いちばん奥の隅へ退いた。だが、猿が四方からのぞくので、あまりに怖く、たやすくできたはずの、寝台の下へ隠れる落ち着きも失っていた。しばらく、のぞき、歯を見せ、きゃっきゃと鳴いたあと、とうとう私を見つけ、猫が鼠と遊ぶときのように、片手を扉から入れた。何度も場所を変えて避けたが、ついに、上着の裾をつかみ、引きずり出した。この国の絹でできていたので、裾はたいそう厚く、丈夫だった。猿は私を右の前足へ取り、乳を飲ませようとする乳母が子を抱くように、抱えた。ヨーロッパで、同じような動物が、子猫をそうするのを、見たことがある。もがこうとすると、ひどく締めつけたので、従うほうが賢いと思った。もう片方の手で、何度も、とても優しく顔をなでたことから、私を、自分と同じ種類の子だと思ったのだと、十分に考えられる。この遊びは、誰かが開けるような、小部屋の扉の音で、中断された。猿は、突然、入ってきた窓へ跳び上がり、そこから、鉛張りの屋根や雨樋へ出た。三本の脚で歩き、もう一本で私を抱え、私たちの隣の屋根へ、よじ登った。連れ出される瞬間、グラムダルクリッチの悲鳴が聞こえた。気の毒な娘は、ほとんど取り乱し、宮殿のその一角は、すべて大騒ぎになった。召使いたちは、梯子を取りに走った。建物の棟に座り、片方の前足に赤ん坊のように私を抱え、もう片方で食べさせる猿を、中庭の何百人もの人々が見ていた。猿は、片側の頬袋から押し出した食べ物を、私の口へ詰め込み、食べようとしないと、軽くたたいた。そのため、下の群衆の多くは、笑わずにはいられなかった。私は、その人々を責めるのも、不当だと思う。疑いなく、私以外の誰にとっても、十分、滑稽な眺めだったからである。猿を追い下ろそうと、石を投げ上げる者もいたが、厳しく禁じられた。そうでなければ、おそらく、私の頭は砕けていただろう。

やがて梯子が掛けられ、幾人かが登った。猿はそれを見て、ほぼ囲まれたと知ると、三本の脚では、十分速く逃げられないため、私を棟瓦へ落とし、自分は逃げ去った。私はそこで、地上五百ヤードのところに、しばらく座っていた。今にも風に吹き落とされるか、目まいで落ち、棟から軒へ、ごろごろ転がるのではないかと思った。だが、乳母の従僕の一人である、善良な少年が、よじ登り、半ズボンのポケットへ私を入れ、無事に下ろしてくれた。

猿が喉へ押し込んだ汚いもののため、ほとんど息が詰まっていた。だが、愛する小さな乳母が、小さい針で口からほじくり出してくれた。それから私は吐き、大いに楽になった。それでも、忌まわしい動物の締めつけで、ひどく弱り、脇腹も打ち傷ついていたので、二週間、寝ていなければならなかった。国王、王妃、宮廷中の人々が、毎日、容体を尋ねる使いをよこし、王妃陛下は、病の間、幾度も見舞ってくださった。猿は殺され、宮殿のまわりには、あのような動物を飼ってはならない、という命令が出た。

回復してから、御厚意のお礼に、国王の御前へ出ると、陛下は、この冒険について、たいそうおからかいになった。「猿の手にいたとき、何を思い、何を考えたか。食べさせられた物や、食べさせ方は、気に入ったか。屋根の新鮮な空気で、食欲は増したか」と尋ねた。また、「自分の国で、こんな目に遭ったら、どうしたか」とも知りたがった。私は申し上げた。「ヨーロッパには、珍しいものとして、ほかの土地から持ち込まれた以外、猿はおりません。それも小さく、もし襲ってくるなら、十二匹を一緒に相手にできます。つい先日、私が争った、あの巨大な動物については――実際、象ほどもありました――もし恐怖に妨げられず、短剣を使うだけの考えが浮かんでいたら、あの手を部屋へ突き入れたとき、入れるよりも急いで引っ込めたくなるほどの傷を、与えていたかもしれません。」こう言いながら、私は獰猛な顔をし、柄に手を掛けた。勇気を疑われぬよう、気をもむ者のように、確かな口調で述べたのだ。だが、その言葉が生んだのは、大笑いだけだった。まわりの者たちが陛下へ払うべき、あらゆる敬意も、その笑いを抑えさせられなかった。これを見て、対等にも、比べものにも、まったくならない者たちの中で、自分の名誉を高めようとするのは、何とむなしい試みかと、考えた。それでも帰国後、イングランドでも、自分の振る舞いと同じ教訓を示す例を、頻繁に見た。家柄にも、容貌にも、機知にも、常識にも、取り柄が少しもない、小さな、取るに足りない下郎が、もったいぶった顔をし、王国の最も偉大な人物と、肩を並べる気になるのである。

私は毎日、宮廷へ、何か滑稽な話を提供していた。グラムダルクリッチも、私を、あれほど愛していながら、陛下を楽しませると思う、愚かなことを私がすると、王妃へ知らせる、いたずら心を持っていた。娘の具合がよくなかったので、家庭教師が、町から一時間ほど、三十マイルのところへ、外の空気を吸わせに連れていった。畑の小道の近くで馬車を降り、グラムダルクリッチが旅用の箱を下ろすと、私は、歩こうと外へ出た。道には牛の糞があった。私は、つい身軽さを試したくなり、跳び越そうとした。助走をつけたが、不運にも、跳び足りず、ちょうど真ん中で、膝まで埋まった。苦労して渡り切ったものの、ひどく汚れていたので、従僕の一人が、ハンカチで、できるだけ拭いてくれた。乳母は、帰宅まで、私を箱へ閉じ込めた。家へ戻ると、すぐに王妃が、起きたことを知り、従僕たちは宮廷中へ広めた。そのため、何日もの間、あらゆる笑いの種は、私だった。

第六章

国王と王妃を喜ばせるための、著者のいくつかの工夫。音楽の腕前を披露する。国王がイングランドの状態を尋ね、著者が説明する。それについての国王の意見。

私は、週に一度か二度、国王の起床の儀へ出ており、床屋に剃られているところも、よく見た。初めは、実に恐ろしい眺めだった。剃刀が、普通の大鎌の、ほとんど二倍の長さだったからだ。陛下は、国の習慣に従い、週に二度だけ髭を剃った。一度、床屋に頼み込み、石鹸の泡を少しもらい、その中から、いちばん太い髭の切れ端を、四、五十本拾った。それから、よい木を一片取り、櫛の背の形に削り、グラムダルクリッチからもらえる限り、最も細い針で、等間隔に穴を幾つも開けた。髭の先を、ナイフで削って細くし、巧みに固定して、なかなか使える櫛を作った。自分の櫛は、歯があまりに折れ、ほとんど役に立たなかったので、ちょうどよい補いになった。しかも、この国で、代わりを作ると引き受けてくれるほど、細かく正確な細工をする職人を、私は知らなかった。

これで、暇な時間を、かなり費やした遊びを思い出した。王妃の侍女へ、陛下が髪を梳いたときの抜け毛を、取っておいてほしいと頼み、やがて、かなりの量を集めた。私の小さな仕事なら何でもするよう、広く命じられていた、友人の家具職人と相談し、箱の中の椅子より大きくない枠を、二つ作らせた。そして、背もたれと座面にする部分の周囲に、細い錐で、小さな穴を開けさせた。そこへ、選び出した、いちばん丈夫な髪を通し、ちょうどイングランドの籐椅子のように編んだ。完成すると、陛下へ献上した。王妃は私室に置き、珍品として、よく人に見せた。実際、見た者は、誰も驚いたのである。王妃は、その椅子の一つへ座るよう望んだが、私は、きっぱりお断りし、一度は陛下の頭を飾った貴い髪に、自分の体の卑しい部分を載せるくらいなら、死を選ぶと申し上げた。もともと細工の才があったので、同じ髪で、長さ五フィートほどの、きれいな小さい財布も作り、金文字で陛下の御名を編み込んだ。王妃のお許しで、グラムダルクリッチへ贈った。正直に言えば、実用より飾りのためだった。大きな硬貨の重さに耐える丈夫さがなかったので、娘は、少女が好む、小さな玩具しか入れなかった。

音楽の好きな国王は、宮廷で頻繁に演奏会を催した。私も、ときどき連れていかれ、卓の上の箱の中で聞いた。だが、音があまりに大きく、曲をほとんど聞き分けられなかった。王国の軍の、すべての太鼓とラッパを、耳もとで一斉に鳴らしても、あれには及ばないと、確信する。私は、演奏者のいる場所から、できるだけ遠くへ箱を移させ、扉と窓を閉め、窓の帳も引くのを常とした。そうすると、音楽も悪くなかった。

私は若いころ、スピネットを少し弾くことを覚えていた。グラムダルクリッチも、部屋に一台持ち、週に二度、先生が教えに来ていた。スピネットと呼ぶのは、いくらかそれに似ていて、同じ仕方で弾くからである。この楽器で、イングランドの曲を弾き、国王と王妃を楽しませようという考えが、頭に浮かんだ。だが、実行は、きわめて難しそうだった。楽器は六十フィート近くあり、鍵盤は、一つの幅が、ほとんど一フィートだった。両腕を伸ばしても、五つを超える鍵には届かず、押すには、拳で勢いよく打たねばならなかった。それでは苦労が大きすぎ、役にも立たない。そこで、こう工夫した。普通の棍棒ほどの太さの、丸い棒を二本用意した。片方の端が、もう一方より太くなっていて、その太い端に、鼠の皮を巻いた。たたいても、鍵の表面を傷つけず、音も妨げぬためである。鍵盤より四フィートほど下に、長椅子を据え、私を載せてもらった。私は、できる限り速く、その上を横走りに行ったり来たりし、二本の棒で、必要な鍵を打ち、どうにかジグを弾いた。両陛下は、大いに満足された。だが、これまで経験した中で、最も激しい運動だった。それでも十六個を超える鍵は打てず、したがって、ほかの奏者のように、低音と高音を同時には弾けなかった。私の演奏には、大きな不利だった。

前にも述べたように、たいへん理解力の優れた君主である国王は、私を箱に入れたまま連れてこさせ、私室の卓へ置くよう、よく命じた。それから、箱から椅子を一脚出し、戸棚の上、三ヤード以内のところへ、座るよう言った。そうすると、ほぼ国王の顔と同じ高さになった。この仕方で、幾度もお話しした。ある日、私は遠慮を捨て、陛下へ申し上げた。「ヨーロッパや、その他の世界へ示される軽蔑は、陛下のお持ちの、優れた心の資質に、ふさわしくないように見えます。理性は、体の大きさとともに増すのではございません。反対に、私たちの国では、最も背の高い者が、普通、最も理性に乏しいと見受けます。他の動物でも、蜂や蟻は、多くの大型の種類より、勤勉で、巧みで、賢いと評判です。私をどれほど取るに足りぬものとお考えでも、いつか陛下へ、格別のお役に立てるよう、願っております。」国王は、注意して聞き、これまでより、はるかによい評価を、私に抱き始めた。そして、「イングランドの政治を、できる限り正確に説明してほしい。君主は普通、自分の慣習を好むものだろうが――私の以前の話から、他の王たちについて、そう推測したのである――倣う値打ちのあるものなら、何でも喜んで聞きたい」と言った。

親切な読者よ、そのとき私が、何度、デモステネスやキケロの弁舌を持ちたいと願ったか、想像してほしい。それがあれば、愛する祖国の長所と幸福にふさわしい言葉で、その誉れを、たたえられただろう。

私は、我が国の領土は、アメリカの植民地のほか、一人の君主のもと、三つの強大な王国を成す、二つの島からなっていると、陛下へ告げることから話を始めた。土壌の豊かさと、気候の穏やかさについて、長く述べた。それから、イングランドの議会の仕組みを、詳しく話した。その一部をなすのは、貴族院と呼ばれる、輝かしい人々の集団で、最も高貴な血筋と、最も古く豊かな世襲財産を持つ者たちである。彼らを、国王と王国の双方の助言者とし、立法に参与させ、不服を申し立てる先のない、最高裁判所の一員とし、勇気、指揮の力、忠実さによって、君主と国土を、いつでも守る勇士とするため、学芸と武術の教育には、常に並々ならぬ注意が払われる、と説明した。彼らは王国の飾り、また防壁であり、最も名高い祖先たちの、ふさわしい後継者である。祖先の名誉は、美徳の報いだったし、その子孫が、そこから堕落したことは、一度も知られていない、と述べた。この議院の一部として、司教の名のもと、幾人もの聖なる人々も加わる。特別の務めは、宗教と、それを民へ教える者たちを、見守ることである。君主と、その最も賢明な助言者たちが、国中を探し、聖職者のうち、生涯の清さと学識の深さによって、最も正当に際立った者を選ぶ。彼らは、まことに、聖職者と国民の、霊の父なのである、と話した。

議会のもう一方は、庶民院という集まりからなる。全員が、優れた能力と祖国への愛ゆえに、国民自身によって自由に選び抜かれ、全国の知恵を代表する、主だった紳士たちである。この二つの院が、ヨーロッパで最も尊厳ある集会を形づくり、君主とともに、立法の全権を委ねられている、と述べた。

それから、裁判所へ話を移した。そこでは、尊ぶべき賢者であり、法の解釈者でもある裁判官たちが、争われる人々の権利や財産を判定し、悪徳を罰し、罪のない者を守るため、裁きをつかさどっている。我が国の財政の、賢明な管理、海陸の軍の勇敢さと功績にも触れた。国内の宗派や政党ごとに、何百万人いるかを数え、人口を算定した。運動や娯楽さえ省かず、そのほか、祖国の名誉に役立つと思う事柄は、何一つ漏らさなかった。そして最後に、この百年ほどの、イングランドの事情や事件を、短く歴史として述べた。

この会話は、一回が数時間の拝謁を、五度重ねるまで終わらなかった。国王は、全体を熱心に聞き、私の話も、尋ねようと思う質問の覚え書きも、たびたび書き留めていた。

これらの長い話を終えると、六度目の拝謁で、陛下は覚え書きを見ながら、どの項目についても、多くの疑問、問い、異論を示した。「若い貴族の心身を育てるのに、どのような方法を用い、初めの、教えやすい年月には、普段どんなことをして過ごすのか。貴族の家が絶えたとき、その集まりを補うには、どうするのか。新たに貴族となる者には、どんな資格が必要なのか。君主の気まぐれ、宮廷の婦人への金銭、あるいは、公の利益に反する党派を強める意図が、そうした取り立ての動機になることは、ないのか。その貴族たちは、同じ臣民の財産を、最終的に判定できるだけの、自国の法律の知識を、どのくらい持ち、どこで身につけるのか。常に、欲深さ、えこひいき、金の不足から、それほど自由で、賄賂や、その他の邪な考えの入り込む余地は、まったくないのか。話に出た聖職の貴族たちは、いつも、宗教上の知識と、生涯の清さのため、その位へ昇るのか。普通の聖職者だったころに、時流に迎合したことは、一度もないのか。ある貴族に、身売り同然に卑屈な付き添い司祭として仕え、議院へ入ったあとも、その貴族の意見に、奴隷のように従い続けたことは、ないのか」と尋ねた。

次に、「私が庶民院議員と呼んだ者たちの選挙には、どんな術が使われるのか。よそ者でも、金が十分あれば、俗な有権者たちを動かし、自分たちの地主や、近隣で最も主だった紳士より、自分を選ばせられるのではないか。大変な手間と費用を要し、しばしば家を破滅させるほどなのに、給料も年金もないこの集まりへ、なぜ人々は、あれほど激しく入りたがるのか」と知りたがった。あまりに高尚な美徳と公共心の現れなので、陛下は、いつでも誠実なものとは限らないのではないかと、疑ったようだった。そして、「これほど熱心な紳士たちには、腐敗した政府と組み、弱く悪徳に満ちた君主のもくろみのため、公共の利益を犠牲にして、かけた費用と労を取り戻す考えは、ないのか」と尋ねた。この項目のあらゆる部分について、問いを重ね、私を徹底的に調べ、無数の質問と異論を出した。それを繰り返すのは、賢明でも適切でもないと、私は考える。

裁判所についての私の話には、陛下は、いくつか確かめたい点があった。私も、それには、いっそうよく答えられた。以前、大法官裁判所で長い訴訟をし、訴訟費用も相手持ちの勝訴になったのに、ほとんど破産しかけたことがあるからだ。陛下は尋ねた。「是非を判定するのに、普通どれほどの時を費やし、費用はどの程度か。明らかに不正で、嫌がらせや抑圧とわかっている訴えでも、弁護士や弁論家には、弁護する自由があるのか。宗教や政治の党派が、正義の秤に、何らかの重みを持つと見られることは、あるのか。法廷で弁じる者たちは、公正というものの、一般的な知識を学んだ人々なのか。それとも、地方、国、その他の土地特有の慣習だけを学ぶのか。自分の好きなように解釈し、注釈する自由を取っている、その法律を書く仕事に、本人や裁判官は、加わっていたのか。時を違えて、同じ件を、擁護もし、反対もしたり、互いに反する見解を証明するため、先例を引いたりしたことは、あるのか。金持ちの団体なのか、貧しい団体なのか。弁論や見解の提示に、金銭の報酬を受けるのか。そして特に、下院の一員として認められることは、あるのか。」

次に国王は、財政の管理へ取りかかった。そして、こう言った。「お前の記憶違いだと思う。税収は年に五、六百万ほどと計算したのに、支出の話になると、ときには、その二倍を超えていた。この点は、特に詳しく書き留めた。お前たちの運営の仕方を知れば、私にも役立つかもしれないと、期待していたからで、私の計算に誤りはない。だが、お前の話が本当なら、王国が私人のように、どうして財産を使い尽くせるのか、なお理解できない」。「債権者は誰で、その支払いの金は、どこから見つけるのか」と尋ねた。あれほど金のかかる、費用の大きな戦争の話には驚き、「きっと、お前たちは、争い好きの国民なのか、それとも、よほど悪い隣人の間で暮らしているのだろう。そして将軍たちは、王より金持ちでなければならない」と言った。「交易か条約のため、あるいは艦隊で海岸を守る以外に、自分の島の外で、何の用があるのか」と尋ねた。何よりも、平和のただ中、自由な国民の間に、金で雇われた常備軍があるという話に、驚いていた。「代表者を通じ、自分たちの同意によって治められているなら、誰を恐れ、誰と戦うのか、想像できない」と言った。そして、一個人の家を守るのにも、自分と子供と家族のほうが、街で適当に拾い、わずかな賃金で雇った、六人のならず者より、よく守れるのではないかと、私の意見を求めた。その者たちは、家族の喉を切れば、百倍も稼げるかもしれないのである。

国王は、国内の宗教と政治の諸派から計算して、人口を数えた、私のやり方を、陛下のお言葉では、「奇妙な算術」と呼んで笑った。そして、「公共に害のある意見を持つ者へ、変えるよう強いるべき理由も、隠すよう強いなくてよい理由も、わからない。どんな政府でも、前者を求めるのは専制であり、後者を強制しないのは弱さだ。毒を自分の小部屋へ置いておくのは、許されても、元気の出る薬として売り歩くのは、許されまい」と言った。

「貴族や紳士たちの娯楽の中に、賭け事も挙げていた」と国王は指摘した。そして、「普通、いくつで始め、いつやめるのか。時間をどれほど使うのか。財産へ響くほど大きな額になることは、あるのか。その術の巧みさによって、卑しく、悪徳に満ちた者が、大きな富を得、ときには、貴族そのものを、自分に頼らせることもあるのではないか。しかも、下劣な仲間に慣らし、精神を磨くことから、すっかり引き離し、損失によって、同じ恥ずべき腕を覚え、他人へ使うよう、追い込むのではないか」と知りたがった。

この百年の、我が国の出来事について述べた歴史には、国王は、すっかり驚き、「ただ陰謀、反乱、殺人、虐殺、革命、追放の山ではないか。貪欲、党派心、偽善、背信、残酷、激怒、狂気、憎悪、嫉妬、淫欲、悪意、野心が生み出せる、最悪の結果ばかりだ」と、強く言った。

別の拝謁で、陛下は、手間をかけて、私の話したすべての大意を、まとめ直した。御自身の質問と、私の答えを比べ、それから私を両手に取り、優しくなで、次のように言われた。その言葉も、その言い方も、私は決して忘れない。「小さな友、グリルドリグよ、お前は、自分の国へ、実に見事な賛辞を捧げた。無知、怠惰、悪徳こそ、立法者の資格を備える、適切な成分であることを、はっきり証明した。法律を、最もよく説明し、解釈し、適用するのは、法律をねじ曲げ、混乱させ、くぐり抜けることに、利益と能力を持つ者たちだとも、証明した。お前たちの中には、もとは、まずまずだったかもしれぬ制度の、輪郭が幾つか見える。だが、それも半ば消され、残りも、腐敗によって、すっかりぼやけ、塗りつぶされている。これまでの話からは、何らかの地位を得るのに、何らかの優れた資質が、必要とされることが、少しも見えてこない。まして、美徳によって人が貴族となり、信心や学識によって聖職者が、指揮の腕や勇敢さによって兵士が、誠実さによって裁判官が、祖国への愛によって議員が、知恵によって顧問が、出世するとは、到底見えぬ。お前自身については」と国王は続けた。「生涯の大半を旅して過ごしたのだから、これまで、祖国の多くの悪徳を免れてきたかもしれぬと、好意的に考えたい。だが、お前自身の話と、私が苦労して絞り出し、無理に引き出した答えから、知った限りでは、お前の国の者の大半は、自然が地の表を這うことを許した、最も有害な、小さく忌まわしい害虫の種族だと、結論せざるをえない。」

第七章

著者の愛国心。国王に大いに利益となる提案をするが、退けられる。国王が政治にきわめて無知であること。この国の学問は、非常に不完全で範囲が狭い。法律、軍事、国内の党派について。

私の物語のこの部分を隠さずにおいたのは、ひとえに、真実を何より愛するためである。憤りを表に出しても無駄だった。いつも笑いものにされるばかりで、私の気高く愛する祖国が、これほど不当に扱われる間、じっと辛抱しているほかなかった。このようなことを言われるきっかけを与えたのは、読者の誰にも劣らず、私も心から残念に思っている。しかし、この君主は、どんな細かなことにも強い好奇心を持ち、しきりに尋ねる人だったから、私に答えられる限りのことをお聞かせしなければ、感謝にも礼儀にも背くことになったのである。それでも、弁明のために、これだけは言わせていただきたい。私は、数多くの質問を巧みにかわし、どの点についても、厳密に真実を守るなら許されないほど、はるかに好意的な説明をした。ハリカルナッソスのディオニュシオスが、歴史家に向かって、きわめてもっともなことに勧めている、あの称賛すべき祖国びいきを、私はいつも胸に抱いてきたからだ。国家というわが母の弱点と醜さは隠し、その美徳と美しさを、最も好ましく見える光の下に置きたいと思った。この君主と何度も語り合う間、私は誠心誠意、そう努めたのだが、不幸にも、成功には至らなかった。

だが、世界の他の部分と完全に隔絶して暮らし、したがって、他国で最も広く行われている作法や習慣を、まったく知らないはずの国王には、大いに酌量の余地がある。この知識を欠けば、数多くの偏見と、ある種の考え方の狭さが、必ず生まれる。我々や、ヨーロッパの、もっと洗練された国々には、まったくないものである。そして、あれほど遠く離れた君主の、善悪についての考えが、全人類の基準として持ち出されるとしたら、実に困ったことになろう。

いま述べたことの裏づけとし、また、狭い教育が生む哀れな結果を、さらに示すため、ここに、とても信じてもらえそうにない一件を記すことにする。陛下に、いっそう気に入っていただきたいと思い、私は、次のように申し上げた。「三百年から四百年前に、ある粉を作る発明がなされました。この粉を積み上げた中に、ほんの小さな火花が落ちるだけで、たとえ山ほどの大きさでも、一瞬で全体に火がつき、雷より激しい音と震動を起こし、すべて一度に空へ吹き上がるのです。真鍮か鉄の中空の管に、その大きさに応じて適量の粉を詰めれば、鉄か鉛の玉を、何ものもその力に耐えられぬほどの勢いと速さで撃ち出します。こうして撃つ最大の玉は、一度に軍隊の列を丸ごと破壊するばかりか、最も堅固な城壁を打ち崩し、千人ずつ乗った船を海底へ沈め、玉を鎖でつなげば、帆柱や索具を切断し、何百人もの胴体を真っ二つにして、行く手のすべてを荒れ果てさせます。我々は、この粉を大きな中空の鉄の玉に入れ、攻囲している町へ、機械で撃ち込むこともよくあります。玉は、舗石を引きはがし、家々をずたずたにし、破裂して、あらゆる方向へ破片を飛ばし、近くにいる者すべての脳髄を打ち砕きます。私は、その原料をよく知っています。安価で、ありふれた品々です。調合の仕方も心得ていますし、陛下の王国の他のすべての物に釣り合う大きさで、この管を作る方法を、職人たちに指図できます。最大のものでも、長さは百フィートを超える必要はありません。そのような管を二、三十本、適量の粉と玉で装填すれば、数時間で、陛下の領土にある最も堅固な町の城壁を打ち崩せますし、もし都が陛下の絶対の御命令に逆らおうとすることがあれば、都全体を破壊することさえできます」。これまで幾度となく、陛下の御寵愛と御庇護を賜ったお返しに、感謝のささやかな印として、私は、この申し出を、恭しく差し上げたのである。

国王は、その恐ろしい機械の説明と、私の提案を聞くと、恐怖に打たれた。「お前のように、無力で、地を這う虫けらが」――これは、王が使った言葉そのままである――「どうして、そのように非人間的な考えを抱き、しかも、破壊する機械のありふれた結果だとして描いてみせた、流血と荒廃の数々に、まったく心を動かされない様子で、平然と話せるのか、驚くほかはない。その機械を最初に考えついたのは、人類の敵である、何か邪悪な精霊に違いない」と言った。そして、御自身については、「技術や自然の新しい発見ほど、うれしいものは、ほとんどないが、そのような秘密を知るくらいなら、王国の半分を失うほうがよい」と断言し、命が惜しければ、二度と、この話を口にするなと、私に命じたのである。

何と奇妙な、主義と見識の狭さの結果だろう。尊敬、愛情、敬意を集めるあらゆる資質を備え、頭脳明晰で、知恵に富み、学識深く、見事な才能に恵まれ、臣民からは、ほとんど神のように崇められている君主が、ヨーロッパでは、想像さえできない、細かな、無用の良心のとがめから、民の命、自由、財産を、まったく思いのままにできる絶対の主となる機会を、手中に与えられながら、取り逃がしてしまうとは。とはいえ、この優れた国王の、数多くの美徳を損なおうなどという意図は、私には少しもない。この一件のため、イングランドの読者が抱く王の人物評は、ひどく低くなるに違いないと、私も承知している。しかし、この国の人々にある欠点は、ヨーロッパの、より鋭い知性の持ち主たちがしたように、政治を、まだ学問に仕立てていない、その無知から生じるものと思う。ある日、国王と話していて、私が、ふと、「我が国には、統治の技術について書かれた本が、数千冊あります」と言ったところ、私の意図とは正反対に、我々の知力について、ひどく低い評価を抱かせてしまったことを、よく覚えている。王は、君主であれ大臣であれ、あらゆる秘密めかし、手の込んだ策、陰謀を、嫌悪し、軽蔑する、と公言した。敵や、競争する他国が関わってもいないのに、国家の機密とは、どういう意味なのか、理解できないのである。統治の知識というものを、王は、きわめて狭い範囲に限っていた。常識と理性、正義と寛大さ、民事と刑事の速やかな裁決、それに、ここで取り上げる値打ちもない、二、三の明白な事柄だけである。そして、「これまで穀物の穂が一本、草が一本しか生えなかった土地に、二本生やせる者がいれば、政治家という連中を、全部寄せ集めたよりも、人類に対する功績は大きく、祖国への奉仕も、もっと実質のあるものになる」との意見を述べた。

この国民の学問は、きわめて不完全で、道徳、歴史、詩、数学だけから成っている。もっとも、その分野では、優れていると認めなければならない。だが、最後の数学は、もっぱら実生活に役立つこと、農業の改良、あらゆる機械技術に応用されているので、我々の間なら、大して尊重されまい。観念、実体、抽象概念、超越概念といったものに至っては、どれほど言っても、彼らの頭へ、ほんの少しも理解を押し込むことができなかった。

この国では、どの法律も、その語数が、アルファベットの文字数を超えてはならない。文字は、全部で二十二しかない。実際には、その長さに達する法律さえ、めったにない。最も明白で、簡単な言葉で書かれており、この国の人々は、そこから二通り以上の解釈を見つけ出せるほど、機転が利かない。法律の注釈を書くことは、死罪である。民事事件の裁決や、犯罪者の訴追については、判例があまりに少ないので、どちらかで特別な熟練を誇れる理由も、ほとんど持っていない。

この国では、中国人と同様に、記憶も届かない昔から、印刷術があった。しかし、蔵書は、さほど多くない。最大とされる国王の図書室でも、千冊を超えず、長さ千二百フィートの回廊に並べられている。私は、好きな本を自由に借りてよかった。王妃の指物師が、グラムダルクリッチの部屋の一つに、高さ二十五フィートの、立てかけた梯子の形をした、木の仕掛けを工夫してくれた。段は、一段ごとに、長さ五十フィートあった。実際には、動かせる階段で、下の端は、部屋の壁から十フィート離れた所に置かれた。読みたい本を壁に立てかけ、まず梯子の最上段へ上がる。そして、本のほうを向き、頁の上から読み始め、行の長さに応じて、右へ左へ、八歩か十歩ほど歩き、目の高さより少し下まで進むと、一段ずつ降りていき、頁の下端まで読んだ。それから、また上へ登り、同じように、もう一方の頁を読み始め、読み終えると、一枚めくった。両手を使えば、容易にできたのである。紙は、厚紙ほど厚く、硬かったが、最も大きな二つ折判でも、長さは十八フィートか二十フィートを超えなかった。

この国の文体は、明快で、力強く、滑らかだが、華美ではない。不要な言葉を重ねたり、さまざまな言い換えを用いたりすることほど、彼らが避けるものはないからだ。私は、この国の本を、数多く、特に歴史と道徳について読んだ。中でも、古い小さな論考が、たいそう面白かった。いつも、グラムダルクリッチの寝室に置いてあり、娘の家庭教師を務める、まじめな年配の婦人の所有だった。道徳や信心の書を好む人である。その本は、人間の弱さを扱い、女や庶民のほかには、大して評価されていなかった。それでも、この国の著者が、こうした主題で、何を言うのか、私は知りたかった。この著者は、ヨーロッパの道徳家が使う、お決まりの論点を、一通りたどり、「人間は、生まれつき、何と小さく、取るに足らず、頼りない動物であるか。厳しい天候や、野獣の猛威から、身を守る力は、何と乏しいことか。力では、ある生き物に、速さでは、別の生き物に、先を見通す力では、また別の生き物に、勤勉さでは、さらに別の生き物に、どれほど劣っていることか」と示した。さらに、「世界が衰えゆく、この晩い時代には、自然も退化して、古代のものと比べれば、小さな出来損ないしか生み出せなくなった」と付け加えた。また、「人類が、もともと、はるかに大きかったばかりか、昔は巨人もいたに違いないと考えるのは、きわめて理にかなっている。歴史や伝承がそう語るだけでなく、王国の各地で、たまたま掘り出された、巨大な骨や頭蓋が、今日の、縮みきった普通の人間を、はるかにしのぐことによっても、それは確かめられている」と述べた。さらに、「家から瓦が落ちてきたり、少年が石を投げたり、小さな小川で溺れたりと、どんな些細な事故でも、すぐ命を失うようであってはならず、初めから、もっと大きく、頑丈な体に造られていなければならないことを、自然の法則そのものが、絶対に要求している」と論じた。こうした推論から、著者は、生活の指針となる、有益な道徳上の教訓を、幾つも引き出したが、ここで繰り返す必要はない。私としては、自分たちから自然に不平を申し立てては、そこから、道徳の訓戒、というより、むしろ、不満と愚痴の種を引き出す、この才能が、いかに広く行き渡っているかと、考えずにいられなかった。そして、厳しく調べれば、こうした不平には、我々の間でも、この国の人々と同じように、根拠がないと、示せるのではないかと思う。

軍事について言えば、この国では、国王の軍隊が、歩兵十七万六千、騎兵三万二千から成ると、自慢している。もっとも、都市の商工業者と、田舎の農夫で編成され、貴族や郷紳だけが、俸給も報酬もなく、指揮官を務めるものを、軍隊と呼べるとしてのことだ。たしかに、訓練は十分に行き届き、規律も、きわめてよい。だが、私は、そこに大した功績を認めなかった。農夫は、それぞれ自分の地主の指揮下にあり、町の者は、ヴェネツィアの流儀で、投票によって選ばれた、自分の都市の有力者の指揮下にあるのだから、そうならないはずがないではないか。

私は、ロルブルグルードの民兵が、市の近くの、一辺二十マイルある大きな野原へ、訓練のために整列するのを、何度も見た。総勢で、歩兵二万五千、騎兵六千を超えなかったが、占めている土地の広さを考えると、私には、人数を数えることは不可能だった。大きな軍馬に乗った騎兵は、高さ九十フィートほどもあったろう。この騎兵隊の全員が、号令一下、いっせいに剣を抜き、空中に振りかざすところを、私は見たことがある。あれほど壮大で、驚くべき、目を見張るものは、想像でも描けない。空のあらゆる方角から、同時に一万の稲妻が、走るかのようだった。

他国から領土へ入る道が、まったくない、この君主が、どのようにして軍隊を思いつき、国民に軍事の訓練を教えるようになったのか、私は知りたかった。だが、人と話したり、この国の歴史書を読んだりするうちに、すぐに事情がわかった。長い年月の間、この国も、全人類に共通する病に悩まされてきたのである。貴族は権力を、人民は自由を、王は絶対の支配権を求め、しばしば争ってきた。王国の法律によって、これらが、どれほどうまく調整されていたにしても、三者が、それぞれ、ときには、その法律を破り、内戦を引き起こしたことも、一度ではなかった。その最後の内戦を、この王の祖父が、全体の和解をまとめて、幸いにも終結させ、そのとき、共通の同意によって設けられた民兵は、それ以来、きわめて厳格に、職務を守っているのである。

第八章

国王と王妃が、国境地方へ巡幸する。著者も同行する。この国を去るいきさつを、きわめて詳しく述べる。イングランドへ帰る。

私は、いつの日か、自由を取り戻すに違いないという、強い思いを、いつも抱いていた。とはいえ、どうやってかは、見当もつかず、少しでも成功の望みのある計画など、何一つ立てられなかった。私の乗ってきた船は、知られている限りでは、この海岸の見える所まで流されてきた、初めての船であった。国王は、もし、いつか別の船が現れたら、岸へ引き揚げ、船も、乗組員も乗客も、すべて荷車でロルブルグルードへ運んでこいと、厳命していた。私と同じ大きさの女を手に入れ、その女との間に、私の種族を増やさせたいと、強く願っていたのである。しかし、飼い慣らしたカナリアのように、籠へ入れられ、やがては、珍品として、王国のあちこちの身分の高い人々へ売られるかもしれない、そんな子孫を残す恥辱に甘んじるくらいなら、私は、むしろ死んでいたと思う。たしかに、たいそう親切にはされた。偉大な国王と王妃のお気に入りであり、宮廷全体を喜ばせる存在だった。だが、それは、人間の尊厳に、似つかわしくない立場でのことだった。故郷へ残してきた、愛する家族を、私は決して忘れられなかった。対等に話せる人々の中へ戻り、蛙や小犬のように、踏み殺される心配をせずに、通りや野原を歩きたかった。だが、救いは、思いがけず早く、あまりありふれていない仕方で訪れた。その話と、あらゆる事情を、ここに忠実に語ることにする。

この国で、すでに二年を過ごし、三年目の初め頃、グラムダルクリッチと私は、王国の南海岸へ巡幸する、国王と王妃に従った。私は、いつものように、旅用の箱で運ばれた。すでに説明したように、幅十二フィートの、たいへん便利な小部屋である。そして、私が、ときおり望むように、召使いが馬上で、自分の前へ載せて運ぶとき、揺れを和らげるため、天井の四隅から、絹の綱でハンモックを吊るさせてあった。道中は、よく、そのハンモックで眠った。小部屋の屋根には、ハンモックの中央の真上を避け、一フィート四方の穴を、指物師に開けさせてあった。暑い日に眠るとき、風を入れるためである。この穴は、溝に沿って前後へ滑る板で、好きなときに閉められた。

目的地へ着くと、国王は、海辺から、イングランドの尺度で十八マイル以内にある、フランフラスニックという都市の近くの宮殿で、数日を過ごすことにした。グラムダルクリッチも私も、たいそう疲れていた。私は、少し風邪をひいていたが、気の毒な娘は、もっと具合が悪く、部屋から出られなかった。私は、海を見たくてたまらなかった。いつか脱出できるとしても、そこを通るほかは、なかったからだ。実際よりも具合が悪いふりをして、海の新鮮な空気を吸いに出る許しを願い、私が、とても気に入り、ときには私の世話を任される小姓を、お供に頼んだ。グラムダルクリッチが、どれほど不承不承に同意したか、どれほど厳しく、私を大切に扱えと、小姓に言い聞かせたか、私は決して忘れない。そのとき、娘は、起こることを予感でもしたかのように、わっと泣き出したのである。少年は、私を箱に入れて連れ出し、宮殿から歩いて三十分ほどの、海辺の岩場へ向かった。私は、箱を下ろすよう命じ、上げ下げ窓の一つを持ち上げて、何度も、切なく、物悲しい思いで、海を眺めた。あまり気分がよくなかったので、ハンモックで、ひと眠りすれば、よくなるだろうから、そうしたいと、小姓に告げた。私が中へ入ると、少年は、寒さを防ぐため、窓をしっかり下ろした。ほどなく、私は眠ってしまった。その間に何があったかは、想像するほかないが、小姓は、危険など起こりようがないと思い、鳥の卵を探しに、岩場へ行ったらしい。以前にも、窓から見ると、岩の割れ目を探し回り、卵を一つ二つ拾っていたからだ。それはともかく、箱の天井に、運ぶための便宜として取りつけてあった輪が、激しく引かれ、私は突然、目を覚ました。箱が空中へ高々と持ち上がり、それから、ものすごい速さで、前へ運ばれるのがわかった。最初の衝撃では、ハンモックから振り落とされそうになったが、その後は、動きも、かなり滑らかだった。何度も、出せる限りの大声で叫んだが、何の役にも立たなかった。窓のほうを見ると、雲と空しか見えなかった。頭の真上で、翼を打つような音がして、ようやく、自分の陥った、悲惨な境遇がわかりかけた。鷲が、箱の輪を嘴にくわえているのである。殻に入った亀のように、岩へ落としてから、私の体をつつき出し、食べるつもりなのだ。この鳥は、鋭い知恵と嗅覚によって、厚さ二インチの板の中の私よりも、ずっとうまく隠れている獲物さえ、はるか遠くから見つけ出せるからである。

しばらくすると、物音と羽ばたきが、急に激しくなり、箱は、風の強い日の看板のように、上下へ揺さぶられた。鷲が、何度も殴られ、打たれるような音がした。箱の輪を嘴にくわえていたのは、鷲に違いないと、私は確信している。それから、まったく突然、一分以上にわたり、まっすぐ下へ落ちていくのを感じた。その速さは、信じられぬほどで、ほとんど息が止まりそうだった。耳には、ナイアガラの滝より大きく響く、恐ろしい、どぶんという音で、落下が止まった。それから、また一分ほど、真っ暗闇になったが、やがて、箱が浮き上がり、窓の上端から、光が見える高さになった。海へ落ちたのだと、ようやくわかった。私の体と、中の品々と、補強のために、上下の四隅へ取りつけた、幅広い鉄板の重みで、箱は、水中に五フィートほど沈んで浮いていた。あのときも、いまも、私は、箱を持ち去った鷲が、獲物の分け前を狙う、二羽か三羽の鷲に追われ、身を守る間、私を落とさざるを得なかったのだと思っている。箱の底の鉄板は、最も頑丈だったので、落下の間も釣り合いを保ち、水面に当たって、箱が壊れるのを防いだ。継ぎ目は、すべて、溝できっちり組み合わせてあり、扉も、蝶番で動くのではなく、上げ下げ窓のように、上下へ動いたので、小部屋は、たいへん密閉され、ほとんど水が入らなかった。空気が足りず、息が詰まりかけたので、私はまず、思い切って、すでに述べた、空気を通すための、屋根の引き板を開けた。それから、ひどく苦労して、ハンモックから出た。

いとしいグラムダルクリッチのそばにいられたらと、そのとき、何度願ったことだろう。たった一時間で、これほど遠く隔てられてしまったのである。そして、私自身の不幸のただ中でも、気の毒な世話役の娘を、私を失ったために味わう悲しみと、王妃の不興と、将来が台無しになることとを、嘆かずにいられなかったのは、本当だと言える。このときの私より、ひどい難儀と苦しみに遭った旅人は、そう多くなかったろう。最初の烈風や、盛り上がる波で、いつ、箱が粉々に砕かれるか、そうでなくても、ひっくり返されるかと、絶えず思っていた。ガラスが、たった一枚割れるだけで、たちまち死ぬはずだった。旅の途中の事故に備えて、外側につけてあった、丈夫な針金の格子のほかに、窓を守るものはなかった。ひどい漏れではなかったが、あちこちの隙間から、水がにじむのが見え、できるだけ塞ごうと努めた。小部屋の屋根は、私には持ち上げられなかった。それさえできれば、必ず、そうして上へ座っていたはずだ。いわば船倉に閉じ込められたままでいるよりも、少なくとも、何時間かは、長く生きられたろう。あるいは、一日二日、この危険を逃れたとして、寒さと飢えによる、哀れな死のほか、何が望めただろうか。四時間、私は、この状態にあり、いつ、この瞬間が最期になるかと思い、実際、そうなってほしいと、願ってさえいた。

箱の窓のない面には、頑丈な輪釘が二つ取りつけてあり、馬上で私を運ぶ召使いは、そこへ革帯を通し、自分の腰に留めたことは、すでに読者へ話した。こうして、絶望の中にいると、その輪釘のある側から、何か、きしるような音が聞こえた。少なくとも、聞こえたように思った。やがて、箱が海の上を引かれ、曳かれているのではないかと、思い始めた。ときどき、引っ張られるような感じがし、そのために、波が窓の上端近くまで上がり、ほとんど暗闇になったからである。これで、かすかな救いの望みが生まれた。どのように助かるのかは、想像もつかなかったけれども。いつも床へねじ留めしてある椅子の、一脚のねじを、思い切って外した。そして、先ほど開けた引き板の真下へ、たいへんな苦労をして、またねじ留めし、その椅子に登り、穴へ、できるだけ口を近づけ、知っている言語を、すべて使い、大声で助けを呼んだ。それから、いつも持ち歩く杖へ、ハンカチを結び、穴から突き出して、空中で何度も振った。近くに小舟か船がいれば、水夫たちが、気の毒な人間が、箱へ閉じ込められているのだと、察してくれるかもしれなかった。

何をしても、何の反応もなかったが、小部屋が運ばれているのは、はっきりわかった。一時間か、それ以上たつと、輪釘のある、窓のない面が、何か硬いものにぶつかった。岩ではないかと恐れ、それまで以上に、ひどく揺さぶられた。屋根の上で、太綱のような音と、それが輪を通るときの、きしる音が、はっきり聞こえた。それから、少しずつ、前より少なくとも三フィート、高く吊り上げられるのを感じた。そこで、私は、また杖とハンカチを突き出し、ほとんど声が嗄れるまで、助けを呼んだ。すると、大きな叫び声が、三度、返ってきた。このときの、身も躍る喜びは、味わった者でなければ、想像もできない。やがて、頭の上で足音がし、誰かが、穴を通して、イングランドの言葉で、大声で呼びかけた。「下に誰かいるなら、返事をしろ」。私は、「イングランド人で、不運に導かれ、生き物の身に起こったことのないほどの、ひどい災難に陥っています。どうか、あらゆる情けにすがってお願いです。この牢獄から救い出してください」と答えた。その声は、「もう安全だ、箱は、こちらの船に縛りつけた。すぐ大工をよこし、屋根に、お前を引き出せるだけの穴を、鋸で開けさせる」と返した。私は、「その必要はありませんし、時間もかかりすぎます。乗組員の一人が輪へ指を入れ、海から船へ箱を引き上げ、そのまま船長室へ運んでくだされば、それだけで済むことです」と答えた。こんな、でたらめな話を聞いて、気が狂ったと思った者もあり、笑った者もあった。実際、いまや、自分と同じ背丈と力の人々の中に戻っているのだとは、まったく思い至らなかったのである。大工が来て、数分で、四フィート四方ほどの穴を鋸で開け、小さな梯子を下ろした。私は、それを登り、ひどく衰弱した状態で、船へ運び入れられた。

水夫は皆、仰天し、数えきれぬほどの質問を浴びせたが、私には、答える気が起こらなかった。私も同じように、これほど多くの小人を見て、面食らっていた。長い間、あの国の、途方もなく大きな物を見慣れていたので、彼らは、そう見えたのである。しかし、船長のトマス・ウィルコックス氏は、シュロップシャー出身の、誠実で立派な人で、私が気を失いそうなのに気づくと、自分の船室へ連れていき、気つけ薬を飲ませて元気づけ、自分の寝床へ寝かせ、少し休むよう勧めた。私は、それを、たいへん必要としていた。眠る前に、箱には、失うには惜しすぎる、貴重な家具があると、知らせた。上等なハンモック、立派な折り畳み式の寝台、椅子二脚、卓一つ、それに飾り戸棚である。小部屋の内側は、一面に絹と綿を張ってある、というより、綿を入れた絹の布張りになっていること、もし乗組員の一人に命じて、小部屋を船長室へ運んでもらえれば、船長の前で開け、品々をお目にかけよう、とも言った。船長は、私が、こんな馬鹿げたことを言うので、うわごとを言っていると、結論した。それでも、私の頼みどおり命じようと約束した。おそらく、なだめるためだったろう。甲板へ上がると、何人かを私の小部屋へ下ろした。後でわかったことだが、彼らは、そこから私の品々を全部引き上げ、布張りも剥ぎ取った。だが、椅子、飾り戸棚、寝台の枠は、床へねじ留めしてあったのを、事情を知らぬ水夫たちが、力ずくで引きはがしたため、ひどく傷んだ。それから、船で使うため、板を何枚か取り外し、欲しいものを全部取ると、抜け殻を海へ落とした。底と側面に、数多くの穴が開いていたので、すぐに沈んだ。実際、その荒らしようを、目撃せずに済んでよかった。忘れてしまいたい、昔のさまざまな場面を思い出し、きっと深く心を痛めたはずだからである。

何時間か眠ったが、離れてきた土地や、逃れてきた危険の夢に、絶えず悩まされた。それでも、目を覚ますと、ずいぶん元気になっていた。もう夜の八時頃で、船長は、私が長く食べていないと考え、すぐ夕食を命じた。私の目つきが、おかしくもなく、話にも辻褄が合わないところはないと見て、たいそう親切にもてなしてくれた。そして、二人きりになると、これまでの旅と、どんな成り行きで、あの巨大な木の箱に入れられて漂流することになったのか、話してほしいと言った。船長は、こう話した。「正午の十二時頃、望遠鏡をのぞいていると、遠くに、あれが見えた。帆だと思ったし、進路からも、大して外れていないので、近づき、乾パンを少し買おうと考えた。こちらの蓄えが、乏しくなっていたからだ。近づいて、間違いに気づき、何か確かめさせるため、長艇を出した。すると、水夫たちは、ひどくおびえて戻り、泳ぐ家を見たと、言い張った。私は、その愚かさを笑い、自分で小舟に乗り込み、丈夫な太綱を持ってくるよう命じた。海は穏やかだったので、あなたの周りを、何度も漕いで回り、窓と、それを守る針金の格子を見た。一方の側は、明かり取りがなく、一面、板張りで、そこに輪釘が二つあるのを見つけた。そこで、その面へ漕ぎ寄せるよう命じ、輪釘の一つへ太綱を結びつけ、箱――我々は、そう呼んだのだが――を、船のほうへ曳かせた。着くと、屋根の輪へ、別の太綱を結び、滑車で吊り上げるよう命じたが、水夫全員でかかっても、二、三フィートしか上げられなかった」。また、「穴から、あなたの杖とハンカチが突き出るのを見て、気の毒な人が、中に閉じ込められているに違いないと判断した」と言った。私は、「最初に私を見つけた頃、御自身か乗組員の誰かが、空に、途方もなく大きな鳥を見ませんでしたか」と尋ねた。「あなたが眠っている間、水夫たちと、その話をしたところ、一人が、三羽の鷲が北へ飛んでいくのを見たと言ったが、普通より大きいとは、気づかなかったそうだ」との答えだった。それは、鷲が、たいそう高い所にいたためだろうと、私は思う。船長には、私の質問の理由が、見当もつかなかった。それから私は、「陸から、どのくらい離れているとお考えですか」と尋ねた。「できるだけ正確に見積もって、少なくとも百リーグだ」と、船長は言った。私は、「その見積もりは、半分近くも違うはずです。海へ落ちるまで、あの国を離れて二時間もたっていなかったのですから」と、請け合った。すると、船長は、また、私の頭が混乱していると思い始め、それを、ほのめかし、用意した船室へ行って寝るよう勧めた。私は、「御親切なおもてなしと、お話のおかげで、十分に元気になり、生まれてこのかた、これ以上ないほど、正気です」と、請け合った。そこで、船長は、真顔になり、率直に質問したいと言った。「何か、とんでもない罪を犯した良心のとがめで、心を悩ませているのではありませんか。その罰に、ある君主の命令で、あの箱へ入れられ、流されたのでは。よその国では、大罪人を、食糧もない、水の漏る船に乗せ、海へ追いやることがあります。これほど悪い人を、自分の船へ迎えたのなら、残念ですが、それでも、最初に着く港で、安全に上陸させることは、お約束します」。そして、「最初に水夫へ、それから私へも、あの小部屋、または箱について、ひどく馬鹿げたことを、いろいろ言われたし、夕食中の、変わった目つきや振る舞いもあって、疑いが、いっそう強くなったのです」と付け加えた。

私は、辛抱して話を聞いてほしいと頼み、最後にイングランドを出てから、船長が私を見つける瞬間までのことを、忠実に語った。真実は、いつも、理性ある心へ、道を開いて入り込むものであり、いくらか学問の心得もあり、分別にも富んだ、この誠実で立派な人は、すぐに、私の率直さと、話の真実を確信した。だが、述べたことの、いっそうの裏づけに、飾り戸棚を運んでくるよう、命じてほしいと頼んだ。鍵は、ポケットにあった。水夫たちが、私の小部屋をどう処分したかは、すでに、船長から聞かされていたのである。船長の前で戸棚を開け、あのように不思議な仕方で救い出された国で、集めた珍品の、ささやかな収集を見せた。国王の髭の切れ端で作った櫛と、同じ材料ながら、王妃の親指の爪の切れ端に植え、爪を背にした、もう一つの櫛があった。一フィートから半ヤードの長さの針とピンの収集、指物師の鋲のような、四本の蜂の毒針、王妃が髪を梳いたときの抜け毛、それに、ある日、王妃が、たいそう親切に、小指から抜き、首輪のように、私の頭から掛けて贈ってくださった、金の指輪があった。私は、御厚意へのお礼として、ぜひ、この指輪を受け取ってほしいと、船長へ頼んだが、きっぱり断られた。また、宮廷の侍女の足の指から、自分の手で切り取った魚の目も見せた。ケント産のピピン林檎ほどの大きさで、たいそう硬くなっていたので、イングランドへ帰ってから、中をくりぬいて杯にし、銀で縁取りをしてもらった。最後に、そのとき、私が穿いていた、鼠の皮で作った半ズボンを、見てもらった。

どうしても受け取ってもらえたのは、従僕の歯だけだった。船長が、たいへん興味深そうに調べ、欲しがっているのがわかったからだ。船長は、こんな些細な品に、そこまで言うには及ばないほど、幾度も礼を述べて、受け取った。グラムダルクリッチの召使いの一人が、歯痛で苦しんでいたとき、下手な外科医が、間違えて抜いた歯で、他のどの歯にも劣らず、健全だったのである。私は、それをきれいにしてもらい、飾り戸棚へ入れておいた。長さは一フィートほど、直径は四インチあった。

船長は、私の、この飾り気のない話に、すっかり納得し、「イングランドへ帰ったら、ぜひ、書き留めて公にし、世間のために役立ててもらいたい」と言った。私は、こう答えた。「旅行記は、もう多すぎるほどあります。いまでは、並外れたことでもなければ、通用しません。そのため、著者の中には、真実よりも、自分の虚栄心や利益、あるいは、無知な読者を面白がらせることを、大切にする者がいるのではないかと思います。私の物語は、ありふれた出来事のほか、ほとんど何もなく、大抵の書き手が、ふんだんに盛り込む、珍しい草木や鳥や、その他の動物、あるいは、未開人の野蛮な習慣や偶像崇拝についての、飾り立てた描写もありません。それでも、御好意は、ありがたく存じますし、このお話は、考えてみると、お約束します」。

船長は、「一つ、たいへん不思議なのは、あなたの話す声が、あれほど大きいことだ」と言い、「あの国の国王か王妃は、耳が遠かったのですか」と尋ねた。私は、「二年以上、ずっと、その話し方に慣れてきたのです。私のほうも、船長や乗組員の声には、同じくらい驚いています。ささやき声にしか聞こえないのに、それでも、十分に聞き取れるからです。あの国で話すときには、卓の上に載せられたり、誰かの手に持たれたりしていない限り、街路にいる人が、鐘塔のてっぺんから顔を出している相手へ、話しかけるようなものでした」と答えた。また、「もう一つ気づいたことがあります。最初に船へ乗り、水夫たちが周りに集まったとき、この人たちほど、小さく、取るに足らぬ生き物は、見たことがないと思いました」と言った。実際、あの君主の国にいた間、途方もなく大きな物に目が慣れてしまうと、鏡を見るのが、とても耐えられなかった。比べてみると、自分が、あまりに卑小なものに思えたからだ。船長は、「夕食中も、あなたは、何を見ても、どこか驚いている様子で、笑いを抑えるのが、やっとのように見えることも、たびたびありました。どう受け取ってよいのかわからず、頭の具合が悪いのだろうと、思っていました」と言った。「まったく、そのとおりです。皿が三ペンス銀貨ほどの大きさで、豚の脚が、ほとんど一口にも足りず、杯が、木の実の殻ほどもないのを見て、よく笑わずにいられたものです」と、私は答え、それからも、同じ調子で、他の家財や食べ物を説明し続けた。王妃のおそばに仕えていた間、必要なものは、すべて、私用の小さな道具を揃えるよう、王妃が命じてくださったとはいえ、私の考えは、周囲に見える物だけで、いっぱいになっていた。そして、人が自分の欠点に目をつぶるように、自分自身の小ささには、目をつぶっていたのである。船長は、私の冗談をよく理解し、イングランドの古い諺で、愉快そうに返した。「きっと、腹より目のほうが大きいのでしょう。一日、何も食べていないわりには、それほど食欲があるようには、見えませんでしたからね」。そして、なおも上機嫌で、「鷲の嘴にくわえられた、あなたの小部屋と、その後、あれほど高い所から海へ落ちるところを見られたなら、百ポンドでも、喜んで払ったろう。あれは、きっと、後世へ、その描写を伝える値打ちのある、たいそう驚くべき眺めだったに違いない」と、言い切った。パエトンとの比較が、あまりに思いつきやすかったので、言わずにいられなかったのである。もっとも、私は、その思いつきを、さほど面白いとは思わなかった。

船長は、トンキンへ行き、イングランドへ帰る途中、北東へ流され、緯度四十四度、経度百四十三度の地点まで来ていた。しかし、私が乗船して二日後、貿易風に出会い、長い間、南へ進んだ。それから、ニューホランドの沿岸を通り、西南西へ針路を保ち、次に、南南西へ進んで、喜望峰を回った。航海は、たいそう順調だったが、その日誌で、読者を煩わせることはしない。船長は、一つか二つの港へ立ち寄り、食糧と真水を積み込むため、長艇を出した。しかし、私は、ダウンズ泊地へ入るまで、一度も船を離れなかった。それは、一七〇六年六月三日で、脱出してから、九か月ほどたっていた。船賃を支払う担保に、品々を置いていこうと申し出たが、船長は、一ファージングも受け取らぬと、言い切った。我々は、心を込めて別れを告げ合い、私は、レッドリフの自宅へ、ぜひ訪ねてきてもらう約束を取りつけた。船長から借りた五シリングで、馬と案内人を雇った。

道中、家や、木や、家畜や、人々の小ささを見ていると、自分は、リリパットにいるのではないかと、思い始めた。出会う旅人を、皆、踏みつけてしまうのではないかと恐れ、道をあけるよう、たびたび大声で呼びかけた。そのため、無礼な振る舞いへの仕返しに、危うく、一度か二度、頭を割られるところだった。

自宅に着くにも、場所を人に尋ねなければならなかった。召使いの一人が戸を開けると、私は、頭をぶつけるのを恐れ、門の下をくぐる鵞鳥のように、身をかがめて入った。妻が、抱きつこうと走り出てきたが、私は、妻の膝よりも低く、腰をかがめた。そうしなければ、妻は、私の口に、どうしても届くまいと思ったのである。娘は、祝福を乞うために跪いたが、立ち上がるまで、私には見えなかった。長い間、頭と目を、六十フィート以上も上へ向けて立つのに、慣れきっていたからだ。それから、娘の腰を片手でつかみ、持ち上げようとした。召使いたちや、家にいた一人二人の友人を、私が巨人で、彼らは小人であるかのように、見下ろした。妻には、「お前は、倹約しすぎたのだな。お前も娘も、食べ物を切り詰め、すっかり、やせ衰えてしまったではないか」と言った。要するに、私の振る舞いが、あまりに訳のわからぬものだったので、皆、最初に私を見たときの船長と、同じ考えになり、気が狂ったのだと、結論した。これを述べるのは、習慣と偏見が、いかに大きな力を持つかを示す、一例としてである。

しばらくすると、私と、家族や友人との間では、きちんと話が通じるようになった。だが、妻は、「もう二度と、海へ出てはいけません」と、言い張った。もっとも、私の悪い運命は、読者も、この先おわかりになるとおり、妻の力では、それを止められぬように、事を運んだのである。ひとまず、ここで、私の不運な航海の、第二部を終える。

第三部 ラピュタ、バルニバービ、グラブダブドリブ、ラグナグおよび日本への航海

第一章

著者、第三の航海に出る。海賊に捕らえられる。オランダ人の悪意。ある島への到着。ラピュタに迎え入れられる。

家に戻って十日もたたないうちに、コーンウォール出身のウィリアム・ロビンソン船長が訪ねてきた。三百トンの頑丈な船、ホープウェル号の船長である。以前、彼が船長を務め、船の四分の一の持分を所有していた別の船で、私は船医としてレヴァントへ航海したことがあった。彼はいつも私を、下役というより兄弟のように扱ってくれた。帰国を聞いて訪ねてくれたのも、ただ友情からだろうと思った。久しぶりの再会に交わす、ごく普通の話しかしなかったからである。だが、その後も何度となく訪ねてきて、私が元気なのを喜び、「もう一生ここに落ち着くつもりなのか」と尋ね、「二か月後に東インドへ航海するつもりだ」と言い添えるうちに、とうとう、多少遠慮しながらも、はっきり船医になってくれと誘ってきた。二人の船医助手のほかに、私の下にもう一人船医を置き、給料は普通の倍にするという。さらに、海事に関する私の知識が、少なくとも自分に劣らぬことは経験でわかっているから、私も指揮を分担しているのと同じくらい、私の助言に従うという約束なら、どのような形でも交わすと言った。

彼はほかにも、心のこもったことをいろいろと言ってくれたし、その誠実な人柄もよく知っていたので、私はこの申し出を断れなかった。これまでの不運にもかかわらず、世界を見たいという渇望は、相変わらず激しかったのである。残る難関は妻の説得だけだったが、それも、子供たちのためになるという妻自身の見込みによって、ついに同意を得られた。

私たちは一七〇六年八月五日に出航し、一七〇七年四月十一日にセント・ジョージ要塞へ着いた。乗組員には病人が多かったので、休養のために三週間滞在した。そこからトンキンへ行ったが、船長が買い付けるつもりの商品は、まだ多くがそろっておらず、数か月は出発できそうになかったため、しばらくとどまることにした。そこで船長は、必要になる費用を少しでもまかなおうと、スループ船を一隻買い、トンキン人がふだん近くの島々との交易に使う、さまざまな品を積み込んだ。十四人を乗り組ませ、そのうち三人は現地の者だった。そして私をその船の船長に任じ、自分がトンキンで用事を片づけている間、交易を行う権限を与えた。

出航して三日もたたないうちに大嵐となり、五日間、北北東へ流され、その後、東へ流された。それから天気は回復したが、西からはなお、かなり強い風が吹いていた。十日目に二隻の海賊船に追われ、すぐに追いつかれた。私のスループ船は荷を積みすぎていて、ひどく足が遅く、身を守る備えもなかったのである。

二人の海賊の頭は、ほぼ同時に部下を率い、荒々しく船へ乗り込んできた。しかし、私たち全員が地に顔を伏せているのを見ると――そうするよう私が命じておいたのである――丈夫な縄で両腕を縛り、見張りを置いて、スループ船の捜索にかかった。

その中に、一人のオランダ人がいるのに気づいた。どちらの船の船長でもなかったが、何か権限を持っているようだった。私たちの顔つきからイングランド人とわかると、自分の国の言葉でまくし立て、背中合わせに縛って海へ放り込んでやると毒づいた。私はオランダ語を、かなり話せた。自分たちの身元を話し、キリスト教徒であり、プロテスタントであり、固い同盟を結んだ隣国の者同士なのだから、少しは憐れんでくれるよう、船長たちに取りなしてほしいと頼んだ。すると男の怒りは、いよいよ燃え上がった。同じ脅しを繰り返し、仲間のほうへ向き直ると、日本語と思われる言葉で、ひどく激しく何かを言い、クリスティアノスという語を何度も口にした。

二隻のうち大きいほうの海賊船は、日本人の船長が指揮していた。オランダ語を少し話したが、ひどく不完全だった。彼は私のところへ来て、いくつか質問をした。私がたいそうへりくだって答えると、「殺しはしない」と言った。私は深々と船長に頭を下げ、それからオランダ人のほうを向いて、「同じキリスト教徒よりも、異教徒のほうが慈悲深いとは、悲しいことだ」と言った。だが、その愚かな言葉を後悔する理由は、すぐにできた。この意地の悪い悪党は、私を海へ投げ込ませようと、二人の船長を何度も説得したが、私を殺さないと約束した以上、二人は応じず、試みは失敗した。それでも結局、どう見ても死ぬよりむごいと思われる罰を、私に受けさせるところまでは成功したのである。私の部下たちは、二隻の海賊船に半分ずつ移され、スループ船には、新しい乗組員が入れられた。私自身は、櫂と帆をつけた小さなカヌーに、四日分の食糧を積み、海へ流すことに決まった。この食糧は、日本人の船長が親切にも自分の蓄えから倍にしてくれ、私の身を探ることも、誰にも許さなかった。私がカヌーへ下りる間、オランダ人は甲板に立ち、自分の言葉で言えるかぎりの呪いと罵りを、私に浴びせ続けた。

海賊を見つける一時間ほど前、私は位置を測り、北緯四十六度、経度百八十三度にいると知っていた。海賊から少し離れたところで、携帯望遠鏡を使うと、南東に島がいくつか見えた。順風だったので帆を上げ、一番近い島を目指し、どうにか三時間ほどで着いた。島は岩ばかりだったが、鳥の卵はたくさん採れた。火を起こし、ヒースと乾いた海藻を燃やして、卵を焼いた。食糧をできるだけ節約しようと決め、夕食には、それ以外、何も食べなかった。岩陰にヒースを敷いて夜を過ごし、かなりよく眠れた。

翌日は別の島へ渡り、そこから第三、第四の島へ、帆を使ったり、櫂を使ったりして進んだ。だが、苦難を細々と述べて読者を煩わせないため、五日目に、見えるかぎりで最後の島へ着いた、とだけ言っておこう。その島は、前の島の南南東にあった。

この島は思ったより遠く、着くまで五時間はかかった。上陸に適した場所を見つけるまでに、ほとんど一周した。その場所は、私のカヌーの幅の三倍ほどしかない、小さな入江だった。島は岩ばかりで、わずかに草の茂みと、よい香りのする草が交じっていた。私はわずかな食糧を取り出し、食事で元気をつけてから、残りを洞穴にしまった。洞穴は、たいそうたくさんあった。岩場で卵をたっぷり採り、乾いた海藻と、枯れきった草を集めた。翌日、火をつけ、できるだけうまく卵を焼こうというつもりだった。火打石と火打金、火縄、それに火を起こすレンズを持っていたのである。食糧をしまった洞穴で、その夜を過ごした。寝床は、燃料にするつもりの乾いた草と海藻だった。だが、心配が疲れを打ち負かし、ほとんど眠れなかった。こんな荒れ果てた場所で、命を保つことなど不可能であり、どれほど惨めな最期になるだろうと考えた。それなのに、ひどく気力を失い、絶望していたため、起き上がる気にもなれなかった。洞穴からはい出す元気が、やっと出たころには、日もずいぶん高くなっていた。しばらく岩場を歩いた。空はすっかり晴れ、日差しがあまりに熱いので、太陽から顔を背けねばならなかった。そのとき、突然、光が遮られた。雲に遮られたときとは、まるで違う感じがした。振り返ると、私と太陽の間に、光を通さない巨大な物体があり、島へ向かって進んでいた。高さは二マイルほどに見え、太陽を六、七分間隠した。とはいえ、山陰に立った場合より、空気が冷えたり、空が暗くなったりしたようには思えなかった。それが私のいる場所の、すぐ近くの上空へ近づくと、固い物質であることがわかった。底は平らで滑らかであり、下の海を反射して、ひどく明るく光っていた。私は岸から二百ヤードほどの高所に立ち、この巨大な物体が、一イングランド・マイルもない距離で、ほとんど私と同じ高さまで下がってくるのを見た。携帯望遠鏡を取り出すと、傾斜しているらしい側面を、大勢の人々が行き来しているのが、はっきり見えた。ただ、何をしているのかまでは、見分けられなかった。

生きたいという自然な気持ちから、胸の中に喜びが動き、この出来事が、どうにかして、この荒れ果てた場所と境遇から私を救い出してくれるかもしれないと、希望を抱きかけた。同時に、人の住む島が空中にあり、その人々が、思いのままに島を上げ下げし、前へ進めるらしいと知った私の驚きは、読者にも、まず想像できまい。だが、そのときは、この現象を理屈で考える気になれず、島がどちらへ進むか、見守ることにした。しばらく、じっと止まっているように見えたからである。だが、やがて近づいてきたので、その側面には回廊が幾段も巡り、所々に、段から段へ下りる階段のあることがわかった。一番下の回廊では、長い竿で釣りをする者も、それを見ている者もいた。私は島に向かってつばのない帽子を――もとの帽子は、とうに擦り切れていた――ハンカチとともに振った。そして、さらに近づくと、ありったけの声で呼びかけ、叫んだ。それから、注意深く見回すと、私から一番よく見える側へ、人だかりができていた。人々が私を指し、互いに指し示す様子から、私をはっきり見つけたのはわかったが、叫びに返事はなかった。しかし、四、五人の男が、大急ぎで階段を駆け上がり、島の頂へ姿を消すのが見えた。この件で、何か権限のある人から命令を受けるために遣わされたのだろう、という私の推測は、当たっていた。

人はますます増え、三十分もたたぬうちに、島は位置を変えて上昇し、一番下の回廊が、私の立つ高所から百ヤードもない距離で、同じ高さに見えるようになった。私は、これ以上ないほど懇願する姿勢を取り、もっともへりくだった調子で話しかけたが、答えはなかった。正面の一番近くにいる人々は、服装から察するに、身分のある人らしかった。彼らは、何度も私を見ながら、熱心に相談していた。ついに一人が、澄んだ、洗練された、滑らかな言葉で呼びかけた。その響きはイタリア語に似ていたので、せめて調子だけでも、その耳に心地よいだろうと、私はイタリア語で答えた。互いの言葉はわからなかったが、私の窮状は見て取れたので、言いたいことは容易に伝わった。

人々は、岩を下りて岸へ行けと、身振りで示した。私はそのとおりにした。空飛ぶ島は適当な高さへ上がり、その縁が私の真上に来た。すると、一番下の回廊から、先に座席を取りつけた鎖が下ろされた。私はその席に体を固定し、滑車で引き上げられた。

第二章

ラピュタ人の癖と性質。彼らの学問について。王と宮廷について。著者の受けたもてなし。住民を襲う恐れと不安。女たちについて。

島へ降り立つと、私は群衆に取り囲まれたが、一番近くに立つ人々は、身分の高い者らしかった。彼らは、ありとあらゆる驚きの表情や仕草を見せて、私を眺めた。だが実際、私も負けずに驚いていた。姿も服装も顔つきも、こんなに奇妙な人間は、それまで見たことがなかったのである。頭は皆、右か左のどちらかへ傾き、一方の目は内へ向き、もう一方は真上の天頂を見ていた。上着には、太陽や月や星の模様が飾られ、その間に、ヴァイオリン、フルート、竪琴、トランペット、ギター、チェンバロ、さらにヨーロッパでは知られていない、さまざまな楽器の模様が織り込まれていた。あちこちに、召使いの服を着て、棒の先に殻竿のように膨らませた膀胱を取りつけ、手に持っている者がいた。あとで教わったところでは、膀胱の中には、乾いたエンドウ豆か、小石が少し入っていた。彼らは、その膀胱で、近くの人の口や耳を、ときどき、ぱたぱたと叩いた。そのときの私には、その習慣の意味が、わからなかった。この国の人々は、深い思索に頭を奪われているので、外から発声器官や聴覚器官に触れて、呼び覚ましてもらわなければ、話すことも、他人の話に注意することもできないらしい。そのため、余裕のある家では、必ず召使いの一人として、はたき役――原語ではクリメノールという――を雇い、外を歩くにも、訪問するにも、必ず連れていく。この役人の仕事は、二人、三人、あるいはそれ以上が集まったとき、話す人の口と、その話を聞く一人ないし数人の右耳を、膀胱で軽く叩くことである。また、はたき役は、主人の散歩にも注意深く付き添い、必要に応じて、目を軽く叩く。主人は、いつも考え事に夢中で、崖という崖から落ちたり、柱という柱へ頭をぶつけたり、通りで人に突き当たったり、逆に突き飛ばされて溝へ落ちたりする危険が、明らかにあるからだ。

ここで読者に、この説明をしておく必要があった。そうでなければ、島の頂へ階段を上り、そこから王宮へ私を案内した人々の振る舞いを、読者も私と同じように、理解しかねたであろう。上る途中で、彼らは何度も、自分たちが何をしているか忘れ、私を放り出したままにして、はたき役に、もう一度、記憶を呼び覚ましてもらった。私の異国風の服装や顔つきにも、考え事からもっと自由な庶民たちの叫び声にも、まるで心を動かされた様子がなかった。

ついに宮殿へ入り、謁見の間へ進むと、王が玉座に座り、両側には最高の身分の人々が控えていた。玉座の前には大きな卓があり、地球儀や天球儀、あらゆる数学用具が並んでいた。宮廷の人々が皆集まってきて、私たちの入場は、十分騒々しかったのだが、陛下は少しも気づかなかった。ちょうど問題に没頭しており、解き終わるまで、少なくとも一時間、私たちは待った。陛下の両脇には、はたきを持った若い小姓が立っていた。手が空いたと見ると、一人が口を、もう一人が右耳を軽く叩いた。王は、急に眠りから覚めた人のように、はっとして、私と連れの者たちを見た。そして、前もって知らされていた来訪の用件を、思い出した。王が何か言うと、すぐに、はたきを持つ若者が私のそばへ来て、右耳を軽く叩いた。私は、そんな道具は要らないと、できるだけ身振りで伝えたが、そのために、陛下も宮廷中の人々も、私の知性をひどく低く見たことを、あとで知った。察するところ、王はいくつか質問をした。私は、知っている言葉をすべて使って、王に話しかけた。私が相手を理解できず、相手にも理解してもらえぬとわかると、王の命令で、宮殿の一室へ案内された。この君主は、外国人へのもてなしでは、歴代の王をはるかにしのいでいた。そこには、私の世話をする召使いが二人つけられた。食事が運ばれ、王のすぐ近くにいた覚えのある四人の貴人が、名誉にも、私と食卓を共にしてくれた。料理は三皿ずつ、二度に分けて出された。最初は、正三角形に切った羊の肩肉、平行四辺形に切った牛肉、サイクロイド曲線の形のプディングだった。次は、ヴァイオリンの形に整えた二羽の鴨、フルートやオーボエに似せたソーセージとプディング、それに竪琴の形の仔牛の胸肉だった。召使いたちは、パンを、円錐、円柱、平行四辺形、そのほかのさまざまな数学的図形に切り分けた。

食事の間、私は思い切って、いくつかの物を、この国の言葉で何と呼ぶか尋ねた。貴人たちは、はたき役の助けを借りて、喜んで答えた。私と会話ができるようになれば、自分たちの大きな能力に、もっと感心させられると期待したのである。私は、ほどなく、パンや飲み物、そのほか欲しい物を、言葉で頼めるようになった。

食事が終わると、同席者たちは退出し、王の命令で、はたき役を連れた一人の男が来た。ペンとインク、紙、三、四冊の本を持っており、言葉を教えるために遣わされたのだと、身振りで伝えた。私たちは四時間、一緒に座った。その間に私は、たくさんの言葉を縦に並べ、その向かいへ訳を書きつけた。短い文も、いくつか、どうにか覚えた。教師が私の召使いの一人に、物を取ってこい、振り向け、お辞儀をしろ、座れ、立て、歩けなどと命じ、私はその文を書き留めたのである。また教師は、本の中の、太陽、月、星、黄道帯、回帰線、極圏の図を見せ、さまざまな平面図形と立体図形の名も教えた。あらゆる楽器の名と説明、それぞれの演奏に使う一般的な専門用語も教えてくれた。彼が帰ってから、私はすべての語と訳を、アルファベット順に並べた。こうして、かなり確かな記憶力に助けられ、数日のうちに、この国の言葉が少しわかるようになった。私が、空飛ぶ島、あるいは浮かぶ島と訳している言葉は、原語ではラピュタというが、その本当の語源は、とうとう知ることができなかった。今は使われない古語では、ラプが高い、ウントゥーが統治者を意味し、そのラプウントゥーが、なまってラピュタになった、と彼らは言う。だが、この語源説は、少々無理があるように思われ、私は賛成しない。私は彼らの学者に、自分の推測を、思い切って述べたことがある。ラピュタとは、いわばラプ・アウテッドであり、ラプの本来の意味は、海面で陽光が踊ること、アウテッドは翼、というのである。だが、これを押しつけるつもりはなく、賢明な読者の判断に委ねたい。

私の身を託された人々は、私の服がひどいのを見て、翌朝、仕立屋を呼び、一着、寸法を取らせた。この職人のやり方は、ヨーロッパの同業者とは違っていた。まず、四分儀で私の高さを測り、それから定規とコンパスで、全身の寸法と輪郭を描き、すべて紙に書き入れた。そして六日後、ひどい仕立てで、まったく形の合わない服を持ってきた。計算の数字を、一つ間違えたのである。だが、こういう事故は、しょっちゅう起きていて、ほとんど気にされないとわかったのが、せめてもの慰めだった。

服がないために外へ出られず、さらに体調を崩して数日、引きこもった間に、私は辞書を大いに増やした。次に宮廷へ出たときには、王の言うことを、かなり理解でき、どうにか答えも返せるようになっていた。陛下は島を北東微東へ動かし、下の堅い大地にある、この王国全体の首都ラガドの、真上へ向かえと命じていた。距離は九十リーグほどで、航行には四日半かかった。島が空中を進んでいることは、まるで感じなかった。二日目の朝、十一時ごろ、王は貴族や廷臣、役人たちを従え、皆で楽器を取りそろえると、自らも一緒になって、三時間、休まず演奏した。私は、その騒音に、すっかり頭をくらくらさせられた。その意味は、どうしてもわからず、教師に教えてもらって、初めて知った。島の人々の耳は、「一定の時刻になると、いつも鳴り響く天球の音楽」を聞けるようにできており、宮廷の人々も今、それぞれの一番得意な楽器で、自分の受け持ちを演奏する用意をしていたのだという。

首都ラガドへ向かう途中で、陛下は、いくつかの町や村の上に島を止め、臣民の請願を受け取った。そのために、先へ小さな重りをつけた荷造り糸を、何本も下ろした。人々は、その糸へ請願書を通すので、子供が凧の糸の先につけた紙切れのように、まっすぐ上がってきた。ときには、下から葡萄酒や食べ物が届き、滑車で引き上げられた。

この国の言い回しを覚えるには、私の数学の知識が大いに役立った。言葉が、数学と音楽に深く結びついていたからで、音楽も私は苦手ではなかった。彼らの考えは、いつも線や図形にかかわっていた。たとえば、女や、ほかの動物の美しさを褒めるにも、菱形、円、平行四辺形、楕円、そのほかの幾何学の用語や、音楽から取った専門用語で言い表す。ここで繰り返すには及ぶまい。王の調理場には、あらゆる数学用具や楽器があり、陛下の食卓に出す肉は、その形をまねて切り分けられていた。

彼らの家は、ひどくまずい造りで、壁は傾き、どの部屋にも、一つの直角さえなかった。この欠点は、実用的な幾何学を、卑しく、職人のすることと軽蔑しているために起こる。彼らの出す指示は、職人の頭には高尚すぎ、そのために間違いが絶えないのである。紙の上で、定規や鉛筆や製図用コンパスを扱うには、かなり器用なのに、日々の動作や振る舞いについては、これほど不器用で、ぎこちなく、手際の悪い人々を見たことがない。また、数学と音楽以外のあらゆる事柄について、これほど理解が遅く、混乱している人々も見たことがない。彼らは、推論がひどく下手で、激しく反対することを好む。ただし、たまたま意見が正しいときは別だが、そういうことは、めったにない。想像、空想、創意については、まるで知らず、その概念を表す言葉さえ、彼らの言語にはなかった。思考と精神の全領域が、先の二つの学問の内に、閉じ込められていたのである。

彼らの大半、とくに天文学に携わる者は、人の運命を占う占星術を強く信じていた。ただ、公然と認めるのは、恥ずかしがった。だが、私がもっとも驚き、まるで理解できなかったのは、彼らが世の動きや政治を、ひどく好むことだった。絶えず公の出来事を尋ね、国政に判断を下し、党派的な意見について、どの細部をも、熱く論じ合った。実際、ヨーロッパで知り合った数学者の大半にも、同じ性向が見られたが、二つの学問の間に、少しでも似たところがあるとは、とうとうわからなかった。もしや、どんなに小さな円も、一番大きな円と同じ度数なのだから、世界の秩序や運営にも、球を手で回す以上の能力は要らない、と考えているのであろうか。だが、私には、これはむしろ、人間によくある弱点から生じるように思われる。自分にもっとも縁が薄く、学問の上でも、生まれつきの資質でも、もっとも向いていない事柄ほど、知りたがり、うぬぼれたがるという弱点である。

この人々は、絶えず不安に悩まされ、一分たりとも心の平安を楽しめなかった。その悩みの原因は、ほかの人間には、ほとんど影響のないものだった。彼らの恐怖は、天体に生じる、いくつかの変化から起こる。たとえば、太陽が絶えず地球へ近づくので、やがて地球は吸収され、のみ込まれるとか、太陽の表面は、次第に、自らの放出物で覆われ、世界へ光を与えなくなるとか、地球は、この前の彗星の尾に、危うくかすられるところだったが、かすられていれば、間違いなく灰になっていたとか、次の彗星は、計算では三十一年後に来て、おそらく私たちを滅ぼすとかいうのである。というのも、その彗星が近日点で、太陽へ一定の距離まで近づけば――彼らの計算では、そう恐れる理由がある――赤く焼けた鉄の一万倍も強い熱を受け、太陽から離れる際には、百万十四マイルもの、燃え盛る尾を引くからだ。地球が、その彗星の核、つまり本体から十万マイルの距離で、その尾を通れば、通過の間に火がつき、灰になってしまうに違いない。また太陽は、毎日光線を費やし、それを補う養分もないのだから、ついには、すべて燃え尽きて消滅し、そのため、この地球と、そこから光を受けている、あらゆる惑星が滅びるというのである。

彼らは、こうした、あるいは似たような、差し迫った危険への恐れに、絶えずおびえているので、寝床でも安心して眠れず、人生の普通の楽しみや遊びも味わえなかった。朝、知人に出会うと、最初に尋ねるのは、太陽の具合はどうか、日没と日の出の際に、どんな様子だったか、近づく彗星の一撃を避けられる望みはあるか、ということだった。彼らが、この話に夢中になる様子は、恐ろしい幽霊や妖怪の話を、喜んでむさぼるように聞いたあげく、怖くて寝床へ行けなくなる、少年たちと同じだった。

島の女たちは、たいへん生き生きしていた。夫を軽蔑し、外国人を、ひどく好んだ。下の大陸から、町や自治体の用事、あるいは自分個人の用向きで、宮廷へ来ている者は、いつも相当な数に上ったが、この国の人々と同じ才能を持たぬため、ひどく軽蔑されていた。女たちは、その中から恋人を選ぶ。困るのは、あまりに気楽で、心配もなく、振る舞うことである。夫は、いつも思索に夢中なので、紙と道具さえ与えて、はたき役をそばから遠ざけておけば、妻と恋人は、その目の前で、どこまでも親密な振る舞いができた。

妻や娘たちは、島に閉じ込められているのを嘆いた。私には、世界でもっとも快い場所に思えたのだが。彼女たちは、この上なく豊かで豪華な生活をし、好きなことを、何でも許されていた。それなのに、世界を見たい、首都の遊びを楽しみたいと、あこがれた。そのためには、王の特別の許可が必要だったが、これは容易に得られなかった。下へ行った女を説得して帰らせるのが、どれほど難しいか、身分ある人々は、何度も経験していたからである。私は、ある高位の宮廷婦人の話を聞いた。何人も子供があり、夫はこの国でもっとも富んだ臣民である宰相で、見事な風采の持ち主で、妻をひどく愛し、島で一番立派な宮殿に住んでいた。その婦人が、健康のためと言ってラガドへ下り、何か月も隠れたので、王が捜索命令を出した。すると、さびれた食べ物屋で、ぼろをまとっているのが見つかった。年老いた、体の曲がった従僕を養うため、服を質に入れていたのである。従僕は毎日、彼女を殴っていたが、彼女は、その男といるところを、ひどく嫌がるのに連れ戻された。夫は、この上なく優しく迎え、少しも責めなかったが、彼女は、その後、ほどなく、宝石をすべて持って、また同じ恋人のもとへ、ひそかに下りる手はずを整え、それきり消息を絶った。

読者は、こんな遠い国の話というより、ヨーロッパか、イングランドの話のようだと思うかもしれない。だが、女というものの気まぐれは、気候や国によって限られず、想像以上に、どこでも同じだということを、お考えいただきたい。

一か月ほどで、私はこの国の言葉に、かなり上達し、王にお目にかかる栄誉を得たときも、大抵の質問には答えられた。陛下は、私の訪れた国々の法律、政治、歴史、宗教、習慣については、少しも知りたがらず、質問を数学の状況だけに限った。そして、両側から、はたき役に何度も呼び覚まされながらも、私の答えには、ひどい軽蔑と無関心を示した。

第三章

近代の自然学と天文学によって解かれる現象。天文学におけるラピュタ人の大きな進歩。反乱を鎮める王の方法。

私は王に、島の珍しい物を見て回る許可を願った。王は、ありがたくも、これを許し、教師に付き添うよう命じた。私が何より知りたかったのは、島のさまざまな運動が、人工のものであれ、自然のものであれ、何を原因とするかだった。そこで、これから読者に、その自然学的な説明をしよう。

空飛ぶ島、あるいは浮かぶ島は、完全な円形で、直径七千八百三十七ヤード、およそ四マイル半あり、したがって面積は一万エーカーになる。厚さは三百ヤードである。下から眺める人々に見える底面は、平らで整った一枚の金剛石でできており、上へ二百ヤードほどの厚みがある。その上には、さまざまな鉱物が、普通の順序で層をなし、一番上を、十ないし十二フィートの深さの、肥沃な土が覆っている。上面は、周囲から中央へ傾いている。そのため、島に降る露や雨は、小さな流れとなって中央へ運ばれ、四つの大きな池へ注ぐ。池は、それぞれ周囲が半マイルほどで、中心から二百ヤードの場所にある。昼の間、池の水は、太陽によって絶えず蒸発するので、あふれる心配は、十分に防がれている。そのうえ君主は、島を雲や霧のある層より高く上げられるから、望むときは、いつでも、露や雨が降るのを防げる。自然学者たちによれば、一番高い雲でも、二マイルより上には上がらない。少なくとも、この国では、上がったことは知られていない。

島の中心には、直径五十ヤードほどの穴があり、天文学者たちは、そこから大きな丸天井の空間へ下りる。そのため、この場所は、フランドナ・ガグノール、すなわち天文学者の洞穴と呼ばれている。金剛石の上面から、百ヤード下に位置している。この洞穴では、二十の灯火が絶えず燃え、金剛石に反射して、隅々まで強い光を投げかけている。六分儀、四分儀、望遠鏡、アストロラーベ、そのほかの天文用具が、たいそう豊富に備えられている。だが、一番の珍品であり、島の運命を左右するのは、織機の杼に似た、巨大な磁石である。長さは六ヤード、もっとも太いところの幅は、少なくとも三ヤードある。この磁石は、中央を貫く、きわめて丈夫な金剛石の軸に支えられ、その上で動く。釣り合いが、あまりに正確に取られているので、どんなに弱い手でも回せる。周囲には、金剛石の中空の円筒が、輪のように巡っている。高さと厚さは、ともに四フィート、直径は十二ヤードで、水平に据えられ、それぞれ高さ六ヤードの、八本の金剛石の脚に支えられている。内側のくぼんだ面の中央には、深さ十二インチの溝があり、軸の両端が、そこへはめ込まれ、必要に応じて回される。

どんな力を使っても、この磁石を、その場所から取り去ることはできない。輪も脚も、島の底を形作る金剛石の塊と、一続きになっているからである。

この磁石によって、島は上がり下がりし、場所から場所へ移動する。この君主が支配する地域の大地に対して、石の一方の端には引きつける力があり、もう一方には、反発する力がある。引きつける端を大地に向けて、磁石を垂直に置けば、島は下がる。逆に、反発する端を下に向ければ、島は真上へ昇る。石を斜めにすれば、島の運動も斜めになる。この磁石の力は、いつも石の向きと平行な線に沿って働くのである。

この斜めの運動によって、島は君主の領土の各地へ運ばれる。その進み方を説明するため、A Bを、バルニバービの領土を横切って引いた線とし、c dを磁石を表す線としよう。dが反発する端、cが引きつける端で、島はCの上にあるものとする。石をc dの位置に置き、反発する端を下へ向けると、島は斜め上へ押し出され、Dへ向かう。Dへ達したら、引きつける端がEを向くまで、石を軸の上で回す。すると島は、斜めにEへ運ばれる。そこで再び石を軸の上で回し、反発する端を下にしてE Fの位置に置くと、島はFへ向かって斜めに上がる。Fで、引きつける端をGへ向ければ、島はGへ運ばれ、そこからは、反発する端が、まっすぐ下を向くように石を回せば、GからHへ運ばれる。こうして、必要になるたびに石の向きを変えることで、島は斜めに上がったり下がったりし、その交互の昇降によって――傾きは、それほど大きくない――領土の一方から他方へ運ばれるのである。

バルニバービ上空のラピュタと、磁石の向きを変えてCからD、E、F、G、Hへと上下しながら進む航路。
ラピュタの磁石による航路。1726年版に由来する別資料の図で、本文電子版にない図を補った。 1726年版原図/Trinity College Dublin Physics・Wikimedia Commons(Goustien)/画像はPublic Domain Mark 1.0(https://creativecommons.org/publicdomain/mark/1.0/)。画像の変更なし。 原典の図版

ラピュタ
バルニバービ
ラガド
マロナダ
A B C D E F G H
c d

ただし、この島は、下にある領土の範囲を越えて移動できず、高さ四マイルより上にも昇れないことに、注意しておく必要がある。天文学者たちは、この石について、浩瀚な体系を書いているが、次のような理由を挙げる。磁力は、四マイルを越えては及ばず、また地中や、岸から六リーグほどの沖の海中にあって、この石へ働く鉱物も、地球全体に広がってはおらず、王の領土の境界で終わるという。そして、このように高い位置を占める大きな利点があれば、この磁石の引力が及ぶ国を、ことごとく支配下に置くのは、君主にとって、たやすいことだった。

磁石を水平面と平行に置くと、島は静止する。その場合、両端が大地から等しい距離になり、一方は下へ引き、もう一方は上へ押して、等しい力で働くので、運動が生じないからである。

この磁石は、何人かの天文学者が管理しており、王の指示に従って、そのつど向きを変える。彼らは人生の大半を天体の観測に費やす。その際に使う望遠鏡は、性能のよさで、私たちのものを、はるかにしのいでいる。一番大きな望遠鏡でも、三フィートを超えないのに、私たちの百フィートのものより、はるかによく拡大し、星を、もっと鮮明に見せるのである。この有利な道具によって、彼らの発見は、ヨーロッパの天文学者より、はるかに先へ進んでいる。彼らは一万の恒星の目録を作っているのに、私たちの最大のものでも、その三分の一を超えない。また、火星の周りを回る、小さな二つの星、つまり衛星も発見している。内側の衛星は、主星の中心から、その直径の、ちょうど三倍の距離にあり、外側は五倍の距離にある。内側は十時間で一周し、外側は二十一時間半で一周する。したがって、その公転時間の二乗の比は、火星の中心からの距離の三乗の比と、ほとんど同じである。このことは、それらの衛星も、ほかの天体に働くのと同じ重力の法則に支配されていることを、明らかに示している。

彼らは九十三の異なる彗星を観測し、その周期を、たいへん正確に定めている。もしこれが本当なら――彼らは、ひどく自信ありげに断言するのだが――その観測が公にされることを、切に望みたい。そうすれば、現在、たいへん不十分で欠陥の多い彗星の理論も、天文学のほかの技術と、同じ完成の域へ達せられるだろう。

もし大臣たちを説き伏せ、自分と手を組ませることさえできれば、この王は、宇宙でもっとも専制的な君主になるだろう。だが、大臣たちは下の大陸に領地を持ち、寵臣の地位が、ひどく不安定なものだと考えているので、自分の国を奴隷にすることには、決して同意しない。

どこかの町が反乱や暴動を起こし、激しい党派争いに陥り、あるいは例年の貢ぎを拒むと、王には、服従させる方法が二つある。第一の、もっとも穏やかな方法は、その町と周囲の土地の上に、島を浮かべておくことである。これによって、日光と雨の恵みを奪い、飢饉や病気で住民を苦しめられる。罪がそれに値するときには、同時に、上から大きな石も投げつける。家の屋根が砕かれる間、住民には、地下室や洞穴へ逃げ込むほか、防ぐ手だてはない。それでも頑強に抵抗を続け、蜂起しようとすれば、王は最後の手段に出る。島を頭上から、まっすぐ落とし、家も人も、すべて破壊するのである。とはいえ、王が、ここまで追い込まれることは、めったになく、実際、実行したいとも思っていない。大臣たちも、そんな行動を勧める勇気はない。民衆に憎まれるばかりか、自分たちの領地は、皆、下にあるので、大きな損害になるからである。島そのものは、王の直轄領である。

だが、この国の王たちが、よほどの必要がなければ、こうした恐ろしい行為の実行を、いつも嫌ってきたのには、実際、もっと重大な理由がある。破壊しようとする町に、高い岩山があれば――大都市では、たいていそうで、おそらく初めから、この惨事を防ぐために選んだ場所なのであろう――あるいは、高い尖塔や石柱が多ければ、急激な落下によって、島の底面を危険にさらすおそれがあるからだ。その底面は、すでに述べたように、厚さ二百ヤードの、一続きの金剛石なのだが、衝撃が強すぎれば、ひびが入るかもしれない。また、下の家々の火に近づきすぎれば、私たちの暖炉の奥で、鉄や石が、しばしばそうなるように、割れるかもしれない。人々は、このことを、よく承知しているので、自分たちの自由や財産がかかるとき、どこまで頑張れるかを知っている。王も、もっとも激怒し、どうしても都市を瓦礫にしてやると決意したときでさえ、島をごく静かに下ろすよう命じる。民をいたわるためという口実だが、本当は、金剛石の底が壊れるのを恐れているのである。壊れれば、磁石は、もはや島を支えられず、塊全体が地上へ落ちるというのが、この国の自然学者すべての意見だからだ。

私がこの国へ来る三年ほど前、王が領土を巡幸していたとき、王国の運命を、少なくとも今の仕組みのままでは、終わらせかねない、異常な事件が起きた。王国第二の都市リンダリーノは、陛下が巡幸で、最初に訪れた場所だった。王が去って三日後、これまで何度も、ひどい圧政を訴えていた住民は、城門を閉め、総督を捕らえ、信じられぬほどの速さと労力で、四つの大塔を築いた。都市は完全な正方形で、その四隅に一つずつ建て、真ん中にそびえる、尖った頑丈な岩山と同じ高さにした。塔の頂と岩山の上には、それぞれ大きな磁石を据えた。その案が失敗した場合に備え、たいへん燃えやすい燃料も、莫大な量を用意した。磁石の計画がうまくいかなければ、その火で、島の金剛石の底を割ろうと考えたのである。

リンダリーノの住民が反乱を起こしているという確かな知らせが、王に届くまでには、八か月かかった。そこで王は、島を都市の上へ移せと命じた。民衆は一致団結し、食糧を蓄えていたし、町の中央には大河も流れていた。王は、数日、その上に島を浮かべ、日光と雨を奪った。荷造り糸を、何本も下ろさせたが、請願を上げようとする者は、一人もいなかった。その代わりに、きわめて大胆な要求が届いた。あらゆる不満の是正、大きな特権、自分たちで総督を選ぶこと、そのほか、同じような法外な要求だった。そこで陛下は、島の住民すべてに、一番下の回廊から、大石を町へ投げつけよと命じた。だが、市民は、この災いに備え、自分たちと財産を、四つの塔や、ほかの頑丈な建物、地下の貯蔵室へ移していた。

今度こそ、この高慢な民を屈服させようと決めた王は、塔や岩山の頂から、四十ヤード以内まで、島を静かに下ろすよう命じた。そのとおりに実行されたが、作業をする役人たちは、降下が、いつもより、ずっと速いことに気づいた。磁石を回しても、島を安定した位置に保つのは、ひどく難しく、下へ落ちようとするのである。この驚くべき出来事を、すぐ王に知らせ、島をもっと高く上げる許可を願った。王は同意し、全体会議を召集し、磁石を管理する役人たちに出席を命じた。その中でも、とくに年長で熟練した一人が、実験の許可を得た。丈夫な百ヤードの綱を用意し、島が、先ほど感じた引力の及ばない高さまで、町の上空へ上がると、綱の先に、一片の金剛石をつけた。島の底面を形作るものと、同じ性質の鉄鉱を含む金剛石だった。それを、一番下の回廊から、塔の頂へ向けて、ゆっくり下ろした。四ヤードも下ろさぬうちに、ひどく強い力で下へ引かれ、役人は、ほとんど引き戻せなかった。次に、小さな金剛石のかけらを、いくつか投げ下ろしてみると、すべて塔の頂へ、激しく引きつけられた。残る三つの塔と岩山でも、同じ実験を行い、同じ結果になった。

この一件で、王の策は、すっかり破れた。そして、ほかの事情は、これ以上、長く述べないが、王は町に、その望む条件を認めざるをえなかった。

ある大臣が、確かだと言って教えてくれたところでは、もし島が、二度と上がれぬほど近くまで下りていたら、市民たちは、そこへ永久につなぎ止め、王と、そのしもべをすべて殺し、政治の仕組みを、すっかり変える決意だったという。

この王国の基本法によって、王も、二人の年長の王子も、島を離れることは許されない。王妃も、子を産む年齢を過ぎるまでは、離れてはならない。

第四章

著者、ラピュタを去り、バルニバービへ運ばれ、首都に着く。首都と、その近郊の描写。著者、ある大貴族に厚くもてなされる。その貴族との会話。

この島で、ひどい扱いを受けたとは言えないが、私は、あまりに顧みられず、多少の軽蔑さえ感じたことを、認めねばならない。王も民も、数学と音楽以外の知識には、まるで興味を持たず、その二つでは、私は彼らに、はるかに劣っていたので、ほとんど重んじられなかったのである。

その一方で、島の珍しい物を、すべて見終えると、私は、ひどく島を去りたくなった。この人々には、心底うんざりしていたのである。確かに彼らは、私も高く評価し、心得もある二つの学問に秀でていた。だが、あまりに現実から離れ、思索に閉じこもっているので、これほど付き合いにくい相手に出会ったことはなかった。二か月の滞在中、私が話したのは、女、商人、はたき役、宮廷の小姓ばかりだった。そのため、ついには、ひどく軽蔑されるようになったが、まともな答えをしてくれるのは、この人々だけだったのである。

熱心に勉強したおかげで、私は、この国の言葉を、かなり覚えていた。これほど相手にされない島に、閉じ込められているのが嫌になり、最初の機会に立ち去ろうと決めた。

宮廷には、王の近い親族に当たる大貴族がいたが、尊重されている理由は、それだけだった。皆が彼を、この国でもっとも無知で愚鈍な人間と見なしていた。王室のために、何度も大きな功績を立て、生まれつきの才能にも、身につけた能力にも恵まれ、誠実さと名誉心を備えていたが、音楽の耳が、ひどく悪かった。悪口を言う者たちは、「拍子を打つ場所を、しょっちゅう間違えるのが見られた」と言っていた。教師たちも、もっとも簡単な数学の命題を証明することさえ、ひどく苦労しなければ教えられなかった。彼は私に、何かと好意を示してくれ、しばしば、名誉にも訪ねてきて、ヨーロッパの事情や、私が旅した国々の法律、習慣、風俗、学問を知りたがった。たいへん注意深く耳を傾け、私の話すことには、すべて、きわめて賢明な意見を述べた。威儀を保つため、二人のはたき役を従えていたが、宮廷や、儀礼的な訪問のとき以外は使わず、私たちが二人だけになると、必ず下がるよう命じた。

私は、この立派な人物に、島を去る許可を陛下から頂けるよう、取りなしてほしいと頼んだ。彼は、そのとおりにしてくれたが、残念だと言ってくれた。実際、私にたいへん有利な申し出を、いくつもしてくれたのだが、私は、深い感謝を示しながらも、断っていたのである。

二月十六日、私は陛下と宮廷の人々に、別れを告げた。王は、イングランド貨で二百ポンドほどの価値のある贈り物をくれた。私の庇護者である王の親族も、同じだけの贈り物と、首都ラガドの友人への紹介状をくれた。島は、そのとき首都から二マイルほどの山の上に浮かんでいたので、私は、引き上げられたときと同じ方法で、一番下の回廊から下ろされた。

大陸のうち、空飛ぶ島の君主が支配する範囲は、総じてバルニバービと呼ばれる。その首都は、すでに述べたように、ラガドという。私は、堅い地面に立ったことに、少し満足を覚えた。土地の人と同じ服を着ており、会話にも十分な知識があったので、何の心配もなく、都市へ歩いていった。紹介された人の家は、すぐに見つかった。島の貴族である、その友人の手紙を差し出すと、たいそう親切に迎えられた。この大貴族は、ムノディといい、自分の家に一室を用意してくれた。私は、滞在の間、ずっとそこに住み、この上なく厚くもてなされた。

到着の翌朝、彼は私を馬車に乗せ、町を見せてくれた。大きさはロンドンの半分ほどだったが、家は、ひどく奇妙な造りで、大半が修繕されぬままだった。通りの人々は、足早に歩き、取り乱した顔つきで、目は据わり、たいてい、ぼろを着ていた。私たちは城門の一つを通り、三マイルほど田舎へ入った。そこでは、大勢の農夫が、さまざまな道具を使って地面で働いていたが、何をしているのか、見当がつかなかった。土は、いかにも豊かに見えるのに、穀物も牧草も育ちそうな気配がなかった。町にも田舎にも見られる、この奇妙な有様に、私は驚かずにはいられず、思い切って案内役に説明を願った。通りでも畑でも、これほど多くの頭と手と顔が、忙しく働いているのは、一体どういうことなのか、よい成果が、まるで見られないのである。それどころか、これほどひどく耕された土地、これほど考えの悪い造りで荒れ果てた家、顔つきと服装が、これほどの惨めさと欠乏を示す人々は、見たことがなかった。

このムノディ卿は、最高の身分の人で、ラガドの総督を、何年か務めたこともあったが、大臣たちの陰謀によって、無能だとして職を解かれていた。それでも王は、善意はあるが、知恵は低く、取るに足りない人間として、優しく扱っていた。

私が、この国と住民について、遠慮なく批判すると、彼は、「ここに来てから、判断を下せるほど、長くはたっていないでしょう。世界の国々には、それぞれ違う習慣があるものです」といった、同じ趣旨の、ありふれた言葉でしか答えなかった。だが、自分の屋敷に戻ると、「この建物は、お気に召しましたか。どんな不合理が見つかりましたか。私の召使いたちの身なりや顔つきにも、ご不満がおありですか」と尋ねた。彼の周囲は、何もかもが豪華で、整い、洗練されていたので、安心して、そう尋ねられたのである。私は、「閣下の賢明さ、お身分、ご財産のおかげで、ほかの人々には、愚かさと貧困によって生じている欠点が、ここには、ないのです」と答えた。彼は、「二十マイルほど離れた、領地にある田舎の屋敷へ、一緒においでになれば、こういう話をする時間も、もっと取れるでしょう」と言った。私は、閣下のお心のままにと答え、翌朝、一緒に出発した。

道中、彼は、農夫たちが土地を扱う、さまざまな方法に、私の注意を向けさせたが、私には、まるで理解できなかった。ごくわずかな場所を除けば、穀物の穂一本も、草の葉一本も、見当たらなかったからだ。ところが、三時間ほど進むと、風景は、すっかり変わった。きわめて美しい土地に入ったのである。農家は、互いに少しずつ離れ、きちんと建てられ、囲いをした畑には、葡萄畑、穀物畑、牧草地があった。これほど快い眺めを、ほかに見た覚えはなかった。閣下は、私の顔が明るくなるのを見て、ため息まじりに、こう言った。「ここからが、私の領地です。屋敷へ着くまで、同じ眺めが続きます。同国人たちは、これ以上の経営もできず、王国に、こんな悪い手本を示していると、私を笑い、軽蔑します。もっとも、この手本に従うのは、私と同じように年を取り、頑固で、愚かな、ほんの少数の人だけなのですが。」

ついに屋敷へ着いた。古代建築の最良の規則に従って建てた、実に立派な建物だった。噴水、庭、散歩道、並木道、林は、どれも正確な判断と趣味によって配されていた。私は、見る物すべてに、ふさわしい賛辞を送ったが、閣下は夕食後まで、少しも取り合わなかった。そして、ほかに同席者がいなくなると、ひどく悲しそうに、こう言った。「高慢、奇癖、気取り、無知、気まぐれだと非難され、あるいは陛下のご不興を、ますます買うのを、甘んじて受けないかぎり、私も、町と田舎の屋敷を壊し、今の流儀で建て直さねばならないかもしれません。植えたものも、すべて取り払い、今の慣習にかなった形に改め、借地人たちにも、同じ指示を出さねばならないでしょう。あなたが、今お見せになっている感心も、ある事情をお話しすれば、消えるか、薄れるでしょう。おそらく宮廷では、お聞きにならなかったことでしょう。あそこの人々は、自分たちの思索に忙しすぎて、この下界で起きることには、気を留めませんから。」

話をまとめると、こういうことだった。「四十年ほど前、何人かの者が、用事か遊びでラピュタへ上がり、五か月とどまって、帰ってきました。数学は、ほんの上辺を少し覚えただけですが、空中の世界で身につけた、浮ついた気分で、いっぱいでした。帰ってくると、下界の何もかもの扱い方が気に入らなくなり、あらゆる技芸、科学、言語、機械技術を、新しい基礎の上に置こうという計画に熱中し始めました。そのため、ラガドに新案家のアカデミーを建てる勅許を得たのです。この気風は人々の間に強く広がり、今では王国の、少しでも名のある町には、こうしたアカデミーが必ずあります。そこで教授たちは、農業と建築の新しい規則や方法、あらゆる職業や製造業の、新しい器械や道具を考案しています。その約束によれば、一人で十人分の仕事ができ、修理なしで永久に持つ材料を使って、一週間で宮殿を建てられるようになるそうです。地の実りは、こちらが望む、どの季節にでも熟し、収穫は今の百倍以上に増す。そのほか、ありがたい提案は、数え切れません。唯一の不都合は、まだ一つも、完成した計画がないことです。その間に、国中は惨めに荒れ果て、家は崩れ、民には、食べ物も衣服もありません。ところが、これで気落ちするどころか、希望と絶望に同じように駆られ、以前の五十倍も激しく、計画の実行に打ち込んでいるのです。私はといえば、進取の気性がないので、昔のやり方を続け、先祖の建てた家に住み、暮らしの隅々まで、改革を加えず、先祖どおりにすることで満足しています。ほかにも、少数の貴族や郷紳が、同じようにしていますが、技芸の敵、無知で、公共のためにならぬ人間、自分の安楽と怠惰を、国全体の進歩よりも優先する者として、軽蔑と敵意の目で見られています。」

卿は、さらに言った。「あなたには、ぜひ大アカデミーへ行っていただくつもりです。ご覧になれば、きっと楽しまれるでしょうから、これ以上、細かい話をして、その楽しみを奪うのはやめましょう。」ただ、三マイルほど離れた山腹の、壊れた建物を見るよう勧め、その来歴を話した。「家から半マイルもない所に、たいへん便利な水車がありました。大河から引いた水で回り、私の家族にも、大勢の借地人にも、十分に用が足りていました。ところが七年ほど前、あの新案家の一団が来て、この水車を壊し、あちらの山腹に、別の水車を造るよう提案しました。その長い尾根に、貯水用の長い運河を掘り、管と機械で水をくみ上げ、水車へ送るというのです。高所の風と空気は水をかき動かし、いっそう動きやすくするし、傾斜を流れ下る水なら、もっと平らに流れる川の、半分の水流で、水車を回せるからだそうです。当時、私は宮廷との仲が、あまりよくなく、多くの友人からも迫られたので、提案に従いました。百人を二年働かせたあげく、事業は失敗しました。新案家たちは、責任をすっかり私に押しつけて去り、それ以来、私を罵り続け、ほかの人々にも、同じ実験を勧めています。成功の保証も同じなら、失望の結果も同じです。」

数日後、私たちは町へ戻った。閣下は、アカデミーでの自分の評判が悪いことを考え、自らは同行せず、代わりに、案内してくれる友人へ紹介してくれた。卿は私を、新案を大いに好み、好奇心が強く、何でも信じやすい人物として、紹介してくれた。それも、実際、嘘ではなかった。私自身、若いころは、ある種の新案家だったのである。

第五章

著者、ラガドの大アカデミーを見る許可を得る。アカデミーの詳しい説明。教授たちの取り組む技芸。

このアカデミーは、一つの大きな建物ではなく、通りの両側に連なる、何軒もの家からできている。荒れ果てていたのを買い取り、この用途に充てたのである。

院長は、たいそう親切に迎えてくれ、私は何日もアカデミーへ通った。どの部屋にも、一人か、それ以上の新案家がいた。私が入った部屋は、五百を下らなかったと思う。

最初に会った男は、やせた顔をし、手も顔も煤だらけで、長い髪とひげは、乱れ、所々が焦げていた。上着もシャツも肌も、同じ色だった。彼は八年間、キュウリから日光を取り出す計画に取り組んでいた。取り出した日光は、瓶に入れて密封し、冷たく荒れた夏に放出して、空気を暖めるのだという。もう八年あれば、手頃な値段で、総督の庭に日光を供給できるのは、間違いないと言った。だが、資金が乏しいと嘆き、「とくに今年は、キュウリがひどく高かったので、創意の励ましに、何か恵んでいただきたい」と頼んだ。私は少し贈り物をした。卿が、そのために金を用意してくれていたのである。見学に来る者すべてに物乞いをする、彼らの習慣を知っていたからだ。

別の部屋へ入ったが、恐ろしい悪臭に、ほとんど気を失いそうになり、急いで引き返したくなった。案内役は、私を先へ押し、耳元で、「気分を害させてはいけません。ひどく恨まれますから」と懇願した。そこで私は、鼻をつまむことさえ、できなかった。この小部屋の新案家は、アカデミーでもっとも古参の研究者だった。顔とひげは薄黄色で、手と服には、汚物が塗りつけられていた。紹介されると、男は、私をしっかり抱きしめたが、この挨拶は、十分、遠慮したかった。アカデミーへ入って以来、彼の仕事は、人間の排泄物を、もとの食物へ戻す処理だった。それぞれの成分を分け、胆汁から受けた色を取り除き、臭いを蒸発させ、唾液を、あくのようにすくい取るのである。協会から毎週、ブリストル樽ほどの容器に、いっぱいの人糞が支給されていた。

別の男は、氷を焼いて火薬にしようと働いていた。また、火の打ち延ばせる性質について書いた論文を見せ、出版するつもりだと言った。

きわめて独創的な建築家もいた。屋根から始め、下へ仕事を進め、土台に至るという、家の新しい建て方を考案していた。賢い二種類の虫、蜜蜂と蜘蛛も、同じようにしている、と私に正当化してみせた。

生まれつき目の見えない男がいて、同じ境遇の弟子を何人か持っていた。仕事は、画家のために絵の具を調合することで、師匠は、触った感じと匂いで色を見分けるよう教えていた。あいにく、訪ねたときの弟子たちは、まだ、あまり上達していなかったし、教授自身も、そのときは、大抵、間違えていた。この芸術家は、仲間一同から、大いに励まされ、尊敬されている。

別の部屋では、鋤や牛や労働の費用を省くため、豚で土地を耕す方法を発見した新案家に会い、たいへん愉快だった。その方法は、こうである。一エーカーの土地へ、六インチ間隔、八インチの深さで、豚が大好きなドングリ、ナツメヤシの実、栗、そのほかの木の実や野菜を、たくさん埋める。次に、六百頭か、それ以上の豚を畑へ追い込む。すると数日のうちに、食べ物を探して、地面全体を鼻で掘り返し、種まきに適した状態にすると同時に、糞で肥料も施す。確かに、実験の結果、費用も手間も、たいへん大きく、収穫は、ほとんど、あるいは、まったくなかった。それでも、この発明には、大いに改良の余地があることが、疑われていない。

もう一つの部屋へ入ると、その芸術家が出入りする細い通路を除き、壁も天井も、一面、蜘蛛の巣で覆われていた。入るなり彼は、大声で、「巣を乱してはいけない」と叫んだ。そして、「世間は、長い間、蚕を使うという、致命的な間違いをしている。身近な虫が、こんなに豊富にいて、蚕を無限にしのいでいるというのに。こちらは、糸を紡ぐだけでなく、織ることまで心得ているのだ」と嘆いた。さらに、「蜘蛛を使えば、絹を染める費用も、すっかり省ける」と提案した。たいそう美しく色づいた、莫大な数の蠅を見せ、蜘蛛に食わせていると言ったので、私は、すっかり納得した。「巣には、蠅の色が移る。あらゆる色の蠅があるので、糸を強く、しっかりさせるために、ある種の樹脂や油、そのほかの粘る物質を、蠅の適した餌にできさえすれば、誰の好みにも合わせられるはずだ」と、彼は私たちに請け合った。

町役場の、大きな風見鶏の上に、日時計を据えようとしている天文学者もいた。地球と太陽の年周運動、日周運動を調整し、風が、どちらへ向きを変えようと、それに応じ、一致するようにするのだという。

私が、軽い腹の差し込みを訴えると、案内役は、その病気を、一つの道具による、正反対の処置で治すという、名高い大医師の部屋へ連れていった。医師は、大きなふいごを持ち、先には、象牙の長く細い筒がついていた。それを肛門から八インチ差し込み、空気を吸い出すと、腸を、乾いた膀胱のように、しぼませられると断言した。だが、病気がもっと頑固で激しい場合には、ふいごを空気で満たしてから筒を差し込み、患者の体内へ吹き込む。次に道具を抜いて空気を補充し、その間、親指で肛門をしっかり押さえる。これを三、四度繰り返すと、外から入れた空気が、有害な空気を伴って、一気に噴き出し――ポンプに呼び水を入れるのと同じである――患者は治るという。医師が犬に、両方の実験をするのを見たが、最初の方法には、何の効果も認められなかった。あとの方法では、犬は破裂しそうになり、ひどく激しく放出して、私も連れの者たちも、大いに閉口した。犬は、その場で死んだ。私たちが退出するときも、医師は、同じ処置で生き返らせようと努めていた。

ほかにも多くの部屋を訪れたが、簡潔を旨とするので、見かけた珍しい物を、すべて挙げて、読者を煩わせるのはやめよう。

ここまでは、アカデミーの片側しか見ていなかった。もう片側は、思弁的学問を進める人々のための場所だった。その人々については、もう一人の名高い人物を紹介してから、述べることにしよう。彼らの間で、「万能技芸家」と呼ばれている人である。彼は私たちに、「三十年間、人間の生活を改善するため、考えを巡らせてきた」と言った。二つの大きな部屋は、驚くべき珍品でいっぱいで、五十人が働いていた。ある者は、空気から硝石を取り出し、水分や液体の粒子を濾し通すことで、乾いた、手で触れる物質に凝縮していた。ある者は、枕や針山にするため、大理石を柔らかくしていた。また、ある者は、生きた馬の蹄を石に変え、蹄の病気にならぬようにしていた。技芸家自身は、そのとき、二つの大計画に忙しかった。一つは、土地へ穀物の殻をまくことである。本当の種の力は、そこにあると主張し、いくつかの実験で示したが、私には理解できるほどの知識がなかった。もう一つは、樹脂や鉱物や植物を、ある割合で混ぜたものを、二頭の若い仔羊の体へ外から塗り、毛が伸びるのを防ぐことだった。適当な期間があれば、裸の羊の品種を、王国中へ広められると期待していた。

私たちは、通路を横切り、すでに述べた、思弁的学問の新案家たちがいる、アカデミーのもう片側へ行った。

最初に会った教授は、たいへん大きな部屋におり、四十人の生徒に囲まれていた。挨拶を交わしたあと、私が、部屋の縦横の大半を占める枠を、熱心に見ているのに気づくと、こう言った。「実用的で機械的な操作によって、思弁的な知識を進める計画に、私が取り組んでいるのを見て、お驚きかもしれません。ですが、世間は、その有用さを、じきに悟るでしょう。これ以上、高尚で気高い考えが、ほかの誰かの頭に浮かんだことはないと、私は自負しています。普通の方法で、技芸や科学を身につけるのが、どれほど骨の折れる仕事かは、誰もが知っています。ところが、私の仕掛けなら、もっとも無知な人間でも、手頃な費用と、わずかな肉体労働だけで、天分にも勉強にも少しも助けられずに、哲学、詩、政治、法律、数学、神学の本を書けるのです。」教授は、それから私を枠へ案内した。周囲には、生徒たちが列を作っていた。枠は一辺二十フィートの正方形で、部屋の中央に置かれていた。その表面は、賽ほどの大きさの木片からできていたが、大小があった。すべて細い針金でつながれていた。木片の四角い各面には、紙が貼られ、その紙には、この国のあらゆる言葉が、さまざまな法、時制、格変化の形で、順序もなく書かれていた。教授は、「機械を動かしますから、ご覧ください」と言った。生徒たちは、その命令で、枠の縁に四十本ついている鉄の取っ手を、一人一本つかみ、急に回した。すると、言葉の配置は、すっかり変わった。次に、三十六人の少年に、枠の上へ現れた列を、小声で読むよう命じ、文の一部になりそうな、三つか四つの言葉のつながりを見つけると、書記役の残る四人に、口述させた。この作業を三、四度繰り返した。機械は、取っ手を回すたびに、四角い木片が裏返り、言葉が新しい位置へ移るように、工夫されていた。

単字状の記号が記された木片を格子状に並べ、四辺に回転用の柄を付けた装置の図。
ラガドの学院の文章生成装置。1726年刊本、第三部図版第五(七十四頁)。デジタル画像:パーダーボルン大学図書館、CC BY4.0。 1726年刊本の原図(保護期間満了)/電子画像: Universitätsbibliothek Paderborn、CC BY 4.0(https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/)。画像の変更なし。 原典の図版

図版第五、第三部
七十四頁

若い学生たちは、一日六時間、この仕事に従事していた。教授は、すでに集めた、文の切れ端を詰めた、大きな二つ折り判の本を、何冊か見せてくれた。それをつなぎ合わせ、この豊かな材料から、あらゆる技芸と科学の完全な体系を、世に与えるつもりだった。もっとも、公費で基金を作り、同じ枠を五百台、ラガドに設けて動かし、それぞれの管理者に、その集めたものを共同で差し出させれば、さらに改善でき、仕事も大いに速まるという。

教授は、「若いころから、この発明に、すべての考えを注いできた。語彙全体を、この枠の中へ入れ、本における助辞、名詞、動詞、そのほかの品詞の数の、一般的な比率も、もっとも厳密に計算した」と、私に請け合った。

私は、この名高い人物が、惜しみなく説明してくれたことに、きわめてへりくだって感謝し、「幸運にも故国へ戻れたなら、この驚くべき機械の唯一の発明者として、あなたを正当に扱います」と約束した。その形と仕組みを、ここに添えた図のように、紙へ描き写す許可も願った。また、こう言った。「ヨーロッパの学者たちには、互いの発明を盗む習慣があり、その結果、少なくとも、本当の持ち主が誰か、論争になるという利点はあるのです。ですが私は、十分に気をつけ、あなたが、競争相手もなく、名誉のすべてを得られるようにします。」

次に、言語の学校へ行くと、三人の教授が、この国の言葉の改良について、相談していた。

第一の計画は、多音節語を一音節に切り詰め、動詞と分詞を省いて、話を短くすることだった。実際、想像できるものは、すべて名詞にすぎないからだという。

もう一つの計画は、言葉という言葉を、すべて廃止する案だった。これは簡潔さの点でも、健康の点でも、大きな利点があると主張された。口にする言葉は、どれも、多少なりとも肺を腐食して減らし、したがって寿命を縮めることは、明らかだという。そこで、「言葉は、物の名にすぎないのだから、人々は、話したい用件を表すのに必要な物を、持ち歩くほうが便利だ」という方法が提案された。この発明は、臣民の健康にも、楽にも、大いに役立ち、確実に実施されたはずだった。ところが、女たちが、庶民や無学な人々と結託し、先祖のやり方どおり、舌で話す自由を許さなければ、反乱を起こすと脅したのである。庶民とは、これほどまでに、いつも学問と相いれない敵なのである。それでも、もっとも学識があり、賢明な人々の多くは、物によって考えを表す、新しい方法を守っている。唯一の不都合は、用事が多く、種類もさまざまな人は、丈夫な召使いを一人か二人、連れられるだけの余裕がなければ、それに応じて、もっと大きな物の包みを、背負わねばならないことだった。私は、この賢者たちが二人、私たちの国の行商人のように、荷の重さで、今にもつぶれそうになっているのを、よく見かけた。通りで出会うと、荷を下ろし、袋を開き、一時間ほど会話する。それから道具を片づけ、互いに手伝って、また荷を背負い、別れていくのだった。

だが、短い会話なら、ポケットや脇の下に、十分な道具を持ち運べるし、自分の家なら、困ることはない。そこで、この技術を使う人々が集まる部屋には、この人工的な会話の題材を満たす、あらゆる物が、すぐ手に取れるよう用意されている。

この発明がもたらす、もう一つの大きな利点は、あらゆる文明国で理解される、普遍的な言語になることだった。そうした国々の品物や道具は、たいてい同じ種類か、よく似ているので、用途を容易に理解できるからである。こうすれば、大使たちは、言葉をまったく知らない外国の君主や大臣とも、交渉できるようになる。

数学の学校へも行った。教師は、私たちヨーロッパの者には、ほとんど想像もつかない方法で、生徒を教えていた。薄いウエハースに、脳に効く薬の抽出液で作ったインクで、命題と証明が、きれいに書かれていた。学生は、空腹のまま、それをのみ込み、その後三日間、パンと水以外、口にしてはならなかった。ウエハースが消化されると、薬液は命題を伴って、脳へ上がるのである。だが、これまでのところ、成果は期待に沿っていない。一つには、量や配合の誤りがあり、もう一つには、少年たちのひねくれた性質があった。この丸薬が、あまりに気持ち悪いので、大抵、こっそり脇へ行き、効き始める前に吐き出すのだ。処方で求められるほど長く、食を慎ませることも、まだ、説得できていない。

第六章

アカデミーについての続き。著者、いくつかの改良を提案し、敬意をもって受け入れられる。

政治の新案家たちの学校では、私は、あまり楽しまなかった。私の見るところ、教授たちは、すっかり正気を失っているようだったし、そういう光景は、いつも私を憂鬱にするからである。この気の毒な人々は、君主を説得し、知恵、能力、徳によって寵臣を選ばせるとか、大臣たちに公共の利益を考えさせるとか、功績、大きな能力、抜きんでた奉仕に報いるとか、君主の真の利益を、民の利益と同じ土台に据えることで、それを自覚させるとか、職務を果たす資格のある者を、その職へ選ぶとかいう計画を、提案していた。そのほかにも、人間の心に、それまで思い浮かんだことさえない、荒唐無稽で、実現不可能な空想が、数多くあった。そのため私は、「どれほど突飛で、理に反した考えでも、真実だと主張した哲学者がいないものはない」という、古い観察を、改めて確信した。

とはいえ、この方面のアカデミーを、公正に扱うため、すべてが、これほど夢想的だったわけではないと、認めておこう。政府の性質と仕組みのすべてを、完全に心得ているらしい、きわめて独創的な博士がいた。この名高い人物は、治める者の悪徳や弱点、従う者の放縦から、さまざまな統治の仕組みに生じる、あらゆる病気と腐敗について、有効な治療法を見つけるため、たいへん有益に研究を進めていた。たとえば、すべての著述家や論者は、自然の身体と、国家という身体との間に、厳密で、全面的な類似があると認めている。ならば、両方の健康を守り、病気を治すにも、同じ処方を用いるべきこと以上に、明らかな話があろうか。元老院や大評議会が、過剰で、沸き立ち、そのほか有害な体液に、しばしば悩まされることは、認められている。頭の病も多く、心臓の病は、さらに多い。激しい痙攣、両手、とくに右手の神経と腱の、重い収縮、憂鬱、腹のガス、めまい、うわごと、悪臭を放つ膿に満ちた瘰癧の腫れ、酸っぱく泡立つげっぷ、犬のような食欲、消化不良、そのほか、ここで挙げるに及ばぬ多くの病もある。そこで博士は、次のように提案した。「元老院が開かれたら、最初の三日間は、何人かの医師が出席し、毎日の討議の終わりに、全議員の脈を取る。それぞれの病の性質と治療法を、十分に検討、相談したあと、四日目に、適した薬を備えた薬剤師を従え、議事堂へ戻る。そして、議員が席につく前に、各自の症状に応じて、緩和剤、通じ薬、洗浄剤、腐食剤、収斂剤、一時しのぎの薬、下剤、頭痛薬、黄疸薬、去痰剤、聴覚の薬を与える。次の会合では、薬の効き方に応じ、繰り返し、変更し、あるいは中止する。」

この計画は、国庫に大した費用をかけずに済む。私のつまらぬ考えでは、元老院が立法権の一部を持つ国々で、仕事を進めるのに、大いに役立つだろう。意見を一致させ、討議を短くし、今閉じている口を、いくつか開かせ、今開いている口を、それより多く閉じさせ、若者の生意気を抑え、老人の独断を直し、愚鈍な者を目覚めさせ、出しゃばりの勢いを弱められるのである。

また、君主の寵臣は、覚えが悪く、物忘れが激しいというのが、一般的な不満なので、同じ博士は、こう提案した。「首席大臣に面会する者は、用件を、できるだけ簡潔で、明瞭な言葉で話したあと、帰り際に、忘れられぬよう、鼻をひねるか、腹を蹴るか、足の魚の目を踏むか、両耳を三度引っ張るか、尻へ針を刺すか、腕に、黒や青のあざができるまで、つねることにする。そして、用件が片づくか、はっきり拒まれるまで、拝謁のたびに、同じ処置を繰り返す。」

さらに、博士は、「国の大評議会では、どの議員も、自分の意見を述べ、それを擁護する議論をしたあと、必ず、それとは正反対に投票しなければならない」と指示した。そうすれば、結果は、必ず公共の利益に終わるからだという。

国の党派が激しく対立するとき、博士は、それを和解させる、驚くべき工夫を示した。方法は、こうである。それぞれの党の指導者を百人ずつ集め、頭の大きさが、できるだけ近い者同士を、一組にする。次に、腕のよい二人の術者に、各組の後頭部を、同時に鋸で切り取らせ、脳が、ちょうど半分に分かれるようにする。こうして切り取った後頭部を交換し、それぞれ、反対党の男の頭へ取りつける。確かに、多少の正確さが必要な仕事のように思われるが、教授は、「器用に行えば、治療は絶対確実だ」と請け合った。その理屈は、こうだった。「二つの半分の脳を、一つの頭蓋骨の中で、互いに論じ合わせておけば、すぐに、よく理解し合うようになる。そして、世界の動きを監視し、支配するためだけに生まれたと思っている者たちの頭に、ぜひ欲しい節度と、秩序ある思考を生むのだ。」なお、党派を率いる人々の脳の、量や質の違いについては、博士自身の知識によれば、「まったく、取るに足りない」と、私たちに請け合った。

私は、臣民を苦しめずに金を集める、もっとも便利で有効な方法について、二人の教授が、たいそう熱く論じ合うのを聞いた。一人は、「もっとも公正なのは、悪徳と愚行に、一定の税を課し、各人の納める額は、近隣の人々の陪審によって、もっとも公平に査定することだ」と主張した。もう一人の意見は、正反対だった。「人が、とくに自慢する、体と心の長所へ課税し、優秀さの程度によって、税率を上下させる。その判定は、完全に本人の胸の内へ任せるのだ。」もっとも高い税は、異性に、もっとも愛される男たちに課され、受けた好意の数と性質によって査定する。その証明は、本人にさせてよい。才知、勇気、洗練も、同じように、大いに課税する対象とし、自分が、どれだけ持っているか、各自の言葉を証拠に徴収するのだという。だが、名誉心、正義、知恵、学識には、一切課税しない。それらは、ひどく変わった資質で、隣人にあると認める者も、自分にあって、ありがたがる者もいないからである。

女たちには、美しさと着飾る技量に応じて、課税する提案だった。その判定を自分で下せるという特権は、男たちと同じだった。だが、貞節、純潔、分別、気立てのよさには課税しない。徴収の費用さえ、まかなえないからだという。

議員たちを王室の利益につなぎ止めるため、役職を、くじ引きで決める案も出た。まず全員、当たっても外れても、宮廷のために投票すると誓い、保証を差し入れる。外れた者は、次に空席ができたとき、順番に、またくじを引く権利がある。こうすれば、希望と期待を保てる。約束を破られたと不平を言う者もなく、失望は、すべて運のせいにするだろう。運の肩は、大臣たちの肩より、広く、強いのである。

別の教授は、政府に対する陰謀や共謀を発見するための指示を、大きな紙に書いて見せてくれた。有力な政治家は、疑わしい者すべての食事、食べる時刻、寝床でどちらを下にして寝るか、どちらの手で尻を拭くかを調べ、排泄物を厳密に観察し、その色、臭い、味、硬さ、消化の不十分さや進み具合から、考えと企みを判断すべきだという。人は、用を足しているときほど、まじめで、思慮深く、集中していることはない。そのことを、彼は何度もの実験で発見したそうだ。そういうとき、ほんの試しに、王を殺す最良の方法を考えると、糞は緑がかる。だが、ただ反乱を起こすことや、首都を焼くことだけを考えると、まるで違ったものになるという。

論説全体は、たいへん鋭く書かれ、政治家にとって、珍しくも有益でもある観察を、数多く含んでいた。だが、私には、まだ完全ではないように思われた。そこで、思い切って著者に、そう告げ、よろしければ、多少の追加を差し上げたいと申し出た。彼は、著述家、とくに新案を考える類の者には、普通見られぬほど素直に、私の提案を受け入れ、「もっと知らせていただければ、ありがたい」と言った。

私は、こう話した。「旅の途中、しばらく滞在したトリブニア王国[454a]、現地の人々がラングデン[454b]と呼ぶ国では、国民の大半が、ほとんど、密謀を見つける者、目撃者、密告者、告発者、訴追者、証人、宣誓者と、それぞれに従う下働きや、下役の手先ばかりです。皆、大臣たちと、その代理人の旗の下で、指揮され、給金を受けています。その王国の陰謀は、大抵、次のような者たちが作り出します。深謀遠慮の政治家という自分の評判を高めたい者、ぐらつく政府へ新しい活力を与えたい者、世間の不満を封じるか、そらしたい者、没収財産で金庫を満たしたい者、自分の利益になるよう、国の信用への評価を、上げ下げしたい者です。まず仲間内で、誰を疑わしい者として、陰謀の罪に問うかを、決めます。それから、手紙や書類を、すべて確実に押さえ、その持ち主を鎖につなぎます。書類は、言葉、音節、文字の、隠れた意味を見つけるのが、ひどく巧みな、一群の技芸家へ渡されます。たとえば、彼らは、腰掛け便器は枢密院、鵞鳥の群れは元老院、足の悪い犬は侵略者、鱈の頭は——、疫病は常備軍、ノスリは首席大臣、痛風は高位の聖職者、絞首台は国務大臣、しびんは大貴族の委員会、ふるいは宮廷の貴婦人、箒は革命、ねずみ取りは役職、底なしの穴は国庫、汚水だめは宮廷、鈴つきの道化帽は寵臣、折れた葦は裁判所、空の大樽は将軍、膿の流れる傷は政府を意味すると、見抜くのです。[455]

「この方法でうまくいかないときには、もっと有効な方法が、あと二つあり、この国の学者は、頭文字法と、文字の並べ替え法と呼んでいます。第一の方法では、あらゆる頭文字を、政治的な意味へ読み解けます。たとえば、N.は陰謀、B.は騎兵連隊、L.は海上の艦隊を意味します。第二の方法では、疑わしい書類のアルファベットを並べ替え、不満分子の、もっとも深い企みを暴けます。たとえば、友人への手紙に、私が、Our brother Tom has just got the piles――『われらの兄弟トムが、このほど痔になった』――と書けば、熟練した解読者は、その文を作る同じ文字から、Resist, a plot is brought home; The tour.――『抵抗せよ、陰謀は立証された。巡回』――という言葉を取り出せる、と見抜くのです。これが、文字の並べ替え法です。」

教授は、これらの観察を知らせたことに、たいへん感謝し、自分の論文で、名誉ある形で私に言及すると、約束してくれた。

この国には、これ以上、とどまりたいと思わせるものが、何も見つからなかったので、イングランドへ帰ることを、考え始めた。

第七章

著者、ラガドを去り、マルドナダに着く。船がない。グラブダブドリブへ短い航海をする。総督のもてなし。

この王国が、その一部をなす大陸は、私が、そう信じる理由のあるところでは、東へは、カリフォルニアの西方にある、まだ知られぬアメリカの土地へ続き、北へは太平洋に接している。太平洋までは、ラガドから百五十マイルもない。そこには、よい港があり、北西の、北緯二十九度、経度百四十度ほどにある大きな島、ラグナグとの交易が盛んだった。ラグナグ島は、日本の南東、百リーグほどの所にある。日本の皇帝とラグナグ王は、固い同盟を結んでおり、一方の島から他方へ渡る機会は多い。そのため私は、ヨーロッパへ帰るには、この道を取ろうと決めた。道を教え、わずかな荷物を運ぶために、二頭のラバと、一人の案内人を雇った。たいへんな好意を示し、出発の際にも、気前のよい贈り物をくれた、高貴な庇護者に、私は別れを告げた。

道中には、語るほどの事故も冒険もなかった。マルドナダという名の港へ着くと、ラグナグ行きの船は一隻もなく、しばらくは来そうにもなかった。町は、ポーツマスほどの大きさだった。私は、すぐに知り合いを得て、たいへん親切にもてなされた。ある身分ある紳士が、「ラグナグへ行く船の用意ができるまで、一か月はかかるでしょう。それなら、南西へ五リーグほどの、グラブダブドリブという小島へ行ってみるのも、悪くない気晴らしになるかもしれません」と言った。そして、自分と友人が同行し、航海に適した小船も用意しようと申し出た。

グラブダブドリブとは、できるだけ近い意味に訳すと、魔法使い、あるいは魔術師の島という意味である。大きさはワイト島の三分の一ほどで、たいへん肥沃だった。ある部族の長が治めており、その一族は、全員が魔術師だった。この部族は、一族の間でしか婚姻せず、家を継ぐ、もっとも年長の者が、君主、あるいは総督となる。総督には、立派な宮殿と、三千エーカーほどの園地があり、高さ二十フィートの、切石の塀で囲まれていた。園地には、家畜、穀物、園芸のための、小さな囲い地が、いくつかあった。

総督と、その家族には、少し普通とは違う種類の召使いが仕えている。総督は、死霊術の力で、望む死者を、誰でも呼び出し、二十四時間、自分に仕えるよう命じられるが、それ以上はできない。また、きわめて特別な場合を除き、三か月たたぬうちに、同じ人物を、再び呼び出すこともできない。

島へ着いたのは、午前十一時ごろだった。同行の紳士の一人が、総督のもとへ行き、殿下にお目にかかる栄誉を得るため、わざわざ来た外国人を、入れていただきたいと願った。許可は、すぐに出た。私たち三人は、二列に並ぶ衛兵の間を通り、宮殿の門をくぐった。衛兵の武器や服装は、ひどく古風で、その顔つきには、言いようもない恐怖に、肌が粟立つようなものがあった。同じ種類の召使いが、やはり両側に並ぶ、いくつもの部屋を抜け、謁見の間へ着いた。三度、深々と礼をし、一般的な質問に、いくつか答えると、殿下の玉座の、一番下の段の近くにある、三つの腰掛けに座るのを許された。殿下は、この島の言葉とは違う、バルニバービの言葉も理解した。私の旅について話してほしいと言い、堅苦しい扱いをするつもりがないことを示すため、指をひと振りして、従者を全員、下がらせた。すると、急に目覚めたときの、夢の幻のように、皆が一瞬で消え去ったので、私は、ひどく驚いた。しばらくは、落ち着きを取り戻せなかった。だが、総督が、「危害を受けることはありません」と請け合い、何度も同じもてなしを受けている、連れの二人も平気なのを見るうち、勇気が戻り、殿下に、いくつかの冒険を手短に話した。それでも、ためらいは消えず、先ほど召使いの亡霊たちを見た場所を、何度も振り返った。名誉にも、総督と食事を共にしたが、今度は、別の幽霊の一団が料理を運び、食卓の世話をした。私は、朝ほどは怖がっていない、自分に気づいた。日没までとどまったが、宮殿に泊まるようにという招きだけは、お許しいただきたいと、へりくだって辞退した。二人の友人と私は、隣接する町の、普通の家に泊まった。そこは、この小島の首都だった。翌朝、ありがたくも命じられていたとおり、私たちは、再び総督へのご挨拶に出かけた。

こうして、私たちは島で十日間を過ごした。昼の大半は総督と共にし、夜は宿へ戻った。私は、じきに霊を見ることに慣れ、三、四度目からは、まったく心を動かされなくなった。あるいは、まだ恐れが残っていたとしても、好奇心が、それを上回ったのである。総督殿下は、世界の初めから、今に至るまでの、あらゆる死者の中で、私が名を挙げたい者を、何人でも呼び出し、聞きたいと思う質問には、何でも答えるよう命じてよいと、許してくれたからだ。ただし、質問は、その人々が生きていた時代の範囲に、限らねばならなかった。また、彼らは、必ず真実を話すということは、当てにしてよかった。あの世では、嘘をつく才能は、何の役にも立たないからである。

私は、この大きな恵みに、殿下へ深く感謝した。私たちは、園地が美しく見渡せる部屋にいた。最初は、華やかで壮大な光景を楽しみたかったので、アルベラの戦いの直後、軍を率いるアレクサンドロス大王を見たいと願った。総督が指を動かすと、私たちの立つ窓の下の、大きな野原に、その光景が、たちまち現れた。アレクサンドロスは、部屋へ呼び上げられた。彼のギリシア語を理解するのは、たいそう難しく、私のほうも、わずかなギリシア語しか話せなかった。大王は、名誉にかけて、「毒殺されたのではなく、酒の飲みすぎによる、悪性の熱病で死んだのだ」と請け合った。

次に、アルプスを越えるハンニバルを見た。彼は、「陣中には、酢が一滴もなかった」と教えてくれた。

私は、戦いを始めようとして、それぞれ軍の先頭に立つ、カエサルとポンペイウスを見た。また、カエサルの最後の大凱旋も見た。ある大きな部屋に、ローマの元老院を現し、別の部屋には、やや後の時代の議会を、向かい合わせに現してほしいと願った。前者は、英雄と半神の集まりに見えた。後者は、行商人、すり、追いはぎ、ならず者の一団に見えた。

私の願いで、総督は、カエサルとブルートゥスに、こちらへ進むよう合図した。ブルートゥスを見た私は、深い尊敬に打たれた。その顔の、どの線にも、もっとも完全な徳、最大の勇気と揺るがぬ精神、もっとも真の愛国心、そして人類全体への慈愛を、容易に見て取れた。この二人が、互いに親しくしているのを見るのは、たいへん嬉しかった。カエサルは、私に率直に、「自分の生涯の、もっとも偉大な行為でも、その命を奪った栄光には、何段も及ばない」と認めた。私は、ブルートゥスと、たくさん話す栄誉を得た。そして、「祖先のユニウス、ソクラテス、エパミノンダス、小カトー、サー・トマス・モア、そして自分は、いつも一緒にいる」と聞かされた。この六人衆に、七人目を加えられる時代は、世界の歴史のどこにもない。

古代の、あらゆる時代の世界を、目の前で見たいという、私の飽くなき願いを満たすため、どれほど多くの名高い人々が呼び出されたか、それを述べて読者を煩わせるのは、退屈だろう。私が、とくに目を楽しませたのは、暴君や簒奪者を倒した者、圧迫され、傷つけられた国々に、自由を回復した者たちを見ることだった。だが、心の中に得た満足を、読者にふさわしい楽しみとなるような形で表すのは、不可能である。

第八章

グラブダブドリブについての続き。古代史と近代史の訂正。

才知と学問でもっとも名高かった古代人たちに会いたくなり、そのために一日を取っておいた。ホメロスとアリストテレスに、それぞれの注釈者全員を従えて、現れてほしいと頼んだ。だが、注釈者が、あまりに多かったので、何百人かは、中庭や宮殿の外側の部屋で待たねばならなかった。私は一目で、この二人の英雄を見分け、群衆からも、互いからも、区別できた。ホメロスのほうが背が高く、容姿もよく、その年齢にしては、たいそう真っすぐ歩き、目は、私が見たこともないほど、生き生きと鋭かった。アリストテレスは、ひどく腰をかがめ、杖を使っていた。顔はやせ、髪は、まっすぐで薄く、声は、うつろに響いた。二人とも、ほかの一同とは、まったく面識がなく、見たことも、聞いたこともないと、すぐにわかった。名は伏せておくが、一人の幽霊が、私に耳打ちした。「この注釈者たちは、あの世では、いつも元の著者たちから、もっとも遠い区画にいます。著者たちの意味を、あまりにひどく誤って後世に伝えたので、恥と罪を自覚しているのです。」私はディデュモスとエウスタティオスをホメロスに紹介し、おそらく彼らが値する以上に、親切に扱ってくれるよう頼んだ。ホメロスは、彼らに、詩人の精神へ入り込む天分がないと、すぐにわかったからだ。一方、アリストテレスに、スコトゥスとラムスを紹介し、その仕事を話すと、まるで我慢ならぬ様子で、「ほかの連中も、お前たちほどの大馬鹿なのか」と、二人に尋ねた。

それから総督に、デカルトとガッサンディを呼び出すよう願い、二人を説き伏せ、アリストテレスに、自分たちの体系を説明させた。この大哲学者は、自然哲学における自分の誤りを、率直に認めた。多くの事柄を、推測に基づいて進めたためだが、それは誰にも避けられないという。そして、エピクロスの教えを、できるだけ受け入れやすくしたガッサンディも、デカルトの渦動説も、同じように退けるべきだと考えた。今の学者が、あれほど熱心に主張する引力説にも、同じ運命が待っていると予言した。「自然についての新しい体系など、新しい流行にすぎず、時代ごとに変わるものだ。数学的原理から証明する、と称する者たちでさえ、短い期間しか栄えず、それが過ぎれば、流行遅れになる」と言った。

五日間、私は、ほかにも多くの古代の学者と語り合った。初期のローマ皇帝の大半も見た。総督に頼んで、ヘリオガバルスの料理人たちを呼び出し、食事を作らせたが、材料が足りず、腕前を、あまり見せられなかった。アゲシラオスの隷属民の一人は、スパルタの汁料理を作ってくれたが、私は二さじ目を、のみ込めなかった。

私を島へ案内した二人の紳士は、自分たちの用事に迫られ、三日後には帰らねばならなくなった。私は、その三日を、近代の死者のうち、この二、三百年間、わが国やヨーロッパのほかの国々で、もっとも名をなした人々を見ることに使った。私は、いつも、古い名門を大いに尊敬していたので、十二人か二十四人ほどの王を、その祖先とともに、八代か九代、順に呼び出してほしいと、総督に頼んだ。だが、失望は激しく、思いがけないものだった。王冠を戴く長い列の代わりに、ある家では、二人のヴァイオリン弾き、三人の洒落た廷臣、そしてイタリアの高位聖職者が現れた。別の家では、床屋、修道院長、二人の枢機卿が現れた。私は、王冠を戴く方々を、あまりに深く敬っているので、こんな微妙な話題を、これ以上、長く扱うわけにはいかない。だが、カウントと呼ばれる伯爵、侯爵、公爵、アールと呼ばれる伯爵などについては、それほど慎まなかった。そして、家々を区別する、独特の特徴の由来を、さかのぼって突き止められたことに、多少の喜びを覚えたと、認めよう。ある家の長い顎が、どこから来たか、別の家では、なぜ二代にわたり悪党ばかりで、そのあとの二代は愚か者ばかりだったか、第三の家は、なぜ気がふれ、第四の家は、なぜいかさま師になったかが、はっきりわかった。また、ポリドール・ヴァージルが、ある大貴族の家について、「男に勇者なく、女に貞女なし」――Nec vir fortis, nec femina casta――と述べるようになった理由もわかった。残虐、虚偽、臆病が、紋章に劣らず、家を見分ける特徴になったわけも、誰が最初に、ある名門へ梅毒を持ち込み、子孫へ代々、瘰癧の腫れを伝えたかも、わかった。小姓、従僕、近侍、御者、賭博師、ヴァイオリン弾き、役者、軍人、すりによって、血筋が、これほど絶えず入れ替わるのを見れば、これらすべてに、驚くこともなかった。

とくに嫌気がさしたのは、近代史だった。過去百年間、君主の宮廷でもっとも有名だった人々を、すべて厳しく調べると、身を売った著述家たちが、どれほど世間を誤らせてきたかが、わかったからである。戦争での最大の功績を臆病者に、もっとも賢明な助言を愚か者に、誠実さを追従者に、ローマ的な徳を売国奴に、信心を無神論者に、純潔を男色者に、真実を密告者に帰していた。大臣たちが、裁判官の腐敗や党派の悪意へ働きかけたため、何と多くの無実で優秀な人々が、死刑や追放を宣告されてきたことか。何と多くの悪党が、信頼、権力、威厳、利益の、もっとも高い地位へ引き上げられてきたことか。売春宿の主人、娼婦、女衒、寄生者、道化が、宮廷、評議会、元老院の動きや出来事に、どれほど大きな役割を果たしていたことか。世の大事業や革命の、真の発端と動機、それを成功させた、卑しい偶然を知らされたとき、人間の知恵と誠実さについて、私の評価は、どれほど低くなったことだろう。

ここで私は、逸話や秘史を書くと称する者たちの、悪辣さと無知を知った。彼らは、一杯の毒で、あまりに多くの王を墓へ送り、証人のいない、君主と首席大臣の会話を再現し、大使や国務大臣の思考や書斎を、こじ開ける。そして、いつも間違うという不運に見舞われている。ここで私は、世間を驚かせた、多くの大事件の真因を知った。一人の娼婦が奥向きを支配し、奥向きが評議会を支配し、評議会が元老院を支配する、その仕組みも知った。ある将軍は、私の前で、「もっぱら臆病と、まずい指揮の力で、勝利した」と認めた。ある提督も、「適切な情報が足りなかったため、艦隊を売り渡すつもりの敵を、破ってしまった」と認めた。三人の王は、私に、「治世を通じ、間違いか、信頼している大臣の裏切りでなければ、一度も、有能な者を取り立てたことはない。もう一度生きても、そうするつもりはない」と断言した。そして、「徳が人に与える、断定的で、自信に満ち、扱いにくい気性は、公務の絶えぬ妨げなのだから、腐敗なしには王座を支えられない」と、力強い理屈で示した。

私は、大勢の人々が、どういう方法で、高い爵位と、莫大な領地を手に入れたか、詳しく知りたくなった。調査は、ごく近代に限ったが、それでも今の時代には触れなかった。外国人にさえ、誰にも気分を害させたくなかったからだ。ここで述べることに、わが国を少しも意図していないのは、読者に、わざわざ言うまでもないと思う。関係する人々を、大勢呼び出し、ほんの少し調べただけで、これほど恥ずべき有様が明らかになったので、今も、多少、まじめな気持ちにならずには、思い返せない。偽証、圧迫、偽証の教唆、詐欺、売春の取り持ちといった弱点は、彼らの挙げた手口のうち、もっとも許せる部類だった。それらには、当然のことながら、私は大いに寛大な判断をした。だが、ある者は、偉大さと富を、男色や近親相姦によって得たと認め、別の者は、自分の妻や娘を売春させて得たと認めた。国や君主を裏切った者、毒殺した者、そして、無実の人を滅ぼすために、正義を曲げた、さらに多くの者もいた。こうした発見のため、私が、生まれつき、高い身分の人々に抱きがちな深い尊敬を、多少弱めたとしても、お許し願いたいと思う。本来、私たち下の者は、その崇高な威厳にふさわしい、最大の敬意で、その方々を扱うべきなのだが。

私は、君主や国家に尽くされた、いくつかの大きな奉仕について、よく読んでいたので、それを行った人々に会いたいと願った。尋ねてみると、「その名は、どんな記録にも残っていない。ただし、歴史が、もっとも卑しい悪党や裏切り者として記した、わずかな例外はある」と言われた。ほかの人々については、私は、名前を一度も聞いたことがなかった。皆、沈んだ顔で、もっともみすぼらしい服を着て現れ、大半が、「貧困と不名誉の中で死に、残りは、処刑台や絞首台で死んだ」と語った。

その中に、少し変わった事情の人物がいた。そばには、十八歳ほどの若者が立っていた。彼は私に、こう話した。「長年、軍艦の艦長を務め、アクティウムの海戦では、幸運にも、敵の大きな戦列を突破し、主力艦を三隻沈め、もう一隻を捕らえました。それだけが、アントニウスの逃走と、続く勝利の原因になったのです。ここに立つ若者は、私の一人息子で、その戦いで死にました。」さらに続けた。「自分にも、多少の功績があると信じて、戦争が終わるとローマへ行き、艦長が戦死した、もっと大きな軍艦へ昇進させてほしいと、アウグストゥスの宮廷に願い出ました。ですが、私の言い分は、まるで顧みられず、海を見たことさえない少年に与えられました。皇帝の愛人の一人に仕える、リベルティナという女の息子でした。自分の船へ戻ると、今度は職務怠慢の罪を着せられ、その船も、次席提督プブリコラの、お気に入りの小姓に与えられました。そこで私は、ローマから、はるか遠くの、貧しい農場へ引退し、そこで生涯を終えたのです。」私は、この話が本当か、ひどく知りたくなり、その海戦で提督だった、アグリッパを呼び出してほしいと願った。彼は現れ、話のすべてを裏づけたが、艦長にとっては、さらに有利な話になった。本人の慎み深さが、功績の多くを、軽く扱うか、隠すかしていたからである。

あの帝国へ、ほんの少し前に持ち込まれた贅沢の力で、腐敗が、これほど高く、これほど速く進んだことに、私は驚いた。そのため、ほかの国々で見られる、多くの似た例にも、あまり驚かなくなった。そこでは、あらゆる悪徳が、はるかに長く君臨し、賞賛も戦利品も、おそらく、どちらを得る資格も、もっとも乏しい最高司令官が、すべて独り占めしてきたのである。

呼び出された者は、皆、この世にいたときと、まったく同じ姿で現れた。そのため、過去百年の間に、私たちの人類が、どれほど退化したかを見て、私は憂鬱な思いに沈んだ。さまざまな名で呼ばれ、さまざまな結果を伴う梅毒が、イングランド人の顔の線を、すべて変え、体を小さくし、神経を弱らせ、腱と筋肉を緩め、顔色を土気色にし、肉を、たるませ、腐らせていたのである。

私は、さらに身分の低い人々にも目を向け、昔かたぎのイングランドの自作農を、何人か呼んでほしいと頼んだ。かつて、風俗、食事、服装の素朴さ、取引の公正さ、真の自由の精神、勇気と愛国心で、あれほど名高かった人々である。生者と死者を比べ、これらの純粋で、生まれつきの徳が、孫たちによって、わずかな金のために売り渡されたことを考えると、まったく平静ではいられなかった。その孫たちは、票を売り、選挙で策を弄するうちに、宮廷で学べるかぎりの、あらゆる悪徳と腐敗を、身につけてしまったのである。

第九章

著者、マルドナダへ戻る。ラグナグ王国へ航海する。著者、拘留される。宮廷に召される。謁見の方法。臣民に対する王の大いなる寛大さ。

出発の日が来ると、私はグラブダブドリブの総督殿下に別れを告げ、二人の連れと、マルドナダへ戻った。そこで二週間待つと、ラグナグへ向かう船の、出航準備ができた。二人の紳士と、ほかの何人かは、気前よく、親切にも、食糧を用意し、私を船へ見送ってくれた。この航海には、一か月かかった。一度、激しい嵐に遭い、六十リーグを超えて続く貿易風に入るため、西へ舵を向けねばならなかった。一七〇八年四月二十一日、私たちは、ラグナグの南東端にある港町、クルメグニグの川へ入った。町から一リーグ以内に錨を下ろし、水先案内を求める合図をした。三十分もたたぬうちに、二人が乗り込んできて、通るのに、たいへん危険な浅瀬と岩の間を抜け、大きな泊地へ案内してくれた。そこでは、町の城壁から、碇綱一本分も離れずに、艦隊を安全に停泊させられた。

船員の何人かが、裏切り心からか、不注意からか、私が外国人で、大旅行家だと、水先案内人に話していた。案内人たちが税関の役人へ知らせたので、私は上陸するなり、たいそう厳しく取り調べられた。この役人は、バルニバービの言葉で話した。交易が盛んなおかげで、この町では、とくに船乗りと税関で働く者には、一般に通じる言葉だった。私は、いくつかの事情を手短に話し、できるだけ、もっともらしく、筋が通るようにした。だが、国籍は隠し、オランダ人だと名乗る必要があると考えた。私は日本へ行くつもりであり、その国へ入ることを許されたヨーロッパ人は、オランダ人だけだと知っていたからである。そこで役人には、「バルニバービの岸で難船し、岩へ打ち上げられたあと、ラピュタ、つまり空飛ぶ島へ迎え上げられました」と話した。役人も、その島の話は、よく聞いていた。「今は日本へ行き、そこから故国へ帰る便を見つけたいのです。」役人は、「宮廷から命令を受けるまでは、拘留せねばなりません。すぐに手紙を出しますから、二週間で返事が来ることを期待します」と言った。私は、便利のよい宿へ連れていかれ、戸口には歩哨が置かれた。だが、大きな庭を自由に使え、十分に人道的な扱いを受けた。その間の生活は、すべて王の費用でまかなわれた。聞いたこともない、ひどく遠い国々から来たと噂されたので、主に好奇心から、何人かの人々に招かれた。

私は、同じ船で来た若者を、通訳として雇った。ラグナグの生まれだが、マルドナダに何年か住み、両方の言葉を、完全に使いこなしていた。その助けで、訪ねてくる人々と会話できたが、話といっても、相手が尋ね、私が答えるだけだった。

宮廷からの返書は、ほぼ予想どおりのころに届いた。十人の騎兵の一隊に、私と従者を、トラルドラグダブ、あるいはトリルドログドリブへ連れてくるようにという命令だった。私の記憶では、その両方の発音があった。従者というのは、説き伏せて私に仕えてもらった、あの貧しい通訳の若者一人だけだった。私が、へりくだって頼むと、二人それぞれに、乗るラバが一頭ずつ与えられた。私たちより半日先に、使者が出され、王に、私の近づいたことを知らせ、「陛下の足台の前で、塵をなめる栄誉を賜るため、ありがたき御意によって、日時をご指定くださいますよう」と願った。これが宮廷の言い回しなのだが、単なる形式以上のものだと、私は知った。到着の二日後、入場を許されると、腹ばいになり、進みながら床をなめよと、命じられたからである。ただ、外国人なので、塵が不快にならぬよう、十分きれいに掃除してくれていた。だが、これは特別の恩恵で、謁見を願う者の中でも、最高の身分の者にしか許されなかった。しかも、宮廷に有力な敵を持つ者が入るときには、わざと床へ塵をまくこともあった。私は、口が、あまりに塵でいっぱいになり、玉座から定められた距離まではい進んだときには、一言も話せなくなった大貴族を、見たことがある。助かる方法もない。謁見する者が、陛下の御前で唾を吐いたり、口を拭いたりすれば、死罪だからである。実際、もう一つ、私には、全面的には賛成できない習慣がある。王が、貴族の誰かを、優しく寛大なやり方で死なせたいと思うと、ある褐色の猛毒の粉を、床へまくよう命じる。それをなめれば、必ず二十四時間以内に死ぬ。だが、この君主の大いなる慈悲と、臣民の命を気づかう心とを、公正に扱うために――この点では、ヨーロッパの君主たちも、ぜひ見習ってほしい――王の名誉として、次のことを述べねばならない。こうした処刑のあとは、毎回、毒のついた床を、よく洗うよう、厳命されているのである。召使いが怠れば、王の不興を招く危険がある。処刑のあと、床洗いの知らせを出す番だったのに、悪意から怠り、そのために、謁見に来た前途有望な若い貴族が、不運にも毒に当たったことがあった。王は、そのとき、その若者を殺すつもりはなかった。私は、王が、その小姓を鞭打つよう命じるのを、自分で聞いた。だが、この善良な君主は、特別の命令がないかぎり、二度とそうしないと約束させ、ありがたくも、気の毒な小姓への鞭打ちを免じてやった。

横道をやめ、本筋へ戻ろう。玉座から四ヤード以内まではい進んだ私は、静かに身を起こして膝をつき、額を七度、地面へ打ちつけ、前の晩、教えられたとおり、次の言葉を唱えた。Ickpling gloffthrobb squutserumm blhiop mlashnalt zwin tnodbalkguffh slhiophad gurdlubh asht。これは、この国の法律によって、王の御前に入る者すべてに定められた挨拶である。英語に訳せば、「天なる陛下の御寿命が、太陽より十一か月半、長くありますように」という意味になる。王は、これに何か答えた。私には、わからなかったが、教えられたとおり、Fluft drin yalerick dwuldom prastrad mirpushと返した。正確には、「私の舌は、友の口の中にあります」という意味で、この言葉によって、通訳を入れる許可を願うのである。そこで、先の若者が入れられ、私は、その仲介によって、一時間あまり、陛下の、あらゆる質問に答えた。私はバルニバービの言葉で話し、通訳が、ラグナグの言葉で、その意味を伝えた。

王は、私を相手にするのを、たいへん喜び、ブリフマルクラブ、すなわち侍従長に、私と通訳のため、宮廷に宿を用意するよう命じた。食卓のための日々の手当と、普段の費用に充てる、大きな金貨の袋も与えられた。

陛下が、たいそう好意を示し、名誉ある申し出をしてくれたので、私は、まったくその御意に従って、この国に三か月とどまった。だが、残る日々は、妻や家族と共に過ごすほうが、分別にも、正義にもかなうと考えた。

第十章

ラグナグ人への賛辞。ストラルドブラグについての詳しい説明と、それをめぐる著者と有力者たちの数々の対話。

ラグナグ人は礼儀正しく、寛大な国民である。あらゆる東洋の国々に特有の、あの高慢さをいくらか持たぬわけではないが、外国人、とくに宮廷の後ろ盾のある者には、丁重に接する。私は多くの知人を得、そのなかには最上流の人々もいた。いつも通訳を伴っていたので、交わす会話も悪いものではなかった。

ある日、多くのよい人々の集まりで、身分のある人から、「この国のストラルドブラグ、すなわち不死の者を見たか」と尋ねられた。私は「まだです」と言い、死ぬべき生き物にそのような名をつけるのは、どういう意味なのか説明してほしいと頼んだ。その人の話では、「ときには、とはいえたいへん稀だが、ある家に、左の眉の真上の額に、赤い丸い斑点のある子が生まれる。それは、その子が決して死なないことの、間違いのないしるしなのだ」という。彼の説明によると、「斑点は三ペンス銀貨ほどの大きさだが、時とともに大きくなり、色も変わる。十二歳で緑になり、二十五歳まで続き、その後は濃い青になる。四十五歳では石炭のように黒くなり、イングランドの一シリング銀貨ほどの大きさになるが、それ以上はまったく変わらない」。また、「こうした誕生はたいへん稀なので、王国全体でも、男女のストラルドブラグが千百人以上いるとは思わない。そのうち都には五十人ほどと見積もられ、三年ほど前に生まれた幼い娘もいる。特定の家系に限られるのではなく、まったく偶然の結果であり、ストラルドブラグ自身の子供も、ほかの国民と同様、死ぬ者である」と話した。

この話を聞いて、言い表せぬ喜びに打たれたことを、私は率直に認める。話してくれた人が、たまたま、私のたいへん上手に話せるバルニバービ語を理解したので、少し度を越すほどの感想を、叫ばずにはいられなかった。恍惚としたように、私は叫んだ。「幸福な国だ、どの子にも、少なくとも不死になれる機会があるとは! 幸福な民だ、昔の徳の生きた実例をこれほど多く持ち、過ぎ去ったあらゆる時代の知恵を教えてくれる先生が、いつもいるとは! だが、比べようもなく最も幸福なのは、そのすぐれたストラルドブラグたちです。人間に普遍のあの災厄を、生まれながら免れているので、死を絶えず恐れるための、重苦しく沈んだ気持ちもなく、心が自由で解き放たれているのですから!」そして、こうした高名な人々を宮廷で一人も見なかったことへの驚きを表した。「額の黒い斑点は、きわめて目立つ違いですから、簡単に見落とせるはずはありません。たいへん賢明な君主である陛下が、これほど賢く有能な顧問を、相当数そばに置かれないはずはないのに。もっとも、その尊敬すべき賢者たちの徳は、腐敗して放縦な宮廷の風俗には、厳しすぎるのかもしれません。若者が自説にこだわり、浮ついていて、年長者の落ち着いた指図に導かれないのも、よく経験することです。ですが、国王は拝謁をお許しくださっているので、最初の機会に、通訳を通じて、この件について率直に、十分に自分の意見を述べようと決心しました。そして、その助言をお聞きくださるにせよ、くださらぬにせよ、一つだけは決めています。陛下は、この国に暮らしを立てることを何度も勧めてくださったので、そのご恩を深く感謝してお受けし、あのすぐれた存在、ストラルドブラグたちが仲間に入れてくださるなら、一生をその交わりのうちに過ごそうと思います」

前にも述べたとおり、バルニバービ語を話すため、この話を私から聞いた紳士は、無知な者への憐れみから普通生じるような、ある種の笑みを浮かべ、こう言った。「どんなきっかけであれ、あなたをわれわれの間にとどめられるのは喜ばしい。今おっしゃったことを、皆に説明するのをお許しいただきたい」。そうして話すと、しばらく皆が国の言葉で語り合った。私は一音節もわからず、顔つきからも、どんな印象を与えたか読み取れなかった。短い沈黙のあと、同じ人がこう言った。「私の友人でも、あなたの友人でもある皆さん」――彼はそういう言い方を選んだ――「は、不死の生の大きな幸福と利点についての、賢明なご意見をたいへん喜んでいます。そして、もしストラルドブラグとして生まれる運命だったなら、どのような暮らし方を考えていたか、詳しく知りたがっています」

私は答えた。「これほど豊かで楽しい題なら、雄弁になるのはたやすいことです。とくに私にはそうです。王であったら、将軍であったら、大貴族であったら何をするかという空想で、よく自分を楽しませてきましたから。今の件についても、永遠に生きるとわかっていたら、何をして、どう時を過ごすかという計画全体を、何度も思い巡らしてきたのです。

「幸いにもストラルドブラグとしてこの世に来たなら、生と死の違いを理解して自分の幸福を知るとすぐ、まず、あらゆる術と方法を尽くして富を得ようと決心するでしょう。そのために節約し、うまくやり繰りすれば、二百年ほどで、国中いちばんの金持ちになると、十分期待できます。第二に、最も幼いころから学芸や諸科学の研究に励めば、やがて学問でほかのすべての者を凌ぐでしょう。最後に、国で起きる重要な行為や出来事を一つ残らず注意深く記録し、歴代の君主や大臣の人物像を公平に描き、あらゆる点について自分の観察を添えます。習慣、言語、服装の流行、食事、娯楽のさまざまな変化を、正確に書き留めます。こうして獲得したものすべてによって、私は生きた知識と知恵の宝庫となり、必ず国の託宣者になるでしょう。

「六十歳を過ぎてからは決して結婚せず、人を厚くもてなしながら、それでも倹約を守って暮らします。有望な若者の心を形作り、導くことを楽しみとし、公私の生活における徳の有用さを、自分の記憶、経験、観察と、それを補強する多くの実例で、納得させます。しかし選んで常に交わる相手は、自分と同じ不死の兄弟たちにします。そのなかから、最も古い者から同時代の者まで、一ダースを選ぶでしょう。貧しい者がいれば、自分の領地の周りに手ごろな住まいを用意し、そのうち何人かは、いつも食卓に迎えます。あなた方、死ぬ者たちのうちからも、最も価値ある人を少しだけ交えますが、長い時が私を鍛え、その人々を失っても、ほとんど、あるいはまったく惜しまなくなり、子孫にも同じように接するでしょう。ちょうど、庭のナデシコやチューリップが年ごとに入れ替わるのを楽しみ、前年に枯れたものを惜しまぬのと同じように。

「このストラルドブラグたちと私は、時を通じての観察と記録を互いに伝え合い、腐敗が世界へ忍び込むさまざまな段階を見定め、人類へ絶えず警告し、教えることによって、その一歩一歩に抗うでしょう。自分たちの実例の強い影響も加われば、あらゆる時代に、まことにもっともに嘆かれてきた、人間性の絶え間ない堕落も、おそらく防げるはずです。

「さらに、国家や帝国のさまざまな変動、地上と天上の変化、古い都市が廃墟となり、名もない村が王都になるさま、有名な大河が浅い小川へ縮み、海がある海岸を干上がらせ、別の海岸を呑み込むさま、まだ知られていない多くの国の発見、野蛮が最も洗練された国々を覆い、最も野蛮な国が文明化するさまを見る楽しみもあります。そのうちに、経度を求める方法や、永久運動や、万能薬の発見、その他の多くの大発明が、極致まで完成されるのを見られるでしょう。

「自分の予言が実現するまで生きて確かめ、彗星の進みと回帰、太陽と月と星の運動の変化を観察すれば、天文学で何と驚くべき発見ができることでしょう!」

私はほかにも、終わりのない生と、この地上の幸福への自然な願いが、容易に与えてくれる多くの題を詳しく話した。話し終え、その要旨が、先ほどと同じように皆へ通訳されると、国の言葉でかなりの議論があり、私を笑う声も交じった。ついに、通訳を務めた同じ紳士が、こう言った。「皆から、あなたの幾つかの誤りを正すよう頼まれました。それは人間性に共通する弱さから陥ったもので、その点を考えれば、責任も軽くなります。このストラルドブラグの種は、この国だけのものです。私は陛下の大使となる栄誉を得て、バルニバービにも日本にも行きましたが、そこにはおらず、どちらの国の住民も、それがありうるとは、なかなか信じませんでした。最初にこのことをお話ししたときの驚きから、あなたもまったく初めて聞き、ほとんど信じられぬことと受け取ったのがわかります。先の二国では、滞在中、多くの交際をしましたが、長寿は人類の誰もが望み、願うことだと見ました。片足を墓に入れた者は、必ずもう一方を、できるだけ強く引き止めようとします。最も年老いた者でも、なお一日長く生きることを望み、死を最大の災いと見て、自然はいつも、そこから退こうと促すのです。ただ、このラグナグ島では、ストラルドブラグの実例を絶えず目の前にしているため、生きたいという欲望が、それほど強くありません。

「あなたの考えた暮らしの計画は、理に合わず、正しくもありません。若さと健康と活力が永遠に続くことを前提にしていますが、望みがどれほど途方もなくても、そこまで愚かに期待できる者はいないからです。ですから問題は、繁栄と健康を伴う、青春の盛りにいつもいられることを選ぶかどうかではなく、老齢のもたらすあらゆる普通の不利益のもとで、永遠の生をどう過ごすかです。そのような厳しい条件で不死を願うと公言する者は少ないでしょうが、先ほどのバルニバービと日本の二国でも、死がどれほど遅く近づこうと、誰もが、さらにいくらか先へ延ばしたがるのを見ました。極度の悲しみや苦痛に駆られた者を除き、進んで死ぬ人の話は、ほとんど聞きませんでした。あなたも祖国や旅した国で、同じ一般的な性向を見ませんでしたか」と、私に問いかけた。

この前置きのあと、彼はこの国のストラルドブラグについて詳しく話した。「三十歳ほどまでは、普通、死ぬ者たちと同じように振る舞います。その後、次第に憂鬱で気落ちするようになり、八十歳まで、その両方が強まります。これは本人たちの告白から知ったことです。一時代に二、三人しか生まれない種なので、そうでもなければ、一般的な観察をするには数が少なすぎます。この国で生の極限とされる八十歳になると、ほかの老人のあらゆる愚かさや衰弱に加え、決して死なないという恐ろしい見通しから生じる、さらに多くのものを抱えます。頑固、怒りっぽい、貪欲、気難しい、虚栄心が強い、おしゃべりというばかりでなく、友情も持てず、あらゆる肉親の情も死に絶えます。その情は、孫より下の代に及ぶことがありません。嫉妬と、果たす力のない欲望が、支配的な情念です。ですが嫉妬がとりわけ向けられるのは、若者の悪徳と、老人の死です。前者を思えば、自分があらゆる快楽の可能性から切り離されたと感じます。葬式を見るたびに、ほかの者は、自分には決してたどり着く望みのない安息の港へ去ったのだと、嘆き、恨みます。若いころと中年に学び、観察したこと以外、何も覚えておらず、それさえたいへん不完全です。ある事実の真偽や細部については、その人々の最良の記憶よりも、普通の言い伝えを頼るほうが確かです。最も不幸の少ない者は、耄碌して、記憶をすっかり失った者のようです。ほかの者に満ちている多くの悪い性質がないため、こうした者には、より多くの同情と援助が与えられます。

「ストラルドブラグが、たまたま同じ種の者と結婚すれば、二人のうち若いほうが八十歳になったとたん、王国の寛大な配慮により、婚姻は当然に解消されます。自分の過失なく永遠にこの世にとどまる刑を受けた者たちに、妻という重荷で不幸を倍にしないことを、法律は理にかなった寛容と考えるからです。

「八十年を満了するとすぐ、法律上は死者と見なされ、相続人がただちに財産を継ぎ、本人の暮らしには、わずかな金額だけが残されます。貧しい者は公費で養われます。その年齢を過ぎれば、信任や利益を伴うどの職にも就けず、土地を買うことも、借地契約をすることもできません。民事、刑事を問わず、どんな事件でも証人になることを許されず、土地の境や境界を決める件でさえ、同じです。

「九十歳には歯と髪を失います。その年では味の区別もつかず、手に入るものを何でも、味わいも食欲もなく飲み食いします。かかっていた病気は、増えも減りもせずに続きます。話していると、物の普通の名も、人の名も忘れ、最も親しい友人や親族の名さえ出てきません。同じ理由で、読書も決して楽しめません。一文の初めから終わりまでをつなぐだけの記憶がもたないからです。この欠陥によって、さもなければ可能だったかもしれない、ただ一つの楽しみも奪われます。

「この国の言葉は絶えず変化するので、ある時代のストラルドブラグは、別の時代の者を理解できません。二百年もたつと、死ぬ者である隣人とも、ごく一般的な幾つかの語を除いて、何の会話もできなくなります。こうして、自国で外国人のように暮らす不利益を負うのです」

覚えているかぎりでは、ストラルドブラグについて与えられた説明は、このようなものだった。その後、友人の何人かが、時を異にして連れて来た、さまざまな年齢の五、六人に会った。最も若い者でも、二百歳を超えない程度だった。「この方は世界中を見た、大旅行者だ」と聞かされても、質問する好奇心はまるで示さず、ただ「スラムスクダスク」、すなわち記念のしるしをくれと望むだけだった。これは、物乞いを厳しく禁じる法律を避ける、控えめな乞い方である。彼らは公費で養われているからだが、実際の支給額は、ごくわずかだった。

彼らはあらゆる階層の人々から軽蔑され、憎まれている。一人生まれると不吉とされ、その誕生はたいへん詳しく記録されるので、登録簿を見れば年がわかる。ただし記録は過去千年以上には及ばず、少なくとも、それより古いものは、時や国の騒乱によって失われている。だが普通、その年を数えるには、どんな王や大人物を覚えているか尋ねて、歴史と照らし合わせる。記憶にある最も新しい君主は、その者が八十歳になったあとで統治を始めた王では、決してないからである。

それは、私がこれまで見たうちで、最も身につまされる光景だった。女は男より、さらに恐ろしかった。極端な老齢に普通の醜さに加え、年数に比例して、描きようのない不気味さが増していた。半ダースのうち、誰が最年長かは、百年か二百年しか違わなくても、すぐに見分けられた。

聞き、見たことによって、永遠の生への私の強い欲望が大いに衰えたのは、読者も容易に信じられよう。抱いていた楽しい空想を、心から恥じた。このような生から逃れるためなら、どんな暴君が考え出す死であれ、喜んで飛び込まないものはないと思った。この件で、私と友人たちの間に起きた一切を国王は聞き、たいへん愉快に私をからかった。そして、祖国の人々が死の恐怖に立ち向かえるよう、ストラルドブラグを二人、送り込めればよいのにと望んだ。だが、どうやら王国の基本法で禁じられているらしかった。そうでなければ、運ぶ手間も費用も、私は十分喜んで引き受けただろう。

ストラルドブラグに関するこの王国の法律は、きわめて強い理由に基づき、ほかのどの国も、同じ事情なら制定せざるをえないと、認めずにはいられなかった。さもなければ、貪欲は老齢の必然の結果であるため、この不死者たちは、やがて全国の所有者となり、政治上の権力を独占するだろう。そして、それを扱う能力がないため、ついには国全体の破滅に終わるはずだからである。

第十一章

著者はラグナグを去り、日本へ渡る。そこからオランダ船でアムステルダムへ、さらにイングランドへ帰る。

ストラルドブラグのこの話は、いささか普通と違うようなので、読者の楽しみになるかもしれないと思った。少なくとも、手にしたどの旅行記でも、似た話に出会った覚えはない。もし間違っているなら、同じ国を描写する旅行者たちは、同じ細部に繰り返し立ち入る点で、一致しなければならないことがたいへん多く、それゆえ先に書いた者から借りた、書き写したと非難されるには当たらない、ということを弁明としたい。

実際、この王国と日本の大帝国の間には、絶え間ない交易があるので、日本の著述家がストラルドブラグについて、何か書いている可能性はたいへん高い。だが日本での滞在はきわめて短く、言葉もまったく知らなかったので、私は何も調べられる立場になかった。とはいえ、この知らせをきっかけに、オランダ人が、私の不足を補うだけの好奇心と能力を発揮してくれることを望む。

陛下は、宮廷で何かの職に就くよう、何度も勧めてくださったが、祖国へ帰るという私の決意が揺るがないと知ると、出国の許可を与え、さらに日本の皇帝に宛てた、ご親筆の紹介状を授ける栄誉をくださった。また、大きな金貨四百四十四枚と、赤いダイヤモンドをくださった。この国民は偶数を好むのである。ダイヤモンドは、イングランドで千百ポンドで売った。

一七〇九年五月六日、陛下と友人全員に、正式の暇乞いをした。君主は寛大にも、島の南西部にある御用港グラングエンスタルドへ、護衛に送らせるよう命じてくださった。六日で日本へ運んでくれる船が見つかり、航海には十五日かかった。上陸したのは、日本の南東部に位置する、ザモスキという小さな港町だった。町は西の岬にあり、そこには、北へ向かって長い入海へ通じる狭い海峡があった。その入海の北西部に、都の江戸がある。上陸すると、税関の役人に、ラグナグ王から皇帝陛下への手紙を示した。役人たちは封印をよく知っていた。私の手のひらほどの幅があり、王が足の不自由な物乞いを、地面から助け起こす図が押されていた。町の長官たちは、手紙のことを聞き、公の使節として迎えてくれた。乗り物や召使いを用意し、江戸までの費用を負担した。そこで拝謁を許され、手紙を差し出すと、たいへんな儀式をもって開かれ、通訳が皇帝に説明した。それから通訳は、陛下の命によって、「望みを述べよ。どのようなことでも、兄弟たるラグナグ王のためにかなえよう」と伝えた。この通訳は、オランダ人との交渉に雇われている者だった。顔つきから、私がヨーロッパ人だとすぐ推測し、たいへん上手に話せるオランダ語で、陛下の命令を繰り返した。私は、前もって決めていたとおり、こう答えた。「私はオランダの商人で、たいへん遠い国で難破し、そこから海陸を旅してラグナグへ至り、船で日本へ参りました。同国人がよく交易していると知っていたので、その一部とともに、ヨーロッパへ帰る機会が得られようと望んでおります。そこで、どうかご恩寵をもって、長崎まで無事に送り届けるようお命じいただきたく、このうえなく恭しくお願い申し上げます」。さらにもう一つ、「私の庇護者であるラグナグ王のために、同国人へ課せられる、十字架像を踏みつける儀式を、私には免じていただきたいのです。交易の意図はなく、不幸によって御国へ投げ出されたのですから」と請願を加えた。この後の願いが通訳されると、皇帝は少し驚いたようで、こう言った。「この点に疑念を抱いたオランダ人は、おまえが初めてだろう。本当のオランダ人なのか疑わしくなり、むしろキリスト教徒ではないかと思う。だが述べた理由により、そして主として、珍しい恩寵のしるしによってラグナグ王を喜ばせるため、この風変わりな気質に応じよう。ただし、巧みに扱わねばならず、役人には、いわば忘れたかのように通すよう命じる。秘密が同国人のオランダ人に知られれば、航海の途中で喉を切られると、請け合う」。私は通訳を通し、この異例のご恩に感謝を述べた。ちょうど長崎へ進軍する部隊があったので、その指揮官へ、十字架像の件について特別な指示を添え、私を無事に送り届けるよう命令が下った。

一七〇九年六月九日、たいへん長く厄介な旅のあと、長崎に着いた。まもなく、アムステルダムのアンボイナ号に属する、何人かのオランダ水兵と知り合った。四百五十トンの頑丈な船だった。私はライデンで勉強しながら、オランダに長く住んでいたので、オランダ語をよく話せた。水兵たちは、私が最後にどこから来たかをすぐに知り、航海や暮らしの経歴を、熱心に尋ねた。私はできるだけ短く、もっともらしい話を作ったが、大部分は隠した。オランダには知り合いが多かった。ヘルダーラント州の名もない人々だと偽った両親にも、名前を作ることができた。船長のテオドルス・ヴァングラルトという人には、オランダまでの船賃を、求められるだけ払うつもりだった。だが外科医と知ると、専門の仕事を船で務めることを条件に、普通の半額でよいと言った。乗船前、乗組員の何人かから、例の儀式を済ませたか、よく尋ねられた。私は、「すべての点で皇帝と宮廷を満足させた」と、一般的な答えでかわした。だが、意地の悪い船頭の悪党が役人のところへ行き、私を指差して、「あいつはまだ十字架像を踏んでいない」と告げた。ところが、私を通す指示を受けていた役人は、その悪党の肩を竹で二十回打った。そのあと、そのような質問で煩わされることはなくなった。

この航海では、述べるほどの出来事は何もなかった。順風に乗って喜望峰へ行き、真水を補給するためだけ停泊した。一七一〇年四月十日、無事アムステルダムに到着した。航海中、病気で死んだのは三人だけで、ほかにもう一人、ギニアの海岸から遠くないところで、前檣から海へ落ちて失った。アムステルダムからは、まもなくその町の小船で、イングランドへ出帆した。

一七一〇年四月十六日、ダウンズに入港した。翌朝上陸し、まる五年六か月の不在ののち、再び祖国を見た。まっすぐレッドリフへ向かい、その日の午後二時に着くと、妻も家族も元気でいた。

第四部 フウイヌムの国への航海

第一章

著者は船長として出航する。乗組員が陰謀を企て、長い間船室に監禁し、未知の土地へ置き去りにする。著者は内陸へ進む。ヤフーという奇妙な動物について。著者は二頭のフウイヌムに会う。

私は妻子とともに家で五か月ほど過ごした。自分が恵まれているときにそれを知る、という教訓を学べていたなら、たいへん幸福な状態だった。哀れな妻が身重なのに残して、三百五十トンの頑丈な商船アドヴェンチャラー号の船長になるという、有利な申し出を引き受けた。航海術には十分通じていたし、船医の務めにはうんざりしていたからである。もっとも、必要があれば医業もできたが、ロバート・ピュアフォイという、その仕事に巧みな若者を船に乗せた。一七一〇年八月七日、ポーツマスから出帆し、十四日、テネリフェで、ブリストルのポコック船長に会った。染料木を伐るため、カンペチェ湾へ行くところだった。十六日、嵐で離れ離れになった。帰国してから聞いた話では、その船は沈没し、船室付きの少年一人しか助からなかったという。正直で、よい船乗りだったが、自分の意見を少し強く信じすぎた。それがほかの幾人もの場合と同じく、身を滅ぼす原因になった。私の忠告に従っていたなら、今ごろ私と同様、無事に家で家族と暮らせていただろうに。

船で熱病により何人かが死んだため、私を雇った商人たちの指図で寄港したバルバドスやリーワード諸島で、補充の人員を雇わねばならなかった。これはまもなく、十分すぎるほど後悔することになった。のちに、大半はかつてのバッカニア海賊だとわかったのである。船には五十人の乗組員がおり、私への指令は、南海の原住民と交易し、できるかぎり発見を行うことだった。拾い集めたこの悪党どもは、ほかの船員を堕落させ、皆で船を奪い、私を拘束する陰謀を組んだ。そしてある朝それを実行し、船室になだれ込み、私の手足を縛り、動こうものなら海へ投げ込むと脅した。私は、「君たちの捕虜なのだから、従おう」と言った。そうすると誓わせたあと、彼らは縛めを解いた。ただし片脚を寝床のそばに鎖で留め、戸口に弾を込めた銃を持つ見張りを置き、私が自由になろうとしたら撃ち殺せと命じた。食事や飲み物は下へ運ばれ、船の指揮は彼ら自身が執った。狙いは海賊となってスペイン人を襲うことだったが、もっと人員を集めるまでは、それもできなかった。だがまず船の商品を売り、それから人を補充するためマダガスカルへ行くことに決めた。私が閉じ込められて以来、彼らの間でも何人か死んでいたからである。何週間も航海し、原住民と交易したが、私は船室に厳重に監禁され、彼らがしばしば脅すとおり、殺されるものとばかり思っていたので、どの針路を取ったかは知らなかった。

一七一一年五月九日、ジェームズ・ウェルチという男が船室へ下りて来て、「あんたを岸へ下ろせと船長の命令だ」と言った。私は抗議したが無駄だった。新しい船長が誰かを教えることさえ拒んだ。彼らは私を強いて大きなボートへ乗せた。ほとんど新品のいちばんよい服を着ることと、肌着の小さな包みを持つことは許したが、武器は短剣以外、何も許さなかった。ただし、礼儀正しくもポケットは調べなかったので、私は持っていた金と、ほかの小さな必需品をそこへ入れた。彼らは一リーグほど漕ぎ、私を砂浜へ下ろした。どこの国か教えてほしいと頼んだが、全員、「あんた以上には知らない」と誓った。ただ、「船長」――彼らはそう呼んだ――「は積荷を売ったあと、最初に陸を見つけられる場所で、あんたを始末しようと決めた」と言った。すぐに漕ぎ出し、潮に追いつかれぬよう急げと忠告して、別れを告げた。

こうして心細い境遇で前へ進み、まもなくしっかりした地面へ上がると、土手に座って休み、どうするのがいちばんよいか考えた。少し元気が戻ると、内陸へ入った。最初に出会う未開人に身を委ね、この種の航海で船乗りが普通用意しておく、腕輪、ガラスの指輪、その他の玩具を幾つか渡して、命を買おうと決めたのである。私もいくらか身につけていた。土地は長い木の列で区切られていた。整然と植えたものではなく、自然に生えたものだった。草はたいへん豊富で、燕麦の畑も幾つかあった。待ち伏せされ、後ろや左右の陰から突然矢を射られることを恐れ、たいへん慎重に歩いた。踏み固められた道に出ると、人間の足跡が多く、牛のものも多少見えたが、いちばん多いのは馬のものだった。ついに、野原に幾匹かの動物がおり、同じ種類のものが一、二匹、木に座っているのが見えた。その姿はたいへん奇妙で不格好で、いくらか不安を覚えたので、茂みの陰に伏し、よく観察した。何匹かが、私の伏せている近くまで進んで来たので、姿をはっきり見定められた。頭と胸は濃い毛に覆われ、縮れているのもあれば、まっすぐ垂れているのもあった。山羊のような髭があり、背筋に沿って長い毛の列が走り、脚と足の前面にも毛があった。だが身体の残りは裸だったので、褐色がかった黄土色の皮膚が見えた。尾はなく、臀部にも肛門の周り以外はまったく毛がなかった。彼らは横になるほか、地面に座る姿勢も取ったので、自然が座るときの保護のため、そこに毛を置いたのだろうと思う。また後脚で立つことも多かった。前後の足には、先が鋭く鉤なりになった、長く伸びる丈夫な爪があり、栗鼠のようにすばやく高い木に登った。跳び上がり、跳ね、跳び越える動きも、しばしば驚くほど敏捷だった。雌は雄ほど大きくなく、頭には長くまっすぐな毛があったが、顔にはなく、身体の残りも、肛門と陰部の周り以外は、産毛のようなものしかなかった。乳房は前脚の間に垂れ、歩くとほとんど地面に届くことが多かった。雌雄とも、毛には褐色、赤、黒、黄と、さまざまな色があった。総じて、旅の間にこれほど不快な動物も、生来これほど強い反感を抱かせるものも、見たことがなかった。もう十分見たと思い、軽蔑と嫌悪に満ちて立ち上がり、踏み固められた道を進んだ。原住民の小屋にでも行き着けるかもしれないと期待したのである。遠くも行かないうちに、一匹が行く手の真ん中で出会い、まっすぐこちらへ来た。この醜い怪物は、私を見ると、顔の一つ一つの部分をさまざまに歪め、見たことのないものを見るように、じっと見つめた。それから近寄って前足を上げた。好奇心からか、害意からかはわからなかったが、私は短剣を抜き、平で強く打った。住民が家畜の一頭を殺傷したと知れば、私に腹を立てるかもしれないと恐れたので、刃で斬る勇気はなかった。獣は痛みを感じると退き、大声で吠えたので、隣の野原から少なくとも四十匹の群れが、吠え立て、いやな顔をしながら集まり、私を取り巻いた。だが私は木の幹へ走り寄り、背を預け、短剣を振って近づけなかった。この呪わしい仲間の幾匹かは、後ろの枝につかまって木へ跳び上がり、そこから頭上へ糞を落とし始めた。幹にぴったりついていたので、かなりうまく避けられたものの、四方に落ちる汚物で、ほとんど息が詰まりそうだった。

この難儀の最中、突然、彼らが皆、全速力で逃げ出すのが見えた。そこで思い切って木を離れ、道を進みながら、何がこれほど彼らをおびえさせたのかと不思議に思った。ところが左を見ると、一頭の馬が野原を静かに歩いていた。私を苦しめる連中は、それを先に見つけて逃げたのだった。馬は近寄ると少し驚いたが、すぐ落ち着き、明らかな驚嘆のしるしを見せて、まっすぐ私の顔を見た。周りを何度も回り、手や足を眺めた。私は先へ進もうとしたが、馬は行く手の真ん中に立った。しかし顔つきはたいへん穏やかで、少しも乱暴なことはしなかった。しばらく互いに見つめ合っていたが、ついに私は思い切って首へ手を伸ばし、撫でようとした。知らない馬に触れようとするとき、馬扱いの者がよく使う言葉と口笛も使った。だがこの動物は、私の愛想を軽蔑して受け取る様子で、頭を振り、眉をひそめ、そっと右前脚を上げて私の手を退けた。それから三、四度いなないたが、調子がたいへん違っていたので、私は危うく、自分の言語で独り言を言っているのではないかと思い始めた。

こうしていると、もう一頭の馬が来た。最初の馬にたいへん儀式ばったふうで近づき、互いに右前蹄を軽く打ち合わせ、音を変えながら交互に何度もいなないだ。その音は、ほとんど分節された言葉のようだった。二頭は相談でもするように数歩離れ、重大な事柄を話し合う人のように、並んで前へ後ろへ歩いた。ただし私が逃げないよう見張るかのように、しばしばこちらへ目を向けた。ただの獣にこうした行動や振る舞いを見るのは驚きで、この国の住民が、それに釣り合う程度の理性を備えているなら、地上で最も賢明な人々に違いないと考えた。この思いにたいへん慰められたので、二頭の馬には好きなように談話をさせておき、家か村を見つけるか、住民の誰かに会うまで先へ進もうと決めた。だが最初の馬は、まだらのある芦毛だったが、私がそっと立ち去るのを見ると、実に意味のはっきりした調子で呼びかけたので、何を言いたいか理解できた気がした。そこで引き返し、近くへ行って、次の命令を待った。ただし、できるだけ恐怖は隠した。この冒険がどう終わるのか、少し不安になり始めていたからだ。今の状況があまり気に入らなかったことは、読者にも容易に信じていただけよう。

二頭の馬はすぐそばへ来て、私の顔と手を、たいへん熱心に眺めた。芦毛は右前蹄で帽子の周りをこすり、ひどくずらしたので、私は脱いでかぶり直さねばならなかった。すると、その馬も、茶色い鹿毛の連れも、たいへん驚いたようだった。後の馬は上着の裾に触れ、それが身体の周りにゆるく下がっているとわかると、二頭とも新たな驚きのしるしを見せた。私の右手を撫で、その柔らかさや色に感心している様子だったが、蹄と繫の間であまり強く挟んだので、私は悲鳴を上げねばならなかった。そのあとは、二頭ともできるかぎり優しく触れた。靴と靴下にはひどく困惑し、何度も触り、互いにいななき、さまざまな身振りをした。新しい難しい現象を解こうとする哲学者の様子に、よく似ていた。

結局、この動物たちの振る舞いが、あまりにも秩序正しく理性的で、鋭敏で思慮深かったので、私はついに、何かの目的でこの姿に変身した魔術師に違いないと結論した。道で見知らぬ者に会い、それをからかって楽しもうと決めたのか、あるいは、これほど遠い土地の住民とは、服装も顔立ちも肌の色もたいへん違う人間を見て、本当に驚いているのかもしれなかった。この推論を頼りに、私は思い切って、次のように話しかけた。「皆様、十分な理由からそう信じますが、もし魔術師でいらっしゃるなら、私の言葉がおわかりでしょう。そこで恐れながら申し上げます。私は不幸によってこの海岸へ流れ着いた、哀れで困り果てたイングランド人です。どちらかお一人、まるで本物の馬のように背中へ乗せて、助けを得られる家か村まで運んでいただけないでしょうか。ご親切へのお礼には、この小刀と腕輪を差し上げます」と、ポケットから取り出した。二頭の動物は、私が話す間、黙って立ち、たいへん注意深く聞くようだった。話し終えると、真剣な会話でもするように、互いへ何度もいなないだ。その言語が感情をよく表し、その言葉は、少し手間をかければ、中国語より容易にアルファベットで表せそうだと、はっきり見て取れた。

ヤフーという言葉が、何度もはっきり聞き分けられた。どちらもそれを何度か繰り返していた。意味を推測することはできなかったが、二頭が会話に夢中な間、私はこの語を舌で練習した。そして静かになると、大きな声で大胆に「ヤフー」と発音し、同時に、できるかぎり馬のいななきを真似た。二頭は目に見えて驚き、芦毛が、正しいアクセントを教えようとするかのように、同じ語を二度繰り返した。私はできるだけ上手にあとについて言った。完全とはほど遠かったが、毎回上達するのが自分にもはっきりわかった。それから鹿毛は、はるかに発音の難しい二つ目の語を試させた。英語の綴りに直せば、Houyhnhnm、すなわちフウイヌムと書けよう。これは前の語ほどうまくいかなかったが、さらに二、三度試すと、ましになった。二頭とも、私の能力に驚いているようだった。

さらに多少の談話が続いた。そのときの私には、自分に関することだろうと思えた。やがて二頭の友は、また蹄を打ち合わせる挨拶をして別れた。芦毛は前を歩けと、私に合図した。もっとよい案内人が見つかるまでは、従うのが賢明だと考えた。歩調を緩めようとすると、「フーン、フーン」と声をかけた。その意味を察し、「疲れていて、これ以上速く歩けない」と、できるだけわからせようとした。すると、休めるよう、しばらく立ち止まってくれた。

第二章

著者は一頭のフウイヌムに、その家へ案内される。家の描写。著者の迎えられ方。フウイヌムの食物。著者は食べ物がなくて困るが、ついに救われる。この国での食事の仕方。

三マイルほど進むと、地面に材木を立て、その間に横木を編んだ、長い建物へ着いた。屋根は低く、藁で葺いてあった。私は少し安心し始め、アメリカやほかの地方の未開の原住民への贈り物に、旅行者が普通持つ玩具を幾つか取り出した。家の人たちも、そのため親切に受け入れてくれる気になるかもしれないと思ったのである。馬は先に入れと合図した。広い部屋で、床は滑らかな粘土、その一方の側には、部屋の長さいっぱいに干し草棚と飼葉桶があった。小馬が三頭、雌馬が二頭いたが、食べてはおらず、何頭かは尻をついて座っていたので、私はたいへん驚いた。だが、残りが家の仕事をしているのを見て、さらに驚いた。彼らはただの家畜にしか見えなかった。しかしこれは、獣をここまで教化できる国民なら、世界のあらゆる民族を知恵で凌ぐに違いないという、最初の考えを裏づけた。芦毛がすぐあとから入ったので、ほかの馬が私に乱暴をするかもしれないのを防いだ。威厳のある調子で何度かいななき、返事を受けた。

この部屋の向こうにはさらに三つの部屋が、家の長さいっぱいに続いており、互いに向き合って、ひと続きに見通せるように置かれた三つの戸を通って行く。私たちは第二の部屋を通り、第三へ向かった。ここで芦毛は先に入り、ついて来いと合図した。私は第二の部屋で待ち、家の主人と女主人への贈り物を用意した。小刀二本、模造真珠の腕輪三つ、小さな鏡一つ、ビーズの首飾り一つだった。馬は三、四度いなないだ。私は人間の声で答えが来るのを待ったが、同じ言葉の返事しか聞こえず、ただ一つか二つ、彼より少し甲高い声があった。この家はきっと、彼らの間でたいそう有力な人物のものなのだろうと思い始めた。入れてもらうまでに、こんなにも儀礼が多いからである。しかし、身分ある人間が馬ばかりに仕えられているというのは、理解を超えていた。苦難と不幸のため、頭がおかしくなったのではないかと恐れた。気を取り直し、一人残された部屋を見回した。最初の部屋と同じように整えられていたが、こちらのほうが優雅だった。幾度も目をこすったが、同じものが見え続けた。夢であることを願い、目を覚まそうと腕や脇腹をつねった。それから、こうしたありさまは妖術や魔法以外の何ものでもありえないと、すっかり結論した。だが考えを続ける暇はなかった。芦毛の馬が戸口へ来て、第三の部屋へついて来るよう合図したからである。そこにはたいへん美しい雌馬が一頭、若駒と仔馬とともに、巧みに作られ、たいへん清潔で汚れのない藁の敷物の上へ、尻をついて座っていた。

私が入るとまもなく、雌馬は敷物から立ち上がって近寄り、手と顔を細かに眺めてから、このうえなく軽蔑した目を向けた。そして雄馬のほうを向くと、二頭の間でヤフーという言葉が幾度も繰り返されるのが聞こえた。初めて発音を覚えた語ではあったが、その意味はまだわからなかった。だがまもなく、一生の屈辱となるほど、よくわかることになった。馬は頭で手招きし、道でと同じように「フーン、フーン」と繰り返した。ついて来いという意味だとわかった。連れ出された先は中庭のような場所で、家から少し離れて別の建物があった。入ると、上陸後最初に会った、あの忌まわしい生き物が三匹おり、根や動物の肉を食べていた。のちに知ったところでは、驢馬や犬、ときには事故や病気で死んだ牛の肉だった。いずれも丈夫な蔓で首を繫がれ、その蔓は梁に留められていた。食物を前足の爪の間に挟み、歯で引き裂いていた。

主人の馬は、召使いの一頭である栗毛の小馬に命じ、この動物のうち最も大きいものを解き、中庭へ連れ出させた。獣と私はすぐ近くへ連れて来られ、主人と召使いの両方が、顔つきを入念に比べた。そしてヤフーという言葉を何度も繰り返した。この忌まわしい動物に、完全な人間の姿を認めたときの、私の恐怖と驚愕は描きようがない。確かに顔は平たく広く、鼻は低く、唇は厚く、口は大きかった。だがこうした違いは、未開のあらゆる民族によくあることだ。幼児を地面にうつぶせにさせておいたり、母の肩へ顔を押しつけるよう背負ったりするため、顔立ちが歪むのである。ヤフーの前足は、爪が長く、手のひらが粗く褐色で、手の甲に毛が多いという以外、私の手と何も違わなかった。足にも、同じ類似と同じ相違があった。靴と靴下のため馬たちにはわからなくても、私には十分わかっていた。先に描写した毛深さと色を除けば、身体のどの部分も同じだった。

二頭の馬にとって、いちばんの難問らしかったのは、私の身体の残りがヤフーとたいへん違って見えることだった。これは服のおかげなのだが、彼らにはその考えがなかった。栗毛の小馬が根を一つ差し出した。適切なところで述べるように、彼ら独特のやり方で、蹄と繫の間に挟んで持っていた。私は手で取り、匂いを嗅いでから、できるだけ丁重に返した。彼はヤフーの小屋から驢馬の肉を一切れ持って来たが、ひどい臭いだったので、私は嫌悪して顔をそむけた。するとヤフーに投げ与え、ヤフーは貪るように食べた。そのあと、干し草の束と、球節のところに載るだけの燕麦を見せたが、私は頭を振り、どちらも食物にはならないと示した。実際、自分と同じ種の者のいるところへたどり着かなければ、必ず飢え死にすると思った。あの汚いヤフーとなると、当時、私ほど人類を愛する者はあまりいなかったとはいえ、どの点から見ても、これほど忌まわしい感覚ある生き物を見たことはなかったと告白する。この国にいる間、近づけば近づくほど、ますます嫌になった。主人の馬は、私の様子からこれを察し、ヤフーを小屋へ戻させた。それから前蹄を口へ当てた。楽々と、まったく自然に見える動きで行ったのだが、私はたいへん驚いた。ほかにも身振りをし、何を食べるか知ろうとした。しかし私には、彼の理解できるような答えはできなかったし、たとえ通じても、食物をどう手に入れる算段ができるのか、見当がつかなかった。こうしている間、牛が一頭通りかかるのが見えたので、私は指差し、行って乳を搾りたいと示した。これは通じた。馬は私を家へ連れ戻し、雌馬の召使いに、部屋を開けるよう命じた。そこには土や木の器に入れた牛乳が、たいへん整然と清潔に、十分蓄えてあった。雌馬は大きな鉢いっぱいにくれたので、私はたっぷり飲み、たいへん元気になった。

正午ごろ、四匹のヤフーに橇のように引かれる、一種の乗り物が、家へ来るのを見た。身分のありそうな老馬が乗っていた。左の前脚を事故で痛めていたので、後脚から先に下りた。こちらの馬と食事をしに来たので、主人はたいへん丁重に迎えた。皆、最上の部屋で食べ、二番目の料理には、牛乳で煮た燕麦が出た。老馬は温かいのを、ほかの馬は冷たいのを食べた。飼葉桶は部屋の中央に円形に置かれ、いくつもの区画に分かれ、その周りの藁のクッションに、皆、尻をついて座った。中央には大きな干し草棚があり、その角度は飼葉桶の各区画に対応していたので、雄馬も雌馬も各自の干し草と、燕麦と牛乳の粥を、たいへん行儀よく、整然と食べた。若駒と仔馬の振る舞いは、たいへん慎み深く見え、主人と女主人は客に対して、このうえなく快活で愛想がよかった。芦毛は私にそばへ立つよう命じた。主人と友人の間で、私について多くの話が交わされた。客の馬がしばしばこちらを見、ヤフーという語が何度も繰り返されたので、そうとわかった。

私はたまたま手袋をはめていたが、主人の芦毛はそれに気づき、前足に何をしたのかと、不思議がる様子で、困惑していた。蹄で三、四度触れ、元の形に戻せと言うかのようだったので、私はすぐに両方の手袋を脱ぎ、ポケットへ入れた。これでさらに話が進み、私の振る舞いが皆に気に入られているとわかった。そのよい効果も、すぐに知った。覚えているわずかな語を話すよう命じられ、食事の間に、主人は燕麦、牛乳、火、水、そのほか幾つかの名を教えてくれた。私は幼いころから言語の習得がたいへん得意だったので、たやすく真似して発音できた。

食事が済むと、主人の馬は私を脇へ連れ、食べ物がないのを心配していると、身振りや言葉でわからせた。彼らの言葉で、燕麦はフルンという。私はその語を二、三度発音した。最初は断ったものの、考え直してみると、何かパンのようなものを作る工夫ができ、ほかの国や自分と同じ種の生き物のところへ逃れられるまでは、牛乳とともに、それで生きていけるかもしれないと思ったからだ。馬はすぐに、家の白い雌馬の召使いへ命じ、木の盆のようなものに、たっぷり燕麦を入れて持って来させた。私は火の前でできるだけ温め、殻が取れるまでこすり、どうにか穀粒から吹き分けた。それを二つの石の間で挽き、砕き、水を加えて練り粉、あるいは平たいパンにし、火で焼いて、温かいうちに牛乳と食べた。ヨーロッパの多くの地方でよくあるものではあっても、最初はたいへん味気ない食事だったが、やがて我慢できるようになった。私は生涯、たびたび粗食を余儀なくされていたので、自然の要求がいかに容易に満たされるかを試したのも、これが初めてではなかった。そして、この島にいる間、私は一時間たりとも病まなかったことを、述べずにはいられない。もっとも、ときにはヤフーの毛で作った輪罠で、どうにか兎や鳥を捕らえたし、体によい草もしばしば摘み、茹でてサラダのようにし、パンと食べた。ときには珍味として、少しバターを作り、乳清を飲んだ。最初は塩がなくてたいへん困ったが、すぐ習慣になり、なくても平気になった。われわれが塩をよく使うのは、贅沢の結果だと確信している。長い航海や、大きな市場から遠い土地で、肉の保存に必要な場合を除けば、最初はただ酒を誘う刺激として取り入れられたのだろう。人間以外に塩を好む動物は、見当たらないからである。私自身、この国を去ってから、どんな食物に入っていても、その味に耐えられるようになるまで、ずいぶん長くかかった。

食事の話は、これで十分である。ほかの旅行者は、まるで自分たちの食事がよいか悪いかが、読者自身の問題ででもあるかのように、本をその話で埋める。しかし、このような国、このような住民の間で、私が三年も食物を得られたはずがないと世間に思われぬよう、このことには触れておく必要があった。

夕方近くになると、主人の馬は私の寝る場所を用意するよう命じた。家からわずか六ヤードで、ヤフーの厩とは隔てられていた。そこで藁を少し得、着ていた服を掛けて、たいへんよく眠った。しかしまもなく、もっとよい待遇になった。この国での暮らしをもっと詳しく述べるとき、読者にもおわかりになるだろう。

第三章

著者は国語の習得に励む。主人であるフウイヌムが教育を助ける。その言語について。身分あるフウイヌムたちが、物珍しさから著者を見に来る。著者は主人に航海のあらましを語る。

私が何より努めたのは、国語を学ぶことだった。主人――以後はこう呼ぶことにする――も、その子供たちも、家の召使い全員も、教えたがった。獣が理性的な生き物のしるしをこれほど示すことを、驚異と見たからである。私は何でも指差して名を尋ね、一人になると日記帳に書き留めた。家の者に何度も発音してもらって、悪いアクセントを直した。この勉強では、下働きの一頭である栗毛の小馬が、たいへん進んで手を貸してくれた。

話すときには鼻と喉から発音し、私の知るヨーロッパの言語では、高地ドイツ語、すなわちドイツ語に最も近いが、それよりはるかに優美で、意味が豊かである。皇帝カール五世も、「自分の馬と話すなら、ドイツ語にしよう」と言ったとき、ほぼ同じ観察をしたのだった。

主人の好奇心と待ちきれぬ気持ちはたいへん強く、暇な時間のうち何時間も、私を教えるのに費やした。のちに話してくれたところでは、私がヤフーに違いないと確信していたが、その動物とはまったく反対の性質である、教えやすさ、礼儀正しさ、清潔さに驚いたのだという。最も困惑したのは服で、ときには、それも私の身体の一部ではないかと考えた。私は家の者が寝るまで決して脱がず、朝も皆が目覚める前に着たからである。主人は、「どこから来たのか、あらゆる動作に示される理性らしいものを、どのように身につけたのか、そして本人の口からその身の上を知りたい」と熱望していた。「我々の語や文を覚え、発音するのがたいへん上達しているので、まもなくかなうと期待する」と言った。記憶の助けに、私は学んだものをすべて英語のアルファベットに直し、訳とともに単語を書き留めた。しばらくすると、この最後の作業も、思い切って主人の前でした。何をしているかを説明するのには、大いに苦労した。この国の住民には、書物や文字による学問の観念が、少しもなかったからである。

十週間ほどで、主人の質問の大半を理解できるようになり、三か月では、まずまずの返事もできるようになった。主人は、「国のどの地方から来て、理性的な生き物を真似ることを、どう教わったのか」を、このうえなく知りたがった。「頭、手、顔という、見えるだけの部分では、私がそっくりだとわかるヤフーは、いくらか狡知を見せ、悪事へ最も強く傾く一方で、あらゆる獣のなかで最も教えにくいと見られているからだ」という。私は、「遠いところから、自分と同じ種類の大勢の者とともに、木の幹で作った大きな中空の乗り物に乗り、海を越えて来ました。仲間たちは私をこの海岸へ強いて上陸させ、自分で何とかするよう置き去りにしたのです」と答えた。苦労しながら、多くの身振りを助けとして、どうにかわかってもらった。主人は、「おまえは間違っているに違いない。さもなければ、事実でないことを言ったのだ」と答えた。彼らの言語には、嘘や虚偽を表す語がないからである。「海の向こうに国があるはずもなく、獣の一群が、木の乗り物を水上で好きな方へ動かせるはずもないと、自分は知っている。生きているフウイヌムには、誰にもそんな乗り物を作れないし、ヤフーに運転を任せることもないはずだ」と言った。

フウイヌムという語は、彼らの言葉では馬を意味し、その語源では、自然の完全さを意味する。私は主人に、「表現に困っていますが、できるだけ早く上達し、まもなく驚くべきことをお話しできるようになりたいと望んでおります」と申し上げた。主人は、自分の雌馬と、若駒と仔馬、それに家の召使いたちに、あらゆる機会を捉えて私に教えるよう指図し、自らも毎日二、三時間、同じように骨を折ってくれた。「フウイヌムのように話し、言動に理性のかすかな光を見せる、驚くべきヤフー」がいるという噂が広まり、近所の身分ある雄馬や雌馬が何頭も、しばしば家へ来た。私と話すのを喜び、多くの質問をし、私のできる範囲の答えを受け取った。こうしたあらゆる好条件のおかげで大いに上達し、到着から五か月で、話されることは何でも理解でき、言いたいことも、まずまず伝えられるようになった。

私を見て話そうと、主人を訪れるフウイヌムたちは、私が本当のヤフーだとは、なかなか信じられなかった。同じ種のほかのものとは、身体の覆いが違っていたからである。頭と顔と手以外には、普通の毛や皮がないと見て驚いた。しかし、この秘密は、その二週間ほど前に起きた偶然から、主人には明かしていた。

すでに読者に述べたが、私は毎晩、家の者が寝ると、服を脱いで、それを掛ける習慣だった。ある朝早く、主人が、身の回りに仕える栗毛の小馬を遣わして、私を呼んだ。小馬が来たとき、私は熟睡しており、服は片側へ落ち、シャツは腰より上へまくれ上がっていた。小馬の立てた物音で目が覚めると、彼は多少取り乱して用件を伝えたあと、主人のところへ戻り、ひどくおびえながら、見たことをたいへん混乱した説明で伝えた。これはすぐわかった。着替えるとすぐ主人の御前へ出たところ、「眠っているときは、ほかのときに見えるのと同じものではないと、召使いが報告したのは、どういう意味か」と尋ねられたからである。「近侍が言うには、おまえのある部分は白く、ある部分は黄色い、少なくともそれほど白くなく、ある部分は褐色だった」とのことだった。

私は、呪わしいヤフーの種族と、できるだけ自分を区別するため、これまで服の秘密を隠してきたが、もう続けても無駄だとわかった。そのうえ、すでに傷みかけている服や靴は、じきに擦り切れ、ヤフーかほかの獣の皮から、何とか工夫して補わなければならず、そうなれば秘密はすべて知られると考えた。そこで主人に、「私の来た国では、私と同じ種の者はいつも、ある動物の毛を人の技で加工したもので身体を覆います。礼節のためでもあり、暑さ寒さという厳しい外気を避けるためでもあります。お命じになれば、私自身について、すぐにお確かめいただきましょう。ただ、自然に教えられて隠すようになった部分をあらわにしなくても、お許しいただきたいのです」と話した。主人は、「おまえの話はどれもたいへん奇妙だが、とくに最後の部分はそうだ。自然に与えられたものを隠せと、なぜ自然が教えるのか、わからない。自分も家族も、身体のどの部分も恥じない。だが、好きにするがよい」と言った。そこでまず上着のボタンを外して脱ぎ、胴着も同じようにした。靴と靴下と半ズボンを脱ぎ、シャツを腰まで下げ、その裾を持ち上げ、裸を隠すため、帯のように胴へ結んだ。

主人はこの一部始終を、たいへんな好奇心と驚嘆のしるしを示しながら見た。服を一つずつ、繫のところに挟んで取り上げ、入念に調べた。それからたいへん優しく私の身体を撫で、私の体を、何度も、ぐるりと眺めたあと、私がまったくのヤフーに違いないのは明らかだが、皮膚の柔らかさ、白さ、滑らかさ、身体の何か所にも毛がないこと、前後の爪の形と短さ、いつも二本の後脚で歩く気取りでは、同じ種の残りとは大いに違うと言った。もう見る必要はないとして、寒さに震えていた私に、服をまた着ることを許した。

私は、このうえなく憎み、軽蔑している不快な動物、ヤフーという呼び名を、これほどたびたびつけられるのはつらいと申し上げた。私にその語を使うのはやめていただき、家の者や、面会を許した友人たちにも、同じ命令をしてほしいとお願いした。また、「身体に偽の覆いをつけている秘密は、少なくとも今の服がもつ間、ご自身以外の誰にも知らせないでいただきたい。近侍の栗毛の小馬が見たことについては、お命じになれば隠させられましょう」と頼んだ。

主人はすべてたいへん優しく承諾し、こうして秘密は、服が擦り切れ始めるまで守られた。服は、のちに述べるさまざまな工夫で補わねばならなかった。その間、主人は、「覆いがあろうとなかろうと、身体の形以上に、話し、考える能力に驚いているから、最大の勤勉さで、引き続き言語を学んでほしい」と望み、「話すと約束した驚くべきことを、少しもどかしい思いで待っている」と付け加えた。

それ以来、主人は教える手間を倍にした。あらゆる集まりへ私を連れて行き、礼儀正しく扱わせた。「そうすれば機嫌がよくなり、もっと面白くなるからだ」と、内々に皆に話した。

毎日御前へ出ると、教える苦労に加え、主人は私自身について幾つも質問した。私はできるだけよく答え、そうして主人は、たいへん不完全ながら、すでに大まかなことを幾らか知っていた。もっと整った会話へ進むまでの各段階を述べるのは退屈だろう。だが、最初に多少の順序と長さをもって、自分について話した内容は、次のようなものだった。

「すでにお話ししようとしましたが、私は、自分と同じ種の者およそ五十人とともに、たいへん遠い国から来ました。ご主人のお宅よりも大きな、木でできた中空の乗り物で、海の上を旅したのです」と話した。できるかぎりの言葉で船を描写し、ハンカチを広げて、風で進む仕組みを説明した。「私たちの間に争いが起こり、私はこの海岸に下ろされました。どこへ行くともわからず歩き、あの忌まわしいヤフーたちの攻撃から、あなたに救っていただいたのです」と述べた。主人は、「誰がその船を作ったのか。おまえの国のフウイヌムが、獣に扱いを任せるなどということが、どうしてありうるのか」と尋ねた。私は、「お腹立ちにならないと、お言葉と名誉にかけてお約束いただかないかぎり、これ以上お話を進める勇気はありません。そうしていただければ、何度も約束した驚くべきことを申し上げます」と答えた。主人が承知したので、私は続けて、自分のような生き物が船を作ったのであり、祖国でも、旅してきたあらゆる国でも、統治する理性的な動物は、その生き物だけなのだと断言した。そして、こちらへ来て、フウイヌムが理性的な存在のように振る舞うのを見て、私が驚いたのは、主人やその友人が、ヤフーとお呼びになる生き物に、理性のしるしを見いだして驚いたのと同じだった、と述べた。ヤフーに身体のどの部分も似ていることは認めたが、その堕落した獣のような性質については、説明できなかった。さらに、「幸運にも祖国へ帰れたら、ここでの旅を話すつもりでおりますが、誰もが、私は事実でないことを言い、頭の中で話を作り上げたのだと信じるでしょう。あなたとご家族とご友人への、できるかぎりの敬意を表し、また、お腹立ちにならないとのお約束のもとに申しますが、わが国の者は、フウイヌムが国を支配する生き物で、ヤフーが獣だということを、ありそうだとは、まず思わないでしょう」と話した。

第四章

真実と虚偽についてのフウイヌムの考え。主人は著者の話を認めない。著者は自分自身と航海中の出来事について、さらに詳しく語る。

主人は、ひどく落ち着かない顔つきで私の話を聞いた。この国では、疑ったり信じなかったりすることがあまりに知られていないので、そのような状況で住民は、どう振る舞えばよいかわからないのである。覚えているが、世界のほかの地方の人間性について主人としばしば話し、嘘や偽りの説明について語る機会があったときも、ほかの点ではこのうえなく鋭い判断力を持っているのに、私の言うことを理解するのには大変な苦労をした。主人の論はこうだった。「言葉を使うのは、互いを理解し、事実の知らせを受け取るためだ。だが誰かが事実でないことを言えば、この目的は果たされない。その者を理解したとは、正しく言えないからだ。そして知らせを受け取るどころか、無知よりも悪い状態に置かれる。白いものを黒く、長いものを短いと信じるよう導かれるのだから」。人間の間では、かくも完全によく理解され、かくも広く実行される、嘘をつく能力について、主人の持つ考えは、それで全部だった。

話を戻そう。私が、自国で統治する動物はヤフーだけだと断言すると、主人はそれはまったく理解を超えると言い、「おまえたちの間にもフウイヌムがいるのか、何をしているのか」と知りたがった。私は、「大勢います。夏は野原で草を食み、冬には家に置かれ、干し草と燕麦を与えられます。そこではヤフーの召使いが雇われ、皮膚をこすって滑らかにし、鬣を梳き、蹄の中を掃除し、食べ物を出し、寝床を作ります」と話した。「よくわかった」と主人は言った。「これまでの話から、ヤフーがどれほど理性を持つと称していようと、フウイヌムがおまえたちの主人なのは、今や明白だ。こちらのヤフーも、それほど素直ならよいと、心から思う」。私は、「ご主人、これ以上進めずにお許しいただきたいのです。お聞きになりたい話は、きっとたいへん不愉快なものになると、確信しておりますから」とお願いした。だが主人は、いちばんよいことも悪いことも、すべて知らせよと、強く命じた。私は「おっしゃるとおりにいたします」と答え、こう認めた。「わが国で馬と呼ぶフウイヌムは、私たちの持つ動物のなかで、最も気高く、美しいものです。力と速さにすぐれ、身分ある人の所有なら、旅行、競馬、馬車を引くために用いられます。病気になるか、脚を悪くするまでは、たいへん親切に、注意深く扱われます。しかしその後は売られ、死ぬまであらゆる重労働に使われます。死ぬと皮を剝いで、その値打ちどおりに売り、身体は犬や猛禽に食べさせるため残します。だが、普通の種類の馬には、それほどの幸運もありません。農夫、運送人、その他の低い身分の人々に飼われ、もっと働かされ、餌も悪いのです」。私は、乗馬の方法や、頭絡、鞍、拍車、鞭、馬具、車輪の形と用途を、できるだけ説明した。さらに、「私たちはしばしば石の多い道を行くので、蹄が割れるのを防ぐため、鉄という、ある硬い物質の板を足の裏へ留めます」と付け加えた。

主人はたいへんな憤慨を示す言葉をいくらか述べてから、「どうしてフウイヌムの背に乗るなどということを、あえてできるのか」と不思議がった。「この家の最も弱い召使いでも、最も強いヤフーを振り落とすか、横になって背中で転がり、その獣を押し潰して殺せると、確信している」という。私は答えた。「わが国の馬は、三、四歳から、予定されたさまざまな用途のために訓練されます。手に負えないほど性悪なものは、車を引くのに使います。幼いうちに悪さをすると、ひどく打たれます。普通の乗用や牽引用にする雄は、気を弱め、おとなしく従順にするため、たいてい生後二年ほどで去勢されます。確かに賞罰を感じ取りますが、ご主人には、彼らがこの国のヤフー同様、少しも理性を備えていないことを、お考えいただきたいのです」

自分の話を主人に正しく理解させるには、幾つもの回りくどい言い方に苦労しなければならなかった。彼らの欲求や情念はわれわれより少ないので、言語にも豊かな語の種類がないからである。だが、われわれがフウイヌムの種族に加える野蛮な扱いに対し、主人が抱いた気高い憤りは、表しようがない。とくに、繁殖を防ぎ、もっと卑屈にするため、馬を去勢するやり方と用途を説明したあとには、そうだった。主人は、「もしヤフーだけが理性を与えられた国がありうるなら、確かにその者たちが統治する動物に違いない。理性は時とともに、必ず獣の力に勝つからだ。しかし、おまえたちの身体、とくにおまえの構造を見ると、同じ大きさのどんな生き物も、日常の務めにその理性を用いるうえで、これほど不適当にできてはいないと思う」と言った。そこで、「一緒に暮らす者たちは、おまえに似ているのか、この国のヤフーに似ているのか」と尋ねた。私は、「同年配の大半の者に劣らず、整った身体をしています。ですが若い者や女性は、ずっと柔らかく繊細で、女性の皮膚は普通、牛乳のように白いのです」と断言した。主人は、「確かにほかのヤフーと違い、ずっと清潔で、それほど不格好でもない。だが実際の利点からいえば、むしろ悪いほうへ違っていると思う。前足にも後足にも、爪が何の役にも立たない。前足については、それで歩くのを一度も見たことがないのだから、正しくはそう呼べない。地面に耐えるには柔らかすぎる。たいていはむき出しで持ち歩き、ときどきつける覆いも、後足のものと同じ形ではなく、同じほど丈夫でもない。後足のどちらかが滑れば、必ず転ばねばならないのだから、安定して歩くこともできない」と言った。それから身体のほかの部分にも欠点を挙げ始めた。「顔が平たく、鼻が突き出し、目が真正面についているので、頭を回さなければ、どちら側も見られない。前足を一本口まで持ち上げなければ食べられず、だから自然は、その必要に応じる関節を置いたのだ。後足にいくつもある裂け目や区切りが、何の役に立つのかわからない。その足は柔らかすぎ、ほかの獣の皮でできた覆いがなければ、石の硬さや鋭さに耐えられない。全身に暑さ寒さを防ぐものがなく、毎日それを着けたり外したりする、退屈で面倒なことをしなければならない。最後に、この国のあらゆる動物は、生まれつきヤフーを嫌い、弱いものは避け、強いものは追い払うと、自分は見ている。だから、おまえたちに理性の賜物があるとしても、どの生き物も示す生来の反感を、どうして取り除けるのか、したがって、どうやって飼い慣らし、役立てられるのか、わからない。だが」と主人は言った。「このことはもう論じまい。もっと知りたいのは、おまえ自身の話、生まれた国、ここへ来る前の生涯の、さまざまな行為や出来事なのだから」

私は、「すべての点でご納得いただきたいと、このうえなく望んでいます。ですが、幾つかの話題について、果たして説明できるか、大いに疑っています。ご主人には考えも及ばないことであり、この国には、それにたとえられるものが何も見当たらないからです。それでも最善を尽くし、類比で表そうと努めますので、適切な語が出ないときには、お助けくださいますよう、恭しくお願いいたします」と申し上げた。主人は快く約束してくれた。

私はこう話した。「イングランドという島で、正直な両親のもとに生まれました。この国からの距離は、ご主人の召使いのうち最も強い者が、太陽の年の巡りを一周する間、旅し続けるほどの日数がかかります。私は外科医になる教育を受けました。事故や暴力によって身体にできた傷や怪我を治す仕事です。わが国は、女王と呼ぶ、雌の人間によって治められています。帰国したときに自分と家族を養える富を得るため、国を出ました。最後の航海では、船の指揮を執り、五十人ほどのヤフーを従えていました。多くが海で死に、さまざまな国民から選んだ、ほかの者たちで補わねばなりませんでした。船は二度沈みかけ、一度目は大嵐、二度目は岩への衝突によるものでした」。ここで主人は口を挟み、「それほど損害を受け、危険を冒したあとで、どうやって異国の、さまざまな国の者たちを説得し、一緒に危険な航海へ連れ出せたのか」と尋ねた。私は答えた。「困り果てた境遇の連中で、貧乏や犯罪のため、生まれた土地から逃げなければならなかったのです。訴訟で身代を潰した者も、酒や女遊びや賭け事に財産をすべて使った者も、大逆罪で逃れた者もいました。殺人、窃盗、毒殺、強盗、偽証、文書偽造、偽金作り、強姦、男色、軍旗のもとからの逃亡、敵への脱走という理由の者も大勢いました。大半は脱獄していました。絞首刑にされるか、牢で餓死するのが怖いので、誰も祖国へは戻れず、ほかの場所で生活の道を探すほかなかったのです」

この話の間、主人は何度か口を挟んだ。乗組員の大半が国を逃れねばならなかった、そのさまざまな犯罪の性質を説明するため、私は多くの回りくどい言い方を用いた。主人が理解できるまで、この苦労には幾日もの会話を要した。こうした悪徳を行うのに、どんな用途や必要があるのか、主人にはまるでわからなかった。説明するため、私は権力や富への欲望、情欲、不節制、悪意、嫉妬の恐ろしい結果について、幾らかの考えを伝えようとした。このすべてを、場合を挙げ、仮定を置いて、定義し、描写しなければならなかった。すると主人は、見たことも聞いたこともない何かに想像力を打たれた者のように、驚きと憤慨で目を上げるのだった。権力、政治、戦争、法律、刑罰、その他千ものことを表す語が、この言語にはなかったので、言おうとすることを主人に少しでも理解させるのは、ほとんど克服できない難事となった。だが、思索と対話によって大いに磨かれた、すぐれた理解力を備えていたので、ついに主人は、われわれの地方の人間性が何をなしうるかについて、十分な知識に達した。そしてヨーロッパと呼ぶ土地、とくにわが祖国について、詳しい話をしてほしいと望んだ。

第五章

著者は主人の命令により、イングランドの状態を説明する。ヨーロッパの君主たちの戦争の原因。著者はイングランドの国制を説明し始める。

ここから記す、主人との数多くの会話の抜粋は、二年余りの間、幾度となく話し合った事柄のうち、最も重要な点をまとめたものであると、読者には心得ていただきたい。私がフウイヌムの言葉に熟達するにつれ、主人は、しばしば、いっそう詳しい説明を求めた。私は、できる限り、ヨーロッパ全体の状態をお伝えした。交易と製造業、技芸と学問について語った。さまざまな主題で、そのつど出る質問へ答えたことは、尽きることのない話の種になった。しかし、ここでは、祖国について交わした話の要点だけを、できるだけ順序よく整理して記す。時や、その他の事情にはこだわらず、ただ、真実は厳密に守る。ひとえに心配なのは、主人の議論や言い回しを、正しく伝えることが、ほとんどできそうにないことだ。私の能力の乏しさと、我々の野蛮な英語へ訳すことの両方により、どうしても、損なわれてしまうのである。

そこで、主人の御命令に従い、オラニエ公のもとで起きた革命と、その公が始め、後継者である現女王が再び始めた、フランスとの長い戦争について話した。キリスト教世界の最大の強国が加わり、いまも続いている戦争である。主人の求めに応じ、私は計算して、「戦争の全期間に、およそ百万のヤフーが殺され、おそらく百か、それ以上の都市が占領され、その五倍もの船が焼かれるか、沈められたでしょう」と述べた。

主人は、「ある国が別の国と戦争をする、普通の原因や動機は何か」と尋ねた。私は、「数限りなくありますが、主なものを、幾つかだけ申し上げます」と答えた。「ときには、支配する土地や人民が、どれだけあっても、十分とは思わない君主の野心です。ときには、自分の悪政に対する臣民の非難を抑えるか、そらすために、主君を戦争へ引き入れる、大臣の腐敗です。意見の違いのために、何百万人もの命が失われました。例えば、肉がパンなのか、パンが肉なのか。ある果実の汁が、血なのか、葡萄酒なのか。口笛を吹くのは、悪徳なのか、美徳なのか。柱へ接吻するのと、火へ投げ込むのと、どちらがよいか。上着には、黒、白、赤、灰色のうち、どの色が最もよいか。そして、長くすべきか、短くすべきか、細くすべきか、広くすべきか、汚くすべきか、清潔にすべきか。ほかにも、たくさんあります。意見の違いから起こる戦争ほど、激しく、血なまぐさく、長続きする戦争は、ありません。とりわけ、どうでもよい事柄についての違いであれば、なおさらです。

「ときには、二人の君主の争いが、どちらも権利を主張してはいない、第三の君主の領土を、どちらが奪うか決めるため、ということもあります。相手が自分に争いを仕掛けるのを恐れ、こちらから仕掛ける君主もいます。敵が強すぎるから始める戦争もあれば、弱すぎるから始める戦争もあります。隣国が、こちらの持つものを欲しがり、あるいは、こちらが欲しがるものを持っていて、相手が我々のものを奪うか、相手のものを我々に渡すまで、双方が戦うこともあります。飢饉で国民が衰弱し、疫病で打ちのめされ、あるいは国内の党派争いに巻き込まれたあとで、その国へ侵攻するのは、たいへん正当な戦争の理由です。最も親しい同盟国でも、その町の一つが、こちらに都合のよい位置にあったり、領土の一片を取れば、こちらの領土の形が、丸く、まとまったりする場合は、戦争を始めても、正当です。ある君主が、貧しく無知な人民のいる国へ兵を送ったなら、文明を教え、野蛮な暮らし方を改めさせるため、その半数を殺し、残りを奴隷にしても、合法です。君主が他の君主へ、侵略から守ってほしいと援助を求めたとき、援助する側が、侵略者を追い払ったあと、自分で領土を奪い、救いに来たはずの君主を、殺すか、投獄するか、追放するのは、まことに王者らしく、名誉ある、また、よくある行いです。血縁や婚姻の結びつきも、君主同士の戦争の、よくある原因です。親族関係が近いほど、争いたがります。貧しい国は飢え、豊かな国は高慢です。そして、高慢と飢えは、いつも争います。こうした理由で、兵士の稼業は、あらゆる職業のうち、最も名誉あるものとされています。兵士とは、自分へ何の害も加えたことのない、同じ種族の者を、できるだけ多く、冷酷に殺すために雇われた、ヤフーだからです。

「ヨーロッパには、自力では戦争もできない、物乞い同然の君主もいます。一人あたり、一日いくらという値で、豊かな国へ軍隊を貸し出し、代金の四分の三を自分の懐へ入れます。それが、最も大きな生計のもとです。ヨーロッパ北部の多くの地方には、こういう君主がいます」。

「お前の、戦争についての話は」と、主人は言った。「お前たちが持っていると言い張る、その理性の働きを、まことに見事に示している。だが、危険より恥のほうが大きいのは、幸いだ。自然は、お前たちに、大した害を加える力を、まったく与えなかった。口は、顔と平らに並んでいるから、双方が承知していない限り、互いに噛みついても、ろくに役には立たないだろう。それから、前後の足の爪も、たいそう短く、柔らかいので、こちらのヤフーなら、一匹で、お前たちを十二匹、追い立てられる。だから、戦いで殺された者の数を述べるとき、お前は、事実でないことを言ったと、思わずにいられない」。

私は、頭を振り、その無知に、少し笑わずにはいられなかった。戦争の技術には、私も不案内ではなかったので、大砲、カルバリン砲、マスケット銃、騎兵銃、ピストル、弾丸、火薬、剣、銃剣、会戦、攻囲、退却、攻撃、坑道、対抗坑道、砲撃、海戦、千人を乗せて沈む船、双方二万人ずつの死者、死にゆく者のうめき、空中へ飛ぶ手足、煙、轟音、混乱、馬の足に踏まれての死、敗走、追撃、勝利、犬や狼や猛禽の餌に残された死体で埋まる野原、略奪、衣服の剥ぎ取り、強姦、放火、破壊について、説明した。そして、愛する同国人の勇敢さを示すため、「攻囲戦で、一度に百人の敵を吹き飛ばし、船でも、同じだけ吹き飛ばすのを、私は見ました。ばらばらになった死体が雲から降ってきて、見物人を、大いに楽しませたのを見ました」と、請け合った。

さらに詳しいことへ進もうとすると、主人は、黙るよう命じた。そして、「ヤフーの本性を知る者なら、力と狡猾さが、悪意に釣り合いさえすれば、これほど卑しい動物に、お前の挙げた行いが、すべて可能なのは、容易に信じられるだろう。だが、お前の話で、種族全体への嫌悪が増し、これまで、まったく知らなかった心の乱れを、感じるようになった。耳が、こんな忌まわしい言葉に慣れると、しだいに、嫌悪も薄れて、受け入れてしまうかもしれないと思う。この国のヤフーは嫌いだが、その忌まわしい性質を責めはしない。グナイという猛禽の残酷さや、蹄を切る鋭い石を責めないのと同じことだ。しかし、理性を持つと言い張る生き物が、これほどの極悪事をしでかすとなると、その能力の腐敗は、獣性そのものより悪くなりはしないかと、恐れる」と言った。そのため、我々が持つのは、理性の代わりに、生まれつきの悪徳を増やすのに適した、何かの性質にすぎないと、主人は確信しているようだった。濁った流れに映る、不格好な体の姿が、大きくなるばかりか、いっそう歪むようなものである。

主人は、さらに、「いまと、以前の幾度かの話で、戦争のことは、聞きすぎるほど聞いた。いま、もう一つ、少し困っている点がある。乗組員の何人かは、法律のために破産して、国を去ったと、お前は言った。その言葉の意味は、すでに説明してもらったが、皆の身を守るための法律が、どうして、誰かの破滅を招くのか、理解できない。だから、お前の国の、いまの慣行に従って、法律と、その運用に当たる者とは、どういうものか、もっと詳しく聞きたい。お前たちが自称するような、理性的な動物なら、なすべきこと、避けるべきことを知るには、自然と理性が、十分な導きになると思うのだ」と付け加えた。

私は主人へ、「法律は、自分に加えられた、幾つかの不正について、弁護士を雇っても、無駄だったという経験のほか、あまり親しんだ学問ではありません。けれども、できる限り、お答えいたします」と、請け合った。

私は言った。「我々の間には、金の払いように応じ、白は黒、黒は白であると、そのために言葉を重ね、証明する技術を、若いころから仕込まれた、人々の集団があります。他の人々は皆、この集団の奴隷です。例えば、隣人が私の牛を欲しがれば、私から牛を取り上げるべきだと証明するため、弁護士をつけます。そこで私は、自分の権利を守るため、別の弁護士を雇わねばなりません。自分のために、自分で話すのを認めるなど、法律の、あらゆる規則に反するからです。さて、この場合、正当な所有者である私は、大きな不利を二つ抱えます。第一に、私の弁護士は、ほとんど揺りかごのころから、虚偽を守る訓練をしているので、正義の弁護となると、まったく勝手が違います。その不自然な仕事には、いつも、悪意がないにしても、ひどく不器用なやり方でしか取りかかれません。第二に、私の弁護士は、たいへん慎重に事を運ばねばなりません。そうしないと、法律家の仕事を減らそうとする者として、裁判官から叱られ、同業者から憎まれるのです。したがって、私の牛を守る方法は、二つしかありません。第一は、相手の弁護士を、二倍の報酬で買収することです。すると、その弁護士は、依頼人の側に正義があると、ほのめかして、依頼人を裏切ります。第二は、私の弁護士が、牛は相手のものだと認めて、私の訴えを、できるだけ不正らしく見せることです。巧みにできれば、必ず、裁判官の好意を得られます。ここで、ご主人に知っていただかねばならないのは、この裁判官とは、財産のあらゆる争いを裁き、犯罪者を審理するため、任命された者たちだということです。年を取るか、怠け者になった、最も腕の立つ弁護士から選ばれます。一生の間、真実と公正に反対するほうへ傾いてきたので、詐欺、偽誓、抑圧に味方せずにはいられない、抜き差しならぬ立場にあります。その性質や職務に似つかわしくないことをして、法律家仲間を害するよりはと、正義の側からの大きな賄賂を断る裁判官も、私は知っています。

「この弁護士たちの格言では、以前になされたことなら、何でも、再び合法的になせるのです。そこで、普通の正義と、人類共通の理性に反して、昔下された判決を、特に念入りに、すべて記録します。それを、判例という名で持ち出し、最も不正な意見を正当化する、権威とします。そして、裁判官は必ず、それに従って指示を下します。

「弁論に当たっては、事件の本筋へ入ることを、努めて避けます。その代わり、関係のない事情を、ことごとく、大声で、激しく、くどくどと論じ続けます。例えば、すでに述べた事件では、相手が私の牛に、どんな請求権や所有権を持つか、知ろうとは、決してしません。牛は赤いか黒いか、角は長いか短いか、放牧する畑は丸いか四角いか、乳は家で搾るか外で搾るか、どんな病気にかかりやすいか、といったことばかりです。それから、判例を調べ、幾度も審理を延期して、十年、二十年、三十年で、ようやく決着がつきます。

「この集団には、ほかの人間には、誰にもわからない、特有の隠語や専門語もあると、心得ておかねばなりません。法律は、すべて、それで書かれており、彼らは特に気を配って、法律を増やします。そのため、真実と虚偽、正と不正の本質そのものが、すっかり混乱してしまいました。ですから、六代にわたる先祖から、私に残された畑が、私のものなのか、三百マイル離れた、よそ者のものなのか、決めるのに三十年かかるのです。

「国事犯に問われた者の裁判では、やり方は、ずっと手短で、感心すべきものです。裁判官は、まず、権力者の意向を探る使いを出します。それから、必要な法の形式を、すべて厳密に守りながら、たやすく罪人を絞首刑にすることも、助けることもできるのです」。

ここで、主人が口を挟み、「お前の説明によれば、弁護士たちは、きっと、途方もなく優れた知力を授かっているに違いない。それなら、むしろ、知恵や知識を他人に教える者となるよう、奨励されないのは、惜しいことだ」と言った。私は、こう答えた。「自分の稼業のほかでは、あらゆる点で、普通、我々のうち、最も無知で愚かな連中であり、日常の会話では、最も卑しむべき者たちです。あらゆる知識と学問の、公然たる敵であり、どんな主題の話でも、自分の職業の話と同じように、人類共通の理性を、ねじ曲げようとします」。

第六章

アン女王治下のイングランドの状態についての続き。ヨーロッパの宮廷における、宰相という人物。

主人には、弁護士というこの種族が、ただ仲間の動物を害するためだけに、自分たちも、頭を悩ませ、心を乱し、疲れ果てながら、不正の結託に加わるのは、どんな動機からなのか、まだ、まったく理解できなかった。報酬のためにする、という私の言葉も、理解できなかった。そこで私は、たいへん苦労して、貨幣の用途と、その材料、金属の価値を説明した。「ヤフーが、この貴重な物質を、たくさん手に入れると、欲しいものは何でも買えます。最も上等の衣服、最も立派な家、広い土地、最も高価な食べ物と飲み物、そして、最も美しい雌も、好きに選べます。金だけで、こうしたことが、すべてできるので、我々のヤフーは、生まれつきの浪費か、貪欲への傾きに応じ、使うためにも、貯めるためにも、いくらあっても足りないと思うのです。富む者は、貧しい者の労働の実りを享受し、貧しい者の数は、富む者の千倍もあります。少数の者を豊かに暮らさせるため、国民の大半が、毎日、わずかな賃金で働き、惨めに暮らすよう強いられています」。

こうしたことや、同じ趣旨の、ほかの多くの事柄を、詳しく述べたが、主人は、まだ理解できなかった。すべての動物には、地の産物から、それぞれの分け前を受ける権利があり、とりわけ、他を治める者には、その権利があるという前提に立っていたからだ。そこで、「その高価な食べ物とは何か。また、お前たちの誰かが、それを欠くことがあるのは、どうしたわけか、教えてほしい」と言った。私は、思いつくだけの種類と、さまざまな料理法を並べた。そうした料理をするには、飲み物のほか、ソースや、無数の便利な品々のためにも、船を、世界のあらゆる所へ送らねばならなかった。私は、「我々の上流の雌ヤフーが、朝食と、それを入れる器を手にするまでに、この地球を、少なくとも三度は回らねばなりません」と請け合った。主人は、「自国の住民に、食べ物を供給できないとは、よほど惨めな国に違いない。だが、何より不思議なのは、お前が言うほど広い土地に、まったく真水がなく、人々が、飲み物を求め、海の向こうへ船を送らねばならないことだ」と言った。私は答えた。「私の生まれた、いとしいイングランドでは、住民が消費できる三倍もの食糧が生産されると、計算されています。穀物から取り出し、あるいは、ある木の実から搾る、上等な飲み物となる酒もあり、生活に必要な、その他あらゆる品も、同じ割合で生産されます。しかし、雄の贅沢と不摂生、雌の虚栄心を満たすため、必要な品々の大半を他国へ送り、その代わりに、病気と愚行と悪徳の材料を持ち帰り、自分たちで費やします。したがって必然的に、国民の、たいへん多くが、物乞い、強盗、盗み、詐欺、売春の取り持ち、追従、偽証の買収、偽誓、偽造、賭博、嘘、へつらい、威嚇、投票、駄文書き、占星術、毒殺、売春、偽善的な説教、誹謗文書、自由思想といった稼業で、生計を求めざるを得なくなります」。この一つ一つの言葉を理解してもらうのにも、たいへん苦労した。

「葡萄酒が外国から輸入されるのは、水や、ほかの飲み物の不足を補うためではありません。正気を失わせて愉快にし、憂鬱な考えを、すべて追い払い、頭の中に、激しく、とっぴな空想を生み、希望を高め、恐れを消し、しばらくの間、理性の働きを、すべて停止させ、手足も利かなくして、ついには深い眠りへ落とす、そういう液体だからです。もっとも、目覚めると、いつも、気分が悪く、元気もなくなり、この酒を飲むと、体は病気だらけになって、人生が、苦しく、短くなることは、認めねばなりません。

「しかし、こうしたことすべてのほかに、我々の国民の大半は、富む者や、互いに、生活の必需品や、便利な品を供給して、生計を立てています。例えば、私が自宅で、しかるべく身なりを整えると、百人の職人の仕事を、体に着けていることになります。家の建築と調度には、さらに同じだけの人数が働き、妻を飾るには、その五倍の人数が要るのです」。

続いて、病人の世話で生計を立てる、別の種類の人々について、話そうとした。それまで、機会あるごとに、乗組員の多くが病死したと、主人に伝えてあったからだ。しかし、ここでも、意味をわかってもらうのに、この上なく苦労した。「フウイヌムが、死ぬ数日前、弱って体が重くなったり、何かの事故で、脚を傷つけたりすることは、容易に理解できる。だが、あらゆるものを完全に造る自然が、体の中へ、痛みの生じるのを許すことなど、不可能だ」と主人は考え、これほど不可解な害悪がある理由を、知りたがった。

私は、こう話した。「我々は、互いに反する働きを持つ、千もの品を食べます。空腹でもないのに食べ、喉が渇いてもいないのに飲みます。一口も食べずに、夜通し、強い酒を飲んで座り続け、そのため怠惰になり、体が熱を帯び、消化が早まりすぎたり、妨げられたりします。売春する雌ヤフーは、ある病を得て、その抱擁に身を任せた者の骨を、腐らせます。この病や、その他、多くの病は、父から子へ伝わるので、数多くの者が、複雑な病を抱えて生まれてきます。人の体に起こる病を、すべて並べたら、きりがありません。五、六百を下らず、あらゆる手足や関節に、広がっています。要するに、体の外にも、中にも、どの部分にも、それぞれ特有の病があるのです。それを治すため、我々の間には、病人を治すことを、職業とし、あるいは、そう称するために、養成される種類の人々がいます。私も、その道に、多少の心得がありますから、ご主人への感謝として、彼らのやり方の秘密と方法を、すべてお伝えいたしましょう。

「彼らの根本の考えでは、病はすべて、体へ物が詰まりすぎることから起こります。そこで、自然の通り道からか、あるいは、上の口からか、体の中身を大量に出す必要がある、と結論します。次にすることは、草、鉱物、樹脂、油、貝殻、塩、汁、海藻、糞便、木の皮、蛇、ヒキガエル、蛙、蜘蛛、死人の肉と骨、鳥、獣、魚から、匂いも味も、考えられる限り、最も忌まわしく、吐き気を催し、嫌な混ぜ物を作ることです。胃は、すぐに嫌悪して、それを吐き出します。これを、吐き薬と呼びます。あるいは、同じ材料の蓄えから、さらに、ほかの毒物を加え、そのときの医師の気分次第で、上か下の口から、同じほど腸を苦しめ、嫌悪させる薬を、飲み込め、入れろと命じます。腹を緩め、前にあるものを、すべて押し流すものです。これを、下し薬、または浣腸と呼びます。医師の言うところでは、自然は、上方前面の穴を、固形物と液体を入れるためだけに、下方後面の穴を、出すために定めました。しかし、この技芸家たちは、病にあっては、自然が、すべて本来の座から追われているのだから、それを元へ戻すには、穴の用途を取り替え、まったく反対の扱いを、体に施さねばならないと、巧妙にも考えるのです。すなわち、肛門から固形物と液体を押し込み、口から排泄させます。

「しかし、本当の病のほかに、我々は、空想の中にしかない、多くの病にもかかります。そのために、医師は、空想の治療を発明しました。それぞれの病に名があり、効くという薬にも、それぞれ名があります。我々の雌ヤフーは、いつも、この病に悩まされています。

「この一族の、大きな長所の一つは、予後を言い当てる腕で、めったに外しません。本当の病では、ある程度重くなると、その予言は、普通、死を告げます。治すことはできなくても、死なせることなら、いつでも、その力の及ぶところだからです。したがって、宣告を下したあと、思いがけず回復の兆しが現れても、偽預言者と責められるくらいなら、頃合いを見て一服盛り、自分の先見の明を、世間へ証明するすべを心得ています。

「また、連れ合いに飽きた夫や妻、長男、大臣、そして、しばしば君主にも、特に役立ちます」。

以前、機会があって、政治一般の性質、とりわけ、全世界の驚異と羨望の的となるにふさわしい、我が国の、優れた国制について、主人に話したことがあった。しかし、ここで、ふと大臣の話をしたため、しばらくたつと、主人は、「その名で、特に、どんな種類のヤフーを指すのか」、説明するよう命じた。

私は話した。「私が述べようとした第一の大臣、すなわち宰相とは、喜びと悲しみ、愛と憎しみ、憐れみと怒りから、まったく免れた生き物です。少なくとも、富、権力、爵位を激しく欲する以外の情念は、一切使いません。言葉は、自分の心を示す以外の、あらゆる用途に使います。真実を話すのは、相手に嘘と思わせるためだけで、嘘を話すのは、相手に真実と思わせるためだけです。陰で最も悪く言われる者が、いちばん確実な出世の道にいます。そして、他人へ、あるいは本人へ、褒め始めたときには、その人は、その日から見捨てられた身です。受けられる最悪のしるしは、約束、とりわけ、誓いで確かめられた約束です。そのあとでは、分別のある者なら、身を引き、すべての望みを捨てます。

「宰相に昇るには、三つの方法があります。第一は、妻か娘か姉妹を、分別をもって、どう使うか心得ていること。第二は、前任者を裏切るか、足もとを掘り崩すこと。第三は、公の集まりで、宮廷の腐敗に向かい、猛烈な熱意を示すことです。賢い君主なら、この最後の方法を使う者を、好んで用います。そうした熱狂家こそ、いつも、主君の意志と情念に、最も卑屈に、従順に仕える者になるからです。こうした大臣は、すべての役職を自由に与えられるので、議会や大会議の過半数を買収して、権力を保ちます。そして最後には、免責法と呼ばれる方便によって」――私は、その性質を主人へ説明した――「あとから責任を問われぬよう身を守り、国から奪った品々を、たっぷり抱え、公の場から引退します。

「宰相の屋敷は、同じ稼業の者を育てる養成所です。小姓、下僕、門番たちは、主人をまねて、それぞれの持ち場の大臣になり、三つの主要な成分、すなわち、横柄、嘘、賄賂に秀でることを学びます。したがって、最上の身分の人々からも、下役なりの敬意と追従を受けます。そして、ときには、手練と厚顔の力で、幾つもの段階を登り、主人の後継者にまでなります。

「宰相は、普通、盛りの過ぎた女か、お気に入りの従僕に支配されます。あらゆる恩典は、この者たちを管として流れ出るので、究極のところ、王国の支配者と呼んで、差し支えありません」。

ある日、私が祖国の貴族について述べるのを聞くと、主人は、話の中で、身に余るお褒めの言葉をくださった。「お前は、きっと、どこか高貴な家の生まれに違いない。姿、肌の色、清潔さでは、この国の、どのヤフーにも、はるかに優っているからだ。力と敏捷さでは劣るようだが、それは、他の獣と、暮らし方が違うためだろう。それに、話す能力だけでなく、理性の初歩も、多少は備わっているので、私の知る者は皆、お前を驚異と見なしている」と言った。

そして、こう注意した。「フウイヌム族の間では、白毛、栗毛、鉄灰色の毛の者は、鹿毛、斑のある灰色の毛、黒毛の者ほど、姿が整ってはいない。知力も、それを磨く能力も、同じようには授かって生まれない。だから、いつまでも召使いの身分にとどまり、自分の種族の外と縁組しようなどとは、決して思わない。この国では、それを、奇怪で、自然に反することと考えるのだ」。

私は、好意ある評価を賜ったことへ、この上なく、うやうやしく感謝した。だが同時に、こう申し上げた。「私の生まれは、低いほうで、質素で正直な両親の子でした。まずまずの教育を与えるのが、やっとの親でした。我々の間の貴族は、ご主人のお考えとは、まったく別のものです。若い貴族は、幼いころから、怠惰と贅沢の中で育ちます。年が許すと、すぐに、淫らな女たちの間で精力を使い果たし、忌まわしい病にかかります。そして、財産が、ほとんど尽きると、もっぱら金のため、身分が低く、容姿も気に入らず、体も丈夫でない女と結婚し、その女を嫌い、軽蔑します。そのような結婚から生まれるのは、普通、瘰癧や、くる病にかかった、あるいは、体の形が損なわれた子供です。そのため、種を改良し、絶やさずにおくために、妻が近所の者や召使いの中から、健康な父親を用意するよう心がけない限り、家が三代を超えて続くことは、めったにありません。弱く病んだ体、やせた顔つき、黄ばんだ顔色が、高貴な血筋の、本当のしるしです。身分ある男にとって、健康で、たくましい外見は、ひどい不名誉なので、世間では、本当の父親は馬丁か御者だったのだ、と結論します。心の欠点は、体の欠点と歩調を合わせます。ひがみ、鈍さ、無知、気まぐれ、肉欲、高慢の寄せ集めなのです。

「この輝かしい人々の集団の同意なしには、いかなる法も、制定、廃止、変更できません。そして、我々の財産のすべても、この貴族たちの裁決に任され、その先へ、不服を申し立てることもできないのです」。[514]

第七章

著者の祖国への深い愛。著者の説明による、イングランドの国制と行政についての、主人の考察。似た事例と比較。人間の本性についての、主人の考察。

私と、彼らのヤフーが、完全に一致しているため、もともと人間を、ひどく卑しいものと考えがちな種族の間で、どうして自分の種を、あれほど遠慮なく描く気になれたのかと、読者は驚くかもしれない。しかし、率直に告白しなければならない。この優れた四足獣の、数々の美徳を、人間の腐敗と向かい合わせてみると、私の目は、それほどまでに開かれ、理解も広がって、人間の行いや情念を、まったく違う光の下で見るようになり、自分の種族の名誉を取り繕う値打ちなど、ないと思い始めたのである。そのうえ、主人ほど判断の鋭い方を前にしては、取り繕うことなど、不可能だった。主人は毎日、それまで少しも気づかず、我々の間では、人間の弱点のうちにさえ数えられない、千もの自分の欠点を、私に納得させたからである。また、その模範から、あらゆる虚偽や偽装を、徹底して嫌うことを学んだ。真実が、あまりに美しく思えたので、そのためには、すべてを犠牲にしようと、決意したのである。

さらに、あれほど自由に物事を描いたことには、もっと強い動機があったと、読者へ、正直に告白しよう。この国へ来て、一年もたたぬうちに、住民への愛と尊敬は、これほど深くなった。私は、二度と人間の間へ戻らず、悪徳の模範も誘惑もない、見事なフウイヌム族の間で、あらゆる美徳を思い、実践して、余生を送ろうと、固く決意したのである。しかし、永遠の敵である運命は、これほどの幸福を、私の分け前とは定めなかった。それでも、同国人について語る際、これほど厳しい吟味の相手を前に、できる限り欠点を軽くし、どの点についても、事実が許す限り、好意的に説明したと思えば、いま、多少の慰めにはなる。実際、自分の生まれた土地への、ひいきや偏愛に、心を動かされない人が、生きている者のうち、誰かいるだろうか。

主人に仕える栄誉を得ていた期間の、大半にわたって交わした、幾度もの会話の要点を、私は述べてきた。だが、簡潔にするため、ここへ記したより、はるかに多くのことを、省いたのである。

すべての質問に答え、主人の好奇心も、十分満たされたように見えると、ある朝早く、呼び出され、少し離れた所へ座るよう命じられた。それまで、一度も与えられたことのない、栄誉だった。主人は言った。「お前自身と、お前の国に関する話を、すべて、たいへん真剣に考えてきた。お前たちは、どんな偶然か、見当もつかないが、ほんのわずかな理性の分け前に、ありついた、動物の一種だと思う。それを、生まれつきの腐敗を悪化させ、自然から授かってもいない、新たな腐敗を身につける手助けのほかには、使わない。自然の授けた、わずかな能力も、自ら奪い取り、初めからの不足を増やすことには、たいそう成功し、自分たちの発明で、その不足を満たそうと、むなしく努めて、一生を費やしているようだ。お前自身についても、普通のヤフーの、力も敏捷さもないのは、明らかだ。後ろの足で、頼りなく歩き、爪を、役にも立たず、身を守りもできぬものにする、仕掛けを考え出した。太陽や風雨を防ぐための、顎の毛も取り除く。最後に、お前は、この国の兄弟たち、ヤフーのようには、速く走ることも、木に登ることもできない」。兄弟とは、主人の呼び方である。

「お前たちの政治と法律の制度は、明らかに、理性の大きな欠陥、したがって、美徳の大きな欠陥から来ている。理性的な生き物を治めるには、理性だけで十分だからだ。お前が自分の国の人々について話したことからさえ、理性的という性質を、自分たちのものと主張する根拠はない。その人々に有利にしようと、細かなことを数多く隠し、しばしば、事実でないことを言ったのは、明らかに見えているがね。

「この考えが、いっそう確かになったのは、こう見て取ったからだ。お前は、力、速さ、身軽さで、実際に不利になっている点と、爪の短さ、そのほか、自然の関わらない幾つかの点を除けば、体のどの特徴も、他のヤフーと一致している。同じように、お前から聞いた、暮らしや習慣や行いの説明では、心の性質も、ほとんど同じに見える」。主人は言った。「ヤフーは、他のどんな種類の動物より、互いを憎むことで知られている。普通、その理由とされるのは、自分たちの姿の忌まわしさで、誰も、他の者では見えるのに、自分では見えないからだ。そのため、お前たちが体を覆い、覆わなければ、とても耐えられぬ、数々の醜さを、互いに隠すのは、賢くないことではないと思い始めていた。しかし、いまでは、私の間違いだったとわかる。この国の獣どもの争いも、お前の描いた、お前たちの争いと、同じ原因から来るのだ。というのも、五十匹に十分な食べ物を、五匹のヤフーの間へ投げてやると、穏やかに食べる代わりに、一匹一匹が、すべてを独り占めしたくてたまらず、つかみ合いを始める。したがって、外で食べさせる間は、普通、召使いを立ち会わせ、家で飼うものは、互いに離して、つないでおく。牛が老衰か事故で死ぬと、フウイヌムが、自分のヤフーのために確保する前に、近隣のヤフーが、群れをなして奪いに来る。すると、お前が話したような戦いになり、双方の爪で、ひどい傷を負わせ合う。もっとも、お前たちが発明したような、便利な殺人の道具がないので、互いを殺せることは、めったにない。別のときには、近くの、幾つもの集落のヤフー同士で、明らかな原因もなく、同じような戦いをする。一方の地区の者が、あらゆる機会をうかがい、隣が用意しないうちに、不意を襲おうとするのだ。しかし、計画が失敗したとわかると、家へ戻り、敵がいないので、お前の言う内戦を、自分たちの間で始める。

「この国の、ある野原には、幾つもの色をした、ある種の光る石があり、ヤフーは、それを激しく好む。ときには、その一部が地中に埋まっていることがあり、取り出すため、何日でも爪で掘る。それから運び去り、寝ぐらへ、山にして隠す。だが、仲間に宝を見つけられるのを恐れ、絶えず、用心深く周囲を見回している」。主人は、「この不自然な欲望の理由や、石がヤフーに、何の役に立つのか、どうしてもわからなかった。だが、いまでは、お前が人間について述べた、貪欲と同じ原理から出るものだと思う。一度、試しに、私のヤフーが埋めていた場所から、ひそかに、石の山を取り除いたことがあった。すると、卑しい動物は、宝がないことに気づき、大声で嘆いて、群れ全体を呼び集め、そこで、惨めに吠え続けた。それから、ほかの者へ噛みつき、引き裂き始め、やがて、やせ衰え、食べも、眠りも、働きもしなくなった。そこで、召使いへ命じ、ひそかに、同じ穴へ石を戻し、元どおり隠させた。それを見つけると、ヤフーは、すぐに元気を取り戻し、機嫌も直った。だが、もっとよい隠し場所へ移すのを忘れず、それ以来、たいそう役に立つ獣になっている」と言った。

主人は、さらに、「光る石が多い野原では、近隣のヤフーが、絶えず侵入するため、最も激しく、最も頻繁に、戦いが起こる」と請け合った。このことは、私も自分で見た。

また、「二匹のヤフーが、野原で、そういう石を見つけ、どちらのものにするか争っていると、第三のヤフーが、隙をついて、二匹から持ち去ることが、よくある」と言った。主人は、それが、我々の訴訟と、どこか似ていると、あくまで言い張った。我々の名誉のため、その思い違いは、正さずにおくのがよいと考えた。その決着は、我々の間の、多くの判決より、はるかに公平だったからだ。そこでは、原告と被告は、争っていた石以外には、何も失わない。しかし、我々の衡平裁判所なら、どちらか一方に、何か残っている限り、訴えを退けはしなかっただろう。

主人は話を続けた。「ヤフーを、何より忌まわしくするのは、草、根、実、動物の腐った肉、あるいは、それら全部の混ぜ物でも、行く手にあるものを、何でも区別なく食らう、その食欲だ。しかも、家で用意してもらう、はるかによい餌より、遠くで、奪うか、盗むかして得られるものを好むのが、その特有の気質だ。獲物がある限り、腹が裂けそうになるまで食べる。そのあとは、自然が教えた、ある根を使い、体の中身を、すべて排出する。

「もう一種の根もある。たいそう汁が多いが、少し珍しく、なかなか見つからない。ヤフーは、それを熱心に探し、大喜びで吸う。お前たちの葡萄酒と、同じ作用があるのだ。ときには互いに抱き合い、ときには引き裂き合う。吠え、歯をむき出し、騒ぎ、よろめき、転び、それから、泥の中で眠り込む」。

実際、病気にかかる動物は、この国では、ヤフーだけだと、私は見て取った。もっとも、我々の国の馬の病より、はるかに少なく、ひどい扱いを受けるからでもなく、その卑しい獣自身の、不潔さと貪食のためにかかるのである。彼らの言語には、こうした病の総称しかない。獣の名から取って、フネア・ヤフー、すなわち、ヤフーの病と呼ぶ。処方される治療は、自分の糞と尿の混ぜ物を、ヤフーの喉へ、無理に流し込むことである。その後、それを使い、効き目があったのを、私は何度も知っている。ここで、公の利益のため、詰め込みすぎから生じる、あらゆる病に対する、見事な特効薬として、同国人へ、遠慮なくお勧めする。

「学問、政治、技芸、製造業などについては、この国と、お前たちの国のヤフーとの間に、似たところは、ほとんど、あるいは、まったく見つからない」と主人は認めた。「私が見ようとしたのは、本性が、どう同じかということだけだ。ただ、好奇心のあるフウイヌムの中には、大抵の群れには、支配者めいたヤフーがいると、観察する者もいると聞いた。そいつは、ほかのどのヤフーよりも、体が不格好で、性質が悪い」。我々の国の狩猟園でも、普通、指導役の雄鹿や、主だった雄鹿がいるようなものである。「その頭目は、普通、自分に、できるだけ似た、お気に入りを持つ。仕事は、主人の足と尻をなめ、雌ヤフーを寝ぐらへ追い込むことだ。その報いに、ときどき、驢馬の肉の一片をもらう。このお気に入りは、群れ全体から憎まれるので、身を守るため、いつも頭目のそばにいる。普通、もっと悪い者が見つかるまで、その職にとどまる。だが、捨てられた、その瞬間、後継者が、地区のすべてのヤフーを率い、老いも若きも、雄も雌も、一団となって来て、頭から足まで、糞を浴びせるのだ。これが、お前たちの宮廷や、お気に入りや、大臣へ、どのくらい当てはまるかは、お前が、いちばんよく判断できるだろう」と、主人は言った。

この意地の悪い当てこすりには、あえて返事をしなかった。人間の知性を、普通の猟犬の賢さより下へ落とすものだったからだ。猟犬には、群れで最も有能な犬の声を、間違えずに聞き分け、従うだけの判断力があるのである。

主人は、「人間についての、お前の説明では、述べていなかったか、少なくとも、ごく軽く触れただけの、ヤフーの目立った性質がある」と話した。「この動物は、他の獣と同じく、雌を共有する。だが、雌ヤフーは、妊娠中も雄を受け入れる、という点が違う。また、雄同士でするのと同じほど激しく、雄が雌と争い、戦う。この二つの行いは、他の感覚ある生き物が、決して達しなかったほどの、恥ずべき獣性なのだ。

「もう一つ、ヤフーについて驚くのは、不潔と汚れを好む、奇妙な性向だ。他の動物は、どれも、生まれつき清潔を好むように見えるのに」。初めの二つの非難については、喜んで、返事をせずに通り過ぎた。自分の種族を弁護する言葉が、一言もなかったからだ。できたなら、生来の心の傾きから、必ず、そうしていたはずである。だが、最後の点だけは、もし、この国に豚がいたら――私には不運にも、いなかったが――人間だけがそうなのだという非難から、たやすく弁護できただろう。豚は、ヤフーより、よい匂いのする四足獣かもしれないが、私の考えを、へりくだって申し上げるなら、公平に言って、もっと清潔だとは、主張できない。汚い食べ方や、泥の中で転がり、眠る習慣を見たら、主人御自身も、そう認めねばならなかったろう。

主人はまた、召使いたちが、幾匹かのヤフーに見つけ、自分には、まったく説明のつかない、もう一つの性質を挙げた。「ヤフーは、ときどき、若くて太り、食べ物も水も足りていて、召使いにも、どこが悪いのか、まったく想像がつかないのに、隅へ引っ込み、横たわり、吠え、うめき、近づくものを、すべて蹴り払う気分になる。見つかった唯一の治療法は、激しく働かせることで、そのあとは、必ず元に戻る」。自分の種族への、ひいきから、私は黙っていた。しかし、そこには、憂鬱症の本当の種が、はっきり見えた。怠け者、贅沢な者、金持ちだけが襲われる病である。同じ療法を、強いて受けさせられるなら、治ることは、私が請け合おう。

主人は、さらに観察していた。「雌ヤフーは、よく、土手や茂みの後ろに立ち、通り過ぎる若い雄を見つめる。それから、姿を現したり、隠れたりし、さまざまな奇妙な身振りや、顔つきをする。そのとき、ひどく不快な匂いがすることが、わかっている。雄の一匹が近づくと、ゆっくり後ずさりし、何度も振り返り、恐れるふりをして、雄がついてくると知っている、都合のよい場所へ駆け込む。

「また、よその雌が来ると、同性の三、四匹が囲み、じろじろ見て、騒ぎ、歯をむき、体中の匂いを嗅ぐ。それから、軽蔑と侮蔑を示すらしい身振りをして、去っていく」。

自分で観察したことや、他から聞いたことに基づく、こうした推測には、主人も、いくらか理屈をこらしすぎたのかもしれない。それでも、淫行、媚び、あら探し、中傷の初歩が、本能として、女というものの中にあることを、私は、少なからぬ驚きと、深い悲しみなしに、考えられなかった。

我々の間では、これほどありふれている、両性の不自然な欲望を、主人が、いつ、ヤフーについても非難するだろうかと、私は、絶えず思っていた。しかし、自然は、それほど熟達した女教師ではなかったらしい。この、いっそう洗練された快楽は、まったく、地球のこちら側の、技術と理性の産物なのである。

第八章

著者は、ヤフーについて、いくつかの詳しい事柄を語る。フウイヌム族の大きな美徳。若者の教育と訓練。総会について。

人間の本性については、主人に可能だと私が考えたよりも、私のほうが、はるかによく知っているはずだったので、主人の述べるヤフーの性質を、自分や同国人へ当てはめるのは、容易だった。また、自分の観察で、さらに発見もできると思った。そこで、近隣のヤフーの群れの中へ行かせてほしいと、しばしば願い出た。主人は、いつも、たいそう恵み深く同意した。この獣たちへの私の憎しみが、その影響で堕落することを、決して許さないと、すっかり確信していたからである。そして、召使いの一頭で、力強く、たいそう正直で気立てのよい、栗毛の小馬を、護衛につけた。その守りがなければ、こんな冒険をする勇気は、なかったろう。初めて来たとき、この忌まわしい動物に、どれほど悩まされたかは、すでに話した。その後も、短剣を持たずに、たまたま遠くへ歩くと、その手につかまりそうになったことが、三、四度あった。彼らは、私を同じ種族の者だと、いくらか思っていたのだろうと、考える理由もある。護衛がいるとき、袖をまくり、裸の腕や胸を見せ、私自身も、その考えを、よく助けていた。そのようなとき、ヤフーは、近づける限り近づき、猿のように、私の動作をまねたが、いつも、強い憎悪のしるしを示した。帽子と靴下を着けた、飼い慣らされたコクマルガラスが、野生の仲間の中へ入ると、いつも迫害されるようなものだった。

ヤフーは、幼いころから、途方もなく敏捷である。それでも、一度、三歳の雄を捕まえ、あらゆる優しい仕草で、静かにさせようとした。だが、小悪魔は、ひどい勢いで、わめき、引っかき、噛みついたので、放すほかなかった。まさに潮時だった。騒ぎを聞いて、大人の一群が、まわりに来たからである。だが、子が無事なのを見て――子は逃げ去った――栗毛の小馬もそばにいたので、近づこうとはしなかった。若い動物の肉体は、ひどく臭いことに気づいた。イタチと狐の中間のようで、はるかに不快な臭いだった。もう一つ、忘れた事情がある。まったく省いても、読者は許してくれたかもしれないが、忌まわしい害虫を、手に持っている間、黄色い液状の汚い排泄物を、私の服中へ、まき散らしたのである。幸い、すぐ近くに小川があり、できるだけ、きれいに洗った。しかし、十分に風に当てるまでは、主人の御前へ出る勇気は、なかった。

私にわかった限りでは、ヤフーは、あらゆる動物のうち、最も教えにくいものらしい。能力は、荷を引くか運ぶ以上には、決して達しない。しかし、この欠点は、主として、ひねくれた、強情な性向から来ると思う。狡猾で、悪意があり、裏切りやすく、執念深いからである。力が強く、丈夫だが、心は臆病で、したがって、横柄で、卑屈で、残酷である。雌雄とも、赤い毛の者は、ほかより淫欲が強く、悪事を好み、力と敏捷さでも、ほかを、はるかにしのぐことが、知られている。

フウイヌム族は、すぐに使うヤフーを、家から遠くない小屋に置き、残りは、一定の野原へ出す。そこで、根を掘り、幾種類もの草を食べ、腐肉を探し回り、ときには、イタチや、ルヒムーという野鼠の一種を捕まえ、むさぼり食う。自然は、少し高い土地の斜面へ、爪で深い穴を掘ることを教え、そこで、一匹ずつ寝る。ただし、雌の寝ぐらは、もっと大きく、二、三匹の子を入れるのに、十分である。

幼いころから、蛙のように泳ぎ、長く水中にいられる。そこで、よく魚を捕り、雌は、子のため、家へ持ち帰る。この機会に、一つの奇妙な冒険を話すことを、読者には、お許しいただきたい。

ある日、護衛の栗毛の小馬と、外へ出ていた。ひどく暑かったので、近くの川で、水浴びさせてほしいと頼んだ。小馬が同意すると、私は、すぐに服をすべて脱ぎ、そっと流れへ下りた。たまたま、土手の後ろに立っていた、若い雌ヤフーが、その一部始終を見て、小馬と私の推測では、欲情に駆られ、一目散に走ってきて、私が浴びている所から、五ヤード以内の水へ飛び込んだ。生まれてこのかた、これほど、ひどくおびえたことはない。小馬は、何の危険も思わず、少し離れた所で、草を食べていた。雌は、ひどく不快な仕方で、私を抱きしめた。私は、ありったけの大声で叫んだ。小馬が駆け寄ると、雌は、いかにも名残惜しそうに、抱く手を緩め、向こう岸へ跳び上がり、私が服を着る間、ずっと立って、見つめ、吠えていた。

主人と、その家族には、面白い話だったが、私には、屈辱だった。雌が、同じ種族の一頭として、私へ、自然な好意を向けた以上、私は、手足も顔立ちも、本物のヤフーであることを、もはや否定できなかったからだ。この獣の毛は、赤くもなかった。赤かったなら、少し常軌を外れた欲望の、多少の言い訳には、なったかもしれない。だが、スローの実のように黒く、顔つきも、仲間の残りほど、まったく醜悪というわけではなかった。十一歳を超えてはいなかったと思うからである。

この国に三年暮らしたので、私も、他の旅人と同じく、住民の風俗や習慣について、幾らか説明することを、読者は、期待するだろうと思う。実際、それを学ぶのは、私の主な研究だった。

この気高いフウイヌム族は、自然に、あらゆる美徳への性向を授かり、理性的な生き物にとっての悪について、概念も観念も持たない。したがって、最大の格言は、理性を磨き、その支配へ、完全に従うことである。我々のように、問題の両側について、もっともらしく議論できる所とは違い、彼らの間で、理性は、疑いの余地のある点ではなく、ただちに人を納得させる。情念や利害が混じらず、曇らず、歪められなければ、当然、そうなるはずである。意見という言葉の意味や、ある点について、議論が成り立つということを、主人へ理解させるのに、ひどく苦労したのを覚えている。理性は、確かなときにだけ、肯定か否定をするよう教え、知識の外では、どちらもできないからである。だから、誤った、あるいは疑わしい命題についての論争、言い争い、議論、独断は、フウイヌム族には、知られていない害悪なのだ。同じように、我々の自然哲学の、さまざまな体系を説明すると、主人は笑い、「理性を持つと言い張る生き物が、他人の推測を知っていることを、誇りにするとは。しかも、確かな知識であったところで、何の役にも立たない事柄についてなのだ」と言った。この点では、プラトンの伝える、ソクラテスの考えと、完全に一致していた。これを述べるのは、この哲学者の王者へ、私のできる、最も高い敬意を表すためである。そのような教えが、ヨーロッパの図書館を、どれほど破壊し、学界の、どれほど多くの名声への道を閉ざすかと、その後、何度も考えた。

友情と慈愛が、フウイヌム族の、二つの主な美徳である。特定の相手に限られず、種族全体へ、普遍的に及ぶ。最も遠い所から来た、見知らぬ者も、いちばん近い隣人と、等しく扱われ、どこへ行っても、自分の家にいると思う。品位と礼節は、この上なく守るが、儀礼というものは、まったく知らない。雄や雌の子馬へ、溺愛は向けず、教育に気を配るのも、完全に理性の命令による。主人が、自分の子へと、隣人の子へと、同じ愛情を示すのを、私は見た。自然は、種族全体を愛するよう教え、美徳が、より優れているときにだけ、理性が、個々の者を区別させるのだと、彼らは言い張る。

既婚の雌フウイヌムは、雌雄一頭ずつの子を産むと、もう夫とは交わらない。ただし、何かの事故で子を一頭失う場合は別で、それも、めったにないが、そうなれば、再び交わる。妻が、もう産めない者へ、同じ事故が起きた場合には、別の夫婦が、自分の子馬の一頭を与え、母が妊娠するまで、その夫婦が、また交わる。この用心は、国が頭数に圧迫されすぎぬために、必要なのである。しかし、召使いになるよう育てられる、下等なフウイヌムの種族には、この点の制限は、それほど厳しくない。高貴な家の召使いとするため、雌雄三頭ずつを産むことが、許される。

結婚に当たっては、子孫に、好ましくない混色を生まぬよう、毛色の選択へ、きわめて注意する。雄では、主に強さ、雌では美しさが、重んじられる。愛のためではなく、種族を退化から守るためである。雌が、とくに力で優れている場合には、美しさを考慮して、配偶者を選ぶからだ。

求婚、恋愛、贈り物、妻の寡婦財産、婚姻時の財産の取り決めは、考えの中に存在せず、それを表す言葉も、言語の中にない。若い二頭が会い、結ばれるのは、ただ、両親や友人が決めたからである。毎日、見慣れていることで、理性的な生き物の、必要な行動の一つと考えている。しかし、婚姻への背信や、その他の不貞は、聞かれたことがない。夫婦は、出会う、同じ種族の他の者すべてへ向けるのと、同じ友情と、互いへの慈愛によって、嫉妬、溺愛、口論、不満もなく、生涯を送る。

雌雄の若者の教育法は、見事であり、大いに、我々が倣うに値する。十八歳までは、特定の日を除き、一粒の燕麦も、味わうことを許されず、乳も、ごくまれにしか飲めない。夏は、朝に二時間、夕方にも同じ時間、草を食べる。両親も、同じことを守る。しかし、召使いには、その半分の時間しか許されない。草の大半は、家へ運ばれ、仕事を離れるのに、最も都合のよい時間に、食べるのである。

節制、勤勉、運動、清潔は、雌雄の若者へ、等しく課される教えである。家事の幾つかの項目を除き、雌へ、雄とは違う教育を与える、我々のやり方を、主人は、奇怪だと考えた。主人が正しく指摘したとおり、そのため、国民の半分は、子を世へ送り出す以外、何の役にも立たなくなる。そんな無用の動物へ、子供の世話を任せるのは、いっそう大きな獣性の実例だと、主人は言った。

だが、フウイヌム族は、険しい丘を上り下りし、硬い石地を越える競走をさせ、若者に、力、速さ、頑健さを身につけさせる。そして、全身が汗になると、頭まですっかり、池か川へ飛び込むよう命じる。年に四度、一定の地区の若者が集まり、走り、跳躍、そのほかの、力と敏捷さの技に、どれほど熟達したかを示す。勝者は、雄でも雌でも、それをたたえる歌で報われる。この祭りには、召使いたちが、干し草、燕麦、乳を積んだヤフーの群れを、野原へ追ってきて、フウイヌム族の食事に供する。そのあと、この獣どもは、集まりを不快にせぬよう、すぐに追い返される。

四年ごとの春分には、全国の代表者の評議会が、私たちの家から、二十マイルほどの平原に集まり、五、六日ほど続く。各地区の状況を調べ、干し草や燕麦、牛やヤフーが、豊富か、不足しているかを確かめる。どこかで不足があれば――それも、めったにないが――全員の同意と拠出によって、ただちに補う。また、ここで、子供の調整も決める。例えば、あるフウイヌムに雄が二頭いれば、その一頭を、雌が二頭いる別のフウイヌムの子の一頭と交換する。何かの事故で子が失われ、母は、もう産めない場合には、その不足を埋めるため、地区のどの家が、もう一頭産むかを、決定する。

第九章

フウイヌム族の総会での大討議と、その決着。フウイヌム族の学問。建築。埋葬の仕方。言語の欠点。

滞在中、私が去る三か月ほど前に、この大きな集会の一つが開かれ、主人は、地区の代表として出席した。ここでは、以前からの論議、実際、この国で起きた、唯一の論議が、再び取り上げられた。主人は、帰ると、その内容を、たいへん詳しく教えてくださった。

論じる問題は、「ヤフーを地上から根絶すべきか」というものだった。賛成する議員の一頭は、強く、重みのある論拠を、幾つも挙げた。「ヤフーは、自然が生んだ、最も不潔で、不快で、不格好な動物であるだけでなく、最も強情で、教えにくく、悪事を好み、悪意に満ちている。絶えず見張らなければ、フウイヌム族の牛の乳首を、こっそり吸い、猫を殺して食い、燕麦や草を踏み荒らし、ほかにも、千もの無法を働く」と主張した。また、広く伝わる言い伝えにも触れた。「ヤフーは、初めから、この国にいたわけではない。幾時代も前、二匹の獣が、ある山に、一緒に現れた。腐った泥や粘土へ、太陽の熱が働いて生まれたのか、海の泥や泡から生まれたのかは、知られていない。このヤフーが交わり、その子孫は、短い間に、国全体へ、はびこり、害をなすほど増えた。フウイヌム族は、この害を除こうと、総出で狩りをし、ついに群れ全体を囲い込んだ。大人を殺し、それぞれのフウイヌムが、若い二匹を寝ぐらに飼い、生まれつき、これほど野蛮な動物に可能な限り、馴らして、荷を引かせ、運ばせるのに使った。この言い伝えには、かなり真実があるらしい。そもそも、この生き物は、インニアムシー、すなわち、この土地の生え抜きではありえない。フウイヌム族も、ほかのすべての動物も、激しく憎んでいるからだ。悪い性質からすれば、十分それに値するが、初めからの住民なら、これほどには、決してならなかったろう。そうでなければ、とっくに根絶されていたはずだ。住民は、思いつきで、ヤフーの働きを使うようになり、たいへん不用意にも、驢馬を繁殖させるのを怠った。驢馬は、姿もよく、飼いやすく、もっと従順で、規律を守り、不快な臭いもなく、体の敏捷さでは劣るが、仕事には、十分強い。鳴き声が、心地よくないにしても、ヤフーの恐ろしい吠え声よりは、はるかにましである」。

ほかの幾頭かも、同じ趣旨の意見を述べると、主人は、実のところ、私からヒントを借りた、ある方便を、集会へ提案した。「先ほど発言した、名誉ある議員の言い伝えに賛成する。初めて、この国に現れたという二匹のヤフーは、海を越えて流されてきたのだと、確言する。上陸したあと、仲間に見捨てられて山へ入り、しだいに退化し、時がたつうち、この最初の二匹が来た国にいる、同じ種族より、はるかに野蛮になったのだ。そう言う理由は、いま、大抵の方が聞き及び、多くの方が見た、ある不思議なヤフーを、私が所有しているからである」。私のことだった。それから、初めて私を見つけた事情、体が、他の動物の皮や毛を人工的に組み合わせたもので、すべて覆われていたこと、自分の言語で話し、この国の言語も、すっかり学んだこと、ここへ来ることになった出来事を話したこと、覆いを取って見れば、どの部分も、まったくヤフーで、ただ、色が白く、毛が少なく、爪が短いだけだったことを、述べた。さらに、「自分の国や、他の国では、ヤフーが、理性的な支配者として振る舞い、フウイヌム族を隷属させている、と私を説き伏せようとした。私は、そいつに、ヤフーの、あらゆる性質を見た。ただ、多少の理性によって、少し文明化されているだけだ。その理性も、この国のヤフーが、そいつより劣るのと同じほど、フウイヌム族より劣っている。ほかの事柄とともに、そいつは、従順にするため、フウイヌムを若いうちに去勢する、人間の国の習慣を話した。手術は簡単で安全だ。蟻から勤勉を、ツバメから建築を教わるように、獣から知恵を学ぶのは、恥ではない」と付け加えた。ツバメとは、リーハンという言葉を、私が、そう訳すのである。実際は、はるかに大きな鳥だ。「この方法を、この国の若いヤフーへ施せば、扱いやすく、使いよくするばかりか、命を奪わず、一世代で、種全体を絶やせるだろう。その間に、フウイヌム族へは、驢馬の繁殖を勧めるべきだ。驢馬は、どの点でも、より価値のある獣であり、しかも、ヤフーが十二歳まで役に立たないのに、五歳から使える長所がある」。

そのとき、大評議会で起きたことについて、主人が、私に話すのがよいと考えたのは、これだけだった。しかし、私自身に関わる、一つの事情は、お隠しになった。その不幸な結果は、ほどなく感じることになり、適当な所で、読者にもおわかりになる。そのことから、以後の、人生のあらゆる不運が、始まったのである。

フウイヌム族には文字がなく、したがって、知識は、すべて口伝である。しかし、これほどよく結ばれ、生まれつき、あらゆる美徳へ傾き、完全に理性に治められ、他国との交わりも、すべて断たれた人々の間には、大した事件が、ほとんど起こらないので、歴史に当たる部分は、記憶に負担をかけず、たやすく保たれる。病気にかからず、医師の必要もないことは、すでに述べた。それでも、草で作る、優れた薬がある。鋭い石による、足の繋や蹄叉の、思いがけない打ち傷、切り傷のほか、体の、さまざまな部分の、損傷や怪我を治すためである。

太陽と月の運行から、一年を数えるが、週への細分はしない。この二つの天体の動きは、十分に知り、食の性質も理解している。それが、天文学の進歩の限りである。

詩については、ほかのあらゆる死すべき者をしのぐと、認めねばならない。直喩の適切さと、描写の細やかさ、正確さは、まことに、まねのできないものである。詩は、その二つに、たいそう富み、普通、友情と慈愛についての高い観念か、競走や、その他の身体の訓練で勝った者の賛美を、内容とする。建物は、きわめて粗末で単純だが、不便ではなく、寒さや暑さの、あらゆる害を防ぐよう、うまく工夫されている。ある種の木があり、四十年たつと、根が緩み、最初の嵐で倒れる。たいそう真っすぐ育つ木で、鋭い石で、杭のように先を尖らせ――フウイヌム族は、鉄の使い道を知らない――十インチほど間をあけ、地面へ立てて刺し、その間へ、燕麦の藁、ときには小枝を編み込む。屋根も、扉も、同じ仕方で作る。

フウイヌム族は、前足の繋と蹄の間の、くぼんだ部分を、我々の手のように使う。初めは想像できなかったほど、器用である。家にいる白い牝馬が、その関節で、私の貸した針へ、糸を通すのを見たことがある。牛の乳を搾り、燕麦を刈り、手の要る、あらゆる仕事を、同じようにする。硬い燧石の一種があり、ほかの石へ、こすりつけて削り、楔、斧、槌の代わりになる道具を作る。この燧石の道具で、干し草も刈り、あちこちの野原に自生する燕麦も刈る。束は、ヤフーが荷車で家へ引き、召使いたちが、屋根のある小屋で踏んで、穀粒を取り出し、倉へ蓄える。粗末な土の器や、木の器も作り、土の器は、日に当てて焼く。

事故を避けられれば、老衰でしか死なず、見つけられる限り、最も目立たない所へ葬られる。友人や親族は、その別れに、喜びも悲しみも表さず、死にゆく者も、隣人を訪ねて帰宅する場合と、変わらぬほど、この世を去ることを、少しも惜しまない。一度、主人が、大事な用のため、友人と、その家族に、家へ来る約束をしたことを覚えている。当日、女主人と二頭の子は、ひどく遅れて来た。二つの言い訳をし、まず、夫については、たまたま、その朝、シュヌーンしたのだと言った。この言葉は、彼らの言語では、強い表現力があるが、英語へは訳しにくい。「初めの母のもとへ退く」という意味である。もっと早く来なかったことへの言い訳は、夫が、朝も遅くに死んだので、体を置くのに都合のよい場所について、召使いたちと、かなりの時間、相談していた、というものだった。そして、この家では、ほかの者と同じほど、楽しげに振る舞っていた。彼女も、三か月ほど後に死んだ。

普通、七十か七十五まで生き、八十に達するのは、ごくまれである。死ぬ数週間前から、しだいに衰えを感じるが、痛みはない。その間は、いつものように、気楽に、心地よく外出できなくなるので、友人が、たびたび訪ねてくる。しかし、死の日の予測は、めったに外れず、その十日ほど前になると、近隣の、最も近い所から見舞いに来た者へ、答礼の訪問をする。ヤフーの引く、具合のよい橇で運んでもらうのである。この乗り物は、この場合だけでなく、老いて長旅をするときや、事故で脚が不自由になったときにも使う。そうして、死に近いフウイヌムは、訪問を返すとき、国のどこか遠い地方へ行き、余生を送るつもりであるかのように、友人へ、厳かな別れを告げる。

述べる値打ちがあるかは、わからないが、フウイヌム族の言語には、ヤフーの醜さや悪い性質から借りたもののほか、悪いものを表す言葉がない。そこで、召使いの愚かさ、子の怠り、足を切る石、悪天候や、季節外れの天候が続くことなどを、それぞれへ、ヤフーという形容語を加えて示す。例えば、フンム・ヤフー(hhnm Yahoo)、フナホルム・ヤフー(whnaholm Yahoo)、インルムンドウィルマ・ヤフー(ynlhmndwihlma Yahoo)といった具合で、造りの悪い家は、インホルムフンムロルヌ・ヤフー(ynholmhnmrohlnw Yahoo)という。

この優れた人々の風俗と美徳なら、さらに詳しく述べるのは、たいへん楽しいのだが、近く、この主題だけを扱う、別の一巻を出すつもりなので、読者には、そちらをご覧いただきたい。ひとまず、私自身の悲しい破局の物語へ進むことにする。

第十章

フウイヌム族の間での、著者の暮らしと幸福な生活。彼らとの交わりによる、美徳の大きな進歩。彼らの会話。著者は、国を去らねばならないと、主人から知らされる。悲しみのあまり気を失うが、従う。同じ召使いの仲間に助けられ、カヌーを工夫して仕上げ、運を天に任せ、海へ出る。

私の、ささやかな暮らしは、心から満足のゆくように整っていた。主人は、家から六ヤードほど離れた所に、彼らの流儀で、部屋を作らせてくださった。壁と床には、自分で粘土を塗り、自分で工夫した、葦の敷物を張った。自生する麻を打って、寝具の袋のようなものを作り、鳥の羽を詰めた。ヤフーの毛で作った、ばね罠で捕らえた鳥で、上等な食べ物にもなった。ナイフで椅子を二脚作り、大まかで、骨の折れる部分は、栗毛の小馬が助けてくれた。服が、ぼろぼろになると、兎や、それと同じくらいの大きさの、ヌーノーと呼ぶ、美しい動物の皮で、新しく作った。その皮は、細かい綿毛に覆われている。同じ皮で、まずまずの靴下も作った。木から切り出した板を靴底にし、甲革へ合わせ、甲革がすり切れると、日に干したヤフーの皮で補った。よく、うろのある木から蜂蜜を取り、水に混ぜ、あるいは、パンと一緒に食べた。「自然は、きわめて容易に満たされる」「必要は発明の母」という二つの格言の真実を、私ほど、よく証明できる者は、いなかったろう。体には、完全な健康、心には、静けさがあった。友人の背信や心変わり、隠れた敵や、公然の敵からの害も、味わわなかった。権力者や、その寵臣の好意を得るため、賄賂、追従、売春の取り持ちをする必要は、なかった。詐欺や抑圧を防ぐ備えも、要らなかった。ここには、体を滅ぼす医師も、財産を破滅させる弁護士もいなかった。言動を見張り、報酬のため、私への告発をでっちあげる密告者もいなかった。嘲る者、あら探しする者、陰口を言う者、すり、追い剥ぎ、押し込み強盗、代訴人、売春の周旋屋、道化、賭博師、政治家、才人、癇癪持ち、長話をする者、論争家、強姦者、殺人者、盗賊、博識家もいなかった。党派や派閥の首領も、追随者もいなかった。誘惑や模範によって、悪徳を奨励する者も、地下牢も、斧も、絞首台も、鞭打ち柱も、晒し台もなかった。ごまかす店主や職人も、高慢、虚栄、気取りもなかった。伊達男、ごろつき、酔っ払い、街娼、梅毒もなかった。わめき、ふしだらで、金のかかる妻もいなかった。愚かで高慢な学者気取りもいなかった。しつこく、横暴で、喧嘩好きで、騒々しく、怒鳴り、中身がなく、うぬぼれ、悪態をつく仲間もいなかった。悪徳の功績で、塵から引き上げられる悪党も、美徳のため、塵へ投げ込まれる貴族もいなかった。貴族、ヴァイオリン弾き、裁判官、舞踊の先生もいなかった。

主人を訪ね、あるいは、食事に来る、幾頭ものフウイヌムに、お目にかかる恵みを得た。主人は、恵み深くも、部屋に控え、話を聞くことを許してくださった。主人も客たちも、よく、身を低くして、私へ質問し、答えを受け取った。主人が他を訪ねるときにも、ときには、お供する栄誉があった。問われた答えのほかには、あえて話さなかった。答えるときさえ、自分を磨く時間が、それだけ失われるので、心の中では惜しく思った。しかし、このような会話の、つつましい聞き手の立場は、この上なく楽しかった。役立つことだけが、最も少なく、意味の深い言葉で語られた。すでに述べたように、儀式めいたことは、少しもなく、最大の礼節が守られた。誰も、自分も楽しみ、仲間も楽しませるのでなければ話さず、遮り、長話、激昂、意見の相違は、なかった。人が集まったときには、短い沈黙が、会話を大いによくするという考えがある。これは、本当だとわかった。話の合間の、短い休みのうちに、新たな考えが浮かび、話を、たいそう生き生きとさせたからだ。主題は、普通、友情と慈愛、秩序と暮らしの運営、ときには、目に見える自然の働きや、古い言い伝え、美徳の範囲と限界、理性の誤らぬ規則、次の大集会で決めるべき事柄、そして、しばしば、詩の、さまざまな優れた点だった。虚栄ではなく付け加えるなら、私がいることも、よく、十分な話題になった。主人には、私と祖国の来歴を、友人へ知らせる機会となり、皆、喜んで、人類には、あまり有利でない仕方で、論じたからである。そのため、言われたことは繰り返さない。ただ、主人は、私自身より、はるかによくヤフーの本性を理解しているようで、大いに感心したことだけは、述べさせてほしい。我々の悪徳と愚行を、すべてたどり、私が一度も話さなかった、多くのものまで発見した。ただ、この国のヤフーが、わずかな理性を持てば、どんな性質を発揮しうるか、と想定するだけで、そうしたのである。そして、「そのような生き物は、何と惨めで、また、何と卑しいに違いないか」と、あまりにもっともらしく、結論した。

率直に認めよう。私の持つ、わずかな、何か値打ちのある知識は、すべて、主人から受けた教えと、主人や友人たちの話を聞くことから得た。ヨーロッパの、最も偉大で賢い集会へ、教えを垂れるより、この話を聞くほうが、私には誇らしい。住民の強さ、美しさ、速さに感服し、これほど愛すべき姿の中へ、これほどの美徳が、星のように集まっているのを見て、最高の尊敬を抱いた。実際、初めは、ヤフーや、他のあらゆる動物が抱く、生まれつきの畏れを、感じなかった。だが、想像より、ずっと早く、しだいに身につき、私を、同じ種族の残りから区別してくださる、謙譲の厚意に対する、敬愛と感謝が混じった。

家族、友人、同国人、あるいは人類一般を思うと、それが、実際そうであるとおり、姿も性質もヤフーと考えた。おそらく、少し文明化され、言葉を話す賜物を備えるが、この国の兄弟たちには、自然が割り当てただけの悪徳を、磨き、増やす以外に、理性を使わないのである。湖や泉に、自分の姿が映ると、恐怖と自己嫌悪で、顔を背け、自分を見るより、普通のヤフーを見るほうが、まだ耐えられた。フウイヌム族と交わり、喜んで眺めるうち、歩き方や身振りをまねるようになり、いまでは習慣になった。友人たちは、よく、ぶっきらぼうに、「お前は馬のように速足で歩く」と言うが、私は、それを、大きな褒め言葉と受け取る。話すときも、フウイヌム族の声や話し方になりがちなことを、否定しない。そのために笑われても、少しも恥ずかしくはない。

こうした幸福のただ中、一生、すっかり落ち着いたと思っていたころ、ある朝、いつもより少し早く、主人に呼ばれた。顔つきから、何か困惑し、どう話し出すか、迷っているのがわかった。短い沈黙のあと、こう言われた。「これから言うことを、お前が、どう受け取るか、わからない。前の総会で、ヤフーの件へ話が及ぶと、代表者たちは、私が、一匹のヤフーを――お前のことだ――獣より、フウイヌムに近い扱いで、家族に置いていることを、不快に思った。お前との交わりから、益や喜びを得られるかのように、よく話していると、知られていたからだ。そのような慣行は、理性にも自然にも合わず、これまで、聞いたこともないという。したがって、総会は、同じ種族の残りのように働かせるか、来た所へ泳いで帰るよう命じるか、どちらかにせよと、勧告した。だが、最初の方法は、我が家や、自分の家で、お前を見たことのあるフウイヌムが、全員、きっぱり退けた。この動物の、生まれつきの邪悪さに、多少の理性が加わっているため、元来、貪り食う性質で、労働を嫌うヤフーを、国の森林や山地へ誘い込み、夜、群れで連れ出して、フウイヌム族の家畜を滅ぼすかもしれないと、恐れたのである」。

主人は続けた。「近隣のフウイヌムたちから、総会の勧告を実行するよう、毎日迫られ、これ以上、長く延ばすことはできない。お前には、他国まで泳ぐのは、不可能だろう。だから、以前、私に説明したものに似た、海の上で運んでくれる、何かの乗り物を工夫してほしい。その仕事には、私や隣人の召使いが、手を貸すだろう」。最後に、「私自身は、お前が生きている限り、お前を使い続けてもよかった。劣る本性にできる限り、フウイヌム族をまねようと努め、悪い習慣や性向を、幾つか直したと見ているからだ」と言われた。

ここで、読者へ述べておかねばならない。この国では、総会の決定を、フンロアインという言葉で表す。できるだけ近く訳せば、勧告という意味である。理性的な生き物が、助言か勧告だけでなく、強制されることなど、どうしてありうるか、彼らには考えられないからだ。理性的な生き物を名乗る権利を捨てずに、理性へ背ける者は、誰もいないのである。

主人の話で、この上ない悲しみと絶望に打たれ、苦しみに耐えられず、その足もとで気を失った。正気に戻ると、主人は、「死んだと思った」と言った。この人々には、そのような、生まれつきの弱さがないからである。私は、弱い声で答えた。「死は、あまりに大きな幸福だったでしょう。総会の勧告も、御友人たちの催促も、責めることはできません。けれども、私の弱く、腐った判断では、もう少し厳しくない扱いも、理性にかなうかもしれないと思います。一リーグも泳げない私に対し、最も近い陸地でも、百リーグ以上、離れているかもしれません。私を運び出す小さな舟に必要な材料も、この国には、多くが、まったくありません。それでも、ご主人への服従と感謝のため、試みます。不可能だと考えておりますから、すでに、滅びへ捧げられた身と思っています。だが、不自然な死が確実に待つことなど、苦しみの中では、最も小さいものです。何かの不思議な冒険で、命だけは助かったとしても、美徳の道へ導き、そこへとどめる模範がなく、ヤフーの間で日を送り、昔の腐敗へ戻ることなど、どうして平静に考えられましょう。賢いフウイヌム族の、すべての決定が、どれほど堅い理由に基づき、私のような惨めなヤフーの議論では、揺らがぬものか、よく承知しております」。そして、舟を作るのに、召使いの手助けを申し出てくださったことへ、うやうやしく感謝し、これほど難しい仕事に、適当な時間を願ってから、哀れな命を保つよう努める、と申し上げた。もし、いつかイングランドへ帰れたなら、名高いフウイヌム族をたたえ、その美徳を、人類が倣う模範として示すことで、自分の種族へ役立てる望みも、ないわけではない、とも申し上げた。

主人は、短い言葉で、たいそう恵み深く答え、舟を仕上げるため、二か月を許し、同じ召使いの仲間である栗毛の小馬へ、私の指示に従うよう命じた。いま、これほど離れているのだから、あえて仲間と呼んでも、よいだろう。「小馬の助けで、十分ですし、私に優しい気持ちを持っているのも、わかっています」と、主人へ告げたからである。

小馬と一緒に、まず、反乱した乗組員が、私を上陸させるよう命じた、海岸の一角へ行った。高い所へ登り、海のあらゆる方角を見回すと、北東のほうに、小さな島が見えるように思った。携帯の望遠鏡を取り出すと、はっきり見分けられ、私の計算では、五リーグ以上離れていた。だが、栗毛の小馬には、青い雲にしか見えなかった。自国以外の土地を考えられず、海へ、これほど慣れ親しんでいる我々ほど、海上の遠いものを見分けるのに、熟達してはいなかったからだ。

島を見つけると、もう、それ以上は考えず、できれば、そこを最初の追放の地にしようと決め、あとの成り行きは、運命に任せた。

家へ戻り、栗毛の小馬と相談して、少し離れた雑木林へ行った。私はナイフ、小馬は、この国の流儀で、木の柄へ巧みに固定した、鋭い燧石を使い、杖ほどの太さの、樫の若木を幾本かと、もっと太い木も切り倒した。しかし、自分の細工の、詳しい説明で、読者を煩わせはしない。栗毛の小馬に、最も骨の折れる部分を手伝ってもらい、六週間で、インディアンのカヌーのような、ただし、はるかに大きなものを仕上げた、と言えば十分だろう。自作の麻糸で、よく縫い合わせた、ヤフーの皮で覆った。帆も、同じ動物の皮で作ったが、年を取ったものは、硬く厚すぎるので、手に入る限り、最も若いものを使った。櫂も四本用意した。兎と鳥の、煮た肉を蓄え、容器を二つ、一つは乳で、もう一つは水で満たして、携えた。

主人の家の近くの、大きな池でカヌーを試し、不具合を直した。ヤフーの脂で、隙間をすべて塞ぎ、水が漏れず、私と荷を支えられるようにした。そして、できる限り完璧になると、栗毛の小馬と、もう一頭の召使いの指揮のもと、ヤフーに、荷車で、たいそう静かに、海辺まで引かせた。

すべての用意が整い、出発の日が来ると、目から涙を流し、心は、すっかり悲しみに沈んだまま、主人と奥様と、家族全員へ別れを告げた。しかし、主人は、好奇心から、また、虚栄なく言ってよければ、おそらく、いくらかの親切心から、私がカヌーへ乗るのを見届けると決め、近所の友人も、幾頭か連れてきた。潮を一時間以上待たねばならなかったが、やがて、たいへん幸運にも、向かおうとする島へ、風が吹いているのを見て、もう一度、主人へ別れを告げた。だが、ひれ伏して蹄へ接吻しようとすると、口のほうへ、そっと持ち上げてくださる栄誉を得た。この最後の事情を述べたため、どれほど非難されたか、私は知らぬわけではない。中傷する者は、これほど高貴な方が、私ほど劣る生き物へ、これほど特別な厚遇のしるしを与えるのは、ありそうにないと、お考えになる。旅行者の中には、並外れた恩恵を受けたと、自慢しがちな者があることも、忘れてはいない。しかし、この批判者たちも、フウイヌム族の、高貴で礼儀正しい性向を、もっと知っていれば、すぐに意見を変えるだろう。

主人に同行する、残りのフウイヌムたちへも敬意を表し、それからカヌーに乗り、岸を離れた。

第十一章

著者の危険な航海。そこへ住みつくことを望み、ニューホランドへ着く。住民の一人の矢で傷つく。捕らえられ、力ずくで、ポルトガル船へ運ばれる。船長の、たいそう丁重な扱い。著者はイングランドへ帰る。

この絶望的な航海に出たのは、一七一四―一五年二月十五日、午前九時だった。風は、たいへん都合がよかったが、初めは、櫂だけを使った。しかし、すぐに疲れるだろうし、風向きも変わるかもしれないと思い、思い切って、小さな帆を揚げた。こうして、潮にも助けられ、私の見当では、時速一リーグ半ほどで進んだ。主人と友人たちは、私が、ほとんど見えなくなるまで、岸に残っていた。いつも私を愛してくれた栗毛の小馬が、「フヌイ・イラ・ニハ、マジャー・ヤフー(Hnuy illa nyha, majah Yahoo)」、すなわち、「体を大切に、優しいヤフーよ」と叫ぶのが、何度も聞こえた。

私の計画は、できれば、人の住まない小島で、自分の労働によって、生活の必需品を得られるだけの所を、見つけることだった。ヨーロッパの、最も洗練された宮廷で、宰相になるより、大きな幸福と思ったろう。それほど、ヤフーの社会へ戻り、その支配のもとで暮らすという考えが、恐ろしかった。望みどおりの孤独の中なら、少なくとも、自分の思いに浸り、自分の種族の悪徳や腐敗へ落ちる機会もなく、まねようもない、あのフウイヌム族の美徳を、喜びとともに思い返せたからである。

乗組員が私に陰謀を企て、船室へ閉じ込めたときの話を、読者は覚えているだろう。何週間も、どんな針路を取っているか知らずに過ごしたこと、長艇で岸へ置かれるとき、水夫たちが、本当か嘘か、「世界の、どこにいるか知らない」と、誓って言ったことである。それでも、聞きかじった、漠然とした言葉から、喜望峰から南へ十度ほど、すなわち、南緯四十五度ほどにいると、そのときは信じた。マダガスカルを目指す航路から、南東へ来ていると思ったのだ。これは、推測に、毛が生えた程度だったが、それでも、東へ針路を取り、ニューホランドの南西岸と、できれば、その西方にある、望むような島へ着こうと決めた。風は真西で、夕方六時までに、少なくとも十八リーグ、東へ進んだと計算した。そのとき、半リーグほど先に、ごく小さい島が見え、すぐに着いた。ただの岩で、嵐の力で、自然のアーチのできた入り江が、一つあった。カヌーを入れ、岩の一部へ登ると、東に、南から北へ延びる陸地が、はっきり見えた。夜通しカヌーで寝て、朝早く、再び航海を始め、七時間で、ニューホランドの南東端へ着いた。これによって、地図と海図は、この国を、実際より少なくとも三度、東へ置いているという、以前からの考えが確かになった。何年も前、立派な友人、ハーマン・モル氏へ、理由とともに、この考えを伝えたが、氏は、むしろ他の著者へ従うほうを選んだのである。

上陸した所には、住民は見えず、武器もなかったので、奥深く入るのは恐ろしかった。岸で貝を見つけ、生で食べた。住民に見つかるのを恐れ、火を起こす勇気はなかった。持参の食糧を節約するため、三日間、牡蠣と笠貝を食べ続けた。幸い、上等な水の小川も見つかり、大いに楽になった。

四日目、朝早く、少し遠くまで出すぎると、五百ヤードと離れていない高地に、二、三十人の住民が見えた。男も女も子供も、まったく裸で、煙からわかるとおり、火を囲んでいた。一人が私を見つけ、ほかへ知らせた。五人が、女と子供を火の所へ残し、こちらへ来た。私は、できるだけ急いで岸へ戻り、カヌーに乗って、押し出した。未開の人々は、私が退くのを見ると、追って走り、十分遠く沖へ出られぬうちに、矢を一本放った。左膝の内側へ深く刺さり、その傷痕は、墓まで持っていくことになる。毒矢かもしれないと恐れ、凪いだ日だったので、櫂を漕いで、彼らの矢の届かぬ所へ出てから、どうにか傷を吸い、できる限り手当てした。

どうすべきか、困り果てた。同じ上陸場所へ戻る勇気はなく、北へ向かったが、風は、ごく弱くても、北西からの向かい風なので、櫂で漕ぐほかなかった。安全な上陸場所を探して見回すと、北北東に帆が見え、一分ごとに、はっきりしてきた。待つべきか迷ったが、結局、ヤフーの種族への嫌悪が勝った。カヌーを回し、帆と櫂を、ともに使って南へ進み、朝に出た、同じ入り江へ入った。ヨーロッパのヤフーと生きるより、この蛮人たちの間へ、身を任せるほうを選んだのである。できるだけ岸近くへカヌーを引き寄せ、すでに述べた、上等な水の小川のそばの、石の後ろへ隠れた。

船は、入り江から半リーグ以内へ来て、真水を汲む容器を載せた長艇を出した。この場所は、よく知られていたらしい。しかし、ボートが、ほとんど岸へ来るまで、私は気づかず、ほかの隠れ場所を探すには、遅すぎた。上陸した水夫たちは、カヌーに気づき、隅々まであさって、持ち主は遠くないと、容易に推測した。十分に武装した四人が、あらゆる隙間や物陰を探し、ついに、石の後ろへ、うつぶせになっている私を見つけた。皮の上着、木底の靴、毛皮の靴下という、奇妙で無骨な服装を、しばらく驚いて見つめた。しかし、その服から、皆、裸で歩く、この土地の住民ではないと結論した。一人が、ポルトガル語で、立つように言い、誰かと尋ねた。その言葉は、よくわかったので、立ち上がり、「フウイヌム族の間から追放された、哀れなヤフーです。どうか、行かせてください」と言った。自分たちの言語で答えるのに驚き、肌の色で、ヨーロッパ人に違いないとわかったが、ヤフーやフウイヌムの意味は、わからなかった。同時に、馬のいななきに似た、奇妙な声で話すのを笑った。私は、恐怖と憎しみの間で、ずっと震えていた。また、行く許しを願い、そっとカヌーへ動いたが、彼らは私をつかみ、「どこの国の者か、どこから来たか」、ほかにも、多くのことを尋ねた。私は、「生まれはイングランドで、五年ほど前に出てきました。そのとき、あなた方の国と、我が国は平和でした。だから、敵として扱わないでほしいのです。何の害意もなく、不運な生涯の残りを過ごす、寂しい場所を求める、哀れなヤフーにすぎません」と答えた。

彼らが話し始めると、これほど不自然なものは、聞いたことも見たこともないと思った。イングランドで犬や牛が、あるいは、フウイヌムの国で、ヤフーが話すのと、同じほど、奇怪に見えたからである。善良なポルトガル人たちも、変わった服と、奇妙な話し方に、同じほど驚いたが、言葉自体は、よく理解できた。たいそう人情深く話し、「船長なら、きっと、ただでリスボンへ運び、そこから故国へ帰れるだろう。水夫二人が船へ戻り、見たことを船長へ知らせ、命令を受ける。その間、逃げないと厳かに誓わないなら、力ずくで拘束する」と言った。提案に従うのがよいと考えた。私の話を、たいそう知りたがったが、ほとんど満足させず、皆、不運で理性を損ねたのだと推測した。二時間たつと、水の容器を満載して戻ったボートが、私を船へ連れてこいとの、船長の命令を携えて帰ってきた。自由を保とうと跪いたが、すべて無駄で、水夫たちは、私を綱で縛り、ボートへ放り込み、そこから船へ、さらに船長室へ運んだ。

船長の名は、ペドロ・デ・メンデスで、たいそう礼儀正しく、寛大な人だった。自分について、少し話すよう求め、何を食べ、何を飲みたいかと尋ね、「自分と同じほど、よく扱う」と言った。親切な言葉を、あまりに多くかけたので、ヤフーから、こんな丁重な扱いを受けるのに驚いた。それでも、私は黙り、ふさぎ込んでいた。船長や部下の匂いだけで、気を失いそうだった。やっと、自分のカヌーにあるものを、何か食べたいと頼んだが、船長は、鶏と、上等な葡萄酒を用意させ、それから、たいそう清潔な船室で寝かせるよう指示した。服は脱がず、寝具の上に横になり、三十分たつと、乗組員は昼食中だろうと思い、ひそかに出た。ヤフーの間に、とどまるくらいなら、海へ飛び込み、生きるために泳ごうと、船べりまで行った。しかし、水夫の一人に阻まれ、船長へ知らされ、船室に鎖でつながれた。

昼食後、ドン・ペドロが来て、なぜ、あれほど無謀なことをしたか、知りたがった。「できる限り役に立ちたいだけだ」と請け合い、心に響くように話したので、ついには、私も身を低くして、少しの理性を持つ動物として、扱うようになった。航海のこと、部下の陰謀、置き去りにされた国、そこでの五年間の暮らしを、きわめて手短に話した。船長は、すべて、夢か幻のように受け取ったので、私は、大いに腹を立てた。ヤフーが支配する、どの国でも特有の、嘘をつく能力と、その結果、同じ種族の他の者の真実を疑う性向を、私は、すっかり忘れていたからだ。「あなたの国では、事実でないことを言うのが、習慣なのですか」と尋ねた。そして、「虚偽という言葉で、何を指すか、ほとんど忘れています。フウイヌムの国で、千年暮らしたとしても、いちばん卑しい召使いからさえ、嘘を聞くことは、決してなかったでしょう。信じてくださるかどうかは、まったく構いません。それでも、御厚意のお返しに、あなたの本性の腐敗を、大目に見て、どんな異論にも、お答えいたしましょう。そうすれば、真実は、容易に見いだせるはずです」と、請け合った。

賢明な船長は、話のどこかで、私の辻褄が合わなくならないかと、何度も試したあと、ようやく、私の正直さを、もっと好意的に考え始めた。しかし、「それほど真実へ、破れぬ愛着があると言うなら、命に関わることを、何も企てず、この航海を、私とともにする、と、名誉にかけて約束してほしい。そうでなければ、リスボンへ着くまで、囚人のままにしておく」と付け加えた。求められた約束はしたが、同時に、「ヤフーの間へ戻って暮らすくらいなら、どんな大きな苦難にも耐える」と、言い張った。

大した事故もなく、航海は過ぎた。船長への感謝から、熱心に求められると、ときには一緒に座り、人類への反感を隠そうと努めた。しばしば、表に出てしまったが、船長は、何も言わずに受け流した。だが、一日の大半は、乗組員の誰にも会わぬよう、船室へ閉じこもった。船長は、野蛮な服を脱ぐよう、幾度も頼み、自分の最上の一着を貸すと、申し出た。しかし、ヤフーの背にあったものを、身に着けるのは嫌で、どうしても受け入れなかった。清潔なシャツを二枚だけ、貸してほしいと頼んだ。着てから洗ってあれば、それほど汚されはしないと考えたのである。一日おきに替え、自分で洗った。

一七一五年十一月五日、リスボンへ着いた。上陸するとき、群衆に囲まれぬよう、船長は、自分の外套を、無理に私へ掛けた。自宅へ運び、私の熱心な頼みで、私を後ろ向きのまま、最上階の部屋へ案内した。私は、懇願した。「フウイヌム族について、お話ししたことは、誰にも知らせないでください。ほんの少しでも漏れれば、大勢が見に来るばかりでなく、異端審問所に投獄され、あるいは、火あぶりにされる危険があるでしょうから」。船長は、新しく作らせた服を受け取るよう、私を説き伏せた。しかし、仕立屋に寸法は取らせなかった。それでも、ドン・ペドロは、ほとんど同じ体格だったので、まずまず合った。そのほかの必需品も、すべて新品で揃えてくれた。使う前に、二十四時間、風に当てた。

船長には妻がおらず、召使いも三人を超えず、誰も、食事の給仕には出さなかった。行いは、すべて、たいそう親切で、人間としての理解力も、きわめて優れていたので、一緒にいることに、本当に耐えられるようになった。私の心を、それほど得たため、思い切って、裏の窓から外を見ることができた。しだいに、別の部屋へ連れられ、通りをのぞいたが、恐れて頭を引っ込めた。一週間で、戸口まで誘い出された。恐怖は、しだいに減ったが、憎しみと軽蔑は、増すようだった。ついには、船長と通りを歩く勇気も出たが、ヘンルーダ、あるいは、ときには煙草で、鼻をしっかり塞いだ。

十日たつと、家庭の事情を、いくらか知らせてあったドン・ペドロは、「故国へ帰り、自宅で妻子と暮らすべきだ」と、名誉と良心の問題として迫った。「港には、出帆間近のイングランド船があり、必要な物は、すべて用意する」と言った。その議論と、私の反論を繰り返すのは、退屈だろう。「あなたの望むような、孤独な島を見つけるのは、まったく不可能だ。だが、自宅なら、自分で采配でき、望むだけ、世を避けて暮らせるだろう」と言った。

ほかによい道はないとわかり、とうとう従った。十一月二十四日、イングランドの商船で、リスボンを発ったが、船長が誰かは、一度も尋ねなかった。ドン・ペドロは、船まで送り、二十ポンドを貸してくれた。親切に別れを告げ、去り際に抱きしめた。私は、できる限り耐えた。この最後の航海では、船長とも部下の誰とも交わらず、病気のふりをして、船室へ閉じこもった。一七一五年十二月五日、午前九時頃、ダウンズ泊地へ錨を下ろし、午後三時には、ロザーハイズの自宅へ、無事に着いた。[546]

妻と家族は、確かに死んだと思っていたため、大きな驚きと喜びで迎えた。しかし、率直に告白すれば、その姿は、憎しみ、嫌悪、軽蔑でしか、私を満たさず、彼らとの近しい縁を考えると、なおさらだった。フウイヌムの国から、不幸にも追放されて以来、ヤフーの姿に耐え、ドン・ペドロ・デ・メンデスと話すことを、自分へ強いてきたとはいえ、記憶と想像は、絶えず、あの高潔なフウイヌム族の美徳と観念で、いっぱいだったからである。そして、ヤフーの種族の一頭と交尾し、さらにほかのヤフーたちの親となったのだと考え始めると、最大の恥と、当惑と、恐怖に打たれた。

家へ入るとすぐ、妻は私を抱き、接吻した。何年も、あの忌まわしい動物に触れられるのに慣れていなかったので、一時間近く、気を失った。これを書いているいまは、最後にイングランドへ帰ってから、五年になる。初めの一年は、妻や子供が、目の前にいるのに耐えられず、匂いだけで、我慢がならなかった。同じ部屋で食べるなど、なおさら許せなかった。いまでも、私のパンに触ったり、同じ杯から飲んだりする勇気は、彼らにはない。誰かに、手を取らせることも、一度もできなかった。初めに使った金は、二頭の若い、去勢していない雄馬を買うためだった。よい厩で飼っている。馬の次には、馬丁が、最もお気に入りだ。厩で身につける匂いで、私の気力が蘇るからである。馬たちは、私を、まずまず理解し、毎日、少なくとも四時間は話す。轡も鞍も知らず、私と仲よく暮らし、互いにも、友情を結んでいる。

第十二章

著者の正直さ。本書を出す意図。真実から外れる旅行者への非難。書くことに、邪な目的はないと弁明する。ある異論への答え。植民地を作る方法。祖国への賛辞。著者の描いた国々に対する、王権の権利を正当化する。征服の難しさ。著者は読者へ、最後の別れを告げ、今後の暮らし方を示し、よい助言を与えて、結ぶ。

こうして、親切な読者よ、十六年と七か月余りにわたる、私の旅の、忠実な歴史を語った。飾ることより、真実を大切にしてきた。他の者のように、奇妙な、ありそうにない話で、驚かせることも、できたかもしれない。だが、最も単純な語り方と文体で、ありのままの事実を述べるほうを選んだ。主な目的は、楽しませることではなく、知らせることだったからである。

イングランド人や、ほかのヨーロッパ人が、めったに訪ねない遠国を旅する、我々のような者には、海陸の、不思議な動物の描写を作り上げるのは、容易である。しかし、旅人の主な目的は、人を、もっと賢く、もっとよくし、外国について伝える、よい例だけでなく、悪い例によっても、精神を向上させることでなければならない。

旅人は誰でも、航海記を出す許しを得る前に、印刷しようとするすべてが、自分の知る限り、絶対に真実であると、大法官の前で、誓わねばならない、という法律を、心から望む。そうすれば、著作を、もっと世間に受け入れさせようとする書き手が、不注意な読者へ、甚だしい虚偽を押しつけ、いつものように、世間が欺かれることも、もうなくなるだろう。若いころには、幾つもの旅行記を、たいそう喜んで読んだ。しかし、その後、地球の大半を巡り、自分の観察で、多くの作り話を否定できるようになると、この種の読書に、大きな嫌悪を覚え、人間の信じやすさが、これほど厚かましく悪用されるのを見て、少なからず憤った。したがって、私のつたない努力も、祖国に、受け入れられないものではなかろうと、知人たちが考えてくれたとき、真実を厳密に守ることを、決して外れてはならぬ格言として、自分へ課した。実際、高貴な主人や、他の名高いフウイヌムたちの、長い間、つつましい聞き手である栄誉を得て、その教えと模範を、心に保つ限り、真実から外れる誘惑など、少しもありえない。

――たとえ非情な運命が、シノンを哀れにしたとしても、
空言を弄する嘘つきにまで、仕立てはしまい。

天才も学識も、実際、よい記憶か、正確な日誌以外には、どんな才能も必要としない文章で、どれほどわずかな名声しか得られないか、よく知っている。また、旅行記の書き手は、辞書の編纂者のように、あとから来て、したがって上へ載る者たちの、重さとかさに押され、忘却へ沈むことも知っている。いまから、この本に描いた国々を訪ねる旅人が、私の誤りがあれば、それを見つけ、自分の新発見も、多く加えて、私を流行から押しのけ、代わりに立ち、私という著者がいたことを、世間に忘れさせるのも、十分ありうる。名声のために書いたなら、実際、それは、あまりに大きな屈辱だったろう。だが、ただ公の利益だけが意図だったので、完全に失望するわけにはいかない。自分を、自国の、理性を持つ支配者たる動物と考えながら、私の述べた、輝かしいフウイヌム族の美徳を読み、自分の悪徳を恥じない者が、いるだろうか。ヤフーが治める、あの遠い国々については、何も言うまい。その中で、最も腐敗が少ないのは、ブロブディンナグ人で、道徳と統治についての賢い格言に従えば、我々も幸福になれるだろう。しかし、さらに論じるのは控え、むしろ、分別ある読者自身の考察と応用へ、任せたい。

この著作は、どうあっても非難する者に出会いようがないのが、少なからず、うれしい。交易でも外交でも、我々が少しも利害を持たない、これほど遠い国々で起きた、ただの事実しか述べない書き手へ、どんな異論が出せるだろう。普通の旅行記の書き手が、しばしば、あまりに正当に責められる、あらゆる欠点を、慎重に避けた。そのうえ、どの党派にも、少しも関わらず、いかなる個人や集団にも、激情、偏見、悪意を抱かずに書く。人類へ知らせ、教えるという、最も高貴な目的のために書くのである。最も完成されたフウイヌム族の間で、長く交わって得た利点から、人類に対し、多少の優越を主張しても、謙遜を破ることにはならないだろう。利益も賛美も、何一つ求めずに書く。当てこすりに見えたり、最も怒りたがる者へさえ、わずかな不快を与えたりしそうな言葉は、一語も通さない。だから、自分を、完全に非の打ち所のない著者と称しても、正当だろうと思う。反駁家、考察家、観察家、省察家、摘発家、評言家といった一族も、その才能を振るう材料を、私に対しては、決して見つけられまい。

「イングランドの臣民として、帰国した最初に、国務大臣へ覚え書きを提出すべき義務があった。臣民の発見した土地は、すべて王権に属するからだ」と、ひそかに言われたことは認める。しかし、私の扱った国々の征服が、フェルディナンド・コルテスによる、裸のアメリカ人の征服ほど、容易かどうかは疑わしい。リリパット人を屈服させるのは、艦隊と軍隊の費用に、ほとんど見合わないと思う。ブロブディンナグ人へ挑むのが、賢明で安全か、頭上に空飛ぶ島を置き、イングランド軍が、あまり楽でいられるかも、疑わしい。フウイヌム族は、戦争という学問を、まったく知らず、特に、飛び道具への備えは、十分でないように見える。だが、もし私が国務大臣であっても、侵略を勧めることは、決してできない。その分別、一致団結、恐れを知らぬこと、祖国への愛が、軍事の技術の、あらゆる欠点を、十分に補うだろう。二万頭が、ヨーロッパの軍隊のただ中へ突入し、列を乱し、車を覆し、恐ろしい後ろ蹄の蹴りで、戦士の顔を、ぐちゃぐちゃに打ち潰すところを、想像してほしい。まことに、アウグストゥスへの評言、レカルキトラト・ウンディクェ・トゥトゥス(Recalcitrat undique tutus)、すなわち、「どの方角からも安全なまま、後ろ足で蹴る」に値するだろう。しかし、あの寛大な国民を征服する提案よりは、むしろ、ヨーロッパを文明化するため、十分な数の住民を派遣できる力か、意志を持ってもらいたい。名誉、正義、真実、節制、公共心、剛毅、貞節、友情、慈愛、忠実さの、最初の原則を、我々へ教えるためである。これらの美徳の名は、いまも、我々の大抵の言語に保たれ、古代だけでなく、近代の著者にも見つかる。私の乏しい読書からも、これは断言できる。

しかし、発見によって陛下の領土を広げることに、あまり乗り気でなかったのには、もう一つ理由があった。正直に言えば、そういう場合の君主の、公平な分配という正義には、多少のためらいを抱いていた。例えば、海賊の乗組員が、嵐で、どことも知れぬ所へ流され、ついに、上檣から少年が陸地を見つける。奪い、略奪しようと上陸すると、無害な人々がいて、親切にもてなす。その国に、新しい名をつけ、王のために、正式に領有を宣言する。記念に、腐った板か石を立てる。住民を二、三ダース殺し、さらに二人ほどを、見本として力ずくで連れ去り、帰国して、赦免を得る。ここで、神授の権利の資格によって得た、新たな領土が始まる。最初の機会に船が送られ、住民は、追い払われるか、殺される。君主たちは、金のありかを明かさせるために拷問され、あらゆる非人間的行為と淫欲に、自由な許可が与えられ、大地は、住民の血で煙る。そして、これほど敬虔な遠征に雇われた、この忌まわしい屠殺者の一団が、偶像を拝む、野蛮な人々を改宗させ、文明化するために送られる、近代の植民団なのである。

だが、この描写は、ブリテンの国民には、決して当てはまらないと認める。植民地を建設する知恵、配慮、正義によって、全世界の模範となれる国民である。宗教と学問の進歩への、惜しみない寄付、キリスト教を広めるための、敬虔で有能な牧師の選択、この母国から、節度ある暮らしと品行の人々を、属州へ植えつける用心、すべての植民地の行政へ、最も有能で、腐敗をまったく知らない役人を供給して、正義の実施を厳しく守ること、そして、何よりも、治める人民の幸福と、主君たる王の名誉以外には、何の目的も持たない、最も注意深く、有徳な総督を送ることで、模範となれるのである。

しかし、私の描いた国々は、植民団に征服され、奴隷にされ、殺され、追い払われることを、望んでいるようには見えず、金、銀、砂糖、煙草も、豊富ではない。したがって、我々の熱意や勇気や利益の対象には、まったくふさわしくないと、つつましく考えた。もっとも、より関係の深い方々が、別の意見を持つのがよいと考えるなら、正当に呼び出されたとき、私より前に、ヨーロッパ人は、あの国々を訪ねたことがない、と証言する用意はある。住民を信じてよいなら、という意味である。ただし、昔、フウイヌムの国の、ある山に現れたと言われ、獣の種族は、そこから下ったと考えられる、二匹のヤフーについて、争いが起きなければの話だ。私の知る限り、その二匹は、イングランド人だったかもしれない。実際、その子孫の顔立ちが、ひどく崩れてはいるが、そう疑わせるように見えた。だが、それが、権利の証明に、どれほど役立つかは、植民地法に通じた方々へ任せる。

しかし、主君の名で領有する形式などは、一度も考えに浮かばなかった。浮かんだとしても、そのときの事情からすれば、分別と自己保存の点で、もっとよい機会まで、延ばしていたかもしれない。

これで、旅人としての私に、起こりうる唯一の異論へ答えたので、ここで、すべての親切な読者へ、最後の別れを告げる。そして、レッドリフの小さな庭へ戻り、自分の思索を楽しみ、フウイヌム族の間で学んだ、美徳の優れた教えを実践し、教えられる動物だとわかる限り、家族のヤフーたちを教え、自分の姿を、たびたび鏡に映して、できれば、時とともに、人間を見ることに耐えるよう、慣らそうと思う。祖国で、フウイヌムへの残酷な扱いを嘆きながら、しかし、その身には、いつも敬意を払おう。我が高貴な主人、その家族、友人、そして、フウイヌムの種族全体のためである。我々の馬も、知性は、どう退化したにせよ、あらゆる外形で、彼らに似る栄誉を持っているからだ。

先週から、長い食卓の、いちばん遠い端に、妻を座らせ、一緒に食べることと、私のする、少しの質問へ、きわめて手短に答えることを、許し始めた。しかし、ヤフーの匂いは、まだ、たいそう不快なので、いつも、ヘンルーダ、ラベンダー、煙草の葉で、鼻を、しっかり塞いでいる。人生も晩くなってから、古い習慣を除くのは難しいが、いずれは、近所のヤフーと一緒にいても、いま抱くような、歯や爪への恐れなしに、耐えられるようになる、という望みが、まったくないわけではない。

ヤフーの種族一般との和解も、自然から授かった悪徳と愚行だけで、満足してくれるなら、それほど難しくは、ないかもしれない。弁護士、すり、大佐、愚か者、貴族、賭博師、政治家、女買い、医師、証人、偽証を買う者、代訴人、裏切り者などを見ても、少しも腹は立たない。すべて、物事の正当な成り行きどおりである。しかし、体も心も、醜さと病の塊であるものが、高慢に取りつかれているのを見ると、ただちに、私の忍耐の限りを、すべて越えてしまう。そんな動物と、そんな悪徳が、どうして一つになれるのか、私には、いつまでも理解できないだろう。理性的な生き物を飾る、あらゆる優れた点に富む、賢く、有徳なフウイヌム族の言語には、この悪徳の名がない。そもそも、ヤフーの忌まわしい性質を描く言葉のほかには、悪いものを表す語がなく、その中にも、高慢というものは、見分けられなかった。この動物が治める他国に現れる、人間の本性を、十分に理解していなかったためである。しかし、もっと経験のある私は、野生のヤフーの間に、その初歩を、はっきり観察できた。

しかし、理性の支配のもとに生きるフウイヌム族は、自分の優れた資質を、私が、脚や腕を失っていないことを誇るのと同じほどしか、誇らない。なければ、惨めになるにしても、正気の者なら、それを自慢しないはずである。この主題を、長く述べるのは、どうにかして、イングランドのヤフーとの交わりを、耐えられなくはないものにしたい、という願いからだ。したがって、ここで、この不合理な悪徳を、少しでも帯びる方々へ、お願いする。あえて、私の目の前へは来ないでいただきたい。

原注

編者注 301

[301] スタングはポールまたはパーチ、すなわち十六フィート半である。

編者注 330

[330] その後、議会制定法が成立し、ある種の背信行為は死罪とされた。

編者注 454a

[454a] ブリタニア。――W・スコット卿。

編者注 454b

[454b] ロンドン。――W・スコット卿。

編者注 455

[455] これはホークスワース博士が採用した改訂本文(一七六六年)である。初期の版(一七二六年)では、上の段落は別の形を取り、「私は彼に、仮に籤が流行している王国に住むことになったら、と話した」云々と始まる。トリブニアとラングデンの名は挙げられず、「腰掛け便器」と、それが表す意味も出てこない。

編者注 514

[514] この段落は初期の版にはない。

編者注 546

[546] 初期の版とホークスワースの版では、ここはロザーハイズとなっているが、それより前の箇所では、イングランドでのガリヴァーの家はレッドリフにあったと述べられている。

図版と出典

ラピュタの磁石による航路。1726年版に由来する別資料の図で、本文電子版にない図を補った。(本文の図版)

ラガドの学院の文章生成装置。1726年刊本、第三部図版第五(七十四頁)。デジタル画像:パーダーボルン大学図書館、CC BY4.0。(本文の図版)