文学 / ジョナサン・スウィフト会話論のための覚書Hints towards an Essay on Conversation

『会話論のための覚書』の装画。珈琲店で話す人々と耳を傾ける人。

文学 / ジョナサン・スウィフト

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原著・底本

原題
Hints towards an Essay on Conversation
著者
ジョナサン・スウィフト
底本
ヘンリー・モーリー編、Cassell & Company、1886年版。Project Gutenberg eBook 623の旧HTML。HTML内の公開日記載は2007年1月15日。
編者
ヘンリー・モーリー
原典の利用条件
パブリックドメイン(米国)
Project Gutenberg 利用条件
収録範囲
1886年モーリー編英語版所収の見出しと本文全二十三段落。

日本語訳

利用条件
CC0 1.0
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表紙

装画
日本人文
利用条件
CC0 1.0

本書のために制作した独自装画。原刊の装丁とは異なります。

追加日: 2026-10-21 / 更新日: 2026-10-21

1886年モーリー編英語版所収の見出しと本文全二十三段落。

会話論のための覚書

これほど身近な主題でありながら、これほどめったに、あるいはこれほど浅くしか論じられてこなかったものは、ほかにあまりないと私は思う。実際、しかるべく論じるのがこれほど難しく、しかも、これほど多くのことが言えそうに思われる主題も、あまり知らない。

公の生活であれ私生活であれ、幸福のために人々が追い求めるものの大半は、私たちの才知、あるいは愚かさによって、あまりに精緻なものに仕立てられ、ほとんど観念の中にしか存在しなくなった。真の友人、よい結婚、完全な政体、その他いくつかのものには、それぞれ申し分のない材料があまりにも多く必要で、それらを混ぜ合わせるにも、あまりにも繊細な手際がいる。そのため人々は、何千年もの間、その構想を完成させる望みを失ってきた。だが、会話では事情が違うし、少なくとも違ってよい。ここでは、数多くの過ちを避けさえすればよいからである。多少の難しさはあっても、それは誰にでもできるはずだ。それをしないために、会話もほかのものと同じく、ただの観念にとどまっている。したがって、会話を理解するもっとも確かな方法は、会話に付きまとう欠点や誤りを知り、そこから各人が、自分の会話を律する格言を作ることだと、私には思われる。というのも、会話に必要な才能は、たいていの人が生まれながらに備えているか、少なくとも、並外れた才や勉強なしに身につけられるものが、ほとんどだからである。自然は誰にでも、人中で光彩を放つ力までは与えなかったにせよ、感じのよい人になる力は残してくれた。両方を十分に備えていながら、半時間もあれば直せる、ごくわずかな欠点のために、我慢して付き合うことさえできない者が、百人もいるのである。

この主題について考えを書こうと思い立ったのは、ただ憤りからである。これほど役に立ち、害のない楽しみが、人生のどの時期、どの境遇にもふさわしく、これほど誰の手にも届くものでありながら、これほどないがしろにされ、誤用されているとは、と考えたからである。

そして、この論では、めったに気づかれない誤りとともに、誰の目にも明らかな誤りにも触れる必要がある。どれほど明白で、広く認められた誤りでも、大抵の人が、いつかは陥りがちなものだからである。

たとえば、しゃべりすぎる愚かさほど、広く非難されるものはない。それなのに、五人が集まったとき、そのうちの誰かが話を独占して、ほかの全員をひどく窮屈にさせ、うんざりさせなかった例を、私はほとんど思い出せない。しかし、言葉をふんだんに使う人々の中でも、まじめくさって、ゆっくり話す者にかなう者はいない。その男は、いちいち考え、用心しながら話を進め、まず前置きをし、いくつも脇道へそれ、そこに別の話を思い出させるきっかけを見つけて、この話が終わったら、それを話そうと約束する。それから、きちんと本題へ戻る。ある人の名前がすぐには思い出せず、頭を抱え、記憶力の衰えを嘆く。その間、一同はずっと待たされる。ついに男は「まあ、どうでもいい」と言って、話を続ける。おまけに、ようやく話が終わってみると、皆がすでに五十回は聞いた話だったり、せいぜい、話し手自身に起きた退屈な出来事だったりするのである。

会話によくある、もう一つの欠点は、自分のことを話したがる人々のものである。何の遠慮もなく、自分の一生の歴史を語り尽くす者もいる。自分の病歴を、さまざまな症状や事情とともに語り、宮廷で、議会で、恋愛で、裁判で受けた苦労や不当な仕打ちを、一つ残らず並べ立てる。また、もっと器用な者は、巧みに機会をうかがい、自分を褒める話へ引っ張り込む。あの件がどうなるか、自分は前々から言い当てていたのに、誰も信じなかったではないか、と証人を呼び出す。あの男には初めから忠告し、その後に起きたとおりの成り行きを告げてやったのに、本人が自分の考えを通したのだ、と言う。自分の欠点を語るのを自慢にする者もいる。自分ほど変わった男はいない、取り繕うことができないのだ、愚かなこととは認めるし、そのせいで得られるはずの利益をずいぶん逃してきた、だが世界をまるごとくれると言われても、こればかりはどうにもならない、生まれつき、不誠実なことや窮屈なことを嫌う何かがあるのだ、といった調子で、同じくらい鼻持ちならない話題を、いくつも持ち出すのである。

誰しも、自分にとってはこれほどまでに重要な存在であり、他人にとってもそうだと思いたがる。自分の用事が他人にとって重みを持つ程度は、他人の用事が自分にとって重みを持つ程度と変わらないという、たやすく明白なことさえ、一度も考えてみない。そして、それがいかに軽いものかは、本人にも十分わかっているのである。

人々が集まったとき、二人が何かの偶然で、同じ学校か大学で育ったと気づくことがあるのを、私はしばしば見てきた。すると、ほかの者たちは沈黙を命じられたも同然になり、その二人が、自分たちや仲間のいたずらや出来事を、互いに思い出し合うのを、聞かされるのである。

私の知る陸軍のある高官は、話している人々への怒りと軽蔑を胸いっぱいに抱き、しばらくは、見下すような、いら立った沈黙を守って座っている。やがて、突然、自分の話を聞くよう求め、手短に、独断的な調子で問題を片づけると、再び自分の殻にこもる。そして、気分が巡り巡って同じところへ戻ってくるまで、もう言葉を賜ろうとはしない。

会話には、才人が誰よりも陥りやすく、しかも、才人同士が一緒にいるときに、もっとも甚だしくなる欠点がある。気の利いたことを言おうともせずに口を開けば、その言葉はすべて無駄になったと考えるのである。何かをひねり出そうと苦しみ抜き、絶えず気を張っていながら、ほとんど成果のない姿を見るのは、本人たちだけでなく、聞き手にとっても苦痛だ。面目を保ち、評判に応えるためには、何か並外れたことをしなくてはならない。さもなければ、周囲の者は期待を裏切られ、この人たちも普通の人間と変わらないと思いかねない。集まった人々を楽しませようと、わざわざ二人の才人を引き合わせたところ、二人がたいへん滑稽な姿をさらし、自分たちを笑いものにすることで、その場の笑いをすべて提供してしまった例を、私は知っている。

私の知るある才人は、指図して座を取り仕切ることを許されなければ、少しも落ち着かない。知識を得たり、楽しませてもらったりすることは期待せず、自分の才能を見せびらかすことだけを望んでいる。その目的は、人を楽しませる相手になることであって、よい会話を交わすことではない。そこで、聞くだけで満足し、自分の崇拝者だと公言する人々のもとへ、好んで通うのである。実際、私が生涯で耳にした、もっともひどい会話は、以前、いわゆる才人たちが集まっていた、ウィルズ・コーヒーハウスでのものだった。つまり、芝居を書いたことがあるか、せめてプロローグを書いたか、あるいは雑詩集に一篇寄せたことのある五、六人がやって来て、自分たちのつまらない作品で互いを楽しませるのだが、そのもったいぶった様子ときたら、それが人間のなしうる最高の仕事であるか、王国の運命がそこにかかっているかのようだった。そして、たいていは、法学院や大学から来た若い学生たちが、つつましい聴衆として付き従い、しかるべき距離を置いて、この神託に耳を傾けていた。帰るころには、自分たちの法律や哲学をひどく軽蔑し、礼法、批評、文芸という名のがらくたで、頭がいっぱいになっているのである。

こうしたことから、長年にわたって、詩人たちはみな、衒学にすっかり侵されていた。というのも、私の考えでは、この言葉は正しく使われていない。衒学とは、普通の会話の中で、自分の知識をむやみに、あるいは場違いに押しつけ、それをあまりに高く買いかぶることだからである。この定義によれば、宮廷人や軍人も、哲学者や聖職者と同じくらい、衒学の罪を犯しうる。女たちが、ペチコートや扇や陶磁器について、あまりに長々と話すときも、それは同じ悪癖である。だから、人々に、もっともよく知っている主題を話させるのは、賢明でもあり、礼儀でもあるとはいえ、賢い人は、そんなふうに得意なことを話す自由を、なかなか自分には許せない。衒学だと見られるうえに、それによって自分が何かを学ぶことはないからである。

この大きな町には、たいてい、立派な食卓で広く歓迎される、役者や物まね芸人や道化が、何人かいる。最高の身分の人々とも家族同然に親しく付き合い、集まりがあるたびに、座を楽しませるために呼びにやられる。私は、それに異議はない。そこへ行くのは、笑劇や人形芝居を見に行くようなものだ。この愉快な男が役を演じている間、こちらは、笑いたければ笑い、礼儀のためなら礼儀として、頃合いに笑えばよい。それが彼の引き受けた仕事であり、一日分の働きには報酬が出ているものと、考えればよいのである。私が異議を唱えるのは、才知と学識のある人々を招いて夕べを過ごす、内輪の選ばれた集まりにまで、この道化を入れ、一通りの芸を披露させ、その場の全員を、ほかの会話が一切できない状態にしてしまう場合である。それぞれの才能を、これほど恥ずかしい仕方で一緒くたにするという、侮辱もさることながら。

軽妙なからかいは、会話のもっとも上等な部分である。だが私たちは、手が届かないほど高価なものは、何でも偽物や混ぜ物で間に合わせるのが常であり、これについても同じことをして、すっかり、いわゆる当意即妙の応酬や、鋭い切り返しに変えてしまった。高価な流行が現れると、それに手の届かない者が、安っぽいまねごとで満足するのと同じだ。今では、会話の中で人をやり込め、恥をかかせ、笑いものにし、ときには容姿や知性の欠点をさらすのが、軽妙なからかいとされる。そうされる側は、どんな場合にも、冗談のわからない奴だと言われないよう、怒ってはならないことになっている。この技に長けた者が、弱い相手を一人選び、笑いを味方につけて、向かうところ敵なしに振る舞うのは、見事な眺めである。この言葉を借りてきた先のフランス人は、それをまったく違うものと考えているし、私たちも、父祖の時代の、もっと礼儀正しいころには、そう考えていた。軽妙なからかいとは、初めは非難や皮肉に聞こえることを言いながら、思いもよらない、はっとするような機知の転換によって、いつも最後は、相手を褒め、その人を引き立てるものだった。たしかに、会話における最良の規則の一つは、その場の誰かが、言わずにいてくれたほうがよかったと、もっともに思うようなことは、決して言わないことである。他人にも自分自身にも不満を抱いて別れることほど、人々が集まる目的に反するものも、まずあるまい。

会話には、一見まったく違いながら、同じ根から生じ、同じくらい非難すべき、二つの欠点がある。他人の話を遮りたくてたまらないことと、自分の話が遮られると不快になることである。会話の二つの主な目的は、一緒にいる人々を楽しませ、益を与えること、あるいは自分がその恩恵を受けることだ。これを考えれば、どちらの過ちにも、そう簡単には陥らないはずである。なぜなら、人中で何かを話す人は、自分のためでなく、聞き手のために話しているものと考えるべきだからだ。したがって、普通の分別があれば、聞き手が耳を傾けたがらないときに、その注意を無理に引きつけようとはしないはずだし、逆に、今話している人を遮ることもしないはずである。それは、何より無作法なやり方で、自分の判断力のほうが上だと言うことになるからだ。

礼儀がよいために、あなたの話を遮りはしないが、それとほとんど同じくらい困ったことに、あからさまに待ちきれない様子を示し、話が終わるのをじっとうかがっている人がいる。自分の頭に何かを思いつき、早く吐き出したくてたまらないからである。その間、その人は、今交わされている話に注意を払うどころか、せっかくため込んだものを忘れまいとして、心をすっかりそこへ向けている。こうして、自分の発想を狭く閉じ込めてしまう。本来なら、同じくらいよい事柄を百も自由に巡り、それらを、はるかに自然に持ち出すことができるかもしれないのに。

ある種の無作法ななれなれしさを、親しい者同士で行ううちに、普通の会話にまで持ち込み、無邪気な気安さや、おかしみとして通そうとする人々がいる。これは、わが北国の風土では危険な試みである。わずかばかりある礼節も洗練も、まったく人為的に身につけたもので、たちまち野蛮に逆戻りしがちだからである。ローマ人の間では、これは奴隷のからかいであり、プラウトゥスには、その例がたくさんある。わが国には、クロムウェルが持ち込んだものらしい。彼は人民のくずを取り立て、これを宮廷の娯楽にしたという。私は、その具体的な話を、いくつも聞いたことがある。万事がひっくり返っていたことを考えれば、それも筋が通り、賢明なことだった。もっともそれは、紳士同士で、ほんの一言、言い損なっただけでも決闘になったという、反対の極端な名誉観を笑いものにするために考え出された、政治的な手段でもあったのである。

物語を語るのが抜群にうまく、話の種も豊富で、どんな集まりでも、機会に応じて取り出せる人がいる。わが国の会話が今どれほど低調かを考えれば、それは、まったく軽蔑してよい才能でもない。しかし、それには避けられない二つの欠点がある。何度も同じ話をすることと、じきに話の種が尽きることである。だから、この才能を自慢にする者には、よい記憶力が必要であり、手持ちの乏しさを見抜かれないよう、しばしば相手を替えなくてはならない。というのも、こうした才のある者には、めったにほかの収入がなく、元手を食いつぶして暮らしているからである。

公の場での大演説家は、その能力が生まれつきのものであれ、練習と度重なる挑戦で得たものであれ、私的な会話では、めったに感じのよい相手ではない。逆説めくかもしれないが、生まれつきの弁舌の才は、たいてい、発想と言葉の乏しさから生じる。どんな主題についても、一そろいの考えと、それを表す一そろいの言い回ししか持たない者は、それらがいつも表面に浮かんでいて、どんな機会にも、すぐに出てくるからだ。だから、学識が豊かで、言語の広がりを知っている人々は、十分な練習で慣れ、自信をつけるまでは、たいてい、とっさに話すのが、もっとも下手である。題材の豊富さ、考えと言葉の多様さに戸惑い、すぐには選べず、選べるものが多すぎて、混乱し、もつれてしまうからである。私的な会話では、それは不利にならない。反対に、長広舌を振るう才能こそ、ほかの何よりも我慢のならないものなのである。

才人だという評判ほど、人を会話に不向きにしてきたものはない。その評判を保つために、彼らは必ず、みずから進んで仕える、大勢の追随者や崇拝者を育てる。そうした奉仕では、互いの虚栄を満たすことで、両方が得をするのである。このため、前者には優越した態度が染みつき、後者はあまりにしたり顔になり、どちらも、まともには付き合えない。ここでは、議論や反駁をしたがる癖、嘘をつくこと、あるいは「思考のさまよい」と呼ばれる病気に悩み、会話で何が話されているのか、心が一度もそこにない者については、何も言うまい。そうしたものの、どれか一つにでも取りつかれている者は、ベドラムの狂人と同じくらい、会話に不向きだからである。

私が気づいたり、思い出したりした、会話の誤りは、これで大半を扱ったと思う。ただし、純粋に個人的なものや、わざわざ非難する必要もないほど露骨なもの、たとえば卑猥な話や、神を汚す話は除く。私が扱おうとするのは、会話一般の誤りだけであって、個々の話題ではない。それでは際限がないからだ。このように、人間と獣を分ける大きな違いとされる能力の誤用によって、人間性がいかにひどく貶められるかが、わかる。また、人生でもっとも大きく、もっとも長続きし、もっとも害がなく、しかも有益な楽しみとなりうるものから、私たちがいかにわずかな利益しか得ていないかも、わかる。それを欠くために、身なりや訪問といった貧弱な娯楽か、もっと有害な、賭け事、飲酒、ふしだらな恋愛で間に合わせざるをえない。そして、そのために、男女を問わず、貴族も郷紳も、心身ともにすっかり堕落し、愛、名誉、友情、寛大さの観念を、まったく失ってしまった。そうしたものは、しばらく前から、気取ったたわごとと呼ばれ、笑って追い払われているのである。

このような会話の堕落と、それが私たちの気質や性向に及ぼす有害な結果には、いくつかの原因があるが、その一つは、近年生じた、賭け事や踊りの集まり、あるいは恋愛の追求を除けば、女を私たちの交際から締め出す習慣である。イングランドでもっとも礼節が栄えた時期は、チャールズ一世の治世の、平和だったころだと私は考える。フランスでも同じ時期である。当時の記録や、その宮廷で暮らしていた人々から、以前聞いた話によれば、そのころ、会話を高め、育てるために用いられた方法は、私たちのものとは、まるで違っていた。同時代の詩人たちにたたえられている、何人かの婦人は、自宅で集まりを開いていた。そこには、男女を問わず、もっとも理解力のすぐれた人々が集まり、その場で持ち出される、どんな愉快な主題についてでも語り合い、夕べを過ごしたのである。私たちは、彼らが恋愛や友情について抱き、あるいは演じていた、高尚なプラトン風の観念を笑いがちだが、その洗練は理性に根ざしていたと私は思う。そして、ほんの少しのロマンスは、人間性の尊厳を守り、高めるための、悪くない材料である。それがなければ、人間性は、卑しく、悪く、低いものへと、いくらでも堕ちやすい。婦人と会話することに、ほかに何の効用もないとしても、わが北国の粗野な気質が、つい陥りがちな、みだらで下品な、不快な話題を抑えるだけで、十分なのである。だから、公園や芝居小屋で、仮面をつけた女を楽しませるのが、あれほど巧みな、町の陽気な紳士たちが、貞淑で名誉ある婦人たちの前では、黙り込み、うろたえ、勝手が違ってしまうのは、注目すべきことである。

何の重要さもなく、毎日どこにでも起きる、ごく普通の出来事から少しも外れない事実を語るだけで、自分の役目を十分に果たし、一座を楽しませていると思う人々がいる。私は、このことを、ほかのどの国民よりも、スコットランド人の間で多く見かけた。彼らは、時や場所の、どんな細かな事情も省かないよう、たいへん気をつける。そうした話は、その国特有の、奇妙な語や言い回し、なまりや身振りに、多少救われなければ、ほとんど耐えられないだろう。人中でたくさん話すことは、欠点ではない。だが、長く話し続けることは、確かに欠点である。集まった人々の大半が、生まれつき無口であったり、用心深かったりする場合、新しい話題を持ち出せる誰かが、たびたび会話を立て直さなければ、話は途切れがちになる。ただし、その話題にいつまでも居座らず、答えや応酬の余地を残しておくことが条件である。