文学 / 本居宣長古事記伝 乾巻古事記傳 校訂 乾
文学 / 本居宣長
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原著・底本
- 原題
- 古事記傳 校訂 乾
- 著者
- 本居宣長
- 底本
- 吉川弘文館、1930年(昭和5年)刊校訂本
- 編者
- 本居豊頴
- 編者
- 本居清造
- 寄稿者
- 本居大平
- 寄稿者
- 服部中庸
- 寄稿者
- 野呂隆年
- 寄稿者
- 横井千秋
- 出典・参照
- 原典の利用条件
- パブリックドメイン
- 収録範囲
- 1930年刊校訂本の前付、巻一〜二十二、巻十七附巻「三大考」と図版。索引は含めない。
日本語訳
表紙
- 画像
- 標題紙
- 出典
- 国立国会図書館
- 利用条件
- パブリックドメイン
1930年刊校訂本の標題紙。
追加日: 2026-10-24 / 更新日: 2026-10-24
前付、巻一〜二十二、巻十七附巻「三大考」を収録する。索引は収録しない。
判読や訳意の不確かな箇所は、本文の訳注に示す。
校訂 古事記伝 乾巻
贈従三位・本居宣長 著。正三位・本居豊頴 校訂。本居清造 再校。
御題字の後に記す言葉
私たちの先生、本居宣長翁が『古事記伝』の執筆を思い立って書き始められたのは、明和元年、甲申の年(1764年)である。全編を書き終えられたのは、寛政十年、戊午の年(1798年)。その間、三十五年を費やされた。一方、版木を彫り始めたのは天明六、七年ごろ(1786〜1787年)で、印刷本の全巻がそろったのは今年、文政五年(1822年)である。こちらも三十五、六年を費やした。
以前、ぜひ許しを得て、早く版木に彫らせたいと思い立ったのは、尾張藩の横井千秋であった。この人は古学に深く心を寄せ、道を大切に思う気持ちも並の人にまさっていた。こうして五巻が彫り上がり、一帙、つまり一まとまりの本ができあがると、大いに喜び、伊勢の神宮にも尾張の大宮にも、各地の神社にも、最初の奉納品として捧げた。先生をはじめ、誰もがその志をほめた。
さらに第二帙、第三帙と続けて彫らせていたが、そのころ千秋は病気がちになり、年を取って体も衰え、この仕事を続けきれなくなった。そこで、初めから千秋を助け、力を合わせて仕事を取り仕切ってきた鈴木真実、植松有信と相談し、もともと販売を任されていた名古屋の書店、風月堂と永楽堂の二人に託した。「自分たちの家業として、最後までやり遂げよ」と言い渡したのである。それから先も、この方法で次々に仕事が進み、第八帙にまで至った。
版木に彫るための清書は、先生の実子の春庭が十七巻、春庭の妹の美濃が五巻、栗田土満が一巻を書いた。先生自身が書かれたものもある。三十巻から終わりにかけての五巻は植松有信が、十巻は丹羽勗が書いた。みな春庭の筆跡に似せて書いたので、その違いは見分けられない。
また、一巻を彫り終えるたびに原本と読み合わせた。その回数は二度だけではない。校正して版木を彫り直させ、三度の手間をかけて、ようやく仕上がった。初めは先生がご自身でなさり、のちには門人たちが受け持った。細かく述べ立てると、大げさな話になってしまうだろう。
さて、先生の著書は、印刷本ができるたびに、まず殿のお手元に差し上げるようにとの仰せを受けていた。正月の終わりごろ、著された本を殿に差し上げる際、次の歌を添えて献上なさった。
峰の松のように高い、ありがたいお恵みの陰。そのもとで今日、書を捧げる道を、畏れ多く思います。〔「蔭登米豆」の細かな読みと、「ふみのはる道」の掛け方には解釈の留保がある。原歌は「峯の松高き恵の蔭登米豆今日/ふみのはる道ぞかしこき」。〕
この歌は『鈴屋集』に載っている。先生が亡くなられたのちは、大平が同じように、できあがるたびに献上してきた。今年の秋の初め、あの有信の跡を継いだ植松茂岳のところから、この第八帙が送られてきた。長年のならわしどおり献上したところ、殿はご自身の手で、この四文字を書いてお授けくださった。
その際、殿は大平をお召しになり、大村高行を通して、特別にこうお言葉をくださった。「宣長の著した『古事記伝』は、寛政のころから、印刷本ができるたびに次々と献上されてきた。今度は第八帙に当たるものが献上された。これで全四十四巻、一巻も残さず版木がそろったという。もとの『古事記』は、わが国でとりわけ尊い典籍である。宣長が長い年月をかけて、その意味を解き明かして書き残した功績は大きく、並ぶもののない著作である。宣長が生きていたうちに全巻が出版されなかったのは残念だが、大平、春庭をはじめ門人たちも、怠ることも気を緩めることもなく、残りの巻を彫らせるために力を尽くした。まことに感心である。」こうして厚くおほめになり、この御筆をお授けくださったのである。
「これは掛け軸に仕立てて、お前の家の宝として大切に持っているように。もう一枚、版木に彫るために写させて与えるのは、すでに世間に広まっている印刷本の第一巻に綴じ添えようという、高行の心配りもあってのことである」と、ねんごろなお言葉をいただいた。なんと尊く、ありがたく、この上なく珍しいお恵みだろうと、頭上に捧げ持ち、畏れながら喜んで、早速家に持ち帰った。
この掛け軸の表装には、高い官位におありになる大納言の殿がふだんお召しになっていた装束の裂地、五葉葵の唐草模様の布と、こうした表装に使うために織らせておかれた、いつもの葵の御紋を金糸で織り出した布を、お願いしていただいた。日をかけて美しく仕立て、あらためてご覧に入れるため、殿の前に持参した。すると、御筆のそばの紙の余白に二つの印を、上には「紀亜相章」、下には「賜紫金魚袋」とある印を、朱で押してくださった。
この『古事記伝』の第一巻には、世間で普通に見られるような序文を添えておられなかった。当時ある人が、「これほどの書物に序文が付いていないのは、どうしたことでしょう」と尋ねると、先生はこう答えられたことがあった。「それには考えがある。機会さえあれば、まことに畏れ多いことだが、わが君の文章をお願いしていただきたい。それ以外の誰の言葉を頼んで得ようか。」ところが今、自然にこうして御筆が添えられることになったのは、なんとも不思議なご縁である。天を翔ける先生の霊も、さぞお喜びだろう。春庭、大平をはじめ、門人の誰が喜び仰がずにいられよう。尊く畏れ多いこととして、ここに書き記す。
文政五年、壬午の冬(1822年)。本居三四右衛門、平大平 記す。野呂九一郎、源隆年 書。
校訂にあたっての注意
一、句読点や濁点などは、すべて原本のままにした。
二、【 】の括弧を付けた箇所は、原本では小さな字の注であったものを、本文と同じように続けて書き記した印である。
三、本居春庭の『古事記伝索引』は、坤巻の末尾に載せる。〔これは底本の収録についての説明である。今回の現代語訳には索引を収録しない。〕
古事記伝 巻一
本居宣長が謹んで著す。
古い記録・典籍についての総論
昔の御代の出来事を記した書物は、いつの御代から作られ始めたのだろう。『書紀』〔『日本書紀』を指す。この『伝』では、以下もすべて同じである。〕の履中天皇の巻に、「四年秋八月、初めて諸国に国史という記録役を置き、言葉や出来事を記録させた」とある。これを考えると、朝廷にはそれ以前からすでに記録役がおり、記録を作っていたことが分かる。それはその時々の出来事だっただろう。それより前の時代のことまで、どのように記していたかは分からない。しかし、当時のことを記したのであれば、昔の出来事も、語り伝えられていたことに従い、少しずつ書き留められたはずである。そうした記録は、そのころから作られ始めたのだろう。やがて『日本書紀』を編纂させられたころには、古い記録が数多くあったらしい。〔同書の神代の巻に「一書」、つまり別の書物として引用されるものが多いことで分かる。〕小治田宮で天下を治められた天皇、すなわち推古天皇の二十八年に、聖徳太子が蘇我馬子大臣とともに、『天皇記』『国記』、臣・連・伴造・国造・百八十部、そして公民などの『本記』を書き記されたと『日本書紀』にある。こうした事業が書物に記されている最初の例である。また、飛鳥浄御原宮で天下を治められた天皇、すなわち天武天皇の十年に、川島皇子ら十二人に命じ、帝紀や上古のさまざまな出来事を記し定めさせられたともある。しかし、この二つの記録は、どちらも世に伝わっていない。その後、平城宮で天下を治められた天津御代豊国成姫天皇、すなわち元明天皇の和銅四年九月十八日、多朝臣安万侶に命じ、この『古事記』を編纂させられた。同五年正月二十八日に仕事を終え、献上したと、その序文に記されている。〔『続日本紀』には、このことは見えない。〕したがって、今に伝わる古い記録のうちでは、この『古事記』が最も古い。一方『日本書紀』は、同じ平城宮で天下を治められた高瑞浄足姫天皇、すなわち元正天皇の養老四年にできたと、『続日本紀』に記されている。こちらは『古事記』より八年遅れて完成したのである。
さて『古事記』は、書きぶりを飾らず、ひたすら古い言葉を基本として、昔の実際のありさまを失わないように努めた。そのことは序文にも見え、また、これから順に述べるとおりである。それなのに、『日本書紀』ができてからは、世の人々はそろってそちらばかりを尊び、用いるようになり、『古事記』は名前さえ知らない人も多い。その理由は何か。中国の書物を学ぶことが盛んになり、何事につけても、人々は中国のやり方ばかりをうらやみ、好むようになった。そのため、中国の国史という書物の形に似ている『日本書紀』を喜び、『古事記』の率直で飾らない書き方を見ては、「正式な国史の体裁ではない」などと言って、顧みなくなったのである。
ある人が、こう言うのを不審に思って尋ねた。「『古事記』ができて間もないうちに、また『日本書紀』を編纂させられたのは、『古事記』に誤りがあったからではありませんか。」
私は答えた。「そうではあるまい。『古事記』があるのに、さらに『日本書紀』を編纂させられたのは、当時、朝廷でも中国の学問を盛んに好まれていたからだろう。『古事記』はあまりにありのままで飾りがなく、中国の国史と比べると、見栄えがせず、内容まで浅いように聞こえる。それを物足りなく思われ、さらに幅広く出来事を調べて加え、年代を立て、中国風の言い回しを飾り添えるなどして漢文に仕立て、中国のものに似た国史を打ち立てるため、編纂させられたのだろう。詳しく説明しよう。まず、川島皇子らに命じて帝紀などを編纂させられたことは、先に述べたとおりである。その後、和銅七年にも、紀朝臣清人と三宅臣藤麻呂に命じ、国史を編纂させられたことが『続日本紀』に見える。この二度の編纂のうち、川島皇子らの仕事は、『古事記』の編纂が始まったのと同じ天武天皇の御代に当たる。しかし、『古事記』の着手がそれより前だったか後だったかは分からない。もし川島皇子らの編纂の方が先なら、『古事記』の序にいう〈諸家に伝わる帝紀や本辞は、すでに本当のことと違い、偽りを多く加えている〉という中に、それも含まれ、事実と違う潤色を加えたのだろう。もし後なら、構想された『古事記』の仕事も、川島皇子らの編纂で済みそうなはずである。それなのに序には〈時運が移り、世が変わって、この事業を実行できなかった〉とある。これを考えると、両者は目的が別だったと分かる。その違いは、川島皇子らの編纂が潤色を加えて中国の国史に似せることを主とし、『古事記』の方は昔の事実の姿を伝えるためだった、ということだろう。その趣旨は序文に見える。やがて平城宮の御代となり、先帝のお志を受け継がれ、多朝臣に命じて、稗田阿礼が誦み習っていた昔の出来事を編纂させられたのである。次の和銅七年の国史編纂は、やはり潤色を加える方の仕事だっただろう。そして養老の年に、さらに舎人親王に命じ、『日本書紀』を編纂させられた。このように立て続けに作らせられたのは、先の潤色を加えた二つの国史が、どちらも適切でなく、お心にかなわなかったからだろう。したがって、これらは当時早くも廃れてしまい、世に伝わらず、題名さえ残らなかったのだと思われる。ところが『日本書紀』は、それまでのものより優れていたので正史と定まり、それ以後は作り直されなかった。一方、この『古事記』が、『日本書紀』の完成後にも廃れなかったらしいのは、潤色の多い先の二つの国史とは種類を異にし、昔の事実を記していたからだろう。だから『日本書紀』が編纂されたのは、『古事記』に誤りがあったためではない。初めから目的が違うのである。もし誤りを直すために作り直されたのなら、『古事記』も先の二つの国史のように当時すぐ廃れたはずだ。それなのに、この本だけは今の世まで伝わっている。そのことを考えるべきである。」
また、ある人が疑問を述べた。「後世に伝わるかどうかは、偶然の成り行きではありませんか。必ずしも、よいから伝わり、よくないから伝わらないとは限らないでしょう。中国でも日本でも、昔の書物のうち、とても優れたものが失われ、それほどでもないものが広く伝わる例は多いのではありませんか。」
私は答えた。「一般にはそのとおりだが、この場合は、やはり違うだろう。まず、その二つの国史は、『日本書紀』『続日本紀』に編纂のことが記されるほどの公の書物である。もし偶然に失われたのなら、それでもしばらくは世間に残って人にも知られ、後の世にも題名だけは残るはずだ。それなのに、題名さえまったく分からない。すでに奈良時代にも、知る人がいなかったのだろうか。『万葉集』で昔の事実の証拠を示す注などにも、引用されているのを見ない。ところが『古事記』は、飾り立てずにありのままに記され、中国の国史とは体裁が大きく違う。もし誤りが多かったのなら、あれほど中国の書物が好まれた世の中で、すぐに廃れ、手に取る人もいなくなったはずで、まして後世にまで伝わるはずはない。それなのに、千年後まで伝わってきたことを考えると、当時『日本書紀』ができてからも、やはり公に使われ、人々にも読まれていたと分かる。『万葉集』などにも、折々に引用されているではないか。」〔以上の事情を、すべて詳しく知ることはできない。ただ、序文の言葉と、先の二つの国史が編纂された経緯とを考え合わせ、こうだったのだろうと思われる筋道を、ひととおり述べたのである。〕
さらに尋ねる人がいる。「川島皇子らに命じた編纂のことは『日本書紀』に見え、和銅七年の編纂と『日本書紀』の編纂のことも『続日本紀』に載っています。それなのに、『古事記』を編纂させられたことは見えません。だとすれば、『古事記』の編纂は、それらの国史のように重い公の事業ではなく、内々の小さな仕事だったように見えます。また、『日本書紀』の神代の巻などに〈一書〉として挙げられる数多くの記録のうちには、『古事記』から採ったと思われるものもあるのですから、『古事記』も当時数多くあった記録の一つにすぎなかったようです。『日本書紀』はそうした記録をすべて選び取り、あれもこれも集め、足りないところなく備えています。到底『古事記』の比ではありません。『古事記』をどうして、それと同じように尊び、用いることができるでしょう。」
私は答える。「『古事記』は、それらの〈一書〉の一つで、『日本書紀』がそのすべてから材料を採り、内容を完備している、という指摘には道理がある。確かに『日本書紀』は、記す出来事の範囲が広く、年月日まで詳しい、不足のない国史である。『古事記』の及ばない点が多いことは、言うまでもない。しかし一方、『古事記』の優れている点を述べよう。そもそも、まだ書物というものがなかった上代に、人の口から口へと伝えられた話は、きっと『日本書紀』のような文章ではなく、『古事記』のような言葉で語られていたはずだ。『日本書紀』は、もっぱら中国のものに似せることを目指し、文章を飾っている。『古事記』は中国のものにとらわれず、ただ昔の言葉を失わないことを主としている。〔その理由は、次の巻で序文を解説する際に詳しく述べる。〕心に思うこと、出来事、そして言葉は、どれも互いに釣り合っているものだ。上代なら、心も出来事も言葉も上代のもの、後世ならすべて後世のもの、中国ならすべて中国のものなのである。ところが『日本書紀』は、後世の考え方で上代の出来事を記し、中国の言葉で日本の心を記しているため、互いに合わないところが多い。『古事記』は、少しも小賢しい手を加えず、昔から伝わったとおりに記されているので、心も出来事も言葉も釣り合い、すべて上代の実相なのである。これはひたすら昔の言葉を基本にしたからこそだ。心も出来事も、みな言葉によって伝えるのだから、書物では、そこに記された言葉こそが肝心なのである。また『日本書紀』は漢文を重んじたため、日本の古い言葉の美しさを多く失っている。それに対して『古事記』は古い言葉のままなので、上代の言葉の美しさも、まことに見事である。だから、たとえ数ある記録の一つで、重い公の典籍ではなかったとしても、尊んで用いるべきである。まして、この本は天武天皇の厚いお志から起こり、あらためて奈良の御代の勅命によって編纂されたのだから、軽い私的な書物とは到底比べられない。あれこれ考えるほどに、いよいよ尊び仰ぐべきなのは、この本なのである。それなのに、当時は中国の学問が盛んで、国の制度まで何もかも中国風になってきた時代だった。そのため、こうした典籍についてまで、ひたすら中国風であることを喜んで前面に立て、上代のありのままの姿を記すものは、かえって後ろに追いやられ、私的な書物のようになってしまったのだろう。それで編纂のことも『続日本紀』などに載らなかったのだと思われる。その後はますますその考え方が強まり、手に取る人もまれになった。歴代の学者も、この本を正式な国史の体裁ではないとして、なおざりに扱ってきた。それは、まことに悲しいことである。そもそも、日本には、これらのほかに古い国史が伝わっていないのだから、国史の〈体裁〉として引き合いに出すのは、中国のものになるはずだ。つまり、体裁が整っていると言うのも、中国のものに似ていることを喜んでいるのである。中国にへつらう気持ちさえなければ、それに似ていないからといって、何の問題があるだろう。何事も中国を中心に据えて良し悪しを決める、世間の習慣こそ、まことに愚かなのである。ここに、わが師、岡部の大人〔賀茂真淵県主〕が、東国の将軍のお膝元で古学の道へと人々を導かれた。それによって、千年をはるかに超える間、心の底に染み付いていた〈漢籍意〉、つまり中国の書物にとらわれた心の汚れに、少しずつでも気づく人が出てきた。世の人が『古事記』の尊さを知り始めたのは、学問の道では神代以来、たぐいのない、あの大人の功績なのである。宣長もそのお陰にあずかって、このことを悟り始め、年月を重ねるにつれ、中国の書物にとらわれた心の汚れを、ますます深く知るようになった。そして上代の清らかな真実を、しっかり見いだしたので、『古事記』を、数あるうちで最上の史書と定め、『日本書紀』はその次に置くのである。少しでも、わが日本の学問を志す人々は、この趣旨を、決して取り違えてはならない。」
『日本書紀』についての論評
今、『古事記』を解説するに当たり、なぜ『日本書紀』を論評するのか。その理由を述べよう。昔から、世間ではもっぱら『日本書紀』ばかりを尊び、用いてきた。代々の学者も、その研究に大いに心を砕き、神代の巻には煩わしいほど注釈も多い。ところが『古事記』はなおざりに見過ごし、心を用いるべきものとも思っていない。なぜかと尋ねれば、人々が中国の書物の考え方ばかりにとらわれ、日本の古い心をすっかり忘れてしまったからである。そこで、その中国風の考え方による迷いを悟らせ、『古事記』を尊ぶべき理由を明らかにし、日本の学問の道案内をしたいのである。まず『日本書紀』に潤色が多いことを知り、その編纂の意図をよく理解しなければ、中国の考え方に染まった長年の病を取り除けない。この病が取り除けなければ、『古事記』のよさは明らかにできず、そのよさを知らなければ、古学の正しい道も知ることができないからである。
では論評に入ろう。まず、『日本書紀』という題名が、私には納得できない。これは中国の国史の『漢書』『晋書』などという名に倣い、わが国の国号を掲げたものだが、中国では王朝ごとに国号が変わるので、その代の国号で名づけなければ区別しにくいからこそ、そうするのである。日本は、天地とともに遠く長く、天つ日嗣、すなわち皇位が続いており、王統が変わることはないのだから、そのように区別して言う必要はない。この種の書物で国号を掲げるのは、並び立つ別の国や王朝がある場合のやり方なのに、これは何と対比させた名なのか。ただ中国と対比させたと見え、中国にへつらった題名なのである。〔後の国史もこれに倣って名づけられ、『文徳実録』『三代実録』にまでこの国号を添えているのは、ますます分からない。〕ところが後世の人が、かえってこれを立派なこととしてほめるのは、どうしたことか。私には、まことに物足りなく、へつらいがましい題名としか思えない。〔ある人は「この書物は中国にも見せようとのお考えで、題名もこう付けられたのだろう」と言うが、決してそうではない。仮にそうであっても、外国人に見せることを主として名づけるなら、ますますよくないのである。〕
さて、記録の書き方も、ひたすら中国のものに似せようと努めたため、考え方も言葉も中国風の飾りが多く、人の言葉や物事の実際まで、上代の姿と違うことが多い。まず神代の巻の冒頭に、〈昔、天地がまだ分かれず、陰陽も分かれず、混沌として鶏の卵のようであった……その後、神聖がその中に生まれた〉とある。これはみな中国の書物の文章をあれこれ集め、編纂者が書き加えた独自の説で、決して昔からの伝承ではない。次に、〈だから言う、天地が開けた時、国土が浮き漂っていた。たとえば魚が水の上に浮いているようであった……〉とある。こちらこそ、本当の上代の伝承である。「故曰」、つまり「だから言う」とあることで、それより前は、新しく付け加えた潤色の文章だと分かる。そうでなければ、この二字は何の意味なのか。初めの説は、その趣旨がどこまでも小賢しく、疑いなく中国の考え方であって、日本の上代の心ではまったくない。昔をよく考え知る人なら、おのずと見分けられるはずだ。そもそも、天地が初めて現れた時のありさまは、本当に昔の伝承のとおりだっただろう。それなのに、なぜ煩わしく大げさな外国の理屈を借り、わざわざ冒頭に掲げたのだろう。〔『纂疏』の本を見ると、「故曰」を「一曰」、つまり「一説に言う」としている。もしこちらが正しい本文なら、いっそう筋が通らない。外国の説を中心に置き、わが国の古い伝承を脇に添えるような記し方になるからである。〕
そもそも中国の書物の説は、天地の始まりのありさまなどを含め、すべて普通の人間が自分の考えで、「理屈から言って、こうであるはずだ」と推測し、決めつけて作ったものである。日本の古い伝承はそうではない。誰が言い出したともなく、ただ遠い上代から語り伝えられてきた、そのままである。両者を比べると、中国の書物の方は理屈が深く聞こえ、本当にそうだっただろうと思われる。一方、古い伝承の方は飾り気がなく、浅く聞こえるので、誰もが前者ばかりに引かれてしまう。舎人親王をはじめ、代々の学者は今に至るまで、迷わない人がいない。こうして皆が迷い、溺れるのは、中国の書物の説というものが、賢い昔の人々が何事も深く考え、理屈を求め、自分にも他人にも「本当にそうだ」と信じられるように作り定め、見事な筆で巧みに言い残したものだからである。しかし、人の知恵には限りがあり、真実の理は推し量って知れるものではない。天地の初めなどを、「こうであるはずの理だ」と、どうして推測で知ることができよう。そのような推測の説は、身近な事柄でさえ大きく外れることが多い。それなのに、理屈で考えれば天地の始めも終わりも分からないことはないと思うのは、たいそう身の程知らずである。人の知恵には限りがあり、本当の理は測り知りがたいということを悟れない、誤った理解なのである。およそ、理屈に合っていると思われることを根拠に物事を信じるのは間違いだ。合っているかどうかも、本当は普通の人間には知れない。その説を作った人も普通の人間、信じる心も普通の人間の心なのだから、どうして本当の正しさや誤りを見分けられよう。中国でたいそう重々しく言われる〈聖人〉という人も、その知恵にはやはり限りがあり、及ばないところが多い。まして、それより知恵の劣る人々の言い残した説が、どうして信頼に値しよう。それなのに、代々の学者が皆、そのような憶測の説に欺かれ、気づかないまま、この潤色された漢文の部分こそを〈道〉の本旨だと心得ているのは、まことにあきれたことだ。あの冒頭の文章は、ただ飾りとして加えた序文のようなものとして、重く取り上げずにおくべきなのである。
次に、〈乾、すなわち天の道だけがはたらいて、この純粋な男神が成った〉、また〈乾坤、すなわち天地の道が互いにはたらき合って、この男神と女神が成った〉とある。これも編纂者が自分の考えで、新しく加えた小賢しい文章である。なぜか。まず〈乾坤〉などという考え方は日本にはなく、それを表す古い言葉もないのだから、古い伝承ではないことは明らかだ。もし古い伝承なら、ただ〈天地の道〉とあるはずである。もっとも、天地を乾坤と書いただけの文字の違いなら、まだ許せるだろう。しかし、これらの神々が、その乾坤の道によって生まれたかのように記したのは、本来の意味に大きく背いている。これらの神々も、ただ高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすびのかみ)の霊力によってお成りになったのであろう。そうお成りになった理由は、どのようなものか、測り知ることができない。それを賢そうに〈乾坤の変化〉などと言い立てるのは、中国風の考え方による誤りなのである。
また、伊邪那岐神を〈陽神〉、伊邪那美神を〈陰神〉と書き、〈陰神が先に喜びの言葉を発した。その言葉は、すでに陰陽の理に反している〉と記したのも、中国風の考え方による誤りである。そもそも、この世に〈陰陽の理〉というものはない。もとより日本では、まだ文字のなかった時代に、そのような考え方があるはずもない。昔の伝承には、ただ〈男神・女神〉、〈女と男のあり方〉などとあっただろう。それをあのように書き改めたのは、単なる文字の違いではなく、学問にとって大きな害になる。生半可に賢い人は、この文章を見ると、「伊邪那岐命、伊邪那美命という神は、仮に名を設けただけで、実際には陰陽が万物を生み出すはたらきを指すのだ」と理解してしまう。そこから、中国の『易』の理や、陰陽五行によって説明するようになる。すると神代のことは、すべて仮に作った話のようになり、昔の伝承はすっかり中国の考え方に奪われ、本当の道が立ちにくくなるからである。編纂者自身は、そこまで思いも及ばず、ただ文章が中国風になることをよいとして、飾りのために書いたのだろう。しかし、その文章が後世には、こうしたさまざまな誤った説を引き寄せる仲立ちとなり、本当の道が現れにくい根本の原因になったのである。
しかし、この〈陰陽の理〉という考え方は、大昔から人々の心の底に深く染み付いており、誰もが天地に自然に備わる理で、あらゆる物事はこの理を離れないと思っているらしい。それもまた、中国の書物の説に迷わされた心である。その心をきれいに洗い去ってよく考えれば、天地はただ天地、男女はただ男女、水と火はただ水と火で、それぞれ性質や状態を持っているが、それはすべて神のなさることである。なぜそうなのかという理由は、まことに不思議で奥深く、到底人が測り知れる範囲にはない。それなのに中国の人は、自分の小賢しい考えで、あらゆるものの理由を無理に考え求める癖がある。そこで〈陰陽〉という名を作り設け、天地万物すべてが、その理のほかに出ないかのように説明したのである。〔このように、陰陽はただ中国の人が作り出したもので、もともとその国だけの独自の説だから、ほかの国にはその考え方がないらしい。インドの仏教の経典や論書を見ると、世界の始まりも人間の体も、すべて地・水・火・風の四大というもので説明し、陰陽五行などの説はまったくない。その文字はまれに見えるが、それは中国語に訳した文章の表面だけのことらしく、実際にその理を説いてはいない。インドは、中国にまさってなお大げさに物事の理を説く国でさえ、このとおりなのである。これによって、陰陽が中国独自の説だと悟るべきである。〕
この説は、賢い人がよく考えて作ったもので、十のうち六、七は当たっているように見える。それで代々の人々が皆信用し、疑わないのである。しかし、「では、その陰陽は、さらにどんな理によって陰陽なのか」と尋ねれば、その理由は知りがたいというところへ行き着く。太極や無極などというものもあるが、「それはまた、どんな理によって太極・無極なのか」と尋ねれば、結局は、そのもとの理は知りがたいということになる。実際には、陰陽も太極も無極も、何の役にも立たない空しい説で、人間の知恵でわずかに測り知れる範囲の小さな理屈に、さまざまな名を付けたにすぎないのである。そもそも天照大御神は太陽の神でありながら女神、月夜見命は月の神でありながら男神である。これによって、陰陽という考え方が本当の理に合わず、昔の伝承に背いていることを悟るべきである。それなのに、なおあの理屈にとらわれて迷い、かえってこのことまでその理屈に合わせようと、無理に説明を曲げるなどというのは、論ずるにも足りない。
また、美都波能売神(みつはのめのかみ)を「罔象女」、綿津見(わたつみ)を「少童」と書いた類いも、中国にへつらった、好ましくない書き方である。
さらに神武天皇の巻に至っては、天皇の詔として、〈この時の世の巡りは太古に当たり、まだ世が開けきらぬ時代であった。そのため、未開の中で正しいものを養い、この西の片隅を治めてきた。皇祖も父祖も神であり聖であって、めでたい徳を積み、輝きを重ねてこられた〉とある。この類いは、内容も言葉も、上代の姿ではまったくない。すべて潤色のために、編纂者が作り加えた文章である。
崇神天皇の巻に、〈詔して言われた。思うに、わが皇祖、歴代の天皇たちが輝かしく天子の位に就かれたのは、どうしてご自身のためであろうか……それでよいではないか〉とあるのも、同じである。大体、上代を記す巻々にある歴代の詔の言葉は、潤色のために加えられたように見える。そのため、どうしても古い日本語では訓読しにくい箇所が多い。このほかの同様の例も、これに準じて考えるべきだ。『続日本紀』には、古い日本語の詔〔いわゆる宣命である。〕と、漢文の詔とを別に載せている。これを見ると、奈良時代になってからでさえ、日本語の詔には中国風の言い回しがほとんど見えない。そう考えれば、まして上代の御代のものは、その日本語の詔のようで、さらに古い言い方だったろうと推し量れる。それなのに、『日本書紀』の詔は古めかしいところがまるでなく、ひたすら中国の考え方と言葉なのである。
また、神武天皇の巻で、天皇のお言葉に、〈戦いに勝ってもおごらないのは、よい将軍の行いである〉とある。大体、このように賢しげな中国風の言葉は、すべて飾りと思われる。言葉には、それぞれの時代の様式があり、人の行動や心のあり方と釣り合っているものだ。ところが『日本書紀』に登場する人々の言葉には、上代のありさまや、人の行動・心に合わないものが多い。それは漢文の飾りが過ぎるからである。
また、同じ天皇のお言葉として、〈今、私は太陽神の子孫であるのに、太陽に向かって敵を征伐している。これは天の道に逆らうことである〉とある。〔このお言葉は、『古事記』では、ただ〈太陽に向かって戦うのはよくない〉とある。〕また、〈皇天の威力に頼って、凶悪な者たちを討ち取る……〉とも言う。〔「不亦可乎」、つまり「それでよいではないか」というところまで、この文章はすべて中国の考え方である。〕あるいは〈天に対して罪を得る〉などという。この類いの〈天〉は、ひたすら中国の書物でいう天であって、日本古来の考え方に背いている。〔天命・天心・天意・天禄などという類いも、すべて同じである。〕なぜか。天は、ただ空の上方にあって、天つ神のおいでになる御国にすぎず、心や魂のあるものではない。したがって〈天の道〉ということもなく、〈皇天の威力〉などとも言えず、天に対して罪を得る理由もない。それなのに、天に霊的なはたらきがあるように言い、人の災いや幸福も何も、世の中のことをすべて天の行うものとするのは、中国の考え方であり、誤りなのである。〔『続日本紀』の宣命に〈天地の心〉と見え、『万葉集』の歌に〈天地のなさるままに〉などと詠まれるのも、奈良時代にはすでに中国の考え方が移り、古い心と違うものも交じったのである。外国で、何事もみな〈天〉と言うのは、神代の正しい伝承がなく、世の中のことはすべて神のなさることだと知ることができないからだ。〈天帝〉あるいは〈天の主宰〉などというのは、神を指しているようにも見える。しかし、それらも実際に神がおられると知って言うのではなく、ただ仮の名であり、実は天の理をもって言うのだから、天つ神とは違う。例の「皇天」という字を「あめのかみ」と訓むのは、「皇天」のままでは古い意味に合わず、そこは当然「天神」とあるべきだと見分けているので、この訓み方はよい。しかし、その訓み方から、皇天がそのまま天神だと思うのは誤りだ。『日本書紀』を読む時には、いつもこの違いをよく考えるべきである。気をつけなければ、中国の考え方に奪われてしまう。〕
ひたすら漢文の飾りを重んじたため、このような食い違いが生じるのである。中国の考え方に迷う後世の人は、この違いが分からず、これらの文章を見ると、かえって〈天つ神〉というのは仮の名で、つまり〈天〉のことだと理解してしまうらしい。だからこれは、とりわけ学問の害となる文章である。〔天つ神とは、まさしく人などのように、実際の身体をもっておられる神である。中国の考え方でいう天のように、空しい理屈に付けた仮の名ではない。〈天神〉というお名の〈天〉は、そのおいでになる御国を言うだけで、神がそのまま天なのではない。〕
綏靖天皇の巻には、〈天皇は容姿がひときわ優れ、幼いころから抜きんでた気概があった。成人すると体格や顔つきも立派で、武芸は人にまさり、心は落ち着いて強固であった〉とある。崇神天皇の巻には、〈天皇は聡明で、幼いころから大きな計略を好まれ、成人すると心が広く、慎み深かった……〉などとある。この類いの文章も、昔の伝承があって、それを漢字に移して書いたものではない。上代については、ただその御代の行いをもとに、多くは編纂者が飾りとして加えたものと見える。また、応神天皇の巻で淡路島のことを、〈峰と岩が入り組み、丘と谷が連なり、香りよい草が生い茂り、長い水の流れが横切る〉と言い、雄略天皇の巻で馬をほめて、〈勢いよく竜のように飛び、たちまち、驚いた大雁が飛び立つように高く跳ね、その特異な姿は峰のようにそびえ、優れた相があふれ出る〉といった類いも、潤色が過ぎ、まことに煩わしい漢文である。
また、神武天皇の巻に、〈弟猾(おとうかし)が牛と酒を大いに用意し、天皇の軍をねぎらってもてなした〉とある。崇神天皇の巻には、〈神聖な亀に命じて占い、災いを招いた理由を究めてはどうか〉とある。これらの文章は、飾ったために事実を失い、大きな害となっている。日本では、上代であっても牛を食べたことはなく、占いに亀を用いたことも、昔にはなかったのである。〔「牛酒」「神亀」などと書いたのは、編纂者のつもりでは、ただ漢文の潤色にすぎない。しかし後の人はそれを実際のことと思うので、学問の害になる。牛を食べ、占いに亀を用いるなどは、外国の習慣なのである。〕
景行天皇の巻で、倭建命が東国を服属させるために出発なさろうとする箇所に、〈天皇は斧鉞(ふえつ)を取り、日本武尊に授けて言われた……〉とある。昔は、このような時にも矛や剣こそをお授けになったので、斧鉞を授けたことはまったくない。だから、これも『古事記』に、〈比比羅木の八尋矛(ひひらぎのやひろほこ)を授けた〉とある方が事実なのである。それを無理に中国風にしようとして、斧鉞と書いたのだ。言葉を飾っただけなら、まだ許される面もあろうが、このように物そのものまで取り替えて書くのは、度が過ぎていないだろうか。この類いはほかにもある。読む人は注意すべきである。
また、継体天皇が越前の三国にお住まいだった時、臣や連たちが相談してお迎え申し上げ、皇位にお就きいただこうとしたが、ご辞退なさったという箇所に、〈大男迹天皇は、西に向かって三度辞退し、南に向かって二度辞退された〉とある。当時、このようなことがあったはずはない。この前後の文章は、すべて中国の書物にあるものを、そのまま採ったのである。そもそも、このように人の行動まで作り飾って、中国風になさったのは、どうしたことであろう。
また、綏靖天皇元年の記事に、〈春正月、壬申を朔とする月の己卯の日……皇后を尊んで皇大后と申し上げた〉とある類いも、上代の姿ではない。〔これに続く御代も、すべてこの例に従って記されている。〕なぜか。まず上代には、〈大后〉とは当代の正妻の后を申し上げ、天皇の母君は〈大御祖(おおみおや)〉と申し上げたからである。〔このことは、中巻の白檮原宮の段で詳しく述べる。昔の言い方に従えば、「皇后」を「おおきさき」、「皇大后」を「おおみおや」と訓むべきである。「皇大后」を「おおきさき」と訓んではいけない。〕また、皇后を、その御子の御代になってから、あらためてはっきりと〈皇大后〉という称号に改め申し上げるのも、上代の姿ではない。母君はもともと〈大御親〉だからである。〔上代には、言葉のほかに文字はないのだから、それとは別に〈皇大后〉という称号を申し上げるわけではない。〕このような称号を明確に改めるのは、もともと中国のやり方だ。さらに何年何月何日と、月日まで記すのは、いっそう中国風である。上代の出来事に月日を記したことについては、なお別の論がある。
『日本書紀』について論ずべきことは、なおさまざまに多い。しかし今は、中国の考え方で潤色された文章のうち、古学の害となりそうな言葉だけを、あれこれ引き出して、区別し、論じた。同種の言葉は、みなこれに準じて理解すべきである。中国風の説は理屈が深そうで、人の心に入りやすく、迷わされやすいものだ。『日本書紀』を読む人は、いつもこの趣旨を、決して忘れてはならない。
『日本書紀』を訓読するのは、とても難しい。なぜかと言えば、まず、先に論じたように、中国の書物の形式に倣い、飾りの文章が多いからである。その文章のまま訓もうとすれば、漢字の音読みなども交え、もっぱら中国の書物を読むように読むほかない。しかし、時々は読みの注を加え、古い言葉を示していることも考えると、ただ中国の書物のように読んでよいわけでもない。では、すべて古い日本語で読もうとすれば、到底そうは訓めない箇所が多い。また、漢字の意味を取って無理に読むと、言葉だけは日本語になっても、そのつなぎ方や意味は、なお中国風になることが多い。だから、すっかり古い言葉・古い意味で訓もうとするなら、文章の形にも文字にもとらわれず、その箇所全体の意味をよく考え、『古事記』『万葉集』の言葉の用法をよく調べて訓むべきである。そうするには、十字、二十字ほども、すべて捨てて読まない箇所さえあるだろう。そうはいっても、今の人にはおのずと漢文の文章に慣れた癖があり、上代の意味と言葉を少しも違えず、詳しく悟り明らかにすることは難しい。いずれにせよ、きちんと訓み切るのが難しい書物なのである。さて、現行本の訓み方は、できるだけ古い言葉で訓んだものである。〔『古事記』にもある事柄は、その言葉に倣って読んだものが多い。〕古い言葉が、そこに多く残っている。しかし、漢文の飾りの部分などは、その文章のまま文字に頼って訓んだため、古い意味ではまったくなく、言葉のつなぎ方なども、もっぱら中国の書物を訓む調子である。この点を考えて読むべきである。
『旧事紀』という書物について
世間に『旧事本紀』という名の、十巻の書物がある。これは後世の人が偽って編み集めたもので、あの聖徳太子がお作りになった本当の記録では、まったくない。〔序文も、『日本書紀』の推古天皇の巻にある記事をもとに、後世の人が作ったものである。〕しかし、実際になかったことを、ひたすら作り出して書いたのでもない。ただ『古事記』と『日本書紀』から取り合わせ、集めたのである。本を開いて一度見れば、よく分かることだが、なお疑う人がいたら、神代を記す箇所を注意して見よ。一つ一つの事柄について、『古事記』の文章と『日本書紀』の文章を、どちらももとのままで交ぜて挙げているので、文体が一つになっていない。ことわざにいう「木に竹を接ぐ」ようなものだ。また、両書の記事を並べて採ったため、同じことが重なっているところまであり、まことに乱雑である。両書は、全体の文章の様式も、物の名に用いる文字なども大きく違うので、交ぜて採ると、その境目がよく分かり、明白である。時々『古語拾遺』からも採っているが、これももとの文章どおりなので、よく区別できる。〔これによれば、『旧事本紀』は大同年間より後に作られたものだったのである。だからこそ、その中に〈嵯峨天皇〉という名も見えるのだ。〕
そして神武天皇以後の歴代の御代は、もっぱら『日本書紀』だけから採り、出来事を省略して書いている。これも文章が『日本書紀』とまったく同じなので、明らかである。また、何々本紀、何々本紀と掲げる各巻の題目も、みな適切ではない。全体として、正しくない書物なのである。
ただし、巻三のうち、饒速日命(にぎはやひのみこと)が天からお降りになった時のこと、巻五の尾張連・物部連の系譜、巻十の『国造本紀』という部分は、どの書物にも見えず、新しく作り出した説とも見えないので、ほかに古い書物があって、それから採ったのだろう。〔どれも、その中に疑わしいことは交じっている。それは関連する箇所で、そのつど説明する。〕したがって、これらの部分に限っては、今も拠り所として用い、助けられることが多い。また『古事記』の現行本には誤字が多いが、『旧事本紀』はまだ誤っていなかった本から採ったため、今もたまたま正しい字が残る箇所が、まれにはある。これも少しは助けになる。おおよそ、これら以外は、まったく必要のない書物である。
〔『旧事大成経』というものがあるが、これはとりわけ近い時代に作り出された書物で、すべて偽りの説である。また『神別本紀』というものも、今あるのは近世の人の偽作である。そのほか、神道家と呼ばれる人々が用いる書物の中には、あれこれと偽書が多い。古学を詳しく学んで見れば、本物か偽物かは、実によく分かるものだ。〕
『古事記』という題名について
『古事記』と名づけられたのは、「昔のことを記した記録」という意味である。『日本書紀』で、天武天皇の御代、川島皇子らに命じて国史を編纂させられたことを記す箇所に、〈帝紀および上古のさまざまな出来事を記し定める〉とある。この言葉は、そのまま今の題名の意味と同じである。そして、この題名は『日本書紀』のように国号を掲げず、堂々とただ〈古事〉と言う。独立した姿勢があって、まことに尊い。外国にへつらう気持ちがなく、天地の果てまで、ただ天つ神の御子のお治めになる国のほかにはないという心にかなっているからである。〔編纂者は、そこまで考えて名づけたわけではないらしいが、おのずとこの趣旨にかなっていて、めでたいのである。〕日本の学問をしようとする人々は、何事にも常にこの心を忘れてはならない。
また、巻の分け方も、中国の書物の例にとらわれず、〈上巻・中巻・下巻〉と言っている。これもまた、すばらしい。〔〈巻の上・巻の中・巻の下〉と言うのは中国風である。また〈巻之一〉〈巻第一〉なども中国風だ。それも〈一の巻〉〈二の巻〉などと言うべきである。「まきのついでひとつ」、または「ひとまきにあたるまき」などと読むのは、かえって日本の言い方に疎い。〕さて、『日本紀』は「やまとぶみ」と訓むが、『古事記』の題名に訓があるとは聞かない。もともと編纂者も、ただ音読みで読むつもりだったのだろう。しかし、あの「やまとぶみ」の例に倣うなら、「ふることぶみ」と訓みたい。〈上巻〉は「かみつまき」、〈中巻〉は「なかつまき」、〈下巻〉は「しもつまき」と訓むべきである。
諸本と注釈について
『古事記』には、今の世に広まっている本が二つある。一つは寛永のころに版木に彫った本で、文字の抜けや誤りなどがとても多い。訓み方も、誤った字のまま付けたところは言うまでもなく、そうでないところも、全体にたいそうよくない。もう一つは、その後、伊勢の神官の度会延佳という人が、古い本などを調べ、改め直して出版させたものである。こちらは、抜けた字や誤った字を大体直し、訓み方も意味が通るように付けてある。しかし、時には自分の小賢しい考えを加え、文字まで改めたと見え、かえってよくないところもある。この人は、そもそも古語を知らず、ただ事の趣旨だけをひととおり考えて訓んだので、その訓は言葉も意味も大いに昔と違い、後世のものと中国風のものばかりである。まったく用いるべきではない。さて、この二つを除くと、古い本はとてもまれで、今では実に手に入りにくい。私も以前、苦労して一部を手に入れ、見たが、誤りはなお非常に多かった。近ごろ、あの延佳が初めに異本を比較し、あれこれ書き入れた本を写した本と、京都の村井氏〔敬義〕の所蔵する古い本も見た。これらにも格別な点はなく、誤りが多いばかりで、村井氏のものは、大体古い印刷本に近かった。その後また、尾張国名古屋の真福寺〔俗に大洲の観音という。〕に、昔から伝えられ、所蔵されている本の写しを見た。これはほかの諸本とは違い、珍しいところも時々あるが、文字の抜けや誤りなどは、特に多い。このようでは、今の世に、誤りのない古本は、やはり存在しにくいのである。しかし、これらの本にも、それぞれ長所と短所があり、照らし合わせれば、役立つことが多い。
『古事記』には、昔からの注釈があるとは聞かない。ただ、『元々集』というものに、〈ある記にいう〔古事記釈〕……〉、また〈古事記釈注にいう……〉とあるので、昔は〈釈注〉というものがあったのだろう。それは誰が作ったのか。題名さえほかでは見えず、まして今は存在を聞かない。〔ある偽書には、『古事記』の注釈ということで、名を作って引用していることがあるが、虚言なので、取り上げるに足りない。〕
文体について
全体の文章は、漢文の語法で書かれている。そもそも、この『古事記』は、もっぱら古い言葉を伝えることを目的とする書物なのだから、中古の物語のように、日本の言葉のまま、一字も違えず、仮名書きにすべきではないか。それなのに、なぜ漢文で書かれたのか、と問う人もあろう。その理由を詳しく示そう。まず日本には、もともと文字がなかったので、上代の昔のことは何もかも、人の口で語り、耳で聞いて伝わってきた。〔今、神代の文字などと言うものがあるが、それは後世の人の偽作で、論ずるに足りない。〕その後しばらくして、外国から書物というものが渡ってきた。〔西の国の文字が初めて渡ってきたのは、『古事記』に、応神天皇の御代、百済国から和邇吉師(わにきし)という人に託し、『論語』と『千字文』を献上したとある、その時からだろう。『懐風藻』の序などにも、この趣旨が見えるので、奈良時代にも、そう伝えられていたのだろう。それ以前にも外国人が来たことは、『日本書紀』に、崇神天皇の御代に初めて弥摩那国の人が、また垂仁天皇の御代に新羅王の子の天之日矛などが来たとあるが、書物はまだ渡ってこなかっただろう。そもそも外国との往来について、中国の書物には、あちらで漢といった時代から、日本の使者が来たとあるが、わが朝廷ではまったくご存じなかったことだ。これには種々の論があり、別に記している。中国に朝廷の使者を遣わされたのは、はるか後、推古天皇の御代が初めてだった。また、朝鮮の諸国が親しく仕えたのは、神功皇后がそれらの国を服属させられてからのことであるから、書物の渡来も、確かにあの和邇が来た時からだと思われる。それなのに、神武天皇の時からすでに文字があったと思う人もいる。それは『日本書紀』をひととおり見て、飾りが多いことを十分考えず、文章のまま受け取るため、そう思うのである。〕
その書物を、日本の言葉で読むことを習い、その意味や道理も理解したうえで、〔『日本書紀』には、応神天皇十五年、太子が百済の阿直岐、また王仁から経典を学び、よく理解されたことが見える。〕その文字を使い、その書物の言葉を借りて、日本の出来事も記すようになった。〔『日本書紀』履中天皇の巻の四年の記事は、冒頭に引用したとおりである。〕しかし、その書物はすべて外国の言葉で、用法も何も日本語とは大いに違う。その言葉を借りて日本のことを書くとき、まったく日本の言葉のままには書き取りにくかった。そのため、何事も、漢文の語法のままに書くことが習慣となったのである。だから奈良の御代に至るまで、書かれたもののうち、日本の言葉のままのものは、ほとんど見えない。『万葉集』のように歌を集めた本でさえ、前書きなどはすべて漢文であることを見ても分かる。物語の本などのように、日本の言葉のまま書くことは、今の都、すなわち平安京になり、平仮名というものができてから始まった。ただし、歌・祝詞・宣命の言葉だけは、大昔から言葉のまま書き伝えてきた。これらは言葉に美しい形を与えて綴り、声に出して神にも人にも聞かせ、感じさせるもので、歌は詠唱もする。一字でも違えばよくないので、漢文では書けないからである。そこで歌は、『古事記』『日本書紀』に載るように、漢字の音だけを借りて書いた。これを〈仮字〉という。
〔〈仮字〉は「かりな」の意味である。その文字の意味は取らず、ただ音だけを借りて、桜を「佐久羅」、雪を「由伎」と書くようなものだ。「な」は文字のことで、昔は文字を〈名〉といった。昔の仮字は、すべてこの「佐久羅」「由伎」のように書くだけだったが、のちに書きやすくするため、片仮名というものを作った。作った人は明らかでない。吉備大臣などであったのだろうか。これを片仮名と名づけたのは、もとの仮字の片方を省略し、「伊」を「イ」、「利」を「リ」と、一部分を書くからである。この名は『うつほ物語』の蔵開の巻・国譲の巻や、『狭衣物語』などにも見える。しかし片仮名も、なお楷書の堅い書き方なので、女性や子供のため、また歌などを書くにも、柔らかみがない。そのため、さらに草書を崩して平仮名を作った。これも作った人は明らかでないが、『花鳥余情』には弘法大師が作ったとあり、世間でもそう伝えている。それもありそうなことである。これを平仮名というのは、片仮名に対しての名だが、この名は古い書物には見当たらない。〕
祝詞と宣命には、また別の一種の書き方があり、世間で〈宣命書き〉という。〔祝詞は『延喜式』に数多く載っており、巻八がそれを収めた巻である。宣命は『続日本紀』以後、各代の国史に多く記されている。〕およそ、これら以外で、必ずしも言葉そのものを美しく整えなくてもよいものは、すべて漢文で書かれた。〔その習慣が移り、次第に日本の言葉のつなぎ方も、おのずと漢文風になったところが多い。宣命や祝詞の類いでさえ、後のものは、ただ書き方だけが昔のままで、言葉は中国風のものばかりが多い。時代が下ると、かえって漢文の言い回しの方を美しく感じ、日本の雅やかな言葉の美しさを探り求める人もいなくなった。それは、まことにまことに悲しいことである。〕
このような事情だったので、『古事記』が編纂されたころにも、歌・祝詞・宣命など以外には、まだ仮名文という書き方がなく、世間一般の習慣どおり、漢文で書かれたのである。しかし、漢文で書くとなれば、当時はその学問が盛んで、そうした文章を巧みに書ける時代だったのだから、これも『日本書紀』などのように文章を飾って書くはずなのに、そうはなっていない。漢文の面では素朴で、拙く見える。それは、ひたすら昔の言葉を伝えることを目的として、漢文としての体裁には心を用いなかったからである。〔編纂者が漢文を書くのに拙かったのではない。序文と比べてみよ。序文こそ、あの人の漢文の力量を尽くしたものと見える。〕そのため、漢字の意味にも、その置き場所などにも、とらわれないところが多い。また序文に、〈すべてを音仮名で連ねると、事の趣旨がさらに長くなる。そこで今、一つの句の中で音と訓を交えて用いることもあれば、一つの出来事の全体を訓によって記すこともある〉とある。これを見ると、まったく仮名書きのようにもしたいと思っていたのだろうという、編纂者の本意が分かる。
したがって、大体は漢文の姿をしていても、ただの漢文ではない。さまざまな書き方があり、仮名書きの箇所も多い。「久羅下那洲多陀用幣流」、すなわち「くらげなすただよえる」〔くらげのように漂っている〕などが、その例である。また、宣命書きのような箇所もあり、「在祁理(ありけり=あった)」、「吐散登許曾(はきちらすとこそ=吐き散らすことこそ)」などがそうである。漢文の形をしていながら、古い日本語の語順とまったく同じものもある。「立天浮橋而指下其沼矛」、すなわち「天の浮橋に立って、その沼矛を指し下ろして」などがその例だ。〔「立」と「指下」の字を前に置くのは漢文だが、普通にその字のまま訓んでも、古い日本語と違わない。〕一方、漢文に引かれ、古い日本語の姿と違ってしまった箇所も、時々はある。「名其子云木俣神」、つまり「その子を名づけて木俣神という」の類いである。古い日本語の順に書くなら、「其子名云木俣神」または「其子名木俣神」、つまり「その子の名は木俣神という」とあるべきだ。「此謂之神語也」〔これを神語という〕の「之」を添えたのも、古い日本語と違う。「更往廻其天之御柱如先」も、「如先(さきのごとく)」の置き場所が日本語と違う。「更其天之御柱如先往廻」、つまり「さらにその天の御柱を、先のように巡り行く」とするのが、日本語のつなぎ方なのである。この類いには注意すべきで、気をつけなければ漢文に惑わされてしまう。また、「懷姙臨産(妊娠して出産の時を迎える)」、「不得成婚(結婚できない)」、「是示後世(これは後世に示す)」、「不得忍其兄(兄を見捨てるには忍びない)」などは、まったく漢文で、古い日本語に合わない。ただし、このような文章も、ことさらに好んで書いたわけではないらしい。当時、文章を書くときには皆、漢文ばかりに慣れていたので、うっかりすると、おのずとこのようなものも交じったのだろう。〔昔は仮名文の先例がなく、漢文でばかり書き慣れていたからである。仮名文を書くことが始まった後の物語などには、かえってこのような言い回しの文章がないことで分かる。〕
また、「庶兄」「嫡妻」「人民」「国家」などという文字の組み合わせも、日本の言い方にはなじまない。しかし、これらは特に世間で使い慣れていたとおりなのだろう。「山海」「昼夜」などの類いも、日本では「海山」「夜昼」と言うが、これもまた書き慣れていたとおりなのである。
さて、古い言葉を記すには、四種類の書き方がある。一つ目は仮字書きで、言葉を少しも違えず写すものなので、さまざまな方法の中でも正確である。二つ目は正字で、「阿米(あめ)」を「天」、「都知(つち)」を「地」と書く類いだ。文字の意味と言葉の意味が対応しているので、これも正しい。〔ただし、「天」は「あま」とも「そら」とも訓め、「地」は「くに」とも「ところ」とも訓めるので、言葉が定まらないことがある。そのため、仮字書きの正確さには及ばない。しかし、言葉の意味を備えている点では、仮字書きにまさる。〕この中に、「股」の意味に「俣」と書き、〔これは中国の書物にはない文字である。〕「橋」に「椅」の字を用い、〔この字には橋の意味はない。〕「蜈蚣」を「呉公」と書く〔これは偏を省いた例である。〕といったものがある。これらは正字でありながら特殊なもので、それぞれまた一種類をなす。〔その理由は、それぞれの箇所で述べる。〕三つ目は借字で、漢字の意味を取らず、ただその訓みを別の意味に借りて書くことをいう。序文に〈訓によって述べると、伝えたい意味を言葉で十分に表せない〉とあるのが、これである。神名・人名・地名などに特に多い。その他の普通の言葉にも、まれに用いる。奈良時代までは、この借字で書くことは普通で、言ってみれば仮字と同じなのである。後世には文字ばかりに心を用いるため、これを不審に思うらしいが、昔は言葉を主とし、文字にはそれほどとらわれなかったので、さまざまに借りて書いたのである。四つ目は、この三種をあれこれ交ぜて書くものだ。さらに、以上の四種類のほかに、由来があって書き慣わしてきた一種がある。「日下(くさか)」「春日(かすが)」「飛鳥(あすか)」「大神(おおみわ)」「長谷(はつせ)」「他田(おさだ)」「三枝(さきくさ)」などが、それである。
仮字について
この『古事記』に使われている仮字を、すべて以下に挙げる。
ア:阿。このほか、延佳本ともう一本では、白檮原宮の段に「亞亞」という仮字があるが、誤字と見える。その理由は、その箇所で説明する。
イ:伊。
ウ:宇・汙。このうち「汙」は、上巻の石屋戸の段の「伏汙氣」に、ただ一度だけある。
エ:延・愛。このうち「愛」は、上巻の「愛袁登古」「愛袁登賣」、また神名の「愛比賣」などだけにある。
オ:淤・意・隠。このほか、下巻の高津宮の段の歌に「於志豆流」と、「於」がただ一度あるが、別本では「淤」とあるので、後の誤写である。「隠」は、国名の「隠伎」だけにある。
カ:加・迦・訶・甲・可。濁音のガ:賀・何・我。このうち「甲」は、「甲斐」と続く言葉だけに使われている。〔国名に限らず、カヒと続く言葉には、すべてこの字を書く。〕「可」は、中巻の軽島宮の段の御歌に「阿可良氣美」とあるだけだ。〔下巻の朝倉宮の段の歌で、延佳本に「可豆良」とあるのは誤りである。〕「賀」は、清音・濁音の両方に使うという人もいるが、そうではなく、必ず濁音である。〔『古事記』の歌にこの字が出るのは、およそ百三十余り。そのうち、必ず清音であるはずの箇所はただ五つで、残る百二十余りはすべて濁音の箇所だからである。〕「何」は、上巻の歌に「和何」と三度、また「岐美何」とあるだけである。「我」は、中巻の氏族名「蘇我」だけだ。〔下巻では「宗賀」と書いている。〕
キ:伎・紀・貴・幾・吉。清音・濁音の両方:岐。濁音のギ:芸・疑・棄。このうち、「伎」と「岐」の間には疑わしいことがある。上巻の初めのしばらくは、清音に「伎」、濁音だけに「岐」を使い、両者を分けている。ところが後になると、清音にも濁音にも「岐」だけを使い、「伎」があるのは、上巻の八千矛神の御歌の「伎許志弖」「那伎」〔鳴くこと。〕、中巻の白檮原宮の段の「伊須々岐伎」、軽島宮の段の「迦豆伎」、下巻の高津宮の段の「伊波迦伎加泥弖」、朝倉宮の段の「由々斯伎」だけである。そもそも『古事記』には、一つの仮字を清音・濁音の両方に使う例がない。そう考えると、もとは清音の箇所は終わりまですべて「伎」だったのが、字形が似ているため、後に誤って「岐」に交じってしまったのではないか。〔また伊邪那岐命の「岐」を「伎」とする箇所もある。これも混同したのである。〕しかし今は決めにくいので、ひとまず「岐」は清音・濁音両用として挙げた。「貴」は、神名「阿遲志貴」だけである。〔歌にもこの字を書く。〕「幾」は河内の地名「志幾」だけだ。〔大和のものは、すべて「師木」とだけ書く。〕「吉」は国名「吉備」〔歌では「岐備」と書く。〕と、氏族名「吉師」だけである。「疑」は、上巻の「佐疑理」〔霧。〕、中巻の「泥疑」〔三度ある。〕と「須疑」〔過ぎることで、三度ある。〕だけだ。「棄」は上巻の「奴棄宇弖」だけである。〔同じ一続きの文章に、もう一度この言葉がある箇所では、「奴岐」と書く。〕
ク:久・玖。濁音のグ:具。
ケ:気・祁。濁音のゲ:宜・下・牙。このうち「下」は、上巻の「久羅下」〔くらげ。〕だけである。「牙」は、中巻の「佐夜牙流」だけだ。
コ:許・古・故・胡・高・去。濁音のゴ:碁・其。このうち「故」は、上巻の歌に「故志能久邇」と、ただ一度あるだけだ。〔散文では「高志」と書く。〕「胡」は、中巻の白檮原宮の段の「登々志夜胡志夜」〔二度ある。〕と、下巻の豊楽宮の段の歌の「宇藝胡本斯」だけである。「去」は、白檮原宮の段の「志祁去岐」だけだ。〔あるいは「古」の誤写ではないだろうか。〕「高」は、地名の「高志」、人名の「高目郎女」「丸高王」だけである。「碁」は「基」とする箇所もあり、もともと二つの字があったかとも思える。しかし諸本が互いに違い、定まっていないので、もとは一つだったものが、誤って二つになったのである。今、どちらが正しいとも言いにくいが、ひとまず多い方に決め、「基」を誤りとした。「其」は、上巻の歌にただ一度あるだけである。〔前後に多くある同じ言葉には、どれも「碁」「基」を書いているので、これもその字の誤写であろう。〕
サ:佐・沙・左。濁音のザ:邪・奢。このうち「沙」は、神名・人名・地名に時々使い、また中巻の「沙庭」にある。これらだけである。「左」は国名の「土左」だけだ。また、「佐」を二か所で「作」とする本がある。上巻の「麻都夫作通」と「岐作理持」であるが、これはすべて誤りだ。「邪」は「耶」とすることが多い。誤りではないが、〔中国の書物でも、この二字を通用させることが多い。『玉篇』にも「耶は邪の俗字」とある。〕なお「邪」を正しいものとすべきである。「奢」は神名の「久比奢母知」「奥奢加流」「伊奢沙和気」、人名の「伊奢之真若」などにある。普通の言葉でも中巻に「伊奢」〔二か所。〕とある。これらだけである。
シ:斯・志・師・色・紫・芝。濁音のジ:士・自。このうち「師」は「壱師」「吉師」だけである。〔「師木」「味師」などの「師」は、訓を借りたものなので、借字の例であり、音を借りる仮字の例ではない。〕「色」は人名の「色許男」「色許売」だけ、「紫」は「筑紫」だけだ。「芝」は下巻の高津宮の段の歌に「芝賀」と、ただ一度あるだけである。「自」は地名の「伊自牟」と、人名の「志自牟」だけだ。このほか、中巻の水垣宮の段の歌に「式」が一度、軽島宮の段の歌に「支」が一度、下巻の高津宮の段の歌に「之」が一度あるが、とても疑わしい。誤写だろうか。それぞれの箇所で、さらに論じる。
ス:須・洲・州・周。濁音のズ:受。このうち「洲」は、上巻の「久羅下那洲」だけである。〔「堅洲国」「洲羽海」などの「洲」は訓を使ったものなので、音を借りる仮字の例ではない。〕「州」は、上巻の「州須」〔媒介する者。〕だけだ。「洲」と「州」のどちらか一方は、他方の誤写かもしれない。「周」は国名の「周芳」だけである。このほか、中巻の水垣宮の段の歌に「素」が一度あるが、それは「袁」の誤写である。
セ:勢・世。濁音のゼ:是。
ソ:曾・蘇・宗。濁音のゾ:叙。このうち「曾」は、一般には清音だけに使うのに、助詞の濁音のゾには、広くこの字を使っている。〔『日本書紀』『万葉集』なども同じである。〕そのため、もしかすると助詞のゾも、昔は清音で言ったのかと思う。しかし、中巻の軽島宮の段の歌では、三か所に「叙」も使っている。また、何々ゾと言い切るゾにも、多くは「叙」を使っているので、清音ではない。ところが、その言い切るゾにも、一、二か所「曾」を書くところがある。そうするとこの字は清音・濁音の両方に使ったかとも思うが、『古事記』にそのような例はなく、また助詞のゾ以外には、濁音に使う箇所がない。そこで今は、清音と定めた。そもそも、この字が助詞のゾに限って濁音として使われることは、なおよく考えるべきである。「宗」は、氏族名の「阿宗」「宗賀」だけだ。
タ:多・当・他。濁音のダ:陀・太。このうち「当」は、「当芸志美々命」、また「当芸斯」「当芸野」「当岐麻」などだけにある。「他」は地名の「多他那美」と、下巻の高津宮の段の歌の「他賀」〔誰。〕だけである。「太」は、下巻の列木宮の段に「品太天皇」とある。〔この御名は、ほかではすべて「品陀」と書いている。〕また、朝倉宮の段の歌で、延佳本に「太陀理」〔織物に使う柱。〕とあるのは、独断で改めたもので、誤りである。諸本に、どれも「本陀理」とある方がよい。〔この「太陀理」のことは、その歌の下で詳しく論じる。〕また、中巻にも「阿太之別」という氏族名がある。これは「本」の誤写ではないかという疑いがある。
チ:知・智。濁音のヂ:遅・治・地。このうち「地」は、神名の「宇比地邇」「意富斗能地」だけである。
ツ:都。濁音のヅ:豆。
テ:弖・帝。濁音のデ:伝・殿。このうち「帝」は、神名の「布帝耳」と、中巻の「佐夜芸帝」だけである。「殿」は、上巻の「志殿」〔垂らすこと。〕だけだ。
ト:登・斗・刀・等・土。濁音のド:杼・度・縢・騰。このうち「等」は、上巻の「袁等古」「美許等」と、下巻の「等母邇」だけである。「土」は国名の「土左」だけだ。「縢」は神名の「淤縢山津見」だけ、「騰」は「曾富騰」だけにある。〔中巻に「勝騰門比売」とあるのは誤りだろう。〕さて、この「縢」「騰」の一方は、もう一方の誤写なのかもしれない。
ナ:那。
ニ:邇・爾。
ヌ:奴・怒・濃・努。このうち「濃」は国名の「美濃」だけである。〔古い書物では、「農」「濃」などはヌの仮字に使うのであって、ノの音ではない。「美濃」も「ミノ」と言うのは中古からのことだ。〕「努」は、中巻の「美努村」だけである。
ネ:泥・尼・禰。このうち「尼」は、上巻の「加尼」〔金。〕と「阿多尼都岐」だけである。「禰」は「宿禰」と、軽島宮の段の「沙禰王」だけだ。〔これは「彌」の誤写かもしれない。〕
ノ:能・乃。このうち「乃」は、上巻の「大斗乃弁神」、下巻の「余能那賀乃比登」「加流乃袁登売」「比志呂乃美夜」だけである。
ハ:波。濁音のバ:婆。
ヒ:比・肥・斐・卑。濁音のビ:備・毘。このうち「卑」は「天之菩卑命」だけである。〔この御名には「比」の字も使っている。〕
フ:布・賦。濁音のブ:夫・服。このうち「賦」は、「賦登麻和訶比売」「日子賦斗邇命」、地名の「伊賦夜坂」「波邇賦坂」だけである。「服」は、地名の「伊服岐」だけだ。
ヘ:幣・閉・平。濁音のベ:弁(原字「辨」)・倍。このうち「平」は、地名の「平群」だけである。「幣」を「弊」とする箇所もあるが、それは誤写とすべきだ。その説明は、先に述べた「碁」と「基」の場合とまったく同じである。「辨」を「弁」とする箇所があるのは、同じ字だと思って写し誤ったのである。〔これは「釋」を「尺」、「慧」を「惠」と書く類いだ。画数の多い字には、音が通う、画数の少なく書きやすい字を借りて書く例があり、「辨」をいつも「弁」と書き慣れているため、ただ同じものと考えたのである。別に、この「弁」という字も仮字として使ったのではない。これは音を借りる仮字なのだから、もともと別に「弁」の字を使ったとしても差し支えはないが、やはりそうではないだろう。〕
ホ:富・本・菩・番・蕃・品。濁音のボ:煩。このうち「本」は、上巻には一つもなく、中巻・下巻に多く用いる。「菩」は「天之菩卑命」と、中巻の「加牟菩岐」だけである。「番」は「番能邇々芸命」と「番登」〔陰部。〕だけ、「蕃」は「蕃登」〔陰部。〕だけだ。「番」「蕃」の一方は、もう一方の誤写かもしれない。「品」は、中巻の「品牟智和気命」だけである。〔同じ御名でも、その後では「本」を書いている。〕それ以外では、この字はホムという二音に使っている。
マ:麻・摩。
ミ:美・微・彌・味。このうち「彌」は、神名の「彌都波能売」「彌豆麻岐」、下巻の高津宮の段の「意富岐彌」〔この言葉は、ほかでは「美」を書いている。〕、遠つ飛鳥宮の段の「和珥多々須彌」だけである。「味」は、中巻の「佐味那志爾」、この一例だけだ。
ム:牟・无・武。このうち「无」は国名の「无邪志」だけ、「武」は国名の「相武」だけである。〔「相摸」とする本もある。歌では「牟」を書いている。〕
メ:米・売・咩。このうち「咩」は、中巻の軽島宮の段の末尾、人名の「当麻之咩斐」だけである。〔この字の正しい字形は「哶」である。〕
モ:母・毛。このほか、下巻の高津宮の段の歌に「文」が一度あるが、誤写だろう。
ヤ:夜・也。このうち「也」は、上巻の歌の結びに「曾也」と、ただ一度あるだけで、疑わしいが、ひとまず挙げた。〔さらにその歌の箇所で述べる。〕
ユ:由。
ヨ:余・用・与・豫。このうち「豫」は、国名の「伊豫」〔中巻・下巻では「伊余」と書く。〕と、「豫母都志許売」だけである。
ラ:羅・良。
リ:理。
ル:琉・流・留。
レ:礼(原字「禮」)。
ロ:呂・路・漏・侶・盧・楼。このうち「路」は、上巻の「斯路岐」〔二度ある。〕と「久路岐」だけである。中巻・下巻では、白・黒のロに、すべて「漏」を使っている。「侶」は「佐久々斯侶」だけ、「盧」は「意富牟盧夜」だけだ。〔この言葉がもう一度ある箇所では、「漏」を書いている。〕「楼」は「摩都楼波奴」だけである。
ワ:和・丸。このうち「丸」は地名の「丸邇」だけである。〔これは訓ではなく、音を使っている。〕
ヰ:韋。
ヱ:惠。
ヲ:袁・遠。
以上のほかに、「記・氾・游・剣・梯・之・天・未・末・且・徴・彼・衣・召・此・忌・計・酒・河・被・友・申・祀・表・存・在・又」を仮字として書く本があるが、すべて写し誤ったものである。
仮字の使い方については、おおむね天暦のころより前の書物は、どれも正しい。イ・ヰ・エ・ヱ・オ・ヲの音、また語中や語尾に続くハ・ヒ・フ・ヘ・ホと、ア・イ・ウ・エ・オ、ワ・ヰ・ウ・ヱ・ヲとの類いで、混同して誤ったものは一つもない。それはすべて、いつも口で言う言葉の音に区別があったため、書くときにも、おのずと仮字の区別があったのである。
〔それなのに、「言葉の音には昔も区別がなく、仮字の上で書き分けただけだ」と思うのは、ひどい間違いである。もし音に区別がなければ、何を根拠に仮字を書き分けたのか。当時のさまざまな書物で、仮字の使い方に食い違いがなく、みなおのずと一致することからも、言葉の音に、もともと区別があったと知るべきである。その後、中古から次第に、これらの音がそれぞれ混同され、一つになった。そのため書くときにも区別がなくなり、一つの音に二つとも仮字がある、無用なもののようになった。さらにその後、京極中納言藤原定家卿が、和歌の書物での仮字の使い方を定め、それから世に〈仮名遣い〉ということが始まった。しかし、その当時はすでに話し言葉の音が区別されず、しかも古い書物にも拠らず、自分の考えで定められたので、その仮名遣いは昔の決まりと大いに違う。それなのに、その後の歌人たちは、昔には仮字の区別がなく、定家卿が初めて決めたのだと思っているらしい。近い時代には、ただ音の軽重で区別すべきだという説などもあるが、みな昔を知らない、でたらめな言説である。ここで、難波にいた契沖という僧こそが、古い書物をよく調べ、昔の仮名遣いが正しかったことを、初めて見いだした。およそ古学の道は、この僧から少しずつでも開け始めた。まことにありがたい功績である。〕
そうした正しい書き方の書物の中でも、『古事記』『日本書紀』『万葉集』は、とりわけ正しい。その中でも『古事記』は、さらに特別に正しいのである。詳しく説明しよう。まず『続日本紀』以後の諸書の仮字は、清音と濁音を分けていない。〔濁音の箇所に清音の仮字を使うだけでなく、清音の箇所にも濁音の字を交ぜて使っている。〕また、音と訓を交ぜて使う。それに対して、『古事記』『日本書紀』『万葉集』は、清音と濁音を分けている。
〔これら三書の仮字が清音と濁音を分けることについては、なお疑う人がいる。ここで詳しく説明しよう。まず、後世には濁って言う言葉でも、昔は清音で言ったものが多いらしい。山の枕詞の「あしひき」や、「宮人」などのヒ、「島つ鳥」「家つ鳥」などのトの類いは、古い書物ではどれも清音の仮字だけを用い、濁音のものはない。この類いはほかにも多い。また、後世には清音で言う言葉に、濁音の仮字だけを使うものも多い。これらは仮名遣いが乱雑なのではなく、昔と後世とで言葉の清濁が変わったのだから、今の感覚で不用意に疑うべきではない。そのほか、語頭など、確かに清音のはずの箇所にも、濁音の仮字を使うことがごくまれにあるのは、うっかり取り違えたか、後に写し誤ったものもあるのだろう。しかし『古事記』では、この間違いは特にまれで、全体でわずか二十ほどしか見えない。そのうち十ほどは「婆」で、その八つは別本では「波」とある。したがって、残る二、三の「婆」も、もとは「波」だったと分かる。そうなると、『古事記』の中で実際に清濁を違えたと見えるのは、ただ十ほどにすぎない。そのほか何百もある清音・濁音は、すべて正しく分かれているのに、ごくまれな方にとらわれて、全体を疑ってよいだろうか。一方、『日本書紀』は『古事記』と比べると、清濁の間違いがとても多く、これは大いに不審である。しかし、まったく区別せず混用しているわけではない。一般には正しく分かれているので、後世の、すっかり混用する書物と同列ではない。『万葉集』は、『古事記』と比べると間違いがやや多いが、『日本書紀』と比べれば非常に少なく、全体としては清濁を正しく使い分けている。こうした違いは、使われた仮字を一つ一つ、すべて考え合わせて知るべきことだ。大まかに見ただけでは、詳しいことは分かりにくいのである。〕
このうち、『万葉集』の仮字には音と訓が交じっている。〔ただし、『万葉集』の書き方は、正式な仮字の例としては言いにくいところがある。なお、さまざまな変わった書き方が多いからである。〕それに対して、『古事記』と『日本書紀』は、音だけを借り、訓を使ったものは一つもない。これこそ正しい仮字なのである。〔訓を借りるとは、「木・止・三・女・井」の類いだ。『古事記』『日本書紀』には、この類いの仮字はない。また、『日本書紀』允恭天皇の巻の歌にある「漆」「津」の二字は、どちらも写し誤りである。「苦」を多く使うのも、「苔」の誤写だ。これはタイという音の字なのにトに使うのは、「廼」をノに、「騰」をドに、「耐」をドに使うのと同じで、この用法はほかの音にも多い。なお、『日本書紀』の仮字は、現行本では、文字や読みの誤りが多い。詳しくは別に論じよう。〕
ところが『日本書紀』は、漢音と呉音を交ぜて使い、また一つの字を三つ、四つもの音に通用させる。そのため非常に紛らわしく、読み誤りが常に多い。『古事記』は呉音だけを使い、漢音は一つも取らない。〔「帝」をテに、「禮」をレに使うのも、漢音のテイ・レイではなく、呉音のタイ・ライである。「愛」をエに、「賣」「米」をメに使うのと同じ用法だ。『日本書紀』にもこの用法の仮字があり、「開」「階」をケに、「細」をセに、「珮」「背」をヘに使うのがそうである。さて「用」は、呉音ではユウ、ヨウは漢音なのに、ヨの仮字に使っている。この字は昔、呉音もヨウだったのだろうか。『日本書紀』でも『万葉集』でも、ヨの仮字だけに使い、ユに使った例はない。〕
また、一字はただ一つの音に使い、二つ、三つの音に通用させたことはない。〔「宜」をギとも読み、「用」をユとも読む類いは、すべて誤りである。〕
また、入声、つまり末尾に詰まる子音を持つ音の字は、ほとんど使っていない。ただ、オに使う「意」は入声である。〔これは「億」の偏を省いたものと見るべきだ。昔は偏を省いて書く例が多い。このことは『伝』巻十の「呉公」の下で詳しく述べる。『日本書紀』では「億」「憶」などもオの仮字に使っている。また「意」にも「億」の音があり、「臆」と通用することもあるが、本来の音を差し置いて、副次的な音を取るべきではない。ただ「億」の偏を省いたものとすべきである。〕
また、ごくまれに、シに「色」、カに「甲」、ブに「服」を書くことがある。これらには理由がある。それは必ず、その下に、その字の韻の音と通じる音が続く箇所なのである。〔「色」は、人名で「色許」と続くものにしかない。「色」の韻はキで、「許」はそれと通じる音だ。「甲」は「甲斐」と続く言葉にだけ書く。「甲」の韻はフで、「斐」はそれと通じる音だ。「服」は、地名の「伊服岐」にしかない。「服」の韻はクで、「岐」はそれと通じる音だ。こうした例からも、昔の人の仮字の使い方が、非常に厳密だったと知るべきである。〕
このほか、「吉備」「吉師」の「吉」があるが、国名や氏族名なので、正式な仮字の例とは少し違う。〔そのため「吉備」も、歌では「岐備」と書く。歌と、訓み方を示す注こそが、正式な仮字の例なのである。〕
また、同じ音の中でも、言葉に応じて使う仮字が違い、それぞれ決まっていることが多い。例えば、コには広く「許」「古」の二字を使うが、〈子〉には「古」だけを書き、「許」は書かない。〔〈彦〉〈壮士〉などのコも同じである。〕メには広く「米」「賣」を使うが、〈女〉には「賣」だけを書き、「米」は書かない。〔〈姫〉〈処女〉などのメも同じだ。〕キには広く「伎」「岐」「紀」を使うが、〈木〉〈城〉には「紀」だけを書き、「伎」「岐」は書かない。トには広く「登」「斗」「刀」を使うが、〈戸〉〈太〉〈問〉のトには「斗」「刀」だけを書き、「登」は書かない。ミには広く「美」「微」を使うが、〈神〉のミや木・草の〈実〉には「微」だけを書き、「美」は書かない。モには広く「毛」「母」を使うが、〈妹〉〈百〉〈雲〉などのモには「毛」だけを書き、「母」は書かない。ヒには広く「比」「肥」を使うが、〈火〉には「肥」だけを書き、「比」は書かない。〈生〉のヒには「斐」だけを書き、「比」「肥」は書かない。ビには「備」「毘」を使うが、〈彦〉〈姫〉のヒが濁った音には「毘」だけを書き、「備」は書かない。ケには「氣」「祁」を使うが、〈別〉のケには「氣」だけを書き、「祁」は書かない。助動詞〈ケリ〉のケには「祁」だけを書き、「氣」は書かない。ギには広く「藝」を使うが、〈過〉〈祷〉のギには「疑」だけを書き、「藝」は書かない。ソには「曾」「蘇」を使うが、〈虚空〉のソには「蘇」だけを書き、「曾」は書かない。ヨには「余」「與」「用」を使うが、〈自〉、つまり「〜から」という意味のヨには「用」だけを書き、「余」「與」は書かない。ヌには広く「奴」「怒」を使うが、〈野〉〈角〉〈忍〉〈篠〉〈楽〉など、後世にノと言うヌには「怒」だけを書き、「奴」は書かない。
以上は、『古事記』で同じ言葉が数か所に出るものを調べ、あれこれ挙げただけである。この類いの決まりは、ほかにもなお多い。『古事記』だけでなく、『日本書紀』『万葉集』などの仮字にも、この決まりがかすかに見えるが、そちらはまだ全体を調べられていない。さらに細かく考えるべきことである。しかし、それらも『古事記』の正確さ、精密さには及ばない。そもそもこのことは、まだ誰も明らかにできていなかったのを、私が初めて見いだしたもので、古語を解釈する助けになることが、実に多いのである。
二つの音を表す仮字
これは人名と地名だけにある。
アム:「淹」。用例は「淹知」。
イニ:「印」。用例は「印惠命、印色之入日子命」。
イチ:「壹」。用例は「壹比韋、壹師」。
カグ:「香」。用例は「香山、香用比賣」。
カゴ:「香」。用例は「香余理比賣、香坂王」。
グリ:「群」。用例は「平群」。
サガ:「相」。用例は「相模、相樂」。
サヌ:「讃」。用例は「讃岐」。
シキ:「色」。用例は「印色之入日子」。
スク:「宿」。用例は「宿禰」。
タニ:「丹旦」。用例は「丹波、旦波」。
タギ:「當」。用例は「當麻」。
ヂキ:「直」。用例は「阿直」。
ツク:「筑竺」。用例は「筑紫、竺紫」。
ヅミ:「曇」。用例は「阿曇」。
ナニ:「難」。用例は「難波」。
ハハ:「伯」。用例は「伯伎」。
ハカ:「博」。用例は「博多」。
ホム:「品」。用例は「品遲部、品夜和氣命、品陀和氣命」。
マツ:「末」。用例は「末羅」。
ムク:「目」。用例は「高目郞女」。
ラカ:「樂」。用例は「相樂」。
古い書物の地名には、この類いがとても多い。
借字
これも、人名と地名に多い。
訓を借りて一つの音を表す字は、次のとおりである。ウ:菟。エ:江・枝。カ:鹿・蚊。キ:木・寸。ケ:毛。コ:子。サ:狭。シ:師。〔「師」はもともと音を借りたものだが、それをそのまま訓にもして、借字に使った例がある。「師木」「百師木」「味師」「時置師神」「秋津師比売」などの「師」がそうである。これらは音を借りる仮字の例ではなく、訓を使う借字の例である。〕ス:巣・洲・酢。セ:瀬。タ:田・手。チ:道・千・乳。ツ:津。テ:手・代。ト:戸・砥。ナ:名。ニ:丹。ヌ:野・沼。ネ:根。ハ:羽・歯。ヒ:日・氷。ヘ:戸。ホ:穂・大。マ:間・真・目。ミ:見・海・御・三。メ:目。モ:裳。ヤ:屋・八・矢。ユ:湯。ヰ:井。ヲ:尾・小・男。
以上の字は、日常的に多く借字に使われる。ただし、これらの字が書かれていればすべて借字だ、というのではない。字の意味どおりに使う正字の箇所も多い。また、正字か借字か、はっきり見分けにくい箇所も多い。借字は、これらの字だけに限られるのでもなく、ただ、おおよそのところを挙げたのである。ある人が、「借字もつまり仮字なのだから、別に借字というものがあるはずはない。また、古い書物の仮字には訓を使わない、とも言えない」と言うのは、精密な理解ではない。仮字も借字も、広く言えば同じことだが、『古事記』でも『日本書紀』でも、歌や訓み方の注などには、訓を使ったものが一つもない。それは正式な仮字の用法ではないからだ。このことから、借字は別の一種類だと知るべきである。別の種類だからこそ、項目を立て、〈借字〉と呼んだのである。
二つの音を表す借字
アナ:穴。イク:活。イチ:市。イナ:稲。イハ:石。イヒ:飯。イリ:入。オシ:忍・押。カタ:方。カネ:金。カリ:刈。クシ:櫛。クヒ:杙・咋。クマ:熊。クラ:倉。サカ:坂・酒。シロ:代。スキ:鉏。ツチ:椎。ツヌ:角。トリ:鳥。ハタ:幡。フル:振。マタ:俣。マヘ:前。ミミ:耳。モロ:諸。ヨリ:依。ワケ:別。ヲリ:折。
用法の理屈は、一音を表す借字と、まったく同じである。二音を表す借字は、以上のほかにも非常に多いが、今はただ、その中で多くの箇所に見えるものを選び出し、あれこれ挙げただけである。
訓み方について
古い書物では、どれも言葉を厳重に扱うべきだが、『古事記』には特にそうすべき理由がある。古語を詳しく考えることを中心とし、訓み方を重く扱わなければならない。その理由を説明しよう。序文には、飛鳥浄御原宮で天下を治められた天武天皇の詔として、〈諸家に伝わる帝紀や本辞は、すでに事実を失い、偽りが多い。今、その誤りを正しておかなければ、ほどなく本旨がすっかり失われてしまうだろう。だから帝紀を選び、旧辞を調べ、偽りを取り除き、真実だけを後世に伝えよう〉と仰せになり、稗田阿礼という人に、直接お言葉をかけ、歴代天皇の系譜と先代の旧辞を誦み習わせられた、とある。このことをよく味わうべきである。〈帝紀〉とだけ言わず、〈旧辞〉〈本辞〉などと言い、次に多朝臣安万侶の編纂を述べる箇所にも、阿礼が誦んだ〈勅語の旧辞〉を記録するとあるのは、古い言葉を主眼とするからだ。あの詔を謹んで考えると、当時の習慣として何事も漢文で書き伝えていては、そのたびに漢文に引かれ、もとの言葉が次第に違っていく。こうしていては、やがて古い言葉がすべて滅んでしまうと、畏れ多くも天皇は心を痛められたのである。特に、その御代は世の中が改まったころなので、この時にこそ正しておかなければ、ともお考えだったのだろう。さて、それを阿礼に命じ、口で誦ませられたのは、なぜか。物事は、口で言うほどには書き取りにくく、書くことの及ばないものが多い。まして漢文で書く習慣だったのだから、古語を違えずにおこうとすれば、いっそう書き取りにくい。そこで、まず人に十分誦み習わせ、その後、その言葉のままに書き記させようというお考えだったのであろう。〔当時は、書物でなくても、世間の言葉に古い言い方が残り、まだ失われきっていなかった。阿礼が誦み習ったのも、漢文の古い記録をもとにしながら、言葉の調子を昔へ戻し、口で唱えて確かめさせられたのである。そうせず、書物から書物へ直接写しては、もとの漢文の調子を離れにくいからだ。ある人は「その時すでに諸家の記録に誤りが多かったのなら、阿礼はどの書物に基づいて、本当の古語を誦み習ったのか」と疑う。それは、当時なお残っていた誤りのない記録を、よく選び取ったのだろう。〕このお志をよく推し量り、古語をなおざりにしてはいけないと知るべきである。これこそ、日本の学問の根本なのである。
もし言葉にはかかわらず、ただ意味や道理だけを主とするのなら、記録を作らせようとして、先に人に口で誦み習わせるのは、無用のことではないか。さらに『古事記』を編纂させられたことを述べる箇所にも、旧辞が変わっていくのを惜しみ、先の記録の誤りを正そうとして、安万侶朝臣に命じ、阿礼が誦んでいた勅語の旧辞を編纂させたとある。ここでも〈旧辞〉と言っていることから、この御代の元明天皇のお心を推し量るべきである。天武天皇は、編纂に至らないうちに崩御されたので、旧辞は阿礼の口にとどまっていた。それを奈良の御代になって、事業として実行なさったのである。したがって安万侶朝臣の編纂の仕方にも、両天皇のお志のまま、ひたすら古語を厳重に扱ったことが明らかである。〈高天原〉の注に、〈高の下の天を訓んで阿麻という〉と記し、〈天比登都柱〉の注には、〈「天」は、普通に「天」という時と同じように読む〉などと記す。時には、発音の高低まで詳しく示して教えている。こうである以上、今この書物を訓むに当たっても、以上の趣旨をよく理解し、一字一語であっても、いい加減に扱ってはならない。そして、このように慎重かつ厳密に扱うには、後世の書物を読むのとは違い、まことに容易ではないのである。
その理由を述べよう。まず、古い記録は漢文で書かれているから、文章のまま訓むと、一つ一つの言葉は古語でも、そのつなぎ方や言い方はなお漢文調で、日本のものではない。だから『日本書紀』の古い訓み方にも、文章の形にとらわれず、古い日本語の調子に従って付けた箇所が多い。しかし、その訓にも後世の人の手が交じっているらしく、なお漢文式の訓が多いことは、先に論じたとおりだ。およそ奈良時代までは、人々が古い日本語の調子をよく知り、当時の言葉もなお古かったので、漢文式の訓との違いを、おのずとよく見分けていた。しかし、後世に、中国の書物ばかりを見慣れ、その訓み方だけに耳が慣れる癖がつくと、言葉の様式について、中国風と日本風を見分けられなくなった。そして、賢そうな中国風の方を美しく聞きなし、何もかも、おのずとその調子へ移ってきたことが多い。〔近代の人は、大体、古い言葉の使い方を知らない。文章と称して書いたものを見ると、すべて中国語の調子で、ただ漢文を仮名に書き換えたようであり、まことに見苦しい。文章については、上古・中古の形式を、さまざまに別に論じている。〕この違いをよく見分け、中国風の交じらない、清らかな古語を求めて訓むべきである。何はともあれ、この中国風の習慣を洗い去ることが、古学の務めなのである。
それなのに、歴代の学者が『日本書紀』を説くやり方などは、ただ中国風に飾った文章だけを中心とし、その理屈だけにかかわって、根本である古語をなおざりに見過ごしている。これは、重ね重ね、つまらないことである。言葉にはかかわらず、道理だけを主とするのは、外国の儒教や仏教の教訓書なら、そうであろう。しかし、日本の古い書物は、人への教訓を明示したり、物事の理を論じたりすることは少しもなく、ただ昔を記した言葉のほかに、何か隠れた意味や理屈を込めたものではない。〔言葉の外に教訓を込めていると言うのも、なお中国にへつらう考え方である。〕まして、その文字は後から当てた仮のものなのだから、深く追究して何になろう。ただ繰り返し古語を調べ、明らかにして、昔のあり方をよく知ることこそ、学問の要なのである。人のありさまや心は、言葉の様子によって推し量れるものだから、上代のあらゆることも、当時の言葉をよく明らかにしてこそ知ることができる。漢文の語法で書いたものを、そのまま訓んで、どうして昔の言葉を知り、その時代のありさままで知ることができよう。昔の歌を見て、日本古来の心と言葉が、中国のものと大いに違っていたことを、推し量り知るべきである。
さて、すべて古語で訓もうとすると、それはとても容易ではない。古い書物はみな漢文で書かれ、完全に古語のままのものがないので、今は何を拠り所にすればよいのか、手掛かりがないようにも見える。ただ、古い記録の中で、時々古語のままに記した箇所や、『続日本紀』などの宣命、また『延喜式』巻八のさまざまな祝詞などは、言葉のつながりも何も、大体日本語のままである。まずこれらを十分読み慣れ、古語の調子を知るべきだ。さらに、『古事記』『日本書紀』に載る歌と、『万葉集』を、十分に誦み習うべきである。特に両記紀の歌は、中国風がほんの少しも交じらない、昔の心と言葉であり、まことに尊く、ありがたいものだ。〔これらの歌をよく見れば、言葉はもちろん、昔の世の中のありさまや人々の心まで推し量れる。後世の人が大げさに述べ立てる、理屈の深そうな説の誤りも、はっきりするのである。〕しかし、その歌は数が少なく、内容の範囲も広くないので十分でない。『万葉集』は歌数がとても多く、その中に古語が広く残っている。〔この歌集も、訓み方は後世の人の仕事なので、誤って古語でなくなったものが非常に多い。仮字で書かれた歌や、ほかの歌の用例をよく考え合わせ、古い言葉を選ぶべきである。〕
さて、これらの書物を手本として訓むに当たっても、さまざまに心得るべきことがある。まず古い記録の中に交じる古語は、非常に古く雅やかである。しかし、助詞などが省略されているため、つながり方が十分に分からないことがある。次に、宣命は奈良の朝廷のものなので、すでに漢文調の箇所も時々交じっている。〔人が口で言う言葉には、奈良時代までも漢文調は交じらなかったが、書かれたものには、上代から少しずつ漢文に引かれ、おのずとその調子へ移ったものが多少はあったのだろう。そして聖徳太子が大いに中国の学問を好まれ、その後の孝徳・天智天皇の御代などには、いっそう何事にも中国のものを用いられたので、古語を伝えた中にも、漢文調へ移ったものがあるはずだ。『続日本紀』の宣命はさらに後なので、漢字の音読みのままの言葉さえ、時々交じっている。こうしたことにつけても、上代の詔の言葉こそ、たいそう知りたいものである。『日本書紀』のものは、みな昔のものではなく、多くが作り加えられた中国風のものなので、まことに煩わしい。〕また『延喜式』のさまざまな祝詞は、非常に古い言葉が多いが、上代から伝わったそのままではなく、近江の朝廷、飛鳥浄御原の朝廷などのころに定め、整えられたらしい。そのため、こちらも漢文から移ってきた言葉の調子が、まったくないわけではない。〔世間で、大祓の詞を、まったく神武天皇の御代に作られたままのものだと考えているのは、昔に疎いのである。この詞も、全体は後に定められたらしく、後世の言い回しが交じる。さまざまな祝詞のうち、最も古いのは出雲国造の神賀詞である。〕したがって、これらの中でも、少しでも中国風の調子のものは選び除いて取るべきだ。また『日本書紀』『古事記』の歌は、非常に古い言葉だが、歌と普通の言葉には違いがあり、少し異なる箇所もあるので、そこを見分けて取らなければならない。『万葉集』の歌にはさまざまな調子があり、とても古いものも多いが、奈良時代になってからのものには、漢文から出た意味や言葉もまれに見える。これもまた見分けるべきである。
また、中国の影響ばかりではなく、昔と後世の時代の差によって、言葉の調子が大きく違うことも多い。おおむね奈良時代以前のものを古語と定めるべきである。今の都、平安京になってからは、言い方全体も昔と変わったところが多く、音便によって形の崩れた言葉も多い。〔音便の言葉は、古い書物の訓には使ってはならない。「大御神」を「おほんがみ」、「臣」を「おん」と読む類いがそうである。『日本書紀』の訓には、このような音便が多い。『古今集』をはじめ、物語の文章などは、中古の雅語である。『伊勢物語』『源氏物語』その他の物語は、もとから仮名で書かれたものなので、かえって古い漢文の書物よりも、言い回しに中国風が交じらず、優れていることがある。確かに漢文から出た言葉や音読みの言葉も多いが、それも日本語の調子で書かれているので、中国風ではない。中古の文章についても、別に詳しい論がある。〕ただし、昔と後世とで、すべての言葉がことごとく違うのではない。中には神代も中古も今もまったく同じで、変わらない言葉も多い。それは、後世の言い方と同じだからというだけで避ける必要はない。〔それなのに、後世と同じ言葉を無理に嫌い、わざと曲げて古めかしくしようとすると、かえってこじつけになり、正しくないことが多い。近ごろ古学をする人々が、自然に耳に慣れた言葉をすべて後世のものだと思い、珍しく聞き慣れない形だけを古語とするのは、間違いである。〕
また、古い書物の中には、どのように考えても、本当の古語では訓みにくいところがある。もとは古い言葉で伝わったものを、後から漢字に移したのだから、もとの古語へ戻すのが難しいはずはない、という理屈にはなる。しかし、漢文に移して伝えた後、初めの古語が絶え、残っていないものもあるだろう。また、日本の上代には、物も事も、それほど細かく分けて名を付けず、全体として少ない言葉で用が足りていた。それに対して中国などは、何事も大げさに言う風習で、必要以上に細かくそれぞれの名称がある。そのため、日本ではただ大まかに伝えてきたことも、文字に移すとき、ありさまに応じて、それぞれの名称のある字に当てて書いたことがあるはずだ。そうしたものには、もとからの古語がない。しかし、漢字の音のままでは読まない習慣だったので、新しく訓を作ったものもあるだろう。〔おおむね奈良時代までは、さまざまな名称を音読みのまま唱えることは、ほとんどなかった。中国の書物を読むときも、読める限りは訓で読んだ。〕それは本当の古語とはおのずと違うが、奈良時代までにできたものは、なお古語と定め、避けられないときには使うべきである。また、『古事記』は、阿礼が口で誦み習ったものを記録した本であり、その中には、遠い上代のまま伝わったと思われる言葉も多く、阿礼の当時の言い回しと思われる箇所も多い。そのため、すべてを上代の言葉で訓むのは難しい。したがって、一般の地の文は阿礼の言葉と定め、その時代のあり方を考えて訓むべきである。
さらに心得るべきことがある。同じ言葉が何か所にもある場合、照らし合わせて、一方は詳しく書き、もう一方は文字を省略しているなら、省略した方も言葉を補って訓むべきである。例えば、「成りませる神の御名は」、つまり「お成りになった神のお名は」という言葉を、「成神名」「所成坐神名」「所成神御名」などと書いている。「所」「坐」「御」を省いたり、詳しく書いたりしただけで、すべて同じ言葉である。〔黄泉国の汚れによって成った八十禍津日神にこそ「所成坐」と、「坐」を添えて書き、その後の神々には、天照大御神にさえ、ただ「所成」と書き、「坐」を省いている。これは意味があって、わざとそう書いたのであり、省いた方にも必ず補って訓むという決まりを示したのである。それなのに、この用法を悟らず、不用意に本文が乱れ誤っていると思うのは間違いだ。〕また、上巻の天照大御神の詔には「如拜吾前……」〔私を拝むように……〕、中巻の大物主神の言葉には「令祭我御前者……」〔私の御前をお祭りさせるなら……〕とある。これも、「御」を省いた方にも必ず補って訓むことが分かる。「御」「坐」「賜」「奉」などの字は、多くの場合省略されているが、時々添えて書く箇所がある。それによって、ほかも同じように訓むべきである。
また、同じ言葉を、一方では仮字、もう一方では漢文で書くことがある。その場合は、漢文の方も仮字の方に倣って訓むべきだ。「立天浮橋」と書く一方、「於天浮橋多々志」とも書くような例で、どちらも「天の浮橋にお立ちになり」という意味である。〔この「立」の注に「立を訓んで多々志という」と記したのは、この類いをすべて仮字書きの方に倣って訓むべきだと示したものだ。〕「不伏人」とも「麻都漏波奴人」とも書くのも同じで、どちらも「まつろはぬ人」、つまり「従わない人」と訓む。
また、同じような事柄を、一方では古語で、他方では漢文の語法で書くことがある。神世七代の注に、「上の二柱の独神は、それぞれ一代といい、次の対になった十神は、それぞれ二神を合わせて一代という」とあるのが、その例である。「二柱」は古語、「十神」「二神」は漢文なので、古語の方に倣い、「十神」も「十柱」、「二神」も「二柱」と訓むべきだ。このように、一段の中で、同じ種類の言葉を古語と漢文で書き分けたのも、古語の方を手本にして訓むべきだという、全体に通じる用例を示したのである。ほかの段で神々の数を挙げる場合も、あるいは何神、あるいは何柱と書いている。どれもこれに準じて訓むべきである。〔中巻・下巻で歴代の皇子たちの数をいうのも、すべて何柱と書いている。また、「二柱の神」「三柱の神」などと言うところを、「柱」を省いて「二神」「三神」とも書く。この類いは〈柱〉という言葉を補い、さらに〈神〉も訓むべきだ。その箇所の文章のあり方に従い、しかるべく読むべきである。〕
また、一句全体などがまったく漢文で、古語から大いに離れた書き方になっている箇所も、時々ある。その場合は、ただ意味を取り、特に文字にとらわれず、出来事のありさまに従って、それにかなう古語を考え求めて訓むべきである。『日本書紀』神代の巻に、「顧眄之間、これを美屢摩沙可利爾(みるまさかりに=ちょうど見ているその時に)という」とあるのが、その例だ。また崇峻天皇の巻で、「哀不忍聽」〔気の毒で聞くに堪えない〕を、「いとほしがりたまひて」〔気の毒にお思いになって〕と訓むものも、訓注こそないが、その用例にかなっている。『日本書紀』の訓には古語が多い。その多くは『古事記』をもとにして付けたものだと、卜部氏の釈にもいうが、実際そのとおりである。文字にとらわれない古い訓は、『古事記』の言葉を採ったものが多い。しかし今また『古事記』の訓を求めるときには、逆に『日本書紀』の訓を採るべき場合も多い。『古事記』には漢文でだけ書かれ、仮字書きなどの箇所がなく、記し漏らされた古語が、たまたま『日本書紀』の訓に残ることもあるからである。大体、『古事記』を訓む際の心得は、以上のとおりだ。さらに、それぞれの箇所でも述べる。
言葉はすべて、〈てにをは〉によってつながる。その〈てにをは〉によって、言葉のつながりが表す、さまざまな意味も細かく分かれるのである。その使い方には、前後が呼応する厳密な決まりがある。今、古い記録を古語で訓む場合にも、これをよく考え、正しくしなければならない。〔漢文には助字はあるが、〈てにをは〉に当たるものはない。助字は、ただ言葉を助けるだけで、〈てにをは〉のように、意味を細かく分けるまでには及ばない。そのため、助字がなくても文章の意味は通じる。古い記録はみな漢文なので、訓む際の〈てにをは〉は、訓む人の考えで定めることになる。しかし近世には、その決まりをはっきり知る人がほとんどいないので、誤りが常に多い。漢文の意味を取って読めば、訓んだ言葉も意味はそれほど違わないとしても、〈てにをは〉の呼応が違っていれば、雅やかな正しい日本語ではない。〕その決まりを述べるには、さまざまなことがあって非常に長くなるので、ここで容易に尽くすことはできない。そのため、これは別に詳しく記したものがある。
仮字の清音・濁音について。先に述べたように、『古事記』『日本書紀』『万葉集』は、それを分けて使っているが、その中でも『古事記』は特に正しい。したがって、厳密にその清濁を守って読むべきで、一つでも勝手に、たやすく変えて読んではならない。昔と後世とで、清音・濁音の変わった言葉も多いので、今の言葉の例にとらわれるわけにはいかないからである。〔例えば「宮人」「里人」の場合、宮人のヒには、古い書物の仮字はどれも、清音の「比」だけを書き、里人のビには、濁音の「毘」だけを書く。この類いを、複合した語の後半の頭は、すべて濁るという決まりだと思うのは誤りである。言葉によって清濁が一律に定まらないことは、以上のとおりだ。近ごろ古学をする人々が、特に濁音を好み、濁らせるべきでない言葉まで濁らせるのを古語のように思うのは間違いである。ただ古い書物の仮字の使い方を、よく考え合わせて読むべきなのだ。〕
古語の声の上がり下がりについて。神のお名前などに、小さく「上」と書き添えた箇所がある。これは、中国で定める四声の名称を借り、訓む声の高低を示したものである。中国語の音には平・上・去・入の四つの区別がある。日本の言葉も、それに当てはめて言えば、平・上・去の三つがある。〔入声はない。その理由は、別に詳しく述べる。〕契沖は、次のように言う。「平・上・去の三声を、一音の言葉で言えば、日(ひ)は平、樋(ひ)は上、火(ひ)は去。毛(け)は平、蹴(け)は上、気(け)は去である。二音の言葉では、橋(はし)は平、端(はし)は上、箸(はし)は去。弦(つる)は平、釣(つる)は上、鶴(つる)は去である。この類いで理解すべきだ。」この説のように、平は上がりも下がりもせず平らな声、上は上がる声、去は下がる声である。〔中国では〈下〉と言わず〈去〉と言うが、下がることにほかならない。また、今の唐音の四声は、なまったもので、実際と違う。〕同じ契沖は、さらにこう言う。「鳥の名の鴨は平声だが、鴨川と言うときは上声、鴨社と言うときは去声である。つながり方によって、同じ言葉もこのように声が変わる。」このように語をつなげて言う場合、前の語の声が変わるだけでなく、後の語も同じように変わる。あの地名の〈鴨〉は、もとは去声だが、〈下鴨〉と言うと平声になり、鳥の〈鴨〉は平声だが、〈真鴨〉と言うと上声になるようなものである。また、各地には発音の違いがあり、同じ言葉でも一様ではない。これは京都とその周辺の発音を正しいとし、それに違うものをなまりとすべきである。
『古事記』の中で語の声を示した箇所を調べると、上巻に多く、中巻・下巻には非常にまれである。上巻でも神名に多い。普通の言葉とは違い、唱え方を誤ることが多いためだろう。また、その字の訓の本来の声のまま読む箇所には、声を付けていない。ただ言葉がつながり、声が変わる箇所に付けている。例えば〈豊雲野神〉では、〈雲〉はもともと平声だが、〈雲野〉とつながるため上声になる。それを、もとの平声で誤って読むのを心配して、「雲」に上声と示したのである。ほかも、この例に倣って理解すべきだ。それなら、上声が平声や去声に変わる箇所もあるはずなのに、平・去を付けたところがなく、上だけが見えるのはなぜか。言葉がつながって本来の声が変わる例を考えると、平・去が上声になることが常に多く、上声が平・去になることは、とてもまれである。だから、この書物で声を付ける箇所には、自然と平・去を付けるべき箇所がなかったのだろう。ところが〈宇比地邇神〉には上声、〈須比地邇神〉には去声とあり、この去声だけが一つある。それは〈比地邇〉という同じ言葉が二つ並び、一方のニは上声、もう一方は去声で、すぐ隣で声が異なるからだ。〔このニは〈土〉で、本来は去声だが、〈比地邇の神〉とつながることで、一方は上声になる。上と付けた方は、ほかの例と同じである。去と付けた方は本来の声なので、普通なら付けないが、もう一方の上声に倣って読んでしまうことを心配したのである。〕また、〈山津見〉という神名が続いて多く出る箇所では、〈大山津見〉〈奥山津見〉などには声を付け、〈淤縢山津見〉〈闇山津見〉などには付けない。これは、付けない方では、〈山〉を本来どおりの平声で読むべきだということである。〈奥津島比売命〉と、〈島〉に上声を付けた〈市寸島比売命〉も同じである。〔もし、あの〈須比智邇〉に去声を付けた例に従えば、これらも本来の声の方に〈山・平〉〈島・平〉と付けるはずなのに、なぜそうでないのか。先の例は初めで、混同しやすかった。こちらは多くの山津見が並ぶ中で、付けたものと付けないものが交じるので、付けない方が本来の声だと分かりやすい。しかも、先にあの例もあるので、疑いはないだろう。奥津島比売は、山津見の例によって、いっそう明らかである。〕大体、声を付けた用法はこのようなものである。神名などを読むのに、昔はこのように声の高低まで正しく示した。このことからも、言葉を厳重に扱うべきだと悟らなければならない。後世の人が、ただ無用な中国風の理屈ばかりを追究し、言葉はいい加減に扱い、注意すべきものとも思わないのは、どうしたことか。
いわゆる助字には、『古事記』の中でさまざまな使い方がある。ただ漢文としての補助に置いただけで、古語にはかかわらないものもあれば、漢文にはかかわらず、古語を表すために使ったものもある。また、漢文のために置いたものが、そのまま古語にもかなう場合もある。どれも、普通に中国の書物で読むやり方と違うことが多い。そこで今、ここに助字の類いと、それ以外でもよく出る字をあれこれ集め、どう訓むべきかを論じる。
「之」は、普通どおり「の」と訓む。ただし、必ず読む場合と、必ず読んではならない場合がある。大体、動詞などの用言に付いているものは漢文の語法なので、読まずに省くべきだ。「吾所生之子」「出向之時」などがそうで、「わが生める子」〔自分が産んだ子〕、「いでむかふ時」〔出かけて行く時〕と読む。〔この類いに「の」を入れて読むのは、日本の言葉ではない。後世の人がこのようなところにも「の」を加えるのは、漢文訓読の癖が移ったもので、誤りである。〕名詞などの体言に付くものは、必ず読む。「天之何々」「国之何々」の類い、「淡路之穂之狭別」などがそうだ。このように〈の〉を読み添える箇所には、丁寧に「之」を書き添え、古語を明らかにしている。後世に誤って〈の〉を省いて読む類いは、この『古事記』によって正すべきである。〔「国之常立神」を「くにとこたち」となまって読む類いが多い。〕また、日本で昔から漢文に使い慣れた「之」がある。句の終わりなどに置く、中国人の書く語法とは違うもので、『日本書紀』などにも多い。その類いは必ず読まずに省く。「云々之」などの「之」も読んではならない。また「云」と互いに写し誤った箇所が多く、「謂之」を「謂云」とする類いである。これはどちらでも、古語の表現にはかかわらないので、読まない用法である。
「於」は「に」と訓む字で、「於何々」という形で用いる。古い書物には、この用法が多い。
「者」は、普通どおり「は」と訓む。ただし「於今者」は、ただ「いま」と言うところに添えた字なので、別に「者」を読んではならない。また「者也」とある「者」も、読んではならない。
「而」は、普通どおり「て」と訓む。また「從八十神之教而」などでは「して」と訓み、「為して」の意味で、全体は「八十神の教えどおりにして」となる。〔普通に「而」を「して」と訓むのとは、意味が違う。また、普通の訓読のように「したがひて」と読むのも、古語ではない。〕「隨何々而」とある場合は、「隨」を「まにまに」と訓み、「而」は読んではならない。〔「而」は、「したがひて」と読む漢文の表現に添えて書いた字である。「而」は、漢文では句の頭にあっても、日本語では必ず言葉の後ろに付く助辞である。〕
「矣」は、「を」という助辞を表すのに用いる。「地矣阿多良斯登許曾(ところをあたらしとこそ)」〔土地がもったいないからこそ〕などのような例である。この用法は『万葉集』などにも多い。〔後世には、まったくなくなった用法である。〕また、ただ漢文の助字として置かれたものもある。
「乎」は、「を」「か」「いかに」「かも」と、言葉のあり方に従って訓むべきである。
「哉」は、大体「乎」と同じように訓む。〔「かな」というのは古語ではない。奈良のころまでは、「かな」という助辞はない。『万葉集』などでも、すべて「かも」と詠んでいる。まれに「哉」と書いたものも、「かも」と訓むべきで、「かな」と訓むのは誤りだ。『日本書紀』にも、この字に「伽夜(かや)」、また「柯候(かも)」などという訓注がある。〕
「也」は、ただ漢文の助字として用いる。その中に、「なり」と言うのがよい箇所に置かれたものが多い。〔中国の書物でも、「なり」と読むべきところに多いので、ついには、それがこの字の決まった訓となった。しかし、奈良のころまでは、「なり」を表すため、この字を決まって使ったことはない。『万葉集』でも、この字はヤの仮字として使っただけである。「なり」には「有」「在」と書いた。「にあり」の縮まった言葉だからである。〕
「歟」は、普通どおり疑問を表す箇所にも用いる。また、ただ「焉」などと同じような助字として置いたものもある。『日本書紀』にも、そのような例がある。
「焉」は、ただ漢文の表現のための助字である。
「故」が言葉の後ろにある場合は、普通どおり「ゆえ」「ゆえに」と訓む。〔軽島宮の段の天皇の御歌に「志波邇波、邇具漏岐由惠……」〔下の埴土は赤黒いので……〕、また『日本書紀』雄略天皇の巻の歌に「耶麼能謎能、故思慶古喩衛爾……」〔山辺の小島子のために……〕とあるような例である。〕したがって、これも非常に古い言葉だ。また、句の頭にあるものは「かれ」と訓む。この用例は『古事記』に特に多い。その中には、この字の本来の意味ではなく、ただ次の言葉を言い出すため、「そこで」などと言うべき箇所に置いたものが非常に多い。これについて考えると、「かれ」は「かかれば」が縮まった言葉だろうか。「かかれば」は「このようであるので」ということで、前の内容を受け、次の言葉を言い出す表現である。それを縮めるなら「かれば」とこそ言いそうなのに、なぜ「ば」まで省いたのか。古語には、「ば」を省いて、なお「ば」の意味を表す例が多いのである。〔その例は『万葉集』に多く見え、別に挙げた。また長歌に、「ぬれば」「つれば」などと言うべきところを、「ば」を省いて「ぬれ」「つれ」とだけ言う例もある。これも別に示す。〕では、その「かれ」に「故」と書くのは、どういう理由か。「けば」「ねば」「れば」の類いには、「ゆえ」という意味に通じる例が多い。〔第四の音、つまりエ段の音に続く「ば」には、「故」の意味に通じるものが多い。「ゆけばなりけり」は「ゆくゆえなりけり」〔行くからである〕の意味に通じ、「あればなり」は「あるゆえなり」〔あるからである〕の意味に通じるようなものである。〕そこで「かかれば」が、「このようであるゆえに」という意味に通じるため、この字を当てたのだろう。〔また「からに」という言葉は、「故」の意味に近いので、「かれ」は「から」が活用して変わったものかとも思うが、そうではあるまい。「から」は別のものだろう。さて、中国の書物で、句の頭の「故」を「かるがゆえに」と読むのは、これも「かかるがゆえに」を縮めたものだろう。また、句の頭の「而」を「しかして」と訓む例からすれば、「然るがゆえに」の「し」を省いたものでもあろうか。〕
「爾」は、特に多く使われている字で、多くの場合「ここに」と訓むべきである。また、箇所によっては「かれ」と訓むのがよいものもある。この『古事記』の文章の書き方を考えると、一続きの言葉が終わり、次の言葉の初めには、必ず「於是」「故」「爾」という三つのいずれかを用いている。それらの使い方を考え合わせると、ただその場の文の勢いに従い、調子に任せて置いただけで、必ずしもそれぞれに異なる意味があるわけではない。だから「故爾」「故於是」と重ねて置いたものもあるが、それも同じことである。ただし、この三つのうち「爾」は、「於是」とある箇所と同じ文の勢いのところに多い。また「故爾」と重ねたものは多いが、「爾於是」と重ねた箇所はない。これを考えると、すべて「ここに」と訓むべきで、「かれ」とは訓まないようにも思える。しかし、まれには「故」を置く文の勢いとまったく同じで、「ここに」より「かれ」と訓む方がよい箇所もある。また、あまりにも続けて多く現れるところなどには、読まずに省くべきものもある。〔「爾」「於是」「故」とあるのは、どれも今の話し言葉の「そこで」と言うような箇所である。「爾」は普通「その」とも訓むので、「そこ」と自然に意味が通じる。また「爾時」は「そのとき」と訓んでも、「このとき」と訓んでも意味が通じる。「この」と「ここ」は同じなので、「ここに」と訓むことは、自然と字の意味にもかなう。また「是」と「如是」は、もと同じ言葉であり、「かれ」は「このようであるので」が縮まったものだから、「かれ」と訓むのも自然に通じる。〕また、上巻の「自爾」は、「それより」「これより」と訓み、中巻の「爾祟」は、「そのたたり」「このたたり」と訓むべきである。
「乃」は、「すなはち」と訓むべきである。〔漢文では、古くこの字や「爾」などを「いまし」と訓んだ。それは「汝」の意味と混同したものだろう。ただし『土佐日記』には、「いまし羽根といふ所に来ぬ」〔ちょうど今、羽根という所に着いた〕、また「いましかもめの群れ集まりてあそぶ所あり」〔ちょうど、カモメが群れ集まって遊ぶ所がある〕などとある。〕また、ただ漢文の表現として置いたと見えるものもある。そのような箇所は、読まずに省くべきである。
「即」は、「乃」と同じように用いている。訓み方も同じである。
「為」。「おもほす」(お思いになる)、また「おもふ」(思う)と言うのを、「云為」と書き、また「為」一字で書いた箇所も一、二ある。また「為直其禍而」と使ったところもある。これは、漢文なら「将」を用いる語法で、〈その災いを直そうとして〉の意味である。また「為將出幸上國」(上の国へ出ておいでになろうとして)、「將爲待攻而」(待ち構えて攻めようとして)とも使っている。この語法の類いは多い。〔漢文の語法とは違う使い方である。〕
「将」は、「將罷」のように用いる。『万葉集』でも、この語法で「將見」「將聞」などと書く。それぞれ〈まからむ・見む・聞かむ〉、つまり〈退出しよう・見よう・聞こう〉という「む」を表す。また「將殺時」のような使い方もあり、こちらは普通の漢文訓読と同じで、〈まさに殺そうとする時〉という意味になる。
「欲」は、多くの場合「将」と同じ語法で、ただ「む」と訓むべきである。「欲罷妣國」(母の国へ行こう)などの類いで、『日本書紀』にも、多くこのように訓んでいる。また「おもふ」と訓むべき箇所もある。「欲爲力競」(力比べをしようと思う)などの類いで、『日本書紀』欽明天皇の巻の「爲欲熟喫」(よく煮て食べようと思って)にも、そのような訓がある。〔ただ「む」とだけ訓めばよい箇所でも、『日本書紀』では多く「おもふ」「おもほす」などと訓んでいる。それも意味は違わないが、言葉の勢いに従うべきである。右の「欲爲力競」などは、「せむとおもふ」「せまくほりす」と訓んでも、どちらも「しようと思う」の意味で同じことだが、そのように訓むべき箇所ではない。この字は、『万葉集』などでは必ず「ほる」「ほりす」を表すために用いるからといって、どの書物でも必ずそう訓むものだと理解するのは間違いである。聖武天皇紀の宣命に「欲奉造止思……」(お造り申し上げようと思い……)、光仁天皇紀の宣命に「御躰欲養止奈毋所念須」(御身体を養おうとこそお思いになる)とある。これらは、必ず「む」とだけ訓むほかないことを考えるべきだ。後ろに「思」「所念」があるのに、「欲」も「おもふ」「ほりす」と訓めるだろうか。中国の書物では、普通「ほっす」と訓むが、これは「ほりす」がなまったものである。その中でも、花が「欲開」「欲落」という類いには、この訓は当たらない。心のないものについて、「ほりす」、つまり望むと言ってはならない。これは字書に「まさにそうなろうとする」と注した意味なので、「咲かむとす」「落ちむとす」、つまり「咲こうとする」「散ろうとする」とこそ読むべきである。日本の古い書物でも、何でも「ほりす」とだけ読むものと思うのは、字書の「願いを表す言葉」と注した一方だけを考え、「まさにそうなろうとする」という、もう一方の説明を知らないのである。〕
「以」。「以何々」とある場合は、多く「もて」と訓み、「何々以」とある場合は、多く「て」と訓むべきである。また、まれに「より」と訓むのがよい箇所もある。普通の訓読と同じに読む箇所も多い。その中には、もともとの古語と、漢文の訓が移って生まれたものとがあるだろう。「是以」などの「以」の使い方は、初めは漢文訓読から出たのだろうか。しかし、この類いも非常に古くから言い慣れたものと見え、言葉のつながりも大変古く、『万葉集』の歌などにも多いので、古語とするべきである。さて、これを「もって」と読むのは後世の俗語なので、論じるまでもない。「もて」と訓むのも省略した言葉で、正しくは「もちて」と訓むべきだ。中巻の歌には「岐許志毋知袁勢」(お酒をお飲みください)、下巻の歌には「加微能美弖毋知、比久許登爾」(神の御手で弾く琴に)、『万葉集』巻二十には「麻蘇泥毛知、奈美太乎能其比」(袖で涙をぬぐい)とある。〔これらは、後世なら「もって」と言うところである。〕また同巻三の「我袖用手、將隱乎」(自分の袖で隠そうものを)〔「用」と書いているが、「以」の意味である〕、「石卜以而」(石占いを用いて)、巻十一の「何有依以」(どんなつてを頼って)も、「もちて」という言葉の例である。〔このほかにも『万葉集』では、「以」「持」「用」など、「もち」と訓むべき字を「もて」と訓んだものが多い。〕ただし、同巻十に「手折以而」(手折って持って)、巻十五に「奈爾能母豆加、伊能知都我麻之」(何によって命をつなごうか)ともあるので、「もて」と訓むのも誤りではない。
「所」。「生」を「うめる」(産んだ)、「成」を「なれる」(成った)と言う場合などに、この字を加え、「所生」「所成」と書くのが用法である。この語法の言葉は、ほかもすべて同じだ。『万葉集』では、これを「生有」「成有」などと、「有」を添えて書いている。〔この用法の「所」を「ところ」と訓むのは漢文の訓で、古語ではない。〕また「不知所出」は、漢文の語法では、右の「所生」などの「所」と同じだが、日本語の意味は「出ることのできる場所を知らない」ということなので、「ところ」と訓むべきである。下巻、高津宮の段の「女鳥王之所坐」も、〈いらっしゃる場所〉という意味なので同じである。
「耳」。『古事記』では、この字はどれも漢文の語法によって置いたものなので、普通のように「のみ」と訓んでは古語にかなわない。別に訓むべき用法がある。一、二の例を挙げて説明しよう。「欲奪吾國耳」は「わが国を奪はむとにこそあれ」、つまり〈わが国を奪おうとしているのだ〉と訓むべきである。「愛友故罷來耳」は「うるはしきともなれこそまゐつれ」、つまり〈親しい友であるからこそ参ったのだ〉と訓むべきである。〔「なれこそ」は、「なればこそ」の意味である。〕「起邪心之表耳」は「きたなきこころをおこせるしるしにこそあれ」、つまり〈邪心を起こした証拠なのだ〉と訓む。「是者無異事耳」は「これはことなることなしこそ」、つまり〈これは別の事ではないのだ〉と訓むべきである。このように訓んで、いずれも「こそ」と言うところに、「耳」の意味がある。これは、「地矣阿多良斯登許曾、我那勢之命爲如此」とある文が、「土地を惜しいと思うので、わが兄君はこうしているのだ」と漢文で「以地爲可惜故、我那勢之命爲如此耳」と書いたのと、まったく同じ意味であることから悟るべきである。では、なぜこの字を「のみ」と訓んではならないのか。日本の言葉では、「のみ」は文の途中にだけ置き、文の終わりをこの助辞で結ぶことはないので、古語にかなわないからである。〔それなのに、「のみ」で結んでも古語に反しないだろうと思うのは、漢文訓読にばかり口と耳が慣れた、後世の人の誤った思い込みである。〕『日本書紀』允恭天皇の巻の歌には「多娜比等用能未」、『万葉集』巻十一には「但一耳」などと結んだものもある。しかし、これは〈ただ一夜だけ・ただ一人だけで、二夜には及ばず、二人はいない〉という意味で、「のみ」に大きな重みがあるから、漢文で軽く言い終える「耳」とは違う。〔それなら、昔からこの字に「のみ」という訓があるのはなぜか。漢文で、この字を〈語を決める助辞〉といい、どれも、その事に決まって、ほかに及ぶ疑いのない意味のところに置くためである。だから漢文では、この訓がかなわないわけではない。しかし、そのような箇所に「のみ」という助辞を置くのは、日本語ではない。言葉の意味が同じでも、置くところや使い方などに、日本と中国では違いがあることをよく区別して、どの言葉も使うべきなのである。〕
「亦」は、「また」と訓むべきところと、「も」と訓むべきところがある。
「且」は、「又」と同じ語法で用いる。〔字書に「また、ということ」と注した意味である。〕「また」と訓むべきで、「かつ」と訓むのは誤りである。この字を訓む際の「また」と「かつ」の違いを言えば、中国の書物の「君子有酒、多且旨」のような文は、〈君子には酒があり、その酒は多い上に、またうまくさえある〉という意味だ。この意味の「且」は、どれも「また」と訓むべきで、「かつ」では当たらない。句の頭にある場合も同じである。〔中国の書物の古い本には、句の頭の「且」を「そのうへ」と訓んだものがあるが、それはよく合っている。〕一方、「我歌且謠」というような場合は、〔注に、音楽に合わせたものを歌、伴奏なしで歌うものを謡といい、歌と謡は異なるとある〕、〈歌いもするし、また謡いもする〉という意味である。このような意味の「且」は、「また」と訓んでも「かつ」と訓んでもよい。この二つは、漢文では同じ語法でも、日本の言葉に移して訓むには、このような違いがある。その中で「また」は意味が広く、どちらにも用いられるが、「かつ」は、ただ〈これをしながら、同時にあれもする〉というようなことをいう助辞である。〔『伊勢物語』の歌に「かつ恨みつつなほぞ恋しき」とあるように、恨めしくもありながら、また恋しくもあるということだ。これで「かつ」の意味を悟るべきである。〕その意味のないところには、合わないと知るべきだ。しかし近世の人は、この区別を知らず、「且」をすべて「かつ」と訓み慣れているので、「また」と訓むべきものを「かつ」と訓んでも、違わないように感じる。それは、誤った訓に口と耳が慣れたためである。漢文の「且」を訓み誤ることから、日本語の文章までこのように誤り、使うべきでないところで「かつ」という言葉を使う人が多いので、今、こうして詳しく区別しておくのである。この『古事記』の「且」は、ただ「又」と同じものだと心得ればよい。ただし、「まづ」と訓むべき箇所も一、二ある。〔その理由は、その箇所で述べる。〕
「及」。「何々及何々」の「及」は、「また」と訓むべきだ。「および」と訓むのは漢文の訓で、古語にかなわない。なぜ「また」と訓むべきかというと、「天若日子の父、天津国玉神、及其妻子」(天若日子の父の天津国玉神、またその妻子)とあり、その次には「天若日子の父、亦其妻」(天若日子の父、またその妻)とあるからだ。「及」と「亦」の使い方は、まったく同じである。また「八尺勾璁鏡及草那藝ノ劒亦常世思金ノ神」(八尺の勾玉・鏡、また草薙剣、また常世思金神)、また「國ノ造亦和氣及稻」(国造、また和気、また稲置)など、一続きの中で「及」と「亦」を重ねて言っていることからも、ただ同じ使い方だと知るべきである。〔ただ、これらで同じ「亦」を二つ使わず、一つには「及」を使ったことを考えると、当時すでに漢文訓読が移って、このような箇所を「および」と読むこともあったため、「また」という言葉が重なってうるさくなるので、一つは「および」と読ませようと思って「及」と書いたのだろうか。もしそうなら、ほかで使われているものも、すべてそのように訓んで何の問題があろうか、とも言えようが、やはりよくない。〕ただし、「また」と訓んで調子の悪くなるところは、その文のあり方に従い、「と」「はた」と訓み、あるいは下から返って「も」と訓んでもよく、読まずに省くべきものもある。むやみに「および」と訓んではならない。
「可」は、多くの場合、普通どおり「べし」と訓めばよい。まれに「可還」を「かへりませ」(お帰りください)と訓むべき例などもある。
「勿」は、「不」の意味に用いており、「ず」と訓むべきである。『日本書紀』にも、そのような箇所が多い。〔この字は、普通、〈禁止の助辞〉と注してあるとおり、「なかれ」と訓むところに用いる。しかし、この『古事記』で用いたものはそうではなく、すべて「不」であるべきところにある。それは「何々することなし」と訓んでも意味は通じるが、やはり「何々せず」と訓むのが正しい箇所だ。また、「非」と「不」は使う語法が異なるのに、日本の古い書物には、「不」を用いるべきところに「非」を用いたものが多いのも、この類いである。〕
「雖」は、「ども」または「とも」と訓むべきである。〔中国の書物では、この字を「いへども」、また「いふとも」と読む。それも古語である。古語には、「いふ」という言葉を添えて言う例が多い。後世の言葉にもあることで、「有らざることなし」と言うべきところを、「有らずといふこと無し」(ないということはない)と言う類いがそれである。〕
「是」は、普通どおり「これ」「この」と訓む。また「これ」を「こ」とだけ言うのも、古語の一つである。〔「其」を「そ」、「吾」を「わ」と言うのと同じ語法である。〕「これ」を「ここ」と言うことも多い。〔「其」を「そこ」と言うのと同じである。〕また「於是」とあるべきところを、「是」一字で書いた箇所もある。「天菩比神是可遣」(天菩比神、この神を遣わすのがよい)、「八重言代主神是可白」(八重言代主神、この神がお答え申し上げるでしょう)などの「是」は、漢文の語法に似ているが、そうではなく、古語である。〔これは、まずその名を出し、その上で「この神は何々」と言うのと同じだ。詳しく言えば、「天菩比神という神があり、この神を遣わすのがよい」と言うようなもので、漢文でこの字を置く意味とは違う。〕
「其」は、普通どおり「その」と訓むべきである。ただ、この字はあまりにも頻繁に置いてあるので、中には読まずに省くものもある。また「彼」と互いに通じて、どちらも「その」「かの」と訓むべき箇所があり、「この」と訓むのがよいところもある。また、すでに述べたものを指して「それ」と言うのに、この字を使った箇所がある。「魚の鱗のように造った宮殿、それが綿津見神の宮である」という「如魚鱗所造之宮室、其綿津見神之宮者也」などが、その例である。〔中昔の物語にも、人の名などを出した上で、「それが何々」と言うことが多い。同じ語法で、古語だろう。〕
「相」は、普通どおり「あひ」と訓むべきである。この字は非常に多いが、中には読まずに省くべきものもあるだろう。
「竟」は、「をはりて」「をへて」「はてて」など、終わることを表す言葉として訓むべきである。また、そのように訓んでは煩わしい箇所もある。それは読まずに省くべきである。
「訖」は、「竟」とまったく同じように用いている。訓み方も同じである。
「至」は、多くの場合、ただ「まで」と訓むべきで、「いたるまで」と訓むものは非常にまれである。また「八拳須至于心前」の「至于」は、〈胸の前まで至る〉という意味である。〔これは、ひげが胸の前まで届く年齢になるまで、という意味だ。「いたる」は、ひげが胸の前に達すること、「まで」は、その年齢になるまでのことである。したがって、普通ただ「まで」と言う場合とは違う。〕
「到」は、普通どおり「いたる」と訓むものもあれば、「ゆく」(行く)、「いでます」(お出かけになる)などと訓むべき箇所もある。
「臨」は、多く漢文の語法で用いている。普通のように「のぞむ」と訓んでは、古語ではない。「臨產時」は「子を産む時になって」、「懷姙臨產」は「身ごもり、子をお産みになろうとする」などと、その文章のあり方に従って訓むべきである。
「各」は、普通どおり「おのおの」と訓む。また「おのもおのも」と訓むのがよい箇所もある。文のあり方によって、「あひ」(互いに)、「みな」、「かたみに」(お互いに)と訓むべき箇所もある。
「諸」は、「天神諸」「八百万神諸」「御子等諸」などのように、後ろにあるものこそ古語で、「もろもろ」と訓むべきである。それぞれ、天の神々すべて、八百万の神々すべて、御子たちすべて、という意味になる。「諸人」「諸国」「諸神」などのように前にある類いには、古語と漢文とがあるだろう。「諸人」は、『万葉集』にも「もろひと」とあるので古語である。「諸国」などは漢文と見え、『日本書紀』などでも「くにぐに」と訓んでいるので、そう訓むべきだ。「諸神」は「かみたち」、また「かみがみ」と訓む。〔「もろかみ」と訓むのは誤りだろう。〕「もろ何々」という形には、言えるものと言えないものがあるだろうが、「もろもろの何々」なら、どの語にも使える。
「於是」は、「ここに」と訓む。〔今の話し言葉で「そこで」と言うような文のところに用いる助辞である。〕上巻には、「ここにある」と言うのに、本来の「在于此處」ではなく「於是有」と書いた箇所がある。これは一般の用法とは違う。『古事記』には、このようなことが時々ある。
「是以」は、「ここをもて」(これによって、それゆえに)と訓む。この言葉は、もともとの日本語とは思われず、初めは中国の書物を読むために作ったものだろう。しかし、それも非常に古いことと見え、言い方は大変古い。「これを」と言わず「ここを」と言うのは、昔の言い方である。〔昔は「それ」を「そこ」、「これ」を「ここ」と言うことが多い。『万葉集』で、「そのゆえに」(そのために)と言うべきところを「そこゆえに」、「これをし問はば」(これを尋ねるなら)と言うべきところを「ここも問はば」と言う類いである。さて、今の漢文訓読で「是以」を「ここをもって」と読むのは、たまたま古い訓が残ったものである。このほかにも、奈良以前の古語で、日本の古い書物には記し漏らされていても、漢文訓読に残ったものが時々ある。注意すべきである。〕
「故爾」は、「かれここに」(そこで)と訓むべきである。「故」は、軽く添えて用いた言葉である。
「爾即」は、「爾」を読んではならない。「即爾」も、「爾」を読まずに省くべきである。
「云爾」は、中巻に一つだけあり、話の終わりで、ただ「いふ」と訓むべき箇所である。「爾」は読まずに省く。
「如此」は、「かく」(このように)と訓む。「かくのごと」(このように)と言う形も、朝倉宮の天皇の御歌に見え、古語である。しかし、普通はただ「かく」と言っている。
「然而」は、「しかして」(そうして)と訓むべきである。〔漢文で「しかうして」と訓むのは、音便によって音の加わった俗語である。〕「さて」とも訓むべきで、『万葉集』に「然而毛」と書いた例がある。「しか」を縮めて「さ」と言うのは、普通のことだ。〔その考え方によると、「さて」は「しかて」なので、言葉が足りないようにも見える。しかし、そうではない。「さて」は「しかありて」が縮まった言葉だ。「あ」を省いて「しかりて」となり、さらに「り」が省かれて「さて」となるのは、自然な成り行きである。それなら「しかりて」と訓むべきだ、とも言うだろうか。しかし、そのように訓む例は見ない。〕
「然後」は、「しかしてのち」、また「さてのち」(そうした後に)と訓むべきである。
「以為」は、「おもふ」(思う)、また「おもほす」(お思いになる)と訓むべきである。〔「おもほす」を「おぼす」、「おもふ」を「おもう」と言うのは、音便によって崩れた言葉で、この『古事記』などの訓には使ってはならない。〕
「所謂」は、「いはゆる」(いわゆる、何々と言われる)と訓むべきである。「あらゆる」と同じ語法の言葉だ。〔これを漢文訓読の言葉だと思う人もあるだろうが、そうではなく、奈良以前の古語である。「いはゆる」は「いはるる」、「あらゆる」は「あらるる」ということで、「るる」を「ゆる」と言うのは、非常に古い言い方で、『万葉集』などにも、この語法が多いからである。それなら「何々といはゆる」と、後ろにこそ言うはずなのに、「いはゆる何々」と言うのは、少し疑問がある。しかし、中古の物語などにも、そのように言っているので、昔からそう言い慣れていたのだろう。〕
「所由」は、「ゆえ」(理由)と訓むべきである。
「所以」も、「ゆえ」(理由)と訓むべきである。
「者也」は、多くの場合「なり」と訓むべきところにあり、「者」の字がないのと同じことである。また、まれに「神である」という意味で、「かみなり」と訓むべき箇所もある。
「故於是」は、「故爾」と同じ表現で、「かれここに」(そこで)と訓むべきである。
「故是以」は、「かれここをもて」(そこで、それゆえに)と訓むべきである。『日本書紀』天武天皇の巻にもこの言葉があり、『続日本紀』の宣命にも多い。古い言葉だろう。
「何由以」は、「なぞ」「など」(なぜ)、「いかで」「いかにして」(どうやって)と、文のあり方に従って訓むべきである。「何由」「何故」「何以」なども、すべて同じだ。どれも文字どおりに一字ずつ訓むのは、日本語の言い回しではない。
「詔之」「告之」「白之」。〔これらの「之」は、延佳本ではすべて「云」としている。それにも理由はあるが、諸本がみな「之」とするので、今はそれに従う。〕さらに「告言」「白言」「問曰」「答曰」「答詔」「答告」「答言」「答白」「議告」「議曰」「議云」「議白」。このようなものを、文字のまま普通に訓むのは、古語の表現ではない。「詔之」「告之」などは、『続日本紀』の宣命に「詔りたまひつらく……」「勅りたまはく……」(仰せになったことは……)などとあるのに従って訓むべきだ。「白之」「白言」などは、上巻に「まをしつらく……」(申し上げたことは……)とあるのに従い、「議云」「議白」などは、宣命に「謀りけらく……」(相談したことは……)とあるのに従って訓む。〔「つらく」は「つる」、「けらく」は「ける」に当たる形である。〕大体これに準じ、「問曰」は「とひけらく」(尋ねたことは)、「答曰」は「こたへけらく」(答えたことは)、「答詔」は「こたへたまひつらく」(お答えになったことは)、「議告」は「をしへたまひつらく」(お教えになったことは)などと訓むべきだ。また「つらく」「けらく」と言って煩わしくなる箇所などは、「詔之」などを「のりたまはく」(仰せになることは)、「白言」などを「まをさく」(申し上げることは)と訓んでもよい。また「答」は、その字のまま「こたへ」と訓むと煩わしいところが多い。それはただ、「答詔」を「のりたまはく」、「答白」を「まをさく」などとも訓むべきである。「告」は、古い書物で「のる」という言葉に用いており、この『古事記』でも「詔」と同じ意味に使っているので、訓み方も「詔」とまったく同じだ。さて、これらの字は、後に続く言葉が短い場合などは、後ろから返り、「詔之」は「……とのりたまふ」(……と仰せになる)、「問曰」は「……ととふ」(……と尋ねる)などとも訓むべきである。むやみに決めず、その箇所の文の勢いに従うべきだ。
「詔……」「曰……」「白……」などという文章を訓むには、初めに「のりたまはく」「いはく」「まをさく」(仰せになることは・言うことは・申し上げることは)と読み、その話の終わりに、もう一度「とのりたまふ」「といへり」「とまをす」(と仰せになる・と言った・と申し上げる)などという言葉を読み添えるのが、古語の決まりである。古い書物はみな漢文の語法で書いているので、終わりにはその字を置かないが、古語のまま書いたものには、どれもこの言葉がある。『古事記』では、「詔云、豐葦原之水穗國者……有祁理告而」(仰せになったことは、「豊葦原の瑞穂の国は……あるのだ」と告げて)、また「詔云、此地者……甚吉地詔而」(仰せになったことは、「この土地は……たいへんよい土地だ」と仰せになって)などとも書いている。〔ほかもすべて、これらの語法に倣って訓むべきことは明らかである。〕出雲国造の神賀詞には「乃大穴持命之申給久……申天」(そこで大穴持命が申し上げたことは……と申し上げて)、また遷却祟神の祝詞には「諸神等皆量申久、天穗日之命乎遣而……等平氣武止申支」(神々がみな相談して申し上げたことは、「天穂日命を遣わして……平らげよう」と申し上げた)とある。また『続日本紀』の宣命には、「云天在良久……云利」(言っていることは……と言い)、「謀家良久……等謀」(相談したことは……と相談し)、また「是東人波常爾云久……止云天」(この東人がいつも言うことは……と言って)などとある。歌でも、『万葉集』巻九の「吾妹兒爾、告而語久……登」(いとしい人に告げて語ることは……と)、巻十三の「里人之、吾丹告樂……登、人曾告鶴」(里の人が私に告げたことは……と人が告げた)、巻十七の「乎登賣良我、伊米爾都具良久……等曾、伊米爾都氣家禮婆」(乙女たちが夢の中で告げたことは……と夢の中で告げたので)など、このほかにも多く見え、みな同じ用法である。古語だけでなく、中古の文章もすべて同じだ。〔『古今集』には、〈親王がおっしゃったことは、「狩りをして天の川原に至る、という意味を歌に詠んで、杯を勧めなさい」とおっしゃったので〉とある。『土佐日記』には、〈船頭が言うことは、「黒い鳥のもとに白い波を寄せる」と言う〉とある。『源氏物語』玉鬘の巻には、〈この男たちを呼び寄せて、持ちかけることは、「思いどおりになったなら、同じ心で勢力を分け合うはずだ」と、など持ちかけるうちに〉などとある。このほかにも多い。〕必ず読み添えるべき言葉である。〔今、文章を書く場合にも、必ずこの決まりを違えてはならない。しかし今の人は、初めにすでに置いた言葉を、終わりにも二度言うのは、同じ言葉が重なって煩わしく、拙いと思い、終わりの言葉を省いて、ただ「と」で結ぶようだ。それはかえって、近世の漢文読みの余計な考えで、誤りである。中国の書物でも、古い訓点の本には、みな「といへり」などと読み添えているではないか。ただ「と」で言い終えたものは、『古今集』の「この歌は、ある人が言うには、柿本人麻呂のものだと」、また「奈良の帝の御歌だと」という、一、二の例だけである。そもそも、これらは歌の後の注で、その後に文章がないので、さほど聞き苦しくもない。しかし、その後にまだ文章があるところを、「と」だけで終えては、前も後も整わない文章になる。これは、今の人が余計な理屈から誤ることなので、くどくはあるが、このように詳しく区別して述べるのである。〕
直毘霊(なおびのみたま)〔この篇は、「道」というものを論じる文章である。〕
皇大御国、すなわち日本は、お名前を口にするのも畏れ多い、皇祖の天照大御神がお生まれになった大御国である。あらゆる国に優れている理由は、まずこの点に明らかである。どの国も、この大御神の大いなる恩恵を受けていない国はない。
大御神は、その大御手に天のしるしを捧げ持って、〔歴代の皇位のしるしとして伝わってきた、三種の神宝がこれである〕、「いつまでも末長く、わが御子が治める国である」と、委ねてお命じになった。そのとおりに、天の皇統と高御座が天地とともに動かないことは、すでにここで定まった。雲の覆うかぎり、谷のヒキガエルが渡り歩く果てまで、皇御孫命が治める国と定まり、天下には荒ぶる神も、服従しない人もなく、幾万代を経ようと、どこの者が天皇に背き申し上げるだろうか。畏れ多いことである。歴代の間に、たまたま服従しない、邪悪で汚れた者があれば、神代の昔の出来事のとおりに、大いなる威力を輝かせ、たちまち討ち滅ぼされるのである。
幾千万代の末の御代まで、天皇は大御神の御子でいらっしゃる。歴代の天皇は、そのまま天照大御神の御子なのである。そのため、天つ神の御子とも、日の御子とも申し上げる。天つ神の御心を自らの御心とされ、何事も自分だけの考えで賢しらに振る舞われず、ただ神代の昔の出来事のとおりに行い、国を治められる。お疑いになることがある時は、占いによって天つ神の御心をお尋ねになり、行動される。
神代と今には隔たりがない。皇統だけがそうなのではなく、臣・連をはじめとする多くの役人に至るまで、氏や姓を重んじ、子孫が幾代も、それぞれの家の務めを受け継ぎ、祖先の神々と異ならず、ただ一代のように、神代のままに奉仕してきた。神のおのずからのあり方に従い、安らかな国として、平穏にお治めになった大御国なのである。『日本書紀』難波長柄朝廷の巻に、「惟神とは、神の道に従い、また、おのずから神の道があることをいう」とあるのを、よく考えるべきだ。「神の道に従う」とは、天下をお治めになる行いが、ただ神代からのあり方のままで、少しも余計な知恵を加えないことをいう。そうして神代のままに、おおらかにお治めになれば、神の道がおのずと働き、ほかに求める必要がないことを、「おのずから神の道がある」というのである。そこで、現御神として大八洲の国をお治めになる、と申し上げるのも、歴代の天皇の政治が、そのまま神の政治であるという意味だ。『万葉集』の歌などに、「かむながら何々」とあるのも、同じ意味である。外国の人が「神国」と呼んだのも、まことにもっともなことだった。
昔の天皇の御代には、「道」というものを、わざわざ言い立てることさえなかった。だから古い歌には、「葦原の瑞穂の国は、神のおのずからのあり方に従って、言い立てをしない国だ」とある。そこには、ただ実際に行く道だけがあった。「みち」とは、この『古事記』に「味御路」と書くように、山路・野路などの「路」に「み」という言葉を添えたもので、ただ物理的に行く道である。これを除けば、上古には「道」というものはなかった。物の道理やあるべき方法、さまざまな教えを、何々の道と呼ぶのは、外国のならわしである。
外国は、天照大御神の国ではないため、決まった君主がなく、うるさく群がるハエのような神々が力を得て荒ぶる。そのため人の心は悪く、ならわしは乱れ、国を奪い取れば、身分の低い者でもたちまち君主になる。そこで、上に立つ人は下の者に奪われまいと身構え、下の者は上の隙をうかがって奪おうと図り、互いに敵対して、昔から国が治まりにくかったのである。
その中で、威力があり、知恵が深く、人を懐かせ、他人の国を奪い取り、さらに他人には奪われないようによく工夫して、しばらく国をよく治め、後の手本にもなった人を、中国では「聖人」と呼ぶという。例えば、乱れた世には戦いに慣れるため、自然と名将が多く現れる。それと同じように、国の風俗が悪く治まりにくいのを、何とか治めようとして、代々その方法をいろいろ考え、繰り返し行って慣れたために、そのような賢い人々も出てきたのである。それなのに、この「聖人」というものが、神のようにひどく優れ、生まれつき不思議な徳を持つものだと思うのは、間違いである。さて、その聖人たちが考えて作り、定めておいた事柄を、「道」というのだ。
こうしてみると、あの国の「道」というものも、その趣旨を突き詰めれば、ただ他人の国を奪うためと、他人に奪われないための備えという、二つに過ぎない。そもそも他人の国を奪い取ろうと図るには、あらゆることに気を配り、身を苦しめながら、善いことを限りなく行い、人々を懐かせた。そのため、聖人はまことに善人のように聞こえ、また作っておいた道のあり方も、立派で何事も行き届き、素晴らしくは見えるだろう。しかし、まず自分からその道に背き、君主を滅ぼして国を奪った者なので、すべて偽りであり、本当は善人ではない。非常に悪い人だったのである。もともと、そのような汚れた悪い心で作った、人を欺く道だからだろうか。後の人々も、表向きは尊び従うように扱っていても、実際には一人も守って努める人がないので、国の助けになることもない。名ばかり広まって、ついに世の中で行われることもなく、聖人の道は、ただ空しく、代々の儒者が他人を非難してしゃべり立てる材料になったのである。
それなのに儒者が、ただ六経などという書物だけを取り上げ、あの国こそ道の正しい国だと、声高に言い立てるのは、大変な間違いである。このように「道」を作って正すのは、もともと道が正しくないからこその行為なのに、かえって立派なことだと思って言うのは、愚かなことだ。そもそも、後の人がこの道のとおりに行うなら、それでよいだろう。しかし、そのような人が代々一人さえ見つかりにくいことは、あの国の歴代の歴史書を見ても明らかなのに。
さて、その「道」というものは、どのようなものかというと、仁・義・礼・譲・孝・悌・忠・信などという仰々しい名をいろいろ作り設け、人を厳しく教え、その方へ向けようとするものだ。儒者は、後世の法律を、昔の王の道に背くとして非難するが、昔の王の道も、古い時代の法律なのである。また、『易』などというものまで作り、非常に奥深そうに言い立て、天地の道理を究め尽くしたと思っている。これもまた、世の人を懐かせ、治めるための策である。
そもそも天地の道理は、すべて神のお働きによるもので、非常に微妙で不思議な、霊妙なものなので、人間の限りある知恵では、到底測りにくい。どうして、すっかり究め尽くして知ることができようか。それなのに、聖人が言った言葉を、何事もただ道理の極みだと信じて尊んでいるのは、ひどく愚かなことだ。こうして、その聖人たちの行いに倣い、後の人々も、あらゆることを自分の理解で推し量るのが、あの国の癖なのである。
日本の古い事柄を学ぼうとする人は、このことをよく心得、決して中国の人の説に惑わされてはならない。あの国は、何事にもあまり細かく気を配り、あれこれ論じて定めるため、一般に人の心が賢しらになって悪くなり、かえって物事をこじらせて、ますます国は治まりにくくなるようだ。だから聖人の道は、国を治めるために作りながら、かえって国を乱す種にもなるものだ。何事も、おおらかにして足りるものは、そのままであるのがよい。
だから日本の昔には、そのような口うるさい教えも何もなかったが、最も下の者に至るまで乱れることなく、天下は穏やかに治まり、天の皇統は、いよいよ末長く伝わってきた。したがって、あの外国の呼び名に倣って言えば、これこそ、この上なく優れた大きな道である。実際には、道があったからこそ「道」という言葉がなく、「道」という言葉はなかったが、道はあったのだ。それを仰々しく言い立てることと、そうしないことの違いを考えるべきである。
「言挙げしない」とは、外国のように仰々しく言い立てることがない、という意味である。例えば、才能にせよ何にせよ、優れた人は言い立てないのに、中途半端なつまらない者こそ、かえってわずかなことまで大げさに言い立て、誇るようなものだ。中国などは、道が乏しいために、かえって道めいたことばかり互いに言っているのである。儒者は、このことが分からず、日本こそ道がないと軽く見る。儒者が分からないのは、何でも中国を尊いものと思う心から、まあそういうこともあるだろう。しかし、日本の物知りまで、このことを悟れず、あの「道」というもののある中国をうらやみ、無理に日本にも道があると、事実でないことをあれこれ言って争う。これは、猿たちが人間を見て、毛がないぞと笑うのを、人間の方が恥じ、「自分にも毛はあるのだ」と言って、細かな毛を無理に探し出して見せ、争うようなものである。毛がない方が尊いことを分からない、愚か者のすることではないか。
ところが、時代が少し下り、書物というものが渡来して、それを学んで読むことが始まった。その後、外国の習慣に倣い、次第にさまざまな事柄に交ぜて用いる御代になると、日本の昔のあり方を、特に分けて「神道」と名づけたのである。それは、外国のいろいろな道と区別するため、「神」といい、また外国の名を借りて、日本でも「道」と言ったのだ。〔特に「神の道」と呼ぶ理由は、後で詳しく説く。〕そうして代々の御代を経るにつれ、中国の習慣を慕い、まねることがますます盛んになり、ついに天下をお治めになる政治も、まったく中国風に変わり果てた。難波長柄宮、近江大津宮のころに至って、天下の制度もすべて中国風になった。その後は、昔のあり方は、ただ神事にだけお用いになった。だから後の世までも、神事にだけは、日本の昔のあり方が、なお多く残っているのである。民衆の心まで、その考え方へ移ってしまった。天皇の御心を自分の心とせず、それぞれの賢しらな心を自分の心とするのは、中国の考え方が移ったのである。
そうしたことから、安らかで平穏であった日本にも、乱れたことが起こり、後には、外国に少し似たことも交じった。非常に素晴らしい日本の道があるのに、それを置いて、他国の賢しらで口うるさい考えや行いを善いこととして、倣ってまねたため、まっすぐで清らかだった心も行いも、すべて汚れて悪く曲がっていった。そして後には、ついに、あの他国の厳しい道でなければ治まりにくいようになったのである。そのような後のありさまを見て、聖人の道がなければ国は治まりにくいものだと思うのは、そうして治まりにくくなったこと自体が、もともと聖人の道の害であると悟らないのだ。昔の天皇の御代には、その道を借りずに、非常によく治まっていたことを考えるべきである。
そもそも、この天地の間にある、あらゆる事柄は、すべて神の御心による。その中で、この世の事は、春と秋の移り変わり、雨が降り風が吹くこと、また国や人の身に起こる、善いことも悪いことも、あらゆる出来事が、すべて神のお働きである。神には善い神も悪い神もあり、その行いもそれに従うのだから、大体、普通の道理では測りにくいことなのだ。それなのに、世の人は、賢い者も愚かな者も一様に、外国のいろいろな道の説にばかりすっかり惑わされ、この意味が分からない。日本の古い事柄を学ぶ人などは、古い書物を見て、必ず知るべきことなのに、そのような人々でさえ、わきまえて知らないのは、どうしたことか。
そもそも、善いことも悪いことも、あらゆる事柄を、外国では、仏教は因果とし、中国のさまざまな教えでは天命といい、天がすることだと思っている。これらは、すべて誤りである。その中で仏教の説は、世の学者の多くがよく論じているので、今は言わない。中国の天命の説は、賢い人までみな惑い、まだ誤りであることを悟った人がないので、今これを論じて知らせよう。そもそも「天命」というのは、あの国で昔、君主を滅ぼして国を奪った聖人が、自分の罪を逃れるために考え出した口実である。実際には、天地は心のあるものではないので、命令があるはずもない。
もし本当に天に心があり、道理もあって、善人に国を与え、よく治めさせようとするなら、周の時代の末にも、必ず再び聖人が現れるはずなのに、そうでなかったのはなぜか。もし、周公と孔子によって、すでに道が備わったので、その後は聖人を出さないのだと言うとしても、やはり理解できない。あの孔丘、すなわち孔子の後、その道が広く世に行われ、国がよく治まっていたなら、そうも言えよう。しかし、その後こそ、いよいよその道はすっかり廃れて空しい言葉となり、国もますます乱れた。それなのに、もう十分だとして、聖人も出さず、国の苦難も顧みず、ついに秦の始皇帝のような荒々しい人にまで国を与え、民を苦しめたのは、天のどのような間違った心なのか。非常に疑わしい。
始皇帝などは、天が与えたのではないから、長く保てなかったのだと、無理に言い曲げるかもしれない。しかし、そもそも、少しの間でも、そのような悪人に与える道理があるだろうか。また、国を治める君主の上に天命があるなら、下にいる人々の身の上にも、善悪の報いを示し、善人は長く幸せになり、悪人は速やかに災いに遭うはずである。ところがそうではなく、善人にも不幸があり、悪人にも幸いがある例が、昔も今も多いのはなぜか。もし本当に天のすることなら、そのような間違いがあるだろうか。
さて、後世になると、人の心が次第に知恵をつけたため、国を奪って「天命だ」と言っても、世の人が納得しないので、表向きは位を譲らせて取ることもある。それをよくないことと言うようだが、あの昔の聖人たちも、実際にはこれと変わらないのである。後世の王が「天命だ」と言うのは信じないのに、昔の人の天命は本当だと思っているのは、どういう迷いだろう。昔には天命があり、後にはないということこそ、おかしい。
ある人が、舜は堯の国を奪い、禹もまた舜の国を奪ったのだと言ったのも、そうだっただろう。後世の王莽や曹操の類いも、表向きは譲りを受けて継いだが、実際には奪い取ったことから考えると、舜や禹も、そのようだったのだろう。しかし、上古は人が素朴で、「譲ったのだ」と言い繕ったのを本当だと思い、国内の人々はみな欺かれたのだろう。王莽や曹操のころには、世の人に知恵があり、欺かれなかったので、その悪い行いが表に出たのだろう。彼らのような者も、もし上古だったなら、立派な聖人として仰がれただろうに。
禍津日神の御心の荒々しさは、どうするすべもなく、非常に悲しいことである。世間で物事が悪く損なわれることなど、何事も、正しい道理どおりにはゆかず、よこしまなことも多いのは、すべてこの神の御心による。激しく荒ぶられる時には、天照大御神や高木大神の大いなる力でも、抑えきれない場合があるのだから、まして人の力では、どうすることもできない。あの、善人も災いに遭い、悪人も幸せになる類いの、普通の道理に反することが多いのも、すべてこの神の行いである。それなのに、外国には、神代の正しい伝承がなく、この理由を知らないため、ただ天命の説を立て、何事もすべて、当然そうなるべき道理で決めようとするのは、非常に愚かなことだ。
しかし、天照大御神は高天原にいらっしゃり、その大いなる光は少しも曇らず、この世を照らし続けていらっしゃる。天の皇位のしるしも、散り失われることなく伝わり、お委ねになったとおり、天下は御孫命がお治めになっている。
外国では、もともと君主が定まっていないので、普通の人もたちまち王となり、王もたちまち普通の人になり、滅び失せることもあるのが、昔からのならわしである。そして、国を取ろうと図って取れなかった者は、賊と呼んで見下し憎み、取ることができた者は、聖人と呼んで尊び仰ぐようだ。だから、いわゆる聖人も、ただ目的を成し遂げた賊なのである。
お名前を口にするのも畏れ多い、わが天皇は、そのような卑しい国々の王たちと同列ではいらっしゃらない。この国を生み成された祖先の神が、御自らお授けになった皇統であり、天地の初めから、天下は天皇の治める国と定まっている。大御神のお命じにも、天皇が悪くあられるなら従ってはならない、とはおっしゃっていないのだから、善くあられるにせよ、悪くあられるにせよ、傍らからうかがい、推し量り申し上げることはできない。天地のあるかぎり、月日の照るかぎり、幾万代を経ても動かれない大君でいらっしゃる。そのため、古い書物でも、その時代の天皇を神と申し上げる。実際に神でいらっしゃるので、善悪についての議論を捨て、ひたすら畏れ敬い、お仕えすることこそ、本当の道だったのである。
ところが、中世の世の乱れの中で、この道に背き、畏れ多くも朝廷に弓を向け、天皇を苦しめ申し上げた、北条義時・泰時、また足利尊氏などは、畏れ多いことながら、天照大御神の大いなる恵みを思いやらない、汚れた悪い賊たちであった。それなのに、禍津日神の心は不思議なもので、世の人がなびき従い、子孫の末まで、しばらく栄えていたことよ。
この世を照らしていらっしゃる天の太陽の神は、必ず尊び申し上げるべきだと知っていながら、天皇を必ず畏れ申し上げるべきことを知らない者も、世にはいる。それは、中国の書物の考えに惑い、あの国の乱れた風俗を賢いことだと思い、日本の正しい道を知らず、今この世を照らしている太陽の神が、そのまま天照大御神でいらっしゃることを信じず、今の天皇が、そのまま天照大御神の御子でいらっしゃることを忘れているからである。
天皇の皇統を「日嗣」と申し上げるのは、太陽の神の御心を御心とし、そのお働きを継いでいらっしゃるからである。また、その御座を「高御座」と申し上げるのは、単に高いというだけではなく、太陽の神の御座だからである。太陽には、「高照」「高日」「日高」ともいう古語があることを考えるべきだ。そうして太陽の神の御座を次々と受け継ぎ、その御座にいらっしゃる天皇なのだから、太陽の神と等しくいらっしゃることは明らかである。したがって、天の太陽の神の大いなる恵みを受ける者で、誰が天皇を畏れ、敬い、尊んで、お仕えしないだろうか。天地とともに、永遠に動く時がないことこそ、この道が霊妙で不思議であり、外国のあらゆる道に優れて、正しく、高く、尊い証拠なのである。
中国などは、「道」という言葉はあっても、道そのものがないため、もともと乱れていたが、代々ますます乱れ、ついには周りの国の人に、国をすっかり奪われてしまった。その人々を「夷狄」と呼んで見下し、人間とも思っていなかったのに、勢いが強く、国を奪い取られると、どうすることもできず、「天子」と呼んで仰いでいるのは、ひどく情けないありさまではないか。それでも儒者は、なおよい国だと思っているのだろうか。
王だけでなく、全体に、貴い者と低い者の家筋が定まらない。周という時代までは、封建の制度といって、この区別があったようだが、それも王の家筋が変われば、下の者まで一緒に変わったので、実際には区別がない。秦以後は、ますますこの秩序が立たず、乱れ、低い身分の者の娘も、君主の寵愛によって、たちまち后の位に上り、王の娘さえ、ふさわしい家筋でない男と結婚させ、恥とも思わない。また、昨日まで山の民だった者も、今日急に、国政を執る高官に上る類いなど、すべて身分の高低が定まらず、鳥獣のありさまと変わらないのである。
そもそも、この道がどのような道かと尋ねると、天地が自然に成る道でもない。〔これをよく区別し、中国の老子・荘子などの考えと、同じものだと思い違えてはならない。〕人が作った道でもない。この道は、畏れ多い高御産巣日神の御霊によって、〔世の中にあるすべての事も物も、この大神の御霊から成った〕、祖先の神である伊邪那岐大神・伊邪那美大神が始められ、〔世の中にあるすべての事も物も、この二柱の大神から始まった〕、天照大御神が受け継ぎ、保ち、伝えてこられた道なのである。だからこそ「神の道」と申し上げるのだ。
「神道」という名は、『日本書紀』の石村池辺宮の巻に初めて見える。しかし、それはただ、神を慎んでお祭りになることを指して言ったのである。その後、難波長柄宮の巻に、「惟神とは、神の道に従い、また、おのずから神の道があることをいう」とあるのが、まさしく日本の道全体を広く指して言った初めである。その理由は、先に引用して述べたとおりなので、「道」といって、別の特別な行いがあるわけではない。だから、ただ神を慎んでお祭りになることを言うとしても、意味をたどってゆけば、一つの趣旨に当たっている。
それなのに、中国の書物に「聖人が神道を設ける」という言葉があるのを取り、日本でもそれによって名づけた、などと言うのは、事の意味を知らない、根拠のない言い方である。なぜなら、まず「神」が指すものは、日本と中国とで、初めから同じではない。あの国では、いわゆる天地陰陽の、測りがたく霊妙な働きを指して言うようなので、ただ形のない道理だけであり、確かにそのものが存在するわけではない。一方、日本の神は、今、現実に国をお治めになる天皇の祖先でいらっしゃり、あのような実体のない道理をいう類いでは、まったくない。したがって、中国の書物の「神道」は、測りがたく不思議な道という意味で、日本の神の道は、皇祖の神がお始めになり、保ってこられた道ということで、その意味は大いに違うのである。
さて、その道の意味は、この『古事記』をはじめ、さまざまな古い書物をよく味わって読めば、今も非常によく分かる。それなのに、代々の物知りたちの心も、みな禍津日神に惑わされ、ただ中国の書物にばかり迷って、思うことも言うことも、すべて仏教と中国の考えであり、本当の道の意味を悟れないのである。
昔は「道」と言い立てることがなかったので、古い書物には、少しも道めいた考えや言葉が見えない。そのため、舎人親王をはじめとして、代々の学者たちは、道の意味をつかめず、ただあの道めいたことを仰々しく言う中国の書物の説ばかりが、心の底に染みついていた。それを天地の自然な道理だと思っていたので、頼っているつもりはなくても、自然とそれに絡め取られ、あちらへばかり流れてゆくようだ。だから、外国の道を、日本の道の助けになるものと思うのも、すでに心をあちらに奪われているのである。
大体、中国の説は、陰陽や乾坤などをはじめ、すべてもともと、聖人たちが自分の知恵で推し量って作り上げたものなので、ちょっと聞くと道理が深そうに聞こえる。しかし、その囲いを離れ、外からよく見れば、大したこともなく、かえって浅はかな事柄なのである。それでも、昔も今も、世の人がこの囲いに迷い込み、抜け出せないのは、残念なことだ。日本の説は、神代から伝えてきたとおりで、少しも人の余計な考えを加えないため、表向きはただ浅く聞こえるが、実際には底知れず、人の知恵では測りきれない、深く微妙な道理がこもっている。その意味が分からないのは、あの中国の書物の囲いの中に迷っているからである。ここから抜け出さないうちは、たとえ百年、千年と力を尽くして学んでも、道のためには何の役にも立たない、空しいことだろう。ただし、古い書物は、すべて漢文に移して書かれているので、あの国のことも一通りは知っておくべきであり、文字のことなどを知るためには、時間があれば中国の書物も学ぶとよい。日本の心が定まり、揺るがない上でなら、害はないものである。
だから、一人一人が受け継ぎ実行すべき神道の教えなどといって、いろいろ作っているものも、すべて、あのさまざまな道の教えをうらやみ、近世に考え出した私的な事柄である。大げさに「秘説」などといい、人を選んで密かに伝える類いなどは、すべて後世に偽って作ったものだ。善いことは、何としても世に広まるのがよい。隠して広く人に知らせず、自分の私物にしようとするのは、実に心の汚い行いである。畏れ多いことに、天皇が天下をお治めになる道を、下の下の者が、自分の私物にしようというのか。下にいる者は、何にせよ、ただ上の方針に従っていることこそ、道にかなう。たとえ神の道の実践が別にあるとしても、それを教え学び、別に行うのは、上に従わない私的な行いではないか。
人はみな、産巣日神の御霊によって生まれたままに、自分の身に必要な行いを、自然と知り、よく行えるものなのである。世の中の生きとし生けるものは、鳥や虫に至るまで、それぞれの身のほどに応じ、必ずするべきことを、産巣日神の御霊の働きによって、自然とよく知って行う。その中でも人は、特に優れたものとして生まれたのだから、その優れた程度に応じ、知るべきことは知り、するべきことはする。どうして、その上にさらに強いることがあるだろうか。教えによらなければ、知ることも行うこともできないと言うなら、人は鳥や虫よりも劣るということにするのか。
いわゆる仁・義・礼・譲・孝・悌・忠・信の類いは、すべて人が当然行うべきことなので、必要なかぎりは、教えを借りなくても、自然とよく知って行う。それなのに、あの聖人の道は、もともと治まりにくい国を、無理に治めようとして作ったもので、人が当然するべき範囲を超え、さらに厳しく教え立てようとする無理強いなので、本当の道にかなわない。そのため、口では誰もが仰々しく言いながら、本当にそのとおり行う人は、代々、非常に見つかりにくい。それを天の道理のままの道だと思うのは、大変な間違いである。
また、その道に背く心を「人欲」と呼んで憎むのも、理解できない。そもそも、その人欲というものは、どこから、どのような理由で生まれたのか。それも、そうなるべき道理によって生まれたはずなのだから、人欲も、そのまま天理ではないか。
また、百代を経ても同姓同士の結婚を許さないという制度なども、あの国で、上古からそうだったわけではなく、周の時代の決まりである。そのように厳しく定めた理由は、国の風俗が悪く、親子や同じ母から生まれた兄弟姉妹などの間にさえ、常に乱れたことばかり多く、区別がなくて治まりにくかったからである。それなら、そのような制度の厳しさは、かえって国の恥である。何事でも、法律が厳しいのは、犯す者が多いからなのだ。さて、その制度は制度として立てたが、本当の道ではなく、人情にかなわないため、従う人は非常にまれである。後世は言うまでもなく、早くも周の時代でさえ、諸侯ほどの者にも、これを破る者が多いのだから、ましてその下の人々は推して知れる。姉妹などにさえ、みだらな行いをした例もあるのに。それなのに儒者たちは、昔から世の人が守りきれなかったことを忘れ、空しい決まりだけを取り上げて、立派なことだと言い、そう思っている。また、無理に日本を見下そうとして、ともすれば昔、兄弟姉妹の結婚があったことを言い出し、鳥獣の振る舞いだと非難する。日本の物知りたちも、それを不都合に感じ、わが国の不足した点だと思い、あれこれ言い紛らわせ、まだはっきり判断して説かない。それは、あの聖人の余計な考えを、必ずそうあるべき道理だと思い込んで、なお相手にへつらう心があるためである。へつらう心さえなければ、相手と同じでないことに、何の問題があろうか。
そもそも日本の昔は、ただ同じ母から生まれた兄弟姉妹の間柄だけを避け、母が違う兄弟姉妹などが結婚されたことは、天皇をはじめとして、普通のことであった。今の都になって以後に至るまで、まったく忌むことはなかった。ただし、身分の高低の区別はきちんとあり、自然と乱れなかった。これこそ、この祖先の神がお定めになった、正しい本当の道だったのである。ところが後世には、あの中国の決まりを、少しばかり守るようになり、母が違う者も兄弟姉妹といって、結婚しないことに定まった。だから、今の世で、それを犯すのは悪いだろう。しかし、昔は昔の決まりなのだから、外国の制度を基準として論じるべきことではない。
昔の天皇の御代には、最も下の者に至るまで、ただ天皇の御心を自分の心とし、天皇のお考えになる御心のままにお仕えして、自分だけの私心は、少しもなかった。ひたすら大命を畏れ敬って従い、大いなる恵みのもとに守られ、それぞれ祖先の神を慎んで祭っていた。天皇が皇祖の神の御前を拝み、お祭りになるように、臣・連をはじめとする多くの役人から、天下の民に至るまで、それぞれ祖先の神を祭るのは普通であった。また、天皇が朝廷と天下のため、天つ神・国つ神のすべてをお祭りになるように、下の人々も、事に応じ、幸せを求めて善い神に祈り、災いを逃れようとして悪い神も鎮め祭り、たまたま身に罪や汚れがあれば、祓い清める。これらはすべて人情であり、必ずあるべき行いである。それなのに、「心さえ本当の道にかなえばよい」などという考え方は、仏教の教えや儒学の考えには、そういうこともあろうが、神の道には、ひどく背いている。
また外国では、神を祭ることにも、ただ道理を先に立て、さまざまな議論があり、「淫祀」、すなわち正当でない祭りなどと呼んで戒めることもある。これらは、すべて余計な理屈である。神は、仏というもののあり方とは違い、善い神ばかりではなく、悪い神もあり、その心も行いも、そのようなものなので、悪いことをする人にも幸せがあり、善いことをする人にも災いがあるのは、普通のことである。したがって、神は、道理に合うか合わないかで推し量るべきものではない。ただ、そのお怒りを畏れ、ひたすら慎んで祭るべきである。そのため、祭る際にも、その心構えを持ち、何としても、その神がお喜びになる行いをするべきだ。それは、まずあらゆることを慎み忌み清め、汚れをなくし、できるかぎり多くの美味しくよい物を捧げ、あるいは琴を弾き、笛を吹き、歌を歌うなど、楽しいことをして祭る。これらはすべて神代の用例であり、昔の道である。それなのに、ただ心が届くか届かないかばかりを言い、捧げる物や行うことにこだわらないのは、中国風の考えによる間違いである。
さてまた、神を祭るには、何よりも先に、火を重く扱い、汚れを避けて清めるべきことを、神代の記録の黄泉の段を見て知るべきである。これは神事だけではなく、普段にも慎むべきことで、決してむやみに扱ってはならない。もし火が汚れると、禍津日神が力を得て荒ぶられるため、世の中にさまざまな災いが起こるのである。だから、世のため、民のためにも、天下すべてで、火の汚れは避けたいものである。今の世には、ただ神事の時や、神のいらっしゃる場所などに、どうにかこの慎みがあるようだが、一般にはそのようなことがまったくない。それは、火の汚れなどということを愚かだと思う、中途半端に賢しらな中国風の考えが広まっているのである。そうして、神の古典を解き教える代々の学者たちまで、ただ中国風の道理ばかり、うるさいほど述べ、この慎みの説明をおろそかにするのは、どうしたことか。
それぞれの身分や立場に応じ、必要な行いをして、穏やかに楽しく世を渡るほかなかったのだから、そのほかに、どのような教えを待つ必要があろうか。そもそも幼い子に物を教え、またさまざまな職人に物を作る方法や、いろいろな技芸を教えることは、上古にもあっただろう。あの儒教や仏教などの教えも、意味をたどってゆけば、これらと変わらないように見えるが、区別すれば同じではない。今また、その「道」といって、別に教えを受け、実行すべき事柄があるだろうか。
それなら、神の道は、中国の老子・荘子の考えと同じなのかと、ある人が疑って尋ねたのに、私は次のように答えた。あの老子・荘子の仲間は、儒者の賢しらを煩わしく思い、自然なものを尊ぶので、自然と似るところはある。しかし、彼らも、大御神の国ではない悪い国に生まれ、ただ代々の聖人の説ばかり聞き慣れた者なので、自然だと思うものも、なお聖人の考えの中での自然なのである。あらゆる事が神の御心から出、そのお働きであることを知らないのだから、根本の趣旨は大いに違うのである。
もし、どうしても求めようというなら、汚れた中国の書物の考え方を祓い清め、清らかな日本の心で、古典をよく学びなさい。そうすれば、受け入れて実践すべき別の道がないことは、自然と分かるだろう。それを知ることこそ、そのまま神の道を受けて行うことなのである。したがって、このようにまで論じるのも、道の本意ではないが、禍津日神の行いを見ながら黙っていられず、神直毘神・大直毘神の御霊をいただき、この曲がりを正そうというのである。
以上は、すべて自分だけの私的な考えで言うのではない。どの点にも古典に基づく理由があるので、よく読む人は疑わないだろう。こう記すのは、明和八年の神無月、すなわち十月九日。伊勢国飯高郡の民、平朝臣宣長、謹んで記す。
古事記伝 巻二
本居宣長、謹んで編著。
古事記 上巻・序文
【宣長の注釈】この標題は、ここには「古事記序」とあり、「古事記上巻」は本文の初めにあるべきなのを、一緒にここに書き、本文の初めでは省いたのである。諸本はすべて同じだ。〔「并序」は、「ならびに序」とも「序をならぶ」とも読むが、どちらも日本語の言い方ではない。これは、どうしても古語には訓みにくい。しかし、このような標題は、どう読んでもよい。また、昔から「序」という字の訓もない。あえて言うなら、中昔から「奥書」という言葉がある。それは、中国の書物で「跋」というものなので、それに準じて「序」は「はしがき」、あるいは「はしことば」などと言えるだろうか。〕さて、この序は本文と大いに異なり、全体を中国の書物の趣向で、文章を大変飾って書いている。なぜそうなのかというと、書物を著して上に献上する序は、そのように文章を飾り、その時代の君主をほめたたえるのが、中国の一般の用例だからである。そうして漢文を飾ることに引かれ、趣旨も自然と中国風になり、「混元既凝」(天地が分かれる前の元の気が固まり始める)、「乾坤初分」(天と地が初めて分かれる)、「陰陽斯開」(ここに陰と陽が分かれる)、「齊五行之序」(木・火・土・金・水という五行の秩序を整える)などという類いの言葉が多い。そのようなことを言わなければ、文章の見栄えがしないためである。この序にそのような言葉があるからといって、不用意に本文の趣旨まで中国風に受け取ってはならない。また、本文のあり方と非常に異なることから、序は安万侶の作ではなく、後人の手になるという人もいるが、それはかえって詳しく考えていない、誤った理解である。全体のあり方をよく考えると、後から他人が偽って書いたものではなく、確かに安万侶朝臣の作である。本文と似ず、大変中国風ではあるが、当時は漢学をあれほど盛んにお好みになった時代なのだから、序文は必ずこのように書くはずなのである。
【宣長の注釈】今、この序に注を付けるに当たり、ただ文章の飾りとしてだけ書いた箇所は、一通り解釈するだけで、詳しくは述べない。それはみな中国風のことで、必要がないからである。一方、末尾に至り、『古事記』の成立を述べ、書き方を説明する箇所は、必ずよく心得ておくべき事柄なので、詳しく述べる。
【古事記序文】臣、安万侶が申し上げます。そもそも、天地のまだ分かれない根源のものは、すでに凝り始めていましたが、気の働きや形は、まだ現れていませんでした。名もなく、営みもなく、その姿を誰が知ることができたでしょうか。
【宣長の注釈】これは、天地がまだ分かれなかった以前の状態を、中国の書物で述べる趣向で言ったものである。「混元」は「混沌」ともいい、「もとの気が、まだ分かれていないこと」と注している。「既凝」は、分かれようとする兆しがあることだ。「気象」は、天地をはじめ、すべての気と形をいっている。
【古事記序文】しかし、天と地が初めて分かれると、三柱の神が万物生成の始めとなり、陰と陽がここに開けて、二柱の神が、あらゆるものの祖となりました。
【宣長の注釈】「参神」は、天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神の三柱を申し上げる。本文の初めに出る神々である。「造化」は、中国の書物で、天地陰陽の運行によって、あらゆる物が成り出ることをいう。「二霊」は、伊邪那岐・伊邪那美の二柱の神を申し上げる。「群品」は、あらゆる物のことである。ここは二句ずつ対に書き、後もすべて対句である。さて、この序のこの辺りを見て、陰陽や乾坤などの説は、古い伝承にもその考えがあったからこそ、編者も取り入れたのだろう、それを一概に退けるのはどうか、と思う人もあるだろう。しかし、そうではない。もし古い伝承にその考えがあるなら、短い序文の中でさえ、これほど多く言うのだから、本文でも必ず述べるはずなのに、本文には一字もそのようなことがない。したがって、本文と比べて、序にこれらの言葉があるのは、かえって、古い伝承にはその考えがない証拠とすべきであり、ありのままの真実と、文章上の飾りとの区別が、ますます明らかになる。このことからも、日本の考え方が、中国の書物の趣向とは、はるかに異なることを悟るべきだ。また、本文には少しも編者の私的な考えを交ぜていないことも分かり、非常に尊い。〔ある人が尋ねた。「同じ安万侶朝臣は、後に『日本書紀』を編ませられた時にも、その仕事に加わったという。あちらにも陰陽などの説があり、この序にもあるのだから、やはり安万侶朝臣はこの説を信じていたように見えるが、どうか。」私は答えた。「『日本書紀』の編纂は、舎人親王が全体を統括されたのだから、加わったといっても、安万侶朝臣の考えを論じるべきではない。また、この朝臣の考えがどうであっても、それに拘束される必要はなく、ただ古い伝承そのものに即して、判断すべきなのである。」〕
【古事記序文】こうして、黄泉の国から現世へと出入りされ、目を洗われると太陽と月の神が現れ、海水に浮き沈みして身をすすがれると、さまざまな神々が現れました。
【宣長の注釈】ここで「所以」(それゆえ)といい、その後も「故」(そこで)、「寔知」(まことに知る)、「是以」(これによって)、「即」(すなわち)と言っているのは、どれも、それほど意味を込めたものではない。ただ軽く見過ごせばよい。さて、伊邪那岐大神が黄泉の国へお出かけになったことを「幽に入る」、現世へお帰りになったことを「顕に出る」と言っている。「日月……」は、阿波岐原で禊をなさった時のことで、後の二句も同じ時のことだ。
【古事記序文】それゆえ、遠い初めのことは暗く、はっきりしませんが、昔からの教えによって、国土をはらみ、島をお生みになった時を知り、始まりの時代は、はるかに遠いものですが、昔の賢い人々に頼って、神々を生み、それぞれに役目をお委ねになった世を悟るのです。
【宣長の注釈】「太素」も「元始」も、世の始まりをいう。「杳冥」は、その始まりが非常に遠く、ぼんやりして、はっきりしないことをいう。「冥」は、古い版本では「昏」とし、それも悪くなく、同じ意味である。「本教」は、人に物事を語って聞かせるのを「教える」と言うのと同じで、神代の出来事を語り伝えた話をいう。「綿邈」は、遠くはるかなこと。「先聖」は、神代の出来事を言い伝え、書き伝えた、昔の賢い人々をいう。「立人」は、天照大御神をはじめ、それぞれに務めをお委ねになったことをいう。〔大御神を「人」と申し上げるのは、どうかとも思われるが、「神を生む」という句と対にするため、変えて書いただけだろう。〕また考えると、「識る」「察る」(知る・理解する)を、伊邪那岐命・伊邪那美命のお働きとして読んでもよい。その場合、「本教」は天つ神のお命じ、「先聖」も天つ神を申し上げる。
【古事記序文】まことに、鏡を掛け、珠を吐き出すことによって、皇統が代々の天皇へ受け継がれ、剣をかみ、大蛇を切ることによって、多くの神々が栄え広がったことを知るのです。
【宣長の注釈】「鏡を掛ける」は、天照大御神が天の石屋におこもりになった時、真榊の枝に八咫鏡を掛けたことをいうのだろう。〔ただし、「代々の天皇が相続く」という句に結びつけて見ると、皇御孫命が天降ろうとなさった時、御霊としてお授けになったこととも思われる。しかし、「珠を吐く」より前にあるのだから、どうだろうか。〕「珠を吐く」「剣をかむ」は、大御神と須佐之男命が、誓約をなさった時のことである。「多くの神々が栄え広がる」とは、須佐之男命の子孫の神々が広がることをいう。
【古事記序文】天の安の河で相談して天下を平定し、海辺の小浜で説き伏せて国土を清めました。
【宣長の注釈】前の句は、皇御孫命が天降ろうとなさる時、八百万の神を集めて、ご相談になったこと。後の句は、建御雷神が伊那佐の小浜に降り、大国主神を説き伏せて、天下を和らげ静められたことである。
【古事記序文】こうして、ほのににぎの命が、初めて高千穂の峰にお降りになり、神倭天皇は秋津島を巡り進まれました。
【宣長の注釈】「仁」は、ニムの音を通わせ、二音分に用いたもので、このような例は多い。「秋津島」は、大倭の国をいう。
【古事記序文】熊に姿を変えたものが現れ、天の剣を高倉で得られました。尾のある人が道を遮り、大烏が吉野へと導きました。〔訳注:初句の「爪」は、宣長が「山」か「穴」の誤写とする字で、現れた場所は確定しない。〕
【宣長の注釈】これは、四つの事を四句で言い、二句ずつ対にしたものである。すべて白檮原の御代、すなわち神武天皇の時のことで、その段に見える。「爪」は、字を写し誤ったもので、「山」か「穴」だろう。〔延佳は「水」か「派」の誤りだろうと言うが、それはよくない。〕「生尾」は、本文に「尾のある人」とある。「大烏」は八咫烏である。
【古事記序文】舞を連ねて賊を払い、歌を合図に敵を討ち伏せました。
【宣長の注釈】これも、同じ段に見える。ただし、舞のことは見えず、『日本書紀』にも、「道臣命が、そこで立って歌った」とあるだけである。しかし、後の「久米舞」というものは、この時の振る舞いから出たと聞こえるので、舞もしたのだろう。
【古事記序文】夢によって悟り、神々を敬われたので、賢い君主とたたえられ、煙を眺めて民をいたわられたので、今に聖なる帝として伝えられています。
【宣長の注釈】前は水垣宮の御代、すなわち崇神天皇のこと。後は高津宮の御代、すなわち仁徳天皇のことで、どちらも、それぞれの段に出ている。「后」は君主の意味である。〔神功皇后のことかとも思われるが、その段には、夢のことは見えない。〕「黎元」は民をいう。〔後に「崇神」「仁徳」という諡を奉ったのも、ここの文の意味である。〕
【古事記序文】境を定めて国を開く政治を、近江で行い、姓を正し氏を選ぶ政治を、遠つ飛鳥で行われました。
【宣長の注釈】前は志賀宮の御代のことで、「近淡海」は、その都がある国の名である。後は遠つ飛鳥宮の御代のことだ。「制」「勒」は、ただその宮にいらっしゃって、天下の政治をお執りになったことをいう。さて、ここまでは、昔の歴代の御代に、評判の高かった事柄を、あれこれ抜き出し、文章の飾りとして書いたものである。
【古事記序文】政治の緩やかさや厳しさはそれぞれに異なり、華やかさと質朴さも同じではありませんでしたが、昔を考えて、すでに衰えた風俗や道徳を正し、今を照らして、絶えようとする教えを補わないということは、ありませんでした。
【宣長の注釈】これは、以上の出来事をまとめて説明したものである。「歩」はゆっくり歩くこと、「驟」は速く走ることで、政治も、それぞれの時代のあり方に従い、緩やかな場合と厳しい場合の違いがあることをいう。〔「三皇は歩み、五帝は走る」などという。〕「風猷」は、教化や道徳のことである。さて、このように言ったことは、必ずしも先に挙げた出来事のすべてに当たるわけではなく、ただ中国人が普通に言う趣向を、文章の飾りとして書いただけである。そう言って、後に続く文章のもとを起こしている。
【古事記序文】飛鳥浄御原の大宮で、大八洲の国をお治めになった天皇の御代に至ってのことです。
【宣長の注釈】ここから後は、この天皇〔後の諡は天武〕の事を申し上げる文章である。「洲」を「州」とするのは、よくない。今は、ある一本に従った。
【古事記序文】まだ水中に潜む龍のように、根源の徳を身に備え、重なり鳴る雷のように、しかるべき時に応じられました。
【宣長の注釈】これは、まだ皇太子でいらっしゃったころを申し上げる、ほめ言葉である。「潜龍」も「洊雷」も『易』の言葉で、皇太子のことに用いている。〔「洊雷」は、『易』に「重なる雷は震である」とあり、「震は長男を表す」と言うところから出た。「洊」を「游」とするのは誤りである。〕
【古事記序文】夢の歌を聞いて大業を継ぐことを思い、夜の川に至って、皇位の基を受け継ぐことをお知りになりました。
【宣長の注釈】これは、皇統を継いで国をお治めになるはずだという、予兆があったことである。夢の歌のことは『日本書紀』に見えず、記し漏らしたのだろう。「夜の川に至る」は、東国へ下ろうとなさった時、夜半に、伊賀の隠の横河にお着きになったことだろう。この時、幅十余丈の黒雲が起こり、空に広がったのを、不思議に思われ、御自ら占われたところ、天下が二つに分かれ、ついにはすべてお得になるという吉兆だったことが、『日本書紀』に見える。〔「聞」を「開」とするのは誤りで、今は、ある一本に従う。〕
【古事記序文】しかし、天の定めた時がまだ至らなかったので、蝉が殻を脱ぐように南の山へ身を退かれ、人々の動きがともに整うと、虎が歩むような勢いで東国へ進まれました。
【宣長の注釈】前は、都を逃れ出て、吉野山にお入りになったこと。後は、道中から多くの人が従い申し上げ、御威勢が盛んになって、美濃国へお出かけになったことである。すべて『日本書紀』に見える。「洽」は、延佳本では「給」とし、それも悪くない。
【古事記序文】天皇の車はたちまち進み、山や川を越え、軍勢は雷のように奮い、稲妻のように進みました。
【宣長の注釈】「凌」は、通り越えることと注している。〔「海に浮かび、山を越える」などという。延佳本で「淩」とするのは誤りである。〕「六師」は六軍のこと。後の二句は、天皇の軍の勢いが盛んなさまをいっている。〔中国では、天子は六軍、大国は三軍というが、ここはただ数字を対にしただけで、六や三の数に特別な意味はない。〕
【古事記序文】矛を手に威勢を上げると、勇士たちは煙のように湧き起こり、赤い旗のもとで兵を輝かすと、悪い敵の一団は、瓦が崩れるように散り去りました。
【宣長の注釈】前の三句は、味方の軍の勢いが盛んなさま。後の一句は、近江の軍が敗れたさまである。
【古事記序文】十二日を経るほどもなく、災いの気は、おのずと清まりました。
【宣長の注釈】これは、敵が速やかに滅び、天下が治まったことをいう。「浹辰」は、子から亥まで一巡する日数〔十二日〕で、それを経ないとは、間もなく速やかだったという意味である。「沴」は、災いを起こす気のこと。この悪い気が去り、清らかになったという意味である。さて、この「沴」は、諸本がどれも誤って「弥」としているが、今は延佳の考えに従って改めた。
【古事記序文】そこで牛を放ち、馬を休ませ、凱旋の音楽とともに都へ帰り、旗を巻き、武器を収め、戦いをやめて都に落ち着かれました。
【宣長の注釈】「牛を放ち、馬を休ませる」は、中国の周の武王が紂に勝った後、馬を華山の南へ帰し、牛を桃林の野に放ち、再び戦に用いないことを示したという故事である。「愷悌」は、戦いに勝った時の音楽で、『日本書紀』では「いくさとけて」(戦いが終わって)と訓んでいる。〔今考えると、「悌」の字が理解できない。「愷」こそ「愷楽」ともいい、戦いに勝った時の音楽だが、「悌」には、その意味があると聞かない。「愷悌」と二字を続けて言うことは多いが、それは別の意味である。それなのに、今「愷楽」を「愷悌」と言うのは、「愷」の字に引かれ、あの「愷悌」と同じものだと混同したのだろうか。ただし、これは世間で一般に誤ったことだったのかもしれない。『日本書紀』などにも、そのような例がある。中国の書物にも例があるだろうか。なお調べるべきである。〕
【古事記序文】年は酉に当たり、月は二月となった時、清原の大宮で、天皇の位にお就きになりました。
【宣長の注釈】初めの句は、酉年をいう。「大梁」は、天を十二に分けた十二次の中で、昴宿に当たる区画である。昴は、二十八宿の中で西方の星であり、酉も西方だからである。次の句は二月をいう。「夾鍾」は、十二律の中で二月に当たる音律だからだ。「踵」は「鍾」と同じで、通わせて書く例がある。さて、『日本書紀』を調べると、この天皇は、癸酉の年の二月癸未〔二十七日〕に即位されている。
【古事記序文】その道は黄帝を超え、徳は周の王をしのぎました。
【宣長の注釈】「軒后」は、中国の黄帝という王。「周王」は文王・武王をいう。
【古事記序文】天からの吉兆を手にして、天地と四方をまとめ、天の皇統を受け、八方の遠い国々まで包み治められました。
【宣長の注釈】「乾符」は、天の吉兆である。「六合」は上下と四方。「天統」は、天から授かる皇統。「八荒」は、八方の遠い国々である。
【古事記序文】陰陽二つの気の正しい働きに乗じ、五行の巡る順序を整えられました。
【宣長の注釈】「二気」は陰陽をいう。君主の政治がよければ、陰陽五行の運行が正しく、四季の気候も乱れないという、中国人のよく言う説である。
【古事記序文】神妙な道理を示して、人々をよい風俗へ導き、優れた教化を広めて、国を大きくされました。
【宣長の注釈】「神理」は、神妙な道理である。「奨俗」は、勧め導いて、風俗をよくすることをいう。「英風」は、優れて聖なる教化である。
【古事記序文】さらに、知恵は海のように広大で、上古を深く探り、御心は鏡のように明るく輝いて、昔の時代を明らかに見通されました。
【宣長の注釈】「智海」は、その知恵の広く大きいことを海にたとえ、「心鏡」は、その御心の明らかなことを鏡にたとえて申し上げたものである。「浩瀚」は広大なさま、「煒煌」は光り輝くさまだ。さて、ここまでは、この天皇について全体を申し上げ、次の事柄を述べるための準備としている。
【古事記序文】そこで天皇は、こう仰せになりました。「私が聞くところでは、諸家に伝わる帝紀と本辞は、すでに正しい事実から離れ、多くの偽りが加わっている。
【宣長の注釈】「詔之」の「之」は、延佳本では「云」とし、それもよい。「賷」は「齎」の俗字だといい、延佳本では「齎」としている。「帝紀」は、後に「帝皇の日継」とあるのと同じで、歴代の皇統を記し申し上げた書物である。『日本書紀』天武天皇の巻の、川嶋皇子たちが編纂する箇所にも「帝紀」とある。推古天皇の巻の皇太子の編纂の箇所、また皇極天皇の巻で蘇我蝦夷が焼いた箇所などには、「天皇記」とある。「国史」などとは言わず、このように「帝紀」「天皇記」と言うのが、古い呼び名だろう。「本辞」は、後に「先代の旧辞」とあるのと同じだ。あの蝦夷が焼いた箇所で「国記」といい、聖徳太子の編纂の箇所で「国記・臣・連・伴造・国造・百八十部ならびに公民などの本記」と言うものなどが、これに当たるだろうか。川嶋皇子たちの編纂のところの「上古の諸事」は、まさしくこれである。しかし今、ここでは「旧事」と言わず、「本辞」「旧辞」と言っている。その「辞」の字に目を向け、天皇がこの事業を思い立たれた御意は、もっぱら古い言葉にあったことを悟るべきだ。さて、ここから後の「未だその事を行わず」までの部分は、この『古事記』の根本の成立を述べたものなので、丁寧に読むべきである。先ほどまでの、ただ飾りとして書いた文章とは違うのである。
【古事記序文】今の時に、その誤りを改めなければ、幾年も経たないうちに、本来の趣旨が滅びてしまおうとしている。
【宣長の注釈】「その誤り」は、あの「多くの偽りが加わっている」ということである。「その趣旨」は、正しい事実の趣旨だ。当時、偽りが多くなっていたとはいっても、正しい事実も、まだ完全には滅びていなかった。そこで、天皇の海のように広い知恵、鏡のように明るい御心で見分けられれば、非常によく区別できるので、今この時に改め正しておかなければ、ますます偽りが多くなり、もう間もなく正しい事実の趣旨が滅び失せるだろうと、かしこくも憂えていらっしゃるのである。〔それなのに後世の人の学問は、真実の箇所をおろそかにし、ただ中国風の偽りの文章ばかり重く見るのは、どうしたことか。〕
【古事記序文】これは、まさに国家を成り立たせる縦横の糸であり、天皇の政治と教化の、大きな基礎である。
【宣長の注釈】「経緯」は、国をお治めになるために欠かせないものだということを、織物の縦糸と横糸にたとえて言ったのである。「鴻」は大きいということ。
【古事記序文】そこで、帝紀を選び記し、旧辞を詳しく調べ、偽りを削って真実を定め、後世に伝えたいと思う。」
【宣長の注釈】ここまでが、天皇のお言葉である。「討覈」は、深く事実を尋ね、考え究めることだ。この一句は、特に古学の要となるもので、いい加減に読み過ごしてはならない。「後葉」は後世である。〔「欲」は、文章の意味では、「撰録」の前にかかる。〕
【古事記序文】その時、舎人がいて、姓は稗田、名は阿礼、年は二十八歳でした。人となりは聡明で、目に通したものは口で暗誦でき、耳に触れたことは心に刻んで忘れませんでした。
【宣長の注釈】稗田の姓は、『姓氏録』には見えない。〔延佳本で『弘仁私記』の序を引いたところには、「天鈿女命の子孫である」とある。〕『日本書紀』天武天皇の上巻には、この名の土地が見える。大倭国のようである。〔今、添上郡に稗田村があり、これだろう。〕その土地から出た姓だろう。「度目誦口」は、一度見た書物を、そのまま暗記して、よくそらんじることをいう。「払耳勒心」も、一度聞いたことは忘れないことをいう。〔「廿」は、延佳本では「二十」と二字にし、それも同じことだが、この辺りは、多くが一句四字なので、この句もそうだろう。そのため今は、古い本に従った。〕
【古事記序文】そこで、天皇は御自ら阿礼に命じ、歴代の天皇の系譜と、昔からの物語を、暗誦し習熟させられました。
【宣長の注釈】「勅語」は、天皇が御自ら、お口から言いつけられることである。〔役人に伝えさせて告げることや、書物に書くことなども、ただ「勅」とはいうが、それは「勅語」とはいわない。〕なお、ここには特別な意味もあるのだろうか。それは、後で述べる。「誦習させる」は、古い記録の本を離れて、そらで暗誦し、その言葉を何度も口に慣らすことをいう。すぐに書物として選び記させず、まずこのように人の口に移し、十分に繰り返して暗誦させられるのは、言葉を厳重に扱われたためである。このことは、すでに巻一で述べたとおりだ。『日本書紀纂疏』が引く『弘仁私記』の序に、「天皇は阿礼に勅して、帝王本紀および先代旧事紀を習わせた」とあるのは、この文を見誤り、「旧辞」を「旧事紀」と言ったのである。〔決して、今世にある『旧事紀』のことだと思い違えてはならない。あの書名は、この私記の文を取って付けたのだろう。〕
【古事記序文】しかし、時運が移り、御代が変わり、その事業は実行されないままとなりました。
【宣長の注釈】天皇がお亡くなりになり、御代が変わったので、選び記す事業は果たされず、詳しく調べられた帝紀・旧辞は、ただ阿礼の口に残っていたのである。
【古事記序文】謹んで思いますに、今の天皇陛下は、根本の一を得て天下を照らし治め、天・地・人の三つに通じて、人々を育んでいらっしゃいます。
【宣長の注釈】「皇帝」は、編者の当代、奈良の宮で天下を治める、天津御代豊国成姫天皇〔後の諡は元明〕を申し上げる。「得一」は、『老子』に「天は一を得て清く、地は一を得て安らかであり、王侯は一を得て天下の正しい主となる」とあるところから言ったものだ。「光宅」は、天下をすべて家とする意味で、「大きに照る」とも、「満ちらる」〔「光は満ちること」とする注もある〕とも訓んでいる。〔古文『尚書』の堯典に「天下を広く治める」とあるところから出た字である。〕「通三」は、天・地・人の三才に通じること。「亭育」は、もとは「亭毒」と言うのを、字を通わせ、このようにも言い慣れているもので、民を教え育てることだ。〔これも、初めは『老子』に「これを亭し、これを毒す」(これを養い育てる)とあるところから出ている。注には、「毒は、今は育と書く」とある。「亭」を、古い版本で「享」とするのは誤りである。〕さて、ここからまた、例の中国風の言葉を多く引き出し、たたえ申し上げている。
【古事記序文】宮殿にあって、その徳は馬の蹄が届く果てまで及び、玉座にあって、その教化は船の進む先まで照らしています。
【宣長の注釈】「紫宸」も「玄扈」も、天皇のいらっしゃる場所をいう。「玄扈」は、黄帝が洛水のほとりの、玄扈という石室にいた時、鳳凰が図をくわえて来て授けたという話があるところから言ったものである。〔古い版本では、「宸」を「震」、「船」を「舩」と誤っている。〕
【古事記序文】太陽は重なる光を輝かせて昇り、めでたい雲は、煙のようで煙ではない姿で広がっています。
【宣長の注釈】「浮」は、昇り出ること。「重暉」は、光が明るいことをいう。「雲……」は、雲のようで雲ではなく、煙のようで煙ではないものが、空に見えることをいう。いわゆる慶雲、めでたいしるしの雲である。
【古事記序文】枝がつながる木や、一つに合わさる稲穂といった吉兆は、史官の記録が絶えず、のろしを連ねる国々、何人もの通訳を介する遠国からの貢ぎ物は、倉に入らない月がありません。
【宣長の注釈】「連柯」は、いわゆる連理の木である。「并」は、茎は別でも穂が一つに合わさった稲で、いわゆる嘉禾である。後の二句は、外国から来る貢使が、毎月絶え間ないことをいう。「列烽」は、いつものろしを列ねて備え、防衛する国々。「重訳」は、通訳を何人も介さなければ言葉が通じない遠い国々である。そのような国々も、今はみな朝貢しているということだ。「府」は、その貢ぎ物を納める倉である。〔「列烽」と言うと、貢使が来た時にのろしを上げるかのように聞こえ、紛らわしい言い方だが、ここは『文選』所収の顔延年「曲水詩序」の文を、少し変えて書いたものである。その文には、「赤い茎や白い毛、枝や穂が一つになる吉兆は、史官が絶えず記し、山に桟道を掛け、海を渡り、砂漠を越えて届く貢ぎ物は、倉に入らない月がない。千の城にのろしを列ね、万里に駅路を通じ、天幕に住む君主は、内に向かって暦を受け、草の衣を着る族長は、顔を向けて役人の統治を受ける」とある。この文によって理解すべきである。『文選』の文章を採った箇所は、非常に多い。〕
【古事記序文】その名声は禹王よりも高く、その徳は湯王をしのぐと申せましょう。
【宣長の注釈】「文命」は夏の禹、「天乙」は殷の湯で、どちらも中国の昔の名高い王である。ここまでは、当代の天皇をほめ申し上げる文で、いつものように、次の事柄を述べるための準備としている。
【古事記序文】そこで、古い物語の誤りを惜しみ、昔の記録の間違いを正そうとなさいました。
【宣長の注釈】ここから後は、まさしく、この『古事記』を選び記させられたことを述べる。その中で、この一節は、まず、その大いなる御志を言っている。「謬」は「繆」とする本もあり、同じことである。
【古事記序文】和銅四年九月十八日、臣安万侶に詔を下し、稗田阿礼が暗誦している、勅命にかかわる古い物語を選び記し、献上せよと命じられました。
【宣長の注釈】この文のあり方から考えると、阿礼は、この時もまだ生きていたと見える。〔この人が、先に二十八歳とあったのは、清御原の御代の何年だったか分からないので、和銅四年には何歳だっただろうか。確かには分かりにくいが、仮に清御原の元年として数えると、六十八歳に当たる。しかし、当時思い立たれた事業が、まだ果たされないうちに、天皇がお亡くなりになったことを考えると、御代の末ごろのことだったのだろう。もし、お亡くなりになった年のこととすれば、五十三歳である。〕そうして、あの清御原朝の御代に暗誦して習った帝紀・旧辞が、この人の口に残っていたのを、今、安万侶朝臣に詔を下し、選び記させられたのである。ここで「旧辞」とだけ言い、「帝紀」と言わないのは、旧辞の中に含め、文を省いたのだ。〔また、ここは口にそらんじて習った言葉をいうので、帝紀もその言葉に含まれ、別に言う必要がないのは、もとよりである。〕帝紀を除き、旧辞だけに限るという意味ではない。また、この箇所で、わざわざ「勅語の」とあることから考えると、もともとこの勅語は、ただこの事業を言いつけただけでなく、あの天皇〔天武〕が御自らこの旧辞をそらんじられ、それを阿礼に聞き取らせ、そのお言葉のとおりに、暗誦して習わせたのかもしれない。〔そうでなければ、ここで特に「勅語の」と断る必要がないためである。ただし、ほかの古い書物でも、「勅語」は、ただ天皇が御自ら言いつけることをいう用法なので、先では、その意味だけで注しておいた。〕もしそうなら、この『古事記』は、もともと清御原宮で天下を治められた天皇が、畏れ多くも御自ら選び、定め、そらんじ唱えられた古語なので、世に並ぶものもない、非常に尊い典籍なのである。そうであるのに、御代が変わった後、その御志を継ぐ事業がなければ、あれほど尊い古語も、阿礼の命とともに、すっかり失われただろう。喜ばしく、また畏れ多いことに、天つ神・国つ神の御霊の恵みにより、和銅の御代に、この編纂が行われ、今この現実の世に、この典籍が伝わってきたことよ。学ぼうとする人は、頭上に捧げ持ち、天つ神・国つ神、また二代の天皇〔天武・元明〕、稗田の老翁、太朝臣の恩恵を忘れてはならない。〔この記録のもとを始められた天武天皇の元年は申年であり、選び記された元明天皇の和銅元年も申年である。そして、畏れ多くも宣長がこの『伝』を書き始める、今の御代の明和元年も、申年に当たることを、ひそかに不思議に思う。〕
【古事記序文】謹んで詔の趣旨に従い、細かく採り集めました。
【宣長の注釈】ここから、安万侶朝臣が、選び記したあり方を述べている。
【古事記序文】しかし、上古には、言葉も心も、ともに素朴であったので、文章を組み、句を構える際、文字で表すことが難しいのです。
【宣長の注釈】「上古の時……」という、この文から見ると、阿礼がそらんじた言葉が、どれほど古かっただろうかと分かり、尊い。「文を敷く」「句を構える」は、二つの別の事ではなく、どちらもただ文章に書き移すことをいう。「字において難しい」は、文章に書き取りにくいことをいう。その文章が、漢文だからである。〔後世のような仮名文であれば、どのような古語も書き取りにくくはないが、当時はまだ、仮名だけで事柄を記す用例がなかった。〕上代のことなので、意味も言葉も、ともに非常に古く、当時のものとは異なる点が多いはずだから、漢文に書き取りにくかったのは、もっともである。〔上古のものは、言葉だけでなく、心も素朴だとあることを、よく考えるべきだ。奥深そうな、理屈めいた筋道は、まったくなかった。一方、あの漢文は、意味にも偽りや飾りばかり多く、その趣旨が大いに違うのである。〕この文をよく味わい、編者が、何とか上代の心と言葉を違えず、誤らないよう、努めて慎んだことを推し量るべきだ。また、『日本書紀』などのように、漢文を大変飾ったものは、上代の心と言葉から遠いはずだということも悟るべきである。〔この『古事記』のように飾らないものでさえ、書き移しにくいと言っているのに、まして漢文を大いに飾ったなら、どうして真実のまま書き取れるだろうか。〕
【古事記序文】すべてを漢字の訓によって述べたものでは、言葉が、その心を十分に表しきれません。
【宣長の注釈】「已」は、すべてという意味である。〔『日本書紀』神代の巻の「鏡既破碎」(鏡はすっかり割れ砕けた)、継体天皇の巻の「全壞」(すっかり壊れる)、『万葉集』巻十七の「天下須泥爾於保比底布流雪乃」(天の下をすっかり覆って降る雪の)、出雲風土記の「既礒」(一面の岩場)などの「すでに」は、どれも、すべてという意味だ。〕「因訓述」は、漢字の訓を取り用いて、古語を記したものをいい、いわゆる真字書きである。「詞」は、その訓によって述べた文章。「心」は古語の意味である。〔「意」と書かず、わざわざ「心」と言うのは、前の近いところに「意」の字があるので、それを避けたのだ。この序文は、同じ字を使うことを嫌っている。〕言っていることは、世にある古い記録の用例を見ると、すべて漢字の訓で記したものには、中に、いわゆる借字が多い。その字の意味は、表そうとする古語と違うため、言葉の意味まで表しきれない、ということだ。〔また考えると、ここは、この『古事記』をどう記すか、編者が思案したことを述べるのだろうか。もしそうなら、「述」は「のぶれば」(述べると)と訓み、「心」は編者の思いになる。文の意味は、すべて訓によって述べようとすると、古語を違えまいとする思いどおりには、文章が行き届きにくいということだ。そのようにも考える理由は、もし初めに説明した意味であれば、『古事記』の中に借字は使わないはずなのに、なお借字が多いからである。しかし、借字を多く使うのは、昔の世の一般のならわしで、特に神名や地名など、広く書き慣れたものは、本来の正しい字が分からないのに、かえって改めるのは無益なことであり、すべてを取り除くことはできない道理なので、初めの説明でも差し支えない。〕
【古事記序文】すべてを漢字の音だけで連ねたものでは、文章が、さらに長くなってしまいます。
【宣長の注釈】「音」は、漢字の音を借りて書くことで、つまり仮字である。「事趣」は、連ねた文章そのものをいう。言っていることは、すべて仮字だけで書くと、字数がはるかに多くなり、あの訓によって述べたものに比べ、文章がさらに長くなるということだ。〔また、後から試みに述べた解釈によれば、ここも「連者」を「つらぬれば」(連ねると)と訓み、編者の思案を述べることになる。〕
【古事記序文】そこで今、一句の中で、音と訓を交ぜて用いることもあります。
【宣長の注釈】これは、前の文のとおり、すべて訓による真字書きにすると、中に借字が多く、言葉の意味が分かりにくい。かといって、すべて仮字書きにすると、文章が非常に長くなって煩わしい。そこで今は、適当な程度を考え、二つを交ぜて用いる、という意味である。
【古事記序文】また、一つの事柄を記す際、すべて訓によって記録することもあります。
【宣長の注釈】すべて真字書きでも、古語と言葉も意味も違わない場合。また、字のまま訓めば言葉は違っても意味は違わず、その古語を誰もが知っていて、訓み誤るはずがない場合。また、借字で、字の意味は違っても、世間で広く書き慣れ、誰もが分かっているので、字に惑わされるはずがない場合。これらでは、仮字書きは長いため、簡潔な真字書きの方を用いるのである。「一事」と言い、「一句」と言うのは、ただ表現を変えただけである。
【古事記序文】言葉の意味が分かりにくいところは、注によって、その意味を明らかにしました。
【宣長の注釈】「理」は意味のことで、すぐ後の「意味を明らかにする」とは、このことである。「叵」は、「できないこと」と注し、「難」と同じに用いている。〔『日本書紀釈』が引くものでは「難」としている。〕さて、『古事記』の中にある、さまざまな注のうち、言葉の意味を明らかにしたものは、非常にまれで、ただ訓み方を教えたものが多い。そのため、この文は、字面どおりに理解すると少し違うだろう。大体の意味で理解しておくべきである。〔また、訓み方を教えたものが特に多いことから、この文を助けて解釈するなら、「辞」は字を、「理」「意」は訓をいうと理解してもよいだろうか。訓は、その字の意味だからである。例えば、「立を訓んで多々志という」という類いは、訓を教えたものだが、「たたし」は、立つことを表す「立」の意味なので、「意味を明らかにする」ともいえる。しかし、多くある「何々の字は音を用いる」という注は、仮字であることを注したものなので、「意味を明らかにする」とはいいにくい。どのようにしても、ぴったりとは当たりにくい文である。〕
【古事記序文】分かりやすいところには、さらに注を付けていません。
【宣長の注釈】「況」には特別な意味はなく、ただ軽く読むべきである。〔字書にも、言い出しの助辞と注している。〕「非」は、「不」の意味で用いている。この用例は、本文や『日本書紀』などにも多い。さて、全篇が対句なので、ここもそうあるはずなのに、意味は前と対でも、字数が対になっていないのは、「易」の前に二字、「更」の前か後に一字あったものが、どちらも脱けたのだろうか。
【古事記序文】また、姓の「日下」を「くさか」といい、名の「帯」を「たらし」というようなものも、もとの記録に従い、改めていません。
【宣長の注釈】この文は、本来、「姓の『くさか』を『日下』と書き、名の『たらし』を『帯』と書く」とあるべきだ。なぜなら、「くさか」に「日下」、「たらし」に「帯」と、もとから書いてきたまま、今も改めず、その字で記すという意味だからである。「この類い」は、まず「長谷」(はせ)、「春日」(かすが)、「飛鳥」(あすか)、「三枝」(さきくさ)などである。それだけでなく、地名や神名なども、多くは、昔から書き慣れた字のまま記している。〔ところが『日本書紀』は、神名・人名・地名・姓氏の文字や、仮字なども、古来のものを用いず、ことさらに改め、「伊邪那岐命」を「伊弉諾尊」、「須佐之男命」を「素盞鳴尊」などと書いた。後世の人は、ただ『日本書紀』だけに目が慣れたので、それを普通の字遣いだと思い、この『古事記』のように「伊邪那岐命」「須佐之男命」などと書くのを、かえって変わった書き方だと思うようだが、それは間違いである。ほかの古い書物と比べて見なさい。どれも大体、この『古事記』の字に似ているのに、ただ『日本書紀』だけが大いに異なる。『古事記』や、ほかの古い書物にも出る「久米」「川俣」などの地名も、『日本書紀』だけは「来目」「川派」などと書いている。これらの地名は、今の世にもあちこちにあるが、昔から今まで、それぞれの土地で書いてきた字も、すべて『古事記』などと同じである。小さなことではあるが、これらからも、書物の、ありのままと飾りとの違いを、広く考えるべきである。〕
【古事記序文】記した内容は、おおよそ、天地が初めて開けた時から、小治田の御代に至るまでです。
【宣長の注釈】これは全体の始まりと終わりをいう。続く文は、それぞれの巻の始まりと終わりをいう。
【古事記序文】そこで、天御中主神から、日子波限建鵜葺草葺不合尊までを、上巻としました。
【宣長の注釈】神代を一巻としたのは、もとより当然である。「葺」は、延佳本では「茸」としているが、同じことである。「みこと」に「尊」と書くのは珍しい。〔この『古事記』では、「みこと」には、高い身分も低い身分も、すべて「命」だけを使っている。ほかの古い書物でも、天皇などのお名前にも、多くは「命」を書く。一方、『日本書紀』は「尊」と「命」を分けて用い、「最も貴いものを尊といい、それ以外を命という」と自ら注しているので、「尊」は、その編者が新たに使い始めたものと思われる。また、「日子」「日女」に「彦」「姫」と書くのも、『日本書紀』から始まったと見え、この『古事記』などには一つもない。これらから考えると、今この文に「尊」と書くのは、疑いがないわけではない。そのため、この序全体を疑い、後人が偽作したものだという人もいるが、それはかえって誤った理解である。よくよく考えると、「大雀」を古い版本で「大鷦鷯」とするのも、『日本書紀』に目が慣れた後人の誤りなので、この「尊」も同じ類いで、『日本書紀』の表記に見慣れ、ふと写し誤ったのだろうか。真福寺本では「命」としており、こちらが正しいのだろうか。また考えると、次の文で、伊波礼毘古には「天皇」、品陀には「御世」、大雀には「皇帝」、小治田には「大宮」と、それぞれ違えて申し上げるように、ここも、ただいろいろ変えて書いただけで、必ずしも、はっきり「みこと」を表すため、この字を用いたのではないのかもしれない。〕ただし、近ごろ見つかったという、上野国多胡郡の古い碑文の写しを見ると、石上麻呂公を「石上尊」、藤原史公を「藤原尊」と書いている。その碑は、これと同じ和銅四年に建ったものである。それなら、当時すでに、尊い人をこのように呼ぶことは、ともかくあったのだろう。〔そう呼ぶことが、自然と「みこと」に当たるので、『日本書紀』では、それを採り、正式に「みこと」に用い、最も貴いものに書いたのだろう。それなのに、その碑の「尊」を、「朝臣」の意味で、ソムという音を借りたものだというのは、ひどいこじつけである。〕
【古事記序文】神倭伊波礼毘古天皇から品陀の御代までを中巻、大雀天皇から小治田の大宮までを下巻としました。
【宣長の注釈】「天皇」「御世」「皇帝」「大宮」は、表現を変え、文章に変化を付けたものである。〔この中では、「天皇」と「皇帝」、「御世」と「大宮」を対にしている。〕さて、品陀の御代、すなわち応神天皇までを中巻とし、大雀の御代、すなわち仁徳天皇からを下巻としたのは、自然と伝わってきたままで、特別な意味はないだろう。〔中巻は長く、下巻は短いことから考えると、少し意味があるかとも思えるが、そうではあるまい。品陀の御代を下巻に入れれば、今度は下巻が長くなり、同じくらいの差になるのである。〕さて、小治田の御代までで終えた理由は、この編纂が、阿礼がそらんじ習ったままを記したものであり、それがもともと清御原宮の天皇の勅語だったからである。小治田〔推古〕の次の、岡本宮の天皇〔舒明〕は、あの天皇の父でいらっしゃるので、はばかって、その御代までは及ぼされなかったのだろう。そのような心遣いは、本文にも見える。〔他田宮の段で、皇子たちを挙げる中でも、この皇子だけは名を避け、「岡本宮にいて天下を治められた天皇」とあるのが、それである。〕そもそもこの『古事記』が、少しも編者の新たな作為を加えず、ただ、あの阿礼がそらんじ習った範囲であったことは、これらからも分かる。
【古事記序文】合わせて三巻に記し、謹んで献上いたします。臣安万侶、まことに恐れ入り、頭を地に付け、重ねて深く頭を下げます。
【宣長の注釈】三巻としたことは、ただ、ちょうどよい分量に従ったのである。
【古事記序文】和銅五年正月二十八日。
【宣長の注釈】前年の九月十八日に詔を受けてから、わずか四か月余りで仕事を終えている。このように非常に速かったのも、ただ、あの阿礼の言葉のままを記しただけで、新しい作為を加えなかったためだろう。
【古事記序文】正五位上・勲五等、太朝臣安万侶、謹んで奉ります。
【宣長の注釈】「勲五等」は、普通の位階のほかに、勲位という一等から十二等までの等級があり、『官位令』に見える。『令義解』によれば、五等は正五位に相当する。〔勲位は、武功によって授けるものである。〕太朝臣は、白檮原宮で天下を治められた天皇の皇子、神八井耳命の子孫である。詳しくは、その段で述べる。安万侶朝臣は、誰の子か分からない。〔『日本書紀』天武天皇の巻に、多臣品治という人が見える。壬申の乱に大いに功績のあった人で、位は小錦下とある。持統天皇の巻の十年八月、庚午を月の初日とする甲午の日に、「多臣品治に直広壱を授け、物を賜い、初めから従った功績と、関を堅く守ったことをほめた」とある。この品治朝臣の子ではないかと思われる。さて、この氏は、天武天皇の巻で朝臣となってからは「多朝臣品治」と見えるのに、持統天皇の巻で、わざわざ「臣」とあるのはどうか。「直広壱」は、天武天皇の御代に定めた四十八階の第十に当たる位である。〕『続日本紀』巻三には、慶雲元年正月、丁亥を月の初日とする癸巳の日に、「正六位下の太朝臣安麻呂に、従五位下を授けた」とある。〔この人は、ここで初めて見える。〕巻五には、和銅四年四月、丙子を月の初日とする壬午の日に、「正五位下の太朝臣安麻呂に、正五位上を授けた」とある。〔正五位下に叙された記事は、これ以前には見えず、記し漏らしたのだろう。〕巻六には、霊亀元年正月、甲申を月の初日とする癸巳の日に、従四位下に叙されたとある。巻七には、同二年九月乙未の日に、氏長となったとある。巻九には、養老七年七月庚午の日に、「民部卿・従四位下、太朝臣安麻呂が亡くなった」とある。〔民部卿に任じられた記事も、それ以前には見えず、漏れたのだろう。〕享年は見えない。さて、『弘仁私記』の序、三統理平による延喜六年の日本紀講読終了の宴の歌の序、橘直幹による天慶六年の同じ宴の歌の序、また忌部正通の『口決』などには、『日本書紀』を、舎人親王と二人で詔を受けて編んだという。〔『続日本紀』には、親王お一人の編纂と見え、安麻呂朝臣のことはない。また、『神名帳』に、大和国十市郡の小杜神命神社があり、ある説では「この神社は多社の東南にあり、今は木下社と呼び、伝承では安麻呂を祭るという」とある。今考えると、その社など四社の下に、『延喜式』が「以上四神は、太社の御子神」と記しているので、多氏の人を祭ることは確かであり、本当に安麻呂朝臣なのだろうか。〕古い版本には、「謹上」の二字はない。
代々の御代と、それぞれの御代の御子たち

天之御中主神。
高御産巣日神。別名は高木神。
神産巣日神。
この三柱の神は、いずれも対になる神を伴わず独りで成り、姿を隠された。
宇麻志阿斯訶備比古遅神。
天之常立神。
この二柱の神も、対になる神を伴わず独りで成り、姿を隠された。
以上の五柱の神は、特別な天つ神、すなわち別天神である。
国之常立神。
豊雲野神。
この二柱の神も、対になる神を伴わず独りで成り、姿を隠された。
宇比地邇神と須比智邇神。この二柱を一組とする。
角杙神と活杙神。この二柱を一組とする。

意富斗能地神と大斗乃弁神。この二柱を一組とする。
淤母陀琉神と阿夜訶志古泥神。この二柱を一組とする。
伊邪那岐神と伊邪那美神。この二柱を一組とし、以下の国生み・神生みの系譜につながる。
以上、国之常立神から伊邪那美神までを、まとめて神世七代と呼ぶ。〔初めの二柱は独りで成った神なので、それぞれを一代とする。続く、対になった十柱は、二柱を合わせて一代ずつとする。〕
二柱の間に生まれた水蛭子。
二柱の間に生まれた淡島。
右の水蛭子と淡島は、御子の数に入れない。
二柱が生んだ島。淡道之穂之狭別島。
伊予之二名島。〔この島は一つの体に四つの顔を持ち、それぞれに名がある。伊予国を愛比売、讃岐国を飯依比古、粟国を大宜都比売、土左国を建依別という。〕
隠伎之三子島。別名は天之忍許呂別。
筑紫島。〔この島も、一つの体に四つの顔を持ち、それぞれに名がある。筑紫国を白日別、豊国を豊日別、肥国を建日向日豊久士比泥別、熊曽国を建日別という。〕
伊伎島。別名は天比登都柱。
津島。別名は天之狭手依比売。
佐度島。

国生みの続き。大倭豊秋津島。別名は天御虚空豊秋津根別。
前頁からの八つの島を合わせて、大八島国という。
二柱が続いて生んだ島。吉備児島。別名は建日方別。
小豆島。別名は大野手比売。
大島。別名は大多麻流別。
女島。別名は天一根。
知訶島。別名は天之忍男。
両児島。別名は天両屋。
ここまでで、さらに六つの島である。以上の島は、合わせて十四島となる。
伊邪那岐神と伊邪那美神が生んだ神々。大事忍男神。
石土毘古神。
石巣比売神。
大戸日別神。
天之吹男神。
大屋毘古神。
風木津別之忍男神。
大綿津見神。海の神である。

伊邪那岐神と伊邪那美神が生んだ速秋津日子神と速秋津比売神。この二柱は水戸、すなわち川の水が海へ出る口の神であり、一組として以下の八柱につながる。
沫那芸神。
沫那美神。
頬那芸神。
頬那美神。
天之水分神と国之水分神。二柱を一組として示す。
天之久比奢母智神と国之久比奢母智神。二柱を一組として示す。
右の八柱は、速秋津日子神と速秋津比売神の二柱が、川と海をそれぞれ分け持って生んだ神である。
伊邪那岐神と伊邪那美神が生んだ神々の続き。志那都比古神。風の神である。
久久能智神。木の神である。
大山津見神は山の神。鹿屋野比売神は、別名を野椎神といい、野の神である。この二柱を一組として、以下の神々につなげる。
大山津見神と野椎神が生んだ、天之狭土神と国之狭土神。二柱を一組として示す。

大山津見神と野椎神が生んだ神々の続き。天之狭霧神と国之狭霧神。二柱を一組として示す。
天之闇戸神と国之闇戸神。二柱を一組として示す。
大戸惑子神と大戸惑女神。二柱を一組として示す。
前頁からの八柱は、大山津見神と野椎神の二柱が、山と野をそれぞれ分け持って生んだ神である。
伊邪那岐神と伊邪那美神の神生みの続き。鳥之石楠船神。別名は天鳥船神。
大宜都比売神。
火之夜芸速男神。別名は火之炫毘古神。また、火之迦具土神ともいう。火の神である。
殺された火之迦具土神の体から成った神々。正鹿山津見神。
淤縢山津見神。
奥山津見神。
闇山津見神。
志芸山津見神。
羽山津見神。
原山津見神。

殺された火之迦具土神の体から成った神々の続き。戸山津見神。
前頁からの八柱は、殺された迦具土神の体から成った神である。
神生みの続き。金山毘古神と金山毘売神。二柱を一組として示す。
波邇夜須毘古神と波邇夜須毘売神。二柱を一組として示す。
弥都波能売神。
和久産巣日神。その御子が豊宇気毘売神である。
以上は、伊邪那美神がお亡くなりになる前に、二柱がともにお生みになったものである。
泣沢女神。香山の畝尾の木の根元にいらっしゃる。
この神は、伊邪那岐神の涙から成った神である。
石拆神。
根拆神。
石筒之男神。
甕速日神。
樋速日神。

前頁から続く、刀によって生まれた神々。建御雷之男神。別名は建布都神。また、豊布都神ともいう。後の箇所では、伊都之尾羽張神の御子としている。
闇淤加美神。
闇御津羽神。
前頁からの八柱は、迦具土神を斬ったとき、その御刀によって生まれた神である。
大雷。
火雷。
黒雷。
拆雷。
若雷。
土雷。
鳴雷。
伏雷。
右の八柱の神は、お亡くなりになった伊邪那美神の体から成ったものである。
伊邪那岐神が身に着けていた物を脱いだことによって生まれた神々。衝立船戸神。
道之長乳歯神。
時置師神。
和豆良比能宇斯能神。

身に着けていた物を脱いだことによって生まれた神々の続き。道俣神。
飽咋之宇斯能神。
奥疎神。
奥津那芸佐毘古神。
奥津甲斐弁羅神。
辺疎神。
辺津那芸佐毘古神。
辺津甲斐弁羅神。
前頁からの十二柱は、伊邪那岐神が身に着けていた物を脱いだことによって生まれた神である。
八十禍津日神と大禍津日神。この二柱を一組として示す。
右の二柱は、黄泉の国の汚れによって成った神である。
神直毘神。
大直毘神。
伊豆能売神。
右の三柱は、災いを直そうとして成った神である。
底津綿津見神。

前頁から続く、伊邪那岐神のみそぎによって成った神々。底筒之男命。
中津綿津見神。
中筒之男命。
上津綿津見神。
上筒之男命。
前頁の底津綿津見神と、この頁の中津綿津見神・上津綿津見神の三柱は、阿曇連たちの祖先の神である。底筒之男・中筒之男・上筒之男の三柱は、墨江の三柱の大神である。
天照大御神。
月読命。
建速須佐之男命。以下は、この神の御子の系譜である。
前頁からの十四柱の神は、伊邪那岐神がご自身の体を洗い清めたことによってお生まれになった神である。
建速須佐之男命の御子、多紀理毘売命。別名は奥津島比売命。胸形の奥津宮にいらっしゃる。
市寸島比売命。別名は狭依毘売命。胸形の中津宮にいらっしゃる。
多岐都比売命。胸形の辺津宮にいらっしゃる。
右の三柱は、天照大御神と誓約をされたときにお生まれになった神である。
建速須佐之男命の御子、八島士奴美神。母は足名椎神の娘、櫛名田比売。
建速須佐之男命の御子、大年神。母は大山津見神の娘、神大市比売。以下に、この神の御子の系譜が続く。

建速須佐之男命の御子、宇迦之御魂神。母は、前の大年神と同じ神大市比売。
建速須佐之男命の御子、須勢理毘売命。大国主神の正妻である。
大年神の御子、大国御魂神。母は神活須毘神の娘、伊怒比売。
大年神の御子、韓神。母は同じ伊怒比売。
大年神の御子、曾富理神。母は同じ伊怒比売。
大年神の御子、白日神。母は同じ伊怒比売。
大年神の御子、聖神。母は同じ伊怒比売。
大年神の御子、大香山戸臣神。母は香用比売。
大年神の御子、御年神。母は同じ香用比売。
大年神の御子、奥津日子神。母は天知迦流美豆比売。
大年神の御子、奥津比売神。別名は大戸比売神。母は同じ天知迦流美豆比売。かまどの神である。
大年神の御子、大山咋神。別名は山末之大主神。母は同じ天知迦流美豆比売。近淡海国の日枝山にいらっしゃり、また葛野の松尾にもいらっしゃる。
大年神の御子、庭津日神。母は同じ天知迦流美豆比売。
大年神の御子、阿須波神。母は同じ天知迦流美豆比売。
大年神の御子、波比岐神。母は同じ天知迦流美豆比売。
大年神の御子、香山戸臣神。母は同じ天知迦流美豆比売。

大年神の御子、羽山戸神。母は、前頁から続いて同じ天知迦流美豆比売。以下に、この神の御子の系譜が続く。
大年神の御子、庭高津日神。母は同じ天知迦流美豆比売。
大年神の御子、大土神。別名は土之御祖神。母は同じ天知迦流美豆比売。
羽山戸神の御子、若山咋神。母は大気都比売。
羽山戸神の御子、若年神。母は同じ大気都比売。
羽山戸神の御子、若沙那売神。母は同じ大気都比売。
羽山戸神の御子、弥豆麻岐神。母は同じ大気都比売。
羽山戸神の御子、夏高津日神。別名は夏之売神。母は同じ大気都比売。
羽山戸神の御子、秋毘売神。母は同じ大気都比売。
羽山戸神の御子、久久年神。母は同じ大気都比売。
羽山戸神の御子、久久紀若室葛根神。母は同じ大気都比売。
前頁の八島士奴美神の御子、布波能母遅久奴須奴神。母は大山津見神の娘、木花知流比売。
布波能母遅久奴須奴神の御子、深淵之水夜礼花神。母は淤迦美神の娘、日河比売。
深淵之水夜礼花神の御子、淤美豆奴神。母は天之都度閇知泥神。

淤美豆奴神の御子、天之冬衣神。母は布怒豆怒神の娘、布帝耳神。
天之冬衣神の御子、大国主神。別名は、大穴牟遅神、葦原色許男神、八千矛神、宇都志国玉神。母は刺国大神の娘、刺国若比売。兄弟として八十神がいらっしゃる。
大国主神の御子、木俣神。別名は御井神。母は稲羽の八上比売。
大国主神の御子、阿遅鉏高日子根神。母は多紀理毘売命。迦毛大御神と呼ぶ。
大国主神の御子、高比売命。別名は下光比売命。母は同じ多紀理毘売命。
大国主神の御子、事代主神。母は神屋楯比売命。
大国主神の御子、鳥鳴海神。母は八島牟遅神の娘、鳥耳神。
大国主神の御子、建御名方神。
鳥鳴海神の御子、国忍富神。母は日名照額田毘道男伊許知邇神。
国忍富神の御子、速甕之多気佐波夜遅奴美神。母は葦那陀迦神で、別名を八河江比売という。
速甕之多気佐波夜遅奴美神の御子、甕主日子神。母は天之甕主神の娘、前玉比売。
甕主日子神の御子、多比理岐志麻流美神。母は淤加美神の娘、比那良志毘売。
多比理岐志麻流美神の御子、美呂浪神。母は比比羅木之其花麻豆美神の娘、活玉前玉比売神。

前頁の美呂浪神の御子、布忍富鳥鳴海神。母は敷山主神の娘、青沼馬沼押比売。
布忍富鳥鳴海神の御子、天日腹大科度美神。母は若尽女神。
天日腹大科度美神の御子、遠津山岬多良斯神。母は天狭霧神の娘、遠津待根神。
天照大御神の御子たち。正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命。以下に、この神の御子の系譜が続く。
天照大御神の御子、天之菩卑命。以下に、この神の御子の系譜が続く。
天照大御神の御子、天津日子根命。凡川内国造、額田部湯坐連、木国造、倭田中直、山代国造、馬来田国造、道尻岐閇国造、周芳国造、倭淹知造、高市県主、蒲生稲寸、三枝部造などの祖先である。
天照大御神の御子、活津日子根命。
天照大御神の御子、熊野久須毘命。
右の五柱は、速須佐之男命と誓約をされたときにお成りになった神である。
天之菩卑命の御子、建比良鳥命。出雲国造、无邪志国造、上菟上国造、下菟上国造、伊自牟国造、津島県直、遠江国造などの祖先である。
正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命の御子、天火明命。母は高木神の御女、万幡豊秋津師比売命。
正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命の御子、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命。母は同じ万幡豊秋津師比売命。以下に、この神の御子の系譜が続く。
天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命の御子、火照命。母は大山津見神の娘、神阿多都比売で、別名を木花之佐久夜毘売という。隼人の阿多君の祖先である。

天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命の御子の続き。火須勢理命。母は同じ神阿多都比売。
同じく御子、火遠理命。別のお名前は天津日高日子穂穂手見命。母は同じ神阿多都比売。
火遠理命の御子、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命。母は綿津見神の娘、豊玉毘売命。
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命の御子、五瀬命。母は綿津見神の娘、玉依毘売命。
同じく御子、稲氷命。母は同じ玉依毘売命。
同じく御子、御毛沼神。母は同じ玉依毘売命。
同じく御子、神倭伊波礼毘古命。後に贈られたおくり名は神武天皇。別のお名前は若御毛沼命。また、豊御毛沼命ともいう。母は同じ玉依毘売命。畝火の白檮原宮で天下を治められた。お年は百三十七歳。御陵は畝火山の北方、白檮尾の上にある。
神倭伊波礼毘古命の御子、多芸志美美命。
神倭伊波礼毘古命の御子、伎須美美命。
右の二柱の母は、阿多の小椅君の妹、阿比良比売。
神倭伊波礼毘古命の御子、日子八井命。茨田連・手島連の祖先である。
神倭伊波礼毘古命の御子、神八井耳命。意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余国造、科野国造、道奥石城国造、常道仲国造、長狭国造、伊勢船木直、尾張丹羽臣、島田臣などの祖先である。
神倭伊波礼毘古命の御子、神沼河耳命。後に贈られたおくり名は綏靖天皇。

前頁の神沼河耳命、すなわち綏靖天皇の続き。また、建沼河耳命とも呼ぶ。葛城の高岡宮で天下を治められた。お年は四十五歳。御陵は衝田岡にある。
前頁の日子八井命・神八井耳命・神沼河耳命の三柱の母は、美和の大物主神の娘、比売多多良伊須気余理比売命。
神沼河耳命の御子、師木津日子玉手見命。後に贈られたおくり名は安寧天皇。片塩の浮穴宮で天下を治められた。お年は四十九歳。御陵は畝火山の美富登にある。母は師木県主の祖先、河俣毘売。
師木津日子玉手見命の御子、常根津日子伊呂泥命。
師木津日子玉手見命の御子、大倭日子鉏友命。後に贈られたおくり名は懿徳天皇。軽の境岡宮で天下を治められた。お年は四十五歳。御陵は畝火山の真名子谷の上にある。
師木津日子玉手見命の御子、師木津日子命。以下に、この方の子孫が続く。
右の三柱の母は、河俣毘売の兄である県主殿延の娘、阿久斗比売。
師木津日子命の御子。名は記されていない。伊賀の須知の稲置、那婆理の稲置、三野の稲置などの祖先である。
師木津日子命の御子、和知都美命。淡道の御井宮にいらっしゃった。
和知都美命の御子、蠅伊呂泥。別名は意富夜麻登久邇阿礼比売命。大倭根子日子賦斗邇天皇の妃となった。
和知都美命の御子、蠅伊呂杼。同じ大倭根子日子賦斗邇天皇の妃となった。
大倭日子鉏友命の御子、御真津日子訶恵志泥命。後に贈られたおくり名は孝昭天皇。葛城の掖上宮で天下を治められた。お年は九十三歳。御陵は掖上の博多山の上にある。

大倭日子鉏友命の御子の続き。多芸志比古命。血沼の別、多遅麻の竹別、葦井の稲置などの祖先である。
前頁の御真津日子訶恵志泥命と、右の多芸志比古命の母は、師木県主の祖先、賦登麻和訶比売命。別名は飯日比売命。
御真津日子訶恵志泥命の御子、天押帯日子命。春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壱比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢の飯高君、壱師君、近淡海国造などの祖先である。
御真津日子訶恵志泥命の御子、大倭帯日子国押人命。後に贈られたおくり名は孝安天皇。葛城の室の秋津嶋宮で天下を治められた。お年は百二十三歳。御陵は玉手岡の上にある。
右の二柱の母は、尾張連の祖先である奥津余曽の妹、余曽多本毘売命。
大倭帯日子国押人命の御子、大吉備諸進命。
大倭帯日子国押人命の御子、大倭根子日子賦斗邇命。後に贈られたおくり名は孝霊天皇。黒田の廬戸宮で天下を治められた。お年は百六歳。御陵は片岡の馬坂の上にある。
右の二柱の母は、父である天皇の姪、忍鹿比売命。
大倭根子日子賦斗邇命の御子、大倭根子日子国玖琉命。後に贈られたおくり名は孝元天皇。軽の堺原宮で天下を治められた。お年は五十七歳。御陵は剣池の中岡の上にある。母は十市県主の祖先、大目の娘、細比売命。
大倭根子日子賦斗邇命の御子、千千速比売命。母は春日の千千速真若比売命。

大倭根子日子賦斗邇命、すなわち孝霊天皇の御子の続き。夜麻登登母母曽毘売命。
孝霊天皇の御子、日子刺肩別命。高志の利波臣、豊国の国前臣、五百原君、角鹿の海直などの祖先である。
孝霊天皇の御子、比古伊佐勢理毘古命。別名は大吉備津日子命。吉備の上道臣の祖先である。
孝霊天皇の御子、倭飛羽矢若屋比売命。
右の四柱の母は、意富夜麻登久邇阿礼比売命。
孝霊天皇の御子、日子寤間命。針間の牛鹿臣の祖先である。
孝霊天皇の御子、若日子建吉備津日子命。吉備の下道臣・笠臣などの祖先である。
右の二柱の母は、蠅伊呂杼。
若日子建吉備津日子命の御子、伊那毘能大郎女。大帯日子淤斯呂和気天皇の妃となった。
若日子建吉備津日子命の御子、伊那毘能若郎女。同じ天皇の妃となった。
大倭根子日子国玖琉命、すなわち孝元天皇の御子、大毘古命。
孝元天皇の御子、少名日子建猪心命。
孝元天皇の御子、若倭根子日子大毘毘命。後に贈られたおくり名は開化天皇。春日の伊邪河宮で天下を治められた。お年は六十三歳。御陵は伊邪河の坂の上にある。
右の三柱の母は、穂積臣などの祖先である内色許男命の妹、内色許売命。
孝元天皇の御子、比古布都押之信命。以下に、この方の子孫が続く。

前頁の比古布都押之信命の母は、内色許男命の娘、伊賀迦色許売命。
孝元天皇の御子、建波邇夜須毘古命。母は河内の青玉の娘、波邇夜須毘売。
比古布都押之信命の御子、味師内宿禰。母は尾張連の祖先、意富那毘の妹、葛城の高千那毘売。山代内臣の祖先である。
比古布都押之信命の御子、建内宿禰。母は木国造の祖先、宇豆比古の妹、山下影日売。以下に、この方の御子の系譜が続く。
建内宿禰の御子、波多八代宿禰。波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君などの祖先である。
建内宿禰の御子、許勢小柄宿禰。許勢臣、雀部臣、軽部臣などの祖先である。
建内宿禰の御子、蘇賀石川宿禰。蘇我臣、川辺臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田臣などの祖先である。
建内宿禰の御子、平群都久宿禰。平群臣、佐和良臣、馬御樴連などの祖先である。
建内宿禰の御子、木角宿禰。木臣、都奴臣、坂本臣などの祖先である。
建内宿禰の御子、久米能摩伊刀比売。
建内宿禰の御子、怒能伊呂比売。
建内宿禰の御子、葛城長江曽都毘古。玉手臣、的臣、生江臣、阿芸那臣などの祖先である。
建内宿禰の御子、若子宿禰。江野間臣の祖先である。
葛城長江曽都毘古の御子、石之日売命。大雀天皇の大后である。
葛城長江曽都毘古の御子、葦田宿禰。

前頁の葦田宿禰の御子、黒比売命。大江の伊邪本和気天皇の妃となった。
前頁の大毘古命の御子、建沼河別命。阿倍臣の祖先である。
大毘古命の御子、比古伊那許志別命。膳臣の祖先である。
大毘古命の御子、御真津比売命。御真木入日子印恵天皇の大后となった。
若倭根子日子大毘毘命、すなわち開化天皇の御子、比古由牟須美命。母は旦波の大県主、由碁理の娘、竹野比売。
比古由牟須美命の御子、大筒木垂根王。
比古由牟須美命の御子、讃岐垂根王。
この二人の王には、娘が五柱いらっしゃる。
大筒木垂根王の御子、迦具夜比売命。伊久米天皇の妃となった。
開化天皇の御子、御真木入日子印恵命。後に贈られたおくり名は崇神天皇。師木の水垣宮で天下を治められた。お年は百六十八歳。御陵は山辺道の勾の岡の上にある。
開化天皇の御子、御真津比売命。
右の二柱の母は、伊賀迦色許売命。
開化天皇の御子、日子坐王。以下に、この方の御子の系譜が続く。

前頁の日子坐王の母は、丸邇臣の祖先、日子国意祁都命の妹、意祁都比売命。
開化天皇の御子、建豊波豆羅和気王。道守臣、忍海部造、御名部造、稲羽の忍海部、丹波の竹野別、依網の阿毘古などの祖先である。母は葛城の垂見宿禰の娘、鸇比売〔わしひめ〕。〔訳注:原図の鳥名一字は判読に留保があるため、同人物を記す古事記学センターの表記「鸇比売」を暫定的に用いた。〕
日子坐王の御子、大俣王。
日子坐王の御子、小俣王。当麻の勾君の祖先である。
日子坐王の御子、志夫美宿禰王。佐佐君の祖先である。
右の三柱の母は、山代の荏名津比売。別名は苅幡戸弁。
日子坐王の御子、曙立王。伊勢の品遅部君、伊勢の佐那造などの祖先である。
日子坐王の御子、菟上王。比売陀君の祖先である。
日子坐王の御子、沙本毘古王。日下部連、甲斐国造などの祖先である。
日子坐王の御子、袁邪本王。葛野の別、近淡海の蚊野の別などの祖先である。
日子坐王の御子、沙本毘売命。別のお名前は佐波遅比売。伊久米天皇の大后となった。
日子坐王の御子、室毘古王。若狭の耳別の祖先である。
右の四柱の母は、春日の建国勝戸売の娘、沙本大闇見戸売。
日子坐王の御子、丹波比古多多須美知能宇斯王。
日子坐王の御子、水穂之真若王。近淡海の安直の祖先である。
日子坐王の御子、神大根王。別名は八瓜入日子王。三野国造、本巣国造、長幡部連などの祖先である。

前頁の日子坐王の御子の続き。水穂五百依比売。
日子坐王の御子、御井津比売。
前頁の丹波比古多多須美知能宇斯王・水穂之真若王・神大根王と、右の二柱を合わせた五柱の母は、天之御影神の娘、息長水依比売。
前頁の神大根王の娘、兄比売。
神大根王の娘、弟比売。
丹波比古多多須美知能宇斯王の御子、比婆須比売命。伊久米天皇の大后となった。
丹波比古多多須美知能宇斯王の御子、真砥野比売命。
丹波比古多多須美知能宇斯王の御子、弟比売命。
丹波比古多多須美知能宇斯王の御子、朝廷別王。三川の穂別の祖先である。
右の四柱の母は、丹波の河上の摩須郎女。
丹波美知能宇斯王の娘について、伊邪河宮の段に挙げる三柱は、上に記したとおりである。しかし、玉垣宮の段では四人の娘を挙げ、ある箇所では二人、ある箇所では三人を挙げ、その名もそれぞれ違うところがあって一致しない。『日本書紀』では五人の娘としているが、その中にも名の違う方がある。そのため、玉垣宮の段で挙げる名のうち、ここに記したものと違う名は、今、すべて左に分けて掲げる。
沼羽田之入毘売命。伊久米天皇の妃。
阿邪美能伊理毘売命。同じ伊久米天皇の妃。
兄比売。
歌凝比売命。
右の四柱は、玉垣宮の段の各所に出てきて、伊邪河宮の段にある名と異なる方々である。

日子坐王の御子、山代の大筒木真若王。
日子坐王の御子、比古意須王。
日子坐王の御子、伊理泥王。
右の三柱の母は、袁祁都比売命。
伊理泥王の御子、泥能阿治佐波毘売。
山代の大筒木真若王の御子、迦邇米雷王。母は泥能阿治佐波毘売。
迦邇米雷王の御子、息長宿禰王。母は丹波の遠津臣の娘、高材比売。
息長宿禰王の御子、息長帯比売命。後に贈られたおくり名は神功皇后。帯中津日子天皇の大后となった。
息長宿禰王の御子、虚空津比売命。
息長宿禰王の御子、息長日子王。吉備の品遅君、針間の阿宗君などの祖先である。
右の三柱の母は、葛城の高額比売。
息長宿禰王の御子、大多牟坂王。多遅摩国造の祖先である。母は河俣稲依毘売。
御真木入日子印恵命、すなわち崇神天皇の御子、豊木入日子命。上毛野君・下毛野君などの祖先である。
崇神天皇の御子、豊鉏入日売命。伊勢の大神の宮をお祭り申し上げた。

前頁の豊木入日子命と豊鉏入日売命の母は、木国造の荒河刀弁の娘、遠津年魚目目微比売。
崇神天皇の御子、大入杵命。能登臣の祖先である。
崇神天皇の御子、八坂之入日子命。
崇神天皇の御子、沼名木之入日売命。
崇神天皇の御子、十市之入日売命。
右の四柱の母は、尾張連の祖先、意富阿麻比売。
八坂之入日子命の御子、八坂之入日売命。大帯日子淤斯呂和気天皇の后となった。
崇神天皇の御子、伊玖米入日子伊沙知命。後に贈られたおくり名は垂仁天皇。師木の玉垣宮で天下を治められた。お年は百五十三歳。御陵は菅原の御立野の中にある。
崇神天皇の御子、伊邪能真若命。
崇神天皇の御子、国片比売命。
崇神天皇の御子、千千都久和比売命。
崇神天皇の御子、伊賀比売命。
崇神天皇の御子、倭日子命。
伊玖米入日子伊沙知命以下、右の六柱の母は、大毘古命の娘、御真津比売命。
垂仁天皇の御子、本牟智和気命。母は沙本毘古命の妹、佐波遅比売命。

垂仁天皇の御子の続き。印色之入日子命。
垂仁天皇の御子、大帯日子淤斯呂和気命。後に贈られたおくり名は景行天皇。纒向の日代宮で天下を治められた。お年は百三十七歳。御陵は山辺の道の上にある。
垂仁天皇の御子、大中津日子命。山辺の別、三枝の別、稲木の別、阿太の別、尾張国の別、三野の別、吉備の石无の別、許呂母の別、高巣鹿の別、飛鳥君、牟礼の別などの祖先である。
垂仁天皇の御子、倭比売命。伊勢の大神の宮をお祭り申し上げた。
垂仁天皇の御子、若木入日子命。
右の五柱の母は、旦波比古多多須美知能宇斯王の娘、氷羽洲比売命。
垂仁天皇の御子、沼帯別命。
垂仁天皇の御子、伊賀帯日子命。
右の二柱の母は、氷羽洲比売命の妹、沼羽田之入毘売命。
垂仁天皇の御子、伊許波夜和気命。沙本の穴太部の別の祖先である。
垂仁天皇の御子、阿邪美都比売命。稲瀬毘古王に嫁いだ。
右の二柱の母は、沼羽田之入日売命の妹、阿邪美能伊理毘売命。
垂仁天皇の御子、袁邪弁王。母は大筒木垂根王の娘、迦具夜比売命。
垂仁天皇の御子、落別王。小月の山君、三川の衣君などの祖先である。
垂仁天皇の御子、五十日帯日子王。春日の山君、高志の池君、春日部君などの祖先である。

垂仁天皇の御子の続き。伊登志別王。
前頁の落別王・五十日帯日子王と、右の伊登志別王の母は、山代の大国之淵の娘、苅羽田刀弁。
垂仁天皇の御子、石衝別王。羽咋君・三尾君などの祖先である。
垂仁天皇の御子、石衝毘売命。別名は布多遅能伊理毘売命。倭建命の后となった。
右の二柱の母は、大国之淵の娘、弟苅羽田刀弁。
景行天皇の御子、櫛角別王。茨田下連の祖先である。
景行天皇の御子、大碓命。守君、大田君、島田君などの祖先である。
景行天皇の御子、小碓命。別のお名前は倭男具那命。また、倭建命とも呼ぶ。
景行天皇の御子、倭根子命。
景行天皇の御子、神櫛王。木国の酒部阿比古、宇陀の酒部などの祖先である。
右の五柱の母は、若建吉備津日子命の娘、針間の伊那毘の大郎女。
景行天皇の御子、若帯日子命。後に贈られたおくり名は成務天皇。近淡海の志賀の高穴穂宮で天下を治められた。お年は九十五歳。御陵は沙紀の多他那美にある。
景行天皇の御子、五百木之入日子命。
景行天皇の御子、押別命。
景行天皇の御子、五百木之入日売命。
右の四柱の母は、八尺入日子命の娘、八坂之入日売命。

五百木之入日子命の御子、品陀真若王。母は尾張連の祖先、建伊那陀宿禰の娘、志理都紀斗売。
品陀真若王の御子、高木之入日売命。品陀天皇の妃となった。
品陀真若王の御子、中日売命。同じ品陀天皇の后となった。
品陀真若王の御子、弟日売命。同じ品陀天皇の妃となった。
若帯日子命、すなわち成務天皇の御子、和訶奴気王。母は穂積臣の祖先、建忍山垂根の娘、弟財郎女。
景行天皇の御子、豊戸別王。
景行天皇の御子、沼代郎女。
右の二柱の母は、妾である。
景行天皇の御子、沼名木郎女。
景行天皇の御子、香余理比売命。
景行天皇の御子、若木之入日子王。
景行天皇の御子、吉備之兄日子王。
景行天皇の御子、高木比売命。
景行天皇の御子、弟比売命。
右の六柱の母は、妾である。

景行天皇の御子の続き。豊国別王。日向国造の祖先である。母は日向の美波迦斯毘売。
景行天皇の御子、真若王。
景行天皇の御子、日子人之大兄王。
右の二柱の母は、伊那毘能大郎女の妹、伊那毘能若郎女。
景行天皇の御子、大枝王。母は、倭建命のひ孫である須売伊呂大中日子王の娘、訶具漏比売。
大枝王の御子、大名方王。
大枝王の御子、大中津比売命。帯中津日子天皇の妃となった。
右の二柱の母は、父の大枝王の異母妹である銀王。
大碓命の御子、押黒之兄日子王。母は神大根王の娘、兄比売。三野の宇泥須別の祖先である。
大碓命の御子、押黒弟日子王。母は同じ神大根王の娘、弟比売。牟宜都君の祖先である。
倭建命の御子、帯中津日子命。後に贈られたおくり名は仲哀天皇。穴門の豊浦宮と、筑紫の訶志比宮で天下を治められた。お年は五十二歳。御陵は河内の恵賀の長江にある。母は伊玖米天皇の御女、布多遅能伊理毘売命。
倭建命の御子、若建王。

前頁の若建王の母は、弟橘比売命。
若建王の御子、須売伊呂大中日子王。母は飯野真黒比売。
須売伊呂大中日子王の御子、迦具漏比売命。母は淡海の柴野入杵の娘、柴野比売。大帯日子天皇の妃となった。
倭建命の御子、稲依別王。犬上君、建部君などの祖先である。母は近淡海の安国造の祖先、意富多牟和気の娘、布多遅比売。
倭建命の御子、建貝児王。讃岐の綾君、伊勢の別、登袁の別、麻佐首、宮首の別などの祖先である。母は吉備臣の建日子の妹、大吉備建比売。
倭建命の御子、足鏡別王。鎌倉の別、小津石代の別、漁田の別などの祖先である。母は山代の玖玖麻毛理比売。
倭建命の御子、息長田別王。母は、ある妻とだけ記されている。
息長田別王の御子、杙俣長日子王。
杙俣長日子王の御子、飯野真黒比売。
杙俣長日子王の御子、息長真若中比売。品陀天皇の妃となった。
杙俣長日子王の御子、弟比売。また百師木伊呂弁と呼ぶ。別名は弟日売真若比売命。

帯中津日子命、すなわち仲哀天皇の御子、香坂王。
仲哀天皇の御子、忍熊王。
右の二柱の母は、大江王の娘、大中津比売命。
仲哀天皇の御子、品夜和気命。
仲哀天皇の御子、品陀和気命。後に贈られたおくり名は応神天皇。別のお名前は大鞆和気命。軽島の明宮で天下を治められた。お年は百三十歳。御陵は川内の恵賀の裳伏岡にある。
右の二柱の母は、息長帯比売命。
応神天皇の御子、額田大中日子命。
応神天皇の御子、大山守命。
応神天皇の御子、伊奢之真若命。
応神天皇の御子、大原郎女。
応神天皇の御子、高目郎女。
右の五柱の母は、品陀真若王の娘、高木之入日売命。
応神天皇の御子、木之荒田郎女。
応神天皇の御子、大雀命。後に贈られたおくり名は仁徳天皇。難波の高津宮で天下を治められた。お年は八十三歳。御陵は毛受の耳原にある。
応神天皇の御子、根鳥命。

前頁の木之荒田郎女・大雀命・根鳥命の母は、品陀真若王の娘、中日売命。
根鳥命の御子、中日子王。
根鳥命の御子、伊和島王。
右の二柱の母は、三腹郎女。
応神天皇の御子、阿倍郎女。
応神天皇の御子、阿具知能三腹郎女。
応神天皇の御子、木之菟野郎女。
応神天皇の御子、三野郎女。
右の四柱の母は、品陀真若王の娘、弟日売命。
応神天皇の御子、宇遅能和紀郎子。
応神天皇の御子、八田若郎女。大雀天皇の妃となった。
応神天皇の御子、女鳥王。
右の三柱の母は、丸邇の比布礼能意富美の娘、宮主矢河枝比売。
応神天皇の御子、宇遅之若郎女。大雀天皇の妃となった。母は矢河枝比売の妹、袁那弁郎女。
応神天皇の御子、若沼毛二俣王。母は杙俣長日子王の娘、息長真若中比売。

応神天皇の御子の続き。速総別命。母は桜井田部連の祖先、島垂根の娘、糸井比売。
応神天皇の御子、大羽江王。
応神天皇の御子、小羽江王。
応神天皇の御子、幡日之若郎女。
右の三柱の母は、日向の泉長比売。
応神天皇の御子、川原田郎女。
応神天皇の御子、玉郎女。
応神天皇の御子、忍坂大中比売。
応神天皇の御子、登富志郎女。
応神天皇の御子、迦多遅王。
右の五柱の母は、迦具漏比売。
応神天皇の御子、伊奢能麻和迦王。母は葛城の野伊呂売。
若沼毛二俣王の御子、大郎子。別名は意富富杼王。三国君、波多君、息長君、坂田君、酒人君、山道君、筑紫の米多君、布勢君などの祖先である。
若沼毛二俣王の御子、忍坂之大中津比売命。男浅津間若子宿禰天皇の后となった。

若沼毛二俣王の御子の続き。田井之中比売。
若沼毛二俣王の御子の続き。田宮之中比売。
若沼毛二俣王の御子の続き。藤原之琴節郎女。
若沼毛二俣王の御子の続き。取売王。
若沼毛二俣王の御子の続き。沙禰王。
前頁の大郎子・忍坂之大中津比売命と、右の五柱を合わせた七柱の母は、杙俣長日子王の娘、百師木伊呂弁。別名は弟日売真若比売命。
意富富杼王の御子、宇非王。ある書では、私斐王という。母は中斯和命。
宇非王の御子、汙斯王。『日本書紀』では彦主人王という。母は牟義都国造の伊自牟良君の娘、久留比売命。
右の宇非王と汙斯王は、『古事記』には載っていない。今、『書紀釈』が引く『上宮記』によって補った。
大雀命、すなわち仁徳天皇の御子、大江之伊邪本和気命。後に贈られたおくり名は履中天皇。伊波礼の若桜宮で天下を治められた。お年は六十四歳。御陵は毛受にある。
仁徳天皇の御子、墨江之中津王。
仁徳天皇の御子、蝮之水歯別命。後に贈られたおくり名は反正天皇。

前頁の蝮之水歯別命、すなわち反正天皇の続き。多治比の柴垣宮で天下を治められた。お年は六十歳。御陵は毛受野にある。
仁徳天皇の御子、男浅津間若子宿禰命。後に贈られたおくり名は允恭天皇。遠飛鳥宮で天下を治められた。お年は七十八歳。御陵は河内の恵賀の長枝にある。
前頁の大江之伊邪本和気命・墨江之中津王・蝮之水歯別命と、右の男浅津間若子宿禰命の母は、葛城の曽都毘古の娘、石之比売命。
仁徳天皇の御子、波多毘能大郎子。別名は大日下王。
仁徳天皇の御子、波多毘能若郎女。別名は長日比売命。また、若日下命ともいう。大長谷天皇の大后となった。
右の二柱の母は、日向の諸県君、牛諸の娘、髪長比売。
大日下王の御子、目弱王。母は男浅津間若子宿禰天皇の御女、長田大郎女。
允恭天皇の御子、木梨之軽王。
允恭天皇の御子、長田大郎女。
允恭天皇の御子、境之黒日子王。
允恭天皇の御子、穴穂命。後に贈られたおくり名は安康天皇。石上の穴穂宮で天下を治められた。お年は五十六歳。御陵は菅原の伏見岡にある。
允恭天皇の御子、軽大郎女。別名は衣通郎女。
允恭天皇の御子、八瓜之白日子王。
允恭天皇の御子、大長谷若建命。後に贈られたおくり名は雄略天皇。長谷の朝倉宮で天下を治められた。お年は百二十四歳。御陵は河内の多治比の高鸇にある。〔御陵名の最後の字は「鸇」と仮に読んだ。〕

允恭天皇の御子の続き。橘大郎女。
允恭天皇の御子、酒見郎女。
前頁の木梨之軽王から右の酒見郎女まで、九柱の母は、意富本杼王の妹、忍坂之大中津比売命。
雄略天皇の御子、白髪大倭根子命。後に贈られたおくり名は清寧天皇。伊波礼の甕栗宮で天下を治められた。御陵については、『日本書紀』では河内の坂門原という。
雄略天皇の御子、若帯比売命。
右の二柱の母は、都夫良意富美の娘、韓比売。
雄略天皇の御子、春日大郎女。意富祁天皇の后となった。母については、『日本書紀』では、春日の和珥臣、深目の娘、童女君という。
反正天皇の御子、甲斐郎女。
反正天皇の御子、都夫良郎女。
右の二柱の母は、丸邇の許碁登臣の娘、都怒郎女。
反正天皇の御子、財王。
反正天皇の御子、多訶弁郎女。
右の二柱の母は、同じ許碁登臣の娘、弟比売。
履中天皇の御子、市辺之忍歯王。

履中天皇の御子の続き。御馬王。
履中天皇の御子、青海郎女。また、忍海郎女と呼ぶ。別のお名前は飯豊王。葛城の忍海の高木の角刺宮にいらっしゃった。
前頁の市辺之忍歯王と、右の御馬王・青海郎女の母は、葦田宿禰の娘、黒比売命。
市辺之忍歯王の御子、意富祁命。後に贈られたおくり名は仁賢天皇。顕宗天皇の後に、天下を治められた。石上の広高宮で天下を治められた。御陵については、『日本書紀』では埴生の坂本という。
市辺之忍歯王の御子、袁祁之石巣別命。後に贈られたおくり名は顕宗天皇。仁賢天皇より前に、天下を治められた。近飛鳥宮で天下を治められた。お年は三十八歳。御陵は片岡の石坏岡の上にある。
右の二柱の母については、『日本書紀』では、蟻臣の娘、荑媛という。
仁賢天皇の御子、高木郎女。
仁賢天皇の御子、財郎女。
仁賢天皇の御子、久須毘郎女。
仁賢天皇の御子、手白髪郎女。袁本杼天皇の大后となった。
仁賢天皇の御子、橘之中比売命。建小広国押楯天皇の后となった。
仁賢天皇の御子、小長谷若雀命。後に贈られたおくり名は武烈天皇。長谷の列木宮で天下を治められた。御陵は片岡の石坪岡にある。
仁賢天皇の御子、真若王。
右の七柱の母は、大長谷天皇の御女、春日大郎女。ただし、橘之中比売命は、『古事記』のここには見えず、檜堀宮の段になって初めて見える。その母は詳しく分からないので、今は『日本書紀』に基づいて記した。

仁賢天皇の御子、春日山田郎女。母は丸邇臣、日爪の娘、糠若子郎女。
前に掲げた汙斯王の御子、袁本杼命。後に贈られたおくり名は継体天皇。伊波礼の玉穂宮で天下を治められた。お年は四十三歳。御陵は三島の藍にある。母については、『日本書紀』では活目天皇の七世の孫、振媛という。『上宮記』も同じで、乎波智君の娘としている。
継体天皇の御子、大郎子。
継体天皇の御子、出雲郎女。
右の二柱の母は、三尾君の祖先、若比売。
継体天皇の御子、広国押建金日命。後に贈られたおくり名は安閑天皇。勾の金箸宮で天下を治められた。お年は、『日本書紀』では七十歳という。御陵は河内の古市の高屋村にある。
継体天皇の御子、建小広国押楯命。後に贈られたおくり名は宣化天皇。檜堀の廬入野宮で天下を治められた。お年は、『日本書紀』では七十三歳という。御陵は、『日本書紀』では身狭の桃花鳥坂の上という。
右の二柱の母は、尾張連の祖先、凡連の妹、目子郎女。
宣化天皇の御子、石比売命。天国押波流伎広庭天皇の后となった。
宣化天皇の御子、小石比売命。同じ天国押波流伎広庭天皇の妃となった。
宣化天皇の御子、倉之若江王。
右の三柱の母は、意富祁天皇の御女、橘之中比売命。

宣化天皇の御子の続き。火穂王。志比陀君の祖先である。
宣化天皇の御子、恵波王。韋那君・多治比君などの祖先である。
右の二柱の母は、川内の若子比売。
継体天皇の御子、天国押波流岐広庭命。後に贈られたおくり名は欽明天皇。師木島の大宮で天下を治められた。御陵については、『日本書紀』では檜隈の坂合という。母は意富祁天皇の御女、手白髪命。
継体天皇の御子、佐佐宜郎女。伊勢神宮にお仕えした。母は息長真手王の娘、麻組郎女。
継体天皇の御子、神前郎女。
継体天皇の御子、茨田郎女。
継体天皇の御子、白坂活日郎女。
継体天皇の御子、小野郎女。別名は長目比売。
右の四柱の母は、坂田大俣王の娘、黒比売。
継体天皇の御子、大郎女。
継体天皇の御子、丸高王。
継体天皇の御子、耳王。
継体天皇の御子、赤比売郎女。

前頁の大郎女・丸高王・耳王・赤比売郎女の母は、三尾君の加多夫の妹、倭比売。
継体天皇の御子、若屋郎女。
継体天皇の御子、都夫良郎女。
継体天皇の御子、阿豆王。
右の三柱の母は、阿倍の波延比売。
欽明天皇の御子、八田王。
欽明天皇の御子、沼名倉太玉敷命。後に贈られたおくり名は敏達天皇。他田宮で天下を治められた。御陵は川内の科長にある。
欽明天皇の御子、笠縫王。
右の三柱の母は、檜堀の天皇の御女、石比売命。
欽明天皇の御子、石上王。母は、同じ檜堀の天皇の御女、小石比売命。
欽明天皇の御子、春日山田郎女。
欽明天皇の御子、麻呂王。
欽明天皇の御子、宗賀之倉王。
右の三柱の母は、春日の日爪臣の娘、糠子郎女。
欽明天皇の御子、橘之豊日命。後に贈られたおくり名は用明天皇。

前頁の橘之豊日命、すなわち用明天皇の続き。池辺宮で天下を治められた。御陵は石村の掖上にあり、後に科長の中陵に移された。
欽明天皇の御子、石坰王。
欽明天皇の御子、居取王。
欽明天皇の御子、豊御食炊屋比売命。後に贈られたおくり名は推古天皇。崇峻天皇の後に天下を治められた。沼名倉太玉敷天皇の大后でいらっしゃった。小治田宮で天下を治められた。御陵は大野岡にあり、後に科長の大陵に移された。
欽明天皇の御子、麻呂古王。
欽明天皇の御子、大宅王。
欽明天皇の御子、伊美賀古王。
欽明天皇の御子、山代王。
欽明天皇の御子、大伴王。
欽明天皇の御子、桜井之玄王。
欽明天皇の御子、麻奴王。
欽明天皇の御子、橋本之若子王。
欽明天皇の御子、杼泥王。
前頁の橘之豊日命から右の杼泥王まで、十三柱の母は、宗賀の稲目宿禰大臣の娘、岐多斯比売。
欽明天皇の御子、馬木王。
欽明天皇の御子、葛城王。
欽明天皇の御子、間人穴太部王。橘之豊日天皇の后となった。

欽明天皇の御子の続き。三枝部穴太部王。別名は須売伊呂杼。
欽明天皇の御子、長谷部若雀命。後に贈られたおくり名は崇峻天皇。推古天皇より前に、天下を治められた。倉椅の柴垣宮で天下を治められた。御陵は倉椅の岡の上にある。
前頁の馬木王・葛城王・間人穴太部王と、右の二柱の母は、岐多志比売命のおば、小兄比売。
用明天皇の御子、多米王。母は稲目宿禰大臣の娘、意富芸多志比売。
用明天皇の御子、上宮の廐戸豊聡耳命。
用明天皇の御子、久米王。
用明天皇の御子、植栗王。
用明天皇の御子、茨田王。
右の四柱の母は、間人穴太部王。
用明天皇の御子、当麻王。
用明天皇の御子、須賀志呂古郎女。
右の二柱の母は、当麻の倉首、比呂の娘、飯女之子。
敏達天皇の御子、静貝王。別名は貝鮹王。
敏達天皇の御子、竹田王。別名は小貝王。
敏達天皇の御子、小治田王。
敏達天皇の御子、葛城王。

敏達天皇の御子の続き。宇毛理王。
敏達天皇の御子の続き。小張王。
敏達天皇の御子の続き。多米王。
敏達天皇の御子の続き。桜井玄王。
前頁の静貝王・竹田王・小治田王・葛城王と、右の四柱を合わせた八柱の母は、豊御食炊屋比売命。
敏達天皇の御子、布斗比売命。
敏達天皇の御子、宝王。別名は糠代比売命。また、田村王とも呼ぶ。日子人太子の妃となった。
右の二柱の母は、伊勢の大鹿首の娘、小熊子郎女。
敏達天皇の御子、忍坂日子人太子。別のお名前は麻呂古王。
敏達天皇の御子、坂騰王。
敏達天皇の御子、宇遅王。
右の三柱の母は、息長真手王の娘、比呂比売命。
敏達天皇の御子、難波王。
敏達天皇の御子、桑田王。
敏達天皇の御子、春日王。
敏達天皇の御子、大俣王。
右の四柱の母は、春日の中若子の娘、老女子郎女。

忍坂日子人太子の御子、岡本宮で天下を治められた天皇。後に贈られたおくり名は舒明天皇。
忍坂日子人太子の御子、中津王。
忍坂日子人太子の御子、多良王。
右の三柱の母は、田村王。別名は糠代比売命。
忍坂日子人太子の御子、智奴王。
忍坂日子人太子の御子、桑田王。
右の二柱の母は、漢王の妹、大俣王。
忍坂日子人太子の御子、山代王。
忍坂日子人太子の御子、笠縫王。
右の二柱の母は、桜井玄王。
古事記伝 巻三
本居宣長、謹んで編著。
神代 第一巻
【古事記本文】天地が始まったとき、高天原に生まれた神の名は、天之御中主神。〔「高」の下の「天」は「あま」と読む。以下も同じ。〕次に高御産巣日神、次に神産巣日神。この三柱の神は、いずれも対になる神を伴わず独りで成り、姿を隠された。
【宣長の注釈】「天地」は、「あめつち」を漢字で表したもので、「天」は「あめ」である。さて、「あめ」という名のもとの意味は、まだ考えつかない。そもそも、いろいろな言葉について、なぜそういうか、そのもとの意味を説明するのは、たいへん難しい。無理に解き明かそうとすれば、必ず、ゆがめた説が出てくる。〔昔も今も、世の人が立てる説明は、十のうち八、九までは、当たらないものばかりである。〕およそ、わが国の古い言葉は、その物、その事のありさまのままに、たやすく言い始め、名付け始めたものであって、深遠な理屈などを考えて作ったものではない。そのような心のあり方に沿って説明すべきなのに、代々の識者は、上代の言葉を初めに名付けた心を、よく考えもせず、ひたすら中国流の考え方にならって説明する。そのため、全般に当たりにくい。中国でも、上代の言葉のもとは、それほど大げさなものではなかっただろう。しかし、かの国の習慣として、何事にも、ただ理こそが肝心だと、その理を先に立て、言葉の意味を解くにも、それを中心にするので、みな無理なこじつけになるのである。さて、近ごろ古学が始まってからは、中国流の考えで解釈することのよくなさに気付いた人もいて、昔の心に沿って説明しようと試みるが、うまく説き明かせることは、なおまれである。そうはいっても、ひたすら説明せずに終えるべきでもない。考えの及ぶ限り、試しに述べてみるべきだ。その中には、正しく当たるものも、まれにはあるだろう。そこで今も、このような意味なのだろうかと考えついたことがある。それは、後に述べる。
【宣長の注釈】さて、天は空の上にあって、天つ神たちがいらっしゃる御国である。〔これ以外に、理屈で大げさに説き立て、あるいは、その形などを、あれこれ推測して述べるのは、みな外国の習いであり、昔からの伝えに合わないので、すべて取り上げる価値がない。〕
【宣長の注釈】「地」は「つち」である。その名のもとの意味については、こちらも考えついたことがあり、後に述べる。さて、「つち」とは、もともと、泥土が固まって国土となったことから呼ぶ名なので、小さなものにも、大きなものにもいう。小さくは、わずかひとつかみの土をもいう。また、広く、海に対して陸地をもいう。天に対して「天地」というときには、さらに大きな意味で、海も含む。〔『姓氏録』で、海の神の子孫に当たる氏族も、地祇、すなわち地の神の部に収めているのは、土には海も含めるためである。〕
【宣長の注釈】以前、私は、「あめつち」というのは古い言葉ではあるまいと考えていた。その理由は、古い書物を見ると、およそ「あめ」に対しては、必ず「くに」とだけいい、「つち」とはいわないからである。「天神・地祇」「天社・国社」、また神の名にも「天某神・国某神」と対になっているものがある。また、「天邇岐志国邇岐志…」と申し上げるお名前もある。『日本書紀』では「天に属するもの、国に属するもの」といい、雄略天皇の巻にある吉備臣尾代の歌でも、「天でこそ聞こえないだろうが、国には聞こえて…」などと記す。これらは、みな「くに」を「あめ」に対して用いているので、「あめくに」というほうが古い言葉のはずであり、古い書物に「天地」とあるものも、みなそう読むべきだと思っていた。しかし、後に、師の「くに・つち」についての考察を読むと、やはり「あめつち」こそが古い言葉なのであった。
【宣長の注釈】その考察には、こうある。「『くに』という名は、区切られた範囲という意味である。東国では垣を『くね』ということから分かる。さて、『つち』とは、皇祖神が天の沼矛でかき作られた、その始まりに基づいて名付けたものである。それゆえ、地は天と等しく広く、国は区切りがあるので、狭い範囲をいうようである。だから、上代には『あめつち』といい、『あめくに』とはいわなかったのだろう。さて、『くに』が区切られた範囲を意味するという理由は、こうである。天照大御神と月読命は、天の昼と夜を分けて治められるが、須佐之男命が天に上られたとき、天照大御神は『わが国を奪おうとしている』と仰せになった。また、月読命について、皇祖神は『夜の食国を治めよ』と仰せになった。また、須佐之男命については『海原を治めよ』とあり、その後には、皇祖神が『命じた国を治めない』と仰せになった。また、『万葉集』巻二にある人麻呂の挽歌でも、『天皇がお治めになる国として、天の原の岩戸を開き、神として上り、上っておいでになった』と詠む。これらは、みな、区切られた、治める場所を、天であっても『国』というのである。これらから、『くに』は、もともと天と対にしていう名ではないことが分かる。さて、『天神・地祇』や神の名などでも、『天某・国某』と対にしていう類いがあるのは、地のすみずみまで漏れなく、すべて皇孫命が治められる御国であるため、自然と、天に対する地をも『くに』というようになったのである。およそ、天つ神・国つ神という呼び方も、また神の名なども、皇孫命がこの国を治められる御代になってから、お付け申し上げたものが多いからである。しかし、広く天と対にして合わせていうときには、やはり『つち』とだけいい、『あめくに』とはいわなかったのである」。
【宣長の注釈】その考察の文の中には、どうかと思われることも交じっているが、それは取り上げず、今は、よいと思われる部分だけを選んで引用した。さて、まさしく「あめつち」という言葉が文献に見えるのは、『万葉集』巻二十の防人の歌に、「あめつちの、どの神を…」とあり、また巻二十に、「あめつちの神に幣を捧げて」とある。〔師は、「昔の東国の人は、なまじ賢しらな心を加えず、伝わった言葉のままに口にするようなので、都の物知りの歌よりも、かえって古い言葉の証拠にすべきものだ」といわれた。「つち」を、東国の言葉では「つし」というのだろう。〕また巻五にも、「天へ行けば、あなたの思うままだろうが、地上なら大君がいらっしゃる」などとある。
【宣長の注釈】「初発之時」は、「はじめのとき」と読むべきである。『万葉集』巻二に「天地の始めの時に…」、巻十に「天地の始めの時から…」とあり、『日本書紀』孝徳天皇の巻にも「天地の始めとともに…」などとある。これらは、「あめつちのはじめ」という古い言葉の証拠である。ここで「発之」と続けて書くのも、ただ「初め」という意味である。〔字書でも、「発」は「起こる」という意味だと注している。〕物事の初めを「起こり」ともいう。また、普通に「初発」というのも、昔から「はじめ」というのに、この二字を使い慣れていたことから出たのだろう。〔「初発」を「はじめてひらくる」と読むのは誤りである。いわゆる「開闢」の意味と混同したものだ。そもそも、「天地が開く」というのは、中国の書物の言葉であって、この国の古い言葉ではない。上代には、戸などは「ひらく」といったが、それ以外では、花なども「さく」とだけいい、上代には「ひらく」とはいわなかった。それゆえ、『万葉集』の歌などにも、「天地が分かれた時」と詠むものはあるが、「開けた時」と詠むものは、一つもないのである。〕さて、このように「天地之初発」というのは、ひとまず、この世〔仏書で「世界」といい、普通の人も常にそう呼ぶもの〕の初めを、大づかみにいう文であって、ここは必ずしも、天と地が成ったことを指しているのではない。天と地が成った初めは、次の文に記されているからである。
【宣長の注釈】「高天原」は、そのまま天である。〔それなのに、天皇の都を指すなどという説は、たいへん古伝に背いた、自分勝手な説である。およそ世の物知りは、みな中国の書物の考え方にとらわれ、神々の不思議な働きを疑い、空の上に高天原があることを信じない。これは、まことに愚かなことである。〕それでは、ただ「天」というのと、「高天原」というのとは、どう違うのだろうか。まず、天は天つ神がいらっしゃる御国なので、山・川・木・草の類い、宮殿、そのほか、あらゆる物も出来事も、まったく皇孫命がお治めになるこの御国土と同じようであり、それよりも、さらに優れた場所である。〔こうしたことは、中国の書物でいう「天」とは、たいへん異なる。決して、かの国の書物の説に惑わされ、正しい神代の伝えを曲げて解いてはならない。およそ外国には正しい古伝がないので、天の本当のありさまを知り得ず、ただ推測による、実のない理屈ばかりをいうのである。〕全体のありさまも、神々に関わるあらゆる事も、この国土にある事のようになっている。〔これは、この『古事記』と、『日本書紀』神代の巻を見て知るべきである。みな、正しい神代の伝承である。〕「高天原」というのは、その天で起こる事を語るときの呼び名なのである。
【宣長の注釈】それなのに、『万葉集』の歌などで、「天の原を遠く仰ぎ見れば」と詠むのは、少し後の用法なのだろう。このように、ただ見上げた空を「天の原」ともいう例は、神代の古典などには見えない。さて、そう呼ぶ理由をいうと、「高」は、こちらも天の呼び名であり、ただ高さを表すのとは、少し違う。〔もっとも、この「高」は、高さを表す言葉を借りたものである。〕「日」にかかる枕詞として「高光る」というのも、「天照る」と同じ意味であり、「高御座」も、天の御座ということである。これらの「高」も同じである。また、「高行くや隼別」などは〔高津宮の段の歌にある〕、空中を「高」というのである。〔これも、ただ高く行くということではない。そもそも、天の世界と空中とは別なので、厳密には分けていうこともあるが、ともに上の方にあるため、この国土からは、天の世界を「そら」といい、空中を「あめ」ともいい、通わせて呼ぶのが普通であり、「天つそら」などともいう。それゆえ、「高」というのも、天と空中とに通じる名である。どちらも高い方にあるからだ。〕今の世でも、天や空中を、このように「高」と呼ぶことがある。〔物が空中の高い所へ上ることを、「高へ上る」などという。ただし、これは全国で広くいう言葉ではないのかもしれない。ここ伊勢国などでは、折々、そういうのを耳にする。古い言葉が残ったのだろう。〕「原」とは、広く平らな場所をいう。「海原」「野原」「河原」「葦原」などと同じであり、『万葉集』の歌には「国原」ともある。それで、天も「天の原」というのである。〔「之原」と間に「の」を置く例も、「海の原」など、そのほかにある。〕〔訳注:「天」と「虚空」の間の字は「と」と仮に読んだ。〕
【宣長の注釈】さて、そこへ「高」という言葉を添え、「高天原」と呼ぶのは、この国土からの呼び方である。〔およそ、天を「高」ともいうのは、その高さによって呼ぶ名だからである。〕それゆえ、天照大御神が天の石屋にお隠れになる箇所のお言葉〔「天の原が自然と暗く…」〕や、『日本書紀』で、須佐之男命が天に上られたとき、また誓約の箇所での天照大御神のお言葉〔「必ず、わが天の原を奪おうとしている…」「天の原を治めるべきだ…」〕などでは、みな、ただ「天の原」とある。それは、天で仰せになるお言葉だからである。〔ところが、『日本書紀』神代下巻には、同じ大御神が「わが高天原」と仰せになる箇所が、一つある。これは、編者が何気なく書いたのだろうか。どうであっても、ただこの一例だけで、全体を疑うべきではない。多い方の用例に基づいて判断すべきである。〕これら以外では、この国土からいう箇所に、「高天原」とある。およそ、古い文では、こうした使い分けが、たいへん正確なのである。
【宣長の注釈】「成」は、「なりませる」と読むべきことを、最初の巻〔訓読法の項〕に述べたとおりである。さて、「なる」という言葉には、三つの違いがある。一つは、なかった物が生まれ出ることをいう。〔人の誕生をいうのも、これである。〕神が「成り坐す」というのは、この意味である。二つ目は、ある物が変わり、別の物に変化することをいう。豊玉比売命がご出産のとき、八尋の和邇に姿を変えられた類いである。三つ目は、仕事が出来上がることをいう。「国が成りがたい」とある「成」の類いである。〔この三つの違いによって、漢字には「生」「成」「変化」などの違いがあるが、わが国の古い書物では、読みの同じものは通わせて使い、漢字そのものには、それほどこだわらないことが多い。ここの「成」も、「成」という漢字の意味とは少し違い、『日本書紀』で「生まれた神」と記す、「生」の字の意味である。〕木や草の実が「なる」という場合や、また『万葉集』の歌などで、生業を「なる」という場合は、上の三つとは、もともと別の言葉なのか。それとも、その三つの中から出た言葉なのか。まだ考えていない。
【宣長の注釈】「神名」は「かみのみなは」と読むべきことも、最初の巻に述べた。「かみ」と申し上げる名の、もとの意味は、まだ考えつかない。〔昔から説かれている説明は、みな当たらない。〕さて、およそ「かみ」とは、古い神典などに見える、天と地のさまざまな神々をはじめ、その神を祭る社にいらっしゃる御霊をもいう。また、人はいうまでもなく、鳥や獣、木や草の類い、海や山など、そのほか、何であれ、普通とは違う、並外れた力や性質を持っていて、畏れを感じさせるものを「かみ」というのである。〔「すぐれている」とは、尊いこと、善いこと、功績があることなど、立派な面で優れていることだけをいうのではない。悪いもの、不思議なものなども、並外れていて、畏れを感じさせるものは、「神」というのである。〕
【宣長の注釈】さて、人の中の神についていえば、まず、お言葉に出すのも畏れ多い天皇は、代々みな神でいらっしゃることは、申し上げるまでもない。それは「遠つ神」とも申し上げ、普通の人とは、はるかに隔たって尊く、畏れ多くいらっしゃるからである。そして、それより下の立場にも、神である人が、昔も今もいるのである。また、天下全体に知られているのでなくても、一つの国、一つの里、一つの家の中でも、それぞれの範囲に応じて、神である人はいるものだ。さて、神代の神々も、多くは、その時代の人であり、その時代の人は、みな神であったから、「神代」というのである。
【宣長の注釈】また、人以外のものでは、雷は、ふだんも「鳴る神」「神鳴り」などというので、改めていうまでもない。龍・樹霊〔こだま〕・狐などの類いも、並外れて不思議なもので、畏れを感じさせるから、神なのである。樹霊とは、世間でいう天狗であり、中国の書物で「魑魅」などという類いのものである。『日本書紀』舒明天皇の巻に見える「天狗」は、別のものである。また、『源氏物語』などに「天狗、こだま」という言い方があるため、天狗とは別のもののように聞こえるけれども、それは、当時の世間で、天狗とも木霊ともいっていたものを、何となく並べていったのであり、実は一つのものである。また、今、世間で「こだま」という、声が返ってくる現象は、昔は「山彦」といった。これらは、ここで必要なことではないが、木霊にちなんで述べたにすぎない。また、虎も狼も神ということが、『日本書紀』『万葉集』などに見える。また、桃の実に「意富加牟都美命」という名をお与えになり、首に掛ける玉を「御倉板挙の神」と申し上げた類いや、岩や木の切り株、草の葉が言葉を話した類いなども、みな神である。さて、また、海や山などを神ということも多い。それは、そこにいらっしゃる御霊の神をいうのではなく、直接、その海や山そのものを指していうのである。これらも、たいへん畏れ多いものだからである。
【宣長の注釈】そもそも、神には、このように、さまざまな種類があり、尊いものも、卑しいものも、強いものも、弱いものも、善いものも、悪いものもある。その心も行いも、それぞれのありさまに応じて異なるのである。〔尊さ、卑しさにも、多くの段階があり、最も卑しい神の中には、力が少なく、普通の人にも負けるものさえある。あの狐などは、不思議なわざをする点では、どれほど賢く、巧みな人でも、とうてい及ばないので、まことに神である。けれども、ふだんは犬などにさえ抑えられてしまうほどの、弱い獣ではないか。しかし、そうした、ひどく卑しい神のありさまだけを見て、どんな神でも、道理をもって向かい合えば、畏れることはないと思うのは、上位と下位とでは威力が大きく違うことをわきまえない、誤った考えである。〕神というものは、一つの型に決めて論じることが難しいものなのである。
【宣長の注釈】〔それなのに、世間の人が、外国でいう仏・菩薩・聖人などと、同じ類いのものだと考え、「当然そうあるべき道理」というものを基準に、神のあり方を推し量るのは、たいへんな誤りである。悪く邪な神は、何事も道理に外れた行いが多い。また、善い神だからといっても、その位に応じては、正しい道理どおりでばかりはいられないこともあるはずで、何かに触れてお怒りになるときなどは、荒々しく振る舞われることもある。悪い神も、喜べば心が和らぎ、幸いを与えることが、まったくないわけではないだろう。また、人には、そうとは分からなくても、その行いが、さしあたりは悪いと思われても、実際には吉く、善いと思われても、実際には凶いという道理も、あるだろう。およそ、人の知恵には限りがあり、本当の道理は知ることができないのだから、いずれにしても、神のあり方を、みだりに推し量って論じるべきではない。〕まして、善い神でも悪い神でも、たいへん尊く、並外れた神々の御事となれば、この上なく不思議で、霊妙でいらっしゃるので、人の小さな知恵で、その道理などを推し量って知ることは、とうていできない。ただ、その尊さを尊び、畏れ多さを畏れているべきなのである。
【宣長の注釈】〔「かみ」に「神」の字を当てたのは、よく合っている。ただし、「かみ」というのは名詞なので、直接、そのものを指していうだけで、その出来事や働きなどを指していうことはない。これに対して、中国で「神」というと、ものを指すだけでなく、その出来事や働きなどを指してもいい、存在そのものにも、その作用にも使う。たとえば、中国の書物で「神道」というのは、測りがたい、不思議な道ということであり、その道のありさまを指して「神」というのであって、道とは別に、神というものがあるわけではない。それなのに、わが国で「かみのみち」というと、神がお始めになり、行われる道ということであり、その道のありさまを「かみ」ということはない。もし、「かみなる道」といえば、中国の意味のようにもなりそうだが、それでも、直接、その道を指すのであって、そのありさまをいうことにはならない。『日本書紀』に「神剣」「神亀」などとある「神」の字も、漢文の意味で、その働きを指していうのであって、不思議な剣、不思議な亀ということだから、「かみ」と読むべきではない。もし、「かみだち」「かみがめ」などと読むと、直接、剣そのものや亀そのものを指して、「かみ」と名付けることになるのである。〕
【宣長の注釈】〔およそ、日本の言葉の意味と、漢字の意味とは、完全には合いにくいものが多い。一部には合わない点があっても、おおよそ合うところを取って、字を当てたものなので、その合わない点があることを、よく理解して、区別すべきである。また、中国の書物に、「陰陽の働きの、測り知れないものを神という」、あるいは「気が伸び広がるものを神といい、屈して縮むものを鬼という」などとある類いをもとに、「かみ」を考えてはならない。このように、賢しらにものを説くのは、かの国の人の癖なのである。〕「名」という言葉の由来は、遠つ飛鳥宮の段の、「氏々、名々」とある箇所で述べよう。〔『伝』巻三十八、三十二葉。〕
【宣長の注釈】「天之御中主神」について。「御中」は、「真ん中」というようなことである。およそ、「ま」と「み」とは、もともと通じる言葉だが、少し後には分かれ、「み」は尊ぶ意味に使うようになった。〔「御」の字を書くのも、この意味である。ただし、この字は中国では、王に関わることに限っていうが、こちらで「み」というのは、天皇に関わることに限らず、普通の人にも、どんなものにも使う言葉である。〕「ま」は、美しく立派なものとして呼ぶ場合、程度を強めていう場合、完全であることをいう場合に使う。しかし、古い言葉の残ったものでは、やはり通わせて使い、「まくまの」とも「みくまの」ともいう類いが多い。また、「ま」というはずのところを「み」というのも、「みそら」「みゆき」「みち」など、多くある。「みなか」も、この類いである。天だけでなく、「国の御中」「里の御中」なども、『万葉集』の歌にある。〔普段の言葉で「まんなか」というのも、「まなか」である。およそ「ま」を、さらに強めていおうとして、「まん」と「ん」を添え、また「まっ」と詰めるのは、普段の言葉でよくあることである。〕また、「もなか」というのも、「まなか」が変化したもので、『日本書紀』天武天皇の巻には、「天中央」とある。〔この字からも、ここの「御中」の意味が分かる。〕
【宣長の注釈】「主」は、「大人」と同じ言葉で、「のうし」が縮まったものである。〔「うし」を「主人」と書く例も見える。『日本書紀』の、継体天皇のお父君「彦主人王」、また『続日本紀』の「阿倍朝臣御主人」などが、それである。これらは、今は読みを誤っている。〕それで、昔、「うし」は、必ず「某のうし」と、「の」を加えた形でいった。「ぬし」は、「某ぬし」と直接つなげ、「の」を加えない形でいった。「飽咋之宇斯能神」「大背飯之三熊之大人」「大国主神」「大物主神」「事代主神」「経津主神」などのようなものである。また、『日本書紀』に、「斎主神、号は斎之大人」と見える。〔これは、「斎主神」というのは、その神の名で、「斎之大人」というのは、そのときの祭りに関する役目の名のようなものである。その役目の名を、そのまま神の名として、「斎主神」というのである。それならば、役目の名が先にあり、神の名になったのは後である。それなのに、この文は、後の時点からいっているため、前後が紛らわしく聞こえるようである。〕また、「丹波美知能宇斯王」を、『日本書紀』では「道主王」と記す。これらから分かるだろう。〔「ぬし」にも「の」を添えて「某のぬし」といったり、また、ただ「ぬし」とだけ、初めにいったりするのは、みな後のことである。『万葉集』巻十八、天平勝宝元年の歌に、ただ「ぬし」とあるので、そのころから、そういう言い方もあったのだろう。また、「主」の字を「うし」に当てず、「ぬし」に当てるのは、「のうし」というよりも、縮めて「ぬし」といった言葉が、昔から多かったためだろう。しかし、もとを正していえば、「主」の字だけなら、「うし」と読むのが道理である。〕
【宣長の注釈】さて、「うしはく」というのも、その場所の主として、領有し、そこにいることである。〔「うしはく」については、『伝』巻十四で詳しく述べる。〕それゆえ、この神は、天の真ん中にいらっしゃって、世の中の主である神、と申し上げる意味のお名前なのだろう。〔ある説で、この神を臣下の祖先だといい、また、国常立尊の配偶者で、皇后であるなどというのは、勝手に考えた、とりとめのない説である。おおかた、近ごろは、このような誤った説が、たいへん多い。決して惑わされてはならない。〕
【宣長の注釈】割注の「訓高下天云阿麻、下效此」とは、「高天原」を「たかまのはら」と読むべきことを示している。およそ「天某」とあるものには、四つの読み方がある。一つ目は「あめの某」、二つ目は「あまの某」、三つ目は「あめ某」、四つ目は「あま某」である。ところが、世間では、この四つの読みを取り違えることがあるために〔「あめのかぐやま」を誤って「あまのかぐやま」という類いである〕、このような注がある。その注の付け方は、「あめの」と読むものには注を付けない。「あめ某」と直接つなげ、「の」と読むべきでないものには、「天を読むこと、天のごとし」と注し、「あまの」と読むものには、この箇所のように注している。〔「あま某」と読むための注は見えない。それは、たまたま『古事記』の中に、そのように注すべき箇所がないためなのだろうか。〕さて、「あま」は、「たか・あま」と続くと、「たか」の「か」にアの音があるため、自然と「たかま」と読まれるのである。〔ある人が、これを疑い、普通どおり「たかま」と読むのなら、「麻という」と注すべきなのに、「阿麻という」とあるのは、「たかあまのはら」と読むためなのだろうか、というのは、かえってよくない。「高天」と続けると「ま」となるけれども、注は「天」の一字を切り離していうために、「あま」なのである。その例は、後にある「八咫鏡」の注で、「咫は阿多と読む」とあっても、やはり「やた」と読むのが、それである。これも、「や」にアの音があり、ここと同じだからである。〕「高の下の」というのは、「天之御中主」の「天」の字もあるために、区別していうのである。「下效此」は、「高天原」とあるものは、後のどこでも、このように読め、ということである。
【宣長の注釈】「次」について。「つぎ」は、「つぐ」という動く言葉が、名詞になったものである。〔およそ言葉には、体と用との違いがある。「体」とは形の動かないもの、「用」とは活用するものをいう。その体の言葉には、もともと名詞であるものと、活用する言葉が名詞になったものとがある。はるかな上代には、活用する言葉が多く、名詞は少なかったが、時代を経て、人の言葉が多くなるにつれて、活用する言葉が分かれ、名詞にもなったものが、たいへん多いのである。〕「つぐ」は、「つづく」とも同じ言葉なので、「つぎ」も、「つづき」というのと同じである。さて、そこには縦と横との違いがある。縦は、たとえば、父の後を子が継ぐ類いであり、横は、兄の次に弟が生まれる類いである。『古事記』の中で「次」とあるのは、みな、この横の意味である。それゆえ、ここの「次」をはじめ、後に「次に妹伊邪那美神」とある「次」まで、みな同じ時代のことであり、引き続き、順々にお生まれになることは、兄弟の順序のようなものである。〔父子の順のように、前の神の御代が過ぎ、次に後の神へと続くのではない。取り違えてはならない。〕
【宣長の注釈】「高御産巣日神」と「神産巣日神」について。「高御産巣日神」は、『日本書紀』に「高皇産霊尊」とあり、「皇産霊は美武須毘〔みむすび〕という」と注し、『古語拾遺』には「古い言葉で、多賀美武須比〔たかみむすび〕」、『新撰姓氏録』には「高弥牟須比命」などとあるので、読みが分かる。〔「たかんすび」などと唱えるのは、音が変化した、後世のなまりである。〕お名前の意味は、「高」は尊んでいう呼び名なのだろう。別のお名前も「高木神」と申し上げる。〔後に見える。〕「御」も、尊んでいう言葉である。「神産巣日神」は、『日本書紀』には「神皇産霊尊」とあり、「皇」という一言が多い。まさしく「高御産巣日」と対になるお名前なので、こちらも、必ず「神御」とあるべきである。ところが、『延喜式』の出雲国造の神賀詞でも「高皇魂・神魂命」、また、祈年祭の祝詞でも「神魂・高御魂」、御巫が祭る八座の神の中でも「神魂神・高御魂神」〔『三代実録』巻二に出るものも、これと同じである〕とある。これらでは、この二柱を並べて挙げたものに、どれも「神魂」の方には「御」の字がない。『姓氏録』では、多くの箇所に出る中で、「神御魂」ともあるが、多くは「神魂」とある。そこで考えると、およそ古い言葉では、同じ音が二つ重なるものを縮め、一つにしていう例が、あちこちにある。〔「倭迹々日」という皇女のお名前を「夜麻登々」とも記し、また「たびびと」を「たびと」という類いである。〕これも、「かみみ」と「み」が重なるため、多くは縮めて、そう申し上げ慣れているのである。それゆえ、「かみ」の「み」には「御」の意味が含まれる。「神」の字は「かみ」と読むべきである。〔「かみみ」を縮めても、「かむみ」を縮めても、ともに「かみ」となるからである。「かむ」と読んだのでは、「御」という言葉が含まれない。ただし、『日本書紀』などのように「神皇」とあるときには、「神」を「かむ」と読むべきである。また、「神皇」「神御」とも、二字をまとめて「かみ」と読んでもよいかもしれない。〕
【宣長の注釈】〔お名前の意味は、「神御」は「高御」と対になる呼び方である。〕「産巣日」について。この名の文字は、みな音を借りたもので、「むす」は「生す」、およそ物が生まれ出ることをいう。また、「苔むす」などという「むす」であり、「生む」という言葉である。〔『万葉集』に「草むさず」などもある。〕それゆえ、「産」の字は、意味に合った字と見てもよい。『日本書紀』に「産霊」と書き、また「産日」とも書く例があるからである。「ひ」と申し上げるのも、およそ物の霊妙で不思議なことを「ひ」という。〔「くしび」の「び」も、これである。〕高天原にいらっしゃる天照大御神を、この地上から仰ぎ見申し上げて「日」と申し上げるのも、天と地の間に比べるものもないほど、最も霊妙でいらっしゃるためのお名前である。「ひこ」「ひめ」などの「ひ」も、霊妙であることを表す、尊んだ呼び名である。また、「禍津日」「直毘」などの「び」も、この意味である。それゆえ、「むすび」とは、およそ物を生み成す、霊妙な御霊を申し上げるのである。〔以前は、この「び」を、「神さび」「荒び」などの「び」と同じで、「ぶる」とも活用し、「めく」というのに似ているから、「むすび」とは、生もうとするありさまをいうのだ、と思っていた。しかし、それは誤りである。あの「ぶる」と活用する「び」とは異なる。そのため、仮名の字も、あちらは「備」を書き、こちらは、みな「毘」を書いている。〕このほかに、「火産霊」「和久産巣日」「玉留産日」「生産日」「足産日」「角凝魂」などと申し上げるお名前もあるが、「むすび」の意味は、みな同じである。
【宣長の注釈】さて、世の中にある、あらゆることは、この天と地をはじめ、すべての物も、営みも、ことごとく、この二柱の産巣日大御神の、生み成す力によって生まれ出るものである。〔さて、その、実際に物語に現れている跡から、一つ二つ挙げてみよう。まず、伊邪那岐神・伊邪那美神が、国土や万物、神々を生み成された、その初めは、天つ神のお命じによる。その天つ神というのは、ここに見える五柱の神々である。また、天照大御神が天の石屋にお隠れになったときも、皇孫命が天降られるに当たり、この国を平定する神をお遣わしになるときも、そのことを思い巡らされた思金神は、この神の御子である。また、この国を造り固められた少名毘古那神も、この神の御子である。また、忍穂耳命の妻となり、皇孫命をお生み申し上げた豊秋津師比売命も、この神のお姫様である。また、この国の荒ぶる神々を服従させたことも、皇孫命が天降られたことも、みな、この神のお命じによる。おおよそ、これらから、世の中に、さまざまな物が生じ、営みが成り立つのは、みな、この神の生み成す力の恵みによることを、考えて知るべきである。およそ、世の中にある事のあり方は、神代にあった跡をもとに考えて知るべきである。昔から今に至るまで、世の中の善い事、悪い事が移り変わってきたありさまなどを確かめると、みな、神代のあり方に違わない。これから先、万代の後までも、推し量ることができるだろう。さて、また、右に挙げた事を、さらによく考えると、天照大御神と、この神とがお並びになって、お言葉を仰せになり、さまざまな事が成り、大穴牟遅命に少名毘古那神が相並んで、国が成り、忍穂耳命に豊秋津師日女命が配偶者として並んで、皇孫命がお生まれになった。これらは、どれも相並ぶ神があって、この神の生み成す力の働きが、同じように成就している点にも、深い道理があるのだろう。また、『日本書紀』に、この神の御子が千五百座あった、とある。「千五百」は、ただ、数の限りなく多いことをいう例なので、あらゆる神々を、みな、この神の御子といっても、違わない。神も人も、みな、この神の生み成す力から生まれ出るからである。『拾遺集』の歌に、「あなたを見ると、生み結ぶ神が恨めしい。つれない人を、どうしてお造りになったのだろう」と詠むのは、そのころまでは、まだ世間の人も、古い意味をよく知っていたのである。『狭衣物語』で、「これほどまでにつれなく造り置き申されたのだろう、生み結ぶ神までが恨めしくなったので」といっているのは、あの『拾遺集』の歌に基づいていったのである。〕
【宣長の注釈】それゆえ、世の中には神々が多くいらっしゃるけれども、この神は、とりわけ尊くいらっしゃり、生み成す力の恵みは、改めて申し上げるまでもないので、数ある中でも、仰ぎ奉り、崇め奉るべき神なのである。〔それなのに、『日本書紀』の初めに、この神が挙げられていないのは、たいへん不十分である。「一書」は一書であって、本書とは別のものなのに、本書では、末の方になって、突然お出ましになるのも、どうかと思われる。この神は、ほかの神々と同列に、そう突然に挙げ申し上げるべき神ではないので、必ず、この『古事記』のように、初めに挙げ申し上げておくべきである。また、代々の物知りたちも、ただ『日本書紀』ばかりをよりどころにして、この『古事記』などをよく見ず、国常立神だけを、この上ない神のように、声を大きくして言い立て、この産巣日神の恵みを、それほど明らかにしないのは、物事の意味を深く考えない誤りである。上代から、この神こそ、朝廷でも、とりわけ崇め祭ってこられた。あの国常立神は、特別にお祭りになったことも聞かず、諸国の神社の中にも、ほとんど見えないのである。〕
【宣長の注釈】さて、この大御神は、このように二柱いらっしゃるが、『古事記』の中で、その御事を記すときには、二柱が一緒にお出ましになる箇所がなく、あるときは高御産巣日神、あるときは神産巣日御祖命と、それぞれ、一柱だけがお出ましになる。お名前は違っても、まるで同じ神のように聞こえる。そもそも、このように、二柱であって一柱のようであり、一柱かと思えば二柱であり、その違いが、はっきりしないことには、たいへん深い理由があるのだろう。さて、『古語拾遺』などでは、高御産巣日神を「神魯伎命」、神産巣日神を「神魯美命」としている。また、『和名抄』では、「産霊」と見出しを立て、「むすびのかみ」とある。〔ある書物で、この二柱の産巣日神を、天之御中主神の御子とするのは、例の、当て推量による、いい加減な言い方である。〕
【宣長の注釈】『日本書紀』神武天皇の巻には、天皇がご自身で「顕斎」を行い、高皇産霊尊をお祭りになったこと、また、鳥見山の中に祭りの場所を設け、皇祖の天つ神をお祭りになったことが見える。『神名帳』では、「神祇官にいらっしゃる、御巫が祭る神八座」〔いずれも大社。月次祭と新嘗祭の対象〕の初めに、「神産日神・高御産日神」とある。この八座の神々をお祭りになることは、神倭伊波礼毘古天皇の御代から始まったことが、『古語拾遺』に見える。このほかにも、この神を祭る社は、『神名帳』に、山城国乙訓郡の「羽束師坐高御産日神社」〔大社。月次祭・新嘗祭〕、大和国添上郡の「宇奈太理坐高御魂神社」〔大社。月次祭・相嘗祭・新嘗祭〕がある。『日本書紀』持統天皇の巻で、新羅からの貢ぎ物をお納めになった五社の中に、「菟名足」とあるのは、この社である。また、『三代実録』に「法華寺薦枕高御産柄日神」とあり、正三位、また従二位をお授けになったものも、この社である。〔十市郡の「目原坐高御魂神社」二座は、いずれも大社で、月次祭・新嘗祭の対象。〕また、対馬の下県郡の「高御魂神社」〔名神大社。『日本書紀』顕宗天皇の巻、十五葉と考え合わせるべきである〕がある。『山城国風土記』には、「久世郡の水渡の社。名は、天照高弥牟須比命、和多都弥豊玉比売命」〔『神名式』には「水度神社三座」とある〕、『三代実録』〔巻十二〕には、大和国の「神皇産霊神」などが見える。〔訳注:「顕斎」の詳しい意味は、ここでは確定できていない。〕
【宣長の注釈】「三柱」について。およそ昔は、神も人も、数えていうときは、「何柱」といった。神は、もとよりのことであり、皇子たちなども、そういうのは、『古事記』の中では普通のことである。少し後には、『三代実録』〔巻十一〕の清和天皇のお言葉に、「太政大臣一柱」と仰せになり、『うつほ物語』〔藤原の君の巻〕で、大将である人の娘たちのことをいうのに、「もう一柱は」といっている。みな、身分の高い人のことについてである。〔『日本書紀』に「仏像一躯、二躯」などとあるものも、「一はしら、二はしら」と読んでいる。『落窪物語』にも、「仏一はしら」「仏九はしら」などがある。また、『文粋』の前中書王の文に、「白檀の観世音菩薩一柱」とあるのは、漢文では珍しい。さて、また、称徳天皇の宣命には、「二所の天皇」とあり、中古の歌物語などでも、高貴な人は、みな「何所」といった。今の世の普段の言葉で、「お一方、お二方」というようなものである。〕さて、このように、ことさら「柱」という理由は、詳しく分からない。しかし、まず上代には、宮を造ることをいうのに、「地の底の岩まで、宮の柱を太くしっかり立てて」とたたえ、あるいは、柱は高く太く、などともいい、大殿祭の祝詞などでも、柱のことを中心にいう。また、『日本書紀』の袁祁御子の、新しい建物を祝うお言葉でも、「築き立てた柱は、この家の主の御心の鎮まりである」と、まず仰せになる。そのほか、神代の初めに、男女の大神が天の御柱を巡られたことをはじめ、柱をいうことが多く、後には、神宮で「心の御柱」などということもある。そうして、柱は、たくさん並び立つものなので、もとは、皇子たちなどが多くお並びになるのを祝って、「何柱」と、たとえて申し上げたのだろうか。
【宣長の注釈】祝ってたとえた例は、『万葉集』巻二に、「真木の柱のように、太くしっかりした心の人は」といい、大きくて動かない心にたとえている。また、巻二十には、「真木の柱をたたえて造った御殿のように、いらしてください、お母様、顔色も変わることなく」などとある。また、多く並び立つものを木にたとえた例は、同じ巻二十に、「松の木が、並び立っているのを見ると、家の人たちが、私を見送ろうとして」〔松の木が並んでいるのを見ると、家の人が、私を見送ろうとして立っていたようだ、ということである〕とある。〔『私記』に、「おそらく昔、高貴な人を木にたとえたため、一柱、一木といったのである。身分の低い人を草にたとえたため、青人草というのである」といっているが、この説はよくない。〕
【宣長の注釈】「並」は、「みな」と読むべきである。〔字書には、「皆である」とも、「ともにある」とも、「合わせる」とも、「並ぶ」とも注している。これを「ならびに」と読むのは、古い言葉のあり方ではない。〕「独神」とは、次々に、男女一対でお生まれになる神々と区別して、ただ一柱ずつお生まれになり、配偶者として並ぶ神のいないことを申し上げるのである。同じ親から生まれた兄弟のない子を、「ひとり子」というようなものである。〔「神」の下に、「と」という言葉を添えて読むのは、よくない。〕
【宣長の注釈】「隠身也」とは、お体を隠して、目に見える形では現れないことをいうのである。〔お体の形がないことを、このようにいうのだと理解するのは、後世の中途半端な賢しらである。少名毘古那神について、神産巣日命が、「わが手の指の間から漏れ落ちた子である」と仰せになったことを思うべきだ。お体がなくて、お手があるはずがあろうか。この、手の指の間のことを、世間の人は、どのように考えるのだろう。およそ、神代の昔の出来事を、仮に作ったたとえ話のように見るのは、例の、中国の考え方にとらわれる癖であり、古い伝えの意味に、たいへん背いているのである。〕
【宣長の注釈】上に挙げた三柱の神は、どのような道理があって、何の生み成す力によってお生まれになったのか、その伝えがないので、知ることは難しい。それは、最も不思議で、霊妙な道理によって、お生まれになったのだろう。しかし、それは、考えでも言葉でも、とうてい及べないことなのだから、もともと伝えがないのも、もっともなのである。〔およそ、古い伝えのない事について、自分の考えで、その道理を考え、当て推量で説くのは、外国の習わしで、たいへん根拠のない行いである。〕また、この神々は、天と地よりも先にお生まれになったのである。天と地が成るのは、この次にあるのだから、この神々がお生まれになったのは、それより前だと分かる。ただ、何もない空間の中に、お生まれになったのだろう。〔『日本書紀』の一書に、「天地が初めて分かれるとき、物が空間の中にあった」、また、一書に、「天地が初めて分かれるとき、葦の芽のような物が、空間の中に生じた」などとあることから、推し量って分かる。〕まだ、天も地もない以前は、どこもすべて、何もない大きな空間だった。空間を、そのまま天とするのは、中国の書物の習わしである。天は、空間をいうのではない。なお、天と空間とは別であることは、『伝』巻十七の二十七葉に述べた。
【宣長の注釈】「高天原に成る」と、ことさらにいうのは、後に天と地が成ると、そのお生まれになった場所が高天原となり、後まで、その高天原にいらっしゃる神だからである。〔もとから高天原があって、そこにお生まれになった、というのではない。〕『日本書紀』の一書には、「天地が初めて分かれるとき、初めて、ともに生まれる神があった…」といい、また、「高天原に生まれた神の名は、天御中主尊、次に高皇産霊尊、次に神皇産霊尊」とある。
【古事記本文】次に、国がまだ若く、浮いた脂のようで、くらげのように漂っていたとき、〔「流」の字まで、十字は音を表す。〕葦の芽のように萌え上がる物によって生まれた神の名は、宇麻志阿斯訶備比古遅神。〔この神の名の文字は、音を表す。〕次に、天之常立神。〔「常」は「とこ」、「立」は「たち」と読む。〕この二柱の神も、一柱ずつ、配偶者のない神としてお生まれになり、お姿を隠された。以上の五柱の神は、特別な天つ神である。
【宣長の注釈】「次」は、後の「成神」にかかっている。〔「国稚…」にかかっていうのではない。〕「次に生まれた神の名は、国之常立神」などとあるのと、同じである。そのほかも、前後は、みな「次に某神」という形なのに、ここでは、そのお生まれになる事情から述べるために、言葉が間を隔てているのである。
【宣長の注釈】「国稚」について。「稚」は「わかく」と読むべきである。〔『日本書紀』では、「わか」というのに、みな、この字を使っている。ただし、この『古事記』では、およそ「わか」には「若」の字を使い、「稚」を書く例がないので、ここは「わかく」ではないのかもしれないとも思うが、ほかに読むべき言葉を、まだ思い付かない。『日本書紀』の一書の、「国稚、地稚の時」とあるものを、「くにいし、つちいしのとき」と読むのを、忌部正連の『口決』では、「うひし」であると説明している。「うひ」を縮めれば「い」となるので、そうかもしれない。しかし、「いしのとき」といっては、言葉のつながり方が合わない。およそ、このような活用する語から「の」と続くことは、昔はなかったと、師がいわれたとおりである。また、「の」を省いて、「いしとき」といっても、やはり合わない。もし、「うひし」という意味なら、「国いしく、地いしき時」と読むべきである。しかし、この言葉は、ほかに見えず、また『日本書紀』でも、「稚」の字は「わか」というのにだけ使い、ほかの読みは、これ以外に見えない。いずれにしても、あの読みは、はっきりしない。〕「わかし」とは、およそ物が、まだ成り整っていないことをいい、『日本書紀』などでは、「幼」の字にも、この読みを付けている。中古の物語書などでも、人の幼いことにいう例が多い。『万葉集』では、三日月を「若月」とも書く。〔月の形が、まだ満ちて整っていないという意味で、「若」という字を書くのである。〕『日本書紀』推古天皇の巻には、「肝稚」という言い方も見える。〔また、物が盛んで美しい方にいうこともある。美しく立派な呼び名として、「若某」という類いである。これは、まだ成り整っていないことをいうのとは、大きく違うようだが、もとは、一つの意味である。〕さて、国土は、伊邪那岐・伊邪那美大神が、初めて生み成されたので、このときには、まだ、そういう物はない。それなのに、このようにいうのは、出来上がった後の名を借りて、その始まりのありさまを語っているのである。
〔訳注:「和詞久」「和詞志」などの音仮名の「詞」は、「訶」との字形の区別を確定できていない。「わかく」「わかし」という音を表す仮名として示した。〕
【宣長の注釈】「浮脂」は、「うきあぶら」と読むべきである。「浮き雲」「浮き草」などという類いの呼び名であり、物の脂が水に浮いているものを、昔は、こう呼んだのである。〔「うかべるあぶら」と読むのは、よくない。〕「脂」は、『和名抄』に、〔形体部・肌肉類〕「脂膏、和名は阿布良〔あぶら〕」、また〔灯火具の項に〕「油。『四声字苑』には、油は、麻を搾って脂を取ったものであるという。和名は阿布良」とある。さて、脂にたとえた例は、朝倉宮の段で、天皇のお杯に、槻の葉が落ちて浮いているのを、三重の采女が歌で、「浮いた脂」と詠んでいる。〔お杯のお酒の上に、木の葉が浮いていた形をもとに、今、ここのありさまを思い合わせるべきである。〕そもそも、この段は、天と地が成る、その始まりをいっており、まず、その初めに、この物が、ひとかたまりになって生まれ出たのである。〔これを「浮いた脂のようだ」とたとえたのは、ただ、その漂うありさまが似ているためである。その物自体を、脂のような物だというのではない。『日本書紀』の伝えでは、魚にも雲にもたとえていることから、分かる。一書には、「その姿形は言い表しがたい」とあるとおり、その物の正確な形は、言い表しがたいのだろう。〕
【宣長の注釈】「くらげなす」は、「ただよへる」にかかる枕詞である。〔これは、浮いた脂に似た物の、漂うありさまをたとえていう言葉ではない。それは、すでに「浮いた脂のように」といっているからである。もし、「浮いた脂のような物」とあったなら、浮いた脂は、その形をたとえ、くらげは、その漂うありさまをたとえたともいえるだろうが、そういう文の形ではない。〕くらげは、『和名抄』に、「崔禹錫の『食経』には、海月は、一名、水母。その形は、月が海の中にあるのに似ているので、これを名とするという。和名は久良介〔くらげ〕」とある。この物は、海の中を漂って行くもので、その形は、昼の晴れた空に、月が白く見えるのに、たいへんよく似ていて、まことに「海月」と名付けるにふさわしいありさまのものだという。「なす」は、「ように」という意味であり、門人の稲掛大平は、「似す〔似せる〕」ということなのだろうといっている。そうであるのだろう。〔「な」と「に」とは通じる音であり、さらに「なす」を「のす」ともいう例があることと、『和名抄』の備中国の郷名に、「近似、知加乃里」と見え、また「似」を漢籍で「のり」と読むことなどを、合わせて考えると、「似せる」という「なす」といってよいだろう。〕この言葉は、倭建命のお言葉に、「私の足は、たぎしの木のような形になった」と仰せになり、軽太子のお歌には、「鏡のような、私の思う妻」などと見える。『万葉集』では、巻三に「五月の蠅のように騒がしい舎人」、巻五に「五月の蠅のように騒ぐ子どもたち」、巻二に「鶉のように、かしこまって巡り」、巻三に「泣く子のように、慕っておいでになって」などとあり、さらに多い。また、歌でない普通の言葉に、枕詞を置く例は、『日本書紀』神代の巻に、「真髪触、奇稲田姫」、神功皇后の巻に、「はたすすき、穂のように現れた私である」、また、「あまさかる、向津姫命」、履中天皇の巻に、「鳥の通う、羽田の、あなたの妹」、『三代実録』に、「こもまくら、高御産巣日神」など、昔は多かったのである。
【宣長の注釈】「ただよへる」は、『日本書紀』に「漂蕩」とあるとおりの意味である。〔『日本書紀』では、「くらげなす」という言葉を省いている。このことからも、枕詞だと分かる。『私記』には、この「漂蕩」の二字を、「くらげなすただよへり」と読むべきだという論議がある。『上宮記』『大倭本紀』などという古い書物にも、この「くらげなす」という言葉があるという。〕『万葉集』でも、この字を書いている。「琉」の下にある「之」の字は、読んではならない。〔読むのは誤りである。〕
【宣長の注釈】さて、この物が、このように漂っていたのは、どのような場所かといえば、何もない空間の中である。次に引用するとおり、『日本書紀』に「虚中」とも「空中」ともあるのを見て、知るべきである。〔それなのに、「浮いた脂のように」といい、「くらげなす」などともあることから、この物が海の上に漂っていたと理解するのは、大きな誤りである。これは、まだ天と地が成っていないときで、海もないのだから、ただ、空間に漂っていたのである。そうして、海になるはずの物も、この漂う物の中に含まれているのである。〕『日本書紀』には、「世界の始まりに、国土が浮いて漂い、たとえば、魚が水の上に浮いて泳ぐようだった…」、一書には「天地が初めて分かれるとき、一つの物が空間の中にあった。その姿形は言い表しがたい…」、一書には「昔、国も地もまだ若いとき、たとえば、浮いた脂のように漂っていた…」、一書には「天地がまだ生まれないとき、たとえば、海上の浮き雲のように、根をつないで留まる所がなかった…」とある。これらと引き合わせ、そのときの形やありさまを、細かく見分けて知るべきである。〔「開闢の初め」、また「天地が初めて分かれるとき」などとあるのは、この『古事記』の初めに、「天地の始まりのとき」とあるのと同じで、ひとまず、ただ、大まかに、この世の初めといい出したものである。「天地がまだ生まれないとき」というのは、少し詳しくいったのである。さて、「洲壌…」は、この『古事記』の「国がまだ若く」に当たり、「泳ぐ魚のように…」、また「姿形は言い表しがたい」、また「海上の浮き雲のように…」などは、「浮いた脂のように」というのに当たる。それゆえ、伝えごとに、それぞれ少し違うようだが、よく考えれば、その形やありさまは、みな同じである。〕
【宣長の注釈】さて、この、浮いた脂のように漂っていた物は、何であったかといえば、これこそ、天と地になるはずの物である。その、天になるはずの物と、地になるはずの物とが、まだ分かれず、一つに混じり合って、混沌としていたのである。『日本書紀』の一書に、「天地が混じり合って成るとき」とあるのが、それである。〔「混」とは、まだ分かれず、混じって、混沌としていることであり、この、浮いた脂のような物が、初めて生まれ出たことを、「混成」というのである。ある人が、こう尋ねた。「天になるはずの物、ということが分からない。天には実際の形がないのだから、その初めから、物があるはずもない。どうなのか」。答え。「天は、そのまま高天原なのだから、実際の形があることは、いうまでもない。仰ぎ見て見えないのは、ただ遠いために、目の力が及ばないからである。それなのに、天は、ただ気だけだといったり、あるいは、道理についていったものだなどというのは、みな、外国の推測による説であり、古い伝えの趣旨に、たいへん違っている」。また、問い。「それなら、まだ分かれていなかった間、天になるはずの物は、何であったのか」。答え。「天になるはずの物は、どのような物だったのだろう。伝えがないので、知るのは難しい」。また、問い。「地になるはずの物は、何であったのか」。答え。「潮に泥が混じり、濁った物であった。これは、後に、男女の大神が、沼矛を下に差し入れてかき回すと、潮が、こをろこをろと…、と見え、『日本書紀』にも、天の瓊矛を下に差して探ると、青い海に届いた、とあることから、分かる。さらに詳しくは、その段で述べよう」。〕
【宣長の注釈】割注に「以音」とあるのは、その字の意味を取らず、ただ音だけを借りて使うことをいう。すなわち、仮名である。「以」は「用いる」という意味で、「もちふ」と読むべきである。『古事記』の中にあるものは、みな同じである。
【宣長の注釈】「葦の芽のように」について。「葦」は、『和名抄』に、「蘆葦。『兼名苑』には、葭は一名、葦というとあり、『爾雅』の注には、一名、蘆という。和名は阿之〔あし〕」と見える。「葦牙」は、「あしかび」と読むべきである。〔『日本書紀』でも、そう読んでいる。ただし、「び」を清音にして、「い」のように読むのはよくない。また、「か」を濁らせるのもよくない。お生まれになる神のお名前の「かび」を、両方とも濁らせるのは、煩わしい。〕葦が、ようやく生え始めたものをいう名である。「牙」の字は「芽」と通じる。『和名抄』には、「『玉篇』には、〔字形判別を留保する字〕は葭のことであり、葭は、蘆の生え始めたものだという。和名は阿之豆乃〔あしづの〕」とある。〔葦が生え始めるのを「つのぐむ」というため、「葦角」ともいうのである。〕これが「葦牙」である。さて、「ように」というのは、ここでは、その物の形が、葦の芽に似ていたのである。ただ、萌え上がるありさまだけが似ているのではない。〔それで、『日本書紀』でも、「形は葦の芽のようだ」とも、「葦の芽のような物がある」とも記す。あの「浮いた脂」が、ただ、漂うありさまだけをたとえたのとは、少し違う。〕これによってお生まれになる神のお名前にまで、それをお付け申し上げたことから、たいへんよく似ていたことが分かる。
【宣長の注釈】「萌騰之物」は、「もえあがるもの」と読むべきである。〔「之」の字は、読んではならない。〕『万葉集』巻十に、「春の柳は、目にも萌えていて」、また「この川柳は、萌えたことだ」などと詠んでいる。〔木や草の茎、また葉が、わずかに出始めたものを「め」というのも、「もえ」が縮まった名なのだろう。また、「めぐむ」も、「もえぐむ」なのだろう。〕「あがる」という言葉は、『日本書紀』神武天皇の巻に、「一柱騰宮、これを阿斯毘苔徒鞅餓離能宮〔あしひとつあがりのみや〕という」などとある。
【宣長の注釈】「物」は、天になるはずの物である。さて、この物は、どこから萌え上がったのかといえば、あの、空間の中に漂う、浮いた脂のような物の中から出たのである。あの『日本書紀』の一書に、「一つの物が空間の中にあり、その姿形は言い表しがたい。その中から、自然に生まれた神があった…」〔「その中」とあることを考えるべきである〕、一書に、「そのとき、国の中に物が生まれ、その姿は、葦の芽が抜き出てくるようだった。これによって生まれた神があり、可美葦牙彦舅尊と名付けた…」〔「国の中」とは、そのまま、「浮いた脂のように漂っていた」という物の中である〕、一書に、「たとえば、海の上の浮き雲のように、根をつないで留まる所がなく、その中に一つの物が生まれ、葦の芽が、初めて泥の中に生えるようだった」などとあることから、分かる。さて、これは天の始まりであり、このように萌え上がって、ついに天となったのである。〔このことから考えると、「あめ」という名は、「あしもえ」が縮まって、「し」が省かれたのだろうか。葦は、ただ、たとえとしていったものだが、お生まれになる神のお名前にも付けていらっしゃるからである。また、友人の横井千秋は、「『あめ』とは、『あをみえ』の『を』を省き、『みえ』を縮めたものなのだろうか。それは、この国土からは、ただ青々と見える、そのありさまによって名付けたのだろう。昔から、この国でも外国でも、天を青いものとしていうことが多い。また、『あを』という色の名も、もとは天から出たのだろうか」といっている。この考えも、もっともなことである。〕
【宣長の注釈】そもそも、あの、浮いた脂のような物は、天と地とが、まだ分かれず、ひとまず、一つの混沌としたものになったのである。その中で、天となるはずの物は、今、萌え上がって天となり、地となるはずの物は、後に残って留まり、後に地となったのだから〔地が成るのは、男女の大神の段である〕、これこそ、まさしく、天と地が分かれたのである。『日本書紀』の一書には、「葦の芽のような物が、空間の中に生まれた。これによって生まれた神を、天常立尊、次に可美葦牙彦舅尊と名付けた。また、浮いた脂のような物が、空間の中に生まれた。これによって生まれた神を、国常立尊と名付けた」とある。ここで、葦の芽のような物によってお生まれになる神は「天常立」、浮いた脂のような物によってお生まれになる神は「国常立」と申し上げることから、天と地とに分かれたことを、知るべきである。
【宣長の注釈】〔ただし、ここで、浮いた脂のような物と、葦の芽のような物とが、もとから別々に生まれるようにいうのは、少し異なる伝えである。しかし、天と地とが分かれたことは、この伝えで、とりわけはっきり分かる。ある人が、こう尋ねた。「この一書は、まことに天と地との始まりが明らかなのに、あの、浮いた脂のような物一つをもって、天と地の始まりとするのは、少し疑わしい。もし、あの物が、天と地との始まりを兼ねて含んでいたのなら、初めに、天も地も若い、などとあるべきなのに、天をいわず、ただ国が若い、とある。それなら、あの物は、ただ地になるはずの物であり、天になる葦の芽のような物は、この一書のように、もとから別に生まれたのだろうか。どうなのか」。答え。「この疑問は、一通りはもっともである。しかし、上に引いたとおり、『日本書紀』の伝えでも、多くは、葦の芽のような物は、浮いた脂のような物の中から生まれると見える。この『古事記』も、はっきりとはそういわないが、あの物の中から萌え上がったように聞こえるので、やはり初めには、天になるはずの物も、一緒に、浮いた脂のような物の中に包まれていたのである。それなのに、天をいわず、ただ国が若いというのは、すべて、どんな事も、この国土で語り伝えてきたものなので、国を中心にいうのである。『日本書紀』のさまざまな伝えで、初めの天つ神五柱を省き、ただ国之常立神からを始まりとしたのも、この考え方で、国土を中心にしたのである。また、天となる物は上って去り、ただ地になるはずの物だけが、もとのままに残って留まり、地となった。後から見れば、上って去った物は客のようで、残って留まった物が主のようなので、その初めからを地の方に取って、国ということも、もっともであろう。それで、あの一書でも、もとから二つに分けていうのに、浮いた脂のような物を、地の方に取っているのである」。〕
【宣長の注釈】それなのに、これが天の始まり、これが地の始まりなどと、はっきり、賢しらにはいわず、ただ、そのとき、神々がお生まれになる事情に結び付けて、このように穏やかに語り伝えているのは、まことに、のどかな上代の伝承であり、この上なく貴いのである。〔それなのに、『日本書紀』の初めに、「昔、天地がまだ分かれず、陰陽も分かれていなかった…、清らかで陽の性質を持つものは、薄く広がって天となり、重く濁ったものは、沈み留まって地となり…、天が先に成り、地が後に定まった」とあるのは、中国の書物の文を取り、飾りとして書き加えられたもので、たいへん賢しらで、煩わしい。この類いの中国の書物の説は、みな、後の人の推測による、とりとめのない説であり、古い伝えに背くことは、最初の巻で詳しく論じたとおりである。決して惑わされてはならない。〕さて、このように、浮いた脂のような物が生まれ始めたことも、それが分かれて、天と地となったことも、また、この次々の神々がお生まれになることも、ことごとく、二柱の産巣日大神の生み成す力によらないものは、一つもない。
【宣長の注釈】『日本書紀』顕宗天皇の巻に、次のようにあることを考えるべきである。「三年の春二月、阿閉臣事代が任那に使いに行くと、月の神が人に乗り移って、こういわれた。『私の祖、高皇産霊には、天と地を造り成すことに関わった功績がある。人民の土地を、私、月の神に献上するがよい。もし、この求めに従って献上するなら、私は幸いを与えよう』。事代は、そこで都に帰り、詳しく申し上げ、歌荒樔田を献上した。〔歌荒樔田は、山背国葛野郡にある。〕壱岐県主の先祖、押見宿禰が祭りに仕えた…。夏四月、日の神が人に乗り移り、阿閉臣事代にいわれた。『磐余の田を、私の祖、高皇産霊に献上せよ』。事代は、すぐに申し上げ、神の求めに従って、田四十町を献上した。対馬の下県直が祭りに仕えた」。〔「造り成すことに関わった」というのは、伊邪那岐・伊邪那美大神が国土を生み成された事があるために、「関わった」というのである。さて、このときの由来によるものと見えて、山城国葛野郡には、葛野坐月読神社〔名神大社。月次祭・新嘗祭〕、木島坐天照御魂神社〔名神大社。月次祭・相嘗祭・新嘗祭〕、大和国十市郡には、目原坐高御魂神社二座〔いずれも大社。月次祭・新嘗祭〕がある。磐余は、十市郡である。また、対馬の下県郡には、高御魂神社〔名神大社〕、阿麻氐留神社などが、『延喜式』に見える。そもそも、このように後の世まで、その場所ごとに重くお祭りになっていることから、あの、神が乗り移って告げたお言葉が、並大抵のものではなかったことも、産巣日神の働きが大きいことも、推し量るべきである。それで、今、この事を詳しく挙げた。〕
【宣長の注釈】「因」は、「より」というのと同じ意味で、この萌え上がる物から、お生まれになったのである。〔それゆえ、この物が、そのまま神になるのではない。『日本書紀』に、「姿は葦の芽のようで、そのまま神と化した」とあるのは、少し伝えが異なる。この「因」の字は、意味の上では、「如」の字の前にあるのである。しかし、この『古事記』は、そのようなことにはこだわらず、ただ、読むのに都合のよい場所に字を置いている。漢文に目の慣れた人は、不思議に思ってはならない。〕
【宣長の注釈】「成神」について。この、葦の芽のような物によってお生まれになる神は、次にある二柱だろう。その理由は、上に引いたように、『日本書紀』の一書に、「葦の芽のような物が空間の中に生まれた。これによって生まれた神を、天常立尊、次に可美葦牙彦舅尊と名付けた。また、物があって…」と見え、国常立尊がお生まれになるのは、別だからである。また、この『古事記』の趣旨も、この二柱までを天つ神として、段を結んでいる。〔もし、国之常立神なども、この、葦の芽のような物によってお生まれになるとするなら、この物は天なのだから、その神々も、ともに天つ神であるはずである。それなのに、そうではなく、天つ神は、天之常立神までだからである。〕「天之常立」「国之常立」と申し上げるお名前も、天と地とに分かれたためである。〔葦の芽のような物は、天の始まりであって、地の始まりではないので、国之常立神は、この物によっては、お生まれにならないはずである。〕しかし、また、一筋に、このようにも決めにくい点があって、伊邪那美神までも、すべて、この、葦の芽のような物によってお生まれになったかとも思われる。その理由は、国之常立神についての箇所で述べよう。
【宣長の注釈】「宇麻志阿斯訶備比古遅神」について。『日本書紀』には、「可美葦牙彦舅尊。可美は、于麻時〔うまし〕という。彦舅は、比古尼という」とある。「うまし」は、立派さをたたえる言葉である。〔「あしかび」だけにかかる呼び名ではなく、全体にかかっている。〕心にも、目にも、耳にも、口にも、よいものを、みな、ほめていう言葉である。〔今の世では、ただ、食べ物の味が口においしいことだけにいうが、昔は、それだけではない。〕『日本書紀』に、「うまし小汀」〔「可怜」は、于麻師〔うまし〕という〕、「うまし御路」「うまし国」などもある。人をたたえる名では、白檮原宮の段に「宇摩志麻遅命」、堺原宮の段に「味師内宿禰」、『日本書紀』崇神天皇の巻に「甘美韓日狭」などとある。〔『万葉集』巻三に見える吉野の人の「味稲」を、『懐風藻』では「美稲」と書いている。「うまし」という言葉には、「美」の字がよく合う。〕「あしかび」は、上の「葦牙」の箇所でいったとおりである。「ひこ」は、男をたたえていう呼び名である。〔「ひ」は、「産巣毘」の「び」と同じ意味であり、「こ」は「子」である。〕「ち」は、男を尊んでいう呼び名である。老人をいうのも、尊ぶことから出たのだろう。「意富斗能地神」、『日本書紀』の「塩土老翁」〔老翁は、烏膩〔をぢ〕という〕、皇極天皇の巻の歌の「かまししのをぢ」、『万葉集』巻十一の「山田守るをぢ」、巻十七の「さやまだのをぢ」などの「ち」も、これである。さて、「ひこぢ」「をぢ」などというときは濁るが、もとは清音であり、明宮の段の国栖人の歌に、「まろがち」とある「ち」、また「父」の「ち」なども、これである。また、八千矛神も、火遠理命も、「ひこぢ」と申し上げることがある。そのことは、その箇所〔『伝』巻十一、三十二葉〕で述べよう。さて、この神は、葦の芽のような物によってお生まれになるため、このように、お名前をお付け申し上げたのである。〔このお名前の読み方は、「うまし」と読んでから、「あしかびひこぢ」を一続きにして、「葦の芽の、尊い男神」という意味合いで読むべきである。〕
【宣長の注釈】「天之常立神」について。『姓氏録』〔伊勢朝臣の項〕に、「天底立命」とあり、また、国之常立神は、『日本書紀』の一書に、「国底立尊」とある。それゆえ、お名前の意味は、「とこ」は、「そこ」と通じて同じである。〔今の世でも、底を「とこ」という。〕さて、「底」とは下の果てをいうのだから、「国の底」とはいえても、「天の底」というのはどうか、と思う人もあるだろう。しかし、およそ「そこ」とは、上でも、下でも、横でも、行き着いた果てを、どの方向にでもいう。『万葉集』巻十五の、「天地の、果ての内に」〔「うら」は、内というのと同じである〕とあることから、天についてもいうことを知るべきである。〔『紫式部日記』に、「底も知れないほど、美しく清らかだ」というのも、限りもなく、というのと同じである。『源氏物語』などにも、この言葉がある。〕また、巻六〔藤原宇合卿が西海道の節度使として出発されるときの、高橋連虫麻呂の長歌〕に、「筑紫に至り、山の果てまで、野の果てを見よと、部下たちを、それぞれ遣わし」とある「そき」も、果てをいい、同じ意味である。〔詳しくいうと、「そき」は、「そく」を名詞にしたもので、「そく」は、離れる意味である。「離れている」「遠ざかる」「退く」などの語に使われる「そく」である。そうして、それを名詞にして「そき」というのは、離れた場所をいう言葉である。また、「そこ」というときは、「こ」は「あそこ」「ここ」などの場所を表す語で、「そこ」と「そく」の意味は、まったく同じである。さて、「そき」も「そこ」も、離れた場所をいい、自然と、その離れた果ての場所を表す名にも、通わせていうのである。〕
【宣長の注釈】また、巻四に、「天雲の、遠い果て、遠いけれども」、巻九に、「天雲の、遠い果てまで」〔これらの「遠隔」「退部」は、今の本では読みを誤っている。次に引く歌から、分かる〕、巻十七に、「山河の、遠い方が、遠くて」、巻十九に、「天雲の、遠い方の果てまで」〔「へ」は、方角である〕、また、巻三に、「天雲の、遠い方の果て」ともある。また、「塞」を「そこ」と読むのも、区域の最も外の境にある土地をいう。また、「常世の国」というのも〔字は、音を借りたものである〕、「常」は「底」であり、右の意味と同じである。〔このことは、少名毘古那神の段、『伝』巻十二の十葉に、詳しくいっているのを、考えて見るべきである。〕「立」は「つち」と通じて同じである。およそ、神の名には「某づち」というものが多い。その意味は、野稚神の箇所〔『伝』巻五、四十五葉〕で述べよう。それならば、このお名前は、「天の果ての、つち」である。〔そもそも、天は、下から上へ萌え上がって成ったので、阿斯訶備比古遅神は、下の方にお生まれになったが、先に生まれた。それは、その初め、葦の芽のようだったときだからである。さて、天之常立神は、その物が次第に上って、上り切った所でお生まれになったのであろうから、上にお生まれになったが、後なのである。それゆえ、この二柱の神がお生まれになる順序は、おのずから、このようになるはずである。それなのに、『日本書紀』で、この順が逆なのは、上にお生まれになるものを先に挙げ、下にお生まれになるものを後に挙げた伝えなのだろう。〕
【宣長の注釈】割注に「常は登許〔とこ〕と読む」とあるのは、もし誤って「つね」などとも読むかもしれないことを考えたためである。これは、音を借りた字であるけれども、昔から書き慣れた字を、そのまま使ったので、このような読みの注があるのである。〔音を借りた字に、読みを注した例は、神武天皇の段で、「土蜘蛛」を「土雲」と書くものなどがある。〕
【宣長の注釈】「この二柱の神も…」について。古い版本と、もう一つの本に、「神」の下に「足」の字があるのは、余分に入った字である。今は、延佳本や、もう一つの本などに、その字がないことに従った。〔『元々集』に引用するものにも、ない。師は、「是」の字を誤ったのだろうといわれたが、前に「此」とあるので、さらに「是」ともいわないはずである。また、前の例から考えると、「並」の字を誤ったのかとも思うが、そうでもないだろう。〕
【宣長の注釈】「上件」は、「かみのくだり」と読むべきである。『日本書紀』推古天皇の巻に、「初章」〔聖徳皇子の十七条憲法の中の、第一条のことである〕とある。この「くだり」という読みは、古い言葉である。さて、『大和物語』に、「かむのくだりを申し上げなさった」などとある。〔これも、「かみのくだり」という古い言葉が残ったものだが、「かみ」を「かん」というのは、中古から、音が変化して崩れた言葉である。『日本書紀』欽明天皇の巻に、「上件色人」とある。これも、「かみのくだりの」と読むべきなのに、例の、崩れた音便のままに読んでいる。およそ、中古からは、「くだんの…」という言葉が多い。これは、みな「かみのくだりの」というべきものを、「かみの」を省き、「り」を音便で「ん」というので、正しくない言葉である。正しくは、「くだり」というべきである。〕『宇治拾遺物語』では、「実際にあった、そのくだりの事を申し上げた」ともいっている。〔後の世では、ただ「行」の字だけを「くだり」と読むのだと理解しているようだが、そうではない。あの『日本書紀』の「初章」から、理解すべきである。「某章」「某段」「某条」などの類いは、みな「くだり」というべきである。また、いろいろな文書の終わりに、「件のごとし」と書くのも、「上に記したとおり…」ということである。〕
【宣長の注釈】「別天神」について。「別」は、「こと」と読むべきである。その理由は、まず、『日本書紀』のさまざまな伝えで、多くは国之常立神を最初の神とし、この五柱の天つ神を挙げないのは、ただ、この国土の側にお生まれになる神だけを語り伝え、天上にお生まれになる神は、別の神として省いたものだからである。〔どうしてそういえるかというと、あの『日本書紀』の本書では、初めには高御産巣日神を挙げず、末の方では挙げている。もし、この神はいないものとして、初めに挙げないのなら、末にも挙げないはずである。末に挙げ、初めに挙げないのは、省いたためではないか。〕また、一書で、まず国之常立神などを挙げ、次に「またいう」として天上の神々を挙げるのも、天上の神々を別の神としたのである。〔天上の神々を先には挙げず、ことさら後に挙げたのは、別扱いにした意味である。「又曰」は、「一曰」というのとは違い、異説ではない。同じ書の中に、また別に、このように述べている、という意味である。〕それゆえ、「別」というのもその意味であり、天上にお生まれになる神を別の神として分けたのである。〔また、天照大御神以下の神々も、天上にいらっしゃるものは天つ神と申し上げるが、この五柱は、天地の初めにお生まれになり、あの天つ神たちとは、まったく同じではなく、特別でいらっしゃるために、その違いを立て、「別天神」と申し上げるのかとも思う。しかし、やはり、先の意味に決めるべきである。また、師は、「別」の字を「ことぐに」と読まれたが、よくない。また、「わけ」と読むのも、よくない。『旧事紀』に、「別天八下尊」「別高皇産霊尊」などという「別」は、ここの「別」と、その意味が似ているようだが、「別某神」と申し上げるお名前は、古い書物には例がない。何をよりどころにして書いたのだろうか。あの書は、真正な書ではないので、信じにくい。〕
【宣長の注釈】「天神」は、「あまつかみ」と読むべきである。文武天皇の詔の言葉に「天都神」、聖武天皇のお歌に「阿麻豆可未」、大祓の祝詞に「天津神」などとあることを、証拠とすべきである。さらに、このほかにも多い。〔それなのに、世間で、「天神・地祇」と並べていうときの「天神」だけを「あまつかみ」と唱え、そのほかを「あめのかみ」と読むのは、誤りである。どれも、みな「あまつかみ」と申し上げるのであり、「あめのかみ」と申し上げたことは、昔はない。右に挙げた例は、どれも「地祇」と並べていう箇所ではない。ただし、この『古事記』の例では、およそ「あまつ」というときは、「津」の字を加えて書くけれども、ここでは、昔から普通に「天神」と書き慣れ、「あまつかみ」と唱えることを、当時は誰もよく知っていたために、「津」の字を加えないのである。〕さて、前に「高天原に生まれた神」とあるのは、以上の五柱にわたる言葉である。ここに、このように「天つ神」とあることから分かる。また、ここで、このように断っているからには、この次の国之常立神から、七代の神々は、天つ神とは申し上げないことも、知るべきである。なお、この事は、後に〔「神世七代」とある箇所で〕、詳しく述べよう。
【古事記本文】次にお生まれになった神の名は、国之常立神。〔「常立」の読みも、上と同じである。〕次に、豊雲野神。この二柱の神も、一柱ずつ、配偶者のない神としてお生まれになり、お姿を隠された。
【宣長の注釈】「国之常立神」について。お名前の意味は、天之常立にならって知るべきである。〔「常立」という字そのものに基づいて説明する説は、みな合わない。〕このお名前を、「の」を省いて、「くにとこたち」と申し上げるのは、誤りである。〔『日本書紀』で「之」の字を省いて書くのは、その書の書き方で、字数を少なくしたものである。「の」は、多くの場合、読み添えるべきものとして書かれている。それなのに、後の世では、古い言葉を調べようとも思わず、ただ、文字と理屈の決まりだけを中心にするため、このような読み方も、いい加減になったのである。そもそも、神のお名前などは、ことさらに慎み、少しもなまらせずに、読み申し上げるべきものである。この『古事記』で、読みの注を加え、声の高低まで、丁寧に示していることを思うべきだ。さて、また、この神を、天之御中主神と同じ一つの神だなどと決め付けるのは、例の、こじつけの中でも、とりわけ甚だしいものである。そのほか、この神の御事については、例の、中国風の考え方で、さまざまな大げさなことを、言い合っている。みな、論じるにも足りない。〕さて、『日本書紀』には、「国常立尊、次に国狭槌尊、次に豊斟渟尊」とあり、この『古事記』の伝えとは異なる。〔この『古事記』では、国之狭土神は、後の、別の段にある。〕
【宣長の注釈】さて、この国之常立神から、伊邪那美神まで、十二柱がお生まれになる事情はどうかというと、まず、前の阿斯訶備比古遅・天之常立の二柱の神は、天の始まりである、葦の芽のような物によってお生まれになるので、天つ神である。〔その理由は、すでに前に述べたとおりである。〕次に、国之常立以下の神々は、あの、浮いた脂のような物の中の〔天となるはずの物は、すでに萌え上がって去り、その後に残って留まって〕、地となるはずの物によってお生まれになる。その理由は、前に引いたとおり、『日本書紀』の一書に、「また、浮いた脂のような物が空間の中に生まれ、これによって生まれた神を、国常立神と名付けた」と見え、「天之常立」に対し、「国之常立」と申し上げるお名前も、地に基づくためである。そうして、前に「浮いた脂のように、漂っていたとき」とあるのは、広く、伊邪那美神がお生まれになるまでにかかる言葉なので、国之常立神から次々に、みな、この物によってお生まれになることは、自然と、そのように聞こえる。〔それなら、「浮いた脂のように…」ということは、国之常立神の箇所でいうべきなのに、前にいうのは、どうしてかというと、あの、葦の芽のような物も、この物の中から分かれて萌え上がったのだから、この物を、先にいわないわけにはいかない。さて、国之常立神の箇所でいわないのは、すでに前にいっているためである。前にいったことを、もう一度いえば、言葉が拙くなるだろう。さらにいわなくても、「時」というのは、広く後まで及ぶ言葉なので、自然と、そのように聞こえるのである。天之常立神の箇所で、その段を閉じながら、「次に生まれた神」といっているのは、やはり、前を受けて続く意味なのである。〕
【宣長の注釈】しかし、また、一筋に、このようにも決めにくい理由がある。それは、『日本書紀』に、「天地の中に、一つの物が生まれ、姿は葦の芽のようだった。それが、すぐに神となり、国常立尊、次に国狭槌尊、次に豊斟渟尊と名付けた」、また、一書に、「国の中に物が生まれ、その姿は、葦の芽が抜き出てくるようだった。これによって生まれた神があり、可美葦牙彦舅尊、次に国常立尊、次に国狭槌尊、次に豊斟渟尊と名付けた」、また、一書に、「その中に一つの物が生まれ、葦の芽が、初めて泥の中に生えるようだった。それが、すぐに人となり、国常立尊と名付けた」とあるからである。これらに従うと、この『古事記』の趣旨も、葦の芽のような物によってお生まれになるというのは、国之常立神にもかかるのだろうか。〔それなのに、この神の箇所で、ただ「次に」とだけでなく、「次に生まれた神の名は」と、改めていうのは、ただ、天つ神と段を分けているためだけである。〕もしそうなら、伊邪那美神までの十二柱は、みな、葦の芽のような物によってお生まれになるのである。その理由は、『日本書紀』で、豊斟渟尊も、同じく、この物によってお生まれになるとあり、この『古事記』でも、豊雲野神の後に区切りがなく、その先へ続けているからである。〔「独神として成り坐して…」という区切りはあるが、これは、男女一対で生まれる神との境だけである。もし、これを境にして、これより後は、葦の芽のような物によらないというならば、国之常立神も、その前に境があるので、葦の芽のような物によったとはいいにくい。〕ただし、このように決めると、国之常立神から伊邪那美神までの十二柱も、ともに天つ神であるはずなのに〔あの、葦の芽のような物は、天となった物だからである〕、そうではないのは、疑わしい。〔あるいは、同じ一つの物によってお生まれになっても、初めの二柱は、その上の方にお生まれになって、天つ神であり、次の十二柱は、その下の方によってお生まれになるので、天つ神ではないのだろうか。しかし、この段は、まさしく、天と地が分かれた初めを語り、お生まれになる神も二方に分かれ、お名前も、「天之常立」「国之常立」と明らかに分かれているので、国之常立神以下は、必ず、地となるはずの物によってお生まれになるはずだと思われる。〕それで、この事は、一方には決めにくいので、ひとまず二通りに説明する。
【宣長の注釈】「豊雲野神」について。お名前の意味は、「豊」は、物が多く、十分で豊かだという言葉であり、たたえる言葉である。「豊布都神」「豊石窓神」「豊玉毘売命」、また「豊木入日子命」「豊鉏入日売命」などの例と同じである。また、人の名以外にも、「豊葦原の中国」「豊明」「豊栄のぼり」「豊寿」などという。「雲野」は、字は音を借りたもので、「くも」は、「くむ」「くみ」「くひ」「こり」などと通じて〔その理由は、次にいう〕、物が集まって固まる意味と、初めて芽生える意味とを兼ねる言葉である。この二つの意味も、自然と通じ合う。物が集まり、固まって、物の形が成るからである。「野」は「ぬ」と読んで〔およそ「野」は、昔は「ぬ」といった。「の」というのは、少し後のことである。師が、「野・角・篠・忍・陵・楽などの『の』は、昔は、みな『ぬ』といった。それで、古い書物では、これらの仮名に、『能』『乃』などを使わず、みな『奴』『怒』『農』『濃』などを使っている。『農』『濃』などは、『ぬ』の仮名であって、『の』ではない。およそ、右の言葉を『の』ということは、奈良時代の末の方から、少しずつ始まった」といわれたとおりである〕、沼の意味なのだろう。それゆえ、「くも」というのは、あの、浮いた脂のような物が、混じり固まって生まれ、国土になる初めの芽であることによっていい、「ぬ」というのは、その物を指していう。あの、国土になるはずの物は、潮に泥が混じった物だからである。およそ、水の留まる場所を沼という。また、『日本書紀』の一書のお名前によるなら、「野」は、主の意味でもあるだろうか。〔その理由は、次にいう。〕
【宣長の注釈】さて、この神のお名前は、『日本書紀』では「豊斟渟尊」である。〔「斟」は「くみ」とも読めるだろうが、一書に「組」ともあるので、ここは「くむ」なのだろう。〕一書には、「豊国主尊」とある。〔これは、「雲野」「斟渟」と合わせて考えると、「くに」は、「くもに」、また「くむに」が縮まったもので、その「に」は、「宇比地邇」の「邇」と同じで、あの「野」「渟」と通じる言葉なのだろう。さて、「主」は、別に添えて尊んだ呼び名である。このお名前に従うときは、「雲野」などの「野」も、主の意味なのだろうか。もしそうなら、このお名前の「くに」は、そのまま「くも」、また「くむ」などと通じる。およそ、国土という「くに」の名は、「くもに」であって、「雲野」という神のお名前と、同じ意味なのだろうか。〕また、「豊組野尊」ともいう。〔「くみ」は、「くも」「くむ」などと通じる。〕また、「豊香節野尊」ともいい、また、「浮経野豊買尊」ともいう。〔「ふし」は、「ひ」と縮まるので、「香節」と「買」とは同じである。さて、「かひ」は「くひ」と通じ、「くひ」は「くみ」と通じる。なお、このことは、後の角杙神の箇所で述べよう。それならば、このお名前も、「雲野」と同じ意味である。さて、「浮経野」は、「浮」は、あの、浮いた脂のような物が、空間に浮かび漂う意味である。または、後の世の歌で、泥を「うき」というので、その意味でもあるだろう。「経」は「含」であり、あの物の中に、地となるはずの物が含まれていたためである。花がまだ開かないのを、「ふふまる」というのと同じである。次の「葉木国」と合わせて考えるべきである。「野」は、前にいったとおり、「雲野」の「野」と同じである。〕また、「豊国野尊」ともいう。〔「豊国主」と同じである。〕また、「豊齧野尊」ともいう。〔「くひ」は「かひ」「くみ」などと通じることは、前にいったとおりである。〕また、「葉木国野尊」ともいう。〔「葉木」は「富」と縮まり、含まれる意味である。「ふくまる」を「ふふまる」ともいい、「ふふごもり」などともいう。また、「はぐくむ」「はめぐむ」などという言葉も考えるべきである。〕また、「御野尊」ともいう。〔これは、「くみぬ」の「く」が省かれたのか。また、「御沼」でもあるだろう。〕これらのお名前と、あれこれ引き合わせて、その意味を理解すべきである。
【宣長の注釈】また、師の『冠辞考』の「刺竹」の項には、「こもり」と「くみ」とが通じる理由を、詳しくいわれている。開いて見るべきである。確かに、「こもり」も「くま」も、集まり固まる意味があり、雲も、その意味で、もとは同じ言葉なのだろう。また、「角ぐむ」「芽ぐむ」「涙ぐむ」などの「くむ」も、初めて兆す意味で、固まる意味を帯びているので、同じ言葉である。なお、後の角杙神の箇所と、考え合わせるべきである。〔あの『日本書紀』の一書に出るお名前のうち、「豊香節」「豊買」「葉木国」などについては、稲に関わるお名前かとも思われる理由がある。それは、「香節」は、八千矛神のお歌に、「大和の、一本のすすきが、うなだれて」とあるように、稲がなびき、垂れる意味、「豊買」は、豊かな稲穂、「葉木国」は、稲が広がり茂って、こんもりする意味である。「雲野」なども、あの「くみ竹」の「くみ」であり、稲がふさふさと、こんもりする意味である。しかし、この段でお生まれになる神のお名前に、稲によって名をお付け申し上げるべきではない。それは、次々の神々のお名前の類いではないので、この考えは使いにくい。〕「雲」の字の下の「上」の字については、『伝』の最初の巻〔五十六葉〕で詳しく述べた。
【宣長の注釈】「独神…」について。『日本書紀』は、独神としてお生まれになる神と、男女一対でお生まれになる神とを分け、ここまでを一つの段にしている。〔ここに、「合わせて三神である。天の陽の道が、単独で生み成すので、この純粋な男神が成った」とあるのは、古い伝えのもとの書には、この『古事記』のように、ただ「この三柱の神は、独神としてお生まれになった」などとあったのだろう。それを、例の編者が、無理に中国風に見せようとしたために、このように飾りを加えて書いたのである。たいへん煩わしい言葉である。〕この『古事記』は、「神世七代」という範囲を、一つの段として、ここを、その後へ続けている。
【古事記本文】次にお生まれになった神の名は、宇比地邇神。〔「邇」は高く読む。〕次に、その女性の対となる神、須比智邇神。〔この二神の名の文字は、音を表す。「邇」は低く読む。〕次に、角杙神。次に、その女性の対となる神、活杙神。〔二柱である。〕次に、意富斗能地神。次に、その女性の対となる神、大斗乃弁神。〔この二神の名も、音を表す。〕次に、淤母陀琉神。次に、その女性の対となる神、阿夜詞志古泥神。〔この二神の名は、どちらも音を表す。「夜」は高く読む。〕次に、伊邪那岐神。次に、その女性の対となる神、伊邪那美神。〔この二神の名も、音を表すことは、上と同じである。〕
【古事記本文】以上、国之常立神から伊邪那美神までを、合わせて、神世七代と申し上げる。〔初めの二柱の独神は、それぞれを一代という。次の、対になっている十神は、それぞれ二神を合わせて一代という。〕
【宣長の注釈】「宇比地邇神、次に妹須比智邇神」について。『日本書紀』では、「埿土煮尊・沙土煮尊」と書き、「埿土は宇毘地尼、沙土は須毘智尼という」と注している。〔『日本書紀』では、「毘」を、清音の仮名にも多く使っている。この読みの注に従い、「ひ」を濁音で読むのは誤りである。およそ、言葉をつなげるために、後の語の初めを濁らせることは、よくあるが、その語に濁音があると、その初めは、必ず濁らない例となる。ここも、「ひぢ」の「ぢ」が濁音なので、「ひ」は濁らないはずの例なのである。〕これによれば、「う」は、泥である。〔「埿」の字は、泥であると注している。〕後の世の歌などで、泥を「うき」というのが、それである。〔「う」は、「うき」の「き」が省かれたのか。また、「う」がもとで、「うき」ともいうのか。〕「す」は、土が水と分かれたことをいう。それなら、「埿土」は、あの、浮いた脂のような物の、潮と土とが混じり合い、まだ分かれていないことをいう。〔水と土とが混じったものは、泥である。〕「沙土」は、その潮と土とが、次第に分かれたことをいう。〔「沙」の字に、水のそばの地と注する意味を取ったのだろう。『詩経』大雅に、「水鳥が、砂地にいる」などというのが、それである。「洲」も、その意味の名で、もとは同じ言葉である。ただし、これらは、水から離れ、乾いた土をいうのに対し、ここの沙土は、なお潮の中にありながら、分かれたことをいうのだろう。『和名抄』に、「『声類』には、砂は、水中の細かな小石であるという。和名は須奈古〔すなご〕」とある。これは、水の中で分かれたものも、砂というのである。砂と沙は同じである。また、「すなご」の「す」は、すなわち「すひぢ」の「す」と同じである。〕「に」は、豊雲野の「ぬ」と通じ、沼である。〔沙土は、すでに潮と分かれた土だが、なお潮の中にあるため、全体のありさまは、これも沼である。〕また、『日本書紀』には、二柱とも、「煮」を「根」とも申し上げるとある。〔根ならば、「かしこね」の「ね」と同じである。〕
【宣長の注釈】さて、また、師の説では、「『う』は浮くことである。『す』は沈むことである〔『しづ』は『す』と縮まる〕。『ひぢ』は泥である」といわれた。これも、もっともであろう。〔これは、あの、一つに混じり合った泥が、次第に分かれ、浮いたり沈んだりすることをいう。浮く泥は、浮かび散って海となり、沈む泥は、固まって、国土となるのである。〕この場合は、「に」を土の意味として〔「に」は、土の総称である。それで、粘る土を「はに」、赤土を「そほに」、青い土を「あをに」という類いが多い〕、「ひぢに」を土というのも、考えるべきである。そもそも、『日本書紀』の字に従って説明するのとでは、「ひぢ」の意味が違う。『日本書紀』では、「土」と書くので、「ひぢかた」「ついひぢ」などの「ひぢ」で、土の総称に取るのである。師の説では、土と水とが混じったもので、「泥」の字の意味である。『和名抄』に、「泥、和名は比知利古〔ひぢりこ〕、一説には古比千〔こひぢ〕という」と見え〔後の歌では、多く、「恋路」の意味を重ねて詠む〕、普通の言葉で「どろ」という物である。この二つの説は、今は、どちらか一方には決めにくい。
【宣長の注釈】「次に妹」とは、これより五代の神々は、それぞれ男女一対でいらっしゃるが、男神は先に、女神は少し後にお生まれになるので、「次に」というのである。「妹」は、「いも」と読むべきである。〔『和名抄』に「いもうと」とあるのは、「妹人」の意味で、後のことである。〕「いも」とは、昔、夫婦であっても、兄弟姉妹であっても、他人同士であっても、男と女とが並ぶときに、その女を指していう呼び名である。〔それゆえ、『古事記』の中の例で、兄弟姉妹を挙げるとき、兄と妹ならば、妹を「妹某」といい、姉と妹ならば、「弟某」といって、「妹」とはいわない。「阿遅鉏高日子根神、次に妹高比売命」といい、「姉石長比売、その弟木花之佐久夜毘売」というような例である。注意すべきである。昔の決まりだったと見える。それならば、女と女の間で、「いも」ということは、上古にはなかったのである。また、『日本書紀』仁賢天皇の巻に、「昔は、兄弟や年の上下をいわず、女は男を兄と呼び、男は女を妹と呼んだ」とあるように、男からは、姉をも「いも」といったのである。〕さて、また、夫婦の間で、妻を「いも」ということは、世間の人もよく知っている。それなのに、『日本書紀』で、雄略天皇が、皇后を指して「わぎも」と仰せになったのに注して、「妻を妹と呼ぶのは、おそらく昔の習わしだろうか」とあるのは、どうしたことか。これは、今の都になってからでも、普通にいうことであり、奈良のころは、なおさらである。それなのに、このように、よそよそしく、「おそらく昔の習わしだろうか」などというのは、無理に、すべてを中国の書物らしく見せようとした文である。さて、また、他人同士でも、男が女を指して「いも」ということは、『万葉集』などに、たいへん多い。ただし、巻十二に、「妹と呼んでは、失礼で、畏れ多い。それでも、口に出して呼んでみたい言葉であるよ」と詠むのを思うと、敬うべき人には、使わなかった呼び名なのだろう。それが、少し後には、女同士の間でも、呼ぶようになった。〔姉妹の間で、妹をいうのは、いうまでもなく、他人でも、『万葉集』巻四の吹黄刀自の歌や、紀女郎が友に贈る歌、また巻十九で、家持の妹が、彼の妻のもとに贈った歌、その返歌などに、みな「妹」といっている。〕〔訳注:家持の妹の贈り先を表す原文一字は、判読を留保する。〕
【宣長の注釈】さて、ことさら「妹」の字を書くのは、この呼び名に、正確に当たる漢字がないため、ひとまず、兄弟姉妹の間の「いも」に合わせて当てたものである。決して、この字にとらわれて、言葉のもとの意味を誤ってはならない。〔それなのに、後の世の人は、ひたすら字を中心に考えるので、「いも」というのは、もともと兄弟姉妹の妹から出たものが転じて、妻もそういうのだと、誤解しているようである。〕さて、ここから淤母陀琉・詞志古泥の神までは、ただ男女一対でいらっしゃることから、女神を「いも」と申し上げるのである。夫婦の営みは、まだ始まっていない時なので、妻という意味ではない。
【宣長の注釈】さて、男神のお名前の「邇」の下にある「上」の字は、「邇」を上声で唱えよ、女神のお名前の「邇」の下にある「去」の字は、下声で唱えよ、ということである。このことは、『伝』の最初の巻〔五十六葉〕に述べた。『日本書紀私記』には、「問い。この二神のお名前の『煮』は同じ字なのに、どうして声を変えて読むのか。答え。これは、『古事記』に基づき、上の『煮』の字を上声で、下の『煮』の字を去声で読むのである。その理由は、まだ詳しく分からないが、このような神のお名前は、みな、上古からの口伝によって、注し記したものである」といっている。〔それならば、当時は、『日本書紀』を読むにも、この『古事記』の趣旨を守り、これほどの声の違いも、いい加減にはしなかったことが分かる。近ごろ、ただ理屈による説だけを中心にする学者も、こうしたことを、少しは考えてほしいものである。〕
【宣長の注釈】「角杙神、活杙神」について。「角」は、「つぬ」と読むべきである。〔昔は、すべて「つぬ」といったことは、前の豊雲野の「野」の読みの箇所でいったとおりである。「角」を、この『古事記』で「都奴」と書くことなどから分かる。そのほかも、みな同じである。〕さて、お名前の意味は、およそ、物がわずかに生まれ始め、たとえば、尾・頭・手・足などの区別が、まだ生じていない形を、「つぬ」という。〔獣の角も、この意味で、その形によっていう名なのだろう。〕「杙」は、音を借りた字である。「くひ」は〔ここは、語をつなげるために、濁らせて読むべきである〕、前の豊雲野の箇所でいったとおり、あの「くも」、また「くむ」「くみ」「こり」などと、みな通じ、物が初めて兆し、生まれる意味の言葉である。〔また、物が集まり固まる意味も兼ねる。およそ物は、物が集まり、固まって成るので、自然と、意味は一つに通じる。〕「芽ぐむ」「涙ぐむ」などの「ぐむ」と同じである。〔「ぐむ」は、「ぐみ」とも活用する言葉である。〕それならば、「つぬぐひ」とは、神のお体の形が、生まれ始められた、ということである。葦などが生え始めるのを、「角ぐむ」というのは、この神のお名前と、まったく同じである。〔角杙は、角ぐむことであると、ある人もいった。〕さて、『姓氏録』に「角凝魂命」「角凝命」〔「こり」と「くひ」とは通じる〕、『神名式』に、出雲国神門郡の「神魂子角魂神社」などとあるのは、この神なのだろう。「活杙」は、生命の働きが、動き始めることを表すお名前である。神祇官にいらっしゃる、御巫が祭る八神の中の生産日神〔『姓氏録』には「伊久魂神」とある〕は、この神なのだろう。さて、『日本書紀』には、この二柱はない。〔一書には、ある。〕
【宣長の注釈】割注に「二柱」とあるのは、この二柱が一対でいらっしゃって、一代になる、と知らせたのである。〔前後の四代には、この注がなく、ただ、ここだけにあるのは、どうしてかというと、前後には、みな、「この二神の名は音を表す」という注があるが、ここには、たまたま、そうした注がないためである。〕
【宣長の注釈】「意富斗能地神、大斗乃弁神」について。「おほ」は、たたえる言葉である。〔女神の方の「大」の字も、もとは「意富」だったものを、後に、ふと写し誤ったのだろう。「この二神の名も音を表す」と注するので、「大」の字ではないはずである。〕「と」は、場所のことである。およそ、場所を「と」という例は多い。「たちど」「ふしど」「ねど」〔『万葉集』の陸奥の歌に、「禰度」とある〕、「はらへど」などのようなものである。『弘仁私記』の序で、「古い言葉では、住むことを『と』という」とあるのも、場所の意味から出ている。「の」は、「之」という言葉である。「ち」は、前に出た「ひこぢ」の「ぢ」と同じである。「べ」は、男神の「ち」に対し、女を尊んでいう呼び名である。年老いた女をいうのも、尊ぶことから出たのだろう。「百師木伊呂弁」〔明宮の段〕、「八坂振天某辺」〔『日本書紀』崇神天皇の巻〕などの名の「べ」も、これである。また、「級長戸辺」「荒河刀弁」「非幅刀弁」〔このほかも、「某刀弁」という名は多い〕などという「とべ」の「べ」も同じである。また、その「とべ」を、「め」に通わせて、「とめ」ともいう。「伊斯許理度売」などのようなものである。〔この「め」は、ただ、女という意味ではなく、「べ」に通じる呼び名である。この「とめ」を、『日本書紀』で「姥」と書くのは、年老いた女の意味である。〕それならば、この二柱のお名前は、あの、地となるはずの物が固まって、国土となる場所が成ったことを表し、それに、女と男の尊称を添えたのである。『日本書紀』には、「大戸之道尊・大苫辺尊。一説に、大戸之辺ともいう」、また「大戸摩彦尊・大戸摩姫尊」、また「大富道尊・大富辺尊」とある。〔これは、女神のお名前は、「大戸之辺」とあるのを、正しいとすべきである。「大苫辺」「大戸摩彦」「大戸摩姫」は、みな、この『古事記』の別の段にある、大戸惑子神・大戸惑女神と、お名前の伝えが混じり乱れたのである。「富」は、「との」が変化したのである。〕
【宣長の注釈】「淤母陀琉神」について。『日本書紀』に、「面足尊」と書いてある。この字の意味のお名前である。『万葉集』巻二に、「天地、日月とともに、満ち足りてゆくだろう、神の御顔と…」、巻九に、「満月の、満ち足りた顔立ちに…」〔この二つの「満」の字は、今の本の読みが誤っている。師の『冠辞考』で、この「面足」という神のお名前の例を引き、「たり」「たれる」と読んでいるのがよい〕とある。「面の足る」というのは、不足する所なく、備わり整うことをいう。〔顔をいうことで、手足、そのほかも、すべて十分に整うことが含まれているお名前である。〕
【宣長の注釈】〔この神のお名前を、師は、普通の例のように「の神」とは読まず、「おもだるかみ」と読まれた。それは、名詞から続くのと、活用する語から続くのとの違いである。「某の神」と読むのは、名詞の形である。また、活用する語でも、「とこたち」「つぬぐひ」などという類いは、名詞になる例である。これらも、「とこたつ」「つぬぐふ」などといえば、もとの活用する語になる。ここも、「おもだり」といえば、名詞になるために「の神」と読めるが、「たる」なので、もとの活用する語であり、「の」とは続かない。古い言葉の決まりが、そうだからである。「石拆神」「根拆神」「奥疎神」「辺疎神」なども、この例である。そうして、私も初めは、そのようにだけ理解していたが、後に、さらによく考えると、そうではなかった。その理由は、まず「おもだる」などというとき、それが活用する語であることも、また、活用する語の下には「の」とは続かないことも、論じるまでもない。しかし、神名・人名などは、普通の言葉の例とは異なるので、やはり、活用する語であっても、「の神」と読むべきである。それは、活用する語でも、すでに名になれば、名詞だからである。これも、「おもだる」と申し上げるのがお名前であり、「神」とも「尊」とも申し上げるのは、別に添える呼び方なので、必ず「の」といわないわけにはいかない。あの、「荒ぶる神」「天降る神」などという類いとは、お名前は違うのである。また、「天照大御神」なども、「照の」とは申し上げないが、これも、「天照」と申し上げるのがお名前ではないので、異なる。なお、お名前のときには、活用する語でも「の」と読むべき例を挙げると、孝元天皇のお名前は、「日子国玖琉命」と申し上げる。「くる」は、『日本書紀』に「牽」と書くので、活用する語のはずだが、「の」を付けなければ読みにくい。必ず、「の命」「の天皇」と読むべきである。また、神武天皇の段の「贄持之子」「石押分之子」などは、「之」の字があるので、特に論じるまでもない。これらも、師は、「持」を「もち」、「分」を「わけ」と読まれたが、必ず「もつ」「わく」と読むべきことは、その段で述べるとおりである。〕
【宣長の注釈】神祇官にいらっしゃる、御巫が祭る八神の中で、「足産日神」と申し上げるのは、この神なのだろう。〔この七代、十二柱の神の中で、ただ、活杙神と、この淤母陀琉神だけを、特に、あの八神の中に収めて、お祭りになるのは、その八神が、もっぱら、天皇ご自身をお守りするためのものなので、「活」と申し上げ、「足」と申し上げる神霊の働きによるのだろう。〕
【宣長の注釈】「阿夜詞志古泥神」について。「あや」は、驚いて、感嘆する声である。『日本書紀』皇極天皇の巻に、「咄嗟」とある。〔今の本は、「咄」を「吐」と誤っている。〕「やあ」とも「あや」とも「あはれ」「はや」「ああ」などとも読んでいる。およそ、「あや」「あはれ」「はや」「ああ」などは、みな、もとは同じ感嘆の声で、少しずつ違いがある。そもそも、「嘆く」とは、中古からは、ただ悲しみ、憂えることだけにいうけれども、そうではない。「なげき」は、「ながいき」が縮まった言葉で、およそ、どんな事でも、心に深く感じることがあると、長い息をつく。それが、すなわち「なげき」である。それゆえ、うれしいことでも、どんなことでも、嘆くことはある。その感嘆では、「あや」とも「あはれ」とも「はや」とも声が出るため、「嘆声」というのである。また、「あや」といって感嘆するようなことを、「あやに…」ともいう。〔「あやに畏れ多い」「あやに恋しい」「あやに悲しい」などの類いである。〕また、「あやし」「あやふし」なども、感嘆して「あや」ということから出た言葉である。また、「あな」も「あや」と通じる。〔「あな尊い」「あな恋しい」などの「あな」である。『日本書紀』応神天皇の巻に「呉織・穴織」とあるものを、雄略天皇の巻では「漢織・呉織」としている。これは、「あや」と「あな」とが同じである証拠である。〕
【宣長の注釈】「かしこ」は、古い書物では、「畏」「可畏」「恐」「惶」「懼」などの字を書き〔「かしこし」「かしこき」と活用し、その「き」は、「か・き・く・け」と活用する語である〕、畏れる意味である。〔また、賢いことや、知恵のあることをいうのは、そのような人は、畏れるべきだからで、意味が転じたのである。〕さて、「あやにかしこし」というときは、まだ、やや穏やかであるが、「あやかしこ」というのは、その畏れ多いことに触れて、直接、感嘆する言葉なので、ますます切実である。「ね」は、男も女も尊ぶ呼び名で、「なえ」が縮まった言葉なのだろう。〔「兄〔え〕」は、男女にわたる呼び名である。同じく「兄」の字を書いても、「せ」というのは、男に限られる。混同してはならない。〕「なね」「いろね」〔「なね」については白檮原宮の段、「いろね」については浮穴宮の段で述べた〕、「宿禰」などの「ね」も、これである。また、天津日子根命のほか、「某根」という名が多いが、みな同じである。さて、このお名前は、神のお顔が、十分に整っていらっしゃること〔淤母陀琉神のお名前が、これである〕によって、そのお姿を仰ぐと、畏れ敬わずにはいられないという意味で、お付け申し上げたのである。『日本書紀』には、「惶根尊」とあり、また「吾屋惶根尊」、また「吾忌橿城尊」ともいう。〔今の本には「吾」の字が抜けている。『類聚国史』には、この字があることに従って、補うべきである。「あゆ」は「あや」と通じ、「かしき」は「かしこ」と通じる。〕また、「青橿城根尊」ともいう。〔「あを」も「あや」と通じる。〕また、「吾屋呵城尊」ともいう。さて、「あや」に上声を付けているのは、「かしこ」へ引き続け、一つに読むためである。一続きに読めば、上声になるのである。〔普通に任せれば、「あやかしこ」を、少し離して読むように思われる。そのように離して読むと、「あや」と「かしこ」は、もとの平声になるが、そうは読まず、一つに合わせて読むのである。それは、猿楽の論議物の中に、「あやかしの者」という言い方がある、その「あやかし」の声の調子と同じである。そのように読むと、「あや」は上声になるのである。〕
【宣長の注釈】豊雲野神から阿夜詞志古泥神まで、九柱のお名前は、国土の始まりと、神の始まりとの形やありさまを、順々に当てて、お付け申し上げたものである。「豊雲野」「宇比地邇」「須比智邇」「意富斗能地」「大斗乃弁」と申し上げるのは、国土の始まりのありさまであり、「角杙」「活杙」「淤母陀琉」「阿夜詞志古泥」と申し上げるのは、神の始まりのありさまである。〔ただし、国土も神も、その神がお生まれになったときの形が、それぞれのお名前のとおりだった、というのではない。必ずしも、そのときの形には関わらず、ただ、おおよそのありさまを、順々にお名前に当てたのである。それゆえ、これらのお名前から、それぞれの時の形を当てはめて見てはならない。よくわきまえなければ、疑いが生じるであろう。実際には、神は、初めの天之御中主から、どの神も、すでにお体が十分に整っていらっしゃり、面足神に至って、初めて整われたのではない。また、国土は、伊邪那岐・伊邪那美神のときでさえ、まだ、浮いた脂のように漂っているだけだったことから、理解するべきである。〕それなら、須比地邇の次に意富斗能地と続き、活杙の次に淤母陀琉と続くはずなのに、そうではなく、国土の始まりと、神の始まりとで、お名前の順が入り交じっているのは、どうしてかというと、ここは、国土の初めに関していっているために、国之常立神から、順々に神々がお生まれになる。〔天之常立神までの五柱は、天つ神であって別なので、ここではいわない。ここは、国土の初めに関していうために、国之常立神から…といっているのである。〕それで、意富斗能地神より前の神を、「角杙」「活杙」とお名付け申し上げたのだろう。また、お顔が整ったのを見て畏れることは、すでに国土も成り、人や物も生まれた後の事なので、大斗乃弁神の次の神を、「淤母陀琉」「阿夜詞志古泥」とお名付け申し上げたのだろう。〔『日本書紀』には、「沙土煮」の次に「大戸之道」と続き、また、一書には、「活橿」の次に「面足」と続いている。〕
【宣長の注釈】「伊邪那岐神、伊邪那美神」について。お名前の意味は、『日本書紀口決』で、「伊弉」は、誘う言葉だといい、師も、「誘いの君、誘いの女君」ということだといわれた。〔「いざなひ」の「ひ」を省いたのである。〕確かに、この二柱の神が、交わって国土を生み成そうとして、互いに誘い、促される意味であり〔その事は、次の段に見える〕、そうかもしれない。「君」を、ただ「き」という例は、明宮の段の天皇のお言葉の「さざきあぎ」、また、忍熊王の歌の「いざあぎ」〔ともに、わが君という意味である〕などが、それである。また、「女君」を縮めれば「み」となる。〔ある説では、「ぎ」は「ひこ」の音を逆から合わせ、「み」は「ひめ」の音を逆から合わせたものだというが、それは、たまたま合っただけで、そのようなことではないだろう。〕また、考えると、これは、交わろうとなさるとき、互いに「いざ、あなた」とお誘いになったお言葉を、そのまま、お名前にお付け申し上げたので、「な」は「汝」でもあるだろう。〔あの「いざあぎ」、また、この『古事記』や『万葉集』などの「いざ、子どもたちよ」などという類いである。〕さて、「ぎ」と「み」は先に述べた意味で、ここでは神のお名前に添える呼び名なのだろう。これも、ともに、そのときに互いに呼ばれたお言葉とも考えられるが、やはり、そうではないだろう。また、私が以前に考えたのは、「いざ」は誘う言葉で、「なぎ」は「な・き・い」、「なみ」は「な・いも・い」である、ということだった。「い」は、「よ」というようなもので、『続日本紀』の歌の「おなのわくごい…」、『万葉集』巻十二の「家なる妹い…」、『続日本紀』の詔の「藤原朝臣麻呂たちい…」、また「百済王敬福い…」、また「国王い…」など、さらに例の多い言葉である。さて、「きい」は、「き」にイの音があるため、ただ「き」といい、「な・いも・い」は、ある音を省き〔訳注:ここで省くとする一字の字形と対応する音は、判読を留保する。〕、「もい」を縮めれば「み」となる。このように考えたのだが、それでは、「神漏岐・神漏美」の例に合いにくいので、この考えは退けるべきである。さて、「いざ」という言葉は、まずは、右のように聞こえるけれども、「伊奢沙和気神」「伊邪能真若命」「伊邪本別命」などと申し上げるお名前、また「去来之真名井」、さらに地名でも「伊邪河」などが、上代に多いので、ほかの意味もあるだろうか。さらに考えるべきである。「ぎ」と「み」とが対になる例は、「神漏岐・神漏美」〔この呼び名については、『伝』巻十三の八葉で述べよう〕であり、「なぎ」と「なみ」とが対になる例は、「沫那芸神・沫那美神」「頬那芸神・頬那美神」が、それである。〔ただし、この「なぎ」「なみ」は、別の意味でもあるだろうか。そのことは、『伝』巻五の、その神の箇所で述べよう。〕
【宣長の注釈】さて、このお名前は、『日本書紀』には、「伊弉諾尊・伊弉冉尊」と書いてある。〔『日本書紀』は、神名・地名などの文字を、およそ新しく選んで書いていると見え、ほかの古い書物に例のない書き方が多い。その中でも、この二柱のお名前の字などは、とりわけ紛らわしく、疑う人がいるので、今、これを説明する。「諾」は、「奴」と「各」の反切で、呉音が「なく」なのを、「く」を「ぎ」に変えて使ったのである。クの音をギに使った例は多い。さて、「冉」は、今の諸本では、多く「冊」と書く。しかし、「冊」は「測」と「革」の反切なので、「なみ」とは、たいへん遠い。また、「册」とも書くが、これも「冊」と同じ音である。また、「再」とも書くが、「再」は「作」と「代」の反切で、「さい」という音なので、これも、たいへん遠い。また、「冊」を、『集韻』では「所晏の反、音は訕」ともしているが、これも遠い。それゆえ、右の字は、みな写し誤りである。ある説では、「南」の字を誤ったのだろうという。音は、そのとおりだが、「南」の字が使われるとは思われない。そこで考えると、「聃」の字が、『集韻』に「乃甘の反」、『正韻』に「那含の反、音は南」とあるので、これなのだろうかとも思う。しかし、なお『史記』管蔡世家で、武王の同母の兄弟十人の中に「冉季載」という人があるのを、『正義』に、「冉は丹に作る。音は奴甘の反。あるいは郍に作り、音は同じ」とあるので、この「冉」の字なのだろう。『史記』は、昔から広く読まれている書物であり、特に人の名である点にも理由があるので、取り入れて使われたのだろう。「奴甘」の反切なら、呉音が「なむ」なのを、「む」を「み」に変えて使ったことは、ほかの例と同じである。これも、そのような例の多いことである。〕
【宣長の注釈】「以下」「以前」などは漢文であって、この国の言葉ではない。それゆえ、「以下」は「しも」、「以前」は「さき」と読むべきである。「幷」の字を、延佳本で「並」と書くのは誤りである。ここだけでなく、後にも所々ある。みな、これにならって知るべきである。どれも、ほかの本では「幷」と書き、それがよい。
【宣長の注釈】「神世七代」について。「神世」とは、人の代〔「人の代」ということは、『古今集』の序に見える〕と区別していう呼び名である。それは、はるかな上代の人は、およそ、みな神であったために、そういったのである。さて、いつまでの人は神で、いつから後の人は神ではないという、はっきりした違いはないので、『万葉集』の歌などでも、ただ、昔を広く「神代」といっている。〔巻六の、「日本の国は、皇祖の神の御代から、お治めになる国であるから」というのは、神武天皇の御代を申し上げ、同じ巻の、「神代から、吉野の宮に、通われて、お治めになるのは」というのも、人の代になってからの事である。巻十八の、「皇祖の、神の大御世」というのは、垂仁天皇の御代を詠んでいる。また、巻一では、その当代を、ことさらに、ほめ申し上げ、「神の御代」と詠んでいる。〕しかし、時代を区別していうときは、鵜葺草葺不合命までを神代とする。〔『日本書紀』では、ここまでの二巻を、「神代上・下」と題している。『姓氏録』でも、ここまでの子孫を神別とし、神武天皇から後のものを皇別としている。〕白檮原の朝廷から後を、人の代とする。確かに、この朝廷のときから、世の中のありさまが新しくなったので、そのようにいってよいものである。それなのに、ここで伊邪那美神までを神世というのは、後の五代の神代にいっていた呼び名が、残ったのである。それは、人の代になってから、鵜葺草葺不合命のときまでを神代と申し上げるように、五代の神代のときには、また、この七代を神代と申し上げたのである。確かに、この七代は、天と地の始まりのときであり、神々のありさまも、世の中のありさまも、たいへん違っていたのである。
【宣長の注釈】「七代」は、「ななよ」と読むべきである。『万葉集』巻十九の、橘大臣をお祝いする歌に、「昔、天皇の三代を経て仕えてこられた。わが大君は、ななよまをさね」とある。〔訳注:末句は七代にわたる奉仕を願う表現とみられるが、この歌の主語と構文の確定は留保する。〕〔また、父子が次々に継いでゆくのを、「幾つぎ」というので、「ななつぎ」とも読める。『続日本後紀』巻十五、尾張連広主の歌に、「ななつぎのみよに」と詠んでいる。しかし、やはり「ななよ」と読むのが、よりよいだろう。〕さて、これは、十二柱の神のうち、初めの二柱は、それぞれ独神としてお生まれになり、次の十柱は、男女二柱ずつ、一対でいらっしゃるので、ただ「十二柱の神の世」と申し上げたのでは、そのあり方が分かりにくい。そのため、後の世の代継ぎの例にならい、仮に七代と申し上げたのである。〔それゆえ、これは、父子が次々に継ぐように、前の神の御代が過ぎて、次の神の御代へと続くのではない。前にも述べたとおり、この七代の神々は、次々にお生まれになり、伊邪那岐・伊邪那美神のときまでも、なお、天と地の始まりのときなのである。さらに、その証拠は、次の巻に見える。それなのに、『日本書紀』の一書に、「国常立尊が天鏡尊を生み、天鏡尊が天万尊を生み、天万尊が沫蕩尊を生み、沫蕩尊が伊弉諾尊を生んだ」、また、一書に、「この二神は、青橿城根尊の子である」とある。これらは、たいへん異なる伝えで、まことに理解しがたい。それで、『私記』にも、「ある説では、これは、後代の、代々相続くあり方を見て、仮に『生む』といったのであって、必ずしも事実ではないという」といっている。そうなのかもしれない。『日本書紀』の、ここで、「天と地の道が互いに交わり、化成したため、この男女が成った」とあるのは、例の編者による、中国風の考え方の飾りであり、古い意味にひどく背くことは、初めに論じたとおりである。〕
【宣長の注釈】〔また、後の世に、この七代を「天神七代」、後の五代を「地神五代」と申し上げるのは、どのような愚か者が、いい始めたのだろうか。まったく、事の理由を考えず、ただ、無理に天と地とに当てはめようとした、いい加減な説なのに、世間で広くいい慣れて、その大きな誤りを見分けた人も、ほとんど聞かないのは、どうしたことか。まず、この七代を天つ神と申し上げたことは、古い書物に見えたことがない。ただ、『姓氏録』で、「角凝魂命」と申し上げるものは、この七代の中の角杙神なのだろうと思われるが、その子孫は、天神の部に収められている。しかし、これは、はっきり角杙神とあるわけではなく、名が違うので、ただ名によって、高御魂神などの例として、天神の部に入れられたものなのだろう。したがって、証拠にするほどのことでもない。すでに、天之常立神の後に、以上の五柱を天つ神と申し上げると断っているので、その次々は、天つ神と申し上げるのでないことが明らかである。天の位をお治めになるものを天つ神と申し上げる、などという説は、近ごろの、中国風の考え方による、例の、勝手な言い方である。天にいらっしゃる神こそを、天つ神とは申し上げるのである。それなのに、伊邪那岐・伊邪那美神の御事の記し方を考えても、天にいらっしゃる神とは見えず、この地にいらっしゃる神と見える。それならば、いずれにしても、この七代は、みな、この国土に関わっていらっしゃる神々なのである。しかし、そうではあっても、また、はっきり、これを「国つ神」と呼ぶことも、文献には見えない。「国つ神」とは、後の五代に至って、この国土にいる神を、天つ神に対して申し上げる呼び名なのである。〕
【宣長の注釈】〔さて、また、「地神五代」と申し上げるのも、大きな間違いである。まず、天照大御神は、高天原をお治めになり、今も、目の前の天にいらっしゃるので、天つ神であることは、いうまでもない。次に、天之忍穂耳命・日子番能邇々芸命も、高天原にお生まれになったので、天つ神である。それで、このために、穂々手見命から下を、「天つ神の御子」と申し上げるのである。さて、この穂々手見命・鵜葺草葺不合命は、この国土にお生まれになり、この国土にいらっしゃったので、天つ神とは申し上げない。しかし、また、これを国つ神と申し上げたことは、まったく文献に見えない。国土にお生まれになっていても、天つ神の正統でいらっしゃるために、「皇孫」とも、また、漢文では「天孫」とも申し上げるのである。それならば、「天神七代・地神五代」と申し上げるのは、重ね重ね、当たらない、根拠のない呼び名だと知るべきである。また、この七代・五代を、天の七星、地の五行にかたどったといい、あるいは、『易』の八卦というものに当てはめて説く類いは、耳にするだけでも、汚らわしいのである。〕
【宣長の注釈】さて、この七代の神は、『日本書紀』では違いがあり、国常立尊の次に、国狭槌尊と申し上げる一代があって、角杙神・活杙神の一代はない。また、一書には、この一代はあるが、意富斗能地神・大斗乃弁神の一代がない。さて、「世」と「代」の字の書き方には、違う意味があるのではない。「神代七世」と入れ替えて書いても、ただ同じことである。『日本書紀』でも、巻の初めには「神代」と題していながら、この箇所には、この『古事記』と同じく、「神世七代」と書いてある。上代から、このように書き伝えてきた、そのままなのだろう。
【宣長の注釈】「初めの二柱は…」という割注は、十二柱で七代になる理由をいうのである。「各」とは、「おのおの」ということである。〔「己」の仮名が「淤能」なので、「各」も、そうである。「袁」を使うのは誤りである。〕称徳天皇の詔には、「おのもおのも」とある。〔「も」は、添える言葉である。〕「十神・二神」は、「とはしら・ふたはしら」と読むべきである。〔その理由は、最初の巻の、訓読法の項で述べたとおりである。〕
古事記伝 巻四。本居宣長が謹んで著す。
神代 第二巻
【古事記本文】そこで天つ神たちは、そのお言葉によって伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱の神に、「この漂っている国を造り固め、完成させよ」と仰せになり、天の沼矛を授けて、その仕事をお任せになった。そこで二柱の神は天の浮橋にお立ちになり、その沼矛を差し下ろし、潮をかき混ぜて、こおろこおろと少しずつ固まらせ、矛を引き上げた。その時、矛の先から滴り落ちた潮が積もり重なって、島になった。これが淤能碁呂島である。「立」は「たたし」、「鳴」は「なし」と読む。「許袁呂許袁呂邇」の七字、「淤能碁呂」の四字は音を表す。
【宣長の注釈】「天神諸」の天神は、最初の段に出てきた五柱の天つ神である。この先では、何事にも「高御産巣日神の命もちて……」と記すのに、ここだけは、あの大神を特に挙げず、「天神諸」と神々全体を挙げている。何かわけがあるのだろうか。「諸」は五柱をまとめていう語で、「天神」にかかる。天の石屋の段の「八百万の神、諸々に笑ひ」、中巻の倭建命の段の「后たち、および御子たち、諸々に下り到りて……」や、『続日本紀』孝謙天皇紀の皇太后の宣命にある「汝たち諸は、我が近き親なり」、称徳天皇紀の宣命にある「天下の人民諸を憐れみ賜ひ……」などが、その例である。これらは同じ用法で、古語の使い方である。また、単に「諸(もろもろ)」という例も多く、『万葉集』巻二十にも「もろもろ…」という用例がある。〔訳注:この用例の後半の仮名は、字形と読みの確定を留保する。〕薬師寺の仏足石歌に「つとめ、もろもろ」とあるのも同じだ。この「諸」を「かたへの」と読むのは誤りである。『真字伊勢物語』には「諸之人」とあり、漢籍にもその読みをする場合はある。しかし、それは、ある一人について述べるところで、そのそばの別の人々を指すために、「かたへの人」と読むのである。もともと意味が違うことをわきまえず、「諸」はどれもそのように読むというのはでたらめだ。また、旧刊本でも、『元々集』という書物の引用でも、この字を「詰」としているのは、写し誤りである。
【宣長の注釈】「命以」の「命」は、お言葉という意味である。『延喜式』の祝詞に「天津神の御言もちて、更に計り給ひて……」などとある例からわかる。「命」という字の意味そのものである。これを神のお名前に添える「某命」の「命」だと考えるのは誤りだ。「以」は「もちて」と読む。その理由は巻一の訓法の条で述べた。「命を」と「を」を添えず、直接「みこともちて」と読むことは、この『延喜式』の例や、あの訓法の条で挙げた歌の例からわかる。ただし、ここでいう「命以」は、国司などをいう「みこともち」とは意味が違う。国司の場合は、仰せを受けて、その任務を背負い持つという意味である。ここは「お言葉によって」というような意味で、「以」は軽く添える語である。〔訳注:原文で訓を示す仮名の末字には、弖/豆の字形判別を留保する箇所がある。〕
【宣長の注釈】「伊邪那岐命・伊邪那美命」は、前の段では「神」とあったが、ここからは「命」と呼んでいる。特別な意味はないだろう。前の段では、ほかの神々をみな「某神」と呼ぶため、それと同じように「神」と呼んだのである。この先には「大神」と呼ぶ所もある。お名前の下に「命」という語を添えて「某命」と申すのは、尊敬の呼び名である。名前だけでなく、「天皇命」「神命」「御祖命」「皇子命」「父命」「母命」「那勢命」「那邇妹命」「妻命」「妹命」「汝命」などともいい、この『古事記』や『万葉集』などに例が多い。ただし、「みこと」という語そのものの意味は、まだわからない。昔から人々が述べてきたのは、漢字に結び付けて考えた説なので信じがたく、筋も通らない。また、「こ」を濁らせて読む人もいるが、『古事記』『日本書紀』『万葉集』などでは、音を表す漢字に清音の字だけを用いているので、清音で読むべきだ。濁音の表記は、外国の文献で天皇を「主明楽美御徳」と記すものだけである。これはめでたい字ばかりを選び集めた表記らしく、清音か濁音かを定める根拠にはならない。「命」の字を使うのは、もともと「御言」にこの字を使い、語の音が同じなので、尊称の「みこと」にも借りて用いたのだ。音さえ違わなければ、漢字の意味にこだわらず、さまざまに借りて書くのは古代の普通のことだった。この漢字だけに注目して、その語の意味を考えてはならない。ところが『日本書紀』は、この「みこと」を「尊」と「命」に書き分け、「最も尊いものを尊といい、そのほかを命という。どちらも、みことと読む」と注している。これは、君主と臣下の呼び名が同じなのを嫌って、無理に区別するため、編者が文字を変えたのである。その「尊」は、字の意味を取って書いた正字であり、「命」は古くからの表記に従った、やはり借字である。それなのに「尊」と対にして、「命」の字も、臣下が君主の命令を承る意味だ、などというのは、ひどいこじつけだ。あえていうなら、命令を出す人を「命」と呼ぶほうがまだ理屈に合うように思える。それを受ける人をそう呼ぶのでは、まったく筋が違うではないか。
【宣長の注釈】「この漂っている国」とは、まさに最初の段の「国は幼く、浮かぶ脂のようであって」というものを指して仰せになったのである。そこにも「くらげなす、ただよへる」とあり、語が同じであることから理解すべきだ。後に引用する『日本書紀』の一書にも「浮かぶ脂のような物があり……」とあることを考えたい。したがって前にも述べたように、天之御中主神からこの二柱の神までは、同じ時期に続いて次々とお生まれになり、この時も、あの、国がまだ幼く、脂のように浮き漂っていた時なのである。そこでも述べたように、まだ「国」という物がなかった時ではあるが、出来上がった後の名によって、その始まりの状態も「国」と呼んで語り伝えたのだ。実際には、この時は、潮がようやく凝り始めようとして、ただ漂っていただけなのである。〔訳注:原文の反復記号の濁点の有無は、判読を留保する。〕
【宣長の注釈】「修理固成」について。「修」を「脩」と書くのは正しくない。「修理」は、単に「作」と書くのと同じである。玉垣宮の段にも「我が宮を修理し」などと記す。国を「修理固」と表す例は、この先で神産巣日神が少名毘古那神について大穴牟遅神に、「この神は、お前である葦原色許男命と兄弟となり、ともにその国を造り固めるのだ」と仰せになった所にも見え、「その二柱の神は並び合って、この国を造り固めた」ともある。『文徳実録』巻七にも「仏をも平らかに造り固め奉り」などとあり、『和名抄』は「修理職」を「おさめつくるつかさ」とする。「修理固」の三字を続けて、「つくりかため」と読むべきだ。「成」は、完成させよということである。これも、あの大穴牟遅神の段に「国は成り難し」などとあり、『日本書紀』にも「成ったか、成らないか」という問答がある。「造り固める」と「完成する」と、似た意味をこのように重ねていうのは、古語の表現である。
【宣長の注釈】「詔」は「のりごちて」と読むべきだ。「のる」とは、人に物を言い聞かせることである。自分の名を人に言い聞かせることを「名のる」というのを見ればわかる。また、法を「のり」というのも、上に立つ者が、こうせよと定めて言い聞かせることから生まれた。『古事記』や『万葉集』などには、「告」「謂」といった字も「のる」と読む例が数多くある。今の本では、こうした字を誤って別の読み方にする所が多い。古語をよく知らないためであり、よく考えて正すべきだ。この「詔」の字は「みことのり」とも「のりたまふ」ともいう。「みことのり」は「御言をのる」、「のりたまふ」は「のることをなさる」の意味で、普通に「のたまふ」というのは、この「り」を省いたものである。『古事記』の中でも、その場の言葉のつながりによって、読み方は多少違う。しかし、どの場所でも「のる」という語から離れることはない。もとは、その「のる」からさまざまに使い分けたためだ。「のりごつ」は、『日本書紀』崇神天皇紀の「令諸国〔諸国に命じる〕」などに見える語で、歌や物語で「ひとりごつ」「きこえごつ」「まつりごつ」などというのと同じ形で、「のりごと」を縮めた語である。〔『日本書紀』応神天皇紀にも「令有司〔役人に命じる〕」とある。〕『源氏物語』東屋巻に「帝の御口づから、ごちたまへるなり」とあるのは、「のりごちたまふ」を、後世、言い慣らすうちに「のり」を省いた語なのだろう。〔訳注:冒頭で訓を示す「能理碁知弖」の末字は、弖/豆の細画の判別を留保する。〕
【宣長の注釈】「天沼矛」について。『日本書紀』は「天之瓊矛」と記し、「瓊は、ぬという」とする。これを従来「とほほこ」と読んできたのは、論ずるに足りない俗な読みである。「努」の字を、ある本は「貳」としていたことが『私記』に見える。この「瓊は、ぬという」という説明から、「沼」は借字で、玉という意味だとわかる。玉を「ぬ」という例は、『日本書紀』の、玉の鳴る音を「ぬなとももゆらに」という記述に見える。今の本は「瓊響」の二字が抜け、また「奴」の上にある「乎」の字は余分で、それに付けられた諸説もみな誤っている。『古事記』と合わせて考えれば、おのずと明らかになる。「ぬなと」は、すなわち玉の音をいう。「の」を「な」といい、「を」を省く例も多い。さらに天武天皇の夫人に「大蕤娘」という人がおり、『先代旧事本紀』には「天蕤桙」という名がある。この二つを合わせて考えると、これも玉を「ぬ」という例なのだろうか。「蕤」は玉にまったく関係のない字なので、「和」を「咊」とも書くような例にならい、「璲」などの字を「蕤」と書き誤ったのだろうか。このように、「瓊」は『日本書紀』で普通「に」と読むため、それと通じる音で「ぬ」ともいったのだろう。「矛」は、『和名抄』に「揚雄の『方言』にいう。戟は干とも戈ともいう。和名は、ほこ」とあり、また「『釈名』にいう。手で持つ戟を矛という。人が持つ物である。字は鉾とも書く。和名は、てほこ」とある。日本の古書は、戟・矛などを字にこだわらず使い合い、桙ともよく書く。矛を「てほこ」というのは、古い名ではないだろう。「手戟」という説明に即した名なのだろう。上代には日常よく使った武器で、古書にも数多く出る。「日矛」「茅纒之矟」「広矛」「八尋矛」などの呼び名が見える。「沼矛」は「玉梓」というのと同じように、玉で飾った矛なのだろう。古代には、このような物にも玉を飾るのが普通だった。さまざまな物を「天之某」と、「天」という語を上に添えて呼ぶのは、御孫命が天からお降りになった時、ご自身が身に着けたりお使いになったりした物や、お供の神々がそれぞれ持った物など、天から降ってきた品が数多くあり、その時、この国の物と区別して、天の物を「天之某々」と呼んだからである。後には、この国で作った物でも、あの天の品の作り方にならった物は、そのように呼んだのだろう。さらに意味が移り、特別な理由もなく、ただほめる呼び名として用いたらしい例もある。それも、もとは天の品が美しかったためだ。この種の「天」は、後世にはみな「あまの」とばかり読むが、倭建命の歌に「阿米能迦具夜麻〔あめのかぐやま〕」、また『日本書紀』仁徳天皇紀の歌に「阿梅箇儺麼多」ともある。これらの「天」は「あめ」と読んでいるので、「あめの某」「あめ某」と読むべき例もあるだろう。ただし、はっきりした証拠が見えないものは、ひとまず従来の読みに従った。さて、今、国を造り固めよとしてこの矛をお授けになったのは、どういうわけなのか、知ることはできない。決して後世の考えで推測して論じてはならない。この矛についても、例によってさまざまな説があるが、みな論ずるに足りない。ある説に、今は伊勢の滝祭宮の地中に納めてあるというのも、信じ難い話である。〔訳注:玉の音を記す引用の玉偏の字、仁徳天皇紀の歌の引用中の一字、および末尾の強調語の細字は判読を留保する。〕
【宣長の注釈】「言依賜也」について。「言」は借字で、「事」という意味であり、実際に「事」と書く所もある。もし「言葉」という意味なら「御言依」とあるはずなのに、どの書物にも「御」とある例はない。「依」は「因」「寄」「所寄」とも記し、字の意味どおりの「よす」を長くしていう語である。「さす」を縮めれば「す」になる。古語には、語形を伸ばしたり縮めたりしていう例が多い。その例は、次の「立」の所で述べる。では、「よせ」を長くするなら「よさせ」となるはずなのに、なぜ「よさし」と読むのか。それは、古くは「よせ」を「よし」ともいったからである。『日本書紀』神代巻の歌にある句は、「目よしに、よしよりこね」、つまり網の目が寄るように、寄りに寄って来ておくれ、という意味である。この歌は、初めに網のことを序として詠み、網の目を引き寄せると目が寄ってくるように、寄って来よと詠んでいる。従来の注釈はひどく誤っている。また『万葉集』巻十四の「つまよしこせね」も、妻をこちらへ来させてくれ、ということである。ほかにも例はある。「よさし」と読む確かな証拠は、『続日本紀』聖武天皇紀の宣命に「我が孫の知らしめす国、天下と、よさし奉りしまにまに」とあることだ。「さ」を清音で読むべきことは、「よす」を長くした語であることからわかる。今の人が多く濁らせるのは誤りである。「よさす」は「任」とも書き、仕事をその人に任せて執り行わせる意味である。光仁天皇が藤原永手大臣の死を悼まれたお言葉に、「太政官の政をば、誰に任ししかも、罷りいます」と仰せになったのも、「誰に任せ置いて、お亡くなりになるのか」ということである。「封」の字をそう読むのも、その国の政治をその人に任せる意味だ。「ことよさす」という語は、この巻の先にも、『続日本紀』の宣命や『延喜式』の祝詞などにも数多く見え、みな同じ意味である。『日本書紀』には「勅任」ともあり、応神天皇紀には「大山守命に任せ、山川林野をつかさどらしむ」などともある。「賜」は、前の「賜」とは違い、ただ尊敬を表して添える語である。〔訳注:神代巻の歌の引用「妹盧豫嗣爾、豫嗣豫利據禰」は、嗣の位置の細字および末字の字形を留保する。ここでは著者が続けて明記する「目依に依々來ね」という説明に従って意味を示した。〕
【宣長の注釈】「天の浮橋」は、天と地の間を神々がお上り下りになる道に架かった橋である。空中に懸かっているため、浮橋というのだろう。『和名抄』に「『魏略』五行志にいう、洛水の浮橋。和名は、うきはし」とあるのは、水の上に浮かぶ物なので、これとは違う。天忍穂耳命・番能邇々芸命などが天からお降りになろうとした時も、天の浮橋にお立ちになったことが、この先に見える。この橋について、後世の、例によって漢意を交えた小賢しい説は、いうに足りないので論じない。『丹後国風土記』には、次のようにある。「与謝郡の郡家の東北に速石の里がある。この里の海には長大な石があり、長さは二千二百二十九丈、幅は、ある所は九丈以下、ある所は十丈以上二十丈以下である。もとは天梯立といい、後に久志浜と呼んだ。そのわけは、国生みの大神、伊射奈芸命が天へ通うために梯を作って立てたので、天梯立といったが、神がお休みの間に倒れ伏したためである……」。これに従えば、この浮橋は、もとはこの神がお作りになったものだ。天へ通う橋なので梯であり、立ててあったものが、神のお休みの間に倒れて横になり、丹後国の海に残ったのである。これは大和の天香山、美濃の喪山などの由来話と同じ種類で、神代にはこのようなことが多い。後世の儒者の考えで、これを怪しんではならない。『播磨国風土記』にも「賀古郡の益気の里には石橋がある。伝えによれば、大昔、この橋は天まで達し、八十人もの者が上り下りして往来したので、八十橋という」とある。これも、天と行き来した一つの橋と見える。神代には、天に上り下りする橋があちらこちらにあったのだろう。このことから考えると、御孫命がお降りになった時にお立ちになったのは、ここに述べた天の浮橋とは別の浮橋だったのだろう。『日本書紀』の一書が、ここを「二神は天霧の中に立って言った……」とするのは、異なる伝えである。〔訳注:和名の音仮名の最初の字、「前長」の最初の字と意味、および末尾で浮橋に続く「一ツ/二ツ」の細字は留保する。「前面の長さ」とは断定せず、また橋の数を補わずに訳した。〕
【宣長の注釈】「立を訓みて、たたしという」という注について。この先にも、「天忍穂耳命、天の浮橋にたたして」と記す。『日本書紀』欽明天皇紀の歌の「基能倍備陀々志」〔城の上に立ち〕、推古天皇紀の歌の「いでたたす」〔出立する〕などのほか、例の多い古語である。「依」を「よさす」というのと同じで、語形を伸ばした語だ。「行く」を「ゆかす」、「取る」を「とらす」、「持つ」を「もたす」、「守る」を「もらす」、「待つ」を「またす」などというように、こうした形へ伸ばしていうのは普通のことである。一見、尊敬を表す語のように聞こえるが、身分の低い者についても、そのようにいう例が数多くある。〔訳注:「待」の例の音仮名「麻多須」は、冒頭の麻/磨の字形を留保する。欽明天皇紀の歌は「備」の印字を保ち、著者の「城之上立」という語釈を添えて示した。〕
【宣長の注釈】「指下」は、あの空中に脂のように浮き漂う、ひとまとまりの物の中へ、矛を差し下ろされたのである。『日本書紀』の一書に、「伊弉諾・伊弉冉の二神は語り合った。『脂のように浮かんでいる物がある。その中に国があるのではないか』。そこで天の瓊矛で探り、一つの島を作り上げ、おのごろ島と名づけた」とあることから理解すべきだ。〔訳注:引用中の島名「磤馭盧島」の盧/慮の細字を留保する。〕
【宣長の注釈】「矛」の下の「以」は、「佐志淤呂志弖」の末字に当てて読むべきだ。字をそのまま読むのは、漢文の読み方である。〔訳注:訓の末字と、その直後に繰り返す字の弖/豆の判別を留保する。ここでは現代語の「差し下ろして」という接続として示した。〕
【宣長の注釈】「画者」について。「画」は、『日本書紀』の一書にも「滄海をかき」、また「おのごろ島をかき成す」とある。意味は似ていても、この字そのものの意味ではないので借字である。『延喜式』の祈年祭の祝詞にも「泥をかき寄せる」と書く。これらは、古くから書き慣わしてきた字を、そのまま用いたのだ。ここでいう「かく」は「攪」などの意味で、俗に「かき回す」というのと同じである。『日本書紀』の本文には「天之瓊矛を差し下ろして、これを探る」とある。あちらの一書の「画」を、『口決』が「矛で海を探ることだ」と説明したのは、よく当たっている。「画」の字義に即して説く注は、かえってよくない。これを「かく」というのは、手先で行う仕事を、一般に「かき何々」というからである。「かき上げる」「かき寄せる」「かき乱す」などの例がある。また、必ずしも手で行わなくても、様子が同じなら、道具を使う仕事もそういう。かゆい所をかく、字や絵をかく、木の葉をかき集める、といった類だ。ここは、空中に漂う物、すなわち潮に泥の混じったひとまとまりの物を固めるため、矛でかき混ぜられたのである。『日本書紀』の「探」は、前後の文からすると、探し求める意味だ。この『古事記』の「かく」は、探し求める意味ではない。もしそう解釈したなら、「こおろこおろに、かきなして」とある文に合わない。そのうえ、天つ神が「ここにある、漂っている国」と指して仰せになっているのだから、国が漂っていることは明らかで、わざわざ探し求める必要はない。〔訳注:引用中の「磤馭盧島」の盧/慮、および「攪探り」の探/採の細字は留保する。〕
【宣長の注釈】「塩」は潮のことである。「塩」と「潮」は漢字が違っても、「しほ」という名は一つである。『和名抄』に「潮、和名は、うしほ」とあり、斉明天皇紀の御歌にも「うしほ」とある。また、これを単に「しほ」というのも普通である。〔訳注:和名の音仮名の最初の字は、字/宇の細画を留保する。〕
【宣長の注釈】「許袁呂許袁呂邇」について。諸本がこれを「許々袁々呂々邇」と記すのは、古い書き方である。この先の大穴牟遅神の段で、鼠が「外はすぶすぶ」と言う所も「須々夫々」と書く。また、神武天皇紀の「いまはよ、いまはよ、ああしやを、いまぎにも、ああごよ、いまぎにも、ああごよ」という歌を、『先代旧事本紀』は「伊々莽々波々豫々、阿々時夜塲、伊々莽々儀々而々毛々、阿々誤々豫々」と記す。これは、『日本書紀』の古本にそうあったものを写したのだろう。古くは一般に、このように書いていたのだ。しかしそれは、同じ字が重なるのを略すための、くつろいだ書き方であり、正式な書物などには、そのように書くべきではない。そこで今は延佳本に従い、正しく「許袁呂許袁呂邇」と書いた。このほかも、この書物全体を通じて同様である。「こおろこおろに」は、あの矛でかき混ぜられるにつれて、潮が少しずつ凝ってゆく様子をいう。「こおろ」と「こる」は、語の音も通じている。下巻、朝倉宮の段で、御杯に木の葉が浮かんだことを三重の采女が詠む歌に、「みづたまうきに、うきしあぶら、おちなづさひ、みなこおろこおろに……」とあるのと同じだ。この様子を物にたとえるなら、脂などを煮固める時、初めは水のようであったものを、箸でかき回すと、だんだん固まってゆくようなものだ。もっとも、脂を煮るならそうでも、潮はどれほどかき回したところで、固まるだろうか、という疑問はあるだろう。しかし、これは産巣日神の産霊によって国土が始まる神のみわざなので、今の普通の小さな理屈で、あれこれ推し量って述べるべきことではない。今は、ただその様子をたとえていっただけである。〔訳注:「此書絡みな」の絡に当たる字は細画を確定できず、暫定表記を保持した。〕
【宣長の注釈】「画鳴」は、あの脂のように浮き漂う物をかき混ぜ、少しずつ凝った物にしたのである。「鳴」は借字で、「成」の意味だ。『日本書紀』には、まさに「画成」「探成」などと記す。それなら、そのまま「成」の字を書けばよいのに、意味の遠い字を借りるのはどういうことかと、今では思える。しかし古代には、例によって、特に意識せず書き慣わしてきた字を、そのまま書いたのだ。古くは、琴を弾き鳴らすことを「ひきなす」、笛を吹き鳴らすことを「ふきなす」、鼓を打ち鳴らすことを「うちなす」などと、一般に「鳴らす」を「なす」といったため、「成す」にもこの字を借りたのである。旧刊本の注には「鳴を訓みて、なししという」とあり、師はそれを用いて「なしして」と読まれた。「見たまふ」を「みしたまふ」というのと同じ形の語だと考えられたのだろうか。しかし、「なしし」とあるのは誤りだろう。
【宣長の注釈】「引き上げる」のは、あの矛を、ということである。
【宣長の注釈】「其矛末」の「末」は「さき」と読むべきだ。この先に「著其御刀前之血」「以御刀之前」「跌坐其御刀前」「劒前」など、刀や剣の先をいう例があり、いずれも「さき」という。『日本書紀』欽明天皇紀に「鉾末」とあり、『新撰字鏡』にも「鉾、ほこのさき」とあるからである。国栖たちが、大雀命の御刀を見て詠んだ歌には、「はかせるたち、もとつるぎ、すゑふゆ……」とあるので、「すゑ」と読むのも誤りではない。しかし、やはり例の多いほうに従うべきだ。
【宣長の注釈】「垂落」は「しただる」と読むべきだ。『日本書紀』の読みもそうである。また、「剣刀垂血」という表現もある。「しただる」の「した」は、「下」というのと同じである。
【宣長の注釈】「落」の下の「之」を、諸本が「塩」の下に置いているのは誤りである。このように字の上下を取り違えて写す例は、しばしばある。今は、ある一本に従った。『日本書紀』には「滴瀝之潮」、また「垂落之潮」とあり、『古事記』の中で「之」を置くほかの例もそうだからである。
【宣長の注釈】「累積」には「都母理豆」という訓を付けている。積み重なるという意味である。〔訳注:訓の末字は豆/弖の細画を留保し、「つもりて」とは確定しない。〕
【宣長の注釈】「淤能碁呂」について。「碁」を諸本はみな「基」と書くが、この先でも高津宮の段の歌でも、この島の名はどちらも「碁」と記すので、今はそれに従った。「基」と「碁」の書き方は通じ合うため、一概に「基」を誤りとすべきではない。また、「碁呂」の「碁」を清音で読むのは誤りだ。『日本書紀』も濁音の「馭」を使っている。「島」の「し」は、あの御歌が清音の「志」で書いているので、清音で読むべきである。『私記』には「おのずと凝った島のことで、自ら凝るというのと同じだ」とある。あの「こおろこおろ」とかき固められた潮の滴りが積もって出来たので、この名がある。「こおろ」を縮めれば「ころ」となる。この島は国土の始まりなので、「つち」という名は、泥が連なり接して出来たことから、「つづひぢ」が縮まったのだろう。「おのずと」というのは、ほかの島国はみな二柱の神がお生みになったのに、この島だけはそうではなく、ひとりでに出来たからである。それで、この先に「ただ意能碁呂島だけは、お生みになったものではない」とある。この島を日本のもとの名とし、「男の島」の意味だというのは、古語を知らない者の誤った説だ。「をのこ」の「を」は音が違う。「自」は「おの」という音で、よく合う。後世、「自」の音仮名に「袁」を用いるのは誤りだ。このほかにも説は多いが、みな論ずるに足りない。この島の場所については、高津宮の段で、天皇が淡道島へお出ましになった時の御歌に、「淡島、淤能碁呂島、檳榔の島も見ゆ……」とあるのによれば、淡島の並びにあるように聞こえる。淡島については、この先で詳しく述べる。『私記』には、「今もある淡路島の西南の角の小島がこれで、民間には今もその名が残るという」とあり、『口決』には「淡路の西北隅にある小島」とある。西北と西南のどちらが本当だろう。ある説では、後世の歌に詠む淡路の絵島がこれで、『日本書紀』の「磤馭盧島を胞とした」という記述に由来し、もとは胞島の意味だったという。また、ある説では、淡路の西北隅にある胞島がこれで、今も胞島といい、「おのころ島」という名も残るという。その地方には鶺鴒島というもの、磐樟神社というものもある。『延喜式』の石屋神社がこれで、岩窟の中に二柱の大神と蛭児を合わせて祭る。その東南の山には天地大神宮があり、国常立尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊の三座である。摂社に八十万神があるという。また、荒木田瓠形は、「私は以前、四国へ行った時、おのごろ島のあたりを通った。淡路の津名郡、石屋神社の東の小島である」といっていた。ほかに、淡路と紀伊国の境、由理駅の西方の小島だという説もあるが、これは間違っているようだ。この島が先に出来て固まったのは、大八島国が出来るための土台である。二柱の神が国土を生み出そうとして御殿を造り、共に住み、その柱を回って出会い、交わられる時、この島は、その御殿の柱を立てる土台として、先に出来て固まったものだからだ。この事情は、次々に現れる本文を考え合わせて理解すべきである。
【古事記本文】二柱の神は、その島へ天降り、天の御柱を立て、八尋殿をお造りになった。そこで伊邪那岐命は、妻の伊邪那美命にお尋ねになった。「お前の体は、どんなふうに出来ているか。」伊邪那美命は答えた。「私の体は育ち整いましたが、ふさがらない所が一か所あります。」そこで伊邪那岐命は仰せになった。「私の体は育ち整って、余った所が一か所ある。だから、私の体のこの余った所を、お前の体のふさがらない所に差し入れてふさぎ、国土を生み出そうと思うが、どうか。」「生」は「うむ」と読み、以下も同様である。伊邪那美命は、「それはよいでしょう」と答えた。そこで伊邪那岐命は仰せになった。「それでは、私とお前で、この天の御柱を回って出会い、みとのまぐはひをしよう。」「美斗能麻具波比」の七字は音を表す。そう取り決めてから、「お前は右から回って出会え。私は左から回って出会おう」と仰せになった。約束を終えて回った時、伊邪那美命が先に「あなにやし、えをとこを」(ああ、なんと、すばらしい男よ)といい、後に伊邪那岐命が「あなにやし、えをとめを」(ああ、なんと、すばらしい女よ)といった。「阿那邇夜志愛袁登古袁」の十字は音を表し、以下も同様である。双方の「愛」には上声の印がある。それぞれ言い終わってから、伊邪那岐命は妻に、「女が先に声をかけたのはよくない」と告げた。しかし、そのまま寝所で交わり、子の水蛭子をお生みになった。「久美度邇」の四字は音を表す。この子は葦の船に入れて流し去った。次に淡島をお生みになった。これも子の数には入れない。
【宣長の注釈】「天降坐而」は「あもりまして」と読むべきだ。『万葉集』巻二(三十丁)の「わざみが原の、行宮に、あもりいまして、天下治めたまひ……」、巻三(十丁)の「あもりつく、天の香具山」、巻十三(下・三丁)の「葦原の、瑞穂の国に、手向けすと、あもりましけむ……」、巻十九(三十丁)の「あもりまし……」などの例による。「あまくだり」と読むのも悪くはない。巻十八に「葦原の、瑞穂の国を、あまくだり、知らしめしける」などともあるからだ。「あもり」は、「あまおり」(天から降りる)が縮まった古語である。そもそも、この二柱の大神は、高天原にお生まれになった神ではないので、今初めて天からお降りになるのではない。先に天つ神の仰せを承るため天に上っておいでになり、その神々が降りてこられるのである。初めにお上りになったことを述べないのは、それほど重要でないので、省いて語り伝えたのだろう。『日本書紀』の伝えでは、天つ神の仰せを承ったことまでも省いているではないか。ある人は疑っていう。「もし、先に高天原にお上りになっていた神が降りてこられるのなら、この先の文に『反降』とあるように、ここも『反降』、つまり帰り降りると書くべきではないか。」答えよう。最初にお上りになった時は、まだ淤能碁呂島がなかったので、「その島へ帰る」とはいえないのである。〔訳注:冒頭の訓「阿母理麻志弖」の末字は弖/豆の細画を留保する。〕
【宣長の注釈】「天の御柱」は、すぐ次に出る八尋殿の柱である。御殿とは別にお立てになった柱ではない。『源氏物語』明石巻の歌に「宮柱めぐりあひける……」とあるのは、蛭子を詠んだ歌への返歌で、ここでいう天の御柱を「宮柱」と詠んでいる。作者の意図はわからないが、おのずと実際のことに合っている。『和名抄』に「柱、和名は、はしら」とある。御殿を建てることをいう時、まず柱のことを述べるのは、「底つ石根に宮柱太しり」などと、古くから普通である。大殿祭の祝詞でも、天皇の御殿を建て申し上げることを、「奥山の大きな谷、小さな谷に立つ木を、斎部の斎斧で伐り採り、根元と梢は山の神に祭り、中ほどを持ち出して来て、斎鉏を使って斎柱を立て、皇御孫命を守る天と日の覆いとして、お造り申し上げた瑞々しい御殿……」といい、特に柱のことを取り上げている。しかもここは、この後、柱の周りを回られる大切な儀式を述べる段なので、その初めに柱を立てられたことを、先に記すのだ。『日本書紀』の一書に「八尋の殿を化作し、また天の柱を化竪す」とあるのは、この柱を別に立てられたように聞こえるが、そうではない。これも、その始まりを先に述べておくため、いっそう明確にするつもりで「又」の字まで加えたのだろう。「天の」と添えるのは、天上の御殿の柱の形にならってお立てになったためで、天の沼矛の所で説いたとおりである。『日本書紀』の「国柱」と対になる名だと見てはならない。さて、『日本書紀』は「磤馭盧島を国中の柱とした。柱は、みはしらという」とする。意味が違うように見えても、あの島が出来たのは、この御殿の柱を立てる土台が出来たということであり、その土台もつまり柱なので、同じことである。屋根を支えるのが柱で、その根元を支えるのは地だから、地も柱だ。風さえ天の御柱・国の御柱と呼ぶことからも理解できる。そのことは巻七で詳しく述べる。〔訳注:底本では、参照先の丁数が空欄になっている。〕この柱を「国中の柱」「国の柱」と呼ぶのは、まず国土を生み出そうと出会われる、その最初に、この御柱をお回りになるからである。したがって、この御柱は、国土が生まれる根本なのだ。あの風をいう「国の御柱」とは、名の意味が違う。また『私記』は古説として、「天つ神から賜った瓊矛で、磤馭盧島を探り得た後、ただちにその矛をこの島に突き立て、国の柱とした。その矛は小さな山になった」と記す。これも一つの伝えだろう。『先代旧事本紀』にもそうある。後世の人は、この御柱について、さまざまに大仰な理屈を並べて説明するが、どれも例の根拠のない説である。
【宣長の注釈】「見立」の「見」は、「見送る」などという「見」である。今の言葉でも、子を「見育てる」、出立を「見届ける」などという。この「見」は、ただ目で眺めることではなく、その仕事を引き受け、自分の責任として取り計らうことをいう。したがってここも、御柱を立て、御殿を建てることに、ご自身で関わって取り計らわれる意味である。今、人の出立を「見立てる」というのも、その場に自分で臨んで出発させることで、意味は同じだ。「所知看」などの「看」も、この「見」と同じである。「看」は字のとおり「見る」という語だ。「見る」を古語で「みす」というのは、「聞く」を「きこす」というのと同じである。その「みす」を、通じる音で「めす」ともいう。『万葉集』の歌などに、よくある表現だ。目で見ることだけでなく、何事であれ、身に引き受ける意味によく使う。「天下を知らしめす」「政を聞こしめす」などの例である。この語の意味は、巻七の十七丁で詳しく述べた。私は以前、この「見立」を「御寝坐」「御合坐」などと同じ形で、「御立」の意味だろうともいったが、それはよくない。もしそうなら、単に「御」の字を書くべきである。また、『日本書紀』が「化作」「化竪」などと記す「化」の字は、まったく理解できない。決して、その字の意味ではない。読み方はこの『古事記』に従うのである。「みたつ」は「生い立つ」だという説なども誤りである。
【宣長の注釈】「八尋殿」は「やひろどの」と読むべきで、「の」を添える読みはよくないだろう。『日本書紀』は「之」の字を加えて書くが、あちらは一体に漢文の文章を重んじているため、このような読みの証拠には頼れない。この名は、この先の木花之佐久夜毘売の段にも「戸のない八尋殿を作り……」、書紀神代巻にも「高く立つ波穂の上に八尋殿を建て……」などと見える。履中天皇紀や『山城国風土記』などには「八尋屋」という名もあり、『倭姫命世記』には「八尋機屋」というものもある。「八尋」は、御殿の広さの程度をいう。「八」は、必ずしも七、八と数える八ではなく、「いや」が縮まった語である。「八重」「八雲」、また「八十」「八百」「八千」など、ほかの「八何々」もみな同じで、ただ重なり、多いことをいう。それなのに、神道では八の数を尊ぶなどといい、この数字をめぐってさまざまに説くのは、例の漢意の説で、古代の考えではまったくない。物の数を八にそろえるのも、後世の行いだ。「尋」は両手を伸ばした長さで、今の人もそうして一尋を測る。手を広げて測るので、「ひと広げ、ふた広げ」という意味なのだろう。中国にも「肘を伸べて尋を知る」などというので、上代にはそうだったものを、八尺と定めたのは、やや後のことだろう。日本では今も八尺とはいわない。まして神代ならどうであったか、考えるべきだ。「八尋矛」というものもあることから、八尺の八倍の六丈四尺ではないとわかる。『和名抄』に「殿、和名は、との」とある。先にこの御殿をお建てになるのは、男女が共に住んで交わられるためである。御殿をお建てになることまでは述べなくてもよいはずなのに、まずこう記すのは、古く妻問いをする時には、先にその家を建てたらしいからだ。須佐之男命が須賀宮を造った時も、「妻ごみに、八重垣作る」と詠まれたのを見れば、もっぱら妻をその中に住まわせるためだとわかる。また『万葉集』巻三で、葛飾の真間娘子の墓を見て赤人が詠んだ歌には、「昔、いたであろう人が、倭文の幡の帯を解き替え、仮の家を建て、妻問いをしただろう……」とある。契沖や師の解釈はこれと違うが、ここと関係がありそうにも思えるため引いた。それぞれ納得するほうを取ればよい。これも、古代には身分の低い者でも、仮屋を建てて妻問いするという言い習わしがあったため、こう続けて詠んだのだろう。したがって、この八尋殿も、無意味に記すのではなく、理由のあることなのだ。『日本書紀』にも「同じ宮に共に住んで子を生んだ」とあるではないか。
【宣長の注釈】「汝身」は「ながみ」と読むべきだ。「汝」は、漢文では普通「那牟遲」と読み、古書では「いまし」と読む。それも悪くはないが、上代の歌には多く「な」と詠み、また「なれ」ともいう。「あ」を「あれ」、「おの」を「おのれ」というように、「な」を「なれ」というのだ。「なせ」「なね」「なに」「なは」(允恭天皇紀に見える)、「汝命」なども、すべて「な」をもとにした呼び名である。「那牟遲」も「な」がもとで、「牟遲」は大穴牟遅などの「牟遲」だ。物語には「きむち」という呼び名もあり、「き」は君の意味である。こう考えると、「汝」は「な」というのがもとの語だったのだ。これを「いまし」という例には、『万葉集』巻十一(二十六丁)の「伊麻思毛吾毛事應成」〔「いましも我も」と、あなたと私を挙げる句〕、巻十四(五丁)の「いましを頼み……」、『続日本紀』高野天皇の大命の「私の天つ先帝が私に、『天下は我が子であるお前に授ける』と仰せになった……」などがある。『万葉集』巻十四や後世の物語などには「まし」ともある。『続日本紀』の宣命にも「美麻斯」とある。「な」も「いまし」も、後世には下の身分の人だけにいうようになったが、昔の上代はそうでなく、もとは尊敬する人にも使った呼び名である。ただし、「汝」の字を当てていることからすると、その頃にはもう、尊敬する相手にはいわなくなっていたのだろうか。中国でも上古には「爾」「汝」などの呼び方に上下の区別はなかったが、日本へ文字が伝わったのは後の時代なので、その時にはそうではなかった。自分の夫を「汝」と呼ぶ例は、沼河毘売の歌や須勢理毘売の歌などに見える。建内宿禰の歌では、天皇に対してさえ「ながみこ」、すなわち「汝の御子」と申している。「何々の」というのを「何々が」というのも、後世には相手を低める用法とされるが、上代には上下を区別しない語で、「の」と同じだった。〔訳注:巻十一の引用末尾「事應成」の歌意は、この原句だけで確定せず留保する。また「牟遲」の清濁をこの段落だけで決めず、原表記で示した。〕
【宣長の注釈】「如何成」は「いかになれる」と読むべきだ。女神のお体が育ち整った様子を、どのようであるかと、男神がお尋ねになるのである。
【宣長の注釈】「成成」は、初めて生まれた時から次第に育ち、育ちきったことをいう。『日本書紀』に「具成而」、すっかり育って、とあるのと同じだ。「恋ひ恋ひて」「行き行きて」などと同じ形の語である。
【宣長の注釈】「不成合処」は、欠けていて満たされないような所をいう。つまり、女神の陰部である。『日本書紀』は「答えて言った。『私の体には一つ、雌元という所があります』」とし、一書は「答えて言った。『私の体はすっかり育ち、陰元と呼ぶ所が一か所あります』」とも記す。
【宣長の注釈】「問曰」「答曰」などの読み方は、巻一の訓法の条で述べたとおりである。
【宣長の注釈】「伊邪那岐命詔」の「詔」は、「のりたまひつらく」と読むべきだ。『続日本紀』の詔に「詔賜都良久……止、召賜詔賜比志」、また「勅豆良久……止宣賜詔賜比志」などとある例による。「仰せになったことには……と仰せになった」というように、発言の前後を対応させる形である。「つらく」という例は、この『古事記』の須佐之男命のお言葉にも「白都良久」〔申し上げたことには〕とある。そこで、ここのお言葉の末尾には、「と詔りたまへば」と重ねて読み添えるべきだ。これも、あの大命の例に従った古語の決まりである。このことも、訓法の条で詳しく論じたとおりである。
【宣長の注釈】「成余処」は、ふくらみ出て、体の外へ突き出したようになっている所をいう。『日本書紀』には「男神は言った。『私の体にも雄元という所がある』」とあり、また一書は「男神は言った。『私の体もすっかり育ち、陽元と呼ぶ所が一か所ある』」とも記す。
【宣長の注釈】「以」は、「ところを」の「を」に当てて読むべきだ。
【宣長の注釈】「刺」は、差し入れることであり、「塞」に添える軽い語ではない。
【宣長の注釈】「塞」は「ふたぎ」と読むべきだ。『和名抄』に、「あるいは閇の字を男の陰部の意味に用いる」とある。これと、いくらか関わりがありそうだ。
【宣長の注釈】「国土」は「くに」と読むべきだ。この先の「国土、みな震ふ」などは「くにつち」と読むべきだが、詞志比宮の段の「国土、見えず」などは、ただ「くに」と読むべきだからである。その場の文に応じなければならない。〔訳注:宮名の最初の字は詞/訶の細画を留保し、原転写を暫定保持した。〕
【宣長の注釈】「生成」は、単に生むことである。「成」とも添えていうのは、『竹取物語』に「自分の生んだ子ではないので、こちらの思いどおりにはならない」とあり、『うつほ物語』藤原君巻に「この春、子を一人生んで、お亡くなりになった」とあるように、「生む」を「なす」といったからである。今の言葉でも、継親子を「なさぬ仲」という。また大祓の詞の「国中に成り出でむ天の益人たち」も、生まれ出てくることをいう。
【宣長の注釈】「為」は「おもふは」と読むべきだ。邇々芸命が佐久夜毘売に、「私はお前と交わりたいと思うが、どうか」と仰せになる文と、言葉も意味も似ているからである。『古事記』では、「おもふ」を「以為」と書く例がしばしばあり、「為」一字で書く例も一つ二つある。真福寺本は「以為」とし、これは例が多いだけに、特に確かである。しかし、ほかの本にはすべて「以」がないため、今はほかの本に従った。いずれにしても、「おもふ」と読むべき意味である。一般的な例にならって「生みなさむとす」と読むと、次の「奈何」へ言葉のつながりが切れてしまい、よくない。「為は」と読むのもよくない。
【宣長の注釈】「奈何」は「いかに」と読むべきだ。文末でこのように「奈何」という例は、『古事記』の中にもある。『万葉集』巻十六に、「隠れてばかり恋するのは苦しい。山の端から出る月のように、明らかにしたらどうだろう」とあるのも、ここと語の勢いがよく似ている。
【宣長の注釈】「生を訓みて、うむという」という注について。ここの「生」は「うみ」と読むのに、なぜこう注すのかと疑う人もあるだろう。活用する語の漢字についての訓注には、天之常立神の下の「立を訓みて、たちという」、また「神集へて」の「集を訓みて、つどひという」のように、その場所の読みのままで注す例がある。一方、「伊都之男建」に「建を訓みて、たけぶという」とあるのは、その場では「たけび」と読むのに、それにこだわらず、語の基本の形によって注したもので、ここもその例である。そのうえ「生」は、この先、数多く出る語であり、「以下、これにならう」とある。その中にはさまざまに活用して読む所があるため、それらをまとめて、このように注すべきなのである。
【宣長の注釈】「然善」は「しか、よけむ」と読むべきだ。師は「うべなり」と読まれた。その意味もたしかにそうではあるが、漢字から離れすぎている。これは、男神の仰せになったことを承諾するお答えである。「然」は、「私もそう思う」という意味で、「しかなり」とでもいうようなものだ。「しかなり」を「しか」とだけいう例は、後世の物語などにも多い。「しかり」というのも、「しかあり」が縮まった語である。「善」と一続きの語ではなく、いったん切って読むつもりであるべきだ。「よけむ」は「よからむ」と同じ意味の古語で、『万葉集』などにも例が多い。天智天皇紀の童謡に「ただにしよけむ」とあるのもそうだ。「曳」は「余」に当たる。同じ時の歌で「御吉野」を「美曳之怒」と記すことからわかる。〔訳注:童謡の「多拖」の拖/拕の細画は留保する。「曳」は著者が「余」と同じと明示するため、訳の読みは「よ」とした。〕
【宣長の注釈】「この天の御柱を回って出会い」について。夫婦が初めて結ばれる時、まず柱を回るのは、上代の大切な儀式だったと見える。これは男女が結ばれる最初なので、まずこの儀式を行われることには、きわめて深い道理があるのだろう。『日本書紀』がこの柱を「国中の柱」「国の柱」ともいうことから考えたい。国土が生まれる根源を、この柱に担わせた名なのである。しかし、その道理について伝えはないので、普通の人がどうこうと推し量って知ることはできない。それでも、試みにあえていうなら、男女の交わる姿は、男は上にいて天のようで、建物にたとえれば屋根が覆うようなものであり、女は下にいて地が物を載せるようで、建物なら床のようである。柱は、その間に立って上下をしっかり支える物なので、夫婦の仲を固める意味なのだろうか。鶺鴒を別名「まなばしら」というのも、柱を交わりの意味に取って名づけたのだろうか。また考えると、「はしら」の「はし」は「間」だろう。「間」を「はし」という例は多い。「間人」、また万葉歌の「相競ふ端に」の「端」も借字で、「間に」の意味である。「木とも草ともいえない竹のように、私もこの世でどっちつかずの身になってしまいそうだ」という歌も、竹を木と草の間だというのだ。柱は屋根と地面の間に立つ物なので、この名がある。「橋」も同じ意味だろうか。こちらの岸と向こうの岸の間に渡すからである。今の俗語で、妻問いの最初に言葉を通わせる仲介者を「はしかけ」というのも、橋を架ける意味で、先ほどの柱の話におのずと通じる。「御箸」という名も、この道具は必ず二本が向かい合い、寄り合って用をなすので、夫婦の意味に似ている。物事の始まりを「端」というのも、この御柱回りに由来する。さて、そのように回った柱は、男女が共寝する身屋、後に母屋という建物の、中央の柱だったのだろう。その理由は、後世まで、神の御殿を造る時は中央に心の御柱を立て、特別に清め尊ぶが、その説明の諸説は後世の人が作ったものでも、そうすること自体は、上代からの伝えと思われるからである。「心の御柱」という名は後世のものだろうか。もし上代からの名なら、「心」は中心の意味で、中央に立つための名だろう。これを人の心だと解釈するのは、例の根拠のない説である。今の人の家も、中央の柱を大黒柱といって重んじる。「大黒」という呼び名は、後世の人が漢籍の「太極」からいい出した、小賢しい説なのだろうか。呼び名は借りたものであっても、これも神代から夫婦が結ばれる初めに回った柱なので、重く尊んだ上代の伝えが残ったものなのだろう。大昔は身分の高低の区別こそあれ、神の宮と人の家とで建て方は違わなかった。今ある古い神社の造りは、そのまま上代の人の家の形である。雄略天皇の御世に、志幾の大県主が家に堅魚木を載せて造った話などを考え合わせたい。そうすると、後世の心の御柱と大黒柱は、もとは同じ物と思われる。したがって今、二柱の神がお回りになるのも、八尋殿のいくつもある柱のうち、中央に立つ御柱だったのだろう。伊勢神宮の記録などが心の御柱を別名「天の御柱」というのは、この由来から自然に伝わったものだろう。ただし、後世の人が引き合わせていったのかもしれず、はっきりしない。どちらでも、誤りではあるまい。もしそうなら、数ある柱の中でも、神々のお回りになった柱を特別に「天の御柱」と呼んで伝えたのだろう。「行廻逢」は「ゆきめぐりあひ」と読む。それぞれ分けて説明すれば、「行」は左右に分かれて歩くこと、「廻」は御柱を回ること、「逢」は前で出会うことである。仏足石の賛歌に「ゆきめぐり」、『万葉集』巻十七(三十丁)に「いゆきめぐれる」などとある。古い歌では「行く」に語頭の「い」を添えて「いゆき」と詠むことが多いため、ここもそう読むべきかとも思える。しかし、歌にはあっても、普通の文章でそういう例はないため、そう読むべきではない。歌と文章に違いがあることを、よく考えなければならない。このようなことについて、今の人々は区別をわきまえず、みだりである。〔訳注:万葉集巻十七の参照丁数は卅/廿の細画を留保する。著者の柱・橋・箸の語源説は、本文で断った試みの説として訳した。〕
【宣長の注釈】「美斗能麻具波比」について。「ぐ」を清音にし、「は」を濁らせて読むのは誤りだ。卜部兼倶などにはこの清濁についての説があるが、論ずるにも足りない、根拠のない説である。「みと」は、尊んでいう「所」である。所を「と」ということは、前の意富斗能地神の注、巻三の四十二丁で説いた。中でも、もとは男女が共寝する所を御所といったのだろう。この先、大穴牟遅神が八上比売に「みとあたはしつ」とある「美刀」と同じなので、そちらの巻十、六十七丁と考え合わせたい。「久美度邇興」の「度」もこれだ。「くみど」はこの先で説明する。この「みと」を、そのまま「くみど」と同じ語だとするのは詳しくない。実際の場所は同じでも、語はもとから別なのである。「床」の「と」、「嫁ぐ」の「と」などもこれだろうか。「嫁ぐ」は「所に就く」だろうか。「ぐ」と濁るのは「黄牛」などと同じ形で、後の音が音便で濁る例もある。また「戸」も、その場所に立てるために生まれた名なのだろうか。「ま」は「うま」であり、「う」を省く例は多い。何であれ、よいことを行うのを「うま何々」という例は多く、『日本書紀』継体天皇紀の歌で、心地よく寝ることを「うまいね」というようなものだ。「うま」の説明は、初めの宇摩志阿斯訶備比古遅神の注にある。「ぐはひ」は「ま」に続くので「ぐ」と濁るが、古く語頭を濁らせる例はないから、もとは「くはひ」で、「くひあひ」が縮まった語である。「ひあ」は縮まって「は」となる。二つの物が一つに合うことを「くひあふ」という。『万葉集』巻十六で、尺度氏の娘子が美しい貴人からの求婚を聞き入れず、平凡で醜い男と結ばれたことを、児部女王が「美しい人では何が物足りなかったのか。坂門らの『角のふくれ』と結ばれたのだろうか」と詠んでいる。「しぐひあひにけむ」とあるのが、その例である。ここも「し」の後に続くため「ぐ」と濁るので、同じである。今の言葉で、物を作り合わせることを「しくはす」というのも、「しぐひあはす」が縮まったものだ。俗に、物の「ぐはひ」がよい、悪いというのも、その合い方のよしあしである。「ぐ」と濁るのは、前に続く語があったのを、後に省いたのだろう。『伊勢物語』の歌にも、「世をうみのあまとし人を見るからに、目くはせよとも頼まるるかな」とある。後世の歌にも例がある。この「目くはす」も「くひあはす」の縮まった語で、双方から目を見合わせることをいう。これらから意味を理解すべきだ。『楚辞』九歌にも「美人がたちまち、ただ私と目を合わせて心を通わせる」とある。あの、成り合わない所と成り余る所とが、よく合わさることを「まぐはひ」というのである。俗に結婚を「一つになる」というのも、この意味合いだろう。『古事記』には「目合」という語があちこちにあり、これも以上の意味から、「まぐはひ」と読むべきだ。そのうえで、あの「目くはす」と考え合わせると、そうであれば、「ま」は「目」の意味なのだろうか。「ぐはひ」も目を合わせることとなり、先ほどの考えとは、語のもとになる、合わせる物が違ってくる。しかし、目を合わせるのは心を交わすことであり、それをそのまま交わりの意味でいったので、結局は一つに帰着する。なお、大穴牟遅命の段の「目合」の注、巻十の三十五丁で述べたこととも考え合わせ、選び取ってほしい。〔訳注:尺度氏娘子の箇所「逢き聞して」の細字、「角のふくれ」の具体的な意味、および伊勢物語の歌の掛詞を含む全歌意は留保する。目を合わせる用例としての著者の説明は確認した。〕
【宣長の注釈】「如此云期」の「云」を、諸本はみな「之」と書く。延佳は「云」の誤りだろうというが、実際にそのとおりである。『古事記』には「之」と「云」を互いに取り違えて写した所が多い。そのため、今も「云」と定めて改めた。「期」には「知岐理豆」という訓を付け、言い約束する意味である。『蜻蛉日記』に、「このように言い約束したからには、思い直すわけにもいかず」などとある。〔訳注:訓の末字は豆/弖の細画を判別できないため、『ちぎりて』という読みは確定しない。〕
【宣長の注釈】「右より廻り逢へ、左より廻り逢はむ」について。師は、「後世は右を『みぎ』というが、『みぎり』であろう。今も遠江などではそういう」といわれた。伊勢の『亭子院歌合日記』に「上達部は、階の左、みぎりに、みな分かれてお仕えになる」とあるので、「みぎり」と読むべきだ。「ひだり」と対になる呼び名だから、確かに「みぎり」というべきである。古い証拠はまだ見当たらないが、ひとまずこの伊勢の文章を根拠として師の説に従った。今も遠江だけでなく、ほかの国にも、そういう所々がある。このように回る方向の右と左をお定めになったのには、理由があるのだろう。しかし、その伝えはないので、推し量って知ることはできない。それなのに、みだりに漢籍の陰陽によって解釈するのは、まったく信じられない。また、これを月や日の回ることだとするのも、こじつけである。『日本書紀』の「同會一面」を、『纂疏』が東北の方角だろうとするのも、とうてい受け入れられない。どちらから回り始め、どの方角でお出会いになるのかという伝えがないため、これも知ることはできない。
【宣長の注釈】「約竟以」の「約」は、前の三段階の取り決めを、まとめていう。三段階とは、最初の「私の体の余った所を……」「それはよい」とある所、次の「私とお前とで、回って出会い……」という所、その次の「お前は右から……」という所である。「ちぎる」は、この先のことについて、こうしようと互いに約束を固めることだ。「竟」は、ただ軽く読むこともできるだろう。また、十分に尽くす意味もあるだろう。『万葉集』巻十九に、「春の楽しみの極みは、梅の花を手折り持ちながら遊ぶことだろう」とある。この「終」も、春の楽しさの極まることをいう。祝詞などに「称え言を尽くして申し上げる」とあるのも、十分に尽くすことをいうのである。
【宣長の注釈】「あな」は、前の阿夜訶志古泥神の注でも少し述べた。『古語拾遺』に、「物事を切実に感じる時は、みな、あなという」とある。何事であれ、その場で強く感じることを「あな何々」という。『日本書紀』神武天皇紀に、「ひどく醜い。これは、あなみにくという」とある。『万葉集』では、多く「痛」と書く。『伊勢物語』にも、「鬼が、たちまち一口で食べてしまった。『あなや』と叫んだけれど、雷の騒ぎで聞くことができなかった」などとある。後には音が転じて「あら」ともいう。
【宣長の注釈】「にやし」は、「に」という語に「やし」を添えたものである。『日本書紀』はこれを「憙哉」「美哉」などと書き、一書は「妍哉」と書いて、「これは、あなにえやという」と記す。神武天皇紀にも「妍哉、これは、あなにやという」とある。字書は「憙」を「喜ぶ」「よい」、「妍」を「麗しい」「美しい」と説明する。これらの字から、「に」という語の意味を理解すべきだ。『日本書紀』の「えや」は、この『古事記』の「やし」と同じである。「え」を「妍」に当てて解釈するのは誤りだ。神武天皇紀では「え」を省いていることからもわかる。「憙哉」も「美哉」も、「美哉」の読みの注に従って、みな「あなにえや」と読むべきである。漢字をさまざまに書き変えるのは、漢文の表現上のことであり、もとの言葉は同じはずだからだ。いずれの場合も、「えや」と「あな」の意味は「哉」に含まれるため、「妍」「美」「憙」が、そのまま「に」に当たるのである。「やし」は、「はしけやし」「おけやし」などの「やし」で、感嘆の「や」に「し」を添えた語だ。師は「に」も感嘆の語だといわれたが、そうではないことは、今述べた説明から理解すべきである。
【宣長の注釈】「愛」は、『日本書紀』の一書には「可愛」とあり、「これは、えという」と記す。本文は「可美」、別の一書は「善」とする。これらの字から意味は明らかである。白檮原宮の段の御歌にも「えをとめ」とあり、先ほど引用した「よけむ」を「曳鷄武」と記す例や、住吉・日吉の類のように、古くは「よき」を「え」ということが多い。今もそういう。『日本書紀』の「可愛」は漢字の意味を取っているが、この『古事記』の「愛」は、ただ音を表す仮名なので、混同してはならない。
【宣長の注釈】「をとこ」は、古くは「をとめ」と対になる呼び名だった。この先にも、「壮夫を訓みて、をとこという」とあり、『日本書紀』は「少男、これは、をとこという」とする。「少」は若いことだ。『万葉集』にも「壮士」などと書き、若く盛んな男をいう。老若を問わず男すべてを「をとこ」というのは、後世のことである。また、「を」の音仮名に「於」を使うのも誤りだ。
【宣長の注釈】「をとめ」は「をとこ」と対になる、若く盛んな女の呼び名である。『万葉集』は「処女」「未通女」などと書くため、まだ結婚していない女をいうように見えるが、そうではなく、すでに結婚した女にもいう。倭建命の歌に、「をとめの床の辺に、私が置いてきた、剣の太刀……」とある。この「をとめ」は美夜受比売で、すでに結ばれた後、御刀をその家に置かれたことをいう。また軽太子が軽大郎女と結ばれた後の御歌にも、「かるのをとめ」と詠まれる。これらは結婚後の女をいっている。また、まだ子供の女をいうことも多い。「をとこ」は子供にはいわず、中古にも元服することを「壮士になる」ということからわかる。それなのに、女は子供も「をとめ」というのは、女については、ひたすら若さを尊ぶためだろうか。
【宣長の注釈】最後の「を」は「よ」に通じ、「をとこよ」「をとめよ」というようなものである。古くは、この例が多い。「その八重垣を」などの「を」も、「その八重垣を作る」と前へ続く目的語の「を」ではなく、「八重垣よ」の意味だ。倭建命の御歌の末尾に続けた歌の「比邇波登袁加袁(日数では十日よ)」の最後の「袁」、また若桜宮の段の御歌の「大坂で出会った娘よ、道を尋ねると」の「を」なども、みな同じである。このほかにも例は多い。
【宣長の注釈】さて、この二句ずつ掛け合うお言葉を、『日本書紀』は「憙哉遇可美少男焉」、一書は「妍哉可愛少男歟」、別の一書は「美哉善少男」と記す。『古事記』と見比べて、どれも「あなにやし、えをとこを」と読むべきだ。「えをとめを」のほうも同じで、五音の句が二つずつあるお言葉なのである。今の本の「あなうれしや、うましをとこにあひたり」などというのは、古代を知らない者の読みだ。これは掛け合いのお言葉で、歌の始まりともされるのに、そのように読んだのでは調べが整わず、普通の言葉と同じになってしまう。「遇」は、お言葉全体の意味を取って加えた字であり、決して読むべきではない。一書の諸説にこの字がないことからわかる。「焉」「歟」は末尾の「を」に当たる。「歟」を字書が「文末の語」「語の余り」と説明するのも、そのことだ。『古今集』の序に「この歌、天地の開け始まりける時より、いで来にけり」とある古い注は、「天の浮橋の下で、「女神男神と成賜へる」ことをいう歌である」とする。これは、ここで掛け合われたお言葉をいっている。まことに、歌の始まりだったのである。師も、「このように言い交わすのは、たいそう古い時代の、初めて交わる時の形だったのだろう」といわれた。
〔訳注:引用の「女神男神と成賜へる」が具体的に何を表すかは、この句だけでは確定できないため、原句のまま示す。〕
【宣長の注釈】「女人」は「をみなを」と読むべきだ。『日本書紀』の「婦人」を「たをやめ」と読むが、それは女の弱くはかない面をいう時の呼び名で、『古事記』『日本書紀』『万葉集』などを見ると、多くその意味の場面にいう。「手弱女」については巻八の三丁で述べた。また「をとめ」も、先にいったように若い女の呼び名である。『古事記』のあちこちに「女人」と書く例を考えると、どれも「たをやめ」や「をとめ」などと一律に読んではよくない。「をみな」という語は、明宮の段、朝倉宮の段などの御歌や、『万葉集』巻二十の家持の歌などに出る。今「をんな」というのは、音便で音がくずれたものである。末尾に「を」を添えて読むのは、言葉の調べを助けるためで、「えをとこを」の「を」と同じだ。
【宣長の注釈】「先言」には「許登佐伎陀知弖」という訓を付ける。先に言葉をかける、の意味である。前に「先言」とある所とは、漢字は同じでも、同じ読み方にはならない。『日本書紀』にも「先言」とあり、そのように読む。『万葉集』巻十に、「春が来れば、まず鳴く鶯のように、言葉を先に交わしたあなたを待とう」とある。この「事」は借字で「言」の意味である。こうした古語なのだ。
〔訳注:訓「許登佐伎陀知弖」の末字は「豆」「弖」の細画を判別できず、読みも確定できないため、「弖」を仮に示す。〕
【宣長の注釈】「告」は「のりたまひき」と読むべきだ。『古事記』では、この字を「詔」と同じ意味で使うことが多く、古くは多く「のる」と読んだ。『万葉集』などでも、多く「のる」の意味に使っている。それなのに、今の本は古語をよく知らず、「つぐ」と読み誤る所ばかりが多い。
【宣長の注釈】「不良」は、近い海で釣りをする海人の浮きではないが、その読みを一つに定めかね、いくつかの案を述べる。第一には「よしらず」とも読める。漢字そのままの意味でもあり、『続日本紀』聖武天皇紀の宣命に、「天下の君としておいでになりながら、長年、皇后のおいでにならないことも、よくない行いである」とあるので、古語でもある。『日本書紀』がここを「不祥」とするのについて、『私記』に「考えるに、古事記には、よしらずという」とあるから、昔もそう読んだのだろう。垂仁天皇紀には「非良」ともある。第二には、「さがなし」とも読める。『日本書紀』の「不祥」をそう読み、「悪」の字もそう読む場合がある。また「性」を「さが」と読む。これは古語で、後世の歌で「憂き世のさが」などというのも、よくこの意味に合う。もとは、自然にそうなっていることをいう語である。「さがなき」はその反対で、自然にそうあるべき姿に背き、違うことをいい、これも古語と見られる。後世の物語が、おしゃべりで人を悪くいう者を「さがなし」というのは、使い方が変わったものだ。また、夢の吉凶などの「祥」を「さが」と読むのは、もともと「さが」という語があり、「不祥」を「さがなし」と読むため、その反対だと考えた、後世の人の誤りだろう。「不祥」は「さがなし」に合っても、「祥」は「さが」に合わない。しかも、「性」を「さが」と読むことから、ある人のいう性善の意味に合うと思うのは、漢意であって、古代の意味ではない。同じ漢字でも、使い方に従って日本語は変わる。ところが『日本書紀』の読みはその区別をせず、同じ字さえあれば、こちらもあちらも同じ語で読む。その語は古語でも、その場に合わない所が多い。後世になると、もとの使い方を知らなくなり、どれが正しく、どれが誤りか、わからないことも多くなった。このように「不良」を「さがなし」と読む例は、書紀垂仁天皇紀の「君主の陵墓に、生きた人を埋めるのはよくない」、推古天皇紀の「其大國客等問之亦不良」(ここにも「不良」とある)などである。第三には、「ふさはず」とも読める。八千矛神の御歌に「……ければ、ふさはず」「……こも、ふさはず」「……こし、よろし」とある。「ふさはず」は「よろし」の反対で、よくないという意味だ。あの御歌を考えて理解すべきで、巻十一で詳しく述べる。『源氏物語』などには、「ふさはしからず」という語があちこちにある。そのうち花宴巻の例を『河海抄』は「不祥、日本紀」と説明するので、『日本書紀』の「不祥」をそう読む本が昔あったらしい。物語の「ふさはしからず」も、心にかなわないことをいい、あの御歌と同じ意味である。今の言葉でも、物事が人に合い、幸いのあることを「ふさふ」、そうでないことを「ふさはぬ」という。これは「不祥」の意味にも合うので、『河海抄』が引いたのは、よく当たっている。また『万葉集』巻十八に、「鳥が鳴く、東を目指して、ふさへしに、行こうと思うけれど、よしもさねなし」とある。「ふさへしに行く」は、幸いを得ようとして行くことだと、師は説く。「ふさふ」「ふさひ」などと活用する語を「ふさへ」というのは、「ふさふせ」が縮まったものである。さて、以上の三つを並べて、もう一度考えると、やはり「ふさはず」と読むのが、いちばんよく聞こえる。この仰せを『日本書紀』は、「男神は喜ばず、言った。『私は男だから、当然、先に言葉をかけるべきであった。どうして女が、かえって先にいうのか。事はすでによくない兆しである。やり直すべきだ』」と記す。
〔訳注:引用中の「問之」は、この句だけでは主体と意味を確定できない。八千矛神の歌も、細かな字の読みと歌全体の意味には不確かな点がある。〕
【宣長の注釈】「雖然」は「しかれども」と読むべきだ。この語は『万葉集』にも多く、音仮名で「之可禮杼毛」などと記す例が、巻十五の五丁、巻十六の十四丁、巻十八の二十丁、巻十九の二十五丁などに見える。
【宣長の注釈】「くみど」は、夫婦が人目を避けて共寝する所をいう。物語などで、身分の高い人が寝ることを「大殿籠る」というのもその例だ。「くみ」は「こもり」が縮まった語だと、師の説にあり、すでに言霊別神の注、巻三の三十五丁で述べた。朝倉宮の御歌の「いくみはねず、たしみだけ、たしにはゐねず、のちもくみねむ……」という、「いくみはねず」は、隠れては寝ない、の意味で、「い」は語頭に添えたもの。「くみねむ」も、隠れて寝よう、ということだ。また、『日本書紀』武烈天皇紀の歌の「やるのくみま」なども、隠す垣という意味である。「妻ごみに、八重垣作る」の「ごみ」も「くみ」に通じる語だ。これらから理解すべきである。「ど」が場所であること、特に夫婦の共寝する場所をいうことも、前に説明したとおりである。『万葉集』巻二十の防人の歌の「葦垣の隅に立ち、私の妻が袖を濡らして泣いたことが思い出される」の「くまど」は、隅の場所という意味で、「くみど」と語は同じである。「くみ」「くま」「こもり」が通じ合うことは、師の『冠辞考』「さす竹」の条に詳しい。
〔訳注:朝倉宮の歌の「多斯美陀氣」などは、細かな語義と歌全体の意味を確定できないため、原訓を示す。〕
【宣長の注釈】「興而」には「淤許斯豆」という訓を付ける。「多豆々」「多知豆」などの訓は誤りである。これは、男女が交わることを、このようにいったのである。須佐之男命の段にも、「その櫛名田比売と、くみどで子を生むことを始め、お生みになった神の名を、八島土奴美神という」とある。『日本書紀』はこれを、「くみどで子を生むことを始め、子を生んだ……」と書く。『日本書紀』は努めて漢文で記したものだが、中にはその規則と違い、日本の上代の書き方が残る所もある。古い記録にあったとおり記したのだろう。この「為起」の「為」の使い方も、漢文として見ると大変意味が遠い。これも、古い記録の「おこし」の「し」に当てて書いたものを、そのまま残したように見える。この種の表記は、『古事記』などにも多い。「奇御戸」も音を借りた字で、古い書物の書き方だ。このように交わりを表す語の意味は、御子を生むことを、くみどでお始めになるということである。物事の始まりを「起こり」、始めることを「起こす」という。男女が交わるのは、子を生むことの始まりだからである。そのためこの語は、必ず御子を生む話の初めにだけいい、単に交わることだけに用いる例はない。注意して区別すべきだ。「くみどでそのことを始め、御子をお生みになった」とでもいうようなものである。『日本書紀』の一書の「女神が先に声をかけて……、すぐ男神の手を取り、夫婦となり、淡路洲、次に蛭児を生んだ」というのは、異なる伝えである。また一書には、「交わろうとしたが、その方法を知らなかった。その時、鶺鴒が飛んできて、頭と尾を揺らした。二神はそれを見て学び、交わる道を得た」ともある。
〔訳注:「淤許斯豆」の末字は「豆」「弖」の細画を判別できず、末字の読みも確定できないため、「豆」を仮に示す。〕
【宣長の注釈】「水蛭子」は、上代に、ヒルに似た子をいった呼び名である。「子」を濁らせ、「ひるご」と読むべきだ。この御子の固有名だと考えるのは誤りである。あの虫に似ているというのには、二つの意味が考えられる。手足などがなく、見た形が似ているというのか。それとも、『日本書紀』に「すでに三歳になっても、足で立てなかった」とあるのによれば、手足はあっても弱く、全体にぐにゃぐにゃしている所が似るというのかもしれない。『和名抄』は、「本草にいう、水蛭。和名は、ひる」とする。契沖は、「蛭は、しびれているような虫なので、その名があるのだろう」といった。この御子がお生まれになる順序は、『日本書紀』の伝えでは大きく違い、月の神の次なので、はるかに後である。一書は『古事記』と同じだが、別の一書は、まず淡路島、次に蛭児とする。『先代旧事本紀』が、初めと終わりの二度、蛭児をお生みになったとするのは、『古事記』と『日本書紀』の伝えを一つに合わせた、例の誤りである。天慶六年の日本紀竟宴で、伊弉諾尊を題として大江朝綱が詠んだ歌に、「賀曾伊呂婆、阿婆禮度美須夜、比留能古婆、美斗勢爾那理奴、阿枳多々須志天」(父母は、かわいそうと思わないのか。蛭の子は三歳になったが、まだ足で立てない)とある。
〔訳注:歌の末句「阿枳多々須志天」は「枳」「斯」などの細画を確定できないため、仮の表記で示す。〕
【宣長の注釈】「葦船」は「あしぶね」と読むべきだ。「何々船」はみな同様で、「あしの」とは読まない。『日本書紀纂疏』は、「葦の葉一枚を船としたのだ」という。そうかもしれない。また、葦を多く集め、編み組んで作ったものでもあろう。あの「間無堅間之小船」(小さな船)などを考え合わせたい。『日本書紀』の本文は、「天の磐櫲樟船に乗せて、風のままに放ち棄てた」とする。『和名抄』に「舟船、和名は、ふね」とある。この御子をこのように流し去られたのは、ただ水蛭子であったため、嫌ってお棄てになったのである。
〔訳注:船名「間無堅間」の初字は「間」「目」の細画を確定できないため、仮に「間」と示す。〕
【宣長の注釈】「淡島」は、先に引いた高津宮の御歌に「あはしま」とある島だ。『万葉集』巻三に、「武庫の浦を漕ぎめぐる小舟。粟島を後ろに見ながら進む、うらやましい小舟」とあり、巻四の、丹比笠麻呂が筑紫へ下る時の長歌に「淡路を過ぎ、粟島を背に見つつ……」、巻七の三十九丁に「粟島へ漕いで渡ろうと思うが、明石の海峡の波はまだ騒いでいる」とある。巻十二の歌にも例がある。これらによれば、淡路の西北にある島らしい。仙覚の注は、「讃岐国の屋島の北、百歩ほど離れた所に島があり、阿波島という」とする。なお、よく調べるべきだ。巻九の下・七丁の「粟小島」も、これだろう。巻十五に「安波之麻」と詠む二首があるが、それは別で、周防の海にあるらしい。また、『日本書紀』で少名毘古那神が淡島へ行き、粟の茎に弾かれて常世の国へお出でになるという、その島は、『風土記』によれば伯耆国相見郡にある。『出雲国風土記』には、その国の意宇郡にも粟島がある。ここの淡島を、東国の安房国だとするのも、志摩国・紀伊国などとするのも、みな誤りだ。また「あはのしま」と読むのもよくない。あの御歌や万葉の歌々で、「あはしま」と読むことは明らかである。この島について、この次の段で「今、我が生みし子、よからず」と仰せになることから考える。『源氏物語』帚木巻には、爪弾きして、「言いようもないと、式部を軽んじて嫌い、少しはましなことを申せと、お責めになるが……」とある。「あはめ」という語は、明石・少女・総角・宿木の各巻や『紫式部日記』などにもあり、「あはむ」「あはむる」とも活用する。この「あはめ悪み」を『河海抄』は「淡悪」と説明する。後の注が「拒むことだ」とするのも、「は」を濁らせて読むのも、みな誤りである。その意味で、親神が軽んじ、お嫌いになったため、淡島と名づけたのだろう。『日本書紀』の「先に淡路洲を胞とし、心にかなわなかったため、淡路洲と名づけた」というのは、この淡島と名が似ているため、混同した伝えである。『先代旧事本紀』がこれを「我が恥」の意味とするのは、似ていても、古代の意味ではない。「淡路」という名の意味は、次の巻で述べる。
〔訳注:引用中の「許根」の第二字は「相」「根」などの細画を確定できないため、仮に「根」と示す。〕
【宣長の注釈】「これもまた、子の数に入れない」。「不入」は「いらず」とも「いれず」とも読む。あの水蛭子は流し去られたので、もとより御子の数に入らないことが明らかである。そのため淡島を「これもまた」といった。「これも」を「こも」というのは古語だ。「例」は「かず」と読むべきで、『日本書紀』に「これもまた、子の数に充てない」とあることによる。師は、この「例」は「列」の誤字だろうといった。これも、もっともなことである。欽明天皇紀の「栄班貴盛の例に入る」の「例」も、「列」の誤字に見える。ただし、雄略天皇紀の「群臣の列に加えてはならない」、天武天皇紀の「赦さない例に入る」「官治の例に入る」などの「例」は誤字ではないので、ここも、その類と考えるべきだ。これらを御子の数に入れないのは、よくないとして、軽んじ、嫌われたためである。
【古事記本文】そこで二柱の神は相談して、「今、私たちが生んだ子は、よくありません。やはり天神の御許へ申し上げるべきでしょう」といった。そして、ともに天へ参り、天神のお言葉を求めた。そこで天神の御命令によって、布斗麻邇で占って、こう仰せになった。「女が先に言葉をかけたため、よくなかったのです。もう一度地上へ戻り、言い直しなさい」。原文の小注は、「布斗麻邇爾」の五字が音を表すことを示す。
【宣長の注釈】「天神」は、前に「天神諸」とあったのと同じで、初めの五柱の天神である。「御所」は「みもと」と読む。「白」は、どの場合も「まをす」と読むべきだ。高津宮の段の歌の「ものまをす」、朝倉宮の段の御歌の「おほまへにまをす」などのほか、『万葉集』にも多く、その形がある。『万葉集』には「まうす」と書く例もあるが、それは「袁」を「宇」と写し誤ったのかもしれない。いずれにしても、「う」という音のほうが、音便によって変わったものなのだ。
【宣長の注釈】「参上」は「まゐのぼりて」と読むべきだ。古くは「参る」の意味を「まゐ」といった。「参入」を「まゐる」というのは「まゐいる」が縮まったもので、後世の仮名で「まいる」と書くのは誤りである。「参出」を「まゐで」、「参来」を「まゐく」というのも同じ類だ。この「まゐ」を、後には多く「まう」といい、「参出」を「まうで」、「参上」を「まうのぼる」という。みな、いつもの音便で変化したものである。
【宣長の注釈】「天神のお言葉を求める」とは、先の事情を天神へ申し上げ、『日本書紀』では「その状況を詳しく申し上げた」とあるように、「これは、どういうわけでしょう。これから、どうすればよいでしょう」と伺い、その仰せを求めたことである。あらゆることに、少しも自分の私意を用いず、ただ天神のお言葉どおりに行うことは、道の大切な筋である。この二柱の大神でさえ、このように天神を仰がれた。まして後世の普通の人は、決して自分の私心から、賢しらなことをしてはならない。「天神之命以」は、前に「天神諸命以」とあったのと同じ言い方で、「天神の仰せによって」とでもいうようなものだ。
【宣長の注釈】「布斗麻邇」は、垂仁天皇の玉垣宮の段にも「布斗麻邇によって占って」とある。『日本書紀』には「太占、これを布斗麻爾という」、また「天児屋命は、神事の根本をつかさどる者である。そのため、太占によって事を占い、仕えさせた」などとある。「ふと」は「ふとのりと」「ふとだま」などの「ふと」で、ほめたたえる語だ。「まに」がどういう意味かは、まだ考えがつかない。『日本書紀』の「占」は、ただ、その行為に当てて書いたもので、「まに」が正しく「占」という意味だとするのではない。『日本書紀』の文字は、その語にぴったり当たらなくても、意味を取って書くものが多い。また、漢文では「卜」と「占」が異なるが、日本では区別せずに使う。それなのに、漢字に従って両者の違いを説くのは、ひどい誤りである。そもそも布斗麻邇は、上代の一種の占いで、多くの占いの中でも、特に重く見て、中心としたものらしい。下の「爾」は助詞である。注にある「上」は、上声を示した印である。
【宣長の注釈】「卜相而」は「うらへて」と読むべきだ。『万葉集』巻十四の九丁に、「武蔵野に、うらへかたやき」とある。「うらへ」は「うらあへ」で、「あ」を省いたものだ。「あ」を省く例はもとから多いが、ここでは「ら」にアの母音があるため、いっそう省きやすい。「あへ」は「令合」、合わせさせることを縮めたものだ。朝倉宮の御歌の「まなばしら、をたきあへ」がその例で、セキレイが互いに尾を合わせる、という意味である。同じ形には、「従はせて」を「従へて」、「違はせて」を「違へて」、「集はせて」を「集へて」という例も多い。したがって「うらへて」は、占いを合わせさせて、という意味である。『日本書紀』にも「卜合」と、「合」の字を添えて書いている。
古い書物の「卜」は、その箇所の使い方によって、語の活用が変わる。まず「うら」は、その行為を表す名詞で、それを行うことを「うらふ」という。これは「うらあはす」という語だが、動詞に活用させる時、「あ」を省き、「はす」が縮まって「ふ」となった。もとの「あはす」が「あはさむ」「あはせ」などと活用するので、縮まった「ふ」も活用して、「うらはむ」「うらへ」などという。この動詞の「うらへ」を据えて、名詞にした例もある。『万葉集』巻十五の「ほつてのうらへを、かたやきて」がそれで、「を」が付くから名詞である。「歌」という名詞を活用させて「歌ふ」といい、さらにその形を据えて「うたひ」という名詞にもするのと同じだ。この「うらへ」の「へ」を濁らせて、「卜部」と考えるのは誤りである。「卜部」は、占いを仕事とする人の部をいい、別の語なので混同してはならない。
また「うらなふ」も、一つの動詞の形である。『万葉集』巻十一の「玉桙の、道行き占に、占へば……」などがそれである。賄賂をすることを「まひなふ」、商いをすることを「あきなふ」、荷を負うことを「になふ」という類で、占いをすることを、「なふ」という語を添えていった。このほか、「行ふ」「養ふ」「咒ふ」なども同じ意味の作りだ。「うらふ」と「うらなふ」は行為こそ同じでも、語のもとは別である。ここも「うらなひて」と読むのは悪くないが、混同してはならない。「相」の字を添えたのも、「あへ」の意味である。先の『万葉集』の「占相」の「相」は、借字の中でも、とりわけ軽く使ったもので、その集にはよくある。ここの「相」は、借字ではあっても「あへ」の意味を取って書いたので、少し違う。『僧尼令』の「吉凶を卜相する」は、『令義解』が「亀を焼くのを卜といい、土地を見るのを相という」とするので、意味が違う。
さらに、占って、その兆しに現れ出たことを「うらあふ」という。漢文はこれを「卜食」といい、日本でも「食」の字を借りて書く。この「食」については、なお議論があるので、垂仁天皇の段で述べる。先の「うらふ」は、こちらから合わせる行為をいい、こちらの「うらあふ」は、あちらから合うことだ。「合わせさせる」と「合う」の区別を、よく理解すべきである。また「うらあふ」にも、「食卜」と「卜食」の区別がある。「うら」という語は活用が多く、古書の訓は紛らわしく、誤りも多い。そのため、読む人が面倒に思うかもしれないが、長く述べたのである。
さて、占いの方法は、天の石屋の段、巻八の三十一丁で述べる。中世ごろからは、あらゆることが中国風になったため、占いはただ神事にのみ用いるものとなった。だが上代には、すべての政治にも自分の賢しらな考えを使わず、決めがたいことはみな占って、神の教えを受けて行ったことが、『古事記』『日本書紀』などに多く見える。今、天神でさえ、このようなのである。神々の占いは天神の教えを受けるので筋が通るとしても、ここで天神が占うのは、どの神の教えを受けるのか、と疑う人もあろう。しかし、それは漢籍の考えで、古代の心に反する。そのようなことを、あれにもこれにもいえば、神代の出来事は、すべて疑わしいことばかりになってしまう。これらは、人が推し量って知れることではない。中途半端に賢しらな考えを持たず、古い伝えのままに見るべきだ。『日本書紀』の本伝には、天神の御許へ参上して命を受けることがなく、すぐに回り直されたことになっている。一書には、この出来事がある。
【宣長の注釈】「女が先に言葉をかけたため、よくなかった」。前に伊邪那岐命が「女が先にいうのは、よくない」と仰せになったのは、女が先に言葉をかけるということ自体を、よくないとしたのである。ここでは、生まれた御子がよくなかったことを指して仰せになる。「因」、すなわち「そのため」とあることから、区別すべきだ。同じ言葉でも指す事柄が異なるので、混同してはならない。『日本書紀』で『古事記』と同じ趣旨の一書には、前の伊邪那岐命のこの仰せがなく、この箇所になって初めて、天神が「女の言葉が先に上がったのだろう。もう一度、帰っていきなさい」と教えた、とある。
【宣長の注釈】「改言」は「あらためいへ」と読む。俗にいう「言い直せ」ということだ。よくない御子がお生まれになったのは、ひとえに、あの言葉をかけ合う順序の乱れによるので、御言葉に過ちがあった。そのため、このように仰せになる。「言」とある点に注意すべきである。上の「亦」は、もう一度、の意味で、「言」にかかる。
【宣長の注釈】この段の趣旨をまとめ、さらに詳しく述べよう。初め、二柱の神が天の御柱を回った時、女神が先に声をかけたことは、男女の道理に背いたので、男神はそれを好ましくないと思われ、「よくない」と仰せになった。その男女の道理とは、昔、宇比地邇神・須比地邇神に始まり、次々に男女並んでおいでになる神々は、みな男神が先に生まれ、女神が次に生まれた、ということである。天地の初めから、女は男の後にあって従うべき道理で、今に至るまで、自然にそうなっている。これには非常に深い理由があるはずだが、人が推し量って知れることではない。
さて、そうして男女の道理に反することを、よくないとは思われたものの、そのために悪い御子が生まれるとまでは、思いもかけず、すぐに交わって、水蛭子と淡島をお生みになった。その御子が御心にかなわなかったので、嫌われて「よくない」と仰せになった。前の「不良」は、女神が先に言葉をかけたことを嫌われたもので、こちらは御子が悪いことをいったのだから、もとから別の事柄である。同じ言葉だからといって、混同してはならない。だが、あの女神が先に言葉をかけたためにこうなったとまでは、まだ悟られなかった。不思議に思われ、天神の御許へ参上して、その事情を申し上げ、「よくない子が生まれたのは、どういう理由か。これからどうすればよいか」とお言葉を求められた。天神たちも、なおご自分の心で定めることなく、布斗麻邇で占って初めて、その理由だとわかったのである。
神々のありさまは、何事も、漢籍にいう仏や聖人とは大変異なる。ところが世間の漢意を持った賢者たちは、「女が先に言ったのは陰陽の道理に反したため、よくない子が生まれた」と、事もなげにいうようだ。陰陽の説を信じられないことは、首巻の『日本書紀』論で述べたとおりである。そのうえ、そんなに悟りやすいことであるなら、この大神が、どうして悟られないことがあろう。『日本書紀』の一書が、「女神が先に声をかけ……、男神が後に唱和し……、ついに夫婦となって、先に蛭児を生んだ」とするのは、その声をかけ合う順序が男女の道理に反することにさえ、お気づきでなかった趣だ。その後、よくない御子を生んだ理由は、天神たちの御心でさえ容易に定められず、占われたのである。
その理由がわかった後でこそ、女が先に言ったことの「よくない」と、御子の「よくない」とが、一つにつながる。理由がわかる前は、それはそれ、これはこれと、二つのことだから、前のよくないことをお知りでも、こうしてよくない御子が生まれるとは思いもかけずに、交わられたのだ。それを、出来事の跡を見たり、理由がわかったりした後になって、その吉凶について、もとから必ずそうなる道理を、早くから知っていたようにいうのは、漢人の癖で、実に愚かな仕業である。後からなら、理由はどのようにでもいえるものなのだ。
また、ある人は、「よくない子が生まれたのは女神が先に言ったためだと、もとから悟ってはいたが、なお天神の命令を求めたのは、事を慎まれたのである」と説く。これは儒者の考えだ。もしそれを悟っておいでなら、初めから道理に反すると知りながら交わられるのは、どういうことか。その時すぐ、言い直すべきだったはずだ。また、悪いことを改めるのはよいことだが、それさえ慎み、天神へ申し上げるほどなら、初めに、非常によくないと知りながら、すぐに交わられたのは、どういうことか。重く慎むべきことは慎まず、それほどでもないことを慎まれるなど、あるはずがない。慎みも、物事によるのである。近ごろ、神道者などと大げさに称する者が、やみくもに「敬」を道の根本だというのは、いつもの、儒教にへつらった私説である。また、ある人は、「初めのよくないことを知りながら交わられたのは過ちだが、それをすぐ改められたからこそ、大神でおいでになるのだ」と説く。これもまた、儒書にへつらった考えである。
古事記伝 巻五 本居宣長、謹んで著す。
神代 三の巻
【古事記本文】そこで二神は再び地上へ下り、前と同じように、あの天の御柱を回られた。今度は伊邪那岐命が先に「ああ、なんと、すばらしい女よ」といい、後から妹の伊邪那美命が「ああ、なんと、すばらしい男よ」といった。このように言い終えると、交わって御子、淡道之穂之狭別島をお生みになった。小注は「別」を「わけ」と読み、以下も同様とする。
次に、伊予之二名島をお生みになった。この島は体が一つで、面が四つあり、それぞれの面に名がある。伊予国を愛比売、讃岐国を飯依比古、粟国を大宜都比売、土左国を建依別という。小注は「愛比売」の三字を音仮名で読むとし、以下もそれに従い、「大宜都比売」では「宜都比売」の四字を音仮名で読むとする。
次に、隠伎之三子島をお生みになった。別名は天之忍許呂別。「許呂」の二字は音仮名である。次に筑紫島をお生みになった。この島も体が一つで、面が四つあり、それぞれに名がある。筑紫国を白日別、豊国を豊日別、肥国を建日向日豊久士比泥別、熊曽国を建日別という。「久」から「泥」までは音仮名である。
次に伊伎島をお生みになった。別名は天比登都柱。「比」から「都」までは音仮名で、「天」は「あめ」と読み、「の」を挟まずに続ける。次に津島をお生みになった。別名は天之狭手依比売。次に佐度島、次に大倭豊秋津島をお生みになった。その別名は天御虚空豊秋津根別である。この八つの島が最初に生まれたので、大八島国という。
【宣長の注釈】「反降」は、天神の御許から戻り、淤能碁呂島へ下られることである。この言い方は、倭建命の段にも「還下坐」とあり、若桜宮の段にもある。「更往廻……」は、「さらに、かの天の御柱を、先のごと、行きめぐりたまひき」と読むべきだ。「如先」を、漢字の順のまま後ろで読むのは、日本語の調子ではなく、漢文である。日本語と漢文では、言葉の前後が入れ替わることが多いので、心得ておくべきだ。
【宣長の注釈】「御合」は「美阿比坐弖」と訓むべきだとする。〔訳注:末字は弖/豆の判読を留保する。〕つまり、前にあった「みとのまぐはひ」である。『続日本紀』巻十に、「皇后の磐之比売命と結ばれて」とある。「みあはせ」と読むのは、古語を知らない誤りである。俗語に「見合はす」という語はあるが、それは親が子を引き合わせることで、自ら会うのとは違う。
【宣長の注釈】「淡道之穂之狭別」。「淡道」は、南海道の淡路国である。『和名抄』に「あはぢ」、『日本書紀』の応神天皇の御歌に「阿波〓辭摩」とある。〔訳注:引用中の一字は判読を留保する。〕後に一つの国となっても、なお淡路島とだけいい慣わしている。隠岐・佐渡も同様だ。名の意味は、阿波国へ渡る海の道にある島、ということである。「京路」「大和路」などというのは普通だが、『万葉集』には「筑紫路」「土左道」とも詠み、また「大和道の島」とも詠むので、「阿波道の島」という意味に疑いはない。「津島」という名の意味も似ていることを考えたい。次の国々の例によれば、「淡道島を生み、その別名を穂之狭別という」とあるべきだが、この島だけは、古くから別名を続けて唱えてきたのだろう。「穂之狭」の意味は、まだ考えがつかない。あえていえば、最初に生まれた島なので、稲穂が先に出始めたのになぞらえ、「穂之早」の意味か。「早」は「早蕨」「早穂」などの「さ」である。「別」は、皇子などの御名に多い。そのことは、景行天皇の日代宮の段、巻二十六の四丁で述べる。『延喜式』の出雲国出雲郡に「比古佐和気神社」があり、これは「狭別」の例である。
【宣長の注釈】「伊予之二名島」は、阿波・讃岐・伊予・土左の四国をまとめた名で、後世には四国という。『万葉集』巻三の二丁の「白波を、伊与にめぐらし」も、四国全体をいったらしい。もとは一国の名だったものが、広い全体の名となった点は、筑紫と同じである。「二名」は、もとから全体の名だっただろう。「名」は借字で、「ふたならび」という意味である。『日本書紀』応神天皇紀の御歌に、「淡路島、いや二並び、小豆島、いや二並び、よろしき島々」とある。〔訳注:歌の引用中の一字は判読を留保する。〕これは淡路島と小豆島が並ぶのを詠んだので、この二名島のことではないが、「二並び」という語の証拠になる。『万葉集』巻九の二丁にも、「二並び、筑波の山」とある。
この島では、飯依比古と愛比売とが男女として並び、建依別と大宜都比売もまた並ぶので、「二並び」というのか。東から見れば、讃岐の飯依比古と粟の大宜都比売が二つ並ぶ。西から見ても、土左の建依別と伊予の愛比売が二つ並び、北からも南からも同じである。それゆえ、男女の名を負わせて、二並島というのだろう。また『万葉集』巻六で、土左国へ行くことを「さしなみの国に、いでます」と詠むのは、別の意味か。それとも、これも二並びの意味かもしれない。今、二人が向かい合うのを「さしむかひ」、二人ですることを「さし」というのを、考えるべきだ。また、伊予も初めから全体の名だとすれば、「いや」、すなわち、いよいよ、の意味で、あの御歌と同じく「いや二並島」であろう。「いや」を「いよよ」ともいう。今、伊予の海中に大二島という島があり、大二島大明神の社もある。土地の人はこれが二名島だというが、信じられない。越智郡の大野神社などを、呼び誤ったのではあるまいか。
【宣長の注釈】「この島は、身が一つ」とは、四国が一つの島であることをいう。「面が四つある」は、四つに分かれているという意味だ。ただ国名が分かれているだけではなく、もとから島そのものが、四つに分かれた形をしているのだろう。それだからこそ、四つの国に分かれたのだろう。このように、人になぞらえて「身」「面」というのは、この後で「三子島」「両児島」などともいい、山でも「頂」「腹」「みほと」(中巻に見える)などという類である。「面」は「おも」と読むべきだ。「おもて」というのは、後ろを「うしろで」というのと同じである。『万葉集』巻二の二丁に、「讃岐国は……天地、日月とともに、満ち行かむ、神の御面」と詠むのは、この箇所を思ってのことだ。昔は、このように何気なくいう時も、古い伝えを踏まえた。それなのに、後世は漢意ばかりを考え、古代の雅を忘れたのは、情けないことである。
【宣長の注釈】「伊予国」は、中巻・下巻では「伊余」と書く。伊予郡から出た名だろう。そのような例は多い。『神名帳』に、その郡の伊予神社もあり、同郡に伊予豆比子神社という社もある。こちらは地名から出た神名だろう。名の意味は、考えがつかない。
【宣長の注釈】「愛比売」は、姉妹の女子を「兄比売」「弟比売」という例が多いので、この国が女子の初めであるという意味で、「えひめ」なのか。『日本書紀』皇極天皇紀には「長女」ともあり、伊勢国多気郡には、兄国・弟国という村名もある。また、伊予がもとから全体の名だったと見れば、あの御歌と同じく「いや二並び、よろしき島々」の意味で、「愛」は、よい、の意味か。よいことを「愛」という例は多く、前の「すばらしい女」というのと同じ類である。「ひめ」は「ひこ」に対し、女をほめたたえる呼び名で、「ひ」は産巣日などの「日」の意味だ。巻三の十三丁で述べたとおりである。「め」は女である。
『日本書紀』は、「ひこ」に「彦」、「ひめ」に「姫」「媛」を用いる。大抵、天皇家の女には「姫」、ほかの姓の女には「媛」と書いている。さて、『古事記』の「ひこ」「ひめ」の音仮名は、清音・濁音の区別が非常に厳しく、清音には必ず「比」、濁音には必ず「毘」を使う。むやみに読んではならない。世間で訛って読み慣れたものも多いが、『古事記』によって正すべきだ。少名毘古那神・猿田毘古神などの「毘」を清音で読み、倭比売命などの「比」を濁音で読むのは、みな誤りである。こうした例は、なお多い。
【宣長の注釈】「讃岐国」の「岐」は、古くは濁らせた。『和名抄』に「さぬぎ」とある。この名の意味は、まだ考えがつかない。あえていえば、『古語拾遺』で神武天皇の御代の事柄を述べる所に、「手置帆負命の子孫は、矛の竿を作った。その末裔は今、讃岐国に分かれて住み、毎年、調・庸のほかに八百本の竿を納める。これが、その事実などの証拠である」とある。また『臨時祭式』に、「桙木、合わせて千二百四十四本。讃岐国は十一月以前に、綱丁を差し向けて納める」とある。それから考えると、「さをのつきのくに」(竿を貢ぐ国)なのか。「のつ」は「ぬ」と縮まり、「を」が省かれたのである。
【宣長の注釈】「飯依比古」は、隣の粟国を大宜都比売というので、「飯」もそれに関係するのか。鵜足郡に飯神社があり、『延喜式』に見える。「依」の意味は、玉依毘売命の注、巻十七の七十四丁で述べる。「ひこ」は、男をほめたたえる呼び名で、「ひ」は前に述べたとおり、「こ」は子である。
【宣長の注釈】「粟国」は、阿波国である。粟は、『日本書紀』神代巻にも「粟田」とあり、神武天皇紀の御歌にも「粟生」を詠む。『万葉集』巻三にも「……春日の野辺に、粟を蒔くものを」とある。古代に、特に多く作った穀物なのだ。したがって、粟のよくできる国であるための名だろう。『和名抄』に、「唐韻にいう、粟は禾の実である。和名は、あは」とあるのは、中国の「粟」の字の意味である。中国では、穀物全体を粟ということもあるためだ。しかし、日本の「粟」は一種類の名で、全体には及ばない。「禾子也」という注を引きながら、和名を「あは」としたのは、源順の誤りである。『古語拾遺』には、「肥えた土地を求め、阿波国へ遣わした……」とある。これはカジの木と麻を植えるためだが、肥えた土地なら、粟もよく実るだろう。『伯耆国風土記』には、「相見郡の郡家の西北に粟島がある。少日子命が粟を蒔くと、穂や実がたわわに実り……、そのため粟島という」とある。これも、粟が島の名になった例として、考え合わせたい。
【宣長の注釈】「大宜都比売」の「宜」は、「げ」の音仮名で、「き」と読むのは誤りである。この名も粟に基づくのだろう。名の意味は、後に同じ名の神が出るので、そこの注、この巻の五十三丁で述べる。
【宣長の注釈】「土左国」は、『和名抄』に土佐郡土佐郷があるので、それから出た国名だろう。この土佐郷に土佐大神の社がある。この神は葛木一言主神で、雄略天皇の御代に、事情があってこの国へ移されたことが、『続日本紀』巻二十五やこの国の『風土記』などに見える。詳しくは、その朝倉宮の段で述べる。この神は、「私は言葉で物事を定める神、葛木の一言主大神だ」と名乗られた。この御名から考えると、土左は「ことさく」が縮まった名かもしれないとも思うが、国名は、あの御代より前からあったはずである。
【宣長の注釈】「建依別」は、特に意味を限定しない、ほめたたえた名のように聞こえる。『先代旧事本紀』は「建」を「速」とする。「依」は、先の飯依比古の「依」と同じである。『神名帳』の安芸郡に、多気神社がある。『古事記』をはじめ、古い書物が「たけ」という語に「建」の字を使うのは、「健」の偏を省いたものだ。古くは偏を省いて書く例が多い。後の「呉公」の注、巻十の三十九丁で詳しく述べる。『日本書紀』では、どれも「武」の字を使う。
四国を挙げた順序は、後世の定めと違う。伊予は全体の名になったため、先に挙げたのか。その後、順に右へ回っている。次の島々の例によれば、この四国も「何国、その別名を何という」とあるはずだが、一つの島の中で分かれた国なので、文章を変え、「別名」とはいわなかったのだろう。筑紫島の国々も同じ例である。
【宣長の注釈】「隠伎之三子島」は、後に「淤岐島」と書く。名の意味は、海原の奥にある島、ということだ。『日本書紀口決』に「奥である。西北の隅を奥という」とあるのは、似てはいるが、漢籍に寄りかかるため、意味が違う。『纂疏』の説も同様だ。「三子島」とは、この国に三つの島があるため、そういうのだ、とある人はいった。今、国図を見ると、この国は四つの島に分かれている。そのうち東北の大きい島を、俗に島後という。その西南、今の道で五里ほど離れた所に、天之島・向之島・知夫島の三島がある。この三島をまとめて島前といい、どれも島後より小さい。「三つ子」は、まさしくこれをいったのだろう。「亦名」の下には、「謂」の字が落ちたのか。この後の例には、みなこの字がある。ただし、なくてもよいだろう。
【宣長の注釈】「天之忍許呂別」の名の意味は、「忍」が「おほ」の縮まったものである。『日本書紀』神代巻の一書の「熊野忍隅命」を、別の一書が「熊野大隅命」とするのは、その二つが通じる例だ。また「凡河内」を「大河内」とも書くのは、「大」を「おほし」という例である。「ころ」は、まだ考えがつかない。前の「こをろこをろ」や、「懇慇」「ころぶす」などの語はあっても、これに合うようには聞こえない。『日本書紀』に「稜威の噴譲を発す。噴譲、これを、ころびという」とある、その意味などか。強い様子によってほめたたえるのは、古い名には普通のことである。『大神宮儀式帳』に、「鴨神社、一か所。大水上の子、石己呂和居命と称する」とある。これは、「許呂別」の例である。
【宣長の注釈】「筑紫島」は、『万葉集』巻二十の五丁に「つくしのしま」とある。これも伊予と同じく、もと一国の名から出て、筑紫・豊国・肥・熊曽の四国をまとめた名になった。この島は、後に西海道といい、九国となる。『北山抄』は「西之道」と記し、俗に九州という。「面が四つある」とは、筑紫国・豊国・肥国・熊曽国の四つである。
【宣長の注釈】「筑紫国」は、『万葉集』巻五の二丁に「つくしのくに」とある。後に二国に分かれ、『和名抄』の筑前「つくしのみちのくち」、筑後「つくしのみちのしり」がそれである。『風土記』に、「筑後国は、もと筑前国と合わさった一国だった」とある。「道口」「道後」については、孝霊天皇の黒田宮の段、巻二十一の四十丁で述べる。このように二つに分かれたのは、どの御代か、わからない。『日本書紀』景行天皇紀の十八年に「筑紫後国」とあるので、それより前か。それとも、分かれたのは後でも、前の時代にもさかのぼって、そのように書いたのか。
「つくし」という名の意味について、『筑後国風土記』には三説ある。その一つに、「昔、前後両国の境の山に、荒ぶる神がいて、往来する人が大勢殺された。そのため、その神を、人の命を尽くす神といった。後にまつって、筑紫神と申し上げるようになった」とある。この説は、そうかもしれないと思われる。他の二説も、ともに「尽くす」の意味だが、誤りに聞こえる。『日本書紀私記』の、国の形がミミズクに似ているためだ、という説は、代々の学者も採ったが、これも誤りに聞こえる。『延喜式』の筑前国御笠郡に筑紫神社があり、この神だろう。また、近世の貝原某の『釈名』という本には、古く外国からの侵入を防ぐため、筑前北方の海辺に多くの石垣を築かせたので、「築石」の意味だろうとある。これも理由がありそうだが、外国の賊を防いだことは、上代にはないことである。
【宣長の注釈】「白日別」は、名の意味が考えつかない。『万葉集』が「白縫、筑紫」と続けるのは、理由がありそうだが、それは、やはり「不知火」だろうと、師もいわれた。あえて考えると、後に大年神の御子に白日神がある。そちらは「向日」の誤りと思われる理由があるので、こちらも「向日別」なのか。『日本書紀』神功皇后紀に「天疎向津媛命」、仲哀天皇紀に「向津野大済」「向津国」、『万葉集』に「向峯」などがある。あの向津国は韓国のことで、海の向こうを、はるかに見やるという意味らしいから、こちらも、その意味の名か。継体天皇紀の歌にある「武智左駆樓以祇能和駄利」も同じ意味で、壱岐の渡りを海の向こうに見やるものとする。〔訳注:歌の頭句の訓みは未確定。〕「向津媛」の御名に「天疎」を添えるのも、はるかに向かう意味につなげたものである。
また考えると、師は、「向津媛」という名は、古くはいとおしんで見たいことを「むかしき」といったので、その意味で付けたのだ、といわれた。『万葉集』巻十八に、「白玉を五百も集めて手に結び、贈ってくれる海人は、恋しくてならない」とある。この名も、その意味でほめたたえたのかもしれない。もしそうなら、「筑紫」という名も「うつくし」なのだろう。古く、それに当たる事情があって名づけたのだろう。これらは、思い当たるままに記したが、たやすく改められないので、本文はもとのままにしている。「白」は「しろ」とも読めるが、それも定めがたいので、ひとまず旧来どおり「しら」と読むべきだ。「日」は濁らせる例である。『日本書紀口決』には「自日別」とあるが、誤りだろう。
【宣長の注釈】「豊国」は「とよくに」と読むべきで、どの書物にもみなそうあり、「とよのくに」とはいわない。これも後に二国に分かれ、『和名抄』に、豊前「とよくにのみちのくち」、豊後「とよくにのみちのしり」とある。分かれた時期は、わからない。『日本書紀』景行天皇紀の十二年に、「筑紫へ行幸し、豊前国長峡県に到着した。行宮を建てて滞在したので、その所を京と名づけた。冬十月、碩田国に到着した。土地の形が広大で美しかったので、碩田と名づけた」とある。『風土記』にも同じ出来事がある。それなら、全体の名を豊国というのも、この意味だろう。「豊」は、豊かで大きい意味である。『豊後国風土記』が説く豊国の語源は、どうだろうか。碩田は、後に郡となった。『和名抄』の豊後国大分郡がそれである。また、大隅国桑原郡にも、大分・豊国という二郷が並んである。これは別の所だが、関係があるのだろう。「豊日別」の名の意味は、国名と同じだろう。
【宣長の注釈】「肥国」は、『日本書紀』景行天皇紀の十八年に、こうある。「五月、葦北から船出し、火国に着いた。その時、日が暮れ、夜が暗く、上陸する岸がわからなかった。遠くに火の光が見えたので、天皇は舵を取る者に、『まっすぐ火のある所を目指せ』と仰せになった。そこで火を目指して進むと、岸に着けた。天皇が、火の光る所を何という村かと尋ねると、土地の人は『八代県の豊村です』と答えた。また、その火は誰の火かと調べたが、持ち主がわからなかった。そのため人の火ではないとわかり、その国を火国と名づけた」。
この火について、土地の人の話では、肥後国の海の松橋の沖という所に、龍燈といって今もある。毎年、七月末から八月ごろまで見え、中でも八月一日の夜は特に多い。宇土あたりの山から、よく見渡せるという。火は、世にいう提灯ほどの大きさに見え、初め一つ二つ現れ、次第に分かれて数が増し、盛りには幾千万とも知れず、海上、縦横三、四里ほどが、みな火になる。風が吹けば火が少なく、雨の夜は見えない。火が燃える時、そこを往来する船を遠くから見ると、火の中を行くようだが、船上では少しも火が見えず、いつもどおりだという。
また『肥後国風土記』には、次のようにある。「肥後国は、もと肥前国と合わさった一国だった。昔、崇神天皇の御代、益城郡朝来名峰に、土蜘蛛の打猴・頸猴という二人がいて、百八十余人の仲間を率いて峰の頂に住み、いつも皇命に背き、降服しなかった。天皇は、肥君らの祖先、健緒組に、その賊を討てと命じた。健緒組は命を受けて来て、みな討ち滅ぼした。その後、国境を巡り、あわせて様子を調べ、八代郡白髪山に着いた。日が暮れて宿を取ると、その夜、空に火が自然に燃え、次第に降りて、この山を焼いた。健緒組は見て、大変驚き怪しんだ。務めを終えて朝廷へ参上し、その次第を申し上げた。天皇は、『賊を討ち払い、西の辺境の海上の騒ぎをなくした。誰がこれに比べられよう。また、火が空から降り、山を焼いたのも不思議だ。火の降りた国を、火国と名づけよ』と詔された」。続いて、先の景行天皇の出来事を挙げ、それは『日本書紀』と同じである。ただし、土地の人の返答は「ここは火国八代郡の火邑ですが、火の由来はわかりません」とあり、その時、天皇は群臣に、「燃えている火は、普通の火ではない。火国という理由が、これでわかった」と仰せになった、とある。「火邑」は、『和名抄』の肥後国八代郡の肥伊だろう。
これらを合わせて考えると、国であれ村であれ、「火」という名は、すでに崇神天皇の御代に始まったのだ。これも二国に分かれ、『和名抄』に肥前「ひのみちのくち」、肥後「ひのみちのしり」とある。分かれた時期は、わからない。『日本書紀』神功皇后紀には「火前国」と見える。後に「火」を忌んで、「肥」に改めたのだろう。和銅六年五月の詔に、諸国・郡・郷の名は、よい字で書け、とあるので、この時に変わったのか。ただし『古事記』は、すでに「肥」と書くから、それより前に改まったのか。あるいは、中巻に「火君」とあるので、もとはここも「火」だったのを、後の人が「肥」に変えたのか。その例は、ほかにも見える。
前に筑紫島は面が四つあるといい、肥国をその一つとした。だが国図を見ると、肥前・肥後は海に隔てられ、土地が接せず、明確に二つに分かれており、一つの面とはしがたい形だ。考えると、先に引いた『日本書紀』『風土記』の火国の出来事は、地名から見る限り、みな肥後国の土地である。それなら、初め肥国といったのは肥後だけで、肥前の地は、もと筑紫国に属し、少し後に肥国に入ったのかもしれない。肥前は筑前・筑後と地続きで、その三国は一面とも取れる形で、肥後ははっきり離れているためである。しかし、これらは上代のことで、はっきりはわからない。ただ試みに、問題として挙げておくのである。また、日向の地域も、北半分ほどは、もとは肥国に属していたのだろうが、その後に分かれ、一国になったのである。肥後と日向は、一つの面と取れる地形である。このことは、次に述べる。
【宣長の注釈】「建日向日豊久士比泥別」の名の意味を述べる。「日向日」の下の「日」は、「向ふ」「向ひ」と活用する「ひ」である。『日本書紀』景行天皇紀の十七年三月に、「子湯県へ行幸し、丹裳小野で遊ばれた。その時、東を望み、左右の者に、『この国は、まっすぐ日の出の方を向いている』といった。そのため、国を日向と名づけた」とある。その意味によって、ほめたたえたのだろう。これは日向国の名のもとであるが、子湯県は、その北寄りにある所なので、上代には、そこも肥国に属していたのである。『万葉集』巻十三の二丁に「日向爾……」とあり、龍田風神の祭詞に「朝日の、日向ふ所」などとある。垂仁天皇紀には、人名にも「倭日向武日向彦」がある。
「くじひ」は、不思議な霊力である。「ひ」が霊の意味であることは、産巣日神の注で述べたとおりだ。また、この「ひ」は、「ふる」と活用する語でもあろう。『日本書紀』に、日向の高千穂の「穂触の峰」といい、また同じ所を「日向の襲の高千穂の峰」ともいうからである。この別名も、その峰の名に基づいたのかもしれない。ただし、峰の所在にはさまざまな論があり、定めがたい。その議論は、巻十五の四十一丁を考え合わせるべきだ。
「士比」の清濁については、本来「士」を清音、「比」を濁音として「しび」と読むべき語なのに、「士比」と記す。「士」は濁音、「比」は清音の仮名である。あの「穂触の峰」も、『古事記』は「久士布流多気」と書く。それと合わせて考えると、「くしび」「くしふる」という時には、古く「くじひ」「くじふる」といったのだろう。こういう例は、ほかにもある。朝倉宮の段の歌で「日陰る」を「ひがける」と詠み、『万葉集』巻十九で「夜くだちに」を「よぐたちに」、「またぎ行きて」を「まだきゆきて」と詠むのも、その例である。後の例の「太」は、濁音を表す仮名だ。古くは、音の都合によって清濁が入れ替わったので、後世の考えから、むやみに疑ってはならない。
「肥国」から以下の十三字は、今、真福寺本と、もう一本によった。旧印本・延佳本・別の一本などは、「肥国を速日別といい、日向国を豊久士比泥別という」とする。だが、それでは、前の「面が四つある」という数に合わない。日向国があるなら、必ず面は五つとあるはずだ。『古事記』には、神々の総数をいう時など、数が違うように見える例もあるが、ここは指を折って数えるまでもなく、五つであることが紛れるはずもないので、そのように違う箇所ではない。『古事記』は、もと阿礼が口に誦した語を写したものだから、数などは一つ一つ思い浮かべにくく、言い違いもあったのを、安万侶朝臣がその語を重んじ、自分では正さなかったのか、とも考えられる。しかし、もしそうなら、その理由を注にも記すべきなのに、それもない。後の写し間違いにも見えず、古本のままに見えるのである。
それゆえ、日向国のないほうが、古本なのだろう。日向国が加わった本は、『先代旧事本紀』によって、後の人が賢しらに改めたものと思われる。その書は、上記の形になっている。『古事記』を取って記す際、日向がないことを疑い、「日向日」という別名から、下の「日」を「国」に変え、その下に「謂」を補い、豊久士比泥別を日向国の別名にした。そうすると、肥国の別名が「建」一字だけとなって不足するので、次の熊曽国の別名に倣い、「日別」を加えた。すると熊曽と全く同じになるので、「建」を「速」に変えたのである。この書には、こうした作為が非常に多い。ところが、前の「面が四つ」に気づかず、そこを改めなかったため、偽りが現れたのは、おかしい。それなのに後の人は、その作為を悟らず、日向国のあるほうを正しいとして、『古事記』まで改め、その本が世に広まったのだ。
ただし「速」は、『先代旧事本紀』の旧印本では「建」なので、この字は『古事記』の古本のままに取ったのを、熊曽国の別名と同じになるため、後の人が「速」に変えたのかもしれない。『日本書紀口決』『元々集』などの「画日別」も、「画」が「建」と字形が似るため、誤ったように見える。あるいは、『古事記』の古本で、もとから「速」だったのが、後に「建」に誤ったのか。もしそうなら「速日向」は、早い朝日に向かうという意味だろう。日向国に速日峰という山もあるという。
そもそも、日向国がここに含まれないのは、上代には、その地がまだ肥国と熊曽国の内にあり、一国として別に立っていなかったころの伝えなのだろう。
【宣長の注釈】「熊曽国」は、曽国である。「曽」は、もと『日本書紀』神代巻の「日向の襲」という地で、『和名抄』の大隅国囎唹郡がそれだ。「唹」は、「そ」の母音「お」を添えて二字にしたもので、木国を紀伊と書くのと同じである。〔訳注:「囎」とした原字の囎/噌の細画は留保する。〕この例は、ほかにも多い。『民部式』が、「諸国の郡里などの名は、すべて二字を用い、必ずよい名を取れ」とするように、それ以前にも、この制度があったのだろう。筑前・肥後などの『風土記』にも「球磨」「噌唹」と書く。
これが国名として存在したことは、『日本書紀』景行天皇紀の十二年十二月に、「熊襲を討つことを相談した。その時、天皇は群卿に、『聞くところでは、襲国に厚鹿文・迮鹿文という者がいる。この二人は熊襲の首領で、仲間が非常に多い。これを熊襲八十梟帥といい、その鋭い勢いには当たれない……』と仰せになった」とある。また十三年五月に、「襲国をことごとく平定した」などともある。これで、襲国が熊曽であることもわかる。肥後国球麻郡とは別なので、混同してはならない。『文徳実録』巻九に、肥後国の曽男神という神があるが、これも別か。それとも、あの噌唹は肥後の境にも近いため、同じ所を肥後とも記したのか。古くは、そういう例も多い。ただ、これらは国の地形を知らなければ、定められない。
あの梟帥たちが非常に強かったため、熊曽というのだ。「熊鰐」「熊鷲」「熊凝」なども、みな猛々しさをいう呼び名である。熊は獣の中で猛いので、それになぞらえて猛いものをいうのか。それとも「くま」は、もともと猛いという語で、獣の熊も、その名を負ったのか。どちらがもとかは、わからない。「曽」という名の意味は、『古語拾遺』に、「天鈿女命は、古語で天乃於須女という。この神は強く勇猛だったので、そう名づけた。今、俗に強い女を『おすし』というのは、この理由である」とある。『源氏物語』帚木巻に、「このように強情では、どんなに深い契りがあっても、二度と会うまい」とあり、俗語にも「おぞき」「おそろしき」などという。だから「曽」は、「おそ」が縮まったもので、これも猛いという意味だろう。『日本書紀』が「襲」という字を用いるのも、もとの語が「おそ」であるためだろう。『日本書紀』の注釈が「山々の重なる意味である」とするのは、高千穂の峰に結びつけ、「襲」の漢字の意味によって説明する誤りだ。「襲」は借字で、その字の意味を取ったのではない。
また考えると、「曽」は「勇男(いさを)」、勇ましい男という語が縮まったのか。「さを」が縮まれば「そ」となり、「い」を省くのはよくある。『日本書紀』で首領を「いさを」と読み、「功」をも「いそ」ということを考えるべきだ。仲哀天皇紀の神託で、あの国を「膂の空国」といい、それが名にもなったらしく、神代巻に「膂宍の空国、自頓丘……」とある。この「膂」から出た名かとも思うが、景行天皇の御代にすでに熊曽建の名があるので、そうではない。
筑紫島を四つに分け、その一つを熊曽国というのは、後の日向国の南半分ほどから、大隅・薩摩までをまとめた、上代の広い名である。景行天皇紀の襲国も、これである。ただし『続日本紀』和銅六年四月乙未に、「日向国の肝坏・贈於・大隅・姶羅の四郡を分け、初めて大隅国を置いた」とあり、『日本書紀』にも「日向の襲」とある。大隅は古く日向の中にあり、曽も日向に属したのに、なぜ別に熊曽を一国としたのか、と思う人もいるだろう。だが、それはまだ詳しく考えていない。日向という名は、前に引いたように景行天皇の十七年に始まり、その時は、なお肥国の中の地名で、一国全体の名ではなかったらしい。一方、襲国・熊曽は、同天皇の十二年にすでに見えるので、上代からの名で、今の日向南半分から大隅・薩摩までをまとめたものだった。それが後になると、全体の名が廃れ、隣国の日向が、その辺りまでの広い名になったのである。
そのため、もとの曽国の名はわずかに残り、日向の中に入って、後に一郡の名としてあった。その辺りの四郡を和銅六年に分け、一国と立てたのだから、大隅も、もとは熊曽国に属し、中ごろ日向へ入っていたのだ。薩摩は、もと隼人国といった。このことは、巻十六の四十一丁で述べた。ただし、ここではその国を別に挙げないので、上代には熊曽の中に含まれ、その後、日向へ入ったのである。『続日本紀』大宝二年の「筑紫七国」も、日向に大隅・薩摩が含まれるためだ。『日本書紀』は、瓊々杵尊の御陵を「日向可愛の山陵」とする。この可愛は、『和名抄』の薩摩国頴娃郡頴娃郷である。その理由は、巻十七の八十六丁で詳しく述べる。これもまた、古く薩摩までを日向といった証拠だ。したがって、さらに古く、日向という名のない以前は、熊曽国が、薩摩までを含む広い名だったことがわかる。
【宣長の注釈】「建日別」も、猛々しさをいう名である。
【宣長の注釈】「伊伎島」は、『万葉集』巻十五の二十六丁に「ゆきのしま」とあり、『和名抄』も壱岐島を「ゆき」とする。そのため「ゆき」を古い読みだと思う人もいるが、『古事記』には「伊」と書き、「壱」も「ゆ」の音仮名ではないので、もとは「いき」であったことが明らかだ。ただし『懐風藻』では「伊支連」という姓を、目録で「雪連」と書き、先の『万葉集』も「ゆき」とする。それから考えると、必ず「ゆき」とも通じていえる理由を持つ名らしい。「行き」も、通わせて「いき」というので、同じ例である。
そこで考えると、『日本書紀』天武天皇紀に、「斎忌、これを踰既という」とある。斎忌に関する語は、「いむ」「いはふ」「ゆはふ」「ゆゆし」「ゆづ」「いづ」など、さまざまに「い」と「ゆ」が通じる。だから「ゆき」も、古くは「いき」ともいったはずだ。この島で神をまつられる際、斎忌があったための名かもしれない。あるいは、息長帯比売命が韓国を征するため行幸された時などであろうか。古く斎忌は、大嘗祭に限らない。または、韓国へ渡る前、まずここに船を泊めて休むので、「息の島」なのか。ただし、土地の名は、昔のちょっとした因縁から付いたものが多い。後世の机上の考えは、理屈がもっともらしくても、実際に当たるかどうか、定めがたい。かといって、ひたすらわからないとして済ませるわけにもいかないので、人も自分も、思いつく限り推測をいうのである。
【宣長の注釈】「天比登都柱」は、海中に離れて一つある島なので、その名なのだろう。『万葉集』巻三の「淡路島、中に立て置きて」という歌も、柱といえる理由がある。『日本書紀』神代巻にも、「磯馭盧島を、国中の柱とした」とある。
【宣長の注釈】小注の「天を読むこと、天のとおり」とは、ただ「あめ何々」といい、「あめの」「あまの」などとはいわないので、このように注したのだ。下巻の檜隈宮の段にも、「石を読むこと、石のとおり」などの注がある。
【宣長の注釈】「津島」の名の意味は、『万葉集』巻十五の十丁の「百船の、泊つる対馬」と詠むとおり、韓国へ往来する船が泊まる港の島、ということだ。中国の『魏志』には、この島を「対馬国」と記す。日本で古くからこう書いたのを見て採ったかとも思えるが、そうではない。この本ができたのは晋の時代で、そのころの日本に、このような音仮名の使い方があったはずはない。ただ「つしま」という音を、中国側で聞き伝え、誤ってこう書いたのである。『日本書紀』は、そのまま、この文字を音仮名として取り入れ、「対馬島」と記した。「津島」の音仮名に「対馬」と書くことは、そのような例もあるので、よいとしても、「島」を添えたことは、どうにもわからない。「島島」と重ねていう名があるだろうか。「淡海の海」などとは、例が違う。敏達天皇紀には「津島」と記す箇所があり、これが古い書き方である。
【宣長の注釈】「天之狭手依比売」は、名の意味が考えつかない。「狭手彦」などという人もいるので、名に付ける理由を持つ語らしい。『和名抄』の漁具の項に、「纏」という物もあり、『万葉集』の歌にも見える。〔訳注:この漁具名の字形は確定できない。〕
【宣長の注釈】伊伎・津島の二島は、『日本書紀』では大八洲に入れず、「これは潮の泡が凝ってできたものである」とする。一書の中には、八洲に含めるものもある。
【宣長の注釈】「佐度島」の名の意味は、「狭門」か。この島へ船の入る水門が狭いためなのか。海では「島門」「水門」「迫門」などということが多い。なお、土地の形をよく調べて定めるべきだ。この国は、天平十五年二月に越後国へ併合され、天平勝宝四年十一月に、再び一国となった。『続日本紀』に見える。この島だけ別名のないのは、脱落したのだろう。『日本書紀口決』『元々集』などには「建日別」とあるが、『先代旧事本紀』の「次に熊襲国、その名を建日別という。あるいは佐渡島という」という記事を取った誤説なので、頼りにならない。『先代旧事本紀』は、『古事記』の佐度島に別名がないのを疑い、また熊曽国は後の九国にない名なので、佐度のことかとも思い、当て推量で「あるいは佐渡島という」とした。いつもの、でたらめな説である。『口決』の一本が「速日別」とするのは、後の写し間違いだ。『日本書紀』には、「隠岐洲と佐度洲を、双子として生んだ」とある。
【宣長の注釈】「大倭豊秋津島」。こうした呼び名については、別著『国号考』で詳しく述べたので、ここでは省略する。
【宣長の注釈】「天御虚空豊秋津根別」は、『万葉集』巻五の二丁に「久堅の、天の御虚空」、巻十三の七丁に「天三空」などとある。「天」は、今挙げた巻五の例により「あまの」と読んだ。この名は、天照大御神の治める高天原になぞらえ、その意味によって、ほめたたえたのだろうか。『万葉集』巻十三の「久堅の、二上」も、この意味である。天皇のおいでになる都をも「天」とするためだ。大倭も秋津島も、都のある方をもとにいった名だからである。また、あの「そらみつ大和」という古語に由来するのかもしれない。「豊秋津」は秋津島に基づき、「根」は、いつもの尊称である。
先の八島を生まれた順序は、まず淤能碁呂島で交わり、初めに生まれた淡島は、その島の近隣で、次の淡路島も、その隣である。それから西へ行き、伊予之二名島、次に筑紫島を生まれ、北へ折れて伊伎島・津島を生まれ、東へ回って佐度島、南へ戻って大倭島を生まれた。このように順序が乱れていないのに、ただ隠伎島だけが、順序を乱し、筑紫の前にあるのは、実に不思議である。『日本書紀』と合わせて考えると、あちらには八島の順序に六つの異説があるが、隠伎はどれも佐度の前にある。『古事記』も、必ずそうあるはずなのだ。『先代旧事本紀』の八島の順序は、全く『古事記』から取ったのに、対馬洲、次に隠岐洲、次に佐渡洲とするのは、よく合う。しかし後で、別名を並べた順序は、『古事記』のまま伊予の次にあるので、前の順序を、自分で改めたように見える。『日本書紀』の諸伝は、八島の順序も、挙げる島々も、それぞれ異なり、どれも『古事記』とは同じではない。
【宣長の注釈】「故因此八島先所生」は、「かれ、この八島ぞ、まづ生ませる国なるによりて」と読むべきだ。つまり、この八島が先にお生みになった国なので、という意味である。
【宣長の注釈】「大八島国」という呼び名も、『国号考』で述べた。ある人が、「後にもまだ、生まれる島々はあるのに、先の八島だけに限って国の名としたのは、なぜか」と尋ねた。答える。先の八島は、順に生みながら回り、一巡して、もとの淤能碁呂島の方へ戻られるまでに、生まれたものだからである。そのことは、次の文章に「還り坐す時」とあるので明らかだ。
【古事記本文】その後、戻ってこられる時、吉備児島をお生みになった。別名は建日方別である。次に小豆島をお生みになった。別名は大野手比売。次に大島をお生みになった。別名は大多麻流別。「多」から「流」までは音仮名である。次に女島(姫島)をお生みになった。別名は天一根。「天」は「あめ」と読み、「の」を挟まずに続ける。次に知訶島をお生みになった。別名は天之忍男。次に両児島をお生みになった。別名は天両屋である。小注は、吉備児島から天両屋島まで、合わせて六島とする。また「大野手比売」の「手」、「大多麻流別」の「麻」に上声の印がある。
【宣長の注釈】「還坐之時」は、「かへりましし時に」と読むべきだ。先の八島を生みながら回り、もとの淤能碁呂島の方へお戻りになったことをいう。次の吉備児島から後の島々は、みな淤能碁呂島より西にあり、今、戻ってこられた道にはないので、すでに戻られた後、さらに西へ向かい、生みながら行かれたのである。それで、先の八島だけが、国の名にもなり、ここから後の島々は、別のものとなるのである。
【宣長の注釈】「吉備児島」の吉備は、後に三国に分かれた。『和名抄』の、備前「きびのみちのくち」、備中「きびのみちのなか」、備後「きびのみちのしり」がそれである。『日本書紀』仁徳天皇紀に見えるので、そのころ、すでに三つに分かれていたのか。ただし、その後も吉備国とだけいう例が多い。天武天皇紀上巻に吉備国の守が見えるのは、三国をまとめた守なのか。同巻には、吉備太宰という役職も見える。和銅六年には、備前国の六郡を分け、美作国を置いた。名は、黍から出たのだろう。『和名抄』は黍を「きみ」とするが、古く「み」と「び」はよく通じ合った。
児島は、高津宮の段にも見える。吉備国に、子のように付いているための名だろう。ある説に、昔、百済国の兄弟三人が、まだ子供の時に日本へ来て、吉備国の一島にとどまり、旗にみな「児」の字を記したので、その島を児島と名づけた。その兄弟は、後に三宅を姓とし、字を喜多と名乗り、この国の宇喜多家の先祖となった、とあるが、全く信じられない。『万葉集』巻六に歌がある。後に備前国の郡となり、『日本書紀』欽明天皇紀の備前児島郡、『和名抄』の児島郡「こじま」がそれだ。『日本書紀』では、この島を大八洲の一つに入れる。
〔訳注:旗を表す「施幟」の初字は「旌」「旗」「施」の細画を確定できず、「施」と仮に示す。〕
【宣長の注釈】「建日方別」は、「日子刺肩別命」という名の例があるので、「建日」と「方別」に分けて読むべきか。その場合、「日」は濁らせ、「方」は清音とし、「たけび・かたわけ」となる。ただし『新撰姓氏録』には「久斯比賀多命」、すなわち櫛日方命とも書く名があり、『日本書紀』崇神天皇紀は「天日方奇日方命」とする。この命は、大神君・鴨君の遠祖だ。『神名式』では、備前国邑久郡に美和神社、上道郡に大神神社があり、赤坂郡・津高郡・児島郡には、みな鴨神社がある。これらも関係するのか。それによれば、「日方(ひがた)」を一語として読む。「日方」の意味は、水垣宮の段、櫛御方命の注、巻二十三の三十丁を考え合わせるべきだ。また「ひかた」という風もある。『万葉集』巻七の二丁に、「天が曇り、ひかた風が吹くらしい……」とある。
【宣長の注釈】「小豆島」は、備前と讃岐の間の海中、讃岐寄りにある。淡路島の西、児島の東だ。『続日本紀』巻三十八には、備前国児島郡小豆島とあり、今は讃岐国寒川郡に属する。この島は、『日本書紀』応神天皇紀の御歌に見え、前の伊予之二名島の注で引いたとおりである。その時、淡路から吉備へ行幸する途中、この島で遊ばれたことも記されている。名の意味は、まだ考えつかない。漢字が意味を表す正字なのか、音を借りた字なのかも、定めがたい。
【宣長の注釈】「大野手比売」は、名の意味がまだ考えつかない。あるいは、鈴の一種である鐸のことか。「手」の下の上声を示す「上」の字は、一本では「野」の下にある。
【宣長の注釈】「大島」は、周防国大島郡か。この郡は、本土から離れた島で、今、八代島といい、上関の東、安芸の厳島の西南にある。今の道で、長さ八、九里ほど、幅五、六里ほどの島である。『万葉集』巻十五の五丁に、「大島の鳴門を通った時……」という題で、「これが、かの名高い鳴門の渦潮で、玉藻を刈るという海人の乙女たちか」と詠む。この鳴門は今もあり、大畠の瀬戸といって、周防本土と大島の間の狭い海峡である。潮が満ちる時、鳴り響く音が大変高く、船乗りの恐れる所だという。『国造本紀』の大島国造も、安芸の次、周防の前に載るので、この大島である。『後撰集』恋二の「人しれず思ふ心は大島の、なるとはなしに嘆くころかな」、恋四の「大島の、水を運びし早舟の……」も同じ所だ。前の歌は、人知れず思う心が、大島の鳴門のように鳴り響くわけでもなく、嘆いている、というのである。この『後撰集』の大島を備前とするのは誤りだ。
また、筑前国宗像郡の神湊から、今の道で三里北の海中にも大島がある。これだろうか。宗像中津宮というのは、この島で、巻七に出る。『源氏物語』玉鬘巻の、「船人も誰を恋ふとか、大島の、うら悲しげに声の聞こゆる」も、この大島である。船人も誰かを恋うのか、大島から物悲しい声が聞こえる、という歌だ。『河海抄』は、筑前国の大島で、鐘御崎の近くとし、鐘岬の西に当たる。また、肥前国松浦郡平戸の東北にも大島がある。肥前の北、壱岐島の南である。これか。このほか各国に大島は多いが、残りは違うだろうから、ここは右の三つのどれかであるはずだ。
『日本書紀』雄略天皇紀に、吉備臣田狭の子、弟君という者が、「百済が献上した、新たに渡来した技芸者を大島に集め、風待ちを口実に長くとどまった」とある。継体天皇紀にも、加羅国へ遣わした使者、物部伊勢連父根が、事情があって大島へ引き返した、とある。これらは、肥前か筑前か、二つのどちらかだろう。『日本書紀』の、越洲の次に生んだ大島も、ここと同じだろう。それを伊豆大島だというのは、西国の大島を知らない者の誤りである。『日本書紀』では、この島も大八洲の一つだ。
【宣長の注釈】「大多麻流別」は、名の意味が、まだ考えつかない。あるいは「たま」は玉で、「流」は「泥」の誤りかもしれない。『古事記』には、「泥」を「流」に誤る例がある。「ね」は尊称である。「玉留産霊」という神名はあるが、その「留」を「る」と読むのは誤りだ。
【宣長の注釈】「女島」は、本来「日女島」で、「日」が脱落したものである。『先代旧事本紀』は、初め「姫島」と挙げながら、次には「女島」とするので、『古事記』の本は、その書が引用した時から「日」が落ちていたのだろう。あるいは「日女島」は少し後の名で、もとは「女島」だったかとも思うが、そうではない。今、筑前の山鹿岬の北の海にも、肥前の五島の南の遠い海中にも、男島・女島という所があるというが、それらではない。
ここは、今の筑前の玄海島と肥前の名護屋の間の海路で、唐津から今の道で二里ほど東北にあるという姫島だろう。豊後国直入郡の東北の海にも姫島はあるが、それではなかろう。『摂津国風土記』に、「比売島松原は、昔、軽島豊明宮で天下を治めた天皇の御代、新羅国の女神が夫を逃れて来て、しばらく筑紫国の伊伎比売島に住んだ。その後、『この島は、まだ遠くない。ここにいたら、男神が追ってくる』といい、さらに移ってきて、この島にとどまった。そのため、もと住んだ所の名を取って、島の名とした」とある。これは、難波の比売碁曽社の神の昔話で、明宮の段の末、巻三十二の四丁に見えるので、考え合わせるべきだ。比売島松原は摂津国にあり、高津宮の段、巻三十五の三丁にもある。
この伊伎比売島が、あの筑前の島なのである。「伊伎」というのは、女神が新羅から来て、まず伊伎島へ着き、そこからまっすぐ、この島へ来着されたためなのか。豊後や摂津などの姫島と区別するため、このようにいったのかもしれない。名の意味は、あの女神が来て、しばらく住まれた由来だろう。豊後・摂津の姫島も、その後、次々に移り住まれたための名だろう。出雲国島根郡にも比売島があり、『風土記』に見える。
【宣長の注釈】「天一根」は、前の天一柱と、名の意味が同じだろう。「根」は、尊称の「ね」なのか。また、「島根」という語もある。
【宣長の注釈】「知訶島」は、『日本書紀』敏達・天武両天皇紀などで、「血鹿島」と書く。その注は、「肥前国である。風土記を調べると、『さらに詔して、この島は遠いが、なお近く見える。近島というべきだ、とあった。そのため値嘉島という。あるいは百余りの近島があり、あるいは八十余りの近島がある』という」とする。この詔は、どの御代にあったのか。聖武天皇紀には、松浦郡値嘉島とある。
『日本三代実録』貞観十八年三月には、参議・太宰権帥の在原朝臣行平が、次のように申請したとある。「肥前国松浦郡の庇羅・値嘉両郷を分け、改めて二郡を置き、上近・下近と名づけ、『値嘉島』という一つの行政区を置きたい。地勢は広く遠く、人口は多い。また、新たに産する物は珍しいものが多い。海中にあって、異国と隣り合い、唐・新羅から来る人も、日本から唐へ行く使者も、この島を通らない者はない。昨年、ある住民たちが、『唐人たちは、必ずまずこの島へ着き、香薬を多く採り、交易品に加える。海辺には珍しい石も多く、鍛えて銀を得たり、磨くと玉のようになったりする』などと申した」。公卿たちは、「両郷を分け、一つの『島』の行政区を設ける件は、公の利益になるなら、古い制度にこだわる必要はない。申し立てに従って改めたい。慎んで事情を記し、天皇のご裁可を仰ぐ」と奏議し、許された。今は、文章を省いて引いた。その後、どうなったのだろうか。『和名抄』には、なお松浦郡の郷名として載る。
考えると、この島は、今の五島・平戸などの島々をまとめた名だろう。ある人は、今、筑前と肥前の境の辺りから北の海中に「ちかの島」があるというが、それではない。この島は歴史書にも見え、『三代実録』の内容も大きな島らしく、場所もよく合い、『風土記』が多くの島があるとするのにも、よく合うためである。五島・平戸は、肥前国西北の海から、はるか西へ、多くの島が連なり、今も松浦郡に属する。後の「平戸」という名は、あの庇羅郷から出たのだろう。『三代実録』によれば、庇羅は、この島にある郷である。
【宣長の注釈】「天之忍男」の「忍」は、前の忍許呂別の「忍」と同じ意味だ。『延喜式』の陸奥国行方郡に、押雄神社がある。これは「忍男」の例である。
【宣長の注釈】「両児島」は、このほかには、古書に見えず、所在も詳しくわからない。『古今集』の「ほのぼのと、明石の浦の……」という歌に対する顕昭の注は、「明石の沖に、はるかに散らばる島々が見える。二子島・みなほし島・たれか島・くらかけ島・家島などが、点々としている……」とする。同じ趣旨は『袖中抄』にもある。『余材抄』は、「顕昭のいった島々は、明石よりはるか西南にある。まだあの辺りをよく見ず、推し量っていったのか」とする。今考えると、『神名式』では家島は揖保郡なので、両児島も、明石より遠く西でも、なお播磨国にはあるはずだ。だが順序を考えると、ここの両児島はそれではなく、さらに西の筑紫の辺りにあるはずだ。今、肥前国長崎の西南、祝島の近くの航路に、二子島という小島が二つ並ぶというが、それなどではなかろう。またある人は、長門国北の海中に、二生島があるという。
先の八島は、東から西へ、西から北へ、さらに東へと生み進まれたので、この六島も、東から西へ、西から北へ折れ、東へ回られるはずだ。それなら、この場所も理由がある。伊邪那美大神は、出雲と伯耆の境の比婆山に葬られたので、その辺りの国で亡くなられたらしい。それも、この巡り方に合う。なお、この島は、西方の海路を行き来する船乗りなどに尋ね、よく調べるべきだ。あるいは、『日本書紀』に「双子として生む」とあるのは、この島の名についての異なる伝えなのか。もしそうなら、この島は二つある島で、双子として生まれたため、両児と名づけたのかもしれない。
【宣長の注釈】「天両屋」の「天」は、前の一つ柱・一つ根の例によって、「あめ」と読む。「屋」の意味は、まだ考えつかない。延佳は、「小注の『天両屋島』は、『両児島』とすべきか」というが、これは大変よくない。このような箇所で、別名を使って挙げる例は、後にもある。「志那都比古神から野椎まで、合わせて四神」という所がそれだ。
【宣長の注釈】先の六島の順序は、所在の確かでないものもあるが、まず東から生みながら、西へ行かれた。海には島が大変多いのに、八島に続けて、この六島だけを挙げたのは、理由があるのだろう。また、上代に特に名高いものだけを挙げたのかもしれない。二柱の大神がお生みになった島は、必ずしも、この六つに限らないと思う。六島は、みな西国で、神代の出来事は、多くが西国にあったのである。
『日本書紀』は、大八洲のほかに別にお生みになった島を挙げず、「所々の小島は、すべて潮の泡が凝ってできたものである。また、水の泡が凝ってできたともいう」とある。この伝えによれば、大八島以外の島々は、二柱の神がお生みになったのではない。「所々の小島」は、必ずしも小さい島に限らない。大八洲の外を、すべてまとめてそういうので、中には大きいものも多い。それなら、日本に属する島々だけでなく、さまざまな外国も、大きくても小さくても、みなこの中に含めるべきだ。
【宣長の注釈】この八島・六島の別名を、その国魂の神の名だというのは誤りである。これは、ただ、その島や国を指す名だ。名に男女の区別がある理由は、まだわからない。国だけでなく、山にも男女があり、古く、大和の三山が妻を争ったことが、『播磨国風土記』や『万葉集』巻一などに見える。
【宣長の注釈】ある人が尋ねた。「二柱の大神が国土を生んだというのは、大変疑わしい。その国々の神を生んだというのか。それとも、実際には国々を巡り、整えられたことを、こういったのかもしれない。というのも、初めの天神の命令も、『この漂う国を、修め、整えて完成させよ』と任せられたので、国土を産めとはいわない。どうだろう」。答える。これを疑うのは、いつもの、生半可に賢しらな漢意で、神のなさることの不思議さ・霊妙さが、人の測り知れないものだと知らない者だから、議論するまでもない。ただし、あの天神の命令については、論じることがある。
まず黄泉の段で、男神が「いとしい妹よ、私とお前が作った国は、まだ作り終えていない」といわれるのは、すでに産んではいても、まだ立派に整え、完成させていないということである。完成させるのは、大汝神・少名毘古那神の時だ。また、初めの天神の命令は、漂う潮を固め、まず国土を産む土台、すなわち淤能碁呂島を作ることから、国土を産み出し、立派に整え終えるまでを、含めて仰せになった。「つくる」の意味は広く、産むことも、その中にある。あの男神の「作った国」が「生んだ国」と同じ意味であることから、理解すべきだ。二柱の大神が国土を整え、完成させたことは記されないので、この「作る」は、まさしく産むことである。
もし、なお「生む」も、実際は整えることだとするなら、あの御体の、できあがらない所・余った所について尋ね、交わられたことなどを、詳しく述べたのは、何のためなのか。これらは、国を整えることには、それほど関係しない。そのうえ『日本書紀』が「出産する時になり、まず淡路洲を胞とした」といい、「隠岐洲と佐度洲を、双子として生んだ」などというのも、みな人の子を産むように、お生みになったためなのだ。
【古事記本文】国を生み終えると、さらに神をお生みになった。お生みになった神の名は、大事忍男神。次に石土毘古神、次に石巣比売神、次に大戸日別神、次に天之吹男神、次に大屋毘古神、次に風木津別之忍男神をお生みになった。次に、海の神、大綿津見神をお生みになり、次に、水戸の神、速秋津日子神、次に、その妹の速秋津比売神をお生みになった。
小注は「石」を「いは」と読み、「毘古」の二字を音仮名で読むとし、以下も同様とする。「天之吹男」の「吹」には上声の印がある。「風」は「かざ」と読み、「木」は音による、と注す。大事忍男神から秋津比売神まで、合わせて十柱である。
【宣長の注釈】大事忍男神から速秋津比売神までの十柱は、後の阿波岐原の禊の段と、『日本書紀』の一書と、大祓の祝詞とを引き合わせて説明すべきである。
『日本書紀』の一書には、次のようにある。「次に、掃き払ってできた神を、泉津事解之男という……。『私とお前は、すでに国を生んだ。どうして、さらに子を求めよう』といった……。そこで橘の小門へ帰り、祓い清めた。水に入って吹くと磐土命を生み、水から出て吹くと大直日神を生んだ。また入って吹くと底土命を生み、出て吹くと大綾津日神を生んだ。また入って吹くと赤土命を生み、出て吹くと、大地と海原の諸神を生んだ」。
大祓の祝詞には、「科戸の風が、天の幾重もの雲を吹き放つように、朝の霧・夕べの霧を、朝風・夕風が吹き払うように……残る罪はないと、祓い清められる。そのことを、高い山・低い山の末から、激しく落ち、たぎる速い川の瀬においでになる瀬織津比咩という神が、大海原へ持ち出すだろう。そうして持ち出されると、荒潮の、多くに分かれる潮路の、多くが集まる所においでになる速開都比咩という神が、持ち、のみ込むだろう。そうしてのみ込まれると、気吹戸においでになる気吹戸主という神が、根の国・底の国へ吹き放つだろう。そうして吹き放たれると、根の国・底の国においでになる速佐須良比咩という神が、持ってさすらい、消し去るだろう。このように失われると、今日から、罪という罪はない……」とある。
まず、大事忍男は、あの事解之男に当たる。石土毘古・石巣比売は、上筒之男命、また磐土命に当たる。大戸日別は大直日神、天之吹男は気吹戸主、大屋毘古は大綾津日神、また大禍津日に当たる。風木津別は底筒之男命、底土命、速佐須良比咩に、大綿津見は三柱の綿津見神に、速秋津日子・速秋津比売は伊豆能売神、また赤土命に当たる。祝詞では、そのまま「速開都比咩」とある。
そうなら、この十柱は、もと禊の時に生まれる神々についての一つの伝えだったのが、入り乱れ、『古事記』では、あちらとこちらの両方に重なったのである。『日本書紀』では、『古事記』と同じ趣旨の一書にも、前の七柱が見えない。混ざり重なったことを考え、除いたのか。先に引いた一書の末の、「大地と海原の諸神を生む」も、この後の「河・海に分かれて持ち、生む神々」と「山・野に分かれて持ち、生む神々」に当たる。前者が海原、後者が大地の諸神で、その順序も一致する。
【宣長の注釈】大事忍男神が事解之男に当たるという理由を述べる。事解之男は、女神・男神が離別されることによって付けた御名である。その時の御言葉に、先に引いた「私とお前は、すでに国を生んだ……」とあり、また「伊弉諾尊の神としての仕事は、すでに終わった……」「功績はすでに十分で、徳もまた大きい」ともある。夫婦が離れられるのは、すでに大きな事業を終えたためなので、この名は、その面から「大事」とほめたたえたのだろう。したがって、二つの名は、突き詰めれば一つの意味になる。「忍男」は、いつものほめたたえる呼び名だ。「忍」の意味は、前に述べたとおりである。『万葉集』巻二十の、信濃国埴科郡の防人にも、「神人部子忍男」という名がある。
【宣長の注釈】石土毘古神・石巣比売神の二柱が、上筒之男に当たるのは、「うは」と「いは」が通じ、「づつ」と「つち」が通じるためである。『日本書紀』で、塩土老翁を塩筒とも記す。「土」を「つつ」と読んでもよさそうだが、もし「つつ」なら、『古事記』では「筒」と書くのが例である。「巣」も「つつ」に近い。『神名帳』の土左国長岡郡に、石土神社がある。顕宗天皇の御名は、袁祁之石巣別命と申し上げる。
二柱を一柱に当てるのは、『古事記』『日本書紀』を合わせて見ると、こちらで二柱のものが、あちらでは一柱である例が多いからだ。この次の速秋津日子・速秋津比売、金山毘古・金山毘売なども、『日本書紀』ではみな一柱ずつである。また、「磐筒男命、一説には磐筒男命と磐筒女命」などの例もある。名の意味は、上筒之男の注、巻六の七十丁で述べる。
【宣長の注釈】小注の「石を、いはと読む」は、「いし」とも読む字だから、そのように注したのだ。
【宣長の注釈】大戸日別神が大直毘に当たるのは、「なほ」が縮まると「の」となり、「の」と「と」は、互いに通じる音である「横通音」だからだ。「の」に通じる「と」は、多く濁らせるので、「戸」を濁音で読んでもよいかもしれない。もし「戸」を濁らせるなら、「日」は清音にすべきだ。また、「戸」は「名」などの誤字ではないか。そうなら、いっそう近い。中巻の境原宮の段に、「意富那毘」という人名もある。
【宣長の注釈】天之吹男神が気吹戸主に当たるのは、あの祝詞に、「根の国・底の国へ、吹き放つだろう」とあるためだ。『延喜式』に、山城国相楽郡の「和伎坐天乃夫支売神社」という名も見える。
【宣長の注釈】大屋毘古神が大綾津日に当たる理由は、「大綾」の「あ」を省いて「おほや」というのは、古語には普通のことだからである。継体天皇の皇女、若屋郎女を、『日本書紀』は「稚綾姫」と記す。「大綾」自体も、「おほや」と読んでよい。「津」は、いつもの助詞なので、もちろん省いてもいう。この「綾」は、災いの意味である。「あやまつ」「人をあやむる」などの「あや」、また、差し障りがあることを俗に「あやがある」といい、「わやく者」などともいう。これは災いの意味で、語も通じる。後には、紀国の大屋毘古神もおいでになる。そこの注、巻十の二十八丁・三十四丁でも、なお述べる。
【宣長の注釈】風木津別之忍男神は、読み方も、名の意味も、どうにも理解しにくい。その理由は、以下に述べる。小注の「風を加邪と読む」は、旧印本と一本では「加」が落ちている。今は延佳本と、もう一本によった。「訓木以音」、つまり、木を読むこと音による、という注は、大変わからず、誤りがあるはずだ。「以音」は、音仮名だと知らせるので、「この何字は音による」「何字は音による」などとあるものだ。今の「木を訓む、音による」は、例もなく、理屈も通らない。「木を訓む」なら、その後は「云何々」とあるはずで、この注に何らかの誤りがあることは疑いない。
そこで考えると、「以音」は「云宜」の誤りか。「宜」を「音」と誤ったため、「云」も賢しらに「以」へ変えたのだろう。別にも考えると、「加」のない本もあるので、もとは「風を詞邪と読み、木の字は音による」とあったのが、「詞邪」の二字の順が乱れたのを見て、後人が、「詞」は「訓」の誤りだとして改め、「字」は余分な字とみて削ったのかとも思う。しかし「木」を字音の仮名に用いる例は、『古事記』はもちろん、『日本書紀』などにもない。また「木」そのものが、本文ともに「本」「米」「太」などの誤字ともいえそうだが、風の音仮名に「詞」を使うのは、『古事記』の例に反する。みな「加是」とだけ書くので、この二つの考えは採りにくい。「以音」は「云古」の誤りかとも思うが、『古事記』で「木」の音仮名には「許」を使い、「古」と書くことはない。
木を「け」ということは、後の「子之一木」の箇所で詳しく述べる。「宜」を書くのは、「風木」と続く音の都合で濁るためである。音便の濁音のまま注す例は、この後の「土を、づちと読む」や、中巻の土雲の注の「づちぐもという」などにある。『延喜式』に、大和国高市郡の気都倭既神社という社がある。ただし、『新撰姓氏録』に、伊我香色乎命の子、気津別命があるので、それなどをまつるのかもしれない。いずれにせよ、「けつわけ」という語の証拠である。ひとまず、この考えに従い、「かざぎつわけ」と読んだが、なお考えるべきだ。
この神を速佐須良比咩に当てることも、確かではない。ただ、「持ってさすらい、消し去れば、罪という罪はない」とあることは、前の「科戸の風が吹き放つように、吹き払うように」と譬え、「残る罪はないと祓い……」ということと同じなので、風によってさすらい、消えてなくなる意味がある。『日本書紀』には、「私の生んだ国には、ただ朝霧が満ちこめているだけなのか」といって、吹き払った息が神となり、級長戸辺命と名づけた。これは風神である、とある。風は神の息なので、「風気」ともいえよう。「気」は漢字の音かとも思えるが、やはり日本語で、古く「火気」「湯気」などという。日本語と漢字音が、たまたま同じになる例は、「死ぬ」「剥ぐ」「茂る」「馬」「洲」「阿母」など、ほかにもある。これらは自然に似たので、「文」「銭」などとは違う。それなのに、こうした類まで、みな漢字音だと思うのは、深く考えていないのだ。
「木」は借字、「津」は助詞である。後に別に風神があるが、前に述べたように、これは別の伝えが混ざったため、重なったのである。また底筒之男に当てるのは、「そこづつ」と「かざぎつ」の語が近いためである。これは非常に遠い結びつきだが、しいていったのである。
【宣長の注釈】「海神」は「わたのかみ」と読むべきで、「うみのかみ」とも読める。師の説では、海を「わた」というのは、「渡る」という意味である。古い書物は、山では「越える」、海では「渡る」という。今補えば、『日本書紀』の斉明天皇の御歌に、「山越えて、海渡るとも」などとある。『万葉集』巻一に、「対馬の渡り、渡る中に」などと詠むことを考えよ、という。このほかの説は誤りである。
【宣長の注釈】大綿津見神の名について、師は、「綿は海、津はいつもの助詞、見は『もち』が縮まったもので、海を受け持つという意味だ。海を治める神だからである。後の『河・海により、分かれて持ち……』『山・野により、分かれて持ち……』という『持別』の語から理解すべきだ」と説く。『日本書紀』の保食神の「もち」も、考え合わせたい。『古事記』にも、久比奢母智神・佐比持神などがある。
また師はいう。「綿津海などと書くが、綿も海も音を借りた字で、字の意味はない。『わたづみ』を、ただ海そのものの意味に使うのは、この神名から転じた。だから、ごく上代には、神名のほかに『わたづみ』は見えない。海もそう呼ぶようになったのは、大津・飛鳥などの御代ごろからか。『わたつうみ』というのは、さらに後の誤りである。『延喜式』などまでも、ただ『わたつみ』とだけある。『た』を濁らせるのも誤りで、『綿』を借り、音仮名もみな清音を記す。『つ』が音便で濁るのは、山津見などと同じである」。今、補っていえば、これらの「つ」も清音で読むべきだ。音仮名に清音を使い、例も清音が多い。この説に従うべきである。
「つみ」には、もう一つの考えもあり、巻七の五十五丁・五十七丁で、なお述べる。山津見の「つみ」も同じだ。先の諸神の例によれば、この神は、後の三柱の綿津見に当たる。また、「海神を生む」という所から、改めて別に見るなら、後の三柱は分かれた神、こちらは全体をまとめる神である。大山津見があり、その後に、さまざまな山津見があるのと同じだ。
【宣長の注釈】「水戸神」の水戸は、「水門」と書いても同じで、「みなと」と読むべきだ。古く「みと」という読みもあり、今もそのような地名があるので、そう読むのも悪くない。『土佐日記』に、「阿波のみとを渡る」とある。『日本書紀』武烈天皇紀の御歌にも「瀰儺斗」とあり、『万葉集』の歌にも「みなと」は多いが、「みと」の例は見えない。「水の門」の意味で、「門」は海の出入りする戸口である。「島門」「河門」などともいう。『日本書紀』神代巻には、神が粟門と速吸名門へ行ってご覧になったとの記述があり、この二つの「門」について、別本では「〓儺斗」とするという割注がある。斉明天皇紀の御歌にも「瀰儺斗」とある。〔訳注:別本注の「〓儺斗」の初字は、彌・瀰のどちらかを判読保留とする。〕仲哀天皇紀には、「穴門から向津野大済までを東の門とし、名籠屋大済を西の門とする。速吸名門……」などとある。「な」は、「の」に通じる助詞だ。今の「速吸名門」の「名」を、神武天皇紀では「之」と書くことからわかる。このほかにも例は多い。『和名抄』は、「湊、和名は、みなと」とし、俗にも、この字を使う。
【宣長の注釈】速秋津日子神・速秋津比売神は、『日本書紀』では速秋津日命と、一柱である。「あきつひ」と「あかつち」は語が通じ、清く明るい意味だ。黄泉の穢れを速やかに祓い去り、清らかに明るいことをいう名である。『続日本紀』の宣命に、「明るく、清く、直く、誠の心で……」とある。清いことを「あかき」というのは、「赤心」など、古語に例が多い。「明津神」も、意味は少し違うが、語は同じだ。
また、あの一書では、磐土・底土・赤土と並ぶので、赤土は中筒に当たるだろう。ただし、「なか」という語も、もとは「あか」から転じたのか。あの大神は、上瀬・下瀬を避け、中瀬で禊をされたため、その所を明瀬といったのが始まりで、あらゆるものでも、上と下の間を「なか」というのかもしれない。また伊豆能売に当てるのは、「あき」を切り詰めれば「い」となり、その「いづ」が「あきづ」と同じ意味であるためだ。巻六の六十一丁の説明を合わせて見るべきである。大綿津見と後の三柱の綿津見を別に見るなら、これも別神とすべきだ。『倭姫命世記』は、伊勢の滝原宮をこの日子神、並宮をこの比売神だという。
【宣長の注釈】小注の「至」の下には、「速」の字が脱落したのか。
【古事記本文】この速秋津日子・速秋津比売の二神は、河と海に分かれて受け持ち、お生みになった神の名は、沫那芸神。次に沫那美神、次に頰那芸神、次に頰那美神、次に天之水分神、次に国之水分神、次に天之久比奢母智神、次に国之久比奢母智神である。
小注は、「那芸」「那美」を、それぞれ二字の音仮名とし、以下も同様とする。「水分」の「分」は「くまり」と読み、以下も同様。「久」から以下の五字は音仮名で、以下も同様とする。沫那芸神から国之久比奢母智神まで、合わせて八柱である。
【宣長の注釈】「二神」は、「ふたばしらのかみ」と読むべきだ。
【宣長の注釈】「河海による」とは、水戸は、河の水が海へ落ちる所の戸口、河口で、河と海の境なので、この一柱は河の側、一柱は海の側に寄っておいでになるということだ。どちらが河、どちらが海なのか。あの祝詞は、比売神が、幾重もの潮の道が集まる所においでになるといい、また後の山津見・野椎の例にもよって、ひとまず、日子神を河の側、比売神を海の側と定めるべきだ。「河海」は「かはうみ」と読む。ふだん「うみかは」といい慣れたため、「河海」と書いても、そう読むのは誤りである。ここでは河の側の比古神が先、海の側の比売神が後にあり、また、何気なく「海河」というのとも、少し違うためだ。
【宣長の注釈】「分かれて持つ」とは、同じ水戸の中を、河に寄る側と、海に寄る側に、二柱の神が分かれて受け持つことだ。「持別而生」と続くが、「持別」は、この神々の全般的なあり方をいうので、「生む」にかかるのではない。
【宣長の注釈】沫那芸神・沫那美神の「沫」は、字のとおり、水の泡である。音仮名は「阿和」で、「阿波」と書くのは誤りだ。「なぎ」と「なみ」を対にいうことは、すでに伊邪那岐・伊邪那美の御名の所で述べた。ここでは、その意味では合わないようだが、あの御名の例に倣って、ほめたたえたのかもしれない。ただし、「岐」と「芸」と違う音仮名を使うのにも、理由があるのか。『古事記』は、同音の仮名にも区別があることを、前に述べた。
そこで考えると、『日本書紀』の一書に、「国常立尊……天万尊が沫蕩尊を生み、沫蕩尊が伊弉諾尊を生んだ」とある。小注は「沫蕩」を「あわなぎ」とする。これは、大変異なる一つの伝えである。そこに「なぎ」を「蕩」と書いたのは、平らという意味を取り、水の表面が穏やかな意味だろう。『詩経』の「魯道は蕩々たり」などの「蕩」の意味である。ある人も、そのようにいった。ここで対になる「なみ」は、水面の騒ぐことをいう語で、普通にいう波という名も、それから出たのだろう。後の八千矛神の御歌に「於岐都那美會」とある。その「なみ」も、海の騒ぐ様子をいい、波が打ち寄せる意味なので、「波の寄せる磯」とでもいうようなものだ。もし「なみ」を、ふつうにいう「波」という名詞だとするなら、「寄る」などの動詞がなくては、「波、磯」だけでは言葉が足りない。
【宣長の注釈】頰那芸神・頰那美神の「頰」は借字で、読みは『和名抄』の「頰、和名は、つら」によるべきだ。『万葉集』でも「さにつらふ」など、「つら」に、この字を多く借りて書く。「つら」は「つぶら」が縮まった語である。後の猿田毘古神の段に、「海水が、つぶたつ時の名を都夫多都御魂といい、あわさく時の名を阿和佐久御魂という」とある。「つぶら」は、つまり水がつぶつぶと泡立つ音で、その様子をもいう。沫と並べるのも、その例と同じだとわかる。
『万葉集』巻十八の「梶の音の、つばらつばらに」も、櫓が水に当たって、つぶつぶと泡立つ音をいい、同じ語である。また巻二十に、「堀江漕ぐ、いづくの舟の、梶つくめ、音しば立ちぬ、水脈早みかも」とある。この「つくめ」の「く」は「ふ」の誤りで、「つぶめ」だろう。巻十八の「つばらつばらに」と合わせて理解すべきだ。つぶらつぶらと鳴るのを、「つぶめく」というのだろう。また「つぶりと沈む」と、人や物が水に落ち入ることをいうのも、つぶつぶと泡立つ様子をいったものである。丸いことを「つぶら」というのも、その形から出た。猿田の段、巻十六の一丁の語々も、引き合わせて見るべきだ。「なぎ」「なみ」は、前と同じである。
【宣長の注釈】天之水分神・国之水分神の「くまり」は、分け配る意味だ。『日本書紀』で「分」を「くまる」と読む例も、引き合わせるべきである。『神名式』には、大和国の吉野郡吉野、宇陀郡宇太、山辺郡都祁、葛上郡葛木などに、それぞれ水分神社がある。『続日本紀』の文武天皇二年四月には、吉野水分峰の神へ馬を献じ、雨を祈った、とある。『万葉集』巻七の「み吉野の、水分山」は、ここのことである。「水分においでになる」とは、水分神のいる所を、そのまま「みくまり」というのだ。「水分山」を「みづわけやま」と読むのは誤りである。祈年祭・月次祭の祝詞に、「水分においでになる皇神たちの御前に申し上げる……吉野・宇陀・都祁・葛木と、御名を申し上げ……」とある。
このほかにも、『延喜式』に、河内国石川郡の建水分神社、摂津国住吉郡の天水分豊浦命神社があり、『日本三代実録』巻二に、安芸国水分天神などとある。丹後国与謝郡の籠神社も、天水分神だという。『古今六帖』の片恋題の歌には「みこもり神」と多く詠み、『枕草子』の「神は」という項にも、みこもり神がある。これらも、「みくまり」が訛った名なのか。吉野の神も、後世には、そのようにいう。
【宣長の注釈】天之久比奢母智神・国之久比奢母智神の「くひざもち」は、「汲み、ひさご持ち」という意味である。「みひ」が縮まって「ひ」となり、「ひさご」の「ご」を省いた。その省かれた「ご」の濁音が「さ」へ移り、「ざ」となるのは、語の自然の勢いである。
その理由は、鎮火祭の祝詞に、次のようにある。「火結神をお生みになり、陰部を焼かれ、亡くなられた……。『私のいとしい夫である神〔訳注:原字は妋と仮読するが、妹との細画は判読を保留する〕の治める上の国へ、心の悪い子を生み置いて来た』と仰せになり、引き返して、さらに、水神・匏・川菜・埴山姫の四つをお生みになった。『この悪い子が荒ぶるなら、水神・匏・埴山姫・川菜をもって鎮めよ』と、事の道理を教えられた」。『日本書紀』の「天吉葛」も、この匏のことである。ただ、この神はそれだけではなく、水分神と同じく、あらゆることに水を施し、その働きを成し遂げさせる神である。一方、あの祝詞は、火神の荒ぶるのを鎮めるために生まれた、という一つの伝えなのだ。『和名抄』木器部に、「杓、和名は、ひさご。唐韻に、水をくむ道具という」「瓢の和名は、なりひさご」とある。「なりひさご」は、草のつるに実った杓という意味である。また『古宮儀式帳』に、木匏二十柄、匏二十柄とある。
【宣長の注釈】小注の「沫那芸神から……」というのは、速秋津日子・速秋津比売の二柱が生んだ神々の数を、まとめて示したのである。
【古事記本文】次に、風の神、志那都比古神をお生みになった。次に、木の神、久久能智神、次に、山の神、大山津見神、次に、野の神、鹿屋野比売神をお生みになった。その別名を、野椎神という。小注は、志那都比古・久久能智の神名を音仮名によるものとし、大山津見の「山」に上声の印を付ける。志那都比古神から野椎神まで、合わせて四柱である。
【宣長の注釈】「次に生む」は、ここから、また伊邪那岐神・伊邪那美神がお生みになるのである。「次」は水戸神の次で、久比奢母智神の次ではないことを、区別している。
風神の志那都比古神は、『日本書紀』の一書に、「伊弉諾尊が、『私の生んだ国には、ただ朝霧が満ちこめているだけなのか』といった。吹き払った息が神となり、級長戸辺命、別名、級長津彦命と名づけた。これが風神である」とある。『万葉集』巻二にも「神風に、い吹き惑はし」と詠む。『纂疏』は、「級長」は「息長」というようなものだ、とする。師の説明では、この神は大神の御息から生まれたので、志那都比古というのである。万葉の歌の「しなが鳥」は、カイツブリのことで、「息長鳥」というのと同じだ。巻二十で、「にほ鳥の、おきなが川」と続けて詠むことから理解すべきで、この歌を「沖中川」だとする説は、議論に値しない。この鳥は水底へ潜り、浮かび上がると長く息をするので、そう掛けたのだろう。
息長川は、近江国坂田郡である。天武天皇紀に「近江軍は息長横河で戦った」とあり、坂田郡であることは『諸陵式』に見える。仙覚の万葉注は、息長を坂田郡穴郷の内とし、『和名抄』にも阿那とある。巻二十の歌は河内での歌だが、近江で詠んだ古歌を、河内の宴で歌ったのだろう。また河内国石川郡の磯長も、もとは「おきなが」の省略か、と師はいう。『神名帳』の坂田郡に、日撫神社と伊夫伎神社が並んで載り、「日撫」と「志那都」は語が近い。
「科戸の風」は、この神の御名からいったもので、風一般のことだ。西北の風だとするのは後世のことなのである。また師は、龍田風神祭の祝詞では、比古神・比売神が並んでおいでになることが明らかなので、『古事記』『日本書紀』は、それぞれ一神が脱落したのだろう、といわれた。龍田においでになる風神を、天乃御柱命・国乃御柱命と申し上げる。この御名は、巻七の七丁で述べる。
【宣長の注釈】「木神」は、『日本書紀』では「木祖」とある。久久能智神の「くく」は茎である。『和名抄』木具部に、「茎の和名は、くき」とあり、字書は、草木の幹だとする。それを「くく」というのは、『万葉集』巻十四の「くくみら」、同巻の「くくたち」などの例による。「くくみら」は葱韮で、「くくたち」は、『和名抄』が「薹、くくたち、蕪菁の苗である」とするものだ。俗に、物が速く伸びる様子を「くくと」というのも、この意味である。また、「草」は、茎が多いことだ。多いことを「ふさ」という例は、あちこちに見える。後に久久年神・久久紀若室葛根神があり、それらの「くく」も同じである。考えると、「くき」は、もと「茎木」が縮まった名だろう。「ち」は男を尊ぶ呼び名で、前に述べた。
大殿祭の祝詞に、「汝、屋船命に、天の不思議な守りの言葉で、祝福し、鎮めて申し上げる……。平らかに、安らかにお守りになる神の御名を申し上げる。屋船久久遅命、屋船豊宇気姫命と、御名をたたえ申し上げて……」とある。小注は、前者を木の霊、後者を稲の霊とし、「今、産屋の戸口に「辟木」と束ねた稲を置き、また米を屋内にまく類である」とする。〔訳注:「辟木」の具体的な形状・用法は未確定。〕この祝詞でそう申すのは、御殿を造った材木の霊だからではなく、あの「辟木」と束ねた稲によって、その霊の二神をまつるのだろう。
【宣長の注釈】山神の大山津見神は、師の説では、綿津見と同じ例で、「山を持つ」、すなわち、山を治める神である。後に、さまざまな山津見があるのは、分かれて受け持つ神で、こちらは全体を受け持つ神なので、「大」とほめたたえるのか。『日本書紀』の注釈は、『神名帳』の伊豆国賀茂郡、伊豆三島神社を、大山祇神とする。
【宣長の注釈】野神の「野」を、古くは「ぬ」といったことは、前の豊雲野神の注で述べたとおりである。
【宣長の注釈】鹿屋野比売神について、今の本で「鹿」の上に「麻」があるのを、延佳が削ったのは正しい。中ごろ、誤って「鹿鹿」と重ね書きし、さらに一つを「麻」に変えたのだ。同字を誤って重ねる例は多く、「鹿」を「麻」に誤る例も、『古事記』『日本書紀』などにある。「まかや」という語自体はありそうでも、下の三字に訓を使い、「ま」一字だけ音仮名で書くはずはない。やむを得ずそうする時は、「何の字は音による」と注すのが例だ。そのうえ『日本書紀』も、ただ草野姫とし、その注釈が『古事記』を引く所にも「麻」はない。反対に、「鹿」がなく、「麻」とだけ書く一本もある。
『日本書紀』は、草の祖、草野姫とする。「かや」は、この巻の末に、鵜の羽を「葺草」とした、とあり、その「葺草」を「かや」と読むと注すのが、本来の意味である。何であれ、屋根を葺く材料の草をいう名だ。『万葉集』巻一に、「我が背子は、仮庵を作る。草がないなら、小松の下の草を刈らせよ」とある。巻四には、「板葺きの黒木の屋根の材料は、山が近いので、明日取って持って参りましょう。黒木を取り、草も刈りながら仕えていますが、働き手だと、ほめてもらおうというのではありません」とある。巻八には、「穂の垂れる薄の尾花を、逆さに葺き、黒木を使って造った家は……」とある。これらを考え合わせるべきだ。「茅」という一種類の草も、屋根を葺くのに主に使うための名である。野神の御名にこれを負わせたのは、野の中心となるものが草で、草の主な使い道が屋根葺きだったためだ。それで「草」の字を、そのまま「かや」とも読む。上代は、大御殿をはじめ、何でも草で葺いたのである。
「野椎神」は、「野を受け持つ神」だと師はいわれた。「もち」の「も」を省いたということである。『日本書紀』の天の石屋戸の段の一書に、「また山雷を使い……、野槌には野の薦を五百、玉籤を八十、採らせた」とある。神武天皇紀では、高御産巣日命がそこにおられるようにしておまつりした箇所で、火を厳香来雷、水を厳罔象女、稲を厳稲魂、薪を厳山雷、草を厳野椎と名づける。これらは、みな二柱の大神の生んだ神の名なので、山雷も山津見に当たる。これで見れば、「つみ」と「つち」は同じ意味で、「ち」は「持つ」なのだろう。
しかし、さらに考えると、あの「海つ持ち」「山つ持ち」は、「もち」を縮めて「み」としたのを、「ち」とするのも、例が違う。狭土・迦具土・御雷・足名椎・手名椎・雷などの「づち」も、みな「持つ」の意味とは聞こえない。こうした例を広く考えると、「づち」の「づ」は、いつもの助詞で、「ち」は久久能智などの「ち」と同じく、尊ぶ呼び名なのかもしれない。山雷・野椎は、「山のち」「野のち」というようなものである。
【宣長の注釈】小注の「合わせて四神」は、この前後の神々と一続きには数えない。この四柱は、伊邪那岐・伊邪那美の大神がお生みになった神であり、それ以外の神々の間に挙げてあるので、別にまとめたのだ。前の速秋津比売の下に、「合わせて十神」とあるのも同じである。「椎」の下に「神」の字が脱落したのか。どの本にもない。
【宣長の注釈】「野椎神」について、上に「何々の神、別名を何々の神という」とあると、後でその神の事を述べる時には、別名の方を挙げるのが、『古事記』の例である。
【古事記本文】この大山津見神と野椎神の二柱は、山と野を受け持ち分けて、神々を生んだ。御名は、天之狭土神、次に、国之狭土神、次に、天之狭霧神、次に、国之狭霧神、次に、天之闇戸神、次に、国之闇戸神、次に、大戸惑子神、次に、大戸惑女神である。小注は、「土」を「づち」、「惑」を「まとひ」と読み、以下も同じとする。天之狭土神から大戸惑女神まで、合わせて八柱である。
【宣長の注釈】「二神」は、「ふたばしら」と読むべきだ。前の「二神」は、直前に「神」といっていないので、「ふたばしらのかみ」と読んだが、ここでは前に「神」とあるので、そうは読まない。言葉の流れが、おのずからそうなる。
【宣長の注釈】「山野」は、ふつうは「ぬやま」と読む例だが、ここでは「やまぬ」と読むべきである。前の「河海」と同じ例だ。
【宣長の注釈】天之狭土神・国之狭土神の名は、「さ」が「しな」を縮めた語で、その「しな」は「級」、坂道のことだ。その理由は、師の『冠辞考』の「しなてる」「しなざかる」の条に詳しい。「さ」だけでいう例は、明宮の段の御歌で、丸邇坂を「わにさ」と詠んでいる。「坂」の「か」は、「ありか」「すみか」などの「か」と同じく、場所の意味なので、「しな」の場所ということだ。「づ」は、いつもの助詞、「ち」は尊称で、山づち・野づちと同じく、「坂づち」なのである。なお、『日本書紀』の天地の始めの所には、国常立尊の次に国狭槌尊、一書では国狭立尊とある。これは、伝承のあり方が、たいへん異なっている。
【宣長の注釈】小注の、「土を、づちと読む」は、この字が前にも出て、読みも同じなのに、ここで注したのは、「づ」と濁って読むことを示すためである。この神の名の「土」を、世間で誤って清音で唱えることがあるためだろう。
【宣長の注釈】天之狭霧神・国之狭霧神の名は、「さ」が狭土の「さ」と同じで、「きり」は限りの意味だから、「さぎり」は「境」と同じである。「境」は、こちらと向こうから登る坂の合う所なので、つまり坂の限りなのだ。後にも同名の神があり、巻十一、七十五丁に出る。『旧事紀』は、天地の始めに、最初に現れた神を、天譲日天狭霧国禅月国狭霧尊とするが、これは、後人が作った名と聞こえる。
【宣長の注釈】天之闇戸神・国之闇戸神の名は、「と」が場所、「くら」は谷のことである。その理由は、後の闇淤加美の注で、詳しく述べる。『延喜式』には、近江国栗太郡の佐久奈度神社がある。「くらと」と「くなど」は通じる。『神皇実録』という本では、『日本書紀』の国狭槌尊から次の五代を、中国人の説く五行に当て、水蔵戸・火蔵戸・木蔵戸などという。これらは、全体に論じるにも足りない書だが、「蔵戸」という語は、古い書にあったものを取ったのかもしれない。さて、前の水分神から次々、「天之」「国之」というのは、ただ並んでおいでになる二柱の名を、対にして称えただけで、「天」と「国」に、特別な意味の違いがあるわけではない。
【宣長の注釈】大戸惑子神・大戸惑女神の名の、「とまど」は、「とをまりどころ」、すなわち、山がたわんで低くなった所のことである。玉垣宮の段の「山たわ」が、これだ。「たわ」と「とを」が通じることは、『万葉集』などで、枝がたわむのを「とをよる」といい、「たわわ」も「とをを」もいうので分かる。その「とを」を縮めて「と」とするのは、「とを」を「ととせ」「とつか」などという例と同じだ。「まり」は「り」を省いたので、ラ行に活用する「り」を省くのは、「のりたまふ」を「のたまふ」という類が、ふつうに多い。「まり」は「み」と同じで、「きはみ」と「きはまり」、「かがみ」と「かがまり」が同じであるようなものだ。また、『万葉集』の「山の常陰」も、「とをかげ」で、山のたわんで低い所の陰をいう。後の戸山津見の注も、考え合わせてほしい。
比古・比売は、いつもの称号だが、「惑子」「惑女」と書くのは、たまたま語の来たとおりに、文字を借りただけである。「惑」の「ひ」は、古くは、そのまま「ひ」と呼んだので、比古・比売にも、この字を借りた。こうした「比布」を「伊」のように発音するのは、後世の音便で、正しくないという。〔訳注:「比布」の具体的な釈義は未確定。〕『日本書紀』に、大戸之道尊・大苫辺尊、別名、大戸摩彦尊・大戸摩姫尊とあるのも、これと同じ神の、少し異なる伝承だ。『延喜式』に、阿波国名方郡の意富門麻比売神社がある。『三代実録』巻二には、天香山大麻等野知神とも見える。
【宣長の注釈】この八柱の名の意味は、「山野を受け持ち分けて生んだ」とあることによって考えるべきだ。前の「河海を受け持ち分けて」生んだ神々の名が、みな水に関わることを、考え合わせてほしい。また、後の八柱の山津見の名も、比べてみるべきである。
別に考えると、「狭土」「狭霧」の「さ」は、多くの語の上に加わる語で、土・霧・闇・惑は、みな字の意味だとし、土から霧が起こり、その霧で暗くなり、暗いため迷うという意味で、こう名づけたのか。「戸」は場所で、俗に「どに迷う」というのがこれだ。この考えは、分かりやすく聞こえるが、そういう意味を神の御名に負わせるのも、どうだろうか。もし、そうであれば、必ず風神より前にあるはずだ。
さらに考えると、狭土の「さづ」は、海佐知毘古・山佐知毘古の「さち」と同じか。「さづ」ともいう理由は、その箇所で詳しく述べる。「ち」は、いつもの尊称で、野山の幸に関わる名なのか。闇戸は、陰のある所、戸惑は「門真門」ということなのか。しかし、それでは一つ一つの名の意味が離れ、一つの類ではなくなる。きっと、そうであるはずはない。
【宣長の注釈】古語は、意味自体は、ごく自然で、何でもないことでも、千年も後の世で解き明かすのは、たいへん難しい。あらゆる言葉は、その形も意味も、時代ごとに移り、大きく変わってしまった。その流れの末から、はるかな源をうかがう仕事だからだ。その間には、どれほどの瀬や淀みが隔たっていることか。どうして容易に理解できよう。あの狭土の「さ」を、ここで述べるように解くのも、「さか」という言葉だけに慣れた末の世の人には、ずいぶん遠く、信じられないことに思われる。古代の学問をよく学び、川の多くの曲がりをさかのぼって、源に至って見た時、初めて、もっともだと分かるだろう。ところが、代々の学者が『日本書紀』の神の名などを解いた説は、後世の心と言葉を、そのまま当てるので、今の人の耳には、何でもなく、分かりやすく聞こえるが、いざ源にさかのぼって見れば、みな誤りで、かえって事の実際からは遠いのである。
【古事記本文】次にお生みになった神の御名は、鳥之石楠船神で、別名を天鳥船という。次に、大宜都比売神を生んだ。次に、火之夜芸速男神を生んだ。別名を火之炫毘古神、また別名を火之迦具土神という。この子を生んだため、伊邪那美神は陰部を焼かれ、病んで伏してしまった。吐いたものから生まれた神の御名は、金山毘古神、次に、金山毘売神。次に、大便から生まれた神の御名は、波邇夜須毘古神、次に、波邇夜須毘売神。次に、尿から生まれた神の御名は、弥都波能売神、次に、和久産巣日神である。この神の子を、豊宇気毘売神という。こうして伊邪那美神は、火神を生んだため、ついにお亡くなりになった。天鳥船から豊宇気毘売神まで、合わせて八柱である。
伊邪那岐・伊邪那美の二柱の神が、ともにお生みになった島は十四、神は三十五柱である。これは伊邪那美神が亡くなられる前にお生みになったもので、意能碁呂島は生んだ島ではなく、蛭子と淡島も、子の数には入れない。小注は、大宜都比売の神名、夜芸・迦具、美蕃登、多具理邇、波邇夜須毘古の神名、豊宇気毘売の「宇気」以下四字を、音仮名によるものとする。また、「金」を「かな」と読み、以下も同じとする。
【宣長の注釈】「次に生む」は、野椎神の次で、ここから、また伊邪那岐・伊邪那美の神がお生みになるのである。
【宣長の注釈】鳥之石楠船神の「鳥」は、進む速さをたとえていう、と『口決』は説く。師は、水鳥の浮く姿にたとえたといわれた。どちらがよいだろう。『日本書紀』には、天鳩船という名がある。また、その注釈が『播磨国風土記』を引く所には、仁徳天皇の世に、たいへん大きな楠があり、それを伐って船を造ると、飛ぶように速かったため、速鳥と名づけた、とある。これらによれば、『口決』の解釈になるだろう。だが、『万葉集』巻十六の、「沖つ鳥、鴨という船の」とあるのを考えると、師の説も捨てがたい。
「石楠」は、『日本書紀』で、素盞鳴尊が、「韓国の島には金銀がある。私の子の治める国に浮宝がなければ、まだよくない」といい、鬚髯を抜いてまくと、杉になり、眉毛は樟になった、とある。「浮宝」は船のことだ。その用途を定め、「杉と樟、この二つの木は、浮宝にできる」といった、とある。この木は、たいへん堅く、岩にもなるものなので、「石楠」というのである。
【宣長の注釈】天鳥船の名の意味は、前の「鳥」と同じだ。『日本書紀』には、蛭児を天磐樟船に載せて流したとも、鳥磐樟船を生み、それに載せたともある。また別の段に、高橋・浮橋・天鳥船をも供え造ろうとある。この別名にも「神」といっていないことなどから見ると、船そのものを指して、神と申し上げるのか。しかし、「次に生む神の名」ということや、後に、天鳥船神を建御雷神に添えて遣わしたともあるのを考えると、神そのものとも聞こえる。行き過ぎた憶測は、取り上げるに足りない。
【宣長の注釈】大宜都比売神の「宜」の部分は、「食」を表す。「大食」と続いて濁るため、濁音の音仮名「宜」を使っている。これを「き」と読むのは誤りだ。「つ」は、いつもの助詞である。ここにいう「食」の語は、単独では「うけ」という。後の豊宇気毘売神、『日本書紀』の保食神などがそうだ。ここでは「大食」と続くため、「う」を省いた。古語では、前に言葉を置いて続ける時、字を省く例が、たいへん多い。「食」も、「おほげ」「みけ」などの時にこそ「け」というので、単独では、必ず「うけ」という。
また、「うけ」は転じて、「うか」ともいう。「かぜ」を「かざ」、「いね」を「いな」、「さけ」を「さか」というのと同じく、第四の音が第二の音に移る形だ。後の宇迦之御魂神、神武天皇紀の稲魂女などが、そうである。こうして「け」「うけ」「うか」は、みな同じ言葉で、これらの神の御名は、どれも食物の意味なのだ。「御膳」「御饌」などとも書き、食物一般をいう。『日本書紀』で、「倉稲」などと書くのは、意味を理解した書き方である。
「御食津神」は、まさに、これと同じ名だ。「津」の下に「の」を添えて唱えるのは誤りで、「何々つ」という語に、そのような例がないことを考えてほしい。「大御」とも「大」とも「御」ともいい、みな同じ意味である。神祇官においでになり、御巫のまつる八座の中の御食津神を、祈年祭の祝詞では、大御膳都神という。また、『文徳実録』巻二には、河内国の恩智大御食津彦命神・恩智大御食津姫命神がある。これは『神名帳』で、高安郡の恩智神社二座とあるものだ。
前に出た粟国の別名も、同じ意味で称えたので、一つの神ではない。後に、須佐之男命が食物を求めた神、巻九の八丁の神は、こちらと同じ神だろう。『日本書紀』の保食神は、それと同じ神で、御名の伝承が少し違うのだが、名の意味は、すでに述べたように同じである。
【宣長の注釈】火之夜芸速男神の「夜」は、「迦」の誤りだろうか。別名の「かが」「かぐ」などと、同じ類のはずだからだ。「かぎ」は、次に述べる。また、「やぎ」ならば、「焼き」の意味だろう。濁音の「芸」を書いたのは、後の「はや」の「は」を濁らせるべき、その濁りを前へ移したので、前の豊久士比泥別の所で詳しく述べたとおりだ。考え合わせてほしい。師は、濁音なので「焼き」ではなく、「かがやぎ」の「やぎ」だ、といわれた。しかし、「かがやぎ」ならば、「かが」というべきで、「かが」を省き、「やぎ」とだけいうはずはない。また、「かがやき」の「き」が濁るというのも、どうだろう。「やけ」と読む説は、古代の仮名遣いを知らない。また、『旧事紀』の「火焼速男」は、すでに仮名の清濁が乱れた時代の人が作った書で、「芸」を清音に読み、勝手に「焼」としたのだから、根拠にはできない。「速」は、いつもの称え名である。
【宣長の注釈】火之炫毘古神の「炫」は、「かが」と読むべきだ。『日本霊異記』は、「炫」を「かがやけり」と読み、字書も、「光り輝く」「火の光」「明らか」と注す。それを、『旧事紀』の「火々焼彦」によって、延佳が「焼」の字に改めたのは誤りである。『旧事紀』は信じがたく、『古事記』の諸本は、みな「炫」とする。また師は、「炫」の字を使って、「ほのてり」と読んだが、これも、どうだろうか。
【宣長の注釈】火之迦具土神の「かぐ」は、赤々と輝く意味だ。「かが」「かぎ」「かぐ」「かげ」と活用する、同じ言葉である。「かぎ」の例は、若桜宮の段の御歌で、火を「かぎろひ」とお詠みになったことだ。『万葉集』にも、「かぎり火の燃ゆる荒野」とある。「かげ」は「影」である。「土」の「づ」は、いつもの助詞、「ち」は、いつもの尊称で、この例は、前に詳しく述べた。
右の三つの名の「火之」は、みな「ひの」と読むべき例で、「ほの」と読むのは誤りだ。火を「ほ」というのは、木を「こ」というのと同じ形で、「こぬれ」「こかげ」「こだち」などのように、後に言葉を続け、「ほかげ」「ほなか」「ほぶくろ」「ほど」などという。「の」を挟む場合にも、「このは」「このめ」などと同じように、「ほのけぶり」「ほのけ」などという。しかし、ここは、その類ではなく、「ひの」といったん区切る形で、後の語へ直接続くのではないから、「ほ」と読む例ではない。こうした形以外で、ただ「火」とあるのも、「ほ」と読むのは誤りだ。「何々火」と後に付く場合も、「ひ」と読む例で、「ほ」は誤りである。これらは「木」と同じ形だ。世人は、こういう形を知らず、むやみに「ほ」といえば古語だと思っているので、詳しく区別しておく。
この神を、『日本書紀』の一書は、火産霊ともいう。鎮火祭の祝詞にも、この名がある。これを「ほのむすび」と読むのも誤りで、「何々むすび」の例には、みな「の」がないことを、広く考えて知るべきだ。古書も、どれも「之」を添えない。ただ『旧事紀』の「火之産霊」は、古語を知らず、通俗の読みに従って書いた誤りである。『神名帳』に、紀伊国名草郡の伊太祁曾神社、伊豆国田方郡の火牟須比命神社がある。また丹波国桑田郡の阿多古神社、つまり京都の西の愛宕も、この神をまつる。「あたご」は、母神を焼いたため、「仇子」という意味なのか。
【宣長の注釈】「みほと」は、御陰、陰部である。後に、「陰」を「ほと」と読む、とある。「と」は清音で、濁音に読むのはよくない。意味は、師によれば、「含む所」だという。『万葉集』の「ほほまる」「ふふごもる」と同じく、物を含むための名である。『古事記』の例を考えると、「ほと」は、みな女性にいうので、男性の陰部には使わない名なのか。武烈天皇紀の「不浄」も、女性にいう。ただし、後に迦具土神の「陰」とあるのも、そう読むなら、男性にも使うのか。明らかでない。『和名抄』は、「陰、玉茎(男性器)・玉門(女性器)などの総称」とし、和名を載せない。中巻では、「畝火山の、みほと」と、山にもいう。「小腹」(下腹部)は、「ほと」に近いのである。
【宣長の注釈】「見炙」は、「やかえ」と読むのが古語だ。「焼かれる」「あぶられる」などの受け身を、今の「る」で読むのは、古くは「え」といい、「ゆ」といった。斉明天皇紀の御歌に、「忘らえまじに」、つまり、「忘れられまい」とある。『万葉集』巻一に、「家のしのはゆ」、巻五に、「かく行けば、人にいとはえ、かく〓ば、人ににくまえ」、つまり、嫌われ、憎まれる、とある。また、「己の惜し泣かゆ」、巻七に、「衣にすらゆな」、巻十五に、「いのねらえぬ」などがあり、このほかも多い。〔訳注〕原句「可久〓婆」の〓部分は判読保留で、語形を補わずに残した。
【宣長の注釈】「病臥在」は、「やみこやせり」と読むべきだ。横たわることを「こやす」というのは古語で、聖徳太子の御歌に、「飯に飢えて、こやせる」とあり、『万葉集』巻三にも、同じ太子の歌として、「旅に、こやせる、この旅人」とある。これを「ふしたる」と読むのは誤りだ。巻五にも、「こやす、しぬれ」などがある。「こい」も、同じ語の活用で、ヤ・イ・ユ・エ・ヨが通う。ここで「在」を後に添えたのは、右の万葉の「有」などと同じく、「せり」という語に当てて書いたのである。この形は、『万葉集』に多い。
【宣長の注釈】「たぐりに」は、『日本書紀』で、「吐く」と書く。その語の意味は、髪を揚げることを、『万葉集』巻五で、「たけばぬれ、たかねば長き、妹が髪……」、また巻十三で、「放ち髪、たくらの庭に」などと詠むのと同じなのか。巻七には、「駒は、たぐとも」、巻十七には、「馬、たぎ行こ」と詠む。「たぐ」は、手綱で引き上げる意味と聞こえる。縄などを「たぐる」というのも、かき上げる意味で同じだ。「〓嗽」の「くり」も、この「くり」と同じである。俗に、吐き気を「せぐり」といい、乳児のよだれも「くる」という。また咳をすることを「せく」というが、播磨国のあたりでは、「せきをたぐる」というとのことだ。『和名抄』は、「嘔吐、へどつく、また、たまひ」、「哯吐、つたみ」とする。〔訳注:「〓嗽」の初字は判読保留。〕「つたみ」は、乳を吐くことである。
【宣長の注釈】「生神」の「生」は、次の屎尿で「成神」とある例によって、「なりませる」と読むべきだ。
【宣長の注釈】金山毘古神・金山毘売神の名は、「枯れ、悩み病む」という意味である。「惱」は、弱って病むことだ。『日本書紀』の、「悶え熱し、苦しみ悩んで、吐いた」とある意味である。「枯」というのは、中巻の末で、その兄が八年の間、しなび、病み、枯れた、とある意味で、「かしなぶ」の「か」、「かるる」など、みな「枯」である。『延喜式』には、河内国大県郡の金山孫神社・金山孫女神社、美濃国不破郡の仲山金山彦神社がある。今、南宮と申し上げるのは、これである。『文徳実録』巻二の、越前国金山彦神は、これなのか、別なのか。
【宣長の注釈】「屎」は、『和名抄』で、「糞〓也」とし、和名は「くそ」という。〔訳注:糞の次の字は、尿・屎の細画を判読保留とする。〕
【宣長の注釈】波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神の名は、「埴を粘らせる」という意味である。『字鏡』は、「捏」を、泥をこねて物を作ることで、和訓を「ねやす」とする。中国の『尚書』禹貢の、「その土は、赤い埴で、肥えている」の「埴」に、古い訓では「ねや」とある。『史記』も同じだ。『説文』は、埴を粘土とする。「ねやす」は、粘らせることで、肥やすことを「こやす」というのと同じ形である。
神武天皇紀の戊午年に、「天香山の社の中の土を取り、平瓮八十枚を造るべきだ」とあり、己未年には、「前年秋九月、ひそかに天香山の埴土を取り、平瓮八十枚を造り、みずから斎戒して、諸神をまつり、ついに天下を安定させた。それで、土を取った所を埴安と名づけた」とある。この「安」を、前の「安定」に当てるのは、古代の意味ではない。これも、粘る意味である。これで理解すべきだ。この御名を負わせたのは、大便の形が、埴をこねて粘らせたものに似ているからである。
『延喜式』には、大和国十市郡の畝尾坐健土安神社がある。畝尾は、香山の畝尾という地名だ。この社号によると、神名は、香山の地名から出たように見えるが、そうではあるまい。この前後の神には、地名を取って名づけた例がない。反対に、その地名は土安神の鎮座から出たのを、右の『日本書紀』の説は、別の伝承なのだろう。地名の由来には、異説のある例が多い。『延喜式』に「畝尾坐」とあることからも、土安は地名ではなく、もとは神名だと知るべきだ。
『日本書紀』では、この神を、土神の埴山姫とし、一書だけに埴安神とある。鎮火祭の祝詞にも、埴山姫とある。大便の形が山にも似るため、そうもいうのか。また、前の金山にならえば、埴山は、「まり病」という意味か。「は」と「ま」は通じ、尿を「ゆばり」ともいうのと同じだ。「り」と「に」も通じ、山城の苅羽井を、『延喜式』は樺井とする。「まり」は、大便を出すことで、後に出る。この解釈ならば、波邇夜須も同じ意味で、「やす」は病である。斎宮式の忌み言葉にも、「病を、やすみと称する」とある。
『延喜式』には、阿波国美馬郡の弥都波能売神社、波爾移麻比禰神社がある。もとの「弥」を「禰」に誤っている。また、中巻の堺原宮の段には、この二神と同名の男女がある。そちらは、その地名から出たのだろう。
【宣長の注釈】右の迦具土・金山・波邇夜須という名は、みな天香山にゆかりがある。まず、あの山の名は、迦具土と「かぐ」の部分が共通しており、この神の殺された身体に、さまざまな山津見神が生まれるのも、山にゆかりがある。また石屋戸の段に、「天金山の鉄を取った」とあるのを、『日本書紀』は、天香山とするので、香山と金山にもつながりがある。波邇夜須という地名が、大和の香山にあるのにも、理由がある。これらは、偶然そうなったとは思われず、いかにも、何かの理由がありそうなので、注意を促しておく。
【宣長の注釈】「尿」は、『日本書紀』に、「尾、これを、ゆまりという」とあり、『和名抄』は、「尿、小便、ゆばり」とする。「ゆ」は湯、「まり」は、「くそまり」の「まり」と同じで、出すことだ。『日本書紀』の読みの注の「磨」は、「ば」の音仮名にも使うので、『和名抄』に照らせば、「ゆばり」とも読めるが、「くそまる」と同じであることは疑いないから、「ゆまり」なのである。「ゆばり」は、少し後に変わった語だろう。『日本書紀』の「小便」を、「ゆばりまる」と読むのは誤りで、「ゆまりす」と読むべきだ。俗に、寝小便を「よつばり」というのは、夜の尿で、また馬の小便を「ばり」という。さて、右の、吐くことも、大便も、尿も、みな病んで伏しておられた間のお姿である。
【宣長の注釈】弥都波能売は、『日本書紀』に、「水神の罔象女。罔象、これを、みつはという」とあり、神武天皇紀にも、「水を厳罔象女と名づけた。罔象女、これを、みつはのめという」とある。「つ」「は」は、ともに清音の仮名で、『日本書紀』も同じである。濁音に読むのはよくない。「波能」を「能波」とする本は誤りで、今は、延佳本と、もう一本に従った。
意味は、「み」が水だろう。「つは」は、まだ思い当たらない。以前、「つは」は「つぶら」なのだろう、「ぶら」を縮めれば「ば」になり、「つぶら」の意味は、前の頰那芸神の所で述べた、といった。また、「みつ」は水、「は」は、これも「まり」の意味か、あるいは速さの意味か、『万葉集』巻十二の、「石走る、垂水の水の、はしきやし」は、「は」一音を、速さの意味に取って続けたのだ、などといったが、みな、よくない。
『日本書紀』の一書の中の、また一説に、「大木へ向かって尿をし、それが大川になった」とあるのは、一つの伝承だ。さて、土と水は、穀物が生じる基なので、まず、この神々が現れたのである。また糞尿も、土を肥やし、穀物が育つのを助けるものなのだから、ゆかりがあるではないか。
【宣長の注釈】和久産巣日神の「わく」は、『日本書紀』が、「稚」の字を書く。幼いことを、古語で「わく」という例は多い。武烈天皇紀の歌に、「しびのわくご」、鮪若子のこと、継体天皇紀の歌に、「けなのわくご」、毛野若子のこと、などがある。『万葉集』巻十四にも、「殿の、わくご」と詠む。「むすび」のことは、前の巻三、十三丁で述べた。
この神は、『日本書紀』の一書に、「軻遇突智が埴山姫をめとり、稚産霊を生んだ。この神の頭の上に蚕と桑が、へその中に五穀が生じた」とある。これは別の伝承だが、大宜都比売の事も、併せて考えるべきで、巻九の七丁に出る。豊宇気毘売神の親であることと考え合わせると、すでに土と水の神々が現れ、その次に、穀物を生じさせる産霊の神なのだ。「わく」は、ただ何となく称えたのか、穀物にゆかりがあるのか、あるいは、高御産巣日神・産巣日神に対して称えたのか。
【宣長の注釈】豊宇気毘売神の「豊」は、称え名で、「うけ」は、すでに大宜都比売の所で述べたとおりだ。『日本書紀』の、「葦原中国に、保食神がいる。保食神、これを、うけもちのかみという」とある所を、考え合わせてほしい。『私記』は、「うけは食の意味で、食物を保持する神だという」とする。また『日本書紀』の、「伊弉諾尊が飢えた時に、また子を生み、倉稲魂命と名づけた」のは、この神の、異なる伝承である。『古事記』では、須佐之男命の子に、宇迦之御魂神があり、巻十五に出る。
大殿祭の祝詞に、屋船豊宇気姫命とあり、小注は、稲の霊とする。後の登由宇気神の所も考え合わせてほしい。『神名帳』には、大和国広瀬郡の広瀬坐和加宇加売命神社がある。「うけ」と「うか」が同じことは、前に述べた。広瀬大忌祭の祝詞に、「御膳を受け持つ、若宇加能売命と、御名を申し上げ……」とある。この祝詞の文を考えてほしい。この神を、大忌神と申し上げることは、天武天皇紀に見える。『続日本紀』宝亀九年六月に、「広瀬・龍田の二社に幣帛を奉ったのは、風雨を調和させ、秋の稲の豊作を祈るためだ」とある。『神名帳』には、丹後国竹野郡の大宇加神社・奈具神社もある。伊勢の『鎮座伝記』という書は、丹後国竹野郡の奈具社に坐す、豊宇賀能売神という。
さて、前に大宜都比売神があり、またここに重ねて、この神があるのは、疑わしい。水分神などが前にあり、また弥都波能売神があるのも、同じである。上代の伝承なので、混同もあったのだろう。『日本書紀』には、その重複を嫌って省いたと見え、『古事記』にある神が、載らないことも多いのである。
【宣長の注釈】「火神」は、「ひのかみ」と読むべきだ。これも、「ほの」と読むのは誤りで、前に述べたとおりである。
【宣長の注釈】「遂に」の仮名は、「つひに」である。『古事記』の高津宮の段の歌に見える。
【宣長の注釈】「神避坐也」の「神(かむ)」は、「神集」「神祝」「神逐」「神議」などの「神」と同じで、神の御身の上の事に添える言葉である。「かむあがり」も同じだ。御魂が御身を離れることだと思うのは、誤りである。鎮火祭の祝詞に、「数多くの国々と島々をお生みになり、八百万の神々をお生みになって、いとしい末の子として火結神をお生みになり、陰部を焼かれ、お亡くなりになって……」とある。
【宣長の注釈】小注の、毘売の「毘」を「比」と書くのは誤りで、今は、ある一本に従った。
【宣長の注釈】「合わせて八神」は、数が合わないように見える。その事は、次に述べる。
【宣長の注釈】「島十四島」は、「しま、とをまり、よしま」と読むべきだ。「まり」は、「あまり」の「あ」を省いた古語である。例は、『続日本後紀』巻十五で、尾張連浜主という人が、百十三歳で、「ももちまり、とをの、おきな」、すなわち、百歳に十を加えた翁と、みずから歌ったものだ。
【宣長の注釈】「神三十五神」は、誰もが疑う数である。まず、大事忍男神から、すべて数えると、四十柱になる。その中の、速秋津日子・速秋津日売が生んだ八柱、大山津見・野椎神が生んだ八柱、豊宇気比売神の、計十七柱を除くと、二十三柱である。延佳が、この数を合わせようとして説くことは、誤りだ。まず、八島の八神、六島の六神というのが誤りで、島は島であり、神ではないから、この数へ入れるべきではない。もし強いて入れるなら、伊余二名島には四神、筑紫島にも四神の名があるので、八島と六島で二十神になる。また天鳥船から和久産巣日神まで七神というのも、違う。そこは九神なのである。
そこで、よく考え、さまざまに試しに数えてみると、全四十柱のうち、石土毘古・石巣比売を一柱、速秋津日子・速秋津比売を一柱、大戸惑子・大戸惑女を一柱、金山毘古・金山毘売を一柱、波邇夜須毘古・波邇夜須毘売を一柱として数えれば、三十五柱になった。このように、比古と比売が並んで坐すのを、一柱として数えるのには、理由があるのだろう。この比古・比売の神々が、『日本書紀』では、どれも一柱ずつだけなのも、これと関わる。
その数え方ならば、前の、「天鳥船から豊宇気毘売神まで、合わせて八神」も合うし、後の段の、「大年神の子……、合わせて十六神」も、この例で数が合う。ただし、大事忍男から速秋津比売まで「合わせて十神」、天之狭土から大戸惑女まで「合わせて八神」とするのは、この例に合わず、こちらは、比古・比売を分けて数えたのである。
【宣長の注釈】『古事記』は、数字を多く、「壹・貳・參・肆・伍・陸・漆・捌・玖・拾・佰・仟」と書く。これを「大字」という。公式令の、「帳簿、罪の科定、不正に得た財物の額の計算、通行証、抄牒などで、数のあるものは、みな大字とする」のが、それである。印本では、この「大」を「本」に誤っている。民部式にも、「諸国が官へ納めた雑物の受取文書で、その年の納入物と記すものは、みな大字で書く」とある。ふつうの「一・二・三」などは、画数が少なく、紛れやすいので、音も意味も近い字を用意し、このように書くのだ。中国からある事である。しかし、『古事記』で、それを使ったのは、どういう理由か。そうしなくても、よさそうなものを。
【宣長の注釈】「例」の字は、師が、これも「列」の誤りではないか、といわれた。
【古事記本文】そこで伊邪那岐命は、こう仰せになった。「いとしいわが妻よ。お前を、たった一人の子と引き換えにしてしまったとは」。そして、その枕元へ腹ばいで這い、足元へ腹ばいで這って、お泣きになった。その涙から生まれた神は、香山の畝尾の木本という所においでになり、御名を、泣沢女神という。こうして亡くなられた伊邪那美神を、出雲国と伯伎国の境、比婆山に葬った。小注は、「那邇」の二字を、音仮名によるものとし、以下も同じとする。
【宣長の注釈】「愛」は、「はしき」「うるはしき」とも読めるが、斉明天皇紀の御歌に、「うつくし、あがわかきこを」と、「愛しい、わが幼い子を」の意味であるのによって、「うつくしき」と読んだ。『万葉集』巻三の大伴旅人の歌の、「愛しい人」も、妻を指していう。また、孝徳天皇紀の歌にも、「うつくし、いもが」、巻二十の防人歌にも、「うつくし、ははに」などと詠む。
【宣長の注釈】「那邇妹」は、履中天皇紀に、「汝妹は……。汝妹、これを、なにもという」とある。「に」は、「い」と同じ韻を通わせていうのか。それとも、『万葉集』巻九に、「いもなね」ともあるので、「なねいも」の「ねい」を縮めて、「に」というのか。檮原宮の段には、邇芸汝命とあり、また『万葉集』巻十七には、弟を指して、「なでのみこと」ともある。
【宣長の注釈】「乎」の字は、「や」と読むべきだ。この「や」は、呼びかける語で、「よ」というようなものだ。このような所に「乎」を使う例は、『古事記』に多い。
【宣長の注釈】小注の「邇」は、今の本が、みな「爾」とするのを、本文によって改めた。
【宣長の注釈】「易子之一木乎」は、「この、ひとつけに、かへつるかも」と読むべきだ。玉垣宮の段で、「私は、すっかり欺かれてしまったのか」とあるのと、言葉の勢いが似ている。「一木」について、『私記』は、「一人の子」ということだとし、『古事記』『日本新抄』も「易子之一木乎」と読むといい、古くは「木」を「け」と呼び、今いう「神今食」を、古くは「神今木」といった、と説く。この読みは、古い伝承と聞こえる。さらに古語で、木を「け」といった例は、景行天皇紀の、御木の「木」を「け」という注があり、『万葉集』巻二十にも、真木柱を「まけばしら」、松の木を「まつのけ」と詠む。「気」は、必ず「け」の仮名である。近江の佐々木を、『和名抄』は篠笥ともする。
さて、今の言葉なら「子一人」とあるはずなのを、こう仰せになる理由は、まだ思い当たらない。『私記』は、古くは貴人を木にたとえたため、神や貴人を一柱、一木といい、賤しい人を草にたとえたため、天下の民を青人草といったのだろう、とする。しかし、この説が正しいとも思えず、なお別の意味があるはずだ。「かも」は、後世の「かな」と同じ語である。この御言は、いとしく思う妻を、この一人の子と引き換えに亡くしてしまったことを、悼み惜しんでおられるのだ。前に「詔之」とあり、また「謂」とあることは、首巻、七十一丁で詳しく述べたとおりである。
【宣長の注釈】「乃」の字は、独立した語としては読まない。「いひて」の「て」に当たっている。
【宣長の注釈】「御枕方」「御足方」は、『日本書紀』に、「頭辺、これを、まくらへという。脚辺、これを、あとへという」とある。『万葉集』巻三にも、「枕辺」という語がある。方を「へ」というのは、古くからで、「ゆくへ」や「何々べ」の類も、みな、この方角の意味だ。「前」は、目の方、「後」は、尻の方で、斉明天皇紀に、「後方羊蹄、これを、しりべしという」とある。『万葉集』巻五には、「父母は、枕の方に、妻子どもは、足の方に、囲み居て……」とあり、『古今集』には、「枕より、あとより、恋のせめ来れば」とある。「あと」は、足の所だ。
【宣長の注釈】「匍匐」は、『古事記』の中で、ただ「はふ」と読むべき所もあるが、ここは「はらばひ」と読むべきだ。『日本書紀』の読みも、そうである。『万葉集』巻十九に、「赤駒の、腹ばふ田居」とあり、『新撰字鏡』には、「匍、匍匐する、はらばひゆく」、『日本霊異記』には、「匍匐、はらはふ」などとある。
【宣長の注釈】「哭」は、「いさつ」も古語だが、ここでは「なき」と読むのがよいだろう。そこから生まれた神が、泣沢女だからである。
【宣長の注釈】「御涙」の「なみだ」は、「泣いて水が垂れる」という意味か。
【宣長の注釈】香山は、『神名式』に、大和国十市郡、天香山坐……とある。神武天皇紀は、「香山、これを、かぐやまという」とする。「ぐ」を濁らせるのは、これをはじめ、古書が、みな同じである。『伊予国風土記』は、「伊予郡の郡家から東北に天山がある。天山という理由は、大和の天加具山が、天から降る時、二つに分かれ、一方は大和国へ、もう一方はこの土地へ降ったため、天山という」とする。仙覚の万葉注では、この事が、『阿波国風土記』にあるという。『万葉集』の、「天降りつく、天の香具山」は、この意味だ。なお、この山を詠む歌は、万葉にも後世にも、たいへん多い。山の南の麓には、今、香山村という所もあり、土地の人は、山も村も、「く」を清音で呼ぶ。
【宣長の注釈】畝尾の「畝」は、『和名抄』に、和名「うね」とある。師は、この山の尾根は、西へも延び、とりわけ東へは長く延び渡っていたのだろう、今は、その形が、少し残る、といわれた。
【宣長の注釈】木本は、『神名式』に、十市郡の畝尾坐健土安神社、畝尾都多本神社がある。『日本書紀』でも、ここを香山といわず、ただ「畝丘の樹下に居る神」とある。これと、右の『神名式』を考え合わせると、畝尾も木本も、地名になっているのだ。『姓氏録』に、畝尾連という姓もあり、この所から出たのだろう。今も、「木ノ本村」という所がある。木本を、「つたもと」ともいったのか。『日本書紀』の注が、これを、どこであっても、〓畝や丘、木の下の意味だ、とするのは誤りである。〔訳注:〓は出/田の字形を確定できない箇所を示す。〕
【宣長の注釈】泣沢女神について、『万葉集』巻二に、「泣沢の神の社に、神酒を据えて祈ったけれど、わが大君は、高い天の世界をお治めになる」とある。昔、このように人の命をこの神に祈ったのは、伊邪那美神の死を悲しまれた御涙から現れた神だからだろうか。この歌は、この神の社を詠んだものと読める。その社が、前に挙げた都多本社と同じかどうかは、よく調べる必要がある。
名の意味は、後の須佐之男命の所にある「啼伊佐知(なきいさち)」と考え合わせると、「泣き・いさは・め」の意味だろうか。また雨を「さめ」ともいうのは、この「さはめ」なのか。「さは」は「さ」に縮まる。涙の落ちる姿は、雨の降るのと同じだ。『更級日記』に、「さめざめと、お泣きになるのを……」とあり、今もいう言葉である。これも涙の落ちる姿をいい、そのまま「さはめ、さはめ」なのだろう。
【宣長の注釈】出雲のことは、後の巻九、四十五丁で述べる。
【宣長の注釈】伯伎は、『和名抄』に、伯耆、ははきとある。『神名帳』には、その国の川村郡に、波々伎神社もある。名の意味は分からない。もしかすると「諱」に由来するなどの事情があるのだろうか。ある説が、この伊邪那美命の事によって、「母君の国」なのだろう、とするのは、どうだろうか。〔訳注〕原語は「若諱より」と仮に読んだ。「諱」の細かい字形と、この句での意味は未確定。
【宣長の注釈】「堺」が「坂合(さかあひ)」であることは、前に述べたとおりだ。坂合部という姓を、境部とも書く。
【宣長の注釈】比婆山の「婆」は、旧印本・延佳本や、ある一本などでは「波」とするが、今は、真福寺本と、もう一本などに従った。『旧事紀』や、『日本書紀』の注釈が引くものも、ともに「婆」とする。この「波」と「婆」は、互いに誤る例が多い。さて、この山は、今、詳しく分からず、土地の人などに、よく尋ねるべきだ。
ある説は、出雲国秋鹿郡の佐陀神社だとするが、秋鹿郡は伯耆との境ではない。『出雲風土記鈔』は、「比婆山は、おそらく能義郡母理郷の日波村の山だ」とする。また、『出雲風土記』の仁多郡には灰火山があり、郡家の東南三十里と見えるので、国境に近い。これは、火灰山ではないのか。大原郡には、比和社・日原社があるが、この郡は国境ではない。備中国賀夜郡の日羽という郷が、『和名抄』に見える。賀夜郡の位置は知らないが、備中・備後・伯伎・出雲の四国の境は連なっているので、注意を促しておく。また、『枕草子』の「山は」という中に、比波の山というのがある。これは、どの国なのか。
伯耆の人の話では、今、出雲国の内、伯耆との境に近い山間に、「たわの内」という所があり、そこに伊邪那美命の陵だという塚がある。小竹などが生い茂り、その塚の草は、牛馬も食べない。牛馬を連れて来て草を食べさせようとしても、その周りには近づかず、退いてしまう。また、そこの竹を杖にして歩くと、蛇の類は近づかず、蛇のいる所へ、その杖を立てると、すくんで動けなくなる。まことに不思議な事だ、という。なお、確かに聞きたいことだ。
これを、『日本書紀』の一書で、「紀伊国熊野の有馬村に葬った」とするのは、異なる一つの伝承である。ある人が、後に紀伊国へ改葬したのだ、などというのは誤りだ。出雲と紀伊は、はるかに離れていながら、神代には、近く通じているように聞こえる事が多い。それは、後の紀伊国の大屋毘古神の所、巻十、二十九丁で詳しく述べる。
【宣長の注釈】「葬」は、『日本書紀』で、「かくしまつる」と読む。『万葉集』巻二の、高市皇子の殯宮での人麻呂の歌には、「明日香の、真神の原に、ひさかたの、天つ御門を、かしこくも、定めたまひて、神さぶと、岩隠ります……」とある。鎮火祭の祝詞にも、まさに、この伊邪那美命の事を、「陰部を焼かれ、岩隠れなさって」とあるので、「かくす」というのも、古い呼び方だろう。「岩隠れ」というのも、石の棺室の内に葬り申し上げる事による呼び名だ。
また、崇峻天皇紀には、「おく」と読む所がある。『古事記』中巻の倭建命の段では、弟橘比売が海に入られた後、御櫛が岸へ漂着したのを取り、御陵を造って納め置いた、とある。神代紀の「おきつすたへ」や、『万葉集』で、墓を「おくつき」と数多く詠むことなどを考えると、「おきまつる」と読むのも古語なのか。しかし、崇峻紀の例も普通の人についてのことであり、また、この中巻の例も、棺に置くことをいっているのかという疑いがある。また、「おきつすたへ」「おくつき」などは意味が別なので、なお、『日本書紀』の一般の読みに従う。
また、「はふる」も古語である。「はうむる」というのは、八日を「やうか」、賜るを「たうぶ」などというのと同じ音便だ。しかし、これは、死者を送り出す事をいう呼び名で、日代宮の段の、「天皇の大御葬」などの「葬」は、そう読むべきである。詳しくは、その所、巻二十九、二十二丁で述べる。ここは、葬り納めた場所についていうので、「はふる」とは事が違う。似ていても、差があるのだ。それを後世には、ただ「葬」の字だけを頼りに、混同しきってしまった。字の意味ばかり考えていては、古語に合わないのは、このような類である。
【古事記本文】そこで、伊邪那岐命は、御佩きの十拳剣を抜き、その子、迦具土神の首を斬った。その刀の切っ先に付いた血が、ほとばしって、数多くの岩の群れに付いて、生まれた神の御名は、石拆神、次に、根拆神、次に、石筒之男神の三柱である。次に、刀の根もとの血が、また、数多くの岩の群れにほとばしり付き、生まれた神の御名は、甕速日神、次に、樋速日神、次に、建御雷之男神、別名、建布都神、また別名、豊布都神の三柱である。次に、刀の柄に集まった血が、指の間から漏れ出て生まれた神の御名は、闇淤加美神、次に、闇御津羽神である。右の石拆神から闇御津羽神までの、合わせて八柱は、御刀によって生まれた神々である。小注は、「布都」の二字と、「淤」以下の三字を音仮名によるものとし、以下も同じとする。
【宣長の注釈】「所御佩」は、「みはかせる」と読むべきだ。明宮の段に、「はかせる、たち」と詠む。「立つ」を「立たせる」という類で、「はける」を延ばした語だが、自然に、尊ぶ言葉と聞こえる。前の、天浮橋に立つ所で、詳しく述べた。また、このように、動きをいう語にも「御」を付けるのは、古く、『古事記』の「御寝坐」、『万葉集』の「御立す」など、ほかにも多い。
【宣長の注釈】「十拳剣」は、「とつかつるぎ」と読むべきで、「の」を加えてはいけない。「剣」を「たち」と読む例も多いが、ここは、やはり「つるぎ」なのだろう。「拳」は、一握り、指四本を並べた長さをいう。後には「掬」とも書き、『日本書紀』は、「握」と書く。上代は、手で握り、何握りと、物の長さを測った。今も、そのやり方が残る。「束ねる」も、手で物を握り集めることだ。
十拳は、刀身の長さをいう。『纂疏』が、柄の長さだとするのは、「つか」という語につられて誤ったのである。柄を「つか」というのは、握る場所だからだ。『日本書紀』には、九握剣・八握剣もある。こちらは同じ事でも、「の」を加えて読むべきだ。十拳は、剣のおおよその通常の長さだったと見え、ただ「剣」でよさそうな所に、みな「十拳剣」とあるので、「の」といってはならない。剣のことは、後の都牟刈大刀の所、巻九、三十五丁で述べる。
【宣長の注釈】「頸」は、「くび」と読むべきだ。『和名抄』は、「頸、くび、頭の茎である」とする。『後の世継』には、「うなじのくぼに」とあり、俗にも、「ほむのくぼ」という。「くび」は、「くぼみ」で、「ぼみ」を縮めれば「び」になる。頸から斬った頭を「くび」というのは、少し違っている。
【宣長の注釈】「御刀」は、景行天皇紀に、「御刀、これを、みはかしという」とある。「はかし」は、「佩く」を延ばした言葉だ。「御佩きになる剣」という動きをいう語を、物をいう語にして、その物の名にするのは、「お取りになる弓」を「御執」というのと同じだ。この形は、古くも今も、さまざまな物の名に多い。
【宣長の注釈】「前」は、『日本書紀』に、「鋒」と書く、それである。
【宣長の注釈】「血」は、「ち」と読むべきだ。「あせ」と読むのは誤りである。血を「あせ」というのは、斎宮の忌み言葉で、ふつうに、そう読む理由はない。
【宣長の注釈】湯津石村は、『日本書紀』では、五百箇磐石と書く。師の説では、「いほ」を縮めて「ゆ」という。私がいうには、「いほ」を縮めれば「よ」だが、「ゆ」とは、特に近く通じる音で、「自」を古語で「ゆ」とも「よ」ともいうような類だ。湯津桂・湯津爪櫛なども、枝が多く、歯が繁いことをいい、「むら」は、群れの意味だ、と師はいう。『万葉集』巻一に、「川上の、ゆつ岩群」とあり、祝詞にも、「数多い岩の群れのように、行く手をふさいで鎮座する」という語が多い。
【宣長の注釈】「走」は、師が「たばしり」と読んだのがよい。『万葉集』巻十に、「我が袖に、霰たばしる」、巻二十に、「霜の上に、霰たばしり」などがある。俗に、「とばしり」というのも、「たばしり」が訛ったのだ。
【宣長の注釈】石拆神・根拆神は、『日本書紀』に、「磐裂、これを、いはさくという」とある。その意味は、『延喜式』の祝詞の、「岩根、木の根を、踏み、さくみて」、『万葉集』巻二の、「岩根、さくみて、なづみ来し」、巻六の、「幾重もの山を、行き、さくみ」、巻二十の、「波の間を、行き、さぐくみ」などを、ある説は、人の顔の凹凸を「しゃくみづら」というのと同じく、岩の凹凸のある上を通って行くことだとする。「馬ざくり」というのも、能の面に「さくみ」というのがあるのも、同じ語だという。この解釈がよいだろう。『源氏物語』で、子供のこざかしいのを「さくじり、およすけたる」とするのも、平穏でないという意味で同じである。一方、岩根までも踏み裂いて進むことだという別説は、よくない。この神の名は、「石根拆」という言葉を二つに分けて二柱に名づけたものなので、「根」も岩根の意味である。
【宣長の注釈】石筒之男神の「筒」は、借りた字で、「つち」に通じる。前の石土毘古の所で述べた。「つ」は、いつもの「の」に通じる語、「ち」は、男性の尊称であることを、前の久久能智・野椎神の所で述べた。次の、建御雷之男というのと、同じような名である。
【宣長の注釈】「御刀の本」は、『日本書紀』では、「剣鐔」とある。『和名抄』は、『唐韻』を引き、「鐔は、剣の鼻で、和名は、つみは」とする。今、「つば」という物で、それは刀身の根もとにあるので、同じことだ。
【宣長の注釈】甕速日神は、「みかはやび」と読むべきだ。「か」の下に「の」を添えて唱えるのが誤りであることは、巻七、五十三丁の勝速日命の所で詳しく述べる。「び」を濁らせる理由も、そこで述べるのを待ってほしい。「甕」は、借りた字で、この字の意味に即して説くのは誤りだ。「何々はやび」は、みな、動きをいう語から続く例である。「みか」の意味は、次に詳しくいい、「はやび」の意味は、勝速日命の注で述べる。
【宣長の注釈】樋速日神も、「ひはやび」と読むべきだ。『日本書紀』が、どこも「熯速日」と書くのに、ただ一か所、「熯之」とするのは、後世の誤った読みに耳慣れた人が、うっかり「之」を加えたのか。神代巻の神名の文字は、どこでも同じように書き、場所によって違うことは、ほとんどないからだ。なお、『姓氏録』で、この神の名が二か所に出るものは、ともに「之」があるのが疑わしい。
「樋」は、いつもの借字で、『日本書紀』では「熯」とする。『玉篇』の、「火が盛んで、乾く」の意味である。『易』説卦にも、「万物を乾かすものは、火に勝るものがない」とある。『日本書紀』の、「熯は、乾く」という注は、後人のしたことで、「火である」とする注も、「ひ」と読むことから誤解して書き入れたものだ。前後の注が重複するばかりか、意味さえ互いに反するのは、もとの注でないことが明らかだ。「火」と書かず、「樋」を借りたのは、乾く意味だからである。『出雲風土記』の樋速日子命は、この神だろう。その理由は、巻九の十五丁・三十七丁で述べたので、考え合わせてほしい。
【宣長の注釈】建御雷之男神の「みかづち」を、『日本書紀』は、「甕槌」と書く。どちらも借字で、「みか」は「いか」に通じる語だ。その「いか」は、舒明天皇紀の「いかしほこ」、皇極天皇紀の「いかしひ」、祝詞の「いかし御世」、また「いかめし」「いかし」などの「いか」である。『源氏物語』葵巻の、「たけく、いかき、ひたぶる心いできて」、手習巻の、「いかきさまを人に見せむと思ひて」なども、そうだ。
「みか」と通じる例は、遷却崇神の祝詞で、この神を「健雷命」という。「みかづち」と「いかづち」が通じるためである。厳しいことを「みか」という例は、仁徳天皇紀の歌の、「みかしほの、はりま、はやまち……」で、「みかしほ」は、激しい潮の速い、という意味で続く。「三日潮」だとする説は誤りだ。『日本書紀』の甕星も、激しいことをいう。悪神とし、まず誅すというので、その激しさが分かる。甕速日をはじめ、神や人の名で「甕」というのは、みな、この意味だと知るべきである。「つち」は、前の野椎神の注で述べたとおりで、「雷」の字に即して意味を考えるのは誤りだ。
【宣長の注釈】建布都神・豊布都神の、「ふつ」のことは、白檮原宮の段、巻十八、五十一丁で述べる。『延喜式』には、阿波国阿波郡の建布都神社がある。
【宣長の注釈】この段は、『日本書紀』に、異なる伝承がある。一書には、「剣の刃から垂れた血が、天安河の岸の五百の磐石となった。これが、経津主神の祖先である」とあり、また甕速日神が、武甕槌神の祖先だと見える。別の一書には、磐裂神、次に根裂神、その子に磐筒男神・磐筒女神、その子が経津主神とある。神代下巻の本書にも、磐裂・根裂の子、磐筒男・磐筒女の生んだ子が、経津主神とある。また神代下巻の本書には、甕速日神の子が熯速日神、その子が武甕槌神などと見える。
これらは、少しずつ異なっても、おおむね同じだが、経津主と武甕槌を別神とするのは、たいへん違う伝承である。後に高天原から、この国を平定するため降された所でも、『日本書紀』は、経津主・武甕槌の二柱をいう。遷却崇神の詞も同じである。『古事記』は、その所も建御雷一柱だけで、別に経津主という神はない。ここに、建御雷の別名を、建布都・豊布都とするので、経津主も、この神の別名なのが明らかだ。
さらに、その証拠をいえば、神武天皇紀の高倉下の夢で、天照大神が武甕雷神へ仰せになり、武甕雷神が高倉下に、「私の剣は、ふつのみたまという」といった、とある。もし、神代巻のように、武甕雷と経津主が別神なら、この夢にも、二柱とも現れるはずなのに、そうではない。しかも剣の名が「ふつのみたま」なら、必ず経津主の剣であるはずなので、その神こそ夢に現れるべきだ。それなのに、武甕雷が、自分の剣だと授けたのは、この神が、そのまま経津主だからではないか。こうすると、『日本書紀』は、神代巻と神武巻が合わず、神武巻は『古事記』と合う。経津主という名は、この刀から出たのである。『旧事紀』にも、この剣を、布津主神の魂の刀という。あれは信じるに足りない書だが、この名に根拠があるなら、採るべきだ。
また、出雲国造の神賀詞では、天夷鳥命に布津怒志命を添え、天から降し遣わした、とあり、建御雷が見えないのも、一つの神だからだろう。『古語拾遺』は、『日本書紀』と同じく別神とし、経津主は、今の下総国の香取神、武甕槌は、今の常陸国の鹿島神という。これは、『日本書紀』の、「斎主神は、今、東国の檝取の地にいる」によるのだろうが、根拠があるのか。斎主という神を、経津主とも武甕槌とも明記しないので、推測で経津主とは決めがたい。それを決めるのは、根拠があるのか、よく考えずに、ふと決めたのか、心もとない。『続日本後紀』巻五や春日祭の祝詞も、鹿島を建御賀豆智命、香取を伊波比主命とするだけで、経津主とはいわない。たとえ経津主とあっても、建御雷の別名とする妨げはない。
宝亀八年に、二宮へ神位を授けた時、鹿島は正三位、香取は正四位上だった。これは、もと一つの神の、鹿島には全体の御霊をまつり、御名も建御雷命と伝えたため、位が高く、香取には、別に、斎主としての御霊をまつり、御名も伊波比主命と伝えたため、位も、やや下がるのだろう。もし別神なら、『日本書紀』では、経津主が大将軍、武甕槌が副将軍のようなので、あの神位の上下に合わないではないか。
【宣長の注釈】「手上」は、「たかみ」と読むべきだ。『日本書紀』では、「剣頭」と書き、今いう柄のことである。神武天皇紀の「撫剣」に添えた古訓にも、「多伽彌(たかみ)」の語が見える。また「剣柄」と書き、「たかひ」と読む所もあるのは、「み」を、後に「ひ」と呼ぶようになったのだ。
『風土記』には、「日向国宮崎郡の高日村は、昔、天から降った神が、御剣の柄を地に置いたので、剣柄村と名づけ、後人が、高日村と改めた」とある。これは、もと「たかみ村」を、後に「たかひ」と変えたというのか。それとも、もとから「たかひ」といいながら、剣の柄の意味だったのを、「高日」と改めたというのか。『万葉集』巻九の、「焼太刀の、手預……」の「預」についても、ある一本に「頴」とあるのによれば借字であるが、師は「頭」の誤りとして「たかみ」と読まれた。〔訳注〕神武紀の古訓は「都盧耶能多伽彌〓利辭魔履」と転写した。「多伽彌」の直後の字は未確定であり、句全体を既知の読みから補わない。
【宣長の注釈】「集まる」について、前に、刀の切っ先と根もとでは、「血が付く」といったのに、ここで言葉を変え、「集まる」としたのは、切っ先と根もとは、直接、血の付く所なのに対し、柄には、その血が伝い流れて来て、手にせき止められて集まるからだ。「あつまる」という語には、滞る意味が含まれる。「あつむる」を「つむる」ともいい、俗に物が滞るのを、「つまる」というのも通じる。なお、「つまる」の意味は、巻十一の五十四丁で述べることも、考え合わせてほしい。
【宣長の注釈】「著御刀前之血」「著御刀本血」「集御刀之手上血」のように、「之」の置く所を変え、また省略もして、書き方を変えるのは、『古事記』で、よくあることである。
【宣長の注釈】「手俣」は、師の「たなまた」という読みに従うべきだ。「な」は「の」と同じで、前に「み」を添えるのは、「御」の意味である。もとの本は、「たのまた」と読み、『日本書紀』にも、「指間」を「たままた」と読む所があるが、どうだろう。「たなごころ」「たなうら」「たなすえ」などと同じ例だ。
『古事記』の「俣」を、延佳本が、すべて「股」とするのは、理屈を立てて改めたのである。「俣」は字書に見えなくても、日本の古書では広く使い、今も、地名などでは、この字だけを書き継いでいる。改めるべきではない。このほかにも、中国にはない字や、字はあっても、その字本来でない意味に使うものなど、古書には、こういう類が、たいへん多い。
【宣長の注釈】「漏」は、後にも、大穴牟遅神の事を、「木の股からくぐり抜けて逃げ去った」といい、少名毘古那神について、親神が、「私の手の股からくぐり抜けた子である」と仰せになる。『万葉集』巻十二には、「もずの草ぐき(草をくぐること)」、巻十七には、「ほととぎすが、木々の間を立ちくぐり」、また、「春の野の茂みを飛びくぐる、鶯……」などがある。「くぐる」は、この「くく」を延ばした語なので、「くき」は、「くぐり」ということだ。それなら「き」を濁らせてもよさそうだが、この字は清音で、万葉でも、清音の字だけを書いている。
【宣長の注釈】闇淤加美神の「くら」は、谷のことで、「闇」は借字だ。大祓の詞の、「高山、短山の末より、さくなだりに、落ちたぎつ、速川の……」は、谷川の水が落ちて来る様子である。「さ」は「ま」に通じ、「くな」は「くら」に通じて、谷のことだ。『延喜式』の、近江国栗太郡の佐久奈度神と、前の闇戸神を、引き合わせて考えるべきである。「たり」は、水が少なくても、多くても落ちることをいう。このことは、師の『冠辞考』の、「石走る、垂水」の注に詳しい。「谷」という名も、もとは、この「たり」が転じたのだろう。『万葉集』巻十七の、「鶯の鳴く、くら谷」も、あの「くなだり」と通じ、ただ谷のことで、地名ではない。諸国に、「何々くら」という地名が多いのも、谷から出たのだろう。膝の裏の「くら」も、人の身体では、谷のような所だからの名だ。
「おか」の意味は、まだ思い当たらない。「み」は、竜や蛇の類の呼び名で、『和名抄』が、水神や蛟の和名を「みづち」とする、その「み」である。「づ」は、いつもの「の」に通じる語、「ち」は尊称で、野椎などと同じ例だ。「蛇」の呼び名にある「み」も、これと同じであり、日の干支の「巳」を「み」と読むのも、この意味だろう。
『日本書紀』では、この神を「龗」と書き、「おかみ」と読む。「龗」は、字書で竜と注し、「霊」の字とも通じる。『神名帳』には、意加美神社が、あちこちに見える。『豊後国風土記』は、球珠郡球覃郷の泉について、景行天皇が行幸した時、膳を奉る人が、御飯を炊こうと水を汲ませると、蛇のような龗がいた。天皇が、「きっと鬼がいる。汲んで使わせるな」と仰せになったため、名を鬼泉とし、それが今、球覃郷というのは、訛りだと記す。『万葉集』巻二には、「わが岡のおかみにいって、降らせた雪の砕けたものが、そちらへ散ったのでしょう」と詠む。これらを考えると、この神は竜で、雨を起こす神だ。『日本書紀』には、高龗ともある。この『風土記』の文を、『日本書紀』の注釈が引く所は誤字が多いので、今は、仙覚の万葉注が引くものによった。「高龗」は山の上の竜神、闇淤加美は、谷の竜神である。この神が、指の股から漏れた血から現れたことと、後の闇山津見が、陰部に現れたことを考えるべきだ。指の股も陰部も、山でいえば谷のような所である。〔訳注〕原文は「又蛇蛇などの美」と、「蛇」を二つ並べて異なる振り仮名を添えるが、その読みの細かな字形は未確定。
【宣長の注釈】闇御津羽神の「くら」は、前と同じ意味である。「みつは」は、前の弥都波能売と同じく、これは、谷の水の神だ。
【宣長の注釈】小注の「以下も、これにならう」は、この巻の末にも、二か所、この神の名が出ることをいう。
【宣長の注釈】右の八柱は、全体として「御刀によって生まれた」といっても、分ければ、石拆・根拆・石筒の三柱は、岩の群れにより、甕速日・樋速日の二柱は、火神の火による。ただし、この二柱も岩の群れに関わり、石から火が出るのは、このためだ。建御雷は、御刀による。後に、伊都之尾羽張神の子とあるのを考えるべきで、この神も岩に関わる。原注は、刀が砥石によって「利き能〓」となることにたとえている。闇淤加美・闇御津羽の二柱は、血により、血から現れたので、雨と水の神である。前の六柱は、みな岩の群れに関わるが、この二柱は、そうではないので、「岩に付いた」といわない。
剣は、火で焼き、石へ水を注ぎながら研いで、役に立つものだ。それで、火・石・血に関わる七柱の神は、みな建御雷の徳を助け完成させるのである。この八柱のうち、建御雷神が、後に、特に功績を立てられるのだ。〔訳注〕「利き能〓」の後半の字形と語形は未確定のため、原語を仮に残した。
【古事記本文】殺された迦具土神の、頭から現れた神の御名は、正鹿山津見神、次に、胸から現れた神は、淤縢山津見神、次に、腹から現れた神は、奥山津見神、次に、陰部から現れた神は、闇山津見神、次に、左手から現れた神は、志芸山津見神、次に、右手から現れた神は、羽山津見神、次に、左足から現れた神は、原山津見神、次に、右足から現れた神は、戸山津見神である。正鹿山津見神から戸山津見神まで、合わせて八柱である。そして、斬った刀の名を、天之尾羽張、別名を、伊都之尾羽張という。小注は、「淤縢」・「志藝」・「伊都」を音仮名によるものとし、正鹿山津見・奥山津見の「山」に、上声の印を付ける。
【宣長の注釈】「所殺」は、「ころさえましし」と読むべきだ。「さえ」は、「され」の古語で、前に述べた。
【宣長の注釈】「頭」は、「みかしら」と読むべきだ。『和名抄』には、「首=かうべ。頭も同じ読み、別の読みはかしら」とある。さらに、頭蓋骨をいう「顱=かしらのかわら」「髑髏=ひとかしら」などもあり、「かしら」が本来の名なのである。
「みくし」という読みは、貴人の頭を、後世にも「かしら」とはいわず、そういうようだが、「くし」は、もとは髪のことなのか。「くしけづる」も、髪を梳くことであり、梳く道具なので、「櫛」も「くし」というのか。「くしけづる」というはずなのを省略するのは、たとえば、料理人が使う刀なので「庖丁刀」なのに、略して「庖丁」とだけいい、田子(田で働く人)が持つ桶なので「田子桶」なのに、俗に「田子」とだけいうのと同じだ。髪のある所なので、頭も「みくし」といったのか。「かうべ」も、髪の方という意味である。
しかし、「櫛」の名は、たいへん古いので、こちらを基にして、櫛を差す場所だから、髪も頭も、そういうのだろう。いずれにしても、頭を「みくし」というのは、古語ではあるまい。
【宣長の注釈】「まさか」は、『口決』で、「真坂」だとする。『万葉集』には、「まさか」という語が多いが、それは、先の事などに対し、今、目の前の事をいうので、別である。俗に、「まさかの時」というのは、そちらから転じたのだ。
【宣長の注釈】「むね」は、身の根の意味か。「身」を、古語では「む」ということが多い。
【宣長の注釈】「淤縢」は、下る所の意味だろうか。今も、下る所を、「おりど」という。このように活用する、ラ・リ・ル・レを、省く例は多い。師は、この神の名を引き、大祓の詞の「短山」を、「淤登山」の訓を当てるべきだといわれたが、どうだろう。『続日本紀』巻十八には、出雲臣弟山という人の名も見える。
【宣長の注釈】「はら」は、広い意味で、原・平なども、同じ意味である。
【宣長の注釈】奥山は、聞こえるとおりの意味である。
【宣長の注釈】「陰」は、「みほと」と読むべきだ。
【宣長の注釈】「くら」は、前に述べたように、谷である。
【宣長の注釈】「て」は、取るという意味だ。「とり」を縮めれば「ち」だが、第二の音、つまりイ段の音に縮まる語は、第四のエ段へ移る例が多い。
【宣長の注釈】「しぎ山」は、師の説では、木の繁る山という意味だ。『日本書紀』に書かれた「〓」の字は借字である。また、直接、「しげ山」ということでもあるだろう。この巻の末には、敷山主という神もある。〔訳注〕『日本書紀』の神名に用いる一字は未確定。候補の「離」は版面の字形と合わないため、ここでは採らない。
【宣長の注釈】羽山は、『日本書紀』に、「麓山祇」と書き、「麓」の訓を「簸那磨」と記す。端の山という説がよい。また、葉山でもあるだろう。「青葉の山」ということもある。源重之の歌に、「筑波山、はやま、しげ山、繁けれど、思ひ入るには、さはらざりけり」、つまり、筑波山の端山も茂山も、木々が茂っていても、思いを深く寄せるのには妨げにならなかった、とある。『新古今集』恋一に入る。「はやま」「しげ山」と並べるのは、この神名から出て、古いことなのだろう。後に、羽山戸神という神もある。
【宣長の注釈】原山は、字のとおりなのだろう。
【宣長の注釈】戸山は、師が、門の山の意味で、「とやま」であり、「へやま」と読むのは誤りだ、といわれた。今考えると、奥山に対して、外山の意味なのか。また、たわんで低い山なのか。その理由は、前の大戸惑子神の所で述べた。何にしても、後の歌に、外山と詠むのは、これである。
【宣長の注釈】八神について、この段は、『日本書紀』では、三つに斬り、それぞれ神になったとも、五つに斬り、五つの山祇になったともあって、『古事記』と、少し違う。
【宣長の注釈】「所斬之刀」は、そのまま、迦具土をお斬りになった御刀である。
【宣長の注釈】天之尾羽張・伊都之尾羽張という名の意味は、後に出る、その所、巻十四、二丁で述べる。
追加の考証
女島(姫島)
【宣長の追記】筑前国のある人から、次のような知らせが届いた。肥前の唐津の東北の海にあるという姫島は、筑前国志摩郡に属し、福岡から西北へ、十里ほどの所にあります。島の広さは、南北十二町余り、東西八町余りです。姫大明神という社があり、その所を宮山といいます。この社があるため、姫島というのだと伝えます。民家も三十戸余りあります。この島の女性は、昔から出産に難がなく、神のお守りだと伝えます。この姫大明神は、比売碁曾社の神なのだろうと思われる。
両児島
【宣長の追記】同じ人が、こう知らせてきた。「今、筑前国遠賀郡の北の海に、島郷という所があり、東西五里、南北一里の島で、二十村あります。その内に二島村があり、そこに小島が二つあるため、二島村というのです。この二つの小島は、どちらも周囲九十間で、岸が険しく、どこからも登りにくく、矢箟竹(矢の軸にする竹)が多く生え、大きな蛇がすんでいます。長門国の北の海に、二生島があるというのは、これを誤ったのでしょう。この島は、海上から見ると、長門に属すように見えますが、長門の島ではありません。二生という名も違い、二子島というのです」。両児島は、これなのか。しかし、なお、決めがたい。
比婆山
【宣長の追記】比婆山について、沢真風が、寛政六年四月、杵築大社へ詣でる途中、詳しく尋ねて来て、次のように語った。「出雲国能義郡にあり、同郡の母理から、一里余り西南の方です。伯耆国との境からも遠くありません。高い山で、北の海などを、よく見渡せます。山頂の、やや平らな所に、直径四、五丈ほどと見える、塚のような小高い所があり、石の垣を巡らせています。これが、伊邪那美命の御陵だといいます。前には拝殿もあり、近くの村々から、常に多くの人が詣でます。
御塚には、松も何本も生え、小竹が隙間なく、高く茂っています。このあたりは、近村から多くの牛を放牧する所ですが、この塚の篠を、牛は少しも食べません。また、「蚖蛇」という蛇が、これをひどく恐れることなどは、本書の注釈に記されたとおりです。参詣した人は、この蛇を防ぐために、この篠をいただいて持ち帰るそうです。『たわの内』は、山麓の村名で、『峠内』と書きます。この国では、いわゆる峠を、みな『たわ』といいます。また、『風土記鈔』の日波村も、この山の麓で、私は今回、その村から登りました」。
また、内山真龍がいうには、『出雲風土記』仁多郡に、「備後国恵宗郡との境に、比布山……」とある。比布山は、比羽山で、備後に属するのか。これは、御坂山の端にある山なのだろう。御坂山の南は、恵宗郡湯川で、そこに比羽村がある。上代には、御坂山を、比波山といったのだろう。『風土記』は、御坂山に「神の御門がある」というので、並々の山ではない。国境は、古今で変わるので、上代には、このあたりも伯耆との境だったのだろう、という。これも、なお、よく尋ね、考えるべき所である。
巻六 神代四(黄泉国) 本居宣長、謹んで著す
【古事記本文】そこで、妻の伊邪那美命にお会いになりたいと思い、黄泉国まで、追っておいでになった。伊邪那美命が、殿の戸から出迎えた時、伊邪那岐命は、お語りになった。「いとしい、わが妻よ。私と、あなたで造った国は、まだ造り終えていない。だから、帰って来ておくれ」。
伊邪那美命は、お答えになった。「残念なこと。早く来てくださらなかった。私は、黄泉のかまどのものを、食べてしまいました。でも、いとしい、わが夫よ。ここまでおいでくださったのは、恐れ多いことですから、帰りたいと思うのですが、まず黄泉の神と詳しく相談します。私を見ないでください」。こう申し上げ、殿内へ戻って入ったが、たいそう長く、待ちきれなくなった。
そこで、左に結った髪(みづら)に挿していた湯津津間櫛の「男柱」(端の太い歯)を一つ折り取って、火をともし、入って見た。その時、蛆が群がり、とろけていた。頭には大雷、胸には火雷、腹には黒雷、陰部には拆雷、左手には若雷、右手には土雷、左足には鳴雷、右足には伏雷、合わせて八柱の雷神が、生まれていた。小注は、那勢の二字、美豆良の三字、宇士多加禮斗呂呂岐弖の十字を、音仮名によるものとし、那勢は、以下も同じとする。
【宣長の注釈】「欲相見」は、「あひみまく、おもほして」と読むべきだ。「相」の字は、会う意味に見るべきである。
【宣長の注釈】黄泉国は、「よみのくに」「よみつくに」とも読むべきで、「よみつ」という語は祝詞式に見えるが、なお、「よもつくに」と読んだ。「よもつしこめ」、また『日本書紀』の「よもつひらさか」などの例が多いことによる。「よみ」は、死者が赴いて住む国だ。『万葉集』巻九に、「遠つ国、黄泉の境に」、また、「生きていても会えるだろうか。ししくしろ、黄泉で待とうと……」などがある。『源氏物語』夕霧巻の、「よみぢのいそぎ」は、黄泉への旅路で、「泉門」と注すのは誤りだ。『栄花物語』音楽巻の、「よみづとにし侍らむ」は、黄泉へ行く贈り物である。生き返るのを、「よみがへる」というのも、黄泉から帰る意味だ。俗にも、黄泉路返り、黄泉路蘇りなどという。
名の意味は、『口決』が「夜見土」とする。「土」は誤りだが、「夜見」は、そうでもあるだろう。後の文に、火をともし、とあるので、暗い所と見えるし、夜の食国を治める月読命の、「よみ」という御名も通じて聞こえるからだ。祝詞で、「私のいとしい夫である神は、上の国を安らかにお治めください。私は下の国を治めます」と仰せになることや、須佐之男命が、「母の国、根の堅州国へ行きたい」と仰せになることなどから見ると、下方にある国なのである。『私記』も、根の国を黄泉だという。『万葉集』巻五の「したへの使い」も、下方の使いと聞こえる。『出雲風土記』の、伯耆国内の夜見島という名は、黄泉にゆかりがあるための名なのだろう。
後世の人は、外国から来た儒教・仏教の書が、人の生死の理を、さまざまに説くのに耳慣れ、どちらにしても、自分の心の向くままに、強いて、その方面へ結び付けるが、みな誤りである。そうした外来の教えの書物がなかった上代の心へ立ち返り、ただ死者の行って住む国と、理解すべきだ。
ある人が問う。「死んで夜見国へ行くのは、身体のままか。それとも魂だけか」。答える。「この身体は亡骸となり、明らかに、現し国に残るのだから、夜見国へは魂が行くのだろう」。また問う。「男神が火をともし、御覧になると、蛆がたかっていたといい、『日本書紀』の一書には、妻に会おうとして、遺体を納めた所へ至った、ともある。考え合わせれば、夜見国へ行くとは、実際には、地下へ納めるだけのことで、黄泉国という別の国はないのではないか」。答える。「それは、いつもの、中国風の理屈を立てた、ひととおりの見方で、誰もそう思いそうだが、それでは、この国で起こった、さまざまな出来事の伝承が、みな作り話になるではないか。神代の伝承は、みな実際の事であり、そうなった理由は、人の知恵で分かる範囲を越えている。そうした理屈の心で考えるべきではない。
女神は最初に出迎えたとき、ひとまず生前この世にいたころのお姿となって、お現れになった。『日本書紀』の、『生きていた頃のように、出迎え、ともに語った』が、それである。男神が、火をともして、ひそかに見たのは、夜見国での本当の姿だ。海神の宮の段にも、この類の事があり、考え合わせるべきである。『遺体を納めた所へ至った』とは、死者に会いに夜見国へ行くには、亡骸を納めた所から行くのだろう。『古事記』が、黄泉比良坂を、出雲の伊賦夜坂というとするので、帰る道は、その地のあたりへ、お出になったのだろう。みな、伝承のままに理解すべきことだ。
ただし、これは、みな神の御身の上の事である。ふつうの人は、この世にいる現身のままで夜見国へ行くことはないから、一般に、どの道から往来するなどと決めてはいけない。しかし、何事も、神代の跡によって物事を定めるので、そう理解しておくべきだ。また、世の『十王経』には、『閻魔王国は、人間界から五百由旬離れ、無仏世界、または預弥国という』などとある。この経は、もともと偽経といわれる中でも、日本で作られたもので、預弥国という名も、神典によって作った名だ。それなのに、反対に、神典の『よみ』が、この経から出たのかと疑う人もいるだろうと思い、今、区別しておく」。貴い者も賤しい者も、善人も悪人も、死ねば、みな、この夜見国へ行くのである。〔訳注〕引用歌の「ししくしろ」は、「黄泉」にかかる枕詞。祝詞の「吾名妋」の妋は仮読で、細かな字形は留保する。
【宣長の注釈】「追往」は、「おひ、いでましき」と読むべきだ。「追」を、「おひ」の音仮名とするのは、後世の誤りである。行かれることを、古語では「いでます」といった。そのため、「行幸」も、古くは「いでまし」といった。『万葉集』の「行幸」「幸行」なども、そう読むべきで、今の本の「みゆき」という読みは、誤りである。『古事記』は、天皇でなくても、「幸行」と多く書く。この語は、もとは出る意味でいったのかもしれないが、必ずしもそうではなく、ただ行かれる場合にも、来られる場合にもいう。今の俗語でも、「お出でなさる」を、行くのにも来るのにも使うのと、同じ気持ちである。
天智天皇紀の童謡には、「宇智波志能、都梅能阿素毗爾、伊提麻〓古……」、「伊提麻志能、倶伊播……」という例がある。『万葉集』巻八には、「闇夜ならば、来ないのももっともだが、梅の花の咲く月夜に、伊〓麻左自常夜」とある。〔訳注〕引用には「伊提麻志」の語形が見える。前の「伊提麻〓古」と、万葉歌の「伊〓麻」の一部の字形は未確定のため、句の形を既知の歌から補わず、原語と〓を残した。
【宣長の注釈】「殿騰戸」の「騰」は、旧印本や、ある一本、また『旧事紀』にも、こうあり、「戸を上げて」と読む。しかし、この読みは、どうかと聞こえる。戸は、開くとのみいい、上げるというのは、上代に見えない。延佳本と、ある一本は、「縢戸」とし、「くみど」と読む。この字は、『説文』で、閉じ結ぶ意味と注し、『詩経』秦風の小戎篇にも、竹の弓矯めを縄で結ぶことなどがある。また『新撰字鏡』は、「條、組む、くみ」とするので、「くみ」とは読めるが、なお誤りである。
心にかなわず、ほかにも、いろいろ考えると、脇戸・前戸・後戸などなのか。玉垣宮の御歌に、「しりつと、まへつと」があり、高津宮の段にも、前殿の戸・後殿の戸とあるからだ。また、後の文の、「黄泉の神と詳しく相談する」を見ると、ここでは先に、ひそかに出たようなので、脇戸や後戸から出るのにも、理由があるだろう。前戸から出るのであれば、もちろん説明するまでもない。
さらに考えると、『日本書紀』の一書の、「妻に会おうとして、殯斂の所へ至った」と、仲哀天皇紀の、「殯斂、これを、あがりどのという」とを合わせれば、遺体を納める意味で「騰」と書いたのか。もし、そうなら、「騰殿戸」の上下を、写し誤ったのだろう。神武の段の、足一騰宮は、意味は違っても、「騰」の字の例である。また、本文のまま、「とののあがりど」なのか。しかし、「あがりど」という例は見ず、意味も、心もとない。
あれこれ、決めかねるので、この一字の訓はひとまず保留し、三字をまとめて「とのど」と読んだ。それなら、いずれにしても、違うことはあるまい。仲哀の段の、勝騰門比売も、「騰」の字のない本がよい。「殿戸」という語は、崇神天皇紀の歌に、「三輪の殿戸」とあり、なお、高津宮の段にも多く見える。
【宣長の注釈】「出向」は、出迎えることである。古語では、「迎」と「向」を通じて書く例が多い。『日本書紀』の一書には、すなわち、出迎えて、ともに語った、とある。
【宣長の注釈】「語詔之」は、「かたらひたまはく」と読むべきだ。『日本書紀』にも、「ともに語る」「これに語る」とあるので、ここでも「語」を、意味があって書いたのである。『万葉集』巻十三には、「愛しい妻と、語らず、別れて来たので……」とある。
【宣長の注釈】「汝」は、前には「な」と読んだが、ここでは、「みまし」(あなた)と読むべきだ。『続日本紀』巻九・巻十六の宣命に、「あなたの父である天皇が、みましに授けた天下の業と……」、「みまし親王の齢が幼い時に……」、「わが子、みまし王に……」などとあることによる。これらの「みまし」は、聖武天皇を指して、元正天皇が仰せになったものだ。また巻三十一に、「みまし大臣」とあるのは、藤原永手を指して、光仁天皇が仰せになったのである。
【宣長の注釈】「未だ造り終えない」は、後に、大穴牟遅と少名毘古那の二柱が、並んで、この国を造り固める事があるのは、今、この夫婦の神が、まだ造り終えない所があったためである。照らし合わせて見るべきだ。『万葉集』で「竟」も「尽」も「波豆」(終わるという意味)と読むので、「竟」はその訓でも読むべきである。
【宣長の注釈】「故可還」は、「かへりまさね」と読むべきだ。「ませ」の「せ」を延ばして、「さね」というのは、古語の、いつもの形である。「故」は、読んではならない。前の「未作竟」を、「まだ造り終えていないので」と読む、その「ので」に、この「故」の意味がある。
【宣長の注釈】「答白」は、ただ、「まをしたまはく」と読むべきだ。
【宣長の注釈】「悔哉」は、「くやしきかも」と読むべきだ。「哉」は、『日本書紀』の神武天皇紀に「かや」、顕宗天皇紀に「かけ」との読みの注もあるが、やはり「かも」というのが、ふつうである。「かな」という語は、奈良の頃までは見えない。これは、すでに黄泉のかまどのものを食べてしまったことを、後悔しておられる言葉である。
【宣長の注釈】「不速来」について、ここでいう「受豆」は、悔やむ気持ちを表す語である。『万葉集』巻三に、「早く来て、見たらよかったものを。山背の高槻村は、散ってしまったのだなあ」とある。〔訳注〕「受豆」の初字と読みは未確定のため、原語を残した。また「高槻村」は、この原注では訓を示していないため、地名や木立の読みを固定せず原語を残す。
【宣長の注釈】「黄泉戸喫」は、『日本書紀』に、「黄泉のかまどのものを食べる、これを、よもつへぐひという」とある。この「俳」を、火の意味に取り、古くから「ひ」と読むのは誤りだ。この字は、皮皆の反切で、「はい」という音である。「はい」という音の字を、「ひ」の仮名に使った例はない。「珮・杯・背・沛」などが、みな「へ」の仮名であることからも分かる。「哀・愛」を「え」、「開・階」を「け」、「賣・味・妹」を「め」に使うのと、同じ形だ。そのうえ、「竈」と書き、『古事記』にも「戸」とあるのだから、「へ」と読むことに、疑いはない。『纂疏』の印本の、「俳」を「非」とするのも、写し誤りである。
「へ」は、かまどのことだ。中国で、民家を「戸」というため、日本でも、民の家を「へ」というのに、この字を使う。かまどで家を呼ぶのは、今の言葉でも、何かまど、といい、また、かまどが絶える、ともいう。「民戸、幾煙」というのも、この意味である。「黄泉戸喫」は、黄泉国のかまどで煮炊きした物を食べることで、これが、火を忌み清める事の起こりだった。ならば、今もいうように、黄泉の火を食べる、といってもよいのではないか、と疑う人もあるだろうが、「俳」も「戸」も、「ひ」と読めないことは、前に述べたとおりだ。
『纂疏』は、問答して、「水火は、天が生んだ物で、穢れと清さの区別がないのに、神事で水火を忌むのは、なぜか。答え、火は清くても、物によって穢れるので、煮炊きした物を食べないだけだ」とする。水火は天が生んだ物だから穢れない、というのは、むやみに理屈だけ考える、中国風の心である。もし物によって穢れるなら、黄泉の物は、炊事道具に限らず、すべて穢れているはずだ。それなのに、特に、かまどをいうのは、もともと火に穢れがあるためではないか。後で、男神が身に着けた衣服などを、穢れたとして投げ捨てるのは、黄泉の全体の穢れである。今ここで、ほかの物をいわず、ただ、かまどのものを食べたことをいうのは、火の穢れが重いからだ。
火に清浄と穢れがある理由は、測り知ることができない。それを、理由がないと決めるのは、神の御言を信じず、自分の心を勝手に信じる者である。今は、神事の時や、神の坐す土地などでは、火を忌む事があるようだが、一般の世間で、そうしないのは、火の穢れをいうのは愚かだ、と、利口ぶる、中国風の心が広まったからである。
恐れ慎むべきことに、あらゆる禍は、火が穢れることから起こる。禍が起こるのは、この黄泉の穢れから生まれた、禍津日神の働きである。火が穢れる時、この神が、居場所を得て荒ぶるので、さまざまな禍が起こるのだ。神の道を志す人は、根拠のない中国風の考えを捨て、よく考えるべきである。それで、民をいたわり、世を治めるには、まず、天下の火を忌み清め、神の御心にかなうようにすべきだ。
今、こう申し上げたのは、この世へ帰りたいとは思っていても、黄泉のかまどのものを食べた穢れにより、帰れない、という事なのである。この御言をよく味わい、恐れ慎んで、火の穢れを、おろそかに思ってはならない。
【宣長の注釈】『日本書紀』の、「私は、すでに黄泉のかまどのものを食べた。しかし、私は、しばらく休もう」は、「かまど」の下に、文が脱けたのだ。試みに、『古事記』にならって補えば、「しかし、わが愛しい夫よ、追って来てくださったのは、たいそう恐れ多い。それで帰ろう」などの文が、あるはずである。その後の、「しかし、私は、しばらく休もう」は、『古事記』の、黄泉の神と相談する、に当たる。古本には、右のような語があったのを、「しかし」が二つ重なったため、書き写す時に紛れて、脱けたのだろう。このような例は、よくある。今の本のままでは、意味が続かず、どうにも解きようがない。それなのに、代々の注釈者は、どう理解したのか。疑いさえ残さないのは、きわめて、いいかげんなことである。
【宣長の注釈】「わがなせの命」は、男神の、「わが、なにいも命」という御言に対し、女神が男神をお呼びになる称である。「な」は、あなた、「せ」は、兄で、夫婦・兄弟の間だけでなく、女性を「いも」というように、男性を尊び、親しんで呼ぶ語だ。女性を「いも」という例は、巻三で詳しく述べた。『日本書紀』は、「わが夫君、これを、あがなせという」とするが、文字は、この場合の意味に即して書いただけで、「夫君」が、「なせ」全体の意味なのではない。
袁祁命は、兄を指して「なせ」と仰せになる。下巻に出る。また、弟の須佐之男命を、天照大御神は、「わがなせの命」と仰せになる。巻七に出る。『万葉集』巻十六には、「なせの君」とあり、今の本の、「なあに」という読みは誤りだ。巻十四には、「なせの子」などとも詠む。「わがせ」「わがせこ」なども同じで、男同士でも、そう呼ぶのは、「いも」と同じ例である。
【宣長の注釈】「恐故」は、「かしこければ」と読むべきだ。ここで「故」を読むのはよくない。「ければ」に、その意味が含まれるのである。
【宣長の注釈】「欲還」は、「かへりなむを」と読むべきだ。この「を」という助詞の気持ちは、古歌をよく知る人なら、自分で味わい分かるだろう。
【宣長の注釈】「且」は、字に従って、「かつ」「また」と読むのは、前後の意味に合わない。後世の文なら、「ただし」などというはずの所だ。後の天尾羽張神の所にも、似た形があり、巻十四に出るので、考え合わせるべきである。しかし、「ただし」と読むのは、古語らしくない。「まづ」と読めば、意味によく合い、字の意味にも、大きくは違わないだろう。今の言葉でも、仮に、しばらくすることを、「まず、何々して」「まあ、何々して」ともいう。この「まず」「まあ」は、ひとまずの意味なので、ここの「且」も、その意味に取って、文意に合わせても、それほど無理ではない。
【宣長の注釈】「具」は、師が、「つばらかに」(詳しく)と読んだ。この語は、『万葉集』巻十九の、「つばらかに、今日は暮らさね」、巻三の、「浅茅原、つばら、つばらに、物思へば」にある。この「曲々」を、今の本が、「とさま、かくさま」と読むのは、たいへんな誤りで、契沖の「つばら、つばら」がよい。巻十八には、「梶の音の、つばら、つばらに」、巻一には、「つばらにも、見つつ行かむを」がある。この「委曲」も、今の本の読みは誤っている。巻九には、「つばらかに、示したまへば」などとある。『古事記』の、あちこちの「委曲」も、こう読むべきだ。「つまびらか」と、同じ語である。舒明天皇紀には、「曲挙」ともある。
また、この「具」は、「まつぶさに」とも読むべきだ。この語は、巻十一の、八千矛神の御歌に見える。「つぶさ」の「つぶ」と、「つばら」の「つば」は、同じなのである。
【宣長の注釈】「黄泉神」は、天つ神・国つ神などと同じく、「よもつかみ」と読むべきだ。この神が、どのような神かは、伝えがないので分からず、ただ黄泉にいる神々である。この時は、現し国も、初めの時なので、夜見国も、この伊邪那美神が、最初の神と思われそうだが、ここに、このようにあるのは、すでに、ほかの神もいたのだ。
【宣長の注釈】「相論」は、「あげつらはむ」と読むべきで、「相」は読まない。『日本書紀』にも、そう読む。『遊仙窟』にもある。「あげ」は、言葉を取り立てるような意味で、「つらふ」は、「ひきづらふ」「にづらふ」「かけづらふ」などと同じく、その様子をいう語だ。ここでは、上の国へ帰ろうとする事を、相談される意味なのだろう。
【宣長の注釈】「莫視我」は、「あを、な、みたまひそ」と読むべきだ。鎮火祭の祝詞には、「七日七夜、私をどうか御覧にならないでください。わが夫の神よ、と申し上げた」とある。『日本書紀』にも、「どうか私を見ないでください」とある。〔訳注〕末字の「會」と「吾奈妋」の妋は仮読で、細部の字形は留保する。
【宣長の注釈】「殿内」は、「とのぬち」と読むべきだ。神功天皇紀の歌に、腹の内を、「はらぬち」と詠む。「濃」は、「ぬ」の仮名で、「乃」の音は「奴」に縮まる。国の内を、『万葉集』では、「くぬち」と読み、神代紀にも、「いなどのぬち」と詠む。
【宣長の注釈】「甚」は、『万葉集』で、「いと」と読む。「いと」という語には、「甚」の字がよく合い、「最」は当たらない。
【宣長の注釈】「難待」は、「まちかねたまひき」と読むべきだ。「待ちかね」という語は、『万葉集』に多く、「かね」には、多く「不得」と書く。「かね」は、みな、この、できないという意味で、待っていられないのを、「待ちかね」という。今、俗にいうのとは、少し違いがある。「難」の字も、意味は通じ、語も「かて」というのに通じる。ただし、この「難」を、そのまま「かて」と読むのはよくない。
【宣長の注釈】「御みづら」は、上代の男性の装いで、髪を左右に分け、結び縮めたものだ。後に天照大御神が、御髪を解いて、みづらに結われるのも、仮に男性の御姿となるのである。『日本書紀』で、息長足姫尊が、橿日浦で髪を解き、海に入って洗い、占った時、御髪が自然に分かれたので、その分かれたまま髪を結い、「髻」としたというのも、同じく仮に男性の姿をとったのである。
崇峻天皇紀には、「古い習俗では、若い者は、十五、六歳で、額に髪を束ね、十七、八歳で、分けて角子とする。今も、そうだ」とある。この「角子」が、みづらだ。十七、八歳とあるのは、少し後の時代の事だろう。上代は、男性が、みな、そうしていたことは、右に述べたとおりである。「角子」を「あげまき」と読むのは、後の名で、ここは「みづら」と読むべきだ。『万葉集』巻七、二十八丁に、「角髪」とある。左右にあるのが、角のようなので、こういう呼び名があるのだ。後世の「鬢頰(びんづら)」は、この「みづら」が訛った語で、『江次第』に、幼い君主の時には、鬢頰を垂らす、と見える。
あの天照大御神の御装いを見ると、みづらにも、玉を飾ったのである。『万葉集』巻二十には、「母上も、玉だったらよいのに。頭にいただき、みづらの中に交えて巻けるのに」とある。〔訳注〕髪を結った形を記す「髻」は仮読で、下部の細画は留保する。
【宣長の注釈】「刺」は、「ささせる」と読むべきだ。
【宣長の注釈】湯津津間櫛については、櫛名田比売の所、巻九、二十九丁で述べる。「ゆつの」と、「の」を添えて読むのは誤りで、「ゆつ何々」という例は、みな、そうである。
【宣長の注釈】男柱は、『日本書紀』で、雄柱とある。これを「ほとりば」と読むのは、端の歯という意味で、中古の呼び名なのだろう。二書とも「柱」とあるので、古語は、そうではなく、ともに「をばしら」と読むべきだ。『新撰字鏡』は、「棖柄、橋の左右の柱、をとこばしら」とする。『大神宮年中行事』の、東の男柱の西側の石敷きなどというのは、御殿の高欄の男柱で、『字鏡』と同じだ。これにならえば、櫛も、左右の端の太い歯を、男柱といったのだろう。これを折り取り、火をともしたのを考えると、上代の櫛の歯は、いくらか長かったのだろうと分かる。
【宣長の注釈】「一火」は、ただ火といってもよさそうなのに、「一つ火」といったのは、古くは、明かりを二つ、三つ、また幾つも燃やすものだったので、ただ一つともすのを、区別して、そう呼んだのか。また、『日本書紀』に、「今の人は、夜、一片の火を忌み、また夜に櫛を投げるのを忌む。これが、その起こりである」とある。これは、後人の加えた文と見える。「一片の火」は、次に挙げる別の一書にあり、この上には見えない。まだ、その事をいわないのに、いきなり「これが起こりだ」という理由がないからだ。
しかし、そういう習わしは、古くからあったのだろう。その忌み事の、「一つ火」という名を、起こりの話へさかのぼらせ、ここでも、そう呼んだのかもしれない。今も、石見国などでは、神に供える灯火を一つともすのを忌み、必ず二つともす。また櫛を投げるのも忌むと、土地の人がいった。『日本書紀』で豊玉姫が御子を産むときにも、火々出見尊が、櫛に火をともして見た、とある。
【宣長の注釈】「うじ」は、「蛆」の字を、そう読んで来た。『本草』という書で、李時珍は、「蛆は、蠅の子で、物が腐って臭くなると生じる」とする。『和名抄』は、「䏣」を「はひのこ」、蠅の子とし、「うじ」という読みはない。「䏣」と「蛆」は通じる。『字鏡』には、「蜡」を「うじ」とするが、この「蜡」が、うじなのか、その理由は分からない。今も、腐った物に生まれる小虫を、うじという。
【宣長の注釈】「たかれ」は、今の言葉で、鳥や虫などが、物に多く集まるのを、「たかる」という。「人だかり」と、人にもいい、また、うじがたかるとも、ふつうにいう。ただし、今の語は、「たからむ・たかり・たかる・たかれ」と、ラ・リ・ル・レに活用するのに、ここは「れ」とあるので、少し違い、「たかれ・たかる・たかるる」と活用する形だ。今の語ならば、ここは「たかり」となるはずである。しかし、この二つが通じる例も多く、「はなれ」と「はなり」、「おそれ」と「おそり」、「みだれ」と「みだり」の類である。〔訳注〕活用を示す原字列「禮留留々」は版面による仮読で、字数と反復記号の細画は留保する。
【宣長の注釈】「斗呂々岐豆」は、旧印本と、ある一本に、「許呂々岐豆」とある。『和名抄』に、「嘶咽」を「ころろく」とするが、ここに、それを当てる理由はない。延佳本は、「斗々呂岐豆」とする。しかし今は、ある一本に従った。この語は、「とろけて」と同じで、「尽・淫・鑠」などを「とろかす」と読むのも、「とろけさせる」という語である。山芋の汁を「とろろ」というのも、とろけた意味だ。
この一句を、『日本書紀』は、「膿沸虫流」とする。読みの「うな」の「な」は、ある人の説では、古い片仮名で、「み」を「ア」のように書いたのを、誤って「ナ」としたのだろうから、「うみ」のはずだという。「虫流」の読みは、『古事記』によったので、上の「膿沸」が、この「斗呂々岐豆」に当たる。虫には、少しふさわしくない「流」の字を使ったのは、「たかるる」を、「ながるる」とも通わせていったのか。膿が沸くから「流」といったのではあるまい。今の俗語でも、物が、たいそう多く、余るほどなのを、「流れる」ということがある。〔訳注〕見出し・異本・語釈の末字は「豆」と仮採録したが、弖等との細画は留保する。原語を示し、見慣れた読みだけで末字を確定しない。
【宣長の注釈】大雷の「雷」は、『万葉集』巻三に、「いかづ」、薬師寺の仏足石の御歌に、「いかづち」とあるので、これらによって読むべきだ。意味は、厳しいことで、「豆」は、いつものように「之」と通じる助辞で、「ち」は、美称である。『延喜式』に、山城国乙訓郡の乙訓坐大雷神社があるが、これは、『続日本紀』以下の歴史書によると、「火雷」の写し誤りだ。
【宣長の注釈】火雷は、ほかの雷の例によれば、「ほの」と「の」を加えて読むのは、よくないようだ。しかし、『三代実録』巻十一の十一丁、巻十四の二十六丁に「保沼富神」とあるのは、そのまま火雷神と理解できるので、やはり古い訓に従うべきだ。火雷神社は、『延喜式』で、山城と大和の各所に見え、また、和泉の大鳥郡、上野の那波郡などにも見える。
【宣長の注釈】黒雷は、この名が、ほかに見当たらない。
【宣長の注釈】拆雷は、「さく」か「さき」か、読むべき理由が明らかでないので、しばらく古い読みに従った。神功天皇紀には、雷鳴がとどろき、稲妻が走って、岩を裂いた事が見える。
【宣長の注釈】若雷は、宇遅能和紀郎子を、『日本書紀』が「稚郎子」と書くので、この「若」も「わき」で、別雷と同じだろう。ここにある事と合わせて考えると、別雷を「わけいかづち」と読むのは誤りである。『三代実録』巻九の下に、武蔵国の若電神がある。「電」は「雷」の写し誤りだろう。『延喜式』には、山城国愛宕郡の賀茂別雷神社があり、これをまた「若雷」とも、同書に記す。これも『風土記』によると、若雷の意味の御名なのだろう。
【宣長の注釈】土雷について、舒明天皇紀に、「九年二月、大きな星が、東から西へ流れ、雷に似た音があった。その時の人は、流れ星の音だといい、また地雷だともいった」とある。
【宣長の注釈】鳴雷について、『延喜式』に、主水司に坐す鳴雷神社二座、大和国添上郡の鳴雷神社、高市郡の気吹雷響雷吉野大国栖御魂神社がある。
【宣長の注釈】伏雷は、この名が、ほかに見当たらない。
【宣長の注釈】「并」を、延佳本が「並」とするのは、誤りである。
【宣長の注釈】「八雷神」は、「やくさの、いかづちがみ」と読むべきだ。前の迦具土の身体に現れた八柱の山津見と、この八種の雷神とで、それぞれ現れた場所と、名の意味を当て、その理由を考えると、山津見の方は、関係がありそうなものが多い。しかし、分かりにくいものも交じるので、しばらく黙っておいた。今の雷神は、どれも思い当たらない。『日本書紀』の注釈には説があるが、みな、無理なこじつけだ。
『日本書紀』の一書には、雷の生じた事がなく、別の一書には、八色雷公をいう。しかし、『古事記』とは、現れた場所も、名も違う。どちらも古い伝承なので、今、とやかくいうべきではないが、試みにいえば、『古事記』は、手も足も、左右に別々に現れたとするのに、『日本書紀』は、ただ手、また足とのみいい、左右をいわないのは、どういうことか。手も足も、名は一つだが、実物は左右にあるので、必ず二柱ずつ現れるはずなのだ。こういうのを、愚かな言い分だと、人は思うだろうが、理屈を差し置き、実際の身体に即していうのが、古代の心なのである。
雷の名は、この八種のほかにも、他書に、いろいろ見える。雷を、陰陽という理屈で、あれこれ論じるのは、いつもの中国風の考えで、古い伝承に、ひどく反する。雷は、ここに見えるように、もと伊邪那美大神の大御身に生じ、黄泉国から起こるものなのだ。激しく怒って死んだ人などが、後に雷となり、報いをする事が、昔も今も多いのは、このためである。
【古事記本文】そこで伊邪那岐命は、御覧になって恐れ、逃げ帰られる時、妻の伊邪那美命が、「私に恥をかかせましたね」といって、すぐ黄泉醜女を遣わし、追わせた。「よもつしこめ」の六字は、音を表す。伊邪那岐命は、黒御鬘を取って投げ捨てられた。すると、葡萄の実が生った。醜女が、これを拾って食べている間に、お逃げになったが、なお追ってきた。また、右のみづら(耳のそばで結んだ髪)に挿した、湯津津間櫛を引き欠いて、投げ捨てられると、筍が生えた。これを抜いて食べている間に、お逃げになった。
さらに、その後には、八柱の雷神に、千五百の黄泉の兵を添え、追わせた。そこで、お佩きになった十拳剣を抜き、後ろ手に剣を振りながら、逃げてこられた。「ふきつつ」の四字は、音を表す。それでも追ってきて、黄泉比良坂の坂のふもとに至った時、その坂のふもとにあった、桃の実を三つ取り、待ち受けて撃たれると、すべて逃げ帰った。「ひら」の二字は、音を表す。
伊邪那岐命は、桃の実に、「あなたが、私を助けたように、葦原中国にいる、現世の青人草(人々)が、苦しい瀬に落ち、悩み苦しむ時、助けなさい」と仰せになり、「意富加牟豆美命」という御名を授けられた。「うつしき」の四字、「おほかむづみ」の意から美までの字は、音を表す。
【宣長の注釈】「見畏」は、見て恐れることだ。『古事記』の所々に、この言い方がある。また「見驚」「見喜」「見感」などもあり、みな古語である。「かしこむ」は、恐れることだ。推古天皇紀の歌に、「かしこみて」とある。『新撰字鏡』は、「悸」を、恐れることと注し、「かしこむ」「おそる」としている。また「忙怕」を、「おびゆ」「おづ」としている。この「見畏」も、「美於遲豆」(見て恐れる)とも読める。
【宣長の注釈】「逃還」の「逃げ」という語は、朝倉宮の段の御歌に、「にげのぼりし」とある。
【宣長の注釈】「令見辱」は、「恥を見せる」という古語だ。『日本書紀』巻五の八丁にも、「私に恥をかかせた」とあり、巻十二の六丁にも、「慚汝」とある。鎮火祭の祝詞には、「わがいとしい夫の神よ。私を見ないでくださいと申し上げたのに、私の姿を見てしまわれた」とある。〔訳注〕配偶者を呼ぶ箇所の原字「妋」は仮読で、右側の夫・未の細画は留保する。
【宣長の注釈】「よもつしこめ」は、『日本書紀』が「泉津醜女」と書き、「醜女は、しこめという。一説に、泉津日狭女」ともしている。『私記』には、一説に、黄泉の鬼だという。ただし、この「鬼」は、儒教や仏教の書物で説く鬼の意味ではない。普通の人の類ではなく、恐ろしいものを、世間で鬼という、その意味だ。欽明天皇紀の「魃鬼」も、その意味である。『和名類聚抄』は、この醜女を、鬼魅の部に載せている。名の意味は、姿が恐ろしく、見苦しいことをいう。後の「伊邪志許米」も同じで、さらにその箇所で述べる。
【宣長の注釈】「遣」は、「つかはして」と読むべきだ。「まだし」と読むのは誤りである。これは、尊い所へ、人を介して物を奉る意味の「遣」を、「まだす」と読むことから転じた誤読だ。「まだす」という語は、伝の巻十六、木花之佐久夜毘売の段で、詳しく述べる。〔訳注〕訓の末字は「豆」と仮採録し、弖等との細画は留保する。
【宣長の注釈】「かづら」には、全体として、三種類がある。「葛」(「蔓」も同じ)と「鬘」と「髢(かもじ)」である。〔訳注:「髢」は原字の候補として仮に示す。〕まず「葛」は、葛かづら、五味、忍冬など、つる草全般のことだ。「鬘」は、頭飾りとして懸ける物である。古書では「蘰」「縵」「鬘」とも書く。「蘰」は字書に見えない。「縵」は見えるが、頭飾りの意味はない。「〓」は「鬘」の異なる書き方である。〔訳注:この一字の下部を判読できず、〓で示す。〕「髢」は、『和名類聚抄』に「かづら」とあり、『釈名』の「髪の少ない者が、その髪を補うために着ける物」との説明を引く。俗に「かもじ」という物だ。
このように種類はいろいろあるが、もとは一つから転じた名で、草の「葛」から出た。その葛のもとの名は「つら」で、『古事記』の「ところづら」「つづら」、『日本書紀』『万葉集』の「はねかづら」、『和名類聚抄』の「千歳蘰」「百部」などがある。これらの「つら」を、「かづら」の省略と考えるのは、本末を取り違えている。忍冬も、『新撰字鏡』には「すひづら」とある。『拾遺集』雑下の、「さだめなく、なるなる瓜の、つら見ても」という歌は、つる草の「つら」に顔の「つら」を掛けたものだ。今「つる」というのは、「つら」の転じた形である。弓の弦をも、『万葉集』は「つら」と詠む。馬具にいう「つら」も、草のつるから出たのだろう。〔訳注:原文の馬具名「韁鞁頭」は仮採録で、中の細字を確定できていない。〕「韁」は手綱のことだ。
何であれ、つる草を、頭飾りとして懸けるのを、「髪葛、かみかづら」といい、これが「鬘」だ。そして、こうして鬘に用いるので、逆に草の葛をも、「かづら」といったのだろう。また、鬘も、髪を飾る具なので、髪を補う髢と、同じ名を持たせたのだろう。
上代には、鬘は男女ともに懸けた。つる草を用いた事は、石屋戸の段で、真拆を懸けた事をはじめ、日影の鬘などがある。必ずしもつる草とは限らず、花鬘、菖蒲鬘、柳鬘、木綿鬘などもある。これらの「かづら」という名も、つる草から出たものだ。また、糸などでも作ったのだろうか。珠を飾る事は、天照大御神の、誓約の所の御装束に見える。「玉鬘」は、これをいう。鬘にも葛にも「玉かづら」というのは、この玉鬘の名を移して呼ぶのか、ただ褒めていう場合もあるだろう。穴穂宮の段に「押木の玉縵」とあるのも、貴い宝であった事を示す。『万葉集』には、「はにかづら」という事もある。
「蘰」は、この物を、草でも糸でも作るので、設けた文字だろうか。わが国で作られた文字は多い。「縵」も、もとの中国の字義にかかわらず、右の意味で用いるのだろう。『和名類聚抄』は、花鬘を、寺院の道具の部に載せるが、これも、もとはインドの人の頭飾りだ。
ここに「黒」とあるのは、色をいうのだろうが、何で、どのように作ったのかは、分かりにくい。「黒」を「くろき」と読むのはよくない。特に、その色を説明する必要が、この場にはないからで、「くろみかづら」と読むべきだ。「くろ」も色をいうが、こう読めば、鬘の一種の名となり、古語の用例にかなう。葡萄の実が生った事から考えると、この鬘は、葡萄のつるに似て、垂らした珠が、実の生る形に似ていたのだろうか。色の黒かった事も、葡萄の実に関係するのだろうか。「つづら」を「黒葛」とも書くが、それは、ここと関係がない。
【宣長の注釈】「棄(捨てる)」は、八千矛神の歌で「脱ぎ棄てる」を「奴岐宇豆」と詠み、『日本書紀』にも「吹棄は浮枳于都という」とあるので、「宇豆」と読むべきだ。〔訳注:「宇」は「字」との細画の区別を確定できないため、仮に「宇」と読んだ。ここでは音仮名をそのまま示す。〕
【宣長の注釈】「蒲子」は、『日本書紀』には「蒲萄」とある。『和名類聚抄』には、「紫葛、和名えびかづら」「蒲萄、和名えびかづらのみ」とある。ある人は、この物にはつるがあり、鬘に似たつる草なので、そのように名づけた、といっている。
【宣長の注釈】「摭」は、字書で「拾う」とも「取る」とも注す。「ひろひ(拾い)」は、古語では「ひりひ」といった。『万葉集』巻十五の「於伎都白玉比利比豆由賀奈」(沖の白玉を拾って行こう)、同巻二十三丁の「わたつみの、たまきの玉を、ひりひとり」、巻十七の七丁の「玉もひりはむ」などの例がある。〔訳注:最初の引用末字は豆候補で、弖との細画の区別は未確定。参照の丁数は「五丁」の可能性があるが、小字を判読できないため留保する。「ひりひ」の用例とするのは著者の説明であり、細字の判読は確定していない。〕
【宣長の注釈】「逃行」の「行」は、「いでます」と読むべきだ。必ずしも外へ出られる意味に限らず、行かれることも、古語ではそのようにいう。
【宣長の注釈】湯津津間櫛は、前に「男柱を、取り欠く」とあるのに、ここでは、ただ「引き欠く」とあるので、普通の歯のうちを、引き欠かれるのである。「引く」は、「取る」と、異なる意味はない。また、前の櫛は、左の御美豆良のもので、ここの櫛は、右のものである。
【宣長の注釈】「笋」は、『新撰字鏡』に、「筍、笋、たかむな」とあり、『和名類聚抄』にも、「筍は、また笋と書く。和名、たかむな」とある。後世の物には、「たかうな」ともいう。「む」を「う」に変える例は多く、音便である。名の意味は、「竹の芽の菜」だ。「菜」は、飯に添えて食べる物の総称である。したがって、筍も、食用の菜にする時の名を「たかむな」といい、普通には「竹の子」という。そのため、歌では、「竹の子」とだけ詠む。ここは、抜いて食べるとあるので、「菜」である。櫛の歯の形は、竹の子の並び立つ姿に似ている。『日本書紀』に、塩土の老翁が、黒い櫛を投げると、五百箇の竹林になったとあるのも、この類である。
【宣長の注釈】「且後」の「且」は、「また」と読むべきだ。
【宣長の注釈】「其」は、「かの」と読むべきだ。
【宣長の注釈】「千五百」は、ただ、多い事を、おおまかにいう語だ。一般に、多さの程度に従い、八、五十、八十、百、百八十、五百、八百、千、千五百、八千、万、八十万、八百万、千万ともいう。「百」を「ほ」というのは、「もも」が転じたもので、「も」と「ほ」は通う。ただし、これは「いほ」「やほ」に限り、ほかは「いくもも」という。
【宣長の注釈】「黄泉軍」は、「よもついくさ」と読むべきだ。「いくさ」は、兵士をいう名である。神武天皇紀の「女軍、めいくさ」「男軍、おいくさ」、『万葉集』巻二の三十丁の「みいくさを、あともひたまひ」、巻六の二十丁の「千万の、いくさ」、巻二十の二十丁の「すめらみくさ」など、みなそうである。「すめらみくさ」は、天皇の御軍だ。一般に、戦いを「いくさ」という用例は、古書に見えず、ずっと後の事である。「軍」「師」の字を書くのも、人々の集まりをいうからだ。それなのに、「いくさ」は「射合箭」の意味だという、師の説は、どうだろうか。「戦」などを「いくさ」と読む例さえ、ないではないか。
【宣長の注釈】「後手」は、手を後ろへ回して、事をすることだ。『うつほ物語』に、「しりへ手に、しばり」とある。
【宣長の注釈】「ふき」は「振る」ことだ。古語で「振る」を「ふく」ともいった例として、『万葉集』は草の山吹を「山振」とも書く。「風が吹く」というのも、「振る」と通う。中巻には「風を振る比礼」というものがある。『日本書紀』には「背揮此云志理幣提爾布履」とある。〔訳注:この引用の末字と、以下の割注中の比較字は細画未確定で、「履」「屢」と仮に採録する。〕この仮名字の「履」を今の本が「侶」と書くのは、どうにも読めず、誤りである。『纂疏』の本に「屢」とあるので、「履」の写し誤りと分かる。この二字を写し違える箇所は多い。また、皇極天皇紀に「剣を揮う」ともある。
【宣長の注釈】「つつ」は、「ながら」だ。一つの事をしながら、別の事もするのをいう語で、「且且(かつかつ)」が縮まった形だろうか。ここは、雷神と兵が、進んで追ってくるのを、防がれる動作である。しかし、正面から向き合って防ぐと、お逃げになれないので、逃げながら防がれる。そのため、手を後ろに回して、剣をお振りになるのだ。
【宣長の注釈】「黄泉比良坂」は、『日本書紀』に、「泉津平坂は、よもつひらさかという」と見え、鎮火祭の祝詞には、「よみつひらさか」とある。これは、黄泉と、現実の世との境だ。「平坂」は、平らで、なだらかな意味である。山背にも、「平坂」という所が、崇神天皇紀に見える。
【宣長の注釈】「桃子」は、「もものみ」と読むべきだ。木や草には、花によって名づけるもの、実によって名づけるもの、幹によって名づけるものがある。そのうち、実によって名づけた梨、栗、柿などは、「実」といわなくても、実の意味になり、「梨の実」「柿の実」とはいわない。桃も、その類とすれば、実を、ただ「もも」といえばよい。『和名類聚抄』も、果物の部に収め、「桃子、和名もも」と注し、ほかにも、梨子、栗子、椎子などを載せている。しかし、桃は、花も実も賞する木である。また、ここの様子を考えると、「坂のふもとの、もも」とだけいっては、その木の事に聞こえるので、やはり「実」と読むべきだろう。
そこで、「もものみを、みつとりて」とする、師の訓はよい。「みつを」というのは、漢文を読む際の言い方だ。また師は、葡萄の実や、桃の実などを、投げ与えられた事は、後世の道饗祭のもとだ、といっている。その祝詞には、「根の国・底の国から、蠢備疎備して来るものに」とある。〔訳注:「蠢備疎備」は原文の字を残した。最初の字は「蠢」と仮読するが細画が未確定で、この部分の読みと意味も留保する。〕
【宣長の注釈】「待撃」は、来るものを待ち受けて、打つことだ。中巻で、倭建命が、蒜の一片で、足柄坂の神を、待ち受けて打たれるのと同じである。古語には、待ち問う、待ち取る、待ち攻める、待ち戦う、待ち向かうなどの言い方が多い。これは、早く来てほしいと望んで「待つ」というのとは違い、ただ、やって来るものを、向き合って受け止めることをいう。後世の物語などにも、「待ち何々」という語は多い。
【宣長の注釈】「悉」は、「ことごとに」と読むべきだ。火遠理命の御歌に、「妹は忘れじ、夜のことごとに」とある。妻を忘れまい、夜という夜に、という意味である。『万葉集』巻五に、「布肩衣、ありのことごと、着襲へども」とある。布の肩衣を、ある限りすべて、重ね着しても、という意味だ。
【宣長の注釈】「逃返」は、古い印本では、「坂返」とある。これも捨てにくい。黄泉から帰る事を「よみがへる」というように、坂合から帰る事を「さかがへる」という古語が、あったかもしれないからだ。
【宣長の注釈】「告桃子」の「桃子」は、ただ「もも」と読むべきだ。ここでも「実」というのは、拙い。「告」は、「のりたまはく」と読むべきで、「つげ」と読むのも、悪くないようだが、やはり、そのようには読まない方がよい。
【宣長の注釈】「私を助けた」とは、今、この桃の実で、迫り追ってきた者たちを撃退し、難を逃れられたために、仰せになるのだ。
【宣長の注釈】「葦原の中国」は、大御国の名で、もとは、天つ神の、天照大御神と、天之忍穂耳命の御代に、高天原から、こちらを指していった名だ。この国号については、別著『国号考』で、詳しく述べた。
ある書物が、葦の芽に譬えた事から、こう名づけたというのは、上代の意ではない。それでは、「原」「中」という語の理由がなくなる。また「中つ国」を、中国の人が、自ら誇って「中華」「中国」というのと同じように説くのも、かの国をうらやんだ、誤った考えだ。ただ、葦原の中にある国ではないか。また、ここでいう葦原中国が、西の九州を指すというのは、高天原を、大和国の事だと、取り違えたために生じた誤説である。
今ここで、天上でなく、黄泉国において、伊邪那岐命が、このように仰せになるのは、天上からいった呼び名を、そのまま、こちらでも使う世に、語り伝えた言葉だからだ。または、天つ神の御代に、天上で語り伝えた言葉でも、あっただろう。
【宣長の注釈】「所有」は、「あらゆる」と読むべきだ。「いはゆる」と同じ形の語で、どちらも古語である。「ゆ」が「る」に通うのは、古語の形である。この「あらゆる」「いはゆる」などを、ただ、漢籍を読むための言葉とだけ考えるのは、誤りだ。そもそも、漢文の読みには、古語の残っている事が、多いのである。
【宣長の注釈】「うつしき青人草」は、『日本書紀』に、「顕見蒼生を、うつしき、あをひとくさ、という」とあり、これについて『私記』は、「顕見は、現に存在する意味」としている。したがって、「うつ」は「現」、「しき」は、「嬉し」「悲し」などの「しき」と同じ、語を作る部分だ。神武天皇紀には、「顕斎は、うつしいはひ、という」とあり、『続日本紀』巻十の宣命には、「うつしくも」などがある。
人々を、このように呼ぶのは、『日本書紀』で、大穴牟遅命が、「私の治める、現に見える事は、皇孫が治められよ。私は退いて、目に見えない事を治めよう」と仰せになるのと同じだ。この「幽事」は、前の文では「神事」と書くが、同じことである。こうして、目に見えない神の事に対し、「現に見える事」というように、目に見えず、あらわでない神に対して、あらわな世の人というのだ。中巻の末に、「神の仕方、人の仕方」とあるのも、世の人を、神に対していう。雄略天皇が、葛木の神の、姿を現して御覧に入れる事を、「うつしおみ」と仰せになるのも同じだ。また、師の説に、『万葉集』の「空蟬、うつせみ」は、借字であり、「うつそみ」などの形も、みな、現に見える身という意味だ、とある。「うつしごころ」「ゆめうつつ」などの「うつつ」も、みな同じ語である。
「青人草」というのは、次の文の、千人が死に、千五百人が生まれる、という意味で、草が、いよいよ盛んに生え茂り、広がる姿に譬えた名だ。特に「青」という所に、心を留めるべきである。『私記』が、貴人を木に、賤民を草に譬えるとする説は、誤りだ。そのため、この名は、神が、人の利益になる事をなさる場合と、人に損害を与えられる場合にだけ、必ず用いる名である。神が人を利するのは、千五百人が生まれる意味であり、損害を与えるのは、それに逆らい、妨げることだ。そこで、両方に、この名を用いる。古書をよく見渡して、注意を向ければ、私のいう事に、偽りのない事が、自ずと分かるだろう。
これは、中国でいう「蒼生」「黔首」などの意味とは、大いに異なる。決して、その漢字に惑わされ、意味を取り違えてはならない。『日本書紀』が、「蒼生」と書いたのは、たまたま、似た呼び名の文字を、借りただけなのである。
【宣長の注釈】「苦瀬」は、「くるしきせ」と読んでも、そういうことだが、やはり、師が「うきせ」と読まれたのがよい。「瀬」は、歌で、「嬉勢」「哀勢」「戀勢」「逢勢」「如是有勢」などのように用いる。この「せ」という語は、時間にも、場所にも用いる。時間の方は、長く経過する間の、人と会う時を指して、「逢ふ瀬」という。ほかの例も同じだ。場所の方は、川の瀬などである。川では、上から下へ、長く流れる間に、渡る所を指して、「瀬」という。古い歌に「渡り瀬」とあるのが、これだ。川は、浅い所を選んで渡るので、渡り瀬は、必ず浅い。そのため、そこから転じ、必ずしも渡る所でなくても、浅い所を「瀬」という。また、たぎつ瀬、早瀬なども、もとは、渡り瀬から出たのだろう。ずっと後世だが、西行の歌に、「この所を、せにせむ」とあるのも、ここを、その場所としよう、という意味だ。ここの「苦瀬」は、つらい事に遭うことをいい、時間と場所の、両方にわたる。〔訳注:挙げられた歌語は原文の表記を残した。各語の訓は未確定であり、特に「繼勢」の第一字は「續」の可能性も残る。〕
【宣長の注釈】「落」は、「沈む」と同じだ。一般に、悪い方へ向かうのを、「落ちる」「沈む」といい、よい方へ向かうのを、「上がる」「浮かぶ」という。
【宣長の注釈】「患惚」の「惚」を「惣」「摠」と書くのは、みな誤りだ。ある本や『先代旧事本紀』の、ある部首に従う字形がよい。火遠理命の段の「惚苦」も同じで、どちらも「くるしむ」と読むべきだ。天智天皇紀の童謡には「愛倶流之衞……阿例播倶流之衞」と詠んでいる。「惚」は「憁」の俗字だとあり、字書に「憁侗」は、志を得ないこと、思うようにならないさまとある。また「倥偬」にも、志を得ないという説明がある。そのほか、通わせて書く語について、困窮すること、切迫すること、苦しむことともいい、「恫」にも、痛むこと、うめくことという説明がある。〔訳注:比較する「惚」等の細かな字形、部首を記す一字、童謡冒頭の「愛」は未確定である。比較字は仮採録し、部首の字は原文で〓とした。童謡は音仮名を残し、未確認の訓や意味を補っていない。〕
【宣長の注釈】「可助」は、「たすけてよ」と読むべきだ。前の「私を助けたように」を、ここに掛けて読むべきで、今、私を助けたように、助けよ、ということだ。桃が、後世までも、鬼やもののけを避けるのは、この大神の仰せによる。中国の書物にも、桃に、そのような効能がある事を、あれこれ記すのを見ると、わが国だけでなく、外国の末々までも、この大神の仰せの、しるしがあった事が分かり、たいそう尊い。
【宣長の注釈】「おほかむづみ」は、「大神の実」だと、谷川氏はいっている。そうでもあろう。ただし、「大神」と続けた語ではなく、「神つ実」に、「大」という言葉を添えて、称えたのである。この名は、その不思議な働きを褒め、このように、神と称えて、授けられたのだ。「づみ」の意味は、もう一つの考えもある。それは、伝の巻七、五十五葉と五十七葉で述べる。
【古事記本文】最後に、妻の伊邪那美命ご自身が追ってこられた。そこで伊邪那岐命は、千引の岩を黄泉比良坂に引いて道を塞がれた。その岩を間に置き、お互いに向き合って立ち、夫婦の縁を切る言葉を交わされた。その時、伊邪那美命が申し上げられた。「愛しいあなた、私の夫よ。そんなことをなさるのなら、あなたの国の人々を、一日に千人、絞め殺しましょう」。伊邪那岐命は仰せになった。「愛しいおまえ、私の妻よ。おまえがそうするなら、私は一日に千五百の産屋を建てよう」。このため、一日に必ず千人が死に、一日に必ず千五百人が生まれるのである。そこで、この伊邪那美命を、黄泉津大神と呼ぶ。また、伊邪那美命が追いついてこられたことから、道敷大神とも名づけるという。「斯伎斯」の三字は音を表す。黄泉坂を塞いだその岩を、道反大神と名づけ、また塞坐黄泉戸大神ともいう。この黄泉比良坂という所は、今、出雲国の伊賦夜坂と呼んでいる所である。
【宣長の注釈】「最後」は、畝傍の白檮原宮の段にある御歌の「いやさきだだる」という言葉によって、「いやはつ」と読むべきだ。その歌の前の文章には、「最前に立つことを知る」とある。『拾芥抄』の人名の文字を挙げた中でも、「最」を「彌」の下に載せている。「いや」という語については、その御歌の所、伝巻二十の二十六葉で述べる。大穴牟遅神の段にも、「最後に来る」とある。『枕草子』の「さいはての車」は、最後の車のことだ。その頃は、「最」の字を音読みでいったのだろう。また、今「最前」と音読みするのも、もとは「いやさき」という言葉から出たのだろう。「はつ」とは、何事でも終わりのことをいうので、今も昔も同じである。
【宣長の注釈】「身自」は、「みみづから」と読むべきだ。普段は、「自」の一字を「みづから」と読むが、「おのづから」は「己つ自」、「てづから」は「手つ自」、「くちづから」は「口つ自」である。このような言い方からすれば、「自」は「から」で、「みづから」は「身つ自」だ。ここでは「みみ」と重ねて読む。最初の「み」は、尊敬を表す「御」である。
【宣長の注釈】「千引石」は、「ちびきいは」と読むべきだ。「ちびきの」と、「の」を入れずに読むのが、古語の形である。『日本書紀』に「千人の引く所の磐石」と書いているのは、その名の意味を明らかにしたのだ。『万葉集』巻四に、「私の恋は、千引の石を七つほども首に掛けようというほどだ」とある。『和名抄』は「ちびきのいし」とし、『私記』も同じだ。こうはあるものの、「石」は「いは」と読むのがよい。また、この記の中には、「五百引石」というものも出てくる。
【宣長の注釈】「引塞」は、「ひきさへ」と読むべきだ。「さへ」は、妨げるようにする、ということだ。「はらせ」を縮めると「へ」になる。「令合」を「あへ」というのと同じ形である。後の方にも、「五百引石を取り、その部屋の戸を塞ぐ」とある。「引」と「取」は、ただ同じことである。前に、櫛の歯を「引き欠く」とも、「取り欠く」ともあるのと同じだ。このようにして、追ってこられた女神を、お止めになったのである。
【宣長の注釈】「各対立而」は、「あひむきたたして」と読むべきだ。『万葉集』巻八に、「天の川、あひむき立ちて」、また同じ葉に、「川に向かひ立ち」などがある。『日本書紀』は、この箇所を「相向而立」と書いている。
【宣長の注釈】「度事戸」は、「ことどをわたす」と読むべきだ。『日本書紀』には、「妻との関係を絶つ誓いを立てる」と書き、その誓いを「ことど」という、とある。『私記』は、「『古事記』に『度事戸』とあるので、その文によって読む。『度』は、言葉を言い渡すようなものだ」とする。今の日常語で、人に受け持たせる事を言いつけるのを、「申し渡す」というのに、よく似ている。「引導を渡す」というのは、なおさらである。
『日本書紀』の漢字によって、大まかな意味は分かるが、「ことど」という語の詳しい意味は、明らかでない。そこで考えるに、その誓いの言葉を指していうのか。『日本書紀』の一書には、「族離」と誓い、また「不負於族」とある。〔訳注:この二句は誓いの原語を残した。具体的な訓と意味は未確定である。〕これが、「事戸」のお言葉なのだろうか。その次に、「掃いのけて生まれた神を、泉津事解之男と名づける」とあるのを考えると、「ことど」は、「こととけごと」の縮まった語でもあろうか。「解」は、昔から「さか」と読むが、そう読む確かな証拠も例もないので、「とけ」かもしれない。「とけごと」を二度縮めると、「と」になる。そして、「ご」の濁りを受けて、「ど」と発音するのだ。このような縮まり方は、かけ離れているようだが、「こと」と「と」が前後に重なるので、自然と、このようにも縮まりうる語の勢いなのである。
さて、この『日本書紀』の「妻を絶つ誓いを立てる」を、古くは「ことどわたる」と読んだ。しかし、そう読むのであれば、この記では、「度」の字が下にあるはずだ。それを上に書いているのだから、その読みではあるまい。師は、この記の箇所を、古い本のとおり「ことどにわたる」と読み、夫婦が同じ部屋に住んでいたのが、別れて別の戸へ移っていく意味だ、といわれた。けれども、この場の様子を考えると、そういう意味とも受け取りにくい。ただ、『日本書紀』の文字のように、夫婦の関係を断つ、証拠となる言葉と思われる。
『万葉集』巻十九に、「玉桙の道に出立つ私は、あなたの事跡を背負って行こう」とある。この歌は、家持卿が越中国から都へ上る時、餞別してくれた人に答えた別れの歌なので、ここも「事跡」とは、別れの言葉をいい、それを忘れず、心に持っていこうと詠んだのだろうか。そうならば、この「事戸」と、同じ言葉なのだろうか。ただし師の説では、この歌の「事跡」は、字のとおり「しわざ」と読むべきだという。餞別した人は、国の次官なので、「あなたの国での政務の実績を都へ持っていき、申し上げよう」と詠んだのだという。この説なら、この「事戸」とは、全く関係がない。けれども、「しわざを背負っていこう」というのは、どうも、腑に落ちない。なお、考えるべきだ。
また、大穴牟遅神の段の、天の詔琴の下、伝巻十の五十二葉に、もう一つの考えを述べた。併せて見るべきだ。〔訳注:師の訓の助詞に当たる字は「邇」と仮に読み、「に」を補った。「邇」と「通」の細画の判別は確定できない。〕
【宣長の注釈】「言」は、「まをしたまはく」と読むべきだ。この段では、女神の言葉には、前にも「白」の字を書いている。また、鎮火祭の祝詞でも、男神に向かって仰せになる所は、みな「申し給ふ」とあるからだ。最後に、独りで仰せになる所では、「宣」と書いている。
【宣長の注釈】「このようにする」とは、岩を引いて道を塞ぎ、夫婦の縁を切る言葉をお渡しになることをいう。
【宣長の注釈】「おまえの国」とは、この、現に見える国を指す。そもそも、ご自身がお生みになった国を、こう、他人のもののように仰せになる。生と死の隔たりを思えば、それも、悲しいお言葉であったのだ。
【宣長の注釈】「千頭」は、「千人」というはずの所を、このように仰せになるのは、「絞る」という行為に結びついた言い方である。同じ事を、次には「千人死ぬ」といっているのと、併せて考えるべきだ。『日本書紀』では、生まれる方まで「千五百頭」と書いているのは、どうしたことだろう。ただ、文章の形にとらわれ、古語をお考えにならなかったためのことである。
【宣長の注釈】「絞」は、『字鏡』に、「縊は、絞ること、首をつること。くびる」とあり、首を絞めて殺すことをいう。中国の歴代の死刑にも、「絞」というものがある。『周礼』の「磬」も、これである。ここで、ただ「殺す」とせず、「絞め殺す」とあるのは、大昔、人を殺すには、もっぱら首を絞めたのだろうか。また、殺し方にはさまざまあるが、どれも体を傷つけるのに、絞める時だけは、傷つけない。神がお殺しになるのも、その跡がはっきり見えないので、このようにいうのだろうか。
【宣長の注釈】「そうする」とは、絞め殺すことを指す。前では「為如此」、ここでは「為然」というのは、文章を変えただけではない。一般に、「かく」と「しか」は、細かくいえば違う。「かく」は、自分に関わる事や、今、目の前にある事を指す。「しか」は、向こうの人や物に関わる事や、その言葉、出来事などを指す。「これ」と「それ」の違いのようなものだ。文章で、前の事を受けていう時にも、この区別がある。しかし、「如是」と「然」を通わせていうことも、この記の中にある。『万葉集』巻四の、「我が背子が、かく恋ふれこそ」などは、「然」というべき所を、「如是」といっている。
【宣長の注釈】「吾」は、「あれはや」と読むべきだ。白檮原宮の段の御歌に、「われはやゑぬ」とある、言葉の調子に似ているからだ。「われはやゑぬ」は、「私は飢えた」という意味で、「や」は、調子を助ける言葉である。
【宣長の注釈】「産屋」については、後の方に、その事が出てくる。その箇所、伝巻十七の六十四葉で述べる。ここで、ただ「産む」と仰せにならず、わざわざ「産屋を建てる」と仰せになるのは、上代には、子を産むことを、そういうのが習わしだったのだろう。『栄花物語』根合の巻に、「大将殿も、女御のご出産は四月なのに、まだこの二月三月も過ごされないうちに、そうなってしまわれたことを、たいそう残念に思い、嘆かれる」とある。ここでも、ご出産のことを、「御うぶや」といっている。〔訳注:引用中の「今二月三月をすぐさせたまはずなりぬる」は前後の省かれた句であり、誰に何が起きたのかは、この注だけから確定せず留保する。ここでは「御産屋」が出産を指す例として挙げられている。〕
【宣長の注釈】前の「殺」は、「ころさむ」、ここの「立」は、「たててな」と読むべきだ。中巻の忍熊王の歌に、「かづきせなわ」とある。これは、「潜ろう、私は」の意味である。『日本書紀』崇神天皇紀の歌に、「いでづゆけな」とあるのは、「出て行こう」、神功皇后紀の歌に、「いへあはなわれは」とあるのは、「さあ会おう、私は」の意味だ。『万葉集』巻一の「いざ結ひてな」は、「さあ結ぼう」、巻二の「君に因なな」は、「あなたに頼ろう」、また「玉藻刈りてな」は、「刈ろう」の意味である。これらは、「む」というはずの所を、「な」といっている。「てむ」を「てな」、「なむ」を「なな」というので、古語の一つの形である。このように、お互いに仰せになるのは、ただ、数が多いことをいっているのであって、必ず千と千五百の数に限るというのではない。
【宣長の注釈】「千人」は「ちひと」、「千五百人」は「ちいほひと」と読むべきだ。人の数を、「ひとり」「ふたり」「みたり」「よたり」などというのは、みな古語である。高津宮の段の歌に「ひとり」、神武天皇紀の歌に「赴儺利」、また「夜儺利」などがある。ただし、三人、四人などの形からいえば、一人、二人も、「ひとたり」「ふたたり」というはずなのに、この二つだけを「ひとり」「ふたり」というのは、「ひとり」では「た」を省き、「ふたり」では「たた」を縮めて「た」というのだ。神武天皇紀で、人を「毘儺利」とするのも、「とた」を縮めて「な」としたのである。そこの「駄儺」などの仮名によれば、どれも「と」「た」を濁らせるべきかとも思われる。しかし、この記に「ひとり」とあるので、それにならい、どれも普段いうとおりに読むべきだ。
以前はまた、『日本書紀』に、「五婦人」を「いとりのをむな」、「五人」を「いとり」などと読む所があるので、この「とり」を正しい読みとすれば、それは「ひとつの座」を縮めた語で、一人は一座、二人は二座、三人は三座、四人は四座なのだろうか、と考えたこともあった。「座」というのは、神を「幾座」と数えることに基づく。しかし、この「とり」という読みは、「ひとり」にならって、後から設けた言葉であろう。多い数をいう時は、神武天皇紀の歌に、「愛瀰詩烏毘儺利、毛々那比苔」とあるように、数に「ひと」を付けていったのだろう。この歌は、蝦夷は、一人で百人に相当する、という意味だ。そうであるから、『日本書紀』の「醜女八人」、垂仁天皇紀の「〓百人」などの読みも、古語なのだろう。〔訳注:「赴儺利」「夜儺利」「毘儺利」などの音仮名は原字を残し、各訓は未確定とする。垂仁天皇紀の例で「百人」に先立つ字列も未確定のため〓とした。〕
【宣長の注釈】「死」は、「しに」と読むべきだ。雄略天皇紀の歌に、「いのちしにまし」とあり、『万葉集』にも、数え切れないほど例がある。古語である。「しに」は、過ぎ去ることだ。「すぎ」が縮まって「し」となる。「しぬる」は、過ぎ去ることだ。それなのに、「しに」を、「死」の漢字の音だと思うのは、誤りである。
【宣長の注釈】「生」は、「あれ」と読む。世の中で、毎日、死ぬ人よりも生まれる人が多いのは、今の、このお言葉によっている。大祓の祝詞にも、「国の中に生まれ出る、天の益人たち」とあり、「青人草」というのも、この意味であることは、前に述べたとおりだ。およそ、人が死ぬのは、黄泉の神のなさることである。人々に害を及ぼす、さまざまな悪い事は、禍津日神の仕業だ。その神は、黄泉国の穢れからお生まれになったのだから、その根本をたどれば、ここで「千人を絞め殺そう」と仰せになったお言葉の実現なのである。人が生まれ出るのは、伊邪那岐大神のおかげである。中国では、この伝えを知らずに、「天命」などというが、それは、聖人の口実の言葉に欺かれ、また、根拠のない理屈を信じる、誤りなのである。
【宣長の注釈】「千五百人なも」と読む。「なも」は、『続日本紀』の宣命などに非常に多い言葉で、後世の文章で「なむ」というのが、それである。「なむ」は、「なも」の変化した形だ。
【宣長の注釈】「黄泉津大神」は、「よもつおほかみ」と読むべきだ。「つの」と、「の」を加えて読むのは誤りである。一般に、助詞の「つ」の後に「の」をいう例がないことは、前にも述べた。
【宣長の注釈】「またいう」とは、もう一つの、異なる伝えを挙げたのである。
【宣長の注釈】「しきし」は、追いついた、ということだ。最後の「し」は、過去を表す。仁徳天皇の御歌に、「夜麻斯呂邇、伊斯祁登理夜麻、伊斯祁伊斯祁、阿賀波豆摩邇、伊斯岐阿波牟迦母」とある。〔訳注:この引用歌は音仮名を残した。「登理夜麻」の具体的な意味と、歌全体の訳は留保する。〕「いしけ」の「い」は、言い出しの添え言葉で、「しけ」は、及ぶことだ。「け」は、そうせよという、言いつけの形である。道を追って到達することを、古語では「しく」という。今いう、追いつく、という意味だ。それは、後ろから続いて重なることなので、『万葉集』の歌などに、「しきなみ」、また、波が「しくしく」などと多くいうのと、もとは同じ語であろう。今も、物の優劣をいう時、「及ぶものがない」「及ばない」などの言葉が残っている。ここでは、伊邪那美命が、黄泉比良坂で、男神に追いついてこられたことをいう。
【宣長の注釈】「道敷」の「道」は、普通は「みち」とだけ読むが、もとの言葉は、ただ「ち」で、「みち」は、「御」を添えた言い方である。この記に「味御路」などとあるのも、それである。必ずしも敬うためとは限らず、地名でも何でも、「御」を添える例は多い。「敷」は借りた字で、すぐ前の「及ぶ」という意味だ。『日本書紀』には、「また、その履物を投げた。これを千敷神という」とあり、伝えが異なっている。
【宣長の注釈】「黄泉坂」は、「よみのさか」と読むべきだ。これは、『風土記』によったもので、後に引用する。師は、「亦所塞」の「亦」は、なくてよく、「黄泉坂」の「坂」の前には、必ず「比良」の二字があるはずだ、といわれた。しかし、どちらも、あっても、なくても差し支えない。
【宣長の注釈】「道反」は、女神を塞ぎ止め、お返ししたための名である。
【宣長の注釈】「塞坐黄泉戸大神」は、「さやります、よみどの、おほかみ」と読むべきだ。延佳が、「黄泉の戸に塞ぎ坐す」と読むのは、『日本書紀』に「泉門塞大神」とあるためだが、神名を逆の順に返して読むよう書いた例はないので、誤りだ。「葺不合命」は、自然と、こう書くはずの文字なので、同じようにはいえない。
さて、前の「引塞」の「塞」は「さへ」、「所塞」は「さやれりし」、ここの「塞坐」は「さやります」と読むべきだ。まず、最初のものは、この岩を用いて道を塞ぐ伊邪那岐神の行為なので、「さへ」と読む。後の二つは、塞いでいる岩のことをいうので、「さはり」を「さやり」という形になる。同じ語でも、人がすることと、自然にそうなることとでは、違いがある。「さはり」を「さやり」というのは、白檮原宮の段の歌に、「鷸はさやらず」「鯨さやる」、『万葉集』巻五に、「奈爾可佐夜禮留」、また「子らにさやりぬ」などとあるのによって、読んだのだ。これによれば、この語は、ヤ行とハ行の二つの行で活用するらしい。「さやり」は、人がする時には、「さえ」と活用するはずだが、そのように書く例をまだ見つけないので、最初の「塞」は、「さへ」と書いた。これは、「さはり」の活用した形だ。後の、船戸神の所でも述べる。
『延喜式』御門祭の祝詞に、「四方の内外の御門に、湯津磐村のように、塞がっておられ……」とある。この続きは、後の禍津日神の所に引用するので、併せて考えるべきだ。祈年祭、月次祭、道饗祭などの祝詞にも、この文がある。さらに、後の石窓神の所、伝巻十五の三十一葉も、考え併せるべきだ。「黄泉戸」は、あの比良坂のことをいい、『日本書紀』に「泉門」とあるように、黄泉国に入る門である。〔訳注:「奈爾可」の「爾」は仮採録で細画が未確定であり、祝詞引用の末字も確定できないため原文を〓とした。短い引用例は前後が省かれているので、全句の意味や「子ら」が指す人を補っていない。〕
【宣長の注釈】「所謂」は、「いはゆる」と読むべきだ。古語である。この言葉を、漢籍の訓読にあるものとしてばかり見慣れて、古語ではあるまいと思うのは、かえって、誤りだ。古語が、漢籍の訓読に残っていることも多い。「いはゆる」は、「いわれること」という意味である。「るる」を「ゆる」というのは、古語の形だ。「いわれること」とは、前にいった事を指す。また、前の文にはなくても、世間でいい慣らわしていることを指す場合もある。
【宣長の注釈】「伊賦夜坂」は、『延喜式』神名帳に、出雲国意宇郡の揖夜神社とある、その場所だ。この神は、『日本三代実録』巻十四と巻二十にも出ており、『風土記』では、伊布夜社と書いている。斉明天皇紀の五年に、「この年、出雲国造に命じ、神の宮を厳かに整えさせた」とあり、「犬が死者の腕をくわえ、言屋社に置いた」とある。その割注には、「言屋は、いふや、という。天子が亡くなられる兆しであった」とある。特に、この社で、崩御の兆しがあったことを、この段と考え合わせるべきだ。
さて、この文章には、二通りの受け取り方がある。一つは、「黄泉平坂という所は、出雲の伊布夜坂のことである」と、今の人がいう、という意味だ。その場合は、「伊賦夜坂なりといふ」と読むべきである。もう一つは、この黄泉平坂を、今は、出雲の伊布夜坂と名づける、という意味だ。この場合、「出雲国之」という書き方は、どうかとも思われるが、都での言葉なら、そうもあろう。
『日本書紀』に、「ある説では、泉津平坂というのは、別にそういう場所があるのではない。ただ、人が死に際して、息の絶える時をいうのだろうか」とあるのは、利口ぶった後世の人の書き足しで、論ずるに足りない。たとえ編者自身の言葉でも、古い伝えではなく、自分の推測であることは明らかだ。それなのに、世の学者が、ひたすら、こういう意味を好み、さらに、さまざまな根拠のない理屈を説くのは、どれも、煩わしい漢籍流の癖である。ただ、この記の古い伝えに従って、理解するべきだ。
この伊賦夜坂が、黄泉平坂であるというのは、その時、伊邪那岐神が、黄泉から帰り上られ、この地へお出になったのだろう。また、『出雲国風土記』出雲郡宇賀郷の所に、「北の海辺に磯がある。磯の西に洞窟があり、その入口は、高さも幅も六尺ほどである。洞窟の中に穴があり、人が入れず、深いか浅いか分からない。夢に、この磯や洞窟の辺りへ行った者は、必ず死ぬ。そのため、昔から今まで、土地の人が、黄泉の坂、黄泉の穴と呼んでいる」とある。これは、伊賦夜坂とは、はるかに離れた別の場所だが、ここも、黄泉へ通じる、一つの道なのだろう。こういう事を、世の利口ぶった人々は、たいそう愚かなことと思うだろう。しかし、そのように愚かに聞こえる事に、かえって、底も知れない深い道理があるものだ。その道理を、人が、どうして知り尽くせようか。
【古事記本文】そこで、伊邪那岐大神は仰せになった。「私は、なんとも、醜く汚れた国へ行っていたものだ。だから、私は、自分の身を清める祓いをしよう」。こうして、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原へ出向かれ、禊と祓いをなさった。「伊那志許米志許米岐」の九字は音を表し、最初の「米」には「上」と注が付く。「祁理」の二字、「阿波岐」の三字も、音を表している。
そこで、投げ捨てた御杖から生まれた神の名は、衝立船戸神。次に、投げ捨てた御帯から生まれた神の名は、道之長乳歯神。次に、投げ捨てた御裳から生まれた神の名は、時置師神。次に、投げ捨てた御衣から生まれた神の名は、和豆良比能宇斯能神。この神名は、音を表した文字である。次に、投げ捨てた、御褌から生まれた神の名は、道俣神。次に、投げ捨てた御冠から生まれた神の名は、飽咋之宇斯能神。「宇」以下の三字は、音を表す。
次に、左の御手の、腕に巻いた手纏を投げ捨てられ、そこから生まれた神の名は、奥疏神。「奥」は「おき」、「疏」は「さかる」と読み、以下も、この読みにならう。次に、奥津那芸佐毘古神。「那」以下の五字は、音を表し、以下も同じである。次に、奥津甲斐弁羅神。「甲」以下の四字は、音を表し、以下も同じである。次に、右の御手の手纏を投げ捨てられ、そこから生まれた神の名は、辺疏神。次に、辺津那芸佐毘古神。次に、辺津甲斐弁羅神。
以上、船戸神から、辺津甲斐弁羅神までの十二柱は、身に着けた物を脱ぎ捨てることによって、生まれた神である。
【宣長の注釈】「是以」は、前に述べた事を、広く受けて、こういったのである。
【宣長の注釈】「大神」。ここで初めて、この神を大神と申し上げるのは、何か理由があるのだろうか。後の方に、「大御神」ともあるのにならい、ここも「おほみかみ」と読んだ。
【宣長の注釈】「いな」は、辞退する時の「いな」などと同じ言葉で、ここでは、憎み、嫌がるお言葉である。『日本書紀』で、「不須也」と、「也」を添えているのは、まことに、その意味がある。ひとまず、そこで言葉を切って、理解するべきだ。
【宣長の注釈】「しこめ」は、前の「しこめ」という女の名とは別だ。女を表す仮名には、「賣」とだけ書き、「米」とは書かない。この記の書き方では、一つも混同がない。ここの「め」は、つらい事、苦しい事に遭うのを、「憂き目を見る」「辛い目を見る」などという、その「目」である。日常語で、「何々の目に遭う」ともいう。それで、『日本書紀』では、「凶目」と書いている。「米」の下に「上」と注しているのは、次の「めき」の「米」とは別に、上声で読め、ということだ。「目」は、今は平声だが、その時代、「しこめ」という時は、上声だったのだろう。
「しこ」は、前の「しこめ」の「しこ」と同じで、醜いという意味だ。『万葉集』には、「鬼乃益卜雄」「鬼乃志許草」「志許霍公鳥」「鬼之四忌手」「之許都於古奈」などとある。そこの「鬼」を「おにの」と読むのは誤りだ。「醜」の偏を省いたのか、または、醜女という意味から「鬼」と書いたのか、どちらであっても、「しこ」である。これらは、みな、その物を憎み、ののしって、「しこ」というのである。ここも、黄泉国の汚れた様子を御覧になったことを、「ひどい目」といっている。「目」は、御覧になったことに基づく言葉だ。〔訳注:第一例の「益」と「雄」の間には一字があり、「卜」と仮に採録した。片仮名の「ト」とも同形で、用法と訓は未確定である。引用例の各訓も、確定できないものを補わず原字で示した。〕
【宣長の注釈】「しこめき」の「岐」は、「伎」の書き誤りか。これは、黄泉の様子を、直接指して仰せになるので、述語であり、「め」の意味も、前のものとは違う。「めき」は、「めかむ、めき、めく、めけ」と活用する言葉だ。「ひらめく」「ひしめく」「ささめく」「なまめく」など、多くいう「めく」の活用したもので、その様子をいう言葉である。
『日本書紀』には、「不須也凶目汚穢、これを、いなしこめききたなき、という」とある。これは、この記と照らしてみると、「梅」の字の下に、もう一つ「之居梅」の三字があったのが、脱けたのだ。その理由は、名詞の「目」を「めき」という形にして、述語として使う道理がないからである。これは、後世の利口ぶった人が、同じ言葉の繰り返しを、不用意に、余計な字と考え、三字削ったのだろうか。あるいは、同じ文字が重なる所は、何となく脱けやすい。また、「枳」の一字が余計なのかとも思われるが、なお、この記と照らし合わせて、判断するべきだ。「汚穢」の二字を、「しこめききたなき」と読むべきである。
また、天忍穂耳尊の、天降られる所に、「不須也頗傾凶目杵之国」とある。その「頗傾」というのが、ここの「凶目」に当たり、「凶目杵」が、「汚」に当たる言葉の調子である。しかし、「目杵」という書き方は、どうも、腑に落ちない。
【宣長の注釈】「在りけり」は、その事を、嘆息する意味のある言葉だ。
【宣長の注釈】「御身」は、「おほみま」と読むべきだ。『貞観儀式』の、天皇のお体についての卜占を奏上する条に、「宮内省が申します。御体について、御卜に奉仕する件を申し上げようと、神祇官の誰それが、控えております、と申す」とあり、「御体」は、「おほみま」という、と注している。「四時祭式」と「宮内省式」にも、同じように見える。それによったのだ。「身」は、古語で、「む」とも多くいうから、「ま」ともいったのだろう。〔訳注:「おほみま」の「ま」に用いる原字は、「麻」ではなく「麼」の候補として仮採録した。三箇所とも下部の細画は未確定である。〕
【宣長の注釈】「禊」は、ここでは、「はらひ」と読むべきだ。その理由は、後に詳しく述べる。さて、「はらひ」と「はらへ」とは、もともと違う。「はらひ」は、自分ですることをいい、「はらへ」は、祓いをさせる、という言葉の縮まったもので、人にさせることをいう。「はせ」を縮めて「へ」とする。このことは、伝巻四の、「あへ」は、合わせるようにすることだ、といった所で、すでに詳しく述べた。罪や咎のある人に負わせる祓いなどが、それである。これは、人に祓わせるのだ。『日本書紀』に、「祓具を、はらへつもの、という」とあるのは、須佐能男命に負わせて、させる祓いのための品々だからである。『万葉集』巻十七に、「敷等能里等其等伊比波良倍」と詠んでいるのは、罪人に負わせる祓いではないが、人に相談し、させる祓いなのだろう。『伊勢物語』に、「陰陽師や、かんなぎを呼んで、恋をしないように、という祓いをして、出て行った」とある、あのようなものなのだろう。〔訳注:引用冒頭「敷等」の訓と意味は未確定のため、引用は音仮名の字列を残した。注は、この中の「伊比波良倍」を、人に祓わせる場合の例としている。〕
【宣長の注釈】「為」は、「せな」と読む。「せむ」、しよう、というのと同じだ。前に詳しく述べた。
【宣長の注釈】「日向」には、二つの意味が考えられる。一つは、「ひむかひの」と読み、日の当たる土地をいう。竜田の風神を祭る祝詞に、「我が宮は、朝日の日向く所」とあり、『万葉集』巻十三にも、「美濃の国の、高北の、くくりの宮に、日の向かふ」などとあるように、上代には、日の当たる土地を褒め称えることが多かった。そのことは、後に、「朝日の直刺す国」とある所、伝巻十五の八十五葉で、詳しく述べる。この禊をなさったのも、そのような土地だったのだろう。この時は、まだ日がなかったけれども、これは、伊邪那岐神の仰せになった言葉ではないので、差し支えない。この土地が、後に、たまたま日の当たる所だったため、褒め称えて、こういうのである。「橘」という物も、後に、外国から渡ってきた物なのに、ここの地名に用いているのと同じだ。この考えによれば、「竺紫」は、筑前と筑後の地域のことでもあろう。
もう一つは、「ひむかの」と読み、日向国のこととする考えである。この国名は、推古天皇紀の御歌に、「ひむか」とあり、「武」は、必ず「む」を表す仮名なので、昔は、字のとおり、そう発音したのだ。『和名抄』に「ひうか」とあるのは、後に、音便によって崩れたものだ。大和の「たむの峰」を、後には「たうの峰」というのと同じで、ほかにも、中古以降、「む」を「う」に変えていう語は多い。こう名づけた由来は、景行天皇紀にあり、伝巻五の十三葉に引いたとおりである。そう名づけた土地は、もとは肥国の内だったが、ここでは、やや後に、国全体の名となったことに基づいていっている。この考えによれば、「竺紫」は、九国の総称だ。
この二つの考えは、どちらがよいか決めかねるが、神功皇后紀に、ここを「日向国の橘の小門」としているのを頼りに、ひとまず国名の方を採り、「ひむか」と読んだ。神功皇后紀の所も、「ひむかひの国」と読めるものの、やはり国名と受け取られるためである。
【宣長の注釈】「橘の小門」は、『日本書紀』の火折尊の段にも、この地名があり、同じ所なのだろう。しかし、日向国には、この地名が、書物に見当たらない。昔は、大隅、薩摩の土地まで含めて、日向といったが、それらの国にも、全く見当たらず、今も、聞くことがない。ただし、日向国に、今、確かに、この旧跡があるという。しかし、古書に基づき、旧跡を設けて作ることは、世の中に多いので、軽々しくは信じ難い。だから、「日向」が日向国を指すのであれば、後に、この地名が失われたのだろう。もし、日の当たる土地をいうのであれば、九国の中で探すべきだ。
貝原氏の説では、筑前国糟屋郡に、立花という所があり、席田郡にも、早良郡にも、青木村という所があって、海辺だという。確かに、この禊で生まれた墨江大神も、志賀海の神も、鎮座されているのは、どれも、その国なので、理由があるように思われる。「小門」も、地名ともいえるけれども、貝原氏は、その青木村の辺りに、「小戸」という所もあるといっている。『日本書紀』に、「粟門と、速吸名門を見に行ったが、この二つの門は、潮の流れがあまりに速かった。そのため、引き返して、橘の小門で、祓い清められた」ともあるので、ただ、小さな水門、すなわち、川の河口だったのだろう。水門については、前に述べた。『万葉集』には、明の大門という例もある。『日本書紀』に、「小戸橘」とあるのも同じだ。「をどの」と読むのは、よくない。小門にある、「橘」という地名なので、その小門を、橘の小門といったのだ。
【宣長の注釈】「阿波岐原」は、「岐」を濁らせて読むべきだ。濁らずに読むのも、「の」を添えて読むのも、よくない。『日本書紀』では、「檍原」と書き、「檍は、あはぎ、という」とある。『和名抄』には、「『説文』では、檍は、梓の類である。『日本紀私記』では、あはぎ、という。今、考えるに、橿の木の別名でもあり、『爾雅』の注に見える」とある。それならば、この木は、今の世で「あをき」という物ではあるまい。さらに、よく調べるべきだ。『続古今集』の卜部兼直の歌には、「あをきがはら」とあるが、それも、古本では、「あはきがはら」とある。これも、固有の地名ではなく、松原、檜原、柳原、柞原などのように、ただ、その木が多く生える土地をいったのだろう。『和名抄』には、筑前国下座郡や、筑後国三潴郡などに、青木という郷がある。
【宣長の注釈】「到坐」は、「伊傳方志」と読むべきだ。〔訳注:第三字は「方」と仮に採録した。「万」と分ける細かな一点を判別できず、訓も留保する。〕
【宣長の注釈】「禊祓」は、「みそぎはらひたまひき」と、二字とも、動作を表す言葉として読むべきだ。前にあった「禊」の字は、「はらひ」と読んだ。それは、「御身の」とあるので、「みそぎ」といえば、「身」の意味が重複するからだ。「御手の手纏」というのと同じで、それも、ひどく悪いわけではないが、あそこは、やはり「はらひ」としておきたい。その「はらひ」も、そのまま「みそぎ」であり、行っていることは同じである。
「みそぎ」は、身をすすぐことだ。後の文章の、「水に潜ってすすぐ」を始め、『日本書紀』には、「私の身の汚れを洗い去ろう」「身についた汚れを洗い清めよう」「その穢れと悪いものをすすぎ除こう」などとあり、『万葉集』にも、「潔身」「身祓」などがあることから、分かる。普段は、「沃」「注」などを「そぐ」と読み、「そそぐ」と「すすぐ」は、少し違うように聞こえる。しかし、「浣」「滌」「濯」「盪」「浴」「洒」なども、「そぐ」とも「すぐ」とも読んで、ただ、同じ語である。「すずろ」と「そぞろ」を通わせていうのと同じだ。倭比売命の御裳が、長くて汚れたのをお洗いになったため、「御裳濯川」と名づけたことを思うと、「すそぐ」ともいったのだろうか。その「濯」を、『世記』では、「須曾」と書いている。下巻の歌には、「美那曾々久美能袁登賣」とある。この「そそく」も、同じ語である。
今も、喪が明けた時などに、海や川の辺りへ出て身を清め、また、「こり」といって水を浴びるのは、どれも禊の意味合いだ。「こり」は、「川降り」の縮まった語で、「垢離」の字を書くのは、論ずるに足りない。また、月経の期間を終え、身を清めるのを、伊勢では、「かりやすぎ」「たやすぎ」ともいう。これも、「過ぎる」ではなく、「禊」なのだろう。「はらひ」は、「払う」ことだ。『日本書紀』でも、「拂濯」と書いている。また、人に負わせる祓いなどを、「祓除」「洗」とも、通わせていっている。今、物を買って、その代価を出すのを、「払う」「払いをする」というのは、「祓除」の「除」などにも、その意味がある。また、これを「すます」というのも、祓いの意味に通じる。
「禊」も「祓」も、普段は名詞としてだけいうが、もとは、動作を表す言葉である。「祓」は、もとよりそうだが、「禊」も、『万葉集』巻三に、「天の川原に出て、身を清めていればよかったのに」、巻六に、「菅の根を取って、しのぶ草で祓い、流れる水で禊をしておけばよかったのに」とある。『浜松中納言物語』にも、「恋しさを、みそげど、神が受け入れないからか、心の中は、すっきりすることもない」と詠んでいる。履中天皇紀にも、「祓禊をさせる」とある。
「みそぎ」は、必ず、水辺に出て行うものに限っていう。古書は、どれもそうで、「禊」の漢字にも、その意味がある。「はらひ」は、水辺でするものも、そうでないものも、広くいう名だ。だから、朱雀門前の大祓や、人に負わせる祓いなどは、「みそぎ」とはいわない。水辺の禊を「はらひ」ともいうのは、普通である。天皇、皇后、斎王などの場合を「禊」、普通の人の場合を「祓」というようなことは、後世の呼び分けとしてなら、そうもいうだろうが、昔の本来の意味ではない。こうして、先に「禊祓いなさった」といっておき、次に、その内容を詳しくいうのは、文章の書き方である。『源氏物語』などには、この形が多い。〔訳注:下巻歌の引用「美那曾々久美能袁登賣」は、画像に合わせて原字を残した。この短い引用だけから全句の意味を確定できず、特に前句の具体的な意味は留保する。〕
【宣長の注釈】「於投棄御杖」は、「なげうつる、みつゑに」と読むべきだ。誓約の段に、「吹き捨てる息の狭霧に」とあるのと、同じ言葉の調子だからだ。後に続くものも、みな同じである。「棄」を「うつる」と読むべき理由は、伝巻七の五十葉と、巻十一の三十七葉にある。『和名抄』の旅の道具の所にも、「杖の和名は、つゑ」とある。
【宣長の注釈】「衝立船戸神」の「衝立」は、人が立てる意味なら、「つきたつる」と読むはずだが、ここは、自然と立っている意味なので、「たつ」と読むべきだ。「たち」とも読めるが、前の「塞坐」の言葉の形によって、「たつ」と読む。『日本書紀』には、「十握の剣を抜き、逆さに地面へ立てる」ということもある。
「船戸神」は、『日本書紀』では、あの、縁を切る言葉の次に、「これから、こちらへ来るな、といい、御杖を投げた。これを岐神という。岐神は、ふなどのかみ、と読む」とある。また、別の一書には、「御杖を投げて、ここから先へは、雷も、あえて来てはならない、といった。これを岐神という」とある。その割注に、「この神のもとの名は、来名戸の祖神という」とあるのは、次に引く祝詞によって、後世の人が書き加えた誤りだ。もとの名を差し置き、後の名を挙げる理由がないではないか。また、「祖神」が、「さへのかみ」と読むつもりで書かれたのなら、そうでもあろうが、今の読みのように「おほぢのかみ」なら、それも誤りだ。それは、「道祖」の「祖」を取り違え、「祖父」の読みを、神名に当てたのだろうか。さらに、「くなざのおほぢ」と続けて読む理由もない。
道饗祭の祝詞には、「大きな八方の道の分かれごとに、湯津磐村のように、塞がって坐す皇神たちの御前に申し上げます。八衢比古、八衢比売、久那斗と、御名を申し上げます。申し上げる言葉は、根国・底国から「麁備疎備」して来るものと、連れ立ち、口を合わせることなく、下り行く者については下を守り、上り行く者については上を守り、夜も昼も、守り、慎み奉ってください、と申し上げ、幣帛を奉ります」とある。この祭をなさる理由は、『令義解』に見える。
「くなと」は、そのまま、この神である。「ふ」は「経る」、「く」は「来る」だ。中巻の美夜受比売の歌に、「あらたまの、年が来経れば」とあるのは、来て、過ぎて行くことをいう。また、歌の「都紀波伎閇由久」、月は来経ゆく、とあるのも、来て、時が経ていくことをいう。このように、「来」と「経」を並べても、同じ意味になる。師の説では、「ふなと」は、物を突き立て、ここから来るな、と止める意味の名だという。『日本書紀』にも、その心が見える。「ふ」と「く」を合わせていえば、この場所を通って、来るな、という意味だ。「と」は、場所である。ここから来るな、と塞ぎ止める所に坐す神、という意味なのだろう。
『口決』『纂疏』などは、この神を道祖神といい、『和名抄』にも、「道祖は、さへのかみ」とある。「さへのかみ」は、あの祝詞の、「湯津磐村のように塞がり坐す」という意味で、塞ぎ止める神である。後に「さいのかみ」というのは、「さへ」が訛った語で、幸いを祈る意味とするのは、こじつけだ。「道祖」という漢字は、中国で、道を行く神を「祖」といい、また、その神を旅立ちに祭ることも「祖」というため、この「さへの神」に、当てて書いただけである。神名そのものの意味は、大いに違うので、漢字に惑わされてはいけない。また、『和名抄』に、「道神は、たむけのかみ」とあるのも、同じく、この神なのだろう。これは、旅人が幣を手向ける神なので、そう名づけるのだ。『日本書紀』には、経津主神が、岐神を道案内として、巡り歩いた、とある。〔訳注:祝詞の「麁備疎備」の具体的な訓義と、「事無互」の末字の訓・語法は未確定で、原語・原字を残した。「無互」を外部の通行本文から書き換えてはいない。〕
【宣長の注釈】「御帯」は、「みおび」と読むべきだ。武烈天皇紀の歌に、「大君の御帯」とある。「おび」は、「おぶ」という動作の言葉を、名詞にした名である。『万葉集』には、帯にしていることを、「おばせる」ともいう。また、序文にもあるように、この記で「たらし」という時は、必ず「帯」の字を書くので、ここも、そう読むのだろうかとも思った。しかし、「たらし」は、「おび」のことではなく、「弓矢を帯びる」などの、「帯」の意味なのだろう。御弓を「御執」というのを、「おほむたらし」ともいうのが、その理由である。また、まさしく帯を「たらし」と呼ぶ例も見当たらない。
また考えるに、武烈天皇紀の歌には、「大君の御帯の、しつはた結び垂れ」とあるから、「たらし」は、垂らせるという意味で、やはり帯を、そういうのかもしれない。しかし、決め難い。また、契沖は、俗に長いことを「長たらし」といい慣らわすのは古語が残ったのだろうかと述べ、「帯」は長い物をいうのだとしているが、その説は当たらない。
【宣長の注釈】「道乃長乳歯神」の「道」は、前の「道敷」「道反」、後の「道俣」などにならえば、「ち」と読むはずだが、ここは、やはり「みち」と読むべきだ。その理由は、『万葉集』で、遠い道のことを、「道の長手」と多く詠んでおり、「長乳」は、その「長手」と同じ語だからである。「手」は、「縄手」や、物の「鏡の手」などという時の「手」で、「道の行く手」などともいう。また、『日本書紀』には、「道之」という言葉がなく、ただ、「長道磐神」とあるので、「乳」も「道」で、「道の長道」なのだろうか。『万葉集』巻二十にも、「道の長道」とある。「歯」は、意味が分かり難い。「歯」も「磐」も、借りた字なのだろう。師は、「長乳歯」は、書紀に「長道磐」と書くから、あの道饗祭の祝詞の、「磐村のように塞がり坐す」働きを持つ神で、八衢比古、八衢比売のことだ、といわれた。しかし、どうだろうか。
この名の由来は、帯の形が、道の長手に似ているからだろう。『古今集』に、「下の帯の、道はかたがた分かるとも、行きめぐりても、逢はむとぞ思ふ」とある。下帯のように、道があちらとこちらへ分かれても、めぐり会おうと思う、という歌だ。契沖は、「下の帯」は「道」の枕詞で、この故事によるという。しかし、ここは、ただ、顕昭のいうように、帯が左右に分かれ、前で、また出会う、という心で詠んだように見える。『古今六帖』の紐の歌に、「奥山の、しげりに立て、迷ふとも、妹が結びし、紐を解かめや」とある。奥山の茂みに迷っても、妻の結んだ紐を解こうか、解くまい、という意味だ。契沖は、紐は二本あるので、道に迷った時に解いて、どちらへ進むか占うのだろう、という。紐と帯は同じなので、ここに由来がある。『夫木抄』に、為相卿が、「めぐり逢はむ、契りの末は、長乳歯の、神のしるべを、頼むばかりぞ」と詠んでいる。再会の約束の行く末は、長乳歯の神の案内を頼むばかりだ、という歌である。
【宣長の注釈】「御裳」は、『万葉集』巻二十で、「みも」と詠んでいる。『和名抄』に、「『釈名』によれば、上を裙、下を裳といい、和名は、も」とある。そもそも、「裳」は、女が着る物であり、男の服装についていう例が、古書に、全く見当たらない。礼服にあるものは、中国をまねたものなので、ここでは論じない。ここで「御裳」をいうのは、たいそう疑わしい。『日本書紀』には、ここで、御裳と御冠の話がないのも、何か理由があるのだろうか。
また考えるに、『和名抄』には、「褌の和名は、すましのもの、または、ちひさきもの。『唐韻』では、松は、小さい褌である。『漢語抄』では、松子を、ものしたのたふさき、という」とある。ここで「褌」と「松」の和名を別々に挙げていることから考えると、「松」は、褌の内側に着る物で、今いう下帯のような物で、昔は、その上に「裳」を着たのだろうか。そうなら、「松」を「ものしたのたふさき」という、その「ものした」は、「褌の下」の意味で、上代には、褌を「も」といったのだろうか。この次に「褌」が別に出てくるけれども、そちらは、外側にお召しになる御袴なので、差し支えない。後世の『后宮名目抄』にも、「御したもは、下裳と書く。これは、お湯に入る時の着物で、後には、おゆもじなどと申している」とある。「下裳」というのは、女には、外側に着る裳があるため、それと区別して、「下」というのだろう。〔訳注:引用中で下着名として使われる字は、版面に見える「松」と仮に採録した。部首の細画を確定できず、衣偏の「衳」との関係は留保する。〕
【宣長の注釈】「時置師神」の「置」は、「直」の誤りだろうか。そうなら、「ときなほし」である。また、本文のままならば、「ときおかし」と読むべきだ。別の本と、『元々集』の引用では、「量」と書いているが、これも、どうだろうか。「とき」は、解くことだ。「おかし」は、「立つ」を「たたし」というように、「置く」を延ばした語である。これは、御裳を解いてお置きになる意味の名なのだろうか。『貫之集』で、親しい人が旅立つ時、幣を贈るとして、「行く今日も、帰らむ時も、玉ほこの、ひきもの神を、祈れとぞ思ふ」と詠んでいる。「出発する今日も、帰る時も、ひきもの神に祈ってほしいと思う」という歌だ。この「ひきも」は、「引裳」で、この神なのだろうか。
【宣長の注釈】「御衣」は、「みそ」というのも古語だが、やはり「みけし」と読むべきだ。八千矛神の御歌に見えており、その箇所、伝巻十一の三十四葉で、詳しく述べる。『万葉集』にも、巻十一に「君の御衣」、巻十四に「君がみけし」などとある。
【宣長の注釈】「和豆良比能宇斯能神」は、『日本書紀』では、ただ「煩神」とある。「わづらふ」は、物事に妨げられ、滞る意味だ。『万葉集』巻五に、「可爾可久爾、思和豆良比、禰能尾志奈可由」とある。あれこれと思い悩んで泣く、という歌句で、前に、妨げられる事情を述べて、こういっている。また、病気を「わづらふ」というのも、病に妨げられ、すらすらと事が運ばない、という意味だ。「うし」については、前の、伝巻三の九葉、天之御中主神の所で述べた。
さて、この神名は、御衣と、関係があるようにも思えない。あえていえば、汚れた御衣を脱ぎ捨てることが、煩わしい事を脱け出し、心が晴れやかになるのに似ているためだろうか。後世の歌で、根も葉もない噂を立てられることを、「濡れ衣を着る」というのも、衣に譬えた意味は似ている。今、民間で、行き逢いの神に出会って病むというのは、この神などのことだろうか。この前後の神は、みな道路に関わっている。〔訳注:引用する音仮名の「尾」は仮採録で、「未」と分ける細画が未確定のため、ここでは細かな訓を補わず字列を残した。〕
【宣長の注釈】「御褌」は、『和名抄』に、「袴は、はかま」とある、その物である。雄略天皇紀の歌には、「多倍能婆伽摩鳴加々陸鳴絶」とある。さて、『字鏡』には、「褌褲襌口大袴、志太乃波加万」とあり、『和名抄』には、「褌は、すましもの、また、ちひさきもの」とある。このように区別して呼ぶのは、後のことで、もとは、袴も褌も、ただ「はかま」だったのだろう。漢字にとらわれてはならない。ここで「褌」と書いても、必ず、ふんどしのような下着と決めつけてはいけない。雄略天皇紀の歌に、「那々陸鳴絶」という句から、外側の装束も、「はかま」といったことが分かる。〔訳注:歌の末尾と字書の「襌口」付近は、細字を確定できず、原文には仮の採録字列を残した。「七つを重ね」「口の大きい袴」とする細かな訳は、確認できるまで留保する。〕
【宣長の注釈】「道俣神」は、『日本書紀』にはない。書紀では、船戸神を「岐神」、猿田彦神を「衢の神」と書いているが、それらとは別である。あの、道饗祭の祝詞でいう、八衢比古、八衢比売が、この神なのだろう。一柱を、比古、比売と分けて申し上げ、また、その二柱を、合わせて申し上げる例は、多い。このことは、前に述べた。袴の股が分かれた所は、道の分かれに似ている。そのために、この神がお生まれになるのだろう。
【宣長の注釈】「御冠」は、「みかがふり」と読むべきだ。この名は、『万葉集』巻五の、「麻被を引きかがふり」、麻の覆い布を引きかぶるという言葉や、巻二十の、「みことかがふり」、仰せを受ける、という言葉のように、もとは「かがふる」という動詞を、名詞にしたものだ。『字鏡』には、「冕」と「冠」は同じで「かがほり」とあり、また別の見出し字「幘」について、「頭に着ける物、頭巾。ひたひのかがほり」とある。「ほ」と「ふ」は、通じる音である。それなのに、『和名抄』で、「冠、または幞頭」を「かうふり」とするのは、音便によって変わった語だ。「かむむり」「かむり」などともいう。
さて、わが国の上代には、冠がなかったという説がある。中国の書物でも、『北史』には、わが国について、「頭に冠もなく、ただ髪を両耳の上へ垂らす。隋の時に至り、その王が初めて冠を定めた」とある。ひとまず、この説によって考えると、証拠となることがある。まず、上代の頭の飾りには、鬘の玉、鬘などはもちろん、「うず」という物があった。倭建命の御歌にも見え、『日本書紀』では、「髻華」と書く。髻に、草木の枝、また、少し後には、金銀などで作った物を挿したのである。もし冠があったのなら、そんな物を、髻に挿す理由がない。それを冠にも挿すようになったのは、後のことだろう。もとは、直接、髻へ挿したのだと、その漢字からも分かる。また、この記にも『日本書紀』にも、上古の冠についての話は、全く見当たらない。景行天皇紀、雄略天皇紀などに、「衣冠」とあるけれども、それは、ただ漢文の表現で、実際に冠のことをいっているのではない。そうであるなら、推古天皇紀の十二年に、「初めて冠位を行った」とあるのが、本当に、冠の始まりだったのだろう。
頭に着ける物がなかった、といえば、わが国が、何か欠けていたように、人は思うだろう。しかし、それは、例の、むやみに外国をうらやむ、誤った心である。ないのも、あるのも、その土地の習慣なのだから、どちらを、よいと決められよう。もし、必ずあるべき物だというなら、外国でも、女が冠を着けないのは、どういうことだろう。それも、着けない習慣だから、そうしているだけである。女が、必ず着けてはいけない理由など、あろうか。さらにいえば、わが国では、このように、髻華や鬘があり、玉まで飾っていたのだから、冠がないからといって、頭の飾りに、何の不足があろう。
とはいえ、今ここに、この大神の御冠が書かれている以上、冠はなかったという議論は、表立っては立て難い。上代に冠があったとするなら、推古天皇紀の「初めて行う」は、その位の階級を、初めてお定めになった、ということだ。『出雲国風土記』神門郡には、冠山について、「大神の御冠」と記している。その大神は、大穴牟遅命である。これらは、古い伝えに見える例だ。後世の書物に、応神天皇の御冠が、伝わって残っていたという話などは、証拠にするほどのものでもない。〔訳注:字鏡の別の見出し字は「幘」、和名抄の「冠又○頭」の字は「幞」と仮に採録した。いずれも細画が未確定で、通行する衣服名から補っていない。〕
【宣長の注釈】「飽咋之宇斯能神」は、『日本書紀』には、御冠の話がなく、「その褌を投げた。これを開囓神という」とある。名の意味では、「あき」は、冠でも褌でも、脱いだ所の、口の開いた様子だ。「くひ」は、角杙などの「くひ」と同じだろうか。また、借り字でありながら、「秋杙」などとは書かず、「飽咋」「開囓」などと書くことを考えると、「くひ」は、「くち」の変化したものか。それとも、口と見なして、「咋」ともいったのか。「咋」も、もとは、口に関わる言葉だろう。『延喜式』神名帳には、和泉国大鳥郡の、開口神社がある。
【宣長の注釈】「手纏」は、仁徳天皇紀の、田道という人が蝦夷と戦って死んだ所に、「従者が、田道の手纏を取り、その妻へ渡した。妻は、手纏を抱き、首をつって死んだ」とある。『万葉集』巻十五の長歌には、「海の、たまきの玉を」とあり、『日本三代実録』にも、貞観十二年正月十三日、「壱岐島に、かぶとと手纏を、各二百そろい支給せよ」とある。『和名抄』では、弓を射る道具の所に、「韝の和名は、たまき。また、小手ともいう」とある。確かに、後にいう、篭手のような物と受け取れる。ただし、弓を射る時だけの道具となったのは後のことで、上代には、普段にも身に着ける物だった。
また、これを「手結」とも名づけたのだろうか。『万葉集』巻三に、「ますらをの、たゆひが浦」と続けて詠んでいる。足に着けるものを「あゆひ」というので、手のものにも、それに対応する「たゆひ」という名があったのだろう。師は、『西宮抄』に、手纏、足纏と並べていうので、「足纏」は「あゆひ」と読む以上、「手纏」も「たゆひ」と読むべきことは明らかだ、といわれた。今、考えると、『万葉集』で、そう続けるのは、手纏の意味なので、「手纏」を、そのまま「たゆひ」としても、物は違わず、同じである。しかし、名は別なのだろう。もし「たゆひ」なら、この記でも「手結」と書くはずなのに、「纏」と書くのは、「たまき」だからだ。この記の例は、必ずそうである。それに、『万葉集』巻十五や、『和名抄』などにも、「たまき」とあるではないか。ただ、同じ物に、二つの名があったのである。
また、巻十五の歌によれば、この物にも玉を飾ったのだ。もっとも、あの歌は、ただ手に巻く玉のことをいっていて、ここでいう手纏とは違うのではないか、とも思われる。しかし、手に玉を巻いたものが、そのまま手纏なのである。さて、『日本書紀』には、ここで、この手纏の話がなく、以下の六柱の神も、全く出てこない。
【宣長の注釈】「奥疎神」。これから下の六柱の名は、一つにまとめて説明する。まず、左の御手の手纏から生まれた三柱を「奥」、右のものから生まれた三柱を「辺」という。「奥」は、海の沖、「辺」は、海辺で、普段から、対にしていう言葉である。
左を奥に当てることについて、師は、『万葉集』巻九に、「我妹子は、くしろにあらなむ、左手の、我が奥の手に、巻きて行かましを」とあるのが、その意味だ、といわれた。愛しい妻が腕輪なら、左手の、私の奥の手に巻いて、連れて行けるのに、という歌だ。今、考えると、腕輪は腕に巻く物なので、腕を、手の奥というのであり、左手そのものを「奥の手」と呼んだわけではないようにも思われる。しかし、左右どちらにも巻く物なのに、特に、左の手といっているのは、左を奥とし、格別に、大事にする意味で詠んだのだろう。この歌によれば、左の手を、奥の手とするのだ。そうすると、右は、辺であることが明らかで、「みぎり」という語も、辺の意味に合う。また、あらゆる事を、まず右手で行うのも、右が、すぐ近くの側であり、左が、奥であるようだ。前の、さまざまな山津見がお生まれになる所でも、左手には志芸山津見、右手には戸山津見が生まれている。これも、ここの、奥と辺に合っている。
【宣長の注釈】さて、「おき」と「おく」は、同じ語である。「辺」は、端の方だ。「はし」を縮めて「ひ」とし、「ひべ」を縮めて「へ」としたのである。海辺を「うなび」、浜辺を「はまび」、岡辺を「をかび」と、古い歌に詠む例もある。「疎」は、古書では、「放」「離」などの字も、このように読む。今の言葉でも「遠ざかる」という、その意味だ。「さかる」と「さくる」には、自然にそうなることと、そうさせることとの違いがある。ここで「奢加留」と注し、「さ」を濁らせて読むのは、「おき」から言葉が続くためだ。
「なぎさ」は、この巻の末の方で、「波限」と書いている。その箇所、伝巻十七の六十五葉で、詳しく述べる。「かひ」は、「間」である。山の間を「かひ」というのと同じだ。「甲斐国」も、山の間の国、ということだ。「間」は、もとは、合うという意味で、あちらとこちらが、合う場所をいうことから出たのである。ここの「間」も、合うことに、自ずと通じる。「かひ」と「あひ」が通じる例には、花が「散りかふ」というのも、散り合うことだ。また、心を交わす、言葉を交わす、というのも、合わせることだ。古歌の「眞玉手之玉手攝更佐宿夜」なども、宣長は、手を差し合わせる例に挙げている。〔訳注:引用中の「攝更」は、この版の細字を確定できていないため、仮採録の字列を示した。全句の訓読は留保する。〕「かはし」というのも、同じ語であることを考えるべきだ。
「べ」は、方である。「ら」は、下に添える言葉で、例は多い。『万葉集』巻十四の、「よこやまろ」の「ろ」と、全く同じだ。「よこやまろ」は、横山の方、という意味である。「甲斐弁羅」は、沖と、波の尽きる渚との、間の方、という意味の名だ。
師は、『万葉集』巻二の長歌に、「沖つかい、辺つかい」とあるのは、沖へ行く船の櫂と、辺へ行く船の櫂のことで、この神名も、それである、とされた。そして、櫂の仮名が「加伊」なので、ここでの「斐」は、「異」の誤りだとし、改められた。しかし、この説は、たいへんよくない。この記は、全体に、音を表す仮名の種類が少なく、『日本書紀』や『万葉集』のように、一つの音に、たくさんの字を使うことは少ない。特に、「い」の仮名は、「伊」の一字だけで、ほかの字を書く例がない。前例のない字を使うのは、ごくまれだ。書紀や万葉と同じように、仮名を幅広く考え、むやみに改めてよい書物ではない。それに、ここは、この記で「かひ」と続く語を、必ず「甲斐」と書く例にも合っているので、誤字でないことは明らかだ。また、櫂の意味としたならば、「べら」という語の説明も、難しいではないか。
【宣長の注釈】こうして、左の三柱を、それぞれ「奥の何々」、右の三柱を、それぞれ「辺の何々」といい、左と右を、奥と辺へ当てている。その上で、左のものにも、右のものにも、それぞれ、「疎」、つまり奥の側、「波限」、つまり辺の側、「甲斐」、つまり、その間を当て、三柱とするのである。だから、六柱のどの名も、上に付く「奥」「辺」と、下に付く「疎」「波限」「甲斐」とは、別々に分けて、理解するべきだ。そのまま一続きに見ると、「奥津那芸佐」などの名が、非常に分かり難くなる。前の六柱、つまり、飽咋神までの神は、陸路の神であり、この六柱は、海路の神である。
【古事記本文】そこで、「上の瀬は流れが速い。下の瀬は流れが弱い」と、独り言を仰せになり、中ほどの瀬へ降り、水に潜って身を洗われた。その時、最初にお生まれになった神の名は、八十禍津日神。次に、大禍津日神。「禍」は、「まが」と読み、以下も同じである。この二柱は、あの汚く醜い国へ行っておられた時の、汚れによって、お生まれになった神である。
次に、その禍を直そうとして生まれた神の名は、神直毘神。次に、大直毘神。次に、伊豆能売神。以上三柱で、「毘」は音を表し、以下も同じだ。「伊」以下の四字も、音を表す。次に、水底で身を洗われた時、生まれた神の名は、底津綿津見神。次に、底筒之男命。水の中ほどで身を洗われた時、生まれた神の名は、中津綿津見神。次に、中筒之男命。水の上の方で身を洗われた時、生まれた神の名は、上津綿津見神。次に、上筒之男命。「綿」は、いずれも上声で読む。「上」は、「うへ」と読む。
【宣長の注釈】「上瀬」「下瀬」は、前に述べたように、橘の小門は、川の河口だろうから、その場所の、上や下の瀬である。遠飛鳥宮の段の歌に、「かみつせ」「しもつせ」とあり、『万葉集』などにも多い。
【宣長の注釈】「瀬速」は、流れの速いことをいう。「弱い」に対していうので、流れの激しい意味も兼ねている。
【宣長の注釈】「瀬弱」は、流れの緩やかなことをいう。「速い」にも「弱い」にも、「瀬」という語を前に付けるのは、古語と受け取られるので、「瀬速」も、「は」を濁らせ、一語の「せばやし」と読み、「瀬弱」も、同じつもりで読むべきだ。弱い方をお選びにならなかったのは、あまりに流れの緩い所は、清くないからだろう。
【宣長の注釈】「詔之」は、「のりごちたまひて」と読むべきだ。「のりごとし」の「とし」を縮めて、「ち」というのだ。『日本書紀』に、「声に出していう」とあるからである。
【宣長の注釈】「初めて」は、「お生まれになる神」という所へ掛かる言葉で、「中瀬」へ掛かるのではない。あの、「次に国稚く」とある、「次」と同じ例である。その理由は、伝巻三で詳しく述べたので、考え合わせるべきだ。
【宣長の注釈】「中瀬」。一般に、物の中間を「なか」というのは、もとは、この中つ瀬から出たことで、清く明らか、という意味なのだろうか。「あ」と「な」が通じるのは、よくある。この段の神名の「赤土命」が、中筒之男であることは、前にも後にも述べるとおりだ。その理由は、今、禊をなさって、清く明らかになられる瀬だからである。
【宣長の注釈】「隨」の字は、「降」の誤りだろう。「中瀬のままに」では、意味が通らない。また、その上に「於」を置くのも、「隨」を用いる所の書き方とは違うので、必ず誤りである。別の本で「墮」とするのも誤りだ。「降」を、草書の形から、「隨」とも「墮」とも、誤ることはある。この記などは、昔も草書では書かなかったように思われるが、草書の形が似ているために生じた誤りも、多く見られる。「なかつせにおり」と読むべきだ。『日本書紀』の他田宮の巻に、「下泊瀬の、中つ瀬」などとあるのと同じだ。大祓の祝詞でいう「瀬織津比咩」は、この故事によって称えた名で、「瀬へ降りる」意味である。ここで大神が、穢れを洗い去ろうとして、瀬へ降りられることと、あの神が、穢れを「大海原へ持ち出そう」とあるのとは、全く同じ意味であることを考えるべきだ。さらに根拠があり、次の禍津日神の所で述べるので、引き合わせて見てほしい。
【宣長の注釈】「かづき」は、水の中へ入ることで、「潛」の字を書く。この語は、中巻の訶志比宮(かしひのみや)の段の歌、神功皇后紀の歌にもあり、『万葉集』などにも多い。水鳥が潜るのにもいい、海人が海底へ入って物を取ることにも、名詞としても用いる。師は、「かづく」は、「拝」を「額をつく」というように、水に頭を突き入れる意味の語だ、といわれた。
【宣長の注釈】「滌」は、「そそぎたまふ」と読むべきだ。これが、禊である。
【宣長の注釈】「所成坐」。ほかの神々については、みな、ただ「所成」とだけ書くのに、今、汚れによって生まれる神に、特に「坐」の字を添えて書くのには、意味がある。詳しくは、最初の巻の五十二葉で述べた。
【宣長の注釈】「八十禍津日神」「大禍津日神」の「禍」については、次に述べる。「つ」は、助詞で、「日」は、濁らせる例によって、「び」となる。借りた字なのは、いうまでもない。次の「直毘」の「毘」も同じだ。この言葉の意味は、産巣日神の所、伝巻三の十三葉で述べた。「八十」は、禍の多いこと、「大」は、その激しいことをいうのだろうか。『日本書紀』には、大禍津日がない。また、別の一書には、大綾津日神がある。『日本三代実録』巻三十五にも、下野国の綾都比神がある。「あや」と「まが」が同じ意味である理由は、前の、伝巻五の三十四葉で述べた。
遠飛鳥宮の段には、「八十禍津日の前」という地名がある。『倭姫命世記』には、「荒祭宮一座は、皇大神の荒魂で、伊奘那伎大神から生まれた神、八十枉津日神である。別名、瀬織津比咩神という」とある。この書は偽書だが、この神を、皇大神の荒魂というのには理由があり、後で述べる。これらも、古い伝説があって、いったのだろうか。また、瀬織津比咩が、この神の別名だということと、前に述べた考えとを、引き合わせて見るべきだ。
世の中にある、凶悪な事、邪で道に外れた事などは、どれも、もとは、この禍津日神の御霊から起こるのである。その理由は、後で詳しく述べる。
【宣長の注釈】「穢繁国」は、「きたなき、しきくに」と読むべきだ。今の本のまま、「けがらはしき国」と読んでも、何事もないように聞こえるが、よく考えると、よくない。前の段の「穢国」は、「きたなきくに」と読む。『日本書紀』に訓の注があるので、これは動かない。ならば、突然、ここで言葉が変わるはずがないからだ。また、「繁」の字を添えたのも、別の一語なのだろう。『万葉集』巻四に、「むぐらふの、きたなき宿に」とある。これも、今の本で、「けがしき宿」と読むのは、誤りである。
「繁」は、「しき」を表す借り字である。「しげき」を、古語では「しき」という。そして、「しき」は、醜いという意味だ。その理由は、『万葉集』巻十三に、「小さな「しき屋」(醜い家)に、捨ててしまいたいほどの破れた薦を敷き、へし折ってしまいたいような、醜い手を差し交えて」と詠むからである。巻十六にも、「しき屋」とある。「しこのしき手」は、「しこのしこ草」と同じ、意味を重ねた言い方なので、「しき」も、醜いのである。この歌に「醜い家」とあることから、「醜い国」ともいえると、理解するべきだ。また、巻十六に、「世の中の、醜い仮の庵に住み続けて」とある。今の本では、「繁」を「しげき」と読むが、それでは歌の意味に合わない。これは、「醜」の借り字として「繁」を書いた、確かな例だ。
前では、「しこめき、きたなき国」といい、ここでは、その前後を逆にして、「きたなき、しき国」といっている。どちらも、同じことである。
【宣長の注釈】「汚垢」は、二字まとめて、「けがれ」と読むべきだ。こう読めば、「垢」の意味も含まれている。別に「あか」と読むのは、よくないだろう。
【宣長の注釈】「因」の字は、「所到」の上にあるつもりで見て、「その国へ行った時の汚れによって」と続けて、理解するべきだ。日本で書かれた漢文には、こういうことが、普通に多い。書かれた順のままに受け取ると、大きく意味が違ってしまう。この文章を、よく考えるべきだ。世の中の、さまざまな災いをなさる禍津日神は、ひたすら、この黄泉国の穢れから、お生まれになったのだ。ああ、慎み、恐れるべきことである。
【宣長の注釈】「之神」は、今の本で、「神之」とあるのは、誤りである。ある本によって改めた。前にも、「御刀によって生まれた神である」とあるからだ。
【宣長の注釈】「その禍」とは、禍津日の禍で、そのまま、汚い国の汚れをいう。「禍」は、「まが」と読むべきだ。「まがれるを」と読むのは、よくない。
【宣長の注釈】「為直」は、「なほさむとして」と読むべきだ。「なほす」は、直くさせる、ということである。ここで「直す」とは、そのまま、洗い清めることをいう。それとは別に、何かするのではない。だから「次に」というのも、いつものように、「生まれる神」の方へ掛かる言葉である。汚れを「禍」といい、清めることを「直す」という理由は、後で詳しく述べる。
しかし、これを、誠の心によって、曲がった心を正すことだとするのは、大きな誤りだ。それは、「まがる」というと、物の形の曲がることばかりいうようになった、後世の感覚にとらわれ、古語の「まが」の意味を知らないためである。また、ともすれば、儒教や仏教をよしとして、心の道を説こうとする、学者の癖でもある。『日本書紀』に、「その曲がったものを、正そうとする」などと書いているのは、「まが」「なほす」という言葉によって、文章を綴ったものだから、漢字にとらわれてはいけない。
およそ、禊や祓いは、身の汚れを清める行為なのであって、心を祓い清めるというのは、外国の考えであり、わが国の昔には、全く、そのようなことはない。もし心を中心とするならば、「御心の禊」というはずなのに、そうではなく、前の段でも「御身の禊」といい、『日本書紀』にも、「身の汚れを洗う」とあるのは、どういうことだろう。軽い方を挙げ、重い方を省く理由がないことを、考えるべきだ。いずれにせよ、心の道という話は、私意によるものだ。後の文章に、「おまえの心の、清く明らかなこと」などもあって、心が清い、汚いというのは、普通のことだけれども、祓いをして、心を清めるということはない。また、須佐之男命が、「私の心は、すがすがしい」と仰せになるのも、心の教えの話ではない。その理由は、そこで述べる。
「為」は、「將」の字の意味、すなわち、これからしようとする意味に、用いたのである。その理由は、最初の巻で述べた。
【宣長の注釈】「神直毘神」「大直毘神」の「直」は、まだ直くないものを直す意味の名で、すでに直っている、という意味ではない。前に「直そうとして」とあることから、理解するべきだ。同じ語でも、「なほき」「なほる」は、すでに直っていることをいう。「なほす」は、直くないものを、直くさせる行為で、すでに直くなったという意味ではない。それなのに、『口決』などで、大直毘神を、すでに清く明らかになった時に生まれる神とするのは、合わない。この二柱は、穢れから清さへ移る途中に、お生まれになる神であり、「直毘」とは、禍を直される御霊のことだ。「毘」を、日の意味とするのは、誤りである。
御門祭の祝詞には、「四方、四つの角から、荒々しくやってくる、天のまがつひという神がいう、悪い言葉に、同調して口を合わせなさることなく、咎や過ちがあれば、神直備、大直備に、見直し、聞き直されて」とある。祟る神を移し去る祝詞にも、「神直日、大直日に、直してください」とある。これらは、「神はかりに、はかりたまふ」「神やらひに、やらひたまふ」と同じ種類の言い方で、ただ、直される、ということである。これらは、この神々の名を申し上げているのではない。それぞれの祝詞の前後を、よく見て、区別するべきだ。取り違えて、神名としてはいけない。直されることを、このようにいうのだと理解し、この神名の意味も、悟ってほしい。
また、大殿祭の祝詞に、「漏れ落ちる事は、神直日命、大直日命が、聞き直し、見直して、平らかに、安らかに、お治めになるように」とある。こちらは、この二柱を指して申し上げたものである。『倭姫命世記』には、「多賀宮一座は、豊受の荒魂で、伊弉那伎神から生まれた神、伊吹戸主であり、別名、神直日、大直毘神という」とある。この神が、豊受大神の荒魂であるのは、どのような理由か分からない。しかし、伊吹戸主が、この神である理由は、大祓の祝詞に、「残る罪がないよう、祓い、清める事を」とあり、続いて、「気吹戸に坐す、気吹戸主という神が、根国、底国へ、吹き放つだろう」とある。これは、ここの、穢れを洗い清めることと同じ意味で、この神に当たる。そもそも、あの『世記』は、信頼すべき書ではないけれども、こういう事は、古い伝説があって記したのかもしれない。
【宣長の注釈】「伊豆能売神」は、今の本では、どれにも「神」の字がない。ここは、延佳が補ったのがよい。この前でも、後でも、お生まれになる神について、「神」といわない例がないからだ。水波能売なども、『日本書紀』には「神」がないが、この記にはある。「いづ」は、すでに汚れを洗い祓い、明るく清まった意味で、「あきつ」の縮まった語だ。「あき」は、縮めて「い」となる。前に出た、速秋津日子、速秋津比売の二柱が、この神であることは、その箇所、伝巻五の二十一葉と三十七葉に理由を述べたので、引き合わせて考えるべきだ。また、大祓の祝詞の瀬織津比咩は、禍津日に、気吹戸主は、直毘神に当たるので、この神が、速開都咩に当たることも、いっそう明らかだ。ただし、あの祝詞で、先に速開都咩、後に気吹戸主をいうのは、順序が合わないようだが、そちらは、穢れや悪いものの行き着く先をいうので、気吹戸主が後になる。その後に、根国などと続くことから、分かる。
「いづ」という語の例は、神武天皇紀に、「厳瓮は、いづへ、という」とあり、また、「その時、道臣命に勅して、今、高皇産霊尊を、私みずから「顕斎」という祭祀を行う。〔訳注:「顕斎」の訓と具体的な祭祀の意味は、この引用だけでは確定できていない。〕おまえを斎主とし、厳媛の名を授けよう、といった。そして、置いた土の瓮を厳瓮、火を厳香来雷、水を厳罔象女、糧を厳稲魂女、薪を厳山雷、草を厳野椎と名づけた。天皇は、その厳瓮の糧を召し上がった」とある。また、垂仁天皇紀に、「天照大神を、磯城の厳橿本へ鎮め坐せ、祭った」とある。出雲国造の神賀詞にも、「いづ幣」「いづの真屋」「いづの席」などとある。これらは、みな神を祭る時のことで、慎み、清めた意味によって、「いづ」というのだ。
『日本書紀』で「厳」の字を用いていることから、あの「稜威」と同じに理解するのは、誤りだ。「稜威」は、強くたくましいこと、「厳」は、清いことなので、もとから違う。神を祭る時の、いろいろな物を、強さによって名づける理由のないことを、考えるべきだ。それなのに、わざわざ「厳」の字を書くのは、厳重に、慎み清める意味なのだろうか。ただし、「いかし」にも「厳」の字を用いた所や、「重」の字を用いた所がある。祝詞式には、「茂御世」とも書く。これらは、なお、よく考え明らかにすべきことだ。しかし、それはどうであれ、今の「厳」は、この「いづ」と同じ意味で、「稜威」とは別である。この記では、「稜威」は、すべて「伊都」、「厳」は、すべて「伊豆」と書く。『日本書紀』でも、神代巻では、「稜威は、いつ、という」、神武天皇紀では、「厳は、いづ、という」と注し、清音と濁音を分けている。それなのに、世間で、「稜威」の「つ」まで濁らせて読んできたのは、誤りだ。
「斎忌」「斎庭」などの「斎」も、「いづ」と同じ意味で、「いつく」「いはふ」「いむ」なども、みな、この「いづ」から出た語である。後には、「いつく」は敬う方、「いはふ」は祝う方、「いむ」は嫌う方になり、別の意味のようになったが、もとは、みな同じで、古書では、互いに通わせていうことが多い。このことは、伝巻五の三十一葉と三十二葉でも述べた。
こうして、この神は、禊によって、穢れ、悪いものを、神直び、大直びに、直し清め、直く、清く、明らかになった御霊なのである。『日本書紀』には、この神がない。その理由は、中筒男命を、一書で「赤土命」とするのが、この神に当たる、もう一つの伝えだからである。「なかづつ」「あかづち」「あきつひ」は、どれも通じる。このことも、伝巻五の二十一葉と二十二葉で述べた。『延喜式』には、出雲国出雲郡の、神魂伊豆乃売神社がある。
【宣長の注釈】禍津日神から、伊豆能売神まで、順にお生まれになる意味を、さらに詳しくいえば、まず、世の中にある、あらゆる凶悪な事は、みな、黄泉の汚れから起こるのである。後の、須佐之男命の話を、考え合わせるべきだ。そのため、昔は、すべての悪い事を、広く「きたなし」とも、「まが」ともいった。『日本書紀』の「黒心」「濁心」「悪心」などを、どれも「きたなきこころ」と読むこと、『続日本紀』の宣命に、「岐多奈久惡奴」、また、「穢奴」などがあり、祝詞式に、「悪事は、古語で、まがこと」とあること、景行天皇紀に「禍害」、この記に「禍」があり、また、死ねということを「麼賀禮」とする例もある。これらの「きたなき」「まが」は、どれも、悪いことを広くいうのである。〔訳注:宣命の「岐多奈久惡奴」「穢奴」と景行紀に続く「麼賀禮」の例は原字を示した。前二例の細かな訓読と「麼」の細画は確定できていない。〕
「きたなき」を、「穢」の字の意味だけ、「まがる」を、「曲」の字の意味だけと受け取るのは、昔の意味ではない。「穢」の漢字は、「きたなき」の意味の一つ、「曲」の漢字は、「まが」の意味の一つでしかない。あらゆる事で、悪いものをよいものに変えることを、「直す」といい、それがよくなるのを「直る」という。この語は、今の世まで、昔の意味を失わず、あらゆる事に用いる。そのため、前の文で、汚れを洗い清めることを、「その禍を直す」といっている。汚れは、悪い事であり、洗い清めるのは、その悪いものを、よいものにすることだからだ。しかし、後世の感覚では、「直す」とは、ただ物の曲がった形を正すことだとばかり思うので、祓いは、心の曲がりを正す、などの誤説がある。前にいったように、昔「穢」というのは、何事でも、すべて悪いことを指す。心が汚い、というのも、その意味である。「直す」は、何事でも、悪いものをよいものにすることだと、今の言葉からでも、理解するべきだ。
こうして、世の中にある、すべてのよい事は、みな、この禊から起こるのである。日の神などが、お生まれになる所を、考え合わせるべきだ。昔は、すべてのよい事を、広く「明し」「清し」「直し」といった。この巻の、「おまえの心の清く明らかなこと」、中巻の、「清き民」、『日本書紀』の、「清心」「明心」「赤心」、『万葉集』巻二十の、「あかきこころ」、また、「ますらをの、きよきその名を」、『続日本紀』の宣命の、「明き、清き、直き、誠の心をもって」などから、分かる。後世に、ただ「あかき」は、明や赤の漢字の意味、「きよき」は、清や浄の漢字の意味、「なほき」は、直の漢字の意味だけと理解するのは、昔の意味ではない。
だから、黄泉の穢れ、悪いものによって、まず、世の中のさまざまな災いをなさる禍津日神が、お生まれになる。その悪いものを、洗い清めようとして、世の中の悪い事を、よいものへ直す直毘神が、次にお生まれになる。そして、洗い清め終え、よい状態になった時、伊豆能売神がお生まれになるのである。
【宣長の注釈】注に、「合わせて三柱」とあるのは、前の禍津日二柱については、「こうして生まれた神である」と、すでに区切っているため、その次からの三柱を、まとめていったのである。
【宣長の注釈】「次に水底で」の「次」も、底津綿津見神が、お生まれになる順序をいう。伊豆能売神がお生まれになり、その後で、水底へ入って身をお洗いになる、というのではない。
【宣長の注釈】「中で」は、水底と、水の上に対しているので、必ず、水の中、となるはずだ。そのため、延佳が、「水」の字を補ったのも、もっともである。しかし、諸本に「水」の字がないことから、さらに考えると、「水底」「水上」は、どちらも古語なのに、「水の中」、あるいは「みなか」というのは、水の内側を広くいう言葉であって、底と上の、中間だけを、そういう例がなかったため、ただ「中」とだけいったのだろうか。「底」と「上」に、水を付けていえば、「中」は、自然と、その中ほどのことと分かる。さて、「中で」と「水上で」の前に、それぞれ「次」の字がないのは、底、中、上の前後がないようにも見えるが、この出来事の様子を考えると、必ず、底から、中、上へ、順序があるはずである。
【宣長の注釈】「上津」以下の「上」について、注に、「うへ、と読む」とあるのは、「かみ」と読まないための注だ。ここでは、「うはつ」と読むべきである。「うへ」は、その後へ、何か言葉が続く時には、普通「うは」となる。『日本書紀』の、「上国を、うはつくに、という」などが、その例である。ここで「うへ」と注したのは、この記の、「伊都之男建蹈建而」の注で、「建は、たけふ、と読む」とあるのと同じで、どちらも、言葉の、そのままの基本の形を、注したのである。
【古事記本文】この三柱の綿津見神は、阿曇連たちが、祖先の神として、慎み祭る神である。「伊」以下の三字は音を表し、以下も同じである。阿曇連たちは、この綿津見神の子、宇都志日金拆命の子孫である。「宇都志」の三字は、音を表す。底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱は、墨江の三柱の大神である。
【宣長の注釈】「綿津見」については、前の、伝巻五の三十六葉で述べた。
【宣長の注釈】「祖神」は、「おやがみ」と読むべきだ。上代は、父母だけでなく、何代さかのぼっても、遠い祖先まで通して、みな、ただ「おや」といった。その証拠は、古書に数多く見える。父母は、その「おや」の中の一代であるが、いちばん近く、親しいため、特に、その呼び名を専ら受け持ち、後には、「おや」が、父母だけの名になったのだ。そのことを考え、「おや」と読むからといって、遠い祖先であることを疑ってはいけない。
だから、古書では、「祖」の字を「おや」と読み、父母についても用いる。祖父や、その上の祖先などと、別々にいうのは、関係を分けていう時の呼び名で、広くいえば、どれも「おや」である。『日本書紀』には、「遠祖」「上祖」「本祖」「始祖」などと書いて、「とほつおや」と読む。これも古い呼び方で、『万葉集』巻十八にも、「遠つ神祖」とある。しかし、この記では、どれも、ただ「祖」とだけ書き、「遠祖」などと書くものが、一つもないので、ただ「おや」と読むのが、その例である。そうなら、上代には、ある氏族の根本の祖先というのも、ただ「おや」といったのだろう。また、「子」というのも、自分が生んだ者だけでなく、子々孫々まで含めていう呼び名である。このことは、後に出てくる。
【宣長の注釈】「以伊都久神」は、この記の中に多い言い方で、伝巻七の六十一葉、巻二十二の二十六葉、巻二十五の三十三葉にもある。「以」は、祝詞の「持ち斎はり」「持ちかかのみ」「持ちさすらひ」などの、「持ち」と同じで、「もてなす」「もてはやす」などの「持つ」と同じである。延佳が、これを「いづ」と読むのは、大きな誤りだ。「おやがみともち」以下、と読むべきである。「いつく」は、慎んで祭ることだ。『万葉集』巻十九に、「住吉に、いつく祝の」、また、「春日野に、いつく三諸の」とあり、『日本書紀』にも、「天孫が祭る神」とある。この記の「いつきまつる」、伝巻十二の二十六葉と、「拝祭」、伝巻十五の三十三葉も、同じ意味と受け取れるので、「拝祭」も、「いつきまつる」と読むべきだ。さらに、その箇所で述べる。
【宣長の注釈】さて、この神は、官の帳簿に、筑前国糟屋郡の志賀海神社三座とあり、どれも「名神大」とする、その神である。『延喜式』の今の本で、「海神社」を「うみのかみのやしろ」と読むのは、誤りだ。貞観元年に、この神へ従五位上を授けられたことは、『日本三代実録』に見える。この神社は、志賀島という所にあり、今は、那珂郡に属するという。志賀島は、福岡から海上三里である。景行天皇紀には、「志我神」とある。『万葉集』巻七には、「千磐破、金の三崎を過ぎても、私は忘れない。志賀のすめ神を」とあり、巻十六には、糟屋郡志賀村とある。『和名抄』にも、同じ郡に、志詞郷がある。今の本で、「詞」を「阿」とするのは、誤りだ。
『日本書紀』の釈には、『風土記』を引き、「糟屋郡の資訶島は、昔、気長足姫尊が新羅へ向かわれた時、御船が夜、この島へ泊まった。お供に、大浜、小浜という者がいた。小浜に命じ、この島へ火を探しに行かせたところ、得て、早く帰った。大浜が、近くに家があるのか、と尋ねると、小浜は、この島は、打昇浜と近く、つながっていて、ほとんど同じ土地といえる、と答えた。そこで、近島と名づけた。今は、訛って資訶島という」とある。この場所は、『万葉集』の歌などにも多く見える、有名な土地である。地名は、万葉にたくさん出ており、「鹿」「四可」「之加」とも書く。ほかの古書でも、多く、清音を表す字を用いるので、「か」は濁らせないで読むべきだ。今も、濁らずに呼ぶという。
このほかの海神社には、播磨国明石郡の海神社があり、「名神大」とされる。『延喜式』の今の本で、これを「たるみ」と読むのは誤りだ。垂見村に鎮座することから、推し当てて読んだのだろう。〔訳注:この説明の原文「垂見村に坐〓爲に」の〓は小字を確定できず留保した。鎮座地を根拠に読んだとする文意を仮訳している。〕もし「たるみ」なら、「垂」の字が脱けたかとも思うが、臨時祭式にも、『日本三代実録』にも、ただ「海神」とあるので、脱字ではない。また、「海」の一字を、「たるみ」と読む理由もないではないか。だから、これは「わたつみのかみのやしろ」と読むべきだ。このほか、諸国に、しばしば海神社とあるのも、どれも同じである。対馬島の上県郡の和多都美神社、下県郡の和多都美神社も、どちらも「名神大」で、さらに和多都美神社なども、『延喜式』にも国史にも見える。
【宣長の注釈】「阿曇連」の「阿曇」は、氏の名で、「連」は、かばねであり、「むらじ」と読む。氏とかばねについては、下巻の遠飛鳥宮の段で詳しく述べる。『万葉集』巻八には、臣の朝臣武良自、『続日本紀』巻九には、朝臣牟良自など、人名としても見える。「むらじ」は、群れの主、という意味だろうか。「主」を「じ」というのは、「みやじ」の例のようで、「ともし」の「し」も、それなのだろう。その集まりの中の、主という意味だ。「かばね」は、一般に、貴んでいう呼び名である。そのため、師は、「あがめな」の縮まったものだといわれた。
「連」の字を書く理由は、明らかでない。『礼記』王制に、「十国を連とし、連には統率者がいる」とあり、注には、「十国を合わせて連とし、連には、それを統べる統率者がいる」とある。谷川氏は、これを採ったという。そうでもあるだろうか。群れの主という意味は、あの連帥に似ている。また、『万葉集』巻二十に、「畳薦、むらじが磯の」と続けるのは、畳薦を「編む」というのに掛けたので、「あ」を省いている、という師の説から考えると、ただ言葉の上だけの続きでもなく、「むらじ」という語に、編み連ねる意味があるためでもあろう。
【宣長の注釈】「其綿」の「其」は、「この」と読むべきだ。文字は、漢文の形に従って書いているが、日本の言葉では、ここは、「その」でも「かの」でも、よくない。必ず「この」というべき所である。
【宣長の注釈】「宇都志日金拆命」の「うつし」は、現に見える、という意味だ。『日本書紀』神代巻に、「顕は、うつし、という」とあり、そのほかにも例は多い。「日金」は、『延喜式』に、信濃国更級郡の氷鉋斗売神社があり、『和名抄』には、同じ郡に、氷鉋、ひかな、という郷がある。「斗女」という郷もある。この地から出た名なのだろう。その理由は、信濃国には、安曇郡もあるからだ。『和名抄』では、信濃国の郡名、安曇を「あつみ」とするのに、今の本では、「三」を「之」に誤っている。その郡には、穂高神社もあり、『延喜式』で「名神大」とされる。『新撰姓氏録』には、安曇宿禰は、海神綿積豊玉彦神の子、穂高見命の後である、また、安曇連は、綿積神命の子、穂高見命の後である、などとあるためである。「拆」は、信濃国には、佐久郡もあるので、これによるのだろうか。このように、信濃国に、この氏にゆかりのあるものがある理由は、まだ考え得ていない。また、『姓氏録』には、安曇連は、子都斯奈賀命の後である、ともある。この記によれば、「奈賀」は、「賀奈」の写し間違いだろうか。『延喜式』には、対馬上県郡の、和多都美御子神社というものもある。
「阿豆美」という名の由来は、次のように考えられる。「阿曇」と書く「曇」は、「どむ」の音を変えて使っている。応神天皇紀の三年に、「所々の海人が、騒ぎ立て、命に従わなかった。そこで、阿曇連の祖、大浜宿禰を遣わし、その騒ぎを鎮めさせ、海人の宰とした」とある。履中天皇紀にも、「淡路の野島の海人です。阿曇連浜子」と答える所がある。この段も、考えるべきで、これも、海人を管掌した証拠である。これらから考えると、この氏は、海神の子孫だから、もともと、海人の事を扱っていた。そのため、騒ぎを鎮めさせられ、さらに、その宰となって、いっそう、その事を掌ったので、「海人つ持」と名づけたのが、縮まったのだろう。「あま」の「ま」を省き、「もち」を縮めて「み」という。その例は、すでに前に述べた。あの、志賀の海人が有名なのも、このためだろう。志賀の海人は、神功皇后紀にも見え、『万葉集』の歌にも、多く詠まれている。
また、『姓氏録』の、海神綿積命の後である海犬養、同じ神の子、穂高見命の後である凡海連なども、海人に基づく氏なのだろう。高橋朝臣と、この氏とは、代々、天皇の御食事に携わった。高橋の由来は、景行天皇の御代の故事として、『日本書紀』にも『姓氏録』にも見えるが、この氏については、どのような理由か、書物に見当たらない。これも、海人を管掌することから始まったのだろう。海人は、御食事の品を採る者だからだ。『和名抄』には、筑前国糟屋郡に、阿曇郷がある。今の本で「曇」を「雲」とするのは誤りだ。これは、この氏の人々が住んだための地名なのだろう。
この氏は、連のかばねだったが、天武天皇紀の十三年十二月、初日が戊寅で、その翌日の己卯の日に、阿曇連へ、宿禰の姓を授けられた。持統天皇紀の五年に、祖墓記を提出させられた十八氏の中にも、入っている。『姓氏録』の記事は、前に引いたとおりであり、ほかに、阿曇犬養は、海神大和多罪神の三世の孫、「穂己都久命」の後である、とも見える。〔訳注:この神名の細字には判読の余地があり、字の重なりや細画を含めて仮採録のまま示した。〕『日本霊異記』には、天造日女命を、阿曇連たちの祖とする。
【宣長の注釈】「子孫」は、「すゑ」と読むべきだ。下巻で、袁祁命が、「押歯王の末の者です」と、名のられる、その「末」が、子孫の意味だからである。実際は、その御子であり、後代の子孫ではないが、言葉としては、子孫という意味だ。『日本書紀』では、「御裔僕」と書いている。この例によって、「何々の子孫」とあるものは、どれも「すゑ」と読むべきだ。中古も、今も、そういう。
『日本書紀』で、「うみのこ」と読むのは、「子の孫の八十つづき」、また「生の子の」などとも書く、その読みを当てているのだろう。この読みの確かな例は、『万葉集』巻二十の、「うみのこの、いやつぎつぎに」などである。しかし、これは、子孫の末から、さらに末まで続くことをいう時の呼び名なのであって、ただ「何々の子孫」とある所を、そう読むのは、どうだろうか。普通の呼び名にも、このような違いがあるのに、文字さえ同じなら、どこでも同じように読むのは、ただ漢字にとらわれ、古語を考えないためだ。同じ字を書いても、その場によって、古語は違うことを、考えるべきだ。また、「はつこ」という読みもあるが、確かな証拠を見ていない。
【宣長の注釈】「筒之男」。この三柱の神名を、「つつを」と読むのは、『日本書紀』で「筒男」と書くのだけを見て、この記と考え合わせない、誤りである。「つつ」が、「つち」と同じであることは、伝巻五の三十三葉で述べた。さらに、この後の説明も見てほしい。その「つ」は、例の、「の」に通じる助詞で、「ち」は、男を表す呼び名である。その例は、非常に多く、野椎神の所、伝巻五の四十五、四十六葉で述べた。「つちのを」と続く例は、「建御雷之男」などと同じだ。そうであるなら、「筒」は借り字で、上の「つ」は、「底つ」「中つ」「上つ」と、その前へ付き、下の「つ」は、「の男」の方へ付く言葉だ。これは、綿津見の三柱の例からも分かる。
後世の人は、ただ文字にとらわれ、同じ形の神名が多いのに、文字が違うまま、それを理解できない。また、「つつ」を敬う意味とするのも、例の、十分な説明にならない、無理な説である。『日本書紀』の一書に、「磐土命」とあるのは、この上筒、「底土命」とあるのは、底筒、「赤土命」とあるのは、中筒である。「あ」と「な」が通じる例は、多い。また、前に、石土毘古という神があり、それも、この上筒に当たることを、その所で述べた。その神名の意味も、ここから知るべきだ。「筒」が、「つち」の意味であることは、ますます明らかである。前の八柱は、みな「神」、この三柱は「命」というが、これに、特別な意味はないのだろう。『日本書紀』では、綿津見の三柱も、「命」としている。
【宣長の注釈】ここまでの十一柱の神については、前の、大事忍男神以下の十柱の所、伝巻五の二十二葉も、考え合わせるべきだ。
【宣長の注釈】「墨江の三前大神」の「墨江」は、摂津国の住吉のことだ。「住吉」を「すみよし」と呼ぶのは、後世のことで、奈良時代までは、「すみのえ」とだけいっていた。まず、この記では「墨江」と書き、『日本書紀』『万葉集』では、「住吉」と書いても、「すみのえ」と読む。万葉には、「墨之江」「清江」「須美乃延」などもあるが、「すみよし」という例は、一つもない。
この地へ、この大神が鎮座されることは、神功皇后が、西の国から海路でお帰りになる所の、『日本書紀』の記事にある。「忍熊王は、軍を引いて、さらに引き返し、住吉に駐屯した。その時、皇后は、忍熊王が兵を起こして待ち構えていると聞き、武内宿禰に命じ、皇子を抱いて、横へそれ、南の海から紀伊の水門へ泊まらせた。皇后の船は、まっすぐ難波を目指したが、海中を回るばかりで、進めなかった。そこで、武庫の水門へ戻り、占った。天照大神のお告げがあり、また、表筒男、中筒男、底筒男の三柱がお告げになった。私の和魂は、大津の渟中倉の長峡に住み、往来する船を見守ろう。そこで、そのお告げに従い、鎮座させると、穏やかに海を渡れた」とある。
『摂津国風土記』には、「住吉と呼ぶ理由は、昔、息長足比売天皇の世に、住吉大神が現れ、天下を巡り、住むによい国を探された時、沼名椋の長岡の前へ至り、ここは、まことに住むべき国だ、と仰せになり、真住吉国と褒め称え、神社を定められたからである。今は、省略して、ただ、すみのえ、と呼ぶ」とある。「前」は、今の神宮の、南の辺りが、その場所である。西国のものも、同じく住吉と呼ぶのは、この名を採ったのである。『和名抄』には、摂津国住吉郡とあり、「すみよし」とする。『延喜式』神名帳には、この郡の、住吉坐神社四座とあり、どれも名神大で、月次、相嘗、新嘗の祭を受ける。『続日本紀』には、延暦三年六月、正三位の住吉神へ勲三等を授け、同年十二月、従二位に叙したとある。『日本紀略』には、大同元年四月、遣唐使の祈りにより、摂津国住吉大神へ従一位を授け奉った、とある。四座ということについて、『私記』は、神功皇后が、別の殿に坐すためだろうか、といっている。
『先代旧事本紀』には、ここに、津守連が住吉を慎み祭る、とあるが、これは、前の阿曇連の記事にならい、書き添えたものだ。津守連は、火明命の後であると、『姓氏録』に見える。この記に「墨江の津」といい、前に引いた書紀にも「大津」とあるので、住吉は、もとから港であり、津守は、この港を守ったことによるのだろう。西生郡に、津守郷もあるのは、その人の住んだ里なのだろう。『万葉集』巻十一にも、「住吉の、津守が網引きの」とある。この氏が、この神を祭る理由は、神功皇后紀に、三柱が、「私の荒魂を、穴門の山田邑に祭れ」と皇后へ告げた時、穴門直の祖、践立と、津守連の祖、田裳見宿禰が、皇后に申し上げる記事があり、荒魂を穴門に祭る時に、践立を神主とされたことが見える。だから、その後、和魂を摂津国に祭る時、田裳見を、その神主とされたのだろう。その本人にせよ、子孫にせよ、港を守る仕事も兼ねたことから、津守連と名づけたのだろう。
『延喜式』には、さらに、長門国豊浦郡の、住吉坐荒御魂神社三座、筑前国那珂郡の住吉神社三座があり、どれも名神大である。壱岐島壱岐郡の住吉神社、対馬下県郡の住吉神社も、名神大とされる。この大神については、息長帯比売命の段でも、詳しく述べる。「三前」は、「三座」というのと同じだ。中巻には、伊豆志の八前大神、『文徳実録』巻三には、久度、古麻たち、二前の神という例もある。「前」という言葉については、後の「吾が前を治めよ」という所、伝巻十二の十九葉で、詳しく述べる。
【古事記本文】そして、左の御目をお洗いになった時、生まれた神の名は、天照大御神。次に、右の御目をお洗いになった時、生まれた神の名は、月読命。次に、御鼻をお洗いになった時、生まれた神の名は、建速須佐之男命。「須佐」の二字は、音を表す。以上、八十禍津日神から、速須佐之男命までの十四柱は、ご自身の体をおすすぎになることによって、生まれた神である。
【宣長の注釈】「そして左の御目をお洗いになる時」は、前の十一柱の神が、お生まれになった後のことだ。だから、『日本書紀』にも、「その後、左の目を洗う」とある。そうなら、御目や御鼻を洗われるのは、あの、水底、中ほど、水の上で身をすすがれることが、終わった後である。また、まさに、洗っている最中に、お生まれになるのではなく、すでに洗い終えられた時なのだろう。だから、「洗」は、どれも「あらひたまひし」と読んだ。
【宣長の注釈】「天照大御神」の「照」は、「てらす」と読むべきだ。『万葉集』巻十八に、「あまてらすかみ」とある。「てる」と読んでも、誤りではない。『延喜式』神名帳に、「あまてる神社」などもあるからだ。ただし、ここは、「天を照らす」というのとは、少し違う。ただ、「てる」を延ばして、「てらす」という、古語の形である。「立つ」を、「たたす」というのと同じだ。「天照」は、天に坐して、お照りになる意味で、「高光る」というのと同じである。『日本三代実録』の元慶四年、藤原基経公を太政大臣に任じる宣命に、「私の治める国を、平らかに、安らかに、天照らして治めることは、この大臣の力である」とある。この大御神にならい、天皇が天下を治められることも、「天照」というので、珍しい言葉だ。
「大」の字を、延佳の本で、すべて「太」とするのは、余計な考えで、改めたものだ。伊勢では、一般に、そう書く習慣なので、それが正しいと思ったのだろう。しかし、この記の諸本も、『日本書紀』も、すべて「大」と書き、ほかの古書でも、多くはそうである。また、普通は、「御」を省き、「大神」とも書くが、『万葉集』『続日本紀』『延喜式』の祝詞などにも、多く「大御神」と書いている。「大神」と書いて、「おほむがみ」と唱え奉るのは、「大御」が音便で変わった、後の発音だ。物語などで、「御」の一字を「おほむ」と読むのも、言葉は「大御」で、今の言葉の「おみ何々」も同じである。それを、同じ語の重複とするのは誤りだ。ここでは、「御」を、正しく「み」と読み、「神」の最初の音を、濁らせずに、唱え奉るべきである。
『日本書紀』には、「そこで、共に日の神を生んだ。大日孁貴と名づける。一書では、天照大神、別の一書では、天照大日孁尊という」とある。ここで、天照大神という御名を、「一書では」と記したのは、誤りだ。「別名」とあるべきである。その後は、どこでも、ただ天照大神と書いているので、一書だけの説ではないからだ。一書の説とするなら、前後が食い違うではないか。また、師の説では、「大日女貴」の「女」は、「み」に通じ、「持」の縮まったものだという。「月夜見」の「見」と比べて分かる。「貴」の字は、合い難い、ともいわれた。その説から、私、宣長が今考えるに、書紀の訓注の「おほひるめのむち」は、もとは「おほひるむち」だったのを、後世の人が、余計な考えで、「めの」の二字を足したのだろうか。そのほかの所では、どこでも「ひるめの命」「ひるめの神」などとだけあって、「ひるめのむち」は見当たらない。「おほひるむち」と申し上げれば、「むち」が、そのまま「め」に当たるのだ。別の一書にも、「天照大神と名づける」、また別の一書には、「大日孁尊という」とある。『万葉集』にも、「天照日女命」と詠む例がある。
【宣長の注釈】この大御神は、今、私たちの目の前で、世界を照らしておられる、天の日そのものである。だから、月と日は、今の、この禊によって、初めて、お生まれになったのだ。これ以前に、月も日もなかった。それなのに、世の学者が、月と日は、天地の始まりから、自然にあった物だとし、天照大御神や月読命とは別だ、と説を立てるのは、どの書物にあるのだろう。ただ、漢籍の理屈に溺れた、自分勝手な考えで、大いに古い伝えに背いている。もし、月も日も、もとからあったのなら、今、ここで生まれ出るのは、何の神なのだろう。「日の神」とあるのを、それでも、日とは別だと曲げて説明する。『日本書紀』に、「日と月が、すでに生まれた」とあるものを、どうするのだろう。ひたすら、外国の書物の理屈にだけとらわれ、このようにはっきり、生まれ出る始まりを記した、わが国の正しい古伝を信じないのは、ひどい邪説ではないか。
また、中国人のいう陰陽の理屈で、あらゆる事を説くのは、みな誤りだということは、最初の巻でも詳しく述べた。もし、実際に陰陽というものがあるのなら、この大御神は、左の御目から生まれ、日の神なのだから、必ず男神であるはずなのに、女神であり、かえって、右の御目から生まれた月の神が、男神なのは、どうしたことだろう。陰陽説が、真の道理に合わない証拠は、ここで明らかではないか。それを、無理に、あの理屈へ合わせようと、いろいろ言い曲げるのは、どれも論ずるに足りない。
『私記』が、この陰陽説の合い難いことを、さまざま論じているのも、やはり、その理屈を中心にするので、みな採るに足りない。ただ、その中の、「中国の風習と、日本の古い事とは、史書の記事が、みな違い、いっそう比較し難い」というのは、よい説だ。陰陽の理屈をいうのは、中国の風俗なので、わが国の古伝には、合わないのである。近頃、この大御神は男神だ、という人々もいるが、どれも、自分勝手な無理押しで、中国の理屈へ、へつらうものだから、論ずるに足りない。
ここで、伊勢の龍氏は、こういっている。「日の神、月の神は、人の姿を持ち、身に光を帯びた存在であって、仏教外の書物がいう、陰陽の精気ではない。仏典が説く、日天子、月天子が、それである。日月の二天子は、その姿で、仏の会座へ来て、説法を聴く。今、神の書を説く者が、日の神、月の神を、空に掛かる日月とは別のものと解するが、昔の人が、そう説いたとは、聞いたことがない。誰が信じようか」。この説は、仏典に溺れ、日天子、月天子だとか、仏の会座へ来るとかいう点では、同じ誤りで、論ずるに足りない。しかし、世の人が漢籍に溺れた誤りは、よく見分けている。この人が、それほどまでに、日月は陰陽の精気でないと見抜いたのは、仏典に助けられた力である。このことから、つくづく考えるに、世の学者が、わが国の古典の力に頼って、外国の説の誤りを見つけられないのは、返す返すも、残念でならない。
【宣長の注釈】「月読命」は、「つくよみ」と読むべきだ。『日本書紀』には、「次に月の神を生む。一書では、月弓尊、月夜見尊、月読尊という」とある。「読」も「弓」も借りた字なので、そうした漢字に基づいて、神名を説明するのは、例の、論ずるに足りない説である。また、書紀の意味には、腑に落ちないことがある。まず、日の神には御名があるのに、月の神には、御名がないのは、どうしたことだろう。三つの名は、みな一書の説だから、本文には関わらないのである。次に、「月夜見」と「月読」は、字が違うだけで、同じ御名なのに、並べて挙げるのは、どういうことだろう。これは、漢字だけにとらわれる人のためにいうのではなく、古書の趣旨を、よく知ろうとする人のために、注意を促すのである。
名の意味について、師は、綿津見、山津見などと同じく、「み」は「持」で、月夜を治め持つ意味だといわれた。そうでもあろう。夜の食国を、お治めになる大御神だからである。だから、古語の形として、「つくよみ」と読むべきだ。「月夜」は、『万葉集』などでも、「つくよ」とだけ詠んでいる。「つきよ」とある例は、古書では見当たらない。また、「よみ」、黄泉という名も、相通じて聞こえる。「み」の意味は、もう一つ考えもあり、天之忍穂耳命の所、伝巻七の五十四葉で述べる。
この大御神も、今、天にある月そのものである。月の光を、『万葉集』では、「月読の光」とも詠んでいる。男神であることは疑いないが、さらにいえば、『万葉集』の歌で、「月読をとこ」「月人をとこ」「ささらえをとこ」などと詠むことからも、分かる。『倭姫命世記』も、伊勢の月読宮の御姿を、馬に乗った男の姿といっている。『日本書紀』で、剣を抜き、保食神を斬り殺されるとあるのも、男神と受け取れる。
この大神を祭る神社は、『延喜式』に、山城国葛野郡の、葛野に坐す月読神社があり、名神大で、月次祭、新嘗祭を受ける。この社の始まりは、顕宗天皇紀三年の所に見える。同じ国の綴喜郡にも、月読神社があり、大社で、月次祭、新嘗祭を受ける。伊勢国度会郡には、月読宮二座があり、荒魂一座を含み、どちらも大社で、月次祭、新嘗祭を受ける。また、月夜見神社がある。丹波国桑田郡には、小川月神社があり、名神大。壱岐国壱岐郡には、月読神社があり、名神大である。この社は、前の顕宗天皇紀に、壱岐県主の先祖とあることに由来するのだろうか。これらの社が坐す。
【宣長の注釈】「建速須佐之男命」の、「建」「速」と申し上げる理由は、後で出てくる。「須佐」は、後の「勝ちさびして」とある所、伝巻八の四葉で述べる。「須」を、『日本書紀』で「素」と書くため、『枕草子』などでも「そさのを」と書くのは、誤った形だ。古書は、どれも「須」と書くし、書紀の「素」も、「す」「そ」の二音に使う字ではないか。仮名でも、ほかの文字でも、書紀の字の使い方によって、古語を取り違えることは多い。書紀には、いろいろと、惑わされやすい所が多いので、よくよく、ほかの古書と照らし合わせ、定めるべきだ。「之男」は、建御雷之男、筒之男などと同じ例である。
【宣長の注釈】ここで、御目と御鼻をお洗いになることだけがあり、御口と御耳の話がないのは、なぜだろうか。御目には、黄泉の物を見られた穢れがあり、御鼻には、匂いを嗅がれた穢れがあるのだろう。しかし、そこで物を召し上がっていないので、御口は、もとより穢れていないはずだ。御耳では、伊邪那美命のお言葉を聞き、雷の声なども、お聞きになっただろうが、声には、そもそも穢れがないのだろう。後世でも、声の穢れという話は、聞いたことがない。中国に、汚らしい事を聞いたとして、耳を洗う例などがあるのは、頭の中の理屈を巡らせたためだろう。だから、まさしく、醜い穢れは、見ることと、嗅ぐことにあるためだ。
その中で、目で見た穢れは浅く、後に残らないので、そこから生まれる、月と日の大神は、善い神である。『日本書紀』では、天照大御神が月の神を、「おまえは悪い神だ」と仰せになることもあるが、それは、一つの出来事についてのことで、全体としては、善い神なのだ。「大日孁尊と月弓尊は、どちらも、本性が明るく麗しい」といい、一方で、「素盞鳴尊の性質は」と続くことなどで、善と悪の違いは明らかである。鼻で嗅いだ臭気は、深く入り、その名残が消え難いので、須佐之男命は、悪い神なのである。さらに次の段にも、その証拠が見えるので、考え合わせるべきだ。
【宣長の注釈】「所生者也」の「者」は、「神」の誤りか、または、その上に「神」の字が脱けたのだろうか。しかし、本文のままでもよいのだろう。さて、この十四柱の神も、やはり、伊邪那美命を、御母とする。その理由は、伝巻七の二十五葉で述べる。
後から付け加えた考察
【宣長の注釈】巻六の初葉の、「且具与黄泉神相論」の「且」について、門人である尾張の稲葉通邦は、こういっている。「これは、『旦』の字を誤ったものだ。『あしたに』と読むべきである。今夜は、すでに黄泉の食事をして、穢れているので、現の国へ帰り難い。一夜を過ごし、明朝、黄泉の神と相談してから、帰ろう、と申し上げられたのだ。それなのに、伊邪那岐命は、夜の明ける間を待ち切れず、御覧になった。穢れは、日数を経れば、薄らいで、清まるものなので、ここも、一夜過ぎれば、黄泉の食事による穢れが清まる、という道理があったのだろう」。
「旦」の誤りだというのは、たいへんよい。「あしたに」とも、「つとめて」とも読むべきだ。『日本書紀』に、「そうではあるが、私は、まず寝て休もう」とあるのも、この考えによって、照らし合わせると、一晩を経て、翌朝を待つという道理で、よく合う。また、白檮原宮の段の、高倉下の、「翌朝、自分の倉を見る」という所も、翌朝を「旦」といっている。
古事記伝 巻七。本居宣長が謹んで著す。
神代 第五巻
【古事記本文】この時、伊邪那岐命は、たいそう喜んで仰せになった。「私は、次々と子を生んだが、最後に、三柱の貴い子を得た」。そして、御首の玉の、玉を通した緒を取り、さらさらと鳴り揺らして、天照大御神へお授けになり、「おまえは、高天原を治めよ」と、その役目をお任せになった。「母由良邇」の四字は、音を表し、以下も同じである。この御首の玉を、御倉板挙之神と名づける。「板挙」は「たな」と読む。
次に、月読命へ、「おまえは、夜の食国を治めよ」と仰せになり、役目をお任せになった。「食」は「をす」と読む。次に、建速須佐之男命へ、「おまえは、海原を治めよ」と仰せになり、役目をお任せになった。
【宣長の注釈】「大歓喜」は、この記の中に、たびたび出てくる。「大歓」「歓喜」という形もある。「大」は、「いたく」と読むべきだ。例として、『万葉集』巻七に、「いたく笑ひ遊び」とあり、巻十一には、「極太」と書く例もある。「いたく」という言葉は、この記にも、「いたくさやぎつ〔ひどく騒ぎ立った〕」とある。「痛」の意味から来た語で、『万葉集』には、その字を書くことも多い。「甚」の字も、そう読む。このような「大」の字は、所によって、「いと」とも読むべきだ。意味は同じだが、言葉の続き方によって、違うのである。「おほいに」と読むのは、漢文の訓読で、昔の言葉の形ではない。
【宣長の注釈】「子」とは、神だけでなく、前に生んだ、島や国も含めて、仰せになったのだ。初めに、淡島を、「御子の数に入れない」とあることから、分かる。
【宣長の注釈】「生み生みて」は、順々に、非常に多く、お生みになることをいう。「行き行きて」「恋ひ恋ひて」「居り居りて」などと同じ形である。
【宣長の注釈】「於生終」は、「うみのはてに」と読むべきだ。『万葉集』巻九の、「夕潮の、満ちのとどみに」などと同じ、言葉の形である。夕潮が、満ち切った時に、という意味だ。
【宣長の注釈】「三貴子」は、『日本書紀』の一書に「私は天下を治める貴い子を生みたい」とあり、その訓注で「珍は、うづという」として、この三柱の大神がお生まれになっている。神武巻にも「珍彦は、うづひこという」とあり、大殿祭の祝詞には「天皇の貴い御子、皇御孫の命」とある。これらを合わせ、「みはしらのうづのみこ」と読むべきである。また『玉篇』も「珍」を「貴い」と注しているので、「貴」の字をそう読むことにも問題はない。「うづ」は師の説によると、高く、いかめしいことである。今、人の姿を「うづ高い」というのも、よく合う。さらに、『万葉集』巻六・六十四丁の「天皇である私の貴い御手をもって……」や、さまざまな祝詞の「貴い幣帛」なども、その例である。『出雲国風土記』では須佐之男命を「伊弉奈枳の愛しい子」といい、出雲国造の神賀詞にも「日の愛しい子」とあるので、「貴子」を「まなご」と読むべきかとも思うが、やはり先の読み方に従うべきである。
【宣長の注釈】この言葉の調子は、『万葉集』巻二・十丁の「私は、まあ、安見児を得たことだ」という歌に似ているので、「得」は「えたり」と読むべきである。安見児は女性の名である。
【宣長の注釈】「御頸珠」。昔は男女とも、玉を緒に通してつなぎ、頭にも首にも手足にも衣にも飾ったことは、いうまでもない。その中で、火遠理命の装束の「御首の玉」、『日本書紀』の「素戔鳴尊が首に掛けた五百箇の御統の玉」、高比売命の歌の「首に掛けている玉のつながり……」、『万葉集』巻十六・七丁の「私が首に掛ける、七筋の玉……」などは、首に掛けたものである。「うながせる」も「うなげる」も、首に掛けていることをいう。大神宮式にも「首の玉・手の玉・足の玉の緒……」とある。『書紀』安閑巻には、幡媛が物部尾輿の瓔珞を盗み、春日皇后へ献上した話がある。これによれば、昔の首飾りには貴重な品があったらしい。「頸」は「くび」と読むべきである。師は「みうなたま」と読まれたが、やはり「みくびたま」だろう。今、犬猫などの首に結ぶ紐を「うなも」というのも、この古い呼び名の名残だ。『和名抄』には「頸は、頭を支える茎のような部分」とある。
【宣長の注釈】「もゆら」は、緒に通した玉が動いて、互いに触れ、音を立てる様子をいう。「に」は、添える言葉だ。誓約の段の、「ぬなとも、もゆらに」という箇所を、『日本書紀』では、「素戔鳴尊は、左の髻に巻いた、五百箇の玉のつながりを解いた。玉が、瑲々と音を立てた」と書き、その注に、「玉の鳴る瑲々を、ぬなとももゆらに、という」とある。「瑲々」は、そのまま、玉の音だ。また、「手の玉が、玲瓏と音を立て、紅を織る少女」という例もある。「瑲々」も「玲瓏」も、字書では、玉の音と注している。『遊仙窟』の「鏘々」を「ゆらめいて」と読むのも、その字が「瑲々」と同じだからだ。
『万葉集』巻十三には、「足の玉も手の玉も鳴らして織る機を」、また、「手に巻いた玉が、ゆららと音を立てて」などとある。巻十一には、「玉響」とあり、袁祁天皇の御歌にも、「鈴が、ゆらりと鳴ることよ」とある。巻十三には、「小鈴も音を鳴らして」とあって、鈴にも用いる。巻二十の、「音を鳴らす玉の緒を」と詠むのも同じだ。「ゆらく」の「く」を濁らせるのは、よくない。どの例も、清音の字を使っている。「ゆらに」「ゆららに」などは、鳴る様子で、「ゆらく」は、鳴ることをいう。
これらのうち、『万葉集』の例は、どれも、「も」は助詞である。「足玉も、手玉も」ということから分かる。しかし、この書紀のものは、助詞ではない。訓注に「毋」が二つあることから分かり、その上の「も」が助詞なのだ。下の「も」は、「ま」、まったく、そのまま、という意味なのだろうか。ただし、「ま」を「も」という例は、まだ見ない。この点は、さらに考えるべきだ。
【宣長の注釈】「取りゆらかし」は、御手で持ち、振り動かすことだ。『先代旧事本紀』で、十種の宝を、「ゆらゆらと振れ」というのも、同じ意味である。
【宣長の注釈】「賜」は、「たまひて」と読むべきだ。「たまはりて」と読むのは、誤りである。「たまはる」は、与えられることで、その品を受ける人についていう言葉だ。『万葉集』巻十六の「被給而」は、そのまま「たまはりて」だから、「被」の字を添えたので、これも受ける側からいう。「たまふ」と「たまはる」の違いは、「産む」と「産まれる」のようなもので、「産む」は親、「産まれる」は子についていう言葉である。
また、古い印本が、これを「たてまつりて」と読むのは、中古の言い方である。物語などで、与える方も受ける方も、両方を敬う時には、「たてまつりたまふ」という。「たてまつる」は受ける方、「たまふ」は授ける方を敬い、言葉を重ねた形なのだ。ここで「賜」と書くのは、授ける伊邪那岐命の方を敬っているので、親神だからである。それを「たてまつりて」と読むのは、お受けになる天照大御神を敬う言い方だけれども、上代の形には合わない。
そもそも、「たまふ」という言葉は、この御首の玉の故事から出たのだろう。だから、与えられた品を、「たまもの」というのだろう。このように、御首の玉を取り、鳴り揺らしてお授けになるのは、たいそうお喜びになり、ほかの子の中でも、特にこの御子を、愛しく、貴くお思いになるための、お振る舞いである。まことに、この大御神を生み得られた時には、そうであっただろうことも、もっともである。
【宣長の注釈】「汝命」は「ながみこと」と読むべきだ。「が」は「の」という意味である。『続日本紀』の宣命、巻十七の二十七丁に、「いよいよ受け継いで、あなた様がお治めになれ、と仰せになる」とある。また、武内宿禰の歌にも、大雀命を指して「ながみこ」と詠んでいる。これらを根拠とする。この呼び方は、この記にたいへん多い。前にも述べたように、後世の「汝」は相手を低く見る呼び方だが、上代には、敬う人にも用いた。だから「命」ともいうのだ。白檮原宮の段には、神沼河耳命が兄を指して「なね、ながみこと」、兄上、あなた様、と仰せになり、延喜式の祝詞にも、大和の六御県の山口に鎮座する神々を「汝命」と呼びかける文章がある。
【宣長の注釈】「高天原」は、前に出た所で述べたように、天を指す。この大御神を、今も、目の前の空へ仰ぎ見ると、この時に役目をお任せになった大命の通り、いつも天を治め、世界のあらゆる国を照らしておられることが、はっきり分かる。
それなのに、この大御神が、大和、近江、あるいは豊前に都を置いておられた、という説が世に聞こえるのは、どれもひどい誤説である。この誤説は、まず、天照大神は天皇の大祖先であるから、その徳を太陽になぞらえて日神と呼んだのであって、実際の太陽をいうのではない、と考えることから起こった。また、天はただ気だけから成る、形のないものなのに、地上のように、さまざまな出来事を語るはずがない、という理屈から、高天原も単に皇都のことで、事実はすべて地上にあったのだ、と考えたのだ。これはみな、中国の書物に溺れ、自分で推し量った誤った考えである。
そもそも中国人は、今、見聞きできる事物の、普通の理屈にとらわれ、その外に、測り知れない不思議な理があることを理解できない。こちらの人まで、ただその考えをよいものと思い込み、何かと神代の不思議な出来事を、平凡な心が考える普通の理屈へ無理に当てはめようとするのは、重ね重ね誤りなのだ。中でも、この大御神の都は何国である、などというのは、とりわけひどいこじつけである。
そもそも、この大御神が太陽とは別の存在で、地上におられたとすれば、あの天の石屋の段などを、どう説明するのか。当時、ほんのしばらく隠れただけでも、あのようなことが起きた。それなら、すでにお亡くなりになったのなら、その後、世の中はずっと常闇になるはずだ。それなのに、そうはならず、いつも明るく照らしておられることを、どういうのか。もし亡くならず、なおこの世におられるというなら、人の時代になってから、どこへお移りになったのか。何のために、都を置いた国をお捨てになったのか。まったく納得できない。
結局、大和であれ近江であれ、そこにおられたのなら、皇孫も、引き続きその都におられてこそ、天下を治められるはずだ。そのような国土の中央の都を差し置き、西の端の国へお降しになったことに、どういう理由があるというのか。
また、『日本書紀』の一書には、「天照大神は、高天原を治めるがよい」「素戔鳴尊は、天下を治めるがよい」ともある。高天原が、この国土の中にあるとすれば、素戔鳴尊が天下を治め、天照大御神は、まるで一国の国造に任ぜられたようなものだ。たいへんおかしい。それなのに、この「天下」という言葉まで、違う意味へ曲げて解釈し、なお自説を立てようとする人もいる。世の学者は、古い伝承を信じず、自分勝手な中国風の考えで曲げようとするので、このように、さまざまな不都合があるのに、なお無理にその説を飾り立てる。まったく、あきれたことだ。
【宣長の注釈】「所知」は「しらせ」と読むべきだ。「しれ」を長くした形である。また、「しろしめせ」と読んでも悪くない。この言葉については、次に詳しく述べる。『万葉集』巻二に、「天を照らす日の女神は、天をお治めになるとして」とある。
『日本書紀』には、次のようにある。「どうして、天下の主となる者を生まないでいられようか。そこで、二神は共に日神をお生みになり、大日孁貴と名づけた。この子は、輝きが明るく美しく、あらゆる方角を隅々まで照らした。二神は喜び、『わが子は多いが、このように不思議な力のある子は、まだいない。長くこの国に留めておくべきではない。早く天へ送り、天上の事をお任せしよう』といった。この時、天と地は、まだ遠く離れていなかったので、天の柱によって、天上へお上げになった」。
「天と地がまだ遠く離れていなかった」とは、天と地が分かれてから、まだ、それほど時がたっていない時代だったためである。「天の柱によって」については、師が、「この天の柱は、伊邪那岐大神の息、つまり風だ。竜田の風の神を、天御柱・国御柱命と申し上げることと合わせて理解すべきだ」といわれた。まことに、そうであろう。天と地の間を支えるものは、風だからである。
【宣長の注釈】「事依」は、前の巻四に出ている。さて、天照大御神は、この役目をお任せになった通りに、天地と共に、限りなく高天原をお治めになり、天地の表も裏も、隅々まで照らしておられる。天下の、あらゆる国々で、このお力を受けない国はない。だから、天地のあらん限りを治める大君主であり、世に、この上なく尊いお方は、この大御神だったのである。
これより先に、高天原には、すでに五柱の神がおられた。しかし、高天原を治めたとはいわれていないので、君主とは申し上げにくい。君主は、この天照大御神が初めてなのだ。それなのに、世間で、天之御中主神や国之常立神なども、君主のように説明するのは、古い伝承と違う。だからといって、それらの神を、臣下の神というのも誤りだ。君主がいなければ、どうして臣下といえようか。人の世の考えで、天地の初めにも、君主と臣下の区別を説明しようとするのは、中国風の考えによる誤りである。
また、世界のあらゆる国は、この大御神の光とお力を受けながら、その初めのいきさつも知らず、この皇国にお生まれになったことも知らない。そのため、皇国が、格別に尊いことも、まったく知らないのは、外国には、神代の正しい伝承がないからである。
【宣長の注釈】「賜也」は、先ほどの御首の玉を、お授けになったことである。このように、重ねていうのは、昔の言葉に普通の言い方だ。
【宣長の注釈】「御倉板挙之神」。これは、親神からいただいた大切な宝として、天照大御神が御倉に納め、その棚の上へ安置し、尊んでお祭りになったためのお名前だろう。「板挙」は、垂仁天皇紀に、天湯河板挙という人名があり、そこにも「板挙は、たな、という」とある。板を高く上げ、物を置く場所にするので、このように書いたのだろう。『新撰字鏡』には、「棚は、閣である。たな」とあり、『和名抄』にも「棚閣、和名は、たな」とある。普通にも、この「棚」の字を使う。『万葉集』にも「たな」という言葉の当て字に、この字を書いている。
代々伝わる三種の神器のうち、神璽は、この御首の玉だという説がある。理屈としては、もっともにも聞こえるが、誤りだ。その理由は、巻十五の二十丁に出ている。
三柱の御子へ、それぞれ役目をお任せになった中で、この大御神は、高天原をお任せになった点が、ほかより優れているだけではない。特別に、この御首の玉をもお授けになったのは、やはり、三柱の中で、格別に優れておられるためなのだ。
【宣長の注釈】「夜之食国」。まず「食国」は、皇孫がお治めになる、この天下をまとめていう呼び名だ。「食」は、もともと物を食べることである。『日本書紀』などで、「食」を「みをしす」と読み、食べ物を「をしもの」という。『万葉集』巻十二では、「をし」という語に、「食」の字を当てている。
物を見ること、聞くこと、知ること、食べることは、どれも、ほかの物を自分の身へ受け入れる点で、意味が同じだ。そのため、「見」「聞」「知」「食」を通わせていうことが多く、その例は、この次に出る。君主が自分の国を治め、保っておられることも、「知る」「食す」「聞こしめす」という。中国で「食邑」といい、何千戸を「食す」というのも、自然と意味が合う。君主が国を治め、保つことには、物を見、聞き、知り、また食べるように、自分の身へ受け入れ、保つ意味があるからだ。次に出る「所知看」も、「知り見る」で、同じ意味である。その理由は、この巻の十七丁に述べる。巻四の十八丁の説明も、合わせて考えるべきだ。
『万葉集』巻五に、「大王がお治めになる国の」とあり、巻十八には、「高御座、天の日継と、天皇の、神の命の、聞こしをす、国のまほらに」、つまり、皇位を継ぐ天皇がお治めになる、国のすぐれた所に、とある。巻二十には、「お治めになる四方の国々」とある。この「聞こしをす」も「聞こしめす」も、「知ろしめす」と、まったく同じ意味だ。だから、「知」「聞」「看」「食」は、みな通わせて、国を治め、保っておられることに使う、と理解すべきである。食べ物を食べることを、「聞こしめす」というのも、同じように、通わせた言い方だ。これで、「所知」の意味も、自然とはっきりする。
「食国」の例は、軽島宮の段にもあり、『続日本紀』の宣命などにも、「食国天下」「四方食国」「聞看食国」と、数多くある。『万葉集』にも多いが、巻十七の「天皇がお治めになる国」などが、その例だ。「みけつくに」も「御食国」と書き、同じ字だが、これは、天皇のお食事に供える食べ物を献上する国をいうので、「をす国」とは別である。また、この「をす国」を「御食国」と書く例もあり、『万葉集』巻六と十八に見える。取り違えてはいけない。
さて、日神は昼、月神は夜をお治めになり、共に高天原におられる。地上の国ではないのに、「食国」というのはなぜか。師の説では、「くに」という名は、境界で区切った範囲という意味だ。東国で、垣を「くね」というのも、この意味である。だから、須佐之男命が天へ上られる時、高天原を治める天照大御神は、「私の国を奪おうとしている」と仰せになった。また、その須佐之男命には、「海原を治めよ」とあるのに、次に伊邪那岐命は、「命じられた国を治めない」と仰せになる。もともと、皇孫がお治めになる天下の範囲を「国」というので、その名を、さかのぼって神代にも使い、天であれ、海であれ、それぞれ治める範囲を「国」と伝えたのである、といわれた。この説で理解できる。『続日本紀』巻二十一の「食国高御原乃業」は、「座」を「原」と書き写し間違えたのだ。他の例から分かる。
天照大御神には、「昼」とはいわず、高天原全体を仰せになり、この月神には、「夜」、また「食国」と仰せになるのは、こちらには、範囲を限る意味がある。夜と昼は対になるが、昼が中心なのだ。『日本書紀』には、「次に月神を生んだ。その光は、日に次ぐものだった。日と並んで治めるがよい。そこで、この神も天へ送った」とある。一書には、「月読尊は、滄海原の潮の八百重を治めるがよい」とある。この一書は、大筋では、この記と同じだが、この点は、違う伝承である。
【宣長の注釈】「海原」。この名は、古い書物によく見えるが、『万葉集』巻五と十四には、「うなはら」などとある。『日本書紀』には「滄溟」、『万葉集』巻二十には「あをうなはら」ともある。このように、『万葉集』では、「は」は、どれも清音を表す仮名を使っているので、濁らせずに読むべきだ。普通に「ば」と濁らせるのは、どうだろうか。『和名抄』では、「滄溟」を「あをうみはら」としている。
『日本書紀』には、須佐之男命について、「この神は、性質が、人を害し、傷つけることを好んだので、下して、根国を治めさせた」とも、「天下を治めるがよい」ともある。これらは、それぞれ違う伝承である。
【宣長の注釈】三柱の御子神へ、それぞれお任せになった範囲は、以上の通りである。
『日本書紀』の諸伝承は、それぞれ違う。まず、本伝では、天下の主となる神を生もうとして、この三柱をお生みになった。だから、初めは三柱とも、天下を治めるはずの神だった。しかし、日と月の二柱は、霊妙な御子なので、「長くこの国に留めておくべきではない」と仰せになり、天上を治めさせた。須佐之男命には、「おまえは無道だから、天下に君臨することはできない」と仰せになり、根国へ追いやった。そのため、初めに「特に貴いものを、尊という」と書き方を定め、この三柱へ、どれも「尊」の字を使うのも、もともとは、いずれも天下の主となる神だからである。
一書で、須佐之男命に、「もし、おまえがこの国を治めれば、多くの物を害するに違いない」とあるのも、もとは、この神が天下を治めるはずだったことを示す。また、別の一書は、大筋では、この記と同じだが、月読尊へ海原、素戔鳴尊へ天下をお任せになる点が違う。さらに別の一書は、須佐之男命へお任せになる範囲は、この記と同じだが、月神へ「日と並んで、天の事を治めるがよい」と仰せになり、「夜之食国」とない点が、やはり違う。これは、編者が自分の考えで、文章を変えたのかもしれない。このように、さまざまな違いはあるが、須佐之男命が、ついに根国へお帰りになることは、どれも同じである。
この地上の国を残して、空けておかれたのは、どういうことか。後に、天照大御神が、「豊葦原の水穂の国は、わが子が治める国だ」と仰せになることから考えると、もとから、後に皇孫がお治めになる、深い理由があったのだろう。また、日と月の善い神は天へ、須佐之男命という悪い神は、最後には根国へお帰りになることにも、深い理由があるはずだ。神代の初めから、このように、禊の中でお生まれになる御子の、そのまた御子が、永くこの天下を治められることにも、深い理由があるだろう。このような、目には見えない定めがあって、代々治めてこられた天皇の皇位なのだから、天地と共に、岩のように、動かず移らないことも、もっともなのである。
【宣長の注釈】人は、人間の出来事を基準に、神代のことを論じる。世間の物知りは、神代の、測り知れない理にかなった神々のお働きを理解できず、それを曲げ、世の普通の人間の出来事として説明する。これはみな、中国風の考えに溺れているためだ。私は、神代のことをもとに、人間の出来事を理解した。
さあ、その趣旨を詳しく述べよう。世の中のありさまは、時代ごと、その時々に、よいことと悪いことが、次々と移り変わってゆく。この理は、大きな事も、小さな事も、天下に関わる大事から、人々の一人一人の身の上の小事まで、すべて神代の初めのあり方によっている。その理のすべては、女神と男神が夫婦の交わりをなさった時から、島国や、さまざまな神をお生みになり、今、この三柱の貴い御子神に役目を分け、お任せになるまでに、みな備わっている。この間の、次々の出来事の趣旨をもとに、人の世の、あらゆる理を知るべきなのだ。
まず、夫婦の交わりから、国々、神々をお生みになるまでは、すべてよい事だった。ただし、初めに、女神と男神が言葉をかける順序を違えたことは、悪い事の芽生えとでもいおうか。火の神がお生まれになったため、母神がお亡くなりになったのは、世の悪い出来事の始まりである。火が、世の中で大きく役立つ物なのは、いうまでもない。火の神が斬られた、その血から生まれた神々も、大きな功績をなさる。だから、火の神の誕生も、やはり、よい事なのだ。
世の人が、悪い出来事によって死ぬのは、この理による。そもそも死ぬ原因は、病気であれ何であれ、みな悪いものだ。火の神は、このように、よい面と悪い面を兼ねているから、その誕生は、よい方から悪い方へ移る境目なのである。火はたいへん役立つが、物を失わせることも、これほどの物はない。それも、この理である。
こうして、黄泉国は、このような災いによって女神が移ってゆき、そこに永く留まられる国だった。これは、まさしく、よい方から悪い方への移り変わりだ。だから、黄泉国は、世の悪いものが帰り着く所であり、また、世の悪いものが生じる所でもある。女神は、火の神を生むまでは、物を造る善い神だったが、黄泉国に入って留まり、悪い神となられた。「おまえの国の人々を、一日に千人、絞め殺そう」とあるのが、悪い神となった証拠であり、禍津日神がお生まれになる根源である。
男神も、その国へ追ってゆき、思いがけず悪いものへ触れられたのは、世の中全体が悪くなることである。天照大御神が、しばらく天の石屋へお隠れになったことも、後世、天下が乱れに乱れた時があったことも、みな、この理による。男神は、次々に物を造られ、初めから終わりまで、善い神である。それでも途中で、わずかに、この穢れへ触れられたのは、世の中には、よい中にも、少しの悪が混じらずにはいられない、というあり方なのだ。
しかし、男神は、すぐに、この目に見える国へお戻りになり、禊をなさる。これは、悪い方から、よい方へ移るための行いである。世の中で、悪いことを直し、よいことを行うべき人の道は、この理によっている。
その時、まず禍津日神がお生まれになるのは、まったく、黄泉国の穢れによる。禊は、悪い方からよい方へ移る境目なので、初めには、この神がお生まれになる。世の中に悪いことがあるのは、みな、あの穢れから生まれた、この神の御心なのだ。その穢れを祓い、清め、直す。ちょうど直す時に、直毘神がお生まれになり、直り終わった時に、伊豆能売神がお生まれになる。そして、この三柱の貴い御子神がお生まれになる。
それでも、三柱の中に、なお須佐之男命という悪い神がおられ、荒れ狂い、傷つけ害なさる。これは、伊邪那岐大神が、終始、善い神でありながら、なお一時は穢れへ触れられたのと、同じ理による。ついに、天照大御神が高天原をお治めになるのは、ふたたび、すっかりよい方へ戻ったことである。
ただし、この大御神さえ、須佐之男命の乱暴に耐えられず、しばらくは、その光を遮られた。これは、世の中にも、大きな乱れや、重大な反逆が、必ず起きずにはいられない理であり、その根源は、みな黄泉の悪いものから出ている。しかし、その大いなる光が、ついに、すっかり遮られてしまうことはない。ほどなく、よい方へ立ち戻り、ふたたび明るく、永遠に世を照らし、皇孫が天下をお治めになって、皇統は、千万代の末まで揺るがない。これこそ、世の中のあるべき姿なのだ。昔から今まで、治まったり乱れたりし、よいことと悪いことが移り変わる、あらゆる理は、すべて、このあり方による。
だから、この順序の意味を、よく味わい、世の中では、どんな事も、よいことから悪いことが生じ、悪いことからよいことが生じて、互いに移り変わってゆく理を、悟るべきである。二柱の神が、さまざまな神を生むという、よいことから、女神がお亡くなりになる、悪いことが起きた。すべての事で、悪いことは、このように、よいことから起こる。伊邪那岐命が黄泉の穢れに触れるという、悪いことがあったからこそ、禊をして、日と月の神がお生まれになった。すべての事で、よいことは、このように、悪いことから起こる。人の生と死、一日の夜と昼、一年の春と秋があるのも、このあり方であり、世には、よいことばかりでなく、悪いことも、なくてはならない理なのである。
また、悪いことはあっても、最後には、よいことへ勝つことはできない理を、知るべきだ。女神が、地上の人々を一日に千人殺せば、男神が一日に千五百人生まれさせるのが、それだ。後に、須佐之男命の乱暴によって、天照大御神は天の石屋へ隠れられるが、ほどなく出て、永く世を照らされ、須佐之男命は追われる。これも、この理による。
また、人は必ず、悪いことを忌み避け、よいことを行うべき理を、知るべきである。伊邪那岐命が、黄泉の穢れを嫌い、禊をなさるのが、それだ。後に、須佐之男命が二度追われるのも、この理のためである。
さて、人が悪いことを直し、よいことをすべき道は、あの禊の理による。しかし、大神が、この禊によって、人々へ、悪を避け、善を行え、と教え諭されたのではない。あの禊も、その時、ことさらに神の教えを受けてなさったのではなく、もともと産巣日神のお力によって、自然と黄泉の穢れを悪いものとお思いになる、ご自分の心からなさったからである。人も同じく、産巣日神のお力によって、悪いことを嫌い、よいことをすべきものとして生まれた。だから、誰が教えるともなく、自然と、その区別をわきまえているものなのだ。
それでも、人の行いは、必ず善ばかりではいられず、自然と悪も混じらずにはいられない。これは、あの大神も、一度は黄泉に入って穢れへ触れ、また三柱の貴い御子神の中にも、なお須佐之男命がおられる理による。なんと不思議なのだろう。なんと霊妙なのだろう。なんと妙なることだろう。なんと妙なることだろう。世の中の、古今のすべての事は、この理から外れるものがない。
【古事記本文】それぞれが、お任せになった命令の通りに治める中、速須佐之男命は、命じられた国を治めず、長いひげが胸元に届くまで、泣きわめいておられた。「伊」からの四字は、音を表す。以下も同じである。その泣く様子は、青い山を、枯れた山のように泣き枯らし、川も海も、すっかり泣き干してしまうほどだった。そのため、悪い神々の声が、五月の蠅のように、満ちあふれ、あらゆる災いが、ことごとく起こった。
そこで、伊邪那岐大御神が、速須佐之男命へ、「なぜ、おまえは、任せた国を治めず、泣きわめいているのか」と仰せになった。すると、「私は、亡き母の国、根之堅洲国へ行きたいので、泣いています」とお答えした。伊邪那岐大御神は、たいそう怒り、「それなら、おまえは、この国にいてはならない」と仰せになり、神やらいとして追放なさった。「夜」からの七字は、音を表す。そして、その伊邪那岐大神は、淡海の多賀に鎮座なさる。
【宣長の注釈】「各」は、称徳天皇紀の詔に、「おのもおのも」とあることにより、そのように読むべきだ。「自分も、自分も」、それぞれ、という意味である。
【宣長の注釈】「賜」は、ここでは、ただ敬意を添える言葉である。敬語の「たまふ」について、師の説では、その事をよく習い覚えて成し遂げる意味なので、自分の事にもいう例が多い、とされている。しかし、今、私が思うには、物を「賜ふ」、お与えになる、という意味から転じた言葉だろう。その理由は、「奉る」も、物を差し上げる意味から転じ、敬意を添えて、「何々し奉る」というのと、この「奉る」と「賜ふ」が、まったく反対の関係にあるからだ。
また、敬語として、自分の事へ「侍り」「候ふ」などというのも、もとは、身分の高い人の前へ控えることから転じた。今の普通の文章で、あらゆる事へ「申す」を添え、「何々し申す」というのも、身分の高い人へ、物を申し上げることから来ている。身分の上下の間で用いる、添えた言葉は、実際の行為をいう言葉から転じる。他の例が、すべてこうなのだから、「たまふ」も同じだと理解すべきである。
ただし、自分の事へ「たまふ」という例も多い点は、まだ説明がつかない。なお考えるべきだ。あえていうなら、今の言葉でも、自分の事について「御座有申」と、よくいう。「御座」は、人を敬う語だが、相手を敬うためには、自分の事にも、このような敬語を添えることがある。また、「御見舞い申し上げる」「御礼を申す」なども、自分の行為へ「御」を添える。これはみな、相手を敬う語だ。自分の事へ「たまふ」というのも、この類いと考えようか。
【宣長の注釈】「命」は、お言葉のことである。
【宣長の注釈】「随」。『続日本紀』巻九の詔に、「わが孫が、天下を治めるようにと、お任せ申し上げた、その通りに」などとある。
【宣長の注釈】「所知看」。この言葉は、古い書物に、いつも多く出る。延喜式の祝詞には、「所知食は、古語で、しろしめす、という」とあり、『万葉集』の歌には、「しらしめし」とも、あちこちにいう。「看」は「見す」だ。ただし、普通に、人に見させることを「見す」というのとは違い、単に「見る」ことを「みす」という、一つの古語である。「見たまふ」を「みしたまふ」というようなものだ。「立つ」を「たたす」、その続く形を「たたし」というのと同じ形である。
例は、『万葉集』巻一に、「埴安の、堤の上に立たして、見したまへば」とあり、埴安の堤の上に立ち、お御覧になると、という意味である。巻六に、「わが大王の、見したまふ、吉野の宮は」、巻十九に、「見したまひ、明らめたまひ」、お御覧になり、お心を晴らされて、とある。ほかにも多い。今の本は、古語を知らず、読み間違えた所が多い。
この「みし」を「めし」とも通わせていう例は、巻二の「めしたまふらし、神岳の、山の黄葉を」、神岳の山の黄葉を、お御覧になるらしい、また、「明日もかも、めしたまはまし」、明日も、お御覧になっていただきたい、とあるものだ。これらは「みしたまふ」で、「召」は、みな当て字である。巻十八の「吉野の宮を、あり通ひめす」、吉野の宮へ、いつも通って、お御覧になる、の「めす」も「みす」で、前に引いた巻六の歌と合わせて理解すべきだ。巻二十に、「めしたまひ、あきらめたまひ」、お御覧になり、お心を晴らされて、また、「大王の、めしし野辺には」、大王が御覧になった野辺には、とある。これも、前の巻六と十九の歌と合わせて理解すべきだ。「めしし」は「みしし」で、下の「し」は、過去を表す語である。
だから、「所知看」などの「看」も、もとは物を見ることなのだが、それを、国を治め、保っておられることへ通わせて使う理由は、前に述べた通りだ。巻一の「藤原が上に、食国を、めしたまはむと」、藤原で、国をお治めになろうと、また巻二の「わが大王がお治めになる北の国の」などから、ますます明らかである。「看」へ「食」の字も書くのは、物を食べることと、物を見ることを、通わせていうためだ。これも、すでに前に述べた。今、飯を「めし」というのも、食べ物だからである。また、人を呼び寄せることを「めす」というのも、「みす」から出たのだろう。
【宣長の注釈】また、『万葉集』巻二には、「所知行」と書いている。この「行」の字については、中巻の倭建命の段に「看行」とある、その所で述べる。
【宣長の注釈】「所命之国」。下巻の朝倉宮の段に、「命じられた事を忘れる」とある所は、「おほせたまひしこと」と読むべきだ。だから、ここも、それにならえば、「おほせたまひしくに」と読もうか。『続日本紀』巻一に、「天皇が、お授けになり、お負わせになった大命を」、巻二十一に、「この皇位の仕事を、つたない私へ、授けて仕えよ、と仰せになり」とあり、ほかにも多く見える。「仰す」も、「負わせる」という意味だ。
しかし、ここでは、後にも「おまえは、任せられた国を治めない」とあるので、やはり「よさしたまへるくに」と読むべきである。この「国」は、そのまま海原をいう。前の文章から分かる。
【宣長の注釈】「不治」は、「をさめずて」と読んでも悪くないが、やはり「しらさずて」と読むべきだ。「天下を知ろしめす」は、決まった古語で、「御宇」「御宙」などと書いても、みな、そう読む。中巻以後、歴代の天皇について、「何々の宮に坐して、天下を治む」と書く、その「治」も、必ず「しろしめす」と読むべきである。また、ここは、前の「所知看」という語を受けて、いうはずだからである。
【宣長の注釈】「八拳須」は、「やつかひげ」と読む。「八拳」の意味は、「十拳剣」の所で、すでに述べた。また、「八束穂」などともいう。いずれも必ず八つに限るのではなく、「彌束」、束がいくつも重なるほど、という意味で、ただ長いことだ。「須」は「鬚」のもとの字で、『説文』は、「顔の毛」と注している。『漢書』の注には、「あごのものを須、頬のものを髯という」などとある。『和名抄』には、「髭は、口の上のひげ。かみつひげ」「鬚髯は、あごの下の毛。しもつひげ」とある。ある人は、「ひげ」は「鰭毛」の意味だという。そうだろうか。また、「秀毛」、突き出た毛、という意味でもあろう。
【宣長の注釈】「心前」は、「むなさき」と読むべきだ。今もいう言葉である。天若日子の話に、「高胸坂」という語があるため、「むなさか」と読むのは誤りである。あちらは、別の意味だ。
【宣長の注釈】「至」は、「いたるまで」と読む。ただし、普通に、この字をそう読む時とは、言葉の意味が違う。普通なら「まで」は、届く所まで、という意味で、「至る」は、胸元へ届くことである。しかし、ここでは、成長なさり、そうなる年頃まで、という意味なのだ。大御垣宮の段でも、本牟智別の御子について、「長いひげが胸元に届く年頃まで、きちんとした言葉をお話しにならなかった」とある。これは、ただ、年齢が進んだことをいう古語である。たいへん古い時代の言葉は、このように、はっきりいい立てず、その様子を、ゆったりと述べ、まことに雅やかなものだ。それなのに、勇猛な者の、普通とは違う姿をいう、などと注するのは、古い言葉を知らない、後世の考えによる、でたらめな説である。
【宣長の注釈】「啼いさちき」。『日本書紀』には、「泣いて恨む」とあり、神功皇后紀には「血の涙を流して泣く」、欽明天皇紀には「大きく息をつき、涙を流して泣く」などともある。「さ」を濁らせるのは、よくない。「き」は、添える語である。この「いさち」という言葉は、これ以外に、古い書物では、はっきりした例がない。谷川氏は、「足をすり動かして泣く、とでもいうようなものだ。幼い子が怒って泣く時に、この様子がある」といっている。そうだろうか。書紀が、恨み怒る意味の字を加えたのも、この意味だろうか。また、幼い子が足をすって進むことを「いさる」というのも、この「いさ」と、もとは同じ語だろうか。
前に、「枕元へ這い寄り、泣く」とある様子も似ている。そうなら、あの泣沢女は、「なきいさはめ」の意味だろうか。『万葉集』巻五には、「立ち踊り、足すり叫び、伏し仰ぎ、胸打ち嘆き」、立ち上がって身を躍らせ、足をすり、叫び、伏せたり仰向いたりして、胸を打ち嘆き、などとある。『出雲国風土記』には、阿遅須枳高日子命が、昼も夜も泣いておられたことが見える。それは、その神の所で引こう。
【宣長の注釈】「泣状」は、「なきたまふさま」、お泣きになる様子、と読むべきだ。
【宣長の注釈】「青山」は、木や草が茂り、青々と見える山をいう。沼河比売の歌の「あをやま」を初め、古い書物に多く見える。
【宣長の注釈】「枯山」は、「禿」〔字形は判読留保〕、草木の生えない、という字の意味で、木も草もない山をいうのだろう。物がなく、空であることを「から」という、その意味である。また、書かれた字に即していえば、もとあった木や草が、みな枯れ、なくなった山だろうか。冬枯れの頃の山をいうとも思えず、また、木々が、すべて枯れたまま立つ山があるはずもない。「かるる」は、水の潤いがなくなることも、声がかれることも、乾く意味で、同じである。また、物のないことを「うつら」というのも、この意味から転じたのだろうか。もしそうなら、最初の意味も、突き詰めてゆけば、一つに落ち着く。
「枯」を「から」というのは、難波高津の御代に、船の名を「枯野」といい、歌に「からの」とあるから、古い言葉だ。皇極天皇紀で、鞍作得志の不思議な術を述べる中にも、「時には、枯山を、青山へ変えた」という話がある。
【宣長の注釈】「河海」は、「うみかは」と読むべきだ。
【宣長の注釈】「乾」は、「ほしき」と読むべきだ。「き」は添える語である。この言葉は、「ひ・ふ・ほ」と形を変える。『日本書紀』の人名に「市乾鹿文」とあり、「乾は、ふ、という」とあるのが、「ふ」の例だ。「来」が「き・く・こ」と変わるようなものである。「ほす」は、乾かすことだ。
『日本書紀』には、「この神は、勇猛で、残忍さを平気とし、いつも泣くことを行いとしていたので、国内の人々を、多く、若死にさせた」とある。また、「この神は、性質が悪く、いつも泣き怒ることを好み、国民は、多く死に、青山は枯山となった」ともある。この記は、人々を害なさったことをいわない。しかし、山、海、川までもいうのだから、人々を初め、あらゆる物を傷つけ、害なさったことは、自然と含まれているのだろうか。
そもそも、この神が泣くために、山、海、川が枯れ、干上がるのは、どんな理によるのだろう。泣くと涙が出るので、その涙の方へ吸い取られ、山、海、川の潤いが、なくなるのだろうか。潤いがなくなれば、あらゆる物が損なわれるのである。この神が、このようであるのは、伊邪那美命が、「人々を、一日に千人、絞め殺そう」と仰せになった、そのすべての現れなのだ。この神は、母神の黄泉の穢れの、残りからお生まれになったためである。
例によって、中国の書物に迷う人々が、無理に、五行説を引き付け、この神を「金の性質の神」とし、その金の気で、青山が枯山となる、と説明するのは、たいへん悪い説であり、おかしい。もしそうなら、金は水を生むはずなのに、海や川を泣き干されることを、どう説明するのか。
【宣長の注釈】「悪神」。『日本書紀』神代下の一書で、皇孫が天降ろうとなさる所に、「葦原中国では、岩の根や木の切り株も、草の葉も、なお言葉を話す。夜は、燃える火のように、騒がしく音を立て、昼は、五月の蠅のように、湧き騒ぐ」とあり、「喧響は、さばへとなひ、という」「五月蠅は、さばへ、という」とある。また、本伝には、「その地には、螢火のように光る神や、蠅のような声の邪神が、多くいる。また、草や木も、みな言葉を話す」とある。
ついでにいうと、この「螢火」を「ほたるび」と読むのは、ひどい間違いだ。「火」という字が付けば、別のものになるわけではない。また、「五月蠅の如し」を、ここでは「如」を省き、「蠅声」と書いているから、この「螢火」も、それと同じように、「如」を省いたもので、「ほたるなす」、螢のように、と読むべきだ。「螢火」と書くのは漢文の書き方で、こちらの言葉には、「ほたるび」という言葉はない。
同じ所を、この記は、「葦原中国は」「この国には、道速振る、荒振る国神たちが、多くいる」と書く。これらを合わせて考えると、皇孫が天降ろうとなさる時の、葦原中国の様子と、今ここで述べる様子とは、まったく同じ事である。だから、この「悪神」も「あらぶるかみ」と読むべきだ。書紀の、先ほどの「邪神」も、ほかの所の「邪鬼」なども、みな「あらぶるかみ」と読むべきである。古い訓は、漢字にとらわれ、古い言葉に合わないものが多い。
【宣長の注釈】「音」は、「おとなひ」と読むべきだ。先に引いた書紀の訓注を根拠とする。この言葉は、中古の物語などにも多く見え、「おとなふ」ともいう。
【宣長の注釈】「狭蠅」は、書紀が書く通り、五月頃の蠅である。それなのに「さつき」といわず、「さ」とだけいうのは、田植えの仕事を、まとめて「さ」というためだ。その苗を「さなへ」、植える女を「さをとめ」、植え始めることを「さびらき」、植え終わることを「さのぼり」などというのと同じである。「早苗」と書くと、「早い」という意味は合わない。その仕事をする月も、「さつき」という。「早苗の月」と理解するのは、本末が逆だ。その頃の雨を「さみだれ」という。
「みだれ」は、雨が長く降ることで、『源氏物語』では、風雨を「空の乱れ」という。また、『和名抄』には、「麦李は、麦が穂を出す頃に熟すので、こう名づける。『漢語抄』では、さもも、という」とあり、この「さ」も、同じだ。だから、「さばへ」も、田植えの頃の蠅、という呼び名である。その頃、特にこの虫が多いため、その季節を名に付けたのである。
【宣長の注釈】「如」は、「なす」と読むべきだ。石屋の段には、その通り、「狭蠅なす」と書いてある。「ごとく」の古い言葉で、前の巻三、二十一丁に述べた通りだ。
【宣長の注釈】「満」の字は、「涌」の間違いだろう。書紀では、「沸騰」、湧き騒ぐ、という。その文章は、前に引いた。また、出雲国造の神賀詞にも、「昼は、五月の蠅のように、みな湧き騒ぎ、夜は、火のように光る神がいて、岩も、木立も、青い水沫も、物をいう、荒れた国であった」とあるからだ。「水沸」の「水」は当て字で、「みな」と読むべきだ。この記と合わせて考えると、「皆」という意味だったのである。「満」では、解釈しにくい。允恭天皇紀に「蠅散」とあり、『万葉集』巻三に、「五月の蠅のように騒ぎ立てる舎人たち」、巻五に、「五月蠅なす、騒ぐ子らを」、蠅のように騒ぐ子らを、などとある。「涌」は、ただ騒ぐ様子だけでなく、湧き出て騒ぐことをいうのだろう。
【宣長の注釈】「万物之妖」。神武天皇紀には、「妖気」ともある。これは、先に引いた書紀の、「岩の根や、木の切り株などが物をいう」という事などに当たる。この事は、先ほどの神賀詞や、ほかの祝詞にもある。本来、言葉を話すはずのない物が話す、その不思議な性質をいうのだ。ただ、文章のままに理解すべきである。例によって、いろいろと、小賢しい説があるが、採らない。
この記は、「万物」といっているので、このような異変は、さらに、さまざまあっただろうが、「岩の根や木の切り株が」というのは、その中の一つ、二つを挙げ、語り伝えた古い言葉なのである。あちらとこちらは、時は違っても、出来事の様子は、まったく同じだというのは、前に述べた通りだ。
また、「何々は皆、何々は悉く」と、二つの事を並べ、「皆」と「悉」を対にしていう例は、後に、「山川は、ことごとく動き、国土は、みな震えた」、また、「高天原は、みな暗く、葦原中国も、ことごとく暗かった」などとある。
祝詞、延喜式巻八の二十三丁と三十五丁に、「荒振る神々を、神として追いやり、和らげ、物をいう岩、木立、草の片葉までも、言葉を止めさせ」とある言葉を、よく味わうと、それほどの荒神を追い平らげたので、この異変も、止んだのである。これから考えると、今、この異変が起こるのも、悪神が湧き出るためだったのだ。
須佐之男命のお振る舞いによって、このように悪神が湧き出し、あらゆる異変が起こる、その根源は、みな黄泉の穢れにある。すでに述べた通りである。だから、道饗祭の祝詞には、「根国、底国から、荒々しく、うとましく来るものに」とある。後世の神道家が、根拠のない、中国の書物の理屈ばかり考え、この意味に暗いのは、どうしたことか。
【宣長の注釈】「何由以」は、「なにとかも」と読むべきだ。孝徳天皇紀の歌に、「なにとかも、うつくし妹が、また咲き出来ぬ」、どうして、愛しい妻は、再び花が咲くように、生き返って来ないのか、とあることを根拠とする。疑問を表す語は、「なにしかも」「なでてか」「いかにぞ」など、数多くあるので、どのように読んでもよい。ここでは、その中で古く、後に続く言葉の調子も、よく似ているものを採ったのである。
【宣長の注釈】「伊佐知流」。この「知」の字は、たいへん疑わしい。活用する言葉のうち、第三の音、つまり、う・く・す・つ・ぬ・ふ・む・ゆ・る・う、に「る」を続けて終わるものがある。その第三の音を、第二の、い・き・し・ち・に・ひ・み・い・り・ゐ、や、第四の、え・け・せ・て・ね・へ・め・え・れ・ゑ、へ変えて「る」を続けるのは、すべて近世の普通の話し言葉である。
例を少し挙げれば、「荒ぶる」を「あらびる」、「生くる」を「いきる」というのは、第二の音へ変えたものだ。「得る」を「える」、「受くる」を「うける」、「見する」を「みせる」、「立つる」を「たてる」、「重ぬる」を「かさねる」、「留むる」を「とめる」、「聞こゆる」を「きこえる」というのは、第四の音へ変えたものである。
だから、ここも「いさつる」といってこそ、整った古い言葉なのだ。「いさちる」というのは、先ほどの「あらびる」と同じ形で、ほかにいえば、「朽つる」を「くちる」、「攀づる」を「よぢる」、「落つる」を「おちる」、「満つる」を「みちる」、「閉づる」を「とぢる」というような、みな、話し言葉の形である。「ちる」とあるのは、どうだろうか。この区別は、今の時代でも、文章に書くほどの言葉では、わきまえて、なまらない。まして、中古や上代の書物では、なおさらだ。古い印本が、この「知」の字へ「都」という訓を付けるのは、人が自然と、この違いを知っていたためだろう。もしかすると、前に「伊佐知」とあるのにならい、「都」を「知」と書き写し間違えたのだろうか。
【宣長の注釈】「僕」。師は、「これも『われ』と読むべきだ。わが国の古人は素直で、虚偽をいわないので、身分の高い人が、自分を『やつかれ』などというようなことはない。それなのに、『僕』と書くのは、中国の文章にならったものだ。あの国の人は、ひどくへりくだった書き方をするが、どれも、本心と違う言葉なのだ」といわれた。まことに、その通りである。この「僕」も、書紀では「吾」とある。それが、適切なのだ。
【宣長の注釈】「妣」は、母である。「はは」と読むべきだ。『礼記』の曲礼に、「生きている時は、父、母といい、死ぬと、考、妣という」とある、その意味で、この字を書いたのだろう。『万葉集』にも、「はは」へ、この字を書く所がある。
父母の古い呼び方は、「かぞ」「いろは」だと思い、古い書物を、みなそう読むのは、どうだろう。『万葉集』などには、すべて「ちち」「はは」とばかり見え、『続日本紀』の宣命などにも、「その母でおられる、藤原夫人を」とあるなど、ほかにも「はは」という例は多い。「かぞ」「いろは」という例は、古くは見えず、ただ顕宗天皇紀に、鹿父という人名があり、注に「俗に、父を、かぞ、と呼ぶ」とあるだけだ。これも、はっきり父親を指していう所ではない。「いろは」も、ずっと後の、大江朝綱の歌にあるなどにすぎない。たとえ例があっても、一般的なものではない。それなのに、『和名抄』が、「父は、かぞ。母は、いろは。俗に、父を、ちち、母を、はは、という」とするのは、古語を知らず、いい加減に述べたのである。ただし、「かぞ」も「いろは」も、古い呼び方ではあろうが、広く使ったものではなかっただろう。数多くの例に基づき、「ちち」「はは」と読むべきだ。
ここで、母と申し上げるのは、伊邪那美命を指す。三柱の貴い御子神は、伊邪那岐大神の禊でお生まれになり、伊邪那美命がお生みになった神ではないのに、母と申し上げるのは、なぜか。禊で生まれた神々も、根源をたどれば、みな伊邪那美命の黄泉の穢れから起こったため、その時の十四柱も、やはり伊邪那美命を母神とするのだ。黄泉の穢れと、禊の清く善いこととは、父と母のようなものである。
その中で、日と月の神などは、禊の清い方により、善い神となり、須佐之男命は、悪臭の名残が消えにくい鼻にお生まれになったので、特に母神の方による、悪い神なのである。だから、最後には、その国へお帰りになったのだ。
【宣長の注釈】「根之堅洲国」。「根」は、下の底にあるための呼び名で、草木の根も同じである。「底津根之国」ともいい、祝詞には、「根国、底国」ともある。根国は出雲だとか、須佐之男命の流刑地の名だ、などという説は、例によって、自分勝手な中国風の考えである。
「堅洲国」は、片隅の国、という意味だ。ただし、東西南北などの、横方向の隅ではなく、上下の、縦方向の片隅で、下の底の方をいう。書紀の「きわめて遠い根国」も、下へ遠いことをいう。帯中日子天皇へ、神が、「おまえは、一本道へ向かえ」と仰せになるのも、片隅へ行け、というようなものだ。
「隅」を「す」という例は、書紀が「天日隅宮」という所を、『出雲国風土記』は「天日栖宮」とする。「栖」は、古い書物で、必ず「す」と読む字である。また、この記の「天之御巣」も、「日隅」と通じる。『姓氏録』が、宗形朝臣の祖を「吾田片隅命」というのを、『先代旧事本紀』は、「阿田賀田須命」と書く。これも、このような意味があって、そう書いたのだろう。この「根国」は、そのまま黄泉国のことだ。後に、「須佐之男命が、おられる根之堅洲国」とある。
【宣長の注釈】「罷」。「まかる」は、身分の高い方の所から、退出することをいう。だから、出てゆく所を高く、向かう方を低くいう時の言葉である。『万葉集』巻十八で、都から越中へ来たことを、越中で「まかりて」と詠むのは、この意味に合う。「参る」は、身分の高い方の所へ向かうことで、出る方を低く、行く先を高くいう。両者は反対である。
中古までは、この違いを知って使っていたが、近年は混同するようになった。昔の物語などの「罷り出づ」も、その意味に合う。ただし、必ずしも身分の高い所でなく、同程度の所でも、相手を敬って語る時には、ほかへ去ることを「まかる」という。また、地方にいて、都へ行くことを「まかる」というのも、話し相手を敬う言い方なのだ。
【宣長の注釈】「此国」。須佐之男命は、海原を治めるのに、「この国」と仰せになるのは、高天原や根国などに対しては、海原も、やはり、こちらの地上だから、そういうこともあるだろう。
【宣長の注釈】「不可住」は、「なすみそ」、住んではならない、と読むべきだ。
【宣長の注釈】「神やらひに、やらひ」の所。「神」は、神に関わる事へ、多く添える語で、前の巻五、六十一丁に出ている。「やらふ」は、もともと「やる」を長くした言葉だ。「らふ」を詰めると「る」、「らひ」を詰めると「り」になる。ただし、使う意味は、少し違うようで、この「やらひ」を、書紀は、「逐」と書いている。
このように言葉を重ねる例は、「神集ひに集ふ」「神祝ぎに祝ぐ」「神議りに議る」「神問ひに問ふ」「神和ぎに和ぐ」「神掃ひに掃ふ」などである。どれも、前は名詞、後は動詞になっている。また、間の「に」を省くこともある。「いつのちわき、ちわきて」、勢いよく押し分け、押し分けて、なども、この形の言葉だ。書紀には、「神として追う、その理によって追った」ともある。「之理」の二字は、例によって、編者が中国風の考えを加えたものに見え、わずらわしい。古語の意味に違う。また、その所の注に、「逐は、一に、はらふ、という」とある「波」は、「夜」の写し間違いだろう。
「逐」は、今の普通の言葉でいう追放である。この地から追われるので、最後には、根国へお去りになるのだ。
【宣長の注釈】「故其」以下。「故」は、普通、前を受けていう言葉だが、ここなどは、必ずしも前の事を受け、「そのため」という意味ではない。このような形は、この記に多い。師は、この前に、多くの文章が脱けたのだろう、といわれたが、そうではない。
【宣長の注釈】「淡海」は、息長帯比売命の段の歌に、「あふみ」とある。『和名抄』の、「近江は、ちかつあふみ」というのは、遠江に対して、後に付けた名である。昔も今も、普通は「近江」と書いても、ただ「あふみ」という。湖があるための名で、「あはうみ」が縮まったものだ。「淡海」は、塩のない、淡水の海をいう。それは湖の名なので、その国は「淡海の国」というはずで、単に「淡海」だけでは、国の名ではないようにもなる。しかし、もとの物の名を、そのまま、そこから生じた物の名にする例は、ほかにも、普通に多い。
【宣長の注釈】「多賀」。延喜式には、近江国犬上郡の、多何神社二座があり、『和名抄』には、田可郷がある。この所だろう。『日本書紀』には、「そこで、淡路島に奥深い宮を造り、静かに、永く隠れられた。また、こうもいう。伊弉諾尊は、功績がすでに極まり、徳も大きかった。そこで、天へ上って復命し、そのまま、日の少宮に留まり住まれた」とある。神名帳には、淡路国津名郡の、淡路伊佐奈伎神社があり、名神大社である。
これは、この記と合わないように見える。『先代旧事本紀』の「淡路の多賀」は、この記と書紀を取り合わせた、いい加減な記述だから、論じるに足りない。あえていえば、この記も、もとは「淡路」だったのを、「路」を「海」と写し間違えたのか、とも疑える。しかし、淡路に、昔から多賀という名は聞こえず、近江では、今も名高く、社もあるので、この記は、確かに「淡海」である。また、『私記』の、「日の少宮は、東北、少陽の宮であり、近江国犬上郡の多賀宮だ。ちょうど、この方角に当たるので、近江の宮である」という説は、この記へ、無理に結び付けたもので、誤りだ。東北や少陽などというのも、古い考えではない。日の少宮が天上にあることは、「そのまま留まる」という二字から、明らかなのに。
今、この記と書紀の、二つの伝承を合わせて考えると、神の御自身は、最後には、書紀の「また、こうもいう」という伝承のように、天上の日の少宮へ留まられ、淡路と多賀は、その御霊が鎮まる社なのである。ところが、「奥深い宮を造り」と伝えるのは、後に、あの天上の日の少宮になぞらえ、淡路島へ社を建てたことを、こう語り伝えたのだ。
皇孫が天降られてから、天上の儀式になぞらえ、この国にも、その形を写し、その名を残す例は多い。また、「多賀に坐す」というのも、例えば、天照大御神は永く天上におられるが、普通に「伊勢の五十鈴宮に坐す」と申し上げるし、大山咋神について、「この神は、近つ淡海国の日枝山、また葛野の松尾に坐す」とあり、「手力男神は、佐那県に坐す」とあるのと同じ例だ。どれも、その神をお祭りする社を、このようにいう、古い言い方である。だから、淡路と多賀とで、場所が食い違うのではない。
神についての伝承では、御自身と御霊の違いがあるのに、同じように語り伝えている。そのため、後世には、この違いを知らず、人々が疑うことが多い。心得ておくべきことである。このほかにも、この大神の社は、大和国の添下郡、葛下郡、城上郡、摂津国島下郡、伊勢国度会郡、若狭国大飯郡、出雲国出雲郡などにもあり、延喜式に載っている。
【宣長の注釈】「坐」は、「まします」と読むべきだ。この言葉の、上の「まし」は、「坐」の字に当たり、そこにおられることだ。下の「ます」は、添える敬語で、「たまふ」と同じ類いである。「ます」と「たまふ」は、似た敬語だが、事柄により、使い分けがあるので、混同してはいけない。中古以後は、「ます」を使うことが少なくなり、広く「たまふ」という。しかし、古い書物へ訓を付ける時には、必ず、その違いをわきまえるべきだ。それは、この記や、古い宣命、祝詞などを読み、決まった用例を考えて、理解すべきである。
【古事記本文】そこで、速須佐之男命は、「それなら、天照大御神へ申し上げてから、去ろう」といい、天へ上って参られた。その時、山も川も、ことごとく鳴り響き、国土は、みな揺れた。天照大御神は、それを聞いて驚き、「わが弟が上って来るのは、きっと、善意からではない。私の国を奪おうとしているのだ」と仰せになった。
そして、髪を解いて、左右のみずらに結び、左右のみずらにも、髪飾りにも、左右の手にも、それぞれ、八尺の勾玉を数多くつないだ、みすまるの玉を巻き付けてお持ちになった。「美」から「流」までの四字は、音を表す。以下も同じである。背には、千本の矢を入れる靫を背負い、脇には、五百本の矢を入れる靫を添え、さらに、いかめしい竹の鞆を身に付け、弓の先にある「弓腹」という部分を振り立てた。「入」は「の」と読む。以下も同じで、「曾」からの四字と「伊都」の二字は、音を表す。
堅い地面に、両股がめり込むほど力強く踏み込み、淡雪のように蹴り散らし、勇ましく、男らしく、雄々しく踏み立って、待ち受け、「何のために上って来たのか」とお尋ねになった。「那豆美」の三字は、音を表す。「建」は「たけぶ」と読む。
速須佐之男命は、お答えした。「私には、悪い心はありません。ただ、大御神が、私の泣きわめく理由をお尋ねになったので、『私は、母の国へ行きたいから泣いています』と申し上げました。すると、大御神は、『おまえは、この国にいてはならない』と仰せになり、神やらいとして追放なさいました。それで、去ってゆく事情を申し上げようと思って、上って参っただけです。ほかの心はありません」。「都良久」の三字は、音を表す。
天照大御神は、「それなら、おまえの心が清く明らかなことを、どうすれば知れるのか」と仰せになった。そこで、速須佐之男命は、「互いに誓約をして、子を生みましょう」とお答えした。「宇」からの三字は、音を表す。以下も同じである。
【宣長の注釈】「言」は、伊邪那岐命へ申し上げられたのである。だから書紀は、先にこの事を述べ、次に、奥深い宮を造る事を述べた。しかし、この記は、先に、「淡海に坐す」と、伊邪那岐命について語り終えてから、あらためて、この事を述べる。順序が乱れたように見えるが、そうではない。後の、「そこで、天へ上って参られた」という事へ、話を続けるためなのだ。この例は、この記に、あちこちにある。
【宣長の注釈】「請」は、「まをして」、申し上げて、と読むべきだ。雄略天皇紀などにも、そう読む例がある。
【宣長の注釈】「参上」は、「まゐのぼり」と読むべきだ。高津宮の天皇の御歌に、「まゐぬ」、参った、とあり、『万葉集』巻十八に「まゐでこし」、参って来た、とある例を根拠にする。それなのに、「ゐ」を「う」に変え、「参上」を「まうのぼる」、「参出」を「まうで」などというのは、後に音が変化した言葉である。今まで正しくいうのは、ただ「まゐる」だけだ。『万葉集』巻六に、「参り上る、八十氏人の」、参上する、多くの氏々の人々の、とある。
【宣長の注釈】「山川」は、山と川である。山の川、ということではない。「か」を濁らせず、読むべきだ。
【宣長の注釈】「動」は、「とよみ」と読むべきだ。『万葉集』巻六の十七丁と、巻七の四十六丁に例がある。また、巻七に、「大海の、水底とよみ、立つ波の」、大海の、水底まで鳴り響いて立つ波の、とあり、巻十一に、「居名山、とよみゆく水の」、居名山を、鳴り響いて流れてゆく水の、などとある。また、巻六には、「山も、とよみに、さを鹿は、妻呼びとよむ」、山も鳴り響くほど、雄鹿が妻を呼んで鳴く、ともある。「動々」を「とどろ」と読む所もあるから、「とよむ」は、とどろき響くことだ。この語は、後の、八千矛神の歌にも見える。その巻十一、十二丁でも述べる。
【宣長の注釈】「国土」は、山川に対していうが、二つの物をいうのではなく、ただ地面のことである。「くにつち」と読むべきだ。この二字を「くに」と読むべき所もあるが、ここは「くにつち」がよい。後にも、「天へ声を上げ、木を払い、地が、とどろき鳴った」とある。
【宣長の注釈】「震」は、「ゆりき」と読むべきだ。「き」は添える語である。書紀に「地震」とあるので、「ふる」とも読めるが、武烈天皇紀の歌に、「したとよみ、なゐがゆりこば」、下が鳴り響き、地震が揺れて来たなら、とあるので、「ゆる」の方が、より古い言葉だろう。「よ」と「ゆ」が通じるのは、普通の例である。今の世でも、そのようにいう。この所を、書紀は、「大海は、これによって揺れ動き、山々も、鳴り響いた。これは、神の性質が雄々しく力強いことが、そうさせたのである」と書いている。
【宣長の注釈】「聞驚」は、「ききおどろかして」と読むべきだ。「き」を長くして「かし」というのは、古語に、よくある形で、人を驚かせるという意味とは違う。この言葉は、この記に、あちこちにある。「見驚」も、また「聞喜」「見喜」などもあり、どれも古語である。
【宣長の注釈】「我那勢命」は、前に出ている。書紀が、ここを「吾弟」と書くのは、漢文の書き方による。
【宣長の注釈】「善心」は、字の通り「よきこころ」とも読めるが、やはり、師が「うるはしきこころ」と読んだのに従うべきだ。また、次の「おまえの心が清く明らかなこと」と合わせ、「あかきこころ」とも読めるかと思った。しかし、なお考えると、書紀も、そちらは「おまえの偽りのない心が、明らかで清らかなこと」と書き、この「善心」は「善意」、また「好意」と書くので、もとから、別の言葉だと分かる。この「うるはし」は、書紀神代下の「友善」の「善」の意味だ。この記には、「愛し、友とする」とある。中国の書物でも、このような「善」の字は、昔から「うるはし」と読んだ。人の交わりが親しく、二心がないことをいうのである。
【宣長の注釈】「我国」は、高天原を仰せになる。その理由は、前に出ている。
【宣長の注釈】「奪」。『万葉集』巻五に、「うばひうづ」、奪い取る、という言葉が見える。この句は、「わがくにを、うばはむと、おもほすにこそ」、私の国を、奪おうとお思いなのだ、と読むべきだ。「耳」の字を「こそ」に当てて読む理由は、首巻の六十三丁に述べた。例に引くのは恐れ多いが、神武天皇紀の、長髄彦が聞いて、「天神の子らが来たのは、必ず、わが国を奪おうとするためだ」といった、その言葉の調子に、よく似ている。
【宣長の注釈】「御髪」は、「みかみ」と読むべきだ。古い書物は、みな「みくし」という訓を付け、中古の書物にも「おほむぐし」といい、今も「おぐし」という。しかし、これは「櫛」から転じた、後の呼び名だろう。この点は、前にも論じておいた。
上代の女性の髪型は、師の『万葉集』の注に詳しい。ここに「解く」とある所を、書紀は「髪を結ぶ」としている。解くのと結ぶのとでは、大きく違うように見える。そこで、なお考えると、女性が成長して髪を上げるのは、上代からのしきたりだった。一方、飛鳥浄御原宮の御代、十一年の詔には、「これからは、男女とも、すべて髪を結べ」とある。
これを考えると、上代に「結ぶ」といったのは、髪の根元を一つに集めて上げ、結び、その先は後ろへ垂らしたのだろう。それに対し、その詔の「結ぶ」は、頭の上へまとめ、小さく結び縮めて、髻にすることだろう。「髻」は、一つに縮めたものをいい、男性が二つに分けた「みずら」とは違う。
同じ御代の十三年には、「女性は、以前の通り髪を垂らせ」とあり、十五年の詔には、「四十歳以上の女性は、髪を結ぶも、結ばないも、自由とする」とある。「以前の通り」は、上代からの風習に戻せ、という意味である。十五年の詔以後の『万葉集』の歌にも、髪を上げることを多く詠むが、それは、根元を結び、先は垂らすことなので、その詔に違わない。
ここに「解く」とあるのは、その根元を結んだ所を解くのである。神功皇后の「髪を解く」も同じだ。ある説が、この「解」を「わけ」と読み、三山の冠の形をまねたのだ、というのは、こじつけである。書紀の「結ぶ」は、垂らした先を上げて結ぶことだ。こう考えれば、言葉は違っても、実際には同じ行為であり、矛盾しない。この点を、よく理解しなければ、人は、思い惑うだろう。
【宣長の注釈】「御美豆良」は、前の巻六、十一丁に出ている。男性の髪型である。
【宣長の注釈】「纏」は、「まかし」と読むべきだ。「き」を長くして「かし」というのは、古語に、よくある形である。髪を分けて結び、みずらになさることをいう。ここから、「踏みたけびて」までは、一時的に、男の装束をなさったのである。ただし、玉を巻くことは、男性だけの事でも、戦いの備えでもない。尊く、いかめしいお姿を示すため、たくさんの美しい玉を、これほど巻いてお持ちになったのだろう。
【宣長の注釈】「御鬘」も、すでに、前の巻六、十九丁に出ている。
【宣長の注釈】御手へ玉を巻くことは、前の「御頸珠」の所でも述べた。また、仁徳天皇紀には、雌鳥皇女の手玉が、名高い、立派な玉だったことが見え、『万葉集』巻三には、「泊瀬の斎女が、手に巻ける玉は」、泊瀬の斎女が、手へ巻いている玉は、などと詠んでいる。
【宣長の注釈】「各」は、「みな」と読むべきだ。
【宣長の注釈】「八尺勾璁」。「八尺」の意味は、いろいろ考え巡らせたが、まだ分からない。なお、よく考えるべきだ。「賢木」などの名は、栄える意味なので、これも「いよいよ栄える」の意味か、とも思う。しかし、木は生きているので栄えるといえるが、玉は、栄えてゆく物ではないから、そういうのは難しいだろうか。また、同じ言葉でも、栄えてゆくことではなく、盛んな意味で、「いよいよ盛ん」というのかとも思ったが、玉のような物を、そういう例がないので、やはり、どうだろうか。
また、以前には、次のように考えた。『枕草子』に、中国から、わが国を試そうとして、さまざまな難題を出した話の中で、「七曲がりにうねった、小さな玉があり、その中を穴が通って、左右に口が開いている。それを献じ、これへ、緒を通していただこう、といった」とある。この故事は、中国の書物から出ていて、もとより信じにくい。しかし、そのような形の玉があったため、こういう話も伝わったのなら、八尺勾璁も、そのような形をいったのだろう。「八尺」は、そのように曲がり、うねったものを、まっすぐ伸ばした時の長さを考えた名だろう。七曲がりもすれば、確かに、何尺もあるはずだ、といった。しかし、後に考えると、この説も、よくなかった。また、「八坂」は玉の産地の名だ、玉を通す緒の長さが八尺だ、などという説も、どれもよくない。
「勾璁」は、曲がった玉である。細長い玉の、少し曲がったものが、今も時々、地中から掘り出される。両端の、曲がった所に穴があり、緒を通した所だろう。これが、古い勾玉だろうという人がいる。そうかもしれない。上代に、そのように曲がったものを、特に貴んだため、「八尺勾玉」という名があるのだ。
仲哀天皇紀の、「天皇は、八尺瓊の曲がりのように、巧みに天下をお治めになれ」というのも、曲がった姿の、見事なところを褒め、たとえにした。この文を根拠に、勾玉という名を、「曲妙」、巧みで見事、という意味とするのは、間違いだ。「曲」という漢字には、そのような意味があっても、「まが」という日本語に、どうして、その意味があろう。漢字を頼りに、古語の意味を考える人には、いつも、この誤りがある。ただ、単に「妙」と書かず、「曲妙」と書いた書紀の編者は、勾玉の「曲」という字を、思い合わせたのだろう。これらは、古い意味を大きく損なう。古い言葉に暗い人は、迷わされるだろう。書紀には、このように、人を惑わす書き方が多い。
書紀では、どこも「八坂瓊」とあり、「瑞の八坂環」ともいう。「みづ」は、みずみずしいことだ。「瑞」の漢字にとらわれてはいけない。垂仁天皇紀には、むじなの腹に、八尺瓊勾玉があった話も見える。
【宣長の注釈】「五百津」は、ただ、数の多いことをいう。「つ」は、一つ、二つの「つ」である。「百」の音を表す仮名は、「ほ」で、「を」と書くのは誤りだ。
【宣長の注釈】「美須麻流」は、書紀に「御統」と書き、「みすまる、という」とある。『纂疏』が、「糸を通して、まとめたものである」とする意味で、「すぶる」、まとめる、という語と通じる。「しばる」「しまる」なども、もとは同じ語から転じたのだろう。
谷川氏は、「『和名抄』で、昴星を『すばる』とするのは、その星のまとまりが、この御統に似るための名だろう。また、天門冬を『すまろぐさ』というのも、細い葉が集まるところが、似ているからか。竟宴の歌では、御統も『すばるの玉』といっている」と述べる。
この記の高比売命の歌に、「玉の緒に通したように、玉の緒に通したように」とある。「運」の字は、「邇」である。『万葉集』巻十の、「白玉の、五百つ集ひを、解きも見ず」、多くつないだ白玉を、解いて見ることもなく、巻十八の、「白玉の、五百つ集ひを、手に結び」、多くつないだ白玉を、手に結び、というのも、同じ物だ。「集ひ」といったのも、「統」、まとめたもの、という意味である。
【宣長の注釈】「纏持」の「持」は、ただ、身に着けられることをいう。
【宣長の注釈】「そびら」は、「背の平らな所」で、書紀では「背」と書く。今の「せなか」とは、少し違う。「せなか」は、「背中」の意味で、『和名抄』が「脊」の訓とするのが、適切だ。
【宣長の注釈】「千入」。書紀は「千箭」と書き、「ちのり、という」とある。『和名抄』には、「篦は、矢にする竹の名。和名は、の」とあり、大神宮式の神宝の材料にも、「篦、二千二百五十本」とある。だから、千も五百も、その数量で、「篦入」、矢の軸を入れる物、という意味だ。「五百入」も、同じように考えるべきだ。「い」を省く例は、普通に多い。ただし、必ず千本、五百本が入るというのではなく、ただ多く入ることをいう。
【宣長の注釈】「靫」は、字書に、「矢を盛る入れ物」とあり、『和名抄』も同じだ。この記の、皇孫が天降る段に、「天の石靫」があり、孝徳天皇紀には、「金の靫」もある。推古天皇紀には、「靫は、ゆき、という」とある。
大神宮式の神宝には、姫靫三十四枚とある。各々、長さ二尺四寸、上の幅六寸、下の幅四寸五分、矢を差す口は二寸九分四方。檜で造り、表に錦を貼り、裏に緋色の絹を着け、四か所に、紫の革の緒を付ける。緒は、それぞれ長さ一尺、幅一寸三分。矢は四百八十本で、烏の羽を用いる。
蒲靫は二十枚。各々、長さ二尺、上の幅四寸五分、下の幅四寸。檜で造り、蒲を編んで表へ着け、上には鹿皮を着け、裏は丹で塗る。四か所に、紫革の緒を付け、各々、長さ二尺、幅一寸。矢は千本で、烏の羽を用いる。
革靫は二十四枚。各々、長さ一尺八寸、上の幅四寸五分、下の幅三寸八分。調として納める布を貼り、黒漆を塗る。四か所に、紫革の緒を付け、各々、長さ二尺、幅一寸。矢は七百六十八本で、鷲の羽を用いる。これで、その造りが詳しく分かる。儀式帳にも、右の三種類の靫がある。『字鏡』には、「靫は、やなくひ」とあり、『和名抄』は、別に「籠」を「ふなくひ」と注している。
靫を造ることを、「編む」といったのだろうか。『貞観儀式』には、「靫は、靫編氏が造る」とあり、延喜式にも同じ記述がある。『姓氏録』にも、靫編首という姓がある。
【宣長の注釈】「負」と「附」は、「負」は、主な物として背負うことで、「附」は、脇へ添え付ける意味である。この記は、このような所で、すべて古語を守って書いている。心に留めるべきだ。諸本で「附」の上に「比良邇者」の四字があるのは、余分な文字である。だから、延佳本に、その四字がないのに従った。一方、師が、「附五百入之靫」の六字を削るべきだ、といわれたのは、かえってよくない。
『万葉集』巻三に、「梓弓を持ち、靫を背負って」とあり、巻九にも見え、巻二十にも、「皇軍の男が、靫を背負って」とある。『和名抄』が、近衛府、兵衛府、衛門府を「ゆげひのつかさ」とするのは、「靫負」と書き、「ゆきをひ」を縮めた呼び名だ。今、これを「ゆきへ」と読むのは、なまった言葉である。
【宣長の注釈】「いつ」。書紀には「稜威」と書き、「いつ、という」とある。「稜」は、『漢書』の、「その威稜は、隣国を恐れさせた」という文に、注が「神霊の威を、稜という」とある、その意味で書いたのだろう。『文選』にも「稜威」とある。これは、「いちはや」の「いち」と同じ語で、「ちはやぶる」の「ち」も同じだ。その意味は、『冠辞考』の、「ちはやぶる」の項に詳しい。
例は、「いつの男たけび」、威勢よく男らしく叫ぶこと、「いつのちわき」、威勢よく押し分けること、「稜威之咄讓」、威厳をもって叱ること、などだ。これらは、みな行為に使うが、ここでは、物について使っている。そのような例は、まだ見当たらない。「つ」は清音で、書紀も同じ字を使い、ほかも、どれも清音の仮名を用いるので、濁らせるのは誤りだ。延喜式の祝詞に「頭」と書くのは、その頃、すでに、清音と濁音がなまっていたのだろうか。また、「厳」と書く「いづ」と混同し、同じものと理解するのも、誤りである。この事は、前に述べた。
【宣長の注釈】「竹鞆」。鞆は、大神宮式の神宝に、二十四枚ある。鹿皮で縫い、胡粉を塗り、墨で絵を描く。檜の箱二合に納め、箱は、直径一尺六寸五分、深さ一尺四寸五分。緒は一か所に、紫革を用いて付け、それぞれ、長さ一尺七寸、幅二分である。兵庫寮式には、熊皮一条を、鞆の材料とし、長さ九寸、幅五寸。牛皮一条を、鞆の手の材料とし、長さ五寸、幅二寸とある。これは、天皇が弓をお射ちになるための物だ。
『西宮記』には、「天皇が弓をお射ちになろうとなさる時、侍臣一人が、御座の南に控え、鞆を差し上げ、御弓を張り、また御矢を持つ」とある。持統天皇紀七年、親王以下の臣たちが、それぞれ用意する武器の中にも、鞆一枚がある。その頃までは、一般に使われたようだ。
大神宮儀式帳では、五十鈴宮の土地を、「弓、矢、鞆の音が聞こえない国」といい、『万葉集』巻一には、「大夫の、鞆の音すなり」、立派な男の、鞆の音がする、とある。巻七には、「大夫の、手に巻き持てる、鞆の浦回を」、男が手へ巻いて持つ鞆、その名と同じ、鞆の浦の辺りを、などと詠む。これは、地名へ言葉を掛けたものである。
師は、「鞆は、弓を射る時、左腕へ着ける物だ。形は、『吉部秘訓抄』にも見え、着けた様子は、古い絵にある」といわれた。谷川氏の書紀の注にも、詳しい。何のために着けるのかというと、古い歌などで、鞆は、どれも音をいっているので、弓弦がこれへ触れ、鳴る音を高くするためである。音で威すことは、鳴鏑なども同じだ。
師は、袖を押さえ、弓弦を避ける物なので、弦が当たる音がする、といわれた。私も、以前はそう思っていたが、後によく考えると、そうではない。近頃、伊勢貞丈も、音のためだといっている。その考察に、「鞆は弦を避ける道具だ、とする人もいる。これは、『和名抄』の『鞲』の注に基づくが、誤りだ。弦が腕へ当たるのは、射方の下手な者の癖の一つであり、どうして、そのための道具を設けようか」とある。まことに、その通りだ。
この物を作ることは、「張る」といったのだろうか。『続日本紀』巻十八では、職人を「鞆張」といい、備後国世羅郡にも、その名がある。『和名抄』が、「鞲」を「とも」とするのは、適切でない。応神天皇紀の、「上古の俗語で、鞆を、ほむた、と呼ぶ」も、伝承の誤りだ。その理由は、その天皇の段で述べる。また、書紀に「から」と訓を付けるのは、「柄」の字と見間違えたのか。いずれにせよ、誤りである。
「竹」は当て字で、書紀が書くように、「高」の意味だ。鳴る音が高いことをいう。「鞆」は「音物」が縮まった名で、「もの」の「の」を省くのは、「作物所」を「つくもどころ」という類いで、「お」を省くのも普通である。「竹鞆」は、高い音を出す物、という意味である。
【宣長の注釈】「所取佩」は、「とりはかして」と読むべきだ。「所」は、前に出た、「所御佩十拳剣」などと、同じ使い方である。それなのに、延佳が、自分の考えで「臂」へ改めたのは誤りだ。書紀は「腕に着ける」と書き、この記は、着ける場所をいわないが、「取り佩かす」だけで、言葉は足りている。応神天皇紀に「鞆を負ふ」とあるのも、身に着ける意味だろう。背負う物ではないからである。
【宣長の注釈】「弓腹」。書紀には、「弓張」とある。神武天皇紀には「皇弓弭」ともあり、字書には、「弭は、弓の末端」と注し、『韻』は「弭は、頭」と注し、『和名抄』は「ゆみはず」とする。『万葉集』巻十三に、「梓弓の弓腹を振り起こして」とある。これを「ゆずゑ」と読むのは、誤りだ。
巻十一の、「梓弓、末の腹野」と詠むのは、振山を「まだ男を知らない女の、袖振る山」といい、奈良里を「古い衣を着る、楢の里」というような例で、「末の」までが前置きの言葉であり、「腹野」が、土地の名なのだろう。「末之腹野」という名所では、どうも変に聞こえる。弓の末に、「腹」と呼ぶ部分があったため、「末の腹」と続けたのである。
巻三には、「大夫の、弓上振り起こし、射つる矢を」、男が、弓の上部を振り起こして、射た矢を、とあり、巻七にも見える。これらに従えば、ここも「ゆはず」、または「ゆずゑ」と読むべきようだが、「腹」と書くことを考えると、そうではない。「弓上」を「ゆずゑ」と読むのも、意味に合わせた読みだから、そちらも「ゆはら」と読めるのである。
【宣長の注釈】「振立」。『万葉集』巻十九には、「梓弓の先を振り起こして」ともある。これによれば、先の巻三や十三などの「振起」も、そのように読める。しかし、ここは「立」と書くので、やはり「たて」と読むべきだ。
【宣長の注釈】「堅庭」は、ただ、堅い地面をいう。「何々場」という時、「場」を「ば」と読むのも、「には」が変わった言葉だ。「大庭」も「おほば」という。だから、ここの「庭」も、普通の言葉で、その場所、というのと同じだ。
【宣長の注釈】「向股」。『和名抄』に、「股は、もも」とあり、『私記』には、「両股は、ちょうど向かい合うので、向股、という」とある。祈年祭の祝詞には、「手と肘に、水沫を垂らし、向股に、泥を寄せて」とあり、広瀬の大忌祭の祝詞にも、同じ語がある。『字鏡』には、「腓は、脛のふくらんだ所。こむら。また、むかはぎ」とある。『拾遺集』の物名の歌にも、「行く、勝ち」の言葉を隠すため、「向脛」と詠む。『避寒抄』に、むかはぎは、普通の人のいう「向こうずね」を詠んだのだろうか、とある。どれも古い言葉である。
【宣長の注釈】「蹈那豆美」。倭建命の段の歌に、「浅茅の野原、腰なづむ」、浅茅の野原に、腰まで埋もれる、とあり、また、「海の潮へ入って、なづみ行く時、歌っていう」として、「海が行けば、腰なづむ」、海を進めば、腰まで水につかる、とある。仁徳天皇紀の御歌には、「難波へ、すず船泊て、腰なづみ、その船泊て、大御船泊て」、難波へ、すず船を泊めよ。腰まで水につかって、その船を、大御船を泊めよ、とある。『万葉集』巻十三には、「夏草を、腰になづみ」、夏草に、腰まで埋もれ、などとある。
これらの「腰なづむ」は、篠原、海水、また夏草に、腰まで埋もれることをいう。だから、ここは、堅い地面へ足を踏み入れ、股まで地面に埋もれることで、たいへん力が強く、勇ましく、たくましい様子である。書紀は、「堅い庭を踏み、股まで落ち込んだ」と書いている。これは、漢文で古い言葉を注釈したようなものだ。
「陷」の字を、『私記』は、ある説では「ぬき」と読む、とし、「堅い地面を踏み抜いて、股まで至ったことをいう」とある。「ぬき」という訓は、どうだろうかと思うが、この注で、ここの意味は分かる。「なづむ」は、『万葉集』に、さらに多く、その中には、意味を転じて、進みにくく苦しむことをいう例もある。あの倭建命の所で引こう。
これは天上の事なのに、「堅い地面」とは、どういうことか、と疑う人もいる。しかし、神代の天上の事は、みな、この地上の様子と違わない。山、川、それに井戸さえあるのだから、どうして、これだけを疑うのか。
【宣長の注釈】「沫雪」は、ただ雪のことだ。『万葉集』に、数知れず多く詠むのは、みなそうである。姿が、水の泡に似るため、そういう。山や川の、たぎる瀬などの泡は、本当に雪と似ていて、古い歌にも、そのように詠んでいる。後世、春の消えやすい雪を、特に「淡雪」というようになったのは、淡い雪だと理解したためだろうか。「沫」は「あわ」、「淡」は「あは」で、音も違う。また、『万葉集』の「沫雪」は、みな普通の雪で、主に冬を詠んでいる。「散る」という意味だ、という説もあるが、古い歌々には、まったく合わず、ひどい誤りだ。
『源氏物語』行幸の巻に、「どうかお心を静めてください。堅い岩も、雪のように砕いてしまいそうなご様子なので」と書くのは、この故事による。
【宣長の注釈】「蹶散」。書紀には、「蹶蹋散は、くゑはららかす、という」とある。「蹶」を「くゑ」という例は、垂仁天皇紀の人名、「当麻蹶速」である。また、皇極天皇紀に「打蹶」とある。『和名抄』に、「蹴鞠は、まりこゆ」とあるなどは、活用が違う。先の訓注に「くゑ」とあるので、活用の説明〔細字の一部は判読留保〕によれば、「く」の形もあるはずで、「植うゑ」「居すゑ」などと同じ形になる。
漢字音の「け」も、「くゑ」ということが多い。法華経を「ほくゑきゃう」、眷属を「くゑんぞく」、源氏を「ぐゑんじ」という類いだ。「散」は、字の意味の通りである。『新撰字鏡』には、「毳は、はらけし。また、ちる」とあり、中国の『尚書』禹貢には、「その土は、柔らかくばらけている」とある。『万葉集』巻二十の、「海人小舟、はららに浮きて」、海人の小舟が、ばらばらに浮かんで、という例も、物は違っても、言葉の意味は、みな同じだ。「はらはら」「ほろほろ」なども、みな同じ語だろう。巻十九の、「天雲を、とろに踏みあだし、鳴る神も」、天雲を踏みとどろかせる、鳴神も、というのは、別の意味だろうか。
堅い地面の土を蹴り散らし、雪のように砕き散らすことをいう。『万葉集』巻二には、「雪の、くだけし、そこに散りけむ」、雪が砕けた、その所へ散ったのだろう、とある。
【宣長の注釈】「男建」。白檮原宮の段に、五瀬命が、「男たけびをして、亡くなられた」とあり、書紀には、「雄誥は、おたけび、という」とある。神武天皇紀、景行天皇紀などにも、この語がある。『万葉集』巻九には、「歯を食いしばり、雄叫びを上げて怒り」、巻十一には、「男が雄叫びを上げた」などと詠む。遷却祟神の祝詞に、「荒々しく振る舞い、猛々しくお怒りになることなく」とあるのは、猛々しく荒れることをいうのだろう。
【宣長の注釈】「蹈建而」。書紀神代下には、「火を放って室を焼く。その火が燃え始める時、足を踏み鳴らして雄叫びを上げ、出てきた子が、自らいう」とあり、雄略天皇紀には、「津蔵は、これを聞き、踏みとどろかせ、叱っていった」とある。「御みずらを巻いて」から、ここまで、「而」という語が、六つ重なる。今、読むと、わずらわしいようだが、古い文章の形である。次の天の岩屋の段などでは、さらに多く重ねている。
【宣長の注釈】「待問」。『万葉集』巻七に、「奈良にある人が、待ち問はば、いかに」、奈良にいる人が、待ち受けて尋ねたら、どうしよう、とあり、巻十七に、「あが待ち問ひに」、私が待ち受け、尋ねることに、とある。
【宣長の注釈】「邪心」は、「きたなきこころ」と読むべきだ。ここの所を、書紀は、「黒心」、また「悪心」とも書く。
【宣長の注釈】「大御神」は、伊邪那岐大御神である。姉弟の間で、共に父神であるため、ただ、このように申し上げるのだろう。
【宣長の注釈】「命」は、お言葉である。
【宣長の注釈】「白都良久」は、「まをしつる」の「る」を、長くして「らく」という形だ。「いふ」を「いはく」、「まうす」を「まをさく」というのと同じである。『続日本紀』巻四に、「天皇の、のりたまひつらく」、天皇が仰せになったのは、とあり、「答へまをしつらく」、答えて申し上げたのは、ともある。巻九には、「教へたまひ、のりたまひつらく」、お教えになり、仰せになったのは、などとある。
【宣長の注釈】「神やらひ、やらひ」の所。この後に、「に」という語のない例も多い。書紀に、「神祝々之は、かむほさき、ほさき、という」とあり、この記にも、「いつの、ちわき、ちわきつ」とある。どちらも、言葉を重ねる間の「に」がない例である。
【宣長の注釈】「以為」は、「おもひて」と読むべきだ。この記には、例が多い。
【宣長の注釈】「異心」は、「けしきこころ」と読むべきだ。『万葉集』巻十四に、「けしき心を、あが思はなくに」、私は、ほかの心など持たないのに、とある。また、巻十五にも、このように続けた歌が二つあり、そこは「異情」と書く。そこへ「あだしこころ」という訓が付くが、用例に基づき、それも「けしきこころ」と読むべきだ。ここの「異心」も、照らし合わせて、読みを知るべきである。
初めに「邪心はない」と申し上げ、またここで「異心はない」といわれるのは、今述べた事情のほかに、別の意図はない、ということである。
【宣長の注釈】「清明」は、『万葉集』巻二十に、「隠さはぬ、あかき心を」、隠し立てしない、明らかな心を、とあり、巻十五に、「わが心、明石の浦に」、わが心が明らかな、その言葉を明石の浦へ掛けて、とあるのに基づき、二字を合わせて「あかき」と読むべきだ。
『続日本紀』巻一には、「明らかで、清らかで、まっすぐな、誠の心で」、巻九には、「清らかで、明らかで、正しく、まっすぐな心で」、巻十には、「清らかで、明らかな心を持って」などともある。これらに従えば、ここも「きよき、あかき」とも読める。書紀には、「どうすれば、おまえの偽りのない心を明らかにできるのか」とも、「清心」とも、「おまえの心の明らかで浄いこと」ともある。仲哀天皇紀には、「おまえ、熊鰐は、清らかで偽りのない心を持って参った」とあり、敏達天皇紀には、「清明な心で、朝廷へお仕えする」ともある。
これらも、みな「あかきこころ」と読める。「明き」も、そのまま「清き」ことで、意味は同じだ。『万葉集』巻一の、「今夜の月夜、清明こそ」も、師は、「あきらけくこそ」、明るいことよ、と読まれた。まことに「すみあかく」という言葉は、どうだろうかと思う。巻十三には、「私の心のように澄みきった、清隅の池の」ともある。
【宣長の注釈】「各」は、ここでは、「おのもおのも」と読むべきだ。『続日本紀』巻二十六の宣命に、「おのもおのも」とある。自分も、自分も、それぞれ、という意味である。
【宣長の注釈】「うけひ」。書紀には、「誓約」、また「誓」と書き、「誓約之中は、うけひのみなか、という」ともある。「うけひ」という言葉は、この巻の末や、中巻にも見える。竜田の風神祭の祝詞には、「何々と、うけひたまひき」、何々と誓約なさった、とあり、『万葉集』巻四には、「うけひて寝れど、夢に見え来ず」、誓ってから寝ても、夢に現れない、とある。巻十一には、「妹に逢ふ、うけひつるかも」、妻に逢えるように誓ったことよ、とあり、神功皇后紀には、「祈狩」、願いの成否を確かめるための狩りは、「うけひがり」というともある。これらを集めて、その行いの様子を理解すべきだ。
【宣長の注釈】「生子」は、「みこうまな」、御子を生もう、と読むべきだ。「な」が、「む」と同じ意味の古語であることは、前に述べた通りだ。
【古事記本文】そこで二神は、天の安河を間に置いて、それぞれに誓約をされた。まず天照大御神は、建速須佐之男命が腰に佩いていた十拳剣を受け取り、三つに折られた。それを、玉が触れ合うような音を立てながら、天の真名井で振りすすぎ、かみ砕き、息とともに吹き出された。その息の霧から生まれた神の御名は、多紀理毘売命、別名は奥津島比売命。次は市寸島比売命、別名は狭依毘売命。次は多岐都比売命。以上、三柱である。「奴那登母母由良爾」の八字は音を表し、以下も同じ。「佐賀美爾迦美」の六字も音を表し、以下も同じ。多紀理毘売命、多岐都比売命の名も、字は音を表す。市寸島の「島」の上には、「上」という小字がある。
速須佐之男命は、天照大御神が左のみずらに巻いておられた、八尺の勾玉を連ねた五百津のみすまるの玉を受け取られた。玉を鳴り響かせ、天の真名井で振りすすぎ、かみ砕き、息とともに吹き出された。その息の霧から生まれた神の御名は、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命。次に、右のみずらに巻いておられた玉を受け取り、かみ砕いて吹き出された。その息の霧から生まれた神の御名は、天之菩卑能命。「菩卑能」の三字は音を表す。次に、御鬘に巻いておられた玉を受け取り、かみ砕いて吹き出された。その息の霧から生まれた神の御名は、天津日子根命。次に、左の御手に巻いておられた玉を受け取り、かみ砕いて吹き出された。その息の霧から生まれた神の御名は、活津日子根命。次に、右の御手に巻いておられた玉を受け取り、かみ砕いて吹き出された。その息の霧から生まれた神の御名は、熊野久須毘命。合わせて五柱である。「久須毘」の三字は音を表す。
【宣長の注釈】「各」は、後の「うけふ」に掛かると理解すべきだ。「互いに」というような意味である。『源氏物語』若菜上の、「おのおのは、またなく契りおいていたので」というのも、「互いに」の意味だ。
【宣長の注釈】「天安河」は、「安」の下に「之」を加えて書くこともあり、「あめのやすのかは」と読むべきだ。天上にある川である。『古語拾遺』には、「天の八湍の河原」ともあるので、「いよいよ瀬の多い川」という意味だろうか。書紀の「天の八十の河中」も、同じ川らしい。「す」「せ」「そ」は、みな通じる音である。神代の天上の出来事では、いつもこの川の名をいい、ほかの川名は出ない。それなら、一つの川に付いた固有の名ではなく、ただ流れが何筋もある、大きな川をいうのだろう。
『万葉集』巻十の二十六丁には、「天の川、安の河原の」、巻十八の二十六丁には、「天照らす、神の御代より、安の川、中に隔てて、向かひ立ち」、天照らす神の時代から、安の川を間に隔てて、向かい合って立ち、とある。これは七夕の歌だが、この言葉の続き方には、この故事を思っているのだろうか。巻十の三十二丁には、「天の川、安の渡り」とも詠む。『万葉集』に詠むのは、すべて七夕の歌だ。七夕は中国の話なのに、日本の古い伝承を取り入れ、結び合わせたのである。
近江国にも、安河という川がある。天武天皇紀から見える。天上の名を移したのか、それとも、そちらは郡の名から出て、別なのか。この時にお生まれになる神名の「日子根」も、その国の地名にある。
【宣長の注釈】「中置」は、間に置き、隔てることだ。『万葉集』巻十一の二十八丁に、「紅の衣の裾を引いて通る道を、間に隔てて」とあり、一説には、「衣の裾が水につかる川を」とある。
【宣長の注釈】「所佩」は、前の例に従い、尊敬の「御」を添えて、「みはかせる」と読むべきだ。
【宣長の注釈】「乞度」は、「乞い受ける」というような意味だ。書紀にも、「索取」「乞取」などと書く。「渡す」は、今は人に与える方だけにいうが、昔は、こちらへ受け取る方にもいったのである。
【宣長の注釈】「三段」の「段」を「きだ」と読むのは、『和名抄』に、筑前国鞍手郡の「新分」を「にひきだ」とする、その「分」を「きだ」というのと同じだ。豊後の大分郡も、もとは「おほきだ」である。景行天皇紀には、「碩田」と書き、「おほきだ」という訓注がある。三つに折られたため、三柱の神がお生まれになるのだろう。
【宣長の注釈】「ぬなとももゆらに」。書紀には、「玉が、瑲々と鳴り響く」と書く。この事は、前に述べた。この語には、疑わしい所がある。次に、須佐之男命が、天照大御神の玉を受け取り、すすがれる所で、こういうのは、その玉についてだ。しかし、ここは玉ではなく、剣について述べているのに、この表現があるのは、どういうことだろう。次の箇所と、前後の文が同じなので、取り違えて、ここにも伝えたのだろうか。
剣に飾った玉の音なのかとも思うが、それは、かけ離れた考えだ。また、振りすすぐ時、御手に巻いた玉が揺れて鳴る音、とでもいうのか。そうなら、次の箇所も、別に、須佐之男命の御手に巻いた玉の音とすべきだろうか。しかし、そちらは、まさしく、すすがれる玉の音なのだから、同じ語が、こちらとそちらで、別の意味というわけにもいかない。どう考えても、ここは誤りに見える。
書紀の一書に、この語があるのは、ただ須佐之男命が、玉をすすがれる方だけであり、天照大御神の方には、見えない。
【宣長の注釈】「天之真名井」。書紀の一書に、「天の渟名井」ともあるのを合わせると、「まぬなゐ」の縮まった名だと思われる。「ぬな」を縮めて「な」となるのだ。「ま」は、ほめる言葉である。真水のことだ、などという説は、いつものことながら、ひどくわずらわしい。「ぬ」は、広く、水のたまった所をいう。「沼」も同じだ。「名」は、音を借りた字で、「の」である。「の」を「な」という例は、多い。だから、これは、ただ井をほめた呼び方で、一つの井戸の固有名ではない。それで、書紀に、「天の真名井を、三か所、掘る」ともあるのだ。
また、この井は、まさに安河の瀬の中で、井と呼ぶべき所を指すので、別に、普通にいう井戸があったのではない。書紀で、この井を述べる伝えには川をいわず、川を述べる伝えには、この井をいわないのも、そのためだろうか。初めに、天の安河を間に置く、といっておき、今、ここでこのようにいうのだから、別の場所ではないことは、明らかだ。昔は、泉でも川でも、使う水をくむ所を「井」と呼んだ。
丹後国丹波郡には、比沼麻奈為神社があり、出雲国意宇郡には、真名井神社がある。官の神名帳に見える。
【宣長の注釈】「さがみ」以下。書紀には、「齾然咀嚼は、さがみにかむ、という」とあり、『玉篇』は、「齾は、歯の欠けること、堅い物をかむ音」と注す。それならば、「歯噛」という言葉を縮め、「さがみ」というのだ。「しか」を縮めれば「さ」となり、「み」を省く。堅い物をかむ時の、口をしかめることをいう。
【宣長の注釈】「吹棄」以下は、書紀に、「吹き棄つる、いぶきのさぎり」という訓があるので、それに従って読むべきだ。「棄」を「うつる」という例は、八千矛神の御歌に見える。
【宣長の注釈】「気吹」は、息を吹くことだ。「い」とだけいうのも、息のことである。大祓の詞に、「気吹戸におられる、気吹戸主という神が、根の国、底の国へ、息を吹いて放ってしまわれるだろう」とある。『延喜式』では、近江国坂田郡や、美濃国不破郡などに、伊夫伎神社という社もある。
【宣長の注釈】「狭霧」の「さ」は、「ま」と同じ意味の言葉だ。「さをしか」を「まをしか」ともいうことから、分かる。また、「さよなか」は「まよなか」、「さごろも」は「まごろも」というのと同じだ。このほかにも、「さ何々」という言葉は多いが、みな同じである。地名の「さひのくま」なども、「まくまの」などというのと、通じるように聞こえる。その「まくまの」を「みくまの」ともいい、「ま」と「み」が通じる。大祓の詞に、「朝の御霧、夕の御霧」とあることから、「さぎり」は、「まぎり」だと知るべきだ。
息を霧という例は、『万葉集』巻五の十六丁に、「大野山、霧立ち渡る、わが嘆く、おきその風に、霧立ち渡る」、大野山に霧が立ちこめる、私の嘆きの息、その風で霧が立ちこめる、とある。「おき」は、息である。巻十五の十一丁には、「君の行く、海辺の宿に、霧立たば、あが立ち嘆く、息と知りませ」、あなたの泊まる海辺の宿に、霧が立ったら、私が立って嘆く息だと、お思いください、とある。雄略天皇紀にも、「猪や鹿が多くいる。吐く息は、朝霧のようだ」などとある。
【宣長の注釈】「多紀理毘売命」は、書紀の田心姫に当たる。「き」と「こ」は、通じる音だ。ただし、一書には、「田霧姫命」とある。別の御名については、後の文に、この神は、宗像の奥津宮におられる、とあるので、そのためだろう。『延喜式』には、近江国蒲生郡に、奥津島神社がある。『三代実録』にも出る。これも、この神なのだろうか。
【宣長の注釈】「市寸島比売命」。『延喜式』に、安芸国佐伯郡の、伊都伎島神社がある。『三代実録』にも見え、厳島のことだ。これも、この神だろう。『纂疏』などにも、そうある。
【宣長の注釈】「多岐都比売命」。以上の三柱の御名の意味について、まず「たきり」も「たぎつ」も、川の急流の様子をいう言葉なので、安河に基づく御名だろうか。最初の奥津島比売を、別名とする例に従えば、次も、「狭依毘売命、別名は市寸島比売命」とすべきだろう。「さより」は、「まことによい」という意味の、ほめ言葉である。この事は、後に考えを述べる。「いちき」は、「いつくし」、神聖で厳かなことだ。この御名は、前後二柱の御名の例とは、似ていない。
「たきり」と「たぎつ」は、まったく意味も語も同じなのに、二柱の御名とするのは、どうなのか、という疑いもありうる。しかし、次の五柱の男神の御名も、みなそうなのだから、疑うべきではない。また、「たぎり」の「ぎ」も、「たぎつ」と同じく濁る形なので、「岐」を書くべきなのに、清音の「紀」を書き、書紀には「田心」ともある。これらを合わせると、別の意味があるようにも思えるが、やはり、前に述べた意味だろう。
この三神の御名を、心の動きや静まりによって説明する説などは、まるで根拠がない。「田心姫」と書く文字から、思いついたのだろうか。おかしなことだ。
【宣長の注釈】この三柱について、書紀のさまざまな伝えを調べると、順序はみな異なる。満津島姫が別にいて、市杵島姫がいなかったり、「瀛津島姫、別名は市杵島姫」とあったりして、多紀理毘売の別名を、奥津島比売とする説は、見えない。狭依毘売という御名も、まったく見えない。また、書紀では、市杵島姫は遠い沖におられ、田心姫は中ほどの沖におられる、とあるのも、この記とは違う。
そこで考えると、この記も、多紀理毘売と市寸島比売を入れ替え、「市寸島比売命、別名は奥津島比売命。次に、多紀理毘売命、別名は狭依毘売命」とすれば、それらの伝えと、すべて合う。しかし、この記も、後世、誤って取り違えたものとは、やはり見えない。もとから、伝えが違っていたのだろう。
【宣長の注釈】「正勝」以下。「正勝」は、書紀に「正哉」と書くのと合わせ、どちらも「まさか」と読むべきだ。「哉」を「か」と読むことに、もちろん異論はない。書紀に、「まさや」と訓を付けるのは、誤りである。「勝」を「か」と読む理由は、この記の「正鹿山津見」という神を、書紀には「正勝山祇」と書くからだ。ここも、両方を照らし合わせ、「か」と読むべきだ。その訓注には、「正勝は、まさかつ、という」とあるが、江家の本には、「つ」の字がないという。その本の方が、正しいだろう。同じ例である。
言葉の意味は、書紀の文字どおり、「正しいことよ」というようなものだ。また、この記では、字のとおり、「正しく勝った」という意味なのかもしれない。その場合は、「まさかつ」と読むべきだが、書紀と合わせると、やはり、前の解釈がよいだろう。「吾勝」は、後の文で、自ら「私が勝った」といった、という意味だ。書紀の一書にも、「男が生まれたので、『まさに、私が勝った』と唱えられ、それにより名づけた」とある。
「勝速日」は、「かちはやび」と読むべきだ。昔から、「かつのはやひ」と読むのは、古語の調子も、分かっていないのである。後の文に、「勝ちさび」とあるのと、同じ意味だ。「さび」は、その所で詳しく述べるので、合わせて見るとよい。「はや」は、激しく、猛々しい意味。「ひ」は、「ふる」とも形を変え、その様子をいう語で、「はやび」は、そのまま、「ちはやぶる」の「はやぶる」と同じ言葉だ。前の甕速日、樋速日、また饒速日なども、みな同じである。「日」の文字にこじつける説などは、いつものように、古語を知らない、無理な説だ。
【宣長の注釈】「忍穂耳」は、「おほおほみみ」という意味の、ほめた呼び名だ。「おし」が「大きい」ということは、前の忍許呂別の所、伝巻五の八葉で述べた。「ほ」も、大きいという意味だ。「おほ」の「お」を省き、「ほ」とだけいう例は多い。とりわけ、書紀に「三穂之前」とある地名を、この記には「御大之前」と書くのは、これによく合う。
邇々芸命から、次々の三代の御名は、みな稲穂によって、お呼び申し上げるので、その一例として、この御名も、文字どおり、稲穂の意味とするのも、一つの考えではある。しかし、その三代の御名は、天降られた後、この瑞穂の国を治めておられることについて、お呼び申し上げたものだから、稲穂に基づく。この尊は、この地へお降りにならないので、事情が異なる。書紀の「斎庭の穂」の御命令も、邇々芸命の段に関わることを、考えるべきだ。その三代の御名は、それぞれの箇所で述べるのを、見ていただきたい。
「みみ」は、尊称である。「耳」の字は、もとから、音を借りた字だ。後に、布帝耳神がある。また、神武天皇の御子たちにも、何々耳という方が多く、ほかの人名にも多いが、みな同じ意味である。
書紀の一書には、「忍穂根尊」ともあり、「忍骨」とも書く。「ほ」は、先と同じで、「ね」も、「みみ」のような尊称だ。何々根という例は、特に多い。前の阿夜訶志古泥神の所、伝巻三の四十五葉で述べた。次の「彦根」の「ね」も、同じだ。伊邪河宮の段の、神大根王は、開化天皇のお孫だが、書紀には、「神骨」とある。この例から、「忍穂根」は、「忍大根」だと分かる。「穂耳」が、「大耳」であることも、いよいよ明らかになる。書紀神代下には、「勝速日尊児、天大耳尊」ともあるので、そう判断すべきだ。これは、「忍」という語を省き、「天之穂耳命」というのと同じだ。また、「尊児」は、敬い、親しんでいうので、「尊の子」という意味ではない。そもそも、この神の御名について、古い説は、みな誤っている。ほかの例を、よく考え合わせ、昔の意味や言葉を、尋ねるべきなのである。
【宣長の注釈】では、「みみ」という尊称の意味は何か。「み」は、「ひ」と通じ、「産霊」などの「ひ」であり、それを「霊(ひ)・霊(ひ)」と重ねたものだ。「産霊」の意味は、伝巻三の十三葉で述べた。開化天皇の御名を、大毘毘命というのが、その例である。書紀では、「太日々尊」とあり、垂仁天皇紀には、「太耳」という人名もあることから、「ひひ」と「みみ」が、同じだと分かる。
また、明宮の段の、「前津見」という人名を、書紀には「前津耳」とする。水垣宮の段の「陶津耳」を、『先代旧事本紀』に「大陶祇」というのも、根拠があるのだろう。これらから、「みみ」は「み」を二つ重ねたもの、「み」は、その一つを省いたものだと分かる。神名や人名に、何々見というものが多いのは、みなこれである。水垣宮の段の「岐比佐都美」、書紀の「武茅渟祇」などの名の「つみ」も、「つみみ」の縮まった形だ。これで見ると、山津見、綿津見、大加牟豆美なども、同じく「つみみ」なのだろうか。月夜見の「み」も、「みみ」だろうか。
「みみ」と「ひひ」を通わせる例から、それらの「つみ」も、「つひ」と通じることが、禍津日神、庭高津日神などで分かる。何々須美という名と、何々須毘という名が、通じることも、次に出てくる。以上の名を考え合わせ、「みみ」は、霊威を表す「ひ」を二つ重ねたものだと理解すべきだ。
山城国の『風土記』には、宇治郡木幡の社の名を、天忍穂根尊とする。『延喜式』には、その郡の、許波多神社が載る。また、『延喜式』に、豊前国田川郡の忍骨神社、土佐国香美郡の天忍穂別神社などがある。忍骨神社の御山のことは、『続日本後紀』巻六に見える。「別」も、「耳」「根」の類いの尊称だ。伊勢の外宮には、「忍穂井」という井戸の名もある。
【宣長の注釈】これより後は、どの箇所にも、「八尺の勾玉の」や、「ぬなとも」などの語がないのは、前に述べたことに譲り、文章を省いているのだ。
【宣長の注釈】「天之菩卑能命」。名に「能」の字を添えるのは、珍しい。これも、もとは、先の「穂耳」と、同じ言葉だ。「ほ」は、「大きい」という意味。「ひ」は、「み」と通じ、その「み」は、先に述べた「みみ」の縮まった形である。このように、「ほひ」も、「ほみみ」と同じなのは、前の三女神の「たきり」と「たぎつ」が、同じ意味なのと同様だ。また、書紀で、次の熊野久須毘命を、「忍蹈命」ともするのは、「忍穂耳」と、まさに同じ言葉の例である。そうであれば、ご兄弟たちの御名も、ただ、わずかな違いによって、呼び分け申し上げたものなのだ。
延喜六年の、日本紀竟宴で、天穂日命を題として、矢田部公望は、「天穂日、神の御名は、八坂瓊の、五百つすばるの、玉とこそ聞け」、天穂日の神の御名の由来は、八坂瓊の、たくさん連なった玉だと聞く、と詠んでいる。神名帳には、山城国宇治郡、因幡国高草郡、出雲国能義郡などに、天穂日命神社がある。『出雲国風土記』の「天乃夫比命」も、この神だろう。
【宣長の注釈】「御鬘」は、古い印本で、「右の御みずら」とあるのを、延佳が「御かづら」と直したのは、よい。ただし、前の文では、「御みずら」は、音を表す仮名で、「御鬘」は、意味を表す字で書く。黄泉の段も、そうである。ここも、まさに前を受けた所なのだから、前の文のとおりに書くべきだ。それで、今、また改めた。
「豆良」の二字は、古い本に従うのも、一つの考えではある。しかし、これは、「迦」の一字を誤っただけではなく、前の文と混同し、全体を誤ったものなので、文字にこだわるべきではない。また、ある本で、「右の御手」とするのも、誤りだ。それは、後に出てくるからである。
【宣長の注釈】「天津日子根命」の名の意味には、特に変わった所はない。「根」は尊称で、前に述べたとおりだ。伊勢国桑名郡の、多度神社は、この神だという。『姓氏録』には、「桑名首は、天津彦根命の御子、天久之比乃命の子孫である」とある。また、この神が近江国に関係することは、後の文で、蒲生稲寸の祖とある。『姓氏録』にも、「犬上県主は、天津彦根命の子孫である」とある。これらは、その国の地名である。伊邪河宮の段の、天御影神の所、伝巻二十二の六十一葉も、考え合わせるべきだ。
【宣長の注釈】「活津日子根命」。上代の神や人の名にも、それ以外にも、「いく」という語が、多く見える。国の呼び名に、「生国」がある。摂津国のことである。出雲国造の神賀詞には、「今日の、生き生きとした、満ち足りた日」といい、神祇官におられる八神の中にも、生産日と足産日が、並んでいる。座摩の御巫の祭る神の中でも、生井神と福井神が、並んでいる。これらから考えると、「いく」は、活代神から起こった、命が生きるという意味の言葉で、もとは、祝い言葉なのを、ほめた呼び名としたのだろう。近江国蒲生郡の、彦根神社というのは、この神だという。
【宣長の注釈】「熊野久須毘命」。「熊野」は、地名だ。出雲国意宇郡の、熊野だろう。この熊野については、伝巻九の四十二葉で、詳しく述べる。「くすび」は、「くしすび」の縮まった形だ。「しす」を縮めれば、「す」となる。その「くし」は、不思議な霊威のことだ。書紀には、「毒魂は、くしみたま、という」とあり、また「奇稲田姫」、また「奇霊」などがある。『続日本紀』巻二十七にも、「くすしく、奇しき事を」とあるので、ここも、直接「くす」を「くし」の意味とするのも、悪くない。しかし、何々須毘という例を思えば、やはり、「くしすび」の縮まったものだ。
「すび」は、書紀に、「熊野大隅命」とも、「忍隅命」ともあり、「すみ」と同じだ。「すみ」の例は、水垣宮の段に、飯肩巣見命、伊邪河宮の段に、比古由牟須美命などもある。何々産巣日神という「すび」と通じる。「み」が、「みみ」の縮まった形だということは、忍穂耳命の所で、述べたとおりである。
この御名は、書紀には、「熊野忍蹈命」ともある。『延喜式』の、出雲国意宇郡の志保美神社は、この「忍」を含む御名を縮めた神号だろう。
【宣長の注釈】「并五柱」の三字は、諸本では、みな大きな本文の文字で、訓注の下にある。今、前後を調べると、このような数の表示は、みな小さな注で書く。また、伊豆能売神や、多岐都比売命などの下の注は、みな、訓注の上にある。そこで、今は、その例のとおりに書いた。
【古事記本文】そこで、天照大御神は、速須佐之男命へ、こう仰せになった。「この子たちのうち、後から生まれた五柱の男の子は、そのもとになった品が、私の物だから、私の子です。先に生まれた三柱の女の子は、そのもとになった品が、おまえの物だから、おまえの子です」。このように、御子たちを分けて、仰せになった。
【宣長の注釈】「是後」以下は、「これ」と、軽く読み切るべきだ。「こののち」と、続けて読んではいけない。「これ」とは、五柱の男神と、三柱の女神を、まとめて指すお言葉だからである。
【宣長の注釈】「所生」は、「あれませる」と読むべきだ。「あれます」という言葉は、中巻の、橿原の朝の段に見える。その所、伝巻二十の三十五葉で、詳しく述べる。
このお言葉は、「おまえの生んだ子」「私の生んだ子」とあるはずの所を、そういわず、ただ後、先とあるのには、理由がある。まず、書紀では、素戔烏尊が、「もし私の生んだ子が女なら」「もし男なら」といい、また「日の神の生んだ三女神」「素戔烏尊の生んだ子は、みな男だった」ともある。三柱の女神は、天照大御神の生んだ御子、五柱の男神は、須佐之男命の生んだ御子と、初めから分けている。
ところが、この記では、誓約の間に、ひと続きにお生まれになったので、三柱の女神も、五柱の男神も、ともに、大御神と須佐之男命の御子である。これは大御神の御子、これは須佐之男命の御子という区別は、もともとない。このお言葉で、ただ先後によって仰せになるのは、そのためだ。この事は、後にも次々に述べるので、見ていただきたい。
後に生まれた方を先に仰せになり、先に生まれた方を次に仰せになるのは、そのもとの品の、尊卑による。ご自身のお言葉でも、このとおりなのだから、大御神の尊さを、知るべきだ。
【宣長の注釈】「男子」「女子」は、「ひこみこ」「ひめみこ」と読むべきだ。「ひこみこ」は、「こ」という言葉が重なるようだが、差し支えない。古くは、「ますらを」「たをやめ」、また「ひこがみ」「ひめがみ」などと読んだが、よいとは思えない。書紀の孝元天皇紀に、「二男一女を生む」、垂仁天皇紀に、「三男を生む」とある、これらの「男」「女」を、そのように読むのに基づく。
【宣長の注釈】「物実」は、「ものざね」と読むべきだ。書紀には、「物根」とある。「さね」と「たね」は、その物も、名も、通じ合う。後世でも、人の母については、「何々の腹」、父については、「何々の種」という。木や草の種も、同じで、ここも、その意味である。谷川氏が、「五柱の男神は、もとの品が日の神の物なので、日の神は父のようであり、須佐之男命は母のようだ」というのは、もっともだ。
崇神天皇紀の、「倭国の物実」について、「物実は、ものしろ、という」とあるのは、別のことである。祝詞などの「礼代」や、今の商人のいう「しろもの」などは、その「実」に当たる。『宝基本記』にも、「富物代」という言葉が見える。
【宣長の注釈】「我物」とは、あの、みすまるの玉を、仰せになるのだ。
【宣長の注釈】「自吾子也」の「自」は、後の文の、「自我勝」の「自」と同じだ。その所、伝巻八の三葉に、説明がある。
【宣長の注釈】「汝物」は、十拳剣のことだ。
【宣長の注釈】「詔別賜」とは、五柱の男神も、三柱の女神も、まとめて、大御神と須佐之男命の御子であり、もともと、どちらがどちらの御子という区別がなかったのを、今初めて、もとになった品を尋ね、このように、お分けになることだ。これが、この記の意図であり、書紀とは異なる。後の文にも、その理由が見える。「詔別」という語は、中巻の、明宮の段にもある。
ある人が、こう疑う。「書紀は、いうまでもなく、この記でも、三女神は大御神が、五男神は須佐之男命が、お生みになったので、初めから、それぞれの御子と分かれて聞こえる。また、『正勝吾勝』という御名も、須佐之男命に基づく。それなのに、もとは区別がないというのは、どういうことか」。私は、こう答える。書紀では、吹いてお生みになった方に基づき、その御子と分ける。この記では、一度の誓約の間に、次々お生まれになったので、まとめて扱い、吹いてお生みになった方には、こだわらない。「吾勝」という御名は、吹いてお生みになった方に基づき、お付けしたのだ。
また、ある人が、「この誓約は、ただ須佐之男命の、清く明らかな御心を示すためなのに、大御神も一緒に誓約されるのは、どういうことか」と問う。私は、こう答える。後世の考えで見れば、疑わしいが、上代には、この種の誓約では、疑う人も、疑われる人とともに誓うのが、決まりだったのだろう。
ある説で、「この誓約は、もっぱら、皇位の継承者を生むのを主としている。だから、日の神も、一緒に誓約なさる」というのは、理解できない。そうなら、この段は、すべて、方便によって、仮にさまざまな姿を現して示す、仏典の話と変わらない。神には、そのような行いはないのだ。大御神が、須佐之男命をお疑いになるのも、もとから、真実のお心なのだから、この誓約で、天の皇位を治める御子が生まれることを、どうして、あらかじめ、ご存じだろう。そのうえ、誓約して御子を生もうと申し出たのも、須佐之男命の願いであり、大御神の御心から出たことでもないのである。もっとも、この誓約で、皇太子がお生まれになったことには、深い理由があり、もとから、そうなるべく定まっていただろう。しかし、その事は、大御神の御心にも、あらかじめ、お分かりではない。神というものは、仏というものとは、異なるのだ。
また、ある説には、「三女神と五男神は、この時、大御神と須佐之男命が、交わってお生みになった御子だ」といい、また「須佐之男命が、別の妻と交わり、お生みになった」ともいう。どちらも、根拠のない、でたらめだ。明らかな古い伝承を信じず、自分勝手な推測をするとは、何事だろう。夫婦が交わらなければ、必ず子は生まれないと思うのは、神の道の、不思議な霊威を考えず、普通の道理にとらわれているのである。
また、「三女神は、天照大御神の心から生じた、形のない神、五男神は、須佐之男命の体から生じた、形のある神だ」というのも、いつもの、勝手な説だ。「心化」「身化」などと、わずらわしい名目を設け、神を区別することは、昔には、まったくない。後世の、勝手な考えである。この三女神を、形のない神だというのも、まるで証拠がない。事績が伝わらないので、そういうのだろうか。しかし、大国主神が、多紀理毘売命を妻になさる話もあるのを、どう説明されるのだろう。また、五男神の中にも、事績の伝わらない方があるのだ。三女神、五男神について、代々、さまざまな、こじつけの説が多いことである。
【古事記本文】先に生まれた神、多紀理毘売命は、宗像の奥津宮におられる。次の、市寸島比売命は、宗像の中津宮におられる。次の、田寸津比売命は、宗像の辺津宮におられる。この三柱の神は、宗像君たちが、お祭りする、三柱の大神である。
【宣長の注釈】「先」とは、次の二柱の女神と比べていうのではなく、後に生まれた五柱に対し、三柱の女神を、まとめていう。「神」も、同じく三柱すべてを指す。
【宣長の注釈】「胸形」は、『和名抄』の、筑前国の宗像郡、むなかたのことである。名の意味は、その国の『風土記』に、「宗像大神が天から降り、崎門山におられた時、「青蕤玉」という青い玉を奥宮のしるしとして置き、「八尺紫蕤玉」という紫の玉を中宮のしるしとして置き、八咫鏡を辺宮のしるしとして置いた。この三つのしるしを、神体の形とし、三宮に納めると、お姿を隠された。それで、身形郡と名づけ、後の人が、宗像と改めた」とある。
【宣長の注釈】「奥津宮」。書紀では、「市杵島姫命は、遠い沖におられる」とあり、この記と違う。その社に伝わる説は、この記のとおりだ。この場所は、今、奥島という島で、大島の西北、四十八里にあるという。三十里とも、五十余里ともいい、みな、今の道のりによる。また、恩賀島ともいうそうだ。そこで思うに、『和名抄』に、宗像郡の次に、遠賀郡があるのは、これだろうか。その郡にも、宗像という郷が見える。しかし、その国の地理を知らないので、どうなのかは分からないが、記しておく。
【宣長の注釈】「中津宮」。書紀には、「田心姫命は、中ほどの沖におられる」とある。社の説では、湍津姫命が、ここにおられるという。この記とは違う。この場所は、今、大島という島で、中津島ともいうそうだ。神湊という所から、北へ三里の海中にあるという。また、田島から、北へ三里ともいう。
【宣長の注釈】「辺津宮」。書紀には、海辺にあるといい、おられる神は、この記と同じだ。社の説では、市杵島姫命が、ここにおられるという。この場所は、今、田島と呼ぶそうだ。ある人によると、今の宗像の宮は、田島から、一里半ほど離れている。また、この社は、昔、神湊という海辺にあったのを、後に、今の地へ、お移ししたともいう。確かにそうであれば、昔の辺津宮は、神湊にあったのだ。名前にも、いわれがありそうだ。今の田島の地では、なかったのか。さらに、よく調べるべきだ。「奥」「中」「辺」は、そのある場所によって、名づけたのである。
【宣長の注釈】以上、三か所の宮について、宗像の社記は、こういう。「沖津島では、田心姫を主な祭神として中央に置き、左に市杵島姫、右に湍津姫を置く。これは、沖津島の社家に伝わる説である。また、田島にも、別に、沖津島の神、大島の神を祭る社がある。その沖津島の社では、中央の市杵島姫を主とし、左に田心姫、右に湍津姫を置く。
沖津島は、今、奥之島といい、海を四十八里行った所にあり、周囲は一里で、人家はない。社は、西南に向かって立ち、山のふもと、平地の高い所にある。今、社人一人が大島に住み、河野氏で、一の甲斐と称する。中津宮は、湍津姫を主な祭神として中央に置き、左に田心姫、右に市杵島姫を置く。この島は、今、大島といい、神湊の海辺から、北へ三里の海中にある。周囲は三里で、人家は多い。社人一人は河野氏で、二の甲斐という。
辺津宮は、田心姫を主な祭神として中央に置き、左に湍津姫、右に市杵島姫を置く。この社は、田島村にあり、西北を向いて立つ。昔は、神湊の東、六町にあり、今も、その跡を、神の幸屋敷といい、田島から、半里ほど離れている。後深草天皇の建長年間、大宮司長氏の時、神のお告げによって、田島へお移ししたと伝える。昔、大宮司は、田島に住んでいたが、天正年間に滅び、その後、わずかに残ったのは、三か所合わせて、十三人の社人である。そのうち、十一人は、田島の神職で、その中の三家は、大宮司の子孫である。深田氏二家と、嶺氏一家が、それに当たる。十三人のうち、二人は大島に住み、一人は中津宮、一人は沖津宮の社人である」という。
【宣長の注釈】「胸形君」。『姓氏録』の右京神別には、「宗形朝臣は、大神朝臣と同じ祖で、吾田片隅命の子孫」とある。大神朝臣は、素佐能雄命の六世の孫、大国主の子孫とある。また、河内国神別には、「宗形君は、大国主命の六世の孫、吾田片隅命の子孫」とある。もとは「君」という姓だったのを、天武天皇紀の十三年十一月一日に、「胸方君に、朝臣の姓を授ける」とある。
この氏の人が、この三神を祭る理由は、『先代旧事本紀』を調べると、次のようである。この書は、取るに足りないものだが、この段などには、採るべき理由があることを、首巻で断っておいた。「大己貴命、すなわち大国主は、宗像の奥津宮におられる、田心姫命を妻とし、味鉏高彦根神を生んだ。また、辺津宮におられる、高津姫神を妻とし、都味歯八重事代主神を生んだ。その事代主神は、八尋の熊鰐に姿を変え、三島溝杭の娘、活玉依姫のもとへ通い、天日方奇日方命を生んだ。その神の五世の孫が、阿田賀田須命である」。
これなら、吾田片隅は、大国主神の七世の孫で、『姓氏録』と、一代違う。また、この活玉依姫へ通われた話は、この記や『姓氏録』などでは、大国主の事としている。神武、崇神の段で、詳しく述べる。しかし、事代主の事とするのも、『先代旧事本紀』の、一つの伝えなのだろう。書紀神代の巻にも、「事代主神は、八尋の熊鰐となり、三島の溝樴姫に通って、子を生んだという」とある。
そうであるなら、この辺津宮におられる神は、事代主命の御母で、この氏の遠い祖先の、母神であるためなのだろう。この記では、大国主神が、多紀理毘売命によって、阿遅鉏高日子根神を生み、また、神屋楯比売命を妻として、事代主神を生む。しかし、『先代旧事本紀』の記述も、一つの伝えなのだろう。そのうえ、奥津宮の神を妻として生まれた、阿遅鉏高日子根は、迦毛の大御神という。その大御神も、同じ祖の賀茂朝臣が祭ることが、『姓氏録』に見える。また、大神朝臣も同じ祖で、大三輪大神を祭る。これらにも、それぞれ、いわれがある。ある説で、大国主神が、多紀理毘売、多岐都比売を妻とすることを信じず、「これは、その神に仕える巫女を、妻とするのだ」というのは、まったく根拠のない、勝手な説である。形のない神だ、などという後世の誤説に固執するので、こういうのだろうか。
宗形朝臣鳥麻呂という人が、宗形郡の大領で、宗形の神主でもあったことは、『続日本紀』巻十三に見える。大領であることは、さらに、各巻に出てくる。それが通例であったのを、延暦十九年十二月の勅で、その郡の大領が、この神主を兼ねることを、やめさせられた。また、神主の任期を六年とし、交替することなどは、『日本後紀』に見える。
【宣長の注釈】「三前大神」。神名帳には、「筑前国宗像郡、宗像神社三座、いずれも大名神」とある。この神々のことは、書紀の、応神天皇紀や雄略天皇紀などにも出る。履中天皇紀の、「筑紫におられる三神」も、これである。『日本三代実録』巻十七の、貞観十二年二月の奉幣告文には、大帯日姫〔神功皇后〕が新羅を降伏させられた時、この大神たちも、ともに力を加えられた、とある。この事は、この記や書紀には、見えない。
『延喜式』には、大和国城上郡の宗像神社三座、尾張国中島郡の宗形神社、下野国寒川郡の胸形神社、伯耆国会見郡の胸形神社、備前国赤坂郡の鴨神社と宗形神社がある。大和の社は、『類聚三代格』に、「宗像神は、城上郡登美山におられる」とある、その社である。鴨神社が、この神と関係することは、前に述べたとおりだ。また、『日本三代実録』巻二には、太政大臣、藤原良房公の、都の東側、一条の邸に、この三神の社があり、正二位をお授け申し上げたことが見える。
【古事記本文】後に生まれた五柱の御子のうち、天菩比命の御子、建比良鳥命は、出雲国造、牟邪志国造、上菟上国造、下菟上国造、伊自牟国造、津島県直、遠江国造などの祖である。
次に、天津日子根命は、凡川内国造、額田部湯坐連、茨木国造、倭田中直、山代国造、馬来田国造、道尻岐閇国造、周芳国造、倭淹知造、高市県主、蒲生稲寸、三枝部造などの祖である。
【宣長の注釈】「建比良鳥命」。ここで、天菩比命だけを挙げず、この神も挙げて、その子孫を示すのは、この神に功績があり、御名が高いからである。この御名は、諸書に、「武夷鳥」「天夷鳥」「天日照」とある。どれも「ひな」なのに、この記だけ、「ひら」とする。「な」と「ら」は、横に通じる音である。添え言葉の「あな」を「あら」というのも、その例だ。名の意味は、この神が天から降り、遠い地方を平定された功績をほめ、「ひなとり」と称したのだろう。「照」を「とり」という例は、『万葉集』巻十四に、「日之照者」を、「ひがとれば」と読む。また、日名照額田毘道男という神の名も、考え合わせるべきだ。伝巻十一に出る。その功績については、次に見える。
『延喜式』には、因幡国高草郡の、天穂日命神社と天日名鳥命神社、出雲国出雲郡の、阿麻能比奈等理神社がある。『日本文徳天皇実録』には、河内国の、天夷鳥命神が見える。この神社は、志紀郡の道明寺村にあるという。道明寺は、土師寺ともいい、そこが土師郷だという。また、『姓氏録』の河内国神別には、出雲臣がある。さらに、この神については、伝巻十三の十二葉から十五葉で述べるので、考え合わせるとよい。
【宣長の注釈】「出雲国造」。まず、天菩比命が、この葦原中国を、言葉によって従わせるために天降り、出雲にとどまられた事情は、後の方や、書紀にも見える。また、書紀には、高皇産霊尊が、大己貴神へ、「おまえの住むべき、天日隅宮は、今、造って与えよう。おまえの祭りをつかさどる者は、天穂日命である」と命じられた、とある。これが、出雲国造、また、大社の神主となった起こりだ。同じ書紀に、「天穂日命は、出雲臣、土師連などの祖である」とある。土師連は、出雲臣から出て、後の菅原、秋篠、大江などは、この土師連から出た。
この国造の神賀詞には、「出雲臣たちの遠祖、天穂比命を、国の様子を見に遣わされた時、自分の子の天夷鳥命に、布都怒志命を添え、天から遣わし、荒ぶる神たちを払い平らげ、国造りの大神をも、なだめ鎮め、大八島国の、目に見える世界の政治から、お退きになるようにした」とある。「国造りの大神」とは、大己貴命をいう。
書紀の崇神天皇紀六十年には、「武日照命が、天から持ってきた神宝が、出雲大神の宮に収めてある。それを見たい。この時、出雲臣の遠祖、出雲振根が、神宝をつかさどっていた。その弟の飯入根は、天皇の命令を受け、神宝を、弟の甘美韓日狭と、自分の子、鵜濡渟に託し、献上した」とある。武日照は、武夷鳥とも、天夷鳥ともいう。天長七年、大極殿で、この国造が献じた、五種の神宝をご覧になったことは、『日本後紀』に見える。
『国造本紀』には、「出雲国造。瑞籬の朝、天穂日命の十一世の孫、名は迦都久怒を、国造に定めた」とある。『姓氏録』には、「出雲宿禰は、天穂日命の御子、天夷鳥命の子孫」、「出雲は、天穂日命の五世の孫、久志和都命の子孫」、「出雲臣は、天穂日命の十二世の孫、鵜濡渟命の子孫」とある。このほかにも、山城、河内に、出雲臣が見える。『続日本紀』の延暦十年九月には、「近衛将監、正六位下、出雲臣祖人が、『私たちの本来の系譜は、天穂日命から出ます』と申した。そこで、宿禰の姓を授けた」とある。その後、朝臣となったのだろうか。『続日本後紀』巻七の下八丁などには、その姓の人が見える。
【宣長の注釈】この氏が、もとは「臣」という姓だったのも、その国から上京し、朝廷にお仕えしたのに、始まるのだろう。この氏の人で、初めて都へ移り、お仕えしたのは、垂仁天皇の御代の、野見宿禰である。この人は、天穂日命の十四世の孫で、その土師連の祖だ。「臣」を姓とする氏は、朝廷に親しくお仕えする一族なのである。この事は、後で詳しく述べる。その後、宿禰にも、朝臣にもなった。諸氏に、この例は多い。
都の周辺に住む者も、国に住む者も、みな、もとは国造から出た子孫なので、ここでは、その本に基づき、国造と挙げ、書紀では、広くまとめて、臣と挙げている。諸氏に、この例は多いから、数え合わせて知るべきだ。
延暦十七年三月二十九日の太政官符には、「昔は、国造と郡領は別だったが、慶雲三年から、出雲国造に、意宇郡の大領を兼ねさせていた。それを、再び、旧例のように、国造と郡領を、別々に任じることとした」と見える。
【宣長の注釈】今の世まで、国造が残っているのは、この国と、紀伊国だけで、その中でも、この出雲国造は、名高い。この二国の国造は、昔から、ほかと違っていたのだろうか。『貞観儀式』には、これを任じる儀式を載せている。
この出雲国造は、上京し、神寿詞を奏上することがある。神賀詞ともいう。どの御代から始まったのか。書物では、『続日本紀』巻七の、霊亀二年二月に、初めて見え、それから、代々、絶えることがない。延暦十四年二月に、遷都に伴い、神賀詞を奏上したことも、『類聚国史』に見える。その儀式、献上品、賜る品などは、臨時祭式に見え、その詞は、祝詞式に載っている。
【宣長の注釈】「牟邪志国造」は、武蔵である。今は、「さ」を清音でいうが、濁らせるべきだ。この「邪」も、「蔵」の字も、『万葉集』巻十四で、「牟射志野」と書く「射」も、どれも濁音に使う例である。名の意味は、まだ分からない。師の説では、「相模と武蔵は、もと一つで、『むさ』だったのを、上下に分け、『むさがみ』『むさしも』といい、その上の方は『む』を、下の方は『も』を省いた。むさという地名は各国に多く、東国は、上総、下総、上野、下野などのように、上下に分かれるのが通例だ」という。この説は、一見もっともだが、なお決め難い所がある。その理由は、中巻の倭建命の所で述べる。
国造について、書紀には、「天穂日命は、出雲臣、武蔵国造、土師連などの遠祖である」とある。『国造本紀』には、「无邪志国造。志賀高穴穂の朝の御代、出雲臣の祖、名二井之宇迦都忍之神狭命の十世の孫、兄多毛比命を、国造に定めた」とある。「祖名」の下から、「狭命」までには、誤字、脱字などがあるのだろう。『姓氏録』には、「入間宿禰は、天穂日命の子孫」とある。これは、もとは武蔵国入間郡の人々で、物部直であったのを、入間宿禰とされたことが、『続日本紀』に見える。もとは、この国造から出た氏だろう。その郡の、出雲伊波比神社も、『延喜式』に見える。
安閑天皇紀には、武蔵国造、笠原直使主という人が見える。『続日本紀』巻二十八には、この国の、大部直不破麻呂という人が、武蔵宿禰という姓を賜り、国造となったことが見える。延暦十四年に、武蔵国足立郡の大領、武蔵宿禰弟総が、国造となったことは、『類聚国史』に見える。これらは、もとから別の氏なのか、それとも、後に分かれた氏なのか、調べるべきだ。埼玉郡の笠原郷は、『和名抄』に見える。
【宣長の注釈】「上菟上国造」は、『和名抄』の、上総国海上郡、うなかみのことである。「な」は、「の」の意味なので、「菟」に読み添え、「菟上」と書いた。『万葉集』巻十四の、上総国の歌には、「夏麻引く、海上潟の」、夏の麻を引く、その海上潟の、と詠む。巻七にもある。『国造本紀』には、「上海上国造。志賀高穴穂の朝、天穂日命の八世の孫、忍立化多比命を、国造に定めた」と見える。この人の名には、誤字があるだろう。
【宣長の注釈】「下菟上国造」は、『和名抄』の、下総国海上郡、うなかみのことである。『万葉集』巻九の八丁に、「海上の、その津を指して、君がこぎ帰れば」とあるのは、この海上だ。『国造本紀』には、「下海上国造。軽島の豊明の朝の御代、上海上国造の祖の孫、久都伎直を、国造に定めた」とある。『万葉集』巻二十の、下総国の防人には、助丁、海上郡の、海上国造他田日奉直得大理が見える。『続日本紀』巻三十八には、下総国海上郡の大領、外正六位上、海上国造他田日奉直春岳がいる。今の本では、「海上」の「上」を落としているが、古本にはある。また、「他」を、「池」と誤っている。これは、別の氏なのだろうか。
このような所まで「国」というのは、昔は、道奥の石城国や、常道の仲国などというように、国の中の、小さな土地の名も、同じく国と呼び、郡としたのは、やや後だからだ。常道仲国は、中巻に出る。郡となった後も、以前の呼び慣れたまま、場合によって、なお国ということがあった。吉野国、難波国、初瀬国などと、同じである。この二つの「菟上」を、延佳の本で、「上菟毛」「下菟毛」とするのは、古い事を知らない者が、知ったかぶりで改めたので、論じるにも値しない。
【宣長の注釈】「伊自牟国造」。『国造本紀』には、「伊甚国造。志賀高穴穂の朝の御代、安房国造の祖、伊許保止命の孫、伊己侶止直を、国造に定めた」とある。安房の方には、「阿波国造は、天穂日命の八世の孫、弥都侶岐命の孫、大伴直大滝を、国造に定めた」とある。ここでの阿波は、安房である。
安閑天皇紀の元年四月には、伊甚国造、稚子直らが、ある罪のため、「皇后へ、伊甚屯倉を献じた。それによって、伊甚屯倉を定めた。今は分かれて郡となり、上総国に属す」と見える。『和名抄』の、上総国の夷灊郡、いしみが、それである。常陸国茨城郡にも、夷針があり、『延喜式』に、夷針神社もある。これも、「いじむ」と読むべきかと思う。
【宣長の注釈】「津島県直」。「県」は、『和名抄』の、対馬島の、上県郡と下県郡である。上県は、「かむつあがた」と読む。上下に分かれたのは、後のことで、もとは、ただ県といったのだろう。『国造本紀』には、「津島県直。橿原の朝、高魂命の五世の孫、建弥己々命を改めて、直とした」とある。この建弥己々は、建許呂命のことだろう。「己々」は、「己呂」の誤りだろう。その理由は、同書の師長国造と須恵国造に、「茨城国造の祖、建許呂命」とあり、馬来田国造にも、その名が出るからだ。馬来田の引用は、後に載せる。
その茨城国造について、同書には、「軽島の豊明の朝の御代、天津彦根命の孫、筑紫刀禰を、国造に定めた」とある。時代を考えると、筑紫刀禰は、建許呂命の子などなのだろうか。書紀には、「天津彦根命は、茨城国造、額田部連などの遠祖」とあり、『常陸国風土記』には、「茨城国造の初祖、多郡許呂命は、息長帯比売天皇の朝に仕えた」とある。『姓氏録』には、「茨木造は、天津彦命の子孫」、また「天津彦根命の十二世の孫、建許呂命」などとある。これらと、この記が、この県直を、天菩比命の子孫とすることを、合わせて考えるべきだ。遠祖をいう時、そのご兄弟の間では、互いに伝えが混じる例が、各氏に多いからである。
以上の書を合わせると、『国造本紀』が、橿原の朝といい、高魂命などというのは、誤りだと思われる。「改めて直とした」というのも、疑わしい書き方だ。顕宗天皇紀には、対馬の下県直が見える。
【宣長の注釈】「遠江国造」。師は、「この記で、国名を、遠江などと、二字に縮めて書くのは、後の人のしたことだ。二字に定まったのは後のことなので、この記では、必ず遠淡海などとあるはずだ」といわれた。今、考えると、この記では、国や土地の名を、一字、三字でも書き、二字で書いても、後の定まった字とは、違うものが多い。これが、昔の書き方だ。それなのに、遠江など、後の字のように書く所が、まれにあるのは、淡海という表記と比べると、確かに、後人が改めたように見える。
国、郡、郷の名の文字について、和銅六年の詔には、「畿内、七道の、諸国、郡、郷の名には、よい字を付けよ」とある。『出雲国風土記』などには、神亀三年に、郡や郷の名の文字を、多く改めたことが見える。民部式には、「諸国の郡や里などの名は、二字を用い、必ず、よい名を選べ」とある。これらは、みな、この記より後のことである。しかし、和銅六年より、やや前にも、国の名などは、少しずつ字を選び、二字に縮めていたことが、あったかもしれない。だから、遠江なども、必ず後人のものとは、決め難いので、今は、元のままとした。それでも、昔の書き方は、必ず、師の説のとおりだったのである。
地名の字を選ぶ時、その名に、ぴったり合う字は得難いので、近い字音を取る。「むざし」に武蔵、「するが」に駿河などとし、「ざし」に「ざう」、「する」に「すん」の音を当てる類いは、とても多い。また、必ず二字に縮めるとなると、なおさら難しく、無理に字を省き、「上毛野」「下毛野」を、「上野」「下野」と書く例も多い。みな、それにならって理解すべきだ。この意味が分からず、国郡の名について、疑いを起こす人が多いので、今、ついでに詳しく述べた。
『和名抄』に、遠江を「とほたあふみ」とするのは、「あ」が余分な字だ。「とほつあふみ」を縮めれば、「とほたふみ」となる。「つあ」を縮めて、「た」になるのである。今の人も、そういう。『万葉集』巻十四の下六丁には、「とほつあふみ」、巻二十の十丁には、「とほたほみ」などともある。
この国は、昔、湖があったことから、この名が付いた。近江国が、都に近いのに対し、遠いというのだ。また、遠つ淡海という名に対し、近い方も、近つ淡海といったのである。その湖は、明応の頃、ひどい地震で地が切れ、南の海へつながったという。その切れた所を、「今切」という。『延喜式』には、磐田郡の淡海国玉神社、浜名郡の猪鼻湖神社などがある。『国造本紀』には、「遠淡海国造。志賀高穴穂の朝、物部連の祖、伊香色雄命の子、印岐美命を、国造に定めた」とあるが、ここの系譜には合わない。ほかのことは、まだ分からない。
【宣長の注釈】「凡河内国造」は、河内国である。『和名抄』に、「河内、かふち」とある。「かはち」の「はう」を縮めて「ふ」としたのだ。今、「かはち」というのは、なまった形である。「凡」は、安閑天皇紀や推古天皇紀などに、「大河内」とも書くので、大きいという意味だ。名の意味は、大和の都から見て、山代の大川、淀川のこちら側にある国だからである。もとは、大河内といったのを、諸国の名を二字に定めてから、「大」を除いたのだろう。「大」と書かず、「凡」と書くのは、「おほ」でなく、「おふし」と呼び慣わしたためだろう。「凡」の仮名は、『和名抄』の、丹波国加佐郡の郷名で、「凡海」を「おふしあま」とするのによる。
また、『続日本紀』巻四十には、「大押直」の字を改め、「凡直」と書いたことが見える。「凡直」とともに、「星直」もあるが、同じ氏なので、「おほし」と読むのも悪くない。「ふ」と「ほ」は、通わせて書く例が多いから、どちらでもよいだろう。
国造については、書紀に、「天津彦根命は、凡河内直、山城直などの祖」とある。「城」は、後人の字なので、「背」に直すべきだ。『姓氏録』には、「凡河内忌寸は、額田部湯坐連と同祖」、また、「凡河内忌寸は、天津彦根命の子孫」とある。『先代旧事本紀』には、「天御蔭命は、凡河内直などの祖」とある。『姓氏録』には、「天津彦根命の御子、明立天御影命」とある。この命については、伝巻二十二の六十一葉に出る。
もとは、「直」という姓だったのを、天武天皇紀の十二年九月に、「凡川内直へ、連の姓を授ける」、十四年六月に、「凡川内連へ、忌寸の姓を授ける」とある。どちらも、書紀に見える。また、この氏の中に、「清内宿禰」という姓を賜ったことも、『続日本後紀』巻一に見える。「清内」は、「河内」にちなむのだろう。『姓氏録』で、「凡河内忌寸は、天穂日命の十三世の孫、可美乾飯根命の子孫」ともあるのは、遠祖のご兄弟の間で、伝えが混じったのだろう。『国造本紀』には、「彦己蘇根命を、凡河内国造とする。凡河内忌寸の祖である」、また「凡河内国造。橿原の朝の御代、彦己曾保理命を、凡河内国造とする」ともある。
【宣長の注釈】「額田部湯坐連」。書紀には、「天津彦根命は、茨城国造、額田部連などの遠祖」とある。『姓氏録』には、「額田部湯坐連は、天津彦根命の御子、明立天御影命の子孫。允恭天皇の御代、薩摩国へ遣わされ、隼人を平定した。帰って報告した日に、御馬一匹を献じた。額に、田の区画の形をした、つむじがあり、天皇は喜んで、額田部の姓を授けた」とある。「ぬか」は、ひたいのことだ。「町形」は、田の区画の形である。
また、「額田部佰田連は、同じ神、天津彦根の三世の孫、意富伊我都命の子孫。允恭天皇の御代、額に田の形のある馬を献じた。天皇は、『この馬の額は、田の区画のようだ』といい、それで田連の姓を授けた」とある。これは、「部」の字が抜けたのだろうか。「額田部」が、後に加えられたとは、思えないからだ。これで、「額田」の意味が、分かる。「定額の田」の意味というのは、ひどい誤りだ。「定額」の「額」を、「ぬか」という理由はない。
同書には、「額田部湯坐連は、天津彦根命の五世の孫、乎田部連の子孫」ともある。「乎」は、必ず誤字だ。「手」の誤りだろうか。そうなら、先の「佰田」も、「互多」だろうか。『先代旧事本紀』には、「天斗麻弥命は、額田部湯坐連などの祖」とある。『姓氏録』には、「天津彦根命の子、天戸間見命」とある。「湯坐」については、玉垣の朝の段、伝巻二十四の三葉で述べる。「ゆや」と読むのは、いつもの、根拠のない読みだ。
先に述べたように、ただ「額田部連」ともいうので、この湯坐連は、その氏の中で、湯坐の役目に関わり、別に賜った姓なのだろう。後に、その湯坐連の方が、栄えて広がったので、この記には、そちらを挙げ、書紀には、もとの氏を挙げたのだろう。この姓の人は、孝徳、孝謙、仁明の各天皇の紀にも見えるが、ただの額田部連という人は、まったく見えない。
顕宗天皇紀には、大和国山辺郡の額田邑があり、『和名抄』には、平群郡の額田、河内国河内郡の額田などがある。平群の額田は、「ぬかた」と読む。今、その郡に、額田部村があるが、これだろうか。これらは、『姓氏録』の説なら、この氏から出た地名なのだろうか。なお、調べるべきだ。一般に、氏や人名から出た地名なのか、地名から出た氏や人名なのか、疑わしいものが多い。
神名式には、伊勢国桑名郡の額田神社がある。同郡の多度の神は、この天津日子根命なので、この社も、この氏に関係するのだろう。また、『類聚国史』には、額田国造という姓の人もある。同じ氏か、別の氏か、なお考えるべきだ。
【宣長の注釈】「木国造」。国名の意味は、字のとおりだ。その理由は、後の、伝巻十の二十八、二十九葉に出る。紀伊である。しかし、この神が、この国造の祖であることは、ほかの古書には見えない。『国造本紀』は、「紀伊国造。橿原の朝の御代、神皇産霊命の五世の孫、天道根命を、国造に定めた」といい、『姓氏録』にも、「紀直は、神魂命の五世の孫、天道根命の子孫」、また、「紀直は、神魂命の子、御食持命の子孫」などとある。
そこで考えると、これは、「茨木」の「茨」を、後に落としたのだろう。この神が、茨城国造の祖であることは、先の津島県直の所で引いた、諸書のとおりだ。そのうえ、書紀では、この神の子孫として、ただ二氏だけを挙げる所にさえ、茨城が、その一つである。まして、この記では、多くの氏を連ねて挙げる中に、漏れるとは思えない。それで、今は、「うばらき」と読んだ。
『和名抄』には、「むばらき」とあるが、もとは「うばら」だろう。梅や馬なども、後には、「むめ」「むま」というように、これも、後に「む」になったのだ。『和名抄』には、「大茨」を「おほうばら」とする。茨木は、『和名抄』の、常陸国茨城郡、むばらきのことである。
【宣長の注釈】「倭田中直」。場所は、高市郡にも、添下郡にも、今、田中村があるので、そのどちらかだろう。舒明天皇紀の八年の、田中宮も、『日本三代実録』巻十、巻十四の、大和国の田中神も、同じ地だろう。神楽歌に、「殖槻や、田中の杜」とあるのは、添下郡だという。この氏のことは、ほかの書には見当たらない。
【宣長の注釈】「山代国造」。名の意味は、書紀の「山背」という字のとおりだろう。「うしろ」の「う」を省いたのだ。この国は、大和国の北の、山の後ろにあるからである。『日本紀略』の、延暦十三年十一月の詔には、「この国は、山河が帯のように囲み、自然に城をなしている。この優れた地形により、新しい名を定め、山背国を、山城国へ改めよ」とある。
書紀には、「天津彦根命は、凡河内直、山背直などの祖」とある。もとは「直」という姓だったのを、天武天皇紀の十二年九月に、山背直へ、連の姓を授け、十四年六月に、山背連へ、忌寸の姓を授けた、とある。『姓氏録』には、「山背忌寸は、天都比古禰命の子、天麻比止都禰命の子孫」とある。『国造本紀』には、「天目一箇命を、山代国造とした。山代直の祖である」と見える。
『続日本紀』には、山背国造、山背忌寸品遅という人が見える。『続日本後紀』の天長十年には、「山城国の人、山代忌寸浄足、同姓の五百川ら八人を、忌寸から改め、宿禰を授けた。浄足らは、天津彦根命の末裔である」とある。
【宣長の注釈】「馬来田国造」。『和名抄』に、上総国の望多郡、まうたとあり、『万葉集』巻十四の九丁、上総国の歌に、「うまぐたの、ねろ」、馬来田の山の峰、と詠む土地だ。「まうた」は、後になまった呼び方である。書紀巻二十八で、大伴連馬来田という人名を、巻二十九では、望多と書く。それなら、もとは、「望多」と書いても、「うまぐた」と唱えたことが分かる。継体天皇の御子にも、馬来田皇女という方があり、書紀に見える。『国造本紀』には、「馬来田国造。志賀高穴穂の朝の御代、茨城国造の祖、建許呂命の子、深河意弥命を、国造に定めた」とある。
【宣長の注釈】「道尻岐閇国造」。『国造本紀』には、道口の菊多国造の次、阿尺国造の前に、「道尻岐閇国造。軽島の豊明の朝の御代、建許呂命の子、名は佐比乃禰を、国造に定めた」とある。実際の配置は、道奥の菊多国造の次、阿尺国造の前である。また、「岐閇国造の祖、児多毛比命」ともある。この命は、牟邪志国造として、前に出た。この地名は、陸奥にありそうに聞こえるが、書物には見えない。また、道尻というはずの諸国を調べても、まったく見えない。『国造本紀』で、道口とあるのも、疑わしい。『万葉集』巻十四の下十葉の、遠江国の歌には、「伎倍」という土地を詠むが、その国を道尻という理由はない。道口、道尻については、黒田の朝の段、伝巻二十一の四十葉に出る。
【宣長の注釈】「周芳国造」。書紀でも、各巻で「芳」の字を書く。師は、「すは」と読まれた。確かに、『万葉集』などでも、「芳」は、「は」の仮名として用い、「すはう」というより、古語らしい形である。しかし、この国名を、はっきり、そう唱えた例は、まだ見ない。『万葉集』巻四で、「周防なる、岩国山を」と詠むのも、「すはなる」か、「すはうなる」か、決め難い。『和名抄』にも、「周防、すはう」とあるので、今も、そのように読んだ。名の意味は、まだ分からない。『国造本紀』には、「周防国造。軽島の豊明の朝、茨城国造と同祖の、加米乃意美を、国造に定めた」とある。
【宣長の注釈】「倭淹知造」。「淹知」は、「あむち」と読むべきだ。『和名抄』に、伊勢国の郡名、奄芸を「あむぎ」、隠岐国周吉郡の奄可を「あむか」とするなどの例による。今、山辺郡に、庵治という村があるが、それだろう。今、「あうぢ」と唱えるのは、伊勢の奄芸郡も、『俊頼集』に「あふぎの郡」とあり、歌で扇に掛けて詠むのと、同じ例である。
『日本霊異記』には、大和国十市郡に、菴知部とある。『続日本紀』巻二十五、巻三十六には、豊野真人奄智という人名も見える。『姓氏録』の左京神別には、「奄智造は、額田部湯坐連と同祖」、大和国神別には、「奄知造は、天津彦根命の十四世の孫、建凝命の子孫」とある。『類聚国史』の、弘仁十年二月の叙位には、奄智造吉備麻呂という人が見える。
【宣長の注釈】「高市県主」は、『和名抄』の、大和国高市郡、たけちのことである。この名については、朝倉宮の段の、大后の御歌に、「たけち」とある所、伝巻四十二の三十九葉で、詳しく述べる。『姓氏録』には、「高市連は、額田部と同祖で、天津彦根命の三世の孫、彦伊賀都命の子孫」、また、「高市県主は、天津彦根命の十二世の孫、建許呂命の子孫」と見える。天武天皇紀には、高市郡の大領、高市県主許梅という人がある。同じ巻の、十二年冬十月には、「高市県主へ、連の姓を授ける」とある。
【宣長の注釈】「蒲生稲寸」は、『和名抄』の、近江国蒲生郡、かまふのことである。名の意味は、大昔、蒲が多く生えていた土地だからだろうか。蓬生、浅茅生、麻生などの類いである。この氏については、ほかの書には、まだ見当たらない。神名式には、近江国蒲生郡の菅田神社があり、『姓氏録』には、「菅田首は、天久斯麻比止都命の子孫」とある。麻比止都命は、天津彦根命の御子と、同書に見え、前に引いた。
【宣長の注釈】「三枝部造」。『姓氏録』には、「三枝部連は、額田部湯坐と同祖。顕宗天皇の御代、諸氏の人々を召し集め、ごちそうを賜った。その時、宮の庭に、三本の茎の草が生えた。摘んで献上したので、三枝部造の姓を負った」とある。また、「三枝部連は、額田部湯坐連と同祖で、天津彦根命の十四世の孫、建己呂命の子孫。顕宗天皇の御代、諸氏へ、ごちそうを賜った。その時、庭に、三本の茎の草があり、献じたので、三枝部造の姓を授けた」とある。
顕宗天皇紀の三年四月三日には、「福草部を置いた」とある。この時のことだろう。天武天皇紀の十二年九月には、「福草部造へ、連の姓を授ける」とある。「三枝」については、白檮原宮の段、伝巻二十の三十一葉と、近飛鳥宮の段、伝巻四十三の四十九葉で述べる。
【宣長の注釈】以上、十九氏の「かばね」、姓について述べる。「国造」は、すべて「くにのみやつこ」と読むべきだ。まず、上代に、お仕えする人々を、まとめて挙げる時には、「臣、連、伴造、国造」と並べる。書紀の各巻に、数え切れないほど多い。敏達天皇紀には、「臣、連、二つの造」ともあり、「二造は、国造と伴造である」と注す。その国造とは、諸国で、それぞれの国の長として、その国を治める人の姓である。ただの「造」は、その伴造である。「伴」は、三枝部などの「部」をいう。「べ」は、「むれ」を縮めた「め」と通じた言葉だ。「上達部」を「かむだちめ」と読む類いも、考えるべきだ。だから、「造」の姓は、何々部という氏に、多くある。天武天皇紀十二年九月の所を見るとよい。「部」といわない氏も、その意味の氏である。こうして、「造」は、諸部の長として、それぞれの部をつかさどる人の姓なのだ。
垂仁天皇紀には、何々部というものを挙げ、「合わせて十の品部」とある。欽明天皇紀には、「秦人の戸数は、総数七千五十三戸。大蔵の掾を、秦伴造とした」とある。この秦人の戸々をつかさどる人を、秦伴造というのだ。雄略天皇紀の、「漢部を集め、その伴造を定めよ」というのも、漢部をつかさどる人をいう。孝徳天皇紀の、「訴える人に伴造がいれば、その伴造が、まず調べ、報告せよ」というのも、その部々をつかさどる人を、伴造というのである。
したがって、二つの「造」は、同じ意味である。「郡領」も、「こほりのみやつこ」と読み、この訓は、『北山抄』にも、詳しく記す。文字は違っても、同じ言葉、同じ意味だ。「みやつこ」の意味は、「御臣」である。称徳天皇紀の詔には、「確かで清い心をもって、朝廷の御やつことして、お仕えさせ」、また「丈部姉女を、内つやつことして、冠位を上げ賜い」とある。これらから、「やつこ」は、臣の意味だと分かる。推古天皇紀では、国造を、「くにのやつこ」とも読む。
「やつこ」といえば、ひどく卑しい者のように聞こえるが、もとは、そうではない。君に対し、臣をいう名である。だから、君臣の意味の「臣」は、書紀などでも、みな「やつこ」と読む。官奴を「みやつこ」というのは、別だ。もとは、私の家の奴婢から起こり、公の奴婢をいう。しかし、その私家の奴婢も、君臣の臣という意味なので、もとをたどれば、一つである。「とのもりのともの御やつこ」なども、これだ。これらの名は、もとの意味に帰れば一つだが、「造」は、天皇に対して臣という意味なので、その部の上に立つ人をいい、「御やつこ」は、下に付く者をいう。そのため、実際の使われ方は、大きく異なる。
国造を、「国の宮の司」という意味とする説は、大きな誤りだ。師は、国造を「くにつこ」と読み、「その国を初めて造った意味で、造という。また、ただの造は、宮を造った功績による姓だ」といわれたが、よくない。今、調べると、書紀などでは、多く「くにのみやつこ」と読み、「くにつこ」と読む所も、まれにはある。「造」の字から考えると、師の説は合いそうだが、造が、宮を造った功績によるという証拠は、まだ見ない。孝徳天皇紀に、「貢ぎを進める時、臣、連、伴造、国造らが、まず自ら集め、その後、分けて差し出し、宮殿を修理する」とあるが、これは別のことだ。もし、造る意味なら、国造の例に従い、「みやつこ」も、「宮造」と書くはずなのに、そう書く例はない。「造」の一字だけで、宮を造る意味には、取りにくい。また、先に引いた書紀で、国造、伴造と並べ、「二造」ともあるのに、一方を「みやつこ」、一方を、ただ「つこ」と、違えて読む理由がない。
したがって、天皇の御臣として、国々を治める人を、「国の御臣」、部々をつかさどる人を、「伴の御臣」というのだ。推古天皇紀にも、「国司、国造など、任じられた役人は、すべて王の臣である」とある。ただ、「造」の字を書く理由は、まだ分からない。中国の秦の官に、「大良造」があり、「大上造」ともいう。『北史』には、新羅の官位十七等の、最下位を、「造位」という。これらに、いわれがあって書き始めたのか。なお、考えるべきだ。
【宣長の注釈】国造は、上代には、役職であり、そのまま姓でもあった。やや後には、姓は別にあり、その氏の中に、国造がいた。奈良の頃には、その氏の人の中から、国造を任じるのが、普通である。しかし、何々国造という姓を賜ったことも、『続日本紀』巻三十三の二葉などに見える。また、大宝二年には、諸国の国造の氏を定め、国造記に載せたことも、同書に見える。陸奥国に、大国造と国造を、並べて任じたことも、巻二十八に見える。
国々に国司を置いてから、国造は、その下に立ち、多くは郡領などに任じられた。昔、国造は、代々、その国を治めていた。中国の昔の、封建の制度というものも、これに似ている。それが、孝徳天皇の御代から、中国の郡県の制度をまね、都から国司を交替で遣わし、国々を治めさせるようになった。それより前にも、国司と呼ぶ者はいたが、各国に、必ず定めて置いたのは、その御代からである。
その後、国造は、次第に衰え、後世には、ついに各国の国造が絶えた。今の世まで、その名が残るのは、出雲、それから紀伊国などだけである。
【宣長の注釈】「直」は、書紀で、「あたひえ」と読む所がある。皇極天皇紀の、長直である。また、『和名抄』では、和泉国和泉郡の郷名、「山直」を、「やまたへ」とする。これらを合わせ、「あたへ」と読むべきだ。「あたひえ」の「ひえ」を縮め、「へ」というのである。「山直」は、「やま」の末に、「あ」の響きがあるので、その「あ」を省き、「たへ」となる。名の意味は、まだ分からない。「え」は、「兄」だろう。「直」の字は、音を借りた字である。『続日本紀』巻二十八には、庚午の年の戸籍で、「直」の姓に、「費」の字を書いたものもあった、と見える。
『姓氏録』に、「直とは、君のことである」とあるのは、「おまえが、君となって、これを治めよ」という詔についての注だ。この姓も、各国の、さまざまな土地の氏に付くので、その場所の君という意味では、あるのである。
【宣長の注釈】「連」は、前の、伝巻六の六十八葉に出る。大きな氏や、さまざまな姓の中で、「臣」と「連」は、都の近くに住み、特に親しく朝廷にお仕えする、氏々の姓だ。雄略天皇紀の遺詔に、「臣、連、伴造は、毎日参朝し、国司、郡司は、時に応じて、朝廷に集まれ」とあるのも、臣、連、伴造は、都の近くに住むためである。
「造」は、その部の種類によって、都の近くにいる者も、各国にいる者も、あっただろう。また、国造、君、直、県主、稲寸などは、みな各国にいて、その土地を治める氏の姓だ。「稲寸」は、「稲置」とも書く。「臣、連、国造、伴造」と、まとめていう時には、君、直、県主、稲置の類いは、国造の中に含めるのだろう。
その中に、尊卑の違いもあったようで、闘鶏国造の姓を下げ、稲置にされたことなどが、允恭天皇紀に見える。「県主」は、その県々の主である。県については、中巻の、志賀の高穴穂の朝の段、伝巻二十九の五十九葉に出る。
【宣長の注釈】「稲寸」は、多くは「稲置」と書く。「置」は、「おき」の「お」を省き、「き」に取るので、日置、玉置などと同じ例である。どちらも、音を借りた字だろう。名の意味は、まだ分からない。「き」は、「君」だろう。成務天皇紀の五年には、「国、郡に、造、長を立て、県、邑に、稲置を置いた」とある。孝徳天皇紀にも、「国造、伴造、県の稲置」などとある。
こうして、国々にいて、その役目が似ている中でも、国造、県主、君、直、稲寸など、さまざまに分かれた理由も、上下の差も、今、すべてを詳しく見分けることは、難しい。『続日本紀』には、天平宝字三年冬十月の辛丑の日に、「天下の諸氏の姓で、『君』の字を用いるものは、『公』へ置き換えよ」とある。これから、君の姓は、みな「公」と書く。
以上のほかにも、なお、さまざまな姓がある。それぞれ、出てくる所で述べる。氏と姓の全体については、下巻の、遠飛鳥の朝の段、伝巻三十八の二十八葉で述べる。
【宣長の注釈】「此出雲国造」から、「三枝部造等之祖也」まで、小さな字で書いてはあるが、注という扱いではなく、本文である。この記の中で、このように、子孫の氏々を挙げる所は、すべて、そうである。
古事記伝 巻八。本居宣長が謹んで著す。
神代 第六巻
【古事記本文】速須佐之男命は、天照大御神へ申し上げた。「私の心は、清く明らかなので、私に生まれた子は、か弱い女の子でした。このことを申せば、私が勝ったのです」。そして、勝ち誇る勢いに任せ、天照大御神の、お作りになる田の畔を壊し、用水の溝を埋め、大嘗を召し上がる殿で、糞をして、まき散らした。「佐備」「阿」「麻理」は、音を表す字である。
それでも、天照大御神は、とがめず、「糞のように見えるのは、酔って、吐き散らしたのだと、私は思う。愛しい弟は、そうしたのです。また、田の畔を壊し、溝を埋めたのは、土地が惜しいと思って、愛しい弟は、そうしたのです」と、よい方に言い直された。しかし、その悪い行いは、やまず、さらに重なった。「登賀米受」「登許曾」「阿多良斯登許曾」「登」は、いずれも音を表す字である。
天照大御神が、忌服屋という、清めた機織りの屋におられ、神に供える御衣を織らせていた時、その屋の屋根を破り、天の斑馬の皮を逆にはいで、投げ込んだ。天の衣を織る女は、驚き、機の梭で陰部を突いて、死んだ。「陰上」は、「ほと」と読む。これを見て恐れた天照大御神は、天の石屋戸を閉じ、その中に、おこもりになった。「許母理」の三字は、音を表す。
【宣長の注釈】「手弱女」は、『万葉集』巻十五の二十四丁に、「たわやめ」とあるので、それによって読むべきだ。「わや」は、弱いという意味に通じる。中巻の、倭建命の御歌に、「たわやかひな」とあるのも、か弱い腕である。『万葉集』巻三の三十八丁に、「岩戸を破る、腕の力がほしい。か弱い女なので、どうしてよいか分からない」と詠むように、男を「ますらを」というのに対し、女は、か弱いという意味の呼び方だ。
『和名抄』には、「手弱女人は、たをやめ」とあり、書紀や万葉集などにも、その訓を付けるが、これは、少し後になまった形だろう。『万葉集』巻六の八丁の「弱女」、巻十三の一丁の「手弱女」などの訓が、よい。
【宣長の注釈】「言者」は、「まをさば」、申し上げるなら、と読むべきだ。今の人の言葉にも、このような所で、このようにいうことがある。
【宣長の注釈】「自」は、「すなわち」というのに近い。前の文でも、「自吾子也」「乃汝子也」と、同じ意味の語を、「乃」ともいう。どちらも、「もとより」というようなものだ。後の文の、「天の原は、おのずから暗く」、「おのずから明るくなる」などの「自」も、同じだ。
【宣長の注釈】「我勝」。書紀には、「こうして、素戔鳴命は、勝った証拠を得た」とある。ただし、書紀では、男の子をお生みになったことを、心が清く明らかな証拠とする。ここでは、このように、女の子を得られたことを、その証拠とし、「私が勝った」と申し上げる。伝えの意図が、違うのである。前にも述べたように、この男の子、女の子の意味は、すべて、書紀とは違う。
女の子を得たことを、御心の清く明らかな証拠とする理由は、こうだ。まず、天照大御神は、高天原を治めておられるので、上に立ち、専ら事を執る、大丈夫のようである。一方、この命は、追われて、根の国へ退かれる身なのだから、か弱い女が、男に従って下にいるような立場になるのが、道理である。だから、今、女の子を得られたことは、その道理に合い、天照大御神に従い、敵対する御心がなく、高天原を奪おうという御心もない証拠となる。ここで、ただ「女子」といわず、わざわざ「手弱女」というのも、その意味だ。前では、「女子」とある。
「ますらを」「たわやめ」は、ただ何となく、男女をいう呼び名ではない。みな、以上の意味で、強いこと、弱いことをいう時の名である。書紀や万葉集などを、注意して見るとよい。昔は、このような呼び名を、むやみに使わなかったのである。
【宣長の注釈】「勝ちさび」。師の説には、「勢いが進むことを、『すさび』といい、それを縮め、『さび』ともいう。『すさ』を合わせて、『さ』になる。勢いを進め、荒れる意味だ」とある。今、この神が、誓約に勝った御心の、勢いに任せて、荒々しく振る舞われることを、「勝ちさび」という。勢いを進め、荒れる意味だ。
師は、さらに、『万葉集』巻一の、神霊の思いを述べた、近江の旧都の歌、「さざなみの国の神が、心の勢いに任せて荒々しく振る舞い、荒れ果てた都を見ると悲しい」も、国の御神の心が荒れ、国に乱を起こし、都を荒らした、と詠むのだという。今、私は、この書の注にある説などは、誤っていると考える。〔訳注:原文の「此書」に続く一字は、不鮮明なため、読みを留保する。〕
「さび」「すさび」という言葉が、そこから、さまざまに転用されることなどは、師が『万葉考』へ、詳しく書かれた。「須佐之男」という御名も、この意味である。それで、ある書には、「進雄」と書く。後世にも、物事の勢いが進み、荒いことを、「すさぶ」という例は、多い。
【宣長の注釈】一つの段の中で、「天照大御神」という御名を、何度も挙げる例は、この段にも、その前後にも、多い。普通の文章の習慣でいえば、初めの一度だけ、そう申し上げ、後は、ただ「大御神」とあるはずなのに、そのつど、「天照大御神」とあるのは、わずらわしいようだ。しかし、これこそ、昔の文章の形なのだろう。
【宣長の注釈】「営田」は、「みつくだ」と読むべきだ。「営下田」「営高田」などは、巻の末に見える。孝徳天皇紀の二十丁にも、「営田」とある。『和名抄』には、「佃、つくだ」とある。この御田は、書紀には、天狭田、長田、天垣田、天安田、天平田、天邑井田などの名がある。
【宣長の注釈】「阿」は、田の畔だ。『和名抄』には、「畔は、田の境。くろ。また、あぜともいう」とあるが、昔は、ただ「あ」といった。「あぜ」は、もとは「畔の背」という意味だ。『躬恒集』には、「木の芽の張る時になるまで、苗代の畔さえ、まだ作らなかった」とある。書紀には、「毀其畔段は、はなつ、という」、また『古語拾遺』には、「畔を壊すことを、古語では、あはなち、という」とある。
【宣長の注釈】「埋其溝」は、書紀には、「塡棄」とも、「埋溝」ともある。「埋」は、「うづめ」とも読むべきだが、『古語拾遺』に、「みそうめ」とあるので、それによった。「其」の字も、読まない。『和名抄』には、『釈名』の「田の間の水路を、溝という」を引き、和名は「みそ」、「渠」も同じとある。また、「畎は、田の中の水路。たみぞ」ともある。
畔を壊すのは、その田にためた水を枯らし、また、水が多い時には、外から、むやみに流れ込ませ、あふれさせるための行いである。田の境を混ぜるためだ、という説は、違う。書紀で、これらの悪事を、春のものと秋のものに分け、この行為を春の事とするのも、水に関わるからだ。また、須佐之男命の御田の悪さをいう時の、「川依田」「口鋭田」なども、水に関わる名であることを考えるべきだ。
溝を埋めるのは、水を引くのを妨げるためだ。このほかにも、種を重ねてまく、水路や樋を壊す、串を刺す、生きたまま皮をはぐ、逆に皮をはぐ、糞をする、などの事が、書紀、大祓の祝詞、『古語拾遺』などに見える。ここは、省略して挙げた伝えなのだろう。中巻の、神功の段の、「国の大祓」の所にも、畔を壊すこと、溝を埋めることの、二つだけが見える。
【宣長の注釈】「大嘗」は、書紀には「新嘗」とあり、同じことである。『続日本紀』巻二十六の六丁には、「大新嘗」ともある。いずれも、「おほにへ」と読むべきだ。書紀巻二十九の四丁の「大嘗」、十二丁の「新嘗」の訓は、よい。『古今集』巻二十には、「御代々々の、おほにへの歌」とある。
大嘗の「にへ」は、その「へ」が、発音の都合で、「むべ」ともなった。言葉の中の「へ」を、「むべ」とする例は多い。「む」に引かれ、「べ」と濁るのも、発音の都合だ。「にへ」は、「にひあへ」、新しい食物でもてなすことを、縮めた語である。「にひ」を縮めて「に」とし、「あ」は省く。そう省く例は、普通にある。新しい稲でもてなす行いをいう名だ。
『万葉集』巻十四の下総国の歌には、「にほ鳥の、葛飾早稲を、にへすとも、かなしき背ろを、外に立てめやも」、葛飾の早稲で、にへをしていても、愛しいあなたを、戸外に立たせておきましょうか、とある。顕昭の『袖中抄』巻十六は、「葛飾早稲とは、下総国の葛飾という土地の早稲である。『にへす』とは、田舎で、初めて早稲を刈り、調理し、近隣の人が集まって食べることをいう」とする。
歌の意味は、こうだ。にへをする時は、厳しく身を清め、慎み、門も閉め、外の人を、固く入れない。しかし、愛する男が来たら、門外に立たせておきはしないだろう、中へ入れよう、と、思いの深さを詠んだのである。書紀に「斎庭の穂」とあるのも、新嘗は、厳しく身を清め、慎むためだ。家持家集というものの、「わが家の早稲を刈り上げて、新穀を祝っていても、あなたのお使いを、何も差し上げず帰すことはしない」は、先の歌を直したものだ。
このように、もとは、朝廷だけでなく、下々まで、広く行う事である。後世は、もっぱら神に祭る事だと思うようだが、そうではない。神にも供え、人にも振る舞い、自分も食べる行いなのだ。「奉饗」「直会」なども、もとは、この新饗から転じた名である。今、大御神が召し上がる大嘗も、この意味で、理解すべきだ。ただ、後世の朝廷の、大嘗祭や新嘗祭だけを思っては、古い意味に合わない。「大」を添えるのは、尊ぶためだ。だから、後に、朝廷でなさる「にへ」を、「大嘗」と申し上げるのである。
「嘗」の字を書くのは、中国で、秋の祭りを「嘗」というのを借りたのだ。これは、しばらく、朝廷のにへに即して借りた字で、必ずしも、この字にこだわるべきではない。大嘗も、新嘗も、十一月に行われるが、秋の収穫による事なので、この字を書く。「新嘗」の「新」は、もとの、新しいもてなしという意味から、加えたのだ。漢籍にも、「嘗新」という語が見える。書紀では、この新嘗を、「にはのあひ」ともいう。「新の饗」のことだ。『私記』が、集まりの意味とするのも、理由がないわけではないが、やはり、「饗」の転じた語である。
【宣長の注釈】書紀では、ほかにも、「にはなひ」「にはなへ」「にひなめ」「にひへ」「にはひ」など、さまざまな訓を付けるが、みな正しくない。「にはなひ」は、先の「にはのあひ」の、「のあ」を縮め、「な」としたものだ。「にはなへ」も同じ。「にひなめ」も同じで、「へ」と「め」は通じる。「にひへ」は、「あ」を省く。「にはひ」も、同じ形だ。しかし、「嘗」を「なむる」とも読むので、「にひなめ」というのだと、取り違えてはならない。
この記の、下巻、朝倉宮の段の、采女の歌や、大后の御歌に、「にひなへや」とあるのを、正しい読みの証拠とすべきだ。「新嘗屋」のことである。「なへ」は、「のあへ」の縮まった形だ。また、「あ」と「な」は、通わせる例が多いので、そのまま「新饗」の意味でも、よいだろう。
『万葉集』巻十四の東歌、十一丁には、「誰そ、この屋の戸、押そぶる。にふなみに、わが背を遣りて、斎ふこの戸を」、誰が、この家の戸を押し動かすのか、にふなみに夫を送り出し、私が身を清め、慎んでいる、この家の戸を、とある。この「にふなみ」は、「にひなへ」の東国の言い方だ。先に引いた、下総の歌の「にへ」と、まったく同じ事だと分かるので、「にへ」は、新饗の縮まった言葉だと知るべきだ。
新嘗は、朝廷の事に即して書く文字なので、「大」を添え、「おほにひなへ」、あるいは「おほにへ」などと、申し上げるべきである。「神嘗」は、古書に「かむにへ」と訓を付けるのが、よい。「かむなめ」と読むのは、よくない。「相嘗」は、「あひにへ」という。「あひなめ」というのも、誤りだ。『公事根源』に見える、「にへ」を「むべ」とする言い方は、大嘗と同じなので、よい。「あひなめ」というのは、誤りである。これらは、名に付く「大」の意味を知らず、むやみに読むため、混じり、なまることが多いのだ。
書紀に、「天稚彦は、新嘗をして休んでいた」とあるのは、にひなへは、上から下まで行う事であるため、天稚彦も行ったのだ。「新嘗」の字は、ひとまず借りただけである。それを、この神が、朝廷の儀式を借りたのだ、という説は、古い事に暗い。皇極天皇紀に、「天皇が新嘗をなさる。この日、皇太子、大臣も、それぞれ新嘗をする」とあるのも、見るべきだ。
後世は、即位に伴う大嘗を「大嘗」、毎年のものを「新嘗」と分けていうが、昔は、通わせていい、同じ事であった。皇極天皇紀では、同じ回の儀式を、初めは「大嘗」、後は「新嘗」と書き、皇極天皇の即位に伴う大嘗も、「新嘗」と書く。神祇令では、どちらも「大嘗」とある。『北山抄』にも、「践祚の大嘗祭」「毎季の大嘗祭」とあるのだ。
【宣長の注釈】「聞看」。皇極天皇紀には、「新嘗を召し上がる」とあり、『続日本紀』巻三十の十五丁の宣命には、「今日は、新嘗の『ゆらひの豊の明り』という祝いの宴を、召し上がる日である」とある。この言葉の意味は、前の「所知」の所、伝巻七の十七葉で、詳しく述べたとおりだ。ここでは、お食べになることをいう。後世の書にも、そういう例が多い。今の世にも、「こしめす」という言葉が残るのは、これを縮めたものだ。
祈年祭の祝詞には、「最初の穂は、皇大御神の御前に、山のように積み置き、残りは、安らかに召し上がり」とある。この「聞看」も、天皇がお食べになる意味だ。大嘗祭の祝詞には、「今年十一月の、中の卯の日に、天の御食として、長く、遠く続く御食として、皇御孫命が、大嘗を召し上がるために、皇神たちが、ともに尊び、豊かな御代へ幸いを与え、堅い岩のように、いつまでも変わらぬように、祝い申し上げ、千年、五百年の先までも、穏やかに、安らかに召し上がり、祝いの宴で明るくおいでになる、皇御孫命の」とある。これを見るとよい。
昔は、天皇が、ご自身でお食べになることを、主としていう。中巻の明宮の段に、「豊の明りを召し上がる」とあるのも、同じ言葉だ。この大嘗を、ただ神へ供えられることだけと説明するのは、古い意味に合わない。
【宣長の注釈】「屎麻理」。書紀には、「送糞は、くそまる、という」とある。「まり」は、大小便をすることだ。『万葉集』巻十六の十八丁には、「糞、遠くまれ」、糞は、遠くでせよ、とある。『竹取物語』には、「燕が、しておいた、古い糞」などとある。今、大小便を受ける器を、「まる」というのも、この言葉だ。伝巻五の五十九葉も、考え合わせるべきだ。
「散」は、「ちらす」と読むべきだ。後の箇所も同じで、「あかつ」と読むのは、よくない。この行為を、中巻の神功皇后の段では、「くそへ」という。大祓の詞、『古語拾遺』も同じだ。詳しくは、その段で述べる。書紀には、「ひそかに新宮で、糞をした」、また「新宮の、御座の下へ、ひそかに糞をした」ともある。
にへをする時、万事を慎み、身を清めるのは、前に述べたとおりだ。「新宮」とあるので、そのため、宮も新しく造られたと見える。そのような所で、こんな汚らしい行いをするのは、暴悪な振る舞いの、極みである。
【宣長の注釈】「雖然為」は、「しかすれども」、そうしたけれども、と読む。
【宣長の注釈】「登賀米受而」は、「とがめずに」ということだ。『倭姫命世記』に、「これは何かと、お尋ねになり、とがめ申し上げた。その所を、止鹿の淵と名づけた」とある。『万葉集』巻四の八丁には、「わがするわざを、とがめたまふな」、私のすることを、おとがめくださるな、とあり、巻十八の十八丁には、「人もとがめず」とある。書紀には、「これらの事は、すべて無法な行いだった。しかし、日の神は、親愛の心から、怒らず、恨まず、みな穏やかな心で、お受け入れになった」とある。
【宣長の注釈】「如屎」は、「くそなすは」、糞のように見えるのは、と読むべきだ。後の「埋溝者」に合わせると、「屎」の下にも、「者」があるはずだ。このお言葉の意味は、「糞のように見えるのは、糞ではなく、酒に酔って、吐き散らした物なのだ」ということである。糞だと知っておられながら、糞ではないかのように、おっしゃるのだ。
酔って吐く時は、どうしようもなく、場所を選ぶ余裕がないこともある。また、糞よりは、汚れが浅いので、そのように、よい方へ言い直される。ご親愛の、深さである。
【宣長の注釈】「登許曾」は、調子を添える言葉である。次のものも、同じだ。
【宣長の注釈】「為如此」は、「かくしつらめ」、こうしたのだろう、と読むべきだ。「らめ」は、「らむ」と同じで、推測を表す。ここは、必ず、この言葉を読み添える、文の勢いだ。この記では、このような助けの語を、多く省くのが通例である。
【宣長の注釈】「地矣阿多良斯登」。古い書物では、「惜」の字を、「あたらし」と読む。大雀天皇の御歌に、「あたら菅原」、惜しい菅原よ、、雄略天皇紀の二十丁の歌に、「あたら匠」、惜しい匠よ、、二十一丁には、「あたらしき、猪名部の匠」、惜しい猪名部の匠よ、また「あたら、すみなは」、惜しい墨縄よ、とある。『万葉集』巻十の八丁には、「しゑや、あたらし」、ああ、惜しい、とあり、ほかにも多い。
このお言葉は、こういう意味だ。田になる土地を使って畔を作り、溝を掘っておくのは惜しい、と思い、畔を壊し、溝も埋め、その地も、すべて田にしようという行いなのだろう、というのだ。これも、悪い事を、よい事へ言い直される点で、前と同じである。一つ一つに、「私の愛しい弟」と仰せになる中に、弟を親愛しておられる、御心のほどが見え、どれも、ありがたい。
【宣長の注釈】「詔雖直」は、「のりなほしたまへども」と読むべきだ。祝詞の、「聞き直し、見直し」などと、同じ形である。『延喜式』巻八の二十丁、二十二丁にある。悪い事を、よい事に言いなされるのだ。悪いものを、よくすることを「直す」というのは、前に述べたことと、考え合わせるべきだ。
【宣長の注釈】「転」は、「うたてあり」と読むべきだ。もとからある事が、いっそう進み、特に、はなはだしくなることをいう。『万葉集』巻十二の十三丁には、「いつも恋していないわけではないが、ひどく、この頃、恋が募る」、巻二十の十三丁には、「秋といえば、心が痛い。ひどく、ことさらに、花にたとえて、見たく思うことよ」とある。巻十の十二丁、巻十一の十丁にも、この言葉があるので、開いて見るとよい。
『源氏物語』葵の巻で、紫の上の髪について、「たいそう、手に余るほどだ。これから、どう伸びていくつもりだろう」といい、同じ巻に、「長年、愛しく思っていたのは、ほんの一端でさえなかった。人の心とは、なんと、募っていくものなのか」とある。これらも、いよいよ進み、はなはだしくなる意味だ。以上で、理解すべきである。「転」の字を書くのは、転じ、進む意味を取ったのだろう。
下巻の、穴穂の朝の段の、「奇妙なことを言う皇子」や、書紀で、武烈天皇の行いについていう、「奇怪な戯れを設ける」などは、先の意味から転じ、穏やかで普通なのではなく、風変わりで、よくない意味に聞こえる。『貫之集』で、蟻通神を、「何とも困った神だ」というのも、これである。
『古今集』の、「『あはれ』という言葉は、何と困ったものだろう。俗世を捨てきれなくする、心の縛りだった」、また、「散ってから見ても、よいものなのに、梅の花よ、何と恨めしく、香りが袖に残ることか」とあるのも、「形見こそ、今は、つらいものだ」と詠むのと同じ意味だ。『菅家万葉』で、この歌の「うたて」を、「別様」と書くのは、遠いこじつけだ。『春記』に、「滝口定が、昨夜、盗人を捕らえられなかった。たいそう困ったことだ〔別様〕」とある。この「別様」も、「うたてし」と読むべきだ。中古には、この字を当てる習慣だったのだろう。
俗に「笑止だ」、おかしく困ったことだ、というのと、同じ意味で、「うたてき」というのも、ここから転じた。『古今集』の俳諧歌に、「花と見て、折ろうとすると、女郎花、なんとも、ためらわせる姿の名だった」とある、この「うたた」も、同じ言葉で、意味も、先と同じだ。「女郎」という名にはばかり、普通の花とは違って、折るのを、どうか、よくないと感じる、というのである。それで、ここの「転」も、普通は「うたた」と読む。ここに「転」といっておき、次に、その、尋常でない悪い行いを述べる。
【宣長の注釈】この段には、論じるべき事がある。須佐之男命は、誓約によって、すでに御心の、清く明らかなことが現れ、「私が勝った」といわれ、天照大御神も、お認めになった。書紀には、「ここで、日の神は、初めて、素戔烏尊には、もとから悪意がないと分かった」、また「日の神は、初めて、素戔烏尊には、もとから、偽りのない心があると分かった」とある。この時には、御心の清らかさに、すでに疑いがない。それなのに、突然また、このように、天照大御神のおそばで、さまざまな悪事をなさるのは、どういうことだろう。この記も、書紀の伝えも、みな同じなのに、昔から、注釈する人たちは、気を留めなかったのか。何も論じないのは、うかつである。私は、とても納得し難い事だと思う。
そこで考えると、書紀の一つの伝えには、先に、これらの悪事があり、石屋の事件から、この神に祓いを科して、追放し、その後、天照大御神にお会いしようと、高天原へ上り、あの誓約がある。この順序こそ、本当に、そうありそうに思える。それに基づくと、この記や、書紀のほかの伝えは、出来事の前後が、混乱したのだろうか。初めに、伊邪那岐大御神に追放された事と、祓いの後、諸神に追放された事の、様子が似るため、後の追放に続いた事を、誤って、初めの追放に続けて、伝えたのだろう。これは、その、書紀の一書に基づいていうのである。
この記などの趣旨を、成り立たせていえば、誓約の時は、本当に、御心が清く明らかだったが、誓約に勝った、おごりによって、再び、本来の悪い心が起こったのだろうか。この記には、「勝ちさび」とあるので、そうもいえる。しかし、書紀には、そういう言葉もなく、「この後、素戔鳴尊の行いは、たいそう無法だった」と書き始めるので、あまりにも唐突に、急に聞こえる。清らかな心が、何のため、急に変わって、こうなったのだろう。
【宣長の注釈】「忌服屋」は、「いみはたや」と読むべきだ。「忌」を「いむ」と読むのは、誤りである。何々を清め、慎む意味の「忌」は、みな「いみ」と仮名を付けるべきだ。実際の口で、「いむ」のように唱えるのは、自然な発音の変化である。書紀には、「斎服殿」「織殿」などとある。「忌」というのは、神の御衣を織る屋なので、万事、身を清め、慎むためだ。清めた斧、清めた鋤、清めた柱などというのも、同じである。
【宣長の注釈】「神御衣」は、「かみのみけし」とも読めるが、ここでは、やはり「かむみそ」と読むべきだ。神へお供えになる御衣である。この大御神が祭られる神を、天つ神という説は、よい。しかし、その天つ神を、天の太陽のことといったり、ご自身の心の神を清められる、といったりする説は、いつものように、論じるにも値しない。
これは、大御神が、ご自身の手で織られるのではなく、衣を織る女に、織らせられるのである。書紀も同じだ。それを、ご自身の手で織られるという説は、誤りである。文章に注意して、見るとよい。ご自身も、その服屋におられ、仕事をご覧になるのは、神事を重く扱われるためだろうか。また、そうでなくても、ご自身で行って、ご覧になるのだろう。
【宣長の注釈】「頂」は、白檮原宮の段にも、「この刀を降ろすには、高倉下の倉の頂を破り、そこから落とし入れる」とあり、どちらも、屋根の棟である。『和名抄』には、「棟を桴という。むね」とあり、『字鏡』にも、「桴は、桁の上に横たわる物。棟である。むね」とある。『増韻』は、桴を、屋根の背と注す。
「穿」は、神武天皇紀に、「穿邑は、うかちのむら、という」とあるので、それによって読むべきだ。書紀の「介」は、「か」の仮名としてだけ使う。「け」と読むのは、誤りである。
【宣長の注釈】「天斑馬」。『和名抄』には、「駁馬、俗に、ふちうまという。『説文』は、駁を、一色ではない馬とする」とある。「ふち」を、俗にいうとするが、俗称ではないだろう。また、騧馬について、「『爾雅』の注は、四足が、みな白いものを騧という。俗に、あしふちという」とある。後世は、「ぶち」と濁らせていうが、昔は、語の初めを濁る言葉はないので、「ふ」と清らかに読むべきだ。今の世にも、清音でいう所があるそうだ。
「馬」は、「うま」。「こま」は、駒で、馬の子だと、『和名抄』にもいう。『万葉集』巻十四にも、「こうま〔古宇馬〕」と詠む。しかし、昔は、普通の馬を「こま」という例が多いので、ここも、そう読むべきだ。書紀にも、「斑駒」と書いている。
日本には、もとは牛馬がおらず、百済国から渡して献じた物だという説がある。『後漢書』にも、日本には牛馬がいないとある。しかし、ここに、このようにあるうえ、八千矛神の所にも御馬が見え、保食神の頭から、牛馬が生まれたことも、書紀に見えるではないか。この斑馬は、鹿のことだなどというのは、論じるにも値しない。
【宣長の注釈】「逆剝剝」。書紀には、「生剝」ともある。中巻の、神功の段では、「生剝、逆剝」と重ねていう。その事は、そちらで述べる。「逆剝」は、尾の方から、逆向きに皮をはぐことである。
【宣長の注釈】「所堕」の二字は、「おとし」と読むべきだ。ここは、「令堕」と書くはずだが、万葉集などにも、「令」を書くべき所に、「所」を書く例が多い。書紀には、「殿の屋根を破り、投げ込んだ」とある。
【宣長の注釈】以上の、さまざまな悪事の項目は、中巻の、神功の段の、「国の大祓」の所に出る。さらに、そこでも述べる。
【宣長の注釈】「天衣織女」は、「あめのみそおりめ」と読むべきだ。「衣」を、「服」とする本もある。
【宣長の注釈】「梭」。『和名抄』の、織機の道具の項には、『通俗文』の、「横糸を受ける物を筟という」を引き、和名は「ひ」、「梭」ともいう、とする。そして、「今、考えると、筟は杼の字である。『説文』には、杼は、機織りで横糸を持つ物だとある」と記す。『字鏡』にも、杼を、「ひ」とする。
今の書紀の本で、「かひ」と読むのは、誤りだ。これは、御梭、みひという意味で、古本に「アヒ」と付けたのを、「ア」は「カ」の誤りだろうと考え、後の人が、勝手に改めたのである。古い訓で、「ミ」を「ア」の形に書く例は、書紀に多い。心得ておくべきだ。
【宣長の注釈】「死」は、「みうせき」と読むべきだ。遷却祟神の祝詞には、「天の鳥による災いのため、その場で亡くなった」とある。崇神天皇紀の、「倭迹々姫命が、箸で陰部を突き、亡くなられた」というのは、似た出来事だ。ここに当たる所は、書紀には、「天照大神は、驚いて動き、梭で身を傷つけた」ともある。また、「稚日女尊が、神の御服を織っていた。驚いて、機から落ち、持っていた梭で体を傷つけ、亡くなられた」とも見える。
【宣長の注釈】「見畏」とは、荒々しい行いを見て、恐れ、天の石屋へ、お隠れになることである。書紀とは、意味が違う。書紀には、「これによって、怒りを起こし」とある。
【宣長の注釈】「天石屋戸」は、必ずしも、本当の岩窟ではないだろう。「石」は、ただ、堅固なことをいうので、天之石位、天之石靫、天磐船などと同じ類いだ。普通の殿を、このようにいったのだろう。書紀の、瓊々杵尊が天降られる所でも、「天の磐戸を、引き開ける」とあるが、これも、普通の殿の戸を、そう呼んだのだろう。
豊石窓、櫛石窓も、「石」は、ただ堅いことで、普通の門である。大祓の詞の、「天つ神は、天の磐戸を押し開いて」というのを、考えるべきだ。天つ神が、いつも、岩窟におられるはずはない。また、『倭姫命世記』に、「天の磐戸の鍵を、いただき賜り」とあるのも、神宮の戸をいう。ある説で、石屋などの「いし」は、「祀る」という意味だというのは、違う。書紀に「岩窟」とある、文字にこだわってはならない。
『万葉集』巻十二の六丁に、「屋戸を閉じ、動かすな」とある。これは、「屋の戸」を「屋戸」という例だ。巻三の二丁には、「石室戸」ともある。
【宣長の注釈】「闔」は、古い印本も、延佳の本も、「開」とするが、誤りである。今は、ある本に従った。「たてて」と読むべきだ。『万葉集』巻三の二十二丁に、「豊国の鏡山の、石戸を閉じて、お隠れになったのだろう」とある、その「立」も、戸を閉じることだ。今でも、そういう。「立てる」という理由について、師は、「上代には、戸を普段、脇へ取りのけて置き、閉じる時には、持ってきて立て、塞いだからだ」といわれた。後世の引き戸は、これを便利に改めた物だろう。押し開く戸は、上代からあった。今も俗に、戸や障子の類いを、建具という。
【宣長の注釈】「刺」は、閉じた戸へ物を差し、固定することだ。『万葉集』巻十二の十二丁に、「門立てて、戸も閉じてあるのに」、また、「門立てて、戸は閉じてあるけれど」とある。これで、「たてる」と「さす」の違いが、分かる。巻二十の二十三丁には、「戸の軸に、釘を差し込み、固めておいた」とある。「くる」は、戸の軸で、「くね」は釘、「かためとし」は、固めたということだ。巻十六の十六丁には、「櫃に、錠をかけて、しまっておいた」とある。
『和名抄』は、「鑰子」を「くらのかぎ」とするが、鍵ではなく、今、「錠」という物だ。だから、今の本には、「じゃう」と訓を付けた。しかし、師は、先の巻二十の歌によって、「くぎ」と読まれた。確かに、昔は、錠もそういったのだろう。清寧天皇紀には、「外の門を、鎖し、閉じる」とある。『和名抄』には、「扂、戸差し」とある。これも、戸を差し固める物であるための名だ。
【宣長の注釈】「こもり」は、隠れることである。この石屋戸にお隠れになるのを、神として亡くなられることだというのは、いつもの、中国風の考えによる推測で、ひどい誤説だ。もし日の神が、お亡くなりになったなら、この世は滅びるだろう。ああ、恐れ多いことだ。恐れ多いことだ。
【古事記本文】高天原は、すっかり暗くなり、葦原中国も、ことごとく闇になった。このため、夜ばかりが続いた。そこで、さまざまな神の騒ぐ音が、夏の蠅のように、あたりへ満ち、あらゆる災いが起こった。「那須」の二字は、音を表す。
八百万の神々は、天の安河の河原へ、神々として集まり、高御産巣日神の御子、思金神に、考えさせた。「集」は、「つどひ」と読む。常世の長鳴鳥を集め、鳴かせた。そして、天の安河の河原の、天の堅石を取り、天の金山の鉄を取り、鍛冶をする天津麻羅を探し求めた。「麻羅」の二字は、音を表す。伊斯許理度売命に命じ、鏡を作らせた。この名の六字は、音を表す。玉祖命には、八尺の勾玉を連ねた、五百津のみすまるの玉を、作らせた。
天児屋命と布刀玉命を呼び、天の香山の雄鹿の、肩骨を抜き取り、天の香山の、天の波波迦という木を取り、それによって、よく占い合わせさせた。「布刀」の二字は、音を表し、以下も同じ。「波波迦」の三字も、音を表す木の名で、「麻迦那波」の四字も、音を表す。
天の香山の、枝が多く茂った、真榊を根ごと掘り起こした。「許士爾許士」の五字は、音を表す。上の枝には、八尺の勾玉を連ねた、五百津のみすまるの玉を付け、中の枝には、八尺鏡を結び付けた。鏡の「八尺」は、「やあた」と読む。下の枝には、白い、にぎてと、青い、にぎてを垂らした。「垂」は、「しで」と読む。これら、さまざまな品を、布刀玉命は、立派な幣として、手に取って持ち、天児屋命は、立派な祝詞を、申し上げた。
天手力男神は、戸の脇へ、隠れて立った。天宇受売命は、天の香山の、天の日影を、たすきに掛け、天の真拆を、かずらにした。天の香山の小竹の葉を、手草として結び、天の石屋戸の前へ、桶を伏せ、足で踏み鳴らした。「小竹」は、「ささ」と読む。「汗気」の二字と、「登杼呂許志」の五字は、音を表す。神がかりとなり、乳房をあらわにし、裳の紐を、陰部まで押し下げた。すると、高天原も揺れ動くほど、八百万の神々が、ともに笑った。
【宣長の注釈】「常夜往」は、「とこよゆく」と読むべきだ。「とこやみ」という語も、『万葉集』巻十五などにあるが、ここを、そう読むのは誤りだ。「常夜」は、いつも夜ばかりで、昼がないこと。「往」は、広く、年月日、時が過ぎていくことをいう。ここでは、昼がなく、ただ夜だけで、時が過ぎるのである。
『万葉集』巻四の四丁には、「逢う夜も、逢わない夜も、二つ過ぎるだろう」とある。逢う夜が過ぎることと、逢わない夜が過ぎることの、二つだ。七丁には、「この世は、二度も過ぎるものか」とある。人の世は、死んだ後、再び経験することのない世、という意味だ。巻七の二十丁の、「世の中は、まことに、二度は通らぬものだった」も、同じである。巻九の十丁の、「とこしえに、夏冬は過ぎていくのか」は、まさに、ここと同じだ。巻十の十丁には、「一年に、二度は来ない、秋山を」とある。『後撰集』で、三月に閏月のある年の、貫之の歌の、「余りの月さえあって、過ごすべき年でさえ」というのも、その「行く」の意味で理解すべきだ。『先代旧事本紀』の、「常世国へ往く」というのは、この「往」の意味が分からず、勝手に書いた誤りである。
神功皇后紀にも、「昼も夜のように暗いまま、多くの日が過ぎた。その時の人は、『常夜行く』といった」とある。書紀では、ここの事を、「世界の中が、常に暗く、昼夜の移り変わりが分からなかった」、また、「天下は、いつも暗く、昼と夜の違いがなくなった」ともいう。
ある人が、「天の太陽は、一つしかない。それなのに、この時、日本だけが常闇で、他国は、そうでなかったのは、どういうことか」と疑うのは、ひどく愚かな疑いである。他国には、この事がなかったと、何によって知るのか。漢籍に見えないからいうのだろうか。この時は、かの国の、どの時代に当たると思うのか。はるかな上代の事なので、あったか、なかったかは、知りようがない。それでも、日の神がお隠れになったのだから、どの国も、ともに常闇だったことに、疑いはない。
【宣長の注釈】「万神」。これと同じ事が、前にもあった所では、「悪神」とある。ここも、そうあるはずだ。「万」は、誤りではないだろうか。ともかく、悪い神をいうのである。「声」は、「おとなひ」と読むべきだ。その理由は、前の、伝巻七の二十一葉で述べた。
【宣長の注釈】「皆満」は、どの本にも、「皆」の字がない。写す時、落としたのだ。今は、前の例や、ほかに、「皆、何々」「悉、何々」と対にする例に従い、補った。「満」が、「涌」の誤りであることも、前に述べたとおりだ。
このような災いが、再び起こるのは、黄泉の穢れの名残によって、須佐之男命が荒れ、禊によって、清く明らかになられた、天照大御神が、お隠れになったためである。この事からも、世の明るい光が尊いだけでなく、あらゆる災いが、むやみに起こらないのも、すべて、大御神が照らされる御徳であることを仰ぎ、また、穢れを慎まねばならないことを、考えるべきだ。すべての災いは、穢れから起こるのだ。
【宣長の注釈】「八百万」は、数が、きわめて多いことをいう。『万葉集』には、「八百万、千万の神」ともいう。
【宣長の注釈】「神集集而」。この言葉の例は、後に出る。その所、伝巻十三の八葉で引く。ここは、どの神の命令もなく、ただ自分たちで集まったので、「つどひ」と読む。後の例から考えると、ここも、「高御産巣日神の命によって」とあるはずなのに、そうでないのは、いわれがあるのだろう。書紀の諸伝も、みな同じだ。
書紀の一書だけは、「八十万の神を、天の高市へ集め、問う」とある。ほかの神の命によって、集めさせた書き方なので、「つどへ」と読むべきだ。「つどひ」は、自ら集まること。「つどへ」は、「つどはせ」の「はせ」を縮め、「へ」という。しかし、そこにも、どの神の命とは、書かれていない。『古語拾遺』の、「高皇産霊尊が、八十万の神を集めた」というのは、かえって疑わしい。後の例によって、推測で書いたのだろう。
【宣長の注釈】「思金神」。名の意味は、書紀に、「その時、高皇産霊尊の子、思兼神がいて、考える知恵を持っていた」とある。「おもひ」は、『万葉集』巻三の八丁の、「歌を思い、言葉を考えた」という「思」で、思慮である。「かね」は、「兼ねる」ことで、多くの人の、考える知恵を、一つの心に兼ね持つ意味だ。だから、『国造本紀』には、「八意思金命」ともある。
【宣長の注釈】「令思而」。『万葉集』巻十五の二十九丁に、「おもはしめつつ」、考えさせながら、とある。書紀には、「思兼神は、深く、遠くまで考えた」とある。ここから、後の天宇受売命の所までの、さまざまな行いは、すべて、この神が考え、計画したものだ。延喜六年の日本紀竟宴で、阿保経覧の歌に、「思兼が、はかりごとをしなければ、天の岩戸は、開かなかっただろう」とある。
【宣長の注釈】「常世長鳴鳥」は、鶏をいう。ここでの「常世」は、「常夜」で、常世の国とは、もともと別だ。しかし、同じ言葉なので、通わせ、字にはこだわらず書くのは、昔の普通の書き方である。今、このように、常夜が続いた時、集めて鳴かせた鳥なので、後に付けた名を、初めに出していうのだ。思金神も、後に、常世思金神という。これも、この時、現れて、相談した神であるための名なのと、同じ例だ。常世国の事と、一つに混同するのは、誤りである。その国については、後の、少名毘古那神の段で詳しく述べるが、ここには、まったく関係がない。
「長鳴」は、鶏の鳴き声が、ほかの鳥より、ずっと長いのでいう。中国の書にも、「長鳴鶏」という語が見えるが、それは、普通の鶏すべてをいうのではないので、こことは同じでない。書紀には、「互いに、長く鳴かせた」とある。ここで、この鳥を鳴かせた理由は、後の説明を待って見るとよい。
【宣長の注釈】「河上」は、斉明天皇紀に、「甘檮丘の東の川上」について、「川上は、かはら、という」とある、その訓に従うべきだ。「かはかみ」ではない。
【宣長の注釈】「堅石」。雄略天皇紀の人名、「堅磐」に、「かたしは、という」とある。『和名抄』の、筑前国穂波郡の郷名でも、「堅磐、かたしは」とする。「方」を、今の本は「萬」とするが、「万」に誤ったのだ。この訓によるべきである。後世の言葉なら、「かたいいは」という所を、こういうのは、古語の一つの形だ。「し」は、「うましみち」などの「し」と同じく、「堅い」に付く言葉。「は」は、「いは」の「い」を省いたのだ。この名は、中巻にも出る。
今、この石を取るのは、『和名抄』の鍛冶の道具に、「鉄碪、かなしき」とある、そのためだろう。今、金床という物である。
【宣長の注釈】「天金山」は、金属を取るための名である。
【宣長の注釈】「鉄」は、黒金だが、ただ「かね」と読むべきだ。「かね」は、金属すべての名なので、どの金属にも使う。これも、古い言葉では、ただ「かね」と伝えたのを、この記で「鉄」と書くのは、その種類を知らせたのだ。ここで取るのが、必ず鉄である理由は、後に論じる。書紀に、「天の香山の金を採る」とあるのは、古い言葉のまま書いたのである。黄金だというのは、誤りだ。こちらも、種類としては、銅や鉄なのだろう。
【宣長の注釈】「香山」とするのは、伝えが異なるのである。
【宣長の注釈】「鍛人」は、「かぬち」と読むべきだ。『字鏡』に、「鑵、かぬち」とあり、天武天皇紀にも、中臣鍛師が見える。綏靖天皇紀にも、この訓が見え、次に引く。「かねうち」を縮めた名だ。「ね」の字は、「ぬ」と縮まる。後の「かぢ」も、この「かぬち」の縮まった形である。
『和名抄』で、「鍛冶」の漢字音がなまり、俗に「かぢ」というのだとするのは、かえって誤りだ。師は、「鍛人」を「かたし」と読み、「かぢ」も、その縮まったものだといわれた。しかし、「かたし」は、鋳る人、鋳物師のことで、鍛冶とは、少し別である。垂仁天皇紀に「冶地」とあるが、これは、土の器を作る所なので、別だ。『日本三代実録』巻十八の、「かたし」も、銭を鋳ることである。書紀に、「冶工」「作金者」などと書く所へ、「かなたくみ」と訓を付けるが、古い名ではないだろう。
【宣長の注釈】「天津麻羅」。綏靖天皇紀には、「倭の鍛部、天津真浦が、「真鹿鏃」という鏃を作る」とある。『先代旧事本紀』の、饒速日命が天降られる時のお供の神に、「倭鍛師らの祖、天津真浦」、また、「物部造らの祖、天津麻良」とある。この麻良は、別の神だろうか。真浦は、同じ神のようだが、綏靖天皇の御代に出るのは、とても疑わしい。
次の、伊斯許理度売、玉祖などの例によれば、ここも、「科」、役目を命じる、とあるはずなのに、「求」、探し求める、とある。麻羅は、一柱の神の名ではなく、鍛冶をする人の、普通の呼び名なのだろうか。この名だけは、「神」とも「命」ともいわないことも、考えるべきだ。『姓氏録』には、「大庭造は、神魂命の八世の孫、天津麻良命の子孫」とある。また、饒速日命の十二世の孫、麻羅宿禰という人も見える。
【宣長の注釈】「求」は、「まぎ」と読むべきだ。「求める」の古語である。後の、八千矛神の御歌に見え、その所で、さらに述べる。鏡は、伊斯許理度売命に作らせるとある。それなら、この麻羅を求めたのは、何を造らせるためなのか。とても、理解し難い。
『古語拾遺』の、「天日鷲神に、津咋見神とともに、穀の木を植えさせ、白い幣を作らせた」というような、共同作業の例にも見えない。また、麻羅を、鍛冶をする人の、普通の名と考え、伊斯許理度売が、その神だとするのか。しかし、文の形は、そういう意味にも見えない。
そこで考えると、書紀には、「あの神の姿を写し作り、お招きしようと申した。そこで、石凝姥を鍛冶とし、天香山の金を採り、日矛を作らせた。また、雄鹿の皮を丸ごとはぎ、天の羽鞴を作り、これを使い、神の姿を造り申し上げた。これが、紀伊国におられる、日前神である」とある。
「日矛」は、矛の名なのに、『先代旧事本紀』で鏡とし、「日矛を鋳造させたが、この鏡は、少し意に合わなかった」というのは、ひどい誤りだ。「あの神の姿を写し作る」とあるから、矛では合わず、必ず鏡だろうと思い、『古語拾遺』の、「日の像の鏡を鋳造させた。初めに鋳たものは、少し意に合わなかった」という記述を引き合わせ、無理に、この日矛へ当てた、偽りの説である。それなのに、昔からの諸説が、みな『先代旧事本紀』を信じ、鏡だと決めたのは、どういうことか。そもそも、鏡を、どうして矛といおう。昔に、そのようなことはないのである。
では、日の神の像を造るといって、矛を造るのは、どういうことか。日の御像とは、その後の、「また、丸ごとはぎ」から「神の像」までにある、それである。これは、鏡であることに、異論はない。日矛も、その時、同じ山の金を採り、同じ神が造ったので、一か所に並べていうのだ。
その理由は、紀伊国名草郡で、日前神社と国懸神社が、同じ場所に、並んで鎮座することにもある。ある説には、「日の御像を、日前大神とし、日矛を、国懸大神とする」とある。二大神の社も、一か所に並ぶので、日の御像である鏡を造る所に、日矛も並べて挙げるのは、いくつもの点で、いわれがある。したがって、「紀伊国におられる日前神」とは、国懸も含めていうのだろう。今も、両社を合わせ、日前宮と申し上げる。
これと合わせると、書紀では、矛と鏡を、両方、石凝姥に造らせ、この記では、矛は、別に天津麻羅へ造らせた、という伝えなのだろうか。それなら、この名の後に、矛を作らせることが、あったのを、落としたのだろう。こう見れば、この記も書紀も、ともに明らかになる。
【宣長の注釈】後の文には、鏡を使ったことが見え、矛を使ったことは、この記には見えない。しかし、書紀には、「天鈿女命は、手に、茅を巻いた矛を持つ」とある。『古語拾遺』には、「手置帆負と彦狭知の二神に、御笠と矛、盾も作らせた。天目一箇神には、さまざまな刀、斧と、鉄の鈴〔鐸〕を作らせた」とある。鐸は、古語で、「さなぎ」という。次に、天鈿女命の所で、「鈴を付けた矛を手に持ち、石窟の戸の前で、『誓槽』という槽を伏せ」とあるので、矛も持ったことは、明らかだ。この記では、それを省いたのである。
このほかにも、この記と、書紀と、『古語拾遺』を比べると、この時の、さまざまな道具について、詳しいもの、省いたものが、互いにある。また、前に、その品を造ったことを述べ、使ったことは省く例も、『古語拾遺』に、あれこれ見える。だから、「日矛」「茅を巻いた矛」「鐸を付けた矛」というのは、ただ名の伝えが違うだけで、実際には一つ、天鈿女命が持つ矛なのだ。神楽の持ち物にも、鉾があり、歌に、「この矛は、どこの矛か。天におられる、豊岡姫の宮の御矛だ」とあるので、いわれがあることなのだ。
したがって、そのための矛を、今、麻羅に造らせたのだろう。この矛は、ほかの、さまざまな道具と同列ではなく、玉、鏡と並び、特に尊い宝である、いわれがあったのだろう。その理由は、『古語拾遺』で、皇孫命に神宝を授けられる所に、「八咫鏡と草薙剣の、二種の神宝を皇孫へ授け、永く、天のしるしとした。矛と玉は、おのずから従った」とある。これは、三種の神器の、一つの伝えだ。鏡も玉も、この石屋戸の時の品なので、矛というのも、この時の矛だと分かる。三種の宝と並べて、このようにいい、また、後までも、日前、国懸と、並んでおられる神の御霊なので、普通の物であろうか。だから、今、これを造ったことを述べたのだろう。
矛の材料であるため、その「かね」も、「鉄」の字で書いたのだろう。鏡なら、鉄とは書くまい。また、堅石も、矛を打つための物と、聞こえる。
【宣長の注釈】「伊斯許理度売命」は、書紀に、「石凝姥は、いしこりどめ、という」と見える。一書には、「鏡作部の遠祖、天抜戸の子、石凝戸辺に、鏡を造らせた」、また、「鏡作の遠祖、天抜戸の子、己凝戸辺の作った、八咫鏡」ともある。「己」は、「石」の誤りだ。『古語拾遺』には、「石凝姥神に、天香山の銅を取り、日の像の鏡を鋳させた」とある。石凝姥神は、天糠戸命の子で、鏡作の遠祖と注す。この神については、後の、伝巻十五にも出る。
ここで造った鏡は、後の文の、八尺鏡である。『古語拾遺』には、「初めに鋳たものは、少し意に合わなかった。これが、紀伊国の日前神である。次に鋳たものは、形が美しかった。これが、伊勢大神である」とある。それなら、この時、最初と後の、二面の御鏡があったのだ。
これで見ると、あの書紀の一書で、日矛と日の神の御像の鏡を造ることを述べ、「これが日前神」とあるのは、初めの分だけをいい、次の分を省いたのである。その一書々々には、事を省く例が多いが、この省き方は、よいとは思えない。紛らわしい。それで、日矛を、初めの鏡に当てるような誤りも、起こったのだ。また、もし、その一書は、『古語拾遺』と異なり、ただ一度だけとするなら、伊勢大神を、どの鏡とするのか。「日前神である」とある以上、次に、伊勢大神の御鏡があることは、疑いない。それなのに、初めの、意に合わない方を挙げ、次の、美しく尊い方を省くとは、どういうことか。この事は、『古語拾遺』の伝えが、明らかで、よいのである。
初めの鏡も、あの日矛とともに、三種の神宝に添え、後に、皇孫命へ授けられたのだろう。先に引いた『古語拾遺』に、「矛と玉は、おのずから従った」とあり、その矛が日矛で、この鏡も、その矛と同じ時にでき、後にも、同じ場所に鎮座するためだ。
そして、代々の天皇と、同じ御殿におられ、水垣の朝になって、天照大御神の御霊、八咫鏡と草薙剣を、豊鋤入日女命へ、別に祭らせられた。鎮座すべき地を、探し歩かれた時、紀伊国の、名草浜宮で、三年ほど、お祭り申し上げたことが、『倭姫命世記』に見える。この時まで、日矛も、初めの鏡も、ともに、天照大御神の御霊に添え、祭っていたのを、この名草浜宮に、二つを留め申し上げ、永く、その地へ鎮座させられたのだろう。これが、日前、国懸の二大神である。
この記などは、その鋳直した細かな事を、述べないだけで、伝えが異なるのではない。この『古語拾遺』の説から、この神の名を考えると、「いしこり」は、鋳ることを重ねる、という意味だろうか。事が重なるのを、「しきる」といい、種を重ねてまくことや、波の重なりなどが、その例である。「頻」の字を書くのも、この意味だ。「重ねる」を、「しこり」ともいう例は、『万葉集』巻十二の四丁の、「ああ、もはや二度と、重ねて来ることがあろうか」という箇所だ。「しこり来め」を、重ねて来ること、とするのである。
「どめ」は、年老いた女の呼び名と見え、書紀に「姥」と書く。字書には、年老いた母とある。この記の、春日建国勝戸売、沙本大闇見戸売、志理都紀斗売などが、その例だ。「とべ」とも通わせていうことは、書紀の、已凝戸辺から分かる。「とべ」の例は、中巻の、苅幡戸弁の所で述べる。『和名抄』に、「今、老いた母を、たうめと呼ぶ」とあるのは、この「どめ」が変わったのではないか。また、「をとめ」は、「小さなとめ〔姥〕」という意味なのか。
【宣長の注釈】「科」は、もとは、合わせるという意味で、「おほせ」、命令も、同じ言葉だ。この字を、そのように読むのは、人々へ、それぞれの仕事を分け、言いつける意味である。
【宣長の注釈】「鏡」の名の意味は、影を見る物である。
【宣長の注釈】「玉祖命」。読みは、『和名抄』で、河内国高安郡と、周防国佐波郡の郷名、「玉祖」を、どちらも「たまのおや」とすることと、書紀が「玉屋命」と書くことを合わせ、「たまのや」である。「お」を省くのは普通だが、ここでは、「の」に、「お」の響きがあるので、なおさらだ。だから、書紀では、「屋」の字を書く。それなのに、この記とも照らさず、「たまや」と読むのは誤りだ。名の意味は、字のとおり、玉の祖である。
書紀の一書には、「玉作部の遠祖、豊玉が、玉を造った」、別の一書には、「玉作の遠祖、伊弉諸尊の子、天明玉の作った八坂瓊」ともある。『姓氏録』には、「高魂命の孫、天明玉命」とある。『古語拾遺』には、櫛明玉神とある。『神名秘書』というものに、「櫛明玉命は、高皇産霊神の娘、栲幡千々姫命の妹」とあるが、この神を女とするのは、どうなのか。
これらは、みな、この神の別名だろう。皇孫命が天降られる時の、五部の祖神は、みな、この段の神なのに、書紀でも、その所では、玉屋命とあるためである。詳しくは、その段、伝巻十五で述べる。『古語拾遺』の、神武天皇の御代の所には、「櫛明玉命の孫が、御祈りの玉を造った。古語で、みほき玉という。その子孫は、今、出雲国にいて、毎年、貢ぎ物とともに、その玉を進める」とある。この事も、その段で、詳しく述べる。
【宣長の注釈】「天児屋命」。名の意味は、「招く祖、ね」だろうか。「招」は、書紀の、「招き、祈り申し上げる」という、それである。この「招禱」を、必ず「をき」と読むべき理由は、皇孫が天降られる所に、「その、おきし玉鏡」とあるためだ。伝巻十五の説明を見ていただきたい。今、この神は、立派な祝詞を申し上げ、大御神を招き、祈られたので、この名を負われたのだろう。「をき」の「を」を省き、「きお」を縮め、「こ」となる。「祖」は、玉祖と同じ意味。「ね」は、尊称で、例が、特に多い。前に、すでに述べた。詳しくは、後の伝巻十五で述べる。
【宣長の注釈】ほかの書物では、多く「児屋根」と、「根」を添えて書くが、この記や書紀などには、その字がない。「ね」は尊称で、尊称を省いていう例も、あれこれある。そのため、「根」のない所は、「こや」と読むべきかとも思う。しかし、「屋」を「やね」というのは、今の俗語だけでなく、『万葉集』巻四などにもあるので、やはり、「こやね」と読むべきだ。
【宣長の注釈】「布刀玉命」。「玉」を御名とされた理由は、まだ分からない。大神宮式には、「木の皮の繊維で作る木綿〔ゆう〕を付けた榊を、太玉串という」とある。書紀には、「枝の多い真榊、八十の玉籤」ともある。今、この神は、玉、鏡、幣を付けた真榊を、取って持たれるので、あるいは、この「太玉串」の意味だろうか。
「玉串」という名は、「手向け串」だろう。「むけ」を縮めれば、「め」となるが、「ためぐし」といえば、自然と「たまぐし」とも聞こえるので、「玉」は、借りて書いた字だろう。それなら、「串」を省き、「太手向け命」ともいえる。「立派な幣として、取って持つ」とあるので、「太手向け」ともいえるのだ。詳しくは、後の、伝巻十五で述べる。
【宣長の注釈】「天香山」は、中巻の、倭建命の段の歌に、「あめのかぐやま」とあるので、それによって読むべきだ。前に出た香山は、大和国のものだが、これは、天上のものをいうので、別である。
伊邪那美神が、お亡くなりになる所には、金山毘古、金山毘売、波邇夜須毘古、波邇夜須毘売があり、その次に、大和の香山が出る。その香山には、埴安という地名があり、ここには、金山の名がある。両方を合わせると、もと、この山の名は、迦具土神に、いわれがあるのだろうか。なお、よく考えるべきだ。
【宣長の注釈】「真男鹿」は、書紀に、「真名鹿」ともある。「ま」は、ほめる言葉だ。顕宗天皇紀には、「牡鹿は、さをしか、という」とある。「さをしか」は、普通によくいう名だが、「まをしか」は、ほかには見ない。そこで考えると、さごろも、さむしろ、さよ、さねなど、多くの語へ添える「さ」は、「ま」と通じるのだろう。地名の、さひのくま、まくまのなども、通じるように聞こえるではないか。
【宣長の注釈】「肩」は、『和名抄』に、「肩は、かた。胛は、かたのほね」とある。「肩を抜く」は、その骨を抜き取ることである。
【宣長の注釈】「内抜」の「内」は、音を借りた字だ。書紀で、「全剝は、うつはぎ、という」とする「全」と同じで、俗に「丸ごと」という意味である。骨を丸ごと抜き、皮を丸ごとはぐと、中が空になる意味で、「うつ」という。後にも、「鵝の皮を、丸ごとはいで」とある。
【宣長の注釈】「波波迦」は、今の本は、みな「婆々迦」とする。しかし、語の初めを濁る例がないので、必ず「波」の字だろう。今は、『先代旧事本紀』が、「波々」とするのに従った。このほかにも、「波」と「婆」を、互いに写し間違える所は多い。後世の、平仮名の書物では、多く「はわか」と書く。実際の口では、そう読んでもよいだろう。
『和名抄』には、「朱桜は、ははか。また、かはさくらともいう」とある。木の道具の項には、「樺は、木の皮の名で、たいまつに使える。かは。また、かにはともいう。今、桜の皮がある」と見える。『万葉集』巻六の七丁には、「桜皮を巻いて造る船」とあり、『古今集』の物名には、「かには桜」がある。『源氏物語』などの、「かば桜」もこれである。「かば」は、「かには」が縮まった形だ。
これらを合わせると、この木の、本来の名は「ははか」で、「かには」は、皮の名である。その皮を、もっぱら使うので、木の名にも、「かには桜」というようになった。『和名抄』の今の本に、「はさくら」とあるのは、「か」が抜けたことが、明らかだ。顕昭が、『古今集』の、かにば桜の注に、「朱桜と書いている」とするのは、よく合う。それを、契沖が、『和名抄』を引き、誤りだというのは、かえって間違っている。
今、この木を取るのは、皮を燃やし、あの鹿の肩骨を焼くためだ。中国の、『五雑組』という書には、「樺の皮は、燃えやすく、煙がない」とある。後世までも使ったと見え、臨時祭式には、「年間を通じ、御占いに用いる、ははかの木皮は、大和国の、封戸を持つ社へ命じ、採取して進めさせる」とある。斎宮式にも、「ははか、五枚」と見える。『奥義抄』には、大和国の笛吹社から奉るとある。この社は、忍海郡の笛吹山にある。
【宣長の注釈】「占合」の「合」は、ある本によった。古本の「令」は、誤りである。延佳の本に、この字がないのは、勝手に削ったのだろう。前にも「卜相」と書き、書紀にも、「卜合」と書く例があるためだ。この二字は、「うらへ」と読むべきだ。占いを合わせる意味であることは、前の、伝巻四の三十九葉で、詳しく述べたとおりである。
【宣長の注釈】「麻迦那波令」。書紀の雄略天皇紀には、弓を引くこと、欽明天皇紀には、弓を引き、狙って射落とすこと、崇峻天皇紀には、狙って射ることに、この語が使われる。『新撰字鏡』には、「擬は、設けること、見積もること。まかなふ」とある。字書には、推し量って待つことと注す。ここも、その意味で、占いによって、よく確かめるのである。今、俗に、すべてを取りまとめて行うことや、費用を出すことを「まかなう」というのは、意味が転じたのだ。
上代の占いは、広く、先に述べたような、鹿の肩骨を使った。亀を使うのは、中国のものを学んだ後のことである。崇神天皇紀に、神亀へ命じた、とあるのは、ただ文章に、そう書くだけで、実際には、鹿を使ったのだろう。卜部氏は、もと、壱岐国から出たので、その氏の人が、外国から、亀の占いを伝えたのだろうか。欽明天皇十四年、百済へ命じ、占いの書や、暦の書などを献じさせられたことが、書紀に見える。この頃から、中国風の占いを使われたのだろうか。
それなのに、書紀の注釈で、『亀兆伝』という書を引き、亀の占いが、神代からあった起こりを、大げさに述べる。しかし、その書は、古くから伝わった、鹿の占いを廃し、亀の占いを、広く世に使わせるために作った、偽りの言葉で、古書でないことは、明らかだ。ついに鹿をやめ、亀だけを使うようになったのは、とても悲しいことである。諸式でも、占いの材料は、亀甲だけが見え、鹿骨は、まったく見えない。その時、すでに絶えていたのだろう。ただ、亀に変わっても、ははかは、昔のとおり使ったと見える。
『万葉集』巻十四の七丁には、「武蔵野で、占いのため、肩骨を焼いて」とある。その国の豊島郡には、占方という郷があり、『和名抄』にも見える。「かたやき」は、肩骨を焼くことだ。それなら、地方では、やや後までも、鹿の占いが、残っていたのだろうか。巻十五の下十丁には、「壱岐の海人の、大きな占いを、肩焼きして」とある。
「ほつて」は、「太占」の「太」と同じである。この歌は、雪連宅満の死を悼み、壱岐島で詠んだので、そこに伝わった、中国の亀占いなのだろうか。そうなら、「かたやき」の「かた」は、肩ではなく、兆しの意味かとも思える。しかし、その時、本当に占いをした様子にも聞こえない。この島が、占いで有名なので、仮に、そう詠んだと聞こえるから、古い、鹿の肩骨を焼く占いの言葉で、いったのだろう。亀の占いになった後も、言い慣れたまま、「肩焼き」という語を、広く使ったのだろう。また、兆しを「かた」というのも、形の意味ではなく、もとは、肩から出た名かもしれない。
この段の占い合わせは、思金神が、考え、計画した、さまざまな事のよしあしを、まず占いで問い、その後、決めて行おうということだろう。上代には、万事、みな、そのようであった。
【宣長の注釈】「五百津真賢木」の「五百津」は、枝の茂ることをいい、一本の木についてである。五百株というのは、違う。布刀玉命が、取って持つというのにも、合わない。仲哀天皇紀の、「五百枝の賢木」から、分かる。「湯津榎」の「ゆつ」も同じで、その所で理由を述べる。前の「湯津石村」の所でも、述べた。下巻の、「百枝槻」や、書紀の「百枝杜樹」などと、同じ類いである。
「真賢木」は、書紀には「真坂樹」と書く。どちらも、音を借りた字だ。仙覚は、『万葉集』の注釈で、栄えた木という意味だという。師は、こういわれた。「もとは、一種類の木の名ではなく、ただ常緑の木を、神事や公事で、ほめ称え、真に栄える木といった。その中で、特に、鏡や幣を掛け、髪飾りへ挿したものは、樫である。後世、榊という木ではない」。さらに詳しくは、『冠辞考』の、まさきづらの項に見える。
『新撰字鏡』には、「杜、もり、また、さかき」、また「竜眼、さかき」、また、「榊、桃、梃の三字、さかき」とある。「榊」の字は、『日本後紀』巻十六にも見える。『和名抄』にも、「『漢語抄』は、竜眼木を、さかきとする。今、考えると、竜眼は、その実の名だ」とある。これは、後世の榊へ当てたのだろうが、はっきりしない。まして、上代のものには、合わない。
【宣長の注釈】「根こじにこじて」。書紀には、「掘る」とあり、神武天皇紀には、「抜き取る」、景行天皇紀には、「抜く」ともある。『古語拾遺』には、「古語では、さねこじの、ねこじ」という、とある。『万葉集』巻八の下六丁に、「去年の春、掘り起こして植えた、わが庭の、若い梅は、花が咲いた」とある。『拾遺集』には、「去年、根こじて植えし」と直して、入れている。
『古今六帖』には、「秋の野を、根こそぎ掘って、持ち去っても、『岩の種』までは、残すではないか」とあり、根ごと掘り取ることをいう。俗にいう、根引きにすることだ。物を「こじる」という俗語も、ここから出たのだろう。
【宣長の注釈】「上枝」「中枝」「下枝」は、誉田天皇の御歌と、長谷朝倉の朝の段の、三重の采女の歌に、「ほつえ」「なかつえ」「しづえ」とあるので、それに従い読むべきだ。下枝は、その采女の歌に、三度出て、二度は「しづえ」、一度は「しもつえ」という。今は、こちらとそちらで、多い方によった。『万葉集』などにも、「ほつえ」「しづえ」と詠む例は多い。
枝の上中下について、付ける物の尊卑を説くのは、理屈をいい過ぎる。ただ、尊卑にかかわらず、玉は上、鏡は中、幣は下へ付けるのが、具合のよい、物の形なのだ。中を尊ぶ、などという説は、特に、中国風の考えにへつらった、無理な説である。
【宣長の注釈】「取著」。『万葉集』巻三の二十三丁には、「奥山の、榊の枝に、白い木綿〔ゆう。木の皮の繊維〕を取り付けて」とあり、巻十七の下二十七丁には、「白塗りの、鈴取り付けて」などともある。
【宣長の注釈】「八尺鏡」。延佳が「尺は咫とするべきだ」というのが、よい。これは、きっと写し誤ったのだ。まず、「尺」の字を、無理にかばっていうなら、八寸を咫、十寸を尺というのが普通でも、周の尺は八寸というし、「咫尺」と並べてもいい、遠くない字だから、この記では「さか」にも「あた」にも、尺を通用させ、ここで「あた」と注したのは、「さか」と混同するためだ、ともいえる。しかし、よく考えると、そうではない。どの古書にも「あた」には咫だけを書き、尺の例はない。この記でも、白檮原の朝の段に「八咫鳥」と書くのだから、ここも必ず咫である。
注の「八尺」も、もとは「咫」一字だったのを、本文の誤りに合わせ、後人が勝手に改めたか、本文とともに誤ったのだろう。「八阿多」の八も、上を八尺とするため、後人が勝手に加えたもので、必ず削るべきだ。読みを示す注で、漢字の訓を使う例はなく、八を八と注する理由もないので、上下とも誤りだと、照らし合わせても分かる。「咫は阿多と読む」という注だったはずだ。
この名は、昔から「やたのかがみ」と読むが、このような称では、古例はすべて「の」を添えないので、「やたかがみ」と読むべきである。八咫鳥の例も考えてほしい。注に「あた」とあるのに、「あ」を省いてよいかというと、高天原の天にも「あま」と注すのに、「ま」と読むのと同じだ。一つだけいうときは、天はあま、咫はあたなので、そう注す。しかし、高天、八咫と続くと、高にも八にも、あの音があるため、自然に「たかま」「やた」となるのである。
八咫の意味は、昔からさまざまに説くが、どれも適切とは思えない。まず、一咫を八寸とし、八咫は六尺四寸、これは周囲の長さで、直径は二尺一寸余りだという説は、『釈日本紀』が論じるように、伊勢神宮で御鏡を納める、御樋代の寸法に合わない。ただ八寸と見れば、「八」という理由がない。神道では八を尊ぶ、などともいうが、理由のないことを、むやみに加えるものではなく、古代にはそんな例がない。女神の手の長さというのも、漢字の注に頼る、いつもの誤りだ。八は七、八の八でなく、いつもの「いよいよ」の意味だとして、縮めて、二八の一尺六寸としても、周囲を名にするはずがなく、やはり御樋代に合わない。
師の説では、「人の親指と中指を張った間を、あたといい、一咫は八寸だから、八あたともいう。八は咫八つという意味ではない。古書の数は、正確な場合も、おおよその場合もある。同じ咫でも、一咫のうちに八きだ、七きだあることをいう場合と、一咫ずつ、多くの数をいう場合があり、書いた人それぞれの考えによった」とある。しかし、一咫が八寸だから八あたという、というのは、分からない。それなら、八寸か咫といえばよく、どうして面倒に重ねていうのか。物の寸法について、そんな例も理屈もない。「書いた人それぞれの考え」というのも、分からない。外国の文字を借りた、漢字の使い方なら、人によって、古書ではさまざまに乱れる。しかし、寸法の呼び名は、昔からいうままを記すのだから、書物で変わるはずがない。それぞれの考え、というのは、文字のことなのか。それなら、七きだのあたを七咫、八きだのあたを八咫と書いても、読むのは、どちらも「あた」とだけいうべきだ。しかし、「やた」という古語は動かせないので、師の説は採り難い。
今、私が考えると、「八咫」は借り字で、「八頭」の意味だろう。古く、物を測るのに、あたという名があり、八も、どの数でも「いよいよ」の意味でよくいうので、八咫という語も、物に多かったのだろう。そのため、字を借りたのである。後世の考えでは紛らわしく見えても、常夜に常世の字を借りる類いで、古くから書き慣れたまま、この記も、書紀も、そう書くのだ。
根拠は、『倭姫命世記』が、この鏡について、「八咫というのは、八頭である」といい、『御鎮座伝記』と『宝基本記』も、「八咫は、古語では八頭である。八つの頭が、花の先のように、八枚の葉の形をなし、中央は円形の台座である」とすることだ。これらの書物は、多くは信じ難いが、これは、でたらめには聞こえず、古い伝説があったのだろう。ある人は、鎮座伝記などの、八葉、中台などというのは、仏書をこじつけた言葉で、採るに足りないという。確かに、それらは、こじつけが非常に多いし、八葉、中台も仏書の語である。しかし、もとから「八頭花崎の御鏡」という伝えがあり、そこへ仏書を当てはめたものだ。実際、古い鏡には、その形のものがある。
八頭を「やた」というのには、二つの考えがある。一つは、『釈日本紀』が、天徳の御記を引き、「内裏が焼亡した時、内侍所の神鏡は、焼け損じなかった。鏡の直径は八寸ほど。頭には小さな傷があったが、全く損じてはいなかった」といい、頭の字は「はた」と読むべきだ、とすることによる。この頭は、八頭の頭だろう。ただの円い鏡なら、頭とはいわず、端なら、端と書くはずだ。御記の続きには、「円い輪郭と帯なども、たいへんはっきりしていた」とある。その円い輪郭は、「中台円形」という所だろう。頭を「はた」と読む、というのも、そうだろう。魚のひれと同じ意味で、花の先のような部分を、そういうのだ。それなら、「やはた」が縮まって、「やた」となる。注に「あた」というのは、咫の字を借りるため、その本来の語を注したのである。それも、八咫と続けば「やた」だから、差し支えない。
もう一つは、頭を「あたま」の意味とする考えだ。『和名抄』には、「顖会、あたま」とあるので、あたまは、頭の一部分の名にも見えるが、今の言葉では、頭全体をいうから、古くもそういったのだろう。その理由は、白檮原宮の段の、八咫鳥も借り字で、こちらと同じく、頭が八つある鳥なのだろうからだ。この鳥は、八俣蛇に八頭八尾あったのと同じ類いで、八は、必ずしも七、八の八ではなく、いくつもあることだろう。この記の序や『姓氏録』で、大鳥というから、八咫は寸法だ、ともいえそうだが、八寸なら、とても小鳥である。咫八つなら、今度は鏡の寸法に合わない。同じ言葉で、意味が違う理由はない。
古くから、八咫の字を借りてきたため、ひとまず字面で大鳥と書いたのかもしれない。また、頭が八つなら、普通の鳥よりずっと大きいだろうから、名によらなくても、大きいといってよい。大きいだけなら、もとから普通の鳥である。鏡のように、大小さまざまな物なら、寸法で名付けるのも分かるが、鳥では、八咫という名は付けないはずだ。書紀に「頭八咫烏」と、頭を加えるのも、頭の大きさが八咫だと示すため、ともいえそうだが、全体を置いて、頭だけの大きさで名付けることは、あり得ない。古くから、八咫の字を借り、書き伝えたままにしながら、頭が八つある鳥だという伝えがあったので、その理由を示そうと、頭の字を添えたのだろう。これも、かえって八頭である、一つの証拠とするべきだ。
二つの意味の、どちらがよいか、読者が選んでほしい。この御鏡を、書紀で「真経津鏡」ともいうのは、「真太鏡」である。太は、ほめ言葉で、「ふと」と「ふつ」を通わせる例は多い。「経津」を、あれこれ、中国風の考えで説くが、みな、いつもの、とりあげるまでもない説だ。
【宣長の注釈】「白丹寸手」。書紀には「白和幣」と書き、「和幣は、にぎてという」とある。「て」は「たへ」が縮まった語で、「にぎたへ」である。「にぎ」は、和、熟などの字を読む。師の説には、「たへは、絹や布の類いを総称する名」とある。『冠辞考』の白たへの項に見え、次にもいう。絹の切れを「さいづ」というのは「さきたへ」、俗にいう古手は「ふるたへ」で、みな、たへを縮めて「づ」という例だ。幣の字を書くのは、神へ奉ることについてで、物そのものの意味ではない。
書紀に、「下の枝に、木綿を掛けた」、また、「天日鷲神へ命じ、白和幣を作らせた。これは木綿である。穀の木が現れたのを見て、植えたので、昨見神といった。これら二つの物は、一夜で茂った」とある。二つは、麻と合わせて二つだ。『古語拾遺』にも、「阿波国忌部の遠祖、天日鷲の作った木綿」とあり、神武天皇の時代をいう所に、「穀の木が生えるため、結城郡という」とある。これは、下総国の郡の名である。『豊後風土記』には、「速見郡柚富郷。この郷には栲の木が多く生え、いつも、その皮を取り、木綿を作る。そのため、柚富郷という」とある。『宝基本記』にも、「穀の木で白和幣を作り、木綿と名付ける」とある。このように、白にぎては、ゆうのことで、ゆうは、穀の木の皮で織った布であり、古くは広く使ったものだ。
これを布にすることは、漢籍にも見える。『和名抄』に「穀、かち、木の名」といい、『新撰字鏡』にも「穀は榖である。かちのき」とある。布にしたのは、たいへん古いことで、後には、ただ紙にし、布にすることは絶えたようで、『和名抄』にも穀の紙はあるが、布はない。師は、この穀の字を、そのまま「ゆう」と読まれた。それもよいだろう。しかし古書は、ゆうには木綿の字だけを使う。『和名抄』の祭祀具には、「『本草』の注は、木棉は、折ると白い糸が多いものだという。和名は、ゆう」とあり、木の部には、「杜仲。陶隠居の『本草』注は、杜仲は別名木緜、折ると白い糸の多いものだという。和名は、はひまゆみ」とある。
これによれば、古くから、ゆうへ木綿の字を使うのは、杜仲の別名を取ったのだ。しかし、穀を杜仲と誤解したので、実際に杜仲を使ったのではない。それなら、『和名抄』の祭祀具も、穀を挙げ、和名ゆうとすべきなのに、木綿を挙げるのは、古くから広く使う字を出しただけで、本当に杜仲だとするのではない。そのため、同じ陶氏の説を引いても、そこでは杜仲の字も、はひまゆみの名も挙げず、別に木の部へ出す。その時、すでに杜仲を、ゆうに使わなかったことが分かる。
また、杜仲のほかにも、木綿という木が、大小二種ある。小さい方は、近代に広まった、きわたで、大きい方も、ともに、実の中の白い綿を取り、布にする。これらも、ゆうとは、たいへん違う。字が同じだからと、混同してはならない。
ゆうは、特に白いため、白たへ、白ゆう、白にぎてともいう。古歌に多い「白たへ」も、主にこの布である。「白たへの藤」などもあるが、それは、まれな例だ。古書に多い、栲機、栲衾、栲袴、栲領巾などの栲も、先に引いた『豊後風土記』によると、同じ物だ。そのため、『万葉集』では白栲とも書き、さまざまな白い物へ、「たくぶすま」「たくづのの」などの枕詞もいう。「つの」は綱だと、師はいわれ、ある人は、栲の布という。栲の字は、楮の草書を誤ったものだと、師はいわれたが、楮と書く例がないので、どうだろう。やはり、別に作った、日本の字だろう。
【宣長の注釈】「青丹寸手」。書紀では「青和幣」と書く。『古語拾遺』に、「長白羽神へ命じ、麻を植え、青和幣を作らせた。古語では、にぎてという」とある。長白羽神は、伊勢国の麻績の祖で、今、俗に、衣服を白羽というのは、これにちなむという。
こうして、青和幣は長白羽、白和幣は天日鷲と、二神に分けるが、終わりの、神武天皇の時代を述べる所では、「天日鷲命の孫が、木綿と麻を作り、布を織った。そこで、天富命へ、日鷲命の孫を率い、肥沃な地を求めるよう命じ、阿波国へ遣わして、穀と麻を植えさせた。その子孫は今もその国におり、大嘗の年には、木綿、麻布、その他の物を献じる。郡を麻殖と呼ぶのは、これによる」とある。『延喜式』にも、阿波国麻殖郡の忌部神社は、麻殖神とも、天日鷲神ともいうとあるので、青和幣も、日鷲命が取りしきって作ったと分かる。次に「津昨見神」というように、麻も、長白羽神を使い、同じく天日鷲命が、取りしきって作らせたのだろう。その証拠は、さらに次にもいう。麻を「を」というのは、緒の意味で、糸を呼ぶ名だから、もとは麻に限らない。麻殖郡の名も、麻だけでなく、穀を植えたことにも及ぶ。文字にこだわってはならない。
麻は、ゆうに比べ、やや青いため、青和幣という。書紀で、「下の枝に、木綿を掛けた」といい、神代下巻で、天日鷲神を「木綿を作る者」とするのは、この記などを照らし合わせると、白和幣だけでなく、青和幣も、必ず備えるはずだから、穀と麻の二種を合わせ、木綿と呼ぶと見える。これも、二種とも、天日鷲神が作った証拠になる。また、式などで、材料を挙げる所には、木綿と麻の両方を出すのに、使う所には、木綿だけをいい、麻がないことが多いのも、二種を合わせて、木綿と呼ぶためなのだ。榊に木綿を付ける、という類いは、みな、二種を合わせた名である。
白和幣、青和幣は、ともに、織った布をいい、『万葉集』の「木綿畳、手向け」などは、必ず、織った布と聞こえる。また、まだ織らず、糸にしたままのものも、使ったと見える。そのため古書は、木綿を「作る」といい、作と書いて「はぐ」、剝ぐと読み、織るとはいわない。布なら、倭文織などのように、織るというはずだ。式などで、布何端、木綿何斤、麻何斤と、布のほかへ挙げ、端でなく斤とするのも、糸のまま使う証拠だ。木綿のたすき、木綿の髪飾りなども、糸のままだろう。今、榊から垂らすのも、これである。
麻も、普通は織る前のものをいうようだが、その布も、麻衣などという。同じように、木綿も、両方にいう。総称の「たへ」も、織ったもの、まだ織らないもの、どちらにもいうのだろうか。神へ手向ける「ぬさ」も、幣、幣帛などと書き、絹布にも、まだ織らない木綿や麻にもいう。「麻」と書くのは、さまざまな中の一つに基づく。後世、紙を使うのは、ゆうの代わりだ。
【宣長の注釈】「取垂」。皇極天皇紀に、「枝葉を折り取り、木綿を掛けた」とある。『万葉集』巻六に、「清めた戸口に、木綿を垂らして、身を慎みながら」、巻九にも、「清めた戸口に、木綿を垂らして」とある。延喜六年の、日本紀竟宴で、太玉命を題にした、物部安興の歌には、「天照る神を、お祈りするのだと、枝の先々に、幣を垂らした」とある。
垂を「しで」と読むのは、「しだれ」の縮まった言葉である。「だれ」が縮まると「で」になる。孝徳天皇紀に、「垂は、しだるという」とあり、『万葉集』巻十の垂柳、巻十一の四垂尾などからも分かる。「しだる」は、繁く垂れる意味だ。『万葉集』に、「竹の玉を、繁く貫き垂らして」などがある。
「たり」「たる」は、自然に垂れることをいい、「たれ」「たるる」は、物をそうすることをいう。後の二つは、垂れさせるという意味で、動詞には、すべてこの違いがある。「しだり」と「しだれ」も、この違いで、分けなければならない。先の柳や尾などは、自分で垂れる物だから、「しだり」という。ここは、物を垂らしたのだから、「しだれ」が縮まって、「しで」となる。後世、「四手」という物は、この動作の言葉を、物の名前にしたのだ。
採物歌に、「榊の葉に、木綿を垂らして、いったい、どの時代から、神の居所として、祭り始めたのだろう」とある。第二句は、『拾遺集』では「ゆうしで掛けて」とする。『拾遺集』には、「石上、布留の、若者の太刀が欲しい。組んだ緒を垂らして、宮路を通おう」とある。
【宣長の注釈】「これら、さまざまな物」。景行天皇紀に、「神夏磯媛という女がいた。天皇の使者が多く来ると聞くと、磯津山の榊を抜き、上の枝に八握の剣、中の枝に八咫鏡、下の枝に八尺瓊を掛け、白い旗も、船の舳先に立て、迎えに来た」とある。仲哀天皇紀には、「岡県主の祖、熊鰐は、天皇が来られると聞き、前もって九尋の船を用意し、枝の茂る榊を抜き取って、舳先に立てた。上の枝に白銅の鏡、中の枝に十握の剣、下の枝に八尺瓊を掛け、迎えた」とある。
また、「筑紫の伊覩県主の祖、五十迹手は、天皇の行幸を聞き、枝の茂る榊を抜き取り、船の舳先と艫に立て、上の枝に八尺瓊、中の枝に白銅の鏡、下の枝に十握の剣を掛け、穴門の引島で迎え、献じた。そして、こう申し上げた。『私が、あえて、これらを献じるのは、天皇が、八尺瓊の曲がるように、巧みに世を治め、白銅の鏡のように、山川、海原を明らかに見通し、この十握の剣を取って、天下を平らげられるように、というためです』」ともある。
これらは、この段の故事に基づく、古代の礼儀である。和幣を省き、剣があるのは、朝廷の三種の神器に、倣うのだろう。三種のうち二種は、この段の物なのだ。しかし、五十迹手の奏上した言葉は、三種の宝の、本来の意味でもない。その理由は、後でいう。まして、この段の物を、あのような意味だと、取り違えてはならない。
和幣も、印綬の意味だなどという説は、たいへんな、こじつけである。神功皇后紀に、「皇后は武内宿禰を召し、剣と鏡を捧げ、神祇へ祈らせた」とある類いも、鏡は、この段の故事に基づき、奉るのだろう。剣を神へ奉ることは、垂仁天皇二十七年の紀に、始まりが見え、三種の神器とも、別の意味だ。
後の時代まで、人へ物を贈るとき、多く、木草の枝へ付けたのも、この段で、榊の枝へ付けた故事から、起こったのだろう。
【宣長の注釈】「布刀御幣」。『和名抄』には、「幣、みてぐら」、『日本霊異記』にも、「幣帛、みてぐら」とある。「ふと」は、ほめ言葉で、うずの幣、大幣、いつ幣、やす幣の、たる幣などともいう。「みてぐら」は、どんな物でも、神へ献じる物の総称だ。さまざまな祝詞を見れば分かる。
名の意味を考えると、まず、古く、神へ献じる物や、人へ贈る物を、広く「くら」といったと見える。後世、人へ物を与えることを「くる」というのも、ここから出たのだろう。次の段に、「千位置戸」とある位が、これである。位は借り字で、伝九巻の初めに詳しくいう。『貞観儀式』の大嘗祭の項の、「献物、輿十台分〔倉代十輿〕」や、『続日本後紀』巻一の、「国造出雲豊持らは、神寿を奏し、白馬一匹、生きた雉一羽、高机四脚、倉代の物五十荷を献じた」などの倉も、これである。倉も借り字で、代は実体、つまり、その物をいう。
この国造が神吉事を奏するとき、白馬と白鳥とともに、剣と鏡も献じた例は、神亀三年の紀に、五種の神宝と、さまざまな物を献じた例は、天長七年の紀にある。その神賀詞にも、白馬、白鳥のほか、玉、横刀、鏡などを献じるとあるので、倉代の物は、これら、さまざまな物を、すべていうのだ。
「みて」は、御手である。ここで「取って持って」とあるように、手に取って持ち、献じる意味でいう。また、「て」は、「たむけ」が縮まったものとして、「御手向けくら」の意味でもあるだろう。太玉命の名の意味と、考え合わせるとよい。どちらでも、「み」は、下の「くら」に掛かり、「手」や「手向け」に付く言葉ではない。また、後に、天皇が御自ら、神へ献じる物を、御手くらといい慣れたので、その名を、始めの時代へさかのぼらせ、この段もそういうのかもしれない。御手向けという場合も、同じである。
「て」の意味は、この二つの、どちらだろうか。まだ、決めていない。師の説は、「みつくら」、座を満たす意味として、万物を、置く場所いっぱいに、奉ることだという。しかし、それでは、榊の枝へ付けたことに合わず、ここに御の字を加えることにも合わない。『蜻蛉日記』の「みてぐら二夾」は、絹布などを串へ挟み、奉ることだ。『大神宮年中行事』には、寮幣は、長さ七寸で、紙二枚を使うとある。
【宣長の注釈】「登取持而」の「と」は、添えた言葉である。御幣を取って持つことは、この時の例に従い、後の代々まで、忌部氏の仕事となった。次に引く書物にも、広く見える。
神代下巻には、「太玉命に、弱い肩へ、太いたすきを掛けさせ、御手に代わり、この神を祭らせたのは、この時に始まる」とある。この神は、大物主神である。「御手に代わる」は、御孫命に代わり、御幣を取り持つことだ。「御手」という所に、注意してほしい。ただ、代わりに祭る、というだけでは、正確でない。
祈年、月次、大嘗などの祭りの、祝詞の「辞別」という部分にも、「忌部が、弱い肩へ、太いたすきを取り掛け、捧げ持ち、仕え奉る幣帛を、神主、祝部らが受け取り、粗相なく、捧げ持ち奉れ、と宣る」とある。さまざまな御幣を、作って用意するのも、この氏の仕事である。
書紀に、「忌部の遠祖、太玉が、幣を作る」とあり、『古語拾遺』には、「太玉神へ、諸部の神を率い、和幣を作らせよ」とある。これは和幣と書くが、さまざまな物をいい、にぎてに限らない。また、「天富命へ、日鷲命の孫を率い、穀と麻を植えさせた」「天富命は、さらに阿波の斎部を分け、率いて東国へ行き、麻と穀を植えた」とある。天富命は、布刀玉命の孫だ。また、「天富命へ、作る役をする、諸氏を率い、大幣を作らせた」ともある。『四時祭式』の祈年祭には、「祭りの十五日前に、忌部八人、木工一人を充て、神に供える調度を作らせる」とある。
【宣長の注釈】「布刀詔戸言」。『万葉集』巻十七の二丁に、「中臣よ、立派な祝詞を述べ、祓い清めよ」とある。書紀に、「天児屋命へ、その祓い清めの、太諄辞を受け持たせた。太諄辞は、ふとのりとという」とあり、大祓の詞には、「大中臣よ、天の立派な祝詞を、穏やかに述べよ」とある。これらは、祓いで述べることをいう。月次祭の祝詞に、「天照大神の御前へ、申し上げる、天津祝詞の太祝詞を」とあり、鎮火祭祝詞に、「山のように、十分、高く積み、天津祝詞の、大祝詞言で、ほめ称え、奉ります、と申す」などとあるのが、ここでの祝詞の内容に近い。
名の意味は、「宣り、説く言葉」だろう。「のる」は、必ずしも、高貴な人の命令だけでなく、人へ、言い聞かせることをいう。大祓の詞で、大中臣へ「宣れ」というようなものだ。ほかにも例は、とても多い。「とく」は、書紀が太諄辞と書く、「諄」の意味である。『説文』は、繰り返し、よく告げ、悟らせることだという。「くどく」という言葉も、この「のりときごと」の意味に近い。俊頼の歌に、「始まりも知れぬ、積もった罪の悲しさを、額ずきながら、声を重ね、くどくどと訴えたことだ」とある。
師の説では、「高御産巣日命が、お告げになった言葉を承け、今、児屋命が宣り申すので、詔り賜べ言である。たべを縮めると、てとなり、それが、とへ転じた」という。しかし、この説はどうだろう。この段のことは、先にいったように、その神の命令によらない。仮に命令だとしても、それなら、「高木神の命により、祈り申し上げた」とあるはずで、ほかの時の例も、みなそうだ。はっきり、その神の命令を承け、宣る所でも、それを詔戸言という例はない。
普通に「のりと」というのは、「こと」を省くのだ。祝詞の字を書くのは、本来の意味でなく、末のことだと、師はいわれたが、それは、「詔り賜べ」と理解されたからである。書紀でも、この行いを「神の祝の言葉で、祝した」と書くのだから、祝詞の字が、本来の意味に合わないとは、思えない。「のりと」を「のつと」「のと」などというのは、なまりである。
『延喜式』には、左京二条の太詔戸命神社、大和国添上郡の太詔詞神社、対馬上県郡の能理刀神社、下県郡の太祝詞神社がある。
【宣長の注釈】「禱白而」は、この巻の末や、中巻などにも見える。「ねぎまをして」と読むべきだ。「禱」の字は、「ほき」とも「のみ」とも読む。古書で調べると、「ほく」は祝って、よいことをいう方、「のむ」は願い、祈る方にいう。「ねぐ」は、この二つを兼ねる言葉である。
ここで申し上げた祝詞は、どんなことか。書紀に、「中臣の遠祖、天児屋命は、神を祝う言葉で、祝した」、また、「広く厚い、ほめ言葉で、祈り申し上げた」とある。この記の、ほかの「禱白」の例や、諸祭の祝詞の、「ほめ称え、奉る」などを合わせると、布刀玉命が取り持つ、さまざまな御幣を、ほめ称える言葉だったのだろう。諸祭の祝詞を見ると、幣帛を、品々、挙げ、「天津祝詞の太祝詞言で、ほめ称え、奉る」とある。幣帛を賛美するということだ。式に載る祝詞は、やや後に作った文章でも、内容は、上代から伝わる祝詞の形に、従っている。
そのため、神祝、称辞などという。そうして、ほめ称えるのも、大神が、お出ましになることを願ってするので、禱、祈啓といい、書紀には、祈りを尽くした、ともある。ここでの禱は、ほめ称える意味と、願い、祈る意味の両方があるから、「ねぎ」と読むのだ。後の、「天の御饗を献じる時、祈り申し上げて」も、全く同じ内容なので、照らし合わせてほしい。「ねぎ」は、中巻、日代宮の段にもあり、伝二十七、四葉で詳しくいう。神に仕える人を、禰宜といい、「ねぎごと」などというのも、これだ。「ねがふ」も、もとは「ねぐ」を延ばした言葉である。
この時、申し上げた言葉は、祝詞の始まりで、たいへん古く、美しい文章だっただろうに、ここへ載らず、世に伝わらないのは、重ね重ね、残念だ。代々の学者は、この段を説くのに、神々の心が、誠実だったことだけをいい、言葉は、すっかり、なおざりにする。古い言葉を、尋ねるべきものとも思わないのは、たいへん、道の意味に背いている。
書紀で、この広く厚い、ほめ言葉を、お聞きになった大神が、「この頃、人々は、多く請い求めるが、この言葉の美しさに、及ぶものは、なかった」といい、岩戸を、少し開かれたとあるのを、見てほしい。ひたすら、言葉に、感動されたのではないか。「言霊が幸いをもたらす国」「言霊が助ける国」という古語も、思い合わされ、とても尊い。
ところで、『古語拾遺』に、「太玉命が、捧げ持ち、ほめ称え、また、天児屋命を添え、祈らせた」といい、神武の御代の段に、「鳥見山に、神聖な祭場を設け、天富命が、幣を並べ、祝詞を述べ、天の神を祭った」とあるのは、納得できない所がある。ほめ称えるのを太玉命のこととし、祝詞を、天富命のこととするのは、斎部氏の無理な説だ。幣帛を執るのは忌部、祝詞を申すのは中臣と、神代から後まで、決まっているのに。この段にも見えるように、中臣と忌部は、もともと並ぶ氏なのに、後の時代から、中臣は、たいへん栄え、忌部は、ひどく衰えた。それを憂えるのが、あの書の主旨なので、ことあるごとに、中臣の神を下げ、忌部の神を、実際以上に、ほめることが多いのだ。
神功皇后紀には、「皇后は吉日を選び、斎宮へ入り、自ら神主となった。武内宿禰へ、琴を弾くよう命じ、中臣烏賊津使主を呼び、神の言葉を取り次ぐ者とした。琴の両端へ、たくさんの供物を置き、願い申し上げた」とある。これも、この儀式をまねたものだ。持統天皇紀の四年正月一日には、「物部麻呂朝臣が、大盾を立て、神祇伯、中臣大嶋朝臣が、天神寿詞を読み終えると、忌部宿禰色夫知が、神璽の剣と鏡を、皇后へ奉った。皇后は、天皇の位に即かれた」とある。これが、古代の即位の儀式である。剣と鏡を奉るのは、幣帛を取り持つのと、同じ意味だ。この御鏡が、この段で太玉命の取り持った物だという由緒により、忌部が奉るのである。
『神祇令』に、「践祚の日、中臣は、天神の寿詞を奏し、忌部は、神璽の鏡と剣を奉る」とあるのが、これだ。義解は、神代の故事で、万年の寿命を祝う、尊い言葉にする、と注す。また、持統天皇紀の五年十一月戊辰には、「大嘗で、神祇伯、中臣朝臣大嶋が、天神寿詞を読んだ」とある。践祚大嘗祭式には、「神祇官の中臣は、榊を執り、笏を添え、南門から入り、定められた位置へ行き、ひざまずき、天神の寿詞を奏する。忌部は入り、神璽の鏡、剣を奉り、退出する」とある。『江次第』にも見え、近代には、この事はなく、長元に、忌部為賀が奉仕した、とある。式の「入奉」の奉を、今の本は、奏と誤るので、『江次第』で直した。中臣の寿詞というものは、藤原頼長公の『台記』大嘗会別記に載る。
『神祇令』には、「諸祭では、神祇官の中臣が祝詞を宣り、忌部が幣帛を分ける」とある。義解では、中臣、忌部は、その官司や、諸官司の中から、選んで使うとし、その官司は、神祇官である。『貞観儀式』の祈年祭には、「中臣は進み、庭の席へ着いて、祝詞を読み、退出する。忌部二人は進み、机の両側に立ち、幣を分けることを監督する」とある。
祝詞式では、月次祭の祝詞に、「横山のように、十分に積み、大中臣が、太玉串で、ほめ称え、奉って、申し上げることを」とある。四時祭式も同じだ。神嘗祭には、「九月の神嘗の大幣帛を、某官某位某王と、中臣の某官某位某姓姓名を使いとし、忌部が、弱い肩へ太いたすきを掛け、斎みながら捧げ持ち、奉る御命を、申します、と申す」とある。また、「横山のように、十分に積み、大中臣は、太玉串のもとへ身を隠し、天津祝詞の太祝詞の言葉を、穏やかに申し上げる」などともある。
祝詞式には、「祭祀の祝詞では、御殿、御門などの祭りは、斎部氏が祝詞を述べ、それ以外の諸祭は、中臣氏が述べる」とある。師の説では、大殿を守る大宮売命と、御門を守る豊磐間戸命、櫛磐間戸命の三柱は、太玉命の子なので、この二祭では、斎部氏が祝詞を述べる、という。『古語拾遺』の神武の段には、「天富命は、諸斎部を率い、天璽の鏡、剣を捧げ持ち、正殿へ安置し、瓊玉を掛け、幣物を並べ、殿祭の祝詞を述べる。その祝詞の文章は、別巻にある。次に、宮門を祭る。その祝詞も別巻にある」とある。
【宣長の注釈】「天手力男神」。名の意味は、次でいう。『万葉集』巻三の三丁には、「岩戸を破るほどの、手の力が欲しい」、巻十七の三丁には、「春の花を折り、かざす、手の力が欲しい」とある。この神のことは、後の、伝十五にも出る。
【宣長の注釈】「隠立」は、「かくりたちて」と読むのが、古い言い方である。推古天皇紀の歌に、「かくります」、お隠れになる、とあり、沼河比売の歌には、「ひがかくらば」、日が隠れたなら、とある。その所でも述べる。
【宣長の注釈】「天宇受売命」。名の意味は、『古語拾遺』に、「天鈿女命、古語では、あめのおすめ。強く、荒々しく、たくましい神なので、こう名付けた。今、俗に、強い女を、おすしというのは、これによる」とある。この注から考えると、その書の伝えには、淤受売とあったのを、鈿女と書く文字は、書紀によったのである。延喜七年に提出した、大神宮禰宜譜図帳でも、この段をいうのに、天のおすめとする。
今の言葉にも、「おそい」「おずい」がある。『源氏物語』の帚木には、「いつものように、腹を立て、恨み、こんなにも恐ろしく、強気なら、いくら深い契りがあっても、縁を切り、二度と会うまい」とあり、『河海抄』は、文選に「形遠」とあると注す。夕霧には、「人聞きも、不愉快で、恐ろしく思われそうな、行いを」、東屋には、「遠慮せず、きっぱりと、強い人で」、浮舟では、浮舟の君が、川へ身を投げようと考えたことについて、「少し、恐ろしいことを、考えたのだろう」などとある。みな、女についていい、先のような、強い、恐ろしい意味である。俗な言葉の「えずい」も、これから転じたのだろう。
この神の強さは、すぐ次と、猿田毘古神の段にも見える。書紀の一書に、「素戔鳴尊が、天の日神へ、強く迫った」とある、あの「おす」も見える。『和名抄』に、「護田鳥、おすめどり。いつも沢にいて、人を見ると、すぐ鳴き、守り手に似るため、この名がある」とするのは、この神の名から出た名前だろう。
【宣長の注釈】「日影」。書紀には蘿と書き、「ひかげという」とある。『古語拾遺』は、蘿葛とする。青く、帯のような物や、地面を、はって延びる物だという説は、違う。
『和名抄』の祭祀具に、「蘿蔓、ひかげかづら」とあり、苔の類いに、「蘿は、女蘿である。松蘿は、別名女蘿、まつのさがりごけ、俗に、ひかげかづらという」とある。『纂疏』にも、松の上から垂れる物を、ひかげというとある。『古今集』の物の名の歌には、さがりごけとある。女蘿は、松の枝へ生え、たいへん長く、糸のようになる物で、さるをがせ、さるをかせともいう。この物は、奥山でなければ生えず、乾いても、青いまま、枯れない、と漢籍にもあるので、さがりごけという名も、松の上から、垂れ下がるということだろう。『堀川百首』の顕仲朝臣の歌に、「露が掛からなくても、枯れる世はない」とあるのも、このためだろう。
『万葉集』巻十九の、新嘗会の宴の歌に、「山の下の日影を、髪へ飾った、その上に、さらに、梅の花まで、愛でようか」とある。巻十四に、「山かづらにする、かげ。そうそう得られない、その、かげを」とある、この「かげ」も蘿である。巻二の、「山かづら、その、かげを目にしながら」も、山蘰を枕詞とし、かげを蘿の意味へ続けたことが、巻十四の歌から分かる。今の本は、山を玉と誤る。巻十三の「雲のように群がる、山蔭〔やまかげ〕」も、髪飾りから垂れる蘿で、この山も、玉と誤る。ほかにも、山を玉と誤る例は、なお多い。
【宣長の注釈】「手次繫」は、「たすきにかけ」と読むべきだ。書紀は手繦と書き、たすきという、と注す。繦は、たすきに当たらない。古代のたすきも、今、身分の低い人が掛けるのと、全く同じ物で、允恭天皇紀の、盟神探湯の所にも、「人々は、それぞれ、ゆうのたすきを着け、釜へ進み、湯を探った」とある。しかし、繦は、子を背負う帯とあり、たすきの意味はない。『新撰字鏡』に、「繦は、子を背負う帯、すき」、また、「襁は、子を背負う帯、すき」とある。子を背負う帯を、すきというのをもとに、袖を引き上げる帯も、手から掛ける物なので、手すきといったのだろう。それで書紀は、手を加え、たすきに、この字を使ったのだろう。
『和名抄』に、「本朝の式は、襷、襌、それぞれ一条という。襷は、たすき、襌は、ちはや。今、考えるに、詳しく分からない」とある。襷は、袖を上げるという、日本で作った字だろう。『万葉集』では、この記と同じく、手次とだけ書く。次を書くのは、古語で、次を「すき」ともいうためだ。天武天皇紀に、「次は、すきという」とあり、後の物語にも、「すぎすぎ」などが、多く見える。
ここで、たすきに蘿を使ったことは、書紀も、『古語拾遺』も同じだ。後の世まで、神事は、すっかり、この段の故事により、万事、行うのに、その後、日蔭のたすきは、全く見えず、ただ、ゆうを使う。ゆうのたすきは、允恭天皇紀に初めて見え、その後は普通である。『口決』の、ゆうのたすきの説は、誤りだ。日蔭は、使いにくいためなのか。それとも、日蔭で作る物も、古くは、ゆうのたすきと、呼んだのか。疑わしい。先に述べたように、穀と麻の両方を、木綿と呼ぶ例もあるから、ゆうは、もと、神事に使う物の、総称でもあったのだろうか。
【宣長の注釈】「真拆」。これだけに、「天の香山の」といわないのは、ただ文章を省いたので、これも、その山の物なのは、明らかだ。『古語拾遺』には、真辟葛と書く。書紀に、「真坂樹を、髪飾りにした」とあるのは、もとから、そんな伝えなのだろうが、榊を髪から垂らすのは、どうだろう。名が似るため、混同したのだろう。かづらは、長く垂れる物をいい、髪へ挿す飾りや、うずとは、少し違う。この榊をかばい、あれこれ説くが、みな、無理な説である。
継体天皇紀の歌に、「まさきづら」とある。この物は、師の『冠辞考』に詳しい。『古今集』の採物歌に、「奥山には、霰が降るらしい。外山の、まさきの葛が、色付いた」とある。
この段では、髪飾りには真拆を使い、日影をたすきとするが、後には、『万葉集』や『延喜式』、ほかの書物も、もっぱら、日蔭の髪飾りだけで、真拆の髪飾りは、見えないのが、疑わしい。歌などの「まさきのかづら」は、草だからいうので、頭から垂れる髪飾りをいうのではない。
今、考えると、『造酒式』の、大嘗祭で、神へ供える物に、「真前葛、日蔭、山孫組、各三担」とある。山孫組も、名の様子からすると、松蘿の類いで、髪飾りにした物だろう。さるをがせは、日蔭と別で、これをいい、そのため『和名抄』も、別に挙げる、という説は、誤りだ。さるをがせは日蔭で、山孫組は、別の一種だ。『和名抄』が、蘿をひかげ、松蘿をさるをがせと、別に挙げるのは、松蘿は、世間の呼び名、蘿は、私記に従った読みなので、別の物と理解したのだ。しかし、蘿は女蘿、松蘿の別名も女蘿とするので、同じ物なのは、明らかである。
大嘗祭には、日蔭の髪飾りだけが見え、ほかの二種の髪飾りはなく、『和名抄』の祭祀具でも、蘿鬘だけなのは、この三種とも、髪飾りにすれば、すべて日蔭鬘と呼んだのだろう。それなら、真拆も、髪飾りに使わなかったのではない。伊勢外宮の儀式帳にも、真佐支の髪飾りをすることが、二か所ある。『古今集』の採物歌には、「巻向の、穴師の山の、山人かと、人も見るほど、山かづらをしなさい」とある。『奥義抄』は、神楽をするには、まさきの葛で頭を結び、それを山かづらという、と注す。
『江次第』の鎮魂祭には、「髪飾りの木綿、結んだ物を用意し、丞が上卿へ献じ、上卿は取って、冠の頭へ結ぶ。史生は、諸官司へ分ける」とある。『奥義抄』は真前なのに、こちらは木綿なのは、真前も、ゆうも使うのか。それとも、真前を使っても、いつものように、木綿と呼ぶのか。
師の説は、「この記も書紀も、もとは真拆をたすきにし、日影を髪飾りにした、とあったのを、後に誤って、日影をたすき、真拆を髪飾りと書いた。真拆は長く、強いので、たすきにできるが、日影は弱いから、たすきには、耐えない」という。確かに、そのとおりだ。ただ、真拆のたすきは、古書に全く見えないので、なお疑わしい。これも、真拆のたすきを、ゆうのたすきと呼んだのかもしれない。日影を髪飾りとしたことは、広く古書に見え、疑いがない。
近代、白糸や青糸を組み、冠の左右へ垂らすのを、日蔭の髪飾りというのは、そうした物の代わりなのである。この名の意味は、天皇の大殿を、天の御蔭、日の御蔭に、隠れ住まわれると申し上げるのと同じだ。それは、天を覆い隔て、日光を遮る陰という意味である。頭から、この飾りを垂らすのも、もとは、日光のまぶしさを遮るためなので、日蔭という。理由は、後でも述べる。師の説に、蘿は、茂った木の中の古木の、日も風も当たらない枝へ生えるため、山下日影という、とあるのは、どうだろう。もとは、真前でも、松蘿でも、髪飾りにした時の名が、後には、松蘿一種の名にも、なったのである。総称が、そのうち一種の名にもなる例は、多い。
【宣長の注釈】「小竹葉」は、ささばと読むべきだ。下巻、軽太子の御歌にあり、『万葉集』巻十四にも、ささばと詠み、今もそういう。『万葉集』で、「ささなみ」を神楽声浪と書くのは、この故事にちなみ、神楽で笹の葉を使い、振ると、ささ、ささと鳴るので、人々も声を合わせ、ささ、ささといったためだろう。「ささなみ」の二つ目の、さを濁るのは、誤りだ。神楽声浪を略し、神楽浪、楽浪とも書き、『和名抄』には、但馬国気多郡の郷名に、楽前と書き、ささのくまと読む例もある。猿楽の謡に、「さつさつの声を、楽しむ」というのも、松風の、さつさつという音から、ここへ掛けていう。
竹の葉を、ささと呼ぶのも、この音から出たのだろう。細く、小さい意味で名付けたのではない。小竹の小は、幹が小さいことをいい、別である。神楽歌の古い本の、殖槻、総角、大宮、淡田などに、歌い手の本方が「あい、ささささ」、末方も「あい、ささささ」と歌う箇所がある。これは、ささ、ささと唱えたのか、ほかの調子の、ささを、こう書くのか。いずれも、笹の葉の音に、声を合わせた所から出たのだろう。
『古語拾遺』には、「竹の葉と、飫憩の木の葉を、手草とした。今は、たくさという」とあり、飫憩は、その葉を振る音調だ、と注す。この、飫憩は、とても疑わしい。まず、神楽歌の古い本に、於介と唱える例は、所々あるので、この言葉は、古くから伝わるのだろう。しかし、木の名とするのは、分からない。そんな木は、古くも、今も聞かない。榊、檜などという説も、みな、当て推量で、証拠がない。木の葉を振る音が、おけと鳴る理由もない。それを木の名としたのは、笹の葉の音の、ささから、混同した誤りだろう。同じ所の、「あはれ」「おもしろ」「たのし」などの説明も、古語の意味ではなく、少し後の人の、こじつけを、見分けずに記したものだ。思うに、於介は、次に出る、うけのことを、神楽で、そう唱えたのを、木の名と誤ったのだろう。「さやけ」を、竹の葉の声だというのは、さやさやと鳴る声から出た語なので、それもよいだろう。
【宣長の注釈】「手草結」は、たくさに、ゆひて、と読むべきだ。『古語拾遺』は、手草は今、たくさという、とするが、「今」の字は、納得できない。「結」は、数本の枝を合わせ、根元を束ね、結ぶことだ。持つとはいわなくても、手草という名で、持っていたと、自然に分かる。このような所が、古文である。心を留めてほしい。採物歌に、「水垣の、神の御代から、笹の葉を、『たぶさ』として手に持ち、神楽を舞っていたらしい」とある。「たぶさ」は、たくさを、いい誤ったのだろう。
【宣長の注釈】「天の石屋戸に」。先の、さまざまなことも、みな、石屋戸でするのに、ここで初めて、場所をいうのは、先のことは、神々の身に付ける装いで、この、うけは、その場所へ据える物だから、ここで、場所をいう流れになるためだ。ここでいったことが、自然に、前へも、後へも及ぶと、理解できるのも、古文である。後世の文章なら、まず、初めに場所を置くはずなのに。
【宣長の注釈】「伏汙気而」は、うけふせて、と読むべきだ。書紀は、覆槽置と書き、「覆槽は、うけという」と注す。この書き方は、置の字が、伏せる動作へ当たり、覆の字は、うけの形をいう。取り違えないでほしい。『類聚国史』では、「うけふせという」とある。
これは、上に立って踊るとき、踏んで音を響かせるため、中を空洞にした台である。「踏みとどろこし」で分かる。形が、箱〔笥〕に似るので、名の意味は、「空の筒」だ。ある人は、今、東国では、容器へ水を張り、上へ、麻を入れる笥を伏せ、たたくと、鼓のように鳴り、これを、うけという、という。それなら、浮く意味ともいえそうだが、ここの物は、上へ立ち、舞うので、水へ浮かべるはずがない。東国の物は、音がこちらへ似るため、同じく、うけというのだろう。
書紀の、覆槽という字により、馬の飼い葉おけを伏せた、と注すのは、誤りだ。馬のおけでも、酒のおけでも、借りて伏せ、使ったのではなく、もともと別に作った、一つの器である。ただ、正確に当てる漢字がないので、形から、覆槽と書いた。後の書で、うけぶねというのも、槽に似るため、そう呼ぶのだ。『古語拾遺』が、覆誓槽と書き、古語で、うけぶねとするのは、後に付けた名を、古語と思ったのである。誓の字を加え、誓いを交わす意味だというのも、たいへんな誤りだ。『日本書紀纂疏』の本の、于該布禰も、布禰は、拾遺によって、勝手に加えた、誤りに見える。
この器は、後世の鎮魂祭の儀式にも残る。鎮魂で、この段の儀式を使うのは、日神が、おこもりになるのを、招き出した、その気持ちで、遊び散る魂を招き、鎮めるのだろう。『貞観儀式』に、「大蔵録は、安芸のゆう二枚を、箱へ入れ、神祇伯の前へ置く。御巫は、うけぶねを伏せ、上に立ち、矛で槽を突く。一度ごとに、神祇伯が、ゆうを結ぶ。御巫が舞い終え、次に、諸御巫と、猿女が舞う」とある。『江次第』は、「次に、御巫が、うけを突く」とし、これは神遊びの儀式で、榊で槽を突き、糸を、一から十まで結ぶと注す。『四時祭式』の、その祭りの道具には、うけぶね一隻とある。
【宣長の注釈】「登杼呂許志」は、動かし、響かせることだ。「かし」という所を、「こし」というのは、知ろしめす、聞こしめすと同じ、古い言い方である。『万葉集』巻六の六丁に、「山も、とどろくように」、下二丁に、「宮も、とどろくように」、巻十一の十六丁に、「岩も、とどろくように、落ちる水」、巻十四の二十丁に、「馬の音が、とどろくと」、また、「滝も、とどろくほどに」とある。『古今集』には、「天の原を、踏みとどろかせ、鳴る雷も」、『源氏物語』夕顔には、「ごろごろと鳴る雷よりも、恐ろしく、踏みとどろかす、唐臼の音も」などがある。書紀には、鼓と書く例もある。述驚岡などは、音を借りた字だ。ここは、うけを踏み、音を響かせることをいう。後世、神事で太鼓を打つのは、この音を、まねたのだろうか。
【宣長の注釈】「神懸りして」。書紀には、「神霊の、のりうつった言葉を、現した。これは、かむがかりという」とある。崇神天皇紀の、「神が、倭迹迹日百襲姫命へ、のりうつって、語った」、顕宗天皇紀の、「月神が、人へのりうつり、語った」、天武天皇紀の、「高市県主許梅は、突然、口が閉じ、話せなくなった。三日後、初めて、神がのりうつり、語った。語り終えると、正気へ戻った」などもある。この記の、詞志比宮の段の、「皇后は、神がかり、教え、告げられた」も同じで、すべて、俗にいう託宣である。
ただし、それらは、本当に、それぞれの神が、なすべきことを、お告げになるのに対し、この段の神懸りは、物が付き、正気を失った様子で、何ともいえない、冗談や、おどけた言葉をいい、滑稽な演技をすることだ。正気なら、その人のいえないことを、はばからず、いうのを、神懸りという。今、俗に、物が付いたように、口走るという様子である。次の文と合わせ、その意味を理解してほしい。
『古語拾遺』に、この語がなく、「巧みに、おどけた演技をし、ともに、歌い、舞った」とだけあるのは、神懸りも、その演技の中だからだ。書紀は、「巧みに、おどけた演技をし、また、神霊の、のりうつった言葉を現す」と書き、演技とは別にする。しかし、茅を巻いた矛先を、手に持つことと、榊を髪飾り、蘿をたすきとすることが、一続きに聞こえるので、実際は、別のことではない。別のことのように見えるのは、書き方が悪いのだ。拾遺は、これを理解して、書いたのである。学ぶ人は、よく味わってほしい。
ほかの注釈は、みな、この段の意味に合わない。『口決』は、ほめ言葉を申し上げること、『纂疏』は、日神の至徳を、ほめ称えること、とする。また、日神が、お出ましになるよう、祈る言葉とか、八百万の神の霊が、すべてのりうつる、とかいうが、みな誤りだ。そんな意味なら、児屋命の祝詞でこそ、いうはずだ。八百万の神は、現に、その庭へ集まっているのに、どうして、別の者へ、のりうつることがあるのか。
ただ、『私記』の、「ここの神霊の言葉は、ほかと、少し違う。神々は、日神へ、たいへん珍しい物を、見せたいので、さまざまに、おどけた演技をした。それなら、仮に演じた言葉で、必ずしも、本当に神の託宣があるのではない」というのが、よい。ただ、気軽に見ればよいことまで、重々しく、面倒に説くのは、後世、中国風の考えへ、へつらう学者の悪い癖だ。宇受売命の振る舞いは、前後、すべて、おどけた演技だと、なぜ考えないのか。
【宣長の注釈】「而」の字は、先の「神集い、集いて」から、ここまで、合計二十ある。そのうち多くは、あることをしてから、次のことをする、というのではなく、さまざまなことを、並べ挙げるための、つなぎの言葉である。古文の形で、先の誓約の段でも、述べた。
【宣長の注釈】先の、さまざまなことのほか、書紀には、茅を巻いた矛先を持つこと、火をたくことなどが見える。拾遺では、庭火を上げるといい、さらに、さまざまな物を作り、用意したこともある。神楽で、手に持つ物も、いろいろだ。後世の神事にあることは、おおむね、この時の、神遊びの振る舞いが、残ったものだから、なお、さまざまなことがあったのを、この記も、書紀も、多く省いて、伝えたのだろう。
【宣長の注釈】「胸乳」。上代に、ただ「ち」というと、人の体の乳だけでなく、ほかの物にも多くある、乳に似た部分を、総じていう名であった。今も、幕などには、その名が残る。そのため、胸といわないと、紛らわしいからだろうか。
【宣長の注釈】「掛出」は、かきいで、と読むべきだ。「かき」は、搔と書くのと同じで、手でする動作へ、添えていう言葉だ。古く、掛も、かきといったようで、その字を借りて書く。明宮の段の、「その骨を、かき出す」も同じだ。『万葉集』巻九の九丁の、「掛けて佩いた小剣を、取って佩き」も、かきと読むべきである。
ここでの出は、理屈なら、いだしと読むはずだ。「いで」は、自分から出ること、「いだし」は、物を出すことをいう。しかし、いでと、いい慣れている。武烈天皇紀の歌にも、「あさりづな」とあり、これも、探り出すな、という意味だ。そのほか、後の時代の雅語も、みな、そういう。
乳は、女が、人に見られるのを恥じ、たいへん隠す物である。今の世にも、女が、乳を人へ見せるのを、深く恥じる国がある。それを、かき出して見せるのは、正気を失い、物に狂った様子をするのだ。これが、神懸りの姿である。
【宣長の注釈】「裳緒」は、もひもと読むべきだ。書紀の読みによった。裳を結ぶ、ひもである。
【宣長の注釈】「忍」は、軽く添える言葉ではなく、押さえ、下げることだ。これも、乳を出すのと同じ意図である。書紀も、拾遺も、ここに、このことはなく、巧みに、おどけた演技をしたとだけいい、猿田毘古神の段で、「天鈿女は、胸の乳をあらわにし、裳の帯を、へその下へ押し下げ、大笑いしながら、向かって立った」とある。抑を、拾遺は、押下とし、あちらには、忍の字はない。伝えが違うのだ。
この神が、人を恥じず、そんな振る舞いをするのが、宇受売という名に負う、強く、たくましい気性なのだ。『沙石集』で、和泉式部が、貴船の社へ祈ったことをいう所に、こうある。「年取った巫女が、赤幣を立て並べた周りを、さまざまな作法で、鼓を打ち、前をかき上げて、たたき、三度回って、これを、お受けになって、願いを叶えてください、といった。和泉式部は、顔を赤らめ、『神に見られるのも、恥ずかしいことだ。わが身を思うからといって、身を捨ててよいものか』と詠んだ」。その巫女の振る舞いは、ここでの振る舞いが、残ったのだろう。
【宣長の注釈】「動而」は、ゆすりて、と読むべきだろうか。『万葉集』巻七の二十六丁の、「大海の、磯を揺すり、立つ波の」と、二十八丁の、「大海の、水底を、鳴り響かせ、立つ波の」は、全く同じ意味に聞こえる。この動の字を、とよみと読むなら、ゆすりと読んでも、何の問題があろう。物語にも、「世の中ゆすりて」などと、多くいい、みな挙げて、という意味に聞こえる。ここも、その意味を帯びるのである。『落窪物語』の、「見物の人々に、どっと、笑われる」は、全く同じだ。とよみてと読んでも、悪くない。
【宣長の注釈】ここでの「咲」は、宇受売命の、おどけた演技を見て、その、おかしさに笑うので、わらふと読むべきだ。えらぐと読むのは、悪い。理由は、次の「歓喜咲楽」の所で、明らかになる。拾遺には、ともに歌い、舞うといい、また、神々は、なぜこんなに歌い楽しむのか、とある。それなら、ここも、咲と書いても、歌い、舞う意味で、えらぐと読むべきに見えるが、この文章の様子は、そうではない。
【古事記本文】天照大御神は、不思議にお思いになり、天の石屋戸を、少し開いて、中から、お尋ねになった。
「私が、こもったため、天原は、自然に暗くなり、葦原中国も、すべて暗くなっただろうと、思うのに、どうして、天宇受売は、遊び楽しみ、八百万の神も、みな笑っているのか」。
天宇受売は、申し上げた。
「あなた様よりも、尊い神が、おいでなので、喜び、楽しんでいるのです」。
そういっている間に、天児屋命と、布刀玉命は、あの鏡を差し出し、天照大御神へ、お見せした。天照大御神は、ますます不思議にお思いになり、少しずつ、戸から出て、様子を、ご覧になろうとされた。その時、陰に立っていた、天手力男神が、その御手を取り、引き出した。
すぐ、布刀玉命は、尻久米縄を、その後ろへ、張り渡し、
「ここから中へは、戻って、お入りにならないでください」と申し上げた。「久米」の二字は、音で読む。
天照大御神が、お出ましになると、高天原と、葦原中国は、おのずと、明るくなった。
【宣長の注釈】「細開」は、ほそめに、ひらきて、と読むべきだ。書紀の読みも同じである。「め」は、見える、という言葉が、縮まったものだ。『拾遺集』の物の名の歌で、つばくらめを詠み込む、「難波津は、暗がりにばかり」とある、「め」も同じである。
【宣長の注釈】「内告」は、この前に、必ず、自の字があったはずだ。而が、その誤りなのか、その下の自が、抜けたのかだろう。後の沼河比売の段の、「まだ戸を開けず、中から歌って、いった」に似た文である。「内より、のりとひたまへるは」、中からお尋ねになったことは、と読むべきだ。
【宣長の注釈】「自闇」の自は、先の、自我勝などの自と同じで、意味は、その所で述べた。後の、自得照明の自も、これである。
【宣長の注釈】「皆闇」は、「みなくらけむ」、みな暗くなっただろう、と読むべきだ。古い言葉で、この、けむは、からむと同じである。古歌には、例が、とても多い。
【宣長の注釈】「以為」は、おもふを、と読むべきだ。この、をは、のにというようなもので、後の矣の字が、この、をに当たる。
【宣長の注釈】「何由以」の三字を、「などと」、どうして、と読むべきだ。
【宣長の注釈】「楽」は、あそびと読むべきだ。楽について、『和名抄』に、雅楽寮を、うたまひのつかさとし、顕宗天皇紀で、奏楽などとある所の読みも、よく聞こえるが、なお考えると、あそびと読むのがよい。後世も、この段の楽を、そのまま神遊びといい、『古今集』にも見える。『落窪物語』は、あそびがくと、重ねてもいう。詳しくは、詞志比の朝の段で、「さらに、その大御琴を弾きなさい」という所で述べる。
あそぶということは、後の、天若日子の葬儀の段にも出て、そこでもいう。書紀の嘻楽は、鈿女命を挙げ、神々を含め、拾遺の歌楽は、神々を挙げ、鈿女命を含める。この記では、宇受売命と、神々を並べ挙げるので、照らし合わせてほしい。
書紀の一書には、「天児屋命が、祈ると、日神は聞いて、近頃、人々は、多く請い求めるが、この言葉の美しさに及ぶものは、なかった、といい、岩戸を少し開き、のぞかれた」ともある。
【宣長の注釈】「益」は、まさりてと読むべきだ。『万葉集』に、そう読む例は、多い。持統天皇紀でも、筑紫史益という人名に、まさるの読みを付ける。これは、勝の字の意味だ。「まさる」は、益すを延ばしたもので、もと、同じ言葉だから、益を通わせ、ここでは書いたのだ。
【宣長の注釈】「歓喜咲」の三字を、えらぎ、楽の字を、あそぶと読むべきだ。先の楽は、為とあるので名詞だが、ここは、それを動詞でいうので、意味は同じである。「えらぐ」は、笑い、栄え、楽しむことだ。『続日本紀』巻二十六の、大嘗祭の、豊明の宴の詔には、「黒酒、白酒を、召し上がり、赤い丹のように、顔を赤らめ、楽しみ」、巻三十の詔にも、「黒酒、白酒を、召し上がり、楽しみ」とある。『万葉集』巻十九の三丁には、「豊かな宴をする、今日は、千年の寿命を祝い、声を響かせ、楽しく、仕え奉るのを、見ることの尊さ」などがある。書紀の嘻楽も、こう読み、雄略天皇紀には、歓喜が胸に満ちた、ともある。
この記で、先の二か所が、咲一字だけなのは、わらふと読んだ。ここへ、歓喜を加えたのは、えらぐと読むべきである。最初は、おどけた演技の、おかしさに笑うので、えらぐではない。次は、えらぐでもよいが、やはり咲一字なので、わらふである。ここは、宇受売命が、計って申し上げる言葉で、自分の演技と、神々の笑いを合わせ、本当に、面白く、遊び楽しむように、いいなしている。そのため、歓喜の二字を加えたのだ。注意してほしい。
【宣長の注釈】「その鏡」は、先の榊へ掛けた、八咫鏡である。
【宣長の注釈】「示奉」は、みせまつると読むべきだ。顕宗、孝徳天皇紀などに、奉示とあり、神武、神功、仁徳などの紀でも、示を、みすと読む。この示を、旧刊本は爾、延佳本は亦とするが、みな誤りなので、一つの本によった。『旧事紀』の奉示も、この記の古本の示奉を取り、上下を入れ替えたのだろう。
御鏡をお見せすると、日神の光が映り、全く同じように、照り輝くので、「あなた様に勝り、尊い神」というのは、この鏡のこととして、申し上げたのである。こんなことは、浅はかに見えても、上代の心である。後世の、利口ぶった考えで、疑ってはならない。この鏡は、日像の鏡と申し上げ、日神の姿を模し、その光が映ることをいうのだから、本当なら、「あなた様と同じ神」というはずなのを、「より尊い」と、強く、いいなしたのである。
日蔭の髪飾りをしたのも、鶏を鳴かせたのも、みな、この尊い神がいて、世を照らすことが、日神と同じだと示すためだ。先に、頭から髪飾りを垂らすのは、日光のまぶしさを遮るためだといったことを、思い合わせてほしい。『纂疏』の説などは、誤りだ。
拾遺には、「太玉命は、広く厚い、ほめ言葉で、私の捧げる宝鏡は、明るく麗しく、ちょうど、あなた様のようです。どうか、戸を開き、ご覧ください、と申し上げた」とある。書紀には、「日神が、岩戸を開き、お出になる時、鏡を、その岩窟へ入れると、戸へ触れ、小さな傷が付いた。その傷は、今も残る。これが、伊勢で尊び、秘蔵する大神である」とある。
【宣長の注釈】「逾思奇而」は、鏡が、ご自分と同じように、明るく照るのを見て、本当に、宇受売のいうように、尊い神が、いらっしゃるのだ、と、不思議に、お思いになるのである。先の、不思議に思われた、というのを受け、ますますという。
【宣長の注釈】「稍」は、今の言葉の、だんだんに、という意味である。
【宣長の注釈】「臨」は、『新撰字鏡』で、闚を、うかがふ、のぞくとするように、のぞくと同じだ。今は、のぞむとのぞくは、意味が違うようでも、中務の家集に、「池へ張り出した〔のぞきたる〕松に、藤が絡んでいる」といい、『源氏物語』椎本にも、「水際へ張り出した〔のぞきたる〕廊下に」などとある。これらは、臨むことを、のぞくといい、ここでは、「のぞきまし」を、臨坐と書くのだから、通い合い、もと、同じ言葉なのである。ただ、ここは、戸から出て、とあるため、物の隙間から、のぞくのとは少し違い、ただ、様子を、うかがい見ることだ。
【宣長の注釈】「天手力男神」の天は、旧刊本にはない。後の二か所にも、この字はないので、なくても悪くない。師は、立の下の之を、天の誤りだといわれたが、之の字も、ある方がよい。
【宣長の注釈】「取其御手」の取を、昔から、たまはりと読む。書紀は奉承と書き、それも、同じく読む。しかし、その読みは、後世の言い方なので、やはり、字のとおり、とりてと読むべきだ。
【宣長の注釈】「引出」。書紀には、引いて、お出し申し上げたと書き、一書では、「天手力雄神が、岩戸のそばに控え、それを引き開いた」とある。拾遺も同じだ。これで、この神の名の意味が明らかになる。戸を引き開けるのはもちろん、御手を取って、お引き出し申し上げるにも、腕力の優れた神を、充てるべき仕事なのである。延喜六年の日本紀竟宴、阿刀春海の歌には、「常闇も、楽しい御代になったのは、天手力男の、助けがあったためだ」とある。
【宣長の注釈】「尻久米縄」は、今いう、しめ縄だ。縮めると、自然に、りくが省かれ、しめとなる。また、しめは、標結いなどの、標の意味かもしれない。それなら、物は尻久米縄と一つで、名は別なのか。ただ、標も、もとは、尻久米から出た語なのだろうか。それなら、動詞にし、しむというのは、少し後のことか。
『土佐日記』には、「こへの門の、しりくめ縄」とある。尻は、藁の根元をいい、くめは、こめで、藁の根元を切り捨てず、そのまま、込めておく縄である。「こもり」を「くみ」ということは、師の『冠辞考』の、さす竹の項に詳しい。その例によって、こめも、くめということが分かる。こめは、『枕草子』の、むくろごめ、つまり、丸ごと、とある類いの、こめで、今、何々ぐるめという類いであり、具の字の意味に近い。書紀に、端出の縄と書き、しりくめなわという、とあるので分かる。その下の、左縄ともいう、の四字は、後人が加えたのだろう。
端出は、切らない藁の根元が、出ることで、後世の、しめ縄の形だ。この縄にも、あれこれ理屈を説くが、みな、いつもの誤りである。『和名抄』は、『顔氏家訓』の注連の字を挙げ、しりくべなわとするが、うまく当たるとも思えない。
また、師の説は、尻は後方、くめは限り目で、天照大御神の後ろへ、張り渡した、境目の縄という意味だとする。これも、もっともで、どちらか、決め難い。拾遺には、「天手力雄神へ、戸を引き開けさせ、新殿へ移し、天児屋命と太玉命は、日の御綱を、殿へ回し掛けた」とあり、「今の、しりくめ縄で、日の光の形である」と注す。日の御綱は、別名だろう。ただし、日の光の形というのは、こじつけだ。藁の根元が出ることを、そんなふうに、いいなしたのは、上代の意味に、全く合わない。
【宣長の注釈】「御後方」は、みしりへと読むべきだ。斉明天皇紀の、蝦夷の地名に、「後方羊蹄は、しりへしという」とあり、『万葉集』巻二十の二十六丁に、「殿の、しりへ」などがある。目の向く方に対する名で、尻の方という意味だ。
【宣長の注釈】「控度」。こうした理由は、次の言葉から分かる。後世、神事で張り渡すのも、同じ意味で、境を作るのである。
【宣長の注釈】「以内」の以は、以上、以下などの以で、読むべきではない。
【宣長の注釈】「不得還入」は、「な、かへりいりましそ」、戻ってお入りにならないでください、と読むべきだ。不得は、漢文で、何々してはならない、と禁止に使う語である。俗に、ならぬというのが、この字に合う。延佳が、得は復の字だろうというのは、書紀の、「再び、お戻りになってはならない」を考えたのだろう。しかし、不得で、十分、意味が通る。
【宣長の注釈】「自得照明」の、こちらの得こそ、復の誤りかもしれない。もし、原本どおりなら、読まない字だ。ただ、「おのづから、てりあかりき」、おのずから照り輝いた、と読むべきである。
古事記伝 巻九
本居宣長、謹んで著す。
神代 第七巻
【古事記本文】そこで、八百万の神々は相談して、速須佐之男命に千位置戸(ちくらおきど)を負わせた。また、ひげを切り、手足の爪を抜かせて、神々の世界から追い払った。
【宣長の注釈】「共に議りて」について。ここでも、天照大御神や高御産巣日神の命令を受けて行ったのではなく、神々が集まって相談したのである。そこには深い理由があったのだろう。『日本書紀』『古語拾遺』なども趣旨は同じである。
【宣長の注釈】「千位置戸を負わせる」とは、祓えを科すことである。『日本書紀』にも「千座置戸の解除を科す」とある。一般に「はらひ」には二つある。一つは、伊邪那岐大神が阿波岐原で行ったような禊ぎの祓い、もう一つは、ここの「解除」のように、罪を犯した人に物を出させて償わせるものである。その物を「祓具(はらえつもの)」といい、『日本書紀』に見える。天武天皇紀では「祓柱」と書いている。こう言うと、行うことも意味も別々の二つであるようだが、根本は一つである。履中天皇紀には、車持君に罪があり、「悪解除と善解除を負わせ、長渚崎へ出して祓い清めさせた」とある。このことから、罪を犯した人の祓いも、水辺へ出て禊ぎをするものだったと分かる。罪を犯すことも、穢れることも、同じだからである。大祓詞に、「伴氏の八十伴男を始め、役所ごとにお仕えする人々が犯したさまざまな罪を、今年六月の晦日の大祓に祓い清めてくださり……速い川の瀬にいる瀬織津比咩という神が、大海原へ持ち出してくださるだろう……四方の国の卜部たちよ、大川の流れへ持ち出して祓い去れ、と宣る」とある。この文章を考えてほしい。罪を除くことも、穢れを清める禊ぎとまったく同じである。穢れはそのまま罪であり、罪はそのまま穢れであることは、前の阿波岐原の段で述べたことと合わせて考えてほしい。また、穢れを広く「罪」ともいう。このことは、中巻の神功皇后の段、「国の大祓」の所で詳しく述べる。罪がある場合も穢れがある場合も、その重さ軽さに応じて、同じように「はらひ」を行うのが上代の法であった。しかし、中国の制度ばかりを習い用いる世の中になって、上代の慣習は何事も変わり、この祓いの法もすたれていった。それでも中古の時代までは、神事に関わることにはなおこの法を用い、大祓・上祓・中祓・下祓という段階があったことが、古い書物に見える。これも中巻、神功皇后の段の「国の大祓」の所で詳しく述べよう。
さて、祓具を出させることには、今考えると二つの意味がある。一つは、その祓いに用いるさまざまな物を、科して出させることである。『日本書紀』で「祓具」と書く「具」の字を考えてほしい。「唾を白和幣とする……」とあるのも、祓いに使う物として取り上げたのである。また、雄略天皇紀には、歯田根命に罪があって、「馬八匹と大刀八口で罪を祓い除いた」とある。馬と大刀を祓いに用いることは、大祓詞に「高天原に耳を振り立ててお聞きになるよう、馬を引き立てて」と見え、『神祇令』にも「上祓の刀」という語があり、「東文忌寸部が横刀を献る時の呪文……」という記載など、そのほかの古書にも見える。文忌寸が刀を献る例になったのには、理由があるだろう。『古語拾遺』にも説明がある。ただし、大刀を用いることは、もともとこの氏族だけが担当していたわけではあるまい。そもそも馬を用いる理由は、「耳を振り立ててお聞きになるよう」とあるとおり、神々がその祓いを速やかに聞き受け入れるように、という意味であることが、前の「……かき分けてお聞きになるだろう」という言葉と合わせて分かる。これにならって考えると、大刀は罪や穢れを断ち切る意味で使うのだろうか。そのほかに用いるさまざまな物も、名、形、その物の用途などによって、意味を託すものが多いのだろう。
また、延暦二十年五月の太政官符は、『日本後紀』『類聚三代格』『令集解』などに載り、「罪を犯したときに科す祓いの例を定めること。一、大祓の料物二十八種……、一、上祓の料物二十六種……、一、中祓の料物二十二種……、一、下祓の料物二十二種……」とある。これらの物はみな祓いに用いる物で、罪や穢れの重さ軽さに応じて科す品であることから、右の意味と判断できる。もう一つは、あの阿波岐原での禊ぎの時、身に着けていた物をすべて投げ捨てたように、罪を犯した人も身が穢れたのだから、その身に所有する物もすべて穢れており、それを祓い捨てるという意味である。それで後の世までも、祓いに用いるさまざまな物は、最後にはみな水に流し去る。これについては、なお下で述べる。祓具を科すことは右の二つの意味なのだから、外国の贖刑と同じ意味に説明してしまうのは、まったく古い時代の意図ではない。孝徳天皇紀に、「また、役務に従う民が道端で飯を炊くと、沿道の家の者が『なぜ勝手に私の道で飯を炊くのか』と言って、無理に祓いをさせる。また、百姓が他人に甑を借りて飯を炊き、その甑が物に当たってひっくり返ると、甑の持ち主が祓いをさせる。こうしたたぐいの、愚かな民間に染みついた習慣は、今すべて取り除き、再び行わせてはならない」とある。これは、その祓具を取って、自分の利益にしていたことと読める。それは少し時代が下り、本来の意味を失った民間の習わしだったのだろう。
「千位」は、『日本書紀』では「千座」と書き、『私記』には「座とは、物を置く座である」とある。祓具を載せる物をいう。台でも何でもよい。人の座る所を「久良韋(くらゐ)」というのも同じ意味であり、それでこの『古事記』では「位」の字を書いた。「千」はその数である。罪の重さ軽さに応じて祓いにも重いものと軽いものがあり、祓具にも多い少ないの段階がある。ここでは罪が極めて重いので、祓具も極めて多いのを「千」と言ったのである。後の世に「四座置」「八座置」という名目が残っていることから見れば、いくつの座といって、祓いの段階を定めたのである。「置」は、その物を持ち出し、祓いを行う所へ置くという意味からいう。『万葉集』には「置幣」を「奴佐於伎(ぬさおき)」ともいう。大祓詞には、「大中臣が、天津金木の根元を打ち切り、先端を打ち断って、千座の置座に置き満たして」とある。師の説では、「金木と書くのは音を借りた字で、祓物を置く置座を作る材料の横木をいう。この金木を置座に置くように聞こえるが、そうではない。文章の意味は、金木の根元と先端を切って千座の置座を作り、それを置き満たすということと考えられる」という。今考えると、この説はまことによい。そこに置くさまざまな物は省略して言わず、置座だけを述べるのは、ここも同じである。一説に金木を刑具だとするのは、甚だしい誤りだ。『延喜式』の臨時祭式に「すべて、祈年・月次・神今食・新嘗などの祭りの料の置座木」とあるのは、置座を作る材料の横木をいう。今の本で「くらをおくき」と訓むのは誤りである。これは神にお供えするためのものだ。
その置座に「四座置」「八座置」という種類がある。木工寮式には、「四座置・八座置は木で作る。長いものは二尺四寸、短いものは一尺二寸。それぞれ八本ずつ束ねて八座置と名づけ、長短をそれぞれ四本ずつ束ねて四座置と名づける」とある。四時祭式・斎宮式・大嘗祭式などでも、祭りの料物の中にこの名が見える。今考えると、「置座」は祓物を据え置く台だからそう呼ぶのであり、「四座置」「八座置」も、本来は四座分の置く物、八座分の置く物ということで、その台の数による呼び名だから、ある一種類の物の名ではない。しかし、やや後には、名だけが古いままで、物のあり方は変わったように見える。というのも、『延喜式』で祭りの料物の中に載る様子を見ると、ほかのさまざまな物を載せるためのものとは見えず、それ自体が別の一品に見えるからだ。右に引いた木工寮式の説明も、物を載せる台の形ではない。したがって延喜のころのものは、ただ形を残すだけだったのだ。ただし、右の祓詞に「天津金木を……」とあるので、上代の置座も、木工寮式でいうような細い木を連ね、結び合わせて作ったものだろう。今の世にもある柳筥などの姿からも推し量れる。そうすると、後の世のものも、その台に作るはずの木を束ね、そのまま「置座」と呼び、木の数を台の数の代わりとして「四座置」「八座置」と言ったのだ。あるいは、あの祓詞の「天津金木を……」も、後の世の、形だけの置座を伝えたものなのかとも思われるが、やはりそうではあるまい。あの全文は少し後に定めたものではあっても、言葉はみな古いものを用いているからである。
「戸」は、誰もが場所という意味に理解しているようだが、それでは「負わせる」という言い方につながらない。中巻の末、伊豆志袁登売神に兄弟の男たちが求婚した話の段に、「呪いの言葉を言わせ……このように呪って、かまどの上に置き……すぐにその詛戸を返させた」とある。この「詛戸」も、呪いに使ったさまざまな物を指しているのだから、ここでも置座に置く祓具を指して「戸」というのである。つまり、千の座に載せる物というようなことだ。師は、この「戸」を「べ」とも訓んだ。しかし、そのように訓む明確な証拠がないから、従来に従って「と」と訓むべきである。また、「千位」に「の」を添えて読むのはよくない。
【宣長の注釈】「鬚を切り」について。『和名抄』は『説文』を引き、「髭とは口の上のひげ、鬚髯とはあごの下の毛である」といい、「髭」の和名を「加美豆比介(かみつひげ)」、「鬚髯」の和名を「之毛豆比介(しもつひげ)」とする。しかし、ここでは口の上下を区別せず、ただ「ひげ」という。このことを『日本書紀』では「髪を抜く」と書いている。『古語拾遺』も同じで、伝承が異なるのである。ただし、何であっても同じたぐいの物なのだから、意味は同じである。
【宣長の注釈】「手足の爪」の下には「をも」と訓み添えるべきである。前の「及」の字は読まなくてよい。「をも」で意味が足りる。『和名抄』は『四声字苑』を引いて「爪とは、手足の指の上の甲である。和名は豆女(つめ)」という。このことについて『日本書紀』の一書には、「祓具を差し出すよう責めた。それで、手端の吉棄物、足端の凶棄物があった。また、唾を白和幣とし、鼻汁を青和幣として、これらで祓いを行った」とある。この吉・凶の棄物は、いわゆる善・悪の祓除のもとである。ただし、善・悪の祓いは、その儀礼を記したものがないので、どのようなものを善といい、どのようなものを悪というのかは分かりにくい。「吉は福を招き、凶は禍を除くことだ」というのは、後の人がいつものように推し当てた誤りである。もしそうなら、前に引いた車持君の善悪の祓除をどう説明するのか。罪を犯した人のために福を招くことなどあるはずがない。右に引いた延暦二十年の官符にも、「以前から、神事で罪を犯すと祓いを科して償わせ、善悪二つの祓いを、一人に重ねて科して……」とあり、車持君のことと同じである。
また別の一書に、「手の爪を吉爪棄物とし、足の爪を凶爪棄物とした」などとあることと合わせて考えると、これらも祓具なのだから、前に述べた二つの意味で解くべきである。一つは、この祓いが極めて重いものなので、祓物も非常に多く、千の座に載るだけ取り立てる。そのため、須佐之男命の持つ物を残らず取っても、なお足りず、体に生えた髪・ひげ・爪まで取って、祓いの料物にするということだ。白和幣・青和幣も、この意味である。もう一つは、持ち物も穢れているので、それを祓い捨てるという意味であり、軽い罪なら穢れも浅いので、少しの物を差し出して捨てれば清まるのに、ここでは罪が重く、穢れも極めて深いため、持ち物をすべて捨てても、なお清まりきらず、体に生えた物まで切り抜いて捨て、清めるということである。捨てる物はみな穢れた物なので、「きらひもの」といい、「棄物」と書くのもその意味である。後の世に人形を作って流すのも、穢れた身体を丸ごと捨て、清い身体に取り替えるという意味である。
したがって、ひげを切り、爪を抜くのは右の二つの意味なのに、『纂疏』が「肉刑の始まりだ」と述べ、誰もが刑罰だと考えるのは誤っている。刑罰とは意味が違うのだ。この『古事記』では「千位置戸を負わせる」の後に「また」の字を置いてこのことを述べるので、祓いとは別のことのようにも見えるが、そうではない。「千位置戸」の所でも「祓い」とは言わないのだから、上は祓いで下は別のことだ、と分ける根拠はない。「抜かせる」という所まで、すべて祓いによることなのを、『日本書紀』と合わせて理解してほしい。
【宣長の注釈】「神夜良比夜良比岐(かむやらひやらひき)」という言葉は、前の巻七の二十六葉、巻四の十三葉に出ている。延佳本には、最初の「比」の下に「爾」の字がある。これはあってもなくても差し支えない。「岐」は添え言葉である。
【古事記本文】また、大気津比売神に食べ物を求めた。すると大気都比売は、鼻や口や尻からさまざまな食べ物を取り出し、それらをいろいろに調理し、ととのえて差し上げた。速須佐之男命は、その様子をひそかにうかがい、汚くして差し上げるのだと思って、その大宜津比売神を殺してしまった。殺された神の身体から生まれた物は、頭には蚕、二つの目には稲の種、二つの耳には粟、鼻には小豆、陰部には麦、尻には大豆であった。そこで神産巣日御祖命は、これらを取らせて種とした。
【宣長の注釈】「又」について。『日本書紀』の一書には、長雨が降り、宿を求めても神々が泊めてくれず、ひどく苦労しながら下って行った話がある。この『古事記』にも、「又」の字の前に、それに似た話があったのが脱落したはずだと師が述べたのは、確かにそのとおりだろう。これは、阿礼が暗誦したときに、すでに抜け落ちていたのかもしれない。追放された後の出来事がこれより前に別になくては、「また」という言い方が不自然に聞こえる。もし初めから今の本文のとおりだったなら、「又」の字は「故」などとあるべき所である。この段がこの位置にあることを疑わしく思う理由は、まだほかにもある。それは下で述べることを見てほしい。
【宣長の注釈】「食物」は「袁志毛能(をしもの)」と訓むべきである。
【宣長の注釈】「大気津比売神」は、前の巻五の五十三葉で述べたとおり、食べ物の神である。「津」の字を「都」とする本もあり、次に出る表記と同じなので、それもよい。しかし、さらに次には「宜津」ともあるから、ここを「津」としても差し支えない。この話は、『日本書紀』では「天照大神は天上にいて、『葦原中国には保食神がいると聞く。お前、月夜見尊はそこを訪ねよ』と言った。月夜見尊は命を受けて下り、保食神のもとに着いた。そこで保食神は……」とある。その様子はおおむねここに同じだが、天照大御神の命令によって月夜見命が訪問したとするのは、伝承が異なるのである。ただし、保食神と大気津比売が同じ神であるはずだということは、前に述べたとおりである。
このことから、今よく考えると、もともと月夜見命と須佐之男命は一つの神ではないかと思われる点が多い。まず「月夜見」の「夜見」は黄泉であり、須佐之男命が帰って行った国の名である。「根の国」がそのまま黄泉のことだというのは、すでに前に述べたとおりだ。昼と夜に分けていえば、昼はこの世、夜は黄泉なのだから、「夜の食国」とも関係がある。また、この『古事記』では須佐之男命に海原を治めよとお任せになったことと、『日本書紀』の一書では月夜見命に、海原の重なり合う潮を治めよとあることを、考え合わせてほしい。また、ここでは須佐之男命が大宜都比売神を殺すのを、『日本書紀』では月夜見命のこととし、「天照大神はひどく怒り、『お前は悪い神だ。もう会う必要はない』と言って、一日と一夜とに分かれて離れて暮らした」とあるのも、いかにも須佐之男命のことらしく聞こえる。それでも古い書物には、この二神を一つの神とする伝承はなく、みな別の神としている。一つの神としか思えないほど似ていながら、なお別の神であることには、深い理由があるのだろう。今、軽々しく言うべきことではない。
【宣長の注釈】「鼻」は、『和名抄』に「鼻、和名は波奈(はな)」とある。
【宣長の注釈】「尻」は、同じ『和名抄』に「尻、和名は之利(しり)」とあるので、そのとおり訓むべきである。古い書物で「尻」を一般に「かくれ」と訓んでいるのは、「しり」という言葉を下品だと思って避けたためだ。それは、天皇の御前で『日本書紀』などを読み上げるとき、忌まわしい言葉や卑しい言葉を選び出して、別の読み方に変えたり、省いて読まなかったりした、その例である。確かにそのようなときにはそうするのもよいが、本文そのものにまでその読みを付けてしまうのは、どうだろう。「しり」という言葉も、古くは遠慮なく何度も使った。「尻」の字は「尻久米縄」など、そのほかの用例でもすべて「しり」という語に当てているのだから、ほかの訓みがあるはずはない。『日本書紀』では、「保食神は首を回して国に向かうと、口から飯を出し、海に向かうと鰭の広い魚も狭い魚も口から出し、山に向かうと毛の粗い獣も柔らかな獣も口から出した」とあり、鼻や尻から出すとは書かれていない。
【宣長の注釈】「味物」は「多米都母能(ためつもの)」と訓むべきである。中巻の明宮の段の末に「種々の珍味」とあるのも、このように読むべきだ。その理由は、『貞観儀式』の大嘗祭の儀に「弁大夫は儀鸞門から入り、所定の位置に着いてひざまずき、両国から献上されたためつものの品目を奏上する」とあり、その言葉の中に、「御酒、倉代の物、多米都物、さまざまな果物、飯」といった品目が見えるからである。『江家次第』にも同じようにある。「両国」とは悠紀・主基の二国をいう。〔訳注:「御酒倉代稚物」の「稚」と読んだ字と、品目の区切りには留保がある。〕また、「大多米津酒」「大多米酒波」「多米御酒」「多毎米」「大多米院」という語も見え、『延喜式』にも「多明米」「多明酒屋」「多明料理屋」などが見える。もっとも、このように大嘗祭の所にばかり多く出て、ほかには一つも例が見えないなら、その祭りで神に供える物に限る名目かとも思われるが、そうではない。古くは、おいしい飲食物全般をいう名なのである。上代のことは、物の名でも何でも神事に残るものなので、この名目も、たまたま大嘗祭だけに残ったのだ。『新撰姓氏録』の多米連の条には「成務天皇の世に、炊事の職に仕え、多米連の姓を賜った」とあり、また多米宿禰の条には「成務天皇の世に、大炊寮に仕え、炊いた飯の香りがよかったので、特に立派な名を賜った」とあることからも分かる。これで、神に供える物だけに限らないことは明らかだ。『日本書紀』の「甜酒」も、本来の訓みは「多米佐介(ためさけ)」だったのだろう。それを後の人が小賢しく字音だと考え、「多武(たむ)」と読むようにしたのだろう。
【宣長の注釈】「種々」は、上のものは取り出した物の種類をいい、下のものは、それを料理して食事に仕立てた品が多いことをいう。『延喜式』陰陽寮の儺祭の文に、「海や山のさまざまな食べ物をお与えになって」とある。
【宣長の注釈】「作具」は「都久理曾那閉(つくりそなへ)」と訓むべきである。『大神宮儀式帳』に「さまざまな食べ物をととのえてお仕えする」、祈年祭の祝詞に「さまざまな色物をととのえてお供えして」、顕宗天皇紀に「新嘗の供え物をととのえる」などと見える。「そなふ」とは、足りないものがないよう、ひととおりととのえることをいう。『万葉集』巻十には「手寸十名相(たきそなへ)……」、掘って植える支度をととのえて、という例がある。今の言葉で、神に物を供えるのを「そなえる」というのも、ととのえて供える意味である。また、『万葉集』巻十で「供養」を「そなへ」と訓むことがあるのは、誤りだろうか。師は「多牟気(たむけ)」と読んだ。『日本書紀』はここのことを、「すべての品物をことごとくととのえ、百もの机に置いてもてなした」と書いている。
【宣長の注釈】「立ち伺う」とは、隠れて立ち、物のすき間などから様子をのぞき見たのである。水垣宮の朝廷の段の歌に、「宇迦々波久斯良爾(うかがはくしらに)」、ひそかに様子をうかがっているとは知らずに、と詠んでいる。
【宣長の注釈】「穢汚而」は、『日本書紀』に「月夜見尊はむっとして顔色を変え、『汚い、卑しい。口から吐いた物で、よくも私を養おうとするのか』と言った」とある、その意味である。「汚」を「汗」とする本もあるが、同じ字である。「而」は「物」を誤ったものだろう。だから「きたなきものささぐるとおもほして」、汚い物を捧げるのだと思って、と訓むべきだ。もし「而」の字のままなら、「きたなくしてたてまつるとおもほして」、汚くして差し上げるのだと思って、と訓むべきだが、それでは落ち着かない文章になる。「為」の字は、どちらにしても「おもほして」と訓むべきである。
【宣長の注釈】「殺した」ことについては、すでに祓いを受けたものの、まだ悪い心が清まりきっていなかったのだろう。しかし、この神を殺したためにさまざまな穀物などが生まれたのは、善は悪から兆し出るという道理である。あの黄泉の穢れを祓ったために、天照大御神などの善い神が生まれたのと同じだ。
【宣長の注釈】「所殺神於身」は、「殺された神の身に」と訓むべきである。「於」の字は、意味の上では「所殺」の上にある。
【宣長の注釈】「生物者」は「那禮琉物波(なれるものは)」、生まれた物は、と訓むべきである。
【宣長の注釈】「蚕」は、『和名抄』に「蠶、和名は加比古(かひこ)」とある。
【宣長の注釈】「稲種」について。五つの品のうち、これだけに「種」というのはなぜか。まず、後に「種とした」とあることから見ると、ここに生まれたのは、五つともその実である。ほかの四つは「種」と言わなくても、おのずから実のことになる。しかし稲は「いね」とだけ言うと、穂についている時の名で、実のこととは聞こえず、茎のまま生まれたようにも聞こえて紛らわしいからである。このことからも、古い言葉がいいかげんなものでなかったと知ってほしい。
【宣長の注釈】「粟、小豆、麦、大豆」は、『和名抄』に「粟の和名は阿波(あは)。小豆は、『本草』に赤小豆といい、和名は阿加安豆木(あかあづき)。麦の和名は牟岐(むぎ)、大豆の和名は万米(まめ)」とある。「あかあづき」というのは、本来ただ「あづき」といったものを、中国の名に黄小豆・緑小豆などがあるのに合わせて、後に色を分けて付けた名である。
【宣長の注釈】「尻」の前にある「於」の字が、古い版本で「麦」の前にあるのは誤りである。今は、ある一本に従った。延佳も改めている。
【宣長の注釈】右の六つの品のうち、食べられる五つは、どれも身体の穴に生まれ、蚕だけは穴でない所に生まれていることには、理由があるだろう。また口に生まれる物がないのも、理由があるのだろうか。『日本書紀』には、「頭の頂が牛馬になり、頭に粟が生まれ、眉に繭が生まれ、目の中に稗が生まれ、腹の中に稲が生まれ、陰部に麦と大豆・小豆が生まれた」とある。また、稚産霊神の頭に蚕と桑が生まれ、へその中に五穀が生まれた、という話もある。これも同じ出来事について、伝承が異なるのだろう。これらを『日本書紀』の注釈で、身体に生まれたというのは仮の言い方で、実際はそれぞれに適した土地に植え作ったのだ、としているのは、どれもいつもの小賢しい勝手な推量で、古い伝承の意味に大きく背いている。また、生まれた物と身体の場所を結び付け、その理由を説明する説も、眉に蚕が生まれるという説明以外は、みな当たらず、無理なこじつけである。何事でも、無理に言い立てれば、どうとでも言えるものなのだ。
【宣長の注釈】「神産巣日御祖命」は、初めに出た神産巣日神である。それをここでも、後のあちこちでも、ことさらに「御祖命」と申し上げるのは、ものを生みなす霊力である「産霊(むすひ)」の働きによる尊称なのだろう。
【宣長の注釈】「令取茲」の「令」の字は、『旧事紀』の古い版本では「合」としており、それも悪くない。この『古事記』の古い本でそうなっていたのを、採ったのだろうか。
【宣長の注釈】「成種」は「多泥登那志賜伎(たねとなし たまひき)」、種とした、と訓むべきである。『日本書紀』には、「天熊大人がすべて取り持って行き、献上した」とあり、続いて「天照大神は喜び、『これらは、目に見える人々が食べて生きてゆける物である』と言って、粟・稗・麦・豆を畑の種、稲を水田の種とした。また天邑君を定め、その稲の種を、初めて天の狭田と長田に植えた。その秋、八握りにもなる穂が豊かに垂れ、非常に見事であった」とある。ここの「種とした」という言葉には、その意味が含まれている。
【古事記本文】こうして追い払われて、出雲国の肥の川の上流、鳥髪という所へ下った。「肥」の字には上声の注がある。このとき、箸がその川を流れ下ってきた。そこで須佐之男命は、川の上流に人がいるのだと思い、尋ね求めて上って行くと、老夫と老女がいて、少女を間に置いて泣いていた。「あなたたちは誰か」と尋ねると、老夫は答えた。「私は国つ神、大山津見神の子です。私の名は足名椎、妻の名は手名椎、娘の名は櫛名田比売といいます」。「足」と「手」の字には上声の注がある。さらに、「あなたが泣いている理由は何か」と尋ねると、「私にはもともと八人の娘がいました。高志の八俣遠呂智が毎年来て食べ、今がそのやって来る時なので、泣いているのです」と答えた。「遠呂智」の三字は音を表す。その姿を尋ねると、「目は赤い加賀知のようで、一つの身体に八つの頭と八つの尾があり、身体には苔と檜と杉が生えています。その長さは八つの谷、八つの峰にわたっています。腹を見ると、いつも一面、血にただれています」と答えた。「加賀知」とは、赤い酸漿、ほおずきのことである。そこで速須佐之男命は老夫に、「あなたのこの娘を、私にくれるか」と言った。老夫は、「恐れ多いことです。まだお名も存じ上げません」と答えた。「私は天照大御神の同じ親から生まれた弟である。それで今、天から下って来たのだ」と答えた。「伊」から下の三字は「いろせ」という音を表す。そこで足名椎・手名椎の神は、「そのようなお方なら、恐れ多いことですが、差し上げましょう」と申し上げた。
【宣長の注釈】「所避追而」は「夜良波延弖(やらはえて)」と訓むべきである。そもそもこの言葉は、必ず、前の「神夜良比夜良比岐」のすぐ下に続いていなければならない。もしこの位置にあるのなら、「故」の下に「速須佐之男命者」という言葉があるはずである。そうでないと、神産巣日神が追放されたかのように聞こえてしまう。前に述べた、話の初めの「又」という字のことも考え合わせるべきである。
【宣長の注釈】「肥」は地名である。『和名抄』には、出雲国大原郡の「斐伊」がある。今の本は「伊」を「甲」と誤っている。『延喜式』神名帳にも、同じ郡に斐伊神社がある。この国の『風土記』には、「大原郡斐伊郷。郡家に属する。樋速日子命がこの所にいらっしゃったので、樋といった。神亀三年に字を斐伊に改めた」とある。『延喜式』には「斐伊社に坐す斐伊波夜比古神社」ともある。この地名から、川にも名を付けたのである。樋速日子命は、前に出てきた樋速日神である。後にも述べるので、考え合わせるべきである。
【宣長の注釈】「河上」は「加波乃弊(かはのへ)」と訓んでも悪くはないが、ここは「加波加美(かはかみ)」であろう。そのわけは、同じ『出雲国風土記』に、次のようにあるからである。「出雲大川は、伯耆と出雲の二国の境にある鳥上山を源として流れ、仁多郡横田村に出る。そして横田・三処・三沢・布勢の四郷を通り、大原郡の境の引沼村に出る。来次・斐伊・屋代・神原の四郷を通って、出雲郡の境の多義村に出る。河内・出雲の二郷を通り、北へ流れ、さらに折れて西へ流れる。伊努・杵築の二郷を通り、神門水海に入る。これが、いわゆる斐伊河の下流である……。河口から上流の横田村までの間では、五郡の人々が川の便を得て暮らしている」。この大川の下流は、昔は神門水海に流れ込んでいたが、寛永のころ洪水が出たときから流れが変わり、今は伊努郷から東へ流れ、国の中央に入り込んだ入海に注いでいる。この入海は、国の中央を東から西へ深く入り込んだ海で、昔は塩水の海だったが、今は海水が入らず、淡水の湖になっているという。また、仁多郡の室原川については、「郡家の東南三十五里の鳥上山を源として北へ流れる。いわゆる斐伊大河の上流である」とある。同じ郡の横田川についても、「郡家の東南三十六里の室原山を源として北へ流れる。これが斐伊大河の上流である」とある。これらを見ると、鳥髪はこの川の源にあるので、ここを「かはかみ」というのである。『万葉集』巻五・三十丁に「許能可波加美爾(このかはかみに)」、巻十四・三十五丁に「可波加美能(かはかみの)」などの例もある。これは「かはかみ」という言葉の証拠である。〔訳注:巻五の参照丁数は小字が不鮮明なため、三十丁と読んだことに留保がある。〕「在」は「那流(なる)」と訓むべきである。この字の使い方も、この言葉も、『万葉集』などに例が多い。「爾阿流(にある)」を縮めた言葉である。この字を諸本が「名」とするのは誤りで、ここではある一本に従った。『日本書紀』に「簸川の上流にある鳥上の峰」とあるのも、合わせて見てほしい。
【宣長の注釈】「鳥髪の地」は、やはり『出雲国風土記』に、「仁多郡鳥上山。郡家の東南三十五里、伯耆と出雲の境」と見え、先に引いた箇所にも出ている。この山を今は俗に船通山という。その東に室原山があり、その間を越えると伯耆国日野郡に至るという。地名の下に「之地」という例には、後に出る「須賀地」や、『日本書紀』の「会戸茂梨之処」がある。これらは、「地」を「登許呂(ところ)」と訓むべき証拠でもある。なお『日本書紀』には、須佐之男命が安芸国の可愛川の上流へ降った、という伝えもある。
【宣長の注釈】「此時」は、字のとおり「このとき」と訓んでも悪くはないが、「許能袁理志毋(このをりしも)」と読むべきである。
【宣長の注釈】「箸」について、『和名抄』には、「『唐韻』に、筯は食べ物を取る道具で、字は箸とも書くとある。和名は波之(はし)」とある。
〔訳注:引用「筯匙也」の「匙」は「匕」にも見え、字形を確定できていない。ここでは箸についての説明として文意を訳した。〕
【宣長の注釈】「従其河」は、今の言葉なら「その川の上流から」というはずのところを、このようにいうのが古語の言い方である。「従」は「袁(を)」の意味である。『姓氏録』佐伯直の条には、「そのとき、青菜の葉が岡の辺りの川を流れ下った。天皇は『きっと川上に人がいるのだ』と仰せになった……」とある。継体天皇紀の歌の「簸都細能哿波由奈峨例倶屢(はつせのかはゆながれくる)」なども、みな同じことである。また『万葉集』に、ほととぎすなどについて「従此鳴度」と多く詠んでいるのも、「ここから」という意味ではなく、「ここを鳴き渡る」という意味である。『古今集』春下の清原深養父朝臣の詞書に、「山川より花の流れけるをよめる」とあり、『源氏物語』須磨巻にも、「おきより舟どものうたひののしりてこぎゆく」などという。これらもすべて同じことである。ところが『旧事紀』が、余計な知恵を働かせて「上」の字を加え、「従河上」と書いているのは、かえってよくない。なお、ここは「従其河箸流下」とあるべきところを、先に「箸」と置いているのが、どういうわけか漢文に近い感じがする。しかし、これは決めかねるので、ひとまず本文のとおりに訓んだ。『日本書紀』は、「そのとき川上に泣く声が聞こえたので、その声を尋ねて行くと」と書いている。
〔訳注:歌の「哿波由」(かはゆ)に当たる部分は、「哿婆庾」などとの細かな字形の区別を確定できていない。川を流れるという意味で訳している。〕
【宣長の注釈】「須佐之男命」は、前後ではこの御名にみな「速」の字があるのに、ここだけないのは、脱けたのだろうか。
【宣長の注釈】「人有其河上」は、ここでは必ず「其河加美爾人有祁理登(そのかはかみにひとありけりと)」と訓むべきである。「人」を初めに読むのは、漢文の読み方である。「けり」は、推し量って、そうだと判断する意味のところに使うことが多い。
【宣長の注釈】「尋覓」の二字は「麻岐(まぎ)」と訓むべきである。「往者」は「伊伝坐志加婆(いでましかば)」と訓むべきである。
【宣長の注釈】「老夫」は「意伎那(おきな)」と訓むべきである。『和名抄』には、「翁は、孫愐の『切韻』に老人のこととある。和名は於岐奈(おきな)」とある。また、「古老」は「於岐奈比止(おきなひと)」、「耆宿」は「布流於岐奈(ふるおきな)」ともある。『日本書紀』では、老公・老夫・長老などを、みな「おきな」と訓んでいる。
【宣長の注釈】「老女」は「意美那(おみな)」と訓むべきである。『新撰字鏡』に、女偏に叟に似た旁を組み合わせた字を「於弥奈(おみな)」と訓む例がある。〔訳注:この外字の旁の正確な字形は留保する。〕この字は字書には見えず、その形から考えると、老女の意味で作った和字であろう。『続日本紀』巻十三には、紀朝臣意美那という女性の名も見える。そもそも老女を「おみな」というのは、若い女性を「袁美那(をみな)」というのと対にして、大きい・小さいという意味で老若を区別した呼び名である。また、伊邪那岐・伊邪那美などの御名の例を考えると、「おきな」「おみな」は、「き」「み」によって男女を区別した呼び名であろう。さて『和名抄』には、「『説文』に、嫗は老女の呼び名とある。和名は於無奈(おむな)」と見える。『日本書紀』の老婆・老嫗・老女や、『土佐日記』の「おきなおむな」も、老夫と老女の意味である。先に述べた『続日本紀』巻十三の紀朝臣意美那も、巻五には「音那」とあり、「家原音那」という名も同じ巻に見える。その注に「おむな」を「翁である女」と説明するのは誤りである。また、『万葉集』の「嫗」や、『日本霊異記』の「嫗、於于那(おうな)」などの例は、中古以来、「み」が音便によって「む」とも「う」ともなるためである。若い女性をいう「袁美那(をみな)」も、後には「袁牟那(をむな)」とも「袁宇那(をうな)」ともなったのと同じ例である。「意」と「袁」で老若を分けるのは、祖父母を「意知・意婆(おぢ・おば)」といい、親の兄弟を「袁知・袁婆(をぢ・をば)」というような例と同じである。ところが後世、「意」と「袁」の仮名が混同されてから、これらはすべて区別がなくなった。また師は、『万葉集』に証拠があるとして、老女は「於与那(およな)」と訓むべきで、『和名抄』の「於無奈」の「無」も「与」の誤りだろう、といわれたが、納得できない。そもそも「およな」という言葉が書物に見える例はない。
【宣長の注釈】「童女」は「袁登売(をとめ)」と訓むべきである。「をとめ」については、前の伝巻四・二十九葉に述べた。ここに「童女」と書くのは、まだ成長していないように聞こえるが、下巻には「この童女と結婚した」ともあるので、ここも、ごく幼い子供というわけではあるまい。『日本書紀』の少女・幼女・幼婦や、『万葉集』巻六の「漁童女」などの例があり、『和名抄』にも「小女、和名は乎止米(をとめ)。童女も同じ」とあるので、子供である者も「をとめ」というのである。また『和名抄』には「童女、女乃和良倍(めのわらは)」とあり、『日本書紀』巻五にも童女の例はあるが、ここはそのようには訓めない。『和名抄』には、信濃国の郷名に「童女」と書いて「乎無奈(をむな)」とする例もある。また「宇那韋(うなゐ)」と訓んでもよい。『和名抄』人倫部・老幼類に「髫髪、和名は宇奈為(うなゐ)」とあり、『万葉集』巻十六にも「童女波奈理(うなゐはなり)」などの例があるからである。髪形で人を呼ぶのは、「総角(あげまき)」「目刺(めざし)」などと同じである。今の世でも、男の子を「前髪」と呼んでいる。
【宣長の注釈】「置中而」は「那可爾須恵弖(なかにすゑて)」と訓むべきである。『万葉集』巻十一に、「人の親が娘を据えて守る山辺……」という例がある。『日本書紀』では、「間に一人の少女を置き、なでながら泣いた」と書いている。〔訳注:『万葉集』巻十一の参照丁数は、底本の小字が不鮮明で確定できていない。〕
【宣長の注釈】「泣」は「那久那理(なくなり)」と訓むべきである。この「なり」の使い方は、古文の言葉遣いをよく知る人なら分かるだろう。後の「喫」を「久布那流(くふなる)」と訓むのも同じである。一般に、こうした「なり」「なる」は、見聞きした事柄を、その当人とは別の側から述べるときに添える言葉である。ここでは老夫と老女の様子を、須佐之男命が御覧になる立場から述べ、後の「喫」は、遠呂智の様子を老夫が見ている立場から述べている。この言葉は、中古の物語の文章などにもしばしば現れるが、いい加減に読み過ごすため、注意する人がいない。
【宣長の注釈】「誰」は「多礼曽(たれぞ)」と訓むべきである。これを「多曽(たそ)」と訓むのはよくない。「己」を「於乃(おの)」、「我」を「和(わ)」、「汝」を「那(な)」という例にならい、「たれ」を「た」と縮めるのは、まだ分かる。しかし「そ」は必ず濁って「ぞ」になるはずなので、清音にするのは理解できない。
【宣長の注釈】「僕者」は「阿波(あは)」と訓むべきである。自分を指す「僕」の字を「夜都加礼(やつかれ)」と訓むのは、後世の文章ではそういうこともあろうが、上代にはそのような言葉はなかった。ただ「阿礼(あれ)」「於能礼(おのれ)」といったのである。『日本書紀』は「吾」と書き、この『古事記』も後では「我之女」と書いている。これが古い言葉のとおりである。「僕」と書く字は、漢文の決まりに従ったものである。
【宣長の注釈】「国神」は、大山津見神に掛かるようにも聞こえる。「子」の下には助字を置いて、ここの下には置かないことや、後に改めて「僕名」ということなどを考えると、たしかに大山津見神へ掛かるように思われる。しかし『日本書紀』には、「私は国神で、名を脚摩乳という」とある。また『古事記』にも、「私は国神で、名は猿田毘古神」「私は国神で、名を井氷鹿という」などの例がある。これらによれば、老夫が自分のことをいっているのである。したがって、ここでいったん読みを切るべきである。さて「国神」とは、高天原にいる神を「天つ神」と申し上げるのに対して、この国にいる神をいう。このことは伝巻三・三十一葉と五十葉に述べた。『神祇令』の『令義解』が天神と地祇を分ける説明には、疑問がある。ただ、物事はすべてこの国を基準に述べるので、「天つ神」とは申し上げても、特に対比もなく「国つ神」とはいわない。巻頭では五柱の天つ神を「別天つ神」としているが、その次にこの国に生まれた七代の神は、ただ「神世七代」といい、「国つ神の世」とはいわない。これもその意味である。「国つ神」は、天つ神と対比するときにだけいう呼び名である。ここも、天から降って来た神に向かって申し上げる言葉である。先に引いた猿田毘古神も同じである。また邇邇芸命のお言葉に「きっと国つ神の子であろう」とあるのも、天つ神の御子ではあるまい、という意味だからである。中巻の白檮原宮の朝廷の段の用例は少し異なるので、そこに至って述べよう。
【宣長の注釈】「大山津見神」は、前の伝巻五・四十四葉に出ている。『日本書紀』のここには、老夫がこの神の子であるとは書いていない。
【宣長の注釈】「足名椎」「手名椎」は、櫛名田比売をなでていとおしんだという意味の名で、「足撫豆知(あしなづづち)」「手撫豆知(てなづづち)」を縮めたものである。「づづ」を縮めると「づ」になる。したがってこれは、櫛名田比売が須佐之男命の妃になってから、その親に思いを寄せて付けた呼び名である。そうでなければ、子をかわいがったという意味を、初めから親の名に付けるはずがない。そうすると、ここで既に「私の名は」と名乗るのは、前後が逆になったように見えるが、後の呼び名を初めにまでさかのぼらせて語るのは、古い伝承では普通なので、差し支えない。足と手を分けて、父と母に割り当てたこと自体には、特別な意味はない。「石根拆」を分けて石拆神・根拆神というのと同じく、「足手撫」ということを分けて名にしただけである。ただ、足を父の方にしたのは、昔は「手足」とはいわず、「足手」といったためであろう。今も「足手まとい」などでは足を先にいう。『日本書紀』のある伝えでは、「足摩手摩」を父一人の名にもしている。「椎」は借り字で、「野椎」などのように、何々「豆知(づち)」という例は多い。前の伝巻五・四十五葉に述べたとおり、「豆」は「之」に通じるつなぎの言葉で、「知」は神などを呼ぶ称号である。『日本書紀』が「摩乳」と書く文字にとらわれ、「知」を乳で養う意味だとするのは、例も調べず、古語のあり方も知らない誤りである。乳で養うことを、ただ「乳」とだけいって意味が通じるだろうか。また父に、乳で養うという意味の名を付けるだろうか。
【宣長の注釈】「妻の名」「娘の名」について。これまでに、この老女は妻で、童女は娘である、と申し上げた言葉はないが、妻子であることは自然に分かるので、すぐこのように申し上げている。『日本書紀』も、娘については「この童女は私の子です」といってから名を告げるが、妻についてはそうした言葉がなく、この『古事記』と同様、すぐ「私の妻は何々といいます」と述べている。
【宣長の注釈】「櫛名田比売」の「櫛」は借り字で、『日本書紀』は「奇」と書く。すぐれたものをたたえる美称である。例はこの『古事記』の櫛八玉神・櫛石窓神・櫛御方命など、ほかにも多い。「名田」は「稲田」で、地名である。その由来は後で述べる。「久志(くし)」から続くため、「し」に「い」の響きが含まれて、自然に「なだ」といわれるのである。『日本書紀』は「奇稲田媛」と書いている。これも師が「くしなだひめ」と訓んだのが、古語の読みである。また、ある伝えでは単に「稲田媛」ともいう。これは「伊那陀(いなだ)」と訓むべきである。「真髪触奇稲田媛」という名もあり、これは枕詞を付けたものである。このことは師の『冠辞考』に見える。『延喜式』神名帳には、山城国相楽郡の綺原坐健伊那太比売神社、能登国能登郡の久志伊奈太伎比売神社がある。『出雲国風土記』には、「久志伊奈太美等与麻奴良比売命」ともいうが、これには誤字などがあるのだろう。
【宣長の注釈】「自本」は、普通に「固(もとより)」というのとは少し異なり、今の言葉で「元来」という意味である。
【宣長の注釈】「八稚女」は「夜袁登売(やをとめ)」と訓むべきである。『日本書紀』には、「以前、私の子には八人の少女がいた」と書いているが、「八」はいつものように、ただ多いことをいうので、娘が何人もいた、という意味だろう。白檮原宮の段には「七媛女」、日代宮の段には「二嬢子」などの例もある。
【宣長の注釈】「在」の字は、延佳本では「有」としている。たしかにそうあるべきだが、日本の古い書物では、この二字を同じように使っている。
【宣長の注釈】「高志」は地名である。『和名抄』に、出雲国神門郡の「古志」とあるのがこれである。その名の由来について、『出雲国風土記』には、「古志郷は郡家に属する。伊弉弥命の時に、日淵川をせき止めて池を造った。そのとき古志国の人々がやって来て堤を造り、宿泊した所なので、古志という」とある。「伊弉弥命」はどのような神なのか、疑わしい。また「古志国」の下には「人」の字が脱けているのだろうか。同じ郡の狭結駅についても、「古志国の佐与布という人が来て住んだので、最邑という。そこに来て住んだ事情は、古志郷の説明のとおりである」とあるが、この説には疑問がある。さらに後の八千矛神の段で述べよう。「コ」の音仮名に「高」と書く例は、中巻にもある。これについては伝の首巻に述べた。
【宣長の注釈】「八俣遠呂智」について。「八俣之」と「之」を添えて「やまたの」と訓むのはよくない。前の八尋殿・十拳剣・八咫鏡などの各所で述べたとおりである。「八俣」は、続いて「身一つに八つの頭と八つの尾がある」という、そのことである。『日本書紀』にも「頭と尾に、それぞれ八つの分かれがある」と書いている。「遠呂智」は、『日本書紀』では「大蛇」と書く。『和名抄』には、「蛇、和名は倍美(へみ)。一説に久知奈波(くちなは)。『日本紀私記』では乎呂知(をろち)という」とある。今の俗語では、小さく普通のものを「くちなわ」、やや大きなものを「へび」といい、きわめて大きなものを「蛇(じゃ)」、さらに大きなものを「うわばみ」という。「をろち」は、今の俗語で「蛇」というほどのものをいったのだろう。その名の意味は「尾於杼呂智(をおどろち)」で、尾が恐ろしく物々しいことをいうのであろう。「おどろ」は、『新撰字鏡』が「藪」を「於止呂(おどろ)」と訓む例や、「驚く」などと同じ言葉である。その「お」は、「遠(を)」の音に含まれるので省かれた。和泉国の郷名「呼唹」や、大隅国の郡名「囎唹」などは、いずれも「を」の音に「お」を添えている。また、「をど」が縮まって「を」になることによる。そもそもこの蛇は、この上ない霊剣を、ほかならぬ尾の中に持っていたので、その霊威によって、尾はほかの部分よりも特に威圧的で恐ろしかっただろう。そのため、尾によって名を呼ばれたのであろう。「智」は、いつもの称号で、例は前にも多い。『日本書紀』に「あなたは恐ろしい神である」と見え、欽明天皇紀では虎をも「威神」という例があるように、このようなものにも、たたえる呼び名として「ち」というのである。「みづち」などの「ち」も同じである。
【宣長の注釈】「来喫」は「伎弖久布那流(きてくふなる)」と訓むべきである。『出雲国風土記』には、神門郡に「来食池」という池がある。その由来は分からないが、言葉が同じなので引いておく。『口決』に、「大蛇に八人の子を飲まれながら、老公はその土地を去らず、大蛇を恐れず、天命に任せた」とあるのは、どういうことなのか。そもそも、このような中国風の考え方は、上代にはまったくなかったのである。
【宣長の注釈】「今其」の「其」の字は、諸本では「且」としている。もし「且」なら「麻多(また)」と訓むべきである。ここでは真福寺本と、もう一本に従った。「其」は、前に述べた遠呂智を指す古語である。漢文でいう「其」とは用法が異なる。
【宣長の注釈】「赤加賀智」は、『日本書紀』では「赤酸醬」と書き、「これを阿箇々鵝知(あかかがち)という」と注している。『和名抄』では、「酸漿、和名は保保豆木(ほほづき)」という。その名の意味は「赤赫都実(あかかがつみ)」で、「つみ」を縮めて「ち」というのである。『新撰字鏡』には「酸醬、加我弥吾、また奴加豆支(ぬかづき)」とある。「吾」は誤字だろうか。「加我弥(かがみ)」は、赤く輝く実という意味である。『和名抄』には、蟒蛇の和名を「夜万加加知(やまかがち)」というものもある。『日本書紀』は、猿田毘古神についても、「目は八咫鏡のようで、鮮やかに赤いほおずきに似ている」と書いている。
【宣長の注釈】「八頭八尾」は、師が「加志良夜都袁夜都(かしらやつをやつ)」と訓んだのが、日本本来の言い方である。
【宣長の注釈】「蘿」は「許祁(こけ)」である。『万葉集』にも、この字を多く書いている。『和名抄』には、「陸詞の『切韻』に、苔は水をおおう衣のようなものとある。和名は古介(こけ)」とある。谷川氏は、「こけ」は「木毛」であるという。『和名抄』は「蘿」を別に挙げ、「女蘿のことで、比加介(ひかげ)」、「女蘿、万豆乃古介(まつのこけ)」などとしているが、ここでの「蘿」は、ただ「こけ」の意味に使ったのである。
【宣長の注釈】「檜」は、『新撰字鏡』に「檜、比(ひ)」とあり、『和名抄』も和名を「非(ひ)」としている。
【宣長の注釈】「榲」は、諸本では「相」とするが、ここは延佳本に従った。古い書物では「須疑(すぎ)」にこの字を使い、「相」と書くことも多い。顕宗天皇紀には「振之神榲、榲を須擬(すぎ)という」と見え、『出雲国風土記』には「杉の字は相とも書く」とある。『万葉集』などでも「杉」「相」をともに用いている。『和名抄』には、「杉、和名は須木(すぎ)。今考えるに、俗に榲の字を使うのは誤りである。榲は柱のことで、『唐韻』に見える」とある。しかし漢籍にも、『集韻』に「榲、音は温。杉である」という例がある。これは宋代の書物だが、古い根拠があったのだろう。「榲」を「榅」とするのは普通のことで、「相」は「榅」を誤ったものだろう。なお、「すぎ」は「進木」である。この木は横へ広がらず、まっすぐ上へ進み上がる木だからである。「直木」とするのはよくない。「直」を「すぐ」という言い方は、古くはなかった。『日本書紀』はここを、「松や柏が背の上に生えている」と書いている。
〔訳注:この注で「榲」「榅」と示した字は、内部の細画が判別しにくく、当該箇所の字体を確定できていない。〕
【宣長の注釈】「長」は「那賀佐(ながさ)」と訓むべきである。「大きさ」「広さ」「長さ」という形の言葉は、奈良時代までには確かな例が見当たらないが、必ず使わずにはいられなかった言葉なので、このように訓んだ。これを「多気(たけ)」と訓むことはできない。「たけ」は「高」で、人や木・草など、立っている物についていう言葉である。蛇などは横に長い物で、高く立つ物ではないので、「たけ」というはずがない。
【宣長の注釈】「峡」を「袁(を)」と訓むべきことは、並ぶ「谿八谷」の例から明らかである。尾根の「尾」にこの字を書く例は、敏達天皇紀の「曲峡宮」、神功皇后紀の「活田長峡国」などにある。「峡」は、『和名抄』に「山間の狭い所で、俗に山乃加比(やまのかひ)という」とあるような意味なので、本来は尾根ではない。ただ、『荊州記』に「三峡七百里の間は、両岸に山が連なり、途切れる所がない」などとある、その山が長く連なる様子を取って、「尾」の意味に用いたのだろうか。『日本書紀』は、「八つの丘、八つの谷の間に、長く延び広がっている」と書いている。このほかにも尾根の「尾」には、『日本書紀』では「畝丘」「頓丘」など、「丘」の字を書くことが多い。山の尾根については、下巻の朝倉宮の段、伝巻四十二・八葉で詳しく述べよう。
【宣長の注釈】「悉常」は「許登碁登爾伊都母(ことごとにいつも)」と訓む。
【宣長の注釈】「血爛」は「知阿延多陀礼多理(ちあえただれたり)」、血でただれている、と訓むべきである。『日本書紀』には、このことはない。
【宣長の注釈】原注の「此謂……」という書き方について。この『古事記』でこのような注を置く例は、下巻の遠飛鳥宮の朝廷の段にある「夜麻多阿延多陀礼多理(やまたあえただれたり)」の注と、ここの注だけである。
【宣長の注釈】「是汝之女者」は、「許礼汝之女那良婆(これながむすめならば)」と訓むべきである。「是」は、その童女を直接指して仰せになった言葉である。
【宣長の注釈】「奉」は、字のとおり「多弖麻都良牟夜(たてまつらむや)」と訓むべきである。古くは「久礼牟夜(くれむや)」と訓み、『日本書紀』も同じである。これは、自分に「奉る」というのはどうか、と考えたための訓である。しかし上代には、身分の高い方が、自分に関わることも尊んで仰せになるのは普通だった。後世の考え方で疑うべきではない。「くる」という言葉も、『土佐日記』『うつほ物語』などに見えて、いくらか古くはあるが、それでも、ここをそのように訓むべきではない。
【宣長の注釈】「恐亦」は「加志許気礼杼(かしこけれど)」と訓むべきである。すぐに承諾して、お受けするべきではあるけれども、という意味の言葉である。師は、「亦」の上に「然」の字が脱けているはずだとして、「カシコシ、カレドモ」、恐れ多い、けれども、と訓んだ。これも一つの考えではあるが、やはり本文のままでよい。このような所でいう「恐」の意味は、次の説明と合わせて考えてほしい。
【宣長の注釈】「不覚御名」は「御名袁志良受(みなをしらず)」と訓むべきである。これは、どのような御方なのかも存じ上げない、という意味だろう。また、上古には、娘を嫁がせるには必ずその男が名を告げるのを聞く慣わしだったのか、とも考えられる。しかし返答に御名を名乗っていないので、先の意味であろう。『日本書紀』にはこの言葉はなく、ただ「仰せに従って差し上げましょう」とある。
【宣長の注釈】「伊呂勢」は、中巻・下巻では「伊呂兄」と書き、同じ母から生まれた兄をいう。「伊呂」とは、もともと、いとおしみ親しんでいう言葉である。このことは、中巻の浮穴宮の段、常根津日子伊呂泥命の名の下、伝巻二十一・十葉に詳しく述べたので、参照してほしい。師の説には、「伊呂」は「家等」で、『万葉集』巻十四の東歌に「伊波呂(いはろ)」という、そのことである。同母の子は母とともに同じ家にいるため、伊呂母・伊呂兄・伊呂弟・伊呂姉というのだ、とある。私は以前、この説こそ古代の実情をよく捉えたものと思っていたが、そうではなかった。さて、この命は弟でありながら、男神なので「兄」と仰せになるのである。そのわけは前の伝巻六・九葉に述べた。前に、天照大御神のお言葉にも「我那勢命(あがなせのみこと)」とある。
【宣長の注釈】「恐立奉」は、後に天尾羽張神の返答に「恐之仕奉」、事代主神の言葉にも「恐之此国者立奉天神之御子」、また下巻の穴穂宮の段に「恐随大命奉進」などとあるのと、同じ言葉の組み立てである。「恐」は「可志許志(かしこし)」と訓むべきで、すぐに承諾して、お受けする言葉である。今の世で、承諾することを「かしこまりました」といい、「畏み奉り候」などと書くのも、ここから出た言葉で、まったく同じことである。またここは、仁徳天皇紀の播磨速待の歌に「伽之古倶等望阿例椰始儺破務(かしこくともあれやしなはむ)」とあるのに、よく似た趣なので、「加志許久斗毛(かしこくとも)」と訓むのかとも考えた。それは、身分の低い娘を差し上げるのは、恐れ多くはあるけれども、という意味である。しかし、やはり先の読み方に従うべきである。「立奉」は「多弖麻都良牟(たてまつらむ)」と訓むべきである。このように書く例は、先に引いた事代主神の言葉や、木花之佐久夜毘売の段にもある。「立」の字を添えた理由は、まず「多都(たつ)」だけでも物を献上する意味で、「麻都流(まつる)」だけでも献上する意味であり、「たてまつる」は、もともとその二語を重ねた言葉だからである。また献上することを「麻陀須(まだす)」という例があり、それを「多弖麻陀須(たてまだす)」ともいうが、その「たて」も同じである。「たてまだす」については、伝巻十六・二葉で詳しく述べるので、考え合わせてほしい。さて「奉」の字は、「たてまつる」とも訓むが、普通に「まつる」だけの意味にも使うため、このように「立」を添えて書くこともある。献上することを「立」だけでいう例は、『大神宮儀式帳』の六月十七日の夜御食の直会歌にある「佐古久志侶伊須々乃宮仁御気立止(さこくしろいすずのみやにみけたつと)……」である。これは、御食を差し上げると、という意味である。また『万葉集』巻一の「山神乃奉御調等」、巻六の「宮柱太敷奉」などもある。この二つの訓は誤りのようにも見えるが、献上することを「たつ」ともいったため、古くからこう訓んだのであれば、これらも一つの証拠とすることはできるだろう。
【古事記本文】そこで速須佐之男命は、すぐにその童女を湯津爪櫛に変え、御自身のみずらに挿した。そして足名椎・手名椎の神に仰せになった。「あなたがたは、幾度も醸し直した八塩折の酒を造り、また垣をぐるりと巡らせなさい。その垣に八つの門を作り、門ごとに一つずつ、合わせて八つの佐受岐を組み、その佐受岐ごとに酒船を置きなさい。そして酒船ごとに、その八塩折の酒を満たして待っていなさい」。「佐受岐」の三字は、音を表すために用いている。仰せのとおりに、このように準備して待っていると、八俣遠呂智は、まさしく話していたとおりにやって来た。そして酒船ごとに、それぞれ頭を垂れ入れて、その酒を飲んだ。こうして飲み酔い、みな伏して眠った。そこで速須佐之男命は、腰にお佩きになっていた十拳剣を抜き、その蛇をずたずたに切り散らしたので、肥河は血となって流れた。その真ん中の尾をお切りになるとき、刀の刃が欠けた。そこで不思議に思い、刀の先で刺し割って御覧になると、都牟刈の大刀があった。この大刀を取り、ただならぬ物と思って、天照大御神に申し上げ、差し上げたのである。これが草那芸の大刀である。「那芸」の二字は、音を表すために用いている。
【宣長の注釈】「於湯津爪櫛取成其童女」は、「其童女袁湯津爪櫛爾取成(そのをとめをゆつつまぐしにとりなし)」と訓むべきである。「湯津」は、前の「湯津石村」の下、伝巻五・七十一葉で述べたとおりである。清潔の意味だとか、木の名だとかいうのは当たらない。「爪」は借り字で、「加都麻(かつま)」の初めを省いたものである。「かつま」は「堅津間(かたつま)」で、「たつ」が縮まって「つ」になる。櫛の歯が密に並び、間がしっかり狭まっていることをいう。「無間勝間小船」の「勝間」も同じ意味である。その箇所、伝巻十七・十二葉で、さらに詳しく述べよう。昔の櫛が爪の形だったとか、「妻櫛」という意味だとかいうのは、誤りである。「櫛」は、もともと「串」と同じ名である。黄泉国の段で櫛に火をともされたことを考えると、上代の櫛の歯はやや長かったため、串と同類なのである。「取成」の「取」は、軽く添えただけの言葉ともいえようが、やはり、手に取ってそうすることをいう。ここは、後に「その御手を取らせると、すぐにつららに変え、また剣の刃に変えた」とあるのと同じで、ある物を変化させ、別の物にすることである。『日本書紀』が「たちどころに奇稲田姫を変えて湯津爪櫛とし、御髪に挿した」と書く、その「化」の字で明らかである。古来、この「立化」の二字を「たちながら」と訓むのは当たらない。「立」一字なら、そのように訓むべきである。そして「化」と、下の「為」とを合わせて、「取り成す」という言葉に当てている。したがってこれは、比売の身体を櫛に変えて、須佐之男命が御自身のみずらにお挿しになったのである。ところが中古以来、異説があり、稲田姫の少女としての身なりを変え、櫛をその髪に挿して須佐之男命の妻にしたのだとか、須佐之男命が稲田姫の姿に変わり、櫛を作って御髪に挿したのだ、などというのは、すべて誤りである。さて、このようになさった理由は、何であるか分かりにくい。清輔の『奥義抄』には、「櫛に変えて、蛇に見せまいとなさったのだろうか。爪櫛は、悪鬼が恐れる物なのであろう。同じ神代紀にも、醜女に追われ、逃れる手立てがなくて、髪から爪櫛を取り出して投げると、そのとき醜女は追うのをやめて帰った、とある」と述べている。ただし、恐れて追うのをやめたとは、本文に書いていない。ここも、このような理由によるのだろうか。
【宣長の注釈】「御美豆良」は、前の伝巻六・十一葉に出ている。
【宣長の注釈】「八塩折の酒」は、『日本書紀』では「八醞酒」と書く。字書は「醞」を、酒を醸すこととも、長く醸した酒とも説明している。『和名抄』にも、「『説文』に、酎は三重に醸した酒であるとある」とあり、『漢語抄』には「豆久利加倍世流佐介(つくりかへせるさけ)」という。また『西京雑記』には、「元日に酒造りを始め、八月に出来上がるものを酎酒といい、別名を九醞という」とある。これを「夜志本袁理(やしほをり)」という理由について、『私記』には、ある説として、「一度醸して熟したものを搾り、汁を取って粕を捨てる。さらにその酒を仕込みの汁にして、もう一度醸す。このように八度行えば、濃く芳醇な酒になる。『塩』というのは、その汁を八度搾り返すためである。今の世でも、一度行うことを一塩という。『折』というのは、八度折り返すためである。これは古老の説である」とある。この説は、おおむねよいだろう。「八度折り返す」というのは、昔は何事でも、繰り返して行うことを「折」というのだろうか。物語の文章には「折り返し歌う」などの例がある。これは「折から」「折節」「その折」「かの折」などの「折」と、もともと同じである。また「よりより」の「より」も同じ言葉で、一度・二度を「ひとより」「ふたより」というのは、この「折」とまったく同じである。また、酒折池・酒折宮などの名もあることを考えると、「折」は特に酒を造ることについていう言葉なのだろう。さて『新撰字鏡』には、酉偏に戎を組み合わせた字を「志保留(しほる)」と訓む例がある。この字は「醲」の俗字と思われ、「醲」は『説文』に「濃い酒」と説明されている。これによれば、濃い酒を造ることを「しほる」といったのだろうか。「しほる」は、すなわち「志本袁留(しほをる)」が縮まった言葉で、幾度も折り返して醸す意味であろう。物を「搾る」というのも、ここから出た言葉である。また、色を染める回数を「ひとしお」「ふたしお」などというのも、もとは同じ意味で、「り」を省いた言い方なのだろう。では「志本(しほ)」とは、酒造りでも染め物でも、その汁をいう名なのだろうか。「潮」も、伊邪那岐大神の段に「潮を『こおろこおろ』にかき混ぜて固める」という古語があるのによれば、凝り固まる汁の意味である。そして、食べる塩は「潮」から出た名である。また「八塩折の紐小刀」という例もある。これは玉垣宮の段、伝巻二十四・三十一葉で述べよう。
【宣長の注釈】「醸」は酒を造ることをいい、古い歌のあちらこちらに見える。『新撰字鏡』には、「醸は酒を造ること。佐介加無(さけかむ)」と注している。この「かむ」を、口でかみ砕いて作るためだというのは、当て推量による誤りである。「かむ」は、『和名抄』が麹を「加無太知(かむたち)」としている、その「かびたち」で、今の言葉で「花が付く」ということなのである。したがって酒も、かびを生じさせて造る意味で「かむ」というのである。そのため「加毛須(かもす)」ともいう。
【宣長の注釈】「垣」は、「限り」と同じ意味である。
【宣長の注釈】「作廻」は、師が「作母登本志(つくりもとほし)」と訓んだのに従うべきである。「母登本志(もとほし)」は、「母登本良志米(もとほらしめ)」という意味である。「母登本留(もとほる)」は、つまり、めぐることである。『万葉集』巻十九に「大殿之此廻之等莫蹈禰(おほとののこのもとほしとなふみそね)」、また「大殿乃此母等保理能(おほとののこのもとほりの)」という例がある。この言葉は、白檮原宮の段の歌にも出ている。伝巻十九・四十五葉を参照してほしい。〔訳注:『万葉集』巻十九の引用に付く小字の参照丁数は判読を保留している。〕
【宣長の注釈】「毎門結八……」は、門ごとに一つずつ、門が八つなので、合わせて八つ組むことをいう。一門ごとに八つずつ、合計六十四、ということではない。古い文章には、このような言葉で、それとなく意味を通じさせる例が多い。大祓詞に、「天津金木を、本を打ち切り、末を打ち断って、千座の置座に……」というのも、「打ち断って」の下に「置座に作り」という言葉を省いて、そう分かるようにしているのと同じである。ここも、「門ごとに佐受岐を組み、八つの門を合わせて八つの佐受岐」といっては言葉が重なるため、省いて、その意味を伝えているのである。なお、八稚女・八俣・八頭・八尾・八谷・八尾・八塩折・八門の「八」は、どれも七つ八つと数える確かな八ではなく、もともとは、ただ多いことをいうのだろう。
【宣長の注釈】「佐受岐」は、『日本書紀』では「仮庪を八間作る」と書き、「仮庪を佐受岐(さずき)という」と注している。字書では、「庪」は高い台のある建物と説明し、また食物をしまっておく所ともしている。『和名抄』の古本には、「『類聚国史』に、仮床を佐受枳(さずき)というとある。今考えるに、仮に組んだ屋内の床の名である」とある。これらは、ただ文字に即して説明したものである。「佐受岐」は、後世、見物のために組む「佐自伎(さじき)」というもの、そのものである。「さじき」は、すなわち「さずき」がなまった言葉である。『日本書紀』の注釈にも、「今の世の桟敷」とある。「桟敷」の字は当て字なのに、それに従って「さむじき」と唱えるのは、ひどい誤りである。「さじき」という名は、物語の文章に多く見える。神功皇后紀の祈狩の箇所にも、「二人の王が、それぞれ仮庪にいると、赤い猪が突然現れ、仮庪に登った」とあり、雄略天皇紀にも、「夫婦の両手両足を木に張り、仮庪の上に置き、火で焼き殺した」などの例が見える。
【宣長の注釈】「置酒船而」は、『日本書紀』では、「それぞれ一つの酒槽を置き、酒を満たして待った」と書いている。
【宣長の注釈】「随告而、如此……」の「而」は、「そのとおりにして」という意味である。ここは「如此」の二字が余分のようにも聞こえる。師は、この二字を「志加(しか)」と訓んだが、そのように訓む箇所ではない。一般に「如此」という言葉は、その前で述べ終えたことを受けていうので、ここも「仰せのままにした」などといったん言い終え、その後にこの言葉を置くはずである。しかしここは、そのように言い切るのがよくないため、「而」で下へ続けている。それでも、意味の上ではいったん切って、「如此」といっているのである。これが古文の言い方であり、「而」の所を句の切れ目とすべきである。この『古事記』の普通の例では、「随」という所は必ずその下に「而」を置き、多くは「まにまに」と訓んで、「而」は読みを省く。ところがここは、その一般的な例とは異なって聞こえるのである。「而」までの一句は、もっぱら足名椎・手名椎に掛かり、「如此設備待」という所は、須佐之男命にも合わせて掛かる。そのわけは、「信如言」というのが、須佐之男命のお心を通して述べた言葉だからである。したがってここは、言葉としては切れていなくても、話の視点が移る所なので、「如此」というのである。『古今集』の序に、「難波津の歌は、帝の御初めなり。安積山の言葉は、采女のたはぶれより詠みて、この二歌は……」とあり、「詠みて」と続けながら「この二歌は」と話を転じる文章の運びは、ここに似ている。
【宣長の注釈】「信如言」とは、先に老夫が「今は、あれの来る時です」といったとおり、ということである。『日本書紀』にも、「その時になると、果たして大蛇が現れた……」とある。なお『日本書紀』では、ここに大蛇の姿を記しているので、この言葉にも、蛇の姿が話に聞いたとおりだった、という意味が含まれるだろう。
【宣長の注釈】「己頭」は、『日本書紀』に「頭各一槽飲酔而」とあるのと考え合わせると、「己」の字は「於能母於能母(おのもおのも)」と訓むべきである。ここは「おのが」というべき所ではない。『日本書紀』の「各」の下には、「低」などの字が脱けているはずで、今の本文のままでは意味が通じない。「それぞれ一槽の酒を飲み尽くす」などとするのは、無理な解釈である。前にも述べたように、「各」は「己々」で、『続日本紀』巻二十六には、実際に「於乃毛於乃毛(おのもおのも)」という例がある。
【宣長の注釈】「垂入」の二字は、「多礼弖(たれて)」と訓むべきである。
【宣長の注釈】「死由」の二字は、明らかに誤りである。真福寺本では、「死由」を縦に詰めたような一字で書いている。このため考えるに、本来は「皆」の一字だろう。「皆」とは、八つの頭がみな、ということである。〔訳注:ここで比較される真福寺本の一字の正確な字形は、底本画像でも細部が不鮮明なため留保する。〕
【宣長の注釈】「御佩きになっていた十拳剣」について。この剣のことは、『日本書紀』のある伝えに、「蛇を断ち切った剣は、蛇之麁正と名付ける。これは今、石上にある」とある。また別の伝えには、「蛇の韓鋤の剣で斬った……その蛇を斬った剣は、今、吉備の神部のもとにある」といい、さらに別の伝えには「天蠅斫の剣で斬った」とある。『古語拾遺』には「天十拳剣で斬った」とあり、「その名は天羽々斬。今、石上神宮にある」と注している。この石上を、ある伝えには「吉備の神部のもと」ともあることから、備前国赤坂郡の石上布都之魂神社だとする説がある。たしかに、ひととおり読めば誰もそう思うが、よく考えるとそうではない。これほど名高い大和の石上を差し置き、吉備のものを、ただ「石上」とだけいうだろうか。もし吉備のものなら、必ず「吉備の石上」などというはずである。したがって、やはり大和の石上であろう。ここからは推測して述べるが、崇神天皇紀の六十年に、矢田部造の遠祖、武諸隅を使者として、出雲大神宮に納められた神宝を召し上げ、御覧になったことがある。矢田部造は、『姓氏録』によると物部氏の分かれである。垂仁天皇紀の二十六年には、物部十千根大連に命じて出雲の神宝を調べさせ、そのまま神宝を管理させた。また八十七年の記事には、この同じ人が石上の神宝を管理すると見える。そうすると、この須佐之男命の御剣は、出雲の神宮に納められていたものを、崇神・垂仁天皇の御代などに、ほかの神宝とともに都へ召し上げ、その時から石上に納められたのだろうか。石上にさまざまな神宝を納めたことは、ほかにも垂仁天皇紀に見える。その後、何らかの事情で備前国へお移ししたのだろう。その時、大和のもとの宮の名を取って、そこも石上布都御魂神社と申したのであろう。いずれにせよ、「石上布都魂」という名が、大和のものから出たことは明らかである。そうであれば、『日本書紀』や『古語拾遺』の「石上にある」というのは、初めに大和にあった時の伝え、「吉備にある」というのは、お移りになった後の伝えなのだろう。ところが備前の石上社の伝説では、神剣は昔、大和の石上へ移し申し上げ、この社にはいらっしゃらないという。どういうことであろうか。また、この剣が吉備にあるという記事から、須佐之男命が蛇を斬ったのも実は備前国であり、簸川という川も備前にあって、出雲の斐川ではない、という説もあるが、信じられない。
【宣長の注釈】「切散」は「伎理波布理(きりはふり)」と訓むべきである。水垣宮の段に「斬波布理其軍士」とあるのによった。詳しくはその箇所、伝巻二十三・八十一葉で述べよう。『日本書紀』には「寸斬」、細かく斬った、とある。
【宣長の注釈】「変血」は「知爾那理弖(ちになりて)」と訓むべきである。『日本書紀』のここには、このことは見えない。仁徳天皇紀の六十七年、笠臣の祖先の県守が、備中国の川嶋川の川分かれにいた大虬を斬る所に、「川の水が血に変わった」とある。「変」を「かへぬ」と訓むのは、「かへりぬ」という意味である。「かへる」は、色が変わることをいう。
【宣長の注釈】「中の尾」について。これは尾が八つなので、端にあるものも、真ん中にあるものもあるのである。
【宣長の注釈】「御刀」は、すなわち先の十拳剣である。
【宣長の注釈】「刃毀」の「毀」は、「加気伎(かけき)」と訓むべきである。「き」は語尾の助辞である。尾の中に剣があるため、それに当たって刃が欠けたのである。
【宣長の注釈】「都牟刈の大刀」について。「刈」を「伎(き)」と訓む根拠はなく、「羽」とする本も誤りである。『日本書紀』には、ただ「剣」、あるいは「神剣」とだけある。「都牟賀理(つむがり)」とは、物を鋭く断ち切る様子をいう言葉で、今の言葉で「ずかり」、また「すかり」などというのがそれである。大神宮の神宝に「須我流横刀」というものがあり、『延喜式』や『大神宮儀式帳』などに見えるが、これを「須我利剣」ともいう。『延喜式』には、出雲国出雲郡の都我利神社という名もある。これらも同じ言葉である。そして「都流岐(つるぎ)」も、この「つむがり」が縮まった名である。「がり」が縮まって「ぎ」になり、「む」と「る」が通じる。そのため「都牟刈の大刀」は、「つるぎのたち」というのと同じである。師の『冠辞考』の「つるぎたち」の条にもこのことが見えるが、その説には紛らわしく、また違っている点がある。「都牟刈」は尖った意味だといいながら、また「刈」は大葉刈・草薙などのように、物を刈り切る意味だといっているのは、どうだろうか。今考えると、尖った意味ではあるまい。また大葉刈・草薙なども刀の鋭さをいう名ではあるが、大葉刈の「刈」は、木や草の葉を刈り切ることをいうので、都牟刈の「刈」とは異なる。「つむがり」は鋭く断ち切る様子をいう言葉で、「刈」は借り字である。この区別をよくしなければ、混同してしまうだろう。「大刀(たち)」は、師の考えにあるとおり、「断つ」という意味によって名付けたのであろう。物を断つ道具だからである。さて、古い書物では、「たち」とも「つるぎ」とも、同じ物を互いにいい換えている。「つるぎ」は、今述べたように、鋭く物を断ち切る様子をいう言葉なので、本来は「都流岐能多知(つるぎのたち)」というところを、省いて「つるぎ」だけでもいう。詳しく区別していうなら、「たち」は総称で、「つるぎ」はその働きを表す名である。書く字も、剣・大刀・刀・横刀などを互いに用い、違いはない。ところが『和名抄』に、「『四声字苑』に、剣に似て刃が一つのものを刀といい、刀に似て刃が二つのものを剣というとある」といい、また「属鏤」を『文選』の訓で「豆流岐(つるぎ)」とするのは、中国の定めである。これによって、「剣」は必ず「つるぎ」と読み、「たち」には必ず「大刀」と書くのだと思うのは、後世のことである。師が、昔のものは皆もろ刃で、片刃は後のものだといったのは、たしかにそのとおりである。ただ上代にも、小刀には片刃のものがあったと思われる例がある。玉垣宮の段の「紐小刀」は、必ず「比毛賀多那(ひもがたな)」と訓むべきで、『日本書紀』も「匕首」と書き、そう読んでいる。この「かたな」という名は、「片刃」か「片薙」の意味に聞こえる。そうであれば上代にも、小刀には片刃のものがあり、それを「かたな」といったのだろう。『和名抄』にも、「大刀、和名は太刀」「小刀、加太奈(かたな)」とあり、彫刻の道具にも「刀子、賀太奈(かたな)」とある。しかし片刃の方が便利なので、いつの間にか後には、大刀まですべて片刃にするようになったのだろう。天智天皇紀の三年には、「大きな氏族の氏上には大刀を、小さな氏族の氏上には小刀を賜った」とある。この小刀がもろ刃だったか片刃だったかは分からない。また武烈天皇紀の歌の「飫裒陀智(おほだち)」は、大刀の中でも大きなものをいうのだろう。
【宣長の注釈】「故取此大刀」の五字は、古い版本と、ある一本にはない。ここでは真福寺本と延佳本に従った。
【宣長の注釈】「ただならぬ物と思い、申し上げた」という所について。『日本書紀』には、「これは神剣である。どうして私が、自分だけの物として手もとに置けようか」といい、天つ神に献上した、とある。『古語拾遺』も同じである。また別の伝えには、「これは私が自分だけのために使ってはならない」といい、五世の孫の天之葺根神を遣わして、天に差し上げた、とある。ただ「天つ神」や「天」というのは、はっきり天照大御神に献上したのではないようにも聞こえる。しかしこの大刀は、後に御孫命にお授けになったのだから、天照大御神のお手もとに納められたことは明らかである。別の伝えに「この剣は素戔鳴尊のもとにある」とするのは、理解できない。「白上」は、この大刀を得た出来事のありさまを申し上げ、献上したのである。御自身で高天原へ参上したのではなく、人を遣わして献上したのである。「申し上げる」という言葉から、自然にそう分かる。「上」は、この国から高天原へ上ることによっていう。そもそもこの大刀のことは、初めに伊邪那岐大神が迦具土神をお斬りになった際、御刀に付いた血から生まれた樋速日神が、斐伊郷にお住みになり、その川の上流で、今、須佐之男命がこのように大蛇を斬って、川が血に変わって流れるということ、またその尾の中から霊剣を得たということの間には、深い縁があるのだなあ。また樋速日神とともに生まれた建御雷神の御大刀が石上(石上神宮)に鎮座しているので、この須佐之男命の御大刀も同じく石上にいらっしゃるのは、やはり縁のあることなのである。
【宣長の注釈】「草那芸の大刀」は、後に出る箇所では、どれも「大刀」を「剣」と書くが、同じことである。『日本書紀』にも、「草薙剣、これを倶娑那伎能都留伎(くさなぎのつるぎ)という」とある。ここでこのようにいうのは、後に付いた名を挙げて知らせたのである。『日本書紀』には、「これが、いわゆる草薙剣である。ある伝えにいう、もとの名は天叢雲剣である。大蛇のいる上には常に雲気があったため、この名が付いたのだろうか。日本武皇子の時に至り、名を草薙剣に改めた」とある。この大刀については、倭建命の段で、さらに述べよう。伝巻二十七・四十六葉と五十六葉、巻十九・二十三葉、巻二十八・十九葉を参照してほしい。
【古事記本文】こうして速須佐之男命は、宮を造る土地を、出雲国にお探しになった。須賀の地に着くと、「私はこの地に来て、心がすがすがしくなった」と仰せになり、その地に宮を造ってお住みになった。「須賀」の二字は、音を表すために用い、以下も同じである。そのため、その土地を今でも須賀という。この大神が初めて須賀宮をお造りになったとき、その地から雲が立ち上った。そこで御歌をお詠みになった。その歌は、「幾重もの雲が立つことよ。立ち出る雲は幾重もの垣。夫婦が籠もるため、雲が幾重もの垣を作る。その幾重もの垣よ」。原歌は「夜久毛多都/伊豆毛夜幣賀岐/都麻碁微爾/夜幣賀岐都久流/曾能夜幣賀岐袁」である。そして足名椎神を召し、「あなたは、私の宮の長となりなさい」と仰せになり、また、稲田宮主須賀之八耳神という名をお付けになった。
【宣長の注釈】「是以」は、櫛名田比売を得たことを受けていい、宮を造ることに掛かっている。
【宣長の注釈】「宮を造るべき地」は、「宮」の字が意味の上では「作」の下に来るものとして読むべきである。「宮」は御住まいである。ここで宮を造るのは、もっぱら櫛名田日女と結ばれるためである。『日本書紀』に「その後、結婚しようとする場所を尋ね歩いた」とあり、それがこの文章に当たることから分かる。上代には一般に、結婚するには、まずその家を造ったように見える。伊邪那岐・伊邪那美大神の時も、先に八尋殿をお建てになったことを考え合わせるべきである。『出雲国風土記』も、神門郡八野郷について、「八野若日女命がここにいらっしゃった。その時、天下を造った大神、大穴持命が、娶ろうとして屋を造らせたため、八野という」と述べている。
【宣長の注釈】「須賀の地」は、『日本書紀』に「ついに出雲の清地に至った」とあり、「清地を素鵝(すが)という」と注している。この注の「地」は、「行」の誤りだろう。
【宣長の注釈】「我が御心すがすがし」は、「須々賀々斯」とする本もある。これは古い書物の書き方である。『日本書紀』には、「そこで、私の心は清らかになった、といった」とある。この言葉の意味は、「すすがしき」である。「すすぐ」を「すすがしき」というのは、「さわぐ」を「さわがしき」、「もどく」を「もどかしき」というのと同じ形の言葉遣いである。『源氏物語』などにも「すがすが」という言葉は多いが、それは滞りなく速やかに事が進む意味なので、ここでの意味とは、もとから別なのだろうか。それとも、汚れがなく清らかなことと、滞りのないこととは似ているので、もとは一つの意味なのだろうか。このことは、中巻の明宮の段の「須久須久登(すくすくと)」という言葉の箇所で、詳しく述べよう。今この地においでになったので、お気持ちが洗われたように、清らかに感じていらっしゃるのである。今の言葉で、心が清々する、というのと同じである。『出雲国風土記』の意宇郡安来郷に、「神須佐乃烏命は、天を離れて巡っていらっしゃった。その時、この地に来て、『私の心は安らかで穏やかになった』と仰せになった。それで安来という」とあるのと、合わせて見てほしい。場所は違っても、出来事のありさまはまったく同じなので、古い伝えの意味を、照らし合わせて知るべきである。「安らかで穏やかになった」というのも、心が落ち着く意味なので、心が清々するというのと同じである。したがって、ここはただ、その時に御自身で感じたお気持ちをいうので、普通にいう「心持ち」である。お心全体の善悪を判定したものではない。それを、穢れた悪い心がなくなり、清らかな善い心へ変わった意味だとするのは、よく調べていない説明である。中国の思想にとらわれた学者には、何でも儒教・仏教の心の修め方によって説明しようとする癖があるので、このお言葉などを取り上げ、心の祓除などというのは、ひどく無理な説である。また同じ『風土記』の秋鹿郡多太郷に、「須佐能乎命の御子、衝杵等乎而留比古命が、国をめぐっていらっしゃる時、ここに来て、『私の心は明るく正しくなった。私の心が明るく正しくなる所は、ここだ』と仰せになり、『ここにいよう』と仰せになって鎮まった。そのため多太という」とあるのも、似たことである。そもそも前に、既に鬚や爪まで抜いて祓をなさったが、まだ穢れが尽き終わらなかったのか、その後にも、大宜都比売神を突然殺すという悪い行いがあった。しかし、その神の身体にさまざまな物が生まれ、世の中が大きな利益を得たのは、祓除の功徳であり、悪い出来事の中から、早くも善い出来事が始まったのである。そして後に、大蛇を断ち切り、この上ない霊剣を得て献上した、その比類のない功績によって、それまでの穢れはすべて尽き果てた。そのため、今は自然に、お気持ちがすがすがしくなったと感じていらっしゃるのであろう。蛇を殺して人々への害を除いたことを功績とするのは、当たらない。その程度のことは、この神にとって、たいした功績でもあるまい。さて、「この地に来て」と、その土地に結び付けていうのには、この地にも深い理由があるのだろう。それは普通の人の心では測りにくい。そもそもこの地は、櫛名田比売と結婚し、そこから生まれる御子孫が、天下に大きな功績を立てる、その始まりの土地である。この地に来て、お心がすがすがしいとお感じになったのも、まことにもっともなことであった。
【宣長の注釈】「宮を作って坐す」の「坐」は、先の「到り坐す」の「坐」とは異なり、お住みになるという意味なので、「麻志麻志気流(ましましける)」と訓むべきである。初めの「まし」は住む意味で、次の「まし」は敬意を表す言葉である。また下に「ける」を添えたのは、文の運びによる。「けり」といわず、特に「ける」というのは、前の「其地」を「曾許爾那毋(そこになむ)」と訓む、その「なむ」を受ける結びだからである。一般に文章には、このように前後で対応する言葉の決まりがあるのだが、後世の人の文章はみな乱れて、言葉のつながりを知る人がまったくいない。近ごろ文章を誇る人もいるが、やはりこれを知らない。ただ、この命は根国へおいでになるはずなので、現実の御身が長くこの地にお住みになるわけではない。『日本書紀』には「ついに根国へ向かった」とあり、『古事記』はここではそのことを述べ落としているが、後の文章になると、根之堅洲国にいらっしゃることが見える。したがって「坐」は、御霊が留まって熊野神宮に鎮座することを、後から述べた言葉なのであろう。その理由は、この後にも述べる。
【宣長の注釈】「今でも須賀という」の、その場所について。『出雲国風土記』を詳しく調べると、まず大原郡の須我山は郡家の東北十九里百八十歩にあり、須我小川は須我山を源とすると見える。同じ郡の御室山も、郡家の東北十九里百八十歩にあり、神須佐乃乎命が御室を造らせてお泊まりになったため、御室という、とある。この御室は、須賀宮とは別に造ったのだろうか。それとも、須我山も御室山も、ともに郡家の東北十九里百八十歩とあるので、近い場所であり、須賀宮のことを、このように伝えたのだろうか。同じ郡には、須我社も見える。また意宇郡の野代川は、郡家の真南十八里にある須我山を源とする、とある。この須我山も、先の大原郡の山をいうのである。須我山は大原・意宇の二郡にまたがり、その境にある。さて同じ意宇郡に、熊野山は郡家の真南十八里にあり、いわゆる熊野大神の社が鎮座する、とある。こうすると須我山と熊野山は並んだ場所なので、熊野神宮こそ、この須賀宮の場所なのであろう。ともに郡家の真南十八里とあるためである。そこで考えると、「久麻野(くまの)」は「隠野」の意味で、御歌の「都麻碁微(つまごみ)」によるのだろう。「くま」と「こもり」が通じることは、伝巻三・三十六葉で述べたとおりである。ある説には、須賀宮の地は出雲郡出雲郷で、『延喜式』の出雲神社がそれだという。御歌の「伊豆毛夜幣賀岐」によれば、この説も根拠がないわけではない。しかし『風土記』に、山・川・社などの名に実際に「須我」が見え、御室山の伝説や熊野の御社もある。これらを考え合わせると、やはり先の考えに従うべきである。また杵築大社の辺りに、今、須賀宮の跡とする所や、八雲山などという所があるのは、後世の作り話である。この神宮は、『延喜式』の意宇郡熊野坐神社、名神大社とあるものに当たる。『風土記』では熊野大社といい、『文徳実録』巻三の仁寿元年九月には、出雲国の熊野・杵築の両大神に、ともに従三位を加えたとある。『三代実録』には、貞観元年正月に正三位、五月に従二位、九年四月に正二位を授けたとある。さて、この社が須佐之男命であることは、国造神賀詞に、「出雲国の青垣の山の内、地底の石根に宮柱を太く立て、高天原へ千木を高く上げて鎮座する、伊射那伎のひまなご、祖神熊野大神櫛御気野命」とあり、『風土記』にも、「伊弉奈枳のまなごでいらっしゃる熊野加武呂乃命」とあることから分かる。伊邪那岐命の御子は多いが、その中でも天照大御神・月読命・須佐之男命が、特に愛する御子であることは、前にも見える。「日」は「日子」「日女」の「日」と同じである。「加夫呂伎(かむろぎ)」は、大名持命の祖先なので、出雲国では特にこのように申し上げるのである。櫛御気野命という御名を、別の神だと思う人もあろうが、そうではない。これは、熊野宮に鎮座する須佐之男命の御霊を、特にお呼びする御名だろう。同じ神賀詞にも、大穴持命を「倭大物主櫛甕玉命と名をお呼びして」とある。この名も、ほかには見えないことを考えるべきである。『延喜式』に、熊野と同じ郡に久志美気濃神社が別にあるのも、熊野の神を、さらに別に祀ったのだろう。『旧事紀』が須佐之男命を、熊野・杵築の神宮に鎮座するとするのは、いつもの根拠のない説である。また師の『祝詞考』が、熊野神社を穂日命の御子、健三熊命としたのは、「熊」という名によるのだが、誤りである。そうしては説明のつかないことが多い。「伊射那伎のひまなご」という点、また神賀詞だけでなく『文徳実録』『三代実録』などでも熊野を先、杵築を後に挙げ、神の位も杵築が一等低い点などは、健三熊命として説明できるだろうか。須佐之男命であることは、疑いないのである。
【宣長の注釈】「この大神」は、ここで初めて「大神」と申し上げ、これより後はみな同じである。伊邪那岐命も、黄泉国の段の次からは「大神」と申し上げている。どちらも理由があるのだろう。さて、ここは熊野宮に鎮座することを指して申し上げている。そうでなければ、改めて「この大神」というはずがない。「今でも須賀という」といった後で、その須賀宮に鎮座するこの大神、という意味が、自然に明らかなのである。須賀と熊野は、もともと一つだったが、やや後には、「須賀」という名が近くの山や川に残り、「熊野」という名が神宮に残って、とうとう別々のようになったのである。また、かの熊野久須毘命も、この地名から出た御名だろう。その命も、この熊野にお住みになったのであろう。
【宣長の注釈】「初作」は「都久理波自米賜(つくりはじめたまふ)」と訓んでもよいだろう。しかし、「この大神」というのは、この宮に鎮座することを後から述べたもので、ここは立ち返って、その初めを述べるのである。そのため「初」の字は、別に「波自米(はじめ)」と訓むべきである。
【宣長の注釈】「雲が立ち上った」のは、この地に宮を造って結婚すれば、よいことになるという瑞兆だったのだろうか。また、何の雲とも書かれていないので、ただ普通の雲が、何ということもなく立ったのかもしれない。『古今集』序の小注が、八色の雲が立つのを見て、とするのは、御歌の言葉から作った根拠のない説である。この出来事は『日本書紀』にはなく、御歌も、「ある説にいう」として載せている。
【宣長の注釈】「作御歌」は「美宇多余美斯賜(みうたよみしたまふ)」と訓むべきである。神武天皇紀にも、「御謡をする。謡を宇多預弥(うたよみ)という」とあり、『枕草子』にも、「うたよみしておこせたる」とある。今の世でも、女や子供の言葉にいうことである。なお「うた」という名や、「よむ」という言葉の由来については、私は別に詳しい説を持っているが、長くなるので、ここでは省く。
【宣長の注釈】「其歌曰」は「曽能美宇多波(そのみうたは)」と訓むべきである。「曰」の字は、漢文の決まりに従って書いたもので、古語に合わないので読んではならない。どこでも同じである。
【宣長の注釈】「夜久毛多都」は「弥雲起」で、「夜」は「弥」、雲が幾重にも重なって立つ意味である。雲が立ち上るのを御覧になった、そのままを仰せになったお言葉である。
【宣長の注釈】「伊豆毛夜幣賀岐」の「伊豆毛」は、「出る雲」で、「伊伝久毛(いでくも)」の「でく」が縮まって「づ」になったのである。これは国の名ではなく、ただ立ち出た雲をいう。「夜幣賀岐」は「弥重垣」で、幾重もあることをいう。ただし実際の垣ではなく、幾重もの雲が立ち出るのを、垣といい表したのである。雲や霧は、あちらとこちらを隔てることが、垣に似ている。前の「夜久毛」の「夜」を受けて、この「夜幣賀岐」の「夜」を理解すべきである。契沖は、宮の垣が速やかに出来る様子を、雲にたとえたのだという。師も、須賀宮を造ることを詠んだといったが、今よく考えるとそうではなく、ただ雲を、このように仰せになっただけである。また師の説では、出雲はもとから国名で、「夜久毛多都」はその枕詞である。そのわけは、「八雲立ち出づ」と直に続けず、「立つ」と声に出してから次の言葉をいうのが、普通の枕詞の形だからだ、という。ひととおり見ればもっともだが、やはりそうではあるまい。「立ち出づ」と続けず、まず「立つ」と言い切るのは、その時に御覧になったまま、「幾重もの雲が立つことよ」と、初めに仰せになったのである。そして、その雲が幾重もの垣をなしていると仰せになった。さて、この御歌の言葉から始まって、国の名を出雲と付けたのである。そのため「八雲立つ」も、その枕詞となった。『出雲国風土記』に、「出雲と名付けるわけは、八束水臣津野命が『八雲立つ』と仰せになったので、八雲立つ出雲という」とあり、また八束水臣津野命が「八雲立つ出雲の国は……」と仰せになるのは、この御歌の言葉に基づいて、後に仰せになったのである。つまり、須佐之男命が「八雲立つ出雲」とお詠みになった、この国は、という意味である。文章の意味をよく味わって知るべきである。臣津野命がこのように仰せになったことによって、とうとう国の名になったのである。臣津野命は須佐之男命の四世の御孫で、この後に出る。諸国の例では、郷名から郡名を取り、郡名から国名を取ったものが多い。この国にも出雲郡出雲郷があるので、初めはこの郷から出た国名なのであろう。臣津野命が「八雲立つ出雲の国は」と仰せになったのは、広く一国を指しているが、それを仰せになったのは出雲郡出雲郷の辺りでの出来事だったため、まずその場所の名に付けたものが、後に広い地域の名にもなったのである。その文章は、意宇郡の条に、臣津野命が出雲国を整えたことを述べる箇所に出る。その整え方は、まず出雲郡の辺りから始め、意宇郡の方で終えた趣であり、「八雲立つ出雲の国は」と仰せになったのは、整え始めようとした時の言葉なので、その場所は必ず出雲郡である。そもそも、須佐之男命が初めに御歌を詠んだのは須賀宮なのに、出雲という郡・郷は、遠く離れた別の所にある。私も初めは大いに疑っていたが、よく詳しく考えると、今述べたような事情で、疑いなく明らかなのである。
【宣長の注釈】「都麻碁微爾」は「夫妻隠」で、夫婦が籠もるために、という意味である。「都麻(つま)」は、夫に対して妻をいうだけでなく、妻に対して夫をもいう呼び名で、夫婦の間で互いをいう。今の言葉の「連れ合い」に当たる。そのため、ここでは夫婦の両方を含めていっている。さて「微」の字は、『日本書紀』では「味」とあり、その場合は意味が少し異なるだろう。「碁微(ごみ)」は「碁母理(こもり)」の縮まった形で、「碁味(ごみ)」は「碁毋良世(こもらせ)」の縮まった形なので、「碁味」なら、夫婦を籠もらせるために、という意味になる。この句を「妻とともに」の意味に取り、稲田比売と一緒に宮を造ることをいうのだとする説は、通らない。夫婦が籠もるという例については、前の「久美度」の説明、伝巻四・三十三葉で述べたとおりである。
【宣長の注釈】「夜幣賀岐都久流」は「弥重垣造」で、ここも実際の垣をいうのではなく、その雲が垣をなすことをいっている。
【宣長の注釈】「曾能夜幣賀岐袁」の「曾能」は「その」で、「都麻碁微爾」の句を受けていう。このように二度、前の言葉を繰り返していうのは、古い歌の普通の形である。中古以来はこの形がなくなるが、今の世で世間に歌われる歌には、よく見える。これは歌謡の自然な勢いであり、繰り返せば、その情感が深くなるのである。最後の「袁」は、ただの助辞で、「よ」というようなものである。この形は多いので、後に述べる。「を作る」と前へ返る意味のようにも見えるが、古い意味はそうではない。さて、一首の意味を通していうと、「今、私が須賀宮を造るその時、幾重もの雲が立つことよ。この立ち出る雲は、幾重もの垣をなしている。私たち夫婦が籠もるこの宮のために、雲も幾重もの垣を作ることよ」とお詠みになったのである。すべて雲のことだけをいっているのに、妻を籠もらせるために、今、私がこの宮の垣を造る、という意味を兼ねて読むのは誤りである。言葉をよく味わって理解すれば、明らかになるだろう。このほかの意味は何もない。後世、神道や歌道の人々が、この御歌にさまざまな大げさな説を付け、秘密の教えなどと、もったいぶっていうようだが、みな古代を知らない根拠のない説なので、論ずるにも足りない。また稲田姫の返歌として存在するものも、古い伝承ではなく、後世の作り事である。この御歌に、なお遠呂智のことを読み込み、「八重垣を造る」のは警戒の意味だ、などというのも、まったく根拠のないことである。
【宣長の注釈】「於是喚……」の「喚」は「米志弖(めして)」と訓み、下の「任」の字は「多礼(たれ)」と訓むべきである。その理由は次に述べる。
【宣長の注釈】「首」は、「都加佐(つかさ)」と訓んでも誤りではないが、やはり「意毘登(おびと)」と訓むべきである。姓で何々の首というのも、同じように訓むべきである。『私記』にも「忌部首、於比止(おびと)と読む」とある。『日本書紀』が三輪君子首・忌部首子首などという名を「子人」とも書くのは、「子」の音の末に「お」を含むため、自然に「古毘登(こびと)」と唱えられるからである。元明天皇紀で、大津連意毘登という人の名を、元正天皇紀・聖武天皇紀では「首」と書いている。これを「意宇登(おうど)」と訓むのは、旅人を「たびうど」、商人を「あきうど」、蔵人を「くらうど」という類いの音便で、正しくない。古い書物を訓むときに、このような音便の言葉を混ぜるべきではない。またその字を「布」と書くのも誤りである。これは「ひ」の通じる音で、「ふ」というのではなく、このような音便の仮名はすべて「宇」である。さて「おびと」は、もとは尊称で、「大人」という意味なのだろう。『日本書紀』が「宇志(うし)」を「大人」と書くのも、漢文としては合わない字なので、この「大人」と意味が同じため、転用して書いたのであろう。尊んでいう例は、允恭天皇紀に「おびとよ、私は忘れない」とあり、これは相手を指していっている。長という意味に使う例は、景行天皇紀の「村の長がなく、邑の首がない」、顕宗天皇紀の「縮見屯倉首」、孝徳天皇紀の「村首、首は長の意味」などにある。ここでいう「首」は、後世の三后宮や春宮など、各宮の長官のような者をいうのである。
【宣長の注釈】「任」を「多礼(たれ)」と訓むべき理由を述べる。「たり」という言葉には二つあり、「登阿理(とあり)」と「弖阿理(てあり)」が縮まったものである。ここは「とあり」が縮まった「たり」を、命ずる言葉にするため、「たれ」と訓む。「たれ」は、すなわち「とあれ」である。まず「任」の字は、何々の官を拝する、という「拝」と同じで、「与佐須(よさす)」「麻気賜(まけたまふ)」「米須(めす)」の三つの訓があるが、「よさす」はここに合わず、「まけたまふ」とも訓めない。「まけ」は、都から他国の官へ赴かせる意味で、「まからせ」を縮めていうのである。『万葉集』にはこの言葉が多く、みな地方の官になって赴くことにだけ使っている。注意して見てほしい。『史記』南越列伝に「天子は参を退かせた」とあり、その訓からも、「まけ」が「まからせ」であることを悟るべきである。それなのに、都の官への任命まで「まけ」と訓むのは、むやみなことである。ここに合うのは「めす」という訓である。その人を召し寄せて官を授ける意味で、「司召(つかさめし)」というのがそれである。顕宗天皇紀に山官を拝する例、推古天皇紀に僧正・僧都を任じる例、天武天皇紀に高市大寺を造る司を拝する例などがある。上代には、もとの住まいにいる人を都へ召して官に任じたので、「召」という。その呼び名は後までも残った。『古今集』雑部の詞書に、「もろこしの判官にめされて……」とあるのは、異国へ遣わすのだから「まけられて」とあるべきで、違っているように見える。しかしその時代には、既に「まけ」という呼び名が廃れ、すべて「めす」といったのである。「県召」もこれと同じである。また、いわゆる大臣任命を、『後撰集』『栄花物語』などで「大臣召」というのは、古い意味によく合う呼び名なのである。このように、同じ「任」の字でも、官によって日本の言葉は異なる。さて、ここでは前に「喚」とあるのが、この召す意味に当たるので、「任」の字は「たれ」と訓むべきなのである。『日本書紀』に、「結ばれて大己貴神を生み、そのため『私の子の長は、脚摩乳・手摩乳である』と仰せになった」とあるのは、伝承が異なるのである。
【宣長の注釈】「名を負わせ、何々と号した」は、須佐之男命が、この名をお与えになったのである。
【宣長の注釈】「稲田宮主須賀之八耳神」の「稲田」は、須賀の地の古い名なのであろう。そのため稲田宮ともいったのだろう。そうすると「稲田比売」という名は、ここに宮を造って結婚したことによるはずである。それを父が初めに名乗っているのは、後の名をさかのぼらせて伝えたのである。「主」は「首」と同じ意味である。「須賀」は、ここでは既に地名である。先にただ「私の心はすがすがしい」と仰せになっただけでは、この神の名にまでお付けになるはずがないからである。『日本書紀』本文には、ただ「そこで二神に名を賜い、稲田宮主といった」とあるが、ある伝えでは初めから「稲田宮主簀狭之八箇耳」という。これも、後の名を初めにまでさかのぼらせていう証拠である。なお「須佐」という地名は飯石郡にもあるが、ここはそれではない。「須々賀(すすが)」を縮めて「須佐(すさ)」というので、すなわち須賀と同じである。先に「すがすがし」は「すすがすすがし」だと述べたことを考え合わせてほしい。また別の伝えでは、これを妻の名にしている。「八耳」は借り字で、「厳都美々(いかつみみ)」だろうか。「伊加都」という名の例が幾つもあるからである。「いか」は縮まって「や」になる。または「足撫耳」を縮めた名だろうか。「阿志那(あしな)」を縮めると「や」になる。「耳」が尊称であることは、伝巻七・五十四葉で詳しく述べたとおりである。もし「足撫耳」の意味なら、「足名椎」というのと同じである。足名椎・手名椎は、比売が須佐之男命の妃となってから付けた呼び名だろうと、前に述べたことを考え合わせるべきである。『日本書紀』のある伝えでこれを母の名にするのは、「手撫耳」が縮まって「多都耳(たつみみ)」となったのを、「たつ」と「やつ」を混同し、これも八箇耳と伝えたのだろうか。ところが「八耳」の文字にとらわれ、『口決』が、八方の音を聞くことをたたえた名だとするのは、この神にまったく縁のない、でたらめな説である。また聖徳太子を八耳と申し上げる例を引くのも、当たらない。太子を八耳と申し上げたことは、『古事記』にも『日本書紀』にも見えず、確かではない。仮にその御名があったとしても、太子は豊聡耳と申し上げたので、根拠がある。こちらには、そのような根拠がない。また、大祓詞のある一本に「棹鹿乃八乃耳……」とあるのを引くのも、納得できない。その言葉は『延喜式』所載のものには見えず、個人の説にすぎない。そのうえ鹿も神も耳が多くあるものではないので、「八乃耳」というはずがあるだろうか。
【古事記本文】そこで、その櫛名田比売と夫婦の交わりをして、お生みになった神の名を、八島土奴美神という。「土奴美」の三字は、音を表すために用い、以下も同じである。また、大山津見神の娘、名は神大市比売を妻として、子の大年神、次に宇迦之御魂神の二柱をお生みになった。「宇迦」の二字は、音を表すために用いている。
【宣長の注釈】延佳本と、ある一本には、初めの「故」の字がない。ここでは古い版本と、もう一本に、ともにこの字があるのに従った。このような所には、必ずこの字を置く決まりだからである。
【宣長の注釈】「比売」の下にある「以」の字を、「韋弖(ゐて)」、連れて、という意味に訓むのはよくない。日本の古い書物で、「ゐて」に「以」の字を使った例はない。
【宣長の注釈】「久美度邇起而」は、前の伝巻四・三十三、三十四葉に出ているので、考え合わせてほしい。
【宣長の注釈】「八島土奴美神」という名の意味は、「土」は「知」、「奴」は「主」である。この神から大国主まで六代の神の名のうち、五代にはいずれも「奴」があり、すべてこの意味である。「美」は、尊称の「耳」を略したもので、伝巻七・五十四、五十五葉に述べた例のとおりである。『日本書紀』に「八島篠」とあるのは「美」を略し、「八島野」とあるのは「知」と「美」を略して「主」とだけいったのである。「八島手」の「手」は「根」と通じ、これも尊称で、例が多いことは前に述べた。このように同じ名を略したり取り替えたりすることから、「土奴美」の三字は、みな尊称だと分かる。尊称には、略す、取り替える、重ねるという例がある。さて、この御名は、後に大国主神が国を造って天下を治めた時、その遠い祖先なので、このようにたたえたのだろうか。そうでなければ「八島知主」とはいうまい。『日本書紀』には、「清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠と号する。篠は斯奴(しぬ)という。別名は清之繋名坂軽彦八嶋手命。また清之湯山主三名狭漏彦八嶋野ともいう」とある。「三名」は「美都奈(みつな)」と訓むべきで、「み」は「御」である。「繋名坂」は「都奈佐加(つなさか)」と訓むべきで、「繋」の字には「つなぐ」という訓を取った。つまり、先の「みつなさ」の「御」を略した、同じ名である。「坂」を上古には「さ」とだけもいったことは、前に詳しく述べたので、「狭」も坂のことである。これらの御名は、古くからの訓も解説も、すべて誤っている。『旧事紀』が、この神の別名を大国主神とするのは、『日本書紀』本文で大己貴神を稲田姫の子としているのを見て、当て推量でいった、例の根拠のない説である。この偽書に惑わされ、あれこれいう人がいるのは、どうしたことか。
【宣長の注釈】「神大市比売」の、初めに「神」と置いたのは尊称である。同じ例は多い。「大市」は、『和名抄』に、大和国城上郡の大市、読みは於保以智(おほいち)、これは『日本書紀』の崇神天皇紀・垂仁天皇紀にも見える地である。三河国碧海郡の大市、播磨国揖保郡の大市、読みは於布知(おふち)、備中国窪屋郡の大市、読みは於布知(おふち)がある。『神名帳』には、伊勢国安濃郡の大市神社などがある。これらの地のうちに、この神と由来を持つ所があるのだろうか。
【宣長の注釈】「娶」は「美阿比(みあひ)」と訓むべきである。前の伝巻五に「御合」とあるのがそれである。ここは須佐之男命が妻と結ばれるのである。この字は普通「めとる」と訓むが、それは古い言葉ではあるまい。
【宣長の注釈】「大年神」という名の意味は、「大」はいつもの尊称、「年」は「田寄」である。「多余(たよ)」を縮めると「登(と)」になる。また「余世(よせ)」を「余佐志(よさし)」とも「余志(よし)」ともいう例は、古く多い。こういうのは、まず「登志(とし)」とは穀物のことだからである。神の霊力によって田に実らせ、天皇にお寄せし、差し上げるのでいうのである。田から寄せる、という意味で、穀物を「とし」という。祈年祭の祝詞に、「皇神等能依左志奉牟、奥津御年乎……」、神々がお寄せし差し上げようとなさる奥つ御年を、また「八束穂能伊加志穂爾、皇神等能依左志奉者……」、長く立派な穂として神々がお寄せし差し上げるならば、とあることから分かる。天下に実る穀物は、すべて神が天皇にお寄せし、差し上げるのだというのである。「奥津御年」は、師の説では稲をいう。稲は穀物の中でも遅く実るので、「奥」という。同じ稲でも、実りの遅いものを「おくて」ということから分かる。さて穀物を一度収穫する期間を、一年という。つまり、「とし」という名は、穀物の方がもとで、年月の年は後なのである。この神は、その穀物のことに大きな功績をお持ちだったため、この御名を負ったのである。諸国に大歳神社という社が多いのは、この神を祭るものもあろうし、それぞれの地で穀物に功績のあった神を、そう呼んで祭るものもあろう。中国の書物でいう「大歳」とは、大いに異なる。同じ字だからと、取り違えてはいけない。『倭姫命世記』には、真名鶴が稲穂をくわえ、持って回り、鳴いたとあり、その鶴を大歳神と名付けて祭った。これも穀物に功績があったからである。これを『神名秘書』という書物が、いまのこの神が鶴に姿を変えたというのは、名からの当て推量だろう。また朝熊社でこの鶴を祭り、「保於斗志神(ほおとしのかみ)」というのも、「於保斗志(おほとし)」を変え、穂を落とす、という意味に解釈したのだろう。
【宣長の注釈】「宇迦之御魂神」の「宇迦」は、前の伝巻五・五十三葉、大宜都比売の所、また六十葉、豊宇気毘売神の所で述べたとおり、食物である。『日本書紀』には、「伊弉諾尊は、また飢えた時に子を生み、倉稲魂命と号した。倉稲魂は宇介能美拖磨という」とある。「介」は、『日本書紀』では「か」を表す仮名としてだけ使い、「け」に使った例はない。大殿祭の祝詞には、「屋船豊宇気姫命。これは稲の霊である。俗の言葉では宇賀能美多麻」という。これらは、『古事記』で既に豊宇気毘売神とあった神に当たり、ここの神とは別である。それでも御名が同じなのは、働きが等しいからである。あちらは食物の根源となった霊で、こちらは、その食物のことに功績をお持ちだった神である。「御魂」とは恩頼、神の恵みのことで、「神霊」「霊」などと書くこともある。『万葉集』巻五に「阿我農斯能、美多麻多麻比弖」、わが主の恵みをいただいて、などとあるのと同じ意味で、その働きをたたえた名である。『日本書紀』神武天皇紀には、「食物の名を厳稲魂女とする。稲魂女は于伽能迷(うかのめ)という」とある。ある人が、倉稲魂と稲魂とは別だというのは、「倉」の字に惑わされた誤りである。この神武天皇紀を見てほしい。『和名抄』に、「稲魂の和名は宇介乃美太万(うけのみたま)。俗に宇加乃美太万(うかのみたま)という」とあるのは誤りである。これは『日本書紀』の訓注の「介」を「け」と読んだ誤りと思われる。ある書物には、稲荷神社の三座は、本殿が宇賀御魂、第二殿が須佐之男命、第三殿が大市比売だという。
【古事記本文】兄の八島土奴美神は、大山津見神の娘、名は木花知流比売を妻として、子の布波能母遅久奴須奴神をお生みになった。「知流」の二字は音を表している。この神は、淤迦美神の娘、名は日河比売を妻として、子の深淵之水夜礼花神をお生みになった。「夜礼」の二字は音を表している。この神は、天之都度閇知泥神を妻として、子の淤美豆奴神をお生みになった。「泥」には上声の印がある。「都度閇知泥」の五字と、神名「淤美豆奴」は、音を表している。この神は、布怒豆怒神の娘、名は布帝耳神を妻として、子の天之冬衣神をお生みになった。「布怒豆怒」は音を表している。「耳」には上声の印があり、「布帝」の二字は音を表している。この神は、刺国大神の娘、名は刺国若比売を妻として、子の大国主神をお生みになった。「大」には上声の印がある。別名を大穴牟遅神という。「牟遅」の二字は音を表している。また葦原色許男神ともいう。「色許」の二字は音を表している。また八千矛神ともいい、また宇都志国玉神ともいう。「宇都志」の三字は音を表している。合わせて五つの名がある。
【宣長の注釈】「兄」は「御阿爾(みあに)」と訓むべきである。『日本書紀』神代巻の「兄弟」、また垂仁天皇紀で御子たちの順序をいう所の「第一」も、「あに」と読んでいる。仁賢天皇紀にも「異父兄弟」などをそう訓んでいる。この呼び名は、中古の物語にも多い。今の人は「あに」というのを俗な言葉のように思うらしいが、言葉の形はたいへん古い。『和名抄』に、兄は「古乃加美(このかみ)」、母兄は「波良比止豆乃古乃加美(はらひとつのこのかみ)」とある。しかし「このかみ」は、もともと第一の子だけをいう呼び名である。「魁」「帥」なども、その中の長をいい、官庁でも長官を「かみ」という。それを、必ずしも第一の子に限らず、広く弟に対していうのは、「兄」の字の訓から転じた、後のことだろう。だから『日本書紀』応神天皇紀・仁徳天皇紀などで、長子を「このかみ」と訓むのは、よく合う。ここは前に三柱の女神がいらっしゃるため、長子ではないので合わない。また「いろせ」「いろね」などは同じ母から生まれた兄の呼び名なので、これもここには合わない。そうすると、ただ「せ」というのが、広く「兄」の字によく当たるが、ここではそう訓んでも語調がよくないのである。
【宣長の注釈】「木花知流比売」。神の名は、どれも美しくたたえるのが普通である。それなのに「花散る」とは、あの佐久夜毘売の段で「天つ神の御子の寿命は、木の花のように、はかなくなるだろう」といって、はかないもののたとえにしている。それを、このように名にお持ちになるのは、どういう理由だろうか。あるいは、この神は、まだ若く盛りの年齢で亡くなられたため、それを惜しんで付けた名なのだろうか。木の花のことは、後の木花之佐久夜毘売の所、伝巻十六・二十三葉で述べる。ある説が、この神を石長比売と同じ神だというのは、根拠がない。
【宣長の注釈】「布波能母遅久奴須奴神」の「布波」は、地名だろうか。「母遅」は、大穴牟遅の「牟遅」と同じである。あちらを大名持ともいうことを考えてほしい。「布波能母遅」と「大穴牟遅」は、全体に通じる響きがある。ただ「布波」を地名とするなら、「母遅」につながる時の「能(の)」という言葉がどうだろうかと思われるので、地名ではないのかもしれない。「久奴」は国主だろう。これには、あの八島知主・大国主の例もある。「須奴」は理解しにくい。強いていえば「知主」だろうか。「志流(しる)」は縮まって「須(す)」になる。あるいは「奴」は「美」の誤字だろうか。上の「久奴」の「奴」から、紛れた可能性がある。そのような例はあるのである。もしそうなら「須美(すみ)」である。「何々須美」という例は多く、前に述べた。
【宣長の注釈】「淤迦美神」は、前の伝巻五・七十七葉にも、後の伝巻十一・七十二葉にも出ている。さて、この神の娘というのは、この神を祭る社の神霊が、現実の男の姿になり、女性と結ばれてお生みになった女子である。この例は多く、詳しくは伝巻二十三・十三葉で述べるので、考え合わせてほしい。淤迦美神を祭る社は諸国に多い。その中で、ここがどの地なのかは分からない。
【宣長の注釈】「日河比売」の「河」の字を、諸本で「阿」と書くのは誤りである。もしその字なら「久麻(くま)」と訓むべきだが、古い書物に「くま」にこの字を使った例はない。遠江国に引馬という地名はあっても、やはり「阿」の字ではない。明宮の段の「矢河枝比売」という名の「河」の字も、延佳本は「阿」と誤っている。ここでは真福寺本に従った。さて「日河」は地名だろうか。『神名帳』では武蔵国足立郡に氷川神社があり、入間郡にも中氷川神社がある。同じ郡に出雲伊波比神社があるのは、関係があるのだろうか。同郡には国渭地祇神社もある。「渭」を「奴(ぬ)」と訓むべき証拠として、『和名抄』に、同じ国で「渭後」と書き「沼乃之利(ぬのしり)」と訓む郷がある。これは久奴須奴神という名に近い。これらに関係するのだろうか。出雲の肥河ではあるまい。
【宣長の注釈】「深淵之水夜礼花神」の「深淵」は、『和名抄』に、土佐国香美郡の深淵、読みは布加不知(ふかふち)がある。『延喜式』の深淵神社もそこに見える。師は、「水」というための枕詞のように置いたのだろうといい、また「水」を「美(み)」と訓んだ。しかし「み」なら、下の二字と同じようにつなげて仮名で書くはずなのに、別に「水」と書いている。また御子神の名にも「美豆(みづ)」とあるので、ここもやはり「みづ」だろう。「水夜礼花」の意味は、全体にまだ分からない。『和名抄』には、伊予国新居郡に「花」という郷の名はある。「花」は祖母の御名、「深淵之水」は母の御名に関係するのだろうか。「花散る」から「日河」の河へ受け継ぎ、それから淵の水に至って、傷つく花という意味で、次々に名付けたのだろうか。しかし、そういう意味で名付けた理由も、はっきりしない。
【宣長の注釈】「天之都度閇知泥神」の「都度閇」は「集へ」、「知」は市だろうか。『神名帳』に、出雲国神門郡の智伊神社がある。『風土記』には知乃社という。「泥」は尊称で、前に述べたとおりである。あるいは「知」も一緒に尊称だろうか。後に遠津待根神という例がある。その所、伝巻十一・七十五葉で、さらに述べる。さて、前後の例によると、この神だけ父の名を挙げないのは疑わしい。思うに、これは父神の名で、その下に「の娘、名は何々比売」という言葉が抜けたのだろうか。また後の段に至ると、父の名を挙げないものも多いので、その例だろうか。
【宣長の注釈】「淤美豆奴神」は、「大水主」という意味だろうか。『風土記』に八束水とあるので、「美豆」も水なのだろうか。そもそも淤迦美神の娘、日河比売、その御子の深淵何々、その御子であるこの神まで、すべて水にちなんだ御名なのは、どういう縁があったのだろう。また「美豆」は別の意味だろうか。いずれにしても、父神の名の「水」と同じだろう。さて『出雲風土記』の意宇郡の段には、「国引きをなさった八束水臣津野命が、『八雲立つ出雲の国は、狭い布のような若い国であることよ。初めの国が小さく造られたので、造って縫い合わせよう』と仰せになって」とあり、国引きなさった様子を詳しく記す。その文章は、たいへん古い時代の優れた言葉である。心を留めて読んでほしい。また島根郡の段にも「国引坐……」、出雲郡の段にも「国引坐意美豆努命」と見える。それ以外にも、この神のことが各所に出て、この国に大きな功績のあった神だと分かる。それなのに、その社が見えないのは、どうしたことだろう。
【宣長の注釈】「布怒豆怒神」の名の意味は、まだ分からない。備後国三次郡に布努郷があり、『和名抄』に出る。「豆」は助詞、「怒」は主だろうか。また周防国には都濃郡もある。
【宣長の注釈】「布帝耳神」の名の意味は、まだ分からない。何をなさったかも何も伝わらない神の名は、考える手がかりがないものなのである。
【宣長の注釈】「天之冬衣神」。『日本書紀』に、須佐之男命は草薙の剣を、五代の子孫である天之葺根神に遣わして、天に差し上げさせた、とあるのは、この神と同じだろう。五代の子孫というのも、よく合う。また『延喜式』には、山城国相楽郡の「和伎坐天之夫支売神社」があり、大社で、月次祭・新嘗祭に預かるという。これも同じ神だろうか。こちらは「売」とあるので、女神かもしれない。『古事記』には、天之吹男神という神も前に見える。また「売」は「根」から変わったのかもしれない。その隣に健伊那太比売神社もあるのは、関係があるのだろう。さて名の意味は、『日本書紀』によるなら剣に関係したのだろう。須佐之男命が、あの霊剣を五代の子孫の時になって天に差し上げた、というのは、『古事記』や『日本書紀』の他の伝えと異なるので疑わしい。しかしその剣は、仮に草薙ではなくても、何か別の剣をこの神が天に差し上げたことなどが別にあり、それが草薙の話と混じって伝わったのかもしれない。古い伝承には、そういう例も多い。そこで思うに、「冬衣」は「布由伎奴(ふゆぎぬ)」と訓むべきで、「伎」は濁音で読む。その「ふゆぎ」は、明宮の段の歌に「波加勢流多知、母登都流藝、須惠布由、布由紀能須……」、お佩きになる大刀、根元は剣、先はふゆ、ふゆぎのす……とある、それである。歌の意味はその所で述べる。「奴」は尊称で、主である。また前の黄泉の段に、十拳の剣を後ろ手に「布伎都々」とあることからも、あの「葺根」と通じる理由が分かる。「根」も前に述べたように尊称なので、「奴」と同じ意味合いである。
【宣長の注釈】「刺国大神」の「刺」は、「佐須(さす)」と訓むのだろうか。「刺何々」という言葉の例は、どれも「さす」で、刺竹・刺車などがそうである。それとも「佐志(さし)」と訓むのだろうか。『和名抄』では、出雲国大原郡に佐世郷があり、『延喜式』には佐世神社もある。この郷名については、『風土記』に佐世の木から名付けたことが見える。ある人は、佐世の木とは、『和名抄』に「烏草樹、佐之夫乃紀(さしぶのき)」とある、それだという。これによれば、刺国は、その佐世郷のことでもあるだろうか。そうなら「佐須具爾(さすぐに)」と訓むべきである。決めにくいが、ひとまず、その佐世郷のことによって「さし」と訓む。また「刺国」と続けて訓むのか、「刺」と読んでから「国大」とつなげるのか。「国大」とつなげるなら、「大」は「御大之御前」と書く例によって、「富(とみ)」とも訓めるだろう。ただ、娘の「若比売」という名に対するので、「大きい」の意味ではあるだろう。あるいは小国の意味か。これも決めにくい。「大神」は、普通に大神と申し上げる例とは違うだろう。この神を特にそう崇めて申し上げる理由も見えないからである。そこで「大」に上声の印を付け、普通の例とは違うことを示した。「大之神(おほのかみ)」と訓むべきである。「大」と後ろに置く言い方は珍しいが、大和国などに大という地名もあるので、大の神ともいえるだろう。尾張国中島郡の大大神社は、臨時祭式に「大は、ある本では多と書く」とあるので、これも大之神の例である。
【宣長の注釈】「刺国若比売」の御名については、右と同じである。「若」は、父神の「大」に対している。
【宣長の注釈】「大国主神」。後に須佐之男大神が「大国主神となれ」と仰せになっている。名の意味は、その所、伝巻十・五十八葉で述べる。さて須勢理毘売命の歌に「夜知富許能、加微能美許登夜、阿賀淤富久邇奴斯」、八千矛の神の命よ、わが大国主よ、とある。これも大国主神というのと同じである。
【宣長の注釈】「大穴牟遅神」の御名の訓は、『万葉集』巻三・巻六に「大汝」と書き、巻十八には「於保奈牟知(おほなむち)」と見える。『古語拾遺』には、「大己貴」と書きながら、この文字は『日本書紀』によるものであるが、古い言葉では於保那武智神といい、『姓氏録』には大奈牟智神、『文徳実録』巻八には大奈毋智、『三代実録』には大名持、『延喜式』には大名持、また於保奈牟智とある。これらから分かる。「遅」は濁音である。それなのに、『日本書紀』に「大己貴は於褒婀娜武智という」とあることによって、今まで世間でこう唱えるのはどうだろうか。この訓注は、師も疑っておられた。まことに疑わしい。この御名に「意富阿那」と「阿」を添えた例は、古書にないからである。また「大己貴」という文字も、たいへん理解しにくい。「己」の字は「於能(おの)」を「阿那(あな)」に借りたのか。また「汝(な)」というべきものを「於能禮(おのれ)」ともいうので、「汝」に用いたのか。いずれにしても紛らわしく、分かりにくい書き方である。それなのに後世の人が、もとの言葉の意味を深く探らず、ただ「大己貴」の字によって名を説明するのは、どうしたことか。『日本書紀』は、こういう表記で異なるものを好む癖があるので、そのつもりで見るべきである。さて「大穴」と書く例は、『古事記』を初め、『万葉集』巻七の大穴道、出雲国造の神賀詞、『神名帳』『出雲風土記』などの大穴持、『姓氏録』の大穴牟遅命などがある。これらもすべて「おほな」と訓むべき証拠は、『和名抄』が、信濃国埴科郡の郷名「大穴」を「於保奈」と記す、それである。「牟遅」と「毋智」は通じ合い、古く二通り伝わった中で、はっきり「毋智」とあるのは右の『文徳実録』だけで、ほかはみな「牟智」なので、「持」と書く例も多いことを考えると、「むち」と訓んでもよいだろう。ただ『古事記』は「遅」なので必ず濁音だが、「持」とも多く書くことから、清音にも唱えたのだろうか。この清濁の点には疑問がある。さて名の意味は、師の説では「穴」は「那」の仮名、「牟」は「母」から変わったもので、「大名持」である。古くは、名が広く長く聞こえることを尊いとするので、天皇が宮をお移しになるときや、御子のない后・御子たちのためには、その名を伝える氏(名代の氏)を定め、また名背・名根・名妹といい、『万葉集』巻二の大名児なども、みな名高いことをたたえた言葉である。人に向かって「那牟遅」というのも、「名持」という言葉で、相手をほめる呼び名である。この命は天下を造り治めて、御名が世に勝っていたので、大名持とたたえ申し上げた、とある。〔訳注:『文徳実録』引用の「毋智」は「母智」にも見え、細画を確定できないため、原字の判読を留保している。著者自身も、名の清音・濁音は疑わしいとしている。〕
【宣長の注釈】「葦原色許男神」。「葦原之」と「之」を添えて読むのは誤りである。これは出雲建・難波根子などと同類の名なので、「之」を添えないのが決まりである。「色許」は「醜」と書き、前に「志許米志許米役」とあった所、伝巻六・三十九、四十葉で述べたように、多くは憎み罵っていう言葉である。しかし、この御名は、勇ましく強いことをたたえていう。それも、人が畏れ恐れる側からいえば、あの醜女などというのと、たどっていくと同じ意味に帰着する。後世の言葉で、勇猛な人を鬼神のようだというのと同じである。また思うに、今の言葉で、豊かでしっかりしていることを「しこり」とも「しかり」ともいう。「色許」は、その意味でもあるだろうか。「志許夫都」という言葉もある。さて、特に「葦原」というのは、天下を治めていらっしゃるからである。前に述べたように、この国を葦原中国という。また、この御名は天上からの呼び名なので、もとは天の神たちが呼び始めた名だろう。中巻には、内色許男命・内色許売命、伊賀迦色許男命・伊賀迦色許売命などの名もある。いずれも「色」の前に「之」をいわない。また孝徳天皇紀には、高田醜雄という人も見え、「醜」は之渠(しこ)という。
【宣長の注釈】「八千矛神」。『万葉集』巻六に「八千桙之神之御世自……」、八千矛の神の御代から、とあり、巻十七にもこのように詠んでいる。これも、勇ましく厳しい、幾千もの多くの矛を持つような意味でたたえた御名だろう。「千」の意味には、もう一つの考えもあり、『国号考』の「細戈千足国」の解説で述べた。
【宣長の注釈】「宇都志国玉神」の「玉」は借り字で、御霊である。そのため国御魂ともいう。御霊は、前の宇迦之御魂神の所で述べたような意味で、その国を造り治める功績のあった神を、国玉・国御魂という。その理由は後の本文に見える。したがって、この名はこの神だけに限らない。倭大国魂神、これも大穴牟遅神だと考えるのは誤りであるが、高市郡の吉野大国栖御魂神社、山城国久世郡の水主坐山背大国魂命神、和泉国日根郡の国玉神社、摂津国東生郡の生国魂神社、兎原郡の河内国魂神社、伊勢国度会郡の大国玉比売神社・度会乃大国玉比売神社、尾張国中島郡の尾張大国霊神社、遠江国磐田郡の淡海国玉神社、能登国能登郡の能登生国玉比古神社、対馬上県郡の島大国魂神社など、それぞれの国や地で、造り治める功績のあった神を、このように申し上げて祭るのである。これら以外にも、諸国に国玉神社・大国玉神社というものは多い。みな同じ意味で、その中には、この大穴牟遅命を祭るものもあるだろう。さて「宇都志」とは、この御名は、もと須佐之男大神が「宇都志国玉神となれ」と仰せになったことに始まる。それは根の国で仰せになった言葉なので、この国を指し、「顕見国(うつしくに)」と仰せになったのである。『日本書紀』にも「顕」と書いている。あるいは、前に宇都志日金拆命という名もあったので、特別な意味のない尊称で、「美し」という意味でもよいかとも思ったが、そうではあるまい。
【宣長の注釈】「合わせて五つの名がある」の「五名」は、師が「那伊都都(ないつつ)」と訓んだのが、日本の言い方である。ある説では、大和国城上郡の狭井坐大神荒魂神社の五座は、この五つの名を祭るという。神祇令の義解には、「狭井とは大神の荒御霊である」とある。『日本書紀』では、大国主神、別名は大物主神、別名は国作大己貴命、また葦原醜男、八千矛神、大国玉神、顕国玉神ともいい、顕は宇都斯(うつし)というとして、七つの名を挙げる。『古語拾遺』は、大己貴神、別名は大物主神、大国主神、大国魂神として、四つの名を挙げる。さて、この神のことを『日本書紀』本文では、須佐之男命が櫛名田比売と結ばれ、大己貴神を生んだ、としている。これは上代には、遠い祖先まで含めてすべて「おや」といい、子孫の末々まで含めてすべて「こ」といったので、ここも須佐之男命の子孫という意味で、御子と伝えていたものが混じったのだろう。このことは前にも後にも詳しく述べる。それなのに、この『日本書紀』の文章にとらわれ、八島土奴美神から大国主神までを一柱の神だという説もあるのは、甚だしいこじつけである。なぜなら、『古事記』には、右のように代々の神の名が明らかに見え、六代の子孫であることがたいへん明白だからである。そのうえ『日本書紀』のある伝えにも、八島篠の五代の子孫が大国主神と見える。またある伝えには、「素盞鳴尊が生んだ子の、六代の子孫を大己貴命という」と見える。これは「子の六代」とあるので、七代の子孫というように見えるが、そうではなく、素盞鳴尊から六代なのである。『姓氏録』にも、素佐能雄命の六代の子孫、大国主とあり、どの伝えもみな合っているではないか。
古事記伝 巻十
本居宣長 謹んで著す
神代の巻 八
【古事記本文】さて、この大国主神には、兄弟の神々が大勢いらっしゃった。けれども、みな国を大国主神に明け渡した。そのいきさつは、こうである。その八十神は、それぞれ稲羽の八上比売を妻にしたいという心があった。一緒に稲羽へ行く時、大穴牟遅神に袋を背負わせ、従者として連れていった。こうして気多の岬に着いた時、毛のなくなったウサギが伏せていた。そこで八十神は、そのウサギにこういった。「おまえはこうするがよい。この海の塩水を浴び、風に当たって、高い山の尾根に伏せていろ。」そこでウサギは、八十神の教えに従って伏せた。すると塩が乾くにつれて、体の皮がすっかり風に吹き裂かれ、苦しみ、泣き伏していた。最後に来た大穴牟遅神が、そのウサギを見て、「どういうわけで泣き伏しているのか」といった。ウサギは答えた。「私は淤岐の島におり、この地へ渡りたかったのですが、渡る手だてがありませんでした。それで海のワニをだましていいました。『私とおまえとで、仲間の数の多さを比べたい。だから、おまえはいるだけの仲間をすべて連れてきて、この島から気多の岬まで、みな並んで伏せ、渡れるようにしてくれ。そうしたら、私がその上を踏み、走りながら数えて渡り、私の仲間とどちらが多いかを知ろう。』こういうと、ワニはだまされて並んで伏せたので、私はその上を踏み、数えながら渡ってきました。今にも地上に降りようという時、私は『おまえは私にだまされたぞ』といってしまいました。いい終わるとすぐ、いちばん端に伏せたワニが私を捕らえ、着物をすっかりはがしました。そのため泣き苦しんでいると、先にいった八十神が、『海の塩水を浴び、風に当たって伏せていろ』と教えました。それで教えどおりにすると、私の体はすっかり傷ついてしまったのです。」「和邇」の二字は音を表しており、以下も同じである。そこで大穴牟遅神は、そのウサギに教えていった。「今すぐ、そこの川口へ行き、水で体を洗いなさい。そして川口のガマの花粉を取り、敷き散らして、その上を転がれば、おまえの体はもとどおりになり、皮膚はきっと治るだろう。」そこで教えどおりにすると、体はもとどおりになった。これが稲羽の素菟である。今は菟神という。そこで、そのウサギは大穴牟遅神に申し上げた。「この八十神は、きっと八上比売を妻にできないでしょう。袋を背負っておいででも、あなたこそが八上比売と結ばれるでしょう。」
【宣長の注釈】「兄弟」は、後に「庶兄弟」とあって母が異なるので、「波良加良(はらから)」とは訓みにくい。「阿爾於登(あにおと)」と訓むべきである。
【宣長の注釈】「八十神」は、ただ多いことをいうのだろう。必ず八十柱と限るものではあるまい。中巻、明宮の段の末に、「八十神は、いずれも伊豆志袁登売を得ようとしたが、みな結婚できなかった」とあるのと同じである。考え合わせてほしい。『日本書紀』神代巻には八十諸神、垂仁天皇紀には八十魂神などもある。また『古事記』にある百八十神も同類である。『延喜式』に、阿波国美馬郡の八十子神社とあるのは、前後の神社と合わせて考えると、伊邪那岐大神の多くの御子をいうのだろう。ここの八十神を『旧事紀』が「事八十神」という一柱の神名にしたのは、いつもの誤りである。続く文に「みな」とも「それぞれ」とも「一緒に相談して」ともあるので分かる。
【宣長の注釈】「みな国を大国主神に明け渡した」は、後のことを先にいっておき、次に、そうなったいきさつを初めから詳しくいうのである。この次から、後の「坂ごとの山裾へ追い伏せ、川ごとの瀬へ追い払い、初めて国をお造りになった」という所までは、すべてそのことである。「みな」は八十神のみな、「国」はこの天下をいう。「避」は、『日本書紀』で、経津主神・武甕槌神が大御命を受けて天降り、大己貴神に問うた言葉に、「あなたの考えはどうか。譲り退くべきか、そうでないか」とあり、事代主神は「わが父は譲り差し上げるべきです。私も背けません」といって、海の中に幾重もの青柴垣を造り、船の縁を踏んで退いた、とある。また出雲国造の神賀詞にも、「国造りの大神をも、なだめ鎮め、大八島国の現し事・顕し事をお譲りさせた」などとある。ただし、あちらは自ら退き、譲り渡すことをいうのに対し、ここは後の出来事を見ると、そうではない。競い争ったが及ばず、負けて退き、国を明け渡したのである。あるいは、最後には大国主神に服従し、自ら譲ったことがあったのに、『古事記』には漏れたのだろうか。
【宣長の注釈】「稲羽」は因幡国である。その国の法美郡に稲羽郷、読みは伊奈波(いなば)があるので、そこから出た国の名だろう。名の意味は、稲の葉から出たのだろうか。
【宣長の注釈】「八上比売」。『和名抄』に、因幡国の八上郡、読みは夜加美(やかみ)があり、そこから出た名である。あるいは、この比売神のいらっしゃった所なので、地名になったのか。その前後関係は分からない。『万葉集』巻四には、八上の采女も見える。
【宣長の注釈】「有欲婚……」は、「用婆波牟能心有豆(よばはむのこころありつ)」、妻問いしようとする心があった、と訓むべきである。この言葉は、後の八千矛神の歌に「佐用婆比」とある所で、詳しく述べる。
【宣長の注釈】「一緒に行った」は、出雲国から行ったのだろう。
【宣長の注釈】「負帒」の「負」の仮名は、『和名抄』が稲負鳥を「其の読は以奈於保世度里(いなおほせどり)」とするのに従うべきである。「帒」は同書に、蔣氏の『切韻』では袋を囊の名といい、字は帒とも書き、和名は布久路(ふくろ)という。また『唐韻』では、身に帯びることのできる囊をいい、和名は於比不久呂(おひぶくろ)という。これらは『和名抄』ではいずれも旅の道具の部に載っているので、古くは旅の用具を袋に入れ、従者に背負わせて出かけたと分かる。『蜻蛉日記』などにも、餌袋に菓子などを入れ、旅に持つことが見える。餌袋という名は鷹から出たのだろうが、それにさまざまな物を入れるのは、古い旅で袋を持ったことの名残だろう。『西宮記』路次装束の条には、衛府の官人を袋持ちとし、装束は普通どおりとある。また『禁秘御抄』御輿の条には、行幸の時、大袋を持つ者が内侍と同じ車に乗るのは、最もあってはならないことだとある。『日本書紀』雄略天皇紀では、根使主を処罰なさり、その子孫を茅渟県主に与えて袋を背負う者とした、とある。身分の低い者の役目だったと分かる。ある人は、仕事の功績で人に後れる者を、世間で袋持ちというのも、この故事によるという。
【宣長の注釈】「従者」は、延佳本が「志度理辨比登(しとりべびと)」と訓むのも正しい。『日本書紀』巻二十四の償従者、しとりべとは、後執部で、最後について行く従者をいう。ただ、広い意味で「登母比登(ともびと)」と訓んでもよい。下巻、穴穂御門の段には御伴人ともある。『日本書紀』には「従」「従人」「傔人」と書くが、いずれも「ともびと」と訓んでいる。さて同じ兄弟の中で、特にこの神が、このように身分の低い者のように使われた理由は、大きな事業を成し遂げようとする人は、細かいことにこだわらないため、かえって人のいうままに従うものだからだろう。このことは、次の手間山の出来事にも見える。
【宣長の注釈】「気多之前」は、因幡国気多郡の海辺の岬である。
【宣長の注釈】「裸」は、「阿加波陀那流(あかはだなる)」と訓むべきである。『日本書紀』垂仁天皇紀には、「裸伴は阿箇播娜我等母(あかはだがとも)という」とある。また雄略天皇紀には、禿鶏も見える。古い歌には「あかはだの山」とも詠んでいる。肌が現れた、という意味であり、赤い肌の意味でもよい。『史記』秦始皇本紀にも、「湘山の木を伐り、その山を赤くした」とある。「はだか」は、肌が現れることで、「あかはだ」の前後を逆にいった言葉である。それを「あかはだか」というのは、この意味が分からない誤った言葉で、理由なく同じ言葉が重なっている。右に引いた『日本書紀』の訓注の「我」の字は、「之」の意味である。そのため濁音の字を使ったので、取り違えてはいけない。ここでは、ウサギの毛がないことをいう。
【宣長の注釈】「菟」。日本の古書では、兎を菟と書くことが多い。中国の書物にもその例があり、字書にも通用するとあるが、それは誤りだと、ある書物はいう。「菟」を「兎」とは書けても、「兎」を「菟」とは書いてはいけないという。確かに、そういうこともあるだろう。『万葉集』巻十四の東歌でも、今の田舎の人も、「乎佐芸(をさぎ)」というので、そのように訓むべきだと師はいわれた。しかし古書では、「宇(う)」の音を表す仮名にこの字を使うことを考えると、やはり「宇佐岐(うさぎ)」が正しかった。天武天皇紀の「置始連菟」という人名も、元正天皇紀には「宇佐伎」と書いている。「をさぎ」は、もともと地方の言葉なのだろう。『和名抄』には、『四声字苑』によると、兎は小犬に似て、耳が長く、唇が欠けており、和名は宇佐木、とある。
【宣長の注釈】「そこで八十神は、そのウサギにいった……」。この前に、ウサギが裸で伏せている理由を八十神が問う言葉、次にウサギが答えた言葉などがあったはずである。それは、次に大穴牟遅神がお尋ねになった所で詳しく挙げ、ここでは省いている。そもそも、先に述べて後では省くのが文章の普通なのに、ここで先に省き、後に述べるのは、大穴牟遅神の事業を主に語るので、その所で詳しくいったのである。
【宣長の注釈】「将為者」は、「勢牟波(せむは)」と訓むべきで、こうするとよい、という方法をいうのである。師は「母登能菟登那良牟爾波(もとのうさぎとならむには)」と訓んだ。これは漢文の構文に従い、意味を取って訓んだものだが、編者は、そういうつもりで書いたのではあるまい。『古事記』には、漢文の構文によって意味を取って訓むべき所と、漢文の構文によらず、ただ古い日本語のままに字を置いた所との違いがある。ここは、古語のままに置いた文字なので、字のままに訓むべきなのである。
【宣長の注釈】「海塩」は「宇志富(うしほ)」と訓むべきである。「塩」は借り字で、潮をいう。以下も同じである。斉明天皇紀の大神の歌に「于之褒(うしほ)」と見える。
【宣長の注釈】「尾上」については、朝倉宮の段、伝巻二十・六十四葉で述べる。
【宣長の注釈】「八十神の教えに従って」の「而」は、「そうして」という意味である。遠呂智の段の「告げたとおりにして」と同じ形である。
【宣長の注釈】「乾」の音を表す仮名は、『新撰字鏡』の「燥」の字の下に「可和久(かわく)」とある。
【宣長の注釈】「その身の皮」とは、肌をいう。なぜなら、前に裸とあり、後の文に、着物をすっかりはがれたとあるので、毛の付いた皮はないからである。
【宣長の注釈】「痛苦」は「伊多美(いたみ)」と訓むべきである。〔訳注:訓の末尾に付く一字は字形の確認を要する。〕そもそも、このウサギは八十神にとって、何の恨みのある相手でもない。それを、こう苦しめるとは、たいへん悪い神々だったのである。理由のないいたずらで生き物を傷つけることは、昔も今も、悪い人のすることなのである。
【宣長の注釈】「最後」を「伊夜波豆(いやはつ)」と訓むべき理由は、前の伝巻六・二十八葉で述べたとおりである。
【宣長の注釈】「僕」も「阿礼(あれ)」と訓むべきである。すぐ次に「吾」とある。
【宣長の注釈】「淤岐島」は隠岐国である。
【宣長の注釈】「和邇」。『和名抄』には、『切韻』によると、鰐は鼉に似て四本足があり、口先の長さは三尺で、歯はたいへん鋭い。虎や大鹿が水を渡ると、鰐が襲って真っ二つにする。和名は和仁(わに)、とある。この魚のことは、古書に多く見える。『宇治拾遺物語』には、海に落ちた虎の足をワニがかみ切ったが、そのワニもついには虎にかみ殺された物語を載せる。たいへん大きいものがあると分かり、『古事記』にも八尋和邇などとある。中国の書物にも、長さ三丈などと見える。また「熊鰐」は、その荒々しさをいう呼び名である。「熊何々」とは、みな荒々しいことをいう例だということは、前の熊曾の所、伝巻五・十六葉で述べたとおりである。北国の海には今もワニが多いといい、また遠くの外国にも、この魚の多い所があるという。さて、ここで「海の」というのは、ウサギは陸の生き物で、海を渡ろうとする計略を語る所だからである。
【宣長の注釈】「族」は「登母賀良(ともがら)」と訓むべきである。『日本書紀』では「うがら」、また「やから」と訓むが、ここは親族をいうのではないので、そう訓んではいけない。ウサギの族とは島中のウサギすべてをいい、ワニの族とは海中のワニすべてをいうからである。『日本書紀』巻十一の「虬の党類」、また「諸見族」というのも同じである。〔訳注:「見」に当たる字は「蜆」の可能性もあり、字形を留保する。〕「族」について、『礼記』の注に「類である」とある意味である。『日本書紀』では、属類・党類・徒・党・者・衆など、みなこう訓んでいる。
【宣長の注釈】「多小」は、「於本伎須久那伎(おほきすくなき)」と訓むべきである。「小」は「少」の誤字かとも思うが、通用して使ったのだろう。官の等級などでは「大」と「少」を対にするので、「多」と「小」を対にすることも、あってよいだろうか。
【宣長の注釈】「競欲計」は、「久良辨牟(くらべむ)」と訓むべきである。
【宣長の注釈】「随其族在悉」の五字は、師の「その族の、阿理能許登碁登(ありのことごと)」という訓に従うべきである。ただ「族」は、前に述べたとおり「ともがら」と訓む。いる限り、一つも違えず、という意味である。『万葉集』巻五の「布可多衣、安里能許等碁等、伎會倍騰毛」、布の肩衣を、持っているだけすべて着重ねても、というのと同じである。
【宣長の注釈】「並び伏して渡る」の「渡」は、こちらからあちらまで続くことをいう。「弥亘(いわたる)」の字を訓む意味である。
【宣長の注釈】「走乍」。古書で「乍」の字は、必ず「つつ」と訓むのが例である。「つつ」は、一方のことと他方のことを合わせてする時、その間に置く言葉である。ここでは、走ることと数えることの二つを、合わせてする。「走りつつ数える」と「走りながら数える」は同じ意味なので、この「乍」の字を、後世には「ながら」とも訓む。「つつ」と「ながら」は、通じ合って聞こえることが多い。物語の文章などには、必ず「つつ」というべき所を「ながら」という例がある。近世の歌には、「て」というべき所を「つつ」と詠むことが多い。これは誤りである。「つつ」というべき所を「て」というのはよいが、「て」というべき所を「つつ」とはいいにくい。この意味をよく区別してほしい。近世の歌人がいう「つつ」の説は、合わないものが多い。
【宣長の注釈】「読度」の「読」は、数を数えることである。『万葉集』巻四の「月日乎数而」、月日を数えて、また巻七の「浪不数為而」、波を数えずに、巻十一の「時守之打鳴皷数見者」、時を守る者の打ち鳴らす鼓を数えてみると、などがある。これらの現行本の訓は、みな誤っている。また巻十三に「吾睡夜等呼読文将敢鴨」、私の寝る夜々を数えきれるだろうか、とある。今の本は「読」を「続」と誤っている。また「吾寝夜等者数物不敢鴨」、私の寝る夜々は数えきれないことだ、もある。これも今の本は訓を誤る。また巻十七には「月日余美都追」、月日を数えつつ、と、仮名でも書く。今の世でも、銭などを数えるのを「よむ」という。さて、この「度」は前のものと違い、渡って行くことをいう。
【宣長の注釈】「私の仲間と、どちらが多いかを知ろう」。右のようにすれば、確かにワニの仲間の数は分かるが、ウサギの仲間の数は分からない。だから、この前に「その後、私も、いるだけの仲間をすべて連れてきて並んで伏せよう。そこで、おまえが何々と数えて渡れ」などという言葉もあったはずである。しかし今、ウサギ自身の出来事を語るのに必要がないので、省いたのだろう。
【宣長の注釈】「今、地上に下りようとする時」。およそ「今」には三つの意味がある。一つは、字のとおり、普通にいう今。二つ目は、「いま一つ」などといって、既にあるものに、さらに添えようとすること。三つ目は、これから起こることが近いということである。俗に「やがて」「おっつけ」というのと同じで、つまり「今に」ともいう。「じきに帰ってこよう」などというのがこれである。この中には、もう一つ、早く、さあ、と急がせる時にいう意味もある。また「今は」といって、今はこれが最後だという意味で使うこともある。ここは、起こることが近いという意味で、地上へ降りようとする時が近いことをいう。「下地」は、ワニの背の上から、気多の岬の地面へ降りることをいう。
【宣長の注釈】「最端」も「伊夜波志(いやはし)」と訓むべきである。俗にいちばん端ということである。
【宣長の注釈】「わが衣服」とは、毛の付いた皮をいう。人になぞらえて衣服といったのか。それとも「伎母能(きもの)」は、すべて肌を包み隠す物の名で、人の着る衣服だけの名ではないのか。また蛇の「きぬ」という言葉もあるので、ここも「伎奴(きぬ)」とも訓めるだろう。
【宣長の注釈】「患」の音を表す仮名は、『三代実録』巻三十に「憂礼比(うれひ)」とある。「宇禮閇」〔末字未確定〕ではない、とする。〔訳注:退けられた訓の末字を含む字形は、なお確認を要する。〕
【宣長の注釈】「命以」は、御言葉によって、という意味である。初めの天の神々の命令によって、とあったのと同じである。
【宣長の注釈】「傷」は、前に体の皮がすっかり風に吹き裂かれて痛み苦しんだ、とあったことをいう。「すっかり曾許那波延都(そこなはえつ)」、すっかり傷つけられた、と訓むべきである。
【宣長の注釈】「今急」の「今」は、早く、とせき立て、促す意味がある。
【宣長の注釈】「水で洗う」は、塩気を取り去るため、真水で洗わせるのだろう。前に述べたように、水門は川が海へ落ちる出口で、川と海の境目である。しかし、ここは真水を使うために水門というのだから、川の方に寄った、潮の交じらない所とするべきである。それなら、ただ川といえばよいのに、紛らわしく水門というのはどういうわけかといえば、ここは海辺なので、川がすぐ河口だからなのである。
【宣長の注釈】「蒲黄」。『和名抄』には、『唐韻』では、蒲は草の名で、蘭に似ており、むしろに作ることができ、和名は加末(かま)という。また陶隠居の『本草』の注には、蒲黄とは蒲の花の上の黄色いもので、和名は加末乃波奈(かまのはな)という。蒲黄は花の上の黄色い粉であるのに、直接「花」というのは、日本では別に黄色い粉の名がなく、それも花といったのだろう。さて、中国の書物でも、蒲黄を主に血や痛みを治す薬とするのは、もと、この神の霊力に頼り、上代からそう伝えてきたものなのである。今の人は「か」を濁らせて「がま」というが、言葉の初めを濁らせることは本来ない。今も蒲生などという地名は清音なので、それによって古い形を知るべきである。
【宣長の注釈】「輾転者」は「許伊麻呂毘豆婆(こいまろびつば)」と訓むべきである。「婆」は濁音で、「つば」は「たらば」という意味である。『万葉集』巻三に「屡転」とあり、巻十・五十四丁、巻十三・二十九丁にもある。「こい」は臥せることをいい、『万葉集』には「即反側臥有」などの表記も多く見える。仮名は「許伊(こい)」で、これも『万葉集』にある。この言葉の例は、さらに下巻、遠飛鳥宮の段の歌、伝巻三十九・六十五葉の「許夜流」という所で述べる。
【宣長の注釈】「もとの肌のように」。『日本霊異記』では「膚」に「加波邊」という訓を付け、『新撰字鏡』では「肌は膚である。加波戸」、『和名抄』でも「肌は皮膚と肉である。和名は加波倍」などとする。しかし「はだ」というのは古い言葉に多いので、そう訓むべきである。『和名抄』には「膚は体の肌である。和名は波多(はだ)」ともある。「もとの肌」とは、吹き裂かれた所がくっつくばかりでなく、皮も毛も、もとどおりになることをいう。
【宣長の注釈】「差」は治癒することで、「伊延那牟(いえなむ)」、きっと治るだろう、と訓むべきである。
【宣長の注釈】「もとどおりになった」は、「本之如爾爲伎(もとのごとくになりき)」と訓むべきである。これは、薬の治療法が書物に見える初めである。『日本書紀』には、大己貴命と少彦名命は、力を合わせ、心を一つにして天下を治め、またこの世の人々や家畜のために、病を治す方法を定めた、とある。世の人が病や体の傷などを治そうとするなら、この神の恵みを仰ぐに勝ることはない。今も鳥や虫などは、病や傷の痛みがある時、治す方法を自ら知って行い、すぐによく効く。それは、この神が目に見えず霊力を恵まれるからである。ところが人は、かえって自分のこざかしい知恵により、理屈に溺れた中国の治療法を使うので、病などが治ることはまれである。中国でも上代は理屈にこだわらず、古い伝えに任せていた時には、効き目が著しかった。それは、おのずとこの神の霊力に頼っていたからなのである。
【宣長の注釈】「稲羽之素菟」は、この故事を語る時の呼び名だろう。そうでなければ、次にまた「菟神という」とあるのは、どういうことか。「於今者」とあるので、昔は稲羽の素菟といい、今は菟神という、という意味だともいえそうだが、そうは聞こえない。『古事記』で「於今者」と書く時は、ただ「今に」と訓み、今に至るまで、という意味で、「者」を「は」と訓む例ではない。他の箇所と見比べて分かる。さて、このウサギが白かったことは前の文でいわず、ここで突然「素菟」というのは、少し理解しにくい書き方である。そこで思うに、「素」は、あるいは裸の意味ではないだろうか。もしそうなら「しろ」とは訓めず、ほかの訓があるだろう。人々には、さらに考えてほしい。『塵添壒囊抄』が『因幡記』という書物を引き、このウサギの故事を記すのは、『古事記』と同じ筋である。ただし始まりは、高草郡の竹林の竹の中に年老いたウサギが住んでいたが、ある時洪水が起こり、竹林が流された。ウサギは竹の根に乗って流れ、隠岐島に着いた。水が引いた後、もとの所へ帰ろうとしたが、渡る方法がない。その時、水中にワニがおり、ウサギがワニに何々といった、という。これ以後の出来事は、『古事記』と同じである。『因幡記』とは、風土記などをいうのだろうか。
【宣長の注釈】「菟神という」。この神社は今もあるだろうか。詳しく、その国の人に尋ねるべきことである。伯耆国の人が、こう語った。「本国の八橋郡束積村に鷺大明神という社があり、須佐之男命を祭るという。同村に大森大明神という社があり、大穴持命を祭るという。二つの社の神主は細谷大和という。その鷺大明神を疱瘡の守り神といい、辺りの人々は仰ぎ尊んで、子どもの疱瘡が軽くなるよう祈る。初めに願を立てる時、この社に参り、竹の皮の笠を一つ借りて帰り、家の中に清め祭って置く。その子が無事に疱瘡を終えると、お礼に同じような笠をもう一つ添え、初めの笠と一緒に、社へ返し納める。その笠はみな神の前に積んであり、後から祈願する者も、一つずつ借りて帰る。束積の近くには木江川という大きな川があり、海へ流れ込む所を塩津浦という。隠岐の知夫里の港の向かいに当たる。因幡の気多郡は伯耆との境にあり、束積村とは五、六里離れている」といった。これは因幡の気多の岬という本文とは合わないが、あるいは菟神はこの社で、「鷺」は「菟」を誤ったのだろうか。疱瘡を祈ることも、この段の故事に縁がある。『和名抄』によれば束積郷は汗入郡なのに、八橋郡というのは、今は八橋郡に属するのだろう。さて、その木江川の河口、塩津という地は、蒲黄を取った川口なのだろうか。さらによく尋ねるべきである。貝原好古の『和爾雅』に、伯耆国の素菟大明神を載せるのも、その社をいうのだろうか。
【宣長の注釈】「そのウサギが申し上げた……」。この言葉のとおり、果たして大穴牟遅神が八上比売を得られたのは、このウサギの霊力が働いたのだろうから、まことに神だったのである。
【宣長の注釈】「汝命」を「那賀美許登(ながみこと)」と訓むべき理由は、前に述べたとおりである。そして、この下には必ず「会(え)」という言葉を、読み添えるべきである。
【古事記本文】そこで八上比売は、八十神に答えて、「私は、あなた方の言葉には従いません。大穴牟遅神と結婚します」といった。そこで八十神は怒り、大穴牟遅神を殺そうと相談し、伯伎国の手間山の麓に来て、こういった。「赤い猪が、この山にいる。だから、私たちが猪を追って下りてきたら、おまえは待ち受けて捕らえよ。もし捕らえなければ、必ずおまえを殺す。」「和礼」の二字は音を表している。そして、猪に似た大きな石を火で焼き、転がし落とした。神々が追い下り、大穴牟遅神が受け取った時、その石に焼き付いて死んでしまった。そこで、その母神は泣き悲しみ、天に参り上って、神産巣日命に願い申し上げた。すると神産巣日命は、𧏛貝比売(きさがいひめ)と蛤貝比売(うむぎひめ)を遣わし、生き返らせるように命じた。𧏛貝比売は貝殻を削って焼き焦がし、蛤貝比売が貝の水でその粉を溶き、母の乳汁に見立てて塗ると、美しく立派な男となり、外に出て歩いた。「岐佐宜」の三字は音を表す。「壮夫」は袁等古(をとこ)と訓む。〔訳注:「集」は宣長が「焦」の誤字とするため、その訓と語釈に従って訳した。〕〔訳注:𧏛貝比売の第一字は原本の外字に対応する慣用表記を仮置きしたもので、原字形と符号の対応には、なお確認を要する。〕
【宣長の注釈】「八十神に答えた」。この前に、八十神が求婚したことがあったはずだが、それを省き、直接その返答をいうのである。しかし、どうも何か言葉の足りない感じがする。
【宣長の注釈】「聞かない」は、承諾しないということである。
【宣長の注釈】「将嫁」は「阿波那(あはな)」と訓むべきである。「な」は「む」と同じ古い言葉だということは、前に詳しく述べた。さてこれは、先にウサギを苦しめた神々と助けた神の、悪い行いと善い行いを見て、善い方へ心を寄せたのか。それとも、この神はもともと、あらゆる点で比べようもなく優れていたので、何となく心が傾いたのか。どちらにしても、あのウサギの話は、主にこの求婚のことに関連させて語るので、自然にウサギの霊力を添えたことになるのは、前に述べたとおりである。
【宣長の注釈】「怒」の字は、ある一本には「忿」とある。
【宣長の注釈】「手間山の麓」。『和名抄』に、伯耆国会見郡の天万郷があり、それである。また『出雲風土記』意宇郡の段には、国の東の境、手間の関を通る道と見える。ある書物には、今、その国の意宇郡筑野村の間潟の海中に手間天神という社がある、と見える。『古今六帖』の関の歌に、「八雲立つ 出雲の国の 手間の関 いかなるてまに 君さはるらむ」、八雲立つ出雲の国の手間の関で、どんな手間にあなたは妨げられているのだろう、また「待てしばし 人知り見むや 我がせこを 留めかねてぞ 手間と名づけし」、とある。〔訳注:この歌の「人知見むや」の読みと歌意は、確認を要する。〕『堀川院百首』には、「さりともと 思ひしかども 八雲立つ てまのせきにも 秋はとまらず」、そうはいってもと思ったが、手間の関にも秋は留まらない、とある。国境なので、伯耆とも出雲ともしたのだろう。あるいは山は伯耆、関は出雲に属するのか。どちらにしても別の所ではあるまい。『旧事紀』の手向山は、書き誤りだろう。
【宣長の注釈】「赤猪」は、『日本書紀』神功皇后紀にも見える。ここでは石を火で焼いてだまそうとするため、赤い、と色をいったのだろう。また『古事記』には、白猪というのも見える。『和名抄』には、『爾雅』の注によると猪は別名を彘といい、和名は井(ゐ)、『兼名苑』では別名を豕といい、『方言』の注では豚は豕の子である、と見える。さて、この文は「この山に赤猪在那理(ありなり)」と訓むべきである。
【宣長の注釈】「和礼共」の三字は、続けて「和礼杼毋(われども)」と訓むべきである。「我」とも「吾」とも書けるものを、仮名で書き、そのうえ音を表すという注まで付けるのは、たいへん煩わしいように見える。『古事記』に時々こういうことがあるのは、ただ、たいへん古い書物に書かれたままに従ったのだろうか。
【宣長の注釈】「追い下るならば」の「下る」は、猪を下らせるのではなく、猪を追って八十神が下ることである。同じ言葉がこの後にあるのと、考え合わせてほしい。
【宣長の注釈】「待取」は、普通はただ待つことをいい、「取」は軽く添えた言葉だが、ここでは「取」の意味が重い。山の下にいて待ち受け、捕らえよ、という意味である。
【宣長の注釈】「大石」は「意富伊志(おほいし)」と訓むべきである。白檮原の朝の段の歌に「意斐志(おひし)」とあるのに従った。「斐(ひ)」は「富伊(ほい)」を縮めたものである。「伊波(いは)」とは訓むまい。
【宣長の注釈】「追い下り、取った」の「追い下る」も、八十神が下るのであり、前にいった言葉に応じる。もし、これを大穴牟遅神が追い下ることにすると、待ち受けて取れという言葉と違うからである。また前の「追い下る」も、猪を下らせることではないというのを、ここに合わせて理解すべきである。前と後で同じ言葉の意味が変わるはずはない。また、ここの方も石を下らせることとすれば、前の「転がし落とす」と重なって煩わしい。だから、転がり落ちる石を追い、八十神が下るのである。「取」は、大穴牟遅神が待ち受けて取ることである。それなら「追い下るを取る」と「を」を添えて訓むべきだと思う人もあるだろうが、その意味とは少し違う。「取」の字を前へ置かず、後ろにつなげて置いたことを考えてほしい。一方と他方とが交わってすることを、こう続けて一つにいうのも、言葉の形の一つである。一方が追い下り、他方が受け取る、という意味合いである。『出雲風土記』には、意宇郡の宍道郷は郡家の真西三十七里にあり、天下をお造りになった大神が追った猪の像が、南の山に二つある。一つは長さ二丈七尺、高さ一丈、周囲五丈七尺。もう一つは長さ二丈五尺、高さ八尺、周囲四丈一尺。猪を追った犬の像は、長さ一丈、高さ四尺、周囲二丈九尺である。それらは石になっているが、猪や犬と変わらず、今もあるので宍道という、と見える。天下をお造りになった大神は、大穴牟遅神である。さて、この宍道郷は郡家の西三十七里とあるので、手間山とは遠く隔たる。別の出来事なのか、それとも同じ出来事の伝えが違うのか。さて、この神が、またこうして人のいうままに行われたことは、前に袋をお背負いになったのと、同じ意味である。
【宣長の注釈】「御祖命」は、大穴牟遅神の母なので、刺国若比売である。『古事記』では、「御祖」は母をいうのが例である。山城の賀茂御祖神社などもそうである。そもそも父が「おや」であるのは当然なのに、特に母をそういう理由は、子は母のもとで育つので、父よりも親しく、同じ家にいるため、朝夕の出来事に触れても、御祖といえば、まず母をいったのである。『古事記』が上代の意味を失っていないのは、大体このような所である。さて「親」でなく「祖」の字を書くのは、前に述べたように、「おや」は父母に限らず、遠い祖先まで通じる呼び名なので、この字も「おや」と訓むのである。同じ言葉のままに、父母をいう時にも借りて書くのは、古い例である。『続日本紀』巻十五には「祖子」とも書いている。中巻の末に、秋山之下氷壮夫・春山之霞壮夫という兄弟の神が、伊豆志袁登売神に求婚した段で、その母がさまざまに計画した話があり、この段の意味とよく似ている。このような出来事も、父は知らず、かえって母が取り仕切って世話するのは、特に親しいからなのである。
【宣長の注釈】「神産巣日之命に願う」は、前の出来事を申し上げ、救って生き返らせていただこうと願うのである。産霊という御名の意味を、伝巻二・十一、十二葉で述べたことと、考え合わせてほしい。
【宣長の注釈】「𧏛貝比売」の「𧏛」は、「蚶」を、甘を上、虫を下に組み合わせた形に書いたものを、誤った字である。新井氏の『東雅』の蚶の項で、この段を引いて蚶貝姫というのも、この字を蚶の誤りと決めたのだろう。だから「伎佐賀比(きさがひ)」と訓むべきである。『和名抄』には、『唐韻』によると蚶は蚌の仲間で、形は蛤に似て丸く厚く、外に縦横の筋があり、今の魽である。『弁色立成』では和名を木佐(きさ)という、とある。これは『本草』に魁蛤とあり、今、赤貝という物である。出羽国の「きさかた」という地名も、『延喜式』では蚶方と書く。『倭姫命世記』の「阿佐加々多爾、伎佐乎阿佐留」、阿佐加の潟で、きさを採る、というのも、蚶を求めることだろうか。さて、この字を蚶と決める理由を、次に述べる。延佳の考察には、こうある。「この字は字書にない。『旧事紀』は訓・黒の二字にする。また遣の字を、同書は造とする。これも誤字だろうか。告とするべきである。そうであれば、「告」は「黒」と訓むので、黒貝姫ということになる。黒貝の和名は伊加比(いかひ)である。」『和名抄』には、「貽貝。『爾雅』の注によると、貽貝の別名は黒貝。和名は伊加比」とあるので、それによれば黒貝は「いかひ」だが、この『和名抄』の説は信じにくい。今、『爾雅』を調べると、さまざまな貝の形と色を全体にいう所に、「玄貝、貽貝」とあり、注には「黒色の貝である」というだけで、別名が黒貝だとは見えない。疏も「黒色の貝を貽貝と名付ける」という。そうであれば、これは単に黒い貝殻のことである。それを「いかひ」に当てるのは、どうしたことか。「貽」の字の音から、思い違いをしたのだろうか。「いかひ」は、『本草』に淡菜、別名は東海夫人、とある物で、今の世でも「いかひ」という。『新撰字鏡』には「蜄は蚌である。伊加比」とあり、字書では、蜄は海の虫で蛤の仲間と見える。この物に黒貝という名があることは、まだ見当たらない。だから仮に『旧事紀』の黒貝という字が正しくても、「いかひ」と訓むのは当たらない。そのうえ、一字を「訓黒」の二字にするのは、写し誤りである。この名が初めに出る所なら、訓といえるとしても、次に出る所にも同じく訓黒とあるのはどういうことか。そこでは「訓」の字は必要なく、余っている。これが写し誤りの証拠である。また、遣を造とするのも、告とするというのも、みな誤りである。この字を、ある本は「鹽」に似た字、ある本は「劃」に似た字とするが、それらの字は貝の仲間の名ではないので、それも誤りだろう。そこで、私はさまざまに考え、蠣貝なのだろうか、または河貝子なのを、色が黒いため河黒貝と書いたのだろうか、などとも思い当たったが、どれもよくない。ようやく考え得て、蚶と決めたのである。『出雲風土記』に、御祖神魂命の御子、支佐加比売命とあり、ある本は支佐加比々売命とするのは、この神だろうか。〔訳注:原本の貝名の外字と、その誤りの過程を示す比較字の符号、および一部異本字形は確認を要する。本文の「𧏛」は対応する慣用表記として仮置きした。〕
【宣長の注釈】「蛤貝比売」は「宇牟岐比売(うむぎひめ)」と訓むべきである。『日本書紀』では、景行天皇が東国を巡られた時、その海の白蛤をなますに作ったことが見え、「白蛤」を「うむぎ」と訓んでいる。『姓氏録』には大蛤とある。『和名抄』では、蚌蛤は別名を含漿といい、和名は波万久理(はまぐり)、海蛤の和名は宇牟岐乃加比(うむぎのかひ)、文蛤の和名は伊太夜加比(いたやかひ)と分けて載せる。しかし「蛤」は、はまぐりの仲間の貝の総称である。右の三つの漢名は、中国でも互いに混じり、詳しく分かれない。日本でも昔の人が思い思いに当てただろうから、必ずしもそのとおりに決めるべきではない。この三つの和名のうち、「うむぎ」が蛤の古い名である。他の二つは、その中から後に分かれた名で、言葉の形も「うむぎ」は古く、ほかは少し後である。『新撰字鏡』でも、蚶・蜆・蛤などを、いずれも宇牟岐と記し、他の二名は見えない。だから、もとはすべて「うむぎ」といったが、後に、その中の小さいものを浜栗と名付け、大きいものはもとのまま呼び、模様のあるものを板屋貝と名付けたのだろう。板屋貝は、その模様が板屋根の葺き目に似るための名だろう。その後ついに「うむぎ」という名が廃れ、大小をすべて「はまぐり」というようになったのである。さて、この蛤貝を、延佳本が「於布加比(おふかひ)」と訓むのは、『和名抄』に、『唐韻』では蛤の音を古三反、別音は含とし、『弁色立成』では於富、本朝の式文は白貝の二字を使い、『爾雅』は、水にいる貝を蛤という、とあることによる。しかし今の『和名抄』の「蛤」は写し誤りで、古本が「蜬」とするのが正しい。古三反、別音は含とあることからも分かり、『爾雅』を調べても分かる。だから、ここの蛤貝を「おふかひ」と訓む理由は、まったくない。今、『爾雅』を調べると、「貝は、陸にいるものを贆、水にいるものを蜬といい、音は含」とあり、疏にも「水中のものを蜬と名付ける」という。つまり蜬は、水にいる貝の総称である。それを蛤と書くのは、「含」と「合」の音も意味も通じるからだろう。この水中の貝の総称の字を、「おふ」という一種類の貝に当てるのは、『弁色立成』だけではない。『新撰字鏡』にも、「蜬、於不(おふ)。また阿波比(あはび)」とある。これは『爾雅』に、蠃の小さいものを蜬ともあることなどによるのだろうか。本朝の式文で白貝と書くことと、前の黒い貝の総称である貽貝を「いかひ」に当てたことを、比べて考えると、あちらは黒貝、こちらは白貝と書き、色によって一種類の名にしたのだろうか。そうなら、ここの一方は黒貝で「いかひ」、蛤貝の方も蜬の誤字で「おふかひ」とし、黒白の色を対にして二種類をいったのかとも思える。しかし黒貝とすると、次の「訓」の字が余る。また「訓」を除いて、ただ「黒」の一字を𧏛と誤るはずはなく、そのうえ「岐佐宜」という言葉にも理由がない。だから「蛤」も「蜬」の誤りではなく、「おふ」ではないのである。『出雲風土記』には、神魂命の御子、宇武賀比売命と見える。先に引いた支佐加比売も、こちらも、ともに島根郡の郷名を説明する中にあり、どちらも神魂命の御子という。ここの二柱の比売と同じなのだろうか。さて、この二柱は、そのまま蚶貝と蛤貝をいう。それを比売というのは、雉を鳴女といい、魚の名でも赤女・口女・鯛女など、みな女としていう一般の例だともできるが、ここはただ女とせず比売というので、この時の功績を美しくたたえ、神とした名なのである。
【宣長の注釈】「遣」は「淤許世豆(おこせつ)」と訓むべきである。これは向こうからこちらへ遣わすからである。
【宣長の注釈】「令作活」は「都久理伊加佐志米賜(つくりいかさしめたまふ)」、手を施して生き返らせるようになさった、と訓むべきである。これは、生かさせることを命じる、という二重の関係で、生き返らせる役は二柱の比売にかかり、生き返るのは大穴牟遅神で、それを命じるのは神産巣日命である。「作」は、繕い治す意味で、国作りの「作」と同じである。「令」の字を、古い版本と延佳本が、ともに「命」とするのは写し誤りである。同列のもう一柱には命といわず、この名が次に出る時にも命といわないので、ここだけこの字があるはずはない。ここでは、ある一本に従った。
【宣長の注釈】「岐佐宜」は、切り、削ることである。『和名抄』では「碾」を「岐之流(きしる)」とする。「志良(しら)」を縮めて「佐(さ)」といい、下の「し」を省く。また「気豆理(けづり)」を「宜(げ)」とだけいう例は、弓削を「由宜(ゆげ)」というのがそれである。「宜」は、『古事記』では必ず「げ」を表す仮名である。『楽源抄』には、笙の名品五管の中に「幾佐気絵(きさげゑ)」というものがあり、蚶貝絵とも書く。今の世で、物を「こそげる」というのは、この「きさげ」が変わった言葉で、意味は同じである。
【宣長の注釈】「集」は、師の考察に「焦の誤字である」とあるのがよい。「許賀志(こがし)」と訓むべきである。蚶貝の殻を削り磨き、焼いて焦がすのである。この時、このようにして功績を挙げたことによって、この貝は「きさ」という名を負った。それで、この言葉と照らし合わせ、𧏛は蚶だと思い定めるべきである。師は、「黒貝比売が、岐佐宜(きさげ)を焦がして」と訓み、「きさ」は蚶だといわれた。しかし黒貝が誤りであるのは、既に述べたとおりである。そのうえ、もし黒貝なら、その黒貝の働きをいうべきなのに、同じ仲間の中の別の貝を使ったのでは、黒貝を出した理由がなくなる。いずれにしても、𧏛貝と「岐佐宜」の言葉とが対応しなくては、どうだろうか。また「宜」の字も、それでは余って聞こえる。この言葉はたいへん理解しにくく、私も初めはいろいろ考えた。まず「岐」の前に「比」の字が抜けた「ひさげ」、提げることとし、後ろから返して「焦げたものを提げ」と読み、その焦げたものは死体だろうかとも思った。また「きさ」という木のことで、「宜」は木だろうかとも思った。また、これも蚶貝そのもので、「宜」は「加比(かひ)」が縮まった言葉か、あるいは「貝」の誤字かとも、さまざまに考えたが、どれもよくない。
【宣長の注釈】「水を持って」。そもそも蛤貝は、中に水を含んでいるものである。中国の書物に、蚌蛤の別名は含漿ということも、考えてほしい。ここを真福寺本・延佳本などは「待承」、待ち受けて、とし、『旧事紀』も待承とするが、それでは「削って焦がし」とあるのに対応しない。
【宣長の注釈】「塗母乳汁者」は、「於毛能知志流登奴礼婆(おものちしるとぬれば)」と訓むべきである。師は「塗」の前に「如」の字が抜けたのだろうといわれた。しかし、もしその意味なら、「母の乳汁のように塗る」と、「塗」の字が後ろにあるはずなのに、そうでないので、その意味ではない。「母」は乳母をいう。「おも」とは、実母でも乳母でも、子に乳を飲ませる人の呼び名なので、実母としても違わない。実母を「おも」というのも、乳を飲ませて養うことによる呼び名である。それを、ただ「はは」の古語だとだけ理解し、乳養いに関係のない所の母の字も、一律に「おも」と訓むのは誤りである。中巻、玉垣宮の段に「取御母」とあるのも乳母である。「おも」のことは、その所、伝巻二十四・五十六葉で詳しく述べる。「乳汁」の二字は、ただ「ち」とだけも訓めそうだが、「ち」はもともと乳の出る場所の名で、出る汁の名ではない。それなのに汁も「ち」とだけいうのは、少し後に略したのである。さて、この治し方は、まず世間で普通に、さまざまな傷に母の乳汁を塗って治す方法があるため、今、蛤貝の水を、そのようなものとして塗る、という意味である。この方法は、上代に広く行ったものだろう。だから「ちしると」と訓むべきだといった。『うつほ物語』俊蔭の巻の、紅葉のしずくを「乳房としてなめながら生きながらえ……」という「と」と同じである。『万葉集』巻十四には、「信濃なる ちぐまの川の さざれ石も 君し踏みてば 玉と 拾はむ」、信濃の千曲川の小石も、あなたが踏んだなら、玉として拾おう、とある。この「と」も同じ形である。すなわち、先の蚶貝の焦がした粉を、蛤の水で溶き、母の乳汁を塗るように塗ったのである。「うむぎ」という名は、母貝が縮まったもので、このように母の乳汁のように塗って功績を挙げたための名である。それを「うむぎの貝」というのは、後の重ねた言い方である。さて、この二柱の貝比売について、前に述べた以外に、もう一つの考えがある。貝を直接いうのではなく、普通の神でもあるだろう。もしそうなら、蚶貝比売が蚶貝を削って焦がし、蛤貝比売が蛤貝の水を持って、というのを、神の名に譲って、使った貝の名はいずれも省いたのである。これも文章の一つの形だろう。そして二種類の貝を使って功績を挙げたため、その貝の名で神の名も呼んだのだろう。この考えも捨てにくいので、記しておいた。
【宣長の注釈】「麗しい壮夫」の「麗しい」は、ここでは火傷した肌がもとどおりに治った意味を込めていうのだろう。「壮夫」は、その字のとおり、若く盛りであることをいう呼び名だというのは、前に述べたとおりである。
【宣長の注釈】「遊行」は「阿流伎々(あるきき)」と訓むべきである。下の「き」は過去を表す言葉である。『万葉集』巻三に「公之阿流久爾」、君が歩く時に、巻五に「阿蘇比阿留伎斯」、遊び歩いた、巻十八に「安流気騰」、歩くけれど、などとある。古い『日本書紀』の「歩行」の訓や、中古の物語文などに「ありく」とだけ見えるので、「ありく」という方が古く優れた言葉のように聞こえるが、そちらがかえって後なのである。
【古事記本文】八十神は、これを見て、また大穴牟遅神をだまし、山に連れ入り、大木を切り倒した。そして、「矢」と呼ぶ木の留め具をはめて、その木に打ち込み、中に入らせると、すぐにその「氷目矢」を打ち外し、木で押しつぶして殺した。そこで、また母神は泣きながら捜し、見つけると、その木を裂いて取り出し、生き返らせた。そして子に告げた。「あなたがここにいれば、ついには八十神に滅ぼされるでしょう。」そういって、急がせて木国(紀伊国)の大屋毘古神のもとへ行かせた。しかし八十神も、捜し追って来て、弓に矢をつがえた。その時、木の股から抜けて逃れ、去っていった。
【宣長の注釈】「山に連れ入った」。この山は、どこの山とも伝わらない。前と同じ山ではあるまい。
【宣長の注釈】「茹矢」。諸本は「茹」を「茄」とするが、それでは、この出来事をどうにも理解しにくい。そこで今は、ひとまず真福寺本が「茹」とするのに従った。そもそもこの段は、この字と氷目矢とが詳しく分からないため、出来事全体の様子も決めにくい。しかし、ひとまず「茹」とあるものとしていえば、この字には、食べる、また牛馬に食べさせる、という注があるので、「波米弖(はめて)」と訓むべきである。「はめ」は、食べさせるという言葉が縮まったもので、『伊勢物語』の歌の「狐にはめなで」という「はめ」なども、それである。物を入れることを「はむる」というのも、みな、もとは食べさせる意味である。ここで「食」と書かず、特に「茹」と書くのは、少し分かりにくい感じもするが、生き物に食べさせることとは違うため、字を変えて書いたのかもしれない。さて、ここでいう矢は、普通の矢ではなく、木に挟み入れる道具である。次に氷目矢とあるのが、その名である。その道具について、出来事全体の様子には二通りの取り方がある。一つは、木に挟み入れ、割れ目を作る道具をいう。ある人は、今でも木を割りにくい時は、柄のない斧を木口に挟み、そのように挟み入れる道具を「矢」という、といった。それである。「茹」は、木に挟み入れることをいう。
【宣長の注釈】「打立其木」は、「その木に打ち立て」と訓むべきである。はめるといって、また打ち立てるというのは、言葉が重なるようだが、打ち立てるとは、打ち込み、挟んでおく意味である。
【宣長の注釈】「その中へ入らせる」とは、大穴牟遅命を、その木を割りかけた間へ入らせるのである。『旧事紀』では「其」の下に「木」の字があるが、ここは木といわなくても、その木の中という意味に自然に聞こえる。さて、その木の割れ目は、わずかな広さのはずなのに、その中へ人を入れるのは、どうだろうかという疑問があるだろう。このことは、次の取り方を説明する所で論じる。
【宣長の注釈】「氷目矢」。古い版本や、ある一本などは水自矢とするが、それは写し誤りだろう。ここでは真福寺本と延佳本に従った。これは、木に挟んで打ち込み、割りかけた所に置く矢の名である。「氷目」の字は借り字で、割れ目をいう。「樋目」という意味だろうか。俗に、木などが「ひめわれる」「ひわれる」「ひびわれる」などという。「ひび」も「ひめ」が変わった言葉だろう。『和名抄』に「罅、比美(ひみ)、俗には比毘(ひび)という」とあるのも、「ひめ」だろう。また『万葉集』巻十六の「比米加夫良、八多婆佐弥、宍待跡……」、ひめ鏑をたくさん携え、獣を待って、という「ひめ」の名の意味も同じだろう。八目鳴鏑というものは、狩りに使ったと見えるので、この氷目矢とは、もとより別だが、「ひめ」という名の意味は同じだろう。「八目」は、矢じりに幾つもの孔があることをいうので、その孔を細長く彫ったものをいうのだろう。また思うに、「氷」は「羽」の字の右の縦線が減った誤字で、「羽目矢」でもあるだろうか。もしそうなら、木にはめることによる名である。
【宣長の注釈】「拷殺也」とは、その木の割れ目に挟んでおいた矢を打ち外し、取り去ると、割れ目がたちまち迫って閉じるため、中に挟まれてお亡くなりになったのである。「拷」という字は、この取り方によく合う。もう一つの取り方は、「茹矢」の矢は、かすがいのような物か、あるいは木の切り口に挟み入れ、つなぎ合わせる物で、俗に間の釘というようなものを、両端を鋭くして打ち入れる、ということである。それが何であっても、木の切った所に打ち込み、仮につなぎ合わせ、木を立てておく。この意味なら、「その木を打ち立て」と訓むべきで、「打」は軽く添えた言葉である。「その中へ入らせる」は、その仮に立てた木の根元に寄りかからせることになる。山中で、多くの木が生える中だろうから、中とか入るとかいっても差し支えない。しかし、下といわず中といい、寄りかかるといわず入るというのは、やはり初めの取り方の方が優れる。氷目矢という名の意味は、初めの取り方と同じで、この取り方では、木の切り口をつなぎ合わせる道具である。割れ目に挟むものではなくても、木をつなぎ合わせる道具に同じ名を使ってよい。「拷殺」は、その打ちはめた矢を外せば、木の切り口が離れて倒れ、その木に押しつぶされ、お亡くなりになるのである。この二つの取り方の、どちらがよいか決めにくい。先には、このほかにもさまざま考えたことがあったが、今思うとどれもよくない。延佳は、この段の「茹」は「架」の誤りだろうといい、「矢にかけ」と訓んだ。切り倒した大木を、矢で支え、担がせて、仮に立てる、というのである。しかし、大木を支え担う物を、矢とはいえまい。それなら架枝などというべきである。また氷目矢を「ひめしやら」と訓んだが、それでは何のこととも分かりにくく、「し」を読み添える理由もない。師の考えも、全体の様子は延佳のものと同じである。そして氷目矢を、古い版本の水自矢に基づいて、水は木の誤りとし、「その木を矢より打ち離ち」と訓んだ。しかし、それでは「打離」の置き場所が『古事記』の例に合わず、たいへん難しい。またその意味なら、ただ「その矢を打ち離ち」といえばよい。「その木を矢より」とするのは、くだくだしく拙いではないか。
【宣長の注釈】「得見」は「美延弖(みえて)」と訓むべきである。「得」は、見ることができて、という意味ではなく、捜して見つけた意味である。
【宣長の注釈】「その木を裂く」の「拆」を、諸本は「折」とする。ここでは、ある一本に従った。切り倒した大木の割れ目に挟まれ、お亡くなりになっていたのを見つけたため、その木を裂き割り、亡骸を取り出されるのである。ただ、後に述べた方の取り方なら、「折」だろう。その場合は木に打たれ、その下に押さえられているはずだからである。
【宣長の注釈】「取り出す」とあるのは、割れ目から出す方の取り方が優れる。
【宣長の注釈】「生き返らせた」。この度も前のように、蘇生させる方法があったのだろうが、それは伝わらなかったのだろう。
【宣長の注釈】「此間」は「許々(ここ)」と訓むべきである。
【宣長の注釈】「爲八十神」の「爲」は、ただ「爾(に)」と訓むべきである。このような「爲」を「ために」と訓むのは、漢籍を訓む際の誤った読み方である。
【宣長の注釈】「木の国」は、名の意味も、この字のとおりである。「紀伊」と書くのは、必ず二字に定めよという命令により、「紀」の音に「伊」を添えたのである。この例は多い。
【宣長の注釈】「大屋毘古神」は、五十猛神と同じだろう。その理由は、『日本書紀』に、次のようにあるからである。「素戔鳴尊は、その子の五十猛神を率い、新羅国へ降り立った……。初め五十猛神が天降った時、多くの木の種を持って降りたが、韓の地には植えず、すべて持ち帰った。ついに筑紫から始め、大八島国の中に、まき植えない所がなく、青い山にした。そのため、五十猛神を、功績のある神とたたえる。紀伊国にいらっしゃる大神がそれである。」また、「素戔鳴尊の子は、名を五十猛命といい、妹は大屋津姫命、次は枛津姫命という。この三神も、よく木の種を分け広め、紀伊国へ渡し申し上げた。その後、素戔鳴尊は熊成の峰に住み、ついに根の国へ入った」とある。『神名帳』には、紀伊国名草郡の伊太祁曽神社、大屋都比売神社、都麻都比売神社がある。いずれも名神大社で、月次祭・新嘗祭に預かり、伊太祁曽神社は相嘗祭にも預かる。「伊太祁曽」の「曽」を、契沖が「魯」の誤字だろうとしたのは、一応もっともにも聞こえるが、さらに考えるとよくない。これは五十猛が功績のある神だということである。「さを」を縮めると「そ」になる。そのため『続日本紀』『文徳実録』『三代実録』『和名抄』なども、みな「曽」とし、今も土地の人はそういう。ただ土地の人が「祁(け)」を「伎(き)」というのは、なまったのである。さて、この三つの神社は、もとは一か所にいらっしゃったのだろうか。『続日本紀』大宝二年二月に、伊太祁曽・大屋都比売・都麻都比売の三神社を分けて遷したと見える。また熊成の峰は、熊野だろう。「なす」を縮めると「ぬ」である。これを「わになり」と訓み、鰐淵山だとするのは誤りである。これらを考えると、別の神とは思われず、妹神を大屋津姫と申し上げることからも、その兄神だと分かる。『旧事紀』の「五十猛神は大屋彦神ともいう」は、伝えがあったのか、それとも例の当て推量なのか。どちらにしても、これはよく当たっている。右のように、木の種を分け広める神がいらっしゃるため、木の国と名付けたのである。出雲と木の国とには、同じように通じ合うことが多い。まず伊邪那美命を、伯伎との境の比婆之山に葬ったとあるのと、紀伊国熊野の有馬村に葬ったというのは、同じ出来事である。また熊野という地名も両国にある。意宇郡の速玉神社と牟婁郡の熊野速玉神社、意宇郡の国伊達神社と名草郡の伊達神社、大原郡の加多神社と名草郡の加太神社は、みな同じ名である。これらはすべて、その三神が出雲国から移り渡られた時の由来だろう。『日本書紀』の「紀伊国へ渡し申し上げた」も、須佐之男命が、三神を出雲国から渡し申し上げるのである。その後に「然後……」とあるので、そのように聞こえる。さて材木の用途は、住まいを造ることを主とするため、「大屋」という御名を負ったのだろう。『和名抄』には、名草郡に大屋という郷も見える。また枛津姫も、材木に関係する御名である。木偏の「枛」の字は、字書に四角い木材と見え、『万葉集』の歌の「真木さく檜の妻手」というのがそれである。これを手偏の「抓」とするのは写し誤りである。またこの御名には、禊の出来事に合わせて説明すべき理由もあり、それは次の須勢理毘売の所で述べる。さて、大穴牟遅神を、特にこの神のもとへ逃れ遣わされたのは、この神は遠い祖先の須佐之男大神の御子で、縁があるうえ、功績のある神とまでたたえられるので、当時、威勢があったからだろう。なお名草郡には刺田比古神社もある。これは、母方の祖父の刺国大神とは関係がないのか。あるいは「田」は「国」の誤字ではないだろうか。〔訳注:「枛/抓」の木偏・手偏の字形比較と「四方木」の引用字は、原画像上の字形の精査を要するため仮置きした。〕
【宣長の注釈】「速遣」は「伊曽賀志夜理賜伎(いそがしやりたまひき)」、急がせてお遣りになった、と訓むべきである。ここの「速」は「すみやかに」とも「とく」とも訓むのはよくない。「遣」も「つかはす」と訓むのはよくない。
【宣長の注釈】「覓追」は、跡を捜し、追って行くことである。
【宣長の注釈】「臻」は追い及ぶことで、俗に追い着くという意味である。これは大屋毘古神のもとまでは至らず、途中で追い着いたのだろう。
【宣長の注釈】「矢をつがえた時」。「之」の字を、古い版本と延佳本が、ともに「乞」とするのは誤りである。今は、ある一本に従った。『旧事紀』も「之」と書く。「矢刺」という言葉は、中巻の白檮原の朝の段に、「横刀を握る手を上げ、矛を揺り動かし、矢をつがえて追い入る」、明宮の段に、「あちらの軒からもこちらの軒からも一斉に立ち上がり、矢をつがえて」、また下巻の朝倉の朝の段に、「天皇はたいへん怒り、矢をつがえ、百官の人々もすべて矢をつがえた」などと、多く見える。古い言葉だろう。これは射ようとして、矢を弓に掛けることをいう。後世の軍記などで「さしつがう」という、それである。
【宣長の注釈】「木の股から漏れ逃れて去った」は、ひとまず大きな木の下に隠れ、その木の股から抜け出し、ひそかに逃れ去られたのである。木の股は、『新撰字鏡』に「極。江南では木の枝分かれを枒という。木乃万太(きのまた)」とある。『和名抄』には「杈極」を「末多布里(またぶり)」とする。「漏」のことは、前の伝巻五・七十七葉で述べた。「去」は「佐理賜伎(さりたまひき)」と訓むべきである。ここは「いに」と訓むのはよくない。この違いは、古い言葉に十分なじんで知るべきである。
【古事記本文】母神は子に告げた。「須佐能男命のいらっしゃる根の堅洲国へ、お参りしなさい。きっと、その大神がよい方法をお考えになるでしょう。」そこで、その仰せに従って須佐之男命のもとへ参ると、娘の須勢理毘売が出て見て、互いに思いを寄せて目を交わし、男女の契りを交わした。そして中へ戻り、父に申し上げた。「たいへん麗しい神が参りました。」大神は出て見て、「これは葦原色許男という神だ」と告げ、すぐ呼び入れ、蛇の室屋に寝かせた。そこで妻の須勢理毘売命は、蛇を払う比礼を夫に渡し、「蛇がかみつこうとしたら、この比礼を三度振って払いなさい」と教えた。「比礼」の二字は音を表している。教えどおりにすると、蛇は自然に静まったので、安らかに寝て外へ出た。次の夜には、ムカデと蜂の室屋に入れられた。妻はまたムカデと蜂を払う比礼を渡し、先と同じように教えたので、無事に出た。また大神は、鳴鏑(音の鳴る鏑矢)を広い野の中へ射込み、その矢を拾わせた。野に入った時、周りから火を放って、その野を焼いた。どこから出ればよいか分からないでいると、ネズミが来て、「中は広々、外はすぼまっている」といった。「富良富良」と「須夫須夫」は、それぞれ四字で音を表している。こういったので、その場所を踏むと、落ち込んで隠れ入ることができ、その間に火は焼け過ぎていった。そしてネズミが、その鳴鏑をくわえて出てきて差し上げた。矢の羽の方は、ネズミの子らがみな、くわえて支えていた。
【宣長の注釈】『御祖命告子云』、母神が子に告げた、という六字を、古い版本と延佳本は、ともに落としている。今は、ある一本に従った。『旧事紀』にも、この言葉がある。これは必ずあるべきで、なければ文が通じない。なおいえば、この上に『爾』または『於是』などの字もありそうに思える。諸本に、この六字がないので、師は『大屋毘古神告曰』、大屋毘古神が告げた、などの言葉があるはずだといわれた。確かに、この前に、その神の名が出ているので、その神がお告げになるとすれば、たいへんよく当てはまる。しかし、そういう本文の本はなく、また、その神であるなら、『告曰』とだけいうのでは、いささか説明が足りない気がする。
【宣長の注釈】『須佐能男命のいらっしゃる根の堅洲国』。『洲』の字を、諸本がみな『州』とするのは、明らかな誤りなので、前に出た本文に従って改めた。さて、この大神は、初めに『母の国、根の堅洲国へ行きたい』と申し上げ、後には、ついに望みを遂げて行かれたので、今は、すでにその国にいらっしゃるのである。『日本書紀』の八俣の遠呂智の段の末に、『素戔鳴尊は、ついに根の国に赴いた』、また『熊成の峰にいて、ついに根の国に入った』などとある。この『古事記』にも、必ずこのことを記すはずのところが脱落していることは、前に論じたとおりである。
【宣長の注釈】『参向』の二字は、『古事記』にしばしばあり、いずれも、お迎え申し上げるところにいう。しかし、ここはその意味でなく、ただ参ることである。『参赴』の二字も、多くはお迎え申し上げるところに用い、また、ただ参る意味で用いたところもある。そこで『麻韋礼(まゐれ)』とも訓めるが、薬師寺の仏足石の御歌に、『己乃美阿止乎、多豆禰毛止米豆、与伎比止乃、伊麻須久爾々波、和礼毛麻韋弖牟』、この御足跡を尋ね求め……、よい人々のいらっしゃる国には、私も参ろう、という歌がある。〔訳注:引用の「止米豆」「麻韋弖牟」の該当字は豆/弖の判読を確定できない。とくに前者は語尾が否定か接続かに関わるため、原仮名を暫定的に保持した。〕今のこの箇所も、この世を離れた国に行くことをいうのが似ているので、それにならって『麻韋伝弖余(まゐでてよ)』と訓んだ。
【宣長の注釈】『議也』は、『多婆詞理賜比那牟(たばかりたまひなむ)』と訓むべきである。『たばかる』は、ただ『はかる』、考えて方法を決めることだ。ここは、八十神の災難を免れて、功績をお立てになることを、よいように計らってくださるだろう、というのである。塩椎神が火遠理命に、『海神の娘が見て、相談に乗ってくれるだろう』とお教え申し上げたのと、まったく同じ意味である。
【宣長の注釈】『参到』は、これも仏足石の御歌に、『麻韋多利弖、麻佐米爾弥祁牟』、参り着いて、まのあたりに見ただろう、とあるのに従って、『麻韋多理志加婆(まゐたりしかば)』、参り着くと、と訓むべきである。『到る(いたる)』の『い』を省いた形である。〔訳注:引用の「多利弖」の末字は豆/弖の細画が未確定のため、原仮名表記は仮置きである。〕
【宣長の注釈】『須勢理毘売』という名の意味は、後の火須勢理命と同じく、進むという意味である。火須勢理命の名を、進む意味とすることは、そこの伝巻十六・四十四葉で述べる。今、この女神の方から進んで夫と結婚されるので、この名があるのだろう。次に引用する、これと同じ類の木花之佐久夜毘売や海神の娘などは、父が嫁がせるのをお待ちになるのに、この姫はそうでなく、自分の心で結婚するのも、進み出ることである。また、祓い除けることと合わせて、説明すべき理由がある。『大祓詞』の『根の国・底の国にいる、速佐須良比売という神が、持ってさすらい、失ってしまうだろう』というのは、この女神であって、『須勢理』は『佐須良比』だろう。『須勢』と『佐須』が通じ、『良比』を縮めると『理』となる。根の国にいるという点も、よく合う。さて、大穴牟遅神が、さまざまに八十神の災難に遭われるのは、遠い祖先の須佐之男命に降り掛かった黄泉の汚れが、すでにすべて清め終わった後にも、なお余りが残っているのである。ところが、今ここへ逃げて来られ、この女神の計らいに頼って、その災難を免れ、大きな利益を得て、ついに功績をお立てになるのは、この女神が、その罪や過ちを持ってさすらい、消し去られたことなのだ。しかも、この神が、その須佐之男命の娘であるのは、悪から善を成したことで、禊の段でいったように、悪と善が互いに根ざす道理を考えるべきである。さて、伊邪那岐・伊邪那美の大神が、最初にお生みになった十神のうちの、大屋毘古神という神は、『日本書紀』の禊の段の、ある異伝の大綾津日神に当たり、それは大禍津日神に当たる。このことは、そこの伝巻五・三十三葉、巻六・五十七葉で述べたとおりなので、前に出た木の国の大屋毘古神も、また、祓い除けることに関わる名である。今、八十神から受ける不幸や災難が極まり、これから幸運へ向かおうとする、その不幸と幸運の境目に、この神のもとへ逃げる出来事がある。これも、不幸を表す禍津日神が、その次にお生まれになる、幸運を表す天照大御神の荒御魂でいらっしゃるのと、同じ道理だろう。
【宣長の注釈】『為目合而』は、『麻具波比志弖(まぐはひして)』と訓むべきである。『ぐはひ』が、物の合うことであることは、前の伝巻四・二十六葉で詳しくいったとおりなので、このように訓んで、互いに目を見交わすことをいう。男女がわざわざ目を交わすのは、互いに思い合う振る舞いなので、男女の交わりのことにも意味が移って用いられる。しかし、ここは次の『相婚』が、その交わりなので、『目合』は、ただ、もとの意味である。海神の宮の段に、『豊玉毘売命は、不思議に思って外へ出て見て、心を引かれて目を見交わし、父に申し上げた』、そして『娘の豊玉毘売と結婚させた』とあるのも、『令婚』が男女の交わりなので、その前の『目合』は、互いに目を見交わすことであるのが明らかだ。『日本書紀』には、ただ『目を上げて見た』『仰ぎ見た』などとあるので、この『古事記』の『目合』も、思いを寄せるのでなく、ふと目を合わせただけだと思う人もあるだろうか。そうではない。互いに心があり、思い合って見交わすのである。『見感』、見て心を引かれた、とあることからも分かるし、また、次に引く邇々芸命の言葉も考えるべきである。ここも、それに照らして理解すべきだ。また、邇々芸命が、木花之佐久夜毘売に『私は、あなたと目合したい』と仰せになるところは、『日本書紀』には『私は、あなたを妻としたい』とあり、男女の交わりへ意味が移った用法である。伝巻四の『美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)』と同じである。
【宣長の注釈】『相婚』は、ここでは『美阿比坐而(みあひまして)』、男女の契りを交わされて、と訓むべきである。『美』は、敬う言葉の『御』である。
【宣長の注釈】『来』は、『麻韋伎都(まゐきつ)』、参りました、と訓むべきである。
【宣長の注釈】『これを葦原色許男という』。延佳本などには、『命』の字があるが、ここは古い版本や、ある一本などに、ないのがよい。後で『このやつ』と仰せになる言葉や、この時の接し方全体を考えると、『命』と敬って仰せになるはずはないからだ。さて、『謂』の字があるので、『葦原色許男という神だ』と、『神だ』という言葉を補って読むべき文の調子である。また、この名は、この後にお付けになったはずなのに、今仰せになるのは、いつものように、後のことを前へも繰り上げて語り伝えた言葉だろう。
【宣長の注釈】『その蛇の室』。師は、『其』の字は、ないはずだといわれたが、これは『そこの』と場所をいう意味で、須佐之男命のいらっしゃる宮の辺りであることを、はっきり示す言葉なので、必ずある方がよい。『蛇』は、ここではムカデや蜂などと並べていうことを考えると、小さな蛇だろうから、『弊美(へみ)』と訓むべきである。『遠呂智(をろち)』は、とても大きなものをいうはずなので、ここは、そう訓めないだろう。かみつこうとする、とは、大蛇でなくてもいえる。『和名抄』には、『蛇。和名は倍美。一名、久知奈波。日本紀私記には乎呂知という』『蚖蛇。加良須倍美』『蟒蛇。仁之木倍美』とあり、『へみ』という名が、主な名であると理解できる。ただし、『へみ』は、『反鼻』という字音から生じたのかという疑いもあり得る。しかし同じ『和名抄』の蝮の項で、『俗に蛇を反鼻とも呼び、その音は片尾』というのは、右に引いた和名『倍美』とは、似ていても別のものだと読み取れる。『反鼻』は、もともと正式な名でなく別名なので、その音を取って和名とするはずはない。上古、この国になかった物なら、中国の別名などを取って名付けた例もあるが、蛇などは神代からある物なので、名もなかったはずはない。仮に『をろち』を古名としても、すでにその名がある以上、さらに中国の別名を借り求める理由はない。まして『へみ』という名は、広くいい慣わしたように聞こえる。だから、これは『反鼻』の音と、自然に似ただけなのだ。『万葉集』にも、『倍美』という語に、『蛇』の字を借りて書くところがある。さて、小さな蛇であることから考えると、マムシだろうか。並べていうムカデも蜂も、ともに刺す物なので、これもそうなのだろうからである。普通の蛇は、それほど害を加えない物なので、ここはマムシで、よく合うだろうか。ここの『咋』も、刺すことをいうと見ても、差し支えないだろうか。それも蛇の一種なので、古くは、一緒にただ『蛇』ともいっただろう。『和名抄』では、蝮の和名を『波美(はみ)』といい、今いう『まむし』である。『ま』というのは、害を加えることが激しいからで、オオカミを『まかみ』というのと同じだ。ただし、普通の蛇と見てもよい。『室』は、師が『牟呂夜(むろや)』と訓んだのに従うべきである。白檮原の宮の段に、『忍坂の大室』とあるのを、歌では『意佐加能意富牟盧夜(おさかのおほむろや)』とするからだ。さて、こうして蛇の室や、次のムカデ・蜂の室などがあるのは、どういう理由だろうか。もしかすると、根の国、つまり黄泉なので、人に害を加える、このような物の類が、全体に多いのだろうか。これは、一日に千人を絞め殺すという意味である。後の文に、『頭を見ると、ムカデがたくさんいた』とあることなどから、そこの様子を考えるべきである。中でも『蛇の室』というのは、とくに蛇が多い室をいうのだろう。
【宣長の注釈】『令寝』は、『泥志米賜伎(ねしめたまひき)』、寝かせなさった、と訓むべきである。今の人の言葉遣いで見れば、『泥佐志米(ねさしめ)』と訓むようだが、それは古雅でない。『万葉集』巻二十に、『山人乃和礼爾依志米之』とあるのは、『得しめし』、得させた、である。『得』と『寝』は、まったく同じ型の言葉遣いで、『得む・寝む』『得る・寝る』などと、第三音・第四音で活用する。また『万葉集』巻十四の東歌に、『伊射禰志米刀良』などとあるのは、寝かせるということだろうか。
【宣長の注釈】『その妻』。一度、男女の契りを交わされたので、早くも妻という。次に『その夫』ともある。
【宣長の注釈】『蛇比礼』。『職員令集解』に、『鎮魂についていう。饒速日命が天から降った時、天神は瑞宝十種を授けた。一、息津鏡。一、辺津鏡。一、八握剣。一、生玉。一、足玉。一、死反玉。一、道反玉。一、蛇比礼。一、蜂比礼。一、品之物比礼である。そして、痛むところがあるなら、この十宝を、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十といって、布瑠部由良由良止布瑠部、振るべ、ゆらゆらと振るべ、とせよ、このようにすれば、死んだ人も生き返る、と教え導いた』とある。このことは『旧事紀』にも記す。後世の鎮魂祭にも、このことの形が残っているので、古い伝承だろう。『貞観儀式』『江次第』などの、その祭の項を見るべきである。ここにあるのは、その十種の宝の中の物ではないはずだが、同じ種類の物と見え、用いる意味もまったく同じである。さて、これは蛇の体の鰭をいうのでなく、蛇を払う比礼である。例えば、『蛇之麁正』という剣の名も、蛇の剣でなく、蛇を斬った剣であるのと同じだ。一般に物の名には、このような例が、なお多い。右の十種の中に、『品物比礼一』とあることからも、その物の体の鰭ではないと知るべきだ。さまざまな物の体の鰭なら、一つではあるまい。中巻の末で、天之日矛が持ち渡って来た宝物の中にある、『振浪比礼』『切浪比礼』などの比礼と同じである。では、その『ひれ』とは、どのような物か。まず『ひれ』とは、『振り手』が縮まった名である。『りて』を『れ』に縮めると『ふれ』だが、また『ふり』は『ひ』に縮まるので、自然に『ひれ』となる。何であれ、振る物をいう。だから、魚の鰭も、水中を進むために振る物であり、衣服の領巾も、もとは振るための物で、すべてもとは一つの意味で名付けた物なのだ。そのため、上代に領巾といえば、必ず振ることをいった。したがって、『蛇比礼』は、蛇を払うために振る物の名である。それなのに、右の『由良々々止布瑠部』という詞によって、玉であるなどという説は合わない。『ゆらゆら』は振る様子をいう言葉、『ふるべ』は、『振れ』を延ばした言葉である。
【宣長の注釈】『其夫』は、『曽能比古遅(そのひこぢ)』と訓むべきである。夫を『ひこぢ』ということは、後に見えるので、そこの伝巻十一・三十二葉で述べる。また『遠(を)』とも訓むべきである。この女神の歌に、『那邇岐美遠波那志』、あなたを除いて、ほかに夫はいない、とある。『和名抄』には、『夫の和名は乎宇止(をうと)、一名、乎止古(をとこ)』、また『後夫の和名は宇波乎(うはを)』『前夫の和名は之太乎(したを)』と見える。『うと』は人のことで、俗に『をつと』というのは、この訛りである。これらは、みな『を』という語をもとにした名である。
【宣長の注釈】『三挙』は、『美多毘布理弖(みたびふりて)』、三度振って、と訓むべきである。『ふり』を『ふき』と訓んでも同じである。『挙』を、必ず『ふり』と訓むべき理由は、右で述べたとおりである。中巻の初めの、『釣りをして、羽を打ち振りながら来る人』という箇所の『挙』の字も、必ずそう訓むべき例から考えて、判断すべきである。なお、そこの伝巻十八・十七葉で述べることも、合わせて考えてほしい。
【宣長の注釈】『教えのとおりにすると』。この前に、実際に蛇がかみつこうとしたことがあるはずだが、それは先の言葉に譲って、省いた文章である。この例は、しばしば多い。ほかも、これにならって理解すべきである。
【宣長の注釈】『自然に静まった』とは、起き上がって、かみつこうとした蛇が、退いて静まり、何の害も加えなかったのである。
【宣長の注釈】『平寝』は、『夜須久泥弖(やすくねて)』、安らかに寝て、と訓むべきである。『平』は、普通は『多比良(たひら)』と訓み、『やすく』は『安』と書くが、この二つの言葉は、いつも続けていわれ、同じ意味である。ここは必ず『やすく』と訓むべき語である。師は、ここを『夜須伊志弖(やすいして)』と訓んだ。これも同じ意味の古語だが、ここは、そのように訓む文の調子ではない。一般に、同じ言葉、同じ意味でも、それぞれの場所の言い回しによって、訓み方は少し違うものである。
【宣長の注釈】『出之』は、翌朝、蛇の室から出られたのである。
【宣長の注釈】『来日』は、『久流比(くるひ)』と訓むべきである。『日本書紀』の『明日』『明旦』『明年』などの訓を見ると、『明』という字なのに、『あくる』とは訓まず、『くる』と訓んでいる。これが古い言葉だろう。ただし、助詞の『都(つ)』は理解できない。この助詞を置くべき言葉ではない。当時、この程度のことは、誰もがよく分かっていたはずなのに、どういうことだろうか。『くるひ』は、翌日をいう。
【宣長の注釈】『呉公』は、『蜈蚣』、ムカデである。ただし、延佳本が『蜈蚣』とするのは、余計な判断で改めたもので、諸本は、みな『呉公』とする。『新撰字鏡』の『蛆』の字の下にも、『呉公』と書く。このように偏を省いて書くのは、日本での古い書き方の一つである。例えば、『健』を『建』と書く。『建』の字に、『多気(たけ)』と訓む意味はない。音を表す字では、『伎』を『支』と書く。『支』の字には『き』の音はない。『神名式』や『伊勢の儀式帳』などで、『只』の字を『き』の音仮名に書くのも、みな『枳』の字である。この『古事記』の下巻に、『弦』を『玄』と書き、『石村』の『村』を『寸』と書く。このことは、下巻の池辺の宮の段で詳しく述べる。『醜』を『鬼』と書き、『和名抄』にある上野国の郷名『委文』、読みは『之土利(しどり)』、も、『倭』の字の偏を省いたものである。また後世に、『條』を『条』と書くのも、この例である。これらの字は、昔から学者たちが理解しかねていたことだが、私が近ごろ考えつき、右の例から見れば、どれもたいへん明らかだ。さて、『和名抄』に、『蜈蚣。和名は無加天(むかて)』とある。
【宣長の注釈】『蜂』。『和名抄』には、『波知(はち)』とある。
【宣長の注釈】『且』の字は、延佳本などでは『亦』とする。どちらでも同じである。
【宣長の注釈】『ムカデと蜂の比礼』。これは、ムカデを払う物と、蜂を払う物との二つの比礼だろうか。それとも、この二つの虫を払う一つの比礼だろうか。どちらでもよいだろう。さて、人に害を加える物は、さまざまに多いのに、この三つの虫、蛇・ムカデ・蜂を、特にいう理由は、上代、民家の暮らしなどが今のようでなく、野山に交じって住んでいたころには、これらの物の害が、いつも多かったのだろう。だからこそ、『大祓詞』にも『昆虫の災い』を挙げ、右の十種の宝の中にも、これらを払う比礼があるのだ。欽明天皇紀に、『席の端に蜂と蛇が現れ、これを怪しんだ』とある。〔訳注:引用末尾は「怪之」が有力だが、細画の判読を留保する。〕
【宣長の注釈】『平出之』。これも『夜須久出賜伎(やすくいでたまひき)』、無事にお出になった、と訓むべきである。ここは『寝る』ことを、前と同じとして省いた文である。
【宣長の注釈】『鳴鏑』。『日本書紀』などの訓は『那流加夫良(なるかぶら)』とするが、『新撰字鏡』に『鏑、奈利加夫良(なりかぶら)』とあるのに従って訓むべきである。名の意味は『鳴神夫理矢(なるかみふりや)』である。『かみ』の『み』を省き、『りや』は『ら』に縮まる。天智天皇紀に、『細かな響きが、鳴鏑のように聞こえた』とあるとおり、射ると、空を鳴って行くのが雷に似ているからだ。カブの根の形に似ているための名だというのは、誤りである。反対に、この鏑に似ているので、あの根も『かぶら』というのである。さて、この矢は『古事記』に、しばしば見える。古くは広く用いた物と見える。『日本書紀』には『八目鳴鏑』というものもある。『八目』は、その鏃に、穴がいくつもあることをいう。『和名抄』には、『日本紀私記にいう、八目鏑、夜豆女加布良(やつめかぶら)』とある。雷を、ただ『かみ』ともいうので、鳴鏑も『かぶら』とだけいえるはずである。または、後に『なり』を省いて、『かぶら』とだけいったのだろうか。『かぶら』をもとの語として、そのうち鳴る物を分けて『鳴鏑』というのではあるまい。『万葉集』巻九の後ろにも、『響矢』と詠んでいる。この『響矢』を、今の本の訓では『かぶら』、『袖中抄』では『なるや』とする。さて、『鏑』という字は、一般に鏃を指すので、特に『かぶら』と訓むべき意味は見えない。これは漢籍で『鳴鏑』という物が、日本の『なりかぶら』に似ているので、この字を当てたのだから、『鏑』一字をそう訓むのも、『鳴鏑』から移ったのである。『史記』匈奴伝に、『冒頓は、そこで鳴鏑を作った』といい、その注で韋昭は、『矢の鏃が、飛ぶと鳴る』という。
【宣長の注釈】『廻焼』は、『夜伎米具良志都(やきめぐらしつ)』、周りから焼いた、と訓むべきである。
【宣長の注釈】『出る所を知らず』は、出られる場所が分からない、という意味なので、この『所』の字は、実質の意味を持たない字ではない。これは、四方から周りを焼くので、逃げ出せる方角がないのである。そもそも、蛇のこと、ムカデと蜂のこと、このことと、いろいろに苦しめられる理由は、八十神のように、本当に殺そうとするお気持ちではない。このようにして、この神が勇敢か臆病か、また賢いか愚かかを、お試しになろうとしたのだろう。後の文に、『心で愛しく思って寝た』とあるので、その気持ちが明らかである。また、このさまざまな苦難にも、自然に祓い除ける意味があることよ。須勢理毘売の名の意味を考えるべきである。
【宣長の注釈】『鼠』。『和名抄』に、『鼠。和名は禰須美(ねすみ)』とある。
【宣長の注釈】『富良(ほら)』は、物の中が空洞で広いことをいう。洞などが、それである。これは『ひろら』を縮めた言葉である。一般に、物が殻だけで、中に実がなく空洞であるのを、俗に『富賀良(ほがら)』というのは、この意味である。また、『朝ほらけ』と、『ほがらほがらと明けて行く』というのとが、まったく同じ意味であることからも、『ほら』と『ほがら』が同じことを知るべきである。
【宣長の注釈】『須夫(すぶ)』は、狭いことである。『須煩(すば)』を『すぶ』と通わせていう例である。『統べる』も、もとは、広がった多くの物を一つに集めて狭くする意味からいう言葉だ。さて、『内』とは、ネズミが地中に作った穴の奥をいい、『外』とは、その穴の入り口をいう。『外』は『登(と)』と訓むべきで、『曽登(そと)』というのは、俗な言い方である。それは『背面(そとも)』を、外側という意味だと理解して、混同したのだろう。『背面』は山陰をいうと、『日本書紀』成務天皇の巻に見え、『背津於毋(そつおも)』を縮めたもので、外側という意味ではない。中古以来、歌などでも、外側の意味で詠むのは合わない。『外』は、ただ『と』である。したがって、このようにいった意味は、自分が地中に作った穴の奥は、とても広く、入り口は狭いので、火が焼け入るはずがない、だから、しばらく、この穴の中に隠れて、災難を免れてください、というのである。さて、『ほら』も『すぶ』も、重ねていうのは、ネズミの鳴き声をまねたのだろうか。
【宣長の注釈】『落隠入』は、『淤知伊理加久理(おちいりかくり)』、落ち入って隠れ、と訓むべきである。『隠入』は、『入隠』とあったのを書き誤ったのだろうか。または『入』の字を、『かくり』の『り』に当てて書いたのか。もしそうなら、『淤知加久理(おちかくり)』と訓むべきだ。なお、『隠れる』を『かくり』というのは、古語の型で、後に見える。あのネズミの穴の中へ自然に落ち入り、その身をお隠しになったのである。そうしている間に、野火は穴の外を焼け過ぎて行き、その災難を免れられた。さて、前に、大きな木に楔を打ち立てて、その割れ目の中へ入らせるといい、また、木の股から漏れ逃れるといい、今ここに、ネズミの穴に入って隠れられるということを、合わせて考えると、この神も少那毘古那神のように、体が小さかったのだろうか。しかし、これは確実に資料に見えることがないので、はっきりとはいえない。『日本書紀』で、少那毘古那神のことを、『大己貴神は、すぐに手のひらに載せてもてあそんだ』とするのを考えると、同じくらい小さい神とも見えない。
【宣長の注釈】「咋持」は、くわえて持つこと。『万葉集』巻十六に、「池神力士儛可毋、白鷺之桙啄持而飛渡良武」、池の神が力士の舞を舞っているのだろうか、白鷺が矛をくわえて飛び渡っている、とある。〔訳注:該当する字は「儛(舞う)」が有力だが、版面の細画を確定できないため留保する。〕
【宣長の注釈】『奉也』とは、大穴牟遅神に差し上げることである。そもそも、ネズミは人に害を加える物なのに、家の中にいるのを、よいとし、いないのを、よくないとするのは、この故事から生じたのだろう。なお、近く焼けるはずの家は、前もって知るので、ネズミが住まない、などというようである。
【宣長の注釈】『皆喫也』。『皆』は、子らが、みな、という意味だ。『喫』は、前の『咋』と同じで、子ネズミらが、矢の羽の方を、みなで手伝い、くわえて持って来るのである。鏃の方は重いので、大きなネズミが持ち、羽の方は軽いので、子ネズミが支えて持つというのも、ありそうなことだ。『喫』とだけいい、『持』を省くのは、前にあるからである。かじって傷つけることと、取り違えてはいけない。
【古事記本文】そこで、妻の須世理毘売は、葬る道具を持ち、泣きながら来た。父の大神も、すでに死んでしまったと思い、その野に出て立った。ところが、矢を持って差し上げた時、家へ連れて入り、八田間の大室に呼び入れて、頭のシラミを取らせた。頭を見ると、ムカデがたくさんいた。そこで妻は、ムクの木の実と赤土を夫に渡した。その実をかみ砕き、赤土を口に含んで吐き出すと、大神は、ムカデをかみ砕いて吐き出していると思い、心に愛しく思って眠った。そこで、その大神の髪をつかみ、その室の垂木ごとに結び付け、大きな五百引の石を取って室の戸をふさぎ、妻の須世理毘売を背負い、大神の生大刀・生弓矢と天の詔琴とを取って持ち、逃げ出した。その時、天の詔琴が木に触れ、大地をとどろかせて鳴り響いた。眠っていた大神は、それを聞いて目を覚まし、起き上がるはずみで室を引き倒した。しかし、垂木に結び付けた髪を解いている間に、遠くへ逃げた。大神は、黄泉比良坂まで追って来て、はるかに眺め、大穴牟遅神に呼び掛けていった。『お前の持っている、その生大刀・生弓矢を使って、お前の異母兄弟たちを、坂道の先で追い伏せ、川の瀬で追い払え。そして、お前は大国主神となり、また宇都志国玉神となって、私の娘の須世理毘売を正妻とし、宇迦能山のふもとで、地底の岩に根を置く宮柱と、空高くそびえる氷木(ひぎ)を備えた宮を、広く立派に治めて住め。このやつめ。』『意礼』の二字、『宇迦能』の三字、『布刀斯理』『多迦斯理』のそれぞれ四字は、音を表している。そして、その大刀と弓を持ち、八十神を追いのける時、行く先々の坂で追い伏せ、川の瀬で追い払い、こうして国土を整え始められた。
【宣長の注釈】『喪具』は、師が『波夫理都母能(はぶりつもの)』と訓んだのに従うべきである。『日本書紀』で、『祓具』を『ここでは波羅閉都母能(はらへつもの)という』とするのと、同じ型である。『喪』は『母(も)』と訓むべき字だが、これは葬るための道具だろうからである。『母乃曽那門(ものそなへ)』と訓むのも、誤りではないが、それでは納得できない。その理由は、まず一般に『具』の字は、漢籍では、物事を表す名詞にも、動作を表す動詞にも用いる。例えば、『礼記』檀弓篇に、『喪具は、君子は具うるを恥ず』という、その上の『具』は、そのために備える物をいう名詞で、下の『具』は、その物を備えることをいう動詞である。ところが日本では、動詞で『そなふ』というのは古語だが、その物を指して『そなへ』と名詞でいうのは、『具』という字による、後の言葉らしく聞こえるからだ。しかし、そう訓まなければ訓みにくいところもあるので、それは、やむを得ず、そのようにも訓んでよい。なお、ほかにも、このような例は、とても多い。〔訳注:引用訓「母乃曾那門」の末字は門/閇などの細画を確定できず、原仮名を暫定保持する。「そなへ」という名詞の古さを疑う著者の論旨は確認できる。〕
【宣長の注釈】『哭来』は、『那伎都々来坐志(なきつつきましし)』、泣きながら来られた、と訓むべきである。師の書き入れに、これは影媛が鮪臣を葬った時の歌と合わせて見よ、とある。本当によく似ている。それは『日本書紀』武烈天皇の巻に、『影媛は、以前から真鳥大臣の子の鮪と男女の交わりがあった云々。鮪臣を乃楽山で殺した。この時、影媛は後を追って、殺された場所へ行き、すでに殺されたのを見て、驚きおびえて、どうしてよいか分からず、悲しみの涙が目に満ちた。そして歌を作った。「伊須能箇瀰、賦屢鳴須擬底」、石上、布留を過ぎて云々。「逗摩御暮屢、鳴佐裒鳴須擬、拖摩該儞播、伊比佐倍毋理、拖摩暮比儞、瀰拖佐倍毋理、儺岐曾裒遅喩倶謀、柯礙比謎阿婆例」、妻をこもらせる小佐保を過ぎ、美しい笥には飯をも盛り、美しい椀には水をも盛って、涙にぬれながら行く、影媛は、ああ、いたわしい。そして影媛は、遺体を収めて葬り終えた云々』とあることである。この、玉筒に飯を盛り、玉盌に水を盛るというものも、喪具のうちである。〔訳注:引用歌の一部の音仮名は、字形の判読を留保している。歌意は、飯と水を供えること、泣きながら進むことを表す。〕
【宣長の注釈】『思已死訖』は、『須伝爾美宇世奴登思本志弖(すでにみうせぬとおもほして)』、すでに亡くなってしまったと思われて、と訓むべきである。そもそも、この言葉は、右の『須世理比売は』という下に、まずあるはずなのに、そこではいわず、後になって、ここでいうのは、古文の巧みさである。前の箇所には、『喪具を持って』などという言葉があるので、死んでしまったと思われたことは、自然に分かる。また、ここには、そのような言葉もなく、すぐに『その野に出て立った』といえば、文の調子も足りない。そこで両方を考えて、ここにこの言葉を置き、自然に前の箇所へも響かせたものなのだ。
【宣長の注釈】『その野に出て立った』。この段全体の意味から考えると、まず右のように、大穴牟遅神を、さまざまに苦しめられるのは、前にいったように、すべて、この神をお試しになるのである。ところが今、このように野火が激しく燃え広がり、すでに焼け終わるまで、その神が、まだ出て来られないので、これでは、もう焼けて死んでしまったのだろうと、心の中では、かわいそうに、不安に思われ、その結末をお尋ねになろうとして、外に出て立たれたのだろう。『出立』は、『日本書紀』推古天皇の巻の歌に、『異泥多々須(いでたたす)』とあるのに従って訓むべきである。
【宣長の注釈】『その矢を持って差し上げた』は、初めに『その矢を拾わせた』とあることを受けるのである。
【宣長の注釈】『家へ連れて入り云々』。これは、すでに死んだと思っておられたのに、思いがけず、その矢を持って出て来られたので、『驚かれて云々』などという言葉が、この前に必ずありそうなところなのに、そのような言葉が何もなく、言葉が足りない気がする。それは、内心をお見せにならず、怖い顔を作っておられるからである。その理由は、次にいう。『家』は、須佐之男大神の家である。
【宣長の注釈】『八田間の大室』。『八田間』は、広く大きいことをいう。『田』は音を借りた字だが、その意味は、まだ思い当たらない。あるいは『都(つ)』が変わったもので、ただ八つの間ということか。師は、『八咫間』だろうかといわれたが、その意味ではあるまい。『八』は、いつものように、ただ多いことをいう。『間』は、一般に、家の柱と柱の間をいい、中古までも、そうであった。一間、二間、または、東から第一の間、西から第三の間などというのも、みなそうである。後世に、家の中を区切り、障子などで隔てた部分を『間』というのも、右の意味から移ったのである。また、一歩を一間というのも、右の意味から生じた。さて、この大室は、次の文によると、この大神の寝室と見える。
【宣長の注釈】『虱』。『和名抄』に、『虱。和名は之良美(しらみ)』とある。
【宣長の注釈】『ムカデがたくさんいた』。前の黄泉の段に、『宇士多加礼斗呂々岐弖』、ウジがたかり、うごめき、『頭には、大雷がいた云々』とあることと合わせて、その国の様子を考えよ。このような頭に手を触れさせるのも、なお、この神をお試しになるのである。
【宣長の注釈】『牟久の木の実』は、天武天皇紀に、『椹、ここでは武倶(むく)という』と見える。『和名抄』の果実の類には、『椋子。和名本草では無久(むく)』、また木の類にも、『椋。和名は牟久』とある。『新撰字鏡』には、『枒』、また『椹』、また『棶』などを『牟久乃木(むくのき)』とし、また『横枏』『枳椇』も、ともに『牟久』とする。〔訳注:『字鏡』から挙げる複数の木偏字のうち、枒・横枏・枳椇の字形の判読を留保する。〕
【宣長の注釈】『以牟久』の『以』の字は、ある一本では『取』と書く。
【宣長の注釈】『赤土』は、『波爾(はに)』と訓むべきである。『万葉集』に例が多い。『はに』は、普通『埴』の字を書き、粘土のことである。多くは色が赤いので、『赤土』と書く。また黄色い物もあるので、『万葉集』には『黄土』とも書く。これはムカデをかみ砕いた色に似せるための物なので、その色を分からせようと『赤土』と書いた可能性もある。そのため、『阿加爾(あかに)』、または『曽富爾(そほに)』などと訓むのも、一理あるが、やはり『はに』だろう。中巻には、赤い色が必要でない箇所でも、『赤土』と書く。
【宣長の注釈】『その夫に渡した』。先に、蛇の比礼を渡して教えたように、ここでも、このようになさい、と教えたはずだが、前と同じとして省いたのである。
【宣長の注釈】『木実』は、『許能美(このみ)』と訓むべきである。前の箇所は、『牟久木』と続くので、『木』は『紀能(きの)』と訓んだ。同じ字だが、少し違う。『和名抄』には、『応劭は、木の実を菓という、といった。日本紀私記では古乃美(このみ)といい、俗には久太毛乃(くたもの)という』とある。
【宣長の注釈】『咋破』は、『久比夜夫理(くひやぶり)』と訓むべきで、かみ砕くことをいう。後の箇所も同じだ。『万葉集』巻十六・二十葉に、『机之島能小螺乎、伊拾持来而、石以都追伎破夫利』、机の島の小さな巻き貝を拾って持って来て、石で突き砕き云々、とあるのと同じである。
【宣長の注釈】『含』は、『布布美(ふふみ)』と訓むべきで、『ふくむ』の古語である。『万葉集』巻十九・二十葉に、『布敷売流(ふふめる)』などとあり、なお例は多い。
【宣長の注釈】『唾出』は、『都婆伎伊陀志賜門婆(つばきいだしたまへば)』、吐き出されると、と訓むべきである。『和名抄』に、『唾。和名は豆婆岐(つばき)』と見え、『新撰字鏡』に、口の水、液、唾を『豆波(つば)』とし、幼児の口から出る汁を『豆波支(つばき)』とするなどあるのは、みな、その物をいうので名詞だが、ここは動詞でいっている。〔訳注:この紙面には汚れがあり、『字鏡』の引用の頭と途中の字を判読できない。〕さて、この『つばき』という言葉には、疑いがある。まず今の世にも、口の中にたまる水を『津(つ)』というので、『唾』は『津を吐く』意味だろう。ところが、『津』の字も『つ』という語も、もとは船が泊まる場所の名なので、そこから転じて、津液の『津』をも『つ』というのか。もしそうなら古語ではなく、『津』の字から生じた言葉である。しかし、『唾』は、ただ『吐く』とは、様子が同じでないので、『つばく』と訓むほかはない。さて、これはムクの実をかみ砕き、口に含んだ赤土と混ぜたのが、ムカデをかみ砕いたものによく似ていたのだろう。
【宣長の注釈】『思愛』は、『波斯久於毛富志弖(はしくおもほして)』と訓むべきである。『はしく』は、字のとおり、かわいく、いとおしく思う意味で、『古事記』で倭建命が『波斯祁夜斯(はしけやし)』と歌われ、『万葉集』などにも多く見える。『愛』の字を書く例も、『万葉集』にある。大雀天皇の歌に、『阿賀波斯豆摩(あがはしづま)』、私の愛しい妻、と詠まれるのも、これである。なお、そこの伝巻二十四・三十一葉で詳しく述べる。さて、ここでは須佐之男命が、大穴牟遅神は多くのムカデを少しも恐れずかみ砕いていると思い、その勇気に感心されるのである。しかし、それは心の中に秘め、顔色にもお出しにならないことを、確かに分からせるため、『心において』というのだ。前に、大穴牟遅神を蛇の室などに寝かせられたのに、その神が何事もなく無事に出てこられた時も、また、野をお焼きになったのに、その神が無事に矢を持って差し上げた時も、そのたびごとに、心の中では愛しく思いながら、その気持ちを表にお出しにならないので、それぞれの場所では、この言葉を省き、今、最後の一事に、このようにいう。古文の妙味のあるところである。気を付けて味わうべきだ。この『古事記』は、余計な手を加えず、古い言葉のままに記されたので、よく見ると、優れたところばかりが多い。『日本書紀』は、漢文を飾ろうとして、余計な手ばかりを加えたため、かえって古文の妙味は、すべて失われてしまった。さて、ここも、前のそれぞれの箇所へ、いつものように響かせたのである。そうである以上、前に挙げた、さまざまな出来事が、すべて、その神を試されようとする仕業だということは、この一言で明らかだ。
【宣長の注釈】『寝』は、『御寝坐伎(みねましき)』、お眠りになった、と訓むべきである。
【宣長の注釈】『その大神の髪を握り』。諸本には、『大』の字がない。しかし、前後が、みな『大神』なのに、ここだけ、ただ『神』とは、きっと申し上げないはずなので、今、補った。さて、頭のシラミを取っていたところなので、髪をつかむには、もともと都合がよかった。
【宣長の注釈】『椽』は、『新撰字鏡』に、『槫。榱であり、櫨であり、枋である。太利木(たりき)』、また『樑。比佐志乃太利木(ひさしのたりき)』とある。『和名抄』には、『榱。釈名に、榱は櫋の脇で、下へ垂れるものという。兼名苑では、一名は櫋、一名は椽といい、和名は大流岐(たるき)。楊氏漢語抄では、波門岐(はもき)という』とある。今の世にも『たるき』というが、『たりき』の方が意味が優れるので、『新撰字鏡』の訓に従うべきである。〔訳注:字書の引用に並ぶ木偏字・異体字の一部は、字形の判読に留保がある。〕
【宣長の注釈】『結び付けた』。寝ておられる髪を、そのまま家の垂木に結び付けるのは、ずいぶん距離があり過ぎる気がするので、別にひもを髪につなぎ、結び付けたと考えようか。しかし、それでは、かえって、くどくどしく聞こえるので、そのまま髪を結び付けると見てよいだろう。さて、こうなさる理由は、この大神が眠っておられる間に、ここから逃げ去ろうと思われるので、後から追って来られることを恐れ、それをお引き留め申し上げるためである。そのことは、すぐ次に見える。
【宣長の注釈】『五百引石』は、前に『千引石』とあるのと同じ類の、大きな石である。
【宣長の注釈】『取塞』は、『登理佐閇弖(とりさへて)』と訓むべきである。前に、『千引石を引いて、その黄泉比良坂をふさいだ』とあるところ、伝巻六・二十九葉で述べたとおりである。俗語で、人がけんかなどをするのを、そばから『取りさえる』、止める、というのも、これから生じた。
【宣長の注釈】『生大刀・生弓矢』。『生』は、前に引いた、天神が饒速日命にお授けになった十種の宝に、『生玉・足玉』があり、神祇官にいらっしゃる八神のうちに、『生魂・足魂』と申し上げる神があり、また、『生島・足島』『生国・足国』、出雲国造の神賀詞に、『今日能生日能足日爾』、今日の生きた日の、満ち足りた日に、などとあるのと同じ『生』で、すべて、命長く生きる意味である。『足』は、何も不足することなく、満ち足りる意味だ。ここは、持つ人が、長く生きる効力を持つ、大刀と弓矢なのである。右のように、『生何々』という時は、みな『足何々』と並ぶのに、ここは『生』だけで『足』がないのは、『生』に『足』をも兼ねる意味があるのだろう。師は、右の『生魂・足魂』『生国・足国』は、それぞれの和魂と荒魂を分けたものだ、といわれた。そもそも今、黄泉の国で、この物を得られるのは、いつもの、不幸から幸運を成す道理である。
【宣長の注釈】『その天の詔琴』。『その』は、前の『その大神の』を受け、同じく、その大神の物という意味である。『天』は、前にいったように、何であれ、その作りが天上の物と同じであることをいう。『詔琴』は、この琴だけの名ではなく、すべての琴の、正式な本来の名である。その意味は、『詔言する所』ということである。『所』を『登(と)』という例は多く、前に述べた。『登杼(とど)』を縮めると『登(と)』となる。『留』を『とまる』ともいうのと同じだ。そのため、縮めて『能理許登(のりこと)』というのである。そういう理由は、まず古くは、何事であれ、神の心を伺おうとして、その命令を請い申し上げるには、必ず琴を弾き、その時、その神が琴の上に降りて来られ、人に憑いて命令をお告げになる。このことは、中巻の訶志比の宮の段、伝巻三十・二十四葉で、証拠などを挙げて詳しくいうので、合わせて読んで知るべきである。また『日本書紀』武烈天皇の巻の歌に、『挙等我瀰爾、枳謂屢箇皚比謎』、琴の頭に、来ている影媛よ、とある。その最初の一句半は、『影』といおうとする序で、琴の頭に降りて来ている神の姿、という意味につながるのである。これらからも、右の趣旨を理解すべきだ。だから、『こと』という名は、神が来て、お告げをなさる所、という意味で付けたので、もとは一般に『のりこと』といったのを、『こと』とだけいうのは、後に省略した名なのだ。さて、琴は、このように神代からあったことは、いうまでもなく、大刀・弓矢と並べて、ここに挙げることを考えると、数ある道具の中でも、重んじる物であると分かる。後に中国からも、この類の楽器が、さまざまに渡って来ると、日本にもとからある物を『倭琴』、あちらの物を『唐琴』といった。備前国に『唐琴』という地名があるので、古くから、この名があったと分かる。また後には、区別して『琴のこと』『箏のこと』『琵琶のこと』などといった。そして中古までは、この倭琴も、ふだんから広く演奏され、特に、諸楽器の中で最上と定められたのも、神代から深い由来があり、もともと、この日本の物だからだろう。ところが、そのように重んじ、尊んだあまりだろうか、後世には、その家で深く秘密にし、広く伝えないようになった。そのため、ついには世間では、ただ名だけを聞き、どんな物か、その形さえ知らず、まして演奏法を知る人は、まったくなく、ただ、その家だけに伝え、わずかに神遊などだけで用いることになったのは、実に残念で、つらいことなのだ。一般に、何事も、あまり深く秘密にして、世間へ伝えないと、知る人が次第に少なくなり、ついには絶えてしまうので、尊び重んじようと思うのが、反対に、さげすんで捨てることになるのだ。だから、物を重んじ、尊ぶのなら、ますます広く世に伝え、盛んにしたいものだ。このような素晴らしい神代の物が廃れ、世に知る人もなくなったことが嘆かわしくて、こんなに長々というのである。さて、上代の琴は、木でも竹でも作ったと見える。木で作ったことは、高津の宮の段に見え、竹で作った証拠は、『日本書紀』継体天皇の巻の歌に見える。弦の数は、『六帖』の歌に六つの弦と詠むように、中古以来の物は六つである。上代からそうだったのか。甕栗の宮の段の、袁祁命の歌の言葉には、『八絃琴』とある。八つは、いつものように、数の多い意味だろうか。ただし、東遊の歌に、『奈々川乎乃也川乎乃古止乎之良部』、七つ緒の、八つ緒の琴を調べ、ともあるので、決まった数はなかったのだろうか。作り全体も、上代の物から、多少変わって来たことが、ないとは限るまい。
【宣長の注釈・詔琴の注の続き】さて今、大刀と弓矢と琴とを取って持ち、逃げ出される。その中で、大刀と弓矢を用いたことは、次の文に見えるが、この琴の用途は見えない。ただ、木に触れて大地が鳴り響くことをいうためだけに、この物を挙げるのは、作り物語などなら、そんなこともあるだろうが、実際の記録では、そのように仕組んでいう理由はない。また、『八絃の琴を調べるように、天下を治めた』ということが『古事記』にあるが、それはたとえなので、ここに関わりはない。だから、これを持って出られることは、何の理由か、理解しにくい。そこで、よくよく考えると、上代には、夫婦の結び付きを作る時、必ず女の親の方から婿に琴を与え、長く夫婦の契りの証しとしたのだろう。その確かな証拠は、まだ見当たらないが、『吾妻』という名があるのも、このためのように思われる。後までも、倭琴にこの名がある。これは、中ごろ東国から献上したことがあったため、などという説は、名に合わせて作った、根拠のない話なのだ。今、この琴を持って出られるのは、須世理毘売を妻とする証しにするのだろう。そのため、次の文の、父の大神の仰せに、『お前の持つ、その生大刀・生弓矢を使って云々』とあるのは、大刀と弓矢の用途をいい、その次の『私の娘の須世理毘売を正妻として』というところに、この詔琴の用途が含まれているはずだ。さて、夫婦の関係を絶つ時は、その証しの琴を、妻の方へ返し渡したのだろう。前の黄泉の段、伝巻六・二十九・三十葉に、『女神と男神が向かい合って立ち、事戸を渡した』とあるのも、これと合わせて考えると、証しの琴を、女神の方へ返し渡す意味の言葉だろうか。『こと』は、『詔言する所』の『詔』を省いた名だということが、右にいったとおりなので、『ことど』というのである。『五百引石を取って室の戸をふさぎ』といい、『黄泉比良坂まで追い着き』ということや、そのほかも、あの段とこの段で、出来事の様子が似ていることが多いのを、考え合わせるべきだ。大穴牟遅神が今、黄泉から帰って国を作られるのは、もともと、前の黄泉の段に、『私とあなたで作った国は、まだ作り終えていない』とある、その事業をお継ぎになることは、後に詳しくいうとおりである。そこで、あの段では、女神と男神が別れ、終えていない事業を、今この神も男女となって継がれるので、あちらの『事戸を渡す』ことと、今『詔琴を持つ』こととが、遠く響き合い、優れた道理があることを考えよ。ただし、伊邪那岐・伊邪那美の大神の時に、実際に琴を返し渡されたのではないはずだが、そのようにいって、夫婦の関係を絶つ言葉を使い、語り伝えたものなのだ。『河海抄』に、『和琴は、伊弉諾・伊弉冉尊の時に、お作らせになった』というのは、根拠があるのだろうか。もし古い伝えなら、少し、ここに関わりがあるように聞こえる。『出雲風土記』に、『飯石郡の琴引山。古老が伝えるには、この山の峰に窟があり、窟に、天下をお作りになった大神の琴がある。長さ七尺、幅三尺、厚さ一尺五寸である。また石神があり、高さ二丈、周り四尺である。そのため琴引山という』とある。
【宣長の注釈】『払樹』は、『紀爾布礼(きにふれ)』と訓むべきである。俗に、突き当たるということだ。高津の宮の段には、『水たまりの水が、赤いひもに触れる』ともある。
【宣長の注釈】『動鳴』は、『斗々呂伎々(とどろきき)』と訓むべきである。最後の『き』は、過去を表す語である。この言葉は、前の『はって進んで、とどろかせた』という箇所、伝巻八・五十六葉で説明した。ここは、『登余美(とよみ)』と訓んでも悪くない。しかし、『とよみなる』と訓むのはよくない。『とよむ』ということに、鳴る意味が含まれているからだ。『万葉集』で、『動響』とも『響動』とも書くのは、みな『とどろ』というところである。『とよみ』は、そのように書かず、『響』や『動』などと書く。意味は同じだが、今は、この違いによって訓んだ。
【宣長の注釈】『聞驚』。前に、須佐之男命が天へ上られる時、『山川がすべて動き、国土がみな震えた。そこで天照大御神は、お聞きになって驚き』とあるのとは、ここは少し違い、眠っていらっしゃるのが驚いて、目をお覚ましになることをいう。一般に物音などに驚くのでなく、ただ目が覚めるのも『驚く』ということが、物語文などに、いつも多い。今でも、ある地方の人が、そういうのを聞いたことがある。その地方は忘れた。『日本書紀』垂仁天皇の巻には、『寤』とも書く。『万葉集』巻四に、『夢で会うのは苦しいものだ。目覚めて手探りしても、手にも触れないのだから』とある。これで明らかである。
【宣長の注釈】『その室を引き倒した』。これは、あの垂木ごとに髪を結び付けられていることは、ご存じなく、ふと目を覚まして立ち上がり、出て来られるために、髪に引っ張られて、室が倒れるのである。
【宣長の注釈】『然』。これは、これほど勇ましく強いお力では、どこまでも速やかに追い着かれるはずなのだが、という意味である。
【宣長の注釈】『遙』は、『波呂々々邇(はろはろに)』と訓むべきである。『日本書紀』皇極天皇の巻の歌に、『はろはろに、ことぞ聞こゆる』、はるか遠くに、言葉が聞こえる、とあり、『万葉集』巻五に、『はろはろに、思ほゆるかも』、はるか遠くに思われることよ、などとある。
【宣長の注釈】『望』は、師が『美佐氣氏(みさけて、仮読)』と訓んだのに従うべきである。『日本書紀』などで、このような『望』の字に、『ちせる』『ほせる』とも訓を付けているが、この言葉が確かに使われた例を見ないので、採りにくい。『万葉集』巻一に、『しばしばも見放けむ山を』とある言葉が、この字によく当てはまる。『振り放け見』というのも、同じ意味である。さて、黄泉比良坂は、前にも見え、黄泉国と現実の国との境界だから、この大神は、この境から、こちらへ越えて出られない。そのため、ここで、遠くを見やって、お呼びになるのである。〔訳注:引用訓の末字は氏/弖などの細画を判読できないため、原仮名を仮に示す。〕
【宣長の注釈】『以而』。この文字の書き方は、『古事記』の中でも、めったに見ないが、このように書いてはいけないものでもない。
【宣長の注釈】『庶兄弟』は、前には、ただ『兄弟』とあるので、ここも、それにならって、ただ『阿邇於登杼母乎波(あにおとどもをば)』と訓むべきである。『庶』の字は、ただ、母親が違うことを知らせただけなのだろう。もし、この『庶』の字に当たる古い言葉があったなら、ここより前の『兄弟の神が八十神いらっしゃった』という箇所にこそ、この字を添えるはずなのに、そこにないことを考えれば、古い言葉では、ただ『あにおと』といったのだろう。なお、『庶』の字のことは、中巻、伝巻二十・三十九葉、『庶兄』とある箇所でいう。
【宣長の注釈】『坂の御尾』は、山の坂道の先に、長く延びた所をいうのだろう。『御』は、『真』と同じ、言葉を整える意味である。
【宣長の注釈】『亦』の字は、後の文にないのにならって、読んではならない。言葉の勢いから、必ず、ない方がよい。これは、ただ、文字の上での助けに置いたと見える。
【宣長の注釈】『河の瀬』。坂に『御尾』といい、川に『瀬』というのは、ただ言葉の飾りで、実際は、ただ坂と川である。その坂も川も、やはり言葉の飾りで、実際は、ただ、道を進む先で、ここでも、そこでも、ということなのを、このように表現するのは、古い文章の美しいあり方である。山といわず坂といい、川にも瀬というのは、みな通り道についていうのである。瀬は、川を渡る浅瀬だ。また、坂について『伏せ』、川について『撥え』というのも、言葉を変えて、文章を飾ったものである。
【宣長の注釈】『意礼(おれ)』は、人を見下して、ののしる呼び方である。『古事記』の白檮原の宮の段では、兄宇迦斯をも、ののしってそう呼び、日代の宮の段では、熊曾建をも、そう呼ぶ。『日本書紀』で、右の兄宇迦斯を呼ぶ言葉を、『爾』と書き、『これは飫例(おれ)という』とある。また、神代下巻や敏達天皇の巻などには、『儞』とも書く。『儞』と『爾』は同じ字だと、字書にある。『枕草子』に、田を植える女が歌う歌として、『ほととぎすよ、こいつめ、あいつめ。おまえが鳴くから、私は田に出る』とある。これも女の気持ちでは、田で働く苦労をつらがって、ほととぎすをののしった言葉である。中古の軍記などで、人をののしって『やおれ』ということが多い。これも、『や』は呼びかける言葉、『おれ』は、ここにいうのと同じである。また今の俗語で、ののしって『起』(立て)を『たちおれ』、『行』(行け)を『ゆきおれ』などというのも、『たて、おれ』『ゆけ、おれ』ということで、ここの『おれ』と同じだろう。これが転じて、『立ちおった』『行きおった』などともいう。また今の世の俗語では、自分を『おれ』といい、人をののしる時には『おのれ』『われ』ともいうのは、古くと反対である。さて、今このように書いて仰せになる理由は、後の『是奴』とある箇所で述べよう。
【宣長の注釈】『大国主神』。名の意味は、天下を服従させ、領有する神、という意味である。その場所を領有する人を『うし』というのは、前の天之御中主神の箇所で述べたとおりだ。
【宣長の注釈】『顕国玉神』。『玉』の字は、諸本でどれも『主』と書くが、前の文にも『日本書紀』にも『玉』と書き、『古語拾遺』にも『魂』とあるので、『主』が書き写しの誤りなのは明らかだから、今、改めた。名の意味は、前巻、伝巻九・六十一葉で述べた。さて、似た名前を、このように二つ重ねて仰せになるのは、こういうことである。『大国主』は、右のように、天下を領有する意味、こちらは、国を整え治める事業を成し遂げ、天下に、その恵みを受けさせる神、という意味である。この二つの名は、この時点では、まだ、この神の名前ではなく、そのような神となれ、と仰せになるのである。その後、ついに事業を成し遂げ、この仰せのとおりになられたので、お名前となったのだ。
【宣長の注釈】『その、私の娘』。この姫神は、今では大穴牟遅神に従っていらっしゃるので、『その』と指して、仰せになるのである。
【宣長の注釈】『嫡妻』は、『字鏡』に、『嫡・適、牟加比女(むかひめ)』と見え、『日本書紀』には、多く『正妃』とある。これらによって訓むべきである。『むかひ』は、正式に夫と対になり、配偶者となる意味である。物語文で、現在の妻が産む子を『むかひばら』というのは、前妻と区別して、現在の妻をいうが、これも、もとは『嫡妻の腹』から出たのだろうか。『出雲風土記』に、『神門郡、滑狭の郷。須佐能袁命の御子、和加須世理比売命がいらっしゃった。その時、天下をお作りになった大神命が、妻として通って来られた時、その社の前に岩があり、その上が、たいそう滑らかだった。そこで、滑らかな岩だ、と仰せになった。そのため、なめさという』とある。『しは』を縮めて『さ』というのである。『延喜式』には、同じ郡に『那売佐神社坐和加須西利比売社』という名が見える。隠岐国知夫郡の由良比女神社も、この姫神を祭るという説がある。
【宣長の注釈】『宇迦能山』。『和名抄』に、『出雲国、出雲郡、宇賀郷』とあり、『出雲風土記』に、『出雲郡、宇賀郷。天下をお作りになった大神命が、神魂命の御子、綾門比女命を〈護坐〉。その時、女神は承知せず、逃げ隠れした時に、大神が、様子をうかがって、お探しになった場所が、この郷である。そのため宇加という』とある。『護』の字は、明らかな誤写と見える。〔訳注:原文の動詞「護坐」は、宣長自身が「護」を誤写と指摘するため、その意味を確定せず、この部分の訳を留保する。〕『延喜式』に、同じ郡に宇加神社もある。山は、郷の西にあって、出雲の御埼山という所まで続いている。鰐淵山というのが、これである。
【宣長の注釈】『底つ石根に宮柱』。『延喜式』の祝詞には、また『下つ磐根に』ともある。一般に上代には、神の宮も、人の家も、伊勢の神宮などの作りのように、地面を掘って柱を立てるので、このたたえ言葉があるのだ。今の世でも、身分の低い者の家には、これがあり、『掘立て』という。地面に石を据えて柱を立てるのは、後のことである。『石根』は、そのために礎を据えるのではなく、地の底に、もとからある岩の根元まで、深く掘って立てるという意味である。後の『高天原に云々』は、高さをいうのと、対にして読むべきだ。それは、柱の立ち方が堅固で、動かないということだ。大殿祭の祝詞に、『このお住まいになる大宮の地の、底つ磐根の極みに、〈下津綱根〉に、はう虫の災いもなく、高天原は、青雲のたなびく極みに、〈天乃血垂〉や飛ぶ鳥の災いもなく、掘り固めた柱云々』などともある。〔訳注:引用の「下津綱根」「天乃血垂」の具体的な語義は確定できない。全体は、地底から天空まで宮に害が及ばないよう祈る祝詞である。〕
【宣長の注釈】『布刀斯理(ふとしり)』は、祝詞などに、『太知り立て』とも『太数立て』とも、また『広知り立て』とも『広敷き立て』ともある。これについて、師の説には、『万葉集』巻二に、「天皇のお治めになる国」と「敷き坐す」を使い、祈年祭の祝詞にも、「皇神のお治めになる島々は云々」などと、「知り坐す」を「敷き坐す」というので、「知」と「敷」は同じだ、とある。さて、このたたえ言葉を、古来、ただ柱のことだけだと理解するが、そうではない。今考えるに、『万葉集』巻二に、『水穂の国を、神のままに、広くお治めになり云々』、また巻一に、『広く治める都を置いて云々』、また巻二に、『飛鳥の清浄な宮で、神のままに、広くお治めになり云々』などという例を考えると、『宮柱ふとしり』も、その主が、その宮をお治めになることをいうのである。『ふと』も、右の『万葉集』で、柱ではなく国を治めることにも使うのだから、ただ広く、大きく、というたたえ言葉だ。『ふとみてぐら』『ふとのりと』『ふとまに』などともいう。そのため、『広知り』ともいうのだ。だから、この言葉は、もっぱら柱にかかるのではなく、その宮の主にかかる言葉だが、『ふと』というのが柱と関わるので、『宮柱太』と言いかけ、同時に、その宮をも祝ったものなのである。『万葉集』巻二十に、『麻氣波之良(まけばしら)、ほめて造った、殿のように云々』とある。『日本書紀』神代下巻に、『その宮を造る作り方は、柱は、高く太く云々』、『万葉集』巻二に、『真木柱、太い心は云々』などとあり、柱は、太いことを尊ぶのである。また師の説には、『知』は数で、柱も千木も、数多いことをいう、祝詞で『瓶の上高知り』というのも、丈の高い酒瓶を、数多く並べたことをいうので分かる、とあるが、この説は納得できない。まず『古事記』には、このたたえ言葉が三か所あり、どれも『ふとしり』とだけあって、『立つ』という言葉がない。『知り立て』というのは、数多く立てるとも解せようが、そのほか、ここや前後に引いた『万葉集』などの『敷』も、それを、数多く、というだけでは、言葉が成り立たない。数多いということでは、意味が通じないものが多い。『宮柱太数坐』と続く『坐す』からも、主にかかる言葉であることを理解すべきだ。ただ、『瓶の上高知り』は、右の説で、よく意味が分かるが、ほかの例と合わない。そこで考えるに、あれは『高』とだけいっては調子が足りないので、『千木高知り』という、いい慣れた古い言葉にならって、『知』という言葉は、軽く添えたのかもしれない。『万葉集』巻一に、『高知るや、天の御蔭、天知るや、日の御影』と詠んだ『高知る』も、ただ高い意味なのを、次の『天知る』と対にして、調子を整えるために『知る』を添えた、と聞こえる。ただし、これらの『知』の意味は、なお、よく考えるべきである。さて、このたたえ言葉は、『万葉集』巻一に、『大御心を、吉野の国の、花散らう、秋津の野辺に、宮柱太敷きませば云々』、また巻二に、『真弓の岡に、宮柱太敷きまし、御在処を高知りませて』、また巻六に、『績み麻なす、長柄の宮に、真木柱太高敷きて』、また巻六には、『山代の鹿背山の間に、宮柱太敷き奉り、高知らす、布当の宮は』、また巻二十に、『橿原の畝傍の宮に、宮柱太知り立てて』などとある。
【宣長の注釈】『高天原に』。これは、深く、というために『底つ石根に』というのと対にして、ただ、高いことをいう古い言葉である。大祓の祝詞に、『高天原に耳を振り立てて聞くものとして、馬を引き立てて』とあるのも、ただ、馬が耳を高く振り立てることをいう。この句を、高天原にいらっしゃる神々が耳を振り立てると理解するのは、古い言葉を知らない誤りである。
【宣長の注釈】『氷椽』は、後には『氷木』とも書く。『延喜式』巻八の諸祝詞に多いのは、すべて『千木』といい、ふだんにも、そういうが、『古事記』には三か所に出て、どれも『比岐(ひぎ)』である。師は、この『氷』の字は、『垂』の草書である『毛』を、書き写し誤ったもので、これも『知岐(ちぎ)』と訓むべきだ、といった。『ちぎ』は、つまり『垂木』の『たり』を縮めて『ち』といった名で、『日本書紀』顕宗天皇の室賀の言葉に、『椽様』とある物だという。古い家の屋根の形は、今も田舎に残り、今は、これを扠首という。その先を棟の上で組み、根元は軒先まで数多く並べ垂らし、屋根の斜面も軒も支える。その組んだ先端が、棟の上に数多く並んで出ているので、『垂木高知り』というのだ、といった。しかし今考えると、古くも堅魚木と千木とは別物で、千木は、棟の上の両端にしかなく、その間には、堅魚木という物があるので、千木が端にだけあったことは明らかだ。たとえ同じ物であっても、千木は棟から上へ出た所をいい、椽は棟より下をいうので、名は、もとから別である。だから、椽を千木、千木を椽と、互いにいう例は、まったくない。その上、『たりき』という名は、棟から下へ下がり垂れることをいうのに、『垂木高知り』と、高いことに使うのは、古い言葉の決まりに反する。それなのに『古事記』で『椽』と書くのは、この『ひぎ』に、正確に当てる漢字がないため、強いて、関係の近い字を当て、その物を分からせたのである。ただし、正確に椽そのものではないので、『氷』の字を添えた。『日本書紀』で『榑風』と書くのも、当てはまらないことは、次にいうとおりだが、これも、正確に当たる字がないためで、別物であると知るべきだ。たとえ『垂』の書き誤りだとしても、前の『八田間の大室』などでは、垂木を『椽』だけで書くのに、『高知り』という所では、どれも、この字を添えるのは、どういうことだろう。もし右の説のように、垂木のことなら、ただ『椽』とだけ書くはずなのに、『氷』を添え、また『氷木』とも書くことを、考え合わせよ。だから、『氷』の字も誤りではなく、『ちぎ』と訓むべきでもなく、『ひぎ』であることは明らかだ。また、千木を『違木』『風木』の意味だという説なども、みな、よくない。『智義』の意味だというのは、特に論じる価値もない。『和名抄』の古本に、『榑風。「弁色立成」に、榑風の板、比宜(ひぎ)という。「楊氏漢語抄」の説も同じ』とある。広く流布した版本に、『比宜』がなく、『和名、字のとおり』とあるのは、彫り誤りである。『大神宮延暦儀式帳』にも、『正殿一区云々、上の榑風四枚。長さ二丈八尺、幅八寸、厚さ四寸。比木(ひぎ)と呼ぶ』と見え、同じ外宮の儀式帳にも、『比疑(ひぎ)高知り』と見える。これらからも、『氷』の字が誤りでないことは明らかだ。さて、名の意味は、『氷木』『千木』ともに『肱木』で、『ひち』の下を省くのと、上を省くのとの違いだけだから、もとは同じ名なので、互いにいうのである。ただし『和名抄』に、『枅、比知岐(ひぢき)。「功程式」では肱木という』とあるのは、別の物である。一般に物の形が、この図のように折れ分かれるのを『ひち』といい、手の肘も、この意味で名付けた。また、『肱金』『肱折』なども同じで、その『ひ』は、もとは『ふり』を縮めたもので、『ふり』とは、この図の形のように、もとは一つで、斜めに左右へ先が分かれた物をいう言葉である。『和名抄』に、『杈桎。「方言」に、河東では木の枝分かれを杈桎という。和名、末多布里(またふり)』などとある名が、これである。『振分髪』というのも、頭の上から左右に分かれた形をいう。また、俗に道のりなどをいう時、ここと、あそことの中間の所を『ふりわけ』というのも、ここから出た。また物が、まっすぐでないのを、『ふりがある』というのも、ここから出た。さて、この『ひぎ』という物は、上代の家造りで、屋根の左右の端にあり、その根元は前後の軒から上り、棟で行き合うのを組み違え、その先を長く上へ出した物で、その棟から上へ高く出た部分を『ひぎ』というのだ。ある人が、伊勢神宮の千木を論じて、『貞和雑記には、組み目の上を千木といい、下を榑風というとある。後世は、千木を別に作る社もあるが、伊勢では今も、榑風の先を切らず、そのまま千木に用いる。たいそう重いので、風穴を開けるのである』という。そのとおりだろう。その物は、棟より下では、垂木と並び、同じ形なので、『古事記』では『椽』の字を当てた。また、屋根の左右の妻側では、『榑風』という物なので、『日本書紀』では、その字を当てた。しかし、これらは、どちらも棟より下での名だから、『ひぎ』には当てはまらないのだ。この千木の先を切ることについて、伊勢の内宮と外宮とで、内側をそぐのと外側をそぐのとの違いがあるので、陰陽の理などを大げさにいうのは、いつもの、中国風の考えによる、こじつけである。これは、尾張の吉見氏がいうように、内宮と外宮とで、形を変えただけで、何の意味もあるはずがない。〔訳注:『和名抄』から引く「杈桎」の第二字は細画の判読を確定できず、この表記を暫定保持する。〕

【宣長の注釈】『多迦斯理(たかしり)』。これも、ただ氷木だけのことではなく、主が、その宮をお治めになることをいう。『たか』も、前の『ふと』と同じ、たたえ言葉である。『続日本紀』巻九、聖武天皇の即位の時の詔に、『天下の政治を、ますます高く、ますます広く云々』とあり、『万葉集』巻六に、『わが大君が、神のままに、高くお治めになる印南野の云々』、また、『神代から、吉野の宮に、絶えることなく、高くお治めになると、山川がすばらしいので』とある。この歌によって理解すべきである。『宮に』というので、宮の高さをいうのではなく、天皇が、この宮を高くお治めになることは明らかだ。さて、氷木は、棟から上へ高く伸びる物なので、そのことにも言いかけ、同時に、その宮をも祝うのは、まったく『宮柱ふとしり』というのと同じだ。『万葉集』巻一に、『吉野川の、激しい流れの川内に、高殿を、高くお治めになり』、また、『新しく造る藤原の都の上で、治める国をお治めになるため、都の宮を高くお治めになろうと云々』、また巻六に、『わが大君が、高くお治めになる、吉野の離宮は』、また、『わが皇神の命が、高くお治めになる、布当の宮は云々』とある。これらも、みな、天皇にかけて申し上げることを考えよ。さて、この『宮柱云々』『氷木云々』というのは、どれも上代から決まった宮造りのたたえ言葉で、たいへん美しい言葉である。『日本書紀』神武天皇の巻に、『そこで古語で、こうたたえる。「畝傍の橿原で、地の底の岩の根元に宮柱を太く立て、空高く榑風を高くそびえさせ、初めて天下を治められた天皇」と』と見える。文字は、中国風に書き表したため、たいそう煩わしい。『延喜式』巻八の祝詞に多く見え、神の宮にも、天皇の御殿にも申し上げている。さて、この宇迦山のふもとの宮は、杵築の大社とは別だろう。杵築の宮のことは、伝巻十四でいう。大国主命が天下を領有していらっしゃる間は、この宇迦山のふもとの宮に、お住まいになったのだろう。後に『多芸志の小浜に御舎を造って』とあるのは、現実の御身が、幾重にも奥深い所へ隠れられた後に、御霊が鎮座する宮である。
【宣長の注釈】『是奴』の二字は、『許夜都(こやつ)』と訓むべきである。前の『意礼』の注で引いた、『枕草子』の『かやつ』は、『彼奴』で、どちらも古い言葉だろう。あの『かやつ』と対にして、『是奴』は『こやつ』であると分かる。今の俗語では、『是奴』を『こいつ』、『彼奴』を『きゃつ』『あいつ』ともいう。また『どいつ』というのは、『誰奴』である。これらは、みな『や』を『い』と、なまっていう型が同じなので、そのことからも、『是奴』は『こやつ』であると明らかだ。対馬などでは、今も『あやつ』『こやつ』『そやつ』というそうだ。〔訳注:第三の語の初字は「曾」が有力だが、細画を確定できず仮読として示す。〕さて、前に『おれ』と仰せになり、ここで、このように仰せになるのは、どちらも、内心では深く賞賛なさるお気持ちから、表向きは、厳しく、ののしっていらっしゃるのである。今の世でも、そうしたことが多いのを考え合わせ、その味わいを知れ。前の『蛇の室に寝かせ云々』からの、さまざまな出来事と、この言葉とは、まったく同じお気持ちなのだ。
【宣長の注釈】『その大刀と弓を持って云々』。ここに至って、『生』という名の効力が現れた。ここでは、弓とだけいい、矢をいわないのは、ただ文章を省略しただけである。
【宣長の注釈】『坂の御尾ごとに云々』。二つの『毎』は、所々で戦われる、たびごとに、速やかに勝たれることをいう。このように美しく表すのも、古い文章の巧みさで、後世の及ばないところだ。『万葉集』巻十八に、『川の瀬ごとに云々』とあり、また『出雲風土記』に、『大原郡、来次郷。天下をお作りになった大神命は、八十神を、青垣山の内に置くまい、と仰せになり、追い退けられた時に云々』とあり、また同じ郡の、『城名樋山。天下をお作りになった大神、大穴持命が、八十神を討つため、城を造られた。そのため城名樋という』などとある。これらは、この時のことなのだろう。
【宣長の注釈】『始作国也』は、『国作り始め賜ひき』と訓むべきである。こうして、この後、この国作りをなさる成り行きになる。ここでいう『作る』は、巻頭の『修理』、すなわち国土を整える意味である。そもそも、この国作りのことは、前の黄泉の段で、伊邪那岐命が、『私とあなたで作った国は、まだ作り終えていないから、帰って来てほしい』と、伊邪那美命に仰せになったが、さまざまな事情で、お帰りになれず、終わった。その伊邪那美命に寄り添って、黄泉国を治められる須佐之男大神の子孫である、この神が、その大神の御威霊によって、あの事業を継ぎ、完成させられるのである。御威霊によるというのは、生大刀・生弓矢をお受けになることなど、前に述べた出来事をいう。ここは、あちらと、こちらとを照らし合わせて考え、深い理由があることを知るべきだ。
【古事記本文】そこで、あの八上比売は、前の約束のとおりに、大穴牟遅神と結ばれた。『美刀阿多波志都』の七字は、音で読む。それで、八上比売を連れて来たが、八上比売は、正妻の須世理毘売を恐れ、産んだ子を、木の股に挟んで帰った。そのため、その子を木俣神と名付け、またの名を御井神という。
【宣長の注釈】『八上比売者』の『売』の下に、延佳本では『神』の字があるが、前後に、この名に『神』と付ける例がないので、ない方がよい。
【宣長の注釈】『前の約束のとおりに』は、前には、この姫神が、八十神に、お答えになる言葉に、『私は云々、大穴牟遅神と結婚しよう』とあるだけだが、その時には、すでに約束が、できていたのだろう。
【宣長の注釈】『美刀阿多波志都(みとあたはしつ)』。『日本書紀』の瓊々杵尊の歌に、『佐禰耐播茂、阿黨播怒介茂譽』とある言葉のつながりと、合わせて考えると、『みと』は、『美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)』の『みと』と同じである。あちらの『さねど』と、同じつながりだからだ。『あたはし』は、『あたひ』を長くした型の古い言葉で、『あたひ』『あたふ』などと活用する言葉である。『日本書紀』神代下巻に、『幸之』、その女性と結ばれた、とあり、また雄略天皇の巻に、『与一夜而娠』、一夜を共にすると妊娠した、とある。同じ段には、『終一宵』『与終一宵』とも見える。これらからも、出来事自体は分かるが、言葉の意味は、まだ、はっきりと考えが定まらない。
【宣長の注釈】『御手とともにする』という説などは、ひどい誤りである。これは今の世で、『手を掛ける』ということから、思い付いたのだろうか。しかし、『みと』といい、『さねどをも』、寝床をも、というのを、どうするのだろう。強いて、仮にいうなら、あの『日本書紀』の歌で、『沖の藻は岸辺には寄るけれども』ということと、比べて仰せになり、また『真寝床も』と続くことを考えると、『あたふ』は、これと、あれとが、一つに寄り合う意味だろうか。雄略天皇の巻の『与』の字も、共にする意味を取ったのである。この『与』の字を、人に物などを与える意味で、『あたはす』と訓んだのだと、混同してはならない。だから、『みとあたはす』とは、一つに寄り合い、寝床を共になさる意味だろうか。さて、人に物を『与ふ』というのは、『あたはす』の『はす』を縮めた型の言葉で、これも、その物を、その人へ寄せ付ける意味から出たと見えるので、右の『あたふ』と、こちらも、もとは一つに落ち着く。また漢文に『不能』とあるのを、『あたはず』と訓むのは、字書に、『能は、勝任なり』、仕事を果たせること、とある意味で、『たへず』というのと同じだ。〔訳注:「多門受」の中の字は、へを表す字とみられるが、字形の細部は確定できない。文脈から「たへず」と読む。〕そこで考えると、『勝任』も、もとは『あたふる』の『あ』を省いたのだろうか。『不堪』を『あへず』ともいうのも、考えるべきである。そうなら、『勝任』は、そのことに、うまく到達して、やり遂げる意味、『不勝』は、そのことを、やり遂げられない意味だろう。そうなら、『不能』も『不勝』も、みな、もとは、右の『あたふ』と同じなのだろうか。
【宣長の注釈】『日本書紀』で、『納采』や『聘』などを、『あどふ』と訓むのは、言葉も出来事も近いが、別である。
【宣長の注釈】『率いて来たが』は、因幡から出雲へである。
【宣長の注釈】『その産んだ子』は、八上比売が産んだ子である。
【宣長の注釈】『帰った』は、故郷の因幡へである。
【宣長の注釈】『御井神』は、この神が、所々に井戸を作り、人々の役に立てられた功績によって、お呼び申し上げる名前だろう。御井神社は、まず出雲国では、神名帳に、秋鹿郡と出雲郡とに見える。また、大和国宇陀郡、美濃国多芸郡・各務郡などにも、御井神社が見える。神祇官にいらっしゃる、座摩の御巫が祭る五座の神のうち、生井神・福井神・綱長井神と申し上げるのも、この御井神をお呼びする、三つの名だろう。その五座の中の、阿須波神・波比祇神と申し上げる神も、この次の段に出て、同じ一族の神だからである。この座摩の五座の神は、もとは、摂津国西生郡の座摩に、古くから鎮座されていたのを、仁徳天皇が、そこに大宮を建ててお住まいになり、宮中でお祭りになった。そのため、その後、大和・山城に都を移されても、同じく移して祭り、その場所をも、そのまま座摩といったのだろう。これは、師の説である。祈年祭の祝詞の文章によれば、確かに、そのとおりだろう。臨時祭の式に、『御井祭』というのも見える。井戸は、特に大切にするべき場所なので、誰の家でも、その暮らしに応じて、この神を祭り申し上げるべきものだ。
【宣長の注釈】追記の考察。兎の神について。出雲国意宇郡、大庭の神魂社の神主、秋上得国がいうには、『素兎神は、今も因幡国高草郡の海辺、内海村に、白兎社としてある。今は高草郡だが、気多郡と並び、気多崎の内である。あの伯耆の鷺大明神というのは、出雲大社にも、同じ名の社があって、疱瘡が治るよう祈る神である。兎の神は、それではない』といった。
古事記伝 巻十一
本居宣長、謹んで著す。
神代 第九巻
【古事記本文】この八千矛神は、高志国の沼河比売と結婚しようと出かけ、沼河比売の家に着いたとき、次のように歌った。
【古事記本文・八千矛神の歌】八千矛の神である私は、この八島の国で、妻を見つけられず、遠い遠い高志の国に、賢い女性がいると聞いて、美しい女性がいると聞いて、結婚を求めて、こうして立ち、結婚を求めて、こうして通って来た。大刀をつるす緒も、まだ解かず、頭からかぶる布(おすひ)も、まだ解かないうちに、乙女の閉じた板戸を、押し開こうとして、私が立っていると、引き開こうとして、私が立っていると、青い山で、ぬえが鳴いた。野の鳥、きじが、鳴き響く。庭の鳥、鶏も鳴く。なんと、腹立たしくも、鳴く鳥たちよ。この鳥たちを、打って苦しめてくれないか。いしたぶや。空を駆ける使いのように、この歌も遠くまで伝わり、この求婚の出来事は、はるかな後の世まで、昔の語り草となるだろう。〔訳注:宣長は、ぬえの声を憂いを誘う描写、雉と鶏の声を夜明けの描写と読み分ける。結びの五句の解釈は宣長の推測であり、「いしたぶや」は語義未詳のため音を残した。〕
【宣長の注釈】冒頭の『此』の字は、旧い版本にはない。それも、悪くない。
【宣長の注釈】『八千矛神』。この神のことを記した、前後どの段でも、初めには『大国主神』とあるのに、この段だけ『八千矛神』と記すのは、三首の歌の初めにある、お名前だからだろう。
【宣長の注釈】『高志の国』は、越国である。出雲国神門郡にある古志ではない。後に、越前・加賀・能登・越中・越後などに分かれたが、歌などには、なお、全体を『こし』と詠むのである。この国の名は、越後国に古志郡があるので、ほかの例から考えて、そこから出たのだろうか。名の意味は分かりにくい。山を越えて行く国だからの名、というのは誤りである。もし、そうなら『こえ』というはずだ。一般に、自分が越えることは『こえ』といい、『こし』は、物を越えさせることをいうので、自分と物との違いがある。今の世に、自分のことに、山川を『こす』というのは誤りである。また、『日本書紀』神代の巻に、八島の一つを『越洲』というのを、ある説で、蝦夷の土地をいうとし、越国は、そこへ往来する道だからの名だというのも、たいそう無理な説である。
【宣長の注釈】『沼河比売』。『延喜式』で、越後国頸城郡に、『奴奈川神社』とある。これは地名なので、この姫神を祭るのか、ほかの神なのかは、分かりにくい。その次に『大神社』というのもある。『和名抄』に、同じ郡の『沼川、奴乃加波(ぬのかは)郷』があり、この地名である。だから、ここも『奴奈加波(ぬなかは)』と訓むべきだ。『な』を読み添えるのは、『の』の意味だからである。それは、右の『和名抄』で分かる。一般に『の』を『な』という例は多い。綏靖天皇のお名前の『沼河』も、『日本書紀』では『渟名川』と書くので、確信するがよい。なお『沼河』については、その箇所、伝巻二十・三十六葉で述べよう。さて、このお名前は、前の『稲羽の八上比売』と同じ型である。『出雲風土記』に、『島根郡、美保郷。天下をお作りになった大神命が、高志国にいらっしゃる意支都久辰為命の子、奴奈宜置波比売命を妻として、お生ませになった神、御穂須須美命。この神が、いらっしゃったので、美保という』とある。『辰為』の二字は、書き写しの誤りだろう。また、『宜置』のうち一字は余分で、『賀』の字の誤りだろう。
【宣長の注釈】『将婚』は、『用婆比爾(よばひに)』と訓むべきである。この言葉は、そのまま、歌に出ている。
【宣長の注釈】『幸行』は、『伊伝麻志志(いでましし)』と訓むべきである。最後の『し』は、過去を表す語である。お出かけになることをいう古い言葉だ。『日本書紀』天智天皇の巻の童謡に、『伊提麻志(いでまし)』と見え、『万葉集』巻八に、『伊而麻左自常屋(いでまさじとや)』、お出かけにならないというのか、などがある。また『日本書紀』神代の巻の『遊幸』、崇神天皇の巻の『幸行』、ほかの箇所では『来』『臨』なども、そう訓んでいる。行くことだけでなく、来ることもいうのは、今の俗語で、行くことも来ることも、『おいでなさる』というのと同じだ。『万葉集』で、『行幸』と書くものを、みな『みゆき』と訓むのは、古い言葉を知らない誤りである。どれも『いでまし』と訓んでこそ、よい。巻四に『君之御幸乎』とあるものだけは、そのようには訓みにくいが、これは『御事』の誤りだと、師はいわれた。確かに、そうでなければ、意味が通じない歌である。この言葉は、天皇に限らず、尊んでいう時は、誰についても使う言葉である。ところが、どれにも『幸』の字を書くのは、天皇のお出かけに書き慣れた字を、ほかにも借りたのだ。一般に古くは、文字にとらわれなかったことを、これで知るべきである。また、ふだんは『行幸』と書くのを、『古事記』には、すべて『幸行』とだけ書く。これは古い例なのだろうか。右に引いた『日本書紀』崇神天皇の巻、また『万葉集』巻三などにも、そう書く。
【宣長の注釈】『歌曰』は、『歌ひ賜はく』、お歌いになったことには、と訓むべきである。
【宣長の注釈】『夜知富許能(やちほこの)』。このお名前は、前に出ている。
【宣長の注釈】『迦微能美許登(かみのみこと)』は、『神の命』で、尊い呼び方である。『万葉集』巻三に、『天の原から生まれて来た神の命』、巻五に、『たらしひめ、神の命』、巻六に、『わが大君、神の命』、巻十九に、『海神の命』などがある。一般に上代には、『父の命』『母の命』『妻の命』『妹の命』などともいった。しかし、自分のことを、そう仰せになるのは、珍しい。
【宣長の注釈】『夜斯麻久爾(やしまくに)』は、八島の国で、八島の国の中で、という意味である。
【宣長の注釈】『都麻麻岐迦泥豆(つままぎかねづ)』。『つま』は妻、『まぎ』は、探し求めることだ。『日本書紀』神代下巻に、『国を覓ぐ、これは矩磨儀(くまぎ)という』とあり、白檮原の宮の天皇の歌に、『えをしまかむ』とあるのも、探し求めよう、という意味である。『宇治拾遺物語』に、『人の妻まく者あり』とある。中古までも使う言葉だったと見える。『万葉集』巻七に、『過ぎ去った人を、訪ね求められようか』などとも見える。『かね』は、『万葉集』では、多く『不得』と書き、できないという意味を表す。さて、『日本書紀』継体天皇の巻の、勾大兄皇子が、自ら春日皇女に求婚された云々の歌は、これと、たいへんよく似ている。考え合わせるべきだ。あちらには、この歌の初めの二句がなく、その初めに、右の二句がある。
【宣長の注釈】『登富登富斯(とほとほし)』は、遠い遠い、ということである。諸本の『登々富々斯』という書き方は、古い書き方である。このことは、伝巻四で述べた。この言葉は、古い書物にも、中古の書物にも、ほかには、あまり見えず、かえって今の世では、よく使う言葉だ。出雲から遠いことをいう。『源氏物語』総角の巻に、『うたてとほとほしくのみもてなさせたまへば云々』、困ったことに、よそよそしくばかり、お扱いになるので、とあるのは、親しみがないことをいうのである。
【宣長の注釈】『佐加志売(さかしめ)』は、賢い女性である。ただし、ふだんいう『賢女』の意味ではなく、知恵が深く、聡明だということである。また、女について『さかし』というのは、ふだんは、出しゃばって知ったふうに振る舞う、悪い意味で使うことが多いようだが、これは、そうではなく、ただ、愚かなことの反対で、ほめた言葉である。『日本書紀』仁徳天皇の巻に、『賢、これは左河之(さかし)という』とあり、崇神天皇の巻では、『叡智』に当てる。『土佐日記』に、『ほかの人たちの歌もあったが、優れたものもないだろう』とある。これは、歌がよいことをいっている。
【宣長の注釈】『阿理登岐加志弖(ありときかして)』は、いると聞いて、という言葉を長くした、いつもの古い言い方である。
【宣長の注釈】『久波志売(くはしめ)』は、美しい女性というような意味である。師の説では、『うるはし』は、『うらくはし』を縮めた言葉だという。『万葉集』巻十三に、『鮎を食べさせて、美しい妻に』とも続けて詠んでいる。〔訳注:引用の「醜妹」の初字は「醜」が有力だが、字形の細部は未確定。ここでは美しい女性の例として引かれている。〕また、古い書物では、『細』の字も『くはし』と訓む。水垣の宮の段には、『目微比売』という人名もある。
【宣長の注釈】『伎許志弖(きこして)』も、前の『きかして』と同じである。契沖は、『きかして』と『きこして』とは、同じ言葉だが、古く、このように重ねていう時は、少し言葉を変えた。後に、『さよばひ』といい、『よばひ』というのも同じだ、といった。『きこしめす』『きかしめす』を、互いにいうようなものだ。また、人が自分にいうことも、『きこす』という。それは、次の沼河比売の歌に見える。右の六句は、あの継体天皇の巻の歌には、『ちすがのくびに、はへひの、くはしめありと聞きて、よろしめありと聞きて』、その地に美しい女性がいると聞き、よい女性がいると聞いて、とある。
【宣長の注釈】『佐用婆比爾(さよばひに)』。『さ』は、『ま』と通じる添え言葉である。『よばひ』は、『万葉集』では『結婚』と書く。『霊異記』には、『伉儷、与波不(よばふ)』ともある。言葉の意味は、『呼ぶ』ことから出たのだろう。今の世の言葉で、妻を『よぶ』というのも、これである。『竹取物語』に、『闇の夜にも、あちらこちらから、垣間見して、さまよい歩き合った。その時から、よばひというようになった』とあるのは、ただ、面白く作っていったのである。『万葉集』巻十三で、『夜延為』と書くのも、意味の合う正しい文字ではない。また、『大和物語』に、『亡くなった式部卿の宮に、桂の皇女が、熱心に求婚なさったが、おいでにならなかった』とあるのは、女の側からも『よばふ』というのである。
【宣長の注釈】『阿理多多斯(ありたたし)』は、立っていることである。これは、すぐ後に『私が立っていると』とある、そのことである。『通はせ』より前に出るので、ご自分の家から出発なさることかとも思われるが、そうではあるまい。『万葉集』巻一に、『埴安の堤の上に立つ』、巻十三に、『島の岬々に、立っている花橘を』などとある。
【宣長の注釈】『阿理加用婆勢(ありかよはせ)』は、通っていることである。二つの『あり』は、『万葉集』の『有通』、通っている、『有待』、待っている、『有変為』、変わっている、などの『有』である。『有通』は、さまざまな巻に多い。その中に『蟻通』と書く所があるから、蟻のことだという説は誤りである。『有待』は巻七と巻十、『有変為』は巻十三にある。『そうしている』『そうではない』『何々している』などと、いつもいう言葉だが、『あり何々』と、上に置くことは、後世の言葉にないので、耳慣れずに聞こえるようだ。さて、この句は、前に『こそ』という語もなく、命令の言葉でもないのに、末尾を『せ』という第四段の音で終えるのは、古い長歌の中にある、一つの型である。『せ』の下に『ば』の字が落ちたのかと、師がいわれたのは、そうではない。『万葉集』巻二に、『天伝う、入日さしぬれ云々』、夕日が差した、とあり、また、『玉桙の道を来疲れて、寝た夜の夢にも見れ云々』、夢にも見えた、とあり、また、『久方の天知らしぬれ云々』、天をお治めになった、とある。巻五に、『過ぐし遣りつれ云々』、過ごしてしまった、とあり、また、『たまきはる、命絶えぬれ云々』、命が絶えた、とある。これらは、みな、そうである。どれも、前からいい続けた言葉を、しばらく切って、話が変わる境目にあることは、同じだ。開いて見て、考え合わせるべきである。『万葉集』巻五の『好去好来』の歌に、『唐の遠い国へ遣わされ、まかりいませ云々』とある、この『せ』も、同じ型である。
【宣長の注釈】『多知賀遠母(たちがをも)』は、大刀の緒も、ということである。『の』といわず『が』というのは、古くは、こうした物についても例が多い。『万葉集』巻二十に、『ひもがを』とも詠む。『紐の緒』である。緒は、大刀を身につけ、腰に帯びるための物だ。その様子は、大神宮の式の神宝に、次のようにあるので理解すべきである。『玉纏横刀一振り。柄の長さ七寸、鞘の長さ三尺六寸。柄頭に横向きに銅を付け、金を塗る。長さ三寸八分。頭の頂に、『仆鐶』という輪形の金具を一つ付け、五色の組みひも、長さ一丈を付ける。阿志須恵の組みひもは四尺。柄に勾金を付け、長さ二尺。鈴八個、琥碧の玉二枚を付ける。金の鮒形一対。紫の組みひもの緒、長さ六尺を付ける』。また、『須我流横刀云々、さまざまな作りの横刀二十振り云々、阿志須恵に、緋・紺の絹の緒、長さ九尺、幅二寸五分を付ける』とある。『拾遺集』の神楽歌に、『石上、ふるや壮夫の、大刀が欲しい。紐を結んで垂らし、宮への道を通おう』とある。また、物名の歌として、『をがはのはし』の語を詠み込んだ歌に、『筑紫から、ここまで来たが、贈る土産もない。ただ大刀の緒革の端だけがある』とある。〔訳注:土産に当たる語の字形は「つゝ」「つと」の区別が未確定。旅の土産を表す「つと」として仮に訳した。また「仆鐶」の詳しい構造は確定できない。〕貞観十六年に、検非違使の願いによって、『横刀の緒は、五位以上は、ともに唐組を用い、六位以下は、みな、緋の新羅組などを用いる』と定められたことが、『三代実録』に見える。承和元年に、『囚獄司の物部の刀の緒には、胡桃染めを用いる』と定めたことも、『続日本後紀』に見える。
【宣長の注釈】『伊麻陀登加受弖(いまだとかずて)』は、まだ解かないで、ということである。『万葉集』巻十二に、『ほかの国へ、求婚に行って、大刀の緒も、まだ解かないうちに、夜が明けてしまった』とある。これは、この歌の意味を短くして詠んだ歌である。
【宣長の注釈】『淤須比遠母(おすひをも)』。中巻の美夜受比売の歌に、『意須比能須蘇爾』、おすひの裾に云々、下巻の女鳥王の歌に、『波夜夫佐和気能、美淤須比賀泥』、隼別王のおすひにするために、とある。『万葉集』巻三、大伴坂上郎女の祭神の歌に、『鹿や猪のように膝を折り伏せ、手弱い女の、おすひを取り掛けて云々』とある。外宮の儀式帳に、『大物忌で無位の神主、岡成女云々、明衣を着て、木綿のたすきと前垂れを付け、天のおすひを掛け、手を洗い、その手を乾かさずに、二所の大神の、朝の食事と夕の食事を、毎日、清らかにお仕えして、お供えする』などと見える。これにならって考えると、出雲国造の神賀詞に、『天乃美賀秘冠利天』、天のみかひを、かぶって、とあるのも、『意須秘』の誤りではないだろうか。これは、ついでに注意しておく。大神宮の式の御装束の中に、『絹のおすひ八条、長さ二丈五尺、幅二幅』と見え、度会の宮の分には、『帛絹の忍比四条、それぞれ長さ二丈五尺』とある。儀式帳には、『絹』を『絁』、『条』を『具』と書き、また『幅は、織った布の幅のまま』とある。正中の御飾りの記録には、『綾の忍比』といい、幅一幅とある。これらから考えると、この名は、『おそひ』と通じ、『襲い覆う』という言葉を縮めたのである。師は、『おし帯』を縮めたものだとして、『ひ』を濁音に訓んだ。しかし、それは、右に引いた書物の内容に合わない。まず、右の式に、長さ二丈五尺、幅二幅とあるのも、帯の類とは思えない。同じ御装束に、御帯は長さ七尺、幅一寸八分とあるのと、大きく違うからだ。また、美夜受比売の歌に『裾』と詠み、儀式帳に『かぶる』ということなどで、帯の類でないことは明らかだ。また、『古事記』には三か所に出て、どれも清音の『比』の字を書くので、濁る理由もない。さて、その形は、一幅でも二幅でも、織った幅のまま、たいそう長い物で、後世の女の被衣などのように、頭からかぶって、衣の上を覆い、下は裾まで垂れると見える。その着方を、試みにいうと、中央を頭に当ててかぶり、左右へ下げ、帯の辺りで行き違わせ、腰にまとい、前へ回して結び、端を裾へ垂らすのだろう。詳しいことは分かりにくいが、右に引いた古い書物の内容を合わせて考え、およそは分かる。これは、上代に、男女ともに、人に誰だと知られないよう、顔を隠すための服と見える。今は求婚の時だから、顔を人から隠そうと、着ていらっしゃるのだろう。また、あの女鳥王が、隼別王のために織られるのも、自分の所へ、ひそかに通って来られるためと見える。さて、女は、ふだんにも、人に見られるのを恥じて、顔を隠すものだから、いつでも着ただろう。しかし、奈良の頃などになると、男が着ることは、すでになくなり、女の、昔からの礼服のようになって、神を祭る時などだけに着たのだろう。右のようであるから、ある書物に、これを有職の家で『かくし絹』と名付ける、と見えるのは、古い意味によく合った名なのである。
【宣長の注釈】『倭姫命世記』に、『意須比、飯高の国』とあるのは、器に食べ物を盛ることを、『よそふ』とも『おそふ』ともいう、その言葉で、よそった飯が高い、という意味の枕詞だから、こちらとは違う。ただし、言葉の意味は、もとは一つに落ち着くようだ。この『おすひ』を、儀式帳で『忍』と書くのは、後に『比』の字が落ちたのだろう。強いて読むなら、『忍』一字をも、『おすひ』と訓むべきである。
【宣長の注釈】この『淤』の字を、旧い版本で『游』と書くのを受け、契沖が、『結紐も』だというのは誤りである。『游』は、書き写しの誤りだ。『古事記』に、この字を仮名として使った例はない。
【宣長の注釈】『伊麻陀登加泥婆(いまだとかねば)』とは、結び固めた所を、まだ解かないうちに、ということである。あの、腰から前へ回して結ぶ所だろう。たとえ、そうしなくても、必ず、どこかに結んだ所はあったはずだ。『ねば』は、『ぬに』という意味である。この例は、古い歌に多い。一つ二つ挙げると、『日本書紀』天智天皇の巻の童謡に、『臣の子の、八重の紐を解く。一重さえも、まだ解かないのに、皇子の紐を解く』とある。これも、まだ解かないのに、という意味である。『万葉集』巻二に、『嘆きも、まだ過ぎないうちに、思いも、まだ尽きないうちに』とある。この『ねば』が、直前の『ぬに』と同じ意味なのは明らかだ。巻四に、『お目にかかってから、まだ、わずかな時も過ぎないのに、幾年月もたったように思われる君』、巻八に、『秋になって、幾日もたたないのに、こうして寝ている床へ明け方に吹く風は、袖の辺りが寒いことだ』、巻十に、『一年に、ただ一夜だけ会う人の、恋も尽きないうちに、夜が更けてゆくことよ』、また、『天の川を、足をぬらして渡って来た君の、手さえ、まだ枕にしないうちに、夜が更けてゆくことよ』とある。このほかにも、多い。『古今集』の七夕の歌などにもある。さて、ここで言葉を切り、次の句へは続けず、後の『青山に云々』の所に、かけて理解すべきである。
【宣長の注釈】『遠登売能(をとめの)』は、『乙女の』で、沼河比売のことをいうのである。
【宣長の注釈】『那須夜伊多斗遠(なすやいたとを)』は、鳴らす板戸を、ということである。『なす』は、鳴らさせることで、つまり、戸を閉めることを、そういったと聞こえる。『や』は、添える語だ。ある注釈に、『宮のおとぎの時にて、ならすなり』ということについて、『ならすとは、格子を下ろす音である』とあるのも、閉めることを『ならす』というと聞こえる。『万葉集』巻五に、『乙女たちが閉めた板戸を、押し開き』とあるのは、この歌の言葉を取って詠んだと見えるが、『さなす』と改めたのは、『さ』は、いつもの『ま』と通じる添え言葉である。さて、ここは、今、閉めることをいうのではなく、閉めた戸、という意味だ。『や』は、添える語である。
【宣長の注釈】『淤曾夫良比(おそぶらひ)』は、押すことである。『ぶらひ』は、『万葉集』巻十四に、『誰ぞ、この家の戸を、押そぶる』、誰だ、この家の戸を押すのは、とある、『ぶる』と同じ言葉を、長くしていったのである。契沖が、『押し振ることだ』というのは誤りだ。『ぶらひ』は、振る意味ではない。
【宣長の注釈】『比許豆良比(ひこづらひ)』は、引くことである。『万葉集』巻十三に、『そほ舟に、つなぎ留めて、引きずり云々』とある。『文選』西京賦では、『牽攫』を『ひこづらひ』と訓む。押すことと引くことに、このように『ぶらひ』『づらひ』と添えていうのは、ただ、閉まった戸を押したり引いたり、あれこれして、無理にでも開けようとなさる様子である。師は、『ぶらひ』『づらひ』を、わずらうことだ、といったが、よくない。今の世の言葉でも、引くことを、引きずるという。『づらひ』は、『づり』を長くしたのだ。また、『源氏物語』若菜上に、猫のこととして、『綱が、たいそう長く付いていたのを云々、逃げようと引っ張るうちに』とあり、夕霧には、『惜しそうな様子で引き留めようともなさらないので』などとも見える。
【宣長の注釈】『和何多多勢礼婆(わがたたせれば)』は、私が立っていると、ということである。『たたせれ』というのは、立つことを『たたす』という型である。
【宣長の注釈】『阿遠夜麻爾(あをやまに)』は、青い山に、ということである。青く見えるものなので、単に山のことを、このようにいうのだ。
【宣長の注釈】『奴延波那伎(ぬえはなき)』は、ぬえが鳴く、ということである。『和名抄』に、『唐韻では、鵼は怪鳥であるといい、漢語抄では、沼江(ぬえ)という』とあり、『字鏡』では、『鵼』、また『鵺』を、『奴江(ぬえ)』とする。師は、この二句は、物思いをされる、ちょうどその時に、この鳥の鳴き声を聞いて、いっそう憂いを深くなさる意味だ、といった。なお、この鳥のことは、あの『冠辞考』に詳しく見える。
【宣長の注釈】『佐怒都登理、岐芸斯波登与牟(さぬつとり、きぎしはとよむ)』は、野の鳥、きじが鳴き響く、ということである。『冠辞考』に、きじは野に住むので、『野つ鳥』という言葉を、前に添える、とある。『さ』は、『ま』と同じ添え言葉だ。『万葉集』巻十六に、単に『野つ鳥』とだけいうのも、きじである。『とよむ』は、ただ、鳴き声が聞こえることをいう。『万葉集』などには、鳥や獣の声にも、どんな声にも、多く詠む。『動』『響』などの字を書く。『日本書紀』皇極天皇の巻の童謡には、『あばののきぎし、とよもさず』、阿波野のきじが鳴き響かせず、とある。さて、きじは、『和名抄』には、『木々須(きぎす)、一説に木々之(きぎし)』とあるが、古くは、みな『きぎし』といった。『万葉集』巻十四にも、『吉芸志』とある。ほかの巻に『雉』とあるのも、どれも、このように訓むべきなのに、今の本で『きぎす』と訓むのは、古い言葉を知らない誤りである。
【宣長の注釈】『爾波都登理、迦祁波那久(にはつとり、かけはなく)』は、庭の鳥、鶏が鳴く、ということである。下の『波』の字は、諸本では、どれも『婆』とあるが、今は、真福寺本に従った。この鳥の本来の名は『かけ』なのを、人家の庭に住むので、『庭つ鳥』と、前に添える言葉にいうのは、『野の鳥』と同じである。しかし、後には、『にわとり』とだけ呼び、『かけ』という名は失われた。契沖は、『かけ』を『家鶏』という字の音と思うのは誤りだ、といった。なお、この鳥のことも、『冠辞考』の『家つ鳥』の項に詳しく見える。『万葉集』巻七に、『庭つ鳥、かけの垂れ尾の云々』とある。さて、この二種類の鳥が鳴くことを、お詠みになるのは、夜が明けることを、お嘆きになるのである。『万葉集』巻三に、『いつ、この夜が明けるのだろうと待って、寝ても寝付けずにいると、滝の上の浅野の雉が、夜が明けたと騒ぎ立てるらしい』とある。これも、雉が鳴くことを、夜が明けたという意味でいう。ぬえが鳴くことをお詠みになるのは、夜明けのためではない。主として夜に鳴く鳥だと述べたからである。師の説のとおり、物思いを催させるという意味なのだ。そのため、雉と鶏には『とよむ』『なく』というのに、ぬえだけは『なき』という。言葉の使い方を変えたのも、意味が違うからだろう。巻十三には、『こもりくの、泊瀬の国に求婚に私が来ると、空は曇り、雪が降って来た。空が曇り、雨が降って来る。野の鳥、雉が鳴き、家の鳥、鶏も鳴く。夜は明け、この夜は明けてしまった。中へ入って、しばらく寝よう。この戸を開けてくれ』とある。この歌によって詠んだと考えられる。その返歌も、今の沼河比売の返歌とするのに、たいそうよく似合い、心にしみる歌である。その歌は、後に引く。さて、あの継体天皇の巻の歌は、前述の十三句の次に、『庭の鳥、鶏が鳴く。野の鳥、雉が鳴き響く……』と結んでいる。〔訳注:継体巻の引用の後半「愛絁羅那珥讀、伊麻拕邇練縺底、阿開儺婆梨、倭〓暮」には、字形・句読・意味を確定できない箇所がある。ここは原句を示して訳を留保する。また、巻三の引用の「閒」は「開」との字形の区別を確定できず、夜明けの意味として仮に訳した。〕さて、前の『おすひをも、いまだとかねば』は、後の『さぬつとり云々』へ続けて理解すべきである。言葉のつながりでは『青山に』へかかるが、意味は『さ野つ鳥云々』へかかる。板戸を押したり引いたり、あれこれするうちに時が過ぎ、まだ入れず、大刀の緒やおすひなども解かない間に、早くも夜が明けてしまった、という意味だからである。前に引いた『万葉集』巻十二の歌、『大刀の緒も、まだ解かないうちに、夜が明けた』は、この意味を理解して取り入れたものだ。
【宣長の注釈】『宇礼多久母(うれたくも)』は、『日本書紀』神武天皇の巻に、『憶哉、これは宇礼多霧加夜(うれたむかや)という』と見える。『万葉集』巻八に、『多くの枝を伸ばして茂る橘を云々、花を散らすな、決して、といいながら、これほど私が守るのに、腹立たしい、こいつ、ほととぎすが、夜明けの物悲しい時に、追っても追ってもなお来て鳴き、むなしく地面に花を散らすので云々』とあり、巻十に、『うれたきや、こいつ、ほととぎす云々』とある。これを今の本で、『よしえやし、ゆくほととぎす』と訓むのは、ひどい誤りである。神楽の歌に、『こおろぎの、憎らしさ、腹立たしさよ云々』などとある。中古の物語の書物などにも、多くある言葉である。
【宣長の注釈】『那久那留登理加(なくなるとりか)』。これは、前の三種類の鳥を、まとめていう。『か』は、後世に『かな』という意味である。
【宣長の注釈】『許能登理母(このとりも)』。『も』は、添える語である。この鳥たちよ、というようなものである。
【宣長の注釈】『宇知夜米許世泥(うちやめこせね)』。『うち』は、打つことである。これは、いつものように、軽く添えた語ではなく、実際に打つことをいう。『やめ』は、病ませる、という言葉を縮めたもので、打って、苦しめ、悩ませよう、ということである。一般に『ませ』を縮めて、『め』という型は多い。『とめ』も、とどめさせること、『すすめ』も、進ませること、『うかめ』も、浮かべさせること、『かがめ』も、かがませること、『そめ』も、染まらせることである。これらによって理解せよ。鳴くのを、やめさせようというのではない。『日本書紀』皇極天皇の巻の歌に、『常世の鶏を、打ち懲らしめようとすることよ』とある類である。また『伊勢物語』に、『夜が明けたら、狐に食わせてしまいたい、くだかけめが、まだ早いのに鳴いて、愛しい人を帰してしまった』という歌は、言葉の形も意味も、まったく、これと似ている。『はめ』は、『食ませ』を縮めたのである。『こせね』は、願い求める意味の言葉で、古い歌に多い。まず『万葉集』巻四に、『〓阿見乞』、また巻五に、『宇米我波奈知良須阿利許會』、梅の花よ、散らずにいてほしい、巻七に、『吾耳見乞』、巻十に、『於妹告社』など、多く見える『こそ』と同じで、『こそ』『こす』『こせ』は、みな同じ言葉が変化したものだ。また巻二に、『不逢事無有巨勢濃香毛』、巻四に、『百夜乃長有與宿鴨』、巻十に、『〓日夢奴鴨』などとも詠み、巻十一に、『戀爲道相與勿通事無有巨勢濃香毛』、さらに巻十に、『打超名湯目』などとも詠む。そして、『ね』も、願い求める言葉である。下巻の女鳥王の歌に、『佐邪岐登良佐泥』、佐邪岐を、お取りください、とあり、『万葉集』巻一に、『名をお告げください』、また巻十に、『草を刈ってください』など、なお多い。また巻九の『妻依來西尼』、巻十四の『都麻余之許西禰』なども、これとまったく同じである。〔訳注:引用の〓二か所と「會/曾」等の細画は確定できない。前後を省略して引いた語例には意味の細部を確定できないものがあり、原句を残した。「つま」は夫・妻の双方を指し得る。ここは連れ合いを寄せる願いに関わるが、二句それぞれの話者・相手・動作の向きは留保する。また、狐に食わせるという伊勢物語の引用の末字も不鮮明で、その趣旨に沿った仮訳として示す。〕
【宣長の注釈】『伊斯多布夜(いしたぶや)』。これは、どんな言葉なのか、まだ理解が定まらない。もしかすると、催馬楽に、『おけや、をよや、なよや』、また『らいしなや、さいしなや』、『としとむ、ととしとむと』、これは『葛城』、また『とうとう』、これは『総角』、などとある類で、歌う調子に添えた言葉で、意味はないのだろうか。今、もう一つ考えがあるので、後に述べよう。契沖が、『石飛ぶや』で、つぶてのことかというのは、当たらない。さて、ここから後の五句は、この次の歌にも同じくあり、また最後の三句は、その次の歌にも二か所、下巻の朝倉の宮の段の歌などにも見える。『日本書紀』『万葉集』の歌には、一つもない。どれも、その歌の意味そのものには、かかわらず、ただ一首の結びに添えた言葉である。
【宣長の注釈】『阿麻波勢豆加比(あまはせづかひ)』は、天を駆ける使い、と聞こえる。下巻の軽太子の歌に、『天を飛ぶ鳥も、使いだ。鶴の声が聞こえる時は、私の名を尋ねてくれ』とあるのを、考えるべきである。それについて考えると、前の句は、『急ぎ飛ぶや』というのだろうか。『いそぎ』を縮めて、『いし』というのか。また、軽太子の歌に、『阿麻陀牟(あまだむ)』とあるのも、天を飛ぶことなので、『たぶ』とも、いえるはずだ。そうなら、この二句は、はるかに隔たった道の間をも、言葉を伝え合う使いを、空を飛ぶ鳥に、たとえていったのだろうか。
【宣長の注釈】『許登能(ことの)』は、『事の』で、三音で一句である。次の言葉につなげて、一句にしてはいけない。一般に歌の句は、五音・七音に決まっているが、その五音であるはずのものを、四音・三音でいい、七音であるはずのものを、六音でいうことなどは、上代の歌には、たいへん多い。しかし、五音を六音といい、七音を八音・九音などとする例は、ほとんどない。ただし、後世に、いわゆる『字余り』という例は、上代の歌にも多い。これは、別に決まった型があって、でたらめなのではないが、古学をする人も、現代風の歌を詠む人も、ともに、この型を知らない。その決まった型は、私が考え出したものがあり、別に記した。
【宣長の注釈】『加多理其登母(かたりごとも)』は、六音で一句。語る言葉、ということで、『も』は、『よ』というようなものである。一般に古い歌には、『も』という添え言葉が多い。その中には、後世の型とは違うものが、多くある。
【宣長の注釈】『許遠婆(こをば)』は、三音で一句。これをば、ということで、この求婚の出来事をいうのである。だから、この結びの五句は、あの言葉を伝える使いのように、この歌が伝わって行き、今の、この出来事は、はるかな後の世までも、昔の出来事を語る言葉になるだろう、というほどの意味なのだろう。
【古事記本文】そこで、沼河比売は、まだ戸を開けず、中から、次のように歌った。
【古事記本文・沼河比売の歌】八千矛の神の命よ。柔らかい草のような、女であるから、私の心は、浜辺の鳥のように、落ち着かない。今こそ、千鳥のように、心が騒いでいるけれど、後には、きっと、安らかになるでしょうから、どうか、恋のために死んでしまわないでください。いしたぶや。空を駆ける使いのように、この歌も遠くまで伝わり、この出来事は、はるかな後の世まで、昔の語り草となるでしょう。〔訳注:結びの五句は、先の歌と同じく、宣長の推測に沿った訳である。「いしたぶや」は語義未詳のため音を残した。〕
【宣長の注釈】『未開戸』は、『いまだとをひらかずて』と訓むべきである。『あけずて』と訓むのは、よくない。古い言葉を調べると、戸は、必ず『ひらく』という。
【宣長の注釈】『怒延久佐能(ぬえくさの)』は、『め』、女、というための枕詞で、その説は『冠辞考』に見える。『怒』の字は、ある本では『奴』とある。また、ある人は、草の芽、という意味に続くのだといった。これも悪くない。この説に従う時には、『ぬえ』ということに、特別な意味はなく、ただ草というのと同じと見るべきだ。草は、どれも、しなって、なびくものだから、『ぬえくさ』とは、ただ一般の草をいうのだろう。藤を『藤浪』というようなものだ。また、師の説によるなら、ただ草というのではなく、『ぬえ』に働きがあるのである。
【宣長の注釈】『売邇志阿礼婆(めにしあれば)』。『め』は女、『し』は添える語で、『女にあれば』である。その『にあ』を縮めると、『な』となるので、女であるから、ということだ。一般に『なり』『なる』『なれ』という言葉は、『にあり』『にある』『にあれ』を縮めたものである。
【宣長の注釈】『和何許許呂(わがこころ)』は、私の心、ということである。
【宣長の注釈】『宇良須能登理叙(うらすのとりぞ)』は、浦の洲にいる鳥だ、ということである。『万葉集』巻六に、『入江の渚では、千鳥が連れ合いを呼ぶ』と詠む類をいう。この『汭』の字を、今の本で『納』と書くのは誤りである。また巻七に、『円方(まとかた)の港の洲鳥は、波が立つためか、連れ合いをしきりに呼び、岸へ近づいて来る』、巻十一に、『大海の荒磯の洲鳥』、巻十五に、『武庫の浦の入江の洲鳥』、巻十七に、『港の洲鳥』、また、『港では白波が高いので、連れ合いを呼んで洲鳥が騒ぐ』とある。これらの『すどり』は、一つの鳥の名のようにも聞こえるが、みさごだというのは当て推量の説だろう。今、この歌の言葉と照らして見ると、ただ洲にいる鳥だろう。『万葉集』巻十四にも、『はますどり』と詠む。さて、ここまで四句の意味は、私が男だったらこんなこともないだろうが、女なので、浦の渚で騒ぐ鳥のように、心があちらこちらへ動き、穏やかでない、ということである。引いた歌のように、連れ合いを呼ぶ意味もあるのか。その心の様子は、前に引いた『万葉集』巻十三の女の返歌、『こもりくの、長谷の小国に求婚に来た、わが大君よ。「與奥床仁母者睡有、外床丹父者寢有」。起き立てば母に知られ、出て行けば父に知られる。ぬばたまの夜が明けてしまった。こんなにも、思わぬふりをして、隠していることよ』にならって推し測るべきである。〔訳注:奥床・外床の二句は細字と句意を確定できず、原句を仮に示して訳を留保した。続く「拇/母」「父」の句は、母や父に気づかれるという意味に仮訳する。また「浪立己」の末字も細画が不鮮明なため、引用歌の意味に沿った仮訳とした。〕ある説で、『うらす』を『心安し』に寄せたのだというのは、大きな誤りである。
【宣長の注釈】『伊麻許曾婆、知杼理爾阿良米(いまこそば、ちどりにあらめ)』。『知』の字は、諸本には『和』とある。そのため、次の『などり』の『な』は、あなたで、こちらは、それと対になる『わ』、私、だろうと、初めは思ったが、それでは、全体の意味を理解するすべがない。二つの『ど』の字が濁音なのも合わない。そこで、今は延佳本に従い、『ちどり』と定めた。契沖は、『わどり』は『吾鳥』で、『わとりにあらめ』とは、自分の身を、自分の物とする意味だというが、意味が分からない。千鳥は、『日本書紀』の瓊々杵尊の歌にも、『浜つ千鳥』と詠まれ、日代の宮の段の歌にも見えて、古い歌に、ふだんから多く詠む鳥だ。それなのに、『字鏡』にも『和名抄』にも、この鳥が見えないのは不思議である。さて、ここは、前の『浦の砂浜の鳥だ』というのを受けるので、今こそは、浜辺の鳥であろう、という意味なのを、歌の調子として、そのままではいいにくいので、言葉を変えて『千鳥』といった。この鳥は、まさしく、浜辺にいて騒ぐ鳥であることが、右に引いた『万葉集』巻六の歌のとおりだからである。
【宣長の注釈】『能知波(のちは)』は、『後は』で、三音で一句である。
【宣長の注釈】『那杼理(などり)』は、穏やかだということである。今の世の言葉で、物事が穏やかなことを、『などやか』『などり』ともいうのが、これである。その『など』は、『のど』とも通じ、『のどか』というのも同じことだ。『万葉集』巻十三に、『吹く風も、穏やかには吹かない』とある。さて、歌は調子を大切にするものなので、前の『ちどり』と対にして、『などり』と、言葉を重ねたのである。契沖が、『あなたの鳥となろう』で、あなたの妻となって、従おうという意味だ、といったのは、誤りである。だから、この四句の意味は、今は会いにくく、こうして浜辺の千鳥のように、心が騒いでも、後には、必ずお会いして、心が穏やかになるでしょうから、ということだ。後の文に、『その夜は、結ばれなかった』とあるので、会いにくい理由があったのだろう。そのため、あれこれと、心が騒いだのである。その次に、『明日の夜、結ばれることになる』とあるのが、これの、後は穏やかだろう、ということに当たる。次の歌は、そのまま、後には穏やかになろうという様子を詠んでいる。
【宣長の注釈】『伊能知波、那志勢多麻比曾(いのちは、なしせたまひそ)』は、どうか、お命を失わないでください、ということである。『しせ』は、『死なせる』という言葉を縮めたものだ。中巻、水垣の宮の段の歌に、『ぬすみしせむと云々』とあるのも、ひそかに死なせようということで、ひそかに殺そう、という意味である。『日本書紀』垂仁天皇の巻などで、『弑』を、『しせまつる』と訓むのも、これである。『弑』、または『死』という字の音だと、混同するな。ただし、今ここは、殺す意味ではなく、自分が死ぬことをいうのだが、古い言葉では、立つことを『たたす』、行くことを『ゆかす』などという例にならい、『死なせる』というのである。さて、『命が死ぬ』というのは、何となく耳慣れない感じもするが、『日本書紀』雄略天皇の巻の歌にも、『いのちしなまし』と見え、『万葉集』にも、所々に例がある。さて、このように歌った意味は、二通りに聞こえる。一つには、後には必ず会うのだから、その時まで死なず、生き長らえて待ってください、ということだ。もう一つには、今夜、会えないことを深く恨み、恋のために死なないでください、ということである。初めの意味で見る時は、『後』を、ずっと先と取る。また、後の意味なら、明日の夜のことを、『のちは』といったのである。次の歌と、また『明日の夜に結ばれた』ということから見ると、後の意味だろう。
【宣長の注釈】一般に、『古事記』の歌に、延佳が付けた傍注などは、古い意味や言葉を知らないものなので、論じる価値もないことが、多いのである。
【宣長の注釈】『いしたぶや云々、こをば』。師は、ここまでで一首と見える、といった。今考えると、これは、もとから次のものと同じ歌として記したのではなく、二首を続けて記したのが、後に一首のように見えるのである。『古事記』で倭建命の歌が三首なのを、『日本書紀』では、一首のように記した例もある。
【古事記本文・沼河比売の歌】青い山に、日が隠れたら、ぬばたまの、夜には、寝室から起き出して、お迎えしましょう。朝日のように、明るく笑顔で、いらっしゃって、栲綱のように白い、あなたの腕で、淡雪のように、柔らかな私の胸を、そっと、たたき、互いに抱き合い、美しい手を、美しい手を差し出して枕にし、足を長く伸ばして、あなたと寝ましょうから、どうか、それほど、恋しいと、おっしゃらないで。八千矛の、神の命よ。この出来事も、はるかな後の世まで、語り伝えられることでしょう。〔訳注:結びの三句は、宣長の推測に沿って訳した。〕
【古事記本文】そのため、その夜は結ばれず、次の夜に、お結ばれになった。
【宣長の注釈】初めの二句は、青い山に日が隠れたら、ということで、日が暮れることをいう。『かくれば』というはずなのを、『かくらば』というのは、古い言葉の一つの型である。下巻の、近つ飛鳥の朝の歌に、『みやまがくりづ』、山深くお隠れになった、とあるのも同じだ。この型は、『かくらむ』『かくり』『かくる』と活用する。陰陽の式の、追儺の祭文に、『るりかくらば』とあるのも、古い言葉に従ったのである。
【宣長の注釈】『奴婆多麻能(ぬばたまの)』は、夜、というための枕詞で、『冠辞考』に詳しく見える。ただし、その説で、これを『野真玉』とするのは、どうだろうか。ある説に『縫葉玉』といい、また『ぬ』は黒をいい、『黒羽玉』だなどというのは、みな、よくない。ある人の説に、鳥扇(ヒオウギ)の葉は、鳥の羽に似ているので、この草を『野羽』といい、その実を『野羽玉』というのだ、とあるのが、よい。確かに『鳥扇』といい、また今、俗に『檜扇』というのも、葉が羽に似たためである。
【宣長の注釈】『用波伊伝那牟(よはいでなむ)』は、夜には出て行こう、ということだ。これは、寝室から起き出して、戸を開け、お迎え申し上げようという意味で、出て行こう、というのである。出て、外で会おうというのではない。
【宣長の注釈】『阿佐比能(あさひの)』は、『朝日の』で、次の句をいうための枕詞である。
【宣長の注釈】『惠美佐迦延伎豆』(歌の「ゑみさかえきて」)は、笑顔を輝かせて来て、ということである。『迦』の字は、ある本では『加』とある。『源氏物語』末摘花の巻に、『老人たちが、笑顔を輝かせて、お見申し上げる』、明石の巻に、『お見申し上げると、老いも忘れ、寿命が延びる気がして、笑顔を輝かせて云々』、総角の巻に、『女たちが、日頃、不平をいっていた名残もなく、笑顔を輝かせながら、お座りになる所を、整えたりする』などと見える。『竹取物語』には、『笑ひ栄えて』ともある。それは、人が喜んで笑うのは、顔が輝くことなので、いうのだ。さて、祝詞には、『朝日が、豊かに輝き昇る』ともいって、その様子は、人の笑顔が輝くのと似ているので、『朝日の』と、前に置くのである。
〔訳注:この注の見出し末尾は「伎豆」と読めるが、歌本文の「岐弖」と異なり、二字の字形を確定できていない。ここでは「笑顔を輝かせて来て」の意味で訳した。〕
【宣長の注釈】『多久豆怒能(たくづぬの)』は、『栲綱の』で、白い、というための枕詞で、これも『冠辞考』に詳しい。『栲の布』と見るのは、よくない。
【宣長の注釈】『斯路伎多陀牟伎(しろきただむき)』は、白い腕である。『和名抄』に、『腕、和名は太多無岐(ただむき)、一説に宇天(うで)』とあり、『日本書紀』天武天皇の巻では、『臂』の字を当てる。下巻の難波の天皇の歌に、『斯漏多陀牟岐(しろただむき)』とも、お詠みになっている。
【宣長の注釈】『阿和由岐能(あわゆきの)』は、『沫雪の』で、次の句をいうための枕詞である。沫雪のことは、前に出ている。
【宣長の注釈】『和加夜流牟泥遠(わかやるむねを)』は、柔らかな胸を、というようなものである。一般に『わかし』という言葉のもとは、物が、まだ、でき上がって固まらない意味である。そして、固くないことから意味が移り、柔らかいこともいう。ここは、その意味だ。人の年齢や、草木などにいうのも、まだ、でき上がり固まらない意味である。『古事記』の初めには、『国が若い』ともある。その中に、ほめる方にいうのと、低く見る方にいうのとの違いがある。固まらない方にいうのは、低く見ていい、柔らかい方にいうのは、ほめていう。今は、ほめていっている。さて、『沫雪』から続く意味は、もろくて固くない方をいうのだ。さて、前の腕は、男神の腕、こちらは、女神の胸である。男神の腕で、女神の胸を、という意味だ。後の須世理毘売の歌には、胸を先にいい、その後で、白い腕で、そっとたたいて、とあるので、その意味だと知るべきである。ここは、注意しないと、取り違えやすい。
【宣長の注釈】『曾陀多伎(そだたき)』は、ふだんいう「そっとたたく」ということである。物事をゆるやかに、穏やかにするのを「そと」「そそと」「そろりと」というのも、みなこの「そ」である。契沖は、この句の「そ」は添えた語で、単にたたくことであり、「なるる」を「なる」というようなものだ、と説明する。師は「背抱」、背から抱くことだといい、また「たたき」を「手抱」、手で抱くことだとする説もあるが、これらの説はいずれもよくない。中国の『遊仙窟』に「拍攝好房間」(よい胸のあたりをたたく)というのも、よく似た表現である。〔訳注:「そ」に当てた字は、この版の字形を確定できず「曾」と仮に記した。〕
【宣長の注釈】『多多伎麻那賀理(たたきまながり)』は、胸を、たたきながら、互いに抱くことをいう。『まながり』は、『まぬかる』だと、師はいわれた。そのとおりかもしれない。『ぬ』と『な』は、ふだんから通じ、また『か』を『が』と濁るのは、音便である。『まぬかる』は、『まぬく』を長くした言葉で、『まぬく』は、『拱く』と同じ言葉だ。『こまぬく』は、『組み貫く』ことで、ここでは、その『こまぬき』の『こ』を省き、『き』を長くして、『まながり』といったので、互いに手を差し交わし、抱くことである。あの『拱く』は、自分の左右の手を組み合わせること、こちらは、女の手と男の手とを組み合わせるので、動作は少し違うが、言葉の意味は、まったく同じだ。また、『霊異記』に、『婚』を『くながひす』とするのも、もとは同じ言葉で、『くみ』の『み』を省き、『ぬ』を『な』といい、『き』を『かひ』と長くしたのである。あちらの『くながひ』と、こちらの『まながり』とで、省いた所、変わった所、長くした所の違いを照らし合わせ、どちらも、組み合わせる意味だと悟れ。あの『日本書紀』継体天皇の巻の歌に、『たたきあざはり』とある句が、まさに、この言葉に当たる。その『あざはり』も、より合わせることなので、これと同じ意味である。
【宣長の注釈】『麻多麻傳(またまで)』は、「真玉手」である。
【宣長の注釈】『多麻傳佐斯麻伎(たまでさしまき)』は、美しい手を差し出して枕にする、ということである。「玉手」は、美しい手をほめた言い方だ。「手玉」といって手にも玉を飾ったので、そうした手とも解せようが、やはりここはそうではあるまい。「さし」は向こうへ差し出すこと、「まき」は枕にすることである。「妻の手を枕にしよう」などと多く詠み、「手枕まく」「枕にまく」「枕まく」ともいう。『万葉集』巻五には「麻多麻提乃、多麻提佐斯迦閇、佐禰斯欲能」、美しい手を互いに差し交わして寝た夜のことを詠む。巻八には「天飛也、領巾可多思吉、眞玉手乃、玉手指夏、餘宿毛寐而師可問」と、領巾を敷き、美しい手を差し交わして眠りたいという歌がある。〔訳注:巻八の「指夏」以下の細かい訓と意味は、引用原句を示して留保する。〕
【宣長の注釈】『毛毛那賀爾(ももながに)』は、契沖の説で、股を長くして、という意味だという。それは、足を伸ばし、ゆったりと寝る様子である。
【宣長の注釈】『伊波那佐牟遠(いはなさむを)』は、寝ることはきっと寝ましょうから、ということで、「を」は「ものを」という意味の語である。次の須世理毘売の歌にも「いはなせ」とある。『万葉集』巻二には、沖から波が寄せる荒磯を美しい枕として巻き、そこで寝ている君よ、という歌がある。「なせる」は、寝ていることである。巻五にも、安らかに寝させない意味の用例があり、その注では、引用の一字を助辞だと説明する。〔引用は「夜爾伊祢奈佐農」と仮に採録したが、「祢」の細画と、注で助辞とする一字は確定できず、細かな訓を留保する。〕巻十四の「いりきづなさね」は、入って来て寝てください、の意味である。巻十七には、私を待って寝ているだろう妻を、という歌がある。「なすらむ」は、寝るだろう、ということである。巻十九にも、安らかに寝させず君を苦しめて、また、安らかに寝させるな、という用例がある。これらを合わせて理解すべきだ。「寝る」は「な・ぬ・ね」と活用する。「ぬ・ね」はふだんからいうのでよく分かるが、「な」は後世には耳慣れないため、「なす」「なさむ」などというと分かりにくくなる。また「い」も眠ることなのに、「寝を、安らかな眠りも寝ない」などと重ねていうのもよくある。さて、前に何度か引いた『日本書紀』継体天皇の巻の歌には、「倭例以梨魔志」から「于魔伊禰矢度備」までの十三句がある。二人が互いの手を巻き付け合い、絡み合って心地よく眠る趣旨で、この歌の「朝日の」からここまでの様子によく似ている。〔訳注:この十三句の一部には確定できない小字がある。前半の動作と末寄りの細かな句意は、原句の該当箇所を示して留保する。〕ただし、あちらは男の歌で、自分がそうする意味であり、こちらは女の歌で、男がそうしてくださるだろうという意味である。
【宣長の注釈】『阿夜爾(あやに)』は、三音の句である。この言葉は、中巻の建内宿禰の歌、下巻の三重の采女の歌、『日本書紀』雄略天皇の歌などにもある。『万葉集』にも、『あやに畏い』『あやに恋しい』などと、たいへん多い。巻十四には、『あやにあやに』と、重ねてもいう。この言葉の意味は、前の阿夜訶志古泥神の箇所、伝巻三・四十四葉で述べた。
【宣長の注釈】『那古斐伎許志(なこひきこし)』は、恋しいと仰せにならないで、というようなことである。下巻の高津宮の段、八田若郎女の歌にも「大君がよいと仰せなら」とあり、『日本書紀』の同じ御代の天皇の歌にも「飫朋呂句伽珥、奴許〓怒」とある。〔この書紀引用は小字の一部が確定できないため、細かな訓と訳を留保する。〕『万葉集』にも、犬上の鳥籠山にかけて「知らないと仰せになって、私の名は告げないで」と詠む歌や、「うそでも続けておっしゃってほしい」「恋のつらさの種に」「恋しがるなと仰せでも」「あと二日ほどであろうと、おっしゃったのに」「恋しがるな、妻よ」「あなたが、このように仰せなら」といった用例がある。これらの「きこす」は、みな「仰せになる」という意味だ。人が言って、自分に聞かせるという意味からいう。ただし、言葉を発する人を尊んでいう時だけに使う。右の歌によって理解すべきだ。中古の物語文などでは、「申す」というはずの所を「聞こゆ」ということも多い。それは、尊い人に申し上げることだけをいうので、古い言葉の「きこす」とは敬意の向きが反対である。今の人は、古い言葉や雅語の使い方を知らず、「きこす」と「きこゆ」を同じと考え、また、人が自分に向かって言うことを「きこゆ」というなど、ひどく誤っている。さて、普通の型なら「なこひきこしそ」とあるはずだが、末尾の「そ」がない例も、古い歌には多い。それなのに、近世の歌で、末尾の「そ」は言い、前の「な」を省いたものが時々見えるのは、ひどい誤りだ。「な」は必ず言わなければ意味が通じない。こうしてこの二句は、ひどく私を恋しがって、そんなにおっしゃらないで、と慰めたものである。前の歌で、恋のために命を落とさないでください、とあるのと同じ意味だ。
【宣長の注釈】『その夜は』。これは、前に男神が、『求婚に、こうして立って云々』と、お詠みになった夜を指して、『その』というのである。女神が、『夜には起き出して迎えましょう』と、お詠みになった夜を指すのではない。男神が、『求婚に云々』と詠まれた夜は、きじと鶏が鳴き、すでに明けたとあるので、ここで『その夜』とは、いえないから、これは、その次の夜だろう、と思う人もいるのだろうか。しかし、女神が、『夜には出て行きましょう』と詠まれた、その夜に結ばれないというのなら、必ず、また、結ばれない理由をいうはずなのに、何の差し障りもいわず、突然、『その夜は、結ばれなかった』といっては、説明が足りない。
【宣長の注釈】『明日夜』は、『久流比能用(くるひのよ)』と訓むべきである。その理由は、前の、伝巻十・三十九丁で述べた。これが、『夜には起き出して迎えましょう』とある、その夜だ。
【宣長の注釈】『為御合也』は、『御逢ひし賜ひき』、お結ばれになった、と訓むべきである。『万葉集』巻十に、『八千矛の神の御世から、なかなか会えない妻のことは、人々に知られてきた。苦しく思うので』と詠むのは、これらの古い出来事を、思ってのことだろう。『苦』の字は、今の本では、『告』と誤っている。今は、師の考えに従って引いた。〔訳注:「乏孋」は「ともし妻」で、なかなか会えない妻のこと。末句は宣長が採る「苦」の本文に沿った仮訳であり、具体的な訓は確定できない。〕
【宣長の注釈】『旧事紀』に、建御名方神の母を、この沼河比売とするのは、根拠があるのだろうか。いつものように、不確かである。
【古事記本文】また、その神の正妻、須勢理毘売命は、たいそう嫉妬深かった。そこで、その夫、日子遅の神は、困り果て、出雲から大和の国へ上って行こうと、旅支度をして出発する時、一方の手を馬の鞍に掛け、一方の足を、その鐙に踏み入れ、次のように歌った。『和備弖』の三字は、音を表す。
【古事記本文・夫の神の歌】ぬばたまの、黒い御衣を、すっかり整えて、身に着け、水鳥のように、胸元を見る時、袖をたくり上げても、これは、ふさわしくない。岸辺の、波の立つ磯に、脱ぎ捨て、かわせみのような、青い御衣を、すっかり整えて、身に着け、水鳥のように、胸元を見る時、袖をたくり上げても、これも、ふさわしくない。岸辺の、波の立つ磯に、脱ぎ捨て、山の辺りに、探し求めた茜を搗き、その染め木の汁で、緋色に染めた衣を、すっかり整えて、身に着け、水鳥のように、胸元を見る時、袖をたくり上げても、これこそ、よい。愛しい、妻よ。群れる鳥のように、私が連れ立って去ったら、つられる鳥のように、私がつられて去ったら、泣くまいと、あなたはいっても、山辺の、一本のすすきのように、うなだれて、あなたの涙は、朝雨のように流れ、ため息は、霧となって立つだろう。若草のような、妻よ。この出来事も、はるかな後の世まで、語り伝えられるだろう。〔訳注:結びの三句は、宣長の推測に沿って訳した。原歌の「奴棄宇弖」に添えられた「棄字」の小注には、字形を確定できない箇所がある。「やまと」は、宣長の「山處」の解に従い、山辺とした。〕
【宣長の注釈】『また、その神の云々』。ここから、また、別の昔の出来事である。『その神』とは、前の段の初めに、『この八千矛神』とあるのを受けていう。
【宣長の注釈】『嫡后』は、『意富岐佐伎(おほぎさき)』と訓むべきである。前に『嫡妻』とあるのは、父神の言葉だからだ。これは、後に語り伝える時の言葉なので、尊んで、このようにいうのである。一般に『きさき』とは、天皇の妻に限って申し上げる呼び方なのに、ここにも、このようにあるのは、『出雲風土記』に、『赤衾伊農意保須美比古佐和気能命の后、天甕津日女命』、また『阿遅須枳高日子命の后、天御梶日女命』などとあるのと、合わせて考えると、古い神々は、天皇になぞらえて尊び、『皇神』とも申し上げたのと同じように、その妻も『后』と申し上げたのだろう。中巻で、倭建命の妻、弟橘比売命を『后』という理由は、その箇所で述べる。『続日本後紀』巻九にも、『伊豆国賀茂郡の阿波神は、三島大社の、もとの后である』とあり、神名帳にも、安房国安房郡の安房坐神社の次に、后神大比理刀咩命神社がある。これを『続日本後紀』には、『第一の后神』とある。さて、出雲国出雲郡の杵築大社の次に、『同社大神大后神社』とあるのは、この須世理毘売命を祭るので、『大后』と申し上げたことに疑いはない。師が、この『嫡后』を『みめ』と訓んだのは、『后』は、天皇の正妻だけにしか申し上げられないと、固く思い込まれたもので、それこそ、かえって古い意味に合わない。さて、天皇の『きさき』というのは、皇后に限らず、上代には、妃・夫人などの位までを申し上げる呼び方である。その中で、最上の一人を『大后』と申し上げた。これが、後世の皇后だ。このことは、白檮原の朝の段、伝巻二十・十葉で、詳しく区別して述べよう。だから、この『嫡后』も、それにならって、『おほぎさき』と訓むべきことは、あの神名帳と照らし合わせて、いよいよ明らかだ。
【宣長の注釈】『甚為嫉妬』は、『ひどく、うわなりねたみをなさった』と訓むべきである。『日本書紀』舒明天皇の巻の、『一尼嫉妬』に付けた訓による。『うわなり』のことは、白檮原の朝の段、伝巻十九・二十葉に出る。高津の宮の段にも、『その大后の石之日売命は、たいそう嫉妬深かった』とある。さて、ここを、必ずしも、前の沼河比売だけに関わって記したものと見てはいけない。あちらとは別の段なので、普段の全般のことをいうのだ。あの八上比売が、この正妻を恐れて、稲羽へ帰られたことも、考えるべきだ。
【宣長の注釈】『日子遅』は、夫婦のことをいう時、その夫を指す呼び方と聞こえる。八千矛神の、別のお名前だと理解するのは、誤りである。後の、豊玉毘売命の歌への答歌を挙げる箇所で、その夫、火遠理命のことも、このように申し上げている。この呼び方の意味は、前の阿斯訶備比古遅神の箇所、伝巻三・二十八葉で述べたとおりなら、夫についていうのも、今の世の、身分の低い人の言葉で、夫を『おやぢ』というのと、同じ意味だろう。
【宣長の注釈】『和備弖(わびて)』は、『万葉集』巻四に、物思いをして困り果てている時に、また、思い悩ませようと、今では私は困り果てている、男が思い悩みながら、思いを絶ち困り果てたのに、遠く離れているのでつらくもあるのに、などとある。また「奈〓牡鹿之和備鳴爲成」と、牡鹿がつらく鳴いているらしいと詠む用例もある。〔この牡鹿の引用の冒頭二字は、一字の細画と語の意味を確定できず、細かな訓を留保する。〕巻十一には、里が遠く恋に思い悩んだことだ、巻十二には、私のためにひどく思い悩まないで、国が遠いからといって思い悩まないで、などと、用例はたいへん多い。どうしようもなく追い詰められた意味である。『続日本紀』で、光仁天皇が藤原永手の大臣を悼まれた詔にも、言うすべもなく、どうするすべも知らず、悔やみ困り果てて、とあるので理解できる。『倭姫命世記』にも、宮を置く所を探しあぐねて、その所を和比野と名付けた、とある。
【宣長の注釈】『出雲から』は、前の高志国の沼河比売の出来事から、つなげて見れば、疑いがあるだろうが、これは別の段なので、あちらには関わらない。
【宣長の注釈】『大和の国へ上って行こうとして』。国々は多いのに、遠い大和へ、わざわざ行こうとなさったのは、大和は、当時から、すでに、ほかの国と違う、深いゆかりがあったのだろう。後に、ついに和御魂を、その国の大御和山に鎮座させられたことも、考え合わせるべきである。『上る』とは、地方から都へ行くことなので、これは、皇都となった後の言葉で、語り伝えたのである。
【宣長の注釈】『束装して立つ時』。『束』の字は、諸本で、みな『来』と書く。師の考えに、『束』の書き誤りである。『装束』を『束装』と書けないわけでもないが、もしかすると、これも上下を取り違えたのだろうか、とあった。今考えると、これは、必ず『束』であることが明らかなので、そう改めた。『束装』は、『日本書紀』神功皇后の巻の、一説の文にも、このようにある。後の文には、『天から下ろうと装束する間』、朝倉の宮の段に、『装束の様子』、『日本書紀』雄略天皇の巻に、『装束を終えて、軍門へ進み云々』、『万葉集』巻十二に、『衣を取って着て、身支度する間に』、巻二に、『皇子の御門を、神の宮として、整え奉って』などと見える。訓は、後の歌に、『取り装ひ』とあり、『万葉集』巻十四に、『水の鳥の、立つための身支度に』、巻二十に、『難波津で、身支度して、今日こそは、出て行こう云々』、また、『身支度して、門出をすると』などとあるのによる。『立つ』は、出発なさることである。
【宣長の注釈】『片方の手を云々』は、馬に乗ろうとなさる様子である。
【宣長の注釈】『馬』は、『和名抄』には、『無万(むま)』とあるが、『日本書紀』雄略天皇の巻の歌にも、『宇麼(うま)』とあって、古い言葉は、みな、そうである。ただし、『和名抄』などでも、牡馬を『をま』、牝馬を『めま』、駒を『こま』とする例のように、『御馬』は『みま』と訓むべきだ。『万葉集』巻五に、『美麻知可豆加婆(みまちかづかば)』、御馬が近付いたら、とある。
【宣長の注釈】『鞍』は、『和名抄』に、和名は久良(くら)、とあり、『日本書紀』雄略天皇の巻の歌に、『あの黒駒に、鞍をのせるなら』と詠む。
【宣長の注釈】『御鐙』。『和名抄』に、『蔣魴切韻では、鐙は、両側で足を受ける道具であるという。和名、阿布美(あぶみ)』とある。名の意味は、足を踏む物である。『万葉集』巻十七に、『川の渡り瀬で、鐙を、水に浸すことよ』とある。
【宣長の注釈】『奴婆多麻能(ぬばたまの)』は、前に見える。
【宣長の注釈】『久路岐美祁斯遠(くろきみけしを)』は、黒い御衣を、ということである。『日本書紀』推古天皇の巻に『衣裳』とあり、『万葉集』巻十に『君の御衣に』、巻十四に『君がみけし』などとある。これは、大刀は身に帯びる物なので『御佩』といい、弓は手に持つ物なので『御執』というように、衣は着る物だから、『御著』というのである。着ることを、古い言葉で『ける』という。また、中巻の倭建命の歌に、『けせる』と見える。なお、その箇所、伝巻二十八・九葉で述べよう。さて、黒い服は喪服で、昔は、ふだんには着なかったのに、ここに、このようにあるのは、どういうことか。旧い版本では、『久』を『之』とするが、前に『ぬばたまの』とある以上、『くろ』であることは確かだ。まず喪葬令に、『およそ天皇云々、錫紵を着る』とあり、その義解に、『錫紵は、細かい布で、薄墨に染めたものを用いる』と見える。ふだん、歌にも『墨染めの衣』と詠み、また、中古の書物などで、これを『鈍色』という。これは、今いう鼠色で、濃淡の区別はある。『吉部秘訓抄』に、『鼠色』『鈍色』を並べ、区別することもあるが、今いう鼠色は、さまざまあるので、昔、鈍色といったものも、その中に含まれる。真っ黒なのではない。鈍色を、移花(青花)で染めるというのは、墨染めは、あまり見苦しい色なので、少し色艶を出そうと、後に青みを加えたものだ。そのため、青鈍などという名もある。また、青花に墨を入れて染めるというのも、同じだ。これらは、みな後のことで、もとは、ただ墨染めである。『服仮間事』という書物に、『喪服を着る者は、鼠色を用いる。その色は、墨だけで染めるか、墨に移花を加える』とある。また、『日本書紀』持統天皇七年正月の詔に、『天下の人民には、黄色い衣を着せ、奴には、黒い衣を着せる』と見え、衣服令に、『家人・奴婢は、橡墨の衣』と定めたのも、右の鼠色だろう。これらは、みな、少し後の規定だが、上代からも、この色は、低く見て、避けたのだろう。さて、真っ黒な衣は、身分の高い人も、ふだんに着たのか、ともいえようが、上代から中古までも、黒い衣を着たことが書物に見えないので、あの鈍色でなく、真っ黒な色も、人は低く見て、好まなかったと見える。中古の書物に、衣服の黒いことをいう所は、時々見えるが、それは、ほかの色が黒みを帯びて見えることで、本当に黒色なのではない。『源氏物語』若菜下に、『色艶もなく黒い上衣で』とある類である。その時代に黒袍はなかったので、これも、紫色が、ひどく黒みを帯びたのを、こういったのである。四位以上の袍を、紫から黒に改めたのは、たいそう後のことだ。そのため、今の人が黒い服を、とりわけ好むのは、黒袍を尊ぶことから移った、人の気持ちである。だから、今ここで黒い御衣というのは、これは、よくないとして捨てることをいうため、初めに、ことさらに、好ましくない色を詠まれたのだ。その次に青い衣、その次に緋色をいい、これこそよいと詠まれる順序は、自然に、後の代々の、服色の規定の順序とも合うことだ。衣服の色の規定の順序は、おおむね中国の隋・唐の制度にならったものだが、上代からも、自然に、人が尊び好む色と、低く見て嫌う色との順序は、そうであって、こちらも、あちらも似ていたのだろう。また、あの国の古い時代に、王朝ごとに、それぞれ尊ぶ色があったのは、わざと定めた、人知によることで、かえって論じるほどでもない。
【宣長の注釈】『麻都夫佐爾(まつぶさに)』は、まったく、つぶさに、ということである。『つぶさ』とは、欠けることなく、整え備えることをいう。
【宣長の注釈】『登理与曾比(とりよそひ)』は、取り整えて身支度し、ということである。
【宣長の注釈】『淤岐都登理(おきつとり)』は、沖の鳥で、海や川でも、池などでも、水の上に浮かんでいる鳥をいい、水鳥のことである。沖とは、岸辺に対する名で、陸から離れた所をいう。『沖つ鳥、鴨』ともあり、『万葉集』巻六に、『沖つ鳥、味経の原』とも続ける。これは、味鴨という鳥があるからだ。
【宣長の注釈】『牟那美流登岐(むなみるとき)』は、胸を見る時、ということだ。水鳥は、首を伸ばして、自分の胸を見るような格好をするので、それにたとえていうのだ、と、師の説にある。
【宣長の注釈】『波多多芸母(はたたぎも)』は、端を、たくり上げても、ということである。『波』の字は、諸本に『婆』とあるが、今は真福寺本に従った。この言葉が、後に、もう二度出るのも同じである。『はた』は、中古の物語などに、『袖のはた』『はた袖』などとあって、袖の端の方をいう。魚の鰭も、また俗語で、物の端や脇を『はた』というのも、同じ意味だ。『鰭』の字は、背中の上の鬣だと注するが、『はた』という名は、左右のひれをもとに、いうのだろう。『たぎ』は、『万葉集』巻二に、『たくり上げればぬれ、たくり上げないと長い、妻の髪』、巻九に、『髪を、たくり上げるまでに』、巻十四に、『馬の手綱を、引き寄せても』、巻十九に、『馬の手綱を、引き寄せて行き』などとある言葉で、たくり上げることをいう。また巻七に、『乙女たちが織る機の上を、真櫛で、かかげ、栲島が、波間から見える』とある。馬を『たぐ』とは、手綱をたくり、馬の頭を引き上げることだろう。だから、ここは、左右の手を張り、袖をたくり上げ、あの水鳥が胸を見るようにして、自分の着飾った衣を、よいか、悪いかと、見ることをいうのである。今の人も、新しい衣などを、初めて着た時には、必ず、そうして見るものだ。師は、『婆』の字を前の句に付け、『立ち着』だろうか、といわれたが、よくない。前の句も、『時は』といっては、よくない所である。
【宣長の注釈】『許礼波布佐波受(これはふさはず)』は、これは、ふさわしくない、ということだ。この言葉は、前の『不良』の訓を論じた所、伝巻四・三十二葉で述べたように、よくない、という意味である。俗にいう、気に入らない、という意味だ。気に入ったことを、『ふさひの方』と、『源氏物語』に見える。
【宣長の注釈】『幣都那美、曾邇奴岐宇弖(へつなみ、そにぬぎうて)』は、岸辺の、波の立つ磯に脱ぎ捨てて、という意味だと、師は説く。波が寄る磯などというはずなのを、直接「浪磯」としては言葉がつながらないようだが、『万葉集』に「白浪の浜松の枝」などと詠むのも同じ型である。「なみ」は「なぎ」の反対で、もとは波の立ち騒ぐ意味だということは、前の伝巻五・四十丁で述べたとおりなので、「なみそ」で、波が立ち騒ぐ磯という意味になる。『土佐日記』にも、風で寄る波の磯には、鶯も春も知りようがない花ばかりが咲く、という歌があり、これも「浪の磯」と詠む。捨てることを「うつ」というのは、御誓の段の「吹棄」を、『日本書紀』でも「浮枳于豆」(ふきうつ)と記すのに見える。『落窪物語』にも、追い払って捨てようということを「淤比宇弖牟」(おひうてむ)という。後世の定家卿の歌にも「禊する麻の立葉は、宿こゝに苅ほさもなく、投うてつなり」とあり、末尾は投げ捨てたのであるという意味だ。『大和物語』には「布豆都」ともある。この「そにぬぎうて」を、契沖が「蛻緯打而」と解するのは、ひどい誤りである。〔訳注:定家の歌の中間句と、契沖の引用の細かな字形・句意は確定できず、原句を仮に採録して留保する。〕
【宣長の注釈】『蘇邇杼理能(そにどりの)』は、かわせみの、ということで、青い、にかかる枕詞である。それは、『和名抄』に、『爾雅の集注では、鴗は小鳥で、青緑色で魚を食べ、江東では水狗と呼ぶという。和名は曾比(そひ)。文徳天皇の実録では、魚・虎・鳥の三字を用いる。魚虎は兼名苑などに見える』とあり、その色が、特に青緑だからである。『字鏡』に、『鴨、曾爾(そに)』とあるのは、『鴗』の字を書き誤ったのだろう。天若日子の段の『翠鳥』も、『日本書紀』には『鴗』とあるので、この鳥だ。これは、今の世で『かわせみ』という物で、『壒囊抄』には『少微(せうび)』という。『そひ』『せうび』『せみ』などは、みな『そに』が、なまったのである。『緑』というのも、『そにどり色』の『そ』を省いたのだろう。
【宣長の注釈】『許母布佐波受(こもふさはず)』は、これも、ふさわしくない、ということである。
【宣長の注釈】『夜麻賀多爾(やまがたに)』は、山の辺りに、ということだ。ただし、これは地名ではなく、ただ、山の辺りである。地名にあるものも、もとは、この意味から出たのだ。
【宣長の注釈】『麻岐斯(まぎし)』は、探し求めた、ということである。また、種を蒔いたことでもあるだろうかと、師はいわれたが、探し求めた、の方を用いるべきである。三音の句である。
【宣長の注釈】『阿多尼都伎(あたねつき)』は、茜を搗くことだろうか、と契沖はいった。確かに、そう聞こえるが、『あかね』を『あたね』ということには、少し納得できない。もしかすると、草書で『加』と書いたのを、『多』と誤ったのだろうか。『和名抄』の染色の材料の項に、『兼名苑の注では、茜は、緋色に染められるものだという。和名、阿加禰(あかね)』と見える。縫殿寮の式の、さまざまな染色の材料の中には、濃い緋色に染める場合、綾一疋に、茜、大四十斤、紫草三十斤云々とある。綿紬・絲絁・東絁も同じである。絹布一疋には、茜、大二十五斤、紫草二十三斤云々、貲布一端、四丈には、茜、大十六斤、紫草十四斤云々、葛布一端には、茜、大七斤、紫草七斤とある。薄い緋色なら、綾一疋に、茜、大三十斤云々、絹布一疋に、茜、大二十五斤云々、葛布一端に、茜、大十斤云々と見える。だから、ここも、緋色を染めるのだろう。
【宣長の注釈】『曾米紀賀斯流邇(そめきがしるに)』は、染め木の汁に、ということである。染め木とは、つまり前の茜で、それを搗いた汁で、ということだ。さて、茜は草なのに、木というのは、物を染める時、今の世では、木も草も、まとめて『染め草』というように、古くは、草も、まとめて『染め木』といったのか。契沖は、茜を木というのは、どうだろうかと思うので、もしかすると、『あたね』は、皮を剝いで染め物にする木の名で、それを染め木というのだろうか、ともいった。または、『木』というのは、もとは植物全体の名で、草にも及んだのか。萩・荻・すすき・よもぎ・『布々岐(ふふき)』など、草にも『き』という名が多いのは、木、ということなのだろうか。
【宣長の注釈】『斯米許呂母遠(しめころもを)』は、染めた衣を、ということである。『しめ』と『そめ』とは、まったく同じ言葉だ。
【宣長の注釈】『許斯与呂志(こしよろし)』は、これがよい、ということで、『し』は添える語だ。『よろし』という言葉の意味は、師の『万葉考』に見える。さて、初めから、ここまでの意味をまとめると、今、大和の国へ行く身支度に、さまざまな衣を着て試すと、茜で染めた緋色の衣、これこそ気に入って、よい、とお詠みになったのである。前に『束装』とあるのは、この緋色の衣を、お召しになったのだろう。そして、このように身支度もよいので、今は、早く出発しようという意味が、言葉の外に含まれている。契沖は、『こしよろし』を、『濃くて、よい』というのか、そして、沼河比売も八上比売もよいが、あなた以上には思わない、という心なのだろうか、といったが、そのような意味はない。
【宣長の注釈】『伊刀古夜能(いとこやの)』は、「妻」と言うための枕詞と聞こえる。「いとこ」は、人を深く親しむ呼び方で、「いとおしい子」ということである。「古」を「子」の音を表す字に使うのは、『古事記』の例だ。『万葉集』巻十六には、「いとこ、名兄の君よ」と呼びかけ、一緒に居たのにどこかへ行くとは、と歌い、「八重畳、平群の山に」と続く用例がある。この「古」を、今の本は「ふるき」と訓むが、「いと古い名兄の君」とは言うはずがなく、特にここでは古いと言う理由がない。「八重畳」までは「平群」というための序だが、一緒に居たのにという言葉から、長年共に暮らす者の様子と分かるので、「名兄」は妻が夫についていうように詠んだ語である。だから、ここは夫を親しんで「いとこ」という。神楽歌の「篠波」にも「佐々奈見也、志加之加良左支也、見之彌川久、乎見名乃與佐々也、會禮毛加毛、加禮毛加毛、伊止己世仁、万伊止己世仁」とある。女の美しさを「これもか、あれもか」と歌い、妻にしようという意味と聞こえる。ただし「いとこせ」の「せ」は分からない。〔この神楽歌は、細かな訓と、割注の女を表す語の一字を確定できず、原句を示して留保する。〕風俗歌の「知々良々」にも「伊止古世乃、加止仁、天宇止乎比佐介天」とある。親しくする人の門に、調度を携えて、ということである。これらを『万葉集』の例などと合わせて考えると、夫婦は特に親しみ合うものだから、互いに「いとこ」と呼んだのだろう。いとこ同士も、もとは互いに親しんで呼んだのが、決まった呼び方になったのだろう。師は「寝所の屋の」という意味とするが、どうだろうか。別の人も、寝・床・屋をつなげた語だという。「床」ならまだしも、「寝」をつなげるのは誤りである。〔この別説の引用には細字一字の判読留保がある。〕さて「やの」は、「のや」を上下逆に書き写したのか。「のや」の例には、『日本書紀』継体天皇の巻で「淡海の毛野の若子」の意味とする句を始め、『万葉集』巻十四の用例、『古今集』の「淡海のや、鏡の山を」などが、まだある。〔継体の句と『万葉集』巻十四の用例の一部は、細かな字形を確定できず原句を仮に採録した。〕「や」は添える語である。
【宣長の注釈】『伊毛能美許等(いものみこと)』は、妻の命、ということで、この時、須世理毘売命に向かって、仰せになるのである。
【宣長の注釈】『牟良登理能(むらとりの)』は、群れ鳥の、ということで、連れ立って去ったなら、というための枕詞である。
【宣長の注釈】『和賀牟礼伊那婆(わがむれいなば)』は、私が連れ立って去ったなら、ということで、大勢の従者を連れ、私が、連れ立って去ったなら、という意味である。『万葉集』巻九に、『遠い地方を治めるため、朝の鳥のように、朝、出発しながら』とある。群れ鳥が、群れて立って行くなら、ともいう。巻十七に、『群れ鳥のように、朝、立って行ったなら』、巻二十に、『群れ鳥の、なかなか出発できずに』などとも詠む。〔訳注:巻二十の「伊」に続く一字は、この版の細画を確定できず、原句に〓で示した。〕
【宣長の注釈】『比気登理能(ひけとりの)』は、引かれる鳥の、ということである。『ひけ』は、『ひかれ』を縮めたもので、『ひき』というのとは違う。多く群れている鳥の中で、一羽が飛び立つと、それにつられ、ほかの鳥も、一緒に飛び立つことをいう。これも枕詞である。契沖が、『引鳥』で、『引』は、引いて帰ることだ、というのは、違っている。
【宣長の注釈】『和賀比気伊那婆(わがひけいなば)』は、私が引かれて去ったなら、ということである。あの、大勢の従者が旅支度するのにつられ、行くことをいう。『源氏物語』松風の巻に、『周りのせわしない様子につられ、お出かけになる』とあるのも、人々が騒ぎ立て、連れ立って行くのにつられて行く気持ちで、これと、よく似ている。ある人の説に、鳥を捕るため、おとりの鳥を出しておくと、それに引かれて、仲間の鳥が集まるのが『ひけとり』で、男は女に、女は男に引かれる、などというのは、ここに合わない。『万葉集』巻六に、奈良の都を、山背の久邇へ遷された時の歌として、『大君に連れられるまま、春の花が移りやすいように、群れ鳥が、朝、立って行くと』とある。『引くのまにまに』は、引き連れて行かれるままに、ということで、ここは、都を引き移すことをいうのではない。次に引く歌と合わせて理解せよ。巻十九に、『この世の道理として、導かれるまま、遠く隔たった越の土地を目指して云々』とある。これらは、引き連れられて行くままに、ということで、みな同じ意味である。
【宣長の注釈】『那迦士登波、那波伊布登母(なかじとは、なはいふとも)』は、泣くまいと、あなたはいっても、ということである。
【宣長の注釈】『夜麻登能(やまとの)』は、山のある所の、という意味だろう。または、山のふもとの、でもあるのか。大和国の、というのではあるまい。その理由は、この場所に残られる人を、これから行く向こうの大和の物に、たとえるというのは、どうだろうか。また、すすきは、どこにでも多い物なので、出雲にいて、遠い大和のものをいう理由もない。また、何々野、何々山と、その山野の名をいうなら、似つかわしいが、漠然と、大和のすすきとは、特別な名産などであるならともかく、そうでなければ、どうして、いえようか。
【宣長の注釈】『比登母登須須岐(ひともとすすき)』は、一本のすすきである。今の世にその名を持つ一種があるが、それではなく、ただ一本ずつ立つことをいう。『和名抄』には、『爾雅』で草が群がり生えることを「薄」といい、『新撰万葉集』では「花薄、はなすすき」といい、『弁色立成』の一字にも同じ和名を当て、その字は草の茂ることで『唐韻』に見える、とある。〔この引用の同じ字二箇所は、字形を確定できず原文に〓で示した。〕『日本書紀』神功皇后の巻や仁徳天皇の巻などでは、「荻」を「すすき」と訓む。『夫木集』のすすきの歌の中に、兼輔卿の「むらさきの一本すすき云々」がある。家集では第二句を「一本〓に」とする。高津宮の天皇の歌にも「八田の一本の菅は」とある。『拾遺集』の物名歌にも「一本〓」を挙げる。〔家集・拾遺のこの一字は菊/菅の細画を確定できないため、候補を断定せず留保する。拾遺の引用末「云歌序志」も字形からの仮採録で、細かな訓は確定できない。〕
【宣長の注釈】「宇那加夫斯(うなかぶし)」は、うなじを傾けることである。『和名抄』に、「陸詞には、項は首の後ろで、和名は宇奈之(うなじ)という」とある。『日本書紀』神代の巻に、「頸傾、これを歌多夫志(かたぶし)という」とある。俗に、物の下より上が重く勝り、傾くのを「かぶく」というのが、これである。ここは、うなじを垂れ、うつむくことで、泣く様子をいう。上に「一本すすき」と置くのは、一本立つので傾く、という意味につながる。天智天皇の紀には、稲について、「穂を垂れて熟す」とある。
【宣長の注釈】「那賀那加佐麻久(ながなかさまく)」は、あなたが泣くだろう、ということである。「なかむく」というところを、こういうのは、「泣く」を「泣かす」という、「す」の活用の形だからである。上も、ここも、「な」は、須世理毘売を指す。「まく」は、「む」というのと同じ意味で、「む」という言い切る形を、下に言葉を続けるため、「まく」と活用させたのである。「べし」なども、下に続く時は「べく」というのと同じ形で、「よし」「なし」などを、「よく」「なく」というのも同じである。
【宣長の注釈】「阿佐阿米能(あさあめの)」は、朝雨の、ということである。師は、ある本には、下の「阿」がないと述べられたが、この字のない本は、まだ見ない。これは、あってもなくても同じことである。古い言葉で、このような「あ」「い」などは、あるものも、省かれるものもあって、一様ではない。ところが師が、省くことだけを古い言葉と決め、出ているのは、書き伝える時の誤りだとするのは、偏っている。「登伊布」を「とふ」とばかり読むような例が多いのも、そのためである。〔訳注:原文で「出をば傳への誤」に続く小字の語尾は、字形を確定できず留保した。〕
【宣長の注釈】『佐疑理邇、多多牟叙(さぎりに、たたむぞ)』は、狭霧となって立つだろうぞ、ということである。師は、今の本には「佐」がないが必ずあるはずだ、「疑」は濁音を表す字なので語頭に置くはずがない、今の本で次の句の「加」の下にある「佐」がここから紛れてそちらへ入ったのだ、と言われた。今考えると確かにそのとおりである。ただ、ここは七音一句なら調子がよいが、前に述べたように八音の句はほとんど例がないので少し疑わしい。そのため、四音の二句と決めて師の説に従った。契沖は「疑」が濁音であることから、その上にもう一つ「能」があるはずで、「のぎり」、野霧だとするが、よくない。右の三句は、あなたが泣く涙は朝雨のようで、ため息は狭霧となって立つだろう、という意味だ。あるいは「朝雨」は、ただ霧というためだけの語かもしれない。「嘆き」は「長息」の縮まった言葉で、長くつく息のことである。息が霧となって立つことは、『万葉集』巻五下にも、大野山に霧が立ち渡る、私が嘆くため息の風に霧が立ち渡る、という歌がある。巻十五にも、あなたが行く海辺の宿で霧が立ったら、私が立って嘆く息と思ってください、という歌がある。また、秋になればまた会うのに、どうして霧となりそうなほどお嘆きになるのか、とも詠む。『源氏物語』明石の巻にも、嘆きながら明石の浦に朝霧が立つのだろうかとあの人を思いやる、という歌がある。また、涙を雨にたとえるのは、『万葉集』巻三下にも、私が泣く涙は有間山に雲がたなびいて雨となって降るだろう、という歌がある。さて「なかじとは」からここまでをまとめれば、今、私が別れて大和へ去ったら、あなたは今こそ気強く泣かないと言っているが、きっと私を恋い慕い、ひどく泣きながら嘆くだろう、というのである。
【宣長の注釈】「和加久佐能(わかくさの)」は、若草の、ということである。古い版本で、「加」の下にも「佐」があることから、ある人は、「吾が左草の」で、これは、『三代実録』の出雲国左草神、『延喜式』の意宇郡佐久佐神社のある場所で、須世理毘売命のお住まいの地名だ、というが、よくない。諸本には、その「佐」がない。これは、妻、というための枕詞で、『冠辞考』に詳しく見える。
【宣長の注釈】「都麻能美許登(つまのみこと)」は、妻の命、ということで、これも、須世理毘売命を指す。
【宣長の注釈】師は、「こしよろし」までが一首で、その下に脱けた文章があり、「いとこやの」から、別の一首になる、といわれたが、そうではない。
【古事記本文】すると、その后は、御酒の杯を取り、立ち寄って、差し上げ、歌った。
【古事記本文・須世理毘売の歌】八千矛の神の命よ、私の、大国の主よ。あなたこそは、男でいらっしゃるから、見渡す島々の岬、眺める磯の岬を、一つも残さず、若草のような妻を、お持ちになるのでしょう。けれども、私は、女ですから、あなたのほかに、夫はありません。あなたのほかに、連れ合いはありません。模様のある帳がふわりと掛かる、その下で、暖かい夜具の、柔らかな、その下で、栲の夜具が、さやさやと鳴る、その下で、淡雪のように、若々しい私の胸を、栲の綱のように、白いあなたの腕で、そっとたたき、互いに抱き合い、玉のように美しい手を差し出して枕にし、足を伸ばしてゆったりと、お休みください。この立派な酒を、お召し上がりください。〔訳注:「あやがき」は庭の垣ではなく帳とする宣長の解釈に従った。「さやぐ」は衣がさやさや鳴る意としたが、原注は清らか・さわやかとする説も示している。〕
【古事記本文】このように歌い、すぐに二神は杯を交わして、これからも心を変えないと誓い、親しく寄り添って、今に至るまで出雲にとどまっていらっしゃる。この一連の五首を「神語(かむがたり)」という。
【宣長の注釈】「その后」は、前に出た、正妻の后を指す。
【宣長の注釈】「大御酒坏」は、「おほみさかづき」と訓むべきである。師は、「おほみきのつき」と訓んだが、次に引く「大御盞」と合わせて考えると、あちらは、そう訓み難い。また「さかづき」という名は、古いのである。『万葉集』にも「佐加豆岐」とある。名の意味は、ここに書くように、酒を盛る器である。「坏」は、このような器の総称だ。『和名抄』の瓦器類には、「兼名苑では、盃は、一名、巵ともいい、杯とも書き、和名は佐賀都木という。方言の注では、盞は、盃の最も小さいもので、和名は同じ」とある。「杯」と「坏」は、区別する。
【宣長の注釈】「立ち寄る」は、男の神が、お馬に乗ろうとなさる所へ、立ち寄ったのである。
【宣長の注釈】「指擧」は、「ささげ」と訓むべきである。「さしあげ」を縮めた言葉で、この字の意味である。下巻、朝倉の宮の段にも、「三重の采女が、大御盞を差し上げ、献った」とある。
【宣長の注釈】「夜知富許能(やちほこの)」は、八千矛の、ということである。
【宣長の注釈】「加微能美許登夜(かみのみことや)」の「や」は、添える語で、「よ」というようなものである。
【宣長の注釈】「阿賀淤富久邇奴斯、許曾波(あがおほくにぬし、こそは)」の「あが」は、親しんで、「我が」というのである。さて、ここでいう「大国主」も、固有のお名前ではない。前に、「大国主の神となった」とある所でいった意味である。「こそは」は、添える語である。
【宣長の注釈】「遠邇伊麻世婆(をにいませば)」は、男でいらっしゃるので、ということである。
【宣長の注釈】「宇知微流(うちみる)」は、打ち見る、ということで、「打ち」は、する事に添える言葉である。
【宣長の注釈】「斯麻能佐岐邪岐(しまのさきざき)」は、島の岬々である。「邪」を「那」とする本は、誤りである。「耶」とするのは、「邪」と同じだ。『万葉集』巻六に、「島の岬々の、入り組んだ所も残さず」、巻十三に、「多くの島々の、島の岬々」などとある。
【宣長の注釈】「加岐微流(かきみる)」は、かき見る、ということで、「かき」も、上の「打ち」と同じく、添える言葉である。ただ、「打ち」は、広く、する事にいうが、「かき」は、手でする事だけにいうように見える。しかし、「打ち」も、もとは、手でする事なので、同じことだろう。「かき曇る」「かき絶える」などは、手の事ではないが、添えていうのである。さて、「打ち見る」「かき見る」は、共に、見渡す様子をいう。
【宣長の注釈】「伊蘇能佐岐淤知受(いそのさきおちず)」は、磯の岬を、一つも残さず、ということである。この句は、八音で、いわゆる字余りの形だ。『万葉集』巻三に、「磯の岬を、漕ぎ巡って行くと」とある。今の本の「いそざきを」という訓みは、よくない。巻六に、「船をお付けになる島の岬、お寄せになる磯の岬」、巻十九に、「船を寄せるだろう、磯の岬々」などとある。『延喜式』には、因幡国八上郡の伊蘇乃佐只神社も見える。「淤知受」は、漏らさず、ということである。祈年祭の祝詞に、「島々を、落とすことなく」、『万葉集』巻一に、「寝る夜を、一夜も欠かさず」、巻九に、「川の入り組んだ、多くの所を残さず」、巻四に、「着ていらっしゃる衣の、針の縫い目も残さず」など、なお多くある。さて、契沖は、「上の『島の岬々』は、『岬々』という中に、どの岬も、という意味がある。今は、『磯の岬』とだけいうので、『落ちず』といった。また、この『落ちず』によって、『島の岬々を残さず』と、前も兼ねるべきである」という。
【宣長の注釈】「都麻母多勢良米(つまもたせらめ)」は、妻をお持ちであるだろう、ということである。「む」というところを、「め」というのは、上の「こそ」に対応するためである。さて、「もたすらめ」といわず、「もたせらめ」というのは、「持せり」「持せる」などの、下の「り」「る」を、「ら」に活用させたものだ。これらは、『万葉集』では、必ず「有」の字を添えて書く言葉遣いなので、ここでは、「ら」が、持ち有る、の「有」に当たる。一方、「もたすらめ」の時は、ただ、「持つであろう」というのと同じなので、「ら」は下に属し、「らめ」で一つの語である。この違いを、よく考えよ。
【宣長の注釈】「阿波母與(あはもよ)」の「あは」は、私は、ということで、「もよ」は、添える語である。『日本書紀』清寧天皇の巻の歌に、「腕が、ゆらゆらすることよ」、また、「置目よ」とある。置目は、人の名である。『万葉集』巻一の初めにも、「籠もよ」などとある。また、この「もよ」は、「もや」ともいい、『万葉集』巻二の「吾者毛也(あはもや)」も、同じである。
【宣長の注釈】「賣邇斯阿禮婆(めにしあれば)」は、女であるので、ということである。「し」は、添える語だ。『万葉集』巻三にも、「手弱き女であるので」とある。今の本の訓みは、誤っている。
【宣長の注釈】「那遠岐弖(なをきて)」は、契沖によると、「あなたを除いて、ということである。『おき』とあるべきところを、『お』を略した。今の人は、『袁久』と書いてあると、「あなたを除いて」で、言葉が途中で止まっているかと思うだろうが、そうではない。『置』は、『おく』の仮名である」という。「置」の「お」を省く例には、日置、玉置などがあり、多い中でも、ここは、「遠」に「お」の響きがあるので、なおさらである。神楽歌の『植〓』に、「私を除いて、二人の妻を、お取りになる」とあるのも、同じ形だ。風俗歌に、「君を除いて云々」とあるのも同じで、こちらは、ある本には、「木三乎木天」とある。〔訳注:神楽歌名の末字は「谷」のようにも見えるが、細画を確定できないため原文では〓とした。〕
【宣長の注釈】「遠波那志(をはなし)」の「波」は、旧印本などでは、「婆」とある。今は、ある本に従った。夫は、いない、ということである。
【宣長の注釈】「都麻波那斯(つまはなし)」も、夫は、いない、ということである。昔は、夫婦が、互いに「つま」といったことは、いうまでもない。「つま」という呼び方は、今の俗語の、「連れ合い」に当たる。『日本書紀』仁賢天皇の巻に、「我が夫は、どんなにいとしいことか。これを阿我圖摩伊都柯(あがつまいづか)という」、『万葉集』巻九に、「若草の、夫があるのだろうか」とあるのも、夫の字を、書いている。
【宣長の注釈】さて、初めから、ここまでの意味を、まとめていえば、あなたこそは、男でいらっしゃるので、島の岬々、磯の岬々、どこにも、くまなく、残す所なく、妻をお持ちでしょう。けれども、私は女なので、あなたを除いて、ほかに夫はありません、ということである。『万葉集』巻十四の、「『うなはら』の、根の柔らかな小菅がたくさんあるように、あなたには多くの相手がいて、私をお忘れになる。けれども、私はあなたを忘れられようか」という歌は、一首の心が、ここに似ている。このようなので、今、あなたが、私を見捨て、ほかの国へ行かれたら、私は、頼む先がないので、どうすればよいのか。別れを悲しみ、今からは、意地悪く嫉妬することもしない。大和へお行きになるのを、思いとどまってほしい、という心を、ここに含んでいる。そして、この場所に、とどまって暮らしてくだされば、これから、夫婦、仲よく、語らおう、という気持ちを、ここから下に述べたのである。
【宣長の注釈】「阿夜加岐能(あやかきの)」は、模様のある垣の、ということで、「あや」は、物の形を描き、彩色などしたものをいうのだろう。または、綾織りのことでもあろう。「綾」とすると、疑いもあり、それを論じる理由もあるが、ここでは省く。「垣」は、帷や帳など、仕切りの布をいうのだろう。『大神宮儀式帳』の、「衣の垣を引き垂れる」というのも、絁を、垣のように引き延ばすことなので、それに準じて理解すべきである。「かき」は、内と外を隔てる、という理由による名だから、どのような仕切りにもいえる。契沖は、「文垣で、垣を、さまざまに彩ったもの」といい、師は、「組み垣である」というが、庭の垣では、ここに合い難い。垣の下、というと、戸外の庭になってしまうからである。あの、妻をこめて八重垣を作る、という歌などは、様子が同じではない。また、この次の言葉の、「何々の下で」は、みな、寝室の床の様子をいう。一続きの、同じ言い方であるのに、これだけが離れ、庭の垣の下、というはずはない。「した」は、裏という意味にも、無理にいえば、いえようが、それでも、夜具と垣を、一続きに、同じ言葉でいうべきではない。垣と夜具は、同類の物ではない。もし垣なら、次にも、垣の類の物をいうのが、古い言葉の美しさである。
【宣長の注釈】「布波夜賀斯多爾(ふはやがしたに)」は、俗に、「ふわり」「ふわふわ」という言葉で、ここは、寝床のそばに、帷帳のような物が、ふわりと掛かる、その下で、というのである。師は、ふくみ、こもった屋根の下、という意味だといったが、合わない。次に「にこやがしたに」、また「さやぐがしたに」とあるのと、一続きで、同じ形の言葉である。「にこや」の「や」は、添える語だから、ここも、添える語なのは明らかであるのに、その例と違い、これだけが、屋であるはずはない。また、「したに」というのも、次の二つと同じ形なので、これも、同類の言葉であるはずなのは、疑いない。
【宣長の注釈】「牟斯夫須麻(むしぶすま)」は、「蒸被」で、暖かいという意味の名である。「むす」という言葉は、物を暖めるのが、もとの意味で、必ずしも、ひどく熱くすることだけをいうのではない。契沖が、「むしぶすま」の名は、暖かいことが、蒸すようだから、いうのか、というのは、似てはいるが、言葉のもとの意味を捉えず、「蒸」の字に頼った、末の意味である。また、裁縫の方法による別名か、ともいうが、そうではあるまい。
【宣長の注釈】「爾古夜賀斯多爾(にこやがしたに)」は、柔らかな、その下で、ということである。「にこや」は、「にこやか」の「か」を省いたもので、中巻に、「たわやか」の意味で、「たわや」というのと同じと考えよ。契沖は、『万葉集』巻四に、「暖かい夜具の、柔らかな、その下で寝ても」とあるといい、この「蒸被」を、昔から「あつぶすま」と訓むのは、今の歌によると、誤りだ、という。
【宣長の注釈】「多久夫須麻(たくぶすま)」は、栲の夜具である。「栲」は、栲の布で、木綿と同じ物である。これについては、『冠辞考』に詳しい。
【宣長の注釈】「佐夜具賀斯多爾(さやぐがしたに)」は、さやさやと、衣の音がする、その下で、という意味だろう。『源氏物語』などで、衣の音がかすかに鳴る様子をいうのと同じである。また、契沖は、「清らかな、その下で、ということで、『さやぐ』には、騒ぐ、に通じるのと、清潔、というのとの二つがある。ここは、『さやけき』という方で、『さやけき』は、清いということだ。身を清めるのを、『日本書紀』には、『潔』の字で書き、『さやめき』と訓む」という。師も、「さやぐ」は、さわやかであることをいう、といった。これらの説も、捨て難い。神武天皇の歌で、「菅の畳を、いっそう、さやに敷いて」という「さや」も、清潔、ということだ。天武天皇の紀には、「潔身」とある。ただ、明るく清らか、さわやか、という意味なら、上の例と同じく、「さはやがしたに」というはずなのに、そういわず、「さやぐ」という語の勢いを考えると、やはり、さやさやと、ささやくような音のする方なのだろうか。
【宣長の注釈】この次の九句は、前の歌にも見える。ただ、腕と胸の、前後が入れ替わっている。
【宣長の注釈】「伊遠斯那世(いをしなせ)」は、寝を寝よ、つまり、お休みになれ、ということである。「し」は、添える語で、「なせ」は、前の歌の「なさむ」と同じ言葉だが、ここは、寝よ、という意味なので、「せ」とした。『壒囊抄』に、人を寝かせることを「しなす」という、とあるのは、誤りである。〔訳注:引用中の「下」に続く一字を確定できないため原文では〓とした。〕普通に、「なす」「なさむ」などと、多くいうので、「し」が、添える語であるのは、明らかだ。さて、「あやかきの」から、ここまでは、長く、この国にとどまり、これからは、私と、親しく、気持ちよく、お休みになってください、と、その様子を述べたのである。
【宣長の注釈】「登與美岐(とよみき)」は、豊かな御酒、ということである。これは、下巻、朝倉の宮の段の、大后の歌に、「高く光る、日の御子に、豊かな御酒を、献りなさい」とある。『万葉集』巻六に、「帰って来る日に、一緒に飲もう、この豊かな御酒を」とある。巻十九の四十二丁にも、同じようにある。また巻六に、「大夫の、祈る豊かな御酒に、私は、酔ってしまった」とある。「吾」の字は、「甚」の誤りか。これらを考えると、「豊御酒」は、酒をほめたたえる名である。
【宣長の注釈】「多旦麻都良世(たてまつらせ)」は、献れ、ということである。形を延ばし、「らせ」というのは、古い言葉によくある。さて、ここでは、ご自分で、大きな酒の杯を差し上げ、おっしゃるのだから、人に命じ、献れ、と仰せになるのではない。この「献れ」は、飲んでください、という意味で、男の神に、ご自身で酒を勧める言葉である。そのため、契沖の、「お召し上がりください、ということだ」という注は、よく合っている。右に引いた、朝倉の朝廷の大后の歌は、「日の御子に」とあるので、人に命じられたのである。さて、飲んでください、というのを、「奉れ」というのは、「まつれ」と同じ意味だ。「まつる」は、人が献ることにも、ご自身が、飲食なさることにも、どちらにも使う。「奉る」も、同じように、両方に通じ、ご自身が、飲食なさることにも、いうのだろう。『続日本紀』巻十五に、「天下を治める、我が大君は、平らかに、長くいらっしゃって、豊かな御酒を、お召し上がりになる」とある。これは、元正天皇が、聖武天皇に献った歌である。この「まつる」も、「献る」で、飲まれるという意味だ。中古の物語などで、衣服を、貴人に、人が着せ申し上げることも、「奉る」といい、ご自身が、着ていらっしゃることも、何々を「奉れり」などという。さて、今、このように、お酒をお勧めになるのは、今の俗にいう、仲直りの杯、という気持ちに、似ている。
【宣長の注釈】「宇伎由比(うきゆひ)」は、杯を結ぶ、ということである。「伎」は、旧印本、延佳本などでは、「岐」とある。今は、真福寺本と、もう一つの本に従った。女の神と男の神が、互いに、杯を交わし、これからは、長く心を変えない、と、固く結ばれる誓いをいう。師は、「うきゆひ」は、「うけひ」であるといったが、「うけひ」とは、違うだろう。さて、杯を「うき」という例は、下巻、朝倉の宮の段の、三重の采女の歌に、「たまうき」と書く。これは、玉の杯である。なお、その所、伝の巻四十二、三十四葉で述べる。「結」は、標を結ぶ、などの「結」で、事を定め、固める意味である。俗にいう、結納の「ゆひ」も、この意味だ。ある人が、「ゆひいれ」は、「いひいれ」の誤りだ、というのは、かえって、間違っている。『和名抄』に、「遊牝を『立流比』と訓み、俗に『由比』という」とあるのは、字音なのか。そうでなくても、ここでいう「ゆひ」の意味ではない。今の世まで、物事を約束して固めるしるしに、杯を交わすのは、神代からの習わしなのだ。ある人が、今の世の、杯事というのは、非常な略式で、本式の酒宴を、形だけまねたものだというのは、かえって、誤りである。
【宣長の注釈】「宇那賀氣理(うながけり)」について、師の説に、互いに、うなじに手を掛け、親しく、抱き合っていることをいう、とある。確かに、そのとおりだろう。ただ、うなじに手を掛けている、というのは、言葉のもとの意味で、必ずしも、実際にそうしなくても、親しく、寄り添っていることをいう。『万葉集』巻十八に、「手を取り合い、首を抱き合って、心楽しいことを語らって」とある。前後の言葉から、その意味が分かる。ある人が、この言葉を、「天翔る」という意味に理解するのは、たいへんな誤りである。
【宣長の注釈】「鎮坐」の「鎮」を、師は「しづもり」と訓んだが、そう訓む証拠を、まだ見ないので、昔の訓みのように、「しづまり」と訓むべきである。いつも、何々の神が、何々の場所に鎮座する、といい慣れ、ただ、その場所にいらっしゃるだけの意味に、理解するのは、詳しくない。「鎮」は、ほかの場所へ移って行かず、そこにとどまられる、という意味の言葉である。「しづまり」と「とどまり」は、通じる。その例として、神祇官におられる八神のうち、玉留魂は、「玉積産霊」とも書き、魂を鎮める意味のお名前なので、共に「たまつめむすび」と訓むべきである。「留」を「積」とも書くことから、これを「る」と訓むのは、誤りだと分かる。また、祝詞の、「高天原に、神留まり坐す」を、『続日本紀』の詔では、「神積坐」と書くので、比べ合わせ、この「留」も「積」も、共に「つまり」と訓むべきである。「つまり」は、とどまっている意味なので、「留」の字を書く。「積」は、みな、音を借りた字だ。「積」の字から、訓みを知り、「留」の字から、意味を知るべきである。これは、皇孫の命が、この国へお降りになるのに対し、天つ神は、降りず、天にとどまっていらっしゃる、ということなので、「鎮坐」というのと、通じる。『万葉集』巻五に、「海原の、岸辺にも沖にも、神として、お鎮まりになり、領有なさる、諸々の大神たち云々」とある。この「神づまり」も、「鎮坐」をいう。これから、右の意味を、理解するべきである。あの、祝詞の「神留」を、師が、神が集まる意味だと解かれたのは、合わない。この巻五の「神づまり」と照らせば、分かる。海の岸と沖は、神々が集まっていらっしゃる場所ではない。これは、海岸、または、沖の島などに、お鎮まりになる神々、ということなのだ。したがって、今、この大神は、大和へ行こうとされたのを、思いとどまり、どこにも行かず、永く、出雲国に、とどまって暮らされる、というのである。師の説で、大和国に鎮座する、といったのは、違っている。『出雲国風土記』に、「天下をお造りになった大神、大穴持命が、八雲立つ出雲国は、私が、静かにとどまる国だ、と仰せになった」とある。『古事記』中巻では、倭建命が亡くなられ、伊勢の能煩野に葬り申し上げたのを、大きな白鳥となり、飛んで行き、河内の志幾にとどまられたので、そこに御陵を作り、お鎮め申し上げた、とあるのも、とどめ奉った意味だ。祟る神を移す祝詞に、「山川の、広く清い土地に、お移りになり、神として、お鎮まりくださいと、言葉を尽くし、お祈り申し上げる」とあるのも、永くそこにとどまり、ほかへ出て戻られないように、という意味がある。出雲国造の神賀詞に、「大穴持命が、皇孫の命の、静かにお鎮まりになる大和国と申し上げて云々」とある。『万葉集』巻二には、高市皇子を葬ることについて、「朝もよい、木上の宮を、永遠の宮と定め申し上げ、神として、安らかにお鎮まりになった」とある。『日本書紀』崇神天皇の巻にも、「そこで、清らかな祭りの瓶を、和珥の武鉄坂の上に、鎮め置いた」とある。
【宣長の注釈】「神語」は、『日本書紀』神功皇后の巻の、「神のお告げを得て、その教えのままに祭る」、欽明天皇の巻の、「神のお告げを託す」などでは、神が仰せになる言葉をいう。また、皇極天皇の紀には、「国中の巫女たちが、枝葉を折り、木綿を掛け、大臣が橋を渡る時、競って神の言葉を述べ、細かな説明をした」とあり、天智天皇の紀には、「中臣金連が神事を宣べる」とある。〔訳注:引用原文にある「命」の係りは、この版面の小さな訓点から確定できないため、誰かに命じたという補いは加えない。〕これも、「神語」の意味である。『続日本紀』巻二十八に、「出雲国造の出雲臣益方が、神事を奏した」とあるのは、あの、神賀詞のことで、これも、「神語」の意味だ。また、巻二十九の詔に、「神語によって、いうことには、大中臣云々」とあるのは、大祓詞を指す。『続日本後紀』巻十九、興福寺の大法師たちが、天皇の四十歳を祝って献った長歌には、「神の言葉として、伝え伝えて来た」とある。大嘗祭の式に、「雑器は、神語では、『ゆかもの』という」、また、「神語にいう、八開手が、これである」とある。『万葉集』巻十九に、「住吉に仕える、祝の、神の言葉のように、行くにも来るにも、船は、速やかであろう」とある。これらは、必ずしも、神が仰せになった言葉、というのではない。ただ、神について述べた言葉、または、神事の言葉などを、「神語」という。したがって、ここも、神がお詠みになった歌、という意味ではあるまい。さて、これは、前の、沼河比売に求婚なさった歌から、ここまでの五首を、まとめていうのである。右の意味なら、神代のことをいうものは、みな「神語」であるのに、ここに限って、こういうのは、「夷振」「思国歌」などと名付けて来たのと同様に、右の五首を、特に、「神語」と、昔から呼び伝えたのだろう。下巻、朝倉の宮の段に、「天語歌」というものもある。
【古事記本文】さて、この大国主の神が、宗像の奥津宮の神、多紀理毘売命を妻となさって、お生みになった子は、阿遅鉏高日子根の神、次に、その妹の高比売命、別名、下光比売命である。この、阿遅鉏高日子根の神は、今、迦毛の大御神という神である。
【宣長の注釈】「宗像の云々を、妻となさった」ということは、すでに、前の、伝の巻七、五十一葉、六十二葉に見える。さて、大国主の神が、この神を妻となさったことを信じず、あれこれと曲げていう説は、後世の、私的な考えである。この神は、須佐之男の大神の、直接の子で、大国主の神は、六代目の孫なので、時代が合わないと思うのか。神代には、そのようなことが、よくある。何を疑うことがあろう。また、形のない神、などという、後世の勝手な言葉を、固く守っていうのか。みな、間違いである。『神名帳』に、伯耆国会見郡の、宗形神社と大神山神社が、ともに載っている。『続日本後紀』『文徳実録』『三代実録』などに、大山の神とあるのは、これだろう。ところが、『延喜式』だけに、大神山とあるのは、疑わしい。西行の『撰集抄』にいう、大山大智明神の由来が、本当ならば、大国主の神ではあるまい。
【宣長の注釈】「阿遅鉏高日子根神」の「鉏」は、下に出る所では、みな「志貴」とあるので、ここも、「しき」と訓むべきである。「鉏」の字を書くのは、昔、「すき」を、音を通わせ、「しき」ともいったのだろう。『日本書紀』には、「味耜、これを阿膩須岐(あぢすき)という」とあり、同書の歌、出雲国造の神賀詞、同国の風土記、神名式なども、みな「すき」で、「しき」とあることはない。しかし、『古事記』には、どこも「志貴」とあるので、ここだけを、「すき」と訓むべきではない。名の意味は、まだ思い至らないが、試みにいえば、「あぢ」は、「うまし」と同じ意味の、たたえる名である。『延喜式』に、摂津国東生郡の、阿遅速雄神社というものもある。「しき」は、磯城で、石で築いた城の堅さによって、たたえた名なのか。懿徳天皇のお名前は、大倭日子鉏友命で、同じ母の弟に、師木津日子命がある。父、安寧天皇のお名前は、師木津日子玉手見命である。これは、母が、師木の県主の娘なので、その「師木」によって、お名付けしたのか。ともかく、父と弟のお名前の「師木」と、「鉏友」の「鉏」は、同じだろう。また、崇神天皇の子、豊城入日子命と、豊鉏入日女命は、同じ母からお生まれで、これも、「豊城」の「城」と、「鉏」とは、同じ意味と聞こえる。これらが、「鉏」を「磯城」とする証拠である。「師木」も、『日本書紀』には、「磯城」と書くのは、この意味だ。「高日子根」は、「天津日子根」などと同じ、たたえる呼び名である。『出雲国風土記』には、「神門郡高岸郷。天下を造られた大神の子、阿遅須枳高日子命が、昼も夜も、ひどく泣かれたので、そこに高い家を造って、お住まいになった。そして、高いはしごを掛け、上り下りして、お育て申し上げた。そのため、高岸という」とある。また、「仁多郡三沢郷。大神、大穴持命の子、阿遅須伎高日子命は、おひげが、八つかほど生えるまで、昼夜お泣きになり、言葉を発せられなかった。親の神は、御子を船に乗せ、島々を巡り、お心を和らげられたが、なお、泣きやまれなかった云々」とある。「鬚髪」は、「須髯」の誤りだろう。
【宣長の注釈】「高比売命」は、名の意味が、兄の神の、「高日子」に対応していて、別段のことはない。『三代実録』巻四十四に、伯耆国の、正六位上、天照高日女神に、従五位下を授けた、とあるのは、この神か。
【宣長の注釈】「下光比売命」は、「したてり」とも訓むべきである。「光」は、下では、「照」と書く。『日本書紀』には、「顕国玉の娘、下照姫、別名、高姫、またの名、稚国玉」とある。「顕国玉」といって、神とも命ともいわないのは、大国主の神と、別の神だとする伝承なのか。父の大国玉に対して、「稚国玉」と呼ぶことを考えると、この神も、女神でありながら、国に、大きな功績があったのだろう。それを考えると、「下照」は、あの、「鄙照」の類の、たたえる名なのか。これについては、前の、建比良鳥命の名の意味を述べた所、伝の巻七、六十六葉にいった。または、容姿の美しさをいうのか。『旧事紀』で、この神を、大和国葛上郡の、雲櫛社にいらっしゃる、とするのは、根拠があったのか、分からない。『延喜式』には、葛上郡の大倉比売神社、一名、雲櫛社とある。四時祭式、臨時祭式では、摂津国の、比売許曽神社も、下照比売としているが、これは、別の神である。
【宣長の注釈】「この、阿遅鉏高日子根神」の「鉏」は、旧印本と、もう一つの本では、「鋤」と書く。しかし、『古事記』の中に、この字を使った例がないので、今は、延佳本と、もう一つの本に従った。また、旧印本と、もう一つの本は、共に、ここに「根」がない。『出雲国風土記』などにも、この字のない所が多く、妹の「高比売」に対応する点でも、なくても、よさそうだ。しかし、この後に出る所にも、みな、あるので、ここも、延佳本にあるのに従った。
【宣長の注釈】「迦毛の大御神」は、出雲国造の神賀詞に、「大穴持命云々。自分の和魂を云々。自分の子、阿遅須伎高孫根命の御魂を、葛木の鴨の神なびにお鎮めし、事代主命の御魂を云々にお鎮めし、皇孫の命を、近くでお守りする神として、献り置いて云々」と見える。『延喜式』の、大和国葛上郡、高鴨阿治須岐託彦根命神社四座、いずれも名神大社で、月次祭、相嘗祭、新嘗祭を行う、というのが、これである。四座に、どの神を祭るかは分からない。いずれも云々、とあるのは、みな、尊い神なのだろう。同郡には、鴨都波八重事代主命神社、また、鴨山口神社などもある。「かも」は、この辺り一帯の地名である。『和名抄』に、上鳥、下鳥という郷名があるのは、もしかすると、「鳥」の字が、「鴨」か「鳧」かの誤りではないか。このお社のある土地は高いので、あの、事代主神社と区別するため、高鴨というのだろう。このお社は、今、佐味庄の神通寺村という所にあり、高鴨山というものもある。この辺り六村を、佐味庄といい、これは、昔の神戸郷だという。そうであれば、その神戸は、このお社のものなのか。『出雲国風土記』には、「意宇郡賀茂神戸。天下を造られた大神の子、阿遅須枳高日子禰命が、葛城の加茂社にいらっしゃる。これは、その神に属する神戸なので、鴨という」とある。『三代実録』巻二に、貞観元年、従二位、勲八等の鴨阿治須岐宅比古尼神と、正三位の高鴨神に、共に、従一位を授け申し上げた、とある。この文章は、疑わしい。誤りがあるのか。また、『延喜式』で、備前国の赤坂郡にも、津高郡にも、鴨神社と宗形神社とが、並んでいるのは、この神と、母の神なのだろう。
さて、『姓氏録』には、「賀茂朝臣は、大神朝臣と同じ祖先で、大国主神の子孫である。大田々禰古命の孫、大賀茂都美命、別名、大賀茂足尼が、賀茂神社を祭った」とある。これは、高鴨社である。水垣の宮の御代に、大田々禰古命は、大美和社を祭られたので、こちらは、その御子の神だから、同じ子孫が分かれ、祭るのである。これによって、鴨君という姓を賜った。なお、その由来は、中巻、水垣の宮の段で詳しく述べる。『続日本紀』巻二十五には、次のようにある。「天平宝字八年十一月庚子、大和国葛上郡に、高鴨神を、再び祭った。高鴨神については、法臣の円興と、その弟、中衛将監、従五位下、賀茂朝臣田守らが、こう申し上げた。昔、大泊瀬天皇が、葛城山で狩りをされた時、ある老人が、いつも天皇と競争し、鳥獣を捕ることを争った。天皇は怒り、その者を土佐国へ流された。私たちの先祖が祭る神は、老人に姿を変え、それによって、追放されたのである。そこで、天皇は田守を遣わし、お迎えさせ、今、もとの場所にお祭りになった」。今、以前の記録を調べても、この出来事は見当たらない。また、「そこで」の上に、文章が脱けたのか。もとの場所に、再びお祭りしたいと申し上げる言葉があるはずだ。『延喜式』に、土佐国土佐郡の都佐坐神社とあるのは、右の、宝字八年に、土佐から大和へ戻し、お祭りした時、和御魂を、とどめられたお社である。今も、高鴨大明神と申し上げる。『源平盛衰記』には、土佐国高賀茂郷とある。また、同郡に、葛木男神社、葛木咩神社というものがあるのも、この神に関係する神なのだろう。また、同国幡多郡にも、賀茂神社が見える。
『土佐国風土記』には、「土佐郡の役所から西へ四里に、土佐高賀茂大社がある。その神の名は、一言主尊で、祖先は詳らかでない。ある説には、大穴六道尊の子、味鉏高彦根尊だという」とある。その中の、神の名を、一言主尊とするのは、誤りである。一言主神と、高鴨神とは、もともと別だ。しかし、右に引いた、『続日本紀』の、葛城山でのことと、『古事記』『日本書紀』に見える、一言主神が現れた故事とは、共に、雄略天皇の御世で、場所も同じで、事の様子も似ているため、一つに混ぜ、土佐の高鴨も、一言主と、伝えたのだろう。『釈日本紀』に、右の風土記の文を引いた次に、「暦録には、雄略天皇四年庚子、春二月、天皇が葛城山で狩りをされると、突然、背の高い人がいた云々、とある。ある説には、その時、神が天皇と競争し、無礼な言葉があったので、天皇は、たいそうお怒りになり、土佐へ移し申し上げた。神は、そこに従って隠れた。神ご自身は、すでに姿を隠したので、祝を、代わりとした。初め、賀茂の地におられ、後に、この社にお戻りになった。高野天皇の宝字八年、従五位上、高賀茂朝臣田守らが、申し上げて、葛城山の東、下高宮の岡の上に、お迎えし、鎮め申し上げた。その和魂は、なお、あの国にとどまり、今も祭っている云々」と見える。
さて、「かも」という地名については、『山城国風土記』に、「日向の曾の峰に、天からお降りになった神、賀茂建角身命が、神倭石余比古の、お先に立ち、大和の葛木山の峰にお泊まりになった。そこから、しだいに移り、山代国の岡田の賀茂に至り、山代川に沿い、お下りになった云々」とある。ここに、葛木山の峰にお泊まりになった、とあるので、この、賀茂建角身命のお名前から、地名が起こったのか。「岡田の賀茂」は、相楽郡の賀茂で、これも、この神のお名前に由来するのだろう。また、愛宕郡の賀茂の名も、この神に由来することは、その続きに見える。この建角身命には、混同しそうなことがある。上に引いた、『姓氏録』の、賀茂朝臣の祖、大賀茂都美命と、名がよく似ること、また、右の『山城国風土記』で、建角見の娘に、玉依比売がいることと、賀茂朝臣の祖、国津耳の娘に、活玉依毘売がいること、そのほかも、風土記の名々と、右の先祖の名々に、似るものがある。また、伊須気余理比売の御先祖の話に、丹塗りの矢があり、あの風土記にも、その話があって、よく似ている。これらは、建角身命のことと、賀茂氏の先祖のこととが、たいへん紛らわしい。なお、よく考えるべきである。
さて、「大御神」と申し上げるのは、天照大御神のように、最も尊んで申し上げることで、『古事記』の中には、例がない。しかし、『万葉集』巻五に、「海原の、岸辺にも沖にも、神としてお鎮まりになり、治められる、諸々の大御神たち」とあり、巻十九に、「住吉の、我が大御神」などと詠む。春日祭などの祝詞にも、「皇大御神たち」とあるので、昔は、どの神も、尊んで、このように申し上げたのだろう。『古事記』の例では、天照大御神だけは、どこも、大御神とあり、そのほかは、伊邪那岐大御神と、ただ一か所にあるだけで、ほかには見えない。「大神」とは、いろいろな神に申し上げている。
【古事記本文】大国主の神は、また、神屋楯比売命を妻とし、事代主の神を、お生みになった。また、八島牟遅能の神の娘、鳥耳の神を妻とし、鳥鳴海の神を、お生みになった。この神が、日名照額田毘道男伊許知邇の神を妻とし、お生みになった子は、国忍富の神。この神が、葦那陀迦の神、別名、八河江比売を妻とし、お生みになった子は、速甕之多気佐波夜遅奴美の神。この神が、天之甕主の神の娘、前玉比売を妻とし、お生みになった子は、甕主日子の神。この神が、淤加美の神の娘、比那良志毘売を妻とし、お生みになった子は、多比理岐志麻流美の神。この神が、比比羅木之其花麻豆美の神の娘、活玉前玉比売の神を妻とし、お生みになった子は、美呂浪の神。この神が、敷山主の神の娘、青沼馬沼押比売を妻とし、お生みになった子は、布忍富鳥鳴海の神。この神が、若昼女の神を妻とし、お生みになった子は、天日腹大科度美の神。この神が、天狭霧の神の娘、遠津待根の神を妻とし、お生みになった子は、遠津山岬多良斯の神。〔原文の小注:「牟」以下三字は音仮名で、「鳴」は「なる」と訓む。日名照額田毘道男伊許知邇神の後の音仮名指定は、細字の並びを確定できないため原文に〓を示した。「速甕之多気佐波夜遅奴美」は「多」以下八字、「比那良志毘売」は名全体、「比比羅木之其花麻豆美」は「木」の前三字と「花」の後の三字を音で読む。「美呂」の二字、「度美」の二字も音仮名である。〕
【古事記本文】右の、八島士奴美の神から、遠津山岬帯の神までを、十七代の神という。
【宣長の注釈】神屋楯比売は、どの神の娘かも分からず、名の意味も、定かでない。もしかすると、「やたて」は、「いやたかてり」を省いたものか。『旧事紀』には、事代主神と同じ母から生まれた妹に、高照光姫大神命がある。これも、根拠があって、いうのだろう。母の名と似ることは、古い伝承に、例が多い。または、「たて」は、明の宮の段の歌で、乙女をほめ、「後ろ姿は、すらりとしていることよ」とお詠みになるように、姿をほめた名でもあるのか。さて、『旧事紀』は、ここを、「次に、辺津宮の高津姫神を妻とし、一男一女を、お生みになった。児都味歯八重事代主神云々」とする。辺津宮は、宗像のものである。高津姫は、多岐都比売である。これは、別に、根拠があっていうのか。阿波国勝浦郡には、事代主神社と、建島女祖命神社があり、関係がありそうなので挙げる。さて、それは、『古事記』の伝承と、もともと異なるのか、または、神屋楯比売が、多岐都比売の別名だったのかも、分からない。
【宣長の注釈】事代主の神は、下には、八重言代主の神ともあり、『姓氏録』には、積羽八重事代主命ともある。『旧事紀』にも、右に引いたとおりである。『神名帳』には、「都波八重」とある。さて、名の意味だが、「代」は、師の、出雲国造神賀詞の解説によると、「神乃礼自利は、ほかの祝詞の、礼代と同じことで、礼代も、これにならい、いやじり、と訓むべきだ。『り』は、『るし』を縮めたもので、礼のしるし、ということである。『日本書紀』の物実を、ものしろ、と訓むのも、これと同じだ」という。その意味で、「事代」は、事のしるし、である。そう名付けた理由は、下に、この神が、船を踏み傾け、天の逆手を打ち、青柴垣を作って隠れた、とあることだ。これは、天下を、皇孫の命に譲り申し上げた、その事のしるしである。後で呼んだ名を、前にもさかのぼらせ、伝える例は多いので、この出来事より前に、大国主の神が、この名を仰せになっているのも、差し支えない。さて、「つみはやへ」は、あの青柴の葉を、幾重にも積み、隔て、垣となさったことをいう。『日本書紀』に、幾重もの青い柴垣、とあることを考えよ。また、考えると、「代」は、領有する、という意味でもあるのか。
さて、前の、迦毛大御神を挙げた例にならえば、この神の鎮座する社は、特に挙げるはずなのに、挙げないのは、どうしたことだろう。今、それを挙げると、まず、出雲国造の神賀詞に、「事代主命の御魂を、宇奈提にお鎮めし云々」とある。これは、『和名抄』に、大和国高市郡、雲梯、宇奈天の郷があり、今も、雲梯村がある。『万葉集』巻七に、「ま鳥住む、卯名手の杜の云々」、巻十二に、「思わぬのに、思うというなら、ま鳥住む、卯名手の杜の神が、お見抜きになるだろう」と詠む、神社のことと聞こえる。この卯名手の杜を、美作国のものとするのは、理由がない。ところが、『延喜式』に、この社が載らないのは、たいへん不審ではないか。このことは、師も疑われた。また、あの神賀詞の続きに、「賀夜奈流美命の御魂を、飛鳥の神なびにお鎮めし」とあるのも、『延喜式』には、高市郡の加夜奈留美命神社が、別にあり、飛鳥神社とは異なるので、これも、不思議である。そこで、よく考えると、あの文章は、「事代主命の御魂を、飛鳥の神なびにお鎮めし、賀夜奈流美命の御魂を、宇奈提にお鎮めし」とあるはずのものが、入り混じり、誤ったのだろう。その理由は、飛鳥神社こそが、事代主命で、加夜奈流美神社は、雲梯村にあると、今、土地の人もいうからだ。弘仁十三年四月の官符の、賀屋鳴比女社は、確かに、この神社と聞こえるのに、これを、飛鳥神の子孫の神とする由来がある。あの神賀詞のとおりなら、賀夜奈流美命が、飛鳥神そのものなので、子孫の神であることと、食い違う。ある書で、『延喜式』の加夜奈流美命神社が、今、栢森村にあるというのは、確かな証拠がない。あの村が、飛鳥に近く、名も似るので、あの神賀詞に合わせ、推し量って決めたのだろう。
さて、『延喜式』の、同郡、飛鳥坐神社四座、いずれも名神大社で、月次、相嘗、新嘗を行う、というものは、事代主神を、主に祭っている。『日本書紀』雄略天皇の巻に、「天皇が、少子部連蜾蠃に、私は、三諸岳の神の姿を見たい、と命じた。ある伝承では、この山の神は、大物代主神だという云々」とある。この故事は、『日本霊異記』にも詳しく見え、三諸岳は、飛鳥の神なび山という所だ。三輪山も、三諸山というが、ここは、それではない。混同してはいけない。『万葉集』巻三の、山部赤人が、神岳に登って作る歌、また巻十三の長歌などの、「三諸の神なび山」「神なびの三諸の山」は、みな、この飛鳥の神なびである。この山を、神岳、また、雷岳ともいい、今も、雷土村という、飛鳥川に沿う里に、小山がある。飛鳥社は、もと、その所にいらっしゃった。ところが、『日本紀略』に、「天長六年三月己丑、大和国高市郡賀美郷の、甘南備山の飛鳥社を、同郡同郷の鳥形山に移す。神のお告げによる」とあるので、今の社地は、この鳥形山だったのである。また、高市郡の、高市御県坐鴨事代主神社があり、大社で、月次、新嘗を行う。これは、今、高殿村という所にあり、大宮と呼ぶ。天香山の、少し西の方である。貞観元年正月、従一位を授け申し上げたことが、『三代実録』巻二に見える。『日本書紀』天武天皇の巻で、高市県主許梅に憑き、「私は、高市社にいる、名は、事代主神だ」と仰せになるのは、この神である。また、葛上郡には、鴨都波八重事代主命神社二座があり、名神大社で、月次、相嘗、新嘗を行う。これは、今、御所村にある。
『日本書紀』神功皇后の巻の初めに、「先日、天皇にお教えになったのは、どの神か。その名を知りたい」と申し上げ、ほかにもおられるかと問うと、「天において事代し、虚空において事代する、玉籤入彦厳之事代の神がいる」と答える。また、韓国を平定し、お帰りになった所にも、天と虚空で事代する、玉籤入彦厳之事代の神についてあり、さらに、「事代主尊が、私を、御心長田の国に祭れ、とお教えになったので、葉山媛の妹、長媛に祭らせた」とある。これは、この神か。長田の国は、『和名抄』の、摂津国八部郡、長田という所で、『延喜式』の、長田神社、名神大社で、月次、相嘗、新嘗を行う、というのが、そのお社である。このように、この神を祭るお社は、各所に、名高いものが多い。右のほかにも、『延喜式』に、阿波国の阿波郡と、勝浦郡にも、事代主神社がある。播磨国宍粟郡に、大倭物代主神社がある。「物」を、「こと」と訓む理由がないのではないが、なお疑わしいので、これは、大物主神のことなのかも、分からない。前に引いた、雄略天皇の紀も、同じである。
また、神祇官で、御巫が祭る八座の神の中に、大穴牟遅神はおられず、この、事代主神がいらっしゃる。師の『祝詞考』では、八神を解く中で、この神は、初めて国を治めた磐余彦天皇の后、五十鈴媛命の父であり、その后のお生みになった皇子が、皇位を継いだため、代々の天皇の、初めの御祖である后の、父の神だからである。その上、この大神こそ、天下を皇孫の命にお譲りになり、その功績が並びないので、高御魂命に次ぎ、八神の中で祭られるのだろう、とする。しかし、今、よく考えると、この八神は、どれも、右のような理由で、お祭りになる神ではない。あの説のように、御祖であるから、または、功績があるからなら、そのほかにも、祭られる神が、多くあるはずだ。したがって、高御産日神なども、皇祖だから、お祭りになるのではなく、ただ、ものを生み成す、産霊の働きによる。次の神たちから、分かるはずである。もし、皇祖だからなら、必ず、伊邪那岐、伊邪那美の大神なども、おられるはずではないか。こういうわけで、右の師の説は、採用し難い。
まず、八座の神のうち、ほかの七座は、どれも、天皇のお身を守り、幸いをもたらす神々である。その中の、大宮売神は、『古語拾遺』に、天照大御神の御前に仕えていた、とあり、今の内侍のように、よい言葉、美しい言葉で、君と臣との間を和らげ、喜ばせる、とある。これにならって考えると、この事代主神は、下に、父、大穴持命が、「私の、大勢の子の神たちは、八重事代主神を、神々の先導として仕えれば、背く神はありません」という。このような理由で、特に、天皇をお守りする神だからなのだろう。前にも引いた、天武天皇の紀では、人に憑き、「私は、高市社にいる、事代主神。また、牟狭社にいる、生霊神である。私は、皇孫の命の前後に立ち、不破までお送りし、帰って来た。今も、官軍の中に立ち、守っている」という。これを考えるべきである。この生霊神も、八神の中におられる。なお、「霊」の字は、今の『日本書紀』の本では「雷」とするが、古本と、『釈日本紀』の「霊」がよい。さて、『姓氏録』の、大和国神別に、「長柄首は、天乃八重事代主命の子孫である」、和泉国神別には、「長公は、大奈牟智神の子、積羽八重事代主命の子孫である」と見える。また、畝尾連、伊与部、飛鳥直などの祖にも、同じ名があるが、それは、天つ神で、別である。
【宣長の注釈】八島牟遅能神の「八島」は、前の、八島士奴美神の所でいったようなものか。また、この次にも考えを述べる。「牟遅」は、「大穴牟遅」の「牟遅」と同じである。
【宣長の注釈】鳥耳神の「鳥」は、地名か。その理由は、次に述べる。「耳」は、たたえる呼び名で、例が多く、前にも見える。ただ、女の名には、あまり見当たらず、珍しい。中巻に、前津耳という、女の名があるが、『日本書紀』では、これも、父の名なので、疑わしい。さて、この神の名は、真福寺本では、鳥取神とある。「鳥取」なら、地名か。この地名は、『和名抄』に、各国に、多く見える。『延喜式』には、伊勢国員弁郡に、鴨神社、鳥取山田神社、鳥取神社、賀毛神社もある。しかし、鳥取という名は、人の代になって、鳥を捕ったことから起こったと思われる。これは、中巻、垂仁天皇の段でいう。この神の名としては、どうだろうか。
【宣長の注釈】鳥鳴海神は、「とりなるみ」と訓むべきである。この「鳥」を、「と」とだけ訓むのは、誤りだ。「鳥」を「と」と訓むのは、鳥取、鳥羽、鳥網、鳥栖のように、鳥に関係する言葉を、下に続ける時である。ここでは、「鳴海」は、鳥に関係することではないので、「となるみ」というべきではない。「鳴」に、読みの注があるのは、「鳥」の下なので、「なく」と訓むかもしれないためだ。さて、「鳥」は、母の名と同じ、地名か。大和国葛上郡に、上鳥、下鳥という郷があり、『和名抄』に見える。もし、これならば、母方の祖父、八島牟遅は、『和名抄』に、添上郡八島郷があるので、そこに住まわれた神、鳥耳神は、右の鳥の郷に住まわれ、この神も、そこで、お生まれになったのか。さて、「鳴海」は、音を借りた字で、「成耳」という、たたえる名だろう。「耳」と「見」が、音を通わせることは、忍穂耳命の所で、詳しく述べたとおりである。また、『延喜式』には、尾張国愛智郡の成海神社があり、『和名抄』にも、成海、奈留美という郷がある。さて、あの賀夜奈流美命と、この神とは、別なのか。それとも、「賀夜」も、大和の地名などで、この神の別名なのか。もし別名なら、備中国賀夜郡、但馬国気多郡の賀陽、加也の郷などにも、関係があるのかと、思うことがある。次に述べる。
【宣長の注釈】ここに、何々の神の娘、何々を妻とし、建御名方神を生んだ、ということも、あるはずなのに、ないのは、脱けたのか。この神は、事代主神に次ぎ、力のあった様子が、下に見えるので、必ず、先に、ここに挙げるはずなのである。
【宣長の注釈】日名照額田毘道男伊許知邇神の「日名照」は、前の、建比良鳥命を、『日本書紀』で、武日照命ともいう、その「日照」と同じである。これについては、前の、伝の巻七、六十六葉にいった。また、『延喜式』に、出雲国神門郡の比奈神社、隠岐国知夫郡の比奈麻治比売命神社がある。「額田」は、各国に多い地名だが、大和では、『日本書紀』顕宗天皇の巻に、山辺郡額田邑があり、『和名抄』に、平群郡額田、奴加多がある。河内国河内郡にもある。また、賀夜奈流美を、鳥鳴海の別名とし、あの備中の賀夜郡によるなら、同国哲多郡にも、額部、奴加多倍がある。「毘道」は、あの、但馬の気多郡の賀陽によっていうなら、同国出石郡に、比遅神社がある。伊賀国伊賀郡にも、比地神社、伊勢国多気郡にも、火地神社があり、また、『和名抄』の、播磨国宍粟郡に、比地という郷もある。「伊許知邇」は、考えがない。さて、「男」とあるので、男神のはずだから、この「男」の下に、「神之女」の三字が脱けたのか。ただ、読みの注を、一つにしていることを考えると、後に写して脱けたのではなく、阿礼が口にして伝えた時から、こうあったままなのだろう。または、「神」の下に、娘の何々の神、という言葉が、脱けたのか。
【宣長の注釈】国忍富神の「忍」は、前の、天之忍許呂別の所、伝の巻五、八葉でいったとおりである。「富」も、たたえる名で、例が多い。建御名方神を、『延喜式』では、南方刀美神というのと同じである。『出雲国風土記』には、須佐能烏命の子、国忍別命というものも見える。
【宣長の注釈】葦那陀迦神については、『延喜式』に、備中国窪屋郡の足高神社があり、備後国には、葦田郡があり、但馬国気多郡には、葦田神社がある。これらは、前の神々に、関係する国なので、挙げた。
【宣長の注釈】八河江比売は、明の宮の段にも、同じ名がある。名の意味は、字のとおりか。また、諸々の祝詞に、「盛んに、木が茂るように、お仕えして、栄えさせ」という言葉がある。これについて、師の説に、「やくはえ」は、「いやきはえ」で、ますます木が生え茂るのを、林、また「はえ」ともいう。遠江の人が、木や草の、枝の先から、また枝が生え茂るのを、「やくばえ」というのも、これだ、とある。ここも、この「やくはえ」の意味の、たたえる名なのか。「く」と「か」は、通じる音である。延佳本に、「江」を、ある本は、「沼」とする、とあるが、それは、よくないようだ。さて、『三代実録』巻三十一に、常陸国河江神が見える。
【宣長の注釈】速甕之多気佐波夜遅奴美神の、「速」も「甕」も、たたえる名で、例が多い。「甕」は、前の建御雷之男神の所で詳しく述べたように、「厳」と通じる。「多気」は、「建」だろう。「佐波夜」は、地名などなのか。「遅」は、「彦」「男」などと共に使う「ち」で、前にも、例が多く出る。「奴美」は、前の、八島士奴美の「奴美」と同じである。『延喜式』に、備後国安那郡の、多祁伊奈太伎佐耶布都神社がある。これは、「多祁」と「佐耶」が似ているので、引いた。
【宣長の注釈】天之甕主神は、特別な意味を指さない、たたえる名である。
【宣長の注釈】前玉比売の名は、『日本書紀』にいう、「幸魂」、佐枳弥多摩の意味か。「幸魂」は、後で述べる。『和名抄』には、幸魂を、俗に、佐岐太万という、とある。また、幸いをもたらす力のある、宝の玉、という意味でもあろう。敏達天皇の紀に、幸玉宮がある。これは、皇居の名である。『延喜式』に、伊豆国賀茂郡の、佐伎多麻比咩命神社、また、武蔵国埼玉郡の、埼玉神社二座がある。同郡には、埼玉郷もある。『和名抄』では、郡も郷も、佐以多万とあるが、「き」を「い」というようになるのは、後のことで、例が多い。『万葉集』巻十四にも、「さきたまの津」と詠んでいる。
【宣長の注釈】甕主日子神は、母方の祖父の神の、お名前による。
【宣長の注釈】淤加美神は、前に出た、竜神である。さて、その娘というのは、大御和神が、美しい若者に姿を変え、乙女のもとに通われたように、竜神が、若者に姿を変え、人間の乙女と結婚し、お生みになったのである。前の、淤迦美神の娘、日河比売も、これと同じだ。さて、淤加美神社は、各国に多いので、どこのものとも、分かり難い。
【宣長の注釈】比那良志毘売については、『延喜式』に、出雲国神門郡の比那神社がある。「良志」は、「足らし」の、初めを略したものなどか。隠岐国知夫郡には、比奈麻治比売命神社がある。「らし」と「まち」は、音が通じるので、この神なのか。海上で漂流する者が、この神の霊験を受ける例が多いことが、延暦十八年五月云々と、『類聚国史』に見える。これは、竜神の娘なので、海を渡る者を、お守りになるのでもあろう。
【宣長の注釈】多比理岐志麻流美神については、『延喜式』に、備後国品治郡の多理比理神社がある。同国甲奴郡には、意加美神社、恵蘇郡には、多加意加美神社がある。『出雲国風土記』の、「飯石郡来島郷。伎自麻都美命がいらっしゃるので、伎自真という」とあるのは、この神だろう。『延喜式』には、安房国安房郡の、安房坐神社の次に、后神太比理刀咩命神社がある。しかし、これは、女神である。なお、今の『延喜式』の本は、この「太」を「天」、「刀」を「乃」に、誤っている。今は、『文徳実録』によって、引用した。
【宣長の注釈】比々羅木之其花麻豆美神の「比々羅木」は、中巻、日代の宮の段、伝の巻二十七、三十九葉で解説する。さて、これは、『三代実録』の「薦枕、高御産栖日神」、『日本書紀』の「天疎、向津媛命」などの例のように、枕詞として置くものと聞こえる。「其花」は、誤字なのか。神の名として、しっくりしない感じがする。上からのつながりも、どうだろうか。なお、考えるべきである。「麻豆美」は、右に引いた「伎自麻都美」と同じ言葉なので、あれは、この神であってもよい。ある説では、ヒイラギは、多くの年月を経なければ、花が咲かないので、「今見」、つまり、見る機会が乏しい、という意味だという。夕暮れ時を、今、俗に「まづみ時」というのも、暗くなって、物が見え難い意味で、これと同じだという。この説は、よいとも思われない。
【宣長の注釈】活玉前玉比売神の「活玉」は、生きる力を与える御魂の意味か。『延喜式』に、摂津国東生郡の、難波坐生国魂神社があり、これも、今の世に、生玉という。ある本に、生国咲国魂神社ともあるのは、ここの、活玉前玉に、いっそう、よく合う。または、あの、天つ神が、饒速日命に授けられた、十種の宝の中の、生玉と同じく、宝玉の意味で、たたえたのか。「前玉」は、前に述べたのと同じである。
【宣長の注釈】美呂浪神については、『和名抄』に、上野国佐位郡の美呂郷がある。「浪」は、音を借りた字で、「な」も「み」も、例の、たたえる名なのだろう。山城国久世郡に、奈美郷があるが、それではあるまい。
【宣長の注釈】敷山主神については、『延喜式』に、越前国今立郡の敷山神社がある。師は、志幾山津見のことと思い、ここも、「き」を濁らせて訓んだが、「敷」の字を書くので、やはり、濁らせないのがよいだろう。
【宣長の注釈】青沼馬沼押比売は、「沼馬」の二字を、「ぬま」と訓むべきである。「沼」の一字でも、「ぬま」だが、古書では、この字を、多く、「ぬ」とだけ使うので、「馬」を添えた。『古事記』中巻と、『神名帳』にも、「沼間」と書く例がある。「馬」も、音を取ったのではなく、訓みを取った。『延喜式』に、武蔵国多磨郡の、青渭神社がある。「渭」を、今の本で、「ゐ」と訓むのは、誤りだ。『和名抄』には、甲斐国巨麻郡の青沼、安乎奴万、信濃国佐久郡の青沼がある。「沼押」は、「ぬおし」と訓むべきだ。これは、子のお名前の「布忍」と同じ言葉と聞こえるので、「ぬのし」とも訓みそうだが、もし、そうなら、同じ字のはずなのに、字が異なるのは、同じ言葉でも、こちらは、昔から「ぬおし」と、唱えて来たのだろう。この「沼」を、延佳本などで、「治」とするのは、誤りである。また、師が、このお名前を、「あをぬのまぬおし」と訓むのも、よくない。
【宣長の注釈】布忍富鳥鳴海神の「布忍」は、「ぬのし」と訓むべきである。「忍」の「お」は、「の」の響きに含まれるので、省く。母の神の、「沼押」と、同じなのだろう。『和名抄』に、越中国射水郡の布師、奴乃之、土佐国安芸郡の布師、奴乃之がある。また、今、河内国丹北郡にも、布忍庄がある。『日本書紀』には、景行天皇の子に、渟熨斗皇女、日本武尊の子に、布忍入姫命があり、天智天皇の紀に、布師首磐という人がある。『姓氏録』の、左京皇別にも、布師首がある。「富」は、たたえる名である。「鳥鳴海」が、六代前の祖先と、同じ名なのは、この神も、あの、鳥の郷に、関係があるのか。
【宣長の注釈】若昼女神については、『日本書紀』に、「稚日女尊が、清らかな機織りの殿にいて、神のお召し物を織っていた」とある。これを、『旧事紀』で、織女、稚日姫尊は、天照大御神の妹である、とするのは、「大日霊」というお名前に対し、推し量って、妹だといったのか。もし、天照大神の妹なら、「織女」という呼び方も、合わない。また、『口決』で、伊弉諾尊の子というのは、『旧事紀』によるのだろう。ただ、『日本書紀』で、「尊」の字を書き、「日女」というお名前を持たれることは、どのような理由か、理解し難い。神功皇后の巻には、また、稚日女尊が、「私は、活田の長狭の国にいたい」と、お教えになった、とあるが、ここでいう神は、あの神とは、別だろう。あの神は、その時すでに、神去った、とある。もし、なお、無理に同じ神とするなら、その御霊が、どこかにお鎮まりになっていて、人の乙女に姿を変え、結婚なさった、というのか。そうであれば、「昼女」というお名前こそ、疑わしい。そのため、諸本で、「昼」を「尽」と書くのも、むやみに捨て難い。しかし、今は、ひとまず、延佳本に従った。
【宣長の注釈】天日腹大科度美神については、『出雲国風土記』の大原郡に、日原社があり、『延喜式』では、丹後国加佐郡にも、日原神社がある。「科度美」は、『日本書紀』に見える、風の神の名、級長戸辺と、よく似ている。ただ、「戸辺」は、一般に、女の名である。また、『延喜式』に、河内国石川郡の、科長神社がある。あの「級長戸辺」も、「級長」を「しな」と訓むので、ここの「科」も、「科長」の意味なのだろう。父の神のお名前の「布忍」も、右にいったように、今、河内の地名にあるので、関係がありそうに聞こえる。さて、「度美」という例は、中巻の末に、菅竈由良度美があるが、それは、女の名である。ここは、「富」の意味で、たたえたのか。
【宣長の注釈】天狭霧神は、前に出た。この神の娘とは、これも、御霊が、若い男に姿を変え、乙女のもとに通い、お生みになったのだろう。『姓氏録』にも、羽束は、天佐鬼利命の三代目の孫、斯鬼乃命の子孫である、という例がある。
【宣長の注釈】遠津待根神の「遠津」は、地名だろう。水垣の朝廷の段に、遠津年魚目目微比売という名もあり、その「遠津」も、地名である。あちらは、紀伊国だ。「待根」は、音を借りた字で、たたえる名だろう。「ま」は、「真」で、「ちね」には、前の、天之都度閇知泥神、『日本書紀』垂仁天皇の巻の、十千根など、名の例がある。師は、「たらちね」などの「ちね」で、「し」を「ち」と、音を通わせるのだといった。しかし、もしそうなら、直接、「たらしね」というはずだ。「ち」というのは、「足しちね」の「し」を、省いたのである。
【宣長の注釈】遠津山岬多良斯神の「遠津」は、母の神のお名前による。母が住まわれ、この神が、お生まれになった土地なのだろう。「岬」は、「さき」と訓むべきである。『日本書紀』神武天皇の巻に、「丘岬、これを烏介佐岐という」、『和名抄』に、「唐韻では、岬は、山のそばで、日本紀私記では、三左木という」などとある。さて、「山岬」も、地名か。山城国乙訓郡に、山埼郷があり、『延喜式』に、同郡の、神足神社がある。「多良志」は、「足」の意味なので、関係がある。名の「たらし」は、『日本書紀』では、みな「足」と書き、『古事記』に「帯」と書くのは、音を借りた字である。「帯」を、そう訓む理由は、伝の巻六、四十六葉ですでに述べた。右に引いた、『姓氏録』の「羽束」も、摂津の神別で、あの国の地名だが、山城国乙訓郡にもあるので、母方の祖父の神にも、関係がありそうである。また、あの、河内の科長も、さほど遠くないので、さまざまな点で、山城の山崎に、由来があるようだ。
【宣長の注釈】右の神々のお名前について、各国の神社を挙げ、郡や郷を引いたのは、どれも、確かに、それだというのではない。少しでも、名が似るなどして、関係がありそうなものを、もしかすると、と、試みに記したのである。しかし、漏れた所は、なお多いだろうから、これからも、見つかるたび、比べ合わせ、考えるべきである。
【宣長の注釈】「十七代の神」は、今、数えると、十五代なので、この数に、二代足りない。しかし、「五」を「七」と誤ったとも見えない。前にも、このような、数の食い違いはあった。これは、もとは、そろっていたのを、すでに、阿礼が口にして伝えた時に、脱けたのか、それとも、『古事記』ができた後、書き写す者が、脱かしたのか。今は、分かり難い。さて、ある人が問う。「天照大御神から、鵜葺草葺不合命まで、神代は五代なので、その間に、ここの神の十七代が、過ぎるはずはない。そうであれば、この末の方の神々は、神代が過ぎ、人の代になってからの神々なのか。不思議だ」。答え。神代の間、天皇の系統は五代だが、経過した年は、非常に長かった。『日本書紀』神武天皇の巻の初めに、天祖が降臨してから、今に至るまで、百七十九万二千四百七十余年、とある。だから、傍らの神々は、その間に、十七代でも、二十代でも、過ぎただろうことは、疑うべきではない。須佐之男命が、五代目の孫、菅根神に、神剣を、天へ持って行かせられたことが、『日本書紀』に見える。また、多紀理毘売命は、須佐之男命の娘であるのに、その六代目の孫、大穴牟遅神と結婚なさる。このように、人の代の例によって、疑うべきではない。
また問う。「右の、十七代の神々と、次の、大年神の子たち、羽山戸神の子たちなどには、子孫も、多くあるはずなのに、古書に、その子孫の氏として、見えるものがないのは、どうしてか」。答え。この、もとの祖先の神、須佐之男命は、伊邪那岐大御神が、この国に住むな、と仰せになって、追い払われた。その後、神剣を得られ、天照大御神に献り、大きな功績を残し、ついに、根の国へお去りになった。そして、大国主神も、同じように、大きな功績を上げ、ついには、この天下を、お譲りして、お隠れになった。こうして、右の神々、大年神の子たちなども、みな、それぞれに、その分に応じた功績を立て、その恵みを、世に残されたのは、もとの祖先の神と、大国主神のお心持ちと同じだから、ついには、この目に見える国を去り、その子孫は、残るまいということも、同じ趣旨になる道理は、たいへん、不思議なものである。この国には住むな、と仰せになった、大いなる命令のとおり、須佐之男命の子孫は、ついには、目に見える国に残ることはない。まれに、大物主神、事代主神などの子孫があるのは、現実のお体の子孫ではなく、この世にお鎮まりになる、御霊の子なのである。この違いは、下巻で詳しく述べる。
古事記伝 巻十二
本居宣長、謹んで著す。
神代 第十巻
【古事記本文】さて、大国主神が出雲の御大の御前(みほのみさき)にいたとき、波の上を、天の羅摩船(あまのかがみのふね)に乗り、鵝〔がちょう〕の皮を、丸ごと剝いで衣服にした神がやって来た。その名を尋ねても答えない。また、供の神々に尋ねても、みな知らないと申し上げた。そこで多邇具久(たにぐく。「多」から下の四字は音を表す)が、「これは久延毘古ならきっと知っているでしょう」と言った。すぐに久延毘古を呼んで尋ねると、「この神は神産巣日神の御子、少名毘古那神です」と答えた。「毘」から下の三字は音を表す。そこで、その神を連れて、神産巣日御祖命のもとへ参上し、事情を申し上げると、「この神は確かに私の子だ。子供たちの中で、私の指の間からくぐり抜けてしまった子なのだ。それで、あなた、葦原色許男命と兄弟となって、その国をしっかりと造り上げなさい」と告げた。「久岐斯」の三字は、音を表す。こうして、そのときから大穴牟遅と少名毘古那の二柱の神は力を合わせ、この国をしっかりと造り上げた。その後、少名毘古那神は常世国へ渡っていった。
【古事記本文】こうして、その少名毘古那神の正体を明らかにした久延毘古というのは、今でいう山の田の「そほど」、つまり案山子である。この神は足を動かして歩くことはできないが、天下のことをすべて知っている神であった。
【宣長の注釈】「御大之御前」は、『出雲国風土記』の島根郡に、「美保郷。天下をお造りになった大神命が……神である御穂須々美命をお生ませになり、その神がここにおいでになる。それゆえ美保という」とある。また「美保浜。幅は百六十歩。西に神社があり、北に民家がある。シビという魚を捕る」、また「美保埼……」ともある。『神名帳』には美保神社がある。この地名は後にも出てくる。出雲国の北東の端である。「ほ」に「大」の字を当てるのは、「おほ」の初めの「お」を省いて使うのである。「お」を省く例は、この『古事記』にも「穴大部」があり、『日本書紀』では「穴穂部」と書く。天武天皇の紀の「述太川」、『万葉集』巻十三の「衢大道」、巻十九の「大雨」など、多くの例がある。「御前」は、山でも海辺でも、物の先のように突き出した所をいう。「埼・崎・碕・岬」などの字を使い、『日本書紀』にも、岬を表す字の例がある〔訳注:ここに挙げられた字形は、判読を留保する〕。『和名抄』では「岬」も「汀」も「みさき」とする。さて、この古伝を『日本書紀』では、「初め、大己貴神が国を平定していたとき、出雲国の五十狭々の小汀に行き着き、食事をしようとしていた。このとき……」と記す。
【宣長の注釈】「波穂」は、『万葉集』巻十四の「なみのほの、いたぶらしもよ」、すなわち「波の穂がひどく揺れているよ」に従って訓む。この語は本巻末にも、「十掬剣を抜き、波の穂に逆さに突き立て……」「御毛沼命は波の穂を跳び……」などと出てくる。『日本書紀』神代下巻には、「高く立つ波の穂の上に八尋殿を建て……。秀起を、ここでは、さきだつるという」とある。引用した本では、仮名の字に誤りがあると宣長はいう。「だづる」では、言葉が整わない。〔訳注:「豆」と比較される字の細部は、判読を留保する〕。また神武天皇の紀には「浪秀」とある。一般に「穂」とは、はっきりと現れて見えることをいう。「波穂」は、『日本書紀』の「秀起」のように、波が白く高く立つ様子をいう古語である。「さき」は花が咲くときの「さく」で、『万葉集』巻十四にも「さくなみ」と詠む。
【宣長の注釈】「自」は、後の「帰来」に係ると見なければならない。「波の上を」という意味である。「船で」「徒歩で」という、移動の仕方を示す「自」と、同じである。
【宣長の注釈】「天之羅摩船」の「天之」は、「天之蘿」「天之真拆」などと同じ例である。延佳本が「羅」を「蘿」とするのは、余計な考えで草冠を加えたのである。諸本も、『旧事紀』の旧刊本も、『釈日本紀』の引用も、どれも草冠がない。古い本はそうだったのだろう。『日本書紀』では、「白蘞の皮を舟とした」とある。『和名抄』には、『本草』を引いて「蘿摩子、一名丸蘭。和名、かがみ」、「白蘞。和名、やまかがみ」、「徐長卿。和名、ひめかがみ」などとある。今は俗に「かがらび」とも「ががいも」ともいい、その殻を割った形は、舟にたいへんよく似ているという。『後拾遺集』には、「明け方には恥ずかしそうな朝の顔を、かがみ草にも見せてしまったなあ」という歌がある。
【宣長の注釈】「鵝皮」の「鵝」は、間違いなく誤字である。これはたいへん小さいことをいうのに、鵝、つまりガチョウは、それほどの小鳥ではないからだ。それで延佳は「蛾」の字ではないかといった。『字鏡』に、「蛾は蝗、蟻である。あり・ひひる」と見え、『和名抄』には、『説文』を引いて「蛾は蚕が変化した飛ぶ虫。和名、ひひる」とある。蟻であっても、ひひるであっても、たいへん小さい虫なので、ここによく合う。「蟻」と「蛾」は通わせて使い、「ひひる」にはいろいろな種類がある。その中で、『日本書紀』仁徳天皇の巻の皇后の御歌に、「夏虫の、ひむしの衣」と詠まれた「ひむし」は、飛蛾といって、灯に飛び込み身を滅ぼす虫で、蛾の一種である。その衣という比喩も、ここにとりわけ関係がありそうに思える。ただし「蛾」と「鵝」は字形が似ているわけでもないので、書き誤るものか、少し疑いは残るが、ひとまず「蛾」の字として、「ひむしのかは」と訓んだ。これを『日本書紀』では、「ミソサザイの羽を衣とした」とする。それに従い、師はここも「さざきのかは」と訓んだが、ミソサザイなら、『日本書紀』のように「羽」というはずで、「皮」は鳥には似つかわしくない。しかも、この『古事記』では「さざき」に「雀」を当てる例があり、それは「鵝」と形が似ていないので、誤りそうにも思えない。また『万葉集』巻十三に「蛾葉之衣」とあり、今の本で「かはのきぬ」と訓むが、なお別の読みがありそうなので、もしや、ここのことに関係があるのではないか。さらに考えていただきたい。
【宣長の注釈】「内剝」は、前の「天の香山の真男鹿の肩を、丸ごと抜き取って」と、同じ類である。「内」の意味は、その箇所、伝の巻八、三十葉で述べた。『日本書紀』には、「真男鹿の皮を丸ごと剝いで、天の羽鞴を作り……。全剝は、ここでは、うつはぎという」とある。「皮」の下の「剝」は、旧刊本にはないが、諸本にはある。
【宣長の注釈】「帰来」は、次の文章の「海を光らして依り来る神があった」の「依来」と同じである。「帰」を「寄る」の意味で使った例は、中巻の初めの「喚帰〔呼び寄せる〕」、『日本書紀』垂仁天皇の巻の「重浪帰国〔波が重なって寄せる国〕」、『万葉集』巻三の「樹爾伐帰都〔船材となる木として、切り寄せた〕」など、このほかにもある。
【宣長の注釈】「所従之諸神」は、「みとものかみたち」と訓むべきである。大国主神に付き従う神々である。
【宣長の注釈】「多邇且久」の「且」は、諸本すべて同じだが、この字を仮名として使った例は、『古事記』はもちろん、ほかの古書にも一切ないので、確かに書き写しの誤りであり、「具」なのだろう。そういうのは、『万葉集』巻五に「ヒキガエルの、はい渡る果てまで」、巻六にも「ヒキガエルの、はい渡る果てまで」とあり、『月次祭』の祝詞にも、同じ言葉があり、『祈年祭』の祝詞にも、「ヒキガエルの、はい渡る果てまで」とあるためである。これはヒキガエルのことである。祝詞の「蟆」は蝦蟇で、それは普通のカエルなので、ヒキガエルとは別のようだが、昔、通わせていったことは、漢籍にも多い。また今の祝詞の本は「蟆」を「かま」と訓むが、それは字音なので誤りである。師の「ぐく」という読みが正しいことは、『万葉集』と照らせば明らかだ。「ぐく」は鳴き声に由来する名で、「谷」というのは、物の隙間にいるためである。「くく」はカエル類の総称で、ヒキガエルを「たにぐく」というのか。この動物に不思議な力があることは、漢籍にも見え、世の人も知るとおりなので、ここでの話も理由がありそうに思える。
【宣長の注釈】『本朝文粋』所収の村上天皇の御製、古調の詩に、「また変わった姿の者がいて、名を最明という。野槌、誰が見分けられよう。カエルさえ、ひどく驚くほどだ」とある。この野槌と蝦蟆の対句の意味を考えると、その異様な者の姿が野槌やカエルに似ていて、「こんな者を誰が見分けられよう。見れば誰でも驚くだろう」という意味か。それとも、「野槌であっても、誰がこの者を見分けられよう。カエルでも、これを見れば驚くだろう」という意味か。後の意味なら、野槌やカエルを、物事をよく知り分けるものとしておっしゃっているので、ここに関係がある。そのために引いた。
【宣長の注釈】「久延毘古」の名の意味は、後で述べる。『延喜式』に、能登国能登郡の久氏比古神社がある。「氏」は、もしや「延」の誤りではないか。『宗祇回国雑記』という本に、「能登国に到って……、くゑのやつという所で詠んだ歌。自分からつらい暮らしに慣れてしまったのだろうか。何度もの食事に、何を食べて暮らしているのか、くゑの里人は〔訳注:歌の後半の「何をくゑ」は、地名と「食え」を掛けたものとして、仮に解釈した〕」とあるのを見ると、いっそう「久氏」は「久延」の誤りかと思える。たとえ「氏」でも、「延」と同じ響きである。同じ郡に、宿那彦神像石神社という社も見える。
【宣長の注釈】「必」の字から下の九字は、旧刊本と、もう一つの本にはない。脱落したのである。今は真福寺本と延佳本に従った。
【宣長の注釈】「少名毘古那神」の「毘」は、濁音の「び」である。清音の「ひ」と読むのは誤りだ。名の意味について、「少名」は『日本書紀纂疏』に「体の姿が小さいことから名づけた」とあり、それもよいだろう。「すくなし」は、後世では「多い」の反対として、物の数にだけいうが、昔は「大きい」の反対として、小さいことにもいった。『万葉集』には「小彦名」とも書く。官職にも大小があり、大を「おほい」、少を「すない」という。さて、この神名の「すくな」は、ただ小さいという意味にも聞こえる。また「名」を添えて書くのは、「大名持」の「大名」に対するのか。そうなら、「すくなな」というべきところを縮めたのである。一般に、同じ音が重なる言葉では、一つを省く例が多い。中巻の息長帯日女命の御歌で「すくなみかみ」とお詠みになったのも、この神である。『万葉集』にもそう詠む。「毘古」も「那」も、例の美称である。『延喜式』には、越前国坂井郡に比古奈神社という社もある。また堺原の宮の天皇の御子に、少名日子建猪心命というお名があり、宿奈麻呂という人名もある。なお、この神のことは、あの帯日女命の御歌の箇所でも述べる。
【宣長の注釈】「白上」の「白」は、右に述べた事情を、しかじかと申し上げることである。「上」は、少名毘古那神を連れて高天原に参上し、御祖命のおもとに差し出すことをいう。後で御祖命が「これは確かに……」とおっしゃるのは、目の前にご覧になっての言葉だからだ。前の大蛇の段に、あの都牟刈の大刀を「天照大御神に白上した」とあるのと同じである。そこでも「上」は、その大刀を献上する意味である。普通、ただ話すことを「申し上げる」というのとは違う。「上」の語を軽く扱ってはいけない。
【宣長の注釈】「実」とは、「久延毘古がこう申し上げたのは、どうでしょうか」との問いを受けて、「確かにそのとおりだ」とおっしゃるのである。
【宣長の注釈】「自我手俣久岐斯」、私の指の間からくぐり抜けた、という語は、すでに前、伝の巻五、七十七葉に出た。ここの文章が「実我子也」「於子之中……子也」と、短い間に「子」を三度繰り返すのは、古い文章の特徴である。今の世で文章を書くつもりの人が、このように同じ言葉を重ねるのを拙いとして省くのは、かえって古い文体ではない。『日本書紀』にはこうある。「このとき、海の上で、突然人の声がしたので、驚いて捜したが、どこにも姿が見えなかった。しばらくして、小さな男が一人……潮の流れに乗って浮かんで来た。大己貴神はすぐに手のひらに載せてもてあそんだが、その男は跳び上がって、その頰にかみついた。そこで、その姿を不思議に思い、使いを遣わして天つ神に申し上げた。高皇産霊尊はこれを聞き、『私が生んだ子は、全部で千五百柱いる。その中で、一人、ひどくいたずらで、教え育てても従わず、指の間から漏れ落ちた子がいる。きっとその子だろう。かわいがって育てなさい』といった。これが少彦名命である」。「かわいがって育てなさい」という命令からすると、このときは、まだ幼くおいでになったのだろうか。
【宣長の注釈】「汝」と指しておっしゃるのは、このとき大国主神も一緒に参上しておいでになったのか。ただし、『日本書紀』のように使いであったとしても、このように命じることはあろう。
【宣長の注釈】「兄弟」は、ここも「あにおと」と訓むべきである。
【宣長の注釈】「作堅其国」とは、天地が初めて始まったとき、五柱の天つ神の命令で、伊邪那岐・伊邪那美の神に、「この漂っている国を整え、固めて完成させなさい」と、天の沼矛を授けた。その後、黄泉の段に、「私とあなたが造っていた国は、まだ造り終えていない……」とある、その未完成のところを造り固め、仕事を終えよ、という意味である。さて今、こうして少名毘古那神を添えて助けさせるのは、あの沼矛を授けたのと同じ趣旨であり、深い理由があるのだろう。「其国」とは、高天原から、この国を指していうお言葉である。前に引いた天つ神の命令で「是」といったのは、そのころは天と地の隔たりがまだ遠くなく、目の前に見えたためである。次には「此国」とあるのと、その使い分けを考えていただきたい。
【宣長の注釈】「作堅此」について、『日本書紀』に、「大己貴命と少彦名命は、力を合わせ、心を一つにして天下を整え造った……」とある。『出雲国風土記』には、「飯石郡多禰郷。天下をお造りになる大神、大穴持命と須久奈比古命が天下を巡ったとき、稲の種がここに落ちた。そのため多禰という」とある。『続日本後紀』巻十九の真福寺の僧の長歌には、「日の本の、大和の穴持命と、すくなひこなみかみが、見晴らしながら、国を固め、造られたその時から……」とある。『万葉集』巻七に、「大穴道と少御神が造られた妹背の山は、見るのもよい」、巻六に、「大汝、小彦名の神こそ、名をつけ始められたのだろう。名ばかりを名児山と名づけて……」、巻十八に、「大汝、すくなひこなの神代から、言い伝えて来たらしい……」とある。このように語り伝えたのも、すべて天下を造られた功績による。『万葉集』巻三には、「大汝、小彦名がいらっしゃったであろう志都の石室は、幾代を経ただろう」、同じ巻に、「はだすすき、久米の若子がいらっしゃった三穂の石室は、いくら見ても見飽きないことよ」とある。この二首は、三穂の石室と志都の石室を取り違えた歌である。その理由は下巻、穴穂の朝廷の段で詳しく述べた。久米の若子がいたのは、播磨の志都の石室である。この二柱の神がおいでになったのは、三穂の石室で、紀伊国にある。一般に、出雲と紀伊国には、共通することが多い。それは前に大屋毘古神の所で述べたとおりなので、この三穂も、出雲の美保から移った名で、由来があったのだろう。後に引く『伯耆国風土記』の粟島についても、紀伊国名草郡の加太神社を粟島ということが、また関係がありそうに思える。
【宣長の注釈】「然後者」は、すでに国を造り終わった後、というように聞こえるが、次の文章に、「大国主神が心配して、私一人でどうしてこの国を造ることができようか、といった」とあるのを見ると、そうではない。なお造っている最中のことであって、初めのうちは二柱が協力して造っていたが、後のほうになっては、という意味である。
【宣長の注釈】「常世国」。おおよそ上代に「とこよ」という意味は三つある。一つ目は、常世の長鳴鳥、常世思兼神などの「とこよ」である。これは「常夜」の意味だということは、前、伝の巻八、二十二葉で述べた。二つ目は、下巻、大長谷天皇の御歌の「舞をする乙女よ、いつまでもいてほしい」、『日本書紀』垂仁天皇の巻の「伊勢国は、いつも波が重なり寄せる国である」、顕宗天皇の巻の新室を祝う詞の「手を打ち鳴らして、お祝いください。わが世が、末永く続くようにと」、『万葉集』巻一の「わが国は永遠に栄えるだろう」、これらである。これは字のとおり、永遠に変わらないことをいう。三つ目は、ここでいう「常世国」である。この三つは言葉が同じでも、それぞれ意味が違い、互いに関係しない。三つを同じ意味と考えるのは、同じ文字に惑わされ、深く考えないからである。言葉の音が同じであるまま、文字を通わせ借りて「常世」と書くのである。
【宣長の注釈】さて「常世国」とは、そう名づけられた一つの国がある、というのではない。どの方角でも、この日本から遠く隔たり、容易には行き来できない所を広くいう名である。「常世」は音を借りた字なので、名の意味は、「底に寄った国」、すなわち遠い果ての国であって、ただ、きわめて遠い国ということである。昔「そこ」を「とこ」と音を通わせていったこと、また「そこ」は下だけでなく、四方上下のどこでも、遠く行き着いた果てをいうこと、また『万葉集』の「空の雲のように、はるかに隔たった、果ての地は、遠いけれども」などの「そきへ」も同じ語だということなどは、天之常立神の所、伝の巻三、二十九葉で詳しく述べたとおりである。考え合わせていただきたい。上代で「常世国」というのは、すべてこの意味を出ない。本巻末の「御毛沼命は、波の穂を跳び、常世国に渡っていった」、中巻、玉垣の宮の段の「多遅麻毛理を常世国に遣わし、季節にかかわらず香る木の実を、求めさせた」、また普通に歌で雁が帰って行く所をいうなど、すべてこの意味である。
【宣長の注釈】また後には、人が死ぬことを「常世国に行く」といったこともある。これは、きわめて遠い所で、便りもなく、行き来もできないという意味で、右の意味から転じたものである。『万葉集』巻四の「常世に、私が行くわけではないのに……」、巻九の「遠い国、黄泉の境に……」、『日本書紀』の大長谷天皇の遺言の「病が長引き、ついに最期に至ろうとは思わなかった」などが、その意味である。「大漸」を、「とこつくに〔遠い国〕」と読むのは、字の意味には合わないが、訓読の意味は、崩御して、常世国においでになるだろう、ということである。
【宣長の注釈】また、人も何も、永遠に変わらず死なず、何もかもすばらしい国を、「常世国」ということもある。これは、漢籍の話に従うことの多い時代になって、中国でいう蓬莱などの説から、日本で昔からいう遠い国の、その名を借りたのである。あの蓬莱などという所も、海の道をはるかに隔てた、たどり着きにくい所というので、日本の常世国によく似ている。しかも、永遠に変わらないことも「とこよ」というので、名前まで一致する。そのため、あれこれを結びつけたのである。ところが後世の人が、ただ「常世」と書く文字にこだわり、中国の蓬莱などのことばかり考え、上代の意味を深く考えないために、「不変・不死」が常世国の本来の意味だと思い込んでいるのは、誤りである。
【宣長の注釈】不変・不死の意味でいうのは、『万葉集』巻四の「わが妻は、常世国に住んでいるらしい。昔見たときより、いっそう若返っている」、巻五の「常世国の海人の乙女なのか」、巻九の、水江の浦島の子を詠む歌の「常世に至り……。老いもせず、死にもせず、永遠に生きられたものを……」、これらである。『日本書紀』雄略天皇の巻に、この浦島の子の話を記すのは疑わしい上、「蓬莱山に至った」と書くのは、あの書の癖として、何事にも中国をまねたためである。決してこの文章などに惑わされ、常世国を蓬莱のことだと取り違えてはいけない。また垂仁天皇の巻で、田道間守の言葉に、「この常世国は、神仙の隠れた場所で……」とあるのも、後世の漢籍の蓬莱などを考えて書き加えた、飾り立てた文章であり、まったく上代の言葉ではない。『日本書紀』では、このような文章のために、古い意味を失ったことが、数知れず多い。
【宣長の注釈】『日本書紀』には、「その後、少彦名命は熊野の御碕に行き、ついに常世郷に向かった。またいうには、淡島に至り、粟の茎によじ登ると、はじき飛ばされて、常世郷に至った」とある。『伯耆国風土記』には、「相見郡の郡役所の北西に余戸里があり、そこに粟島がある。少日子命が、粟をまくと、実がよく実った。そこで、粟に乗ると、はじき飛ばされて常世国に渡った。それで粟島という」とある。『三代実録』巻三十七には、石見国の常世国社の神と見える。また『文徳実録』巻八には、こういうこともある。「斉衡三年十二月、庚午を初日とする月の戊戌の日、常陸国が報告した。鹿島郡の大洗磯前に、神が新たに降りた。初め、郡の民で海水を煮て塩を作る者がいた。夜中に海を見ると、光が天に届いていた。翌日、二つの不思議な石が水辺に現れていて、高さはそれぞれ一尺ほどだった。その形は神が造ったもので、人の世の石ではなかった。塩作りの老人は、ひそかに不思議に思って去った。その一日後には、二十余りの小石も、その石の左右にあって、まるでそばに控えて座るようだった。色彩は普通でなく、あるものは僧の姿で、ただ耳と目がなかった。そのとき神が人に憑いて、『われらは、大奈母知と、少比古奈命である。昔、この国を造り終えて、東の海へ去った。今、民を救うため、再び帰って来た』といった」。
【宣長の注釈】同じ書の天安元年八月に、「常陸国にある大洗磯前、酒列磯前の神々を、官社に加えた」とあるのは、右の神の石を祀る社だろう。同年十月には、この二柱の神を「薬師菩薩名神」と呼んだことも見える。『延喜式』では、両社とも「名神大」とある。酒列磯前は那賀郡に属する。谷川氏は、「薬師は、くすし、と訓むべきで、医者の意味である。薬師と呼ぶため、菩薩という呼び名もあるのだろう」という。
【宣長の注釈】さて、右にいったとおり、常世国は、どこでも、遠く海を渡って行く国をいうので、日本の外では、あらゆる国が常世国である。少名毘古那神は、親である神産巣日神の指の間から抜け出てしまった神で、この段の文章によれば、その行方もお知りにならなかった様子である。それは、この葦原中国には下らず、外国に去って行ったためである。「くき」には「漏」の字を書き、『日本書紀』の「漏墮」の「墮」も、その意味で書かれている。前の大穴牟遅神の話に、「木の股から抜け出して逃げ去った」とあるのも、考えていただきたい。さて、この段で海から寄って来るのは、外国から渡って来るのであり、「常世国に渡った」というのは、再び外国にお帰りになったのである。息長帯比売命の御歌に「常世にいらっしゃる」とあるので、後まで外国にお鎮まりになっている。つまり、この神は、初め高天原で、御祖命の指の間から抜け出して下って以来、長く外国においでになる神で、その間、しばらく日本に渡って来られたことがあったのである。
【宣長の注釈】この事情に基づいて、今、つくづく考えると、外国、すなわち三韓、中国、インド、そのほか四方のすべての国は、もともと皆、この神がお造りになり、固めて完成なさったものなのだろう。外国の始まりは、皆、『日本書紀』の「潮の泡が凝り固まってできたもの」という、その中に含まれるのだろう。このことは、すでに伝の巻五で述べた。その後、少名毘古那神が下って、どの国もすべて整え造られたのだろう。時の早い遅い、優劣などの違いはあっても、この神がお造りになった中から漏れた国は、あるはずがない。これを人の世の寿命の長さで計ると、各国をこの神が造ったというのでは時代が合わない、と思う人があろうが、そうではない。神代の寿命や年月は、とても長かったので、この神などは、中国でいう伏羲などより、はるか以前なのである。どの国も、これに準じて考え、疑うべきではない。また須佐之男命が新羅国に下ったことはあるが、それはまだ国が整え造られる前のころだったのだろう。
【宣長の注釈】外国には、神代の正しい伝承がないので、少名毘古那神が天から下り、国をお造りになったことを、わずかにも知らない国もあろう。また各国の言葉のまま、違うお名前で、かすかに、なまり伝えた国もあろう。またその神霊を、後世まで崇め祀る社のある国もあろうが、それも別のお名前だろうから、いずれにしても、どの国でも、正しいことを知らずにいるのである。そもそも、今こういう話を聞く人は、どう思うだろう。千年以上にもわたり、外国の説ばかりを聞き慣れ、心の底まで染まった世の人々なので、おおむね、信じる人も、めったにないだろう。そういう者たちはともかく、日本のことを学ぼうとする人は、このことを、よく心得ておくべきである。
【宣長の注釈】こうして後世になり、外国から、さまざまな物事が渡って来て、それを使うことが多いのは、神代にこの神が外国からしばらく渡って来て、大穴牟遅神を助け、力を合わせて国を造り上げた事情と、まったく一致している。たいへん深い道理のあることなのだろう。それで、外国から渡って来る物事には、日本の助けとなり、宝となるものもあるが、害となることも多い。これも、そうなるべき事情なのである。少名毘古那神は、『日本書紀』で御祖命が、「一人、ひどく悪く、教え育てても従わない子がいる」とおっしゃった、初めは悪い神であったので、もっぱらこの神がお造りになった外国には、もとから悪いことが多いはずなのである。しかし、悪いものから善いものを生む道理も、また考えるべきである。
【宣長の注釈】「顕白」とは、誰も知らなかったことを、よく見知って、それを明らかに申し上げたことをいう。後にも、「ここで前に立ち、お仕えする猿田毘古大神には、もっぱら、その正体を明かして申した、あなたが、お返しをしなさい」とある。
【宣長の注釈】「山田之曾富騰」。この文章を考えると、その当時「久延毘古」といったのは、今の世に至るまで「山の田のそほど」として存在する、これなのだ、という意味である。つまり、久延毘古は、そのまま「そほど」なのである。「そほど」は、後世の歌で「そほづ」と詠むもので、清輔朝臣の『奥義抄』に、「田で、鳥などを驚かすために立てる人形である」とある。師が「山田」を地名だろうといったのは、「曾富騰」を、そこに鎮座する神の名と見たのだろう。しかし、この言葉づかいをよく考えると、そうは聞こえない。普通の神の名なら、「山田にいます曾富騰神」などとあるはずだ。また、ある説で、後の歌に詠まれた「山田のそほづ」というものは、ここに「足は歩かない」とあるため、この神の名を取って、なぞらえて名づけたのだ、というのもよくない。
【宣長の注釈】『古今集』には、「山の田のそほづよ、おまえまでもが、私を欲しいというとは、困ったことだ」。『後撰集』には、「明け暮れ守る、頼みの田の実を枯らせながら、袖を濡らし、そほづのような身となってしまった」。『拾遺集』の長歌には、「小山田を人に任せ、私はただ、袖を濡らす、そほづの身となって……」。曾禰好忠の歌集には、「山田を守るそほづよ、もう物思いするな。舟の屋形から、帆先〔稲の穂先にも掛ける〕が、見えるようだ」などと詠む。『続古今集』の僧都立賓の歌に、「山田を守るそほづの身こそ、しみじみ気の毒である。秋が終わると、訪ねる人もない」とある。この歌のために、「そほづ」は僧都から名づけたものだと考えるのは、昔のことを調べない誤りである。
【宣長の注釈】名の意味について、ある人は、雨露に濡れ、びしょ濡れで立つということだという。「添水」の意味だなどという説は、論じるにも及ばない。今、考えるに、「そほづ」というのは後のことで、本来は「そほど」なのだから、「そほぢ人」、濡れた人、という意味なのか。「ぢひと」を縮めると「ど」になる。「そほぢ」という語は、『日本書紀』武烈天皇の巻の影媛の歌に、「泣きそほぢ」と見える。後の歌にも多い。「山田」は山の田である。下巻、軽太子の御歌に「山田をつくり」と見える。久延毘古という名も、長い間、雨露に打たれ、風に吹き破られるなどして、体が壊れ傷んだ意味なのだろうか。「くづれ」を「くえ」というのは古語である。『万葉集』巻十四に「岩くえの」、巻三に「川岸の、妻が悔いるだろう」――川岸が崩れる「くゆ」に掛ける――、『日本書紀』仁徳天皇の巻の歌に「いはくひの」――岩崩れである――などとある。
【宣長の注釈】「此神者……」。昔は、鳥や獣はもちろん、それ以外のさまざまな物まで、不思議な力があれば、皆「神」といった例があるので、ここで、このそほどを神というのも、怪しむべきことではない。「神」とあるため、山田の鳥よけではあるまい、と疑う人もあろうが、「所謂」という語を置くことからも、普通の神ではないことは明らかである。
【宣長の注釈】「足雖不行」は、作って立てたままで、どこにも動かないことをいう。
【宣長の注釈】「尽知天下之事」、天下のことをすべて知っている、というのは、どういう理由か推し量れないが、あえていうならば、まず『日本書紀』のこの段を考えると、大穴牟遅神が、ご自分の大きな功績を誇っておいでになる様子が見える。しかし、ご自分一柱の力では、仕事を終えることが難しかった。一方、この山田のそほどは、ただ人の形をしているというだけで、人の仕事もできず、足も歩けず、その姿も、きわめて醜く卑しげなものの極みである。ところが、まさにこの物が天下のことをすべて知り、今、少名毘古那神の正体を明らかに申し上げたため、その神と協力して、大きな仕事を成し終えたのである。だから、自分に大きな功績があっても、必ずしも誇ることはできず、また姿が見苦しく、身分の低い者でも、必ずしも侮って捨てることはできない、という意味なのだろうか。「足は歩かない」というのは、座ったままで天下のことを知る、という意味はもちろん、大穴牟遅神が天下を巡り歩くことに、対照させる意味もあろう。
【宣長の注釈】この久延毘古の古い伝えを読んでも、わが古伝が、漢籍の理屈をこねた話とは、はるかに違い、素直で安らかだったことが分かり、たいへん尊い。『日本書紀』が、この類の古伝を捨て省いたのは、中国的な考えから遠かったためだろう。
【古事記本文】そこで、大国主神は心配して、「私一人で、どうしてこの国を造れるだろうか。どの神となら、力を合わせて、この国を造れるだろう」といった。このとき、海を光らせて寄って来る神があった。その神は、「私をよく祀ってくれるなら、私は共に力を合わせ、国を造り上げよう。そうしなければ、国を完成させるのは難しいだろう」といった。そこで大国主神が、「では、どのようにお祀りすればよいか」と尋ねると、「私を、倭の青々と山々に囲まれた、その東の山の上にお祀りしなさい」と答えた。これが、御諸の山の上にいる神である。
【宣長の注釈】「愁而」、心配して、というのは、少名毘古那神が常世国に渡って行かれたためである。
【宣長の注釈】「独」は「ひとりして」と訓むべきである。『万葉集』巻三に、「旅にいるので、一人きりで、見知った人もいないため」とある。契沖がこれを「ひとりゐて」と読むべきだというのは、かえって古語を知らないのである。巻十二には、「結んだ紐を、私は一人では解かない。直接逢うまでは」、『古今集』には、「一人で物思いに沈んでいると……」とある。このほかにもあり、今の世でも、いつもこういう。
【宣長の注釈】「能得作」は「えつくらむ」、造ることができようか、と訓むべきである。「能」は別に読んではいけない。一般に「得」という語の用法は、漢文を読むときなら、例えば「得作」は「つくることをう」、「不得作」は「つくることをえず」と訓む。しかし日本語では、「不得作」は「えつくらず」といい、ほかも「不」があるときは、一般に「え……せず」という。だから、それに準じて、「得作」も一般に「えつくる」というべきである。それは聞き慣れない感じもするが、『万葉集』巻十に、「小舟が行き着いて、泊まれるだろうか」、巻十一に、「せめて顔を忘れることでもできようかと……」、巻十二に、「安倍島山の夕露の中、旅の宿りをできようか、この長い夜を」と詠む。この二つの「得為也」は、先の例では「することができるか」、後の例では「することができようか」という意味である。「えす」は「えせぬ」、できない、の反対である。今の俗語でも、「ようする」「ようせぬ」と対にしていう。その「ようする」は、「することができる」という意味で、「ようせぬ」を「えせぬ」ともいうのだから、「ようする」は「えする」である。
【宣長の注釈】「孰神与吾」は、文字に頼って訓むなら、「どの神が、私と共に」となるだろうが、事情の意味をよく考えると、そう訓むべきではない。「どの神と共に、私は」と訓むべきである。「耶」は読んではいけない。一般に漢文では、「孰・何・誰・幾」などの語の下に「乎・耶・哉」などを置き、それを「や」と読むのが普通だが、日本語では、どれ・何・誰・いくつ、などの類の語を結ぶのに、「や」とはいわない。平安時代ごろまでも、この規則に違うことはなかったが、近ごろの人はこれを知らず、歌にも文章にも、「どの神と共に造ろうや」という類が多いのは、漢文の訓読に耳が慣れているための誤りである。
【宣長の注釈】さて、この『古事記』では、右のように「心配して……」とあるのに、『日本書紀』では、「その後、国の中で未完成の所を、大己貴神が一人で巡り造った。ついに出雲国に至り、言葉を発して、『この葦原中国は……。今、私がこの国を治めるのは、ただ私一人だけである。私と共に天下を治められる者が、いるだろうか』といった」とあるのは、伝承の意味が違ったのだろうか。
【宣長の注釈】「是時」の下に「而」の字がある本は、誤りである。
【宣長の注釈】「光海……」。玉垣の宮の段にも、「肥長比売は、悲しみ、海原を光らせ、自ら船を追って来た」、『日本書紀』神代巻にも、「豊玉姫は、自ら大亀に乗り、妹の玉依姫を連れ、海を光らせてやって来た」などとある。さて、『日本書紀』によれば、この段も出雲国での出来事である。
【宣長の注釈】「我前」。古語では、神に「前」ということが多い。この巻末の天照大御神の命令に、「私を拝むように、お祀りしなさい」、また「思金神は、御前の務めを引き受けて取り仕切りなさい」、中巻、水垣の宮の段では、天皇の御夢に、大物主神が「私を祀らせるなら、神のたたりは起こらず……」と命じる。この例に従い、どれも「みまへ」と訓むべきである。同じ段に、「御諸山で、意富美和大神の前を拝み祭った」とあり、『龍田風神祭』の祝詞には、「龍田の立野に、小野に、私の宮を定め奉り、私の前を、言葉を尽くしてたたえるならば……」などとある。この中には、何の問題もなく、その神の前という意味に理解すればよいものもあるが、普通いう「前」の意味では、少し通じにくいものもある。そこで思うに、「前」は「座」と同じで、もともとその神の座る位置を指す言葉なのだろう。右に引いた文の「前事」が、それである。座る位置を指していうのが、そのままその神を指すので、「治我前」は、つまり「治我」、私を祀る、ということである。右の引用文を考えて知っていただきたい。平安時代ごろの言葉でも、身分の高い人を指して「おまへ」といった。今も「御前」というのと同じである。また中世には、婦人の名で「何々の前」「何々御前」と聞こえる。
【宣長の注釈】また、墨江の三前大神、伊豆志の八前大神などというのも、三座・八座というのと同じである。「座」は、神の座る位置で、その神の数を申し上げるのである。これも、平安時代ごろの物語文などで、身分の高い人を一人、二人といわず、一所、二所というのと同じ意味である。称徳天皇の紀の詔にも、「二所の天皇」とある。それは神だけでもなく、孝徳天皇の紀の詔に、「神の名、王の名を、かえって自分勝手な思いによって、みだりに人々や家々につける」とあり、その注に、「前々とは人々、処々とは家々というに等しい。むやみに人々の姓名を物や仕事につけることをいう」とあるので、人にもいったのである。「付」とは名につけることで、神の名や、昔の皇子たちの名を、むやみに人々の姓名につけるのである。
【宣長の注釈】また『神名帳』の初めに、「天神地祇、総計三千百三十二座。その内、社二千八百六十一か所、前二百七十一座」とあり、『四時祭式』に、「祈年祭で、案の上に供物を置く神、三百四座。その内、社百九十八か所、前百六座」、「案の上に供物を置かない祈年祭の神、四百三十三座。その内、社三百七十五か所、前五十八座」とある「前」も、神の数をいう。この「社」と「前」の区別を、よく考えて知っている人はいない。皆、当て推量の説ばかり作る。私が考えるには、「社」は、神の座の数にかかわらず、一社を一つとして、その数を合計して「社いくつ」とする。「前」は、二座以上の神社で、主となる神一座を除き、残りが何座あっても、それを「前」として、「前いくつ」とするのである。例えば三座を祀る社なら、主となる神一座を除き、残りの二座を、「前二座」と定める。主となる一座は、「社」の数に含まれるので、「前」の数には入れない。この決まりで数えると、右の『延喜式』の数字は、すべてよく合う。ただし宮中・京中の神は、神名を挙げたものを、それぞれ一社とする。例えば御巫〔みかんなぎ〕が祭る八座の神などは、それぞれ名を挙げるので、八社とする。ほかの、神名を挙げず「何々社、何座」とあるのは、すべて右の決まりである。「社」の数に入る神は、供え物が多く、「前」の神は、供え物が少ない。主となる神一座も、実は「前」だが、その社の主であるから社を指して申し、ほかの神は、その社の主でないので、神座を指して「前」と申す。だから「社」は何か所、「前」は何座といい、二つを総計しても何座と記す。『大神宮年中行事』の小朝熊宮の祭りの祝詞に続いて、「前皇神に、このように申し上げる」とあるのも、この社の六座から主の神を除いた残りの五座を「前皇神」というので、『延喜式』の規定と合う。今、物を分け与えるのに、一人前、二人前というのも、神社に分配する供え物から生まれた言葉なのだろう。
【宣長の注釈】「能治」の「能」は、よく、十分に、などの意味に聞こえるので、「よく」と訓むべきである。また、この前後の「独何能……」「与吾能相作……」「吾能共与……」などの「能」と同じく、軽く扱い、読まないのも誤りではなかろう。
【宣長の注釈】「治」とは、一般に、物を放っておかず、取り上げて、あり方に応じ、その物のためによく扱うことをいう。その中で、後の「私の住む所は……、高天原にまで屋根の木組みを高くそびえさせて、お建てくださるならば……」というのと、ここは同じで、宮を造り、清らかに祀ることを「治」という。その理由は後の文章で分かる。また「この御子を養育なさる事情によって……」、玉垣の宮の段の「天皇の御子と思うなら、お育てください」の、この二つの「治」は、同じく養育をいう。前者の「治養」の二字は、養い育てるという意味の「ひたす」とも訓むべきである。伝の巻十七、七十三葉。高津の宮の段に、「大后が強く反対するため、八田若郎女を宮に迎え、寵愛することができなかった」とあるのは、お心のままに宮に迎え、寵愛することもできなかったのを、「不治賜」といった。『続日本紀』の詔に、「心からお仕えする人には、その奉仕のあり方に応じて、品々を褒め授け、昇進させ、よく取り計らうものと仰せになる」とあるのを初め、「冠位を上げ授け、取り計らう」などと多くあるのは、官位を授け昇進させることを、「治めたまふ」という。右のさまざまな例は、事柄は違っても、意味はすべて同じである。「収・納・理・修」などの字を訓むときも、「をさむ」という言葉の意味はすべて同じだ。ほかに、国を治める、病を治める、乱れを治める、なども皆同じ意味である。
【宣長の注釈】「吾能共与」の「能」は、読んではいけない。「共与」は、師が「ともどもに」と訓んだのが、よい。『六帖』に、「一緒に、と思っていたのに、雁は、同じ里にさえ帰って来なかった」、『後撰集』に、「変わらぬ松の千年の長さよりも、一緒に、と、ただ恋い慕った」、その返歌に、「一緒に、と、恋い慕う涙の水は、どんな色に見えて流れて行くのだろう」とある。今も普通にいう語で、古語なのだろう。古語の中には、平安時代ごろの書物にはめったに見えないのに、かえって今の言葉に残っているものが多いのである。
【宣長の注釈】「難成」は「なりがてまし」、成し遂げるのは難しかろう、と訓むべきである。「まし」は「む」というのと同じである。「かて」の「か」は、『日本書紀』の歌によれば、濁らせるべきである。『日本書紀』崇神天皇の巻の歌の、「手渡しで運ぶなら、運ぶのは難しかろう」、『万葉集』巻二の「共寝をしなければ、ついには耐えられまい」、巻四の「この月ごろも、ここで過ごすのは耐え難かろう」、巻十一の「恋が増したら、耐えられようか」、巻四の「妻は恋いながら、眠り難かっただろう」などによる。『日本書紀』の歌の「たごし」の「こし」は、「こしかて」の意味である。「かて」は、「消えかて」「行きかて」などと同じで、難しいという意味である。また「かね」というのにも通じるように聞こえる。『万葉集』巻三の「別れかねて見よう」の「かね」に「不勝」と書くのと、右に引いた「かて」にも同じ字を書くことを、考えていただきたい。
【宣長の注釈】「かて」を「不勝」と書くのは、「たへず」という意味を取ったのだろう。「たへぬ」は、難しい、というのと同じ意味だからである。しかし、その「不」を省いて「勝」とだけ書くのは、少し理解しにくい。ただ、『万葉集』巻二に、「相手の心が分かりかねることよ」、また「寝つけないことよ」、巻七に「寝つけないのに」などがある。「かてぬ」は、「かて」の反対であるはずの言葉なのに、同じ意味に詠んでいる。文字も、「かて」にも「不勝」と書き、「かてぬ」にも「不勝」と書くのだから、「不勝」を「勝」とだけ書くのにも、理由があるのか。また「宿不難爾」は、言葉も文字も「眠るのが難しくない」と聞こえるが、やはり「いねかて」と同じで、眠り難いという意味である。つまり、これも「不」があってもなくても、同じ意味になるようだ。契沖は「かて」という語を、飽き足りない、という意味と見た。この説は、「かてむかも」、また「かてぬ」「かてなく」などには合うようだが、「かてまし」とあるのには合わない。
【宣長の注釈】「大国主神曰然者……」。この「然者」の前に、その神の名を尋ねる言葉、次に、それへの答えなどが、確かにあったのに、脱落したのである。その言葉がなければ、話が足りない。『日本書紀』には、「このとき神の光が海を照らし、突然浮かんで来る者があって、『私がいなければ、あなたはどうしてこの国を平定できよう。私がいたため、あなたは、国を大きく造り上げる功績を立てられたのだ』といった。大己貴神は、『では、あなたは誰か』と尋ねた。『私は、あなたの幸魂・奇魂である』と答えた。大己貴神は、『そうか。そこで、あなたが私の幸魂・奇魂だと分かった。今、どこに住みたいか』といった」とある。これに準じていうなら、『古事記』にも、「では、あなたはどの神か」「私は、あなたの、さきみたま・くしみたまである」などの文章があったのを、「大国主神曰然者」という七字が二度あるため、見誤って、上の文章を落としたのだろう。そういう例は普通にある。
【宣長の注釈】さて、幸魂も奇魂も、ともに和魂の名で、「幸」「奇」は、その働きをいう。二つの魂ではない。幸魂を荒魂、奇魂を和魂とするのは誤りである。理由は、もし二つの魂なら二柱の神として現れるはずなのに、今現れる神は一柱だからである。また、出雲国造の神賀詞でも、倭の大美和に祀るのは、この神の和魂と見える。後でその文を引いて詳しく述べるのを参照されたい。「幸魂」は、『日本書紀』で「さきみたま」といい、『私記』に、「幸いあらせる魂である」とある。字のとおり、その人を守り、幸せにするための名である。『日本書紀』神功皇后の巻に、「和魂は王のお体につき、寿命を守る」とあるのも、この意味だ。このことからも、「幸魂」というのも和魂の働きであると分かっていただきたい。「奇魂」も、『日本書紀』では「くしみたま」とあり、字のとおり、不思議で霊妙な力によって、あらゆることを知り分け、さまざまな仕事を成し遂げさせるための名である。『万葉集』巻五の「神々しくおいでになる、霊妙な玉」は、石をたたえて、不思議な御玉というのだから、魂のことではない。すぐ前に「美しい玉のような、二つの石」とあるのを見れば分かる。
【宣長の注釈】さて今、大国主神が、ご自分一人では、この国を造り終えられまいと心配なさるのは、『日本書紀』で、「この国を治めるのは、ただ私一人だ」と誇られるのも含め、荒御魂ばかりが先立ち、和御魂が乏しかったのである。そこで今、神産巣日神のお取り計らいで、別に、その和魂の姿を現し、このように示し教えさせるのである。あらゆる物事を成し遂げさせるのは、皆、この神の御霊である。こうして、この教えどおりに清らかに祀るため、和魂が十分に満ち栄え、ご自身を守り幸せにし、霊妙な力によって、ついに天下を造り終えさせる。そのため、これを幸魂・奇魂というのである。この幸魂・奇魂を、漢籍でいう魂魄に当てる説や、「幸」を「先」の意味とする説などは、すべて誤りである。また、ここの問答を、山崎氏などが自問自答だというのは、中国的な考えに溺れ、神の道を知らないのである。
【宣長の注釈】「治奉之状奈何」、どのようにお祀りするのか、と尋ねるのに、答えでは祭り方をどうとも教えず、ただ、ある所に祀れ、とだけ教える。それを考えると、前の「治我前」の「治」は、必ずしも社を建てて祀ることに限らないので、「どのように治めようか」と尋ね、答えとして、「治めるとは、その所に社を造り、祀れということだ」と教えるのだ、とも説明できそうである。しかし、神の前を治めるというのは、必ず祭祀をいう例なので、そうではあるまい。「どんなあり方か」というのには、「どの土地に社を造ろうか」と尋ねる意味が含まれるのだろう。祀り方のさまざまな手順は、普通、決まった式があるので、教えるまでもないのだろう。『日本書紀』では、この問いを「今、どこに住みたいか」としている。
【宣長の注釈】「吾者」は、「あれをばも」と訓むべきである。「も」は助詞で、『万葉集』に例がある。
【宣長の注釈】「青垣」は、青々とした山が国の垣となって周囲を巡ることをいう。『万葉集』巻一に、「名高い青垣山」、中巻、倭建命の御歌に、「青垣の山々に囲まれた、大和は美しい」、出雲国造の神賀詞に、「出雲国の、青垣の山の内に、地下の岩に、宮柱を太く立てて……」、同国の『風土記』には、「天下をお造りになる大神、大穴持命が命じていうには……。八雲立つ出雲国は、私が鎮まる国だ、と、青垣の山で巡らせて……」などと見える。「山」といわず「青垣」とだけいう例は、『万葉集』巻六の、「吉野の離宮は、幾重にも連なる青い山々に囲まれ……」である。さて、ここでは、垣ということに用はないが、ただ山を、普通に青垣と呼び習わしているため、こういったのか。また、あの国造の神賀詞に、「皇孫命の、すぐそばで守る神として献上し置いて」とある意味で、その鎮座しようとする所も、倭国を守る垣だという意味で、こういうこともあろう。
【宣長の注釈】「東山」。御諸山は、大和の国中の東側にあって、その山並みは本当に垣のようである。ただ、「東山」と命じたのは、漠然と東方の山という意味であって、その東の山々の中から、御諸山を選んで祀ったのだろう。また考えるに、東方の山という意味なら、「東の青垣山」とあるべきなのに、「青垣」を先に置き「東山」とあるのは、一つの山の名を指すようにも聞こえる。そこで調べると、『神名帳』の大神社の次に、神坐日向神社がある。大社で、月次祭と新嘗祭の幣帛を受け、貞観元年に従五位上を授けられたことが、『三代実録』に見える。この社は三輪山の峰にあって、今、高宮と呼ぶ、とある書物にいう。それなら、御諸山の古名は「日向山」だったのか。そうなら、この『古事記』に「東山」とあるのに従い、その神社の「日向」も「ひむかし」と読むべきである。古名が、たまたまこの神社に残ったのだ。日が昇る方を「ひむかし」というのも、そのまま「日の向かう方」の意味である。
【宣長の注釈】「山上」は、峰をいうことに限らず、また山の辺りという意味でもない。ただ「山」ということである。「山べ」というのも同じだ。ほかの「海べ」「岡べ」「野べ」なども、皆、ただ海・岡・野ということで、「辺」の意味ではない。
【宣長の注釈】「伊都岐奉」は、すでに前、伝の巻六、六十六葉に出た。「奉」は祭祀することで、ただ敬意を示すため添える「奉」ではない。ただし、祭祀も、尊ぶ言葉の「奉」も、言葉の意味は一つである。『日本書紀』には、「答えて、『私は日本国の三諸山に住みたい』といった。そこで、その所に宮を造り、移り住ませた。これが大三輪の神である」とある。
【宣長の注釈】さて、大国主神の和御魂が、大美和に鎮座する由来は、右のとおりである。一方、出雲国造の神賀詞には、天下の目に見える事柄を、皇孫命にお譲り申し上げる段で、「大穴持命が申し上げることには、皇御孫命が鎮まる大倭国と申し、自分の和魂を八咫鏡に託し、倭大物主櫛甕玉命と名を称え、大御和の神奈備にお鎮めになり……、皇孫命をおそばで守る神として献上し、八百丹杵築の宮に鎮まった」とある。この引用で「……」と略した所は、原書を開いて考えていただきたい。その御子たち三柱の神には、ただ「御魂」といい、自分自身には「和魂」といい、また杵築の宮に鎮まるとあるので、大美和は、別にその和魂なのだと分かる。「櫛甕玉命」というお名前は、奇魂をいうのだろう。『神名帳』には城上郡の狭井坐大神荒魂神社、『神祇令義解』には「狭井は、大神の荒御魂である」とある。これは、大美和が和魂であることに対して、大穴持神の荒魂と理解する人もいようか。しかしそうではなく、ただ大美和神の荒魂なのである。この意味をよく理解しなければ、混同してしまう。さて、この神賀詞は、伝えが違うように見えるが、そうではない。天下には国が多い中で、特に倭国に祀れとおっしゃるのは、後に皇御孫命、すなわち代々の天皇を、おそばで守る神になろうとするお心であったことが明らかである。それで、あの神賀詞は、その点を述べたのである。
【宣長の注釈】ある人が、『日本書紀』のこの段の注で、「大己貴命が、自分で自分の魂を斎い祀って、神としたのだ、と思うのは誤りである。三諸山に祀ったのは後のことだ」といったのは、かえって誤りである。もしその説のとおり、自分の魂を祀ることが間違いなら、どうして「清らかにお祀りしなさい」とおっしゃれよう。自分の勝手な理屈を第一にして、古伝を信じず、こういうことばかりいうのは、皆、神の道を知らないのである。『古事記』にも『日本書紀』にも、今ここで実際に祀った、とは書かれていないが、祀れといわれたのに、祀らず放っておくはずもないので、このときに祀ったことは疑いない。
【宣長の注釈】「御諸山」は、三輪山のことである。「三輪」という名の由来は、中巻、水垣の宮の段に見える。まず、「御諸」は「御室」で、一般に神の社をいう。「御」を、体の「身」の意味だなどという説は誤りである。下巻、朝倉の宮の天皇の御歌の、「神の社の、清らかなカシの木のもと」、「神の社に、築く立派な垣よ」、『万葉集』巻三の「わが家に、神を祀る社を建てて」、巻七の「木綿〔ゆう。樹皮の繊維で作る祭具〕を掛けて、祭る神の社の」などが、これである。さて三輪山を御諸山というのは、ここを初めに、中巻、水垣の宮の段や、『日本書紀』の同じ御代の巻などに見える。また継体天皇の巻の歌に、「三諸の山の上に、登り立ち」とあるのも、山とはいわないが、この山のことと聞こえる。『万葉集』巻二の「三諸の神の、神聖な杉」、巻七の「三諸の、その山並みに……」、また「「うまさけ」を枕詞とする三室山」、巻九の「三諸の神がおいでになる、泊瀬川」などと詠むのも、この山である。
【宣長の注釈】また、『日本書紀』雄略天皇の巻の「三諸岳」や、『万葉集』で「神名備の三諸山」「三諸の神名備山」などと詠むのは、雷山とも神岳ともいう所で、飛鳥の神がいた山であって、この山とは別である。今の本で「神岳」を「みわやま」と訓むのは誤りだ。また後世の歌で、竜田と組み合わせて詠む三室山は、古書には見えない。それは、『古今集』の「竜田川に紅葉が流れている。神名備の三室の山に、時雨が降っているらしい」という歌から始まった。この歌の竜田川は理解できない、ということを、契沖が詳しく論じておいた。しかし、この竜田川は大和国の竜田ではない。これについては、別の考えがある。おおむね、古書の三諸山まで、後世の人が取り違えて、竜田の辺りだと思うのは誤りである。
【宣長の注釈】さて、「御諸」は、右に述べたように、どこであっても神社のことなのに、この山に特にその名をつけるのは、この大神を格別に尊び崇めるためである。今、京で「祭り」といえば賀茂祭、「山」といえば日枝山というのと同じだ。この神社に鎮座するお名前を、大物主大神という。そのため、このお名前は、前に五つの名を挙げた所には出ず、白檮原の宮の段に「美和の大物主神」と、初めて見える。ほかにも、古書で美和社についていうときは、このお名前を申し上げる例である。『神名帳』には、大和国城上郡の大神大物主神社とある。名神大社で、月次祭・相嘗祭・新嘗祭の幣帛を受ける。嘉祥三年十月に正三位、仁寿元年十二月に従二位、貞観元年正月に従一位、同年二月に正一位を授けられた。『文徳実録』『三代実録』に見える。なお、この社については、中巻、水垣の宮の段、伝の巻二十三、五十三葉で詳しく述べる。
【古事記本文】さて、その大年神が、神活須毘神の娘の伊怒比売を妻として生んだ子は、大国御魂神、次に韓神、次に曾富理神、次に白日神、次に聖神の五柱である。また香用比売を妻として生んだ子は、大香山戸臣神、次に御年神の二柱である。「香用比売」の名は音を表す。また天知迦流美豆比売を妻として生んだ子は、奥津日子神、次に奥津比売命、またの名を大戸比売神という。この神は、人々が竈の神として拝む神である。「天」は「あめ」と訓み、「知」から下の六字は音を表す。次に大山咋神、またの名は山末之大主神である。この神は、近淡海国の日枝山にいて、また葛野の松尾にもおり、鳴鏑の矢を用いる神である。次に庭津日神、次に阿須波神、次に波比岐神、次に香山戸臣神、次に羽山戸神、次に庭高津日神、次に大土神、またの名は土之御祖神。以上、九柱である。「阿須波」「波比岐」の名は、それぞれ音を表す。ここまでの大年神の子は、大国御魂神から大土神まで、合わせて十六柱である。
【宣長の注釈】「大年神」は、前、伝の巻九、五十一葉に見える。ここでは、それを受けて「其」といったのである。
【宣長の注釈】「神活須毘神」。『旧事紀』には「神活」の二字がなく、「須沼比神」とある。それに従い、延佳がこの『古事記』にも「沼」を補ったのは誤りである。「須毘」の二字に字音を使いながら、その間に挟んで、「沼」の一字だけ訓を使うことはないはずなので、その字はないのがよい。あちらは、もともと「活」を「沼」と誤り、さらに上下を取り違えたのだろう。後の書物にも「須沼比神」というのは、『旧事紀』に従う誤りである。名の意味で、「活」は前の活津日子根命の注、「須毘」は熊野久須毘命の注、どちらも伝の巻七、五十七葉で述べたとおりである。師の説で、神祇官にいる八座の神のうち、生産日をこの神だとして「いくすび」と訓み、ほかの神産日・高御産日なども、すべてこの例で「かむすび・たかむすび・たらすび・たるすび」と訓んだのは、理解できない。鎌倉の中務卿親王が「多加牟須毘」と書かれたのは、昔のまま伝わったのだ、とおっしゃったが、それは例の、後世の音便による読みで、昔の正しい言葉ではない。ここにいう神が、たとえ、あの生産日であっても、「活須毘」とあるのは、たまたま「む」を省いたのだろう。これを例として、「産日」や「魂」などの「む」を省いて読むべきではない。また、この活須毘神を、ある書物で神魂神の御子だというのも、確かでない。
【宣長の注釈】「伊怒比売」。『出雲国風土記』に、「出雲郡伊努郷。国引きをした意美豆努命の御子、赤衾伊努意保須美比古佐倭気能命の社が、この郷の中にある。それで伊努という」とある。また秋鹿郡の伊農郷には、「出雲郡の伊農郷にいる、赤衾伊農意保須美比古佐和気能命の妻、天甕津日女命が、国を巡っていたとき、この所に着き、『伊農はや』、伊農だなあ、といった。それで伊努という」とあるので、出雲郡のほうが本来の場所だったのである。『神名帳』には、出雲郡の伊努神社、同社神魂伊豆乃売神社、同社神魂神社、同社比古佐和気神社がある。この伊努郷に由来するお名なのだろう。『和名抄』の今の本は「努」を「勢」と誤っている。右の神魂神社は、神活須毘ではないか。伊怒比売は、伊努神社なのではないか。また『神名帳』には、尾張国山田郡にも、伊奴神社がある。
【宣長の注釈】「大国御魂神」の名の意味は、前、伝の巻九、六十一葉に見える。そこで述べたように、どの神であっても、国を造り整えた功績のある神を、その国で、国魂とも大国魂とも申し上げ、拝み祀るのである。だから諸国に、「何々大国御玉神社」というものが多い。前に引いたとおりである。ところが、ここでは何国ともいわないのは、倭の大国御魂だからである。『旧事紀』で、この神の下に「大和神である」とするのは、古書にそう書かれていたことがあったのか、それとも推し量っていったのか。あの書は、根拠には信用し難い。この神は、大穴牟遅神を助け、特に倭国を整え造る功績があったのだろう。『出雲国風土記』の「大国魂命が天から降りて来たとき……」というのは、大穴牟遅命が天つ神の命令に従って天上に参上したとき、この神も一緒に上ったが、その後、帰って下った時をいうのだろう。こうして倭は、天皇がお住まいになる国となり、ほかとは違うので、国の名をいわず、ただ「大国御魂」と申し、また「大倭大神」とも申し、朝廷の尊崇も、特に重かったのである。また、大穴牟遅神も、『日本書紀』で「一名、大国玉神」、『古語拾遺』で「大国魂神」とあるのは、広く天下を整え造ったためである。お名が同じだからといって、混同してはいけない。大和大神も、大穴牟遅神だと理解する人があるのも、この混同による。
【宣長の注釈】さて、この神のことは、『日本書紀』崇神天皇の巻の六年に、「それ以前、天照大神と大和大国魂の二神を、ともに天皇の大殿の内に祀っていたが、その神威が恐ろしく、共に住むのが安らかでなかった。それで天照大神は……。また日本大国魂神は、渟名城入姫命に託して祀った。しかし渟名城入姫命は、髪が抜け、体がやせて、祀ることができなかった」とある。「和」は、「倭」を後に書き写し間違えたもので、『日本書紀』ができたときには、まだ「和」の字を使ったことはない。「日本」も、ここは一つの国としての倭の意味である。また「祭然」の「祭」の下には、その地名が脱落しているのだろう。さて、今の山城の京になって、皇女を賀茂大神の斎王に立てるのは、この渟名城入姫命の例と同じである。また七年に、夢のお告げによって、市磯長尾市を、この神を祭る主に定めたことが見える。
【宣長の注釈】また、垂仁天皇の巻の二十五年には、「このとき倭大神が、穂積臣の遠祖、大水口宿禰に憑いて教えた。『大いなる初めのときに、約束して、天照大神は天原をすべて治め、皇御孫尊は、もっぱら葦原中国の八十魂神を治め、私は自ら大地の役目を治める、とした……』。『官』とは、大地をつかさどり守る役職の意味である。天皇はこの言葉を聞き、中臣連の祖、探湯主に命じて、誰に大倭神を祭らせるか占わせた。すると渟名城稚姫命に占いが当たった。そこで渟名城稚姫命に命じ、穴磯邑に神の土地を定めて祀らせた。しかし、この渟名城稚姫命は、体がひどくやせて弱り、祭ることができなかった。そのため、大倭直の祖、長尾市宿禰に命じて祀らせた」とある。『神名帳』の、山辺郡大和坐大国魂神社三座が、この社である。すべて名神大社で、月次祭・相嘗祭・新嘗祭の幣帛を受ける。『和名抄』では、大和を「おほやまと」とし、この郷を城下郡に入れる。孝謙天皇の紀にも、城下郡の大和神山とある。二郡の境に近い所なので、このようにもあるのだ。嘉祥三年十月に従二位、貞観元年正月に従一位を授けられた。『文徳実録』『三代実録』に見える。『万葉集』巻五の遣唐使に贈る歌には、「天地の大御神たち、大和の大国魂よ。久方の天の御門から、天翔けり、見渡して……」と詠む。
【宣長の注釈】さて、この社は、今、新泉村という所にあり、大和大明神という、これである。『神名帳』の三座について、ある書物で、大宮は大国魂神、二宮は大年神、三宮は須沼比神などというのは、根拠があるのかは分からない。大宮・二宮は異論がないが、三宮を須沼比というのは、まず『旧事紀』に従ってお名を誤っている。しかも、母の伊怒比売を差し置き、母方の祖父を祀るのは、どうだろうか。この説は、後世の人の当て推量ではないか。また『延喜式』には、淡路国三原郡の大和大国魂神社、名神大社、とある。これは、どういう由来で、あの国にいるのか分からない。今の本には、下の「大」がないが、今は『臨時祭式』『文徳実録』などによって補った。
【宣長の注釈】「韓神」の名の意味は、まだ分からない。「韓」は音を借りた字か、意味どおりの字か、地名などなのか、それとも韓国に関係するのか、一切分かりにくい。『日本書紀』に、「素戔鳴尊は、子の五十猛神を連れ、新羅国に下り、曾尸茂梨という所にいた」とあるので、そのとき、この韓神も連れて行き、あの国で功績などがあったのか。曾尸茂梨と曾富理も似ている。しかし、あれは出雲国に下る以前のことなので、時が合わない。これは試みにいっただけである。
【宣長の注釈】「曾富理神」も、まだ意味が分からない。地名などなのか。『日本書紀』神代巻に、「日向の襲の、高千穂の添山の峰。添山を、ここでは、そほりのやまという」と見える。また神武天皇の巻には、大和国に層富県がある。ただし、これは添上・添下の二郡となった所と聞こえるので、「そふ」なのだろう。『和名抄』に「曾不」とあるからである。
【宣長の注釈】さて、『神名式』に、「宮内省にいる神三座」、いずれも名神大社で、月次祭・新嘗祭の幣帛を受ける、として、園神社と、韓神社二座がある。『儀式』には、園神は南、韓神は北にあると見える。毎年二月と十一月の丑の日に、園韓神祭として祭りをなさる。『延喜式』では、春は春日祭の後の丑の日、冬は新嘗祭の前の丑の日とある。その式は、『貞観儀式』『延喜四時祭式』『江家次第』などに見える。『朝野群載』には、この社の預である卜部宿禰兼宗が、社の修造を願い出た書類がある。『百錬抄』には、「大治二年二月十四日、園韓神社、神祇官の八神殿などが焼失した。園韓神の御神体を取り出した。ただし後日、兼俊宿禰がいうには、八神殿・園韓神には、もともと御神体はない。ただ、園韓神には、神宝の剣と鉾があるという」とある。
【宣長の注釈】また、神楽歌に「韓神」がある。その歌は、本歌が「三島の木綿〔ゆう。樹皮から取った祭祀用の繊維〕を肩に掛け、わが韓神を招く祈り「からをき」をしようか、からをき」。末歌が「八枚手〔やひらで。柏の葉で作った供え物用の器〕を手に持って、わが韓神を招く祈り「からをき」をしようか、からをき」である。「からをき」とは、韓の神を招いて祈ることか。『後拾遺集』には、資良朝臣が蔵人であったとき、園韓神祭の内侍を催促して、「お祓いはするが、この世の神には効き目がないので、あの韓神に祈ろう」といったのに、少将内侍が返事として、「近くの神を頼む禊さえ効き目がないのに、どうして遠く、あの韓神まで祈ろうか」と詠む。『弁内侍日記』には、建長三年十月十六日、新大納言実房が夜の当番に参上し、何気ない様子で「韓神」を適度な声で歌って出て行った、と少将の所から伝えたので、弁内侍が、「聞きたいものです。大和のものではない『からをき』の、身にしみる風を。秋でなくても」と詠み、少将内侍が返して、「大和のものではないけれど、『からをき』を、返す返すも、やはり忘れられません」と詠む。『体源抄』には、「私が思うに、『から荻』は枯れた荻か。清暑堂の御神楽の試楽を摂関家で行うとき、人長が、枯れた荻の枝を持つことがある。これは秘伝である」といい、また『内侍所御神楽式』には、「韓神は素盞雄尊の子である。皇室の安泰を誓ったため、宮中で祀る……。からをきは、座を置くことである」とある。枯れた荻や、座を置くという説は、すべて誤りである。
【宣長の注釈】そもそも、この神を、このように崇め祭る由来は、『江家次第』の頭注に、「園韓神の口伝では、この神は延暦以前から、ここにいた。遷都のとき、造宮使がほかの所へ移そうとしたが、神託に、『なお、この所にいて、帝王をお守りする……』とあったので、宮内省に鎮座する」とある、これである。この由来は『古事談』にも見える。さて、いつも園韓神と一続きに申し習わすため、この曾富理神こそ園神なのだろうと、誰もが思うし、確かに、そうかもしれない。ただ、園神とは別でもあろうか。宮内省の神々は、古くから、たまたま二神が並んで鎮座していたため、遷都の後、いつも連ねて申すようになったのだろう。というのは、もしこの曾富理神なら、韓神の弟なので、韓・園という順のはずなのに、園・韓とし、祭礼も園を先にする。また、どの書物でもただ「園」とあり、「曾富理」といったことがなく、「その」と「そほり」に、言葉として通じる理由もないからである。延佳は「そほり」は「園祝」か、といったが、「祝」ということは神名に関係がない。もしかすると、韓神二座のうち一座が、曾富理神なのだろうか。なおよく調べるべきである。『延喜式』に、伊勢国度会郡の園相神社があり、ある書物で、これを「曾富理神・曾奈比比古命は大年神の子である」とするのは、「園相」の文字から、あの園神を結びつけた、例の当て推量だろう。
【宣長の注釈】「白日神」の「白」は「向」の誤りで、「むかひ」なのだろう。理由は、『延喜式』に、山城国乙訓郡の向神社が、大歳神社と並んで載り、この向神社は、大年神の御子の向日神を祀ると、どの説でも同じだからである。大年神の子に「向日神」というのは、どの古書にも見えない神なのに、そういうのは、かえって、古い伝承であることが明らかだ。この社に従五位下を授けたことは、『三代実録』の貞観元年正月の記事に見える。今、向日明神と申し、その所を向日町という。今は「むかふ」と唱えるが、昔は「むかひ」だったことは、「日」を添えて書くことでも分かる。『中務内侍日記』に、「向ひの明神が近く、いつも参るといっていた人を、思い出すと、しみじみ懐かしくて、『懐かしむ心を知っていたら、行く先を、向ひの神はどうご覧になるだろう』」とある。そのころまでも「むかひ」と唱えたのだ。その内侍は、弘安・正応ごろの人である。名の意味は、まだ分からない。もともと、その土地の名なのか。前の白日別の所、伝の巻五、十葉でも述べたことがある。『和名抄』には、対馬の下県郡にも向日郷がある。
【宣長の注釈】「聖神」の名の意味は、まだ分からない。「聖」は音を借りた字で、これも地名なのだろうか。師は、「ひじりというのは、日の神から継承する皇統でなければいわないので、この神の名は後世のことか」といった。これも議論がある。「ひじり」については、下巻、高津の宮の段の「聖帝」の所で論じる。『延喜式』に、和泉国和泉郡の聖神社がある。この神を祀るのだろう。この社は、貞観元年五月に官社に加えられ、同年八月に従四位下を授けられた。『三代実録』に見える。
【宣長の注釈】小さな注に「五神」とあるのは、伊怒比売が生んだ御子を見ていったのである。
【宣長の注釈】「香用比売」の「香」は「かが」と読むべきである。『旧事紀』に「賀用比売」と書くのは誤りだが、あるいは、後に「加」が脱落したのかもしれない。「香」を、この二音の仮名として使う例は、伊香色謎命と、伊香色雄、これらである。前者は『日本書紀』孝元天皇の巻に見え、『古事記』では伊迦賀色許売。後者は『日本書紀』崇神天皇の巻にも見え、『古事記』では伊迦賀色許男とある。また、香山・香城主などの「香」も、音を使い、「かぐ」「かご」の仮名としている。さて、名の意味は、容貌の美しさをたたえ、輝く、という意味か。『万葉集』巻六に「きらきらと輝く玉」、巻十一に、「灯の光の中で揺らめくように、あの人の笑顔の面影が見える」とあり、これらは「かがやく」を「かがよふ」と詠んだのである。
【宣長の注釈】「又娶」は、大年神が妻となさるのである。後の箇所も同じである。
【宣長の注釈】「大香山戸臣神」の「戸」は「と」、「臣」は「おみ」と訓むべきである。また「戸臣」の二字を「とみ」とも訓むべきだ。「山戸」は、山にある民の居場所で、いわゆる山里である。「戸」は音を借りた字で、「所」の意味である。漢籍で民家を「戸」というため、「と」と訓んでも家のことのように聞こえるが、それは文字に引かれた考えで、昔はそうではない。また「へ」は、上代ではただ竈のことで、それをそのまま民家の意味にいうのは、少し後のことである。だから、ここの「戸」を「へ」と訓むのもよくない。混同してはいけない。そうであれば、この神は、山里を開き、民が住む所を作った功績があったのだろうか。「香」の意味は、まだ分からない。母の名によるかとも思うが、次に母の違う弟神にも、同じ名があるので、そうではあるまい。あるいは、たたえる名で、これも輝くという意味か。「日照」などという例もあるからだ。「香山」を山の名と理解するのは誤りである。また、『延喜式』に、伊勢国多気郡の相鹿牟山神社があるのを、ある書物で、天児屋根命と大香山戸臣神だというのは、名が似ているための当て推量だろう。
【宣長の注釈】また、『万葉集』巻十四の上野の歌、「上野の美しい門に朝日が差す。まぶしいことだ、こうして見ていると」、この歌は、何かここに関係がありそうに聞こえる。師は「まぐはしまど」を「真桑島門」で、海峡のことだといったが、上野は海のない国なのだから、どうだろう。今考えると、「まど」は「真門」と聞こえる。そうなら、昔、門に日の光が差して輝くことを、語り習わした理由があるはずだ。また「日照鳥の御門」などとも詠む。そのため、香山戸は、「輝く真門」の意味かとも思うが、なお、どうなのだろうと感じる。「臣」は美しくたたえる名である。「臣」という呼び名の意味は、穴穂の宮の段の「臣連」の所、伝の巻四十、三十葉で述べる。「臣」という字の意味には、こだわってはいけない。
【宣長の注釈】「御年神」の名の意味は、大年と同じである。この神も、父の神と同じく、穀物のことで大きな功績がおありだったのだろう。『古語拾遺』には、この神が大地主神の田に、たたりを起こした古い話を記す。開いて見ていただきたい。大地主神は、どの神をいうのか。垂仁天皇の紀に、倭大国魂神が大地の役目を治めるとあるが、その神とも聞こえない。『神名帳』には、大和国葛上郡の葛木御歳神社、名神大社で、月次祭・新嘗祭の幣帛を受ける、とあり、高市郡にも大歳神社・御歳神社がある。『祈年祭』の祝詞に、「御年の皇神の前に、白馬・白猪・白鶏、さまざまな色の物を、取りそろえてお供えし……」、『四時祭式』の祈年祭の条に、「御歳社には、白馬・白猪・白鶏を、それぞれ一つ加える」とある。これは、右の葛上郡の御歳神社をいう。『古語拾遺』の、その古い話の末尾に、「これが今、神祇官が、白猪・白馬・白鶏で、御歳神を祭る由来である」とあるのが、それだ。さて、右の祝詞の前の文の、「御年の皇神たちの前に申し上げる」は、祈年祭にあずかる諸社を合わせていい、右に引いたのは、御年神一社をいう。その文章を開いて見分けていただきたい。『旧事紀』の「妹、高照光姫大神命は、倭国葛上郡の御歳神社にいる」というのは、『延喜式』で、鴨都波八重事代主命神社と、次に葛木御歳神社とを並べるため、事代主命の妹神を、当て推量で当てたものだ。例の根拠のない話であり、決して惑わされてはいけない。
【宣長の注釈】「天知迦流美豆比売」の「天知」は、「あめしる」と訓むべきである。注の「知」は、「迦」の誤りなのだろう。「迦から下の六字は音を表す」とあるべきなのを、「知」も字音で訓むべきだと思い、後の人が余計な考えで、注の「迦」を「知」に変えたのか。延佳が深く考えず、「六」を「七」にするべきだというのは、かえって誤りである。「知」も必ず字音で読むべきだ、という人もいる。名の意味は、まだ分からない。あるいは「天知」は、あの、天を飛ぶ雁などという意味で、地名の軽の枕詞に「あまとぶや」と置くのと同じ意味で、「迦流」は、大和国高市郡の軽に由来する名なのか。その枕詞については、下巻、軽太子の御歌の注で述べる。同じ郡に大歳神社があることも、関係する。そうなら「美豆」は、たたえる名で、みずみずしい、という意味なのだろう。また『万葉集』巻一には、「天まで届く日の宮の、その水こそは……」とある。これらは、皆、せめて試しに述べるだけである。
【宣長の注釈】「奥津日子神・奥津比売命」の「奥津」は、地名なのか。『古今集』には、貫之が和泉国にいたとき、大和から越えて来て詠み送った、藤原忠房の歌に、「あなたを思い、沖津の浜に鳴く鶴の……」とある。沖津の浜は、ある書物では和泉郡にあるといい、また日根郡にあるともいう。ここなのか。『和名抄』に、その国の和泉郡に軽部郷があることも、母の名に関係がある。大鳥郡には、大歳神社もある。また、和泉郡の積川神社も関係することは、波比岐神の注で見える。また駿河国にも、この地名がある。同国安倍郡には、大歳御祖神社もある。『延喜式』に、能登国鳳至郡の奥津比咩神社があるが、それは辺津比咩神社と並ぶので、この神ではあるまい。さて、ここで、この比売神にだけ「命」とあるのは、どうしてか。この段の前後の神々も、また前の段の、須佐之男命の子孫の神々も、すべて「何々神」とだけあり、「命」という例は、一柱も見えないのに。
【宣長の注釈】「大戸比売神」の「戸」は、濁音で「べ」と訓むべきである。「へ」は竈のことで、前の「黄泉戸喫」の下、伝の巻六、七葉で述べたとおりだ。さて、『和名抄』には、河内国河内郡に大戸郷があり、『姓氏録』の大戸首の所の、「昔、河内・和泉の二国の大戸村」というのは、この郷のことだろう。また越中国新川郡には大部郷があり、『万葉集』巻二十には、田口朝臣大戸という人名も見える。
【宣長の注釈】「諸人」は、『万葉集』巻五に「もろひと」、巻十八に「もろひと」とある。
【宣長の注釈】「以拝」は、「もちいつく」と訓むべきである。前の「阿曇連たちの祖先の神として祀る神である」「胸形君〔むなかたのきみ〕たちが祀る三前大神である」、中巻の「御上の祝が祀る天之御影神の……」「葦原色許男大神として祀る祝の……」などと、まったく同じ形だからである。「いつく」という語の説明は、すでに前、伝の巻六、六十六葉に出た。また、この巻末の「拝祭」も、「いつきまつる」と訓むべきことは、その箇所、伝の巻十五、三十葉で述べたとおりである。
【宣長の注釈】「竈神」の「竈」は、「かま」と訓むべきである。『和名抄』に、『四声字苑』を引いて「竈は、炊事をする所。和名、かま」とあるからだ。また『唐韻』を引いて、「窯は、瓦を焼く竈。抄に、かわらかま」といい、『新撰字鏡』では「窯、すゑかま〔土器を焼く窯〕」とする。今、俗に「釜」も「かま」というため、「竈」を「かま」というのは、釜から出た名だと思う人がいるが、そうではない。昔、釜を「かま」といったことはない。釜は「かなへ」、また「まろかなへ」と、『和名抄』に見える。取り違えてはいけない。ある人は、釜を「かま」というのは、朝鮮の言葉だといった。そうなのか。また、竈から転じた名でもあろう。また「かまど」というのは、「竈の所」の意味である。『万葉集』巻五に、「かまどには、火も起こさず」と詠む。『私記』で、「かまどは梵語である」というのは誤りである。また「へつひ」という名も古く、神楽の竈殿遊の歌に「立派なかまど〔とよへつひ〕」と見え、『枕草子』には「御へつひ」とある。「かま」と違いがあったのか、まだ分からない。
【宣長の注釈】また、俗に竈を「くど」というのは誤りである。『和名抄』に、『文字集略』を引いて、「窓は、竈の後ろに開けた穴。和名、くど」とあり、『竹取物語』に、「かまどを三重に囲み……、くどを開けて」とある。だから、昔の竈は、後ろに穴を開け、それを「くど」といったのである。さて、この「𫁑」の字は、字書に見えない。あるいは「窻」の誤りか。「窻」は「窗」と同じで、「竈の煙出しである」と注する。また『大膳式』に「窖神」というので、それと同じで、「窖」の誤りなのか。
【宣長の注釈】『延喜式』には、筑前国御笠郡の竈門神社、名神大社がある。藤原経衡の歌の前書きに、「かまどの明神」とあり、『新続古今集』に見える。『百錬抄』には「宰府の竈門宮」とあり、竈門山の歌は『拾遺集』に見える。紀伊国名草郡には竈山があり、竈山神社も『延喜式』に見える。これも、この神なのか。なお、白檮原の宮の段、伝の巻十八、四十二葉で述べた。
【宣長の注釈】さて、ここで竈神というのは、比古神・比売神の二柱を指すのか、それとも比売神一柱か、はっきりしない。『旧事紀』には、「この二神は」とあるが、例によって頼りにできない。もし二柱を指すなら、「この二柱の神は」とあるのが普通だ。また「大戸」という名も、比売神にだけあるので、竈神は、この一神だけをいうのか。しかし、なお決め難く思う。俗の言い伝えに、竈神は女神だというのは、漢籍にもそういうことがあるため出たのか、それとも昔からの伝えなのか。いずれにしても、人々に炊事を教えた功績のある神なのだろう。
【宣長の注釈】さて、『続日本紀』の天平三年正月に、「神祇官が奏上し、庭火と御竈を四季に祭ることを、永く通常の例とする」とある。『大膳職式』では、御膳神八座、高部神一座、竈神四座、窖神四座を挙げ、それぞれの祭りの供え物の品を載せ、「右の四祭の春の料は前記のとおり。秋もこれに準じる……」とあるので、毎年、春と秋に祭りがあったと見える。「窖」は、前に引いた『和名抄』の「𫁑」と同じと思われるので、「くど」と訓むべきである。しかし『四時祭式』には見えず、『臨時祭式』には、「御竈祭……」「御井および御竈祭……」「中宮の御竈祭……。東宮もこれに準じる」「竈が鳴るのを鎮める祭り……」などとある。これらは、『大膳式』に見えたものとは別である。
【宣長の注釈】『文徳実録』に、「斉衡二年十二月、大炊寮の大八島竈神、斎火武主比命、庭火皇神に、いずれも従五位下を授けた」、「天安元年四月、勅命があり、大炊寮の大八島竈、内膳司の忌火・庭火の神に、いずれも従五位下を授けた」とある。前の従五位下には疑いがある。『三代実録』には、「貞観元年正月、大炊寮の従五位下、大八島竈神八前、斎火武主比命神、内膳司の従五位下、庭火皇神などに、いずれも従五位上を授けた」とある。刊本で、この「大炊寮」を「大膳職」とするのは、脱落した文章があるのである。古い本には、「大膳職の従五位下、火雷神、大炊寮……」とある。『西宮記』には、「内膳の御竈をほかの所に移すこと。生絹で上を覆い、衛士八人で担ぐ。宮主が先に祓い清め、納言一人、弁・外記・史以下が徒歩で付き従う」と見える。『中右記』には、「内膳司の御竈神は三所である。一つは平野で、祭祀に奉仕する神である〔原文の「件美」二字の解釈は留保〕。一所の庭火は、日常の御飯に奉仕する神。一所の忌火は、十一月の新嘗と、六月の神今食の祭りに奉仕する神である」とある。『禁秘御抄』には、「竈神をほかの所に移すときは、中納言以下が付き従う。まさに霊妙な物であろう。女房はこれを忌まず、男性では、天皇以外はこの竈の湯で沐浴しない。四つ、五つは破損しているが、差し障りがあるため使っている。言い表しようのない物である」とある。『百錬抄』には、「宝治二年十月二十二日、内膳の建物が焼失し、御竈神が焼損した。二十四日、先ごろ御竈神が焼けたので、鋳直すべきかどうか、諸卿に問うた。十一月十九日、軒廊で占った。内膳の竈が焼損した件である。閏十二月二十二日、内膳の御竈を鋳直す日時を定め、来る二十八日とした」とある。これによれば、ご神体は、そのまま金属の竈だと聞こえる。このときのことは、なお『増鏡』の「煙の末々」の巻に詳しく見える。さて、右の『三代実録』の「八前」は、『大膳式』の竈神四座・窖神四座を合わせたものなのか。また、内膳司の竈神は、その竈そのものを神というのである。
【宣長の注釈】さて、竈神は、このように朝廷でもお祭りになり、昔から民間の人々まで、それぞれ祀ったことは、この『古事記』の文章でも分かる。『江家次第』の正月元日の四方拝の条、庶人の儀にも、竈神を拝むことが見える。『簠簋内伝』というものに、「丙・丁の日は、竈神を祭らない」とある。こういうことはいうにも及ばないが、これからも、昔、祭ったことが分かる。さて今の世に、三宝荒神などという、けがらわしい名で申すのは、たいへん嘆かわしいことである。
【宣長の注釈】「大山咋神・山末之大主神」。この二つの名の意味が、どういう理由なのか、まだ分からない。「山」は、ともに日枝山に由来する名なのか。前の「山」の字に上声を注するのは、「大山」と続くのではなく、「山咋」と続く名で、その読みの声調を示すのである。「咋」は、またの名の「大主」と同じ意味で、その山を領有している意味なのか。また「山末」は、麓を「山本」というのに対して、上の方である。『大祓』の祝詞には、「高い山の上、低い山の上」、『万葉集』巻十三には、「三諸は人の守る山。麓にはアシビの花が咲き、上の方は……」とある。『浜松中納言物語』には、「何を頼りに、こんなに生きる手立てにも困る山奥で、過ごせよう」とある。ただ、ここの「山末」は、地名なのかもしれない。『延喜式』に、伊勢国度会郡の山末神社がある。
【宣長の注釈】「近淡海国」。『和名抄』に、「近江、ちかつあふみ」とある。遠江に対して、「近淡海」とはいっても、昔も今も、普通はただ「あふみ」という。そこで師は、この『古事記』の「近」の字は、後の人が加えたのか、といった。
【宣長の注釈】「日枝山にいる」というのは、『神名式』の、近江国滋賀郡の日吉神社、名神大社、これである。『三代実録』には、「貞観元年正月、近江国の従二位勲一等、比叡神に正二位を授け、従五位下の小比叡神に従五位上を授けた」、「元慶四年五月、正三位勲一等の大比叡神に正一位、従五位上の小比叡神に従四位上を授けた」とある。『臨時祭式』にも「日吉神社一座」とあるので、『神名式』のものも一座である。つまり、これは大比叡神で、小比叡は『延喜式』にない神と見える。『小右記』に「比叡御社」とあり、『拾遺集』には、僧都実因が比叡の社で詠んだ歌、「祈り掛ける日枝の社のゆうだすきよ。草の垣の葉も、音を立てるのをやめて聞いておくれ」とある。さて後世には、比叡山といえば延暦寺のことと理解し、日吉を「ひよし」と唱えて、別のようになった。昔は「日吉」と書くのも「ひえ」で、「ひよし」といったことは一切ない。住吉も、昔は「すみのえ」で、「すみよし」といわなかったのと同じである。また、僧の最澄が、この山に仏寺を建て、この神まで、その寺の守り神のようにし、山王という名までつけたので、今では「ひよし」という名さえ隠れ、ただ山王とだけ申すようだ。また後世に日吉七社というのは、古書に見えない。それは、最澄が延暦寺を建てた時からの仕業と見える。『三代実録』『延喜式』などは、それより後でも、昔のことに従っている。
【宣長の注釈】さて、その七社の中で「大宮」というのが大山咋神かと思うが、そうではない。大宮は、最澄が大三輪神を祀るということが、後の書物に見える。それなら「二宮」というのが大山咋神で、小比叡神なのか、はっきりしない。ある書物に、「大宮は大比叡明神で、大物主神。二宮は小比叡明神で、国常立尊、地主権現と称する」とあるが、小比叡を国常立尊とするのは、大きな誤りである。これを地主権現ということを思えば、これが大山咋神なのか。さらに別に、中七社・下七社もあり、合わせて二十一社という。その下七社に山末社があり、その名は、ここのことに関係する。しかし、僧たちがどんなに好き勝手にしても、さすがに昔からこの山を治める神を、それほど末席に置くはずはない、と思われるので、上七社の中にはおいでになるのだろう。そもそも二十一社が皆、仏教の話ばかりで、本来中心となるはずの古い神社が、その中のどれだろうかと捜さねばならないほど、埋もれてしまったのは、たいへん嘆かわしいことである。この社について、後の書物には、さまざまな説が多いが、皆、延暦寺に関係する仏教めいたことばかりなので、採るに足りない。後世の書ではあるが、『公事根源』に、比叡山の神は松尾社と同体で、大山咋神である、と記し示したのは、古書に基づく、真実のことである。
【宣長の注釈】「葛野」は「かづの」と訓むべきで、中巻、明の宮の段の御歌に見える。『日本書紀』垂仁天皇の巻に、「ただ竹野媛は、姿が醜いため、故郷に返された。すると、返されたことを恥じ、葛野に着くと、自ら輿から身を投げて死んだ。それで、その土地を墮国と呼んだ。今いう弟国は、そのなまりである」とあるのを考えると、昔は乙訓郡の辺りまで含めて、広く葛野といったのである。『和名抄』には、山城国の郡、葛野を「かどの」とし、葛野郷も見える。「かづ」に「葛」を使うのは、「くづ」を「かづ」ともいったのであり、字音を取るのではない。後に「かどの」というのは、「かづ」が変化したのである。下総の葛飾は字音を取ったので、例が違う。
【宣長の注釈】「松尾」は、『神名式』の、山城国葛野郡、松尾神社二座、これである。いずれも名神大社で、月次祭・相嘗祭・新嘗祭の幣帛を受ける。この社は、昔から仏教の話が混じらないため、今まで、大山咋神だとはっきり伝え申し上げている。もう一座は、若山咋神とも、市杵島姫命とも申す。『続日本紀』に、「延暦三年十一月、松尾・乙訓の二神に従五位下を授けた。遷都のためである」とある。乙訓は、『延喜式』の乙訓郡、乙訓坐火雷神社である。遷都は、長岡の宮に移ることをいう。同五年十二月には、松尾神に従四位下を授けた。『日本紀略』には、「同十三年十月、鴨・松尾神の位を上げた。遷都のためである」とある。この遷都は、今の平安宮に移ることをいう。『続日本後紀』に、承和十二年五月、従四位上勲二等の松尾神に正四位下、同十四年七月に従三位を授け、『文徳実録』に、仁寿二年五月、正二位、『三代実録』に、貞観元年正月、従一位、同八年十一月、正一位を加えた、と見える。『江家次第』の「大宝元年、秦都理が、初めて神殿を造った」という「初めて」は、どうだろう。それより前にも、神殿がなかったはずはないので、そのとき、新しく美しく造り直したことをいうのか。『後拾遺集』には、一条院の御代に、初めて松尾への行幸があった際、歌うべき歌を作り申し上げた、源兼澄の歌、「神の宿る松尾山の木陰を見ると、今日こそ、千年の栄えの始まりなのだ」とある。
【宣長の注釈】「用鳴鏑神」。鳴鏑のことは、前、伝の巻十、四十葉に見える。さて、ここは、鳴鏑を使って祭ることと聞こえるが、それでは言葉が足りない。そのため師は、「鏑」の下に、「斎」か「祭」の字が脱落したのだろう、といった。しかし、『貞観儀式』『江家次第』などには、この社の祭儀が見え、供え物なども『延喜式』に載るが、矢のことは一切出てこない。そもそも、この『古事記』にそう記すほどの由来があるなら、必ず、その祭りで矢を使うはずである。また、『古事記』には「何々神は、何々の所にいる神である」という例が多いのに、祭りに使う物を挙げて、「……神である」という例は一つもない。『日本書紀』に、伊邪那美命のことを、紀伊国熊野の有馬村で、「花の時には、必ず花で祭り……」とあるのは、事情が違う。いずれにしても、ここの書き方はどうなのだろうと思う。そのため考えるに、「用」は、「成」か「化」などの誤りか。そうなら「鳴鏑になりませる神なり」、鳴鏑に姿を変えた神である、と訓むべきだ。または「丹」の誤りで、赤い鳴鏑、というのか。
【宣長の注釈】このようにいう理由は、『釈日本紀』に引く『山城国風土記』に、「賀茂建角身命は、丹波国の神野の神、伊可古夜日女を妻として、玉依日子、次に玉依日売を生んだ。玉依日売が、石川の瀬見小川で遊んでいたとき、赤く塗った矢が川上から流れ下った。そこで拾い取り、寝床のそばに置くと、妊娠して男の子を生んだ。その子が成人すると、母方の祖父の建角身命は、八尋〔やひろ〕の大きな家を造り、八つの戸を立て、八つの甕に酒を醸し、神々を集めて、七日七夜、宴をした。そして子に、『あなたの父と思う人に、この酒を飲ませなさい』といった。すると、すぐに酒杯を挙げて天に向かって祭り、屋根を突き抜け、天に昇った。そこで、母方の祖父の名により、可茂別雷命と名づけた。あの赤い矢は、乙訓郡の社にいる火雷命である」とあるためだ。また同じ書に、「秦氏の大赤帳では、戸上の矢は松尾大明神である。松尾大明神は大山咋神で、用鳴鑑水」とある。「大赤」は人の名か、書の名か。また「戸上の矢」は、あの赤い矢のことと聞こえる。「寝床のそばに置いた」とあるのを、「戸上」といったのか。また「鑑水」は「鏑也」の誤りなのか。これを考え合わせると、あの赤い矢は、そのままこの大山咋神が姿を変えたものなのである。それで今、「鳴鏑に成った神である」なのだろうか、といったのである。
【宣長の注釈】また、赤く塗ったとあるため、「丹」の字なのだろうかともいうのである。さて、『風土記』ではただ矢といい、ここでは鳴鏑とあるのは違うようだが、上代には鳴鏑をいうことが多いので、あの赤い矢もそれだったのだろう。また『風土記』には、その矢は乙訓の社にいるとあるので、松尾ではないようだが、『釈日本紀』に引く秦氏の書では松尾の神とある。それを合わせて考えると、松尾・乙訓ともに、この矢の霊を祀るのだろう。さて、その矢そのものを、松尾の御神体とするのか、乙訓の御神体とするのか、それは分からないが、どちらにしても、ともにその御霊を祭る以上は、矛盾しない。その上、この『古事記』には「乙訓にいる」とはいわず、「松尾にいる」とあるので、その矢は松尾にあると定めるべきである。また、ある書物が、この赤い矢を「大己貴命が姿を変えたもの」というのは、「大山咋神が姿を変えたもの」と伝えたのを、大己貴と間違えたのである。
【宣長の注釈】『鴨長明四季物語』というものには、「下鴨と申し上げるのも、大山咋の御神でおいでになり、松尾・日吉なども、皆、同じ神のお姿なのだろう」とある。『四季物語』は長明の作ではないのかもしれない。下鴨を大山咋神とするのは、ほかの書には見えない。ただし下鴨は、『延喜式』に賀茂御祖神社二座とあるので、あの赤い矢の霊と、玉依比売の二座なのだろうか。別雷命の父母であるため、御祖と申すのだろう。父であっても、赤い矢は、松尾・乙訓で主として祀るため、下鴨では、玉依日売を表に立てて祀るのだろう。上鴨は、別雷神社とあるので、あの別雷命だということに異論はない。ところが上下の賀茂社は、今の京になって、朝廷の尊崇が伊勢に次いで並ぶものがないため、あの別雷命ではあるまいと嫌い、あるいは秘事だといい、上は瓊瓊杵尊、下は神武天皇などと申すのが聞こえるのは、根拠のないことである。朝廷の尊崇が重いのは、都を守る神であるためであり、必ずしも、その神がもともと尊いか、卑しいかだけによるのではない。崇神天皇の御世、大倭大国御魂神も、皇女に祭らせた例を考え合わせていただきたい。また「皇大神」と申す呼び名のことでいうなどは、いよいよ俗な話である。『万葉集』や祝詞、『延喜式』などを見ていただきたい。
【宣長の注釈】「庭津日神」の名の意味は、前後の神々の類を考えると、「庭」は家の庭の意味であり、「日」は産霊の「ひ」、霊力なのだろう。前の竈神の注で引いた、『続日本紀』『文徳実録』『三代実録』などに出る庭火神は、この神のお名によったのだろう。「火」は音を借りた字で、必ずしも庭でたくかがり火のことではあるまい。後で『大嘗祭式』を引く所も考え合わせていただきたい。
【宣長の注釈】「阿須波神」の名の意味は、まだ分からない。しかし、あえていうなら、「足場」の意味なのか。「足」を「あす」というのは、後に引く地名の足羽などが、その例である。どこであっても、人が足を踏み立てる地を足場という。今も、足場がよい、悪い、などというのがそれである。「場」は「庭」の略で、大庭を「おほば」という類が多い。また「場」の字を「には」と訓むこともある。その中で、何かを行う土地を「何々場」という。「何々場」というときは音便で濁るが、もとは「には」の略なので、「は」と同じ語である。それで、この神名の「波」は、濁らせず「は」と唱える。この神は、人がどこかへ行くときも、いろいろな仕事をするときも、足を踏み立てる土地を守る神なので、家ごとに祀ったのか。この神のことは、なお次に述べる。
【宣長の注釈】「波比岐神」も、名の意味はまだ分からない。例によって、あえていうなら、「はひ入り君」の意味か。「い」は「ひ」の響きに含まれるため、初めから省き、さらに「り」と「み」を省いたのである。こういう活用の「り」を省く例も、「君」の「み」を省く例も、多い。『後撰集』春上には、通い住んだ人の家の前の柳を思いやった、躬恒の歌に、「妻の家の、はいりに植えた青柳に、今ごろ鳴いているだろう、鶯の声」とある。『堀川百首』にも、「柴の家の、はいりの庭にたくかがり火の、煙がうっとうしい、夏の夕暮れ」とある。これらを思うと、門から建物の中に入るまでの庭を、「はいり」といったのだ。古語だろう。「はひ入る」は、ただ歩いて入ることで、今でも「入る」を「はいる」という、これである。「はふ」は、わずかな距離を歩いて行くことだ。だから『源氏物語』などでは、家の中で、あちらからこちらへ来ることなどを、「はひ渡る」と、多くいう。須磨の浦と明石の浦の間を、ただ、はひ渡るほど、というのも、それぞれの巻に見えるが、たいへん近いという意味である。後世には、ただ虫などが進むことだけを「はふ」という。それも、虫などは、たいへん小さく、わずかな距離を、少しずつ歩くものだからいうのだろう。また人が、うつ伏せで、手足を使って進むのも「はふ」という。これも、遠くは行けないので、わずかな距離を行く意味からいうのである。そうなら、あの人の家の「はいり」も、門から建物までは遠くないため、その間を歩いて入る意味である。この神は、その、はいりの庭を守る神なのか。それで家ごとに祭ったのだろう。この「はいり」は、昔、相応の家では「大庭」といった、今いう玄関前の白洲などの所なので、家の庭の中でも中心となる所だから、特にその神がいるのだろう。
【宣長の注釈】さて、右の二神について、まず『祈年祭』の祝詞には、「座摩の御巫が、言葉を尽くしてたたえる皇神たちの前に申します。生井・栄井・津長井・阿須波・波比支と、お名前を申し上げ、たたえるのは、皇神が鎮まる地下の岩に、宮柱を太く立て、高天原に千木を高く掲げ、皇御孫命の瑞々しい御殿を造りお仕えして……」とある。『月次祭』の祝詞にも、これが見える。師の考えには、「座摩は、もとは摂津国西生郡の地名で、『延喜式』にも、同じ郡に同じ神の社がある。次の文の『皇神の敷坐す……』というのにも基づくと、昔からこの大神がいた所に、仁徳天皇が宮をお造りになり、宮中でお祀りになったので、その後、大和、山城と都を移しても、同じように移して祭り、そこを、そのまま座摩といったのだろう」とある。さて、右の五神のうち、前の三神は、井戸の神なのだろう。「座摩」というのも、井戸に関係する名と聞こえる。師は、「座摩の『座』は、『令集解』では『居』とも書くので、『ゐ』と訓むことは確かだ」という。「座」も「居」も「摩」も、皆、音を借りた字で、「井の後」という所の名だったのか。または、「井の堤」でもあろう。
【宣長の注釈】この神社は、『神名帳』の宮中の神三十六座のうち、「座摩巫が祭る神五座」、すべて大社で、月次祭・新嘗祭の幣帛を受ける、として、生井神・福井神・綱長井神・波比祇神・阿須波神とある、これである。貞観元年正月に、この五神に従四位上を授けたことが、『三代実録』に見える。『延喜式』の、和泉国和泉郡の積川神社五座も、この五神を祀ることが、その社記に見える、とある書物にいう。さて、阿須波・波比岐の二神が、昔から、このように井戸の神と同じ所に鎮座したのは、どちらも人の家の庭に関係する神だからなのだろう。
【宣長の注釈】また、『貞観儀式』『延喜大嘗祭式』などを調べると、悠紀・主基の二国で、それぞれ斎郡に「斎院」を構え、八神殿を建てて、御歳神・高御魂神・庭高津日神・大御食神・大宮女神・事代主神・阿須波神・波比伎神、この八柱を祀る。そもそも、この斎院は、神に供える稲の穂を抜くためなので、御年神・大御食神などを祀り、また、その庭を守るために庭高津日神を祀り、阿須波・波比岐の二神も、祭る理由があるのだろう。高御魂・大宮女・事代主などは、神祇官でも祀る神なので、異論はない。庭高津日は庭全体、波比伎は、その、はいりの大庭を守る神なのだろう。また、穂を抜いてから、京へ運ぶまでの、さまざまな仕事を行う足場を守るため、阿須波神も祭るのだろう。このことからも、二神の名の意味は、右のようなのかと思う。ある説で、この二神も竈神だというのは誤りだ。それは、前に、別に「竈神である」とあるではないか。また、あの斎郡の斎院は、ただ穂を抜くためだけで、炊事に関係しないので、竈神を祀る理由はない。また竈神だというのに基づき、「波比岐」は「灰木」の意味だ、などというのは、いっそう誤りだ。「灰木」などという言葉があるだろうか。
【宣長の注釈】『万葉集』巻二十の上総国の防人の歌に、「庭の中の、阿須波の神に、小柴を挿し、私は祈ろう、帰って来るまで」とある。『袖中抄』に、上総国に阿須波という神がいる、というのは誤りである。また「にはなか」を、その国の地名とする説もよくない。この歌に「庭の中の」と詠むことから、当時、民家の庭で、竈神などと共に、阿須波神も祀ったと分かる。この神を祭る以上、庭高津日神や波比岐神なども、同じように祭っただろう。中でも特に「阿須波の神に」と詠むのは、旅の無事を祈るためなのだろう。行く先々で、足を踏み立てる地を守るためである。これを竈神とするなら、旅行を祈る理由がない。さて、右の歌の末の二句を味わうと、その阿須波神は、自分の家のものではなく、旅先の宿々の家に祭る神を、祈りながら行こう、と詠むのである。だから、どの国でも、家ごとに祭ると分かる。ある書に、摂津国河辺郡の阿須波神の祠は、米谷村にあり、今は荒神という、とあるのも、この神を祀るのだろう。『万葉集』巻九には、河内に片足羽川があるが、これは「かたしはがは」で、今の本の訓みは誤っている。また『和名抄』では、備中国後月郡に、「足次、あすは」とあるが、これは「波」が「岐」の誤りである。
【宣長の注釈】越前国に足羽神社があることから、以前、こう考えたことがあった。あの座摩御巫が祭る五神は、もともと継体天皇が越前にいたとき、その国で特に崇めた神々を、即位した後、都でも祀ったことから伝わり、後の都々でも、同じように祭ったのか。あの福井神は、越前坂井郡の坂名井神社に対応し、また今「福井」という所もあり、綱長井も、同じ郡の都那高志神社と、名が似ているためである。そうなら、摂津国の座摩も、孝徳天皇が難波の宮にいたとき、あの五神を祀った跡だろう。この考えに従えば、阿須波は、もとは越前の地名から出た神名で、波比岐も同じように、地名で、その国にあった神社だろう、と考えた。しかし、やはりそうではなく、あちらの足羽社も、この阿須波神を祀るもの、と思うようになった。後にある書物を見ると、「越前の足羽の社記には、昔、男大迹天皇が、坂井郡三国の地にいて、そこに大宮の地の霊を鎮め祭った。そのため、それを足羽と呼び、地名とした、とある」という。この説は古い伝承と聞こえる。「大宮の地の霊を鎮め祭った」とは、この阿須波神を祭ったことをいうのである。
【宣長の注釈】「香山戸臣神」は、前の大香山戸臣神と、同じ功績のあった神なのだろう。それで、あちらは「大」といって区別するのである。
【宣長の注釈】「羽山戸神」の「羽」は「速」で、たたえる言葉である。「山」の「や」と重なるので、「や」を省いて「は」というのである。香山戸と同じ功績の神なのだろう。前には、羽山津見神というのもあり、「羽山」の字は同じだが、意味は違う。取り違えてはいけない。
【宣長の注釈】「庭高津日神」は、兄神に同じ名があり、その神と同じ功績によるお名である。ただ、こちらは、その功績が特に優れたため、弟であっても、「高」と申すのだろう。大嘗祭の斎郡の斎院に祭られることは、前に引いたとおりである。
【宣長の注釈】「大土神」は、特に、民が耕す田地など、土のことで功績のあった神である。だから「大」は「土」に掛かるのではなく、この神をたたえる言葉である。またの名も、意味は同じだ。『延喜式』に、伊勢国度会郡の大土御祖神社がある。ある書物では、この社を二座として、宇迦御魂神・土乃御祖神とする。またある書物には、これを山田原の地を守る神といい、素戔鳴尊の子というが、「子」を子孫の意味で考えれば、間違わない。『万葉集』巻十一に、「この大地の土を、すべて取り尽くしても……」とあるのは、「土」に掛かる「大」なので、こことは意味が違う。
【宣長の注釈】「九神」は、諸本とも、本文に続け、大きい字で書く。延佳本も大きい字で、「合わせて九神」とある。しかし、前の聖神の下の「五神」、御年神の下の「二柱」という注の例によれば、「幷」は、あってはいけない。また前の「伊邪那美命は、火神を生んだため、ついに神去った」の下の、「天鳥船から……、合わせて八神」も、一段の終わりで、小さな注にするので、その例と、この段の前の例などによって、ここも小さな注に改めた。あちらに「幷」があるのは、その段の途中の「何神」という注にも、すべて「幷」があるためである。ここは、途中の「五神」「二柱」の、どちらにもその字がないので、ないほうに従った。また師は、「九神」の「神」は、前の例によれば「柱」であろう、といったが、何柱とも何神ともいう例があるので、どちらでもよい。奥津日子神から大土神までは、合わせて十柱なのに「九神」とあるのは、数が違うようだが、理由がある。奥津日子・奥津比売を、一神として数えるのである。この例は、前の「神三十五神」の箇所、伝の巻五、六十一葉で詳しく論じた。延佳が、「九」は「十」にすべきだ、というのは、よく考えていないのである。
【宣長の注釈】「幷十六神」、合わせて十六神というこの数も、右と同じ数え方である。
【古事記本文】羽山戸神が、大気都比売神を妻として生んだ子は、若山咋神、次に若年神、次に妹の若沙那売神、次に弥豆麻岐神、次に夏高津日神、またの名は夏之売神、次に秋毘売神、次に久久年神、次に久久紀若室葛根神である。「気」から下の四字、「沙」から下の三字、「弥」から下の四字、「久久」の二字、「久久紀」の三字は、それぞれ音を表す。ここまでの羽山戸神の子は、若山咋神から若室葛根神まで、合わせて八柱の神である。
【宣長の注釈】「大気都比売」の名は、前、伝の巻五、五十三葉、巻九、八葉に見える。ここは、その神なのか、違うのか。もしその神なら、すでに須佐之男命に殺されたので、今は、その御霊を鎮め祀る社の神が、生きた女の姿に変わり、嫁いだのだろう。そういう例は多い。
【宣長の注釈】「若山咋神」は、伯父に大山咋神がいるので、こちらを「若」という。「大」と「若」を対にしてたたえる名は多い。名の意味は、あの神と同じである。さて、前に引いた『三代実録』の小比叡神は、この神などでもあろうか。なお、よく調べて定めるべきである。
【宣長の注釈】「若年神」も、祖父に大年神、伯父に御年神がいるため、「若」という。名の意味は、それらの神と同じである。
【宣長の注釈】「若沙那売神」の「若」は、例の美称である。「沙那」は地名か。後に「手力男神は佐那県にいる」とあり、これは『延喜式』の、伊勢国多気郡、佐那神社二座である。ある説が、その二座の一座を、この若沙那売神とするのは、名前からの当て推量ではないか。また『三代実録』には、「貞観十六年七月、伯耆国の正六位上、天乃佐奈咩神に従五位下を授けた」とある。
【宣長の注釈】「弥豆麻岐神」の名の意味は、まだ分からない。『神鳳鈔』には、安西郡の水巻の神田、一町、と見える。「安西」は、阿濃郡を東西に分けていうのである。また『源平盛衰記』には、越中国の住人、水巻四郎安高という人がいる。
【宣長の注釈】「夏高津日神・夏之売神」の名の意味は、まだ分からない。「高津日」は、庭高津日と同じ例なのだろう。
【宣長の注釈】「秋毘売神」も、まだ意味が分からない。『和名抄』には、筑前国宗像郡の秋郷がある。
【宣長の注釈】「久久年神」。『旧事紀』が、「久久」を「冬」とするのは、前の夏・秋という名の次なので、必ず冬だろうと思い、余計な考えで改めたので、かえって誤りである。「久久の二字は音を表す」という注があるので、動かせない。「くく」は、前の久久能智神の「くく」と同じで、茎であり、草木がすくすく伸びる様子をいう。今の俗語で、物が速く伸びるのを、くくと伸びる、というのがこれである。その箇所、伝の巻五、四十四葉の詳しい説明も考え合わせていただきたい。ここでは、稲が勢いよく伸びるというお名である。このお名から考えると、若年神と、それより下の五神の名を、一続きに説明する、別の考えもある。まず「若年」は、稲の苗が初めて生えたことをいう。ただし、この兄弟神に「若」が特に多いのは、別の意味があるのかもしれない。「沙那売」は、「さの女」、つまり田植えをする女、ということで、「さ」は田植えをすることである。前の「如狭蠅」の注、伝の巻七、二十二葉で詳しく述べた。「弥豆麻岐」は、田に水を行き渡らせることである。「夏」は「なりたつ」で、「り」を省き、「たつ」を縮めたもので、これも稲のことである。「秋」は「あかり」で、「かり」を縮めて「き」とし、これも稲が赤く色づくことをいう。赤らむことを「あかる」という例は多い。四季の秋も、もとはこの意味で、稲から出た名である。「夏」は暑い、「秋」は飽く、という説はよくない。ここに夏と秋の神名があって、春・冬がないことから考えても、稲に関係すると聞こえる。さて、右の六神は、必ずしも、それぞれ名のとおりの功績があったのではなく、どの神も、穀物のことで功績があったため、稲のさまざまなことを、お名前に割り当てて、おつけしたものなのだろう。
【宣長の注釈】「久久紀若室葛根神」。『旧事紀』が、ここの「久久」も「冬」とするのが誤りであることは、前と同じである。「久久」は前と同じで、「紀」は木だ。これは、建物にする材木が、長く立ち伸びたことをいう。「若室」は、『日本書紀』で宮をたたえて「日之少宮」という「少」と同じで、室も、たたえて「若」というのである。「日之少宮」は「檜若宮」で、「真木割る檜の板戸」「檜の御門」などと同じ類だ。古い説は、昔の意味ではない。それは、「みづがき」の「みづ」と同じ意味で、さらに師の『冠辞考』の「みづがき」の条に詳しく見える。「葛根」は「つなね」と訓むべきで、「葛」は綱である。その理由は、まず師の『冠辞考』の「いはつな」「つぬさはふ」の条に、「昔は、つぬ・つな・つたと、音を通わせていった。そのため、『つぬさはふ岩』は、蔦の這う石である。『石綱の、また若返る』と詠むのは、石の蔦が、這い広がっては、また這い返る、という意味のつながりである」とある。私が考えるに、「つた」を「つら」とも通わせていった。「つら」は、今いう蔓・葛のことである。これは伝の巻六、十九葉で詳しく述べた。さて今考えると、物を結び縛る綱にも、昔は多く、葛や藤の類を使ったため、「つな」というのだ。「まさきの綱」という植物のつるなどを考えていただきたい。だから、綱も、本来は蔦と同じなので、「葛」と書くのである。
【宣長の注釈】さて、『日本書紀』顕宗天皇の巻の、新室を祝う言葉の、「築き立てた、みずみずしい建物の綱根……」は、こことまったく同じである。今の本が「葛根」を「かづらね」と訓むのは誤りだ。また『大殿祭』の祝詞に、「この、お住まいになる大宮の地の、地下の岩の果て、下の綱根に、這う虫の災いもなく……」とあり、その注に、「古語では、縄を結んだ類を綱根という」と見える。また、あの新室を祝う言葉の注に、「縄や葛を結ぶことを取り上げるのは、この家長の寿命が堅固であることを祝うのである」などとある。たいへん古い時代の家造りは、どこも縄や葛で結び固めたものだったのである。その中で、「下つ綱根」とは、柱の根元や、床などの辺り、一般に下の方を結び固めた所をいう。そのため、宮室を祝う際も、まず右のように「葛根」をいう。『万葉集』巻十九に、「天には、たくさんの綱を張り、万代まで、国を治めようと、たくさんの綱を張る」とある、この「綱はふ」は、どのように詠んだのか、まだ考えを定め難い。『続日本紀』巻十九に、聖武天皇の母の諡を、「千尋葛藤高知天宮姫尊」と奉った。これも「葛藤」は、天の宮に関係する。これから考えると、右の『万葉集』も、「天」は、新嘗の宮の屋根を祝うのであって、同じことなのだろうか。そうなら、この神は、民の家造りのことで、功績があった神なのだろう。
【宣長の注釈】「上件……」。諸本すべてが、「戸神」の二字を落としているのを、延佳は「戸」の一字だけ補った。今、さらに「神」も補う。また「自若山咋神」の五字も脱落していたのを、延佳が補った。また「葛根神」の「神」も、諸本で落ちているのを、今、補った。そもそも、この所で、こんなに多くの字が落ちたのは、どういう理由か。延佳が補ったのは、もっともだった。しかし、真ん中の若山咋にだけ「神」を付け、前後の二神に、その字を補わないのは、どうしたことか。前の例を調べると、こういう所には、いずれも「神」がある。ただ、小さな注に、「……野椎まで、合わせて四神」という所があり、この野椎は、本文には「神」があるが、注にはない。また小さな注の、「天鳥船から……まで」という天鳥船は、本文にも「神」がない。これらは、ここの例としては採れない。だから今、二つとも補ったのである。
古事記伝 巻十三
本居宣長、謹んで著す。
神代 第十一巻
【古事記本文】天照大御神は、「豊葦原の、いつまでも稲の実る水穂の国は、私の御子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命が治める国である」とお任せになり、天から下りさせた。そこで天忍穂耳命は、天の浮橋にお立ちになり、「豊葦原の、いつまでも稲の実る水穂の国は、ひどく騒がしくしている」と告げ、再び天上に戻って、天照大御神に申し上げた。「多多志」の三字、「伊多久佐夜藝豆」の七字、「祁理」の二字は音を表す。以下も同じ扱いである。
【古事記本文】そこで、高御産巣日神と天照大御神の命令によって、天の安河の河原に、数多くの神々を集め、思金神に考えさせようと、こう命じた。「この葦原中国は、私の御子が治める国として、任せた国である。しかし、この国には、騒ぎ荒れる、国つ神たちが多くいると思う。どの神を遣わして、従わせようか」。思金神と、集まった神々は相談し、「天菩比神を遣わすのがよいでしょう」と申し上げた。そこで天菩比神を遣わしたが、その神は、大国主神に取り入って、三年たっても、報告をしなかった。
【宣長の注釈】「豊葦原」の「葦原」については、すでに前、伝の巻六、二十四葉で述べた。ここに「豊」という語を添えたのは、初めて御子命に任せる命令なので、祝うためである。「豊」は国に掛かる祝う言葉で、葦に掛かるのではない。
【宣長の注釈】「千秋長五百秋」は、『大殿祭』の祝詞の、「幾千もの秋の、長い秋にわたり、大八洲の豊葦原瑞穂国を、安らかな国として穏やかに治めよと、お任せになって」と照らして考えると、「長」を下に続け、「ながいほあき」と訓むべきである。上に続け、「ちあきなが」と訓むのはよくない。また、『旧事紀』に「五百秋長」と、もう一つ「長」があるのは、余計な考えで加えた誤りである。上も「千秋の」と「の」を添え、調子よく読むべきだ。『大嘗祭』の祝詞にも、「神聖な御食事として、永く、遠くまで続く御食事として、皇神たちが、互いにたたえ奉り……、幾千、幾百の秋までも、穏やかに安らかにお召し上がりになり、豊かな宴で晴れやかにおいでになる、皇御孫命が大嘗をお召し上がりになるために……」とある。『日本書紀』には「千五百秋」とある。さて、『日本書紀』神武天皇の巻の初めに出る、神代の年数からすれば、幾千年など、大した長さでもないのに、祝う言葉とするのは、どういうことか。神代の話も、世代を経て語り伝えるうち、言葉は変わって来たので、これも寿命の短い人の世となってからの言葉で、伝えたのである。例えば、雅語では「八百万代」などというのを、今の俗語で「千秋万歳」という。これも細かくいえば、八百万年に比べ、万歳など大した長さではないが、祝う気持ちは、まったく同じなのと同様である。
【宣長の注釈】「水穂」の「水」は、音を借りた字で、みずみずしいことをいう。『日本書紀』では「瑞」を書くが、その字の意味ではない。惑わされてはいけない。「穂」は稲穂である。前に葦原とあるからといって、葦の穂と取り違えてはいけない。『日本書紀』の、「天照大神は……、また命じて、『私の高天原の清めた田〔斎庭〕の稲穂も、わが子に授けよう』といった」の「穂」も同じである。そのため昔から、この字を「いなほ」と訓んだが、国の名の「みづほ」も、「いなほ」といわず、ただ「ほ」というので、ここもそう訓むべきである。「水穂国」という名も、この斎庭の穂に由来する。なお、後の登由宇気神の所で詳しく述べる。そもそも日本は、あらゆる物事が外国より優れる中でも、特に稲が、今までどの国より立派なのは、神代からの深い由来があるのである。今の人々が、こんなにすばらしい国に生まれ、こんなにすばらしい稲穂を朝夕いただきながら、神のお恵みを思わず、つまらない中国のことばかり考え取り沙汰するのは、どうしたことか。
【宣長の注釈】さて、前の「千秋の長五百秋」も、この「水穂」に掛かる祝いの言葉である。「秋」というのも、穂に掛かるためだ。御子命が、永く、久しく、このみずみずしい稲穂をお召し上がりになる国、という意味でつけた国名だということは、あの『大嘗祭』の祝詞が、同じ祝う言葉を、御孫命が大嘗をお召し上がりになることに掛けるのからも分かる。また、あの『大殿祭』の祝詞も、言い方は違うが、「万千秋……」は、やはり瑞穂に掛かっている。
【宣長の注釈】「言因賜而」の「賜」は、ただ尊敬を表す語で、国を与えることではない。前に、伊邪那岐大神が天照大御神に、「あなたは高天原を治めよ」と任せ、「賜った」とあるのは、首の玉をお与えになったので、こことは違う。その箇所で詳しく述べた。さて、このように天照大御神の子孫が天下を治めるべき由来についての論は、前、伝の巻七、十葉・十一葉ですでに述べた。
【宣長の注釈】「天降」は、ここでは「あまくだし」と訓むべきである。天照大御神の命令によって、下らせるからである。「くだし」は、下らせることである。
【宣長の注釈】「天の浮橋」は、前にも見え、天からこの国へ、下り上りする道に掛かる橋である。
【宣長の注釈】「多多志」は「立ち」で、これも前に見える。
【宣長の注釈】「伊多久」は、ひどくという意味の「痛」で、『万葉集』では多く、この字を書く。また「甚」「疾」なども書き、巻七には「大」ともある。これは「太」の字なのか。また「いた」とだけいうこともあり、下巻、軽太子の御歌の「いた泣かば」が、これである。「ひどく泣いたら」という意味だ。『万葉集』では、「いと」にも「痛」「甚」を書き、意味は同じである。ただし、言葉のつながりにより、「いたく」というべき所と、「いと」というべき所は違う。今の人はその違いを知らず、むやみに入れ替えていうので、文章がたいへん拙いことが多い。
【宣長の注釈】「佐夜芸豆」は、中巻、橿原の朝廷の段にも出る。それを『日本書紀』では、「騒がしい音を聞いた」と書き、ここでは「さやげりけり」という、とある。今の本で「気」を「奈」とするのは、確かに誤りで、「なり」では言葉が整わない。「さやげり」は、『万葉集』で下に「有」を添えて書く形の語で、つまり「さやぎあり」、ざわめいている、という意味である。また下の「けり」は、今ここの「ざわめいていたのだった」と、言葉の調子がまったく同じだ。また『古事記』の同じ段の、伊須気余理比売命の御歌に、「風が吹こうとするので、木の葉がざわめく」、『万葉集』巻二に、「小竹の葉は、山も鳴り渡るほどに乱れても」、巻六に、「山にも音が響き渡るほど、水が激しく流れ落ちる」とある。小竹の葉の歌は、風とはいわないが、風に吹かれる音である。どちらも「清」は音を借りた字で、「さやに」は、「さやぐ」、ざわめく意味である。『古今集』の「甲斐の山を、くっきりと見たい」などは、はっきりと、という別の意味だ。また『古今集』の「笹の葉がざわめく、霜の降りる夜を」のように、物音が騒がしいことである。顕昭の注が、霜がさやかな夜だというのは誤りで、後の歌にも「霜さやぐ」などと誤って詠むものが多い。ここの騒ぎは、後の「道速振る神が多くいる」という、これである。なお、その所で述べる。
【宣長の注釈】「有祁理」の「祁」は、今の本ではすべて「那」とするが、師が「祁」の誤りとしたのに従うべきである。後にも「有祁理」「坐祁理」などという例がある。あの橿原の宮の段の、この言葉がある所には「ありなり」とあるが、それは延佳も、「那」を「祁」とすべきだといい、あちらが、もともと「けり」なのは、いうまでもない。ここも「あるなり」と訓む人がいるが、そうではない。このように「ありけり」とおっしゃるのは、天の浮橋から、この国の様子をお聞きになり、ご覧になって、「ひどく騒がしいのだなあ」と嘆くお言葉である。また、この注の「以下もこれに準じる」は誤りだ。理由は、次の天若日子の段の「不死有祁理」の所にも、「この二字は音を表す」と注し、あの橿原の宮の段の所にも、「この十一字は音を表す」と注するからである。『日本書紀』の一書には、「勝速日天穂穂耳尊が、天の浮橋に立ち、見下ろして、『あの地は、まだ平定されていない。下るには及ばない。地形が傾き、荒れている国ではないか』といい、再び帰り上り、下らなかった事情を詳しく述べた」とある。「頗傾」は、国がまだ固まらず、傾いた所があったことをいう。これは、あの「大穴牟遅と少名毘古那の二神が、協力して、この国を造り固めた」というころで、まだ国を造り固め終わらない時だったのだろう。後に建御雷神が、葦原中国を従わせ平定したと報告するまでには、その間に三年、八年などと、多くの年を経るからである。「凶目杵」のことは、伝の巻六、四十葉で述べた。これも、ここでは国の形をいうようだ。
【宣長の注釈】「告而」。前にすでに「詔之」といい、その言葉の終わりで、また重ねて、このようにいうのは、古文の決まった形である。末尾で字を省く所も、すべて、この言葉を添えて訓むべきだ。それなのに、前後に同じ言葉が重なるのを面倒だと思い、終わりをただ「と」とだけ結ぶのは、今の人の勝手な理屈である。詳しくは、首巻で証拠を挙げて述べたとおりである。
【宣長の注釈】「更」は、「請」に係ると見なければならない。
【宣長の注釈】「高御産巣日神天照大御神之命以……」。一般に、こういう命令をいうとき、この二柱を、このように並べる所もあり、天照大御神を先に、高御産巣日神を次に挙げる所もあり、高御産巣日神を省いて、ただ天照大御神だけを挙げる所もある。それは、天照大御神が表、高御産巣日神が裏に当たるようなものだからである。そういうのは、高御産巣日神は、高天原を治める君主ではないためだ。それで裏に当たるようなもので、この神を後に並べたり、省いたりするのも、そのためである。天照大御神こそ、伊邪那岐大神の命令で、初めて高天原を治める君主となり、天皇の祖先でおいでになり、その天の位の継承を伝え、御子命を天から下らせようとする、そのときの命令なのである。だから、表に当たるようなもので、この大御神を先に挙げたり、一柱だけを挙げたりするのも、そのためだ。ところが『日本書紀』の本文が、ただ高御産巣日神だけを挙げ、この大御神の命令に関係させないのは、少し理解できない伝えである。
【宣長の注釈】しかし、高御産巣日神は、天地が初めて始まったときから、高天原に現れた神で、それで、この神を先に並べることもある。また、世にある物も事も、生まれ成り立つのは、すべて、この神の産霊の力によるので、今、このような命令も、共に並んでお命じになる。伝の巻三、十三葉で詳しく述べたとおりである。それなのに、ただ母方の家の後ろ盾といったふうにだけ説明するのは、例の中国的な考えばかりを思い、わが神の道を知らないのである。『日本書紀』の諸注が、この神についていうのは、皆、浅はかだ。また、皇御孫命の遠い祖先としても、崇め奉るのである。これも、祖先とするのが裏に当たるようなものである。この神を皇孫命の祖先と申すのも、ただ母方の祖父だからとだけ思うのは、産霊の意味を知らない。あらゆる物事が、この産霊から成り生まれるので、この神は、皇孫命の祖先だけでなく、あらゆる人々、すべての物、すべての事の親でおいでになる。天照大御神はそうではなく、ただ皇孫命の、目に見える系譜上の祖先である。この区別を、よくわきまえるべきだ。『日本書紀』の諸注に、右の意味を理解したものが一つもないのは、どういうことか。ただ、ひたすら中国的な考えにだけ迷うためである。
【宣長の注釈】「神集々而」は、前にも同じ語があり、そこでは「つどひ」と訓んだが、ここは「つどへ」と訓むべきである。大いなる命令によって、集めさせるのである。「つどへ」は、「つどはせ」の「はせ」を縮めて「へ」とした語だ。前の「集」は、自ら集まるので、「つどひ」と訓んだ。『万葉集』巻二に、「久方の天の河原に、数多くの神々が、神集いに集まり、相談したときに」とある。この「集」を、師が「つまり」と訓んだのは誤りだ。この『古事記』に、「つどひ」と訓む注があるのに。また『大祓』の祝詞には、「高天原に、神としてお鎮まりになる、皇の親しい神漏岐・神漏美の命令によって、数多くの神々を集め、相談なさり」などとある。
【宣長の注釈】ついでに、この祝詞の意味を少し説明しよう。まず「神留」のことは、伝の巻十一、五十四葉ですでに述べた。「神漏岐」は、「神の、生み出す親なる君」である。語の前後にある「あ」と「や」を省き、「れお」を縮めて「ろ」という。「生祖」は、人でも物でも、それが生まれ出る、初めの親ということだ。出雲国造の神賀詞の「かぶろき、熊野の大神」の「かぶろき」も「神呂岐」で、須佐之男命を申し上げる。大穴牟遅神の親であるためである。また孝徳天皇の紀の詔の、「わが親しい神なる祖先が治めた穴戸国」は、仲哀天皇が穴戸の豊浦宮で天下を治めたことをいう。また『続日本後紀』巻十九の長歌に、「かみろきの、すくなひこな」とある。これは珍しいが、少名彦那神も、この国を造り固めた祖先なので、こう申してはいけないわけではない。さて、ここでいう神漏岐は、まさに高御産巣日神を指す。「神漏美」は、「神の、生み出す親なる女君」で、「めぎ」を縮めて「み」とする。これは天照大御神を指す。女神で、日女神とも申すので、「女君」と申す。ただし、ここでは男神の高御産巣日と並べるから、特に女君と区別するので、単独なら、この大御神も神漏岐と申すべきである。
【宣長の注釈】師の説では、「神漏岐」は「神すべら男君」、「神漏美」は「神すべら女君」であるといった。しかし、それでは、必ずしも祖先をいうとは聞こえず、また言葉の形も、たいへん遠い。それに『万葉集』などの「皇祖神」は、「神」と「皇」が入れ替わるだけで、ただ神呂岐と同じことなのに、「すべら」を重ねていうはずはないので、あれこれ、どうなのだろうと思う。また、これらの祝詞の神呂岐・神呂美は、高御魂・神魂から、伊邪那岐・伊邪那美命・天照大御神まで、男女の皇祖神すべてをいう、としたのも、どうだろう。その呼び名自体は、どの皇祖神にも及ぶが、これらの祝詞でこういうのは、いずれも高御産巣日と天照大御神の二柱だけを指すことが、『古事記』『日本書紀』などを合わせて見れば明らかである。また『古語拾遺』で、神呂美を神産巣日神に当てるのも、理解できない。
【宣長の注釈】さて、前に「皇親」と置く、その「皇」は天皇をいう。一般に「すめらが……」といい、宣命などに例が多い。「親」は、親しいことだ。天照大御神が皇孫命の祖先であることはいうまでもなく、高御産巣日も、母方の祖父であるから、ともに親しい、生みの親である。これを世間で「皇親」と続けて読み習わすのは、よくない。「皇」を区切り、「親神漏岐」と続けて読むべきである。あの孝徳天皇の紀でも、「わが親しい神なる祖先」といい、出雲の神賀詞にも「親しい神魯伎」というではないか。また、この「親」は、次の神漏美にも掛かる語である。
【宣長の注釈】「令思而詔」は、まず考えさせ、その後に命じるように聞こえるが、そうではない。考えさせるために、神々を集めて、命じるのである。
【宣長の注釈】「此葦原……」。これは高天原で命じるので、「あの」とあるべきところを「この」というのは、古い言い方の一つである。平安時代ごろの『源氏物語』などにも、必ず「あの」というべき所を「この」ということは、たいへん多い。
【宣長の注釈】「道速振」の説明は、『冠辞考』に詳しい。「ち」という語に「道」の字を借りて書くのは、「道」はもともと「ち」で、「みち」というのは「御ち」ということだからである。
【宣長の注釈】「荒振」は、聞いたとおり、荒々しく振る舞うことである。『後拾遺集』神祇部に、藤原長能の、「今からは、荒ぶる心をお持ちにならないでください。花の都に、あなたの社を定めました」とある。
【宣長の注釈】「国神」は、高天原で命じるため、特にこういうのである。
【宣長の注釈】「多在」は、「さはなる」とも「おほかる」とも訓むべきである。「なる」は「にある」、「かる」は「くある」なので、どちらも「在」に当たる。『日本書紀』には、「しかし、あの地には、蛍のように光る神や、蠅のようにうるさい邪神が多く、草木もすべて物をいった。そのため、高皇産霊尊は多くの神を集め、『私は、葦原中国の邪な神を追い払い、平定させたい。誰を遣わすのがよいか』と尋ねた」とある。また一書には、「高皇産霊尊が、多くの神に、『葦原中国では、岩や、木の切り株、草の葉までも物をいい、夜はかがり火のように騒ぎ、昼は五月の蠅のように湧き騒ぐ』と命じた」とある。『日本書紀』が、これらを皇孫命を天から下らせようとする時のこととするのは、この『古事記』とは違う。これらはすべて、荒ぶる神の多い様子であり、前に「ひどく騒がしいのだなあ」とおっしゃったのも、こういう状態をご覧になってのことである。このとき葦原中国に、まだこれほど荒ぶる神が多く、平定されていなかったのは、どうしてか。あの須佐之男命の、黄泉のけがれの名残があり、まだ清らかな天照大御神の徳による教えが及ばなかったためである。前の須佐之男命が、青山を泣き枯らした、という所と照らして考えていただきたい。伝の巻七に詳しい。『大殿祭』の祝詞には、「天のお計らいによって、物をいう岩や、木々や、草の葉までも、物をいわなくし、天から下りなさった……」。『大祓』の祝詞には、「このように任せられた国の中で、荒ぶる神々を、問い詰めに問い詰め、掃い清め、物をいう岩や、木々や、草の葉までも、言葉をやめさせ……」とある。これらは、このことを平定し終わった後から、述べるのである。
【宣長の注釈】「以為」の二字は、下から返り、「おもほすは」と訓むべきである。「道速振……」は、御子命が帰り上り、申し上げた内容なので、あの御子命が、しかじかと思っているのは、と命じるのである。「在」の下の「是」は、「おもほすは」の「は」に当たる。
【宣長の注釈】「将言趣」は、「ことむけまし」と訓むべきである。『古事記』に多い語で、「言向」とも書く。『万葉集』巻二十には、「霊威の強い神を従わせ」とある。語の意味は、「言」は音を借りた字で、「事」であり、事依・事避などの「事」と同じである。「むけ」は「むかせ」で、「かせ」を縮めて「け」とする。背いている者を、こちらへ向かせる意味の語だ。「そむく」は、これの反対で、あちらへ向くことである。「平」の字を書き、ただ「むけ」ともいう。こちらを向くことは、すなわち服従することである。
【宣長の注釈】「議」、相談することは、あの『大殿祭』の祝詞の「天のお計らいによって」という、これである。
【宣長の注釈】「遣者」は、「つかはしつれば」と訓むべきである。前の「可遣」を、延佳本は「つかはしたまふべし」、ここを師は「つかはしたまへば」と訓んだが、どちらも誤りである。「つかはし」の下に「たまふ」という尊敬の語を添える例はない。これは、四、五百年前までは、誰もよく知っていたと見え、文章や歌に、誤ったものは一つもない。また「つかはし」というべき所を「つかはされ」というのも、近ごろの人の誤りで、昔はそうではない。「つかはし」は、遣わす人についていい、「つかはされ」は、遣わされる、つまり行く人についていう語なので、違う。このような言葉づかいの決まりを、今は知る人がいない。文章を書く人は、よく心得るべきことである。
【宣長の注釈】「媚附」は、「こびつきて」と訓むべきである。「媚」は、普通も「こぶ」と読み、『字鏡』にも「媚、こび」とある。漢文の『詩経』大雅に、「身を低くして人にへつらうな」とあり、その注に、「自分を曲げ、身を低くして人に取り入ることである」とする。張衡の『南都賦』に「蠱媚」という語もあり、「狐媚」とも見えるので、「こび」は、もともとこれらの字音なのかともいえそうだが、どれも遠い、聞き慣れない字なので、それを取って、日本語に使ったはずはない。「こび」は、やはり古語なのだろう。今の俗語で、物に垢などがしみつき、取れ難いのを、「こびつく」というのも、これなのか。
【宣長の注釈】「至于三年」は、「みとせになるまで」と訓むべきである。さて、年は普通「とし」というが、数をいうときは、三とせ、八とせなどと、「とせ」という。『万葉集』巻五には「いつとせ」などがある。「とせ」は「としへ」で、「しへ」を縮めて「せ」とする。穀物を一度取り収めるのを「ひととしへ」、二度取り収めるのを「ふたとしへ」というのである。だから「とせ」は、その経過した数をいうときに限り、また数をいうときは必ず「とせ」で、「とし」とはいわない。「とし」は、もともと穀物を取り収めることをいう、というのは、伝の巻九、大年神の注で詳しく述べた。
【宣長の注釈】「不復奏」の「復奏」、「かへりごと」は、使いの人が帰って申し上げる言葉という意味で、「かへり」は、その使いに掛かる語である。ところが、今の都になって後、答歌を「返し」ということから、「かへりごと」も、先方の返答だと思うのは間違いだ。漢文で「復命」という「復」は、あの「返し」に当たり、「かへりごと」の「かへり」には当たらない。平安時代ごろの物語文などで、「かへりごと」をただ「かへり」といい、また「御かへり」と「御」を添えるなどは、間違ったことだが、それらは後に変わり、「かへし」と「かへり」が同じになったのである。『万葉集』巻十九に、「無事に、早く渡って帰り、帰りの報告を、申し上げる日に……」とある。
【宣長の注釈】さて、『日本書紀』には、「皆が、『天穂日命は、神の中でも優れた者です。試してはいかがでしょうか』といった。そこで人々の言葉を受け入れ、天穂日命を遣わし、平定させた。しかし、この神は、大己貴神にこびへつらい、三年たっても報告しなかった。そのため、その子、大背飯三熊之大人、またの名を武三熊之大人を遣わしたが、これも父を見習って、ついに報告しなかった」とある。この三熊の大人の話は、この『古事記』には見えない。『遷却祟神』の祝詞には、「どの神を先に遣わし、水穂国の荒ぶる神々を、払い平定しようか、と相談なさったとき、神々は皆、考えて、天穂日命を遣わし、平定させようと申した。そのため、天から遣わしたが、この神は帰りの報告をしなかった。次に遣わした健三熊命も、父の仕方に従い、帰りの報告をしなかった」とある。出雲国造の神賀詞には、「高天の神王、高御魂・神魂命が、皇御孫命に、天下の大八島国を任せたとき、出雲臣らの遠い祖先、天穂比命を、国の様子を見るため遣わした。そのとき、天の幾重もの雲を押し分け、天を翔け、国を翔け、天下を見巡り、帰って申した。『豊葦原の水穂国は、昼は五月の蠅のように、すべてが湧き騒ぎ、夜は火の器のように光る神がいて、岩や木々や青い水の泡までもが物をいい、荒れた国である。それでも鎮め平定し、皇御孫命が、安らかな国として、穏やかに治めるようにしよう』といい、自分の子の天夷鳥命に布都怒志命を添え、天から遣わして、荒ぶる神々を払い平定し、国をお造りの大神も、なだめ鎮め、大八島国の、目に見えるあらゆる政事を、お譲りさせた」とある。この文の「事依」の「依」を、本に「避」とするのは誤りである。それでは「神魂命が」という文に対応せず、師が「避」によって説明したのも、無理な説である。「水沸」の「水」は、「皆」の意味に借りている。
【宣長の注釈】そもそも、この天穂日命の古い話を考えると、右のように、『古事記』も『日本書紀』も『遷却祟神』の詞も、おおむね同じなのに、ただ出雲の神賀詞だけ、趣旨が大きく違う。これについて、『日本書紀』の注釈者たちが論じないのは、どうしたことか。あの神賀詞ほどの古文を、ただ、おろそかに見過ごしたことは、たいへん残念だ。師の『祝詞考』には、こういう。「穂日命は、大名持神にこび付き、三年たっても帰りの報告をしない、と『古事記』『日本書紀』などにあるのに、この神賀詞が、こういうのは、国造の遠祖だから、都合よくいったのかと思う人もいようか。しかし、そうではない。この伝えは、右の二書では漏れたのが、この詞に残ったのである。もし二書のとおり、ついに帰りの報告をしなかったなら、天若彦に次ぐ罪もあるはずなのに、そうではなく、天神の祖先の命令で、大名持命の祭りをするのは穂日命、といったのは、よく、その神をなだめ和らげたためである。そして天に帰って報告し、ついに天夷鳥命・布都怒志命を天から下らせ、大きな功績を成したのも、もっぱら穂日命が、先々までよく考えたためである……」。これは詳しい考察である。
【宣長の注釈】今、さらに詳しく考えると、初めにこの神を天から遣わしたのは、次の天若日子のような征伐の使いではなく、ただ、あの神賀詞のとおり、この国の様子を見て、事情に応じて、よい方法を考えさせるためだったのだろう。理由は、あの天若日子を遣わしたときには弓矢などを与えるのに、この神には、そういうことがないからだ。征伐なら、初めてこの神を遣わす所にこそ、弓矢などが出るはずである。また建御雷命を下らせる所にも、弓矢などの記述がないのは、すでに天若日子の所で出たので、省いたのは、当然のことだ。さて、帰って報告したのは、三年も過ぎてからなので、『古事記』などでは、その間、たいへん長く帰らなかったことをいう。三年になるまで待っても帰らないため、ついに報告せず終わったように、思われたのである。神賀詞では、帰りの報告以前に、大国主神にこび付いたことは見えないが、三年過ぎるまでも、この国にいたのだから、早くから、その間にも近づき、次第になだめたのだろう。それで、『古事記』などは、こび付いて、というのだ。まだ報告しない間は、その志を知られないので、ただ不忠のように聞こえたのだろう。『日本書紀』の天若日子の話の、「この神もまた、忠実ではなかった」の「また」は、前の穂日命を、不忠実としていうのである。 このように、すぐ次の天若日子の話に移るため、その後、この穂日命が報告したことは紛れて、伝え落としたのだろう。
【宣長の注釈】さて、後に雉の鳴女を遣わすとき、ただ天若日子のことを尋ねさせるだけで、この穂日命が、なお長く帰らない理由を尋ねさせることは見えない。それを考えると、その前に、すでに帰って報告したと分かる。あの神賀詞で、菩比命は、報告した後、天にとどまって下らないようにいうのも、そうだったのだろう。理由は、『古事記』の前の段、伝の巻七、六十五葉で、この神の子孫の氏族を挙げる所に、「天菩比命は、出雲国造の何々たちの祖である」とはなく、「天菩比命の子、建比良鳥命は、出雲国造の何々たちの祖である」とあることからも、出雲に下って、大国主神の祭りをつかさどった最初の祖は、夷鳥命だからなのだろう。比良鳥と夷鳥は、同じである。
【宣長の注釈】師は、穂日命が天にとどまり、下らなかった証拠として、あの国造たちが夷鳥命を最初の祖と崇めるため、神賀詞でも熊野大神を先に挙げることを引いたが、それは事情が違う。前に述べたように、熊野大神は須佐之男命で、夷鳥命でないことが明らかだからだ。『日本書紀』で、「あなたの祭りをつかさどるのは、天穂日命である」と命じたことによれば、この神も、再び下ったのかとも思える。しかし、父に命じた役目を、子が継いで行っても、違うとはいえない。また同じ段に、「天の安河にも、橋を造り……」などとあるので、その命令は、大国主神が高天原の朝廷に参上するとき、仕え承る者は穂日命だ、という意味でもあろう。また、大国主神を、あれほど厚くもてなしたのだから、天上でも祭ったことがあるはずで、その祭りをつかさどれ、ということもあろう。また「是也」の「是」は、「児」の書き誤りであることも考えられる。どうあっても、あの命令が、この説明の妨げにはなるまい。
【宣長の注釈】さて、『日本書紀』の大背飯三熊之大人は、この夷鳥命なのか、別の神なのか、はっきりしない。『神名帳』では、因幡国高草郡に、天穂日命神社・天日名鳥命神社・阿太賀都健御熊命神社が、別々にあるので、別の神なのではないか。師の『祝詞考』は、当然同じ神と定めたように聞こえる。それで、熊野神社をこの神だといったのも、「三熊」という名によって間違えたのだろう。さらに推し進め、「熊野命」ともいったのは、とりわけ無理な説である。
【古事記本文】そこで、高御産巣日神と天照大御神は、再び神々に尋ねた。「葦原中国に遣わした天菩比神が、長く帰りの報告をしない。次は、どの神を遣わせばよいだろう」。思金神は、「天津国玉神の子、天若日子を遣わすのがよいでしょう」と答えた。そこで、天の麻迦古弓と、天の波波矢を、天若日子に与え、遣わした。「麻」から下の三字と、「波波」の二字は、音を表す。天若日子は、その国に下り着くと、すぐに大国主神の娘、下照比売を妻にし、また自分が、その国を手に入れようと考え、八年たっても、帰りの報告をしなかった。そこで、天照大御神と高御産巣日神は、再び神々に尋ねた。「天若日子が長く帰りの報告をしない。どの神を遣わし、天若日子が長くとどまる理由を尋ねようか」。神々と思金神は、「名鳴女という雉を遣わすのがよいでしょう」と答えた。そのとき、こう命じた。「おまえは行って、天若日子にこう尋ねなさい。『あなたを葦原中国へ遣わしたのは、その国の荒ぶる神々を従わせ、和らげるためである。どうして八年たっても、帰りの報告をしないのか』と」。
【宣長の注釈】「問諸神等」。前には「思金神と数多くの神々が相談して申した」、次には「思金神が答え申した」、また次には「神々と思金神が答え申した」、次には「思金神と神々が申した」とある。このように、神々といって思金神を省いたり、思金神といって神々を省いたり、順序を入れ替えたりと、さまざまなのは、ただ文章を変えただけで、同じことである。
【宣長の注釈】「使何神之吉」は、「いづれのかみを、つかはしてば、えけむ」と訓むべきである。「てば」は「たらば」という意味の古語だ。「吉」を、諸本で「告」とするのは誤りなので、延佳が改めたのに従うべきである。すぐ後の「どの神を遣わして……」と同じだからだ。天智天皇の紀の童謡の、「伝言が何の役に立とう。じかに言うのがよかろう」という歌の「ただにしえけむ」に従い、「えけむ」と訓んだ。昔、「吉」を「え」という例は多い。『古事記』雄略天皇の段の御歌で、吉野を「みえしの」とするのも、その例であり、その所で詳しく述べる。また「よけむ」と訓んでも悪くなく、同じことである。「よけむ」は、「よからむ」と同じで、普通の「あっただろう」「行っただろう」などの「けむ」とは違う。昔はこの形がたいへん多く、今の都になってからも時にある。「お肴には、何がよかろう」、「涙の滝と、どちらが高かろう」などの類である。
【宣長の注釈】「天津国玉神」の名は、どういう由来か分かりにくいが、推し量っていえば、この神は、昔、葦原中国に下って住み、国を造り整える功績があったため、国魂といい、天上の神で、国魂であるため、「天津」といったのか。「何々国玉」という例は、伝の巻九、六十一葉で詳しく述べた。「天の掌の玉の神である」などという説は誤りである。また卜部兼倶の説で、大己貴の別名とするのは、顕国玉と取り違えたのである。この人などの説は、未熟で、取り上げるほどもないものばかりだ。さて、今、この神の子を選んだのも、昔、父があの国に功績を残した縁があるので、国つ神たちも、特によくなつくだろう、という考えもあったのか。
【宣長の注釈】「天若日子」は、「あめわかひこ」と訓み伝えた。もしそう訓むのなら、『古事記』では「天」の字を、あめ、と読むと注する例なのに、それがないのは、「あめの」と読むべきなのかとも思うが、ひとまず従来の読み方に従った。名の意味に、特別なことはない。『日本書紀』には、「皆が、『天国玉の子、天稚彦は、たくましい男です。試すのがよいでしょう』といった」とある。谷川氏は、『日本書紀』の中で、この神だけは「神」とも「命」ともいう箇所がなく、低く見たのだろう、という。確かにそうだろう。この『古事記』なども同じ様子である。『神名帳』には、出雲国出雲郡に、天若日子神社が二つある。また『三代実録』巻十九の、「近江国の正六位上、天若御子神に従五位下を授けた」というのも、この神なのか。『古今集』序の小さな注では、この神を「あめわかみこ」という。また『狭衣物語』で、大将を天から迎えに来た人を「あめわかみこ」というのも、もともとこの天若日子の話から起こり、後世には、天から下る人を、すべてそう呼んだのだろう。
【宣長の注釈】「天之麻迦古弓・天之波波矢」の「こ」は、濁らせず訓み、下の「は」も、濁らせない。『日本書紀』では「天鹿児弓・天羽々矢」と書き、一書では「天鹿児弓・天真鹿児矢」とある。また、この『古事記』の後で、雉を射る所では「天之波士弓・天之加久矢」という。別の弓矢かともいえそうだが、前を受けて、「天つ神の与えた」とあるので、同じ弓矢と聞こえる。『日本書紀』では、本文も一書も、雉を射る弓矢は、初めに与えたのと同じ名である。また、後に天忍日命・天津久米命が天から下るとき、持つものを「天之波士弓・天之真鹿児矢」とするのを、『日本書紀』では「天梔弓・天羽々矢」といい、「梔」は「はじ」とする。これらを照らし考えると、真鹿児弓と波士弓は、同じもので、別物ではない。波波矢と真鹿児矢も、同じである。「鹿児」は、鹿を射ることから、弓も矢も、その用途をいう名だ。「波士」は木の名、「波波」は羽の形で、これらは、その物の姿をいう名である。ここでは、弓を「麻迦古弓」と用途でいい、矢は「波波矢」と形でいい、後ではそれを逆にして、弓を形、矢を用途でいう。弓と矢で、互いに形と用途の名を入れ替え、同じ物であることを、暗に知らせる、古文の巧みさは、おもしろい。
【宣長の注釈】さて「鹿児」は、『和名抄』にも「鹿の子を麑という。和名、かご」とあり、鹿の子をいうが、ここでは、ただ鹿のことで、その子ではない。普通の鹿も「鹿児」というのは、馬を普通に「駒」といい、猪を「ゐのこ」というのと同じ例である。「猪は、また豕ともいう」とある。『日本書紀』応神天皇の巻には、「天皇が四方をご覧になると、数十の鹿が海を泳いで来て、播磨の鹿子の港に入った……。それで、当時の人は、その岸に着いた所を鹿子水門と呼んだ。船乗りを鹿子というのも、このときから始まったのだろう」とある。この鹿のことによって、その所を鹿子水門と名づけたとあるので、ただの鹿も鹿児という証拠である。また船乗りを、今も「かこ」といい、「かご」といわないので、これも鹿児の「児」を濁らせず読むべき証拠の一つだ。
【宣長の注釈】さて、昔でも、小獣や鳥などを射るには、小さな弓矢を使い、猪や鹿などの大きな獣には、大きく強い弓と、長い矢を使っただろう。だから、鹿児弓・鹿児矢とは、大きな弓矢の呼び名である。「鹿児」は、ただ鹿という意味だからこそ、弓矢にも名づけるのであり、子鹿の意味なら、弓矢に名づける理由がない。『日本書紀』の注釈者たちが、ここの考えを詳しくしないのは、どうしたことか。また香山の木で作ったための名だ、などというのは、とりわけ誤りだ。『旧事紀』で、これを天羽々弓というのは、羽々矢をまねた作り言葉で、そのような弓名はない。今、征伐の使いにも、このように大きな弓と長い矢を与えるのは、当然のことである。
【宣長の注釈】次に「波波矢」は、「羽張り矢」で、羽の幅が広く、大きいことをいうのだろう。絹や布の幅を、省いて「はひ」というのも、同じ例だと考え合わせていただきたい。『私記』に、「鳥の羽を付けた矢である。重ねる印を加えるのは、その羽のある矢が数多いことをいう」とあり、『纂疏』に「一対の矢である」というなどは、とりわけ幼稚だ。また『古語拾遺』に、大蛇を「はは」という、とあることを引いて説明する説は、ひどく無理がある。また『口決』に、「二羽の矢を作り、神社に納める」とあり、その後の説には、三羽は中古からの作り方で、上代の矢は、皆、二羽だったとする。また、二羽というのは、鳥の完全な羽が二つなので、矢につける所は四羽で、今も上刺の鳴鏑に使い、これは昔の作り方で、今の蝦夷の矢も同じだという。今、考えるに、右の説の、上古の矢は皆二羽だったというのは、本当にそうだろう。ただし、上古の矢が皆二羽なら、ここの「羽々」は、いっそう二羽の意味ではあるまい。後世のように普通が三羽なら、二羽の矢を特にそう名づけてもよいが、皆二羽なら、どうして特に二羽によって名づけようか。だから、上古の矢が二羽というのはそうであっても、それで「羽々」を解くのは、かえって後世の三羽に基づく。また、二羽なら、それを重ねて「羽々」というのも、どうか。二羽だからなら、直接「二羽矢」というはずだ。二俣小舟、二鞘、また七枝刀、七子鏡などの名を考えていただきたい。古い例は皆そうである。
【宣長の注釈】さて、『日本書紀』神武天皇の巻に、天皇が饒速日命の天羽々矢をご覧になり、あの、天つ神の御子だというのが偽りでないとお分かりになり、また、ご自分の帯びる天羽々矢を示すと、長髄彦がひどく恐れかしこまったことなどを考えると、このような道具も、天上の朝廷のものは、作り方が違い、この国の普通のものより、はるかに優れ、変わった姿だったのだろう。
【宣長の注釈】「その国に下り着くと……」。『日本書紀』には、「この神も忠実ではなかった。やって来ると、すぐに顕国玉の娘、下照姫を妻にした。下照姫は、また高姫、稚国玉ともいう。そして、とどまって住み、『自分も葦原中国を治めたい』といい、ついに命令の結果を報告しなかった」とある。一書には、「天稚彦は命令を受けて下ると、多くの国つ神の娘を妻にし、八年たっても、命令の結果を報告しなかった」などとある。顕国玉は、大国主神の別名で、すでに出た。それなら、この『古事記』の伝えと同じなのに、「命」とも「神」ともなく、別の神のように聞こえるのは、伝え方が違うのか。また天若日子を低く見て、「命」とも「神」ともいわないため、その父も、『日本書紀』では、ただ天国玉とあることから考えると、この顕国玉も、低く見て伝えたのかもしれない。そもそも下照比売が、父神の大国魂という名に対して、稚国玉という名を持つのは、女神ながら父神を助け、国を造り整える大きな功績があったからだろう。このことは、伝の巻十一、五十八葉でも述べた。だから当時、威勢もあっただろうため、天若日子は、この国を得たいという心から、この神を妻にしたのだろう。
【宣長の注釈】「慮」は、「おもひはかりつ」と訓むべきである。この字を普通「おもむはかる」と訓むのも、「おもひはかる」がなまったものである。
【宣長の注釈】「曷神」。字書に、「曷は、何と同じ意味」とある。
【宣長の注釈】「淹留」は、「ひさしくとどまる」と訓むべきである。「ひさしく」は、古語の「ひさに」と訓んでもよい。字書に「淹は、長くとどまること」とある。前に「天若日子が、長く帰りの報告をしない」とあって、またここで「天若日子が長くとどまる理由を尋ねる」とあるのは、同じ言葉が重なって、くどく聞こえるようだが、古文には、この類が多い。漢文でも、古くは、このようなことが多い。後世の文なら、「その理由を尋ねる」といっただろう。
【宣長の注釈】「雉、名鳴女」。雉は「きぎし」と訓むべきで、「の」を添えて「雉の」と読むのは誤りだ。前の八千矛神の御歌に見える。「名鳴女」には、二つの考え方がある。一つは、まず「きぎし」という名は、鳴き声によって名づけたものなので、自分の名を呼んで鳴くという意味で、「名鳴女」というのである。鳥・虫・獣などに、鳴き声による名の例は多い。雉とだけいっても用は足りるのに、このように名鳴女というのは、使いに遣わす所なので、人間らしい名を挙げたのだ。このように素朴なところが、古い伝えのすばらしさである。後世の小賢しい心では、このような言い方を浅はかに思う人もいるだろうか。また考えると、次にはただ「鳴女」とあるので、ここも「名は、鳴女」と訓むべきなのか。「名鳴女」なら、「名」を略してただ「鳴女」といっては通じないからだ。後の段に「雉を、泣く女とする」とあることもある。しかし、『日本書紀』の「無名雉」と合わせて見ると、「名鳴」は必ず続くので、ただの「鳴女」ではあるまい。この『古事記』と照らし、『日本書紀』の「無名」も「ななき」と訓むべきである。この考えでは、『古事記』の名鳴は意味の正しい字、『日本書紀』の無名は音を借りた字だ。二つ目は、『日本書紀』の無名を意味の正しい字とし、『古事記』の名鳴も「ななし」と訓むのである。物を鳴らすことを、古語で「なす」という。「笛を吹きなす」「琴をかきなす」などのようなものだ。だから「無」の音を借りて、「鳴」と書いたのである。巻の初めで「昼鳴」の「鳴」を「なし」と訓む注と同じだ。また、名のない女という意味で「ななきめ」と訓んでも、誤りではあるまい。『日本書紀』に「無名雉を遣わし、様子をうかがわせる」、一書に「雉を遣わして、行って様子をうかがわせる」などとある。「伺」「候」の字を考えると、この使いには、名のある神を遣わさず、わざわざ雉を選ぶのは、天若日子の様子をひそかに調べさせるためなので、名もない身分の低い者を遣わすという意味で、無名女というのか。以上二つの考えは、それぞれ好きな方を取っていただきたい。
【宣長の注釈】さて「女」というのは、『日本書紀』一書の、「無名の雄雉を遣わして、様子をうかがわせた。この雉は下って来て、粟畑や豆畑を見ると、とどまって帰らなかった。そこでまた、無名の雌雉を遣わした。この鳥が下って来ると、天稚彦に射られ、その矢に当たって、天に上って報告した」とあるのによれば、雌雉の意味ともするべきだが、昔は、雌雄にかかわらず、魚や鳥などの名を「何々女」とするのが普通だ。『旧事紀』に、雉のほかに鳩も遣わしたというのは、いつもの付け足しだろう。この雉について、『口決』が「神が姿を変えたものか」というのも、筋道がない。『天書』に、「天の後園の神で、人柄は清潔であった……。報告を成し遂げられず、また功名もなかったので、無名雉という」といい、ある説に、身分の低い一人の男を遣わすのを無名雉というのか、といい、あるいは、無名とは、その人の氏名を隠したのをいう、などという説は、どれも後世の小賢しい、中国風の理屈からいったもので、取るに足りない。ただ実物の雉である。さて、今度の使いに、どうしてわざわざ雉を選んで遣わしたのかは、推し量りにくい。しかし、漢籍を見ると、雉は耳がよく、またよく、曲げずに節操を守る鳥だというので、そのためだったのだろう。『礼記』月令に、「冬の最後の月……、雉が鳴く」とあり、注に「陽気が動くと、雉が鳴き、首を曲げるのをいう」とある。『前漢書』五行志に、「雉は敏感で、雷の音を先に聞く。それで月令では、季節の気の目印とする」とある。また『礼記』に「士が会うときの贈り物には、それぞれ雉を持つ」とあり、注に「固く身を守り、節操を失わないことを取る」とある。
【宣長の注釈】「これに命じた」。この前に「雉を呼び寄せる」などという言葉があるはずなのに、ないのは、言葉を省いたのである。
【宣長の注釈】「汝行」の「汝」は、雉を指す。
【宣長の注釈】「汝所以」の「汝」は、天若日子である。
【宣長の注釈】「言趣和」の「和」は「やはせ」と訓むべきである。『古事記』には多くあり、「和平」「平和」とも書く。『万葉集』巻二の「ちはやぶる、人をやはせと」は、人々を穏やかに従わせようということだ。今の本で、この「和為」を「なごし」と訓むのはよくない。また『世記』に「ちはやぶる、神をことむけ、まつろはぬ、人をもやはし」とある。強い神を服従させ、従わない人々も和らげる、ということだ。大殿祭の祝詞に「言葉を正し、和らげていらっしゃって」とあり、「和志」の古い言い方は「やはし」とする。『倭姫命世記』には「やはししめ」、つまり和らげさせ、などとある。
【古事記本文】そこで名鳴女は天から下り、天若日子の家の門にある、枝の繁った桂の木の上に止まり、天つ神の命令のとおり、詳しく告げた。すると天佐具売は、この鳥の言葉を聞き、天若日子に、「この鳥は、鳴き声がたいそう不吉です。射殺してしまいなさい」と、そそのかした。「佐具売」の三字は音を表す。天若日子はすぐ、天つ神から与えられた、天の波士弓と天の加久矢を持ち、雉を射殺した。その矢は、雉の胸を突き抜け、逆に天へ射上がり、天の安河の河原にいらっしゃる、天照大御神と高木神の所へ届いた。この高木神は、高御産巣日神の別名である。高木神が矢を取って見ると、その羽に血がついていた。そこで高木神は、「これは、天若日子に与えた矢だ」といい、神々に見せ、こう告げた。「もし天若日子が、命令に背かず、悪い神を射た矢が来たのなら、天若日子に当たるな。もし邪心があるなら、天若日子は、この矢によって滅びよ」。「麻賀礼」の三字は音を表す。そういって矢を取り、矢の通って来た穴から、突き返し下ろすと、天若日子の、寝台で仰向けに寝ている高い胸元に当たり、死んだ。これが、返し矢を恐れることの起こりである。また、その雉も帰らなかった。それで、今、ことわざで「雉の頓使」というのも、このことが起こりである。
【宣長の注釈】「鳴女」。これは、前にあった「名」の字が抜けたのか、それとも、直前の「爾」が「名」だったのを、書き誤ったのか。ただ「鳴女」だけでは通じず、ここも必ず「名鳴女」だろうから、今はそう訓んだ。また考えると、この辺りから、伝えのもとが変わったかと思うことがある。その理由は、次に出る。それで、そのもとの伝えに、初めから鳴女とあったのかもしれない。これは、たいへん決めにくい。
【宣長の注釈】「門」は、この国に長くとどまって住む家の門である。その家は、どの国にあったのか、分からない。出雲国でもあっただろうか。
【宣長の注釈】「湯津楓」。「湯津」は五百箇ということで、その由来は、伝の巻五、七十一葉、「湯津石村」の所で詳しく述べた。ここは、枝が繁ることをいう。前に「五百津真賢木」、下巻に「百枝槻」、『日本書紀』に「百枝杜樹」、仲哀天皇の巻に「五百枝賢木」などとある類である。『万葉集』巻三の、「たくさんの枝を差し出し、繁って生える、つがの木の……」という歌も、考えていただきたい。また「湯津小竹」などの「湯」も、同じく五百で、繁ることをいう。湯津を豊かさという意味にするのは、誤りだ。「楓」は、後の海神の宮の段では、「湯津香木」と書き、香木を「かつら」と訓む。『日本書紀』では、「その雉は飛び下り、天稚彦の門前に植えてある、湯津杜木の梢に止まった」とあり、杜木を「かつら」という。杜樹と書く所もある。『万葉集』巻七には、「向かいの岡の、若い桂の下枝を取り、花を待つ間に、私は嘆いたことよ」とある。『字鏡』の「楿、かつら」は、香と木を一つにした字である。さて『和名抄』には、「楓、和名、おかつら。桂、和名、めかつら」とある。普通「かつら」には桂の字だけを使い、楓の字は、後世、かえでに使う。しかし、楓はかえでではない。まず楓は、『爾雅』の郭璞注に、「木は白楊に似て、葉は丸く分かれ、脂があって香る。今の香楓がこれである」とある。また、ほかの漢籍には、よく紅葉するものという。貝原氏は、「楓は、その葉が本当に白楊に似て、二枚ずつ向かい合う。賀茂祭に使う桂がこれである。筑紫でも、かつらぎという。その葉はかえでより大きく、花はささげの花のようで、三、四月に開く。姿は、中国の書物のいう楓に似るが、紅葉せず、香りもない」という。今、考えるに、賀茂祭で、葵とともに使う桂は、確かに香りもなく、紅葉せず、中国の楓には当たらない。
【宣長の注釈】次に桂は、『今昔物語』に、こうある。「天暦のころ、中国からやって来た、長秀という僧がいた。五条西洞院にある桂宮というのは、その門前に大きな桂の木があったため、名づけたものだ。長秀は、もと医者だったが、その木を見て、『桂心という薬用の樹皮は、この国にもあったのだ』といい、その枝を切り取らせ、桂心を取り、薬に使ったところ、中国のものより優れていた」。この桂は今もあり、漢籍でいうものとまったく同じだ。「今もある」とは、桂宮にあるというのではなく、この日本にあるということだ。つまり肉桂と呼ぶものである。それなら、昔からあったもので、『源氏物語』などで、かつらというのも、この類である。ただし、漢籍のいう桂は、日本にはまれだが、古書で、かつらという様子は、どこにも広くあったものと聞こえる。そこで思うに、今の世には、たぶという木がある。土地によって、たむ、たま、藪肉桂ともいう。貝原氏は、「たぶの木は桂の類で、二種ある。一種は白たぶといい、葉は桂に似て、香りは少ない。冬に赤い実がなる。一種は、くすたぶといい、葉は白たぶのようで、とりわけ桂によく似る。この葉も、桂の葉と同じく、根元から分かれる縦の筋が三条ある。実は冬に熟して黒い。香りも桂にやや似て、味も辛い。どちらにも、大木がある」という。その姿は、見分けにくいほど桂に似る。それなら、昔、かつらといったのは、一般にはこのたぶの木で、その中に、時に桂宮にあったような本当の桂が混じるのも、一緒に呼んだのだろう。
【宣長の注釈】以上のようだから、楓と桂は近い種類の木ではなく、たいへん違う。それを『和名抄』が、同じ種類のように、雌と雄に分けて挙げるのは、もともと同種ではないが、名が同じで紛らわしいので、中昔に仮に分けたのだろう。それも、特に区別するときのことで、普通はどちらも、ただ、かつらといっただろう。だから『和名抄』のほかには、雌雄の名が出て来ない。さて『古事記』などのものは、楓か桂かというと、『古事記』では香とも書き、『字鏡』にも楿とあり、古書から中昔の書物まで、人の門や庭などにもあったこと、また桂宮の木などを考えると、桂の方だろう。ただし『源氏物語』花散里の巻に、「小さな家で、木立など、風情ありげなところに……。大きな桂の木を吹き越す風に、祭りのころが思い出されて……」とある。これは楓と聞こえるが、香りもあるように聞こえる。少女の巻に、「祭りのころは……。前の斎院は、もの寂しく物思いにふけっていらっしゃる。庭先の桂の下を吹く風が慕わしく感じられるにつけても、若い人々には、思い出すことがいろいろあるのに……」とあるのも、楓と聞こえる。それなのに、『古事記』で「おかつら」に当てる楓の字も書くのは、ただ、かつらに使う字を借りただけだ。昔は、言葉さえ同じなら、文字にはこだわらないのが普通である。楓は、香木というべきものではない。漢籍には香楓ともいうが、日本のおかつらに香りのないのは、先にいったとおりだ。また、古書で楓と書くのは楓、香木とあるのは桂と、二つにも見られそうだが、楓の字の所も、香木の所も、様子がまったく同じものと聞こえ、二つではない。『日本書紀』で杜木と書くのは、昔、杜の字を当てた理由は分かりにくいが、『字鏡』に「杜、もり、また、さかき」とあるのを考えると、今いうたぶの木は、とてもみずみずしく、よく茂る木なので、上代にはこれを榊に使い、神社にも特に多くあったため、そのまま「もり」にも、この字を使ったのだろう。『万葉集』巻十では、しらかしにも白杜樹と書く。樫も昔は、榊に使った。これらを合わせると、杜木と書くのも、めかつらの方だったのである。
【宣長の注釈】「委曲」は「つばらかに」と訓む字だが、ここは「まつぶさに」と訓むべきだ。この言葉は、前の八千矛神の御歌に見える。詳しく、十分に、ということである。
【宣長の注釈】「天つ神の命令」とは、先の「あなたを遣わしたのは……」という命令である。ここは、この国に下ってからの話なので、天照大御神と高御産巣日神を、天つ神と申し上げる。後も同じだ。『日本書紀』一書に、「その雉は飛び下り、天稚彦の門前の、枝の繁った桂の梢に止まり、鳴いていった。『天稚彦よ、どうして八年の間、命令の結果を報告しないのか』」とある。
【宣長の注釈】「天佐具売」。『日本書紀』に「天探女、これは、あまのさぐめという」とある。『和名抄』の鬼魅の類に、「『日本紀』にいう天探女。和名、あまさくめ。また、あまのさくめという」とある。このような載せ方を見ると、そのころにも、そう呼び習わすものがあったと見える。『日本書紀口決』に、「天探女は、従う神で、讒言する女である」といい、『纂疏』に、「稚彦の侍女である」とするなどは、そうだったかもしれない。名の意味は、ある人の、「探女は、他人の心を探り、邪な考えが多いということ」というのが、その意味だろう。『落窪物語』に、「余計な口出しをするな……」、「あこきという、口出しをする女……」などとある。あこきは女の名で、あこきを指して、さくじりといったのだ。『源氏物語』にも「さくじり、およすけ」、つまり余計な口出しをするませ者、とある。これらの「さくじり」は、「さくめ」の名の意味にかなう。今のことわざで、あまのさこというのは、この名で、それも、ただ人に嫌われる、心の悪い者をいうようだ。伊勢の飯野郡に佐久米という村があるが、名づけた理由は知らない。『万葉集』巻三に、「天の探女の、石の舟が泊まった高津は、すっかり浅くなったことよ」とある。『代匠記』は、これを説明して、「摂津国風土記には、難波の高津は、天稚彦が天から下ったとき、従って下る神、天探女が、磐舟に乗ってここへ来た。天の磐舟の泊まるため、高津と名づけた、とある」とする。この歌と風土記によれば、天から下った神である。それなのに『日本書紀』一書では、国つ神とあるのは、どうだろう。今、考えると、名に「天」を持つので、やはり天から下ったとしようか。『神名帳』の、摂津国東生郡の比売許曾神社を、四時祭式・臨時祭式で、下照比売社とも呼ぶというために、これを、天若日子の妻の下照比売と理解し、この『万葉集』の歌も、引き合わせるのは誤りだ。あの比売許曾社は別の神で、その由来は、『古事記』中巻の末にある。名が同じだからと、取り違えてはいけない。
【宣長の注釈】「語天若日子言」の「語」「言」は、訓み上げてはいけない。字のとおりに読むと、漢文を読む形になる。
【宣長の注釈】「其鳴音」の「其」も、訓み上げてはいけない。
【宣長の注釈】「甚悪」は、師が「いとにくし」と訓んだのも、おもしろい。これは、鳴き声が聞きにくいということで、ただ憎んで「にくし」というのとは、少し違い、「醜い」という「にくき」と同じである。『日本書紀』仲哀天皇の巻で、神が皇后に託して教え、「……速狭騰尊である」というと、天皇が皇后に「聞きにくいことをいう女なのか。なぜ速狭騰などというのか」といった、とある。その「聞悪事」を、「ききにくきこと」と訓む。今の世にもいう言葉である。ただ、『万葉集』巻十五に、「あおによし、奈良の大路は、行きやすいけれど、この山道は、行きにくかった」とある。行きやすい、に対するので、行きにくかった、といいそうな所を、「ゆきあしかりけり」とする。だから、あの「聞悪」も、これに従って「ききあしき」と訓むべきか。『日本書紀』に「わが御子は、喜ばしい様子で生まれたのか」とある。これが「ききあしき」に対するので、「あし」をその意味に取るのがよい。やはり「いとあし」と訓むべきである。「あしし」というのは、俗な言い方だ。「あし」は、不吉という意味でいったのだろう。また二つの意味に聞こえる。一つは、言葉のとおり、鳴き声を不吉というのか。二つ目は、鳥だから鳴き声といったが、実は言葉の内容が、天若日子にとって、不吉だというのか。
【宣長の注釈】「故」の字は、訓まずにおくべきである。
【宣長の注釈】「可射殺」は、「いころしてむ」と訓むべきである。射殺してしまいなさい、ということだ。
【宣長の注釈】「云進」の「云」は、「こういって」と、前へ続く。「進」は勧めることで、けしかけ、そそのかすことだ。師は、古い版本で「出進」とするのに従い、「さかしらまをす」と訓んだ。その説には、「『万葉集』でも、さかしら、という言葉に、情出、また情進と書くので、同じことだ。出の字を、延佳が自分で云に改めたのはよくない」とある。今、考えると、その説明でも、ここの意味にはよく合うが、やはりそうではあるまい。まず、延佳本の云は、延佳が改めたのではなく、その本だけでなく、諸本は皆、云であり、出なのは、古い版本だけだ。また『旧事紀』の古い版本には、進がなく、云である。『万葉集』には、さかしらを出進と書くような、遠回しな書き方もあるが、『古事記』などには、そんな例はまったくない。だから出とするのは、確かに誤りだ。『日本書紀』には、「そのとき天探女が見て、天稚彦に、『怪しい鳥が来て、桂の梢にいます』といった」とある。ここには鳴くとはないが、怪しい鳥というのは、鳴き声が怪しいのだ。雉は普通にいる鳥なので、姿を怪しいとはいえない。この雉を実は人間だとしていう説などは、いつもの勝手な作り事なので、取るに足りない。また一書に、「そのとき、天探女という国つ神がいて、その雉を見て、『鳴き声の悪い鳥が、この木の上にいる。射なさい』といった」とある。さて『日本書紀』神武天皇の巻に、「天皇の軍が大挙して磯城彦を攻めようとし、先に使いを遣わして、兄磯城を呼んだが、命令を受けなかった。さらに八咫烏を遣わして呼んだ。烏がその陣営へ来て、『天つ神の御子が、おまえを呼んでいる。いざ行こう、いざ行こう』と鳴いた。兄磯城は怒って、『天から押しつける神が来たと聞き、自分が憤っているとき、どうして烏がこんなに悪く鳴くのか』といい、弓を引いて射た。烏はすぐ、避けて去った」とある。ここの段と、たいへんよく似たことである。
【宣長の注釈】「天の波士弓」。前には、天の麻迦古弓とある。あれは用途をいう名、これは形をいう名で、同じ弓なのは、前にいったとおりだ。同じ弓なのに、前とここで名が違うのは、もう一つ理由があるようで、それは後で述べる。形をいうとは、「はじ」は木の名で、梓弓や槻弓などの類に、はじで作った弓ということだ。「はじ」には、普通、櫨の字を書く。『和名抄』の染色具の部に、「黄櫨。『文選』の注に、櫨は今の黄櫨の木である、という。和名、はにし」とあるのが、これだ。天皇のお召し物の、黄櫨染がこれである。「はにし」とも「はじ」ともいうのは、樺を「かにば」とも「かば」ともいうのと同じだ。土師も、はじ、といった。名の意味は、ある人が、埴の色をした木だからだという。さて、この木は今、普通にはぜといい、山漆ともいう。実は、ろうそくに作る。葉はよく紅葉し、歌にも詠む。ある人は、この木は今も弓に作るという。また、「木を切って見ると、切り口の外側は白く、中の芯は黄色い。その黄色い芯を弓に作る。物を染めるのにも使う。山に生えるものを、山はぜといい、里のものより材質がよいという」ともいう。『日本書紀』で梔弓と書くのは、『和名抄』の同じ染色の部に、梔子を挙げ、『唐韻』に「梔子は木の実で、黄色に染めるもの」とあるので、これも黄色に染めるから、その字を当てたのだろう。しかし梔は、くちなしで、小さい木なので、弓に作れるはずがない。ある説で、はじを桑の類といい、『日本書紀』で梔を当てるのは、『爾雅』の「実のある桑の一種を梔という」による、とするのは、あまりに遠く、当たらないことである。
【宣長の注釈】「天の加久矢」。「かく」は、前の麻迦古弓の「かこ」と同じで、「こ」と「く」は音が通う。近江の郡名、伊香は、『和名抄』に、いかこ、『万葉集』巻十三にも、いかこ山と詠むが、『神名帳』には伊香具神社とある。かこ、と、かく、が通う例だ。また金を、『万葉集』に、くがね、と読み、園を古語で、かくみ、といった。また鹿児の「こ」を濁らせないのも、ここに清音の久を書くことから分かる。前には、これを天の波々矢という。あれは形の名、これは用途の名で、鹿を射る矢なのは、麻迦古弓の所で述べたのと同じであり、真鹿児矢ともあることで分かる。師の説には、「ここで波士弓・加久矢というのを見ると、前の迦古弓・波々矢は、弓と矢の名を互いに誤ったもので、迦古弓は加久矢、波々矢は波士弓である。かこ、とは鹿の角の矢じりをいう。その証拠は、『日本書紀』綏靖天皇の紀に、真鹿児鏃とあることだ」とあるが、そうではない。『日本書紀』で、鹿児弓・真鹿児矢と続けていい、梔弓・羽々矢とも続けるので、波々矢を波士弓の誤り、迦古弓を加久矢の誤りともいいにくい。また鹿児弓もあるので、鹿児を、鹿の角の矢じりともいいにくい。あの綏靖天皇の紀のものも、鹿を射る矢の矢じりとして、何の差し支えがあろうか。
【宣長の注釈】「逆に射上がる」。これは、木の上にいるものを、下から射る矢なので、上へ射上げられるのである。「上」は、受け身に、あげらる、と訓むべきだ。矢の側からいう所だからである。「その矢」から、「通る」「届く」も、皆、矢のことをいう言葉だ。それを、射る人の側の言葉にして、「上」を「あぐ」と訓むのは誤りである。「逆」は、上へ射上がるとき、羽の方が下になって行くためにいった。
【宣長の注釈】「天の安河の河原にいらっしゃる」。数多くの神々を集めるなどなら、河原もふさわしいが、何もないのに、この大神たちが河原にいらっしゃるのは、少し理由がない気がする。そこで思うに、前の「再び神々に尋ねた……」とは、初めと同じく、安の河原に神々を集めてのことだろうから、今もまだ、そこを去らず、雉が帰って報告するのを待っていらっしゃる間、としようか。『日本書紀』には、ただ「高皇産霊尊のお座の前に至った」、また「ついに天つ神のいる所に至った」などとあり、安の河原のことは出ない。
【宣長の注釈】「高木神」。名の意味は、「き」は「くひ」を縮めたもので、産巣日と申し上げるのと同じ意味だ。その理由は、前の角杙神・活杙神の「くひ」は「くみ」と音が通い、活用して「くむ」ともいう言葉だからである。伝の巻三、四十一葉、角杙神の所を考え合わせていただきたい。だから角杙は、角ぐむ、といっても、角の形で生え始めることだ。また草木の生え始めるのを、芽ぐむといい、涙の出始めるのを、涙ぐむという。「くむ」は、一般に物の始まり、兆すことをいう語なので、産霊と同じ意味だというのである。あの角杙神を『姓氏録』で角凝魂命といい、活杙神を生産日神とも申し上げることで、確かめられる。『三代実録』巻三十四に、筑後国の高樹神とあるが、この神か、それとも地名などによる、別の神か、知らない。
【宣長の注釈】「御所」は、「みもと」と訓むべきだ。ここを『日本書紀』一書で、「この鳥は下って来ると、天稚彦に射られ、その矢に当たり、上って報告した」ともあるのは、たいへん異なる伝えである。
【宣長の注釈】「この高木神は……」という十四字は、本文ではあるが注である。『古事記』には、このような例が多い。これより前には、高御産巣日神とだけあるのを、ここで名を変え、高木神と申し上げ、これから下は、中巻まで、ただこの名だけを申し上げるのは、何か理由があるはずだ。じっくり考えても、確かに理解できることはない。それでも、あえていえば、初め、稗田阿礼が勅命を受けたとき、高御産巣日神と伝える本と、高木神と伝える本の、二種類のもとに拠ったのだろう。ここより前は、高御産巣日神とある本に拠ったが、それが、おそらくこの辺りから後が欠けてなかったので、ここからは、高木神とある方の本に従い、そのまま暗誦の内容を定めた、ということでもあるかもしれない。もしそうなら、弓矢の名が、前と後で違うのも、もとにした伝えが別だからかもしれない。ここへ来て、急に名が変わるので、「この高木神は……」という注の言葉を加えて、誦したのだろう。だから、この注は、阿礼が誦む内容を定めたとき以来の言葉だろう。「別名」は、字のとおりなら「ことみな」と訓むところだが、『古事記』には「亦名」が多いので、それに従い「またのみな」と訓もう。
【宣長の注釈】「高木神が告げた」。前に、天照大御神とこの神の二柱を並べたり、この神を省いたりするのに、別の意味はないと、すでに述べた。しかし、ここで天照大御神を申し上げず、この神だけを挙げるのは、前の例とは違う。これは、一柱の神の言葉で、天照大御神はかかわっていらっしゃらない。次に、矢を取るなどとあるのは、二柱にわたる行為ではないからだ。そもそも矢のことは、御子を天から下ろすことのうちでも、枝葉の事柄なので、天照大御神は、かかわらないのだろう。
【宣長の注釈】「即示」の示を、諸本で皆、爾とするのは、写し誤りだ。真福寺本では示とする。また師が、『旧事紀』の示に従うべきだとし、「みせ」と訓んだのを用いるべきである。石屋戸の段にも、示を爾と誤り、中巻の神武の段にも、古い版本で、爾を示と誤った例がある。
【宣長の注釈】「或」は、二つとも「もし」と訓むべきだ。
【宣長の注釈】「不誤」は、「たがへず」と訓むべきだ。命令に違わない、ということである。
【宣長の注釈】「悪神」は「あらぶるかみ」と訓むべきだ。前にもあった。
【宣長の注釈】「為射」は「いたりし」と訓むべきだ。前に、血がその矢羽についていた、とあるので、これは、荒ぶる神の体を射通した矢が来たのか、とお考えになった意味だからである。為の字は「たりし」に当てて書いた。このような書き方も、『古事記』に例がある。
【宣長の注釈】「至者」は、「きつるならば」と訓むべきだ。来たのなら、ということである。
【宣長の注釈】「不中」は、師の「あたらざれ」という訓みに従うべきだ。後の命令形「まがれ」に対応するので、「あたらじ」と訓むのは、よくない。
【宣長の注釈】「邪心」は「きたなきこころ」と訓むべきだ。その理由は、前のみそぎの段、伝の巻六で詳しく述べた。この邪心は、天つ神の命令に背き、害しようとする心をいう。天つ神の所へ矢を射上げたからだ。また、矢羽に血がつくことを、ここにもかけて見るなら、「邪心がある」とは、使いの雉を射たのかとお考えになって、命じたとするべきだ。当時、葦原中国には、ほかに天つ神の味方として、天若日子に対抗する大神はいないからである。ただしここは、ただ、神の所へ矢を射上げたことについてだ、と見る方が無理がない。
【宣長の注釈】「麻賀礼」。まず、すべての吉いこと、善いことを「なお」というのに対し、すべての凶いこと、悪いことを「まが」という。これは、伝の巻六、六十三葉で、すでに詳しく述べた。だから、みそぎの段で、禍と書く。それは名詞だが、動詞にすると、まがる、という。名詞の歌が、動詞では、うたう、となり、綱とつなぐ、雲とくもる、などの類も、皆、名詞と動詞の違いである。物の形が曲がるのも、その一つだ。だから、まがれ、というのは、言葉としては、凶くなれ、ということで、意味は、つまり死ね、という命令だ。死ぬのは、凶くなることなので、まがる、という。そうして死ぬのは災いなので、あの禍の字と、よく合う。次に引く祝詞の、高津鳥の災い、も考え合わせていただきたい。さて『日本書紀』には、「高皇産霊尊は、その矢を見て、『これは、昔、私が天稚彦に与えた矢だ。血で染まっているのは、おそらく国つ神と戦って、そうなったのか』といった」とある。一書に、「天つ神は矢を見て、『昔、私が天稚彦に与えた矢だ。今、どうして来たのか』といい、矢を取って呪い、『もし悪い心で射たのなら、天稚彦は必ず害に遭うだろう。もし正しい心で射たのなら、無事であるはずだ』といった」とある。この「當遭害」を、まじこれなむ、と訓むのは、御門祭の詞に、「天のまがつひという神のいう悪いことに、ともに災いを受け……」とあるのと同じだ。前の「咒」は、字書の「のろう」という意味で、俗にいう、まじなう、なので、まじこる、は、まじなわれる、ということだ。悪くまじなうのを、俗語で、まじくる、というのもこれだ。だから、あの「當遭害」と、ここの「まがれ」は、言葉は違っても、結局、一つの意味に落ち着く。「當遭害」と書く字は、まがれ、によく当たる。
【宣長の注釈】「矢穴」は、下の国から天上へ、射抜いて通した穴である。古い伝えの趣を理解せず、かたくなな、中国風の考えに沈む、小賢しい人は、この矢穴を疑い、下の国と天上の間に、板のような物でもあるように聞こえて、卑俗だと思うだろうか。前の誓約の段に、堅い地面を、左右の股まで踏み沈めた、といい、天の真名井もあり、畔を壊し、溝を埋めることも、皆、天上のことなので、矢の通って来た穴も、なくてはならない。もしこの穴を卑俗だとするなら、あの堅い地面も、真名井も、畔も溝も、皆、卑俗ではないか。だから延佳が「天空とするべき」とする、その天空こそ、かえって卑俗で、無骨である。また師も、この穴をどうかと思われたのか、無理に「やのみち」と訓んだ。道なら、どうして穴と書こうか。あれほど昔の意味をよく見明らめ、永遠の師と仰ぐべき人でも、なおこうであるので、昔を知るのは、ますます難しい仕事だ。
【宣長の注釈】「衝返下」は、「下」を訓まず、師の「つきかへし」という訓みに従うべきだ。前のように命じ、こうなさるのは、あの『日本書紀』にあるとおり、呪いをかけられたのである。
【宣長の注釈】「胡床」。『和名抄』に、「胡床。『風俗通』に、霊帝が胡人の服を好み、都では皆、胡床を作った、という。こちらの名、あくら」とあり、『日本書紀』も、そう訓む。『古事記』では、ここだけ胡床とあり、中巻・下巻のあちこちでは、皆、呉床と書く。同じ物である。中国で胡床と名づけたのは、胡人の作りにならったためだが、日本でこのような字を書くのは、その作り方を写したためではなく、中国の胡床という物に、姿が少し似るので、字を借りただけだ。作りは、もともと日本のものだ。それで師は、「これらの字を使うのは悪く、直接、高座などと書くべきだ」といった。本当にそうだ。下巻、朝倉の朝の段に「立たせた、大きな御呉床」とあるので、非常に高い床と見える。何でも「立つ」とは、形の高いものにしかいわない。「あぐら」という名の意味は、揚げた座だろう、と師がいった。そうかもしれない。ある説で、編んだ座の意味とするのは、理由がない。今、俗に平らに座ることを、あぐらをかく、というのは、胡床に座るときの座り方をいうのか。それは、後ろに、よりかかる物があり、後世の椅子の類の姿かとも思うが、前に寝ていたとあるので、ここは、少し広い床と聞こえる。左右近衛府式に、「胡床三百基。縁取りの料の緋の糸は、一基につき八両、塗る料の漆は、一基につき一合。傷むたびに、官に申し出て請求する」とある。
【宣長の注釈】「高胸坂」は、仰向けに寝た胸の様子が、坂のように高いのをいう名である。それなのに、これをまねて、胸とあるのを、どこも「たかむなさか」と訓むのは誤りだ。仰向けに寝た所でこそ、そういうので、胸全般の古名ではない。また『日本書紀』を「たかむなさき」とも訓むのは、もともと『古事記』によって「たかむなさか」と訓む本を見て、「胸先」「心前」という言葉もあることから、『古事記』を考えもせず、勝手に気を利かせて改めた誤りだ。『日本書紀』には、「そこで矢を取って、下へ投げ返した。その矢は落ち、天稚彦の胸に当たった。そのとき天稚彦は、新嘗の祭りの際、休んで寝ていた時で、矢に当たり、その場で死んだ」とある。一書に、「そこで投げ返すと、すぐ矢は落ち、天稚彦の高胸に当たり、そのまま死んだ。高胸は、たかむなさかという」とある。祟る神を退ける祝詞に、「また遣わした天若彦も、帰りの報告を申さず、高津鳥の災いによって、たちまち身を滅ぼした」とあるのは、使いの雉を射たため、この災いに遭ったことをいう。高津鳥の一件の災いという意味だ。天から下った鳥なので、高津鳥というのだろう。
【宣長の注釈】「これが返し矢……」という八字の注は、後の人が『日本紀』をもとに付け足したのだろう、と師はいった。本当にそうだ。その理由は、もし初めからの文なら、次の「今、ことわざでいう」という言葉が、必ずここにあるはずだからだ。このように似たことを二つ並べるなら、初めを詳しくいい、次を省くべきで、初めを省き、次を詳しくいう理由はない。また、これも次の「雉の頓使」と同じ類のことわざなので、本文につなげ、同じく大きな字であるはずなのに、ここだけ小さな字だ。もと大きな字だったのを、後の人が小さな字にしたともいえそうだが、そうなら、次の「雉の頓使」も、同じく小さな字に改めるはずで、片方を残し、片方を改めるとは思えない。さまざまな点から、後の人の仕業なのは、明らかだ。
【宣長の注釈】「また、その雉は帰らなかった」。あの雉は、すでに射殺されたので、帰らないことは、いわなくても分かるのに、今またこういうのは、この一件から来たことわざをいうためだ。それなら「帰らなかったため」と次の句につなげて読めそうだが、それでは「起こりは、これだ」という言葉に合わないので、「帰らず」と切って読むべきである。「それで」も、「起こりは、これだ」とは合わないが、「故」は、いつものように、ごく軽く置いている。
【宣長の注釈】「諺」は、ことわざ、と訓む。そもそも、この「ことわざ」は、事のありさまをいう「事態(ことわざ)」と発音が同じで、紛らわしいが、別である。「こと」は言葉、「わざ」は、わざうた、わざはひ、わざをき、などの、わざ、と同じで、今も、神や死者の霊などが祟るのを、物のわざ、というのがこれだ。普通は、祟って悪いことだけにいうようだが、もともとは、凶にも吉にもわたる言葉である。何事でも、人の口を借り、神が歌わせるのを、わざうた、いわせるのを、ことわざ、という。災いも、神のなさるという意味でいい、俳優を、わざをき、というのも、神がかりについての呼び名だ。石屋戸の段で、神がかりの様子をして、大御神を招き出したことからいう。伝の巻八、五十七葉を考え合わせていただきたい。だから、ことわざ、とは、もとは、神の御心から、世の人に言わせ、吉凶を示し教えることをいったが、転じて、ただ世間で広く言い習わした言葉にもいう。諺の字は、転じた方には当たり、もとの意味には当たらない。
【宣長の注釈】「頓使」。『日本書紀』一書に、「この雉は下って来て、粟畑や豆畑を見ると、とどまって帰らなかった。これが、世にいう、雉の頓使の由来だ」とある。頓を「ひた」と訓むのは、『日本書紀』の「頓丘、これは、ひたをという」が、確かな根拠である。また垂仁天皇の巻に、「生死を考えず、ひたすら力を競おう」、履中天皇の巻に、「これから後は、きっぱり絶ち、両方に踏み込まない」とある。そもそも「ひた」は、ほかにも、ひたすら、ひたもの、などと今もいい、純粋に一つの方向へ偏り、ほかを混ぜない意味なので、もとは、一つ、から出た言葉だろう。『万葉集』の、ひたつち、ひたさを、なども、土だけ、麻だけで、ほかを混ぜない。それなら頓使は、副使も従者もなく、一人だけの使いをいうのだろう。『日本書紀』欽明天皇の巻に、単使ともあり、これも、ひたづかひ、と訓んでよいだろう。このことわざを言い習わす意味は、この雉の使いが、射殺されて帰らなかったため、人の世で、大事な使いを遣わすとき、副使も従者もなく一人だけなのを、雉の頓使といい、忌むことにしたのだ。前に、雉が帰らない、といって、このことわざを挙げたので、帰らない例を忌んだのである。『日本書紀』でも、帰らない、という言葉から、つなげていうことを、考えていただきたい。『口決』で「頓使は、急ぎの使い」、『纂疏』で「突然、使いを遣わすこと」というのは、頓の字の意味だけを考え、「ひた」という言葉に当たらず、誤りだ。これらの注に従うなら、ひた、と訓むのは誤りで、はやづかひ、にわかづかひ、などと訓むべきだ。しかし、その意味では、ことわざになった理由もはっきりせず、前の事柄を見ても、そういう理由がないので、どちらにせよ誤りである。
【宣長の注釈】さて、ひた、に頓の字を当てる理由は、何なのか。字書を考えると、この字には、ひた、と訓む意味は見えない。しかし、前に引いた『日本書紀』の頓丘はもちろん、垂仁・履中の巻などで使うのも、必ず、ひたぶるに、という所なので、何か根拠があるように見える。これは、なおよく考えるべきだ。純の字には、屯という音もあるので、これと音が通う例はないだろうか。純は、ひた、に当たる。『万葉集』巻十二に、純裏衣とあり、これらも、ひた、と訓めるだろう。『日本書紀』で、ひたを、を頓丘と書くのは、『詩経』衛風に、頓丘に至る、ということがあるので、これを取ったように見えるが、よく考えると違う。その頓丘は、毛萇の伝に、「丘が一度でできたものを頓丘という」といい、『前漢書』地理志に「頓丘県は東郡に属す」、顔師古の注に「丘によって県に名づけた。丘が一度でできるものを頓丘といい、一度にできたということだ」とあるのからすると、速くできたという名に聞こえ、小さな丘をいう。それなら、その頓丘に、ひたを、の意味はない。もし一成という注から取ったかともいえるが、その一成の一は、一回の意味で、ひた、は純粋に一つへ偏る意味なので、同じではない。また、日本の上代に、一度でできた、などという意味で、ひたを、と名づけるはずもない。小さい丘なら、そのまま小丘というべきで、『古事記』の歌にも、小丘という言葉がある。だから『日本書紀』の頓丘は、『詩経』の字を取ったのではなく、ひた、に使う頓の字を書いたのが、たまたま『詩経』にも、同じ名があるだけだろう。『日本書紀』の注で、これを小丘、小山というのは、『詩経』に拠った誤りだ。ひたを、は、片岡、片山などと同じ意味で、片寄った丘だろう。これについて以前、頓には、ひた、の意味がないので、頗丘の誤りか、頗傾などもあり、頗は、ひた、の意味に合う、と思ったが、やはりそうではなかった。また『日本書紀』景行天皇の巻の「兵を挙げ、一挙に熊襲を誅する」、神功皇后の巻の「大軍を起こし、すぐに新羅を滅ぼそうとする」の頓を、ひたぶるに、と訓むのは、あの頓丘の訓注によるが、当たらない。これらは、すみやかに、などと訓むべきだ。これは、頓の字の議論のついでにいうことである。
【古事記本文】そこで、天若日子の妻、下照比売の泣く声は、風とともに響き、天へ届いた。天にいた、天若日子の父、天津国玉神と、その妻子は、これを聞き、下って来て、泣き悲しんだ。その所に、死者を納める喪屋を作り、河鴈を、死者への食物を運ぶ、きさり持ちとし、鷺を、ほうき持ち、翠鳥を、食事を用意する者、雀を、臼をつく女、雉を、泣く女に定めた。「岐」から下の三字は、音を表す。このように行う役を定め、八日八夜、葬いの歌舞を行った。
【宣長の注釈】「与風」は「かぜのむた」と訓むべきだ。風とともに、ということだ。『万葉集』巻二に、「波とともに、あちらへ寄り、こちらへ寄る」、また「髪が、風とともになびくように」、巻十に、「峰の上に降り積もった雪が、風とともに、ここへ散るらしい」、巻十二に、「風とともに、雲が行くように」、巻十五に、「風とともに寄せる波に」とある。ほかにも多い。
【宣長の注釈】「響」は、声の余韻が長く続くのも、声が遠い所へ伸びて行くのもいう。
【宣長の注釈】「到天」の到は、「きこゆ」とも訓めるが、やはり「いたる」と訓むべきだ。薬師寺の仏足石の讃歌に、「御足の跡を作る、石の響きは、天に至り……」、『万葉集』巻十一に、「呼ぶ声が、届かないのだろうか」などとある。
【宣長の注釈】「天にいる」は、「その妻子」までにかかる。
【宣長の注釈】「聞いて」。人の死を悲しんで泣くときは、一般に、その人が生きていたころのことなども語り続け、また人麻呂が妻に先立たれた歌、『万葉集』巻二の、「どうしようもなく、妻の名を呼び、袖を振ったことよ」のように、その名も呼ぶ。それで今、あの泣く声を聞き、天若日子が死んだことを知るのである。『日本書紀纂疏』に、「天国玉が、泣く声を聞くとは、天の耳が通じ、また父子は同じ気なので、ひそかにその死を知ったのをいう」とあるのは、何事か。神代の故事を、中国風の考えで見るから、このようなくどい理屈が出るのだ。
【宣長の注釈】「その所で」とは、天若日子が死んだ所である。天若日子は天から下った神なので、亡骸を持ち帰り、天上で葬いを行うべきなのに、そうせず、そのまま死んだ所で行う。これは、『日本書紀』の伝えと大きく違う。
【宣長の注釈】「喪屋」。まず「も」という言葉は、「まがごと」を縮めたものだ。「まが」を縮めると、ま、「こと」を縮めると、こ、で、「も」となる。死んだことだけではなく、何でも凶いことをいう。だから『万葉集』巻五に、「命のある限りは、平らかに安らかでもあろうに、何事もなく、災いもなくあろうに」、また「旅先でも、無事で早く帰って来て、と」、巻十五に、「今だけでも、無事に行こうと」、また『六帖』『伊勢物語』に、「私まで、裳がなくなるように、災いもなくなりそうだ」とある。これらの「もなく」は、無事という意味だ。死は、あらゆることの中でも凶いことなので、そのときのこと全般を「も」といい、喪の字を当てた。喪屋は、亡骸を納め、その事柄を行う所である。昔、天皇が崩御すると、埋葬までの間、殯宮という所にお置きし、葬送に先立つ儀礼をお勤めした例を考えると、上代には、普通の人にも、喪屋を作ったのだろう。殯宮については、訶志比の宮の段、伝の巻三十、二十七葉で詳しく述べる。『日本書紀纂疏』でも、「喪屋とは、殯宮だ」と注する。『日本書紀』には、「天国玉は泣く声を聞き、天稚彦が死んだと知り、疾風を遣わして、亡骸を天に運ばせ、喪屋を造って殯した」とある。また一書に、「天稚彦の妻子は、天から下り、棺を持って天へ上り、喪屋を作り、亡骸を納めて泣いた」とある。この殯を、天上で行ったとするのは、『古事記』の伝えと大きく違う。
【宣長の注釈】「河鴈」。この名は、ここと、『日本書紀』の海神の宮の段の一書に、「川鴈が、網にかかり……」とある、二つ以外には見えない。ただの鴈を、こうもいうのか。『口決』では、そう注する。それとも、川鳥などのように、別の一種があるのか。『纂疏』には、「鴨や鴈の類をいう」とある。これは、鴨の一種に、かる、というものがあり、古書で、かりのこ、というのが、その子なので、それを思い、鴈も外さず、両方を外さないように注したのか。それなら信じられない。それとも、川に住む鳥を、一般に河鴈といった根拠があり、その意味で注したのか。それは、そうかもしれないが、ここは、いろいろな鳥を並べた一つなので、名前を総称では呼ばず、一つの鳥の名だ。川千鳥などは、ただの千鳥で、浜千鳥、磯千鳥ともいい、川にいることをいうので、この例とは違う。なお探るべきだ。
【宣長の注釈】「さぎ」の字。延佳本では、普通の鷺と書くが、中巻の垂仁天皇の段の鷺巣池も、底本と同じ異体字で書き、ここも、そこも、諸本は皆同じだ。『字鏡』にも、この異体字に、さぎ、という読みがある。昔は、多くこのように書いたのだろうから、今もそれに従った。『和名抄』には、「鷺、和名、さき」とある。
【宣長の注釈】「翠鳥」は、前の八千矛神の御歌に、そにどり、とあり、その所、伝の巻十一、三十七葉で詳しく述べたとおりだ。ここも「そに」と訓むべきである。『日本書紀』では「そひ」と訓むが、やはり「そに」が、もとの形である。
【宣長の注釈】「雀」。『和名抄』に、「雀、和名、すずめ」とあり、下巻の朝倉の宮の天皇の御歌に、庭雀、と詠んでいらっしゃる。『古事記』では、雀の字を、大雀命、雀部など、「さざき」に使うが、『日本書紀』では、さざき、に鷦鷯と書き、ここは「雀を、臼をつく女とする」とあるので、やはり、すずめ、である。
【宣長の注釈】「岐佐理持」。『日本書紀』の「持傾頭者」を、『私記』の師の説に、「葬送のとき、死者の食物を載せ、片向きに歩く人である」という。この説が、「持傾頭」の字にとらわれず、こう注するのは、何か根拠があったと見えるので、従うべきだ。『日本書紀』武烈天皇の巻に、鮪臣が殺された所へ、影媛が追って行き、詠んだ歌がある。「美しい食器に、飯まで盛り、美しい器に、水まで盛り、泣きぬれながら行く、影媛、ああ、いたわしいこと」。そして影媛が亡骸を収めて葬った、とある様子は、まさに、死者の食物を載せて行く、に似る。大嘗祭式には、斎場から大嘗宮へ、両国の供物を渡す行列のうちに、御膳の台を載せる女八人、とある。葬儀ではないが、様子は似る。さて、『日本書紀』で、持傾頭、と書くのは、どういう理由か。『口決』で、死体の傾いた頭を助ける、といい、『纂疏』で、死者の頭を持ち上げる者だ、などというのは、ただ字面だけを考えた無理な説で、論じるほどもない。送り去るとき、頭が傾くから、きさり持ち、というなども、まったく理由がない。はっきりしないのである。
【宣長の注釈】しかし、この字と『私記』の説を合わせ、よく考えると、食器の飯を、背へ垂らして持つ、ということだろうか。「けひ」は「き」、「せた」は「さ」と縮まる。背垂とは、俗に、物を背負うのを、せたら負う、という言葉があり、肩から背へ垂らして負うという意味だ。それなら『私記』の「戴」は、頭のてっぺんへ、正しく載せるのではなく、頭を前に傾け、うなじから背にかけて、飯の器を置いて歩くのだろう。それで『日本書紀』では、傾頭と書いたのか。そうなら「持」は、傾く頭を持つのではなく、持って、頭を傾けるということだ。それなら、「食を持ち、頭を傾ける者」などと書くはずなのに、食の字がなく、持つ姿だけを書いたのは、どうかと思うが、食などの字が、後で抜けたのかもしれない。そうでなくても、この役は、ほかのことには例がなく、葬儀だけにあって、頭を傾け、うつむいて歩くのが珍しいので、姿によって名づけ、その意味を取り、字も姿によって書いたのかもしれない。また、することは以上のようで、名の意味は、こうべを傾け、背に垂らして持つ、でもあろうか。「かぶし」は「き」と縮まる。そうして持って行くので、その飯の名を、こうべを傾け、背に垂らす、というのを縮め、きさり、と呼び習わしたのだろう。その、きさりの飯を持つ、という意味だ。こう見れば、『日本書紀』の傾頭は、そのまま飯をいう。『私記』の片行は、間に向の字などが抜けて、片向きに行く、などだったのか。そうでないと、片行ということが分からない。あちらもこちらも、この片行には、傾頭の意味がありそうに見える。河鴈の首の姿が、きさり持ちの形に似ることがあるので、この役を当てたのだろう。今、私の郷里の風俗で、葬送に、水持ちという者がある。死者の乳母など、親しい女が、白い着物を着て、頭も白い布などで結び、水を盛った器を持ち、先頭を歩く。あの影媛の歌の、美しい器に、水まで盛り、によく当たる。だから、この、きさり持ちも、諸国の葬儀の風習を尋ねれば、今も似たことが必ずあり、名も残っているかもしれない。
【宣長の注釈】「掃持」は、ほうき持ちである。『日本書紀』では、持帚者と書く。掃の字を、ほうきの帚に使った例は、字書には見えないが、「ははき」は羽で掃くという意味で、名詞と動詞の違いだけなので、日本では、昔、通わせて使ったのだろう。『万葉集』巻十六にも、玉掃と書く。これは葬儀のとき、ほうきを持って歩く者をいう。後世にも、葬儀以外でも、このことはある。『口決』に、葬るとき、喪屋を掃く人、とあるのは、合わない。それなら掃く人などというはずで、わざわざ、ほうき持ち、というのは、持って歩くための名だ。『台記』久寿二年十二月十七日に、「伝え聞くに、今夜、亥の刻に高陽院の亡骸を棺に納め……、すぐ福勝院へ移した……。お出ましの後、民部大夫重成が、ほうきで御所を払った」とある。『口決』の説は、このようなこともあったのを考えたのだろう。この役を鷺に任せたのは、頭の冠毛が、ほうきに似るからだ。
【宣長の注釈】「御食人」は、殯の間、死者へ供える食物を扱う人である。『日本書紀』の宍人者が、これに当たる。『私記』では、料理人の類だ、とする。宍人者も、『古事記』によって、みけびと、と訓んでもよいだろう。殯に供物を差し上げることは、『日本書紀』の浄御原天皇の崩御の段にある。この役を翠鳥に任せるのは、谷川氏の説で、よく魚を捕るため、という。この鳥が、よく魚を捕るのは、中国の諸書にある。
【宣長の注釈】「碓女」は「うすめ」と訓むべきだ。『日本書紀』には舂女とある。つきめ、と訓むが、これも、うすめ、と訓むべきだ。今も、米をつく男を、臼の者という呼び名がある。「女」は「部」という意味かとも思うが、やはり字のとおりだろう。女が稲をつくのは、『万葉集』巻十四の東歌などにも見える。この役について、まず『和名抄』祭祀の道具に、「粢餅。『漢語鈔』に、しとぎ、祭りの餅である、とある。稞米。『漢語鈔』に、かしよね、清めた米である、とある。粺米。『離騒経』の注に、粺は、精米で、神に供えるもの、とある。和名、くましね」とある。粺は、糈の誤りだ。精を、俗に粺に書く、と字書にあるので、これから誤ったか。粢餅は、今いう白餅、稞米は、今いう洗米である。それなら上代には、殯でも、これらを供え、その米をつく女だろう。ただ飯にする米なら、それをつく者と、別に挙げるはずはない。右の物は、米のままで供えるので、つくのが、その作り方であり、役の者を挙げたのだ。ただし、郷里近くの村々では、人が死ぬと、庭に臼をたくさん置き、わざわざ米を多くつく仕事がある。他国にもあるだろう。これは上代の儀式が残ったのかもしれない。これで考えると、供物の米だけでもないだろうか。また『口決』で、しとぎを作り、死者の口に含ませるため、とするのはよくない。雀に、この役を任せるのは、これも谷川氏の説で、雀は歩かず、跳ぶのが、米をつくのに似るためだ、という。本当にそうかもしれない。
【宣長の注釈】「哭女」は、『日本書紀』仁賢天皇の巻に、なぐめ、とあるが、それは人名で、別なので、ここは「なきめ」と訓むべきだ。これも谷川氏が、「かつて聞いたのに、紀伊の熊野では、家に死者が出ると、おしゃべりな老婆を雇い、泣いて近所へ知らせさせる。報酬の多寡に応じて、泣き方にも軽重がある……」という。これは私も聞いた。報酬の多寡に応じる、とは、二升なら泣き、三升なら笑う、などと決めるという。この風習を聞くと、上代も思いやられる。雉にこの役を任せるのは、声高く鳴く鳥だからだ。
【宣長の注釈】『日本書紀』には、「川鴈を、頭を傾けて食物を持つ者と、ほうきを持つ者にし、雀を米をつく女にした。一説には、鶏を食物を持つ者、川鴈をほうきを持つ者にしたという。一説には、川鴈を、食物を持つ者、また、ほうきを持つ者、鷺を、死者の身代わりとなる者、雀を米をつく女、鷦鷯を泣く者、鵄を綿を作る者、烏を料理する者にして、あらゆる鳥に、仕事を任せた」とある。このうち、尸者、造綿者の二つは、『古事記』にはない。尸者というものは、たいへん疑わしい。中国で尸という者は、『礼記』に、神のかたどり、とあり、先祖の祭祀に設けるものだ。男を祭るには男、女を祭るには女を使う。そして、孫が祖父の尸になる、とあり、孫を尸にするので、父は逆に、自分の子を、父として祭ることになる。しかし、この尸も、中国でも古い風習で、あってはならないような行為なので、後世には、まったくない。まして日本には、そんな行為があったとは思えない。だから「ものまさ」は、後に漢籍を読むため作った、尸の訓なのを、この段にふさわしいと思い、後の人が書き加えたのかもしれない。もしそうなら、中国でも、死んだ直後の供物には、例のないことなので、合わない。また、もし上代の殯で、ものまさ、というものが実際にあったなら、中国の尸とは、必ず違っただろうに、『日本書紀』の、尸者、という書き方が合わないのか。『口決』の、「尸者は、死者の衣を着て、弔いの人に会う」というのは、死者の着る衣を着て、弔問に来た人へ見せる者と聞こえ、中国の尸とは違う。漢籍の趣に従わず、こう注するのは、当時、そうした風習があったのかもしれない。もし昔からあったなら、尸にも似た所があるので、『日本書紀』で尸者と書いても、悪くないのか。どちらにしても疑わしい。
【宣長の注釈】「造綿者」は、『私記』に、「今、水を綿に含ませ、死者の体を清める人をいうだけだ」とあるが、その程度の綿は、たいへん少ないので、それを作る者として、別に役を当てるはずはない。そこで思うに、亡骸が動かないため、棺の中の空いた所を、上代は綿で詰めたのだろう。その綿は多くいるので、それを作る者をいうのか。しかし、これらは、たいへん決めにくいことである。
【宣長の注釈】さて、これらの葬いの仕事を、このように、皆、鳥に任せた理由は、まだ確かには分からない。ひとまず『日本書紀纂疏』の、「稚彦には、雉による災いがあったので、多くの鳥に葬儀の役を任せ、それを明らかにした」というのに、従っておこうか。神代には、普通の考えでは推し量りにくいことが多い。天若日子は、前にもいったように、ひどく罪深い姿で、特に低く見て伝えたと見えるので、葬いにも、ひどく疎まれ、集まる人がいなかったのだろう。それで仕方なく、鳥に仕事を任せた、ともいえる。しかし、次の、八日八夜、歌舞をした、ということを考えると、それほど物の欠けた葬儀をいう、言葉の勢いではない。古文を読むと、明記していなくても、文章全体の調子から、おおよその趣は分かるものだ。『口決』で、鳥を使って亡骸を辱めた、といい、卜部兼倶の説で、上古は野ざらしの葬いで、鳥に食べさせた、というのは、いつもの小賢しい後世の考えなので、論じるほどもない。
【宣長の注釈】「行定而」は、「おこなひさだめて」と訓むべきだ。『日本書紀』神代の巻に、「彦火々出見尊は、女を取って、乳母・湯母、また飯嚼という食物を噛んで与える役や、湯坐という湯浴みの役とし、すべての役の者を備え、世話をして育てた」とある。「おこなふ」は、仕事を割り当て、定めることをいい、中昔までも、この例は多い。延佳本で、行、を「おきつ」と訓むのも、意味は合う。おこなう、は、後世には重い意味だけで使うが、昔は軽くもよく使った。『日本書紀』允恭天皇の巻の歌にも、「蜘蛛の、おこない」と詠む。『古今集』では、蜘蛛のふるまい、として入る。『土佐日記』に、「米や魚などを乞うので、贈った」とあり、一本では、贈つ、とある。『落窪物語』に、「入って来て、ここは雑仕の所だ、などと定め、こうせよ、ああせよと指示して、直させる」とある。『枕草子』では、格子を上げるのを、御格子おこなう、とする。『源氏物語』須磨の巻に、「近くの、あちこちの荘園の役人を呼び、必要なことなどを、良清朝臣が親しい家司として、命じ、取り計らうのも、しみじみする」とある。
【宣長の注釈】「日八日、夜八夜」。八日は八夜と対になっているので、「やひ」と訓むようにも思えるが、やはり「やか」と訓むべきだ。中巻の倭建命の段の歌に、「日を重ね並べて、夜は九夜、日は十日を」とある。夜に対しても、日を、いくか、という証拠である。八日は、『古今集』などに、やうか、とあり、普通もそういうが、それは音便で、や、を伸ばしたもので、正しい古語の形ではない。六日を、むゆか、というのも同じである。だから、やか、むか、と書き、やうか、むゆか、と読むのは、よいだろう。二日・三日・八日・十日などの「か」は、日数をいう語で、あの御歌の「かがなべて」も、日々を並べて、日数を数えることをいう。指を折り並べ、考え、などとする説は、皆、誤りだ。「か」は「け」と音を通わせる言葉で、「け」は、経た日数が長いのを、『古事記』『万葉集』の歌に多く、けなが、といい、また毎日を、あさにけに、と多く詠む、その、け、だ。食は、け、という音を借りた字である。その、あさにけに、を、朝に日に、とも詠むので、「け」は日数だと確かめられる。け、は、来経を縮めたもので、来経、ということは、倭建命の段の歌に見える。その所、伝の巻二十八、十五葉で詳しく述べる。だから、二日・三日などは、二来経、三来経、ということだ。
【宣長の注釈】師が、この「か」を、数の省略としたのは、よくない。もし数という言葉なら、七日は七数、八日は八数ということで、七日の日、八日の日と、数という言葉を添えて数えるのも、くどく、そのようなことがあるとも思えない。また七数、八数などとは、どういうことだろう。数なら、日に限らず、何の数にもいうはずなのに、ほかには例がなく、日数だけにいうのは、どうしたことか。七来経の日、八来経の日なら、何の差し支えがあろう。二日以上は皆、いくか、というのに、一日だけは、ひとか、といわないのは、なぜか、まだ分からない。こういう言葉は、神代のままの古語なので、必ず理由があるはずだ。また二日・七日は、ふたか、ななか、というはずなのを、た、を、つ、な、を、ぬ、へ転じるのは、ただ音が通うまま、言い慣れたものだろう。さて、日数を数えて何日という中には、夜も含まれるのを、八日八夜などと分けていうのも、古語の言い回しだ。八日の間、夜も昼も、という意味だと思う人もいるだろうが、次に引く鎮火祭の詞は、その意味がない例なので、考えていただきたい。鎮火祭の祝詞にも、「夜は七夜、昼は七日」とある。下の夜を、今の本で日とするのは誤りで、『元々集』に引く夜を使うべきだ。『山城風土記』にも、「神々を集め、七日七夜、楽しく歌舞をした」とある。ここの八も、いつもの「いよいよ多い」という意味で、何日も、というのか、実際に八日八夜でもあろう。
【宣長の注釈】「以」は「を」と訓むべきだ。
【宣長の注釈】「遊也」は「あそびき」と訓むべきだ。遊とは、管弦・歌舞の類をいい、楽の字に当たる。石屋戸の段、伝の巻八、六十三葉でも述べ、訶志比の宮の段、伝の巻三十でも詳しく述べる。上代には、殯のときも、主に音楽や歌舞を行ったことが、ほかにも古書に多く見える。『日本書紀』允恭天皇が崩御した所に、「新羅王は、天皇の崩御を聞き、驚き悲しみ、調の船八十艘と、さまざまな楽人八十人を献上した……。難波津へ泊まると、皆、白い喪服を着て……、さまざまな楽器を広げ、難波から都まで、泣く者、歌い舞う者があり、ついに殯宮へ参集した」とある。新羅は異民族だが、日本に従う国なので、日本の礼を奉仕したのである。天武天皇の崩御の所に、「……次に、国々の国造たちが、参った順に、それぞれ誄を申し、さまざまな歌舞を奉った」とある。持統天皇の巻に、「元年春正月一日、皇太子は、公卿・役人たちを率いて殯宮へ行き、慟哭した……。供物を終えると、膳部・采女たちが声を上げて泣き、楽官は音楽を奏した」、「二年冬十一月四日、皇太子は、公卿・役人たちと、諸国の客を伴い、殯宮へ行き、慟哭した。供物を差し上げ、楯節の舞を奉った……」とある。これも同じ天皇の殯のときだ。また継体天皇の巻に、近江の毛野臣が、新羅から帰る途中、対馬で死んだのを、郷里に返して葬ろうと、淀川を船で上るとき、妻の歌に、「枚方から、笛を吹く音が上る……」などとある。『旧事紀』で、饒速日命の死去の所に、「七日七夜、歌舞をし、泣き、天上で亡骸を納めた」とあるのは、疑わしいことがあるので、例に引くべきではない。『霊異記』で、朝倉の宮の御代に、雷を捕らえた小子部栖軽のことを記す条に、「栖軽が死ぬと、天皇は、七日七夜とどめ、その忠誠を詠ませた」とあるのも、この人の功績を歌わせたのだ。また『日本書紀』天武天皇の巻に、「大伴連望多が死に……、鼓を鳴らし、吹きものを奏して葬った」とあり、『続日本紀』で、長屋王と吉備内親王を葬るときの詔に、「吉備内親王には罪がない。例に従って葬送し、ただ鼓吹だけをやめよ」とある。これらを見ると、そのころまでも、親王・公卿などのときも、そうしたことがあった。ただし喪葬令で、太政大臣・親王から三位までの葬具の式を載せるうちに、「親王・一品は、鼓百面、大角五十口、小角百口……」、「三位は、鼓四十面、大角二十口、小角四十口……」とある。それによると、鼓吹は、普通の管弦ではなく、鼓と大角・小角なので、普段の音楽ではない。大角・小角は、日本でも、もっぱら軍で使う器具で、普通の笛の類ではないからだ。しかし葬儀でそれを使うのも、もとは上代の歌舞の、形の残ったものだろう。この鼓吹から、上代の歌舞も、その類かと疑う人もいるだろうか。しかし上代は、角のような笛ではなく、普通の音楽だったことが、以上の書物の趣で分かる。天武・持統の巻に見えるのもそうなので、そのころでも、天皇のときは、なお上代どおりだったのだろう。
【宣長の注釈】喪葬令の「遊部」も、師は、この歌舞を行う者だろうといった。『義解』の説は、誤りだろう。さて、葬いで、こうして音楽や歌舞をする理由は、人の死が、あの天照大御神が天の石屋へ隠れ、世が闇夜になったことに似るからだ。『万葉集』巻二で、天武天皇の崩御を、「天の原の、石戸を門として、神として上っていらっしゃった」と詠み、巻三で、河内王を豊前の鏡山へ葬った歌に、「豊国の、鏡の山の、石戸を立てて、隠れてしまったらしい」とあるのも、この意味を考えたものだ。そのときの故事をまね、歌い、楽しみ、その人に、再びこの世へ帰って来てください、と招き祈る心から起こった。鎮魂祭の儀式にも、その故事をまねる儀式があることで分かる。鎮魂祭の儀は、石屋の段に引いた。それなのに『日本書紀』で、ただ「八日八夜、泣き、悲しみの歌を歌った」とだけいい、楽のことを記さないのは、日本の古い礼を忘れ、ひたすら中国風に書き直したものだ。悲しみの歌だけでは、昔の意味に背くではないか。楽は、死者に、また帰って来てほしいという心で、おもしろい所作をするので、悲歌だけではない。取り違えてはいけない。葬儀で音楽など、あるはずがないと思うのは、中国風の考えだ。それをするのも、もとは悲しみのあまりなのだから、何の差し支えがあろう。昔のことを、中国に例がないと疑い、このように言葉を曲げ、無理に中国へ合わせるのは、学者の癖である。漢籍の『後漢書』でさえ、日本のことを記すのに、「死ぬと、十余日、葬るのをとどめ、家の者は泣き、酒食を口にせず、仲間たちが集まって、歌舞をして楽しむ」というのに。
【古事記本文】このとき、阿遅志貴高日子根神が来て、天若日子の葬いを弔った。「阿」から下の四字は、音を表す。すると、天から下って来た天若日子の父と、その妻が、皆、「わが子は、死んでいなかったのだ」、「わが夫は、死んでいらっしゃらなかったのだ」といい、手足にすがりつき、泣き悲しんだ。「祁理」の二字は、音を表し、後も同じだ。取り違えた理由は、この二柱の神の姿が、たいへんよく似ていたからである。そこで阿遅志貴高日子根神は激怒し、「私は、親しい友だからこそ、弔いに来たのだ。どうして、私を汚らわしい死人と同じにするのか」といい、身に帯びた、長い十掬の剣を抜き、喪屋を切り倒し、足で蹴り放った。これが、美濃国、藍見河の川上にある、喪山である。その、切った太刀の名を、「大量(おおかり)」といい、また神度剣という。度は、音を表す。阿遅志貴高日子根神が、怒ったまま飛び去るとき、その同母妹、高比売命は、御名を明かそうと思い、歌った。「天にいらっしゃる、愛しい機織りの女が、首に掛けている、美しい玉飾り。その穴玉のように、輝き映えて、谷を二つ、照らし渡るのは、阿遅志貴高日子根の神なのですよ」。この歌は、夷振である。
【宣長の注釈】「到而」は、「きまして」と訓むべきだ。
【宣長の注釈】「わが子は……」は、父の言葉である。
【宣長の注釈】「此二字……」という八字の注は、どうだろう。前の「いたくさやぎて、ありけり」の下に、すでに「この二字は音を表し、後も同じだ」とあるからだ。だから、あちらの「下效此」の三字でも、こちらの注でも、どちらかを削っておけばよいだろう。
【宣長の注釈】「我君者」。師は「あがせは」と訓んだ。妻の言葉なので、そういうこともあるが、君と書くからには、「きみ」と訓むべきだ。『日本書紀』の、しなぎ、という訓は、昔、そのような呼び名もあっただろうが、確かな根拠も見えず、例もないので、従いにくい。仁徳天皇の段の歌に、「あがせのきみ」と詠む。しなぎ、は、せなきみ、が転じたのか。
【宣長の注釈】「坐祁理」。前は父の言葉なので、ありけり、といい、こちらは妻の言葉なので、いましけり、という。二つの「けり」の働きは、あの「いたくさやぎて、ありけり」の、けり、と同じだ。
【宣長の注釈】「手足に取りすがって」。見て分かるとおりだ。細かくいえば、父は手に、妻は足に、取りすがったのだろう。しかし、そこまで細かく読むのは、くどすぎるだろう。『万葉集』巻四に、「袖に取りすがって、泣く子にも……」、巻二十に、「衣の裾に取りついて、泣く子らを……」などとある。
【宣長の注釈】「過」は、阿遅志貴神を取り違え、天若日子だと思ったことをいう。
【宣長の注釈】「容姿」は、「かほ」と訓むべきだ。『日本書紀』では、面貌・顔色・顔容・顔貌・姿色・相貌などはもちろん、容姿・形容・形姿・貌容・容止なども、皆そう訓む。『万葉集』にも、姿・貌・容などがある。「かほ」は、まず顔の形をいう名で、体全体の形まで含む。右の字でも、理解できる。漢文の好色などの色を、中昔以来、日本でも、いろ、というが、それは古語ではない。それで『日本書紀』では、その意味の色も、かほ、と訓む。また今は、ただ顔面を指して、かほ、というが、それは違う。この二柱の神が似るのも、顔だけでなく、体全体の姿をいうので、今の人の気持ちでは、容姿を「かほかたち」と訓み、「かほ」だけでは言葉が足りないと思いそうだが、そうではない。
【宣長の注釈】「過也」は、「あやまつる、なりけり」と訓むべきだ。前に語ったことを、このように説明する言葉を、なりけり、で結ぶのが、雅文の決まりである。『日本書紀』に、「以前、天稚彦が葦原中国にいたとき、味耜高彦根神と、よい友だった。それで味耜高彦根神が、天へ上って弔うと、この神の姿が、生前の天稚彦に、まさしくよく似ていた。天稚彦の親族・妻子は、皆、わが君が、まだいらっしゃった、といい、着物や帯を引き、喜びながら慟哭した」とある。また一書に、「以前、天稚彦と味耜高彦根神は、よい友だった。それで味耜高彦根神が天へ上って弔ったとき、この神の姿が、天稚彦とまったく似ていたので、天稚彦の妻子たちは、見て喜び、わが君が、まだいらっしゃった、といい、着物や帯をつかみ、払い離せなかった」とある。
【宣長の注釈】「愛友」は「うるはしきとも」と訓むべきだ。『日本書紀』神功皇后の巻に、善友ともあり、『伊勢物語』に、昔、男に、とても親しい友がいた、などとある。友との交わりが親しいのを、うるはし、という。『万葉集』巻十八の、うるはしみすれ、というのも、親しく交わることをいう。普通にいう、仲がよい、だ。この二柱の神の交遊は、天若日子が、この国に下ってからだろう。『日本書紀』の趣も、そう聞こえる。下照比売の、同母の兄神でいらっしゃるので、縁もたいへん近い。『神名帳』では、出雲国出雲郡に、阿遅須伎神社と天若日子神社が、並んで載る。今の本では、遅の字を庭と誤る。『文徳実録』巻三に、出雲国、阿遅須伎高彦命神へ、従五位下を授けた、とあるのは、この社だろう。
【宣長の注釈】「故弔来耳」。耳の字を、こそ、に当て、「うるはしきとも、なれこそ、とぶらひきつれ」と訓むべきだ。親しい友だからこそ、弔いに来たのだ、ということだ。なれこそ、は、なればこそ、の意味で、ば、を省くのが、古語の形だ。耳を、のみ、と訓んでは、漢文読みになる。古語はいうまでもなく、中昔の雅文でも、言葉の終わりを、のみ、と投げ出すことはない。こそ、という語に、耳の意味がある。これは、巻の初めで詳しく述べたとおりだ。また漢文では、来弔など、来るを先にいうが、日本では、昔も今も、弔い来る、のように、来るを後にいうのが決まりだ。これは、文を書く人の心得としていう。
【宣長の注釈】「比穢死人」は、「きたなき、しにびとに、なぞふる」と訓むべきだ。死人は、『日本書紀』垂仁天皇の巻の、従死の訓のように、必ず、しにびと、と訓むべきだ。比も、『万葉集』巻十一の、「天を照らす月も、隠れてしまった。何にたとえて、妻をしのぼう」などに従い、なぞふる、と訓んだ。『古今集』序の、なずらへ歌、も、中国の比に当たる。師は「なぞも、あを、まがれるひとに、たぐへけがせるや」と訓んだが、よくない。死人も、ここは、まがれる人、なき人、などと訓む所ではない。また、比べて汚す、という言葉も、何となく、中国風につながっている。また、終わりの、や、もよくない。何・誰・幾などといい、下を、や、で結ぶことは、雅文にはない。漢文読みから移った近世の俗語なのに、師の文にも、いつもこの誤りが多いのは、どうしたことか。今の世には、この、てにをは、を見分ける人がいない。昔のよい文を、よく読んで理解していただきたい。『日本書紀』には、「味耜高彦根神は怒って顔色を変え、『友の道理として、互いに弔うべきだから、汚れを嫌わず、遠くから、悲しみの場へ来たのだ。なぜ、私を死者と取り違えるのか』といった」とある。注釈で、阿遅志貴神が、この葬いを弔ったことが、道義に合うか、合わないか、あれこれ論じるのは、まことにつまらない、中国式の議論だ。
【宣長の注釈】「蹶離遣」は、「くゑはなち、やりき」と訓むべきだ。くゑ、は、前の伝の巻七、四十二葉で述べた。離は、放つという字の意味で、どこへでも、行くに任せて放り出すことをいう。一つに合わさった物を分離する意味ではない。
【宣長の注釈】「此者」とは、その蹴り放った喪屋のことである。
【宣長の注釈】「美濃国」。中巻には、三野とも書く。名の意味は、真の野、広い野、だろう。
【宣長の注釈】「藍見河」は、はっきりしない。『日本書紀口決』に、厚見郡だ、とあるのは、そのころまでは、確かに、この名の川があったのか。『和名抄』では、不破郡に、藍川という郷がある。
【宣長の注釈】「河上」も、前の肥河上の例によって、かはかみ、と訓むべきだ。河原、川のほとり、とも訓む字だが、山の在りかを、川によっていうのに、ある山は、ある川のほとりにある、というのは、川が大きく、山が非常に小さいなら、そうもいえるが、川がそれほど大きくなく、山もそれなりなら、そうはいえない。今は、藍見河も喪山も、はっきりしないので、まずは、水源の方というのが、一般的な見方だろう。
【宣長の注釈】「喪山」も、はっきりしない。ある人は、藍見川は、不破郡府中村の藍川で、喪山は、その上にある、送葬山だという。なお、その国の人によく尋ねるべきだ。松下氏が、今の僧都山で、喪の音がなまったのだ、というのは、どうか。ただし、送葬山と僧都山は、音が近いので、同じ山か。また『万葉集』巻九の、「母山に、霞がたなびき……」は、『八雲御抄』に美濃とあるため、この喪山だろうか、と契沖はいった。この歌は、近江の湖で、船から遠くを眺めて詠んだので、美濃は隣国でも、やはり遠すぎるように聞こえる。また美濃のある人は、武義郡大矢田村に天王山があり、これが喪山だという。また飛騨国にも、荒城郡荒城郷荒城神社がある。上代に同じ国で、後に隣国へ分かれた類は多いので、これらにも注意すべきだ。信濃の木曽あたりも、昔は美濃国だったので、あちらでも探すべきだ。
【宣長の注釈】「大量」。名の意味は、『日本書紀』に、大葉刈と書くのが、それだろう。「大」は太刀の名にかかり、葉にかかるのではない。前の都知之禾利大刀、伝の巻九、三十五葉を考え合わせていただきたい。『日本書紀』に、刈は、がり、という、とあるので、あちらは、が、と濁らせるが、『古事記』は、量の字の音を借りて書くので、か、と濁らせず読むべきだ。
【宣長の注釈】「神度剣」。師の説で、神は、いつもの、ほめていう言葉、度は鋭いことだ、とある。そうかもしれない。それなら、度の後に、の、を添えて読むのは、よくない。出雲国に神門郡がある。この剣を、その土地から出たため名づけた、という説はよくない。その国の風土記を考えると、神門郡には、この神の由来があるが、かえって郡の名が、この剣の名から出たかもしれない。風土記の、郡名についての説は別である。また越中国新川郡に神度神社、但馬国気多郡に神門神社があり、『神名帳』に見える。『日本書紀』には、「帯びた剣、大葉刈、別名、神戸剣を抜き、喪屋を切り伏せると、落ちて山になった。今、美濃国の藍見川の上にある、喪山がこれである。世の人が、生きた人を、死者と取り違えるのを忌むのは、このことが起こりだ」とある。一書には、「十握の剣を抜き、喪屋を切り倒した……」とある。
【宣長の注釈】「忿而」。ここは、おもほてりて、と訓むのもよいだろう。『日本書紀』では、作色・慍色・赫然なども、そう訓む。顔が火照るという意味で、怒る顔色をいう。前に、すでに激怒したとあるのに、またこういうのは、最後まで心が解けず、怒ったまま帰ったということで、葬儀へ集まる神々に、挨拶もせず、名乗りもしなかった意味を、この言葉に含め、次の、御名を明かそうと思った、に対応させるのだ。『古事記』の文は、おおむね古伝のままなので、このような所に味がある。注意していただきたい。また、帰る、退く、ではなく、わざわざ飛び去るというのも、怒って速く去ったということだ。ただし飛ぶとは、実際に鳥のように、空を翔けるのである。速く行くのを、飛ぶ、というのではない。『落窪物語』の、飛ぶように出ていらっしゃった、や、普通に、速く行くのを、飛んで行く、というのとは違う。
【宣長の注釈】「伊呂妹」は、「いろも」と訓むべきで、同じ母から生まれた妹をいう。まず昔、きょうだいを呼ぶのに、弟や妹に対し、兄を、せ、といい、あに、ともいった。これは普通どおりだ。また姉に対し、弟も、せ、といった。須佐之男命が自分を、天照大御神の、いろせ、とおっしゃったようなもので、中昔までもそういった。姉に対し、弟を、おと、ということはなく、後世とは違う。妹に対しては、姉を、あね、といい、弟が自分で姉を指しても、あね、といった。ただし弟が姉を、あね、というのは、自分で呼ぶときのことで、ほかの人からは、弟に対して、姉も、いも、といった。中昔までもそうで、後世とは違う。兄に対しては、弟を、おと、といった。これは普通どおりで、姉に対し、弟を、おと、とはいわなかった。また姉に対し、妹も、おと、といった。中昔までもそうで、姉に対して、妹を、いも、とはいわず、後世とは違う。兄に対しては、妹を、いも、といった。これは普通どおりだ。姉に対して、妹を、いも、とはいわなかった。また弟に対しては、姉も、いも、といった。これは後世とは違う。
【宣長の注釈】同じ母のきょうだいの間では、せ、を、いろせ、あね、を、いろね、とも普通にいった。あね、の、あ、を省いて、ね、とする。黒田の宮の段に、いろね、とあり、『日本書紀』では、ある人の姉と書く。ね、は、もともと男女にわたる呼び名で、男の名にも使う。これは、中巻、浮穴の宮の段、伝の巻二十一、十葉で述べた。それなのに、あね、の、あ、を省き、同母の姉も、いろね、というのである。また、おと、を、いろど、ともいった。おと、の、お、を省き、ど、とし、濁るのは、いろ、から続く音の都合だ。例は、黒田の宮の段に、いろど、とあり、『古事記』には、伊呂弟ともある。いろ、という言葉の意味は、中巻、浮穴の宮の段、伝の巻二十一、十葉で述べる。これらに従えば、同母の兄に対し、妹を、いろも、といったのは確かだ。あね、が、いろね、おと、が、いろど、となる例で、いも、の、い、を省いて、いろも、とするべきだ。それで今、そう訓んだ。以前は、いろも、がほかに見えないので、伊呂妹の妹も、ど、と訓むべきだといったが、それは詳しくなかった。昔、兄に対し、妹を、おと、といった例がないからだ。『古事記』の伊呂弟は皆、弟で、妹には皆、伊呂妹と書く。黒田の宮の段の、いろど、という名も、姉に対していうので、兄に対していう例ではない。昔のきょうだいの呼び名も、男と女によって、以上のように違い、後世の形と異なることが多い。詳しく理解しないと誤る。『日本書紀』の訓や、『和名抄』などには、昔に合わないものも交じるので、よく見分けて採るべきだ。
【宣長の注釈】「高比売」は、下照比売の別名だ。前、伝の巻十一、五十八葉に見える。
【宣長の注釈】「御名を明かそうと思った」とは、この葬儀に集まる、天若日子の父、妻子・親族は、皆、天から下った神なので、阿遅志貴神を見知っていないのに、こうして怒り、最後まで名乗らず飛び去ったため、誰の神か知られないまま終わるのが残念で、御名を知らせようと思われたのである。同母妹の気持ちとして、確かにそういうこともあろう。『日本書紀』には、「味耜高彦根神の光る姿は、美しく華やかで、二つの丘と、二つの谷の間に輝いた。それで、葬儀に集まった者が歌った……」とあり、「ある説では、味耜高彦根神の妹、下照姫が、皆に、丘や谷へ輝くのが、味耜高彦根神だと知らせようと、歌った……」とある。この、ある説では、という文には、理解できないことがある。この一書では、前の文に、下照姫が天稚彦の妻になったことが見えないので、ここに急に、この姫神が出るのは、どうか。この神は、どういう縁で、この葬儀にいるとするのか。仮に補って、本文に、天稚彦の妻になったとあるので、ここでそういわなくても、そう聞こえるというのか。もしそうなら、「下照姫は、味耜高彦根神の妹である。それで、知らせようと……」と書くはずなのに、「味耜高彦根神の妹、下照姫」と書くのは、やはり天稚彦に縁がなく、急に出た気がする。『日本書紀』は、漢文を飾るため、古伝の文をあれこれ改めたので、かえって、このような誤りが多い。
【宣長の注釈】「あめなるや」は、天にある、ということで、や、は助詞である。米を『日本書紀』で妹とするのを、も、と訓むのは誤りだ。契沖は、「味・梅・毎などを、皆、め、に使うことから分かる。『古事記』の阿米と、浜成の式の阿売を証拠に、あめ、と読むべきで、天を、あも、という例はない」という。天若日子の葬儀を、『古事記』ではこの国のこと、『日本書紀』では天上のこととする。どちらがよいと決めるべきではないが、この歌にこうあるのを考えると、『古事記』の説が当たる。もし天上で詠むなら、天にいる、と、わざわざ断らないだろうからだ。『万葉集』巻七に、「天にある、姫菅原」、巻三に、「天にある、ささらの小野の」、巻十六に、「天にある、ささらの小野に」などともある。
【宣長の注釈】「おとたなばたの」は、弟棚機の、である。このようにいう「おと」は、人の末の子を、おとご、という、その、おと、だ。少女という意味に注するのは誤りで、少女は、おとめ、なので、音が違う。催馬楽の「我門」の、おとむすめ、また「葦垣」の、おとよめ、などもこれだ。末の子は、父母に特に愛されるものなので、そこから転じ、必ずしも末の子でなくても、愛されるという意味で、若い女などを、おと何々、といっただろう。ここもそうだ。契沖が、「弟である者を、親が特に愛するので、弟織女という」とするのは、私の説と同じ意味のようだが、言葉が足りず、紛らわしい。だから、右の催馬楽でも、末娘や、末の息子の嫁でなくても、そういえる。「我門」の歌に、「私の名を知りたかったら……、あやめの郡の大領の、愛娘、おとむすめ、といいなさい」とあるので、本当に末娘でもあろうが、自分でそう名乗る意味は、愛され、大切に育てられる女だということだ。それなら、末娘でなくてもいえる。また「葦垣」は、歌の意味がはっきりしないので、決めてはいえないが、歌詞に、とどろける、この家の、おとよめ、とあり、とどろける、は、世に名高く聞こえる意味に思えるので、これも人に愛される意味でもあろう。
【宣長の注釈】「棚機」は、機を織る女をいう。まず『古語拾遺』に、天棚機姫神に、神の衣を織らせた、とあり、『万葉集』の歌にも、たなばたつめ、たなばた、と詠む。もともと棚機は、機のことで、機の組み立てが棚だから、そういう。その機で織る神なので、棚機姫とも名を持ち、また普通の、機を織る女を、昔から、たなばたつめ、などというので、歌では、あの織女星も、そう詠むのである。だから、棚機は、機を織る女の呼び名だ。そもそも七月七日の夜、牽牛と織女という二つの星が会うのは、漢籍の話で、日本もならい、歌によく詠む。天の川を、天の安河と詠み、織女を、ふさわしそうな、たなばたつめ、と詠むのも、皆、勝手に当てはめただけで、実際のことではない。しかし、その説が世に広まるので、後世の人は、それだけよく知っていて、あの棚機姫神も、この歌の弟棚機も、織女星だとして注するのは、大きな誤りだ。たなばたつめ、を略し、たなばた、だけにするのも、昔から例が多い。師は、「この歌は、もと、たなばたつめ、だったのを、後に古歌をよく理解しない者が、誤って、おとたなばた、と改めたのだろう。略して、たなばた、だけにするのは、『万葉集』にもあるが、やや後のことだ。また直接、妹である女というのも、どうかと思うためだ」といった。それも一応はそうだが、よく考えると違うだろう。もと、たなばたつめ、なら、自然でよく聞こえるのに、何の理由で、少し難しい、おとたなばた、に改めようか。「おと」は、詳しく述べた意味で、美しさを極めていうため置き、必ずしも妹というのではない。また略して、たなばた、だけにするのも、必ずしも後のこととはいえない。海人という所を、あま、だけにする類で、例はたいへん多い。ただ、あの棚機姫神を指して詠んだともいえそうだが、「おと」とあるのを考えると、やはり普通の、美しい機織りの女である。式には、尾張国山田郡に、多奈波多神社もある。
【宣長の注釈】さて、ここで、美しい機織りの女を、先に出すのは、次に、玉の美しさをいうためだ。上代には、皆、玉で身を飾った中でも、機織りの女は、特に、『日本書紀』神代の巻で、「手の玉を、美しく鳴らし、紅を織る若い女」とあり、『万葉集』巻十一にも、「足の玉も、手の玉も、ゆらゆら鳴らし、機を織るのに」とある。なぜかといえば、いろいろな仕事で、声を上げ、歌を歌うなどして、労力を助けるように、機を織るときも、身につけた玉が、美しく鳴るのを、拍子に取るのだ。『万葉集』巻十九の、なるはたひめ、も、機を鳴らすという呼び名だろう。『日本書紀』仁徳天皇の巻の、雌鳥皇女の歌に、ひさかたの、あめかなはた、つまり天の金の機、とあるのを、『私記』で「昔、機を金の飾りで飾り、その鳴る声を取って織った」というのも、同じ意味だと考えていただきたい。玉の美しさをいうため、先に、その女が愛らしいという意味で、おと、といい、また、人も物も、天上のものは、特に美しいので、天にあるや、と置くのだ。
【宣長の注釈】「うながせる」は、契沖が、「首に掛けてあるということだ。『日本紀』に、その首に掛けた、五百箇の御統の玉……とあり、『万葉集』巻十六に、私が首に掛ける、七筋の玉、と詠む」という。立つ、を、たたせる、帯びる、を、はかせる、というのと同じ形だ。うながる、を伸ばし、うながせる、というのは、古語では普通だ。それは『日本書紀口決』に、首へ掛けることをいう、とある。うな、は、『和名抄』に「項は、首の後ろである。和名、うなじ」とある、これだ。『万葉集』巻十三の、「海人の若い女たちが、首に掛ける領巾まで、美しく光る」の、纓有も、うながせる、と訓むべきだ。今の本の、まつひたる、は誤りである。首に玉を掛けたことは、前の御頸珠、伝の巻七、三葉で述べた。
【宣長の注釈】「たまのみすまる」は、玉の御統である。御統は、前、伝の巻七、三葉に出た。
【宣長の注釈】「みすまるに」。歌うものは、同じことを繰り返し、言葉を重ねて歌うのが、昔も今も同じだ。この歌も、こう繰り返してこそ、調子がよい。『日本書紀』では、第四句の終わりに邇を添え、この句がないのは、同じ言葉なので、後で誤り、みすまる、の四字を抜かしたのである。古歌の様子を知らない後世の考えで、同じ言葉の重なりを余分と見て、気を利かせて削ったかもしれない。浜成の式というものにも、「たまのみすまろ、第四句。みすまろの、第五句」とある。邇は、八坂瓊などの瓊、つまり玉のことで、『日本書紀』には、の、とある。どちらでもよいが、の、の方が少しよく聞こえる。師は、『古事記』の邇も、廼の誤りのようにいったが、そうではない。『古事記』には、廼を音の仮名に使う例がなく、邇でも、よく通じるではないか。
【宣長の注釈】「あなだまはや」。玉は穴を開け、ひもを通すので、穴玉という、と契沖もいった。確かにそうだ。あな、を感嘆の言葉とする説は、誤りだ。ただ、穴玉というのは、ほかに例が見えず、玉の光の美しさをいうのに、穴を挙げるのも、理由なく聞こえ、疑わしい。そこで、あかだま、の誤りではないかと思う。赤玉は古歌に多く、この巻の末の御歌の、「赤玉の、光は……」などは、特によく合う。加と那の字が少し似るので誤ったか、韻が同じなので、歌いなまったかもしれない。ただ『日本書紀』にも阿奈とあるから、誤りでも、『古事記』などより前のことだろう。さて、前で玉の、瓊、といい、ここでも玉という。このように同じことを、いろいろ長く連ねるのが、古語の美しさだ。大祓の詞の、「荒潮の、潮の八百道、八潮道の、潮の八百会」なども考え合わせていただきたい。「はや」は、光り映えて、照り輝くということだ。え、と、や、は音が通うが、はえ、という所を、はや、とすると、何となく落ち着かなく聞こえるようでも、え、を、や、というのがよいのだ。『日本書紀』の速玉之男、式の熊野早玉神社、陸奥国志太郡の敷玉早御玉神社も、皆、輝く玉という意味と考えていただきたい。速・早は、音を借りた字で、玉に、速いという理由はない。また『日本書紀』の羽明玉の羽も、映える意味だろう。『万葉集』巻十七の、たまはやす、も、玉が映えるということだ。ゆ、を伸ばし、やす、とするのが古語の形で、映えさせる、という意味ではあるまい。『万葉集』で、これを武庫の枕詞にするのは、玉はや、むかしき、という続きだ。玉が光るのは、すばらしいからいうのであり、心にかなって、いとしく思うのを、昔、むかしき、といった。この句は、穴玉のように光り映えて、という意味だ。たとえる物をいい、ように、を補って理解するのは、普通のことだ。この、はや、は、一首の要で、ここを悪く理解すると、歌全体の意味が明らかにならない。よく味わっていただきたい。
【宣長の注釈】契沖は、「照り輝いて、機織りの女が首に掛ける、玉の光と見えることよ、というのだ。はや、は、は、や、であり、や、というのは、その光よ、と、はっきりいうためだ。『万葉集』の、『近江の海は、波が恐ろしいと、風を待ち、年を過ごそうか、漕ぎもしないで』、また『遅れていて、私は恋い慕うだろうか、いなみ野の……』などと同じだ」という。この説は誤りだ。美しい玉には光があるといっても、ただ玉とだけいい、光るといわずに、二つの谷へ渡るものが、何かは分からない。もし、あな、を、あか、の誤りにすれば、明るいという意味で、少し光の意味もあるかもしれないが、それでも、まだ光がかすかな感じがする。また、その説どおり、はや、を助詞にすると、ふたわたらす、の下でないと通じにくい。よく味わっていただきたい。無理に助詞とするなら、倭建命の、あづまはや、のように、言い放つ感嘆の語とするべきだ。その場合、こうして二つの谷へ照り渡る、味耜神よ、穴玉のようであることよ、という意味だ。これは『日本書紀』についていう。『古事記』では、終わりに、ぞや、とあるので、それについていえば、二つの谷へ照り渡る神よ、穴玉のようであることよ、と言い放ち、その神は阿治須貴神だ、といった意味だ。しかし、光ることがなくては、二つの谷へ渡るものが何か分からないので、どちらにしても、はや、を、映え、と見なければ、言葉が足りないのである。
【宣長の注釈】「みたに」は、三音で一句。契沖は、「真谷だ。『万葉集』で、真草を、みくさ、と読み、三熊野を、真熊野とも詠むのは、ま、と、み、が音を通わせるからだ。それなら、みやま、も、真山の意味だろうから、みたに、も、それに準じて分かる」という。
【宣長の注釈】「ふたわたらす」は、同じ契沖が、「二つを渡ることだ。わたる、を、古語では、わたらす、ともいった。浜成の式では、『あなたまはやみ』を第六句、『たにふたわたる』を第七句と注し、み、を前の句へ付けたが、はっきりしない。穴玉早み、では、早み、の意味が通じにくい」という。この二句は、阿遅志貴神の体の光が、一つの谷を越え、二つ目の谷まで照らすことをいう。『日本書紀』の、「光る姿が美しく華やかで、二つの丘、二つの谷に輝く」が、それだ。谷は丘の間にあるので、谷二つといえば、その中に丘二つも含まれ、二丘二谷なのである。この句で、言葉を切って理解すべきだ。ここまでは、自分も人も、皆、目の前に見ている様子をいい、次は、この神は阿遅志貴神だ、と聞かせた意味だからである。次の句へ続けて見ると、終わりの、ぞや、が、この二句までにかかり、意味がはっきりしない。よく味わっていただきたい。この所は、『日本書紀』では意味が違う。その理由は、次にいう。
【宣長の注釈】「あぢしき」は、四音で一句。「たかひこねの」は、六音で一句。「かみぞや」は、四音で一句。『日本書紀』では、あぢすき、たかひこね、とだけあり、の、かみぞや、の五字がない。『日本書紀』の伝えでは、葬儀に集まった者の作で、阿治志貴神だというのを、初めから皆知ったうえで詠む様子なので、終わり二句の意味は、『古事記』と同じではない。神武天皇の段の歌の、みつみつし、久米の子ら、という類に、みたに……から、引き続く意味だ。それで結びに、ぞや、がない。ただ、ある説では……、という伝えは、『古事記』とまったく同じなので、ぞや、がなくても、歌の意味は、『古事記』と同じになる。ぞや、がないため、の神、もないのは、句の調子のためだ。たかひこねのかみ、では八音で、一句を超え、かみ、を分けると二音で、一句に足りない。浜成の式では、あぢすきのかみ、を一句、たかひこね、を一句とするので、同じ伝えでも、句の調子で、のかみ、がなくなるのだ。歌の調子は、一句、三音から七音までに限り、上代の歌でも、少しも越えなかったことが、これで分かる。それなのに、今の人が、思うまま、一句を八音、九音にも詠み、それをかえって古い体だと思うのは、たいへん乱暴だ。
【宣長の注釈】「ぞや」は、今の世の感覚では、よく通じ、疑いもないが、古語・古歌には、まだ見当たらない語である。また也を音の仮名に使う例も、『古事記』にはない。それで、歌は、ぞ、で終わり、也がなくても意味は同じで、也は、ただ書面の助字に置くだけかとも思う。しかし、歌の下に、そのような助字を置く例もないので、決めにくく、ひとまず、ぞや、という語とした。一首の意味を通していえば、「天にいる、愛しい機織りの女が、首へ掛けた、美しい玉のように光り映え、二つの谷へ照り渡る、この神は、阿治志貴神だ」ということだ。
【宣長の注釈】「夷振」。『日本書紀』では、この歌の次に、また歌っていった、として、「あまざかる、ひなつめの……」という歌を載せ、この二首の歌詞を、今、夷曲と呼ぶ、とある。歌を記し、これは、何々振、また、何々歌、とすることは、『古事記』に多い。何々振、というのは、夷振のほかに、允恭天皇の段の、宮人振・天田振がある。『続日本紀』天平六年二月の歌垣に、難波曲・倭部曲・浅茅原曲・広瀬曲・八裳刺曲などの名があり、『古今集』大歌所の歌に、近江ぶり・水茎ぶり・四極山ぶりがある。何々歌、の説明は、中巻、倭建命の段の片歌、伝の巻二十八、五十四葉で述べる。何々振、何々歌というのは、皆、後に音楽の役所で呼んだ名である。『日本書紀』に、今呼ぶ、とあることからも、後だと分かる。「うたまひのつかさ」は雅楽寮の訓で、楽府という字は、『日本書紀』神武天皇の巻に、「……これを来目歌という。今、楽府でこの歌を奏する者は……」とあるのによった。ただ、とよのあかり、と訓むのは、楽府に当たらず、それも、うたまひのつかさ、と訓むべきだ。雅楽寮・大歌所・楽所・内教坊などの類は、皆、楽府といえる。上代にも、そのような役所があった。
【宣長の注釈】そもそも『古事記』『日本書紀』などの歌は、どれも、上代の多くの歌の中で、特にすばらしいものなので、多くは楽府にも採られ、管弦にのせ、舞にも合わせ、奏した歌である。その中で、何々振と呼ぶのは、まず、振とは、普通にいう、姿や動作の、ふり、で、人でも物でも、動く様子をいう。歌では、奏する声の長短・太さ細さ・高低などの様子だ。振の字は、まずは音を借りたものだが、物が動き上がるのを、振るというので、歌のふりも、意味をたどれば、そこへ行き着くから、ふり、という語には正しい字だ。『日本書紀』の曲は、歌については、そうであるが、ふり、という語の意味には遠い。楽府で使う歌は、奏するのに、いろいろな、ふり、があるため、それぞれに名を付け、何々振という。ただし名は、ふり、そのものから付けたのではない。夷振の、夷、も、宮人振の、宮人、も、その、ふり、によらず、ただ歌の初めの言葉を取り、仮に名づけたのである。宮人振・天田振、田は音を借りた字だ、また『古今集』のものなど、皆そうだ。確かめていただきたい。何々振は、その土地の風俗の歌だ、という説は、事実を考えない、でたらめだ。『古今集』に、しはつ山ぶり、ともあることで分かる。山に風俗があるはずがあろうか。それなら『続日本紀』に、名だけ出る難波曲なども、皆、推し量れる。今、民間で歌う歌にも、歌詞を取って、何々節と名づけるものが多い。中国の書物にも、初めの言葉を、篇の名、歌の曲名にする例が多いので、昔も今も、日本も外国も、おのずから同じ気持ちなのである。
【宣長の注釈】それなのに、この「あめなるや」の歌には、ひな、という語がないのに、夷振と名づけたのはなぜか。『日本書紀』で、ここに二首並べる、次の歌の初めの、「あまざかる、ひなつめの」の、ひな、を取ったのだ。最初の句は枕詞なので、次の句を取ったのだろう。「あめなるや」の歌も、奏する、ふり、が、それとまったく同じなので、楽府で同じ部へ収め、どちらも夷振と呼んだのである。この歌だけでなく、下巻、遠飛鳥の朝の段にも、夷振の上歌、また夷振の片下とあり、それらにも、ひな、という語がないのに、そう呼ぶのは、皆、同じ決まりだ。神楽歌の前張も、「前と同じように、衣は染める……」という一曲の名を、それも、ほかのものも含め、十六曲の総称にし、大前張・小前張と呼ぶ。大前張は七首、小前張は九首だ。これも考え合わせていただきたい。前にもいったように、何々振は、ふりを分ける仮の名なので、ふりさえ同じ歌なら、何首でも合わせ、一つの名で呼ぶのが、当然だ。前張もそうである。ある説で、体裁の整ったものを大和歌というのに対し、整わないものを夷曲といい、辺鄙な所の風情だ、というのは、『日本書紀』だけを見て、夷曲の字にこだわり、『古事記』などの、ほかの例を考えず、昔の意味も知らない、いつもの後世の考えによる妄説なのに、世の人も皆そう理解しているのは、どうしたことか。
【宣長の注釈】また『日本書紀』で、あの「ひなつめの」という歌も、ここに載せたのは、誤りだ。あれは、別の上代の恋歌で、ここには、まったく縁がない。それなのに、注釈で、無理にここへ合わせようと、さまざまにいうのは、皆、当たらない。『日本書紀』に、その歌を載せたのは、楽府で「あめなるや」と並び、同じ夷振なので、同時の作とする伝えもあったのか。しかし、それは誤りで、『古事記』に、その歌がないのが、正しい伝えだったのだ。それなら、「天なるや」を夷振というのは、「ひなつめ」の歌に引かれた名、「ひなつめ」の歌がここに載るのは、「天なるや」に引かれて出たもの、と理解すれば、あらゆる疑いは晴れるはずだ。
【宣長の注釈】さて「ひなつめの」の歌の意味は、「めろ、よしに」という所までの八句は、「よし、よりこね」をいうための序にすぎない。「め」は網の目、「ろ」は助詞、「よし」は寄るということで、網を引くと、目が寄って来るように、寄って、寄っておいで、という歌だ。『万葉集』巻九の、「妻よ、寄っておいで」、巻十四の、「妻よ、寄っておいで」などで理解していただきたい。終わりに、石川、片淵、と置くのは、前の言葉へ立ち返って歌う昔の例で、歌の意味には、かかわらないことだ。
古事記伝 巻十四。本居宣長が謹んで著す。
神代 第十二巻
【古事記本文】天照大御神は、さらに、どの神を遣わすのがよいか、と仰せになった。思金神と、神々は、申し上げた。
「天安河の上流の、天の石屋におられる、伊都之尾羽張神を、遣わすのがよいでしょう。あるいは、その神でなければ、その子の、建御雷之男神を、遣わすべきです。
ただ、天尾羽張神は、天安河の水をせき上げ、道をふさいで、おいでなので、ほかの神は行けません。そこで、特に、天迦久神を遣わし、お尋ねになるのがよいでしょう」。
そこで、天迦久神に、天尾羽張神へ尋ねさせると、こう答え、申し上げた。
「かしこまりました。お仕えいたしましょう。しかし、このお使いには、私の子、建御雷神を、お遣わしになるのがよいでしょう」。
そして、子を差し出した。そこで、天鳥船神を、建御雷神へ添え、遣わした。
「伊都」の二字は、音を表す。
【宣長の注釈】「天石屋」。屋を、旧刊本は室とするが、延佳本と、もう一つの本で、屋とあるのによった。この記の石屋は、みな、この字を書くからである。ここは、本当に、石で組んだ家なのだろう。天照大御神が、しばらく隠れられた石屋とは、意味が違うはずだ。ここは、特に、頑丈なことをいう場面でもなく、普通の家なら、石屋にいると、わざわざいう必要もないためだ。書紀にも、天の石窟に住む神とある。
【宣長の注釈】「伊都之尾羽張神」は、伊邪那岐大神が、迦具土神を斬った、御刀の霊である。その刀の名を、天之尾羽張、伊都之尾羽張ともいうことは、先に、伝五の七十九葉、八十二葉にあるので、照らし合わせてほしい。そこでは、神といわないのは、直接、その刀を指すためだ。ここは、その霊をいうので、神という。
名の、いつは、書紀では稜威と書く。つが清音なのは、伝六の六十一葉、伝七の三十八葉で、詳しく述べたとおりだ。ある人の説は、「剣の総称を、をはりという。剣は、両刃で、先端が張り出すためで、をは、切っ先をいう。天尾羽張も、これである。国名の尾張も、熱田の神剣から出た、同じ意味だ」とする。それもよいだろう。切っ先を、をという例は、まだ見ないが、いってはいけないわけでもない。ただ、剣の総称というのは、悪い。先端が張り出す剣をいうのだろう。また、をは雄で、雄々しさをいうのかもしれない。伊都之男建などの言葉に、通うことも考えてほしい。
羽は、刃の意味だろう。今、はばりという針は、刃の付いた針という意味なのか。刃が張り出す針の意味なら、これと同じだ。また、物が満ち、広がることを、はばるというのも、意味が近い。
書紀は、稜威雄走神とする。走は、剣の鋭さをいう。利は、速いことと同じ言葉なので、走ると意味が同じだ。俗に、口が利く、物言いを、口が走るというのも同じである。師は、この神名を、大葉刈、小葉刈などの名と同じだといわれたが、どうだろう。
【宣長の注釈】「あるいは、この神でなければ」。今の言葉にも、このようにいうことは、多い。
【宣長の注釈】「建御雷之男神」は、迦具土神の首を斬られた時、御刀の根元に付いた血が、湯津石村へ飛び付き、生まれた神で、伝五の七十三葉に見える。それなら、血は母のようなもの、刀は父である。そのため、あちらは、刀によって生まれた神というのに、ここは、直接、その刀の神の子という。書紀の伝えは違い、後で述べる。
【宣長の注釈】「且」は、まづと読むべきだ。先の黄泉の段の、「まず、黄泉神と、ともに相談する」とある且と、同じ形で、あちらも、まづと読み、伝六の九葉で、理由を述べた。ここも、建御雷神を、いい続けている途中で、立ち戻り、尾羽張神のことをいう所だから、まづが、よく当たる。
【宣長の注釈】「逆塞上」は、川の水をせき止め、ためて、横へ引くことだ。下へ流れる水を、横へ引くので、逆とも、上ともいう。普通、横しまなことを、逆というのと、同じ意味になる。必ずしも、上へ回すのではない。『万葉集』巻八の三丁に、「佐保川の水をせき上げ、植えた田を」とあるのも同じだ。世間で、容器へ水をため、その中へ砥石を置き、刀剣を研ぐのは、この神が、川水をせき、ため、石室へいることに、ちなんでいる。この石屋は、本物の石の家だといったことを、思い合わせてほしい。
【宣長の注釈】「塞道」は、せき止めた水を引き、道を断つことだ。塞坐黄泉戸大神のように、この神が、道をふさいでいるとも見えるが、水をせき上げるという所から、続いているので、そうではない。
【宣長の注釈】「居故」は、おらすと読むべきだ。そう読めば、故の意味も、含まれる。
【宣長の注釈】「別」は、葦原中国を、従わせるための神を、選ぶ時なので、その神とは別に、ほかへ、ということを、区別していう。また、普通の神には行けないため、特に優れた神を、という意味でもあろう。
【宣長の注釈】「天迦久神」。名の意味は、まだ思い付かない。あえていうなら、崇神天皇紀に、「八たび巡らして、刀をかく」とあり、『万葉集』巻十三の七丁で、「剣刀、鞘から抜き出し、伊香胡山」と続けて詠むことを、『冠辞考』は、鞘から抜き出し、かくと続け、いを、添えた初めの音として、取ったものだという。伊香胡山は、『和名抄』で、近江国伊香郡伊香とある所だという。これを考えると、今、この剣の神、尾羽張神と、建御雷神を、誘い立たせた働きにより、剣を抜き、かく意味で、たたえた名でもあろうか。
それなら、かきの神というはずなのに、かくというのは、ただ、音が通うためで、かきを、かくへ、動詞の形を変えて使うわけではないだろう。剣を、かくというのは、撃の字を書くことから考えると、剣を振り、物を切る様子をすることだろう。剣を使おうとする時に、試す意味だから、いよいよ、この神名に、理由がある。
もし、そうなら、『延喜式』の、近江国伊香郡伊香具神社は、この迦久神を祭るのかもしれない。伊香具坂神社もある。それなら、伊香の地名も、この神社から出たのだろう。『和名抄』の伊香は、郡名も郷名も、いかことし、『万葉集』も同じで、神社は、いかぐである。もとから、こ、ぐのどちらにも、通わせていったのだろう。そうなら、『万葉集』の歌も、いよいよ、いわれがあると聞こえる。
【宣長の注釈】「問」は、葦原中国を、従わせに行け、という大きな仰せを述べ、お仕えするかどうかを、尋ねることである。先の可問も、とひたまふべしと読んでもよく、ここの問も、とわしめたまふと読むべきだ。
【宣長の注釈】「恐之」は、かしこしと読むべきだ。こういって、仰せを承け、お受けする言葉になる。今の、かしこまりましたも、ここから出た。この語は、先の、伝九の二十六葉と、すぐ次にもある。
【宣長の注釈】「仕奉」は、つかへまつらむと読む。雄略天皇紀の歌に、つかへまつらむ、推古天皇紀の歌に、かしこみて、つかへまつらむ、おろがみて、つかへまつらむ、とある。この語は、古書に数知れず多い。上の人へ仕えることなら、どんなことにもいう。「つかへ」は、使われることで、はれを縮めて、へとなり、君に使われ、お仕えするのである。
それなら、使うことと、仕えることは、漢字こそ違っても、下の者を使う、上の人に使われる、といい方が変わるだけで、言葉の根本は一つだ。つかへ奉るを、後の時代から、つかう奉るといい、その、うを、むへ変え、つかむ奉るといい、さらに、むを省き、つかまつるとなった。言葉が変わるだけでなく、意味も少しずつ変わり、今は、つかまつると、つかへまつるは、とても違い、同じ言葉とも、思えないほどになった。
【宣長の注釈】「此道」は、葦原中国を、従わせに行くことだ。物へ行くことを指して、道という例は、『万葉集』巻六の、天平四年、天皇が節度使らへ、酒を賜る御歌の、「大夫の、行くという道を」や、後の『古今集』の、「人に任せて遣る道ではないのに」の類いで、歌にも、文章にも多い。漢文の、此行などの行に当たる。水垣宮の段の、東方十二道の所、伝二十三の五十八葉も、照らし合わせてほしい。
【宣長の注釈】「私の子、建御雷神を遣わすのがよい」。尾羽張神が、自分では行かず、特に、この神を遣わし、国を従わせる功績を挙げるのには、深い道理があったのだろう。
書紀には、「その後、高皇産霊尊は、さらに神々を集め、葦原中国へ遣わす神を選んだ。みな、磐裂、根裂神の子、磐筒男、磐筒女が生んだ子の、経津主神がよい、といった。その時、天の石窟に住む神、稜威雄走神の子が甕速日神、その子が熯速日神、その子が武甕槌神であった。この神が進み出て、経津主神だけが、勇者で、私は勇者ではないのか、と、力強い口調で、憤りを述べた。そのため、経津主神と組ませ、葦原中国を平定させた」とある。たいへん違う伝えだ。神代上巻の一書にも、さらに違う伝えがある。経津主神は、この記では、建御雷神の別名であるのに、別の神とすることは、伝五の七十四葉で、詳しく論じた。
【宣長の注釈】「貢奉」は、建御雷神を、大御神のもとへ、差し出すことだ。
【宣長の注釈】「天鳥船神」。次に引く書紀の、「熊野の諸手船、別名、天の鴿船」と照らすと、伊邪那岐、伊邪那美の二柱が、お生みになった、鳥之石楠船神、別名、天鳥船という神なのか、とも思える。その神は、伝五の五十二葉にある。しかし、出雲国造の神賀詞に、「天夷鳥命へ、布都怒志命を添え、天降し遣わして」とあるのを考えると、鳥船は、船鳥の上下を誤ったので、夷鳥と、同じ言葉だろう。この誤りは、阿礼が誦した時より前の古書に、すでに、あったのだろうから、今、たやすく改めるべきではない。
書紀の一書の、「経津主神は、岐神を道案内にした」も、ふなどと、船鳥は、同じ言葉なので、いわれがあると聞こえる。道案内だから、もとから岐神でもよいのだが。「大己貴神は、岐神を二神へ推薦した」とあるので、岐神は、大己貴神のもとにいた神である。これを夷鳥とすれば、その時、夷鳥命は、大己貴神に、なれ従い、相談し合っていた時なのである。
書紀の、大背飯三熊之大人という神も、この夷鳥命と同じ神らしく聞こえるのに、この段に、「熊野諸手船へ、稲背脛を乗せた」とある。三熊之と熊野、大背飯と稲背脛が、よく似るのも、考えてほしい。はぎは、縮まると、ひとなる。それなら、もとは一神、天夷鳥命だったのが、伝えごとに、さまざまへ変わったのだろう。夷鳥命と、この記の鳥船神が同神だ、ということだけは、師の『祝詞考』にも、すでにある。夷鳥命は、伝十三の十二葉から十五葉で詳しく述べたので、照らし合わせてほしい。
神賀詞の、「夷鳥命へ、布都怒志命を添えて」によれば、ここも同じように読めるが、そうではない。あちらは、出雲国造が、自分の先祖を中心にいうため、夷鳥命を主役とする。ここは、建御雷を中心とするので、鳥船神を、建御雷神に添えて、と読むべきだ。
【古事記本文】そこで、この二神は、出雲国の伊那佐の小浜へ降り着いた。伊那佐の三字は、音で読む。十掬の剣を抜き、柄を下にして、波の上へ突き立て、その切っ先で、足を組み、座った。そして、その国の主である神へ、尋ねた。
「天照大御神と、高木神の仰せにより、尋ねに遣わされた。あなたが領有する、葦原中国は、わが御子の治める国だと、お任せになった。それで、あなたの心は、どうか」。
宇志波祁流の五字は、音で読む。
国の主は、答え、申し上げた。
「私には、申し上げられません。私の子、八重言代主神が、申し上げるべきですが、鳥を狩り、魚を取りに、御大の前へ行き、まだ戻りません」。
そこで、天鳥船神を遣わし、八重事代主神を呼び寄せ、尋ねられると、父の大神へ、語った。
「かしこまりました。この国は、天の神の御子へ、献上なさいませ」。
そして、船を踏み傾け、手を通常とは逆にして打ち合わせ、青柴垣を作って、その中へ隠れた。柴は、ふしと読む。
【宣長の注釈】「伊那佐之小浜」は、『神名帳』に、出雲国出雲郡の因佐神社とある、その場所だ。風土記は、伊奈佐乃社と書く。『風土記抄』は、伊那佐之小浜は、杵築郷のうち、仮宮村という所で、この辺の浦を、俗に、いなさ浜というとする。白檮原宮の段の歌の、伊那佐の山は大和で、遠江国にも引佐郡があり、歌の、いなさ細江は、これだ。みな同じ名である。書紀の、五十田狭之小汀も、同じ所だ。なとだは、よく通う。大穴牟遅神が、少名毘古那神と会った所も、書紀は、五十狭々之小浜とし、これも、同じ場所だろう。
いなさの意味は、まだ思い付かない。もしかすると、いなせ、承諾するか、しないかの意味で、大国主神へ、諾否の答えを尋ねた所なので、付いた名だろうか。仁賢天皇紀は、諾を、せと読み、『後撰集』の歌に、いなせとある。『万葉集』巻十六の、否も諾も、の諾も、せと読んでよい。うと読むのは、今も、う、うと答えるのと同じで、おおと承知することと同じだ。おとうは、通い合う音である。式には、同郡の杵築に、大穴持伊那西波伎神社があり、天比奈等理神社も、同郡にある。和加布都怒志神社もあるが、風土記で、大穴持神の子というので、ここの経津主神ではない。
小浜の小は、小川、小田、小野などと同じで、『万葉集』にも、難波の小江などといい、必ずしも、小さくなくても使う。小初瀬、小筑波なども、みな、ほめ言葉のようなものだ。もとは、小さいことをいう語が、ほめ言葉にもなったのである。大が、ほめる方にもなり、大凡、大かたなど、好ましくない方にもなるように、小も、好ましくない方にもなり、事によって、ほめる方にもなる。小さいことをいって、ほめるのは、今も多い。
この時、大国主神は、宇迦山のふもとの宮へ、住まわれていた頃なのだろうか。宇迦と伊那佐は、同じ郡である。その宮は、伝十の五十九葉、六十四葉に見える。
【宣長の注釈】「降到」は、くだりつきてと読むべきだ。
【宣長の注釈】「浪穂」は、先に出た。
【宣長の注釈】「逆刺立」は、剣は、切っ先で突き刺す物なのに、ここは、柄を突き立てるため、逆というのだ。
【宣長の注釈】「剣前」は、切っ先である。先にも、御刀前などがある。延佳本が、前を、まへと読むのは、たいへんな誤りだ。剣の切っ先へ、足を組んで座るのは、あり得ないと思うための、無理な説である。近世の人の、漢籍へ、へつらう、利口ぶった考えは、みな、こんなものだ。書紀には、「十握の剣を抜き、逆さに地へ植え、その切っ先へ腰を掛けた」とある。これさえ、白井氏などが、剣の前へ座ると注すのは、どうしたことか。それなら、鋒の字は、何の役をするのか。たいへん、おかしい。
【宣長の注釈】「趺坐」は、あぐみゐてと読むべきだ。うちあぐみと、打ちを加えてもよい。しりうたげと読むのは、合わない。書紀の、海神の宮の段の、寛坐も、こう読む。あぐみは、足を組むことで、今、俗に、丈六をかくという、座り方である。丈六をかくは、丈六の仏像が、足を組んで座ることから出たのだろう。私の郷里では、あぐらかく、あずくみかくともいう。あずくみは、足組みで、あぐみと同じだ。
踞を、あぐみゐと読むのは、字に合わない。踞は、しりうたげである。しりうたげは、尻を持ち上げることで、足の裏を地へ付け、ひざを立て、尻を浮かせる座り方もいえそうだが、欽明天皇紀、敏達天皇紀の、胡床へ踞す、という例は、そう聞こえない。これは、俗にいう、腰を掛けることだ。物語では、尻掛けといい、足を下げ、尻を物の上へ置いて座るので、しりうたげというのだろう。字書の、物へ寄り、座るのを踞という、がこれだ。物へ寄るは、もたれ掛かるのでなく、腰を掛けることだ。中国では、腰掛けるのも、座るというのが、普通である。それなら、書紀の、切っ先へ踞すは、剣の先へ腰掛けることで、この記とは、少し違う。
趺は、仏書でも、結跏趺坐などと、普通にいい、あぐみに、よく当たる。あぐみ居には、二つあり、組んだ足先を、ひざの下へ敷く座り方と、ももの上へ上げ、足の裏を上向きに組む座り方である。また、ひざを横へ開き、左右の足の裏を合わせて座るのも、趺の類いだ。今、この神が、こうされるのは、みな、天の神の使者が、かけ離れて、霊妙な威力を持つことを、示すのである。
【宣長の注釈】「其大国主神」は、ただ、この神の御名を指すのとは、少し違い、その国の主である神、という意味だ。先の、須佐之男大神の仰せで、大国主神となれ、とあるのも同じで、伝十の五十八葉にある。「其」も、ただ、この神を指さず、その国の、という意味である。そうでなければ、其の字が受ける、前の言葉が、たいへん遠い。その国は、天から降りる時の場所なので、葦原中国全体を指す。次の言葉でも、そう聞こえる。
【宣長の注釈】「問使之」は、とひに、つかはせりと読むべきだ。漢籍の読みにばかり、耳が慣れた人は、この読みを、何となく、しまりがないと思うかもしれない。しかし、日本語では、上代も、その後も、今も、こういうのが、決まった形なのだ。この記には、遣わす意味へ、使の字を、通わせる例が、先にもある。つかふと、つかはすは、延ばすか、縮めるかの違いだけで、同じ言葉だ。つかひは、つかふを名詞にしたもので、これも、もと同じ言葉である。師は、この三字を、とわする、つかひなりと読み、之は也の誤りだといわれた。しかし、それでは、前に、我は、がなくては、言葉が足りないように思える。
中巻、倭建命の段に、撃ちに遣わす、平らげに遣わすとあるのも、同じ言い方だ。之は、このように、言葉の切れる所へ、助字として置く例が、よくある。恐之などの類いである。
【宣長の注釈】「宇志波祁流」は、そこの主となり、自分の物として、領有することだ。ただ、天皇が天下を治められることなどを、うしはきますという例は、全くないので、似たことでも、しろしめすとは、違いがあると聞こえる。
語の意味を、師は、「主となって領域を張る、『うしはる』ということだ。古語で、振るを、ふくというように、るを、くということがあるので、はるを、はくという」といわれた。それも、もっともだが、張を、はくという例がないので、どうだろう。はくは、刀を佩き、靴を履くなどの、はくと同じで、身へ付け、持つ意味なのだろうか。取るは、もと、手に持つことなのに、今、国や土地を領有するのを、どこを取る、何万石を取るなどというのも、この、はくと、意味が通う。なお考えたい。
この語は、『万葉集』巻五の二丁に、「海原の、岸にも、沖にも、神として鎮まり、領しておられる、諸々の大御神たち」、巻六の十丁に、「住吉の現人神は、船にあって、その主としてお治めくださる」、巻九の二丁に、「この山を、領する神の」とある。この山は筑波山である。巻十七の七丁には、「皇神が、領しておられる、新川の、その立山に」、巻十九の十丁には、「住吉の、わが大御神が、船の上にあって、お治めになって」などともある。これらで、牛吐、牛掃などと書く字に基づき、あれこれ説くのは、いうに足りない、無理な説だ。
祟る神を移す祝詞にも、「山川の、清らかな所へ、移り出られ、自分の土地として、お治めください(うすはきませ)」とあり、すとしは、通う音で、同じ言葉である。
【宣長の注釈】「我御子」は、天照大御神と、高木神の言葉のままにいうので、こうなる。この国を、お任せになる仰せは、先にある。
【宣長の注釈】「汝心奈何」は、この、お任せになる仰せのとおり、国を、皇御孫命へ献上するつもりか、どうか、と尋ねるのだ。書紀は、「高皇産霊尊は、皇孫を降し、この地へ君臨させたいと、お思いなので、まず、われら二神を遣わし、悪い者を除き、平定させる。あなたの意向は、どうか。退くか、どうか」とする。一書にも、「あなたは、この国を、天神へ奉るか、どうか」とある。
【宣長の注釈】「私には申し上げられない。私の子が」という言葉から考えると、この時、大穴牟遅神は、すでに年を取られ、多くの事を、事代主神へ譲り、事代主神こそ、盛んな勢力を持ったのだろう。そのため、自分一人の判断では、答えられないのである。書紀にも、「子へ尋ねてから、答えよう」とある。
【宣長の注釈】「事代主神」は、名の意味も、そのほかも、伝十一の六十五葉で、詳しく述べた。
【宣長の注釈】「是」は、この神ということだ。
【宣長の注釈】「可白然」は、まをすべきを、と読むべきだ。然は、をに当たる。しかれども、と読んでも悪くないが、それでは重過ぎる。ただ、をといって、然の意味を、軽く含めるのである。
【宣長の注釈】「鳥遊」は、とりのあそびと読むべきだ。のを省き、とりあそびとも読めるが、ひとまず、従来の読みに従った。野山や、海川へ出て、鳥を狩り、楽しむことをいう。ここは海辺なので、主に、水鳥を狩るのだろう。下巻、朝倉宮の段の御歌に、「天下を治める、わが大君の、お遊びになった、猪の、病んだ猪の」とあるのは、猪を射られたことを、遊ばししと詠む。狩りも、遊びという証拠だ。『山城風土記』の、「玉依比売が、石川、瀬見の小川で、遊んだ時」は、女なので、ただ、川辺を散歩するとも聞こえるが、これも、やはり、魚釣りをいうのだろう。
師は、鳥遊を、とがりと読まれた。それもよいが、そうなら、この記の例では、必ず鳥狩などと書くはずなのに、遊と書き、書紀も、遊鳥、射鳥遊などとし、獵や狩は、一つも書かない。それを考えると、やはり、あそびと読むべきだ。
【宣長の注釈】「取魚」は、師が、すなどりと読まれたのが、よい。神武天皇紀でも、そう読み、欽明天皇紀の捕魚も、同じだ。すなどりは、猿田毘古神の段、伝十六の九葉で述べる。鳥狩りや、魚取りを好まれたのは、隠遁の心だ、などというのは、いつもの、中国風の考えで、全く、そんなことではない。
魚の下の而は読まず、前の為へ戻り、しにと読むべきだ。而は、漢文の形に合わせて、置いたようで、この記には、その例が多い。師は、すとてと読まれたが、とては、奈良の頃より前には、ない言葉である。
【宣長の注釈】「御大之前」は、伝十二の三葉に出た。出雲国島根郡である。書紀の一書には、三穂之碕ともある。出雲風土記では、島根郡に御津浜があり、『延喜式』では、楯縫郡に御津神社がある。
【宣長の注釈】「徴来」は、めしきてと読むべきだ。そう読めば、そのまま、来させる意味になる。師が、めしこさせてと読まれたのは、悪い。
【宣長の注釈】「問賜」は、建御雷神が、お尋ねになるのである。
【宣長の注釈】「語其父」の語は、読んではならない。先の「語天若日子言」とあった所と同じである。
【宣長の注釈】「大神」は、大穴牟遅神を、ここで初めて、大神と呼ぶのである。
【宣長の注釈】「恐之」は、先と同じである。
【宣長の注釈】「天神之御子」。天神を、必ず、あまつかみと読むべきことは、伝三の三十一葉で、述べたとおりだ。『続日本紀』巻一にも、天都神の御子とある。天つ神は、先にもいったように、高天原にいる神を、広く申し上げるが、ここでは、ひたすら、天照大御神を指す。
天忍穂耳命は、その御子だから、もとよりのことだが、この後は、御孫の邇々芸命も、鵜葺草葺不合命も、神武天皇も、みな、天つ神の御子という。子は、子孫の末々までに及ぶ、名だからである。そう申し上げるのは、一般の国つ神と、同列でないため、区別して、尊ぶ御称である。
天忍穂耳命と邇々芸命は、天でお生まれなので、そのまま、天つ神と申し上げるはずなのに、御子というのは、穂々出見命以後、この国でお生まれの方へ、いい慣れた御名を、さかのぼらせ、語り伝えたのだ。それも、天照大御神の御子という意味になるので、間違いではない。しかし、天つ神の御子という、本来の意味は、この国でお生まれでも、天つ神の血筋である、ということだ。
【宣長の注釈】「立奉」は、たてまつりたまへと読むべきだ。たてまつらむでも、悪くないが、父の大神へ語っていう、という書き方は、先の、天若日子へ語っていう、と同じ形で、あちらも、射殺すべきだというので、その例に従うべきだ。立を加える理由は、伝九の二十六葉で、詳しく述べた。師が、たちばこそに、たてまつりたまへと読まれたのは、前後の例を、よく考えられなかったのである。
【宣長の注釈】「その船」は、今、乗って来られた船だ。これによれば、御大之前から因佐之小浜まで、海路で帰られたのである。
この海路について、友人の内山真龍は、こう考えた。「出雲国は、風土記の頃には、出雲郡と神門郡を、大きな川で分け、陸続きだった。しかし上代には、両郡は、海で隔たれ、島根、秋鹿、楯縫、出雲の四郡は、離れた島で、入り海は、西の大海まで通じていた。今見ても、出雲、神門両郡の境辺り、今の道で二里ほどは、平らな砂地である。上代には、ここが海で、東西へ分かれていた。神代に、熊野の諸手舟が、三保崎へ通ったのは、この海路だ」。この考えによれば、御大之前から伊那佐之小浜まで、そのまま、入り海を通り、行き来されたのである。
【宣長の注釈】「蹈傾」は、ふみかたぶけてである。下巻、甕栗宮の段の歌に、かたぶけりとある。
【宣長の注釈】「天逆手」は、『伊勢物語』の、天の逆手を打ち、呪っている、というのと照らすと、古く、逆手を打ち、物へまじないをする術が、あったのである。物語では、人を呪うためだが、上代には、悪い事ばかりでなく、よい事にも広く行ったことが、この故事で分かる。ここは、船を柴垣へ変える、まじないだからだ。
逆手を打つ姿は、普通は、手のひらを打つのを、逆さに返し、手のひらを外へ向け、打つことなのか。それとも、普通は、両方の手のひらを同じ向きへ合わせるのを、左右の上下を、逆に違え、打つことなのか。この二つの間で、今、決め難い。俗に、横手を打つというのも、左右を、縦と横へ違えて打つことだろう。その例なら、逆手も、後者かもしれないが、なお決め難い。
契沖は、『伊勢物語』について、普通の拍手は喜びの行いだが、逆に打つのは、常と違い、凶である。事代主神も、この世を去ろうと、打たれるので、吉事ではない、という。師も、凶事とし、海神が、火遠理命へ釣り針を奉る時、兄命へ渡すには、後ろ手で与えよ、とあるのを引き、手を後ろへ回し、打つのだ。後手と逆手は同じなので、後手も、さかてと読める、といわれた。これらは、みな悪い説だ。誰も、必ず凶事だと思うのは、『伊勢物語』に、とらわれたのだ。その物語の頃は、人を呪うだけに使ったのかもしれないが、それは後のことで、もとはそうではない。吉事、凶事を問わず、何でも、まじないにした行いと見え、この神の逆手も、凶事ではなく、ただ、船を柴垣へ変える術だ。物語の凶事になぞらえ、隠れられることにまで、つなげて見るのは、誤りである。
後手と逆手は、別の事なのに、師は、海神が針を与える話も、伊勢物語も、人を呪う意味が同じなので、迷われた。また、書紀の黄泉の段で、背揮を、しりへてにふると注すので、さかてとは、読むべきでない。『四時祭式』の鎮魂祭には、酒を三杯回した後、後手を打ち、退出するとあり、『大神宮儀式帳』六月神事にも、祭りが終わり、人々が直会殿の席に着き、大直会をいただき終わると、後手を一段打つ、とある。同じ年中行事の、その祭りの項には、斎内親王が拝む時、一禰宜が、御拝四度、御後手、また御拝四度、御後手と、申し上げるともある。
これらの後手を、今の本で、しりへてと読むのは、内容をよく考えない、勝手な読みだ。これは、後ろ手でなく、直会の後、また、拝礼の後に、打つので、のちのてである。
伊勢物語の、天の逆手を、後の時代には、海人がする行いと思い、そんな意味で歌にも詠んだ。これは、その物語だけを見て、この記の故事も知らない、誤りだ。契沖の『勢語臆断』が、見分けている。物語の漢字本で、天之逆手と書くのは、その頃までは、本来の意味を失わなかったのだろう。
「天之」は、天で行う術が、伝わってきた行いなので、そういうのである。
【宣長の注釈】「青柴垣」は、青い葉の付いた柴の垣だ。ふしは、字のとおり、柴のことで、後の歌では、ふししばと、重ねてもいう。柴を水へ浸し、魚を取るのを、ふしづけというのも、これだ。『拾遺集』冬、平兼盛の歌に、「柴を水へ入れた、淀の渡りを、今朝、見ると」とある。下巻、甕栗宮の段の歌の、しばがきと、ふしがきは同じ物だ。なお、『冠辞考』の、みづがきの項で、形を知るとよい。書紀の諸注が、上代の事を知らず、いろいろな意味をいうのは、みな誤りだ。この神の御名に、積羽八重というのも、この柴垣にちなむことは、伝十一の六十五葉で述べたとおりだ。
【宣長の注釈】「打成」の打は、天の逆手を打つこと、成は、踏み傾けた船を、青柴垣へ変えることである。船を横へ傾ける形は、もともと、垣に似て、いわれがある。先に、童女を、湯津爪櫛へ取り成すとあるのと、同じ形で、伝九の二十九葉で述べたとおりだ。次の、立つ氷へ取り成す、剣の刃へ取り成す、も同じだ。
書紀は、先に、青柴垣を造るといい、次に、船の端を踏み、退くとあるので、船を柴垣へ変えるのは、どうだろう、と思う人もあるだろう。しかし、いつもいうように、書紀は、ただ漢文を飾ることを主としたため、古代の様子と違うように見える所も多い。これも、古い記録には、この記のようにあったのを、勝手に直して書いたのだろう。
取り成す、打ち成すなどの例は、みな、もとからある物を、別の物へ変えるのだから、ここも、初めに物がなければ、例に合わない。初めに物がなく、ただ青柴垣を造り出すなら、青柴垣を、といわなければ、通じない。「に」とあるのは、もとからある物を、青柴垣に、という言葉ではないか。をとには、通うこともあるが、事柄による。これを船へ掛けず、青柴垣に、というなら、天の逆手という物があって、それを青柴垣へ変える、と聞こえる。よく味わってほしい。
その船を踏み傾け、天の逆手を打ち、その船を青柴垣へ変えて、という意味だが、その船を、と二度いえば、言葉が下手なので、前へ譲り、後を省く。また、逆手を打つと続く意味なのに、その間へ、青柴垣に、と置き、青柴垣に打ち成すとする。みな、古文の、優れた巧みさで、後世には及ばない。
【宣長の注釈】「隠也」は、青柴垣の中へ、隠れられることだ。下巻、近飛鳥宮の御歌には、「宮の奥へ、お隠れになって」とあり、推古天皇紀の歌には、「わが大君の、隠れ住まわれる、天の八十の垣」などとある。
ここは、青柴垣へ隠れるという言葉だが、次に、父の大神も、八十坰手へ隠れ、待とうとあるように、この神も、海底へ入り、現身は、永く隠れられることを含む。理由は後で述べる。延喜六年の日本紀竟宴、藤原佐高の歌には、「皇御孫へ、八島を明け渡し、波の上の、青柴垣へ、片隅に住まうことよ」とある。
書紀は、こう記す。「その時、子の事代主神は、出雲国三穂崎へ遊びに行き、魚釣りを楽しんでいた。鳥狩りを楽しんだ、ともいう。そこで、熊野諸手船、別名、天の鴿船へ、使者の稲背脛を乗せ、事代主神へ、高皇産霊尊の仰せを伝え、答えの言葉を尋ねた。事代主神は、使者へ、今天の神から、このような、お尋ねの仰せがあるのだから、父は、国を献じ、退くべきだ。私も逆らえない、といった。そして、海中に、幾重もの青柴垣を造り、船の端を踏み、退いた。使者が戻り、報告すると、大己貴神は、子の言葉を、二神へ申し上げた」。柴は、ふしというと注す。一書も同じ内容だ。
それなら、書紀では、三穂崎へ行った使者が、そこで仰せを伝え、事代主神が、海へ入ったのも、三穂崎のことなので、この記の、伊那佐之小浜へ呼び寄せた、というのとは違う。また、使者が戻り、大己貴神が語るとあるので、この使者は、大己貴神が遣わした者だ。そのためなのか、『延喜式』で、出雲郡にある社も、大穴持伊那西波伎神社とする。
【古事記本文】そこで、その国の主である神へ、尋ねた。
「今、あなたの子、事代主神は、こう申し上げた。ほかにも、答えを述べる子は、いるか」。
神は、さらに申し上げた。
「もう一人、私の子に、建御名方神がいます。この者のほかには、いません」。
そういう間に、建御名方神が、千人で引くほどの大石を、手先へ高く差し上げ、やって来ていった。
「誰が、わが国へ来て、こそこそと、そんなことを話している。さあ、力比べをしよう。まず、私が、その手を取ろう」。
建御雷神がその手を取らせると、その手は地面から突き立つ氷に変わり、さらに剣の刃に変わったので、建御名方神は恐れて退いた。今度は建御雷神が、「こちらもおまえの手を取ろう」と求め、その手を取った。若い葦を取るように、つかんで、ひしぎ、投げ放つと、建御名方神は、逃げ去った。
そこで、追って行き、信濃国の、洲羽の湖へ追い詰め、殺そうとすると、建御名方神は、申し上げた。
「かしこまりました。どうか、私を殺さないでください。この地のほかへは、行きません。父、大国主神の命令にも、八重事代主神の言葉にも、逆らいません。この葦原中国は、天の神の御子の、仰せのとおり、献上いたします」。
【宣長の注釈】「ほかにも、申し上げる子がいるか」の、申し上げるは、先の、私には申し上げられない、事代主神が申し上げるべきだ、などと同じで、仰せへの答えをいうことだ。事代主命のほかにも、仰せを伝えて聞かせ、答えの意向を、尋ねるべき子がいるか、と聞くのである。
【宣長の注釈】「亦白之」の亦を、師は、削るべきだといわれたが、やはり、ある方がよい。先に事代主神のことを述べ、さらに、もう一神がいると申し上げるので、またという。その言葉の、また私の子に、とある、またも、同じ意味だ。
【宣長の注釈】「建御名方神がいる」。これで、この神も、事代主神に次ぎ、天下に勢力を持っていたと分かる。それなのに、先に、大国主神の御子たちを挙げた中から、この神が抜けるのは、どうしてだろう。『旧事紀』は、次に高志沼河姫をめとり、一男を生んだ。建御名方神で、信濃国諏方郡諏方神社にいる、とするが、いつものように、確かでない。
名の、たけは、いつもの、ほめ言葉で、みも、そうである。なは、名の字のとおりだろうか。かたは、中巻、水垣宮の段の、櫛御方命、飯肩巣見命、黒田宮の天皇の御子、日子刺肩別命などの、かたと同じだろう。みな、堅い意味で、ほめる名なのだろうか。なかたと続ける例は、日代宮の天皇の御孫の、大名方王にある。また、遠飛鳥宮の天皇の皇女を、書紀は名形大娘皇女、この記は長田大郎女とする。この例に従い、かたは、がたと濁るべきだ。
阿波国には、名方郡と、名方、なかた郷がある。『神名帳』には、その郡に、多祁御奈刀弥神社がある。奈の下に、方が抜けたのではないだろうか。同郡には、大御和神社、同国勝浦郡には事代主神社、阿波郡には建布都神社、事代主神社などもある。たけみと続ける例は、建御雷神と、書紀の、武三熊之大人などがある。
【宣長の注釈】「この者のほかには、いない」は、子は、まだ多くいても、この事を尋ねるべきなのは、この神のほかに、いないということだ。ほかの御子たちには、尋ねなくても、よいのである。
【宣長の注釈】「こう申し上げる間に」は、大国主神が、そう申し上げた、ちょうどその時、建御名方神が、来たのである。
【宣長の注釈】「千引石」は、伝六の二十九葉に出た。
【宣長の注釈】「手末」は、書紀の神代紀に、手端を、たなすゑというとあり、『和名抄』が、『遊仙窟』の手子を、師説で、たなすゑというとするのによれば、ただ、手ということだ。俗に、手先というのと同じである。しかし、ここは、末ということを、重く見るべきだ。擎は、差し上げるを縮めた語で、手を高く伸ばし、その先へ上げることである。俗にも、手を高く伸ばし、物を持つのを、さすという。そうして、やって来るのは、天の神の使者が来たのを、すでに聞いたため、自分の、優れた力を示し、使者を恐れさせようとするのだ。この行いは、すでに、仰せに従わない心である。
【宣長の注釈】「誰」は「たれぞ」と読むべきだ。「たぞ」は古い言葉ではない。下巻の大長谷天皇の御歌に、「たれぞ(誰か)、大君の御前で申し上げるのは」とあり、催馬楽の「浅水」には、「たれぞ(誰が)、この仲立ちを立て、あなたの様子を伝えに訪ねて来るのか」とある。いろは歌にも、「この世の誰が、いつまでも生きられよう」と「たれぞ」を使う。ここは、天の神の使者だとよく知りながら、わざと分からないふりをして「誰だ」というので、とがめる意味がある。今も、人のすることをとがめる時に「誰だ」という。
【宣長の注釈】「忍々」。まず、しぬぶという語には、恋い慕う、耐え忍ぶ、隠れるという、三つの意味がある。古くは、しぬぶで、しのぶというのは、奈良末からである。恋い慕う意味は、『万葉集』で、偲などの字を書き、したふと同じだ。耐え忍ぶは、こらえる、我慢することである。
万葉までの歌は、恋い慕う意味が、とても多く、ほかの二つは、まれだ。古今集以後の歌や文章では、耐える、隠れる意味も多い。恋い慕うと、ほかの二つは、意味が、とても遠く、通わず、もとから別の言葉だろう。耐えると、隠れるは、近く、通って聞こえることが多い。しぬびかねは、耐えかねるにも、隠しかねるにも通う。隠す意味は、耐え忍ぶから転じたのだろう。表へ出したいことまで、強く耐え、押さえ慎むことから、隠す意味にもなったのである。
忍の字を使うのも、耐える意味による。字書では、能と注し、この能は耐の音で、耐えることだ。含忍、容忍なども、みな耐え忍ぶである。残忍を、むごく刻薄で、恩が少ない、不仁を平気とする、と注すのは、俗にいう、気が強く、むごいことだ。しぬぶを、この意味に使う例はないが、これも、耐え忍ぶから転じた意味である。「心に不安があっても、強く押さえ、表さない」と注すのは、特に、しぬぶへよく当たり、隠す意味にも近い。古書で、おしに忍を使うのも、主に、この意味である。
ここは、隠れる意味で、密、隠などの字と同じだ。神武天皇紀の、ひそかな意向、安康天皇紀の、密かに兵を置く、雄略天皇紀の、密かに人を遣る、継体天皇紀の、密かに使者を遣わす、などと同じである。『万葉集』巻十二の七丁には、「人目が多いので、目では、思いを隠しても」とある。忍々と重ねる例は、『古今集』の神遊びの歌に、「陸奥の、安達の真弓を、私が引けば、末までも、こちらへ寄って来よ。ひそかに、ひそかに」とあり、その後の歌や文章にもある。こう重ねるのは、一度だけでなく、何度もする意味だ。『漢書』『後漢書』にも、忍々という表現があるが、それは意味が違う。
この使者が、ここへ来たのは、この記では一度だけでも、たいへん重大な事を定める時なので、幾度も会い、さまざまに相談したのだろう。書紀の一書には、一度、天へ戻り、また降ることもある。実際、使者が、隠れて話し合ったわけではないだろうが、自分へ聞かせず、相談するのをとがめ、こそこそというのである。
【宣長の注釈】「物言」は、これも、本当は、この国を、天神の御子へ献じるかどうか、尋ねに来たことを、よく知りながら、何を話すのか知らないように、わざと、分からないふりをする言葉だ。何を話しているのだ、ととがめる意味があり、先の、誰だ、に含む意味が、自然にここにも響く。
旧刊本、延佳本、また師が、ものいう者と、者を加えて読むのは、普通なら、先の誰ぞを、後ろへ置き、ものいうのは誰ぞ、と続けるので、その形で考えると、者がないと、足りなく感じるためだ。しかし、古語のつながり方を、理解していない。先に引いた、大長谷天皇の御歌は、誰ぞを先へ置き、大前に申すと結び、申す者、とはないことを、考えてほしい。
物言を、師が、こととふと読まれたのも、無理だ。言だけなら、そう読んでもよいが、物があるのに、どうして、そう読めよう。『万葉集』巻十四にも、「ものいはず、きにて(何も言わずに来て)」とある。師は、今の世に、耳慣れないものを古語として、好まれる癖が、よくある。ごとしも、なすも古語なのに、ごとしは古語でないと思うのか、如があれば、すべて、なすと読む。よりも、ゆも古語なのに、必ず、ゆといわなければ、古語でないように考える、という類いだ。
この神は、勢力を頼み、仰せに従うまいと思うので、こういうのである。
【宣長の注釈】「然」は、しからばと読むべきだ。これは、前を受けていう言葉なのに、ここで、受ける事柄なしにいうのは、今も、何かしようとする際、さらばというのと同じだ。さらば参ろう、さらば始めよう、などの類いで、さあともいう。さあは、さはで、さは、しかが縮まったものだから、みな、しからばと同じである。
しかし、これも、言葉を考えれば、前を受ける意味がある。誰だ、というのは、とがめ、わざと知らないふりをするので、わが国を取ろうと来たことが、面白くない、と怒っていうのだから、それを受け、では、わが国を取るなら、という意味へ落ち着く。
俗語のさらばも、前を受ける意味がある。始めようとする際は、用意も整ったことを受け、それでは始めようという。帰ろうとする際も、話はし終わり、することも済み、もう去るべきなのを受け、それでは帰ろうというのである。
【宣長の注釈】「欲為力競」は、ちからくらべせむと読むべきだ。欲を、むと読んでよいことは、首巻で述べた。垂仁天皇紀には、どうすれば強い者と出会い、生死をかけ、すぐに力を争えるだろうか、とある。『新撰字鏡』は、掄は、力で争うこと、ちからくらべ、また、扛は、鼎を持ち上げること、ちからくらべとする。今、こういうのは、わが国を取るなら、まず力比べをして、その勝負で決めようという心である。
【宣長の注釈】「その御手」は、建御雷神の御手である。
【宣長の注釈】「欲取」も、とらむと読むべきだ。ここまでが、建御名方神の言葉である。
【宣長の注釈】「立氷」は、たちひと読むべきだ。たるひは、悪い。物から垂れる氷を、たるひというように、これは下から立つ氷である。谷川の急流などで、脇の岩へ掛かる水が、落ち切らぬうちに凍り、剣を突き立てたように立つ物がある。普通の場所でも、物から落ちる水が、落ち切らないうちに凍り、地上へ細く立つ物などは、みな立氷である。
【宣長の注釈】「取成」の取は、手でつかむことだ。成は、先の打成でも述べたように、ある物を別の物へ変えることなので、建御雷神の手をつかむと、それが立氷へ変わるということである。
【宣長の注釈】「亦取成」は、初めに立氷へ変えた手を、さらに剣の刃へ変えることだ。二つの物になるのは、左手と右手なのか、と思う人もいるだろうが、そうではない。まず立氷にするのは、その後、剣の刃にするための下形で、立氷が剣に似るためだ。さらにいえば、氷は冷たく、握り難い意味もあるだろう。剣の刃にするのは、手を触れられなくするためなので、剣とだけいわず、刃という。注意してほしい。氷は冷たくても、無理をすれば握れるが、剣の刃は、全く触れられない。これが、前後の順序の意味である。
建御名方神が、自分の思いで変えるのではない。建御雷神が、あの霊妙な力で変え、御名方神を威す行いだ。先の、剣先へ座るのと同じ意味で、もともと剣の霊だから、みな、いわれがある。御名方神は、自分の優れた力で、その手を、つかみ砕いてやろうと思い、握ったのに、予想外の物へ変わったのである。
ある人は、疑っていう。「取り成すは、御名方神が、自分の意志で成したことのはずだ。意外に変わったなら、立氷になる、剣の刃になる、というはずで、なすは、そうさせるという、自発的な行為ではないか」。答えよう。この疑問には、一応、理由がある。しかし、こうしようと思って行い、そうならず、意外な結果になることも、なるといわず、なすという例は、普通に多い。一例を挙げると、古歌の、「夏虫が身を滅ぼすのも、一途な思いのためだった」は、自分の身を滅ぼそうと思ってするのではない。結果は予想外でも、火へ入るのは自分の意志なので、火によって身を滅ぼすことも、なすという。ここも、建御雷神の手を握るのは、御名方神の意志で握るため、立氷や剣の刃になっても、なすというのだ。ここを、よく考えなければ、混同する。
全く手を触れられないため、驚き恐れ、退いたのである。谷川氏が、立氷、剣刃、若葦などは、技の名前で、相撲の始まりだというのは、上代の意味でなく、誤りだ。師も、二つの取成を、とるなすと読み、成を、ごとしの意味とされた。結局、似た意味にはなるが、それでは、二つの物が、比喩になるので、誤りだ。剣の刃は、たとえにできても、立氷は、どんな意味のたとえなのか、全く分からない。前々の、取成の例にも合わず、どちらからも誤りである。これも、ごとくを、なすというのだけを古語として、強いて好まれるために、出た説なのだ。
【宣長の注釈】「退居」は、しりそきをりと読むべきだ。そきは、遠ざかり離れることで、とほそきともいう。下巻、高津宮の段、黒比売の歌に、そきをりともとある。後ろへ退くのを、しりそくというため、古くから退の字を、そう読んだ。師は、ここも単に、そきをりぬとされたが、ここは、しりそきというべき所である。
文末なら、をると読むはずなのに、をりとは、どうしたことか、と後世の感覚では思うだろう。しかし、居りは、有りと同じ型で活用し、文末でも、をりという。をると結ぶのは、前に、ぞ、やなどがある時で、有りも同じだ。『古今集』の小町の歌に、「胸を走る火に、心が焼けている」とある。『万葉集』巻十六の、婆羅門の、という歌にある幡幢爾居も、古語をよくわきまえ、をりと読んでいる。
『土佐日記』には、「黒鳥という鳥が、岩の上に集まっている」。『竹取物語』には、「傾いている」「うなずいている」「眠っている」。『伊勢物語』には、「男が、弓と矢入れを背負い、戸口にいる」「そうはいっても、と思っている」。『源氏物語』玉鬘には、「額に手を当て、深く祈っている」「全く手を離さず、拝み入っている」。ほかにも多い。
先に挙げた黒比売の歌も、同段の八田若郎女の歌の、ひとりをりともも、後世の感覚なら、をるともとなるはずなのに、をりともなのは、有りと同じ活用で、ありともと同じ型だからである。
【宣長の注釈】「乞帰」は、初めに、建御名方神が、建御雷神の手を取ろうと求めて取ったように、今度は、建御雷神が、御名方神の手を取ろうと求めることだ。帰は、相手がしたのと同じことを、こちらからも行う意味である。
【宣長の注釈】「若葦」は、簡単に砕ける物のたとえだ。葦は、竹などのように堅くなく、若い葦は、特にもろいためである。御名方神の手は、千人で引くほどの岩を持ち上げる力があるのに、こういうのだから、建御雷神の腕力のほどが分かるだろう。
【宣長の注釈】「搤㧗」の、㧗の字は、延佳本、『先代旧事本紀』、この記の中巻、日代宮の段、持捕搤批という所では、いずれも批となる。字書を調べると、搤は、『説文』に、つかむ、『広韻』に、持つとあり、握るとも注す。批は、『説文』に、手で打つとあり、『史記』孫子伝の批亢の注には、互いに押しのけることとある。㧗は、『説文』に、捽、『広韻』に、拳を人へ加えることとする。張衡の西京賦の、㧗窳狻、猛獣を捕らえるという句の注には、猛獣をつかみ取る様子とあり、音は紙で、扺と同じとも注す。㧗の注にある捽は、『説文』では、頭髪を持つこと、『広韻』では、手で持つことだ。『漢書』金日磾伝の、「首をつかみ、何羅を殿の下へ投げた」の注には、胡は首で、その首をつかみ、殿の下へ投げたとある。また、拏とも注し、この字は、『増韻』に、つかみ取ることとある。
どちらでも意味は通るが、㧗が、ここには、もう少しよく合うため、旧印本と別の一本により、この字に定めた。ただし、古い漢籍に、搤批、搤㧗と続く例があれば、それによるべきで、私は、まだ見つけていないため、こうしたのである。
読みは、つかみひしぎてとすべきだ。若葦を取るように、とたとえるので、必ず、ひしぎなどというべき所である。二字に、ひしぐと読む意味は、字の注に見えなくても、確かに、その動作の勢いはある。字注へ強いて従えば、とりてなどと読むのだろうが、それでは、この場面に合わない。延佳の、にぎりうちても、よくない。握ると打つは、続けていう言葉ではない。師は、にぎりひしぎてとされた。搤に、握るという注もあるため、一応は、もっともらしく聞こえるが、にぎるは、単につかむことに使う語で、この勢いに合わない。つかむは、荒々しく捕らえる言葉なので、場面にも合い、字義にも反しない。つかむという語は、『万葉集』巻四の四十五葉、巻十六の十五葉などにも見える。
【宣長の注釈】「投離者」は、先に、蹶離遣、蹴り放して、とあったのと同じ形の言い方だ。師は、なぎさくればと読まれたが、例によって、よくない。
【宣長の注釈】「追往」は、御名方神が、この力へ、いよいよ驚き恐れながらも、なお逃れ、従わないため、追って行かれるのである。
【宣長の注釈】「迫到」の下には、旧印本に神の字がある。於の誤りだろう、と師がいわれたのは、そのとおりだ。『先代旧事本紀』では、まさに於となる。しかし、この記で、ある所へ到るという場合は、多く、この助字がない。今は、延佳本と別の一本で、ないのに従った。
【宣長の注釈】「科野国」は、斉明天皇紀にも、この字を書く。山国で、段々になった坂があるための名だと、師は説かれた。その説は、『冠辞考』の、しなざかる、しなてるの項にもある。
この国には、倉科、穂科、御科、仁科、蓼科など、しなという地名が、とても多い。別の説では、しなという木があり、古くいう栲が、それである。皮が、しなやかなため、しなと名付けたのだろう。また、皮の色が白いため、しなは、しらだともいう。この木の皮をはぎ、木綿という繊維へ作り、衣服や夜具、紙にもしたが、信濃のものは、特に白く、名産である。神楽歌にも、木綿を造る科の原とあり、諏訪の神社の装束、鎧のおどし、馬具の筋、船の綱などにも使う。科野という国名も、この木から出たという。
今も、しな布、紙布、藤布、たふ布などを産し、更級郡などは、特に栲を多く出し、名産である。たふ布も、栲の皮で織る布なので、たふは、たくが変わったのだろうという。考えてみると、この説にも、さまざまな理由があり、捨て難い。栲を、しなと呼ぶ例は、古書にないが、この国の方言でもあり得る。神楽歌の、木綿造るしなの原も、国名とは聞こえないので、木綿を作る、しなの木が生える原だろう。仮に地名でも、もとは、この木に由来する名だろう。
【宣長の注釈】「洲羽海」。洲を、旧印本と延佳本が、ともに州とするのは、よくないので、別の一本へ従った。洲羽は、『和名抄』の、信濃国、諏方郡、すはである。方は、訪とも書く。『続日本紀』には、養老五年六月辛丑、信濃を分け、初めて諏方国を置き、天平三年三月乙卯、諏方国を廃し、信濃へ合わせた、とある。古くは、一国にするほど、広い範囲の名だったのだろう。
名の意味は、まだ分からないが、仮にいえば、すふまり、すぼまりの意味かもしれない。ふまを縮めると、ばとなるのを清音にし、りを省くのである。先の鼠の段でも、狭いことを、すふすふといった。その理由は、次の文に見える。
海は、湖だ。古くは、湖も、何々の湖といわず、何々の海という。ここで、洲羽とだけいわず、海というのは、道のある限り逃げたが、この湖の岸で、ついに道が絶え、逃げる手立てがなく、行き詰まったためで、迫到とあるのも、その意味だ。せむるは、狭める、せまるは、狭まるで、自動と他動の違いだけである。このことから、すふまりも、この神が追い詰められ、ここで窮したための名かと思うのである。
【宣長の注釈】「恐」も、先の、恐之此国者と同じ意味で、天神の御子の命に従って、国を献上するという所へ掛かる。私を殺さないでください、へ掛けて見るべきではない。
【宣長の注釈】「この地を除いては」以下。こう申し上げたとおり、ついに、この洲羽へ鎮座された。『神名帳』の、信濃国、諏訪郡、南方刀美神社二座、名神大社が、それである。持統天皇紀の五年八月、己亥朔の辛酉に、「使者を遣わし、龍田の風神と、信濃の須波、水内などの神を祭る」とある。水内神は、『神名帳』の、水内郡、健御名方富命彦神別神社、名神大社だ。社名によれば、これも同じ神である。同郡には、美和神社、伊豆毛神社などもある。
諏訪とは別に、水内の社があり、ともに名神大社なのは、どういう由来か。彦神別という名にも、いわれがあるのだろう。『神名帳』で、諏訪の神名には、健がなく、水内には、あるのも、どういうことか。持統天皇紀で、龍田の風神と一緒に使者を遣わして祭ることから、信濃の二柱も、龍田と同じ、風の祈りのためだろう。
清輔の『袋草紙』では、俊頼の、「信濃の木曽路の桜が咲いた。風の祝に、すきまを作らせるな」という歌に、こう説く。信濃は、非常に風の速い所なので、諏訪明神の社に、風の祝という者を置き、春の初め、奥深く籠もって祈り、百日の間、大切にする。そうすれば、その年は、おおむね風が静かで、農業によい。ところが、すきまができ、日の光を見せると、風が収まらない、という意味だ。この説の確かさは知らないが、風と関わることは、古くから伝えたのだろう。『神名式』には、水内郡に、風間神社もある。
伊勢国風土記には、神武天皇が中州へ入られたころ、天日別命を遣わし、伊勢を治める伊勢津彦という神を従わせた、とある。初めは命に従わなかったが、日別命が軍を起こして攻めたので、ついに降伏した。国を明け渡す時、大風を起こし、波を立て、信濃へ移住した。神風の伊勢というのは、これが由来だという。
考えるに、伊勢津彦は、建御名方神の別名で、この故事は、建御雷神が、建御名方神を攻め、追った、この段のことだろう。神武天皇の時とするのは、伝承の誤りだろう。神武天皇の歌に、神風の伊勢が初めて出ることから、伝え誤ったのだろう。建御名方神を、伊勢津彦ともいうのは、伊勢を治めていたためだろう。建御雷神に攻められ、逃げる時も、その縁で、まず伊勢へ逃げたのだろう。高倉山の岩屋を、伊勢津彦が住んだ跡と、神宮の書物が伝えるのは、その時、しばらく隠れた所かもしれない。ついには、伊勢も攻められ、信濃へ去ったのだろう。
仮に風土記のように、伊勢津彦が、神武天皇の世の神で、建御名方神とは別なら、信濃には、必ず伊勢津彦神社があるはずなのに、古くから、その社はない。風の伝えはあり、持統天皇紀をはじめ、どれも諏訪神に関わる。伊勢外宮の付近、高倉山に続く、高神山という山の客神社は、建御名方神を祭ると、神宮の書にある。ほかに、伊勢津彦の社は、伊勢にもない。
また、風土記に、「天日別命が、汝は、国を天孫へ献上するかと問うと、答えて、自分は、この国を求めて住み、久しいので、命を承れないといった。天日別命が、兵を発し、その神を殺そうとすると、恐れ服して、自分の国を、全て天孫へ献上すると申した」とある。これは、ここの、建御雷神と御名方神の話に、全く同じなのも考えるべきだ。諏訪の神を、伊勢津彦とする説は、前からあるが、御名方神の別名なら、よく当たる。神武天皇時代の、別の神なら、その説は誤りである。
『続日本後紀』の、承和九年五月には、「信濃国諏訪郡、無位勲八等の御名方刀美神へ、従五位下を授ける」とある。諏訪の主神で、今の上諏訪である。同年十月には、「信濃国、無位の健御名方富命、前八坂刀売神へ、従五位下を授ける」。健御名方富命は、水内郡の社で、八坂刀売神は、諏訪の二座の一座、御名方富神の后神、今の下諏訪である。前とは、諏訪御名方富神社の、前の神ということで、巻十二、二十葉で詳しく述べたとおりだ。
『文徳実録』の、嘉祥三年十月には、「御名方富命神、健御名方富命、前八坂刀売命神を、いずれも従五位上へ」。仁寿元年十月には、「信濃国、建御名方富命、彦及坂刀売命など二大神の位を、従三位へ進める」。水内神と諏訪の后神を載せ、諏訪の御名方富神の昇位がないのは、脱落である。この前に、諏訪神へ正三位を授けた記事があるはずだ。彦及の二字も、前八の誤りか、錯乱や脱字だろう。
同三年八月には、「従三位の建御名方、八坂前富命神の祝に、笏を持つことを許す」。諏訪神の祝がないのは、もとから笏を持っていたのだろう。また、前富は、方の下にあったのが、順序が乱れて下へ移り、刀売と混同したのだろう。
『三代実録』の、貞観元年正月二十七日には、「信濃国、正三位勲八等の建御名方富命神へ、従二位を、従三位の建御名方富命、前八坂刀売命神へ、正三位を授ける」。従二位を授けたのが、諏訪神である。『文徳実録』で、諏訪神が正三位になった記事が抜けることは、ここで、もと正三位と分かるため、確認できる。なお、諏訪神の名に、建とある例は、前には見えない。従三位の建御名方富命は、水内神、前八坂刀売命は、諏訪の后神である。
同年二月十一日には、「信濃国、従二位勲八等の建御名方富命神へ、正二位を、正三位の建御名方富命、前八坂刀売命神へ、従二位を授ける」。同九年三月十一日には、「信濃国、正二位勲八等の建御名方富命神を、従一位へ、従二位の建御名方富命、八坂刀目命神を、正二位へ進める」とある。
これらの史書では、諏訪神と水内神の名が同じで、諏訪の后神は、いつも水内神と続けて挙がるため、紛らわしく、位階も誤解する人があるので、今、詳しく記し、明らかにした。
水内の社は、古くは、諏訪に並ぶ名神大社なのに、今、どの社か、はっきりしないのは、非常に不思議だ。式内でも、小社なら、後に所在不明となり、絶えたものも諸国に多い。しかし、これほどの大社で、どれか分からない例はない。ある人は、戸隠明神こそ、水内の社だろうという。戸隠も、それほど由緒ある神といわれながら、式に載らず、古書にも出ないので、この説は、本当にそうかもしれない。戸隠を、手力雄神と伝えるのも、建御名方神も、千引石を手先に差し上げる腕力の神だから、手力雄と混同する理由がある。戸隠社は、中昔から、例のように仏教のことばかりを主としたため、もとの神名も、社名も失ったのだろう。
【宣長の注釈】「大国主神の命、事代主神の言」。父には、みこと、兄には、こととあるのは、もとから、呼び方に差があったのである。
【宣長の注釈】「天神の御子の命に従い、献上する」。建御雷神が、この神へ命を伝えたことは、前に出ないが、それは前文へ譲り、省いたので、実際は、すでに、この神にも伝えたのだろう。だから、今、このように申し上げるのである。
【宣長の注釈】『日本書紀』が、建御名方神の、この話を省き捨て、記さないのは、どうしたことか。
【古事記本文】そこで、再び戻って来て、大国主神に尋ねた。
「お前の子の、事代主神と建御名方神の二人は、天神の御子の命に従い、背かないと申した。では、お前の心はどうだ」。
大国主神は答え申し上げた。
「私の子、二人の申したとおり、私も背きません。この葦原中国は、命のままに、ことごとく献上しましょう。ただ、私の住まいは、天神の御子が、日の神から与えられた御膳を召し上がる、炊煙の盛んに上がる天の御台所のように、地底の岩へ、宮柱を太々と立て、高天原へ、千木を高々と上げてお造りくだされば、私は、遠く、幾重もの曲がり道の果ての黄泉国へ隠れ、お仕えしましょう。また、私の百柱余りの子神たちは、八重事代主神が神々の先頭や最後尾に立って守り導き、お仕えするなら、背く神はありません」。
このように申し上げて、というのである。
原注は、登陀流の三字、布斗斯理の四字、多迦斯理の四字を、音で読むとする。登陀流は、後も同じである。
【宣長の注釈】「更且還来」は、信濃から、出雲へ戻ることである。
【宣長の注釈】「二神」は、ここでは、ふたりと読むべきだ。次も同じである。
【宣長の注釈】「勿違」。この記では、勿を、どこでも不と同じように使う。そのうえ、ここの前後、三か所とも不違なので、ここも、たがはじ、背かないと読むべきだ。
【宣長の注釈】「お前の心はどうだ」。初めに、こう尋ねた時は、私は申し上げられない、とあり、自分の答えを、まだ出していないため、もう一度、こう尋ねるのである。
【宣長の注釈】「僕之不違」の之は、亦の誤りだろうと、師は説かれた。又の字だったのかもしれない。いずれにしても、必ず、あれも、私もと読むべき所である。
【宣長の注釈】「既」は、普通の、すでにとは違い、ここでは、ことごとく、全部の意味だ。この記の序の、「全て訓読によって述べると、言葉が心を十分に表せない」も、『万葉集』巻十七、五丁の、「天下を、すでに、すっかり覆って降る雪の」も、その意味である。継体天皇紀で、全を、すでにと読むのも同じだ。
既の本来の意味は、尽きると注す。『春秋』などの、日が食して、尽きたという例だ。すでにへ、この字を当てるのも、もとは、尽くす意味によるのだろうか。
【宣長の注釈】「唯」は、天下は、すっかり献上するが、その中で、ただ、というのである。こうして、後世の文で、ただしという意味にも、自然に通う。
【宣長の注釈】「住所」は、師の、すみかという読みがよい。所が、か、場所という意味である。
【宣長の注釈】「天津日継」は、『万葉集』の歌では、あまのひつぎとも詠む。天の日の大御神の、大きな委任を受け継ぎ、その仕事を、代々、治める意味の、尊い呼び名だ。天武天皇紀の、皇祖たちが位へ上るという所には、古くは日嗣といった、と注す。書紀などで、中国の天子の位に使う漢字は、全て、あまつひつぎと読む。この位を継ぐ、皇子を、日嗣御子といい、皇太子の字を当てる。
この意味は、確かで、誰も、そう考えているはずだが、この段については、もう一つ、別の考えがある。継は、給を借りて書いた字で、天の日の大御神が、お与えになる物を、受け取って召し上がることを、天津日継所知というのかもしれない。
与える物とは、天下の民が献上する、さまざまな貢ぎ物である。平兼盛集の歌では、みつぎものを、ひつぎものと詠む。みつぎものの、つぎも、供給の意味だ。今の俗語で、人へ物をみつぐ、物をつづくるというのも、もとは同じである。給は、上の者が下へ与えるだけのように思うが、下から上へ奉ることにもいう。だから、朝廷への献上も、みつぎという。これこそ、天照大御神が、天皇へ、お与えになる物なのだ。
その中で、主となるのは稲である。書紀に、「天照大神が、また命じられた。私が高天原で治める斎庭の稲穂を、わが子も治めなさい」とあるのが、その理由だ。
康治元年、大嘗会の中臣の寿詞は、康治こそ後世だが、文は古文で、『台記』別記に載る。そこには、「天の御膳として、長く遠く続く御膳として、千年も五百年も、瑞穂を平穏に安らかに、斎庭で召し上がるようにと、委ね申し上げ、天降られた」とある。また、大殿祭の詞には、「皇御孫命が、この天の高御座にお座りになり、天津日嗣を受けて、万千秋の長い秋まで、大八洲、豊葦原瑞穂国を、安らかで穏やかな国として治めるよう、委ね、お命じになって」とある。この二つを合わせ、日給の意味を考えるべきだ。
万千秋が、主として稲に掛かることは、前に詳しく説いた。天津日嗣を、万千秋に、と続くのは、天照大御神から与えられる、大八洲の稲を、万千秋まで、治め、召し上がる意味である。中臣の寿詞は、大嘗についていうため、斎庭で召し上がるといい、大殿祭は、天下を治める、御身の全てについていうため、瑞穂国を、しろしめすという。指す物は、ともに稲穂で、その中心が、斎庭の穂だ。書紀の命令は、その主となる斎庭の穂を委ね、そこへ、民が献上する稲も、さまざまな貢ぎ物も、全て含む。
前にも述べたように、皇国には、稲へ、特別に深いいわれがあり、このような大御神の厳かな命令もあって、後世までも、多くの政治の中で、大嘗を、比べるもののない大事とされる。天津日継を、しろしめすといえば、天下を治めることにもなるのである。天津日継とだけいい、しろしめすを付けない例や、日嗣御子は、広く言い慣れて、少し後に、しろしめすを省くようになったのか。このことは、まだ疑わしい。ただし、この記の四例は、全て、所知とある。
ここで、登陀流以下へ続くのは、後に詳しく述べるように、御膳の話だから、日の大御神が与えた稲を炊く御膳を召し上がる、その天の御巣という意味である。単に、天下を治める位なら、ここで、必ず必要な語ではなく、天神御子の登陀流、とだけいえば足りるはずだ。
【宣長の注釈】「登陀流天之御巣」は、ただ御殿というのかと、前は思ったが、そうではない。後に同じ語があり、煙が凝り立つことをいうのを、よく考えると、これは、御台所の竈の上、炊煙が立ち上る所である。
上代の構造は分かり難いが、御巣というので、試みに推測すると、煙を出すため、竈の上の屋根を、少しだけ葺き残し、窓のように開けたのだろうか。そこは、葦葺きが露出し、簀なので、御簀と呼ぶのかもしれない。竹などを編み並べ、間の透く物を、簀といい、簾も同じ意味の名である。巣は、借りた字だ。また、天之は、今、竈の上の、炊煙が掛かる所を、尼と同じ音で、あまと呼ぶ、それだろうか。
『体源鈔』には、昔、日吉行幸の時、社頭で失った鞨鼓の胴を、二十余年後、大津辺りで見つけた話がある。「あまという物へ上げてあったので、すすけていたが、少しも傷んでいなかった」という。そのため、いつもの、あめのとは読まず、あまのと読んだ。ただし、通常の天之と見ても、悪くはないだろう。
登陀流は、非常に分かり難い。いつものように、強いていえば、富み足りる意味か。富の、みを省く例がある。古今とも、家が豊かなことを、炊煙が盛んに上るといい、貧しさを、煙が立たないという。下巻、高津宮の段の、「国中に煙が上らない。国は皆、貧窮している」「国に煙が満ち、人民が豊かになった」という例だ。煙が盛んに上ることを祝い、富足と、いい慣わしたのだろう。そうなら、ここは、煙が盛んに立ち上る、天の御巣という意味か。上代は、この煙が上る所を重んじたので、「富み足りる」という祝いの言葉もあり、ここでも主に、そのことをいうのだろう。
明宮の天皇の歌に、「ももちだる、やにはもみゆ(煙が盛んに上がる多くの家々の庭も見える)」とある。ちだるは、ここの、とだると同じで、百千足の意味ではない。富を縮め、ちというのだろう。煙が盛んに立ち上る、多くの家の庭が見えるのである。煙が盛んなのを見て、豊かになったと思われる意味としても、同じだ。
大殿祭の祝詞に、「お治めになる大宮の地は、底の岩の果てまで、下の綱根を、這う虫の災いなく、高天原は、青雲のたなびく果てまで、天の血垂を、飛ぶ鳥の災いなく」とある。血垂も同じだ。ただし、これは、煙が上る場所の名なので、ちだりと読むべきで、今の本も、そう読む。登陀流天之御巣を縮め、直接、天之知陀理というのである。
飛ぶ鳥の災いとは、ここが、屋根を葺き残した開口部なので、空を高く飛ぶ鳥が、毒物でも何でも、くわえて来たり、糞などを、竈の上へ落とすようなことだろう。師の『祝詞考』の、この血垂の説は、大きな誤りだ。文をよく見てほしい。御殿の下と上を、対にして並べ、底の岩の果てまでと、高天原の果てまでとを対にするので、下津綱根に対応する、天之血垂も、必ず、御殿の上、屋根の所をいうのは、明らかではないか。
神武天皇紀の、細戈千足国の、千足も同じで、煙が盛んに上る、富んだ国だ。ももちだるの歌と合わせるべきだ。細戈は枕詞で、玉鉾の御路と同じく、ちという語へ掛かるだけである。これらを並べて考えてほしい。
大国主神が、自分の住まいを、こう造ってほしいと求めるのは、専ら、御膳についてのことだから、御台所の構造を求めるのである。次に、櫛八玉神が膳夫となる話で分かる。天津日継所知も、日の神から与えられた稲を炊き、調理した御膳を召し上がる、その台所のように、という意味へ続くのは明らかだ。
天慶六年の、日本紀竟宴で、大鷦鷯天皇を題とした師輔公の歌には、「大鷦鷯の天皇の代から、立つ煙は、天の日継に、ますます燃え続くことだ」とある。煙を、天の日継へ結び付けるのは、古意を知って詠んだか、自然に合ったのか、いずれでも、先の日嗣の考えには、理由がある。
台所の中でも、煙が上る所を重んじるため、特に、天の御巣という。天神の御子の御巣のようにと、特に願うことから、普通の家とは、構造の違う点があり、深いいわれがあるのだろう。中巻、玉垣朝の段でも、この出雲大神の託宣に、「わが宮を、天皇の御舎のように修理すれば、御子は、必ず、本当に言葉を話せるようになる」とある。この段と合わせて考えると、きっと、深いいわれがあるのだろう。
【宣長の注釈】「治賜者」の、をさむという意味は、先の、治我前者、巻十二、二十葉で述べたとおりである。
【宣長の注釈】「百不足」は、八十へ掛ける枕詞で、その理由は、『冠辞考』に見える。
【宣長の注釈】「八十坰手」。坰は、隅で、この記は、多く、この字を書く。ただし、字そのものに、くまという意味は見えない。『爾雅』には、林の外を坰というとあり、その意味から使うのか。中巻には、硐とも書くが、これにも、くまの意味はない。こちらで、回へ、土偏や石偏を付けたのかもしれない。そのような例はある。また、坰は冋と同じ字で、その冋が回と字形が似るため、誤って、回の意味で使い始めたのか。なお、よく考えるべきだ。
書紀は、百不足之八十隈と書き、隈を、くまでというと注す。この邇を、ぢの仮名として読むのは誤りで、での仮名だ。手は、道で、づとちは、通う音である。『万葉集』に、道の永手と、多く詠むことと、道之長乳歯神の名を合わせ、永手が、永道と分かり、ここの手も、道と分かるべきだ。
万葉巻一の、川隈の八十阿不落、巻二の、この道の八十隈ごと、巻十三の、道の先、八十阿ごと、などもある。巻三には、「多くの道の曲がり角に、手向けをすれば、亡き人に、会えるだろうか」とある。隅坂も、隈路の誤りと、師はいわれたが、そのとおりだろう。この歌は、特に、ここと縁があるように聞こえる。亡くなった時の歌で、八十隈路は、黄泉路だからである。
八十坰手は、多くの曲がり角を経る、はるかな所で、神が目指すのは、黄泉国だ。堅洲国、底国などの名と同じ意味で、その名義は、前に出た。
この神は、須佐之男大神の子孫で、途中、一度、大神のいる黄泉へ行ったことにより、大きな功を立て、天下を造り整えた。それは、前に、順々に出たとおりだ。今、この国を、天神の御子へ譲り、最後に、また、その国へ隠れるのには、深い道理があることだ。事代主神が、海底へ隠れるのも、そうとはいわないが、同じく、黄泉国へ隠れるのである。
【宣長の注釈】「隠而」は、顕の国を去り、黄泉国へ行くことだ。海の島へ隠居するという説などは、中国風の考え方で、誤りである。
【宣長の注釈】「侍」は、さもらひなむと読むべきだ。さもらふの、さは、真、もらふは、もるを延ばした語である。もるは、何事でも、心を向け、うかがい考えていることだ。物を守る、人目を避ける、目を付け、じっと見張るのを、まもるというのも、この意味である。候風も、泊まった船が、よい風を待ちうかがうことで、同じだ。命じられれば、お受けしようと待つ意味で、君の前にいることを、さもらふという。
玉垣宮の段の、「時じくの香の木の実を持ち、参上して控えた」。若桜宮の段の、「政治が全て平らぎ、参上して控えた」。穴穂宮の段の、「先日、お尋ねの女子、詞良比売は、ここにおります」。『万葉集』巻二の、「お仕えしても、お仕えできなくて(さもらへど、さもらひえねて)」、巻二十の、「お仕えする私を、家の人は待つだろうに」などもある。
君の前にいる意味から転じ、後には、相手を敬い、自分のことへ、何にでも添える語となった。見るを、見さもらふ、聞くを、聞きさもらふという類いだ。仕える場所自体も、侍という。もとは、さもらふだったのを、中昔から、さむらふといい、添える語の方は、なまって、さうらふ、さらに縮めて、そろというのは、いっそう俗な言い方である。
はむべり、はべりも、さもらふと全く同じように使い、意味も、もとから近いので、同じ侍の字を書く。ただし、さもらふは、侍も候も書くが、はむべりは、侍だけを書き、候とは書かない。貴人の前にいるだけで、うかがう意味はないためか。はむべりは、はい伏していることで、俗語の、はひくづをりと同じだ。万葉巻二の、「埴安の宮門の原で、鹿のように、はい伏しながら、うずらのように、はい回り、お仕えしても」。巻三の、「鹿のように、はい伏して拝み、うずらのように、はい回り、畏れつつ、お仕えして」。また、「ししのように、膝を折り伏して」などから分かる。
もとは、べが清音で、はへりだ。『三代実録』貞観十二年の宣命に、「大法師平勢は、今、身が重病に沈み、起居の便を失って、はへり」とある。後に、音便の、んを添え、そのため、へも濁ったが、んを付けなくても濁るのは、音便の濁音から移ったのだ。んの下では、清音も濁る例があり、ねもころが、後に音便で、ねんごろという時、ごを濁るのと同じである。そこから移して、ねもころでも濁るのは誤りだ。この例で、はむべるも理解してほしい。『続日本紀』の宣命などにも、侍が多いが、全て、さもらふでも、はへりでもよい。
今、この神が、こう申すのは、遠い黄泉へ隠れても、なお、天神の御子の前へ控える心で、いつまでも守護しようという意味だ。中昔の、ただ、隠れている意味へ、侍を添えるのとは違う。『続日本紀』巻十七の詔に、「代々、天下へ仕え、国家を守った、功のある臣たちの侍所に、しるしを立て、天地とともに、人に侮らせず、とがめさせず、治める」とある侍所は、墓のことで、これも同じ趣旨である。
書紀には、「高皇産霊尊は、大己貴神へ、あなたの言葉は、深く道理がある。改めて、一つずつ命じよう。あなたが治める、目に見えることは、わが孫が治め、あなたは、神事を治めなさいと命じた。大己貴神は、私の治める顕の事は、皇孫が治め、私は、退いて幽の事を治めましょうと答えた」とある。この、幽事を治めることも、侍の語に含まれる。
幽事は、その前の神事と同じで、神事は、言葉どおり、幽事は、意味によって書いた字だから、両方とも、かみごとと読むべきだ。舒明天皇紀の、幽顕の読みからも、そう定めてほしい。皇孫が治める顕事は、朝廷の政治、人が目に見える形で行うことだ。幽事は、その対で、目に見えず、誰がするともなく、神がなさる政治である。この世のことは、全て神の心で行われるが、ひとまず、人のすることと対にし、特に神事と呼ぶ。大神が、これを治めるのも、皇朝の政治を、目に見えず助けるため、侍はむに、その意味がこもるのである。
初めに、伊邪那岐大神と伊邪那美大神が別れ、顕国と黄泉国へ帰り、その子の、天照大御神と須佐之男大神も、顕国と黄泉国に分かれた。今、さらに、その子孫が分かれ、顕の国と幽の国を治めることが、永く定まった。その間の、さまざまなことは、顕と幽が交わり、幽が顕を助け、完成する。禊の段で詳しく述べたように、善は悪から生じる道理を、始めから終わりまで考え渡し、理解すべきである。
この世にある、全ての幽事は、この大神の治めることなのだ。ただし、こうして隠れるのは、現身のことで、前の、私の住まいは、というのは、この国に残す御霊が鎮座する所だ。この区別を、よくしなければ混同する。神代のことは、現身と御霊を、一つのように伝え、これが上代の考え方なので、紛らわしいことが多い。
伊邪那岐大神について、書紀の、「天へ上り、復命し、そのまま日の少宮に住んだ」は、現身である。「淡路の島へ、幽かな宮を造り、静かに長く隠れた」や、この記の、淡路の多賀へいるというのは、全て、御霊の鎮座をいう。須佐之男大神も、現身は根国へ行き、御霊は出雲の熊野にいる。そのような例が、ほかにも多いことを考えてほしい。
【宣長の注釈】「百八十神」は、ももやそがみと読むべきだ。ももまりやそは、よくない。千五百も、ちまりいほとはいわないのと同じだ。この大神の子は、百柱を超え、さらに、数十柱あったのだろう。
物の多さを、おおよそいうのに、八、五十、八十、百、百八十、五百、八百、千、千五百、八千、万、八十万、八百万、千万という。どれも、やみくもな表現ではなく、それぞれの量に応じていうのである。書紀には、大国主神の子は、およそ百八十一神とある。『出雲国風土記』の、百八十神たちが集まったというのは、単に、多くの神々の意味だ。雄略天皇紀の、百八十種勝部、欽明天皇紀の、天地社稷百八十神、推古天皇紀の、百八十部、皇極天皇紀の、百八十部曲なども、百八十という例である。
【宣長の注釈】「神之御尾前」の神は、天神の御子へ従い、仕える神々を、広く指す。先の百八十神のようにも見えるが、それなら、其神之とあるはずで、単に神之なのだから、そうではない。尾前は、前後、俗にいう、あとさきと同じだ。
後世の軍陣でも、先頭を進む先鋒と、最後尾を守る殿が重い役目のように、事代主神が、指導者として、神々の前に立ち、後ろに立ち、天神の御子を守り、お仕えするのである。天武天皇紀で、高市社の事代主神と、牟狭社の生霊神の二柱が、高市県主許梅へ憑き、「私は、皇御孫命の前後に立ち、不破まで送り、戻った。今も、官軍の中に立ち、守護する」と告げたことも、合わせて考えるべきだ。
この、皇御孫命の前後に立つから、ここの御尾前も、天神の御子の前後のようにも見えるが、そうではない。そちらは、事代主神と生霊神の二柱が、前と後ろに立つのだろう。この神が、後世までも、神祇官の八神に加わって祭られるのは、天皇の御身を守るためだ。これらは、巻十一、六十六葉から六十八葉でも、詳しく述べた。
事代主神も、現身は、すでに隠れたので、この後、守護神となって仕えるのは、御霊なのが、自然に明らかである。
【宣長の注釈】「違神者非也」は、私の子の百八十神の中に、一柱も背く者はいないだろう、という意味だ。百八十神者を、ここへ掛けて見るべきである。非は、存在しないの意味だ。ここまでが、大国主神の言葉である。
書紀には、この時、「国を平定した時に使った広矛を、二神へ渡し、私は、この矛で治国の功を成した。天孫が、この矛で国を治めれば、必ず平安になると申した」とある。一書には、「岐神を二神へ薦め、これが、私に代わり、お供するだろうといった」などがある。岐神は、この巻の前に述べた。
また、「この時、帰順した神々の首領、大物主神と事代主神は、八十万神を天高市へ集め、率いて天へ上り、その誠意の至るところを述べた」ともある。すでに、長く隠れた後の文なので、隠れてから、天へ上るとは、どういうことかと疑うだろう。しかし、これは御霊のことで、現身ではない。大物主は、現身の名ではなく、大三輪にいる御霊の名なのに、この名でいうことからも、現身ではないと分かる。
【古事記本文】〔宣長が補った本文〕こうして、お隠れになった。そこで、申し上げたとおりに、というのである。
【宣長の注釈】この七字は、今、私が補った。如此之白而までは、大国主神についての叙述で、次の、出雲国の、以下は、天神の御子の命により、この神を祭らせる側へ変わる。こうして、話の主体が変わる時は、必ず、文の区切りがあるはずなのに、もとのままでは、区切りがなく、如此之白而から、天の真魚咋を献じた、まで続き、全て、大国主神の行為になって、道理に合わない。そのため、如此之白而の下には、必ず、主体の変わる区切りが、必要である。
そこにあるべき語を考えると、書紀に、「いい終え、そのまま隠れた。そこで」とも、「私は、ここから立ち去ろう。そして、自ら、瑞の八坂瓊を身に着け、長く隠れた。そこで」ともある。これにより、乃隠也の三字を補い、大国主神側の叙述を結び、区切りとした。
また、如此之白而と、随白而の、下の二字が同じなのを混同し、間の文字を落としたのだと考え、後の四字も補った。この記では、随の下に、多く而があり、随詔命而などのようである。
【古事記本文】出雲国の、多芸志の小浜に、天の御舎を造り、水戸神の孫、櫛八玉神を膳夫に任じ、天の饗宴を奉った。この饗宴では、櫛八玉神が祝詞を唱えた。その準備として鵜へ姿を変え、海底へ入り、底の粘土をくわえ出し、天の多くの平瓮という器を作った。海藻の、めの茎を刈り、火切りの臼を作り、こもの茎で、火切りの杵を作って、火を切り出した。唱えた祝詞は、次のとおりである。
「私が切り出した、この火は、高天原では、神産巣日御祖命の、炊煙の盛んに上がる天の御台所の新しい煙出しに、すすが八拳も垂れるまで、高く燃え上がらせましょう。地の下では、底の岩まで、焼き固めましょう。千尋もの栲縄を長く延ばし、釣りをした海人たちが、口が大きく胸びれの小さい鱸を、声を掛け合いながら引き寄せ、引き上げましょう。そして割り竹がたわむほどに魚を盛り、天の立派な魚料理を献上いたしましょう」。
そこで、建御雷神は、戻って天へ上り、葦原中国を従わせ、平らげた様子を、復命した。
原注は、多芸志、波邇、毘良迦、摩弖、佐和佐和邇、登遠遠登遠遠邇を、音で読み、凝烟を、すす、鱸を、すずきと読むとする。
【宣長の注釈】「多芸志の小浜」は、名の意味を、まだ考え出せない。船具に、たぎしという物があり、それによる名か。その船具は、中巻、倭建命の段、巻二十八に出る。ここは、杵築大社の土地の古名のようだが、ほかに、この名はない。『出雲国風土記』も、出雲郡、出雲御埼山の、西の下に、天下を造った大神の社がある、といい、大社だろうが、多芸志の小浜は、全く出ない。
『神名帳』には、神門郡に、多伎芸神社、多伎神社などがあるが、これらでは、決してないだろう。内山真龍は、「たぎし浜は、今、陸地になり、武志村という。今は、神門郡塩治郷の内だ」という。
【宣長の注釈】「御舎」は、みあらかと読む。中巻の玉垣宮、朝倉宮などにも、天皇之御舎とあり、祟る神を遷し退ける詞には、皇御孫尊の天御舎とある。大殿祭の祝詞には、「皇御孫命の、天の陰、日の陰として、隠れ住み、お仕えする、瑞の御殿」とあり、みづのみあらかと読む。『古語拾遺』の瑞殿も、同じ古語の読みを付ける。万葉巻二には、御在香を高く治めて、とある。
地へ掛かる枕詞、あらかねのも、舎の根だ。地は、舎を立てる根だからで、底の岩へ宮柱を太々と立てる、を考えてほしい。
『古語拾遺』の、橿原大宮造営には、「天富命、大玉命の孫に、手置帆負、彦狭知の二神の孫を率いさせ、清めた斧と鋤で、山材を切り出し、正殿を建てさせた。その子孫は、紀伊国名草郡の御木、麁香の二郷にいる。正殿を、古語で、あらかという。木材を切った忌部の居所を御木、殿を造った忌部の居所を麁香といい、これが証拠だ」とある。『和名抄』には、名草郡に荒賀郷があるが、御木郷は、ない。
あらかの意味は、ありかか、ありはかかもしれない。はかは、どこを目当てに、という、はかで、確かに定まった場所をいう。りはを縮めると、らになる。
今、造る御舎は、大国主神の御霊が鎮座する社で、杵築大社である。国造の神賀詞には、「大穴持神は、こう申して、自分の和魂を、皇御孫命の近くを守る神として差し出し置き、八百丹杵築宮へ静まった」とある。
書紀の高木神の命にも、「あなたの住むべき天日隅宮は、今、造って差し上げよう。千尋の栲縄を、多くの結びにし、宮の造りは、柱を高く太く、板を広く厚くする」とある。『出雲国風土記』にも、「神魂命が、五十足天日栖宮の縦横の寸法を、千尋の栲縄で、多く多く結んで下し、この天の寸法で、天下を造った大神の宮を、造り奉れと命じた」とある。内山真龍は、この五十足も、五は余分な字として、とだると読んだ。
構造は、特に広大で、ほかの社より優れるため、大社の名を負い、今も、そうだという。『神名式』には、出雲国出雲郡杵築大社、名神大社とある。杵築郷は、今、神門郡に属すという。
『文徳実録』仁寿元年九月、庚午朔の乙酉には、出雲の熊野、杵築の二大神を、特に、従三位へ進めたとある。『三代実録』貞観元年正月二十七日には、従三位の熊野神、杵築神を、ともに正三位へ。同年五月二十八日には、正三位勲七等の熊野神と、正三位勲八等の杵築神を、ともに従二位へ。同九年四月八日には、従二位勲七等の熊野神、従二位勲八等の杵築神を、ともに正二位へ、とある。
熊野が、須佐之男大神であることは、巻九、四十二葉に詳しく述べた。杵築が、大国主神であることも、記紀、風土記、国造神賀詞で明らかだ。杵築に、須佐之男と大国主の二神を祭る説は、誤りである。これは、神祇令の義解が、天神を、出雲国造の斎く神などとし、地祇を、出雲の大汝神などとすること、『先代旧事本紀』が、素戔鳴尊は、出雲の熊野、杵築神宮にいるとすることによる。
旧事紀は、例によって信用するに足りない。義解は、紛らわしい書き方だが、国造の斎く神は、熊野を指す。神賀詞によれば、国造は、出雲全体の神々を祭るが、中でも熊野を第一とするため、そういうのだろう。大汝神の方が、杵築だ。ところが、神賀詞を考えず、不用意に、国造の斎く神を、杵築だけと思うため、誤ったのである。古書に、杵築で須佐之男命を祭ると出る例はない。二神なら、『神名帳』にも、二座とあるはずではないか。
『日本書紀通証』は、『行成記』を引き、長徳元年、出雲の報告に、「杵築両神が、斎慶の務めを行う間」とある。これは、杵築の上に熊野の二字が抜けたか、『神名帳』の、同社大神大后神社などを合わせ、両神というのだろう。ほかの書の例でも、二神を祭っていても、一社なら、杵築社というはずで、両神というのは、必ず二社だからである。
【宣長の注釈】原注の、多芸志の三字を、音で読むという注は、浜の下にあるべきである。
【宣長の注釈】「水戸神」は、前に、伊邪那岐神が生んだ、水戸神、速秋津日子神、次に速秋津比売神とあった、それか。
【宣長の注釈】「孫」は、『和名抄』に、『爾雅』は、子の子を孫といい、和名、むまご、別名、ひことある。このうち、ひこが正しいだろう。古くは、孫を、全て、そう読んだ。曾孫の、ひひこも、ひこの子という意味だからだ。今、曾孫を、ひこというのは、ひひこが、なまったものだ。
むまごは、馬や梅も、後に、むま、むめというのと同じで、もとは、うまごだ。これは、うまはりご、子が、また子を生み、次々に増える意味の名で、これも古い呼び方らしい。ここの孫は、広く子孫の意味のようにも見えるが、やはり、子の子だろう。
【宣長の注釈】「櫛八玉神」。櫛は、奇、霊妙という、いつもの称え名、八は、いよいよ、玉は、布刀玉の玉と同じ、たむけが縮まったものだろう。巻八、二十九葉で述べた。今、膳夫となり、大国主神の饗宴を手向けるための名に聞こえる。師は、八は入の誤りで、くしりたまというべきだとされたが、疑わしい。海底へ入ることから、考えられたのか。
この神の名は、ほかの古書にはない。沫那芸神の子とする説も、信用し難い。前の、水戸神が、川と海を分け持ち、生んだ神、沫那芸神、という所と、ここの、水戸神の孫を合わせた推測だろう。
櫛玉神、櫛明玉神とは、別だろう。『神名式』には、大和高市郡、櫛玉命神社四座、いずれも大社、月次、新嘗とある。『姓氏録』には、高御魂命の子、櫛玉命。伊勢の朝熊神社六座にも、櫛玉命がある。『古語拾遺』には、櫛明玉命の孫、その末裔は今、出雲にいるとある。明玉と八玉は近く、同じ神かとも思え、出雲という点も関わるが、それでも別神だろう。明玉命は、巻八、二十八、二十九葉と、巻十五、六十三葉に出る。
『神名式』には、出雲、意宇郡、玉作湯神社、風土記には、同郡の玉造川、仁多郡の玉作社、玉峯山などがある。
【宣長の注釈】「膳夫」は、かしはでと読む。中巻にもあり、書紀にも多く、継体天皇紀では、供膳とも書く。『和名抄』は、大膳職を、おほかしはでのつかさ、内膳司を、うちのかしはでのつかさ、主膳監を、みこのみやのかしはでのつかさとする。
大昔は、食べ物を木の葉へ盛り、その葉は、何の木でも、全て、かしはと呼んだ。かしはについては、巻二十二、六十葉で詳しく述べる。そのため、食膳の仕事を行う人を、かしはでという。では、手で、物を造る人を、手人といい、今も、仕事をする人を、手と呼ぶ例が多い。『出雲風土記抄』では、神門郡武志村の、膳夫大明神が、この神だという。
【宣長の注釈】「為」は、してと読むべきだ。これは、天照大御神、高木神の命により、任じることだからである。なりてと読めば、櫛八玉神が、自分でなった意味になるが、そうではない。
【宣長の注釈】「天御饗」の天は、大の誤りのようにも見える。白檮原宮の段の、「足一騰宮を造り、大御饗を献上した」に似て、同段や、軽島宮にも、大御饗とある。しかし、後に、天之真魚咋があり、大嘗祭の祝詞にも、天都御食とあるため、もとのままでよい。天上で行う饗宴の作法を使うため、そういうのだろう。
ここで、天御饗を献じる時、とあるのは、全体を先にまとめ、その後、細かな事柄をいうのである。文章の一つの型で、中昔の物語などにも多い。次の、禱白而から、天之真魚咋を献じる、までが、この饗宴の細かな内容である。
【宣長の注釈】「禱白而」は、先の石屋戸の段で、天児屋命が、立派な祝詞を唱えたことと同じで、饗宴を奉る祝詞である。巻八、四十六葉に詳しい。
この後、天の八十毘良迦を作り、燧杵を作り、など、而を重ねるのは、うけひや石屋戸の段、巻七、四十三葉、巻八、五十八葉で述べたように、さまざまな事を並べる語である。上の行為の後、下の行為をする、という順序ではない。禱白も、饗宴の一項目で、櫛八玉神が鵜となる行為だけへ掛けてはいけない。
祝詞の文は、後の、私が切り出した火は、以下である。そこへ、禱白と書かず、先に置くのは、饗宴を奉る時、へ直接つなぐためだ。その後に挙がる行為は、献上前の準備で、実際に献上する時ではないが、祝詞は、まさに、その時のことだからである。而を置くのは、後の、云、是我以下へつなぐためだ。こうした古文は、後世には及ばない書き方である。
【宣長の注釈】「櫛八玉神」と、再び名を出すのは、前は、命によって任じること、ここは、それを承り、以下のさまざまなことを、この神が行うというためである。
【宣長の注釈】「鵜」。『和名抄』は、『弁色立成』を引き、大きなものを、しまづとり、小さなものを、俗に、うというとする。『爾雅』の注には、鵜は水鳥で、くちばしの先が鉤状で、魚を好んで食べるもの、とある。
しまづとりと、うを、大きさで分けるのは誤りだ。にわつとりが鶏、のつとりが雉なのと同じく、しまつとりと、うは、一つの物である。うを俗語とするのも、どういうことか。すでに神武天皇の歌に出る名ではないか。『新撰字鏡』では、鸕も鵜も、うとする。この記の三例は、全て鵜を書く。
この鳥へ姿を変えたのは、特に、水底へ潜るのが上手なためだ。単に海底へ入ったことを、鵜になったと表現した、と考えるのは、例の中国風の、こざかしい考えである。化という字のとおりに見るべきだ。
【宣長の注釈】「海底」は、万葉に、わたのそことある。この神は、水戸神の孫だから、海底へ入ることに、いわれがある。
【宣長の注釈】「底之」。先に、海底といい、また底というのは、下手なようだが、海底は、海水の下の方を、広く大まかにいい、この底は、まさに、海の底面をいう。
【宣長の注釈】「波邇」は、『和名抄』が、『釈名』を引き、黄色で、きめ細かい土を埴、和名、はにとする。『新撰字鏡』も、埴は粘土、はにという。万葉では、赤土、黄土などとも書き、その土地を、はにふといった。陶器を作る土なので、作る人を、土師、はじという。書紀には、須佐之男命が、埴で船を作ったことも出る。
なぜ、海底の埴を求めたのかは、分からない。人から遠い、清らかな場所の土を選んだのか。出雲国造の神賀詞には、向こうとこちらの古川原へ生じた、水泥の、という文がある。
師は、古事記の、櫛八玉神が鵜となる記事と、『出雲国風土記』仁多郡御津郷の、「その津で、水泥を払い、沐浴した。そのため、国造が吉事を奏すため朝廷へ向かう時、そこの海水と土を取り、土器に用いる」という記事を合わせ、土器を作る泥を、若水泥というのだ、と説かれた。しかし、風土記を調べると、引かれたものと趣旨が違い、水泥、水海土、土物などの字もない。別の事で、写本が違うのかもしれないが、全文の意味も、泥や土器の話には聞こえない。どうしたことか。
『出雲風土記抄』は、秋鹿郡出島社の所で、西浜佐田村の釜代大神だといい、釜代というのは、昔、この社の海中から、古い銅の釜や鍋が出たためと、伝える。
【宣長の注釈】「天八十毘良迦」。八十は、多さをいい、ひらかの、ひを、びと濁って書くのは、やそから続くためだ。神武天皇紀には、平瓮と書き、びらけと読むとある。『和名抄』の瓦器類には、盆について、『唐韻』は、土の器、『爾雅』は、瓫を缶という、『兼名苑』は、盆を盂ともいう、『弁色立成』は、ひらか、俗に、ほときとする。盆と瓫は、同じ字で、今の皿鉢の類いであり、俗にいう、お盆ではない。
『新撰字鏡』は、〔一字判読留保〕、鍑を、ひらかとするが、この一字は、字書に見えず、鍑も釜の類いのようで、ひらかとしては、どうか。この器は、今の皿や土器のような物らしい。ただ、『儀式』に、径一尺三寸、深さ一尺四寸、大嘗祭式には、百口、それぞれ一斗を受けるなどとあるため、大きなものもあるのだろう。
名の、ひらは、平瓮と書くとおり、浅く平たい形だ。式の、たかすき、ひらすきという器や、今の膳具の、ひら、つぼも、形による名である。さらという名も、浅い意味だろう。書紀には浅甕があり、俗にも、浅い器を、さらきという。
かは、この類いの器の総称で、ゆか、たしらか、瓮などがあり、笥や土器の、けも、音が通うので、もとは一名だろう。大嘗祭式は、神へ供える器全般を、神の言葉で、ゆかものといい、ゆか十口などもある。清めた瓮の意味だろう。
中巻、水垣宮の段には、伊迦賀色許男命へ、天の八十毘羅訶を作らせ、天神地祇の社を定め祭った、とある。神武天皇紀には、「天神が、天香山の社の土を取り、天平瓮八十枚と厳瓮を作り、天神地祇を敬って祭れ、と教えた」とある。また、「天皇は、大いに喜び、この埴で、八十の平瓮、天手抉八十枚、厳瓮を作り、丹生川上へ上って、天神地祇を祭った」とある。
『釈日本紀』は、大同元年の大神宮本紀を引き、采女、忍比売の作る、天の八十枚を持ち、祝いの場で仕えた、とする。兼方は、平賀は、神への供物を盛る土器で、今、伊勢大神宮の殿の下へ多く置き、神々が参上する神座という説もある、と記す。神々の座というのは、理解できず、後のこじつけだろう。『百錬抄』保安二年九月六日には、豊受大神宮の洪水被害を、卿たちが議し、正殿の下の、天平賀が流失したことがある。
『大神宮儀式帳』には、天のひらか十二口などとある。今、伊勢で使う物は、俗に盆瓦といい、丸い盆の形で、径八寸ほど、深さ一寸ほど、普通の土器のように焼いた物で、毎節、宇爾県から貢ぐという。今も、心の御柱の根元へ置く。
【宣長の注釈】「海布」は、めと読むべきだ。めは、にぎめ、あらめ、こんぶなどの総称である。『和名抄』には、海藻を、にぎめ、俗に和布と書き、滑海藻を、あらめ、俗に荒布と書くとある。万葉巻十四には、磯のわかめ、巻十六には、稚海藻、和海藻とある。同じ一首で字を変えるので、和海藻は、にぎめと読むのか。
『和名抄』は、にぎめと、あらめを出し、わかめを別に出さず、名も、わかめと、にぎめは、同じように思える。しかし、『延喜式』では、海藻、稚海藻、滑海藻、また、和布、海藻、荒布と、三つを並べる所があるので、別である。式の和布は、海藻と分けるため、わかめだが、『和名抄』は、海藻を俗に和布と書くという。全般を、にぎめといい、その中の、細かく柔らかい物を、特に、わかめというのか。
ひろめを昆布、あらめを荒布、わかめを和布と書くことを合わせれば、ここの海布は、総称らしく、単に、めと読み、種類を定め難い。しかし、稚海藻、滑海藻などへ、海藻の字を使い、万葉巻七の海藻刈舟も、今の本の、もかりぶねは誤りだが、海藻が総称なのに、特に、にぎめにも使うことから、にぎめが、その中心なのか。そうなら、ここも、強いていえば、にぎめに定めるべきか。それでも、単に海布なので、めとしてよいだろう。
【宣長の注釈】「柄」は、茎だ。『和名抄』の、幹、和名、からが、それで、幹の注も、草木の茎とする。柄という字は、矛や斧などの柄で、意味は違うが、同じく、からというため、通わせて書く。道具の柄も、草木の茎も、からという名は、もとは一つだろう。中国でも、柯が、大きな木の枝、斧の柄の両方に通う。『出雲国風土記』では、出雲郡の腦島の産物に、藻柄があるが、何だろうか。
【宣長の注釈】「鎌」は、かりてと読むべきで、刈ることだ。鎌の字自体に、刈る意味はないが、道具の名を、その働きに使うのである。前に、帚へ掃の字を書くのは、働きを道具へ使う例で、それに似る。古い文字の使い方の、一つの型なのだろう。
【宣長の注釈】「海蓴」は、こもと読むべきだ。『和名抄』の海菜類は、石蓴について、『唐韻』に、蓴は水葵、『漢語抄』に、石蓴は、こも、別名、水葵菜、『弁色立成』に、海蓴も同じ和名とする。漢語抄の石蓴と、弁色立成の海蓴は、一物で、海に生える物らしい。
水草の菰とは別である。字書では、蓴は蒪と同じで、本草にも、別名、水葵とあり、海草でなく、池や沢へ生える。蓴と石蓴は別なのに、『和名抄』が一つにし、『唐韻』を引くのは誤りだ。漢語抄の、石蓴の別名が水葵菜というのも違う。
大嘗祭式の、紀伊から、つしも、こもを、それぞれ六籠献じ、賀多の海女十人へ、時期を量り、採らせるという、こもも、それだろう。ただし、海蓴が、どんな物かは、まだ分からない。海草に、こもというものがあり、小藻の意味だろう。谷川氏は、ほだはらに似て、丸い物を多く付けるという。それかもしれないが、海蓴と書くことからは、海に生え、蓴に似る物か。また、火切り杵に作ることからは、やや堅い物のはずだ。なお、よく調べるべきである。
【宣長の注釈】「燧臼」は、ひきりうすと読む。
【宣長の注釈】「燧杵」は、ひきりぎねと読むべきだ。このように、海草の茎で、火を切る道具を作るのは、どんないわれか、分からない。この材料で火を取ることがあるか、海辺の人へ広く尋ねるべきだ。ある人は、潮に長く漬かり、傷んだ木を、火口にする例が、海辺の里にあるという。これも、少しは関わるのか。
これを、臼と杵と呼ぶ理由は、次に述べる。『和名抄』は、臼を、うす、杵を、きねとする。
【宣長の注釈】「鑽出火」は、ひをきりいでてと読むべきだ。『和名抄』は、火鑽を、ひきり、燧を、ひうちとする。中巻、倭建命の段の、火打ちで火を打ち出した、は、普通の火打ちだ。火を出すには、打つ方法と、切る方法がある。
上代から、清め慎む火は、全て切り出し、火打ちを使わない。なぜかは、分からない。木の火は陽、金属の火は陰だから、などは、例の、取るに足りない中国風の説明だ。今も、大神宮の供物を炊く火は、切り出す。伊勢では、必ずしも切り出さなくても、別に清めた火を、切火という。兼実公の日記、『玉葉』にも、神宮の習いとして、火打ちを使わず、火切りを用いるとある。
きるは、切り分けると同じ言葉だろう。今は、もみ火ともいい、『日本霊異記』にも、鑽を、きり、また、もみとするので、古くから、もむともいった。錐で穴をあけるのを、俗に、きりもみという。錐も、きる道具の名で、その、きるを、もむともいうのは、同じことである。
『和名抄』や、書紀の倭建命の段で、燧は火打ちなのに、燧臼、燧杵では、ひきりと読むのかと思うだろうが、燧は、両方に通わせられる字だ。字注は、火を取る道具とし、『礼記』内則篇には、左に金燧、右に木燧を帯びるとある。注は、金燧は日から火を取り、木燧は、火を切るとする。木では、火を打ち出せないため、火切りなのは明らかだ。『和名抄』が、鑽と燧を、ひきりと、ひうちへ分けるのは、少し後のことである。
切り出す方法を考えると、鑽は、穴をあける物と注し、錐は、穴をあける道具の鋭いもの、鑽に似て小さいとする。中国では、鑽は、錐ほど鋭くない、穴あけ道具の名だ。古漢籍に、鑽燧もあるため、火を取るにも、そのような道具、すなわち燧を使い、穴をあけるように、こすり、もんで出したらしい。金属だけでなく、木燧のような木製もある。ここの燧臼、燧杵を合わせれば、日本の火切りも、同じ方法と分かる。
こすり、もむ動きが、物を搗くのに似るため、臼と杵というのだろう。今も、大神宮の忌火屋殿で、神供を炊く火は、全て切火だ。よく乾いた檜の木口を切り、中央へ少しくぼみを付け、錐の柄のような木を、強く押し、もんで火を出す。杵は、檜か、山枇杷で作るという。
大嘗祭式には、悠紀、主基両国の供物を、斎場から大嘗宮へ運ぶ行列に、火鑽一荷、二つの箱へ納め、呉竹を脚とし、緑のしぼり布で覆い、一人の夫が運ぶ、とある。また、阿波から献上する品には、火鑽三枚がある。神服を織る所の作具には、火鑽二枚、口上料鉄二廷がある。これは、御膳を炊く火の道具ではないため、鉄製なのか。詳しくは分からない。
『年中行事秘抄』が引く高橋氏文には、「この時、上総国の安房大神を、御食都神と定め、若湯坐連らの祖、意富売布連の子、豊日連へ火を切らせ、忌火手とし、身を清め慎んで食事を供えた」とある。『倭姫命世記』には、「赤貝(きさ)を差し出させ、大神への供物とし、ささむの木枝を割り取り、生火切りに受け、火を切らせると、その火が切り出た。采女の忍比売が作った、天平賀八十枚を持ち、祝いの場で仕えた」とある。大嘗祭式にも、伴造が火を切り、釜で御飯を炊き、安曇宿禰が火を吹く、などがある。
内山真龍の、風土記の考えでは、神門郡の宇比多伎山は、鵜火焼山で、櫛八玉神のことをいう。御屋というのは、その火を焼く屋だという。
【宣長の注釈】「云、是我」以下。先の、禱白而を、云の上へ移して理解すべきだ。禱白は、この後の祝詞を指し、これも、櫛八玉神がいう。
書紀の高木神の命では、大己貴神の祭祀を主宰するのは、天穂日命だ。出雲国造の神賀詞の、「皇神たちを、私の弱い肩へ、太襷を掛け、お仕えして」というのも、穂日命の子孫の国造が仕えることだ。それなら、この祝詞も、天穂日命がいうはずだが、ここは、そうではない。
【宣長の注釈】「所燧火者」は、きれるひはと読むべきだ。旧印本や、ほかの本は、燧を燒とするが、真福寺本と延佳本に従った。所燒なら、たくと読むべきだが、それでは所が落ち着かず、たけるという所でもないので、所燧がよい。
【宣長の注釈】「於高天原者」は、諸本に於がないが、真福寺本と『先代旧事本紀』によった。旧事紀にあるのは、この記の古本にあったためだ。於がある方が、優れるのである。
【宣長の注釈】「天之新巣」は、神産巣日命の宮の、台所の御巣である。前文と合わせ、ここも御巣のはずだから、新は御の誤りかと、前は思ったが、そうではなかった。
【宣長の注釈】「凝烟」は、『和名抄』が、『唐韻』を引き、始煤は、灰が家へ集まる物、和名、すすとする。万葉巻九の、伏せ屋で炊く火のすすの、という句、巻十一の、難波人が葦火を炊く家の、すすけたような物であっても、という句も、凝烟だ。後者の、すしは、すすびが縮まったのか。『冠辞考』も、前者を、伏せ屋で炊く火のすす、と受けるとする。
【宣長の注釈】「八拳垂摩弖」は、火を盛んに炊き、長い年月を経て、すすが多く付くことを祝う語だ。垂を、たるると読むのは誤りで、自ら垂れるものは、たるという。たるるは、他から垂らす時の言葉である。
高天原では、というのは、煙が高く立ち上るのを、強く表現する言葉で、盛んに炊くことをいう。宮造りで、高天原へ千木を高く上げるというのと同じだ。次の、地の下では、と対にするため、単に、上では、を強調するのである。
高天原というため、そこにいる神の宮の御巣をいう。煙は、御巣へ掛かるからだ。しかし、神産巣日命の御巣というのは、高天原では、に合わせ、仮に設けた表現に過ぎない。実際は、今回、造った、大国主神の、新しい御舎の御巣なのである。新巣というのも、新しく造った御巣だからだ。
【宣長の注釈】「底津石根」は、巻十、五十九葉でも述べた、地の底の岩である。
【宣長の注釈】「焼凝」は、竈の下の土が、焼けて、石のように固まることだ。それを強く、底の岩まで、というのは、上へ昇ることを、高天原へ、と表すのと同じである。出雲国造の神賀詞にも、白い御馬の前後の蹄を踏み立て、下の岩まで踏み固めるという。
先の、是我から、ここまでは、火のことだ。ここを、たきこらさむとまをしき、と切り、ここまでを祝詞、その後の栲縄以下を、地の文としてもよさそうだが、やはり、そうではない。
饗宴の話で、火を切り出すことを、これほど詳しくいい、祝詞まで載せるのは、大国主神も、御舎を願う際、主に御巣を求めたためだ。ここからも、上代、火を、どれほど厳しく清め慎んだかを考えるべきである。黄泉の段の、黄泉戸喫、巻六、七、八葉などと、合わせて考えてほしい。
【宣長の注釈】「栲縄」は、栲の木の皮で、なった縄だ。しなの木の皮で作るという説もあり、しなは、この巻、三十葉に述べた。栲は、巻八、三十八、三十九葉の、白丹寸手の説明を参照し、『冠辞考』の、栲衾、栲角、栲縄なども見てほしい。
上代は、何にでも広く使ったらしく、古書へ多く出る。書紀の、大国主神の日隅宮造営の命にも、千尋の栲縄で、とあり、万葉にも、栲縄の千尋にも、とある。斉明天皇紀には、佐伯連栲縄という人名もある。
【宣長の注釈】「千尋縄」は、ただ、長いことだ。言葉を重ねるのは、天津祝詞の太祝詞、天雲の八重雲、真玉手の玉手など、古い雅語では普通である。
縄を打ち延ばすのは、釣り船を引く綱だ。『和名抄』が、『唐韻』を引き、船を引く縄、つなてとする物で、万葉巻七にも、釣船の綱とある。これは、後の、控依、引き寄せるへ掛かるため、打延で句を切るべきだ。縄を延ばして、釣るのではない。この並びから、栲縄を釣り糸と混同してはいけない。釣り糸に使える物でなく、千尋という点にも合わない。
【宣長の注釈】「為釣」は、つらせると読み、釣っている意味だ。つるを、つらす、つれるを、つらせるというのは、古語の型で、敬語でなくても、多くいう。そのような場所へ、為を書く例も、万葉などへ多い。
ここは、つりするではなく、海人之で句を切るべきだ。海人が釣った鱸、と続くのではない。それなら、海人之為釣とあるはずで、つりすると読んでも合わない。間の言葉を隔て、さわさわにへ掛かるのである。
【宣長の注釈】「口大」は、大口の写し誤りだろう。万葉でも、狼を、大口の真神という。旧印本は、くちおほのと読む。万葉巻七の、差大裁は、ややおほにたづと読むべきなので、何々おほともいえるか。しかし、大きいことを、おほ何々と、前へ置くのは普通でも、何々おほと後へ置くのは、やはり聞き慣れない。
くちぶととも読めるが、この記は、ふとを、仮名で布刀とだけ書く例なので、合わない。延佳本と師の本の、くちびろも、悪くはないが、この記の用字なら、ひろは、広と書くはずで、大を、ひろと読む例は、ほとんどない。鱸の形は、漢籍でも、大きな口、細かな鱗とする。
【宣長の注釈】「尾翼」は、小さいひれの意味で、尾は借りた字だ。古くは、言葉を考え、字に拘らないので、何気なく、魚へ関わる尾を使った。尾そのものなら、その様子を表す言葉がなくては足りない。尾もひれも、全ての魚にあるため、尾翼だけでは、意味がなく、古文に、そんな拙い表現はない。小さいひれと対になることからも、口大は、大口の誤りと定めるべきだ。
延佳本と師の本は、翼を、ひれと読む。『和名抄』は、鰭を、魚の背のたてがみ、はた、俗に、ひれとするが、ひれは、背びれだけでなく、左右のひれにもいう。はたは、左右だけで、背にはいわない。はたにも鰭を書くのは、背の物を、ひれと呼び、ひれが、左右にも通う名なので、引かれて使うのだろう。
ここは翼と書くため、もとから左右をいう。鳥の翼と同じだから、この字を書く。左右の物は、はたとも、ひれともいうが、下巻、袁祁命の歌の、「鮪のひれで」という「しびがはたで」や、祝詞の、はたの広い物、狭い物があるため、ここも、おはたすずきと読むべきだ。はたのと、のを足すのは、よくない。
ほかの魚に比べ、特別に小さいひれでもないが、大口と対にし、文章の表現として、そういってよい。実際に小さくなくても、小何々というのは普通だ。
『新撰字鏡』が、鰭を、背の骨、また、いろことするのと、漢籍の、鱸の細かな鱗とを合わせ、鱗かとも思うが、翼と書くため、そうではないだろう。ただ、ひれなら、古書も、この記も、鰭を使うのに、ここだけ翼なので、考えてみると、鱸は、尾で水上を飛ぶことがあるのかもしれない。それなら、尾も本来の意味で、おはね、尾を翼にして飛ぶ、となる。見聞きしたことでもなく、思い付くまま、注意を促すだけだ。海人へ、魚のことを、詳しく尋ねるべきである。
【宣長の注釈】「鱸」は、『和名抄』が、崔禹錫の食経を引き、鯉に似て大きい魚とし、四声字苑では、鰻に似て大きく、青い色とする。和名は、すずきだ。万葉巻三の、藤江の浦で鱸を釣る海人、巻十一の、鱸を取る海人の灯火、などにも詠む。
多くの魚の中で、特に鱸なのは、出雲に多く、質もよく、杵築神の供物へ、特に献じたのか。ある人は、今も出雲には、よい鱸が産して名高く、松江の地名も、中国の松江の鱸が有名なので、それに由来する、というが、本当だろうか。風土記では、島根、秋鹿、神門などの郡の産物に、須受枳が出るが、特に多い、よいとは、出ない。
【宣長の注釈】「佐和佐和邇」は、下巻、高津宮の天皇の歌にもあり、声が騒がしい様子だ。万葉巻四の、「さゐさゐしづみ(騒ぐ心を静め)」、巻十四の「さゑさゑしづみ(騒ぐ心を静め)」も、わ、ゐ、ゑが通う、同じ語である。『冠辞考』は、夫が遠い旅へ出る時、妻の嘆き、騒ぎ立つ心を静める意味とする。
ここでは、釣った、大量の鱸を積んだ船を、海人たちが栲縄で引き寄せる時の、呼び声の、騒がしさをいう。重い物を引く時は、必ず声を上げる。さわぐ、さわがしも、多くは、声の騒がしさだ。
これは、先の、海人之から続け、鱸からではない。わざと、前後の語を入れ乱した文章で、古い歌や詞には、この型が多い。普通にいえば、大口の、小ひれの鱸を船へ積み、それを釣った海人が、千尋の栲縄を延ばし、声を上げて引き寄せる意味だ。
【宣長の注釈】「控依」は、沖から岸へ引き寄せることだ。祈年祭の祝詞にも、多くの綱を掛け、引き寄せるように、とある。
【宣長の注釈】「騰」は、船から取り上げることだ。師は、依騰を、よさげと読まれた。差し上げを、ささげ、かき上げを、かかげ、持ち上げを、もたげ、万葉で、召し上げを、めさげという型だが、よせあげを、よさげという例は、まだ聞かない。しかも、依と騰は二つの事なので、やはり、よせあげと読むべきだ。普通の語を、延ばしたり縮めたりした物だけを、古語と考えるのは、偏っている。
【宣長の注釈】「打竹」の打は、旧事紀の折から考えると、拆の誤りで、さきだけ、裂いた竹だろう。旧事紀は、この記などを元にするので、古本の拆を取ったのが、後に、そちらは折、こちらは打へ誤ったのだ。万葉巻七に、辟竹があり、割った竹をいう。
打竹から、中空の竹という説もあるが、よいとは思わない。師は、うちたけと読まれた。『冠辞考』で、うちひさす、うちあさをなどの、うちを、麗しいとする、その意味かもしれないが、これも、どうか。
【宣長の注釈】「登遠々登遠々邇」の、とををは、たわわと同じく、物が、しなる様子だ。万葉巻八の、秋萩の枝も、とををに、巻十二の、垂れる柳、とをを、また、白杜の枝も、とををに、別伝では、枝も、たわたわ、などがある。巻二の、なよ竹の、とをよるも、しなり、なびくことだ。
ここは、裂いた竹の簀へ、多くの鱸を山のように積み、その竹が、しなるほど、量の多い様子だろう。祝詞で、神への供物を、横山のように積み置く、とする類いである。竹の簀へ食物を置く例は、ほかに、ほとんど見ないが、そのようなことはあったらしく、下巻、袁祁命の詞に、魚簀があり、大嘗祭式にも、置簀という物がある。
ただ、このような表現の前半は、枕詞が多いので、裂き竹は、よくしなる物として、とををへ掛かるだけかもしれない。それなら、とををは、供物を並べた台が、しなることで、机でも、何でもよい。
【宣長の注釈】「真魚咋」は、まなぐひと読むべきだ。魚を、なというのは、食べ物とする時の名で、単に海川にいる魚は、うをといい、なとはいわない。この区別を理解してほしい。持統天皇紀の、八釣魚という蝦夷の名にも、魚を、なというと注す。万葉巻五の、なつらす、魚を釣るも、食料だから、ななのだ。今も、鮨の魚を、すしな、魚屋を、なやという。
菜も、もとは同じ語で、魚でも菜でも、飯へ添えて食べる物は、全て、なという。字に拘り、別語と考えるのは、後世の癖だ。今も、菜を字音で、さいといえば、魚にも通うように、古い、なは、両方へ通った。肴の、なも同じだ。万葉巻十一の、朝魚夕菜は、朝夕とも、なは一語なのに、魚と菜で書き分け、両方へ通う名であるためだ。
その中でも、魚を特に賞美し、よい物とするため、まなと称える。まなは、魚だけで、野菜には通わない。今の、まなばし、まないたも、魚を調理する道具に限る名だ。真魚咋は、中昔の記録の、魚味、今いう魚料理ほどのことらしい。
【宣長の注釈】「献」は、たてまつらむとまをしきと読むべきだ。今、献上する時なのに、献上しようと、未来の形でいうのは、新巣のすすが、八拳垂れるまで、というように、遠い後までを含む祝詞だからである。先の、私が切り出した火は、から、ここまで、唱えた祝詞だ。
以前は、焼凝而を、たきこらさむとまをしてと読み、そこまでを祝詞、栲縄以下を、地の文としたが、よく考えると、それは、よくない。この文章は、非常に上代らしく、この記の中でも、特に優れ、比べる物がないと、師が大いに賞美し、尊ばれたのは、本当だ。上代の文章の、精妙ですぐれたことを、近年までも、全く誰も知らなかったのに、師が初めて見いだしたのも、また、比類なく、世に抜きんでた眼である。
【宣長の注釈】この記では、大国主神が、自分の住まいを求める時も、特に御巣をいい、主に、御膳についてのため、そのことだけを、詳しく記す。一方、書紀では、住むべき天日隅宮、とあり、その後、「田を耕す者も供えよう。海を行き来して遊ぶ、高橋、浮橋、天鳥船も造ろう。天安河へ、打橋を造り、多くの縫いを施す白楯も造ろう。あなたの祭祀を主宰するのは、天穂日命だ」と、さまざまな事を挙げるのに、饗宴がないのは、異なる伝承なのだ。
日隅宮は、昔から、ひけのみやと読み、師は、大国主神が隠れ退く意味で、ひそりの宮だ、と説かれた。それにも理由はあるが、風土記の日栖と合わせると、ひすのみやと読むべきだ。隅を、すということは、前にも述べた。ひすと、みすは近く、御巣と同じことかもしれない。風土記の五十足も、とだるに近い。なお、よく考えるべきである。方角などで日隅宮を説く旧説は、例の中国風の考えで、論じるに足りない。
【宣長の注釈】「故、建御雷神」以下。出来事の順序なら、復命は、天の御舎を造る、より前にあるはずだ。宮造りは、復命を聞き、命が出た後のことだからである。しかし、大国主神に関わる事を、後までまとめ、先にいい終えてから、復命を述べるのだ。
【宣長の注釈】「言向」は、巻十三、十葉に出た。
【宣長の注釈】「和平」は、平和とも、和だけとも書き、同じことなので、二字を合わせ、やはしと読むべきだ。巻十三、二十四葉に述べたとおりである。万葉巻五の、むけたひらげて、巻二十の、やはししづめ、などから、平だけを、たひらげ、しづめとも読めるが、やはり、二字で、やはしがよいだろう。
【宣長の注釈】「状」は、さまと読むべきだ。場所によっては、ありさまという所もあり、この記の序の、たいへん曖昧で、本来の形を得ないものもあるので、ひとまず、このありさまを述べる、という状などである。
書紀は、本末(いきさつ)、消息(様子)、行状、行迹(行いのありさま)、情状(事情)などを、あるかたちと読み、允恭天皇紀には、ことのかたちとも読む。中昔からは、物を、かたちといい、事へはいわないが、古くは、事にもいったらしい。催馬楽の浅水にも、みもとのかたち、あなたのお側のありさま、とある。ここも、かたちと読んで悪くはないが、さまは、古今とも、物にも事にも通う。
【宣長の注釈】「復奏」は、かへりことまをすと読む字だが、前に、返があるので、そう読むと重複し、煩わしい。単に、まをしたまひきと読むべきだ。前に詳しく述べたように、かへりことは、使者が帰っていうことなので、前で、返といったうえ、かへりこととは、いわないものだ。
【宣長の注釈】追記の考察
【宣長の注釈】「千引石を、手先に持ち上げて」の追記。参照は二十葉。今、出雲国出雲郡、稲佐浦の沖へ、礫島があり、土地の人は、うけわい島ともいう。非常に大きな、一つの岩だけの島で、神代、建御名方神が、手先に持ち上げて来た、千引石と伝える。
【宣長の注釈】「櫛八玉神」の追記。参照は四十九葉。今、杵築に、櫛八玉神の子孫という家があり、財氏で、別火という。この別火は、毎年七月四日、身逃の神事を行う。海底の塩砂を、つとという藁包みに入れ、塩を焼き、翌五日の大社の神事へ献上する。身逃というのは、別火が国造の家で行い、その日は、国造が家を出て、ほかへいるためだという。大社の末社、湊神社は、櫛八玉命を祭るという。
【宣長の注釈】「鑽出火」の追記。参照は五十葉。大社の説によれば、出雲国造義孝の弘安記に、「天照大神から意宇足奴命まで、神々が継ぎ、十八代。十九代、宮向宿禰の時、出雲の姓を賜ってから、義孝まで、子々相承し、二十八代。それでも、神火を切り、神水を飲み、俗世へ混じらない」とあるという。天照大神から、というのは理解できず、天穂日命から、であるべきだ。
国造は、代々、神火の継承を、第一の大事とする。今も、新たに代を継ぐ時、まず、意宇郡の大庭社へ行き、神火、神水を受け継ぐ儀式がある。神代の火切り臼、杵といって、天照大神が天穂日命へ授けて以来、代々、第一の神宝として伝わる宝物を、袋ごと、自分の首へ掛けて持参し、それで神火を継ぐ。これを、火継ぎといい、国造の代替わり自体も、火継ぎという。
火継ぎを終え、国造となれば、食事にも、いつも、この神火を使う。非常に厳しく慎み、仮にも、ほかの火を使わない。毎年正月元日には、火祭りとして、神代の臼、杵を祭る。毎年十一月、中の卯の日は、大庭社で新嘗会を行い、国造が初めて新穀を食べる。その時は、熊野社の社人が、火切り板と杵を持参し、火を切り、食事を整え、国造へ献じる。
熊野からの板は、檜で、長さ三尺ほど、幅五、六寸、厚さ一寸ほど。杵は、細い空木の丸木で、長さ二尺五、六寸ほど。板も杵も、毎年、新たに作り、これで火をもみ出す。
神水は、意宇郡山代村の、天真名井で、式の真名井神社が、それだ。大庭社から、十四、五町の東北にあり、国造の新嘗では、この井戸の水を使うという。
【宣長の注釈】「栲縄の千尋縄を、打ち延べ、釣りをする」の追記。参照は五十葉。これは、千尋もの大縄を、海中へ遠く延ばし、一度に、大量の魚を捕る釣りで、今も、海人が普通に行う。竹竿の先へ、細い糸を付ける、普通の釣りではない。控依騰も、この延ばした大縄を引き寄せ、そこへ掛かった多くの魚を、引き上げて取ることだ。
前に、この縄を、釣り船を引く綱といい、控依騰を、魚を積んだ船を引き寄せることとしたのは、誤りだった。今、改める。
古事記伝 巻十五
本居宣長、謹んで著す。
神代 第十三巻
【古事記本文】そこで天照大御神と高木神は、皇太子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命に、「今、葦原中国を平定し終えたと報告があった。だから、前にお任せしたとおり、下って行って治めなさい」と命じた。すると皇太子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命は、「私が下ろうと身支度をしている間に、子供が生まれました。名は天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(あめにぎしくににぎしあまつひたかひこほのににぎのみこと)といいます。この子を下らせるのがよいでしょう」と答えた。「邇」から「志」までの字は音を表す。天忍穂耳命が、高木神の娘、万幡豊秋津師比売命と結ばれて生んだ御子は、天火明命、次に日子番能邇邇芸命の二柱である。そこで、申し上げたとおりに、日子番能邇邇芸命に「この豊葦原の水穂の国は、あなたが治める国としてお任せする」と、役目を与えて命じた。こうして、仰せに従い、天から降ろうとされた。
【宣長の注釈】太子は、皇位を継ぐ御子のことだ。その意味は、前の『伝』巻十四・三十七葉で述べた。最初に命じた所では太子と申し上げず、ここで特にそういうのは、初めの時には、まだ統治を任せるお言葉を受けておらず、太子でなかったが、今は、すでにそのお言葉を受け、太子でいらっしゃるためだろう。
【宣長の注釈】平訖は『ことむけをへぬ』、平定し終えた、と読む。
【宣長の注釈】白は、建御雷神が戻って報告したことをいう。
【宣長の注釈】隨言依賜の、お任せになった言葉は、すでに前にあったものをいう。だから、従って、といったのである。
【宣長の注釈】知看は、前の『伝』巻七・十七葉に出た。
【宣長の注釈】僕者の者という語は、少し落ち着かなく聞こえる。古語では、こういう所にもいったのか。〔今者などと書く例にならい、僕の字に添えたとも思われない。〕
【宣長の注釈】將降裝束之間は『くだりなむよそひせしほどに』、下ろうと身支度していた間に、と読む。〔また、前の者は爲の誤りで、爲將降裝束之間だろうか。爲將と書いて、そのように読む例も、最初の巻で述べたとおりだ。〕装束については、前の『伝』巻十一・三十三葉で述べた。
【宣長の注釈】出生の出は、坐の誤りか、と師がいわれたが、確かにそうだろう。〔『万葉集』巻五には、生まれ出た白玉のような、我が子古日は、などという例もあるが、ここは、やはり出ではあるまい。〕
【宣長の注釈】天邇岐志国邇岐志は、『日本書紀』に饒石と書く。その、豊かであるという意味の呼び名だろう。〔ただし石は借字で、志は、広し・高しなどのしと同じ語だ。〕『日本書紀』のある一書では天国饒石ともある。『万葉集』巻十七には、能登国鳳至郡に饒石河という川もある。
【宣長の注釈】天津日高は、大祓の詞に、大倭日高見之国とある。師の考えでは、次のようにいう。
『やまと国は、四方が優れて美しいことをほめ、天の日が空のまさに正面、高い所にある姿にたとえていったものだ。日が空の正面にあるのを、ふつう、日高しという。これは古くから使い慣れた言葉と思われる。火々出見命を海神が空津日高と申し上げたことと、考え合わせるべきだ。また『景行紀』の陸奥の日高見国、紀伊国の日高郡などは、『私記』のいうように、四方への見晴らしが高く遠いので名づけたのだろうか。ここでやまとをいうのは、単にそれだけの意味とは思われない。』
そうかもしれない。そうなら、この名も、天の日が高く、空の正面にいらっしゃるのを、仰ぎ見るようだという意味の呼び名とすべきだ。
〔日高には、なお別の意味もありそうに思うが、まだ思いつかない。大祓の詞の日高見国には諸説があるが、どれもよくない。また紀伊国の日高郡は、『続日本紀』巻三では、紀伊国の阿提・飯高・牟漏の三郡とある。阿提郡は事情があって後に在田と改まった。飯高は日高郡と思われる。これも改めたことがあったのに、歴史書に漏れたのか。ただ、いひたかの初めのいを省けば、ひたかとなる。それで元正天皇の名は氷高皇女だが、飯高ともある。これから考えると、日高という語は、実は飯高の意味なのかもしれない。
ここの天津日高の天津は、日高にかかる語でないとしても差し支えない。後には、この名を天津日子番能云々ともいうからだ。伊勢にも飯高郡がある。『倭姫命世記』では、飯高県造の祖・乙加豆知命に、そなたの国の名は何か、とおたずねになると、意須比飯高国と申し、神田と神戸を献じた。倭姫命は、飯高し、事は貴いと喜ばれた、とある。貴いと喜ばれることなど、この考えに関係がありそうだ。それで後の考察のため、注意を促しておく。『儀式帳』では意須比を忍とし、倭姫命云々という言葉はない。
『神名式』には陸奥国桃生郡の日高見神社があり、常陸にも日高国というものがあることは、その国の風土記に見え、仙覚の『万葉抄』が引く。また『和名抄』では豊後国の郡名に日高、ひたとあり、『風土記』は日田とする。これから考えると、飛驒も日高の国か。
師は、この名を『日本書紀』で天津彦々云々とすることから、日高をひこと読むべきだという人がいるが、ここは天から子まで、すべて訓読みなのに、高の一字だけを音読みにする理由はない。海神の段の日高も同じだ、といわれた。〕
この命の子、火遠理命の別名も天津日高云々、また虚空津日高といい、鵜葺草葺不合命も天津日高云々という。どれも後に見える。
【宣長の注釈】日子は、男にひこ、女にひめという、ほめる呼び名だ。
〔濁って読むべき名は、毘古・毘売と書く。『古事記』は、この清音・濁音を明確に区別するのに、後世には誤って、いい加減に発音するものが多い。また濁るのがよいと思い、何でも濁るのも誤りだ。一つずつ、『古事記』の清濁によって読むべきである。ただ日子・日女と書く場合は、今、判別しにくい。〕
ひとは、物の霊妙で不思議なことをいう。天照大御神について『日本書紀』に、神は喜び、私の子は多いが、このように霊妙で不思議な子は、まだなかった、といい、また清寧の巻に、諸子の中で、特に霊妙で不思議だった、とある、その意味である。〔神代の巻には、霊妙な威力があった、ともある。〕ひこ・ひめは、霊妙な子という意味だ。ひの意味は、前の高御産巣日神の下〔『伝』巻三・十三葉〕も考え合わせるべきだ。ここの日子は、後の名に付けて読む。
【宣長の注釈】番能邇々芸命という名の意味は、穂之丹饒君、すなわち稲穂が赤く実り、豊かである君、で、稲穂にちなんだ名である。丹は、穂が赤く熟すことをいう。草木や人の顔などが色づいて美しく映えることを、にというのは、『万葉集』の、「さにづらふ黄葉(赤く色づくもみじ)」「かきつはたにほふ(かきつばたが色づく)」、また「にほおも(赤く色づいた顔)」などの例のとおりである。芸は、かひを縮めたもので、豊かな穎〔かい、稲の穂〕という意味でもあろうか。
〔この名の番をはじめ、次々の神の名を『日本書紀』はすべて火と書く。しかし火照命・火須勢理命・火遠理命の三柱を除けば、火と関係がないので、すべて音を借りた字である。『古事記』は、火遠理命、別名天津日高日子穂々手見命、とする。火遠理は火に関係する名、穂々手見は火に関係しない名なので、同じ続きでも字を変え、穂々と書く。これによって、ほかの火も借字と分かる。
にぎを、単に豊かなという意味にしてもよいが、その意味を前には邇岐と書いたのに、ここで芸の字にするのは、饒のぎを間で縮め、君の意味にするためだろう。『古事記』は、こうした仮名の選び方にも意味がある。最初の巻で述べたとおりである。また穎の意味でもあろうというのは、この名を『日本書紀』では天之杵火々云々ともいい、その杵は穎だろうからだ。この名は、後でも述べる。
穂と穎は同じ物だが、ほは穂として出た姿をいう名、かひは、その物自体をいう名で、語の意味が異なるから、名に重ねてもよい。〕
穎は、祝詞などで、千穎・八百穎、また「汁としても、穀粒としても」と汁爾・穎爾という、それである。〔穎は、師の『祝詞考』に詳しい。〕この天降りの段には、稲穂に関係する事柄が多い。前にも後にも述べるので、考え合わせるべきだ。〔この名の意味を、『日本書紀』の火瓊々杵という字に即して説く諸説は、いつもの煩わしい漢意で、論ずるほどでもない。〕
さて、この名は、後になって申し上げたものだ。〔『日本書紀』の一書でも、天の幾重もの雲を押し開いて、お下し申し上げた。それで、この神を天国饒石彦云々という、とあるとおりだ。〕今、ここで父の尊がお答えになる言葉に、この名をお告げになるように書くのは、食い違うようだが、こういうことは、後の呼び名を前の話にもさかのぼらせていう、普通の例である。
『日本書紀』には、天津彦々火瓊々杵尊ともいう。〔彦々の二字を合わせて、ひこと読むのは、勝手な読みだ。上の彦は前の語に、下の彦は後の語に付き、別なのだから。〕天津彦国光彦火瓊々杵尊、天津彦根火瓊々杵尊、天饒石国饒石天津彦火瓊々杵尊、天国饒石彦火瓊々杵尊ともある。また天之杵火々置瀬尊、天杵瀬尊というのは、かなり違う伝承である。
〔しかし意味は同じだ。杵は穎。せは稲を縮めた語で、早稲などと同じ例である。置は、祝詞で稲を奥津御年という、その奥の意味か。
『日本書紀』には、これほどさまざまな名があるのに、日高というものは一つもない。後の虚空日高も虚空彦とする。『古事記』の日高を『日本書紀』がすべて彦とするのは、当代の天皇のお名を避け、編者が改めたのだろう。〕
『古語拾遺』では、ただ天津彦尊と申し上げる。皇御孫命とは、この尊をはじめ、その後、代々の天皇にも申し上げる呼び名である。〔『日本書紀』の皇孫がこれだ。『続日本紀』巻十五には、美麻乃禰己止とあり、みまのみこと、という読みは、これに従うべきだ。孫を、まだけでいうのは分かりにくいが、まだ考えつかない。また『日本書紀』の天孫は、古い日本語ではない。天津神の御子を、漢文風に短く書いたものだから、あまつかみのみこと読むべきで、あめみまは誤りである。〕
【宣長の注釈】万幡は、『日本書紀』では栲幡千々姫である。『纂疏』に、幡は機と同じで、女性の仕事は織物を中心とするので、それを取って名づけた、とある。この意味だろう。ただし、織機を指すのでなく、織った物〔絹や布の類〕をいう。『日本書紀』神功の巻の千繒・高繒、『万葉集』の倭文幡の帯、『和名抄』の綺、かむはたなどは、すべて織物を、はたという例だ。『万葉集』巻十二の、昔織ったはたを、今夜、衣に縫って云々、でも、織物を、はたとする。したがって栲幡も、栲の布をいう。倭文布を倭文幡というのと同様である。
万について師は、よろしという語は、物が不足なく備わることをいい、よろづ・よろひなども、そこから分かれた語だ、と説く。これによって考えると、ここも数の一万の意味ではなく、不足なく美しく織り整えた布という意味で、万幡という。〔『日本書紀』の千々姫と比べ、数の意味と考えてはいけない。千々も、数の意味ではない。〕
【宣長の注釈】秋津師は、『万葉集』巻三〔二十丁〕の、「あきづ羽の袖(蜻蛉の羽のような袖)」、巻十〔二十丁〕の「あきづ葉に、にほへる衣(蜻蛉の羽のように、または秋の紅葉のように色づいた衣)」、巻十三〔二十丁〕の「あきづひれ(蜻蛉の羽のような領巾)」などのように、蜻蛉の羽のような、薄く精細な布をいう。〔巻十の歌は、にという助詞から見ると、秋の紅葉をいったものかもしれない。〕『日本書紀』仁徳の巻の皇后の歌に、火に寄る虫の羽のような衣、というのも、同じ意味だ。〔古い漢籍にも、衣の美しさを虫の羽にたとえるものがある。〕
師は、ししを縮めた語である。〔同じ音が重なる語を、一つ省いて縮めていうのは、普通の例である。〕『日本書紀』の千々姫と同じだ。その理由は、『和名抄』に、『釈名』には、縠は、その形が細かく織られ、見ると粟のようだ、とあり、『唐韻』には、縠は、しわの模様がある薄絹だ、とある。こちらでは、ししらぎという、と記すことである。縐は、ほかの字書で、縮である、ともいう。したがって、ししらぎは縮んだ姿で、今の縮布や縮緬のような物をいう。ちぢむを、ししむとも通わせていうので、『日本書紀』の千々と、この師は同じで、ともに縮んだことをいう。〔『大鏡』にも、髪がちぢけているのに、という。〕古代にも、縮んだ織物を美しい物としたための名だろう。
〔師は、秋津洲の意味と考え、洲を、しと発音したのか、といわれた。しかし、秋津洲を、あきつすというのは、後世の誤りで、古くは、その例がない。〕
『日本書紀』の一書には、万幡豊秋津姫、栲幡千々姫万幡姫、火之戸幡姫児千々姫〔戸は豊だ〕、万幡姫、天万栲幡千幡姫ともいう。〔ここの千幡の千は、千々の縮まったものだ。これによって、『古事記』の師も、師々を縮めたものと考え合わせるべきだ。先の『神功紀』の千繒も、縮んだ絹の意味だろう。〕万幡姫児玉依姫ともあり、すべて同じ意味である。〔また、ある一書の丹舄姫は、にぎつ、豊かであるという意味か。〕
【宣長の注釈】天火明命の火明は、ほあかりと読む。〔ほのあかりと、のを加えて読むのはよくない。弟の命の番能の例にこだわってはいけない。〕名の意味は、弟の命の、穂之丹饒と同じで、穂が赤く熟すことだ。〔火は借字である。〕『天智紀』には、稲が生えて穂が云々、熟した、とあり、『万葉集』巻十九には、「あかる橘(赤く色づく橘)」、巻二十には「あからがしは(赤い柏)」などという。ほかにも多い語だ。
この神は、『日本書紀』のある一書では『古事記』と同じで、ある一書では天照国照彦火明命である。本文と、またある一書では、天の字がなく、ただ火明命とし、瓊々杵尊の御子とする。これは異なる伝承なのである。〔瓊々杵尊の御子とする伝承では、名の意味も、火が明るいという字のとおりだ。〕
また『日本書紀』は、瓊々杵尊の御子とする方でも、尾張連らの始祖であるといい、兄とする方でも、尾張連らの遠祖である、あるいは、子の天香山は尾張連らの遠祖である、という。〔ある人は、兄と子を、同名の別の神と考え、子とする方の、尾張連の祖という記述を誤りのようにいうが、逆にそれが誤りだ。別の神でなく、一柱の神についての伝承が違うだけである。同じ伝承の中に、二つの立場で出るものがないので、別神でないと分かる。それで、それぞれの伝承に即して、尾張氏の祖であることを、どちらにも記したのだ。〕
『古事記』で、これが見えないのは脱落である。〔ある氏族の祖だという記述は、普通、『日本書紀』より『古事記』の方が詳しいので、この尾張連の祖ということは、必ずあるはずだ。〕尾張連という氏姓については、中巻、掖上宮の段〔『伝』巻二十一〕で詳しく述べる。
〔『旧事紀』が、この天火明命と、神武の段に見える饒速日命を一柱の神とし、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と名づけ、尾張連と物部連を一緒に、この神の子孫とするのは、ひどい偽説である。まず、饒速日命と天火明命は、もともと別神なのは、いうまでもない。また尾張連は天火明命の子孫、物部連は饒速日命の子孫で、同祖の氏族でもない。それなのに、代々の学者が『旧事紀』の偽説に惑い、これらを混ぜ合わせるのは、どうしたことか。その偽りである理由を説こう。
饒速日命は、神武天皇の時、大和国にいて帰順した人だと、『古事記』にも『日本書紀』にも見えるので、天火明命でないのは明白だ。ところが『旧事紀』では、饒速日命はすでに亡くなり、神武天皇に仕えたのは、子の宇麻志麻治命とする。しかし、また饒速日尊は長髄彦の妹、御炊屋姫をめとった、といい、その長髄彦を、なお第六巻で神武天皇の時代の人とするから、ついには偽りを隠しきれない。
また『古事記』にも『日本書紀』にも、饒速日命は物部連の祖とあるだけで、尾張連の祖とする所はない。『姓氏録』でも、同じ神別の中で、火明命の子孫の諸氏は、すべて天孫の部に収め、饒速日命の子孫は、すべて天神の部にあり、明確に分かれているのだから。
そもそも『旧事紀』は、全体がこれほどの偽りを構えた書物でもない。この件は、物部連の氏の人が、自分たちの始祖を尊くするため、饒速日命を天火明命だと偽って作った家の系譜を、無造作に採り、そのまま記したものだろう。〕
【宣長の注釈】此御子者から、二柱也までの三十八字を、延佳の本では、前の文の注だとして、別に一段下げて書き改めてある。注というのは、そのとおりだが、下げて書き改めるのは、余計な手出しである。『古事記』は、すべて阿礼が口で語ったままを記した物だから、注のような言葉も、本文に続け、話の途中に挟んでいう例が、ほかにも多いのだ。
〔一、二の例を挙げると、黄泉の段の、そこで、その、いわゆる黄泉比良坂は云々、伊賦夜坂である。それで云々という所も、坂である、までは前の文の注で、それで、から、その注を隔て、前の本文を受ける。ここも全く同じだ。また、これは草那芸の大刀である。それで云々という所も、短い言葉だが、前の文の注で、それでは、その注を隔てて前を受ける。同じ形である。ほかにも多い。
また時代は後だが、『源氏物語』乙女の巻の、小侍従はいるか、とおっしゃるが、返事もしない。お乳母の子である。独り言を云々という所も、お乳母の子である、という一句は、前の小侍従についての注だ。〕
これらはすべて、上記の件、右の件云々というような、文章上の注の形式とは異なるので、別に下げて書くべきではない。
【宣長の注釈】是以は、前の、この子が降るべきです、という所を受ける。
【宣長の注釈】科詔は、みことおほせつ、と読む。おほせは、負わせる意味だ。〔仰課なども、語の意味は同じ。〕負うは持つと同じなので、お言葉による命令を負い持たせることを、おほせという。〔つかさという語なども、命令を負い持ち、その所の政務を行うための名なのと、趣旨は同じだ。
科の字は、この意味にぴったりではないが、おほせと読むから、字の本来の意味にこだわらず書くのは、古代の普通の例である。科を、おほせと読むのは、事柄を分けて、それぞれにいいつける意味である。〕
ここだけ、単に詔とはせず、この語を加えたのは、最初、忍穂耳命に仰せになった、統治を任せる命令を、あらためて、この尊に負わせる意味だ。だからここは、ただ詔だけでは、何となく言葉が足りない気がするのである。
さて父の尊に代え、この御孫の尊を降し申し上げるのは、どんな理由か。伝承がないので、推測しがたい。〔この御子に聖徳があったので、代わりに降したなどというのは、いつもの漢意による推測で、当たらない。御子を聖徳があるとほめるのは、父には聖徳がないと申し上げることではないか。恐れ多い。すべて勝手な考えだ。〕
【宣長の注釈】隨命以の以は、読まない。〔まにまにという所には、多く、隨云々而と、而の字を添えて書くのが、『古事記』の例である。その而の意味で、文字の上で添えたものだ。以も、てという所に用い、而の意味に似るからである。〕
【宣長の注釈】『日本書紀』では、まず、云々、天津彦々火瓊々杵尊をお生みになった。それで皇祖、高皇産霊尊は、とりわけ深くかわいがって大切に養い、ついに皇孫、天津彦々火瓊々杵尊を立て、葦原中国の主にしようとなさった、とある。その後に、天穂日命、天若彦、大己貴命が、この国を譲り申し上げたことなどが、順々にある。〔大祓の詞、祟る神を退ける祝詞、出雲国造の神賀の詞、『古語拾遺』なども、この趣旨で、以上の事柄を皇御孫命に関係させている。〕
そして、高皇産霊尊は真床追衾で皇孫、天津彦々火瓊々杵尊を覆い、降らせなさった、とある。また、ある一書では天若彦の事が初めにあり、ある一書は『古事記』と同じ順序だ。これらは、出来事の前後についての伝承が、さまざまなのである。
【古事記本文】日子番能邇邇芸命が、天から降ろうとされた時、天の分かれ道である八衢にいて、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らす神が、そこにあった。
そこで、天照大御神と高木神のお言葉によって、天宇受売神に仰せになった。
『あなたは、か弱い女ではあるが、敵対する神に向き合っても、気おくれせず、負けない神である。だから、ひとえに、あなたが行って尋ねなさい。我が御子が天から降る道なのに、誰が、このようにしているのか、と。』
それで尋ねさせると、その神はお答えした。
『私は国つ神で、猨田毘古神といいます。ここへ出ているのは、天津神の御子が天からお降りになると聞き、お先に立ってお仕えしようと、出迎えて、お待ちしているのです。』
原注は、「伊牟迦布」の伊から布までを音で読むとする。
【宣長の注釈】天之八衢の、ちまたは、道の股、すなわち道の分かれ目という意味である。前に道俣神というのもある〔『伝』巻六・四十九葉〕。八は、いつもの、いよいよ多いという意味で、あちこちへ分かれる道が、いくつもあることをいう。ここは、天から降る道の分かれ目である。
〔『和名抄』に、『唐韻』は、巷は里の中の道であるといい、和名ちまた、とするが、巷は、ちまたに合わず、衢・街などの字こそ、よく当たる。それなのに、それらをおき、巷の字を挙げるのは、どうしたことか。また同書に、十字、今考えると、十字とは東西南北に分かれる道で、その中央が十の字に似る。俗に辻の字を用いるが、字書での出所は不明、とある。これは、ちまたにも合う。〕
道饗祭の祝詞には、大八衢、『万葉集』巻二〔十丁〕には、橘の陰を踏む道の八衢に、巻十二〔二十三丁〕には、海石榴市の八十衢に、などという。〔ほかにも、八十衢と多く詠む。八衢はよいとして、八十衢は、どうかと思われるが、これは八十というほど多くの所へ行き分かれる分岐路の意味で、分岐点が八十あるというのではあるまい。〕
【宣長の注釈】上光云々について、『日本書紀』には、先に行った者が戻り、ある神が、天の八方に通じる分かれ道にいます。鼻の長さは七咫、背の長さは七尺余りで、口と尻が明るく輝き、目は八咫鏡のようで、赤く輝くことが、赤いほおずきに似ています、と報告した、とある。
【宣長の注釈】於是有は、ここにいるという意味だ。前に、天之八衢に居て、とすでにあるのに、また、このようにいうのは、於是という語が余分に聞こえる。古語では、こうもいったのか。
【宣長の注釈】天宇受売神は、石屋戸の段に出た。
【宣長の注釈】手弱女人も、前〔『伝』巻八・三葉〕に見える。
【宣長の注釈】雖有は、なれども、と読む。〔にあれども、が縮まったものだ。〕
【宣長の注釈】伊牟迦布神については、『日本書紀』で、天若日子が長く戻らない時、高御産巣日神のお言葉に、これはおそらく、国つ神に強く逆らう者がいるのだろう、とある。この强禦を、いむかふと読むことから、ある人は、ここもその意味で、射向だという。手向かい、敵対することをいう。
〔人に敵対することを、弓を引くというのと同じ趣旨だ。『万葉集』巻十の、「天の川に向かっていて」という「い向かひ居て」の射は、語の初めに添えるもので、単に向かうことだ。ここもそうかといえそうだが、やはり、そうではあるまい。〕
さて、ここは、そのような神を一般にいうのであって、猨田毘古神を指しているのではない。
【宣長の注釈】與は、後世の言葉なら、にという所を、このようにいうのが、古語の形式なのだろう。それと向き合って、という意味だ。
【宣長の注釈】面勝は、人と向き合って、恥じず、恐れず、気強く、負けないことだ。宇受売という名と、考え合わせるべきである。〔この名の意味は、『伝』巻八・四十九葉で詳しく述べた。そこは恥じない方、ここは恐れない方の意味だ。〕
『日本書紀』には、そこで供の神を遣わして尋ねさせる時、八十万の神がいたが、みな、その視線に勝って向き合い、尋ねることができなかった。それで、特に天鈿女に、そなたは人に目で勝つ者だから、行って尋ねなさい、と命じた、とある。これによって、この神を選び出された理由は明白だ。
〔『日本書紀』の注で、ある人が、猨田毘古神の口尻が輝き、目が八咫鏡のようだというのを、知恵が明らかなこととし、そのため、みなが恐れはばかって、尋ねに行けないようにいうのは、いつもの勝手な妄言だ。ただ、その姿を恐れたのは、明々白々なのに。〕
目勝と面勝は同じ意味で、ま・めは通じる音でもあるから、語も近い。〔今の俗語で、人を押し切る者を、まむがちなるというのも、これから出ただろう。〕
【宣長の注釈】專は、もはら、と読む。
〔たうめ、と読むのは誤りだ。ところが『和名抄』に、專、『日本紀』には専領の二字を、たうめをさめと読む。今考えると、專は、もはらと読み、ひとすじという意味だ。たうめは、もはらの古語で、今、老女を、たうめという、とある。このうち、老女を、たうめというのが、たうめの正しい意味だ。
『土佐日記』に、「老人一人、老女(たうめ)一人」、また淡路のたうめとあり、『源氏物語』には、伊賀たうめともある。狐を、たうめということも書物に見えるが、それは老女から転じただろう。老女を、たうめというのは、うばから転じたのか。
その、たうめに專の字を用いる理由は、はっきりしない。あるいは、嫥と通じるのか。この嫥にも老女の意味は見えないが、日本では、字の本来の意味とは違う意味に用いる例も多いから、この字を使い、いつものように偏を省いたのかもしれない。
ともかく、たうめは老女の呼び名だ。『景行紀』に、それで、そなたが、ひとり東国を治めよ、という專領東國があり、『和名抄』の引用は、これである。この專や、ほかの、もはらと読むべき所を、多く、たうめと読むのは、あの老女を表す專を、ひとすじという意味の古語だと、取り違えたのだ。『和名抄』の、たうめは、もはらの古語だという説明も、『日本書紀』の誤った読みによる誤説である。
ここから代々の人が、みな、そうとばかり考え、誤りと気づけなかった。文字に引きずられ、古語を誤るこうした例は、普通に多いので、今、詳しく区別しておく。
『安閑紀』『欽明紀』などでは、專を、たくめと読む。ひとすじという意味を、そう読むのは同じ誤りだが、たくめという語そのものは、自然に聞こえるので、老女をいう、たうめは、もとは、たくめだったのだろう。〕
もはらは、全純である。〔「全」と「円」は、もと同じ言葉で、純と、ひらも同じ語だ。ひらは、俗に、ひらにという語で、ひたすらという意味だ。したがって、もはらは、全くひたすらにというようなものだ。〕
この語は、ほかの者がすべきことまで、すべて引き受け、一人でする意味、また、一筋に向かい、ほかを交えない意味などに用いる。『欽明紀』で、全の字、一の字にも、この読みを付けるのは、すべてその意味だ。〔今の古学者の文章で、盛んである意味や、主とする意味に用いるのは俗な意味で、古い意味と違う。〕ここも、その意味で、ひたすら、そなた一人で、ということである。
【宣長の注釈】道の字は、みちを、と読む。云々の道であるのに、という意味で、この、をには、とがめる意味がある。〔古い雅語には、この形式が多い。〕
【宣長の注釈】問賜は、とはせたまふと読み、尋ねさせなさった、ということである。〔とひたまふと読む時は、たまふという敬語は、宇受売命にかかる。〕その質問の言葉は、命じた所にすでに出たので、ここでは省いた。〔『日本書紀』は、命じた所で省き、ここに、その言葉を出す。〕
『日本書紀』では、天鈿女は胸乳をあらわにし、裳の帯をへその下へ押し下げ、笑って、向き合って立った。その時、衢の神が、天鈿女よ、そなたは、どうして、そんなことをするのか、と尋ねた。天鈿女は、天照大神の御子のお通りになる道に、こうしているのは誰か、あえて尋ねる、と答えた、とある。
〔胸乳をあらわにする云々は、少しも恐れない姿を示す意味でもあろうが、ここでは、何となく似つかわしく聞こえない。このことは、『古事記』の石屋戸の段にある方が、よく合っている。〕
【宣長の注釈】国つ神は、天から降る神と対になる呼び名だから、ここで、そういった。〔このことは、前で詳しく述べた。〕
【宣長の注釈】猨田毘古神は、毘を濁音で読む。名の意味は、『日本書紀』の、口と尻が明るく輝く云々と、ここで、上は高天原を照らす云々とあることから考えると、尻明光彦である。
〔しりの、りを省く例は、備中国の郡名、後月などがあり、あを省くのも普通である。さらに、しかるを縮め、さるというのは、然るを、さるというのと同じだ。また、てらを縮めると、たとなる。〕
動物の猿は、この神の形に似るための名だろう。〔この神の名を、猿に似るからとするのは、本末が逆だろう。猿の姿が、この神に似ることから考えると、鼻の長いことも、猿に似る。また背の長さが七尺余りとあるのも、俗に人の身長を、せというので、ただ、全体の背丈かもしれない。しかし、その意味なら、ただ長とだけいえばよいのに、特に背というのは、これも猿のように、這うようにいらっしゃる姿について、背中の長さをいったのかもしれない。
神にはさまざまな姿があるので、這うようにいらっしゃっても、不思議ではない。もし普通の人のように立っていらっしゃるなら、尻が輝くというのも、似つかわしくないだろう。
この神の名について、十二支の申を結びつけ、さまざまな漢意を述べ、あるいは庚申という物を、この神とするなど、すべて、煩わしく汚らわしいこと、この上ない。〕
【宣長の注釈】出居は、この天の八衢に出ていることだ。〔俗にいう、出迎えがこれだ。〕
【宣長の注釈】仕奉御前而は、『日本書紀』の、私が先に立って道を開きましょう、ということである。仕奉は、つかへまつらむとして、と読む。〔とては古語ではない。後世の、とてという所は、古語では、すべて、としてという。古い宣命などに多い。〕
【宣長の注釈】參向は、まゐむかへと読み、向は、迎える意味である。〔向と迎は、異なるようだが、語は、もともと同じだ。『古事記』の多くの參向の例では、向を軽く用い、参る意味だけのものもある。しかし、ここは『日本書紀』にも、お迎えして、お待ちしているとあるので、迎える意味とする。〕中巻、白檮原宮の段で、石押分之子が答え申し上げる言葉も、ここに全く同じである。
【宣長の注釈】侍は、これも前に、大国主神が、云々、隠れて控えております、と申し上げた侍と同じ意味だ。〔『日本書紀』の、お待ちしている、に当たる。〕
『日本書紀』では、次のようにいう。
『衢の神は答えた。天照大神の御子が、今、お降りになると聞き、それで、お迎えして、お待ちしています。私の名は猨田彦大神です。
その時、天鈿女が、そなたは私に先立って行くのか、それとも、私がそなたに先立って行くのか、と重ねて尋ねると、私が先に道を開きましょう、と答えた。
天鈿女が、そなたはどこへ着くのか。皇孫はどこへお着きになるのか、と、また尋ねると、天津神の御子は、筑紫の日向、高千穂の槵触の峰にお着きになるはずです。私は、伊勢の狭長田、五十鈴川の上流へ着くはずです、と答え、さらに、私を明らかにしたのは、あなたです。ですから、あなたが私を送り届けてください、といった。
天鈿女は戻り、その様子を報告した。』
この段は、全体として『日本書紀』が詳しく、『古事記』は簡略である。
〔延佳の本は、ここに、橘成近という人の考えを載せる。爾天児屋命以下は、前の文を受けない。後の、故爾詔天宇受売命から、給猨女君等也までの二百六十九字が、この間にあるはずで、おそらく文の順序が入れ違ったのだ、という。
これは、一通りの考えで、精密でなく、誤りだ。さらに詳しくいうと、前の、故隨命以可天降の次に、爾天児屋命云々から、玉祖連等之祖までがあり、その次に、爾日子番能邇々芸命将天降之時云々から、参向之侍までの文があるべきだろう。『日本書紀』の順序は、まさにそのとおりだ。しかし、ここは原本のままでも差し支えない。
さて、故爾詔天宇受売命云々から、給猨女君等也までは、御孫命が、すでに筑紫に降り着いてからの事なので、ここには、決してあるはずがない。それなのに、この間にあるはずというのは、どうしたことか。
もし、これがこの間にあるべきなら、五伴緒を加えて天降った、とあることと、天宇受売命が猨田毘古神を送って帰り着いた、などとあることとで、前後が乱れるのを、どうするのか。また、給猨女君等也、爾天児屋命云々と続くのは、ますます前の文を受けなくなるが、どうするのか。こうした点を、よく全体にわたって考えるべきだ。〕
【古事記本文】そこで、天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命、合わせて五伴緒の神を、それぞれの役に分けて、お供に加え、天からお降りになった。
【宣長の注釈】天児屋命から玉祖命までの五柱は、すべて石屋戸の段に出た神々である。
【宣長の注釈】伴緒について、伴は、官職でも何でも、一つの集団として連れ立つことをいう。何々の伴というのが、それだ。ともがらも同じ意味で、特別の目的なく交わり親しむ人を友というのも同じである。伴造は、その集団の長だ。〔これは『伝』巻七・八十葉で詳しく述べた。〕おは、おさのもとの語で、おさは、長兄の呼び名という意味である。『日本書紀』で魁帥・渠帥などを、いさをと読むのも、勇ましい長という意味だ。したがって伴緒は、その集団を率いる長という呼び名である。
〔師の説で、ここの文を引き、五伴緒のうち二柱は女神だといい、祝詞の比礼懸伴緒も女なので、伴男などの男は借字で、男女にわたる称だといわれたのは、確かに、そのとおりだ。〕
緒の意味について、師は、一筋の緒に多くの玉を貫くのにたとえるので、伴緒は正しい字で、貫首などの貫にも意味が通じる、といわれた。それはそうだが、少し精密でない。玉の緒を、おというのも、多くの玉をまとめ結ぶための名、長を、おというのも、その部下を統率する呼び名で、もともと同じ語だ。しかし、どちらが元で、どちらが後か、決められないから、玉の緒を例に引くのはよいが、それにたとえたとは、いうべきでない。
〔また師の説は、伴緒を、ただその集団と考え、その長という意味にはしていない。これも精密でない。理由は次に述べる。〕
今、この五柱を五伴緒というのは、石屋戸の段に見えるように、それぞれ担当の職務があり、その職ごとの集団を率いる長の神だからだ。〔五柱を五伴緒というので、一伴緒は一柱である。伴緒は長をいい、集団自体でないのは明白だ。『日本書紀』は五部神と書くので、単に五つの集団とも思えそうだが、そこも五柱を挙げるので、その意味でなく、五つの集団の長の神という意味だ。〕
下巻、遠飛鳥宮の段には、天下の八十友緒の氏姓をお定めになった、とある。〔八十伴緒は、あらゆる伴緒をまとめていう。これは長だけでなく、部下にもわたるようだが、朝廷に仕える役人たちを大まかにいったもので、それぞれ身分に応じて率いる者があるから、すべて長だ。ほかにも部などと書き、広く、その所属者をいうようなものも、詳しくいえば、すべて長である。〕
『万葉集』には、物部の八十伴男と、多く詠む。〔師の説に、古代は、文官・武官を区別せず、諸臣をすべて物部といった、とある。〕また巻七には、袍を着る、多くの伴の男の、大伴に、巻十九には、八十伴男は、大君に従うものと、定まっている官であるから云々、と詠む。〔官というのも、長だからである。〕
大殿祭の祝詞の詞別には、皇御孫命の朝の御膳、夕の御膳を供え申し上げる、比礼を掛けた伴緒、たすきを掛けた伴緒、とある。大祓の詞には、天皇の朝廷にお仕えする、比礼を掛けた伴男、手にたすきを掛けた伴男、矢を入れる靫を背負う伴男、剣を帯びる伴男、さまざまな八十伴男をはじめ、官々に仕える人々、とある。〔この文は、まことに素晴らしい。〕
ここで、八十伴男をはじめということから、伴男は長だと考え定めるべきだ。続いて、官々に云々というのが、その下に属する各集団の人々なのである。
【宣長の注釈】支加而は、くまりくはへて、と読む。〔くまりは、くばりである。〕支は、字書で、分けることであるとも注し、物が分かれる意味に用いる字だ。〔人の手足も、木の枝も、もとは分かれる意味から出た。王延寿の『魯霊光殿賦』の、支離して分かれ赴く、の注にも、支離は分散である、などという。〕
前の水分神の注に、分を、くまりと読むとあるから、くまるは分けることだ。したがって、この五伴の長の神を、それぞれの職の長に配し、御孫命のお供に加えられたのである。
『日本書紀』には、また中臣の遠祖・天児屋命、忌部の遠祖・太玉命、猿女の遠祖・天鈿女命、鏡作の遠祖・石凝姥命、玉作の遠祖・玉屋命、計五部の神を配し、お仕えさせた、とある。この配侍の字と比べ、支は必ず、くまりと読むべきと分かる。〔さしくはへと読むのは、大きな誤りだ。支を、さしと読む理由があるだろうか。また『古事記』と比べ、あちらの配侍も、くまりくはへたまふと読むべきだ。〕
この五伴緒の神の職務は、すべて神事に関係するので、〔石屋戸の段に見える。〕今、お供に加えて降されたのも、ひとえに神事のためだ。『日本書紀』で、そこで太玉命に、弱い肩に太いたすきを掛けて云々、と命じた、また、天児屋命は、神事をつかさどる根本である、また、天児屋命・太玉命は、天津神籬を持ち云々、とあることからも分かる。
【宣長の注釈】天降也は、以上の五伴緒の神を、お降しになったと考えても悪くないが、やはり御孫命にかけ、御孫命がお降りになったと見るべきだ。〔そうすると、次の文と出来事の前後が違うようだが、この天降りの段は、全体として順序にこだわらず、一件ずつ、別々に並べ挙げるようなものだから、差し支えない。『日本書紀』では、三種の宝物の事が先で、その次に五部の神の事がある。この段の順序は、前にも論じ、後でも述べる。〕
【古事記本文】そこで、あの、招き出すために使った八尺勾璁と鏡、それに草那芸の剣、また、あの常世の時の思金神、手力男神、天石門別神を添えて、お授けになり、仰せになった。
『この鏡は、全く私の御魂であるとして、私を目の前にして拝むように、大切にお祭りしなさい。また、思金神は、御前の事柄を取り仕切り、申し上げなさい。』
【宣長の注釈】其は、石屋戸の段を指すので、かのと読む。〔また前の五伴緒の神は、あの段で招き出した神々だから、直接、前の文を指し、その神々が招くために使った、という意味にもできる。それで、そのと読んでも悪くない。〕
【宣長の注釈】遠岐は、『日本書紀』石屋戸の段で、思兼神は、思いめぐらす知恵があったので、考えて、あの神の姿を作り、それで招き願いましょう、と申し上げた、という招禱である。〔これを『私記』で、ねぎと読むのはよくない。をきと付けた読みがよい。〕
また海神の宮の段に、風招という語があり、風を招き起こす方法である。『万葉集』巻十七で、鷹が逃げたのを嘆く長歌の、呼び戻す術も、そこにはないので、というのも、その鷹を招き寄せる方法がないということだ。巻十九の、ほととぎすを待つ歌に、月の初めの日から、をきしながら、日々待つのに、来て鳴かないほととぎす、という、その、をきも、ほととぎすを招き寄せることをして、待つのである。
『後撰集』雑三の、私のためには、招きにくかった、はし鷹の云々、『拾遺集』物名の歌の、はし鷹を、招く餌にしようと構えた云々、も、鷹を招き寄せることを、をきという。〔歌に隠した物の名は、招禱である。〕これらと招禱の字を合わせて考えると、をきとは、物を招き寄せようとする行為で、ここは、あの石屋に隠れている天照大御神を、招き出し申し上げた行事をいう。
〔わざをき〔俳優〕という名も、わざは神がなさること、をきは招くことで、あの石屋戸の段で神がかりし、大御神を招き申し上げたことからいう。師が、この、をきの岐を濁って読まれたのはよくない。『古事記』では、岐を清音にも濁音にも用いるのは、最初の巻で詳しく断ったとおりだ。『万葉集』で、呼久・乎伎など、すべて清音の字を使うので、清音に定めるべきだ。〕
斯は、過ぎ去ったことをいう時の語である。〔いわゆる過去の、し。〕
【宣長の注釈】八尺勾璁と鏡は、あの石屋戸の段で、玉祖命に命じて作らせ、真賢木の上の枝に付けた玉と、伊斯許理度売命に命じて作らせ、中の枝に掛けた八咫鏡である。その時、これらを使い、大御神を招き願い申し上げたので、をきし璁鏡という。
〔ところが、この勾璁を、伊邪那岐命が天照大御神に授けた首飾りの玉としたり、須佐之男命と誓約された時の曲玉としたり、大己貴命・事代主命が献上した曲玉とするのは、すべて、をきしという語を理解できないための、当て推量の誤りだ。〕
【宣長の注釈】草那芸の剣は、須佐之男命が八俣遠呂智を斬った時、その尾の中から得て、天照大御神に献上した大刀である。鏡と剣の間に及を置くのは、前の、をきしという語は、玉と鏡だけにかかり、剣は別の時の物だから、それを区別するためだ。『日本書紀』には、天照大神は天津彦々火瓊々杵尊に、八坂瓊の曲玉、そして八咫鏡・草薙剣の三種の宝物を授けた、とある。
この三種を並べる順序は、鏡・剣・玉か、鏡・玉・剣であるはずだ。〔理由は次に述べる。〕それなのに、『古事記』も『日本書紀』も、玉を先にし、特に『日本書紀』は、玉及鏡と、鏡の上に及まで置く。なぜかといえば、水垣の朝廷の御代に、この鏡・剣を別の所で祭ってから、天皇の御許にある鏡・剣は、神代の古い物ではなく、ただ玉だけが、今、大御神の授けたままの物だから、その御代から、三種の中で玉を第一とされたのだろう。以後、いつも玉を先に申し上げるようになった順序のまま、『古事記』も『日本書紀』も記したので、神代から、そうなのではない。
〔それを、ある説では、もともと玉を鏡より特に重い物のように説く。また師の『祝詞考』で、伊邪那岐命が首飾りの玉を天照大御神に授け、高天原を治めよと仰せになったので、その首飾りは、大御神が天を治めるしるしである。今、天孫に授ける勾玉は、天の岩戸の前で招き願った時、その首飾りにならって作ったものを、今天孫が降り、国の主となるしるしとして、大御神が授けたのだ、といわれたのも、すべて合わない。
岩戸の段の勾玉を、その首飾りにならって作ったという証拠がない。あの段を考えると、そんな意味で作ったのではない。玉は古代、とりわけ賞賛され、尊び求められる物なので、供え物として献じただけだ。ただ、たぐいなく大切な招きの儀礼に使うので、心を尽くして作り、数ある中でも素晴らしく美しい玉だった。そのため、大御神が特に珍重し、比べる物のない宝として持っておられたのを、今回、御孫命に授けたのだろう。別の意味があるはずもない。
だから次の文にも『日本書紀』にも、この時のお言葉は、鏡の事だけで、玉は出ない。もし玉が国を治めるしるしなら、必ず、そのことも仰せになるはずではないか。それなのに、首飾りにならい、これも天孫が国を治めるしるしとして授けたというのは、両書で三種の第一に挙げるため、無理に、その意味に合わせようとするのだ。
仮に、実際、国を治めるしるしとして授けたとしても、大御神の御魂という鏡より上に立つのは、難しいだろう。ただし鏡に並べて授けた一種の宝物だから、自然に、国を治める御璽となるのは、もとより、そうであるべき理屈だ。
このほか、三種に、さまざまな理屈を、事々しく説く説は多いが、どれも古い意味ではない。〕
今、大御神がお授けになる時のこととしていえば、鏡が第一なのは、いうまでもなく、次が剣、その次が玉だろう。なぜかといえば、『日本書紀』継体の巻に、大伴金村大連は、ひざまずいて、天子の鏡・剣・璽符を献じ、再拝した、とある。神祇令には、即位の日、中臣は天津神の寿詞を奏し、忌部は神璽の鏡・剣を献上する、とある。〔『義解』は、ここでは鏡・剣を璽と呼ぶ、とする。〕
大殿祭の祝詞では、高天原に神としていらっしゃる皇親の神魯企・神魯美命が、皇御孫命を天の高御座にお据えし、天の御璽の剣・鏡を捧げ持って授け、お祝いの言葉をお告げになるには云々、とある。〔この神祇令と祝詞から見ると、『継体紀』の璽符も、鏡・剣を指すのか。仮に玉でも、鏡・剣の次にあるのだ。〕これらは鏡・剣だけをいい、玉をいわない。
〔師の『祝詞考』で、玉はお身に着けておられる物で、人の手が触れる物でないから、古くから鏡・剣の二つを、大儀の時のしるしとしてきた。しかし、この祝詞は勾玉を特に挙げるはずなのに、すでに大宝のころの儀式の表に基づき、二つだけをいったので、これも古代の文でないと知る一つだ、といわれたのは、理解できない。
玉はお身に着け、人の手が触れないというのは、普段はそうでも、即位の時、どうして最初からお身に着いているのか。そもそも令の践祚の日は、『義解』で、即位をいうとあるように、古代は践祚が即位だったのが、後には別となり、即位の儀式には忌部が鏡・剣を献上することは見えず、大嘗会にある。しかし、これはもともと、初めて皇位を継ぐ時の儀式と理解される。
後世には、践祚の時、旧帝の御許から新帝の御所へ、剣・璽を渡す儀式がある。ほかの儀式でも、内侍二人が剣と璽を持ってお供する。これから推すと、古代や大宝の制度を定めたころでも、旧帝から新帝へ宝物を渡す時、玉も必ず渡したはずだ。それなのに鏡・剣だけをいい、璽をいわないのは、もともと鏡・剣は重く、玉は一段軽いためだろう。
したがって、これは、水垣の朝廷から玉を先にする定めとは関係なく、神代からの定めについていうので、かえって古い意味だと思われる。後世、剣・璽といって鏡をいわないのは、鏡は内侍所にあって、お動きにならないためだ。〕
『古語拾遺』では、八咫鏡と草薙剣の二種の神宝を皇孫に授け、永く天の御璽とした、〔いわゆる神璽の剣・鏡である。〕矛と玉は、自然に、それに伴った、とあるので分かる。
〔この『拾遺』の文は、世間で玉を第一と考えるのが古意でないと嘆き、わざわざ玉を低くし、鏡・剣には比べられないと知らせた文だ。自從は、鏡・剣のように、正式な御璽として授けたのではなく、矛と玉は、ただ、特別の意味なく添えて授けたということだ。この矛は、『日本書紀』の、いわゆる日矛か、あるいは、大己貴神が経津主神に授けた広矛か、どちらか確かでない。〕
これは、三種の中で、玉は、もともと軽いためである。しかし天皇の御許では、この玉だけが今まで、大御神がお授けになったままの物なので、伝え持たれる三種の御璽の中では、特に尊い宝なのである。〔後世に神璽というのは、この玉のことである。〕
【宣長の注釈】亦常世云々について、亦をここに置くのは、前と後とで種類が違うので、区別するための区切りだ。常世は、天照大御神が石屋に隠れ、世の中が常夜となった時、功績を立てた神だからいう。まず思金神一柱にかかるように見えるが、石門別神まで三柱にかけても悪くない。
【宣長の注釈】手力男神も、同じ石屋戸の段に出た。
【宣長の注釈】天石門別神は、『古語拾遺』の同じ段に見える。〔後で詳しく述べる。〕この三柱の神は、その生きたお身を天から降すのではない。〔生きたお身は、高天原にとどまり、天照大御神にお仕えする。〕すべて、その御霊実を降すのである。〔今、御霊実というのは、御霊のよりつく御体で、以下も同じだ。俗にいう神社の御神体である。〕だから、前の五伴緒の神と同列に挙げず、ここで、三種の宝物の次に続ける。
〔したがって、この三柱の神の御神体は、鏡でも剣でも、何であれ、あの八咫鏡に添えて従わせ、降された。理由は後に述べる。ただ石門別神一柱は、『古事記』の石屋戸の段には見えないので、その御霊は、皇孫命の御門を守る神として降されたのかもしれない。〕
また五伴緒の神は、生きたお身なので、次に、それぞれ何々氏の祖と注すが、この三柱は御神体なので、子孫を挙げず、鎮座する所だけ注す。これらから、生きたお身と御霊の区別を理解すべきだ。
〔『日本書紀』が五部の神を挙げ、この三柱を挙げないのも、生きたお身でないためである。前でも各所でいうように、神には、生きたお身をいう場合と、御霊をいう場合との区別がある。しかし、その区別をいわず、どちらも同じように、何々神という。天照大御神の、高天原にいらっしゃる生きたお身と、伊勢で拝み祭る御霊を、ともに天照大神と申し上げ、名に区別がないのと同じく、ほかの神もそうである。代々の学者は、この区別を理解できないため、何かにつけ、混乱することが多いのだ。〕
【宣長の注釈】副は、皇御孫命に添えるのである。賜は、授けなさるという意味で、単に敬語として添えるのとは異なる。
【宣長の注釈】詔者について、前に、天照大御神と高木神の命によって、とあり、それ以降、別の説明がないので、これも、その二柱のお言葉ともできる。しかし、私の御魂としてとあるので、これは天照大御神だけのお言葉である。
【宣長の注釈】此之鏡者は、これのかがみは、と読む。『万葉集』巻三の、これの水島、巻二十の、これのはるもし、などと同じ、古語の形だ。〔後者は、この針でという意味で、志は、知の草書体を誤ったのかもしれない。〕
【宣長の注釈】專は、前で述べたとおりで、ここは全くという意味だ。〔中古の物語などにも、全くという所を、もはらという例が多い。〕この言葉を、軽く見過ごしてはいけない。
【宣長の注釈】爲我御魂は、出雲国造の神賀の詞で、大穴持命は云々と申し、自分の和魂を八咫鏡に託して、とあるように、大御神の御霊を、この鏡に託して授けるのである。
〔御霊ということにも、働きと、そのよりつく物との区別がある。この大御神についていえば、高天原を治め、世を照らすなどは、広く、御霊の働きで、この鏡は、その御体である。その御霊を、全く、この鏡に託して御体とされるので、その働きも、すべて、この鏡に備わる。
それなら、働きがすべて鏡へ移り、高天原の生きたお身には、御霊が残らないのか、といえば、神の御霊は、まさに御霊で、非常に霊妙なものだから、すべてここにあっても、あちらで少しも減らず、あちらで減らなくても、こちらにも、すべて備わる。御体を千、万の所に分けても、それぞれ、どこでも、その働きが欠けない。〕
したがって天照大御神の御霊は、全く、この鏡にいらっしゃるのだ。尊く、恐れ多い、この大御言葉を、決して、軽々しく見過ごしてはいけない。
『日本書紀』の一書では、天照大神は宝鏡を手に持ち、天忍穂耳尊に授け、祝って、我が子よ、この宝鏡を見る時は、私を見るようにし、寝所の殿をともにして、まつる鏡としなさい、といった。また天児屋命・太玉命に、そなたたち二神も、ともに殿内に控え、よくお守りしなさい、と命じた、とある。〔本文に、この重大なことを記さないのは、どうしたことか。〕
前に三種を挙げながら、ここは、ただ鏡のことだけを、このように懇ろに仰せになる。それで、この鏡が、中でも尊いのは、明々白々だ。〔それなのに、もともと三種は同等と説いたり、玉を第一と考えるのは、水垣の朝廷以後のあり方にとらわれ、元を十分に考えないのである。〕
【宣長の注釈】吾前は、大御神の生きたお身の、目の前である。前については、すでに述べた〔『伝』巻十二・十九葉〕。
【宣長の注釈】如拜と、また次の拜祭の拜は、ともに、いつくと読む。前の、楯形君たちが、いつく、三前大神である、という所と、諸人が竈の神として拝む、という所とが同じで、また、倭の青垣の東の山の上で、いつきまつる、という所と、中巻、水垣宮の段の、御諸山で意富美和之大神の御前を拝み祭る、という所が同じ語であることから、理解されたい。
【宣長の注釈】伊都岐奉という語は、前に出た〔『伝』巻六・六十六葉、巻十二・二十六葉、三十九葉〕。ここまでが、皇御孫命への命令で、以下は思金神の御霊に命じることだが、それも、御孫命へ仰せになるのである。
天照大御神は、いつも高天原にいらっしゃり、最も身分の低い民までが、目の前に仰ぎ見る大御神である。それなら、御孫命も、この国にいて、高天原の生きたお身の御前を、そのまま拝み祭ればよいのに、別に、この鏡を御霊として祭れ、と仰せになるのは、なぜか。
大御神は高天原にとどまり、御孫命は、この国にお降りになり、ここから天と国との行き来が絶える節目で、はるかに隔たるお別れだから、今まで私の御前に控え、親しく近く拝んでくださったように、今からは、この鏡を祭れ、というのである。〔だから、天の日を直接祭ることはない。人々も、この意味を考えるべきだ。〕
【宣長の注釈】前事は、この御魂の御前の事柄である。〔皇孫命の御前の事ではない。〕事は、単なる祭りの行事でなく、たとえば朝廷の政治のように、大御神の御霊が、天下のあらゆる事を思い、処理し、お定めになる御政治をいう。前は、先にもいうように、その神を直接指す語だから、これは、この御霊の御政治というようなものである。
【宣長の注釈】取持は、中巻、明宮の段のお言葉に、大雀命が、国の政務を担って申し上げた、とある。『万葉集』巻十七には、治める国の事を取り持って、巻十八には、大君の任命のままに、取り持って仕える国の、とある。『三代実録』巻二十九のお言葉には、右大臣藤原朝臣は、内外の政を取り持ち、懸命に仕え、朝早くから夜遅くまで怠らず、などという。
〔『源氏物語』若菜下には、宮たちのお世話などを、取り持ってなさる様子も云々、夕霧には、御法事を、あらゆることに気を配ってなさる、などとある。これらは、少し意味が変わっている。〕
その事を自分が背負い、実行する意味だ。〔今、他人の事を、そばから助けて、ともに行うことを、取り持つというのも、これから変わったものだ。『源氏物語』の例は、今の意味に近い。〕
【宣長の注釈】爲政は、先に引いた明宮の段のお言葉に、白賜とあることから、まをしたまへ、すなわち、申し上げなさい、と読む。この言葉の例は、その段〔『伝』巻三十二・二十一葉〕で述べた。
〔前は、まつりごちてよ、と読もうと思った。しかし、よく考えると、前の前事が、すでに政務だから、そう読むと同じ語が重なる。爲政と書くのは、意味によっただけで、字にこだわるべきでない。〕
こうであれば、天皇の政治を関白・大臣などが取り次ぐように、この思金神は、天照大御神の御霊の政務を行う神だ。それで、その鏡に添えて降されたのである。同列に挙げた手力男・石門別の二柱の御神体も、ともに鏡に添えて降された神と分かる。〔ただ、石門別神は、別の事情かもしれない。理由は前で述べた。〕
まつりごとという語の意味は、中巻、白檮原宮の段で詳しく述べる〔『伝』巻十八・七葉〕。
【古事記本文】この二柱の神は、さくくしろ、伊須受の宮にお祭りする。
次に登由宇気神。これは、外宮にいらっしゃる、度相の神である。
次に天石戸別神。別名を櫛石窓神、また豊石窓神という。この神は、御門の神である。
次に手力男神は、佐那県にいらっしゃる。
【宣長の注釈】この二柱は、大御神の御神体である鏡と、思金神の御神体を指す。〔これは君と臣で、尊さの違いが、はなはだしいのに、同等のように二柱というのは、古代の考え方だ。『式』などの大神宮三座も同じ。師が、これを思金神と手力男神といわれたのは誤りだ。〕
【宣長の注釈】佐久久斯侶は、裂釧である。大神宮の『儀式帳』には、さこくしろ、さこくみるともあり、『日本書紀』神功の巻では、拆鈴、五十鈴宮という。
釧は、下巻、高津宮の段に玉釧、『日本書紀』継体の巻に、しぢくしろ、〔鈴をびっしり着けた繁釧である。〕『万葉集』巻一に、釧を着ける手節の崎、巻九に、いとしいあなたが、くしろであればよいのに。私の左手に巻きつけていようものを、また玉釧、また、声くしろ、〔宍串は借字。〕などと見え、これについては、師の『冠辞考』〔さくくしろ、しぢくしろ、くしろつく、などの項〕に詳しく説く。
この物は、後には絶えたので、京などでは、その名さえ知られなくなっていたのだろうか。『和名抄』も釧の字を挙げながら、くしろという名を出さず、ひぢまきと記す。
〔農耕具の項に、鈒、『漢語抄』には、かなかき、別名くしろ、というのは、字形が似るため、釧の読みを誤って、こちらに付けたのか。また鈒には、分裂である、との注もあるので、五十鈴の枕詞、さくくしろは、腕に巻く釧のことではなく、この鈒を指すのかとも考えたが、やはり、そうではない。〕
先の『万葉集』巻九の、くしろにあらなむという歌も、『六帖』は櫛の歌にしている。〔顕昭の『袖中抄』で、これを区別し、くしろは釧の字を読む。仏典には、指の上にある物を鐶、腕の上にある物を釧と名づける、とあるというのは、さすがに広く書物を見た人だからである。〕
そのようだから、古書の釧も書き誤り、劒〔『万葉集』〕や釵〔『古事記』下巻〕などにする。〔こうした誤字から考えると、『日本書紀』の拆鈴の鈴も、釧の誤りと思われる。〕近世になり、契沖、荷田の大人、我が師などが、次々に区別を明らかにし、釧のことは分かったが、この、さくくしろは、まだ少し、はっきりしない。
〔『私記』で、鈴の口は裂けているので拆鈴というとあるように、拆鈴というのは何でもないが、その裂けた鈴を付けるからといって、釧自体を、さく釧と、どうしていうのか。『冠辞考』も疑問とし、釧と鈴を一つにいったのか。釧は鈴を付ける物だから、鈴の形によって、さくくしろ五十鈴と続けたのかというが、なお納得できない。〕
深く考えると、まず古代の鈴には、さまざまな形があっただろう。〔今もある駅路の鈴や、ほかにも普通の物と大きく形の違う古い鈴が残るのを見ても、さまざまだったと分かる。〕釧にする鈴にも一種あって、ほかと違ったのだろう。釧とは、小さな鈴を多く緒に通し、腕に巻く物の名である。〔外国の釧という物とは、姿が違うだろう。また玉釧とあるのは、玉を付けた物もあったのだろう。〕鈴を除けば、別に本体はない物と理解され、『日本書紀』履中の巻も、これを単に手鈴という。〔鈴以外に本体があれば、単に鈴とはいわないはずだ。〕したがって、釧用の鈴が一種あり、釧がそのまま鈴なので、裂釧というのだろう。
〔こうして手に鈴を巻いたのは、見せるための飾りでなく、鳴る音を求めたのだろう。『万葉集』の、手玉を鳴らす、などを考えるべきだ。だから釧は、あらわな所に付けず、袖に隠れる腕に巻く。また下巻、遠飛鳥宮の段に、足結の小鈴ともあるので、足にも着けた。〕
五十鈴に続くのは、繁釧ともいうように、この鈴は、ぎっしり通すので、五十という、多くの鈴の意味である。〔ただ鈴だけでなく、五十にもかけて続ける。〕伊勢の書物で、宇治にも、この枕詞を付けるのは、五十鈴から転じた、後のことである。
【宣長の注釈】伊須受の宮は、伊勢の大御神の宮である。『日本書紀』神功の巻では、五十鈴と書く。これは地名で、五十鈴川、五十鈴原などともいう。名づけた理由は、はっきりしない。
〔『倭姫命世記』では、猿田彦神の子孫、宇治土公の祖、大田命が参り出会った。倭姫命が、よい宮の場所があるか、と尋ねると、さこくしろ、宇治の五十鈴川の上流は、大日本国の中でも、殊に優れた霊地です。そこに、この老人が八万年の間に、見たこともない霊妙な物があり、日月のように照り輝きます。小さな私の物ではなく、定まる主が現れた時に献上しようと思い、その場で神体として祭っております、と申し上げた。その物は、大神が、伊勢の風早の国には、美しい宮の場所があると定め、天上から投げ降した天の逆大刀、逆鉾、金鈴などであった。大田命は、大いに喜んで申し上げた、という。しかし、この中には疑わしい事があり、すべては信じられない。〕
【宣長の注釈】天照大御神の御霊である鏡は、このお言葉どおり、代々、皇御孫命と同じ大殿の中で祭ってきたが、水垣宮で天下を治めた天皇の御代から、別の場所で祭ったのである。
『日本書紀』の、その巻〔崇神〕の六年には、これより前、天照大神と倭大国魂の二神を、ともに天皇の大殿の中で祭った。しかし、その神威を恐れ、共に住むのが心安くなかった。それで天照大神を豊鍬入姫命に託し、倭の笠縫邑で祭り、磯堅城の神籬を立てた、云々とある。
そこから伊勢へ遷ったことは、『垂仁紀』に、二十五年三月丁亥朔丙申、天照大神を豊耜入姫命から離し、倭姫命に託した。倭姫命は、大神の鎮座する場所を求め、菟田の筱幡へ行き、戻って近江へ入り、東に美濃を巡り、伊勢に着いた。その時、天照大神は倭姫命に、この神風の伊勢の国は、常世の波が重なり寄せる国、都から離れた、よい国で、私はここにいたい、と教えた。それで、大神の教えに従い、祭る場所を伊勢国に定め、五十鈴川の上流に斎宮を建てた。これを磯宮といい、天照大神が初めて天から降った所である、とある。
〔この文には、紛らわしいことがあり、注意しないと誤る。まず、祭る場所を伊勢に定め、五十鈴川上に斎宮を建てた、という斎宮は、大御神の宮だ。ところが『古語拾遺』『倭姫命世記』などは、文を少し変え、倭姫命の住む宮のように記す。代々の斎王の宮も斎宮というため、そう理解した誤りだ。斎王の宮の場合は、その王の住まいという意味、ここは大御神を祭る宮という意味で、同じ名でも異なる。
ここでは大御神の宮こそ詳しく記すはずなのに、それを、ただ伊勢国に祠を立てる、と大まかにいい、斎王の宮を、かえって五十鈴川上と具体的にいうはずはない。『万葉集』の人麿の長歌の、渡会の斎宮も、必ず大御神の宮と聞こえる。また倭姫命の方を宮といい、大御神を祠とするはずもない。したがって立の字は、定の誤りだろう。
神の社には、日本では普通、社の字を使い、また宮という。特にこの大御神などは、必ず宮と申し上げるのに、祠とあるのは、字義はそうでも、単に宮をいうのでなく、祭るべき場所をいったのだ。『雄略紀』で、稚足姫皇女が伊勢大神の祭りにお仕えする、という祠も、拝み祭る意味を含むので、この字を書く。みや・やしろとは読まず、いはひと読む。ここも、祭る場所を伊勢国に定め、そして五十鈴川上に宮を建てたという意味だ。
次に、これを磯宮という、は理解できない。この五十鈴宮を磯宮という例は、ほかに全く見えない。考えると、『儀式帳』などで、五十鈴宮に鎮座する前、磯宮にいたという。『神名帳』に、度会郡の磯神社、『和名抄』にも同郡の伊蘇郷があり、今も磯村という。その地に、しばらくいたことを磯宮という。ただし、その磯宮は、度会郡でなく、多気郡相可郷あたりともいう。
それはともかく、伊蘇と伊須受で、名が似るため、混ざった伝承である。ここは決して磯宮というべきでなく、五十鈴宮という、とあるはずだ。〕
【宣長の注釈】次に、天照大神が初めて天から降った所である、ということを、たいへん理解しにくかったが、近ごろ思いついた。古い伝承の趣旨によらず、いつものように、自分の考えのまま説く説は、さまざまあるが、すべて私説で、採るほどでもない。私が思いついたというのは、最初、猿田彦神が、私が先に道を開きましょう云々、天津神の御子は、筑紫の日向にお着きになるはずで、私は伊勢に着くはずです、と答えた点である。
皇孫命が日向国に降るのに、その道案内の神が、特に伊勢へ降るのには、深い理由がある。豊受宮の『儀式帳』に、天照坐皇大神は、度会の伊須々川上の嶺の大宮でお仕えされていた。その時、大長谷天皇の夢に、私は、高天原にいた時から見て、求めていた場所に、鎮まりました云々、とお教えになった、とある。
したがって、この御霊の鏡を、後、ついにここに鎮座させようとは、大御神自身が高天原にいて、あらかじめお考えになっていたことだ。猿田彦神が、道案内をしながら伊勢に着くのも、まさに『古語拾遺』の、初め天上にあって、あらかじめ秘かな約束を結び、衢の神が先に降ったのには、深い理由がある、と見えるとおりで、もともと、その由縁があるため、この鏡を、最終的に鎮座すべき場所へ、まず導き送り申し上げるためだ。
それで、その天降りの時、皇御孫命に添えて、この鏡を戴き持っていた供の神は、道案内の神の導くまま、自然に、まず伊勢国へ降り着いたのである。初めて天から降ったというのは、この時のことだった。
そうでなければ、日向へ降る御孫命の道案内の神が、伊勢へ降るのは、理由がなく、無意味ではないか。こうして鏡は、まず伊勢に降り着いたが、それを日向の御孫命の御許へ送り届け、猿田彦神は暇をいただき、また伊勢へ帰った。この間のことは、後で詳しく述べる。
この鏡は、一時も皇御孫命の御許を離れるはずのないものなのに、日向と伊勢に分かれて降るのは、どうかと疑う人もあろう。しかし天上から遠く降るのだから、日向と伊勢が離れていても、同じ葦原中国の中なので、やはり一つの場所に降り着いたのである。後に、また伊勢へ遷し申し上げても、初めの大御神のお言葉に違わないのも、同じ皇国の中だからだ。〕
『日本書紀』の一書では、天皇は倭姫命を御杖として、天照大神に差し上げた。それで倭姫命は、天照大神を磯城の厳橿の本に鎮座させ、祭った。その後、神の教えに従い、丁巳の年の冬、十月甲子、伊勢国の渡遇宮へ遷した、とある。これである。
〔ある人は、丁巳の年は垂仁天皇二十六年で、その十月は丁丑朔だから、その月に甲子の日はない。十は九とすべきで、九月は戊申朔、甲子は十七日だ。それによって今まで、九月十七日が皇大神宮の神嘗祭なのだ、と説く。この考えは、よく当たるようだが、信じにくい。
まず二十五年三月丁亥朔、二十六年八月戊寅朔とあることから計算すれば、二十六年九月の朔は戊申に当たる。しかし、後世の暦法で、まだ暦がなかった古代の年月日を推し、干支を割り当てるのは、ことわざの、雲をつかむような類で、たいへん浮つき、未熟なやり方だ。これは別にも論じる。
したがって、丁巳年十月甲子も一説、その年の八月戊寅朔も一説で、どちらが正しいとも決められない。暦法で推して、その年の九月十七日が甲子に当たるのも偶然で、もともと、そのため神嘗祭を十七日に定めたのではない。〕
【宣長の注釈】そのころの詳しい事は、この宮の延暦の『儀式帳』〔この大宮のさまざまな事が、詳しく、この書に見える。〕や、『倭姫命世記』などにある。
〔『儀式帳』は真の古書である。『世記』は後世の人が編んだ書で、偽説が多い。しかし、その中には真実らしく、捨てがたい事も多い。それは、今に伝わらない宮の古書が、『儀式帳』以外にもあったのを採り、自分で作った偽説を多く混ぜた物だ。選んで採るべきである。〕
また『日本書紀』石屋戸の段の一書にも、日の神は、ちょうど岩戸を開いて、お出になった。この時、鏡を、その岩窟に入れた云々。これが、伊勢で尊び、奥深く祭る大神である、とある。また神功の巻で、大御神のお言葉に、神風の伊勢国の、ももづたふ度逢県の、さくくしろ五十鈴宮にいる神云々、などともある。
【宣長の注釈】『神名帳』に、伊勢国度会郡、大神宮三座〔同殿にいる神が二座。いずれも大社で、月次・新嘗などの祭りにあずかる。〕とある。その同殿の二柱は、『儀式帳』で、同殿の神二柱。左にいる神を、天手力男神の御霊といい、御形は弓。右にいる神を、万幡豊秋津姫命といい、皇孫の母で、御霊の御形は銅、とする。〔一説で、天児屋命と太玉命というのは誤りだ。〕
『古事記』と比べて考えると、左の神を天手力男神というのは、思金神を誤って伝えた物だろう。
〔しかし、思金神が、この相殿にいることは、伊勢の書には、全く見えない。『神語記』『神皇実録』などには見えるが、それらは、後の人が『旧事紀』によっていうので、頼りにならない。
この宮の伝えで、拝む順序は、まず大御神、次に相殿の五柱を拝むといい、その五柱は、手力男命、万幡豊秋津姫命、思兼神、天児屋根命、太玉命である。このうち児屋根命と太玉命は、豊受大神が外宮に鎮座してから、その宮の相殿にいるという。しかし、この中に思兼神を加えて拝むのは、『古事記』『旧事紀』などを考え、後に定めた事だろう。
もし、もともと、この神もいるという伝承があれば、必ず『儀式帳』に載り、『式』も相殿三座とするはずだ。ただ『式』は神の名を挙げないので、二座のうち一座が、この神か手力男神かは、分からない。
『古事記』では、手力男神は佐那県にいると記すのに、その神が相殿にいるというのは、全体として合わない。じっくり考え、この二柱神者の前に脱文があるのか、あるいは誤りかなど、いろいろ試すが、脱落でも誤りでもなく、『古事記』の趣旨は、確かに思金神なのである。
両者の一方は、思金と手力男を取り違えたのだ。どちらを正しいとするか、今、決めるべきでないが、仮に伊勢の伝承の方に従えば、御前の事を取り持ち申し上げよ、とあるのは手力男神の事で、佐那県にいるのが思金神であるはずなのを、『古事記』の伝承が混乱したとするのか。
しかし、初めの石屋戸の段でも、思金神の功績は特に高く、御前の事を取り持ち申し上げよという命令も、必ず、この神の務めのはずで、手力男神には、似つかわしく思われない。したがって相殿には、必ず思金神こそいるはずで、それをおき、手力男神がいるのは、どうかと思う。
また『日本書紀』の一書は、秋津姫命を思兼神の妹とする。そうなら思兼神は皇孫命のおじで、秋津姫命と兄妹で左右に並び、相殿にいるのも、理由があると思われる。したがって、いずれにせよ『古事記』の趣旨は疑えず、伊勢の伝承の方が、必ずそうだとも思われないので、そちらを誤りと定める。この二神は、同時に同じように鏡に添えて降ったので、ふと取り違えたのだろう。また、師の『祝詞考』の説も、この相殿の所は、誤りが多い。〕
【宣長の注釈】五十鈴宮の神は、このように三柱なのに、ここで二柱神者というのは、なぜか。これは、天照大御神と思金神という二つの御霊の鎮座する場所を注すのであって、五十鈴宮の神をすべて注すのではないからだ。
このように、この大宮は、天照大御神の御霊を祭る大宮だから、日本の人はいうまでもなく、貊・唐・天竺、そのほか天地の中のあらゆる国々の王をはじめ、民まで、せめて遠くから拝み、限りない御徳に感謝すべき道理だ。それなのに今まで、外国の人々が、その道理を少しも知らず、過ごすのは、まことに嘆かわしいことだ。
〔世間で、この大宮を宗廟と申し上げるのは、あってはならない。宗廟は、外国で、王の祖先を祭る建物の名である。ある王は、祖先を天に合わせ祭るなどといい、むやみに尊い物にするが、実際は、すべて普通の人だ。それなのに、口にするのも恐れ多い大御神の宮を、外国の普通の人を祭る建物と同列にいうのは、あまりに恐れ多いことではないか。〕
【宣長の注釈】登由字気神の由は、用を書き誤ったのだろうか。
〔この名は、古書では豊字気とも登由気ともある。由は用を縮めた字で、登由字気という例は見えないから、由は、まず、よと読むべきだ。師が、登用字気の用字を縮め、登由気と申し上げるのが古語だとして、この字を余分なようにいわれたのは、いつもの偏りだ。古語は縮めてもいい、元の形のままでもいう。前にも豊字気と書くのを、どうして、とゆけと読めよう。他書の豊受も、とゆけ、とようけ、どちらにも読むべきだ。後世の、とよけという読みは、古語に例のない発音だ。〕
この神は、前の豊宇気毘売神だろう。〔この神のことは、『伝』巻五・六十葉で述べた。〕この段では、五伴緒も思金神ら三柱も、すべて前に事柄を挙げ、この二柱神者以下は、それぞれの注である。それなのに、この豊字気神だけ、前に名も挙げず、不意にここへ出すのは、どうか。
〔ある人は、天照大神の鎮座を記すついでに、豊受大神の鎮座も併記するので、疑うほどでないというが、なお納得できない。天照大御神の鎮座地を記すのは、前に鏡の事をいったので、その鏡は、どこそこにあると注すのだ。五十鈴宮のついでに、外宮も記すなら、外宮にいる度相神は登由字気神である、とあるべきだ。登由字気神、これは、とあるのは、この神についての注だから、必ず前に出なければ、つながりにくい。〕
前の、思金神・手力男神・天石門別神を並べる所に、この神の名もあったのが、後に脱落したのかもしれない。
〔この大神は非常に尊いので、名を挙げる順序は、思金神の上のはずだ。ただ、この二柱神者と、先に思金神を注し、次に、この神を注す順に従えば、思金の次ともいえそうだが、二柱神者は、大御神と同じく五十鈴宮にいるので、先に一つにまとめていうのである。〕
ともかく、ここで、こう挙げるからには、この大神も、この時、ともに天降し申し上げた。思金神ら三柱と同じ例で記すので、この大神も、生きたお身でなく、御神体を降し申し上げたのである。〔この御神体も鏡だと、神宮の書物に見える。〕
豊字気大神は、高天原で、天照大御神が常に拝み祭る御食津神だから、ご自分の御霊の鏡に添え、この神の御霊も降したのだった。
〔神楽の採物、幣の歌に、この幣は私の物ではない。天にいらっしゃる、とよをかひめの宮の幣、とあり、杖・篠・鉾などの歌も、同じく、とよをかひめの宮という。とよをかひめは、豊宇気毘売を歌い誤ったもので、その宮は、高天原で、天照大御神が、この神を祭る宮だ。
採物の歌も、たまたま一首ほどなら、それほどでない神の事も歌うだろう。しかし幣・杖・篠・鉾と、いろいろな物で、同じように、この神の宮だけをいうのは、天照大御神がお祭りになる神事だからだ。このような古い伝承からも、この神の格別な尊さは分かる。
それなのに、この神は食事をつかさどる膳部の神で、皇御孫命が降る時、お供した臣下の列だ、などという説は、生きたお身と御神体の違いも理解せず、事の様子も、よく考えず、ひたすら外宮を低めようとする者の、いい加減な言葉だ。
また豊字気毘売神の、生まれ出た事情が、身分低いように見えるため、天照大御神が祭ることを疑う人もあろうか。それは後世の俗な考えだ。天照大御神も、伊邪那岐大神が黄泉の穢れを清める時、目をお洗いになって生まれたことを、考えるべきだ。初めの由縁によって、神の尊さを考えるべきでない。
外宮の書で、この神を国常立尊というのは、全く理由がなく、ひどいこじつけだから、改めて論ずるほどでもない。水徳の神などと、さまざま事々しく説くのも、すべて漢意だ。火徳・水徳などは、すべて中国人の妄言なのに。忍穂井などの事はあるが、それは御饌に関係するので、水に由縁があるのではない。〕
『日本書紀』の、この段で、この神を降すことが見えないのは、生きたお身でなく、御神体だからだ。〔同書は、生きたお身の五部の神と三種の宝物だけを挙げ、御神体である思金神なども、すべて挙げない。それなのに、外宮は尊い神でないため、『日本書紀』にも載らないというのは、いつもの当たらない説だ。〕
【宣長の注釈】『日本書紀』の神籬・磐境を、この神を祭ることとする説もあるが、それも当たらない。ある人が、あの神籬・磐境は、後に神祇官の西院で八柱を祭る始まりだ、というのがよい。
『古語拾遺』神武天皇の段に、ここで皇天二祖のお言葉を仰ぎ従い、神籬を建てた。いわゆる高皇産霊、神皇産霊、魂留産霊、生産霊、足産霊、大宮売神、事代主神、御膳神で、以上は、今、御巫が祭る神である、云々とある。皇天二祖のお言葉に従うというのは、まさに神代の巻のお言葉をいう。
この八神が、『神名帳』の、神祇官の西院にいて、御巫が祭る神八座だ。前にもいうとおり、天皇のお身を守るために祭るので、神代のお言葉の、我が孫のために祭れというのも、そのためだ。八神中の御膳神は、伊勢の外宮の神と同じだろうが、御神体は別だ。この事は、後にも述べる。
ついでに神籬についていおう。ひもろぎは、葉の茂った木を立て、それを神の御室として祭ることからの名で、柴室木という意味の、ふしを縮めて、ひという。『万葉集』巻三の、我が家に、御諸を立てて、は茂る木を立てることだ。巻十一の、神なびに、ひもろぎ立てて、巻二十の、庭中の阿須波の神に小柴を挿し、も同じである。
磐境は、いはきと読み、『崇神紀』の磯堅城神籬の、磯堅城と同じ事だ。神を祭る場を、石を積み巡らして設ける。師は及の字を誤りといわれたが、悪くはない。
『日本書紀』の、その段では、神籬・磐境も、大物主・事代主の二神に関係させていう。その理由は、この時、帰順した者の首領は大物主神・事代主神云々といい、すぐ紀伊国の忌部の遠祖云々を用い、御手の代わりに、この神を祭り云々、太占の占いで奉仕させた、というまで、文が続き、すべて、この二神の御霊を祭ることをいうからだ。この祭りの制度が、あまりに重いため、大物主父子を祭るのではあるまい、と疑う人が多い。しかし、この二神は、ほかと違う事情があるので、疑うべきでない。
高皇産霊尊が、それによって命じた、という因は、前を受けるので、神籬・磐境も、この二神の御霊を祭るための命令と明白だ。それでは、神祇官の八神を祭る始まりというのと違うようだが、八神には事代主神がいるので、違わない。
もともと、この神籬・磐境は、大物主・事代主だけのためでなく、ほかの神も祭る。しかし、その段は、大物主・事代主の経緯を、もっぱら記す所なので、二神にかけていう。紀伊国の忌部の遠祖云々から、太占の占いで奉仕するまでも、二神だけを祭る作法でなく、二神が、この作法で祭る列に加わるのだ。『神名帳』で、何々神社、大社、月次・新嘗、とあっても、月次・新嘗は、その社に限らないのに、その社にかけていうのと同じである。こう見れば、その段は、少しも疑わしくない。
すでに、そなたの祭りをつかさどるのは、天穂日命である、とあるのに、また、ここで諸部の神々に祭らせるのは、なぜかと疑う人もいる。しかし、穂日命がつかさどるのは、出雲の杵築社の祭りで、ここは別に朝廷で祭るので、何の妨げもない。
こうであれば、神祇官には大物主神もいるはずなのに、事代主神だけなのは、なぜか。『日本書紀』の伝承は、父子とも神籬で祭られる趣旨だが、『古事記』の、もっぱら事代主神が、神々の先頭や最後尾に立って守り、お仕えする、などから見ると、神祇官も、その伝承に従うのだろう。八神は皇孫命のお身を守るためで、その点は、父子のうち事代主神が中心だからだ。大物主神は、三輪だけで祭り、神祇官では祭らないのだろう。
また高皇産霊尊が命じた神籬なのに、八神中に、その神もいるのは、大穴牟遅神が、自分の幸魂・奇魂を祭るように、皇孫のため、自分の御霊も祭らせたのかもしれない。八神に定まったのは、少し後とも考えられるので、後に加えて祭ったのかもしれない。
【宣長の注釈】また『日本書紀』の齋庭之穂も、豊字気神に関係するように聞こえる。しかし齋庭之穂は、神を祭るためだけでなく、新嘗のための稲だ。『伝』巻八・六葉、大嘗の所で詳しく述べたように、古代の新嘗は、神に献じるだけでなく、自ら召し上がり、人にもふるまう。その中で、自ら召し上がることを中心とするので、聞こし召すといって、祭るとはいわない。『日本書紀』にも、私が高天原で食べる、とあり、御の字で分かる。
康治元年の大嘗の中臣の寿詞には、天の日嗣の、天の高御座にお座りになり、天の御膳を、穏やかに安らかに、斎庭で召し上がり、とある。これらによっても、天皇が召し上がる稲穂と考え定めるべきだ。斎庭というのは、新嘗で、重く忌み慎んだためで、これも前に述べたとおりである。
大嘗の時、両国の斎郡の斎院で祭る八神中にも、大御食神がある。天照大御神が高天原で召し上がる新嘗の斎庭でも、この神を祭るのは、当然だろう。しかし、このお言葉は、その祭りも、その神の事も命じたのではないので、豊字気神を祭ることとするのは当たらない。
伊勢外宮のある人が、『日本書紀』の、その段は、多く順序が乱れたといい、勝手に文の順を変え、神籬・磐境のお言葉を、この齋庭之穂のお言葉に続け、この穂で、太祖、国常立尊を祭る神籬だというのは、無理に外宮の神を尊くし、大神宮より上に立てようとする、いつものでたらめだ。御食神を祭るとでもいえば、まだ理由がなくはないのに、国常立尊に、何の由縁があるのか。
後世の俗な学者は、国常立神を、あらゆる中で尊く、それより上のない神と理解するため、何事にも国常立、国常立と騒ぐ。しかし『神名帳』にも国常立神の社というものはなく、この神を祭ることは、古書に見えないのに。
神社に奉仕する人が、自分の仕える神を、無理に尊い神にしようと、この外宮の神を国常立だという類の、でたらめが世に多い。それは、その神に対しても、たいへん恐れ多い行いだ。そのような、正しくない偽りを、神がお喜びになろうか。〕
【宣長の注釈】さて、この葦原中国に降ると、この神の御神体は、丹波国に鎮座した。
〔どんな理由で丹波に鎮座したのか。また最初は、天照大御神とともに、皇御孫命の大殿の中にいたのを、後に丹波へ移したのか、あるいは初めから丹波にいたのか、はっきりしない。『倭姫命世記』など、伊勢の書は説くが、後の人の偽説が多く、信じにくい。〕
朝倉の朝廷の御世になり、伊勢へ遷座した。外宮の延暦の『儀式帳』には、大長谷天皇の夢に、天照坐皇大神が云々、お教えになった。私は、高天原にいた時から見定めていた場所に鎮まった。しかし、私一人でいるのは、たいへん苦しく、御饌も安らかに食べられない。丹波国の比沼の真奈井にいる、私の御饌の神、等由気大神が、私の許にほしい、と教え申し上げた。その時、天皇は驚き目覚め、すぐ丹波国からお遷しし、度会の山田原の、地下の岩の根に宮柱を太く立て、千木を高天原まで高くし、宮を定め、祭り申し上げ始めた。それで御饌殿を造り、天照坐皇大神の朝夕の御饌を、日ごとに供え申し上げる、とある。
〔私の御饌の神とあり、その宮で、天照大御神の朝夕の御饌を供えるとあるので、大御神の御食の神と分かる。また御霊の鏡に添えて降した神と分かる。〕
比沼の真奈井は、『神名式』に、丹後国丹波郡の比沼麻奈為神社があり、その地だろう。古くは丹後も一つで丹波だった。同郡には、大宮売神社二座、名神大、と『式』にある。この神も、神祇官で祭る八神の一つで、同国同郡にいる。また丹波国多紀郡の櫛石窓神社二座、いずれも名神大、も、この段に出て、同じく神祇官で祭る神で、同国に鎮座し、ともに名神大社である。
これらから考えると、豊宇気神も、もとは、この神々とともに、神籬で祭る列だったのを、後に事情があって、三神とも丹波に遷し祭り、神祇官では、別に、それぞれ御神体を写し作って祭ったのかもしれない。そうであれば、神祇官の御食津神は、この豊字気神の御霊を、また写した御体なのだろう。このような事は、すべて詳しく知りがたい。
【宣長の注釈】また『日本書紀』の釈に、『大倭本紀』の一書を引き、天皇が初めて天から降る時、ともに添えて守り祭る鏡三面と、子鈴一合があった、とする。
注には、一つの鏡は天照大神の御霊で、天懸神という。一つの鏡は天照大神の前の御霊で、国懸大神という。今、紀伊国の名草宮で尊び、祭る大神である。一つの鏡と子鈴は、天皇の御食津神で、朝夕の御食、夜の守り、昼の守りとして祭る大神。今、巻向の穴師社の宮で祭る大神である、とある。
この御食津神は、『古事記』と比べると、まさに豊宇気神の御神体と聞こえるのに、穴師社にいるというのは疑問だ。考えると、これは鏡と子鈴の二つなので、穴師社にいるなら、そこは必ず二座のはずだが、一座である。だから、そこは子鈴の方で、鏡は別に、この伊勢の外宮にあると、いうべきなのが、そちらが漏れ、一緒に穴師社に混ざった伝承なのか。
さて、先の夢のお言葉を取り違え、豊宇気神を膳夫の神とするのは、大きな誤りだ。あのお言葉は、高天原で親しくお祭りになる神の御霊が、遠く他国にいるので、仰せになったのだ。食事の世話をする神なら、どうして等由気大神といおう。大神という点に、注意すべきだ。
外宮に遷し、天照大御神の御饌を日ごとに供えるのも、膳夫の神だからでなく、大御神がお祭りになる御饌の神なので、その神を祭り、その御許で調えるのである。
古くから朝廷で行う祭礼や、斎王の参詣などで、この宮を先にするのも、もとは大御神の教えによると、外宮の書物にある。これは、確かにありそうだ。どんな定めでも、外宮は大神宮より控えめなのに、この定めだけ先なのは、必ずそのような理由があるためだろう。
祭礼の順序を、それぞれ鎮座した日によるなどというのは、こじつけだ。記した干支によって古代の事をいうのが誤りなのは、前に述べたとおりである。
ある人が尋ねた。それなら豊字気大神は、天照大御神より尊いのか。
答える。天にも地にも、天照大御神より尊い神はいない。しかし、その大御神にも、お祭りになる神はある。それは代々の天皇が、天下の天神地祇を祭るのと同じだ。だからといって、天皇が祭る神は、すべて天皇より尊いのか。それにならい、天照大御神と豊字気大神の関係を、わきまえ申し上げるべきだ。
古くは、宮造りをはじめ、朝廷から祭るすべての作法に、大神宮との差があったことが、古書に明らかだ。それなのに後世、だんだん何事も同等のようになり、内宮・外宮と、対等の神のように、誰もが思うため、その尊さの違いまで、あれこれいうのは、甚だ恐れ多い行いである。〕
【宣長の注釈】外宮について、師の『祝詞考』は、『万葉集』の、とつみやの例を引く。これは、常の大宮の外に別に建て、行幸する宮だから、天皇の宮で、別の主はいない。伊勢の外宮も、五十鈴宮の外の宮で、ただ天照大御神の宮なのだ、といわれた。これは昔から例のない、優れた考察で、確かに、そのとおりだ。
そうなら、もとからあった天照大御神の外宮に、豊受大神を鎮め祭ったのである。『万葉集』巻六、紀伊国へ行幸した時の歌に、我が大君の外の宮として、お仕えする雑賀野から、巻十三に、年月が長く経た、三諸の山の、外の宮の地、ある本では、古い都、外の宮の地、とある。〔これらを常の宮という意味とするのは誤りだ。常は借字で、すべて外の宮である。〕巻二十には、東の外の宮、という。〔これを『続日本紀』は東院とするので、外の宮の意味と明白だ。〕これらは、天皇の外の宮の例である。
外は、もとから内に対する名だが、内宮・外宮と対にいうのは後の事で、古くは五十鈴宮を内宮と申し上げることはなかった。
〔古書に内宮というものは見えず、『延喜式』なども、二宮を並べる所で、五十鈴宮は大神宮とだけいう。天皇の宮も、外の宮はそういうが、常の大宮を内の宮とはいわないので、ここもそうのはずだ。『三代実録』巻五の印本の内宮は、古本では同宮で、その文意から、同宮に決まり、内は書き誤りである。
豊受宮を外宮というのも、古書では、これ以外に見えず、『式』などは度会宮・豊受宮とだけいう。もとは大神宮の外宮でも、豊宇気大神が鎮座してから、その神の宮だからだろう。『古事記』は元の名を挙げ、この神が、その宮にいるという。
それなのに、師が、内宮には大御神の和御魂、外宮には荒御魂を祭り、豊受神は、その相殿の神だ、といわれたのは、たいへん無理がある。まず豊受神を相殿とする根拠は全くない。『続日本紀』巻二十八、神護景雲元年のお言葉にも、等由気宮とある。それを、あれこれ曲げて解釈されたが、相殿の神の名で、宮を呼ぶ理由はない。
内宮は大御神の和御魂、外宮は荒御魂ということも、根拠がない。師が和魂・荒魂とされたものは、当たらない例が多い。まず大神宮式の、荒祭宮は大神の荒魂である、というのにも異議を述べ、荒魂は和魂と並ぶほどの大社のはずで、荒祭が小社なのは、後の勝手な定めだ、というように説かれた。しかし大和国城上郡の狭井坐大神荒魂神社なども、大三輪と並ぶ大社でなく、小社の列だ。和魂・荒魂は、必ずしも同等に祭るのではない。
『神功紀』を引き、摂津の活田社を天照大神の和御魂とされたのも、理解できない。広田社が天照大神の荒御魂なのは見えるが、活田が和御魂というのは見えない。活田は稚日女尊とあるだけだ。それを推測で天照大神の和御魂と、どうして決められよう。この件は、別にも論じる。
大三輪が大穴持命の和御魂なのは、出雲国造の神賀の詞に見えるが、杵築が荒御魂という記述はないのを、強いて荒御魂とされたのも当たらない。杵築の大社は、ただ大穴持命の御魂で、荒御魂ではない。
師は、このほかも、二神で一神のようなものなどを、すべて推測で和魂・荒魂に定め、一方が荒魂なら他方を必ず和魂とされるが、すべて、そうではない。詳しくは中巻、神功の段、『伝』巻三十で区別して述べる。〕
ところが、伊勢の『神名秘書』には、村上天皇の御代、祭主公節の時、皇大神は奥にいるため内宮、度会宮は外にいるため外宮といい、この時から始まった、とある。〔この説は、まことに、そうだろう。〕これによれば、内宮・外宮と申すのは、その御代から始まったのだろう。
〔『延喜式』までは、この称は見えないが、『西宮記』などで、初めて二宮を大神宮・外宮、また内宮・外宮と挙げる。『日本紀略』長保四年に伊勢外宮云々、『百錬抄』後朱雀天皇の長久元年に、外宮の事を大神宮外宮という例がある。古い意味には合うが、そのころの文では疑わしい。余分な字か誤りか、複数の本を考えるべきだ。ただ大神宮は、二宮を合わせた意味で、伊勢の外宮ということかもしれない。
村上天皇の御世から内宮・外宮と申すのは、外宮という古くからの称に対し、新たに内宮という称を始め、対にいったのだ。外宮の称も、この時から、正しく内に対するので、古い意味から少し変わった。内宮は、奥にいるという意味で、外宮に対していうだけだ。
それなのに、逆に外宮より古い称と考え、地名の宇治と同じにする説などは誤りだ。うちと、うじでは、ちの清濁が違い、通じていうことはなく、混ぜてはいけない。〕
〔訳注:万葉歌の引用「礪津宮地」の第一字「礪」は、細部が不鮮明で字形を確定できていない。引用中では「外の宮の地」と訳している。〕
【宣長の注釈】度相は、『和名抄』の伊勢国の郡名に、度会、わたらひとある、それだ。五十鈴宮を『垂仁紀』では渡遇宮といい、『神功紀』にも、ももづたふ度逢県の、とあるので、度相は古くから広い地名のように聞こえる。
〔『万葉集』の人麻呂の長歌で、渡会の斎宮と詠むのは、五十鈴宮なのか、二宮を合わせるのか。〕
ここでは、五十鈴宮に対し、特に外宮を、そういうことから考えると、やはり初めは、外宮あたりの地名だったのだろう。それで二宮を並べる時は、少し後までも、外宮を度会宮といった。〔『類聚国史』大同三年のお言葉に、伊勢大神と度会の二宮云々とあり、『延喜式』なども、いつも、こういう。〕
名の意味は、『倭姫命世記』の末の『風土記』の引用に、度会郡という理由は、倭の橿原宮で天下を治める神倭磐余彦天皇が、天日別命に国を求めよと命じた時云々、大国玉神が使いを遣わし、天日別命を迎え、橋を造らせたが、完成しないうちに命が着いた。命は梓弓を橋にして渡った。そこで大国玉神の客人、弥豆佐々良比売命が参り、土橋郷の岡本村で、迎え合い云々、渡って会ったので、この名とした、とある。
〔この大国玉神は、伊勢の国玉神で、『神名式』の度会郡、大国玉比売神社だ。神宮の書物が、大己貴命とするのは、名で取り違えた誤りだ。国玉神は各国にあり、その国では尊んで、大国玉ともいう。土橋郷は、『和名抄』の度会郡、継橋郷である。岡村は、今も山田の町名として呼ばれている。〕これによっても、もとは外宮あたりの地名だったと分かる。
この文は、度相の外宮、とあるはずなのに、逆に外宮の度相とあるのは、聞き慣れない気がする。〔外宮にいる度相神、とも読めるが、度相神というものはない。また五十鈴宮も渡遇宮というので、度相は二宮の称で、五十鈴宮の度相に対して、外宮の度相というのか、とも思うが、そうではない。〕
これは、たいへん雅やかな古語の形なのだ。〔『古事記』は、文に余計な手出しがないので、こうした表現が残るのが素晴らしい。〕外宮が大きな地名で、その中の度相、というのでなく、宮は大御神の外宮、土地は度相、その二つを並べ、間に、のを置いて連ねるのである。
龍田の風神祭の祝詞に、我が宮は、朝日の向かう所、夕日の隠れる所の、龍田の、立野に、小野に云々、とある。〔この日隠所の龍田の、のと同じ。また立野に、小野に、と、にが重なるのも同じ趣旨だ。〕諸祝詞の、八束穂の、いかし穂、また、やす幣帛の、たらし幣帛などの類、『万葉集』巻十三の、走り出る、よい山の、出で立つ、美しい山よ、などと同じ形だ。〔山之の、の。こうした例は、なお多い。〕
〔師が、外宮にいるといわず、外宮の度相にいるというのは、登由気大神が相殿にいるためだ、とされたのは、理解できない解釈だ。それなら度相を、どんな意味とするのか。〕
『神名帳』には、伊勢国度会郡、度会宮四座〔相殿の神三座。いずれも大社、月次・新嘗。〕、『儀式帳』には、等由気大神宮〔今、度会宮といい、度会郡沼木郷山田原村にある。〕、『倭姫命世記』には、豊受大神一座、相殿の神三座、とある。
〔その三座は、大一座が天津彦々火瓊々杵尊で、御形は鏡。前の二座が天児屋命と太玉命で、御形は笏と宝玉。大の座は左、前の二座は右にいるという。『式』では三座とも大なのに、『世記』で大一座というのは、残り二座は、少し後に大にされたのか。あるいは最初から、ともに大でも、その中に尊さの差があるため、大と前に分けるのか。前のことは、すでに詳しく述べた。
天児屋命の御形を笏というが、笏は、もともと外国の物なので、どうか。考えると、実際は笏でなくても、その形が笏のように見えるため、そう記したのかもしれない。〕
〔訳注:「岡村は今も山田坊名に呼應なり」の「應」は「慣」にも見え、字形を確定できていない。ここでは、岡村が今も町名として呼ばれるという意味で訳した。〕
【宣長の注釈】天石戸別神について、『古語拾遺』の石屋戸の段では、天手力雄神に扉を引き開けさせ、新殿へお遷しし、天児屋命と太玉命が、日の御綱を、その殿に巡らせ、大宮売神を御前に控えさせ、豊磐間戸命・櫛磐間戸命の二神に、殿の門を守らせた。この神々は、いずれも太玉命の子である、とある。
神武天皇の段でも、先の八神〔神祇官で御巫が祭る神〕の次に、櫛磐間戸神・豊磐間戸神〔以上は、今、御門巫が祭る。〕と見える。これは神籬で祭った列だ。
『神名帳』の、神祇官の西院にいて、御門巫が祭る神八座〔いずれも大社、月次・新嘗〕、櫛石窓神〔四方の門に各一座〕、豊石窓神〔同じく各一座〕が、それである。〔二神を四方の門に各一座ずつ祭るので、全部で八座だ。〕
貞観元年正月、この二神に従四位上を授けたことが、『三代実録』に見える。〔それまでは位がなかった。〕四時祭式の、五月・十二月、四方の御門の祭り〔御門巫が行う〕は、この神の祭りで、祝詞式に、その祝詞がある。
祈年祭の祝詞にも、御門の御巫が、おほめ申し上げる皇神たちの御前に申す。櫛磐間門命、豊磐間門命と御名を申し、おほめ申し上げるのは、四方の御門を、神聖な岩の群れのように塞いで、朝は御門を開き、夕は閉じ、害する物が下から来れば下を守り、上から来れば上を守り、夜も昼も、お守りになるからで云々、とある。〔月次祭の詞も同じ。〕
以上の書物では二柱なのに、『古事記』の伝承は、一神に三つの名がある。〔その例は、ほかにも多い。師が、これも、いつもの荒魂・和魂とされたのはよくない。〕
名の意味は、櫛と豊は、いつものほめる呼び名、まどは借字で、真の門という意味、石は門の堅固さで、石戸と同じである。石門別の名は、普通の何々別という名の例だ。ただ二柱とする場合は、両神にわたる名で、門の左右に分かれて守る意味かもしれない。〔石屋戸の段で、天の石屋の戸を開き分けた意味のようにも聞こえるが、この神に、その由縁はない。〕
『姓氏録』の、多米連は、神魂命の子、天石都倭居命の子孫である、というのは、この神か。〔『古語拾遺』の太玉命の子というのと違うようだが、太玉命を高御産巣日命の子とするので、同じ事である。〕
『神名帳』には、丹波国多紀郡、櫛石窓神社二座〔いずれも名神大社〕とある。〔この社は、前にも後にもいうので、考え合わせるべきだ。〕ほかに、大和国高市郡の天津石門別神社、摂津国島下郡の天石門別神社、近江国伊香郡の天石門別神社、陸奥国白川郡の伊波止和気神社、美作国英多郡の天石門別神社、備前国御野郡の石門別神社・石門別神社、土佐国吾川郡の天石門別安国玉主天神社がある。
〔土佐国土佐郡の朝倉神社は天津羽々神で、天石戸別神の子だと『風土記』に見えることが、『釈紀』にある。〕
『三代実録』には、貞観五年に安芸国の天磐門別神へ従五位下を授け、同七年、太政大臣の邸「東京第」の天石戸開神へ従三位を授けたことなどが見える。〔従三位は疑わしい。こちらは別の神か。〕
『式』には、山城国葛野郡の天津石門別稚姫神社〔名神大社、月次・新嘗〕、阿波国名方郡の天石門別八倉比売神社〔大社、月次・新嘗〕などもある。〔姫と申す神に、特にこの名があるのは、どんな由縁か。〕
【宣長の注釈】御門之神也は、ただ門を守る神と広くいうのでなく、神祇官の西院にいて、御門巫が祭る神を指す。〔御門巫とは、この神を祭るのでいう。〕皇御孫命の大御門を守る神だからである。
ただ、神代に天から降った御神体は、ほかへ遷して祭り、〔以上のように、石門別神社は各国に多い。その中で、まさに神代に降った御体は、丹波国多紀郡の社などで祭ったのだろうか。〕後の神祇官の物は、それを写した物だろう。
〔そうなら、ここは神代の御体の鎮座する社を挙げるはずなのに、そうでないのは、古代、まだ他所へ遷す前、皇大宮の中で祭った時の意味でいったのだろう。〕
【宣長の注釈】手力男神を、ある書は思兼神の子というが、古書に見えないので、不確かである。
【宣長の注釈】佐那県は、さながたと読む。〔なの音に、あが含まれるので、がたは、あがたである。そうでなくても、あを省くのは普通だ。年魚市がた、松浦がたなどの、がたも、すべて県である。これらを後世、すべて潟と理解したのは、混同による誤りだ。〕
『日本書紀』猿田毘古神の段の、伊勢之狭長田は、この地のことである。〔ここで伊勢といわないのは、前の伊須受宮・外宮から続くからだ。狭長田は借字で、それを、狭い田、長い田の意味にする説などは誤りだ。また五十鈴川とは別の場所なので、狭長田の五十鈴と読むのも誤りである。五十鈴川あたりを狭長田という記述はない。先には私の文でも、この誤りを理解せず、書いたことがあった。〕
中巻、伊邪河宮の段には、曙立王は、伊勢の佐那造の祖と見える。大神宮の『儀式帳』では、天照坐皇大神がお巡りの時云々、飯野の高宮にいた。その時、佐奈の県造の御代宿禰に、そなたの国の名は何か、と尋ねると、こもり国、したびの国、まくさむけ、くさむかふ国です、と答え、神の御田と神戸を献じた、とある。
〔まくさむけ、くさむかふ国は、国を求めて来る方を、その先へ出て迎える意味で、猿田毘古神が、皇御孫命の、天から降り、国を求めて来られる御前を、お迎えした由縁の称だろう。〕
この社は、『神名帳』の、伊勢国多気郡、佐那神社二座である。〔大神宮式では、大神宮は二十年に一度、期限が満ちれば造り直し、使いを遣わし、冬の初めに工事を始める。神宮七院、社十二か所云々、佐那社云々、と見える。二十年に一度、造り直す十二社の一つだ。
一説では二座を、手力男神と若佐那売神という。若佐那売神は、上巻『伝』巻十二に出た。この神が、この社にいるのは、由縁があるのか、地名によって、後の人が推測で定めたのか、明らかでない。ある人が、『古事記』の続き方から、天石門別命と手力男命の二座だというのは、ひどい誤りだ。佐那県にいるというのが、どうして御門の神にかかるのか。〕
道案内の猿田毘古神が、まず佐那県に着いたので、〔もう一座は、この猿田毘古神ではないか。〕手力男神の御神体が、この地に鎮座するのは、由縁のあることだった。
〔天照大御神の御霊の鏡が、猿田毘古神の導きで、まず伊勢へ降り着いた時、この神の御神体も添っていたので、その時から、すぐ、この地にとどまったのか、あるいは後に大御神が、この国へお遷りになる時、ともに来たのか。どちらでも、最初から由縁のある地である。〕
この社は、今、多気郡佐那の仁田村にあり、〔村の西方にある。〕大森社という。〔私は同じ国内だが、まだ参拝できていない。〕佐那は、今、佐那谷といい、一つの谷全体の名で、八村がある所である。
『神名帳』には、紀伊国牟婁郡の天手力男神社〔この神が、斉衡二年に官社に加わったことが、『文徳実録』に見える。〕、また伊豆国田方郡の引手力命神社もある。
【宣長の注釈】前では手力男神・天石門別神の順に挙げたのに、ここで逆の順に出すのは、鎮座する社を注す所なので、石門別神の社の方が尊いためか。
〔後の『神名帳』などでも、御門の神は大社の列で、月次・新嘗にもあずかるが、佐那社は小社の列だ。この社は必ず大社のはずなのに、どうして、そうでないのか。〕
また前は五伴緒の神を先に挙げ、ここでは後に出すのは、天照大御神の御霊の事を述べ、その鎮座する宮を注すついでに、ほかの神々の御霊の社も、続けて注すためである。
【古事記本文】そして、天児屋命は、中臣連らの祖。布刀玉命は、忌部首らの祖。天宇受売命は、猨女君らの祖。伊斯許理度売命は、鏡作連らの祖。玉祖命は、玉祖連らの祖である。
【宣長の注釈】「故、其」は、改めて話を起こす。前の神々は、御霊の宿る御神体のことで、鎮座する場所を注し、この後は、現身の神々で、その子孫の氏族を注すという、趣旨の違いがあるためだ。
【宣長の注釈】「天児屋命」。書紀には、中臣連の遠祖、興台産霊の子、天児屋命とある。興台は、音で書いた仮名だ。『古語拾遺』では、神皇産霊神を、皇親の神留弥命とし、その子、天児屋命が、中臣朝臣の祖とする。書紀の伝えとは違い、神皇産霊神を、神留弥命とするのも誤りだ。
この神の社は、『神名帳』の、河内国河内郡、枚岡神社四座、名神大社、月次、相嘗、新嘗である。承和三年五月に正三位、同六年十月に従二位、斉衡三年十月に従一位、貞観元年正月に正一位を授かった。『姓氏録』河内の神別には、菅生朝臣、中臣連など、子孫の氏が多く、平岡連もある。
後には、春日でも祭る。春日祭の祝詞には、「鹿島の健御賀豆智命、香取の伊波比主命、枚岡の天之子八根命、比売神、四柱の神々の前へ申す。神々がお求めになったとおり、春日の三笠山の下の岩へ、宮柱を広々と立て、高天原へ千木を高々と上げ、天と日の覆いとなる立派な宮を定め奉って」とある。
比売神は、枚岡四座の一座で、『三代実録』貞観元年正月の、枚岡比咩神へ従三位を授けた神だ。どの神かは明確でなく、天児屋命の妻か、子かもしれない。天照大神という説は、全く理解できない。
春日は、『神名帳』の、大和国添上郡、春日に祭る神四座、いずれも名神大社、月次、新嘗が、それだ。鹿島、香取、枚岡の神々を、この地でも祭るので、もとから、ほかの社とは違う。春日に祭る、と祭を加え、社の字がないのも、理由があるだろう。平野に祭る神四社、などと似る。
四座の位階は、『文徳実録』嘉祥三年九月の策命で、建御賀豆智命、伊波比主命へ正一位、天児屋根命へ従一位、比売神へ正四位上を授ける。印刷本は、この所が一葉、抜けている。
【宣長の注釈】「中臣連」は、万葉巻十七で、なかとみと書く。意味は、なかとりおみ、仲介する臣だ。とりの、りを省くのは、のりたまふが、のたまふ、かりなが、かなとなる類いで、多くある。おみの、おを省くのも普通だ。単に、なかつおみの縮まりとするのは、よくない。孝徳天皇紀の、上臣、下臣に対する中臣、大臣、小臣に対する名、などの説も、誤りである。
斎内親王を伊勢へお送りする時の宣命〔『祝詞式』に見える〕には、「神にお仕えする御杖代としてお送りする内親王を、大中臣が、立派な矛の中ほどを持つように仲介し、畏れつつ申し上げる」とある。延喜に奏覧した大中臣本系は、天平宝字五年、氏族志を作る命に従って提出した系図を引き、「高天原の初め、皇神と皇御孫の間へ立ち、矛を傾けず、本末を平らに取り持つ人を、中臣というのは、その意味である」とする。康治の大嘗会の寿詞〔『台記』別記に見える〕にも、「本末を傾けず、立派な矛の中ほどを持ち、お仕えする中臣」とある。祖神、天児屋命から、神と君の間を取り持つ役なのだ。
矛の中ほどを、前後へ傾けず、正しく平らに持つことへ、神と君の間へ立ち、ふさわしく仲介することを、たとえるのである。舒明天皇紀の、「大臣から遣わす卿たちも、昔から、厳矛のように、事の中を取り、奏請する人々だ」は、中臣でなくても、同じ内容で、古い言葉らしい。職員令の大納言の義解が、下の言葉を上へ納め、上の言葉を下へ伝えるとするのと同じだ。祝詞を申すのは、君の言葉を神へ、太占を司るのは、神の言葉を君へ伝えるので、いずれも中臣の役目だ。書紀にも、天児屋命は神事の根源を主宰する者なので、太占によって占い、仕えるとある。
連は、巻六、六十八葉に出た。氏の名には、職業、地名、祖先の名、行為、物など、多くの由来があるが、中臣は、職業による。
神武天皇紀には、天種子命が、中臣氏の遠祖とある。種子を、たねと読む説は、ほかの古書を合わせず、みだりである。家の系図では、天種子命は、天児屋命の孫だ。垂仁天皇紀には、中臣連の遠祖、大鹿島、また、中臣連の祖、探湯主が出る。後者には、倭の大神を祭る人を占わせた記事がある。仲哀、神功の巻で、初めて、中臣烏賊津連が出る。
允恭天皇紀の同名は、別人か。伊賀都臣は、『続日本紀』巻三十六、四十六葉を考えるべきだ。この時の中臣は、まだ氏族の名でなく役目のようにも聞こえるが、並ぶ四人の、ほかの三人は氏族の名なので、これも、すでに氏族の名である。本系帳では、欽明天皇の時、常磐大連へ、初めて中臣連を授けたとするが、そうではないのか。欽明天皇紀には、中臣連鎌子も出る。後世も、氏族の名だけでなく、神祇官の中臣のように、役名でもある。
天智天皇紀、八年十月、丙午朔の庚申には、天皇が皇太弟を、藤原内大臣の家へ遣わし、大織冠と大臣位を授け、藤原の氏を賜った。以後、藤原内大臣と呼び、翌辛酉に亡くなったとある。鎌足公である。大臣位も藤原氏も授ける前に、藤原内大臣とあるのは誤りで、前文の、中臣内臣がよい。藤原を授けた理由は、後世の作り話が多いが、単に大和高市郡の藤原の地名による。巻三十四、五十三葉を参照してほしい。
この時、藤原を賜ったのは、この人だけらしく、その後も、中臣金連などがある。金連は、方子連の孫、糠手子連の長男で、右大臣だったが、壬申の乱で近江側として処刑され、子も流された。
天武十三年十一月、中臣連は、朝臣を賜る。朝臣は、『続日本紀』で、あそみと書き、わが兄の臣の意味だ。この時からの朝臣は、あさおみの読みを借りただけで、その字義ではない。ただし、この字を当てるのに、朝廷の臣の意味を含めたことも、あるだろう。後に、あそんというのは、音便で崩れた形だ。
天武十三年十月朔日、氏族のかばねを改め、八色を定め、天下の姓を整えた。一、真人。二、朝臣。三、宿禰。四、忌寸。五、道師。六、臣。七、連。八、稲置である。その日、守山公ら十三氏へ真人、後に、大三輪公ら五十二氏へ朝臣、大伴連ら五十氏へ宿禰、大倭連ら十一氏へ忌寸、桑原村主都槻、本村主勝麻呂へ連を授けた。道師、臣、稲置を授けた記事はなく、八色以外も、後に多いので、一度は定めても、完全には実現せず、終わったのだろう。
初めの五つは、この前にはない、かばねだ。ただし、人を尊び、あそというのは、仁徳天皇の歌の、うちのあそに出て、万葉にも、平群朝臣、穂積朝臣などと詠む。みを省いたのだ。真人という呼び名も、古くからあったらしく、天武天皇の名にも、瀛真人がある。宿禰も、上代の名に多い。道師は、神代紀の道主貴、開化天皇の孫、丹波道主命、欽明天皇紀の道君、みちのうしなど、もとからの呼び名へ、字を当てたのだ。どれも、呼び名自体は古いが、かばねになったのが、この御代からなのである。道師は、八色へ定めても、その姓は、後にも文献へ出ない。
以前に、中臣連大島だった人が、以後、藤原朝臣大島なので、朝臣の時、こうした人も藤原になったのか。ただし、持統天皇紀は、中臣大島朝臣ともいう。糠手子連の孫、許米の子だ。臣麻呂も、『続日本紀』三年は中臣朝臣、七年は藤原朝臣と書く。始めの藤原は、称号のようで、正式な姓ではなかったため、中臣朝臣ともいったのだろう。そうでなければ、朝臣を授ける所へ、藤原もあるはずなのに、中臣連だけで、別に出ない。後には藤原朝臣ともいうので、本来は中臣朝臣で、藤原は別号らしく聞こえる。
『姓氏録』左京神別には、「藤原朝臣は、津速魂命の三世孫、天児屋根命から出る。二十三世孫、内大臣、大織冠、中臣連鎌子、古記では鎌足は、天智八年、藤原氏を賜った。その子、正一位、贈太政大臣、不比等は、天武十三年、朝臣を賜った」とある。鎌子を、魚の、かますと読む説は、ひどい誤りだ。近ごろ、珍説で学者の耳を驚かす者が多いが、決して惑わされてはいけない。朝臣を賜ったのは中臣連だから、不比等の正式な姓も、まだ中臣だっただろう。
ところが、文武二年八月の詔は、「藤原朝臣の姓は、その子、不比等が継ぎ、意美麻呂らは、神事へ仕えるため、旧姓へ戻す」とする。旧姓は中臣で、戻すというので、このころ、すでに藤原だけを使い、中臣といわなかったのだろう。
神護景雲三年六月には、「神の言葉に大中臣とあり、中臣朝臣清麻呂が、二度、神祇官を務め、失なく仕えたため、大中臣朝臣を賜う」とある。神の言葉は、大祓詞で、大中臣という理由は、師の『祝詞考』にある。この後、清麻呂の子孫が、大中臣朝臣だ。ほかにも、ここから分かれ、中臣何々という氏が多く、『姓氏録』へ出る。天児屋命の子孫以外にも、この姓が出るが、由来は知らない。
【宣長の注釈】「布刀玉命」。書紀には、忌部の遠祖、太玉命、また、忌部首の遠祖、太玉命とあるが、どの神の子かはない。『古語拾遺』では、高皇産霊神の子で、天忍日命の弟、斎部宿禰の祖、天太玉命とある。
『神名帳』には、大和国高市郡、太玉命神社四座、いずれも大社、月次、新嘗とある。『三代実録』貞観元年正月には、従五位上を授けた。社の村は、今も忌部村という。
『古語拾遺』は、阿波の忌部が住んだ所を安房郡と名付け、今の安房国がそれで、太玉命の孫、天富命が、その地に太玉命の社を立て、今、安房社というとする。『神名帳』の、安房国安房郡、安房に坐す神社、名神大社、月次、新嘗である。
『続日本後紀』は、承和三年七月、無位の安房大神へ従五位下、同九年十月に正五位下、『文徳実録』は、仁寿二年八月に従三位、『三代実録』は、貞観元年正月に正三位を授けたとする。今、洲崎大明神というのが、それだ。后神、天比理刀咩命神社にも、同じ位階を授けた。
【宣長の注釈】「忌部首」は、いみべのおびとと読むべきだ。『和名抄』は、阿波麻殖郡の忌部を、いむべとするが、少し後の音便を書いたもので、正しくない。文字では、必ず、いみべとし、声では、いんのように聞こえても、音便なら、それでよい。忌葉なども同じ型で、神を、かむというのとは違う。
これは、多くの忌部を率いる長という氏族の名である。自分の職業から名付ける、中臣とは違う。『古語拾遺』で、太玉命の率いる神は、阿波忌部の祖、天日鷲命、讃岐忌部の祖、手置帆負命、紀伊忌部の祖、彦狭知命、出雲玉作の祖、櫛明玉命、筑紫と伊勢の忌部の祖、天目一箇命とする。
また、太玉命に、諸部の神を率いて、柔らかな幣を作らせ、天上の作法どおり、それぞれの務めを奉らせる。天富命、太玉命の孫に、手置帆負、彦狭知の二神の孫を率いさせ、清めた斧と鋤で材を切り、正殿を建てさせ、採材の忌部の居所を御木、建築の忌部の居所を麁香とする。さらに、諸忌部を率い、鏡、玉、矛、楯、木綿、麻などの神宝を作らせ、天璽の鏡と剣を、正殿へ安置させ、製作の諸氏を率いて、大きな幣を作らせる、とあるので分かる。
もと忌部は、祭りのための品を造り、また、それ以外でも、身を清め、仕事をする役の名である。採材、建築の忌部などがそれで、斎部諸氏も、諸氏の忌部という意味だ。一方、同書の、「宮内へ蔵を立て、斎蔵とし、斎部氏へ、永く職を任せた」や、その後の斎部氏は、布刀玉命の子孫、忌部首を指す。
同書には、「小治田朝には、太玉の血筋は、かろうじて細い帯のようにつながり、天皇の恵みで、廃絶を再興し、ようやく職を務めた。難波長柄豊碕朝の、白鳳四年、小華下の斎部首作賀斯を、神官頭、今の神祇伯へ任じた。その子孫は職を継げず、次第に衰え、今へ至る」とある。白鳳は、白雉だろう。氏の衰えを嘆くことは、この書を見てほしい。
天武天皇紀、九年正月、丁丑朔の甲申には、忌部首子首へ、連を授け、弟の色弗と喜んで拝したとある。今の本は、子首の子が落ちている。前の子人と同人で、子首も、こびとと読むべきだ。首の意味が、こ、に含まれるため、省いたのである。同紀の、大三輪真上出子人を、文武紀で児首とするのも同じだ。『続日本紀』巻二には、忌部宿禰色布知の死がある。
天武十三年十二月朔日、忌部連へ宿禰を授けた。『古語拾遺』は、「浄御原朝で、姓を八等へ改めたが、その時代の功だけで、天降り以来の功を基準とせず、二位の朝臣を中臣へ、大刀とともに、三位の宿禰を斎部へ、小刀とともに授けた」と嘆く。神代から並ぶ氏なのに、忌部を一等低くしたためだ。
延暦二十二年三月乙丑、右京人、正六位上、忌部宿禰浜成らが、忌部を斎部へ改めた。字だけの変更だ。古くは、姓名の字を自由に書いたが、このころには、すでに定まったのである。『姓氏録』右京神別は、斎部宿禰を、高皇産霊尊の子、天太玉命の子孫とする。
『続日本紀』天平宝字三年十二月壬寅、外従五位下、忌部首黒麻呂らへ連、忌部首融麻呂らへ造を授けた。同姓でも、まだ連にも宿禰にもなっていなかった一族だ。神護景雲二年七月乙酉には、阿波麻殖郡の、外従七位下、忌部連方麻呂、従五位上、忌部連須美ら十一人へ宿禰、大初位下、忌部越麻呂ら十四人へ連を授けた。麻殖郡の忌部の由来は、古語拾遺に詳しい。
『三代実録』貞観十一年十月二十九日には、神祇大祐、正六位上、忌部宿禰高善が、忌部を斎部へ改め、祖は高御魂命から出るという。改忌部の三字は、今の本に抜け、古本にある。『神名帳』の、阿波麻殖郡、忌部神社、名神大社、月次、新嘗は、麻殖神、天日鷲神ともいい、臨時祭式では、天日鷲神社とする。『和名抄』には、同郡の、いむべ郷がある。
首は、巻九、四十七葉で詳しく述べたとおり、大人の意味で、氏族の名の下へ付くのは、かばねとして、その部の長をいう。『続日本紀』宝亀元年九月の令旨で、天平宝字九年、首と史を、どちらも毘登としたため、区別できず、氏族が混じり、不都合なので、元へ戻すとある。首を、びととした時期も、しばらくあったのである。
【宣長の注釈】「天宇受売命」は、書紀に、猨女君の遠祖、天鈿女命とある。
【宣長の注釈】「猨女君」は、次の巻、巻十六、四葉から述べる。
【宣長の注釈】「伊斯許理度売命」は、前の石屋戸の段に述べた。
【宣長の注釈】「鏡作連」。天武天皇紀、十二年十月、乙卯朔の己未に、鏡作造へ連を授けたとある。ここに疑問がある。この記の氏族の名は、編纂当時のかばねと関わらず、上代のまま記す。中臣連、忌部首、玉祖連も同じなのに、鏡作を、連とするのは、どういうことか。もとは造だったのを、後で連へ誤ったか。中臣、玉祖などを見て、みだりに改めたのかもしれない。書紀の神代巻や、古語拾遺は、鏡作、鏡作部だけで、ほかに、かばねを出さない。
『古語拾遺』瑞垣朝の段では、斎部氏と合わせ、石凝姥神の末裔、高天目一箇神の末裔の二氏を率い、鏡を鋳、剣、楯、神服、倭文などを造らせる。ここも、ある神の末裔といい、氏族の名も個人名もない。
同書は、神祇官の神部に、中臣、斎部、猨女、鏡作、玉作、楯作、神服、倭文織、麻などの氏があるはずなのに、今は中臣、斎部など二、三氏だけで、ほかは選考へ預からず、神の子孫が散り、業が絶えようとしている、とする。歴代の史書にも、この氏の人が出ないことから、たいへん衰えたのだろう。『姓氏録』にもないので、そのころ、すでに畿内では絶えたのか。畏れ多い大御神の鏡を造った神の子孫が、こうして絶えたのは、非常に悲しいことである。
『和名抄』には、大和城下郡、鏡作、かかつくりがある。かかの下に、みが落ちたか、もとから省くのか。式には、同郡の鏡作坐天照御魂神社、大社、月次、新嘗、鏡作伊多神社、鏡作麻気神社がある。伊多は石凝姥、麻気は天糠戸を祭るという説は、古い伝えなのか。和名抄には、伊豆田方郡の鏡作、かがみづくりもある。
【宣長の注釈】「玉祖命」は、石屋戸の段に出る。
【宣長の注釈】「玉祖連」。書紀には、玉作の始祖、玉屋命とある。玉作を、たますりと読むのは、よくない。石屋戸の段も、玉作、玉作部とし、垂仁紀にも玉作部、この記の玉垣宮にも玉作人がある。仁賢紀には、難波の玉作部、鯛魚女という女性が出る。今も難波に、玉造の地名がある。
大殿祭の祝詞では、「身を清めた玉作たちが、斎戒して作り奉った、瑞々しい八尺瓊の、「御吹き」と呼ぶ、数多く連ねた玉」とある。『古語拾遺』は、櫛明玉命を、出雲の玉作の祖とする。巻八、二十八葉を合わせてほしい。神武の段も、その孫が、祈りの玉を作り、子孫が今も出雲にいて、毎年、貢ぎ物とともに玉を納めるとする。
臨時祭式では、出雲国造が神賀詞を奏す時の献上品に、玉六十八枚があり、詞にも出る。また、出雲が奉る御富岐玉六十連は、毎年十月までに、意宇郡の神戸、玉作氏へ作らせ、使いを遣わして進める。拾遺や大殿祭の詞は、このことだ。
式には、出雲意宇郡の玉作湯神社、風土記には、同郡の玉造川がある。近江伊香郡にも玉作神社。『和名抄』には、陸奥の玉造郡、駿河駿河郡の玉造、土佐安芸郡の玉造が、いずれも、たまつくりとして出る。
これらは全て玉作で、玉祖がないのに、この記は玉祖連といい、天武十三年十二月、戊寅朔の己卯にも、玉祖連へ宿禰を授けたとある。もとは皆、玉作だったのを、少し後、祖神の名で、玉祖へ改めたのだろう。
『姓氏録』右京神別には、玉祖宿禰は、高御魂命の十三世孫、大荒木命の子孫、河内神別には、天高御魂命の十三世孫、建荒木命の子孫とあり、大荒木、大荒田ともいう。祖神、玉祖命を挙げず、大荒木の後とするのは、その時代、途中で家を興したためだろう。名の変更も、その時か。仁賢紀の、玉作部鯛魚女の子は、麁寸で、父は山寸とするだけで、姓はない。式の、大和宇智郡、荒木神社は、大荒木の森に鎮座するという所だろう。『兵範記』久安五年には、木工允、玉祖親宗が出るが、後世には珍しい姓である。
右京神別には、忌玉作は、高魂命の孫、天明玉命の後で、瓊々杵尊が降る時、お供し、玉璧を作って幣としたため、玉祖連、また玉作連という、とある。もとは同姓でも、大荒木の子孫ではないので、元の玉作のままなのだろう。ほかにも、『続日本紀』巻二十八の玉作金弓、巻三十一の遠江城飼郡主帳、玉作部広公が出る。
天明玉命は、玉祖命とは別のようにも聞こえるが、同じ神で、理由は巻八、二十八葉に述べた。玉祖連、玉作連というのは、その子孫に二系統ある意味で、玉祖連を、別名、玉作連ともいうのではない。
式には、河内高安郡の玉祖神社、和名抄には、同郡、たまのおや郷がある。周防佐婆郡にも、玉祖神社二座があり、貞観九年三月十日に、従四位下から従三位へ、康保元年四月二日には、正二位から従一位を授かった。和名抄には、同郡の、たまのおや郷もある。
【古事記本文】こうして、天津日子番能邇邇芸命は、天の堅固な御座を離れ、幾重にも広がる雲を押し分け、威勢よく道を分け、道を分け、天の浮橋で、うきじまり、そり立って、筑紫の日向、高千穂の、くじふる岳へ、天降られた。
原注は、多那の二字、伊から十字、宇から十字、久から六字を、音で読むとする。うきじまり、そり立つという語の確かな意味は、宣長も後の注で、未詳として複数の案を示す。
【宣長の注釈】「故爾詔」の、詔は、どうか。前にすでに、日子番能邇々芸命へ命じたとあり、その後の文脈から、ここは、詔と、命の下の而が、ない方がよい。天降りの段は、一事ずつ別に記したようで、順序が落ち着かない所がある。特に、詔があると、以後の文が読みにくく、主体が混じる。理由は、後に述べる。今は、この二字を除き、読んだ。
【宣長の注釈】「天之石位」は、書紀では、皇孫が天磐座を離れた、天磐座を、あまのいはくらという、また、天磐戸を引き開けたとする。神武巻では、天関を開いて雲を分けるとあり、関の字は、開の誤りか。大祓詞も、天の磐座を放ち、とし、祟る神を移す祝詞も同じだ。
位は、座と同じで、くらゐと、くらは同意、鞍も同じ名だ。人の座だけでなく、物を置く台も、くらといい、倉敷も同じである。石は、石屋戸で述べたように、堅固なことなので、高天原の大殿で、この尊がお座りになる御座なのである。
【宣長の注釈】「離」は、はなれと読むべきだ。自ら離れる意味である。前の詔によれば、はなち、大神の命で離れさせる意味となる。書紀の一書の、寝具で皇孫を包み、雲を押し分け、お降しした、は、その形で、大祓詞なども同じだ。
しかし、それらは、後に、奉降、依左志奉などがあるため、そう読める。ここは、そういう語がなく、天降坐とあるので、そこまで全て、皇孫自身について述べる。大神の命によって、させる文ではないため、詔を読まず、離も、はなれとしたのである。
【宣長の注釈】「天の八重多那雲」。書紀には、天の幾重もの雲を押し分け、国造神賀詞にも、天の八重雲を押し分けるとある。万葉巻二の、天雲の八重たなを分け、巻十一の、天雲の八重雲へ隠れ、などもある。巻二には、天雲の五百重の下、すなわち裏、巻十には、白雲の五百重もある。
たなは、空を覆い渡ることだ。万葉では、たなびくを、軽引とも書くが、軽は、空へ浮く意味で、薄さではない。書紀の序の、清陽が、薄靡して天となる、の薄靡も、たなびきと読むが、語の本来の意味には合わないため、軽、薄という字から考えてはいけない。たなびくは、空へ広く覆い渡る意味で、万葉では、霏微、靄、陣雲、布雲などとも書く。
万葉巻七の、たな霧らひ、雪も降らぬか、巻十三の、たな曇り、雪が降って来た、などに使う、棚という字も同じ意味である。とのぐもるとも多く詠み、たなと、とのは、音が通う同語だ。薄く曇る意味と考えるのは誤りで、薄曇りで、雨雪は降らない。棚は借りた字だが、棚自体も、雲霧が空を覆うように、空中へ構えるための名なので、もとは同じ意味である。
【宣長の注釈】「伊都能知和岐知和岐弖」。旧印本などは、知和岐の三字が抜けるので、真福寺本と延佳本による。ただし、真福寺本は、後の岐が抜ける。師は、爾も抜け、延佳も、三字だけ補い、爾を落としたとされたが、真福寺本にも爾はない。繰り返す語は、間に、にがなくてもよく、書紀の、かむほさき、ほさきなどと同じだ。
いつは、巻七、三十八葉に述べ、つを清音とすることも、そこで説明した。ちわきは、書紀の道別のように、道を分けて進むことだ。初めが名詞、後が動詞である。大祓詞は、天の八重雲を、とあるので、雲を分けるが、ここは雲の後に而があり、雲だけでなく、何であれ、分けて通ることだ。
書紀には、稜威の道別、道別して、大祓詞には、天の八重雲を、いつのちわきに、ちわきて、天降り委ね奉った、とあり、祟る神を退ける祝詞も同じだ。また、天津神は、天の磐門を押し開き、天の八重雲を、いつのちわきに、ちわきて、お聞きになる、ともある。
【宣長の注釈】原注の、十字を音で読むの、十を、旧印本などが七とするのは誤りだ。知和岐の三字が落ちた本に合わせ、勝手に改めたのだろう。真福寺本と延佳本に従った。
【宣長の注釈】「天の浮橋」は、前に出た。『続日本後紀』の、興福寺の僧たちの長歌には、「日の照る国、日の宮の、聖なる御子が、天の梯子を立て、踏み歩み、天降られた」と詠む。茜刺し、瓠葛は、それぞれ、次の語へ掛かる枕詞である。
【宣長の注釈】「うきじまり、そり立って」。この言葉は、たいへん分かりにくい。
まず、この箇所を、書紀はこう記す。「日向の襲の高千穂峰へ天降った。その後、皇孫が歩き回られた様子は、槵日二上の天の浮橋から、浮渚のある平らな所に立ち、膂肉の空国を、小高い丘から、国を探しつつ進まれた」。浮渚のある平らな所に立つ、には、うきじまり、たひらにたたし、という読みを付ける。
これは、まず高千穂の峰へ降り、その後、都として鎮まる土地を探し歩く様子をいう。槵日二上は、高千穂とは別らしく、天の浮橋は、二上から下る道のように聞こえる。天と地を行き来する橋になぞらえ、高山から平地への道も、天の浮橋というのか。この点は、次にも論じる。
その浮橋を下り、浮渚のある平地に立つ。膂肉以下は、丘から、膂肉の空国を進み、土地を探すという意味で、空国「を」と読まないと、文が通じない。その辺りが浮渚なので、小高い丘を伝って空国を通られる。膂肉の空国とは、通り道全体のありさまをいう。
一書は、「日向の槵日、高千穂の峰へ降り、膂肉、胸副国を、丘から国を探して進まれた」とする。胸は音を借りた字で、空の意味だ。副は後に述べる。別の一書は、「日向の襲の、高千穂、槵日二上の峰の天の浮橋に至り、浮渚のある平地に立って」とする。
比べると、この記と書紀には相違が多く、互いに疑問がある。天の浮橋は、本来、天上との往来の橋なのに、書紀が、二上の天の浮橋から、とするのは分からない。この点は、この記の方が通じる。次に、今、高千穂山と霧島山が別々にあることからすると、この記が、高千穂のくじふる岳と、一山として述べるのは疑わしい。これは後で詳しく述べる。書紀のどの伝えも、高千穂と槵日二上を、二山として読める。
うきじまりは、書紀の浮渚在と同じなので、浮いて漂う所にある、と聞こえる。書紀の読みの、爾磨利は、じまりと読む。爾は、この記の士に当たり、にまりではない。書紀の仮名には、漢音も多く用いるからだ。しかし、そりは、書紀の平らな所と全く合わず、意味を解けない。
天の浮橋「に」の、にを表す於も、ここでは分かりにくい。高千穂の峰へ降り着く前に、このことを記す順も、落ち着かない。書紀が、二上の峰へ降りてからとする方が、ふさわしく聞こえる。また、たたしての後も、何か言葉が足りない感じがする。この辺りには、脱落や混乱があるのだろうか。
師の本では、天の浮橋「より」と読み、そりの横へ、橇と注記しておられる。説明は聞いていないが、橇は、史記の禹の本紀に、泥の上を行くには橇に乗る、とある物だ。堀川院の後百首にも、忠房が、「初雪が降ったのだろう、あらち山には。越の旅人が、橇に乗るほどに」と詠む。
うきしまは、地が固まらず、浮いて泥のような所なので、この橇に乗って進む、というのだろう。たたしては、万葉巻三の、和束山で御輿を立てて、という、立てると同じで、橇に乗って出発する意味となる。師の案は面白く、場面全体も通じるようだ。
しかし、よく考えると、書紀の諸伝には橇が出ない。また、天の浮橋を述べる他の例は、どれも、その上「に立つ」とするので、於が誤字とも思えず、よりとは読みにくい。たたしも、浮橋に立つということらしく、決められない。
なお考えると、うきじまりは、下巻の平群鮪臣の歌の、「大君の御子の柴垣、藪を囲み、囲んで巡って」と詠む、しまりと同じか、と思える理由もある。そりにも、わずかに思い当たることはあるが、はっきりとは分からない。
もう一案として、天の浮橋「に」とある以上、うきじまり以下は、渡り終えた後でなく、浮橋を下っている途中の出来事かもしれない。橋の脇に浮洲があって、道を曲げて立ち寄り、しばらくそこに立って国を見下ろし、降り着く土地を見定め、その後、高千穂の峰へ降りられたのか。そうなら、浮洲は、天の浮橋の脇につながる、空中の洲であり、だから浮洲というのか。
物の形が曲がることを、そるというので、そりは、その浮洲へ道を曲げて寄る意味となる。鷹などが、違う方向へ飛ぶのも、そるという。
あるいは、そりは、そほりか。書紀の一書には、高千穂の添山の峰とあり、添山を、そほりのやまという。この添は、万葉の川の副、山の副、そひの榛原の副と同じで、片方へ寄った所をいい、頓丘と意味が近い。頓丘は、片寄った丘で、巻十三、四十三葉に述べた。胸副国の副も、添と同じなら、そりは、そほりで、浮洲の中の、片寄って小高い所をいうのかもしれない。そうなら、そり「に」たたしてと読むべきだ。
これらの案は全て、まず、この記の語の順に即して、試しに述べただけである。さらに、よく考えるべきことである。
【宣長の注釈】「高千穂のくじふる岳」。くじふるは、書紀の槵触、槵日によれば、くしぶるという仮名になるはずなのに、清音と濁音が逆なのは、上代の音の変化で、士を濁り、布を清音にしたと分かる。前に、肥の国の別名を、豊久士比泥別とするのも同じだ。巻五、十四葉を合わせてほしい。たけの、たも、古くは濁っていただろう。
山の名を、書紀がどう記すかは、前に引いた。一書には、日向の襲の高千穂、添山の峰ともある。襲は、姓氏録の序にも、天孫が降った襲とある。熊曾の国の注、巻五に詳しく述べた。
皇孫が、とりわけこの山へ降り着かれたことには、もともと理由があったはずだ。書紀では、天鈿女が猿田彦神に、「あなたはどこへ行きますか。皇孫はどこへ行かれますか」と尋ねると、「天神の子は、筑紫の日向、高千穂の槵触の峰へお着きになるでしょう」と答える。そして、果たして先に定めた通り、皇孫は、その峰へ着いたとある。
当到は、至りますべしと読んでも、そこへ行きなさいと教える言葉ではない。そこへ着くと知っているため、告げるのだ。だから、後に、果たしてという。万葉巻二十にも、「久方の、天の戸を開き、高千穂の岳へ天降り」とある。
『日向国風土記』には、こうある。「臼杵郡の知鋪郷。天津彦々火瓊々杵尊が、天の磐座を離れ、幾重もの雲を押し分け、威勢よく道を分け、道を分け、日向の高千穂、二上の峰へ降りた時、空は暗く、昼夜の区別がなく、人々は道に迷い、物の様子も見分けられなかった。
そこに、大鉗、小鉗という二人の土蜘蛛がいて、皇孫尊に申し上げた。御手で稲千穂を抜き、籾にして四方へまけば、必ず空が晴れましょう。その言葉通り、千穂の稲を揉み、籾にしてまくと、空が晴れ、日月が照り輝いた。そこで、高千穂二上の峰という。後の人が、知鋪へ改めた」。
鉗は、万葉抄の引用では、餌とするが、どちらがよいか。後の人が改めたとは、表記する字を改めたということである。
高千穂の名の意味は、この風土記の通りなのだろうか。ある説は、皇孫が齋庭の稲穂を召し上がるので、都へ食料を供える稲田があったための名で、今も田の跡があり、里人が、蒔かずの稲という、とする。しかし、山の名としては、理由がないように聞こえる。
くじふるは、霊妙な力を現すことで、書紀の槵日も同じだ。どちらの漢字も、音を借りたものである。ふると、びは、同じ語の活用した形だ。たけは、万葉で高とも書くように、高い山をいう。竹も、高く立ち伸びるための名で、立っている物の高さを、たけ、長というのも同じである。立つ物でない、何でも物の長さを、たけというのは誤りだ。
ところで、この山は、前に述べたように、それらしい場所が二か所あって、たいへん紛らわしい。
【宣長の注釈】一方は、今も高千穂岳と呼ぶ、風土記に出る臼杵郡の山だ。和名抄にも、日向国、臼杵郡の智保郷がある。『続日本後紀』巻十三は、日向の、無位の高智保皇神へ、従五位下を奉ったとし、『三代実録』巻一は、従五位上の高智保神へ、従四位上を授けたとする。続後紀の日向国の三字は、印本では、皇神の後へ誤って置くので、古本に従って引いた。
和名抄には、肥後の阿蘇郡にも知保郷がある。日向の智保と、土地が続いて一つなのか、それとも別かは知らない。
この山は、日向の北の端、豊後との境に近い。肥後から日向の延岡へ通じる道の、北にある。その辺りは、今も高千穂荘というそうで、これが智保郷だろう。今の延岡の領主の領地で、延岡に近い。延岡は、もと縣といった所だ。
もう一方は、諸県郡の霧島山だ。神名式は、日向、諸県郡の霧島神社を挙げ、続後紀巻六には、霧島岑神を、官社に列したとある。三代実録巻一には、従五位上の霧島神へ、従四位下を授けたとある。
この山は、日向の南の端、大隅との境にあり、神代紀の二上という名のように、東西二つの峰がある。麓には、東霧島、西霧島という村もある。西の峰は、大隅に属する。
『続日本紀』の、延暦七年七月、己酉の、太宰府からの報告は、こうだ。「去る三月四日、戌の刻、大隅の贈於郡、會乃峰の上で、炎が激しく上がり、雷のように響いた。亥の刻になると、火の光は少し鎮まり、黒煙だけが見えた。その後、砂が降り、峰の下、五、六里にわたり、砂や石が、二尺ほど積もった。色は黒かった」。
これも、この山のことだろう。書紀が、襲の高千穂峰ともいうからだ。
【宣長の注釈】この山について、詳しく聞いた話を記す。霧山とも、霧島山ともいい、東の峰は日向の諸県郡、西は大隅の囎唹郡である。東の峰は、ことに高く、鉾の峰といい、頂上には、神代の逆矛という物が立っていて、参詣者が拝む。
伝説は、こうだ。伊邪那岐、伊邪那美の命が、天の浮橋から、霧の海を見下ろすと、島のように見える物があった。天の沼矛で探り、そこへ天降り、矛を逆さに突き立てた。霧島山という名も、そのためだという。これは、邇々芸命の古い伝えを、二柱の神の話へ混ぜ、誤って伝えたのだろう。
西の峰は、少し低い。頂上の少し下、登山道の傍らの谷には、いつも火が燃え上がるので、火氣布峰という。日向の言葉では、いつもを、けふというためだそうだ。時には、たいへん激しく燃え、黒煙が空を覆い、石や砂が遠くまで飛び散る。日向、大隅、薩摩の人々は、神火と呼び、畏れ拝むという。霧島明神の社は麓にあり、大きな社だそうだ。
夏には、山中の、きりしまさつきの花盛りが、目もくらむほど美しい。ほかにも、珍しい木々が、いろいろある。山の半ばより上には、木が一本もなく、細かな焼け石ばかりだという。山中の所々には、大きな池が多く、大蛇が住むそうだ。
この山には、いつも多くの人が登り拝むが、突然霧が立ち、大風が吹き、地響きと、恐ろしい音がして、闇夜のように暗くなり、道さえ見分けられないことがある。霧に包まれ、風に吹き飛ばされ、命を落とす人もあるという。
そこで、神代以来のやり方として、先達と呼ぶ案内の者が教え、一人ずつ、手に稲穂を持たせて行く。この霧が起きたら、稲穂で払いながら進むと、しばらくして空が明るくなり、事故がないという。
峰に立つ矛は、長さ八、九尺ほどで、鉄か石か、見分けがつかない。穂先の方に横へ出た部分があり、十字形のようだ。同じ形の矛が、もう一つ立つのは、近い時代に、島津義久朝臣が、新しく作って添えたともいう。また、鹿児島の商人、池田某という人が、この山の神を深く尊び、真鍮で作って立てたともいう。どちらが本当だろうか。
【宣長の注釈】このように、臼杵郡の高千穂山も、諸県郡の霧島山も、ともに古書に出て、実際にも、ただならぬ場所である。二山を混同し、一山のようにいう説は、粗雑で、詳しく考えない誤説だ。
では、皇孫が天降った跡は、どちらだろうか。決めにくい。書紀の、高千穂と槵日二上を、別の山とし、高千穂を臼杵郡、槵日二上を霧島とすれば、両方を、降臨の跡といえる。しかし、風土記が、臼杵郡の方を、高千穂の二上峰とするので、二上も、臼杵の山と聞こえる。
一方、書紀は、襲の高千穂峰ともいう。襲は、大隅の地名だから、この高千穂は、霧島の方に聞こえる。ところが、臼杵郡の高千穂山も、今、二上山といい、実際に、中央に二つの峰がある。
【宣長の注釈】地元の人も、二上と呼ぶにふさわしい山だと語った。また、二神明神という社や、穂日村、穂触岳という名もあるそうだ。こうした名は、後世に付けたかもしれず、証拠としにくい。しかし、風土記自体が、二上峰と記している。
風土記は、その国で直接、古い伝説を書き留めた物だ。それが臼杵郡の方だけを記し、霧島を記さないことからすると、霧島ではないようでもある。けれども、古い風土記は、釈日本紀や、仙覚の万葉抄などに、所々引用された文だけが残り、全書は伝わらない。全書には、霧島山のこともあったのに、それらが引き漏らした可能性も分からない。
霧島山も、確かに峰が二つあり、二上である。古く、二上山という名は、いずれも二峰ある山を指す。また、風土記は、稲穂の古い話も、臼杵郡の方に記すが、その習わしは、現に霧島山へ残る。神代の地名も、大隅、薩摩に多い。
これらから、霧島も、必ず神代の跡だろうと思われる。他方、臼杵の山も、古書に現れ、今も確かに高千穂と呼ばれ、まぎれがなく、まことに、ただならぬ土地だと聞く。いずれにしても、どちらか一方へは、決めにくい。
たいへん紛らわしい。後に、高千穂宮を論じる、巻十七、八十二葉も、合わせて考えてほしい。
【古事記本文】そこで、天忍日命と天津久米命の二人は、天の堅固な靫〔矢を入れて背負う道具〕を背負い、柄頭が槌形の大刀を帯び、天の波士弓を持ち、天の真鹿児矢を手に挟んで、御前に立って、お仕えした。
この天忍日命は、大伴連らの祖である。天津久米命は、久米直らの祖である。
【宣長の注釈】天忍日命は、名の意味に、特別にいうことはない。『古語拾遺』は高皇産霊神の御子とするが、御子は子孫という意味だろう。『姓氏録』で分かる。〔後に引く。〕
『三代実録』では、貞観十五年十二月二十日、河内国の正六位上、天押日命神に従五位下を授けた、とある。〔これは『神名式』の志紀郡、伴林氏神社だろう。この林氏神社は、貞観九年二月に官社に加わった。『姓氏録』河内国神別に林宿禰があり、大伴宿禰と同祖である。『続後紀』承和二年十月には、河内国の林連馬主に、伴宿禰の姓を授けた、とある。〕
『神名帳』には、山城国葛野郡の伴氏神社〔大社、月次・新嘗〕があり、『続後紀』に、承和元年正月、山城国葛野郡上林郷の土地一町を、伴宿禰らへ、氏神を祭る場所として授けた、とある。『式』には、信濃国佐久郡の大伴神社もある。〔これも、この神を祭る社か。〕
【宣長の注釈】天津久米命について、『日本書紀』は、大伴連の遠祖、天忍日命が、来目部の遠祖、天櫛津大来目を率いた、とする。〔『古語拾遺』も同じ。〕これは、たいへん疑わしい。
『古事記』では、この神は天忍日命と並ぶ同列の扱いで、白檮原の朝廷の段にも、大伴連の祖、道臣命と、久米直の祖、大久米命の二人云々と並べ、大久米命の事は、ほかにも各所に見える。
ところが『日本書紀』は、その巻でも、大伴氏の遠祖、日臣命が大来目を率い、軍の先頭に立った、また、大伴氏の遠祖、道臣命が大来目部を率いた、などとする。〔これらの大来目は、一人の名とも聞こえない。〕大久米命という人物もなく、ここの天櫛津大来目も、〔これは一人の名と聞こえるが、〕命ともいわず、単に天忍日命の配下の神で、どちらも『古事記』と違う。
両伝の、どちらが正しいか分からないが、『古事記』によって考えると、久米直は、白檮原の御代、大久米命のころまでは、大伴と並ぶ氏族だったのが、子孫になって、ひどく衰えた。〔後の御代には、大伴と並ぶ様子は見えず、たいへん小さく、代々、名を聞く人もいない。〕大伴氏だけが栄え、久米は、その配下になったのを、〔『雄略紀』の、大伴室屋大連に命じ、来目部を遣わし云々、などを見ると、当時、すでに大伴に属したと分かる。〕後に『日本書紀』は、神代・神武の巻も、その子孫が衰えた時のあり方で記したようだ。
『万葉集』巻十八の家持卿の歌の、大伴の遠い神祖が、大久米の主という名を帯びて仕えた官、というのも、大伴の祖神が大久米を率い、つかさどる意味で、『日本書紀』の趣旨だ。『姓氏録』は『古事記』に合う。〔後に引く。〕
【宣長の注釈】天之石靫の靫は、前に出た〔『伝』巻七・三十七葉〕。石は、いつもの、堅固である意味だ。『万葉集』巻三に、大伴の、名を負う靫を帯びて、〔名負靫は『姓氏録』に見え、後に引くので、考え合わせるべきだ。また『孝徳紀』即位の所に、大伴連長徳は、金の靫を帯び、壇の右に立った云々、とある。〕巻七に、靫を掛ける、多くの伴の男の、大伴に、などとあり、靫は、特に大伴・久米に由縁がある。〔だから大刀・弓・矢より先に、まず、この物をいった。〕
巻九に、白木のまゆみの弓を持ち、靫を背負い、巻二十に、大久米の、勇ましい男を先に立たせ、靫を背負わせ、などともある。
【宣長の注釈】頭椎之大刀は、白檮原宮の段の歌に、くぶつついとある、それだ。〔つちを延ばして、つついと歌う。〕『日本書紀』には、頭槌、これを、かぶつちという、とあり、神武の巻に頭椎剣、神功の巻の歌に、くぶつちなどとある。
軽島宮の段の歌の、かぶつくまひは、頭を突く、真日という意味で、頭を、かぶという例だ。〔頭を振るのを、俗に、かぶりふるというのも、これである。〕それを、くぶとも通じていう。
この大刀は、『日本書紀私記』で、頭槌の剣は、柄頭が曲がるための名といい、『纂疏』で、頭槌は剣の柄頭が槌のようなもので、今、軍人の帯びる剣にも、この形がある、とするような物だ。
〔柄頭が石で、槌の形に似た剣を、大和国の三輪山あたりの土中から掘り出したという物を見たと、谷川氏がいっていた。〕
【宣長の注釈】取佩は、『万葉集』巻五に、剣太刀を腰に帯び、猟の弓を手に握り持って、巻十九に、剣太刀を腰に帯び、などとある。
【宣長の注釈】天之波士弓と天之真鹿児矢は、どちらも前に出た〔『伝』巻十三・十九葉、三十三葉、三十四葉〕。
【宣長の注釈】取持は、『万葉集』巻十九に、手束弓を手に取り持って、とある。
【宣長の注釈】手挾は、同じ『万葉集』巻六の、獲物を射る矢を手に挟み、巻十六の、ひめ鏑の矢を手に挟み、巻十九の、五百の矢を手に挟み、などとある。
『日本書紀』には、その時、大伴連の遠祖、天忍日命が、来目部の遠祖、天櫛津大来目を率い、天の堅固な靫を背負い、腕に威勢のある高鞆を着け、手に天の梔弓と天羽羽矢を持ち、八目の鳴鏑を添え、頭槌剣を帯び、天孫の前に立ち、進み行きながら降って来た、とある。
『万葉集』巻十八には、梓弓を手に持ち、剣太刀を腰に帯び、朝の守り、夕の守りに、大君の御門を守り云々、とある。
巻二十には、ひさかたの天の戸を開き、高千穂の峰に降った、皇祖の神の御代から、はじ弓を手に握らせ、まかご矢を手に挟み添え、大久米の勇ましい男を先に立たせ、靫を背負わせ、山川の岩根を踏み分け、通り進み、国を求めながら云々、などと見える。
【宣長の注釈】大伴連の大伴は、多くの伴を率いるためか、この氏の伴が多く広いためか。『万葉集』巻七には、靫を掛ける、多くの伴の男の、大伴に、とある。また多くの伴緒の中でも、この伴を特に尊び、ほめて大伴というのか。巻二十で家持卿が、大伴の氏という名を負う、〔宇治は氏。〕と詠むことなどを、考えるべきだ。
『続日本紀』天平勝宝元年のお言葉には、また大伴・佐伯宿禰は、いつも、天皇の朝廷を守り、お仕えする事について、そなたたちの祖先が、海へ行けば水に漬く屍、山へ行けば草の生える屍、大君のそばでこそ死のう、安らかに死ぬことはしない、といい伝えた人々だと聞いている。だから遠い天皇の御代から、今、私の御代に至っても、宮中を守る兵として、特に心にかけている、云々とある。〔『万葉集』巻十八に長歌があるので、考えるべきだ。〕
また天平宝字元年のお言葉に、大伴・佐伯宿禰らは、遠い天皇の御代から、内の兵として仕えてきた、云々とある。
先に引いたように『神武紀』には、大伴氏の遠祖、日臣命が、大来目を率い、軍の先頭に立った、と見える。『古語拾遺』には、神武天皇が東征した年になると、大伴氏の遠祖、日臣命が軍を率い、敵の首領を除き、天皇を補佐した功績は、肩を並べるものがなかった、とある。この氏は、祖神、天忍日命から代々、もっぱら武事で、朝廷を守る職なのである。
〔後の左右近衛大将、左右衛門督、左右兵衛督などのような職だ。後の称でいえば、中臣・忌部などの五部は文官、大伴・久米などは武官である。後には文を尊ぶので、六衛府は太政官より低いが、古代は武を尊んだので、この氏などは非常に尊かった。〕
『垂仁紀』には、大伴連の遠祖、武日という人が見える。〔この人は、倭建命が東国を征するときにも供をした。『垂仁紀』に出るのは二十五年で、そこから景行天皇四十年まで百十五年だから、長命の人だったのだろう。〕
『雄略紀』の御代の初めに、大伴連室屋と物部連目を大連とした、とある。〔大連も後の大臣のようなものだ。古代は、臣姓の人を大臣、連姓の人を大連として政治を執らせた。大連の称は『垂仁紀』に初めて見える。〕この御代に大伴氏から分かれ、佐伯氏ができた。〔『姓氏録』に見え、後に引く。〕以来、大伴・佐伯と並べる。
後の大伴金村という人も大連だった。孝徳天皇の御世には、大伴長徳連が右大臣だった。〔子の御行卿は大納言で、大宝元年正月に亡くなり、右大臣を追贈された。これが贈官の始まりである。〕天武天皇十三年十二月戊寅朔己卯、大伴連・佐伯連に宿禰の姓を授けた。
『姓氏録』左京神別には、大伴宿禰は、高皇産霊尊の五世の孫、天押日命の子孫だとあり、次のようにいう。
『初め、天孫、彦火瓊瓊杵神が降る時、天押日命と大来目部が御前に立ち、日向の高千穂の峰へ降った。その後、大来目部を天靫負部とした。天靫負の名は、ここに始まる。雄略天皇の御世に、天靫負の号を、大連に授けた。大連は、御門を開閉する務めは、すでに重い職で、一身では担いがたいので、息子の語とともに、左右を守らせてほしい、と申し上げた。お言葉は、その願いに従った。これが大伴・佐伯二氏が、左右の開閉をつかさどる由来だ。』
〔この文は、大来目部の上に、率いるという字がない。また天靫負は、大来目部をいってきたのが、雄略の御世に、その号を大伴の大連へ授けたのだ。したがって前に、久米氏について『古事記』により述べた考えは、これに合う。後に近衛府・衛門府・兵衛府を、みな、ゆげひのつかさというのも、この天靫負から出る。
大連公は室屋大連である。『景行紀』で、日本武尊が甲斐国の酒折宮にいて、靫部を大伴連の遠祖、武日に授けた、とあるのは、伝承が異なるのだろう。息子の語は、『雄略紀』に大伴談連とあり、談を、かたりと読むとする、その人である。
この氏の人が御門を守ることは、『江家次第』即位の儀に、章徳・興礼の両門を開く。伴・佐伯が、剣を帯び、五位の礼服を着け、門部三人を率い、両門から入り、会昌門内の左右の廊の胡床に着く云々、次に、伴と佐伯が両門の壇の下で北向きに立ち、門部に門を開かせ、本座へ戻る。諸門も従い、それぞれ戻る云々、両氏が門を閉める云々、とある。
大嘗会の儀にも、伴・佐伯宿禰が大嘗宮の南門を開く、とある。『続日本紀』の文武天皇の大嘗には、大伴宿禰手拍が、榎と梓を立てる、と見える。手拍は人名である。〕
また『姓氏録』に、大伴大田宿禰は、高魂命の六世の孫、天押日命の子孫とある。佐伯宿禰は、大伴宿禰と同祖で、道臣命の七世の孫、室屋大連公の子孫という。〔佐伯は室屋大連の時に分かれたので、その子孫という。ほかにも『姓氏録』の、大伴連、榎本連、神松造、大伴大田宿禰、佐伯日奉造、高志連、高志壬生連、林宿禰、家内連、佐伯首、大伴山前連、仲丸子などの姓は、すべて大伴の支族である。『三代実録』巻五・二十七葉、三十三葉にも大伴氏の事があるので、考えるべきだ。〕
『類聚国史』に、弘仁十四年四月壬子、大伴宿禰を伴宿禰へ改めた。天皇の名に触れるためである、とある。〔淳和天皇のお名を大伴という。古くは姓でも名でも、大というのは尊び、ほめたものなのに、今、この氏に罪もなく、大を除かれたのは残念だ。必ず、大の代わりに美称を添えてほしいものだ。先の『万葉集』巻七の歌の言葉などによって、広伴宿禰などとしてほしい。〕
『日本紀略』には、天慶六年七月一日癸未、参議正四位下、伴宿禰保平に朝臣を授けた、とある。
【宣長の注釈】久米直の、久米という名の意味と、その地名などは、白檮原宮の段、大久米命の下〔『伝』巻十九・八葉、三十六葉〕で述べる。直は姓で、前に出た〔『伝』巻七・八十二葉〕。
この氏のことは、先に述べたとおりだ。中巻、倭建命の段の、国を平定して巡る時、久米直の祖、名は七拳脛が、いつも膳夫として、お供し仕えた、というのは、この氏か。〔『日本書紀』は、ただ七掬脛とだけいい、姓は見えない。膳夫というのは、この氏には似つかわしくない気がする。〕このほかは、大久米命を除き、二記に、この氏の人は見えない。
〔『日本書紀』も、神代のこの段では、来目部の遠祖とあるので、一つの氏族と聞こえるのに、ほかは神武の巻以降、来目部や大来目だけで、姓らしいものはなく、物部などのように、武事で仕える人の職と聞こえる。
『孝徳紀』の来目臣某、『天武紀』の来目臣塩籠、また同御代に来目臣へ朝臣の姓を授けたこと、『続日本紀』の久米朝臣麻呂、忍海手人広道へ久米直の姓を授けたこと、久米奈保麻呂へ久米連の姓を授けたこと、『姓氏録』の久米朝臣・久米臣などは、いずれも別の氏族である。〕
『姓氏録』左京神別天神には、久米直は、高御魂命の八世の孫、味耳命の子孫、右京神別天神には、久米直は、神魂命の八世の孫、味日命の子孫とある。〔味耳と味日は、同じらしいので、一方が誤字だろう。〕これらは、この氏だろうか。
〔そうなら、天津久米命か大久米命の子孫とあるはずなのに、そうでないので、なお疑わしい。ただ、この久米直の次に浮穴直が並び、伊予国で久米郡と浮穴郡が並ぶこと、『続後紀』承和元年五月に、伊予国の正六位上、浮穴直千継らへ、春江宿禰の姓を授けた。千継の祖先は大久米命である、とあることとを合わせると、理由があって、この氏だと思われる。〕
【古事記本文】そこで、実りのない荒れた国々を、住む国を求めて通り過ぎ、笠沙の御崎にお着きになって、仰せになった。
『この地は、朝日がまっすぐに差し、夕日も照る国だ。だから、この地は、まことによい所だ。』
こう仰せになり、地下深い岩の根まで宮柱を太く立て、高天原に届くほど高く屋根の木を掲げて、お住まいになった。
〔この段の語順と文字は、宣長の校訂に従って訳した。校訂の理由は、続く注釈で述べられる。〕
【宣長の注釈】於是詔之云々の文は、必ず、於是膂肉韓国、真来通笠沙之御前而、詔之此地者朝日之云々とあったのが、詔之此地者の五字が、誤って前へ移り、膂が脱落し、肉が向に誤ったものだ。
〔膂は『日本書紀』によって、とりあえず、そうするので、その字は、ほかの字でもよい。また、膂肉韓国、真来通、到坐笠沙之御前而とあり、到坐の二字が脱落したのかもしれない。〕それで今は、そのとおりに読んだ。
理由は、『日本書紀』に、実りのない荒れた国を、丘続きに、国を求めて進み、吾田の長屋の笠狭の碕に至った。その地に、事勝国勝長狭と名乗る一人がいた。皇孫が、国があるか、ないか、と尋ねると、ここに国があります。思いのままお巡りください、と答えたので、皇孫は、そこにとどまった、とあるためだ。
また一書では、実りのない荒れた国を、丘続きに、国を求めて進み、水際の平らな所に立ち、国主の事勝国勝長狭を呼んで尋ねた。ここに国があります。お選び捨てるのも、お言葉のままです、と答えた。その時、皇孫は宮殿を建て、ここでお休みになった、とある。
また、荒れた空しい国を、丘続きに、国を求めて進み、吾田の長屋の笠狭の御碕に至った。そこに事勝国勝長狭という神がいた。天孫が、国があるか、と尋ねると、あります、と答え、さらに、お言葉のままに献上します、といったので、天孫は、そこにとどまった、とある。
また、吾田の笠狭の御碕に至り、長屋の竹島に上り、その土地を巡り見ると、事勝国勝長狭という人がいた。天孫が、これは誰の国か、と尋ねると、長狭が住む国ですが、今、天孫に献上します、と答えた、とある。
こうした文と比べても、語のあり方から考えても、真来通笠沙之御前は、必ず地の文であって、仰せになる言葉ではない。
【宣長の注釈】韓国の韓は借字で、空虚な国という意味、すなわち『日本書紀』の空国である。
〔もし韓を本来の字義どおりにすると、ここには合わない。『日本書紀』神代上巻に、すでに韓郷の島の話があるので、ここで、その国をいうはずがないわけではない。しかし、この段の古事は、すべて大隅・薩摩・日向の間のことで、東南向きの地域だから、韓国に向かうという理由がないのだ。
物の中が空で、中身がないことを、からという。殻なども、その意味だ。『日本書紀』の空国は、昔から、むなくにと読むが、別伝の胸副国では、空でなく、別に胸の字を書くので、からくにと読むべきか。ただし、むなくにでも意味は同じである。
ここは、空しい国に向かう、としても通じそうだが、やはり、そうではなく、向は肉の誤りで、膂に当たる字の脱落も、議論の余地がない。〕
膂肉の空虚な国について、『日本書紀口決』では、膂宍之空国は荒れた土地。『仲哀紀』には熊襲国は膂宍の空国という。膂は背で、肉がないことで、実りのない土地をたとえる、といい、『纂疏』は、空国は不毛の地とする。これらの意味である。『神名帳』には、大隅国囎唹郡の韓国宇豆峰神社がある。〔この韓国も、ここと同じらしい。〕
【宣長の注釈】笠沙之御前について、名の意味は、まだ考えつかない。
〔『古事記』の地名で、音読みと訓読みを混ぜるのは、熊曾以外に例がないので、沙も、すなを縮めた訓かとも思うが、やはり音読みだろう。
あるいは『日本書紀』で、この地の国主という、勝長狭の名を縮めたのか。勝長狭を縮めると、かたさで、たと、さは横に通じる。〕
この場所は、〔『日本書紀口決』の、笠狭の碕は宮崎だ、というのは当て推量だろう。また今、日向国那珂郡に日の御崎があり、これが笠沙の崎というのも、不確かだ。〕『日本書紀』で、吾田長屋笠狭之碕、また吾田笠狭之御碕という。吾田は薩摩国阿多郡の阿多だ。〔神代の三つの御陵も、大隅・薩摩にある。〕
長屋之竹島ともいう。その竹島も、『孝徳紀』の、薩麻の曲(くま)と、竹島の門(と)、という記述によると、〔今も薩摩の川辺郡に竹島という所があるという。〕長屋も薩摩なのが明らかなので、笠沙も、その国だろう。
〔薩摩の人の話では、今、同国の阿多郡に加世田之御崎があり、これが笠沙之御崎だ。その続きに宮崎も、京之原もある。そのあたりに野間権現の社があり、木花開耶姫、邇々芸尊、彦火々出見尊、火明命を祭る。また三柱の皇子の誕生の跡があり、三皇子を祭り、付屋明神という、とのことである。〕
【宣長の注釈】真来通の真来は借字で、『日本書紀』に、覓国、これを、くにまぎという、とある、それだ。『万葉集』巻二十には、山川の岩根を踏み分け、通り進み、国を求めながら、とあり、度会宮の『儀式帳』には、見て求めておられた場所に鎮まりました、などとある。この語は、前にも出て、そこで述べた〔『伝』巻十一・五葉〕。
〔きの清濁は、『日本書紀』の読みの注が儀、『万葉集』が芸と書くことによれば濁音だ。しかし神武の段の歌には、まかむとあり、『万葉集』で巻と書き、ここで来を借りるのは、清音のようなので、どちらとも決めがたい。〕
通は、『日本書紀』の、行去、これを、とほるという、の字どおり、通り過ぎて行くことだ。〔とほるは、すべてこの意味で、今、何々を通るといって、ただ行くことをいうのとは、少し違う。〕
この文全体は、鎮座すべき国を求め、肉の乏しい体にたとえる、空しい荒れ地を通り過ぎ、笠沙の御崎へ着いた意味である。韓国を、と、をを添えて読む。
【宣長の注釈】此地者は、笠沙之御前を指して仰せになる。
【宣長の注釈】朝日之直刺国は、東に向かい、朝日の光を、まっすぐ正面に受ける地をいう。
【宣長の注釈】夕日之日照国は、西も晴れ開け、夕日の光も、妨げられず差す地をいうのだろう。
下巻、朝倉宮の段の歌に、まきむくの、ひしろの宮は、朝日が照る宮、夕日の光が差す宮、とある。大神宮の『儀式帳』には、朝日の向かい来る国、夕日の向かい来る国、龍田の風神祭の祝詞には、我が宮は、朝日の向かう所、夕日の隠れる所、云々という。〔日の隠れる所は、ほめるほどでもないが、朝日を中心とし、その対として、言葉の形でいうだけだ。〕
『万葉集』巻二の、朝日が照る佐太の岡辺に、また、朝日の照る島の御門に、巻十六の、夕日が差す河辺に構えた家、なども、すべて日の差すことで、その地をほめる。
師の『冠辞考』には、うちひさす宮は、美しい日の差す宮と続けたものだ、といい、『古事記』の、この語や『万葉集』の歌を引き、このほかも、日の光で宮をほめる例が多いことを考えるべきだ、とある。
物の美しさをほめるのにも、日の光にたとえる。『万葉集』巻十三には、うち日差す大宮に仕え、朝日のように、見る目も美しく、夕日のように、心にもうるわしく云々、ももしきの大宮人は云々、とある。〔これは、女官たちが五十師原の行宮で宮仕えする姿をほめる。〕こういう例だ。
土地をほめ、日の光をいうのは、普通、日の差さない地など、めったにないが、高く晴れ開け、特によく差す地をほめるのだろう。
〔朝日・夕日ともほめる中でも、特に朝日の差す地をほめるのは、以上の祝詞が、夕日の隠れる所ともいい、夕日は重視しない例もあることから分かる。『万葉集』巻十六の、夕日云々は、夕日の差す地なので、それについてほめたのだ。〕
【宣長の注釈】故此地の下には、会、すなわち、えという語を添え、かれここえ、と読む。
【宣長の注釈】甚吉の甚は、ある本では者で、それでも通じるが、今は真福寺本・延佳本の甚の方が優れるので、それに従った。〔旧印本や、またある本が其とするのは誤りだ。〕
【宣長の注釈】於底津石根云々は、この国での皇大宮の始まりだ。後の文や、白檮原の朝廷の段の初めなどに、高千穂宮とあるのは、この宮のことだろうか。詳しくは、その所で述べる〔『伝』巻十七・八十二葉〕。
追考
八尺勾玉(やさかのまがたま)について
【横井千秋の追考】横井千秋の『勾玉考』には、次のようにいう。
我が師の考えでは、八尺勾玉の、やは、いよいよの意味、さかは、さあかで、さは、まと通じる語なので、いよいよ、まことに明るい勾玉という意味だ、云々という。この説によって、八尺の意味は、たいへん明らかである。
この説を手がかりに、さらに考えると、勾玉という名も、形が曲がるためではない。勾・曲などは、いつもの借字で、まがというのは、『古事記』帯中日子天皇の段の、目も輝く、さまざまな珍宝云々、『日本書紀』同巻の、目の輝く、金銀・彩色云々、などに見える、目が炎のように輝くことだ。目赫、めあか、というのを縮め、まがという。
眼かがやくとは、物語などで、目もあやなりといい、俗に、まばゆい、かがはゆいなどというのと同じだ。したがって八尺勾玉は、いよいよ、まことに明るい、目に輝く玉ということで、玉が世に優れ、明るく透き通り、美しいという名である。
『垂仁紀』には、うかか赤石玉という物があり、『万葉集』の歌には、かがよふ玉とも詠む。これらによっても、玉を、あかと形容する理由が分かる。
それなのに昔から、この意味を理解した人がなく、ただ形が曲がるための名とばかり理解したのは誤りだ。今、土中から多く掘り出す、曲玉という物は、その形が少し曲がるため、これが古代の曲玉だと考え、無造作に曲玉と呼ぶ。しかし今ある物は、それほど美しい玉ではない。
土中などから多く出るので、古くも多くあった物と見え、とりわけ、ほめ尊んだ物とは思われない。古代に曲玉といったのは、世にまれで、際立って美しい玉だった。今いう曲玉のように、多くあった物ではない。
仮に、その形が、今あるように少し曲がっていたとしても、その形によって曲玉といったのではないと知るべきだ。形が曲がることに、何の素晴らしさがあろう。
ところが『日本書紀』仲哀の巻には、筑紫の伊覩県主の祖、五十迹手は、天皇の行幸を聞き、枝の多い賢木を抜き取り、船の舳先と船尾に立て、上の枝に八尺瓊、中の枝に白銅鏡、下の枝に十握剣を掛け、穴門の引島でお迎えして献じ、私が、あえてこれを献じるのは、天皇が八尺瓊の勾のように、曲妙に天下を治め云々、と奏した、とある。
これは、まるで、この玉の形が曲がることをいうように、文字の書き方も見え、読みも、それに従って付ける。しかし、曲がるように、妙に、というのは全く理解できない。
そもそも、まがるは、物の不吉なことをいうのに、妙にとほめる事に、どうして、そういえよう。もとの古い文では、八尺の勾玉のように、妙に、などとあり、その勾は、もともと借字だったのを、文字に結び合わせ、曲妙という漢文を作ったように見える。
曲妙の字は、漢籍の、万物を細やかに成就させ、残すものがない、また、その妙をすみずみまで尽くす、などという表現で、文字の上を飾っただけだ。古くから読むように、二字を合わせ、たへにと読むほかない。したがって、曲がるという意味は、全くない。
『日本書紀』は、漢文による飾りによって、日本古来の意味を失うことが多い、というのは、このような違いがあるためだ。注意しなければ、必ず混同する。
そうなら、この祝福の言葉も、玉が目に輝いて美しいように、御徳の光を、妙に施し、天下を治め云々、と申し上げたのである。こう見れば、その後の、また白銅鏡のように云々、そして、この十握剣を持ち云々、とあることにも、意味が一貫して通る。
ところが県居の翁が、出雲国造の神賀の詞の考で、青玉の、水江玉の、ゆきあひに云々、という所に、この『仲哀紀』の語を引き、ここの、ゆきあひも、八尺瓊の勾のようにというのも、ともに、天下を統べ、巡らし治めるたとえだ、とされたのは当たらない。ゆきあひの意味は、前に述べたとおりなので、そういうたとえではない。師の後の解釈の説のとおりである。
【宣長の注釈】宣長がいう。勾玉という名について、この考えは、たいへんよい。従うべきである。なお、この考えには、詳しい本書がある。
古事記伝 巻十六
本居宣長が謹んで著す。
神代 第十四巻
【古事記本文】そこで天宇受売命(あめのうずめのみこと)に、こう仰せになった。「先ほど御前に立ってお仕えした猿田毘古大神(さるたびこのおおかみ)は、もっぱらお前がその正体を明らかにして申し上げたのだから、お前がお送り申し上げよ。また、その神の名は、お前が引き受けて仕えよ。」それで猿女君(さるめのきみ)たちが、男神である猿田毘古の名を引き受け、女でありながら猿女君と呼ばれるのは、このことによるのである。
【宣長の注釈】「此立御前……」の「此」は、「あの」と言うようなもので、先に天からお降りになった時のことを指す。〔中古の物語などにも、「彼」と言うべきところを「此」と言う例が多い。〕また、この時、猿田毘古大神が御前に控えておいでになるのを、直接指して仰せになったと見てもよい。
【宣長の注釈】「猿田毘古大神」について。『日本書紀』では、ご自身の名を名乗る言葉にも「大神」とある。もともと並の神ではなかったのだろう。
【宣長の注釈】「専」とは、ほかの神は問いただすことができなかったのを、宇受売命ただ一人が、よく問い明らかにしたという意味である。その箇所にも「専汝……」とある。
【宣長の注釈】「顕申」とは、その大神の名も、そこに出て立っておいでになったわけも、問い聞いて明らかにしたことをいう。前に「あの神は少名毘古那神だと申し上げたのは、いわゆる久延毘古……」とあるのと同じである。「申」は、これこれと奏上したことをいう。〔「顕」に付け添えただけの語ではない。〕『日本書紀』の「天鈿女が戻って、そのありさまを報告した」に当たる。
【宣長の注釈】「送奉」について。『日本書紀』には、猿田彦大神が「私を明らかにしたのはお前だ。だから、お前が私を送って、その地に届けるがよい」と言い、また、「前に定めたとおり、皇孫は……」と続き、「猿田彦神は伊勢の狭長田、五十鈴川の上流に到った。天鈿女命は猿田彦神の願いに従い、お供して送った」とある。『古事記』とは少し伝えが異なる。
【宣長の注釈】さて『古事記』では、猿田毘古神がどこへ行かれるとも記さず、ただ「送り奉れ」とある。これは、その本郷へお帰りになるのだろう。〔もし本郷へ戻るのでなければ、行かれる場所を示さなくては、話として不十分である。〕これから見ると、伊勢は初めから猿田毘古神の本国だったのだ。〔伊勢の諸書にも、そのように述べる。〕天宇受売命がお送りした時点について、『日本書紀』の書きぶりでは、御前に立って天から降られた折のことのように聞こえる。しかし『古事記』の趣旨はそうではない。猿田毘古神はまず伊勢に降り、伊勢から一度、日向の宮へ参上した。〔このことは巻十五の三十五葉でも述べた。〕それから退出のお許しを受け、日向から伊勢へ帰られる時のことと読める。〔『日本書紀』の「遂以侍送焉」についても、『口決』などでは天孫降臨後のこととしており、それもよい。〕猿田毘古神が日向へ参上されたこと自体は、『古事記』にも『日本書紀』にも書かれていない。しかし、もし日向へ参ったことがなければ、すでに天降られた後、宇受売命はどこからお送りしたことになるのか。必ず日向からだと読むほかはない。
【宣長の注釈】「其神御名者汝負」について。一般に名を「負う」とは、他人の名でも物の名でも、それを取って自分の名に付けることをいう。その名を担い持つという意味である。
【宣長の注釈】「仕奉」は皇朝にお仕えすることをいう。〔猿田毘古神に仕えるという意味に取るのは、大きな誤りである。〕後世まで続く猿女の職務がこれである。本来は猿田毘古神ご自身が皇朝に伺候してお仕えするはずだが、この神には神秘の定めがあって、退出して伊勢においでになる。そのため宇受売命に、この神に代わってその名を引き受け、仕えよと仰せになったのである。〔近世に、身代わりを「名代」というのは、この意味によく当たる。〕〔「お前がその神の名を引き受けよ」という語順にせず、「その神の名は、お前が引き受けよ」となっている、その言葉の勢いに注意して、よく味わいたい。その神に代わって、お前が仕えよと仰せになる意味が、おのずと含まれている。〕
【宣長の注釈】「猿女君等」は、後世の猿女君氏の人々を指している。
【宣長の注釈】「男神の名を負って」とは、猿田毘古神の代わりにその名を引き受ける者は、男であるのが当然と思われるのに、実際はそうではなく、宇受売命以来、後世までみな女がその職務を勤める、ということである。女が男の代わりにお仕えする意味を示すため、わざわざ「男神」と断っている。続く「女」と対応する言葉なのだ。〔師は、『日本書紀』『古語拾遺』などと合わせて考えると、「男神名」の「男」は、もと下の「女」の上にあった字が誤って移ったのだ、と説いた。しかしこれは一通りの見方で、なお深く考えられていない。もしそうなら、「男」の上にある「之」の字はどうなるのか。「男神」と言おうとしているからこそ、「之」も置いたのである。〕
【宣長の注釈】「女呼猿女君」の「女」は、「をみなを」と読むべきである。〔以前は、『日本書紀』『古語拾遺』などに「男女皆呼」とあることによって、「をみなも」と読み、男も女も、という意味に解したが、そうではなかった。〕ここは、女でありながら男神の名を引き受けて仕える由来を述べる箇所だから、男を言う必要はなく、女を中心に述べている。「猿」は男神の名であるのを、女が引き受けて「猿女」と呼ぶのである。〔だから、「男」の字が落ちたのではないかと考えるのは、かえって誤りだ。〕「呼」は師が「いふ」と読んだ。〔「よぶ」では漢文訓読めいているからである。〕それももっともだが、この箇所などは、やはり「よぶ」と読むのがよいように思われる。
【宣長の注釈】この箇所は『日本書紀』に、「その時、皇孫は天鈿女命に、『お前は、明らかにした神の名を氏とせよ』と命じ、猿女君の名を与えられた。猿女君たちの男も女も、みな君と呼ぶのは、これが由来である」とある。〔これは漢文の形を整えるうちに、古い伝えの中心となる意味を失っている。『古事記』と照らして理解すべきだ。また、この文には納得できない点がある。まず、上では「姓氏」、下では「号」と、呼び方がにわかに変わる。そもそも、この時には、まだ「姓氏」というものはありえず、この二字はここにふさわしくない。ただ「号」とするのがよい。次に「君と呼ぶ」というのも分からない。猿田毘古神の名を取って呼び名にしたのだから、「猿女」ということこそ中心である。「君」は単なる尊称で、この由来に関わることではない。その中心の「猿女」を省いて、ただ「君」と呼ぶというのは、どういうわけだろう。思うに、これも元は「猿女君と呼ぶ」とあったのに、上にも「猿女君等」とあるため、くどいと思い、後の人が小賢しくも「猿女」の二字を削ったのだろう。〕
【宣長の注釈】『古語拾遺』にも、「天鈿女命は猿女君の遠い祖である。明らかにした神の名を氏姓にし、その男女ともに猿女君と名乗らせたのは、この由来による」とある。〔『日本書紀』にもこの書にも「男女みな」とあるのは、どうだろう。男も女も同じ氏を名乗るのは、あらゆる氏に共通することで、そうでない氏などあるだろうか。わざわざ言うことではない。また、この名は女に限るようで、男を猿女君と呼んだ例は、諸書に見えない。思うに、元は『古事記』のように「女」とだけあったのを、例の漢文の文飾で、格別な意味もなく「男女」と書いたのだろう。「男だけでなく女も」という意味で、実は女を述べるためだとしても、とにかく男を言うのは、無用であるだけでなく、事実に合わないように聞こえる。〕
【宣長の注釈】『日本書紀』によれば、この名は宇受売命ご自身に与えられ、それが後代へと受け継がれたものだ。前に『古事記』には「天宇受売命は猿女君たちの祖」、『日本書紀』には「猿女君の遠祖、天鈿女命」、また「猿女の上祖、天鈿女命」とある。このようだと、猿女君は普通の氏姓のように聞こえる。しかし、鏡作連の祖である伊斯許理度売命も、宇受売命も女神であるのに、その子孫の氏があるというのは疑わしい。〔天照大御神が皇統の祖神であることなどは、特別のいわれがあり、とりわけ天上のことだから、同じ例にはできない。同じ神代でも、天降りの後は、何事も次第に人の世に近くなるので、この神々が夫なしに子孫を持つというのは疑問である。あるいは夫の神はいたが、夫には功績がなく、女神のほうに功績があって皇朝に仕え、その後も代々女が仕える職を伝える家なので、とりわけ女神を祖としたのか、とも言えよう。しかし、やはりそうでもあるまい。〕思うに、これらは普通の氏のように必ずしもその神の子孫ではなくても、その職務を受け継いで仕える女たちを猿女君と呼び、この神を祖神としたのだろうか。〔『日本書紀』の同じ巻で、工女の兄媛を「今の来目衣縫の始祖である」とするのも同じ例だろうか。また応神天皇紀には「百済王が衣を縫う工女、真毛津を献上した。筑紫の御使君の祖である」とある。これはどうだろうか、分からない。〕それゆえ『古事記』『日本書紀』をはじめ、歴代の史書にも、猿女君という氏姓の人は見えない。天武天皇の御代、同じ列の氏々――中臣・忌部・玉祖など――はみな姓を賜ったが、そこにも見えず、『新撰姓氏録』にも見えないのは、そのためだろうか。〔次に引用する諸書では、猿女君氏という一氏があるように書く。それは少し後には、代々この職に女を出して仕えさせる家が自然に定まり、慣例になり、その家の女を猿女君氏と言ったのだろう。『古語拾遺』の神武天皇の段などで「氏」と書くのも、後世の呼称によって記した文だろう。この書には、後世の呼び方で述べる例がほかにも多い。〕さらによく考えるべきことである。
【宣長の注釈】猿女という職務は、後世まで、大嘗会や鎮魂祭などの記録に見える。以下に引く諸書のとおりである。『古語拾遺』の神武天皇の段には、「猿女君氏は神楽のことを奉仕する」とある。
【宣長の注釈】『類聚三代格』弘仁四年十月の太政官符には、こうある。「猿女を貢進すべきこと。従四位下・行左中弁兼摂津守の小野朝臣野主らから、次の申請を受けた。『猿女の起こりは国史に詳しく、その後も絶えず、今なお存在しています。また猿女を養う田は、近江国和邇村と山城国小野郷にあります。今、小野臣・和邇部臣らは、もともと猿女を出す氏ではないのに、みだりに猿女の職を勤めています。その事情を調べると、右の二氏が他人の利益ある田をむさぼり、恥辱も顧みず、不心得な役人もこれを見逃し、監督を加えていないからです。先代の神事を乱し、後裔の氏族を汚しています。日月が積み重なり、これが古来の慣例となるおそれがあります。所管の役所に厳しく取り締まらせ、猿女を出す氏でない者の採用を断っていただきたい。そうすれば祭礼は乱れず、家門は正しくなります。謹んで官の裁定を願います。』古い記録を調べたところ、陳述には事実の裏付けがあった。右大臣は、勅命により改正すべき旨を伝えた。そこで二氏から出す猿女は停止し、猿女公氏の女一人を縫殿寮へ出仕させると定め、恒例とする。」〔この小野野主らの申請文は、『類聚国史』にも載る。〕
【宣長の注釈】『西宮記』には、「猿女。縫殿寮の申請によって、内侍が奏上し、補任する」とある。裏書には、「猿女を貢進すること。弘仁四年十月二十八日、猿女公氏の女一人を縫殿寮へ出仕させる……。延喜二十年十月十四日、昨日、尚侍が奏上させた。縫殿寮が、稗田海子の死亡による欠員に代えて、稗田福貞子を任じたいと申請した……。天暦九年正月二十五日、右大臣が奏上させた。縫殿寮から、大和・近江両国の氏人へ官符を出し、猿女三人の死亡による欠員に代わる者を差し出させるよう申請があった……」とある。
【宣長の注釈】践祚の大嘗会、卯の日の儀には、「大臣一人が、中臣・忌部・御巫・猿女を率いて先導する。大臣は中央、中臣と忌部は左右にいる」とある。『延喜式』大嘗祭式には、「大臣、または大納言・中納言一人が、中臣・忌部〔中臣は左、忌部は右〕、御巫・猿女〔左右〕を率いて先導する」とある。〔『江家次第』にも見える。『平戸記』仁治三年十一月十三日には、「今夜は大嘗祭である……。祭祀の間にも、先例と違うことが多い……。猿女もいない……。まれに見る大変なことである」とある。〕
【宣長の注釈】『鎮魂祭儀式』には、「縫殿寮が猿女を率い、東側の階から上がって座に着く」とあり、また「御巫の舞が終わると、次に諸御巫と猿女が舞い終える」とある。〔『延喜式』にも見える。〕
【宣長の注釈】『延喜式』縫殿寮式の鎮魂祭の斎服には、こうある。〔新嘗祭でも同じものを用いる。〕「猿女四人。緑の袍四領〔表は緑、裏は絹。それぞれ三丈〕、綿八屯〔それぞれ二屯〕、両面の紐四条〔それぞれ長さ一尺九寸、幅五寸〕、汗衫四領〔それぞれ三丈〕、緑の裙四腰〔表は緑、裏は絹。それぞれ三丈〕、裙の腰の部分に用いる縹色の絹四条〔それぞれ一丈五尺〕、綿八屯〔それぞれ二屯〕、下裙四腰〔裙はそれぞれ三丈、腰の部分はそれぞれ一丈五尺〕、袴四腰〔それぞれ三丈〕、綿四屯〔それぞれ一屯〕、縹色の帯四条〔それぞれ長さ六尺、幅四寸五分〕、細布の髪かずら(髪飾り)四条〔それぞれ二尺〕、緋色のひれ四条〔表は緋色、裏は絹。それぞれ一丈五尺〕、細布の足袋四足〔それぞれ三尺〕、糸で作った靴四足。」〔これら種々の服は、『儀式』では大嘗祭の箇所に見える。〕
【宣長の注釈】「事是也」は、中巻の末にある「これは『神うれづく』という言葉のもとである」と同じ意味である。〔師は、その箇所を後人の注と言ったが、そうではない。〕また『日本書紀』に数多くある「……の由来である」とも同じで、事の由来・起こりを述べている。〔「事」の下に「本」の字が落ちたのだろうか。そうでなくても、意味は同じである。〕この箇所は、上で「是以」と言い、末尾を「是也」と結ぶので、文章の整い方がよくないように聞こえる。〔「是以」は「故」と同じく、軽く見るべきだ。「故」は、多くの場合、ただ文章の頭に軽く置く用法である。〕
【古事記本文】猿田毘古神が阿邪訶(あざか)にいらした時、漁をしていて、比良夫貝(ひらぶがい)に手をかみ挟まれ、海の潮に沈み溺れた。「阿邪訶」の三字は音を表す地名で、「比」から「夫」までの三字も音を表す。そのため、底に沈んでいた時の名を底度久御魂(そこどくみたま)といい、水が「つぶたつ」時の名を都夫多都御魂(つぶたつみたま)、泡が「さく」時の名を阿和佐久御魂(あわさくみたま)という。「度久」の二字、「都」以下の四字、「阿」から「久」までの四字は、それぞれ音を表す。
【宣長の注釈】「阿邪訶」は伊勢国壱志郡にある。『大神宮儀式帳』には、「次に壱志の藤方片樋宮においでになった。その阿佐鹿にいた悪神を平定した使い、阿倍大稲彦命がお供した。その折、壱志県造らの遠祖、建呰子に、『お前の国の名は何か』とお尋ねになると、『宍往呰鹿国』と申し上げ、神の御田と神戸を献上した」とある。〔この悪神については後で述べる。「建呰子」の「呰」は、『倭姫命世記』では「皆」とあり、その一本には「比」とも書く。「呰鹿」の「呰」は、字書に「毀ること」と注する場合もあるので、「毀る」意味を取って書いたのか。また『日本霊異記』にも「呰」を「あざける」と読む例があり、その意味だろうか。『和名抄』の備中国の郷名「呰部」には「安多」とあり、参河国にも呰見という郷があるが、そちらには読みの注がない。「宍往」という枕詞も理解しがたい。『世記』では「害行阿佐賀国」とある。「害」は誤字だろうか。〕
【宣長の注釈】『神鳳抄』には、壱志郡の大阿射賀御厨〔合わせて二十六石、絹二十疋〕、小阿射賀御厨〔三十三町八段、十五石〕、また小阿射賀神田〔二町〕とある。今も大阿坂・小阿坂という二村が南北に並ぶ。〔松坂から西へ一里半ほどである。〕その山も阿坂山という。宇受売命が神を送り、戻って来たことはこの下にあるため、猿田毘古神が阿邪訶においでになったのは、日向から帰られる途中だったとも考えられる。しかし「坐す時」という書き方などから思うと、やはりその後の、ある時のことだろう。
【宣長の注釈】注にある「地名」の二字について、師は「このような例はなく、後人が加えたものだから除くべきだ」と言った。その可能性もある。
【宣長の注釈】「為漁而」は「すなどりして」と読むべきだ。『和名抄』には「漁――『説文』に、魚を捕ることといい、須奈度利と読む」とある。『日本書紀』欽明天皇紀には「捕魚」、『万葉集』巻四には「沖へ往き辺へ去き今や妹がため吾が漁れる藻臥束鮒」とある。――沖へ行き、岸辺へ行きして、今、あなたのために私が捕った、藻に潜む鮒よ。師は、「『すなとり』は『いすなとり』の『い』を省いたもので、『す』と『さ』は前の『いすくはし』の項のように通い合うので、つまり『鯨魚取(いさなとり)』である。鯨を捕ることをもとに、どの魚を捕ることにもいうようになった」と説いた。〔『冠辞考』の「いさなとり」の項にある。〕阿邪訶は今、海辺から少し離れている。〔現在の村から海辺までは、一里余りあるだろう。〕しかし昔は海辺にかけて広い土地の名だったのだろう。そうでなくても、ひどく遠いわけではないので、出かけて漁をなさることはできる。
【宣長の注釈】「比良夫貝」は、昔は世に多かったものと思われる。これを人名に用いた例が、『日本書紀』『続日本紀』に非常に多い。〔『日本書紀』には、大伴毘羅夫連、巨勢臣比良夫、額田部連比羅夫、阿曇連比羅夫、倭漢直比羅夫、河辺引田臣比羅夫、『続日本紀』には民忌寸比良夫、采女朝臣枚夫、田辺史比良夫、石川朝臣比良夫などがある。これらはみな、この貝をもとに名づけたものと見える。〕それなのに『和名抄』などに出ないのは、その後、名が変わったのだろうか。今は詳しく分からない。〔なお、いろいろ考えると、今、月日貝というものがあり、殻の形が月と太陽に似ている。これではないか。「比良」は「平」、「夫」は「日」に通じて、「平日」という意味かと思うからである。また「たひらぎ」という貝がある。「ぎ」は「かひ」の縮まったもので、「平貝」の意味だから、これだろうか。また「さるぼう」という貝もある。猿を溺らせたという意味で、この故事による名とすると、これだろうか。しかし、いずれも名について思いつくまま、試みに述べただけである。その後、志摩国の海辺の人にこの貝のことを尋ねると、「比良夫貝は月日貝のことです。このあたりの海に、非常にまれにあるものです」と言った。各国の人々に尋ねれば、今も古い名が残っているはずだ。今、飯高郡の海辺に「平生」と書き、「ひらお」と呼ぶ村がある。壱志郡の境に近く、阿坂村から一里半ほど東にある。これは、あるいは昔は「ひらふ」で、この貝にまつわる故事から起きた地名ではないだろうか。『神鳳抄』の「平生御厨」がこの所である。〕
【宣長の注釈】「海塩」は、〔「塩」は音を借りた字で、〕斉明天皇紀の歌に「于之褒(うしほ)」とあることによって、「うしほ」と読むべきだ。下にある「海水」も同じである。〔師は「うなしほ」と読んだが、根拠がない。〕
【宣長の注釈】「沈溺」は「おぼれ」と読むべきだ。さて、この神は、このようにして、この時に亡くなられたのか、それともそうではなかったのか、判断しがたい。
【宣長の注釈】「底度久」は「底著」で、底に沈み着くことだ。後の日子穂々手見命の歌では「加毛度久」とある語を、『日本書紀』では「軻茂豆句」と書く。〔「鴨著」のことである。〕これは「度久」が「着く」である証拠だ。
【宣長の注釈】「都夫多都」は、師の説では、物が沈む時に水が鳴る音だという。藤原実方の集には「物をだに岩間の水のつぶつぶといはばや行む思ふ心の」とある。――せめて、岩間の水がつぶつぶと鳴るように、思いをつぶさに話したなら、この思い悩む心も晴れるだろうか。〔『千五百番歌合』の顕昭の判詞には、世間で口ずさむ歌として「雨ふれば軒の玉水つぶつぶといはばや物を心ゆくまで」とある。――雨が降ると軒のしずくがつぶつぶと鳴る。そのように、心ゆくまで細かに思いを語りたい。〕『万葉集』巻十八、二十二丁には「可治能於登乃、都波良都婆良爾(かぢの音の、つばらつばらに)」とある。これも櫓が水に触れて鳴る音で、「つば」は「つぶ」と同じである。〔この「つばら」について、師は櫓が舟端にこすれる音だとされたが、その解釈はどうだろうか。〕今の言葉でも、物が水中に沈むことを「つぶりと入る」などと言う。これと同じだ。〔また「たつ」とあることから考えると、音ではなく、水の泡の形をいうのだろうか。「水つぼ」は『万葉集』巻二十に見え、水の上に丸く浮かぶ泡である。また『宇治拾遺物語』にも「大柑子の皮のように、つぶ立ってふくれた」とある。これらは形を言う。しかしここは、次に「阿和佐久」とあるから、形とすると同じことの繰り返しになり、やはり音である。〕「たつ」は、上ることをいう。〔煙が立つ、鳥が立つ、などもみな上ることをいう。〕底から音が鳴って上がるのである。〔訳注:末尾は「あらずや/あらじや」の判読が未確定で、原転写は「あらずや」を暫定的に残した。文脈では師説を退ける趣旨が有力だが、字形と語気は留保する。〕
【宣長の注釈】「時」の下にある「名」が多くの本にないのは、脱落したのである。〔前後の例と合わない。〕ここでは、一本にあるのに従った。
【宣長の注釈】「阿和佐久」は「沫咲」である。師によれば、「さく」は花が咲くのと同じく、泡が生じ出ることをいう。波が立つことも「咲く」と言うのと同じだ。『日本書紀』には「秀起浪穂」、そして「秀起は左岐陀豆屢(さきだづる)という」とある。
【宣長の注釈】以上の三つのありさまは、猿田毘古神の体が底に沈み着いたため、海水がつぶつぶと鳴って上がり、泡が生じた、ということである。〔三つの出来事の順序も、このとおりである。〕
【宣長の注釈】「阿和佐久御魂」について、諸本に「阿和」の二字がないのは、後に脱落したのである。だから今、補った。〔延佳は「沫」を補い、「『旧事紀』によって補った」と記した。しかし「沫」は適切でない。上に「阿和佐久」とあるので、ここも必ずその字であるべきことは疑いない。『旧事紀』は、上でも「沫佐久」と書くから、ここでもその字なのだ。〕
【宣長の注釈】注の「阿」を諸本が「佐」と書くのは、誤りである。〔元は「阿」だったのに、本文の「阿和」の二字が脱落してないため、「佐」の誤りだろうと考え、後の人が小賢しく「佐」に改めたのだ。元から「佐久」の二字なら、ただ「佐久二字」と注するはずである。およそ「某字から某字まで」と注するのは、三字以上の時の用例で、二字をそう注する理由も例もない。このことと照らし合わせれば、本文に脱落したのも必ず「阿和」の二字であって、「沫」一字ではないことが分かる。〕そこで、この注も今「阿」に改めた。
【宣長の注釈】この三つの御魂は、この時の出来事によって、それぞれに分かれた猿田毘古神の神霊である。〔ある伊勢の人は、「この三御魂は猿田彦神の三人の妃をいう。一般に妻を御魂という例が多い」と説くが、まったく根拠がなく、論じるにも足りない誤りである。〕『延喜式』神名帳には、伊勢国壱志郡に「阿邪加神社三座」がある。〔いずれも名神大社とする。『続日本後紀』には、承和二年十二月、伊勢国壱志郡に鎮座する阿邪賀大神に従五位下を授けた、とある。『日本文徳天皇実録』には、嘉祥三年十月、伊勢国の阿邪賀神に従五位上を授け、斉衡二年正月、名神の列に加え、同日、従四位下を加えた、とある。『日本三代実録』には、貞観元年正月に伊勢国の阿邪加神へ従四位上を授け、同八年十一月に従三位を授けた、とある。〕これは、この三つの御魂を祭った社である。今、阿邪訶神社は大阿坂村と小阿坂村の二か所にある。〔両方とも、俗に龍天社という。〕同じほどの森があり、ともに古く見え、神殿もそれぞれ三棟ある。どちらが古来の本の社なのか、判断しがたい。〔小阿坂村の円座薬師という寺の縁起には、小阿坂の神社は昔、行基僧が勧請したと記す。もしこれが事実なら、大阿坂のほうが本来の社であろう。〕
【宣長の注釈】この阿邪訶の神は、上古に荒ぶったことがある。『倭姫命世記』には、「十八年己酉、阿佐加の藤方片樋宮にお移りになり、四年の歳月を経てお祭りした。この時、阿佐加には、ますます荒ぶり、激しい威力を現す神がいた。人々が行くと五十人を取って殺し、四十人が行けば二十人を取って殺した。このように荒ぶる時、倭比売命は大若子を朝廷へ上らせ、その神のことを申し上げた。すると、『さまざまな大御手津物をその神に献上し、穏やかに鎮め、平らげ申し上げよ』と仰せられ、大若子を下された。その時、その神を平定し、阿佐加の山の峰に社を定めて建て、神を穏やかに鎮め申し上げ、ねぎらって祭った」とある。〔初めの「四年を経てお祭りした」は、皇大御神のお祭りのことである。〕また一書には、「天照大神は美濃国から安濃の藤方片樋宮へお移りになった。その時、安佐賀山に荒ぶる神がいた云々。そのため、倭姫命は度会郡宇遅村の五十鈴川上の宮へお入りになれなかった云々。そこで朝廷はさまざまな幣を与え、大若子命を返してその神を祭らせた。すでに神が鎮まったので、安佐賀に社を定めて祭った。その後、倭姫命はお入りになることができた」とある。これである。先の『儀式帳』の「悪神を平らげた」も、この出来事をいう。
〔阿邪加神社は、まさにこの荒ぶった神を祭る社と読めるので、猿田毘古神ではなかろうともいえよう。しかし、荒ぶった神は猿田毘古神の三つの御魂であろう。三座いらっしゃることからも、きっとそうだと思われる。猿田毘古神の御魂が、よりによって皇大御神のお通りになる先を妨げるはずはない、とさらに疑う人もあるだろうか。それは凡人の考えである。神のなさることは測りがたいので、そんな道理はないなどと決めつけてはならない。そもそも、この三つの御魂の神は、当時まだ朝廷から祭りを受けず、確かな社などもなかったので、祟って知らせたのだろう。崇神天皇の御代、大物主神が祟り、疫病が激しく起こったことなどと考え合わせるべきである。大物主神は皇京を守る神でいながら疫病を起こしたのだから、猿田毘古神の御魂が荒ぶったということを、どうして疑う必要があろう。ある書は、多気郡の神山神社は猿田彦命を祭り、土地の人が「鑰取神」と呼ぶ、「鑰取」は「貝取」に通じる、と言ってこの段を引くが、これは当たらない。〕
【古事記本文】こうして猿田毘古神を送って到着すると、鰭の広いもの、鰭の狭いものを、すべて追い集め、「お前たちは天つ神の御子にお仕えするか」と尋ねた。魚たちは皆、「お仕えいたしましょう」と申し上げたが、その中で海鼠だけが答えなかった。そこで天宇受売命は海鼠に、「この口め、返事をしない口だ」と言い、紐小刀でその口を裂いた。それで今でも海鼠の口は裂けている。このため、代々、志摩の速贄を献上する時には、猿女君たちに分け与えるのである。
【宣長の注釈】「於是」の下には、「天宇受売命」とあってほしい。「還到」の「還」は「罷」の誤りであろう。「まかりいたりて」と読むべきで、伊勢に到着したのである。その理由は後で説明する。〔もし本文どおり「還」なら、日向の都へ帰ったことになる。しかし、それでは筋が通らない。後に述べるとおりである。〕
【宣長の注釈】「鰭広物鰭狭物」は、「はたのひろもの、はたのさもの」と読む。〔広瀬大忌祭の祝詞に「毛能和支物、毛能荒支物、鰭能広支物、鰭能狭支物」とあることを根拠に、師はここも「き」の語を添えて読んだ。しかし「き」とするのはよくない。「ひろもの、さもの」とするのが、この語の文法である。この言葉は多くの祝詞に出るが、いずれにも「支」の字はない。広瀬祭の一例だけにあるのは、理解しがたい。〕魚の大きいもの、小さいものをいう古い雅語である。〔獣を「毛和物、毛麁物」という例が、後に出る。〕鰭については、すでに述べた。〔『伝』十四の六十七葉。〕『万葉集』巻二十、三十二丁に、「鵜川立て取らさむ鮎のしが鰭は、我にかき向け思ひし思はば」とある。鵜飼でお捕りになる鮎、その鰭をこちらへ向けて送ってください。私を思ってくださるのなら、という歌である。〔第三句は「鮎の鰭は」の意味で、「しが」は「それが」というようなものだ。〕これも、魚について鰭を中心にしていう言い方である。『日本書紀』には「鰭広、鰭狭」、祈年祭の祝詞には「青海原に住むものは、鰭の広いもの、鰭の狭いもの」、春日祭の祝詞には「青海原のものは、鰭の広いもの、鰭の狭いもの」とある。このほか、龍田風神祭、平野祭、鎮火祭、道饗祭、鎮御魂祭、遷却祟神などの祝詞にも同じ言葉がある。『童蒙抄』には、「海原の底まですめる月影に数へつべしや鰭のせば物」という古歌を引き、「鰭のせば物」とは小さな魚だとある。海の底まで澄んで照らす月の光で、小さな魚まで数えられるだろうか、という歌である。〔「さ」は「せば」の縮まった形なので、「せば物」も同じだ。〕
【宣長の注釈】「追い集める」は、魚だから「追う」と言ったのである。〔魚は、あちこちから追い寄せて集めるからだ。〕海神の宮の段に「海の大小の魚を呼び集めて尋ねた云々」とあり、『日本書紀』の同じ段にも、「鰭の広いもの、鰭の狭いものをことごとく呼び集めて尋ねた」とある。
【宣長の注釈】「天神御子に仕え奉るか」とは、皇孫命のお食事の材料になるかどうかを尋ねたのである。『万葉集』巻十六、三十丁の、鹿のために痛みを述べる歌に、「さ男鹿の来立ち嘆かく、頓に我は死ぬべし、大君に我は仕へむ云々」とある。牡鹿がやって来て嘆くには、私はただちに死んで大君にお仕えしよう、というのである。また、蟹のために痛みを述べる歌に、「葦蟹を大君召すと、何せむに我を召すらめや云々」とある。葦の間の蟹である私を大君がお召しになるというが、何のためにお召しなのだろう、というのである。これらも、御贄になることをいう。
【宣長の注釈】「諸魚」の「諸」は「もろもろの」と読むべきである。〔「かたへの」と読むのは誤りだ。〕
【宣長の注釈】「海鼠」は、『和名抄』に、「崔禹錫の『食経』によると、海鼠は蛭に似て大きいものだ。和名は『こ』。日本の『式』では『熬』を添えて『いりこ』という」とある。〔今では「なまこ」「くしこ」「きんこ」などの名もある。〕『内膳式』の、天皇のお食事に用いる一か月の料の中には、「熬海鼠八斤四両」、また「海鼠腸四升五合」などが見える。
【宣長の注釈】「此口乎」の、このような所の「乎」は、「余」と言うようなもので、呼びかけの語である。その例は前に出た。〔『伝』五の六十四葉。〕
【宣長の注釈】「紐小刀」は「ひもがたな」と読む。〔「紐」は諸本で「細」に誤り、真福寺本では「劔」に誤る。ここでは、訂正した延佳本に従った。〕この刀は海神宮の段にも見え、中巻の玉垣宮の段には「八塩折の紐小刀」とある。『日本書紀』では「匕首」と書く。〔『史記』刺客伝云々、その『索隠』には、「匕首は、劉氏が短剣というもの。『塩鉄論』では長さ一尺八寸とする云々」とある。〕『和名抄』では、大刀を「たち」、小刀を「かたな」とする。〔大刀と「かたな」については、『伝』九の三十六葉で述べた。〕「かたな」は片刃の小刀である。「紐」というのは、懐に帯びて下帯へ差すための名である。先の玉垣宮の段の小刀は、ひそかに天皇を刺し申し上げるためのものなので、必ず懐へ隠していたはずだ。〔『日本書紀』にも「この匕首を懐に帯びてお出かけになった云々」とある。〕倭建命の段にも「剣を懐に納めてお出かけになった」などとある。ここでも宇受売命は女性なので、懐へ帯びていたのだろうか。
〔ある人は、「今の脇差は、昔は『脇差の刀』といって長さ六、七寸ほどで、懐に隠して差すものだった。脇の方へ寄せて差すので脇差という。用心のため隠し差して身を守る刀なので、『守刀』ともいう。東山殿のころから、下部の者などが外へ見せて腰に差し始めたと見える。今の脇差は形が大きく変わった」と言った。この中古の脇差の刀は、上代の紐小刀が伝わったものであろう。〕ただし、この場合は、海鼠が小さく、その口を裂くためなので、小刀を用いたというだけかもしれない。ここに海鼠の話を記したのは、仕えるか仕えないかには関係なく、ただその口が裂けている由来を語ったのである。
【宣長の注釈】「是以」は、先の「鰭の広いもの、鰭の狭いものを追い集めた云々」を受ける。〔海鼠の出来事にはつながらない。〕
【宣長の注釈】「御世」は、「御々世々」と重ねてあったものが脱落したのであろう。『旧事紀』には「御世御世速贄」とある。
【宣長の注釈】「島」は志摩国である。〔『旧事紀』に「島之」の二字がないのは、作者が勝手な考えで省いたか、後に脱落したのであろう。それなのに『旧事紀』に従い、『古事記』の「島」を「御世」の二字の誤りとするのはよくない。その理由は後で述べる。〕
【宣長の注釈】「速贄」。『和名抄』には、「『唐韻』によると、苞苴は魚肉を包んだもの。『日本紀私記』では『おほにへ』、俗に『あらまき』という」とある。〔苞苴の注では魚肉を包むというが、「にへ」は魚肉に限らない。〕『日本書紀』神武巻、人名の読みの注には、苞苴を「にへ」とする。「にへ」は「にひあへ」の縮まった形である。〔このことは『伝』八の六葉、「大嘗」の所で述べた。〕もとは新しい物を神や人にふるまい、自分でも食べることから出た語だ。〔「苞苴」「贄」などの文字は後のことで、「にへ」の本来の意味からは遠い。〕そして朝廷へ献上する御贄を、「おほにへ」という。〔中巻に「大贄」とあり、『書紀』仁徳巻でも苞苴を「おほにへ」と読むのは、天皇へ献上するからだ。また、大嘗を「おほにへ」というのは、名の起こりは一つだが、事柄は別である。〕御贄は、御食津国々からさまざまな土地の産物を献上するものだ。〔師は、御食津国とは天皇のお食事の御贄を献上する国で、「食国」とは異なる、と言った。〕『内膳司式』には、「諸国が御贄を献上する云々。右の諸国の献上物は、いずれも前の規定に従い、贄殿へ納め、天皇の食事に用いるために備えよ」とあり、品物も詳しく挙げる。〔『西宮記』には、「贄殿は内膳の中にある。大宰府と諸国が献上する御贄を納め、お食事に備える」とある。〕
速贄は、初物をいうのであろう。「速」と「初」は意味が通う。〔「はつ」は、そのまま「はやつ」ということかもしれない。〕今も初物を「走り」というのは、早いという意味である。〔あるいは、決まった時期よりも早く献上する物だろうか。何事も早くできた物を特に賞することは、今も昔も同じだろう。『内膳式』の、「五月五日、山科の園から早瓜一担を献上する」というたぐいかとも思うが、やはり初物であろう。〕この名は、ここ以外では、古い書物にまだ見当たらない。源俊頼朝臣の歌集には、「垣根には百舌鳥の早贄たててけり、しでの田長にしのびかねつつ」とある。百舌鳥が垣根に早贄を立てている。ほととぎすに堪えかねて、という歌である。〔訳注:早贄は、百舌鳥が獲物を枝に刺し留めたもの。末句の詳しい寓意は未確定。〕
志摩国は、特に御贄を献上した国で、『万葉集』巻六、三十九丁に「御食国志麻」とある。〔『神鳳抄』には、この国に「贄島」という所もある。〕巻十三、五丁には、「御食つ国、神風の伊勢の国」とある。〔志摩は伊勢のうちである。〕今の都になってからも、『日本三代実録』元慶六年十月二十五日条に、「志摩国の年貢の御贄四百三十一荷を、近江・伊賀・伊勢などの国に、駅伝によって献上させた」とある。『内膳式』には、「諸国の献上する御贄、旬料云々。志摩国の御厨は、生の鮑と巻貝を、九月から翌年三月まで、月ごとに上旬と下旬に各二担。味漬・腸漬・蒸鰒・玉貫・御取・夏鰒などを、月ごとに計五担。雑魚十三担。〔いずれも徭丁が運んで献上する。〕云々。節料云々。志摩国は、〔正月元日と新嘗会の二つの節日に各八担。正月七日・十六日・五月五日・七月七日・九月九日の五つの節日に各三担。〕年料云々。伊勢国は、〔鯛の干物二担と酢二十甕を二度。鮎の鮨は二担・四壺を二度。蠣、磯蠣。〕志摩国は、〔藻、海松。〕」とある。また『主税式』には、「志摩国で供御の贄を取る海女は三十人云々」と見える。〔この国から大神宮へ御贄を献上することも後の世まで絶えず、伊勢の書々に見え、今も残ることが多い。〕
【宣長の注釈】「猿女君たちに与える」。このことは、上代には慣例だったのが、少し後には途絶えたのであろうか。ここ以外の書物には見当たらない。〔ただし、実際には行われていても、記録から漏れただけかもしれない。〕先の「還到」は「罷到」の誤りで、そこから「その口を裂く」までは伊勢国での出来事である。〔もし本文どおり「還到」なら、日向に帰った後のことである。そうであれば、猿田毘古神を送ったこととはまったく関係がなく、別に書き起こすべきである。送ったことに続けて述べるのは、送って伊勢に到着し、その国でのことだからだ。〕そのため、その土地の志摩の速贄を献上する時、分け与える慣例になったのである。
〔もし『旧事紀』に従い、「島」を「御世」の二字の誤りとするなら、この速贄はどこの国から献上したのだろうか。その献上する土地をどことも言わず、ただ「代々の速贄」と言うはずがあろうか。だから、ここも必ず「島」でなければならない。志摩はもと伊勢のうちで、島々の多い地域を分けて一国としたものであり、後までも伊勢に付属する国だった。ここでいう島も伊勢の海の島で、つまり志摩国である。〕こう考えてこそ、この段の意味は明らかになる。「給う」とは、その中を分けて与えるのである。〔全部を与えるというのではない。〕
【古事記本文】こうして天津日高日子番能邇邇芸能命は、笠沙の岬で美しい女性に出会った。「誰の娘か」とお尋ねになると、「大山津見神の娘で、神阿多都比売、別名を木花之佐久夜毘売といいます」と申し上げた。「神阿多都比売」の神名と、「佐久夜毘売」の五字は音を表す。さらに、「お前には兄弟がいるか」とお尋ねになると、「姉の石長比売がいます」と申し上げた。そこで、「私はお前と夫婦になりたい。どうだろう」と仰せになると、「私からは申し上げられません。父の大山津見神がお答えいたしましょう」と申し上げた。
そこで父の大山津見神へ求婚の使いを遣わすと、大いに喜び、姉の石長比売も一緒に、台に載せる数多くの贈り物を持たせて差し出した。しかし姉はたいへん醜かったので、見て恐れ、送り返し、妹の木花之佐久夜毘売だけを留め、一夜をともにして夫婦となった。
大山津見神は、石長比売を返されたことをたいへん恥じ、言葉を送った。「私が娘二人を並べて差し上げたのは、石長比売をお使いになれば、天つ神の御子の命は、雨が降り風が吹いても、石のようにいつまでも堅く揺るぎなくあってほしい〔訳注:本文の「雪」は、後の宣長の注に従い「雨」と読んだ。〕、また、木花之佐久夜毘売をお使いになれば、木の花が栄えるように栄えてほしい、と誓約して献上したのです。ところが、石長比売を返して木花之佐久夜毘売だけを留められた。それで、天つ神の御子のお命は、木の花のようにはかなくなるでしょう。」「宇気比弖」の、「宇」以下の四字と、「阿摩比能微」の五字は音を表す。このため、今に至るまで天皇たちの御命は長くないのである。
【宣長の注釈】「遇麗美人」は、「かほよきをとめのあへるに」と読むべきだ。これが古い雅語の文法である。〔近世なら「美人に」と言う所だが、雅語はそうではない。「美人に会う」なら、こちらから美人に会う。「美人会う」「美人の会う」なら、美人のほうから出会ってくる。「に」のあるなしで、こちらと向こうの違いが生じるのだが、どういうわけか雅語では、一般にこの場合「に」を用いない。以下に例を挙げる。〕
『万葉集』巻十三、二十三丁の「心しおれて、つまが出会ったと、人が告げた」の意の句がある。〔「妻は」も、「妻の会う」の意味だ。〕『古今集』春の部の詞書には、「志賀の山越で、大勢の女が出会ってきたので」とあり、『伊勢物語』には、「宇津の山に着いて云々、修行者が出会ってきた」とある。『拾遺集』と『六帖』の伊勢の歌には、「花が散ったか散らないか聞きたいものを、昔いた里の花を見て帰ってくる人が、ここへ行き会ってくれたらよいのに」とある。〔「人も」も「人の会う」という意味である。『忠見集』に、「云々、行く道で知人が出会ってきて」、『兼盛集』には、「旅をして行く間に、盗人が出会ってきた」、『赤染衛門集』には、「同じ道に狐が出会ってきたのを」、また「与佐の山に、こちらが気後れするほど立派な男が出会ってきたので云々」とある。後のものだが、『宇治拾遺物語』にも、「白髪の武士が一騎、出会ってきた」などといい、『徒然草』でさえ、「細道で、馬に乗った女が行き会ったが」などという。そのころまでも、古い言い方を失っていなかったのである。〕こうした例で理解すべきだ。道などで出会うことは、すべてこのようにいう。〔近世に「誰々に会う」と言うようになったのは、漢文の訓読から移ったのであろう。漢文は「遇」の字が先にあり、返って読むので、「に」と読む習わしになった。今の『古事記』なども、「遇」を先に置くのは、漢文の文法に従っている。〕
中巻、軽島宮の段の御歌の「逢はしし乙女」、下巻、若桜宮の段の御歌の「木幡の道に逢ふや乙女」も、乙女のほうから出会ってくるので、同じである。〔乙女にお会いになるという意味ではない。〕「麗」を「かほよき」と読むのは、『万葉集』巻十四、十三丁に「可抱与吉」とあり、『日本書紀』でも、「麗」「美麗」「艶妙」「容姿麗美」などを、いずれもそう読む。「美人」は、『古事記』に「嬢子」「嬢女」「媛女」などと書くのと同じで、「をとめ」と読むべき例である。
【宣長の注釈】「大山津見神の娘」。これは、どこであれ、この神を祭る社の御霊が、生身の若い男に姿を変え、女性と結婚してもうけた娘なのであろう。その例は、先の「淤迦美神の娘」の所〔『伝』十一の七十二葉〕で述べたとおりである。
【宣長の注釈】「神阿多都比売」の名は、「神」はいつもの美称、「阿多」は地名で、『和名抄』の薩摩国阿多郡阿多が、それであろう。
【宣長の注釈】「木花之佐久夜毘売」。前には、大山津見神の娘に「木花知流比売」という名もあった。名の意味は、「木花」は文字どおりである。「さくや」は、開光映(さきはや)の「きは」を縮めて「か」とし、それを通わせて「く」としたものだ。〔若子を「わくご」というたぐいである。〕光り映えることを「はや」というのは、先の下照比売の歌の「あなだまはや」の「はや」と同じである。〔このことは『伝』十三の七十葉に詳しい。〕多くの木の花の中でも桜は特に美しいので、咲き光り映えるという名を特に負って「さくら」という。「や」と「ら」は横に通じる音だ。〔まだ舌のよく回らない幼児は、ラリルレロをヤイユエヨといい、桜も「さくや」という。これは自然に通う音だからである。この神名も、「庭つ鳥、かけ」「野つ鳥、きぎし」の例として、そのまま「木の花である桜」とすることもできよう。しかし、「木花知流比売」という名もあることと合わせて考えても、「さくや」はやはり咲き光り映える意味だ。もし桜そのものなら、後の「木の花の栄えるように」「木の花のようにはかなく」も、直接「桜の栄えるように」「桜のようにはかなく」とあるはずだ。そうでないのは、この「さくや」が花の名ではないからである。〕
だから、この名も、どの花とも限定せず、ただ木の花が咲き光り映える意味だが、主として桜の花によって言ったのであろう。少し後には、「木花」と言って桜そのものを指す例もある。『古今集』序の歌の「難波津に咲くや木の花」がそれだ。〔これも、どの花とも定めない、ただの木の花とすることもできそうだが、そうではない。梅の花とするのも根拠がない。「冬ごもり、今は春べと」という言葉を誤解し、当て推量で決めた誤りである。その説にとらわれ、この神名の木花まで梅だという説は、ますます論じるにも足りない。〕また、『万葉集』巻八、二十丁、藤原朝臣広嗣が桜の花を娘子に贈る歌に「此花乃云々」、返歌にも「此花乃云々」とある。これは贈る花を指し、〔文字どおり、〕「この花」というのだが、桜を「木の花」ということも兼ねるように聞こえる。さらに後には、ただ「花」といえば、もっぱら桜を指すようになった。〔それも自然と上代の心にかなう。〕
この箇所は、『日本書紀』には、「吾田長屋の笠狭の岬に到着した云々。皇孫はそこにとどまって住んだ。その国に美人があり、鹿葦津姫といい、また神吾田津姫、木花之開耶姫ともいった。皇孫はその美人に、『お前は誰の娘か』とお尋ねになった。『私は、天つ神が大山祇神と結婚して生まれた子です』と答えた」とある。〔ただ「その国に美人がある」だけでは、「皇孫がこの美人に尋ねた」と言うのは唐突に聞こえる。どのような機会にお尋ねになったのか。また「天つ神が大山祇神と結婚した」は理解しがたく、「女」の字が落ちたのであろう。そうなら、この伝えでは、大山津見神の娘の子となる。〕
【宣長の注釈】「兄弟」は、ここは「はらがら」と読むべきだ。〔「いろねいろど」と読むのはよくない。〕
【宣長の注釈】「答白我」の「白」は、諸本では「曰」とするが、ここでは真福寺本に従った。前後の例がいずれも「白」だからである。
【宣長の注釈】「姉」は、『和名抄』に、「『爾雅』によると、女性で先に生まれた者を姉という。女兄の和名は『あね』」とある。
【宣長の注釈】「石長比売」の名は、後の誓約の言葉にあるように、常磐・堅石のように長く久しい意味である。二人の娘の名の石も木の花も、主として山に属するもので、父神に縁がある。『日本書紀』の一書には、「云々、天孫はまた、『ひときわ高い波の穂の上に八尋の殿を建て、手玉を美しく鳴らして機を織る乙女は、誰の娘か』とお尋ねになった。『大山祇神の娘たちです。姉を磐長姫、妹を木花開耶姫といい、また豊吾田津姫ともいいます』と答えた」ともある。
【宣長の注釈】「目合」は「まぐはひ」と読むべきだ。この語については前に述べた。〔『伝』十の三十五葉。〕
【宣長の注釈】「私からは申し上げられない云々」は、先に建御雷神が尋ねた時、大国主神が、「私からは申し上げられない。子の八重事代主神が申し上げよう」と答えたのと同じだ。ここでは特に、父の意向に従うのはもっともである。『日本書紀』の一書には、「皇孫は後に海辺へお出かけになり、一人の美人を見た。『お前は誰の子か』と尋ねると、『私は大山祇神の子で、神吾田鹿葦津姫、また木花開耶姫といいます』と答えた。そこで父の大山祇神がいると申し上げ、また姉の磐長姫もいると答えた。皇孫は、『お前を妻としたい。どうだろう』と仰せになった」とある。
【宣長の注釈】「乞遣」は、「こひにつかはしき」と読むべきだ。〔「こひつかはし」と読むのはよくない。〕
【宣長の注釈】「副」は、「並べて」というような意味である。中巻、黒田宮の段に「二柱、相い副いて」、明宮の段の御歌に「い副ひをるかも」とあり、『続日本紀』巻三十の歌垣の所には、「男女が並んで組を分け、ゆっくり進み、歌に、『乙女らに男たち添ひ云々』と歌った」とある。これらも皆、同じように並び合うことを「そふ」という。〔世に夫婦となることを「誰々と添う」というのも同じだ。だから、ここも、木花之佐久夜毘売を主にし、その付属として添えるという意味ではない。「副」の字にとらわれてはならない。〕
【宣長の注釈】「百取机代の物」の「百」は、数がたいへん多いことをいう。〔必ず百に限定するのではない。〕「取」は、『書紀』神功巻の「荷持田村、荷持は『のとり』という」の「持」と同じである。〔『書紀』には「百机」とあるが、これは机の数を言わず、机に置く物の数が「百取」なのだ。『私記』が「百人で一つの机を持ち上げる。たいへん高く大きいことをいう」とするのは、はなはだしい誤りである。〕
「机」は「坏居(つきすゑ)」である。〔「きす」を縮めると「く」となる。〕飲食の器を置くことからついた名だ。『和名抄』には、「『唐韻』によると、机は案のたぐい。和名は『つくゑ』」とある。〔坏居をもとにする。『和名抄』文書具には、「書案、俗に『ふみつくゑ』」ともあり、坐臥具には「凡、和名『おしまつき』」ともある。「おしまつき」は「押坐几」が縮まった名で、脇息のたぐいである。古い書物では、案・几・机の字を通じて用い、いずれも坏居の意味である。〕「代」は、『書紀』崇神巻の「倭国の物実、物実は『ものしろ』という」の「実」で、何であれ、その物自体を指す。「机代」は机に置くさまざまな物である。〔今の「代物」という語は、これによくかなう。〕贈り物を祝詞で「礼代」というのも同じだ。
この「礼代」を出雲国造の神賀詞では「礼自利」とする。師の『考』は、「自利」は「しるし」の縮まったものだという。そうなら「しろ」も、もとはその意味で、「灼然」などという「しろ」と同じである。〔「しるし」と「しろし」は同じだ。〕それと明らかに現れた物をいい、「社」「御船代」「御樋代」のたぐい、また苗代などの「代」もここから出た。物の代わりをいうのも、ここから転じたのである。『貞観儀式』と『臨時祭式』の鎮魂祭条に、「大膳職と造酒司は八代物を供える」とある。〔品目は『大膳式』『造酒式』に見える。〕遷却祟神の祝詞に、「云々、横山のように、八物として、満ち足りるほど置いて奉る」などとある。この「八」は、いずれも「凡」の誤りである。〔師が八物を「やとりのもの」と読んだのは、誤字だということを考えなかったためだ。〕
『書紀』保食神の段には、「品々はことごとく備わり、それを百机に積んで饗した」、『万葉集』巻十六、二十九丁には、「高坏に盛り、机に立てて」、『大神宮儀式帳』には、「御饌を奉る机二具」などとある。〔『書紀』孝徳巻には「兵代の物」「草代の物」なども見える。『続日本後紀』巻一の、出雲国造が神賀を奏する時の献上物に「倉代物五十荷」とあるのは、『臨時祭式』の「御贄五十昇」と同じ物と読めるので、置座に置く物をいい、机代の物と同じであろう。『大神宮儀式帳』の「机代二百十前」「机代七十一前」などは、机の代わりという意味で名づけた一つの器の名で、別である。〕ここで、このように献上するのは、婿を迎える贈り物である。下巻、穴穂宮の段で、天皇が大長谷王子のため、大日下王の妹、若日下王を迎えさせた時、大日下王は、「恐れながら大命に従い、差し上げます云々」と申し上げ、妹の贈り物として、押木の玉縵を持たせて献上した、とある。
【宣長の注釈】「奉出」は「たてまだしき」と読む。〔「き」はいつもの語尾である。〕『類聚国史』天長四年十一月、柏原山陵へ告げる詞に、「云々、使いを遣わし、奉り出すと申し上げたことを」とある。『続日本後紀』には、承和三年五月の宣命に、「云々、今奉り出すことを」、同五年八月の北山神を祭る詞に、「礼代の幣を清めて捧げ、献じ出すことを」、同八年五月の宣命に「奉り出すことを」、同六月の宣命に「奉り出すこのことを」、嘉祥三年二月の宣命に、「云々、使いを遣わし、奉り出すこのことをお聞きになって」とある。『日本三代実録』貞観十八年五月の宣命に、「云々、使いを遣わし、申し上げて奉り出したまう」、元慶元年六月、渤海国の使いへ与えた太政官の宣詞には、「かの国王はこの制に背いて、使いを奉り出した」と見える。
文字の例は、『書紀』の「奉遣」〔巻十四の十四丁、巻十七の二丁、巻二十四の一丁〕、「遣」〔巻十九の二十四丁〕、「奉」〔巻十七の十八丁〕、「遣」〔巻十九の九丁・三十二丁〕、「奉施」〔巻三十の十四丁〕、「頒」〔巻十九の二十一丁〕、『万葉集』の「奉」〔巻四の三十七丁、巻十の五十八丁〕、「奉有」〔巻十一の二十丁〕などである。『藤原高光集』にも、「忠清の右衛門督が、五節の舞姫をたてまだした時云々」「その中に入れて、たてまだすとして云々」と見える。『貞観儀式』の山陵へ幣を奉る儀に、「尊い先へは献出といい、それ以外へは奉出という」とあるのは、文字の使い分けである。
〔『続日本紀』巻三十四の宣命の「歓奉出礼波」、『三代実録』巻三十一の「奉出流」は、「まだす」とは読みにくい。そこで他の奉出も、すべて「たてまつる」と読むべきかとも思う。しかし、先に引いた宣命に「奉出須」「奉出世利」とも書くので、そうではない。『万葉集』巻二の詞の「奉入歌」、『祝詞式』の「斎内親王を奉入する時」、天長五年の宣命の「大神の御杖代として奉入した」、こうした奉入は「たてまつる」と読むほかない。「出」と「入」は反対だが、同じ意味になることも多い。参出と参入が同じであるように、奉出も奉入も意味は同じなのだ。〕
「まだす」は、『万葉集』巻十五、三十六丁に「まつりだす、形見のものを」とあるので、〔師は、この「須」は「流」の誤りだろうと言ったが、そうではない。「太」も必ず濁音を表す仮名である。〕「まつりだす」を省いた語であろう。〔そうなら奉出を直接「まつりだす」と読んでもよさそうだが、この一例だけでそう読んではならない。〕『万葉集』巻二の長歌の「遣使御門之人毛」の読みは誤りで、この遣使は必ず「つかはし」と読む所だ。このほかでも、「まだす」を「つかはす」の古語と考え、「遣」をむやみに「まだす」と読むのはすべて誤りである。「まだす」は「奉る」の意味なので、敬う先へ送り出す場合以外には用いない。
『日本書紀』の一書には、「皇孫は大山祇神に、『お前の娘を見た。妻としたい』と仰せになった。そこで大山祇神は、二人の娘に百机の飲食物を持たせて奉った」とある。
【宣長の注釈】「甚凶醜」は、「いとみにくき」と読む。〔「甚」を諸本で「其」とするのは誤りで、ここでは真福寺本に従った。師は「しこめける」と読んだが、どうだろうか。〕『書紀』神武巻には、「大醜は『いなみにく』という」と見える。中巻、玉垣宮の段には、「弟王二柱は、たいへん醜かったため、故郷へ送り返した」とある。
【宣長の注釈】「見て畏れ」。この言い回しは、いずれも恐ろしいものを見た所に用いる。だから、石長比売の顔も、ただ普通に醜いというだけでなく、恐れおののくようなものだったのだろうか。
【宣長の注釈】「弟」は「おと」と読むべきだ。〔「いろど」と読んでよい場合もあるが、場所による。〕『和名抄』には、「『爾雅』によると、男子で後に生まれた者を弟という。和名は『おとうと』」とある。〔しかし、「おと」は男女を通じていう呼び名である。また、もとはただ「おと」と言ったものを「おとうと」というのは、夫を「をうと」、妹を「いもうと」というたぐいだ。「うと」はいずれも人で、弟人・夫人・妹人である。このように「人」を添えるのは後のことだ。〕また、「『爾雅』によると、女子で後に生まれた者を妹といい、和名は『いもうと』」とあるが、古くは、姉に対して後から生まれた者をいう時は、女も「弟」といい、「妹」とはいわなかった。『古事記』の例はすべてそうなので、注意して見るべきだ。中古までも同じだった。
〔後から生まれた女子を「妹」というのは、男の兄に対する呼び名である。姉に対しては「弟」とだけいい、「妹」ということはなかった。それが後世、姉に対しても「妹」とだけいい、男以外を「弟」といわなくなったのは、漢籍の「姉妹」という表現を見慣れた影響で、わが国の古い呼び方に背く。『和名抄』なども、ただ漢風に従って述べたものだ。実際には中古までも古代と同じで、姉に対しては「弟」と言った。『古今集』雑上の詞書の「妻の弟を妻としていた人に云々」、『源氏物語』花宴巻で、朧月夜君のことを「女御の御おとうとたちであろう」などという例がそれだ。姉に対して妹ということはなかった。〕
【宣長の注釈】「一宿」は「ひとよ」と読むべきである。
【宣長の注釈】「為婚」は、「みとあたはしつ」と読むべきだ。前に、「そこで八上比売とは、先の約束どおりみとあたわした」とある。語の意味は、そこで述べた。〔『伝』十の六十七葉。〕『日本書紀』には、「皇孫は、姉は醜いとして召さず、帰らせた。妹には国中に並ぶもののない美しさがあったので、引き留めて愛された。すると、一夜で身ごもった」とある。
【宣長の注釈】「白送言」は、「まをしおくりたまひけることは」と読む。〔「送」は「贈」の意味である。〕
【宣長の注釈】「二並」は、「ふたりならべて」と読む。『万葉集』巻三、五十五丁に、「水鴨なす二人並び居」、巻五、五丁に、「にほ鳥の二人並び居」などとある。いずれも、水鳥のように二人が並んでいることをいう。〔さらに考えると、「二人」とせず「二」とだけ書くのは、『書紀』応神巻の御歌に「淡路島、いや二並び、小豆島、いや二並び云々」、『万葉集』巻九に「二並ぶ筑波の山」などとあって、物が二つ並ぶことを「ふたならび」というので、人が二人並ぶ場合もそう言ったのだろうか。そうなら、ここもそのまま「ふたならび」と読むべきか。しかし、人についてそう言う例をまだ見ないので、ひとまず先のように読んだ。〕
【宣長の注釈】「立奉」のように、「たてまつる」に「立」を添えて書く例は、前〔『伝』九の二十七葉〕で述べたとおりである。〔師は「立」を「出」の誤りとし、「いだしまつる」と読んだが、それは用例を考えなかったためだ。〕
【宣長の注釈】「使……者」は、「つかはてば」と読む。〔「ば」は濁る。〕「お使いになったならば」という意味である。「つかはし」は「つかひ」を延ばした形で、敬う言葉にもなる。『書紀』推古巻の御歌の、「もっともなことだ。蘇我の子らを大君がお使いになるらしい」に、その例がある。『続日本紀』天平元年八月、正三位藤原夫人を皇后に立てる詔には、「かれこれ六年を、試みてお使いになり、この皇后の位をお授けになる」とある。『書紀』安康巻では、天皇が大泊瀬皇子のため、大草香皇子の妹、幡梭皇女を求婚させた時、大草香皇子が、「云々、今、陛下は妹の醜さを嫌わず、後宮に加えてくださるとは、たいへん大きなお恵みです」と答えた、とある。なお、玉垣宮の段の「この二人の女王は、清い民なので、お使いになるのがよい」という所とも考え合わせるべきである。〔『伝』二十四の六十葉。〕
【宣長の注釈】この「天神御子」は、邇邇芸命だけでなく、末々の子孫までを含めて申し上げる。『書紀』の「生まれる子が長寿である」と同じだ。『万葉集』巻二、三十三丁にも、「大君の御命は長く、天足らしたる」とある。
【宣長の注釈】「雖雪零風吹」の「雪」は、「雨」の誤りである。〔旧版本、ある一本、『旧事紀』旧版本などはいずれも「雪雨」とする。ここでは、ひとまず真福寺本と延佳本に従った。しかし「雪」は疑わしい。その理由を次に述べる。〕それで「あめ」と読んだ。この言葉は、木の花が雨風で衰え落ちるのと対比していうので、必ず雨でなければならない。木の花は春のもので、雪が降る時のものではなく、雨と風とに傷つくからである。
〔木や草を枯らす物というのなら、雪よりも霜というべきだ。それで「霜」の誤りともいえそうだが、そうではあるまい。また、諸本の「雪雨」を採らないのは、雪が疑わしいことは先に述べたうえ、風一つに並べて、雪と雨の二つを挙げるべきではないからだ。風が一つなら、前も一つなのが文章のならいである。まして古語は、このような所では必ず調子がよい。もと「雨」だったのを「雪」と誤った本に、別の「雨」とある本を見合わせ、勝手にその字まで加えたのだろうか。いずれにしても、「雪」も「雪雨」もよくなく、必ず「雨」であるべきだ。〕
石が変わらないことをいうので、「雨が降り風が吹いても変わらない石のように」という順で、「如」は「雖」の前にある意味だ。「あめふりかぜふけども」と読む。〔「ふけども」を「ふくとも」とし、「如」の位置を字面どおりに受け取ると、意味が違ってしまう。〕『書紀』の一書には、「妹のほうは、風雨に遭っても、その幸いは揺るがない」とある。
【宣長の注釈】「恒如石」は、「とこしへなるいはのごとく」と読む。「恒」は、雨が降り、風が吹いても、〔衰え落ちずに、〕変わらないということで、前の言葉につながる。〔これも「風ふけども」で切って、「変わらない石」とだけ受け取ると違う。〕
【宣長の注釈】「常堅不動」の四字は、「ときはに、かきはに」と読む。「ときは」は「とこいは」が縮まった語である。〔だから普通「常磐」と書く。「こい」は「き」に縮まる。〕『万葉集』巻六に、「人々の命も私も、吉野の滝の常磐のように、いつまでも変わらずありたいものだ」とある。〔「床」は借字である。〕「かきは」は「かたきいは」の「た」を省いたものだ。〔「かた」を縮めても「か」となる。「い」は「き」の母音に含まれるので、省けるのは当然である。〕『書紀』雄略巻には、「堅磐は『かたしは』という」ともある。ここで「常堅」とだけ書き、両方とも「石」を省いたのは、すでに上に「如石」とあるからだ。〔これは漢文の字面を考えた書き方である。〕「不動」を添えたのも、意味を表すためだ。
〔延佳本には「常石堅石不動」とあるが、これは『旧事紀』の形に従い、二つの「石」を勝手に加えたものだ。諸本にはない。真福寺本には「常」の上に「石」が一つあるが、先の「石」から紛れて生じた余字であろう。もし「常」の下にあったものを誤って上へ書いたのなら、「堅」の下にもあるはずだが、そこにはないので、そうではない。師は「不動」を別に「うごかず」と読んだが、古い雅語とも思えない。後の宣命や歌に「うごきなき」などはあるが、古語とは聞こえない。だから、ただ意味を添えた文字と見るべきだ。〕
『万葉集』巻三、二十三丁には「常磐なす石室」、巻五、十丁には「常磐なすかくしもがもと」、巻十一、九丁には「常磐なる命にあれや」と歌う。祈年祭の祝詞には、「皇御孫命の御代を、長い御代として、堅磐に、常磐に、祝福申し上げる」、春日祭の祝詞には「常石に、堅石に、祝福し」、出雲国造の神賀詞には、「天皇命の御代を、長い御代として、堅石に、常石に、祝福申し上げる」とある。ほかの祝詞にも、この言葉は多く見える。
前に「石のように」といい、さらに「ときは、かきは」と続けるのは、石という言葉がくどく重なるようだが、広く言い慣れた祝福の言葉なので、普通の言い方である。『万葉集』巻六の、「春草は後には衰えやすい。岩のように常に変わらずいてください、尊いわが君よ」、月次祭と神嘗祭の祝詞の、「御命を長い御命として、神聖な磐の群れのように、常磐、堅磐に」も同じである。
【宣長の注釈】「佐久夜毘売」のここの「毘」は、諸本では「比」とするが、ここではある一本に従った。〔この名は、前後のどの箇所も「毘」とあり、「比」ではない。〕
【宣長の注釈】「如木花之榮榮」は、「このはなのさかゆるごと、さかえ」と読む。「さかえ」は、咲き光り映えることである。〔「きは」は「か」に縮まる。〕つまり神名の「さくや」と同じだ。〔前に述べた「さくや」の意味と考え合わせるべきである。「栄える」は、花をもとに他の物にもいう語だ。上巻の沼河比売の歌で、「朝日のゑみ栄え」と、朝日にも人の顔にもいう。その「ゑむ」と花の開くことを、どちらも「咲」と書くのも、栄えることが咲き光り映えることで、同じ意味だからである。〕『万葉集』巻二、三十五丁に「木綿花の栄える時に」、巻七、二十丁に「馬酔木のように栄える君が」、巻三、七葉に「青丹よし奈良の都は、咲く花が色鮮やかに照り映えるように、今が盛りである」などとある。「さかり」も、もとは「さき」を延ばした語で、咲き光り映えることをいうので、「栄え」と同じだ。
【宣長の注釈】「宇気比」は、前に出た。〔『伝』七の四十四葉。〕
【宣長の注釈】「此令」は、ひとまず「かかるに、いま」と読んだ。〔このような所で「此」というのは珍しい。「爾」に準じて「ここに」とも読めるが、それよりは「かかるに」と読むほうがよい。〕「かかるに」は、「このようであるのに」の意味だ。「令」は「今」の誤りであろう。〔『書紀』の「今はすでにそうでない」に相当する。〕
【宣長の注釈】「木花之」は、ここは「木の花のように」という意味だ。〔「何々の」と言って「何々のように」を意味する例は、古語に多い。〕
【宣長の注釈】「阿摩比能微」の「微」を、諸本がそろって「徵」とするのは誤りである。〔『古事記』に限らず、古い書物に「徵」を音仮名として用いた例はない。また「徵」の音は「チョウ」で、「チ」と読むのは宮・商・角・徵・羽などの場合だけなのに、どうして「チ」の仮名に用いられよう。〕『旧事紀』旧版本の「微」が正しいので、ここではそう改めた。
『書紀』には、「磐長姫は大いに恥じて呪い、『もし天孫が私を退けずに召してくださったなら、生まれる子は長寿で、磐石がいつまでもあるようであったろう。今はそうではなく、妹だけが召されたので、生まれる子は必ず木の花のように衰え落ちる』と言った」、また「磐長姫は恥じ恨み、唾を吐いて泣き、『この世の人々は、木の花がたちまち衰えるように、衰えて去るだろう』と言った。これが人々の命の短い由来である」とある。〔この呪いを石長比売自身の言葉とするのは、『古事記』と伝えが違う。〕これと照らして考えると、「あまひ」は、もろく、堅固でない意味と聞こえ、「あま」と同じ語である。〔ある説が「脆弱なこと」とするのは、そのとおりだ。〕
〔花がもろく衰え落ちることを「あま」という例は、まだ見つからない。しかし物が堅固でないのを「あまし」というのは、漢文でも『荘子』天道篇に、「車輪を削る時、ゆるやかならば甘くて固くない」、その注に「甘は緩いこと」などとある。今の俗語にも、「甘いことをいう」「甘い奴だ」などという。また、人が病気なく健康なのを「堅い」、病気で弱いのを「柔な」という。この「柔」も甘いに近い。空が晴れ、雨が降りそうな気配がまったくないのを「日和が堅い」、そうでないのを「甘い」という。これらはいずれも、もろく堅固でないことと意味が遠くない。幼児について「髪が固い」「髪が甘い」という言葉は、まさしくこの意味に当たる。〕
「甘」は「あまし、あまく、あまき」と活用するのに、ここで「ひ」というのは、その甘いありさまを表す語尾だろうか。〔ただし同じように活用する語に「ひ」とつく例は、ほとんど思い当たらない。あるいは、味の「あぢはひ」、業の「なりはひ」などの「はひ」が縮まったのか。〕別の意味があるのか、さらによく考えたい。〔先には、この「比」は濁って読み、「ぶる」と活用する「び」だろうと述べた。「荒い」を「あらび」というのと同じ形なら、意味はよく分かる。しかし、よく考えると、清音の「比」を用いたのは、その意味ではあるまい。「比」と「毘」を書き誤る例もあるので、そうもいえるが、「荒備」のたぐいには、『古事記』は「備」だけを用い、「毘」を用いる例は見えない。〕
『万葉集』巻五、三十八丁に「水の泡のような、はかない命も」とある。〔この「微命」は「あまきいのち」とも読むべきだ。〕巻六、四十三丁には「春の花のように、衰える日が早い」、巻七、四十三丁には「いとしい妻は花のようにはかない人だったのか。この山陰に遺灰を撒くと、消えてしまった」などと歌う。「のみ」は「だけ」で、代々の天皇がすべてそうであり、そうでない方はないだろうという限定である。
【宣長の注釈】「今に至るまで」は、この誓約の言葉の効き目が、遠い後の世まで及ぶことをいう。
【宣長の注釈】「天皇命」。このように「命」を添えてお書き申し上げる例は、出雲国造の神賀詞にも二か所あり、『続日本紀』の詔の中などにも見える。〔巻一、巻三など。〕三字を「すめらみこと」と読むべきだ。儀制令の『義解』には、「須明楽美御徳」とある。〔この音仮名は、外国の人に示すために書いたものと見え、めでたい文字を集めた結果、「御」などは清音・濁音さえ合わない。この字に従って「こ」を濁音にするのは誤りだ。この音仮名については『馭戎慨言』に述べた。〕「すめらのきみ」とも、〔『書紀』竟宴の歌に、「すめらみこと、すめらきみ」と歌う例もある。〕「すめ」「すめら」「すめらぎ」とも申し上げる。天皇ご自身も、私を意味する「朕」に「すめら」を添えて仰せになる。
〔『続日本紀』巻十の詔の、「高天原から天降った天皇の御代を始めとして」は、邇邇芸命をも天皇と申し上げるのである。「天皇」の字を当て申し上げたのも、たいへん古い時代からのことと見える。あるいは仁徳天皇などの御代に、和邇のような博士が定め申し上げたのだろうか。それは、中国の孔丘が『春秋』で、かの国王を「天王」と書くことなどをもとに、「皇」に「天」を冠し申し上げたのであろう。かの国でも、はるか後、唐の高宗の時、新たに「天皇」の号を立てたことがあったが、後までは続かなかった。ただ、わが天皇のこの称号こそ、真の道理にかなっており、天地の限り、縦にも横にも、時も場所もあまねく満たし、揺るがず変わることのない大御号なのである。〕
【宣長の注釈】「御命は長くない」。上代の天皇には、百歳をはるかに超えた方が数多くいらした。それは人の時代では長寿だが、神代に人の命がはるかに長かった時と比べれば、たいへん短いのである。この呪いの後、日子穂々出見命は「高千穂宮に五百八十年いらした」とあるが、それでも、なお長くないのである。同じ意味でも、「短い」とせず「長くない」というのは、天照大御神の皇統を継ぎ、天の日継をお治めになる天皇なのだから、御命は必ず長いはずなのに、という思いを含む。
〔『書紀』の「世の人の命が短い」も、人の時代の中で短命というのではなく、神代の長寿だった時と比べていう。『古事記』などは、天つ神の御子の命を呪っただけで、人々の命まで呪ったとはしない。しかし天皇の御命が長くない以上、天下のすべての人の命も、それに従って短くなるのは、もとより当然の道理なのだ。『書紀纂疏』が、「皇統も人民も短命なのは、変えられない定業による。どうして磐長姫の呪いによろうか」とするのは、まったく理解できない。神の御典を説くのに、古い伝えに従わず、根拠のない外国の説を信じるのは、どれほど迷った誤りであろう。万国の人の命が神代ほど長くないのは、もっぱらこの時の呪いによるのである。〕
【古事記本文】後に、木花之佐久夜毘売が参上して申し上げた。「私は身ごもり、今、出産の時になりました。これは天つ神の御子ですから、私だけでひそかに生むわけにはまいりません。それで、ご相談申し上げます。」すると、「佐久夜毘売よ、一夜で身ごもったというのか。これは私の子ではない。きっと国つ神の子だ」と仰せになった。
そこで、「私が身ごもった子が国つ神の子ならば、出産は無事に済まないでしょう。天つ神の御子ならば、無事に済むでしょう」と申し上げた。そして、八尋殿を建て、その中に入り、出入口を土で塗り塞いで戸のない状態にし、生む時に殿へ火をつけて出産した。その火が燃える最中に生まれた子は火照命で、隼人の阿多君の祖先である。次に生まれた子は火須勢理命。「須勢理」の三字は音を表す。次に生まれた子の御名は火遠理命、別名は天津日高日子穂穂手見命という。以上、三柱である。
【宣長の注釈】「参出」は、邇邇芸命のもとへ参上するのである。『万葉集』巻十八、二十七丁の「まゐで来し」、巻二十、五十二丁の「まゐでてにしを」などの例がある。〔「まうで」というのは、発音の便宜で崩れた言い方である。〕
【宣長の注釈】「臨産時」は、「子産むべき時になりぬ」と読むべきである。
【宣長の注釈】「佐久夜毘売」と名を呼び出し、嘲っていらっしゃるのである。
【宣長の注釈】「一宿哉妊」は、「ひとよにやはらめる」と読む。一夜で身ごもったのか、と嘲って仰せになるのである。『書紀』の一書に、「天孫は子らを見て嘲り、『美しいものだ。わが皇子は、喜びの知らせだけで生まれたのか』と言った」とあるのと、意味は同じだ。〔また「皇孫はまだ信じず、『天つ神であっても、どうして一夜で人を身ごもらせられようか』と言った」という伝えに従えば、「ひとよにやはらまむ」と読むべきだ。しかし、その意味なら「一宿妊哉」と書くはずで、「哉」が「妊」の前にあるのは、少し意味が違うのであろう。〕
『書紀』にはまた、「天孫は答えて、『もとより私の子だと知っている。ただ、一夜で身ごもったので、疑う者がいることを心配し、すべての人に、私の子であり、また天つ神は一夜で身ごもらせることができる、と知らせたかった云々。それで、前日には嘲る言葉を言ったのだ』と言った」ともある。これも一つの伝えであろうが、ここではそうではなく、本当に疑って仰せになったと見るべきだ。
『書紀』雄略巻には、「童女君は、もと采女であった。天皇が一夜をともにして身ごもり、三人の女児を生んだ。天皇は疑って養育しなかった云々。物部目大連は、『この娘子は、清らかな身と心で陛下に一夜お仕えしました。どうして軽々しくお疑いになるのですか。身ごもりやすい人は、褌が体に触れただけでも身ごもると聞きます。まして一夜をともにしながら、むやみに疑うとは』と申し上げた。天皇は大連に命じ、女児を皇女とし、その母を妃とした」とある。
【宣長の注釈】「産不幸」は、「うむことさきからじ」と読むべきだ。真福寺本と延佳本は、「産」の下に「時」を置く。それもよい。次の「幸」は「さきからむ」と読む。「幸」は、つつがなく平安であることをいう。『万葉集』巻五、三十一丁に「さきくいまして」、巻十三、十丁に「さきくいまさねば」とある。このほか、「幸」「真幸」の例はたいへん多い。
【宣長の注釈】「八尋殿」は前に出た。〔『伝』四の十八葉。〕「戸がない」というのは、土で塗り塞いだ状態をいうのであろう。〔『書紀』のどの伝えにも土で塗り塞ぐことはなく、ただ「無戸室」とある。無戸室といえば、必ず塗り塞いだ室で、今、俗に「むろ」というもののような形だろう。だから特には言わないのである。〕最初から出入りする口がまったくなかったとは、考えられないからだ。
【宣長の注釈】「土」は「はに」と読む。塗る土は、必ず粘土であるはずだからである。
【宣長の注釈】「塞」は「ふたぎ」と読む。このように塗り塞ぐのは、火を避けて外へ逃げ出す手段がないようにするためである。
【宣長の注釈】「方産時」は、「うますときにあたりて」と読むべきである。
【宣長の注釈】「以火著其殿」は、「そのとのにひをつけて」と読むべきだ。〔師が「火」をすべて「ほ」と読んだのは、一方に偏っている。〕外を塗り塞いで、内から火を放つのである。『書紀』には、「鹿葦津姫は怒り恨み、戸のない室を作って中へ入り、『私が身ごもったのが天孫の子でなければ、必ず焼け滅びるでしょう。本当に天孫の子なら、火も害することはできません』と誓い、火を放って室を焼いた」とある。また一書には、「私が身ごもったのが他の神の子なら、必ず無事ではないでしょう。本当に天孫の子なら、必ず無傷で生まれるでしょう云々」とある。別の一書には、「一夜で身ごもり、四人の子を生んだ。吾田鹿葦津姫は子を抱いて参上し、『天つ神の子を、どうして私だけでひそかに育てられましょう。それで、事情をお知らせします云々』と申し上げた」ともある。
【宣長の注釈】「その火が燃える最中」の「盛焼」は、「まさかりにもゆる」と読む。火が燃えている最中に、というような意味だ。『書紀』に、「顧眄之間は『みるまさかりに』という」とある。〔「間」が「まさかり」に当たる。〕また「方産」の例もある。〔「ま」と「み」は同じで、『万葉集』巻七にも「壮子時」とある。〕こうした例と同じだ。だから、三柱の御子が生まれる時を広くまとめていい、火折命が生まれる時までにかかる言葉である。
〔火照命だけが生まれた時を、別に言うのではない。ところが『書紀』には、「煙が立ち始めた時に生まれた云々」、これは煙の出始めの時であり、また「次に火が盛んな時云々」、あるいは「その火が初めて明るくなった時云々」「次に火炎が衰えた時云々」「次に火の熱を避ける時云々」などと、一柱ごとに生まれる時の火の状態を区別する。それに準じて見ると、『古事記』は火照命の時の状態しか述べず、次の二柱には火のことがないのは、記述が足りず、脱落したように聞こえよう。しかし、よく考えるとそうではない。『古事記』は『書紀』のように個別には言わず、三柱をまとめていう。「盛」は、必ず火の起こりや衰えと対比する語ではなく、『書紀』の「盛」とは異なる。この字にとらわれて迷ってはならない。〕広く述べる中にも、火の出始め、中ごろの盛んな時、後に衰えた時という順序があり、三柱はその順に生まれたのであって、『書紀』の伝えは、その様子を詳しく述べたのである。
【宣長の注釈】「火照命」は「ほでり」と読む。「ほのてる」はよくない。この兄弟三柱の名は、いずれも直接「火何々」と読み、「の」を添えてはならない。『古事記』で「火の」と「の」が添わる名には、火之夜芸速男、火之炫毘古、火之迦具土など、いずれも「之」があるではないか。「照」も「てる」とせず、必ず「てり」であることは、次の火須勢理・火遠理の「り」の例から分かる。
この名は、最初に火が燃え起こり、照り明るくなる時に生まれたことによる。『書紀』の一書に、「初めに火が燃えて明るい時に生まれた子が火明命」、別の一書に、「その火が初めて明るくなった時、子が踏み出して言い立て、『私は天つ神の子、名は火明命だ』と自ら名乗った」とあるのが、この御子である。「照」と「明」は同じ意味だ。〔『書紀』がすべて火明命とし、火照命という伝えがないのは、天忍穂耳命の子で、尾張連の祖先である天火明命と混同したのである。それで、この段の火明命を、本書では「尾張連らの始祖」とするが、それはさらに混乱したものだ。だから、『古事記』の火照という名こそ正しい。〕
【宣長の注釈】「隼人阿多君の祖」の「隼人」は、「はやびと」と読む。『和名抄』にも、隼人司を「はやひとのつかさ」とする。〔後世の「はいと」は訛りである。「び」が「い」に縮まることはあるが、それでも訛りだ。『書紀』の訓などの「はいとん」は、さらに正しくない。今の「はやと」も「はいと」と同類である。〕隼人とは、今の大隅・薩摩二国の人で、その国の人々は抜きんでて敏捷で勇猛なので、この名がある。〔古語では勇猛なことを「はやし」とも「とし」ともいうので「はや」といい、「はやぶさ」という名にも合う。〕「隼」の字を用いるのは、この鳥のように素早く、勇猛な意味もあるからだ。景行・仲哀の御代のころ、熊会といった者もこれで、その国を熊曽国といった。〔熊曽国については、『伝』五の十五葉で述べた。〕
【宣長の注釈】それを隼人国というのは、『続日本紀』巻二、大宝二年の、「これより先、薩摩の隼人を征討した時云々、唱更国の国司らが、〔今の薩摩国である、〕申し上げた云々」という例がある。「唱更」が隼人である。〔『拾芥抄』の改名所々の部には、「薩摩国、もと唱更」とある。職員令の隼人司の『義解』に、「隼人は、番を分けて都と国を往復し、一年を期限とする云々」とある、その意味で当時は唱更と書いた。「今の薩摩国」は、『続日本紀』編纂時の注である。〕『万葉集』巻三、十五丁の「隼人の薩摩の瀬戸」、巻六、二十二丁の「隼人の瀬戸」などの「隼人」も国名である。〔『書紀』孝徳巻の「薩麻の曲」、先の『続日本紀』の「薩摩の隼人」、『万葉集』の「薩摩の瀬戸」などの薩摩は、国名ではなく、隼人国の中の地名である。後まで薩摩郡があるので、その辺りの名だったのだろう。〕それを後に改め、薩摩国とした。
〔隼人は今の大隅・薩摩二国の人をいうが、隼人国というのは、今の薩摩国の範囲だったのだろう。大隅は和銅六年に日向から分かれた国だからだ。ただし上古には薩摩まで含めて日向国ともいったので、その中で薩摩から大隅にかけてを、特に隼人国といったのかもしれない。国名が薩摩に変わったのは、大宝から霊亀までの間であろう。先に引いた大宝二年の記事には唱更国とあり、養老元年に初めて「大隅・薩摩二国の隼人」とあって、この薩摩はすでに国名だからだ。〕隼人が朝廷に仕えることなどは、海神宮の段の末に由来が見えるので、そこで詳しく述べよう。〔『伝』十七の五十七葉。〕
【宣長の注釈】「阿多君」は、〔「多」を清音の「た」と読む。濁るのは誤りだ。〕地名に由来する氏族名である。『書紀』海神宮の段には、「その火闌降命は、吾田君小橋らの本祖である」とある。〔前には「隼人らの始祖」といい、ここではまたこういう。同じ本書の前後で違いがあるのは、どういうことか。小橋については、中巻の白檮原宮の段、『伝』二十の初めに述べよう。〕『姓氏録』には、〔右京神別、〕「阿多御手養は、火闌降命の六世の孫、薩摩若相楽の後裔」、また〔山城国神別、〕「阿多隼人は、富乃須佐利乃命の後裔」と見える。『続日本後紀』承和三年六月には、「山城国の人、右の大衣、阿多隼人逆足に、阿多忌寸の姓を授けた」などとある。〔これらは隼人国から上京して朝廷に仕えた人の子孫が、京と畿内に住み残ったものである。「大衣」は『伝』十七の五十八葉で述べる。火闌降命の後裔には、ほかに大和国の二見首、大角隼人、摂津国の日下部、和泉国の坂合部なども『姓氏録』に見える。〕
火照命は隼人全体の祖と読めるのに、特に阿多君の祖というのは、隼人の多くの氏族の中で、とりわけ名高い氏だったのだろう。〔ある説が、この「隼人阿多君」を隼人と阿多君の二つに分けたり、隼人国の阿多君と見たりするのは、いずれもよくない。ただ、阿多君が隼人なので、隼人というのである。〕
【宣長の注釈】阿多という土地は、『和名抄』に薩摩国阿多郡阿多郷がある。〔この名は今も残る。〕『書紀』の「吾田長屋の笠狭の岬」、神武巻の「日向国吾田邑」などは、すべてこの土地をいう。〔古くは薩摩まで含めて日向国といったことは、すでに述べた。日向国臼杵郡にも英多があるが、そこではない。〕天武紀・持統紀などの阿多隼人は、この土地の隼人である。〔持統紀六年閏五月にも、筑紫大宰率の河内王らに、「僧を大隅と阿多へ遣わし、仏教を伝えさせよ」と詔した、とある。〕
【宣長の注釈】『書紀』には、「煙が立ち始めた時に生まれた子を火闌降命といい、隼人らの始祖である。次に云々、次に生まれた子を火明命という」とある。〔一書は、「煙が初めて起こる時に生まれた子を火酢芹命といい、次に火が盛んな時に生まれた子を火明命という。次に云々」とする。〕これは『古事記』と、この神の生まれた順序も、隼人の祖も違う。ただ、生まれた順で最初の子が隼人の祖であることは、同じだ。また一書で、この兄弟を火々酸芹命と火折尊の二柱とし、火明命がないのは、火酸芹と火明を同じ神とする伝えである。〔別の一書では、火折命と彦火々出見尊を別の神とする伝えもある。同じように火酸芹と火明も、一神としたり二神としたりし、生まれる順も、互いに先になり後になっている。〕だから、この二柱のどちらが隼人の祖なのか違うのも、それなりの理由があることなのだ。
【宣長の注釈】「火須勢理命」も、「ほの」と「の」を添えて読むのはよくない。〔理由はすでに述べた。『書紀』の読みの注に、「火闌降は『ほのすそり』という」とある「の」は、後の訛った読みに慣れた人が勝手に加えたのであろう。『姓氏録』にも「富乃須佐利」とあるが、これもどうだろう。同書、二見首の条の「富須洗利命」が正しい。〕火が激しく進んで燃える時に生まれたための名である。『書紀』の一書に、「次に火炎が盛んな時に生まれた子は火進命、また火酢芹命という」、別の一書に、「次に火炎が襲う時、子が踏み出して言い立て、『私は天つ神の子、名は火進命だ』と名乗った」とあることで理解すべきだ。「すせり」は「進む」と同じ意味である。〔「すそり」「すさり」もすべて同じ語だ。〕『万葉集』巻十七、四十丁、越国の立山の長歌に、「白雲の千重を押し分け、天そそり高き立山」とある。「天そそり」も、山がたいへん高く、天へ進み登るさまなのを考え合わせたい。〔俗に、人の心が浮き立って進むのを「そそる」というのも同じだ。〕
『書紀』でこの名を「火闌降」とも書くのは、編者の誤りである。〔この神が生まれるのは、「煙が立ち始める時」「煙が初めて起こる時」、あるいは一書では「次に火炎が盛んな時」なので、「闌降」の意味である理由はない。「闌」は衰える、残るなどと注する字だから、一書の「次に火炎が衰えた時云々、その名は火折命」という火折にこそよくかなう。それなのに、出始めの時に生まれる御子の名へ当てるのは、進み昇るのと衰え降るのとの、正反対の違いではないか。〕
【宣長の注釈】「火遠理命」も、「ほの」と読むのがよくないことは、先の二柱と同じである。火が衰えた時に生まれたための名で、「火弱り」の意味だ。『書紀』の一書に「火忽織命」ともあることで分かる。〔「ほよ」を縮めると「ほ」となる。「わ」と「を」が通う例には、「たわやめ・たをやめ」「たわむ・とをむ」「たわわ・とをを」「わななく・をののく」などがある。ただし「折」と「織」のように「をり」が通う例は珍しい。〕別の一書に、「次に火炎を避ける時に生まれた子は火折彦火々出見尊」、また一書に、「次に火炎が衰えた時、子が踏み出して言い立て、『私は天つ神の子、名は火折命だ』と名乗った」などともある。
三柱の中で、最後に火の衰えた時に生まれた御子が天の日継をお治めになったのは、なぜか、分かりがたい。試みにいうなら、この御子たちは、父の疑いを晴らすため、このように火中で生まれた。最初に火が出るころは、まだ疑いが晴れず、激しく燃えるころも、焼けるか焼けないかは、まだ決めがたい。火が盛りを過ぎて衰える時に至り、母も子も結局は焼けないことが定まり、本当に天つ神の御子だという証しが明らかになった。だから、最後に生まれた子が貴いという道理なのだろうか。〔伊邪那岐大神が阿波岐原で禊をした時も、最後に生まれた三柱の御子が、特に貴かった。それも、次第に穢れが除かれた後、清らかで明らかになったからである。ここも、趣旨は似ている。〕
【宣長の注釈】「天津日高」は父の神の名で、〔『伝』十五の三葉に出た。〕それを受け継いで名乗ったのである。
【宣長の注釈】「日子穂々手見命」の「穂々」は稲穂で、文字どおり重ねていうのか、また「大穂」かもしれない。〔「大」を、初めの「お」を省いて「ほ」という例は、『伝』七、忍穂耳命の所で詳しく述べたとおりである。〕「ほほ」の例として、『書紀』の一書は、邇邇芸命を「天之杵火々置瀬尊」ともいう。この「火々」も稲穂による。〔稲穂が天の日継に重い縁を持つことは、すでに各所で述べた。考え合わせたい。『書紀』の文字に従って、これらの「ほほ」を火の意味とするのは誤りだ。火折こそ、生まれた時の火に由来する名だが、この別名は天の日継を治めることに伴う称号で、その火に由来しない。『古事記』が、火照・火須勢理・火遠理という火に由来する名にはすべて「火」を書き、同じ続きの、この名だけを「穂」と書いて区別することからも分かる。『書紀』には、彦火々出見尊だけで火折の名を出さない伝えや、出してもそれを別名とする伝えがある。それらは火々出見の名を火明などと並べ、火の意味に取った伝えだ。しかし、それはもとから混同しており、正しくない。『古事記』と、『書紀』の一書の「火折尊、また彦火々出見尊と号する」が正しいのである。〕
「手」は「根」に通じ、「見」は「耳」と同じで、ともに美称である。「手」の例には八島手などがある。〔須佐之男命の子で、『書紀』に見える。〕また、宇摩志麻遅命を、『書紀』では可美真手とするので、「手」は「遅」に通じるのかもしれない。それも同じく美称である。〔「根」「遅」などの称号の例は、多い。「見」「耳」は、『伝』七の五十四葉・五十五葉で詳しく述べた。〕「手見」と続ける例は、浮穴宮で天下を治めた天皇の名、師木津日子玉手見命がある。〔『書紀』には、火折命と彦火々出見尊を二柱とする一書もあるが、たいへん違った伝えだ。「火夜織命、次に彦火々出見尊」とする例もある。「火夜織」は火折なので、これも二柱とする伝えである。また、火折彦火々出見尊と、二つの名を一つに続けて挙げる伝えもある。〕
白檮原宮で天下を治めた天皇も彦火々出見尊と申し上げることは、『書紀』に見える。天の日継に縁のある稲穂をもとに、美称として申し上げる御号なので、さらに受け継いで名乗ったのである。
古事記伝 巻十七
本居宣長が謹んで著す。
神代 第十五巻
【古事記本文】火照命は海佐知毘古となり、鰭の広いもの、鰭の狭いものを取った。「佐知毘古」の四字は音を表し、以下も同じである。火遠理命は山佐知毘古となり、毛の粗いもの、毛の柔らかいものを取った。火遠理命は兄の火照命に、「互いに獲物を取る道具を取り替えて使いたい」と言った。三度頼んでも許されなかったが、ついにようやく取り替えることができた。
火遠理命は、海の道具で魚を釣ったが、まったく魚を得られず、その釣針まで海で失った。そこで兄の火照命が、その針を返してほしいと求め、「山の道具も海の道具も、それぞれ、自分の道具は自分の道具だ。さあ、互いに道具を返そう」と言った。「佐知」の二字は音を表す。弟の火遠理命は、「あなたの針では、魚を釣っても一匹も得られず、ついに海へ失ってしまった」と答えたが、兄は強いて取り立てた。
そこで弟は、身に帯びた十拳剣をつぶし、五百本の釣針を作って償ったが、兄は取らなかった。さらに千本作って償っても受け取らず、「どうしても、あの元の釣針がほしい」と言った。
【宣長の注釈】「海佐知、山佐知」は、直接「うみさち、やまさち」と読むべきだ。〔「海の、山の」と「の」を添えるのはよくない。後もすべて同じである。〕『書紀』には「海幸、山幸」と書き、「幸は『さち』という」とあるが、ただ幸いという意味だけではない。〔それだけと考えると、後で合わない所がある。理由はそこで述べる。〕「さち」は「さきとり」で、「き」を省き、「とり」を縮めて「ち」としたものである。〔「とり」を「ち」という例は多い。〕まず「さき」とは、自分にとってよい事をいう。〔「福」とも書く。〕ここでは海で多くの魚を得ることを海の「さき」、山で多くの獣を得ることを山の「さき」という。物を得るのは自分にとってよいので、「幸」とする。その海山の「さき」を取るので、「幸取彦」と申し上げるのだ。次の「鰭を取る云々」「毛を取る云々」の「取」を考えてほしい。
『万葉集』巻一の二十六丁、巻二の四十四丁、巻六の二十四丁などの「得物矢」がある。〔これを「ともや」とするのは誤りで、師の「さつや」がよく当たる。〕巻五の九丁の「さつゆみ」、巻三の十八丁の「山のさつを」、巻十の三十九・四十丁の「さつを」、また同巻の五丁の「さつひと」などの「さつ」も「さち」と同じである。〔薩摩という地名も、この幸取彦たちが住んだことによるのだろう。〕『日本紀』竟宴の歌では、火遠理命を「やまさちひこ」と歌っている。
【宣長の注釈】「鰭広物、鰭狭物」は、前に出た。〔『伝』十六の十五葉。〕
【宣長の注釈】「毛麁物、毛柔物」は、「けのあらもの、けのにこもの」と読む。〔広瀬大忌祭の詞の「和支物、荒支物」に従い、「き」を添えるのは、かえってよくない。前に述べたとおりだ。〕多くの獣をいう古い雅語である。「けもの」も「けだもの」も、毛によっていう名で、同じだ。〔『和名抄』が、獣を「けもの」、畜を「けだもの」と分けるのは、どのような理由か。「けだもの」も「毛つ物」と読めるのに。〕『書紀』保食神の段には、「山へ向かうと、毛の粗いもの、毛の柔らかいものも、口から出た」とある。龍田風神祭の祝詞には、「山に住むものは、毛の柔らかいもの、毛の粗いもの」とある。〔遷却祟神の祝詞にも同じ言葉がある。〕道饗祭の祝詞には、「山野に住むものは、毛の柔らかいもの、毛の粗いもの」などと見える。
【宣長の注釈】『書紀』の一書には、「兄の火闌降命には、おのずから海の幸があり、弟の彦火々出見尊には山の幸があった」とある。また一書には、「兄の火酢芹命は海の幸をよく得たので海幸彦といい、弟の彦火々出見尊は山の幸をよく得たので山幸彦といった。兄は風雨があるたびに獲物を得られず、弟は風雨に遭っても、獲物を得ることが変わらなかった」とある。別の一書は、「兄の火酢芹命は山の幸を得、弟の火折尊は海の幸を得た」とする。〔これは、海と山を取り違えた伝えである。〕
【宣長の注釈】「各」は、師の「かたみに」という読みがよい。互いに、という意味で、「使いたい」という所までにかかる。
【宣長の注釈】「欲用」は、「もちひてむ」と読む。〔旧版本などに「欲」がないのはよくない。ここでは真福寺本・延佳本などに従った。〕「用いる」の仮名遣いは、『源仲正家集』の元日の恋の歌、「千代までも影を並べて逢ひ見むと、祝ふ鏡の用ひざらめや」によって定めた。「千代までも姿を並べて逢おうと祝う鏡」と歌う。「用ひざらめや」は「用いないはずがあろうか」という反語で、ここでは餅に掛けた「もちひ」の用例として引いている。〔訳注:恋歌として誰が何を「用いる」のかは、ここでは確定を留保する。〕〔『夫木集』巻三十二に載る。また後のものだが、『藤原経衡家集』にも、宇治殿で餅を贈る時の歌に、「肴には何もあれども、この中に、心につかばこれを用ひよ」、返歌に「君が代を心用ひのうれしきは、いかなる人の情けなるらむ」とある。肴はいろいろあるが、気に入ったらこれを用いてほしい、という歌と、あなたがいつまでもと心遣いしてくださる嬉しさは、何という方の情けだろう、という返歌である。〕餅に「もちひ」を掛けていることによる。〔仲正は『後撰集』の作者なので、まだ仮名遣いの乱れていないころだ。「もちひ、もちふ、もちふる」と活用し、「恋ふ」「強ふ」などと同じ活用である。〕
ここの「佐知」も、〔後もすべて同じだが、〕先の海佐知・山佐知と同じ「幸取」である。ただし先の語は、幸を取る人を指す。〔「毘古」と続くので、「取」を単に取る行為と見てもよい。人を指して「何々取」という例には、水取、植取などがあり、ほかの言葉にも多い。〕ここでは、幸を取る道具を指す。〔「使いたい」とあることで、道具だと理解すべきだ。〕行為の語が道具の名にもなる例は多いが、火を取る器を「火取」というのなどが、まったく同じである。〔『和名抄』に、薫炉を「ひとり」という。〕だから、海幸取彦の幸取は、海で魚を取る道具で、釣針などだ。〔『書紀』にも「幸鉤」とある。幸取の鉤である。〕山幸取彦の幸取は、山で獣を取る道具で、弓矢などだ。〔『書紀』にも「幸弓」とある。幸取の弓である。「佐知」を単に幸いとだけ考えると合わないことが、ここで分かる。『書紀』は「幸を取り替えたい」と書くが、幸いを替えるというのでは字面の意味が分かりにくい。幸を取る道具を替えるという意味でなければ、理解できないのである。〕
【宣長の注釈】「不許」は、「ゆるさざりき」と読むべきだ。〔師は「うなづるさざりき」と読んだ。『書紀』で「不聴」などをそう読むので、これも古語らしくは聞こえるが、確かな例をまだ見ない。「ゆるす」は、武烈紀の平群臣鮪の歌にもあって、確実である。〕
【宣長の注釈】「纔」は、物事がどうにか初めてそこまで達した、というような意味である。〔字の注に、「染料へ一度入れただけの薄い色」「初めて」「ようやく」などとあり、「僅」の字の注にも「かろうじてできる」とあるのが、よく合う。この意味から転じて少量も「わづか」というが、ここはその意味ではない。〕三度頼んでも許さないのを、さらに強いて頼み、苦労してどうにか交換したということだ。〔俗に「ようよう取り替えた」という意味である。〕
【宣長の注釈】「得相易」は「えかへたまひき」と読む。「得」を先に「え」と読む理由は、前〔『伝』十二の十七葉〕に詳しく述べた。この道具の交換は、『古事記』では弟の命が頼んだことになっている。『書紀』の本文と一書では、兄弟が互いに相談して取り替え、別の一書では兄の命から頼んでいる。この三つの伝えでは、兄から頼んだというのが、この段の終わりまでの趣旨によく合う。その伝えの初めには、「兄は風雨のたびに獲物を得られなくなったが、弟は風雨に遭っても獲物を得ることが変わらなかった」とあるので、取り替えたいと思った理由まで分かり、いっそう明らかである。したがって、『古事記』の伝えは、取り違えたものなのだろう。
【宣長の注釈】この「海佐知」も、海で幸を取る道具ということで、前と同じだ。〔「佐知」を単に幸いと考えると、続く「海佐知で魚を釣る」という文が分かりにくい。〕『書紀』の「弟は兄の幸鉤を持って海に入り、魚を釣った」、また「弟は兄の釣鉤を取って海に入り、魚を釣った」などと照らして理解すべきである。〔師は『古事記』でも「佐知」の下に「鉤」が抜けたのだろうといったが、それは「佐知」を幸いの意味だけに取ったためだ。幸取と見れば、鉤といわなくても、鉤のことになる。〕
【宣長の注釈】「釣魚」は「なつらすに」と読む。魚を「な」ということは、前〔『伝』十四の七十一葉〕に述べた。『万葉集』巻五の二十三丁に、「たらしひめ、神の命の、魚釣らすと、御立たしせりし、石を誰見き」とある。足姫という神の命が、魚を釣ろうとお立ちになった、その石を誰が見ただろう、という歌だ。『和名抄』は『声類』を引き、「釣とは、鉤と餌を設けて魚を取ること。和名『つり』」とする。『字鏡』では「釣」を「いをつる」とする。
【宣長の注釈】「都」は「かつて」と読む。『万葉集』巻四の四十三丁には「花かつみ、かつても知らぬ恋もするかも」とあり、今まで知らなかった恋もすることだ、という意味だ。巻十の十九丁には「木高くは、かつて木を植ゑじ」とあり、背の高くなる木は決して植えまい、という意味だ。巻十三の二十四丁には「恋といふものは、かつてやまずけり」とあり、恋というものはまったくやまない、という意味である。〔ここの「都」を今の本では「すべて」と読むが、巻四の例にならい「かつて」と読むべきだ。〕
【宣長の注釈】「不得一魚」は「もえたまはず」と読む。〔漢文風に「一魚」と書いているが、「魚」は前にあるので、また読むのは煩わしい。〕
【宣長の注釈】「鉤」は「つりばり」と読む。〔『書紀』で、この段の「鉤」をすべて「ち」と読み、古い名だと考え、あるいは「つりばり」が縮まって「ち」になったとするのは誤りだ。この字を「ち」と読むのは、もと『書紀』の「踉䠙鉤、これは『すすのみぢ』という」などから生じた。また『古事記』の「海佐知」などの「知」も鉤と考え、両者を混同して誤ったのである。「すすのみぢ」などの「ぢ」も、「鉤」に当たる語ではない。理由は後で詳しくいう。〕「はり」は、もとは縫針の名で、それを曲げ、釣りに用いるものを「釣針」「針鉤」という。〔『書紀』神功巻に「針を曲げて鉤とした」とあるようなことだ。ある人が、『翻訳名義集』の「婆利は曲鉤と訳す」を引いて、「はり」は梵語だというのは、本末をわきまえない誤説である。曲がった鉤は「はり」のもとの意味ではないので、枝葉の意味がたまたま似たにすぎない。〕
ここの「鉤」の後には、「さへ」を添えて読むべきだ。魚を得なかっただけでなく、鉤まで失ったのである。〔『書紀』では、ここに、兄の命が山へ入って獣を猟したが、それも得られなかったことがある。『古事記』が海の方のことだけをいうのは、山の方のことは必要がないため省いたのだろう。〕
〔訳注:「佐閑」の第二字は「閇」が有力ながら「閑」との判別が未確定のため仮の表記とし、訓は「さへ」とする。〕
【宣長の注釈】「失海」の「失ふ」という語は、『万葉集』巻十五の三十四丁に、「あが下衣、失はず」とある。私の下着を失わずに、という意味だ。
【宣長の注釈】「乞其鉤」の「鉤」は、ただ「はり」と読む。〔初めに「つりばり」といったので、以後はただ「はり」というのが、言葉の決まった法則である。〕
【宣長の注釈】「山佐知母云々、海佐知母云々」の「佐知」も、すべて幸取で、道具をいうことは前と同じである。「も」は助辞だ。「己之」は、人それぞれの、自分自分の、という意味である。〔俗に「めいめいの」「手前手前の」などというようなことで、火照命が自分だけを指していう「おのれ」ではない。〕「佐知佐知」と重ねるのは、物を対比していう古語の形で、山佐知の方は海佐知に、海佐知の方は山佐知に対していうのである。
例として、『万葉集』巻九の三十三丁に、「遠つ国、黄泉の境に、延ふ蔦の、おのおの向き向き、天雲の、別れし行けば」とある。遠い黄泉の国へ、伸びる蔦のようにそれぞれ別に向かい、天雲のように別れて行ったので、という歌だ。これは弟の死を詠み、ただ一人のことなのに「向き向き」と重ねている。この世に残る自分と対比しているのである。また『古今集』恋の歌に、「思ふどち、一人一人が恋ひ死なば、誰によそへて藤衣着む」とある。思い合う二人のどちらかが恋い死んだら、誰のためといって喪服を着よう、という意味なのに「一人一人」という。これももう一人に対しているのだ。
〔『竹取物語』の「一人一人に逢ひ給へ」も、何人もいる中の誰か一人という意味で、残る人たちと対比していう。『大和物語』の「一人一人に逢はなば」も同じである。『源氏物語』若菜の「一人一人罪なき時には」、椎本の「一人一人なからましかば」なども、皆二人のうちどちらか一人で、もう一人に対していう。今の感覚で考えると、「一人一人」は一人ごとにというように聞こえるが、そうではない。また漢籍『礼記』曲礼の「二名、不偏諱」の「二名」は、二字の名をいう。二字のうち、上でも下でも、離した一字だけなら避けなくてよい、という意味だが、「偏」を「ひとつひとつ」と読むのも、古語の例によく合う。だいたいこれらで理解してほしい。〕「山佐知も海佐知も、おのれおのれが佐知佐知」と見れば、容易に意味が分かるのである。
【宣長の注釈】「今」は「いまは」と読む。〔俗に「もはや」というのに当たる。〕
【宣長の注釈】ここの「各」は「おのおの」と読んでよい。ここの言葉全体の意味は、山幸取の弓矢も海幸取の釣鉤も、それぞれがもとから持っていた幸取の道具だから、長く取り替えたままにしておくべきでなく、互いにもう試したので、今はそれぞれ元どおりに返そう、ということである。
【宣長の注釈】「強」は「あながちに」と読む。『書紀』では多くそう読む。〔この語は、穴を穿つということなのだろう。〕
【宣長の注釈】「乞徴」は「こひはたりき」と読む。『万葉集』巻十六の二十三丁に、「課役はたらば」とある。課役を取り立てるなら、という意味である。
【宣長の注釈】「破」は「やぶり」と読む。「やぶる」は一般に「なる」の反対で、「壊」「毀」なども当て、その意味である。剣をやぶるとは、溶かすことをいう。
【宣長の注釈】「五百鉤」は「いほはり」、「一千鉤」は「ちはり」と読む。
【宣長の注釈】「償」は「つぐのひ」と読む。『字鏡』には「低」に「づくのふ」という訓があり、また「俏」を、返す、もとに戻す、報いるという意味とし、「づくのふ」と読む例などがある。〔「償」の字書の注には、「酬いる」「報いる」「その値を返す」などとある。〕
【宣長の注釈】「猶」は、あれこれ償うことを聞き入れず、それでも欲しくない、という意味からいう語で、強いて一途に求める意味になる。〔俗に「ぜひとも」「どうあっても」という意味になる。物語文などで、物事をあれこれ試し考え、ほかはどれもよくないが、やはりこれこそよい、と最後に一つへ思い定める所の「なほ」も、この意味である。〕また、「云」の上に置かれる意味だとして、「猶云」と見ることでも通じる。〔その場合は、普通の「なほ」である。〕
【宣長の注釈】「其正本鉤」は「そのもとのはり」と読む。〔「正」は読まない。〕後には「其本鉤」とある。〔『書紀』にも「故鉤」とある。〕
『書紀』には、「初め、兄弟二人が相談し、『試しに幸を取り替えたい』といい、取り替えたが、二人とも獲物を得なかった。兄は後悔し、弟の弓矢を返して、自分の釣鉤を求めた。弟はもう兄の鉤を失っていて、捜す手立てもなかったので、別に新しい鉤を作って兄へ渡した。兄は受け取らず、元の鉤を求めた。弟は困り、横刀を鍛えて新しい鉤を作り、一つの箕いっぱいに盛って渡した。兄は怒って、『私の元の鉤ではない。多くても取らない』と、さらに責めた」とある。
また一書には、「兄弟が幸を取り替えようとした。兄は弟の幸弓を持って山へ獣を捜しに入ったが、獣の古い足跡すら見つけられなかった。弟は兄の幸鉤を持って海へ入り、魚を釣ったが何も得られず、ついに鉤を失った」とある。別の一書には、「兄が弟に、『試しにお前と幸を取り替えたい』といい、弟は承知した、云々。二人とも獲物を得ず、空手で帰って来た、云々。そこで新しい鉤を数千作って渡したが、兄は怒って受け取らず、元の鉤を厳しく取り立てた」とある。
【古事記本文】弟が泣き悲しんで海辺にいた時、塩椎神が来て、「虚空津日高が泣き悲しんでいるのは、どうしてですか」と尋ねた。命は、「兄と鉤を取り替え、その鉤を失ったのです。兄がその鉤を求めるので、たくさんの鉤で償っても受け取らず、どうしても元の鉤がほしいという。それで泣き悲しんでいるのです」と答えた。
塩椎神は、「私があなたのためによい方法を考えましょう」といった。そして、目の細かく編んだ籠の小舟を造り、命を乗せて教えた。「私がこの舟を押し流したら、しばらく進むと、よい道があるでしょう。その道に乗って進むと、魚の鱗のように造られた宮殿があります。それが綿津見神の宮です。その神の御門へ着くと、そばの井戸の上に、清らかな桂の木があります。その木の上にお座りなさい。海神の娘があなたを見て、取り計らってくれるでしょう」。「香木」は「かつら」と読む。
【宣長の注釈】「海辺」は「うみべた」と読む。『書紀』には「海畔」とあり、『古今集』恋三には「世をうみべたに云々」とある。『万葉集』巻十一の二十丁には「近江の海、へたは人知る」とあり、『後撰集』には「へたのみるめ」とある。〔『万葉集』巻十四に「うなひ」という語がある。辺を「ひ」というのは、「やまび」「はまび」のような例が古語に多いので、「うなひ」は海辺と聞こえるが、地名ではないかという疑いもある。このほかに、確かに海辺をそういう例をまだ見ないので、そのようには読みづらい。〕ここは「海辺」を先に、「泣き悲しんで」を後に読むべき文の形だ。〔言葉は、前にいうか後にいうかで、その重みも変わるものである。〕
【宣長の注釈】塩椎神は、ある一柱だけの神の固有名ではない。物事をよく知る人一般の称号で、名は、「知る」という語に、美称の「大」と「つち」を添えたものである。〔「大」はいつもの美称だ。「つち」も、野椎神の所で述べたように例が多く、美称である。〕『書紀』では塩土老翁といい、一書には塩筒ともある。〔「つち」と「つつ」は通じる音で同じだ。『続紀』巻二十九には、賀茂朝臣塩管という人名も見える。〕老翁という称号は、ただ尊んでいう場合もあるが、一般に年老いた人は物事をよく知るので、ここは実際に老人だったのかもしれない。〔『書紀』の「一人の長老がいた」は、老翁という称号によって、例の編者が書いた文なのかもしれない。〕神武巻の塩土老翁も、物知りの老人ということだ。また事勝国勝長狭神にも、別名塩土老翁とある。これも物知りの神で、この称号があったのだろう。〔『神名帳』に、薩摩国穎娃郡の枚聞神社がある。この段の塩土神を祭る社だという。今、開聞が岳というのがこれである。〕
【宣長の注釈】虚空津日高については、後で申し上げる。
【宣長の注釈】「易鉤」は、少し言葉が足りず、字が抜けたのだろうと師はいった。確かに、これだけでは、鉤と鉤を互いに取り替えたように聞こえて紛らわしい。しかし、字が落ちたとも見えず、もとからこの形だったのだろう。弓矢と鉤を取り替えたのだが、弓矢のことはここで必要がないので省き、一方だけをいうのが古い文なのだろう。
【宣長の注釈】「汝命」は「ながみこと」と読む。前〔『伝』七の五葉〕でいったとおりである。
【宣長の注釈】「為」は「みために」と読む。『万葉集』には「御為」が多く見える。「奉為」と書くものも、そう読む。
【宣長の注釈】「議」は「ことばかり」と読む。『万葉集』巻四の五十四丁に「事計りせよ」、巻十二の十二丁に「事計りよくせよ」とある。取り計らえ、よく取り計らえ、という意味で、このほかにも多い。
【宣長の注釈】「无間勝間」は「まなしかつま」と読む。「无間」は、『書紀』で「無目」と書く意味である。〔「間」は借字だ。〕「かつま」は「堅つ間」が縮まったもので、『書紀』にはそのまま「堅間」とある。〔師は、その文字に従い、「勝間」と書くものもすべて「かたま」と読むべきだといった。しかし『古事記』の文字遣いでは、「かた」に「勝」を当てることはない。また次に引くように、地名などにも「かつま」というものが多い。だから古くは「かたま」とも「かつま」ともいったのである。〕籠を編む竹と竹の間がしっかり詰まり、隙間の目がないことをいう。〔中巻の「八目の荒籠」、『書紀』の「大目麁籠」などは目の粗いことをいう。「かたま」を籠全体の古名と考え、これらの粗い籠まで「あらかたま」と読むのは誤りだ。粗いものを「かたま」という理由はない。「こ」こそ、もとからの総称だった。「はこ」も「ふたこ」が縮まったもので、もとは蓋のある籠の名だ。これらからも、全体の名は「こ」だったことが分かる。〕『万葉集』巻十二の九丁・三十四丁・三十九丁の「玉勝間」も、この物だ。〔『和名抄』の周防国佐波郡勝間「かつま」、讃岐国三野郡勝間「かつま」、『三代実録』巻三十七の筑前国賀津万神、『万葉集』巻十六の勝間田池は、皆この物による地名らしい。「かつま」と読むべきことも、これらで明らかだ。『延喜式』には紀伊国名草郡の堅真神社もある。〕
『和名抄』には、「『唐韻』に、籠は竹の器、和名『こ』とある。また『四声字苑』に、笭箵は小さい籠、『漢語抄』に『かたみ』という」とある。この「かたみ」は「かたま」が変化したものだ。〔『古今集』から後の歌などでも、皆「かたみ」とだけ詠む。ただ、小さい籠だけを「かたみ」といったのは、古代とは違う。「かたま」は、もと大きいものにも小さいものにもいった名だからである。〕
【宣長の注釈】「小船」といっても、必ずしも船の形に造ったということではないだろう。何であれ、人が乗って水を進むものを船というのだろう。『書紀』の「無目堅間を浮木とした」も同じである。『和名抄』には、「『唐韻』に、艇は小船とあり、『釈名』に、一、二人が乗る物とある。『楊氏漢語抄』には、艇は『をぶね』とある」と記す。
【宣長の注釈】「押流其船」の「其」は、「この」というべき所である。だから、ここではそう読んだ。
【宣長の注釈】「差暫」は「ややしまし」と読む。「差」を「やや」と読む例は、『万葉集』巻七の二十七丁にある。「暫」は、同巻十五の三十一丁の「しましくも」、巻十八の六丁の「船しましかせ」などによって読んだ。しばらくも、船をしばらく貸してほしい、という語である。
【宣長の注釈】「味御路」は、『書紀』では「可怜小汀」ともあり、「可怜は『うまし』という」と注し、また「可怜御路」ともある。たいへんよい道、というような意味だ。ここに「御路」と書くのは、「みち」のもとの意味である。〔『古事記』も『書紀』も、ここだけ「道」でなく「御路」と書く理由はこうだ。普通は、ただ「ち」というべき場合でも「みち」といって区別しないが、「みち」は、もと道を褒めて「み」を添えた名である。ここでは道がたいへんよいことをいうので、「み」に役割と重みがあり、もとの意味のままに書いたのだろう。〕
【宣長の注釈】「乗」は、文字どおり「のりて」と読む。この道は普通の陸の道でなく、水中のものなので「乗る」というのが面白い。〔『万葉集』巻十一の「海原の道に乗りてや云々」は、海路を船に乗ることなので異なる。『霊異記』の「乗路而行時云々」は、道に従って進むという意味で、これも別だ。ここもそれに合わせ、「道のまにまに」などと読めそうだが、『古事記』の例では、「まにまに」というのに「乗」とは書かないはずだ。『書紀』には「尋路」とあるため、ここの「乗」も「尋」の誤りかとも思われるが、やはりそうではないだろう。〕
【宣長の注釈】「往者」は「いましなば」と読む。「います」という語は、中巻の朝倉宮の段の御歌に「すくすくと、わがいませば」とある。このほか、『万葉集』に多く見える例は、その御歌の所に引き、詳しく述べよう。〔『伝』三十二の三十九葉。〕「行き坐す」というべき所に用いる例が、古語には一般に多い。
【宣長の注釈】「如魚鱗所造之宮室」の「魚鱗」は「いろこ」と読む。『和名抄』には、「『唐韻』に、鱗は魚の甲とあり、『文字集略』に、竜や魚の類の衣を鱗というとある。和名『いろくつ』、俗に『いろこ』という」とある。『字鏡』には「鱗は魚の背の上の骨。また『いろこ』」とある。〔『和名抄』の「いろくつ」は理解できない。また「いろこ」を「俗にいう」としているが、俗語ではないだろう。今はこれを「うろこ」という。この「う」と「い」は、どちらが古いのか。魚も、中古には「いを」といったが、今は多く「うを」という。古語にも「うを」があるから、鱗も中古にだけ「いろこ」といい、古語は「うろこ」だったかもしれず、分からない。ただ古書にその形をまだ見ないので、ひとまず『和名抄』に従って読む。〕
「魚の鱗のように」とは、壮麗で大きな宮殿の、建物や門がたくさん並び連なって見える姿を、たとえたのだろう。〔屋根の葺き方のようにも聞こえるが、そうではあるまい。それでは「造る」という語に合いにくい。〕『うつほ物語』藤原の君の巻には、「四面四町の殿に、面ごとに御門を建て、いろこの如くに造り重ねたるおとどに云々」とある。〔「おとど」は殿舎だ。〕梅の花笠の巻にも、「色々のあげはりを、いろこのごと打ち渡して云々」とある。どちらも物が密に重なり連なる姿のたとえである。
〔漢籍『楚辞』九歌の河伯篇には、「魚鱗の屋、竜の堂」とあり、注に「河伯の住居は、魚の鱗で屋根を覆い、堂には蛟竜の模様を描く、云々。姿は普通と異なり、たいへん鮮やかで美しい、云々。河伯は水神なので、魚や竜の類に寄せて宮室をいう」とある。また「神よ、何のために水中にいるのか」とあり、注は「河伯の屋敷がこれほどすばらしいのに、なぜ水中に住んで沈んでいるのかという」とする。また「白い大亀に乗り、模様のある魚を追う」、また「魚は群れをなし、私を送る」とある。注には「媵は送ること。江神が私の帰ることを聞き、波を滔々と流して迎えさせ、河伯も群れる魚を従わせて私を送るという」とある。全体にこの段とよく似ているので、「魚鱗のように造る」もこの文を取って書いたかともいえそうだ。しかし向こうは、直接魚の鱗で屋根を葺くのであり、こちらは形をたとえたのだから、その趣旨は異なる。事柄全般が似ることについての議論は、後にある。〕
『書紀』の「その宮は、城壁の胸壁が整い、台宇は明るく美しい」、また「城の門は高く華やかで、楼台は壮麗である」などは、ひたすら漢文を飾ったもので、まったく古語に合わない。「宮室」の二字は「みや」と読む。
「如」の上に「有」があり、なくても「あらむ」を読み添えるべきようだが、前に「味御路があろう」、後にも「湯津香木がある」といっているため、同じ語が重なりすぎるのを嫌い、ここではわざと省いたのだろう。「あらむ」といわなくてもその意味に聞こえ、不足も感じず、かえって言葉の調子がよいのである。
【宣長の注釈】「其」は「それ」と読む。前に出た物を指す語である。『書紀』景行巻に、「その国に速津媛という女性がいて、一帯の長であった。それが天皇のおいでを聞き、云々」、また「土蜘蛛を討て。もしそれが我が軍勢を恐れ、云々」とある。〔『書紀』は一般に努めて漢文風に書かれているが、これらの「其」は、漢文の形に違い、古語の例である。まれには調子を外し、かえってこのようによい所もある。〕『万葉集』巻十三の三十丁に、「衣こそ薄き、それ破れば」とあり、『伊勢物語』には「女御高子という方がいらっしゃった。それが亡くなられて云々」とある。物語などには、この類がさらに多く見える。
【宣長の注釈】綿津見神は、前に大綿津見神が出て、その名の意味などもそこで述べた。また御禊の段に、底・中・上の三柱の綿津見神があり、阿曇連の祖神であると記されている。『姓氏録』に「安曇宿禰は、海神綿積豊玉彦神の子、穂高見命の子孫」とあり、『書紀』のこの段の一書に「海神豊玉彦」とあることを合わせて見れば、この綿津見神は、あの御禊の段の神である。『万葉集』巻九の十八丁の浦島子を詠む歌に、「わたつみの、神の宮の、内のへの、たへなる殿に云々」とある。海神の宮の奥深くの、見事な殿で、という歌だ。〔この歌は全体に、この段の趣旨に似た所がある。考え合わせてほしい。〕
海神の宮は、海底にある国である。後世の半端に賢しげな説は、古伝の趣旨に合わない。〔仏書には竜宮というものがあり、その説明は、不思議なほどこの段にたいへん似た所がある。それで『書紀』の『口決』や兼倶の疏などでは、この海神の宮をそのまま竜宮と呼んでいる。仏書を信じる人は、そのように主客の区別さえせず、向こうのいう竜宮を主として述べるのである。また漢籍にも時々水神の宮の話があって、それもよく似るため、どうにもこの段は外国の書物によって作ったものかと疑う人がいる。しかし、それは外国の書物だけを信じ、日本の古伝を信じないのである。
日本のものは、書物こそ後でできたが、内容は神代から語り伝えたままなので、はるかに古い。外国の説は、書物こそこちらより少し前でも、説く事には自分の作為ばかりが多く、古いままではないので、かえって日本の書物よりはるかに後のものだ。したがって、この段の伝説が真実であり、本である。仏書の竜宮は、この綿津見神の宮の話が、上代に自然に天竺などへも一部伝わった上に、いろいろな事を作り加えて説いたものだ。漢籍にも似た話があるのも同じである。
そもそも日本は、万国を照らす天津日大御神のもとの御国なので、あらゆる事も物も、皆日本が本であり主であって、他国へも自然に流れ及んだのだ。もとから似た事が多いのは、向こうが我が国に似たのであり、我が国が向こうに似たのではない。それなのに、代々の学者は皆、この根本の本末を理解せず、後世になって多くの事や物を外国から学び、外国から伝わり、また物語などに外国の故事を取って作り替えた例があるのにならい、万事を外国が本だと考える。それで神代の故事まで同類かと疑うのは、外国の書物にすっかり惑わされたものである。
たとえ本末はしばらく置くとしても、天地の間では、人の形をはじめ、山川草木、そのほかの物も、日本・中国・天竺でおおむね変わらず、皆おのずから同じ姿なので、古い伝承にも、こちらと向こうで同じ事があって当然ではないか。同じというだけで必ず向こうから学んだと思うのは、たいへん愚かだ。人の形も、ほかの物も、向こうを学んで造られたわけではないのに、自然に同じではないか。
また近ごろの、半端に賢しげな人は、水中に宮殿などあるはずがないと思い込むので、竜宮の説も信じず、この段の事も、実際は海底ではなく、薩摩国に近い一つの島、あるいは琉球国、あるいは対馬などだといい、それぞれ証拠も挙げるらしい。しかし、そうした類は皆、古伝に背く、例の儒者の心による私見である。あれほど作為を加え、中国風に書いた『書紀』でさえ、「彦火々出見尊を籠の中に入れ、海に沈めた」、また「海底に、おのずから美しい小汀がある」などという。それらの言葉からも、海底であることは明らかなのだ。〕
【宣長の注釈】「井上」は「ゐのべ」と読む。『和名抄』に、河内国志紀郡の井於、甲斐国山梨郡の井上という郷名があり、ともに「ゐのべ」とあることによる。〔『延喜式』の大和国平群郡猪上神社、『万葉集』巻七の井上も地名である。〕井戸のほとり、という意味だ。
【宣長の注釈】「湯津香木」については、前の天若日子の段に「湯津楓」とあり、そこで述べた。〔『伝』十三の二十七葉。〕
【宣長の注釈】「其木上」の「上」は、下と対になる上である。〔「井上」の上とは異なる。〕次に「その香木に登る」とあることで分かる。
【宣長の注釈】「海神」は「わたのかみ」と読む。〔ほかの古書では、わたつみの神にも普通「海神」と書くが、『古事記』では書き分けている。〕
【宣長の注釈】「相議者也」は、前の大国主神の段の、「御祖命は、『あなたは須佐之男命のいる根の堅州国へ参上しなさい。きっとあの大神が取り計らってくださるでしょう』と告げた」とあるのと同じだ。その前後の事柄全体の趣旨もよく似ている。考え合わせてほしい。〔『伝』十の三十三葉。〕ここまでが、塩椎神の教え申し上げた言葉である。
【宣長の注釈】注の「訓香木云々」について、旧版本などの「訓香云加都良木」は、「香」の下に置く「木」を、〔二行に並ぶために、〕誤って「良」の下へ書いたものだ。また真福寺本・延佳本などでは、「香」の下と「良」の下の両方に「木」がある。それも誤りである。〔「良」の下に「木」があるのは、確かによくない。訓を注すのに、訓で読む字を使う例も理由もない。また「かつらき」ともいえない。「かつらのき」なら、必ず「能」の字もあるはずだ。これは、「香」の下の「木」を誤って「良」の下に書いた本を見て、「香」の下の脱字には気づいて補いながら、「良」の下が誤りであることには気づかなかったのである。〕そこで、ここでは一本に従った。
【宣長の注釈】『書紀』の一書には、「一人の長老が突然来て、塩土老翁と名乗った、云々。老翁は袋の中の黒い櫛を取り出し、地へ投げた。すると五百の竹林になった。その竹で目の粗い籠を作り、火々出見尊を中へ入れて海へ投げた。一説には、目を詰めた堅間を浮木とし、細い縄で火々出見尊を結んで沈めたという。堅間とは、今の竹籠である」とある。
また一書には、「弟は海辺へ行き、うろうろして悲しみ嘆いていた時、塩筒老翁に出会った、云々」とある。別の一書には、「川雁が縄の罠にかかって苦しんでいたので、憐れみ、解いて放してやった。しばらくすると塩土老翁が来た、云々」とある。さらに一書には、「塩筒老翁に出会った、云々。老翁は策を立てて、『海神の乗る駿馬は、八尋の鰐である』といった、云々」とある。〔文が長いので、ここでは省いた。『書紀』を開いて見てほしい。〕これらは、それぞれ別の伝えである。
【古事記本文】命は教えに従って少し進んだ。何もかもいわれたとおりで、香木へ登って座った。海神の娘、豊玉毘売に仕える女性が、玉の器を持って水を汲もうとした時、井戸に姿が映った。見上げると美しい男がいて、たいへん不思議なことだと思った。「壮夫」は「をとこ」と読み、以下も同じである。
火遠理命はその女性を見て、水を飲ませてほしいと頼んだ。女性は水を汲んで玉の器へ入れ、差し出した。命は水を飲まず、首に掛けた玉を外して口に含み、器へ吐き入れた。玉が器にくっつき、女性は取り離すことができなかったので、そのまま豊玉毘売命へ持って行った。豊玉毘売命は玉を見て、「門の外に誰かいるのですか」と尋ねた。女性は答えた。「うちの井戸のほとりの香木の上に、とても美しい男の方が座っています。私たちの主君にさえ勝って、たいへん尊い方です。水を求められたので差し上げると、飲まずにこの玉を吐き入れました。取り離せないので、入れたまま持参して、お見せしたのです」。
豊玉毘売命は不思議に思って出て行き、その姿に心をひかれ、互いに思いを寄せて目を見交わした。そして父に、「門の所に美しい方がいらっしゃいます」と告げた。海神は自分で出て見て、「この方は天津日高の御子、虚空津日高でいらっしゃる」といった。すぐに奥へお連れし、「みち」の皮の敷物を幾重にも敷き、その上へ絹の敷物も幾重にも敷いて、そこにお座らせした。数多くの品を台にそろえてもてなし、娘の豊玉毘売と結婚させた。こうして命は、三年に至るまでその国に住んだ。
【宣長の注釈】「備」は「つぶさに」と読む。前の八千矛神の歌に「まつぶさに」とある。漏れなくすべて備わる意味で、ここでは塩土神の教えたとおりに、事ごとに、〔俗にいう「一々に」である、〕違うことがなかったという。ここの様子は、神の教え申し上げた言葉に詳しいため、ここでは省き、ただ「その言葉のとおり」とするのである。
【宣長の注釈】豊玉毘売の名の意味は、『書紀』の一書で父神の名を豊玉彦というので、それによるのだろう。〔父神の名について、ある人は、潮満ちの珠と潮干の珠を持つためだと説く。そうかもしれず、また単なる美称かもしれない。〕ただ『古事記』では父神にその名がないので、豊玉は姫だけの名で、顔の美しさを褒めたものでもあろう。山城国風土記には、久世郡水渡社、〔祇社である、〕その名を天照高弥牟須比命、和多都弥豊玉比売命とある。〔『神名帳』の水度神社三座という社だ。〕『神名帳』には阿波国名方郡の和多都美豊玉比売神社がある。〔同郡には天石門別豊玉比売神社という社もある。これはどのような由来の名なのだろう。〕
【宣長の注釈】「従婢」は「まかたち」と読む。『書紀』ではこれを「侍者」と書き、欽明巻の「従女」、『遊仙窟』の「婢」「侍婢」なども、すべてそう読む。「前子等たち」の意味だろう。〔「へ」を省き、「こら」を縮めて「か」とする。〕天皇の御前に仕える臣たちを「まへつきみ」と呼ぶのと、意味合いが似る。〔『書紀』景行巻の歌に「まへつきみ」とあり、後に音便で「まうちぎみ」となった。〕「子ら」は女性をいう古語で、『万葉集』などの歌に多い。〔「子ら」は一人もいうので、「ら」と「たち」が重なっても差し支えない。〕
【宣長の注釈】「玉器」は「たまもひ」と読む。『書紀』武烈巻の歌に「たまもひに、水さへもり」とある。〔玉鋺に水までも盛り、という意味だ。〕『和名抄』瓦器類には、「『説文』に、盌は小さい盂で、椀とも書くとあり、『弁色立成』に『まり』、俗に『もひ』という」とある。〔「もひ」はたいへん古い名なので、「俗にいう」は誤りだ。〕『万葉集』巻四には「片垸」とある。〔「垸」は「椀」の誤りか。〕『大膳式』には片椀十二口、片椀四十八口、片椀八十七口、豊受宮儀式帳には御水四もひ、御水六もひ、などが見える。
〔主水、また催馬楽の飛鳥井の歌の「御もひも寒し」などの「もひ」は、水をいう。ただし、池や川などにそのままある水一般は「もひ」といわず、汲んで飲む水の名だ。武烈紀の歌などから考えると、盛る器の名から生じたのだろうか。〕また『内膳式』に、甕十一口、〔水を汲み運ぶための物、〕由加十六口がある。〔これも水を汲み運ぶためとある。『和名抄』には、俗に大桶を「ゆかをけ」と呼ぶとある。〕『主水式』の水汲み用の器には、缶一口、土椀一合、〔盤を添える、〕片盤五口などが見える。このほかにも、水を盛る器がいろいろ『延喜式』に見える。
後世、井戸から水を汲み上げるには、必ず縄などを付けた「つるべ」を用いる。〔『和名抄』に、罐は水汲みの器で、『楊氏漢語抄』では「つるべ」というとある。〕しかし上代の井戸は浅い泉なども多かった。〔今も山里などではそうだ。〕盛る器で直接汲み上げたとも思われるので、この玉器も、水を入れる器で直接汲むものとも考えられ、汲んだ水を入れるための器とも考えられる。〔次に「水を汲んで玉器に入れ、差し上げる」とあるので、汲み上げることだけの器ではない。〕『書紀』はこれを玉鋺・玉壺・玉瓶などと書く。すべて「たまもひ」と読むべきだ。〔玉鋺を「たままり」とも読む。「まり」も古い名とは聞こえる。鋺は、下巻の若桜宮の段の「隠面大鋺」の所、『伝』三十八で述べよう。〕『竹取物語』には、天人の姿をした女が山から出て来て、銀の「かなまり」を持ち、水を汲み歩く、云々とある。
【宣長の注釈】「有光」は「かげあり」と読む。『書紀』に「井戸の中に人影があるのを見た」とある。〔ここでは「影」でなく「光」と書くことを考えると、「ひかり」とも読むべきか。ただ、白檮原宮の段の「その井戸に光があった」などとは異なり、光明があるのでなく、ただ姿の映りをいう。「かげ」は、「かがやく」「かぎろひ」などと、もと同じ語なので、「ひかり」といっても、結局同じ意味になる。〕火遠理命が木の上に座っている姿が、井戸の水に映って見えるのである。
【宣長の注釈】「壮夫はこう読む」という注は、すでに前の大穴牟遅神の段にあるので、ここには重ねてなくてもよかっただろう。
【宣長の注釈】「見其婢」の「婢」は「をみな」と読む。
【宣長の注釈】「乞欲得水」は「みづをえしめよとこひたまひ」と読む。〔「えしめよ」は、「得させてほしい」というような意味だ。〕『万葉集』巻二十の十丁に、「山人の、我にえしめし、山づとぞこれ」とある。山の人が私に得させてくれた山の土産だ、という意味である。
【宣長の注釈】「婢乃」の「婢」は、また「まかたち」と読む。
【宣長の注釈】「御頸之璵」は、前に出た。〔『伝』七の三葉。〕
【宣長の注釈】「含口」は「みくちにふふみて」と読む。『書紀』応神巻の御歌に「ふふごもり」とあり、『万葉集』巻十四の二十五丁に「ふふまる」、巻十八の十六丁に「ふふめり」、巻十九の四十六丁に「ふふめるは」、巻二十の三十一丁に「ほほまれど」、また同巻の四十三丁に「ふふめりし」とある。また巻六の十七丁に「含みて」、巻八の十七丁に「含める」などがある。
このように玉を口に含んで吐き出したのは、どのような理由なのだろう。詳しくは分からない。〔前には、口に含んだのは玉を嚙み砕いたのかと思ったが、後の文の様子ではそう聞こえない。あるいは玉を器に付け、離れなくする術だったのかもしれない。神代にはその類の術が時々見える。そのように玉を器に付けて離れなくしたのは、必ず海神の娘に見せようとしてのことだ。その玉が普通の飾り玉とははるかに違って美しいのを見て、普通の人間ではないと知らせるための行為だったのだろう。さらによく考えるべきことである。〕
【宣長の注釈】「璵任著」は「たまつけながら」と読む。『万葉集』巻十六の二十九丁に、「角つきながら」とある。
【宣長の注釈】「我井上」の「我」の使い方は、何となく漢文風に聞こえるが、上代にもあったのだろう。「我が君」などは、もとからの古語で、それと同じだからだ。後の「吾門」も同じである。〔『伊勢物語』の「我が帝、六十余国」は、漢文の「吾朝」を取ったようだが、それも古語に違うわけではあるまい。ここでいう類の「我」は、普通にいう「我が門」「我が家」などとは少し異なるので、このように論じる。〕今、俗に「こっちの」という意味である。
【宣長の注釈】「我王」は、綿津見神を指す。〔「きみ」というのに「王」を書くのは、仏書の海竜王を思ったのか。ここは日本を離れた外の世界なので、王といってはいけないこともなさそうだが、それでも古文で、こうした所の文字遣いとしてはどうだろうか。『書紀』にも「我王」「其王」などとある。〕ここは「あがきみにもまさりて」と読む。「にも」は、この女性が、常に綿津見神だけをたいへん尊いものと思っていることによる語だ。〔ただ「に」と読んだのでは、その意味が足りない。〕『書紀』の一書の、「主君に告げて、『我が君だけが抜きん出て美しいと思っていましたが、今、一人の客がいて、さらに遠く勝っています』といった」とあるようなことである。
【宣長の注釈】「貴」は、この巻の末の豊玉毘売命の歌の、「白玉の、君が装ひし、たふとくありけり」、また『万葉集』巻二の二十七丁の「春花の、貴くあれど」、催馬楽の「あなたふと、今日のたふとさや」などと同じである。「たふとき」は「ふとき」に「た」が加わったものだ。〔「太占」「太祝詞」「太幣」などの「ふと」と同じ語で、美しくよいという意味だ。これが「貴い」のもとの意味である。〕古くはもとの音のまま発音したが、後世には音便で「たふと」を「とをと」と呼ぶため、違うように聞こえても、同じことなのである。
【宣長の注釈】「奉水者」は、ただ「たてまつりしかば」と読む。「水」は読まない。〔前に水という語が出ているからである。〕
〔訳注:「多豆麻都理斯加婆」の第二字は、「豆」か「弖」か字形を確定できていない。ここでは「たてまつりしかば」の意味で訳した。〕
【宣長の注釈】「任入将来」は「いれながらもちまゐきて」と読む。
【宣長の注釈】『書紀』には、「門前に井戸があり、そのほとりに湯津杜樹があって、枝葉が広がっていた。彦火々出見尊はその木の下へ行き、寄りかかりながら歩き回った。しばらくして一人の美人が戸を開いて出て来て、玉の鋺で水を汲もうとした。目を上げて尊を見、驚いて帰り、父母に『珍しい客が門前の木の下にいます』と告げた」とある。
一書には、「世にないほどの美人が、侍者たちを従えて中から出て、玉壺で水を汲もうとした。彦火々出見尊を見上げ、驚いて戻り、父神に、『門前の井戸のそばの木の下に尊い客がいて、体つきが普通ではありません、云々』と告げた」とある。
一書には、「門前によい井戸があり、豊玉姫の侍者が玉瓶で水を汲んだが、どうしても満たせなかった。井戸をのぞくと、人の笑う顔が逆さに映った。それで見上げると、美しい神が杜樹に寄っていたので、中へ戻り、主君に告げた」とある。
一書には、「門前によい井戸があり、そばに枝の多い杜樹があったので、彦火々出見尊は跳び登って立った。海神の娘、豊玉姫が玉の鋺を手に水を汲みに来た時、井戸の中に人影を見た。見上げ、驚いて鋺を落とした。鋺が割れても構わず、中へ戻って父母に告げた、云々」とある。玉を吐き入れたことは、『書紀』のどの伝えにも見えない。
【宣長の注釈】「見感」は「みめでて」と読む。「めで」という語は、『書紀』允恭巻の御歌をはじめ、多く見える。〔「めづらし」「めでたし」なども、この語から出た。〕「見感」は中巻の白檮原朝の段、倭建命の段などにもあり、『古事記』の「見驚」「見喜」「見畏」などと同類の古語である。
【宣長の注釈】「目合」については、前に述べた。〔『伝』十の三十五葉。〕
【宣長の注釈】「而白」の「而」は、延佳本と、ほかの一本などにはない。〔旧版本は「而」があり、「白」が抜けている。〕ここでは真福寺本と、ほかの一本にあることに従った。
【宣長の注釈】「天津日高」は、前に出た。〔『伝』十五の三のひら。〕
【宣長の注釈】虚空津日高について、谷川氏は、天津日高は天子の称号、虚空津日高は太子の称号だといった。〔古意に合わない説のように聞こえるが、よく考えると、〕確かにそのとおりだろう。その理由は、先の邇々芸命・穂々手見命・鵜葺草葺不合命が、皆天津日高と申し上げられるからだ。これは、天つ日嗣を継いで国を治める方の尊い称号である。ここは穂々手見命がまだ皇太子のころなので、「天津日高の御子」と申し上げる。〔ここでの天津日高は、この尊自身の称号ではない。〕その御子を虚空津日高と称するのは、虚空が天と地の中間なので、天津日高に次いで尊んで申し上げる称号なのだろう。
〔普通は通用させて、天を「そら」、虚空を「あめ」ということも多いのは、地からいえば、虚空も天の方だからだ。そのため今の言葉では、上を「そら」ということもある。また「地上すなわち天」などというのは漢籍の考えなので、ここでいうべきではない。〕『書紀』神功巻の「天において事代、虚において事代、云々」は、天と虚空とを別にいう例である。
『書紀』の一書には、「父神に告げて、『門前の井戸のそばの木の下に、体つきが普通ではない尊い客がいます。天から降った方なら天の汚れが、地から来た方なら地の汚れがあるはずですが、実に妙に美しい虚空彦という方でしょうか』といった」とある。たいへん異なる伝えだが、虚空彦という称号や、虚空を天と地の間とすることなどは、こちらに似た点である。
〔右の『書紀』は、天の汚れも地の汚れもないといって、虚空を特に優れた意味に取っている。『古事記』の虚空津日高もその意味かともいえそうだが、『古事記』には天津日高という最も尊い称号があり、その御子とするので、それに次ぐ称号であることに疑いはない。虚空を天と地の中間とするのは同じでも、中間を次ぐ方に取るか、優れた方に取るかは異なる。
『古事記』の虚空津日高を、『書紀』は虚空彦といい、邇々芸命の天津日高も天津彦とし、『書紀』には日高という名がない。これは思うに、『書紀』編纂当時の天皇の名を氷高と申し上げたのを避け、編者の配慮で皆「彦」に改めたのだろう。しかし、それはたいへんな誤りだ。子孫の天皇の名に触れるとしても、皇祖神の名を改めるべきではない。また「天津彦彦云々」と「彦」が重なるのも、どうだろうか。〕
【宣長の注釈】「美智皮」は、『書紀』で「海驢」と書き、「これは『みち』という」とある。『釈』は海馬と注す。〔海馬は漢名である。『本草』には、「陳蔵器がいう。海驢・海馬などの毛皮は、陸にあっても風や潮の時を待って毛が立つ」とある。〕『口決』は、「海驢の皮は、陸にあって潮が満ちると、自然に毛が立つ」とだけいい、動物の姿は述べない。建長八年百首の衣笠内大臣の歌に、「我が恋は、海驢の寝流れ、覚めやらぬ、夢なりながら、絶えや果てなむ」とある。私の恋は、海驢が眠ったまま流れるように、覚めきらない夢のままで、ついに絶えてしまうのだろうか、という歌だ。〔『夫木集』に出る。〕
紀伊国の人はこういう。「今、紀伊の海に『あしか』という物がいて、その土地では古くから海馬と書いて来たという。日高郡の海中の阿志加島という島に、毎年秋冬のころ多くやって来る。岩の上に眠り、波に浮かびながらも熟睡し、目を覚ますのが遅い。大きいものは長さ一丈ほどもある。脚はなく、水かきのような物がある。この物は西国の海にもいる」。『和名抄』には葦鹿という物を載せ、原文の出典は未詳とする。思うに、これが海驢だろう、と述べている。〔ある人は、あしかは『本草綱目』の海獺という物だという。〕
ある書物は、「『山東志』に、海驢は文登の海中に産し、姿は驢馬に似る。秋になると島へ登って子を産む。皮は雨具となり、水がしみ込まない、とある。今考えると、海中に『登騰』という物がいて、岩屋へ登り、よく眠る。皮は馬具に用い、首は馬に似て、大きさは小馬ほどだ。これが海驢だろう。陸奥・松前・蝦夷、また諸国の海辺にも、まれにいる」とする。〔『本草綱目』には、東海の島に海獺が産し、水へ入っても濡れないとある。〕またある人は、「今も北の海に海驢がいて、その皮は潮が満ちると柔らかく、潮が引くと乾いて硬くなる。今も敷皮にする」という。
これらの説のうち、どれが正しく「みち」に当たるのだろう。〔紀伊の人のいう「あしか」と、ある書物のいう「登騰」は、同じ物で土地によって名が違うのか、別の物なのか、なおよく調べたい。あまり違わない物とは聞こえる。また近年、西国の海で捕れたとして、「水豹」という物を見世物にした。長さ三尺ほどで、あしかの類と見えた。これは私が実際に見た物なので、ここへ記しておく。「水豹」は新しく勝手に付けた名だろうから、根拠にはできない。〕今も「みち」という名が残る土地はないか。調べて定めるべきである。〔訳注:「登騰」は原転写を暫定的に保持した。字形と読みは確認を留保する。〕
【宣長の注釈】「疊」は、白檮原宮の段の御歌に、「すがたたみ、いやさやしきて」、倭建命の御歌に、「たたみこも、へぐりの山の」とある。〔遠飛鳥宮の段の歌にも「我がたたみ」とある。〕たいへん古い名だ。皮を敷物にする例は、この後に引く弟橘比売命の話や、『万葉集』巻十六の「韓国の云々」などである。「皮疊」「絁疊」などから見ると、上代には毛氈やしとねなども、すべて「たたみ」といったのだ。〔右の白檮原朝の御歌に、菅の敷物を敷いて二人が寝たとあるので、敷いて寝る物も「たたみ」といったことが分かる。〕『和名抄』には「疊、和名『たたみ』」とある。
〔このころには、「疊」は今の畳で、皮や絹の物は「疊」といわず、氈・茵・席など、それぞれ別である。その畳にも種類があり、長帖・短帖・狭帖・半帖、また厚帖・薄帖などがある。「帖」は「疊」と音を通わせて用いたのだろう。また縁にも、繧繝端・錦端・両面端・布端・緑端・黄端など、いろいろある。『掃部寮式』などに詳しい。
『海人藻芥』にはこうある。「畳のこと。天皇・上皇は繧繝縁である。神仏の前の半畳にも繧繝縁を用いる。そのほかは用いてはならない。大紋高麗縁は親王・大臣が用い、それより下は用いない。大臣より下の公卿は小紋高麗縁である。僧侶では、僧正以下、有職・非職ともに紫縁である。六位の侍は黄縁である。諸寺・諸社の三綱なども皆黄縁を用いる、云々。四位・五位の雲客は紫縁を用いる」。〕
【宣長の注釈】「絁」は絹である。『和名抄』には、絹は「きぬ」、帛は俗に「はくのきぬ」、絁は「あしきぬ」とある。〔「あしきぬ」は、『唐韻』の「絁は布に似た絹織物」というように、粗く悪い絹という意味の名だ。〕それぞれ違いがあるが、古書では単に「きぬ」というのに、「絹」も「絁」も通用させている。
【宣長の注釈】「八重」は、いつもの「いやへ」で、ただ何重にも、ということだ。『書紀』には、「海神は八重のむしろを敷き、迎え入れた」とある。『古事記』中巻、倭建命の段で弟橘比売命が海に入る所にも、「菅の敷物八重、皮の敷物八重、絹の敷物八重を波の上に敷き、その上へ下り座った」とある。
『万葉集』巻九に「我がたたみ、三重の川原の」とある。〔「三重」へ続けるのは、「三」に関係せず、ただ「重」にかかる。三重は表・中・裏のことだなどというのは、後世の考えだ。〕巻十六の二十三丁には、「韓国の、虎とふ神を、生け捕りに、八つ捕り持ち来、その皮を、たたみに刺し、八重たたみ、平群の山に」とある。韓国の虎という神を八頭生け捕って来て、その皮を敷物へ仕立て、幾重にも重ねる、その平群の山に、という歌である。〔「八重たたみ」までの七句は、すべて序詞だ。〕先に引いた倭建命の歌なども、すべて「たたみ」は「へ」にかかる序詞である。〔「へ」は、一重・二重などの重だ。〕何重にも重ねる物なので、そう続けたのである。
物を重ねることを「たたむ」ともいうから、「たたみ」という名も重ねるという意味だ。〔広い物を狭く折り縮めることを「たたむ」というのも、折ると重なるためだ。〕したがって、畳は上代には、必ず何重にも重ね敷いた物である。〔『万葉集』巻十一の「たたみこも、へ編む数」、巻十二の「たたみこも、重ね編む数」は、こもを幾重にも重ね編み、一つの畳に作ることだ。これは少し後のことで、上代に幾重にも敷くべき物を、便利なように一つへ編み重ねて、厚く造ったのだろう。上代の畳は、後世のような厚い物とは見えない。〕後世、神今食・新嘗祭などで神座へ「八重畳」という物を設けるのは、上代の儀である。
【宣長の注釈】「敷其上」の「其」は、旧版本と、ほかの一本などでは「具」とある。ここでは真福寺本・延佳本に従った。
【宣長の注釈】「坐其上」の「坐」は「ませまつり」と読む。『書紀』清寧巻の「柴の宮を建て、仮に安置申し上げた」、敏達巻の「その仏像二体を請い」、孝徳巻の「仏像四体を迎え、塔の内に座らせた」、また『万葉集』巻十二の二十一丁の「君乎座而(君をいませて)」がある。あなたをお迎えして、という意味だ。このほかにも「ませ」と読む例は多い。「座らせる」という意味の語を縮めた古語である。
【宣長の注釈】「百取の机代の物」は、前に出た。
【宣長の注釈】「具」は「そなへて」と読む。祝詞の「置き足らはして」というのと同じで、今の俗語の「取りそろえて」という意味だ。〔俗に、神へ物を献ることを「そなふる」というのは、品々をそろえて献ることから転じたのである。〕
【宣長の注釈】「令婚」は「あはせまつりき」と読む。『書紀』の一書には、「海神は自ら迎えて中へ入れ、海驢の皮を幾重にも敷いて座らせた。百の台に食事も用意し、主人としての礼を尽くした。娘の豊玉姫を命の妻とした。命はそのまま海宮にとどまり、三年を経た」とある。
一書には、「海神は聞いて、『試しに観察しよう』といい、三つの床を設けて招き入れた。天孫は端の床で両足を拭き、中の床で両手をぬぐい、奥の床では真床覆衾の上へゆったり座った。海神は、天神の子孫だと知り、ますます尊び敬った」とある。一書には、「豊玉彦は人を遣わし、『客は誰で、なぜここへ来たのか』と尋ねた。火々出見尊は、『私は天神の子孫である』と答え、来た事情を述べた」とある。
【古事記本文】火遠理命は故郷を恋しく思い、一つ、大きなため息をついた。豊玉毘売命はそれを聞き、父へ告げた。「三年住んでいらっしゃるのに、これまではため息もおつきになりませんでしたが、昨夜、大きなため息を一つおつきになりました。何か理由があるのでしょうか」。父の大神は婿に尋ねた。「今朝、娘から聞いたのだが、三年いらっしゃっても、これまではため息をつかなかったのに、昨夜は大きなため息を一つついたという。何か理由がおありか。また、ここへいらした理由は何か」。命は、鉤を失ったことで兄から責められた事情を、詳しく大神へ語った。
海神は海の、鰭の広い魚も狭い魚もすべて集め、「この鉤を取った魚はいるか」と尋ねた。魚たちは、「近ごろ鯛が、喉に物が刺さって食べられないと訴えています。きっとそれが取ったのでしょう」と答えた。その喉を探ると鉤があったので、取り出し洗い清め、火遠理命へ奉った。
綿津見大神は、こう教えた。「この鉤を兄へ渡す時には、『この鉤は、心の晴れなさを招く淤煩鉤(おぼち)、荒れ狂いを招く須須鉤(すすぢ)、貧しさを招く貧鉤(まぢち)、愚かさを招く宇流鉤(うるぢ)だ』といって、後ろ手に渡しなさい」。「淤煩」「須須」の字、また「宇流」の字は音を表す。「そして、兄が高い田を作ったら、あなたは低い田を作りなさい。兄が低い田を作ったら、あなたは高い田を作りなさい。そうすれば、私が水を支配しているから、三年かけて、兄は必ず次第に貧しくなる。兄がそれを恨んで攻めて来たら、潮満ちの珠を出して溺れさせなさい。悲しんで助けを求めたら、潮干の珠を出して生かしなさい。このように苦しみ悩ませなさい」。そして潮満ちの珠・潮干の珠の二つを授けた。
さらに、わにをすべて呼び集め、「天津日高の御子、虚空津日高が上の国へお帰りになる。誰なら何日でお送りし、戻って報告できるか」と尋ねた。わにたちは、それぞれ体の長さに応じて日数を述べた。その中で一尋のわにが、「私は一日でお送りして、そのまま戻って来られます」と答えた。そこで神はそのわにに、「では、お前が送りなさい。海を渡る時には、おびえさせてはならない」といった。
命をそのわにの首へ乗せて送り出すと、約束どおり一日以内にお送りした。わにが戻ろうとする時、命は帯びていた紐小刀を外し、その首に付けて帰らせた。このため、その一尋のわには、今でも佐比持神と呼ばれている。
【宣長の注釈】「思其初事」は、ただ故国を恋しくお思いになることだ。〔兄が鉤を取り立てた事を指すように聞こえるが、そうではない。〕それは三年にもなる以前のことなので、「初めの事」というのである。『書紀』には、「海宮へ留まって、すでに三年を経た。そこは安楽でも、なお故郷を思う気持ちがあり、時々大きくため息をついた。豊玉姫はそれを聞き、父へ『天孫は悲しげに何度もため息をついています。故郷を思う悲しみでしょうか』といった」とある。一書には、「この後、火々出見尊は何度もため息をついた。豊玉姫が、『天孫は故郷へ戻りたいのですか』と尋ねると、そうだと答えた。豊玉姫は父神へ、『ここにいらっしゃる尊い客は、上の国へ帰りたいと望んでいます』と告げた」とある。これらによって考えるべきである。
【宣長の注釈】「大一歎」は「おほきなるなげきひとつしたまひき」と読む。〔旧版本・延佳本などは「おほきになげきます」、師は「いたくなげきたまへり」と読んだ。そう読むのは普通のことだが、それなら「一」を加えて書かないはずなのに、ここにも後にも「一」があるから、必ず役割がある。そのため、このように読むべきだ。文字どおり「おほきにひとたび云々」などとも読めそうだが、それも古い雅語の形ではあるまい。〕
「なげき」は長い息で、心に思いの結ぼれる事がある時、長い息をつくことをいう。〔悲しい事や心配な事はもちろん、嬉しい事、愛しい事なども、心に余って抑えられない時には、長い息が出る。中国でも、「歎」などがどちらにも用いられるのは、こちらと変わらない。その中でも、悲しみや心配は特に深く心へ結ぼれるので、後にはもっぱらその意味に取り、「なげき」がそのまま悲しみ憂えることにもなった。〕
『万葉集』巻十三の十六丁に「我が嘆く、八尺の嘆き」、同巻の三十四丁に「杖足らず、八尺の嘆き」、巻十四の二十九丁に「やさかどり、息づく妹を」とある。〔カイツブリは息の長い鳥なので「八尺鳥」といい、「息づく」の枕詞とした。〕これらは息がたいへん長いので「八尺」という。「息づく妹」も、長いため息をついて恋い慕う女性という意味だ。同書巻五の六丁には、「我が嘆く、おきその風」とも詠む。〔長い息の風で、「おきそ」は息嘯だろう。〕
「大」は、その長い息の声が高く大きいことをいう。〔漢文でも普通「長大息」という。〕思いの深いだけ、声も大きいのだ。『万葉集』巻十三の十四丁に、「この床の、ひしと鳴るまで、嘆きつるかも」、巻二十の三十四丁に、「負ひ征矢の、そよと鳴るまで、嘆きつるかも」、『古今集』恋に、「つれもなき、人を恋ふとて、山彦の、答ふるまで、嘆きつるかも」とある。床がきしむほど、背負った矢がかすかに鳴るほど、あるいは山彦が答えるほどため息をついた、という歌で、どれもため息の声が大きく、物に響くことをいう。
「一」は一声である。ため息に数をいう例は、中巻の倭建命が「あづまはや」といった所にも「三歎」とある。〔ただし、そこの「三」を「みたび」などと読んではならないことは、そこで述べたとおりだ。漢文には「一唱三歎」などがある。〕『万葉集』巻四の三十九丁には「たび多く、嘆く嘆き」などがある。
ここは思いが浅く、ただ一声だったのではない。この時まで心に隠して表さなかったのを、三年というたいへん長い時がたち、今はこらえられず、思わず漏れた一声なのである。「一つ」という所に、その意味が見える。〔次の言葉によると、豊玉毘売はこのため息を聞いて驚いた様子なので、姫にも故郷が恋しいことを語っていなかったのだ。心に隠していたことが、いっそう明らかである。『書紀』が、このため息を「何度も」「時々」などとするのとは、趣旨が異なる。〕
【宣長の注釈】「恒無歎」は「つねはなげかすこともなかりしに」と読む。「つねは」は、今までは、という意味だ。〔だから「は」を添えて読む。〕中巻の倭建命の段の「私の心は、これまでは空を翔けて行く思いだった」、また『万葉集』巻七の三丁の、「常はそ、思はぬものを、この月の、過ぎ隠らまく、惜しき夕かも」などのような例だ。いつもは思わないのに、この月が過ぎて隠れるのが惜しい夕べだ、という歌である。
【宣長の注釈】「今夜」は昨夜のことだ。次に父神が「今朝云々」というので、ため息を聞いた翌朝の言葉だからである。夜が明けた後も「今夜」という例は、摂津国風土記の夢野の鹿の話に、「翌朝、雄鹿が妻へ、『今夜、夢に私の背へ雪が降ったのを見た』と語った」とある。『伊勢物語』には「今夜、夢になむ見え給ひつるといひければ」、『源氏物語』野分の巻では、野分が吹いた翌朝の言葉に「今夜の風」とある。『和泉式部物語』には、「いたく降り明かして、御明旦、今夜の雨の音は云々」とある。
【宣長の注釈】「若有何由」は「もしなにのゆゑあるにか」と読む。「もし」と「何」を重ねるのは不自然に聞こえるが、後の「若渡海中時無令惶畏」も、「もし」と「な」を重ねている。古語では、このような形でもいったのだろう。〔『書紀』仁徳巻の大后の御歌の「あによくもあらず」、『万葉集』巻四の「豈不益歟」なども、「あに」の使い方が聞き慣れない感じで、その類だ。今の俗語の形で、「何か理由があるか」という意味に取れば、「もし」は自然そうだが、「何」をそのように用いる例は、雅語ではまだ見当たらない。〕
【宣長の注釈】「父大神」と、ここに至って大神というのは、火遠理命の舅となられたからなのだろうか。
【宣長の注釈】「聟夫」は「みむこのきみ」と読む。〔ただ「むこ」とだけ読むのは軽すぎるようだからだ。〕『和名抄』には、「『爾雅』に、娘の夫を聟といい、婿とも書く、和名『むこ』」とある。『字鏡』は、聟を「もこ」とする。
【宣長の注釈】「今且」の「且」は、諸本が皆この字だが、確かに「旦」の誤りである。
【宣長の注釈】「為大歎」には、ここでは「一」がない。それでよい所だ。〔訳注:底本本文の父神の問いには「一」が印字されているが、この注では「一」がないとする。本文と注の不一致を、そのまま残した。〕
【宣長の注釈】「若有由哉」は、『書紀』には、「海神は彦火々出見尊を招き、穏やかに、『天孫が故郷へ帰りたいのなら、私がお送りしましょう』と語った」とある。
【宣長の注釈】「亦到此間之由奈何」は、『書紀』では豊玉姫を妻としたという前に、「来た事情を尋ねたところ、彦火々出見尊は詳しく事情を述べた、云々」とあり、一書も同じだ。確かに、このことは最初に先に尋ねるべきものだ。『古事記』がここで尋ねるのは、ため息の話を聞き、その理由は何かとお思いになったため、それに関連して、初めにここへ来た理由も尋ねたのである。〔「此処」を「此間」と書くのは漢文に普通に多く、『万葉集』などにも多い。〕
【宣長の注釈】「罰」は「はたれる」と読む。前には「乞徴」とあった。
【宣長の注釈】「海之大小魚」は「はたのひろもの、はたのさもの」と読む。〔『書紀』の「大小之魚」も、そう読むべきだ。〕前の天宇受売命の段の「鰭の広いもの、鰭の狭いものを、すべて追い集めて尋ねた」と、語の続きまでまったく同じなので、前にならって読む。〔それを知らず、『書紀』の「大小之魚」を「とほひろくひきいをども」、あるいは「とほしろく云々」などと読むのは、古語らしく、何となく由来がありそうに聞こえるが、すべて誤読だ。〕『古事記』では、同じ語を、一方では言葉のまま、他方では意味によって書く例が多いことは、巻首で述べたとおりである。これも意味で書いたものだ。『書紀』の一書が、ここをそのまま「鰭広・鰭狭をすべて呼び集めて尋ねた」とすることでも分かる。
【宣長の注釈】「頃者」という語はどうだろう。鉤を吞んだのは、三年前のはずなのに。ここは『書紀』の一書の「赤女は久しく口を病んでいた」の「久」が、適切に聞こえる。
【宣長の注釈】「赤海鯽魚」は「たひ」と読む。鯛である。『書紀』は赤女とし、「赤女は鯛の名」と注す。〔ただ、この注は後人の手かもしれない。〕一書は「赤女、あるいは赤鯛という」、別の一書は「鯛女」、また別の一書は赤女とし、「すなわち赤鯛である」と注す。仲哀巻の「海鯽魚」と、『和名抄』の「『弁色立成』に、海鯽魚を『ちぬ』という」とを合わせれば、赤海鯽魚が鯛であることは確実だ。
〔「ちぬ」は、鯛の灰色のもので、黒鯛の類だ。『和名抄』では「ちぬ」と「くろたひ」は別だが、あまり違わない物である。普通の鯛は、ちぬと形がまったく同じで色が赤いので、赤海鯽魚と書く。「橿」を「白橿」と書く類だ。仲哀巻は、赤いものも黒いものも一つにして、海鯽魚を鯛に当てたのである。古書に物の漢名を書くのは、書き手ごとの考えで、このように少しずつ違いがある。あれこれよく考え合わせて定めなければ、混同してしまう。〕
『和名抄』には、「崔禹錫の『食経』に、鯛は味が甘く、性は冷たく、毒はない。姿は鱮に似て、鰭が赤い、とあり、和名『たひ』」と見える。『字鏡』も鯛を「たひ」とする。〔師は、この赤海鯽魚も『書紀』によって「あかめ」と読んだ。それも一理あるが、『古事記』の例では、もし「あかめ」なら、そのまま赤女と書くべきだ。また『書紀』の赤女を、「赤鯛である」によって、鯛の一種で特に赤い物だとする説はよくない。後世ならともかく、上代にはそこまで細かく分けて名づけなかった。赤鯛も普通の鯛で、黒鯛の類と対比し、「赤」を添えたのだ。仲哀巻で海鯽魚を「たひ」と読むことから、この赤海鯽魚を「あかだひ」と読み、特に赤い一種とするのは誤りだ。「あかちぬ」も誤りである。〕この「たひ」の下には、「なむ」を読み添えるべきだ。文の調子が必ずそうなる。
【宣長の注釈】「喉」は「のみと」と読む。「吞み門」の意味である。『和名抄』には「喉、和名『のむと』」とある。〔これは「み」を音便で「ん」という、後のことである。〕『万葉集』巻五には「のどよひ」という語がある。〔喉声で泣くことだ。〕「み」を省いたものだ。〔このように省く場合、その下の音が濁る例が多い。今も「のど」という。〕
【宣長の注釈】「鯁」は「のぎあり」と読む。『和名抄』には、「『唐韻』に、鯁は魚の骨が喉にあることとあり、和名『のぎ』」とある。〔字書には、骨が喉を下らないこととも注す。〕
【宣長の注釈】「愁言故」の三字は「うれふれば」と読む。身の苦しみを人に告げることを「うれふ」というため、「愁言」の二字をそう読む。〔「れば」の中に、「故」の意味がある。〕
【宣長の注釈】「是」は、赤海鯽魚を指す。〔「これが」という意味だが、こうした所で「が」というのは雅語ではない。〕古文にはこの例が多い。〔漢文の「是」の形とは異なる。〕
『書紀』には、「海神は大小の魚を集めて鉤を尋ねた。皆知らないと答え、ただ赤女が近ごろ口を病んで来ないという。強いて呼び、その口を探ると、果たして失った鉤が見つかった」とある。一書には、「海神は海の魚を集め、鉤の有無を尋ねた。一匹が、『赤女が久しく口を病んでいるので、それが吞んだのかもしれません』と答え、すぐ赤女を呼んだ、云々」とある。
一書には、「海神は憐れみ、鰭広・鰭狭をすべて集めて尋ねた。皆知らないが、赤女が口を病んで来ないと答えた。〔また、口女が口を病んでいるともいう。〕云々。海神は、『口女よ、今後は餌を吞んではならず、天孫の食膳にも加われない』と定めた。口女魚を御膳に奉らないのは、このためである」とある。〔この一書で、前は赤女、後は口女というのは、どうしたことか。初めの赤女は、口女の写し誤りか。また「口女ともいう」という注も理解できない。一本にそうあったのを、後人が注したのだろうか。〕一書には、「海神が赤女・口女を呼んだ。〔赤女は赤鯛、口女は鯔である。〕尋ねると、口女は口から鉤を出して奉った」とある。
【宣長の注釈】「滌洗」は「すまして」と読む。洗い清めることを「すます」という。
【宣長の注釈】「給其兄」は、火遠理命を尊び、火照命を低く見て憎むため、兄に対してでも「給ふ」というのである。
【宣長の注釈】「淤煩鉤」は、『書紀』の一書の、「教えて、『これを兄へ渡す時には、大鉤・踉䠙鉤・貧鉤・癡騃鉤といい、いい終えて後ろ手に授けなさい』といった」と照らして考えると、「大鉤」に当たる。〔「大」は借字で、この字の意味による説明は当たらない。ほかの三つの鉤は借字ではないが、この「大」だけは借字としなければ意味が明らかにならない。〕
「煩」は濁音だが、この「淤煩」の「ほ」は清音でもいう。この語は、『万葉集』の諸巻に多い「鬱悒」である。巻四の「朝居雲のおほほ」などもあり、明らかでない意味だ。〔巻十の十六葉、巻十二の十八葉などの「不明」を、今の本では「ほのかにも」と読むが、これも「おほほしく」がよい。「ほのか」も、もとの「おほのか」の「お」を省いた語だ。仮名では「意保々志久」など、「保」を清音で書く。〔巻五・十一・十四・十六。〕一方、巻十七の八丁では「於煩保之久」と濁音でも書く。〔清音でも濁音でもいう語なのだろう。〕「おぼつかなし」も、〔普通は「ぼ」を濁るが、『万葉集』巻八・十などには「於保束無」と清音の「保」を書く。〕「おぼろ」も、明らかでないことをいい、もと同じ語だ。〔「鬱悒」を「いぶかし」「いぶせし」と読む所もある。それらの「いぶ」も「おぼ」に通じ、もとは同じである。「お」と「い」が通じるのは、「おき」と「いき」のような例だ。「いぶかし」「いぶせし」の「ぶ」も普通は濁るが、『万葉集』では多く清音で書く。〕また「おほろか」「おほよそ」「おろそか」「おほかた」なども、細かくないことをいい、もとは明らかでない意味で同じだ。「おほ」とだけもいう。
ここの「淤煩」は、心配があって心の晴れない意味である。〔心を晴らすことを『万葉集』などで「あきらむ」というので、晴れないのは、明らかでないことだ。〕『万葉集』巻二の三十丁、日並皇子命が亡くなった時の舎人たちの哀傷歌に、「朝日照る、島の御門に、おほほしく、人音もせねば、まうら悲しも」とある。朝日が照る島の御門に、心が晴れず、人の声もしないので、ひどく悲しい、という歌だ。巻四の三十三丁には、「今さらに、妹に逢はめやと思へかも、ここだ我が胸、おほほしからむ」とある。今さらあの人に逢えるだろうかと思うから、これほど胸が晴れないのだろうか、という歌だ。巻五の二十六丁には、「国遠き、道の長手を、おほほしく、恋ひや過ぎなむ、言問ひもなく」とある。遠い国までの長い旅路を、もの思いに沈み、言葉を交わすこともなく、恋しく思って過ごすのだろうか、という歌だ。〔「こふや」は、恋うのだろうか、という意味である。〕これらの「鬱悒」のようなことだ。
【宣長の注釈】「須々鉤」について、師の『冠辞考』の、〔「ふせやたき」の条、〕「廬八燎須酒師競云々」の説明にこうある。「『すすしきそひ』とは、壮士たちの心が勇み立ち、我を忘れて競うことをいう。『古事記』の須須鉤を、『神代紀』は踉䠙鉤と書く。これも勇み立つ意味だ。また『古事記』の、美人が驚き、立ち走ったことを『いすすきき』と表す、その動きも、この語である。後の書物の『すどろ』『そどろ』なども同じだ」。また、前の須佐之男命の「於勝佐備云々」の所、〔『伝』八の四葉、〕に引いた師の説の、「さび」は「すさび」だということも、よく当たる。「すさ」と「すす」は同じで、「すさび」は勇み荒れることなので、ここの「すす」も、勇み立って荒れる意味である。
『書紀』には、「踉䠙鉤、これは『すすのみぢ』という」とある。〔『玉篇』は踉䠙を、進もうとする姿と注し、䠙を急いで進むことともする。別の字書では、踉を高く踏み上げること、跳踉を跳び躍る姿などと注す。勇み立つ意味に近い字だ。『字鏡』の「猖獗、すすのみ」も、荒れる意味に近い。「獗」は誤字だろう。「すすのみ」の「のみ」は、活用させる部分で、「音」を「おとなひ」、「商」を「あきなひ」などという「なひ」の類だろう。〕『古事記』に「のみ」がないのは、呪言なので調子を整え、「おぼ・すす・まぢ・うる」と、皆二音にそろえたのである。〔『書紀』の一書の「貧窮の本、飢饉の始、困苦の根」も、「本・始・根」と言い換えて、言葉を飾っている。〕
【宣長の注釈】この四つは、皆もとは用言、つまり活用する語だが、ここでは体言、つまり名詞の形にしている。〔理由は後でいう。〕用言にも体言にもなる語は、用言の時には下へ活用する部分を加え、体言の時にはそれを除く例が多い。〔用言では「わたり、わたる」というのを、体言では海を表す「わた」といい、用言では「うたひ、うたふ」というのを、体言では「うた」という類だ。〕「おほほしく」などは用言だが、ここでは体言として「おぼ」といい、「すすむ」「すすろぐ」などは用言だが、ここでは体言として「すす」という。〔また「すすのみ」というのは、用言の活用する部分をそのまま体言にした形だ。「わたり」という用言をそのまま渡る所の名にもして「わたり」というのと同じで、「うたひ」という用言を、そのまま歌うものの名にも用いて「うたひ」(謡)というようなことだ。この例も普通にある。〕
【宣長の注釈】「貧鉤」は「まぢち」と読む。『書紀』にもこの形があり、昔からそう読んで来た。「まぢ」は「まづし」が縮まったのか、それとも「まづし」が、もとは「まぢし」だったのかもしれない。
【宣長の注釈】「宇流鉤」は、『書紀』に「癡騃鉤、これは『うるけぢ』という」とあり、この字の意味、愚かであることだ。〔「騃」も字書に「癡である」と注す。〕景行巻の「失意」なども同じ語だろうか。〔敏達巻には「於図凝」という人名もある。〕俗にいう「うろたゆ」(うろたえる)、「うろうろ」「うるむ」なども、同じ語が変化したものだ。また、水が冷たくないのを「ぬるし」というのも、「うるし」と通じる。物を塗るものを「うるし」ということでも分かる。俗に鈍いことを「ぬるい」というのも「うる」の意味である。『書紀』の「うるけ」に対し、『古事記』に「け」がないのは、「すす」の例と同様、すべて二音にそろえたのである。
【宣長の注釈】以上四つの「鉤」は、すべて『書紀』の訓注の「膩」によって読むべきだ。〔「膩」は「女利」の反切で、「ち」の濁音「ぢ」を表す仮名である。ただし「淤煩鉤」「貧鉤」の二つは「ち」と清音で読む。前の「ぼ」「ぢ」の濁音と重なるからだ。古語で濁音が二つ重なる例は、ほとんどない。〕これには二つの考えがある。
一つは、「佐知」の「知」と同じで、「取る」の意味とする考えだ。〔海佐知・山佐知の「さち」が幸取の意味なのは、前にいったとおりである。〕失った釣鉤は、もと海佐知毘古の幸取なのに、今は幸とは反対の不幸な事を取る道具という意味で呪い、「心の晴れなさを取り込む道具」「荒れ狂いを取り込む道具」「貧しさを取り込む道具」「愚かさを取り込む道具」というのである。〔この四つは、不幸のあらゆる種類だ。「何々取」という時、その上の語はすべて体言になる。〕「取る」の意味なのに「鉤」を書くのは、取る道具が鉤そのもので、詳しくいえば「何々を取る鉤」ということだからだ。〔「さち」も、詳しくいえば「幸取弓」「幸取鉤」というのと同じである。〕
二つ目は、もとは「釣」だったのを、後人が考えを加え、「鉤」の誤りだとして改めたのか、という考えだ。〔今の『書紀』には、この二字を互いに取り違えた所が多い。『古事記』もそれにならって改めたのかもしれない。真福寺本では、この四つの鉤は皆「釣」とする。ただ、その本は前の「鉤」もすべて誤って「釣」とするので、根拠にしにくい。〕「釣」を「ち」と読むのは、「つり」が縮まったので、このさまざまな不幸を釣る道具という意味だ。釣る道具を「何々釣」と呼ぶのも、取る道具を「取」と呼ぶのと同じ形であり、全体の意味は一つ目の考えと同じである。
二つのうち、読む人がよいと思う方を取ってほしい。ただし幸取を裏返していうのだから、やはり「取」の意味とする方が優れるだろうか。〔この「ち」を、ただ鉤の古名と考えたり、「つりばり」を縮めると「ち」になるなどといい、この段の「鉤」をすべて「ち」と読むのは、精密さを欠く誤りである。〕
【宣長の注釈】「後手」は、前の黄泉の段に「後ろ手に投げ捨てて渡した」とある。〔『伝』六の二十二葉。〕ここは、これも呪いの動作だ。『書紀』の一書には、「向かい合って渡してはならない」ともある。〔これを「逆手」と同じに考えるのは誤りだ。逆手と後ろ手は異なる。〕
『書紀』には、「この鉤を兄へ渡す時には、ひそかに『貧鉤』と唱え、それから渡しなさい」とある。一書には、「鉤を兄へ渡す時は、『貧窮の本、飢饉の始、困苦の根』と呪い、それから渡しなさい」とある。一書には、「この鉤を兄へ渡す時は、『貧鉤、滅鉤、落薄鉤』と称しなさい」とある。一書には、「これを兄へ渡す時は、『大鉤、踉䠙鉤、貧鉤、癡騃鉤』と称し、いい終えたら後ろ手に授けなさい」とある。また一書には、「兄へ鉤を返す時、天孫は、『お前の子孫の、幾代も続く末まで、貧鉤、狭々貧鉤』といい、いい終えて三度唾を吐き、渡しなさい」とある。
【宣長の注釈】「然而」は、そのようにして、ということである。ここでは前の事を後へつなぐ語だ。
【宣長の注釈】「高田」は「あげた」と読む。『書紀』がそう読む。〔文字どおり「たかた」でも悪くはない。〕『万葉集』巻十二の十七丁にも、「水を多み、上に種蒔き」と詠む。地面が高く、よく乾く田である。〔田中道麻呂によれば、尾張・近江・美濃などでは、今も田の中の水がつかない所を「あげ」という。〕諸国に、そういう地名も多い。
【宣長の注釈】「下田」は、『書紀』に「洿田」とあることにより、「くぼた」と読む。窪んで低く、水の多い田だ。
【宣長の注釈】「掌水故」は「みづをしれば」と読む。〔師は「みづをしれるからに」と読んだが、「故」を「からに」とするのはよくない。ここはそういうべきではない。「掌」を「しれる」とするのはたいへんよく、ここでも従う。この字は普通「つかさどる」と読むが、ここでそう読めば古語でなくなる。〕「しる」は、天下を治める、国を治めるなどの「しる」で、水を持ち支配し、思いどおりにすることだ。兄が高い田を作れば、私が日照りにして水をなくし、低い田を作れば、雨を多く降らせて妨げよう、というのである。
『万葉集』巻十八の二十三丁には、「雨降らず、日の重なれば、植ゑし田も、蒔きし畑も、朝ごとに、しぼみ枯れ行く、云々。あしひきの、山のたをりに、この見ゆる、天の白雲、わたつみの、沖つ宮辺に、立ち渡り、との曇りあひて、雨も賜はね」とある。雨の降らない日が続き、苗を植えた田も、種を蒔いた畑も朝ごとに枯れて行く。山の低い所に今見える白雲よ、海神の沖の宮のほとりまで広がり、一面に曇らせ、雨を与えてください、と願う歌だ。海神が水を支配するため、雨を乞うのである。
【宣長の注釈】「三年之間」は、次第に貧しくなる期間が三年だということだ。〔「間」の後へ「に」を添え、「あひだに」「ほどに」などと読むと、三年が過ぎた後で貧しくなるように聞こえ、意味が違う。「に」は読むべきでない。〕中巻の明宮の段の末の、「兄は八年間、干からび萎え病んで衰えた」が同じ例である。後の「それから次第に貧しく衰えた」も同じだ。
【宣長の注釈】「貧窮」は「まづしくなりなむ」と読む。〔師は「まぢたしなみなむ」と読んだが、語の重なり方がどうかと思われる。「たしなむ」は古語で「窮」に近いが、ここは「貧」が主で、「窮」は軽い。だから後ではただ「貧」とあり、『書紀』の一書の「貧窮之本」も「貧」を主としている。『書紀』の「襤褸」は、この言葉に当たるが、「やつる」は外見についていうので、「貧窮」の字には当たらない。〕高い田を耕すと日照りになり、低い田を耕すと雨が多く、いつも収穫がなく、貧しくなろう、という意味だ。
【宣長の注釈】「恨怨其」の「其」は、「若」の後にある意味で、火照命を指す。次の「若其愁請者」の「其」と同じである。
【宣長の注釈】「為然之事」は、初めの呪いと、田を耕しても収穫がなく貧しくなることなどを、すべてまとめていう。その中で、耕しても収穫がないのは海神の行為だが、弟の命のために行うので、それも直接弟の命の行為として、このようにいうのである。
【宣長の注釈】「塩盈珠・塩乾珠」は「しほみつたま・しほひるたま」と読む。〔「しほみちだま・しほひだま」と読むべきかとも思うが、やはりそうではない。また「乾」は、『書紀』景行巻に「ふ」と訓注があるので、「ひる」でなく、「急居」を「つきう」とあるのと同じ形で、「ひ・ふ・ふる」と活用する語なのだろう。ただ「ふる」というのは、今は耳慣れないので、ひとまず普通どおり「ひる」と読んだ。〕中巻の末に、波を起こす比礼、波を切る比礼、風を起こす比礼、風を切る比礼という物がある。その類だ。
〔『書紀』仲哀巻に、「皇后が豊浦津に泊まり、その日、海中で如意珠を得た」ということがある。これは土佐国風土記の吾川郡玉島について、「一説に、神功皇后が国を巡った時、船を泊め、島へ下りて休んだ。磯で、鶏卵のように丸い白石を一つ得て、手のひらへ置くと、光が四方へ出た。皇后は喜び、側近へ、『海神の賜った白い真珠だ』といった。そこで島の名とした」とあるのと同じ事で、国が違うのは伝えの違いだろう。
『書紀』の「如意珠」は理解できず、どう読む手立てもない。文字のない当時に「如意」などという名があったはずもないのに、無理に中国をまねるあまり、このような名まで設けたのは、後世の人を惑わせるものだ。こう書いた意味は、ただ珠の美しさを褒めたのか。それとも、皇后が新羅を攻めた時に、国中まで潮が押し上がったのはこの珠の力だったため、その意味で書いたのか。ただ、その潮が珠の力で上ったとは、『古事記』にも『書紀』にも見えないので、どうだったのだろうか。
宇佐宮の縁起が、神功皇后は干珠・満珠を竜宮から得て三韓を従えたというのは、古い伝えなのか、それとも『書紀』の如意珠と、新羅の国中へ潮が上ったことを結び付け、推測していったのか、これも確かでない。その二つの珠は、後に肥前国佐嘉郡の河上宮へ納められたという。
『書紀釈』には、「元暦のころ、宇佐宮を巡検した時、本宮の文書に、満瓊・涸瓊の二種が当宮にあると、報告された、云々。二種の瓊がすでに当宮にあり、神功皇后が三韓を征伐した時、新羅の海潮が宮庭へ満ちたことから考えると、きっとこの瓊を御殿に持っていたのだろう。しかし確かな証拠はない」とある。
これにも不確かな点がある。皇后の珠は新しく海中で得たのだから、神代の瓊とは別なのに、神代の瓊が宇佐宮にあるのは、どのような由来なのか理解しにくい。思うに、宇佐宮にあるのは皇后の得た珠で、肥前国河上宮へ納められた方が神代の珠だったのに、両者を同じと取り違え、混同したのだろうか。河上宮は『神名式』の佐嘉郡与止日女神社だという。ある書物が豊玉姫を祭るというのも、理由のあることだ。
もし皇后の得た珠も実際に干珠・満珠で、新羅の国中へ潮が上ったのもそのためなら、海神の持つ塩盈珠・塩乾珠は、今回火遠理命へ授けたものだけでなく、ほかにも何個もある物らしい。〕『万葉集』巻十九の二十九丁に、「わたつみの、神の命の、御櫛笥に、たくはひ置きて、いつくとふ、玉にまさりて、云々」と詠む。海神が大切な箱へ蓄えていつくしむという玉にまさって、云々という歌である。
【宣長の注釈】「若其」の「其」は「それ」と読む。〔この下に「兄」が脱落したのかとも思うが、そうではない。〕火照命を指す語である。〔漢文での「其」の使い方とは違う。〕後にも「其愁請者」とある。
【宣長の注釈】「令惚苦」は「たしなめたまへ」と読む。『書紀』でも「厄」、また「辛苦・困厄・劬労」などを、そう読んでいる。〔「たしなみ」なら自分が苦しむことだが、「たしなめ」の「め」は「ませ」の縮まった形で、人を苦しませることだ。ここで上に「令」があるのは、それに当たる。〕「惚」の字は前にも出た。〔伝六の二十六葉。〕
【宣長の注釈】「塩盈珠を授け、云々」。この事は先にいっておくはずのところをいわず、「塩盈珠を出し、云々」と先に述べ、後からここでいうのも、文章の一つの型である。
『書紀』に、「さらに潮満瓊と潮涸瓊を授け、教えた。『潮満瓊を水に浸すと、たちまち潮が満ちる。これで兄を溺れさせよ。兄が後悔して祈ったら、今度は潮涸瓊を浸せ。すると潮は自然に引く。これで救え。このように苦しめれば、兄はおのずと服従する』」とある。〔ここで瓊を「浸す」とするのは、『古事記』の「出す」と、使い方の伝えが違う。〕
また一書には、「さらに潮満瓊・潮涸瓊という二種の宝物を進め、その使い方を教えた。また、『兄が高田を作ったら、お前は低い田を作れ。兄が低い田を作ったら、お前は高田を作れ』と教えた」とある。別の一書には、「思えば潮が満ちる瓊と、思えば潮が引く瓊を、鉤に添えて差し上げ、いった、云々。また、『兄が海を渡る時には、私が必ず激しい風と大波を起こして、溺れ苦しませよう』」とある。さらに一書には、「兄が海へ入って釣る時、天孫は海辺に立って、風を招く身振りをせよ。そうすれば、私が岸辺の風と沖の風を起こし、波を走らせて兄を溺れさせよう」などとあって、瓊の事はない。
【宣長の注釈】「和邇魚」の「魚」は読まない。〔前後とも、ただ「和邇」とあるのに、ここだけ「魚」を加えたのは、中国の名にならったのだろう。中国では「鰐」とも「鰐魚」ともいい、鯉を「鯉魚」、鮒を「鮒魚」などというのと同じ例である。〕
【宣長の注釈】「上国」は、『書紀』に「上国、これをうはつくにという」とある。海神の宮は海底にあり、この御国は上にあるので、こういうのである。〔ある人が、漢文の「上国」を思って、尊んだ呼び名だというのは誤りだ。〕鎮火祭の祝詞に、「愛しいお前の命は上津国をお治めなさい。私は下津国を治めようと申し、云々」とある。〔これは黄泉国でのお言葉なので、この現世の国を「上国」といった。黄泉も「根の国底の国」といって、下方にあるためだ。〕
【宣長の注釈】「誰者幾日」は、言葉は少なく、意味は詳しく伝わる古い文章である。〔ところが、「たれは」という言い方に耳慣れないため、違う読み方をするのは誤りだ。「たれは」といわなければ、意味が明らかにならない。〕
【宣長の注釈】「覆奏」は中巻でもこう書く。「覆」は「復」である。『書紀』でも「復命」を「服命」と書き、『万葉集』では「都」を「堵」と書く類が、しばしばある。音が通うままに、意味の違う字も使うのは、古書の例だ。〔漢籍にも「覆奏」はあるが、それは意味が違う。また中国には「覆」を「復」とする例はあっても、「復」を「覆」とすることはない。〕
【宣長の注釈】「己身」の二字を「み」と読む。〔「己」を別に読まない。〕前に「各」とあり、それぞれが自分のことをいうためである。
【宣長の注釈】「尋長」の二字を「ながさ」と読む。〔「ひろ」とも「ひろのながさ」とも読めるが。〕前の八俣遠呂智にも「其長」とある。
【宣長の注釈】「一尋和邇」。〔「ひとひろの」と「の」を補って読むのはよくない。後の「八尋和邇」も同じだ。〕
『書紀』の一書に、「塩筒老翁が考えていった。『海神の乗る駿馬は八尋鰐です。ひれと背を堅くして、橘の小戸にいます。私があれと相談しましょう』。そこで火折尊と一緒に会いに行った。鰐魚はいった。『私なら、八日かけてようやく天孫を海の宮へお届けできます。ただ、わが王の駿馬の一尋鰐魚なら、一日のうちに必ずお届けできます。今、私が帰ってあれをよこしますから、ここにいてお待ちください』。そういって海へ入って去った。天孫はその言葉どおり待ち、すでに八日が経った。長く待つうちに一尋鰐が来たので、それに乗って海へ入った、云々」とあるのは、大きく違う伝えだ。〔一尋和邇に乗せたのは、海神の宮から送り帰す時の事なのに、その宮へ行く時の事にしている。〕
この一書によれば、八尋和邇が八日もかけて行く道を、一尋和邇は一日で行く。『纂疏』に「短いものは体が軽く速く進み、長いものは体が重く遅く進む」とある、そのためだろうか。〔普通の例で考えれば、大きい方が速いはずなのに、かえって小さい方が速いのは、鰐とは実際そういうものなのか。なおよく調べるべきだ。〕「体の長短に応じ、日数を定めて申し上げた」とあるから、長短に応じて速い遅いの違いがあるのだ。
別の一書の「火々出見尊を大鰐へ乗せ、本郷へ送り届けた」とするのは、大小が違う伝えである。さらに一書に、「鰐魚を集めて尋ねた。『天神の孫が、今帰ろうとしている。お前たちは、何日以内にお送りできるか』。鰐魚たちは、それぞれの長短に応じて日数を定めた。その中の一尋鰐が、『一日のうちにお届けできます』といったので、一尋鰐を遣わしてお送りさせた」とあるのは、『古事記』と同じだ。〔「将作以奉致」の「作」は「供」の誤りか。〕
【宣長の注釈】「若渡海中時」。『万葉集』巻一の六丁に、「対馬の渡り、海中に、云々」とある。さて、「若」は「惶畏」にかかる語だ。〔海を渡ることは、もとから決まっているので、「もし」とはいわない。〕
【宣長の注釈】「無令惶畏」は、師の読む「なかしこませまつりそ」に従う。およそ海を進む時は恐ろしいものなので、気を付けて、恐れさせ申すことのないようにせよと、戒めたのか。それとも和邇が猛く恐ろしいためだろうか。
〔訳注:「將鰐」の「鰐」は、「鱷」との字体の区別を確定できていない。ここでは和邇を指す字として示した。〕
【宣長の注釈】「その和邇の頸に乗せた」。背に乗せるはずなのに、ことさらに頸へ乗せたわけは、鰐は『書紀』に「ひれと背を堅くする」などとあるように、背にひれがあり、乗りにくいためだろうか。
【宣長の注釈】「如期」は「いひしがごと」と読む。
【宣長の注釈】「紐小刀」は前に出た。〔伝十六の十六葉。〕これを頸に掛けて帰したのは、送り届けた功績を賞しての贈り物だろう。
【宣長の注釈】「佐比持神」。『書紀』には紐小刀の事がなく、ここにはこの神も出ない。その神武巻に、「紀伊国へ進み着き、云々。海上で突然暴風に遭い、皇船が漂った時、稲飯命が嘆いていった。『ああ、わが祖先は天神、母は海神なのに、どうして陸で私を苦しめ、また海で苦しめるのか』。そういうと剣を抜いて海へ入り、鋤持神になった」とあるのは、その異伝である。〔『古事記』に「今に謂う」とあるのを見れば、後世まで海中に佐比持神という神がいて、その起源の伝えが両書で違うのだ。この神が二つあるのではない。〕
名の意味は、賜った紐小刀を持っているということだ。「さひ」は、『書紀』推古巻の御歌に、「太刀ならば、呉のまさひ」とある。〔呉の真佐比を、優れた太刀という意味で詠んだ。『私記』に、「呉真鋤は良剣の名だ」とある。〕また神代巻に「蛇韓鋤之剣」がある。〔「呉真鋤」と「韓鋤」は、趣旨の似た名だ。「韓鋤」を「からすき」と読むのは誤りである。『書紀』が「さひ」に「鋤」を当てた意味は理解しにくい。この事は、後でも述べる。また「佐比」の「比」を濁らせるのはよくない。ここも推古巻も清音の「比」を書き、濁る根拠はない。「鏽」と同じ意味だと思うのは、みだりな解釈だ。〕
中巻の倭建命の歌で、木製の偽刀を「さみなしにあはれ」と詠む、その「さみ」も「さひ」と通い、同じように聞こえる。〔師の『冠辞考』にもそうある。『和名抄』では、越中国新川郡の「佐味」を「さひ」、越後国頸城郡の「佐味」を「さみ」と読ませる。これらも「ひ」と「み」が通う例である。〕どちらも、おおよそ刀のことと聞こえるが、あの歌の「さみ」を、ただ刀とのみ見るのは、しっくりこない。〔『冠辞考』には、木刀は刀身がないというので「さみなし」と詠んだのであり、刀に「身」という語は古くもあった、とあって、佐比持神の事も引く。今考えると、「さみなし」は「身無し」で理解できるが、「さひもち」は「身持ち」としては落ち着かない。〕だから、あの「さみ」とは、なお別なのだろうか。
そこで「さひ」は、物を切り断つ様子をいう語で、「すかひ」の縮まったものとして、「すかる剣」「布都御霊」などと同類の剣の称号だろうか。前の「都牟刈之大刀」の箇所〔伝九の三十五葉〕と考え合わせたい。〔ある説は、神代紀に「竹刀」とあるので「さひ」は小刀だという。しかし先の推古紀の歌で、太刀を「まさひ」というから、小刀だけの名ではない。また、小さいことは「ささ」といい、「さ」といった例は古語にない。「さひ」は「すかひ」の縮まった形らしいことから考えると、『書紀』で「鋤」を書くのは、古く「すき」を延ばして「すかひ」ともいい、それが「さひ」の元の語「すかひ」と同じなので、通わせて借りたのだろうか。『和名抄』の農耕具に、「鉏は鋤の類である。『漢語抄』に『さひつゑ』という」とあるから、鋤を「さひ」ともいったのか。〕
『続紀』巻十の紀朝臣佐比物、『類聚国史』巻九十九の玉作佐比毛知など、人名にもある。〔天武紀に小子部連鉏釣、また小子部連鉏剣がある。これは同じ人で、「釣」「剣」の一方が誤字だろう。どちらにしても「ち」と読むのは理解できない。神代紀の「鉤」の誤読に従ったのか。また斉明紀に、「胆振鉏、これをいぶりさへという」とある。「さひ」を「さへ」とも通わせていったと見える。〕
【古事記本文】こうして、海神に教えられたとおり、すべてを行って鉤を返した。それから兄は、次第に貧しくなり、さらに荒々しい心を起こして迫って来た。攻めかかろうとするたびに潮満ちの珠を出して溺れさせ、悲しんで助けを願うたびに潮干の珠を出して救った。このように苦しめられた時、兄はひれ伏して赦しを願い、申し上げた。「私は今から後、あなたを、夜も昼も守ってお仕えします」。そこで今に至るまで、溺れた時のさまざまなしぐさを演じる奉仕が、絶えることなく続いている。
【宣長の注釈】「故自爾」の三字は、前の少名毘古那神の段にもある。〔伝十二の二葉。〕
【宣長の注釈】「以後」の下には、「その兄は」という語がほしい。さて、「鉤を返した」の後に、高田を作れば云々、下田を作れば云々という事もあるはずなのに、ないのは、初めにすでに詳しく出たため、ここでは省いたのだ。〔このような例は『古事記』に多い。〕
【宣長の注釈】「稍兪」は「いよよ」と読む。〔「兪」は「愈」と同じ。「稍」は普通「やや」と読む。「やや」は「いややや」の「い」を省いたものなので、元は「いよよ」と同じ語だ。そこで今は二字を合わせて「いよよ」と読んだ。後世は「いよいよ」というが、古くは「いよよ」とだけいった。〕『万葉集』巻五の四丁に「いよよますます」、巻二十の二十一丁に「いよよ」などとある。これは、物事がだんだん甚だしくなることをいう語だ。〔今は、もとからそうである事が、さらに甚だしくなる意味のようだが、それだけではなく、もとからあった事でなくてもいう。〕「稍兪貧」は、三年にわたって、だんだん貧しくなってゆくことだ。〔俗に「次第次第に貧しくなる」という意味で、初めから貧しかったのではない。〕こうして貧しくなるのは、「淤煩鉤・貧鉤」という二つの呪いが効いたことに当たる。〔貧しくなると、嘆き悩み、心が晴れなくなるので、「淤煩」の効き目も兼ねている。〕
【宣長の注釈】「更」は、以前、なくした鉤を強引に取り立てた上に、今またさらに、ということだ。
【宣長の注釈】「起荒心」は、「須々鉤・宇流鉤」という二つの呪いが効いたことに当たる。〔弟の命の威徳には勝てないことを悟れず、なおこのように気負い立って荒れるのは、愚かな心なので、「宇流」の効き目も兼ねている。〕
【宣長の注釈】「迫来」で、いったん文を切る。ここではまず大筋をいい、その後に、迫って来た様子を詳しく述べている。
【宣長の注釈】「攻めようとした時、云々」「嘆いて願うと、云々」。これは一度だけでなく、幾度もそうだったと聞こえる文章だ。
『書紀』の一書に、「彦火々出見尊は、瓊と鉤を受け、本宮へ帰った。海神の教えに従い、まず鉤を兄へ返したが、兄は怒って受け取らなかった。そこで弟が潮溢瓊を出すと、潮が大いに満ち、兄は溺れた。兄は、『お前に仕える奴僕となろう。どうか救って生かしてくれ』と願った。弟が潮涸瓊を出すと、潮は自然に引き、兄は元どおりになった。ところが兄は前言を変え、『私はお前の兄だ。兄である者が、どうして弟に仕えられよう』といった。弟がまた潮溢瓊を出すと、兄は見て高山へ駆け登ったが、潮は山も没した。高い木へ登ると、潮は木も没した。兄は窮まり、逃げる所もなくなった」とある。これが、確かに一度ではなかったという様子だ。
また一書には、「弟が潮満瓊を出すと、兄は手を挙げて溺れ苦しんだ。今度は潮涸瓊を出すと、兄の苦しみはやみ、元の状態に戻った。その後、火酢芹命は、絶えず弟を苦にした」とある。
【宣長の注釈】「惚苦」の「惚」は、諸本では二通りの異字で書くが、今は前の文に従って改めた。〔訳注:底本が示す異字二つの細かな字形は確定できない。原文欄の「惣」「惚」は仮の転写として残した。〕
【宣長の注釈】「稽首白」は「のみまをさく」と読む。〔諸本は「首」を落としている。今は真福寺本・延佳本によった。〕『書紀』崇神巻の、「彦国葺が埴安彦を射て胸に当て、殺した。その軍勢は、云々、逃れられないと知り、叩頭していった、云々。叩頭をのむという」。景行巻の、「日本武尊が袖の中の剣を抜き、川上梟帥の胸を刺した。まだ死なないうちに、川上梟帥が叩頭していった、云々」。神功巻の、「新羅王が王船の前に降伏し、叩頭していった、云々」などは、事の様子もすべて同じである。〔「稽首」と「叩頭」は、字の意味もおおよそ同じだ。〕
『古事記』朝倉宮の段の、「志幾の大県主は恐れ、稽首して申し上げ、云々。そこで、のみの幣物を献じ、云々」も同じ様子だ。稽首を表す品を「能美之御幣物」というので、「のみ」と読むべきことが分かる。〔延佳本は「をがみ」、師は「うなねつきて」と読む。祝詞に「頸根衝抜」という語が多いのに従ったのだ。これらは「稽首」の字義に合うが、ここは、ただ字のとおり、首を地につけて拝むことだけではない。〕
「のむ」は、ひたすら服従して、罪をお赦しくださいと願い申し上げることだ。〔俗に「まっぴら謝り申す」というようなことだ。〕そのため『書紀』はここを、「自ら罪に服していった」と書く。『万葉集』の歌で、神に祈ることを「こひのむ」と多く詠むのも、元は同じ意味だ。〔「なむ」ともある。「の」と「な」は通う音である。〕崇神巻の「神祇へ罪を請う」も、罪に服すことと祈ることの、二方にまたがっている。
【宣長の注釈】「昼夜」は「よるひる」と読む。『続紀』巻三十一の宣命に、「朝夕、夜昼といわず」などとある。古語はすべてこのようだ。祝詞にも「夜の守り、日の守り」という語が、普通に多く見える。
【宣長の注釈】「守護人」は、『書紀』欽明巻に「守護となり」とある。さて『書紀』の一書に、「云々。そこで兄は弟に神徳があると知り、ついに服従して仕えた。このため、火酢芹命の子孫である隼人たちは、今に至るまで天皇の宮垣のそばを離れず、吠える犬に代わって奉仕する。世間で、なくした釣針を弁償させないのは、これが由来である」とある。「吠える犬に代わる」というのが「守護人」だ。「宮垣のそばを離れない」は、「昼夜」に当たる。この守護は、後世まで隼人の職務であった。〔『職員令』に、「衛門府。督一人。諸門の禁衛、云々、ならびに隼人、門籍(出入りの名簿)、門膀(物品の搬出入の許可札)の事をつかさどる、云々」とある。〕
火照命は隼人の祖である。〔その事は伝十六に出た。〕『隼人司式』には、「元日・即位、蕃客の入朝などの儀礼では、官人三人、史生二人が、大衣二人、番上隼人二十人、今来隼人二十人、白丁隼人百三十二人を率い、応天門の外の左右へ分かれて並ぶ、云々。今来隼人は三節に吠える声を発する。〔蕃客の入朝では、吠える必要はない。〕云々。大衣と番上隼人は、云々。その他の隼人は皆、云々、楯と槍を持ち、胡床に並んで座る」。また、「践祚大嘗の日には、応天門内の左右に分かれて並び、群官が初めに入る時、吠える声を発し、云々」。また、「遠くまで行幸に従う者は、官人二人、史生二人が、大衣一人、番上隼人四人、今来隼人十人を率いて供奉する。御駕が国境、山川、道の曲がり角を過ぎる時、今来隼人が吠える」。また、「行幸で宿泊する時、隼人は吠える。ただし近くへの行幸では吠えない」。また、「今来隼人には、大衣が吠え方を習わせる。左が本声を、右が末声を発する。全部で大声十遍、小声一遍。その後、一人がさらに細い声を二遍発する」。また、「威儀に要るものは、横刀百九十口、楯百八十枚、〔云々。赤土・白土・墨で鉤の形を描く。〕木槍百八十竿、胡床百八十脚、云々」など、隼人の事がさらに詳しく見える。
〔隼人が大隅・薩摩の国人であることは、前に述べたとおりだ。朝廷へ召されて仕えた者が、長くとどまり、都に近い国の住民になっても、子孫まで隼人と称し、その職務に仕えた。『隼人式』の「五畿内および近江・丹波・紀伊などの国の隼人」がこれだ。「諸国の隼人」も、これらの国々の者をいう。『和名抄』に山城国綴喜郡の大住郷があるのも、大隅国の隼人が住みとどまったことからの名である。
中原康富の日記に、「隼人司の領、山城国大住荘」とある。また康正元年十月十七日には、「この日、当国大住荘内の隼人司領の名主、南という者〔実名は知らない〕が来たので、私が会った。いうには、『大住の隼人領に、大嘗会田と申す田地が一町二反あります。大嘗会の時、上京して官庁で風俗の歌舞を奏する舞人の役が、これです』」などと見える。
「大衣」は、その近国の隼人から二人を選んで任じた者だ。『隼人式』に、「大衣は代々の家柄の中から選び、左右に一人ずつ置く。大隅を左、阿多を右とし、隼人を教導する、云々」とある。「大隅・阿多」は、その国に住む者という意味でなく、祖先の出身地によって、近国にいる者も「大隅の隼人」「阿多の隼人」と分けるのだ。ある人が、大衣を大隅・阿多と並べて、一種の隼人であるようにいうのは、『式』も考えない妄説である。『続後紀』に、山城国の人で、右の大衣、阿多隼人逆足という者が出る。
「番上隼人」は、本国から交代で上京して仕える者だ。『職員令義解』の「番を分けて上り下りし、一年を限る」がそれである。『続紀』巻二十五に「大隅・薩摩などの隼人が交代する」とある。『隼人式』には、「番上隼人は二十人。欠員があれば、五畿内および近江・丹波・紀伊などの国の、よく職務をこなす隼人を取り、省へ申し出て補う」とある。『類聚国史』の、延暦二十年に太宰府から隼人を進めることをやめたという記事は、番上隼人の事ではあるまい。
「今来隼人」は番上ではなく、本国から新たに上京し、長くとどまって京畿に住む者だ。妻子も連れて来るため、女性もいる。『式』に見える。「今来隼人には季節の衣服と塩を給し、云々」。また、「今来隼人が亡くなれば、畿内の隼人から選んで補い、二十人を限りとする、云々」などとあるので、中昔には、人数を定めて召し上げたと見える。諸儀礼で吠える声を発するのは、今来隼人の職務だ。『類聚国史』の大同三年の勅に、「定員の隼人に欠員があれば、京畿の隼人から欠員に応じて補う、云々。ただし女性は補充しない」とあるのは、女性の事があるから、番上でなく今来隼人だろう。
また『続紀』巻二十八の、「隼人司の隼人百十六人に、有位・無位を問わず一級ずつ位を授けた」という記事は、番上・今来のほかに、別に司の隼人という者がいるのか。『職員令』の隼人司で、直丁一人の次に「隼人」がある。これだろう。人数は見えない。『式』で、司の隼人・白丁の隼人百三十二人とある者は、「大きな儀礼では、前もって官へ申し、諸国の隼人を呼び集めて奉仕させる」とあるのを見れば、司の隼人とは別なのか。これらは詳しく分かりにくい。
威儀に、隼人の持つ楯に鉤の形を描くとあるのも、なくした鉤を取り立てた故事を、後世まで示すためだろう。「鉤」を本で「釣」と書くのは誤りである。〕
『万葉集』巻十一の十三丁の「隼人の、名に負ふ夜声鳴き」も、吠える声を詠んだものだ。『貞観儀式』などに、元日や践祚大嘗の隼人の儀礼が見えるのも、先に引いた『式』の文のとおりである。
隼人が上京して仕えた記事は、下巻の朝倉宮の段に、「墨江中王の近くに仕えた隼人、名は曾婆加理」とある。次に『書紀』では、大初瀬天皇が崩じた時、隼人が昼夜、陵のそばで泣き叫び、食物も取らずに死んだという事がある。〔天武天皇が崩じた時、大隅・阿多の隼人が誄を奉った事も『書紀』に見える。〕天武天皇十一年七月に、大隅と阿多の隼人が朝廷で相撲を取った事があり、持統天皇九年五月にも、隼人の相撲を天皇が御覧になった事などがある。
清寧天皇四年、欽明天皇元年、斉明天皇元年などには、隼人が仲間を率いて内附したという記事がある。〔畿内へ移住した事などを、中国ふうに「内附」と記したのか。漢籍でいう「内附」は、その国へ服従して従うことだ。隼人の入朝は、『続紀』にも折々見える。〕大宝二年・養老四年などに、隼人を征討した事も『続紀』に見えるので、背いた事もあったのだろう。
【宣長の注釈】「其溺時之種々之態」は、弟の命が潮満ちの珠を出した時、兄が溺れ苦しんだ様子を、まねて演じることだ。子孫までもこの動作で奉仕するのは、その時に罪に服したことを、いつまでも忘れないという意味である。
『書紀』の一書に、「火折尊は帰ると、すべて神の教えに従った。兄が釣る日、弟は浜にいて嘯いた。その時、激しい風が突然起こり、兄は溺れ苦しみ、生きるすべもなくなった。遠くから弟へ、『お前は長く海原にいたから、きっと優れた術がある。どうか救ってくれ。生かしてくれるなら、私の生む子孫は、幾代も連なって、お前の垣根のそばを離れず、道化の民となろう』と願った。弟が嘯くのをやめると、風もまた静まった。兄は弟の徳を知り、自ら罪に服そうとしたが、弟は怒った顔で、話をしなかった。そこで兄は褌を着け、手のひらと顔に赤土を塗り、弟に、『私はこのように身を汚して、永くお前の道化役となろう』と告げた。それから足を上げ、踏んで進み、溺れ苦しんだ様子をまねた。初め潮が足を浸した時には足占をし、膝まで来た時には足を上げ、股まで来た時には走り回り、腰まで来た時には腰をなで、脇まで来た時には手を胸へ置き、頸まで来た時には手を上げて手のひらを振った。それから今まで、一度も絶えていない」とある。〔「神の教え」の「神」の上には「海」が脱落したのだろう。〕これは、さまざまな動作を詳しく述べる伝えだ。〔「足を上げ、踏んで進む」は、初めに全体をいい、「初め潮が、云々」から「手のひらを振る」までが、そのさまざまな動作である。〕〔訳注:「足占」が示す具体的な動作は、ここでは確定できないため、語を残した。〕
また本書には、「自ら罪に服していった。『今から後、私はお前の俳優の民になろう。どうか恩を与えて生かしてくれ』。その願いどおり、ついに赦した」とある。一書には、「罪に服していった。『私は過ちを犯した。今から後、私の子孫は幾代も続いて、いつもお前の俳人になろう。〔一説に狗人という。〕どうか哀れんでくれ』。弟が今度は潮涸瓊を出すと、潮は自然に静まった、云々」などとある。ここでいう「俳優」は、溺れた時のさまざまなしぐさを演じる道化役のことである。
『職員令』に、「隼人司。正一人。隼人の点検、名簿、歌舞の教習をつかさどる」とある。『隼人司式』には、「践祚大嘗の日、云々。群官が初めに入る時、吠える声を発する。悠紀の入場では、官人と、琴を弾き、笛を吹き、百子を打ち、手を拍ち、歌い舞う者たちが、〔琴二人、笛一人、百子四人、拍手二人、歌二人、舞二人。〕興礼門から御在所の屏の外へ参入し、北へ向かって立ち、風俗の歌舞を奏する。主基の入場も同じ」とある。『大嘗祭式』にも、「楯の前へ進み、拍手して歌舞する」などと見え、『続紀』には、大隅・薩摩の隼人たちが風俗の歌舞を奏した記事が、しばしばある。この風俗の歌舞も、あの俳優の演技の名残だったのだろう。〔上代には、まったく俳優のしぐさだったのが、後には歌舞の形になったのだろう。〕
【宣長の注釈】「故至今、云々」。後世の隼人の職務は、先に述べたように、守護と道化役の二つだ。ところが、ここで火照命が服従を願う言葉には、ただ守護人になろうとだけあり、道化役の事がない。一方、ここでは道化役の方だけを述べ、守護をいわないので、どちらも不足する感じがする。〔互いに省略し、照らし合わせて理解する文章かともいえそうだが、そうではない。〕
〔『書紀』の諸伝には、道化役の方だけが見え、守護をいうのは、一書の「天皇の宮垣のそばを離れず、吠える犬に代わり、云々」という伝えだけだ。その前の文に「常にお前の俳人になろう。一説に狗人」とあるのは、「俳人」が伝えの誤りで、「狗人」が正しいはずだ。その後の「このため、云々」の文が、すべて守護の事で、道化役でないためである。〕
ただし「故」は、前の「潮満ちの珠を出して溺れさせ、云々」の事を受けている。〔前の記述が省かれているからといって、服従を願う言葉を受けると見てはならない。〕
【古事記本文】そこへ、海神の娘、豊玉毘売命が、自ら陸へ出て来て申し上げた。「私はすでに身ごもり、今、子を産む時を迎えました。天神の御子を海原で生んではならないと思い、ここへ参りました」。そこで海辺の波打ち際に、鵜の羽を屋根の材料として、産屋を造った。まだ屋根を葺き終わらないうちに、産気づいた腹の苦しさに耐えられず、産屋へ入った。
いよいよ産もうとする時、夫に申し上げた。「異国の者は皆、産む時、その国の本来の姿に戻って産みます。私も今、本来の身になって産もうとします。私をご覧にならないでください」。夫はその言葉を不思議に思い、ひそかに産むところをのぞくと、八尋もある和邇になり、這いうねっていた。見て驚き、恐れて逃げ退いた。
豊玉毘売命は、のぞかれたことを知って恥じ、御子を産んでから申し上げた。「これまでは海の道を通じさせ、人々が行き来できるようにしようと思っていたのに、姿をのぞかれたのは、たいそう恥ずかしいことです」。そうして御子をその場に残し、海神の国と陸の国の境を閉ざして、海神の宮へ帰った。そのため、生まれた御子を、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命という。〔「波限」は「なぎさ」、「葺草」は「かや」と読む。〕
【宣長の注釈】「参出」は、日子穂々手見命の御所へ出て来たことだ。
【宣長の注釈】「已」は「はやくより」と読む。
【宣長の注釈】「臨産時」は「みこうむべきときになりぬ」と読む。
【宣長の注釈】「海辺」と「波限」は同じようだが、「海辺」は広い範囲をいい、「波限」は、まさに波の寄せる際である。〔また「なぎさ」は川や池にもいうので、海辺のものだと断ったのかもしれない。〕ここは、ことに御名の由来を負う場所だから、なおさらである。『万葉集』巻二十の三十丁に、「海のなぎさに、云々」とある。『和名抄』には、「『韓詩』の注に、一たび水に浸り、一たび浸らなくなる所を『渚』という。和名はなぎさ」とある。
【宣長の注釈】「鵜」は前に出た。この鳥の羽を屋根の材料にしたのは、どのような理由だったのだろう。『書紀釈』に、「考えるに、鵜は口とのどが広く、魚を吞み込み、また容易に吐き出す鳥である。そこで安産をかたどり、産屋をこの羽で葺かせたのか」とある。そのような理由だったのだろうか。〔漢籍に、「この鳥は卵で生まず、口から雛を吐き出す。そのため産婦がこれを持つと、たやすく産める」ということがある。一方、「卵を産まないというのは妄説だ。それは鶂という別の鳥の事だ」ともいう。〕
【宣長の注釈】「葺草」は、後の訓注に「かやという」とある。「かや」が、この字のとおり、屋根を葺く草をいう名なのは、前の鹿屋野比売神の箇所〔伝五の四十五葉〕で述べたとおりだ。ただ「草」の古名と思うのは誤りである。〔新井氏は、「荻は、今うみがやという物だ。日向国の人の話では、その国には今もうがやという物があり、鵜葺草葺不合尊の産屋を葺いた物だと伝えている。うがやとうみがやは名が近いので、大古にうがやといったのは、荻だったかもしれない」という。今考えると、それもありそうな説だが、「鵜の羽をもって、云々」という古い伝えに合わない。〕
【宣長の注釈】「産殿」は、師の読む「うぶや」に従う。『書紀』は「産屋」と書き、『古事記』の黄泉の段にも「千五百産屋」とある。「うぶや」が古い呼び名だったのだ。『書紀』仁徳巻・允恭巻などの「産殿」も、そう読む。〔「殿」を「や」と読むのはどうかともいえそうだが、この字は必ず「との」と読むものではない。「みあらか」とも読めば、「や」と読んで何の問題があろう。これは太子の産屋だから、「屋」というのはどうかともいえそうだが、宮も御屋であり、「屋」は上下の身分にわたる名だ。仁徳巻は、天皇のものを「産殿」、臣のものを「産屋」と書き分けるが、文字の上の区別で、当時の言葉ではどちらも「うぶや」といっただろう。〕
子が初めて生まれた時の物や事を「うぶ何々」という例は、昔も今も多い。〔今の言葉では、およそ物が生まれたままで、手を加えて飾っていないことも「うぶ」という。〕その「うぶ」は「生」と同じで、生まれたことをいう呼び名だろう。〔「うぶや」は、ここで鵜の羽で葺いたことからの名だという説も、ありそうではある。しかし「うぶ」は産屋だけでなく、他の物事にも多くいう呼び名で、それがすべて産屋から転じたとも聞こえないので、鵜の羽で葺くという意味ではないだろう。〕
【宣長の注釈】『古語拾遺』に、「彦瀲尊の誕生の日、海辺に室を建てた。掃部連の遠祖、天忍人命が仕え、箒を作って蟹を掃き、敷物を設けることもつかさどった。ついにそれを職とし、蟹守と呼んだ。今、俗に掃守というのは、その語の転じたものだ」とある。『和名抄』には、「掃部寮、かにもりのつかさ」とある。「かにもり」という官名は、確かに「蟹守」だろう。和泉国和泉郡の郷名の「掃守」も「かにもり」とある。
一方、『姓氏録』の、「掃守連は、振魂命の四世の孫、天忍人命の子孫だ。雄略天皇の代、掃除をつかさどり、掃守連の姓を賜った」というのは、違う伝えである。
この産殿の跡だといって、今、日向国那珂郡宮浦村の海辺に、大きな窟がある。「鵜殿窟」といい、中に社があって「鵜戸権現」という。これはどうだろうか。
【宣長の注釈】「未葺合」は「いまだふきあへぬに」と読む。そのわけは後でいう。
【宣長の注釈】「不忍御腹之急故」は「みはらたへがたくなりたまひければ」と読む。〔「急」は迫る意味だ。『万葉集』巻十六の「死なむ命、にはかになりぬ」の「にはか」は、迫ることをいうので、ここの「急」も「にはかに」と読める。〕もう子を産もうとする腹の感じで、産殿を葺き終えるのを待つ間も、耐えがたくなったのである。
【宣長の注釈】「爾将方産」の四字は、旧印本と、もう一本にはない。今は真福寺本・延佳本、また別の一本などによった。
【宣長の注釈】「日子」は、前の八千矛神の段の「日子遅神」、後の「比古遅」と同じなので、「遅」が脱落したのだ。そこで「ひこぢ」と読む。穂々手見命を指して申した語である。この呼び名については、前〔伝十一の三十二葉〕に述べた。〔師は、御子があるのに対して「彦父」というのだろうといったが、どうだろう。その意味では、八千矛神の段に合わない。〕
【宣長の注釈】「以本国之形」は「本国の姿になって」、「以本身」も「本来の身になって」という意味に読む。〔訳注:二つの訓の末字は細部を確定できないため、ここでは意味を示した。〕このように申し、八尋和邇になって出産したことから見ると、海神は皆、本来の姿は魚で、人と交わる時、仮に人の姿へ変わっているのだった。
【宣長の注釈】「願勿見妾」は「あをなみたまひそ」と読む。〔「願」は読まない。この字を読むのは、わが国の言葉の形ではない。〕この語は黄泉の段にもある。
【宣長の注釈】「方産」は「まさかりに、みこうみたまふを」と読む。『書紀』に、「顧眄之間、これをみるまさかりにという」とあり、『万葉集』巻七の七丁に、「みさかりの時、我が渡りせし岩走りはも」(若い盛りに私が渡った、あの岩場は)とある。〔師が「方産」を「みこうむみさかりに」と読んだのは、右の『書紀』の訓注の形だ。ただ、右の『万葉集』のように、「みさかり」を前にもいう。「ま」と「み」は同じである。〕「まさかり」は、俗に「まっ最中」という意味だ。旧印本は「産」の下に「時」があるが、他の諸本にはない。〔あっても悪くない、と師はいった。〕
【宣長の注釈】「窃伺」は「かきまみ」と読む。垣間見ることである。『書紀』にも「その隠した所を見る」とある。後の物語にも多い語で、必ずしも垣の間でなくても、物の隙間などから、ひそかに見ることをいう。〔「かいまみ」は、「垣」の「き」が普通の音便で「い」になったもので、やや後の形だ。今は正しい形に従い、「かき」と読んだ。『万葉集』巻十に「垣間」とある。〕
【宣長の注釈】「八尋和邇」は、非常に大きな鰐である。
【宣長の注釈】「匍匐」は「はひ」と読む。白檮原宮の段の歌に「いはひもとほり」、〔「い」は発語。〕『万葉集』巻三の五十三丁に、「若子の、はひたもとほり」などとある。〔巻九では、「迷匍匐」と当て字にも使う。〕この字は前にも出て、その時は「はらばひ」と読んだ。〔伝五の六十五葉。〕中巻の倭建命の段に「匍匐廻」とあり、そこは「はらばひたもとほり」と読んだ。
【宣長の注釈】「委蛇」は「もこよひき」と読む。〔「き」は助辞だ。「こ」は濁音かもしれない。清濁は決めがたい。〕『書紀』にも「逶蛇」とあり、そう読んでいる。〔字は「委蛇」「逶蛇」「逶迤」「逶遟」など、さまざまに書き、意味もいろいろある。その中で、『説文』の「斜めに進むさま」という注などは、ここの意味に近いだろうか。「もこよふ」に使ったのは、蛇などの進む様子から取ったのだろう。〕
『文選』の「江賦」に「神蜧蝹蜦」とある、その「蝹蜦」も、〔注に「進むさま」とある。〕「もこよふ」と読む。『うつほ物語』楼の上巻に、「逃げて倒れ、もこよひつつ行けば、云々」とある。『源氏物語』葵巻には、「大臣は立ち上がることもできず、『この老い先短い身で、若い盛りの子に先立たれ、身をもがかせることよ』と恥じ泣く」などとある。
さて、ここでの「匍匐委蛇」は、軽く受け取ればよい。ただ、鰐へ変わった姿をいうだけである。〔『書紀』のある注が、出産時の苦しむ様子をいう、とするのはよくない。〕
【宣長の注釈】「伺見」も「かきまみ」と読む。
【宣長の注釈】「心恥」は、師の読む「うらはづかし」に従う。「心」を「うら」というのは、「うらがなし」「うらさびし」などが、その例だ。『万葉集』巻十四の二十三丁では、心もとないことを「うらもとなく」、心安いことを「うらやすに」などとも詠む。
【宣長の注釈】「生置」は、後の「返入」にかかると見る。御子を置き、自分は海神の宮へ帰るのである。
【宣長の注釈】「恒」は「なでは」と読む。「今までは」という意味で、前の「恒無歎」の「恒」と同じだ。ここは「往来」にかかる。〔「つねに」と読み、「欲」にかけて、今から後のことと見るのは誤りである。〕
【宣長の注釈】「海道」は「うみつぢ」と読む。『万葉集』巻九の二十八丁に「海津路」、景行紀に「海路」などとある。
【宣長の注釈】「通」は、師の読む「とほして」がよい。「とほる」は、こちらから向こうへ行き着くことをいう。〔雨などで衣がぬれ、表から裏まで通ることを「ぬれとほる」という、その「とほる」と同じ語だ。今、俗に、ただ経て行くことを「何処を通る」というのとは違う。〕「とほし」は、通らせるということだ。ここは、海神の宮と、この上国との間の海路を、誰もがたやすく往来し、互いに到れるようにすることをいう。
【宣長の注釈】「往来」は「かよはむ」と読む。『書紀』『万葉集』にも、そう読む例がある。これは、豊玉毘売命自身の事だけでなく、世の人々一般の事を、広く述べたものだ。〔『夫木集』に実清朝臣の歌、「契りさえ違わなかったなら、海の底にも人は行き交っただろうに」とある。〕
【宣長の注釈】「欲」は、意味の上では「通」の前にある。「今までは、云々、しようと思っていた」というつながりだ。
【宣長の注釈】「然」は読まない。「おもひしを」の「を」に、この字の意味が含まれる。〔『古今集』の歌の、「云々、私を欲しがるという、嘆かわしいことよ」なども、その例だ。〕
【宣長の注釈】「甚怍」の「怍」を、諸本が皆「作」と書くのは誤りだ。〔真福寺本の「恠」も誤りである。〕師の、「誤字だ」という判断は、正しく当たっている。そこで今、改めた。中巻の玉垣宮の段の「是甚慚」と、まったく同じ文であることも考え合わせたい。ここは「いとはづかしきこと」と、「こと」を補って読む。『万葉集』巻十八の二十七丁に、「里人の、見る目はづかし」とある。これも「はづかしきことよ」という意味で、雅語には普通にある形だ。〔訳注:「師の」の後の対象字は作・怍を判別できないため、訳では字を断定しなかった。〕
【宣長の注釈】「海坂」は、師の読む「うなさか」に従う。〔延佳の、「坂」は「路」の誤りかという説は違う。〕「坂」は境の意味だ。〔「さかひ」は、こちらから登る坂と、向こうから登る坂が合う所をいい、「坂合」の意味であることは、前にも述べた。そこで「坂」だけでも、境を意味することがある。〕海神の国と、この上国との間の、隔たる場所をいう。〔そこに山坂があるわけではないが、陸地の坂の境になぞらえ、坂というのだ。〕『万葉集』巻九の十八丁の、浦島の子を詠む歌に、「海界を過ぎて、漕ぎ行くに、海神の、神の乙女に、たまさかに、云々」とある。その「海界」もここにまったく同じなので、互いに証し合い、あちらも「うなさか」と読める。ここの「坂」も、境の意味であることが明らかだ。〔あちらの「海界」を、今の本は「うみぎは」、師は「うなべた」と読むが、どちらも当たらない。〕
【宣長の注釈】「塞」は「せきて」と読む。「せく」は、閉じふさいで通さないことだ。「せき」という名詞も、それを名にしたものである。
【宣長の注釈】「返入」は、海神の宮へである。この時に海坂をふさいだため、海神の宮との往来は、永久に絶えた。
【宣長の注釈】「是以」は、前の「その海辺の波打ち際に、鵜の羽を屋根の材料として、云々」の事を受けていう。
【宣長の注釈】「天津日高日子」は、前に出た。〔伝十五の三葉。〕
【宣長の注釈】「波限建」は、前に「その海辺の波打ち際に、云々」とあり、『書紀』の一書には、「ついに真床覆衾と草で子を包み、波打ち際へ置いて、海へ入って去った」ともある。そのような由来から、こう名付けたのである。「建」は褒める呼び名だ。〔「建」は、普通は前に付ける例が多いので、ここも後の語へかけて読みそうになるが、やはりここは前にかける。「建」が後ろに付く例として、「倭建」「若建」などもある。〕
【宣長の注釈】「鵜葺草」の「葺」が真福寺本にないのは、〔訓注にもない。〕よくないだろう。〔『書紀』に「草」とあるのに合わせ、ここも「葺」は余分な字だとして削ったのだろう。ただ、「かやという」という訓注が、前でなくここにあることを思えば、その本にも理由がなくはない。ひとまず「葺」のない方で考えるなら、諸本がここにも「葺草」と書くのは、前にならい、後から「葺」を加えたとして、前の「葺草」は字のまま「ふきくさ」、ここの「草」一字を「かや」と読むべきだろう。
しかし今、諸本にはすべて「葺」がある。また前のものも、必ず「かや」と読むべきで、「ふきくさ」と読むのはどうかと思うので、やはりその本は採らない。訓注が前でなくここにあるのは、「波限」の訓注もそうではないか。「うがや」を『水鏡』に「うのかや」と記すのは、昔そうも読んだのだろうか。〕
【宣長の注釈】「葺不合」は、俊成卿の『古来風体抄』で、この御名を「うのはふきあへずのみこと」と書く。〔「鵜葺草」を「うのは」とするのはよくないが。〕「不合」を「あへず」というのは、たいへんよい。きっと古い根拠があったのだろう。それに従って読む。「あはせず」を縮めて「あへず」というのは、古語だ。下巻の朝倉宮の歌の「まなばしら、をゆきあへ」も、「あへ」を「合わせる」の意味で使っている。このほかにも、「合わせる」を「あへ」という例は多い。〔「ふきあはせずのみこと」と読むのはよくない。「あはせず」は御名にふさわしくない語で、上代の名には、このような調子の悪いものはない。〕
屋根は、両側の軒から葺き上げ、棟で葺き合わせて終わるので、葺き終えることを「葺き合わす」という。〔『六帖』に、「思う人が雨となって降って来るものなら、一滴も逃さず受け入れようと、わが屋根は葺き合わせなかっただろうに」とある。〕
【宣長の注釈】『書紀』にいう。「後に豊玉姫は、以前の約束どおり、妹の玉依姫を連れ、風波をまっすぐ冒して、海辺へ来た。産む時、皇孫へ願った。『私が産む時には、どうか御覧にならないでください』。天孫はなお我慢できず、ひそかにのぞきに行った。豊玉姫は竜に変わり、〔この間に、まさに産むという文が脱落したのだろう。〕ひどく恥じていった。『もし私に恥をかかせなかったなら、海と陸を通わせ、永久に隔てをなくしたでしょうに。今、恥をかかせられ、どうして親しい情を結べましょう』。草で子を包んで海辺へ置き、海路を閉ざし、去ってしまった。それによって、子を彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と名付けた」。
〔ここは、ただ「草で子を包む」とあるだけで、鵜の羽の事がない。そうすると、この伝えの御名「うがや」は、ただ草の名なのか。それなら、「鸕鷀草」と書くのは当て字としようか。また前に産屋も出ないので、「葺不合」の由来も明らかでない。どちらにしても、「それによって名付けた」というのは、意味が通らない。〕
一書に、「以前、別れようとした時、豊玉姫が静かにいった。『私はすでに身ごもっています。風波の激しい日に、海辺へ出ましょう。私のために産屋を造り、待っていてください』。その後、豊玉姫は言葉どおりに来た、云々。櫛に火をつけて見ると、豊玉姫は八尋熊鰐になり、這いうねっていた、云々。子の名を云々というのは、海辺の産屋を、まったく鵜の羽だけで葺き、棟を葺き合わせないうちに子が生まれたため、そのように名付けたのである」とある。
別の一書に、「以前、豊玉姫が天孫に、『私は身ごもりました。天孫の御子を、どうして海中で産めましょうか』といった、云々。豊玉姫は自ら大きな亀に乗り、妹の玉依姫を連れて、海を照らしてやって来た。その時、産み月が満ちて産期が迫っていたので、屋根を葺き合わせるのを待たずに入った、云々。八尋の大鰐へ変わり、云々。天孫が近寄って、『子には何という名がよいか』と尋ねると、『云々と名付けるのがよい』と答えた。そういうと、海を渡って去った」とある。
さらに一書には、「云々。豊玉姫はひどく恨んでいった。『私の言葉を用いず、辱めました。今から後、私の召使いがあなたの所へ行っても、帰さないでください。あなたの召使いが私の所へ来ても、こちらも帰しません』。真床覆衾と草で子を包んで波打ち際へ置き、海へ入って去った。これが海と陸が通わなくなった由来だ。一説に、子を波打ち際へ置いたというのは違う。豊玉姫命が自ら抱いて帰った。時が経ち、『天孫の御子を、この海中へ置くのはよくない』といい、玉依姫に抱かせて送り出した」とある。
【古事記本文】しかしその後、のぞかれたことを恨みながらも、恋しさに耐えられず、御子を養い育てるために来る妹の玉依毘売に託し、歌を献じた。その歌は、
赤い玉は、通した緒まで光るけれど、白玉のようなあなたのお姿こそ、尊く美しいことよ。
そこで夫が答えた歌は、〔「比古遅」は三字を音で読む。〕
沖の鳥、鴨の寄る島で、私が共に寝たあなたを、忘れまい。わが命の限り。
日子穂々手見命は、高千穂宮に五百八十年いた。御陵は、その高千穂山の西にある。
【宣長の注釈】「然後者」は、一句を隔てて「不忍恋心」にかかる。「然」は「しかれども」と読む。前の「申し、云々、帰って入った」を受けていう。
【宣長の注釈】「雖恨」は「うらみつつも」と読む。後世の「恨みながら」の意味だ。
【宣長の注釈】「不忍恋心」は「こひしきにえたへたまはずて」と読む。この語は、後の「献歌」にかかる。
【宣長の注釈】「治養」は「ひたしまつる」と読む。中巻の玉垣宮の段に「日足奉」とある、その字の意味で、「たし」は足らせることだ。〔今の言葉でも、足らせることを「足す」という。〕『書紀私記』に、「『ひたす』というのは、どういう意味か。師説にいう。人の子は、生まれた初めには日数が最も少ないが、だんだん養い育つと、日数が次第に満ちる。そこで子を養い育てることを『日足』というだけだ」とある。子は日数が積もるにつれて育つので、日数を足らせる意味で、養育をそういうのだ。
『書紀』でも「養」、また「子養長」「養時養」などを、すべてそう読む。『上宮記』〔『釈紀』が引く。〕に、「親族のない国で、私一人で養育するのは難しい。養育をひだしという」とある。『続紀』巻四に、「人の親が、自分の幼い子を養い育てるように、治め、慈しみ賜い」とある。『万葉集』巻十三の二十八丁に、「いつかも、ひたらしまして」とある。〔この『万葉集』は、成長する自分の側からいったもので、「たらし」は「たり」を延ばした形だ。「足らせる」ではない。〕
〔『倭姫命世記』に、豊鋤入姫命が「私は日足った」といったとあるのは、『儀式帳』には「御形が成長した」とあるが、これは老いたことをいうように聞こえる。また今、病気が治った後、次第に健康になるのを「ひだつ」というのも、日数が経つ意味で「日足」と同じだ。「肥立」と書くのは俗のしわざで、あるいは「ひだる」のなまったものかもしれない。〕
『書紀』の一書に、「またいう。彦火々出見尊は、女性を選び、乳母・湯母・飯嚼・湯坐とし、各部の者をそろえて養育させた。その時、ひとまず他の女性の乳で皇子を養った。これが世間で、乳母を選んで子を養う由来だ」とあるのは、この御子を育てた様子を詳しく伝えるものである。
【宣長の注釈】「玉依毘売」の御名で、「玉」は姉の名にあるのと同じ。「依」は、〔字は当て字。〕「よろし」の縮まったものだ。〔「ろし」が「り」に縮まる。「よろづ」「よろふ」なども、「よろし」と同じ語から分かれた。〕師の説では、「よろし」は物が十分にそろうことをいう。『万葉集』巻一の「とりよろふ、天の香具山」も、この山が万事整って満ち足りることをいい、「よろしなへ、わが背の君」なども同じだという。その意味で、褒める名となるのである。
名の例は、男性に飯依比古・建依別・稲依別など、女性に伊須気余理比売・息長水依比売・水穂五百依比売などがある。『続紀』巻二十七には、与呂志女という名も見える。同じ「玉依」という名は、『書紀』の一書の「栲幡千々姫。一説に万幡姫児玉依姫命」という例があり、『古事記』の水垣宮の段にも活玉依毘売がいる。賀茂の御祖神も、名を玉依姫という。〔山城国風土記に見える。〕すべて同じ意味の呼び名だ。『神名帳』に、信濃国埴科郡の玉依比売神社があるが、これはどの神を祭ったのだろう。
【宣長の注釈】「附」は、ことづけることである。『万葉集』巻二十の、「常陸を指して行く雁があればよいのに。私の恋を記して託し、妻へ知らせたい」。『古今集』春下の、「吹く風に頼めるものなら、この一本は避けよといいたいのに」。『伊勢物語』の、「宇津の山へ至り、云々。修行者に出会い、云々。都のある人の所へと、手紙を書いて託す」などの「つく」と同じである。〔この「つく」を、真字本では「伝」と書く。「告げる」と理解するのは誤りだ。〕
ここは、豊玉毘売自身は本国へ帰ったが、御子をこの国へ残したため、養育させようとして、妹の玉依毘売を今回よこし、そのついでに歌を託したという趣旨だ。だから「縁に因りて」は、「その機会に」という意味だろう。
〔また考えると、「御子を治養する縁に因りて」は、豊玉毘売は恋しさに耐えられなくても、すでに別れ、海坂をふさいで帰った上は、また立ち返って会うこともできないので、御子を養育するためといいなし、それを口実に玉依毘売を遣わして、歌を献じたのかもしれない。もしその意味なら、「その御子をひたしまつるをしに、よせなして」と読む。『万葉集』巻十一の、「久方の、雨も降らぬか、それをよせにせむ」と同じ言い方だ。ただし、やはり初めに述べた方に従う。〕
『書紀』の一書に、「その後、豊玉姫は、子が美しいと聞き、深く愛し、帰って養いたかったが、道理としてできなかったので、妹の玉依姫を遣わし、来て養わせた。その時、豊玉姫命は玉依姫へ託して、答えの歌、『赤玉の、云々』を献じた」とあるのは、『古事記』に近い。〔ただし『古事記』の「恋しさに耐えられない」は、夫を思ったので、御子を恋うたのではない。この点は違う。これについても、贈答歌の順序が逆になっていることも、後で論じる。また『書紀』には前に、「豊玉姫は妹の玉依姫を連れて来た」とあるので、玉依姫は初めも姉と共に来たのだ。姉が帰った時、いっしょに帰り、今また改めて遣わされたのだろう。〕
しかし『古事記』には、玉依毘売が初めに姉と共に来た事がないので、今回初めて遣わされたように聞こえる。ここにも、来たとはっきり書かないが、自然にそう聞こえて明らかだ。『書紀』本書の、「豊玉姫が妹の玉依姫を連れて来た」、一書の、「妹の玉依姫をとどめて子を養育させた」なども、初めから連れて来た趣旨である。また一書の、「一説に、子を波打ち際へ置いたというのは違う。豊玉姫命は自ら抱いて帰った。後に、『天孫の御子を、この海中へ置くのはよくない』といい、玉依姫に抱かせて送り出した」とあるのも、一つの伝えである。
【宣長の注釈】「献歌」は、当時は文字がなかったから、後世のように、物に書いてそれを差し上げることではない。ただ口伝えに申し上げることだ。〔「宰」は「御言持」で、とても古い称号である。だから、口で申し上げる歌も、「御言を持つ」というなら、献じるともいえる。または後に、物に書いて贈るようになった時代の語で、「献」と伝えたのかもしれない。〕
【宣長の注釈】「其歌曰」を、師は「そのうた」と読み、「曰」を読まなかった。それが、わが国の言い方である。〔「曰」は、ただ漢文の例に従って書いただけで、読む字ではない。〕
【宣長の注釈】「阿加陀麻波」は「赤玉は」である。〔契沖がこれを海底の珊瑚だというのは、限定しすぎてよくない。ただ赤い玉だ。また『書紀』の注で「明玉」とするのもよくない。『古事記』では、ことに白玉と対比するのに合わない。「吾が玉」と見て、葺不合命のことだという説などは、とりわけ誤りである。〕
【宣長の注釈】「袁佐閇比迦禮杼」は「緒さへ光れど」である。玉を貫く緒まで映え輝くことで、玉が非常に美しいという意味だ。
【宣長の注釈】「斯良多麻能」は、「白玉のような」である。「ような」を補って理解する。〔この形は古い歌に普通に多い。〕以上の三句は、『書紀』では「赤玉の、光はあれど」とある。
【宣長の注釈】「岐美何余曾比斯」は、「君のよそひし」で、「し」は助辞である。「君」は、夫の穂々手見命を指して申したのだ。
【宣長の注釈】「多布斗久阿理祁理」は、「貴くありけり」である。この「貴」は、前の「益我王而貴」と同じく、とても好ましく美しいという意味で、その箇所〔この巻の伝二十五葉〕で述べたとおりだ。『万葉集』巻六に「貴きわが君」などとある。
【宣長の注釈】一首は、赤玉は緒まで光って、とても美しいが、それよりも、白玉のようなあなたのお姿の方が、いっそう美しい、という意味で、恋い慕う心を述べたものだ。人を玉にたとえる例は、『万葉集』巻七の十八丁の、「沖の波が、浜の藻を巻き持って寄って来ても、あなたに勝る玉を、寄せようか」。巻二十の二十八丁の、「月日は過ぎてゆくけれど、母と父の、玉のような姿は忘れられない」。武烈紀で影媛へ贈った歌の、「琴のそばに来ている影媛よ。玉であるなら、私の欲しい玉、鮑の白玉」。『万葉集』巻十九の二十六丁の、「白玉の、見まくほしき君を」などがある。〔ほかにも多い。〕白玉にたとえたのは、さまざまな玉の中で、白玉がことに優れているため、赤玉と対比してたとえたのである。
〔ある説が、第三・第四句を、天子は白玉を身に帯びるから、その装束をいうのだとするのは、よくない。「すがた」などといわず「よそひ」とあるので、その意味かと思う人もいるだろうが、違う。「よそひ」は、美しい容姿のことだ。仮に装束の意味があっても、白玉を帯びていることだと理解するのは誤りで、やはり白玉はたとえである。
『書紀』のこの歌は、白玉にたとえず、直接あなたの姿を赤玉と対比して詠んでいる。また『書紀』には、「子が美しいと聞き、深く愛し、云々」とあるため、ある説は「君がよそひ」を葺不合命の事だとする。しかし歌の様子は、そう聞こえない。確かに夫を恋い慕って詠んだ趣旨なので、「子について聞き、云々」という詞書と歌が合わず、どうだろうかと思う。〕
【宣長の注釈】「比古遅」は前に出た。ここも穂々手見命を指していう。
【宣長の注釈】「答歌曰」は「こたへたまひけるみうた」と読む。
【宣長の注釈】「意岐都登理」は「沖つ鳥」である。沖に住む鳥をいい、鴨の枕詞となるのは、「野つ鳥、雉」「家つ鳥、鶏」「島つ鳥、鵜」などと同じ例だ。師の『冠辞考』に詳しい。そのほか、『万葉集』巻十一の四十三丁にも、「沖に住む、鴨の浮寝の」、巻十四の二十八丁に、「沖つま鴨」、巻十五の二十一丁に、「沖に漂う鴨でさえも」などとある。
【宣長の注釈】「加毛度久斯麻爾」は「鴨の着く島に」である。「着く」を「どく」という例は、前〔伝十六の十葉〕に「そこどく御魂」とある。「度」は『書紀』では「豆」と書く。〔それによって、『古事記』の「度」も「づ」と読むのは誤りだ。『古事記』には、一つの仮名を二音に使い分ける例がない。「度」は「ど」にだけ使う。〕「ど」と「づ」が通う例は、「たどき・たづき」などのようなものだ。本来「着く」は清音となる所で、「度」「豆」とも濁音なのは、古い音便であり、そのような例は多い。「着く」は「寄る」と同じ。〔船が寄るのも「着く」といい、「手着き」と「手寄り」も同じことを思いたい。〕「島」は海神の宮を指す。「鴨の着く」までは、ただ「島」という名につなぐ序であり、海神の宮へ鴨が寄るという意味ではない。
〔ある説は、『万葉集』の「沖島、鴨という船」を引いて、ここでも鴨は船を詠み、島は無目堅間の小船が着いた島だという。理由がありそうだが、誤りだ。上代に、船をただ「鴨」とだけいうことはない。〕海底の海神の宮を「島」と詠んだのは、海路を経て到る場所なので、海上の普通の島になぞらえたのだ。
〔契沖が、この島を「可怜小汀」だというのは、もっともらしく聞こえるが、違う。あの小さな汀に関わる事ではない。またある人は、この歌が「島」と詠むことを、海神の宮も一つの島である証拠とした。実際そうであるように聞こえるが、やはり違う。「しま」は、普通の海上の島だけでなく、周囲に境があって一区画となる場所をいう名であることは、『国号考』で詳しく述べたとおりだ。
またある人は、今、薩摩国江居郡海門村に海童神社があり、その後ろの山を今も「鴨つく島」といい、神代紀の海宮はこの海門山だというが、これも例の信じられない話である。今も「鴨つく島」というのは、後世の人がこの歌に従って作った名と聞こえる。その類は、どこにでもある。〕
【宣長の注釈】「和賀韋泥斯」について、契沖はいう。「『我が率寝し』である。『ゐ』を『古事記』は『韋』、『浜成式』は『為』と書く。ただ『我がいね』などとは違うので、ただ寝たのでなく、妹を伴って寝たのだ。雄略天皇の歌の、『たしにはゐねず』、また『わがかへに、ゐねてましもの』、『万葉集』巻十四の、『息づく君を、ゐねてやらさね』、また『あまた夜も、ゐねず来ましを』、巻十六の、『寺の長屋に、我が率寝し』も、すべて伴って寝ることだ」。遠飛鳥宮の段の歌にも、「たしだしに、ゐねてむのちは」とある。〔ただ寝ることも「いね」というが、その「伊」は「い」の仮名で、別だ。混同してはならない。〕
「率る」は、身に添え付けることをいう。〔「率て行く」は、身に添えて行く。「引き率」は、引き従えて身に添えることだ。〕「率寝」は、身に添えて寝ることだ。孝徳紀の歌にも、「たぐひよく、たぐへる妹を、誰かゐにけむ」とある。〔「誰が伴って行ったのだろう」という意味だ。〕
【宣長の注釈】「伊毛波和須禮士」は、「妹を忘れまい」である。「妹」は、豊玉毘売命を指していった。「礼」は『書紀』で「邏」とある。〔『浜成歌式』に出すものは、『古事記』と同じく「礼」である。『書紀纂疏』が「忘れることができない」と注したのは、「邏」を「忘られじ」の意味に見たもので、誤りだ。「邏」でも意味は「忘れじ」である。
契沖が「礼」と「邏」は五音が通じるのだとするのも、精密でない。このように語が活用する箇所では、五音の転用に決まった型があり、自由に通わせていうのではない。その転用に従って、意味も変わるからだ。だから「忘れじ」を「忘らじ」ともいうのは、音が通うためでなく、別の活用である。普通の「わすれ・わする・わするる」という型でなく、「わすらむ・わすり・わする」などという型だ。古くはそのような例がある。「隠る」も、普通「かくれ・かくる・かくるる」と活用するが、古くは「かくらむ・かくり・かくる」などと多くいった。これらと同じだ。後世も、一つの語が二種類に活用する例はある。
また『六帖』は、この歌を「わぎもこ」という題の所に置き、この句を「わすれず」とする。終句を「世の事ごとに」という意味に見たので、「士」を「受」に改めたのだろう。誤りである。〕
【宣長の注釈】「余能許登碁登爾」について、契沖は、「『世のことごとに』で、生涯の限りという意味だ。『万葉集』巻二十の、『立ちしなふ、君が姿を、忘れずは、世の限りにや、恋ひわたりなむ』と同じ意味だ」という。そのとおりである。〔「事々」「事ごと」などの意味とするのは違う。「ことごと」は、普通、数ある物を一つも残さないことだけをいうので、このように「限り」の意味に使うのは珍しいようだが。〕
『万葉集』巻二の二十四丁に、「夜はも、夜のことごと、昼はも、日のことごと」とある。〔この二つの「尽」は、いろいろ違って読むが、皆誤りだ。この御歌と照らし、「ことごと」と読むと決まる。〕巻十七の二十九丁に、「国中ことごと、山はしも、しじにあれども」とある。〔これらは、夜の限り、昼の限り、国中の限りに、という意味だ。〕『貫之集』の、「桜花よ、散らない松にもならってほしい。色のある限り見ながら、生涯を過ごそう」は、「色のある限り」という意味なので、ここにまったく同じだ。〔契沖が、「松と桜を、それぞれに」と注したのは誤りである。〕
「よ」は、人の生涯をいう「世」で、自身の齢のことだ。〔先の『万葉集』巻二十と『貫之集』も、すべて同じ。〕人の命の続く間を「世」ということは、普通に多い。結びの「爾」は、『書紀』では「母」とある。『六帖』『浜成歌式』などは『古事記』と同じだ。〔「に」は「生涯の限りまでに」、「も」は「生涯の限りまでも」ということなので、どちらでも意味は同じだ。〕
【宣長の注釈】右の二首は、『書紀』では、「豊玉姫は、云々。そういい終わると、海を渡って去った。その時、彦火々出見尊が、『沖つ鳥、云々』と歌った。その後、豊玉姫は、云々、玉依姫へ託して、『赤玉の、云々』と返歌を献じた。この贈答二首を『挙歌』と呼ぶ」とある。〔挙歌については、遠飛鳥宮の段、伝三十九で述べる。〕『古事記』とは、贈る歌と答える歌の順序が逆になっている。どちらでも通じるが、歌の様子を思うと、『古事記』の方がやや優れる。〔谷川氏が『古事記』の順を、陰陽が唱和する意味でないというのは、例の漢意で、まったくうるさいことだ。〕
また一書には、「初め豊玉姫が去る時、恨みの言葉が切実だったので、火折尊はもう会えないと知り、歌を贈った。前に見える」とあって、豊玉姫の返歌がない。これも一つの伝えである。〔ただ「前に見える」という中に、答えの歌も含めたのかもしれない。〕
【宣長の注釈】「高千穂宮」は、白檮原宮の段の初めにも「高千穂宮においでになって、云々」とあるから、あの御代までは、代々この宮においでになったのだ。
そもそも邇々芸命が天降って、初め笠沙の御崎に宮を設けたことは、前〔伝十五の八十七葉〕に見えるとおりだ。だから、この高千穂宮も、その笠沙の御崎にある宮かと思われる。しかし、さらに考えると、高千穂という名と、御陵もその高千穂山の西にあるということから、この宮は笠沙の御崎の宮とは別で、大隅国の高千穂山に近い土地と読める。〔笠沙の御崎は、必ず薩摩国にあるはずだと、前に述べたとおりである。そこなら高千穂宮とはいえない。あの山からやや遠いからだ。〕
〔薩摩国の人は、「火々出見尊の宮は、大隅国桑原郡の宮内という土地である。『神名式』で同郡にある鹿児島神社も、この尊を祭る。今は正八幡宮と申す」という。桑原郡は高千穂山に近い地域だろうか。さらに地理をよく調べたい。〕
さて、ここの高千穂は霧島山をいう。〔高千穂山については、伝十五の七十葉に詳しく述べたように、それらしい山が二つあって、どちらとも決めにくい。そのうち、この宮の名の高千穂は、必ず霧島山のはずであることが、御陵の所在地からわかる。御陵の所在地は、下で述べることを考え合わせてほしい。これを日向の臼杵郡の高千穂とすると、御陵の所在地と合わない。
そこで、よくよく考えると、神代の御典に高千穂の峰とあるのは、同名の二か所で、臼杵郡の山も霧島山も、ともにその山なのだろう。皇孫命が初めて天降った時、まず二つのうち一方の高千穂の峰に降り着き、そこからもう一方の高千穂へ移ったのだろう。その順序は、どちらが先でどちらが後だったか、知ることはできない。しかし、最後に笠沙の御崎に留まった道筋から考えると、初めに降り着いたのは臼杵郡の高千穂山で、そこから霧島山へ移り、山を下って、空国を進んで、笠沙の御崎に着いたのだろう。
こうして、神代に高千穂といった山は二か所だったのだろうが、両方が同名だったため、古くから混同して、一つの山のように語り伝え、『古事記』にも『書紀』にもそう記したのだろう。この二か所が、ともに同じ名を持っていたのにも、理由があったのだろう。〕
『書紀』に「襲の高千穂の峰」ともある。襲は大隅国なので、これも霧島山を高千穂といった証拠だ。こう考えると、初め邇々芸命は笠沙の御崎の宮においでになり、穂々手見命の時に、この宮へ移ったのだろう。
【宣長の注釈】「五百八十歳」。神代の年数全般について考える。〔今これをあれこれ論じるのは、かえって未熟なことだと思う人もいるだろう。しかし、そうではない。ここにもこのように見え、『書紀』にも見える以上、決してなおざりに通り過ぎてよいものではない。〕
『書紀』神武巻の初めに、「天祖が降臨してから今に至るまで、百七十九万二千四百七十余歳」とあるのは、三代〔邇々芸命・穂々手見命・葺不合命〕を合わせた年数である。〔この年数が非常に多く長いことを、近世の小賢しい人の心では信じられなく思うので、さまざまな説がある。しかし皆、漢意によるこざかしい解釈だ。ただ古い伝えのままに理解すべきだ。〕
いま仮に、この数を三代へ等しく分けると、一代がおよそ六十万歳ずつになるはずだ。それなのに、ここで五百八十歳というのは比べものにならない短さで、総数とひどく合わない。これはどういうことか。あの石長比売の件で、父神が「天神の御子の寿命は、木の花が栄える間だけになるでしょう」と呪いを申したため、「今に至るまで、天皇命たちの御命は長くない」とある。だから、穂々手見命から後は、寿命がはるかに短くなる道理である。〔邇々芸命自身には関わりがない。その御子から、代々の後継者を呪ったのだ。〕
だから、百七十九万云々という年の多くは邇々芸命の御代に過ぎ、穂々手見命はわずか五百八十歳、次の葺不合命は、さらに短かったはずである。次の伊波礼毘古命になると、またさらに縮み、百三十七歳で崩じた。こう考えれば、ここに記す年齢に、何の疑いがあろうか。
〔それなのに、『倭姫命世記』など、後世の書物が神代の年数を、邇々芸命三十一万八千五百四十三年、穂々手見命六十三万七千八百九十二年、葺不合命八十三万六千四十二年と記すのは、ひどい妄説である。そもそも三代の寿命が、順々にこのように長くなる理由がない。また葺不合命はそれほど長く生きたのに、御子の神武天皇になると急に縮んで、わずか百余歳なのは、何を理由とするのか。まったく理解できない。ここで初めて、あの呪いの効き目が現れたとでもいうのか。しかし二代がとりわけ長く生き、それが過ぎた後、急に効き目が出るはずもないではないか。
右の年数は、後人が神武紀の年数を拠り所に、でたらめに三代へ配分して定めたものだ。呪いの件にも思い及ばず、『古事記』のここに五百八十歳とあることなども考えず、思慮もなく記したのだ。順々に年数を増やしたのは、御代がますます長く続いたとして、お祝いする心遣いだろう。この三代の年数を足すと、神武紀の数とまったく同じになるのが、後人の作為の証拠である。上代の伝えでは、このようなことは、こちらとあちらとで、まったく同じにはならないものだからだ。
なお、この三代の年数を『神代巻口決』は、三十万八千五百三十三年、六十三万七千八百九十二年、八十三万六千四十三年と分ける。少し違うが、「三十万」の「万」の上で「一」を落とし、「卌」を「卅」と誤ったもので、もとは初めに挙げたものと同じである。〕
【宣長の注釈】「御陵」は「みはか」と読むべきだ。『万葉集』巻二の二十四丁に、「やすみしし、我が大君の、畏きや、御陵仕ふる、山科の、鏡の山に、云々」とある。師の『考』には、「古くは、天皇の山陵も『御墓』といったのだろう。ここも『御陵』と書くが、『みささぎ』とは読みにくく、必ず『みはか』と読むべきだからだ」とある。『書紀』仁徳巻・推古巻などには、「難波の荒陵」という地名もある。『源氏物語』須磨巻には、「院の御はか」とある。〔また「御山」ともいう。古い書物も、御陵を築くことを「山作」といった。〕
「みささぎ」も、古い呼び名だ。『和名抄』には、「山陵、みささぎ」、また「諸陵寮、みささぎのつかさ」とある。ただし、「某天皇の御陵」という時は「みはか」といい、その御陵そのものを指す時は「みささぎ」ともいえる。〔例えば、「あそこのみささぎは、某天皇のみはかだ」などというように。「某天皇のみささぎ」とはいわなかったのだろう。〕
同じ物も、指し方によって名の変わる例は多い。〔後世には、陵をすべて「みささぎ」と申し上げ、墓とは別のことになった。〕なお「みささぎ」については、下巻の佐々紀山君の注〔伝四十の三十七葉〕で述べる。
【宣長の注釈】「その高千穂山の西にある」。『書紀』には、「後、長い時が過ぎ、彦火々出見尊が崩じ、日向の高屋山上陵に葬った」とある。『口決』には、「高屋は、前には竹屋だった」とある。〔前に出た竹屋とは、「竹刀でその子の臍の緒を切り、竹刀を捨てた所が、ついには竹林となったので、その場所を竹屋と名づけた」という所だ。〕
延喜の『諸陵式』には、「日向高屋山上陵。彦火々出見尊。日向国にある。陵戸はない」とある。松下氏の『前皇廟陵記』は、「薩摩国阿多郡と大隅国肝属郡は、ともに鷹屋郷がある。二郷の境が接するのだろう。おそらく、この土地の山である」という。この説には、確かに理由がある。〔ただ、阿多郡と肝属郡が接し、一つの鷹屋が二郡にまたがるのか、それとも鷹屋が二つあるのか、私は地理を知らないので、そのような細かいことはわからない。さらに土地の人へよく尋ねたい。〕『和名抄』にも、大隅国肝属郡鷹屋、薩摩国阿多郡鷹屋と見える。
この高千穂山は、前にもいったように霧島山のはずなので、その西は大隅国である。〔薩摩国の人は、「高屋山陵は、大隅国肝属郡内之浦郷北方村、高屋山の頂にある。この山の上を、今は俗に国見山といって、国中を見渡す所である。麓に高屋神社があり、出見尊を祭る」という。この説はもっともだろう。その土地が霧島山より西に当たるかは、さらに調べたい。〕
それなのに日向とあるのは、前にいったように、上代には大隅・薩摩まで含めて日向国といったことがあったからだ。〔神武紀に日向国の吾田邑とあるのも、可愛陵の可愛も、すべて薩摩の地名であることからもわかる。
それなのに、今の日向国宮崎郡、佐土原付近の海辺に高屋島という所があり、これがこの御陵だというのは、納得できない。『書紀』景行巻の十二年に、「日向国へ至り、仮の宮を建てて住んだ。これを高屋宮という、云々。高屋宮に住んで、すでに六年になった」とあるのは、大隅・薩摩の地域でなく、日向国と読める。しかし、これはこの御陵のある高屋とは、別の所だろう。〕
【宣長の注釈】『書紀』には、邇々芸命と葺不合命の御陵も記し、三代のものがそろう。『古事記』も必ずそうあるはずなのに、両方とも見えないのは、初めから書き漏らしたのだろう。だから穂々手見命だけ、年数も御陵も記し、あとの二代は両方とも見えないのだ。ついでに、ここでその二つの御陵も挙げて注しておく。
『書紀』には、「長い時が過ぎ、天津彦々火瓊々杵尊が崩じ、筑紫の日向の可愛山陵に葬った。〔可愛は『え』という。〕」とある。『諸陵式』には、「日向埃山陵。天津彦々火瓊々杵尊。日向国にある。陵戸はない」とある。『廟陵記』は、今の薩摩国頴娃郡だという。もっともだろう。『和名抄』の薩摩国頴娃〔えの〕郡、頴娃郷が、これである。〔「娃」は、紀伊の「伊」などの例と同じく、「え」という音に韻を添えただけだ。今、土地の人は「えい」というが、それも「え」を長く引いて呼ぶのだ。文字は昔のまま頴娃と書き、江居とも書く。『和名抄』の「江乃」の「乃」は削るべきである。〕御陵は必ずここにあるはずだ。
〔薩摩国の人はいう。「可愛山陵は、薩摩国高城郡水引郷五台村、中山の嶺にある。『天書』に、『瓊々杵尊、云々、筑紫の日向の緣の中山の頂の陵に葬った』と見える。また川合陵・端陵という二つがある。今、俗に中山陵を中陵といい、中央にあって、瓊々杵尊の陵だという。川合陵はその左、端陵は右にある。この二陵を天照大神と忍穂耳尊の陵だというのは誤りだ。古く帝皇を葬る時、三陵を造ることがあり、一つに遺体を納め、ほかには遺体を載せた車や日用品などを納めて、三つの墓を合わせ、その帝皇の山陵とする。だから、この三陵を合わせて瓊々杵尊の可愛山陵なのだ。その中で遺体をお納めしたのが中陵である。
いま見ると、この中陵は、頂に磐石三つを置き、なお墳域のようで、周囲を井桁の柵で囲み、代々修理させている。その石は非常に大きく、俗にいう片石のようで、神の力によらなければ山上へ運べない。ほかの二陵には、これはない。また、この陵の右に新田宮というものがあり、瓊々杵尊を祭り、天照大神と栲幡千々姫も合わせて祭る。この宮は後世に建てたのだろう。この廟の山を神亀山とも亀山ともいうのは、山の形による。廟の地域は、すなわち瓊々杵尊の宮城の地域だ。廟の山の背後を城村といい、屏障を削って造ったようだ。宮城の跡だと伝える。
ある人が川合と可愛の字音が近いので、あの川合陵が可愛陵だというのは誤りだ。いま見ると、中山陵と端陵は大きな丘で山のようだが、川合陵は中山陵から一里ほど離れ、土地は低く湿って狭く、御遺体を納められる所ではない」。
宣長がこの説を考えるに、古く帝皇を葬る時に、あるいは云々というのは、そうしたこともある。しかし、必ず三つの墓を合わせて一つの山陵としたわけではないので、川合陵・端陵という二つは、可愛御陵ではなく、別の神の御墓なのだろう。その理由は、川合陵は中山陵から一里ほど離れるというからだ。可愛御陵に付属するものなら、それほど遠く離れているはずがない。端陵は、中陵からどれほど離れるのか。川合陵の遠さから推せば、これもそれほど近くはないのだろう。
右の説が「右にある」「左にある」というのは、ごく近く、一つの地域に並ぶように聞こえる。しかし川合陵は一里ほど離れるというので、端陵の遠さ近さも、確かでない。このようなことを詳しく記すには、東西南北の方位をいい、どちらへどれほど離れるかをいわなければ、所在地が明確にならない。ただ左右というだけでは、ひどくおぼつかない。
また高城郡は頴娃郡と接し、この御陵の土地は古く頴娃郡だったが、今は高城郡に属するのか。二郡が接せず、離れた地域なら、中山陵にも、なお疑いがないわけではない。この郡の位置も、さらによく調べて決めるべきだ。〕
日向国には、あるはずがない。〔『口決』が、可愛山陵は日向国宮崎にあるというのは、納得できない。ある人は、「臼杵郡の縣の西三里に大きな陵がある。異様な気が非常に盛んで、近づけない。これが可愛陵か」という。またある人は、「臼杵郡に永井可愛村という神社があり、傍らに百町余りの山があって、頂上に霊石が三つ尖り、岩洞がある。これが可愛陵だ」という。またある人は、「今の日向国延岡の領内に可愛という所があって、そこに陵山といい、山腹に神社がある。御陵がどの辺かは、はっきり知られていない」という。またある人は、「臼杵郡高千穂山の東南に榎の嶽という山があり、その山中に、邇々芸命の陵だというものがある。里人は大石明神と申す」などという。どれも古く由緒のある土地とは聞こえるが、可愛御陵ではあるまいと思う。〕
また『書紀』は、「長い時が過ぎ、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊は、西洲の宮で崩じ、日向の吾平山上陵に葬った」という。『諸陵式』は、「日向吾平山上陵。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊。日向国にある。陵戸はない」といい、『廟陵記』は、今の大隅国始羅郡の山だという。もっともだろう。『和名抄』には、大隅国始羅〔あひら〕郡、また大隅郡始臈、熊毛郡阿枚がある。〔これらはもとから別の所か、もとは一つの阿比良だったものが、このように三郡へ分かれて属したのか。地理を調べて決めたい。また今は、肝属郡に始良・大始良という所がある。〕御陵は、この中にあるはずだ。〔薩摩国の人は、「吾平山陵は、大隅国肝属郡始良郷上名村の岩洞の中にある。この岩洞は東へ向き、内部の広さは三十歩ある。陵の上に祠があり、また小川を隔てた前方に廟がある。鵜戸権現といい、葺不合尊を祭る」という。〕
このように、神代の三御陵は大隅と薩摩にあり、日向国にはない。〔それを『諸陵式』が、どれも日向国にあると記したのは、『書紀』が日向とするままに記したものである。後に国が分かれた際、日向国ではなく、大隅・薩摩の地域にあることを考えなかったのだ。歴代の御陵は皆、郡も記すのに、この三御陵だけ郡を記さないことからも、日向国とあるのは、ただ『書紀』の文章によるだけだとわかる。
代々の人も皆、日向国でだけ探すから、その国に今、あれこれ神代の御跡といわれるものがあるのは、納得できない。大隅・薩摩にあるはずだとは、まったく気づかず、またそこは他国の人が行くこともまれな国なので、おのずと埋もれ、世に知る人もいなくなったのだ。
私は以前から、この件を気にかけ、大隅・薩摩に、古を慕う人がいたら、どうにか会いたい、詳しく尋ねれば、必ず語り伝えた所があるはずだと、願い続けていた。近ごろ、白尾斎蔵国柱という薩摩鹿児島の人が書いた『神代山陵考』を手に入れて読むと、果たしてすべて、あの二国にあった。いま御陵の注の中で、薩摩国の人がいうとして記したのは、すべて彼の説なのである。〕
さて『諸陵式』に、「以上、神代の三陵は、山城国葛野郡の田邑陵の南の原で祭る。その区画は、東西一町、南北一町」とある。筑紫は非常に遠いため、この土地で祭るのだ。〔こうした事情なので、古くからこの御陵へ使者を遣わすことなどもなかったのだろう。そのため所在地がはっきりせず、ついにはどこかさえ、わからなくなったのだった。〕なお、歴代の諸御陵に関するさまざまなことは、中巻の畝火山御陵の所で述べる。
【古事記本文】この天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命は、叔母の玉依毘売命を妻として、御子の五瀬命を生んだ。次に稲氷命、次に御毛沼命、次に若御毛沼命、別名を豊御毛沼命、またの名を神倭伊波礼毘古命と申し上げる。〔四柱。〕
御毛沼命は、波頭を踏み越えて、常世国へ渡っていった。稲氷命は、母の国なので、海の底へ入っていった。
【宣長の注釈】「姨」は「御をば」である。『新撰字鏡』には、「姨母、をば」と見え、『和名抄』には、「『唐韻』は、姨は母の姉妹だといい、『爾雅』は、母の姉妹を従母という。母方のをば」とある。〔祖父母は「おぢ・おば」、父母の兄弟姉妹は「をぢ・をば」という。「お」と「を」には、大と小の違いがある。父方の父母・兄弟姉妹は、ただ「おぢ・おば」「をぢ・をば」といい、母方は「母方の何々」というのは、区別していう時のことだ。普通は母方も、ただ「おぢ・おば」「をぢ・をば」といい、今の世でもそうである。
さて、ある説が、「姨を妻とするのは礼に背く」と論じるのは、納得できない。古い正しい書物には、これを非礼とすることが見えない。何に基づいていうのか。中国の決まりによるのか。それは、ひどい誤りだ。外国の決まりにこだわって、どうして皇朝の明神のなさったことを論じ申し上げられようか。畏れ多いことである。〕
【宣長の注釈】「五瀬命(いつせのみこと)」。この御名を「いせ」と読むのは、ひどい誤りだ。〔「五十」こそ「い」という。「五」だけなら「いつ」という例で、五百以外に、ただ「い」という例はない。〕御名の意味は「厳稲」である。稲を「しね」という例は多い。〔『和名抄』の、精は「くましね」、粳米は「うるしね」、糯は「のごりしね」などが、その類だ。〕その「しね」を縮めて「せ」というのは、「わせ」などと同じである。
〔「厳」を「五」と書く例として、垂仁紀の「厳橿之本」を、『万葉集』巻一は「五可新何本」と書く。「厳」と「五」では、「つ」の清濁が違うようだが、「五手船」も『万葉集』巻二十は二か所とも「伊豆手船」と書く。これらを考えると、「五」も古くは「つ」を濁ったかと思われる。しかし、まだ決めにくいので、この御名の「五」も、ひとまず「つ」を清音で読む。〕この命の事績は、白檮原宮の段に出ている。〔『続紀』巻二にも、三田首五瀬という人名が見える。〕
【宣長の注釈】「稲氷命」。御名の意味は、『書紀』が「稲飯」と書く、その文字の意味である。
【宣長の注釈】「御毛沼命」。御名の意味は「御食主」、食物の主ということだ。出雲国造の神賀詞の「熊野大神櫛御気野命」も、同じ意味の呼び名だ。〔こちらは須佐之男命を申し上げる。〕また国名の上毛野・下毛野も、同じ意味なのだろう。〔それに相応の理由があって名づけたのだろう。〕
【宣長の注釈】「若御毛沼命」。このように四柱の御名を、すべて稲や御食によって申し上げるのは、前の各所で述べたように、とりわけ皇位の継承(天津日嗣)に、深い由緒があるためだ。
【宣長の注釈】「神倭伊波礼毘古命」。この大御名は、大和の都へ移り、天下をお治めになってから申し上げたものだ。『書紀』の一書に、「狭野尊。またの名を神日本磐余彦尊という。狭野というのは、若い時の呼び名だ。後に天下を平らげ、八洲をことごとく領したので、さらに神日本磐余彦尊という名を加えた」とあるとおりである。〔狭野は「早稲主」の意味か。ただし「わ」を省く例は、まだ見いだしていない。早稲を「わさ」というのは、下に語を続ける時の例で、稲も「いな何々」というのと同じだ。「わせ」を「わさ」という例は、「わさだ」「わさほ」などで、これらも「早稲の田」「早稲の穂」の意味だ。〕
「神」といい、「倭」というのは、いうまでもないが、とりわけ「伊波礼」と申し上げる理由は、はっきりしない。〔大和国十市郡にこの地名はあるが、それを大御名に申し上げるだけの理由があるとは聞かない。
ただし『書紀』のこの巻に、「磐余の土地は、もとの名を片居、また片立といった。我が皇軍が敵を破ると、大軍が集まり、その土地に満ちた。それで磐余と名を改めた」とある。これによって考えると、皇軍が倭国へ至り、この時に大いに勢いを得て集まり満ちたことを祝って、倭伊波礼毘古と申し上げたのかもしれない。もしそうなら、その地名を取ったのでなく、ただ皇軍が倭で集まり満ちた意味の御名で、またその土地にも同じ名をつけたのだろう。
また別説に、「天皇は以前、厳瓮の糧を召し上がり、出兵して征伐した。この時、磯城の八十梟帥が、その所に集まって住み、果たして天皇と大いに戦ったが、ついに皇軍に滅ぼされた。それで磐余邑と名づけた」ともある。これによるなら、とりわけ強い敵に勝った土地なので、その地名をもって申し上げたのかもしれない。決めがたい。〕
【宣長の注釈】『書紀』には、「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊は、叔母の玉依姫を妃として、彦五瀬命、次に稲飯命、次に三毛入野命、次に神日本磐余彦尊、合わせて四人の男子を生んだ」とある。
一書には、「初めに彦五瀬命、次に稲飯命、次に三毛入野命、次に狭野命を生んだ、云々」とある。一書には、「初めに五瀬命、次に三毛野命、次に稲飯命、次に磐余彦尊、またの名を神日本磐余彦火々出見尊を生んだ」とある。一書には、「初めに彦五瀬命、次に稲飯命、次に神日本磐余彦火々出見尊、次に稚三毛野命を生んだ」とある。一書には、「初めに彦五瀬命、次に磐余彦火々出見尊、次に彦稲飯命、次に三毛入野命を生んだ」などとある。
【宣長の注釈】「波穂」は、前に出ている。〔伝十二の三葉。〕
【宣長の注釈】「跳」は「ふみて」と読むべきだ。〔師は「加都理弖」と読んだ。〔この訓の清濁は未確定なので、原表記で示す。〕この字は、『史記』漢高祖本紀に、「項羽がついに成皐を囲み、漢王は跳って、ただ滕公と車に同乗して脱出した」とあり、注に「跳は走ることだ」、また「身軽に走り出ることだ」ともいう。この意味合いで、軽く素早い様子を表すため、この字を書いたのだろう。下に「渡り坐す」とあるから、この字はただ「ふみて」と読んでも、走り進む意味は、おのずと備わる。また波頭を踏んで、といえば、軽く素早い意味も備わる。〕『書紀』には、「浪の秀を蹈む」とある。
【宣長の注釈】「常世国」は、どの国であれ、皇国から離れ、容易に行き来できない、はるか遠い国をいう。前〔伝十二の十葉〕に詳しく述べたとおりである。さて、御毛沼命がそのような国へ渡った理由は、詳らかでない。〔下に、推し量って論じた所がある。〕
『姓氏録』右京皇別に、「新良貴。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の子、稲飯命の後裔である。この命は新良国で、国主となった。稲飯命は新羅国王の祖である」とある。〔刊本には「是」の下に「出」があり、「即為国」の三字が落ちる。いまは一本によった。その「出」は「坐」の誤りかもしれない。また「命」の下の「出於」二字も余分で、「者」は「之」の誤りだろう。この氏は葺不合尊の子の後裔だから、「神別」の「天孫」に収めるべきなのに、「皇別」に収めたのは、神武天皇の兄弟だからだろう。〕
これによれば、新羅国へ渡り、その国の王となったのだろう。〔新羅も常世国である。中国の書物『北史』新羅伝に、「その王は、もと百済人で、海から逃れて新羅へ入り、ついにその国の王となった」というのは、実は皇国の人で、この命のことだったのを、誤って百済人と伝えたのかもしれない。〕それは御毛沼命なのに、『姓氏録』が稲飯命とするのは、兄弟の間で伝えが違ったのだ。〔そのような例は多い。〕
【宣長の注釈】「妣の国なるが為に」は、「御母の国であるために」というほどの意味だ。玉依毘売命は海神の娘だからである。須佐之男命も、「母の国へ行きたい」と申し上げたことが、前に見える。
【宣長の注釈】「海原に入り坐しき」とは、海の底へ沈み入ったことだ。〔中国の書物が、船に乗って海上へ向かうことを「入海」というのとは違う。また海原というと、海の上だけのように聞こえるが、上だけでなく、底もそういう例がある。〕前の「天神の御子を海原で生んではならない」というのも、海神の宮のことだと考えたい。
『書紀』神武巻には、こうある。「戊午年五月、進んで紀伊国へ至った、云々。六月、熊野の神邑へ至り、天磐盾に登り、軍を率いて次第に進んだ。海上で突然暴風に遭い、天皇の船は漂い揺れた。この時、稲飯命は嘆いていった。『ああ、我が祖は天神、母は海神なのに、どうして陸でも、さらに海でも、私たちを苦しめるのか』。いい終わると、剣を抜いて海へ入り、鋤持神になった。三毛入野命も恨んで、『我が母も、おばも、ともに海神なのに、どうして波を起こして、水に沈めるのか』といい、波頭を踏んで、常世郷へ行った」。
〔この二柱の命のことを、『古事記』と『書紀』とで照らし合わせ、詳しく考える。まず御毛沼命が常世国へ渡ったことは、『古事記』に理由は見えないが、「波穂を跳んで」という点へ目を向けたい。『書紀』の筋でも、「また恨んでいった、云々」という言葉は、ただ荒い波風を恨んだ意味だけで、常世国へ渡る理由は読み取れない。海神が波風を起こすのが恨めしいからといって、遠い国へ渡るのは、理由にならないからだ。
そこで思うに、この時、この命の乗った船は、行く先もなく遠く漂流し、ついには壊れるか、覆るかしたのだろう。『書紀』に、水に沈めるとあるのも、このためと思われる。そうして船を失ったので、じかに海上を歩いて渡り、遠い国へ着いたのだろう。二つの書ともに、波頭を踏み跳んだというのは、船がないため、そうなさったのだろう。それは、海神の御魂が幸いをもたらしたのだろう。
次に、稲氷命が海へ入った理由は、『書紀』の筋を、日本武尊が東国を征伐した時の記事と比べて考える。そこには、「海中へ至ると、急に暴風が起き、王の船が漂い、渡れなくなった。この時、王に従う妾の弟橘媛がいて、王へ申し上げた。『いま風が起こり、波が騒ぎ、王の船が沈もうとしています。これは必ず海神のお心でしょう。どうか私の身で、王の御命をあがなわせてください』。いい終わると、波をかき分けて入った。暴風はたちまちやみ、船は岸へ着けた」とある。これとよく似ているので、この命も海へ入り、伊波礼毘古命の身に代わって、お救いしようというお心だったのだろう。
それを『古事記』が「母の国なので」というのは、母君が海神の娘だから、自分がその宮へ入り、海神に会って、よいように願い、波風をやませようとのお心で、母君の国なのを、頼もしく思う意味があったのだろう。
そもそも伊波礼毘古命は弟だが、すでに御世を継いで君であったので、稲氷命は兄ながら、このようになさったのだろうか。これらはすべて、推し量ったことである。〕
【宣長の注釈】御毛沼命は弟なのに先に申し上げ、稲氷命は兄なのに後に申し上げたのは、その出来事の時の前後によるのだろうか。
『古事記伝』上巻、終わり。〔「終」の字がない本もある。また「巻」の字も、両方ともない本もある。〕
古事記伝 巻十七附巻 三大考
【服部中庸の序】天地や国土のあり方、それらが初めにできた様子について、外国で説くことは、いわゆる仏であれ聖人であれ、皆、自分の心で、知恵の及ぶだけ考え推し量り、必ずこのようであるはずの道理だと、推測で定め、作っていったものである。そのうち天竺国(インド)の説などは、ただ世の女や子どもを欺くような妄説なので、論じるにも足りない。また中国の説などは、いくらか物の道理を深く考えて作ったものなので、ちょっと聞くと、本当に信じられそうだ。しかしよく考えると、その太極・無極・陰陽・八卦・五行などという理は、もとからないものなのに、自分たちでその名を設け、何にでも当てはめ、天地万物がすべて、その理によって成り立ち、その理から離れることがないかのように説いたもので、これも皆、妄説である。
物の道理は、果てしないもので、人の知恵で推し量り尽くせる範囲にはない。だから、理をもっていう説は、信じられない。人が考えて知り得るのは、目の及ぶ限り、心の及ぶ限り、測量や計算の及ぶ限りであり、それらの及ばない所は、どれほど考えても知る方法がない。それなら、この天地ができた初めや、このようにできてきた順々の様子も、八百万年、千万年の後に生まれた人が、どうしてその初めをよく知れるだろう。
ところが、我が皇大御国は、とりわけ伊邪那岐・伊邪那美二柱の大神がお生みになった国であり、天照大御神がお生まれになった国であり、皇御孫尊が天地とともに長く永遠にお治めになる国である。万国に抜きんでて勝り、世界の中心となる国であるため、人の心も素直で正しく、外国のように細工して偽ることがなかったためだろうか。天地の初めのことにも、正しい真実の説があり、少しも私のこざかしい考えを加えず、ありのままに、神代から伝わってきた。これこそ虚偽のない、まことの説なのである。
【服部中庸の序】そもそも、中国の説などは、聞くと道理が深そうで、確かにそうだろうと思われる。一方、皇国の伝えは、たいそう浅く、何の理もないように聞こえる。しかし、あちらは妄説、こちらは真実なので、後世になって、さまざまな研究が精密になるにつれ、あの偽りの説は、だんだん誤りが現れるのに、このまことの伝えには、違うことがない。
こういう理由は、近世になって、はるか西の国々の人は、思いのままに海路を広く巡ることで、この大地のあり方をよく見極め、地は丸く、虚空に浮かび、日月はその上下を回ることなどを見いだしたが、中国の古い説は、どれもひどく違う点が多かったからだ。これによって、理をもって推測で定めることは、信じにくいと悟るべきである。ところが、皇国の古い伝えは、初めに虚空に一つの物ができたことから、順々に説くことがすべて、今、現にある様子と合わせて考えても、少しも違わない。これによっても、古い伝えが真実であることがわかる。
さて、はるか西の国の人は、右のように大地のあり方をよく見極め、大きな虚空についても、さまざまなことを精密に考え、中国人の説よりはるかに優れた点が多い。しかし、それも測量や計算が届く範囲である。届かない所は、今ある事実でさえ、なお知り尽くせないことが多い。まして大地や日月が、このようにできた初めは、知りようがない。思うに、その国々にも、それぞれ説はあるだろうが、それも皆、例の後人の推測で、天竺や中国の説の仲間だろう。皇国の伝えは、まったくその類ではない。
【服部中庸の序】まず皇国は、「神ながら言挙げしない国」といって、どんなことも、外国のように賢そうに言い立て、論じて決めることなく、ただ大らかな国ぶりである。だから、天地の初めの説なども、外国の説のように、これはこのためこうであり、それは何々の理でこうなる、というように、細かく大げさに説き諭したものではない。ただ、あった様子をそのまま、大らかに語り伝えただけだ。
しかし上代には、まだ外国の説が入って混じらず、人々は皆、古い伝えを守り、ほかの議論もなかったので、とりたてて論じる必要もなかった。後になって、外国のこざかしく大げさな説が入り混じると、人は皆、その表面の言葉の美しさに惑い、古い伝えの意味をすっかり忘れ、ひたすら外国の説にだけ従うようになった。だから神の御書を解説する人も、皆その外国の説にばかりまとわりつき、古の趣旨を理解した人は、代々一人もいなかった。
【服部中庸の序】ここに我が本居大人は、早くからそれが誤りだと悟り、少しも外国の考えを交えず、ひとえに皇国の古い伝えに従い、その趣旨を詳しく考え出して、『古事記伝』を著した。それによって神代からの伝えの意味が、ふたたび世に明らかになったのである。
私、中庸は、つまらない身だが、神の御霊の恵みが厚く、この大人と同じ郷にまで生まれ、務めの暇には、じかに教えを受け、正しいまことの道の一端をも、うかがい知ることができた。こうして、天地の初めの様子や、そのあり方を、『古事記伝』に従って、古い伝えの意味を読み取ると、人が作っていった外国の妄説などの及ぶ所では、まったくない。本当に限りなく深く、妙なる味わいがあり、神代の伝えが、世に抜きんでて尊いことを悟った。
そうして、少しばかり自分で思い至ったこともあり、大人へ試しに申し上げると、悪くはないものとして認めてくださった。そこで、その順序の様子を十枚の図に描き、意味を書き添え、一巻にして、『三大考』と名づけた。「三大」は、天・地・泉(黄泉の国)の三つである。これを「大」というのは中国めくが、書名だから、それでもよいだろうか。
内容は、あの小賢しい理で説く外国風の説を、いっさい採らず、ひたすら皇国の伝えに従い、説くことはすべて『古事記伝』に拠った。だから、大部分はあの書に任せ、細かくはいわない。あの書を見て理解してほしい。日ごろ、ただ漢意の説にだけ慣れた人も、疑わしく思わないでほしい。
寛政三年、辛亥の年、五月。伊勢の人、服部中庸。

第一図
【第一図の文字】天之御中主神。高御産巣日神。神産巣日神。
【第一図の注記】この輪の中は、大きな虚空である。輪は、仮に描くだけで、実際にこの物があるのではない。以後の図もすべて同じだ。三柱の神の位置も、『古事記』の文章の順序に従って、仮にこう書くだけである。必ずしも、この位置にこだわってはならない。
【服部中庸の考察】『古事記』には、「天地が初めに開けた時、高天原に成った神の名は、天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神、云々」とある。この時、まだ天も地もなく、すべて、ただ虚空である。天と地の始まりは、この次の文章に見える。それなのに「天地の初発の時」というのは、後からいった言葉で、ただ世界の初めということだ。また「高天原に」とあるのも、この時にはまだ高天原はないが、この三柱の神が成った所が、後に高天原となったので、後からこのようにいった言葉である。

第二図
【第二図の文字と注記】一つの物。輪の中の三つの黒点は、第一図に挙げた三柱の神である。
【服部中庸の考察】『書紀』には、「天地が初めて分かれた時、一つの物が虚空の中にあり、その姿はいい表しにくい」とある。また「天地がまだ生じない時、それは、海上の浮雲のように、根をつける所がなかった」とある。また「天地が初めて分かれた時、葦の芽のような物が、空中に生じた、云々」とあり、また「浮いた脂のような物が、空中に生じた」とある。
『書紀』の伝えも、このようにそれぞれ少しずつ違い、まったく同じではないが、互いに合わせて、その様子を知るべきだ。「天地の初判」というのも、ただ世界の初めということを、「初判」などと書いたのは、ただ漢文の表現である。「判」の字にこだわってはならない。「天地がまだ生じない時」ともあり、また「虚中」「空中」とあるので、まだ地も何もない時であることがわかる。
『書紀』は、努めて漢文を飾ったので、細かくいうと、合わない文字が多い。漢文に引かれて、おのずと古い伝えの意味が、紛らわしくなったことも多い。そのつもりで読むべきである。
『古事記』には、この一つの物が初めてできたことを記さないが、次に「国が稚く、云々」とあるので、すでに一つの物が生じたとわかる。
【服部中庸の考察】この一つの物が、初めて虚空に生じた時から、順々に第十図のように成り終わるまで、すべて高御産巣日神・神産巣日神の産霊によって、生じ成るのである。その産霊は、たいそう霊妙で不思議で、妙なるものであり、普通の道理で推し量って知れる範囲には、まったくない。
そもそも天地の初めを、太極・陰陽・乾坤などという理で、賢そうにいう中国人の説などは、すべて、この産霊の霊力によって生じることを知らないための、妄説である。

第三図
【第三図の文字】一つの物。宇麻志葦牙比古遅神。天之常立神。
【服部中庸の考察】『古事記』には、「次に国が稚く、浮いた脂のようで、くらげのように漂う時、葦の芽のように萌え上がる物によって成った神の名は、宇麻志阿斯訶備比古遅神。次に天之常立神、云々」とある。
初めにできた一つの物が、浮いた脂のように、虚空に漂っているのだ。そして、その物の中から、葦の芽のように萌え上がる物がある。これが天になる物である。こうして天になる物が萌え上がり終わり、その跡に残るものが固まって、地となる。しかし、この時は、まだ海と国土の区別もなく、ただ混じり合って、盛んに漂っているのである。

第四図
【第四図の文字】天。地。泉(よみ)。天之御中主神。高御産巣日神。神産巣日神。宇麻志葦牙比古遅神。天之常立神。以上五柱は天神。国之常立神。豊雲野神。宇比地邇神。須比智邇神。角杙神。活杙神。意富斗能地神。大斗乃弁神。淤母陀流神。阿夜訶志古泥神。伊邪那岐神。伊邪那美神。黄泉神。
【第四図の注記】これ以後の図は、すべて外側の輪を省いた。紙の余白を虚空と見てほしい。地に成った十二柱の神の位置は、ただ『古事記』の文章の順に従って示した。必ずしも、これにこだわってはならない。黒白に分けたのは、黒い方が、「身を隠した」とある神たちである。
【服部中庸の考察】『古事記』には、「次に成った神の名は、国之常立神、云々。右の国之常立神から伊邪那美神までを、合わせて神世七代という」とある。これを「天神七代」と申し上げるのは、後世の俗説だ。この神たちは天神ではなく、地に成った神なのである。
あの葦の芽のように萌え上がる物は、次第に上がり、次第に成って、天となる。その跡に残る、地になるはずの物は、まだ固まらず、混じり合って漂っている。
【服部中庸の考察】『古事記』に、「そこで、妹の伊邪那美命に会いたいと思い、黄泉国へ追っていった、云々」と見え、黄泉という国がある。しかし、黄泉の初めのことは、『古事記』にも『書紀』にも見えない。伝えがないので、知ることはできないが、萌え上がる物があって天になったことから考えると、あの一つの物の中から、垂れ下がる物もあって、黄泉となったのだろう。黄泉を根国・底国ともいい、地の下にあるからである。そこで今、この趣旨によって図に示した。「泉」と記した物が、それである。「泉」の字は、ただ漢文の字を借りるだけなので、その字にこだわってはならない。
さて、垂れ下がってできたことと、天が萌え上がってできたことは、どちらが先でどちらが後か、わからない。理によって説くのは、例の漢意で、でたらめだ。泉については、第七図の下に詳しく述べる。
これから順々に、天と地と泉が次第に分かれ、次第に互いに遠ざかって、最後に第十図のように成り終わるのである。

第五図
【第五図の文字】天。皇国。地。外国。外国。外国。外国。泉。天の浮橋は、天と地を行き来する道である。
【第五図の注記】これ以後の図では、天に成った神、地に成った神たちは、その図に必要な神だけを挙げ、ほかは省いた。外国のある場所や、その大小・数などは、この図にこだわってはならない。ただ、仮に大体の様子を示しただけである。ただし、皇国の場所は、図のとおりだ。その理由は次に述べる。この図は、二柱の神が国をお生みになり、外国もできて、国土と海とが分かれた後の様子である。
【服部中庸の考察】『古事記』には、「そこで天神たちの命によって、伊邪那岐命と伊邪那美命の二柱の神に、この漂う国を修め整え、固め成せと命じた、云々。この八島が、先に生まれたので、大八島国という、云々」とある。『書紀』には、「あちこちの小島は、すべて潮の泡が凝り固まってできた物だ」とある。
二柱の神が、この大八洲国をお生みになったことを、世の人は漢意で見るため信じず、さまざまな小賢しい説をいう。しかし、それらは皆、個人の勝手な考えなので、取るに足りない。ただ古い伝えのまま理解すべきだ。ただ人が子を産むように、お腹からお生みになったのである。
ただし、その詳しい様子がどうだったかは、伝えがないので知りにくい。いまこれを考えると、まず高天原から降りた時、天の浮橋に立ち、天の沼矛で、浮いた脂のように漂う物をかき集め成し、引き上げると、矛の先から滴り落ちた物が凝り固まって、淤能碁呂島となった。その矛の滴は、ごく小さい物だが、それをもとに、漂う物が寄り集まり、凝り固まって、広く大きくなったのである。
だから、大八洲をお生みになったのも、そのように、まず二柱の神の交合の滴が、女神のお腹の中で凝り合って、一つの島となり、さらにそこへ漂う物が寄り集まり、凝り固まって国土となったのだ。身近な例では、人の体のでき始めからもわかる。父母が交合した時に滴る物は、ごく小さいが、月を経て、子の形になるではないか。また人も、鳥獣魚虫も、生まれた時はまだ小さいが、次第に大きくなる。その中でも、とりわけ蛇などは、生まれたばかりは普通の小さな生き物だが、長い年月を経て大蛇になると、ひどく大きな形になるではないか。草木も同じで、芽生えた二葉の時は、たいそう小さいが、年を経ると、雲をしのぐ大木となる。
神代の年月は、たいそう長いので、この国土も、お生みになってから、すっかり国土となり終わるまで、何万年を経たことだろう。その間には、いくらでも大きくなるはずである。とりわけ国土の初めなどは、産巣日神の特別な産霊で成ったことなので、女神のお腹からお生みになったことを、疑うべきではまったくない。これを疑うのは、正しい大和魂でなく、例の小賢しい漢意である。こうして国をお生みになり、国土と海水が分かれ、次第に大地が固まったのだ。
【服部中庸の考察】外国の始まりは、二柱の神が大八洲をお生みになり、国土と海水が次第に分かれるにつれ、あちこちで潮の泡が自然に凝り固まり合い、大きくも小さくも、できたものだ。これも産巣日神の産霊で成った点は同じだが、外国は、二柱の神がお生みになった国ではない。ここに、皇国とは初めから、尊卑・美悪の区別がある。後に外国はすべて、少名毘古那神が天降って、お治めになった。これらは『古事記伝』に見える。開いて、その理由を知ってほしい。
【服部中庸の考察】皇国のある所は、図のように大地の頂上である。その理由は、初め葦の芽のような物が萌え上がり始めた根元であり、天と地に分かれた後も、天の浮橋で行き来し、まだ切れ離れず、つながっていた間、まさしく天と上下に向かい合った、へたに当たる部分が皇国だからだ。
そもそも大地は、虚空に懸かる丸い物なので、どちらを上・下・横ともいえず、こちらから下とする方では、逆にこちらを下とし、横でも、どの方でも同じだと理解するのは、ひととおりの考えである。それは、天と地が離れて今のようになった後だけを知り、もとの様子を知らないのだ。なお、大地には上下も前後もあることは、師の説もあり、第十図の下で挙げるとおりである。

第六図
【第六図の文字と注記】天。皇国。地。泉。伊邪那美命。ここが出雲国の伊賦夜坂である。これは、伊邪那岐命が黄泉国へ行き、帰ってきた道だ。この道は地の中にあり、出雲国の伊賦夜坂から通じる。
【服部中庸の考察】『古事記』には、「国を生み終えてから、さらに神を生んだ、云々」とある。また「伊邪那美神は、火神を生んだために、ついに亡くなった(神避った)」とある。また「伊邪那岐命は、妹の伊邪那美命に会いたいと思い、黄泉国へ追っていった、云々。それで、その伊邪那美命を黄泉津大神と名づけた、云々。そのいわゆる黄泉比良坂は、いま出雲国の伊賦夜坂という」とある。
【服部中庸の考察】これから、黄泉国においでになる神は、伊邪那美命である。この段で、この神の言葉に、「黄泉神と相談しよう」とあるから、すでに別の神もいた。そこで第四図に、それを挙げた。しかし、その名も伝わらず、何柱ともいわないので、重だった神ではないのだろうと思う。
【服部中庸の考察】黄泉比良坂は、この国土と泉国との境である。そのある所が、この国土から大地へ入る際か、大地の中心か、大地と泉の間か、はっきりしない。『古事記』の意味では、出雲の伊賦夜坂が、その場所そのもののように聞こえる。そうなら、大地の中へ入ろうとする際である。しかし、これはただ、黄泉比良坂へ通じる所は伊賦夜坂だという意味で、語り伝えたのかもしれない。

第七図
【第七図の文字】天。天照大御神。日の若宮。伊邪那岐命。高御産巣日神。皇国。地。月読命。泉。伊邪那美命。
【第七図の注記】天は、すなわち日である。その中にある国を、高天原という。泉は、すなわち月である。その中にある国を、夜之食国という。
【服部中庸の考察】『古事記』には、「そこで伊邪那岐大神が仰せになった、云々。筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原へ至って、禊祓をした、云々。右の八十禍津日神から速須佐之男命までの十柱の神は、御身を洗ったことによって生まれた神である、云々。天照大御神へ賜って、『あなたは高天原を治めよ』と命じた、云々。次に月読命へ、『あなたは夜之食国を治めよ』と命じた、云々。次に建速須佐之男命へ、『あなたは海原を治めよ』と命じた」とある。
【服部中庸の考察】高天原は、天にある御国だ。『書紀』に、「大日孁貴、云々。この時、天と地は、まだ遠く離れていなかったので、天の柱で天上へ上げた」とある。天と地と泉は、初め一つに混じっていたが、次第に分かれ、次第に互いに遠ざかった。この時はまだ、ひどく遠くはなかったことは、順々の図を見て、その様子を知ってほしい。
また『書紀』に、「伊弉諾尊は、そこで天へ登って報告し、そのまま日の若宮に留まって住んだ」とある。日の若宮が天上にあることは、「そのまま留まる」の文字で、疑いない。
【服部中庸の考察】天という物を、中国などでは、虚空のほかには、別の実体がない物とし、理で説くか、気で説くだけである。また幾重にもあるとする説もあるが、それも形があるというのではない。ところが、皇国の古い伝えでは、虚空と天は別であり、天は、もと葦の芽のように萌え上がる物が成ったもので、確かな実体があり、高天原という国もある。天竺国などのいう天は、高天原に似て実体があるが、すべて妄説なので、論じるに足りない。
さて、高天原が虚空の上方にあると見るのは、ひととおりの考えで、誰もそう思うらしい。しかし、その高天原を治める天照大御神は、いま現に虚空に見えるのに、高天原というべき物は、まったく見えない。また大御神は、大地の周りを回って、下方へも至るので、高天原が上方にあるとはいいにくい。
仮に、高天原は遠いから見えず、大御神は光があるので、そのお姿だけ見えるのだというにしても、地の下へ回ることは、どういうのか。また、高天原は外国のいう天のように、大地を包み、その上下四方を取り巻くといっても、葦の芽のように萌え上がって成ったことと合わない。だから、どう考えても、この高天原の在りかは、理解しにくい。
【服部中庸の考察】そこで私、中庸が、よくよく考えるに、外国のいう天はともかく、我が古典が「天」「高天原」という物は、虚空でも、虚空の上方に別にある物でもない。日こそが、高天原なのである。だから、日は天照大御神ではなく、そのお治めになる国であり、大御神は、日の中においでになる神なのだ。
その理由は、『古事記』神武天皇の段に、「私は日神の御子なので、日に向かって戦うのはよくない」とあることだ。ここから日と日神が別だとわかる。日神とは、日を治める神という意味で、高天原を治める神というのと同じである。また須佐之男命が上った時、大御神は勇ましい男の装束をして待った。これで、まったく人の体のような神であることが、明らかだ。日そのものとは、申し上げにくい。
【服部中庸の考察】また八咫鏡を、この大御神の姿をかたどったものと申し上げることについては、実際は人のようなお姿だが、大御光が盛んなので、遠くから仰ぎ見ると丸く見える、ともいえるだろう。しかし、それは、この国土からこそ、そのように見えるのだろう。あの鏡を造ったのは、高天原でのことだから、御姿をかたどるなら、真のお姿をこそ、かたどるはずだ。どうして下の国土から仰ぎ見る様子を写すのだろう。
そもそも、この鏡をこの神の御姿をかたどった物というのは、『書紀』の一書に、ただ一か所見えるだけで、ほかの一書にもなく、もとより『古事記』にもない。だから、これは大御神のお姿に似せて造ったのでなく、この神のお姿を映すために造った鏡である。大御神が天の石屋に隠れた時、この鏡をお見せし、ご自分のお姿が鏡に映って見えるのを御覧になって、自分と同等の神がいるとお思いになるよう、用意したのだ。『古事記』を見て理解してほしい。それを『書紀』の一書は、お姿を映したということが紛れ、お姿をかたどったとも、伝えたのだろう。
【服部中庸の考察】さて日は、あの葦の芽のように萌え上がって成った物であり、天という物が、すなわちそれである。また、これを高天原というのは、『古事記伝』に見えるとおり、その天にも、この国土のように国があるからだ。
この大地の国は、すべて地の外側の表に属するが、天の国は、内側の裏に属すると思われる。その理由は、『古事記』で、天若日子が雉を射た矢が、高天原の高木神のもとへ至り、それを初めに射上げた矢の穴から、突き返して下したとあるからだ。内側に国があることを、この大地の国の例にこだわって、疑うべきではない。天の性質は、もともとこの国土のようではなく、清く透き通る物で、物の道理は尽きることなく、妙なるものだからである。
【服部中庸の考察】だから、日の光と見えるのは、内部の御国においでになる大御神の大御光が透き通って、虚空も大地も、広くお照らしになるのだ。実は日の光ではなく、天照大御神の光なのである。
第三・第四図に挙げたように、高天原には五柱の天神がおり、伊邪那岐命も留まるが、その高天原を治める君である神は、ただ天照大御神である。ただし、君ではないから、ほかの神を臣だと思うのは、漢意だ。君でなくても臣ではなく、皆、この上なく尊い神たちである。
【服部中庸の考察】「夜之食国」は、私、中庸が思うに、泉国のことである。泉は、根国・底国ともいい、順々の図のように、大地の下方にある。その泉こそ月であり、月読命の治める御国が、それだ。だから、月読命は月そのものではなく、月の中においでになる神で、天照大御神が日の中にいるのと同じである。
こういう理由は、まず「夜之食国」というのを、ただ月が夜を照らすことだけと見ては、「食国」、つまりお治めになる国というのに合わないからだ。必ず、それとは別に国がなければならない。黄泉国は夜の国で、その国を治める神だから、月読命と申し上げる。国名の「よみ」と、御名の「よみ」が同じであることを考えてほしい。「よみ」は、月が夜に見える物であるための名だろう。
『書紀』の一書の、月読命が保食神を殺した段に、「天照大神、云々、月読尊と、一日一夜、隔たって住んだ」とある。この「一日一夜」は、どう見ても理解しにくい。そこで思うに、古い伝えでは「日夜」とあったものを、漢文を飾って、「一日一夜」と書いたのだろうか。『書紀』には、その類が多い。「日夜が隔たる」とは、大御神は高天原、月読命は夜之食国にいることをいったのだ。隔たり方は、図で知ってほしい。
大御神の名は、大日女命とも申し上げ、その御光の照り及ぶ範囲を昼といい、及ばない所を夜という。夜之食国は、大御神の御光の及ばない国である。そもそも、今のように日月が回るのは、後のことで、第九・第十図の下で述べる。初めは、右の図のように、天・地・泉が三つつながり、回らなかったので、泉は大地に隔てられ、いつも御光が及ばなかったのだ。
夜之食国が、高天原のように内側にあるか、それとも大地の国のように外側の表面にあるかは、わからない。ひとまず外側にあるなら、月にまだらに見える物が、その国なのだろうか。泉国には伊邪那美命がいるが、その国を治める神は月読命である。
【服部中庸の考察】ある人が疑って尋ねた。「夜之食国を月のことだというのは、そうかもしれない。しかし、それを根国・泉国と一つにいうのは、納得できない。根国は、須佐之男命が追われて行った国で、月読命の治める国ではない。どうか」。
答える。まず伊邪那美命は泉国にいるのに、須佐之男命が「母の国、根之堅洲国」と仰せになったので、泉と根国が一つであることに、疑いはない。その根国が夜之食国である理由は、まず師の『古事記伝』巻九で、月読命と須佐之男命は、一つの神かと思われることが多いとして、その理由を挙げている。
私、中庸がこれをよく考えると、『書紀』に、「月読尊は、滄海原の潮の八百重を治めよ」と見え、『古事記』と『書紀』の一書では、須佐之男命に滄海原を治めよとある。そして今、現に潮の満ち干が月の巡りに従うのだから、須佐之男命というのは、月読命の別の御名で、確かに一つの神なのだろう。
また『書紀』のさまざまな伝えを考えると、どの伝えにも須佐之男命の悪行を挙げるのに、あの保食神の一書だけは、須佐之男命のことがなく、月読命の悪行を挙げる。その出来事も、『古事記』では須佐之男命のことだ。これらから、まったく一つの神と読める。月読の「よみ」と黄泉は、名が同じで、夜之食国に関わりがある。
【服部中庸の考察】また『古事記』で、須佐之男命が泣くことを伊邪那岐命が尋ねた時の答えに、「私は母の国、根之堅洲国へ罷ろうとするので、泣くのです」とある。「罷ろうと欲する」は、母の国へ行くことを願い求めるように聞こえるが、そうではない。「欲」の字は「将」の意味で、行こうとしているといったのであり、汚れた泉国へ行く悲しさに、憂えて泣くということだ。
だから初めから、この神には泉国を治めよと委ねていたのであり、これは、月読命へ夜之食国を委ねるのと、一つである。『書紀』に、「素盞鳴尊は性質が残害を好むので、下って根国を治めさせた」、また「だから、お前は、はるか遠い根国を治めよ」などとある。これらが、初めから根国を委ねた趣旨であることを、考え合わせて悟ってほしい。
もと須佐之男命というのは、月読命の一つの名だったが、混同して別の神のように伝わったので、国を委ねることも何も、あちらとこちらと二つになったのだ。『書紀』に、「月神は、日と並んで治めよとして、また天へ送った」などとあるのは、月日が回る世になってから、見える様子に基づいていった伝えだろう。月読命と須佐之男命を、一つの神として見ると、もとの混同がはっきりし、何事も明らかになる。夜之食国は、すなわち泉国・根国であることは、疑いないのである。

第八図
【第八図の文字と注記】天。天照大御神。伊邪那岐命。皇御孫命。高御産巣日神。天忍穂耳命。天之八衢。天の浮橋。地。大国主神。少名毘古那神。泉。月読命。伊邪那美命。泉との往復の道は、第六図に示した。
【服部中庸の考察】『古事記』には、「大穴牟遅神、云々。母神が御子に、『須佐之男命のおいでになる根堅洲国へ参るがよい。きっと、その大神が相談に乗ってくださる』といった。仰せに従い、須佐之男命の御所へ至ると、云々。大神は黄泉比良坂まで追い、遠くから呼びかけ、大穴牟遅神へいった、云々。初めて国を作った」とある。また「それから、大穴牟遅と少名毘古那の二柱は、並んでこの国を作り固めた。その後、少名毘古那神は、常世国へ渡った」とある。
大国主命が生身のまま泉国へ行き、帰ってきたのは、右のとおりだ。だから、この時、地と泉はまだ切れ離れず、つながっていて、地中から通う道があったとわかる。黄泉比良坂については、第六図と合わせて考えてほしい。
【服部中庸の考察】『古事記』には、「天照大御神の仰せによって、『豊葦原の千秋長五百秋の水穂国は、我が御子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命が治める国だ』と委ね、天降した。そこで天忍穂耳命は、天の浮橋に立って仰せになった、云々、ふたたび上へ戻った、云々」とある。また「邇日子番能邇々芸命が天降ろうとする時、天之八衢にいて、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らす神が、そこにいた、云々」とある。

第九図
【第九図の文字】天。天照大御神。皇御孫命。地。月読命。泉。大国主神。
【服部中庸の考察】『古事記』には、「天津日子番能邇々芸命は、天の堅固な御座を離れ、天の幾重ものたな雲を押し分け、神威をもって道を分け進み、天の浮橋で「うきじまり、そりたたして」〔この句が表す詳しい動作は解釈未確定〕、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気へ天降った、云々」とある。
天の浮橋の行き来について、初め伊邪那岐命・伊邪那美命が行き来したころは、天と地が、たいそう近く聞こえるのに、今、皇御孫命の天降る時の様子は、はなはだ遠く聞こえ、次第に遠ざかった様子が見える。
そもそも天の浮橋は、天と地をつなぐ帯であり、天と地が次第に遠ざかるにつれ、この帯も次第に細く、かすかになった。皇御孫命が天降るまでは、この帯があったが、天降ってから、ついには切れ離れ、天と地の行き来は、永久にやんだのだ。
これを物にたとえれば、子どもの臍の緒が胞衣とつながっていたのに、生まれると切り離されるようなものだ。また草木の実が、熟すと蔕から落ちるようなものだ。これらは、ただ形が似るだけでなく、道理もまったく同じである。どういうことかというと、皇御孫命が天降ったのは、子どもが生まれ出たようなものだ。また二柱の大神がお生みになり、天照大御神もお生まれになったこの御国で、君がお定まりになり、天降って治めることは、天地・国土のことが、すっかり成し終わったのだから、草木の実が成り終わって熟したのと、まったく同じ道理ではないか。
これを考えても、皇国は天地の根・蔕であり、皇御孫命は四海万国の大君であることが、いっそう明らかである。尊いなどと申し上げるのも、かえって月並みである。それなのに世の人が、ひたすら外国の妄説に惑い溺れ、皇国がこれほど尊いことを知らず、たまたまこれを聞いても、かえって否定しようとさえするのは、どういう心の迷いなのか。
【服部中庸の考察】天の浮橋は、古い書物を調べると、『古事記伝』でもいうとおり、一つだけでなく、あちこちにあったようにも見える。あの帯は一本だが、下方の地へ降りる道は、何本もあったのだろうか。それとも、あの帯が下方では何本にも分かれていたのか。そのような細かいことは、知りにくい。どちらでも、全体の様子に変わりはない。
【服部中庸の考察】地と泉が切れ離れたのが、いつごろかはわからないが、天と地が離れた時代から、おおよそ推し量れるだろう。大国主神が、初めは生身のまま行き来したことは、前にいったとおりで、その時はまだ、つながっていた様子である。
この御国をお治めになった後、皇御孫命へ国を譲り、「八十坰手に隠れて侍る」とあるのは、永久にこの世を去り、泉国で目に見えない世界の事柄(幽事)をつかさどるために隠れたのである。これは普通の人の死と、同じ様子に聞こえるから、その時はすでに、地からつながって通う道が絶えていたのだろうか。これも細かくはわからない。
世の人が死んで泉へ行く時は、遺体はこの地に留まり、魂が行くのだから、この地からつながる道がなくても行ける。しかし生身で行き来するには、つながる道がなければ、行き来できないのである。

第十図
【第十図の文字】天照大御神。天。日。上。皇御孫命。地。外国。外国。外国。外国。下。前は南。後ろは北。月読命。泉。月。
【第十図の注記】これは、天・地・泉をつなぐ帯が切れ離れ、天も泉も回る様子の図である。この描き方は、仮に十五日ごろの正午、西から見たおおよその様子である。天と地と泉の大小などは、必ずしも図にこだわらないでほしい。また、それぞれの隔たる距離については、とりわけ図にこだわってはならない。ここでは、非常に縮めて描いた。
【服部中庸の考察】天は日のことであり、泉は月のことである。それらは、右の図のように、初めは天・地・泉の三つの珠を貫いたように、帯でつながり、天はいつも地の頂上、泉はいつも地の下方にあって、ともに動き回ることがなかった。皇御孫命が天降り、天下をお治めになる時に、つながる帯が絶え離れ、はっきり三つになった。それから、天も泉も、地を間に置いて、常に回るのは、今、現にあるとおりだ。
これらはすべて、神の産霊の不思議で妙なる道理によってそうなるので、人の小さな知恵で、あれこれ推し量り、理解できる範囲ではまったくない。
世の人が、日は天、月は泉であることを知らないのは、初め、まだ回らないころ、天は頂上、根国は下方にあった習いによって、頂上を天と理解し、根国は地の下にあると理解してきたためだ。回る世になってからも、なおその考えで、回る物を日といい月といって、天・泉とは別の物のようになったのである。
【服部中庸の考察】ある人が尋ねた。「日が回らず、いつも頂上にあった世には、昼夜の区別はないはずだ。地の上半分はいつも昼、下半分はいつも夜だろう。それなのに、鎮火祭の祝詞の、伊邪那美命の言葉には『昼七日、夜七夜』と見え、『古事記』の黄泉の段には『一日』と見え、大穴牟遅神が泉国へ行った段にも昼夜の様子が見え、天若日子の段には『昼八日、夜八夜』と見える。これらは皆、皇御孫命がまだ天降らず、日も回り始めない世なのに、何によって昼と夜を分けたのか。疑問である」。
答える。日月が回る世になってこそ、日の出入りによって昼夜を分けるようになったが、まだ回らないころは、日によらず、ほかに昼と夜の区別があって移り変わり、その昼夜の長短もあったのだろう。その後、日が回るのも、そのもとからの区別に従い、昼は地の上方を回り、夜は下方を回るのだろう。長短なども、もとからのままによるのだろう。
泉国は、もと地の下にあり、いつも日の光が当たらないから、いつも暗かったのか、ほかに光があったのか、わからない。しかし、昼夜の決まりがあったことは、この国土と同じだっただろう。
また地の下半分につく国々の昼夜は、今でさえ、夜国などといって、夜が多い国もあるというから、当時、地の下半分に日の光が至らなかったことは、いうまでもない。外国がすっかり成り終わったのは、皇国よりはるかに後と思われるので、皇御孫命が天降る前の世の外国については、あれこれ論じるべきではない。百万余年も前だからである。
【服部中庸の考察】また尋ねた。「日神が天の石屋に隠れた時、天地とも常夜になったとある。そのころ昼夜を分けることが、日の出入りによらないなら、暗いことを常夜というべきではない。どうか」。
答える。暗かったことを常夜といったのは、後の言葉で語り伝えたのだから、問題はない。この類は、普通に多い。また長鳴鳥を鳴かせたことも、大御神が常にこの鳥を愛していたためと見れば、問題ない。
ただ理解しにくいのは、沼河比売の歌に、「青山に日が隠れたら、ぬばたまの夜には、私も出て行きましょう」とあることだ。この時、まだ日は回らなかったのに、このように歌ったのは、疑問である。
【服部中庸の考察】またある人が、「皇国は大地の頂上にあり、まっすぐ天に向き合った国だというのが、納得できない。そうなら、日は春分・秋分の時、真上を回るのが道理なのに、いつも南へ偏って斜めに回ることから見ると、地の頂上とはいいにくい。どうか」と尋ねた。
私は、この道理を解けず、師へ尋ねた。師の考えはこうであった。「これは人の顔が頭頂につかず、目も鼻も口も、前方に偏ってあるのと同じ道理だ。地は丸く、その形には上下・前後などの区別がないようだが、実際には区別がないのではない。日月星は皆、東西にだけ回り、南北には回らない。そのため、日をいつも横にだけ見る国もある。これは、目の前に東西と南北の違いがあり、どの方も同じではないということではないか。これにならって、上下も前後もあると悟るべきだ。
その上方の中央が皇国で、南は前、北は後ろ、東は左、西は右である。日月がやや南に寄って回るのは、人の顔が前方にあるのと同じく、前の方を回るからだ。だから、皇国が大地の頂上であることは、いっそう明らかなのである」と。
【服部中庸の考察】また尋ねた。「もしそうなら、日月をやや南の空に望む国々は、皆、地の頂上といえる。どうして頂上を皇国に限るのか」。
答える。皇国が地の頂上であるのは、日月が南寄りに回るため、そう判断するのではない。もともと頂上なので、日月はその前方を回るのだ。だから皇国と同じように、日月を南の空に望む国々があるのは、たまたま皇国の東西に当たる筋へ近いためである。
【服部中庸の考察】日・地・月の三つは、初め一つで、区別なく混じっていた。あの浮いた脂のようだった物が、それである。その中で、清く明るい物が分かれ、葦の芽が出るように上へ上がって、天となった。それが日である。また重く濁る物は、分かれて下方へ垂れ下がり、泉となった。それが月である。その間に残り留まった物が、大地である。
だから日の性質は清く明るく、この地にある物では、火に近い。しかし、火とまったく同じ物ではない。浮いた脂のような物の中で混じっていた時は一つでも、分かれて上って日となった部分と、地に残って火となった部分は違う。地にある火は、日が上り去った跡に残った、滓のような物だ。もとは同じ物なので、熱さも明るさも、よく似る。しかし、日と火の熱さは、まったく同じではない。明るさも、日は火とは違い、火のように物を照らす光はなく、たとえれば炭火のようだ。世を照らす光は日の光ではなく、中においでになる天照大御神の大御光であることは、前にいったとおりだ。どうしてわかるかというと、大御神が天の石屋に隠れると、天地が皆、暗かったからである。
ある人が尋ねた。「火は日の滓のようだというが、その滓に光があり、日に光がないのは、どういうことか」。答える。滓は凝り固まった物なので、かえって光が強いのだろう。同じ火でも、炭火などは炭につくだけで、火が凝り固まらないので、光らない。燃える火は、もっぱら火だけが凝り固まって燃えるため、光があることからわかる。日は、物についた物ではないが、もともと澄んで凝らない物が成ったので、火とは様子が違うのである。
【服部中庸の考察】次に月の性質は、重く濁り、この地の物では、水に近い。しかし、これも水とまったく同じ物ではない。すでに分かれ下って、月となった部分と、地に残って水となった部分は違う。地にある水は、月が垂れ下がり去った跡に残る、滓のような物である。ただ、これは重く凝り濁った物の滓なので、かえって滓の方が軽く、淡い。
いま現に、潮の満ち干が月の巡りに従うのも、もとは一つだからだ。そこで思うに、『古事記』が須佐之男命へ治めよとする海原、また『書紀』の「滄海原の潮の八百重」は、泉国をいったのかもしれない。
【服部中庸の考察】前にもいったように、天と地をつないだ帯の天の浮橋は、何本もあったようにも聞こえる。そうなら、富士、信濃の浅間岳、日向の霧島山などは、その帯が切れ離れた跡の蔕なのだろうか。山の形も、そういえそうな様子である。また今も火が出るのは、初めに上っていった気の名残が、なお残って上るのだろうか。
【服部中庸の考察】いま、水晶などで、日の火や月の水を採るということがある。これは、日は火、月は水なので、その火水が下ってくると思うらしい。しかし、そうではない。日月がじかに映ってくるので、その気に引かれて、地にある火水が寄ってくるのだ。
【服部中庸の考察】はるか西の国の説には、この大地も常に回るという説があるという。西の国は、その類の測定が非常に精密なので、そうあってもおかしくない。仮に大地が回るとしても、古い伝えの趣旨に合わないことはなく、私のこの考察にも、少しの妨げもない。
【服部中庸の考察】外国は、星を日月と並べ、たいそうな物とするが、皇国の古い伝えには、星のことはない。ただ『書紀』に、星神の香々背男という、ささやかな神の名が見えるだけだ。日月に並べて、大げさにいうべき物ではない。
寛政三年五月二十五日に、書き終えた。服部中庸。
『三大考』を読んで、後ろに記す
【宣長の跋】服部中庸の、この天・地・泉についての考察は、悟りが深く、物をよく考えるという西の国々の人たちも、昔からまだ考え出せなかったことを、珍しくも考え出したことだ。不思議にも、よく考え出したことだ。こうしてこそ、高天原も夜之食国も、疑問の隅々まで、すっかり明らかになった。これによっても、古い伝えは、ますます尊いのであった。皇御国の由来は、ますます尊いのであった。
宣長。
古事記伝 巻十八
本居宣長、謹んで著す。
古事記中巻 白檮原宮・上巻
【古事記本文】神倭伊波礼毘古命〔『伊』からの五字は音を表す〕と、その同母の兄・五瀬命〔前の『伊呂』の二字は音を表す〕の二柱は、高千穂宮においでになり、『どの土地にいれば、天下の政を治めやすいだろう』と相談なさった。そして、東の方へ行こうとお決めになった。
そこで日向を出発し、筑紫へ向かわれた。豊国の宇沙に着くと、その土地の人で、宇沙都比古・宇沙都比売〔この十字は音を表す〕という二人が、足一騰宮を造って、大御饗を差し上げた。
その地から移って、筑紫の岡田宮に一年いらっしゃった。またその国から上り、阿岐国の多祁理宮に七年いらっしゃった〔『多』からの三字は音を表す〕。またその国から移り上って、吉備の高島宮に八年いらっしゃった。
【宣長の注釈】神倭伊波礼毘古命の名の意味は、上巻・伝十七の九十一葉に述べた。〔『日本書紀』に『諱は彦火々出見』とあるのは、納得できない書き方である。この天皇も彦火々出見と申し上げた理由は、伝十六・四十六葉で述べたとおりだ。しかし、それをわざわざ『諱』と書いたのは、中国の史書の『某帝、諱は某』という例にならったものの、実情とは大いに違っている。皇国の上代の天皇の名を、諱と申し上げるべきではない。尊ぶ人の名を呼ぶのを忌みはばかるのは、もともと外国の習慣だ。名は本来、その人をほめたたえていうもので、上代には称え名にも『名』という語をよくつけた。大名持などがその例である。後世、万事を中国の制度にならう時代になってこそ、天皇の名を諱と申し上げることになるが、上代の名は、どれも諱と申し上げるべきではない。
仁賢紀には『諱は大脚』と書き、注に『ほかの天皇には諱の字をいわず、この天皇にだけ書くのは、旧本によっただけである』とある。この大脚を諱と書くのも間違いだ。ほかの天皇には諱といわないというのだから、神武天皇の彦火々出見という名も、古書には諱と書いていなかったのに、編者が自分の考えでそう書いたことは明らかだ。上代には名を忌むことがなかったから、『いみな』も古語ではなく、諱の字から作った訓である。また、この字を『ただのみな』と読むのも古語ではない。称え名や諡に対して、ごく普通の名という意味で作った訓である。〕
この天皇を、後の漢風の諡号では神武天皇と申し上げる。歴代の漢風の諡について、『日本書紀私記』には『師の説では、神武などの諡名は、淡海御船が勅命を受けて選んだ』とある。確かにそうだろう。〔その時は桓武朝だという説も、そのとおりだろう。この御船という人は、『続日本紀』の天平勝宝三年正月辛亥に『無位の御船王に淡海真人の姓を賜った』とあるのを初めとして、次々に官位が進んだことが見え、延暦四年七月庚戌には『刑部卿・従四位下兼因幡守の淡海真人三船が死去した。……年六十四』とあって、そこに伝記が載るので参照されたい。その人は『生まれつき聡明で、文学・歴史にも通じた』とあり、光仁紀には『宝字年間以後、文人の第一人者となった』とも見え、大学頭・文章博士などにも任ぜられた。そうであれば、歴代の諡号をこの人に選ばせたということもありそうだ。
桓武の時という説も正しいだろうという理由は、まず『続日本紀』を見ると、持統以来、歴代の天皇が亡くなった時には、いずれも古いしきたりの諡を奉ったことだけが見え、漢風のものはまったく見えないからだ。ところが天平宝字二年八月に、『宝字称徳孝謙皇帝』という尊号を奉ったことがある。これは在位中のことで、諡ではないが、漢風に音読みする号の始まりであった。同じ月に、豊桜彦天皇へ『勝宝感神聖武皇帝』という尊号を奉った。これが漢風の諡号の初めである。しかし、この時にも、それ以前の歴代天皇に漢風の諡を定めることはなかった。
光仁天皇が亡くなった際に『尊い諡を奉って、天宗高紹天皇という』とあるのは、音読みの漢風の諡のように聞こえるだろうが、そうではなく、やはり古式の諡である。文武天皇の『天真宗……』、桓武天皇の『皇統……』なども、皇国式の諡でありながら中国めいているのは、次第に中国風の考えが交じってきたからだ。この天宗高紹天皇も、漢風の諡は別に『光仁』といい、本紀の冒頭にも小さな字で光仁天皇と注記してある。『続日本紀』では、すべて古式の諡を掲げ、その下に漢風のものを注記するから、これも同じ例だと明らかだ。また、その後の仁明天皇までは歴代すべてに古式の諡があるのだから、光仁天皇だけにないはずはない。孝謙天皇は出家されたため、諡を奉らず、例の宝字二年の尊号を用いると見える。嵯峨天皇のものは、あったが伝わらないのか、もともとなかったのか、資料には見えない。この二代のほかは、仁明まですべてある。
こうして桓武天皇の代、御船真人が生きていた延暦四年七月までの間に、神武から光仁までの漢風の諡を選定させたのだろう。その証拠は、延暦十六年に完成した『続日本紀』に、古い天皇のものも所々見えることである。第一巻に天武天皇・天智天皇などとある類いがそれだ。しかし、そうした漢風の諡で記す箇所を調べると、すべて編者の文章だけで、昔の文を引用したところは、どれも『某宮に天下をお治めになった天皇』、または『某宮の朝』などとあるだけで、漢風の諡は現れない。これらによって、選定された時を定めるべきである。それなのに『甘露寺親長卿記』などに、文武天皇の代、淡海公・藤原不比等に命じて決めさせたとあるのは、詳しく考えもしない根拠の薄い説だ。淡海御船という人が世に聞き慣れないため、ふと淡海公と取り違え、桓武の代も文武と誤ったのである。
ついでにいう。古い時代の御代を、昔は『近江大津宮に天下をお治めになった天皇』とか『飛鳥浄御原の朝』などと申し上げたのに、後世の人は、後の漢風の諡ばかり知って、かえって本来のまことの呼び名をまるで知らない。古書に記してあるのを見ても、どの御代の名か見分けられない人ばかり多い。ひどい人には、漢風の諡を当時の本当の名だと思い込み、上代を疑う者さえいる。古を重んじる人は、よく考えるべきことである。
もう一つ、ついでにいう。古文では『某宮に御宇せる天皇の御世』と申し上げるのに、後世の通俗の文では、何でも『某天皇の御宇』と申し上げるのは誤りだ。御宇は『天下をお治めになる』ということで、『御宇せる時』『御宇せる御世』などというべきだ。単に『御宇』だけでは、その御時という意味にはなりにくい。〕
【宣長の注釈】『その伊呂兄・五瀬命と』について。伊呂兄の説明は伝九・二十六葉に、五瀬命の名の意味は伝十七・九十葉にある。注の『上伊呂』にある『上』の字は、余計に入ったものだろう。ほかに例がない。
【宣長の注釈】この時の実情を考えると、五瀬命は葺不合命の第一の御子だから、父が亡くなった後は、この命が天津日嗣をお継ぎになっていたのだろう。〔『日本書紀』には、この兄弟の順序に五つの異伝があるが、五瀬命はどの伝でも第一である。〕そうであれば、伊波礼毘古命も、この時は稲氷命・御毛沼命とともに、五瀬命に仕えていたのだろう。しかし、五瀬命は、中州をすっかり服属させる前に早く亡くなり、大業を終えられなかったので、そのことは確実には伝わらない。それでも、ここで特にこの一柱を挙げ、ともに相談したとすることから、君主であったと知るべきだ。〔もしこの時、伊波礼毘古命がすでに天津日嗣を継いで、兄弟と相談なさったのなら、稲氷命・御毛沼命も同じく兄なのだから、ここに併記するはずなのに、五瀬命だけを挙げることを考えられたい。〕
だから、当時の実情のままに記すなら『五瀬命と、その同母の弟・若御毛沼命の二柱が……』となるべきである。しかし、若御毛沼命〔伊波礼毘古命のこと〕が大業を成し遂げ、ついに天下を治めた後から、その御代の初めを記す言葉なので、この命を中心に冒頭に掲げ、五瀬命を添える形で次に述べたのだ。〔『日本書紀』は、初めから伊波礼毘古命を中心に『兄たち、および子らに語って仰せになった……』とあり、五瀬命を特に挙げず、『古事記』とは趣が違う。しかし、これも伊波礼毘古命がすでに天下を治めた後から記したため、そうなったので、実際は五瀬命が君主だっただろう。〕
では、五瀬命が亡くなれば、第二の御子の稲氷命が天津日嗣を継ぐべきなのに、末子の伊波礼毘古命が継いだのはなぜか。上代には、諸皇子の中で特に日嗣の御子と定められた方が、必ずしも一柱に限らなかった証拠が、日代宮の段にある。〔詳しくはそこで述べる。〕したがって、この四兄弟でも、五瀬命と伊波礼毘古命の二柱は、理由があって、もともと日嗣の御子であったのだろう。
〔また、稲氷命が海に入り、御毛沼命が常世国に渡ったことは、『古事記』ではすでに上巻に見えるから、まだ日向宮にいた時のことで、今、東へ向かう時には二柱はいなかったため、自然に伊波礼毘古命が継ぎ、ここで五瀬命一柱だけを挙げるのも、二柱はすでに亡くなったためだ、ともいえそうである。しかし、二柱が海に入り、常世国に渡ったことを、日向国にいた時のこととするには、それらしい理由がない。これは『日本書紀』にあるように、東征の時、紀国の海路での出来事だったことは明らかだ。『古事記』は時も場所もいわない伝承によったため、上巻で二柱の名が出る所に記しただけで、実際は東征の時にも存命だったのである。
また、『古事記』と、『日本書紀』の五伝中の四伝は、いずれも伊波礼毘古命を末子とするが、一伝だけは第二の御子とする。それなら五瀬命が亡くなった後に継ぐ道理になるので、第二とする伝えが正しいのかとも思われるが、『古事記』の順序に反するから採用しにくい。どちらにしても、五瀬命と伊波礼毘古命の二柱は、もともと日嗣の御子で、父が亡くなってからは兄の五瀬命が君主だったのだろうが、この命が亡くなったため、伊波礼毘古命が継いだのである。〕
したがって稲氷命は、伊波礼毘古命を救うために海原へ入られたのだろう。〔これは上巻・伝十七の九十三葉で詳しく述べたので、考え合わせられたい。〕そうでなければ、海原に入ったのは何のためなのか。
【宣長の注釈】高千穂宮は、伝十七・八十二葉で詳しく述べたように、大隅国にあったと思われる。〔日向国宮崎だという説は、古書の趣に合わない。今、日向国の南方村という所に神武天皇の社があり、そこを皇居の跡というのも信じられない。『日本書紀』などに日向の高千穂峯といい、『古事記』のここにも『日向から出発した』とあるため、今の日向国の土地だと理解するのは、よく調べていない。上代には大隅・薩摩まで含めて日向といったことは、これまで所々で述べたとおりだ。『三代実録』に日向国の高智保神とあり、『和名抄』の同国臼杵郡に智保郷がある。これらも高千穂山に由来する名とは思われるが、高千穂宮はやはり大隅国の方にあったに違いない。〕
【宣長の注釈】天下は、『万葉集』巻十八・二葉と巻二十・三十四葉に『安米能之多』とあるように、あめのしたと読む。〔『の』を『が』にするのは古例がなく、よくない。〕天照大御神がお治めになる高天原に対して、この国土をいうのは、古い考えにも合うが、さらによく考えると、もとは漢籍から出た呼び名で、神代以来の古語ではあるまい。しかし、ごく古くから広くいい慣らした語ではある。〔この天皇の御代などには、まだこの呼び名があるはずはないが、中国から書物が渡来していい始めた呼び名を、古にまでさかのぼって語り伝えたのだろう。〕
【宣長の注釈】政について。君主が国を治めるさまざまな事柄の中で、神々を祭ることが最も重いから、〔外国にもその考えがあり、皇国ではなおさらだ、〕ほかの事柄もまとめて『祭事』というのだとは、誰も考えることで、確かにそうではある。しかし、よく考えると、言葉の起こりはそれではなく、『奉仕事』だろう。天下の臣・連・多くの職務の人々が、天皇の命を承り、それぞれの職に奉仕する、それが天下の政だからである。奉仕することを『まつり』というのは、『まつる』を延ばして『まつろふ』ともいうからで、つまり君に服従し、その事柄を承って行うことをいう。
〔だから『つかへまつる』は、仕えて服従することであり、服従は奉仕であって、皆もとは一つの意味から出た。『日本書紀』雄略巻の御歌に『波賦武志謀飫哀枳瀰爾磨都羅符』〔はふむしも、おほきみにまつらふ――這う虫さえ大君に仕える〕とある『まつらふ』は、奉仕することを詠まれたものだ。また『万葉集』巻二の『不奉仕』は、服従しないことをいう。これらから、語が通じ合い、もとは同じ意味だと理解すべきだ。『神を祭る』も、その神に奉仕することで、本来同じ語である。したがって、政を天皇が神に奉仕なさる意味としたとしても、言葉の根本の意味は同じだが、祭祀のことからできた名称ではなく、臣・連らが天皇に奉仕する方からいう名称である。〕
だから古語では、政という語を君主には結びつけず、皆、奉仕する人に結びつけていった。上巻の天照大御神の詔に『思金神は、前の事柄を取り持って政をせよ』と見え、軽島朝の詔には『大山守命は山海の政をせよ。大雀命は食国の政を執り、申し上げよ。宇遅能和紀郎子は天津日嗣を継げ』と見える。また下に引く『続日本紀』巻三十一の文など、すべてそうなっていることから理解すべきだ。
〔語源から見れば、『まつりごと』には政の字はぴったり合わず、この字にとらわれるべきではない。しかし臣下の奉仕するあらゆる事は、そのまま君主が国を治める事なので、結局は一つに帰する。『まつりごと』は人を服従させる事だという説もあるが、それなら『まつれごと』といわなければ、自動と他動の違いが生じる。『まつり』は自ら奉仕することをいい、『まつろへ』は他者を奉仕させることをいう語だからだ。〕
【宣長の注釈】平は『やすく』というようなものだ。その『やすい』は難しいの反対の易しいであり、どの地にいれば天下を治めやすいだろうか、という意味である。〔何事でも、行いにくければ平らかでなく、行いやすければ平らかだ。それで易しいことも平というのである。〕天下を治めるには、その土地によって便利・不便があるため、その地を相談なさったのだろう。
【宣長の注釈】聞看〔きこしめす〕とは、天下の臣・連・多くの職務の人々が行う奉仕の仕事を、君主がお聞きになり、ご覧になることだ。『続日本紀』巻三十一の詔に『今日からは、大臣の奏上する政は聞き受けないでいよう』とあることから理解されたい。〔聞看ということからも、その政が臣下に関わる語だと判断すべきだ。〕この語の意味は、伝七・六葉・八葉・十七葉の所知・所知看の所で詳しく述べた。また伝八・八葉の『聞看大嘗』の所も考え合わせるべきで、この巻にも下巻にも所々現れる語である。『続日本紀』巻十七の宣命にも『食国を聞看す』、巻二十八にも『天津日嗣の高御座の業を、いよいよ継いで、長い御命で聞看せと仰せられる』などと見える。
【宣長の注釈】猶の意味は、〔普通の用法とは少し違って、〕多くある物の中で、これがよいか、あれがよいかと、あれこれ繰り返し考え、最後に一つに決めるような時にいう。〔今の俗語の『とかくに』というようなものだ。〕中昔の物語文などにも、この意味にいうことが多い。ここでは、住まわれる地を、ここがよいか、あそこがよいかと相談し合い、最後に東方の土地こそよいだろうとお決めになった意味である。『万葉集』巻八・八十葉には『梅の花、折りも折らずも見つれども、今夜の花になほしかずけり』〔梅の花を、折ったり折らなかったりして見てきたが、今宵の花にはやはり及ばない〕とある。
【宣長の注釈】思東行は『ひむがしのかたにこそいでまさめ』と読む。〔思の字を別に読むべきではない。こういう所を『おもふ』『おもほす』などと読むのは言葉の形がよくない。そう読まなくても、自然にその意味は含まれる。〕単に『ひむがし』といわず、『かた』という語を補って読むのは古語である。漢籍でも、古い訓では東西南北に皆『かた』を添えている。〔使い所によっては『かた』といわなければ言葉が足りないためだ。昔の人は、そうした語の使い方をよくわきまえていたので、そう読んだ。今の人はその違いを知らず、わずらわしいと思うようだ。〕『いでます』は、お行きになるということで、古くは天皇の行幸も『いでまし』といった。これは前に述べた。
さて、ここを『日本書紀』では『年四十五歳に及び、兄たちと子らに仰せになった……』とする。〔その文の『是時運……』から『積慶重暉』までは、古い趣ではなく、例の中国風の考えで、編者が加えて飾った文である。〕そして『また塩土老翁のいうことを聞いた。東に美しい土地があり、青い山々が四方を囲み、その中には天磐船に乗って飛び降りた人もいる。私はその土地こそ天業を大きく広め、天下に輝かしく君臨するに足る所と思う。おそらく天下の中心だろう。その飛び降りた人とは饒速日だろうか。なぜそこへ行って都を定めないのか。諸皇子は答えた。その道理はまことに明らかです。私たちも常にそう考えていました。早く出発なさいませ。この年は甲寅であった』とある。
〔そうであれば、『日本書紀』では、日向で相談なさる時から、すでに大倭国と定めて出発されたことになる。『古事記』の趣は、まだどの国とお決めになったのではなく、ただ東へと行幸し、進みながら美しい土地を求めたと読める。邇々芸命が国をお探しになったのと同じ様子なのだろう。だから阿岐国にも七年、吉備国にも八年いらっしゃった。もし初めから大倭国と決めて行幸したなら、途中にこれほど長くお留まりになるはずもない。『大歳甲寅』については論じることがあり、下で詳しく述べる。〕
さて、皇祖の遠い御代から長くいらっしゃった宮を去り、ほかへ移ろうと相談し、ついに東へと決められた御心を、土地の位置から推し量ると、日向国は西の端で、天下を治めるのに不便なので、中央の国に住もうということなのだろう。『日本書紀』で大倭国について『おそらく天下の中心だろう』と仰せなのも、そのためだ。
【宣長の注釈】卽は、ただ語をつなぐ助けに置く語で、ごく軽い。必ずしも、ためらわず速やかに、という意味ではない。
【宣長の注釈】日向は、上巻・伝五の十三葉、伝六の四十一葉にある。古くは大隅・薩摩まで含めた総称である。
【宣長の注釈】筑紫は、上巻・伝五の九葉にある。九国を総称しても筑紫島というが、ここはその中の一国の筑紫で、後の筑前・筑後の地域をいう。
【宣長の注釈】幸御の御は、行の誤りだ。〔御でも通じはするが、幸御という例は『古事記』にも、ほかの古書にもない。こういう所はすべて幸行とするのが例である。〕これは筑紫国へ向かってお行きになることをいい、すでに筑紫に着かれたということではない。〔だから次に途中の道筋を述べ、筑紫に着いたことは、その後にある。〕
【宣長の注釈】豊国は、上巻・伝五の十一葉に出る。この国は日向と筑紫の間にあり、今、行幸する道筋に当たる。〔日向の北隣が豊後、その北隣が豊前、その西隣が筑前である。〕
【宣長の注釈】宇沙は、『和名抄』の豊前国宇佐郡がそれである。『日本書紀』神代巻には宇佐島ともある。〔海の中ではないが、山や川に囲まれるため島という。〕名の意味はまだ考えていない。さて『日本書紀』に『その年の冬十月丁巳朔辛酉、天皇はみずから諸皇子と舟の軍勢を率いて東征した』とあり、その後にも皇舟のことがあるので、この辺りも海路を行幸したと読める。
【宣長の注釈】土人は『くにびと』と読む。〔豊国の国の人ということでもあろうが、やはり〕宇佐の国の人である。〔『日本書紀』に菟狭国造ともあるから、宇佐も国というべきだ。後に郡や郷と呼ぶほどの土地も、上代には国ともいったことは、いうまでもない。〕
【宣長の注釈】宇沙都比古・宇佐都比売は、兄妹と思われる。名は地名による。『日本書紀』には『筑紫国の菟狭に着いた時、菟狭国造の祖で、菟狭津彦・菟狭津媛という者がいた』とある。〔菟狭を筑紫国というのは疑わしい。九国の総称の意味なら、日向も筑紫に含まれるから、ここでわざわざ筑紫国と断るべきではない。『先代旧事本紀』巻三では、饒速日命の天降りに従った神々の中に天三降命がいて、豊国の宇佐国造らの祖といい、巻十の国造本紀には『宇佐国造は、橿原朝に高魂尊の孫・宇佐都彦命を国造に定め賜った』という。これらの説に根拠があるなら、天三降命は高御魂尊の御子で、宇沙都比古はその子だろうか。〕
【宣長の注釈】足一騰宮〔あしひとつあがりのみや〕について。『日本書紀』には『そこで菟狭川のほとりに一柱騰宮を造り、饗応を奉った。一柱騰宮は、阿斯毘苔徒鞅餓離能宮という』とある。〔菟狭川は景行紀にも見える。〕この名は宮の造り方による。どんな構造かと考えると、宮の一方は宇沙川の岸の山に掛け、もう一方は川の流れの中に大きな柱をただ一本立てて支えた造りだろう。〔宇沙川の岸に山がある所である。〕騰〔あがり〕というのは、宮の床は山の岸の上に造り、一方を支える柱は川の中から立つので、その方から見上げると高く上がって見えるためだ。
そもそもこの宮は、一時の大御饗を奉るためなので、わざわざこのように珍しく風情のある造りにしたのだろう。〔一方の柱を、川の中に一本だけ立てて支えさせたのも、わざわざ珍しく造ったのである。〕だからこそ足一騰という名もついたのだろう。柱を足ということは、後世にも四つ足門などの例がある。延佳本には漢籍の一柱観のことを引いており、似たものだ。この名の意味は、いろいろ思いつくこともあったが、どれもよくなく、右の考えに定めた。
【宣長の注釈】御饗は、上巻・伝十四の五十五葉に出る。〔『日本書紀』に『この時、命じて菟狭津媛を侍臣の天種子命の妻とした』とあり、中臣の系図に天種子命の子・宇佐津臣命がある。これは菟狭津媛の生んだ子で、母の名を取った名だろうか。〕
【宣長の注釈】岡田宮について。『日本書紀』には『十一月丙戌朔甲午、天皇は筑紫国の崗水門に着いた』とある。『和名抄』に筑前国遠賀郡があり、これだろうか。仲哀紀にも『筑紫に行幸した時、岡県主の祖……』、また『山鹿岬から回って崗浦へ入り、水門に着いた』と見える。〔『和名抄』の遠賀郡に山鹿郷がある。〕岡と岡田は同じである。『万葉集』巻七に『水茎の岡の水門』とあるのは、この岡水門で、水茎は枕詞だ。岡田という別の地名は古書には見えない。
【宣長の注釈】一年いらっしゃった、について。『日本書紀』では、十一月甲午〔九日〕から滞在し、十二月壬午〔二十七日〕には安芸宮に着いたとあるので、この宮にいた間は、わずか四十日余りである。『古事記』と違っている。
【宣長の注釈】上幸〔のぼりいでます〕について。四方の国から都へ行くことを上るといい、今もそうである。〔都から四方へ行くことを下るという。また四方の国からは、都の方を上といい、畿内を上方といい、都からは周辺の方を下という。しかし今、山城の伏見から南、奈良の辺りまでの土地の人の言葉を聞くと、都の方を下といい、そちらへ行くことを下るといい、奈良の方を上といい、そちらへ行くことを上るという。これは奈良が都だったころにいい慣らした語が、そのまま残ったのだろうか。諸国の言葉をさらに調べると、このような珍しいこともあるだろう。また中国で西上東下というのは、東寄りにある国で、水も皆東へ流れるためだ。〕
この時には、まだ東へ行くことを上るというはずはないが、倭に都が定まった後の言葉を、前のことにさかのぼらせて語り伝えたのである。初め、日向から筑紫へ行くことには上るといわず、ここで初めていうのは、土地の位置から考えて、まことにもっともだ。〔日向から筑紫へは北へ行くので、必ずしも都の方へ行くのではなく、上るとはいいにくいのだろうか。今、土地の人はどういうのか、尋ねるべきだ。筑前から阿岐へは東へ行き、都の方だから、確かに上るのである。〕
【宣長の注釈】阿岐国は、山陽道の安芸国である。名の意味はまだ思いつかない。〔山城国相楽郡の和伎は、崇神紀によれば我君の意味だ。これにならえば、この国の名も、もしかすると我君だろうか。そのような由来があって名づけたのか。〕安芸郡・安芸郷もあるので、そこから出た国名だろう。〔『三代実録』巻十四には、この国に安芸都彦神という神も見える。〕岐は濁って読む。藝も濁音に用いる字である。
【宣長の注釈】多祁理宮について。『日本書紀』には『十二月丙辰朔壬午、安芸国に着き、埃宮に住んだ』とある。
〔埃〔え〕は、神代紀で素戔鳴尊が安芸国の可愛川のほとりへ降りたというのと、同じ所だろうか。この可愛川は、今の可部川だという。可部という村もあり、『和名抄』の安芸郡漢辨がそこだ。広島から出雲・石見へ通う道は、この可部川に沿って上る。上流では根谷川といい、川上に八岐大蛇の住んだ跡という所がある。また山県郡の山奥、石見との境に近い所に可愛淵という所もあるという。
また広島より西に川合川があり、川合は可愛の字音なので、これこそ可愛川だともいう。その川の辺りには、『延喜式』に載る速谷神社があり、今は速田大明神といい、瀬織津姫を祭って、神武天皇が御禊をなさった所だという。信じられないことばかりだ。ほかにも、この天皇にまつわる故事をいう所があるが、どれも確からしくは聞こえない。
さて『日本書紀』に埃宮とある埃の字こそ疑わしい。もし可愛川と同じ所なら、これも可愛宮と書くべきだ。ほかにも可愛山陵などの文字はそうである。この山陵の下の訓注に『可愛は埃という』とある。それなのに、ここではその訓注の仮名の音を用いて書いており、まったく例のないことだ。〕
この埃宮とは、名は違うが同じ所だろうか。〔埃の字が疑わしいことから思うに、もしかすると峻の字で『たけ』と読むのか。また埈も峻と同じなので、その字だろうか。多祁は多加と通じ、嶽なども高いという意味だ。『万葉集』巻十三には、吉野の山を『吉野之高』などと書く。〕あるいは、もともと伝えが違い、別の所だろうか。いずれにしても、多祁理という地名は、高宮郡・高宮郷があるので、そこだろうか。
〔郡も郷も『和名抄』には多加美也とあるが、上代には多祁美也といったのか。どちらにしても祁と加は近く通じる音だ。可部川の上流は高宮郡も流れるので、これが確かに可愛川で、多祁理宮は一名を埃宮ともいったのかもしれない。
また周防国との境に大竹川があり、『続日本紀』巻十一にも見える。ここかとも思ったが、そうではなさそうだ。『神名式』には安芸郡に多家神社があり、今、府中村にあって総社という。この多家を多祁と読むかとも思ったが、そうではなく、意富能美〔おほのみ〕と読むべきである。この社の神主は代々大呑氏で、文字は違っても多家と同じだ。家を能美という例は、伊勢国壱志郡に、今も新家村という村があることなどだ。〕
多祁理という名の意味は、高いということか、それとも建の意味か。〔高い意味なら、理には別の意味があるはずだ。〕明らかではない。
【宣長の注釈】七年いらっしゃった、について。『日本書紀』では甲寅年十二月壬午〔二十七日〕に安芸国に着き、翌乙卯年三月己未〔六日〕に吉備国へ移ったとある。その間はわずか七十日ほどなので、『古事記』とは大きく違う。
【宣長の注釈】遷上幸について。初めは幸行といい、次には遷移といい、その次には上幸といい、ここでは遷上幸という。このように次々と語を換えるのは、文章のあやである。
【宣長の注釈】吉備は、上巻・伝五の二十二葉にある。
【宣長の注釈】高島宮の場所ははっきりしない。〔ある人は、今、備前国に高島という島があり、神武天皇の宮の跡はここで、今も不思議な出来事があるという。その郡など、さらに詳しく尋ねるべきだ。また吉備の人は、今の高島はごく小さい島で、天皇が滞在する土地ではない。その島から遠くない児島の北浦に宮浦という所があり、これが行宮の跡ではないかという。
また、備中国に高島があり、それだという人もいる。しかし、『神名帳』に備中国小田郡の神島神社があるから、それは神島であって、高島ではないだろう。『和名抄』には、備後国三上郡に多可郷がある。もし島だったなら、高島宮は多可という島にあった宮か。また同国安那郡に高迫郷があり、もしこれを多加勢麻〔たかせま〕と読むなら、ここなどだろうか。しかし、これらはすべて地理を知らないことなので、さまざまに注意を促しておくだけである。さらに十分に尋ねるべきことだ。〕
【宣長の注釈】八年いらっしゃった、について。『日本書紀』には『乙卯年春三月甲寅朔己未、吉備国へ移って入り、行宮を造って住んだ。これを高島宮という。三年の間、舟や櫂を整え、軍の食糧を蓄えた……』とあり、戊午年二月には難波に着いたことがあるので、吉備の宮にいたのは三年間である。これも『古事記』と違う。
【古事記本文】その国から上って行かれる時、亀の背に乗って、釣りをしながら両袖を振ってやって来る人に、速吸門で出会われた。そこで呼び寄せ、『おまえは誰か』と尋ねると、『私はこの国の神で、名を宇豆毘古と申します』と答えた。また『おまえは海の道を知っているか』と尋ねると、『よく知っております』と答えた。さらに『一緒に来て仕えるか』と尋ねると、『お仕えいたします』と答えた。そこで棹を差し伸べて御船に引き入れ、槁根津日子という名を賜った。この人は倭国造らの祖である。〔『名宇豆毘古』は、宣長が補った五字。〕
【宣長の注釈】亀甲は、師が『かめのせ』と読んだのに従うべきだ。亀は『和名抄』に『亀。大戴礼に……とある。和名は加米。兼名苑には、亀は一名を鼇という。漢語抄には、宇美加米という』、また『鼊龞。玉篇には大亀という。和名は於保賀米』などとある。甲は同書に『甲。文字集略には、亀や貝などの甲を介という。甲は音、俗に古不という』とあり、和名は載らない。〔今も東国では、亀の甲を『かめのかはら』というそうだ。それなら『こふ』も甲の字音ではなく、『かはら』が変化した名なのだろうか。それはともかく、ここは亀の上に乗っていることをいうので、甲の字にこだわらず、背というのがよい。『かはら』については、軽島宮の段の詞和羅前の下で詳しく述べる。〕『日本書紀』では、ここを『艇に乗って』とする。
【宣長の注釈】爲釣乍は『つりしつつ』と読む。〔乍の字は『万葉集』などでも、すべて『つつ』に用いる。〕『つつ』という語は、このことをしながら、ほかのことも交えてする場合に置く。〔したがって『ながら』と通じる意味があるので、後世『ながら』に乍の字を書くのも、当たらないわけではない。しかし古くは『ながら』にこの字を書くことはない。〕ここは釣りもしながら来るので、釣りと来ることの二つを交えるのである。〔このように二つの事を交える中でも、ここは御船の方へ来ることを主にいうので、來は乍の下にある。軽く従となる方を乍の前にいい、重く主となる方を後にいうのが決まりだ。〕
【宣長の注釈】羽擧は『はふり』と読む。『はふき』と読んでも同じで、伝十の三十九葉で述べたとおりだ。〔上巻の『この比礼を三度振り、打ち払って』という所の擧も『ふり』と読むべきことを、考え合わせられたい。〕また、翥の字について『和名抄』には『唐韻に、翥は飛び上がることという。䬡とも書く。文選の射雉賦には軒翥とある。俗に波豆々という』と見え、『日本霊異記』にも『翥を波不利と読み、また加介利伊久という』とある。
『万葉集』巻十九・六十六葉の『朝羽振』、巻二十・三十六葉の『打羽振、鶏者鳴等毋』〔羽ばたいて、鶏は鳴くとも〕は、鳥についていう。また巻二・二十八葉に『朝羽振、風社依米、夕羽振、浪社来縁』〔朝に羽ばたくように風こそ寄って来よう、夕べに羽ばたくように波こそ寄って来よう〕、『後撰集』雑歌に『波の声さやぐ』などとあり、波や風にもいう。振は、物が動いて上がることをいう語だ。『古今集』の歌にも『山ほととぎす、うちはぶき』と詠む。〔古くは『ふり』を『ふき』とも通わせていった。〕『後撰集』雑歌にも『昔も契ってけりな、うちはぶき飛び起きぬべし、天の羽衣』〔前の世にも縁を結んだのだろう。天の羽衣で羽ばたき、飛び立ってしまいそうだ〕などという。〔羽衣というため、鳥にたとえてこういったのだが、人の身についていうのは、ここの羽擧によく似ている。〕
ここは、鳥が羽ばたくように左右の袖を上げ、振りながら来るのである。そうするのは、御船を慕い、お招き申し上げるためだろう。〔『日本書紀』には奉迎とある。來は御船の方へ寄って来ることだ。〕袖を振って人を招くのは、昔から普通のことである。〔『万葉集』に多く見える。〕
【宣長の注釈】速吸門は『はやすひなと』と読む。〔吸を『すふ』と読むのはよくない。『釈日本紀』の秘訓にも『すひ』とある。〕『日本書紀』神代巻、伊邪那岐大神の禊の段の一書に、速吸名門とあるのと同じ所だ。〔そこに名門とあるから、今もそのように読むべきである。つまり『速吸の門』と同じで、ほかにも之を『な』という例が多い。〕『神名帳』に豊後国海部郡早吸日女神社がある。〔『続日本後紀』巻十三、『三代実録』巻四十四などでは早吸咩神とする。〕その土地で、この神名による地名だろう。速吸は、大祓の詞の『速開都咩という神が、がぶがぶと飲み込んでしまおう』という意味で、あの禊にゆかりのある神名だろう。門は海門である。〔ある人は、速吸門は豊前の早鞆浦だろうという。確かに潮が速いことは名のとおりだが、それでは地理が大きく違う。『日本書紀』の伝えによっても、宇佐より前なので合わない。〕
【宣長の注釈】この一段の出来事は、『日本書紀』では日向を出発し、宇沙に着く前にあり、『古事記』とは順序が違う。この地名が明らかに豊後国にあるので、『日本書紀』の伝えが正しいと思う。吉備から難波までの間に、この地名があるとは聞かない。〔『日本書紀』には『曲浦で釣りをして』とあり、摂津国八田部郡に輪田御崎という所があるので、その辺りかとも思うが、曲浦は地名とも思われず、ワダノウラという訓もどうかと思う。〕『古事記』は、この一段の順序が乱れたのだろう。
『日本書紀』には『速吸門に着く時、一人の漁人が艇に乗って来た。天皇は招いて、おまえは誰かと尋ねた。私はこの国の神で、名を珍彦といいます。曲浦で釣りをしていて、天神の御子がいらっしゃると聞き、お迎えに来たのです、と答えた。また、おまえは私の道案内ができるかと尋ねた。お導きいたします、と答えた。天皇は漁人に椎の棹の先を差し出して、つかまらせ、皇舟に引き入れて、海の案内役とした。特に椎根津彦という名を賜った。〔椎は辞毘という。〕これが倭直部の始祖である』とあり、この人の功績も後に記される。
〔名を椎根津彦とするのは『古事記』と違い、椎という意味ははっきりしない。まず、棹を椎槁とするのは、比々羅木の八尋矛のように、道具の名にその木の名も添えて呼ぶ例があるので、それでもよい。しかし、人の名につけるなら、『古事記』のように棹をいうべきで、その棹を造った材の名を取るのは、どうかと思われる。
よくよく考えると、『姓氏録』ではこの名が神知津彦とあるので、もとは知根津彦だったのを、『日本書紀』は志理〔しり〕を志比〔しひ〕と誤った伝えを採用したのだろうか。理と比は、横の関係で通じる音だ。これは海路をよく知るという称え名だろう。その後、志比と訛ったことから、『古事記』の槁根津日子という伝えと比べ、この名に合わせるため、あの棹をも推し量って椎槁と書いたのだろうか。さらに考えるべきだ。〕『古語拾遺』には『大和氏の遠祖・椎根津彦は、皇舟を迎え導き、香山の頂で功績を示した』という。
【宣長の注釈】喚歸は『よびよせ』と読む。歸を『よせ』と読む例は、『万葉集』巻三・二十七葉に『樹函伐歸都』〔木を切り寄せた〕と見え、『古事記』上巻、少名毘古那神の段の歸來も、必ず『よりく』と読むべき所だ。『万葉集』巻十五・十六葉には『沖辺より舟人のぼる、呼び寄せて、いざな問はむ、多芸の泊りを』〔沖から舟人が上って来る。呼び寄せて、多芸の泊りを尋ねてみよう〕とあり、これも寄せてという例だ。〔初めの二句の様子まで、こことよく似ている。〕
【宣長の注釈】誰也は『たれぞ』と読む。下巻、朝倉朝の御歌にそのようにある。〔『たぞ』という訓は俗である。〕
【宣長の注釈】国神は、この土地の神という意味だ。その国の人を国人、その里の人を里人というようなものである。〔天神に対していう国神ではないだろう。〕人といわず神というのは、なお神代の言葉のままなのか、それとも亀に乗って来るのは普通の人でなく、本当に神だからか。〔後の贄持之子ら三人が名乗る時も、皆、国神といっている。〕『日本書紀』にも同じようにある。
さて、この後には必ず名を告げるはずなのに、ないのは脱落したのだろう。誰かと尋ねられて、ただ国神とだけ申し上げて終わるはずがあろうか。こういう答えの例を見ると、上巻に『私は国神で、名は猿田毘古神』、この後の段に『私は国神で、名は贄持之子』、また『私は国神で、名は井氷鹿』、また『私は国津神で、名は石押分之子』などとあり、名を告げない例は一つもない。それで今、『日本書紀』と『姓氏録』によって、名宇豆毘古の五字を補った。〔毘古の毘は、『日本書紀』の訓注によって濁音と定めた。〕
【宣長の注釈】海道は『うみつぢ』と読む。『日本書紀』巻七に海路、『万葉集』巻九・二十六葉に『海つ路の、なぎなる時も、渡らなむ』〔海路が凪いでいる時にも渡りたいものだ〕などとある。海原を舟で行く道をいう。〔東海道・西海道などの海道ではない。〕
【宣長の注釈】從而仕奉乎は、師が『みともにつかへまつらむや』と読んだ訓を用いる。〔而の字にこだわるべきではない。〕
【宣長の注釈】槁機の二字を『さを』と読む。槁は『日本書紀』では㰏と書き、『和名抄』にも『㰏。唐韻に、㰏は棹のことであるといい、槁とも書く。和名は佐乎。方言には、舟を突く竹という』と見え、『字鏡』にも㰏を左乎とする。槁の字には棹の意味が見えず、誤りだろう。〔『和名抄』の版本では、㰏と掲げながら、『唐韻』を引く文では槁とするのは写し誤りで、古本ではそこも㰏と書く。右の古書は皆㰏とするが、漢籍では多く篙とだけ書く。ただし『玉篇』には『㰏。古勞の反。艇を進めるもの』とある。この物は竹だけでなく木でも造るため、木偏を加え、㰏という字を作ったのだろう。この類いは多い。〕
機の字は、まったく理解しにくい。舟の道具とは関係のない字だ。楫の誤りだろうか。〔楫は、古くは『かぢ』だけに用い、『さを』と読む例はほとんどないが、軽島朝の段の末、宇治川の渡し舟にも執楫者とあり、こういう所は『さを』というべきだ。また『和名抄』巻二の渉人の条に機榜とあり、その注に『機、正なり、和名は佐乎』とあるので、その機の誤りともいえそうだが、この字を『さを』と読む理由はない。佐乎というのは、下の榜の字の注だろう。〕いずれにしても、槁機の二字を合わせて『さを』と読むほかない。
〔師は、景行紀で、倒れた大木の上を人々が行き来したことを、その時の歌に『瀰能佐烏麼志』〔みのさをばし〕と詠んだ例から、この二字を『さをばし』と読んだ。確かに丸木の一本橋は竿のようなので、竿橋の意味でもあり、ここもそのように読むのは適切に見える。しかし、よく考えると当たらない。あの『さをばし』は、小橋に『さ』という接頭語を添えたとも読め、竿橋と断定しにくい。さらに機を『はし』と読む理由もない。ここは次に引入といい、『日本書紀』では『つかまらせて引き入れた』とさえあるから、橋にしてその上を渡らせたのではない。指度という語に惑い、橋と思ってはならない。〕
【宣長の注釈】指度は、御船から棹を下ろし、あの亀に乗っている所へ差し出すことをいう。〔『日本書紀』の授という字によって理解すべきだ。〕度は、こちらからあちらまで届かせることだ。御船は高く、亀の背は低いため、隔たりがあって直接乗り移りにくいので、棹の先につかまらせ、こちらへ引き入れたのである。
【宣長の注釈】槁根津日子の名の意味は、『日本書紀』巻三十八に人名の鋤根が見え、また八尋矛根などという類いで、棹を槁根というのである。この名を賜ったのは、この人が海路をよく知ると申し上げたので、その案内役にしようとお考えになり、今つかまらせて引き入れた棹について、棹によって船がすいすいと進む意味に、その案内役をなぞらえて称えられたのだろう。〔ただ棹につかまらせて引き入れただけでは、名にして称えるほどでもないから、必ず海路の案内という意味があるはずだ。〕
【宣長の注釈】倭国造について。〔倭と国造のことは、すでに上巻に出た。〕『日本書紀』のこの御世二年には『春二月、甲辰を朔とする乙巳の日、天皇は功績を定めて賞を行い……珍彦を倭国造とした〔珍彦は宇豆毘古という〕』とある。〔この人は前に椎根津彦という名を賜り、その後はどこでもその名だけで呼ばれるのに、ここへ来て急に初めの名を取り上げ、珍彦というのはどういうことか。また珍彦の読みの注も、初めて出た所にあるべきなのに、今ここにあるのも疑わしい。
『旧事紀』巻十「国造本紀」には『東征の時、大倭国で漁師を見た。左右の者に、海中に浮かぶのは何かと尋ね、粟忌部首の祖・天日鷲命を見に遣わした。戻って、人であり、名は椎根津彦と申しますと報告した。呼び寄せて連れて来させ、天孫がおまえは誰かと尋ねると、私は皇祖・彦火々出見尊の孫、椎根津彦ですと答えた』という。また巻六に『そこで妹の玉依姫命を遣わして来させ、養わせた。そして一人の子を生んだ。武位起命である』、また『武位起命は大和国造らの祖』とあるのは、椎根津彦を彦火々出見尊の孫、武位起命の子とするのだ。この説は信じにくい。もし彦火々出見尊の孫なら、その子孫の氏は『姓氏録』の天孫の部に収めるのが例なのに、すべて地祇の部に収めているから、もともと国神の子孫であることは明らかだ。〕
【宣長の注釈】師木水垣朝の御世七年には、夢でのお告げによって、倭直の祖・市磯長尾市を、倭大国魂神を祭る役に任じられた。〔この箇所には倭直の祖とはないが、玉垣朝の御世三年と七年の段に、倭直の祖・長尾市とある。倭大国魂神については、この『伝』巻十二に詳しく述べたので参照されたい。〕このことを、別の伝えでは師木玉垣朝の御世二十六年のこととする。〔そこには大倭直の祖・長尾市宿禰とある。また、この大神を祭る地について『神の地を穴磯邑に定め、大市の長岡岬に祭った』とある。穴磯の脇にシキと仮名を付けたのは誤りで、字に従えばアナジと読む。ただ、崇神紀に市磯長尾市とあるのと照らすと、穴は市の誤りかもしれない。また長尾市とは、長岡岬という地名による名だろうか。〕どちらも『日本書紀』に見える。長尾市は槁根津日子の子孫で、大倭国造の先祖に当たる。この人から、大倭大神を祭る神主となり、その後もこの氏の人々が代々受け継いで祭った。
【宣長の注釈】次に仁徳紀には倭直の祖・麻呂、また倭直吾子籠が見え、雄略紀二年の段にも、大倭国造吾子籠宿禰という人が見える。欽明紀には倭国造手彦が見える。
天武天皇十年四月、己亥を朔とする庚戌の日、倭直龍麻呂に連の姓を賜った。〔これまでは直の姓だった。欽明紀までは国造とだけあって直とはないのに、ここでこうあるのは、いつの御代から直の姓になったのだろう。『古事記』に倭国造等之祖とある、その等の字によれば、初めはこの氏の人は皆、国造という姓だったのだろう。『日本書紀』に倭直の祖とあるのは、直の姓だった時代の呼び方を用いたのである。そして直の姓になってからは、その中の一人を特に国造に任じたのだろう。〕同十二年九月、乙酉を朔とする丁未の日、倭直に連の姓を賜った。〔十年に連になったのは龍麻呂一人だったが、今度はほかの人々も連となったのだ。〕同十四年六月、乙亥を朔とする甲午の日、大倭連に忌寸の姓を賜った。〔ここまでは単に倭とも、大倭ともあり、大という語の有無が一定しない。この頃まではそうだったのだろう。後には必ず一定している。〕
【宣長の注釈】『続日本紀』巻六に『従五位下の大倭忌寸五百足を氏上とし、神の祭りをつかさどらせた〔神とは大倭大神〕』と見え、巻九には大倭国造大倭忌寸五百足とある。〔これで、国造はこの氏の中でも特に一人だけだったと分かる。〕天平九年十一月壬辰の日、大倭忌寸小東人と同水守の二人に宿禰、その他の一族には連の姓を賜った。神のお告げがあったためである。〔ほかの一族に、この時に連の姓を賜ったのは、なお直のままだった一族もあったのだろう。〕同十年閏七月の段には大養徳宿禰小東人とある。天平九年十二月に『大倭国を改めて大養徳国とした』とあり、国名の文字をそう改めたため、この氏もその字に改めたのだ。〔同十九年三月には、また元どおり大倭国とされた。〕同十九年四月の段に『大倭神主、正六位上の大倭宿禰水守に従五位下を授けた』と見える。〔この氏の人を大倭神主ということが、ここに見える。〕
【宣長の注釈】同二十年正月、壬申を朔とする甲戌の日、大倭連深田・魚名に、ともに宿禰の姓を賜った。天平勝宝三年十月丁巳の日、大倭国城下郡の人、大倭連田古・古人ら八人に宿禰の姓を賜った。神護景雲三年十月には『大和国造、正四位下の大倭宿禰長岡が死去した。五百足の子である……勝宝年間に忌寸を改め、宿禰を賜った……』とある。
ここへ来て、倭ではなく和と書くのは、天平勝宝の頃、国名の大倭の字を改め、大和としたためだ。〔このことには詳しい考えがあり、別に記した。また、やまとに大を添えて大倭・大和などと書く場合は、皆『おほやまと』と読むのであって、単に『やまと』と読むのはよくない。したがって、単に『やまと』というのに、大を添えて書くのもよくない。〕氏の名にも、それからこの字を用いるのである。〔後世のように、自分の考えだけで勝手に書いていたのではない。〕
【宣長の注釈】『姓氏録』の大和国・神別地祇の部には『大和宿禰は神知津彦命から出た。神日本磐余彦天皇が日向から大倭国へ向かい、速吸門に着いた時、漁師が小舟に乗って来た。天皇がおまえは誰かと尋ねると、臣は国神で、名は宇豆彦と申します。天神の御子が来られると聞いたので、お迎えに参りましたと答えた。そこで皇舟に引き入れ、海の案内役とした。それで神知津彦〔一名は椎根津彦〕と名づけた。軍事の計略をよく申し述べたので、天皇は喜び、大倭国造に任じた。これが大倭宿禰の始祖である』と見える。
また摂津国・神別地祇の部に『大和連は神知津彦命の十一世の孫、御物足尼の子孫』とある。〔『続日本紀』巻二十九に、摂津国菟原郡の人、倉人水守ら十八人に大和連の姓を賜ったとあるのは、この一族だろうか。同時に播磨国明石郡の人、海直溝長ら十九人に大和赤石連を賜ったのも、大和氏の分かれだろう。また『姓氏録』の摂津国の同じ部には『物忌直は椎根津彦命の九世の孫、矢代宿禰の子孫』と見え、河内国・神別地祇の部にも『等禰直は椎根津彦命の子孫』と見える。〕
【宣長の注釈】『続日本後紀』には『承和七年八月、甲辰を朔とする己未の日、大和国の人で戸主の従八位上・大和宿禰吉継と、その戸口に属する掌侍・従四位下の大和宿禰舘子らに朝臣の姓を賜い、本籍を左京三条一坊へ移した』とある。
【古事記本文】その国から上って行く時、浪速の渡を通り、青雲の白肩津に泊まられた。この時、登美能那賀須泥毘古〔とみのながすねびこ〕が軍を起こし、待ち受けて戦った。そこで、乗って来た御船の楯を取り、上陸して立たれた。それで、その地を楯津と名づけた。今は日下の蓼津という。
登美毘古との戦いで、五瀬命は手に登美毘古の矢を受け、痛手を負われた。そこで『私は日の神の御子なのに、日に向かって戦うのはよくなかった。それで、臣下の者の手で傷を負ったのだ。これからは回り道をして、日を背に受けて攻めよう』とおっしゃった。
南の方から回って行かれる途中、血沼の海に着き、手の血を洗われた。それで血沼の海という。そこからまた回って紀国の男の水門に着くと、『臣下の者に負わされた傷で死ぬのか』とおっしゃり、男らしく猛々しく振る舞って亡くなられた。それで、その水門を男の水門という。御陵は、紀国の竈山にある。
【宣長の注釈】「その国から」とあるが、前には速吸門のことしか語っておらず、ここで「その国」と指せる所がない。どうしたことだろう。〔前の段の順序が乱れているため、こういうこともあるのだろうか。〕
【宣長の注釈】上行も『のぼりいでます』と読む。
【宣長の注釈】浪速は、字のとおり『なみはや』と読む。〔ここでは『なには』と読むべきではない。ただ、後世の『なには』を浪速と書くのは差し支えないだろう。〕『日本書紀』には『戊午年春二月、丁酉を朔とする丁未の日、天皇の軍は東へ進んだ。船の舳先と艫が続き、難波の碕へ着いたところ、潮流がたいへん速かった。それで浪速国と名づけ、浪華ともいった。今、難波というのは訛りである』とある。このことは、師の『冠辞考』の「おしてる」の条に詳しいので参照されたい。難波は古くは難波国ともいい、摂津国の西生郡から東生郡の西の端までを含む広い地域の名だった。古書に多く見えることは、いうまでもない。
【宣長の注釈】渡は、海でも川でも、渡って行く所をいう。〔後世の歌などの「難波わたり」〔難波の辺り〕とは違う。〕『万葉集』巻一・六十六丁に『対馬の渡り、海中に……』、巻六・五十六丁に『泉川、渡りを遠み……』〔泉川の渡し場が遠いので〕とあるほか、例は多い。「何々の渡」というのは皆この意味だ。景行紀には柏済・吉備穴済・向津野大済・名籠屋大済が見え、川には仁徳紀の考羅済などがある。また『古事記』高津宮の段にも難波之大渡と見える。いずれも、水路についていう名である。
【宣長の注釈】経は、通り過ぎて、という意味だ。難波津に船を泊めず、そこを過ぎて、なお海路を進まれたことをいう。〔難波は、西国から上る船ならすべて必ず泊まる津なのに、そこを通り過ぎられたのは、『日本書紀』に見えるように、折しも波がたいへん激しく、船を泊めにくかったのだろう。そしてそうなったのは、この辺りから直接東へ向かって行かれるとよくない理由があるので、南から回って行かせるための神のお働きだったのだろう。次の出来事と考え合わせれば分かる。〕このことは後で論じる。
【宣長の注釈】青雲之は、白に掛かる枕詞だ。青雲という例は、祈年祭の祝詞に『青雲のたなびく極み、白雲の降り居向かふす限り』〔青空の広がる果て、白雲の降りて覆う限り〕とある。〔月次祭の祝詞にも見える。〕『万葉集』巻二・二十七丁に『北山に広がる雲、その青空の……』、巻十三・二十九丁に『白雲が広がる国、青空が覆う国の……』、巻十四・二十八丁に『青雲の、い出来、我妹子』〔青空が現れるように、出ておいで、愛しい人よ〕、巻十六・十六丁に『青雲の、たなびく日すら、こさめそぼ降る』〔青空の広がる日でさえ、小雨がしとしと降る〕とある。
そもそも青い色の雲はないが、ただ広い空が青く見えるのを、そういうのだ。〔今の人も、晴れた空を青雲といい、中国で青雲というのも同じだ。右の『万葉集』巻二・巻十四の歌などに、たなびくと詠むので、空というのではどうかと思う人もあるだろう。しかし、たなびくとは、雲でも霞でも、一面に広く覆い渡ることをいう。たなぐもるも同じだ。『万葉集』の歌の様子をよく考えて理解すべきである。後世の人が、たなびくとは一群れが細長く伸びること、たなぐもるとは薄く曇ることだと思っているのは、どちらも間違いだ。古歌に山にたなびくとあるのは、山一面に広がることをいう。だから雲という語を使う以上、青雲にもたなびくといって差し支えない。あの北山にたなびくと詠むのは、北山の上の空のことだ。また、いでこの枕詞としたのは、曇って雨の降る時など、晴れるのを待ち、青い空が現れてほしいと願う意味なのである。〕
【宣長の注釈】白とは、広く物がはっきり鮮やかなことをいう。『いちしろし』『とほしろし』などのしろも同じだ。〔『御火、白く焼け』などというのも、明かりのためなので、明るく鮮やかに燃えよ、ということだ。『太平記』などの『矢前白く射通して』も、鏃がはっきり見えるほど、向こうへ射抜いたことをいう。〕こうして、青空の青さは鮮明なものだから、『青雲の白』と続けていうのだろう。
【宣長の注釈】〔師は『青雲は、もとは白雲なので、白という語にも掛かる。よく晴れた青空にある白雲は青く見えるから、見たままに青雲というのだ』と説くが、納得できない。白雲でも青く見えるからいうのであれば、『白雲の青』とこそいうはずだ。それに、青く晴れた空の白雲は、いっそう白く見えるもので、青く見えるものではない。先に引いた祝詞や『万葉集』巻十三の歌からも、青雲と白雲が別だと分かる。
また、白馬を青馬という例があるので、雲に限らず白い物を青何々といい、それは非常に白い物が青く見えるからだ、という説も納得できない。白い物が少し青みがかって見えるからといって、すぐ青と呼べようか。それでは白と青の名が混じって区別できなくなる。あの白馬節会を青馬ともいうのは、白馬をそのまま青馬と呼ぶのではない。昔は本当に青馬〔青みがかった毛色の馬〕であって、白馬ではなかったのだ。だから『万葉集』『文徳実録』『延喜式』などには、すべて青馬とだけあり、古書に白馬と書くものはない。後に白馬を使うようになって白馬節会といい、また古い名でも呼んで青馬節会ともいうのである。『平兼盛集』の『降る雪に、色も変はらで、引くものを、誰れ青馬と、名づけ初めけむ』〔降る雪と色も違わぬ馬を引いているのに、誰が青馬と呼び始めたのだろう〕は、白馬を用いながら、なお青馬という名があるための歌だ。
またある人は、ここの青雲は地名で、枕詞ではないだろうというが、地名とは聞こえない。〕
【宣長の注釈】歌や宣言のようなものではない普通の文章にも、このように枕詞を置く例は、『三代実録』巻二・十九丁の『薦枕、高御産栖日神』にあるから、上代にはこういう例がまだあったのだろうと分かる。〔『拆鈴、五十鈴宮』などとあるのは神のお言葉なので、普通の文章の例ではない。〕
【宣長の注釈】白肩津について。〔白は『しら』か『しろ』か分からない。ひとまず『日本書紀』の訓によって『しら』と読んだ。〕名の意味は、まだ分からない。この地のことは、後で論じる。
【宣長の注釈】泊は、舟が到着することをいう。
【宣長の注釈】登美は地名だ。『日本書紀』には『戊午年十二月、癸巳を朔とする丙申の日、天皇の軍は長髄彦を攻めたが、戦い続けても勝てなかった。その時、突然空が曇り、ひょうが降った。そこへ金色の霊妙な鵄が飛んで来て、天皇の弓の端に止まった。その鵄は、稲妻のようにきらきら光った。そのため長髄彦の兵は皆、目がくらみ、力を奮って戦えなくなった。長髄は、もとこの村の名で、それによって人の名にもした。天皇の軍が鵄の吉兆を得たので、時の人は鵄邑と呼んだ。今、鳥見というのは訛りである』とある。
〔これは、この段の時ではなく、熊野から回って大倭国へ入られた後のことだが、後の名を初めの出来事にもさかのぼって用い、ここでも登美というのである。鳥見というのは訛りとあるが、早くから長髄彦を登美毘古ともいい、妹を『日本書紀』でも鳥見屋媛とするから、その頃から『とび』ではなく『とみ』といったのだ。上代には虻も『あむ』といったように、鵄も『とみ』といったのだろう。それを訛りというのは、鳥のとみと地名のとみとで、去声と上声の違いがあったのだろうか。楯津を蓼津というのも、つの音が清音か濁音かという違いだけなのに、訛りとするのと同じだ。〕
【宣長の注釈】この地名は『神名帳』に、大和国城上郡の等弥神社と、添下郡の登弥神社の二か所が見えるが、ここは城上郡の登美だ。今の外山村が、その名の残る地である。神武紀の末に『鳥見山の中に神を祭る場を設けた。その地を上小野榛原・下小野榛原といい、皇祖の天神を祭った』とあるのも、この地だ。〔榛原は、今の萩原という宿駅だという。それもよさそうだ。この村は長谷の東にあり、今は宇陀郡に属して、外山村からは少し遠い。しかし古く登美といったのは広い地域の名らしいから、その宿駅の辺りまで含めて鳥見山の中というのも、間違いではないだろう。〕天武紀、巻二十九・十八丁の迹見駅家も、この登美だ。〔その駅は、飛鳥宮から泊瀬へ行かれた帰り道なので、今の外山村の辺りならよく合う。〕また『延喜式』にある城上郡の宗像神社について、元慶五年の官符〔『類聚三代格』に載る〕に、大和国城上郡の登美山に鎮座する、ともある。〔この神社は、今、外山村にある春日という社だそうだ。〕『万葉集』巻四・四十五丁、巻八・五十九丁などの跡見荘や、『射目立てて、跡見の岳辺の……』と詠むのも、同じ登美だ。〔巻八は「跡見田荘で作る歌二首」と題し、その一首に「吉名張の猪養山」を詠んでいる。吉名張は今も城上郡にあり、その村は萩原に近いからである。〕
添下郡の登弥は、今も鳥見荘という所で、ここの登美ではない。〔『日本書紀』巻六の「迹見池を造った」や、『続日本紀』巻六の「大倭国添下郡の人、倭忌寸果安……」「登美・箭田の二郷……」などは、こちらの登弥だ。また斑鳩の富の小川も、この登弥による名だろうか。斑鳩は平群郡だが、この川は添下郡から流れて来る。〕
【宣長の注釈】那賀須泥毘古について。『日本書紀』に、長髄はもとの村の名だとあるのは、先に引いたとおりだ。妹の別名も長髄媛というのだから、そうなのだろう。〔兄と妹とが同じ地名を負って比古・比売と名づけるのは、古く普通のことだった。『和名抄』に『野王は、髄は骨の中の脂であるという。和名はすね』とある。一方、世間の言葉では足をすねという。長という字から、長髄は脛が長い意味の名のように聞こえるが、髄の字に足や脛の意味はない。ただ骨の中の脂では、長というのも似つかわしくない。髄は音を借りた字なのだろうか。〕
【宣長の注釈】待向の待は、待ち受ける意味だ。待何々という言い方は、古語に多い。向は、迎える意味として『むかへ』とも読めるが、ここは敵対して向き合う意味なので『むかひ』と読む。那賀須泥毘古の本拠は大倭の登美だったが、今は御船の泊まる所へ出向き、防ぎ戦うのである。
【宣長の注釈】楯は『和名抄』に『兼名苑には、楯は一名を櫓という。和名はたて』、また『釈名には、狭く長いものを歩楯といい、歩兵が持つものだという。和名はてたて』などとある。名の意味は、立つことだろう。『兵庫寮式』には『天皇即位の大嘗会には、神楯四枚を新造する〔各々、長さ一丈二尺四寸、根元の幅四尺四寸五分、中ほどの幅四尺七寸、先の幅三尺九寸、厚さ二寸。丹波国の楯縫氏が造る〕。戟は八本……その材料は、黒牛の皮八枚〔各々、長さ八尺、幅六尺〕、掃墨一斗三升六合〔楯一枚につき二升八合、戟一本につき三合〕……商布四段四尺〔裏に使う分で、楯一枚につき二丈六尺〕……』とある。〔ほかの材料も詳しく載る。〕これで古い楯がどのようなものか、大体分かる。〔楯を造ることを縫うというから、皮を縫い合わせて板の表に張り、裏には布を張ったのだろう。材料の板は挙げられないが、厚さ二寸とあるので、必ず板に張っていたはずだ。〕
【宣長の注釈】取は、兵士が手に持つことだ。
【宣長の注釈】下立は、軍人が御船から陸へ下り立つことだ。〔楯を下ろして立てることではない。〕
【宣長の注釈】その地とは、つまり白肩津のことだ。
【宣長の注釈】於今者の三字を『いまに』と読む。『古事記』に例が多い。〔このことは『伝』巻十・十二葉で述べた。師は『いましくは』と読んだ。これは『万葉集』にある古語で、今はという意味だ。しかし、ここはその意味ではなく、そのように読むと於の字が余る。者も普通のように『は』の意味で置くのではなく、今者の二字で『いま』というのである。『古事記』にこの例は多い。〕
【宣長の注釈】日下は『くさか』と読み、地名だ。これは、河内国河内郡の日下ではないだろう。〔河内郡の日下は古書に多く出る有名な所だ。その地については下巻、雄略の段で述べる。日下と書く文字のことなども、そこで述べよう。〕難波の海を過ぎ、なお海路を進んで泊まられた津なので、必ず難波より南にある海辺のはずだからである。
そこで考えると、『和名抄』に和泉国大鳥郡の日部郷〔くさべ〕があり、『延喜式』にも同郡の日部神社がある。この郷を今は草部村という。これは実は日下部で、ここの日下もそこだろう。〔下の字を省いて日部と書くのは、国・郡・郷の名を必ず二字に縮めて書く例による。大和の葛城上郡・下郡を葛上・葛下、磯城上郡・下郡を城上・城下と書くのと同じだ。ところが『和名抄』にくさべとあるのは、さの下にかが抜けたのか、それとも今も草部というから、『和名抄』の頃からすでに訛って、くさべと呼び慣らしたのか。いずれにしても、もとはくさかべだろう。日下と二字を続けてこそ、くさかと読めるので、日一字をくさと読む理由はない。春日をかすがと読むからといって、春一字をかすとは読めないことを考えられたい。
今の草部村は海辺ではないが、それほど遠くない。古くは海辺まで含む広い地域の名だったのだろう。また日下とも日下部とも通わせていう例は、下巻の雄略天皇の御歌で、日下山を『くさかべの、こちのやま』とお詠みになるなどの例がある。〕玉垣宮の段の日下之高津池も、この日下だろう。その池を『日本書紀』では高石池とする。高石も同じ大鳥郡の海辺なのだ。〔高津と高石を考え合わせると、昔は高石の辺りまでも日下といったと分かる。高津の「津」は「師」の字の写し誤りで、『古事記』も高師池なのかもしれない。また、今は御船の泊まった津のことだから、高津という地名も似つかわしい。いずれにしても、大鳥郡に日下があった根拠だ。この高津池を河内国の日下村にあるという説は、和泉にも日下があったと知らず、勝手にいったのである。〕
【宣長の注釈】また『姓氏録』の和泉国・皇別の部には、日下部首、また日下部という氏がある。これらも日子坐王の子孫で、河内国の日下部氏と、もとは一つだ。〔河内国の日下部氏については、伊邪河宮の段で詳しく述べる。〕そこで考えると、日下部氏の人々が分かれて、和泉国大鳥郡にも住み、その一族が広がったため、その地も日下と呼んだのだろう。そうなら、和泉の日下も、もとは河内の日下から出た地名なのだろう。
【宣長の注釈】『日本書紀』には『三月、丁卯を朔とする丙子の日、流れをさかのぼり、まっすぐ河内国草香邑の青雲の白肩津に着いた。夏四月、丙申を朔とする甲辰の日、天皇の軍は兵を整え、陸路で龍田へ向かった。道が狭く険しく、並んで進めないので、引き返し、今度は東へ胆駒山を越えて国の中へ入ろうとした。その時、長髄彦はこれを聞き、天神の子らが来るのは、きっとわが国を奪うためだ、といって配下の兵をすべて起こし、孔舎衛坂で迎え撃って戦った』とある。これは『古事記』の話の様子と違う。
〔まず、流れをさかのぼったということが、まったく理解できない。草香が仮に河内の草香でも、難波から川をさかのぼって着く所ではなく、ひどく地理が違う。まして和泉ならなおさらだ。地理を考えもせず、ただ勝手に話を飾って書き添えた文なのだろうか。ところが、この文から白肩津は今の枚方だという説まであるのは、大きな誤りだ。また、ここに河内国とあるため、皆、草香を河内国河内郡の日下とだけ考えているのも誤りだ。河内の日下は海辺でなく、船を泊める所ではない。川の港を津ということもあるが、その日下は、船の通えるほどの川さえない土地なのだ。白肩津・草香津というのは海辺としか思われないから、和泉の日下であることは疑いない。和泉も昔は皆河内国で、別の一国とされたのは霊亀二年からだから、古い伝えで河内国というのは問題ない。
また、更欲東踰の東の字は、趣龍田の前にあるべきだ。龍田から行っても伊駒山から行っても、ともに東へ向かうのだから、前の龍田の所に東を置くべきなのに、伊駒の所で特に東を置くのは、これも地理を紛らわしくしているようだ。〕
【宣長の注釈】また『草香津へ引き返し、盾を立て、雄々しく誓いを述べた。それで、その津を改めて盾津と名づけた。今、蓼津というのは訛りである』とあるのも、『古事記』とは違う。〔『古事記』では、御船が泊まった所で敵軍が待ち受けて防ぎ戦うため、楯を取ったのだから、無理なく理解できる。『日本書紀』の方は、敵も迫る勇気がなかったとあるのに、草香津へ引き返して楯を立て、雄々しく誓いを述べたのは、何のためか分かりにくい。上代の軍陣での祈りごとなどだったのだろうか。〕
【宣長の注釈】蓼津という地名は、ほかの古書にも見えず、今にも伝わらない。
【宣長の注釈】登美毘古は、つまり那賀須泥毘古だ。その妹も登美夜毘売というから、兄もこのように呼んだのだろう。〔ただ、登美はあの鵄の吉兆によって、後にこの人が討たれる頃に呼び始めた地名なので、生前には登美毘古とはいわなかったはずだ。討たれた後で、人々がさかのぼって用いた呼び名だろう。〕
【宣長の注釈】痛矢串の痛は、物事の程度が激しく、切実なことをいう。甚の字も書く。後の痛手の痛だ。串は、物を貫く物の総称である。〔玉串などともいうことを考えられたい。〕だから、矢が体を突き通したことも、このようにいう。〔くしは、もとは丳の字で、字書に肉をあぶる道具とある。ところが日本では、古くから串の字を使った。串の字にくしの意味は見えないが、物がつながり貫かれること、と注があり、字の形も丳に似ているので混同したのだろう。中国でも、この二字を取り違えることがある。『和名抄』には『唐韻に、丳は肉をあぶる串という。和名はやいぐし』とあるが、これも古本では串と書く。〕
【宣長の注釈】負は、傷を負う、の負だ。敏達紀には『狩人の矢を負った雀のように』とあり、負は広く、身に受け持つことをいう。『日本書紀』では『流れ矢が五瀬命の腕と脛に当たり、天皇の軍は進んで戦えなかった』とし、孔舎衛坂で戦われた時のことにしている。『古事記』とは場所も違う。〔この流矢まで『いたやぐし』と読むのは、『古事記』による読みだが、適切ではない。痛矢串は、身に当たってからこそいうべきものだからだ。〕
【宣長の注釈】詔は、五瀬命のお言葉だ。
【宣長の注釈】『私は……』というこのお言葉からも、この時は五瀬命こそが君主だったことが明らかだ。〔『日本書紀』は、このお言葉も伊波礼毘古命のものとしている。〕
【宣長の注釈】天照大御神を日の神というのは、ここに初めて見える。上巻では天照大御神とだけあるのに、ここで言い換えるのは、神代にはその神自身の出来事を語るため、お名前を申し上げたのに対し、ここは高天原におられるお姿を、この国土から仰ぎ見る立場でのお言葉だからである。〔後の高倉下の夢の段も、神ご自身の話なので天照大御神と呼ぶ。ここの言い方は、次の「日に向かって」と考え合わせるべきだ。〕これらによっても、古語の使い分けの細やかさが分かる。〔『日本書紀』は漢文を主に書かれたので、こういう所で古語の区別にこだわらないことが多く、神代の巻にも日の神と書く所が多い。〕
【宣長の注釈】御子は、御子孫という意味だ。子孫は何代を重ねても皆、子ということは、前に述べたとおりである。
【宣長の注釈】向日の所では、前には日の神とあるのに、ここで急に変えて、ただ日とだけおっしゃる。これも古語の使い分けだ。前は、その御子だという所なので、神を添えておっしゃり、ここは仰ぎ見られる太陽を指すだけなので、神とはいわない。
〔言い詰めれば、はっきりした区別はないようでも、よく考えると、やはり少し違いがある。今の人の言葉でも、空の太陽を直接指す時は、天照大御神とは申さず、ただ日といい、その神ご自身のお話をする時には天照大御神と申し、必ず「何々したまう」「何々にいます」などと敬語を添える。一方、太陽については、ただ日が出る、日が入るといい、出たまう、入りたまうとはいわないが、不敬とはしない。神代の沼河日売の歌でも『日が隠れたなら』と詠むので、これは自然に古い心での使い分けに合っているのだ。
ここで皇祖を日の神といい、太陽をただ日というからといって、天照大御神と太陽とは別だと思うのは誤りだ。天照大御神こそ太陽であられることは、上巻に述べたとおりである。〕日は東から出て西へ巡って行かれるので、東へ向かって戦うのは、その進む向きに逆らうのだ。
【宣長の注釈】不良は『ふさはず』と読む。この読みについては、『伝』巻四・三十一葉に詳しく述べた。〔これを『日本書紀』で「これは天の道に逆らうことだ」とするのは、古い日本の考えではなく、中国の考えであることは、初めの巻で論じたとおりだ。〕
【宣長の注釈】賤奴の二字を『やつこ』と読む。賤は良民に対する賤の身分で、これも奴婢の意味だ。『続日本紀』巻三十二の鹿島神賤、また紀寺賤、『万葉集』巻七・十一丁の『住吉……賤かもなき……』などは、皆、奴婢をいう。単に卑しいという形容の意味ではない。〔師は奴をすべて『やいつこ』と読んだ。これは『日本書紀』神功の巻の歌によるが、その歌の語も必ず奴の意味とは決められない。ほかにやいつこという例は一つも見えず、『万葉集』巻十八にもやつこ、『和名抄』にもやづことあるから、このように読むほかない。〕
【宣長の注釈】ただし、ここの賤奴は当て字のようなもので、実は君主と臣下という時の臣下の意味だ。〔自由な身分の人に対し、賤・奴というのは、普通の人々の中での身分の区別だ。ここはそうではなく、天皇に対して普通の人をいうやつこだから、臣下の意味である。君主に対しては臣下を皆、やつこというので、『日本書紀』などでも、君主と臣下の意味で使う臣は、すべてやつこと読む。これが古い意味だ。
後世の人が、臣はおみとだけ読み、やつこはただ身分の卑しい者だけをいうと思うのは誤りである。おみは、朝廷に仕える人々を尊んでいう呼び名で、君主に対する臣下という意味ではない。君主に対してなら、貴人でも臣下は皆やつこという。国造・郡領・伴造なども、皆、御臣という意味だ。このことは『伝』巻七で詳しく述べた。欽明紀で陪臣をいやつこと読むのも、臣下の臣下だから、やはり臣下の意味で、いやは重なる意味だ。
昔は、君主に仕える人も、普通の人々の中で自由民に使われる者も、ともにやつこといった。中国では臣と奴婢とに名を分けるため、後の人はその文字にこだわり、臣下をやつこということを知らず、やつこが臣下の意味にも及ぶことも知らない。ここは文字に拘束されず、賤奴を臣下の意味に借りて用いたのである。〕天皇のお立場からは、普通の人は皆、臣下なので、このようにおっしゃったのだ。
【宣長の注釈】下巻、穴穂宮の段で、都夫良意富美が自分を『やつこ意富美』といっている。〔自分のことなので、漢文の僕のような意味に聞こえるが、そうではない。これも臣下という意味だ。ただし、漢文で自分を臣というのとは違い、へりくだる言葉ではない。また、この人は『日本書紀』に円大臣とある大臣なのに、やつこといっている。これからも、やつこが必ずしも卑しい者だけの呼び名でないと分かる。〕これは、皇子に対して普通の人を臣下というのである。
昔は天皇だけでなく、皇子・諸王まで、天皇の血筋の人は天皇と同じく大君とも、また王とも申し、普通の人々の血筋とは混ぜず、その区別はたいへん厳しかった。〔上代には皇太子はいうまでもなく、皇子・諸王までも、皇統の人を臣とはいわず、ご自身もそうおっしゃらなかった。後には何事も中国風を採用したため、皇太子まで天皇に対して臣と申されるようだ。それでも、朝廷の人々をまとめていう時に、諸王諸臣、あるいは王臣といい、王と臣を分けるのは、古い意味が残っているのだ。〕
【宣長の注釈】痛手は後世までも使う語で、深手と同じだ。前にいう痛矢串のことである。〔前は語り手の文章なので、何に傷ついたかを示して痛矢串といい、ここは御本人のお言葉なので、広く痛手とおっしゃる。痛手なら、矢に限らず何による傷にもいう。〕訶志比宮の段の歌にも『古熊が、いた手負はずは』〔古熊が深手を負わなかったら〕とある。
刀剣や矢などで傷つくのを、手を負うというのは、人のすることを手という例が多いからだ。〔書・剣術・相撲・囲碁などでも、それぞれの方法を手といい、できる限りのことをするのを手を尽くすという。そこから、そのことをする人も何々手と呼ぶことが多い。敵を討つ兵を討手、捕らえる人を捕手という類いだ。追手・搦手も、もとは、こちらから追う人を追手、その人を向こうで待ち受け、からめ取る人を搦手といったのが始まりである。さらに、物を見る人を見手、聞く人を聞手というなど、例はいくらでもある。物を造る人は、古くは手人といった。物作りで粗い所を隠し、細かく見せて人をだますのを手をする、だまされるのを手を食うという。ほかにも手という例は多く、敵と対し、相手をはかることには特に多く使う。〕刀剣で打つのも、射るのも手なので、その刀剣や矢に傷つくのを手を負うという。〔人に傷つけられた傷を手疵というのも、同じだ。〕
【宣長の注釈】行迴は、まっすぐな道を行かず、別の方へ曲がって進み、目的の所へ回って向かうことだ。
【宣長の注釈】背負は『せおひ』と読む。背を『そびら』と読むのはよくない。〔そびらについては『伝』巻七・三十七葉で述べた。〕古語のおうは、広く身に受け持つことで、必ずしも背中に持つことだけではない。だから背中に負う場合を、背負うともいうのだ。〔普通は背中に負うのも、ただ負うというが、ここは背後にすることが中心なので、特に背負うとおっしゃる。〕この語は今の俗語にも残る。
下巻、朝倉朝の段の、若日下王が天皇へ『日を背にして行かれたことは、たいへん畏れ多い』と申し上げる所は、意味が違う。〔同じ背の字でも、あちらは後方にして背を向ける意味、今はお体の背に受け奉る意味だ。だから、あちらでは負といわない。ここは『日本書紀』にも「日の神の威力を背に負う」とあるように、その威力をお借りになる意味なのである。〕
【宣長の注釈】南方は『みなみのかた』と読む。〔南まで、東のひむかしにならって、むを添え、みむなみというのは誤りだ。〕
【宣長の注釈】血沼は、玉垣朝の段に血沼池、『日本書紀』崇神の巻に茅渟県、允恭の巻に茅渟宮などとある所と、皆同じ地だ。〔『続日本紀』巻十五にも智努離宮が見える。〕欽明の巻には『河内国から、泉郡の茅渟の海中に……と報告した』とある。『続日本紀』には『霊亀二年三月癸卯の日、河内国の和泉・日根の二郡を分け、珍努宮に奉仕させた』とある。〔版本で宮を官とするのは誤りで、古本には宮とある。『和名抄』が、霊亀二年に河内国の大鳥・日根二郡を分けて和泉国を置いたとするのも違う。〕また『四月甲子の日、大鳥・和泉・日根の三郡を分け、初めて和泉監を置いた』『天平十二年八月甲戌の日、和泉監を河内国に合わせた』『天平宝字元年五月乙卯の日、和泉などの国を昔どおり分立させた』とある。これらによって、血沼は和泉国和泉郡だと分かる。この郡は大鳥郡の南に続くので、南から回って行かれる道筋ともよく合う。
『万葉集』巻七・五十三丁には陳奴乃海、巻十一・二十五丁には珍海、また血沼之海と詠んでいる。〔巻六に千沼回、巻九に智奴壮士などもある。〕古くは有名な所だった。〔黒鯛の仲間にちぬという魚があり、『和名抄』は海鯽魚の字を当てる。この魚が血沼の海の名産だったので、地名をそのまま魚の名に付けたのだろう。このような例は、日本にも中国にもたいへん多い。ところが、この魚が多いために土地の名になったという説は、順序を逆にしており、『古事記』の話にも反している。〕
【宣長の注釈】紀国は、上巻に出た。
【宣長の注釈】男の水門は、『神名帳』に和泉国日根郡の男神社〔二座〕、『和名抄』に同郡の呼唹郷〔を〕がある、その地である。〔今も男里村といい、男神社もそこにある。『和泉志』は、一座は神武天皇で、今は男森明神と称し、もう一座は彦五瀬命で、今は浜宮明神と称するという。〕日根郡は和泉郡の南なので、これも道順によく合う。ただ、紀国とあるのは伝えの誤りだろうか。〔雄山という所があり、昔は日根郡だったが今は紀国に属するという説や、今の名草郡若山に雄町という所があり、竈山から三里ほどだという説もある。理由がありそうには聞こえるが、はっきり古書に見えないので採りにくい。〕あるいは、昔は紀国との境まで男郷で、もっと昔にはその郷が紀国に属していたかも分からない。
〔今の男里から西南へ大きな道を行くと、国境まで今の道で五里余りあるが、真南なら国境は遠くない。『日本書紀』がこの地を茅渟山城水門、別名を山井水門とするのも疑わしい。茅渟は昔はたいへん広い地名だったが、あの男里の辺りからは、はるかに離れている。それに崇神の巻の茅渟県陶邑の陶は、今は陶器荘といい、大鳥郡だ。『延喜式』の山井神社も大鳥郡なので、日根郡の男郷とは、ますます遠いではないか。〕
【宣長の注釈】負賤奴之手乎死の乎は、『や』と読む。〔古い版本では誤って守と書いていたのを、延佳が乎に直したのはよいが、死の下へ移したのはよくない。今は別の一本に従った。〕こういう所に乎を置く例は、『古事記』のあちこちにある。上巻の『この口は、答へぬ口か』〔『伝』巻十六・十六葉〕などと同じだ。死は『いのちすぎなむ』と読む。『万葉集』巻五・八行の『道に臥してや、命過ぎなむ』〔道で倒れて死んでしまうのか〕と、言い方の勢いがたいへんよく似ている。死ぬことを過ぐというのは、『冠辞考』の黄葉のすぎ云々の条にあるとおりだ。また、上に命を添えていうのも古語の例で、『日本書紀』雄略の巻、二十七にも命過と書く。
【宣長の注釈】男建は、『伝』巻七・四十二葉に出た。
【宣長の注釈】崩は『かむあがりましぬ』と読む。〔『日本書紀』の訓もそうだ。ただ神武天皇の崩は『かむあがりしましぬ』と、しを添えて読む。確かに神上は、もとは動詞だが、ここでは名詞として使った形なので、直接ましぬとは続けにくく、しましぬというのが正しいはずだ。しかし、そう読むとかえって何となく落ち着かない。上巻の神避坐の神避も同じく名詞として使う形だが、かむやりしましぬと読むのはどうかと思われるので、今もしをいわない訓を採った。〕『古事記』で崩の字を使う例については、宇治若郎子の所で述べよう。
神上とは、『万葉集』巻二・二十七葉、日並知皇子命がお亡くなりになった時の長歌に『天の原、石門を開き、神上がり、上がりいましぬ』〔天上の岩戸を開き、神として天へ上られた〕と詠むことで、天しらすというのも同じ意味だ。人は死ぬと、尊い人も卑しい人も皆、底津根国〔つまり夜見国〕へ行くのだが、天皇をはじめ、尊敬すべき人については、それを口にするのを忌み避け、逆にいって、天へ上られると表現した古語なのである。〔このことは『伝』巻十三・四十六葉にも詳しく述べたので、考え合わせられたい。〕
【宣長の注釈】水門は、上巻に出た。
【宣長の注釈】男水門という、とある。男建による名なら、建水門とこそいうはずなのに、なぜただ男というのか。この男は単に男子という意味ではなく、猛く雄々しい意味だから、男だけで男建の意味を表すのである。
【宣長の注釈】陵を『みはか』と読むべきことは、先の『伝』巻十七・八十四葉で述べたとおりだ。
【宣長の注釈】即は、紀国で亡くなられ、御陵もその同じ国にあることをいう。〔倭国なら、こう断ることはないはずで、ほかの国なので、このようにいうのである。〕
【宣長の注釈】竈山は『かまやま』と読む。『日本書紀』の訓も同じだ。〔かまどやまと読むのはよくない。筑紫のはかまど山で、竈門山と書く。混同してはならない。〕延喜の『諸陵式』には『竈山墓。彦五瀬命。紀伊国名草郡にある。墓域は東西一町、南北二町。守戸三戸』と見える。〔この御陵が、このように後世まで『式』に載り、毎年幣帛を奉ることからも、この尊が天皇であられたと分かる。普通の皇子なら、このようなことはないはずだ。上代の皇子らの御墓で『諸陵式』に載るのは、五十瓊敷入彦命、日本武尊、菟道稚郎皇子などのほかに例はない。陵でなく墓というのは、歴代天皇の一代として立てられなかったためで、飯豊皇女なども墓とする例だ。〕
【宣長の注釈】『神名帳』には、同国同郡に竈山神社もある。〔これも五瀬命を祭るという。そうだろうか。しかし社は別の神なのかもしれず、はっきりしない。〕この社は和田の竈山明神といい、名草郡宮郷和田村の西南三町ほどの所に、今もある。〔宮郷は、日前宮周辺の十七か村の総称だ。〕若山の東南一里半ほどで、古い大きな道〔今、俗に小栗海道という〕に近い。近世には、国の殿様が毎年使者も遣わされる社である。その社の近くに、丸山という大きな塚があり、古い大木が生い茂っている。これが竈山の御陵だろうか。なお地元の人に、詳しく尋ねるべきだ。
〔今の九度山がここだという説は誤りだ。九度山村は高野山に近い伊都郡なので、名草郡とは那賀郡を隔て、たいへん遠い。この説は、今、竈〔かまど〕と𫁑〔くど〕の字を混同し、竈をくどともいう所があるので、当て推量で決めたのだろう。また、紀国に加信土山があり、信をまと読んで、これが竈山だという説も誤りだ。紀国に加信土山という山はない。この名は『万葉集』巻九の『紀の国の方へ行くあなたが、信太山を……』という歌を読み違えたことから出たものだ。〕
【宣長の注釈】『日本書紀』には『五月、丙寅を朔とする癸酉の日、軍は茅渟山城水門〔別名、山井水門。茅渟はちぬという〕へ着いた。その時、五瀬命は矢傷がたいへん痛み、剣の柄をしっかり握って、雄々しく嘆いていわれた。悔しいことだ。大丈夫たる者が敵の手に傷つき、報復せずに死んでしまうのか。そこで時の人は、その所を雄水門と呼んだ。進んで紀伊国の竈山に至り、五瀬命は軍中で亡くなったので、竈山に葬った』とある。〔竈山へ着いてから亡くなったとするのは、『古事記』と違う。『古事記』では男の水門で亡くなられた。〕
【宣長の注釈】初めからここまでは、五瀬命が天皇であられるので、以上のことは皆、この命についての話だ。〔だから、この次から改めて「そこで神倭伊波礼毘古命は……」という。〕しかし、まだ大倭国へ入られる前に亡くなったため、歴代の一代には立てられなかった。それで『古事記』でも、この命の段を別には立てず、初めから伊波礼毘古命の段として、その中に記したという構成なのだ。このことは、初めに詳しく論じたとおりである。
【古事記本文】神倭伊波礼毘古命が、そこから回って熊野村に着かれた時、大きな熊が〔宣長の読みでは山から〕現れ、すぐ姿を消した。すると神倭伊波礼毘古命は、たちまち気を失われ、軍の者たちも皆、気を失って倒れ伏した。
【古事記本文】その時、熊野の高倉下〔人の名〕が刀を携え、天神の御子が倒れている所へ来て献上した。天神の御子は、すぐに意識を取り戻して起き上がり、「ずいぶん長く眠ってしまったな」とおっしゃった。その刀を受け取ると、熊野山の荒ぶる神々は、ひとりでに皆、斬り倒された。気を失って倒れていた軍の者たちも、すべて目を覚まして起き上がった。
天神の御子は、その刀をどのように手に入れたのかお尋ねになった。
【古事記本文】高倉下はこう答えた。
「私の夢に、天照大神と高木神のお二柱が建御雷神をお呼びになり、こう命じられました。『葦原中国は、ひどく騒ぎ乱れているようだ。わが御子たちは苦しんでいるらしい。あの葦原中国は、おまえが服従させた国だ。だから建御雷神よ、降りて行きなさい。』」
【古事記本文】高倉下の話は、さらに続いた。
「すると建御雷神は、『私自身は降りなくても、その国を平定した刀さえあればよろしいのです。それを降ろしましょう』と答えられました。〔この刀の名は佐士布都神、別名を甕布都神、また布都御魂という。この刀は石上神宮にまつられている。〕建御雷神は、『この刀を降ろすには、高倉下の倉の屋根を突き破って、そこから落とし入れましょう』と申し上げられました。
そこで建御雷神は、私に教えておっしゃいました。『おまえの倉の屋根を突き破って、この刀を落とし入れる。朝、目にして幸いなことに、おまえがそれを取り持って、天神の御子へ献上せよ。』夢のお教えのままに、明くる朝、自分の倉を見ると、本当に刀がありました。それで、この刀を献上したのです。」〔『そこで建御雷神は……落とし入れる』に当たる十七字は、宣長が補い、底本では丸囲みで示した本文。〕
【宣長の注釈】その地とは、男の水門を指す。
【宣長の注釈】ここまで三か所に迴幸とあるのは、皆、初めの行迴という意味で、まっすぐ倭の方へは向かわず、南へ回られることをいう。熊野までの道が、そうなのである。
【宣長の注釈】熊野村は、紀国牟婁郡だ。この地は牟婁郡の半分を超え、数十里にも及ぶたいへん広い所で、一国としてもよさそうなのに、一郡にも立てられず、『和名抄』の郷名にさえ載らないのは、山国で、昔は人がたいへん少なかったためらしい。〔牟婁郡の郷は、わずか五つだ。〕名の由来は、この大熊の出来事なのか、出雲の熊野からなのか、決めにくい。〔出雲の熊野によるという理由は、『伝』巻十・二十八葉で述べたので、考え合わせられたい。〕『日本書紀』神代上巻には熊野の有馬村、『神名帳』には熊野早玉神社〔大社〕、熊野坐神社〔名神大社〕などがある。
【宣長の注釈】大熊髮の髮は、必ず写し誤りだ。いろいろ考えてみると、序にこのことを化熊出爪と書くが、爪も誤りで、山か穴のはずだから、ここも從山の二字を髮と誤ったのだろうか。髮と發は草書が似ている。〔別の一本に號とあるので、『おほくま、ほのかに』と読むのかとも思ったが、そうなら所見〔見えた〕とあるべきなのに、出とあるので違うだろう。また、延佳の頭注で「異本には雖とある。鰐の誤りだろうか」というのは、『日本書紀』神代巻の熊鰐を思い合わせたのだが、ここでは理由のない誤りである。〕
【宣長の注釈】出入の入は、理解できない。後に失せるとあるので、入るというはずがないからだ。〔出即入失だったのを、即の字と入の字を上下取り違えたのかとも思うが、入るというなら失せるとはいわないだろう。また、何度も出たり入ったりしてから消えたのかとも思うが、そうなら即ちというのが分かりにくい。〕そこで今は、ひとまず入を読まず、『大きな熊が山から出て、すぐに消えた』と読んだ。この熊は普通の熊ではなく、序に化熊とあるように、荒ぶる神が仮に姿を変えたものだ。
【宣長の注釈】倏忽は『にはかに』と読む。『日本書紀』天武上巻の訓がそうだ。安康の巻や欽明の巻などでは『たちまちに』とも読み、その読みも悪くない。
【宣長の注釈】爲遠延は、師の『とほえまし』という読みに従う。爲があるのは、どんな書き方なのかと思われるが、日代宮の段の爲泥疑也の爲と同じ用法だ。〔こういう所に爲を添えるのは、古い書き方の一つだろう。あちらも単にねぎつと読むべき所で、爲は読みづらいので、ここも爲を読まず、ますという敬語を補って読む。〕遠延は『日本書紀』では瘁と書く。〔字書には病むとある。〕また景行の巻に『信濃坂を越える者は、多く神の気に当たって病み伏した』とある。〔これを『和名抄』に引き、瘁臥をうゑぶせりとするが、うはをの写し誤りだろう。〕仁徳の巻には『蛇の毒を受け、多く死んだ』、欽明の巻には毒害とあり、景行の巻には『吉備の穴済の神と、難波の柏済の神が、皆、害する心で毒気を放ち、道行く人を苦しめた』と見える。倭建命が伊服岐山の神に惑わされたのなども、皆、同じ類いのことだ。
【宣長の注釈】御軍は、兵士をいう。『万葉集』巻二・四十二丁に『み軍士を、あともひたまひ、呼びたまひて』〔軍の者たちを率い、呼び寄せられて〕、巻六・二十九丁に『千万の軍』、巻二十・七丁に『すめらみくさ』〔天皇の御軍士〕などとある。皆、その人々を指していくさというのだ。師は、いくさとは矢を射合うことで、働きを表す言葉を名詞にして、軍の人々をもいうようになった、と説いた。〔『日本書紀』天武の巻には、習射や観射などとも見える。〕
【宣長の注釈】伏は『こやしき』と読む。『日本書紀』推古の巻の聖徳皇子命の御歌に『飢ゑに臥せる、その旅人あはれ』〔飢えて倒れている、その旅人は哀れだ〕とある。下巻、允恭の段の歌の『つくよみの、こやる』の所〔『伝』巻三十九・六十八葉〕で、さらに詳しく述べる。
『日本書紀』には『天皇は皇子の手研耳命とだけで軍を率い、進んで熊野の荒坂津〔別名、丹敷浦〕へ着いた。丹敷戸畔を討ち取った。その時、神が毒気を吐き、人も物も皆、病み倒れ、そのため天皇の軍は、再び立ち直れなかった』とある。
【宣長の注釈】高倉下は、『日本書紀』のこの御代の巻にある兄倉下・弟倉下の読みの注で、倉下をくらじとするのにならい、ここもそのように読む。名の意味は、はっきりしない。〔後の、倉の屋根を突き破るということによるのかと思うが、ほかにもこの名があるので、その倉の話によるのではないだろう。また欽明の巻に、鞍橋をくらぢというとあるのは、馬の鞍によって名づけた理由があり、ぢはちの濁音なので、こことは違う。〕推古の巻には吉士倉下という人、『続日本紀』巻三十七には秦勝倉下という人があり、藤原倉下麻呂もいる。『神名式』には大和国宇陀郡に椋下神社がある。〔椋下を版本でむくもとと読むのは誤りだ。〕『日本書紀』のこの巻にも菟田の高倉山が見える。
〔『旧事紀』が、この高倉下を饒速日命の子、宇麻志摩治命の兄とし、天香語山命の天降る名は手栗彦命、また高倉下命ともいう、などとするのは、例によって確かでない。熊野の神蔵大明神がこの高倉下だという説は、そうなのだろうか。なおよく調べるべきだ。〕
【宣長の注釈】此者人名という四字の注は、後人の加えたものだろう、と師がいわれたのは、そうかもしれない。
【宣長の注釈】一横刀の一は、読んではならない。〔こういう所に一を置くのは漢文の書き方だ。〕また、横刀と書くのは、すべて単に刀で、横の字にこだわるべきではない。
【宣長の注釈】ここの天神の御子は、神倭伊波礼毘古命を指していう。この呼び名については、『伝』巻十四・十五葉で述べた。
【宣長の注釈】到は『まゐきて』と読む。
【宣長の注釈】寤起は『さめまして』と読む。〔師は、おどろきましてと読んだ。それも一つの読みだが、ここは単に眠っておられたのではなく、神の気に当たって意識を失っておられたので、酒の酔いがさめるのと同じ意味だから、さめと読む方がよい。あの倭建命の醒井の故事も、思い合わせられたい。〕
【宣長の注釈】長寢乎は、師の『ながいしつるかも』という読みに従う。悪い神の気に当たって意識を失っていたとは、ご自身は思われず、ただ何となく長く眠っていたと思われて、こうおっしゃったのだ。
【宣長の注釈】受取について。前の献上したという所は、まだ気がつかれない間なので、ただ御前へ持参したことをいう。今は気がつかれて、正式に受け取られるのだ。
【宣長の注釈】荒神は、上巻の荒振神と同じで、『あらぶるかみ』と読む。
【宣長の注釈】爲切仆は『きりたふさえ』と読む。〔れというはずの所をえというのは、古語の言い方だ。〕仆の読みは『字鏡』にたふると見える。〔爲は少し珍しい書き方だが、漢文で爲所切仆〔切り倒される〕と書く意味だろう。〕自の字に注意すべきだ。まだ切らないのに、ひとりでに切り倒されるのだ。この大刀を献上すると、まず天皇が気づかれ、次にこれを受け取ると、軍の者もすべて気づく。このようになるのは、奇妙というにも奇妙で、霊妙というにも霊妙な、大刀のご威力だったのである。
【宣長の注釈】惑伏は、前に遠延而伏とあるのと照らし、師の『とほえこやせる』という読みがよい。
【宣長の注釈】己夢云は『おのれ、いめに』と読む。〔云は読まない。〕昔はすべていめといい、ゆめとはいわなかった。師は、いめは寝目だと説いた。めは、見えることをいう所見を縮めた形である。〔目も、見える物の意味だ。〕眠っている間に見える、という意味なのだ。
【宣長の注釈】『いたくさやぎてありけり』は、すでに上巻に出て、そこで説明した。〔『伝』巻十三・五葉。〕ここは悪い神が荒れ、このように天皇を苦しめ申し上げることを、おっしゃるのである。
【宣長の注釈】わが御子たち、の子が、広く子孫に及ぶ呼び名だということは、前に述べたとおりだ。
【宣長の注釈】不平は『やくさみ』と読む。この語の意味は、まだよく分からないが、古語なのだろう。『日本書紀』神代上巻、須佐之男命が荒れられる所に、日の神が体をかがめ、具合を悪くされたと見え、〔『私記』では、やすからずと読む。〕天武の巻にも『わが身、不和』と見える。〔これは、天皇がご病気になったことをおっしゃったお言葉だ。〕今も荒神の気に当たり、苦しんでおられることをおっしゃるのだから、話の様子は同じだ。〔『日本書紀』神代下巻の彼地未平の未平は、さやげりと読み、允恭の巻の皇后之色不平の不平は、ようもあらずと読み、『遊仙窟』では、ことごとしとも読む。しかし、これらは皆、ここの不平には合わない。〕
【宣長の注釈】坐良志のらしは、そうなのだろうと、ほかの人や物の様子を推し量る語である。
【宣長の注釈】『ほかならぬ、おまえが……』という所の、国を平定したことは上巻に見え、『伝』巻十四で詳しく述べた。〔専や言向などの説明も、すでに出た。〕
【宣長の注釈】可降は『くだりたまへよ』と読む。〔この降を、師はあまくだると読んだ。天降と書くのにならえば、その読みも理屈は通る。しかし天降るは、天から降って来るのを、この国にいていう言葉で、天にいていう言葉ではない。だから『古事記』では、天でいう所は皆、ただ降とだけあるのだ。〕
【宣長の注釈】専有の専は、意味の上では有の後に掛かる。〔その刀さえあれば、という意味。〕
【宣長の注釈】その国を平定した刀について。上巻の国を平定する段には、『古事記』にも『日本書紀』にも、この刀のことは見えない。〔十掬の剣を抜き、波の上に逆さに突き立てた、などとはあるが、その剣のことを中心に語るのではない。〕しかし、その時、主に帯び持ち、功を成し遂げられた刀は、必ずあったはずだ。まして建御雷神は、伊邪那岐大神が迦具土神を斬られた御刀から生まれ、もとから剣に縁のある神なのだから。
【宣長の注釈】こちらの可降は『くだしては』と読む。〔延佳本と別の一本では、降の下に是刀の二字があり、師もこの二字がある方をよいといわれた。しかし古い版本にも別の一本にもなく、『釈日本紀』に引く文にもないことから考えると、やはりない方がよい。あっても悪くはないが、次に降此刀状とあるのと重なって、煩わしくも聞こえる。〕
【宣長の注釈】佐士布都神の佐士の意味は、まだ分からない。後に高佐士野という地名もある。『神名帳』には、壱岐島壱岐郡に佐肆布都神社、また同名の佐肆布都神社がある。
【宣長の注釈】亦名云の云は、師が余分な字だといわれたが、このように云がある例も多い。
【宣長の注釈】甕布都神の甕は当て字で、美加の意味は『伝』巻五・七十三葉で述べたとおりだ。〔『和名抄』には缸をみか、甕をもたひとするが、『字鏡』には甕をみかとし、『日本書紀』などもみかに甕を当てている。〕『三代実録』巻四には、河内国の従三位・弥加布都命神と比古佐自布都命神に、ともに従二位を加えたとある。〔これは、どこの神社だろう。『神名帳』に見えない。当時、従二位を授け奉るほどの神が官の帳簿に載らないはずはなく、不思議だ。枚岡の四座の内だろうか。若江郡の弓削神社を今、布都大明神というが、それではないだろう。〕
【宣長の注釈】布都御魂は、『日本書紀』に韴霊と書き、『ふつのみたま』というとある。韴の字は『広韻』『玉篇』などで、物が切れる音と注する意味から、用いたのだろう。今の言葉でも、物がすっかり、きれいに切れて離れる様子を、ふつという。〔ふつりなどといい、『狭衣』には『ふつと見離つ』ともある。〕だから、この剣が鋭く、物をきれいに切り離す意味で称えた名なのだろう。〔上巻の建布都神・豊布都神、ここの佐士布都・甕布都、石上布都之魂神社、『日本書紀』の経津主神などの布都は、皆同じだ。〕『神名式』には、備前国赤坂郡の石上布都之魂神社〔この社については『伝』巻九・三十四葉で述べた〕、阿波国阿波郡の建布都神社、壱岐島石田郡の物部布都神社なども見える。
【宣長の注釈】石上神宮は、『神名式』にある、大和国山辺郡の石上坐布留御魂神社〔名神大社。月次・相嘗・新嘗の祭りを受ける〕である。『和名抄』にも、同郡に石上郷〔いそのかみ〕がある。神宮のことは、玉垣宮の段に、印色入日子命の作らせた刀千振りを石上神宮に奉納したと見える。『日本書紀』にもこのことを載せ、『この後、五十瓊敷命に命じ、石上神宮の神宝をつかさどらせた。千振りの大刀は忍坂邑に収め、その後、忍坂から石上神宮へ移して収めた。その時、神が、春日臣の一族で名を市河という者に管理させよ、と求めた。それで市河に管理を命じた。この人が今の物部首の始祖である』とある。
【宣長の注釈】〔『姓氏録』には『布留宿禰は、柿本朝臣と同祖で、天足彦国押人命の七世の孫、米餅搗大使主命の子孫である。その子は木事命、その子は市川朝臣で、大鷦鷯天皇の御世、倭へ至り、石上の御布瑠村高庭の地に布都奴斯神社を祭り、市川臣を神主とした。四世の孫が額田臣・武蔵臣である。斉明天皇の御世、宗我蝦夷大臣が武蔵を物部首、また神主首と呼び、これによって臣の姓を失って物部首となった。その子、正五位上の日向は、天武天皇の御世、社の地名によって布瑠宿禰の姓に改めた……』とある。春日臣と柿本朝臣は同祖だ。右の市川朝臣の朝は余分な字だろう。また達は幸の誤りだろう。市川を大鷦鷯天皇の時代の人とするのは、『日本書紀』とは違う。〕
【宣長の注釈】また八十七年には、こうある。『五十瓊敷命は妹の大中姫命に、私は老い、神宝をつかさどれない。今から後は、おまえが必ずつかさどれ、といわれた。大中姫命は辞退して、私はかよわい女です。どうして高い神庫に登れましょう、と答えた。五十瓊敷命は、神庫は高くても、私が梯子を造る。どうして登るのを苦にしようか、といわれた。諺に、神の神庫も樹の梯子のままに登る、というのは、このことからである。しかし結局、大中姫命は物部十千根大連へ渡して管理させた。物部連らが今まで石上の神宝を管理するのは、これによる。』
〔『日本書紀』の同じ御代二十六年には『天皇は物部十千根大連に、たびたび出雲国へ使者を遣わして、その国の神宝を調べさせたが、はっきり報告する者がない。おまえが直接出雲へ行き、調べて定めよ、と命じた。十千根大連は神宝を調べて定め、はっきり報告したので、そのまま神宝を管理させた』とある。だから後にこの人が石上の神宝を管理したのも、もとから縁のあることだったのだ。
【宣長の注釈】また、あの市河という人は春日臣と同祖で、十千根大連の物部とは別の氏族なのに、同じ御代にともに石上の神宝をつかさどり、どちらも物部氏なので紛らわしい。よく考えると、この時に神宝を管理したのは実は一人で、二つの異なる伝えなのかとも思うが、そうではない。十千根大連の方の物部氏が神宝を管理したことは明らかで、後には石上朝臣とさえ改め、子孫に至るまで混同の余地はない。また、市河臣の子孫の物部氏も、後に社の地名から布留宿禰と改めたから、こちらも神宝を管理したことは疑いない。そうなら、十千根大連が首長として管理し、市河臣も補佐して神主の職に就き、ともに管理したのだろう。
『古今集』雑上に、石上並松が宮仕えもせず石上という所に引きこもっていたところ、突然位を賜ったので、喜びを伝えるため、布留今道が歌を詠んで贈った、という詞書がある。これは石上氏と布留氏がともに上古から縁があるため、歌を詠んで祝い贈ったのだろう。ともに物部氏というのは、もと物部という名が、この神宮の兵器を管理することから出たためだろう。〕
【宣長の注釈】また同じ年、むじなという獣の腹にあった八尺瓊の勾玉も、今は石上神宮にあると見える。天武の巻には『三年八月、戊寅を朔とする庚辰の日、忍壁皇子を石上神宮へ遣わし、油で神宝を磨かせた。そして、もともと諸家が神府に収めた宝物は、今、すべてその子孫へ返せ、と命じた』とある。〔神府は石上宮の神庫だ。〕
『日本紀略』には『延暦二十三年二月、丙午を朔とする庚戌の日、大和国石上社の武器を山城国葛野へ運び収めた』とある。『類聚国史』には『同二十四年二月庚戌の日、造石上神宮使、正五位下の石川朝臣吉備人らが工事の量を見積もり、一日分の労働を一単位として、延べ十五万七千人余りを申し上げた。太政官がこれを奏上すると、なぜこの神宮はほかの社と異なるのかと問われた。臣は、多くの武器を収めるためですと答えた。どんな由来で収めた武器なのかと問われ、昔の天皇の時から、この神宮に集め納められてきたものです。都から遠く、非常事態に備えるべきですから、占って運び移したいと願い出て……山城国葛野へ収め終えた、と答えた』とある。〔ここまでは、前年二月のことを追って記したものだ。昔来の来は、在の誤りだろうか。〕
その後に、天皇のご病気のことがあり、石上神の祟りだと巫女に託して告げられたので、天皇の年齢に合わせ六十九人の僧に神宮で経を読ませ、告文を奉り、典薬頭の従五位上・中臣朝臣道成らを遣わして、あの武器を石上神社へ返納されたことが見える。〔その文は長いので引かない。〕こうしてみると、この神宮は布都御魂の御刀を主神とし、上代からさまざまな神宝や兵器などを納め置いた社だったのだ。
【宣長の注釈】〔中世、奈良の僧の訴えによって春日社の榊を京都へ運び奉った時々には、この布留の神宝も一緒に運び奉ったのだろうか。その榊をお返しする時、まず布留の神宝を出し奉り、次に本社の御榊、五か所の御神体をお出しになることが、二条良基大臣の『榊葉日記』に見える。
【宣長の注釈】『神皇正統記』に、この剣は豊布都神といい、初めは大和の石上におられたが、後には常陸の鹿島神宮におられる、とするのは誤りだ。これは『旧事紀』に『建甕槌之男神、別名は豊布都神。今、常陸国におられる鹿島大神、すなわち石上布都大神がこれである』とあるのを採って書かれたのだ。建甕槌神と布都御魂の剣を一つにし、今は鹿島におられるというのは、例によって根拠のない説だ。この剣は後までも石上にこそおられ、どうして鹿島におられようか。〕
【宣長の注釈】『続日本紀』には『神護景雲二年十月甲子の日、石上神へ神封五十戸を充てた』、『文徳実録』には『嘉祥三年十月、乙巳を朔とする辛亥の日、大和国の石上神を正三位へ進めた』、『三代実録』には『貞観元年正月二十七日、大和国の正三位勲六等・石上神に従一位を授け奉った』『同九年三月十日、大和国の従一位勲六等・石上神の位階を進め、正一位を加えた』と見える。〔今、この神宮があるのは布留村で、磯上という所は少し離れる。昔は石上が広い地域の名で、布留村の辺りも含んでいたのが、後に今の一村の名として残ったのである。〕
【宣長の注釈】この石上神の御名は、右のように『古事記』にも『日本書紀』にも布都御魂と見える。上巻に出た建御雷神の別名も、この刀の名々も、皆、何々布都といい、備前国の社も布都之魂とある。昔はすべて布都とだけいったのに、『神名式』で布留御魂とあるので、布都と布留の違いを考えてみる。
まず『日本書紀』履中の巻に石上振神宮とだけあったものが、顕宗の巻の言挙げには石上振之神榲〔石上布留の神宝の倉〕、武烈の巻の歌には『いすのかみ、ふる』とあるので、布留も非常に古く、正しいように聞こえる。しかし、これらは皆、その地名をいったものだ。〔先に引いた『姓氏録』にも御布瑠村とある。〕神の名を直接指して布留御魂などというのは、古くは見えない。〔『聖徳太子伝暦』にも物部府都大明神という。〕それなら布留は、神名の布都とはもとから別のものだったのだろう。〔布都を地名に使った例も、まったく見えない。〕いつも布留という地名の方を広く呼び慣らし、振神宮などというので、神名の布都も、音の通じるままに混ぜ、ついに『式』の頃には布留御魂ともいったのだろう。〔振神宮の振も地名だ。それに対し、備前国石上などでは、かえって後までも上代の神名を失わず、布都之魂神社と申し上げる。
【宣長の注釈】布留という地名の意味は、『旧事紀』で、饒速日命の十種の神宝を『ゆらゆらと振り動かせ。これが「ふる〔布瑠〕」という語のもとである』ということだろう。このことは『伝』巻十・三十七葉に引き、詳しく論じたとおりだ。同書の物部氏をいう巻にも『伊香色雄命は……布都大神の社を大倭国山辺郡の石上邑へ移し建て、天祖が饒速日尊へ授け、天から受けて来た天璽瑞宝も一緒に収めて祭り、石上大神と称し、国家のため、また氏神として尊び祭った』とあるように、先祖から伝わった十種の神宝もこの神宮に納めたのを、ともに物部氏が管理し、氏神として祭ったことから、布留が地名になったのだろう。『旧事紀』は全体として信じにくい書だが、このように物部氏のことを詳しく記したのは、拠り所もある話に思われるので、これらを無理に捨てにくい理由もある。
【宣長の注釈】師は、石上神宮に韴霊の剣がおられるので、その地を布都ともいったのを、後に音が通じるままに布留といったのだ、韴を断声と注するのは刀を振るのと音が通じ、だから昔、布都といったのは刀を振ることだ、と説かれた。しかし、地名として布都という例は見えない。また、昔、刀を振ることをふくとはいったが、ふつという例もない。それに、韴を断声と注するのを刀を振ることだとするのも、理解できない。断声は、前に述べたとおり物が切れる時の音であって、刀を振ることとは大違いだ。つとるが音韻上、横に通じるからといって、大きく違うことを混同して説くべきではない。〕
【宣長の注釈】倉頂は『くらのむね』と読む。
【宣長の注釈】墮入の後には、文の脱落があるはずだ。後まで続いて、どちらも建御雷神の言葉ではあるが、落とし入れるという所までは、天照大御神へお答えする言葉で、故阿佐米以下は、高倉下へ教える言葉だから、この間に境目がなければ通じにくい。そこで今、試みに『そこで建御雷神は教えていわれた。おまえの倉の屋根を突き破り、この刀を落とし入れる』という十七字を補った。〔必ずこういう言葉があったのが、墮入故という言葉を重ねて書いたため、その間の語が抜けたのだろう。〕こういう語がなければ、故阿佐米以下も前へ続き、天照大御神への返答になってしまう。よく意味を味わうべきだ。
『日本書紀』のここは『武甕雷神は、私が行かなくても、国を平定した私の剣を降せば、国はおのずと平らぎましょう、と答えた。天照大神は、よろしい、といわれた。その時、武甕雷神は高倉に、私の剣は韴霊という。今、おまえの倉へ置こう。それを取って天孫に献上せよ、といわれた』とある。〔これによれば、『古事記』も可降までをお答えの言葉、降此刀状以下を高倉下へのお言葉とすべきだが、それなら、その間に「そこで建御雷神は教えていわれた」などの語がなければ足りない。そのうえ、穿高倉下之倉頂というのもおかしい。高倉下に向かっていう言葉に、高倉下の倉とはいうべきでない。だから『古事記』は墮入までが、天照大御神への返答なのだ。〕
【宣長の注釈】阿佐米余玖は、師の説では、朝目が吉い、という意味だ。後世の人も、朝によい物を見ると、朝目がよいと喜び、田舎の人が「夜の目、さの目も合わせず」というのは、「夜の目も朝の目も合わせず」という言葉なのだ、といわれた。〔『冠辞考』の「いなのめ」の条に見える。〕その意味で、朝、起き出してこの刀があるのを見るのは、朝目がよいのである。
『江次第』の大嘗会の条に『天皇は丑の刻に……主基殿においでになり、廻立殿へ帰られた後、采女が南の戸の下へ進み、「阿佐女主水〔朝の御膳に仕える采女〕より、夕べと明け方の御膳を滞りなくお供えしました」と申す』とある、そのあさめも同じ意味だろう。〔新嘗祭の儀にも、このことが見える。〕また、寤めるという語も、もとは朝目ということだろうか。〔『伊勢家集』にも「人々、雷の目さまして」〔人々が雷に目を覚まして〕という言葉が見える。〕
【宣長の注釈】如夢教而は『いめのをしへのままに』と読む。〔而をしてと読むと、そうしてという意味になるので合わない。まだ倉を見る前には、そうしてというべき行為がないからだ。〕
【宣長の注釈】旦は『つとめて』と読む。夜にあったことをいって、その明くる朝を、つとめてというのである。
【宣長の注釈】獻耳は『たてまつるにこそ』と読む。高倉下が今こう申し上げるのは、前に、天神の御子が刀を得たわけをお尋ねになった、その返答だからである。この刀を得て、今このように献上するわけは、こういうことでございます、という言い方の勢いなので、こそと読むべきだ。〔耳を置く所が、こそに当たる理由は、初めの巻に詳しく述べた。こそはべれというべき所を、ただこそとだけいい切り、はべれの意味を含ませるのも、雅語で普通のことだ。〕
【宣長の注釈】『日本書紀』には『高倉は、はい、はい、と答えて目を覚ました。翌朝、夢のお告げに従って倉を開いて見ると、果たして落ちて来た剣が、倉の底板へ逆さに立っていた。すぐ取って献上した。その時、天皇はちょうど眠っておられたが、ふと目を覚まし、私はどうして、こんなに長く眠っていたのか、といわれた。続いて、毒に当たった兵士たちも、すべて気づいて起きた』とある。
【古事記本文】ここでまた、高木大神のお言葉によって、こうお告げがあった。『天神の御子よ、ここから奥へは入って行くな。荒ぶる神がたいへん多い。今、天から八咫烏を遣わそう。その八咫烏が道を導くので、先に立つ、その後から進まれよ。』
その教えに従い、八咫烏の後から行かれると、吉野川の川尻に着いた。その時、魚を取る仕掛けを作って魚を取る人がいた。天神の御子が『おまえは誰か』と尋ねると、『私は国神で、名は贄持之子と申します』と答えた。〔阿陀の鵜養の祖である。〕
そこから進まれると、尾の生えた人が井戸から出て来た。その井戸には光があった。『おまえは誰か』と尋ねると、『私は国神で、名は井氷鹿と申します』と答えた。〔吉野首らの祖である。〕山へ入ると、また尾の生えた人に出会った。この人は岩を押し分けて出て来た。『おまえは誰か』と尋ねると、『私は国神で、名は石押分之子と申します。天神の御子が来られると聞いたので、お迎えに参りました』と答えた。〔吉野国巣の祖である。〕そこから、道を踏み開き、越えて宇陀へ行かれた。それで宇陀の穿というのである。
【宣長の注釈】覺白は、『日本書紀』によれば、ここも御夢にお告げになったのだ。〔ここは夢といわないが、またという語に、夢であることも含めたのだろう。前に高倉下の夢のお告げを語った、その次だからである。〕ここは、天神の御子に告げ知らせた、とも読めるが、白の後に之があることから、まず「告げ知らせたまはく」と読み、天神御子を、そのお告げの呼びかけとすべきだ。
【宣長の注釈】奥方は、進んで行く先を指しておっしゃる。〔今も口熊野・奥熊野という呼び名がある。〕
【宣長の注釈】莫使入幸は、師の『ないりましそ』という読みに従う。〔使や幸の字にこだわるべきではない。使は便の誤りかもしれない。〕
【宣長の注釈】天から、ということについて。高木神は天におられる神だが、ここはこの国へ天降ってお告げになるお言葉なので、このようにおっしゃった。
【宣長の注釈】八咫烏の名は、八頭烏ということで、頭が八つある意味だ。八咫が当て字であることは、上巻の八咫鏡の所〔『伝』巻八・三十四葉から三十八葉〕に詳しく述べたとおりだ。八つの頭があったのは、あの八俣の大蛇に八つの頭と八つの尾があったのと同じ類いである。ただし八は、必ずしも七・八の八でなく、いくつもあることをいってもよい。序は、ただ大鳥としている。この烏のことは、あの八咫鏡の注と考え合わせられたい。〔『和名抄』に「歴天記には、太陽の中に三本足で赤い烏があるという。今考えると、文選では陽鳥、日本紀では頭八咫烏という」とあるのは、理解できない。〕
【宣長の注釈】『姓氏録』の山城国神別、天神の部に『賀茂県主は、神魂命の孫、武津之身命の子孫である。鴨県主は賀茂県主と同祖である。神日本磐余彦天皇〔諡は神武〕が国の中へ向かおうとした時、山中が険しく、山川を越えて進むうち道を失った。そこで神魂命の孫、鴨建津之身命が大鳥の姿に変わり、飛んで先導して、ついに国の中へ着いた。天皇は功績を喜び、特に厚く褒め、賞を与えた。八咫烏の名は、この時から始まった』と見える。
【宣長の注釈】『山城風土記』には、こう見える。『可茂社。可茂と称するのは、日向の曾の峰に天降った神、賀茂建角身命である。神倭石余比古の先頭に立ち、大倭の葛木山の峰に宿り、そこから次第に山代国岡田の賀茂へ移り、山代川を下り、葛野川と賀茂川の合流する所へ来られた。賀茂川を見渡し、狭く小さいが、石のある清い川だといわれ、石川の瀬見の小川と名づけた。そこから川を上り、久我国の北山のふもとにお鎮まりになった。その時から賀茂という。
賀茂建角身命は、丹波国神野の神・伊可古夜日女を娶り、子の玉依日子と、次に玉依日売を生んだ。玉依日売が石川の瀬見の小川で遊んでいた時、丹塗りの矢が川上から流れて来たので、拾って床の辺りへ挿して置くと、身ごもって男の子を生んだ……母方の祖父の名によって可茂別雷命と称した……可茂建角身・丹波の神の伊可古夜日売・玉依日売の三柱は、蓼倉里の三井社におられる。玉依日子は、今の賀茂県主らの遠い祖である。』
【宣長の注釈】〔そうすると、この八咫烏神は、愛宕郡の賀茂上社の別雷神の母方の祖父、下社の御祖神の父だったのだ。この神は、この時、天からまず日向の曾の峰へ降り、そこから東へ来て道案内をなさり、天皇が国の中へ入り終えた後、葛城の峰へ行き、そこから山代へ移られたのである。『延喜式』に、山城国相楽郡の岡田鴨神社〔大社。月次・新嘗の祭りを受ける〕、『和名抄』には同郡の賀茂郷がある。〕『古語拾遺』にも、賀茂県主の遠祖の八咫烏は、天皇を先導し、菟田〔宇陀〕の道で、めでたいしるしを示した、という。〔『古事記』にも『日本書紀』にも、賀茂県主の祖ということが見えないのは、伝える間に抜けたのだろうか。ただ『日本書紀』には、頭八咫烏も褒賞にあずかり、その子孫が葛野の守殿県主部だとある。これが賀茂県主と同じか別か、はっきりしない。また、守殿は地名だろうか。〕
【宣長の注釈】『続日本紀』巻三に、慶雲二年九月丙戌の日、大倭国宇太郡に八咫烏社を置いて祭ったとあるのは、『神名帳』の大和国宇陀郡、八咫烏神社だろう。〔この社は、今はおとごろすの社といい、鷹塚村にあるという。また『書紀釈』に、賀茂建角身命は、大和国宇陀郡の八咫烏神社、山城国愛宕郡の久我神社、同国同郡の三井神社の三か所に鎮座するとある。久我・三井の二社も『延喜式』に載り、三井社は特に名神大社で、月次・新嘗の祭りを受けられる。〕
【宣長の注釈】遣は『おこせむ』と読む。〔『遊仙窟』なども、そう読む。遣は、こちらからあちらへ送るのを、やる、あるいはつかはすと読み、あちらからこちらへ来させるのを、おこすと読む。今の俗な文章で申し越すなどというが、こすは、おこすの初めのおを省いた語なのに、越えるという字の意味と思い、こちらからあちらへ伝えることまで申し越すというのは誤りだ。〕『万葉集』巻十八・二十五丁に『白玉の、五百つ集ひを、手に結び、おこせむ海人は、むがしくもあるか』〔真珠をたくさん集め、手に結んで、こちらへ届けてくれる海人は、何とありがたい人だろう〕、巻十九・十一丁に『紅の、八しほに染めて、おこせたる、衣の裾も……』〔紅で幾度も染め、こちらへ送って来た衣の裾も〕などとある。
【宣長の注釈】從其立後は『そのたたむしりより』と読む。立は、先に立つ、後に立つなどという立で、行くことだ。從は、歩いて行く、舟で行くという時の、歩より・舟よりのよりである。〔したがひて、あるいはつきてとも読めるが、やはりよりというのが古語らしい。〕
【宣長の注釈】『日本書紀』には『天皇の軍が国の中へ越えて入ろうとしたが、山中は険しく、もう進める道がなく、さまよって、どこを越えればよいか分からなかった。その夜、夢に天照大神が天皇へ、今、頭八咫烏を遣わすから、道案内にせよ、と教えられた』とある。
【宣長の注釈】『日本書紀』には、この次に、果たして頭八咫烏が空から飛び降りて来た、とある。『古事記』にも、この後にそのような言葉があるはずなのに、それがなく、すぐに「そこで、その教えに従い……」というのは、言葉が足りないようだが、これこそ『古事記』の書き方で、古文の形なのである。
【宣長の注釈】教覺は『みさとし』と読む。
【宣長の注釈】吉野は『えしの』と読む。下巻、朝倉宮の段の御歌に『みえしのの』とお詠みになり、『日本書紀』天智の巻の童謡にも『みえしのの、えしのの鮎、鮎こそは、島辺もえき』〔み吉野の、吉野の鮎よ、鮎こそ川の島の辺りに住むによい〕とある。この童謡で、よきをえきというので、吉しもえしといって、昔はこの地名もそう呼んだのだろう。〔『万葉集』巻十八・二十三丁の家持の歌では、よしのと詠む。〕『和名抄』にも、大和国吉野郡の吉野をよしのとする。
この地が上代から今まで、並外れた名高い土地なのはいうまでもない。山も川も、『万葉集』をはじめ、代々の歌などに詠まれた数は、数え切れない。また地域も広く、この郡は大和国の半分を超え、南は木国の熊野に続いている。
【宣長の注釈】河尻は、『日本書紀』仁徳の巻では流末とも書く。まず吉野川は、はるか東の山奥、大台原という所〔伊勢国との境〕に源を発し、川上荘を経て流れ出る。下流は宇智郡へ流れ、紀国の伊都・那賀・名草の三郡を経て、紀川といい、海に入る。今、熊野から山を越えて吉野へ出られる地は、川上というべき辺りのはずなのに、川尻というのは、地理が違うようだ。〔今の上市・飯貝などの辺りより下流でなければ川尻とはいえず、それより上流なら川上というべき地理だ。〕贄持・井氷鹿・石押分の順序も、地理に合いにくい。このことは、後で順に論じるとおりだ。
そこで考えると、この時の道は、熊野から吉野の東部の山中を経て宇陀へ越えられたので、川尻という所から石押分の話までは、この時のことではなく、後に別の時に訪れられた話が混じった伝えなのだろう。
【宣長の注釈】この時の道筋が正確にどの土地かは、今ははっきり分からない。まず『日本書紀』に、熊野の荒坂津、別名丹敷浦へ着き、丹敷戸畔を討った時、神が毒気を吐いて、人も物も皆病み倒れた、とあり、その後に高倉下の話がある。今も熊野の東北の端、伊勢国の度会郡との境近くに、錦浦という所がある。これがあの丹敷浦だろう。また天皇の御歌に『いせのうみの……』とお詠みになっている。〔昔は縁のない場所を取り上げて歌にしないので、必ずこの時、伊勢の海辺まで進み、御覧になったのだろう。〕これらから、この時は熊野を東北へ回り、丹敷浦まで行かれたのだろう。
〔『古事記』では、前に熊野村に着いた時といって高倉下の話があり、この段も同じ地でのこととして、ここから奥へ入るな、などとある。それを見ると、ここも皆、熊野の中ほどまでの話で、はるか東の伊勢の境まで着かれたとは聞こえないようだ。しかし前に日を背負うとある以上、ずっと東まで回り、そこから西へ向かって倭国へ入る道でなければ合わない。〕
そこから大倭国へ入ろうとすると、山中が険しく、もう進める道がないと『日本書紀』にあり、八咫烏の道案内に頼って、やっと越えられたことを思えば、この道は特に恐ろしい荒山の中だったのだろう。そうなら、丹敷浦の辺りから、伊勢の大杉谷にかかって吉野へ越えられたのだろう。〔今、紀国の河内村から伊勢の大杉村へ越す山道があるそうだ。河内村は錦浦の辺りから遠くない。〕大杉谷は、多気郡の西の端で、伊勢の宮川の上流に当たり、たいへん山深い。西は吉野川の源の大台原へ続き、今も地元の人の使う、吉野へ越す山道がある。〔大杉村から吉野の川上荘の塩葉村まで、八里半ほどあるという。塩葉村は大台原の西で、伯母谷などを経て吉野へ出る所だ。〕これなら東から西へ向かう道なので、前の日を背負うという話によく合うのである。
【宣長の注釈】『日本書紀』のここは『果たして頭八咫烏が空から飛び降りて来た。天皇は、大いなるかな、輝かしいかな。わが皇祖天照大神は、国を建てる事業を助け、成し遂げさせようとされるのか。この烏が来たのは、まさにめでたい夢にかなう、といわれた。その時、大伴氏の遠祖・日臣命は大来目を率い、大軍を指揮して山を踏み、道を開いた。烏の向かう方を仰ぎ見て追い、ついに菟田の下県に着いた』とあり、吉野を通られたことは見えない。
〔この伝えによって、この時は吉野を通らず、熊野から直接宇陀へ越えられたとするなら、道は、伊勢の大杉から同国の河俣谷へ越し、高見山を越えて宇陀に着かれたのだろう。河俣谷は大杉の北、飯高郡の西の端で、高見山を越し、大和へ向かう道だ。高見山は河俣の西の端にあり、伊勢と大和の境だ。そこを西へ越えると、吉野郡の杉谷村へ出て、この辺りは宇陀郡の境に近い。〕しかし、地理を考えると、吉野東部の山奥を経て宇陀へ出られたとする方がよく思われる。〔『日本書紀』は、吉野を通るのは途中のことなので省いたのだろう。〕ただし、川尻という所から石押分までは、前にもいったように、後に別の時に行かれた話が、同じ吉野だから混じって、ここで語られたのだろう。その理由は、後で順に詳しく論じる。
【宣長の注釈】作筌は『やなをうちて』と読む。『日本書紀』が梁と書き、やなと注する、その読みの注に従った。『和名抄』には『毛詩の注に、梁は魚を取るやなとある。和名はやな。唐韻には、簾は魚を取るすだれという。漢語抄では、やなすという』、また『野王が考えるに、筌は魚を捕らえる竹の道具である。和名はうへ。筍は魚を取る竹の道具である』とある。したがって筌はうへで、やなとは別物だ。〔『万葉集』巻十一・四十七丁の『山川に、うへを伏せて』は、伏せるというので、うへである。〕しかし、このような物の名には、古書では書き手がそれぞれに字を当てるので、ここはやなに筌を書いたのだろう。〔作るとあるのも、やななら合う。〕それほど違わない物には、このような例が多い。
また作をうちと読むのは、『万葉集』巻三・九丁の『梁は打たずて』『梁打つ人の』、巻十一・二丁の『やな打ち渡し』などによる。『日本書紀』も作とする。〔『古今六帖』のやなの歌に『やな見れば、川風寒く吹く時ぞ、波の花さへ、落ちまさりける』〔やなを見ていると、川風が寒く吹く時には、波の白い花まで、いっそう散り落ちるのだ〕とある。〕
【宣長の注釈】魚は『な』と読む。食事に使う魚を、なというのである。『万葉集』巻五・六丁にも『な釣らす』〔魚を釣る〕とある。
【宣長の注釈】贄持之子は、『日本書紀』に苞苴担と書き、『にへもつ』とあるので、必ずそのように読む。〔師は持をもちと読んだ。之で受ける上の語は、必ず名詞となるのが例だ。『日本書紀』でもつと注したのは、その語の辞書形を示した注と考えれば、たけびと読むべき建を、たけぶと注した例と同じで、もちと読むのももっともらしい。しかし、よく考えると、担一字だけなら、辞書形をもつと注してもよいが、ここは苞苴担と続く上に人名でもあるので、もちなら必ずもつとは注さないはずだ。そこで今は、その注のままに読んだ。後の石押分の分の読みも、これと同じ用法だ。〕之子は別に添えた呼び名だから、動詞のもつから之へ続いても差し支えない。何々之子という名は、浦島之子などと同じ例だ。『日本書紀』仁徳の巻にも、衫子をころものこという人が見える。ほかにも例はある。
贄持という名は、この時、魚を取り、天皇の食べ物として献上したために賜ったのだろう。子孫も鵜飼なのだから。
【宣長の注釈】阿陀は、『和名抄』にある大和国宇智郡の阿陀郷である。〔『和名抄』に、陀の音は濁って読むべきだとあるのは、その頃すでに訛って清音になっていたためか、それとも後人が書き加えたのか。後世の歌人の説に、清音で読めとあるのは、古語には合わない。〕『万葉集』巻十一・二丁の『阿太人の、やな打ち渡す瀬を速み』〔阿太の人がやなを打ち渡す、その瀬の流れが速いので〕、巻十・四十丁の『阿太の大野の、萩の花散る』も、この地だろう。〔今、西阿田村・東阿田村は吉野川の北にあり、伊勢から紀国へ通う大きな道に当たる。南阿田村は川の南で、この辺り十二村をまとめて阿陀郷という。また『大和志』には、阿田村に今も贄持の宅地というものがあると記す。〕今、贄持が魚を取っていたのも、ここだろう。吉野の川尻というのに合う。
〔この段を、熊野から越えて来られた時のこととすると、地理に合わない。熊野から吉野へ着くには、まず国栖などを経てから阿陀へ来るはずなのに、初めに贄持をいうのは道順と違うからだ。吉野から道を踏み開いて宇陀へ越えるというなら、阿陀は通るはずの方面でもない。それで、この段は別の時のことだろうというのである。〕
【宣長の注釈】鵜養については、この天皇の御歌の『うかひがとも』の所で述べよう。『日本書紀』のこの話は、兄猾・弟猾の出来事の後に置き、『その後、天皇は吉野を御覧になろうと、菟田の穿邑から、みずから身軽な兵を率いて巡られた。吉野へ着いた時……さらに少し進むと……川に沿って西へ行くと、やなを作り、魚を取る者もいた。天皇が尋ねると、臣は苞苴担之子です、と答えた。これが阿太の養鸕部の始祖である』とある。熊野から宇陀へ越える時ではなく、その後の別の時だ。これこそ正しい伝えだろう。それで今も、この伝えによって解くのである。
出来事の順序も、『日本書紀』は、初めに井光、次に磐排別、次に苞苴担とあり、『古事記』とは違う。〔この順序は、どちらでも矛盾しないが、その中では『古事記』の方がよい。その理由は、後で順に示す。〕
【宣長の注釈】生尾人は『をあるひと』、有光は『ひかれり』という、師の読みに従う。
【宣長の注釈】井氷鹿は、『日本書紀』には井光と書き、その意味の名だ。光をひかとだけいう例は、『和名抄』の伊勢国朝明郡に、田光〔たひか〕という郷名がある。〔『延喜式』にも多比鹿神社がある。〕井氷鹿に出会われた地は、今の飯貝だろうか。井光という名が訛っていひかひとなったため、飯貝と書き、さらに後でいがひと訛ったのだろう。この村は吉野川の南側にあり、上市の向かいだ。〔『日本書紀』の順序でも、今の飯貝ならよく合う。まずここへ来られ、次にもう少し進んだというのは、川上へ上ることで、その次に国栖の話がある。そこから、川に沿って西へ行ったというのは、川に沿い、引き返して下るので、その次の苞苴担の話は阿陀に当たり、道順が合うからだ。〕
【宣長の注釈】吉野首について。『日本書紀』には『吉野へ着いた時、井戸の中から人が現れ、光があって、尾もあった。天皇がおまえは誰かと尋ねると、臣は国神で、名は井光ですと答えた。これが吉野首部の始祖である』とある。〔『古事記』は井戸に光があるといい、その人が光るとは書かないが、『日本書紀』は人が光るとする。少し違っている。〕天武紀には、十二年十月、乙卯を朔とする己未の日、吉野首に連の姓を賜ったとある。
『姓氏録』大和国の神別、地祇の部には『吉野連は加弥比加尼の子孫である。諡を神武という天皇が吉野へ行き、神瀬に着いて、人を水くみに遣わした。使者は戻り、井戸に光を放つ女がいますと申し上げた。天皇が呼んで、おまえは誰かと尋ねると、臣は天から降って来た白雲別神の娘で、名は豊御富と申します、と答えた。天皇はそのまま水光姫と名づけた。今、吉野連が祭る水光神がこれである』とある。〔加弥比加尼と水光姫は同じか、別か、紛らわしい。〕この水光姫が井氷鹿と思われるが、女というのは異なる伝えだ。〔水と井は意味も近く、音も横に通じる。〕
『続日本紀』巻五には、和銅三年正月、壬子を朔とする甲子の日、正六位上の吉野連久治良に従五位下を授けたと見え、『続日本後紀』巻十八には、嘉祥元年十一月、丁巳を朔とする辛未の日、大和国吉野郡大領の吉野連豊益が行政の実績で評判だったため、外従五位下を仮に授けたと見える。
【宣長の注釈】入其山之の之は、前の從其地幸行者という者の例によれば、者の誤りだろうか。〔師は、之の後に時が抜けたのだといわれた。〕この道は、飯貝から川に沿って上らず、吉野山へ入り、国巣へ越えられたのだろう。それで、その山へ入るというのである。
〔『大和志』には、川上荘の碇村に井光の屋敷跡があるという。いひかりが訛っていかりとなるのは、そういうこともあるだろう。しかし碇村は、国栖より山奥の東南、川上の方なので、ここの山へ入るというのに合わない。碇村から国栖へ来るなら、山から出るというべき地理なのだ。『日本書紀』の、さらに少し進んだ、というのにも合わない。〕
【宣長の注釈】遇生尾人は『をあるひと、あへり』と読む。〔をあるひとにあひたまふ、という読みは、雅語の用例ではない。この例については『伝』巻十六・二十二葉で詳しく述べた。〕
【宣長の注釈】巌は、『和名抄』にいはほとある。石が抜き出て高い、という意味だ。
【宣長の注釈】石押分之子は『いはおしわくのこ』と読む。『日本書紀』には磐排別之子と書き、排別をおしわくと注する。〔師は分をわけと読んだが、やはりわくと読む。この例は、あの贄持の注で述べたとおりだ。〕前の三人の名は、皆、この時の出来事によって名づけたように思われる。〔あの水光姫という名も、天皇が賜ったと『姓氏録』にあることを考えられたい。〕それなのに、この時のお答えで、各々何々と名乗ったように記すのは、後のことを前へも及ぼして語り伝えたのだ。
【宣長の注釈】今聞以下は、上巻で、猿田毘古神が『私は国神、名は猿田毘古神です。ここに出ているのは、天神の御子が天降ると聞いたので、御前にお仕えしようと、お迎えに参ったのです』と答えるのに似ている。
【宣長の注釈】吉野の国巣は、昔からくずと呼ぶが、『古事記』の書き方では、もし初めからくずなら国の字は書かないはずだ。ここにも軽島宮の段にも、ほかの古書にも、皆、国を書くことから考えると、上代にはくにすといい、その後、発音が変わってくずとなったのだろう。〔語の中のにが省かれ、その下が濁音になる例は多い。自然な発音の変化だ。〕しかし、はっきりくにすという例が見えないので、ひとまず旧来どおり、今もくずと読んだ。
今も吉野川に沿って南国栖村があり、その辺りの七村を、まとめて国栖荘という。〔南というのは、昔は北国栖もあったのだろうか。〕『万葉集』巻十・十六丁に『国栖らが、春来ば摘まむ、島の野の……』〔国栖の人々が春になったら摘もうという、島の野の〕と詠む。〔この歌の初句を、今の本ではくにすらがと読む。これが古語に合うのか、それともくずということを知らず、勝手に読んだのか。『袖中抄』に引くものは、くずびとのとなっている。〕
【宣長の注釈】『日本書紀』には『さらに少し進むと、やはり尾があり、岩を押し分けて出て来る者がいた。天皇がおまえは誰かと尋ねると、臣は磐排別之子です、と答えた。これが吉野国樔部の始祖である』とある。
『姓氏録』大和国の神別、地祇の部には『国栖は、石穂押別神から出た。神武天皇が吉野へ行かれた時、川上に遊ぶ人がいた。天皇が御覧になると、すぐ穴に入り、しばらくしてまた出て遊んだ。ひそかに様子をうかがい、呼んで尋ねると、石穂押別神の子です、と答えた。その時、国栖の名を賜った……』とある。〔ここで石押別神の子というのは、異なる伝えだ。神の字が余分なのか、それとも之子という呼び名によって、石押別を父の名と誤解したのだろうか。〕国栖については、軽島宮の段〔『伝』巻三十三の初め〕で、さらに詳しく述べる。
【宣長の注釈】自其処は、吉野郡東部の山奥から、と見るべきだ。前を受けて国巣の地から、と見てはならない。理由は、前から順に論じたとおりである。〔川尻という所から国巣までの話が、地理に合わないからだ。国巣からとすると、道を踏み開いて越えるという文が似つかわしくない。国巣から宇陀へは、そういうほど険しい道でもなく、距離もそれほど遠くないのだから。
あるいは、この時の熊野からの道を、今、熊野本宮から吉野郡へ越し、十津川・天川などを経て下市へ出る道だったとして、宇智郡の阿陀へ出られ、次に飯貝を通り、吉野山へ入り、国栖へ着かれたともいえようか。そのように見れば、川尻へ着くというのも、その後、国栖までの道順も、皆合う。しかし十津川などを通る道は、北へ向かって大和へ来る道なので、あの日を背負うという話にも合わない。また、この時に阿陀へ出たなら、そこからまっすぐ大和の国の中心へ行かれるはずなのに、そうせず、また吉野山へ入り、東方の宇陀へわざわざ行かれる理由がない。道を踏み開いて越えるという文も、国栖からでは似つかわしくないなど、あちこち合わないことが多い。だから、いずれにしても、川尻から国栖までは、すべて『日本書紀』の伝えのように、別の時に行かれた話とすべきである。〕
【宣長の注釈】踏み穿ち越えるとは、八咫烏の飛ぶ案内に従い、道のない荒れた山中を進み抜けられることだ。穿は、普通、物に穴を開け、表から裏へ貫くのをいうように、こちらから向こうへ、道のない地を通り抜けられる意味である。〔字書にも、穿は通る、また貫く、と注する。〕
【宣長の注釈】宇陀は、『和名抄』にある大和国宇陀郡〔うだ〕のことだ。この郡内には、今も宇陀という村がある。『万葉集』にも、宇陀の大野、宇陀の真赤土などと詠む。〔巻二・三十丁、巻七・三十七丁、巻八・四十八丁。〕
【宣長の注釈】穿について。今、郡内に宇賀志村という所がある。これが宇賀知の訛ったものだろうか。このことは、後にも論じる。〔『伝』巻十九・三葉。〕
【宣長の注釈】終わりの也は、延佳本にはない。今は、古い版本と別の一本にあるのに従った。〔前の「日下の蓼津である」「それで血沼の海という」、後の「それで、その地を宇陀の血原という」などには、皆、也があるからだ。
また、古い版本には穿と也の間に指声の二字がある。師は、穿指声の三字は、宇牙智邑の四字を誤ったのだといわれた。確かに、穿と宇牙、指と智、声と邑は、字形が似ている。しかし、この地名は宇賀知であって、宇牙知ではない。牙はげの仮名で、がには用いない。指声は能邑の誤りかとも思うが、こういう所に能を書くはずもないので、やはりこの二字は余分と定めるべきだ。もとは後人が、穿の脇へ読みを付け、何々指声と記したのを、さらに後の人が本文と誤解し、書き加えたのだろう。中世には、指声〔読み方の指定〕というものがあったのである。〕
『日本書紀』には『果たして頭八咫烏が空から飛び降りて来た。天皇はいわれた……ついに菟田の下県へ着いた。その着いた所を、菟田の穿邑と名づけた。穿邑は、うかちのむらという』とある。〔この穿に、今の本でうげちと仮名を付けるのは、読みの注の介を、けの仮名と誤解したのだ。この字は『和名抄』などではけの仮名に使うが、『日本書紀』ではかだけに使い、けに使う例はない。混同してはならない。『万葉集』巻五・七丁に、うげぐつとあるのは、穴の開いた沓である。沓が破れ、穴が開いたことをいい、うげは、穴の開いた所という所穿が縮まった語だから、何かを穿つというのとは、言葉の用い方が違う。〕
古事記伝 巻十九
本居宣長 謹んで著す
白檮原宮 中巻
【古事記本文】さて、宇陀に、兄宇迦斯と弟宇迦斯という二人がいた。〔「宇」からの三字は音を表す。後も、同じように読む。〕そこで、まず八咫烏を遣わし、二人に尋ねさせた。「今、天つ神の御子が、おいでになる。おまえたちは、お仕え申し上げるか」。すると、兄宇迦斯は、音を鳴らす鏑矢を待ち構えて射かけ、その使いを追い返した。それで、その鏑矢の落ちた地を、訶夫羅前という。兄宇迦斯は、待ち受けて討とうといって、兵を集めた。しかし、集められなかったので、仕えるふりをして大きな御殿を造り、その中に、人を押しつぶす仕掛けを設け、機会を待った。その弟の宇迦斯は、先に参上して、拝礼し、こう申し上げた。「私の兄、兄宇迦斯は、天つ神の御子の使いに矢を射かけ、追い返しました。そして、兵を集めようとしましたが、集められなかったため、御殿を造り、その中に押しつぶす仕掛けを張り、お待ち受けして、命を奪おうとしています。それで、参上して、明らかに申し上げるのです」。
【古事記本文】そこで、大伴連たちの祖先、道臣命と、久米直たちの祖先、大久米命との二人が、兄宇迦斯を呼び出し、ののしっていった。「おまえが、お仕え申し上げるために造った、その大御殿には、こら、おまえが先に入り、どのようにお仕え申し上げようというのか、その様子を、はっきり示せ」。〔「伊賀」と「意礼」は、それぞれ二字で音を表す。〕そして、刀の柄を握り、矛を構え、矢をつがえて、追い込むと、兄宇迦斯は、自分で造った押しつぶす仕掛けに打たれて死んだ。〔「由気」の二字は、音を表す。〕そこで、その体を引きずり出し、切り刻んだ。それで、その地を、宇陀の血原というのである。
【宣長の注釈】「宇迦斯」は、地名による名なのだろう。今の世でも、宇陀郡に「宇賀志村」という村がある。〔日張山のふもとである。〕これが、この兄弟の住んだ地なのだろう。「兄某・弟某」という名には、その住む地の名である例が多い。〔後に引用する。〕それならば、前の文で、「宇陀の穿という」とあるものも、実は「うかし」なのを、「うかち」という言葉と音が近いことから、あの、道を踏み開いて越えられた昔の出来事によって、「穿」と名付けたのだと語り伝えたものなのだろう。したがって、「穿邑」というのは、世間で、この昔話を語り伝えているだけの地名であり、実際には、その地では、初めから「うかしの村」といっていたのだろう。〔また、前の「穿」という地名と、この「宇迦斯」という人名とは、もともと別なのかとも思う。しかし、その名が、たいへん近いので、いずれにしても、別ではないだろうと思う。今、実際にも宇賀志村があるからである。また、今の宇賀志村は、この兄弟の宇迦斯が住んだことによって、後に地名となったのであり、あの「穿」とは関係がないのかとも思う。また、「穿」がなまって「宇賀志」となったのであって、人の名とは別なのかとも、いろいろ考える。しかし、やはり、この人名も、今の村名も、あの「穿」も、別々の事とは思えない。また、この人名に、『日本書紀』が「猾」の字を書くことから、師は、地名ではなく、道理に外れるという意味だといわれたが、そうではない。あの「猾」の字は、兄宇迦斯が従わない、その人柄に関して書いたもので、必ずしも「うかし」という言葉の意味による字ではない。兄ならば、ずる賢いともいえるだろうが、弟は、天皇へ忠実に仕え申し上げた者なのに、どうして、ずる賢いといえようか。「八十建」も、『日本書紀』には「八十梟帥」と書いてある。これも、この者たちが従わない、その人柄に関して当てた字である。「たける」とは、ただ勇猛なことなのであって、「梟」の字の意味はない。天智天皇の御子に、建皇子と申し上げる方がいらっしゃる。皇子に、反抗的な首領という意味のお名前を、お付け申し上げるものだろうか。これらの例からも、「猾」の字は、必ずしも、その言葉の意味ではないことを理解すべきである。〕
【宣長の注釈】さて、兄弟の名を、「兄某・弟某」という例は、後に「兄師木・弟師木」、『日本書紀』景行天皇の巻に「兄夷守・弟夷守」「兄熊・弟熊」などがある。これらも、みな地名であり、この宇迦斯と同じ類いの人々である。また、『日本書紀』の、この巻には、「兄倉下・弟倉下」もある。〔これも地名か。〕また、雄略天皇の巻には、「兄君・弟君」「兄麻呂・弟麻呂」がある。女では、景行天皇の巻に、「兄遠子・弟遠子」というものがある。「兄比売・弟比売」は、この『古事記』にも、あちらこちらにある。
【宣長の注釈】「鳴鏑」は、「なりかぶら」と読むべきである。上巻〔『伝』巻十、四十葉〕で詳しく述べた。「使」は、八咫烏である。『日本書紀』では、ここには、八咫烏の使いの事がなく、次のようにある。「まず、使者を遣わし、兄磯城を呼び出した。兄磯城が命を受けないので、さらに、頭八咫烏を遣わして呼ばせた。そのとき、烏は、その陣営に着いて、鳴いた。『天つ神の御子が、おまえをお召しになる。さあ、さあ、参上せよ』。〔「過」は「わ」の音を表す。〕兄磯城は怒っていった。『天圧神が来たと聞き、私が腹を立て、悶えているときに、どうして烏ごときが、このように、嫌な声で鳴くのか』。そして、弓を引いて射た。烏は、すぐに避けて去り、次に弟磯城の家に着いて、鳴いた。『天つ神の御子が、おまえをお召しになる。さあ、さあ、参上せよ』。すると、弟磯城は、かしこまって、顔つきを改め、いった。『私は、天圧神が来られたと聞き、朝夕、畏れています。よくぞ、鳥よ、おまえは、このように鳴いてくれた』。そして、すぐに葉の器を八つ作り、食物を盛って、もてなした」。これは、一つの出来事が、宇迦斯と磯城とに、伝えが異なったのである。〔「天圧神」とは、そのころ、倭国の人々が申し上げた呼び名なのだろう。そう申し上げた理由は、天つ神の御子と名乗り、その軍が向かう所では、どんな敵も、たちまち敗れることが、物を押しつぶすような勢いだったからなのだろう。「あめのおしがみ」と読むべきである。読みの注に「おす」とあるのは、言葉の基本の形によって注す例である。〕
【宣長の注釈】「待ち射返す」は、待ち受けて、矢を射かけ、追い返すことである。およそ、古い言葉には、「待ち…」ということが多い。さて、「射返す」というのは、必ずしも、射殺そうというのではなく、ただ射かけて、追い返すのである。「訶夫羅前」は、ほかに見えたこともなく、この地名も、聞いたことがない。『日本書紀』には、「秋八月、初日が甲午の日に当たる、その翌日の乙未、天皇は使いを遣わし、兄猾と弟猾を呼び出された。〔猾は、宇介志という。〕この二人は、菟田県の首領だった。そのとき、兄猾は来なかった」とある。〔「介」を「け」の仮名とするのは誤りであることは、前にいったとおりである。〕
【宣長の注釈】「将待撃云而」とは、天つ神の御子がおいでになるのを待ち受けて、討ち申し上げようといって、ということである。「不得聚軍者」は、「えあつめやりしかば」と読むべきである。〔「軍」の字は、ここでは読んではならない。前に、すでに「軍」とあるからである。後に同じ言葉がある箇所では、この字がない。〕「欺陽」は、「いつはりて」と読むべきである。〔「陽」は「佯」と同じで、実際にはそうではないことを、表面では、そうであるかのような様子に見せる意味の字である。〕
【宣長の注釈】「大殿を作る」は、『日本書紀』に、饗宴に招こうと申し出たとある、そのために造ったのである。
【宣長の注釈】「押機」は、「おし」と読むべきである。〔『文選』にも、「機」を「おし」と読む箇所がある。〕『日本書紀』には「機」とある。〔師が「おしはじき」と読まれたのは、よくない。〕後では、「押」とだけも書いてある。さて、この物は、後の文に「押に打たれて死ぬ」といい、『日本書紀』に「機を踏んで、押しつぶされて死ぬ」とあるとおり、人をだまして殺すために、何でもないように見せておき、踏めば、仕掛けが崩れ、落ち込んで、押しつぶされて死ぬように組み立てた物である。『和名抄』の狩猟具には、「『漢語抄』に、鼠弩、一名、鼠弓、和名、おし、とある」という。〔『拾遺集』の物名歌では、「押・年魚」を詠み込んで、「ハイタカの招き餌にしようと、鼠を捕るために仕掛けてある鼠弩が、ゆらゆら動いている」と歌っている。「あゆがす」は、揺れ動くことである。〕これは、鼠を捕るための押機である。また、天武天皇の巻に、「諸国に命じていう。今から後は、漁猟をする者たちを取り締まり、檻や落とし穴を造ったり、機や槍などの類いを仕掛けたりしてはならない」とある。その「機」は、「ふむはなち」と読まれているが、〔踏むと作動する、という意味である。〕これも「おし」と読むべきである。獣を捕る押機である。〔今の世では、「おとし」という。また、土地によっては、「こぶち」ともいう。およそ、「機」という道具には、いろいろな種類があり、どれも、こちらに触れると、向こうが動き出す、といった仕組みによって名付けたのである。〕
【宣長の注釈】「作」は、「はりて」と読むべきである。次の文では、「即張」と書いてある。これは、古い言い方なのだろう。
【宣長の注釈】「先に参向する」の「先」とは、あの、仕掛けを設けた大殿に、まだお入りになる前に、御子のもとへ参上することをいう。
【宣長の注釈】「拝」は、「をろがみて」と読むべきである。『日本書紀』の推古天皇の巻の歌に、「をろがみて、つかへまつらむ」、つまり、拝んで、お仕え申し上げよう、とある。さて、「をがむ」というのは、この「ろ」を省いたのである。
【宣長の注釈】「兄兄宇迦斯」の、最初の「兄」は、「あに」と読むべきである。〔「あに」というべきことは、上巻でいった。さて、古い版本では、「兄」の字が、一つない。それも悪くない。すでに兄といったうえは、また兄といわなくてもよいはずだからである。しかし、ほかの諸本にも、『日本書紀』にも、みな「兄々」とあるので、ここも、それによった。〕
【宣長の注釈】「将為」は、「為将」の、上下を逆に書き写した誤りかとも思う。しかし、後にも「将為仕奉」などとあるので、このようにも書いたのだろう。
【宣長の注釈】「殿」は、前に「大殿」とあるので、ここも「おほとの」と読むべきである。
【宣長の注釈】『日本書紀』には、次のようにある。「弟猾は、すぐにやって来て、軍営の門を拝して申し上げた。『私の兄、兄猾が反逆を企てている、その様子を申し上げます。兄は、天孫が、間もなくおいでになると聞き、すぐに兵を起こし、待ち受けて討とうとしました。しかし、天皇の軍の威勢を遠くから見て、恐れ、敵対する勇気がなくなりました。そこで、兵を隠し、仮に新しい宮を造って、その殿内に押しつぶす仕掛けを設け、饗宴に招くことで、お命を狙おうとしています。どうか、このだまし討ちをお知りになり、よく備えてください』」。〔さて、このように、弟が兄の罪を明らかに申し上げたことについて、人の守るべき道としてどうだろうか、と論じるのは、中国流の考え方である。父であっても、君主に背き申し上げようとするのならば、それに従ってはならないのが道理なのだから、まして、兄の場合は、いうまでもない。どれほど善いことをしても、天皇に背き申し上げようとする者は、たいへんな反逆者であると知るべきである。〕
【宣長の注釈】大伴連と、また、久米直のことは、上巻〔『伝』巻十五〕で述べた。
【宣長の注釈】「道臣命」。『日本書紀』には、次のようにある。「大伴氏の遠い祖先、日臣命は、大来目を率い、先鋒の軍を指揮し、山を踏み分けて道を開いた。そして、烏が向かう先を尋ね、仰ぎ見ながら追いかけ、ついに、菟田の下県に到着した……。そのとき、日臣命を褒めて、お命じになった。『おまえは、忠実で勇敢である。そのうえ、よく道案内の功績も立てた。それゆえ、おまえの名を改めて、道臣とする』」。これで、その名の意味が分かる。〔延喜六年の、日本書紀の講義を終えた宴の歌では、この命について、「勇敢で正しい道の、その立派さからと、私にこの名も君がお授けくださった」と詠んでいる。第二句と第三句の境目に、「みちのおみ」という名を詠み込んでいる。「おみ」を「おむ」と詠んでいるのは、音便である。〕また、「初め、天皇が、皇位の基礎をお築きになった日に、大伴氏の遠い祖先、道臣命は、大来目部を率い、ひそかな計略を承り、巧みに、風刺の歌と、表の意味の裏に意図を隠した言葉とによって、悪い勢力を払い去った。隠し言葉を使うことは、ここに始まった」とある。〔継体天皇の巻の詔には、「かつて、天皇は、道臣の申し述べた計略をお定めになり、それによって、神日本の国は栄えた……」とある。〕また、「二年、春二月、甲辰が月の初日に当たる、その翌日の乙巳、功績を定めて、褒美を与え、道臣命には、宅地を賜って、築坂邑に住まわせ、特別に寵愛なさった」とある。〔「築坂」は、垂仁天皇の巻に、「倭彦命を、身狭の桃花鳥坂に葬る」と見え、また、檜隈天皇を、「大倭国、身狭の桃花鳥坂上陵に葬る」と見える、それと同じ所である。高市郡にあると、『諸陵式』に見え、橿原の都から、遠くない地である。〕さて、『姓氏録』の大伴宿禰の条に、「高皇産霊尊の五代の子孫、天押日命」とあることと、高志連の条に、「高魂命の九代の子孫、日臣命」とあることとを、合わせて考えると、道臣命は、天押日命の孫の孫である。〔また、大伴大田宿禰の条には、「高魂命の六代の子孫、天押日命」とある。こちらによれば、四代の子孫である。天押日命のことは、『伝』巻十五に見える。〕
【宣長の注釈】大久米命は、皇孫がお降りになったとき、大伴連の祖先、天忍日命と並んで、御前にお立ちになった、天津久米命の子孫である。今度も、また、遠い昔のとおりに、このように、道臣命と並んで、大きな功績をお立てになった人である。それなのに、『日本書紀』では、「日臣命が、大来目を率いて……」、また、「道臣命に命じた。おまえは、大来目部を率いて……」などと、道臣命の下に属する人のように記されているのは、どうしたことか。これは、少し後の子孫の時代になると、大伴氏だけが栄え、この久米直氏は、ひどく衰えて、ついに、大伴氏の配下に属するようになったのを、『日本書紀』は、その、衰えた子孫の時代の状態によって記したものとしか思えない。〔それほど大きな功績のあった、この臣の命を、ただ「大来目」とだけいい、「命」とさえ書かず、また、「部」とするなど、一人の人物の名とさえ受け取れない。この命にとっても、その氏族にとっても、たいへん残念な扱いではないか。〕このことは、上巻〔『伝』巻十五〕で、詳しく論じた。参照して、考えていただきたい。さて、「くめ」という名の意味は、さらに、後で述べる。さて、『日本書紀』の、あの道臣命に築坂の宅地を賜った事の次に、「また、大来目を、畝傍山から西の、川辺の地に住まわせた。今、来目邑というのは、これが由来である」とある。〔「来目邑」は、『和名抄』に、大和国、高市郡、久米郷があり、これである。『延喜式』には、久米御県神社もある。この村は、橿原の都に、たいへん近い。今も、久米村、久米寺などがある。「川辺」とあるのは、雄略天皇の巻に、「来目水」とある、これなのだろう。さて、伯耆・美作・伊予などに、「久米郡」という郡がある。そのほかにも、諸国に、この地名が多くあるのは、みな、もとは、この氏族から出たのである。〕『続日本後紀』には、「伊予国の人、浮穴直千継……千継の祖先は、大久米命である」とある。〔伊予国では、浮穴郡と並んで久米郡があるのも、理由があったのだろう。このことは、『伝』巻十五でもいった。〕
【宣長の注釈】「罵詈」は、「のりて」と読むべきである。『万葉集』巻十二には、「柵越しに麦を食う馬のように、叱られても」、また、「あなたのために、叱られていると」、巻十六には、「若い娘たちに、悪口をいわれずに済むだろうか」などとある。「のる」とは、もとは、詔を宣べることなどをいうのを、また、このように、人を辱めていうことにも使ったらしい。
【宣長の注釈】「伊賀」。これは、ほかに例もなく、たいへん意味を取りにくい言葉だが、試みに、あえて説明すれば、次のようになる。『伊賀国風土記』の伊賀郡の箇所に、「猿田彦神の娘、吾娥津媛命……この神が治め、守る国であることによって、吾娥郡という……後に伊賀と改めた。吾娥の音が変化したのである」とある。〔同じ国の、延長の風土記には、「伊賀国の、もともとの、この呼び名は、伊賀津姫が領有していた郡であることによる。そこで、郡の名とし、また、国の名とした」といっている。〕これによれば、「いが」は「あが」と通じる。さて、「おのれ」とは、自分をいう呼び方なのに、また、相手を見下していうときにも使う。〔今の世でも、そうである。『宇治拾遺物語』には、「今度、私の命の代わりになれ、おのれらよ」などとある。〕「おれ」とは、相手を見下していう呼び方だったのに、〔今の世では、自分のことを、そういう。〕これらの例から見ると、「あが」というのも、自分のことをいうのを、また、相手を見下していうときにも使ったのだろうか。これも、今の世に、同じことがある。『日本書紀』で、これを「虜爾」と書いているのも、その意味なのだろうか。〔師は、もしかすると「厳しく」の、字が抜けたのかといわれたが、よいとは思えない。〕皇極天皇の巻には、「蘇我大臣蝦夷……怒って、ののしり、いった。『ああ、入鹿よ……おまえの命は、危ういのではないか』」とある。
【宣長の注釈】「大殿内」。この「殿」の字を、諸本では、誤って「麻」と書いているのを、延佳が改めたのは、当たっている。それで、ここも、それに従った。『万葉集』巻十三には、「大殿を造り申し上げて」とある。
【宣長の注釈】「意礼」が、人を見下して、ののしる呼び方であることは、上巻〔『伝』巻十、五十七葉〕で述べたとおりである。〔『宇治拾遺物語』には、「やい、こら、おまえらよ」、また、「おまえは、何をいうのだ」などともある。〕
【宣長の注釈】「明白」は、「あかしまをせ」と読むべきである。「あかす」は、隠れたことを明らかにいうことである。〔今の世でも、その意味でいう言葉である。〕ここは、言葉でいうのではないが、その様子を明らかにするのは、いうことと同じ趣旨である。〔「白」の字は、自分の罪を、自ら明らかに告げることに使う。後の世にいう「白状」などが、それである。しかし、ここは、必ずしも、その意味で書いたのではないだろう。ただ「まをせ」という言葉に使っただけなのだろう。また、「明白」と字が続いていることから、師は、この二字を「いちじろし」と読まれたが、よくない。〕
【宣長の注釈】「仕え申し上げようとする様子」とは、今の兄宇迦斯のしわざは、内心では危害を加えようとしながら、表向きには、お仕え申し上げるように見せているので、こちらからも、言葉では、その表向きのしわざによって、このようにいうのであって、裏の意味は、「おまえは、その押しつぶす仕掛けに打たれて死ね」ということである。〔今の世の人の言葉にも、このような言い方は、よくある。〕その仕掛けに打たれて死ぬことは、つまり、危害を加え申し上げようとする様子を、自分で明らかにするのである。
【宣長の注釈】「握横刀之手上」は、『日本書紀』の、この巻〔五瀬命の段〕に、「撫剣、これを、つるぎのたかみ、とりしばる、という」とある、そのように読むべきである。〔ただし、「る」は、言葉の言い切りの形で注した例であって、あちらも「り」と読む所である。ここの場合も、同じである。〕神代の巻に「急握剣柄」、また、この巻に「案剣」とあるなど、みな、そう読んでいる。「手上」のことは、『伝』巻五〔七十六葉〕で述べた。「とりしばる」は、あの「急握」とある字の意味であって、強く、しっかりと握ることをいう。〔「撫剣」と書いたのは、中国の漢文風であって、この言葉の意味からは、隔たりがある。〕
【宣長の注釈】「矛由気」は、『日本書紀』の崇神天皇の巻に、「豊城命が、夢の内容を天皇に申し上げて、いった。『自分が、御諸山に登り、東を向いて、八度、槍を動かし、八度、刀を振るいました』」とある。さて、ここに「由気」と書いたのは、音を表す仮名なのだから、「気」の下に「し」という言葉を添え、名詞として読むのは誤りである。動詞として読むべきである。〔およそ、音を表す仮名の下に、言葉を読み添えることはない。また、ここは、前の「握」も、後の「矢刺」も、動詞なのに、これだけを名詞として読むべきではない。あの『日本書紀』の「弄槍撃刀」も、「ほこゆけ、たちかく」と、動詞で読むべきである。〕さて、「ゆけ」という言葉は、ほかには見えないので、どのような動作なのか、はっきりとは分からない。〔言葉の活用は、「うけ・かけ・つけ・しりぞけ・よけ」などの例によれば、「ゆけ・ゆく・ゆくる」と活用するのだろうか。〕当面は、あの「弄槍」によって、槍を動かす動作として理解しておくべきである。
【宣長の注釈】「矢刺」は、上巻〔『伝』巻十、三十葉〕に見える。『日本書紀』には、「弓を引く」とある。
【宣長の注釈】「追入」は、あの押しつぶす仕掛けを設けてある殿の中へ、兄宇迦斯を追い込むのである。
【宣長の注釈】「所作」は、「はりおける」と読むべきである。『日本書紀』にいう。「天皇は、すぐに道臣命を遣わし、その反逆の様子を調べさせた。そのとき、道臣命は、人を害そうという心があることを、詳しく知って、たいへん怒り、責め、ののしって、いった。『こら、おまえが造った家には、おまえが自分で入れ』。〔「爾」は、「おれ」という。〕そして、剣の柄に手をかけ、弓を引き、迫って、せき立てて、中に入らせた。兄猾は、天に対して罪を犯しており、言い逃れのしようがなく、ついに、自分で仕掛けを踏み、押しつぶされて死んだ」。〔「虜爾」を、もとの本では、「いやしきやつこ」と読んでいる。ここでは、この『古事記』によって、「いが」と読んだ。さて、「天に対して罪を犯した」というのは、例の、中国流の考え方による飾り立てである。このような事について「天」をいうのは、古い日本の考え方ではない。それで、この「天」の字を「あめ」と読まず、「きみ」、つまり天皇、とさえ読んでいるのは、古い時代の道を、よく理解しているのである。〕
【宣長の注釈】「控出」とは、押しつぶされている、その下から、引きずり出すのである。
【宣長の注釈】「斬散」は、「きりはふりき」と読むべきである。上巻の、八俣遠呂智の段に「切散」とあるのも、そう読んだ。ここは、水垣宮の段に、「その兵士たちを切り散らした。それで、その地を、はふりその、という」とあることによる。この言葉については、その所で述べる。
【宣長の注釈】「血原」。この地名は、今は聞かないので、どの辺りなのかも分からない。ただ、宇陀郡にあると理解すべきである。〔『大和志』に、上田口村にあるというのは、疑わしい。およそ、あの書が、昔の跡を、どこそこと断定していうのには、根拠のないことが多い。〕『日本書紀』には、「そのとき、その死体を並べて、切り刻んだ。流れる血が、くるぶしを没した。それで、その地を、菟田の血原、と名付けた」といっている。この『古事記』には、血が流れたことはいっていないが、「切り散らした」というので、当然、血のことは含まれている。
【古事記本文】さて、その弟宇迦斯が献上した御饗の食べ物は、すべて、その御軍の兵士たちにお与えになった。このとき、次のように、お歌を詠まれた。
【古事記本文】宇陀の、高い囲いの中に、シギを捕る罠を張った。
私が待つ、そのシギはかからず、
立派な、大きな鯨がかかった。
前の妻が、獲物を欲しいといったなら、
立つソバの木の実のように、長く切った肉を、
いくらでも、薄く切ってやれ。
後の妻が、獲物を欲しいといったなら、
イチサカキの実にちなんで、大きく切った肉を、
いくらでも、薄く切ってやれ。
歌のあとに、こう声を上げる。
ええー、しやこしや。
〔これは、「いごのふぞ」という声である。「伊碁能布曾」の五字は、音を表す。〕
ああー、しやこしや。
〔これは、あざけり笑う声である。二つ重ねた「疊」と「阿」は、いずれも、一つの声を長く引く。〕
【古事記本文】さて、その弟宇迦斯は、宇陀の水取たちの祖先である。
【宣長の注釈】「大饗」は、「おほみあへ」と読むべきである。〔天皇へ献上する御饗だから、「大」というのである。後の世にいう「大饗」のことではない。あちらは、規模の大きな饗宴ということで、大饗というのである。〕
【宣長の注釈】「悉」とは、御饗の食べ物を残さず、ということかもしれないし、また、御軍の兵士たちを、一人も漏らさず、ということでもあるだろう。
【宣長の注釈】「此時」とは、この御饗の食べ物をいただき、天皇の軍の兵士たちが、酒宴を楽しんでいる、そのときである。
【宣長の注釈】「歌曰」は、『日本書紀』の読みの注によって、「みうたよみしたまはく」と読むべきである。この歌は、この宴で、御軍の兵士たちが歌ったのだが、天皇がお作りになったお歌なので、『日本書紀』で「御謡」というのである。『日本書紀』にいう。「やがて、弟猾が、大いに牛肉と酒とを設け、天皇の軍をねぎらって、もてなした。天皇は、その酒と肉とを、兵士たちに分けてお与えになり、お歌を詠まれた。謡は、うたよみ、という」。〔「牛肉と酒とを設けた」と書いたのは、中国の書に倣って飾り立てた文章である。外国では、このような饗宴などでも、牛肉を主な料理とするが、日本では、昔も今も、まったくないことである。天武天皇の御代に、牛馬の肉を食べることをお禁じになったのは、少し時代が下って、民間などでは、食べた者もいたのだろうが、大昔には、まったく、そういうことはない。たとえ、食べた者が、まれにはいたにしても、このような天皇への饗宴などに用いたことは、決してない。決して、事実のない飾りの文章に、惑わされてはならない。〕
【宣長の注釈】「うだの」は、三音の句である。〔次とつなげて、七音の句とするのは誤りである。〕
【宣長の注釈】「多加紀爾」は、契沖が、「高城に」である、という。そのとおりである。〔「高樹に」とするのは誤りである。〕「き」とは、必ずしも、後の世の城のようにしたものではないが、仮に、垣を結い巡らせて、構えた場所などをもいう。〔稲を積んでおく所を「いなき」、馬を住まわせる所を「まき」ということからも分かる。〕「たかき」は、高津宮の段の歌に、「みもろの、その高城にいる」とあり、『日本書紀』の顕宗天皇の巻の歌にも、「おとのみの、その城にいる」などとある。
【宣長の注釈】「志芸和那波留」は、「シギを捕る罠を張る」ことである、と契沖はいっている。シギを捕ろうとして、罠を張っておくことをいう。「しぎ」は、『和名抄』に、「『玉篇』にいう、鴫は野の鳥である。『楊氏抄』に、しぎ、といい、一名、田鳥、とある」という。『日本書紀』〔神代上巻〕には、「鴫は、しぎ、という」とある。『万葉集』巻一には、「旅にあって、もの恋しいとき、シギが鳴くことよ」、巻十九には、「春に備えるころ、もの悲しいとき、夜が更けて、羽ばたいて鳴くシギは、誰の田に住むのか」とある。「わな」は、『和名抄』の狩猟具に、「蹄。『周易』にいう、蹄は、兎を捕るためのものである……。師の説に、わな、とある」と見え、『日本書紀』〔神代下巻〕には、「そのとき、川の雁が、罠にかかり、難儀していた」と見える。『字鏡』には、「罥。つなぐこと、掛けること、わな」と見える。〔ここに見える「罠」は、「罥」の字で、羂と同じ意味である。〕『万葉集』巻十四には、「足柄の、あちらこちらに仕掛ける罠の……」とある。さて、この句は、兄猾が、仕掛けを設け、御子を落とし入れ申し上げようとした、小さな策略を、シギを捕ろうと、罠を張っておくことにたとえて、お詠みになったのである、と契沖はいっている。
【宣長の注釈】「和賀麻都夜」は、「我が待つ」で、シギが、罠にかかるのを待つことである。「や」は、「高く行くや、隼別」〔高津宮の段の歌〕、「打つや、霰」〔遠飛鳥宮の段の歌〕、「咲くや、この花」〔『古今集』の序〕などの「や」と同じで、「待つや、シギは」と、次の句へ続く。〔この句を、前の句につなげて理解するのは誤りである。前の句は、「張る」と、そこで切れている。〕「我が」は、罠を張っている人が、自分をいうので、「自分が待つシギは」というような意味である。〔それゆえ、この句は、後へ続くというのである。もし、前へつなげて見ると、「我」という言葉の意味が通らない。また、「我が」を、契沖が、兄猾の「我」である、というのは、少し違う。たとえている意味は、兄猾に当たるが、言葉そのもののうえでは、そうではない。〕
【宣長の注釈】「志芸波佐夜良受」は、契沖が、「シギはかからない、ということである。『は』と『や』とは、音が入れ替わり、同類の響きで通じるので、『さはる』を『さやる』という。『万葉集』巻五には、『百日もかからない松浦への道を、今日行って、明日には帰って来ようものを、何が妨げるのか』と詠んでいる。さて、ここの『障る』は、『罠にかかる』ことである。俗に、物に触れることを『さはる』というのと同じである」といっている。この説のとおりである。また、『万葉集』巻五には、「子どもたちに妨げられて、食べられない」ともある。
【宣長の注釈】「伊須久波斯」は、契沖が、「『勇細』である。『さ』と『す』とは、音が通じる。鯨を『いさな』といい、『万葉集』には『勇魚』と書く。『くはし』は、『なぐはし・はなぐはし・かぐはし』などと同じ類いで、褒めたたえる言葉である。そこで、鯨といおうとして、その前に、まず、それをたたえる言葉を置いたのである」といっている。この説のとおりである。さらに、師の『冠辞考』の「いすくはし」と、また、「いさなとり」の条に詳しい。〔『万葉集』で、「いさな」を「鯨魚」と書いていることを思うと、鯨そのものを「いさな」ともいったのだろう。『壱岐国風土記』で、「陳伏」という地名の由来を述べるところに、鯨を、俗に「いさ」ということが見える。〕
【宣長の注釈】「久治良佐夜流」は、「鯨がかかる」であって、シギを捕る罠に、鯨がかかったというのである。このように、たとえてお詠みになった意味は、思いも寄らない大軍が来て、小さな策略が、当て外れになったということである。『和名抄』には、「『唐韻』にいう、大きな魚の、雄を鯨、雌を鯢という。『淮南子』にいう、鯨鯢は、魚の王である。和名、くぢら」と見える。さて、シギの小ささと対比していうのならば、大きく、猛々しい物は、鳥にも獣にもあるはずなのに、罠にはふさわしくない、海の物である鯨を、わざわざ歌にお詠みになったのは、ただ、大きな物を選び出されただけではない。これは、この御饗の食べ物の中に、シギと鯨とがあったことから、その物に寄せて、お詠みになったのである。〔そうでなければ、罠に鯨というのは、ふさわしくない。〕さて、この句で、『日本書紀』は、「流」を「離」としている。「流」のほうが、優れている。
【宣長の注釈】「古那美賀」は、「前の妻が」である。『和名抄』には、「前妻、和名、もとづめ。一名、こなみ」とあり、『字鏡』には、「𡝗〔女偏に君〕、こなみ」とある。〔「𡝗〔女偏に君〕」の字は、分からない。〕
【宣長の注釈】「那許波佐婆」は、「魚を欲しいといったならば」である。「乞はば」を「こはさば」というのは、古い言葉の形である。〔「立つ」を「たたす」、「行く」を「ゆかす」などというのと、同じ言い方である。〕さて、魚のことをお詠みになっているのは、御饗の食べ物によるのである。〔この句は、延佳も契沖も師も、「汝が子は」とし、「さば」については、契沖は、読みを調えるために添えたものだといい、師は、歌う際に添える言葉だといわれたが、どれも、よくない。まず、「子」の「こ」を表す仮名には、『古事記』中では、「古」の字だけを使い、「許」を使った例がない。このことは、『伝』の初めの巻で詳しく述べたとおりである。『日本書紀』でも、「子」には、「古・胡・固」などの字だけを使っているのに、ここには「居」の字を書いている。これが、「子」ではない証拠である。また、「汝が子は」としては、後の言葉も、意味を取りにくい。誰もが、この句を解き違えたために、その後も、はっきりしないのである。私も、長い間、理解できず、いろいろと思い巡らせていたのを、近ごろ思い当たり、「魚を乞うならば」と定めた。〕
【宣長の注釈】「多知曾婆能微能」は、契沖が、「立つソバの木の、実の」ということか、といっている。そうだろう。「たち」は、『日本書紀』の神代の巻に、「門の前に生え立つ、神聖な桂の木」とある、その読みの注に、「所植は、たてる、という」とあるのと同じ意味である。およそ、草木は、立っている物なので、「たち何々」という。「木立」などというのも、同じである。〔倭建命の段の歌に「うゑくさ」、『万葉集』巻三に「殖木」、また、「殖子水葱」、巻十四にも「うゑこなぎ」、また、「うゑ竹」などとある、その「うゑ」も、人が植えたということではなく、生え立っているという意味なので、「たち」と同じ意味である。〕「そば」は、『和名抄』に、「『唐韻』にいう、柧棱は木であり、また、四方に角のある木である。和名、そばのき」とある。〔漢字の辞書を調べると、「柧棱」は木の名ではなく、木材の角である。それなのに、この字を、ソバの木に当てたのは、物の稜や角を「そば」ということから、混同した誤りである。〕『日本書紀』の仁徳天皇の巻に、皇后のお歌として、「簡波区莽珥、多知瑳箇帰屢、毛々多羅儒、椰素麼能紀破」、つまり、木々の茂る中に、生え立って繁る、百に足りない八十葉の木は、とあるのも、この木なのだろうか。〔谷川氏は、これは、「やはず」という木で、今、「矢筈」、漢名で「鬼箭」という木である、といっている。どれなのだろうか。また、「八杯棱」か、または、「八十葉の木」か、詳しくは分からない。〕また、『枕草子』の「木は」という段に、「ソバの木。名前は、少し、ふさわしくない感じがするが、花の咲く木々が、すべて散って、一面、緑になった中に、季節にも関係なく、濃い紅葉の色が艶やかに、思いも寄らない青葉の中から、差し出しているのが、珍しく、おもしろい」といっている。〔「はしたない感じがする」とは、「そば」という名のことである。〕さて、これは、どの木なのか、まだ、確かには考えられない。〔今、「かなめ」という木を、山里の人などは、ソバの木ともいっている。『枕草子』のいうことには、よく合う。〕さて、この木は、どこの山にも多く、三月ごろには、若葉が赤く、艶やかな物なので、この句は、次の「なけく」を導く序である。七音、一句の序は、たいへん珍しい。〔古い歌を調べると、およそ、序は、五音・七音の二句、あるいは、五・七・五の三句などなら、普通だが、一句で七音というものは、あまり見当たらない。一句のときは、みな五音である。また、三音・四音のものは多いが、それは、五音の句と同じ扱いである。〕
【宣長の注釈】「那祁久袁」。この句は、理解しにくい。〔契沖も、まだ詳しく分からない、といっている。〕しかし、あえて、試みにいえば、「長けくを」、長いものを、なのだろうか。「長」を、ただ「な」とだけいう例は、風の神を、『日本書紀』では「級長津彦命」と書くのに、この『古事記』には、「志那都比古神」とあるのが、それである。〔また、「中」を、ただ「な」とだけいうのは、『日本書紀』の神功皇后の巻にある、「淳中倉」という地名を、『摂津国風土記』では、「沼名棕」としている。また、継体天皇の巻には、「坂中井。中は、な、という」とあり、天武天皇の巻には、「淳中は、ぬな、という」とある。これらも、今の例としてよいだろう。〕「けく」は、「き」というようなものである。古い言葉には、「き」を「けく」ということが多い。〔『古今集』に、「世の中の、うけくに飽きた」というなどは、「うき」、つらいこと、であって、「き」を「けく」というのである。また、「惜しけくも、今はない」などというのは、「惜しく」であって、「く」を「けく」というのである。どちらも、『万葉集』などに、例が多い。〕ただし、序に出る「そば」も、今、どの木なのか、確かには知らないので、その実も、どのような形をしているか、分からない。しかし、この句を「長けく」とするならば、その実も、ひとまず、形が長い物として、「長い」を導く序とすべきである。さて、「長い」は、鯨の肉を、長く切ったものをいう。〔鯨は、大きな魚なので、その肉は、そのままでは置けず、ちょうどよい大きさに切り分けておく物だから、その、長く切ってある肉を、というのである。師は、この句は、「すくなけくを」の、「すく」の二字が抜けたのである、といわれた。確かに、後の「おほけく」と対にするならば、そのようではあるだろう。しかし、『日本書紀』も、この『古事記』と同じで、「すく」の字がないので、従いにくい。〕
【宣長の注釈】「許紀志斐恵泥」の「こきし」は、後の「こきだ」と同じ言葉である。〔『日本書紀』では、二つとも「紀」を「気」と書いている。「気」は「け」を表す仮名で、『日本書紀』でも、「け」にだけ使っているので、あちらは「け」と読むべきかとも思う。しかし、およそ、『日本書紀』の仮名は、呉音も漢音も使い、一字を、三つ、四つの音にも通わせているので、この字も、漢音を採り、ここは「き」と読むべきである。〕延佳が、「幾許」と注しているのがよい。それは、『万葉集』巻二に、「御笠山の野辺を行く道は、こんなにも、茂り、荒れていたのか。長い間ではないのに」、巻二十に、「何と豊かなことだなあ〔こきばくも〕」、巻十四に、「こんなにも愛しい〔ここば〕」、また、「こんなにも愛しい〔ここだ〕」、巻十五に、「どうして、こんなにも眠れないのだろう〔ここば〕」、巻十七に、「何としきりな恋だろう〔ここだくも〕」、巻十八に、「こんなにも……〔ここだくに〕」などとある言葉である。〔また、巻九の十八丁には「そこらくに」、巻十七の三十四丁には「そこば」、巻二十の二十五丁には「そきだくも」とある。〕どれも、同じ言葉なのを、このように、さまざまにいうので、「こきし」ともいえるはずである。さて、右の言葉を、意味を表す漢字では、「幾許」と書いたものが、各巻に、たいへん多い。〔みな、右の、仮名書きの例によって読むべきである。〕そもそも、この言葉は、もとは、物の数が多いことだが、「あまた・さはに」などというのとは、少し違い、「どれほどだろうか」ということなので、「幾許」と書くのである。〔『万葉集』巻四の三十七丁に、「幾許、思ったことだろう……」とあるのは、「いかばかり」と読むべきである。巻五に、「いかばかり」と、仮名で書いたものがある。また、巻八の五十八丁には、「愛しいあなたと、二人で見ていたら、どれほど、この降る雪が、うれしいことだろう」とある。〕さて、その「どれほどだろうか」というのは、数が多いことからいう言葉を転じて、程度の甚だしい意味にもいうのである。〔「ここだ恋しい」などというのは、「どれほど恋しいことか」ということで、たいへん恋しい、という意味になったのである。これによって、どの場合も、準じて理解すべきである。〕さて、また、まさしく、数の多いことにいうのは、『万葉集』巻五に、「あなたの家に、雪が降るのかと、見えるほどに、こんなにも、散りまがう梅の花よ」というのが、それである。〔『源氏物語』などで、「ここら」、また、「そこら」などというのは、みな、まさしく、数が多いことにいっている。〕さて、ここの「こきし・こきだ」は、「いくらも」という言葉で、そのようにいうのは、いくらでも多く、という意味である。
【宣長の注釈】「斐恵泥」は、中国の書、『礼記』〔礼運篇〕に、「擗豚」、〔注には、豚の肉を、打ち、切り分けること、とある。〕また、〔少儀篇に、〕「牛と羊と魚との、生の肉を、聶して、切って、膾とする」とある、その「擗」や「聶」を、昔から「ひゑて」と読んでいる。〔およそ、中国の書の、古い訓読には、古い日本語の残っていることが多い。〕物を「へぐ」というのも、「ひゑぐ」が縮まった言葉なのだろう。肉を、薄く、小さく切ることである。〔「聶」は「䐑」と同じで、肉を薄く切ること、と、漢字の辞書に見える。〕〔『日本書紀』の神代下巻に「竹刀」とあり、『和名抄』に、「『日本紀私記』にいう、竹刀、あをひえ」とあるのは、「衣」が「え」の音を表す仮名なので、ここの「ひゑ」とは、別の言葉なのだろうか。ただし、「うるはし」を、『字鏡』で「于留和之」と書くなどの例もあるので、「斐恵」を、誤って「比衣」と、『私記』で書いたこともありうる。これは、どちらでもよいだろう。〕「ね」は、そうせよとお命じになる言葉で、「ひゑよ」、薄く切れ、というようなものである。
【宣長の注釈】「宇波那理賀」は、「後の妻が」である。『和名抄』には、「後妻、和名、うはなり」と見える。〔同じ書に、「前の夫、したを」「後の夫、うはを」ともあるので、「うは」は、後という意味なのだろう。およそ、いろいろな事で、前のものを「した何々」といい、後のものを「うは何々」という類いが多い。〕『字鏡』には、「嫌、うはなり」とある。〔「嫌」の字は、分からない。〕『大和物語』にも、「こなみ・うはなり」ということがある。『檜垣嫗集』には、「船に乗せる支度などをしているうちに、男も来た。この、後の妻と前の妻とは、一日一夜、いろいろな事を語り合い、早朝、船に乗った」とある。また、『日本書紀』では、「嫉妬」を「うはなりねたみ」と読んでいる。〔これは、もとの妻が、後の妻をねたむことをいうのである。〕
【宣長の注釈】「那許波佐婆」は、前のものと同じである。さて、前の妻と後の妻とは、シギを捕る罠を張った者の、家にいる妻のことである。〔これは、ただ、たとえのうえだけのことである。兄宇迦斯の妻に当てて、いったのではない。〕必ずしも、二人ではないのに、仮に、前の妻と後の妻との二つにいうのは、昔の長歌の、普通の歌い方である。さて、夫が、狩りや漁に出ると、家の妻は、朝夕の食事のおかずにするため、その獲物を待っているものなので、「魚を欲しいといったならば」と、お詠みになったのである。
【宣長の注釈】「伊知佐加紀微能」は、田中道麻呂が、「今、近江の彦根の辺りに、『ちさかき』という木がある。これなのだろう。尾張では『しらはげ』、美濃では『ひはかき』という。黒く小さな実が、たいへん多くなる木なので、『おほけく』を導く序に、よく合う」といっている。この説がよい。その木は、『和名抄』に、「柃。『漢語抄』には、ひさかき」とある、それである。〔「柃」の字を当てるのが正しいかは、まだ詳しく分からない。〕今も、「ひさかき」という。伊勢では、「みさかき」とも「ひさこ」ともいう。北の国々では、この木を「さかき」というそうである。どこの山にも、多い木である。〔これには、大小二種類があって、実が多いのは、大きいほうである。小さいほうは、たいへん低く、群がり生え、春の若葉の色が、たいへん赤い。契沖は、「厳龍眼木か」といい、師も、それによって、「昔、さかき、といったのは、多くは、かしであり、『万葉集』に、『かしの実が独りであるように』と詠むとおりに、『大きい』を導く序である」といわれたが、どうだろうか。昔、「いつかし」とはいったが、「いつさかき」といった例はない。また、この御歌には、「厳」という意味にする理由がない。また、「かしの実の独り」とはいうが、その実は、大きな物ではないので、「大きい」を導く序とするのも、どうだろうか。〕
【宣長の注釈】さて、この句は、次の「おほけく」を導く序である。「大きい」と「多い」とは、もとは同じ言葉だったのである。「意富祁久袁」は、「大きいものを」というようなものである。〔昔は、「少ない」と「小さい」とも、通わせていい、「小さい」ことを「すくな」という例も多い。〕「大きい」ことも、「おほけく」といったのである。さて、あのヒサカキの実は、小さな物なので、「大きい」を導く序には合わないようだが、言葉が同じであることから、序は、「多い」という意味につなげたのだろう。〔前の「なけく」を、ひとまず、「長けく」と定めたので、こちらも、「大けく」とした。もし、あの「なけく」も、別の意味だったならば、それによって、こちらも、「多けく」なのかもしれないが、分からない。それは、後の人の考えを待つのである。〕さて、ここは、鯨の肉を、大きく切ってあるものを、というのである。
【宣長の注釈】「許紀陀斐恵泥」は、「いくらも、薄く切れ」である。「こきだ」のことは、前に述べたとおりである。およそ、同じ言葉を、もう一度いうときに、少し言い方を変えることは、昔の歌に多い。〔上巻の八千矛神のお歌で、前には「あるとお聞きになって〔ありときかして〕」といい、後には「あるとお聞きになって〔ありときこして〕」という。高津宮の段の長い御歌では、前には「すがはら」とあって、後には「すげはら」とある、その類いである。ほかにも多い。〕それで、前では「こきし」、ここでは「こきだ」と、変えてお詠みになったのである。〔師は、次のようにいわれた。「前も、ここも、ともに『こきしだ』だったのを、前では『だ』を、ここでは『し』を、互いに落としたのである。さて、『こきしだひゑね』とは、実を、こき落とし、しなわせよ、というのである。『しだ』と『しな』とは同じで、『ひゑ』を縮めると、『へ』になるからである。さて、このようにいう意味は、前の妻の小さい子も、後の妻の大きい子も、みな、いたぶって殺せ、というのである」。しかし、この説は、たいへん無理があるうえに、『日本書紀』も、この『古事記』と同じく、「居気辞・居気儘」となっているので、信じにくい。また、この説のとおりでは、鯨を歌に出した理由が、何もないように思える。〕
【宣長の注釈】この御歌の、全体の意味は、「シギを捕ろうとして、罠を張ったところ、思いも寄らない、大きな鯨がかかったぞ。家の妻が、獲物を待ち望んで、欲しいといったら、この、長く、大きい肉を、欲しがるだけ、いくらでも多く、薄く切って与えよ」と、お詠みになったのである。その鯨の肉が、あり余ることに、天皇の軍の、盛んで大きいことをたとえ、どのような強敵に出会っても、足りなくなることなく、余裕があるものを、小さな策略で、害し申し上げようとした、その、おこがましさよ、と、兄宇迦斯のしわざを、見下し、あざけっておられる、裏の意味がある。さて、『日本書紀』には、この御歌の次に、「これを、来目歌という。今、音楽の役所で、この歌を演奏する者は、なお、手の動きに大小があり、声にも大きな所と細かな所とがある。これは、昔の、残された方式である」とある。〔「手量」とは、舞の手の動く大きさである。「大小」は、その手を、大きく動かす所と、小さく動かす所とがあることをいうのである。〕
【宣長の注釈】「疊々」は、詳しくは分からないが、あえていえば、「盈」の草書の形を、「疊」と見誤ったのだろうか。「盈」を、音を表す仮名に使った例はないが、〔後の世では、平仮名に使う。その形は、「疊」の草書と、まったく同じである。〕言葉によっては、ほかに例のない字を、仮名として使った所が、この『古事記』にも、ときどきある。ここは、とりわけ、普通の言葉でもないので、そのような仮名も使ったのだろう。それで、ひとまず、「盈」の字と定め、「ええ」を表す仮名とする。さて、この言葉は、今、俗に、醜く、悪い事、または、汚らしい事などを見聞きして、「ええ」という、それである。嫌い、遠ざける、ため息の声である。ここも、それと同じで、兄宇迦斯の、おこがましく、反逆的なしわざを、辱め、憎んだ言葉である。〔延佳本と、もう一本でも、「亞々」と書くのは、理解できない。なぜかといえば、「ああ」では、次の「阿々」と同じ言葉になるのに、「これは、いごのふぞ」「これは、あざけり笑うものである」と、別の事として注しているのが、つじつまが合わないからである。〕
【宣長の注釈】「音引」とは、二つの「盈」を、別々に読まず、ただ一つの「盈」を、長く声を出すように引いて読め、という注である。〔「阿々」の下にあるのも、同じである。〕
【宣長の注釈】「志夜」は、『平家物語』に、「その、けしからぬ冠を、打ち落とせ」、また、「その憎い面を、むんずと踏んだ」、『宇治拾遺物語』に、貫之が、東国の人に似せて詠んだ歌として、「ああ、光ることよ。虫の、あの尻に、火がついて、小さな人魂とも見えているなあ」、『今昔物語』に、「その面は、猿に似て」、また、「その足を、へし折ってやるものを」、また、「その衣の襟をつかんで、引き立てろ」などとある、その「しや」と同じで、物を見下し、あざける言葉である。〔このほかにも多い。今の俗な言葉にも、「しやつつら」ということがある。〕さて、右に引いた、中古の言葉では、「車・者」などの漢字の音のように、縮めて「しゃ」と呼んだらしい。〔「虫の、しや尻に」という句が、必ず、七音であるはずだからである。〕大昔には、そのような言い方はないので、「し」と「や」とを、はっきり、二音に読むべきである。
【宣長の注釈】「胡志夜」は、「をこしや」の、最初の「を」を省いたもので、「をかしや」というのと同じである。〔「をかし」というのは、つまり、「をこし」である。〕「をこ」は、「をこがまし」などの「をこ」である。この言葉は、軽島宮の段のお歌に見える。その所〔『伝』巻三十二、七十一葉〕で、詳しく述べる。「しや」は、「喜ばしいや、悲しいや」などの「しや」で、「や」は、感情をこめる言葉である。〔前の「しや」とは、少し違う。〕また、『日本書紀』に「時夜場」とあること〔後で引く。〕によれば、「場」と「胡」とは、口の開き方の違いで通じる、特に近い音なので、「胡」を前につけて、「しやこ」と読み、後の「しや」は、前の「しや」を、もう一度、重ねていったもの、としてもよい。それも、悪くない。そのときは、「こ」は、前の「しや」に添えた言葉である。
【宣長の注釈】「伊碁能布曾」。この言葉は、たいへん、理解しにくい。〔およそ、このように、仮名で書いてあるのは、昔から、その意味が、詳しく分からないため、言い伝えて来た言葉のままに記したものが、ときどきあるのである。『日本書紀』の神功皇后の巻に、「あづなひの罪」とあり、また、欽明天皇の巻に、「嘆いて、くすにじり、といった。これは、新羅の言葉で、詳しくは分からない」とある、その類いである。ここは、特に、前の言葉に注を加えた言葉なのだから、その意味が分かっていたのならば、このように、仮名で書いただろうか。そうであれば、このような言葉を、はるか後の世で、そのような意味なのだ、などと注するのは、かえって、原文を損なうことかもしれない。しかし、そうはいっても、黙ったままでいるべきでもないのである。〕それでも、例によって、あえていえば、「いご」は、前の文に見えた「いが」の音が変わった言葉で、「のふ」は、賭け物を出すことを「つくのふ」という類いの「のふ」であって、〔賄賂を贈ることを「まひなふ」、仇をすることを「あたなふ」という、その「なふ」も同じである。〕「いが」といって、人を見下し、ののしることを、「いごのふ」といったのだろうか。とっさに声を上げて驚くことを、「あやし」とも「あやしむ」ともいう、その類いである。「ぞ」は、添える言葉で、「これぞ、あれぞ」などという「ぞ」である。〔延佳が、「いきのぶぞ」と仮名をつけたのは、息を延ばすと理解したのだろうか。「碁」を「き」の仮名とするのも、「布」を濁った「ぶ」の音とするのも、どちらも誤りである。さて、師は、「疊々」を延佳本が「亞々」と書くことから、次の「阿々」と同じ言葉と理解し、その説で、次のようにいっている。「ここは、『ああ、しやこしや。ああ、これは、いきのぶぞ。しやこしや。これは、あざけり笑うものである』となっていたのを、後に、今の本のように誤ったのである。今の本で、前の『阿々』を『亞々』としたのも、その下に『音引』とあるのも、みな誤りである。次に『阿々』とあるので、前も『阿々』なのは明らかである。また、『音引』という注は、次の『阿々』の所にこそ、あるべきであり、前にある理由がない。また、後の『阿々』は、右のように、『此者伊基能布曾』の前にあるべきなのに、その後に書いてあるのも誤りである。『いきのぶぞ』とは、『ああ』の注であり、『いき』は『息』で、いこう、休む、ということである。兄猾を滅ぼして、ほっと息をつくのである」。今、考えると、まず、「亞」も「疊」も、『古事記』中で、仮名に使った例がないので、「阿」の誤りとするのも、一理はある。また、「亞々」の下に「音引」とあるのも、後の「阿々」と一つのものと見るならば、誤りである。また、後の「阿々」を、「此者伊基能布曾」の前へ移したのも、「亞々」と「阿々」とを、一つの言葉とするならば、そうすべきことである。また、「いきのふ」を、休息ということも、一通りは、意味が通る。今の世の、普通の言い方でも、力を使って疲れたとき、一休みして、「ああ」という。また、苦労のあった者が、その苦労を終えて、休まることを、「ああと思う」という。これらは、「いきのふ」を「ああ」の注とすることに、よく合う。しかし、なお、よく考えると、まず、「阿」と「亞・疊」とは、字の形が、たいへん違ううえに、「亞」も「疊」も、仮名に使い慣れた字ではないので、これらの字に、書き誤る理由がない。また、後の「阿々」の置き場所を変えるのも、納得できない。また、ほっと息をつくことと、あざけり笑うこととは、たいへん趣が違うことなので、一つにつなげていうべきでもない。あれこれ考えると、やはり、前の「疊々」と後の「阿々」とは、一つではなく、別の言葉であって、「いきのふぞ」は「疊々……」の注であり、「阿々……」の注は、「あざけり笑うものである」なのである。〕さて、この言葉は、古い版本の一つには、「伊能基布曾」とある。〔『日本霊異記』に、「あの犬の子は、いつも、家のほうを向いて、憤り、にらみ、声を上げて吠えた……」とあり、「期刻」に、「いのごふ」と読みを注しているが、どのような意味か、理解しにくい。〕どちらがよいか、定めにくいが、ひとまず、延佳本によって、述べたのである。
【宣長の注釈】「阿々」。この言葉は、『日本書紀』では、「おさかの……」という歌の次に、「天皇の軍は、たいへん喜び、天を仰いで笑い、そこで、歌って、いった。『今こそだ、今こそだ。ああ、おかしい。今だけでも、わが子らよ。今だけでも、わが子らよ』。今、来目部が、歌った後、大いに笑うのは、これが、その由来である」とある。〔これは、この『古事記』と、伝えが違うのである。さて、「今、来目部が……」というのは、久米舞をするときの、しぐさである。〕『私記』では、「阿々」を、「笑う声である」と注している。実際、今の世の人も、笑う声は、「ああ」というのである。
【宣長の注釈】「志夜胡志夜」は、前のものと同じである。『私記』では、あの「時夜場」を、「おかしい、というような意味である」と注している。
【宣長の注釈】「嘲咲者也」は、師が、「あざわらふぞ」と読まれたのに従うべきである。つまり、あざけり笑う意味である。『字鏡』には、「嗤、蚩も同じ。あざける、また、そしる、また、笑う」とあり、『日本書紀』の神代の巻には、「笑い、声を上げて、また、あざけった」とある。さて、「者也」を「ぞ」と読むのは、前の「伊碁能布曾」の「ぞ」の例によるのである。
【宣長の注釈】さて、「ええ」という所から後は、歌ではない。〔歌は、「ひゑね」という所までである。〕前の歌を歌った後にいう言葉である。〔『日本書紀』では、「ああ、しやば……」について、「そこで歌っていった」とあるので、別の一首の歌のように思えるが、その次に、「来目部が、歌った後、大いに笑う」とある。今の、この箇所の言葉は、その「後、大いに笑う」に当たるのである。〕兄宇迦斯の、おこがましいしわざを、辱め、あざけり笑ったものである。さて、これは、「ええ、しやこしや。ああ、しやこしや」と続く言葉なのに、「此者伊基能布曾」という注の言葉を、よりによって、その中間に置いているのは、どうしたことかと思われる。しかし、このように、短くまとめていうのも、古い文章の書き方である。〔詳しく記すならば、まず、「ええ……、ああ……」と続けて書き、次に、「ええ……、これは、何々ぞ。ああ……、これは、何々である」となるべきだが、それでは、同じ言葉を二度いうのが煩わしいので、短くまとめ、このように一度にいったのである。『古事記』中には、このような例が、ときどきある。〕
【宣長の注釈】「宇陀水取」の「水取」は、「もひとり」と読むべきである。『和名抄』には、「主水司、もひとりのつかさ」とある。〔「もどり」、あるいは、「もむとり」、あるいは、「もむど」などと読むのは、後の世のなまりである。〕なお、水取のことは、高津宮の段に、「水取司」とある所〔『伝』巻三十六、六葉〕で、詳しくいう。宇陀とあるのは、遠い昔、宇陀に住んで、水部の職務に奉仕した者がいたのである。『職員令』の主水司の下に、「水部、四十人」とある、これが水取である。〔『令』の今の本で、この「水部」を「氷部」と書くのは誤りである。古い本で「水部」とあるのがよい。〕『主水司式』にも、「役人が、水部を率いて……」ということが、あちらこちらに見える。〔また、『令』の、同じ役所の下に、「氷戸」というものがある。これも、ある本には「水戸」とある。「水戸」ならば、これも、水取に属する戸なのだろう。「氷戸」ならば、氷室に関係する戸である。〕さて、『日本書紀』には、「二年、春二月、甲辰が月の初日に当たる、その翌日の乙巳、功績を定め、褒美を与えた……。また、弟猾に、猛田邑を与え、それによって、猛田の県主とした。これが、菟田の主水部の、遠い祖先である」とある。〔「猛田」は、「竹田」で、十市郡にある。『神名式』に見え、今も、竹田村がある。〕両方の書が、どちらも、猛田県主の祖先といわないのは、その氏族は、すでに絶え、ただ、宇陀の水取だけに、この人の子孫が残っていたのだろう。
【古事記本文】その地から、お進みになり、忍坂の大きな室にお着きになったとき、尾の生えた土雲の、多くの勇猛な者たちが、その室の中で待ち構えていた。〔「雲」は「ぐも」と読む。「伊那流」の三字は、音を表す。〕そこで、天つ神の御子のお命じによって、その勇猛な者たちに、御饗をお与えになった。その人数に合わせ、多くの、食事を給仕する者を設け、一人一人に、刀を帯びさせて、その給仕たちに、いい含めた。「歌を聞いたら、いっせいに切れ」。そこで、その土雲を討とうとする意図を示して、こう歌った。
【古事記本文】忍坂の、大きな室屋に、
人が大勢、入って住んでいる。
人が大勢、住んではいても、
目を丸々と見開いた、久米の者たちが、
丸い頭のついた刀、石を頭につけた刀を持って、
必ず、討ち果たしてやもう。
目を丸々と見開いた、久米の者たちが、
丸い頭のついた刀、石を頭につけた刀を持って、
今、討ちかかれば、よさそうだ。
【古事記本文】このように歌って、刀を抜き、いっせいに、討ち殺したのである。
【宣長の注釈】「その地から」とは、宇陀から、ということである。
【宣長の注釈】「忍坂」は、『和名抄』に、大和国、城上郡、恩坂、おさか、とある。〔「恩」の字は、「忍」の誤りだろう。「恩」も、「お」を表す仮名に使えないわけではないが、やはり、この字ではないだろう。〕『神名帳』には、同じ郡に、「忍坂山口坐神社」、また、「忍坂坐生根神社」などがある。『諸陵式』にも、「押坂内陵、大和国城上郡にある」と見える。今も、「忍坂村」という村がある。『日本書紀』の垂仁天皇の巻にも、「忍坂邑」と見え、『万葉集』巻十三には、「青い旗の、忍坂山は、走り出したような、立派な山、立ち現れたような、妙なる山である」と詠んでいる。〔延佳が、これを、大坂と同じものと理解して述べた説は、たいへんな誤りである。「大坂」は、玉垣宮の段に出る。その所で述べることを、参照していただきたい。〕
【宣長の注釈】「大室」。室は、『和名抄』に、「『白虎通』にいう、黄帝は、室を造って、寒さ暑さを避けた。和名、むろ」とある。〔師は、歌によって、ここの「室」も、「むろや」と読まれた。〕室一般については、甕栗宮の段で、「新室」とある所〔『伝』巻四十三、八葉〕で、詳しくいう。ここのものは、土雲の住まいなので、『日本書紀』に、「窖を掘った」とあるとおり、土の中の室であり、〔「窖」は、漢字の辞書に、地中の室、と注している。仁徳天皇の巻では、「窟」も「むろ」と読む。〕山腹などを、横に掘って、洞窟のように構えた物なのだろう。〔平地を、下へ掘ったのではない。〕「大室」というのだから、その中は、たいへん広かったのだろう。『日本書紀』の綏靖天皇の巻に、「手研耳命が、片丘の大きな窖の中で、独り、大きな寝台に横たわっていた」とあるのは、普通の室の、広いものなのだろう。〔ただし、これも、わざわざ「片丘」という地名をいっていることを思うと、土の中に掘った室であるかもしれない。〕さて、ここは、「忍坂に着いたとき、尾の生えた何々が、大室にいた」というべきなのを、「忍坂の大室に着いた」というのは、どこか、地名のような言い方である。しかし、これは、歌に「忍坂の、大きな室屋」とあり、特に名高かったので、その歌の言葉によって、このようにいうのだろう。
【宣長の注釈】「尾が生えている」とは、前の吉野の段にもあったとおり、たいへん遠い昔には、そのような人も、ときどきいたらしい。『日本書紀』の神功皇后の巻には、「羽白熊鷲」という人に、翼があって、高く飛んだことも見える。
【宣長の注釈】「土雲」の「雲」は、音を借りた字である。『日本書紀』の、この巻に、次のようにある。「層富県の、波哆の丘の岬には、新城戸畔という者がいた。また、和珥坂の下には、居勢祝という者がおり、臍見の長柄の丘の岬には、猪祝という者がいた。この三か所の土蜘蛛は、いずれも、その勇気と力とを頼み、朝廷に従おうとしなかった。天皇は、そこで、別々の将を遣わし、すべて討ち滅ぼされた。また、高尾張邑にも、土蜘蛛がいた。その姿は、胴が短く、手足が長く、小人に似ていた。天皇の軍は、葛で網を結い、覆いかぶせるように襲って、殺した」。〔『摂津国風土記』には、「畝傍の橿原宮で天下をお治めになった天皇の世に、朝廷に背く荒々しい者、土蛛がいた。この者は、いつも、穴の中に住んでいた。それで、卑しめる名を与え、土蛛といった」とある。〕また、景行天皇の巻には、次のようにある。「速見邑にお着きになった。女人がいて、速津媛といい、その土地の長だった。この人は、天皇がおいでになると聞き、自ら、お迎え申し上げて、申し上げた。『この山には、大きな洞窟があり、鼠の石窟といいます。二人の土蜘蛛が、その洞窟に住み、一人を青、もう一人を白といいます。また、直入県の禰疑野には、三人の土蜘蛛がおり、一人を打猿、二人目を八田、三人目を国摩侶といいます。この五人は、いずれも、いずれも力が強くて、仲間も多く、みな、天皇の命令には従わない、といっています』……」。〔「速見邑」は、豊後国、速見郡である。その国の『風土記』には、「速水郡。昔、纒向の日代宮で天下をお治めになった天皇……。そのとき、この村に女人がいて、名を速津媛といった……。申し上げていった。『ここには、大きな洞窟があり、名を、鼠の磐窟といい、土蜘蛛が二人、そこに住んでいます……。また、直入郡の禰疑野に、土蜘蛛が三人います……』」とある。また、「禰疑野。昔、纒向の日代宮で天下をお治めになった天皇が、お出かけになったとき、この野に、土蜘蛛がいた……」と見える。また、同じ書には、「石井郷。昔、この村には、土蜘蛛の砦があった。石を使わず、土を用いて築いていた……」、「五馬山。昔、この山には、土蜘蛛がいて、名を、五馬媛といった……」、「細磯野。同じ天皇が、お出かけになったとき、この辺りには、土蜘蛛がおり、名を、小片鹿奥・小片鹿臣といった……」などともある。〕また、同じ巻には、「高来県から、玉杵名邑に渡ったとき、その所の土蜘蛛、津頬を殺した」とある。〔肥前国には高来郡、肥後国には玉名郡がある。〕神功皇后の巻には、「さらに、山門県にお着きになり、そこで、土蜘蛛、田油津媛を討った」とある。〔山門県は、筑後国、山門郡である。〕これらの類いであって、洞窟や、土中の室などに住み、人を害して、荒々しく振る舞う首領たちを、蜘蛛にたとえ、このように呼んだのだろう。〔前に引いた『摂津国風土記』に、その理由が見える。また、『日本書紀』に見える、あの高尾張邑の者は、「胴が短く、手足が長い」とあるので、その姿によって名付けたのが始まりで、そのほかの者も、それに倣い、この呼び名を付けたのかもしれない。〕
【宣長の注釈】しかし、新井氏は、次のようにいっている。「大昔に、つちぐも、といったのは、国つ神、というようなものである。古い言葉で、くま、といったのは、神という言葉が変化したもので、くも、というのも、くま、が変化したものである。それゆえ、虫の蜘蛛に寄せていったのではなく、土蜘蛛と書くのは、後に、借りて当てた字である。蜘蛛を、くも、というのは、韓の土地の言葉で、今も、朝鮮の人は、くも、という。ただし、それが、もとは、日本の言葉なのを、あの国が習ったのかもしれず、分からない」。この説は、よくない。「くも」という名は、もとから、日本の言葉である。それゆえ、もと、日本の言葉なのを、あちらが習ったのか、という部分はよい。およそ、韓の言葉には、そのような例が多いのである。また、ある人は、「くも、は、こもり、であり、土に隠れる者、という呼び名である」といっている。これは、言葉の形としては、そのようにもいえるが、やはり、その意味の呼び名ではないだろう。さて、また、今の世に、吉備国などには、大石を積んで造った、大きな洞窟が、あちらこちらに多くあり、地元の伝えでは、昔、火の雨が降ったとき、人々が隠れた跡なのだという、と、あの国の人が語った。今、思うと、これらも、大昔に、土雲たちが住んだ跡なのだろう。火の雨のことは、後の伝えの、事実のない話である。また、『日向国風土記』に、皇孫がお降りになったとき、大鉗・小鉗という二人の土蜘蛛がいて、いろいろな事を申し上げたことが見える。これは、人を残酷に害した者ではないが、土の中に住んでいたので、後に、この呼び名を負わせたのだろう。さて、この箇所の土雲は、そのまま、八十建をいうのである。
【宣長の注釈】「訓云具毛」とある注は、理解できない。「雲」を「ぐも」と読むのに、注を付けるべきではない。〔「く」を「ぐ」と濁らせるための注かともいえるが、それも、「つちぐも」と続けていえば、濁ることは、注を待つまでもない。〕そのうえ、『古事記』中の読みの注は、みな、「何々を、何々という」とあるのに、ここは、ただ「訓云」とあって、「訓雲」、雲を読む、とはいわないのも、ほかに例のないことである。
【宣長の注釈】「八十建」は、『日本書紀』に、「天皇が、あの菟田の高倉山の峰に登り、国の中をご覧になったとき、国見岳の上には、八十梟帥がいた。梟帥は、たける、という」と見える。また、「弟猾が、また申し上げた。『倭国の磯城邑には、磯城の八十梟帥がおり、また、高尾張邑には、赤銅の八十梟帥がいます。これらは、みな、天皇と戦おうとしています』」とある。また、「弟磯城……が、参上して、申し上げた。『私の兄、兄磯城は、天つ神の御子がおいでになると聞き、八十梟帥を集め、武器と甲冑とを備え、決戦を挑もうとしています』……。そのとき、磯城の八十梟帥は、その所に、兵を集めて駐屯し、果たして、天皇と大いに戦い、ついに、天皇の軍に滅ぼされた」とある。また、景行天皇の巻には、「襲国には、厚鹿文・迮鹿文という者がいた。この二人は、熊襲の首領で、仲間が、たいへん多かった。これを、熊襲の八十梟帥という。その勢いには、立ち向かえなかった」などとある。つまり、人の固有の名ではない。右の引用の中に、「八十梟帥を集める」ともあることから見ると、「八十」というほど多くの、勇猛な者たちをいうのである。後の文に、「八十建に合わせ、八十膳夫を設けた」とあることからも分かる。さて、右のように、『日本書紀』では、この御代に、八十梟帥という者たちが、あちらこちらにいた中で、この忍坂の大室にいたのは、あの、国見岳の上にいたという、八十梟帥である。それは、「まず、国見丘で、八十梟帥を攻め、破って切り伏せた……。やがて、残党が、なお多く、その心を測りがたかったので、振り返り、道臣命にお命じになった。おまえは、大来目部を率い、忍坂邑に、大きな室を造れ……」とあり、伝えの内容が、この『古事記』と違っている。さて、「たける」とは、決まった名ではなく、威勢があり、勇猛な者をいう呼び名である。〔『日本書紀』には、「梟帥」と書いているが、必ずしも、この字に、こだわってはならない。〕日代宮の段には、「熊曾建」、〔『日本書紀』には、「川上梟帥」ともある。〕「出雲建」などというものもある。
【宣長の注釈】「その室にいた」というのは、『日本書紀』の伝えと違っている。
【宣長の注釈】「待伊那流」。この言葉は、たいへん理解しにくい。〔いろいろと思い当たることもあるが、自分でも、よいと思える説が出て来ない。それでも、その中で、一ついうとすれば、次のようになる。〕もしかすると、獣が怒って吠えることを、「うなる」というのに通じるように思えるので、〔およそ、「い」と「う」とは、特に近く、通じ合う音で、「魚、いを」「芋、いも」「鱗、うろこ」など、例が多い。〕その意味で、天皇の軍が来たら戦おうと、怒り、わめきながら待っていることをいうのかもしれない。さらに考えるべきである。
【宣長の注釈】「命以」は、お命じによって、ということである。
【宣長の注釈】「饗賜」は、「みあへをたまひき」と読むべきである。これは、『日本書紀』にいうとおり、策略である。
【宣長の注釈】「宛」。この字は、延佳本には「充」と書いてある。意味は、そのとおりである。〔「充」の字には、割り当てることである、という注がある。「宛」の字には、割り当てる、という意味はない。〕しかし、日本の古い書には、多く「宛」と書き、ここも、ほかの諸本は、みな、そうなっている。〔世間では、分けて割り当てる物の数を、「何個ずつ」という、その「ずつ」にも、この字を書くのが慣わしである。〕
【宣長の注釈】膳夫のことは、上巻〔『伝』巻十四、五十五葉〕に見える。
【宣長の注釈】「毎人」の「人」は、つまり、膳夫をいう。これは、歌によれば、大久米命が率いておられる、大久米部の兵士たちを、食事を給仕する者に仕立てたのである。
【宣長の注釈】「佩刀」は、「たちはけて」と読むべきである。倭建命の御歌に、「刀を帯びておけばよかったのに」とある。「帯びさせて」という言い方を縮めて、「はけて」というのである。
【宣長の注釈】「聞歌之者」は、「うたをきかば」と読むべきである。このことは、俗にいう合図である。
【宣長の注釈】「一時共」は、「もろともに」と読むべきである。『日本書紀』で、「一時」とある所も、みな、そう読んでいる。〔俗に「いちどきに」というのと、同じ意味である。〕また、「同時・倶時」などともある。皇極天皇の巻に、「一時倶」とあるのは、ここの書き方と同じである。さて、ここは、八十というほど、多くの勇猛な者たちなので、いっせいに、というのである。
【宣長の注釈】「斬る」のは、八十建を、である。
【宣長の注釈】「明」とは、直接、それとはいわずに、あの給仕たちに、その意図を、はっきり示すことをいう。
【宣長の注釈】「歌曰」は、「うた」と読むべきである。この歌は、この『古事記』には、誰の作とも見えない。歌の言葉から考えると、もし、天皇の御作でなければ、必ず、大久米命がお作りになったものなのだろう。それなのに、『日本書紀』で、よりによって、これを道臣命の歌としているのは、どうしたことか。〔その理由は、まず、大久米部は、必ず、大久米命が率いておられる兵士たちであるはずなのに、『日本書紀』では、大久米命という人はなく、「道臣命が、大来目部を率いた」とだけある。このことは、前に詳しく論じたとおりである。それならば、この歌も、実は、大久米命がお歌いになったものを、同じように、道臣命のものとしたのだろう。〕『日本書紀』にいう。「道臣命に、お命じになった。『おまえは、大来目部を率い、忍坂邑に、大きな室を造り、盛大に宴を設け、敵を誘い込み、捕らえよ』。道臣命は、そこで、ひそかなお命じを承り、忍坂に、土中の室を掘り、味方の勇猛な兵士を選び、敵と交じって座らせ、ひそかに、取り決めていった。『酒宴が盛り上がった後、私は、立ち上がって歌う。おまえたちは、私の歌声を聞いたら、いっせいに、敵を刺せ』。やがて、席が定まり、酒が回った。敵は、味方に、ひそかな計略があるとは知らず、心のままに酔った。そのとき、道臣命は、立ち上がって歌った」。
【宣長の注釈】「意佐加能」は、「忍坂の」である。
【宣長の注釈】「意富牟盧夜爾」は、「大きな室屋に」である。
【宣長の注釈】「比登佐波爾」は、「人が大勢」である。八十建たちをいう。『万葉集』巻十四にも、「ひとさはに」とある。
【宣長の注釈】「岐伊理袁理」は、「やって来て、入っている」である。〔この『古事記』と『日本書紀』とは、内容が違うので、「来る」という意味が、少し違うはずである。この『古事記』では、この大室は、もともと、八十建たちの住まいなので、あちらこちらから来て集まり、住んでいる意味である。『日本書紀』では、このときに、この大室を新しく造り、招き集めたので、普段の住まいから来て、中に入っているのである。言葉のつながりは、『日本書紀』のほうが、少し、よく合うように思える。〕高津宮の御歌には、「きいりまゐくれ」、こちらへ入って来ておくれ、とある。さて、『日本書紀』には、この句が、「異離鳥利苔毛」、入りをりとも、となっている。
【宣長の注釈】「伊理袁理登母」は、「中に入っていようとも」である。「をるとも」といわず、「をりとも」というのは、高津宮の段の歌にも、「雲を離れ、そびえていようとも」、また、「独りでいようとも」などとあって、およそ、「居る」は、必ず、このようにいうべき、言葉の形である。〔「居る」は、「有る」などと同じ、言葉の形で、「有る」も、「ありとも」という形であり、「あるとも」とはいわない。そういうのは、俗な言葉である。「居る」も、「をるとも」といえば、俗な言葉である。『古今集』の俳諧歌に、「胸の、走る火に、心が焼かれている」とある、その「をり」も、「焼かれてある」というのと同じ形である。これも、今の人の気持ちには、「をる」というべき所だと思うだろうが、そういうのは、俗な言葉である。〕さて、この句は、『日本書紀』には、「きいり……」と、初めに「き」という言葉がある。さて、右の四句で、同じ言葉を、もう一度、繰り返すのは、古い歌の、普通の歌い方である。〔今の世でも、庶民の男女が、普段歌う歌は、みな、そうである。これは、言葉で語ることの、自然な勢いである。〕
【宣長の注釈】「美都々々斯」は、「満ち満ちた」ということで、「丸々とした」というようなものである。〔「し」は、「喜ばしい・悲しい」などの「し」である。〕「みつ」と「まと」とは、もとは同じ言葉で、音が通じる。〔「まったい」、完全なこと、も、もとは同じ言葉で、これらは、みな、物が十分にそろい、欠けた所がないことをいう言葉である。〕ここは、目が、丸く、大きい様子をいっていて、「久米」に掛かる枕詞である。〔『書紀釈』にも、「満々である」といっているが、それは、「充満をいう」と注しているので、八十建が、大室の中に、いっぱいに満ちている意味に取ったのである。誤りである。また、契沖は、「大久米命の目に入れ墨があるのが、にらんだようなので、大きく見る意味で、見つ見つし、というのだろう」といい、二つの「つ」は、「あまつ・くにつ」などの「つ」と同じだといっているのも、誤りである。助詞の「つ」も、使う場合によるのであって、「見つ見つ」という言葉が、どうして、あるだろうか。また、師は、「都」を濁らせ、「みづがき」などの「みづ」として、若く、健やかな人を褒めていったのである、今も、いろいろな物の、若く、美しい様子を、「みづみづしい」という、といわれた。しかし、物を褒めていう「みづ」は、『古事記』中に、「美豆能小佩」、また、「水垣」などと書き、『万葉集』にも、「水枝」などと書いていて、「づ」は濁る。それなのに、この「みつみつし」は、この『古事記』にも、『日本書紀』にも、みな「都」の字だけを書き、必ず、濁らない音なのである。また、私は、『日本書紀』の顕宗天皇の巻で、「不才」を「あつなし」と読んでいるのは、あの『書紀』の、脇に添えた読みに、「み」を「あ」と書くことが多いので、これも「みつなし」で、「みつ」は「才」の古い言葉なのか、と考えた。そうならば、この「みつみつし」も、「才々し」で、目つきの、利発な様子をいうのか、とも思ったが、やはり、前に述べた意味なのだろう。〕『万葉集』巻三にも、「見津々々四、久米能若子」、みつみつし、久米の若子、とある。〔師は、この枕詞も、「若子」までに掛け、若いことをいうのは、これからも分かる、といわれたが、これは、ただ「久米」という名にだけ掛かる枕詞なのである。〕
【宣長の注釈】「久米能古賀」は、「久米の者たちが」である。まず、「久米」という呼び名は、もとは、天津久米命と、大久米命とから出た。そのうち、大久米命は、後の文に、目に入れ墨をしていたとあり、目が、丸く、大きかったので、「久米」という名を負われた。その「くめ」は、「くるめ」が縮まった言葉である。「くるめ」とは、『うつほ物語』の俊蔭の巻に、「阿修羅の怒る姿を現し、眼を、車の輪のように、くるくるさせて……」といい、今の世の言葉でも、人の目が、丸く、利発そうなことを、「目が、くるくるとしている」という、そのことである。そこで、「丸々とした、くるめ」と、言葉を続けたのである。〔さて、「久米」を、大久米命の目による呼び名とすると、もし、そうならば、この命の先祖も、すでに、天津久米命と申し上げたのは、どうしたことか、という疑問があるだろう。しかし、これは、およそ、名高い神の御子孫などには、代々、人と違う、不思議な姿があることなど、今の世にさえ、ときどき聞くことなので、もとは、この天津久米命の目が、丸い目で、「久米」という名を負われ、その子孫も、代々、大久米命まで、同じく、丸い目でいらしたのかもしれない。または、大久米命の目が、丸く大きかったことが、世に名高かったので、先祖の神も、この名によって、後から、お呼び申し上げたのかもしれない。どちらでも、名の意味は同じである。〕さて、この大久米命が率いておられる兵士を、久米部とも、大久米部ともいう。今、ここに「久米の子」とあるのは、その久米部を指していっていて、つまり、あの、給仕に仕立て、刀を帯びさせておいた人々である。〔師は、この「久米の子」も、大久米命をいうのだ、といわれた。しかし、一人と見ると、前に、「八十人の給仕、一人一人に、刀を帯びさせた」といい、「いっせいに切れ」というのに合わない。〕「子」とは、男も女も、親しんでいう呼び方である。『日本書紀』の、この巻の歌に「あご」、〔吾が子、である。〕また、軽島朝の段の御歌に「こども」、〔子どもたち、であり、『万葉集』にもある。〕また、推古天皇の御歌で、蘇我大臣を「蘇我の子ら」とお詠みになっている。また、武烈天皇の巻の歌では、鮪臣を、「鮪の若子」、継体天皇の巻の歌では、毛野臣を、「毛野の若子」と詠んでいる。「わくご」は、若い子、である。また、女をいうのは、朝倉宮の段の歌で、采女の三重を、「三重の子」と詠み、また、『万葉集』に、「子」とも「子ら」とも詠んだものが多い。この句も、『日本書紀』には、「子らが」とある。
【宣長の注釈】「久夫都々伊」は、「頭椎」で、上巻の天降りの段に、「天忍日命と、天津久米命との二人が、頭椎の太刀を、手に取り、帯びた」とある。この刀のことは、その所〔『伝』巻十五、七十七葉〕で述べた。「つつい」は、槌ということである。槌を、大昔には、普段でも「つつい」といったのか、または、今、歌う言葉の調子に合わせ、このように、言い替えたのかもしれない。さて、これは、一振りの刀の名ではなく、ある種類の造りであって、つまり、前に、「一人一人に、刀を帯びさせた」とある、その刀たちである。
【宣長の注釈】「伊斯都々伊母知」は、「石椎をもって」である。「石椎」は、前の「頭椎」と同じ物なのを、あちらは、形によっていう名で、こちらは、それを石で作ったという名であって、別の物ではない。〔昔の刀の頭を、石で作ったものを見た、と、谷川氏はいった。このことは、上巻の、頭椎の所で述べた。師は、「いし」は、「石敷」などという類いだ、といわれた。しかし、それは、堅いという意味で、「石何々」という例は多いが、みな「いは」とこそいい、「いし」というものはない。また、『私記』に、「その頭が、石に似ている」といっているのも、誤りである。〕
【宣長の注釈】「宇知弖斯夜麻牟」は、「討って、やもう」で、「し」は、添える言葉である。さて、これは、「討とう」といえば足りるのを、「やもう」と、わざわざいうのは、討つことを決め、強くいう言葉で、「討たずには、やめない」というようなものである。さて、『日本書紀』では、この句を結びとして、次の五句はない。
【宣長の注釈】「久米能古良賀」は、前と同じである。「ら」は、あっても、なくても、意味に違いはない。
【宣長の注釈】「伊麻宇多婆余良斯」は、〔「余」(よ)の字が、古い版本の一つでは「尒」(に)となっているが、ここでは、真福寺本、延佳本、また、もう一本などによった。〕前半は、「今、討ったならば」である。後半は、「善らし」で、「よいだろうと思われる」というようなものである。今の世の、普通の言い方ならば、「よさそうだ」という意味である。「らし」は、「桜、散るらし」「時雨、降るらし」など、いつも、よくいう「らし」である。〔「桜、散るらし」なども、普通の言葉でいえば、「桜が散りそうだ」という意味である。およそ、「らし」は、この意味と理解すべきである。さて、もし「善らし」ならば、「よからし」とこそいうべきで、「よらし」というのは、どうだろうか、とも思える。しかし、『万葉集』には、「煮らし」などもあるので、古い言葉では、このようにもいえるはずである。さて、師が、「よいだろう」と注されたのは、そのとおりである。契沖が、「余」を「尒」とする本によって、「煮ようか、ということで、これは、八十人の給仕に歌わせるので、今、討ったら、煮ようか、の意味か。または、似らし、で、似る、は、よい、という意味である。不肖とは、よくない人をいう。肖は、似る、である。これを考え合わせるべきである」といっているのは、「煮る」も、「似る」も、どちらも誤りである。給仕だからといって、「煮よう」ということは、ここでは理由がない。また、「似る」を、よいという意味として、「不肖」の字を証拠に出しているのも、まったく合わない。古い日本語と、漢字の意味とを、混同してはならない。〕軽島宮の御歌にも、「さあ、挿したなら、よさそうだな」と結んでおられるものがあり、これと同じ言葉である。なお、その所〔『伝』巻三十二、六十七葉〕で述べることも、考え合わせていただきたい。〔以前は、その御歌が、『日本書紀』には、「いざ、さかばえな」とあることにより、また、あちらも、こちらも、「余」を「尒」とする本によって、「尒良」の二字を、「延」の誤りとし、「えし」と読んだのだが、なお、よく考えると、よくなかった。〕
【宣長の注釈】「如此歌而」は、師が、「かくうたふときに」、このように歌うときに、と読まれたのも、筋が分かりやすく、よいのであるが、〔前に、「歌を聞いたら……」とあるので、歌う人と、切る人とは違うのに、「歌って……」というと、歌うのも、切るのも、同じ人のようで、事実と違うように思えるからである。〕「而」の字を書いていることを考えると、やはり、「うたひて」と読んでよい。それは、歌うのも、切るのも、人は違うが、ともに、味方の人の行いなので、一つにつなげて、「歌って……」というのが、古い文章の書き方だったのである。〔もしかすると、「聞加此歌而」、このように歌うのを聞いて、となっていたのが、「聞」の字が落ちたのか、とも思うが、そうではない。〕『日本書紀』には、「そのとき、味方の兵士たちは、歌を聞き、ともに、頭椎の剣を抜き、いっせいに、敵を殺した。敵は、生きた者が、もはや一人もなかった」とある。
【古事記本文】その後、登美毘古を討とうとするとき、次のように、お歌を詠まれた。
【古事記本文】目を丸々と見開いた、久米の者たちの、
粟畑には、ニラが一本。
その根元を、根も芽も、ひとまとめに、つなぎ留めて、
必ず、討ち果たしてやもう。
【古事記本文】また、こう詠まれた。
目を丸々と見開いた、久米の者たちが、
垣の下に植えたショウガは、口に、ひりひりと、痛みが残る。
そのように、私は、この恨みを、いつまでも忘れまい。
必ず、討ち果たしてやもう。
【古事記本文】また、こう詠まれた。
神風の、伊勢の海の、
大石に、付いて、取り巻く、小さな巻貝のように、
軍勢を、隙間なく、巡らせ、取り囲んで、
必ず、討ち果たしてやもう。
【宣長の注釈】「然後」は、ここでは、「そののち」と読むべきである。
【宣長の注釈】「登美毘古」は、前に、御船が、青雲の白肩津にお泊まりになったとき、兵を起こし、待ち受けて戦った、登美能那賀須泥毘古である。『日本書紀』には、次のようにある。「十二月、初日が癸巳に当たる月の、丙申の日、天皇の軍は、ついに、長髄彦を攻めた。戦いを重ねたが、勝ちを得られなかった。そのとき、突然、空が曇り、氷の粒が降った。すると、金色の、不思議な鵄が飛んで来て、天皇の弓の端に止まった。その鵄は、明るく輝き、その様子は、流れる稲妻のようだった。それによって、長髄彦の兵士たちは、みな、目がくらみ、もはや、力を尽くして戦えなくなった……。昔、孔舎衛の戦いで、五瀬命が矢を受け、亡くなられた。天皇は、それを心に含み、常に、深い怒りと恨みとを抱いておられた。この戦いに至って、徹底的に討ち尽くしたいと、お思いになり、そこで、御歌をお詠みになった」。
【宣長の注釈】「歌曰」は、「おほみうた」と読むべきである。
【宣長の注釈】「阿波布爾波」は、「粟の生える畑には」である。『日本書紀』の神代下巻に、「粟田・豆田」とあり、『和名抄』には、「『日本紀私記』にいう、粟田、あはふ」と見える。「ふ」は、「麻生・浅茅生・蓬生」などの「生」で、その物が、一面に生え、増える土地を、「何々ふ」というのである。〔『日本書紀』の「田」の字には、こだわってはならない。『万葉集』には、「苧原」などと、「原」の字も書いている。〕さて、『日本書紀』では、この句の前に、「垣のもとに」という一句がある。しかし、この所では、その句がないのがよい。
【宣長の注釈】「賀美良比登母登」の「みら」は、ニラである。『和名抄』には、「薤、和名、おほみら」「韮、和名、こみら」と見え、『字鏡』には、「薤、なめみら」「韮、たたみら」、また、「意韮、なめみら」と見える。『万葉集』巻十四には、「くくみら」とも詠んでいる。〔茎のニラ、ということなのだろう。〕さて、「かみら」というのは、書物には見えない。別の一種類か、また、普通のニラで、「臭いニラ」といったものかもしれない。越前国、敦賀郡の「鹿蒜」も、「臭いヒル」という意味の地名なのだろうか。『延喜式』には、「加比留神社」とある。〔『書紀釈』には、「大きなニラをいう」とあるが、その根拠を知らない。契沖は、「か」は、「か青い・か黒い」などの「か」で、添えた言葉か、といっているが、そのようにも思えない。また、延佳は、『和名抄』の「こみら」を引いているが、「こ」の音が変化したものとも思えない。〕「みら」は、後には、「にら」といった。「ひともと」は、一本の茎である。『日本書紀』の允恭天皇の巻には、「蘭、一茎」とあり、上巻の八千矛神の御歌にも、「一本の、すすき」とお詠みになっている。
【宣長の注釈】「曾泥賀母登」は、「その根の茎」である。『日本書紀』が、「泥」を「廼」とするのは、音楽の役所で、歌いなまったものなのだろう。〔この句を、『日本書紀』によって、『書紀釈』でも、契沖も、「その、の、もと」と理解したのは、誤りである。「その、の」ということは、ありえない。「の」と「が」とは、同じく、所属を表す言葉なので、「のが」と重ねる例はない。『万葉集』巻三に、「しひるしひのが……」、また、巻十四に、「せなのが袖も……」というのは、それらとは別の例なのである。そのうえ、次の句に「そねめ」とあれば、ここも、必ず、「そね」でなければ、よくない。さて、『日本書紀』に「そ、の」とあることによって、この『古事記』の「そね」も、「その」の意味とするのは、ますます誤りである。「の」を通わせて、「な」とはいっても、「ね」といった例はない。〕さて、「その」を、「そ」とだけいうことは、古い言葉には、普通に多い。その中で、「そ何々」と続けるのは、「その所」を「そこ」という類いである。〔およそ、「そ」という言葉の使い方は、「こ・おの・わ・かれ・たれ」などと同じで、後に「れ・の・が」を付けて変化し、また、それを省いて、「こ・お・の・わ・か・た」などとだけもいう。また、後に別の言葉を続けるときには、「ここ・このたび・おのづま・わぎみ」などともいう例なので、「その根」を「そね」というのも、これらの例である。〕「根の茎」というのは、まず、およそ、草木で「もと」というのは、立っている幹のことである。〔必ずしも、末と対になる「本」ではない。〕大祓の詞に、「茂る木の本を」とあるのも、茂る木の、木立をいう。孝徳天皇の巻の歌に、「木ごとには、花が咲いても」とあるのも、一本一本の木ごと、ということである。また、「ひともと・ふたもと」などというのも、木でいえば、一本・二本と同じなので、草も、その意味で、生え立つ茎によっていうのである。さて、ニラは、土の中に隠れた、根の部分も、茎として立っている物なので、その所を、根の茎、というべきである。〔ただの根も、根の茎、といえるかもしれないが、そうではないだろう。〕ニラは、特に、根の部分を賞味する物なので、このように、お詠みになったのである。〔中国の書でも、『本草』に、「『礼記』は、韭を、豊本、という。そのおいしさが、根にあることをいうのである。ラッキョウのおいしさは、白い所にあり、ニラのおいしさは、黄色い所にある。黄色い所は、まだ土から出ていない部分である」という。ニラの茎を、韭白、根を、韭黄、といっている。これらも、考えるべきである。「韭」と「韮」とは、同じである。〕
【宣長の注釈】「曾泥米都那芸豆」は、「その根も、芽も、つなぎ留めて」である。前に、その根の茎、と、先にいっておいて、また、その根、と重ねるのは、昔の歌の、普通の歌い方である。〔『日本書紀』の神代の歌に、「石川の、片淵、片淵に」という類いが、たいへん多い。〕「芽」は、根の茎に対して、土の上へ、芽生え出た茎をいう。〔あの中国の書で、韭白、といっているのが、それである。『書紀釈』でも、契沖も、「その妻」であるというのは誤りである。「妻」とすると、前で、ニラをいったのは、何のためなのか。そのうえ、この『古事記』の例では、「女・妻」の「め」を表す仮名には、「売」だけを使い、「米」を使ったことはない。これは、延佳が、「芽」と注しているのが、当たっている。〕およそ、「め」は、「もえ」が縮まった名である。〔また、「もえ」は、「めばえ」が縮まったものかもしれない。「め」と「は」を合わせると「ま」となるのを、音を通わせて「も」というのだろうか。『万葉集』には、「目生」と書く所がある。〕さて、『日本書紀』の、斉明天皇の御作に、「射られた獣を、つなぎ留める、川辺の若い桑の……」とある。「つなぐ」は、ほかへ放して、去らせないことをいう。ここも、その意味で、根も芽も、一つにまとめ、一つも残さないというのである。さて、根は登美毘古に、芽は、その仲間たちにたとえ、みな、逃さず、漏らさず、ことごとく、討ち滅ぼそうという、たとえである。〔契沖がいう。このようにお詠みになったのは、前の文に、「徹底的に討ち尽くしたいと思った」とあるのに合う。〕
【宣長の注釈】この御歌の初めで、わざわざ、「久米の者たちの粟畑」と、お詠みになったのは、どういう理由かというと、まず、天皇の軍が、大和の国にお入りになってから、あちらこちらの、多くの敵を平らげられるには、何年もかかっただろう。その間、多くの兵士たちは、穀物を作らなければ、生きていけないので、久米部の人々は、粟も耕作したのだろう。その粟畑が、近くにあり、天皇のお目にも留まったので、お詠みになったのだろう。〔契沖が、これは、仮に設けて、お詠みになったのであり、実際には、このとき、来目部の粟畑が、まだ大和の国にあったのではない、というのは、『日本書紀』の年次によるならば、一通りは、そのとおりである。しかし、よく考えると、もし、仮に設けて詠むのならば、粟畑に、久米の者たちは、関係がない。ほかに、もっと、ふさわしい事があるはずではないか。そこで考えると、『日本書紀』によれば、天皇の軍が、大和に入り、初めて、兄猾をお討ちになったのは、戊午の年の八月で、この長髄彦をお攻めになったのは、同じ年の十二月なので、確かに、まだ、粟を耕す時間はない。しかし、必ずしも、この『日本書紀』の年月に、こだわるべきではない。初めに、日向の国を出て、都へ向かわれる道中で、過ごされた年数も、この『古事記』と『日本書紀』とでは、十年以上の差があるのだから、大和にお入りになった後の年数も、同じように考えるべきである。なお、『日本書紀』の年次のことは、後で、詳しく論じる。〕さて、穀物の中で、わざわざ、粟畑をお詠みになったのは、およそ、昔は、粟を特に多く耕作していたので、この物について、多くいっているのである。〔奈良の都のころに至ってさえ、物事のたとえに、粟をまくことなどを詠んだ歌が、『万葉集』に、あちらこちら見える。〕それならば、久米部の作っていた粟畑の中に、ニラが一本、交じって立っているのをご覧になり、それに寄せて、お詠みになったのである。〔『日本書紀』で、「久米の者たちの、垣の下に」とお詠みになっているのは、敵を、すでに手中にあるものと、お思いになっている意味か、と契沖はいっているが、そのような意味はないだろう。また、この御歌は、十二月に詠まれたのだから、当時、粟があったのではない、というのも、『日本書紀』に、十二月とあることに、こだわったのである。そのとき、お目に触れていなかったならば、ニラをいうために、関係のない粟畑を、取り出されるはずではない。それならば、この御歌は、実際には、粟が畑にある季節に、お詠みになったのである。およそ、この御歌などからも、『日本書紀』の年月日は、疑ってみるべきなのである。〕
【宣長の注釈】「又歌曰」は、ただ、「また」と読むべきである。〔これは、字のままに読むと、前の「歌曰」を「おほみうた」と読んだのと、照らし合わせ、言葉のつながりが、よくない。次のものも、同じである。〕
【宣長の注釈】「加岐母登爾」は、「垣の下に」である。これも、久米部の陣営の、垣の下に、生えているものをご覧になって、お詠みになったのである。
【宣長の注釈】「宇恵志波士加美」は、「植えたショウガ」である。ショウガは、今も、ただ「はじかみ」というのを、『和名抄』には、「生薑、和名、くれのはじかみ。俗に、あなはじかみ、という」「乾薑、和名、ほしはじかみ」と見え、『字鏡』には、「薑、くれのはじかみ」と見える。〔これらに、「くれの」というのは、どういう理由だろうか。加賀国、加賀郡には、波自加弥神社が、『延喜式』に見える。また、伊勢の大神宮の、四月十四日の祭りには、遠江の神戸から進められたショウガを献上する神事があり、年中行事に見える。〕
【宣長の注釈】「久知比々久」は、契沖が、「口に響く、である。ショウガを食べると、辛味が、後まで残り、口の中が、ひりひりすることをいう。それが、声の響きのようだからである」といっている。「はじかみ」という名の意味も、「歯をしかめる」である、と、谷川氏がいうのも、その意味で、よく当たっている。〔サンショウも、辛く、歯が、きしむことから、同じ名を負っている。しかし、ここは、ショウガである。サンショウは、実であって、木になる物だからである。〕さて、この句は、ショウガをご覧になり、「この物を食べると、後まで、口がひりひりするように」という意味で、次の句の意味を示す、たとえに借りて、お詠みになったのである。〔このとき、天皇が、この物をお召し上がりになり、お口が、ひりひりしたのではない。〕「ひびく」を、『日本書紀』では「彈比倶」としているのは、「比彈」を、上下逆に誤ったのだろう。「彈」の字は、濁る音である。
【宣長の注釈】「和礼波和須礼士」は、「私は忘れまい」で、あの兄君、五瀬命が、この登美毘古の、つらい矢傷を受け、亡くなられた、その悲しみと怒りとを、私の生きている限り、忘れるまい、というのである。〔この意味は、前に引いた『日本書紀』の文に見える。〕上巻の日子穂々手見命の御歌に、「妻は忘れまい、この世の、すべてにわたって」とあるのと、同じ意味である。「士」を、諸本で「志」と書くのは誤りである。ここでは、古い写本によった。『古事記』中で、濁った音には、必ず「士」の字を使う例だからである。『日本書紀』では、「儒」としている。〔「ず」なので、今も忘れない、という意味である。〕次の句へ続けて考えると、「儒」のほうが、優れている。
【宣長の注釈】「加牟加是能」は、「神風の」である。この枕詞のことは、師の『冠辞考』に見える。〔契沖が、『万葉集』巻二の、人麻呂の歌を引き、天照大神がお吹かせになる風である、というのは誤りである。神武天皇の御代には、大神は、まだ、伊勢には、いらっしゃらなかったのである。〕
【宣長の注釈】「意斐志爾」は、「大石に」である。「ほ」と「い」とを縮めると、「ひ」となる。『日本書紀』には、「おひいしにや」とある。〔「や」は、歌う調子に添えた声で、意味はない。「斐」を、ここで、濁った「び」と読むのは誤りである。〕
【宣長の注釈】「波比母登富呂布」は、「広がって、取り巻く」である。「もとほる」の「る」を延ばし、「ろふ」というのは、古い言葉の、普通の言い方である。「もとほる」は、巡り、取り囲むことをいう。『字鏡』には、「週」、また、「逴」を、「回ること、伸びること、移ること、もとほる」とある。『万葉集』巻四には、「岩の間を、行き巡り」、巻九には、「島山を、巡り流れる川沿いの」、巻十七には、「女郎花の咲く野辺を、行き巡り、あなたを思い出し、巡って来た」、巻十八には、「乎敷〔をふ〕の岬を漕ぎ巡り」などとある。〔このほかにも多い。〕また、巻十九に、「大殿の、この巡りの……」「大殿の、このもとほりの……」とあるのは、名詞にしたもので、「周囲の」ということである。〔衣服などの縁も、俗にいう「へり」のことで、「周り」という意味である。〕さて、この句は、『日本書紀』には、「いはひもとほる」とある。後の句のものも、同じである。〔「倍」は、ここでは、「ほ」を表す仮名である。この字を「ほ」に使った例もある。「へ」と読むのは誤りで、どちらも、「へ」では合わない。〕
【宣長の注釈】「志多陀美能」は、「小さな巻貝の」である。『和名抄』には、「崔禹錫の『食経』にいう、小螺子は、甲蠃に似ているが、細かく、小さく、口に、白い玉のような蓋がある。楊氏の『漢語抄』にいう、細螺、しただみ。また、玉蓋、和名、しただみのふた」とある。『万葉集』巻十六には、「机の島の、小さな巻貝を、拾って持って来て、石で、つつき割って……」とあり、『大嘗祭式』には、「細螺、二十瓶」とある。『拾遺集』の、物の名を詠み込む歌にも見える。〔その歌は、「東国で育てられた子は、なまった言葉で話すものだなあ」というもので、「舌だみて」に、名を詠み込んでいる。〕谷川氏は、次のようにいう。「しただみ、は、吐いた唾を、つだみ、ということによれば、舌から吐くもの、という意味なのだろう。今、きしゃご、または、ちしゃご、という物である。玉蓋は、『本草』に、相思子という物で、今、俗に、酢貝、という、これである」。また、ある人は、「しただみ、は、サザエのようで、角のない物で、ちしゃご、とは違う」といっている。また、ある人は、ここに示した図のような形をして、物に付いている貝である、という。また、荒木田久老は、「志摩国では、今も、しただみ、といい、また、尻高、ともいう。さて、ふくだみ、という物がある。この名と合わせて考えると、しただみ、は、尻高だみ、という意味、ふくだみ、は、低だみ、という意味で、たみ、は、この類いの貝の総称なのか」といっている。

【宣長の注釈】さて、この二句は、倭建命の段の歌に、「稲の茎に、はい広がる、トコロのつる」とあるのと同じく、〔稲の茎に、はい広がるトコロのつるである。〕たくさんの小さな巻貝が、大石に付いているのが、つる草などの広がったように、長く連なり、取り巻いていることを、お詠みになったのである。〔大石の上を、はい歩いて、行き巡るのではない。あの、倭建命の段の歌の前には、「御陵を造り、すぐに、はい回って……」と見え、また、『万葉集』巻三には、「若い子が、はい巡り」などとあるが、その「匍匐」と、混同してはならない。はい歩くことと、広がることとは、もとは一つの言葉なのだろうが、指す事柄は同じではない。〕次の句の、たとえである。この下に、「のように」という言葉を添えて、理解すべきである。『日本書紀』では、この次に、また、「しただみの」、次に、「わが子らよ、わが子らよ」、次に、また、「しただみの」という三句がある。〔このように、同じ言葉を何度も繰り返しているのは、音楽の役所で歌ったとおりを、記したものである。〕
【宣長の注釈】さて、このように、近くもない、伊勢の海の物を、わざわざ取り出し、たとえておられるのは、前にも述べたとおり、以前、熊野を通られたとき、伊勢国との境の、錦浦にまで、おいでになったので、そのとき、直接ご覧になり、お目に留まったものを、思い出されたからである。〔大昔には、およそ、何の理由もなく、ほかの国の事を引き出して、歌に詠むことはない。紀伊国の錦浦から、今の道で五里ほど東に、伊勢国、度会郡の「贄浦」という所がある。その十町ほど沖に、「大石」という、たいへん大きな石がある。この御歌でお詠みになった「大石」は、つまり、これなのだろう。今も、その石には、小さな巻貝が、多く付いているのを、その浦の人は、「しりじろ」という。さて、その辺りの人が、御嶽詣でをするには、山を越える険しい道があって、七日ほどで往復するという。このことは、天明三年の冬、荒木田久老が、自分で、その浦へ行って、見聞きしたといって、語ったものである。あの大石も、見たという。〕
【宣長の注釈】「伊波比母登富理」は、「広がって、取り巻いて」であり、初めの「い」は、言葉の調子を整えるためのものである。これは、あの小さな巻貝が、大石に、びっしりと付いて、取り巻いているように、登美毘古の軍の四方を、数えきれない天皇の軍によって、隙間なく、巡らせ、囲まれることを、お詠みになったのである。「広がる」とは、天皇の兵士たちが、長く、連なり続くことを、お詠みになっている。〔契沖が、前の句の「はひ」を、「はい歩く」と注し、この句も、前に注したとおりだ、というのは、『日本書紀』の「倍」の字を、「へ」の仮名として、「いはひもとへり」と読み、この句も、小さな巻貝のこととしたのである。この説は誤りである。「倍」は、ここでは「ほ」の仮名であり、この『古事記』に「富」とあるのと同じで、「いはひもとほり、うちて」と、次の句へ続く言葉なのである。それゆえ、この句は、必ず、天皇の軍のことであって、小さな巻貝のことではない、と知るべきである。また、敵を小さくお思いになって、小さな巻貝にたとえられたのだ、というのも、違う。巻貝は、天皇の軍の、たとえなのである。〕『万葉集』巻二に、「鶉のように、はい巡り」とあるのとは、言葉は同じだが、意味は違う。〔巻三の十三葉にも、同じ言葉がある。〕
【宣長の注釈】『日本書紀』では、「討って、やもう」というのも、重ねて二句ある。また、この御歌を、あの国見岳の八十梟帥をお討ちになったときの御歌として、「忍坂の……」という歌の前に置いている。また、この御歌の次に、「深く思いめぐらし、大石によって、国見丘をたとえたのである」とある。これらは、この『古事記』と、伝えが違うのである。
【古事記本文】また、兄師木と弟師木とを攻めたとき、天皇の軍は、一時、疲れていた。そのときの御歌。
【古事記本文】盾を並べ、
伊那佐の山の、木々の間からも、
行って、敵の様子をうかがい、戦っていたら、
私は、腹が減った。
島にいる鳥、鵜を使う者たちよ。
今すぐ、助けに、来ておくれ。
【宣長の注釈】「兄師木・弟師木を攻めた」。『日本書紀』には、「また、兄磯城の軍があり、磐余邑に、いっぱいに広がっていた」、また、「十一月、初日が癸亥に当たる月の、己巳の日、天皇の軍は、大きく動き、磯城彦を攻めようとした。まず、使者を遣わし、兄磯城を呼び出した。兄磯城は、命を受けなかった……」とある。〔あちらの『書紀』には、このことが、詳しく記されている。その文章は長いので、ここでは省いた。原書を開き、考えるべきである。〕「師木」は、大和国の地名で、城上・城下の郡が、それである。この地のことは、水垣宮の段〔『伝』巻二十三、二葉〕で、詳しくいう。さて、この兄弟は、その地名を、名に負っているのである。『日本書紀』に、「磯城彦」とあるのは、兄弟を合わせていっている。〔「登美毘古」という類いである。〕また、「弟猾が、また申し上げていった。倭国の磯城邑には、磯城の八十梟帥がいる」とあるのも、この磯城彦の仲間をいうのだろう。さて、弟師木は、『日本書紀』では、八咫烏を遣わし、お呼びになったとき、すぐに、天皇の命に従って参上し、忠実に仕え申し上げ、後に、「弟磯城、名は黒速を、磯城の県主とした」とある。それなのに、この『古事記』では、兄弟を、ともにお討ちになったようにあるのは、まだ、参上する前の状態によって、先に、このようにいったのだろう。
【宣長の注釈】「御軍暫疲」の「暫」は、「しましは」と読むべきである。〔「は」は、「……は」という言葉である。〕『万葉集』には、「しまし」、また、「しましくも」などとある。〔師は、御歌の言葉によって、「暫」の字は、「飢」の誤りなのだろう、といわれた。しかし、『日本書紀』に、「疲弊がないわけではなかった」とある、その「ないわけではなかった」も、一時は、という意味である。〕さて、このようにいうのは、最後には、お勝ちになったが、途中、一時は、お疲れになった時もあった、という意味である。『日本書紀』には、「この前まで、天皇の軍は、攻めれば必ず取り、戦えば必ず勝った。しかし、甲冑を着た兵士たちも、疲れていないわけではなかった。それで、しばらく、御歌を作り、将と兵士との心を慰められた。歌っていう」とある。
【宣長の注釈】「爾歌曰」は、「そのときのおほみうた」と読むべきである。
【宣長の注釈】「多多那米弖」は、「盾を並べて」である。成務天皇の御陵の「多他那美」を、『日本書紀』では「盾列」と書き、「これを、たたなみ、という」とある。これが、ここにあるのと同じ意味の地名である。〔ただし、「なめ」は、人が、これを並べることをいい、「なみ」は、それが並んでいることをいう言葉である。また、「盾」を「たた」というのは、「稲」を「いな」、「酒」を「さか」、「船」を「ふな」というなどと、同じ形である。〕この句について、契沖は、次のようにいう。「二つの意味があるだろう。一つは、盾を立て並べて、射る、という意味で、次の句の、い、に掛けた序なのだろうか。戦いでは、先に盾を立て、敵の矢に当たらないように身を守った後に、弓を射るものだからである。二つ目は、序ではなく、実際に、今、盾を並べることを、お詠みになったのだろうか。『万葉集』巻十七に、盾並べ、泉の川の……と詠んだものも、い、の一音に掛かる序か、また、泉川は、もとは、挑み川、なので、盾を並べ、互いに挑む意味につなげたのか、これも、二通りに聞こえる」。〔『万葉集』のものは、どちらでも、序である。〕今、考えると、確かに、二通りに聞こえる。もし、後の意味ならば、後の「戦っていたら」という所へ続けて、理解すべきである。〔師は、どちらも、「い」の枕詞と定められた。〕
【宣長の注釈】「伊那佐能夜麻能」。この山は、大和国の、城上・城下の二郡の内にあるのか、と契沖はいっている。〔師は、城上郡にある、といわれた。『大和志』に、「一名、山路山。宇陀郡、山路村の上方にある」と、確かに断定していうのは、例によって、信じられない。「伊那佐」という地名は、遠江〔引佐郡〕、出雲〔伊那佐の小浜〕など、あちらこちらに見えるが、大和では、これ以外には聞かない。『日本書紀』の、この戦いの段には、忍坂・墨坂・菟田川などの事は見えるが、この山の名は見えない。〕後に、考えを述べる。
【宣長の注釈】「許能麻用母」は、「木々の間からも」で、「も」は添えた言葉である。「より」の「り」を省いて、「よ」だけでいうのは古い言葉である。〔そもそも、これを「ゆ」ということは、誰もが知っているが、「よ」ともいうことは、あまり知らない。そこで、今、このことを詳しく述べよう。〕『万葉集』にも、巻五に、「雲に飛ぶ薬を食べるよりは……〔くもにとぶくすりはむよは〕」、巻十四に、「小筑波の茂った木々の間から立つ鳥の……〔をつくばのしげきこのまよたつとりの〕」、また、「よそに見ていた時よりは〔よそにみしよは〕」とある。〔『仙覚抄』には、「東国の言葉では、身分の低い者が、今でも、より、を、よ、という」とある。〕また、「阿蘇の川原から〔あそのかはらよ〕」、また、「あなた自身の手から〔いもがただてよ〕」、また、「麻久良我から、漁師が漕いで来るのが見える〔まくらがよあまこぎくみゆ〕」、また、「あの子の家の門の前を通って行くのは、いいものだ〔ころがかなとよゆかくしえしも〕」、巻十五に、「ここを通って鳴き渡る〔こよなきわたる〕」、巻十七に、「私の松原から見ると〔あがまつばらよみわたせば〕」、巻十八に、「ほととぎすよ、ここを通って鳴き渡れ〔ほととぎすここよなきわたれ〕」、また、「拝みに行った門から〔をがみいにしかどよ〕」、また、「別れた時から〔わかれしときよ〕」、巻十九に、「天地の遠い始まりから〔あめつちのとほきはじめよ〕」などとある。その「用」「欲」は、みな「……から」という意味である。こうして、『古事記』の歌の中で、「……から」を一音でいうものは、すべて「用〔よ〕」だけで、「由〔ゆ〕」というものは、一つもない。それなのに、『日本書紀』では、この『古事記』と同じ歌でも、それ以外でも、みな「由」だけで、「用」というものはない。『万葉集』には、「欲」とも、「由」ともあるのである。〔この『古事記』の歌の、「……から」という意味の「用」の字を、延佳本では、どれも、みな「由」の字にするのは、誤りである。それは、『日本書紀』に「由」だけがあることにとらわれ、「よ」ともいうことを知らず、利口ぶって改めた、でたらめな処置である。旧印本でも、ほかの諸本でも、みな「用」とするのを採るべきである。また、師は、「用」の字にする方を採りながら、「ゆ」と読まれた。しかし、この『古事記』で、「用」は、「よ」の仮名にだけ使い、「ゆ」に使った例はないので、その読み方は採りにくい。そもそも、この言葉は、『日本書紀』に「由」だけがあり、『万葉集』でも、「従」「自」などと書いて、一音でいうものを、今の本では、みな「ゆ」とだけ読んでいるのを見慣れたため、誰もが、「よ」という古語を知らず、「欲」とあるものまで、「ゆ」と誤って読むことがあるとは、どういうことか。「欲」を、「ゆ」の仮名に使った例はない。また、「従」「自」などと書いた所も、ここに引いた歌などによって、「よ」とも読むべきである。必ず、「ゆ」と読むことに限ったものではないのに。〕それならば、昔は、「より」とも、「よ」とも、また、「ゆり」とも、「ゆ」とも、通わせていったのである。〔『日本書紀』の崇神の巻の歌に、「おほきどより……」とあるので、「より」というのも、上代の言葉である。それなのに、必ず「り」を省くことだけを古語と思っているのも、偏った理解である。また、「ゆり」というのは、『万葉集』巻二十の十五葉に、「明日から、や〔あすゆりや〕」と見えている。〕
【宣長の注釈】「伊由岐麻毛良比」は、「行って、様子をうかがって」で、「い」は、言い出しに添える音である。〔古く、「い」を言い出しに添える例は多いが、その中でも、「いゆき」というのは、特に多い。〕「まもり」の「り」を引き延ばし、「らひ」というのも、古語では普通のことである。「まもる」は、『万葉集』巻七に、「近江の湖は、波が恐ろしいと、風の様子を見ながら、年月を過ごすのか。漕いで行くこともなく」とある、「風をまもる」のように、敵の様子を考え、うかがうことをいう。〔「風をまもる」は、風の様子を見て、考えることである。〕前に、「木の間からも」とあるのも、詳しく様子をうかがう、という意味である。〔契沖は、「まもる、とは、身を守ることと、目を離さず物を見ることとの、二つの意味を兼ねて理解すべきか」といわれた。しかし、それは、後に生じた意味で、もとの意味ではない。そもそも、「まもる」という言葉は、もとは、様子をうかがって考えることから出て、目を離さず見ることも、害のないように物を守ることも、みな、そこから変わった意味である。また、「さもらふ〔様子をうかがう〕」という言葉も、「もる」を引き延ばしたものである。〕『日本書紀』の、この段には、次のようにある。「椎根津彦は、はかりごとを述べていった。今は、まず、私たちの弱い軍を遣わし、忍坂道から出すのがよいでしょう。敵は、それを見て、きっと、精鋭をことごとく繰り出して、向かってくるでしょう。私たちは、そこで、強い兵士を駆けさせ、まっすぐ墨坂へ向かい、菟田川の水を汲み、その炭火に注ぎかけます。たちまち、相手の思いがけない所へ出れば、必ず、打ち破れるでしょう。天皇は、その策をよしとし、弱い軍を出して、敵に向かわせた。敵は、大軍がすでに来たと思い、力を尽くして、待ち構えた……。果たして、強い軍をもって墨坂を越え、後ろから挟み撃ちにし、敵を破り、その頭目である兄磯城たちを斬った」。これによって考えると、次のようなことだろう。〔「女軍」は、女々しく弱い軍、「男軍」は、雄々しく強い軍をいう。前に「勁卒〔強い兵士〕」とあるのが、それである。契沖が、正面の攻め手と、裏に回る攻め手のことか、といわれたのは、まるで当たらない。これは、先に、弱い軍を出し、敵をお欺きになる策略なのだから。また、炭火が置かれていて、水を注いだのは、その音で、敵を驚かせるための策だったのだろう。炭火に水を注ぐと、ものすごい音がして、はっと驚くものだからである。〕まず、弱い軍を出して戦わせ、敵に、こちらを軽く見て、油断させ、その様子をうかがいつつ、伊那佐の山の、木々の間に隠れて、ひそかに強い軍を率いて回り込み、後ろから攻めて、お戦いになったのだろう。このように考えると、「伊那佐の山」というのは、すなわち、墨坂の、もとの名と聞こえる。〔「墨坂」という名は、炭を置いたことから起こったということが、『日本書紀』の前の文章に見える。〕
【宣長の注釈】「多々加閉婆」は、「戦っていたら」である。
【宣長の注釈】「和禮波夜惠奴」は、「私は、ああ、腹が減った」である。「や」は、嘆きの言葉で、「よ」というのに近い。水垣宮の段の歌に、「みまきいりびこはや……」とある、「はや」と同じことである。このほかにも、歌の終わりに置く例が多い。それは、倭建命が、「あづまはや」とおっしゃる所〔『伝』巻二十七、八十一葉〕で、詳しく述べる。〔「早」である、と注するのは、誤りである。また、「者哉」と注し、疑問の「や」と理解するのも、よくない。〕「われ」は、天皇がおっしゃる「私」で、軍の兵士たちも、その中に含まれている。「飢う」の「う」を省く例は、昔、聖徳太子の御歌に、「飯に飢えた者〔いひにゑる〕」とある。前の文章には、「一時、疲れた」とあり、ここには、「腹が減った」とあるのを合わせて考えると、この戦いでは、先に弱い軍を出して戦わせ、その後に、伊那佐山を越え、敵の後ろに回り込むなどして、あれこれと、時がたったはずなので、みな、腹が減り、そのため、疲れたのだろう。
【宣長の注釈】「志麻都登理」は、「島の鳥」で、鵜の枕詞である。雉を「野鳥」、鶏を「庭鳥」という類いである。
【宣長の注釈】「宇加比賀登母」は、「鵜を使う者たち」である。『万葉集』巻十七に、「鮎が走る、夏の盛りだと、島の鳥、鵜を使う者たちは、流れる川の、清らかな瀬ごとに、かがり火を差し、苦労しながら、上って行く」、巻十九に、「島の鳥、鵜を使う者たちと、ともに」などとある。昔は、鵜を使って魚を捕ることが、とても多かった。そのため、朝廷に仕える鵜養もいて、職員令の大膳職の下に、「雑供戸」とあるのを、『令義解』には、「鵜飼、江人、網引などの類いをいう」とある。『万葉集』を始め、代々の歌にも、鵜飼をする川を詠んだものが多く、物語の本などにも、あちらこちらに見え、中古までは、どこでも、川辺などには鵜養がいて、今の世にも、まれには残っている。「とも」は、その仲間をいい、『万葉集』巻一に、「乙女たち」、巻六に、「立派な男たち」、巻十八に、「身分の低い男たち」などともある。なお、「宇」の字の下にある「上」の字は、旧印本も、もう一つの本も、大きな字である。しかし、これは、上声で読む、という注で、上巻には例の多い、小さな字なので、今も、改めて、小さく書いた。〔延佳本には、この「上」の字がない。すべて大きな字では、例がないため、利口ぶって削ったのだろうか。〕
【宣長の注釈】「伊麻須氣爾許泥」は、「今すぐ、助けに来ておくれ」である。「今」という言葉には、「早く」という意味がある。〔今の世の言葉でも、早く、ということを強くいうには、「今」「ただいま」などという。〕「すけ」を、普通、「たすけ」というのは、「手助け」で、もとの言葉は、「すけ」である。そのため、各官庁の次官〔輔・副・助・介など〕も、みな「すけ」という。今の俗語でも、助けることを、「すける」という。「来ね」は、「来てくれ」というのと同じで、早く食べ物を持って来て、兵士たちが、腹を減らし、疲れているのを、救え、という意味である。ほかにも人はいるのに、鵜養を、特に選び出し、このようにお詠みになった理由は、契沖が、「前に、吉野で、阿陀の鵜養の祖、贄持の子が、お仕え申し上げたからである」というのは、そうでもあるのだろう。「贄持」という名も、食べ物に縁がある。あるいは、今度の戦いに、この人の所から、軍の食糧を送って献上する約束などが、前もってあったのかもしれない。〔師は、「『日本書紀』と合わせて考えると、この御歌の次に、文章の脱落があるのだろう」といわれた。しかし、そうではない。前の、登美毘古をお討ちになる所も、歌だけを挙げ、前後の事は省いている。それと同じ例なのだから。〕
【宣長の注釈】『日本書紀』には、ここに挙げた数首の歌の終わりに、「およそ、これらの御歌は、みな来目歌という。これは、その歌を実際に歌う久米の者たちにちなんで、名づけたのである」とある。〔「宇陀の高城に……」という歌から、ここまでで、合わせて六首である。『日本書紀』には、そのほかに、なお二首あり、八首である。また、その順序も、違う所が、あちらこちらにある。〕後に、「久米舞」というのは、この楽なのだろう。〔『日本書紀』には、あの「宇陀の高城に」の歌の後に、「これを、来目歌という。今、楽府で、この歌を演奏する者には、なお、手の振りの大小や、声の太い細いの違いがある。これは、昔の、残された形である」とあるのは、この舞の様子をいうのである。その理由は、前に引いて、詳しく述べた。〕『続日本紀』には、天平勝宝元年の十二月に、東大寺へ行幸し、仏事をお行わせになった時、また、同四年の四月に、同寺の大仏の開眼の日、行幸された時など、さまざまな音楽があった中に、久米舞もあったことが見える。〔その頃までは、このような行事にも、この舞があったので、ほかの折も、推し量るべきである。〕その後は、大嘗会に見える。『三代実録』には、「貞観元年十一月十六日、丁卯に、大嘗祭……。十九日、庚午に、悠紀・主基の二つの帳を取り払い、天皇は、豊楽殿の広いひさしの間にお出ましになり、百官を宴された。多治氏は田舞を奏し、伴・佐伯の二氏は久米舞、安倍氏は吉志舞、内舎人は倭舞を奏した。夜になると、五節を奏した。すべて、昔からの儀式のとおりだった」とある。〔元慶八年の大嘗会の所にも、このように見える。さて、この舞を、伴・佐伯の二氏が、お仕え申し上げるのは、久米部が、後に、大伴氏の下に属したからである。佐伯は、大伴から分かれた氏である。これらの事は、前に詳しく述べた。〕『貞観儀式』の、践祚大嘗祭、午の日の段には、「伴・佐伯の二氏が、舞人を率い、儀鸞門から入り、〔左は伴氏、右は佐伯氏。五位以上は、分かれて並ぶ。〕中庭の腰掛けに着き、〔担当の役所が、前もって置く。〕久米舞を奏する。〔二十人が、二列で舞う。〕」とある。また、「金で飾った剣、二十振り。以上は、久米舞の用具」などと見える。『北山抄』の、同じ午の日の条にも、同様にあって、「舞人二十人、琴の奏者六人。新式には、担当の役所は、五位と琴の奏者との腰掛けを置く。また、琴を置く台の腰掛けを置く、とある。寛平記には、王族四人は、緋色の衣を着け、末額・剣・靴を着ける、とある。承平記には、舞台の東で、お仕えする。舞人の、前後の端にいる者は、四位の袍を着け、中間は、五位の袍を着ける。みな、剣を帯び、頭に帯を巻き、剣を抜いて舞う。歌はなく、琴で拍子を取り、舞は、駿河舞のようである、とある」と見える。〔「弾正琴」とあるのは、「弾琴工〔琴を弾く者〕」の誤り、「終」は、「絡」の誤りなのだろう。〕さて、この舞の事は、その後、『江次第』や、諸家の記録などにも、所々に見えるが、おおよそ、ここに挙げたとおりである。『兵範記』には、「仁安三年十一月二十五日、壬午……、第一の酒を差す時、国栖が、笛と歌を奏する。次に、伴・佐伯の二氏が、久米舞を奏する。悠紀の側で行う。二氏の五位は、小忌の衣を着けて並ぶ。舞人二十人は、冠・退紅の袍・半臂・下襲・白袴・冒額・剣などを着け、琴の奏者六人が、それに従い、舞台の北に列をなして舞う。舞は、駿河舞のようである。次に、安倍氏が、吉志舞を奏する。主基の側で行う……」と見える。近世になると、この舞は絶え、伝わっていないという。〔『北山抄』に引いた『承平記』や、また、『江次第』などに、「歌はない」とあるので、その昔、すでに歌は絶えて、舞だけが残ったのである。〕そもそも、初めて国をお治めになった天皇の、大いなる御代に始まり、それほど立派だった楽が、すっかり絶えてしまったことは、惜しいにも、惜しく、悲しいにも、悲しい。
【古事記本文】そこで、邇藝速日命は、天つ神の御子のもとに参上し、申し上げた。「天つ神の御子である邇邇藝命が、天からお降りになったと聞き、その後を追って、私も降りて参りました」。そして、天から持って来た、神の子であるしるしの宝を献上して、お仕え申し上げた。邇藝速日命は、登美毘古の妹、登美夜毘売と結婚し、宇摩志麻遅命を生んだ。この神は、物部連・穂積臣・婇臣の祖である。
【宣長の注釈】「邇藝速日命」。『日本書紀』には、「饒速日、これを、にぎはやひ、という」とある。名の意味は、「にぎ」は、『日本書紀』に書いた「饒〔豊かであること〕」の意味で、邇邇藝命を、「にぎし、国にぎし……」と申し上げた、その「にぎし〔豊かだ〕」と同じである。「はやひ」は、上巻の、勝速日の御名の所〔『伝』巻七、五十三葉〕で述べたとおりである。
【宣長の注釈】「参赴」は、「まゐきて〔参って来て〕」と読むべきである。〔『日本書紀』では、この二字を、「まうづ」とも、「まうけり」とも、「まうき」とも読んでいる。「まう」は、「まゐ」が変わった言葉で、「けり」は、「来ている」という意味である。このほか、「詣」「参」「来」「来朝」「来帰」なども、「まうけり」と読む。高津宮の段の御歌に、「まゐくれ〔参って来ておくれ〕」、『万葉集』巻四に、「参り来て」、巻二十に、「まゐこむ〔参って来よう〕」などとある。〕
【宣長の注釈】「天つ神の御子に申し上げた」は、天皇に申し上げるのである。
【宣長の注釈】「天つ神の御子が……と聞き」は、邇邇藝命の御事である。
【宣長の注釈】「追いかけて降りて参りました」は、邇邇藝命の御跡を追い、天から降りて来るのである。〔天から降りることを、「参る」というのは、普通の例とは違うが、ここは、邇邇藝命が、すでに、この国に降りておいでなので、そのおいでの方を尊んで、「参る」というのである。〕『日本書紀』の、この巻の初めには、「そもそも、また、塩土老翁から聞くと、東には、美しい土地があり、青い山が四方を囲み、その中には、また、天の磐船に乗って、飛び降りた者もいる、という……。その飛び降りた者とは、饒速日という者だろうか」と見える。また、終わりにも、「饒速日命は、天の磐船に乗って、大空を飛び行く時、この地を見渡して、降りた。そこで、そのことによって、この国を、そらみつ日本国、と名づけた」とある。〔「日本国」は、畿内の、大和国をいう。〕この邇藝速日命が、天上から降りた神であることは、議論の余地がないが、何という神の御子かは、分からない。〔『姓氏録』でも、この神の子孫である諸氏は、みな「天神」の部に載せ、『続日本後紀』巻八にも、「天神、饒速日命」とある。『姓氏録』などにも、父を記した所はない。〕思うに、天照大御神の御子孫ではなく、ほかの天つ神の御子なのだろう。〔その理由は、『姓氏録』の例では、「神別」に、「天孫」「天神」「地祇」の三つがあり、天照大御神の御子孫の諸氏を、「天孫」の部とし、ほかの天つ神の子孫を、「天神」の部としているが、この神の子孫の諸氏は、「天孫」に収めず、「天神」の部だからである。それなのに、『旧事紀』で、天忍穂耳命の御子、天火明命を、この邇藝速日命としたのは、古書の趣旨と、大きく違い、まったくの偽説だということは、『伝』巻十五の九葉で、詳しく論じたとおりである。さて、この神が、天からお降りになった時のことを、とても物々しく記し、三十二柱の護衛の神、五部の人、五部の造、天の物部の二十五部の人などを、お供に添えて、お降ろしになったといい、その神々の名までも、すべて挙げているのは、まったくのでたらめとも見えない。思うに、これらは、実際には、みな、御孫の命が、天からお降りになった時の、お供の神々で、昔の記録に書き伝えたものが、埋もれて残っていたのを、ひそかに、この邇藝速日命の事に、作り変えた家の記録を採って、記したものと見える。〕この神が、天からお降りになった時代は、御孫の命の降臨よりは後、天皇が、日向からお発ちになった時よりは、はるか前のはずだが、その間の、いつ頃とも、はっきりとは分からない。〔御孫の命が、天からお降りになったと聞いて、その後を追って降りる、とあるのは、すぐに続いて、ほどなく降りたように聞こえるが、そうではない。先に、御孫の命がお降りになり、その後に、また、同じように降りたので、「追って」というのである。その間、どれだけの年月がたった後の事かも、分からない。また、天皇が日向においでの間に、昔、大和国へ、この神が、天から降りたということを、お聞きになったのも、とても近い出来事のようには聞こえない。そもそも、この頃は、神代との境目なので、まだ、寿命の長い人もいたはずだから、この神も、天から降りた後、数百年生きていて、天皇には、お仕えしたのかもしれない。『旧事紀』では、饒速日命は、すでに亡くなり、天皇にお仕えしたのは、その子の、宇摩志麻遅命としている。しかし、登美毘古の妹と結婚した、とある、その登美毘古も、まだ生きているのだから、饒速日命が生きていることも、どうして、疑うことがあろう。〕
【宣長の注釈】「天津瑞」は、天上から持って来た物で、天つ神の子であることを証明する宝である。それなので、「瑞」は、師が「しるし」と読まれたのが、当たっている。〔『万葉集』巻十九の三十九葉に、「昔から、なかった、しるし」とある。このような「瑞」も、「しるし」と読むべきである。「瑞」の字は、『説文』に、「玉を、証拠のしるしとする」とある意味を採り、しるしとなる物に使ったのである。それなのに、これを「みづ」と読むのは、ひどい誤りである。それは、もとは、『日本書紀』神代の巻で、「みづほの国」の「みづ」に、この「瑞」の字を書き、「これを、みづ、という」とあり、そのほかにも、同じ意味の「みづ」には、「瑞宮」「瑞範」などと、みな書いたことから起こっている。これも、当たらない文字だが、これらは、「みづ」と読む言葉そのものは、間違っていない。それらにならい、別の意味の「瑞」の字も、みな同じく、「みづ」と読むものと思い、「祥瑞」などまで、そのように読むのも、大きな誤りである。それも、「しるし」と読むべきなのである。〕『日本書紀』には、次のようにある。「その時、長髄彦は、使者を遣わし、天皇にいった。以前、天つ神の子があり、天の磐船に乗って、天から降り着き、櫛玉饒速日命と名乗った。この方は、私の妹の、三炊屋媛〔別名は、長髄媛、またの名は、島見屋媛〕と結婚し、子が生まれ、その名を、可美真手命という。そのため、饒速日命を、君主として、お仕えしている。そもそも、天つ神の子に、どうして、二つの系統があるのか。なぜ、また、天つ神の子と名乗り、人の土地を奪うのか。私が考えてみるに、本当とは限らない。天皇は、おっしゃった。天つ神の子は、ほかにも多くいるのだ。お前が君主としている者が、本当に、天つ神の子であるならば、必ず、しるしとなる物があるだろう。それを、見せるがよい。長髄彦は、すぐに、饒速日命の、天の羽々矢を一本と、矢を入れる歩靫とを取り、天皇に差し上げて、お見せした。天皇は、それをご覧になり、そのことは偽りではない、とおっしゃった。そして、今度は、お持ちの、天の羽々矢一本と、歩靫とを、長髄彦にお見せになった。長髄彦は、その、天のしるしを見て、ますます、うろたえた。しかし、すでに武器を構えた勢いは、途中で止められず、なおも、誤った考えを守り、改めて悔いることがなかった。饒速日命は、もともと、天つ神の深い御心が、ひたすら天孫の側にあると知っていた。そのうえ、長髄彦の性質が、ひねくれて頑固で、天つ神と人との道理を説き聞かせられないのを見て、これを殺し、その人々を率いて、従った。天皇は、以前から、饒速日命が、天から降りた者だとお聞きになっていて、今、果たして、忠実に功を立てたので、褒め、かわいがられた。これは、物部氏の遠い祖である」。〔これで見ると、矢や靫なども、天上の物は、普通の作りに比べ、はるかに優れ、見事で、貴い物だったのである。また、天皇の、天のしるしを見て、ますます、うろたえたことを考えると、天孫の命の御物は、さらに、格別だったと分かる。さて、『旧事紀』には、「天つ神の御祖が、詔して、天の璽である、しるしの宝、十種を、饒速日尊に授けた……」、また、「宇摩志麻治命は、天つ神の御祖が、饒速日尊に授けた、天の璽である、しるしの宝を、天孫に献上した……」、また、「饒速日命が、天から授かって来た、天の璽である、しるしの宝も、いっしょに収めて祭り、石上大神と称する……」などという。思うに、この十種の神宝を、お授かりになったのも、実際には、邇邇藝命なのを、例によって、偽って、邇藝速日命としたのだろうか。ただし、垂仁天皇の御代から、石上の神宝を物部氏が管理しているのは、もともと、この十種の神宝の縁もあったからか、とも聞こえるので、これは、本当に、饒速日命が持って来たのかもしれない。もし、そうならば、今、ここで「天津瑞」という物は、あの、天の羽々矢と歩靫だけでなく、この十種の神宝も、その中にあったのだろう。十種の神宝のことは、『伝』巻十の三十七葉に述べた。〕さて、この、天上から持って来た、しるしの品々を、自分の宝とせず、天皇に献上したのは、服従したしるしである。〔『日本書紀』の趣旨は、違っている。また、『旧事紀』に、「天の羽々弓と、天の羽々矢、さらに、神の衣・帯・手貫の三つの品を、登美の白庭邑に収め、埋葬し、これを墓とした」とあるのは、この『古事記』に、「天皇に献上した」とあるのと違う。また、「天の羽々弓」という名なども、理解できない。〕
【宣長の注釈】「登美夜毘売」。名の意味は、「登美」は地名で、前の、登美毘古の所で述べたとおりである。「夜」は、まだ、考えつかない。
【宣長の注釈】「宇摩志麻遅命」。『日本書紀』では、「可美真手、これを、うましまて、という」とある。名の意味は、「遅」は、阿斯訶備比古遅などの「遅」なのだろうか。〔ただし、『日本書紀』には「手」とあるので、別の意味か。また、『姓氏録』には、この人の名が多く出るが、みな「治」とあり、「味島乳」とも書いている。『旧事紀』には、「また、味間見命ともいう」とある。〕『旧事紀』が、この人の功績を、大げさに記しているのは、子孫の諸氏が、大いに広がり、栄えたことを考えれば、そうでもあったのだろう。
【宣長の注釈】「物部連」。ここでは、まず、「もののふ」と「物部」という呼び名について説き、後に、この氏の事を述べよう。そもそも、「物部」は、「もののふの部」ということで、「ふべ」を縮めて、「もののべ」というのである。その「もののふ」というのは、〔名の意味は、まだ考えつかないが、〕およそ、武勇の職務で朝廷に仕える、勇士の呼び名である。『万葉集』の歌で、これを、「宇治」の枕詞にいうのも、荒々しく強い、という意味である。〔この事は、『冠辞考』に詳しい。〕巻三では、「武士」とも書き、後世までも、武士を「もののふ」という。また、朝廷に仕える人たちを、すべても、「もののふ」といって、「もののふの、八十伴緒〔多くの役人たち〕」などと詠んだものも、『万葉集』に多いのは、上代、武勇の職務を、主なものとされた世の古語が、残ったのである。〔「もののふ」の事は、師の『冠辞考』に、詳しく説かれている。その中で、「昔、すべて、勇ましい人を、もののふ、といった。その数は、世に限りなく多いので、八十稜威人〔多くの威勢の強い人〕といった」といわれたのは、違っている。「八十氏〔多くの氏〕」と続けていうのは、あの「八十伴緒」というのと同じで、武人だけでなく、すべて、朝廷に仕える人を、みな「もののふ」といい、その諸氏が多いという意味で、「多くの威勢の強い人」という意味ではない。「八十」といわず、ただ「もののふの、宇治」といい、また、「ちはやぶる、宇治」「ちはや人、宇治」などというのとは、続ける意味が違う。「ちはやぶる」「ちはや人」などは、ただ「宇治」とだけ続け、「八十宇治」と続けた例がないことから、この違いを理解すべきである。「もののふの」という枕詞は、ただ「宇治」と続けるのは、あの「ちはや人」などと同じで、荒々しく強い意味であり、「八十宇治」と続けるのは、「八十伴緒」の、諸氏が多い、という意味である。同じ枕詞、同じ地名でも、それにつなぐ意味は、違う。よく注意しなければ、混同するだろう。また、「もののふの、八十の乙女」「もののふの、八十の心」などと続けるのも、「八十氏」と続けるのと同じ意味で、「八十」の枕詞である。また、『冠辞考』で、「上代には、もののふ、という呼び名は見えず、後になって、いった名である」といわれたのも、どうだろうか、と思う。『古事記』『日本書紀』の二書に、その呼び名は見えないが、それは、書く機会がなく、たまたま、漏れたのだろう。「物部」という呼び名が、すでに上代からあるので、「もののふ」の呼び名も、あったと知るべきである。〕
【宣長の注釈】さて、「物部」という者は、一つの部に属する武士であり、その人々は、上代に、特に勇ましく、武事に優れていたので、その部を、特に「武士の部」と、名づけられたのである。〔したがって、「もののふ」は、およそ、勇ましい人の呼び名、「物部」は、一つの部の武人の呼び名で、区別がある。しかし、『万葉集』などで、「もののふ」にも、「物部」と書くため、紛らわしいことがある。〕上代に、「物部」という者が見えるのは、『日本書紀』崇神の巻に、「物部八十手」とあるのが、それである。〔この「物部」は、氏の名ではなく、物部の人をいう。〕『姓氏録』には、「原造は、神、饒速日命が、天から降りた時のお供の、天物部現度造の後である」、また、「坂戸物部は、同じ神のお供の、坂戸天物部の後である」、また、「二田物部は、同じ神のお供の、二田天物部の後である」と見える。〔『旧事紀』の、饒速日命が、天から降りる段には、「五部の造を、供とし、天物部を率い、天から降りて、お仕えした」とあり、その五部の中には、「二田造」という者も、「坂戸造」という者もある。また、「天物部など、二十五部の人が、ともに武器を帯び、天から降りて、お仕えした」とあって、その二十五部は、みな「何々物部」という名である。その中に、「二田物部」という者もあり、また、「島戸物部」という者もあるのは、『姓氏録』に「現度造」とある、それだろうか。「現」は、ある本には「峴」とするが、「島」の字の誤りだろうか。なお、『姓氏録』の、この三氏は、「未定雑姓」の部に収められている。「未定雑姓」というのは、「氏姓の職務の由来や、もとの系譜を、調べ尋ねた。しかし、これらの氏姓は、祖先の記述が古い記録と違い、その事は、昔の典籍に漏れていて、研究を加えても、考えが及ばなかった。そのため、集めて別の巻とし、未定、と名づけ、末に付けて、後の賢者を待つ」とある、不確かな氏姓なのである。それならば、ここにある「天物部」なども、みな、実際には、御孫の命の降臨に、お供した神だったのを、偽って、饒速日命のお供の神としたことは、前に述べたとおりで、「祖先の記述が、古い記録と違う」というものなのである。しかし、「物部」という呼び名は、神代からあり、あの降臨のお供として、天から降りたので、「天物部」というのだろう。〕『日本書紀』雄略の巻には、「物部の兵士三十人を遣わし、前津屋と、その一族七十人を殺した」、また、「天皇は、そこで、御田が、その采女と密通したのではないか、と疑い、処刑しようと思って、物部に引き渡された」、また、「物部に引き渡し、野で処刑させた」、欽明の巻には、「臣の所へ来た者の連れて来た人民に、筑紫の物部、莫奇委沙奇がいて、よく火の矢に対抗した」などと見える。職員令の囚獄司には、「物部、四十人。囚人の管理と、刑罰の執行を担当する」とある。〔『続日本紀』和銅四年十月の、初めて禄の制度を定めた条にも、「召使の門部・物部・主船などには、生糸二絇〔重さの単位〕と銭十文を支給する」とある。『類聚国史』天長八年二月にも、「囚獄司の物部の定員は四十人で、従来、名を負う氏から、採用に応じる者を採ってきたが、広く、ほかの氏からも採る……」とある。「名を負う氏」は、祖先から、代々、物部である系統の人をいう。〕このようにあるので、後には、地位が下がり、ただ、処刑の事を担当し、とても低い職務となったのである。〔雄略の巻にも、すでに、その様子が見える。〕
【宣長の注釈】さて、物部連氏は、遠い祖の宇摩志麻遅命に、武勇の功績があったので、ここに挙げた、天物部の人々を、お率いさせになったことから、子孫が、代々、その職を継ぎ、物部を率いて、朝廷に仕えたことによって、この姓を賜ったのである。〔『旧事紀』に、「宇摩志麻治命が、天物部を率い、荒々しく逆らう者を、討ち平らげた……」というのは、本当なのだろう。『日本書紀』雄略の巻に、「物部目連は、自ら大刀を執り、筑紫の聞の物部大斧手に、盾を執って、軍の中で叫ばせた……」とある。「目」は、人の名である。『続日本紀』巻九には、「石上朝臣勝男たちが、内物部を率いて……」とある。これらが、物部を率いた証拠である。〕『日本書紀』崇神の巻には、「物部氏の遠い祖、大綜麻杵」、また、「物部連の祖、伊香色雄」、垂仁の巻には、「物部連の遠い祖、十千根」などという人が見える。しかし、この姓を賜ったのが、いつかは、見えない。〔『伝』巻二十一の二葉、「師木県主」の下と、考え合わせるべきである。また、垂仁の巻の二十六年の所には、「物部十千根大連」とあるので、それより前に、すでに、この姓を賜っている。『旧事紀』には、「饒速日命の子、宇摩志麻治命……。七世の孫、建胆心大禰命は、伊香色雄命の子である。弟は、安毛建美命。弟は、大新河命。纏向珠城宮でお治めになった天皇の御代に、物部連公の姓を賜った。弟は、十千根命。同じ御代に、物部連公の姓を賜った」とある。そうでもあったのだろう。『姓氏録』でも、伊香色雄命は、饒速日命の六世の孫、大新河命は、七世の孫とある。〕仲哀の巻には、物部胆咋連、履中の巻には、物部伊莒弗大連、同じく長真胆連が見え、雄略の巻には、「物部連目を、大連とする」と見える。その後も、位の高い人が、代々に見えている。そして、天武の巻の、十三年十一月、戊申の初日に、「物部連に、姓を賜り、朝臣とした」とある。『続日本紀』には、また、「宝亀六年十二月、従三位の石上朝臣宅嗣に、物部朝臣の姓を賜った。その願いによったのである」、同十年十一月には、「中納言、従三位の物部朝臣宅嗣は、物部を改め、石上朝臣を賜るがよい、と勅した」とある。〔宅嗣卿は、麻呂大臣の孫で、中納言、弟麻呂卿の子である。大納言、正三位で、天応元年六月に亡くなり、五十三歳だった。〕『姓氏録』の、左京神別〔天神〕には、「石上朝臣は、神、饒速日命の後である」とある。〔小字では、「宇摩志麻治命の十六世の孫、物部連公麻呂は、物部朝臣の姓を賜り、連を改めて、石上朝臣の姓を賜った」とある。〕ある本には、この小字二十九字はない。〔小字は、後の人が、『旧事紀』によって、書き加えたものなのだろう。「連公」と、「公」の字を添えるのは、例がないことで、『旧事紀』にだけ、そのようにある。〕物部連麻侶は、天武の巻に出ているので、朝臣の姓を賜ったのは、確かに、この人の代である。また、石上と改まったことは、『日本書紀』に見えないが、同じ巻の末と、持統の巻に、「石上朝臣麻呂」と見え、次に、十八氏を挙げた所にも、「石上」とあるので、これも、この人の代に改まったことは、明らかである。『旧事紀』には、「饒速日尊の十七世の孫、物部連公麻侶は、浄御原朝の御代に、連公を改め、物部朝臣の姓を賜り、同じ朝の御代に、改めて、石上朝臣の姓を賜った」という。麻侶は、『続日本紀』に、「養老元年三月、癸卯、左大臣、正二位の石上朝臣麻呂が亡くなった。大臣は、大連、物部目の後で、宇麻子の子である」とある。およそ、物部氏の事は、饒速日命から、麻呂大臣までの世代の順を、『旧事紀』巻五に、詳しく挙げている。その文章の中には、信じがたいことも多いが、代々の順序などは、おおよそ、違ったこともないと見えるのは、家の系譜を採って、記したものなのだろう。石上と改められた理由は、『伝』巻十八の、石上神宮の下で述べたとおりである。代々住んだ土地も、石上にあったのだろう。『古今集』雑歌上の詞書に、「石上並松が、宮仕えもせず、石上という所に、こもっていたのを……」とあることから見ると、今の京へ移った後も、この氏は、大和の石上に、昔の宅地などを、なお、そのまま持っていたのだろう。
【宣長の注釈】そもそも、宇摩志麻遅命の子孫で、物部連氏から枝分かれした氏は、とても多く、『姓氏録』にも、たくさん見える。『続日本紀』巻四十には、「韓国連源たちは、申し上げた。私たちは、物部大連たちの子孫です。物部連たちは、それぞれ、住む土地や、行った職務によって分かれ、百八十氏となりました……」とある。〔「百八十」は、ただ、百をも、多く超えた数の多さをいう古語である。〕また、『神名帳』でも、諸国に、物部神社が、とても多い。〔これは、それぞれの国に住む、この氏の人の祖先の神を祭った社と見える。その中に、「物部天神社」というものもあるのは、まさしく、邇藝速日命を祭ったのだろう。〕『日本書紀』持統の巻には、「四年春、正月、戊寅の初日、物部麻呂朝臣が、大盾を立てた……」とある。〔これは、天皇が、即位される時の儀式である。〕『続日本紀』には、「神亀元年十一月、己卯、大嘗……。従五位下の石上朝臣勝男、石上朝臣乙麻呂、従六位上の石上朝臣諸男、従七位上の榎井朝臣大島たちが、内物部を率い、斎宮の、南北の二つの門に、神の盾を立てた」、また、「延暦四年正月、丁酉の初日、天皇は、大極殿にお出ましになり、朝賀を受けられた。その儀式は、いつものとおりで、石上・榎井の二氏が、それぞれ、矛と盾を立てた」とある。『貞観儀式』の大嘗祭の儀には、「石上・榎井の二氏の人、各二人が、内物部三十人を率い、〔紺の布の単衣を着ける。〕大嘗宮の南北の門に、神の盾と戟を立てる。〔門ごとに、盾二枚と、戟四本。〕」などと見える。この氏の人が、この事を、お仕えするのは、上代の儀式が残ったものである。〔榎井朝臣は、物部氏から分かれた氏である。孝徳の巻に、物部朴井連椎子、斉明の巻に、物部朴井連鮪などという人が見える。天武の巻には、朴井連雄君という人を、物部雄君連とも記している。この雄君連は、壬申の年の大きな功績によって、天武五年に亡くなった時、位を追贈するなどし、氏の長と、お認めになった人である。それならば、榎井朝臣は、この人の子孫なのだろう。同十三年に、五十二氏に、朝臣の姓を賜った中に、この氏が見えないのは、朴井連とも名乗りながら、この時は、まだ物部連の内で、いっしょに朝臣になったのだろう。そして、はっきり「榎井朝臣」と改まったのは、あの麻呂公などが、「石上朝臣」と改まったのと、同時のことなのだろう。『続日本紀』の文武天皇二年十一月、己卯に、「大嘗。榎井朝臣倭麻呂が、大盾を立てた」とある。これが、「榎井朝臣」と見える、初めである。また、養老三年五月には、「榎井連四十麻呂に、朝臣の姓を賜った」などともある。『旧事紀』の、物部氏の代々の中に、「榎井臣たちの祖」ということがあるが、「臣」という姓も違い、また、『日本書紀』の趣旨とも合わないので、信じにくい。『姓氏録』には、この氏は見えず、ただ、和泉国の神別に、「榎井部」というものがあって、「饒速日命の後である」とあるだけである。「朴井」という地名は、『日本書紀』推古の巻の二十葉に見える。〕
【宣長の注釈】「穂積臣」。この氏の事は、堺原宮の段〔『伝』巻二十二、二葉〕で述べる。
【宣長の注釈】「婇臣」。「婇」は、「うねべ」と読むべきである。旧印本で、この字を「妹」とするのは、書き写しの誤りである。延佳が、利口ぶって、「采女」の二字に改めたのも、かえって、誤りである。今は、ある一本に従った。なお、「婇〔うねめ〕」の事は、下巻、朝倉宮の段の「三重婇」の下〔『伝』巻四十二、二十五葉〕で、詳しく述べる。この氏が、「婇」という名を負っているのは、もともと、どのような由来かは、分からない。践祚大嘗祭式の、悠紀の御膳を供える時の、行列の順に、「采女司の、采女朝臣二人〔左右の先導〕」とあるので、もとは、采女の職務に由来する名なのである。この氏の人は、『日本書紀』舒明の巻に、采女臣摩礼志、孝徳の巻に、采女臣使主麻呂、天武の巻に、采女臣竹羅などが見える。同じ巻の、十三年十一月には、「采女臣に、姓を賜り、朝臣とした」とある。また、『続日本紀』には、「天平神護元年二月、摂津国島下郡の人で、右大舎人の采女臣家麻呂、采女司の采部、采女臣家足たち四人に、朝臣の姓を賜った」と見える。『姓氏録』の、右京神別〔天神〕には、「采女朝臣は、石上朝臣と同じ祖で、神、饒速日命の六世の孫、大水口宿禰の後である」とある。〔『旧事紀』には、「大水口宿禰命は、穂積臣・采女臣たちの祖で、出石心命の子」という。〕和泉国神別〔天神〕には、「采女臣は、神、饒速日命の六世の孫、伊香色雄命の後である」とある。〔『日本書紀』天武の巻に、「采女造に、姓を賜り、連とした」とあるのは、別の氏姓なのだろう。〕
【古事記本文】こうして、荒々しく振る舞う神々を、言葉で説き伏せ、平定し、従わない人々を、追い払い、平らげ、畝火の白檮原宮においでになって、天下をお治めになった。〔「夫琉」の二字は、音を表す。〕
【宣長の注釈】「如此」は、ここでは、朝倉宮の段の御歌に、「かくのごと」とあるのに従い、そのように読んだ。これは、初めからの、さまざまな事を指し、まとめていうのである。
【宣長の注釈】「荒夫琉神」は、ここでは、あの熊野山の、荒々しい神をいうのだろう。
【宣長の注釈】「言向」は、「ことむけ〔言葉で服従させ〕」、「平和」は、「やはし〔平定し〕」と読むべきである。この言葉の事は、『伝』巻十三〔十葉、二十四葉〕に述べた。上巻には、「その国の、荒々しく振る舞う神々を、言葉で説いて、従わせ」、また、「葦原中国を、言葉で説いて、平定し」などとある。
【宣長の注釈】「不伏人」は、「まつろはぬひと〔従わない人〕」と読むべきである。「人」の字は、諸本が、みな「之」としているが、それは、断じて、書き写しの誤りである。そこで、今は、例によって改めた。その例も、読み方の例も、次に挙げるとおりである。水垣宮の段には、「その、従わない人たちを、平定させ」、倭建命の段には、「東の十二道の、荒々しい神々と、従わない人たちとを、言葉で説いて、平定せよ」、また、同じ段には、「東西の、荒々しい神々と、従わない人たちとを、平定したのである」、また、「山河の、荒々しい神々と、従わない人たちとを、言葉で説いて、平定し」などとある。この言葉は、『日本書紀』雄略の巻の御歌に、「大君に、従う〔おほきみにまつらふ〕」とある。〔これによれば、「ろ」を、「ら」とも、通わせていうのである。〕『万葉集』巻一には、「荒々しい人を、お従わせになるとて、お仕えしない国を、お治めになるとて」、巻十八には、「服従させよ、との仰せのままに」、巻二十には、「荒々しい神を、言葉で従わせ、従わない人をも、平定し、掃き清め」とある。〔この「倍」は、必ず「波」とあるべき所なのに、もとから、このように詠み誤ったのか、あるいは、後で、書き写しを誤ったのか。〕『日本書紀』には、「帰順」「不服」「不順」などとある。
【宣長の注釈】「退撥」は、『万葉集』巻十九に、「天の雲に、磐船を浮かべ、国を平定し、お治めになって、天からお降りになり、代々、継ぎ続けて、お治めになってきた、皇位の継承……」とあることによって、「はらひたひらげて〔追い払い、平らげ〕」と読むべきである。また、巻五の十三葉には、「韓国を、服従させ、平定して〔からくにを、むけたひらげて〕」ともある。〔このように読んでもよいが、前に、「言向」とあるので、「むけ」という言葉が重なるため、ここは、そのようには、読みにくい。また、字のとおりならば、「そけはらひ〔退け払い〕」とも読めるが、言葉が整わない。およそ、このような古語は、例をよく考え、努めて、言葉を美しく整えて、読むべきである。師は、「はきやらひて〔掃き払って〕」と読まれたが、これも、よいとは聞こえない。また、上巻の大穴牟遅神の段に、「川瀬ごとに、追い払って」とあるのによれば、あるいは、「退」は、「追」の字の誤りで、「おひはらひ」と読むべきか、とも思うが、ここは、そうではあるまい。なお、倭建命の段に、「平定して、参上し、報告を申し上げた」とある、その「撥治」も、「はらひたひらげて」とも、「はらひむけて」とも、読むべきである。〕『日本書紀』神代の巻には、「駆け払い、平定し」とある。
【宣長の注釈】「畝火」は、大和国高市郡にある山の名である。この後にある、大后の御歌に、「うねびやま」と見え、『日本書紀』欽明の巻の歌にも見える。允恭の巻には、新羅の客が、この山を、よしとして、「うねめはや〔なんと、よい畝傍山だ〕」といった事がある。また、推古の巻には、「畝傍池」、皇極の巻には、蘇我大臣の「畝傍の家」とある。〔この「畝」の字を、『釈日本紀』でも、今の本でも、「敏」と誤り、「としかたのいへ」と読むのは、間違いである。〕『続日本紀』には、文武天皇四年八月に、この山の樹木が、理由なく枯れた事も見える。『万葉集』巻一には、雲根火・耳梨・香山という三山が、妻を争うという、近江宮の天皇の御歌がある。また、藤原宮の御井の歌には、「畝火の、この瑞々しい山は、西の大きな御門に、瑞々しい山として、山らしく、そびえていらっしゃる」、巻二には、「軽の市に、私が立って、耳を澄ますと、玉だすき、畝火の山で鳴く鳥の声も、聞こえない」、巻四には、「天翔けるや、軽の道から、玉だすき、畝火を見ながら」などと詠んでいる。『日本書紀』の、この天皇の巻には、「畝傍山、これを、うねまやま、という」とある。『神名帳』には、大和国高市郡の、「畝火の山口に坐す神社」がある。〔大社で、月次祭・新嘗祭がある。〕今、この山の東南の麓に、「畦樋村」という所がある。〔今、土地の人は、「樋」を清音で呼ぶ。しかし、古書では、「備」の字などを使い、みな、濁音である。〕
【宣長の注釈】「白檮原宮」。「白檮」は、「かし」と読むべきである。この木の事は、玉垣宮の段に、「葉の広い、くまがし」とある所〔『伝』巻二十五、二十葉〕で述べる。この宮の名は、この土地が、昔は、カシの木の原だったので、負ったのだろう。〔『日本書紀』にも、「山林を切り払い、宮殿を造営した」とある。〕この地名は、今の世には残っていないが、大宮の場所が、畝火山の東南の麓に近い土地だったことは、『日本書紀』によって、明らかである。〔ある説で、「葛上郡にある柏原村が、この宮の跡である。この村は、畝火山の西南の方に当たるので、『日本書紀』の、東、の字は、西、を書き写し間違えたのである」というのは、誤りである。今の柏原村は、畝火山のあたりではなく、やや遠いので、まったく、「畝火の白檮原」というべき地勢ではない。根拠のないことである。〕『日本書紀』に、「道臣命に、宅地を賜り、築坂邑に住まわせ、大来目を、来目邑に住まわせた」とあるのは、みな、都の近いあたりの土地だったのだろう。〔築坂は、宣化天皇の御陵のある、身狭の桃花鳥坂と同じで、今、三瀬から、東の、軽村へ越える間の岡であり、東からも、西からも、やや登る坂道である。その上の、平らな土地に、窟がある。これが、あの御陵なのだろう。この事には、なお、詳しい考えがある。この土地は、畝火から遠くない。また、久米村、久米寺なども、畝火に近い土地である。〕『日本書紀』には、「己未の年、三月、辛酉の初日から数えて、丁卯の日に、命令を下した……。畝傍山の東南、橿原の土地を見ると、国の奥まった、よい土地なのだろう。ここに、都を造ろう。この月、役人に命じ、天皇のお住まいを造り始めた」とある。〔『古語拾遺』には、この大宮を、お造りになった間の事、そのほかにも、この御代の制度などを、いろいろと記している。〕『万葉集』巻一には、「玉だすき、畝火の山の、橿原の、天皇が、よくお治めになった御代から……」と詠んでいる。
【宣長の注釈】「治天下」の「治」は、「しろしめしき〔お治めになった〕」と読むべきである。次々の、各御代の段でも、みな同じである。『万葉集』巻二十には、「あきづしま、大和の国の、橿原の、畝傍の宮に、宮の柱を、太く、しっかり立てて、天下を、お治めになった、天皇の……」とある。『摂津国風土記』には、「畝傍の、橿原の宮で、天下をお治めになった、天皇の世」などと見える。〔およそ、昔の天皇の御事を申し上げる時、古くは、「何々宮で、天下をお治めになった天皇」と申し上げた。『日本書紀』天武の巻に、孝徳天皇を、「難波宮で、天下をお治めになった天皇」、天智天皇を、「近江宮で、天下をお治めになった天皇」などという類いである。また、「某宮御宇天皇」とも書く。「御宇」も、「あめのしたしろしめしし〔天下をお治めになった〕」と読むのである。後世に、これを誤り、「何々天皇の御宇」といって、「御宇」を、御時、という意味に使うのは、誤りである。「御宇の時」とはいってよい。〕『日本書紀』には、「辛酉の年、春、正月、庚辰の初日に、天皇は、橿原宮で、天皇の位に即かれた。この年を、天皇の元年とする……。そのため、古い言葉では、こう称えていう。畝傍の橿原で、宮の柱を、大地の底の岩の根に、太く立て、屋根の破風を、高天の原に、高々とそびえさせ、初めて、天下をお治めになった天皇を、神日本磐余彦火々出見天皇という、と」とある。〔『日本書紀』が、この御代の元年を、辛酉と定め、また、その紀の中で、どんな事も、何月何日と、日付を示して書いたのには、大いに疑いがある。この事は、すでに、詳しく論じた。その文章が、とても長く、ここには挙げにくいので、別に、『真暦考』と題して、一巻にした。〕
古事記伝 巻二十
本居宣長、謹んで著す
白檮原宮 下巻
【古事記本文】日向においでの時、阿多の小椅君の妹、名は、阿比良比売と結婚し、お生まれになった御子は、多藝志美美命、次に、岐須美美命の、お二人である。〔「阿」から下の五字は、音を表す。〕
【宣長の注釈】「阿多」は、地名で、薩摩国にある。詳しくは、上巻、「隼人、阿多君」とある下〔『伝』巻十六、四十二葉〕で述べたとおりである。〔この「阿多」も、あの上巻の「阿多君」と同じで、氏の名と聞こえるのに、地名である、というのは、なぜかといえば、この御代の頃は、まだ、氏の名をいう例がないからである。この事は、さらに、次に詳しく述べる。ただし、これは、地名のまま、後に、氏の名となったので、あの「阿多君」ではあるのである。〕
【宣長の注釈】「小椅君」は、地名によった、人の名である。〔「阿多」は、広い範囲の名で、その中にある、「小椅」という土地なのだろう。この土地は、書物に見えないが、必ず、そうだろう。今、その名の土地はないか。大隅・薩摩の人に、尋ねるべきである。『旧事紀』で、景行天皇の御子たちを挙げた中に、「襲小橋別命、三田小橋別の祖」という。「三」の字は、ある本では「兎」とするが、どちらも誤りで、「吾田小橋別」なのだろう。これも、ここと同じ地名と聞こえる。小椅君は、その土地を領有する人で、その地名を、名に負っているのだろう。また、これは、人の名ではなく、阿多氏の中から分かれた、一つの氏のようにも聞こえるが、もし、氏の名ならば、必ず、その下に、その人の名があるべきなのに、名をいわず、「妹」というのは、どうだろうか。「何々氏の妹」とは、いわないはずだからである。また、「君」という姓は、必ず、氏の下に付けるのが例で、人の名の下には、どうか、ともいえるだろう。しかし、およそ、姓は、もともと、その人を尊んで、いうことから起こったものである。この御代の頃は、まだ、はっきりと、氏というものがなかったと見えるので、ただ、その住んでいる所の名などで、「何々の所の君」と、尊んで呼んだものが、代々、その呼び名が伝わり、ついには、氏の名となったのである。特に、この小椅君などは、妃の兄であるから、尊んで、「何々の所の君」というのは、なおさらである。『日本書紀』神代の巻に、「火闌降命は、吾田君小橋たちの、もとの祖である」とある、その「小橋」も、この人の名なのだろう。およそ、『古事記』でも、『日本書紀』でも、「何々は、何々氏の祖」とあるのは、みな、その子孫の氏の名を挙げるのが例で、人の名を挙げる例は、あまりない。それならば、この「小橋」も、やはり、氏の名のようにも思われる。しかし、もし、氏の名ならば、「君」の字は、「小橋」の下にあるべきなのに、わざわざ、上にあるので、必ず、人の名である。このような所に、人の名を挙げているのは、同じ神代の上巻に、「大三輪の神。この神の子は、甘茂君たち、大三輪君たち、また、姫蹈鞴五十鈴姫命」とある類いである。これも、この天皇の大后であるため、このように、御名を挙げたのと同じく、小橋も、妃の兄なので、特に、その名を挙げたのだろう。この時は、まだ「吾田君」というのは、氏ではなく、尊んで、このように呼んだままに、記したのである。すべて、このような事も、その時代に従い、理解し分けるべきである。〕
【宣長の注釈】この『古事記』では、橋や階段などに、みな「椅」の字を書いている。およそ、昔は、この字を多く使ったと見え、『万葉集』『神名帳』『姓氏録』、『和名抄』の郡名など、そのほかの古書にも、たくさん見える。〔『万葉集』巻七に「倉椅」、『神名式』の下総国に「高椅神社」、阿波国に「天椅立神社」、『和名抄』の武蔵国の郡名に、「良椅、よしはし」など、このほかにも、なお多い。〕この字を、旧印本で、手偏に書くのも、延佳本で、『古事記』の中のものを、すべて土偏に書くのも、どちらも誤りである。今は、ある一本に従った。ほかの古書にあるものも、『古事記』の中の別の所にあるものも、みな木偏だからである。〔延佳が、すべて土偏に書くのは、利口ぶって、改めたものと見える。また、師は、「石偏であるべきで、碕は橋である、と字書にいう」といわれたが、これも、どうだろうか。「埼」も「碕」も、古書では、「崎」と同じく、「さき」に使った字で、橋に使った例もなく、字書にも、その意味は見えない。「椅」も、字書には、橋の意味はないが、日本の古書に多く見えるので、間違いなく、この字なのである。およそ、昔は、中国での字の意味によらず、世に広く使い慣れた例が、多い。倉に「椋」の字、隈に「隅」の字を書く類いである。〕
【宣長の注釈】「阿比良比売」は、『和名抄』に、大隅国の郡名として、「始羅、あひら」、また、同じ国の大隅郡に「姶臈」、熊毛郡に「阿枚」とある、それらの中の地名によった名である。〔これらは、みな、もとは同じ土地なのだろう。『日本書紀』神代の巻にいう、「日向の吾平山の上の御陵」も、同じ土地である。〕『日本書紀』には、「日向国、吾田邑の、吾平津媛と結婚し、妃とされた」とある。〔これにも、氏の名をいわず、「吾田邑」とあることから、この『古事記』の「阿多」も、ここでは地名であることを、知るべきである。〕
【宣長の注釈】「娶」は、「めして〔妻として迎えて〕」と読むべきである。〔また、「いれて〔迎え入れて〕」とも、「みあひまして〔結婚して〕」とも、読んでよい。〕『日本書紀』では、この字や、また、「御」「納」「通」なども、そのように読んでいる。
【宣長の注釈】「多藝志美美命」は、『日本書紀』では、「手研耳命」と書いている。名の意味は、はっきりしない。あるいは、倭建命の段に、「私の足は、歩くことができず、たぎしの形になった」とある、その物に由来する御名か。〔「たぎし」という物のことは、その所で説明する。『日本書紀』に書いた「研」は、「きしる」と読む字で、ここでは、音を借りた字なのだろう。〕「耳」は、尊称で、忍穂耳命などの「耳」と同じである。その事は、その所〔『伝』巻七、五十四葉〕に、詳しく述べた。
【宣長の注釈】「岐須美美命」は、『日本書紀』には、この御子はいない。思うに、この御名の、「し」と「す」は、通じる音なので、兄の御名との違いは、ただ「た」が、省かれただけで、とてもよく似ている。〔『旧事紀』で、「研耳」と書くのは、推し当てなのだろう。〕また、後に至っても、多藝志美美命の事だけが出て、この御子の事は見えない。〔もし、この御子がいたのならば、必ず、その事も出るはずである。〕これらの事から考えると、これは、兄の御名の伝わり方が、少し違ったものが、混同され、二人となったので、『日本書紀』の方が、正しいのだろうか。
【宣長の注釈】ここから、次々の代に出てくる、昔の王たちの御名には、さまざまな種類がある。〔皇子・皇女・男王・女王などを、昔は、すべて「王」といった。〕今、ここで、その大体をいうと、三種類である。一つは、由来によって、いろいろな物の名などを使い、付けられたもの。二つ目は、住んでいた土地の名で、お呼びしたもの。三つ目は、褒めたたえて、お付けしたものである。王たちだけでなく、普通の人の名も、おおよそ、この三種類である。
それぞれの例を、一つ二つずつ挙げると、垂仁天皇の御子は、火の中でお生まれになったので、本牟智和気御子と名づけられた。景行天皇の御子が、双子でお生まれになったのを、父天皇は、不思議に思われ、碓に向かって叫ばれたので、大碓命・小碓命と申し上げた。応神天皇は、お生まれになった時、腕に、弓を射る鞆のような肉の盛り上がりがあったので、大鞆和気命と申し上げた。仁徳天皇は、建内宿禰の子と、同じ日にお生まれになり、木菟と鷦鷯との、めでたいしるしがあったため、その名を交換し、建内宿禰の子を、木菟と名づけられ、御子を、大鷦鷯と申し上げた。清寧天皇は、生まれながらに、白髪がおありだったので、白髪命と申し上げた。反正天皇は、御歯が、特別に立派だったことから、水歯別命と申し上げた。このようなものは、由来の物の名を採り、お付けした証拠の例である。また、聖徳太子は、馬屋の戸口でお生まれになったので、厩戸と申し上げた。天武天皇の御子を、大伯皇女と申し上げたのは、備前国の大伯の海で、お生まれになったことによる御名である。これらも、場所の名だが、やはり、出来事の由来によっている。
次に、開化天皇の孫、沙本毘古王は、沙本においでになり、〔この王が、垂仁天皇を殺そうと、はかった時、天皇の御夢に、沙本の方から、大雨が降って来ると、ご覧になった事が見える。〕応神天皇の御子、宇遅能和紀郎子は、山代の宇治においでになり、仁賢天皇の御子、春日山田郎女は、春日においでになった。〔『日本書紀』継体の巻で、勾大兄皇子が、この皇女に求婚される御歌に、「春日の、春日の国に、美しい女がいると聞いて……」とある。〕雄略天皇の大后、若日下王は、河内の日下においでになった。〔天皇が、この后のもとへ、日下にお出かけになった事が見える。〕また、この天皇は、長谷宮においでになったため、大長谷若建命と申し上げ、安康天皇は、石上の穴穂宮においでになったので、穴穂命と申し上げた。これらは、みな、住んでいる土地の名で、お呼びした証拠の例である。また、舒明天皇の御子、蚊屋皇子は、吉備国の、蚊屋の采女の腹から、天智天皇の御子、伊賀皇子は、伊賀の采女の腹から、お生まれになった。これらは、母の故郷の名を採った御名と聞こえる。
次に、神武天皇は、初め、豊御毛沼命、また、狭野命と申し上げたのを、後に、天下をお治めになって、神倭伊波礼毘古命、また、神倭伊波礼毘古穂々手見命と申し上げた。〔この御名の事は、『日本書紀』神代の下巻に見える。〕倭男具那王は、武の功績によって、倭建命と申し上げた。このようなものは、褒めたたえて、お付けした証拠の例である。およそ、代々の天皇たちの、長い御名などは、おおむね、どれも、この例である。普通の人にも、この類いは多い。〔普通の人では、『日本書紀』垂仁の巻に、八綱田の功績を褒め、「倭日向武日向彦八綱田」という名を賜った、という類いである。〕
【宣長の注釈】さて、天皇が、お亡くなりになった後に、諡を差し上げることは、『日本書紀』神功の巻に、皇大后命が、お亡くなりになり、埋葬する日に、「気長足姫尊」と、お付けしたことが見えるが、疑わしい。この事は、伊邪河宮の段で、詳しく論じよう。このほかは、上代には、その例は、『古事記』『日本書紀』の二書に見えない。『続日本紀』になると、持統天皇が、お亡くなりになった後に、「大倭根子天之広野日女尊」と、お付けした事が見え、次々の天皇にも、その事が見える。これは、どの御代の頃から、始まったことか、詳しくない。『日本書紀』天武の巻に、大三輪真上田子人が亡くなった時、壬申の年の功績をお思いになり、「大三輪真上田迎君」という諡を賜った事が見える。それならば、天皇の諡も、それより前からあったのだろう。後には、仁明天皇の諡を、「日本根子天璽豊聡慧尊」と申し上げる所まで見えて、その後は見えない。この習わしが絶えたのだろうか。文徳・清和・光孝の三代は、ただ、中国風の諡だけである。平城・嵯峨・淳和・陽成、また、宇多から以後は、すべて、中国風のものも絶え、その後に、中国風なのは、ただ、崇徳・安徳・順徳・崇光・称光・明照・霊元などだけである。それも、みな「院」と申し上げ、「天皇」と申し上げるのは、安徳だけである。後醍醐は、吉野では「天皇」と申し上げたが、これも、京では「院」と申し上げた。およそ、「院」という御号は、位をお退きになった後の、宮の名から起こったので、正式には、「何々院天皇」、あるいは、「何々院の帝」などと、申し上げるべきである。ただ「院」とだけ申し上げるのは、ひどく省略しすぎている。円融・花山・光厳・光明などは、中国風だが、仏寺の名である。また、桓武を、柏原の帝、仁明を、深草の帝、文徳を、田村の帝、光孝を、小松の帝とも申し上げる。また、宇多・醍醐・村上など、これらは、みな、御陵の地名である。平城・嵯峨・水尾などは、後にお住まいになった土地の名、陽成・朱雀・冷泉などは、後の宮の名である。その後の諡は、みな、京の町の名、あるいは、京の近辺の地名などを採り、お付けすることになった。これらの事は、昔の諡の話のついでに、一通り、申し上げたのである。
【宣長の注釈】おおよそ、昔の王たちの御名は、ここに挙げた三種類だが、また、まれには、母の名に由来すると見えるものもある。孝霊天皇の御子、千々速比売命は、母が、千々速真若比売であり、孝元天皇の御子、建波邇夜須毘古命は、母が、波邇夜須毘売である、というようなものである。また、継体天皇の御子、茨田大娘女は、母が、茨田連氏の娘、用明天皇の御子、当麻王は、母が、当麻倉首氏の娘である。これらは、母の氏の名を採ったのだろうか。また、応神天皇の御子、大山守命は、職務の名である。〔この例は、ほかに見えない。後に、「式部卿親王の宮」などというのと、同じようなものである。〕なお、これら以外にも、さまざまな種類があるだろう。また、先に挙げた種類の中の、これと、あれとを、合わせ、連ねて、お呼びした御名も多い。また、「何々王、またの名は、何々、またの名は、何々」などとあることから、全体を考えると、一人の王に、御名が二つ三つあったうちの、一つが伝わり、ほかは、伝わらないものも多いのだろう。〔たとえば、お生まれになった時、出来事の由来によって、お付けした、もとの御名は御名として、ほかにも、住んでいた土地の名などで、お呼びした御名があり、また、褒めたたえて、お呼びした御名もあった。その中の、どれか一つを、記し伝え、世に残った、というようなものである。〕さらに細かなことは、それぞれの所で述べる。
【宣長の注釈】また、少し後には、乳母の氏の名を採り、御子の御名とされた制度もあった。『文徳実録』には、「先の朝の制度では、皇子が生まれるたびに、乳母の姓を、その名とした。そのため、神野を、天皇の御名とした」と見える。これは、嵯峨天皇の御名を、「神野」と申し上げたのは、乳母の氏の名だったことについて、いうのである。そもそも、この制度は、どの御代から始まったのだろうか。上代からも、まれには、この例があったのか。詳しくない。欽明天皇の御子たちなどから、氏の名と思われる御名が、多く見えるのは、この例なのだろうか。桓武・平城などの御子たちの御名は、男女とも、みなこれである。あの嵯峨天皇の御名のほかに、乳母の氏の名を採った証拠が、書物に見えるものは、天武天皇を、初め、「大海人皇子」と申し上げたが、そのお亡くなりになった時に、「大海宿禰蒭蒲」という人が、第一に、弔いの言葉を申し上げた事が見えるのは、乳母の氏族と聞こえる。また、孝謙天皇の御名を、「阿倍」と申し上げるのに、「阿倍朝臣石井」という乳母が見える。平城天皇の、初めの御名を、「小殿」と申し上げるのに、「安倍小殿朝臣堺」という乳母が見える。桓武の皇女、朝原内親王の乳母には、「朝原忌寸大刀自」という人が見える。これらが、その例である。〔ところが、嵯峨天皇の御子たちの御名は、すべて、昔の例をやめ、何かに由来することなく、ただ、二字を選んで、お付けになった。これが、後世の名のようになった、初めである。その御名は、皇子のものは、みな「良」の字を下に置く。その中で、「源朝臣」という姓を賜った者は、みな、皇子は一字、皇女は「何々姫」という。次に、淳和天皇の御子たちも、同じようだが、こちらは、多く、上に「恒」の字を置き、仁明天皇の御子たちは、下に「常」の字を置き、文徳では、上に「惟」の字を置く。清和では、上に「貞」、陽成では、上に「元」、光孝では、上に「是」、醍醐では、下に「明」、村上では、下に「平」の字である。また、皇女は、嵯峨天皇から、今に至るまで、みな「何々子」と申し上げる。また、清和天皇を、「惟仁」と申し上げたことから始まり、醍醐天皇を「敦仁」、一条天皇を「懐仁」、後冷泉天皇を「親仁」、後三条天皇を「尊仁」と申し上げる。この後は、皇子たちは、すべて「何々仁」と、お付けするようになった。その後、天皇の御名に、「仁」の字がないのは、後鳥羽天皇を「尊成」、順徳天皇を「守成」、後二条天皇を「邦治」、後醍醐天皇を「尊治」と申し上げる、この例だけである。そもそも、時代に従い、あらゆる事が、少しずつ変わるのに伴い、人の名も、昔から今まで、代々、変わって来た様子を知らせるために、このように、近い世の事までも、話のついでに、ひとまず、申し上げたのである。〕
【古事記本文】しかし、あらためて、大后とする女性を探していた時、大久米命が申し上げた。「この国に、一人の娘がいます。その方は、神の御子と呼ばれています。神の御子と呼ぶわけは、こういうことです。三島の湟咋の娘、名は、勢夜陀多良比売は、その姿が美しかったので、美和の大物主神が、ご覧になって、心を引かれました。その娘が、便所で用を足す時、神は、赤く塗った矢に変わり、便所の下の溝を流れ下って、その娘の陰部を突きました。〔「富登」の二字は、音を表します。後も同じです。〕そこで、娘は、びっくりして、立ち上がり、走り回って、うろたえました。〔「伊須須岐伎」の五字は、音を表します。〕そして、その矢を持ち帰り、寝床のそばに置くと、たちまち、美しい男になりました。すぐに、その娘と結婚して、子を生み、その名を、富登多多良伊須須岐比売命、またの名を、比売多多良伊須気余理比売といいます。〔これは、「富登〔陰部〕」という言葉を嫌い、後に改めた名です。〕そのため、神の御子と呼ぶのです」。
【宣長の注釈】「大后」は、字のとおり、「おほぎさき」と読むべきである。後世の皇后である。昔は、天皇の妻たちを、「きさき」と申し上げ、その中で、最も上位の一人を、特に尊んで、「おほぎさき」と申し上げたことは、上巻、八千矛神の段〔『伝』巻十一、三十葉〕に述べたとおりである。〔「大」は、大臣・大連などの「大」と同じで、いる中の一人を尊んで、いう呼び名である。〕それでも、なお疑う人のために、その証拠を挙げ、さらに詳しく述べよう。
まず、昔、「后」は、一人に限らず、後に「妃」「夫人」などと申し上げる身分の方まで、何人にもいった。〔今の世に、女の子の言葉で、「十二人のお后」というのは、愚かなようだが、かえって、昔に近い。〕倭建命の段に、弟橘比売命を、「その后」といい、また、その次に、「大和にいる后たち……」とあるのは、橘比売も、大和にいる后も、ともに「后」と申し上げたのである。〔倭建命は、あらゆる事を、天皇になぞらえて、申し上げる例である。〕また、「たち」ということからも、一人に限らないと分かる。したがって、『日本書紀』反正の巻の「皇夫人」、また「夫人」、敏達の巻の「夫人」、これらを、「きさき」と読むのは、昔にかなった読みである。『字鏡』にも、「婇は、妃である。きさき」とある。〔また、『日本書紀』で、「夫人」を、「おほとじ」と読む所があるのは、理解できない。また、「妃」「夫人」「嬪」「女御」などを、多くは、「みめ」と読む。そもそも、「みめ」は、皇后を始め、夫人・嬪などの位に至るまで、広く、申し上げてよいので、この読みは悪くない。ただ、神武の巻に、「正妃を尊んで、皇后とした」とある、その「正妃」を「むかひめ」、「皇后」を「きさき」と読むのは、文字については、そうも読めるが、その当時の、実際の呼び名には、かなうはずがない。「むかひめ」は、皇后を申し上げるべきで、「きさき」は、妃などにも通じる呼び名だからである。したがって、ここは、「正妃」を「きさき」、「皇后」を「おほぎさき」と読んでよい。およそ、どこでも、「妃」「夫人」などは、「きさき」、「皇后」は、「おほぎさき」と読むべきである。〕
その后たちの中の第一の方を、「大后」と申し上げた証拠は、ここを始めとして、玉垣宮の段には、「その大后、比婆須比売命」と見え、訶志比宮の段には、息長帯比売命を「大后」と申し上げ、高津宮の段には、「大后、石之日売命」と見える。また、遠飛鳥宮の段、朝倉宮の段などにも、同じく「大后」と申し上げる。また、『日本書紀』天智の巻で、天皇の御病気が、とても重くなられた時、天武天皇が、皇太子でいらした頃、後事を辞退して申し上げたお言葉に、「どうか、大いなる帝業を、大后に託してください……」とある、その「大后」も、皇后の倭姫王を、お指しになったのである。〔『日本書紀』の一般の例は、上代の事を記す時も、後世と同じく、中国の制度に従い、当代の大后を「皇后」と書き、天皇の母の后を「皇大后」と書いている。しかし、ここは、その例と違い、たまたま、その当時の実際の呼び名のままに、当代の方を、「大后」と書いたのである。このほかにも、このように、つい外れて、全体の中国風の書き方の例に違い、昔の呼び名のままに書かれた事が、ときどき見える。御子を「皇子」「皇女」と書くのが、一般の例であるのに、ときどき、「王」とも書いた類いである。〕また、『万葉集』巻二に、「近江の大津宮でお治めになった天皇の、お体がすぐれなかった時、大后が奉った御歌」、また、「天皇の大殯の時、大后の御歌」、また、「飛鳥の清御原宮でお治めになった天皇が、お亡くなりになった時、大后のお作りになった歌」などと見える。また、『伊予国風土記』に、「天皇たちが、湯へお出ましになったことは、五度である。大帯日子天皇と、大后、八坂入姫命の、お二人を、一度とする。帯中日子天皇と、大后、息長帯姫命の、お二人を、一度とする……」とある。これらが、その例である。
【宣長の注釈】さて、ここに挙げたとおり、昔、「大后」と申し上げたのは、その御代の、第一の妻である。ところが、あらゆる制度を、中国にならい始められた御代になると、正式の文書などでは、当代の方を「皇后」、先代の方を「皇大后」と書くようになった。それでも、口でいう言葉や、かしこまらない文章などでは、奈良の頃までも、なお、昔のままに、当代の方を「大后」、先の御代の方を「大御祖〔おほみおや〕」と申し上げた。〔それなので、『日本書紀』などの「皇大后」「皇大妃」「皇大夫人」などは、みな「おほみおや」と読むべきである。昔の呼び名は、そうである。実際に、天皇の母でいらっしゃるのを、「きさき」「みめ」などと、申し上げるはずはない。それなのに、『日本書紀』清寧の巻で、「皇大夫人」を、「おほいきさき」と読むのは、昔にかなわない。皇極の巻には、天皇の母、吉備姫王を、「吉備嶋皇祖母命」という。これこそ、昔の呼び名である。また、『続日本紀』巻九には、藤原夫人を、「文書では、皇大夫人、言葉では、大御祖、とするがよい」という詔があることを、考えるべきである。皇后でも、夫人でも、「大」の字を加え、天皇の母を表すのは、中国の制度であって、日本の昔には、そういうことはない。そのため、文章では、中国風の書き方を使いながら、言葉では、なお、昔のままに、申し上げたのである。まだ、中国の書物を、取り入れなかった前の御代には、「大妃」「大夫人」などという、位の区別はなかったので、大后であっても、普通の后たちであっても、天皇の母となっては、すべて、「大御祖」と申し上げた。孝徳の巻に、皇極天皇へ、「皇祖母尊」という御号を差し上げた事が見える。これは、天皇でさえ、なお、このように申し上げたことから、后も、夫人も、「大御祖」と申し上げるのに、区別はなかった、と理解すべきである。皇極は、孝徳の姉であるが、母になぞらえ、この御号を、お贈りになったのである。
また、これは、母と申し上げることなのに、「祖母」と書くのは、どういうことか、と疑う人がある。およそ、昔は、母を、多く「みおや」と申し上げ、古書には、「御祖」と書くので、その例のままに、「祖」の字を書いた。また、「皇祖尊」と書くと、先代の天皇と紛れるので、母であることを知らせるために、「母」の字も添えたのである。このような例は、ほかにもある。あの八咫烏を、『日本書紀』では、「頭八咫烏」と書いているのも、「八咫」は、頭の大きさであることを知らせるために、「頭」の字を添えた類いである。〕その後、ついには、普通の言葉でも、当代の正妻を、ただ「后」と申し上げ、天皇の母を、「大后」と申し上げるようになったのである。〔およそ、何事も、このように、中国風にばかり、すっかり変わると、昔のあり方を、よく見分けて知る人もなくなり、たまたま、古書に、その残ったものを見ると、かえって、疑いさえ起こすようだ。師の『万葉考』ですら、あの巻二の「大后」を疑い、天皇が、まだ、お亡くなりになる前なので、「大后」とあるのは、誤りだ、として、「皇后」と書き改められた。また、別記で、「夫人」の読みを論じられたものなども、かえって、みな誤りなのである。〕
【宣長の注釈】「美人」は、すべて、「をとめ〔若い女性〕」と読むべきである。〔必ずしも、「美」の字には、こだわらない。昔、若い女を、全般に「をとめ」といった。〕
【宣長の注釈】「求」は、「まぎ〔探し求め〕」と読むべきである。上巻、八千矛神の御歌に、「多くの国々に、妻を探し求めたが、見つからず」とある。
【宣長の注釈】「此間」は、「ここ」と読むべきである。大和国を指していうのである。〔「間」の字は、ある本に「国」とあるが、やはり「間」なのだろう。〕
【宣長の注釈】「媛女」も、すべて、「をとめ」と読むべきである。〔「をとめ」を、『古事記』の中では、「美人」とも、「媛女」とも、「嬢女」とも、「嬢子」とも書くが、みな、同じことである。〕この娘は、伊須気余理比売を申し上げるのである。
【宣長の注釈】「神御子」は、一般に、神社の神霊が、人間の男の姿に変わって、女と結婚し、生まれる御子をいう。水垣宮の段で、意富多々泥古を、「神の子」という類いである。その段と、考え合わせるべきである。
【宣長の注釈】「三島」は、摂津国にあり、『日本書紀』雄略の巻に、「三島郡」と見える。後に、二郡に分かれ、「島上」「島下」というのが、それである。〔およそ、諸国の郡や郷の名は、字を縮めて二字で書いても、もとのままに読むのが例なので、これも、「みしまのかみ」「みしまのしも」と、いうべきなのに、『和名抄』が、「しまのかみ」と、初めの「み」を省いていうのは、どういうことか。〕「三島の藍の御陵」は、『諸陵式』に、島上郡にあると見え、『神名帳』には、島下郡に、「三島鴨神社」がある。『伊予国風土記』では、「摂津国の御島」と書いている。『万葉集』巻七には、「三島江の玉江」、巻十一には、「三島江の入江」などと詠んでいる。〔後世の歌にも、多く詠まれた名所である。〕今も、島上郡に、三島江村がある。〔淀川に沿った所である。〕
【宣長の注釈】「湟咋」は、『神名帳』に、島下郡の「溝咋神社」がある。今、この郡に、「溝杭荘」という所があり、その内の、「馬場村」という所に、この社がおいでである。〔この土地は、島上郡の境に近く、三島江と、そう遠くない。〕この神社が、この人を祭ったものか、ほかの神なのかは、はっきりしない。また、「湟咋」は、もとは、この人の名だったのが、後に地名となったのか、それとも、地名を採って、この人の名としたのか、これも詳しくない。この人は、『日本書紀』では、「溝橛耳神」とある。〔『国造本紀』には、「都佐の国造。志賀の高穴穂の朝の御代に、長阿比古と同じ祖、三島溝杭命の九世の孫、小立足尼を、国造に定め賜った」とある。〕
【宣長の注釈】「勢夜陀多良比売」。「勢夜」は、地名なのだろう。『聖徳太子伝暦』に、「勢夜の里」というものが見え、今、大和国平群郡に、勢野村がある。〔太子伝にあるものも、ここなのだろう。〕「陀多良」は、どんな意味なのか、まだ、考えつかない。〔「だ」と濁るのは、前から続く音の都合である。〕内膳式の、一年分の漬ける雑菜の中に、「多々良比売の花、搗いたもの三斗〔使う塩、三升〕」と見える。衛門府の風俗歌にも、「たたらめの花」、『字鏡』にも、「莘、たたらめ」とある。この花の名は、この比売に由来して、付いたものなのだろうか。この比売の名は、『日本書紀』神代の巻では、「三島溝橛姫」、神武の巻では、「玉櫛媛」とある。
【宣長の注釈】「其容姿麗美」は、「それ、かほよし〔その人は、姿が美しい〕」と読むべきである。「容姿」を、「かほ」と読むべき理由は、上巻〔『伝』巻十三、五十九葉〕に述べた。『万葉集』巻十四には、「かほよき」と見え、『日本書紀』の景行の巻の「容貌美」、垂仁の巻の「美麗」、雄略の巻の「豔」、允恭の巻の「艶妙」、孝徳の巻の「美姿顔」などは、みな「かほよし」と読んでいる。前の「其」は、その、多々良比売を指した言葉で、中古の物語の文章などにも、このようにいう例は多い。〔このような所で、「それ」というのは、漢文を読んだ言葉のようだ、と思う人もいるだろうが、漢文の「其」とは、言い方が、とても違う。また、この字は、「甚」の誤りかとも思われるが、そうではない。〕『古事記』の中には、「活玉依毘売は、その容姿が、端正で」、「一人の娘がいて、その容姿が、美しく」、また、「髪長比売は、その顔や姿が、美しく」などと見える。また、朝倉宮の段には、「川辺に、衣を洗う少女がいた。その容姿は、とても美しかった」ともある。〔これには、後に、「甚」の字があるので、前に挙げたものは、みな「甚」ではないと、知るべきである。〕
【宣長の注釈】「美和」は、大和国城上郡の、大神神社をいう。この社の事は、水垣朝の段〔『伝』巻二十三、三十四葉〕で、詳しく述べる。
【宣長の注釈】「大物主神」は、『日本書紀』崇神の巻の歌に、「おほものぬし」とある。この神は、大穴牟遅神の、穏やかに働く御魂で、美和に拝み祭る神である。出雲国造の神賀詞に、「大穴持命が、申し上げた。皇御孫の命が、安らかにおいでになる大和国を、申し上げ、自分の穏やかな御魂を、八咫鏡に託し、倭の大物主櫛𤭖玉命と、名を称えて、大美和の神奈備においでにさせ……、皇孫の命の、近くでお守りする神として、差し上げ、お置きして……」とあることから、知るべきである。
そもそも、「大物主」と申し上げる御名は、ここに挙げた詞のとおり、美和に鎮まっておいでの御魂の御名で、大穴牟遅命の、別名ではない。「倭の大物主」とあることからも、分かる。〔須佐之男命を、出雲の熊野に拝み祭る御名を、「櫛御気野命」と申し上げ、建御雷神を、下総の香取に拝み祭る御名を、「斎主命」と申し上げる類いで、美和の社に限った御名である。〕そのため、上巻で、大穴牟遅神の別名を挙げた所には、この御名を出していない。およそ、古書は、みな、この御名を、美和にだけ、申し上げているのである。
この御名の意味は、まず、『日本書紀』の一書に、「この時、帰順した者たちの、頭となるのは、大物主神と、事代主神であった。そこで、多くの神々を、天の高市に集め、率いて、天に上り、心からの誠実な思いを申し上げた。その時、高皇産霊尊は、大物主神に、詔して、おっしゃった。お前は、多くの神々を率い、永く、皇孫をお守り申し上げよ」とある。この段を、よく考えると、この神の御名は、初めは「大己貴神」とだけあり、今、帰順する所に至って、名を改め、このように「大物主神」とあるのは、その時に、高御産霊命が賜った御名なのだろう。〔『日本書紀』神代の、この一段は、事の筋が紛らわしいため、昔から、さまざまに、解き間違えたものである。注意しなければ、混同するだろう。すでに、別に、詳しい考えがあるが、今、その大体を、少し述べよう。まず、「永く、お隠れになる」ところまでは、この神の、生きたお姿の事であり、「大物主神と、事代主神……」という所からは、御魂の事である。およそ、神代の昔話は、生きたお姿と、御魂とを区別せず、語り伝えたものなので、紛らわしいことが多い。この段でも、この区別を、よく理解すべきである。「永く隠れる」は、実際のお姿は、八十坰手へお隠れになることをいい、御魂を、とどめ、皇孫の命のお守りの神とされたのである。その時に、高天の原へ参上し、高御産巣日命の詔を受け、「大物主」という御名も、賜ったのだろう。そのため、ここに至って、初めて、この御名を挙げたのである。それならば、お率いになる、多くの神々も、御魂をいうのである。また、その前に、「そこで、さらに、一つずつ、詔して、おっしゃった。お前が住むべき、天の日隅の宮は……」とある、その続きの、一つずつの事も、御魂に関する事を、前もって、お命じになったので、「お前が住むべき、天の日隅の宮」というのも、御魂が、お鎮まりになるべき宮をいうのである。そもそも、このように、実際のお姿と、御魂とを、分けて見なければ、この段は理解しにくい。一段の内で、前と後とで、御名が変わることからも、この区別があると、理解すべきである。〕
「物主」は、多くの神々の頭として、皇孫の命を、お守り申し上げることから、「神々を率いる主」とでもいうようなものである。およそ、「もの」という呼び方は、あらゆる物事に、広く通じる中で、人を指していうことが多い。〔たとえば、この人、あの人を、「この者、あの者」ともいう類いである。〕ここも同じで、神は、神代の人であるため、あの多くの神々を指し、「もの」というのである。〔また、『日本書紀』神代の巻に、「葦原中国の邪鬼」とある、その「邪鬼」を、私記では、「あしきもの」と読み、また、「尸者」を「ものまさ」と読み、中古に「もののけ」というなど、これらの例によれば、皇孫の命を、お守り申し上げる神霊という面から、いうのか。どちらにしても、あの多くの神々をいうことは、違わない。〕「ぬし」は、「のうし〔の大人〕」の縮まったもので、「大」は、いつもの美称である。こうして、この御名は、この神の実際のお姿は、八十坰手にお隠れになり、御魂が、この国にとどまって、お守りの神となった面の御名なので、その実際のお姿の別名ではなく、大美和に拝み祭る御名となったのである。〔あの高御産巣日命が賜った名を、そのまま、美和にお鎮まりになった御名としたのである。それなのに、『日本書紀』で、大己貴神の別名を挙げた所に、「またの名は、大物主神」とあるのは、昔の意味と違う。編者が、利口ぶって、お加えになったのだろうか。そして、代々の説く人が、ただ、広く、大己貴命の別名とだけ、理解しているのは、古書の読み方が、詳しくないことから来る、誤りである。〕
【宣長の注釈】「見感而」は、「みめでて〔ご覧になり、心を引かれた〕」と読むべきである。この言葉は、上巻、海神宮の段に出ている。〔『伝』巻十七、二十六葉。〕
【宣長の注釈】「その娘」は、勢夜陀多良比売をいう。
【宣長の注釈】「為大便」は、「かはやにいれる〔便所に入る〕」と読むべきである。日代宮の段に、「朝、便所に入る時……」ともあるからである。〔師は、これを、「くそまる〔糞をする〕」と読まれた。上巻に「屎麻理」、また、『日本書紀』神代の巻に、「送糞、これを、くそまる、という」などとあるので、そうでもある。しかし、あちらは、その糞を主にして、いう所なのに、ここは、同じ事でも、糞のことをいう所ではないので、そのように読むのは、よくない。また、「かくしす」、あるいは、「けがしす」などと読むのは、「糞」という言葉を嫌って、避け、取り繕ったもので、古語とは聞こえない。中古の言葉で、「はこす〔排泄する〕」などという類いである。〕
【宣長の注釈】「丹塗矢」は、「にぬりや〔赤く塗った矢〕」と読むべきである。〔「の」を添えて読むのは、よくない。〕矢に、丹を塗ったのは、何のためか、まだ、考えつかない。あるいは、ただ、飾りだけなのだろうか。『山城国風土記』には、「玉依日売が、石川の瀬見の小川で、遊んでいた時、赤く塗った矢が、川上から流れ下った。そこで、それを取り、寝床のそばに挿して置くと、やがて、身ごもり、男の子を生んだ……。名を、可茂別雷命という。その赤く塗った矢というのは、乙訓の社にいる、火雷命である」とある。似た出来事である。
【宣長の注釈】「化」は、大物主神が、お姿を変えられるのである。
【宣長の注釈】「為大便之溝流下」の七字は、「かはやのした」と読むべきである。昔の便所は、溝の流れの上に造り、排泄した糞が、そのまま、その水で流れ去るように、構えたために、「河屋」というのである。〔今の世にも、このように造ったものはある。〕〔省略し、「河」とだけもいう。『万葉集』巻十六に、「川隅」と詠み、「川」に、便所の意味も掛けた歌がある。また、今の世に、子供の尿や糞を受ける器を、「おかは」というのも、これである。〕
【宣長の注釈】「富登〔ほと、陰部〕」は、上巻に出ている。
【宣長の注釈】「立走」は、『万葉集』巻五に、「難波津に、船が泊まったと聞いたら、衣の紐を解き放ち、駆けて行こう」とある。
【宣長の注釈】「伊須須岐伎」は、驚いて、立ち上がり、走る様子である。大殿祭の詞に、「夜、眠っている時の、驚き騒ぐような……事もなく」とあるのも、夜、眠っている時に、何かに押さえつけられるなどして、心が騒ぎ、驚くことをいい、同じ意味である。〔「夜女」は、「夜目」で、夜、眠っていることをいう。前に「朝目」ともあった類いである。それなのに、師の『祝詞考』で、少女のこととされたのは、かなわない。また、少女であるといいながら、「夜の御寝床に、お仕えする」というのは、どういうことか。一つの「夜」を、「少女」の「よ」と、「夜」との、二つの意味に兼ねて使うことが、あるだろうか。〕また、『源氏物語』朝顔の巻に、「西の門を……、驚いて、お開けさせになる。門番は、寒そうな様子で、うろたえて出て来て、すぐにも、開けられない」とある、その「うすすき」も、同じ言葉なのだろう。〔「い」と「う」は、特に近く、通じる音である。これも、門番が、うろたえて、立ち走って来ることをいう。契沖が、これを、「米をつくことか」といったのは、当たらない。〕また、『栄花物語』〔かがやく藤壺の巻〕に、「そそき立って……」、『狭衣』に、「若宮がおいでになり、そそき歩きになる」などとあるのは、驚くのではないが、その動きの様子は同じである。〔「す」と「そ」は、通じる音である。今の世で、人の振る舞いが静かでなく、騒がしいことを、「そそこし」というのも、同じ言葉である。〕また、大殿祭の詞に、「屋根に葺いた草の、騒ぎもなく〔古語では、そそぎ、という〕」とある。「そそぎ」は、乱れて動くことをいい、これも、事柄は違っても、意味は通じている。また、『万葉集』巻十六に、「少年が、騒ぎ立てるのか」とあるのも、若者が、落ち着かず、騒ぐことをいう。さらに、上巻、海神宮の段の「須々鉤」の下〔『伝』巻十七、四十二葉〕とも、考え合わせるべきである。これらの例から考えると、「い」は、省いてもいう言葉なのだろう。〔師は、この「い」も、言い出しに添える音だといわれたが、ほかの、そのような「い」とは、少し違って聞こえる。これは、「いでます」などの「い」と同じである。およそ、言葉の初めを濁る例はないので、「出」を、「で」というのは、「い」を省いたのであり、「い」は、言い出しに添えるだけの音ではない。ここも、それにならって、理解すべきである。〕最後の「き」は、言葉に添える音である。
【宣長の注釈】「寝床のそばに置き」。倭建命の御歌に、「娘の、寝床のそばに、私が置いた、剣の太刀」とある。
【宣長の注釈】「富登多々良伊須須岐比売命」。「富登」は、父の神が、赤く塗った矢に変わり、母の陰部を、お突きになったことにより、「多々良」は、母の御名による。〔『日本書紀』に、「蹈鞴」と書かれているのは、音を借りた字なのだろう。〕「伊須須岐」は、前の文章にある、驚いて、立ち走った事に、由来する御名である。
【宣長の注釈】「比売多多良伊須気余理比売」は、「富登」を、「比売」と改めたのである。「伊須気」は、「伊須須岐」を、通じる音で、縮めたものなのだろう。「余理」は、玉依毘売の「依」と同じである。意味は、その所〔『伝』巻十七、七十四葉〕に見える。
【宣長の注釈】「是者……」の十三字は、別名への注である。
【宣長の注釈】そもそも、この比売命の御事は、『日本書紀』には、次のように見える。「庚申の年、秋、八月、癸丑の初日から数えて、戊辰の日、天皇は、正妻を立てようとされ、あらためて、広く、立派な家柄の娘を求められた。その時、ある人が申し上げた。事代主神が、三島溝橛耳神の娘、玉櫛媛との間に生んだ子がいて、媛蹈鞴五十鈴媛命といいます。これは、国中の美女のうちでも、優れた方です。天皇は、それを、お喜びになった」。綏靖の巻にも、「媛蹈鞴五十鈴媛命は、事代主神の、長女である」と見える。この『古事記』とは、伝承が違うのである。ただし、神代の巻には、「大三輪神の子、姫蹈鞴五十鈴姫命〔蹈鞴、これを、たたら、という〕」、また、「事代主神が、八尋の大きな鰐に変わり、三島溝橛姫のもとへ通って、子を生んだ。姫蹈鞴五十鈴姫命である。この方は、神日本磐余彦火々出見天皇の后となった」とも見える。〔そもそも、このように、神代の巻では、この『古事記』と同じく、大三輪神の娘という方を主として記しながら、この天皇の巻では、その伝承を、「ある説では」とも挙げず、ただ、事代主神の御子とだけいうのは、どういうことか。二つとも、古い伝承ではあるだろうが、あの巻と、この巻とが、違っているように見える。それから、「事代主神」と申し上げるのも、この神が鎮まる社の御魂をいうのであるから、『神名帳』にある、大和国葛上郡の、鴨都波八重事代主命神社、また、高市郡の、高市御県に坐す鴨事代主神社、この二社の内の御魂なのだろう。飛鳥神社も、同じ神だが、「事代主」と申し上げるのは、社の名称にかかわる方なのだろう。〕
ここに述べた大物主神の出来事は、水垣宮の段にある、同じ神が、活玉依毘売のもとへ通われた事と、よく似ている。『姓氏録』の大神朝臣の条に、「初め、大国主神が、三島溝杭耳の娘、玉櫛姫と結婚し……」とあるのは、ここと、あちらとを、一つに混ぜたものである。〔『旧事紀』に、「事代主神が、八尋の大きな鰐に変わり、三島溝杭の娘、活玉依姫のもとへ通い、天日方奇日方命と、姫蹈鞴五十鈴姫命を生んだ」というのも、二つの事を、一つに混ぜたのである。〕また、『日本書紀』崇神の巻の、倭迹々姫命の事も、よく似ている。〔仙覚の『万葉抄』に引く『土佐国風土記』では、この倭迹々姫命の出来事を、そのまま、あの「三輪」という名の由来の話としている。〕同じ神について、このように似た事が、こちら、あちらに見えるのは、もとは一つだったのが、伝わる間に混じり、こちらの事、あちらの事へと変わったのか。それとも、神のお働きなので、この時も、あの時も、似た事が、たくさんあったのか。推し量りにくいのである。
【宣長の注釈】「神の御子と呼ぶのである」。ここまでが、大久米命が、天皇に申し上げた言葉である。
【古事記本文】その時、七人の娘が、高佐士野で、遊び歩いていた。〔「佐士」の二字は、音を表す。〕伊須気余理比売も、その中にいた。大久米命は、その伊須気余理比売を見て、歌で、天皇に申し上げた。
【古事記本文】大和の、高佐士野を、
七人で行く娘たち。
その、どなたを、妻にお求めになりますか。
【古事記本文】伊須気余理比売は、その娘たちの先に立っていた。天皇は、その娘たちをご覧になり、伊須気余理比売は、一番先に立っている娘だと、お心にお分かりになって、歌で答えられた。
【古事記本文】まだ、はっきりとは分からぬが、
一番先に立っている、かわいい娘を、
妻に求めよう。
【古事記本文】そこで、大久米命は、天皇の仰せとして、伊須気余理比売に、お言葉を伝えた。その時、比売は、大久米命の、裂けたような、よく見える目を、不思議に思い、歌った。
【古事記本文】アメ、ツツ、
チドリ、マシトト。
どうして、そんなに、裂けたような目なのですか。
【古事記本文】大久米命は、歌で答えた。
娘に、じかに会いたいと思って、
私の目は、こんなに、裂けているのです。
【古事記本文】そこで、その娘は、「お仕え申し上げます」と、お答えした。伊須気余理比売命の家は、狭井川のほとりにあった。天皇は、伊須気余理比売のもとへお出ましになり、一夜、お寝になった。〔その川を、「さい川」と呼ぶ理由は、川辺に、山百合の草が多く生えていたので、その山百合の名を採り、「さい川」と名づけたからである。山百合の、もとの名は、「さい」という。〕
【宣長の注釈】「七媛女」は、「ななをとめ」と読むべきである。上巻には、「やをとめ〔八人の少女〕」とも見え、日代宮の段には、「ふたをとめ〔二人の娘〕」ともある。
【宣長の注釈】「高佐士野」は、歌に、「大和の」とあるが、何郡なのかは、詳しく分からない。〔『大和志』が、十市郡南浦村にある、というのは、どんな根拠があるのか。例によって、おぼつかないことである。〕また、師は、城下郡にある、といわれたが、これは、「やまと」を、倭郷と見ての説なのだろうから、採りにくい。『姓氏録』の、未定雑姓の中には、河内国に「佐自努公」という氏がある。〔右京の皇別にも、この氏がある。また、『神名帳』には、常陸国新治郡に、「佐志能神社」がある。〕
【宣長の注釈】「遊行」は、「あそべる」と読むべきである。末を「べり」と読めば、言葉が切れるのを、「べる」と読んで、次の言葉へ意味を続けるのは、雅文のきまりである。
【宣長の注釈】「大久米命……」。この段は、天皇のお出ましの時、高佐士野で、七人の娘が遊び歩いている所に、お行き合いになったのである。その時、大久米命も、お供にいたのである。それなのに、お出ましのことも、お供にいたこともいわず、そのように伝わるのが、古い文章である。この人は、前から、伊須気余理比売を、よく知っていたのだろう。そのため、今、七人の中にいるのを、見つけたのである。その比売は、顔かたちが、格別に優れ、美しく、ほかの娘たちと、見間違えるはずもないので、あの人だ、と指して申し上げなくても、必ず、はっきりと、お見分けになるだろうと、推し量り、歌で、お試し申し上げたのである。
【宣長の注釈】「夜麻登能」は、「大和の」である。〔ほかの国であればこそ、国の名をいうべきで、大和では、国の名をいうはずもないので、これは、城下郡の倭郷なのだろう、という疑いも、あるだろう。しかし、およそ、歌は、五音の句から始まり、七音から始まるものはないので、初めに、五音の句を置くために、国名を出したのである。なお、その五音の句を、四音にも、三音にもいうのは、昔、普通のことである。〕
【宣長の注釈】「多加佐士怒」は、「高佐士野」である。
【宣長の注釈】「那々由久」は、「七行」で、七人で行くことをいう。
【宣長の注釈】「袁登賣杼母」は、「娘たち」である。
【宣長の注釈】「多禮袁志摩加牟」は、「誰を、求めよう、というのでしょうか」で、「し」は、添える言葉である。「まく」は、妻として求めることをいう。〔契沖が、「しまかむ」と読み、「し」を、言い出しに添える音として、枕として寝ることだとし、『万葉集』巻二の、「岩を枕にして」を引くのは、当たらない。〕上巻、八千矛神の御歌に、「多くの国々に、妻を探し求めたが、見つからず」とある。
【宣長の注釈】一首の意味は、今、ここを、七人連れ立って、遊び歩く娘たちの中で、どの方に、お心が引かれるのですか、と、お尋ねするのである。その中に、あの伊須気余理比売が混じっていることは、先に、申し上げてあったはずなので、どの娘を、その人と、お見分けになりますか、と申し上げる意味で、このようにいったのである。
【宣長の注釈】「その娘たちの先に立っていた」。これは、大美和の大神の御子であるため、いつも尊んで、今も、先に立たせたのか。それとも、母の方も、よい家柄だったからか。それとも、何となく、この時、たまたま、先に立っていたのか。どれででも、あっただろう。
【宣長の注釈】「お心に、お分かりになって……」。大久米命が推し量ったとおりに、一番先に立っているのが、その人だと、はっきり、お見分けになったのである。
【宣長の注釈】「最前」は、御歌によれば、「いやさき」と読むべきである。〔師は、「まさき」と読まれたが、どうだろうか。近世には、「まっさき」という言葉は多いが、古語では、まだ見当たらない。〕上巻、黄泉の段にある「最後」も、「いやはて」と読んだ。その所の『伝』〔巻六、二十八葉〕と、考え合わせるべきである。
【宣長の注釈】「加都賀都母」は、「かつがつも」である。これは、事が、まだ確かでなく、ようやくの状態であることをいう言葉である。たとえば、「かつがつと見える」は、まだ、はっきりとは見えず、ようやく、見え始めることをいう。それは、確かに見えるのと、見えないのとの中間なので、一方では見え、一方では、まだ見えない、という意味で、「かつ、かつ」と、重ねていったのだろう。『万葉集』巻四には、「玉の主に、玉は授けて、かつがつも、枕と私は、さあ、二人で寝よう」とある。〔「かつがつも」を、「玉の主に」の前へ移して、理解すべきである。〕これは、「ようやくも、玉の主に、玉を授けて」ということで、まだ、授け終わってはいないが、まず、どうにか、授け始めた、という意味である。〔この「勝且」を、誤字だというのは、この句を、前へ移して理解すべきことを、知らないのである。〕このほか、中古の物語の文章などにも多く、みな、同じ意味である。〔今の世の言葉でも、物が足りないことを、「かつがつだ」というようである。〕
【宣長の注釈】「伊夜佐岐陀弖流」は、「一番先に立っている」である。「いや」という言葉には、普通、「弥」と書き、『万葉集』では、ときどき「益」とも書き、『日本書紀』顕宗の巻では、「転」の字も、このように読む。これらは、みな、意味が通じ、同じに聞こえるが、ここは、前の文章に「最前」とある、その字のとおり、七人の中で、一番、先に立っている意味と聞こえる。〔俗語で、「いち」というのと同じである。〕
【宣長の注釈】「延袁斯麻加牟」は、「かわいい娘を、求めよう」で、「し」は、添える言葉である。「延」は、伊邪那岐・伊邪那美の二神が、「ああ、なんと、いとしい男よ」「ああ、なんと、いとしい女よ」とおっしゃった、その「愛」を、〔この「愛」は、音を表す字である。〕『日本書紀』では、「可美」とも、「可愛」とも、「善」とも書いた、その意味である。「かわいい娘」のことを、ただ「かわいい」とだけいうのである。その例は、下巻、軽太子の御歌に、「うるはしと、さねしさねてば〔いとしい人と、寝たことは、寝たのだから〕」とある。その「うるはし」は、いとしい女、ということである。また、『万葉集』巻十四に、「その、いとしい人を、外へ立たせようか」、また、「いとしい人の、馬は、たとえ、たけっても」、また、「いとしい人を置いて」などというのも、〔「け」は、「き」を、東国の言葉では、このようにいったのである。〕いとしい男のことを、ただ「かなしき」とだけいっている。これらのようなものである。
【宣長の注釈】「天皇の仰せとして」は、妻に迎えようと、お思いになることを、お伝えする命令である。
【宣長の注釈】「黥利目」は、歌によれば、「さけるとめ」と読むべきである。「黥」は、ただ、読みを借りた字で、「さける」は、「裂けている」である。それは、自然に裂けていることをいい、ほかの者が、これを裂いたのではない。〔「黥」は、罪人の顔に傷をつけ、墨を入れることをいい、「めさく」と読む字である。それは、目のあたりを裂くため、そのようにいうのだろう。ここに、わざわざ、この字を書いたのは、この人の目が大きく、裂けたようなので、「めさく」という読みを借りただけなのか。それとも、一目見た様子が、あの刺青をされた者の目のようだったので、書いたのか。どちらにしても、読みを借りた字である。なお、「黥」の事は、穴穂宮の段の、「面黥」とある所で述べる。師の『冠辞考』の、「みつみつし」の条に、この文章を引いた時は、この字を「点」に改めて書いている。確かに、「点」は、賢いこと、また、さといこととも説明し、「さとし」「かしこし」とも読むので、「黥」よりは、「利目」に似つかわしい。しかし、歌に「さける」とあるのは、断じて、「裂けている」のはずだから、ここも、それと同じ言葉の読みを借りた字のはずで、やはり、「黥」なのだろうと思われる。もし「点」の字とするならば、三字を合わせて、「さときめ」などと読むのだろうか。しかし、これは、目の形を主にいうので、「さける」であるべきだ。「不思議に思い」というのも、「さとき」では、どうだろうか。〕ここは、この命の目が、とても大きく、裂けたようなことをいうのである。「利目」は、物を見ることが、はっきりした目である。〔俗語で、「目がとい」というのは、「速い」で、物を速く見つける方をいう。それとは、少し違い、物を明瞭に、よく見分けることを、「利」というのである。しかし、たどっていけば、あれも、これも、同じである。耳や口などの「利」も同じである。〕そもそも、この命の目は、「みつみつし久米」と、名にも負って、〔この事は、『伝』巻十九に詳しく述べた。〕人と違う目だったのである。そのため、伊須気余理比売命も、それを見て、不思議に思われたのである。
【宣長の注釈】「阿米都々〔あめつつ、四音で一句である〕、知杼理麻斯登々〔ちどりましとと〕」。この二句は、とても、解き明かしにくい。それでも、いつものように、試しに、あえていうならば、四つの鳥の名なのだろうか。「あめ」は、詳しく分からないが、あるいは、『和名抄』に、「胡鷰子、あまとり」とある、それを、「あめ」とだけも、いったのだろうか。「つつ」は、鶺鴒の別名である。〔または、「あめつつ」は、千鳥の枕詞なのかもしれない。しかし、その意味は、まだ、考えつかない。〕「ちどり」は、古い歌に多く見え、議論の余地はない。「ましとと」は、『日本書紀』天武の巻に、「巫鳥、これを、しとと、という」、『和名抄』にも、「鵐、しとと」とある鳥で、「真鵐」なのだろうか。〔「真」というのは、真鴨・真牡鹿などの例である。〕
このように、鳥の名を挙げたのは、およそ、鳥の目は、丸く、よく見えそうなものなので、この大久米命の目を、たとえたのである。〔刀の道具に、「鶏目」という名があるのも、その形が似ているため、いったのである。これらからも、この鳥などが、目のたとえに、似つかわしいことを、考えるべきである。また、インドに、舎利弗という僧がいた。「舎利」は、鳥の名で、その母の目が、明るく澄んでいたのが、その鳥の目のようだったため、「舎利」といったのを、子の名にした、ということもある。〕
昔の歌には、鳥で、何かをたとえた例が多い。神代に、沼河日女の歌に、「私の心は、浜辺の鳥です」とあり、八千矛神の御歌に、「沖の鳥のように、自分の胸を見る時」、また、「群れる鳥のように、私が連れ立って行ったら」、「引き連れる鳥のように、私が連れて行ったら」などと見える。朝倉宮の段には、「鶉鳥のように、ひれを肩に掛け、鶺鴒のように、尾が触れ合い、庭の雀のように、うずくまって」など、たくさん並べたものもあるではないか。しかし、ここに述べた考えも、なお、確かに決めにくいことがある。〔その理由は、鳥をたとえに挙げるのは、そうなのだが、それらは、みな、一つの事には、一つの鳥をいう。あの朝倉宮の段の歌も、鳥を三ついうが、それぞれ、違う事のたとえである。それなのに、これは、一つのもののたとえに、四つの鳥を並べていうのは、まだ、そういう例を見ないので、どうだろうか。あるいは、この裂けたような、よく見える目の、不思議なことを、強くいおうとして、特に、たくさん重ねたのだろうか。『万葉集』巻十四に、「沖に住む小鴨のように、八尺鳥のように、ため息をつく、いとしい人を……」と、鳥の名が二つある例は、ある。さらに、後の人が、よく考えてほしい。〕
【宣長の注釈】「那杼佐祁流斗米」は、「どうして、このように、裂けたような、よく見える目なのか」である。
【宣長の注釈】一首の意味は、「あなたの目を見ると、胡鷰・鶺鴒・千鳥・真鵐などの目のようだ。どうして、このように、裂けたような、よく見える目なのか」というのだろうか。〔この歌について、契沖が、次のようにいう。「あめ、は、天。つつ、は、千鳥を呼ぶ声だろう。あるいは、千鳥を、つつ千鳥、ともいうのだろうか。倭建命が亡くなり、八尋の白い千鳥に変わって、天に飛んだ、とあるので、つつ、天の千鳥よ、と呼びかける意味なのだろう。まし、は、お前、で、千鳥をいうのだろう。とと、は、つつ、と通じ、また、千鳥を呼ぶ言葉か」。これは、すべて誤りである。まず、「つつ」といい、「お前」といい、千鳥に呼びかけることも、この歌の趣旨に、似つかわしくない。また、倭建命が、千鳥に変わり、天へお飛びになった例があるからといって、「天の千鳥」というのも、どうだろうか。しかも、「天」と「千鳥」の間に、「つつ」という、呼ぶ言葉を挟んで、いうものだろうか。
また、師は、五音・七音・六音と読み、初めの句を「天地」、中の句を「取り坐す」、終わりの句を「点利目」として、「一首の意味は、天地をも、手に取るような、賢い眼差しの、勇士だというのである」といわれた。しかし、「天地」というのに、「つ」という、添える言葉を、中に置くはずはない。もし、「地」のもとの言葉を、「つつち」とするならば、そうでもあるか。『神名式』の対馬に、都々智神社があるが、これは、別の意味なのだろう。また、天地をも、手に取るような勇士ということを、「どりますととな」といっては、言葉が整わない。「ととな」は、何という言葉なのか。そのうえ、「杼」は、すべて濁音に使う字で、清音に使った例はないのに、この説のようだと、二つとも、清音となるのである。これは、ご自身も、納得がいかなかったのだろうか、誤字なのか、と、疑いを残しておられる。この「杼」の字は、『古事記』の中で、「梯」と書く所が多いため、ここも「梯」で、清音の「と」なのか、ともいえるが、「梯」は、「て」の仮名にこそ使うべき字で、「と」には使うはずもない。『古事記』で、仮名として、この字を書くのは、みな「杼」を誤ったものである。〕
【宣長の注釈】「袁登賣爾」は、「娘に」で、「あなたに」というようなものである。
【宣長の注釈】「多陀爾阿波牟登」は、「直接、会おうとして」である。『万葉集』などの歌にも、目の前で、実際に会うことを、「ただにあふ」と、多くいう。昔の言葉である。
【宣長の注釈】「和加佐祁流斗米」は、「私の、裂けたような、よく見える目」である。相手が、「なぜ、裂けたような目なのか」と、不思議がって、とがめたのに答え、「このような、私の、裂けたような、よく見える目は、天皇のために、あなたに行き会い、見つけようとして、こうなったのだ」と、いいなした歌である。
【宣長の注釈】「お仕え申し上げます、と答えた」は、前に、妻に迎えようと、お思いになることを、お告げになった仰せを、承知申し上げた、お返事である。
【宣長の注釈】「伊須気余理比売命」。そもそも、この比売の御名は、全部で十二回出る中で、初めて出た所と、この所との、二か所だけに「命」とあり、ほかには、「命」という言葉がない。この方は、大后であり、次の天皇の母なので、必ず、どこでも「命」とあるべきなのに、そうでないのには、理由があるのか。〔もし、理由があるならば、二か所には、「命」とあるのは、どういうことか。〕それとも、理由はないのか。不思議である。
【宣長の注釈】「狭井河」は、『神名帳』の、大和国城上郡に、「狭井に坐す大神の荒魂神社」があるので、そこにある川なのだろう。〔『令義解』や、四時祭式などには、「狭井社」とある。〕〔『大和志』の城上郡の部に、「狭井溪は、三輪山を源とし、狭井寺の跡を過ぎ、箸中村に至り、纒向溪に入る……」とある。本当に、この川なのだろうか。さらに、よく尋ねるべきである。〕
【宣長の注釈】「上」は、「ほとり」ということで、「べ」と読むべきである。
【宣長の注釈】「之許」は、師が「がり」と読まれたのに、従うべきである。〔また、「のもと」と読むのも、悪くない。〕『万葉集』巻十四に、「どのような殿御が、私のもとへ来るというのでしょう」とある。〔「わがり」は、「私のもとへ」である。〕また、「心だけを、いとしい人のもとへ、送って」、また、「私のもとへ、通って来るのだろう」など、このほかにも多い。
【宣長の注釈】「一宿」は、「ひとよ〔一夜〕」と読むべきである。
【宣長の注釈】「御寝坐也」は、玉垣宮の段にも、「お寝になったのである」と見え、『丹後国風土記』にも、「神が、お寝になっている間……」と見える。若桜宮の段には、「大御寝〔おおみね〕である」ともある。
【宣長の注釈】注の「佐韋河」。延佳は、「印刷本は、佐阿、とし、別の本は、韋河、としている。今、比較して、補い正した」といっている。〔私が見た、ある一本にも、「韋河」とあり、ある一本には、「佐井河」とある。これも、よくない。〕確かに、そのとおりなのだろう。
【宣長の注釈】「山由理草」は、百合の一種なのだろう。ここ以外、ほかの古書には見えず、『和名抄』にも、「百合、日本の名は、ゆり」と、一種類だけである。『万葉集』の歌には、「さゆり」、また、「ひめゆり」という名がある。〔新井氏は、「山由理は、百合の、赤い花のもので、山丹と名づける、これである」という。そうでもあるのだろうか。『万葉集』で詠んだ「さゆり」は、ただの「ゆり」なのだろう。「さ」は、多くの場合、添えた言葉だからである。「ひめゆり」は、別の一種類で、夏の野の茂みに咲く、と詠んだものなどは、あの中国名で「山丹」という物と聞こえる。今の世で、「ひめゆり」という物も、山丹である。「山由理」という名は、ほかに見えないが、およそ、木や草の名に、「山何々」というものは多いので、この「ひめゆり」も、「山由理」といってよい物である。師は、「山」の字を「少」の誤りとして、「さゆり」と読まれた。しかし、「さよ」「さえ」などという類いの「さ」を、「小」とも、「少」とも書くのは、後世のことで、古書には、まったく例がない。そのうえ、ここも、諸本が、みな「山」の字で、「少」とする本もないので、どうしても、従いにくいのである。〕
【宣長の注釈】「山由理草の、もとの名を、さい、という」。新井氏は、「百合を、ゆり、というのは、もとは、朝鮮の土地の言葉と聞こえる」といった。もし、その説のとおりならば、本当に、昔の名は、「さい」といったのだろう。師の『冠辞考』の、「さきくさ」の条では、「昔、三枝、と書き、さきくさ、といった物は、さゆりの花なのだろう」といって、ここの文章を引き、「さい」と「さき」とは、音が通じるといわれた。〔その中で、「山由理」の「山」を、「少」に改め、「さゆり」と読まれたのは、誤りだということは、前に述べたとおりである。しかし、「さゆり」は、ただの「ゆり」なので、「山由理」を指し、そのようにいうことも、実際には違わない。ただし、「ゆり」を縮めれば「い」となるので、「さゆり」と「さい」とは、音が近いから、一つの名が変わったのか、と思う人もいるだろうか。それは、誤りである。名は、もとから別である。〕本当に、昔は、この「さい草」を、「三枝」ともいい、同じ物なのだろう。〔今の世に、人の氏族の名で、「三枝」といい、「さいぐさ」と唱えるものがある。これは、「き」を、音の都合で、「い」というのである。〕「い」と「き」とが通じる例は、『日本書紀』神武の巻に、「山城の水門、またの名を、山井の水門」とある。これも、一つの名を、「い」とも、「き」ともいうのである。
さて、『神名式』に、大和国添上郡の、「率川に坐す大御子神社、三座」がある。これを、ある書には、三座の真ん中は、この伊須気余理比売命、左は、事代主神、右は、玉櫛媛だという。そうでもあるのだろう。〔ただし、「事代主神」というのは、『日本書紀』神武の巻の伝承によったのだろう。神代の巻、また、この『古事記』によれば、左は、大物主神なのだろう。「大御子神」とあるのにも、かなっている。〕こうして、神祇令に、「孟夏、三枝祭」とあり、その『義解』には、「率川社の祭である。三枝の花で、酒樽を飾って祭るので、三枝という」とある。〔四時祭式の、この祭の条に、三枝の花の事が見えないのは、官から出す幣物の範囲ではないからである。〕ゆかりのあることだったのである。
【宣長の注釈】この注の文章には、疑問がある。その理由は、本文には、「狭井河」と書いているのに、字を変え、「佐韋河」とするのは、どうだろうか。後の歌に、「佐韋賀波」と書いているのによったのだろうが、歌は、すべて、音を表す仮名で書くのが例なので、問題ない。しかし、注は、必ず、その本文の字のままに書くべきである。また、「狭井」は地名なのだから、その所にあるために、「狭井河」というのだろうに、「さい草」が多かったからだ、というのも、どうだろうか。〔あるいは、もとは川の名から出て、そのあたりの地名にもなったのか。または、地名が、もとは、この草の名から出たものを、ここは、川の名の注なので、川に結びつけて、いったのだろうか。〕
【古事記本文】後に、その伊須気余理比売が、宮中に参上した時の、天皇の御歌。
【古事記本文】葦原の、みすぼらしい小屋に、
菅の敷物を、幾重にも清らかに敷いて、
私たちは、二人で寝たのだった。
【古事記本文】こうして、お生まれになった御子の名は、日子八井命、次に、神八井耳命、次に、神沼河耳命の、お三人である。
【宣長の注釈】「宮内」は、「おほみやのち〔宮中〕」と読むべきである。
【宣長の注釈】「御歌曰」は、「みうたよみしたまはく〔御歌を、お詠みになったことには〕」と読むべきである。
【宣長の注釈】「阿斯波良能」は、「葦原の」である。
【宣長の注釈】「志祁志岐袁夜邇」は、「みすぼらしい小屋に」である。「みにくい」という言葉を長くして、「しけしき」というのは、「寒い」「暑い」を、「寒々しい」「暑々しい」などというのと、同じ類いである。〔ただし、このような形ならば、「しこけき」というはずなのに、「こ」と「け」の上下を入れかえていうのも、一つの形なのだろう。また、上下が誤って入れかわったのかも、分からない。ある一本には、「去」の字を、「志」としている。それも、「しき」は、「恋しき」「悲しき」などの「しき」と聞こえるので、「醜しき」である。さて、この「しけしき」を、契沖も、師も、「繁き」であるといわれたのは、葦原の茂った中にある小屋、という意味なのだろうが、もし、その意味ならば、「葦原の、しげみの小屋」などといわなくては、通じない。この言葉は、「小屋」にかかっているので、小屋についていっていることは、明らかである。〕『万葉集』巻四に、「ムグラの、はびこる、汚い家に」、巻十三に、「焼いてしまおうかという、粗末な、みすぼらしい小屋に、捨ててしまおうかという、破れた薦を敷いて」、巻十九に、「ムグラのはびこる、みすぼらしい家でも、大君が、おいでになると知っていたなら、玉を敷いたでしょうに」などとある。さて、これは、あの、狭井川のほとりにある家である。そもそも、この姫の家は、そのようにいうほどの、みすぼらしい家ではないはずだが、天皇の大宮に比べては、たいそう違っていたのだろうから、このように、お詠みになったのである。上代には、およそ、海や川のほとりは、多くが葦原だったので、この家のあたりも、そうだったのだろう。
【宣長の注釈】「須賀多々美」は、「菅畳〔すがたたみ〕」である。倭建命の段に、「弟橘比売命が、海に入ろうとする時、菅の敷物を八重、皮の敷物を八重、絹の敷物を八重、波の上に敷いて、その上に座った」とある。
【宣長の注釈】「伊夜佐夜斯岐弖」は、「幾重にも、清らかに敷いて」である。『日本書紀』に、「潔身」を、「みをさやめて」と読んでいる。「さやめて」は、「清めて」である。『万葉集』に、「清」を、「さや」と読んでいる、と契沖はいった。「いや」は、ここでは、幾重にも重ねる意味なのだろう。この家は、みすぼらしい家だが、天皇が、お寝になるので、菅の敷物を、幾重にも敷いて、清らかにしたのである。〔もし、この意味ならば、「いやしきさやめ」などとあるはずなのに、「いやさや」とあるのは、別の意味か、ともいえよう。しかし、幾重にも重ね敷いて、清らかなことを指し、お詠みになったので、「清らかに敷いて」という意味である。師は、「たくさんに」という意味だ、といわれた。「障る」をも、「さやる」という例があるので、これも、そういうことではあるが、敷物は、幾重にも重ねることをこそいうのであって、数の多いことをいうのは、似つかわしくない。〕
【宣長の注釈】「和賀布多理泥斯」は、「私たちは、二人で寝た」である。終わりは、「き」とあるはずなのに、「し」とお詠みになったのは、「わが」の「が」に応じて、文を結ぶ形である。〔「が」は、「の」と同じ文法上の働きをする。〕
【宣長の注釈】この御歌は、今、伊須気余理比売を、大宮の中へ迎えて、ともにお寝になったので、以前、初めて共寝した時のことを、お思い出しになり、「あのみすぼらしい家と同じくらい、粗末な菅の敷物を、幾重にも敷いて清め、珍しい旅寝をしたことだった」と、お詠みになったのである。
【宣長の注釈】「阿礼坐」は、「生まれなさる」で、「お生まれになった」ということである。「あれ」という言葉の意味は、「新しく現れる」ということに通じている。生まれるのは、この身が、新しくできることであり、また、現れることだからである。〔「うま」を縮めれば「あ」になるから、「あれ」は、そのまま「うまれ」なのだ、と理解するのは、違っている。「うまれ」は、「産み出される」という受け身の意味で、言葉は、もともと別である。〕明の宮で天下をお治めになった天皇〔応神天皇〕が、お生まれになることにも、「その御子は、お生まれになった」とある。『続日本紀』巻一に、「天皇の御子として、お生まれになる方々が、代々に、相次いで」と見え、月次祭の祝詞にも、「お生まれになる皇子たちも、恵んでくださって」と見える。『万葉集』巻一に、「お生まれになった、神のことごとく」、巻六に、「これから、お生まれになる御子が、代々に相次いで」などと見える。また、『日本書紀』允恭の巻に、「皇后が、大泊瀬天皇を、お産みになった」とある「産」を、「あらします」と読むのは、「お生まれになるようにする」ということである。
〔およそ、「あれます」とは、御子についていう言葉で、「お生まれになる」という意味である。したがって、御母についていう時は、「あらします」である。「お生まれになるようにする」という意味だからである。また、「うむ」は、母についての言葉なので、子についていえば、「うまる」という。「産まれた」という、受け身の意味である。だから、古書に、「生」の字を書くのにも、この区別がある。母について、「誰々が、誰々を、生む」とある「生」は、親が、子を産むことなので、「うむ」とか、「あらします」とか、読むべきである。子について、「誰々が、生まれる」とある「生」は、子の誕生なので、「うまる」とか、「あれます」とか、読むべきである。ところが、世の人が、この区別をせず、「生」の字は、子についてでも、親についてでも、「あれます」と読むのが古語だ、と心得ているのは、間違いである。およそ、何事も、文字に任せておくために、古語に、このような区別があることを、分別して知らない。この類いは、多い。その例を、一つ二ついえば、「たまう」と「たまわる」を、一つに考え、「つかわす」と「つかわさる」を、一つに考えるなどは、みな、誤りである。「たまう」は、与える人についていう言葉、「たまわる」は、受け取る人についていう言葉で、「賜ったものを受ける」という意味である。「つかわす」は、人を送り出す人についていう言葉、「つかわさる」は、出かけて行く人についていう言葉で、「遣わされる」という意味である。およその言葉づかいは、これらを例として、理解すべきである。〕
【宣長の注釈】「日子八井命」。『姓氏録』には、「彦八井耳命」とある。〔『旧事紀』も、同じである。〕「八井」の意味は、まだ、分からない。弟君の名の「沼河」の例によれば、字のとおり、「多くの井」ということだろうか。さて、この御子のことは、後に、論じる。
【宣長の注釈】「神八井耳命」。「八井」は、前と同じ。「耳」は、上巻の、忍穂耳命の所で、述べたとおりである。次の名も、同じ。『日本書紀』綏靖の巻に、「四年、夏四月、神八井耳命が、お亡くなりになった。そこで、畝傍山の北に、葬った」とある。〔この墓のことを、『大和志』に、「高市郡山本村にある。御陵山と呼び、そばに、小さな祠があり、岩井耳という」といっている。山本村は、畝火山のあたりにある。〕
【宣長の注釈】「神沼河耳命」。「沼河」は、『日本書紀』によって、「ぬなかわ」と読むべきである。上巻に、「沼河比売」という名がある。『万葉集』巻十三に、「沼名川の、底にある玉」とあり、『神名帳』に、越後国頸城郡の、「奴奈川神社」がある。これを、『和名抄』の郷名には、「沼川、ぬのかわ」としている。この例から考えれば、「な」は、「の」という意味なのだろうか。〔浄御原の天皇〔天武天皇〕の御名、「天渟中原瀛真人」の、「渟中」は、「のな」という、とある。これも、「中」は、音だけを借りた字で、同じ意味なのだろう。〕さて、「沼河」とは、沼のように、水がたまって深い川などをいうのか。また、砂ではなく、泥になっている川をいうのか。また、この御名は、そのような川の意味で、兄君の御名の「八井」も、これも、名として用いられる、いわれがあるのか。それとも、土地の名か。詳しくは、分からない。
『日本書紀』に、「庚申の年、九月、壬午を一日とする、己巳の日、媛蹈鞴五十鈴媛命を迎えて、正妃とした。辛酉の年、春正月、庚辰の一日、天皇は、橿原の宮で、帝位についた。この年を、天皇の元年とし、正妃を、皇后とした。皇子の、神八井命と、神渟名川耳尊を、お生みになった」とある。〔およそ、『日本書紀』に、上古の、代々の天皇が、皇后をお立てになることなどを、このように、何年、何月、何日と、月日まで記しているのは、たいそう、疑わしい。その理由は、別に、『真暦考』で、詳しく論じた。考え合わせて、見るべきである。また、はっきりと、「皇后に立てる」などということも、中国でのことであって、わが国の上代には、そのようなことは、あるはずもない。皇后は、いつからということもなく、おのずと、皇后であるはずなのだから。さて、「神八井耳命」は、綏靖の巻には、この『古事記』と同じく、「井」の下に、「耳」の字があるのに、ここにないのは、後に、抜け落ちたのだろうか。また、この『古事記』に、「日子八井命」と申し上げる例もあるので、もともと、「耳」という言葉を省いても、申し上げたのだろうか。〕
【古事記本文】天皇がお亡くなりになった後、異母兄の当芸志美美命が、皇后の伊須気余理比売と、不義の関係を持った時のことである。命は、三人の弟を殺そうと企てていた。御子たちの母の、伊須気余理比売は、心を痛め、歌によって、御子たちに知らせた。その歌は、
【古事記本文】狭井川の方から、雲が、立ちわたって、
畝傍山では、木の葉が、ざわめいています。
風が、吹こうとしています。
【古事記本文】また、歌って、
畝傍山では、昼は、雲が静かにとどまり、
夕方になると、風が吹こうとして、
木の葉が、ざわめくのです。
【古事記本文】そこで、御子たちは、歌を聞いて事情を悟り、驚いた。やがて、当芸志美美を殺そうとした時、神沼河耳命は、兄の神八井耳命に、「兄上。あなたが、武器を持って入り、当芸志美美を、お殺しください」といった。そこで、兄は、武器を持って入り、殺そうとしたが、手足が震えて、殺すことができなかった。そこで、弟の神沼河耳命が、兄の持っている武器を、求めて受け取り、中へ入って、当芸志美美を殺した。そのため、また、御名をたたえて、建沼河耳命〔たけぬなかわみみのみこと〕と申し上げる。〔原注。「那泥」の二字と、「和那那岐」の五字は、字の意味によらず、音を表す。〕
【宣長の注釈】「庶兄」は、『字鏡』に、「庶兄、まま兄」とある。このように読むべきである。〔上巻に、「庶兄弟」とあるのは、ただ、「あにおとども」と読んだ。あちらは、母の違う兄弟全体を見ていっており、私が、それを「まま何々」と呼ぶ例を、知らないからである。また、『日本書紀』綏靖の巻で、「庶兄」を、「いろね」と読み、用明の巻で、「庶弟」を、「はらから」と読むなどは、みな、適切でない。〕また、同じ『字鏡』に、「嫡母、ままはは」「嫡妹、まま妹」などもある。〔中国で、「庶」の字は、「嫡」に対する呼び名で、正妻が産んだ子を、「嫡子」といい、妾が産んだ子を、「庶子」という。したがって、「庶兄」とは、正妻の子である弟から、妾の子である兄をいう呼び名である。ここも、その決まりどおりに、「庶兄」と書いている。しかし、わが国では、正妻の子か、妾の子かにかかわらず、母の違う兄弟を、すべて、「まま兄」「まま弟」といったのだろう。それは、あの『字鏡』に、「嫡」も、「庶」も、「まま」とあることでも、分かる。また、『和名抄』に、「継父、ままちち」「継母、ままはは」と見え、また、昔も今も、自分が産んだ子ではない子を、「まま子」という。今の俗語で、実の親子ではない間柄を、「まましき仲」といっているのも、同じである。〕
【宣長の注釈】「嫡后」は、「おほぎさき〔皇后〕」と読むべきである。前に、「大后」とあるのと、同じ。
【宣長の注釈】「娶」は、ここでは、「たわく」と読むべきである。『日本書紀』に、「通」〔景行の巻と、允恭の巻〕、「好」〔允恭の巻〕、「淫」〔安康の巻〕などを、みな、そう読んでいる。およそ、男女が交わることで、道理に背くものを、「たわく」といった、と聞こえる。『字鏡』に、「奸、乱すこと、みだらに犯すこと、たわく」とある。〔同じ書に、「淫、たわる」とあるのも、もとは同じ言葉なのだろう。また、『万葉集』巻二十に、「たわわざ」とあるのも、また、「狂う」も、みな、同じ言葉で、もとは、男女のことには限らず、すべてのことにいう言葉だったのである。〕さて、この当芸志耳命が、皇后と不義の関係を持ったことは、『日本書紀』には見えない。疑わしいことである。この次に、皇后が、心を痛め、御歌を詠んで、御子たちにお知らせになることなどから見れば、まだ交わってはいないが、無理に犯そうとして、機会をうかがっていたことを、「たわく」というのだろうか。
〔「よばう」、また、「つまどい」なども、すでに交わったことにも、まだ交わっていないことにもいうので、「たわく」も、そうなのだろうか。また、考えるに、上巻で、「将婚」「欲婚」などと書く例から見ると、ここも、ただ交わろうとしたことをいうのなら、「将」「欲」などの字を加えて書くはずなのに、そうせず、直接、「娶」と書いているのは、あるいは、すでに、そのことがあったのだろうか。もし、そうならば、『日本書紀』では、綏靖天皇の母であるために、はばかり、差し控えて、省いたのか。ただし、『日本書紀』では、天皇の元年に、皇后に立ち、七十六年に、天皇が、お亡くなりになったので、その時、皇后は、たいそう、ご高齢だったはずで、そのようなことは、あるはずもない。しかし、この『古事記』の伝承では、この皇后が、何年から、お召しになったともなく、また、およそ、『日本書紀』の年数には、強いて、こだわりがたいことが多いので、どちらとも、決めがたい。この御名で、多くの場合、「命」という言葉を省くのも、このような、道理に背く乱れがあったために、その当時から、低めて申し上げたのか。当芸志耳命も、ここから後は、すべて、「命」という言葉を省く例も、考えるべきである。しかし、たとえ、そのようなことがあったとしても、皇后が、自分のお心から、同意なさったのではなく、ただ、当芸志耳命が、無理やりにしたことだったはずである。御歌を詠んで、その悪事を、お知らせになったことから、推し量るべきである。〕
【宣長の注釈】「三弟」は、「みはしらのおとみこたち〔三人の弟君〕」と読むべきである。前に挙げた、三人の御子である。
【宣長の注釈】「将殺」は、「しせむとして〔殺そうとして〕」と読むべきである。上巻、沼河日売の歌に、「命は、な、しせたまい」とある。〔「命は、お取りにならないでください」ということである。〕水垣宮の段の歌に、「盗み、しせむと、うかがわく、知らに」とある。〔ひそかに、殺そうと、うかがっているのも、知らずに、ということである。〕また、『日本書紀』の諸巻で、「弑」、また、「殺」を、「しせまつる」と読んでいる。「しせ」は、「死なせる」を縮めたもので、「殺す」をいう古語である。〔「弑」の字の、字音ではない。〕
【宣長の注釈】「謀之間」は、「はかりごとすほどに〔企てをしている間に〕」と読むべきである。独りで言うことを、「ひとりごつ」、奴のように振る舞うことを、「やつこごつ」、政治をすることを、「まつりごつ」などという例と同じく、「はかりごとする」を縮めて、このようにいうのである。
『日本書紀』に、「神日本磐余彦天皇が、お亡くなりになった時、神渟名川耳尊は、親を思う心が、純粋で深く、悲しみ慕うことがやまず、とりわけ、葬送のことに心を尽くした。その異母兄の、手研耳命は、すでに年長で、長く朝廷の政務を経験していたので、また、仕事を任せて、親しんでいた。しかし、その王は、ふだんの行いも、心に抱くものも、もともと、人の道に背いており、喪中の機会に、権勢を、ほしいままにし、悪い心を隠して、二人の弟を害しようと企てた。その時、大歳己卯の冬、十一月、神渟名川耳尊と、兄の神八井耳命は、ひそかに、その企てを知って、よく防いだ。やがて、山陵のことが、すべて終わると、そこで……」とある。〔そもそも、皇后のお産みになった御子は、三人の弟君たちなのだから、天皇の位は、この御子たちの中の、どなたかが、お継ぎになることに、異論はない。それを、殺そうと企てたのは、皇位を、ねらっていたことが分かる。また、皇后と婚姻しようとしたことも、いうまでもない。〕
【宣長の注釈】「御祖」。昔は、御母を、みな、「みおや」といった。このことは、前に、詳しく述べた。
【宣長の注釈】「患苦」は、「うれいて〔心配して、悲しんで〕」と読むべきである。また、上巻にも、「その母の神が、泣き悲しんで」とある。
【宣長の注釈】「以歌」は、「うたよみして〔歌を詠んで〕」と読むべきである。〔「うたもて〔歌をもって〕」と読むのも、悪くない。〕
【宣長の注釈】「令知〔お知らせになった〕」は、殺そうとしていることを、である。
【宣長の注釈】「歌曰」は、「そのみうた〔その御歌〕」と読むべきである。
【宣長の注釈】「佐韋賀波用」は、「狭井川から」である。この川のことは、前に見える。「用」を、延佳本に、「由」としているのは、誤りである。このことも、前の巻で、詳しく述べた。〔狭井川で、雲の立ちのぼる所を、橿原の都から、はっきりと見分けられるはずはない。〕これは、直接、狭井川から起こるということではなく、この川の方角から、という意味である。狭井川は、都から見て、東北の方角にあたるので、ただ、東北の方から起こるのを、この姫君の故郷であるために、女性のお心に、ふだん、その方角を、およそ、狭井川の方、と心得ておられるから、このように、お詠みになったのである。
【宣長の注釈】「久毛多知和多理」は、「雲が、立ちわたって」である。
【宣長の注釈】「宇泥備夜麻」は、「畝火山〔畝傍山〕」である。
【宣長の注釈】「許能波佐夜芸奴」は、「木の葉が、ざわめいている」で、木の葉が、さやさやと、音を立てて騒ぐことである。『万葉集』巻二に、「笹の葉は、山一帯に、さやさやと、乱れ鳴るけれども」とある。〔「清」は、音を借りた字である。〕巻十に、「葦辺にある、荻の葉が、ざわめき、秋風が、吹いてくるにつれて、雁が、鳴き渡る」とある。『古今集』巻十九に、「笹の葉の、ざわめく、霜の降りる夜を」などと詠んでいる。また、上巻に、「葦原の水穂の国は、たいそう、騒いでいるようだ」とある。〔『伝』巻十三の五葉。〕この神武の段の前にも、同じ言葉がある。また、須勢理毘売の御歌に、「たくぶすまの、ざわめく下で」ともある。〔『伝』巻十一の五十一葉。〕
【宣長の注釈】「加是布加牟登須」は、「風が、吹こうとしている」である。
【宣長の注釈】この一首の意味は、表面では、狭井川の方から、雲が広がり、宮のそばにある、畝火山の木々の葉が、ざわめくのを、ご覧になって、風が吹き出しそうだ、とお察しになった様子である。そこに、たとえて示した裏の意味は、「当芸志美美の方で、企ての準備をしているぞ。それは、あなたたちを、殺そうとしているのだ」ということである。雲が広がり、木の葉がざわめくのは、企てをすることの、たとえ。風が吹こうとしているのは、殺そうとしていることの、たとえである。
〔雲の起こる方を、わざわざ、狭井川から、とお詠みになったのは、あるいは、当芸志耳命の家が、その方にあったからか、とも思われるが、そこまでの意味は、あるはずがない。あの命の家が、どこにあったかは、分からないが、『日本書紀』には、片丘の、大きな穴の中に、横たわっておられたことがある。片丘は、葛下郡なので、畝火山の西である。この穴は、あるいは、その家にあったのか。たとえ、家にあったのではなくても、住んでいた所から、遠くはあるまい。これから見れば、その家は、都の東北の方ではないだろう、と思われる。さて、雲が立ちわたるのは、風が吹こうとする様子だが、木の葉がざわめくのは、まさに、風が吹いている時のことなのに、吹こうとする様子として、お詠みになったのは、実際と違うように見える。しかし、そのように、細かく考えるのは、後世の考えである。ただ、木の葉がざわめくのは、風が吹くことに関係するので、このように、お詠みになったのである。およそ、このようなことは、昔の歌では、おおらかに、詠んだのである。また、風は、まず、山の上から吹き、後に、山の下へ吹き下ろすものなので、まず、山の木の葉がざわめくのが見え、まだ、山の下までは、吹き及んでいないころなのだ、とでもいうのか。それは、とりわけ、くだくだしい。〕
【宣長の注釈】「又歌曰」は、ただ、「また」とだけ、読むべきである。
【宣長の注釈】「比流波久毛登韋」は、「昼は、雲として、とどまっていて」である。「雲と居」は、雲であって、とどまっていることをいう。夕方には、風になるはずの雲が、昼の間は、まだ、雲のままでいることをいう。「居」とは、起こって騒ぐなどはせず、山のあたりなどにかかって、とどまり集まっていることをいう。〔急に、黒い雲が起こり、ひどく雨が降りそうな様子なのに、雨は降らず、風が吹き出して、その雲は晴れてゆくことなどは、よくあることである。これらも、その雲が、そのまま、風になるのである。師が、この句を、「雲のように、いるのだ。また、たち、を縮め、音を通わせて、と、といったのか。それなら、雲が立ち、居る、ということだ」といわれたのは、二つとも、よくない。「雲のようにいる」とは、何が、いるというのか。また、「立ち居る」とも、いいがたい。それでは、立ちもすれば、居もし、ということになるが、ここは、ただ、静かにとどまっている意味でなければ、合わない。〕
【宣長の注釈】「由布佐礼婆」は、「夕さらば」で、「夕方になれば」というようなことである。『万葉集』に、多い言葉である。「春されば」「秋されば」「明されば」「朝されば」、また、「春さりぬれば」などともいい、「夕さらば」「春さらば」「秋さらば」などともいう。また、「夕さりくれば」「春さりくれば」とも、「春さりにけり」とも、また、「春さりゆく」とも、さまざまにいっている。みな、「さる」は、その時になる意味で、いっている。〔立ち去ってゆく意味ではない。「春さりゆく」というのも、春になってゆく、である。「春さりにけり」というのも、春になったのだ、という意味である。〕今の俗語で、夜を、「夕さり」とも、「夜さり」ともいうのは、ここから出た言葉なのだろう。
【宣長の注釈】この御歌は、当芸志美美が、昼の間は、ひそかに、何気ない様子でいるのを、雲が静かにとどまっていることに、たとえている。「夕方になると、あなたたちを、殺そうとして、その企ての準備をするのだ」ということを、風が吹こうとして、木の葉がざわめくことに、たとえて、お詠みになったのである。
【宣長の注釈】「聞知」とは、御母の歌を聞いて、その意味を、悟られたのである。
【宣長の注釈】「当芸志美美を、殺そうとした時……」。『日本書紀』に、「山陵のことが終わると、弓部稚彦に、弓を作らせ、倭鍛部の天津真浦に、真麛〔まかご〕という矢の鏃を作らせ、矢部に、矢を作らせた。やがて、弓矢ができあがると、神渟名川耳尊は、これで、手研耳命を、射殺そうとした」とある。
【宣長の注釈】「兄」は、「いろせ」と読むべきである。その説明は、『伝』巻九〔二十六葉〕に、見える。
【宣長の注釈】「なで」は、人を、親しみ、敬っていう呼び名である。『日本書紀』神代の巻に、「阿姉」と見え、『万葉集』巻四に、自分の娘を、「名姉」と詠んでいる。〔今の本の読み方は、誤っている。〕巻九に、「妹名根」と詠んでいる。ふつうも、男には「兄」、女には「姉」というので、「なで」は、女に限るように見えるが、ここでは、兄君に、お呼びかけになっているので、男にも使う呼び名である。〔「いろね」も、女に限るようだが、安寧天皇の御子に、常根津日子伊呂泥命、と申し上げる方があるので、これも、男女のどちらにも使う呼び名である。〕「ね」は、天津日子根などの、よくある「ね」である。
【宣長の注釈】「汝命」は、「ながみこと」と読むべきことを、前〔『伝』巻七の五葉〕で述べた。
【宣長の注釈】「兵」は、『和名抄』に、「兵庫寮、つはもののくらの官」とあるので、「つはもの」と読むべきである。刀や鉾の類いの、総称である。『日本書紀』に、「鉾」、また、「長戟」「兵仗」「兵革」なども、そう読んでいる。〔中国でも、「兵」の字は、もとは、武器である、とも、戦う道具である、とも注して、その意味なのを、意味が転じて、その武器を持つ人を、多く、「兵」といっている。それまで、誤って、「つはもの」と読むために、後世には、ただ、勇ましい武人の呼び名のようになり、強い者の意味だと心得て、刀や鉾の類いの名であることを、知らなくなった。わが国では、昔、その人を指して、「つはもの」ということは、なかった。『日本書紀』などで、人をいう「兵」の字、また、「卒」などを、そう読むのは、誤りである。また、それを、「いくさびと」などと読むのは、これこそ、よい。〕
名の意味は、「鐔物〔つばもの〕」である。〔『和名抄』に、「鐔、つみは」とある。〕職人の道具、農具、そのほか、さまざまな器具には、刀や鉾の類いの物が多いが、その中で、武器に限って、鐔があるために、この名を持つのである。〔「つみは」の「み」を省き、「つは」というのは、後世には、鐔を、そのまま、「つば」というのと、同じである。さて、『日本書紀』には、ここで、弓矢を新しく、お作りになったことが見え、ついに、それで、射殺したとあることから考えれば、ここに「兵」とあるのも、弓矢なのだろうか。もし、そうならば、刀や鉾の類いから転じて、弓矢なども、同じく、「つはもの」というのか。ただし、この『古事記』の伝承では、弓矢ではなく、刀や鉾の類いだったのかも、分からない。〕
さまざまな器具を、およそ、「うつわもの」というので、武器も、もとは、「うつわもの」といい、それは、器具全体の名だが、特に、武器の名にもなったのか。また、武器の名が、もとになって、器具全体の名にもなったのか。どちらにしても、「うつわもの」と「つはもの」は、もとは一つの名のようで、紛らわしい。しかし、もともと別で、「うつわもの」は、もとは、つぼの類いの名で、「中を空にして、物を詰める物」という意味である。「填〔はに〕」を縮めるのは、「土師〔はにし〕」を、「はじ」というのと、同じことである。物を入れるために、内側を空にして作るので、そのようにいう。その後には、必ずしも、土製の物でなくても、器具全体の名にも、なったのである。
【宣長の注釈】「持」は、「とりて〔手に取って〕」と読むべきである。『日本書紀』神功の巻にも、「荷持、これは、のとり、という」とある。〔しかし、「もちて〔持って〕」と読むのも、悪くない。〕
【宣長の注釈】「故持兵〔そこで、武器を持って〕」とは、神八井耳命のことである。
【宣長の注釈】「和那那岐弖〔わなないて〕」は、『日本書紀』では、「戦慄」とある。また、神功の巻に、「戦々栗々」、清寧の巻に、「慄然振怖」、敏達の巻に、「揺震」、皇極の巻に、「動手」、また、「戦慄」などと見える。『字鏡』に、「悸、動くこと、また、おびえること、わななく」、また、「慴、恐れること、わななく」、また、「おののく」とある。このほか、物語の文章などにも、よく使う言葉である。〔「わ」と「お」とは、とりわけ、近く通じる音なので、「おののく」も、同じ言葉である。俗語で、体が震える様子を、「わだわだ」とも、「おどおど」ともいう。これも、同じである。〕
【宣長の注釈】「弟」は、「いろと」と読むべきである。下巻、若桜宮の段に、「伊呂弟」とあるのと、同じである。
【宣長の注釈】『日本書紀』に、「ちょうど、手研耳命が、片丘の、大きな穴の中で、独りで寝ている時だった。その時、淳名川耳尊〔「淳」の上に、「神」の字が、抜けたのか〕は、神八井耳命に、いった。『今こそ、その時です。言葉は、秘密を守ることが大切で、事は、慎重に行うべきです。だから、私たちの、ひそかな計画には、もともと、ほかに、加わった者はありません。今日のことは、ただ、私と、あなたとで、自ら行うだけです。私が、先に、穴の戸を開けましょう。あなたは、そこで、射てください』。そこで、連れ立って進み入った。神渟名川耳尊が、その戸を突き開けたが、神八井耳命は、手足が震えて、矢を放つことが、できなかった。その時、神渟名川耳尊は、兄の持つ弓矢を引き取って、手研耳命を射た。一射で、胸にあたり、二射目で、背にあたって、ついに殺した」と見える。〔ここに、大きな穴の中で寝ていた、とあることから考えると、この『古事記』に、「武器を持って、入り……」、「そこで、武器を持って、入り……」、「持っていた武器を、取り、入って殺し……」と、三度までも、「入る」というのは、穴の中だからか。それとも、そこまでの意味はないか。また、三か所とも、「入」の字が、「兵」の字の下に、続いているのは、何か、特別な意味でもあるのか。注意を促しておくのである。〕
【宣長の注釈】「また、御名をたたえて、建沼河耳命という」とは、もとの、「神」を、「建」に改めたのではない。この時から、また、御名を、このようにも、申し上げた、ということである。前の「亦〔また〕」の字に、その意味が見える。したがって、次の、この命の段の初めには、また、もとのままに、「神」とある。「たけぬなかわみみのみこと、とも、もうしき〔建沼河耳命とも、申し上げた〕」と読むべきである。大毘古命の御子にも、建沼河別命という方がある。
【古事記本文】そこで、神八井耳命は、弟の建沼河耳命に、位を譲り、申し上げた。「私は、敵を殺すことが、できませんでした。あなたは、敵を、お殺しになりました。だから、私は、兄ですが、君主となるのは、ふさわしくありません。それゆえ、あなたが、君主となって、天下をお治めください。私は、あなたをお助けし、祭りに仕える者となって、お仕えしましょう」。
【宣長の注釈】「譲る」という言葉は、仏足石の歌に、「ゆずりまつらむ〔お譲り申し上げよう〕」とある。
【宣長の注釈】「得殺仇」は、「え、しせたまいぬ〔お殺しになることが、できた〕」と読むべきである。「仇」の字は、読むべきではない。「敵を」ということを、ここで、またいうのは、前にあるのに、くどくなるからである。また、「得殺」とあるのを、ふつうは、「殺すことを得」と読むが、それは、中国の書物の読み方である。「え、しせ」というのが、古語なのである。このことは、前に、例などを引いて、詳しく述べた。
【宣長の注釈】「雖兄」は、「あになれども〔兄ではあるが〕」と読むべきである。〔ここの「兄」は、「いろせ」などと読んでは、よくない。〕
【宣長の注釈】「不宜為上」は、「かみとあるべからず〔君主となるべきではない〕」と読むべきである。さて、この「上」は、ただ、この二人の間の、上下をいうのではなく、天下の、すべての人の上に立ち、天皇となることを、いうのである。一つの氏族の中の長を、「氏上〔うじのかみ〕」という。〔氏の長者と、同じである。〕一番上の子を、「子上〔このかみ〕」という。〔「兄」の字を、「このかみ」と読むので、一人だけには限らないように聞こえるが、そうではない。漢字に引かれて、古語の意味を、失ってはならない。〕さまざまな役所の長官をも、みな、「かみ」という。これらも、みな、その所属する範囲の中で、一番上にある一人をいって、同じことである。
さて、また、「為」を、「とある」と読むのは、「たる」というのと、同じである。「たる」は、すなわち、「とある」を縮めた言葉である。したがって、「たる」というはずの所を、「とある」ということは、古語に多い。〔およそ、この「たる」「たり」には、二つある。名詞に付くものは、ここにいうのと同じく、すべて、「とある」「とあり」である。ただし、漢文で、「瑟兮僩兮」のような言葉を、「瑟たり、僩たり」などという類いは、述語の言葉の下でも、漢字の音で、活用しないので、名詞と同じで、これも、「とあり」を縮めたものである。さて、動詞などに付くものは、すべて、「てある」「てあり」を縮めたものである。「いうたり」「聞いたり」などという類いが、これである。「たら」「たれ」などと、活用したものも、この二つである。〕
【宣長の注釈】「汝命為上」。ここの「為上」は、「かみとまして〔君主でいらっしゃって〕」と読むべきである。およそ、ふつうの人には、「あり」「ある」という言葉を、敬っていう時は、「ます」という例である。『続日本紀』の、皇位を継ぐ宣命に、「すめらぎとまして、あめのした、しらしたまう、きみは〔天皇でいらっしゃって、天下を、お治めになる君は〕……」、また、「きみとまして、あめのした、しろしめすこと〔君でいらっしゃって、天下をお治めになること〕……」など、このほかも、みな、このとおりである。
【宣長の注釈】上代には、「日嗣の御子〔皇位を継ぐ御子〕」と申し上げる方は、一人に限らなかった。〔このことは、前にも後にも、詳しく述べる。〕神八井耳命も、神沼河耳命も、ともに、皇位を継ぐ御子でいらっしゃって、この時、位を継ぐ方は、まだ、どちらとも、決まっていなかったから、今、このような話し合いがあるのである。もし、前から決まっていたならば、今さら、このような話し合いが、あるだろうか。それなのに、『日本書紀』には、「四十二年、春正月、壬子を一日とする、甲寅の日、皇子の神渟名川耳尊を、皇太子に立てた」とあり、ここに至っては、「そこで、神八井耳命は、がっかりして、自ら、かなわないことを認め、神渟名川耳尊に、譲って、申し上げた。『私は、兄でありながら、気が弱く、思い切って、成し遂げられませんでした。今、あなたは、とりわけ、すぐれた武勇をお示しになり、自ら、大悪人を討たれました。あなたが、天皇の位に、おつきになり、皇祖の事業をお継ぎになるのは、まことに、ふさわしいことです』」とあるのは、納得できないことである。
〔その理由は、もし、神沼河耳命一人が、すでに、皇太子と決まっていたならば、皇位を継ぐことは、もともと、いうまでもないのに、ここに至って、今さら、「譲った……」とあるのは、どういうことか。また、「まことに、ふさわしいことだ……」という言葉は、前から、決まっていたように聞こえるが、もし、そうなら、ますます、「譲って、いった……」という言葉に、合わない。したがって、ここは、「哉乎」の二字を除き、「あなたが、天皇の位に、おつきになり、皇祖の事業をお継ぎになるのが、ふさわしい」といってこそ、前後が合うはずである。およそ、『日本書紀』に、「何年、何月、何日、誰々を、皇太子に立てた」とあるのは、上代のものは、いずれも疑わしい。ここで、「宜哉乎」と書かれたのは、前の、「皇太子に立てた」とあるのと、つじつまを合わせようとした文章なのだろう。〕さて、上代には、武勇を第一として、天下をお治めになったことを、この段を見て、悟るべきである。
【宣長の注釈】「僕」は、「あれ〔私〕」と読むべきである。〔前にも、「吾者」とあり、『日本書紀』にも、「吾」とある。〕
【宣長の注釈】「忌人」は、師が、「いわいびと」と読まれたのが、よい。この読み方は、黒田宮の段に、「いわいべ」を、「忌瓮」と書いていることで、定めるべきである。およそ、「いわう」と、「いむ」とは、もともと、同じ言葉である。〔後世には、「忌」の字は、「いむ」とだけ読み、「いわう」には、「斎」「祝」などの字だけを書く。しかし、「斎」を、「ものいみ」とも読むことから、同じ言葉であることを、知るべきである。〕さまざまな、災いや悪事、汚れたことなどを避け、身を慎んで、尊く、心身を清めることをいう。だから、多くは、神にお仕えすることに、いっている。
〔後世には、「いわう」とは、めでたさを祝うことをいい、「いむ」とは、ただ、嫌って取り除くことだけをいうので、反対のようになった。しかし、祝いをいうのも、その人、その物を、よくしようと願うことに伴って、災いや悪事を嫌い、取り除き、慎む意味から、転じた。また、ただ、嫌い、取り除くことを、「いむ」というのも、災いや悪事を嫌い、取り除くことから、転じたので、もとは、一つの意味である。〕
『日本書紀』の、この神武の巻に、「その時、道臣命に、命じていった。『今、高皇産霊尊をお祭りし、私が、自ら、目に見える形での祭りをする。あなたを、祭りの主としよう……』。顕斎は、これは、うつしいわい、という」とある。また、神代の巻に、「この時、祭りをつかさどる神を、斎の大人と名づけた。斎は、これは、いわい、という」とある。〔この読みを示す注の、「斎」の字の下に、今の本では、「主」の字があるのは、誤りである。これは、下の、「斎」の字の読みの注で、「いわい」とだけあるのだから、「主」の字が、ある理由はない。後の人が、勝手に、賢しらに加えたのである。さて、この文章を、「斎主」と、「斎の大人」とは、同じ言葉なのに、このようにいうのは、どうだろう、と人が疑うが、よく理解できることである。「斎主」は、その時の役目をいい、後の、「斎の大人」は、その神の名となったことをいうのである。後までも、香取の神の呼び名を、「いわいぬしの神」と申し上げることから、知るべきである。〕
このような例が見え、『万葉集』巻七に、「御幣を手に取り、三輪の神職〔はふり〕が、清め祭る、杉の林」、巻十四に、「新嘗の祭りのために、夫を外へ送り、身を清めて祭る、この家の戸を」など、なお、多い。さて、この「忌人」は、『日本書紀』にも、「私は、あなたの助けとなって、神々の祭りを、つかさどりましょう」とあり、天皇が、自ら、お行いになる神事を、お助けする役目を、いうのである。上代には、神事を、あらゆるものの中で、最も、厳かで重い、お仕事とした。〔職員令で、神祇官を第一にして、太政官よりも上に、順序を置いたことなどは、上代の心が、残ったものである。後世も、何事も、このようであってほしい。〕『日本書紀』の、今、引いた文章にも、「私が、自ら、顕斎を行う」と見え、神功の巻には、「皇后は、よい日を選び、斎宮に入り、自ら、祭りの主となった」ともある。このように、天皇が、自ら、お仕えになるので、〔後世までも、大嘗祭などには、このやり方が残る。〕そのお助けをするのは、たいそう、重い務めだったのである。だから、前に、「あなたを助け」といい、『日本書紀』にも、「あなたの助けとなる」とあるのに、心を留めるべきである。
〔「斎主」といわず、「斎人」というのは、なぜか。「斎主」は、中臣、忌部などの、さまざまな神職を率いて、お仕えする役目なので、「主」という。しかし、今、この神八井耳命がお仕えになるのは、そうではなく、天皇が、自ら、お仕えになる御事を、お助けする側の役目なので、「主」とは呼ばないのである。〕
【宣長の注釈】「仕奉〔お仕えする〕」は、神にお仕えする、と見るのか、天皇にお仕えする、と見るのか。どちらでも、間違いではあるまい。
【古事記本文】この日子八井命は、茨田連・手島連の祖です。
【宣長の注釈】「日子八井命」。『書紀』には、この皇子はいない。『姓氏録』には、「神八井耳命の子、彦八井耳命」とある。その文章は後に引用する。『旧事紀』でも、御名は彦八井耳命とあり、神渟名川耳尊の弟としている。そこで考えると、この命がもし白檮原朝〔神武天皇〕の皇子なら、兄弟たちが当芸志耳命を殺した時、必ず登場するはずだ。それなのに、その段には二柱しかおらず、この命が見えないことを考えると、『書紀』の方が正しく、『姓氏録』に見えるように、実は神八井耳命の子だったのだろう。『記』がその兄とするのは、混同された伝承なのだろう。その混同は、この命が長寿で、勇ましさなども優れ、父よりも、とくに威名が高かったためだろう。『姓氏録』が茨田連などについて、単に「神八井耳命の子孫」とはいわず、「その子、彦八井耳命の子孫」と、この御名をとくに挙げるのは、それらの氏族が、この命を直接の始祖とするためだろう。
【宣長の注釈】「茨田連」。茨田は河内国の地名で、その土地から出た氏名である。土地のことは、下巻の「茨田堤」の注、『伝』巻三十五の十五丁で述べる。この氏族については、高津宮の御代十一年に茨田堤を築いた時、河内の人、茨田連衫子という人が功績を立てたことが『書紀』に見え、継体巻には茨田連小望という人が見える。天武巻には、「十三年十二月戊寅朔の己卯、茨田連に宿禰の姓を与えた」とある。『姓氏録』河内国皇別の茨田宿禰には、「多朝臣と同祖、彦八井耳命の子孫。菅呂母能古は、仁徳天皇の時代に茨田堤を造った」とある。「菅呂母能古」を今の本が「男野現宿禰」とするのは誤りで、古本に従って改めた。『続日本紀』には、「文武天皇二年八月戊子朔、茨田足島に連の姓を与えた」とあり、『万葉集』巻二十には茨田連沙弥麻呂という人が見える。また『姓氏録』右京皇別の茨田連は、「多朝臣と同祖、神八井耳命の子、彦八井耳命の子孫である」とする。『続日本後紀』には、「承和六年四月壬子朔の庚申、右京の人、正六位上の茨田連魚麻呂ら七人に忠宗朝臣の姓を与えた」とある。『姓氏録』山城国皇別の茨田連には、「茨田宿禰と同祖、彦井耳命の子孫である」と見える。このほか同書の河内国皇別には、「下家連。彦八井耳命の子孫」、「江首。彦八井耳命の七世の子孫、来目津彦大雨宿禰大確命の子孫」、「尾張部。彦八井耳命の子孫」なども見える。これらは茨田連から分かれた氏族だろう。『姓氏録』の編者、万多親王の御名は乳母の氏名を取ったので、乳母はこの氏族の人だったのだろう。この御名も、初めは「茨田」と書いたのを、後に「万多」へ改めたのである。
【宣長の注釈】「手島連」。手島は、『和名抄』の摂津国豊島郡、手島とも書き、その豊島を「てしま」と読む、この土地から出た氏名である。『姓氏録』摂津国皇別には、「豊島連。多朝臣と同祖、彦八井耳命の子孫である。『日本紀』には漏れている」とあり、松津首も豊島連と同祖とする。
【古事記本文】神八井耳命は、意富臣・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・雀部臣・雀部造・小長谷造・都祁直・伊余国造・科野国造・道奥の石城国造・常道の仲国造・長狭国造・伊勢の船木直・尾張の丹羽臣・島田臣らの祖です。
【宣長の注釈】「意富臣」。意富は地名で、『和名抄』に大和国十市郡飫富とある。その土地から出た氏名である。今の本は「飫」を誤って「飯」とする。上総国望陀郡の飫富も「飯」に誤っているが、読みが「おふ」とあるので誤りと分かり、大和の場合も同様と分かる。今も十市郡には多村があり、「太」とも書く。『神名帳』に多坐弥志理都比古神社とあり、『臨時祭式』に太社と見え、「多社とも書く」とするのが、この社である。今も多村にあり、この氏族の神なのだろうか。『書紀』にも、「神八井耳命……は、多臣の始祖である」とあり、景行巻には多臣の祖、武諸木、天智巻には多臣蒋敷、天武巻には多臣品治などが見える。天武巻十三年十一月戊申朔には、「多臣に朝臣の姓を与えた」とある。『姓氏録』左京皇別の多朝臣は、「神武と諡された天皇の皇子、神八井耳命の子孫から出ている」とする。『古事記』を編んだ安麻呂朝臣は、この氏族の人である。『万葉集』巻十七には太朝臣徳太理という人が見える。『三代実録』には、「貞観五年九月五日、右京の人、散位の外従五位下、多臣自然麻呂に宿禰の姓を与え、信濃国諏方郡の人、右近衛将監の正六位上、金刺舎人貞長に大朝臣の氏姓を与えた。ともに神八井耳命の子孫である」とある。
【宣長の注釈】「小子部連」。「小子」の読みは、『和名抄』の越中国婦負郡の郷名「小子、ちひさこ」に従うべきだ。この氏族の人には、『書紀』雄略巻に少子部連蜾蠃がいる。七年に、この人が天皇の命を受け、三諸岳の雷神を捕らえて参上した勇敢さによって、「雷」という名を賜った。『姓氏録』の小子部雷は、この人である。その故事は『霊異記』に詳しく記される。天武巻には小子部連鉏鉤などが見え、同じ御代の十三年十二月戊寅朔の己卯には、「小子部連に宿禰の姓を与えた」とある。『姓氏録』左京皇別の小子部宿禰には、「多朝臣と同祖、神八井耳命の子孫である。大初瀬幼武天皇の時代、諸国へ遣わされ、蚕の子を集めるところを、誤って幼い子供を集めて献上した。天皇は大笑いして、小児部の名を与えた」とある。和泉国皇別の小子部連も、「神八井耳命の子孫である」とする。
【宣長の注釈】「坂合部連」。「坂合」は「さかひ」と読むべきで、『書紀』では「境」とも書く。「境」は、そもそも坂が合わさる意味の名である。さて、この氏族がここに挙げられる理由は理解できない。『姓氏録』大和国皇別には、「坂合部首。阿部朝臣と同祖、大彦命の子孫」とある。また摂津国皇別には、「坂合部。大彦命の子孫。允恭天皇の時代、国境の標識を建てたので、坂合部連の姓を賜った」とある。連の姓を賜ったといいながら、項目の氏名にはその姓を挙げないのは、どうしたことか。脱落だろうか。左京神別には、「坂合部宿禰。火明命の八世の孫、邇倍足尼の子孫」、和泉国神別には、「坂合部。火闌降命の七世の孫、夜麻等古命の子孫」と見える。皇別と神別の二つの坂合部氏はあるが、神八井耳命の子孫は見えない。あるいは、その二つの一方が混同されて、ここに出ているのだろうか。『書紀』雄略巻に坂合部連贄宿禰が見えるのは、神別の方である。推古巻の境部臣摩理勢・境部臣雄摩侶は、姓が「臣」なので別の氏族だろうか。孝徳巻には坂合部連磐樹、斉明巻には同じく磐鍬・薬・石布などが見え、天武巻十三年十二月には、「境部連に宿禰の姓を与えた」とある。これらは皇別の方か神別の方か分からない。
【宣長の注釈】「火君」。「火」の字は「大」「炊」「秋」などに誤っている。今は延佳本と、もう一つの本に従った。火は地名で、筑紫の肥国のことである。名の由来などは上巻、『伝』巻五の十一丁で詳しく述べた。そこで引いた『肥後風土記』に、「肥君らの祖、健緒組」とあるのは、この氏族の祖だろう。『書紀』欽明巻十七年には筑紫の火君が見える。今の本が「火」を「大」とするのは誤りである。『国造本紀』は、「火国造。瑞籬朝に、大分国造と同祖である志貴多奈彦命の子、遅男江命を国造に定められた」とする。大分国造と同祖とあるので、この氏族だろう。『姓氏録』右京皇別の火は「多朝臣と同祖」、大和国皇別の肥直は「多朝臣と同祖、神八井耳命の子孫である」とする。『書紀』景行巻の火国別や火国造などは、別の氏族である。
【宣長の注釈】「大分君」。大分は地名で、『書紀』景行巻に、「十二年、天皇は筑紫へお出かけになり、豊前国へ至った。……冬十月、碩田国へ至った。その地形は広大で、また美しかったので、碩田と名付けた。碩田は、おほきだという」とある、その土地である。『風土記』にも同様の記事が見える。『和名抄』には豊後国大分郡を「おほいた」とする。「き」が「い」になるのは、後の音便である。大隅国桑原郡にも大分という郷があるが、それではない。「きだ」に「分」と書くのは、区分、段という意味による。この氏族の人は、『書紀』天武巻に大分君恵尺と稚臣が見える。「臣」は「見」とも書く。壬申の乱に功績があった。
【宣長の注釈】「阿蘇君」。阿蘇は地名で、『和名抄』の肥後国阿蘇郡、読みは「あそ」、その阿蘇郷がこれに当たる。『書紀』景行巻には、「十八年六月、阿蘇国へ至った。その国の野原は広く遠くまで続き、人の住む所が見えなかった。天皇は、『この国に人はいるのか』とおっしゃった。すると阿蘇都彦・阿蘇都媛という二神が、たちまち人に姿を変え、進み出て、『私たち二人がおります。どうして人がいないことがありましょう』と申し上げた。それで、この国を阿蘇と呼んだ」とある。『国造本紀』は、「阿蘇国造。瑞籬朝の時代、火国造と同祖である、神八井耳命の孫、速甕玉命を国造に定められた」とする。『神名式』の肥後国阿蘇郡には、名神大社の健磐龍命神社、阿蘇比咩神社、国造神社が見える。『国造本紀』科野国造の条に、神八井耳命の孫、建五百建命とあるのは、健磐龍と同じ人物と読める。その社の伝承では、本宮の武磐龍命は神八井耳命の子で、阿蘇姫神は武磐龍命の妃であり、速甕玉命の母だという。国造神は速甕玉命で、武磐龍命の子だとし、一説では神八井耳命の子という。『書紀』で人の姿になって現れた阿蘇都彦は、健磐龍命の神霊だろう。阿蘇山のことは、『筑紫風土記』に、「肥後国閼宗県。その県の西南二十余里に一つの草木のない山があり、閼宗岳という……」と詳しく見える。
【宣長の注釈】「筑紫三家連」。「三家」は「みやけ」と読むべきである。「みやけ」については、日代宮の段の「倭屯家」の注、『伝』巻二十六の三十三丁で詳しく述べる。筑紫の屯家は、『書紀』継体巻の糟屋屯家、糟屋は筑前である。また安閑巻には、「二年五月、筑紫の穂波屯倉・鎌屯倉などを置いた」、宣化巻には「筑紫・肥・豊三国の屯倉は、各地に散らばり遠く隔たっている」など、あちこちに見える。安閑巻には、「桜井田部連・県犬養連・難波吉士らに、屯倉の税を管理させた」ともあるので、この氏名は筑紫の屯家の事務を管理することから出たのか、それとも三家という地名によるのか。地名には、『和名抄』の筑前国那珂郡三宅、筑後国上妻郡三宅などがある。『書紀』天武巻には、筑紫三宅連得許という人が見える。
【宣長の注釈】「雀部臣」。「さざきべ」と読むべきである。「ささいべ」という読みは、後の音便による。『姓氏録』和泉国皇別の雀部臣は、「多朝臣と同祖、神八井耳命の子孫である」とし、志紀県主も雀部臣と同祖とする。建内宿禰の子孫にも雀部臣があり、『姓氏録』のその条には、雀部という名の由来を挙げている。その文章は、その注で引用する。この氏族にも、同じような由来があったのだろうか。地名には、『和名抄』に参河国宝飯郡雀部、読みは「ささべ」、上野国佐位郡雀部、読みは「ささいべ」、丹波国天田郡雀部などがある。
【宣長の注釈】「雀部造」。これ以外には、まだ文献に見当たらない。
【宣長の注釈】「小長谷造」。まず小長谷という名は、雄略天皇の御名を大長谷というのに対して、武烈天皇を小長谷若雀命という、その御名に由来する。武烈の段には、「天皇に皇太子がなかったので、御子の代わりとして小長谷部を定めた」とあり、『書紀』は「小泊瀬舎人を置いた」とする。したがって、この氏名は、神八井耳命の子孫の一人が、その小長谷部に属していて、それを氏名にしたのだろう。大和国の長谷を歌などで「小長谷」と詠むこともあるが、この氏名は直接その地名から出たのではない。『書紀』仁徳巻には「小泊瀬造の祖、宿禰臣に賢遺臣という名を与えた」、天武巻には「十二年九月乙酉朔の丁未、小泊瀬造に連の姓を与えた」とある。『続日本紀』巻十三には小長谷常人、巻二十九には小長谷部宇麻呂、『日本後紀』巻十九には小長谷直浄足などの人が見える。これらもみな、あの小長谷部から出た氏名だろう。
【宣長の注釈】「都祁直」。都祁は地名で、「祁」は清音で読み、濁らせてはいけない。『和名抄』の大和国山辺郡都介がこれである。『続日本紀』巻六には「大倭国の都祁山の道を開いた」、『神名帳』には山辺郡の都祁山口神社、『主水式』には山辺郡都介とある。『書紀』仁徳巻には闘鶏稲置大山主、允恭巻には「闘鶏国造の姓を下げ、稲置と呼んだ」と見える。仁徳巻と允恭巻のものは同じ氏族と読めるのに、仁徳巻で国造といわず稲置とするのは、どういうことか。初めは稲置で、途中で国造になったのか。それとも後に下げられた姓で、昔のことまで呼んだのか。これらがこの氏族と同じか違うかは分からない。地名としての都祁と闘鶏は同じである。
【宣長の注釈】「伊余国造」。伊予国のことは上巻、『伝』巻五に出ている。『和名抄』には伊予国伊予郡がある。『神名帳』には、伊予郡の名神大社、伊予神社と、伊予豆比古命神社があり、『続日本紀』巻二十七には久米郡の伊予神がある。『国造本紀』は、「伊余国造。志賀高穴穂朝の時代、印幡国造と同祖である、敷桁彦命の子、速後上命を国造に定められた」とする。また同書に、「印波国造。軽島豊明朝の時代、神八井耳命の八世の孫、伊都許利命を国造に定められた」とある。印幡は下総国にあり、郡名になっている。
【宣長の注釈】「科野国造」。信濃国のことは上巻、『伝』巻十四に出ている。『国造本紀』は、「科野国造。瑞籬朝の時代、神八井耳命の孫、建五百建命を国造に定められた」とする。
【宣長の注釈】「道奥の石城国造」。道奥は、『書紀』斉明巻にも「道奥」と書き、「陸道奥」と書く場合もある。『万葉集』巻十四・十八には「みちのく」と見える。「の」には「お」の響きがあるため、「お」が自然に省かれるのである。『和名抄』には、「陸奥、みちのおく」とある。『古今集顕注』は、「陸奥国と書いて『みちのおくのくに』と読む。歌では『みちのおく』を略して『みちのく』とも書く。世間で『みちのくに』というのは歌の言葉ではなく、まして『むつのくに』というのは、ひどい言い方だ。『陸』の字を『むつ』と読むので、そう思ったのだろうが、ここでは『みち』と読む」とする。「陸」を「むつ」というのは、数の六にこの字を借りて使う場合である。たしかに、この国名の「みち」が「むつ」と訛ったのは、そこから混同したのだろう。「奥」は「口」に対する呼び名で、「道口」「道後」の「後」と同じだ。都から行く時、初めの地域を道口、終わりを後とも奥ともいう。この国は東北の果てにあり、まさしく道の奥である。筑紫でも大隅・薩摩を奥の国ということが『檜垣嫗家集』に見える。また陸奥国でも、黒川郡より北を「奥郡」ということが、大同五年の官符に見える。『源氏物語』若菜巻には、播磨国内について「この国の奥郡」という表現がある。
【宣長の注釈】石城は、『和名抄』の陸奥国磐城郡がこれで、読みは「いはき」である。郡内には磐城郷もある。名取郡・宮城郡・桃生郡などにも磐城郷があるが、それらではない。後に郡や郷になった土地も、古くは「国」ということが多い。「春日国」「吉野国」「難波国」などといい、「長谷の小国」ともいう。国といいながら、さらに大きな地域名の道奥も挙げるのは、『書紀』敏達巻の「火の葦北国造」などと同じ例だ。『続日本紀』巻八に、「養老二年五月甲午朔の乙未、陸奥国の石城・標葉・行方・宇太・曰理・菊多の六郡を分け、石城国を置いた」とあるのは、後の出来事である。今の本が、この「陸奥」を「常陸」とするのは書き写しの誤りで、今は古本に従った。『類聚国史』に、「天長三年、外正六位上の磐城臣藤成に外従五位下を授けた」とあるのは、この氏族の人だろうか。『国造本紀』の「石城国造。志賀高穴穂朝の時代、建許呂命を国造に定められた」というのは、別の氏族である。同書の師長・須恵・馬来田などの国造の項には、「茨城国造の祖、建許呂命……」とあり、茨城国造の項には「天津彦根命の孫……」とあるからだ。茨城国造は『書紀』神代巻にも出て、天津彦根命の子孫である。『常陸国風土記』にも「茨城国造の初祖、新許呂命」とある。「新」は「祁」の誤りで、その上に「多」が抜けたのだろう。そうなら、建許呂命というのは、天津彦根命の子孫である。
【宣長の注釈】「常道の仲国造」。常道は常陸で、『万葉集』巻二十には「ひたち」、『和名抄』には「常陸、ひたち」とある。「ひた」に「常」と書くのは、『万葉集』巻十八に「殿の橘が、ずっと照り映えて」とある、その「ひたてり」が変わらず常に照ることをいう、この意味による。また巻十三には「常土」と書く。今の本が「常」を「当」とするのは誤りだ。「ち」に「陸」を書くのは、陸奥の「陸」と同じで、陸上の道という意味である。『古今集顕注』は、「常陸は『ひたかち』を『ひたち』という。陸を『かち』とも読む」とするが、契沖は、「陸を『かち』と読む例は、まだ知らない。ひたちは、ひたみちである」といっており、まさしくそのとおりだ。古歌で「東道の道の果てなる常陸」と詠むのは、東海道の果てだからである。『常陸国風土記』には、「往来する道は川や海の渡しによって隔てられず、郡や郷の境は山川の峰や谷を伝って続いている。まっすぐ通じる意味を採って、名とした」とある。これは常道の意味である。また、「倭武尊が東の国々を巡り、新治県を通った時、国造の毘那良珠命に新しく井戸を掘らせた。湧き出る水は清く澄み、たいへん好ましかったので、乗り物をとどめ、水を楽しみ、手を洗った。その時、御衣の袖が水に垂れて濡れた。袖をひたすという意味によって、この国の名とした。国の諺に、『筑波の岳に黒雲がかかり、衣の袖のひたる国、それがここだ』という」とある。「仲」は『和名抄』の常陸国那珂郡で、郡内には那珂郷もある。『国造本紀』は、「仲国造。志賀高穴穂朝の時代、伊予国造と同祖である建借馬命を、国造に定められた」とする。
【宣長の注釈】「長狭国造」。『和名抄』の安房国長狭郡、読みは「ながさ」がこれである。『続日本紀』には、「養老二年五月甲午朔の乙未、上総国の平群・安房・朝夷・長狭の四郡を分け、安房国を置いた」とあるので、もとは上総国内だった。また考えると、上の「常道」はこの長狭にも掛かるのだろうか。そうなら古代には、上総・下総・安房にわたり、大きな地域名として常道といったのかもしれない。これは、ひとまず注意を促しておくだけである。上総国夷隅郡にも長狭郷があり、同国望陀郡には飫富神社がある。長狭国造の祖神だろう。
【宣長の注釈】「伊勢の船木直」。船木がどの郡にあるか、詳しくは分からない。『神鳳鈔』には志摩国の船木原御厨がある。古くは志摩国を伊勢に含めていうことが多いので、それだろうか。また多気郡には、今、舟木村がある。『和名抄』には、ほかの国にもこの郷名があちこちに見える。いずれも古く船に使う材木を採ったための名と考えられる。『書紀』推古巻二十六年には、安芸国の山で船材を伐らせたことがあり、『和名抄』にその国の安芸郡船木郷、読みは「ふなき」があるのは、その場所だろう。『続日本紀』巻二十八から三十六まで、船木直馬養という人が見え、『日本後紀』巻一には船木直安麻呂が見えるが、これらは越前国の人で、別の氏族である。
【宣長の注釈】「尾張の丹羽臣」。『和名抄』の尾張国丹羽郡、読みは「には」がこれに当たる。郡内には丹羽郷もあり、『神名式』には同郡の爾波神社もある。『続日本紀』巻十七には丹羽臣真昨という人が見える。
【宣長の注釈】「島田臣」。『和名抄』の尾張国海部郡島田郷がこれである。『神名帳』の同国中島郡には、名神大社の大神社があり、『臨時祭式』には「大は多とも書く」とある。『文徳実録』巻五の尾張国の多天神、『三代実録』巻三十の尾張国の多名神などは、みなこの神社である。丹羽臣・島田臣などは多臣から分かれた氏族なので、その祖神だろう。『続日本紀』巻三十七には島田臣宮成という人が見える。『姓氏録』右京皇別の島田臣には、「多朝臣と同祖、神八井耳命の子孫である。その五世の子孫、武恵賀前命の孫、仲臣子上は、稚足彦天皇、諡は成務の時代、尾張国島田の上下二県に悪い神がいたので、遣わされて服従させた。復命の日、島田臣の名を与えられた」とある。「仲臣」は子上の氏姓で、あの仲国造の氏族なのだろうか。尾張には多神社があり、丹羽臣も同祖なので、子上が悪神を平定した功によって島田の土地を賜り、そこに住んだのか。そうなら丹羽臣も、この子上の子孫だろうか。『文徳実録』巻七には、「島田朝臣満田……は、弘仁十四年に臣の姓を朝臣へ改められた」とある。満田は『続日本後紀』巻八にも見える。また同巻十六には島田朝臣貞継という人も見え、この人は『類聚国史』弘仁元年の条でも朝臣となっている。
【宣長の注釈】以上の十九氏のほかにも、『姓氏録』右京皇別に、「志紀首。多朝臣と同祖、神八井耳命の子孫である。関部も同じ氏族」とある。河内国皇別には、「志紀県主。多朝臣と同祖、神八井耳命の子孫である」、「紺口県主。志紀県主と同祖」、「志紀首。志紀県主と同祖」などと見える。この氏族の三人に宿禰の姓を与えたことは、『三代実録』巻六に見える。
【古事記本文】神沼河耳命は、天下を治めました。
【宣長の注釈】『書紀』綏靖巻には、「元年春正月壬申朔の己卯、神渟名川耳尊が天皇の位に即いた。この年は庚辰だった」とあるので、父天皇が亡くなって三年が過ぎた後に、即位されたのである。神武元年は辛酉とあり、崩御は七十六年なので、丙子に当たる。その後、丁丑・戊寅・己卯と三年が過ぎて庚辰となる。古代の事柄については、年次に必ずしもこだわれないが、この御代の始まりを、とくに三年後と定めたことには、根拠があったのだろう。その理由は、今では知るすべもないが、よく考えると、『書紀』には、「神日本磐余彦天皇が崩御した時、神渟名川耳尊は孝心がひたすら深く、悲しみ慕ってやまず、葬儀のことに心を注いでいた。庶兄の手研耳命は……喪中に権力や恩賞を思いのままにし、災いを起こす心を内に秘め、二人の弟を害そうとした。その時は己卯の冬十一月で……。御陵のことが終わると……」とある。これによれば、手研耳命が害を企てたために、大葬さえ四年になるまで遅れるなどしたので、その間は、どの皇子が天皇になるかも定まっていなかったのだろう。それが、手研耳命を殺して世が静まり、神八井耳命が譲られたことで、初めて皇位が定まったのだろう。子の年から卯の年までは四年である。ただし上に、崩御の翌年秋九月に葬ったとあるのは、この文章と食い違う。ある人が、即位の遅れたのは三年の喪を終えてからだったというのは、例によって中国の儒教の考え方である。日本でその時代に、三年の喪などがあったはずがあるだろうか。
【古事記本文】さて、この神倭伊波礼毘古天皇は、百三十七歳でした。御陵は畝火山の北側、白檮の尾根の上にあります。
【宣長の注釈】『記』の各天皇の段の終わりで、年齢と御陵を記す場合は、多くは「この天皇は何歳……」、または「天皇は何歳……」などとするが、ここでは「凡此」と「凡」の字を置く。この例は、詞志比宮の段の末の「凡此帯中津日子天皇之御年……」と、軽島宮の段の末の「凡此品陀天皇御年……」だけである。そもそも、この「凡」の字は、普通の意味では理解しにくい。「おほよそ」「おほかた」「すべつ」のどれも古語の文法に合わず、読める言葉がない。そこでよく考えると、その天皇の事柄から離れ、途中に長く別のことを記した後で、最後にその御代の段を締めくくるために置いた語と読める。そこで「すべて」と読んだ。上巻の「凡伊邪那岐伊邪那美二神共所生、島十四島、神三十五神」の「凡」は、この二大神が島や神をお生みになり終えたところで、数をまとめていう語である。また日代宮の段の初めの方で、御子たちを列挙した最後の、「この大帯日子天皇の御子たちは、記したもの二十一王、記さないもの五十九王、合わせて八十王」という「凡」も同じだ。これらでは「凡」の意味がよく当たる。ここはそれらの例とは異なるが、事柄の終わりにいう意図は似ているので、その例から意味が移った語だろう。年齢の数に掛かるのかとも思うが、物の数なら「およそ若干」といっても、寿命の年数をそのようにはいうべきでない。
【宣長の注釈】「壹佰参拾漆歳」は「ももちまりみそななつ」と読むべきだ。「歳」の字は漢文の書き方で用いるが、日本では昔から今まで、人の年を「若干歳」といわず、ただ「いくつ」という。これこそ古い言葉である。『書紀』には、「七十六年春三月甲午朔の甲辰、天皇は橿原宮で崩御した。百二十七歳だった」とある。年齢は『記』と十歳の差がある。初めから伝承が違ったのか。あるいは「二」と「三」、「廿」と「卅」は、どちらも一画違いで、よく取り違えられる字なので、古い書物ですでに誤ったのかもしれない。今、どちらが正しいとも決めにくい。
【宣長の注釈】「御陵」は「みはか」と読むべきこと、上巻、『伝』巻十七の八十四丁で述べたとおりである。
【宣長の注釈】「北方」は「きたのかた」と読むべきである。師は「方」をすべて「へ」と読まれたが、箇所によって決めるべきだ。「へ」だけが古語だと、一律に決めてはいけない。
【宣長の注釈】「白檮尾上」は「かしのおのうへ」と読むべきである。「尾」は、前の「白檮」に続けて読む。『万葉集』巻二十には「高円の、尾の上の宮」とある。「う」を省いて読むのも悪くないが、ここでも「をのへ」だけが古語だと一方的に決めてはいけない。山について「を」という語には、「峰」と「尾」の二つがある。「尾」は鳥獣の尾と同じで、山裾から長く延びる所をいう。このことは朝倉宮の段の「向かっている山の尾から、山の上へ登り……」という箇所、『伝』巻四十二の八丁で詳しく述べる。「白檮尾」は、畝火山の北側の尾根で、カシの木が多かったための名だろう。また「うへ」には、上方をいう場合と、辺りをいう場合の二つがある。「うへ」は、裏表の「裏」が内、「表」が外であるように、上も辺りも外側・表面であることから、もとは同じ意味だった。どちらも「う」を省いて「へ」ともいう。それが後には、「うへ」は上、「へ」は辺と分かれ、二つの語になった。「辺」の字は辺裔・辺垂などといって、中央ではない端の方を指すが、「ほとり」は、その表側・外側を指すこともある。ここの「うへ」は、上方の意味である。
【宣長の注釈】『書紀』には、「翌年秋九月乙卯朔の丙寅、畝傍山の東北陵に葬った」とある。『諸陵式』には、「畝傍山東北陵。畝傍橿原宮で天下を治めた神武天皇。大和国高市郡にある。陵の区域は東西一町、南北二町。守戸五戸」と見える。この御陵の場所は、今では詳しく分からない。ただ、綏靖天皇の御陵と伝えられるものが、綏靖ではなく、この神武天皇の御陵だろう。村人は主膳塚といい、綏靖が訛ったのだろう。また綏靖塚ともいう。綏靖天皇の御陵については、その段で述べるので、合わせて考えてほしい。この場所は、山本村の西、慈明寺村の南へ続く高い所にあり、畝火山の西北側に属する岡の上で、まさしく「尾の上」と呼ぶべき地形である。山の西北なので、『書紀』と『式』の「東北」とは違うが、御陰井上陵も、実際にはこの山の西なのに、『書紀』は南として食い違っている。だから「東北」に固くこだわるべきではない。『式』は『書紀』のままに載せたのだろうし、『記』は「北方」としているではないか。
【宣長の注釈】さて松下氏の『前皇廟陵記』は、この御陵の項に、「ここ百年ほどの間に壊され、肥やしをまく田にされ、民はその田を神武田と呼んでいる。その汚し辱める行為には、声を上げて泣かずにはいられない。私は、残る盛り土を何度も確かめた。……神武天皇は神代のまだ明らかでなかった時代の歩みを継ぎ、東へ征服に出て国の中心を平定した。王道の興りは、ここに始まる。我が国の君主・臣下・すべての民が、尊んで敬意を捧げるべき陵墓である。それが末世の衰えで、このありさまに至った。ああ、悲しいことだ」とする。『大和志』も「四条村にある」とする。これらのいう場所は、四条村の一町ほど東、畝火山から五、六町も東北に当たり、田の間の、高さがわずか三、四尺ほどの小丘で、松と桜が一本ずつ生えている。誰もがこれを神武天皇陵の跡と思っているようだが、決してこれではない。まず、地形が「白檮の尾の上」と呼べる場所ではない。長い年月を経れば、山も平らになるのは普通だが、それでも痕跡は見えるものなのに、この土地はそうではない。山から遠く離れ、その間には、尾根が崩れた跡と思える小高い所さえ残らず、一帯はもともと平原だったように見える。また古代の御陵を今拝見すると、そのまま完全に残るものも、掘り崩され、内部の石組みなどがすっかり露出したものもあるが、どれも非常に高く大きく、山のようで、粗末ではない。もとの規模の大きさや厳かさが、はっきり推し量れる。それに比べ、これは古代の御陵の名残とはまったく見えない。同じ山の辺りの安寧・懿徳の御陵などは、あれほど高く大きいのに、この御陵だけが簡素である理由はない。これは、比較的近い時代に愚かな人が、畝火山の東北にたまたまあったこの丘を見つけ、唐突に「ここだ」と決めたのだろう。しかし「白檮の尾の上」という記述も考えず、古代の御陵の姿も知らずにした、まったく根拠のないことである。
【宣長の注釈】昔、承和のころでさえ、成務天皇の御陵を、神功皇后のものと、間違えられたことが、『続日本後紀』に見えるのだから、まして、近年になって、取り違えがあったとしても、不思議ではない。さて、歴代の御陵について、上代には、さまざまな制度や、お祭りになる方式などが、どのようだったのか、詳しいことは、分かりがたい。『日本書紀』天武の巻に、壬申の乱のころ、神のお告げによって、「高市郡の大領、高市県主許梅を遣わして、神日本磐余彦天皇の御陵を祭り拝ませ、そこで、馬と、さまざまな武器を、お供えした」と見える。これは、臨時のことだが、御陵をお祭りし、供え物を、お奉りになることが、文献に見える、最初の例である。〔これより前も、定まった供え物などは、きっと、あったのだろう。〕『続日本紀』に、「神亀五年八月、皇太子の病気のため、使いを遣わして、諸陵に、供え物を奉った」とある。〔これは、御陵などで、お祈りをしたことが、文献に見える、最初の例である。〕また、年号が、天平に改まった時に、「諸大陵に、使いを遣わして、供え物を奉った」とある。〔特に、「大陵」と申し上げるものが、あったのだろうか。これは、まだ考えていない。〕同二年九月には、「使いを遣わし、渤海郡からの贈り物を、六か所の山陵へ、お供えさせた」とある。〔これは、外国の贈り物を、御陵へ、お供えになることが、文献に見える、最初の例である。六か所とは、どこどこだったのだろうか。〕このように、見える。
【宣長の注釈】さて、職員令に、「諸陵司。長官の正は、二人。陵の霊を祭ること、〔『義解』では、十二月に、荷前〔のさき〕の供え物を奉ることをいう。〕葬儀の礼、諸陵と、それを守る家々の名簿のことを、つかさどる。佑は、一人。史は、一人。土師は、十人で、葬儀を営む礼をつかさどり、定員外として、必要な時に、選んで充てる。使部は、十人。直丁は、一人」とある。『続日本紀』に、「天平元年八月、諸陵司を、諸陵寮に改め、官位を高めた」とある。〔『和名抄』に、「諸陵寮、みささぎのつかさ」とある。〕
『日本書紀』持統の巻に、「五年十月、詔していった。『およそ、先の天皇たちの陵には、守る家を、五戸以上、置く……。もし、守る家が不足すれば、一般の民から充て、その労役を免除し、三年に一度、交代する』」とある。〔陵戸は、上代から、あったのだろう。近飛鳥宮の段に、韓袋の子らに、大御父の市辺王の御陵を守らせたことが、見える。これを、『日本書紀』では、「陵戸に充てた」としている。〕喪葬令に、「およそ、先の天皇の陵には、〔『義解』では、先代以来の、帝王の山陵をいう。〕陵戸を置いて守らせる。陵戸ではない家に、守らせる場合には、十年に一度、交代する。陵の敷地内では、埋葬、耕作、放牧、木の伐採をしてはならない」とある。〔陵戸というのは、永久に、その陵に属する家々である。「陵戸ではない家に、守らせる」とは、持統の巻に、「一般の民から充てる」ということで、その陵に、陵戸がないか、あるいは、不足する場合に、その陵の近くの民家を選んで充て、守らせることをいう。『諸陵式』の、各陵の下に、「守戸」とあるのは、これである。〕
【宣長の注釈】『諸陵式』に、「およそ、山陵には、陵戸を五戸、置いて守らせ、墓には、墓戸を三戸、置く。陵墓に属する家ではない家を、選んで守らせる場合には、まず、陵墓の近くの家から、充てる」とある。また、「陵墓のそば近くに、原野がある場合には、諸陵寮が、守戸に命じ、あわせて、その土地の国司にも通達し、ともに相談して、焼き払って除く」とある。また、「諸陵墓は、毎年二月十日に、役人を遣わして、巡回点検させる。そのため、その月の一日に、名を記して、省へ申し出る。敷地の垣や溝に、損壊があれば、守戸に修理させ、担当の役人が、巡回して、検査する」とある。
また、「毎年十二月、諸陵と墓に、供え物を奉る。その数量は、陵一か所につき、五色の絹が、各三尺。庸の布が、一段と一丈四尺。倭文が、三尺。木綿〔ゆう〕が、四両。麻が、一斤。近陵については、一か所につき、五色の絹が、各一丈。あしぎぬが、一匹。糸が、一絇。調の布が、一端。倭文が、一丈。木綿が、十三両。麻が、三斤五両。包むための薦が、五尺。黒葛が、三両。遠墓と近墓の供え物は、それぞれ、遠陵の例と同じとする。〔別に奉る供え物の、品目と数量は、『内蔵式』に見える。〕同じ月の上旬に……。供え物を分ける日には、各陵墓の管理者を遣わして、奉る。〔ただし、神功皇后の陵には、諸陵寮の、主典以上の者を遣わして、奉る。〕……」と見える。
〔この、諸陵への供え物は、大蔵省が用意する。『大蔵式』に、「十二月、諸陵への供え物を、用意する。その物は、調を納める日に、別に、正倉へ収納する。供え物の数量は、『諸陵式』に見える」とあるのが、これである。さて、参議以下の者が、大蔵省の正倉院へ行き、供え物を分ける儀式も、『諸陵式』『大蔵式』に見える。この日、天皇は、建礼門の前の、幄〔とばりを張った座〕へ、お出ましになる。その儀式は、『貞観儀式』に見える。〕
【宣長の注釈】さて、近陵、遠陵、近墓、遠墓とは、道のりが、近いか遠いか、でいうのではない。近陵墓は、いわゆる、十陵八墓で、そのほかを、すべて、遠陵墓とする。「近」とは、その時の天皇に、血筋などが親しく近い、という意味でいうのである。だから、近陵への供え物は、格段に多く、そのほか、別に奉る供え物も、多くある。それは、別に、内蔵寮が用意するもので、その品目と数量は、『内蔵式』に見える。また、『中務式』に、「およそ、十二月に、諸陵へ供え物を奉る場合は……。別に奉る供え物は、天皇が、そのために、お出ましになる場所で、奉って送る。その使いは、参議以上の者と、参議ではない三位の者から、太政官が定める。そのほかは、省で選ぶ……」などと見えるとおり、「近」と「遠」とでは、たいそう、違いがある。
そもそも、この、近遠の区別が定まったのは、『三代実録』に、「天安二年十二月九日、詔して、十陵四墓を定め、年末の荷前の供え物を奉った」とあるのが、初めだろうか。その十陵は、天智天皇、田原天皇、光仁天皇、桓武天皇、平城天皇、仁明天皇、文徳天皇という、七代の陵。これらは、その時の天皇の祖先の方々である。平城天皇は、そうではないが、時代が近いために、加えられたと見える。嵯峨、淳和の両天皇は、時代が近いが、遺言によって、山陵を置かれなかったので、入らない。このように、七代と定めたのは、中国の、七廟の制度を、まねたのだろう。さて、残る三陵は、桓武天皇の母后と、皇后と、崇道天皇である。崇道天皇は、延暦のころ、皇太子を廃された方で、そのころ、たたられたために、特に、お祭りするのである。
次に、四墓は、贈太政大臣正一位、藤原朝臣の、多武峯の墓、藤原朝臣冬嗣の墓、尚侍、藤原朝臣美都子の墓、源朝臣潔姫の墓である。冬嗣公は、文徳天皇の母方の祖父、美都子は、同じく、母方の祖母、潔姫は、その時の天皇の、母方の祖母だからである。ところが、多武峯の墓は、不比等公のもので、聖武・孝謙両天皇の母方の祖先ではあっても、清和の御代に、特に祭るべき理由はないのに、この中に置かれたのは、その時、天皇が、まだ幼くいらっしゃったので、およそ、良房大臣のお考えから出たためだろう。さて、『三代実録』の、今の本に、この、多武峯の墓を、「鎌足」とあるのは、後の人が、浅い考えで、賢しらに改めたものである。古い本には、この名はない。多武峯は、不比等公のものだと、『諸陵式』にも見え、「贈太政大臣正一位」も、鎌足公では、合わないのだから。
さて、また、元慶八年十二月二十日に、「毎年、荷前の供え物を奉る、十陵五墓を定めた……」とある。この時、前に定まった中から、取りやめられたものと、新しく加えられたものがあった。その後、代々に、廃止や追加があり、『延喜式』のころは、十陵八墓である。こうして、後々には、ただ、この近陵墓の祭りだけのようになって、遠陵に、供え物を奉ることは、次第に見えなくなり、ほとんど、文献にも見えない。たいそう、つらいことである。
【宣長の注釈】そもそも、近陵墓は、その時の天皇に近い方を、特に厚く、お祭りするのだから、そうであるべきことなのに、その中で、天智天皇については、永久に外さないことになったのは、これも、あの、中国の制度で、太祖の廟は、百代を経ても、廃止しない、というのに、ならわれたのだろう。しかし、初め、清和の御代に、この天皇を、第一に置いたのは、その時の天皇の父君から、七代さかのぼるためだったのだろう。必ずしも、太祖とされたのでは、あるまい。それなのに、その後の御代になっても、なお、この天皇を、特別に、お祭りするのは、どのような理由か、はっきりしない。
『続日本紀』の、代々の宣命に、「近江の、大津宮で、天下をお治めになった、大倭根子天皇が、天地とともに、日月とともに、変わることのない、常の定めとして、お立てになり、お定めになった法を……」などとあり、特別ないわれも、ありそうだが、この天皇は、皇太子でいらっしゃったころから、藤原大臣と、ともに計画して、蘇我入鹿を滅ぼされた功績と、また、天下の制度を、中国風に改められたことこそあれ、そのほかに、特別なことも、おありにならない。およそ、孝徳の御世に、昔からあった、さまざまな制度を廃して、多く、中国風になったのは、この天智天皇と、藤原大臣のお考えから出たと見える。後世、この天皇を、「中興の君主」などと申し上げるのは、この、中国風のことを、多く、お始めになったためなのだろう。こうして、この天皇の御陵を、永久に、特別にお祭りするのならば、神武天皇の御陵こそ、第一に厚く、お祭りになるべきで、なお、そのほかにも、あるはずではないか。
さて、上代の御陵は、前にも述べたように、どれも、たいそう大きく、厳かなご様子だったのは、まことに、そうあってほしい、よいことだった。それなのに、仏道が、盛んに行われ、まことに恐れ多くも、火葬というものにすることが始まり、中ごろの、代々の御世には、みな、そうでないことはなく、御陵も、ないかのようで、ただ、法華堂とか申し上げ、まったく、仏堂のようだったのは、たいそう、あさましく、悲しい習わしだった。近ごろの、代々の御世に、この、火葬にすることが、やんだのは、禍津日の神の荒ぶる働きも、ようやく静まり、何事も、めでたかった昔へ、立ち返る時が、やって来たのだろうか。
さて、また、中国の習わしでは、王も、臣下も、墓とは別に、「廟」というものを建て、祖先を祭る。わが国では、陵墓をお祭りし、それとは別の廟はない。『日本書紀』皇極の巻に、蘇我蝦夷大臣が、自分の祖先の廟を建て、八佾の舞〔八列の舞〕をさせていた、とあるのは、中国の王を、まねたのだろう。
古事記伝 巻二十一
本居宣長、謹んで著す。
高岡の宮の巻
【古事記本文】神沼河耳命は、葛城の高岡の宮にいらっしゃって、天下を治めた。この天皇は、師木の県主の祖先、河俣比売を妻とし、御子、師木津日子玉手見命が生まれた。御子は一柱である。天皇の年齢は、四十五歳。御陵は、衝田の岡にある。
【宣長の注釈】この天皇の、後につけた中国式の諡を、綏靖天皇と申し上げる。
【宣長の注釈】「葛城」は、『日本書紀』神武天皇の巻に、「高尾張の村に、土蜘蛛がいた。その体は背が低く、手足が長く、小人に似ていた。天皇の軍は、葛を結んで網を作り、不意に襲って殺した。それで、その村を葛城と改名した」とある。また、剣根を葛城の国造にした、とある。高津の宮の段の、皇后の御歌には、葛城の高宮、と詠まれ、『日本書紀』推古天皇の巻には葛城県、天武天皇の巻には葛城の下の郡、などとある。『和名抄』では、「大和国葛上郡、かづらきのかみ。葛下郡、かづらきのしも」とする。
【宣長の注釈】「高岡」は、ほかに出て来ない名だ。『大和志』に、この宮の跡は、葛上郡森脇村にあるというが、いつものように、信じにくい。高宮というのは、この宮の跡で、岡を省いた名か、それとも別なのか、知らない。『日本書紀』には、葛城に都し、これを高丘の宮という、とある。
【宣長の注釈】「師木県主」。師木は、大和国の地名で、城上・城下の二郡がこれだ。この土地は、水垣の宮の段で述べる。磯城、志貴など、字はいろいろだが、同じことである。この県主は、たいへん紛らわしい。まず志紀は、大和と河内の二か所にあり、県主も、大和と河内に三氏あって、混同しやすい。これは次に詳しく説明した。よく考えると、ここの県主は、物部連の先祖だ。『日本書紀』天武天皇十二年冬十月に、「礒城県主に、連の姓を与えた」とあり、『姓氏録』の大和国神別、志貴連には、「神饒速日命の孫、日子湯支命の子孫である」とある。版本で、この後に二十六字あるのは、後の人が『旧事紀』の文を書き入れたもので、古本にないのが正しい。その日子湯支命は、宇摩志麻遅命の子で、物部連の先祖だからだ。それなのに、物部連の祖といわず、師木県主の祖とする理由は、日子湯支命の代から、初めて師木に住み、そこの県主になり、当時はまだ、物部連という呼び名がなかったためである。
【宣長の注釈】この氏が物部連になったのは、日子湯支命の五世の孫、十市根大連の代で、それ以前は、代々、師木県主といった。伝の巻十八、物部連の所を考え合わせていただきたい。この氏は、『旧事紀』巻五の詳しい系譜を見ると、日子湯支命の四世の孫、伊香色雄命の子に、大新川命・十市根命・建新川命・大咩布命などがいる。大新川と十市根が、初めて、物部連という姓を与えられ、十市根は、石上の神宝をつかさどった。それなら、物部連となった十市根などは、このとき石上の村へ住居を移し、弟の建新川と大咩布は、師木のもとの住まいに留まり、従来どおり、子孫まで師木県主だったのだろう。それで『旧事紀』は、建新川を、倭の志紀県主たちの祖とする。物部連と、この氏が分かれた初めだからだ。『姓氏録』で、日子湯支命の子孫というのは、この県主になった最初の祖を挙げたもので、あちらとこちらは違わない。また大咩布の子孫は、『姓氏録』和泉国神別、志貴県主に、「饒速日命の七世の孫、大売布の子孫」とあるのがこれで、大和の師木から、子孫が和泉へ移り住んだのだろう。以上は、よく理解しないと、紛らわしい。『旧事紀』は、おおむね信じにくい書物だが、この氏は詳しく載せ、考える助けになることが多い。
【宣長の注釈】さて、これとは別に、師木県主という系統が、二つある。一つは、『日本書紀』神武天皇の巻に、「弟磯城、名は黒速を、磯城県主にした」とあるものだ。しかし、これは伝えの誤りではないか。そうでなければ、一代で絶えたのだろう。この氏が絶えず残るなら、日子湯支命と同時に、一つの師木へ、二氏の県主がいるはずはなく、また、この子孫が、ほかに見えることもないからだ。もう一つは、『姓氏録』の、河内国皇別、志紀県主は多朝臣と同祖、また志紀首……、和泉国皇別、志紀県主は雀部臣と同祖、右京皇別、志紀首は多朝臣と同祖、などというものである。これは、もとは河内の志紀で、皆、神八井耳命の子孫だ。この系統には、連であるものがないので、あの天武天皇の巻で、連の姓を与えられた者は、日子湯支命の系統と定め、前に引いた。また『続後紀』巻四の、志紀宿禰永成という人は、右の皇別の方か。後には、おおむね、大和を志貴、河内を志紀と書くからだ。しかし、どちらにせよ、宿禰になったことは、史書に見えず、抜けたのだろう。
【宣長の注釈】『神名帳』の、大和国城上郡に、志貴御県坐神社がある。
【宣長の注釈】「河俣比売」。延佳本で、俣を股にするのは、余計な改変で、そのことは、すでに上巻で述べた。河俣は地名で、『和名抄』の、河内国若江郡川俣郷がこれだ。今の本で、俣を保にするのは誤りである。『神名帳』の同郡には、川俣神社もある。『日本書紀』応神天皇の巻の、大雀命の御歌の、かわまたえ、も、この土地の入り江だろう。川俣村は今もあり、川俣公という姓もある。また『神名帳』には、大和国高市郡の川俣神社もある。これは、御子である天皇の御代などに、この比売命を祭った社かもしれない。しかし、この御名は、やはり河内から出たのだろう。生まれた御子には、河内国と、いろいろ縁があるからだ。それは次の段で詳しく述べるので、考え合わせていただきたい。父の、倭の師木県主が、河内国に領地などを持ち、通って住み、その国の女と結婚して、河俣比売が生まれたのだろう。河内の志紀は、この倭の師木県主の領地だったので、もとの住居の名を取り、同じく志紀といったのだろう。神八井耳命の子孫の志紀県主は、後に、この土地から出た姓である。この河内の志紀郡には、神名式に志貴県主神社がある。二系統のどちらの県主か、詳しくないが、大社の列で、月次・新嘗の祭りにもあずかり、貴の字を書くことなどから見ると、倭の師木県主、つまり日子湯支命を祭るのだろうか。この人は天皇の母方の祖父なので、社の扱いが重いかと思われるからだ。『旧事紀』には、「彦湯支命は、日下部馬津名久流久美の娘、河野姫を妻とした」とある。日下は、河内国河内郡なので、これも理由がないわけではない。もしそうなら、河俣は、母の郷里などかもしれない。
【宣長の注釈】さて、ここの文は、「師木県主の祖、誰々の娘」とあるはずなのに、誰々の娘がなく、直接、祖とあるのは、先祖の姉妹なども、祖としていうので、この例は多い。師は疑い、祖の下に、誰々の娘、が抜けたといったが、境岡の宮の段の、師木県主の祖、賦登麻和訶比売命、水垣の宮の段の、尾張連の祖、意富阿麻比売、日代の宮の段の、尾張国造の祖、美夜受比売、玉穂の宮の段の、三尾君たちの祖、名は若比売、などのようなものである。河俣比売は、時代から考えると、あの日子湯支命の娘だろうか。もし姉妹なら、祖とはいえない。日子湯支命が、この県主の初めだからで、二代目以降の姉妹なら、祖といえる。『日本書紀』には、「二年春正月、五十鈴依媛を皇后に立てた。一書では、磯城県主の娘、川派媛、一書では、春日県主大日諸の娘、糸織媛という。つまり天皇の母の妹である。皇后は、磯城津彦玉手看天皇を生んだ」とある。
【宣長の注釈】「師木津日子玉手見命」。師木は、母の家の師木である。河俣比売が、河内から大和へ上り、父の家の師木県に住み、この皇子が生まれたのか。また河内で生まれても、師木という御名はあり得る。玉手は、今、河内国安宿郡に、玉手村・玉手山があり、この地名だろう。この土地は、片塩の浮穴の宮と縁があるからだ。それは次の段で述べる。大和国葛上郡にも玉手の岡があり、孝安天皇の御陵の地だが、そこではあるまい。「見」は「耳」と同じ尊称だ。その理由は、伝の巻七、五十四・五十五葉で詳しく述べた。この御名は、玉が美称で、手見は、日子穂々手見などの、手見かとも思えるが、そうではあるまい。
【宣長の注釈】「天皇御年」の天皇は、堺原の宮の段、玉垣の宮の段、下巻のあちこちの、「此天皇御年」に従い、「この天皇」と、「この」を補って読むべきだ。古語では、必ずそうある所で、これから後も皆同じである。「此」を省くのは、漢文の形による。
【宣長の注釈】「四十五歳」。この下に、古い版本や、ある本などで、崩の字があるのは、例のないことで、今は真福寺本や、ある本などに、ないのに従った。『日本書紀』には、「三十三年夏五月、天皇はご病気になり、癸酉の日、崩御した。このとき八十四歳」とある。
【宣長の注釈】「御陵は、衝田の岡にある」。『日本書紀』安寧天皇の巻に、「元年冬十月十一日、神渟名川耳天皇を、倭の桃花鳥田の丘の上の陵へ葬った」とある。つき、を桃花鳥と書くのは、当て字で、『和名抄』に「鴇、和名、つき」とある鳥の名だ。今は、とき、という。とき色も、この鳥の色をいう。なお、中国名では朱鷺ともいう。諸陵式には、「桃花鳥田丘上陵。葛城の高丘の宮で天下を治めた綏靖天皇。大和国高市郡にあり、陵域は東西一町、南北一町。守戸は五戸」とある。この御陵は、今は詳しく分からない。神名式の、葛下郡に、調田坐一事尼古神社がある。もし高市郡の境に近ければ、この土地だろう。昔と今では、郡の境が変わることが多いからだ。しかし、この神社も、今、詳しくないので決めにくい。『大和志』が、この神社を疋田村にあるというのは、根拠があるのか、調と疋の名が似るので推し当てたのか、心もとない。疋田は、高市郡の境と少し離れる。同郡に築山村もあるが、それも在りかを確かに知らない。
【宣長の注釈】この郡には、身狭の桃花鳥坂があるので、同じ土地か。これは垂仁・宣化の紀にあり、神武の紀の築坂と同じだ。『大和志』の、桃花鳥野は三瀬村にある、というのは、今、そういう野があるのか、尋ねるべきだ。いずれにせよ、身狭は、今の三瀬と思われる。詳しくは、檜坰の宮の段でいう。また『万葉集』巻十六の、つくの、は、これか、違うか。また鳥屋村の南西に、宣化天皇の御陵というものがあり、これが桃花鳥田の丘の上の陵だろうか。周りは池で、中に御陵があり、木々が茂る。『廟陵記』の、「桃花鳥田の丘、俗に鳥田の丘という。久米寺の北西にある」も、この所に似る。もしこの御陵なら、桃花鳥坂とは同じ土地ではない。桃花鳥坂の陵は、檜坰の宮の段でいう。空海の益田池碑銘の序の、右に鳥陵、とあるのは、桃花鳥田の丘の上の陵か。そうなら、益田池の西の、近い所にあるはずだ。この鳥陵を、倭建命の白鳥陵といったのは、誤りで、それは、あの土地から遠いからだ。
【宣長の注釈】また『大和志』に、「桃花鳥田の丘の上の陵は、慈明寺村の南東の丘にあり、俗に主膳塚と呼ぶ」とある御陵は、神武天皇だろうと、その段で述べたとおりだ。綏靖天皇の御陵は、決してこれではない。その理由は、神武・安寧・懿徳など、畝火山につく御陵は、どれも『古事記』『日本書紀』とも、畝火山の何々陵と記すので、この綏靖の御陵も、もし主膳塚なら、特に畝火山に接する尾根なので、必ず畝火山の何々とあるはずなのに、畝火山といわず、ただ衝田の丘とある。あの山から離れた土地なのは明らかだ。貝原氏が、畝火山の北西に鳥田の陵があり、綏靖天皇の御陵だ、というのは、北西では、あの主膳塚のように聞こえるが、あの『廟陵記』の鳥田の丘とも聞こえるので、北西、が誤りだろう。
浮穴の宮の巻
【古事記本文】師木津日子玉手見命は、片塩の浮穴の宮にいらっしゃって、天下を治めた。この天皇は、河俣比売の兄、県主の殿延の娘、阿久斗比売を妻とし、御子、常根津日子伊呂泥命、次に大倭日子鉏友命、次に師木津日子命が生まれた。「伊」から下の三字は、音を表す。
【宣長の注釈】この天皇の、後につけた中国式の諡を、安寧天皇と申し上げる。
【宣長の注釈】「片塩」は、かたしは、と訓むべきだ。『日本書紀』雄略天皇の巻に、「堅磐、これは、かたしは、という」、『和名抄』に、「筑前国穂波郡、堅磐、かたしは」とある。方の字を、今の本で萬とするのは、方を万と誤り、さらに萬にしたのだ。神名式には、越前国今立郡の加多志波神社がある。これらは、かたしは、という名の例だ。ここの名も、堅い岩という意味の地名で、音を借り、片塩と書く。「しは」に塩を使うのは、「志波々由志」などの「志波」と同じ音である。師は、『万葉集』巻九の、独り住む女の歌の、「しなてる、片足羽川の、赤塗りの大橋の上から……」という土地だと説いた。確かにそうだろう。片足羽を、今の本で、かたあすは、と訓むのは誤りで、師が、かたしは、と改めたのがよい。
【宣長の注釈】「浮穴の宮」。『姓氏録』の河内国神別に浮穴直があり、『続後紀』巻三に、「女嬬で、河内国若江郡の人、浮穴直永子に、春江宿禰の姓を与えた」とある。『和名抄』の伊予国の郡名にも、浮穴、うきあな、とある。『続後紀』巻三に、伊予国の浮穴直千継と、同姓の真徳たちにも、春江宿禰の姓を与えた、とある。どちらも同じ姓を与えられたのを考えると、河内と同族だろう。それなら伊予の浮穴も、もと河内から移った地名かもしれない。このことと、天皇の母の川俣の在りかを合わせると、若江郡か。ただ『河内志』は、片足羽川を、志紀郡と安宿郡の境の、石川の旧名だとする。ある人も、この川で、あの大橋は、今の国府の渡しの所にあったという。石川は、石川郡から古市郡を経て、安宿郡の西、志紀郡の東の境を北へ流れ、大和川に入る川だ。国府の渡しは、大和国平群郡から、摂津国住吉郡へ通じる大道が、この川を渡る所である。これらは、古くから語り伝えた説かもしれない。天皇の御名の師木にも縁がある。志紀郡だからだ。玉手という村も、この石川に近く、いろいろ縁があるので、この宮は、川の近くにあっただろう。若江郡も、志紀郡の北に並ぶ。師の『冠辞考』で、この宮を交野郡とするのは、根拠を知らない。交野郡の舟橋川を、片足村川ともいうとするのも、根拠を知らない。ある説で、大和国葛下郡三倉堂村に、宮の跡があるとし、高市郡ともいうが、皆、根拠がない。
【宣長の注釈】『日本書紀』には、「三年、片塩に都を移し、これを浮穴の宮という」とある。『日本書紀』の、都を移す、は、ただ漢籍にならって書いたもので、実際には、後世のように引っ越したのではない。上代、御代ごとに都が変わるのは、おおむね皇子たちも、父天皇と同じ大宮には住まず、多くは別の土地にいたので、父天皇が崩御し、皇太子が皇位を継ぐと、もとから住んでいた郷が、そのまま都になったのである。臣や連たちも、多くは、それぞれの郷里に住んだので、都といっても、後世のように、とても大きいわけではなく、どの土地でも、もとからいた宮のまま、天下を治めた。それなら『古事記』などの、ある宮にいて、天下を治めた、というのが、事実に合う、古語だったのだ。
【宣長の注釈】「河俣比売」は、天皇の母で、前の段に出た。
【宣長の注釈】「県主」は、師木県主だ。前に、師木県主の祖、河俣比売といい、その兄とあるので、師木を省いたのである。
【宣長の注釈】「殿延」は、『日本書紀』の葉江に照らし、殿の字を、延佳は破だろうといい、師は般かといった。しかし、これらの字は、『古事記』で、音の仮名に使う例がないので、やはり波の誤りか。一本では、殿の脇に波と書き、御本とある。しかし字形が少し遠いので、決めにくい。読みは、ひとまず『日本書紀』の葉に従い、はえ、とした。この名は、地名か、はっきりしない。
【宣長の注釈】「阿久斗比売」。斗を、古い版本と延佳本で、どちらも計にするのは誤りだ。計は、『古事記』に、音の仮名で使う例がない。今は真福寺本と、延佳が、ある本は斗とする、といい、ほかの一本もそうあるのを採った。『神名帳』の、摂津国島上郡に阿久刀神社がある。この社は、芥川村にあるというので、芥は、もと、あくと、だろう。『神名帳』には、但馬国養父郡の伊久刀神社もあり、『和名抄』には、同国二方郡の久斗郷もある。これらは、名が似るので引くだけだ。『日本書紀』には、「三年春正月五日、渟名底仲媛命、別名、渟名襲媛を皇后に立てた。一書では、磯城県主葉江の娘、川津媛、一書では、大間宿禰の娘、糸井媛とする」とある。渟名底仲媛命は、懿徳天皇の巻に、事代主神の孫で、鴨王の娘である、とある。鴨王という名は、分からない。王とは、必ず皇族だけに申し上げる例なのに、事代主神の御子に、この名がある理由はない。思うに、大和国葛上郡の鴨都波八重事代主命神社か、高市郡の高市御県坐鴨事代主命神社の御霊が、姿の見える男に変わり、女と結婚して生まれた御子なので、鴨の神の御子、という意味で、鴨の御子と申し上げたのを、名だと理解し、鴨王と書いたのだろう。『旧事紀』では、天日方奇日方命とする。詳しくは、水垣の宮の段で述べる。
【宣長の注釈】「常根津日子伊呂泥命」。名の意味のうち、常がなぜあるのか、まだ分からない。もし『日本書紀』のように、母を渟名底仲媛命とするなら、その名の底によるのか。底と常が通う理由は、上巻で述べたとおりだ。根は美称で、『日本書紀』にはない。伊呂泥は、いろせ、と同じく、同母の兄という意味か。『日本書紀』では、この御名を某兄と書き、神代・神武・欽明・孝徳などの巻でも、兄をそう訓む。『和名抄』にも、「兄。『日本紀』に、いろね、という」とある。同母の姉を、いろね、というので、ね、は女だけの呼び名のように聞こえるが、違う。白檮原の宮の段で、神渟河耳命が、兄を「那泥汝命」とお呼びになったので、なね、も女に限らず、いろね、も同様だ。だから男女に通じる呼び名だ。同母の姉の場合は、あね、の、あ、を省いて、ね、という。いろ、は、人を親しみ、愛していう語で、何々入彦・何々入姫という御名の、いり、郞子・郞女などの、いら、も、皆、この同じ言葉の変化で、同じ意味だ。日子坐王の御子の伊理泥王、崇神天皇の紀の飯入根なども、いろね、と音が通うことで分かる。同母のきょうだいを、いろせ・いろど・いろも、母を、いろは、というのも、親しみ愛していう呼び名だ。いろは、は、いろはは、である。『万葉集』巻十六の、「親しいあなたがかぶっている、菅の笠、小さな笠」という、いろ、も、その人を親しんでいうのだろう。
【宣長の注釈】この、いろね、を、『日本書紀』で某兄と書く、某は、どういう理由か。もしかすると、昔、人を親しんでいう意味から転じ、その名をいうとき、名の代わりに、いろ、といったことがあったのか。某は、なにがし・それがし、などと訓み、名の代わりにいう字である。『日本書紀』では、後の蠅伊呂泥・蠅伊呂杼も、絙某姉・絙某弟と書き、垂仁天皇の紀には、某辺、とも書く。
【宣長の注釈】「大倭日子鉏友命」は、日子を大倭に付けて読むべきだ。鉏は、しき、で、上巻の阿遅鉏高日子根神を、阿遅志貴ともするのが証拠で、伝の巻十一、五十七葉で述べた。師木県主から出て、この父天皇や、弟命などが名に持つ師木と同じだ。友は、ともし、という語で、美称である。ともし、を、とも、だけにするのは、久しを、ひさ、恋しを、こひ、ともいうのと同じだ。その意味は、心に慕わしく、すばらしいと思うことで、『万葉集』巻二の、「あじこりの、あやに慕わしい、高く照る日の御子」、巻九の、「見たくて来た甲斐もあって、吉野川の音は清らかで、見るのも慕わしい」、巻十三の、「斎串を立て、神酒を供える、神主の、うずにする蔓を、見ると慕わしい」などがこれだ。今の本では山を玉と誤る。山蔭は、日蔭の蔓のことで、山かづら蔭とも詠む。ほかにも、ともし、は、『万葉集』に非常に多い。ほめる意味、恋い慕う意味にもいう。乏の字を書くのは、足りないと思うことから転じた、一つの意味で、ともし、の本来の意味ではない。この字にとらわれてはいけない。倭建命の段の、御鉏友耳建日子という名や、『日本書紀』懿徳天皇の巻の、奇友背命の友も、同じ美称だ。
【宣長の注釈】「師木津日子命」の師木は、兄命の鉏と同じだ。『日本書紀』に、「皇后は二人の皇子を生んだ。第一は息石耳命、第二は大日本彦耜友天皇。一説では、三人の皇子を生み、第一は常津彦某兄、第二は大日本彦耜友天皇、第三は磯城津彦命という」とある。『旧事紀』で、常津彦を、息石耳の別名とするのは、推し当てただけだろう。
【古事記本文】この天皇の御子たち、合わせて三柱のうち、大倭日子鉏友命は、天下を治めた。次の師木津日子命には、二人の御子がいた。一人は、伊賀の須知の稲置・那婆理の稲置・三野の稲置の祖である。一人は和知都美命で、淡路の御井の宮にいらっしゃった。この王には二人の娘がいて、姉の名は、蠅伊呂泥、別名、意富夜麻登久邇阿礼比売命。妹の名は、蠅伊呂杼である。
【宣長の注釈】「二王」は「ふたばしら」と訓むべきだ。王の字は、伊邪河の宮の段で述べる。
【宣長の注釈】「一子孫者」は、ひとばしらのみこは、と訓み、子孫を、御子という意味に取るべきだ。そうでなければ、後の、祖である、との対応がよくない。この御子の名は、抜けて伝わらなかったのだろう。
【宣長の注釈】「伊賀」は、『伊賀国風土記』に、「猿田彦神は、初め、この国を、伊勢のかさはやの国とし、二十余万年、この国を治めた。猿田彦神の娘、吾娥津媛命……。この神が、治め守る国なので、淨見原天皇の御代に、吾娥郡を分け、国の名とし、吾娥郡といった。伊賀国は、昔、伊勢国に属した……。後に伊賀と改めたのは、吾娥の音が転じたものだ」とある。残篇が一巻ある。『和名抄』の伊賀郡には、阿我郷がある。同じ延長の風土記に、「伊賀国は、大日本根子彦太瓊天皇の御代、癸酉に分けて、伊賀国とした。もとこの名は、伊賀津姫が領有する郡なので、郡の名とし、国の名ともした」とある。『国造本紀』には、「伊賀国……、難波の朝に伊勢国へ属し、飛鳥の朝に、分けて、もとどおり置いた」、『倭姫命世記』には、「天武天皇、庚辰の年七月、伊勢国の四郡を分け、この国を立てた」とある。ここの伊賀という国名は、下の三つの氏へかかる。
【宣長の注釈】「須知の稲置」。『和名抄』には、伊賀国名張郡の周知があり、延長の風土記の、同郡には周知山がある。また神名式の、同国阿拝郡には、須智荒木神社がある。この社は、今、荒木村にあり、延長の風土記には、「荒木山に神があり、須智明神と呼ぶ。祭る神は、猿田彦・武内宿禰・葛城襲津彦である」とある。この二か所の、どちらだろうか。『和名抄』では、播磨国飾磨郡にも、周智郷がある。
【宣長の注釈】「那婆理の稲置」。『和名抄』に、「伊賀国名張郡、名張、なはり」とある。延長の風土記には、名張という名の説明があるが、信じにくい。『日本書紀』天武天皇の巻に、隠郡・隠駅家・名張などが見える。『万葉集』巻一に、「わが夫は、どの道を行っているのだろう。沖つ藻の、名張の山を、今日、越えるだろうか」、また「宵に逢って、朝は顔を合わせるのも恥ずかしくて、名張の地に、長く妻が宿っていたのだろうか」、巻八に、「宵に逢い、朝は顔を見せるのも恥ずかしい、その名張の野の、萩は散ってしまった。もみじよ、早く色づけ」とあるのは、皆、この土地を詠む。今の本で、かくれ、と訓み、伊勢にあるというのは誤りだ。なばる、は、隠れるという古語で、『万葉集』巻十六、三十葉の長歌に、「おしてる、難波の入り江に、家を作り、隠れている葦蟹を」とあるのが証拠だ。これも、今の本は訓を誤る。難は、な、の音を借りた字なのに。
【宣長の注釈】「三野の稲置」は、『日本書紀』持統天皇の巻の、伊賀国伊賀郡身野という、この土地だろう。天武天皇の紀に、三野県主があるが、別の氏だろう。『日本書紀』には、磯城津彦命は、猪使連の始祖である、とあり、この氏は、天武天皇十三年に、宿禰になった。『姓氏録』の右京皇別、猪使宿禰には、安寧天皇の皇子、紀都比古命の子孫、とある。紀の前に、志が抜けた。また左京皇別、新田部朝臣には、安寧天皇の皇子、磯津彦命の子孫、とある。磯の下に城が抜けた。『古事記』では、この二氏が漏れている。
【宣長の注釈】「一子」は、「ひとばしらのみこ」と訓むべきだ。
【宣長の注釈】「和知都美命」。和は知だろうか、と師はいった。確かに、わち、は聞き慣れないので、ちち、だろう。ちち、の例は、孝霊天皇の御子の千々速比売命、その母の千々速真若比売、崇神天皇の御子の千々衝倭姫命などだ。「つ」は、いつもの助詞、「み」は、耳と同じ尊称である。
【宣長の注釈】「淡路の御井の宮」は、どの郡の、どの郷にあるか、まだ調べていない。御井は、高津の宮の段の、朝夕、淡路島の冷たい泉をくみ、大御水を献上する、というものや、『日本書紀』反正天皇の巻の、「天皇は、初め、淡路の宮で生まれた。そこに、瑞井という井戸があり、くんで太子を洗った」というものと、皆、同じで、上代から名高い、とてもよい泉だったのだろう。この泉が、今もあるか、絶えていても跡があるか、地元の人に尋ねるべきだ。宮というのは、この御子が住んだためで、以前から宮があったのではあるまい。この御子が、この土地へ下って住んだ理由は、伝えがないので分からない。
【宣長の注釈】「此王」の王は、みこ、と訓むべきだ。理由は、伊邪河の宮の段で述べた。
【宣長の注釈】「二女」は、師の「みむすめ、ふたばしら」という訓みに従うべきだ。
【宣長の注釈】「兄」は、いろね、と訓むべきだ。
【宣長の注釈】「蠅伊呂泥」の、はえ、の意味は、まだ分からない。地名などか。蠅は、音を借りた字だろう。音の仮名では、はへ、だ。いろね、は、前に述べた。明の宮の段の末には、百師木伊呂弁という名もある。
【宣長の注釈】「別名、意富夜麻登」は、大倭、くに、は国である。あれ、の意味は、まだ分からない。明るく清らかという意味かもしれない。賀茂の斎王を、あれおとめ、と申し上げるのも、その意味かと思えるからだ。あちらは、身を斎み清めることからいい、こちらは、ただ清いという美称だろう。
【宣長の注釈】「弟」は、いろど、と訓むべきだ。『日本書紀』では、弟の字、妹の字なども、そう訓む。
【宣長の注釈】「蠅伊呂杼」の蠅は、前と同じ。いろど、は、同母の弟妹という呼び名で、ここは妹だ。この二人の娘は、どちらも、黒田の廬戸の宮で天下を治めた天皇の妃となり、御子も生まれ、その段に出る。『日本書紀』の同じ巻では、姉を、倭国香媛、別名、絙某姉、妹を、絙某弟とする。
【古事記本文】天皇の年齢は、四十九歳。御陵は、畝火山の、みほとにある。
【宣長の注釈】「四十九歳」。『日本書紀』には、「三十八年冬十二月六日、天皇が崩御した。このとき五十七歳」とある。この年齢によれば、綏靖天皇十五年の誕生だ。それなのに、その二十五年に、皇太子に立ったとき二十一歳とあるのは、十年違う。その年は、十一歳に当たるのである。
【宣長の注釈】「みほと」は、陰部を敬っていう語で、上巻にも見える。山も人の体になぞらえていい、頂・腹・腰・脚などともいう類だ。『日本書紀』懿徳天皇の巻に、「元年秋八月一日、磯城津彦玉手看天皇を、畝傍山の南の、御陰井の上の陵に葬った」とある。諸陵式には、「畝傍山西南御陰井上陵。片塩の浮穴の宮で天下を治めた安寧天皇。大和国高市郡にあり、陵域は東西三町、南北二町、守戸は五戸」とある。陰の字は、蔭の写し誤りか、あるいは、ほと、という語を嫌い、昔、みかげ、と呼び替えたのかもしれない。なお、正本を調べて決めるべきだ。この御陵は吉田村にあり、畝火山の南西の麓につく、高い岡である。『日本書紀』の、畝傍山の南、は、南の前に、西が抜けたのだろう。あの慈明寺村の南の御陵と、まったく同じ様子だ。御陰井は、吉田の村中の道端にある、普通の小さな井戸で、御陵は、この井戸から一町余り、北西にある。
境岡の宮の巻
【古事記本文】大倭日子鉏友命は、軽の境岡の宮にいらっしゃって、天下を治めた。この天皇は、師木県主の祖、賦登麻和訶比売命、別名、飯日比売命を妻とし、御子、御真津日子訶恵志泥命、次に多芸志比古命が生まれた。二柱である。「訶」から下の四字は、音を表す。
【宣長の注釈】この天皇の、後につけた中国式の諡を、懿徳天皇と申し上げる。
【宣長の注釈】「軽」は、大和国高市郡にある。『神名帳』のこの郡に、軽樹村坐神社がある。これは軽のうちの、樹村という地名か、軽樹という地名か。『大和志』には、この社は、池尻に属す村の、軽子という所にある、とあるが、どうなのだろう。今も軽村があり、大軽ともいう。中昔は、大と小の二村があったが、小軽の方は、今は絶えたのか。この土地は、水垣の宮、玉垣の宮の段、『日本書紀』の応神・雄略・欽明・推古などの巻にも出る。『万葉集』巻二には、「天飛ぶや、軽の道は……」、「軽の市で、私が立ち聞くと」、「玉だすきの、畝火の山で鳴く鳥の声も聞こえない」、巻三には「軽の池の……」、巻四には「天飛ぶや、軽の道から、玉だすきの、畝火の山を見ながら」、巻十一には、「天飛ぶや、軽の社の、斎いつく槻……」などと詠む。〔訳注:巻二の畝火の山の引用で、鳥の直前の一字は細かく、はっきり読み取れない。ここでは仮に「鳴く」と訳した。〕
【宣長の注釈】「境岡の宮」の岡は、師の、お、という訓みに従うべきだ。『日本書紀』では曲峡とあり、神功皇后の巻の、渟中倉の長峡という地名を、『摂津国風土記』では、沼名椋の長岡の崎とするのも、証拠だ。『万葉集』にも向岡がある。おか、のもとの語は、お、で、か、を添え、か、は場所という意味だ。坂も、もとは、さ、に、か、を添えたと上巻で述べたのと同じだ。丘も、普通、おか、と読むのを、『日本書紀』では、お、だけにも訓む。この宮は、今、軽村から西の三瀬へ行く間が、少し高く、広い岡越えの道で、坂があり、その辺りだろう。境は、坂の合わさる所なので、境岡といえる地形だ。また、この岡の上は広い原なので、孝元天皇の大宮、堺原の宮も、この辺りだろう。『日本書紀』には、「二年春正月五日、軽の地に都を移し、これを曲峡の宮という」とある。ある人は、この宮の跡は、軽の南西で、今も、みはりをさ、という田の小字が残る、という。
【宣長の注釈】「師木県主」は、前のものと同じ氏だ。
【宣長の注釈】「賦登麻和訶比売命」の名は、たいそう、まったく若々しい、という意味だろう。
【宣長の注釈】「飯日比売命」の名に、特別な解釈はない。日は、いつもの美称で、前に述べたとおりだ。『日本書紀』には、「二年二月十一日、天豊津媛命を皇后に立てた。一説では、磯城県主葉江の弟、猪手の娘、泉媛。一説では、磯城県主太真稚彦の娘、飯日媛という」とある。天豊津媛命は、孝昭天皇の巻に、息石耳命の娘、とある。息石耳命は、安寧天皇の御子で、この天皇の兄だ。
【宣長の注釈】「御真津日子訶恵志泥命」の名の、御真は、御真木入日子、御真津比売などと同じで、御孫という意味か、地名か、詳しくない。『国造本紀』に、「長の国造は、志賀高穴穂の朝に、観松彦色止命の九世の孫、韓背足尼を、国造に定めた」とある。長は、阿波国那賀郡である。神名式の、その国の名方郡に御間都比古神社があり、あの色止命を祭るのか。かえしね、も、まだ分からない。ね、は、いつもの呼び名だろう。
【宣長の注釈】「多芸志比古命」の名は、白檮原の朝の皇子、多芸志耳命と同じ意味だろう。『日本書紀』に、「皇后は、観松彦香殖稲天皇を生んだ。一説では、天皇の同母弟に、武石彦奇友背命がいる」とある。たぎし、と、たけし、は音が通う。『旧事紀』には、この御子はなく、安寧天皇の御子で、師木津日子命の弟に、手研彦奇友背命がいる。
【古事記本文】御真津日子訶恵志泥命は、天下を治めた。次の当芸志比古命は、血沼の別・但馬の竹別・葦井の稲置の祖である。
【宣長の注釈】「血沼の別」。血沼は、和泉国和泉郡の地名で、前、伝の巻十八、三十九葉に出た。別は、かばねである。このかばねは、日代の宮の段の、国々の国造、また別……、という所で述べる。この氏は、ほかに見えない。『日本書紀』雄略天皇の巻には、茅渟県主があるが、別の氏である。
【宣長の注釈】「但馬の竹別」。但馬国に竹という土地は、古書に見えない。『和名抄』の、竹野、たかの、という郷は、美含郡にある。
【宣長の注釈】「葦井の稲置」。同じ但馬国に、この土地も見えない。神名式には、気多郡に葦田神社がある。これらの地名が、今あるか、ないか、地元の人に尋ねるべきだ。この二つの氏も、ほかには見えない。
【古事記本文】天皇の年齢は、四十五歳。御陵は、畝火山の、真名子谷の上にある。
【宣長の注釈】「年齢、四十五歳」。『日本書紀』には、「三十四年秋九月八日、天皇が崩御した」とあり、年齢は記さない。ただ、父天皇の十一年に、皇太子となり、十六歳だったというのによれば、七十七歳のはずだ。
【宣長の注釈】「真名子谷の上」。『日本書紀』には、「翌年冬十月十三日、大日本彦耜友天皇を、畝傍山の南の、纖沙の谷の上の陵へ葬った」とある。纖沙を、まさご、と訓むのは、よくない。『古事記』によって、まなご、と訓むべきだ。『万葉集』でも、沙細・活砂などは皆そう訓み、真名子・麻奈胡などとも書き、『日本書紀私記』にも、万奈古とあるではないか。諸陵式には、「畝傍山南纖沙溪上陵。軽の曲峡の宮で天下を治めた懿徳天皇。大和国高市郡にあり、陵域は東西一町、南北一町、守戸は五戸」とある。この御陵は、畦樋村から西の吉田村へ越える道の、少し南にあり、畝火山の南の谷の中だ。貝原氏が、畝火山の南東に小谷の陵があり、懿徳天皇の御陵だ、という小谷は、真名子谷の、真名、を省いた名か。そのころ、この土地をそういったのだろう。久米寺の南東にあるという説は、大きく違う。
掖上の宮の巻
【古事記本文】御真津日子訶恵志泥命は、葛城の掖上の宮にいらっしゃって、天下を治めた。この天皇は、尾張連の祖、奥津余曾の妹、名は、余曾多本比売命を妻とし、御子、天押帯日子命、次に大倭帯日子国押人命が生まれた。二柱である。
【宣長の注釈】この天皇の、後につけた中国式の諡を、孝昭天皇と申し上げる。
【宣長の注釈】「葛城」は、前に出た。
【宣長の注釈】「掖上」は、諸陵式によると葛上郡だ。掖の字は、『説文』に、腋と同じ、とあり、諸本が皆、この字なのに、延佳本で腋とするのは、余計な改変だろう。『日本書紀』神武天皇の巻に、「天皇が巡幸し、腋上の嗛間の丘へ登った……」、履中天皇の巻に、掖上の室山、推古天皇の巻に、「二十一年、掖上の池を作った」、持統天皇の巻に、「四年二月、腋上の嗛間へ行幸した……」などとある。掖上の室山の、室も葛上郡だ。『姓氏録』秦忌寸の条の、大和の朝津間、腋上の地、も同じ所だろう。今の朝妻村も同郡で、室村などから遠くない。この地名をどう訓むか、はっきりしないが、『日本書紀』では、どこも、わきのかみ、と訓むので、ひとまず従った。わきべ、わきのべ、わきかみ、とも訓むので、決めにくい。わきのかみ、というのは、石上を、いそのかみ、丹波国多紀郡の草上を、くさのかみ、という類だ。城上郡・葛上郡などは、上下に分ける上なので、この例ではない。『日本書紀』には、「元年七月、掖上へ都を移し、これを池心の宮という」とある。
【宣長の注釈】「尾張連」。『日本書紀』神代の巻の一書に、「天忍穂根尊は、高皇産霊尊の娘、栲幡千々姫万幡姫命を妻とし、天火明命が生まれ、次に天津彦根火瓊々杵尊が生まれた。その天火明命の子、天香山は、尾張連たちの遠い祖である」とある。また一書に、「正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊は、高皇産霊尊の娘、天万栲幡千幡姫を妃とし、子が生まれ、天照国照彦火明命と呼ぶ。これが尾張連たちの遠い祖である。次は、天饒石国饒石天津彦火瓊々杵尊」とある。それなのに本文で、彦火々出見尊の弟を、火明命といい、尾張連たちの始祖である、とするのは、異なる伝えだ。そのことは、伝の巻十五、八葉で述べた。彦火々出見尊の弟の火明命は、『古事記』では火照命で、隼人の祖である。しかし『古事記』で、天火明命の下に、この氏の祖とする文がないのは、漏れたのだ。『古事記』は、子孫の氏を挙げるのが、特に詳しいので、あそこにも、この氏の祖である、と、必ずあるはずだ。
【宣長の注釈】『旧事紀』では、天孫が天から下るときの供、三十二神の初めに、「天香語山命、尾張連たちの祖」とある。これを饒速日命が下るときの話にして記すのは、いつもの偽りで、実際には、邇々芸命に従って下った、その古伝を取って記したのだろう。同書の巻五は、この氏の系譜を順に挙げ、「始祖から十三世の孫、尻綱根命は、品太天皇の御代に、尾治連の姓を与えられた」とする。その中で、始祖の天火明命を饒速日命と混同し、尾張連を物部連と同祖にするのは、ひどい偽説で、伝の巻十五、九葉で詳しく分別したとおりだ。また御子の天香語山命を、別名、高倉下命といい、白檮原の宮の段の高倉下と同じ人にするのも、信じられない。ほかにも採りにくいことが交じるが、おおむね、古い家の記録を取って記したと見え、一概に捨てるべきではない。十四世の孫以下は、代々の名を皆、尾治の何々連と記す。倭建命の段に、尾張国造の祖、美夜受比売とある国造も、この氏と思えるので、この氏の人が、すでに尾張国へ下って住んでいて、尻綱根に至り、この姓を与えられたのだろう。軽島の宮の段でいうことも、考え合わせていただきたい。『日本書紀』で、あの美夜受比売を、尾張氏の娘というのは、当時すでにこの姓のように聞こえるが、いつもの、後のものを、前に及ぼしていったのである。
【宣長の注釈】さて、この氏のもとの住居は、大和国葛城である。そういう理由は、境原の宮の段で、この氏の人に、葛城の高千那比売がいる。また『旧事紀』に、「この氏の三世の孫、天忍人命は、妹の角屋姫、別名、葛木出石姫を妻とした……」、「次の天忍男命は、葛木の土の神、剣根命の娘を妻とした……」、「四世の孫、瀛津世襲命は、葛木彦命ともいう」、「七世の孫、建諸隅命は、葛木直の祖、大諸見足尼の娘を妻とした」などとある。『日本書紀』神武天皇の巻に、「高尾張の村、ある本では葛城の村という」、また「高尾張の村……。それで、その村を葛城と改名した」とあるのは、高尾張が、葛城のもとの名のように聞こえるので、国の名の尾張は、高尾張から出て、この氏の人が葛城から、あの国へ下って住んだため、郷里の名を国名にしたかと思えるが、違うだろう。神武天皇の巻は、一つの伝えで、実際は、天火明命の子孫が葛城に住み、尾張国造となって、あの国へ下って住む者がいた縁で、その国の名を取り、郷里の葛城を、高尾張の村ともいったのを、誤って、もとの名のように伝えたのだろう。ただし、これは今、私が思いついたことで、確かには決めにくい。それでも葛城に高尾張の名があるのが、この氏の郷里である縁によるのは、違わない。『三代実録』巻九に、「尾張国海部郡の人、其目連公宗氏と、尾張の医師、其目連公冬雄たち、同族十六人に、高尾張宿禰の姓を与えた。天孫、火明命の子孫である」とあることから、尾張と高尾張が別でないのが分かる。右の其目の目は、版本では日だが、古本では目だ。また其は、甚の誤りか。伊勢の一志郡に甚目村、尾張の海部郡に甚目寺がある。
【宣長の注釈】この氏の人が、初めて葛城から尾張国へ下って住んだのは、どの御代か、はっきりしない。『国造本紀』には、「尾張国造は、志賀高穴穂の朝に、天別天火明命の十世の孫、小止与命を、国造に定めた」とあるが、倭建命が下ったとき、すでに、あの国にこの氏の人がいたので、志賀高穴穂の朝というのは違う。小止与命は、そうかもしれない。尾張国のこの氏は、倭建命の段で、詳しく述べる。また備前国にも、この氏と縁のあることがある。『和名抄』では、備前国邑久郡に尾張郷があり、神名式の同国御野郡には、尾針神社・尾治針名真若比女神社がある。『旧事紀』の十四世の孫、尾治針名根連を、『姓氏録』では、波利那乃連公とする。尾張国愛智郡にも、針名神社がある。尾張国海部郡には、伊福郷があり、『神鳳抄』には、尾張国伊福利部御厨がある。備前国御野郡にも伊福郷があり、『姓氏録』に、伊福部宿禰は、尾張連と同祖で、火明命の子孫、とある。
【宣長の注釈】『日本書紀』天武天皇十三年十二月二日に、尾張連へ、宿禰の姓を与えた、とある。『続日本紀』には、「天平宝字二年三月庚申、初め、尾張連馬身は……、姓を与えられないうちに亡くなったので、馬身の子孫すべてに、宿禰の姓を与えた」とある。『姓氏録』の左京神別、天孫の部には、「尾張宿禰は、火明命の二十世の孫、阿曾連の子孫」とある。二十世は、一本では二十七世、曾は、一本では魚とする。また「尾張連は、尾張宿禰と同祖で、火明命の子、天香吾山命の子孫」。右京神別、天孫の部には、「尾張連は、火明命の五世の孫、武砺目命の子孫」とある。右京の尾張連には、天長十年、忠宗宿禰という姓を与えられたものがある。山城国神別には、「尾張連は、火明命の子、天香山命の子孫」、大和国神別には、「尾張連は、天火明命の子、天香山命の子孫」、河内国神別には、「尾張連は、火明命の十四世の孫、小豊命の子孫」とある。ほかにも、この氏から分かれた氏は非常に多く、同書と『旧事紀』に見える。
【宣長の注釈】「奥津余曾」。『旧事紀』に、「三世の孫、天忍男命は、葛木の土の神、剣根命の娘、賀奈良知姫を妻とし、男三人、女一人を生んだ」とある。『日本書紀』神武天皇の巻には、剣根を葛城の国造にした、とある。また、「四世の孫、瀛津世襲命、別名、葛木彦命は、尾張連たちの祖で、天忍男命の子である」とある。天忍男命は、天火明命の子、天香語山命、その子、天村雲命の子だ。
【宣長の注釈】「余曾多本比売命」。『日本書紀』には、「二十九年春正月三日、世襲足媛を皇后に立てた。一説では、磯城県主葉江の娘、渟名城津媛、一説では、倭国の豊秋狭太媛の娘、大井媛である」とある。狭太媛の娘、というのは、どうか。また孝安天皇の巻に、「母は世襲足媛で、尾張連の遠祖、瀛津世襲の妹である」とある。『旧事紀』は、天忍男命の男二人、女一人を挙げ、「瀛津世襲命、次に建額赤命、妹の世襲足姫命、別名、日置姫命」とする。『和名抄』には、大和国葛上郡に、日置郷がある。名の意味は、妹も兄も、まだ分からない。たほ、を『日本書紀』で足とするので、師は、本は李の誤りかといったが、『古事記』に、李を音の仮名で使う例はない。
【宣長の注釈】「天押帯日子命・大倭帯日子国押人命」。二柱の御名は、どちらも、皆、美称だ。「押」は、おほし、で、大きいという意味である。証拠は、凡河内を、安閑・推古の紀などで、大河内とも書き、天武天皇の巻では、凡海という姓を、大海とも書くことだ。天武天皇の幼いころの御名、大海人皇子も、この姓を取った。伝の巻七、七十三葉を考えていただきたい。また神代の紀の一書で、熊野忍隅命を、別の一書では熊野大隅命とすることでも確かめられる。名前の押は、忍とも書くが、皆同じで、押し並べて、などの押も、同じく大きいという意味だ。「帯」は、音を借りた字で、足りるという意味だ。『万葉集』巻二に、御寿は、長く、十分に満ちてあり、とある。『古事記』で、たらし、に帯を借りるのは、古歌に、御帯は、しつの衣を結び垂らして、とあるように、帯が、結んで垂れる物なので、この名があるからだ。太刀を、みはかし、弓を、みとらし、というのと同じ考えだ。『日本書紀』には、「皇后は、天足彦国押人命と、日本足彦国押人天皇を生んだ」とある。
【古事記本文】弟の、帯日子国忍人命は、天下を治めた。兄の天押帯日子命は、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壱比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壱師君、近江国造の祖である。
【宣長の注釈】「春日臣」の春日は、大和国添上郡の地名で、黒田の宮の段で述べる。この氏は、『日本書紀』天武天皇十三年十一月一日に、大春日臣へ朝臣の姓を与えた、とある。「大」は、それ以前の、どの御代に加わったのか、詳しくない。持統天皇五年の下で、十八氏を挙げる中には、春日だけで、大はなく、元明天皇の紀に出るものには、大がある。『姓氏録』左京皇別の大春日朝臣には、「孝昭天皇の皇子、天帯彦国押人命から出る。仲臣令の家には千金の富があり、酒かすを積んで垣にしていた。大鷦鷯天皇、諡を仁徳が、その家へ行幸し、糟垣臣と名づけ、後に春日臣へ改めた。桓武天皇延暦二十年に、大春日朝臣の姓を与えた」とある。この仲臣令は、字が抜けたり誤ったりしたのか。人名であるはずの所だ。仲は、一本で件とあるが、それもどうか。桓武天皇以下も疑わしい。それより前、すでに大春日朝臣の姓だからだ。糟垣にも議論があり、黒田の宮の段でいう。『文徳実録』に、「斉衡三年八月二十七日、春日臣雄継へ、大春日朝臣の姓を与えた」とある。『姓氏録』の春日真人は、別の氏で、混同してはいけない。
【宣長の注釈】「大宅臣」の大宅は、『和名抄』で、大和国添上郡に、春日と大宅が並ぶ郷で、『日本書紀』武烈天皇の巻の歌で、「物のたくさんある、大宅を過ぎ、春の日の、春日を過ぎ」と詠む土地だ。「物さはに」という枕詞は、たくさんに、多い、という意味の続きである。さは、と多い、は同じことだが、重ねる例はあり、『万葉集』巻十八に、山が、たくさん、多いので、と詠む。この氏は、天武天皇十三年十一月一日に、大宅臣へ朝臣の姓を与えた、とある。『姓氏録』の山城皇別に、大宅は小野朝臣と同祖、摂津国皇別に、大宅臣は大春日と同祖で、天足彦国押人命の子孫、とあるが、朝臣は見えない。ただ『類聚国史』職官の部、弘仁元年の所には、大宅朝臣年雄を、従五位下に叙したことがある。抜けたのか。右京皇別の、火氏の次、粟田朝臣の上に、氏を掲げず、ただ、孝昭天皇の皇子、天足彦国押人命の子孫、とあるのも、もとは大宅朝臣で、その一行が抜けたと思っていたが、後に一本を得て考えると、火氏の次の、この文は、小野朝臣の条が、順序を乱したものだった。詳しくは、末に別に述べた。『続後紀』承和三年五月二日に、山城国の大宅臣福主を、臣から朝臣へ改めた、とある。『姓氏録』の大宅真人・大家臣・大宅首・大家首などは、別の氏である。
【宣長の注釈】「粟田臣」の粟田は、『和名抄』の、山城国愛宕郡、上粟田・下粟田という土地だろう。粟田の読みは、あはた、だ。諸陵式にも、山城国愛宕郡上粟田郷とあり、『文徳実録』巻八の、山城国宇治郡粟田山も同じ土地だ。この氏は、天武天皇十三年十一月一日に、粟田臣へ朝臣の姓を与えた、とある。『続日本紀』には、天平宝字三年七月丁丑、粟田臣道麻呂に朝臣を与え、天平神護元年三月癸巳、近江国坂田郡の粟田臣之瀬・直瀬・斐太人・池守の四人に朝臣を与え、神護景雲元年六月己亥、左京の粟田臣弟麻呂・種麻呂・乎奈美麻呂の三人に朝臣を与えた、などとある。之瀬の之は、写し誤りだろう。『姓氏録』右京皇別には、粟田朝臣は、大春日朝臣と同祖、天足彦国忍人命の子孫、とある。また山城国皇別には、粟田朝臣は、天足彦国押人命の三世の孫、彦国葺命の子孫、とある。『続後紀』に、承和四年二月十日、「大春日・布瑠・粟田の三氏の五位以上が、小野氏に準じ、春秋二回の祭りのとき、官符を待たず、近江国滋賀郡にある、氏神の社へ行くことを認める」とある。布瑠氏は、伝の巻十八、五十二・五十三葉で述べた。この近江の氏神は、次の小野臣の所で述べる。
【宣長の注釈】「小野臣」。古い版本と延佳本は、どちらも臣が抜けるが、今は、真福寺本と別の一本にあるのに従った。この氏は、天武天皇十三年十一月一日に、小野臣へ朝臣の姓を与えた、とある。『姓氏録』左京皇別には、「小野朝臣は、大春日朝臣と同祖で、彦姥津命の五世の孫、米餅搗大使主命の子孫。大徳、小野臣妹子が、近江国滋賀郡の小野村を家としたので、氏名とした」とある。妹子臣は、小治田の御代に、初めて中国へ、天皇の使いとして行った人だ。滋賀郡に、今も小野村があり、堅田の北、比良の南だ。また山城国皇別に、小野朝臣は、孝昭天皇の皇子、天足彦国押人命の子孫、とある。『姓氏録』の今の版本では、ここの三十一葉と三十二葉の順序が乱れ、前後する。そのため、三十一葉の初めに、氏名を掲げず、孝昭天皇……、とあるのは、三十二葉の終わりの、小野朝臣の条で、今ここに引く文だ。また三十一葉の終わりの阿閇臣は、三十三葉の初めの、阿部朝臣、大彦……、という条である。この乱れで、三十一葉の粟田朝臣から阿閇臣まで、八氏が右京皇別になったが、これらは、右の小野朝臣の次の、山城国皇別だ。近ごろ一本を得て校べた、順序は、このとおりだ。『姓氏録』を読む人が、この乱れから、多くの氏を誤ることを恐れ、こう詳しく区別しておくのである。
【宣長の注釈】『神名帳』の、近江国滋賀郡、小野神社二座は、名神大社で、この氏神である。『続後紀』には、「承和元年二月二十日、小野氏の神社は、近江国滋賀郡にある。この氏の五位以上は、春秋の祭りのたび、官符を待たず、いつも往復してよい」とある。同三年五月には、遣唐副使、小野朝臣篁の申し出で、無位の小野神に従五位下を授け、『三代実録』の貞観四年十二月には、近江国小野神に従四位下を授けた、などとある。また式には、同国高島郡にも小野神社がある。山城国愛宕郡にも小野神社があり、『和名抄』に、同郡小野、同国宇治郡小野などがあるが、これらにも縁があるのか、知らない。『姓氏録』には、山城皇別の小野臣は、天足彦国押人命の七世の孫、人花命の子孫、ともある。人花の人は、版本にはないが、古本にはある。『紹運録』で、小野妹子臣を、敏達天皇の御子、春日皇子の子とし、世に小野氏を敏達天皇の子孫というのは、誤りだ。思うに、春日皇子の母は春日臣の女で、春日臣と小野臣は同祖なので、このようなことから誤ったのだろう。
【宣長の注釈】「柿本臣」。天武天皇十三年十一月一日に、柿本臣へ朝臣の姓を与えた、とある。『姓氏録』大和国皇別には、「柿本朝臣は、大春日朝臣と同祖で、天足彦国押人命の子孫。敏達天皇の御代に、家の門に柿の木があるため、柿本臣という氏にした」とある。神名式には、山城国紀伊郡の飛鳥田神社、別名、柿本社があり、今、大和国葛下郡にも柿本村がある。歌仙と仰がれる人麻呂は、この氏の人だ。ほかにも『続日本紀』のあちこちへ、この氏の人が出る。
【宣長の注釈】「壱比韋臣」。いちひゐ、は、大和国添上郡の地名で、軽島の宮の御歌の、「いちひゐの、わにさの岡を」というものだ。この土地は、その歌の所で述べる。この氏は、天武天皇十三年十一月一日に、櫟井臣へ朝臣の姓を与えた、とある。『姓氏録』左京皇別に、「櫟井臣は和安部と同祖で、彦姥津命の五世の孫、米餅搗大使主命の子孫」とある。和安部朝臣は、大春日朝臣と同祖とあるが、これらの安は、爾の誤りだ。伊邪河の宮の段の、丸邇臣の所で、さらに述べる。このほか、朝臣であるものは見えない。
【宣長の注釈】「大坂臣」。大坂は地名で、『和名抄』の、備後国安那郡の大坂郷か。その理由は、次の阿那臣で述べる。『和名抄』には、大和国葛上郡にも大坂郷があり、神名式に、同国葛下郡の大坂山口神社がある。この大和の大坂は、古書に時々出るので、それかもしれない。この氏は、ここ以外には見当たらない。『姓氏録』の大坂直は、別の氏だ。
【宣長の注釈】「阿那臣」の阿那は、『日本書紀』景行天皇の巻の穴海、安閑天皇の巻の婀娜国などという土地で、『和名抄』の、備後国安那郡、やすな、がこれだ。やすな、は、あな、という語を嫌い、後で呼び替えたもので、他国にも例がある。『国造本紀』に、「吉備の穴の国造は、纒向の日代の朝に、和邇臣と同祖で、彦訓服命の孫、八千足尼を、国造に定めた」とある。彦訓服命は、天押帯日子命の三世の孫だ。『姓氏録』右京皇別に、安那公は天足彦国押人命の子孫、とある。那を、版本で郡にするのは誤りで、古本では那だ。この氏は、ここでは臣なのに、公とあるのは、どういうことか。また、この氏に関わる地名として、近江国坂田郡に阿那があり、垂仁天皇の紀の吾名村がこれだ。美濃国郡上郡にも安那がある。それらを置き、備後の安那と決めるのは、『国造本紀』による。備後の安那とするため、前の大坂も、あの国かといったのである。
【宣長の注釈】「多紀臣」は、丹波国多紀郡から出たか。ただ多紀という地名は、ほかにもあるだろうから、決めにくい。この氏も、まだほかに見当たらない。
【宣長の注釈】「羽栗臣」は、『和名抄』の、尾張国葉栗郡、はくり、その葉栗郷から出たのだろう。山城国久世郡にも羽栗郷がある。『続日本紀』に、「宝亀七年八月八日、山背国乙訓郡の人、羽栗翼に、臣の姓を与えた」とある。『後紀』『文徳実録』などにも、羽栗氏の人が出る。『姓氏録』左京皇別には、「葉栗は、和爾部朝臣と同祖で、彦姥津命の三世の孫、建穴命の子孫」とある。穴は、一本で安とする。また右京皇別には、「葉栗は、小野と同祖で、彦国葺命の子孫」とある。臣の姓であるものが、ないのは、どういうことか。
【宣長の注釈】「知多臣」は、『和名抄』の、尾張国智多郡から出たのだろう。『万葉集』巻七に、知多の浦、とある。羽栗と並ぶから、そう考える。この氏は、ほかに見当たらない。
【宣長の注釈】「牟邪臣」は、『和名抄』の、上総国武射郡がこれだ。大和国高市郡の身狭ではない。邪・射などは、濁った音の仮名である。『国造本紀』に、「武社の国造は、志賀高穴穂の朝、和邇臣の祖、彦意祁都命の孫、彦忍人命を、国造に定めた」とある。『続日本紀』神護景雲三年三月に、陸奥国牡鹿郡の春日部奥麻呂たち三人へ、武射臣の姓を与えた、とあるのは、もとから、この氏の一族だったのだろう。『三代実録』巻三十六にも、武射臣助守などが出る。舒明・皇極の紀の、身狭君・身狭臣は、別の氏だろう。
【宣長の注釈】「都怒山臣」。この地名も氏名も、まだ古書の中に見つからない。『続日本紀』巻九には角山君内麻呂という人物が見える。ただし、この人の姓は「君」なので、そのまま一致するわけではない。別の氏族なのか同じ氏族なのかも判断しがたいが、「角山」は同じ土地だろう。この人について「私有の穀物を陸奥国の鎮所へ献納した」とあるので、東国の人だろう。なお検討したい。
【宣長の注釈】「伊勢飯高君」。『和名抄』の伊勢国飯高郡、読みは「いひたか」がこれに当たる。『大神宮儀式帳』には「忍飯高国」と見える。『倭姫命世記』には、「この時、飯高県造の祖の乙加豆知命に、『あなたの国の名は何というか』とお尋ねになると、『意須比飯高国と申します』と答え、神田と神戸を献上した。倭姫命は、『飯高と申すことは尊い』とお喜びになった」とある。『続日本紀』には、「天平十三年四月甲申、伊勢国飯高郡の采女で正八位下の飯高君笠目の親族、県造ら全員に飯高君の姓を与えた」、「神護景雲三年二月辛酉、伊勢国飯高郡の人、飯高公家継ら三人に宿禰の姓を与えた」、「宝亀六年四月戊辰、飯高公若舎人ら十一人に宿禰の姓を与えた」とある。また宝亀八年五月戊寅には、「典侍の従三位飯高宿禰諸高が亡くなった。伊勢国飯高郡の人である。性格はたいへん清廉で慎み深く、貞潔であろうと心がけていた。奈保山に葬られた天皇の時代に内教坊へ出仕し、やがて本郡の采女に選ばれた。飯高氏が采女を出すようになったのは、この人に始まる。四代にわたってお仕えし、初めから終わりまで過失がなかった。亡くなった時は八十歳だった」とある。この人は、上で引用した采女の笠目である。後に諸高と改名したのだろう。宝亀元年の記事にも諸高とある。笠目の「目」は、巻二十二の二十三丁では「日」、巻二十三の十四丁では「因」と誤っているが、古本はすべて「目」とする。このころ、この氏族の人々が朝廷の近くで仕えて栄えたのは、この人との縁によるらしい。また宝亀九年二月癸巳には、「飯高公大人・諸丸の二人に宿禰の姓を与えた」と見える。『続日本後紀』には、「承和三年三月庚子朔の丙午、左京の人、飯高宿禰全雄、同姓の弟高・弟五百継、伊勢国の人、飯高公常比麻呂ら五戸について、宿禰を改めて朝臣の姓を与えた」とある。「全雄」は、ある巻では「今雄」となっている。また承和九年六月甲子朔の丙寅には、「飯高宿禰浜永ら男女二十七人に飯高朝臣の姓を与え、左京三条に戸籍を置いた」と見える。『三代実録』には、「貞観十五年十二月二日、越前国敦賀郡の人、伊部造豊持に飯高朝臣の姓を与えた。居住地も変更して、左京五条三坊に籍を置いた。その祖先は孝昭天皇の皇子、天足彦国押人命から出ている」とある。
【宣長の注釈】「壹師君」。『和名抄』の伊勢国壹志郡、読みは「いちし」がこれに当たる。『続日本紀』巻十三には壹師君族古麻呂、『続日本後紀』巻十九には壹志公吉野という人々が見える。この吉野は、『文徳実録』の斉衡二年の記事では壹志宿禰吉野となっているので、それより前に宿禰の姓を与えられ、その記事が史書から漏れたのだろう。『三代実録』には、「貞観四年七月二十八日、左京の人、壹志宿禰吉野に大春日朝臣の姓を与えた。天足彦国押人命の子孫である」とある。
【宣長の注釈】「近淡海国造」。これは、まだほかの文献に見つからない。『書紀』崇峻巻には近江臣満という人が見えるが、この氏族か別の氏族かは分からない。『国造本紀』は、「淡海国造は、志賀高穴穂朝の時代に、彦坐王の三世の孫である大陀牟夜別を国造に定められた」とする。
【宣長の注釈】『書紀』には、「天足彦国押人命は、和珥臣らの始祖である」とある。ここでは、その和珥臣が漏れている。とくに広く分かれた氏族なので、ここにもぜひ載せるべきものである。この氏族のことは、伊邪河宮の段で述べる。この皇子の子孫には、先に挙げたほかにも多くの氏族があり、『姓氏録』に見える。また『三代実録』巻九には、民首方永という人が、この命の子孫とされる。『続日本後紀』巻四には、「近江国の人、島朝臣真行に萬生朝臣の姓を与えた。その祖先は、観松彦香殖稲天皇〔孝昭天皇〕の子孫である」とある。「島朝臣」は古本では「鳥脚臣」となっている。この人も、この皇子の子孫だろう。
【古事記本文】天皇は九十三歳でした。御陵は掖上の博多山のあたりにあります。
【宣長の注釈】「御年九十三歳」。『書紀』には、「八十三年秋八月丁巳朔の辛酉、天皇が崩御した」とあるだけで、年齢は記されない。ただし、父天皇の二十二年に「皇太子となった。十八歳」とあることによれば、百十四歳になるだろう。ほかの書には、百十四歳、百十五歳、百二十歳というものもある。
【宣長の注釈】「掖上博多山上」。『書紀』孝安巻には、「三十八年秋八月丙子朔の己丑、観松彦香殖稲天皇を掖上博多山上陵に葬った」とある。この三十八年という年次は理解しにくい。『旧事紀』が「八十三年、天皇が崩御し、その翌年八月に葬った」とするのは、『書紀』をもとにしながら三十八年という年次を疑い、「翌年」と推測して記したものだろうから、根拠としては足りない。『諸陵式』には、「掖上博多山上陵。掖上池心宮で天下を治めた孝昭天皇。大和国葛上郡にある。陵の区域は東西六町、南北六町。守戸五戸」とある。『大和志』には、「室村にある。陵のほとりに八幡の祠と四軒の家がある」と記す。なお、御陵の場所を「山上」「坂上」などと記している場合、上であっても下であっても、その付近という意味である。古く「うへ」また「へ」と言ったのは、みなその意味で、今の俗語でいう「上」だけを指すのではない。古い御陵で今も残っているものを見ると、地形が記録と食い違うように思う人もあるだろうから、思いついたところで、ここに注意しておく。
秋津島宮の巻
【古事記本文】大倭帯日子国押人命は、葛城の室の秋津島宮で天下を治めました。この天皇は、姪の忍鹿比売命を妻とし、大吉備諸進命、次に大倭根子日子賦斗邇命という二柱の子をもうけました。「賦斗邇」の三字は音を表します。大倭根子日子賦斗邇命が天下を治めました。天皇は百二十三歳でした。御陵は玉手岡のあたりにあります。
【宣長の注釈】この天皇の、後に付けられた漢風の諡号は、孝安天皇という。
【宣長の注釈】「室」。『和名抄』の大和国葛上郡牟婁郷がこれに当たる。今も室村があり、また三室村という所もある。『書紀』履中巻の「掖上の室山」も、この場所である。
【宣長の注釈】「秋津島宮」。『書紀』には、「二年冬十月、室の地へ都を移した。これを秋津島宮という」とある。さて神武巻には、「天皇が巡幸し、掖上の嗛間丘へ登って、国の様子を見渡しておっしゃった。……トンボの雌雄がつながって輪を作るようだ。このことから、初めて秋津洲という名が生まれた」とある。これは誰もが大倭の国全体のことと考えているが、あるいは掖上付近の地形を御覧になって、おっしゃったことかもしれない。古くは、郡や郷ほどの地域も「某国」と呼ぶのが普通だったので、「国の様子を見渡した」という文言は、その解釈の妨げにならない。もしそうなら、「秋津島」はその時からこの土地の名だったが、この天皇が百年以上も長くお治めになった、めでたい宮の所在地の名だったために、後には自然と倭国全体の大きな呼び名のようにもなったのだろうか。「師木島」の場合と同じである。また神武天皇の故事を倭国全体についての話とするなら、この宮の名は、その故事が起こった土地であるために付けられたものか。どちらにしても、この故事に基づく名である。
【宣長の注釈】「姪」。『和名抄』には、「姪。『釈名』にいう、兄弟の娘を姪とする。和名は、めひ」と見える。「めひ」は、女の甥という意味の呼び名だろう。
【宣長の注釈】「忍鹿比売命」。御名の「鹿」の意味は、まだ分からない。『書紀』には、「二十六年春二月己丑朔の壬寅、姪の押媛を皇后に立てた。一説では、磯城県主葉江の娘の長媛という。また一説では、十市県主五十坂彦の娘の五十坂媛という」とある。孝霊巻には、「母は押媛という。おそらく天足彦国押人命の娘だろうか」とある。このように疑問を残して記したのは、天皇の兄は天押帯日子命一柱だけなので、姪であるなら必ずその娘になるはずだが、誰の娘かということは伝わっていないため、断言しにくいからである。
【宣長の注釈】「大吉備諸進命」。師は「進」を「すみ」と読まれたが、やはり「すすみ」と読むべきだろう。この皇子は『書紀』に見えない。そこから考えると、孝霊天皇の皇子、比古伊佐勢理毘古命、別名大吉備津日子命を、この天皇の皇子だとも誤って伝えたものではないだろうか。というのも、この方が「大吉備」という御名を持つ由来もはっきりせず、また「進」は、あちらの名の「伊佐勢理」と同じ意味だからである。その理由は、その箇所で詳しく述べる。
【宣長の注釈】「大倭根子日子賦斗邇命」。御名のうち、「根子」は尊称である。景行天皇の皇子にも倭根子命という方がおり、一般の人の名にも、『記』には難波根子、『書紀』神功巻には山背根子などが見える。天皇については、大倭国をお治めになることから「倭根子」と申し上げる。この呼び名は、この天皇に始まり、孝元・開化の二代や、称徳・元明などの御名にも用いられる。光仁から仁明までの諡号には、すべてこれがある。こうして代々の天皇に共通する呼び名となり、詔などでも「倭根子天皇」と申し上げるのである。たとえば『書紀』孝徳巻の大化二年の詔には「現つ神として天下を治める日本倭根子天皇が詔する……」、天武巻十二年の詔には「現つ神として大八洲を治める日本根子天皇の勅命は……」、『続日本紀』巻一の詔には「現つ神として大八島国を治める倭根子天皇の仰せは……」などとある。「賦斗邇」は、『書紀』が「太瓊」と書いている、その字の意味、すなわち大きな玉ということだろうか。「邇」の意味には、ほかの解釈もあるかと思うが、まだ思い当たらない。なお『書紀』は、「皇后は大日本根子彦太瓊天皇を生んだ」とするだけで、大吉備諸進命はいない。
【宣長の注釈】「御年百二十三歳」。『書紀』は、「百二年春正月戊戌朔の丙午、天皇が崩御した」とし、年齢は記さない。ただし、父天皇の六十八年に「皇太子に立てられた。二十歳」とあることによれば、百三十七歳になるだろう。ほかの書には、百三十七歳、百二十七歳というものもある。
【宣長の注釈】「玉手岡」。『書紀』孝霊巻には、「百二年春正月、日本足彦国押人天皇が崩御した。秋九月甲午朔の丙午、玉手丘上陵に葬った」と見える。『諸陵式』には、「玉手丘上陵。室秋津島宮で天下を治めた孝安天皇。大和国葛上郡にある。陵の区域は東西六町、南北六町。守戸五戸」とある。今も玉手村があり、御陵もそこにある。『前皇廟陵記』は、「玉手村がここに当たる。室村の西北、川の東にある」といい、『大和志』は、「玉手村。陵の南に天神の祠があり、小さな家二軒が村中にある」とする。河内国安宿郡にも玉手という土地があることは、上で述べた。『書紀』仁徳巻には、四十年に佐伯直阿俄能胡という人が、雌鳥皇女の玉を盗んだ罪を償うため、私有地を公へ献上し、その地を「玉代」と名付けた話がある。どちらの場所かは、はっきりしない。ただし、安寧天皇の御名の「玉手」は河内国にちなむと思われるから、その土地の名は仁徳の時代に始まったのではないだろう。御陵の名なら、後にできた地名によって伝えることもありうるので、その「玉代」は、こちらの玉手なのだろうか。なおよく考えたい。また『書紀』天智巻の童謡に「たまてのいかの」とあるのも、どちらの場所かはっきりしない。
黒田宮の巻
【古事記本文】大倭根子日子賦斗邇命は、黒田の廬戸宮で天下を治めました。この天皇は、十市県主の祖である大目の娘、細比売命を妻とし、大倭根子日子国玖琉命一柱をもうけました。「玖琉」の二字は音を表します。また春日の千千速真若比売を妻とし、千千速比売命一柱をもうけました。また意富夜麻登玖邇阿礼比売命を妻とし、夜麻登登母母曾毘売命、日子刺肩別命、比古伊佐勢理毘古命、別名大吉備津日子命、倭飛羽矢若屋比売の四柱をもうけました。また、その阿礼比売命の妹の蠅伊呂杼を妻とし、日子寤間命、若日子建吉備津日子命の二柱をもうけました。この天皇の子は合わせて八柱で、皇子が五柱、皇女が三柱です。
【宣長の注釈】この天皇の、後に付けられた漢風の諡号は、孝霊天皇という。
【宣長の注釈】「黒田」。『和名抄』の大和国城下郡黒田郷、読みは「くるた」がこれだろう。今も黒田村がある。『出雲風土記』には、「意宇郡黒田駅。土の色が黒い。それで黒田という」とある。この例によれば、ここも同じ理由で付いた名だろうか。
【宣長の注釈】「廬戸宮」。この宮の跡を、『大和志』は宮古村と黒田村の間の都杜だという。『書紀』には、「日本足彦国押人天皇百二年冬十二月癸亥朔の丙寅、皇太子が黒田へ都を移した。これを廬戸宮という」とある。
【宣長の注釈】「十市県主」。十市は、『和名抄』の大和国十市郡、読みは「とほち」がこれである。「十」の本来の読みは「とを」なのに、「とほ」とするのは仮名が違っている。地名だから、そのようになったのだろう。しかし、それはやや後の訛りだろう。「十」という字を書いてきたからには、もとは「とを」と発音したはずである。それでも今は、ひとまず『和名抄』に従って読む。『神名帳』の同郡には、十市御県坐神社があり、大社で、月次祭・新嘗祭にあずかる。この県主の氏族は、ほかには見えない。
【宣長の注釈】「大目」。『神名式』に、尾張国山田郡の大目神社、佐渡国羽茂郡の大目神社があり、『和名抄』には、同じ羽茂郡に大目郷、読みは「おほめ」がある。なお、この人物を『書紀』孝元巻は磯城県主としている。
【宣長の注釈】「細比売命」。「細」は、師が「くはし」と読まれた読み方を採るべきである。「目微比売」などという例もあるからだ。また「細」の字をそう読む例も、『万葉集』などに多い。『書紀』には、「二年春二月丙辰朔の丙寅、細媛命を皇后に立てた。一説では春日の千乳早山香媛といい、一説では十市県主らの祖の娘、真舌媛という」と見える。孝元巻には、「母は細媛命という。磯城県主大目の娘である」とある。
【宣長の注釈】「大倭根子日子国玖琉命」。『書紀』には、「皇后は大日本根子彦国牽天皇を生んだ」とある。御名の「玖琉」は「括る」で、まとめ治める意味である。今の俗語でも、物をまとめることを「くるめる」とも「くくる」ともいう。そもそも「くる」という言葉には巡らす意味があるので、まとめる場合も、くくる場合も、ぐるりと包んで漏らさないことからいう。さて『書紀』が「牽」の字を書いたのは、繰り寄せて引く意味なのか、それとも「拘束すること」と注釈される意味なのか。後者なら、『史記』で「聞いたことに牽かれる」などという類で、俗語の「くくられる」に当たる。
【宣長の注釈】「春日」。『和名抄』の大和国添上郡春日郷、読みは「かすか」がこれである。『神名帳』の同郡には、春日神社、春日祭神などがある。『書紀』開化巻には「春日は、かすがという」とあり、継体巻の勾大兄皇子の歌には「はるひの、かすがのくに」とある。武烈巻の歌にも同じ表現があり、上で引用した。「はるひの」という枕詞について、師の『冠辞考』は「春の日がかすむ、という言葉にかけた」とする。『万葉集』巻九の「春日の霞む時に」という句によって分かる。さて「かすが」を「春日」と書くのは、言い慣れた枕詞の文字を、その地名の表記として用いたものである。「飛ぶ鳥のあすか」という表現から、明日香をそのまま「飛鳥」と書くのと同じ例である。これについては、別のところで詳しく述べた。この地名の起こりは『姓氏録』大春日朝臣の条に見えるが、疑わしい。その文章は上の春日臣の注で引用したとおりで、氏族の先祖が大雀天皇の時代に糟で垣を作ったため「糟垣臣」と名付けられ、後に春日臣へ改められた、という。この説によるなら、もとは「かすかき」で、後に縮まって「かすが」になったことになる。また、その糟垣は、もとは賜った姓なので、地名になったのは後のことだと読める。しかし、この説が疑わしいのは、『書紀』綏靖巻にすでに春日県主という語が見え、この段の「春日の……」も明らかに地名であるのに、糟垣の話は、はるか後の大雀天皇の時代のことだとしているからである。地名が先にあり、その姓は土地にちなむのだろう。それでも、この説を成り立たせようとするなら、糟垣の出来事はたいへん古い時代のことだったのを、誤って大雀天皇の時代と伝えたのかもしれない。あるいは糟垣にちなんで土地を「かすが」と呼んできたのを、後に姓として賜った、その時が大雀天皇の時代だったのだろうか。なお、糟で垣を作るというのは、どういうことか。古くは川の堤のように幅広く築いた垣もあったと考えられるから、そうした垣だろう。歌などでいう「垣穂」も、そのような堤状の垣に生えた草木を指す。
【宣長の注釈】「千千速真若比売」。名の「千千」は、神代の栲幡千千姫命の「千千」と同じだろう。水垣宮の天皇の皇女にも、千千都久和比売命という方がおられる。「速」は、光り映える意味である。このことは神代の歌「あなだまはや」の箇所で述べた。『書紀』は、細媛命についての別伝として、春日の千乳早山香媛とする。「はやまわか」と「はややまか」は、一方では「や」、他方では「わ」を省いた、その違いだけである。『記』『書紀』ともに父を挙げないのは、伝わらなかったためだろう。
【宣長の注釈】「千千速比売命」。『書紀』には、この皇女はいない。『神名式』の尾張国中島郡に、知除波夜神社という社がある。
【宣長の注釈】「意富夜麻登玖邇阿礼比売命」は、浮穴宮で天下を治めた天皇の曾孫で、その段に見える蠅伊呂泥の別名である。『書紀』には、倭国香媛、別名絙某姉とある。
【宣長の注釈】「夜麻登登母母曾毘売命」。この御名の「夜麻登登」について、『書紀』は「倭迹迹日百襲姫命」とする。妹の御名の「倭飛羽矢若屋比売」も、『書紀』では「倭迹迹稚屋姫命」で、少しずつ違いがある。これらを照らし合わせると、詳しく言えば「倭」に「登登」が続く形だが、「登」を一つ省いて「倭登」ともいうのである。『記』は省いた形、『書紀』は詳しい形である。妹の「倭飛」の例からも分かる。また『書紀』崇神巻には「倭迹速……」という名もある。これも同じで、「迹」を一つ省いている。同じ音が重なる時に、一つ省く例は多い。「とどまる」を「とまる」ともいう類である。それを『書紀』と比べて、「登」の字が一つ脱落したのかと考えるのは、かえって詳しい理解ではない。また『書紀』の名にも、妹の名にも、「と」の後に「び」という語があるので、ここもそうあるべきなのに脱落したのかと思われるかもしれないが、そうではない。「び」は呼び名に添える語なので、付けても省いてもよく、ここは、もとから付けていないのである。妹の「倭飛」を『書紀』では「倭迹迹」とし、「び」がない。また崇神巻の「倭迹速」は、「はや」と続く点まで同じなのに、「び」を付けない。これらから類推できる。御名の意味は、「登登」は先の「千千」と同じで、音が通じ合う。「登」を一つ省いた形でも意味は同じである。「母母」は百、「曾」は功績を立てることだ。「いそ」は「いさを」が縮まった形である。
【宣長の注釈】さて、この姫について、『書紀』崇神巻には、次のようにある。「五年、国内に疫病が広がり、民の大半が亡くなった。六年、民は流浪し、背く者もいた。七年、天皇は神浅茅原へ出かけ、八十万の神々を集め、占ってお尋ねになった。この時、神が倭迹迹日百襲姫命に憑いて、『天皇よ、どうして国が治まらないことを心配するのか。私をよく敬って祭れば、きっと自然に治まる』と告げた。天皇が『そのように教えるのは、どの神か』とお尋ねになると、『私は倭国のうちに住む神で、名を大物主神という』と答えた。……こうして疫病はようやく収まり、国内は次第に穏やかになり、五穀は実って民は豊かになった」。また十年の記事に、「そこで天皇のおば、倭迹迹日百襲姫命は、聡明で知恵に優れ、まだ起こらないことも見抜いたので、その歌の不吉な意味を悟った」とあり、武埴安彦が謀反しようとしたことを前もって知り、天皇に申し上げた話がある。このように朝廷のためにさまざまな功績を立てられたので、「ももいそ」、すなわち多くの功績という呼び名でたたえられたのだろう。
【宣長の注釈】また同じ年の記事の後の方には、次のように見える。「この後、倭迹迹日百襲姫命は、大物主神の妻となった。しかし、その神は昼には姿を見せず、夜に来るばかりだった。倭迹迹姫命は夫に、『あなたはいつも昼にお姿を見せないので、お顔をはっきり拝見できません。どうかしばらくとどまってください。明日の朝、麗しいお姿を仰ぎ見たいのです』と語った。大神は、『もっともな話だ。私は明日の朝、あなたの櫛箱の中に入っていよう。どうか私の姿に驚かないでほしい』と答えた。倭迹迹姫命は、心の内でひそかに不思議に思い、夜明けを待って櫛箱を見ると、美しい小蛇がいた。その長さも太さも衣の紐ほどだった。姫は驚いて叫び声を上げた。その時、大神は恥じて、たちまち人の姿になり、妻に、『あなたはこらえられず、私に恥をかかせた。私も今度はあなたに恥をかかせよう』と言って、大空を踏んで御諸山へ登った。倭迹迹姫命は仰ぎ見て後悔し、どすんと座った拍子に、箸が陰部を突いて亡くなった。そこで大市に葬った。そのため当時の人々は、その墓を箸墓と呼んだ。この墓は、昼は人が造り、夜は神が造った……」。なお「急居は、つきゐという」とあるのは、語を言い切った形で注したものである。活用させた形なら「つきゐる」とも読める。中古の物語などで「ついゐ給ふ」などというのは、この語である。大市は、大和国城上郡の郷だ。この墓は『書紀』天武巻にも箸陵と見える。その地は今も箸中村といい、墓も大通りの西側に、きわめて大きな塚山として残っている。「箸中」は「箸の墓」が縮まった名だと考えられる。
【宣長の注釈】さて崇神巻に見える倭迹迹日百襲姫命について、ある人は疑問を示し、こういう。「これは孝霊天皇の皇女、百襲姫命ではなく、孝元天皇の皇女、倭迹迹姫命だろう。孝霊の皇女なら、崇神の時代には百歳をはるかに超えるはずなので、大物主神の妻となったというのも、ふさわしくない。また孝霊の皇女は崇神天皇の大おばなのに、『天皇の姑〔おば〕』とあるのも食い違う。孝元の皇女ならおばなので、よく合う。それに、大物主神の妻になったことを記す箇所では、最初こそ倭迹迹日百襲姫命とあるが、その後は三か所とも、ただ倭迹迹姫命とする。だから崇神紀の『日百襲』の三字は余分に入り込んだ字で、孝元の皇女の倭迹迹姫命と考えるべきだ」。この考えは、どれも一応はもっともである。しかし、さらによく考えると、孝元の皇女の迹迹姫命は『書紀』にはあっても、『記』には見えない。孝霊の皇女と同じ御名なので、実際には一柱だったのが混同され、孝霊の皇女とも孝元の皇女とも、二通りに伝わり、『書紀』が両方を載せたものだろう。そのような例はきわめて多い。また父の姉妹を「姑」、祖父の姉妹を「王姑」と分けるのは、やや後のことだろう。非常に古い時代には、どちらも同じく「おば」と言ったはずだ。子孫をみな「子」、先祖をみな「おや」と言ったのと同じ例である。したがって、孝霊の皇女を崇神の「姑」とすることも、間違いではない。また崇神の時代には百歳を超えるはずだという疑問は、たしかにそのとおりだが、古代の事柄は、年次によって考えると記述同士が合わないのが普通なので、その点だけをとらえて深く疑うべきではない。大物主神の妻になった故事も、『書紀』はこの姫の話としているが、異なる伝承があり、『記』では生玉依毘売のことで、時代も崇神の世より、はるか前の出来事なのである。そうなら、たとえこの故事が百襲姫命の話だとしても、崇神の御代より前のことで、箸が陰部に刺さって亡くなったのは、その時ではなく別の時だったのだろう。そう考えるのは、箸は食事の時に使う物なのに、この話で亡くなったのは夜明けを待って櫛箱を開いた時で、食事の時ではなく、箸を持っている理由がないからである。その二つが混ざって同時の出来事になったのは、崇神の世に大物主神を祭った故事に引かれ、その神の妻になった話も、この時代のこととして語り伝えたのだろう。もしそうでなければ、この故事は別人の話なのか。その点ははっきりしない。
【宣長の注釈】「日子刺肩別命」。御名の「刺肩」の意味は、まだ確かに分からない。「別」については、日代宮の段で詳しく述べる。この皇子は『書紀』にはいない。
【宣長の注釈】「比古伊佐勢理毘古命」。『書紀』では「彦五十狭芹彦命」と書く。御名の「伊佐」は勇ましい意味である。『万葉集』では鯨を「勇魚」と書く。「勢理」は、神代の火須勢理命の「須勢理」と同じく、進む意味だ。「すせ」は縮まって「せ」になる。その神の名を『書紀』の一書が「火進命」とすることで分かる。孝安天皇の皇子、大吉備諸進命も、この皇子のことが誤って伝わったものかと述べた点を、合わせて考えてほしい。『続日本紀』巻二十五に、「伊予国の人、周敷連真国ら二十一人に周敷伊佐世利宿禰の姓を与えた」とあるのも、勇敢さを賞したことによる姓だろう。『神名式』には、播磨国賀古郡に天伊佐々比古神社という社もある。
【宣長の注釈】「大吉備津日子命」。『書紀』には吉備津彦命とある。名の「吉備」は国の名である。この御名を持つ理由も、その国のことも、後で述べる。
【宣長の注釈】「倭飛羽矢若屋比売」。『書紀』には「倭迹迹稚屋姫命」とある。「飛」は「とび」と読むべきだ。姉の御名が『書紀』で「倭迹迹日」となる、その例に従うからである。「とぶ」と読むのは誤りである。また『書紀』の「迹迹日」の「日」は濁って読むべきことも、ここで「飛」と書くことから分かる。「飛」は「ととび」を省いた形で、姉の御名の例と同じく、意味も同じである。「び」は「ひこ」「ひめ」などの「ひ」と同じで、呼び名に添える語だ。『書紀』では姉の名に「日」があって、この名にはなく、『記』では姉の名にはなく、この名にある。呼び名を添えるか添えないかの違いにすぎない。「羽矢」は、先の「千千速」などの「速」と同じである。普通は「はや」に「速」と書くのに、ここで「羽矢」としたのは、上の「飛」の字に引かれて、それと関わりのある字をふと書いたまでで、特別な意味はない。「屋」は「あや」で、美しさをたたえる語である。継体天皇の皇女の若屋郎女を、『書紀』が「稚綾姫」とすることから分かる。ほかの例に照らせば、この御名にも必ず「命」とあるはずなのに、その字がないのは脱落だろうか。
【宣長の注釈】「弟」は「みいろど」と読むべきである。
【宣長の注釈】「蠅伊呂杼」は、浮穴宮の段に出ている。『書紀』には、「また妃に絙某弟がいる」とある。
【宣長の注釈】「日子寤間命」。師は「寤間」を「さなま」あるいは「さのま」と読むべきだとされ、「『日本紀』に彦狭島とあり、島は『ま』だけでもいうからだ」と言われた。しかし「さな」とも「さ」とも読むのなら、「寤」の字は書けない。また『書紀』でも「ま」なら「島」とは書かないはずなので、やはり「さめま」と読むべきだ。名の意味は、まだ分からない。『書紀』には彦狭島命とあるが、この御名には検討すべき点がある。景行巻に、「五十五年、彦狭島王を東山道十五国の都督に任じた。豊城命の孫である。しかし春日の穴咋の村に着いて病に伏し、亡くなった。東国の民は王が来ないことを悲しみ、ひそかに王の亡骸を盗んで上野国に葬った」とある。下総国に狭島郡があるので、この地名によって後に呼ばれた御名だろう。そうなら、彦狭島命と呼ばれたのは、この時代の皇子ではなく、「寤間」と名が似ているために混同されたのだから、ここは『記』を正しいとすべきだろうか。『姓氏録』垂水史の条にも、「豊城入彦命の子、彦狭島命」と見える。「子」とあるのは、『書紀』の「孫」と少し違うが、いずれにしても、この時代の皇子でないことの証拠である。また『国造本紀』は「活目帝の皇子、大入来命の孫、彦狭島命」という。大入来命は崇神の皇子なのに、活目帝の皇子とし、彦狭島をその孫とする。これも異伝だが、この時代の皇子ではないことの証拠になる。古代には同名の人も多いが、一人を取り違えて、あちらにもこちらにも挙げる例も多いのである。
【宣長の注釈】「若日子建吉備津日子命」。この御名についても、「吉備」を名乗る理由は後に見える。『書紀』は稚武彦命とする。この御名に「吉備」という語がないのは不審だ。その理由は後で論じる。
【宣長の注釈】「男王」は「ひこみこ」、「女王」は「ひめみこ」と読むべきである。天皇の子や子孫を「王」ということについては、伊邪河宮の段の日子坐王の箇所で詳しく述べた。
【古事記本文】大倭根子日子国玖琉命が天下を治めました。大吉備津日子命と若建吉備津日子命の二柱は、ともに力を合わせ、播磨の氷河という川の前に神を祭る壺を据え、播磨を進路の入口として、吉備国を説き従わせました。
【宣長の注釈】「若建吉備津日子」。この御名は前にも後にも「若」と「建」の間に「日子」があるのに、ここではどの本にもその二字がない。これは『書紀』にも「稚武彦」とあるように、省略して呼ぶこともあったのである。そのような例は多い。日代宮の段に出る場合も、この二字はない。それなのに延佳本が勝手に補ったのは、余計な手出しである。
【宣長の注釈】「二柱相副而」とは、「二柱が並び合って」というような意味だ。これは上巻の「その姉、石長比売を添えて」という箇所、『伝』巻十六の二十六丁で詳しく述べた。「そふ」は普通、大きな物に小さな物、尊い者に身分の低い者が付き添う場合だけにいうようだが、もとはそうした意味だけではなく、同じほどのものが並びそろう場合にもいう。したがって、ここも兄が大将軍、弟が副将軍というわけではない。「副」の字にとらわれてはいけない。
【宣長の注釈】「針間」。『和名抄』には「播磨国、はりま」とある。国名の意味について、この国の『風土記』には、「萩原の里。土の中に井戸がある。萩原と名付けたのは、息長帯日売命が韓国から帰る時、御船がこの村に泊まり、一夜のうちに萩の根が生えて高さ一丈ほどになったので、萩原と名付けたためである。その時、天皇の井戸を掘ったので、針間井という」とある。ここでは国名の起こりだとはいわないが、「針間井」とあると、何となく国名もそこから出たように読める。もしそうなら、榛の木に由来する名である。また谷川氏は、「赤染衛門集に、播磨から来た人が針を贈ってきたと見え、藤原明衡の『新猿楽記』にも諸国の名産の中に播磨の針が挙げられるので、針に由来する名だろう」という。この説も捨てがたいが、古代から針を産出していたかどうかは分からない。〔訳注:風土記引用の里名と木名に用いられた「萩」は仮の採録である。「荻」との細かな字形の違いを、この画像からは確定できない。〕
【宣長の注釈】「氷河」。「ひのかは」か「ひかは」か分からないが、ひとまず「ひのかは」と読んだ。この川も、「氷」という地名も、文献には見えない。今はこの名が残っていないのだろうか。現地の人に尋ねたい。ある人は、「須佐之男命が大蛇を斬った簸川の上流は、出雲ではなく備前国の簸川である。備前の簸川は、赤坂郡の石上布都之魂神社の山の下を流れ、御野郡へ至って海に入る。後には御野川といい、大川とも西川とも呼ぶ。『古事記』の播磨の氷河も、この川である」と説く。しかし、まったく信じがたい。備前にあるものを、どうして播磨と呼ぶだろう。しかも御野川は、備前の中でも東側に寄った土地ですらないではないか。この氷河は、必ず播磨国内にあるはずだ。この説は、神代の簸川を備前に置くため、さまざまな無理な説明をし、証拠として忌部正通の『口決』を引いているが、それも文章を勝手にこじつけただけで、証拠にはまるでならない。古い名所を無理に自分の国へ引き入れようとするのは、実に見苦しいことである。
【宣長の注釈】「前」は「さき」と読むべきである。師は「くま」と読まれた。たしかに「くま」に「前」と書くことは古書に多く、川についても「くま」という例が多いので、どちらの点でももっともではある。しかし『記』では「くま」はすべて「隈」と書き、「前」を用いる例がなく、「さき」に「前」を使う。川について「さき」というのは珍しいが、用字の例に従って読んだ。
【宣長の注釈】「忌瓮」は、延佳本の「いはひべ」という読み方がよい。「瓮」は、『書紀』仁賢巻に「瓮は、へという」と見える。『貞観儀式』の大嘗祭の用具にも、「淡路国御原郡の瓮十口、それぞれ一斗五升入る」などとある。古い文献で「へ」に用いた字は「瓮」なのか「瓫」なのか一定しない。本来は一つの字だったはずだが、形も意味も似ているため、後に混同して、どちらも書くようになったのだろう。ここで区別しておく。「瓮」は烏貢の反切で、『説文』には「罌である」といい、「甕」と同じことだ。「瓫」は歩奔の反切で、「盆」と同じである。『和名抄』には、「甕。瓮とも書く。和名もたひ」、「盆。瓫とも書く。ひらか。俗にほときという」とあり、「へ」という名は見えない。おおよそ「瓮」は大きく胴の膨らんだ物、「瓫」は小さい物のようだが、中国でも古い用法では二字の区別が曖昧に読める。今考えると、「へ」には「瓮」より「瓫」の方がいくらかよく合うので、古書が用いたのは本来みなこちらの字だったのだろう。『書紀』神武巻には、「厳瓮。これは、いつへという」とも見える。この器は、魚や野菜を煮る器の名でもある。「忌瓮」は神祭りに使う器で、清め慎んで用いるための名だ。〔訳注:「今思ふに」の直後の一字と、「魚菜を烹る瓮」の前の一字は、細画を確定できない。「へ」の用字と器の用途についての説明として仮に訳した。〕
【宣長の注釈】さて「居る」とは、地面を掘り、器の下部を少し埋めて据えることをいう。『万葉集』の歌で「穿り居ゑ」とするのがこれである。今も土の中から古代の土器を掘り出すことがあるが、見てみると、底が丸く、そのまま据えれば傾いて転がる。水垣宮の段にも、「丸邇坂に忌瓮を据えて……」とあり、『書紀』では、それを「鎮め据える」とする。『万葉集』巻三には、「斎き祭る壺を、忌み清めて穴に据えて」とあり、同じ表現は巻四の四十六丁、巻十三の十九丁にもある。巻二十には「斎き清めた壺を、前に据え置いて」、巻十七には「草枕、旅ゆく君の無事を祈って、いわいべを据えました、私の床のほとりに」、巻二十には「いわいべを、床のほとりに据え……」と詠んでいる。ここでも水垣宮の段でも、軍の出発時にこの行事があるのは、国を服従させに出る、その入口で必ず行い、行く先が平安で、征服を成し遂げられるよう、鎮め祈るのだろう。森に木を伐りに入る時、山口祭を行うようなものだ。ただ「忌瓮を据えて」とだけいい、神を祭ることを何もいわないのは、古く神を祭って祈ることを、「忌瓮を据える」といったからである。巻十七の歌の「いはひべ据ゑつ」なども、明らかにそう読める。『書紀』はどこも文章を飾ることが多いのに、それでさえ崇神巻には、ただ「忌瓮を和珥坂の上に鎮め据えた」とだけある。祭祀の道具はいろいろある中で、とくにこの器を据えることを、その行事の呼び名にするのは、古代の礼法で、深い理由があるのだろう。中古以来、このような儀式が絶えて廃れたのは、たいへん嘆かわしい。〔訳注:巻二十の最後の引用「伊波比倍乎、等許敝爾須惠〓」は末字の細画を確定できず、その文末の訳は完結させていない。〕
【宣長の注釈】「道口」とは、入り始める所を「口」、奥の方を「尻」という。人の体の口と尻と同じである。それに「前」「後」の字を当て、北陸道では「こしのみちのくち」を越前、「こしのみちのなか」を越中、「こしのみちのしり」を越後という。山陽道では「きびのみちのくち」が備前、「きびのみちのなか」が備中、「きびのみちのしり」が備後である。西海道では「つくしのみちのくち」が筑前、「つくしのみちのしり」が筑後、「ひのみちのくち」が肥前、「ひのみちのしり」が肥後、「とよくにのみちのくち」が豊前、「とよくにのみちのしり」が豊後である。いずれも『和名抄』に見える。ここは吉備国に入ろうとする道の入口であり、後の時代まで播磨は山陽道の入口だった。ここで「道の口とする」という理由は、水垣宮の段の「東方十二道」の箇所、『伝』巻二十三の五十八丁で詳しく述べるので、合わせて考えてほしい。「道口」「道尻」というのも、その国を治めるため、都から行く道順による名なのである。
【宣長の注釈】「吉備国」は、上巻、『伝』巻五の二十二丁に出ている。
【宣長の注釈】「言向和」も、すでに神代の段に見える。ある本には「向」の下に「平」の字があり、それも悪くない。この兄弟二柱をともに吉備津日子命と呼び申し上げるのは、この功績による。さて、この征服の話について『書紀』を調べると、崇神巻に次のようにある。「十年秋七月、群卿へ詔した。……九月丙戌朔の甲午、大彦命を北陸、武渟川別を東海、吉備津彦を西道、丹波道主命を丹波へ遣わし、『教えを受け入れない者があれば、軍を挙げて討て』と命じた。そして、全員に印綬を授け、将軍とした」。ところが武埴安彦が妻の吾田媛とともに反乱を起こしたため、「そこで、改めて諸将軍をとどめて相談した。……天皇は五十狭芹彦命を遣わして吾田媛の軍を攻撃させた。大坂で迎え撃ち、ことごとく大敗させた……」とある。こうして埴安彦が滅び、事件が平定されると、「冬十月、群卿へ詔した。……四道の将軍は、今すぐ出発せよ。将軍たちは、それぞれの道へ出発した。十一年夏四月、四道の将軍は、異民族を平定した様子を奏上した」とある。四道とは、先に挙げた北陸・東海・西道・丹波である。「西道」は山陽道のことと読め、西海道まで含むのではないはずだ。また、この記述では吉備津彦命と五十狭芹彦命は別人のように見え、不審である。同じ御代に、吉備津彦と武渟川別を遣わして出雲振根を誅殺させたことも、『書紀』に見える。
【古事記本文】この大吉備津日子命は、吉備の上道臣の祖です。若日子建吉備津日子命は、吉備の下道臣・笠臣の祖です。日子寤間命は、播磨の牛鹿臣の祖です。日子刺肩別命は、高志の利波臣、豊国の国前臣、五百原君、角鹿の海直の祖です。
【宣長の注釈】「上道臣」。『和名抄』にある備前国上道郡、読みは「かむつみち」、この土地に由来する氏名である。上道郷もこの郡内にある。今、この郡は二つに分かれ、奥上道・口上道という。師は「上道」とは備前のことだと言われた。それにも理由はあるが、やはりそうではないだろう。『国造本紀』は、「上道国造。軽島豊明宮の時代、初めに封ぜられた仲彦命、その子の多佐臣を、初めて国造とした」とする。仲彦は『書紀』応神巻に見え、その文章は後に引用する。『書紀』雄略巻七年には吉備上道臣田狭の話があり、清寧巻にもこの氏族の人が罪を犯した話が見える。そのために衰えたのだろうか。天武の時代に朝臣の姓を与えられた氏族にも入らず、『姓氏録』などにも見えない。『続日本紀』には、「天平宝字元年七月、上道臣斐太都に朝臣の姓を与えた。閏八月、上道朝臣斐太都を吉備国造とした」と見える。この人がこのように栄えたのには、理由がある。さて吉備氏の始祖について、『書紀』の伝承は『記』と異なる。そのことは、次の下道臣の注で詳しく論じる。
【宣長の注釈】「下道臣」。「下」の字を、諸本が「上」とするのは誤りで、今は真福寺本に従った。諸本はどれも両方とも「上道」とする。一方が必ず「下道」の誤りであることは明らかだが、どちらがどちらか判別しにくかった。そのため、以前は『書紀』応神巻に基づいて少し考えを加え、『記』でもひとまず兄の子孫を下道として記しておいたが、後に真福寺本を見ると、弟の子孫の方が下道臣だったのである。
【宣長の注釈】さて吉備氏について、『書紀』には、「稚武彦命は、吉備臣の始祖である」と見える。兄がどの氏族の始祖なのかは記されない。また応神巻には、次のようにある。「二十二年春三月、妃である、吉備臣の祖、御友別の妹の兄媛は、父母を恋しく思い、西を望んで嘆いた。……天皇はそれを聞き入れ、吉備へ帰らせた。夏四月、兄媛は船を出して帰っていった。天皇は兄媛の船を望み、歌を詠んだ。……秋九月、天皇は淡路島で狩りをし、そのまま吉備へお出かけになった。御友別が参上し、兄弟や子孫を膳の奉仕役として、もてなした。天皇は、御友別が慎み畏まって仕える様子を御覧になって喜ばれ、吉備国を分けて、その子らに与えた。川島県を分け、長子の稲速別に与えた。これが下道臣の始祖である。次に上道県を中子の仲彦に与えた。これが上道臣と香屋臣の始祖である。次に三野県を弟彦に与えた。これが三野臣の始祖である。さらに波区芸県を御友別の弟の鴨別に与えた。これが笠臣の始祖である。また苑県を兄の浦凝別に与えた。これが苑臣の始祖である。織部県は兄媛に与えた。その子孫が今も吉備国にいるのは、この縁による」。御友別は稚武彦命の孫である。弟彦は御友別の末子と読める。香屋は備中国賀夜郡、三野県は備前国御野郡に当たる。波区芸県は文献に見えない。苑県は、備中国下道郡に曾能郷があるので、それだろう。織部県については、備前国邑久郡と備中国賀夜郡に服部郷、備後国品治郡に服織郷があるので、そのいずれかだろう。
【宣長の注釈】このような『書紀』の伝承によると、下道臣も上道臣も、ともに稚武彦命の子孫なので、兄の子孫はいなかったのだろうか。たいへん不審である。崇神巻で、四道将軍のうち西道を服従させたのは、この兄の方で、そこには弟のことが見えないからだ。もし吉備臣らの祖がもっぱら弟なら、その時も『記』のように兄弟そろって出かけたはずなのに、兄だけを挙げ、諸氏の祖である弟のことを記さないのは、どうしたことだろう。あるいは、吉備国を服従させたのは弟だったのを、『記』は兄弟二柱と伝え、『書紀』は「若建吉備津日子」という名を取り違えて、ただ「吉備津日子」と伝えたため、兄の話になったのかとも思う。しかし、それなら兄が「吉備津日子」という御名を持つ理由がない。また、この二柱は、実は一柱だったのに、両書とも御名の混同によって二柱と伝えたのかとも思うが、兄は「大吉備津日子」、弟は「若建吉備津日子」で、「大」と「若」に分かれているので、そうでもない。どちらから見ても疑わしい。ただし『姓氏録』などでも、吉備から出た諸氏は「稚武彦命の子孫」とだけいい、「大吉備津彦命の子孫」というものは見えない。『続日本紀』巻二十六には、「吉備津彦の子孫、上道臣……」とあるが、この吉備津彦も弟を指す。その理由は『三代実録』巻三十六に見える。また『姓氏録』の「椋椅部首。吉備津彦五十狭芹命の子孫というが、そのことは確認できない」という記事も、出自未確定の雑姓の項である。『国造本紀』には、「葦北国造。吉備津彦命の子、三井根子命を国造に定められた」とあるが、これも確かなことではない。
【宣長の注釈】そこで、ひとまず『書紀』の伝承に従って考えるなら、次のようになるだろう。ただし吉備国を服従させたのは「二柱がともに」とする『記』の伝承が正しい。そうでなければ、弟の子孫がその国にいる理由がないからだ。兄弟そろってその国を服従させたが、兄の子孫はなく、弟の子孫だけが、その国で栄えたのだろう。その跡継ぎは、若建日子命の子の吉備建日子命である。これは『姓氏録』に見え、この命は倭建命の段にも出る。その第二子が御友別である。これは『三代実録』巻三十六に見える。そして御友別の長子、稲速別は下道臣の祖、次子の仲彦は上道臣の祖なのに、『記』はこの兄弟を取り違えて、始祖の兄弟、大吉備津日子命と若建日子命として伝えた混同なのだろうか。以前、ひとまず兄の子孫を下道と定めたのも、このためである。『書紀』でも兄が下道の祖、弟が上道の祖だからだ。ただし『記』の伝承も一つの伝承なので、必ず誤りと決めるべきではない。
【宣長の注釈】この吉備氏は、先に述べたようにいくつかに分かれたが、全体を広く「吉備臣」とも呼んだらしい。日代宮の段や『書紀』神功巻などに「吉備臣の祖」と見え、さらに後の雄略・顕宗・欽明などの巻にも「吉備臣」という例がある。『神名式』の備中国賀夜郡に吉備津彦神社があり、名神大社とされる。これは、この氏の神である。伝承では吉備武彦命を祭るという。神の名から考えると、始祖の若建日子命だろうか。あるいは氏族の祖ではなくても、国を服従させた大吉備津日子命かもしれず、判断できない。『式』に載るのは、いずれにせよ一柱である。この神社は、世にいう吉備津宮で、宮内村にある。
【宣長の注釈】さて下道臣は、『和名抄』の備中国下道郡、読みは「しもつみち」、この土地に由来する氏名である。『書紀』の「川島県を分けて……」という川島の地名は、後には見えないので、下道郡の区域を指すのだろうか。『国造本紀』は、「下道国造。軽島豊明宮の時代、初めに封ぜられた兄彦命、別名稲建別を、国造に定められた」とする。「建」の字は、『書紀』によれば「速」の誤りだろう。また、この人を国造とするのは疑わしい。『書紀』雄略巻には、吉備下道臣前津屋という人が罪を犯し、一族七十人が処刑された話が見える。天武巻には、「十三年十一月戊申朔、下道臣に朝臣の姓を与えた」とある。『続日本紀』には、「天平十八年冬十月丁卯、従四位下の下道朝臣真備に吉備朝臣の姓を与えた」とある。巻十二の二丁に、この人の氏名を上道朝臣とするのは書き写しの誤りだ。この人だけが、この時に下道を吉備へ改めた。天平神護二年十月には右大臣となった。宝亀六年十月に八十三歳で亡くなった、世に名高い吉備大臣である。また天平二十年十一月己丑には、「下道朝臣の乙吉備と、『直事広』と記される二人、合わせて三人に、ともに吉備朝臣の氏姓を与えた」とある。「直事広」は二人の名に当たるが、誤字か脱字があるのだろうか。『姓氏録』左京皇別の吉備朝臣には、「大日本根子彦太瓊天皇の皇子、稚武彦命の子孫」とある。この「朝臣」を今の本が「宿禰」とするのは誤りだ。これは、天平のころ下道を吉備朝臣へ改めた一族である。また『続日本紀』には、「天平神護二年五月癸亥、下道臣色夫多に朝臣の姓を与えた」とある。『姓氏録』左京皇別の下道朝臣は、「吉備朝臣と同祖で、稚武彦命の孫、吉備武彦命の子孫」とする。ここは吉備武彦を稚武彦命の孫とするが、次に述べる真髪部の項で「子」とある方が正しい。
【宣長の注釈】「笠臣」。『書紀』応神巻には、「波区芸県を御友別の弟の鴨別に与えた。これが笠臣の始祖である」とあり、先に引用したとおりである。この「臣」を今の本が「田」とするのは誤りだ。この人は神功巻にも「吉備臣の祖、鴨別」と見える。『国造本紀』は、「笠臣国造。軽島豊明朝の時代、初めに封ぜられた鴨別命の八世の孫、笠三枚臣を、国造に定められた」とする。ここで「笠臣国造」と見出しを付けた、その「臣」とは何のことか。実にまずい、でたらめな書き方である。ただ「八世の孫……」という部分は、根拠があって述べたように見えるので引用した。『書紀』仁徳巻には笠臣の祖、県守という人の話が見え、孝徳巻には吉備笠臣垂、天智巻には笠臣諸石などが見える。天武巻には、「十三年十一月戊申朔、笠臣に朝臣の姓を与えた」とあり、『続日本紀』には、「天平神護元年六月、笠臣気多麻呂に朝臣の姓を与えた」とある。
【宣長の注釈】『姓氏録』右京皇別の笠朝臣には、「孝霊天皇の皇子、稚武彦命の子孫である。応神天皇が吉備国へ巡幸し、加佐米山へ登った時、つむじ風が天皇の笠を吹き飛ばした。天皇が不思議に思われると、鴨別命は、『神々が天皇へ獲物を献上しようとしているため、そのようなことが起きたのです』と言った。天皇が真偽を確かめようと、その山で狩りをさせると、たいへん多くの獲物が得られた。天皇は大いに喜ばれ、賀佐という名を与えた」とある。「賀佐と名付けた」とは、山の名なのだろうか。加佐米山とあるからだ。あるいは鴨別に与えた名なのか。そうなら、その名をそのまま氏名にもしたのか。また「名」とはいっても、初めから氏名なのか。いずれにしても、「笠」という呼び名の起こりは、この話である。
【宣長の注釈】『続日本紀』には、「天平神護二年十月、備前国の人、三財部毘登方麻呂ら九戸に笠臣の姓を与えた」とある。『姓氏録』右京皇別の笠臣は、「笠朝臣と同祖で、稚武彦命の孫、鴨別命の子孫である」とする。『続日本後紀』には、「承和三年三月、飛騨国の人、三尾臣永主と、同姓の息長らに笠朝臣の姓を与え、右京五条に籍を置いた。永主は稚武彦命の子孫である」とある。『三代実録』元慶三年十月には、「左京の人、印南野臣宗雄と、その男子三人、女子一人、妹一人に笠朝臣の姓を与えた。その祖先は吉備武彦命から出ている。宗雄は自ら、『吉備武彦命の第二子、御友別命の十一世の孫、人上は、天平神護元年に居住地の名を採って印南野臣の姓を与えられた。第三子の鴨別神は、笠朝臣の祖である。兄弟の子孫なのだから、同姓であるべきだ』と申した」とある。「鴨別神」の「神」は「命」の誤りだろう。ただ、この宗雄のいう趣旨は理解できない。自分の先祖の御友別の子孫である下道朝臣や上道朝臣などを差し置いて、弟の鴨別の子孫の氏姓を、とくに望むのは、どういう意図なのか。
【宣長の注釈】若建日子命の子孫には、以上の氏族のほかにも、『姓氏録』に「吉備臣。稚武彦命の孫、御友別命の子孫である」、「真髪部。同じ命の子、吉備武彦命の子孫である」などが見える。印刷本は吉備臣の「臣」を落としているが、古本にはある。また備中国窪屋郡には真壁郷がある。
【宣長の注釈】「播磨の牛鹿臣」。「牛」の「し」は濁って「うじか」と読むべきだ。ほかの書に「宇自加」と書くからである。「黒牛」「黄牛」などでも、「し」が濁る例が多い。『書紀』安閑巻には、播磨国の牛鹿屯倉がある。『姓氏録』右京皇別の宇自可臣は、「孝霊天皇の皇子、彦狭島命の子孫である」とする。『続日本紀』巻二十一には宇自賀臣山辺、巻二十二には宇自可臣山道という人が見える。「辺」と「道」のどちらかが写し間違いで、一人の人だろう。『続日本後紀』承和二年九月には、「右京の人、宇自可臣良宗に春庭宿禰の姓を与えた。彦狭島命の子孫である」とある。『文徳実録』斉衡二年八月には、「宇自可臣武雄を笠朝臣へ改姓した」、『三代実録』貞観六年八月には、「右京の人、宇自可臣吉人に笠朝臣の姓を与えた。彦狭島命の子孫である」とあり、さらに元慶元年十二月には、「右京の人、宇自可臣秋田ら男女十四人に笠朝臣の姓を与えた。彦狭島命の子孫である」とある。彦狭島命の子孫なのに、笠朝臣の姓を与えられたのは、どういう理由なのか。『小右記』には宇自可春利、宇自可吉忠などの人が見える。〔訳注:原文の「牛の目」は、続く「宇自加」や「黒牛・黄牛」の説明から、牛の語末の「し」を指すと解した。「目」という字の使い方自体は確定できない。〕
【宣長の注釈】「高志の利波臣」。高志は越国で、上巻に見える。利波は、『和名抄』の越中国礪波郡、読みは「となみ」がこれに当たる。越後国磐船郡にも利波郷があるが、それではないだろう。『万葉集』巻十七には「礪波山」、巻十八には「礪波の関」、巻十九には「利波山」などと詠まれる。『一代要記』には、越中と加賀の境の礪波山とある。『続日本紀』巻十七・二十八・三十五に、越中国の人、利波臣志留志という人物が見える。東大寺の事業に功績があり、越中の員外介となり、従五位上に進み、後に伊賀守になった人である。
【宣長の注釈】「豊国の国前臣」。豊国については上巻に見える。国前は、『和名抄』の豊後国国埼郡、読みは「くむさき」がこれに当たる。「君」の字を書くのは、ただ「く」を表す仮名なのではなく、「くに」を音便で「くむ」と発音したためだろう。『書紀』垂仁巻にも豊国国前郡とある。景行巻には、「十二年、熊襲が反乱を起こしたので、筑紫へ出かけ、先に国前臣の祖、菟名手を遣わした……」とある。『国造本紀』は、「国前国造。志賀高穴穂朝に、吉備臣と同祖である吉備都命の六世の子孫、午佐自命を、国造に定められた」とする。「午」は「乎」の誤りだろうか。吉備臣と同祖というのは、異なる伝承である。
【宣長の注釈】「五百原君」。『和名抄』の駿河国廬原郡、読みは「いほはら」がこれに当たる。廬原郷もある。『万葉集』巻三の歌には「廬原の……」とある。『国造本紀』は、「廬原国造。志賀高穴穂朝の時代、池田坂井君の祖で、吉備武彦命の子である意加部彦命を、国造に定められた」とする。「池田坂井君の祖」という点は理解できない。「意」はある本では「思」と書く。『書紀』天智巻には廬原君臣、『続日本紀』巻九には五百原君虫麻呂、『続日本後紀』巻四には廬原公有守などの人が見える。『姓氏録』右京皇別の廬原公には、「笠朝臣と同祖で、稚武彦命の子孫である。その孫の吉備武彦命は、景行天皇の時代、東方へ遣わされ、毛人や凶悪な神々を討ち、阿倍の廬原国へ至った。復命した日に、廬原国を与えられた」とある。阿部郡も駿河にある。さて、先の氏族は「某国の……」と国名を挙げるのに、ここで「駿河の」といわないのは、どういうことか。一般に朝廷へ出て、いつも身近で仕える人々の氏名には、国名を付けず、国名を付けるのは、現地にいて、いつも身近で仕えるわけではない氏族なのである。
【宣長の注釈】「角鹿の海直」。角鹿は、越前国の敦賀である。この土地のことは、詞志比宮の段の末に見える。「海」は、師の「あま」という読みを採るべきだ。「海部」だからである。『書紀』雄略巻の吉備海部直、『続日本紀』巻九の海部直などの「海部」と同じだ。海部を省いて「海」とだけ書く例は、凡海連・海犬養連などがある。海部という地名はあちこちにあり、尾張国海部郡を「あま」と読むのもその例なので、これも敦賀のうちの地名に由来する氏名なのか、あるいは海人に関する事柄を統率するなどの理由で名乗ったのか、詳しくは分からない。凡海連・海犬養連などは、海人に由来する氏名と読める。『姓氏録』で安曇宿禰と同祖だからである。安曇氏が海人を統率したことは、『伝』巻六の六十九丁で述べたとおりだ。『続日本紀』巻二十六には敦賀直、『類聚国史』天長五年には越前国の采女の角鹿直福貴子、『三代実録』巻十四には角鹿直置福子などが見えるが、これらは別の氏族なのだろうか。『国造本紀』は、「角鹿国造。志賀高穴穂朝の時代、吉備臣の祖、若武彦命の孫、建功狭日命を国造に定められた」とする。この氏族と同じか別かは、詳しく分からない。
【宣長の注釈】さて以上の諸氏の祖については、『姓氏録』などの伝承も、多くが『書紀』と同じで、『記』とは異なる。その理由は、『書紀』が諸説の中から正しいものを選んで記したためでもあろうが、そればかりではない。おおよそ『書紀』の成立以後は、何事もその筋道に合うものを正しいとし、合わないものを誤りとしてきたので、家々の伝承なども、自然と『書紀』に合うよう書き改められたことが、多少はあっただろう。『旧事紀』が「彦五十狭芹彦命、別名吉備津彦命は吉備臣らの祖。彦狭島命は海直らの祖。稚武彦命は宇自可臣らの祖」とするのは、また異なる説である。あの書は、全体としては頼りにしにくいが、まれには捨てがたい事柄も混じるので、これも一つの伝承だったのかもしれない。以上の皇子たちの列挙の順序について、二柱の吉備津日子命を先に挙げたのは、吉備国を服従させた話に続けたためだろう。次の日子刺肩別命と日子寤間命の順序が、前の列挙と違うのは、どんな意味があるのか分からない。子孫の氏族の身分の高低などがあり、それによったのだろうか。
【古事記本文】天皇は百六歳でした。御陵は片岡の馬坂のあたりにあります。
【宣長の注釈】「御年百六歳」。『書紀』は、「七十六年春二月丙午朔の癸丑、天皇が崩御した」とするだけで、年齢は記さない。ただし、父天皇の七十六年春正月に「皇太子に立てた」とあることによれば、百二十八歳になるだろう。ほかの書には、百二十八歳、百三十四歳とするものもある。
【宣長の注釈】「片岡」。『書紀』綏靖巻に見える片丘も、この場所だろう。推古巻には、「二十一年、皇太子が片岡へ出かけた……。歌を詠んで、『照り映える片岡山に……』」とあり、『古今集』の歌にも「片岡の朝原は……」などとある。片岡坐神社も『神名帳』に見える。
【宣長の注釈】「馬坂」。『書紀』孝元巻には、「六年秋九月戊戌朔の癸卯、大日本根子彦太瓊天皇を片丘馬坂陵に葬った」とある。『諸陵式』には、「片岡馬坂陵。黒田廬戸宮で天下を治めた孝霊天皇。大和国葛下郡にある。陵の区域は東西五町、南北五町。守戸五戸」とある。『前皇廟陵記』には、「馬坂。ある説に、今の馬瀬坂がこれだという」とあり、『大和志』には、「王寺村の馬脊坂の東の山中にある。陵のほとりに家が二軒ある」とある。
古事記伝 巻二十二
本居宣長、謹んで著す。
境原宮の巻
【古事記本文】大倭根子日子国玖琉命は、軽の堺原宮においでになり、天下を治められた。
この天皇は、穂積臣らの祖・内色許男命の妹、内色許売命を娶り、大毘古命、次に少名日子建猪心命、次に若倭根子日子大毘毘命の三柱を生んだ。〔色許の二字は音を表す。以下も同じ。〕また内色許男命の娘、伊賀迦色許売命を娶り、比古布都押之信命を生んだ。〔比から都までは音を表す。〕また河内の青玉の娘で、名を波邇夜須毘売という人を娶り、建波邇夜須毘古命一柱を生んだ。この天皇のお子たちは、合わせて五柱である。
【宣長の注釈】この天皇を、後の漢風の諡では孝元天皇と申し上げる。
【宣長の注釈】軽は、前に出た。
【宣長の注釈】堺原宮は、『日本書紀』に、四年春三月、甲申を朔とする甲午の日、軽の地へ都を移し、これを境原宮という、とある。この宮の土地については、境岡宮の段〔『伝』巻二十一・十七葉〕で述べた。〔ある人は、軽村の大道の西で、今も里人がさかきばらという所だ、といっている。〕
【宣長の注釈】穂積臣の穂積は地名だ。『万葉集』巻十三・二十四丁の『帛叫、奈良より出でて、水蓼、穂積に至り、鳥網張る、坂手を過ぎ、石走る、神奈備山に……』〔奈良を出て、穂積へ着き、坂手を過ぎ、神奈備山へ。冒頭の帛叫は、宣長自身が明らかな誤字とする。〕と詠む穂積だろう。国が大和なのはいうまでもないが、どの郡かは詳しく分からない。〔右の歌から考えると、添上・城上・城下・十市などの郡内だろう。甘南備山は飛鳥の神南備山で、奈良の都からそこまでの道だからだ。今、城下郡には坂手村がある。十市郡の穂津村が穂積だという説もあるが、そこでは、この歌の道順に合わない。〕また『和名抄』には、摂津国島下郡・尾張国丹羽郡・美濃国本巣郡・播磨国賀茂郡などに穂積郷があるが、これらの土地のことではなさそうだ。『神名式』には伊勢国朝明郡の穂積神社もある。
【宣長の注釈】この氏は、白檮原宮の段に、邇芸速日命が登美毘古の妹・登美夜毘売を娶り、宇摩志麻遅命を生んだ。この人は物部連・穂積臣の祖である、と見える。『旧事紀』巻五に、この氏の系譜を記す。『日本書紀』天武の巻には、十三年十一月、戊申を月の初めとする月、穂積臣に朝臣の姓を賜った、とある。『姓氏録』の左京神別には、穂積朝臣は石上と同祖で、神饒速日命の五世の孫・伊香色雄命の子孫、また穂積臣は、伊香賀色雄の子・大水口宿禰の子孫とある。『日本書紀』崇神・垂仁の巻にも、穂積臣の遠祖・大水口宿禰と見える。
【宣長の注釈】内色許男命・内色許売命の内色許は『うつしこ』と読む。〔内を、昔はうつともいった例が多い。〕名のうつは、美しい意味か、現れて見える意味だろう。しこを・しこめは、神代の葦原醜男と同じ例だ。〔『伝』巻九・六十一葉。〕
『旧事紀』にある、この氏の系譜を考えると、宇摩志麻治命の子の名として味饒田命・彦湯支命、彦湯支命の子の名として大禰命・出雲醜大臣命・出石心大臣命が挙がる。出石心大臣命の子が大水口宿禰命・大矢口宿禰命、大矢口宿禰命の子が欝色雄命・欝色謎命・大綜杵命・大峯大尼命で、この四人の母は坂戸由良都姫だ。同書巻七も、欝色謎命は物部連公の祖・出石心命の孫という。〔しかし、この系譜には疑いがある。大水口宿禰は『姓氏録』では伊香賀色雄の子で、『日本書紀』でも崇神・垂仁の御世の人なのに、ここの内色許男の伯父とするのは、食い違うからだ。〕
【宣長の注釈】大毘古命の名の意味は、特に変わったことはない。この命の功績は、水垣宮の段に見える。
【宣長の注釈】少名日子建猪心命の、日子の日は、少名毘古那神の名にならい、濁って読む。少名日子は、兄の大毘古に対する名だ。〔昔は、大と少を対にしていう例が多い。〕猪心は、勇ましい心ということだろう。〔『日本書紀』の男心と考え合わせると、猪は緒の誤りかとも思うが、〕景行の巻には、屋主忍男武雄心命の名を、一説に武猪心ともいう、とある。また『旧事紀』では、伊香色雄命の子に建胆心大禰命という名もある。〔猪のゐと胆のいは違うが、近いので引いた。こうして男心とも猪心とも伝わったのだ。〕
【宣長の注釈】若倭根子日子大毘毘命の若倭根子は、父天皇の名の大倭根子に対して称えた名だ。毘毘は耳と同じで、尊んでいう呼び名である。〔語頭を濁る例はないが、これは前の大から続く発音の都合で、びと申したのだ。耳の説明は前に出た。〕『日本書紀』には『七年春二月、丙寅を朔とする丁卯の日、欝色謎命を皇后に立てた。皇后は二男一女を生んだ。第一は大彦命、第二は稚日本根子彦大日日天皇、第三は倭迹々姫命。一説には、天皇の同母の弟は少彦男心命である』と見える。また開化の巻には、母は欝色謎命で、穂積臣の遠祖・欝色雄命の妹、とある。
【宣長の注釈】伊賀迦色許売命の賀迦は、古い版本には迦賀とあるが、伊邪河宮の段では諸本とも賀迦なので、ここも延佳本と別の一本に従った。〔ただし水垣宮の段の伊迦賀色許男命は、諸本とも迦賀である。〕名の伊は、語頭に添えたものだろうか。賀迦は、輝くという赫だろう。〔初めを濁るのは、伊から続く発音の都合だ。また初めを濁ったため、下の賀を清音の迦というのも、発音の都合で、古語にこういう例がある。朝倉宮の段の歌の『夕日の、ひがける宮』も、夕日が輝く宮ということだ。〕色許売は、前に出た語と同じだ。河内国茨田郡には伊香〔いかが〕、阿波国麻殖郡には伊加加志神社などがある。
この比売命は、『日本書紀』崇神の巻では、物部氏の遠祖・大綜杵の娘とあり、『旧事紀』も大綜杵命の子とする。〔『旧事紀』では、大綜杵命は欝色雄命の弟だ。〕『古事記』とは異なる伝えである。
【宣長の注釈】比古布都押之信命の信は『まこと』と読む。『姓氏録』に彦布都意斯麻己止命と書く。〔版本では都を部と誤るが、古本には都とある。〕布都は太のことだ。〔ふとをふつという例は、『万葉集』巻十八で太馬をふつまとする。ふつつかという語も、太つかである。〕押は、大きいということだ。〔前に見える。〕信は、まことの事という意味だろうか。前後の例によれば、この名の下にも一柱という注があるはずだ。『日本書紀』には、妃の伊香色謎命が彦太忍信命を生んだ、とある。
【宣長の注釈】青玉の名の意味は、文字のとおりだろうか。〔『神名帳』には、伊豆国那賀郡の青玉比売神社がある。〕
【宣長の注釈】波邇夜須毘売と同じ神名が、上巻にある。その名の意味は、そこの『伝』巻五・五十七葉で述べた。ここの名は地名によるのだろう。大和国十市郡、天香山の近くの地だ。〔その土地のことも『伝』巻五で述べた。〕『万葉集』巻一・二十二丁の埴安の堤、巻二・二十八丁の埴安の御門の原、また埴安の池の堤などと詠む所である。この比売は、ここに住んでいたため、その地名を名に負ったのだろう。〔名に負うとは、比売の名にしている、ということだ。〕
【宣長の注釈】建波邇夜須毘古命の名も、母のもとで育たれたため、同じ地名によるのだろう。〔『神名帳』には、大和国十市郡の畝尾坐健土安神社がある。この社についても、『伝』巻五で述べたとおりだ。〕『日本書紀』には、次の妃、河内の青玉繫の娘・埴安媛が、武埴安彦命を生んだとある。この命が謀反の者として滅ぼされたことは、水垣朝の段に見える。
【古事記本文】こうして、若倭根子日子大毘毘命が天下を治められた。その兄、大毘古命の子・建沼河別命は、阿倍臣らの祖である。次の比古伊那許志別命は、膳臣の祖である。〔比から志までの六字は音を表す。〕
比古布都押之信命は、尾張連らの祖・意富那毘の妹、葛城の高千那毘売を娶り、味師内宿禰を生んだ。この人は山代内臣の祖である。〔那毘の二字は音を表す。〕また木国造の祖・宇豆比古の妹、山下影日売を娶り、建内宿禰を生んだ。
【宣長の注釈】建沼河別命の沼河を『ぬなかは』と読むわけも、その意味も、白檮原朝の皇子・神沼河耳命の場合と同じだ。〔『伝』巻二十・三十六葉。〕この皇子の功績は、水垣宮の段に見える。
【宣長の注釈】阿倍臣の阿倍は、確かに地名だが、どこかは詳しく分からない。駿河国には安倍郡、大和国十市郡には安部村がある。〔いわゆる安部文殊の寺のある土地だ。この地名は、古書には見えない。〕また摂津国東生郡には安倍野という所もある。このうちだろうか。なおよく調べるべきだ。〔延佳の頭注に、伊賀国阿拝郡を引き、阿倍臣は敢臣とも書くというのは、誤りだ。敢臣は阿倍臣とは違う。阿倍の倍は濁る。混同してはならない。阿拝郡の拝も清音で、敢と同じだ。〕
『日本書紀』には、大彦命は阿倍臣ら、合わせて七族の始祖と見え、垂仁の巻にも阿倍臣の遠祖・武渟川別と見える。その後も、この氏の人々は、代々あちらこちらに見える。孝徳の巻では、天皇即位の日、阿倍内麻呂臣を左大臣にした。〔蘇我倉山田石川麻呂臣を右大臣にした。これが左右の大臣の始まりだ。〕内麻呂は倉梯麻呂ともいった人だ。〔同じ御世の五年三月、乙巳を朔とする辛酉の日、阿倍大臣が亡くなった。〕天武の巻の十三年十一月、戊申を朔とする月、阿倍臣に朝臣の姓を賜った。
『続日本紀』大宝元年三月には、阿倍朝臣御主人が右大臣となった。〔御主人は『みうし』と読む。うしを主人と書く例は、あちらこちらにある。この人の氏は『天武紀』『持統紀』には布勢朝臣で、持統天皇十年の所で初めて阿倍朝臣とある。『続日本紀』巻二には、阿倍普勢臣御主人と書く所もある。布勢朝臣は『姓氏録』で阿倍朝臣と同祖なので、この人の一族は、もと布勢だったのを阿倍に改められたのだろう。大宝三年閏四月朔に亡くなった。〕『姓氏録』の左京皇別には、阿倍朝臣は孝元天皇の皇子・大彦命の子孫、とある。
〔『続日本紀』では、慶雲元年十一月、引田朝臣宿奈麻呂の氏を改め、阿倍朝臣を賜った。和銅五年十二月、阿倍朝臣宿奈麻呂は『引田朝臣邇閇・東人・船人、久努朝臣御田、茨田朝臣大麻呂・多祁留ら六人は、まさしく阿倍氏の本筋で、宿奈麻呂と異ならない。ただ住む所にちなみ別の氏となった。願わくは、それぞれ別の氏をやめ、皆もとの氏を賜りたい』と申し、許された。
また『吏部王記』に『昔、安陪氏の先祖が、勅命を受けて新羅を討ち、功績があった。大嘗会の日、任務の結果を報告し、その際にこの舞を奏した。だから代々伝えて大嘗会の舞とする』云々とあり、『北山抄』大嘗会の儀の、吉志舞の頭注に載る。この氏の先祖に新羅を討たせたのは、『天智紀』で前将軍・後将軍ら五人を派遣し百済を救わせた時に、安倍引田比邏夫臣がその一人だった。また二年三月、前・中・後将軍六人を派遣し、二万七千人を率いて新羅を討たせた。この時も比邏夫臣は後将軍の一人だった。このいずれかの時のことだろう。〕
建沼河別命の子孫は阿倍氏以外にもあり、『姓氏録』には、竹田臣は阿倍朝臣と同祖で、大彦命の子・武渟川別命の子孫と見える。『国造本紀』は『須羽国造。纏向日代朝の御代、建沼河命の孫・大臣命を国造に定め賜った』という。〔須羽は、ある一本では那須と書く。〕
【宣長の注釈】比古伊那許志別命〔真福寺本と別の一本は、志を士とし、注も同じだ。〕の名の意味は、まだ考えつかない。『姓氏録』には、彦背立大稲腰命とある。
【宣長の注釈】膳臣の膳は、料理を担当する膳夫のことだ。それについては、すでに上巻で述べた。〔『伝』巻十四・五十五葉。〕『日本書紀』には、大彦命は膳臣ら、合わせて七族の始祖とある。〔ここの膳は、今の本では胆と誤っている。〕景行の巻には、次のようにある。『五十三年秋八月、天皇の乗り物が伊勢へ行き、東海へ入った。冬十月、上総国に至り、海路から淡水門を渡った。この時、覚賀鳥の声を聞き、その姿を見ようと捜し求め、海中へ出たところ、白い蛤がとれた。そこで膳臣の遠祖、名を磐鹿六鴈という者が、蒲でたすきを作り、蛤をなますにして差し上げた。それで六鴈臣の功をほめ、膳大伴部を賜った。』
〔この故事は、『年中行事秘抄』の、内膳司が忌火の御飯を供える事の条に引く『高橋氏文』にも見え、少し違う所もある。この文章は古いものと思われるが、誤字も多く長文なので、ここには引けない。磐鹿六鴈は『姓氏録』では大彦命の孫とあるので、伊那許志別命の子だったのだ。
『秘抄』の辰日の節会では、『高橋氏文』を引き、『六鴈命は七十二年の秋に亡くなった。天皇の宣命に、十一月の新嘗会も、膳職の御膳のことも、六鴈命の働きによって始められたものである。それゆえ、六鴈命の御魂を膳職でお祭り申し、春秋の長い世にわたり、『神財』としてお仕えさせよう』とある。〔訳注:原文『春秋の永世の神財と仕奉志女牟』の『神財』の具体的な意味は確定できないため、原語を残した。〕七十二年は景行の御世だ。天皇の宣命も同じ天皇のもののように聞こえるが、言葉の様子を見ると、後の天皇のものだろう。
『日本書紀』の『膳大伴部を賜った』は、この時この氏・姓を与えたように聞こえるが、そうではない。大勢の膳夫の伴部を六鴈命の部下として率いさせられたのだ。その伴部が大きいので、大伴部という。その伴部を率いてつかさどるため、膳臣という。正式に氏・姓となったのは、これより少し後だろう。履中の巻の三年には、宴会で膳臣余磯が酒を献じ、その時、桜の花が天皇の盃に落ちた云々とあり、余磯を稚桜部臣と呼んだ。これは下巻の若桜宮の段で詳しく述べよう。また雄略の巻には、膳臣長野は肉のなますを作るのが巧みだった云々、安閑の巻には内膳卿の膳臣大麻呂などとある。これらは皆、この氏が食膳のことに関わった例である。〕
『天武紀』十三年十一月、戊申を朔とする月、膳臣に朝臣の姓を賜った。『姓氏録』の左京皇別には『高橋朝臣は阿倍朝臣と同祖で、大稲輿命の子孫。景行天皇が東国を巡行した時、大蛤を供えた。天皇は、その珍しく美味なことを喜び、膳臣の姓を与えた。天渟中原瀛真人〔天武をいう〕十二年、膳臣を改め、高橋朝臣を賜った』とある。
〔ここで膳臣という姓を賜ったのを景行の御世のこととするのは、混乱した伝えだろう。また十二年は十三年だろう。膳から高橋に改めたことは『日本書紀』には見えず、朝臣の姓を賜った時も膳と記され、その後の『持統紀』五年で十八氏を挙げる所にも、まだ膳部とある。ただ、中臣連を藤原氏というのも天智の御代以来なのに、天武の御世に朝臣の姓を賜った所では、なお中臣とある例と同じで、こちらもその頃、すでに高橋ともいったのだろうか。高橋は居住地の名で、大和国添上郡にある。『崇神紀』の高橋邑、『神名式』の高橋神社、『武烈紀』の歌のたかはしなどが、それだ。
『続日本紀』の神護景雲二年二月には、勅に『令に準じて、高橋・安曇の二氏で内膳司に任じられた者を奉膳とし、他氏の者が任じられた時は典膳と名づけよ』とある。また『高橋氏文』に、太政官符で高橋・安曇二氏の神事の御膳への奉仕を定めた、とある。この二氏が御膳のことにあずかるのは、諸書に見える。特別な由緒があるためだ。阿曇氏については、『伝』巻六・六十八葉で述べた。〕
また『姓氏録』は『膳大伴部は阿倍朝臣と同祖で、大彦命の孫・磐鹿六鴈命の子孫。景行天皇が東国を巡行し、上総国に至り、海路から淡水門を渡り、海中へ出て白い蛤を得た。磐鹿六鴈は、これをなますにして献じた。その働きをほめ、膳大伴部を賜った』とする。〔膳臣とは別に、膳大伴部という氏があるのは、後に事情があって、『景行紀』の文によって別に与えたものだろう。この氏があるからといって、『景行紀』の『膳大伴部を賜った』を、この氏・姓を与えたことだと誤解してはならない。『姓氏録』のこの条は、『景行紀』の文章をそのまま取って、氏の由緒としたものだ。〕
また和泉国皇別には『膳臣は、字太臣・松原臣・阿倍朝臣と同祖。大鳥膳臣らは、いずれも大彦命の子孫』とある。〔この文章の様子は、どうだろうか。〕また摂津国皇別には、高橋臣は阿倍朝臣と同祖で、大彦命の子孫、などとある。
【宣長の注釈】大毘古命の子孫は、前の阿倍・膳以外にも多い。まず『日本書紀』には、大彦命は、阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狭々城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣、合わせて七族の始祖と見える。
〔阿閉臣は、伊賀国阿拝郡による氏で、敢とも書き、阿倍とは清音・濁音が違う。その違いをわきまえず、阿閉と阿倍を無理に区別しようと、阿閉を『阿登治』と読むなどは、ひどい誤りだ。〔訳注:批判されている読みは、原文の仮名表記『阿登治』で示した。この仮名表記から、具体的な訓は確定できない。〕『姓氏録』の河内国皇別には、阿閉朝臣は阿倍朝臣と同祖で、孝元天皇の皇子・大彦命の子孫。また阿閉臣は、阿閉朝臣と同祖で、大彦命の子・彦瀬立大稲越命の子孫。また右京皇別には、阿閉臣は、大彦命の子・彦背立大稲与命の子孫とある。このほかにも、阿閇臣がある。だから阿閉は伊那許志別命の子孫で、阿倍とは別だと、いよいよ明らかだ。阿倍は建沼河別命の子孫だからだ。これを伊賀の阿拝と定める根拠は、『続日本紀』巻三十六に、伊賀国敢朝臣云々とあることだ。
狭々城山君は、下巻の穴穂宮の段で、筑紫国造は玉穂宮の段で述べよう。越国造は『国造本紀』に、高志国造は志賀高穴穂朝の御世、阿閉臣の祖・屋主田心命の三世の孫、市入命を国造に定め賜った、とある。屋主田心命は、『姓氏録』伊賀氏の条に、大稲輿命の子・彦屋主田心命とある。伊賀臣は、天武の御世の十三年、朝臣の姓を賜った。『姓氏録』の右京皇別には、伊賀は大稲興命の子・彦屋主田心命の子孫、とある。ある一本では伊賀宿禰だが、疑わしい。朝臣の誤りだろうか。〕
『姓氏録』には、布勢朝臣、宍人朝臣〔大彦命の子・彦背立大稲腰命の子孫〕、許会倍朝臣、名張、阿倍志斐連〔大彦命の八世の孫・稚子臣の子孫〕、若桜部朝臣〔大彦命の孫・伊波我加利命の子孫。我の下に牟都の二字が脱落しているか〕、阿閉間人臣、他田広瀬朝臣、道公、音太部、会加臣、杖部造、坂合部首、久々智、坂合部、伊我水取、吉志、三宅人、日下連〔大彦命の子・紐結命の子孫〕、大戸首〔大彦命の子・比毛由比命の子孫〕、難波忌寸・難波〔大彦命の孫・波多武彦命の子孫〕などが見える。
【宣長の注釈】尾張連は、前に出た。〔『伝』巻二十一・二十二葉。〕
【宣長の注釈】意富那毘は、『旧事紀』巻五で尾張連の系譜を記す中に、饒速日命の七世の孫・建諸隅命の子に、倭得玉彦命、またの名を市大稲日命〔母は葛木直の祖・大諸見足尼の娘、諸見己姫〕とある、その人だろう。
【宣長の注釈】高千那毘売の千は、前に見えた千々速の千々と同じ意味だ。倭登々を省いて倭登ともいうのと同じ例である。〔師は、兄の名と考え合わせると那毘と続く名で、那は稲の意味か、売は女だ、といわれた。それももっともだが、やはり高千那毘比売というべきところ、比を一つ省いたのだろう。〕
この比売を『旧事紀』で調べると、大稲日命には妹がなく、父の建諸隅命の妹に、大海姫命、またの名は葛木高名姫命という人がある。この高名姫だろう。この『古事記』のように大稲日の妹だったのを、誤って父の妹、大海姫の別名と伝えたのだろう。〔大海姫は水垣宮の天皇の妃で、別の人だ。〕大稲日の母は葛木直の娘なので、高千那毘売も同じ母から生まれ、その母のもとで葛木にいたから、葛城の、といったのだろう。
注の『那毘の二字は音を表す』というのは、どうだろうか。那毘売の三字、とあるべきだ。
【宣長の注釈】味師内宿禰は『うましうちのすくね』と読む。味師は、可美葦芽、可怜小汀などと同じ、ほめていう言葉だ。宇麻志麻遅などという名もある。〔師の字に意味はない。また、音を取った仮名の例でもない。この字はふつう、音をそのまま訓として使い、借字とすることが多い。師木・土師などがそうで、これらも字音を取ったのではない。『古事記』中には師を仮名に用いた例がなく、地名などでも音読みと訓読みを交ぜて書く例が、ほとんどないからだ。〕内は地名で、建内宿禰の所で述べよう。
宿禰は、遠飛鳥宮の段の歌に、須久禰とある。これが、この称号の確かな用例だ。〔確かな用例とは、仮名で書いたものをいう。〕『日本書紀私記』に、昔、皇子を大兄と呼び、近臣を少兄と呼んだ。宿禰の意味は少兄から取った、とあり、その意味の称号である。〔ただ、允恭天皇の名にもあるのは、兄の名の大兄云々に対し、少兄と申したのだろう。そうなら臣だけに限らなかったのだろう。すくなえを縮めて、すくねという。『私記』のこの文章の次に、一説には帝王が親しんで『會古爾彌與』といい、おそらく敬う意味だ、とあるのは、ひどく幼稚で、論ずるに足りない。〔訳注:引用中の『會古爾彌與』の具体的な読みは確定できないため、原表記を残した。原字の初めは『會』と確認できる。〕これは『旧事紀』の説だ。このほかにも、『旧事紀』が宿禰についていうことは、すべて間違っている。〕
これは昔、ただ臣らを尊び親しんでいう称号で、氏姓のかばねとなったのは、浄御原の御世から始まる。〔この御世に八色の姓を定め、第一が真人、第二が朝臣、第三が宿禰となった。その時、諸氏に賜ったのを見ると、宿禰は、多くは以前に連だった氏に与えている。〕
この人のことは、『日本書紀』応神の巻に、次のように見える。『九年夏四月、武内宿禰を筑紫へ派遣し、民のありさまを調べさせた。この時、武内宿禰の弟、甘美内宿禰は、兄を失脚させようとし、天皇に中傷を申し上げた云々。天皇は武内宿禰と甘美内宿禰を問いただした。二人は互いに自説を強く主張して争い、どちらが正しいか決めにくかった。天皇は神々に請い、探湯による誓いの裁判を行わせた。武内宿禰と甘美内宿禰は、そろって磯城川の浜に出て探湯をし、武内宿禰が勝った。すぐに刀を手にして甘美内宿禰を打ち倒し、殺そうとしたが、天皇は釈放を命じ、紀伊直らの祖に与えた。』
〔紀伊直の祖は建内宿禰の母方の家だ。与えたとは、その家の奴としたことだ。これが本当に応神天皇九年のことなら、味師内宿禰も、ずいぶん長命だった。景行天皇の御世の終わり頃に生まれたとしても、この時には百五十余歳なのだから。〕
武内宿禰の弟とあるのは、この『古事記』と兄弟の順が違うようだが、異母兄弟なので、こちらの書き方は、どちらを兄ともいうものではない。〔挙げた順は、母の身分の高下によったのかどうかも分からない。〕兄弟の順は、『日本書紀』に弟とあることによって定めるべきだ。
【宣長の注釈】山代内臣の山代は山城国だ。〔この国については水垣宮の段で述べる。〕内は、『和名抄』の山城国綴喜郡宇智郷のことだ。『日本書紀』雄略の巻の山背内村、『神名式』の綴喜郡内神社などもある。〔今、内里村という所がある。ここだろうか。〕この氏は、『日本書紀』欽明の巻〔十四年・十五年〕に、内臣〔名は欠けている〕のことが見える。『姓氏録』の大和国皇別には、内臣は孝元天皇の皇子・彦太忍信命の子孫。また山公は内臣と同祖で、味内宿禰の子孫とある。〔これらは山代国の有智から、後に大和国へ移ったのだろう。〕
【宣長の注釈】木国造は、『国造本紀』に、紀伊国造は、橿原朝の御世、神皇産霊命の五世の孫・天道根命を国造に定め賜った、とある。『姓氏録』の河内国神別には、紀直は神魂命の五世の孫・天道根命の子孫。また和泉国神別には、紀直は神魂命の子・御食持命の子孫、とある。〔木国造は水垣宮の段や『日本書紀』敏達の巻などにも見え、紀直は神功の巻に紀直豊耳という人が見える。国造と直は同じ氏だ。上巻に、天津日子根命は木国造の祖とあるのは、茨木だったのが茨の字を落としたのだろう。これは『伝』巻七・七十六葉で論じたとおりだ。〕
『続日本紀』では、神亀元年十月、紀伊国名草郡の大領・紀直摩祖を国造とした。〔天皇が紀国に行幸した時だ。〕天平元年三月には紀直豊島を、延暦九年五月には紀直五百友を、紀伊国造にしたと見える。『続日本後紀』の承和二年、また『三代実録』の貞観五年には、紀直氏の人に宿禰の姓を賜ったことが見える。〔『続日本後紀』嘉祥二年には、紀伊守の伴宿禰竜男と、国造の紀宿禰高継が不和だった云々ということがある。〕
『貞観儀式』には、出雲国造と紀伊国造を任命する儀式が載る。他の国造とは違う、特別な理由があるのだろう。〔特別な大神を斎き祭るためだろう。この国造は日前・国懸の二大神の神職で、今に至るまで、この氏が相続して紀国造と称する。その系図では、天道根命を始祖とし、日前・国懸の二大神が天降った時、お供して奉仕した、と記す。〕
【宣長の注釈】宇豆比古の名の意味は、白檮原宮の段の槁根津日子を『日本書紀』で珍彦とするのと、同じだろう。『日本書紀』では兎道彦とある。〔紀国造の系図を見ると、第一が天道根、第二が比古麻、第三が鬼刀禰、第四が久志多麻、第五が大名草比古、第六が宇遅比古の順だ。今、紀国の若山の内に宇治という所があり、この地名による名だろう。〕
【宣長の注釈】山下影日売の山下は、木々の葉が紅く変わった秋山の色をいう。そのわけは、軽島宮の段の終わりに、秋山之下氷壮士という名があり、その所〔『伝』巻三十四・三十二葉〕で詳しく述べよう。〔『日本書紀』孝霊の巻に真舌媛という名があるのは、やましたのやを省いた名だろうか。〕影は、輝くということだ。〔かげ・かがやく・かがよふ・かげろふなどは、いずれも、もとは同じ語の変化したものだ。〕紅い顔の美しさをほめた名である。影媛という名は、『日本書紀』武烈の巻にもある。
【宣長の注釈】建内宿禰の建内は『たけうち』と読む。〔訳注:原文の音仮名は『多祁宇智』と仮に採録した。第二字は右側が阝、左側が示・礻に近く見えるため『祁』を候補とするが、左下の細画は確定できない。『たけうち』という訳は後続の、のを添えた読みを退ける説明との対応に基づく。〕〔世間でこの名に、のを添えてたけのうちと読むのは、古語を知らず、後世の竹内という地名にならった、根拠のないいい方だ。昔、建之といった例はない。〕建は、いつものほめ言葉だ。内は味師内の内と同じで、どちらも住んだ土地の名、大和国宇智郡のことだ。『神名帳』の有智神社、『諸陵式』の有智陵〔皇后井上内親王〕なども、この郡にある。『万葉集』巻一で内の大野と詠むのも、この所だ。兄弟とも、ここに住んだのだろう。
〔山城国綴喜郡の有智ではあるまい。建内宿禰が山城国にゆかりを持つことは、古書に見えない。『日本書紀』神功の巻に、武内宿禰らが精兵を選び、山背から進発して菟道へ至った云々とあるが、これは山背の住まいから出発したのではない。
味師内宿禰が山城内臣の祖となったわけは、その子孫が後に山城国綴喜郡へ移住し、以前の大和の居住地の名を取り、そこも内村と呼び、それで内臣といったのか。または、子孫はもともと大和の居住地によって内臣といったが、山城へ移って内臣の住まいとなったので、その所も内村と呼んだのか。どちらにしても、大和の方がもとで、山城の方は、この子孫が住んだことによる地名だろう。〕
下巻、高津宮の段の天皇の歌では、この人を、うちのあそ、とお詠みになった。『日本書紀』神功の巻の歌も同じだ。〔あそは、あそみの略だ。あそみについては、その御歌の下で述べよう。〕『続日本紀』慶雲四年の宣命では、建内宿禰命とおっしゃっている。
【宣長の注釈】『日本書紀』には、彦太忍信命は武内宿禰の祖父、とあり、景行の巻には、次のようにある。『三年春二月、庚寅の朔、紀伊国へ行幸して神々を祭ろうと占ったが、吉でなかったので、行幸をやめた。屋主忍男武雄心命〔一説には武猪心〕を派遣して祭らせた。屋主忍男武雄心命は赴いて阿備柏原に住み、神々を祭り、そのまま九年住んだ。そして紀直の遠祖・菟道彦の娘、影媛を娶り、武内宿禰を生んだ。』これは『古事記』の伝えと違う。〔他の書物も『日本書紀』と同じく、建内宿禰を、孝元天皇の曾孫、彦太忍信命の孫とする。〕
【宣長の注釈】この人の生まれについては、成務の巻に、天皇と武内宿禰は同じ日に生まれた、とあるが、年の記録が合わない。
〔まず景行の巻では、三年に父が紀国へ行き、九年とどまった間に生まれたので、景行の御世の四年から十二年までの間だろう。一方、成務天皇は、景行天皇四十六年に太子に立ち、二十四歳とあるので、二十三年の生まれだ。これは先の十二年より十一年後ではないか。また太子に立ったのは、景行の巻では五十一年のことなので、四十六年を誤りとし、五十一年に二十四歳として数えると、二十八年の生まれで、十二年より十六年後だ。また天皇が崩じた時、百七歳とあることで数えると、景行十四年の生まれだが、それでもなお二年後になる。このように成務天皇の年の記録も、あちらこちらで一致しないため、この人の生年も、確かには決めにくい。その理由は、なお後でも述べよう。
ただ、天皇と同日に生まれたというのは、本当だろう。しかし仁徳天皇が、この人の子・木菟宿禰と同日に生まれたという話と、同じなのは疑わしい。こちらは、その話が混入した伝えではないか。今、紀伊国名草郡安原郷松原村という所に、この人の誕生の地だといって古井戸があるのは、古くからいい伝えた、本当の場所なのだろうか。〕
【宣長の注釈】この人の事績は、志賀宮の段に初めて出て、大臣となったとある。〔これが大臣という称の始まりだ。大臣については、そこで詳しく述べよう。〕阿志比宮・軽島宮を経て、高津宮の段まで見える。
『日本書紀』には景行天皇二十五年から見える。〔この年、武内宿禰を派遣し、北陸と東方諸国の地形、民の暮らしぶりを調べさせた、とある。これによっても、生年はいよいよ決めがたい。十二年の生まれとすれば、二十五年には、わずか十四歳だ。四年の生まれとしても二十二歳なので、このような大任を負わせるのは、なお少し疑わしいが、倭建命は十六歳で熊襲征伐に派遣されたので、そういうこともあったのだろう。ただ、それでは成務天皇の年の記録と、ますます違うではないか。〕
同じ五十一年に、棟梁之臣となったと見える。〔棟梁之臣について、欽明の巻には『任那は、そなたの国の棟梁だ。棟梁を折ってしまえば、誰が家屋を作れようか』、推古の巻には『二人の僧が仏教を広め、ともに三宝の棟梁となった』とある。『続日本紀』巻八には『道蔵は、まさに仏門の指導者、仏道の棟梁だ』、同巻二十三には『私の父と叔父は、いずれも聖なる御世の棟梁となり、ともに明らかな時代の助け手となった』と見える。漢籍にも、もとからある語で、股肱などというのと同じ意味だ。そこから自然に、配下を統率する意味になり、長というのと同じになる。だから近世、世間で工匠の中の長を棟梁というのも、その意味だ。ここもその意味を取って書いたので、読みは漢字にこだわるべきではない。臣・連・八十伴緒のかみと定められた、などと読むべきだ。字に従って、むねまちぎみ、むねとるまちぎみなどと読むのは、古い意味・言葉に合わず、誤りだ。また、これを官職名のように受け取るのも誤りだ。〕
成務天皇三年には、大臣となったと見え、それから仁徳天皇五十年まで見える。そもそも上代の人のうち、後世まで名高いこと、この大臣に及ぶ人はいない。世間に広く語り伝えられた。本当に六代の朝廷にお仕えし、まことに忠実で、功績が多かった。
〔『続日本紀』巻三、藤原不比等に食封を賜った宣命では、そなたの父、藤原大臣がお仕えしたありさまは、建内宿禰命がお仕えしたことと同じだ、と仰せられた云々とある。また天平八年の詔には、昔、軽堺原大宮で天下を治めた天皇の曾孫・建内宿禰は、君主に仕える忠義を尽くし、臣下としての節操を極め、初めて八氏の祖となり、永く万代の基を残した云々、とある。〕
【宣長の注釈】その長命ぶりは世に比べるものがなく、高津宮の天皇の御歌でも『あなたこそ、世の長寿の人だ』とお詠みになった。〔『日本書紀』では、世の遠人、国の長人、とある。〕大臣の返歌にも『私こそ、世の長寿の人』とある。実際、『日本書紀』の年の記録に従って数えると、およそ三百歳前後だったのだろう。
〔景行天皇四年から仁徳天皇五十年までは、二百八十九年だ。十二年から数えると、二百八十一年になる。仁徳五十年より後、なお何年生きたのだろう。没年が見えないので、寿命も決めがたい。允恭の巻の五年には、この人の墓のことがあるので、その御世には、すでに故人だった。
この大臣について、後世の書物はいろいろいうが、どれも確かではない。しかし一、二を挙げると、『帝王編年記』は、仁徳天皇七十八年庚寅、大臣武内宿禰が亡くなった。年齢は不詳。一説には、景行天皇九年己亥に生まれた云々、とする。紀朝臣氏久は、武内宿禰大臣は六代の天皇の大臣となり、ついに死んだ所を知らない。一説には、東方の夷を平らげ、帰る時に病気だといい、甲斐国に入った。死んだ所は分からない。一説には美濃国不破山に入った。一説には大和国葛下郡に帰った。その墓は、室の破賀の所だ、といっている。この類の説は、なお他の書にもあちらこちらにある。
『水鏡』では仁徳五十五年に亡くなり、二百八十歳という。『公卿補任』では、景行九年己卯に生まれ、仁徳七十八年庚寅に亡くなり、三百十二歳という。ほかに二百五十五、二百八十、二百八十二、二百九十五、三百六十と、さまざまにいい、『愚管抄』には三百八十余歳ともいう。
また『武内伝』というものは『因幡国風土記』を引き、難波高津宮で天下を治めた御世の五十五年春三月、大臣武内宿禰は三百六十余歳で当国へ下り、亀金に一対の履物を残し、姿を隠した所は分からない。聞くところでは、因幡国法美郡宇倍山の麓に宇倍神社という社があり、武内宿禰の霊だ。昔、武内宿禰は東方の夷を平らげ、帰って宇倍山に入った後、どこで最期を迎えたか分からない、とする。
『神名式』には、因幡国法美郡の宇倍神社、名神大とある。また筑後国三井郡には高良玉垂命神社、名神大とあり、世間では、これもこの大臣を祭るという。『民部省図帳』の残編と称するものには、高良玉垂宮は玉垂命を祭り、天平年間に武内宿禰・荒木田襲津彦を相殿に祭った、とある。これら以外にも、この大臣を祭るという社は、なお各所にある。高良を今はこうらと読むが、古書では高を、こを表す仮名によく使うので、こらだろう。〕
【古事記本文】この建内宿禰の子は、合わせて九人、男七人、女二人である。
波多八代宿禰は、波多臣・林臣・波美臣・星川臣・淡海臣・長谷部君の祖。
次の許勢小柄宿禰は、許勢臣・雀部臣・軽部臣の祖。
次の蘇賀石河宿禰は、蘇賀臣・川辺臣・田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣らの祖。
次の平群都久宿禰は、平群臣・佐和良臣・馬御樴連らの祖。
次の木角宿禰は、木臣・都奴臣・坂本臣の祖。
次は久米能摩伊刀比売、次は怒能伊呂比売。
次の葛城長江曾都毘古は、玉手臣・的臣・生江臣・阿芸那臣らの祖。
また若子宿禰は、江沼財臣の祖である。
【宣長の注釈】九は、九人のことだ。師の『ここのたり』という読みに従うべきだ。
【宣長の注釈】男は『むすこ』、女は『むすめ』と読む。
〔むすこという呼び名は、古書には見えないが、中古の物語文などでは、身分の高い人にも低い人にも、ふつうにいう呼び名だ。むすこの君たち、などともいう。むすめは、『日本書紀』の訓などにも多く見え、中古も今も常にいう言葉だ。だから、これと対に男子をむすこというのも、もとからの古語なのは疑いない。しかし、むすこ・むすめは、世間で広く使い慣れて古語らしくないので、『日本書紀』などの訓には、多くをのこ・めのこと付けている。『和名抄』は男子・女子とだけ挙げ、日本語の呼び名がなく、『字鏡』にも見えない。〔訳注:底本のこの注は、前半で『牟須古と云稱』『牟須古能君』と記し、その後は『牟須賣は書紀の訓』と説明している。むすこ・むすめの表記と説明の対応に不整合があるが、原字を保った。〕〕
【宣長の注釈】波多八代宿禰の波多は、住んだ土地の名だ。この地名は諸国に多く、今、どれとも決めにくいが、まず大和のものだろうか。『日本書紀』神武の巻に、層富県の波哆の丘の岬に、新城戸畔という者がいた、と見える。〔今も添下郡に新木村があるので、この波哆は、添上・添下郡のうちだろう。〕また『神名式』には高市郡の波多神社・波多応井神社があり、『和名抄』にも同郡に波多郷がある。〔『推古紀』二十年五月五日、薬猟の集まりで羽田に集まり、連なって朝廷へ参上した、とあるのは、この波多だろう。小治田宮は高市郡だからだ。『日本書紀』履中の巻の歌に、鳥は行き来する、羽田のあの妹、とある羽田も、同じだろう。〕この二つのうちだろうか。
また、この人の子孫が河内・和泉の各所にあることから見ると、『和名抄』の河内国茨田郡幡多、『神名式』の和泉国和泉郡波多神社・日根郡波太神社という、これらの土地かもしれない。八代も地名かどうか、詳しく分からない。この人の名は、『日本書紀』では羽田矢代宿禰と書く。〔『応神紀』三年、『履中紀』の初めなどに出る。〕
【宣長の注釈】波多臣の波多は、前の波多だ。この氏は、『日本書紀』天武の巻に、十三年十一月、波多臣に朝臣の姓を賜った、と見える。推古の巻には波多臣広庭、持統の巻には羽田朝臣斉〔『続日本紀』巻一に波多朝臣牟後閇とあるのと同一人〕、廃帝の紀には八多朝臣百島などの人が見える。『姓氏録』の右京皇別には、八多朝臣は石川朝臣と同祖で、武内宿禰命の子孫とある。
【宣長の注釈】林臣の林は地名だ。これも諸国に多く、どれとも決めにくいが、『和名抄』の河内国志紀郡拝志郷だろうか。その国に、この氏があるためだ。『天武紀』十三年十一月、林臣に朝臣の姓を賜った。『姓氏録』左京皇別には、林朝臣は石川朝臣と同祖で、武内宿禰の子孫。また河内国皇別には、林朝臣は道守朝臣と同祖で、武内宿禰の子孫、とある。『続日本紀』巻三十九には、河内国志紀郡の人、林臣海主・野守らは、臣を改めて朝臣を賜った、とある。〔『姓氏録』の林宿禰・林連などは別の氏だ。また、蘇我入鹿を林臣ということが『皇極紀』に見えるが、どこの地名による名だろうか。〕
【宣長の注釈】波美臣も地名によるようだが、詳しくは分からない。『神名式』には、近江国伊香郡の波弥神社〔同郡には与志漏神社もあり、八代に近い〕、丹後国丹波郡の波弥神社がある。これらの地なのだろうか。『天武紀』十三年十一月、波弥臣に朝臣の姓を賜った。〔本文は弥を禰と誤る。『釈日本紀』の弥がよい。〕『姓氏録』には、この氏は見えない。『続日本紀』巻二十には、播美朝臣奥人という人が見える。
【宣長の注釈】星川臣の星は、諸本とも黒とするのは誤りで、真福寺本の星が正しい。星川は『和名抄』の、大和国山辺郡星川〔ほしかは〕郷のことだ。〔武蔵国久良郡、伯耆国会見郡などにも同名の郷があり、『神名式』には伊勢国員弁郡の星川神社もある。〕『天武紀』には星川臣麻呂という人が見える。〔その子の黒麻呂は『続日本紀』巻七に見える。〕十三年十一月、星川臣に朝臣の姓を賜った。『姓氏録』大和国皇別には、星川朝臣は石川朝臣と同祖で、武内宿禰の子孫。敏達天皇の御世、住んだ土地によって星川臣の姓を賜った、とある。
【宣長の注釈】淡海臣は、『崇峻紀』に近江臣満という人が見える。この氏は『姓氏録』に見えない。〔淡海真人・淡海朝臣などはあるが、いずれも別の氏だ。〕
【宣長の注釈】長谷部君は、『続日本紀』巻二十六の長谷部木麻呂・長谷部公真子、巻二十九の参河国碧海郡の人、長谷部文選などが、この氏の人だろうか。〔『和名抄』には参河国碧海郡の郷名に谷部がある。そこに、はせべと仮名を付けたのは、根拠があるのか。その仮名付けが正しければ、この郷は長谷部の長を省き、二字で書いた例だ。『続日本紀』でこの郡に、この氏の人が見えるので、ここから出た氏かもしれない。〕この氏も『姓氏録』には見えない。〔長谷部造はあるが、別の氏だ。〕
【宣長の注釈】これらの氏のほかにも、『姓氏録』には、左京皇別に、道守朝臣は波多朝臣と同祖で、波多矢代宿禰の子孫。河内国皇別に、道守朝臣は波多朝臣と同祖で、武内宿禰の子・八多八代宿禰の子孫、道守臣は道守朝臣と同祖で、武内宿禰の子・波多八代宿禰の子孫。和泉国皇別に、道守朝臣は波多朝臣と同祖で、八多八代宿禰の子孫、とある。『三代実録』巻九には、右京の人、岡屋公祖代に八多朝臣の氏・姓を賜った。その祖先は八大屋代宿禰から出る、などとある。
【宣長の注釈】許勢小柄宿禰の許勢は居住地の名で、『和名抄』の大和国高市郡巨勢郷のことだ。『神名帳』には同郡の巨勢山坐石椋孫神社がある。『万葉集』には巨勢山を詠む歌が多い。〔巻一・二十四丁、巻七・六丁、巻十・六丁、巻十二・十九丁。また巻一・二十二丁、巻三・二十六丁、巻十三・十一丁・二十七丁に巨勢道、巻一・二十四丁には、こせの春野などと詠む。〕
小柄は『をから』と読む。〔古い版本で柄を鞆とするのは誤りだ。諸本は皆、柄とする。『和名抄』には、柄は器物の握る部分、日本名え、一説にから、とある。〕『三代実録』巻五では男韓と書く。名の意味は、まだ考えつかない。この人は『三代実録』では第五男と見える。
【宣長の注釈】許勢臣の許勢は、前に述べたとおりだ。この氏は、後に引く『続日本紀』によると、小柄宿禰の子・乎利宿禰の子孫である。『日本書紀』継体の巻の元年には、許勢男人臣が大臣だったと見える。〔二十三年九月に亡くなった。〕孝徳の巻では、大化五年、巨勢徳陀古臣が左大臣となった。〔『斉明紀』四年正月に亡くなった。〕このほかにも、この氏の人は各所に見える。『天武紀』十三年十一月、巨勢臣に朝臣の姓を賜った。
『姓氏録』右京皇別には、巨勢朝臣は石川朝臣と同祖で、巨勢雄柄宿禰の子孫。巨勢楓田朝臣は、雄柄宿禰の四世の孫・稲茂臣の子孫。その子・荒人は、天豊財重日足姫天皇〔皇極〕の御世、葛城の長田を耕すため派遣された。その地は野の上にあり、灌漑の水が届きにくかったが、荒人は機械の技術をよく知り、初めて長い橋を作って水を引き、田を潤した。天皇はたいそう喜び、楓田臣の氏・姓を与えた、とある。巨勢斐太臣は巨勢楓田と同氏で、巨勢雄柄の四世の孫・稲茂の子、荒人の子孫。〔許勢臣稲持は『欽明紀』に見える。〕巨勢楓田臣は、武内宿禰の子孫、とある。
【宣長の注釈】雀部臣は、『天武紀』十三年十一月に、朝臣の姓を賜った。『続日本紀』巻十八には、次のようにある。典膳、正六位下の雀部朝臣真人らは『磐余玉穂宮・勾金椅宮で天下を治めた天皇の御世、雀部朝臣男人が大臣として仕えたのに、誤って巨勢男人大臣と記されている。真人らの先祖・巨勢男柄宿禰には三人の子があり、星川建日子は雀部朝臣らの祖、伊刀宿禰は軽部朝臣らの祖、乎利宿禰は巨勢朝臣らの祖である。浄御原の朝廷で八つの姓を定めた時、雀部朝臣の姓を賜った。巨勢と雀部は、もと同祖だが、氏・姓が分かれた後に大臣に任じられたのである云々。巨勢大臣を雀部大臣に改めてほしい』云々と申し出た。大納言従二位の巨勢朝臣奈氏麻呂も、それが事実だと証明した。そこで治部省に命じ、請いのとおり訂正した。〔男人大臣は、許勢臣の下に出た。〕
『姓氏録』左京皇別には、雀部朝臣は巨勢朝臣と同祖で、建内宿禰の子孫。星川建彦宿禰は、応神の御世、皇太子大鷦鷯尊に代わって木綿のたすきを掛け、御膳を監督したので、大雀臣の名を賜った、とある。これが雀部という名を負う由緒だ。また摂津国皇別には、雀部朝臣は巨勢朝臣と同祖で、建内宿禰命の子孫とある。〔『文徳実録』巻六では、雀部朝臣春枝・林朝臣並人らが、紀朝臣に氏・姓を改めた。〕
神八井耳命の子孫にも同じ氏があり、前に出た。〔『伝』巻二十・五十六葉。〕『さざきべ』と読むことも、そこで述べたとおりだ。
【宣長の注釈】軽部臣の軽部は、大和国高市郡の軽によるのだろう。こういう名を負った理由は詳しく分からない。〔『姓氏録』に、軽部は倭日向建日向八綱多命の子孫で、雄略天皇の御世、加里乃郡を献じたので、軽部君の氏・姓を賜った、とある。別の氏だが、軽部という名になる理由の一つの例である。〕
この氏は、前に引いた『続日本紀』巻十八によると、小柄宿禰の子・伊刀宿禰の子孫だ。『天武紀』十三年十一月、軽部臣に朝臣の姓を賜った、と見える。『姓氏録』には見えない。〔軽部・軽部連などはあるが、皆、別の氏だ。〕これらの氏以外にも、『姓氏録』の未定雑姓には、鵜甘部首は、武内宿禰の子・己西男柄宿禰の子孫、とある。
【宣長の注釈】蘇賀石河宿禰の蘇賀は、住んだ土地の名で、『神名帳』の大和国高市郡にある宗我坐宗我都比古神社の、その地だ。『万葉集』巻十二に、真菅よし、宗我の河原、と詠むのも、ここである。〔後世、出雲だ、下野だなどというのは、根拠のない誤りだ。〕
『日本書紀』推古の巻には、蘇我馬子大臣が、葛城県は、もと私の本拠地なので、その県によって氏名を定めた云々と、天皇に申し上げさせた、とある。〔その県によって氏名とした、ということは、よく分からない。『皇極紀』には、蘇我蝦夷大臣が祖先の廟を葛城高宮に建てたこともある。〕これによると、蘇賀は葛城郡にあるはずのようだが、今も曾我村は高市郡にあり、葛城下郡の境に近いので、昔はこの辺りまで葛城県に含まれたのかもしれない。
石河は、『和名抄』の河内国石川〔いしかは〕郡のことだ。『三代実録』巻三十二には、石川朝臣木村が、始祖の大臣武内宿禰の子、宗我石川は河内国石川の別邸で生まれたので石川と名づけられ、宗我の大きな家を住まいとして賜り、そのため宗我宿禰の氏・姓を賜った云々、と申し述べたとある。
〔宗我宿禰の氏・姓を賜ったというのは誤りだ。この時、宿禰は、ただ名に添えた称号であって、氏に添えるかばねではない。『敏達紀』に蘇我馬子宿禰の石川の家が見えるので、代々別邸などがあったのだろう。今、大和国高市郡にも石川村があるのは、この氏にちなみできた名だろうか。それはともかく、この人の名は、河内の地名によっている。〕この人は、『日本書紀』応神の巻〔三年〕に出る。
【宣長の注釈】蘇我臣は、前の蘇我による。この氏の人は、『履中紀』に蘇賀満智宿禰、『雄略紀』に蘇我韓子宿禰などが見える。『宣化紀』元年には、蘇我稲目宿禰を大臣とした。〔『欽明紀』三十一年三月に亡くなった。〕『敏達紀』元年には蘇我馬子宿禰を大臣とした。〔『推古紀』三十四年五月に死去。稲目宿禰の子だ。〕『舒明紀』では蘇我蝦夷臣が大臣だった。〔『皇極紀』四年六月、子の入鹿とともに討たれた。〕『孝徳紀』では蘇我倉山田石川麻呂臣が右大臣だった。〔これが右大臣の始まりだ。大化五年三月に滅ぼされた。〕『天智紀』三年五月、大紫の蘇我連大臣が亡くなった。〔この人の事は、それ以前には見えない。ただ『続日本紀』巻六に、近江朝の大臣、大紫の連子と見えるのは、この人だ。〕十年には蘇我赤兄臣を左大臣とした。〔『天武紀』元年八月に流罪となった。〕
後に、この氏は石川と改まる。『天武紀』十三年十一月、石川臣に朝臣の姓を賜った。〔石川と改めたのは、これ以前のことらしい。天武の御世に入ってからのことだろう。〕『姓氏録』左京皇別には、石川朝臣は孝元天皇の皇子・彦太忍信命の子孫と見える。『三代実録』巻三十二には、右京の人、石川朝臣木村・箭口朝臣岑業の石川・箭口を改め、いずれも宗岳朝臣の氏・姓を賜った。木村が申し述べた云々、とある。
〔この後の文は、前に引いた。『姓氏録』には、箭口朝臣は宗我石川宿禰の四世の孫・稲目宿禰の子孫と見える。
『古今集』には宗岳大頼という作者がある。この宗岳を、むねをかと仮名でも書いていることについて、『余材抄』はこういう。蘇我あるいは宗我と書いてきたのを宗岳に改めたのは、馬子・蝦夷・入鹿・赤兄が皆、逆臣で、その後、蘇我氏の人も聞こえず、『続日本紀』から『続日本後紀』まで、この氏が見えない。蘇我と書いた時に逆臣があったのを忌み、我を岳に改めたのか。『古今集』の古本は皆、漢字で宗岳と書いてあったのを、むねをかとは、後の人が推し当てて書いたのか、と。
私が考えるに、宗岳は『余材抄』の考えのように、文字だけを改め、呼び方は昔のまま、そがでもあったのだろうか。ただ、その時代には氏名も、古くからの由緒に関係なく文字だけにより、響きもよいものを選んで、人名のような氏が多くできていた頃なので、初めからむねをかといった可能性もある。そうなら、そがの音に当たる美しい文字を選び、その訓読みを取ったのだろう。また『続日本紀』以後に蘇我氏の人が見えないのは、石川に改まったためだ。石川朝臣の人は、世に多く見えているではないか。〕
【宣長の注釈】川辺臣の川辺は、諸国に多い地名なので、どれとも決めにくい。『和名抄』の摂津国河辺〔かはのべ〕郡だろうか。そのほか畿内では、山城国葛野郡、大和国十市郡などにも同名の郷がある。この氏の人は、『日本書紀』の各所に見える。『天武紀』十三年十一月、川辺臣に朝臣の姓を賜った。『姓氏録』右京皇別には、川辺朝臣は、武内宿禰の四世の孫・宗我宿禰の子孫、とある。〔この宗我宿禰は、蘇賀石河宿禰とは別の人だろう。〕
【宣長の注釈】田中臣の田中も、土地が確かでない。『舒明紀』八年六月に、岡本宮が火災に遭い、天皇が田中宮へ移った、とあるのは、今、大和国高市郡に田中村がある、その所だろう。また神楽歌の、うゑつきや田中の杜、とあるのは、添下郡だという。〔殖槻は『万葉集』巻十三の長歌に見える。催馬楽の田中の井戸というのも、ここだろうか。〕その郡にも、今なお田中村がある。この二つのうちだろうか。上巻には倭田中直という氏もある。〔『伝』巻七・七十六葉。〕
この氏の人は、『天武紀』に田中臣足麻呂・田中臣鍜師などが見える。十三年十一月、田中臣に朝臣の姓を賜った。『姓氏録』右京皇別には、田中朝臣は、武内宿禰の五世の孫・稲目宿禰の子孫とある。
【宣長の注釈】高向臣の高向も、土地を確かには決めにくい。『和名抄』には越前国坂井郡高向〔たかむこ〕があり、『神名式』にも同郡の高向神社がある。〔この地は『継体紀』に見え、越前国の村の名と注がある。継体天皇の母、振媛の故郷だ。〕また因幡国八上郡には多加牟久神社があり、河内国錦部郡にも、今、高向村がある。これらのうちだろう。〔『推古紀』に、高向漢人玄理という人がある。この高向は河内のものだろう。玄理は漢人なのに、『河内志』が武内宿禰の子孫とするのは、高向臣という氏と混同した誤りだ。〕
この氏の人は、『舒明紀』『皇極紀』『天武紀』などに見える。『天武紀』十三年十一月、高向臣に朝臣の姓を賜った。『姓氏録』右京皇別には、高向朝臣は石川と同氏で、武内宿禰の六世の孫・猪子臣の子孫と見える。『元明紀』には、摂津大夫、従三位の高向朝臣麻呂という人が見える。
【宣長の注釈】小治田臣は、古い版本では小の字が落ちているが、諸本には皆ある。これは推古天皇が宮をお置きになった小治田の地によるのだろう。その土地については、その段〔『伝』巻四十四・七十葉〕で述べよう。『欽明紀』には、蘇我稲目宿禰の小墾田の家が見える。この氏の人は、『天武紀』に小墾田臣麻呂が見える。十三年十一月、小墾田臣に朝臣の姓を賜った。『姓氏録』右京皇別は、小治田朝臣、同上とする。〔同上とは、田中朝臣と同じことをいう。このほか小治田宿禰・小治田連などはあるが、別の氏だ。〕
【宣長の注釈】桜井臣は、『和名抄』に、河内国河内郡桜井〔さくらゐ〕郷がある。『聖武紀』天平十六年閏正月、天皇が難波宮へ行幸した時、安積親王は足の病気のため、桜井頓宮から引き返した、とある、その地だろうか。〔これは河内のものだ。〕また『安閑紀』には桜井屯倉、『崇峻紀』には桜井寺、『推古紀』には桜井が見える。これらも、その河内の桜井だろうか。また『神名式』には和泉国大鳥郡の桜井神社がある。今、大和国十市郡にも桜井という所がある。〔そのほか諸国にも、この名がある。〕
この氏の人は、『舒明紀』に桜井臣和慈古が見える。『天武紀』十三年十一月、桜井臣に朝臣の姓を賜った。『姓氏録』左京皇別には、桜井朝臣は石川朝臣と同祖で、蘇我石川宿禰の四世の孫・稲目宿禰大臣の子孫とある。
【宣長の注釈】岸田臣は、『天智紀』に岸田臣麻呂が見える。『天武紀』十三年十一月、岸田臣に朝臣の姓を賜った。『姓氏録』右京皇別には、岸田朝臣は武内宿禰の五世の孫・稲目宿禰の子孫。稲目宿禰の子・小祚臣の孫である耳高が岸田村に住んだので、岸田臣の名を負った、とある。〔訳注:原文『男小祚臣孫耳高』は、ここでは小祚臣を稲目宿禰の子、耳高を小祚臣の孫と解した。系譜の係り先が圧縮された記述であるため、この解釈による。〕岸田村について国をいわないのは、大和だろうか。今、山辺郡に同名の村がある。その村か。『文徳実録』巻九には、摂津国の人で、この氏の者が見える。
【宣長の注釈】平群都久宿禰の平群は、居住地の名で、『和名抄』の大和国平群〔へぐり〕郡のことだ。平群郷もある。『神名帳』には同郡の平群石床神社・平群神社・平群坐紀氏神社などがある。倭建命の歌には、畳薦、平群の山の云々とある。〔雄略天皇の御歌にも見える。〕『万葉集』巻十六・十六丁にも、八重畳、平群の山に云々とある。
この人は、『日本書紀』仁徳の巻に、次のようにある。『初め、天皇の生まれた日、みみずくが産殿に入った。翌朝、誉田天皇は大臣武内宿禰を呼び、これは何のしるしか、とたずねた。大臣は、めでたいしるしです。また昨日、私の妻が出産した時にも、さざきが産屋に入りました、と答えた。そこで天皇は、今、私の子と大臣の子は同日に生まれ、ともにめでたいしるしがある。これは天の示しだ。その鳥の名を取り、互いに交換して子の名にし、後代までの契りとしよう、と仰せられた。そして、さざきの名を取って太子を大鷦鷯皇子と名づけ、みみずくの名を取って大臣の子を木菟宿禰と名づけた。これが平群臣の始祖だ。』
〔『宴楽集』の歌には、つくすくね、すめらがみこに、なかへせる、こころはきみを、いはふなりけり、とある。つくすくねが、天皇の御子と名を取り替えた心は、君をお祝いするためだったのだ、という意味で、第三句は名易せるである。『和名抄』には、木菟について『爾雅』の注に、鴟に似て小さく、兎の頭のようで毛の角がある鳥、日本名つく、とある。〕
この人は『三代実録』に、第三男と見える。〔後に引く。〕『履中紀』二年には、この時、平群木菟宿禰・蘇賀満智宿禰・物部伊莒弗大連・円大使主が、ともに国政を執った、とある。〔この人は『応神紀』三年から『履中紀』二年まで見える。その間が百三十年なので、長命で百五十歳をも超えただろう。〕
【宣長の注釈】平群臣は、前の平群による。この氏の人は、『雄略紀』の初めに平群臣真鳥を大臣とした、とある。〔『武烈紀』の初めに、真鳥大臣は子の鮪臣とともに討たれた。〕ほかにも見える。『天武紀』十三年十一月、平群臣に朝臣の姓を賜った。『姓氏録』右京皇別には、平群朝臣は石川朝臣と同氏で、武内宿禰の子・平群都久宿禰の子孫とある。『三代実録』巻五十には、右京の人、平群臣春雄・秋雄・秋常・春常ら四人に朝臣の姓を賜い、春雄は、自分の祖先は都久宿禰から出た、と申し述べたとある。
【宣長の注釈】佐和良臣の佐和良は、どの国の地名か詳しく分からない。『和名抄』に、筑前国早良郡があり、早良郷と平群郷が並んでいる、その地だろうか。〔ただ、そちらは郡も郷も、さはらとあるので、仮名が異なる。しかし『姓氏録』は、この氏も早良と書くので、その郡・郷も、もとはさわらだったのを、後に、わをはと発音し誤ったのだろう。早という字は、さの字音なので、字の韻を、相通う音のわに通じさせて取ったものだ。もし初めからはなら、入声のふの韻の字を用いるのが例だ。こうしたことは、地名に使う仮名の例全体を、よく理解して知るべきだ。〕
そのほか『神名帳』には、美作国大庭郡の佐波良神社、摂津国島下郡の佐和良義神社などがある。この氏の人は、『続日本紀』巻三十六に、佐波良臣静女が見える。『姓氏録』河内国皇別には、早良臣は平群朝臣と同祖で、武内宿禰の子・平群都久宿禰の子孫、とある。
【宣長の注釈】馬御樴連の樴は、『説文』が杭のことと注し、『玉篇』は牛をつなぐ杭と注すので、『くひ』と読むべきだ。これは地名とも思えず、何に由来する氏か、詳しくは分からない。他の書物にも見えない。『姓氏録』大和国皇別の、馬工連は平群朝臣と同祖で、平群木兎宿禰の子孫、とあるのは、この氏のようではあるが、御樴と工が同じである理由も、理解しにくい。
〔『和名抄』には筑前国嘉麻郡の馬見、むまみがあり、『神名式』には近江国蒲生郡の馬見岡神社、野洲郡の馬路石辺神社があり、『斉明紀』にも能登臣馬見竜という人名がある。これらは、ただ、うまみと続く語の例を挙げたまでだ。ただし馬路は、うまみちか、うまちか分からない。〕
【宣長の注釈】これらの氏以外にも、都久宿禰の子孫は、『姓氏録』に、平群文室朝臣は都久宿禰の子孫、都保朝臣は平群朝臣と同祖で都久宿禰の子孫、額田首は早良臣と同祖で平群木兎宿禰の子孫、父方の氏をたずねず額田首の姓を負った、と見える。未定雑姓にも、韓海部首は武内宿禰の子・平群木兎宿禰の子孫、などとある。
『三代実録』巻五には、味酒首文雄・文主・文宗ら三人に、いずれも巨勢朝臣を賜った、とある。それより前、巨勢朝臣河守らは、こう申し上げた。文雄の申し立てによると、先祖は武内宿禰大臣から出る。大臣の第五男、巨勢男韓宿禰は巨勢朝臣の祖で、第三男の平群木兎宿禰が文雄の祖である。木兎宿禰の子孫は味酒臣の姓を賜り、没落して伊勢国に籍を置き、文雄の祖に至って、臣を改め首の姓を賜った云々。そのため、氏・姓を改めたいと朝夕深く願っている云々。本来、祖先の系統に従い平群の氏・姓を与えるべきだが、平群の字の呼び方は平凡で、巨勢の文字は意味が好ましい云々。特に巨勢朝臣の氏・姓を与え、没落の思いを慰めていただきたい、と。これが許された。
〔『神名式』に伊勢国員弁郡の平群神社があるのは、この氏の人が、その国に没落していた頃に祭った社なのだろうか。〕
【宣長の注釈】木角宿禰の木は、紀伊国だろうか。建内大臣が生まれた国で、ゆかりがあるためだ。また『和名抄』の山城国紀伊〔き〕郡紀伊郷のことか。この二つのうちだろう。角は、『和名抄』の周防国都濃郡都濃郷である。その理由は次に述べよう。『国造本紀』の周防国造の次には、都怒国造は、難波高津朝、紀臣と同祖の都怒足尼の子・田鳥足尼を、国造に定め賜った、とある。角宿禰の事績は、『応神紀』『仁徳紀』に見える。
【宣長の注釈】木臣の木は、前の木だ。この氏の人は、『雄略紀』に紀小弓宿禰・紀大磐宿禰・小鹿火宿禰〔『顕宗紀』の紀生磐宿禰は、大磐と同じ人か〕、『欽明紀』に紀男麻呂宿禰が見え、ほかにもある。『天智紀』には、紀大人臣を御史大夫とした。〔御史は、おそらく今の大納言か。〕『天武紀』十三年十一月、紀臣に朝臣の姓を賜った。
『姓氏録』左京皇別では、紀朝臣は石川朝臣と同祖で、建内宿禰の子・紀角宿禰の子孫。右京皇別では、紀朝臣は石川朝臣と同氏で、屋主忍雄建猪心命の子孫。〔建猪心命は『景行紀』に見え、建内大臣の父だ。〕『三代実録』巻九には、左京の人、山村忌寸安野・夏野・全子らに、紀朝臣の氏・姓を賜った。紀角宿禰の子孫である、と見える。
『神名帳』には、大和国平群郡に平群坐紀氏神社〔名神大、月次祭・新嘗祭の対象〕がある。〔平群坐とあることから見れば、木臣だけでなく、建内大臣の子孫の氏々、すべての氏神だろう。〕
【宣長の注釈】都怒臣は、『雄略紀』九年に、次のようにある。紀小弓宿禰を大将軍として新羅を討たせたが、小弓宿禰は新羅で病死した。その子の小鹿火宿禰が父の喪に従って帰る時、倭子連を通じて大伴大連に八咫鏡が献じられ、『私は紀卿とともに朝廷に奉仕することに耐えられません。どうか角国に残って住まわせてください』という願いが述べられた。大連は天皇に申し上げ、角国に住まわせた。角臣らが初めて角国に住み、角臣と名づけたのは、これから始まる、と。〔訳注:原文『角國使倭子連奉八咫鏡於大伴大連而祈請曰』は、『使』を使者と読むか使役の語と読むか、またどこで区切るかを確定できない。願い出た人物をこの字列だけから特定せず、献上と願いの行為を受動表現で示した。〕
角国は、周防国の都濃郡のことだ。〔小鹿火宿禰が紀氏であることも、小弓宿禰の子であることも、『日本書紀』の文には、はっきり見えないが、きっとそうだと思われる。〕
ここには疑わしい点がある。すでに祖先の名が角宿禰というのは、角国にちなむ名と思われるのに、小鹿火宿禰になって初めて角国に住み、それによって角臣と名づけたとは、どういうわけか。考えるに、角宿禰も『仁徳紀』四十三年に百済へ派遣されたことがあるので、帰る時に角国に住んだのは角宿禰だったのを、誤って小鹿火宿禰の事として伝えたのではないか。〔前に引いた『国造本紀』も考え合わせるべきだ。〕または祖先の代からゆかりがある土地なので、小鹿火宿禰もとどまったのかもしれない。
この氏の人は、『天武紀』に都努臣牛甘が見える。十三年十一月、角臣に朝臣の姓を賜った。『姓氏録』左京皇別では、角朝臣は紀朝臣と同祖で、紀角宿禰の子孫。〔『神名式』に、日向国児湯郡の都濃神社がある。この氏にゆかりのある神ではないか。〕
【宣長の注釈】坂本臣の坂本は、『和名抄』の和泉国和泉郡坂本〔さかもと〕郷のことだ。〔次に引く書物で分かる。〕この氏の人は、穴穂宮の段に出る根臣だ。『日本書紀』雄略の巻には、根使主が日根に稲城を築いたことが見える。〔日根は和泉国の郡だ。〕ほかにも『日本書紀』の各所に見える。天武の巻の十三年十一月、坂本臣に朝臣の姓を賜った。『続日本紀』巻三十六には、天応元年、和泉国和泉郡の人、坂本臣糸麻呂ら六十四人に朝臣の姓を賜った、とある。
『姓氏録』左京皇別には、坂本朝臣は紀朝臣と同祖で、紀角宿禰の子・白城宿禰の子孫。また和泉国皇別には、坂本朝臣は紀朝臣と同祖で、建内宿禰の子・紀角宿禰の子孫。その子・白城宿禰の三世の孫、建日臣が、居住地によって坂本臣の氏・姓を賜った、とある。摂津国皇別には、坂本臣は紀朝臣と同祖で、彦太忍信命の孫・武内宿禰の子孫。
『続日本後紀』には、讃岐国の人、坂本臣鷹野が、讃岐の戸籍から除き、もとの和泉の籍に戻すよう願い、許された云々。坂本臣鷹野ら十三人の臣を改め、朝臣を賜った。建内宿禰の子・紀角宿禰の子孫である、とある。
【宣長の注釈】これらの氏以外にも、角宿禰の子孫は、『姓氏録』に、掃守田首は武内宿禰の子・紀都奴宿禰の子孫、紀祝は建内宿禰の子・紀角宿禰の子孫、紀部は建内宿禰の子・都野宿禰命の子孫、紀辛梶臣は建内宿禰の子・紀角宿禰の子孫〔一本には辛の字がない〕、大家臣は建内宿禰の子・紀角宿禰の子孫、天智の庚午の年、大家に住んだため大宅臣の氏・姓を負った、掃守田首は武内宿禰の子・紀角宿禰の子孫、丈部首も同上、などとある。
【宣長の注釈】久米能摩伊刀比売の久米は地名で、大和国高市郡の久米だろう。〔この地については『伝』巻十九・八葉に出る。〕摩は、まことにという眞、伊刀は、いとおしむ意味の名だ。上巻の八千矛神の歌で、いとこやのとある所〔『伝』巻十一・三十九葉〕を考え合わせるべきだ。
【宣長の注釈】怒能伊呂比売の怒の意味は、まだ考えつかない。〔ぬという語は人名に多いので、沼矛などのぬで、玉のことだろうか。玉を尊称にした例は、玉依比売などである。ぬという名の例は、水垣宮の段の沼名木之入日売命の下、『伝』巻二十三で述べよう。〕久米の例によれば、こちらも地名かもしれない。伊呂は、浮穴宮の段の常根津日子伊呂泥命の下〔『伝』巻二十一・十葉〕で述べたとおりだ。同段には蠅伊呂泥・蠅伊呂杼という名もあり、同じ意味である。
【宣長の注釈】葛城長江曾都毘古の葛城については、前に出た。〔『伝』巻二十一・一葉。〕この人が葛城に住んだことは、その娘・石之比売命の歌に、葛城高宮、私の家の辺り、と詠まれ、また『日本書紀』允恭の巻に、この人の孫・玉田宿禰の家が葛城だったことが見えるなどで分かる。
長江も地名と思われるが、どこかは詳しく分からない。〔『天武紀』九年、朝妻へ行幸し、長柄の杜で大山位以下の者の馬を見た、とあるのは、『神名式』の大和国葛上郡長柄神社の地だ。この長柄に、『日本書紀』ではながらともながえとも訓を付けているが、古書で、えを表す借字に柄を使った例は、ほとんど見当たらない。しかも葛上郡には今も名柄村があり、ながらというので、ながえではない。〕
軽島宮・遠飛鳥宮の段に、河内恵賀の長江という地が見えるのは、『神名式』の志紀郡志紀長吉神社がある、この地だ。しかし、そことも決めにくい。〔ただし子孫は、『姓氏録』に河内国で多く見える。後に引くとおりだ。〕
曾は熊曾の曾と同じで、その意味は『伝』巻五・十六葉で述べた。この人が、たいそう勇敢で健やかだったので、この名を負ったのだろう。都は、のに通じる助詞だ。『日本書紀』景行の巻には、日向襲津彦皇子という方もある。
この人の事績は、『日本書紀』神功・応神・仁徳の各巻に見える。〔神功の巻の五年に初めて見え、仁徳四十一年まである。その間、およそ百五十年だ。長寿の人だったのだろう。〕『万葉集』巻十一・二十一丁には、葛木の襲津彦の真弓、荒木にも云々と詠む。
〔『駿河風土記』には荒木田襲津彦とあり、『伊賀風土記』には、阿拝郡荒木山に須智明神という神があり、祭るのは猿田彦・武内宿禰・葛城襲津彦だ、とある。『神名式』には須智荒木神社。『古今著聞集』には、伊賀の荒木白髪明神の相殿にいらっしゃる葛城襲津彦は、武内の御子だ、とある。〕
【宣長の注釈】玉手臣の玉手という地は、大和にも河内にもあり、その事は『伝』巻二十一・三十七葉で述べた。この氏がどちらによるかは、決めにくい。『天武紀』十三年十一月、玉手臣に朝臣の姓を賜った。『姓氏録』右京皇別には、玉手朝臣は武内宿禰の子・葛木会頭日古命の子孫とある。
【宣長の注釈】的臣は『いくは』と読む。
〔『日本書紀』景行の巻には、的邑に着いて食事をした。この日、料理人らが盃を置き忘れたため、人々は、その盃を忘れた所を浮羽と呼んだ。今、的というのは、そのなまりだ。昔、筑紫の俗語では盃を浮羽と呼んだ、と見える。『筑後風土記』にもこの話があり、そこでは、天皇が『惜しい、私の酒盃よ』とおっしゃったので宇枳波夜郡といったが、後の人が誤って生葉郡と名づけた。俗語で酒盃をうきという、とある。うきはやは、酒盃よ、惜しい、の意味で、はやは嘆きの言葉だ。『和名抄』には筑後国生葉郡、いくはとある。この筑後の生葉の話は、ここにはまったく関係しないが、的をいくはと読む証拠である。また『神名式』には尾張国海部郡の伊久波神社、『和名抄』には淡路国津名郡の育波、いくは、『万葉集』巻二には国臣牛羽という人名などもある。的のくを、ぐと濁るのは誤りだ。生葉などとも書くことで、清音と分かる。〕
そもそも、いくはに的の字を書くのは、『日本書紀』の、射させた〔仁徳の巻〕、朝廷で射た〔孝徳の巻〕、西門の庭で射た〔天武の巻〕などの射を、いくふ、いくひすとも読む。射とは、的を射る行為なので、射られるものという意味で、的もいくはというのだろうか。〔『天武紀』では、射をいくさと読む所もある。〕また、いくはは、もともと的の古名で、射はいくはいるという語なのかもしれない。〔『和名抄』は、的、まととするだけで、いくはという名は見えない。ただ射芸の道具の所には、『漢語抄』に射架、いくはところ、世間ではあむづちという、とある。〕『字鏡』の、的、人の姓、ゆくはというのは、この氏のことだ。〔いをゆというのは、国名の壱伎をゆきともいうのと同じだ。〕
この氏が的という名を負う理由は、『日本書紀』仁徳の巻にこうある。『十二年秋八月、庚子を朔とする己酉の日、朝廷で高麗の客をもてなした。この日、臣らと役人を集め、高麗が献じた鉄の盾を的として射させた。誰も貫けなかったが、的臣の祖・盾人宿禰だけが、鉄の的を射通した。高麗の客らは、その射のすぐれた巧みさを畏れ、皆、立ち上がって朝廷を拝した。翌日、盾人宿禰をほめ、的戸田宿禰の名を賜った。』
〔今考えるに、この人の初めからの名が盾人で、この時、戸田の名を賜ったようなのは、誤りではないか。初めの名が戸田で、この時、盾人の名を賜ったのだろう。鉄の的を射たとだけあるが、鉄の盾まで射通したために賜った名と思われる。『応神紀』十六年に、すでに的戸田宿禰とあるのは、後に賜った的の氏名を、以前にさかのぼって記したので、戸田は当時の名だろう。『宴楽集』の歌には、くろがねの、あどをとほせる、いさみにぞ、なをたまへりと、よみつたへける、とあり、黒い鉄の的を射通した勇ましさによって、名をいただいたと、語り伝えてきた、という。〕
この氏の人は、その後も時々見える。後には衰え、しかるべき人がいなかったのか、浄御原の御世に朝臣の姓を賜った氏の中からは漏れ、後まで臣の姓だった。『姓氏録』山城国皇別には、的臣は石川朝臣と同祖で、彦太忍信命の三世の孫・葛城襲津彦命の子孫。河内国皇別には、的臣は道守朝臣と同祖で、武内宿禰の子・葛城会都比古命の子孫。和泉国皇別には、的臣は坂本朝臣と同祖で、建内宿禰の子・葛城襲津彦命の子孫、とある。
【宣長の注釈】生江臣の生江は地名のようだが、どの国か、まだ分からない。この氏の人は、『続日本紀』巻十七に尾張国山田郡の人、生江臣安久多、巻二十に生江臣智麻呂、巻二十九に生江臣東人などと見える。『国造本紀』には、穂国造は、泊瀬朝倉朝、生江臣の祖・葛城襲津彦命の四世の孫、蒐上足尼を国造に定め賜った、とある。〔穂国は三河国宝飯郡だ。〕『姓氏録』左京皇別では、生江臣は石川朝臣と同祖で、武内宿禰の子孫。
【宣長の注釈】阿芸那臣も地名だろうか。まだ分からない。〔『万葉集』巻十四の相模国の歌には、足柄の、あきなの山に云々とある。『おとぎほふこ』というものには、永正年間、近江の滋賀郡松本に真上の阿祇奈君という人がいた云々とある。〕『姓氏録』摂津国皇別には、阿支奈臣は玉手朝臣と同祖で、武内宿禰の子・葛城曾豆比古命の子孫。また大和国皇別には、阿祇奈君は玉手朝臣と同祖で、彦太忍信命の孫・武内宿禰の子孫とある。
【宣長の注釈】これらの氏以外にも、曾都毘古の子孫は、『姓氏録』に、葛城朝臣は葛城襲津彦命の子孫、塩屋連は道守連と同祖で武内宿禰の子・葛木曾都比古命の子孫、小家連は塩屋連と同祖云々、原井連も同上、興等連は塩屋連と同祖云々、布忍首は的臣と同祖、布師臣も同上とある。また未定雑姓には、下神は葛木襲津彦命の子・腰裙宿禰の子孫とある。
『続日本紀』巻四十には、忍海原連魚養らが『古い記録を調べると、葛木襲津彦の第六子は熊道足禰で、魚養らの祖だ。熊道足禰の六世の孫・首麻呂は、飛鳥浄御原の朝廷、辛巳の年に、格を下げられて連の姓を賜り、それ以来云々。どうか、その古い称号を除き、朝野宿禰を賜りたい云々。朝野は住んでいる所の、本来の名だ』と申し出て、願いどおり賜った、とある。
『続日本後紀』巻四には、大和国の人、忍海原連島依と同氏の百吉らに朝野宿禰の氏・姓を賜った。葛城襲津彦の子孫である、とある。巻十二には、右京の人、参議従三位の朝野宿禰鹿取とその男女、合わせて十九人は、宿禰を改めて朝臣を賜った。国牽天皇の三世の孫・武内宿禰の第六男、葛木襲津彦の子孫である、などと見える。
【宣長の注釈】又若子宿禰の又は、前の例によれば、次とあるべきだ。〔ここだけ又というのは、理由があるのか、分からない。〕また宿禰の下に者の字がないのも、前の例と違う。
若子は『わくご』と読む。『日本書紀』武烈の巻の歌に、鮪の若子、継体の巻の歌に、毛野の若子、舒明の巻の歌に、毛津の若子、『万葉集』巻十四に、殿の若子、などとある。昔、若く盛んな人をほめていった称号だ。この宿禰は、それをそのまま名にしたのである。
【宣長の注釈】江沼財臣の財は、間だろうと延佳がいう。確かにそうだろう。江沼間は地名で、『和名抄』の加賀国江沼郡のことだ。『国造本紀』の能登国造の前には、江沼国造は、柴垣朝の御世、蘇我臣と同祖で、武内宿禰の四世の孫・志波勝足尼を国造に定め賜った、とある。『日本書紀』欽明の巻には越人の江渟臣裾代、『続日本紀』巻三十五には女孺の江沼臣麻蘇比、『日本後紀』には江沼臣小並などの人が見える。『姓氏録』大和国皇別には、江沼臣は石川と同氏で、建内宿禰の子・若子宿禰の子孫とある。〔この箇所と、前の坂本臣の下で、祖の下に也の字がないのは、前後の例と異なる。〕
【宣長の注釈】以上の九人は、いずれも武内宿禰大臣の子である。なお、この大臣の子孫は、これらの氏以外にも、『姓氏録』に、田口朝臣は石川朝臣と同祖で武内宿禰大臣の子孫云々、日佐は紀朝臣と同祖で武内宿禰の子孫、欽明天皇の御世、季と同族四人、国民三十五人が帰化した云々、とある。〔この大臣の子らが韓国へ出かけたことは、『日本書紀』に多く見えるので、その国にいた間に生まれた子の子孫なのだろう。〕さらに、日佐は紀朝臣と同祖で武内宿禰の子孫、池後臣は建内宿禰の子孫、山口朝臣は道守朝臣と同祖で武内宿禰の子孫、などと見える。
『三代実録』巻十四には、苅田首安雄に紀朝臣の氏・姓を賜った。安雄は自ら武内宿禰の子孫だといった、とある。『続日本後紀』巻四には、丹波国の人、大村直福吉と同族合わせて五人に、紀宿禰の氏・姓を賜った。武内宿禰の分かれである、などと見える。〔また『姓氏録』に、出庭臣は孝元天皇の皇子・太忍信命の子孫とある。これも、この大臣の子孫だろう。〕
【古事記本文】この天皇の御年は五十七歳。御陵は、剣池の中の岡の上にある。
【宣長の注釈】御年五十七歳は、『日本書紀』には、五十七年秋九月、壬申を朔とする癸酉の日、大日本根子彦国牽天皇が崩じた、とある。〔ここは単に天皇とあるべきなのに、名を記したのは、どうだろうか。〕年齢は記されていない。〔ただ、父天皇の三十六年春正月、皇太子に立ち、十九歳とあることによれば、百十六歳だろう。この『古事記』とは、たいそう違う。〕ある書物は百十七歳とも百二十六歳ともいう。
【宣長の注釈】剣池は、『日本書紀』応神の巻の十一年冬十月、剣池を作ったとある。〔この『古事記』にも、同じ御世にこの池を作ったことが見える。〕『舒明紀』七年秋七月には、剣池に、一本の茎に二つの花を付けためでたい蓮が生えた。皇極の巻の三年には、剣池の蓮に、一茎二萼のものがあった云々。『万葉集』巻十三・十九葉には、みはかしを、剣の池の蓮葉に、などと見える。
御陵は、『日本書紀』開化の巻の五年春二月、丁未を朔とする壬子の日、大日本根子彦国牽天皇を剣池島上陵に葬った、とある。〔今考えるに、この池は応神の御世にできたので、陵の名は、その後のことだろう。〕『諸陵式』には、剣池島上陵、軽境原宮で天下を治めた孝元天皇、大和国高市郡にあり、陵域は東西二町、南北一町、守戸五戸とある。『大和志』には、石河村の剣池の南にあり、俗に中山塚と呼び、陵のほとりに丸い丘が六つある、とある。〔『前皇廟陵記』は、一説に、剣池は高市郡難波にあり、池中に霊剣があるという。難波というのも、霊剣があるというのも、理解できない。〕
この池は石川村の東にあり、今も大きい。〔東西の径は四町という。西の堤の下が、そのまま石川村だ。〕御陵の山は、南から池中へ突き出し、実に島と呼べる姿だ。〔山全体の周囲は、七町半余りという。〕池は、その東北から西南まで、広く取り巻いている。〔応神天皇の御代、この池を造ったのは、御陵を残し、その所に掘ったのだろう。〕
伊邪河宮の巻
【古事記本文】若倭根子日子大毘毘命は、春日の伊邪河宮においでになり、天下を治められた。
この天皇は、旦波の大県主、名を由碁理という人の娘、竹野比売を娶り、比古由牟須美命を生んだ。〔この王の名は音を表す。〕また、庶母の伊賀迦色許売命を娶り、御真木入日子印恵命、次に御真津比売命の二柱を生んだ。〔印恵の二字は音を表す。〕また、丸邇臣の祖・日子国意祁都命の妹、意祁都比売命を娶り、日子坐王一柱を生んだ。〔意祁都の三字は音を表す。〕また、葛城の垂見宿禰の娘、鸇比売〔わしひめ〕を娶り、建豊波豆羅和気王一柱を生んだ。〔波から下の五字は音を表す。〕この天皇のお子たちは、合わせて五柱、男王四柱、女王一柱である。
【宣長の注釈】この天皇を、後の漢風の諡では開化天皇と申し上げる。
【宣長の注釈】春日は、前の黒田宮の段に出た。〔『伝』巻二十一・四十葉。〕
【宣長の注釈】伊邪河は、『神名帳』に、大和国添上郡の率川坐大神御子神社、率川阿波神社がある。〔『四時祭式』の率川社は、この大神御子神社のことだ。この社は、この天皇を祭るという説があるが、どうだろうか。ただ、三座とあるうち、一座はそうかもしれない。今、この社は奈良の子守町、阿波神社は西新屋町という所にある。伊邪河の御陵は林小路町にあり、どれも奈良の町のうち、西の方だ。上代は、この辺りまで春日の土地だったのだろう。〕
『馬寮式』には、大和国の京南荘と率川荘の開墾田、二十四町一段百三十五歩云々とある。『万葉集』巻七には、はねかづら、今する妹を、うら若み、いざ率川の、音の清さ、と詠む。〔髪飾りを今つけているあの娘が、初々しい。さあ、いざ川、その流れの音の清らかさよ、という歌で、去来〔いざ〕までは序である。この川は、今、春日山から出て猿沢池の南を通り、子守町の南を西へ流れる小川がある、それだという。この川の名を、地名にも負ったのだろうか。〕
『日本書紀』には、元年冬十月、丙申を朔とする戊申の日、春日の地に都を選び、率川宮といった、とある。〔春日はかすが、率川はいざかはという。〕
【宣長の注釈】旦波は、『和名抄』に、丹波はたには、丹後はたにはのみちのしりとある。また丹後国に丹波郡・丹波郷がある。『続日本紀』巻六には、和銅六年四月、丹波国から五郡を分け、初めて丹後国を置いた、とある。〔この名はたにはなのに、後世、たんばというのは、漢字の音読みに引かれてなまったのだ。にを、んとはねるため、発音の都合で、はまで濁る。〕名の意味は、まだ分からない。
ここでは県主というので、一国全体の名ではなく、県の名で、その丹波郡丹波郷の辺りをいうのだろう。〔国全体の名も、もとはこの県の名から出たのだろう。〕
【宣長の注釈】大県主の県主については、前の『伝』巻七・八十三葉で述べた。そこに大というのは、臣に大臣、連に大連という類の例で、加えてほめた称号だ。朝倉宮の段には志幾大県主とあり、『続日本紀』には坂上大忌寸・県犬養大宿禰・陸奥大国造なども見える。いずれも同じ例で、大は特に尊んでいったものだ。別の考えも一つあり、それは志賀宮の段で述べよう。〔『伝』巻二十九・六十四葉。〕『姓氏録』河内国神別に大県主という氏があるが、それは別だろう。
【宣長の注釈】由碁理の名の意味は、まだ分からない。こりという例は、『日本書紀』景行の巻の武国凝別皇子、神功の巻の熊之凝、応神の巻の浦凝別などがある。また、上巻で隠伎島の別名にある忍許呂別などのころも、同じだろうか。
【宣長の注釈】竹野比売は、『和名抄』に丹後国竹野〔たかの〕郡竹野郷があり、この地名による名だ。『神名式』にも同郡の竹野神社がある。『日本書紀』垂仁の巻、丹波の五人の娘の中にも、竹野媛という同じ名がある。
【宣長の注釈】比古由牟須美命は、下では命を王とする。由牟の意味は、まだ分からない。〔由は、母方の祖父の名にある由と同じか。そうなら、どちらも湯という地名などだろうか。〕須美については、前の然熊野久須毘命の下〔『伝』巻七・五十七葉〕で述べたとおりだ。『姓氏録』には、忍海部は開化天皇の皇子・比古由牟須美命の子孫とある。〔下の忍海部造の所と考え合わせるべきだ。〕『日本書紀』には、丹波の竹野媛を妃に迎え、彦湯産隅命、またの名を彦蔣簀命を生んだ、とある。〔『旧事紀』では、彦蔣簀命、品治部君らの祖、彦湯産隅命と記す。下の伊勢品遅部君・吉備品遅君の所と考え合わせるべきだ。〕
【宣長の注釈】庶母は『みままはは』と読む。〔みは御だ。〕『和名抄』には、継父の日本名はままちち、継母はままははとある。〔今の本には、ままははという日本名はないが、古本にはある。〕『字鏡』には、嫡母はままはは、庶兄はまま兄などとあり、照らし合わせて理解すべきだ。
〔庶母は、継母・嫡母などと違うが、嫡・庶・継というのは中国の区別であって、わが国では、その区別に関わらず、自分を生んだのでない母をまま母といい、自分の生んだのでない子をまま子という。だから嫡母・庶母・継母は、すべてまま母だ。庶兄をまま兄とすることでも分かる。これについては白檮原宮の段、『伝』巻二十・三十九葉で詳しく述べたので、考え合わせるべきだ。延佳本で、あらめいろはと読むのは誤りだ。〕
庶母と結ばれたことは、葺不合命が、おばと結ばれたのと同じ類である。〔これも上代には嫌わなかったのだろう。今、中国の決まりによって、上代の事を、あれこれ論ずべきではない。〕
【宣長の注釈】伊賀迦色許売命は、前に出た。
【宣長の注釈】御真木入日子印恵命は、この命の段の歌に、みまきいりびことある。名の御真の意味は詳しく分からず、木は城だろうか。入は、いろ兄・いろ妹などのいろと同じで、親しみ愛していう呼び名だ。これについては浮穴宮の段、常根津日子伊呂泥命の下〔『伝』巻二十一・十葉〕で詳しく述べた。この後、皇子・皇女の名に入毘古・入毘売というものが多いのは、すべて同じことだ。
〔入日子・入日女の日は、皆、濁って読むのが例で、仮名では毘と書く。また、何々之入日古・何々之入日女と、入の前に之がある名も、ない名もある。ないものに、のを添えて読んでもよいが、みまきいりびこ、いくめいりびこなど、仮名で書く所にも能の字がないので、之の字がない名には、のと読まないものもあるはずだ。〕
このほか伊理泥王、日代宮の段の柴野入杵などのいりも同じだ。〔『孝徳紀』二年に、子代の入部・御名の入部ということがある。これは、この『古事記』で、御子代として何々部を定める、御名代として何々部を定める、と多くいう、その御子代・御名代のため定めた部を入部というのだ。その意味は、その名を後世まで残すため定めるのは、その人を愛しみ偲ぶためなので、入というのだろう。だから、いりべと読むべきだ。今の本の、いるとものをという訓は、いい加減な読みで、後世にいう入部のこととするのも、大きな誤りだ。〕
印恵の印は、いにの二音を合わせた仮名だ。『日本書紀』で五十瓊殖と書くことで分かる。玉垣朝の皇子にも、印色之入日子命という方がある。語の意味は、まだ分からない。にという語は、ほかの名にも多い。恵は、御真津日子訶恵志泥命の恵と同じだろう。〔『伝』巻二十一・十八葉と考え合わせるべきだ。〕
【宣長の注釈】御真津比売命の名の意味も詳しく分からないことは、御真津日子訶恵志泥命の下で述べたとおりだ。〔『伝』巻二十一・十八葉と考え合わせるべきだ。〕大彦命の娘にも同名の方があり、水垣宮の段に見える。そこの『伝』巻二十三・七葉の説明と考え合わせるべきだ。
『日本書紀』には、六年春正月、辛丑を朔とする甲寅の日、伊香色謎命を皇后に立てた。〔庶母である。〕皇后は御間城入彦五十瓊殖天皇を生んだ、とあり、こちらの同母のきょうだいは、いらっしゃらない。
【宣長の注釈】丸邇臣の丸は、わむという字音を取って、わを表した仮名だ。〔丸は『広韻』に胡官の反とある。反切の上の字に胡を使う漢字には、呉音が、わ・ゐ・う・ゑ・をとなる例が多い。話は胡掛の反で呉音はわ、慧は胡桂の反でゑ、黄は胡光の反でわう、あるいは胡国の反でわくとなるようなものだ。ほかにも多い。だから丸も呉音はわむだ。丸邇などの丸を、輪の意味の訓読みで取ったと考えるのは誤りだ。〕
『続日本紀』『姓氏録』などで、この氏を丸部と書き、『万葉集』巻十一に相狭丸〔巻八では相佐和仁〕と書くのも同じだ。〔ただし、これらでは印恵などと同じ類で、丸をわにの二音に用いている。〕丸邇は地名で、大和国添上郡にある。この地については、水垣宮の段で丸邇坂とある所〔『伝』巻二十三・七十六葉〕で述べよう。
この氏は、『日本書紀』孝昭の巻に、天足彦国押人命は和珥臣らの始祖、とある。この命は、この『古事記』では天押帯日子命で、子孫の氏を多く挙げる中に〔『伝』巻二十一・二十六葉から三十三葉〕この氏が漏れている。この氏の人は、水垣宮の段の日子国夫玖命・訶志比売命、そのほか明宮・高津宮・多治比宮・朝倉宮・広高宮など、各段にも見える。『日本書紀』雄略の巻には、春日和珥臣ともある。
浄御原の御世、臣の姓の氏々が多く朝臣の姓を賜ったのに、どういうわけか、この氏は漏れた。『続日本紀』巻二十六には、天平神護元年〔月の数字は判読できない〕、左京の人、丸部臣宗人ら二人に宿禰の姓を賜った、とある。〔丸部は丸邇部だ。『天武紀』で和珥部臣君手とする人の氏名を、『続日本紀』巻一で丸部臣とすることで分かる。〕巻二十九には、神護景雲二年閏六月、左京の人、和珥部臣男綱ら三人に和邇部朝臣の氏・姓を賜った、とある。
『姓氏録』左京皇別では、和邇部宿禰は和邇部朝臣と同祖で、彦姥津命の四世の孫・矢田宿禰の子孫。また同じく左京皇別では、和邇部朝臣は大春日朝臣と同祖で、彦姥津命の三世の孫・難波宿禰の子孫、和邇部臣は和邇部朝臣と同祖云々、丸部は和邇部と同祖で彦姥津命の子・伊富都久命の子孫。右京皇別では、和邇部は天足彦国押人命の三世の孫・彦国葺命の子孫。山城国皇別では、和邇部は小野朝臣と同祖で、天足彦国押人命の六世の孫・米餅搗大使主命の子孫、一本には彦姥津命の三世の孫・難波宿禰の子孫。また摂津国皇別では、和邇部は大春日朝臣と同祖云々とある。
〔このうち『続日本紀』巻二十九と『姓氏録』の和邇部朝臣の邇は、本文では、どちらも安となっている。多くの例の中で朝臣のものだけが皆そうなのは、理由があるかとも思うが、やはり邇の写し誤りだろう。〕
『三代実録』巻七には、左京の人、和邇部大田麻呂に宿禰の姓を賜い、大田麻呂は、自分は天帯彦国押人命の子孫だといった。また播磨国飾磨郡の人、和邇部臣宅継に逋宗宿禰を賜い、自分は天帯彦国押人命の子孫だといった、とある。〔逋宗は、ちかむねと読むのか。〕巻九には、播磨国飾磨郡の人、和邇部臣宅貞・宅守らに逋宗宿禰の氏・姓を賜った、などと見える。
この氏は、古くは和邇とだけあるが、『天武紀』に初めて和邇部臣君手とあり、これ以後の書物では、和邇部とだけある。いつから部という語が添わったのだろう。『神名式』には若狭国三方郡の和邇部神社もある。
【宣長の注釈】日子国意祁都命の名は、次に述べよう。この命は、『姓氏録』丈部の下では、天足彦国押人命の孫・比古意祁豆命、羽束首の下では、天足彦国押人命の子・彦姥津命と見える。どちらが正しいだろうか。〔考えるに、天足彦国押人命は孝安天皇の兄で、開化天皇は孝安天皇の曾孫なので、孫とある方を正しいとしようか。〕この命の子孫は、和邇臣だけでなく非常に多く、掖上宮の段〔『伝』巻二十一〕に見える。考え合わせるべきだ。
【宣長の注釈】意祁都比売命は、同母の兄妹が同じ名で、比古と比売によって区別する例だ。沙本毘古・沙本毘売など、ほかにも多い。名の意味は、まだ分からない。この後、この比売の妹に袁祁都比売という方がある。意と袁によって姉妹の名を区別するのは、億計王と弘計王の例と同じで、大・小の意味だろう。
〔祁都は、あるいは地名なのか。なお考えるべきだ。『日本書紀』で、この意祁を姥と書くのも、どんな理由か詳しく分からない。上巻の伊斯許理度売の度売にも、この字を使う。これは姆と同じで老女の称なので、あるいは老女をおけ、少女ををけということがあったのか。しかし兄の名も意祁都なので、この名では姥は、やはり借字だろう。〕『舒明紀』には毛津という名が見える。
【宣長の注釈】日子坐王は、諸本とも子の字が脱落しているが、延佳が補ったのが正しい。坐は『います』と読む。『姓氏録』に彦今簀命とも書く。〔坐を仮名で表したものは、『雄略紀』の御歌に、いまし、またいませなどがある。居る意味と思い違い、ゐますと書くのは誤りだ。〔訳注:この箇所の原字列は『〓麻須』とした。初字は韋・章の候補があり、中央の囲いと上下の折れを持つ画は見えるが、口の内側や交差の細画を確定できない。『ゐます』は、居るという意味と混同することを批判する前後の説明に基づく仮の読みである。〕〕名の意味は、まだ分からない。『日本書紀』には、次の妃、和珥臣の遠祖・姥津命の妹、姥津媛が彦坐王を生んだ、とある。この王の事績は、水垣宮の段に見える。
【宣長の注釈】代々の皇子の名は、これ以前には『古事記』も『日本書紀』も、すべて何々命とだけあるのに、ここで初めて両書とも王とする。何々王というのは、本当にこの王から始まったのか。それとも何々命と何々王の違いは、後の伝えの上の違いにすぎず、もともとは区別がなかったのだろうか。確かには決めにくい。
〔ただ、この後、『古事記』で王となる名も、『日本書紀』は多く皇子と書き、王とするのは非常にまれなのに、この御子は、そちらにも王とあるので、はるかな上代からの伝えのままと見える。『日本書紀』の一本では命だが、垂仁の巻に出る所も王なので、こちらも王が正しいはずだ。『姓氏録』などでは命である。そもそも、みこととみこは発音がたいそう近いので、混じりもするだろう。〕
『古事記』中で王の字を書くものは、どれも皆『みこ』と読む。御子の意味だ。御子に王を用いるのは、上代からのことと思われる。『古事記』はいうまでもなく、『日本書紀』にも〔ふつうは皇子と書くのが例なのに〕雄略の巻には星川王、斉明の巻には建王、天智の巻には大友王などが見える。倭建命のことを記す所にも、皆、王と見え、履中の巻には太子王、応神の巻には男女合わせて二十王、天武の巻には年長・年少合わせて十余王などもある。これが古い書き方だ。
〔こうして天皇の子に王を使ったわけは、中国では周の代まで、王は、ただ全体を治める君主のことだったが、その末頃から諸侯も皆、王と名のるようになり、漢の代には、君主の子らを諸侯にしたのを諸侯王と呼び、何々王というので、これを取り入れ、わが朝廷でも御子に王の字を用いたのである。〕
天皇の直接の子だけでなく、その子孫も、氏・姓を賜らない限り、皆、御子と申し上げたため〔子孫を皆、子というのは、古い呼び方だ〕そこにも広げて、王の字を用いた。
〔上代には一世・二世などの区別なく、すべて同じくみこといい、王と書いた。一方、『日本書紀』の書き方は、おおむね天皇から一世の御子の名には皇子、二世以後には王と書く。ただし、古い書き方のまま、一世にも王と書いた所が、時々ある。前に引いたとおりだ。皇子と王は文字こそ違うが、呼び方は共通して、どちらもみこだった。
親王という称号ができた後、親王をみこといい、親王でない者を王と書き、それをおほきみと呼び分けるようになった。親王という号は、中国の隋・唐の制度を取り入れたものだ。この号は『天武紀』四年の所に初めて見えるが、まさにその時、始まった様子ではない。それでも、この御世に始まったと思われる。しかし、この号ができても、それをすぐに名の下に添えて何々親王ということは、その御世には、まだなかったようだ。舎人皇子・新田部皇子など、ほかも『日本書紀』は何々皇子とだけ書き、『続日本紀』になって、皆、何々親王と記す。
親王をみこというため、区別して諸王は何々おほきみと呼ぶ決まりになったが、おほきみという尊称は、天皇をはじめ、親王・諸王にわたるもので、まず中心には天皇を申し上げるのだから、諸王だけの称のようになったのは、適当でない。
また、この『古事記』『日本書紀』など、古書の何々王という名の王を、きみと読むのも誤りだ。古書では王は必ずみこである。そう読まないのは、後の親王・諸王の区別にとらわれ、古いありさまを知らないためだ。
『継嗣令』には、天皇の兄弟と皇子は皆、親王とし、そのほかはすべて諸王とする。親王から五世は、王の名を得ても皇親の範囲に入らない、とある。『選叙令』の蔭位では、皇親は、親王の子が従四位下、諸王の子が従五位下、五世の王も従五位下、庶子はさらに一階下げる云々とする。『続日本紀』巻六、霊亀元年九月の詔の、皇親二世は五位に準じ、三世以下は六位に準じる、とあるのは、蔭位を賜る以前の、本来の身分をいう。準という字で分かる。
同書巻三、慶雲三年二月の七条の制、その第七には、令に準じ、五世の王は王の名を得ても皇親の範囲に入らない。今、五世の王は、すでに王の名を持ちながら皇親の籍を絶たれ、臣下の例に入る。親族を親しむ情を思い、籍を絶つ痛みに堪えない。今後、五世の王を皇親の範囲に入れ、嫡統を継ぐ者は代々王とし、ほかは従来のままとする、とある。〕
【宣長の注釈】垂見宿禰の名の意味は、まだ分からない。地名だろうか。〔『神名式』には摂津国豊島郡の垂水神社、『和名抄』には播磨国明石郡の垂見、たるみなどがある。垂水については『冠辞考』に詳しい。〕『日本書紀』神功の巻には、依網吾彦の子、垂見という名が見える。
【宣長の注釈】鸇比売の鸇は『わし』と読む。朝倉宮で天下を治めた天皇の御陵の地名、高鸇を、『日本書紀』では高鷲と書くためだ。〔『字鏡』には鸇は、はやぶさとある。『和名抄』は、鷣について『兼名苑』によると一名を鸇といい、鷂のことだ、とする。野王の考えでは鷂は鷹に似て小さい鳥で、『漢語抄』には、はしたかとある。これらは鷲とは別だが、草木・鳥獣などの漢字名は、昔は思い思いに当てたので、必ずしもこだわるべきでない。この『古事記』では、わしに鸇の字を使ったのだ。たかと読むのはよくない。〕この名は、その鳥をそのまま名にしたのか。〔鳥の名を付けた例は多い。〕それとも借字なのか、詳しく分からない。
【宣長の注釈】建豊波豆羅和気王は、諸本とも王の字が落ちていたのを、延佳が補ったのがよい。波豆羅の意味は、まだ分からない。和気については日代宮の段で述べよう。『日本書紀』には、この御子はいらっしゃらない。〔『旧事紀』では武歯頰命とある。〕
【古事記本文】こうして、御真木入日子印恵命が天下を治められた。その兄、比古由牟須美王の子は、大筒木垂根王、次に讃岐垂根王である。〔讃岐の二字は音を表す。〕この二王の娘が、合わせて五柱いらっしゃった。
【宣長の注釈】其兄の兄は『みこのかみ』と読むべきだ。五柱の皇子の中の、第一という意味だろうからだ。このかみは、子上ということで、子らの中の第一の一人を呼ぶ言葉である。
〔また其というのが印恵命を指すなら、みあにと読むべきだ。あには、第一の一人だけに限らない呼び名だ。どちらにしても、この兄をいろせ・いろえなどと読むのは誤りだ。いろせなどは、同母の兄をいう言葉だからだ。〕
【宣長の注釈】大筒木垂根王の筒木は地名で、『和名抄』の山城国綴喜〔つつき〕郡綴喜〔つつき〕郷のことだ。〔この地名の二つ目のつを濁ったり、きを濁ったりするのは、どちらもよくない。三音とも清音だ。綴の字を使ったのは、てつという字音を取り、つつに通じさせたので、つづりという訓を取ったのではない。混同してはならない。〕この地については、高津宮の段〔『伝』巻三十六・四十四葉〕で詳しく述べよう。
垂根は『たりね』と読む。たりは足で、たらしと同じ意味だ。〔垂を、たらしとも読めそうだが、『古事記』でたらしには、皆、帯と書くのが例なのに、ことに垂と書くのは、そう読んではならないのだ。〕根は、いつもの尊称である。足という名の例は、どれも、その前に、のをいわない。〔大倭帯日子・息長帯比売などのようなものだ。〕だから、この名なども筒木の下に、のを読み添えてはならない。
垂根という名の例は、志賀宮の段の建忍山垂根、明宮の段の桜井田部連の祖、島垂根などがある。〔古書には宿禰を足尼とも書くことが多い。この足尼も、注意しないと垂根と混同する。足尼は二字とも音を取った仮名で、宿禰と同じだ。その理由は『続日本紀』巻三十二にも見える。それを『旧事紀』で、宿禰と足尼を別の称号のようにいうのは、でたらめだ。〕
【宣長の注釈】讃岐垂根王の讃岐は、讃岐国による名か。また『神名帳』には大和国広瀬郡の讃岐神社、『和名抄』には同郡の散吉郷があるので、この地によるのか。〔この郷の名は、さぬきだろう。本文で、さきと読むのは、どうだろうか。『三代実録』巻四十四の、大和国散吉大建命神・散吉伊能城神は、『神名式』の讃岐神社だろう。〕
【宣長の注釈】二王は『ふたはしらのみこ』と読む。〔前の注にある二王は、ただ、ふたはしらと読むべきだ。前後で二柱・三柱などと注するのと同じだからである。それぞれの場所のありさまに従い、同じ字でも読み方が変わるべき例は、こういうものが多い。〕大筒木垂根王と讃岐垂根王のことである。
【宣長の注釈】女五柱とは、この二王の娘たちが、合わせて五人ということだ。そのうち何人が大筒木垂根王の娘、何人が讃岐垂根王の娘かは分からず、その名も伝わらなかったのだろう。玉垣宮の段に、大筒木垂根王の娘、迦具夜比売命を娶ったとあるのは、この五柱のうちだろう。
【宣長の注釈】坐也とは、いらっしゃった、ということだ。存在することを尊んでいう時には、坐というのが、ふつうのいい方である。
【古事記本文】次に日子坐王は、山代の荏名津比売、またの名を苅幡戸辨という人を娶り、大俣王、次に小俣王、次に志夫美宿禰王の三柱を生んだ。〔辨の一字は音を表す。〕
また、春日の建国勝戸売の娘、名を沙本の大闇見戸売という人を娶り、沙本毘古王、次に袁邪本王、次に沙本毘売命、またの名を佐波遅比売、次に室毘古王の四柱を生んだ。この沙本毘売命は、伊久米天皇の皇后となった。
また、近淡海の御上祝が斎き祭る天之御影神の娘、息長水依比売を娶り、丹波比古多多須美知能宇斯王、次に水穂の真若王、次に神大根王、またの名を八瓜入日子王、次に水穂五百依比売、次に御井津比売の五柱を生んだ。〔伊都玖の三字、この王の名は、音を表す。〕
また、その母の妹、袁祁都比売命を娶り、山代の大筒木真若王、次に比古意須王、次に伊理泥王の三柱を生んだ。〔後の二王の名は音を表す。〕
日子坐王の子は、合わせて十五柱である。〔底本は『十一王』。宣長は、列挙された男の御子十二柱・女の御子三柱を数え、十五柱と読む。また『水之穂』の『之穂』を『穂之』の取り違えとし、『水穂の』と読む。〕
【宣長の注釈】次日子坐王の次は、前の其兄の、その次ということだ。〔讃岐垂根王の次というのではない。〕
【宣長の注釈】山代は山城国だ。この国については、前の『伝』巻七に出た。
【宣長の注釈】荏名津比売の名は、諸本とも荏名名津とあるが、名が一字余計なのだろう。今は、真福寺本にないのに従った。荏名は地名で、津はいつもの助詞だろう。または津まで含めて地名か。〔『万葉集』巻三に、墨吉の得名津に立ちて云々、『和名抄』に摂津国住吉郡の榎津〔音注は『以奈豆』〕などがあり、荏名津の例である。〕『和名抄』には、荏の日本名は、ゑとある。今、山城国綴喜郡に江津村がある。〔昔は、ゑのつといったのか。〕
【宣長の注釈】苅幡戸辨は、『和名抄』に、山城国相楽郡の蟹幡〔かむはた〕郷、『神名式』に同郡の綺原坐健伊那太比売神社があり、その土地による。〔今は綺田村という。〔訳注:村名の第一字は『綺』と仮に採録したが、『結』の可能性もあり、細画の判読は確定できない。〕『和名抄』の錦・綺の類には、綺、かむはたとある。上代は、かりはたといったのを、やや後に変化して、かにはたともいったのだろう。蟹の字を使うことで分かる。それを発音の都合で、かむはたというのだ。〕下巻、穴穂宮の段に山代の苅羽井とある所〔『伝』巻四十・四十六葉〕も考え合わせるべきだ。〔そこの苅羽井も、後には樺井という。〕
戸辨は戸売と同じだ。『日本書紀』で石凝姥神を、ある一書では已凝戸辺ともすることで分かる。〔已は石の誤りだ。〕この称については、上巻の伊斯許理度売命の所〔『伝』巻八・二十八葉〕で述べたとおりだ。戸辨の例には、水垣宮の段の荒河刀辨、『日本書紀』神武の巻の名草戸畔〔戸畔はとべという〕・丹敷戸畔・新城戸畔などがある。苅幡戸辨と同じ名が玉垣宮の段にもあり、そこの『伝』巻二十四・八葉の説明も考え合わせるべきだ。
【宣長の注釈】大俣王・小俣王の俣は、完全という意味だろうか。同じ名の例は、明宮の段の多遅摩俣尾など、各所にある。また兄弟の名を大・小で区別する例は、大碓命・小碓命、意冨祁命・袁祁命など、ほかにも多い。
【宣長の注釈】志夫美宿禰王の名の意味は、まだ分からない。地名だろうか。『神名帳』には伊勢国安濃郡の志夫弥神社がある。〔今も渋見村という所がある。〕玉穂宮・他田宮の段、『日本書紀』舒明・皇極の巻などにも同じ名がある。
【宣長の注釈】春日建国勝戸売の名の意味は、まだ分からない。娘のために親をいう時は、父を挙げるのが例なのに、戸売は女の名で、母のように聞こえるのは、なぜだろう。水垣宮の段の、荒河刀辨の娘云々も、同じ例だ。これらには特別な理由があり、父を置いて母を挙げたのか。〔鏡作連の祖・伊斯許理度売命、猿女君の祖・天宇受売命とするのと同じような例か。〕
女の名に建という例は、倭建命の段の大吉備建比売、『日本書紀』景行の巻の襲武媛などがある。国勝という名については、孝霊の紀に倭国香媛などがある。〔正鹿山津見を『日本書紀』では正勝山祇としており、勝〔かつ〕と加〔か〕の音は通じる。〕ただし、『姓氏録』には、火明命の五世の孫・建刀米命の子孫という氏があちらこちらに見え、同じ神の三世の孫・天礪目命の子孫というものもあるので、男の名にも戸売というものがあったのかもしれない。そうなら、あの『神武紀』の名草戸畔なども、皆、男だろうか。国勝という例は、『日本書紀』神代の巻に事勝国勝長狭がある。
【宣長の注釈】沙本之大闇見戸売は、諸本に之の字がないが、今は真福寺本と、ある一本にあるのに従った。沙本は大和国添上郡の地名だ。この地については、玉垣宮の段〔『伝』巻二十四・三十四葉〕で述べよう。闇見も地名だろうか。『神名帳』に若狭国三方郡の闇見神社がある。〔その国には今も、この地名がある。〕この人が生む御子、室毘古王が若狭の耳別の祖なのも、ゆかりがある。また『神功紀』には倉見別という人も見える。
【宣長の注釈】沙本毘古王も、母の居住地、沙本に住んだらしいことが、玉垣宮の段に見える。この王の事績も、そこの『伝』巻二十四・四葉に出る。同母の妹、沙本毘売命の別名を佐波遅比売と申すことから考えると、『姓氏録』の豊階公の項に彦坐命の子・沢道彦命とあるのは、この王だろう。
【宣長の注釈】袁邪本王は、小沙本のことで、前と同じ地名だ。〔沙を濁るのは、その前の小から続くためだ。〕
【宣長の注釈】沙本毘売命は、兄と同じ地名による。〔ついでにいう。後世の歌に佐保姫というものがあり、春の歌には佐保姫、秋の歌には立田姫と詠む。これは奈良の都の頃、いい出したことだろう。立田は奈良の西にあり、立田姫という神がいらっしゃるのに対し、佐保は東にあるため、春に取って佐保姫という名を設けたのだろう。西三条公条公の『高野山参詣記』に、奈良の辺りで佐保姫の社に参ったとあるのは、そういう社もあるのだろうか。〕
【宣長の注釈】佐波遅比売の名の意味は、まだ分からない。これも地名か。〔『倭姫命世記』に、この所から行幸すると沢道野があり、そこを沢道小野と名づけた、とあるのは、伊勢国度会郡で、今、佐八と書き、さうちという土地だ。〕
【宣長の注釈】注の伊久米天皇は、玉垣宮で天下を治めた天皇でいらっしゃる。『日本書紀』継体の巻にも活目天皇とある。
【宣長の注釈】室毘古王は、『和名抄』に大和国葛上郡の牟婁郷があるので、この地による名だろうか。
【宣長の注釈】近淡海は、上巻の『伝』巻十二に見える。
【宣長の注釈】御上祝の御上は、『和名抄』にある、近江国野洲郡三上〔みかむ〕郷のことだ。〔みかむというのは、やや後の発音の変化だろう。昔は、みかみといったのだろう。〕
『拾遺集』には、安和元年の大嘗会の風俗歌、みかみの山として、大中臣能宣の歌がある。『神々しい三上の山の榊の葉は、末の世までも、いよいよ栄えてゆく。』清原元輔の歌は、『万代もと三上の山が響くのに、野洲の川の清い水音も、よく合っている。』また『千載集』の元暦元年、大嘗会悠紀方の風俗歌には、藤原季経朝臣の『常緑の三神の山の杉の群れは、八百万代のしるしなのだろうか』がある。このほかにも歌は多い。
祝は『はふり』と読む。山城国相楽郡の郷名・祝園を、この『古事記』では波布理曾能と書く。また『和名抄』の上野国新田郡の郷名に、祝人、はふりとある。〔これが、はふりという語の確かな用例だ。〕『神功紀』には小竹祝・天野祝などが見える。〔『神武紀』の居勢祝は、神社の祝部ではあるまい。『景行紀』の蝦夷の名、大羽振辺などと同じ類の名だろう。〕
『欽明紀』では、天皇が神祇伯に命じ、神々からの言葉を謹んで受けさせた。祝の者が、神の言葉に託して答えた云々、とある。『持統紀』八年三月乙巳には諸社に幣を奉り、丙午には神祇官の役人や、頭至・祝部など二百六十四人に、それぞれ差をつけて絁・布を与えたと見える。〔訳注:引用の『頭至』は原語のまま示した。読みと具体的な役割は、この引用だけでは確定できない。〕
『職員令』〔神祇官の伯一人は、神祇の祭祀、祝部・神戸の名簿などを担当する、とある〕の祝部について、『令義解』は、祭を行う主人のために祝詞を述べる者をいう。祝は、国司が神戸の中から選び定め、すぐに太政官へ申し上げる。適当な神戸の人がいなければ、一般の人も広く選ぶ、とする。〔祭主は、ここでは官職名の祭主でなく、祭を行う主人だ。賛辞は祝辞の類である。『説文』には、祝は祭主に代わり言葉を述べる者。『書経』の疏には、言葉によって神に告げることを祝という、とある。〕
『神祇式』では、神宮司・神主らが在任六年に満たず、服喪のため解任された時は、代わりを補任してはならない。その間は祝部に務めさせ、喪が明けた日に復職し、任期を満たさせる。禰宜・祝部は、一度補任した後は、軽々しく交替してはならない、とする。〔同式には、禰宜・祝が他人と殴り合ったり、ほかの罪を犯した時は、事情を詳しく記して神祇官へ送り、国司は勝手に処罰してはならない、とある。〕
『民部式』は、諸社の神主・禰宜・祝は、八位以上の者、および六十歳以上で祭事に堪える者を選び、補任する。もとから氏を定めた社や、神戸の民の場合でも、先に八位以上・六十歳以上から選び尽くして、その後に壮年の無位の者へ及び、課役を免除する、とする。
『四時祭式』の祈年祭、神祇官が祭る神七百三十七座に幣帛を配る儀式には、神祇官の役人云々、大臣以下云々、神部が祝部らを導き入れる云々、中臣が進んで座に着き、祝詞を述べ、一段が終わるたび祝部が『はい』と答える云々、忌部二人が進み、幣帛を置く案を左右から支えて立ち、史が官の順で御巫と社の祝を呼ぶ。祝が『はい』と答えて進み、忌部が幣帛を配り終える云々、とある。国司が祈年祭を行う神二千三百九十五座は、祭日と幣帛を配る儀式、ともに神祇官に準じる、とする。
『万葉集』巻四には三輪の祝、巻十には祝部らが斎きつづけた社、巻十二には祝部らが斎く神聖な御室の大馬鏡、巻十九には住吉で斎き仕える祝の神の言葉云々、とある。
ここの御上祝は、単に御上社の祝部というのとは少し違い、上巻の、胸形君らが斎き祭る三柱の大神である、などと同じ類なので、姓としての名である。『姓氏録』に、鴨部祝・紀祝・波多祝・三歳祝などの氏がある、その類だろう。玉垣宮の段にある、出雲の石硐の曾宮にいらっしゃる葦原色許男大神を斎き祭る祝、云々は、言葉の形が違う。
【宣長の注釈】以伊都玖は、『伝』巻六・六十六葉に出た。
【宣長の注釈】天之御影神の天之は、神名に添えるいつもの、天之何々・国之何々という天之で、御影という語に直接かかるものではない。
〔『万葉集』巻一の藤原宮の御井の歌には、高く知ろしめす天の御蔭、天まで知ろしめす日の御影の水こそは、とある。『延喜式』の祝詞には、皇御孫命のめでたい御殿を造り仕え、天の御蔭・日の御蔭としてお隠れになり、また、高天原に千木を高く立て、天の御蔭・日の御蔭と定め奉って、とある。『推古紀』の歌にも、国を治める我が大君の、お隠れになる天の八十蔭云々などがある。『万葉集』は天の影、ほかは天の蔭という意味で、この神名の天之は、それらとは違う。〕
御影という名を、どんな理由で負われたのかは詳しく分からない。この神は『姓氏録』で、額田部湯坐連は天津彦根命の子・明立天御影命の子孫、また山直は天御影命の十一世の孫・山代根子の子孫、とある、その神だ。
〔上巻には天津日子根命は山代国造の祖、『日本書紀』神代の巻にも天津彦根命は凡河内直・山背直らの祖とあるので、この山直は山代直の代が脱落したのか。また『姓氏録』で、山背忌寸は天都比古禰命の子・天麻比止都禰命の子孫とあることからすると、天麻比止都禰命は天御影命と同じ神か。なおよく考えるべきだ。『旧事紀』で皇孫が天降った時、守護のため天降って仕えた三十二人の中に、天御蔭命があり、凡河内直らの祖とある。〕
近江国に彦根という地名があるのは、父神の名にゆかりがある。〔天津日子根命については『伝』巻七に出た。〕この神の社は、『神名帳』の近江国野洲郡御上神社〔名神大、月次祭・新嘗祭の対象〕である。『三代実録』で、貞観元年正月に近江国の三上神へ従五位上を奉り、七年八月に従五位上の三上神へ正四位下を授け、十七年三月に正四位下の三上神へ従三位を授けた、と見えるのがそれだ。また『神名帳』には、丹後国加佐郡の弥加宜神社がある。その社のことは次に述べよう。
【宣長の注釈】女とは、その社の神の御霊が現実の男に姿を変え、女性を娶って生まれた娘のことだ。そうした例は多い。白檮原宮の段で、美和の大物主神の御霊が立派な男に変わり、勢夜陀多良比売を娶って伊須気余理比売命を生んだことや、水垣宮の段の意富多々泥古のことなどを考え合わせて理解すべきだ。
【宣長の注釈】息長水依比売の息長は地名で、『諸陵式』に、息長墓は近江国坂田郡にある、と見える、その地だ。『万葉集』巻十三・二十四丁には、しな立つ筑摩さ野方、息長の、遠智の小菅云々とある。〔筑摩も近江国坂田郡だと、仙覚の抄に見える。〕巻二十・五十九丁には、にほ鳥の、おきなが川云々。『天武紀』には、近江の軍と息長の横河で戦った、とある。〔『続日本紀』巻十三には坂田郡横川の頓宮、『更科日記』には、不破の関・あつみの山などを越え、近江国のおきながという人の家に四、五日泊まった、とある。〕
水は、みずみずしいという意味だ。依は宜、よいということ。〔ろしを縮めて、りとする。〕前に述べたとおりだ。
【宣長の注釈】丹波比古多多須美知能宇斯王の丹波は丹波国だ。多多須は、たつを伸ばしたのか。『国造本紀』に、稲葉国造は、志賀高穴穂朝の御世、彦坐王の子・彦多都彦命を国造に定め賜った、とあるのは、この王と思われるからだ。美知能宇斯は、『日本書紀』に道主とある、その語だ。〔ぬしは、のうしが縮まったもので、大人と同じことだ。〔訳注:対応する原字列は『能字斯』と仮に採録したが、中の一字は『字』と『宇』の細画を判別できない。前後の語の説明から、ここでは『のうし』と仮に読んだ。〕〕『欽明紀』には道君という語がある。また天武の御世、八色の姓を定めた第五を道師というのも、道主という語が古くからあったのにより、字を変えて新たな姓としたのだ。〔『ぬ』と『の』は通じる。〕『日本書紀』神代の巻には、日神の生んだ三女神は、今、海北の道中にいて、道主貴という、ともある。
道主の道は、国をいう。その理由は、水垣宮の段の東方十二道の所〔『伝』巻二十三・五十八葉〕で詳しく述べよう。この王が、この名を負った理由は、『日本書紀』崇神の巻の十年九月、大彦命を北陸へ、武渟川別を東海へ、吉備津彦を西道へ、丹波道主命を丹波へ派遣し、教えを受けない者があれば兵を挙げて討て、と詔し、皆に印綬を授けて将軍とした、とあるように、丹波へ遣わされ、その道の主となったのである。
〔道とは、詔を受けて平定に行く国のことだ。詳しくは、その十二道の所で述べる。『欽明紀』の道君は、その前の文で越国の郡司という者を指している。当時、郡司という称号はまだなかったはずなので、郡司の字は編者の考えで書いたもので、実際は都から派遣して置いた役人だろう。だから、みちのうしと読むのは、古い意味によく合う。
また、その三女神は海北の道中にいるといい、ある一書には、道中に降り住んで天孫を助けよともあるため、道主と申し上げる。海北の道中は筑紫の北側の海路で、宗像宮がその所だ。道中とは韓国へ渡る海路のことで、その外国に対する守護のため降り住まわせたのだ。だから天孫を助けよ、と詔された。この意味は、『伝』巻七・六十五葉に記す、貞観十二年の告文の趣旨で理解すべきだ。
伊勢の外宮の書物が、豊受大神が丹波にいた頃の事をいう時、この王の話を引き寄せ、道主の名によって、その三女神のことまで引き寄せ、さらに王の名も丹波道主貴として、その大神を斎き祭ったことをいうのは、すべて丹波に結びつけただけの、ひどい妄説だ。『元々集』などにも、この妄説を取り入れて載せている。〕
加佐郡に弥加宜神社があるのは、この王が母方の祖神を祭ったのだろうか。『日本書紀』垂仁の巻では、丹波道主王は、稚日本根子大日日天皇の子孫で、彦坐王の子。一説には彦湯隅王の子、とある。〔子孫の子は、之の誤りか。〕
【宣長の注釈】注の此王名は、名を諸本とも字と書くが、明らかな誤りなので、延佳が名だろうというのに従って、改めた。
【宣長の注釈】水之穂真若王の之穂は、穂之の順を逆に誤ったのだろう。〔この名が後に出る所には之がなく、妹の名にもない。〕だから『みづほの』と読んだ。水穂は近江国の地名だろうか。〔母の国が近江で、またこの王は近江安直の祖だからだ。今、野洲郡に水保村がある。これか。みずみずしい稲穂という意味ではあるまい。〕真若は、特に変わったことのない呼び名だ。
【宣長の注釈】神大根王は、特に変わったことのない呼び名だ。『日本書紀』景行の巻に神骨とあるのが、この王である。〔大根〔おほね〕の初めの『お』を省いて、『ほね』というのだ。〕この王の娘らのことは、日代宮の段に見える。
【宣長の注釈】八瓜入日子王の八瓜は『やつり』と読む。〔都には、うの韻があるため、瓜の字を借りて書いた。諸本が皆、爪とするのは誤りで、爪は、つめだ。延佳が、下の入までかけ、三字をやつりと読むのは、爪をつめの略と取ったのだろう。誤りだ。また師が、爪を衆の省略形とし、やすと読まれたのは、近江の野洲を思われたのだろうが、『古事記』中には衆などを仮名に使った例がないではないか。〕
これは地名で、今、大和国高市郡の上八釣村、十市郡の下八釣村がある、その地だろう。〔二村は近く、今はやとりという。〕『顕宗紀』の近飛鳥八釣宮、『万葉集』巻三・十七丁の矢釣山、巻十二・十一丁の八釣河なども、この地だ。允恭天皇の御子にも、八瓜之白日子王という方がいらっしゃる。
【宣長の注釈】水穂五百依比売の水穂は、前と同じ。五百は字の意味か。その例には五百木之入日子命、『日本書紀』の五百野皇女などがある。依は、よいという宜しだ。〔前に述べた。〕
【宣長の注釈】御井津比売は、『天智紀』に、山の御井のほとりで、神々の座を数え、幣帛を配った、とある、その地による名だろうか。
〔これは都に近い所でのことらしい。この時の都は、近江の大津だ。山の御井とは、美しい井戸があり、昔から地名にもなっていたのだろう。谷川士清も、ここは近江国滋賀郡の三井寺の地だろう、といっていた。昔の寺の名は、その地名によって呼ぶことが多いので、三井も地名だ。〕
【宣長の注釈】母弟は『みははのおと』と読む。明宮の段の終わりにも、この例がある。〔『伝』巻三十四。〕日子坐王の母は意祁都比売なので、その妹ということだ。〔中国では同母の弟を母弟というが、その意味ではない。また姉に対して、妹をいもといわず、おとというのが、古い例である。〕
【宣長の注釈】袁祁都比売の名の意味は、前の意祁都比売の下で述べたとおりだ。
【宣長の注釈】山代之大筒木真若王の筒木は、前に見える。
【宣長の注釈】比古意須王の意須の意味は、まだ分からない。
【宣長の注釈】伊理泥王の伊理は、入日子・入日女などの入と同じだ。〔前に述べた。〕泥は、いつもの尊称である。
【宣長の注釈】十一王は『とをまりいつはしら』、十五柱と読むべきだ。一の字は五の写し誤りか、それとも稗田翁が誦み誤ったのか、数が違っている。前に挙げた王らは、合わせて十五柱いる。〔男王十二柱、女王三柱である。〕
【古事記本文】そこで、年長の大俣王の子は、曙立王、次に菟上王の二柱である。曙立王は伊勢の品遅部君・伊勢の佐那造の祖。菟上王は比売陀君の祖である。
次の小俣王は当麻勾君の祖。次の志夫美宿禰王は佐佐君の祖。次の沙本毘古王は日下部連・甲斐国造の祖。次の袁邪本王は葛野別・近淡海の蚊野別の祖。次の室毘古王は若狭の耳別の祖である。
その美知能宇志王は、丹波の河上の摩須郎女を娶り、比婆須比売命、次に真砥野比売命、次に弟比売命、次に朝廷別王の四柱を生んだ。この朝廷別王は、三川の穂別の祖である。
この美知能宇斯王の弟、水穂真若王は、近淡海の安直の祖である。
次の神大根王は、三野国の本巣国造・長幡部連の祖。〔訳注:原文は『三野國之本巢國造』。宣長は『之』を『造』の誤りと見て、三野国造と本巣国造の二氏を挙げたものと推定している。〕
次の山代の大筒木真若王は、同母の弟、伊理泥王の娘、母泥能阿治佐波毘売を娶り、迦邇米雷王を生んだ。〔迦邇米の三字は音を表す。〕この王は、丹波の遠津臣の娘、名を高材比売という人を娶り、息長宿禰王を生んだ。この王は葛城の高額比売を娶り、息長帯比売命、次に虚空津比売命、次に息長日子王の三柱を生んだ。この息長日子王は、吉備の品遅君、針間の阿宗君の祖である。また、息長宿禰王は河俣稲依毘売を娶り、大多牟坂王を生んだ。〔多牟の二字は音を表す。この王は多遅摩国造の祖である。〕
【宣長の注釈】この段は、日子坐王の子らの子孫を挙げている。
【宣長の注釈】ここの兄は、大俣王が日子坐王の第一子であることをいう。
【宣長の注釈】曙立王は『あけたつ』と読む。『姓氏録』の県犬養宿禰の下に阿居太都命、〔版本は阿を佐と誤っている。今は古本によった。〕また大椋置始連の下に阿居太都命〔これも版本では阿が落ちていたので、今は古本によった〕とある。この二例とも、太を大に書くのも誤りだ。居を、けを表す仮名に使った例は古書の各所にある。これらはこの王とは別人だが、同名の例だ。同書には明立天御影命という名も見える。名の意味は、まだ分からない。この王の事績は、玉垣宮の段〔『伝』巻二十五・十六葉〕に見える。
【宣長の注釈】菟上王の菟上については、上巻の菟上国造の下〔『伝』巻七・六十九葉・七十葉〕で述べた。ただ、この王がその名を負う理由は詳しく分からない。『神名帳』には伊勢国朝明郡の菟上神社がある。〔また参河国宝飫郡には菟足神社があり〔訳注:郡名の字は『飫』を候補として仮に示した。『飯』との細画の判別は確定できない。〕、祭神は開化天皇の孫、大俣王の第二子・菟上王だという。どんな理由なのか、理解できない。〕この王の事績も、玉垣宮の段に出る。
【宣長の注釈】伊勢之品遅部君は、この氏については分からない。品遅部のことは、玉垣宮の段〔『伝』巻二十五・二十七葉〕で詳しく述べよう。
【宣長の注釈】佐那造の佐那については、上巻の『伝』巻十五・五十二葉で述べた。『大神宮儀式帳』には佐奈の県造宿禰という人がある。〔その文章も『伝』巻十五に引いた。曙立王の事績が玉垣宮の段にあり、この御代の宿禰云々も同じ御世の事なので、これは別の氏の人か、あるいは曙立王の子などか。詳しく分からない。〕このほか、この氏については分からない。
【宣長の注釈】比売陀君は、若桜宮の段に、比売陀君らに氏・姓を与え、比売陀之君といった、とある。この氏についても分からない。〔『神名式』の近江国伊香郡に贄比多神社があるのは、比売多の誤りではないか。〕
【宣長の注釈】次小俣王の次は、大俣王の次だ。〔『菟上王者』の前には『次』がないので、系譜のつながりを取り違えることはない。〕
当麻勾君の当麻は、大和国葛下郡にある。その地については、若桜宮の段〔『伝』巻三十八・十五葉〕で述べよう。そこには、たぎまとあり、こう読むべきだ。勾は『まがり』と読む。『日本書紀』崇峻の巻の広瀬勾原という所だろう。〔『和名抄』で大和国広瀬郡に下句とある郷名は、下勾の写し誤りだろう。〕今、当麻と広瀬郡は少し離れているが、上代には当麻は広い範囲の名だったので、当麻の勾というのだ。勾という地については、なお下巻の勾之金箸宮の段で述べよう。この氏については分からない。〔『旧事紀』には、彦坐王は当麻の坂上君らの祖とある。〕
【宣長の注釈】佐佐君については分からない。〔『神名帳』には伊賀国阿拝郡の佐々神社があり、近世にも佐々という一族がある。〕
【宣長の注釈】日下部連の日下は、河内国河内郡の地名だ。この地については、朝倉宮の段〔『伝』巻四十一・九葉〕で詳しく述べよう。沙本毘古王の子孫が河内国にいたことは、『日本書紀』雄略の巻の、狭穂彦の玄孫・歯田根命云々、歯田根命に財産を餌香市の辺りへさらけ出させた云々、という文で分かる。〔餌香は河内国古市郡にある。後に引く書物にも見える。〕
この氏の人は、『顕宗紀』に日下部連使主と、その子・吾田彦、『孝徳紀』に草壁連醜経などが見える。『天武紀』十三年十二月、草壁連に宿禰の姓を賜った。『続日本紀』巻二十九では、河内国河内郡の人、日下部意卑麻呂に日下部連の氏・姓を賜い、また日下部連意卑麻呂に宿禰の姓を賜った。
『姓氏録』山城国皇別には、日下部宿禰は開化天皇の皇子・彦坐命の子孫。摂津国皇別にも、日下部宿禰は開化天皇の皇子・彦坐命から出る、とある。河内国皇別では、日下部連は彦坐命の子・狭穂彦命の子孫、日下部は日下部連と同祖。和泉国皇別では、日下部首は日下部宿禰と同祖で、彦坐命の子孫、日下部は日下部首と同祖、とする。
『三代実録』巻九には、播磨国飾磨郡の人、日下部利貞・歳直らに日下部連を賜い、摂津国島上郡に籍を付けた。狭穂彦命の子孫である、とある。〔この日下部を、今の本では皆、早部と誤っているが、巻二十四には、摂津国島上郡の人、日下部連歳直の子・日下部連利貞らが、本籍を改め右京二条三坊に籍を置いた、とあり、日下部なのが明らかなので、直して引いた。〕
『神名式』には、和泉国大鳥郡の日部神社がある。〔日子坐命を祭るという。〕
【宣長の注釈】甲斐国造は、『国造本紀』に、甲斐国造は纏向日代朝の御世、狭穂彦王の三世の孫・臣知津彦公、その子の塩海足尼を、国造に定め賜った、とある。
【宣長の注釈】葛野之別の葛野は、山城国葛野郡のことだ。この地については上巻〔『伝』巻十二〕、また明宮の段〔『伝』巻三十二・二十九葉〕で述べた。この氏については分からない。〔『持統紀』に葛野羽衝という人があるが、この氏なのかは分からない。『姓氏録』には葛野連・葛野臣などがあるが、別の氏だ。〕
【宣長の注釈】近淡海蚊野之別は、『和名抄』の近江国愛智郡蚊野郷のことだ。〔『神名帳』に同郡の軽野神社があるが、同じか、別かは分からない。〕この氏についても分からない。
【宣長の注釈】若狭之耳別は、『和名抄』の若狭国三方郡弥美郷のことだ。〔今の本は弥を禰と誤る。〕『神名帳』にも同郡の弥美神社がある。この氏についても分からない。
【宣長の注釈】河上之摩須郎女の河上は、『和名抄』の丹後国熊野郡川上郷のことだ。摩須の意味は、まだ分からない。郎女は、『日本書紀』景行の巻に、郎姫はいらつめという、と見え、天智の巻に伊羅都売、『続日本紀』巻二十二に藤原伊良豆売などもあるので、これらによって読みを定めるべきだ。『舒明紀』には郎媛、『孝徳紀』には娘ともある。
男の郎子、女の郎女という、いらは、いろ兄・いろ弟などのいろ、入彦・入姫などの入と、皆、同じ語で、親しみ愛していう呼び名だ。これについては、前の『伝』巻二十一・十葉で述べた。
【宣長の注釈】比婆須比売命の名の意味は、まだ分からない。この方は、玉垣宮で天下を治めた天皇の皇后である。『日本書紀』垂仁の巻で、亡くなったことを記す所には、一説に日葉酢根命、ともある。
【宣長の注釈】真砥野比売命も、名の意味は、まだ分からない。
【宣長の注釈】弟比売命の名の意味は、字のとおりだ。以上の三柱の女王のことは、玉垣宮の段に出る。述べることがあるので、そこの『伝』巻二十六・十一葉で述べよう。
【宣長の注釈】朝廷別王の廷は、庭とする本もあり、それも悪くない。朝廷は『みかど』と読む。この王が、どんな理由で、この名を負ったのかは詳しく分からない。
【宣長の注釈】三川之穂別の三川は参河国だ。この国には男川・豊川・矢作川という三本の大川があるので、三川と名づけたという。〔男川は今の大平川、豊川は吉田川だという。一説には、男川は加茂郡から出て、池鯉鮒の西、今岡の東を南へ流れる川で、大平川ではあるまい、ともいう。〕穂は、『和名抄』に参河国宝飫郡とある、その地だ。〔飫を誤って飯と書き、今もそうだ。〔訳注:郡名と異同注の『飫/飯』の細画が判然としないため、ここでは『寶飫』『飫字、誤て飯』を仮に採録した。〕〕
『旧事紀』巻五には、三川の穂国造、美己止直という人がある。〔みこととみかどはよく似ているので、これは、この朝廷別王ではないか。『国造本紀』には、穂国造は、泊瀬朝倉朝、生江臣の祖・葛城襲津彦命の四世の孫、菟上足尼を国造に定め賜った、とあり、こちらの伝えと異なる。〕
【宣長の注釈】近淡海之安直の直は、諸本とも置と書く。稲が落ちて稲置なのかとも思うが、やはり直の誤りだ。〔下巻の高津宮の段などにも、直を置と誤る例がある。〕だから改めた。安は、『和名抄』の近江国野洲郡のことだ。この氏については分からない。倭建命の段には、近淡海の安国造とあるが、別なのか、同じなのか分からない。〔この『古事記』の木国造を、『日本書紀』で紀直の祖とするような例もあるので、一つの氏を、その時々のかばねのまま、直とも国造とも伝えたのかもしれない。〕
【宣長の注釈】三野国之本巣国造は、二つの氏で、前の方は三野国造なのを、造を之に誤ったのだろう。〔もし三野の本巣なら、白檮原宮の段の終わりの、道奥の石城国造、常道の仲国造などの例から考え、三野之となって国の字はないはずなのに、三野国とあるのも、本巣とは別らしく思われる。〕日代宮の段に、三野国造の祖・神大根王と見え、『日本書紀』の同じ巻にも、美濃国造、名は神骨、とあるためだ。『国造本紀』にも、三野前国造は春日率川朝の皇子・彦坐王の子、八瓜命を国造に定め賜った、とある。
〔その次には三野後国造もある。この前・後は、越前・越後などの例なのだろうか。そうなら、美濃のうち本巣郡は都寄りで、道口ともいえるので、三野前国は本巣郡の辺りとし、その国造として、三野之本巣国造とする証拠にもできそうだ。しかし美濃国を前・後に二分しても、前の方には本巣以外に、なお数郡分の地がある。本巣国造以外に三野前国造があっても差し支えず、それを三野国造といっても差し支えない。
また本巣郡の中に美濃郷もあるので、上古、三野国造といったのは、その辺りの国造で、本巣国造は、また本巣という地もあって、そこの国造だとしても、何の問題があろう。また前・後は時代の前後を分けたのかとも思うが、そうなら一つに挙げるべきなのに、別に挙げるのは、そうではあるまい。
八瓜命は神大根王の別名で、前に出た。『天武紀』に美濃連という氏があるが、別の氏だろう。〕本巣は、『和名抄』の美濃国本巣〔もとす〕郡のことだ。この氏については分からない。
【宣長の注釈】長幡部連は、『神名帳』に常陸国久慈郡の長幡部神社があり、その地だ。『類聚国史』巻五十四には、常陸国の人、長幡部福良女に少初位上を授けた云々とある。『主計式』の諸国が納める調には、長幡部の絁〔長さ六丈、幅一尺九寸〕とある。〔『神名式』には、武蔵国賀美郡にも長幡部神社がある。〕
【宣長の注釈】同母弟は、師が『いろど』と読まれたのを用いるべきだ。若桜宮・穴穂宮の段などで、伊呂弟とあるのと同じだからである。
〔女なら伊呂妹と書き、これはいろもだ。このことは『伝』巻十三・六十三葉で詳しく述べたので、考え合わせるべきだ。『日本書紀』で母弟・同母弟などを、はらから・おもはらから・はははらから・はらからのいろと・おなじはらのいろと、などと読むのは、皆、古い呼び方ではない。〕
【宣長の注釈】母泥能阿治佐波毘売の母泥の二字には、誤りがあるはずだ。〔真福寺本は、この二字を丹波とするが、よいとも思われない。またある一本では、母の傍らに名かと記す。これはよい考えだ。〕名の意味は分からない。阿治は阿遅鉏高日子根などの阿遅と同じで、佐波は佐波遅比売の佐波と同じだろうか。
【宣長の注釈】迦邇米雷王の米は、古い版本と、ある一本などで来とするのは誤りだ。今は真福寺本・延佳本と、別の一本によった。注も同じだ。雷は『いかづち』と読む。
〔単に、づちと読むのは誤りだ。『古事記』中で、づちに雷を使う例はない。『日本書紀』では香来雷・山雷などと書く所もあるが、『古事記』では、づちの借字は椎・土などだけを使う。建御雷の雷は、かづちの借字だ。これも前の御の韻、いから続くため、いかづちである。〕
名の意味は、蟹目、厳しという呼び名か。そうなら、この王の目が鋭かったのだろうか。蟹は目が特に厳しいので、たとえていったのだろう。づちは尊称で、野椎神の下〔『伝』巻五・四十五葉〕に述べたとおりだ。建御雷神の下〔同・七十三葉〕も考え合わせ、雷の意味を理解すべきだ。
中臣氏にも雷大臣命という人がある。〔『姓氏録』『三代実録』などに見える。これは『仲哀記』『神功紀』『允恭紀』に、中臣烏賊津使主とある人だ。ただ仲哀の御世から允恭の御世までは、ずいぶん長いので、同名の別人だろう。また中臣の系図では、天児屋根命の五世の孫にも伊香津臣命があるが、これも別人だ。そのわけは、その伊香津臣命の五世の孫に臣陝山命、その子に雷大臣命とある。『続日本紀』巻三十六で、伊賀都臣は意美佐夜麻の子で、神功皇后の御世に仕えたとあることを合わせると、『続日本紀』の伊賀都臣は、系図の雷大臣命である。系図の陝が狭の誤りだとも分かり、伊賀都臣というのも雷大臣というのも、一つの名だったことも分かる。こうして中臣の系譜には、同名の人が三人いた。ここでは不要な事だが、雷という名にちなみ説明した。〕
『帝王編年記』には、大筒城真若王の子は稚筒城王、稚筒城王の子は息長宿禰、とある。これは根拠があったのか。もしそうなら、この王の別名を若筒木王といったのだろう。
【宣長の注釈】丹波之遠津臣については分からない。
【宣長の注釈】高材比売の材は、『古事記』中で使った例がないので、〔『古事記』では、人名・地名などに使う字は、だいたい決まっている。きという語なら、必ず木か城を書くのが例だ。〕確かに写し誤りで、村または杙などだろう。しかし、わずかな証拠も見つからず、諸本とも材とするので、今、軽々しくは改めにくい。それで読みも、しばらく旧本のとおりに付けた。名の意味にも、考える手がかりがない。
【宣長の注釈】息長宿禰王の息長は、近江国坂田郡の地名で、前に出た。この地による名である。
【宣長の注釈】葛城之高額比売は、『和名抄』に大和国葛下郡高額郷があり、この地による名だ。この比売の系譜は、明宮の段の終わりに見え、新羅国から来た天之日矛の子孫、多遅摩比多詞という人の娘だ。〔そこに、息長帯比売命の母である、とある。〕但馬国で生まれた人と思われるのに、大和の高額を、ことに名に負うのは、そこへ移り住んだのだろうか。〔後の多遅摩国造の下で述べることがあるので、考え合わせるべきだ。『神名式』には但馬国気多郡の鷹貫神社があり、似た名だが、ここは葛城というので、大和であることは動かない。〕
【宣長の注釈】息長帯比売命の息長は、父の名と同じだ。その地で生まれ育ったのだろうか。
〔『日本書紀』のこの姫命の巻では、六十九年に崩じた云々、その日、皇太后を気長足姫尊と追諡した、とあり、この名を後の諡のように記すが、そうではない。弟も息長日子というので、こちらも生前からの名だったことが明らかだ。その息長日子の例から考えると、この姫尊も、もとは息長日女命といったのを、崩じた後、足日女と加えて尊んだのだろうか。〕
帯は〔漢字は借字で〕満ち足りるという足の意味だ。『三代実録』巻十七、貞観十二年に宗像大神へ奉った告文には、大帯日姫とあり、珍しい。〔これも古い記録にあったのだろう。〕
『日本書紀』には、気長足姫尊は稚日本根子彦大日日天皇の曾孫、気長宿禰王の娘で、母は葛城高顙媛とある。〔天皇の曾孫とするのは、『古事記』に合わない。こちらでは五世の孫だ。曾孫を息長宿禰王のこととしても、なお合わない。その王も天皇の玄孫だからだ。〕
【宣長の注釈】虚空津比売命の虚空は、どんな理由で負われた名なのか、詳しく分からない。
【宣長の注釈】息長日子王の息長は、父王・姉命の名と同じだ。
【宣長の注釈】注にある此王者の三字は、前の此朝廷別王者云々などの例によれば、此息長日子王者といい、大きい本文の字で書くべきだ。名を省略しても、本文の字で書く例の文である。
【宣長の注釈】吉備品遅君は、『和名抄』に備後国品治〔ほむち〕郡品治郷がある、その地だ。『国造本紀』には、吉備品治造は、志賀高穴穂朝、多遅麻君と同祖の若角城命の三世の孫・大船足尼を国造に定め賜った、とある。〔品治造は、造の前に国が落ちている。多遅麻君と同祖とあるのは、次の多遅摩国造の下と考え合わせるべきだ。〕『仁徳紀』には、吉備品遅部雄鮒という人が見える。
【宣長の注釈】針間阿宗君は、『神名帳』に播磨国揖保郡の阿宗神社があり、その地による。針間については黒田宮の段に出た。〔『伝』巻二十一・四十九葉。〕
【宣長の注釈】河俣稲依毘売の河俣は、河内国若江郡にあり、高岡宮の段〔『伝』巻二十一・三葉〕に出た。稲は字の意味だろう。依は、いつもの、よいという宜しだ。
【宣長の注釈】大多牟坂王の多牟坂は地名か。〔そうなら、回り曲がる坂という意味で付けた名だろうか。〕詳しく分からない。『国造本紀』の淡海国造に、志賀高穴穂朝の御世、彦坐王の三世の孫・大陀牟夜別を国造に定め賜った、とあるのは、この王ではないか。〔淡海国造なのも、父の息長にゆかりがある。〕倭建命の段には、意富多牟和気という人もあるので、考え合わせるべきだ。〔『伝』巻二十九・三十一葉。〕
【宣長の注釈】注の此者は、前に述べた此王者と同じ書き方だ。
【宣長の注釈】多遅摩国造は、但馬国だ。『国造本紀』には、但遅麻国造は、志賀高穴穂朝の御世、竹野君と同祖で、彦坐王の五世の孫・船穂足尼を国造に定め賜った、とある。
〔この人が彦坐王の五世の孫なら、この大多牟坂王の子だったのだろうか。竹野君と同祖というのは、次に出る丹波の竹野別は建豊波豆羅和気王の子孫なので、兄弟の間で伝えが違ったのだろうか。
また、前の高額比売が但馬国の生まれであることと、大多牟坂王がその国造の祖であることを合わせると、あるいは息長宿禰王が但馬国へ下ったことがあり、高額比売を娶って大和へ連れ帰り、葛城にお住まいになったのだろうか。大多牟坂王が但馬国造の祖なのも、父がその国へ下ったことにゆかりがあるのか。実際はどうだったのだろう。すべて分からない事だが、せめて試みにいうだけである。〕
【宣長の注釈】以上は、皆、日子坐王の子孫である。このほかにも、この王の子孫は『姓氏録』に、治田連は開化天皇の皇子・彦坐命の子孫云々、軽我孫は治田連と同氏で彦坐命の子孫云々、大私部は開化天皇の皇子・彦坐命の子孫、軽我孫公は治田連と同祖で、孫にあたる今実命の子孫〔訳注:原文は『治田連同祖孫今實命之後也』。『孫』が誰の孫をいうかは、この圧縮した引用だけでは確定できない。〕、堅井公は彦坐命の子孫、別公も同上、川俣公は日下部宿禰と同祖で彦坐命の子孫、川俣公は日下部連と同祖で彦坐命の子孫、豊階公は川俣公と同祖で彦坐命の子・沢道彦命の子孫、酒人造は日下部と同祖、などと見える。
『三代実録』巻八にも、丹波国何鹿郡の人、刑部首夏継に豊階宿禰、刑部首弟宮子に豊階朝臣の氏・姓を賜い、夏継らは、自分たちの祖先は彦坐命から出たと申し述べた、と見える。
【古事記本文】前に述べた建豊波豆羅和気王は、道守臣・忍海部造・御名部造・稲羽忍海部・丹波の竹野別・依網の阿毘古らの祖である。
【宣長の注釈】所謂は、いはゆると読むのが例だが、ここは倭建命の段の、前にいった若建王云々、軽島宮の段の終わりの、前にいった多遅摩比多訶云々、などと同じ書き方なので、『いへる』と読むべきだ。〔訳注:対応する原字は『伊問流』と仮に採録したが、中字は『閇』の可能性もある。細画は確定できないため、『上云』との対比から『いへる』と仮に読んだ。〕
【宣長の注釈】建豊波豆羅和気王は、諸本とも羅の字が落ちているが、今は延佳が考えて補ったのに従った。
【宣長の注釈】道守臣の道守は、由来があって、その称を負ったのか。〔棟臣・膳臣のような類か。〔訳注:『棟臣』の第一字は細画が不鮮明で、仮にこの字を示した。〕〕それとも地名か。詳しく分からない。
〔今、和泉国大鳥郡、堺の南荘に道守の社がある。もともと道守とは、山守・野守などと同じ類で、道路を守る者をいう。『万葉集』巻四には、愛しいあなたの行くとおりに追ってゆこうと、幾度も思うけれど、弱い女の我が身なので、道守に問われた時の答えを、どういえばよいか分からず、立ちつまずく、とある。『日本書紀』神代の巻にも泉の道を守る者などがあり、『和名抄』の『道路具』の項には、道邏について『漢語抄』に『知毛利』とある。〔訳注:この引用の語頭音を確定できないため、ここでは原字を示し、仮名の読みを補わなかった。〕しかし道邏は賊の様子などをうかがい、見回る者なので、道守には合いにくい。〕
この氏は、『天武紀』十三年十一月、道守臣に朝臣の姓を賜った。『姓氏録』左京皇別には、道守朝臣は開化天皇の皇子・武豊葉頰別命の子孫。右京皇別には、道守臣は道守朝臣と同祖で、豊葉頰別命の子孫。山城国皇別には、道守臣は道守朝臣と同祖で、武波都良和気命の子孫、また今木は道守と同祖で建豊羽頰別命の子孫。摂津国皇別には、道守臣は道守朝臣と同祖で、武葉頰別命の子孫と見える。
また、波多八代宿禰の子孫にも道守朝臣・道守臣があり、『姓氏録』に見える。〔そうすると、天武の御世に朝臣の姓を賜ったのは、どちらの道守氏だったのか、分かりにくい。あるいは両方とも賜ったのを、一つにまとめて記したのか。『姓氏録』に、両方とも朝臣の氏があるからだ。〕
氏の人は、『天智紀』に道守臣麻呂、『続日本紀』巻二十五に道守臣多祁留、巻四十に道守臣東人などが見える。〔これらも、どちらの道守かは分からない。東人は百二十二歳で、髪がなお多く、聡明さも少年のようだ、とある。また『続日本紀』巻九には、但馬国の人、寺人小君ら五人に、改めて道守臣の氏・姓を賜った、とある。〕
【宣長の注釈】忍海部造の忍海は、『顕宗紀』の歌に、おしぬみとある。〔のが縮まって、ぬとなる。〕これは『和名抄』の大和国忍海〔おしのみ〕郡だ。この氏は、単にこの地によるのか、または忍海郎女の御名代として定めた人々か。〔忍海郎女のことは、若桜宮・甕栗宮の段に見える。御名代のことは、玉垣宮の段の子代の下、また高津宮の段で述べよう。〕
氏の人は、『清寧紀』に、播磨の赤石郡、縮見屯倉の長、忍海部造細目と見える。〔『天智紀』には忍海造小竜、『天武紀』には忍海造大国・忍海造能麻呂なども見える。同紀十年には、忍海造鏡・荒田・能麻呂らに連の姓を賜い、十二年にも忍海造に連の姓を賜った、とある。これらは皆、部の字がない。別の氏か、同じ氏か。〕
『姓氏録』河内国皇別で、忍海部は開化天皇の皇子・比古由牟須美命の子孫、とあるのは、兄弟の間で伝えが違うのである。〔これから考えると、波豆羅和気王は、これほど多くの子孫があり、『古事記』だけでなく『姓氏録』などにも見えるのに、『日本書紀』にこの王がいないのは、比古由牟須美命と同一人とした伝えなのだろうか。〕
【宣長の注釈】御名部造は、地名か。『万葉集』巻九・九丁、紀伊国へ行幸した時の歌に、三名部の浦云々と詠むものがある。ほかにもあるはずの名なので、調べるべきだ。『欽明紀』には、佐渡島の北の御名部の崎というものもあるが、ここではあるまい。この氏についても分からない。
【宣長の注釈】稲羽忍海部の稲羽は因幡国で、上巻の『伝』巻十に出た。この氏についても分からない。前の忍海部造から分かれた氏だろう。
【宣長の注釈】丹波之竹野別の地名は、前に出て、そこで述べた。この氏については分からない。〔前の多遅摩国造の下に引いた『国造本紀』に竹野君とあるが、そのこともそこで述べたので、考え合わせるべきだ。〕
【宣長の注釈】依網之阿毘古の依網は、『和名抄』に摂津国住吉郡の大羅〔おほよさみ〕郷、『神名帳』に同郡の大依羅神社四座〔いずれも名神大で、月次祭・相嘗祭・新嘗祭の対象〕がある。『神功紀』には、神の教えを得て拝礼し、依網吾彦の子・垂見を、祭を行う神主とした、と見える。〔今も住吉郡に吾孫子村がある。〕
また『和名抄』には、河内国丹比郡の依羅〔よさみ〕郷がある。水垣宮の段には依網池を造ったとある。〔これは河内国のものだ。理由は、その段で述べる。〕『日本書紀』推古の巻にも、河内国に依網池を造ったと見える。〔今、丹北郡池内村にある池がそれだ。〕このように河内と摂津に二つの依網があるが、丹比郡と住吉郡は近接し、大依羅社も依網池も、特にこの二郡の境にあることからすれば、もとは一つだったのが、二国に分かれて属したのだ。〔『万葉集』巻七の、あをつづら、依網原とあるのは、歌の様子から参河国碧海郡依網郷で、別である。〕
阿毘古は、日代宮の段の木国の酒部阿毘古、『景行紀』の山部阿弭古などの氏にも見え、『姓氏録』にも軽我孫などがあるので、まずかばねではある。しかし同書に、単に我孫〔摂津国神別と同国雑姓〕、我孫公〔和泉国雑姓。今も和泉国和泉郡に我孫子があり、『続日本後紀』巻五には、河内国の人、我孫公諸成、同氏の阿比古道成が見える〕などもあるので、ふつうのかばねとは少し違うようだ。呼び名の意味は、吾彦ということだろうか。
〔吾は親しんでいい、彦はほめていう。孫と書くのは借字だろう。ひこに孫を使うのは、昔、子の子をひこといったためで、まごは後世の語だ。だから古書の孫は、皆、ひこと読む。『和名抄』には、孫の日本名はむまご、一説にひこ、曾孫はひひことある。ただ、むまごは、やや後の語で、ひこが古い呼び名だ。今のまごは、むまごのなまりで、曾孫をひこというのは、ひひこのなまりだ。〕
この氏の人は、『日本書紀』仁徳の巻に次のようにある。『四十三年秋九月、依網屯倉の阿弭古が珍しい鳥を捕まえ、天皇に献じ、私はいつも網を張って鳥を捕るのですが、これまで、このような種類の鳥は得たことがありません。だから珍しく思い、献じます、と申し上げた云々。これは今の鷹である云々。この月、初めて鷹甘部を定め、人々は鷹を養う所を鷹甘邑と呼んだ。』
〔依網というのは、この人が網を張り、鷹を捕まえて献じた功績をほめ、その時、初めて賜った称か。ただ、すでに『神功紀』にも見え、ここにも依網屯倉とあるので、どうだろう。それでも、後の名を前に及ぼして記したのかもしれない。依網屯倉は『皇極紀』にも見え、河内とある。依網阿毘古と依網屯倉阿毘古は同じだろう。
『日本紀竟宴集』の注によれば、定家卿の家集には、依網の神職が、子を求める祈りに歌う歌を願ったので、詠んで送ったものとして、『君の御代は、よさみの杜が永遠であるように、松と杉も千年栄えるだろう』という歌がある。
依網池は住吉社から東南に十六、七町ほどか。今はだんだん浅くなったが、水が多い時は海のようで、蓮・葦・まこもなどが多い。社は池の北、庭井村の南で、今は小さい祠になった。我孫は村名となり、その西にある云々。〔訳注:対応する原字は『或孫』と仮に採録した。第一字は『我』の可能性もあり、細画を確定できないため、ここでは前後の地名の説明から『我孫』と仮に解した。〕鷹甘邑は、今、鷹合と書いて、たかひという住吉郡の村がそれだという。庭井村・鷹合村は今もある。〕
『続日本紀』巻十八には、摂津国住吉郡の人、依羅我孫忍麻呂ら五人に依羅宿禰の氏・姓を、神奴意支奈・祝長日ら五十三人に依羅物忌を賜った、とある。『姓氏録』摂津国皇別の、依羅宿禰は日下部宿禰と同祖で彦坐命の子孫、というのは、兄弟の間で伝えが異なるのだろう。〔このほか依羅連があるが、別の氏だ。〕
【古事記本文】天皇の御年は六十三歳。御陵は伊邪河の坂上にある。
【宣長の注釈】御年六十三歳は、『日本書紀』には、六十年夏四月、丙辰を朔とする甲子の日、天皇が崩じた。一説に、その時、百十五歳とある。〔父天皇の二十二年春正月、皇太子に立ち、十六歳とあることによれば、百十一歳になる。〕ある書物も百十一歳という。〔これは、その立太子の年によって数えたのだろう。〕
【宣長の注釈】伊邪河之坂上は、『日本書紀』六十年、冬十月、癸丑を朔とする乙卯の日、春日の率川坂本陵に葬った。一説には坂上陵、とある。『諸陵式』には、春日率川坂上陵、春日率川宮で天下を治めた開化天皇、大和国添上郡にあり、陵域は東西五段、南北五段。在京の十戸を、毎年交替で充てて守らせる、と見える。
〔坂上と坂本という二つの伝えのうち、『式』にも坂上とあるので、そちらがよいだろう。また陵域が狭いのは、平城京の中にあるためだろう。〕『前皇廟陵記』は、一説に、今、奈良の林小路、韓国社の奥、念仏寺の境内にある、とする。〔念仏寺の後ろにある。今、この辺りの町名には、油坂町・坂之新屋町・西坂などがあり、坂上というのに、ゆかりがある。〕