哲学 / Erasmus愚神礼讃In Praise of Folly

『愚神礼讃』の標題紙

哲学 / Erasmus

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原著・底本

原題
In Praise of Folly
著者
Erasmus
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収録範囲
この日本語訳は、リーヴズ&ターナー刊の一八七六年ロンドン版の英訳に基づく。英訳者の名は、この版に記されていない。

日本語訳

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表紙

画像
標題紙
出典
Erasmus
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追加日: 2026-02-10 / 更新日: 2026-10-09

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口絵
口絵 エラスムス ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
標題紙
標題紙 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

愚神礼讃

エラスムス著

趣向に富む数々の挿絵を収録
構想・作画・銅版制作

ハンス・ホルバイン

肖像、

エラスムス伝、

ならびにサー・トマス・モアに宛てた書簡を付す。

ロンドン
リーヴズ&ターナー
ストランド一九六番地、W.C.
一八七六年

エラスムス伝

訳注

この伝記は一八七六年版に収録された、著者名の記されていない文章。生没年、人名の語源、修道会や地名の説明などには、古い伝承や当時の記述を含む。本文はその記述に沿って訳した。

エラスムスは、すぐれた著作、広大な学識、率直で穏健な人柄、そしてアルプスのこちら側でラテン語を復興した第一人者の一人として、まことにその名にふさわしい声望を得た。彼は一四六七年十月二十八日、ロッテルダムに生まれた。ロンドン版の『対話集』に通例収められる伝記の著者は、名を明かさぬまま、「オランダで生まれた年は定かでない」と記している。また、エルゼヴィル版の巻頭に置かれ、「エラスムス自身の筆」とされる伝記を、実際に本人が書いたのだとしても、そこには生年が明記されず、「一四六七年ごろ」とあるだけである。先に挙げたロンドン版に付く別のラテン語伝記は、生年を一四六五年とし、バーゼルの墓碑もそう記している。だが、生地ロッテルダムに立つ像の碑文こそ、最も確かなものと考えてよいだろう。そこで、ここではそれに従った。母は、オランダのゼーフェンベルヘンに住む医師の娘だった。父は彼女と知り合い、結婚を約して関係を結び、正式な婚約もしていた。父の名はヘラルトという。女の子を一人も挟まない十人兄弟の末子だったため、両親は、当時の迷信に従い、この子を教会に捧げるつもりでいた。兄たちも、その考えに賛成した。当時は教会があらゆることを支配していたので、弟が聖職者として出世すれば、自分たちの利益を図ってくれる、頼もしい後ろ盾になると期待したのである。しかし、どれほど言い聞かせても、ヘラルトを聖職に就かせることはできなかった。気の進まない話を絶えず持ち出され、もはや耐えられなくなった彼は、故郷を逃れた。身近な人々に一通の手紙を残し、去る理由を説明するとともに、もう二度と迷惑はかけないと告げた。こうして、妻となるはずの女性を身重のまま残し、一路ローマへ向かった。彼は筆の扱いにすこぶる巧みで、著名な作家の作品を写すことで、かなり裕福に暮らすことができた。まだ印刷が使われていなかったからである。しばらくは自由気ままに過ごしたが、やがて勉学に打ち込み、ギリシア語、ラテン語、ローマ法を大いに修めた。当時のローマには、学者が大勢集まっていたのである。彼がローマにいると知った家族たちは、結婚を約していた若い女性が亡くなった、と知らせてきた。悲しみに襲われた彼は聖職を受け、それからは心をもっぱら神学の研究へ向けた。やがて帰国し、だまされていたと知って深く悲しんだが、結婚を考えるには、もう遅すぎた。それ以上、彼女を妻に迎えようとはしなかった。彼女もまた、この不幸な出来事の後は、どれほど勧められても結婚しなかった。

息子は、父にちなみ、ヘラルトと名づけられた。この名はドイツ語で「愛すべき」を意味する。当時の学者は、自分の名をギリシア語風やラテン語風に改めたがったが、彼の名も、その流儀に従い、ギリシア語で同じ意味を持つエラスムスへと変えられた。九歳まではユトレヒト大聖堂の聖歌隊員を務め、その後、デーフェンテルへ送られ、ヴェストファーレン出身の名高いアレクサンデル・ヘギウスの教えを受けた。これほどすぐれた師のもとで、彼は目覚ましい進歩を遂げた。なかでも驚くべきは、その記憶力で、テレンティウスとホラティウスの作品を、すべて暗唱できたという。十三歳になるまで、母は絶えず、わが子に目を配っていた。だが、その母も、当時デーフェンテルで猛威を振るっていたペストで亡くなった。感染は日ごとに広がり、下宿先の一家まで奪ったため、彼は家へ戻らざるを得なかった。父ヘラルトは、母の死をひどく嘆いて、ふさぎ込み、ほどなく亡くなった。両親とも、亡くなったときには、四十歳をいくらも過ぎていなかった。

エラスムスには、三人の後見人が付けられた。その中心となったのは、ゴーダの学校教師ペーテル・ウィンケルだった。遺産の管理を託された人々が忠実に務めを果たしていれば、残された財産は、彼が暮らすのに十分すぎるほどあった。彼には、すでに大学へ進む力があったが、後見人たちは、それを望まなかった。彼を修道生活へ入れるつもりだったのである。そこで、彼をスヘルトーヘンボスへ移した。本人によれば、そこでフランシスコ会の修道院に暮らした三年近くは、失われた年月だった。この修道院で人文学を教えていた教師は、彼の伸びゆく才能に感心し、修道服を着て、自分たちの会に入るよう、毎日勧めた。しかし、エラスムスには、修道院に入る気があまりなかった。信仰に生きる厳しい生活が、少しでも嫌だったからではない。どうしても、修道士という身分に身を落ち着ける気になれなかったのである。それで、まだ年も若く未熟だと申し立て、もう少し、よく考える時間が欲しいと願った。その地方にもペストが広がり、本人も長らく四日熱に苦しんでいたため、再び家へ帰らざるを得なくなった。

後見人たちは、彼の周囲の人々を使い、あらゆる理屈を並べて、修道会へ入るよう説き伏せようとした。あるときは脅し、あるときはおだて、耳当たりのよい言葉を使った。後見人ウィンケルは、彼の決意を変えられないと知ると、今このときから後見を辞める、と告げた。若いエラスムスは、もう自分で身の振り方を考えられる年なのだから、その言葉どおりに受け取る、と答えた。脅しが役に立たないとわかると、ウィンケルは、もう一人の後見人である自分の兄弟を使い、穏やかなやり方なら、どこまでできるか試させた。こうして彼は、後見人たちと、その手先に、四方から囲まれた。たまたま、エラスムスは、ゴーダに近いエンマウス、またはステインにある、同じ修道会の施設を訪ねた。そこで、デーフェンテル時代の仲間コルネリウスに会った。彼自身も、まだ修道服を着てはいなかったが、立派な蔵書を利用できること、学識ある人々との会話が助けになること、世間の騒がしさや愚かさから離れられることなど、修道生活の利点を、しきりに説いていた。とうとうエラスムスも、この修道院を選ぶ気になった。入ると、彼らは大きな約束を次々に与え、正式に修道服を着せようとした。実際には、ほとんど何も期待どおりでないとわかったが、生活上の必要と、会を去ればひどい扱いを受けるという脅しに屈し、一年の試修期間を終えると、会の一員になる誓いを立てた。
その後まもなく、カンブレー司教アンリ・ド・ベルグの知遇を得た。司教は、枢機卿の地位を得られるかもしれないと期待しており、自分のために、その件を取り計らってくれる、ラテン語に精通した人物を必要としていた。このためエラスムスは、修道会の服を着たまま、司教の家に迎えられた。ところが、ローマで望みを果たせなかった司教は、彼への厚意にもむらを見せるようになった。そこでエラスムスは、パリの名高い大学で勉学を続けられるよう、送り出してほしいと願い出て、年ごとの手当を約束させた。しかし、その手当は一度も支払われなかった。彼はモンテギュ学院に入ったが、体を壊して司教のもとへ戻らざるを得ず、そこでは手厚く迎えられた。健康を取り戻すと、オランダへ旅し、そこに落ち着くつもりだったが、勧められて、再びパリへ行った。今度は生活を支える後援者がいなかったため、本人の言葉を借りれば、勉強していたというより、どうにか食いつないでいたのである。
次にイングランドを訪れると、大いに敬意をもって迎えられた。いくつかの手紙からもわかるように、彼は、生地に次いで、この国を大切にした。アンドレリヌスをイングランドへ誘う手紙では、イングランド女性の美しさをたたえ、彼女たちの無邪気で気取りのない振る舞いを、こう書いている。「紳士の家を訪ねると、女性たちに挨拶の口づけをすることが許される。帰り際にも同じことができる。」彼は、とりわけサー・トマス・モア、セント・ポール大聖堂の主席司祭コレット、グロシン、リナカー、ラティマーをはじめ、当時の著名な人々と親しく交わり、ケンブリッジで数年を過ごした。フランスへ向かう途中、持ち物をすべて奪われる災難に遭ったが、その仕返しに、イングランドを不当に悪くいうことはなかった。期待した地位を得られなかったため、今度はイタリアへ渡った。当時のイタリアは、学問の盛んなことでは、アウグストゥスの時代にも、さして劣らなかった。彼はトリノ大学で神学博士となり、ボローニャに一年ほど滞在した後、ヴェネツィアへ行き、名高いアルドゥスの印刷所から『格言集』を刊行した。それからパドヴァへ移り、最後にローマへ行った。彼の名声は、本人よりもずっと早く、そこに届いていた。この都の主だった人々すべてと友情を結び、もし、ヘンリー八世の即位に際してイングランドの友人たちから大きな約束を受け、イングランドへ戻るよう説き勧められなければ、必ずや、十分な身の立つ道を得ていたことだろう。
イングランドでは、カンタベリー大司教ウォラムに重んじられ、ケントのオールディントンの聖職禄を与えられた。しかし、エラスムスがウルジーへの取り入り方を心得なかったのか、それとも、ウォラムのお気に入りだったために枢機卿からねたまれたのかは、わからない。ウォラムとウルジーの間には、絶えず衝突があった。いずれにせよ、望みを失ったエラスムスはフランドルへ赴き、宰相シルヴァギウスの尽力で、オーストリアのカールの顧問となった。後の、ドイツ皇帝カール五世である。その後、バーゼルで数年暮らしたが、宗教改革によって、この町でミサが廃止されると、アルザスのフライブルクへ退き、七年間住んだ。長らく痛風に苦しめられた末、フライブルクを去り、バーゼルへ戻った。ここでは、ほどなく痛風は治まったが、今度は赤痢にかかり、一か月苦しんだ後、一五三六年七月二十二日、ヒエロニムス・フローベンの家で亡くなった。名高い印刷家ヨハン・フローベンの息子の家である。彼は手厚く葬られた。バーゼルの町は、今なお、この偉大な人物の記憶に、深い敬意を捧げている。

訳注

底本の Gam-bridge はケンブリッジを指すと読んだ。フライブルクの所在地と死去の日付は、底本の記載をそのまま訳している。

エラスムスは、その時代で最も機知に富み、最もすぐれた批評家だった。宗教の改革を進めると同時に、学問の改革をも進め、礼拝の簡素さだけでなく、文体の純粋さをも求めた。そのため、聖職者たちの憎しみを買った。彼らは、宗教上の迷信的で華やかな儀式に執着するのと同じくらい、言語や哲学の粗野なあり方にも執着していたのである。彼らは退屈な論著で彼を打ちのめし、みじめな説教で中傷した。そして、悪意の最後にして最も効果的な手段として、自分たちの忌まわしい文章の一部を、彼の著作に混ぜ込んだ。このことは、本人も、ルーヴァンの神学者たちに宛てた手紙で訴えている。エラスムスは、自ら属する教会の悪徳と腐敗を、遠慮なく暴いた。それでも、その教会との交わりを断つよう勧められても、決して応じなかった。教皇庁の方策からすれば、彼が、教会の行き過ぎを、あれほど自由に戒め、非難することを許されるはずはなかった。だが、そのときは事情が違った。ルターから公然と攻撃されていた教会には、友を敵に回さず、力を合わせて共通の敵に対抗するという、慎重な配慮が必要だった。そのため、別の時期なら怒りを向けたであろうことも、辛抱強く耐えたのである。これほど多くの有益な著作を、世の人々に贈った人物は、おそらく、ほかにいない。もっとも、彼の作とされたものの中には、本人が書いていないものも、いくつかある。『対話集』は、彼のどの著作よりも版を重ねた。モレリによれば、パリのある書店は、一度の印刷で二万部を売り切ったという。

エラスムスの肖像
エラスムスの肖像 エラスムス 名の末尾の文字は、図の線と重なって不鮮明。 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

エラスムスの

書簡

宛先

サー・トマス・モア

先ごろ、イタリアからイングランドへ旅をしたときのことだ。くだらない昔話を繰り返して時間を無駄にするより、かつて学んだことを振り返ったり、この国に残してきた友人たちを思い出したりするほうが、よほどよいと思った。学識の深さと、頭の働きの鮮やかさを兼ね備えた友人たちだが、なかでも真っ先に浮かんだのは、親愛なる君のことだった。こうして遠く離れている間も、君を思う喜びは、そばにいて親しく語り合ったときの喜びに、少しも劣らない。あの会話ほど、私を満ち足りた気持ちにしてくれるものはなかった。さて、何かはしようと決めたものの、その時間は、堅い仕事には向いていない。そこで、愚かさをほめたたえる文章でも書いて、気晴らしをしようと思いついた。「おや、いったいどんな虫が騒いで、そんなことを思いついたのだ」と、君はいうだろう。実をいえば、最初のきっかけは、君のモアという姓だったのだ。その響きは、愚かさを意味する言葉*に、よく似ている。ただし、君自身は、その意味するところから、まるでかけ離れている。誰もが認めるとおり、その隔たりは、実に大きい。

注

*モーリア。ギリシア語で「愚かさ」。

訳注

底本の表記は Mwpia。ギリシア語の μωρία(モーリア、愚かさ)を指す。モアの姓との音の似通いが、この献辞のしゃれになっている。

もう一つ、この種の機知の遊びを、君なら、とりわけ喜んでくれると思った。君は、こうした冗談まじりのからかいを――私が見誤っていなければ、退屈でも、的外れでもないものを――大いに楽しむ人だ。ふだんの会話でも、まさしくデモクリトスの再来だと感じさせる。じっさい君は、独特の機知によって、世間の人々と大きく異なっていながら、驚くほど親しみやすく、しなやかな性格によって、どんな相手にも調子を合わせるすべを持っている。だから、この粗削りな試みを、友からのしるしとして快く受け取るだけでなく、君自身の手で守ってくれることを願っている。君に捧げる以上、これはもう私の子というより、君の養子なのだから。
きっと、けんか好きな連中が、牙をむくことだろう。このようなたわむれは、厳粛な神学者には道化じみすぎ、穏やかなキリスト者には風刺がきつすぎる、と難じるに違いない。まるで私が古い茶番を継ぎはぎしたり、ルキアノスを再演して、何にでも気難しくかみついたりしているかのように、騒ぎ立てるだろう。だが、この題材の軽薄さや、物知り顔の遊びが気に入らない人には、考えてみてほしい。この種の作品を書くのは、私が最初ではない。すぐれた作家たちが、すでに何度も試みているのだ。はるか昔、ホメロスは蛙と鼠の戦争を、ウェルギリウスは蚊や菓子を、オウィディウスは胡桃を取り上げた。それ以上に重々しい題材ではなかった。ポリュクラテスはブシリスの残虐さをほめ、それをたしなめたイソクラテスも、グラウコスの不正を同じようにほめている。ファウォリヌスはテルシテスをたたえ、四日熱の賛辞を書いた。シュネシオスは禿頭の弁護をし、ルキアノスは汁を吸う蠅を弁護した。セネカは、クラウディウスが神になる顛末を、おかしく語った。プルタルコスはグリュロスとウリュッセスの対話を、ルキアノスとアプレイウスは驢馬の物語を書いた。ヒエロニムスが言及している、豚の遺言を書き留めた人物もいる。だから、彼らがそうしたいなら、私を最低のものと見て、ずっとピン突き遊びをしたり、棒馬にまたがったりしていたのだと思ってくれてかまわない。
だが、どんな職業や暮らしにも、それぞれの娯楽を認めておきながら、学問だけには気晴らしを許さないというのは、なんと不公平なことだろう。とりわけ、たわいないものが、もっと真剣な考えを研ぐ砥石になることもあるのだから。滑稽な題材も、扱いようによっては、常識のある読者に、大げさで荘重な議論より、はるかに多くの益を与えられる。ある者が、長々とした演説で修辞学や哲学をほめたたえ、別の者が、うんざりするような長広舌で自国を賛美する。第三の者は、トルコ人との聖戦へ熱心に誘い、また別の者は、自信たっぷりに予言者を気取る。そして第五の者は、まったくどうでもよいことを、問題として論じている。そうしたものと比べてどうだろう。真剣な題材を、締まりなく浮ついた文体で扱うほど、子どもじみたことはない。その一方、たわいない題材を、少しもたわいなく見えないように扱うほど、愉快なこともない。私自身の作品については、他人の判断に委ねるほかない。とはいえ、自分のことだからと、ひいき目が過ぎるのでなければ、私は、愚かさをたたえたからといって、その労に対する報酬に、愚か者という名をもらうほどではないと、思っている。
次に、風刺がきつすぎるという非難に答えよう。機知を働かせる者には、悪罵にまで踏み込まないかぎり、人生のどんな出来事にも、鋭い言葉を向ける自由が、昔から認められてきた。それだけに、今の世の、耳のひ弱さには驚く。相手の正式な肩書を、初めに漏れなく並べなければ、話しかけることさえ許されない。なかには、信心のあり方が、あべこべになった人までいる。救い主への、ひどい侮辱は見過ごしても、君主や教皇が、ほんの少し冗談や皮肉でちくりと刺されるのは、どうしても許せないというのだ。とりわけ、いつもの振る舞いをからかわれると、なおさらである。だが、誰か一人を名指しで鞭打つことなく、人々の過ちを責める者は、揚げ足を取っているというより、教え、諭しているのではないか。そうであるなら、私がこれ以上、弁解する必要は、どこにあるだろう。それに、批判の矛先を、誰にでも隔てなく向ける者は、一人の人間に腹を立てているのでなく、あらゆる悪徳に腹を立てている、と見えるはずだ。

だから、誰かが、自分だけを当てこすられたと訴えるなら、それは、自分の罪を、少なくとも自分の臆病さを、白状するようなものだ。聖ヒエロニムスは、同じような題材を、もっと自由に、もっと鋭く扱った。ときには、人の名を挙げることさえ、ためらわなかった。それに対し私は、誰一人、名指ししなかっただけでなく、風刺よりも気晴らしを目指したのだと、もののわかる読者にはすぐ伝わるほど、筆致を和らげている。ユウェナリスをまねるにしても、人を心から嫌悪させる代わりに笑わせようと、悪徳のどぶをかき回すほどには、していない。それでも、まだ気に入らない人がいるなら、せめて、愚かさに叱られることにも、役立つところがあるかもしれない、と考えてほしい。ここでは、愚かさ自身が語っているという趣向なのだから、登場させたその人物にふさわしい性格を、最後まで保たなければならないのである。

だが、君に向かって、こんな、いらぬ弁解を続けて、なぜ煩わせるのだろう。君ほど特別な庇護者なら、私の言い分が、必ずしも最上でなくても、少なくとも、最上の擁護をしてくれるだろう。では、元気で。

この演説の趣旨とねらいについて

今どきの舞台の風刺家たちが、
堕ちゆく世の過ちを鞭打とうと、
惜しげもなく人前にさらした、あらゆるものが、
悪意ある非難から、人々を解き放つためにさらしたものが、
ここにも、同じほど鮮やかな色で、あらわになっている。
機知は同じほど豊かで、慎みは、もっと深い。
あの詩人たちは、遠慮なく暴き立てる技で、
悪徳の醜いところまで、すっかり裸にしてしまう。
その誹謗の文章が、かえって教本となり、
告発するつもりの罪を、そのまま教えてしまう。
だが、ここでは、舌には辛くとも、すべてが心によい。
これほど生き生きと自由で、しかも、これほど潔く清らかだ。
弓を持つ愛の神のように、裸の乙女でさえ、
恋の熱に血がたぎるときに、読んだり聞いたりしてもよい。
それで顔を赤らめることがあるとしても、
年長の女性から、
貞節を守り、名誉を大切にするようにと、
教えられるときより、赤くなることはない。

風刺と賛辞は、互いに遠く隔たるものだが、
ここでは、二つが一つに結びついている。
全体が、塩と火をもって捧げる供え物なのだ。
今の世の気質は、そういうものを求めている。
感覚をこすって熱を起こし、欲する心を温めるために。
教義をぶら下げて説く説教師たちは、
囲いに入れた、話を聞かぬ羊たちを眠らせる。
阿片入りの乳で、頭は働かなくなり、
恵みに育つ幼子たちは、揺りかごに寝かされる。
その一方、高みに立つ道化たちは、猥雑で、大胆で、声も大きく、
雄鶏のように、居眠りする群衆を、すっかり目覚めさせる。
群衆は、きらりと光る耳を、まっすぐ、ぴんとそばだてる。
驚いて、髪が、帆のように立ち上がるかのように。
印刷機から生まれる、げろげろ鳴く連中も同じこと。
題材の型によって、受けのよしあしが変わる。
真面目な話は、眠りのように、休んでよいとのお墨付きを与え、
風刺と嘲笑だけが、人を喜ばせる。
まるで、大きく口を開ける生き物は、
かみつく穴熊か、忍び笑いする猿しか、いないかのようだ。

ここでは、皮肉によって、愚かさがほめられる。
その弱さが、いっそうよく見えるように、持ち上げられる。
赤や黄色で、きらびやかに着飾った愚か者が、
自分は驚くほど立派だと、思い込まされるのと同じだ。
実は、すべて、彼らの正体をさらすために仕組まれている。
ここでは、愚かさの気前のよい贈り物が、あちこちに撒かれる。
小石のように。拾うためでなく、踏みつけるために。
そのようにスパルタ人は、酔いつぶれた奴隷たちを、
少年たちの前に並べ、押させ、蹴らせ、転がらせた。
まだ酒で唇を濡らしたことのない少年たちに、
こぞって酒の味と、その秘めた力を学ばせるためではない。
人が豚に変わってしまうのを見て、驚かせるためだ。
そして、その魔法の力から逃れるため、
葡萄の悪魔を、手遅れになる前に退けさせるためだ。
この書でも、そうである。
愚かさが語り手であり、題材であっても、
舌を導くのは機知。教えようとするのは、知恵なのだ。

訳注

第四行の discharge ... from envy は、悪意ある非難からの解放という意味に取ったが、構文は明瞭ではない。悪意から放たれる非難をいう読みも考えられる。

訳注

塩は機知や辛辣さを、火は熱や刺激を重ねた、供え物のたとえと読んだ。高みに立つ道化(mounted Andrews)は、道化役 Merry Andrew を指す表現。

訳注

「光る耳」は、原文の glittering ears を残した。耳飾りなどを特定する語はなく、目を覚まして聞き耳を立てる姿が、続く、髪の逆立つたとえと並ぶ。

036
036 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

エラスムスの愚神礼讃

愚かさ自身が語る、架空の演説

世間で、わたしがどれほど軽く見られていようとも――ええ、よく存じていますとも。誰より愚かな連中までが、どれほど白々しく、愚かさをこき下ろしているか――この世界いっぱいに、喜びや楽しさが湧き立つのは、ひとえに、わたしのおかげなのです。その動かぬ証拠を、お見せしましょう。これだけ大勢の皆さまの前で、お話ししようと、わたしが姿を現したとたん、どのお顔にも、生き生きと輝く笑みが浮かびました。皆さまは、励ますようなまなざしで迎え、陽気などよめきで、わたしの背を押してくださいました。ついさっきまでは、隠者の庵から出てきたばかりのように、眠そうに、ふさぎ込んで座っていたのに、今は、元気を取り戻す神酒ネクタルを、たっぷり召し上がったようなお顔です。太陽が東の寝床から顔を出して、暗い夜の帳を引くとき、あるいは、厳しい冬の後、ものみなを蘇らせる春が、いきいきとした空気を吹き込むとき、自然はたちまち衣を替え、あらゆるものが若返ったようになりますね。それと同じく、皆さまも、わたしをひと目見ただけで、仮面を脱ぎ、生気のあるお顔になったのです。
熟練した弁論家が、雄弁の小細工を、ありったけ使っても、なかなかできないことがあります。聞き手の注意を引き、話を聞く気持ちにさせることです。それを、わたしは、ひと目、目を向けるだけで、やってのけたわけです。こんな風変わりな格好で現れた理由も、すぐにおわかりになります。ほんの少しの間、辛抱して、耳を貸してくださればよいのです。ただし、立派な説教師の話を聞くときの耳では、いけません。香具師や、道化や、おどけ者の口上を聞くときの耳でお願いします。要するに、昔、ミダスがパン神に無礼を働いた罰に、付けられた、あの耳です。
わたしは今、少しばかり、ソフィストを気取りたいのです。といっても、学童を威張りつける、つまらぬ仕事を引き受け、女顔負けの口げんかを教える、あの連中ではありません。賢者などという、けしからぬ呼び名を避けて、ソフィストという肩書を選んだ、昔の人々をまねたいのです。その人たちの仕事は、神々や英雄のすばらしさを、ほめたたえることでした。さあ、賛辞の演説を楽しむ、お心積もりを。ただし、ヘラクレスでも、ソロンでも、ほかのお偉方でもありません。ほめる相手は、このわたし、つまり、愚かさなのです。

愚かさの女神
愚かさの女神 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
訳注

ミダスのくだりは、底本が侮辱された神を Pan(パン)と記すため、その名を残した。ここでほのめかされるのは、ミダスの驢馬の耳の物語。

ここで、自分をほめるなど、気取った、うぬぼれた仕草だと難じる人がいても、わたしは気にしません。どれほど馬鹿げていると思ってくださっても、かまいませんから、必要なことだとは、認めてくださいな。そもそも、愚かさが自分の賛美をラッパで吹き鳴らし、自分の笛に合わせて踊るほど、ふさわしいことがあるでしょうか。わたしのことを、わたし以上にうまく紹介できるのは、誰ですか。わたしのありさまを、それほどよく知っていると、いえる人がいますか。

それに、はっきり申し上げて、これは、いかにも偉大で賢そうな方々が、していることと同じです。その方々は、新式の慎み深さを発揮して、三文弁論家や、へぼ詩人を雇うのです。金をつかませ、嘘とごまかしばかりの、大げさな人物評で、自分をおだてさせるわけです。すると、ほめられた当人は、孔雀のように羽を立て、大きく広げます。厚かましい太鼓持ちが、その哀れな人物を天に届くほど持ち上げ、あらゆる徳の完璧な手本だと、言い立てるのですから。実際には、どの徳からも、天が地獄から離れているほど、遠ざかっているのに。これは要するに、盗んだ羽でコクマルガラスを飾り、ムーア人の黒い肌の色を変えようとし、巨人の肩に、小人の上着を着せようとすることではありませんか。

最後に、わたしは、昔からいわれることを、実践しているだけです。ほかにほめてくれる人のいない者には、自分で自分をほめる権利がある、ということを。ほんとうに、人間の恩知らずさと呼ぶべきか、間抜けさと呼ぶべきか、驚くほかありません。誰もが、喜んで、わたしに深い敬意を捧げ、それぞれ、どれほど恩を受けているかを、あっさり認めているのです。それなのに、感謝の心や愛想のよさを見せて、わたしのために賛辞の演説をしてくれる人は、一人もいなかったのですから。汗を流し、眠る時間まで削って、念入りな演説をこしらえ、暴君や、熱病や、蠅や、禿頭や、そのほかのくだらないものを、たたえてきた人々なら、大勢いたというのに。

これから、急ごしらえの、思いつくままのお話をします。その分だけ、飾りのない、自然なお話です。即興で話すといっても、ふつうの弁論家が、いつも目当てにしている、虚栄心からではありません。よく見ていれば、すぐわかります。彼らは、三十年も腹の中で育てた演説を――おまけに、結局、自作ですらないかもしれない演説を――ようやく産み落としたときでさえ、ほんのわずかな準備時間で、大急ぎで書いたのだと、誓ってみせます。それに対し、わたしが前もって準備しないのは、いつも、頭に浮かんだことから、そのまま口にするたちだから。それだけです。
それから、ほかの弁士の流儀に、わたしが発想を縛られ、まず題材を定義し、それから分類するだろうなどと、お考えになりませんように。題材は、わたし自身です。これほど広く行き渡る性質の持ち主を、定義という狭い枠へ押し込むのも、あらゆる国の人々が心を合わせて崇めるものを、切り刻み、ばらばらにするのも、同じくらい危ない試みです。そもそも、わたしが、じかに、ここへ現れて、もっと確かに見ていただけるというのに、ぼんやりと似せた、わたしの影にすぎない定義を、わざわざ作る必要があるでしょうか。目に支障がおありでなければ、ひと目でおわかりのはずです。ギリシア語でモーリア、ラテン語でストゥルティティアと呼ばれる、あの愚かさが、わたしだと。

愚かさの女神
愚かさの女神 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

けれども、わざわざ、こんなことをいう必要があったでしょうか。わたしが何者かは、顔を見るだけで、十分にわかるはずです。もし、物を信じやすいどなたかが、わたしを賢いご婦人や、知恵の女神とお間違えになったとしても、わたしが、ちらりと目を向ければ、すぐに誤りは正されるでしょう。魂を、そのまま映すこの顔が、ほかに何かを告白する手間を、すっかり省いてくれるのですから。わたしは、いつでも、ありのままの色、飾り気のない姿で現れます。顔で一つのことを装い、心に別のことを隠すなど、決してしません。何につけても、わたしの本性は変わらないので、才人を名乗る方々でさえ、その本性を、ごまかして隠すことはできません。実際のところ、派手な服を着た猿、獅子の皮をまとって気取る驢馬にすぎないのです。どんなに巧みに取り繕っても、長い耳がのぞいて、正体を明かしてしまいます。
じつに無礼で、不誠実な方々ですね。どう見ても、わたしの仲間なのに、世間の人々の前では、わたしとのつながりを、そんなにも恥ずかしがる。そのくせ、他人に向かっては、愚かだといって、恥をかかせ、侮辱するのです。ほんとうは、とびきり愚かなのに、そこまで賢いと思われたがるなら、ふさわしい称号として、「賢い愚か者」と名づけてあげたら、いかがでしょう。
この点では、今どきの弁論家もお手本です。二枚舌を滑らかに動かし、どちらの側に立っても弁護できるというだけで、自分は雄弁の巨人だと、ふんぞり返ります。ラテン語の文の間に、ギリシア語を少し差し込めば、それを大手柄だと考えるのです。飾りに見せようとして、でたらめに詰め込んでいるだけなのに。難しい言葉に困るくらいなら、かび臭い作家の本から、古びて、今では使わない語を、長々と拾い集めて、文章に押し込みます。それで読者の目をくらますのです。意味のわかる人は、自分がその語を知っていたことを喜んで、くすぐられますし、わからない人は、知らなければ知らないほど、感心します。もっとも、わたしの側の人々には、奇妙で、見慣れないものを、何でも軽んじ、低く見る習慣があります。自分をもっと立派だと思っている方々は、うなずき、微笑み、耳をそばだてます。ひょっとすると、一語もわかっていないものを、たやすく理解していると思わせたいのです。この話は、ここまで。寄り道をお許しください。本筋に戻りましょう。

さて、皆さま、わたしの名は、お知らせしました。皆さまに、どのような敬称を添えればよいかは、わかりません。「この上なく愚かな皆さま」で、よろしければ別ですが。愚かさの女神が、その信奉者たちに呼びかけるのに、それよりふさわしい名があるでしょうか。けれども、わたしの家柄や生い立ちを知る人は、あまりいません。ここで、素性を少し、お話ししましょう。

年老いた神々
年老いた神々 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

まず、わたしの父は、カオスでも、冥界でも、サトゥルヌスでも、ユピテルでもありません。ああした、年老いて、くたびれた、祖父さんのような神々ではないのです。父は、財神プルトスです。ホメロスやヘシオドスが何といおうと、いや、ユピテル自身が何といおうと、世界の最初の父であった、まさに、その神です。いつの時代も、この父が、ちょっと合図するだけで、宗教や政治の仕組みは、次々に覆され、また建て直されてきました。その強い力によって、戦争、平和、帝国、議論、裁判、官職、結婚、同盟、契約、法律、技芸――ああ、息が切れそう――要するに、教会と国家のあらゆる事柄から、個人の用事に至るまで、それぞれが決まり、動いていくのです。この父の助けがなければ、詩人たちの描く神々の一団、いや、大胆にいえば、天上の大執事たちでさえ、消え失せるか、せいぜい、自分の家に閉じこもり、拝まれる儀式一つ、してもらえなくなるでしょう。父を敵に回せば、どんな鎧でも、その攻撃を防げません。父を味方にすれば、ユピテルと、その雷霆のすべてを相手にしても、互角に渡り合えます。
こんな父なら、わたしが自慢しても、よいでしょう。父は、ユピテルが、あの婆さんパラスを生んだときのように、頭から、わたしを生んだのではありません。美しさに劣らぬ機知で名高い、愛らしく若いニンフとの間に、わたしをもうけたのです。それも、退屈で、うんざりするような婚姻の抱擁の中で、ではありません。もっと楽しみを増すやり方で。控えめにいえば、人目を忍んだ逢瀬によって、というわけです。
ただし、お間違いのないように。わたしの父は、アリストファネスの描く、あの、年老いて、干からび、しなびて、活力もなく、目も見えないプルトスではありません。同じ神でも、もっと若く、元気だったころの姿です。しかも、そのときは、血管に力が満ち、若さの熱が、神酒ネクタルによって、ひときわ燃え上がっていました。ちょうど、その前に、神々の陽気な集まりで、欲情を刺激しようと、たっぷり飲んできたところだったのです。
さて、生まれた場所も、お知りになりたいでしょうね。今では、どこで生まれたかが、上品な家柄を示す、大事な条件とされますから。わたしが生まれたのは、漂うデロス島でも、泡立つ海でもありません。慎みの足りなかった母親たちが、こっそり子を産むために隠れる、秘密の場所でもありません。幸福の島々で生まれたのです。そこでは、畑仕事の苦労なしに、何もかもが育ちます。つらい労働も、病も、老いもありません。野に生えるのは、水仙や、アオイや、タマネギや、エンドウや、豆や、そんな、つまらないものではありません。ヘンルーダ、オールヒール、ビューグロス、マージョラム、命の草、バラ、スミレ、ヒヤシンス。そのほか、アドニスの園に香りを満たすような草花が、目と鼻を、等しく楽しませてくれるのです。
こんな楽しみの中で生まれたわたしは、ほかの赤ん坊のように、泣いて、この世に出てきたのではありません。いきなり顔を上げて、母に向かって笑いかけたのです。ですから、山羊を乳母に持つユピテルを、うらやむ理由などありません。わたしには、それより立派な、陽気な二人のニンフが乳を飲ませてくれたのですから。一人目の名は、バッコスの娘「酩酊」。もう一人は、パンの娘「無知」です。ほら、二人とも、ほかの従者や供の者たちに交じって、ここにいます。その名もお知りになりたいなら、手短に、ご紹介しましょう。
あの、気取って、こまこまと歩き、顎を高く上げているのが「自己愛」。あちらの、しゃれた身なりで、騒々しく立ち回っているのが「追従」です。半分眠っているように、ぼんやり座っているのが「忘却」。肘をつき、ときどき、あくびをしながら腕を伸ばすのが「怠惰」。編んだ花輪をまとい、よい香りを漂わせている、こちらが「快楽」です。肌がすべすべで、甘やかされた体を、ふっくらとさせているのが「享楽」。目を大きく見開き、きょろきょろと動かしているのが「狂気」です。娘たちに交じって遊んでいる、あの二人の男の神は、一人が「放縦」、もう一人が「熟睡」。この取り巻きたちの助けを借り、働かせることで、わたしは、あらゆるものを自分の支配下に置き、最も偉大な王や権力者たちの上にも、君臨しているのです。

愚かさの女神の先祖
愚かさの女神の先祖 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
愚かさの女神の先祖
愚かさの女神の先祖 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
愚かさの女神の先祖
愚かさの女神の先祖 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
愚かさの女神の先祖
愚かさの女神の先祖 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
訳注

プルトスは富の神。ユピテルはギリシア神話のゼウスに相当し、パラスはアテナの呼び名。本文は、神々の系譜を、愚かさの女神がからかいながら語る場面。

訳注

植物名のうち all-heal、bugloss、herb of life は、古い俗称が指す種類を一つに確定せず、それぞれオールヒール、ビューグロス、命の草と訳した。

これで、わたしの血筋、育ち、それにお供の顔ぶれは、おわかりいただけたでしょう。女神を名乗るとは身の程知らずだ、などと言われないよう、今度は、わたしがいたるところで、どんなありがたい恵みを与えているか、わたしの支配が、どれほど広く及んでいるかを、お話ししましょう。ある人が率直に言ったように、神であるとは、人類に恩恵を施す者であるということに、ほかならないのです。ぶどう酒や穀物の利用法を考え出し、あるいは、人間が心地よく暮らすための便利なものを発明した人々が、神として祭られるのは当然だとされるのでしょう。それなら、あらゆることで、あらゆる人に、並ぶもののない気前のよさと慈しみを示すわたしが、神々の一団の先頭に立って、いけないわけがありますか。

060
060 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
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063 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
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064 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

たとえば、まず、命そのものよりも大切で、かけがえのないものが、あるでしょうか。ところが、その命を授けてもらったお礼は、わたし一人にすればよいのです。人間を生み、増やすのは、すっかり成長した姿で生まれたパラスの槍でも、雲を集めるユピテルの盾でもありません。不機嫌そうにうなずくだけで、天そのものを震え上がらせる、あの宇宙の大いなる父。そのお方でさえ、どうにもやめられない、あのこと、つまり子をもうけることをしようと思えば、威厳を示す恐ろしい道具を脇へ置き、ほかの神々を震え上がらせる厳めしい顔つきをやめ、役者のように、いつもの役柄を脱ぎ捨てなければならないのです。
神々に次ぐ地位は自分たちのものだと、ストア派の人々は言い張ります。では、気難しさの限りを尽くした、とびきりのストア派の人を、一人連れていらっしゃい。その人のひげ、あの知恵の茂みを、そり落とさせることまでは、できないかもしれません。もっとも、あの飾りなら、自然は山羊に、もっとたっぷり与えていますけれど。それでも、少なくとも、しかつめらしい態度を捨て、眉間のしわを伸ばし、厳格な主義を引っ込めさせることはできます。どれほど先入観があろうとも、戯れ、いちゃつくうちには、胸も高鳴るようになるのです。要するに、この知恵の独裁者も、父親になるという栄誉にあずかりたいのなら、喜んで「愚かさ」を楽しみの相手にするほかありません。
ここまで来て、お話を最後までしない理由が、あるでしょうか。続けましょう。子を生むための道具になるのは、頭ですか、顔ですか、胸ですか、手ですか、耳ですか。それとも、ほかの見栄えのよい部分でしょうか。いいえ、違います。体の中でも、あまりに奇妙で不格好なため、口にするだけで、つい笑ってしまう、あの部分なのです。その部分こそ、命の泉です。万物がそこから生じるというのは、万物の種を宿す元素から生じるというより、よほど確かな話なのです。
そのうえ、賢い人がするように、結婚生活の厄介事を前もって十分に考えていたら、結婚という絞め縄に、自分から首を突っ込むほど愚かな男が、いるでしょうか。女のほうも、お産の苦しみや、乳を飲ませて育てる苦労を、あらかじめ見通していたら、腕を広げて夫の抱擁を迎えるでしょうか。皆さまが生まれたのは、婚礼の寝床のおかげです。そして、その前提となる結婚式が挙げられたのは、わたしの侍女「狂気」のおかげ。ならば、わたしにどれほど恩があるか、お認めにならずには、いられませんね。さらに、一度、愚かなことをして高い代償を払った人が、再婚によって、同じもつれにもう一度飛び込むなど、過去の危険を忘れでもしなければ、ありえないでしょう。ウェヌス自身も、ルクレティウスが反対のことを、どれほど言い張ろうと、わたしの助けなしには、自分の子を生ませる力が弱まり、役に立たなくなることを、否定できません。
昔の気難しい哲学者たちも、今、その後釜に座っている、身を苦しめる修道士や托鉢修道士たちも、生まれたのは、わたしの、くすぐったくて楽しい戯れからなのです。王も、司祭も、教皇も同じこと。いえ、詩人たちが歌う神々の一族だって、みんなそうです。その神々ときたら、今や数が増えすぎて、天上の陣営が、どんなに広かろうと、肘を張る場所を求めて、押し合いへし合いしています。
けれども、わたしが、あらゆる命の源だと示すだけでは、不十分でしょう。命に伴う恵みもまた、すべて、わたしの思いのままなのだと、お示ししなければ。それは、どんな恵みかですって。そもそも、喜びを奪われた人を、本当の意味で、生きていると言えるでしょうか。ここは、皆さまも賛成してくださいますね。反対の意見を持つほど賢い、いえ、愚かな方が、この中にいるとは、思えませんもの。確かにストア派は、快楽を軽蔑し、追い払うふりをします。けれども、あれは人を欺く手なのです。世間の人々に、快楽などつまらないと思わせ、自分たちだけで、もっと邪魔されずに独り占めしようというわけです。そこで、その方々に伺いたい。人生のどの時期なら、「愚かさ」の、あの風味豊かな調味料、快楽を振りかけなくても、気が滅入らず、退屈せず、うんざりもせず、長々とつらい思いをせずに済むのでしょう。さあ、正直に答えていただきましょう。この点については、いくらたたえても足りないソフォクレスが、十分な証人になります。あの人は、次の言葉で、わたしを、このうえなく高く評価してくれました。

何も知らずにいることこそ、いちばん甘美な人生。

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068 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
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070 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

では、この言葉だけに頼らず、もう少し細かく見てみましょう。人生の最初の幕、幼い子どもの時代が、何より楽しく愛らしいことを、知らない人はいませんね。わたしたちが子どもに口づけをし、抱き締め、一緒に遊びたくなるのは、子どもの何に引かれるからでしょう。血に飢えた敵でさえ、子どもを傷つけるのは、ためらうものです。それは、子どもに無邪気さと愚かさが、交じり合っているからに、ほかなりません。自然は、行き届いた心遣いから、幼い時期に、この二つを、わざわざ混ぜ合わせたのです。子どもが惜しみなく喜びを返すことで、親の苦労を、いくらかでも埋め合わせ、この先、育ててもらう費用の、いわば保証にもなるように、と。
幼年期の次は、若者の時代です。こちらも、なんと恵まれた扱いを受けることか。誰もが親切で、礼儀正しく、敬意を払い、何かにつけて、喜んで力を貸してくれます。その幸福は、どこから来るのでしょう。もちろん、わたし一人のおかげです。わたしの取り計らいで、知恵が少なくて済み、その分、心配事も少なくて済むのですから。ところが、少年たちが成長し、一人前の男を気取り始めると、かわいらしさは、たちまち薄れ、元気はしぼみ、気分はよどみ、陽気さは消え、血も冷めてゆきます。年を重ねれば重ねるほど、自分の人生を楽しめなくなり、とうとう、気難しい老年を迎えます。他人にとっても、自分にとっても、お荷物となるのです。それは、あまりに重く、身にこたえる荷物で、わたしがその苦しみを哀れんで、もう一度手を貸さなければ、誰も耐えられないほどです。
そこで、わたしが、もう一度、間に入って手を差し伸べ、この、どうにもならない苦境から、助け出してあげるのです。詩人たちは、神々が、死にかけた人を別の生き物に変えて救う、と語りますね。わたしも同じようにするのです。すでに片足を墓に入れている人々を、もう一度、幼年時代へ戻してあげます。ですから、「老人になるのは一度、子どもになるのは二度」という昔のことわざには、ずいぶん真実が含まれているのです。
どうやって、その変化を起こすのか、知りたい方には、方法をお教えしましょう。わたしは、その人たちを、忘却の泉へ連れてゆきます。源は「幸福な島々」にあって、冥府のレテ川などは、そこから流れる、ほんの小さな支流にすぎません。そこで、おなかいっぱい水を飲み、心配事を洗い流してもらうのです。その水の力が働くと、皆、若返ります。

でも、それは、ぼんやりして、ばかなことをするだけではないか、とおっしゃいますか。ええ、そのとおり。それこそ、わたしの言う、若返るということなのです。子どもであるとは、愚かで、物事がわからないということではありませんか。だからこそ、あの年ごろは、あんなに愛されるのです。大人並みの分別を備えた少年を見て、どこか不吉だと感じない人が、いるでしょうか。あまりに早く才能が伸びるのを、たしなめるために、「早く熟すものは、早く腐る」という、けなすことわざまで、あるくらいです。
さらに、長年、すり減らされ、さんざん苦労してきたのに、壮年のときと少しも変わらず、頭がさえ、判断が確かな老人など、誰が一緒にいたいと思うでしょう。誰が、かかわり合いたいと思うでしょう。ですから、老人が愚かになるのは、わたしの、大きな親切なのです。もっと賢ければ、その人を苦しめるはずの悩みから、解き放ってくれるのは、これだけなのですから。お酒も元気に飲めますし、しゃんとしていられます。はるかに丈夫な体の人でも、なかなか耐えられない不調を、軽々とやり過ごせます。ときには、プラウトゥスの芝居に出てくる老人のように、もう一度、初歩の読み書き帳へ戻って、恋の手ほどきを受けることも、あるのです。

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075 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

自分の厳しい境遇を悟るだけの知恵があれば、きっと、このうえなく惨めになるでしょう。けれども、わたしが助けるおかげで、すべて、うまく切り抜けられます。友人たちから見ても、気のよい、付き合いやすい、陽気な仲間でいられるのです。たとえば、ホメロスは、年老いたネストルを、油のようになめらかな舌を持つ、名弁論家として描いています。それに比べて、アキレウスの話しぶりは、荒々しく、とげがあり、つかえがちです。また、この詩人は、別のところで、城壁の上に座る老人たちが、実に華やかで優美な言葉を語る、とも述べています。
この点では、確かに、老人は子どもを、はるかにしのぎます。子どもも、やさしく無邪気におしゃべりするのは、なかなか得意ですが、それ以外では、あまり口が回りません。老人の、あの実に好ましい長所、いつまでも話し続ける力が、足りないのです。そのうえ、老人は、子どもと遊ぶのが大好きですし、子どもも、同じくらい老人といるのを喜びます。「同じ羽の鳥は、群れをなす」ということわざの、とおりです。
実際、片方のほうが、しわが深く、少しばかり世間を多く見てきたことを除けば、どんな違いが、あるでしょう。白っぽい髪、歯のない口、小さな体、乳の食事、はげた頭、おしゃべり、遊び好き、物忘れ、不注意、そのほか、持ち合わせたものは、何もかも、ぴったり一致しています。そして、年を重ねるほど、揺りかごへ近づいてゆきます。最後には、本当に子どものように、命を失うことを惜しみもせず、死の苦痛も感じずに、この世を去るのです。

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079 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

さて、わたしの、この見事な変身の力と、オウィディウスが神々のものだと言っている力を、比べてごらんなさい。酔った勢いで、あの方々がやらかす奇妙なことは、名誉のために、ここでは省きましょう。深い親切を示したつもりになっている相手のことだけを、取り上げます。神々は、その人たちを、木や鳥や虫、ときには蛇に変えてしまいました。けれども、ああ、別の何かになるとは、それまでの自分が滅びるということではありませんか。その点、わたしなら、その人を、まったく同じ一人のままで、昔の若さと健康と力へ、戻してあげられます。
それどころか、人々が、自分のためを思い、知恵のことなど、すっかり忘れ、わたしの導きと世話に、身を任せてくれさえすれば、老いなど、不可解な話になってしまうでしょう。誰の人生も、永久に春なのです。ごらんなさい。こつこつ勉強に励む人たちは、本にかじりついて、座ったまま閉じこもり、ぼんやりして、青白く、やせ細ってゆきます。まるで、絶えず頭を絞り、考えを生み出そうと苦しむうちに、血管から血をくみ尽くされ、体じゅうの潤いを、絞り取られたようです。それに引き換え、わたしの仲間たちは、肌もなめらかで、ふっくらとして、元気いっぱい。肥えた豚や、乳を飲む子牛に、負けないほど、生き生きしています。知恵という伝染病にさえ、うつらなければ、楽しみへ向かって進む道を、老いに阻まれることもありません。もし、ときどき、知恵という癩病に、かかることがあるとすれば、それは、あまりに幸せになりすぎるのを、防ぐためだけなのです。

これまでのお話が本当だという証拠を、もう少し挙げましょう。愚かさこそ、若さを保つ最良の薬であり、老いに対する、いちばんよく効く解毒剤だということは、誰もが認めています。ブラバントの人々についても、決まって、こう言われます。「年を取れば、賢くなる」ということわざとは反対に、年を取れば取るほど、ますます愚かになる、と。けれども、あの人たちほど楽しく暮らし、気楽に、穏やかに、世を渡っている国民は、ほかにいません。隣に住んでいるだけでなく、習慣の似ている点でも、その人々に近いのが、わたしの友人、オランダ人たちです。わたしの友人と呼んで、何が悪いでしょう。あんなに親しみをこめて、ぴったり寄り添ってくれるのですから。「愚か者」と言えば、その人たちのことを指すほどですが、本人たちは、その名を恥じるなど、ばかばかしいと思っています。
さあ、それでも愚かな人間たちは、老いた身を若返らせようと、メデイアやキルケやウェヌス、あるいは魔法の泉などを、探しに行くがよいでしょう。そんな余計な骨折りは、いりませんのに。この技を、確かにやってのけられるのは、わたしの術と腕だけなのです。

メムノンの娘が、老い衰えた祖父の日々を延ばした、あの薬。その作り方を知っているのも、わたし一人です。衰えたファオンを若返らせ、その美しさにサッフォーが、すっかり恋に落ちるようにした、あのウェヌスも、わたしなのです。あの薬草も、呪文も、わたしのもの。すばやく過ぎ去った時を呼び戻すだけではありません。もっと驚くべきことに、時の翼を切り、もう飛び去れなくするのです。
若くあることほど望ましいものはなく、みじめな老いほど嫌われるものもない。このわたしの判断に、皆さまが賛成なさるのでしたら、老いを寄せつけず、若さを長らえさせてあげることが、返しきれないほどの恩だと、お認めになるほか、ないでしょう。

訳注

メムノンの娘が祖父を若返らせた、という記述は底本どおり。人物関係に疑問が残るが、別の神話の人物へは置き換えていない。

けれども、なぜ人間のことだけに、お話を狭めておく必要があるでしょう。天上を、ぐるりと見渡してごらんなさい。あの神々のうち、わたしの名によって敬意と権威を添えてもらわなくても、みすぼらしく、取るに足りない存在にならずに済む方が、一人でもいるでしょうか。バッコスが、いつも若者の姿で描かれるのは、なぜでしょう。気まぐれで、酔っぱらいで、狂っていて、大酒を飲み、踊り、仮装し、浮かれ騒ぐことに時を費やし、知恵とは、これっぽっちも関係がなさそうだからに、ほかなりません。賢いと思われたいなどという気取りは、まるでありません。自分をあがめる儀式が、すべて、おどけたばか騒ぎで成り立っていても、喜んで受け入れています。
昔の喜劇作家たちも、あの方に、どれほど嘲りや悪口を浴びせたことか。「やい、豚のような太鼓腹の神め。お前が縫い込まれていた豚小屋の臭いが、ぷんぷんするぞ」などとね。でも、考えてもごらんなさい。いつも陽気で若々しく、酒に浸り、快楽におぼれているのです。そんな暮らしを、尊大で威嚇するような顔のユピテルや、厳めしいくせに臆病なパン、気取ったパラス、あるいは、天界のほかのどの地主と、取り替えたいでしょう。
クピドが少年だとされるのは、なぜですか。知恵の足りない、いたずら小僧で、することにも考えることにも、分別がないからでしょう。ウェヌスが美の手本として、あがめられるのは、なぜですか。わたしと親戚だからに、ほかなりません。父プルトスと同じ肌の色をしているので、ホメロスは、あの方を「黄金の女神」と呼ぶのです。そのうえ、いつも笑っているところも、わたしのまねです。詩人たちの言うことや、その近い仲間である画家たちの絵を信じるなら、そうなります。前者は、いつも笑う姿を語り、後者は、その姿を描いていますから。
また、ローマ人たちは、猥らなことを取り持つ、あのフローラ以上に、手厚い儀式で、どの神を敬ったでしょうか。詩人の作品を調べて、神々の行いをたどれば、誰も彼も、みだらな悪ふざけや放蕩で名を上げている、とわかるはずです。ほかの方々の不行状を、わざわざ挙げるまでもありません。ユピテルご本人の色恋沙汰は、あれほど知れ渡っていますし、貞淑を装うディアナも、しばしば慎みの衣を脱ぎ捨て、恋するエンデュミオンを追って、狩りに出かけたのですから。
でも、これ以上は、申し上げないでおきましょう。あの方々の欠点を指摘する役は、モモスに任せたいと思います。あの方は昔、鋭い皮肉で、しきりに神々を刺していました。その悪口まじりのからかいに、とうとう神々も腹を立て、天から蹴り出してしまったのです。正されるいわれのない方々を、あえてたしなめるとは、生意気だ、と。そして今、天から追放されたモモスは、地上でも、冷たい扱いを受けています。君主の宮廷など、入れてももらえません。そこでは、わたしの侍女「追従」が、大歓迎されているというのに。ともあれ、この口うるさい忠告者を締め出したおかげで、神々は、もっと気兼ねなく騒ぎ、浮かれ、思う存分、快楽にふけれるようになったのです。

85-86
85-86 参照頁:111頁 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
89-90
89-90 参照頁:40頁 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
訳注

バッコスへの悪口にある「縫い込まれていた豚小屋」は、一八七六年版に実際に印刷された sty と sowed の表現を残したもの。よく知られた別の神話の語句へは置き換えていない。

これで、獣じみたプリアポスは、誰にもとがめられず、淫欲や不潔な楽しみにふけれます。ずる賢いメルクリウスは、見つからずに盗みや、手先の早いごまかしを続けられます。すすだらけのウルカヌスも、以前のように、足を引きずって、ぴょんぴょん歩き、そっけない冗談や、ぴりりとした返しで、ほかの神々を笑わせられます。年老いた恋のぼけ者シレノスは、まだまだ元気だと示すため、軽快な踊りを踊れますし、ニンフたちも、裸で、同じ遊びを楽しめます。山羊のようなサテュロスたちは、愉快な舞踏会を開けばよいのです。盲目の竪琴弾きパンも、バグパイプを構え、みだらな輪唱を歌えます。それを神々は、特に、酒が回ってきたときには、たいそう真剣に聴くことでしょう。
けれども、神々の弱みを、これ以上、あばき立てることが、あるでしょうか。あまりに子どもじみて、ばかばかしいため、真顔では、とても話せないほどです。では、ホメロスの、あちこちを巡る詩の女神にならって、天に別れを告げ、地上へ戻りましょう。ここでも、わたしがそばにいて手を貸さなければ、幸せなことなど何もありません。いえ、耐えられることさえ、ないのです。
まず、自然が、どれほど行き届いた心遣いをしているか、考えてみてください。自然の作るものには、どれにも、愚かさの、ぴりっとした風味が効かせてあります。ストア派の定義では、知恵とは理性に導かれること、愚かさとは情念に駆られること、それだけだそうです。ですから、わたしたちを粘土からこねて作った創造主は、人生が、あまりに退屈で活気のないものにならないよう、人間の配合を工夫しました。理性一オンスに対して、情念は一ポンド以上。そして理性は、脳の狭い小部屋に閉じ込め、情念には、体じゅうを、自由に動き回らせたのです。
そのうえ、二人の頑丈な戦士を、いつも見張りに立たせ、理性が攻撃したり、不意を突いたり、入り込んだりできないようにしました。一人は「怒り」。心臓の要塞に、陣を構えています。もう一人は「欲情」。乙女座と蠍座がそうするように、腹と隠された部分を支配します。この二人の戦士の力に、理性が、どれほど抗しきれないかは、日々の経験が、十分に証明しています。理性が、どれほどしつこく、美徳を守るよう戒め、念を押しても、情念は、すべてを押しのけて進んでゆきます。ほんの少しでも手綱を引いたり、抑えつけようとしたりすれば、かえって、ますます横暴になります。とうとう理性のほうが、静かに暮らしたさに、それ以上、意見するのを、やめざるを得なくなるのです。

訳注

「盲目の竪琴弾きパン」は底本どおりの記述。電子本文の Just は、一八七六年版の二六頁で lust と確認できるため、「欲情」と訳した。

けれども、仕事をするために生まれた男には、その務めを果たせる程度の知恵が必要だと、考えられました。とはいえ、必要なだけの知恵でも、危険で命取りになっては困ります。そこで、解毒剤について、わたしに相談があったのです。わたしが授けた、間違いのない処方は、妻をめとることでした。女というものは、害がなく愚かでありながら、実に役に立ち、都合のよい生き物ですから、男の堅苦しさや気難しさを、和らげ、しなやかにしてくれるのです。
プラトンが、女を獣と理性的な生き物の、どちらに分類したものか迷ったのも、結局、女という性が、いかに愚鈍で愚かかを、示そうとしただけです。女の単純さは、どうにも変わりません。ですから、前へ出て、賢いと呼ばれようとすれば、かえって、その愚かさが、ますます目立つだけなのです。それは流れに逆らって泳ぐこと、いえ、自然の進む向きを変えようとすることです。成し遂げられないのは、もちろん、試みるだけでも、常軌を逸しています。「紫の衣を着せても、猿は猿」という、ありふれたことわざがありますね。それと同じで、女も、どんな姿を装おうと、女であり、愚か者なのです。
それでも、女性の皆さまが、こう言われて気を悪くする理由は、ありません。よく考えてみれば、男よりも、はるかに優れている、その長所こそ、愚かさのおかげだと、わかるはずです。まず、比べるもののない美しさ。その魅力によって、最も強大な暴君さえ、思いのままに支配します。男が、あんなに日に焼けて皮膚も厚く、冬や老いの象徴のような、ごわごわと刺々しいひげを生やしているのは、知恵の味が、効きすぎているからではありませんか。その一方、女の頬は、繊細でなめらか、声は低くやさしく、肌は澄んでいます。まるで自然が、整った姿と美しさの、永遠の見本として、描いたようです。
それに、夫を喜ばせること以上に、大きく、まっとうな望みや野心が、女性にあるでしょうか。そのために、化粧をし、化粧水を使い、髪を巻き、香水をつけ、そのほか、身を飾る秘術を尽くします。けれども、結局、夫に気に入られるのは、愚かさのおかげだけなのです。妻の気まぐれが、いつも許されるのも、くすぐるような刺激や喜びと引き換えだからに、すぎません。それらも実は、愚かさの別名なのです。寝床を共にする相手に、自然が定めた役を果たしてもらおうと思うとき、男が、どれほど抱き寄せ、あやし、くすぐり、あれこれ小さな戯れをするか、考えてみれば、誰にも否定できないでしょう。さあ、これで、慎みのため、口に出して名づけることさえ、はばかられる、あの最大の喜びが、どこから湧いてくるか、おわかりですね。
ところが、血の冷えた老人の中には、女遊びより酒のほうが好きで、最大の幸福は、飲み食いにあるのだ、と言い張る人がいます。そうだとしておきましょう。それでも、どんなに贅沢な宴会でも、最上のごちそうに味と風味を添えるのは、やはり愚かさなのです。ですから、客の中に、ほかの人々にからかわれるほど、生まれつき愚かな人がいなければ、おかしな道化を呼んでこなければなりません。冗談や冷やかしや、とんちんかんな言動で、一座が腹を抱えて笑うようにしてもらうのです。
そうでなければ、数々のうまいもの、味わい深い料理、珍味を、腹いっぱい詰め込んで、何になるでしょう。おなかを、さんざん楽しませた後には、目も耳も、心全体も、笑いや冗談、そのほかの気晴らしで、同じように元気づけ、慰めてやらなくては。それらは、食後の一皿のように、消化を助けてくれるのです。
酔いを誘い込む、あれこれの工夫も、そうです。互いに相手を決めて飲み合うこと、ヘイ・ジンクスのさいころ遊びをすること、杯になみなみと注ぐこと、二杯を手にして飲むこと、思い人の健康を祝って乾杯を始めること。そして、酔った声で輪唱を張り上げ、フィドル弾きを呼び込み、それぞれの女性を踊りに誘い出すこと。こうした、にぎやかな遊びを教えてくれたのは、ギリシアの賢人たちではありません。むしろ、ゴータムの賢人たちでしょう。わたしが発明し、何よりの健康法として、お勧めしたものなのです。どれも、ばかばかしければ、ばかばかしいほど、歓迎されます。
まったく、ふさぎ込んで陰気な顔をし、眠ったように世の中を進んでゆくことを、生きているとは、言えません。死ぬ前から死装束に包まれ、そのまま墓へ押し込まれて、生き埋めにされているようなものです。

097
097 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
訳注

「ゴータムの賢人」は、愚かな人々をめぐるイングランドの伝承を踏まえた皮肉。ヘイ・ジンクスは、さいころを用いる古い酒席の遊び。

訳注

「二杯を手にして飲む」は、底本の drinking two in a hand を字義に沿って訳したもの。具体的な飲み方は確認できない。「相手を決めて飲み合う」も酒席の文脈からの読みで、詳しい手順は不明。

けれども、こういう喜びには関心がなく、友と過ごすことに、何よりの満足を感じる人々も、いるかもしれません。その人たちは言います。真の友情は、ほかの、どんなものよりも大切だ、と。友情は、実に役に立ち、欠かせないものです。元素そのものさえ、自然な結びつきがなければ、長く保てないくらいです。実に心地よいものでもあり、太陽そのものに劣らぬ、温かな力を与えてくれます。また、実に立派なものです。この場合、立派さなどを、考える値打ちがあるなら、ですけれど。哲学者たちでさえ、最高の善が何かについて、あれこれ違った説を唱える中で、友情も、その一つに数えることを、ためらいませんでした。
では、この親しい結びつきの源もまた、わたしなのだと示したら、どうでしょう。ええ、簡単に証明できます。難解な三段論法や、ひねくれた、わけのわからない議論など、使いません。ことわざにもあるように、顔の真ん中の鼻ほど、はっきりさせられます。
さて、お互いにかゆいところをかき合って機嫌を取り、友の欠点には目をつぶる。それどころか、ある欠点を、立派で、ほめるべき長所だと持ち上げる。これは、愚か者になることと、紙一重ではありませんか。恋人の顔をじっと見つめ、ほくろを、飾りのつけぼくろのように、ほめたたえる人がいます。恋人の臭い息を、たいそう芳しい香りだと言い張る人もいます。目の斜視のある子を、溺愛する親が抱き締めて、それを、目の欠点どころか、愛らしい流し目、心を引きつける表情だと言い張ることもあります。これらは、愚かさの極みでなくて、何でしょう。

100
100 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

友を作り、友のままでいさせるのは、愚かさなのです。ここで、わたしが言っているのは、人間のことだけですよ。人間の中には、小さな欠点のない人など、いません。いちばん少ない人が、いちばん幸せなのです。神々のほうへ目を向ければ、あの方々には、知恵がありすぎて、友情は、ごくわずかしかないと、わかるでしょう。いえ、心からの真実な友情は、まったくありません。人間が、この徳において、もっと優れているのは、人を信じやすく、気がおけないからに、すぎません。友達同士は、気質も好みも似ていなければ、どれほど言葉を尽くして友情を誓っても、その結びつきは、すぐに破れてしまいます。
ですから、厳めしく気難しい人々は、めったに堅い友となれません。あまりに揚げ足を取り、批判ばかりして、お互いの弱さを、我慢できないのです。他人の欠点を見つけるときには、鷲のように目ざといくせに、自分には目をつぶり、自分の目に入った梁には、まるで気づきません。
要するに、人間は、生まれつき弱点を持ちやすく、気まぐれで、へそ曲がりで、失敗や過ちばかり重ねます。ですから、互いの落ち度を大目に見るのでなければ、確かな友情は結べません。この心持ちを、ギリシア人は「エウノイア」と呼びます。気のよさ、とでも言いましょうか。それも、愚かさの別名なのです。
それに、あらゆる結びつきの最初の父、クピドは、すっかり目が見えないではありませんか。自分で色の区別もつかないものですから、わたしたちにも、ぼんやりした目で恋のことを見誤らせ、そのくせ、いつも自分が正しいと思い込むように、言いくるめるのです。こうして、どのジャックも、自分のジルにくっついて離れません。どの鋳掛屋も、自分のあばずれ女を大切にします。鋲打ちの靴を履いた求婚者は、奥さまのお嬢さん方の誰より、乳搾りのジョーンを選びます。これは本当のことで、普段は、よく笑いの種になります。けれども、どれほど滑稽に見えようと、あらゆる人の集まりを、しっかり結びつけているのは、ひとえに、こうしたことなのです。

109
109 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
訳注

「自分の目に入った梁」は、自分の大きな欠点を見ず、他人の小さな欠点を責めることを表す比喩。ジャックとジル、ジョーンは、ここでは身近な男女を表す、ごく普通の名として用いられている。

友情について述べたことは、結婚には、なおさら当てはまります。結婚とは、最も緊密な結びつきの中で、友情が最高の段階まで進んだものに、ほかならないからです。ああ、もし夫婦が、ちょっとしたけんかの種を、笑いや冗談、とぼけたふり、そのほかの愚かな振る舞いで、うまくやり過ごすだけの分別を持たなければ、どれほど頻繁に離婚が起こり、さらに悪い災いまで、招くことでしょう。
いえ、せっかちな恋人が、もじもじと恥じらって見える相手について、その女が以前、どれほど色っぽい悪戯や放埒な振る舞い、もしかすると、もっと大きな過ちまで重ねていたかを、先に知ったなら、結婚まで進む組は、どれほど少なくなるでしょう。結婚した後も、夫が、気のよい妻の軽はずみで積極的な振る舞いに、愚かにも気づかずにいるか、わざと目をつぶって見逃すかしなければ、幸せの続く夫婦は、もっと少なくなるでしょう。
この平穏も、わたしの取り計らいなのです。知恵のなさが、寝取られた夫を満足させ、同時に家庭を静かに保つのでなければ、絶えずいさかい、騒ぎ、むちゃな振る舞いが起こることでしょう。裏口でカッコウが鳴いても、何も考えない、角を生やされた夫は、自分の巣に、よその卵が産みつけられるという、不吉な前触れに気づきません。笑って済ませ、愛する妻に口づけをし、万事、丸く収まります。実際、疑いや嫉妬の、不快な思いに絶えず責めさいなまれるより、こんなふうに、女房の尻に敷かれて、辛抱しているほうが、ずっとよいのです。
結局、どんな集まりも、人と人との、どんな関係も、わたしの助けなしには、心地よくはなりません。いえ、耐えることさえ、できません。君主と民、主人と召使い、教師と生徒、友と友、夫と妻、売り手と買い手、そのほか、どんな関係にある人々も、臆病に小さな侮辱を我慢したり、卑屈に身をかがめて従ったり、最後には、すり寄って互いの機嫌を取り、おだて合ったりしなければ、うまく理解し合えないのです。
たいした話だ、とおっしゃるでしょう。でも、もっと先があります。では、まず、自分を嫌っている人に、他人を愛せるでしょうか。自分の判断とさえ仲たがいしている人が、友と折り合えるでしょうか。自分自身にとって、絶えざる苦痛と厄介の種になっている人が、ほかの誰かを喜ばせられるでしょうか。そんな矛盾した話を、言い張るほど狂った人は、いないでしょう。
そうです。わたしを締め出してしまえば、人は、他人に我慢するどころか、自分自身さえ持て余して、安らぎも満足も、得られなくなるのです。自然は、自分の作ったものの一部に対して、優しい親というより、継母のように振る舞います。自分のものは、何もかも、嫌で、気に入らず、他人のものばかり感心して眺める。そんな不幸な、ひねくれた性質を与えられた人がいます。そのため、生まれつき授かったものも、運よく手に入れたものも、少しも楽しめません。
どんなに美しい顔でも、いつも、しかめ面や不機嫌な表情で曇っていたら、どこに魅力があるでしょう。若さも、すねたり、かたくなになったり、怒りっぽく気難しかったりして、さいなまれていたら、どこに活気があるでしょう。どちらも、ありませんね。実際、人生のどの立場でも、自分の役割を立派に果たすことはできず、惨めさと絶望へ、救いようもなく沈んでしまうでしょう。「自己愛」に浮かせてもらい、支えてもらえなければ、です。自己愛は、いわば、愚かさの姉であり、いつもそばにいる友、助け手なのです。
自分を愛し、感心して眺めることほど、愚かなことが、あるでしょうか。けれども、それがなければ、わたしたちの言葉にも行いにも、味わいが、なくなってしまいます。愚か者の、この一つの性質を取り去ってごらんなさい。弁論家は、自分の立つ演壇と同じくらい、口をきかず、黙り込むでしょう。音楽家は、弾かない楽器を壁に掛けるでしょう。最も優れた役者も、舞台から、やじで追い払われ、詩人は、自分のつたない詩で笑いものにされます。画家自身は、空想の風景の中へ消え、医者は、患者が薬を求める以上に、食べ物を求めることになるでしょう。
要するに、自己愛がなければ、美しいあなたも、自分を八十歳の老婆だと思い、若いのに、もう墓へ落ちかけていると感じ、雄弁なのに、ただの、どもりだと考えるでしょう。愛想がよく、感じのよい人のはずが、まったくの田舎者に見えてしまいます。他人によく思ってもらおうとする前に、まず自分で自分をよく思うことが、それほど必要なのです。
そもそも、今の自分以外のものになりたいと、願わないことこそ、幸福の中心ではありませんか。それを可能にしてくれるのも、やはり自己愛です。自己愛は、自分についての満足で、人をすっかり満たします。そのおかげで、姿かたちも、知恵も、育ちも、祖国も、誰一人、悔やまなくなります。泥にまみれ、水に半ば浸かったオランダ人も、イタリアの心地よい平原へ移ろうとはしません。無骨なトラキア人も、沼地を、アテナイの最良の住まいと交換しようとはしません。野蛮なスキタイ人も、茨だらけの荒野を捨てて、「幸福な島々」の住人になろうとは、しないのです。
ああ、自然の工夫の、なんと見事なこと。すべてが、うまく釣り合うようにできています。恵みを控えめに与えたところでは、その分、自己愛を多めにして、補っているのです。そうして、先の不足を埋め、すべてを、つり合わせます。
さらに言い広げるなら、わたしが生み出し、取り仕切らなかった大きな業績も、役に立つ技術の発明も、ないと、言ってよいでしょう。まず、戦争ほど崇高で英雄的なものが、あるでしょうか。それなのに、ちょっとした、つまらない侮辱の仕返しに、双方が必ず損をする道を選び、多くの手足や命を代価として、争いを決着させる。これほど愚かなことが、あるでしょうか。
そして、いざ戦いとなったとき、知恵の船の櫂を、こぎ続ける重労働で、力も元気も使い果たした、青白い学者たちに、何の働きができるでしょう。役に立つのは、ぶっきらぼうで頑丈な連中です。知恵が少ないだけ、決断力があるのですから。もっとも、デモステネスのような人を、兵士にしたいというなら、別ですよ。敵の姿が見えたとたん、武器を投げ捨て、演壇で得た名声を、陣中で失ってしまった、あの人のような兵士をね。

訳注

カッコウ、他鳥の巣に産まれる卵、夫の角は、ここでは妻の不貞と、それに気づかない夫をからかう比喩として重ねられている。

けれども、戦争を進めるには、相談し、よく考え、助言を受けることが、とても大切ではないか、とおっしゃいますか。まったく、そのとおりです。ただし、知恵と正義の厳しい規則に従って与えられる助言では、ありません。戦場で、最も立派な哲学者よりも、うまく戦うのは、召使い、荷運び人、執達吏、追いはぎ、ならず者、牢獄帰り、その他、人間社会のくずのような連中です。
哲学者が、こういう事柄を扱うと、どれほど、うまくいかないか。その格好の例が、人間の中で最も賢い、と神託で認められた、あのソクラテスです。人々の前に出て、公の仕事をしようとすると、出だしでつまずき、最後まで立て直せず、やじと嘲笑に送られて、家へ帰ってしまったのです。もっとも、この哲学者は、賢者の呼び名を断り、神託のお世辞を受け取らなかった分だけ、少しは、愚かでありませんでした。哲学者を国家の政治に関わらせてはいけない、と勧めた点も、そうです。それなら、その際、人間の社会全体から、追い出すべきだとも、付け加えておけば、よかったのに。

では、この偉大な人物が、訴える者たちの悪意をかわそうと、自ら毒を飲んだのは、なぜでしょう。自分自身を死の道具にしたのは、知恵がありすぎたからでは、ありませんか。雲の性質を調べ、イデアについて思いを巡らし、蚤を測るために幾何学を用い、小さな虫が、あんなに小さいのに、どうして大きな、ぶんぶんという音を立てられるのかを知ろうと、自然の奥深くを探っていた。そういうばかげたことに、かかりきりだったため、世間にも、日々の暮らしのことにも、まるで気を配らなかったのです。

ソクラテスの次は、その弟子プラトンです。たいした弁論家ですね。学のない群衆を前にすると、すっかりうろたえて、ほんの短い一文を終えるまでにも、口ごもり、咳払いし、つかえてしまうのですから。テオフラストスも、同じような臆病者でした。演説を始めたとたん、まるで幽霊や化け物でも見たかのように、恐怖に打ちのめされたのです。イソクラテスは、あまりに恥ずかしがりで気が弱く、弁論術を教えていながら、公の場で話す勇気を、どうしても持てませんでした。
ローマの雄弁の大家キケロも、演説の初めには、低く震える声を出すのが、常でした。まるで、課題を十分うまく暗唱できず、むちで打たれるのではないかと、おびえる学童です。それなのにファビウスは、トゥッリウスの、この性質を、よく考える弁論家の証拠として、ほめています。立派に務めを果たす難しさを、自覚しているのだ、と。けれども、それは、知恵が、何かをうまく進めるときの障害であり、妨げなのだと、はっきり認めることでは、ありませんか。
ただ言葉を口にするだけで、こうも打ちのめされ、途方に暮れる、これらの英雄たち。もし、抜き身の剣を目の前にしたら、どんなに縮み上がり、影も形もなくなることでしょう。

113
113 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
訳注

トゥッリウスはキケロの氏族名。同じ人物を指す。

さあ、プラトンの、あの立派な言葉を、たたえるがよいでしょう。「哲学者が王に選ばれるか、王が哲学者になる国家は、幸福である。」ああ、実際は、それどころではありません。あらゆる歴史家に昔のことを尋ねれば、学識豊かな読書家の支配者が、政務を背負い込んだ国ほど、君主が無力で、民が隷属し、惨めな国はない、とわかるでしょう。
その典型が、二人のカトーです。大カトーは、自分を弁護し、他人を告発する長々とした演説で、市を混乱させ、元老院を疲れ果てさせました。小カトーは、人々の自由を守るつもりで、誤った手段を取り、不幸にも、自由を失わせる原因となりました。そこに、ブルトゥス、カッシウス、グラックス兄弟、そしてキケロ自身も加えられます。キケロがローマにとって致命的だったのは、彼に並び称されるデモステネスが、アテナイにとって、そうだったのと同じです。
マルクス・アントニヌスも、そうです。よい皇帝だったとは、認めましょう。けれども、哲学者だったために、そのよさは減ったのです。そして、自分の賢明な政治によって帝国にもたらした利益は、あのように堕落した息子コンモドゥスを後継者に残して与えた害の、半分にも及びませんでした。もっとも、「賢い父親に、愚かな息子が生まれることは多い」というのは、よく言われることです。知恵という害が、遺伝する病のように、子孫へ伝わらないよう、自然が、そう仕組んでいるのです。
トゥッリウスの息子マルクスも、アテナイで教育を受けたのに、ぼんやりした、味気ない人物に、なってしまいました。ソクラテスの子どもたちも、ある人の気の利いた表現によれば、「父よりも、母のほうを多く受け継いでいた」。つまり、愚かだった、ということです。
しかし、賢い人々が、公の仕事に、これほど不器用で、手際が悪くても、日常や家庭のことでは、まだましなら、許しようもあるでしょう。ところが、そちらでも同じか、もっとひどいのです。まったく、途方に暮れるばかりです。しかつめらしい賢者を、宴席に座らせてごらんなさい。気難しく黙り込んで、食卓全体の気分を壊すか、つまらない質問で、近くに座る人を皆、不愉快にし、うんざりさせるでしょう。踊りに引っ張り出せば、ラクダよりも軽やかには動けません。見世物に誘えば、その顔つきだけで、見物人たちの楽しみを冷まし、最後には、カトーのように、劇場を去らざるを得なくなるでしょう。糊のきいた厳めしさをほぐせず、もっと楽しそうな顔を、できないからです。
会話に加われば、唐突に話をやめるか、続けて、一座の忍耐を使い果たします。契約や売買、そのほか、世間の用事があると、理性のある人間より、物言わぬ木偶のように振る舞います。そうして、自分にも、友にも、祖国にも、何の役にも立てません。世の中が、どう動いているかを知らず、普通の人々の気持ちが、まるでわからないからです。その人々のほうも、あまりに気質の合わない人物を、嫌わずにはいられません。

実際、世の中で進んでいることは、愚かさの芝居が、途切れず続いているだけなのです。役者は皆、等しく愚か者であり、狂人です。ですから、出しゃばった知恵を働かせて、一人だけ違う存在でいようとするなら、第二のティモン、つまり人間嫌いにでもなって、人の通わない荒れ野へ引っ込み、人類全体から離れて暮らすほか、ありません。

では、最初のお話へ戻りましょう。世界が、まだ幼かったころ、生まれつき野蛮な人間たちを、結びつけて社会を作らせたものは、何だったでしょう。わたしの主な美徳の一つ、「追従」以外には、ありません。アンフィオンとオルフェウスの竪琴の物語も、ほかのことを意味しては、いないのです。前者は石を跳び上がらせて、立派な城壁に組み上げ、後者は木々に、地面から足を抜かせ、自分の後について、モリス踊りを踊らせたのでした。
不満を改めてもらおうと、ローマの民衆が騒ぎを起こしたとき、彼らを鎮め、なだめたものは、何でしたか。力強く、きちんと整えた演説でしょうか。いいえ。メネニウス・アグリッパの語った、ただの愚かで滑稽なお話でした。体のほかの部分が、おなかとけんかをして、もう、こき使われて食べ物を運んでやるのは、やめようと決めた。ところが、それで仕返しの罰を与えたつもりが、たちまち、自分たちの力が弱ってしまった。こうして、間違いを身をもって知る代償を払い、皆、進んで、それぞれの役目へ戻った、というのです。
同じように、アテナイの民衆が役人の取り立てに不平を言ったとき、テミストクレスは、狐とハリネズミの、似た話で納得させました。狐が、ぬかるみにはまって動けなくなると、蠅が群がり、ほとんど血を吸い尽くしてしまいました。ハリネズミが、親切心から、蠅を追い払ってあげようと言います。すると狐は、だめだ、と答えます。「こいつらは、もう、ほとんど満腹だ。追い払えば、新しい腹ぺこの群れが来て、十倍も貪欲に、食らいつくだろう。」彼が民衆に伝えたかった教訓は、こういうことでした。強欲だと不平を言っている役人を追い出しても、後釜に来る連中は、必ず、もっとひどいぞ、と。

セルトリウスも、どんなに高度な策略を使えば、一頭の白い牡鹿を使ったときほど、異民族たちを、うまく畏服させられたでしょう。その鹿はディアナから贈られ、敵のあらゆる計画を知らせてくれるのだ、と彼は言ったのです。
リュクルゴスが、教育の力を示すために用いた、あの大きな論拠は、何でしたか。同じ母犬から生まれ、別々の育て方をされた子犬を、二匹、連れ出してきた、それだけです。二匹の前に、皿と、生きた野兎を置きました。狩りを仕込まれた犬は獲物を追い、台所をすみかとしてきた犬は、さっそく皿をなめ始めました。
先ほどのセルトリウスも、知恵と工夫が、ただの力より、よく働くことを、兵士たちに悟らせました。二人の男に、二頭の馬の尾を、それぞれ抜かせたのです。一人は、全部をひとつかみにして、引っ張りましたが、いくら力んでも、抜けません。もう一人は、はるかに力が弱かったのに、一本ずつ抜いたので、すぐに、与えられた仕事を終えました。

同じような例が、ミノスとヌマ王です。二人とも、単なるごまかしと手品で、人々をだまして従わせました。ミノスは、ユピテルから助言を受けているふりをし、ヌマは、どんな相談や仕事にも、女神エゲリアが助けに来てくれるのだと、民衆に信じ込ませたのです。実際、普通の人々を、いちばんうまくだまし、言いくるめるには、こういう甘言が効くのです。

そもそも、プラトンの厳格な法律や、アリストテレスの厳しい命令、あるいは、なおさら実行しがたいソクラテスの教えに、従おうとする都市が、あるでしょうか。いいえ。どれも、きつすぎて、身に食い込んでしまいます。人々の弱さに、十分な余地を認めていないのですから。

別の話へ移りましょう。デキウス一族が、怒った神々をなだめる犠牲として、あれほど進んで身を捧げ、負い目ある祖国を救い、その保証となろうとしたのは、なぜでしょう。同じようなときに、クルティウスが、向こう見ずにも命を投げ捨てたのは、なぜでしょう。ただ、虚栄心のためでは、ありませんか。あらゆる賢者が非難し、愚かさの大きな枝の一つだと、口をそろえる、あの虚栄心です。
賢者たちは言います。役職に就きたいばかりに、ぽかんと見物する群衆に、おじぎをし、へつらい、身をかがめ、賄賂や贈り物で人気を買う。通りで自分の名を叫んでもらい、立派な見世物のように、人々の肩に担がれる。自分の像を青銅で作らせ、人気の記念として、市場に立てる。これほど不合理で、うぬぼれたことが、あるだろうか、と。そのうえ、新しい称号や、名誉を区別するしるしを欲しがること、さらには、最も残虐な暴君を、神にまで祭り上げることも、あります。
どれも、あまりに滑稽で、一人のデモクリトスでは、笑いきれないほどです。それなのに、多くの勤勉な書き手たちが、さんざん筆を費やしてきた、あの英雄たちの記憶すべき業績は、ひとえに、ここから生まれたのです。

都市を治め、役人を任命し、裁判の仕組みを支えているのは、衣装を替えた愚かさです。要するに、人間の人生全体を、ただの子どもの遊びにし、ピン突き遊びにも劣るものにしているのです。
あらゆる技術や学問の発明も、同じものに由来します。名声や評判への、泡のような望みに、そそのかされなければ、座って考え込む人々の誰が、新しく、聞いたこともない秘密を求めて、頭を絞ったでしょうか。虚栄の、小さなきらめきさえあれば、あらゆる汗と労苦、長い骨折りへの報酬として、十分だと思うのです。その一方で、もっと愚かだとされている人々は、他人の苦労の成果から、利益を得るのです。

さて、勇気と勤勉さについて、わたしの権利を示したところで、知恵についても、同じだけの取り分を要求したら、どうでしょう。何ですって、と皆さまはおっしゃるでしょう。それは、ばかげている、矛盾している、愚かさと知恵が仲直りするくらいなら、東と西だって、握手できるだろう、と。まあ、少し、お待ちなさい。わたしの権利を、ちゃんと証明してみせますから。
まず、認めざるを得ないことですが、知恵が、進んでよいことをし、手際よく世の役に立つ方法でしかないのなら、この徳は、誰に、よりふさわしいでしょう。遠慮や臆病さのために、どんな試みも、思い切って進められない賢者でしょうか。それとも、向こう見ずに、確かめる前から飛び込み、危険を感じもせず、予想もしないまま、最も危ない企てさえ、やってのける愚か者でしょうか。
何か始めようとすると、賢者は本に相談しに駆けてゆき、かび臭い著作を読みふけって、頭を、くらくらさせます。その間に、手早い愚か者は、見境なく突進し、相手が考えているうちに、仕事を終えてしまいます。何かを成し遂げるうえで、最も大きな二つの妨げは、人の目を曇らせる遠慮と、どんな提案からも、身を縮めて後ずさりさせる恐れなのです。愚かさは、この二つを追放し、役目を解きます。その代わりに、向こう見ずを身につけさせます。それが、あらゆる企ての成功に、大いに役立つのです。
さらに、知恵を別の意味、つまり、物事を正しく判断することだと取りたいなら、その意味でも、賢者が、どれほど及ばないか、お見せしましょう。

まず、確かなことに、あらゆるものは、ヤヌスのように、二つの顔を持っています。いえ、偽りの顔をしている、と言うほうがよいでしょう。ほとんどのものは、実際の姿と、他人の目に映る姿とが、大きく違うのです。一見、生きているようなものが、実は死んでいます。逆に、死んでいるようなものも、よく見れば、生きています。美しいものが醜く見え、裕福なものが貧しく見え、恥ずべきものが立派だと思われ、順調なものが不運だとされます。友好的なものが、その正反対に、害のないものが、有害で破滅的に見えます。要するに、見方をひっくり返せば、すべてが、ほんの今まで見えていたのとは、まったく違うありさまになるのです。

言い方が、あまりに曖昧で、わかりにくいようでしたら、身近な例で説明しましょう。ある偉大な王や君主は、誰の目にも、富の贅沢な海に泳ぎ、強大な力を持つ支配者に見えるでしょう。ところが、ああ、一方では、心の貧しさゆえに、まったくの物乞い同然であり、他方では、自分の欲望や情念に、ガレー船の奴隷以上に、こき使われているのです。

もっと広く話したければ、同じような例を、いくつも挙げられます。でも、今は、この一つで十分でしょう。

では、こういう話には、何の意味があるのか、と尋ねる方もいるでしょう。どう当てはまるか、ごらんなさい。劇場で、出しゃばりで無礼な誰かが、役者の借りた衣装を剝ぎ取り、演じている役をやめさせ、飾りのない本人の姿へ戻るよう、無理強いしたとします。そんな人は、芝居全体を、台無しにしてしまうではありませんか。そのおせっかいな愚か者が、行儀を覚えるまで、やじを飛ばされ、石を投げられても、仕方ないでしょう。
その騒ぎによって、舞台全体が変わってしまいます。男を演じていた者が、実は女だったり、元気な若い恋人の衣装を着ていた者が、ごつごつした老人だったり、王を演じていた者が、ただの身分の低い召使いだったりするのです。すべてを、こうして暴き立てることは、楽しみを、すっかり壊すことです。楽しみは、演じることと変装だけで、成り立っているのですから。
この世界も、それと同じ喜劇に、ほかなりません。誰もが、まず衣装部屋で、自分の役にふさわしい姿に整えられ、順番が来ると舞台へ出ます。今、君主を演じている人が、同じ芝居の別の場面では、衣装を替え、物乞いになるのです。すべてが仮面をつけ、それぞれの姿を装っています。そうでなければ、芝居そのものが、上演できません。
そこへ、糊のきいた、しかつめらしい学者先生が現れ、一人ひとりを指さして、言い始めたら、どうでしょう。この小さな神のように見える男は、実は獣以下だ、情念の暴政に捕らわれているのだから。あの王の役を務める男は、実は最も卑しい召使いだ、欲情と享楽の支配を受けているのだから。あちらで家柄を自慢している男は、庶子も同然だ、家柄で最も重く見るべき徳から、外れてしまっているのだから。そして、その調子で、残りの役者たちも、皆、暴いてゆくのです。そんな人を見たら、誰だって、すっかり気が触れていて、もう狂人院へ送るべきだと、思うでしょう。
場違いな知恵ほど愚かなものはなく、道理をわきまえない叱責ほど、分別のないものもありません。ですから、柔軟にならず、周りに合わせず、他人の気分に自分を合わせようとしない人は、どんな集まりからも、やじで追い出されて、当然です。仲間や会合の決まりを、思い出せばよいのです。皆と同じようにできない者は、そこから出ていくこと、と。
自分も、ただの人間なのだと考えるのは、確かに、知恵の大切な一段階です。ですから、思いを高く飛ばして、人間の限界を超えようとしてはいけません。そびえ立つ野心の翼を繕い、快く、他人の弱さに譲り、歩み寄ることです。仲間のために、自分の道を少し外れるのも、しばしば、思いやりなのです。

126
126 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
訳注

「野心の翼を繕い」は底本の imp the wings を残した表現。imp は本来、羽を継いで翼を補修・強化することで、ここで野心を抑えるよう説く文脈とは整合しにくい。印刷面も imp と読めるため、翼を切るという別の語へ、黙って改めることはしなかった。

いや、それは大変な愚かさだ、とおっしゃいますか。そのとおりです。けれども、わたしたちの暮らしは、すべて、そういう愚かな振る舞いに、ほかならないのです。そう言い切るのは、耳に痛いかもしれません。でも、奇妙に聞こえる以上に、それは真実なのです。

もっと、はっきり示すには、詩の女神たちの助けを呼ぶのが、よいかもしれません。詩人たちは、ずっと、ささいなことのために、あの方々へ熱心に祈っていますから。さあ、ヘリコンの乙女たち、来て、手を貸してください。愚かさの教えと導きなしには、知恵に至る方法も、したがって、幸福という目標へ向かう道もない。そのことを、証明してみせましょう。

まず、あらゆる情念が、わたしの軍勢に加わっていることは、すでに認められています。賢者と愚か者の違いは、ただ一つ。愚か者は情念に支配され、賢者は理性に導かれる。そう決まっているのですから。そのため、ストア派は情念を、魂の感染や病に、すぎないものと考えます。人間全体の調子を狂わせ、心身の働きを熱病のように沸き立たせて、ときには、命にかかわる病さえ起こす、と。
ところが、そのように悪く言われる情念こそ、わたしたちが知恵を得るまで、教え導いてくれる教師なのです。そればかりか、わたしたちを勇気づけ、あらゆる企てを、もっと手早く終えるよう、駆り立ててもくれます。
この話は、ストア派のセネカには、腹立たしいでしょうね。情念のない人こそ、知恵の唯一の手本だと、言い張る方ですから。でも、そんな人を想定することは、その人を、すっかり人間でなくしてしまうことです。さもなければ、過去にも未来にも存在しない、架空の神に変えてしまうことです。もっと、はっきり言えば、ただの彫像にするだけ。動かず、感じず、何の働きもしない像にね。
それが、あの方々の賢者なら、自分たちで引き取って、プラトンの国家か、新しいアトランティスか、そのほかの、おとぎの国へ、連れていくがよいでしょう。人間に共通する感覚の声に、まるで耳を貸さない人。木片や石よりも、愛したり哀れんだりする力がなく、どんな危険にも無頓着な人。自分は決して間違わず、どんな成り行きも、はるか先から見通し、最悪の兆しにも備えられると、思っている人。自分と、自分の考えばかりを糧にし、健康も富も力も地位も、何もかも、自分だけのものにする人。誰も愛さず、誰からも愛されない人。神の摂理の仕組みさえ、下手だと非難する厚かましさを持ち、尊大にも、ほかの人々の評判を、ことごとく妬み、それどころか、踏みにじる人。そんな人を、嫌い、避けようとしない者が、いるでしょうか。それが、ストア派の、完全な賢者なのです。
でも、いったい、どの都市が、そんな役人を選ぶでしょう。どの軍が、そんな司令官の下で仕えたいでしょう。どの女性が、そんな役立たずの夫で満足するでしょう。誰が、そんな客を招き、どの召使いが、そんな主人に雇われたいでしょう。最も学のない職人のほうが、どの点でも、ずっと好ましい人です。妻と戯れ、友とは気さくに付き合い、宴会では陽気に振る舞い、会話では柔軟に、誰に対しても、感じよく接するのですから。でも、この話には、わたしも、くたびれました。別の話題へ移るとしましょう。

131-132
131-132 「頁」を表す略記の後に、1で始まる頁番号がある。残りの数字は判読できない。 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

さて、詩人たちが、ユピテルは、そこから世界を見渡すのだと語る、あの塔の上へ、誰かを立たせてみましょう。見回せば、人生全体が、いたるところで、どれほど多くの苦しみや災難に囲まれているか、わかるでしょう。生まれるときは、どれほど汚れにまみれ、揺りかごで世話を受ける間は、どれほど手がかかることか。幼年期には、千もの不幸に襲われかねず、壮年には、どれほどの労苦と骨折りが待つことか。老年は、重苦しく、慰めに乏しく、最後には、避けられない死が、なんとも嫌な姿で待っています。
さらに、人生のどの時期にも、苦しい病に、どれほど責められることでしょう。思いがけない事故が、どれほど起こり、予想もしない災いが、どれほど降りかかることでしょう。一瞬で、どれほど驚くような変化が、起こることでしょう。貧困、投獄、中傷、侮辱、復讐、裏切り、悪意、詐欺、ごまかし。人間がお互いに引き起こす惨めさについては、言うまでもありません。そのほかにも、あまりに多く、全部を数え上げようとすれば、砂粒を数えるのと同じくらい、途方に暮れる計算になるのです。

138
138 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

人間が、どうして、このような厳しい境遇に囲まれるようになったのか。あるいは、どの神が、逆らう人間たちへの罰として、この災いを課したのか。今は、それを調べる暇は、ありません。けれども、これらを真剣に考えれば、苦しい世の中から逃れようと、自ら命を絶ったミレトスの乙女たちの勇気を、たたえずには、いられないでしょう。賢者たちの中でも、どれほど多くの人が、自分の処刑人になるという、同じ道を選んだことか。
ディオゲネス、クセノクラテス、カトー、カッシウス、ブルトゥス、そのほかの英雄たちは、挙げないでおきましょう。その中でも、自分への恵みを辞退したケイロンは、いくらほめても足りません。アポロンから、死を免れ、世界の終わりまで生きられる特権を差し出されたのに、その魅力的な申し出を断ったのです。それを、報酬というより罰だと考えたのは、もっともなことでした。

けれども、皆が、そんなに賢かったら、この世界から、たちまち人がいなくなるのは、おわかりでしょう。崩れた人間の姿を、もう一度、粘土で塗り固めてくれる、第二のプロメテウスが、必要になることでしょう。だから、わたしが、その危険な隙間に立ち、これ以上の災いを防ぐのです。あるときは無知で、あるときは不注意で。思い出せば、つらいことを忘れさせ、待ち望めば、うれしいことへの希望を持たせます。そこへ喜びを混ぜ合わせ、あらゆる悲しみを和らげます。
そのおかげで、人々は、人生に飽きるどころか、命の糸が、最後まで紡がれてしまっても、まだ死にたがらず、友人たちに最後の別れを告げることにも、なかなか納得しません。たとえば、見るからに老い衰え、これから落ちてゆく墓のように、頬がくぼんだ老人がいます。一言しゃべるたびに喉をがらがら鳴らし、吸えるほど柔らかなものしか食べられず、頭の毛より、ひげのほうが多い。まもなく還る塵のほうへ、背を丸めています。肌は、もう羊皮紙になったようで、骨も、すでに、乾いた骨格さながらです。それでも、この人間の影のような者たちは、驚くほど長生きを望み、思いつく限りの策略やごまかしで、死の攻撃を防ぎます。
一人は、色で年齢がばれないよう、白髪を染め直します。別の者は、軽いかつらで、しゃれ込みます。三人目は、失った歯を象牙の入れ歯で補います。四人目は、若い娘に、すっかり恋をし、町でいちばん元気な色男にも負けない、陽気さと勢いで、求愛するかもしれません。それに、老人が持参金のない若い妻をめとり、ほかの男たちの欲情を鎮める相手にすることは、あまりにありふれて、時代の流行にさえなっていると、わたしたちは知っています。
もっと滑稽なのは、しわだらけの老女たちです。その姿を見るだけで、欲情が冷めるほどなのに、「ああ、人生は、なんて甘いもの」と、口にします。そして、恋の相手を求めて歩き回り、失いかけた感覚を取り戻そうと、腰の強い種馬のような男を雇います。自分を、もっと引き立てるため、顔に化粧を塗り重ね、いつも鏡の前で飾り立て、首も胸もあらわにします。猥談を喜び、若い娘たちに交じって踊り、恋文を書き、血気盛んな求婚者をおびき寄せる、小さな工夫を、何もかもするのです。
その間、どれほど笑われようと、本人たちは、思い切り楽しみ、心の望むままに生き、幸福を満たすものには、何一つ欠けていません。そういう人たちを、ひどく滑稽だと思う方には、この一つの問いに、率直に答えていただきましょう。愚かでいることと、首を吊ることの、どちらかを選ぶとしたら、犬のように死ぬより、愚か者のように生きるほうが、はるかによいと、思わないでしょうか。
そもそも、世間が、こういうことを不快に思ったところで、それが何だというのでしょう。その悪口は、愚か者には、何の傷にもなりません。侮辱に、まったく気づかないか、気づいても、たいして心に留めないからです。頭を殴られたり、脳を砕かれたりしたのなら、文句を言う理由も、あるでしょう。けれども、中傷や悪評、恥辱は、どう受け取るかによってしか、害を与えません。悪いものだと思うから、悪いものになるだけなのです。ならば、皆に嘲られ、からかわれても、自分の心の中で持ちこたえ、自分の値打ちに、すっかり満足しているのなら、どんな害が、あるでしょうか。
それに、愚かであることを、なぜ恥だと考えなければならないのでしょう。それは、わたしたちの性質や本質の一部なのです。それなら、賢くないことを欠点として責めるのは、人が鳥のように空を飛べず、野の獣のように四つ足で歩かず、牛や鹿のように額に立派な角を生やしていないからと、笑うのと同じくらい、筋違いです。同じ理屈なら、馬は文法を教わらなかったから不幸だ、牛は剣術を習わなかったから惨めだ、と言えるでしょう。けれども、馬が一字も読めないからといって、値打ちが減るわけではありません。それと同じで、人間も愚かだからといって、それだけで不幸になるわけではないのです。自然と摂理が、それぞれに、そう定めたのですから。

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142 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

でも、と知恵の擁護者たちは言います。人間が技術や学問を習得できるのは、生まれつきの能力の不足を、後から得る能力で補うためではないか、と。まるで、花や草や蠅の仕組みを、あれほど精密に、丹念に作り上げた自然が、自分の最高傑作では、いちばん手をしくじったとでも、言うようですね。人間を、いわば半分だけ作っておき、後は本人が努力して、学問を身につけ、磨き上げなければならない、と。
エジプト人の言い伝えでは、その学問を発明したのは、彼らの神テウトでした。人間に、確かな災いと罰を与えるためです。それは、幸福を増すどころか、最初に目指した目的、すなわち記憶をよくすることさえ、果たしていません。プラトンが『パイドロス』で、巧みに指摘しているとおりです。

世界の初めの黄金時代には、こんな面倒は、いりませんでした。学びといえば、人が皆、共通の感覚から自然に得て、たやすい経験で深めるもの、それだけでした。誰もが同じ母語を話し、互いに通じさえすれば、それ以上、巧みに語ろうとしなかったのですから、文法に、何の使い道があったでしょう。争いに入り込まないだけの賢さを備えていたのですから、論理学に、何の必要があったでしょう。苦労して決着をつけなければならない意見の違いも、起こらなかったのですから、弁論術の出番が、どこにあったでしょう。
法律で縛られる理由も、同じように、ありませんでした。自然の命じることと、人々に共通の道徳だけで、十分な制約となり、義務となっていたのです。摂理のあらゆる神秘についても、好奇心で探るより、驚き、感嘆する対象としていました。ですから、自然の奥底へ入り込み、天文学の現象を、ことごとく解こうと苦労し、存在を細かく分け、微妙きわまる思索を解きほぐすため、頭を痛めるような、思い上がりはしませんでした。浅い理解の届く範囲を超えて、何かを目指すことは、人間にとって罪だと、考えていたのです。

147
147 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

こうして、世界の幼年期には、無知は幸福の母でした。後に信心の母となったのと、同じくらいにね。けれども、黄金時代が、だんだん不純物の多い金属へと堕落し始めると、技術や学問も、発明されました。それでも、初めは数が少なく、理解する人も、めったにいませんでした。やがて時がたつにつれ、カルデア人の迷信と、ギリシア人の好奇心が、あまりに多くの細かな理屈を生みました。今では、文法の細かい議論だけでも、すべてを十分に知ろうとすれば、一生を費やしても、足りないほどです。
そして、さまざまな学芸のうち、弱さと愚かさに近いものほど、高く評価されます。神学者は爪をかみ、自然を研究する者は、指に息を吹きかけていればよいのです。占星術師は、自分の運命が貧乏だと知り、論理学者は、拳を握って、風をつかむがよいでしょう。

難しい名のつく連中を、皆、集めても、
一人のいかさま医者ほどには、幅を利かせられない。

そして、この商売では、腕がいちばん悪くても、自信さえ、いちばんあれば、客も、いちばん多くつくに決まっています。実際、今行われている、この術全体は、策略とごまかしを、一つに練り合わせたものに、すぎません。

医者の次に来るのは、この人です。自分を先に置かなかったことで、わたしを訴えるかもしれませんね。弁護士のことです。あまりに愚かで、無学者の代名詞にまで、なっています。それなのに、あらゆる難題が、この人々によって解かれ、あらゆる争いが決着し、すべての仕事が、当人たちの利益になるように運ばれます。そのあげく、依頼人のために取り戻すはずだった財産を、自分のものにしてしまうのです。その間、貧しい神学者は、擦り切れた法衣に、しらみが這うに任せます。新しい一着を買うだけのお金を、汗と骨折りで稼げるようになるまで、そうしているほか、ありません。
ですから、知恵から最も遠い学芸ほど、その職につく人々には、有利なのです。とはいえ、比べものにならないほど幸せなのは、そういうものとは、できるだけ関わらず、自然の普通の道を、そのまま進む人々です。限りある、わたしたちのために、自然が慎重に引いた境を、自分から飛び越えないかぎり、自然が、道を誤らせることはありません。自然が、いちばん輝くのは、飾り気のない、素朴な自分の衣をまとっているときです。人の作った飾りで汚されていないときこそ、最も強く光を放つのです。

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151 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

そこで、言葉を持たない生き物たちの暮らしを調べれば、自然の導きに任されているものが、いちばんよく暮らしていると、わかるでしょう。たとえば、蜜蜂です。この小さな動物たちの勤勉さと工夫ほど、感心すべきものが、あるでしょうか。

蜜蜂が、まねのできない巣で示しているほど精巧な構造を、作れる建築家が、いるでしょうか。それぞれの巣で、きちんと守られている秩序よりも、よく治められた王国が、あるでしょうか。
一方、馬は自然に背き、人間の奴隷となって、最悪の暴政に苦しんでいます。ときには、戦場へ、拍車で駆り立てられ続け、ついには、自分の腸を、馬飾りのように引きずり、倒れて、草の代わりに地面をかむのです。顎をくつわで制され、尾を切られ、背を傷め、脇腹を拍車でえぐられること、厩舎に閉じ込められること、放牧されても綱や足かせをつけられること。そのほかの多くの苦しみについては、言うまでもありません。自然が、最初に与えた自由な立場に留まっていれば、避けられたことばかりです。
自由に飛び回る蠅や鳥のほうが、どれほど望ましい暮らしでしょう。本能に従って生きているので、幸福を満たすものには、何も欠けません。ただし、何やら仕事に励むドミティアヌスが蠅を追い回したり、狡猾な鳥捕りが、鳥を捕らえるために罠や仕掛けを置いたりしなければ、です。
また、羽のそろわない翼では、まだ巣から飛び出せない幼鳥を捕まえ、籠に閉じ込めて、歌や口笛を教え込んだとしても、新しく覚えた節は、野生の鳴き声や、自然な旋律の、半分ほどにも美しくありません。自然が、ただ下描きしただけのものが、技巧で塗り足した絵の具や上塗りを、これほど上回るのです。
ですから、ルキアノスの語る、あのピタゴラス派の雄鶏にも、感心し、敬意を払わずにはいられません。あの雄鶏は、男、女、君主、臣民、魚、馬、蛙と、次々に生まれ変わってきました。その経験を経て、判断を、こうまとめたのです。人間こそ、あらゆる生き物の中で、いちばん惨めで哀れだ。ほかの生き物は、自然の囲いの中で、穏やかに草を食んでいるのに、人間だけが飛び出し、正当に定められた、その安全な限界を越えて、さまよっているのだから、と。
グリュロスも、知恵を多く巡らすウリュッセスより、賢かったと認めるべきでしょう。キルケの魔法で豚にされたとき、豚の姿を捨てず、好きな豚小屋を離れて、危険な航海へ出ようとは、しなかったのですから。
さらに、その裏づけとして、詩人すべてを率いるホメロスの権威を、挙げられます。ホメロスは、人間一般に、惨めで不幸だという呼び名を与える一方、ウリュッセスには、特に「哀れな」という名を与えています。パリス、アイアス、アキレウス、そのほかの将には、決して与えていないのに。それは、ウリュッセスが、ほかの誰より、策略に長け、慎重で、賢かったからなのです。

155
155 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

こうして、知恵を最も高く求める人ほど、幸福から、最も遠くなります。自分の本性の境を越えて舞い上がるため、いっそう大きく、はね返されるのです。自分が、ただの人間だということを忘れ、堕ちた天使たちのように、全能の神と張り合い、巨人たちのように、自分の頭で作った攻城の道具を使って、天へ登ろうとします。その反対に、至福への道で、最も高いところへ達するのは、獣に最も近くまで身を落とし、理性を使うことを、すっかり、穏やかに手放した人々なのです。

これも、身近な例で証明できます。わたしたちが、白痴、取り替え子、愚か者、生まれつきのばか、などと呼ぶ人々ほど、楽しく暮らしている者たちが、いるでしょうか。耳障りに聞こえるかもしれませんが、よく考えれば、この人々が、どの点でも、最も恵まれ、最も心地よく生きていることは、十分にわかるはずです。
まず、恐れというものが、ありません。そこから免れているとは、大変な特権です。後悔や良心のとがめにも、悩まされません。あの世についての、おどろおどろしい話も怖がらず、幽霊や幻が現れたと思って、飛び上がることもありません。迫る災難への恐怖に苦しめられず、待ち望む楽しみへの期待に、振り回されもしません。要するに、理性のある魂の平穏に戦いを仕掛ける、あらゆる心配事の軍勢から、攻められずにいるのです。何も恥じず、誰も恐れず、野心や嫉妬や恋の苦しみを、追い払っています。
そして、今の幸福に加えて、未来の幸福まで待っています。責任を問われる罪も、ないからです。神学者たちは、皆、こう主張しています。深く、避けようのない無知は、悪い行いの罪を軽くし、悪質さを減らすだけではない。その罪そのものを、完全に免れさせるのだ、と。

159
159 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
訳注

ここで並べられる呼称は、底本の歴史的な表現を訳したもの。現代の診断分類ではない。取り替え子は、妖精などが人間の子を取り替えるという伝承を指す。

さあ、賢者として敬われることを求める皆さま、率直に、お認めなさい。反抗する思いが、どれほど心の中で蜂起し、あくせく働く頭が、どれほど痛みにさいなまれ、皆さまは、それに、いつも投げ回され、苦しめられていることでしょう。避けようもなく受けている、あらゆる不都合を数えてごらんなさい。そのうえで、これらの混乱を免れている愚か者たちのほうが、皆さまより、限りなく自由で幸福ではないか、お答えください。
そのうえ、愚か者は、ただ一人で笑い、歌い、陽気に遊んでいるだけでは、ありません。よいものは、周りへ分かち与えられる性質を持ちます。ですから、その人たちも、自分の楽しみを、他人へ分けます。どんな一座に加わっても、全員を楽しませるのです。まるで摂理が、憂鬱への解毒剤として、わざわざ作ったかのように。
それで、誰もが、その人たちと一緒にいたくなり、どこへ行っても歓迎され、抱き締められ、かわいがられ、守られます。何を言っても、何をしてもよい、自由まで与えられるのです。あまりに愛されているので、少しでも害を加えようとする者は、いません。最も貪欲な猛獣さえ、傷つけずに通り過ぎます。そんな無邪気さを傷つけてはいけないと、本能で教えられているかのようです。
さらに、君主の宮廷でも、その話し相手としての好ましさは、格別です。そばに置かずに宴会を開き、散歩し、そのほかの気晴らしを楽しむ王は、めったにいません。それどころか、最も厳めしい顧問たちよりも、ずっと好んで付き合います。顧問たちは、好きだからというより、体裁のために置いているのですから。
こうした愚か者が、重々しい政治家よりも好まれるのは、さほど不思議ではありません。後者は、とげとげしく、不機嫌な助言をし、時機を外して真実を告げ、君主の機嫌を損なうくらいしか、できません。それに引き換え、愚か者たちは、笑い、話し、冗談を言っても、相手を不快にする危険が、ないのです。

愚か者には、さらに、たいへん、ほめるべき性質があります。いつも真実を話すことです。それより高貴で、英雄的なことは、ありません。プラトンは、アルキビアデスの言葉として、酔いの海では真実が、いちばん上に浮かぶ、つまり、真実を語るのは酒だけだ、と伝えています。けれども、その称号は、わたしのほうが、もっと正当に名乗れます。エウリピデスの権威によっても、示せることです。あの人は、次の言葉を、確かな教えとして掲げています。「μωρὰ μωρός λέγει」。「子どもと愚か者は、いつも真実を話す」と。
愚か者は、心にあることを、何でも顔に出してしまいます。あるいは、もっとはっきりと、言葉で明かします。その一方、賢者は、エウリピデスの指摘するとおり、二枚の舌を持っています。一枚は、言ってもよいことを話し、もう一枚は、言うべきことを話します。一枚は真実を、もう一枚は、その時、その場の求めることを話します。だから、ほんの一瞬で判断を変え、たった今、黒だと誓ったものを、今度は白だと証明できるのです。粥を前にしたサテュロスのように、同じ息で、温めたり冷ましたりします。唇では、一つのことを言い、心では、別のことを考えているのです。

訳注

引用のギリシア語は、一八七六年版七〇頁の印刷に従った。意味は「愚か者は愚かなことを言う」であり、直後の英語の「子どもと愚か者は、いつも真実を話す」とは一致しない。本文では底本の並びを残し、ここに両者の違いを示した。

さらに、君主たちは、最も華やかな栄光の中にあっても、この点では不幸に見えます。真実を告げてもらう利益を失い、取り入ろうとする廷臣たちに、だまされているのです。廷臣たちは、友としてよりも、へつらう者として、うまく立ち回ります。
君主は真実を聞くのが嫌いなのだから、賢い人は、その前での振る舞いに、用心しなければならない。喜ばれることよりも、真実のほうを話す自由を、使いすぎてはいけない。そう反論する方も、いるでしょう。それは、認めなければなりません。確かに、真実が王の耳に心地よいことは、めったにありません。
けれども、愚か者には、大きな特権があります。ただの真実どころか、最も苦い真実まで、自由に話せるのです。同じ叱責でも、賢者の口から出れば、首が飛ぶようなことを、愚か者が、ひょいと口にすると、許されるだけでなく、喜ばれ、褒美まで、もらえます。真実には、それを向けられた人を不快にするものさえ伴わなければ、生まれつき、喜びが交じっているのです。そういう形で伝える、うまいこつを授かっているのは、愚か者だけです。
この手の人々が、女性から、いっそう愛されるのも、同じ理由です。女性は、たとえ、どれほど乱暴でも、自分を転がして戯れてくれることを喜びます。本気でしてもらいたいことを、ただの冗談として受け取っているふりをするのです。女性というものは、自分の、みだらな好みの向かう先を、取り繕い、隠すことに、実に長けているのですから。

さて、話を戻しましょう。愚か者たちには、もう一つ、幸福があります。陽気に進んで、人生の最後の幕へ来ると、死ぬことに恐れも痛みも感じず、満ち足りて、あの世へ歩いてゆくのです。そこでも、この地上と同じくらい、一緒にいることを、きっと喜ばれるでしょう。

164
164 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

では、愚か者と賢者の境遇を、比べてみましょう。片方が、もう片方を、どれほど大きく上回るか、おわかりいただけるでしょう。

考えられる限り賢い人を、一人、挙げてごらんなさい。若い年月を、すべて、本にかじりつき、学問を追いかけて過ごし、人生の最も楽しい時期を、徹夜と汗と断食で、使い果たした人です。年を取ってからも、喜びを一口も味わえず、いつも、けちで、貧しく、うなだれ、ふさぎ込み、自分を持て余し、他人からも歓迎されません。青白く、やせて、頬はこけ、病弱です。座り続けたために、体を損なう病にかかり、花びらの散る前に摘まれた薔薇のように、早すぎる死を迎えます。
これが、賢者の幸福の姿です。ああなりたいと、うらやむよりも、気の毒にと、哀れむべき姿では、ありませんか。

ところが、また、がみがみ言うストア派がやって来ます。そして、論理の式や格を並べて、わたしに言うのです。狂っていることほど、惨めなものはない。愚かであるとは、狂っていることである。ゆえに、愚かであることほど、惨めなものはない、と。ああ、これは、ただの詭弁です。どこに誤りがあるか、見つけさえすれば、三段論法全体の力は、消えてしまいます。
ええ、確かに、あの人たちの議論は巧みです。けれども、プラトンの作品では、ソクラテスが、二人のウェヌスと、二人のクピドを区別し、その働きや性質を、混同してはいけないと示していますね。それと同じように、この論争家たちも、自分自身が狂っていなければ、他人の二種類の狂気を、区別すべきでした。確かに、この二つは、程度だけでなく、本質も大きく違い、同じように恥ずべきものでは、ありません。ホラティウスなどは、一方の狂気を、喜んでいるようです。こう歌っているのですから。

この、うれしい狂気が、わたしに、こんな見間違いをさせるのか。

また、プラトンは『パイドン』で、詩人、予言者、恋人の狂気を、幸福な人生に役立つ性質に数えています。そして、ウェルギリウスは『アエネイス』第六巻で、勤勉なアエネアスに、こんな言葉を向けています。

訳注

プラトンの著作名は、底本に Phaedon とあるため、そのまま訳した。

もし、お前が、この狂おしい企てを、なお進めるというのなら。

実際、狂気には、二種類あります。一方は、復讐の女神たちが、冥府から持って来るものです。これに取りつかれた人々は、権力や富への、尽きない渇望に駆られ、戦争や争いへと急き立てられます。恥ずべき、許されない欲情に燃やされ、怒り狂って親を殺し、そそのかされて近親相姦や神聖を汚す行い、そのほか、真っ赤な罪に染まります。あるいは、ついには、良心に刺され、悲しみと後悔のむちや蛇によって、打たれ、かまれるのです。
けれども、愚かさから生まれる、もう一つの狂気があります。これは、害や不快さがあるどころか、すっかり、よいものであり、望ましいものです。物事を判断するときの、無害な思い違いによって、心が、本来なら痛く苦しめるはずの心配事から解放されるとき、これが生まれます。その思い違いがなければ、これほど幸せには味わえなかった満足で、心は穏やかになるのです。
キケロが友人アッティクスへの手紙で、自分にもあってほしいと願った、あの心地よい無感動、鈍感さも、これです。レピドゥス、アントニウス、アウグストゥスの三頭政治による、耐えがたい横暴を、少しでも気にせずに済むように、と願ったのでした。
あのギリシア人も、楽しい時を過ごしました。一日じゅう、誰もいない劇場に座って、笑い、叫び、手をたたくほど、狂っていた人です。まるで、胸を打つ悲劇が、目の前で生き生きと演じられているようでした。実際には、すべて、想像の力と、思い込みの働きでしか、なかったのに。けれども、その人は、それ以外のことでは、実に分別のある振る舞いをしていました。

友には優しく、妻には親切で、気遣い深く、
仕返しなど、しようとも思わない。
召使いたちが、瓶詰めの酒の封を切ってしまっても、
いら立ちもせず、むっつり不平をこぼしもしない。

その後、薬による治療で、この狂気から回復すると、本人は、治ったことを、ありがたいとは、まるで思いませんでした。友人たちに、こう話したのです。

友よ、この薬は、結局、病よりも悪い。
治してもらったら、苦しみが増えた。
もう一度、病に戻ることだけが、わたしの望みだ。

確かに、二つを比べれば、いっそう狂っていたのは、こんなに楽しい幻を、その人から奪おうとした側でしょう。頭のもやを晴らすことで、頭痛を、そっくり呼び戻してしまったのですから。

169
169 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
173-174
173-174 参照頁:210頁 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

感覚と理解力の不備を、何もかも、狂気という一つの種類に含めてよいかどうかは、まだ、決めていません。たとえば、目が悪くて騾馬を驢馬と見違えたり、考えが浅くて、くだらない流行歌を、優れた詩だと感心したりしても、それだけで、すぐに狂人と決めつけられは、しません。けれども、ごく普通の、身近なことについて、感覚だけでなく、判断まで欺かれてしまうと、狂人も同然だと、悪く思われます。驢馬のいななきを聞いて、うっとりするような音楽だと思ったり、生まれつきの物乞いが、自分は君主ほど偉いと思い込んだりするような場合です。
しかし、この種類の狂気に、たいてい、そうであるように、喜びが伴っていれば、それに取りつかれている当人にも、他人の中にあるそれを笑う人にも、大きな満足をもたらします。両者が、同じ程度に狂っているわけでは、ありませんけれど。そして、この種類の狂気は、世間が普通に考えるよりも、広く行き渡っています。狂人の一族全体が、互いを笑い合いながら、楽しんでいるのです。もっと狂った人が、それほどでもない人を、からかうことも、よくあります。
でも、本当のところ、狂気が、愚かさの多すぎるところから来るものでさえあれば、人は、狂えば狂うほど、幸せになります。この病は、あまりに広くはやっているので、ときどき、何かの狂気の発作を一度や二度、起こさないほど、感染を免れている人を見つけるのは、難しいのです。
患者同士の違いは、ただ、このくらいです。ほうきの柄を、すらりとした女性だと思う人は、すぐに狂人と決めつけられます。そんな奇妙な見間違いは、めったに起こらないからです。その一方、妻が、誰でも客として入れる店のように、男を受け入れる女なのに、手の触れられていない乙女のように貞淑だと誓い、その、うれしい思い違いに満足している人は、ほとんど注目もされません。近所の、気のよい人々にも、同じような者が、たくさんいるからです。
狩りを、度を越して楽しむ人々も、この中に数えてよいでしょう。角笛の響きや猟犬の鳴き声にかなう音楽など、ないと思っている人々です。薬を飲むとなれば、犬の糞の「アルブム・グラエクム」にこそ、最高の効き目があると、ためらわずに思うでしょう。
獲物を追い詰めた後、それを切り分けるときの、あの奇妙な喜びようといったら。牛や羊は、普通の肉屋が屠ってかまいません。けれども、狩りで仕留めたものを解体するには、紳士より身分の低い者では、だめなのです。その人は帽子を投げ捨て、うやうやしく膝をつき、大きな狩猟刀を抜きます。普通のナイフでは、ふさわしくないのです。そして、いくつもの儀式を踏んだうえで、最も熟練した解剖学者に劣らぬ手際で、各部を切り分けます。周りの者たちは、一心に見つめ、まるで初めて見るもののように、驚いています。同じことを、すでに百回も見ているのに。
指を浸して、血をなめることができただけでも、自分の血筋まで、よくなったと思うのです。そして、そんなものばかり食べ続ければ、食べている獣の性質に、近づくだけなのに、鹿肉は君主の食べ物であり、それで暮らす自分たちも、皇帝ほど偉くなるのだと、言い張るのです。

178
178 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
訳注

アルブム・グラエクムは、古く薬として用いられた、白くなった犬の糞を指す歴史的な名称。ここでは狩り好きの思い込みを皮肉る言葉として挙げられている。

これに近いのが、建築に、すっかり夢中になる人々です。建てては壊し、また始め、設計を変えます。財産を、すべて使い果たすまで、休みません。建物のために、あまりに広く土地を取るので、ついには、自分が暮らすための一足分の地面も、寒さや飢えをしのぐための、粗末な小屋も、残らなくなります。それなのに、その間ずっと、自分の工夫が誇らしくて仕方なく、自分の幸福をたたえる、甘い安らぎの歌を、歌っているのです。

そこへ加えられるのが、こつこつと研究に励む物好きたちです。新しい発明という獲物を求めて、自然の最も奥深い隠れ場所を荒らし、まだ隠れている秘密を掘り出そうと、海も陸も、かき回します。成功への希望に、絶えず心をくすぐられるので、費用も苦労も惜しまず、ひたすら進みます。一つの試みで失敗すると、勇ましく向きを変え、別の試みへ移り、新しい実験に取りかかります。
財産を、まるごと焼いて灰にし、るつぼや蒸留器の一つを買う金さえ、溶かさずに残しておけなくなるまで、やめません。それでも、すっかり落胆することは、ないのです。まだ、すばらしいことを夢見て、できるかぎり、ほかの人々にも、同じ企てをするよう、元気づけます。いくつもの失望の末に、希望が、いよいよ最後の息を引き取ろうとしても、面目を保つための言い逃れが、一つ、残っています。

大事業では、ただ試みただけでも、十分なのだ。

こうして、人生の短さを責めます。計画を実らせ、完成させるだけの時間を、与えてくれない、と。

さいころ遊びをする人々
さいころ遊びをする人々 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
さいころ遊びをする人々
さいころ遊びをする人々 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

さいころ遊びにふける人々も、好意的に扱って、この仲間に入れてよいものか、まだ、はっきり決めてはいません。けれども、実にむなしく、滑稽なのは確かです。さいころの筒が、最初に、がらりと鳴っただけで、心臓が、さいころの動きに合わせて震えるほど、この遊びに打ち込んでいる人がいるのですから。
いつまでも勝ち続けられるという希望に駆り立てられ、しまいには、文字どおり、全財産を投げ捨ててしまいます。持っているものを、すべて難破させ、着の身着のまま、やっと岸へ逃れるのです。その間も、賭け金を、きちんと払うことは、大切な信義だと思っています。賭けで金を貸してくれた相手をだますくらいなら、ほかの、どんな債権者をだますほうが、ましなのです。
眼鏡をかけなければ、出た目も読めない、目を凝らす老人まで、同じ遊びに汗を流しています。それどころか、痛風で指が使えなくなった、衰えた老人が、そばで見ながら、代わりに投げる人を雇いさえします。これは、確かに、とてつもない行き過ぎです。ただ、あまりにしばしば、本当の狂気で終わるので、愚かさというより、復讐の女神たちの領分に、属するように思えます。

次に、愚か者の軍勢へ加えられるのは、信じがたい奇跡や怪異の話を、語ったり聞き集めたりするのを、生業にしている人々です。嘘を喉に詰まらせる心配など、少しもせず、霊や幽霊、幻、悪魔の呼び出し、そのほか、迷信のお化け話を、千も寄せ集めます。本当らしさから遠ければ遠いほど、貪欲に呑み込まれ、熱心に信じられるのです。
そして、このばかげた話は、むなしい喜びや、安上がりの気晴らしを生むだけでは、ありません。よい商売にもなります。この手で稼ぐ司祭や修道士には、暮らしに困らない収入を、与えてくれるのです。
これに近いのが、聖人や殉教者の聖堂、聖像に、不思議な力があるとする人々です。信じやすい信者たちに、こんなことを信じ込ませようとします。朝、聖クリストフォロスに祈れば、その後、一日じゅう、あらゆる危険や不運から守られる。兵士が武器を取る際に、聖バルバラの絵の前へ来て、決まった祈りを、ぶつぶつ唱えれば、どんな戦いからも、無事に帰れる。決まった祝日に、ろうそくをともす儀式や、そのほかの、ばかげたことをして、聖エラスムスに祈れば、ほどなく、たっぷりと財産が増えて報われる、と。
異教徒にヘラクレスがいたように、今では、キリスト教徒にも、巨人の聖ゲオルギオスがいます。聖人を馬に乗った姿で描き、馬には、華麗な馬具をつけ、実に見事に飾り立てます。そのあげく、文字どおり、馬そのものを拝むまで、あと一歩です。
では、赦しや免償の、まやかしをたたえ、擁護する人々については、何と言いましょう。彼らは、それによって、魂が煉獄に滞在する期間を計算し、この、つまらない赦しや、売り物の免除を、多く買うか、少なく買うかに応じて、長くしたり、短くしたりします。
また、こんなことを言い張る人々は、どれほど悪く言っても、足りないでしょう。魔法の呪文の力や、祈りの珠を、もたもた繰りながら、決まった願いを繰り返すことで、富、名誉、快楽、健康、長寿、元気な老年が手に入る。それどころか、死後には、救い主の王国で、その右に座れる、と。この祈りは、宗教をかたる、いかさま師たちが、暇つぶしに、あるいは、もっと、ありそうなことですが、利益のために、考え出したものです。
もっとも、幸福の最後の部分については、どれほど先へ延びても、気にしません。地上の楽しみに食傷し、満腹になって、もう味わえなくなるまでは、天の喜びを味見したい気持ちなど、ほとんど、ないのですから。
こうして、簡単に赦しを買えるとなると、悪名高い追いはぎも、略奪する兵士も、賄賂を受け取る裁判官も、不正な稼ぎの一部を払い出すだけで、最も大きな不信心を、すべて、十分に償ったと思います。数々の偽誓、淫欲、酩酊、けんか、流血、ごまかし、裏切り、あらゆる放蕩について、いわば値段の相談がつき、契約が成立するのです。まるで、たまった借りを、すべて払い終え、今度は、新しい勘定を始めてよい、とでもいうように。

聖ベルナルドに教える悪魔
聖ベルナルドに教える悪魔 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

また、詩編の七つの節を毎日唱えれば、天国へ行けると信じ切っている人々ほど、滑稽な者が、いるでしょうか。あの七節は、悪魔が聖ベルナルドを、だまそうとして教えたものなのに、悪魔のほうが、逆に知恵で出し抜かれてしまったという、あれです。

こうした愚行の中には、あまりに、あからさまで、ばかげているので、わたし自身さえ、自分のものと認めるのが恥ずかしいものも、あります。それなのに、普通の人々だけでなく、もう少し知恵があってもよさそうな、宗教に通じた人々までもが、実行し、感心しているのです。

国ごとに、それぞれの守護聖人を持とうとする習慣も、同じ愚かさから生まれています。それどころか、聖人には、一人ひとり、違う役目が割り当てられ、その用事に応じて、祈りが向けられます。ある聖人は歯痛、別の聖人は安産、三人目は失せ物探し。ほかには、長い航海の船乗りを守る聖人や、農夫の牛や羊を守る聖人も、います。あとは、この調子です。全部の例を繰り返せば、ひどく長くなってしまいます。

もっと広い役目を持ち、どんな場合にも祈られる聖人もいます。とりわけ、聖母マリアです。その盲目的な信者たちは、今では、御子よりも母を先に置くほうが、礼儀にかなうと、思っているのです。

そして、それぞれの聖人に捧げられる祈りや取りなしの願いも、中身は、ただの愚かさです。感謝のしるしとして教会の壁や天井に掛けられた奉納品を、どれほど探しても、愚かさが治った記念や、知恵がほんの少し増えた記念は、見つかりません。
ある人は、難破したのに無事に岸へ着きました。ある人は、敵に体を貫かれたのに回復しました。仲間の兵士が、その場で皆殺しになったのに、たぶん臆病さに負けないほどの狡猾さで、戦場から逃げ出した人もいます。首を吊られていたところ、縄が切れて助かり、昔の盗み稼業に戻る許しを得た人もいます。牢を破って逃げ出した人。医者の望みに反して、危ない熱病から回復した患者。毒を飲んだら、ひどい下痢になり、害よりも、むしろ体によかった人。その妻は、この機会に喜ばしい未亡人になれると期待していたので、大いに悲しみました。
荷車がひっくり返ったのに、馬は一頭も脚を傷めなかった人。ひどい転落をしたのに、打ち身から回復した人。隣人の妻に手を出していたところ、寝取られて怒り狂う夫に現場を押さえられそうになり、すんでのところで逃げた人も、います。
こうした、さまざまな危険から逃れた感謝はあっても、先ほど申し上げたように、愚かさから解放されたことへの感謝は、ありません。愚かさは、あまりに甘く、おいしいものなので、罰として遠ざけてもらうより、幸福として授けてほしいと願われるのです。けれども、なぜ、わたしは、この広大な迷信の海へ乗り出さなければならないのでしょう。

アルゴスの目や、ブリアレオスの手と同じほど、
わたしに舌があったとしても、足りはしない。
愚かさの、あらゆる姿を、あらましだけでも語るには。

ほとんどすべてのキリスト教徒が、哀れにも、盲目と無知に縛られています。司祭たちは、それを防いだり取り除いたりするどころか、闇をいっそう濃くし、思い違いを広めます。よくわかっているのです。牛が、優しくなでられると、いちばんよく乳を出すように、人々も、もっと知るようになれば、差し出すものが減ってしまう、と。人々の気前のよさは、ただ、慈善についての思い違いから生まれているのですから。
そこへ、重々しい賢者が立ち上がり、場違いな真実を語ったら、どうでしょう。幸福な死を確かにする道は、信仰にかなった生き方だけである。罪を赦してもらう、いちばん確かな資格は、心から自分の罪を嫌い、誠実に改めようと決意することで得られる。聖人に捧げる最良の信心は、その模範的な生き方を、まねることである。そんなふうに、さまざまな間違いを教えて回ったら、涙も、夜通しの祈りも、ミサも、断食も、そのほかの苦行も、評価が、まるで変わるでしょう。以前は、あんなに大切にされていたのに、それらに見いだしていた満足を失うことになり、人々は、今度は腹を立てるのです。

194
194 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

まだ生きていて、元気でもあるのに、死んだときの葬られ方に、ひどく気を配る人々も、同じ愚か者の仲間に数えられます。葬儀に松明を何本、紋章をいくつ、配る手袋を何組、会葬者を何人、と、厳かに決めておくのです。まるで、棺の中で、自分の遺体に払われる敬意を感じられると思っているかのようです。あるいは、威儀や華やかさを少し減らして葬られると、その分だけ、墓の中で安らかに休めなくなると、疑っているのでしょうか。

今、わたしは急いでいるので、できれば立ち止まりたくはありません。それでも、もう一種類の愚か者について、ひと言も触れずに通り過ぎるわけには、いきません。元をたどれば、酒場の給仕や鋳掛屋の出にすぎないかもしれないのに、身分や家柄を、ひどく誇る人々です。
ある人はアエネアスまで、別の人はブルートまで、三人目はアーサー王まで、家系をさかのぼります。虫食いだらけの先祖の肖像を、古さの証拠として掛け、歴代の名前を長々と並べて、役職や称号を記録しています。そのくせ、当人たちは、先祖の物言わぬ彫像の写しにすぎません。いや、貴族のしるしとして紋章に掲げる、あの獣そのものにまで、堕落しているのです。
それでも、生まれや身分への強い思い込みのおかげで、本人たちは、このうえなく楽しく、気楽に暮らしています。そればかりか、こうした獣を、ほとんど神々と同じ高さまで、ほめそやす人々も、少なくありません。
けれども、同じような例が、こんなにあるのに、なぜ、一つか二つに、とどまっているのでしょう。思い上がりと自己愛は、想像の力によって、多くの人に、自分は幸福だと信じさせます。そうでなければ、実際は、惨めで見下げられる境遇なのに。町で、いちばん猿に似た醜い顔の男が、自分を美の手本だと思います。別の男は、才能を誇るあまり、コンパスで三角形を描けただけで、幾何学の難問を、すべて解き明かしたと思い、ユークリッドにさえ勝てるつもりになります。
三人目は、豚がオルガンを弾くほどの腕しかないのに、自分を、人をうっとりさせる音楽家だと、ほめたたえます。また、雄鶏の鳴き声のように、かすれた音を喉で鳴らす男が、自分の声を誇り、サヨナキドリのように歌っている、と考えるのです。

199
199 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

ほかにも、とても楽しい狂気があります。他人の中に見つけた長所を、何でも、自分のものにしてしまうのです。セネカの話に出てくる、あの幸福な金持ちの無作法者が、そうでした。記憶力があまりに弱く、召使いがそばで言葉を教えなければ、ごく短い話もできません。体も弱く、まっすぐ歩くことさえ、やっとでした。それなのに、決闘を申し込まれても、引き受けて大丈夫だと思っていたのです。家には、元気で頑丈な男を何人か置いていたので、自分の力の代わりに、その者たちの力を、当てにしていたのでした。

202
202 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

さまざまな技術や学問を仕事にする人々については、ほとんど言うまでもありません。誰もが、あまりに、うぬぼれています。知恵への権利を手放すくらいなら、土地や財産への権利を、先に手放すでしょう。とりわけ役者、音楽家、弁論家、詩人たちが、そうです。頭が鈍く、誇りが高いほど、野心も大きくなります。
どれほど愚鈍さが知れ渡っていても、感心してくれる人には、出会えます。それどころか、愚かであればあるほど、高く持ち上げられるのです。先ほども申し上げたように、愚かさが敬われ、評価されないことは、ありません。ですから、無知な人ほど、自分に満足し、他人にもほめられるのなら、真の学問を求めて汗を流し、骨を折るのは、何のためでしょう。身につけるには、頭を痛める苦しみが、あんなに必要なのに、得られたところで、苦労した本人の心が、いっそう落ち着かなくなり、他人にも好かれなくなるだけでは、ありませんか。

自然は、個人に思い上がりを配るように、国や民族ごとにも、それぞれの自己愛の風味を与えました。そのため、イングランド人は、最も美しい女性を持ち、音楽の技に最も優れ、最良の食卓を整えるのは自分たちだと、特権を主張します。スコットランド人は、家柄のよさを誇り、生まれた土地の気風が、自分たちを論争上手にしていると言います。フランス人は、愛想のよさと育ちのよさで、自分たちが際立っていると思っています。パリのソルボンヌの人々は、論争神学で、誰よりも大きく進歩したのは自分たちだと、言い張ります。
イタリア人は、学問と雄弁を誇り、昔のギリシア人のように、自分たちと比べれば、世界じゅうが野蛮人だと、考えています。特にローマの住民は、この虚栄に取りつかれています。何世代も昔に、彼らの町を名高くした、あの英雄的な徳を、すべて自分が備えているつもりなのです。ヴェネツィア人は、生まれと血筋を重んじます。ギリシア人は、多くの学芸を最初に発明したことと、祖国が、あんなに多くの優れた哲学者を生んだことで、名高いことを誇ります。
トルコ人や、そのほかの、ムハンマドの教えを信じる、くずのような連中は、自分たちだけが真の宗教を信じていると言い張り、キリスト教徒を皆、迷信深く、心の狭い愚か者だと笑います。ユダヤ人は、今も、最初の預言者モーセを信じるのと同じくらい熱心に、メシアを待っています。スペイン人は、優れた兵士と認められるべきだと主張します。ドイツ人は、背の高い、立派な体つきと、魔術の巧みさで知られています。
これ以上は挙げませんが、自己愛が人間の幸福を、どれほど増し、豊かにするか、もう、おわかりいただけたでしょう。そのすぐ隣にあるのが、追従です。自己愛は、自分で自分を、なだめて持ち上げること。それと同じように、他人の機嫌を取り、喜ばせることが、追従と呼ばれるのです。

206
206 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

確かに、今では、追従は恥ずべき名とされています。けれども、そう考えるのは、物事そのものより、言葉を気にする人たちだけです。なぜ、偏見を持つのでしょう。追従は、真実や誠実さを、すべて押しのけてしまう、と考えるからですか。実際の性質は、まったく逆なのに。いくつかの動物を見れば、わかります。スパニエル犬ほど、すり寄って機嫌を取るものが、いるでしょうか。

それなのに、主人に対して、これほど忠実なものが、いるでしょうか。飼いならしたリスほど、甘え、人になつくものが、いるでしょうか。それでいて、これほど、よく遊び、害のないものが、いるでしょうか。この小さな、ちょこまか動く生き物は、一緒に遊ぶために、籠に飼われています。その一方、獅子や虎や豹、そのほか、略奪と残酷さを体現する野獣は、威勢を示し、珍しがらせるために、見せられるだけです。それ以外には、飼う人に、何の楽しみも与えません。

確かに、有害で、人を破滅させる追従もあります。いかさま師や強欲な連中が、獲物にできそうな相手を、抜け出せない罠へ誘い込み、自分の目的を果たすためのものです。けれども、愚かさから生まれる追従は、まるで性質が違います。柔らかな心と、気のよい融通の利きやすさから出てくるもので、友情における、もう一方の極端、つまり、かたくなで、不機嫌で、意地の悪い気難しさよりも、ずっと徳に近いのです。
疲れた心を休ませ、憂鬱な心を明るくし、弱った心を強め、重い心に活力を与えます。病んだ心を回復させ、逆らう心を静めます。友を得る方法も、友を保つ方法も、教えてくれます。子どもには、学問の苦い初歩を呑み込む気にさせ、老人の、ほとんど動かなくなった魂には、新しい活気を吹き込みます。ほめる仮面をかぶり、相手を不快にさせずに戒め、原則を教えます。
要するに、人を、自分自身に優しく、寛大にします。それは、一人ひとりの幸福の、決して小さくない部分なのです。同時に、どんな一座でも、親切で愛想よく振る舞えるようにします。そこでは、驢馬同士が、互いに体をこすり、かゆいところをかき合う様子を、楽しく眺められるでしょう。

互いにかき合う驢馬たち
互いにかき合う驢馬たち ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
訳注

「原則を教え」は底本の instructs principles に従った。印刷面も principles であり、構文には不自然さが残るが、princes(君主たち)など、別の語には置き換えていない。

これは、弁論家には大切な腕前であり、医者には、それ以上に大切で、詩人には、唯一の腕前です。結局、あらゆる苦しみを和らげる最良の甘味であり、それなしには味気ない、人生の楽しみ全体に、本当の味わいを与えてくれます。
でも、追従とは、だますことではないか。だますことは、ひどく残酷で、有害ではないか。そうおっしゃいますか。いいえ、まったく逆です。だまされることほど、うれしく、うっとりさせるものは、ありません。物事の本質全体が、その物事について抱かれる考えだけで成り立っているのに、物事それ自体が何であるかによって判断する人々は、区別のできない頭を、大いに責められるべきです。
月の下にある、すべての物事は、あまりに深い曖昧さの雲に包まれています。見通しの短い人間の理解力では、その雲を貫き、全体を知り尽くすことは、できません。だから、アカデメイア派の哲学者たちは、控えめに結論したのです。あらゆることは、もっともらしいという以上ではなく、確かに知れることなど、ない、と。仮にあったとしても、もっと幸せな無知の喜びを妨げ、減らすだけでしょう。
そもそも、わたしたちの魂は、実際の真理よりも、見かけに、たやすく心を奪われるようにできています。例が欲しければ、教会に、ごく身近なものが見つかります。説教壇から語られるのが、重みのある、確かな、筋の通った話なら、会衆は皆、飽き飽きし、我慢から解放されるまで眠ってしまいます。ところが、説教師が、失礼、この言葉は不適切ですね、おしゃべり屋が、と言うつもりでした。その人が熱心に座布団をたたき、奇妙な身振りをし、砂時計の時が尽きるまで、愉快な話をしていれば、愛する信者たちは立ち上がり、髪を耳の後ろへかき上げ、実に熱心に耳を傾けます。
聖人についても、同じことです。最も物語めいて、作り話に富む聖人のもとへ、人々は、いちばんよく集まります。たとえば、詩の世界の聖ゲオルギオス、聖クリストフォロス、聖バルバラには、聖ペトロや聖パウロより、いえ、おそらくキリストご自身よりも、よく祈りが捧げられるでしょう。ただ、この話は、別のところでするほうが、ふさわしいかもしれません。

215
215 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

ともあれ、想像の力があれば、どれほど安く幸福を買えるか、ごらんなさい。たいした値打ちもないものを手に入れるためにさえ、多くの苦労や、ときには大金が、かかります。ところが、思い込みなら費用はかかりません。それでも、心の中では、実際に持っているのと同じくらい、十分に与えてくれるのです。
ほかの人なら、一ヤード離れていても鼻をつまむほど、臭い魚料理を食べる人がいるとしましょう。それでも、旺盛に食べ、おいしいと感じるなら、その人にとっては、捕れたての魚と同じくらい、よいものです。反対に、どんなにおいしいチョウザメの頭の肉を勧められても、食べる気がしなければ、空腹のまま座って、料理よりも、自分の爪をかむほうに食欲を向けるでしょう。
女性が、どれほど醜く、不快な姿でも、夫が美しいと思えれば、夫にとっては、本当に美しいのと同じです。つまらない、薄汚れた絵しか持っていなくても、その出来栄えに感心し、昔のアペレスや、近ごろのヴァン・ダイクが描いたのだと思えれば、本当に、その巨匠の手になる作品だったときと同じくらい、誇らしくなれます。
わたしの知り合いに、花嫁へ、いくつも偽物の石を贈った人がいました。本物の宝石で、何十万クラウンも、かかったのだと信じ込ませたのです。この思い違いのもとで、気の毒な女性は、小石や色つきのガラスを、天然のルビーやダイヤモンドと同じように大切にしました。その一方、ずる賢い夫は、大金を懐に残しながら、千倍もの費用をかけたときと同じくらい、妻を満足させたのです。
真っ暗な地下牢で、プラトンのような頭を働かせ、イデアの中で全世界を見渡す人と、戸外に立ち、もっと幻の少ない宇宙の眺めを見る人には、どんな違いがあるでしょう。ルキアノスの話に出てくる、自分が君主になったと夢見た物乞いが、目を覚まさずにいたなら、その空想の王国は、本物と同じくらい、偉大だったはずです。
ですから、本当に幸福な人と、自分は幸福だと思っている人との間に、見分けられる違いは、ありません。もし、あるとしても、愚か者のほうが有利です。第一に、その幸福は安上がりで、ただ、一つの思いを抱くだけで済むからです。第二に、その幸運を共にし、分かち合う仲間が、もっと多いからです。恩恵を他人と分けられない楽しみは、心地よくありません。同じ境遇の人と語り合えないような人生の立場も、望ましくありません。
ところが、それが賢者のつらい運命なのです。賢者は、あまりに少なくなり、不死鳥のように、一時代に一人しか現れません。確かに、ギリシア人は、自分たちの狭い国の中だけで、七人を数えました。けれども、今、数え直したら、ずっと広い範囲を探しても、一人の半分、それどころか、三分の一にも、届かないでしょう。

218
218 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
訳注

「この思い違いのもとで」の原文は、印刷面でも under his mistake(彼の思い違いのもとで)。夫が意図的に妻をだます筋とは、人称のつながりに不自然さがある。

さらに、バッコスの、さまざまな長所の中で、いちばんとされるのは、心の心配や不安を、酒に沈めてくれることでしょう。もっとも、本当に消えるのは、ほんの短い間だけです。少し眠って頭が落ち着くと、悩みは、また戻ってきて、以前のように心をむしばみます。それに比べて、わたしの与える、もっと長続きする恩恵は、どれほど大きいでしょう。途切れることなく、思い込みに酔わせ続け、浮かれ騒ぎや祝宴、あふれ出る喜びの力で、いつまでも心を楽しませるのです。

そのうえ、わたしは、とても気前よく分け与えるので、誰一人、恩恵のしるしを受けずに、通り過ぎることはありません。ほかの神々は、選んだ相手にしか、惜しみながら贈り物を与えませんのに。
バッコスは、どの土地にも、同じように汁の豊かなぶどうが実るようには、していません。ウェヌスは、美しさを、皆に同じ分だけ与えていません。メルクリウスが、巧みな雄弁のこつを授けるのも、ごく少数です。ヘラクレスは、皆に同じだけの富や財産を与えません。ユピテルが王位に生まれるよう定めたのは、わずかな者だけです。マルスが、戦いで完全な勝利を与えるのは、片側だけ。いえ、しばしば、双方を敗者にします。アポロンは、神託を求める人すべての期待に、応えはしません。ユピテルは、たびたび雷を落とします。フォイボスは、ときに矢の先に疫病や伝染病を乗せて、放ちます。ネプトゥヌスは、支えて浮かせるものより、呑み込むもののほうが、多いのです。
ヴェ・ユピテルたち、プルトンたち、破滅の女神アテ、悪霊、そのほか、神というより処刑人の性質を強く持つ、神性の怪物たちは、言うまでもありません。彼らが、いつも加える害を、どうか与えないでほしい。そのためだけに、拝まれていたのです。この連中は、さておくとして、わたしは、高く力ある女神です。その気前のよさは、全能の力と同じ広さにまで、及びます。
求める人すべてに、与えます。むっつりもせず、不機嫌にもなりません。わたしを拝む儀式の、ごく細かな手順が抜けていたからといって、償いや埋め合わせを求めることも、ありません。人間たちが、ほかの神々へ祈る際、わたしには気づかずに通り過ぎ、敬意も願いも捧げなくても、荒れたり、怒ったりはしません。
それなのに、ほかの神々は、何もかも、あまりに細かく、厳密に気にします。ですから、卑屈に、あの方々を喜ばせようと苦労するより、堂々と侮るほうが、危険が少ないことさえ、よくあるのです。人間にも、そんなふうに、揚げ足取りで気難しい人がいますね。ひどく親しい友でいるより、まったくの他人でいるほうが、よいような人が。

愚かさの祭壇
愚かさの祭壇 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

でも、愚かさのために祭壇を作ったり、神殿を捧げたりする人は、いないではないか、とおっしゃいますか。先ほども触れましたが、世界が、これほど恩知らずだとは、驚くばかりです。けれども、わたしは気がよいので、この、侮辱のように見えることも、見逃し、許してあげます。そもそも、そんな費用は必要ないのですから、節約してよいのです。
乳香や菓子、山羊や豚の供え物を、求めて何になるでしょう。どこでも、誰もが、もっと喜ばしい仕方で、わたしに仕えてくれているのですから。あらゆる神学者が、いっそう有効で功徳があると認める仕方、つまり、人に分け与えられる、わたしの性質を、まねることです。だから、祭壇を人間の血でぬらしてもらうディアナを、少しも、うらやましく思いません。
わたしの信者たちが、いつものように、わたしの行いに従い、わたしを手本として、その原型を写すように生きるとき、わたしは、最も熱心に礼拝されていると感じます。実のところ、こうした敬虔な信心は、キリスト教徒の間では、望ましいほど、広まっていません。真昼でさえ聖母マリアの祭壇に、ろうそくをともすほど、深い敬意を払う熱心な信者は、何と多いことでしょう。それなのに、聖母の汚れない貞潔、慎み、そのほかの、ほめるべき徳を、まねる人は、何と少ないことでしょう。その徳をまねることにこそ、神を礼拝する、最も真実な敬意があるのに。
さらに、なぜ神殿を欲しがる必要があるでしょう。世界全体が、ひと続きの広大な聖歌隊席となり、すべて、わたしのため、わたしに仕えるために、捧げられているのですから。地上に人が住んでいるところなら、どこにも、わたしを拝む者が欠けてはいません。
礼拝の仕方についても、わたしは、まだ、取り返しがつかないほど愚かではありません。代理のものを通して祈られ、感覚のない像や絵に、わたしへの敬意を、間接的に向けてもらおうとは、思わないのです。そんなものは、宗教の本当の目的を、すっかり逆さまにします。用心の足りない祈り手は、像そのものと、それが表している相手を、ほとんど区別しないのですから。
その間、わたしには、もっと、まっとうな仕方で、同じ敬意が払われています。生きて動く人間の体の数だけ、わたしの像が立っているからです。誰もが、自分の意志に反してでも、わたしの姿、つまり、愚かさのしるしを、顔に刻んで持ち歩いています。
ですから、ほかの神々の、見かけの威儀や華やかさに、心を引かれ、妬む理由は、少しもありません。あの方々は、決まった時と場所で拝まれています。フォイボスはロドス、ウェヌスはキプロス島、ユノはアルゴス、ミネルウァはアテナイ、ユピテルはオリュンポス山、ネプトゥヌスはタレントゥム、プリアポスはランプサコスで、といった具合です。その一方、わたしへの礼拝は、わたしの力が及ぶところまで、広がっています。世界全体が、わたしの一つの祭壇であり、最も値打ちのある香と供え物が、そこで、絶えず捧げられているのです。

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226 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

けれども、真実よりも自信を頼りに、こう語っていると思われないよう、人々の暮らし方を、もう少し近くから見てみましょう。そうすれば、わたしが、いたるところで、どんな贈り物を配っているか、最も高い身分から最も低い身分まで、どれほど尊ばれ、大切にされているかが、いっそう明らかになるでしょう。
証明のため、一人ひとりを詳しく述べるのは、あまりに長くなります。そこで、最も目につく例だけを、広く取り上げます。それらから、残りのことも、似たものとして、簡単に判断できるでしょう。
そもそも、庶民や、人々の群れを、一人ずつ数え上げて、何になるでしょう。疑いようもなく、すっかり、わたしの側にいるのですから。仕えるしるしとして、わたしのお仕着せを着ています。その愚かさの衣には、古くからの姿も、新しく考え出された流行も、あまりに多いのです。それを見て起こる笑いには、千人のデモクリトスの肺でも、耐えきれないでしょう。そして、その千人に、もう一人を加えなければなりません。千人が、ほかの人々を笑うのと同じだけ、その千人を笑う人を。

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230 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

この地上を、はうように暮らす人々が、天上に座る神々へ、どれほどの笑いや遊び、気晴らしを与えているか。語っても、ほとんど信じられないほどです。高みにいる神々は、飲み食いをしていない、しらふの時間には、捧げられる願いに耳を傾け、救いを求める人を助けています。けれども、ネクタルを一杯、少し口にすると、まじめな用事は、すべて投げ出し、天の高く突き出た場所へ行って腰を下ろし、そこから、もぐら塚ほどの小さな地球を眺めるのです。
信じてください。愚か者の群れで、ぎゅうぎゅう詰めになった、この劇場ほど、楽しい眺めは、ありません。ある男は、激しく恋をして、冷たくされるほど、スパニエル犬のように、いっそう思いを募らせます。別の男は、妻よりも富と結婚しています。三人目は、自分の妻に男を取り持ち、角に金箔を塗れるなら、寝取られ夫でも満足です。四人目は、家へ来る隣人たちへの嫉妬に、取りつかれています。
別の者は、友や身内の死に、すすり泣き、わめき、子どものように振る舞います。自分の涙だけでは、悲しみの激流を十分に表せないかもしれないと、泣く人を雇い、遺体を墓へ送り、ため息と嘆きで、安息の歌を歌ってもらいます。また、死んだ人の葬儀で、心では喜んでいるのに、偽りの涙を流す者もいます。
こちらには、何をかき集めても、腹ぺこの胃の叫びを鎮めようと、すべて腹へ押し込む、大食いの鵜のような男がいます。あちらには、あくびをし、伸びをして座り、眠りと怠けることほど望ましいものはない、と考える、怠け者がいます。他人の仕事には、ひどく熱心なのに、自分の仕事には、愚かにも無頓着な人もいます。信用が大きいので、自分は金持ちだと思っている人もいます。実際には支払えず、破産して、債務の減額を取り決めるまで、どうにもならないのに。
ある男は、貪欲のあまり、金持ちで死ぬために、貧しく生きます。ある男は、わずかな、当てもない利益を求め、最も荒い海を渡り、暮らしを手に入れるために、命を危険にさらします。別の者は、平和の正直な稼ぎよりも、戦争の略奪を頼りにします。
かなりの財産があるのに、それを残す子がいない、裕福な老人に近づき、機嫌を取る人々もいます。どう使えばよいかわからないほど、金の袋を箱へため込んだ、気のよい老女に、同じ手で取り入る人々もいます。この二種類の、抜け目ないへつらいも、神々には、よい見世物です。自分の武器で逆にやられ、よくあることですが、獲物にするつもりの相手に、自分が、だまされるのですから。

身分だけは立派な、卑しい悪党の一群もいます。せっせと金をかき集める商人たちです。商品を、もっとよく売るため、嘘をつき、誓い、ごまかし、あらゆる不正の手を使うのに、たっぷり財産をためたというだけで、最も高貴な人々にも、自分は劣らないと思っています。そして、不正な稼ぎの分け前を当てにして、この人々を愛想よくあしらい、最高の敬意を示して、お世辞を言う、取り巻きにも事欠きません。
また、所有をなくし、すべてを共有せよという哲学の逆説に、すっかり毒され、手に入るものなら何でも、良心のとがめなく盗み取り、自分の用途と所有に変えてしまう人もいます。願望の中だけで裕福な人もいます。それでも、山ほどの富を夢見ているだけで、空想が本当になったかのように幸福です。
外側だけ、いちばんよく見せる人もいます。外出先で華やかに見えるため、家では飢えているのです。ある男は、手にしたものを、気前よく、すべて使い切ります。別の男は、論理学者の握り拳のように、固く、貪欲に、届くものを、何でもつかんで離しません。ある者は、人気を得ようと、通りで猿のように振る舞います。別の者は、楽をすることだけを考え、暖炉の隅に閉じこもります。
ほかにも、つまらないことのため、裁判で必死に争い、際限のない訴訟を続ける人々がいます。結局、引き延ばす裁判官や、悪賢い弁護士を裕福にするだけです。ある者は、定まった政治の仕組みを作り直そうとします。別の者は、名高い英雄的な企てを目指します。三人目は、どうしてもローマやエルサレム、そのほかの聖人の聖所へ、巡礼に出なければならないと言います。形式だけの、意味のない訪問のほか、用事は何もないのに。自分は、ありがたくも祈りに出かけ、その間、妻子には、断食をさせておくのです。

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234 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

要するに、ルキアノスが、昔、メニッポスがしたと空想したように、今、誰かが、月から見下ろせたとしましょう。蠅や蚊の、ぎっしりとした群れのようなものが、見えるでしょう。互いに争い、押し合い、戦い、羽ばたき、跳びはね、遊んでいます。たった今、生まれたと思えば、すぐに衰え、その後、たちまち消えてしまいます。
人間という、こんなに取るに足りない生き物が、命のわずかな長さの中で、どれほど多くの騒動や悲劇を引き起こすことか。ほとんど想像もつきません。そして、あまりに多くの災いにさらされているので、剣や疫病、そのほかの広く襲う災難が、しばしば、一度で何千人も、掃き去ってしまうのです。

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238 人物が持つ二枚の石板の文字は、判読できない。 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

でも、お待ちなさい。庶民の愚かさを、種類ごとに数え上げ続けたら、わたし自身が、かえって、ひどく笑われることになりそうです。ですから、この先は、賢いという評判を求め、見かけの上では、最も確かな知性を持つとされる人々だけに、お話を限りましょう。
その先頭に現れるのが、文法教師たちです。わたしが、人をうっとりさせる狂気を授け、その仕事の重荷や惨めさを、いくらか和らげてやらなければ、あらゆる人の中で、最も惨めで、最も奴隷じみて、最も嫌われる一群となるでしょう。何しろ、ホメロスの初めの五行から、彼らが、しきりに口にする、あの五つの呪いを受けるだけでは、ありません。それより悪い呪いを、五百も受けるのです。
いつも飢えと渇きに苦しめられ、掃除をしない教室の埃に、息を詰まらせます。教室と言ってよいでしょうか。むしろ、苦労の作業場、いえ、懲治場、矯正院と呼ぶべきでしょう。いら立ちと骨折りで、自分をすり減らし、口を大きく開ける少年たちの騒音で、耳をつんざかれます。要するに、熱気と悪臭に、息をふさがれるのです。
それでも、この人々は、そうした不都合を、陽気に受け入れます。甘い思い込みに助けられ、この世の誰にも劣らず幸福だと考えるのです。震える子どもたちに、しかめ面で威張り、平手打ちや、むち打ちや、平たい打ち棒、そのほか、あらゆる暴政の手を使うことを、大いに誇り、楽しんでいます。小さく弱い子どもの群れに君臨しながら、クマイの驢馬のまねをし、自分が、ほかの獣たちを支配する獅子のように、威厳に満ちていると思うのです。
その思いで高揚すれば、不潔さや汚さも飾りになり、耐えがたい臭いにも、鼻を慣らせます。結局、自分のみじめな奴隷暮らしを、思いのままに治める王国だと考え、最も強大な君主の支配権とも、交換しようとはしません。
自分の才能や能力を固く信じることも、この人々を、いっそう幸福にします。仕事といえば、愚かな話や詩人の作り話を繰り返すだけなのに、最も経験豊かな哲学者より、自分のほうが賢いと考えます。それどころか、生徒を溺愛する親のような普通の人々に、自分が、うぬぼれているとおりの重要人物なのだと、思わせる技まで、持っています。
さらに、こんな、うっとりする喜びもあります。アンキセスの母が誰だったかを突き止めたり、bubsequa、bovinator、manticulator といった、古くて珍しい単語、そのほかの、使われなくなった難語に出会ったりするのです。あるいは、長く目を凝らした末、傷んだ記念碑の文字を読み取ります。ああ、その喜び、その得意、その成功を祝い合うことといったら。まるで、アフリカを征服し、大バビロンを落としたかのようです。
自作の、泡のように中身のない大げさな詩を朗読して、誰かが感心しようものなら、ほんの少しのほめ言葉でも、たちまち顔を輝かせます。そして、ピタゴラスの、ありがたい説に、熱心に感謝します。その説のおかげで、自分には、ウェルギリウスの詩の魂が降りてきて、働いていることになるのですから。
互いに集まって、おだて、機嫌を取り合うこと以上に、楽しい気晴らしも、ありません。ただし、あまりに批判好きなので、誰かが、ごく小さな言い損ないや、間違いらしきものをすれば、すぐに別の者が訂正します。すると、そこから舌の戦いです。考えられる限りの熱、腹立ち、激しさで、やり合います。
これから申し上げることが、寸分違わず本当でなければ、プリスキアヌスご自身を、わたしの敵に回しても、かまいません。わたしは、ある年老いた学者を知っていました。ギリシア語、ラテン語、数学、哲学、音楽、そのすべてに、このうえなく通じた人でした。六十年を世に過ごしたうち、最後の二十年を、文法の細かい難点を征服することだけに、費やしたのです。
その人の祈りの中心は、八つの品詞を正しく見分けられるようになるまで、どうか命を長らえさせてほしい、というものでした。ギリシア語でもラテン語でも、それを正確に成し遂げた文法家は、まだ、いないのだそうです。副詞として使うべきものを、接続詞に分類した人がいようものなら、それだけで開戦の警報です。傷つけられた単語の正義を回復しなければ、なりません。
文法家の数だけ、別々の文法書があります。いえ、それ以上です。アルドゥス一人でも、五種類、書いたのですから。ですから、教師は、それらを、すべて調べなければなりません。どれほど大きくても、時間も苦労も惜しめません。見落とした細かい問題で答えに詰まり、取り返しのつかない恥をかいて、あらゆる努力の報いを失わないように、です。
これを、愚かさと呼ぶか、狂気と呼ぶかは、わたしには、どちらでもよいことです。認めざるを得ないのは、この点でしょう。わたしの力によって、この学校の暴君たちは、どれほど見下げられる境遇にいても、自分の心の中では、とても幸せなので、最も名高いペルシアのソフィーとも、運命を交換したくないのです。

242
242 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
訳注

列挙されたラテン語のうち、bubsequa は牛飼い、manticulator はすりや詐欺師を指す。bovinator には、騒々しくののしる者、言い逃れを探す者などの語義があり、単語だけの列挙から一つには絞れない。

訳注

ソフィーは、ヨーロッパで用いられたペルシア王の呼び名。ここでは特定の一人の王を指すとは断定できない。

詩人たちも、恩の大きさは少し劣りますが、わたしを頼りにしていると、公然と認めています。彼らは、規則に縛られない連中で、昔からの慣習を盾に、「詩人の自由」という、ことわざにもなる許しを主張します。その仕事の目的は、ただ、愚か者の耳を、なだめ、くすぐることです。使うのは、たわいない遊びや、架空のまやかしだけ。それでも、そんな滑稽なものに支えられた、ふわふわした想像の中で、自分には永遠の名声が約束されていると考えます。同時に、そのでたらめな言葉で、他人の不滅の記憶も、たたえてあげようと約束します。
この、うっとりした才人たちには、自己愛と追従が、必ず付き添います。愚かさに、これほど熱心に、変わらず仕える信者も、ほかにはいません。

弁論術の先生たちも、哲学者の仲間に入りたいと望んではいますが、明らかに、わたしの党派です。証拠は、いろいろあります。特に、弁論術を完成させるための、さまざまな項目の中で、誰もが、冗談のこつを、ことさらに重んじることです。それも、愚かさの一種では、ありませんか。
キケロの著作に入れられているものの、実際には、名前のわからない別人の書いた『ヘレンニウス宛弁論術』を見れば、明らかです。また、雄弁の大家クインティリアヌスも、大きな一章を費やして、笑いを起こす方法を定めています。
要するに、愚かさに大きな力を認めるのは、もっともなのです。どんな論題でも、まじめに反駁することは、どうしてもできなかった問題を、ちょっと笑って済ませられることが、しばしばあるのですから。

著者として名を上げ、記憶を永遠に残そうと思って、書き散らす気取り屋たちも、同じ仲間です。皆、何らかの形で、わたしに恩がありますが、特に大きいのは、つまらないことや、無用なことばかりを書いて、紙を汚す人々です。
その一方、もっと重々しく、印刷のために骨を折る書き手がいます。普通の読者には届かないほど、学問的な文章を書き、最も厳しい批評家の審査にも、自分の労作を差し出そうとする人々です。この人々は、名誉をうらやまれるより、汗と奴隷のような働きを、哀れまれるべきでしょう。
付け加え、変え、消し、書き直し、修正し、行間に書き込み、ひっくり返します。それでも、移り気な自分の判断を、満足させられません。前の一時間に書いたものを、次の一時間には、気に入らなくなるのです。そのすべてが、理解ある、わずかな読者から、空気のような賞賛を買うためです。食べず、眠らず、閉じこもり、頭を砕くように考えを絞り出した、その苦しみへの報いとしては、せいぜい、わずかなものです。
そのうえ、健康を損ない、体を弱らせ、目を病み、ときには完全に失明します。貧困、嫉妬、あらゆる楽しみからの締め出し、早まる老い、時ならぬ死。ほかにも、同じような、あるいは、もっと悪い不都合が、いくらでも考えられます。それだけ厳しい苦行をして、得られる報いは、よくても、口先だけの賞賛の、一言か二言です。
この人々は、苦労が多い分だけ、最初に挙げた、書き散らす職業文筆家たちより、不幸なのです。そちらは、あまり考え込まず、次に頭へ浮かんだことを、行き当たりばったりに書きます。作品が愚かであればあるほど、大多数の読者、つまり愚か者や、鈍い頭の持ち主が、買ってくれると知っているからです。少数の判断力ある人に非難されても、騒ぎ立てて、その批評をかき消すのは簡単です。もっと大勢のほめ言葉を持ち出して、黙らせればよいのです。
いっそう賢いのは、他人の文章を丸ごと書き写し、自作として刷り直す人々です。そうすれば、最初の著者が、多くの時間と苦労を費やして得た評判を、安く、たやすく、自分のものとして奪えます。発覚を恐れて、ときどき、少し良心が痛んでも、この望みで、自分を慰めます。最後に盗作者だと見つかったとしても、少なくとも、しばらくは、本当の著者として、信用してもらえたのだから、と。
こうした書き手たちが、ほんの少しの拍手で、膨れ上がる様子は、愉快です。特に、通りを歩くと、指さされる栄誉にあずかり、自分の作品が、どの本屋の店先にも開いて置かれ、標題紙に、違う書体で名前が、大きく載るとなるとね。名前は、ときには頭文字二つだけ、ときには、意味のわかる人が、ほとんどいない、作り物の難しい言葉です。
意味がわかる人々も、作品への評価は、一致しません。非難する者も、認める者もいます。人の判断は、味の好みと同じくらい違います。一人においしいものが、別の人には、まずく、吐き気を催させるのです。それにしても、作品へ偽名をつけるのは、こそこそした臆病な振る舞いです。まるで、自分の頭が生んだ庶子なので、認知するのを恐れるかのように。
こうして、一人はテレマコス、別の者はステレノス、三人目はポリュクラテス、また別の者はトラシュマコスと名乗ります。以下、この調子です。同じ自由を使うなら、アルファベット全体を引っかき回し、手近な文字を、何でも混ぜ合わせてもよいでしょう。
さらに愉快なのは、この気取り屋たちが、互いに、祝いの書簡や詩、頌辞を書くことです。一人は、アルカイオスという名で、ほめられます。別の者は、比べるもののないカリマコスだとされます。こちらは、トゥッリウス自身より完全な弁論家と、たたえられます。四人目は、哲学の魂において、神のようなプラトンさえ及ばない、と、仲間の愚か者に言ってもらいます。
また、ときには、こん棒を取り上げて相手に勝負を挑み、論争と議論の戦いで、名を上げます。不用心な読者たちは、それぞれの判断に従って、双方へ分かれます。争いが長引くほど、仲直りは難しくなります。そして、双方が疲れると、どちらも勝者を名乗り、勝利の名誉を、自分のものだと主張します。
こんな愚行は、ひどく不合理で、滑稽で、行き過ぎているので、賢者の笑いの種になります。そのとおりです。けれども、この紙の上の戦士たちは、わたしの助けで、自分の偉大さへの思いに酔いしれています。そのため、カルタゴを略奪することより、三段論法を解くことを尊び、つまらない反論を一つ倒しただけで、最も勝利を重ねたスキピオよりも、得意満面になるのです。

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250 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

いえ、他人の愚かさを笑えるだけの知恵を持った、学識ある、判断力に優れた人々でさえ、わたしの親切には、大きな恩があるのです。恩知らずが、その素直さを押し流していなければ、どんなときにも、進んで認めるはずです。
この中では、弁護士たちが、先頭に割り込んでくるでしょうね。誰よりも、自分の能力に、うぬぼれている人々です。法律ではなく福音を語っているかのような、自信たっぷりの議論をします。六百もの別々の先例を引いてみせますが、目の前の事件に近いものは、一つもありません。判決、証書、注釈、報告の権威を寄せ集め、かび臭い記録を、あまりに多く、ひっくり返すので、本来なら簡単な仕事を、考えられる限り、最もひどい奴隷仕事にしてしまいます。いつも、いちばん苦労した弁論こそ、最良の弁論だと、考えているのです。

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254 Q・スコトゥス〔略記〕 書物の背に「Q・SCOTI」とある。Qの示す語は確定せず、略字のまま残した。 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
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257 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

よく似ているので、そこへ加えられるのが、論理学者と詭弁家たちです。鸚鵡のように、覚えたことを繰り返して話す連中です。老婆たちの、おしゃべりの一団を、丸ごと黙らせます。それどころか、鐘楼の鐘より大きな舌の音で、鐘の響きさえ、かき消すでしょう。
その、静まることのない騒々しさだけが欠点なら、まだ、許しようもあります。けれども、同時に、ひどく激しく、けんか好きなので、どんな、ささいなことでも、血を流すほど言い争います。あまりに熱中し、むきになるため、しばしば、追っている最中に獲物を失い、探し求めていた真実を、怖がらせて逃がしてしまいます。
それでも、うぬぼれは、この口の回る論争家たちを、勇ましい戦士にします。三つか四つの、しっかりつないだ三段論法を武器に、理性の最も優れた大家たちと競う場へ入り、抗しがたい勢いで打ち負かせると、疑いません。いえ、その頑固さは、自分が正しいという確信を、あまりに強くするので、世界じゅうの論拠を集めても、自分が間違っていると、納得させることはできないのです。

次に来るのは、長いひげと短い外套の哲学者たちです。知恵に愛されているのは、自分たちだけだと考え、ほかの人間を、創造物の汚れや、ごみのように見ています。けれども、この人々の幸福も、頭の中の狂った思い込みに、すぎません。空中に城を築き、真空の中に無数の世界を作ります。
太陽や月や星の大きさを、髪の毛一本ほどの違いもなく、教えてくれます。水差しや小鍋を測るのと、同じくらい簡単に、です。雷がどう生じるか、風がどこから来るか、日食や月食とは何か。そのほか、自然学の、どれほど難しい問題にも、ためらわず、つかえず、正確な説明を与えます。まるで、自然の奥の評議会へ招き入れられ、創造の精密な手順を、すべて目撃したかのようです。
けれども、ああ、自然は、この人々の、ちっぽけな推測を笑っているだけです。まだ、一つも重要な発見をしていないのですから。それは、どんな小さな点についても、全員の意見が一致しないことから、明らかです。どれほど明白で確かなことでも、誰かが反対し、否定します。
最も小さな虫の、巧みな体の作りも知らないのに、何もかも知っていると、大いに自慢します。実際には、自分の体の仕組みさえ、説明できないのです。それどころか、石を投げれば届くほど先も見えない、ぼんやりした目のくせに、イデア、普遍、分離された形相、第一質料、何性、形相性、そのほか百もの細かな事柄を探し出すときには、どこまでも目ざとくなります。それらは、あまりに小さいので、その目が、ものを極端に拡大するのでなければ、光学のあらゆる技を使っても、見えるようには、ならないでしょう。
そして、地をはうような庶民を、いちばん見下すのは、平行線や三角形、円、そのほかの数学の図形を取り出したときです。魔法の呪文や、まじないを集めたかのように、それらを戦列に並べ、問題の説明を参照する文字も添えます。いわば、悪魔を呼び出すのです。追い払った手柄を得るためだけに。普通の見物人は、その手品を理解するだけの知恵がないので、不思議に思わされ、驚くばかりです。
この中には、星によって運命を占う術を、仕事として名乗る人々もいます。星と連絡を取り、その知らせによって、どんな問いにも答えられるつもりなのです。すべて、思い上がった、いかさまにすぎません。それでも、必ず、信じてしまうほど愚かな人が、いるでしょう。

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262 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
訳注

列挙の「普遍」と「分離された形相」は、印刷面の読点に従い、別の項目とした。「何性」は、あるものが何であるかを成り立たせる本質。「形相性」は、物事を捉える形式的な側面や規定を指す、ここではスコラ哲学の語。

次に現れるのは、神学者たちです。でも、通り過ぎてしまい、この話題が響かせる、耳障りな弦には触れないほうが、安全かもしれません。取りかかるだけでも、たいへん危険なのです。この人々は、たいてい、ひどく気が短く、激しいものですから。わたしが怒らせれば、きっと、総がかりで叫びながら襲いかかり、恥ずかしい撤回を、無理強いするでしょう。頑固に拒めば、すぐに異端者の烙印を押し、雷のような声で破門を宣告するでしょう。自分たちに手を上げる者を傷つける、霊的な武器なのです。
確かに、わたしへの依存を、この人々ほど認めない者は、いません。それでも、少なからぬ恩があると、告白すべき理由は、あります。わたしの持ち物の一つ、自己愛によって、兄分のパウロと同じように、第三の天へ引き上げられたつもりになっているのです。そこから、いかにも羊飼いらしく、自分の群れである信徒たちが、下の世界の谷間で草を食むのを、見下ろしています。
権威ぶった定義、結論、系、明示された命題、暗に含まれる命題。その囲いを何重にも巡らせて、自分たちを守るので、入り込む余地がありません。たまたま、答えに詰まるところまで追い込まれたように見えても、逃げ道を、いくつも見つけます。人間のあらゆる技を尽くして縛っても、たやすい区別を一つつければ、逃げ口ができて、論破された恥を免れるのです。
アレクサンドロスがゴルディオンの結び目を切ったのと同じくらい簡単に、最も手ごわい議論を断ち切ります。耳をつんざく用語を、雷のように、次々に響かせ、相手を怖がらせて、納得させてしまいます。
最も入り組んだ奥義を解き明かす腕前も、絶妙です。全能の神が宇宙を創造するときに、どんな手順を踏んだか、細部まで教えてくれます。最初の父母から原罪が伝わる、正確な仕組みも、説明してくれます。救い主が聖母の胎内に宿ったのは、どんな仕方で、どんな段階を経て、どれくらいの時間をかけてだったのか、納得させてくれます。聖別された薄いパンにおいて、基体がなくても、偶性が、どう存続できるかを、証明してみせます。
いえ、これらは、ささいで簡単な問いなのだそうです。もっと大きな難問が、まだ後に控えています。それでも、前の問いと同じくらい素早く、解いてしまいます。たとえば、超自然的な生成にも、その働きのため、一瞬の時間が必要なのか。子としてのキリストは、父なる神と、処女である母に対して、種として異なる二重の関係を持つのか。「三位一体の第一位格が、第二位格を憎んだ」という命題は、真でありうるのか。
人間の姿を取って、わたしたちの本性をまとった神は、同じように、女、悪魔、獣、草、石になることも、できたのか。もし神性が、命のないものの姿を取って現れたとしたら、どうやって福音を説いたのか。どうやって十字架に釘づけにされたのか。
救い主が十字架に掛かっている、ちょうどそのときに、聖ペトロが聖餐を執り行ったなら、聖別されたパンは、木に掛かったままの、その同じ体へと、実体変化したのか。秘跡のパンの中に、キリストが肉体をもって現存するとき、その人性は、神性から切り離されていないのか。復活の後にも、わたしたちは、この世と同じように、肉体で食べたり飲んだりするのか。

訳注

基体は、性質を担うもの。偶性は、色や味など、それ自体が実体なのではない性質を指す。「超自然的な生成」は、この問答では、御父から御子が生まれる神的な生成を念頭に置いた表現と考えられる。

そのほかにも、概念、関係、量、形相性、何性、此性といった難しい事柄をめぐり、千もの、もっと高尚で精緻な、細かな議論があります。暗闇ほどよく見える猫の目だけでは、とても探れそうにありません。一インチの板を見通し、実際には一度も存在しなかったものまで見つける、鋭い視力が必要でしょう。
そこに、あの人々の教説や意見も、加えてみてください。あまりに不合理で、行き過ぎているので、彼らが逆説だと軽蔑し、非難するストア派の、最も突飛な空想でさえ、比べれば、正しく理にかなって見えます。百人を殺すほうが、貧しい靴直しが安息日に一針縫うより、罪が軽い、と主張するのですから。あるいは、自分が、ほんの小さな嘘をつくよりも、他人に、考えられる限り最大の害を与えるほうが、正当化できる、と。
こうした細かな理屈は、さまざまな学派のスコラ学者たちの、抽象を操る頭によって、錬金術のように、いっそう精製されます。実在論者、唯名論者、トマス派、アルベルトゥス派、オッカム派、スコトゥス派。これで全部では、ありません。分かれた宗派の見本として、少し挙げただけです。どの派にも、あまりに深い学識と、底の知れない難しさがあるので、使徒たち自身でさえ、この新しい神学者たちと論争するなら、新たに照らす霊を必要とするでしょう。
聖パウロに、十分な信仰があったことは、疑いありません。それなのに、信仰は、見えないものの実質である、と定めると、あの人々は、不完全な定義だと難癖をつけ、使徒に、もっとよい論理学を教えてやろうとするのです。同じ聖なる書き手には、愛の恵みも、何一つ欠けていませんでした。それでも、『コリントの信徒への手紙一』の第十三章で、愛について述べ、定義すると、そのやり方は、ひどく不正確だ、と言うのです。
初めの弟子たちは、家から家へパンを裂いて回り、しばしば聖なる秘跡を執り行いました。でも、始点と終点、すなわち Terminus a quo と Terminus ad quem について、あるいは、実体変化の本性について問われたら、どうでしょう。一つの体が、同時に、いくつもの場所へ存在できるのは、どういう仕組みか。天上、十字架上、聖別されたパンの中にいるキリストには、それぞれ、どんな属性の違いがあるのか。パンを肉へ実体変化させるには、どれほどの時間が必要か。司祭の唱える短い文だけで、どうして、それができるのか。その文は、持続する一点を持たない、離散量の一種なのに、と。
これらや、そのほかの混乱した問いを投げかけられても、弟子たちは、今の、細かく分けたがるスコラ学者たちが自慢するほど、すらすら答えられたとは、思えません。
弟子たちは、処女マリアを、よく知っていました。それでも、今の神学者の一部が、激しく主張するように、マリアが原罪から免れ、汚れなく保たれたことを、証明しようとした者は、一人もいませんでした。聖ペトロは、救い主ご自身から鍵を授けられました。救い主は、ペトロに、それを扱い、守る能力があると知っていなければ、任せなかったはずです。それでも、スコトゥスの持ち出した、あの微妙な理屈を、ペトロが理解していたかは、大いに疑わしいのです。自分の中に、現実に知識がなくても、他人に対して効力を持つ知識の鍵は持てる、という理屈をね。
また、弟子たちは、すべての民族に洗礼を授けました。それなのに、洗礼の形相因、質料因、作用因、目的因が何かを、教えはしませんでした。もちろん、この秘跡の刻印について、消えるものと消えないものを区別することなど、夢にも思わなかったでしょう。
弟子たちは、師の命令に従い、霊において礼拝しました。「神は霊である。神を礼拝する者は、霊と真実によって礼拝しなければならない。」けれども、天上の救い主と、地上の壁に描かれた、その絵とを、同時に、どのように神として礼拝すべきか、啓示されていたとは見えません。二本の指を伸ばし、頭のてっぺんは、はげ、頭の周りには円を描いた、あの絵をね。
これらの、入り組んだことを、道理の通るように見せるには、形而上学で六十年の経験が、必要なのです。

訳注

「此性」は、あるものが、ほかでもない「このもの」であることを成り立たせる個別性を指す。離散量は、ここでは順に発せられ、同時には残らない音節からなる言葉を指す。punctum は、句読点ではなく、点または瞬間の意味。「消える刻印」と「消えない刻印」は、秘跡をめぐる議論を皮肉って並べたもので、洗礼に二種類の刻印が認められているという説明ではない。

さらに、使徒たちは、しばしば恩寵に触れています。それでも、無償に与えられる恩寵、gratia gratis data と、神に喜ばれる者にする恩寵、gratia gratificans を、区別してはいません。善い行いをするよう、熱心に勧めてもいます。それなのに、行う者の側の働き、Opus operans と、行われた業そのもの、Opus operatum の違いは、説明しません。
愛を求めるよう、何度も、強く誘いかけます。それでも、注ぎ込まれた愛と、身につけた愛に分けたり、それが実体なのか偶性なのか、造られた存在なのか、造られていない存在なのかを、定めたりはしませんでした。自分たちで罪を嫌い、他人にも犯さないよう警告しました。それでも、後のスコトゥス派ほど、独断的に定義することは、到底できなかったでしょう。
聖パウロは、自分では罪人の第一人者だと思っていたのと同じくらい、他人からは、使徒の第一人者と見なされています。ガマリエルの足元で学んだのですから、ほかの誰よりも優れた学者だったことは、確かです。それでも、むなしい哲学を、しばしば非難し、問いや言葉の争いに、夢中にならないよう警告し、不敬で、むなしいおしゃべりや、偽って知識と呼ばれるものの反論を、避けよと命じています。
そういうものに通じる値打ちがあると思っていたなら、そうは、しなかったでしょう。知ろうと思えば、すぐに知れたはずです。当時の議論は、今、はるかに入り組んだものへ発達したのに比べれば、小さく、もっと、わかりやすい詭弁だったのですから。
けれども、わたしたちのスコラ神学者たちは、たいへん慎み深いので、聖パウロや、ほかの聖書の書き手の文章に、望むほど整っておらず、厳密に組み立てられてもいない箇所を見つけても、乱暴に非難はしません。古さを敬い、聖書を尊ぶため、むしろ、好意的な解釈へと曲げるのです。
もっとも、本当のところ、使徒たちに、この種のことを期待するのは、筋違いでしょう。彼らの主であり師である方が、知る力を与えたのは、神の奥義であって、哲学の奥義では、なかったのですから。
同じ神学者たちが、聖クリュソストモス、聖バシレイオス、聖ヒエロニムス、そのほかの教父に、同じような、気に入らない箇所を見つければ、その権威への異議申し立てを、ためらいません。実に、あっさりと、あの方々は間違っていたのだ、と結論します。
けれども、この古い教父たちこそ、それぞれの先入観に頑固にしがみつく、ユダヤ人も異教徒も、論破した人々なのです。ええ、論破しました。ただし、言葉や三段論法よりも、その生き方と奇跡によって、です。そのように改宗した人々は、率直で正直な、善意ある人々でした。技巧を凝らした推論の華やかさより、素直な意味を、よく理解する人々だったのです。
それなのに、今の神学者たちが、形而上学の細かな理屈によって、異教から改宗者を得ようとしたら、どうでしょう。相手の大半は、あまりに無知で、まったく理解しないか、あまりに不敵で、あざけり笑うか、そのどちらかでしょう。あるいは、同じ武器に、よく通じていて、構えを保ち、説得の攻撃を、すべて受け流すかもしれません。この最後の場合、勝利は、まったく望めません。力の等しい二人が戦い、どちらも相手を押し切れないのと、同じことです。

訳注

底本は gratia, gratis data と途中に読点を置くが、ここでは一つの術語 gratia gratis data として読んだ。これは他者を神へ導くためなどの賜物を指し、gratia gratificans は、受ける人を神に喜ばれる者にする恩寵を指す。Opus operans と Opus operatum は、行為者の側の働きと、実行された業そのものを分ける語として訳した。

わたしの判断を聞き入れてもらえるなら、キリスト教徒へ、こう助言しましょう。次に聖戦へ出かけるときには、これまで、トルコ人やサラセン人に向けて送った、多くの成果のない軍団の代わりに、声高なスコトゥス派、頑固なオッカム派、無敵のアルベルトゥス派を装備して、送り出すのです。手ごわく、難解で、深遠な論争家の、全軍をね。
戦いは、たいそう愉快なものになるでしょう。そして、こちらの勝利も、疑いないと考えてよいでしょう。あれほど厳かな姿を見て、ターバンを下げずにいられる敵が、いるでしょうか。最も獰猛なイェニチェリでも、曲刀を投げ捨てるでしょう。あれほど輝かしい軍が前に出れば、すべての三日月も、光を失うでは、ありませんか。

270
270 右上の雲の中にある、縦に並んだ文字は、判読できない。 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

わたしが、こんな話を、からかいや皮肉でしていると、お疑いでしょうね。そうするのも、もっともです。神学者の中にも、この揚げ足取りの、つまらない無駄話を軽蔑するほど、分別のある方が、いますから。その方々は、宗教の、こうした細部を決めつけることを、不敬な冒瀆の一種であり、神を汚す行為と、ほとんど変わらないと考えています。それらは、あら探しをする理性が、しつこく問い詰めるよりも、謙虚で、異を唱えない信仰が受け入れるべき事柄なのですから。
その方々は、キリスト教の奥義に、異教の哲学を混ぜて汚すことを嫌います。神学を、難解な思弁の学問へ変えてしまうのは、ひどく不適切だと考えます。その目指す幸福は、実践によってしか得られないのですから。
ところが、ああ、概念ばかりの神学者たちは、ほかの人々の、もっと冷静な判断に非難されても、自分たちには、大満足です。難解な研究に、あまりに熱心に骨を折るので、聖書全体の、どの書の、たった一章を読む時間さえ、取れません。こうして、がらくたや、おしゃべりに、時を無駄に費やしながら、命題と三段論法を支柱にして、カトリック教会を支えているつもりなのです。詩人たちが、アトラスは、ぐらつく世界の重みを肩で支える、と語るのに、少しも劣らないほど、しっかりとね。

ぐらつく世界の重みを背負うアトラス
ぐらつく世界の重みを背負うアトラス 外側から、土星(♄)、木星(♃)、火星(♂)、太陽(☉)、金星(♀)、水星(☿)、月(☾)。 土星の綴りの末尾と、最外周の銘文は不鮮明。読める名称と天体記号に基づいて示した。 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

この人々の特権や権威も、なかなかのものです。聖書の、どんな文章でも、蝋で作った鼻のように扱い、自分の利益に、いちばん合う形へ、こね直せます。自分たちが独断で決めた結論は、何であれ、ソロンの法律のように、取り消せないものとして確定され、教皇座の決定そのものと同じくらい、力を持つべきだと考えています。
その判断に、あえて異議を唱える者がいれば、膝をつかせ、その生意気さを撤回させます。神託のように、取り消しを許さず、宣告するのです。この命題は不祥事を招く、あれは不敬だ。これは異端のにおいがする、あれは露骨で不適切だ、と。
ですから、洗礼を受けて教会に入り、聖書を信じ、聖ペトロ、聖パウロ、聖ヒエロニムス、聖アウグスティヌス、いえ、聖トマス・アクィナス自身を信頼しても、それだけでは、キリスト教徒になれません。この、学問の新参者たち全員の賛同を、得なければ、だめなのです。
疑いなく、この人々は、多くの発見で世界を恵んでくれました。曖昧さという火打ち石から、微妙な理屈の火花を打ち出してくれなければ、日の目を見なかった発見ばかりです。まったく、これらの愚行は、幸せな仕事なのでしょうね。

さらに、地獄と煉獄に、いくつもの仕切りや区分を作り、罰の種類や程度を、さまざまに描き分けます。まるで、冥府の土地や位置を、よく知っているかのようです。そして、上にいる祝福された者たちの座を整えるため、新しい天球や、荘厳な最高天を考え出します。それが、ひどく広々としているのは、栄光に包まれた聖人たちが、歩き、食事を楽しみ、そのほかの気晴らしをするのに、十分な場所を持てるよう、わざわざ工夫したかのようです。

こんなものや、そのほか千もの、似たようなおもちゃで、この人々の頭は、ユピテル以上に、詰まり、膨れています。あの方が、頭の中にパラスを宿し、産み月となって、その重荷を下ろすため、ウルカヌスの斧に、産婆を頼まなければならなかったとき、以上にね。

ウルカヌスの斧による出産の手助け
ウルカヌスの斧による出産の手助け ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

ですから、公の討論のとき、この人々が、幾重にも帽子を重ねて頭を縛っていても、驚かないでください。脳が失われるのを防いでいるのです。そうしなければ、窮屈な囲いから、はじけ出してしまうでしょうから。
熱のこもった神学者たちの討論を聴くのも、愉快な笑いの場になります。難しい、わけのわからない言葉を話し、まごつくような区別を、つかえながら並べる、その誇らしげなこと。聴衆は、ときには口を開けて見とれるかもしれませんが、理解することは、めったにありません。
ラテン語を話すときの自由さも、大したものです。構文や語の一致の正確さに、こだわることなど、軽蔑しています。神学者の威厳にとって、学校教師のように話し、文法の規則を奴隷のように守るのは、品位を落とすことなのだ、と言い張るのです。

最後に、この人々は、さまざまな引用の中でも、自分たちの師の権威を持ち出すことを、ひどく誇ります。「わたしたちの師」という言葉を、ユダヤ人が、口にしてはならない四文字の神名を敬ったのと同じくらい、深く尊ぶのです。ですから、必ず、大きな文字で、MAGISTER NOSTER と書かなければ、なりません。
もし誰かが、語の順序を逆にして、magister noster の代わりに noster magister と言おうものなら、すぐに非難の声が上がります。害毒を流す異端者だ、カトリックの信仰を揺るがす者だ、と。

282
282 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
訳注

MAGISTER NOSTER も、語順を逆にした noster magister も、ここでは「わたしたちの師」の意味。決まった語順への固執が、からかわれている。

その次には、頭の病んだ、別の愚か者たちが来ます。自分たちを修道士、また、信心深い修道会の者と呼ぶ人々です。けれども、その二つの名は、どちらも、実に不当に名乗られています。後のほうについて言えば、信心など、ほとんどありません。前のほうについて言えば、修道士という語は、語源では、独りでいることを意味します。それなのに、この人々は、外に、あまりに大勢いるので、どの通りや路地を歩いても、出会わずには済みません。
わたしが味方をせず、悲惨の湖で浮かせてやらなかったら、この人々以上に、救いようもなく惨めな者たちを、想像できません。聖なる誓いに縛られ、自分から、その湖へ沈み込んだのですから。他人には、ひどく歓迎されず、姿を見るだけでも不吉だと思われるのに、わたしのおかげで、自分自身には夢中になり、自分の幸福を、うっとりと眺められるのです。
その第一歩は、徹底した無知だと考えています。世俗の知識は、霊的な幸福の大敵であり、人間の学問に汚されなければ汚されないほど、神の奥義に、よく通じるようになると、確信しているようです。
毎日、決まった数の詩編を歌うと、天上の聖歌隊と、甘美な調和を奏でているつもりになります。実際には、ただ暗記して唱えるだけで、理解も感情も、声についてゆくことを、許されていないのに。
中には、物乞いを、実入りのよい商売にしている者もいます。家から家へ回りますが、使徒たちのように、パンを裂くためではありません。パンを、ねだるためです。それどころか、酒場という酒場へ押し入り、渡し船に乗り込み、旅の荷馬車に入り込み、人々の慈善にすがるための時と場所を、何一つ逃しません。街道の普通の乞食の、施しの商売へ割り込み、大きな損害を与えるのです。
こうして、自ら貧しくなり、何も持たず、二枚の上着も、財布の金も用意しないでいると、厚かましくも、最初の弟子たちを、まねていると主張します。確かに、師は弟子たちを、その装備で送り出しましたけれど。
あらゆる行動を、重さや長さでも測るように、正確な割合へ整える様子も、見ものです。ごく細かな決まりを、一つでも落とせば、信仰全体が失われるかのようです。履物の結び目の数は、正確にいくつか。それぞれの修道服は、どの色で、どの布か。帯は、どれほどの幅と長さか。頭巾は、どんな大きさと形か。頭頂をそる形は、髪一本分まで正しいか。何時間眠り、何分に起きて祈るか。こうしたことに、ひどく細かいのです。
そして、その習慣も、人や場所の好みによって、変わります。こういう、つまらないことを、迷信深く守ると誓いながら、ほかの人々を軽蔑するだけでなく、自分たち同士でも、すぐに仲たがいします。使徒のような愛を標榜しながら、上着の帯を結ぶ向きが違うとか、服の色が、少し暗すぎるとか、口にする値打ちもない細部のために、けんかを仕掛け、なだめようもなく怒り狂うのです。

288
288 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

迷信に、あまりに頑固にこだわるので、外側には、ごわごわした犬の毛の布を着て、肌に触れるものは絹のように柔らかくする人々がいます。反対に、外には亜麻布の修道服を着て、肌着は羊毛や獣毛にする人々もいます。また、硬貨には触れないのに、酩酊や肉欲の罪には、何のためらいもない者もいます。
どの修道会も、何より気にしているのは、習慣や服装の違いによって、ほかの会と区別されることです。キリストに似た者となり、その弟子と知られることよりも、互いに似ていないこと、それぞれの創始者の弟子として見分けてもらうことに、熱心なようです。
信仰の大きな部分が、その呼び名にあります。コルドリエと呼ばれたがる者がいて、さらにカプチン会、小さき兄弟会、ミニム会、托鉢修道士へと分かれます。ベネディクト会、聖ベルナルドの会、聖ビルギッタの会と名乗る者もいます。アウグスティヌス会の修道士も、ウィリアム会も、ヤコブ会もいます。まるで、キリスト教徒という共通の名では、卑しく、ありふれすぎているかのようです。
大半の者は、愚かな儀式を厳密に守り、伝説めいた伝承を信じることに、救いへの最大の重みを置きます。それによって、求められた以上の功徳を、あまりに多く積んだつもりになり、天国一つでは、その立派な生への、ふさわしい報酬には足りないと考えます。けれども、最後の日に、全地を裁く方が、「誰が、そんなことを、お前たちに求めたのか」と、退けることは、ほとんど考えていません。その方が責任を問うのは、残した遺産を、どう管理したかだけ。その遺産とは、愛と慈善の命令だったのです。
大いなる法廷で、彼らの弁明を聞くのは、見ものでしょう。一人は、魚だけ食べて、肉体の食欲を抑えた、と自慢します。別の者は、地上の時間の大半を、詩編を歌う聖なる務めに費やした、と主張します。三人目は、何日、断食し、体を服従させるため、どんな厳しい苦行を課したか、語ります。別の者は、自分を弁護するため、商船の船団いっぱいに積めるほどの儀式を、差し出します。
五人目は、六十年の間、一枚の硬貨にも触れなかったと弁明します。ただし、厚い手袋越しに、指で扱った場合は、別です。六人目は、かつての謙虚さの証拠として、聖なる頭巾を持参します。あまりに古く汚いので、どんな船乗りでも、激しい嵐の中で耳を守るために、それをかぶるくらいなら、甲板に、頭をさらして立つほうを選ぶでしょう。
次の者は、五十年間、海綿のように同じ場所で暮らし、粗末な住まいを変えずに満足していた、と弁明します。別の者は、静かにささやき、聖歌や賛美歌を歌い続けて、声を失ったのだ、と裁き手に告げます。次の者は、厳しく控えめな、座りきりの生活によって、嗜眠に陥ったことを告白します。最後の者は、舌で罪を犯さないよう気をつけよ、という命令に従い、いつも沈黙を守ったため、話し方を忘れた、と伝えます。
けれども、こうした立派な言い訳の最中に、救い主は、言葉を遮って答えるでしょう。
「災いだ、律法学者とファリサイ派、偽善者たち。まことに、わたしは、お前たちを知らない。残した命令は、ただ一つ、互いに愛し合うことだった。それを忠実に果たしたという弁明は、誰からも聞こえない。
わたしは、福音の中で、たとえではなく、はっきり告げた。父の王国が用意されているのは、苦行や祈りや断食によって、それへの権利を主張する者のためではない。信仰を実践し、愛の務めを果たすことで、それにふさわしくなる者のためである。わたしの慈悲に頼らず、自分の功績だけを頼みにする者を、認めることはできない。
だから、自分の功績という折れた葦を頼みにする者は皆、新しい天国を探しに行くがよい。世界の基が置かれたときから、心の真実な者だけのために用意された、あの天国へは、決して入れないのだから。」
修道士たちが、このように恥ずかしく退けられ、自分たちが締め出された王国へ、農夫や職人が受け入れられるのを見たら、どんなに縮こまり、どんなに哀れに、こそこそ立ち去ることでしょう。それでも、この最後の審判までは、誰よりも大きな希望を持っていたので、来たる幸福から、誰よりも慰めを得ていたのです。
そして、この人々は、自分の目に偉大なだけではありません。他人にも、高く評価され、敬われています。特に、托鉢修道会の者たちは、誰も、あえて侮辱しません。告解を聞く者として、個々の、込み入った事情の秘密を、すべて託されているからです。誓いによって、明かしてはならないのですが、酒が回ってくると、しばしば、舌を口の中に、とどめておけません。何かを、ほのめかして、しゃべり出し、秘密がいっぱいで、吐き出したくて苦しいのだと、示してしまいます。
誰かが、ほんの少しでも怒らせれば、必ず仕返しをします。次の公の説教で、鋭い当てこすりや皮肉を浴びせ、会衆全体が、誰に向けられているか、気づかずにはいられないようにするのです。そして、黙らせる賄賂で口をふさがれるまで、この非難を、決してやめません。
説教は、すべて芝居です。その語り方は、滑稽さとおどけの、大爆発です。ああ、何という、物まねじみた身振りでしょう。声を上げたり下げたり、節をつけたり、怒鳴ったり、歌ったり、甲高い声を出したり。顔をしかめ、口を曲げ、猿のような顔をし、表情をゆがめます。そして、この弁論術を、貴重な秘伝として、互いに受け継いでいるのです。そのやり方を、もう少し、詳しく述べてみましょう。
まず、ある種の、まねごとのように、神の助けを願います。詩人たちの厳かな慣習から、借りたものです。次に、本文の題が、たとえば愛なら、はるか遠く、エジプトのナイル川の説明から、口火を切ります。十字架の奥義について話すなら、ベル神と竜の物語から始めます。断食が題なら、説教へ入る前に、黄道十二宮を、通り抜けます。信仰を説くなら、円の求積について、長々と数学の話を始めるのです。
わたし自身、一度、大変な愚か者が、失礼、大変な学者と言うつもりでした、その人が、三位一体の奥義を説明しようと、骨の折れる説教をするのを聞きました。知恵と博識を示し、同時に、新奇な話を聞きたがる耳を満足させるため、新しい方法を使ったのです。文字、音節、命題、名詞と動詞の一致、名詞と形容詞の一致、といったことを論じてゆきます。聴衆は、皆、驚きました。中には、ホラティウスの、あの半行を、つぶやく者もいました。

訳注

修道会の名称と分類は、この英語底本の列挙に従った。「求められた以上の功徳」は、命じられた義務を超える善行を指す。最後の審判での救い主の発言は、この作品が構成した演説であり、聖書の一続きの逐語引用ではない。

こんな、いらない話を、なぜ、並べるのか。

けれども、最後には、ここまで、たどり着きました。文法の、この初歩によって、三位一体の全体が表されていると、証明できるのです。数学者が砂の上に三角形を描くのと同じくらい、はっきりと。
この大発見のため、その微妙な理屈を操る神学者は、八か月も続けて、あまりに熱心に勉強したので、甲虫のように、まるで目が見えなくなりました。理解力の目に力を注ぎすぎて、肉体の目を覆い、その光を消してしまったのです。それでも、失明したことを、少しも悔やみません。栄光と名声が手に入るなら、視力を失うくらい、安い買い物だと考えています。

294
294 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

別のときには、少なくとも八十歳にはなる、重々しい神学者を聞きました。あまりに気難しく、険しい顔つきなので、スコトゥスが生き返ったのではないかと、疑いたくなるほどです。その人は、神秘的な名 JESUS を論じようとして、言いうることは、すべて、その文字自体に含まれているのだと、実に巧妙に言い張りました。
まず、この名が、三つの格だけで変化することは、三つの位格を、はっきり示している。次に、主格が S、対格が M、奪格が U で終わることには、言葉にできない奥義がある。その文字を頭に持つ語で言えば、キリストは万物の summus、すなわち始め、medius、すなわち中間、ultimus、すなわち終わりなのだ、と。
さらに、もっと難しい謎がありました。JESUS という語を二つに分け、中央の S を、両端の二つの音節から切り離すのです。五文字でできているので、一種の五歩格になる、というわけです。そして、その真ん中の S は、ヘブライ文字では sin と呼ばれます。英語の sin は、ラテン語の peccatum、つまり罪を意味する。だから、聖なるイエスが、わたしたちを、あらゆる罪や悪から清めることを示しているのだ、と言うのです。
説教壇の男が、こうして、もったいぶって語る間、会衆全体、特に神学者仲間は、その奇妙な説教に、あまりに驚いていました。悲しみに襲われたニオベのように、驚きによって、ほとんど石に変わってしまったのです。
わたしも、その中にいましたが、とうとう、こらえきれなくなりました。ホラティウスが、カニディアとサガネの、二人の魔女の術を見ているプリアポスを描いた、あの場面と同じです。わたしの体に起きた作用が、ぱん、と鳴る音になって、飛び出してしまいました。
こういう、見当違いの前置きが非難されるのは、理由のないことではありません。昔、ギリシアのデモステネスや、ローマのトゥッリウスが、目の前の題から、大きく離れたところで演説を始めたときには、いつも、不適切で、洗練されていないと見なされました。そもそも、そんな遠回りの序論が、よい着想のしるしになるなら、羊飼いや農夫こそ、最も才能ある人という名を主張できるでしょう。どんな題についても、いちばん関係のないことを話すのは、その人たちにとって、いちばん簡単なのですから。
この説教師たちは、自分の前口上が、話そうとしている題から最も遠いときこそ、最も粋だと考えます。その間、聴く者は皆、何を目指しているのかと、座って考え込み、しばしば、ウェルギリウスの嘆きを、つぶやきます。

訳注

JESUS をめぐる説明は、この説教の語呂合わせを、そのまま訳したもの。「三つの格」は文法の格、「三つの位格」は三位一体における区別を指す。summus は普通「最高の」の意だが、この底本の説教は beginning(始め)と説明する。sin と peccatum は、ここではいずれも「罪」。

この、わけのわからない話は、どこへ向かうのか。
さて、第三に、聖句を項目に分ける段階へ来ると、言葉の解釈には、ごく短く触れるだけです。その意味を、十分に解き明かすことこそ、唯一の務めであるべきなのに。
第四に、少し話が進むと、目の前の題から、遠く離れた神学上の問いを持ち出します。そして、賛成、反対と、投げ合い、争いの熱の中で、どこかへ見失ってしまいます。ここで、それぞれの主張を確かにするため、「無敵の博士」「精妙な博士」「熾天使的博士」「智天使的博士」「聖なる博士」「反駁しがたい博士」など、偉大な名を引用します。
それから、三段論法、大前提、小前提、結論、系、仮定、区別を取り出します。会衆を説得して納得させるより、怖がらせて、茫然とさせるほうが、早いでしょう。
いよいよ第五幕です。拍手を受けて退くため、持てる技を、すべて発揮しなければなりません。そこで、聖人伝や、ほかの作り話から、悲しく、痛ましい物語を語り始めます。それを、寓意として、道徳として、類比として、詳しく論じます。そうして説教を結ぶのですが、これは、ホラティウスが『詩論』の初めに描いたものよりも、頭の病んだ怪物です。あの始まりは、こうでした。

「人間の頭に……」、以下略。
祈りも、説教に劣らず滑稽です。天に語りかけるには、畏れと敬意のしるしとして、低く震える声で始めるべきだと思っています。そこで、誰かに聞かれるのを怖がるような、かすかな、ささやきで始めます。けれども、少し進むと、だんだん声の通りがよくなり、最後には、バアルの祭司のように、眠っている神を起こそうと決めたかのような大声で、わめきます。
また、弁論術の先生に、声の高低や、調子の変化は、語ることを引き立てる、大きな助けになると聞くと、ときには、言葉を内側で、もぐもぐ言うかと思えば、突然、外へ怒鳴り出します。そして最後には、必ず、気力も息も使い果たしたかのような、平板で、つかえる声になります。
最後に、たいていの弁論術の本が、笑いを起こす技を扱っていると読んでいるので、それも実行しようとします。そこで、冗談や駄洒落を振りかけ、気の利いた才知として通用させようとするのです。実際には、気取りから生まれた、泡と愚かさにすぎません。
ときには、風刺の才に、少しかじりつこうともします。けれども、精いっぱい毒を出しても、歯がないので、かむより、吸いつき、引っかいたり傷つけたりするより、くすぐります。最も自由に物を言っているふりをするときほど、お世辞を言っていることは、ないのです。

訳注

冒頭はホラティウス『詩論』の書き出しを指す、短いラテン語の引用。底本では Humano Capitis &c. と記されている。

結局、その振る舞いは、何もかも、道化じみた物まねなので、いかさま薬売りや役者から、すべての技を習ったのだと、誰もが思うでしょう。確かに、身振りでは、本職のほうが上かもしれません。けれども、弁論では、両者に、ほとんど違いがありません。どちらが雄弁の学校に長く通ったのか、決めるのも難しいほどです。

それでも、この滑稽な説教師たちには、感心してくれる聴き手が、ついています。アテナイの人々がデモステネスを、ローマの市民がキケロをたたえたのと、同じくらいに。その主な顔ぶれは、商店主と女性です。説教師たちは、この人々の賛同や好意だけを、求めます。
商店主は、機嫌を取ってもらうと、不正な利益の分け前を、少しくれるからです。女性は、何かにつけて苦しいことがあると、特に、夫が気難しかったり、冷たかったりすると、彼らのもとへ来て、悩みを打ち明け、気を晴らすからです。

これだけお話しすれば、僧房の隠者や、世を避ける人々が、わたしの恵みに、どれほど負っているか、おわかりでしょう。愚かな仕掛け、手品、まやかしで、だまされた信徒の良心を支配しながら、自分たちは、聖パウロや聖アントニウス、そのほかの聖人に劣らず敬虔だと考えているのです。
けれども、この芝居じみた神学者たちとは、喜んでお別れしましょう。敬虔を厚かましく名乗るだけでなく、愚かさへの恩も、同じくらい恩知らずに否定する人々ですから。今度は、王、君主、廷臣たちへ移ります。わたしに、熱心に感謝してくれる人々ですから、こちらからも敬意を払い、名を挙げ、目を向けるよう求めるのは、当然でしょう。
まず、物事を正しく判断するだけの知恵があれば、自分たちの境遇は、最も卑しい臣民よりも、見下げられ、奴隷じみているとわかるはずです。王冠に積まれた心配の重みを、真剣に考えれば、偽誓や親殺しをしてまで買う王冠が、安いものだと思う人など、いないでしょう。
政治の舵を握る人は、公の立場で行動します。ですから、共通の利益のために、すべての私益を犠牲にしなければなりません。大権によって守らせる法律には、自分も従わなければなりません。そうでなければ、他人が従うことなど、期待できません。下にいる役人や官吏にも、厳しく目を配る必要があります。そうしなければ、それぞれの務めを、おろそかに果たすだけではないかと、疑われるからです。
王は、自分の領土の中で、輝く模範となるよう置かれています。広大な支配領域の空に浮かぶ、天体のようなものです。その振る舞いが、際立って正しく、潔白であれば、よい力を及ぼす、栄光の星となります。けれども、燃える力が有害なら、脅かす彗星として、頭上にかかるのです。
臣民は、もっと暗い領域を動くので、道を外れたり失敗したりしても、目立ちません。君主は、もっと高い軌道に置かれ、まぶしい光に囲まれています。そのため、汚点は、いっそうはっきり見え、光の陰りや、そのほかの欠けは、下にいる、すべてに影響します。
王は、美食、自由、追従、贅沢など、悪徳や不道徳へ誘う、あまりに多くの機会で釣られます。だから、いつでも襲いかかろうとする攻撃を防ぐため、絶えず見張っていなければなりません。
さらに、王冠を載せた頭に迫る、裏切り、憎しみ、危険、恐怖、そのほか千もの災いを、ひとまず除いても、こういうことがあります。天の下では、どれほど誰にも制されなくても、ここでの統治が終われば、さらに高い裁き手の前へ出なければなりません。そして、信頼して任された大きな管理の務めを、どう果たしたか、厳密に報告するよう求められるのです。
君主たちが、王として生きる、これだけの苦しみを、真剣に考えたなら、賢ければ、きっと考えるでしょう、その思いに、ひどく悩まされ、落ち着いて食べたり眠ったりも、できなくなるでしょう。
ところが、今は、わたしの助けで、これらの心配を、すべて神々に任せ、自分の安楽と楽しみだけを気にします。そのため、そばに置くのも、遊びや笑いで楽しませる人だけです。まじめな考えに、不意に捕まり、気分を冷まされては、困りますから。
統治の務めも、いつも狩りへ出て、よい競走馬を育て、いちばん高く買う廷臣に地位や官職を売り、民の財産へ手を伸ばして、自分の国庫に、もっと多くの収入を引き込む、新しい方法を見つければ、十分に果たしたつもりになります。金を得るためには、必ず、何か、権利や名目らしいものを用意します。明らかな強奪でも、法と正義の姿を、まとわせられるように。
そして、従順で愛想のよい振る舞いを、抑圧の上へ塗ります。庶民の気持ちへ、うまく入り込み、騒ぎも反乱も起こさず、重荷や取り立ての下で、辛抱して身をかがめさせるためです。
では、こんな人を想像しましょう。自分の暮らす国の法律や仕組みを知らず、公共の利益には敵対し、私益だけを追います。楽しみや快楽に、すっかりふけり、学問を嫌い、自由と真実には、公然と敵対します。共通の用事には無関心で、正義や誠実さの尺度を、自分の利益という狂った秤から、すべて取ります。
その人の首に、金の鎖を掛けてください。あらゆる徳を、つなぎ合わせて持つべきだという、しるしです。次に、金と宝石の冠を、頭に載せてください。あらゆる、ほめるべき資質で、他人を超え、輝くべきだという、しるしです。その手には、正義と廉直の象徴である王笏を持たせ、最後に、国への優しい愛情を表す、紫の衣を着せてください。
君主が、この肖像を見て、自分と比べたなら、きっと、威厳のしるしを恥じ、笑われて、それらを脱がされはしないかと、恐れるでしょう。

陛下
陛下 左上の雲の中にある文字は、判読できない。 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

王の次には、廷臣たちを挙げましょう。大半は、卑しく、奴隷じみて、へつらい、気概のない、お世辞使いです。それなのに、偉そうに構え、膨れ上がり、自分の名誉や威光を、たいそう高く考えています。どんなときにも、自信は、はっきり現れます。
けれども、一つだけ、実に慎み深い点があります。金や宝石、紫の衣、そのほか、徳と知恵の華やかなしるしで、体を飾れば満足し、心の中は、空のままにしておくことです。善の似姿を自分のものにして、真実や実体のほうは、他人へ譲ります。
王を主人と呼び、親しく話すことを許されるだけで、大変な幸福だと思います。尊厳なる殿下、卓越した閣下、いとも晴朗なる陛下といった、さまざまな称号を、すらすら並べられること。どんな話題でも、堂々と切り出せること。そして、取り入って、おだてるこつを、完全に身につけていること。これらこそが、本当に上品で高貴にしてくれる技なのです。
ほかの長所を、もっと厳しく調べれば、ただの飲んだくれで、愚鈍な者たちだと、わかるでしょう。たいてい昼まで眠り、それから、金で雇った家付きの司祭が枕元へ来て、短い朝の祈りでも聞かせます。着替えが済むと朝食へ向かい、それが終わると、すぐ昼食です。
食卓を片づければ、トランプ、さいころ、盤遊び、そのほかの気晴らしへ移ります。その後、午後の宴を、一度か二度、開かなくてはなりません。そして夕方には、夕食です。食べ終わると、飲み比べが始まります。瓶が戦列を作り、杯が並び、祝いの乾杯と、なみなみの酒が、次々に回ります。寝床へ運ばれるまで、です。
こうして、時間も、日も、月も、年も、生涯も、いつも同じやり方で過ぎてゆきます。わたしは、宮廷に立ち、けばけばしい蝶たちが競い合うのを眺めて、何度も、大いに満足したものです。貴婦人たちは、裾を引く長さで、気位の高さを測ります。その裾は、後ろで小姓に持ち上げてもらわなければなりません。貴族たちは、王の肘の近くへ寄ろうと、押し合います。そして、買うのに必要な富に劣らぬほどの力が、運ぶのにも必要な、重く大きな金の鎖を身につけるのです。

では、教皇、枢機卿、司教について、少し考えてみましょう。威儀と華やかさでは、世俗の君主を上回らないまでも、ほとんど並んでいる方々です。
白い亜麻布の上衣は、汚れのない清らかさと潔白を表します。二つに分かれた先を、同じ結び目でつなぐ司教冠は、旧約と新約の両方を合わせて知ることを示します。いつも手袋をはめるのは、金儲けや貪欲で汚さず、手を清く保つことの象徴です。牧杖は、託された群れへの配慮を意味します。前に掲げられる十字架は、肉の情念に対する勝利を表します。
これらや、そのほか、多くの同じような象徴を考えれば、非常に重く、難しい職務を任されていると、結論せずにはいられません。
ところが、ああ、この人々は、自分を養えれば、それで十分だと思っています。群れのほうは、キリストご自身に世話をお任せするか、下の代理司祭や補佐司祭に、導いてもらいます。司教という名が、労働、骨折り、勤勉さを意味することさえ、忘れています。その代わり、卑しい聖職売買の契約によって、俗な意味での episcopi、つまり、自分の利益と収入の「監督者」になるのです。

312
312 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
316
316 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
訳注

上衣の名称は、印刷面でも crotchet とある。白い聖職者の上衣という説明から rochet を指すと考えられるが、本文では衣服の説明を訳し、語そのものの異常は、ここに示した。

枢機卿も、同じことです。教会は、自分たちを使徒の後継者と見なしている。ならば、先人たちと同じように振る舞い、支配者ではなく、霊的な賜物を分け与える者でなければならない。そして、どう分け与えたかを、いつか厳密に報告しなければならない。そう考えてみれば、よいのです。
あるいは、自分の服装を少し見直し、こう自問してみるだけでも、よいでしょう。この白い上衣が示すのは、汚れない潔白以外の、何だろう。内側の紫は、神への燃えるような愛と熱意以外の、何を表すのだろう。
いちばん外側の、この、広く長い外套は、何を意味するのだろう。乗れば、騾馬の体を、すっぽり覆い、それどころか、ラクダさえ覆えるほど大きいものだ。その意味は、誰にでも助けと守りを広げる、あふれる愛ではないか。教え、勧め、慰め、戒め、忠告し、争いを仲裁し、悪い君主には勇敢に立ち向かうこと。群れの安全のためには、富や財産だけでなく、命と血も捧げること。
もっとも、本当は、貧しく、困窮し、何も持たなかった使徒の後継者だと誇る者が、富を持つべきでは、まったくないのですけれど。
こうしたことを胸に置けば、この栄誉を授けられようと、あれほど野心を燃やすことは、ないでしょう。与えられても、喜んで辞退するでしょう。少なくとも、初めの使徒たちと同じくらい熱心に、目を覚まし、骨を折って働くでしょう。
次に、キリストの代理を名乗るローマ教皇です。絶えず説教し、貧しく、裸で、飢えながら、この世を軽んじて歩く、キリストの模範的な生き方を、まねたら、どうでしょう。教皇という語が、父を意味することを考えたら。あるいは、「至聖」という呼び名を、実際に行ったら。どんな身分や階層の人々が、この方々より悪い境遇になるでしょうか。
教皇座が空いたとき、選挙会議で、あんなに盛んに徒党を組み、票を買うことも、なくなるでしょう。賄賂や、そのほかの不正な手段で選ばれた者も、拳銃、毒、力、暴力によって、その座を固めることは、なくなるでしょう。
ほんの少しの知恵を授けられただけで、楽しみは、どれほど減ることでしょう。知恵と言いましたか。いえ、救い主が、味を失うなと言った、あの塩の、一粒でもよいのです。
富、名誉、支配権、聖ペトロの世襲財産、官職、特免、許可、免償、長い供回り。ごらんなさい、宗教の商売を、何と短くまとめたことでしょう。要するに、あらゆる役得が、取り上げられ、失われます。その代わりに来るのは、徹夜、断食、涙、祈り、説教、厳しい勉学、悔い改めのため息、そのほか、千もの、厳しい苦役です。
いえ、もっと悲しいことも起こります。書記、筆記係、公証人、弁護士、代理人、秘書。馬丁、厩番、召使い、女を取り持つ者、そのほか、慎みのため名を挙げない者たち。要するに、教皇聖下を頼りにする、この従者の軍勢が、皆、それぞれの仕事を失ってしまうのです。

教皇
教皇 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

確かに、それは、つらいことでしょう。でも、まだ、もっと恐ろしいことが残っています。教会の頭、霊的な君主ご自身が、あらゆる華やかさから引き下ろされ、袋と杖だけの、貧しい身支度に戻るのです。
もっとも、これらは、自分たちが、どんな立場に置かれているかを理解したら、という仮定の話です。今は、考えないという健康な習慣のおかげで、心に望む限り、よく暮らしています。職務に伴う労苦や骨折りは、すべて聖ペトロか聖パウロへ引き渡します。あの方々には、それを世話する時間が、たっぷりありますから。けれども、楽しみや威光のあるところは、自分に割り当てられたものとして、引き受けます。こうして、わたしの力によって、この人々ほど、自分にとって楽で満ち足りた暮らしをする者は、いないのです。
仕えていると称する主、わたしたちの救い主も、大きな威儀と壮麗さ、就任の儀式、「尊い」「聖なる」という称号、それに、祝福と呪いだけで司教の役を果たすことによって、満足させられると思っています。
奇跡を行うことは、古くさく、時代遅れです。民を教えるのは、骨が折れすぎます。聖書を解釈するのは、スコラ学者の特権への侵害です。祈るのは、あまりに暇なこと。涙を流すのは、臆病で、男らしくありません。断食は、みすぼらしく、卑しいことです。気さくに人へ近づくのは、その威光にふさわしくありません。懇願されなければ、君主たちにさえ、足先へ口づけする名誉を、なかなか与えない方なのですから。
最後に、信仰のために死ぬのは、自分を捨てすぎです。命の主と同じように十字架につけられるのは、卑しく、恥ずべきことです。
使うべき武器は、霊の武器だけのはずです。確かに、その武器なら、たいへん気前よく使います。聖務停止、職務停止、糾弾、処罰の加重、大破門、小破門。そして、向けられた相手を、雷のように脅かす、うなり声の教皇勅書です。
この至聖の父たちが、それを、最も頻繁に放つ相手は、こういう者たちです。悪魔にそそのかされ、目の前に神への畏れを持たず、悪意と犯罪の心で、聖ペトロの世襲財産を減らし、損なおうとする者たち。
福音書では、その使徒は、ほかの弟子たち皆を代表して、救い主へ言っています。「わたしたちは、すべてを捨てて、あなたに従いました。」それなのに、この人々は、畑、町、財宝、広い領土を、ペトロの遺産として主張します。その防衛のため、聖なる熱意に燃え、火と剣で戦い、キリスト教徒の血を、大量に失わせ、流させます。そして、キリストの花嫁である教会の敵と呼ぶ者たちを、皆殺しにすれば、使徒にふさわしい仕方で、教会を守ったと思うのです。
けれども、本当は、このような不敬な教皇ほど、血に飢え、暴虐な教会の敵は、いません。キリストを説かなくてよいという特免を与え、金銭の賄賂や売買で、わたしたちの贖いの中心的な働きと目的を、空にしてしまいます。無理な解釈や、土台を掘り崩す伝承によって、福音を混ぜ物にします。最後に、欲情と悪行によって聖霊を悲しませ、救い主の傷から、再び血を流させるのです。

324
324 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

さらに、キリスト教会は、初めに植えられ、その後、確かにされ、今まで築かれてきました。そのすべてが、殉教者の血によって、なされたことです。それなのに、頭であるキリストが、今も同じ方法で教会を守るには、力が足りないとでもいうように、順序を逆にします。以前は、忍耐と苦しみだけで広められた宗教を、今は、武力と暴力で広めるのです。
戦争は、人間より獣にふさわしいほど、獣じみています。あまりに常軌を逸しているので、詩人たちは、復讐の女神たちの働きだと語りました。あまりに無法なので、あらゆる正義と誠実さの流れを止めます。あまりに向こう見ずなので、いちばんうまく行うのは、ごろつきや山賊です。そして、あまりにキリスト教に反するので、福音の明白な命令と、ぶつかります。
それでも、そんなことは、お構いなしです。平和は、静かすぎ、動きがなさすぎるので、戦争の荒々しさへ加わらなければ、ならないのです。進んで戦う教皇たちの中には、ほとんど、はうこともできないほどの老人もいます。それなのに、若者のような、きびきびした決意を装い、どんな苦労もいとわず、どんな費用も惜しまず、どんな不便も避けない、と決めます。法律も、宗教も、平和も、そのほか、聖俗を問わぬ、あらゆる事柄を、静まることのない混乱や騒ぎへ巻き込めるなら、それでよいのです。
それでも、学識ある、お世辞使いの廷臣たちは、この明白な狂気を、熱意、敬虔、勇気と解釈します。剣を抜き、兄弟の腹へ鞘のように収めながら、それでも、隣人を自分のように愛せと命じる、第二の石板の務めには背かない。そんな方法を、見つけ出したのです。
ローマの父たちが、ほかのドイツの司教たちを手本にしたのか、それとも、手本を与えたのかは、まだ、はっきりしません。その司教たちは、聖職の服装や、そのほかの儀式を省き、戦士のように頭から足まで武装して、公然と現れます。主の戦いを戦う、開けた戦場以外の場所で死ねば、職務を果たし足りないとでも、考えているのでしょう。
下位の聖職者たちは、後援者や教区の司教に倣わないのは無礼だと思い、十分の一税のために、熱心に争い、戦います。三段論法や論拠によって戦うのは、剣、棒、石、そのほか、手近なものを使うのと、同じくらい激しいものです。
ラビや教父、そのほかの古い書き物を読むときには、人々を怖がらせ、十分の一より多くを払う義務があると信じ込ませる文章を、何と目ざとく見つけることか。その同じ著者の中に、自分たちの職務の責任と難しさを思い出させる言葉があっても、通り過ぎます。
頭頂をそることが、この世の余分な欲を、すべて削り落とし、神についての黙想へ、すっかり身を捧げるべきだという、しるしだとは、考えもしません。その代わり、頭をそった司祭たちは、ひと束の祈りを、ぶつぶつ唱えれば、それで十分だと思っています。その声は、あまりに小さく、言葉は、あまりに、なじみがなく、自分たちでも、ほとんど聞き取れず、理解できません。それを神が聞き、理解してくださるとしたら、驚くべきことです。
ほかの職人と共通する点は、金を得る技に、最もよく通じていることです。十分の一税、献金、役得など、自分の取り分については、驚くほど詳しいのです。
こうして、利益を刈り取ることには、皆、満足しています。けれども、重荷のほうは、球のように、手から手へ投げ渡し、見つけたり雇ったりできる相手へ、引き渡します。世俗の君主に、名代として働く裁判官や下役がいるように、教会の統治者にも、代理人、代理司祭、補佐司祭がいます。それどころか、しばしば、宗教の世話全体を、一般信徒へ回してしまいます。
一般信徒は、自分たちは教会と関係がないと思い、洗礼の誓いによって、その一員になったのではないかのように、司祭へ返します。司祭の中でも、在俗の者は、その名が、自分を少し俗に寄りすぎたものに見せると考え、この務めを修道聖職者へ渡します。修道聖職者は修道士へ、修道士は会から会へ、投げ回し、ついに托鉢修道士へ落ち着きます。
その人々は、カルトジオ会へ、押しつけます。この会だけは、誠実さと敬虔を、中に保っています。ただし、あまりに、しっかり閉じ込めておくので、まだ、誰一人、それを見たことがありません。
こうして、教皇たちは、利益の収穫にだけ鎌を入れ、霊的な農作業の、そのほかの苦労は、すべて司教へ残します。司教は主任司祭へ、主任司祭は補佐司祭へ、補佐司祭は托鉢修道士へ任せます。そして、托鉢修道士は、羊毛の利益によって、群れから、うまく得をする方法を知っている人々へ、また返すのです。

328
328 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
332
332 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
訳注

「第二の石板」は、人に対する義務を定めた戒めを指す。「在俗の者は、その名が」の「名」は、印刷面で title と確認した。電子本文の tithe(十分の一税)は、この箇所では転記の誤り。

けれども、教皇や司祭の弱みを、わざわざ暴いているとは、思わないでください。題から外れ、賛辞ではなく風刺を作っていると、見えてしまいますから。また、悪い君主をほめることで、よい君主を非難しているとも、思わないでください。
簡単に述べたのは、ただ、このことを示すためです。わたしの仲間に入り、わたしを友として保たなければ、誰一人、心地よい人生を送れない、と。実際、そうでないはずが、ありません。世界の女帝である運命は、わたしと、あまりに親しい同盟を結んでいます。賢者には、いつも、けちで、贈り物を惜しむのに、愚か者には、あふれるほど気前よく、ふんだんに与えるのです。
たとえば、アテナイの将軍ティモテオスは、どんな遠征でも、幸運の手本となりました。少しばかり、知恵が足りなかったからです。そこから、「眠る者の魚籠が、魚を捕らえる」というギリシアのことわざが生まれました。つまり、「漁師が眠っていても、網は満ちる」ということです。もう一つ、めでたい、ことわざがあります。「梟が飛ぶ」。成功の前兆なのです。
その反対に、賢者へ向けられるのは、不吉なことわざです。「四日目に生まれた者たち」、つまり、悪い星の下に生まれた者。「彼はセイウスの馬を持っている」、すなわち、先頭の馬には乗れない者。「トロサの黄金」、すなわち、不正に得た財は、決して栄えない。そのほか、同じ趣旨のものが、いろいろあります。けれども、これ以上、ことわざを並べるのは、やめましょう。わたしのエラスムスの『格言集』を、盗み漁ったと思われては、困りますから。
話を戻せば、運命は、いつも、無骨な者をひいきし、出しゃばる者を元気づけ、愚か者をなでて、よい気分にさせ、その企てを、すべて成功で飾ります。ところが、知恵は、その弟子たちを、恥ずかしがりで、こそこそした、臆病な者にします。
だから、賢者たちは、たいてい、苦しいやりくりへ追い込まれ、貧しさ、寒さ、飢えと格闘し、人から離れ、軽蔑され、顧みられずに暮らすのです。その間、愚か者は、金に埋もれ、地位や官職へ引き上げられ、要するに、世界全体を思いのままにします。
宮廷の寵臣となり、役職や昇進の配分を握ることが幸福だと考える方がいるなら、申し上げましょう。その幸福は、知恵で得られるどころか、知恵があると疑われただけで、すべての出世が止まってしまうのです。立派な財産を築きたいですって。偽誓をためらい、嘘を恥じ、詐欺や、ごまかしに躊躇するほど賢ければ、この世の、どんな商人が、一ファージングでも稼げるでしょうか。

336
336 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
訳注

この段落の格言は、ギリシア語・ラテン語の語義と、それに続く英語底本の言い換えを、両方訳した。「四日目に生まれた者たち」は、英語では「悪い星の下に生まれた」と説明される。「セイウスの馬」は、持ち主に災難をもたらした馬の故事。「先頭の馬には乗れない」は、この英語底本の、逐語的ではない言い換え。「トロサの黄金」は、神殿から奪われた黄金の故事を指す。最初のギリシア語格言では、動詞の印刷されたアクセント符号が不鮮明だが、文意は魚籠が魚を捕らえることと読める。

さらに、教会の高い地位へ立候補する人がいるなら、賢者より、驢馬や、畑仕事の男のほうが、先に手に入れるでしょう。また、美しい女性に恋をしていますか。ああ、女性たちは、あまりに愚かさが好きなので、賢い求婚者の言葉には、まったく耳を貸しません。
最後に、笑いや陽気な楽しみの用意があるところでは、必ず、賢者は皆、仲間から外されます。喜びを制限し、浮かれた気分を冷ましては、困るからです。
要するに、どちらを向いても同じです。教皇、君主、裁判官、役人、友、敵、金持ち、貧乏人。皆の用事は、金によって運ばれています。その金を、賢者は低く見ます。だから、きっと、その仕返しとして、金は賢者のもとへ、決して来ないのです。

さて、わたしへの賛辞は、いくらでも続けられますが、話には、どこかで区切りをつけなければなりません。ですから、まず、何人かの著者の権威によって、これまでの話を確かめたら、終わりへ向かいましょう。
さらに証拠を挙げるのは、一つには、他人が認める以上のことを、自分のために語ったと思われないようにするためです。もう一つには、先例も引用も出さないと、弁護士たちに、とがめられないためです。その人々をまねて、いくつかの記録や権威を持ち出しましょう。もっとも、それらも、弁護士のものと同じように、題には、何の関係もないかもしれませんけれど。

まず、とぼける技が、たいへん必要な心得であることは、ほとんど、ことわざのように認められています。そのため、学童たちの間には、こんな詩句が、広まっています。

ふさわしい折に、愚か者のふりをするのは、
いっそう完全な賢者である、しるし。

ただの影や、まねでさえ、これほど尊ばれるのですから、本当の愚かさを、どれほど高く評価すべきかは、簡単に推し量れます。ホラティウスは『書簡詩』で、自分を、こう呼んでいます。

わたしの体は、肌もつややか、なめらかで、
エピクロスの豚小屋の、肥えた豚と暮らすよう。

その詩人が、ある頌歌では、こう勧めているのです。

思慮の中へ、しばしの愚かさを混ぜなさい。

しばしの愚かさ
しばしの愚かさ ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

もっとも、「しばしの」という言い方は、少し不適切ですね。同じ詩人は、別のところで、こうも言っています。

折にかなった愚かさは、甘い味わいを持つ。

そして、もう一つ、別のところでは。

知恵の学校で、むちの痛みを味わうより、
愚か者だと責められるほうを、わたしは選ぶ。

ホメロスは、ほかのどんな英雄にも劣らず、テレマコスを、ほめています。それなのに、Νηπιος、つまり「愚かな」という呼び名を与えています。ギリシア人は一般に、子どもの無邪気さを示すためにも、同じ語を使います。そもそも、ホメロスの『イリアス』全体の主題は、ホラティウスが述べるとおり、こうでは、ありませんか。

訳注

Νηπιος は、印刷面の綴りに従った。通常の辞書形は νήπιος で、幼い子、転じて、子どもじみた、思慮のない、といった意味を持つ。

そこにあるのは、王たちと民の、愚かな振る舞い。

トゥッリウスの、ほめ言葉も、何と断固としていることでしょう。「あらゆる場所は、愚か者で満ちている。」優れたものは、その広がりで測るべきなのですから、愚かさの善さも、その手の届く、世界じゅうの場所と同じくらい、広いはずです。
けれども、キリスト教徒は、異教徒の権威を軽く見るかもしれません。ですから、その気になれば、聖書から、いくつもの文章を引用し、この真実を支え、確かめることもできます。もっとも、それだけ神学者たちの特権へ踏み込むのですから、許しを願うのが、務めかもしれませんね。
許しが出たとしましょう。仕事は、誰かの助けを呼びたくなるほど難しそうです。けれども、詩の女神たちに、長く退屈な旅の苦労や費用をかけさせるのは、不合理です。特に、今回は、あの方々の領分ではないのですから。
ですから、むしろ、こう願いましょう。わたしが神学者を演じ、その論争の難所へ踏み込む間だけは、スコトゥスの、とげとげしく逆立った魂に、動かしてもらいたい、と。後で、その魂が、どう体へ戻ろうと、かまいません。清められるため、途中で煉獄に足止めされても、です。
役柄を、すっかり変えられたら、と願わずにはいられません。少なくとも、この部分だけは、重々しい神学者に、代わりに話してほしいものです。これからの話で見せなければならないほどの神学に、わたしが通じているふりをすれば、誰かが、あの尊い方々の書斎を、盗み荒らしたと非難するのではないか。実際、その気がするのです。
それでも、長く、しばしば付き合ってきたのですから、神学者たちから、少しばかり拾い集めていても、不思議ではないでしょう。ホラティウスの木の神も、主人がホメロスを読むのを聞いて、ギリシア語を、いくらか覚えました。ルキアノスの雄鶏も、長く耳を傾けたおかげで、人の言うことを、すぐ理解できました。
では、自分の成功を祈りながら、本題へ進みましょう。

344
344 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

『コヘレトの言葉』は、どこかで、愚か者の数は、限りないと認めています。限りない数と言うなら、それは、人間全体を含むということでは、ありませんか。除かれるのは、ごくわずかだけです。その人たちを、一人でも見られる幸運に、あずかった者がいるかどうか、わたしは知りませんけれど。

訳注

聖書の引用と章番号は、この英語底本の形をもとに訳している。愚かさの女神が、自分に都合よく解釈する語りも、作品の一部として残した。

預言者エレミヤは、第十章で、もっと明白に語っています。「すべての人は、その知識において、獣のように愚かである。」その直前には、知恵を神だけのものとして、「諸国の賢者たちは、まったく獣じみて愚かだ」と言っています。また、その前の章では、時宜にかなった警告を与えます。「賢者は、自分の知恵を誇るな。」理由は明らかです。本当に誇れるような知恵を、人は誰も持っていないからです。
『コヘレトの言葉』へ戻りましょう。「空しさの空しさ、すべては空しい」と言うとき、その意味は、何だと考えられるでしょう。人生全体は、ただ、途切れず続く愚かさの寸劇である。それ以外に、ありますか。これは、先ほど引用した、トゥッリウスの、あの有名な主張を確かめます。「あらゆる場所には、愚か者が群がっている」と。
さらに、シラの子が『シラ書』で、「愚か者は月のように変わり、賢者は太陽のように定まっている」と言うのは、何の意味でしょう。人間すべての愚かさを、ほのめかし、賢者という名は、全知の神だけに、ふさわしいと示しているのでは、ありませんか。解釈者たちは皆、月は人間を、太陽は、あらゆる光の源である全能者を表すと、理解していますから。
福音での、救い主の、この言葉にも、同じ意味が含まれます。「善い者は、一人、神のほかには、いない。」賢くない者は、必然的に愚か者であり、ストア派によれば、人が賢いのは、善い限りにおいてだけです。ならば、この聖句の意味は、人間は皆、避けようもなく愚かであり、賢い者は、一人、神のほかにはいない、ということになるはずです。
ソロモンも、『箴言』第十五章で、こう述べています。「知恵のない者には、愚かさが喜びとなる。」賢者には、悲しみや苦しみが付きまとい、愚か者だけが、喜びと楽しみに浸ることを、明らかに、ほのめかしているのです。同じ趣旨なのが、『コヘレトの言葉』第一章の言葉です。「知恵が多ければ、苦しみも多い。知識を増す者は、悲しみを増す。」
同じ説教者は、同じ書の第七章で、こうも認めています。「賢者の心は、喪の家にあり、愚か者の心は、喜びの家にある。」この著者自身、人間の弱さや不備を調べることに打ち込まなければ、あれほどの知恵には達しなかったでしょう。わたしを信じないなら、第一章の、本人の言葉をごらんなさい。「わたしは心を注いで、知恵を知り、狂気と愚かさを知ろうとした。」
ここで、語の順序に注目する値打ちがあります。愚かさは、有利にも、最後に置かれているのです。『コヘレトの言葉』は、こう書かれました。実際、教会の方法からも、そうでなければ、なりません。尊さで先に来るものは、列や順序では、後に置かれるべきなのです。「後の者が先になり、先の者が後になる」という福音の教えに、従えばね。
『シラ書』にも、この名を持つ聖なる書の著者が誰であれ、第四十四章で、知恵に対する愚かさの優越が、はっきり認められています。正確な言葉を引用する前に、一つ、問いを出して、答えていただきましょう。こうして問いかける方法は、プラトンが、ソクラテスと相手との対話で、しばしば使っているものです。
さて、わたしたちが、普通、大切にしまい込み、鍵を掛けるのは、何ですか。高く評価され、値打ちのあるものですか。それとも、ありふれた、つまらない、見下げられるものですか。なぜ、そんなに答えをためらうのでしょう。皆さまが、そんなに遠慮して黙っているなら、ギリシアのことわざを、十分な答えとして受け取りましょう。「汚れた水は、流しへ捨てられる。」
誰にも、この言葉を軽く見られないよう、断っておきましょう。その出どころは、真実の神託たる、アリストテレスご本人に、ほかなりません。実際、金や宝石を、肥だめへ投げ捨てるほど狂った人は、狂人院の外には、いないでしょう。むしろ誰もが、しまって守るための奥まった場所を持ち、技が考え出し、恐れが思いつく限りの、錠、かんぬき、柵で、守ります。
その一方、道に散らばった土や小石や牡蠣の殻は、踏みつけ、通り過ぎ、見向きもしません。

348
348 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

それなら、値打ちのあるものは箱へしまわれ、そうでないものは、見向きもされずに置かれるのですから、知恵より愚かさのほうが、高く評価されるべきだと、わかります。あの賢い著者は、愚かさを、しっかり隠しておき、知恵は表へ出すよう、勧めているのですから。本人の言葉を、そのまま受け取ってごらんなさい。「知恵を隠す者よりも、愚かさを隠す者のほうが、よい。」
そのうえ、聖書は、しばしば、愚か者に潔白さや誠実さを認めます。その一方、賢者は、自分より知恵が少ないと考え、決めつけた者たちを、尊大に嘲りがちです。わたしが『コヘレトの言葉』第十章の、この箇所を、そう理解するのも、そのためです。「愚か者が道を歩くとき、その知恵は欠けており、自分は愚か者だと、誰にでも言う。」
自分を、ほかのすべての人と同じ高さに置き、他人の値打ちを、自分より低いとは思わない。これ以上に、率直さや素直さを示すものが、あるでしょうか。
愚かさは、それほど恥ずべき性質では、ありません。賢いアグルも、『箴言』第三十章で、それを告白することを恥じませんでした。「まことに、わたしは誰よりも獣のように愚かで、人間の理解力を持たない。」
それどころか、異邦人の偉大な教師、聖パウロ自身も、コリントの人々へ書くときには、進んで、その名を認めています。「誰かが愚か者として語るなら、わたしは、もっとそうだ。」まるで、愚かさで劣っていれば、非難され、恥になるとでもいうようです。
けれども、この聖句を誤って解釈したと、近ごろの注釈者たちに、責められるかもしれません。あの人々は、互いの目をつつく烏のように、それ以前の人々へ難癖をつけ、訂正します。それぞれ、自分の注釈だけが、真実で正しい説明を含む、と言い張るのです。その中では、わたしのエラスムスも、敬意をこめて名を挙げずにはいられませんが、第一位でないとしても、第二位は主張できるでしょう。
その人たちは言います。「この引用は、まったく見当違いだ。使徒の意図は、お前の想像とは、大きく違う。ほかの人々よりも愚かな者と思われたい、という意味ではない。まず、『彼らはキリストに仕える者か。わたしもそうだ』と言った。そこで、他人と同じでは足りないかのように、『わたしは、もっとそうだ』と付け加えたのだ。比べている相手を、上回りさえしなければ、同等であるだけでは不十分だと考えたのだ。」
「パウロは、それを真実として信じてもらいたい。けれども、傲慢やうぬぼれに近すぎて、不快に思われないよう、愚かさで覆い、和らげた。『わたしは愚か者として語る』と言うのは、相手を不快にさせずに真実を語れることが、愚か者だけの特権だと、知っていたからなのだ。」
けれども、書いたとき、聖パウロが何を考えていたかは、その人々に決めてもらいましょう。少なくとも、わたし自身は、昔ながらの、太鼓腹の、よい神学者たちの意見を選びます。生かじりの、未熟な新参者と一緒に正しくあるより、あの人々と一緒に間違うほうが、安全で、信用にもなるのですから。

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352 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
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356 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

実際、最近の批評家など、意味もなく鳴くコクマルガラス以上に、気にする必要はありません。特に、その中でも、最も名高い一人が、こんなことをしているのですから。その名は、わざと伏せておきます。才人の誰かが、ギリシアのことわざを持ち出して、その人をからかうと、いけませんから。
その人は、権威ぶって、独断的に、本文の「彼らはキリストに仕える者か」を論じ、「わたしは愚か者として語る。わたしは、もっとそうだ」を、別の章に分けます。そして、たっぷり論理学を身につけていなければ、できないことでしょうが、新しい節まで付け加えます。それから、こんな言い換えを与えるのです。
その意味だけを形相的にでなく、言葉そのものも質料的に、皆さまへ届けられるよう、逐語的に繰り返しましょう。形相と質料などというのは、あの人々の、あのおしゃべりな区別の一つです。
「『わたしは愚か者として語る』とは、こういうことだ。あの偽使徒たちと、自分を同等に置くことが、愚か者の自慢と解されるのなら、わたしは、喜んで、もっと大きな愚か者と見なされよう。彼らより前に出て、奉仕の点では、ただ同じところまで達するだけでなく、追い越し、上回っているのだと、公然と主張するのだから。」
もっとも、この同じ注釈者は、少し後で、つい今しがた述べたことを忘れたかのように、向きを変え、別の解釈へ移るのです。

けれども、なぜ、わたしは、一つの例ばかりに、こだわるのでしょう。自分の好みに合うまで、聖なる言葉を、こね、曲げるのは、神学者すべてに認められた、公の特権です。創造主が天を広げたように、それを幕のように広げ、好きなように閉じたり、引き戻したりします。
実際、聖パウロ自身も、用いる引用の一部を細かく切り、形を変え、最初に意図されたのとは違う意味へ、ねじ曲げているように見えます。偉大な言語学者、聖ヒエロニムスも、そう認めています。

たとえば、パウロは、アテナイで祭壇の銘文を見ると、そこから、キリスト教を証明する論拠を引き出します。けれども、全文を繰り返せば、自分の主張に不利になったかもしれないため、文の大部分を省き、最後の二語だけを挙げます。「知られざる神に」。しかも、そこにも変更があります。銘文全体は、こうなっていたからです。「アジア、ヨーロッパ、アフリカの神々に。あらゆる異国の、知られざる神々に。」

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360 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

間違いなく、その同じ手本を、まねているのでしょう。若い神学者たちは、ある箇所から四、五語を抜き、残りを誤って組み立てることで、どんな文章も、自分の目的に役立てられます。前後のつながりから見れば、本来の意味は、押しつけようとする意味から、大きく離れ、あるいは正反対でさえあるのに。
今では、この技に、あまりに熟達したので、弁護士たちも、かつて自分たちだけの特権であり、仕事だった領域へ、踏み込まれているのではないかと、気にし始めています。
実際、この人々に、証明を諦めるものなど、あるでしょうか。先ほどの注釈者など、危うく名を口走るところでしたが、同じギリシアのことわざで、からかわれるのが怖いので、やめておきます、その人が、聖ルカの、ある文章に、こんな解釈をつけたのです。その箇所の意味とは、相反する二つの性質ほどにも、合わない解釈を。
問題の箇所は、こうです。ユダの裏切りが、実行へ移されようとしていました。そのため、弟子たちは皆、襲われる師を守る用意をすべきだと、思われました。そこで救い主は、自分を救うために、この世の力を頼みにしないよう、敬虔な注意を与えようとして、尋ねます。
長い旅へ、何の備えもなく送り出した、あの使節の務めの間、何か足りないものがあったか。足を石や茨から守る履物さえなく、一食分を入れて運ぶ袋もなかった、あのときに、と。
弟子たちが、何も足りなかったことはない、と答えると、こう付け加えます。「しかし、今は、財布のある者は、それを持て。袋も同じように持て。剣のない者は、上着を売って、一本、買いなさい。」
救い主の教え全体が、何より繰り返して説くのは、柔和、忍耐、この世を軽んじることです。それなら、この箇所の意味は、明らかでは、ありませんか。今、使者たちを、もっと身軽で、守りのない状態で送り出そうとしているのです。履物や袋を気にするなと勧めるだけでなく、背に着ている服さえ手放すよう命じます。務めを果たしてゆくとき、荷物や、まとわりつくものを、さらに減らせるように、です。
確かに、剣を用意せよとは、注意しています。けれども、それは、悪党や追いはぎが、人を殺し、血を流すために使う、肉の剣では、ありません。霊の剣です。心を貫き、魂の最も奥まった隠れ場所を探り、あらゆる欲情や、腐った愛着を切り落とし、胸の中には、敬虔、熱意、信心だけを残す剣なのです。わたしの考えでは、これが、最も自然な解釈です。

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364 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

ところが、その神学者が、この箇所を、どう誤解するか、ごらんなさい。剣は、迫害への防衛を意味する。袋や財布は、十分な量の備えを意味する、と言うのです。まるでキリストが、前に弟子たちを送り出した、あの乏しい装備について、考え直して気を変え、以前、定めたことを、今、撤回しに来たかのようです。
あるいは、昔、弟子たちに言ったことを、忘れたかのようです。「わたしのために、人々が、お前たちをののしり、迫害し、あらゆる悪口を言うとき、お前たちは幸いである。悪に悪を返すな。幸いなのは、柔和な者であり、残酷な者ではない。」
雀や百合の例で励まし、明日のことを思い煩うなと教えたのも、忘れたかのようです。今度は別の教えを与え、剣なしで行くくらいなら、上着を売って、一本買えと命じるのだ、と。寒く、裸で行くほうが、武器を持たずに進むより、まだ許されるとでもいうように。
この著者は、剣という名の下に、害を防ぎ、報復するために必要な、すべての手段が含まれると考えます。同じように、袋という名の下には、暮らしの必要や便利さが求めるものを、すべて含めようとするのです。

こうして、この用意周到な注釈者は、十字架につけられたキリストを説く企てのため、弟子たちに、斧槍、槍、銃を装備させます。同時に、ポケット、袋、旅行鞄も用意します。腹だけでなく、食器棚まで、いつも持ち歩けるように、です。
その直後、救い主が、つい先ほど、あれほど厳しく買うよう命じたはずの剣を抜いたことで、ペトロを叱ることには、目を向けません。また、初めのキリスト教徒たちは、涙と祈り以外のものでは、異教の迫害者に抵抗しなかったと、伝えられています。それにも、注意を払いません。この聖句が許してくれると思っていたなら、涙や祈りを、もっと効き目のある剣や盾へ、取り替えていたでしょうに。

別の注釈者もいます。決して評判の低い人ではありません。本人への敬意から、名は挙げずにおきましょう。その人は、預言者ハバククの、この節を注釈しました。「わたしは、クシャンの天幕が苦しむのを見た。ミディアンの地の幕が震えた。」
天幕は、ときに皮で作られる。だから、ここで天幕という語は、殉教のために皮を剝がされた、聖バルトロマイの皮を意味するのだ、と主張したのです。

わたし自身、この前、神学の討論に出ていました。よく顔を出す場所なのです。そこで、一人の論者が理由を尋ねました。穏やかで落ち着いた議論によって、異端者を改宗させるよりも、剣と火刑の薪で、すべての異端者を黙らせるほうが、なぜ適切だと考えられるのか、と。
すると、顔のしかめ方や、しわを読めば、神学者とわかる、皮肉っぽい老人が、かなりの軽蔑をこめて答えました。それは、聖パウロご自身が、ティトスへの指示で、明白に命じたことだ、と。「異端の人は、一度、二度、戒めた後、避けよ。」
彼はラテン語で引用しました。「避けよ」に当たる語は、devita です。聴衆は皆、その引用に驚き、目的とは、何の関係もないと思いました。そこで、老人は、ついに説明しました。devita は de vita tollendum hereticum、つまり、異端者は命を奪われるべきだ、という意味なのだ、と。
その無知に笑う人もいましたが、正統な注釈として認める人もいました。これほど明白な聖句に、そんな乱暴をすることを嫌う人がいても、この、細かい区別を振りかざす、反駁不能の博士は、勝ち誇って続けました。
「さらに、否定しがたく証明しよう。古い律法には、こう命じられている。『魔女を生かしておいてはならない。』したがって、すべての Maleficus、すなわち魔女は、殺されるべきだ。ところで、異端者は Maleficus、悪をなす者である。ラテン語訳では、この語が魔女に使われている。ゆえに、以下略。」
その場の人々は皆、その才知に驚き、実に敬虔に、その意見を受け入れました。その律法が、魔術師や、まじないを使う者にだけ限られることなど、夢にも考えません。そうでなければ、Maleficus という語を、最も自然な意味である「あらゆる悪をなす者」と取るなら、酩酊や淫行にも、魔術と同じ死刑が科されることになります。
けれども、なぜ、わたしは、この話を長々と続けて、時間を無駄にするのでしょう。突き詰めれば、永遠に話せる題です。ここで目指したのは、ただ一つ。あの重々しい博士たちが、これほど広い自由を使うのなら、神学を生かじりした新参者にすぎない、わたしの言い損ないや間違いには、もっと大きな許しがあってもよい、ということです。

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370 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版
訳注

devita は「避けよ」。これを de vita(命から)に分けて、殺害の命令と読むのが、ここで笑われる語呂合わせ。Maleficus には、悪をなす者という意味と、魔術にかかわる意味があり、その混同も批判の対象になっている。

そこで、聖パウロへ戻りましょう。彼は、自分のこととして、「あなたがたは、愚か者を喜んで受け入れる」と言います。また、「愚か者として、わたしを迎えてほしい」、「わたしが話すことは、主に従ってではなく、いわば愚かに語ることだ」とも言います。そして別のところでは、「わたしたちは、キリストのために愚か者である」と。
ごらんなさい。この愚かさへの賛辞は、その語り手に劣らず、偉大で、聖なるものではありませんか。同じ聖人は、さらに、愚か者になることを、何よりも必要で、欠かせない徳として、勧め、命じています。「この世で、自分が賢いと思う者がいるなら、賢くなるために、愚か者になりなさい」と。
聖ルカも伝えています。救い主が復活の後、エマオへ旅する二人の弟子に加わったとき、最初の呼びかけで、彼らを愚か者と呼んだのです。「ああ、愚かで、信じる心の鈍い者たちよ」と。
けれども、聖パウロが、さらに語ることと比べれば、これも不思議ではありません。全知の神ご自身にさえ、あえて、ある種の愚かさを認めるのです。「神の愚かさは、人間より賢い」と。
この聖句について、聖オリゲネスは、「愚かさ」を、人間の見方に関係づけて読んではならず、パウロの別の言葉、「十字架の説教は、滅びる者には愚かさである」と同じ意味にも、取ってはならないとします。
けれども、なぜ、こんなに多くの証拠を引いて、骨を折るのでしょう。これ一つで、十分です。ダビデがキリストを予め表している、あの奥義を含む詩編では、救い主が告白する形で、ご自身も愚かさを持つと認めています。「神よ、あなたは、わたしの愚かさを知っておられる」と。
愚か者が、心の素直さと誠実さのため、いつも全能の神に最も喜ばれてきたのも、理由がないことではありません。この世の君主は、臣民の中でも、最も注意深く、政治の深いところを読む者には、鋭い疑いと、警戒の目を向けてきました。カエサルが、思いを巡らすカッシウスとブルトゥスを恐れ、気楽に酒を飲むアントニウスからは、安全だと思ったのも、そのためです。ネロもセネカを疑い、ディオニュシオスは、できればプラトンを遠ざけたかったのです。その一方、どの君主も、策略や工夫の少ない者には、もっと信頼を置けます。
同じように、救い主も、賢く、狡猾な者を嫌い、非難します。聖パウロが、「神は、この世の愚かなものを選ばれた」と、はっきり宣言するとおりです。また、「神は、愚かさによって世界を救うことを、よしとされた」とも。知恵では、世界は救われなかったという意味です。
神ご自身も、預言者の口を通して、同じことを証言しています。「わたしは、賢者の知恵を滅ぼし、学識ある者の理解を、無に帰す。」
また、救い主は、救いの奥義を賢者から隠し、幼子たち、つまり愚か者たちへ明かしたことを、父へ厳かに感謝します。原語の νηπίοις は、σοφοῖς と対置されています。片方が賢い者を意味するなら、もう片方は、愚かな者を意味するはずです。
同じ趣旨で、主は、律法学者、ファリサイ派、法律の専門家を、たびたび非難し、責める一方、学のない群衆には、優しく親切に接しました。「災いだ、律法学者とファリサイ派よ」という厳しい宣告は、「災いだ、賢者たちよ」以外の、何を意味するでしょう。その一方、主が、特に喜んでいるように見えるのは、子ども、女性、学のない漁師たちなのです。

訳注

νηπίοις は「幼子たちに」、σοφοῖς は「賢い人々に」の意味。前者を、そのまま「愚か者」と等しいものにするのは、ここでの語り手の論法である。

さらに、さまざまな動物の中でも、主が最も好意を示すのは、狐の狡猾さから、最も遠いものだと、気づけます。エルサレムへ進むとき、主は驢馬に乗ることを選びました。望めば、もっと威厳があり、同じくらい危険もなく、獅子の背に乗れたはずなのに。
聖霊も同じように、天から降りる際、鷲や鳶、そのほかの、もっと気高い鳥ではなく、素朴で、胆汁のない鳩の姿を選んだのです。

このように、聖書のいたるところに、牡鹿、牝鹿、子羊など、最も害のない生き物の比喩や、たとえが出てきます。それどころか、審判の日、救い主の右に置かれる、祝福された魂たちは、羊と呼ばれています。羊は、家畜の中で、最も分別がなく、愚鈍なものです。
アリストテレスのギリシア語のことわざ、「羊の気質」が、その証拠です。つまり、鈍く、愚かで、眠たげで、男らしくない性質のことです。それでも、キリストは、そのような群れの羊飼いだと、公言することを恥じません。
いえ、信者たち皆を、羊と呼ばせるだけでなく、ご自身も子羊と呼ばれることを望んでいます。洗礼者ヨハネが、自分のもとへ来るイエスを見て、「見よ、神の子羊だ」と言ったように。この同じ呼び名は、『黙示録』でも、たびたび救い主に与えられます。

訳注

印刷面には、英語の説明の前に προβάτων ἦθος とあり、「羊の気質」の意味。ここでは、それに続く英語の説明と合わせて訳した。

これらが意味するのは、人間は皆、愚か者だということに、ほかなりません。罪人だけでなく、正しく敬虔な人も、同じです。いえ、ある意味では、主ご自身も、そうなのです。父の知恵でありながら、堕落した人間の弱さを修復するため、わたしたちの本性をまとい、人の姿を取ったとき、人間の愚かさを、ある程度、共に担いました。あるいは、罪を知らない方を、神が、わたしたちのために罪とされたとき、そうなったのです。わたしたちが、その方のうちで、神の義となるために。
主は、わたしたちの罪が開けた傷を、十字架の愚かさ以外の方法では、癒やそうとしませんでした。それを告げたのは、無知で、学のない使徒たちです。その使徒たちに、主は、愚かさの優れたところを、たびたび勧め、知恵に感染しないよう、警告しています。まねるべき例として、子ども、百合、雀、からし菜などを示すことで、です。
それらは、まったく生命のないものか、少なくとも、理性や工夫を欠き、本能だけに導かれ、心配も苦労も策略も、ありません。
同じ趣旨で、弟子たちは、主である師から、警告されました。会堂や役人や権力者のもとへ連れていかれても、どう答えるか、何を答えるか、何を言うかを、思い煩うな、と。また、時や時期を詮索したり、自分の能力を頼みにしたりせず、神の助けに、すっかり依り頼むよう、厳しく命じられたのです。

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378 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

楽園に初めて人が置かれたとき、全能者が、父祖アダムへ、知識の木の実を食べるなと、あれほど厳しく命じたのも、知識を味わえば、あらゆる幸福が損なわれると、警告したからに違いありません。聖パウロも、「知識は、人を膨れ上がらせる」と、はっきり言っています。つまり、命取りであり、有毒なのです。それに従い、聖ベルナルドは、悪魔が座を設けた、あの非常に高い山を、知識の山と解釈しています。
もう一つ、見逃してはならない論拠があるかもしれません。愚かさは神々に喜ばれ、少なくとも、許されるということです。神々は、愚か者の不注意な失敗を、たやすく見逃しますが、もっと知恵があると知られている人の過ちは、なかなか赦しません。それどころか、賢者が罪を免れようと願うときには、愚かさの庇護と口実で、自分を覆わなければなりません。
『民数記』第十二章では、アロンがモーセに、姉妹ミリアムの皮膚の病を止めてほしいと願い、こう言います。「ああ、わが主よ、わたしたちが愚かに振る舞って犯した罪を、どうか、わたしたちに負わせないでください。」
また、ダビデがハキラの天幕で眠るサウルを見つけたとき、主に油を注がれた者へ手を上げたくないと考え、命を助けました。するとサウルは、前の厳しい仕打ちを、こう告白して弁明します。「見よ、わたしは愚かに振る舞い、甚だしく誤った。」
ダビデ自身も、よく似た形で、全能の神に罪の赦しを求めます。「主よ、どうか、しもべの不義を取り除いてください。わたしは、とても愚かに振る舞いました。」まるで、愚かさを盾にし、情状を和らげて願わなければ、赦しを期待できなかったかのようです。
それにかなう、救い主の行いは、さらに説得力があります。十字架に掛かったとき、敵のために祈り、「父よ、彼らを赦してください」と言いました。その者たちのために挙げた理由は、無知だけです。「自分が何をしているか、知らないのですから」と。
同じように、聖パウロも『テモテへの手紙一』で、自分が冒瀆する者であり、迫害する者だったと認めます。それでも、「憐れみを受けた。信じていなかったとき、知らずにしたことだから」と言うのです。
「知らずにした」とは、ただ、こういう意味ではありませんか。自分の過ちは、意図した悪意ではなく、事情を知らない愚かさから起きた、と。「憐れみを受けた」とは、愚かさと無知が弁護してくれなければ、受けられなかったという意味では、ありませんか。
同じ趣旨の言葉が、奥義を語る詩人にもあります。ふさわしい箇所で挙げ忘れましたが、「ああ、わたしの若い日の罪と過ちを、思い出さないでください」という言葉です。ここで「過ち」と訳す語は、ラテン語では ignorantias、無知の数々です。
ごらんなさい。言い訳として挙げるものは、二つです。第一に、年齢の未熟さ。そこには、いつも、愚かさと経験不足が付き添います。第二に、無知の数々。複数形にすることで、自分の愚かさを、さらに大きく、重く示しているのです。

けれども、この話題を引き延ばしすぎず、終わりへ向かいましょう。キリスト教という宗教は、愚かさとは関係があるようなのに、知恵とは、何の同盟も結んでいない。そのことに、気づけます。
わたしの言葉だけでなく、さらに証拠が欲しいなら、まず、考えてみてください。子ども、女性、老人、愚か者たちは、自然の隠れた衝動に導かれるかのように、いつも、いちばん欠かさず教会へ通います。礼拝の、さまざまな務めを行うときにも、最も熱心で、敬虔で、注意深いのです。
それどころか、最初に福音を広めた人々も、最初にキリスト教へ改宗した人々も、素直で単純な人たちでした。世俗の政治や学問には、まるで通じていなかったのです。

さらに、迷信深いほど宗教に打ち込む人々ほど、愚かで、正気の限界に近い者は、いません。慈善には、惜しげもなく金を使います。受けた害を簡単に赦して、新しい侮辱を招きます。鳩の無邪気さを自分のものとして、だまされ、つけ込まれるに任せます。
最も親しい友と同じように、敵を愛し、善を施すので、この人々に恩を売ろうとする者の、得にはなりません。あらゆる快楽を追い払い、徹夜、涙、断食、悲しみ、侮辱という苦行を、糧にします。命も重く見ず、聖パウロと共に、解き放たれることを願い、殉教という火の試練を望みます。
要するに、常識が、まったく欠けているようなので、その魂は、すでに、死んで動かない体から離れているかのようです。これは、まったくの狂気以外の、何と考えられるでしょう。ですから、五旬祭の日、使徒たちが新しい酒に酔っていると思われたり、聖パウロがフェストゥスから、正気を失ったと評されたりしたのも、それほど不思議では、ありません。

ここまで言い切ったのですから、もう少し先まで踏み込み、さらに大胆に、こう言いましょう。キリスト教徒が、あれほど多くの障害や茨を越えて求める、最後の幸福も、結局は、ある種の愚かさと狂気に、ほかならないのです。
きっと、ひどく行き過ぎた言い方だと、思われるでしょう。けれども、しばらく考え、落ち着いて、事情を整理してみてください。

まず、キリスト教徒は、プラトン派と、この点で一致しています。体は、魂を閉じ込める牢獄、地下牢に、すぎないという信念です。ですから、魂が肉の壁につながれている間は、高く舞う翼を妨げられ、生き生きと働く、あらゆる力も、粗い物質の粒に邪魔され、縛られています。
そのため、魂の本来の対象である真理を、自由に追い求めることも、幸いに追いついたとき、静かに見つめることも、できないのです。

さらに、プラトンは、哲学を死の思索と定めます。両者が同じ仕事をするからです。つまり、目に見える、体を持った対象すべてから、心を引き離すのです。
ですから、魂が、辛抱強く、体の器官や手足を動かしている間、人は、よい、健全な状態だとされます。けれども、閉じ込められることに飽きた魂が、牢を破り、血肉の籠の外へ飛び出そうともがくと、その人は、少なくとも、妙な考えに取りつかれ、頭がおかしくなったと評されます。外の器官にも、何か異常があれば、まったくの狂気と呼ばれます。
それでも、この状態の人が、しばしば、予言の恍惚に入って、未来を語ることがあります。高揚したまま、それまで学んだことのない言語を話し、何もかも、神的な、並外れたものに動かされているように見えることも、あります。
疑いなく、そのすべては、魂が体との結びつきから、より自由になり、生命と運動の力を、もっと邪魔されずに発揮できるようになった、その結果にすぎません。長い経験を積んだ魂の中には、この世の住まいを離れる前に、予言する霊の高さへ達するものがある。そのような観察が、今では確かな意見になっているのも、きっと、ここから生まれたのでしょう。

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384 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

この乱れが、宗教における行き過ぎや、あまりに高く張りつめた信心から生まれる場合は、少し違う種類ではあります。それでも、前のものに、あまりに近いので、人々の大半は、ただの狂気と受け取ります。特に、その迷信深い人たちが、ひどく出しゃばり、独りよがりになり、ほかの世界すべてから離れるかのように、別れて暮らす場合には、そうなります。
まるで、プラトンが空想した、あの出来事を経験しているようです。暗い洞窟へ閉じ込められ、イデアや、存在についての抽象的な思索だけを反芻する人々がいました。その仲間の一人が、外の光へ出て、戻ってから、皆に告げます。どんなに、目の見えない思い違いの中にいたことか。皆の愚かな想像が、影としてしか捉えなかったものを、自分は、実体として見たのだ、と。
だから、その人は、皆の、だまされた夢を、哀れみ、嘆かずにはいられません。その一方、仲間たちも、その人の狂気を、同じくらい嘆き、気の触れた狂人として、自分たちの集まりから追い出すのです。

このように、普通の人々は、感覚に最もなじんだ対象に、すっかり心を奪われ、それを超えるものは、すべて、おとぎの国だと考えがちです。その一方、敬虔な人々は、地上のものに思いや愛着を向けることを軽蔑し、体を持たない、目に見えない存在を求めて、魂を高く上げます。
前者は、幸福に必要なものを並べるとき、富を先頭に置き、体の長所を次にし、魂の完成は、しんがりへ回します。それどころか、信じる根拠を、文字どおり、目で見られないため、魂というものが、そもそも、あるとも信じない者がいます。
後者は、まず、何ものにも分けられず、捉えきれない存在である神へ、奉仕の初穂を捧げます。次に、神に最も近い、不死の魂の幸福を整えることに努めます。朽ちる肉体は、まるで気にかけず、金は、この世の土や、ごみのように軽く見ます。
やむを得ない事情で、世俗の用事に関わらなければならなくなっても、残念に思い、どこか気が進まないまま、そうします。聖パウロがコリントの人々に勧めるとおりに、「妻を持っていても、持たないかのように。買っても、所有しないかのように」と。

訳注

魂を述べる英語の文は、印刷面でも「彼らの不死の魂に最も近いもの」となっており、指すものが不明瞭である。本文では、神、魂、体という前後の序列から、「神に最も近い、不死の魂」と、文脈を補って読んだ。

この二種類の人々には、ほかにも、多くの違いがあります。まず、どの感覚も、体と関係を持ちますが、あるものは、ほかのものより、粗い性質です。触覚、聴覚、嗅覚、視覚、味覚という、五つの身体的な感覚が、そうです。その一方、もっと精妙で、物質の混じり方が少ないものも、あります。記憶、理解、意志が、それです。
心は、生まれつき、最も向いていることにおいて、いつも、最もすばやく、よく働きます。そのため、敬虔な魂は、感覚から最も遠いものを追うことへ、力と能力のすべてを注ぎ、世の中の用事を扱うときには、まったく鈍く、獣じみてしまいます。
逆に、普通の人々は、商売や仕事に、あまりに気を取られ、未来の永遠へ、たった一つの考えを向ける時間さえ、ありません。
聖ベルナルドが、勉学の最中、ぶどう酒の代わりに油を飲み、それでも、考えに、すっかり没頭していたため、間違いに気づかなかったのも、神についての黙想に、これほど熱く打ち込んでいたからなのです。

さらに、魂の情念にも、ほかより体との結びつきが強いものが、あります。欲情、食欲、睡眠欲、怒り、誇り、嫉妬などです。敬虔な人は、それらと絶えず戦い、和解しようのない敵意を保ちます。その一方、普通の人々は、人生の最良の慰めとして、それらを大切に育て、熱を加えるのです。

その中間の性質を持ち、誰にも共通し、生まれつき備わる感情もあります。祖国への愛、親への義務、子どもへの愛、友への親切などです。普通の人々は、これらを、ある程度、大切にします。けれども、信仰深い人々は、最も純粋な徳の高さへ、引き上げ、磨き上げられないなら、魂から、抜き去り、根絶しようと努めます。
ですから、親を愛し、敬うにも、ただ親だから、というだけでは、ありません。親がしたのは、体を生んだこと以上の、何でしょう。それさえ、まず恩を負っているのは、人類すべての最初の親である神です。
親を愛し、敬うのは、善い人であり、その人の中に、神的な本性の、生きた像が刻まれているからなのです。その神こそ、最高で唯一の善と考えられます。神を離れれば、愛すべきものも、望むべきものも、何もないのです。

人生の、ほかのすべての務めや義務も、同じ基準で測ります。それぞれの中で、地上的、身体的なものは、完全に退けないとしても、少なくとも、信仰が見えないものの実質とするものの、後ろへ置かれます。
ですから、秘跡や、そのほかの宗教的な行いすべてにおいて、外に現れる形、いわば体と、内にある魂や霊とを、区別します。
断食を例に取れば、肉を控えたり、一食抜いたりするだけでは、ほとんど役に立たないと考えます。普通の人々は、この務めを、それだけのことと理解していますけれど。情念を抑え、怒りを鎮め、誇りを打ち砕くことも、同時にしなければ、なりません。そうして魂が、体のもつれから解かれれば、霊的なものを、もっとよく味わい、天の喜びを、あらかじめ味見できるようになるのです。
同じように、聖餐についても、こう言います。外の形や儀式を、すっかり軽んじてよいわけではない。それでも、ただのしるしにとどまり、それが示すもの、すなわちキリストの体と血が伴わなければ、有害であり、少なくとも役に立たない、と。
わたしたちは、このしるしによって、再臨まで、キリストの死を表すべきなのです。卑しい情念を打ち倒し、葬ることで、そうします。そして、新しい命へよみがえり、まず互いに結ばれ、次いで皆がキリストへ結ばれるのです。

これらが、真に敬虔な人の行いと思索です。その一方、普通の人々は、祭壇の近くへ、ぎゅうぎゅうと押し寄せ、司祭の言葉を聞き、どんな小さな儀式にも注意を払うことだけに、信仰のすべてを置いています。
けれども、敬虔な人がそうするのは、ここに挙げた例だけでは、ありません。人生全体を通して、体の卑しい物質には目を向けず、霊的で、目に見えず、永遠なるものへ、一心に打ち込んで、身を費やすのです。

この人々は、互いに、これほど離れ、遠いところに立っているのですから、双方が相手を狂っていると思うのも、当然のことです。どちらに、その名が、よりふさわしいか、わたしの意見を言うなら、正直に申し上げて、信仰深い人々のほうに与えます。
その判断がもっともだということは、前に、ほのめかしたことを証明すれば、さらに納得していただけるでしょう。宗教が示す、あの究極の幸福は、ある種の狂気に、ほかならないということです。

まず、プラトンも、恋人たちの狂気が、体のあらゆる状態の中で、最も望ましいと語るとき、これに似たことを夢見ていました。この情熱に、すっかり打たれた人は、もう、自分の中では生きていません。愛を置いた場所へ、魂も移してしまいます。あれほど慕う相手を見いだすため、自分を失うのです。
魂が、自分の住まいを離れて迷い、さまようことは、まさに、狂気に連れ去られることでは、ありませんか。「自分ではなくなっている」、「自分へ戻れ」、「自分に戻った」という、あの決まった言い方も、それ以外に、何を意味するでしょう。愛が熱く、激しくなるほど、そこから生じる狂気は、治しがたくなります。それでも、いっそう幸福なのです。
では、地上の敬虔な魂が、あれほど切実に求める、栄光のうちにある聖人たちの、未来の幸福とは、何でしょう。より強く、勝ちまさった霊が、体を圧倒し、呑み込むことに、ほかなりません。それは、いっそう、たやすく起こります。地上で、手足や器官が抑えられ、服従させられていたため、分離へ向かう、この変化の準備が、よりよくできているからです。
その後、霊そのものも、至福の観照の深みへ、失われ、沈み込みます。こうして、人全体が、自分自身の境を、完全に超えます。恍惚と驚きへ連れ去られ、全能の存在から、言い表せない働きを感じることによってだけ、幸福になるのです。その存在は、あらゆるものを、ご自身に似せることで、完全に祝福します。
この幸福が完成するのは、すべての者が復活するとき、魂が体と再び結ばれ、両者が不死をまとうときだけです。それでも、信仰深い生き方は、天の喜びを絶えず思い、いわば、その喜びを写すことですから、その人々には、後に報酬となる楽しみを、ここでも少し味わい、予め知ることが許されています。
確かに、それは、未来の、尽きることのない至福の泉と比べれば、ごく小さな満足の取り分です。それでも、この世の楽しみを、すべて一緒にし、いちばんよく引き立てたとしても、なお、それらを十分に上回ります。霊的なものが身体的なものに、見えないものが物質的で目に見えるものに、先んじる度合いは、それほど大きいのです。
使徒が励ましとして、雄弁に描くのも、このことです。神が、ご自身を愛する者のために用意されたものは、目も見たことがなく、耳も聞いたことがなく、人の心にも、思い描かれたことがない、と。

訳注

「自分ではなくなっている」「自分へ戻れ」「自分に戻った」は、底本に挙げられるラテン語の決まり文句を訳したもの。「至福の観照」は、神を直接見ることによる幸福を指す。

これこそ、マリアが選んだ、よりよい取り分でもあります。それは、彼女から取り去られず、死すべきものが不死をまとうことによって、完全に成し遂げられるのです。

397-398
397-398 参照頁:296頁 ハンス・ホルバインの図案による挿絵(一八七六年リーヴズ&ターナー版)。 原典の図版

このような信心の状態にある人は、そういう人は少ないのですが、奇妙な変化を経験します。それは、狂気に、非常に近いものです。何かの霊に取りつかれ、動かされているかのように、唐突で、つながらないことを、いろいろ話します。意味も内容も聞き分けられない、不明瞭な音を出します。ときには、顔をねじり、ゆがめて、奇妙で、おどけた表情を作ります。
あるときは、度を越して明るく、次には、同じくらい不機嫌になります。すすり泣いたかと思えば笑い、その後、ため息をつきます。すっかり取り乱し、正気を失っているかのようです。
落ち着いて自分へ戻る間があれば、聖パウロのように告白します。どこか知らない場所へ引き上げられた、体の中だったのか、体の外だったのか、わからない、と。深い眠りや、夢うつつの状態にいたかのように、聞いたこと、見たこと、言ったこと、したことを、何も覚えていません。
ただ一つ、知っているのは、過ぎ去った、その惑わされた状態が、何より望ましい幸福だったことだけです。だから、それを失ったこと以上に嘆くものはなく、早く戻り、今度は、ずっと長く、永遠に続くこと以上の喜びを、望みません。これが、先ほど述べた、来たる至福の味見であり、先取りなのです。

けれども、わたしは、自分を忘れ、もう、慎みの境を越えてしまったようですね。もし、あまりに自信たっぷりで、場違いなことを言ったなら、どうか、それを話したのは「愚かさ」であり、しかも、女の姿で話しているのだと、考えてください。同時に、このギリシアのことわざが、当てはまることも、お忘れなく。

愚か者も、しばしば、折にかなった真実を語る。

もっとも、皆さまが、気を利かせて反論なさらなければ、の話ですけれど。格言の ἀνὴρ という語は、女ではなく男を意味するのだから、これは、わたしの言い訳にはならず、女である以上、その恩恵には、あずかれない、と。

さて、締めくくりのごちそうに、正式な結びの言葉と、話全体の短いまとめを、期待なさっているようですね。でも、はっきり申し上げましょう。あんな、ごたまぜの話をした後で、自分が何を述べたか、思い出せると思うなら、大間違いです。
それに、昔のことわざに、「物覚えのよい飲み仲間は嫌いだ」と、ありますね。同じように、わたしも、こう言ってよいでしょう。「何かを覚えて持ち帰る聞き手は、嫌いです。」
ですから、手短に。

訳注

印刷面には、二つの言葉の前に、それぞれギリシア語の格言がある。前者は、酒席のことを覚えている相手を嫌う言葉、後者は、それを聞き手に言い換えたもの。底本の記憶を表す語には通常形と異なる綴りが見られるが、英語の説明と合わせ、意味を訳した。

ごきげんよう。長く生き、深く飲み、陽気にお過ごしなさい。
愚かさの、いとも名高い信者である、皆さま!

巻末詩

この作品に寄せる詩

町の、名誉を重んじる男たちは、誰だって、
うっかり「愚か者」「田舎者」と呼ばれたら、
すぐ「名誉を晴らせ」と叫び、たちまち、
時と場所と、細身の剣の長さを決める。
誓ってもよい、何とも驚く、気取り屋どもだ。
そうあることが幸福なのに、そう呼ばれるのは我慢ならぬ。
祝福された、愚か者たちよ。
低い領分を、安心して歩み、
そこで、安全な鈍さの甘みを味わい、
高く巡る者たちの、誇らしい高みを、うらやまない。

愚かさは、迷った意志の、確かな友。
悪いことをするときにも、優しい言い訳を与える。
あの用心深く、思索にふける操り人形、ソクラテスも、
神々に好かれていたなら、愚か者になれたはずだ。

思うに、この著者は、愛する女主人の魅力を、
欠けるところなく描くとき、願っているのだろう。
もし輪廻が本当で、
魂が入れ物を替え、再び働くのなら、
次の生では、ぼんやりした田舎の地主の、
乏しい知恵だけを、望みたい、と。
その頭に詰まっているのは、若いころ、
世話好きの祖母に教わった、初歩だけというような。

さて、愛する友よ。君の額へ、
当然、贈るべき月桂冠を、どう届けよう。
君は、この作品にも、その主題にも、
新しい名誉を添えてくれた。
著者が、あれほど巧みにラテン語で表した、あの楽しいものは、
英語の衣をまとっても、少しも、そのおかしみを失わない。
君の文は、どれも、実に明快に作られ、
一つひとつの思いの中に、ぴたりと置かれている。
だから、どちらの恩が大きいのか、わたしたちには、ほとんど決められない。
主題が君の著者へ負う恩か、著者自身が君へ負う恩か。

訳注

巻末詩の後半は、英語の衣を与えた翻訳者へ呼びかけている。この底本では、その英訳者の名は示されていない。「名誉を晴らせ」は、ここでは決闘による償いを要求する言葉。

訳注

ソクラテスへの「操り人形」は、原語 tool を人物への侮蔑として訳したもの。他人に利用される者という意味があるが、この詩は、具体的な操り手を挙げていない。

終わり

訳注

この日本語訳は、リーヴズ&ターナー刊の一八七六年ロンドン版の英訳に基づく。英訳者の名は、この版に記されていない。

訳注

挿絵の小さな文字や刻字で判読できない箇所には、その旨を注記した。

エラスムス

エラスムス

参照頁:111頁

参照頁:40頁

参照頁:210頁

Q・スコトゥス〔略記〕

外側から、土星(♄)、木星(♃)、火星(♂)、太陽(☉)、金星(♀)、水星(☿)、月(☾)。

参照頁:296頁

図版と出典

口絵 エラスムス(本文の図版)

標題紙(本文の図版)

エラスムスの肖像 エラスムス 名の末尾の文字は、図の線と重なって不鮮明。(本文の図版)

036(本文の図版)

愚かさの女神(本文の図版)

愚かさの女神(本文の図版)

年老いた神々(本文の図版)

愚かさの女神の先祖(本文の図版)

愚かさの女神の先祖(本文の図版)

愚かさの女神の先祖(本文の図版)

愚かさの女神の先祖(本文の図版)

060(本文の図版)

063(本文の図版)

064(本文の図版)

068(本文の図版)

070(本文の図版)

075(本文の図版)

079(本文の図版)

85-86 参照頁:111頁(本文の図版)

89-90 参照頁:40頁(本文の図版)

097(本文の図版)

100(本文の図版)

109(本文の図版)

113(本文の図版)

126(本文の図版)

131-132 「頁」を表す略記の後に、1で始まる頁番号がある。残りの数字は判読できない。(本文の図版)

138(本文の図版)

142(本文の図版)

147(本文の図版)

151(本文の図版)

155(本文の図版)

159(本文の図版)

164(本文の図版)

169(本文の図版)

173-174 参照頁:210頁(本文の図版)

178(本文の図版)

さいころ遊びをする人々(本文の図版)

さいころ遊びをする人々(本文の図版)

聖ベルナルドに教える悪魔(本文の図版)

194(本文の図版)

199(本文の図版)

202(本文の図版)

206(本文の図版)

互いにかき合う驢馬たち(本文の図版)

215(本文の図版)

218(本文の図版)

愚かさの祭壇(本文の図版)

226(本文の図版)

230(本文の図版)

234(本文の図版)

238 人物が持つ二枚の石板の文字は、判読できない。(本文の図版)

242(本文の図版)

250(本文の図版)

254 Q・スコトゥス〔略記〕 書物の背に「Q・SCOTI」とある。Qの示す語は確定せず、略字のまま残した。(本文の図版)

257(本文の図版)

262(本文の図版)

270 右上の雲の中にある、縦に並んだ文字は、判読できない。(本文の図版)

ぐらつく世界の重みを背負うアトラス 外側から、土星(♄)、木星(♃)、火星(♂)、太陽(☉)、金星(♀)、水星(☿)、月(☾)。 土星の綴りの末尾と、最外周の銘文は不鮮明。読める名称と天体記号に基づいて示した。(本文の図版)

ウルカヌスの斧による出産の手助け(本文の図版)

282(本文の図版)

288(本文の図版)

294(本文の図版)

陛下 左上の雲の中にある文字は、判読できない。(本文の図版)

312(本文の図版)

316(本文の図版)

教皇(本文の図版)

324(本文の図版)

328(本文の図版)

332(本文の図版)

336(本文の図版)

しばしの愚かさ(本文の図版)

344(本文の図版)

348(本文の図版)

352(本文の図版)

356(本文の図版)

360(本文の図版)

364(本文の図版)

370(本文の図版)

378(本文の図版)

384(本文の図版)

397-398 参照頁:296頁(本文の図版)