文学 / 本居宣長古事記伝 坤巻古事記傳 校訂 坤

『校訂 古事記伝 坤』1930年増訂五版の標題紙

文学 / 本居宣長

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原著・底本

原題
古事記傳 校訂 坤
著者
本居宣長
底本
吉川弘文館、増訂五版、昭和5年6月25日発行(コマ571の奥付を視認)
編者
本居豊頴
編者
本居清造
寄稿者
村田春門
寄稿者
伴信友
寄稿者
本居大平
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パブリックドメイン
収録範囲
1930年増訂五版の坤巻。巻二十三〜四十四、注釈、略年譜・補正・刊記を収録。索引は含まない。

日本語訳

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CC0 1.0
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表紙

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追加日: 2026-10-23 / 更新日: 2026-10-23

引用字の判読・読み・語義に留保が残る箇所は、本文の訳注に示した。底本の年代や人物についての判断は、原著者・編者の記述に従う。

校訂 古事記伝 下巻(坤)

著者:本居宣長(贈従三位)。校訂:本居豊頴(正三位)。再校:本居清造。

古事記伝 巻二十三――水垣宮の巻。本居宣長が謹んで著す。

【古事記本文】御真木入日子印恵命(みまきいりびこいにえのみこと)は、師木の水垣宮においでになり、天下を治めた。この天皇は、木の国造で荒河刀辨という者の娘、遠津年魚目目微比売(とおつのあゆめめくわしびめ)を妻とし、豊木入日子命、豊鉏入日売命の二柱の子をもうけた。「刀辨」の二字は音を表す。また尾張連の祖である意富阿麻比売(おおあまびめ)を妻とし、大入杵命、八坂之入日子命、沼名木之入日売命、十市之入日売命の四柱の子をもうけた。また大毘古命の娘、御真津比売命を妻とし、伊玖米入日子伊沙知命(いくめいりびこいさちのみこと。「伊玖米伊沙知」の六字は音を表す)、伊邪能真若命(いざのまわかのみこと。「伊」から「能」までの三字は音を表す)、国片比売命、千千都久和比売命(「都久和」の三字は音を表す)、伊賀比売命、倭日子命の六柱の子をもうけた。この天皇の子は合わせて十二柱、男の王が七人、女の王が五人である。

【宣長の注釈】この天皇を、後の漢風の諡号では崇神天皇という。

【宣長の注釈】「師木」は、『和名抄』で大和国の城上郡(しきのかみのこおり)、城下郡(しきのしものこおり)とされている所である。これは師木を上・下の二郡に分けたものだ。「師」に当たる字を省いて「城」一字だけにしたのは、郡名を必ず二字で書く慣例による。「葛城」の「城」を省いて「葛上」「葛下」と書くのと同じである。『日本書紀』皇極天皇紀には「志紀上郡」とある。『延喜式』神名帳には城上郡の志貴御県坐神社も載る。この神社は金屋村という所にあり、今も「志貴宮」と呼ぶという。神武天皇紀には「倭国磯城邑」、垂仁天皇紀には「磯城の厳橿のもと」などの地名が見える。後の欽明天皇の師木島宮もこの地である。『万葉集』巻十(十六丁)に詠まれた「敷野」もここだろうか。ただしこれは「あしき野」の「あ」が脱落したものかもしれない。「芦城」はあちこちに見え、巻八には「芦城野」として萩を詠んだ歌がある。「師木」の語の由来は「石城」だろうか。

【宣長の注釈】「水垣宮」について。一般に「みずかき」とは、みずみずしく美しい垣という、ほめていう呼び名であり、それを宮の名にしたのである。「水」は音を借りた字だ。『日本書紀』の「瑞」の字も、意味の上ではまったく適切でないが、「みず」を表す字がないため、広くこの字を書く慣習になった。この宮の垣が特に「みずかき」であったための名とは限らない。「水垣」については、師の『冠辞考』に詳しい。歌の「水垣の久し」という言い続け方は、昔からこの宮の名に由来すると理解されてきたが、よく考えるとそうではない。この言い続け方は、『万葉集』巻十一の「少女らを、袖振る山の水垣の、久しき時ゆ思ひき我は」(少女たちに袖を振る、その「振る山」の水垣のように、長い昔から私は思っていた)という歌が最初である。この歌は巻四には人麻呂の歌として載るが、歌の調子は人麻呂より古く感じられる。石上の布留の社はたいへん古い時代からある神社で、その水垣が長い年月を経ているため、「久し」にかかる枕詞としたのである。その後、「振る山」を言わずに単に「水垣の久し」と詠むようになったのは、この歌に意味を託して語を省いたためだ。もし宮の名を踏まえた表現なら、「水垣の宮の」と言わなくては言葉が足りず、「水垣」だけでは宮の名と受け取りにくいはずである。宮の所在地は、『大和志』に「三輪村の東南、志紀御県神社の西にある」という。いずれにしても、このあたりにあったのだろう。『日本書紀』には「三年秋九月、都を磯城に移した。これを瑞籬宮という」とある。

【宣長の注釈】「木の国造」は前の巻二十二に出ている。

【宣長の注釈】「荒河刀辨」について。『和名抄』には紀伊国那賀郡の荒川郷がある。今も荒川庄といって八か村がある。この土地に由来する名だろう。ほかに名草郡にも荒賀という郷があり、その土地は『古語拾遺』の神武天皇の段にも出てくるが、この名はそこに由来するのではあるまい。「刀辨」については前に述べた(巻八の二十八丁、巻二十二の五十六丁)。さらに伊邪河宮の段の春日建国勝戸売の注(巻二十二の五十七丁)とも考え合わせたい。『先代旧事本紀』巻五には「大新河命は紀伊の荒川戸俾の娘、中日女を妻とし、四人の男の子をもうけた」とある。大新河命は物部連の祖である。

【宣長の注釈】「遠津年魚目目微比売」について。「遠津」は紀伊国の地名だろう。「とおつ」に「の」を添えて、その下の語へ続けて読む。『万葉集』巻七(十七丁)には「遠津の浜」、巻十一(三十丁)には「遠津大浦」などがある。後者の次には「木の海の名高の浦」と詠む歌が並ぶ。「大浦」の「大」は「之」の誤りではないか。「年魚」は、『和名抄』に「鮎魚、和名はアユ。崔禹錫の『食経』に、春に生まれ、夏に育ち、秋に衰え、冬に死ぬので、年魚と名づけるという」とある。「目」は群れのことである。「むれ」が縮まって「め」となる。これは『冠辞考』の「あぢさはふ」と「しぬのめ」の項に詳しい。鮎は水中で特に大きな群れを作って進む魚だから、こう呼んだのである。「年魚目」は「目微(めくわし)」を導く序の言葉だ。そのわけは、『万葉集』巻十三に「こもりくの泊瀬の川の、上つ瀬に鵜を八つ潜け、下つ瀬に鵜を八つ潜け、上つ瀬の鮎を食はしめ、下つ瀬の鮎を食はしめ、麗し妹に……」(泊瀬川の上流と下流に、それぞれ八羽の鵜を潜らせて鮎を食わせる、愛らしいあなたに……)とあるのとまったく同じだ。この歌では「食はしめ」までが、いずれも「くはし」という音の「麗し」を導く序になっている。この歌によって理解すればよい。古代には鵜に鮎をくわえさせて捕るのが普通だったので、この名に「鵜」と明記していなくても、その意味に受け取られたのである。人名に枕詞を添える例には、真髪触奇稲田姫や、境原宮の段の山下影比売などがある。「目微」は「めくわし」と読むべきで、目の様子が特に美しいことをほめた名だろう。枕詞からのつながりは、「鮎の群れ」と言い、その群れを「食はしめる」へ続けるものだ。「群れ」と「目」を掛ける例は『万葉集』に多い。私は初め、この名を「まぐわし」と読み、「ま」は「真」だろうと思ったが、それは誤りだった。「微」は先ほどの万葉歌の「麗し妹」の「麗し」と同じ意味である。「うるわし」は「うらくわし」が縮まった言葉で、意味も同じだ。「微」の字を用いたのは、「微妙」「精微」などというときの「微」であり、「細」の字も書く。『日本書紀』のこの巻には「倭迹速神浅茅原目妙姫」という名もある。

【宣長の注釈】「豊木入日子命」の「木」は、「城」の意味だろう。「入」については前(巻二十二の四十五丁)で述べた。『日本書紀』には「豊城命」ともある。

【宣長の注釈】「豊鉏入日売命」の「鉏」が「磯城」のことであるのは、上巻の阿遅鉏高日子根神の注(巻十一の五十二丁)と、日子鉏友命という名の注(巻二十一の十丁)で述べたことを考え合わせれば理解できる。したがって、兄の名と同じ意味である。一般に同母の兄と妹は、同じ名である例がたいへん多い。『日本書紀』には「また妃の、紀伊国の荒河戸畔の娘である遠津年魚眼眼妙媛は、豊城入彦命と豊鍬入姫命を生んだ」とある。そこには別説として、「大海宿禰の娘、八坂振天某辺」という記述も付く。

【宣長の注釈】「尾張連」は前(巻二十一の二十一丁)に出ている。

【宣長の注釈】「意富阿麻比売」について。『和名抄』には尾張国海部郡の海部郷があり、そこに由来する名だろう。『先代旧事本紀』巻五には、「饒速日命の六世の孫、建宇那比命は、城島連の祖の草名草姫との間に二男一女をもうけた。七世の孫は建諸隅命、妹は大海姫命、別名は葛城高名姫命である。この姫は磯城瑞籬宮で天下を治めた天皇の妃となり、一男二女を生んだ」とある。ここで尾張連の始祖を饒速日命としているのは甚だしい偽説であり、この氏族の祖が実際には天火明命であることは、巻十五および巻二十一の尾張連の注で詳しく論じたとおりだ。建諸隅命と大海姫命の系譜の記し方は紛らわしく、はっきりしないが、世代の順を示すほかの例とよく考え合わせると、天火明命の子が天香山命、その子が天村雲命、その子が天忍人命、その子が天戸目命、その子が建斗米命、その子が建宇那比命、その子が建諸隅命と大海姫命である。また「名草姫」の下には「爲妻」の二字が脱落している。他の例はすべてそう書かれている。なお、女性を「ある氏族の祖」という例も多い。これは前(巻二十一の四丁)で述べた。

【宣長の注釈】「大入杵命」について。倭建命の段には「柴野入杵」という人名も見える。「杵」は「君」の意味だろう。「木」の字を用いていないのだから、「城」の意味ではない。『古事記』では、意味とは別に音を借りて用いる字も、おおむね仮名と同じように扱い、物や事柄によって用いる字を区別し、その字を一定させていることが多い。軽く見過ごしてはならない。『日本書紀』にはこの皇子は出ていない。

【宣長の注釈】「八坂之入日子命」の「八坂」は地名だろうか。山城国愛宕郡に八坂郷があるが、そこだとは断定できない。あるいは「弥栄」、いよいよ栄えるという意味だろうか。詳しいことはわからない。この命の娘も八坂之入日売命という。また『日本書紀』では豊城命らの母について、一説には八坂振天某辺という、とある。

【宣長の注釈】「沼名木之入日売命」の「沼名」の意味はよくわからない。神沼河耳命という名があり、『日本書紀』安寧天皇紀には渟名底仲媛、孝昭天皇紀には渟名城津媛がある。また他田宮の天皇の御名に「沼名倉……」、浄御原宮の天皇の御名には「天渟中原……」がある。このように名に多く現れるのは、あるいは「沼矛」などの「沼」と同じで、玉のことだろうか。そうならば「名」は「之」の意味で、「玉の城」となる。「之」を「な」という例は多い。「珠城宮」という宮の名もある。日代宮の段には、沼名木郎女という皇女もおいでになる。「沼」の例はほかにも、境原宮の段の怒能伊呂比売、玉垣宮の段の沼帯別命など、なお多い。『日本書紀』垂仁天皇紀では、大倭大神を祭らせる人を占ったとき、渟名城稚姫命が占いに適ったとあるが、この皇女のことだろうか。

【宣長の注釈】「十市之入日売命」について。『和名抄』には大和国十市郡があり、「とほち」と読みがついている。この土地に由来するのだろうか。「十」の音を仮名で書けば「とを」であるのに「とほち」とあるのは、地名だからだろう。地名を仮名で示すときには、普通とは違う綴りがときどきある。ここでは通常どおり「とを」と読んだ。「之」は『日本書紀』では「瓊」となっている。『日本書紀』には「次の妃は尾張大海媛で、八坂入彦命、渟名城入姫命、十市瓊入姫命を生んだ」とある。

【宣長の注釈】「御真津比売命」について。開化天皇の子に同名の皇女があり、前に出ている。『日本書紀』垂仁天皇紀の初めには「母である皇后は御間城姫といい、大彦命の娘である」とある。『先代旧事本紀』では御間城入姫という。「津」と「城」が違っているが、どちらが正しいのだろう。師は「城」を「つ」と誤ったのかと言っておられた。そういうこともありうる。また開化天皇の皇女のほうも、同母の兄を御真木入日子命というのだから、「御真木日売」であるべきだろうか。さらに、その皇女が『日本書紀』にはいないことを思えば、大毘古命のこの娘との混同が起こったのではないだろうか。

【宣長の注釈】「伊玖米入日子伊沙知命」の「伊玖米」は地名だろうか。詳しくはわからない。『先代旧事本紀』巻五に「活目邑五十呉桃」という名があるが、「邑」の字がある本では「色」になっており、これも地名とは決めにくい。また『万葉集』巻三の長歌の「活道山」を「いくめぢやま」と読む説があるが、これは「いくぢ山」である。『八雲御抄』に「いくぢ」とあるのがよい。その反歌に「見之活道の」とあるのを「いくぢ」と読むと六音の句となるため、調子がおかしいと考える人がいるかもしれないが、この句は「みししいくぢの」と読むべきだ。「見し」を「みしし」というのは古語の決まりである。巻六の「活道岡」も同じ場所で、山城国にある。『古事記』のほかの箇所や『日本書紀』では、単に伊久米天皇ともいう。「伊沙」は勇ましいという意味で、黒田宮の段の比古伊佐勢理毘古命の注(巻二十一の四十四丁)と考え合わせたい。「知」は例のとおりの尊称だ。「知」の意味については、訶志比宮の段の伊佐比宿禰の注、巻三十一の十丁にも考察がある。『日本書紀』景行天皇紀には皇子の五十狭城入彦命、神功皇后紀には吉師の祖である五十狭茅宿禰、また海上五十狭茅などの名もある。

【宣長の注釈】読み方を示す注の「玖」は、諸本ではどれも「久」と書く。しかし本文と異なるはずはないので、今「玖」に改めた。

【宣長の注釈】「伊邪能真若命」の「伊邪」は、その意味がまだ理解できない。「伊佐」と同じ語で、「佐」を濁らせて言ったのだろうかとも考えたが、そのようには受け取りにくい。応神天皇の子にも同名の皇子がいる。また神功皇后の段の伊奢沙和気大神、履中天皇の御名の大江之伊邪本和気命、『日本書紀』神代巻の去来之真名井、また伊邪河などが、「いざ」という言葉の例である。『日本書紀』にはこの皇子がおらず、彦五十狭茅命という皇子がいる。応神天皇の子に同名の人がいるのだから、『日本書紀』のほうが正しいのかもしれない。ただし彦五十狭茅では、この方も兄の御名と同じことになるので、それもどうだろうか。

【宣長の注釈】「国片比売命」について。「片」の字を古い刊本やある写本で「斤」とするのは誤りで、ここでは延佳本と真福寺本に従った。「片」は堅固なことをいうのだろうか。なお考える必要がある。

【宣長の注釈】「千々都久和比売命」の「千々」は、栲幡千々姫命の「千々」と同じである(巻十五の七丁)。黒田宮の段には千々速真若比売という名もある。「都久」の意味はまだ理解できないが、その例には玉垣宮の段の石衝別王、石衝毘売命などがある。この御名は、『日本書紀』と照らして考えると、もとは「千々都久倭比売命」とあり、「都久」の二字は音を表すという注が付いていたのだろう。それを「倭」の字をうっかり「和」と誤写し、後人が余計な判断をして、注を「和」の字の下へ移し、「二字」を「三字」に改めたのだろう。国名の「倭」を後に「和」の字へ改めて以来、後世には両字を混用するので、古書の「倭」までも「和」と誤写した例が多い。「つくわ」と言っても「わひめ」と言っても、不自然な名である。そこで私は「和」を「やまと」と読んだ。弟の名が「倭日子」であることも考え合わせたい。

【宣長の注釈】「伊賀比売命」について。『和名抄』には伊賀国伊賀郡があり、そこに由来するのだろうか。しかし、どんな理由であの国の名を持たれたのかは詳しくわからない。ただ、八坂入彦命の娘たちが美濃国におられたことも景行天皇紀に見えるから、この姫命も、ある事情でその国におられたのかもしれず、推し量りがたい。『伊賀国風土記』には「猿田彦神の娘、吾娥津媛命……。この神が治める国を吾娥郡と呼んだ……。後に伊賀と改めた。吾娥の音が変化したのである」とある。伊賀郡には阿我郷もある。今考えると、この吾娥津媛を猿田彦神の娘と伝えるのは誤りで、本当はこの伊賀日女命が下ってお住まいになったことを言うのではないだろうか。これはただ、試みに考えを述べるだけである。同国の延長の風土記には、「伊賀国は昔、伊勢国に属していた。大日本根子彦太瓊天皇の治世の癸酉年に分かれて伊賀国となった。この名のもとは伊賀津姫の領有した郡である」とある。『日本書紀』にはこの皇女はいない。そのことについて述べるべき点があり、次に述べる。

【宣長の注釈】「倭日子命」の名の意味には、特に説明すべきことはない。『延喜式』神名帳には、河内国大県郡に若倭彦命神社と若倭姫命神社がある。この神名の由来はわからない。『日本書紀』には「元年二月、辛亥を朔日とする月の丙寅の日、御間城姫を立てて皇后とした。これより先、皇后は活目入彦五十狭茅天皇、彦五十狭茅命、国方姫命、千々衝倭姫命、倭彦命、五十日鶴彦命を生んでいた」とある。

【宣長の注釈】「男王七、女王五」というが、この数は合わない。上に挙げられているのは男の王六人、女の王六人である。そこで考えると、『日本書紀』には伊賀日売命がおらず、五十日鶴彦命という皇子がいるから、「伊賀比売」は「伊賀日子」を誤ったのではないだろうか。ただし、これは後に書き写す際の誤りではなく、初めに阿礼が誦んだ時からの誤りなのだろう。「男王七、女王五」の部分は間違えず正しく誦んだので、安万呂朝臣はすべて阿礼が誦んだままに記したのだろう。なぜそうわかるかというと、この段では「ひこ」を一律に「日子」と書き、「比古」と書く例はないからである。この記が書かれた時、この名が男の王のものだったなら、「日子」と書いたはずであり、それを後に「比売」と二字とも誤写したとは考えにくい。「日子」と「比売」は字の形も大きく違っているからである。

【古事記本文】そこで、伊久米伊理毘古伊佐知命が天下を治めた。豊木入日子命は、上毛野君、下毛野君らの祖である。妹の豊鉏比売命は伊勢の大神の宮に仕え、祭りを行った。大入杵命は能登臣の祖である。倭日子命については、この王の時、初めて陵に人垣を立てた。

【宣長の注釈】先ほどの「伊久米……」について。『日本書紀』には次のようにある。「四十八年春正月、己卯を朔日とする月の戊子の日、天皇は豊城命と活目尊に命じて言った。『お前たち二人の子への愛情は同じで、どちらを後継ぎにすべきかわからない。それぞれ夢を見るように。私は夢によって占おう。』二皇子はこの命を受け、身を清めて祈り、眠り、それぞれ夢を見た。夜が明けると、兄の豊城命は夢の内容を天皇に申し上げた。『自分は御諸山に登り、東を向いて槍を八度振るい、刀を八度振りました。』弟の活目尊は夢を申し上げて言った。『自分は御諸山の頂に登り、縄を四方へ張り渡し、粟を食う雀を追い払いました。』天皇は夢を判断し、二人の子に言った。『兄はひとえに東を向いたから、東国を治めるべきである。弟は四方すべてを見渡しているから、私の位を継ぐのがよい。』四月、戊申を朔日とする月の丙寅の日、活目尊を皇太子とし、豊城命には東国を治めさせた。この方が上毛野君と下毛野君の始祖である。」

【宣長の注釈】「上毛野」は、『和名抄』に上野国、読みは「かみつけの」とある、その国である。「毛」を省いて「上野」と書くのは、二字に縮めて表記する慣例による。『日本書紀』斉明天皇紀には「上毛野国」とある。後世に「野」を省いて「かみつけ」とだけ言うのは、なまりである。さらに「かうづけ」というのは、「み」を音便で「う」と言い、また音便の「う」「ん」の後は濁ることが多いので、「つ」も濁らせたものだ。『万葉集』巻十四の上野国の歌には「可美都氣努」「可美都氣野」と、いずれも「かみつけぬ」と詠む。一か所だけ「可美都気乃」ともあるが、この「乃」は「奴」の誤りだろう。『和名抄』の頃なら「野」をもっぱら「の」と言うが、古くはそうではなく、また「野」を省いて「かみつけ」という例もないから、「乃」を助詞の「の」とも考えられない。この国名を詠んだ歌十二首の中で「乃」とするのは一首だけ、ほかはみな「奴」なのである。名の意味はまだ理解できない。「毛」は草木をいうのだろうか。「木」を「け」という例もある。顕昭の『古今集』注には「坂東は足柄の関より東で、さして山などもなく、すべて広くはるかな野である」とある。またこの本文では「野」の下に「君」の字が脱落したのだろう。そこで今、補った。

【宣長の注釈】この氏族については、『日本書紀』垂仁天皇紀に上野君の遠い祖先、八綱田の功績が見え、それをほめて倭日向武日向彦八綱田という名を賜ったことが記されている。また景行天皇紀には、次のように見える。「五十五年春二月、彦狭島王を東山道十五国の都督とした。この王は豊城命の孫である。ところが春日の穴咋邑に至って病に伏し、亡くなった。この時、東国の人々は王が来られなかったことを悲しみ、ひそかに王の遺体を盗み出し、上野国に葬った。五十六年秋八月、御諸別王に詔して言った。『お前の父の彦狭島王は任地へ赴けず、早くに亡くなった。そこで、お前が東国全体を治めよ。』御諸別王は天皇の命を受け、また父の事業を成し遂げようと願い、現地へ行って治め、たちまちよい政治の成果を上げた。その時、蝦夷が騒ぎを起こしたので、軍を起こしてこれを討った……。こうして東方は平穏となり、その子孫は今も東国に住んでいる。」彦狭島王は、垂仁天皇紀の八綱田の子だろうか。『新撰姓氏録』のあちこちに、八綱多命は豊城入彦命の子と見え、垂仁天皇紀には「上野君の遠祖八綱田」とあるからだ。ただ、この人がもし彦狭島王の父なら、『日本書紀』でも「王」とあるはずなのに、そうなっていないのは不審である。『国造本紀』には「上毛野国造。瑞籬朝の皇子、豊城入彦命の孫の彦狭島命が、初めて東方の十二国を平定し、領地とした」とある。

【宣長の注釈】この氏族の人は、応神天皇紀に荒田別と巫別、仁徳天皇紀に竹葉瀬と田道、安閑天皇紀に小熊、舒明天皇紀に形名、天智天皇紀に稚子、天武天皇紀に三千などが見える。そして天武十三年十一月、上毛野君は朝臣という姓を賜った。『新撰姓氏録』左京皇別には「上毛野朝臣は下毛野朝臣と同祖で、豊城入彦の五世の孫、多奇波世君の子孫である」とある。

【宣長の注釈・補説】この続きには、雄略天皇の御世に百尊という人が応神天皇陵のそばで馬を交換した話を挙げている。これは雄略天皇紀九年の「河内国が申し上げた。飛鳥戸郡の人、田辺史伯孫……」という話であり、この上毛野君の氏族とは関係がない。それをここに載せたのは誤りである。豊城入彦命の子孫にも田辺史という氏族があるため、混同したのだろう。あの伯孫は、右京諸蕃の「田辺史。漢王の子孫で、知惣の子孫である」という氏族の人で、まったく別である。漢人の子孫であればこそ、百尊・徳尊などの名があるのだ。また、豊城命の子孫であるほうの田辺氏が「史」という姓を持つのは、上野氏の祖先の中に韓国へ渡って関わりを持った人がいたことがあちこちに見えるから、そうした由来によるのだろう。漢王の子孫である田辺氏のほうも、この田辺氏と何か関係があったのかどうか、それはわからない。

【宣長の注釈】また右京皇別にも「上毛野朝臣。崇神天皇の皇子、豊城入彦命の子孫である」とある。『続日本紀』巻十八には、田辺史難波らに上毛野公の姓を賜ったこと、巻三十四には田辺史広本ら五十四人に上毛野公の姓を賜ったことがある。『新撰姓氏録』では、田辺史は豊城入彦命の四世の孫、大荒田別命の子孫だという。『日本三代実録』巻七には「上毛野公藤野、上毛野公赤子ら、同族の男女七人に朝臣の姓を賜った。豊城入彦命の末裔である」とある。さらに『続日本紀』巻二十九には、陸奥国の吉弥候部氏の人々に、上毛野陸奥公、上毛野名取朝臣、上毛野鍬山公、上毛野中村公などの姓を賜ったことが見える。この人々も豊城命の子孫だったのだろう。『新撰姓氏録』では、吉弥候部は上毛野朝臣と同祖で、豊城入彦命の六世の孫、奈良君の子孫という。『続日本紀』巻二十には「今後、君子部を改めて吉美候部とする、と命じた」と見える。『続日本後紀』巻四には左京の人、上毛野公諸兄に朝臣の姓を賜ったこと、巻九には陸奥国耶磨郡の大領、丈部人麻呂の一戸に上毛野陸奥公の姓を賜ったことがある。

【宣長の注釈】「下毛野君」について。「下毛野」は『和名抄』に下野国、読みは「しもつけの」とある、その国である。『万葉集』巻十四の下野国の歌には「之母都家野」「志母都家努」と、いずれも「しもつけぬ」と詠む。中古以来、「野」を省いて「しもつけ」というのは、なまりである。『国造本紀』には「下毛野国造。難波高津朝の御世に、もとの毛野国を上・下に分け、豊城命の四世の孫、奈良別に初めて国造を賜った」とある。「初」の下に「定」の字が脱落しているのだろう。

訳注

底本の『日本三代実録』引用は「同族男七女人」という字順になっている。引用元の貞観五年十一月二十日条は「同族男女七人」とあるため、訳では男女合わせて七人と解した。

【宣長の注釈・前の続き】奈良別は、『新撰姓氏録』に奈良君とある人と思われる。『日本書紀』天武天皇紀の十三年十一月には、下毛野君に朝臣の姓を賜ったとある。『新撰姓氏録』左京皇別には「下毛野朝臣。崇神天皇の皇子、豊城入彦命の子孫である」とある。『続日本紀』巻二十九には、陸奥国信夫郡の人、吉弥候部広国に下毛野静屈という姓を、玉造郡の人、吉弥候部念丸ら七人に下毛野俯見公という姓を賜ったことが見える。「静屈」は「静戸公」の誤りである。安達郡には静戸郷があり、安達と信夫は隣り合う郡である。巻三十七には、吉弥候横刀と吉弥候夜須麻呂に下毛野朝臣の姓を、吉弥候間人と同姓の総麻呂に下毛野公を賜ったとある。『続日本後紀』巻三には「近江国の人、志賀忌寸田舎麻呂ら四人に下毛野朝臣の姓を賜った。五十瓊殖天皇の皇子、豊城入彦命の末裔である」、巻九には「陸奥国の人、大部継成ら三十六人に下毛野陸奥公の姓を賜った」などとある。

【宣長の注釈】豊木入日子命の子孫は、以上のほかにも『新撰姓氏録』に次のように見える。池田朝臣は上毛野朝臣と同祖で、豊城入彦命の十世の孫、佐太公の子孫。「十世」を「十一世」とする本もある。住吉朝臣は上毛野氏と同祖で、豊城入彦命の五世の孫、多奇波世君の子孫。池原朝臣は住吉氏と同氏族。上毛野坂本朝臣は上毛野氏と同祖で、豊城入彦命の十世の孫、佐太公の子孫。車持公は上毛野朝臣と同祖で、豊城入彦命の八世の孫、射狭君の子孫。大網公は上毛野朝臣と同祖で、豊城入彦命の六世の孫、下毛君奈良の弟、真若君の子孫。「下毛」の「毛」の下には「野」の字が落ちているのだろう。桑原臣と川合も、それぞれ上毛野氏と同祖。垂水史は上毛野氏と同氏族で、豊城入彦命の子、彦狭島命の子孫。彦狭島命を豊城命の子とするのは誤りだろう。商長首は上毛野氏と同氏族。佐味朝臣は上毛野朝臣と同祖。大野朝臣は、同じく豊城入彦命の四世の孫、大荒田別命の子孫。垂水公は豊城入彦命の四世の孫、賀表真若命の子孫。佐自努公は豊城入彦命の孫、大荒田別命の子孫。下養公は上毛野朝臣と同祖。広来津公は下養公と同祖。韓矢田部造は上毛野朝臣と同祖で、豊城入彦命の子孫、三世の孫の弥毋里別命の孫、現古君の系統。車持公も同じく豊城入彦命の子孫。広来津公は上毛野朝臣と同祖で、豊城入彦命の子孫、三世の孫の赤麻里の系統。止美連は尋来津公と同祖。村挙首は豊城入彦命の子孫。佐代公は上毛野朝臣と同祖。珍県主は佐代公と同祖。登美首は佐代公と同祖で、豊城入彦命の子、倭日向建日向八綱田命の子孫。葛原部は佐代公と同祖。茨木造は豊城入彦命の子孫。丹比部も同じ。軽部は倭日向建日向八綱多命の子孫。我孫は豊城入彦命の子、八綱多命の子孫。佐自努公は豊城入彦命の四世の孫、荒田別命の子孫。我孫公は豊城入彦命の子、倭日向建日向八綱田命の子孫とある。

【宣長の注釈】『続日本紀』巻四十には「池原公綱主らが申し出た。『池原・上毛野二氏の祖先は豊城入彦命から出ています。その命の子孫である東国六腹朝臣は、それぞれ住む土地に応じて姓を賜り氏を名づけました。これは古今を通じて同じで、歴代の王も変えないことです。伏して願わくは、住む土地の名によって住吉朝臣の姓を賜りたいのです。』詔によって綱主兄弟二人に、願いどおり賜った」とある。『日本三代実録』巻七には「伊勢国多気郡の民、麻績部愚麻呂、麻績部広永ら十六人に、もとの姓、中麻績公を復した。愚麻呂らは自ら、豊城入彦命の子孫であると申し出た」とあり、巻三十二には「左京の人、都宿禰御酉、都宿禰良香、都宿禰因雄、都宿禰興道の四人に朝臣の姓を賜った。その祖先は御間城入彦五十瓊殖天皇の子孫で、上毛野・大野・池田・佐味・車持の朝臣と同祖である」などと見える。下野国河内郡の二荒山神社は、この豊木入彦命を祭るという。そうであろう。

【宣長の注釈】「豊鉏比売命」は、どの本でもここには「入」の字がない。脱落したのだろうか。ただし『日本書紀』垂仁天皇紀にも「豊耜姫命」とあり、豊木入日子命も同書で「豊城命」という例があるから、「入」を省いても呼んだのだろう。また前後の書き方に従えば、「命」の下には「者」の字があるべきである。倭日子命の下は「此王之」と受けているのだから、そちらに「者」の字がないのは当然である。

【宣長の注釈】「拝祭」は「いつきまつる」と読むべきである。これについては巻十五の二十八丁で述べたとおりだ。

【宣長の注釈】「大神之宮」は「おおみかみのみや」と読むべきである。倭建命の段に「伊勢大御神宮」とあるからだ。『日本書紀』崇神天皇紀の五年・六年のくだりには「そこで天照大神を豊鍬入姫命に託し、大和の笠縫邑に祭り、石を固く巡らせた神籬を立てた」と見える。垂仁天皇紀には「二十五年三月、天照大神を豊耜姫命からお離しして倭姫命に託した。そこで倭姫命は大神が鎮座する所を求めた」とある。豊鉏入日売命からお離ししたのは、お年を召したためだろう。『大神宮儀式帳』に「豊耜入姫命は御年が長くなった。次に、纒向の珠城宮で天下を治めた活目天皇の御世に、倭姫内親王を御杖代として、斎き祭った」とある。「御形長成」とは年老いられたということである。この大神が伊勢宮に鎮座したのは、倭比売命に託してから後のことであり、豊鉏比売命が祭っていた間はまだ伊勢においででなかった。それを「伊勢大神之宮」とするのは、後に「伊勢大神」と呼ぶ名を初めの時期へも及ぼしたので、こういう例はよくある。「宮」と言うのは、大和の笠縫邑においでだった時の宮である。伊勢大神がおいでになる笠縫邑の宮、という意味に理解すべきだ。「伊勢大神」は天照大神のことで、その大神の宮というのである。「伊勢」を「宮」にまで掛けて、伊勢にある宮と解してはならない。

【宣長の注釈】「能登臣」について。『和名抄』に能登国能登郡とある、それである。『続日本紀』に「養老二年五月、甲午を朔日とする月の乙未の日、越前国の羽咋・能登・鳳至・珠洲の四郡を分け、初めて能登国を置いた」「天平十三年十二月丙戌、能登国を越中国に合わせた」「天平宝字元年五月乙卯、能登国をもとのとおり分立した」とある。『和名抄』に「霊亀二年、越中国を分けて置いた」、また「養老二年、越中国の四郡を分けてこの国を置いた」とするのは、ともに誤りだろう。名の意味は詳しくわからない。『延喜式』神名帳には、能登郡の能登比咩神社と能登生国玉比古神社もある。この氏族については、『国造本紀』に「能等国造。志賀高穴穂朝の御世、活目帝の皇子、大入来命の孫の彦狭島命を国造に定めた」とあるが、これは誤りが多い。斉明天皇紀に能登臣馬見龍、『万葉集』巻十八に羽咋郡の擬主帳、能登臣乙美などの人が見える。『性霊集』には能登臣広成という人が見える。『新撰姓氏録』にはこの氏族は出ていない。

【宣長の注釈】「此王之時」とは、この王が亡くなって葬られた時をいう。「薨ずる」とも「葬る」とも書いていないが、次に「陵に」とあるのでそうわかる。玉垣宮の段の終わりに「その大后、比婆須比売命の時、石棺作を定め、また土師部を定めた」とあるのも同じ例で、古文の言い方である。

【宣長の注釈】「於陵」は「みはかに」と読むべきである。「墓」でなく「陵」と書くのは、古くは文字の区別にこだわらず、貴人の墓にはなんとなくこの字を用いたのだろう。延佳本で「於」の上に「止」の字があるのは、浅い思いつきで加えたもので、かえって甚だしい誤りである。理由は次に詳しく論じる。ほかのどの本にもこの字はない。

【宣長の注釈】「人垣を立てた」について。まず人垣とは、人を隙間なく立ち並ばせ、垣のようにすることをいう。舞楽の「垣代」もこの意味だ。『大神宮儀式帳』の遷宮の儀式を述べる段に「人垣に立って奉仕する男女らに太玉串を持ち捧げさせ、左右に分かれて立つ……。まず禰宜、次に宇治内人、次に大物忌の父、次にほかの内人・物忌たち、および妻子らが人垣を立て、衣垣を引き、蓋・判・翳などを捧げて行列に供奉する」とある。『外宮儀式帳』にも「人垣を作って奉仕する内人ら、およびその妻子ら、合わせて六十人」と見える。内訳は男三十人、女三十人である。さて、ここの人垣は、この王を葬る時、その墓に多くの生きた人を人垣として立てて埋めたのである。そうしたのは、王が自らこうせよと遺言したのだろう。「初めて」とあるから、このような行いはこの王から始まったとわかる。

【宣長の注釈】『日本書紀』垂仁天皇紀には次のようにある。「二十八年冬十月、丙寅を朔日とする月の庚午の日、天皇の同母弟、倭彦命が亡くなった。十一月、丙申を朔日とする月の丁酉の日、倭彦命を身狭の桃花鳥坂に葬った。この時、近くに仕えていた人々を集め、すべて生きたまま陵の周囲に立たせて埋めた。数日たっても死なず、昼も夜も泣きうめいた。ついに死ぬと腐って臭いを放ち、犬や烏が集まって食べた。天皇はこの泣きうめく声を聞いて心を痛め、群卿に命じた。『生前に愛した者たちを死者の道連れとして死なせるのは、甚だ痛ましい。古くからの風習であっても、よくないことになぜ従うのか。今後はこれを話し合い、殉死をやめるようにせよ。』」ここには「人垣」とはないが、そう書かないのは漢文の表現を整えたためであり、古い伝承ではこれも「人垣」とあったのだろう。殉死させられた人が非常に多かった様子は読み取れる。

【宣長の注釈・問答】ある人が尋ねる。「『日本書紀』では殉死は古くからの風習というのに、『古事記』ではこの王の時に初めて人垣を立てたという。両者の説は反対である。それなら延佳本のように『止』の字があるほうがよいのではないか。この点はどうか。」答える。延佳が『日本書紀』をひどく読み誤ったのである。よく読めば、『日本書紀』の趣旨も『古事記』と違いはない。生きた人を死者の道連れとして埋めるのは非常に古くからの風習だったが、人垣を立てるほど甚だしいことには、まだ例がなかった。それがこの王の時に、殉死させる人数を非常に多くして、初めて人垣を立てるに至ったのである。次に引く『続日本紀』の「もっぱら倭彦王子の先例に従う」という文も、人垣を立てた最初の例だからそう言う。『日本書紀』の文意も、以前の例とは違って甚だしかった様子に読めるではないか。もし「止」があるなら、かえって『日本書紀』の趣旨とも違ってしまう。「今後は殉死をやめよ」とあるのは、この王の時の殉死があまりに甚だしかったため、これから先はやめよと命じたのであって、この王を葬る際に命じて、その行為を中止したのではない。それなのに、どうして「この王の時にやめた」と言えようか。この行為がやんだのは、同じ垂仁天皇紀の三十二年、日葉酢媛命が亡くなった時である。天皇は群卿に「死者に従って死ぬ方法がよくないことは、すでにわかっている。今、この葬儀はどうしたらよいか」と命じた。そこで野見宿禰が進み出て述べ……、土製のものを初めて日葉酢姫命の墓に立てた。そして「今後、陵墓には必ずこの土製のものを立て、人を傷つけてはならない」と命じた、という時である。『続日本紀』巻三十六にも、土師宿禰古人と同族の道長らが申し出た言葉として、「昔、纒向珠城宮で天下を治めた天皇の御世……、人が亡くなるたびに、慣例として多くの者を殉死させて埋めた。その時、皇后が亡くなり、天皇は群臣を振り返って『皇后の葬儀はどのようにしたらよいか』と尋ねた。群臣は『もっぱら倭彦王子の先例に従いましょう』と答えた。その時、臣らの遠祖、野見宿禰が進み出て、『私の愚かな考えでは、殉死させて埋める礼は、仁政を行い国を益し民を利する道に甚だ背きます……』と申し上げ、殉死する人の代わりにした……」とある。この時から殉死はやんだのである。もし倭日子命の時にすでにやんでいたなら、比婆須比売命の時にどうしてこんな議論が起きようか。また「倭彦王子の先例」を殉死をやめた先例とするなら、野見宿禰が土製のものを用いた功績はどこにあることになろう。よく考えて、延佳本の「止」の字が誤りだと知るべきである。

【宣長の注釈】さて、この『日本書紀』の文によれば、人垣を立てたのは石槨の内部ではなく、少し離して周りを取り囲ませたものだろう。「陵域」とあるからだ。また深く埋めず、地表にごく近い所だったとわかる。犬や烏が集まって食べたとあるからである。この墓について『大和志』高市郡の部では、「所在地は未詳。ある説では野口村にあるという……。墓の洞窟の内部は一丈四方余りで、五枚の大石を巧みに磨いて作っているが、今は半ば壊れている。石棺と石の蓋は道端に捨て置かれ、俗に鬼の厠、鬼の肉几と呼ぶ」とある。しかし今考えると、「身狭の桃花鳥坂」という場所とは違っている。いわゆる鬼の厠、鬼の俎の所在地は野口村に近いが、野口村では身狭の桃花鳥坂と合わない。その石をこの王の墓の石とするのも根拠がない。古い陵墓はどれも大石を使ったので、今、どの墓の石かは決めにくい。荒木田久老は次のように言う。「野口村のあたりで、鬼の厠などという大石のある所から少し東に、王墓という所がある。村人はこれを武烈天皇陵と言い、この天皇の行いが甚だ悪かったため、生きたままここへ埋めたと伝える。これは倭彦命の陵に近く仕えた人々を生きたまま埋めたことが、誤って伝わったのではないか。そうなら、倭彦命の墓はこの王墓という塚だろう。」これは理由のある考えだが、なお場所が違っているので採りにくい。

【古事記本文】この天皇の御世に疫病が盛んに起こり、人々は死に絶えようとしていた。天皇は嘆き悲しみ、神に祈って清めた寝床で休んだ夜、大物主大神が夢に現れて言った。「これは私の心によるものである。意富多多泥古(おおたたねこ)に私の御前を祭らせれば、神の祟りは起こらず、国は安らかになるだろう。」そこで急使を四方に派遣し、意富多多泥古という人を探させたところ、河内の美努村でその人を見つけ、朝廷にお連れした。天皇は「お前は誰の子か」と尋ねた。その人は「私は、大物主大神が陶津耳命の娘、活玉依毘売を妻としてもうけた子、名は櫛御方命、その子が飯肩巣見命、その子が建甕槌命、その子である意富多多泥古と申します」と答えた。そこで天皇はたいそう喜び、「天下は平らかになり、人民は栄えるだろう」と命じた。そして意富多多泥古命を神主として、御諸山において意富美和の大神を拝み祭った。また伊迦賀色許男命に命じて天の八十毘羅訶を作らせ(「毘羅訶」の三字は音を表す)、天神・地祇の社を定めて祭った。宇陀の墨坂の神には赤色の盾と矛を供えて祭り、大坂の神には黒色の盾と矛を供えて祭った。また坂の御尾の神と川の瀬の神にも、一つも忘れず幣帛を奉った。こうして疫病はすっかりやみ、国は平穏になった。

【宣長の注釈】「役病」の「役」は、古い刊本と延佳本では「疫」と書き、こちらが正字である。しかし真福寺本とほかの本でも、すべて「役」と書き、後の「役気」も同じである。『古事記』の表記には一般にこういう例が多いので、ここではそれに従った。「疫」と書く本は、後に余計な判断で改めたものだろう。『和名抄』には「疫、えやみ。一説には、ときのけ。『説文解字』は、民がみな病むことだという」とある。また「瘧、俗にえやみといい、一説にはわらわやみという」とあるから、当時は瘧も「えやみ」と言ったのだろう。

【宣長の注釈】『日本書紀』でも「疫病」「疫疾」「疾疫」「疫気」などは、すべて「えやみ」と読んでいる。「えのやまい」と読む所もあり、『大鏡』には単に「え」と言う所もある。『和名抄』には「竜胆、えやみくさ」ともある。そう名づけた意味は、まず「役」を「え」「えだち」ということによるのだろう。「えだち」は「役立」であり、役のことは軽島宮の段で述べる。疫病も、漢籍で「民がみな病む」と言うとおり、人ごとに病気が回ってくることが、あの労役に指名されて出ることに似ているためだろう。師は、「疫」を「え」というのはもともと字音で、次の文の「神気」と同じものだから、この「疫病」もともに「かみのいぶき」と読むべきだと言われた。私も初めは、「役」も「疫」もともに「え」ということを思えば、もとは字音を取ったのであり、もとからの古語なら、同じ音の字を用いて同じ言葉となるはずがないと思っていた。しかし後によく考えるとそうではなく、どちらも本来の古語である。まず「役」は自然に字音と一致したのだ。日本の古語と漢字音が自然に似たり同じだったりすることは、まれにはある。それをすべて中国から取ったものと考えるのは、かえって誤りである。「疫」はその「役」に似ているからこう言うので、先に述べたとおりだ。「疫」の字も「役」から出たと見える。『釈名』に「疫は役であり、鬼が巡って労役を行うことをいう」とある。中国でも「役」から転じて「疫」というのは、日本での意味と自然に一致したもので、こちらがあちらをまねたのではない。『日本書紀』欽明天皇紀にも「国に疫気が広まり、民が早死にした。長く続くほど死者は増え、治療できなかった」とあり、敏達天皇紀にも「この時、国に疫疾が広まり、民の死者が多かった」とある。

【宣長の注釈】「多起」の「おこる」は、今の世の言葉で「はやる」ということである。『日本書紀』では「行」の字を用いている。中国語では「行」というのである。日本でこれを「おこなわる」と言うのは、漢籍を読む際の言い方だ。中古の書でも、みな「おこる」と言っている。

【宣長の注釈】「人民」は「おおみたから」と読むべきである。『日本書紀』の「民人」「民」「万民」「兆民」「黎民」「民庶」「衆庶」「黎庶」「億兆」「人物」「人夫」「庶人」「居人」「戸口」「百姓」「元元」「蒼生」「業業」「黔首」なども、すべてそう読んでいる。ただし「み」はどれも「む」と読んでいるが、それは少し後の音便であり、古語としては正しく「み」と読むべきだ。「大御宝」という意味である。また「王民」「公民」「良人」(奴婢ではない身分の人)なども同じように読む。これらは賤奴に対していう呼び名である。そうなら「おおみたから」は、もともと良人だけの呼び名で奴婢までは含めないのか、それとも初めから良賤を区別しない呼び名なのか、その境界は詳しくわからない。どちらにしても、普通に使う時は単に民全体ということで、ここもそうである。古書の趣旨を考えると、はっきり奴婢に対して良人を「公民」という所も「おおみたから」と読むほかないため、もとは良人に限った呼び名だったように思われる。また、良賤の区別ではなく単に広く民をいう所にも、「天下の公民」という表現が多い。これは、賤に対する良をいう「おおみたから」を普段から「公民」と表記するので、その字を借り、良賤の区別と関わらない場合にも共通に用いたのだろう。「公民」については、玉垣宮の段、巻二十四の六十丁で詳しく述べる。

【宣長の注釈】『江家次第』の非常赦の項、検非違使の佐が告げる言葉に、「その事情により特別に赦しを与える。それぞれ本来の居住地へ帰り、重ねて罪を犯さず、公御財として、御調物を備えて納めよ」とある。これは「おおみたから」という言葉がはっきり現れた例である。「公」の字は、ふだん「公民」と書く時の「公」を用いただけで、「おおやけ」と読んではならない。師はここの「人民」を「あおひとくさ」と読まれた。そう読むのもよいが、『古事記』の「人民」には、そう読むと具合の悪い所もある。「おおみたから」と読めば、どの箇所にも通じてよい。

【宣長の注釈】「死」は「うせ」と読むべきである。『日本書紀』でも「死」「薨」「卒」などを同様に読んでいる。また、これらを「みうせぬ」とも読む。「み」は「みまかる」の「み」と同じで、「身」なのだろう。「為尽」は「つきなむとす」と読むべきだ。「為」は漢文で「将」の字を用いる、まさに何々しようとするという意味である。『日本書紀』には「五年、国の内に疫疾が多く、死亡した民は、ほとんど大半に及んだ」とある。

【宣長の注釈】「愁歎而」は「うれいたまいつつ」と読むべきである。「神牀」は「かむどこ」と読むべきだ。「かみゆか」とも読むべきだろうか。これは『日本書紀』で、天皇が沐浴して斎戒し、清めて祈り、「願わくは夢の中でも教えてください」とある箇所に当たる。したがって、そうして神の命を祈り、斎戒して清まった身でお休みになる寝床を「神牀」というのだろう。下巻の穴穂宮の段にも「坐神牀」とあるが、そちらは誤字と見られる。

【宣長の注釈】大物主大神については、白檮原宮の段(巻二十の十五丁)で詳しく述べた。「顕於御夢」は、天皇の夢に、ということである。「顕」とは、このように疫病が起こるのはこの大神の御心によるのだと、その神の御名が明らかになって知られる、という意味である。訶志比宮の段に「この時、その三柱の大神の御名が明らかになった」とある「顕」と同じだ。単に神のお姿が現れて見えることだけをいうのではない。師は「あらわして」と読み、御名を明らかにすることだと言われた。突き詰めれば意味は同じだが、「あらわれて」と読むほうが穏当である。

【宣長の注釈】そもそも世の中の出来事には、吉事にも凶事にも、目に見える出来事のほかに「幽事」という隠れた働きがある。「幽事」とは、何が原因で、誰の仕業なのかが明らかに知られていないことをいう。疫病の類もこの隠れた働きで、何が原因で誰の仕業かわからないため、神の教えを祈り求め、それを知るのである。『日本書紀』神代巻に「天児屋命は神事の根源をつかさどる者である。そこで太占の占いによって奉仕させた」とあることで知るべきだ。ここにいう「神事」は、すなわち「幽事」である。その根源をつかさどるとは、占いによって神の教えを求め、隠れた働きの原因と、それを起こした者を知る、その占いと祈りの根本をつかさどることをいう。よく文章の意味を味わいたい。こうして今、この隠れた働きが大物主大神の御仕業であると、御名が明らかになったのである。「幽」と「顕」を照らし合わせ、あの「かみごと」を「幽事」と書き、ここで「顕」という意味を理解すべきだ。

【宣長の注釈】「是者」は、このように疫病が起こることは、という意味である。「我之御心」、すなわち私の御心、という言い方について。玉垣宮の段には「太占で占い、どの神の御心なのかを求めると、出雲大神の御心であった」、訶志比宮の段には「天照大神の御心は」とある。『日本書紀』景行天皇紀には「今、風が起こり波が湧き、王の船が沈みそうなのは、きっと海の神の心である」とある。神功皇后紀には「その時、兵士が集まりにくかったので、皇后は『きっと神の心によるのだ』と言い、大三輪の社を立てて刀と矛を奉った。すると軍勢は自然に集まった」とある。允恭天皇紀には「淡路島で狩りをした……。一日中獣を得られないので狩りをやめ、改めて占った。島の神が祟っていて、『獣が得られないのは私の心による。明石の海底に真珠がある。その珠を私に祭れば、獣を残らず得るだろう』と言った」とある。『類聚国史』には、天長四年正月の詔として「天皇のお言葉として稲荷神の前に申し上げます。この頃、御体が重く病んで治らないので占ったところ、稲荷神社の木を切った罪が祟りとして現れたと申します……。まことに神の御心であるならば……」とある。『土佐日記』にも「ちはやぶる神の心の荒るる海に……」「目もうつらうつらとして、鏡に神の心を見たのだ。梶取の心は、神の御心だった」といった表現が見える。さらに後で引く、龍田の風の神を祭る祝詞も考え合わせたい。

【宣長の注釈】「我御前」の「御前」については、上巻(巻十二の十九丁)に出ている。「神気」は「かみのけ」と読むべきである。一般に「気」を「け」というのは字音だとばかり世の人は考えるようだが、そうではない。もとから日本の言葉で、たまたま字音と同じなのだ。『万葉集』に「潮気」などという語もあり、「煙」の「け」もこれである。そもそも数万の言葉の中には、まれには自然に漢字音に似たもの、同じものがあってもおかしくない。それを、似ている、同じだというだけで、すべて字音から出たと考えるのはどうしたことか。

【宣長の注釈】『栄花物語』「玉のむら菊」の巻、頼通大将の病気を述べる段には、「光栄、吉平などを召してお尋ねになる。物の怪なのか、恐れ多い神の気なのか、人の呪いなのかなど、いろいろに申し上げるので、神の気なら仏事の修法などをするべきではなく、また物の怪であっても放っておくのは恐ろしいなど、あれこれお悩みになる。ただ祭りや祓いばかりがしきりに行われる」とある。この時代に「祭り・祓い」というのは、陰陽師が行うことである。「神の気」は神の祟り、「物の気」は死者か生きた人かを問わず、人が祟ることをいい、中古の書に非常に多く見える。この二つはともに古語で、古く「物の気」といったものも「神の気」と同じだったのだろう。神を「物」といったことは、前に詳しく述べたとおりだからだ。それが後には区別され、神の祟りを「神の気」、人の祟りを「物の気」というようになったのだろう。しかし人であっても、祟りをなすものは神なのだから、突き詰めれば同じことだ。伊勢神宮の『文保記』には「祖父の長官、常尚が服暇令について言うには、神の気による病の禁忌は七十五日を過ぎて明ける」とある。これはずっと近い時代のことなのにこう言うのは、その頃まで疫病を「神の気」といったのか、古くから書き伝えた規定をそのまま記したのか。いずれにしても、疫病を「神の気」といった一例である。師はこの「神気」を「かみのいぶき」と読まれたが、『日本書紀』景行天皇紀の「信濃坂に至ると、神気に多く当たり、足が腫れて伏した」などの「神気」こそそう読むべきである。疫病などを指して、そのまま「神の息吹」とは言えない。

【宣長の注釈】「安平」は「たいらぎなむ」と読むべきである。『日本書紀』天武天皇紀でもこう読んでいる。明宮の段の末には「その身はもとのように安らかになった」とある。『日本書紀』には「五年……」(その文は前に引いた)、「六年、民は流亡し、背く者もあって、その情勢は徳による政治だけでは治めにくかった。このため天皇は朝早く起き、夜も慎み、神祇に罪をおわびした。これより先、天照大神と倭大国魂の二神をともに天皇の大殿の内で祭っていたが、その神威を畏れ、一緒に住むことに不安を感じた。そこで天照大神を豊鍬入姫命に託して、大和の笠縫邑で祭り、石を固く巡らせた神籬を立てた。また日本大国魂神を渟名城入姫命に託して祭らせたが、渟名城入姫命は髪が抜け体がやせ、祭ることができなかった」とある。天照大御神の御霊鏡こそは、「同じ床で休み、同じ殿に住み、斎い祭る鏡とせよ」と授けられたのだから、いつまでも天皇と同じ御殿で斎き祭るべきものである。それをなぜ今、このように別の所へお移しになったのかというと、五年、六年の出来事のために、深く神の御心を畏れ、危ぶまれるうちに、あるいはこの二柱の神の祟りではないかと思い、一緒にお住まいになることに不安を感じたのである。同じ殿においで願っていれば、日常のこととして自然に慣れ、軽々しく扱ってしまう面もありうるし、思いがけず不浄なことがないとも限らない。一般に、敬う礼が自然に怠られることがあってはならないと畏れたためだろう。それにしても、なお近い大和国内で祭るべきところを、垂仁天皇の御世になってさらに鎮座する土地をあちこち求めて歩かれたのはどういうことか。同天皇紀に「その後、神の教えに従い、伊勢国の渡遇宮に移した」とあるのを見ると、初めに厳橿のもとにおいでだった時にも、まず他所へ移せとの神の教えがあったのだろう。そもそも神代には同じ床・同じ殿で、と仰せがあったが、この御代に至って、ついには天皇の大殿を離れ、永く伊勢国に鎮座するという目に見えない契りは、もとからあったのだろう。その奥深い事情は、凡人の心で測り知れることではない。なお、ここには倭大国魂神を祭った土地も記すべきなのに、単に「祭る」とだけあって土地が見えないのは、脱落したのであろう。

【宣長の注釈・『日本書紀』引用の続き】「七年春二月、天皇は詔して言った……。そして神浅茅原へおいでになり、八十万の神を集め、占いによってお尋ねになった。この時、神が倭迹迹日百襲姫命に憑いて言った。『天皇はなぜ国が治まらないことを憂えるのか。よく私を敬って祭れば、必ず自然に平穏になる。』天皇が『このように教えるのはどの神か』と尋ねると、『私は倭国の内に住む神で、名を大物主神という』と答えた。そこで神のお言葉を得て、その教えに従い祭ったが、なお効果はなかった。天皇は沐浴して斎戒し、殿の内を清めて祈った。『私の神への礼は、まだ十分でないのでしょうか。なぜこれほどまで祭りをお受けくださらないのでしょう。どうか夢の中でも教え、神のお恵みを全うしてください。』その夜、夢に一人の貴い人が殿の戸の向こうに立ち、大物主神と名乗って言った。『天皇はもう憂えてはならない。国が治まらないのは私の意による。私の子、大田田根子に私の前を祭らせれば、たちまち平らかになる。また海外の国も自然に帰服するだろう。』秋八月、癸卯を朔日とする月の己酉の日、倭迹速神浅茅原目妙姫、穂積臣の遠祖の大水口宿禰、伊勢麻続君の三人が同じ夢を見て申し上げた。『昨夜、夢に一人の貴い人が現れ、大田田根子命を大物主大神を祭る主とし、市磯長尾市を倭大国魂神を祭る主とすれば、必ず天下は太平になる、と教えました。』」「八十万の神を集める」とは、その神霊が依りつくように願うことをいう。神代に神々の現身を集めたのとは違う。

【宣長の注釈】「駅使」は「はゆまづかい」と読むべきである。「はゆま」は「早馬」だ。「や」の音は縮まって「ゆ」となる。『日本書紀』などで「はいま」と読むのは、くずれた言葉である。伊勢国飯野郡に早馬瀬という村があり、ここも今は「はいませ」と呼ぶ。『万葉集』巻十四には「すずがねの、はゆまうまやの」(鈴の音の早馬駅の)、巻十八には「すずかけぬ、はゆまくだれり」(鈴を掛けない早馬が下ってきた)などがある。「駅」の字は単に後世の制度に従って書いただけだ。駅馬の制度は厩牧令などに見える。ここでは必ずしも「駅」という字にこだわらず、単に早馬の使いで、後世のいわゆる「早打」の類である。この呼び名は『古事記』にも『日本書紀』にもあちこちに見える。

【宣長の注釈】「四方」は「よも」と読み、四つの面という意味である。「かげとも」「そとも」なども、影の面、背の面である。「つも」は縮まって「と」となる。「班」は「あかちつつ」と読み、「わかつ」と同じである。「か」を清音で読み、濁るのは誤りだ。

【宣長の注釈】「美努村」について。『延喜式』神名帳には河内国若江郡の御野県主神社があり、『日本書紀』清寧天皇紀には河内の三野県主小根が出る。この氏族は天武天皇紀で連の姓を賜っている。『新撰姓氏録』河内国神別には美努連がある。美努連の人は『続日本紀』巻三十七にも見え、『続日本後紀』巻十五には「難波部主足の本来の姓を改めて美努宿禰を賜い、河内国若江郡に本籍を置かせた」、また『日本三代実録』巻三十六には「河内国若江郡の人、美努連清名」とある。したがって、若江郡にこの地名があることは明らかだ。それなのに延佳本で「美は茅とするべきだ」というのは、『日本書紀』に「茅渟県」とあることだけを考え、美努という土地もあることを考慮しない誤りである。どの本も「美」と書く。『古事記』の地名表記の例からすれば、茅渟を仮名で書くなら「知努」などと書くはずで、音と訓を混ぜて書くことはほとんどない。そのうえ茅渟は白檮原宮の段で「血沼」と書き、同じ地名をいろいろには書かないのが通例である。河内に美努という土地が、右のように古書に明瞭に出る以上、何を疑う必要があろう。『日本書紀』は別の伝承である。「み」と「ち」は横に通う音なので、混同して二つに語り伝えたのだ。

【宣長の注釈】「貢進」は「たてまつりき」と読むべきである。『日本書紀』には「天皇は夢のお告げを得てますます心に喜び、天下に知らせて大田田根子を求めた。茅渟県の陶邑で大田田根子を見つけ、朝廷へお連れした」とある。「陶津耳命」の「陶」は地名で、『延喜式』神名帳の和泉国大鳥郡の陶荒田神社のある所である。今は陶器庄という。「陶」を「すえ」というのは、『和名抄』の古本に「陶は、すえものと読む」とあり、据える物の意味だ。今の本には「陶、音は桃。瓦器。すえうつわもの」とあり、据える器物という意味である。「耳」は尊称で、前に多くの例がある。この名を『先代旧事本紀』では大陶祇としている。

【宣長の注釈】「活玉依毘売」の名の意味は、前に同名の神について述べたとおりである。「櫛御方命」の「櫛」は「奇」、すぐれて神秘的なことをいう。「御方」は地名だろう。『和名抄』には播磨国宍粟郡三方郷があり、『延喜式』神名帳には同郡の御形神社がある。同郡に伊和坐大名持御魂神社と大倭物代主神社があるのも、ゆかりがあってのことに思われる。ここだろうか。『新撰姓氏録』の石辺君の項には「大物主命の子、久斯比賀多命」、石辺公の項にも「大物主命の子、久斯比賀多命」、狛人野の項には「大物主命の子、櫛日方命」などとある。「み」と「ひ」はしばしば通い合う音で、同じものである。また出雲国造の神賀詞の「倭大物主櫛𤭖玉命」は大物主神の御名だが、この名によく似ている。上巻では吉備児島の別名も「建日方別」という。その箇所(巻五の二十三丁)で述べたことも考え合わせたい。

【宣長の注釈】「飯肩巣見命」は、「飯」の「い」を除けば、父の名の「ひかた」と同じである。「い」の意味はまだ理解できない。『先代旧事本紀』には健飯賀田須命とある。こちらは「たけ」から続くため「飯」を「ひ」と読めば、「い」という音はなくなる。『古事記』も、あるいは前に「建」の字が落ちたのではないだろうか。「巣見」については上巻の熊野久須毘命の注(巻七の五十七丁)で述べた。「建甕槌命」の名の意味は、上巻に同名の神がおいでになり、その注(巻五の七十三丁)で述べたとおりである。「僕」はここでは「おのれ」と読むべきだ。

【宣長の注釈】「意富多多泥古」は、「おお」「たた」「ねこ」と区切って読むべきで、「おおた」「たねこ」と区切るのは誤りである。『先代旧事本紀』では大直禰古とも書く。「たた」は地名だろう。『延喜式』神名帳には摂津国河辺郡の多太神社があり、多田庄の平野村にある。多田という所は中古から世によく知られた土地である。ここだろうか。また大和国葛上郡にも多太神社がある。「ねこ」は尊称で、難波根子、山背根子などと同じ類である。『日本三代実録』巻四・巻六には、大三輪大田田根子命とある。

【宣長の注釈】以上、大物主大神から意富多々泥古命までの世継ぎを記す文の形は、「阿の子、伊の子、宇の子、延」という書き方である。普通なら「阿の子は伊、伊の子は宇、宇の子は延」と書くところだ。『日本書紀』神代巻の「磐裂・根裂の神の子、磐筒男・磐筒女が生んだ子、経津主神」という形に似ている。また『新撰姓氏録』の真野臣の項の「大口納命の子、難波宿禰の子、大矢田宿禰……」と同じで、古文の決まりと見られる。ここに書くとおりなら、意富多々泥古命は大物主大神の四世の孫となるのに、『新撰姓氏録』で五世の孫というのは伝承が異なるのか、または大物主大神自身から数えたのか。古くは世代をそのように数える例もあるからだ。この点は下巻の玉穂宮の段で述べる。

【宣長の注釈】この系譜について『日本書紀』には、「天皇は自ら神浅茅原においでになり、諸王・卿および多くの部を集め、大田田根子に『お前は誰の子か』と尋ねた。『父は大物主大神、母は活玉依媛といい、陶津耳の娘です』と答えた。一説には奇日方天日方武茅渟祇の娘という。天皇は『私は栄え楽しむだろう』と言った」と見える。「私は栄え楽しむだろう」の箇所は、言葉が足りない感じがする。

【宣長の注釈】さらに『新撰姓氏録』と『先代旧事本紀』には、混乱した点がいくつもある。まず『日本書紀』で大田田根子を大物主神の直接の子、活玉依媛を母とするのは、古代には子孫まで広く「子」と言ったために混同された伝承なのだろう。「一説には奇日方天日方武茅渟祇の娘」という部分は、別の伝承を挙げたのだから必ず小字の注にすべきなのに、今の本で本文の大字に続けて書くのはどうか。大字では大田田根子自身が言った言葉になる。自分の母を述べるのに異説があってよいものだろうか。これは活玉依媛の父についての別伝で、一人の名である。それを二つに分け、奇日方天日方を女性の名と解するのも誤りだ。また奇日方天日方は、『古事記』の櫛御方命に当たると思われるのに、活玉依媛の父としたのも混同である。したがって武茅渟祇とは別人なのに、一続きの名としたのも混同された伝承だろう。武茅渟祇は陶津耳に当たる。次に『新撰姓氏録』の大神朝臣の項の説は、白檮原朝の大后、伊須気余理比売命の父母と混同された伝承で、誤りと思われる。さらに『先代旧事本紀』は一般に信用しにくい書だが、巻四の大神朝臣の系譜、意富多々泥古の祖先の代々については、根拠がありそうに見える。しかし私的な思いつきを加えた点もあるので、今これを論じよう。まず「事代主神は八尋の鰐に姿を変え、三島溝杭の娘、活玉依姫に通い、一男一女をもうけた。男は天日方奇日方命、妹は姫蹈鞴五十鈴姫命」というのは、あの『新撰姓氏録』の説によって、白檮原朝の大后の父母と大神朝臣の祖を混ぜ、ついには三島溝杭の娘の名を活玉依姫とし、天日方奇日方命と五十鈴姫命を同母の兄妹としたもので、すべて誤りだ。これは『日本書紀』神代巻の「大三輪の神。この神の子は、すなわち甘茂君ら、大三輪君ら、また姫蹈鞴五十鈴姫命である」という文を読み違えたためである。「この神の子」は子孫ということだ。甘茂君・大三輪君がともに氏族の名であることからわかる。三島溝杭耳の娘を妻としたのも、陶津耳の娘、活玉依媛を妻としたのも、どちらも大物主神だが、二つの別の出来事である。様子が似ているため、『新撰姓氏録』の伝承では一つに混ざったのだ。『日本書紀』の五十鈴姫命の父には、大物主神と事代主神という別伝がある。しかし甘茂君と大三輪君は大物主神の子孫で、事代主神の子孫だということは古書にない。それなのにあの混同から、『先代旧事本紀』ではついにこれまで混ぜてしまった。同書にはこのように人を惑わすことが多く、注意しなければ誤る。先に上巻の巻七、胸形君の注で同書を引き、胸形大神を胸形君が祭るのは事代主神のゆかりによる、としたことも、後によく考えると誤りだった。この氏族がこの大神を祭るのも、大物主神のゆかりによるのだろう。

【宣長の注釈・系譜の検討の続き】『先代旧事本紀』は、右に続けて「三世の孫、天日方奇日方命、別名阿田都久志尼命。この命は日向賀牟度美良姫を妻とし、一男一女を生んだ。男は健飯勝命、妹は渟名底姫命」という。「三世の孫」とするのは素戔烏命から記すからである。しかし櫛日方命は、『古事記』にも『新撰姓氏録』にも大物主神の子とあるのに、事代主神の子とするのが誤りなのは、前に論じたとおりだ。したがって、渟名底姫命を奇日方命の娘とするのも私的な作り事である。この姫は『日本書紀』に事代主神の孫とあるからだ。次に「四世の孫、健飯勝命。この命は出雲臣の娘、沙麻奈姫を妻とし、一男を生んだ」という。これは『古事記』の飯肩巣見命に当たるのに、その名は子の建甕槌によく似ており、「ち」があるかないかの違いだけである。次に「五代の孫、健甕尻命、別名健甕槌命、また健甕之尾命ともいう。この命は伊勢幡主の娘、賀具呂姫を妻とし、一男を生んだ」という。五代の孫とは、上の四世の孫、健飯勝の子という意味で、以下もこれに従って理解すればよい。次に「六世の孫、豊御気主命、別名健甕依命。この命は紀伊名草姫を妻とし、一男を生んだ。七世の孫、大御気主命。この命は大倭国民礒姫を妻とし、二男を生んだ。八世の孫、阿田賀田須命は和邇古らの祖、次に健飯賀田須命。この命は鴨部美良姫を妻とし、一男を生んだ。九世の孫、大田田禰古命、別名大直禰古命」という。大田田禰古の父の名は、『古事記』の飯肩巣見によく似ている。また「田田」と「直」は字が違うだけでまったく同じなのに、別名として挙げるのはどうか。九世の孫というのは大物主神の八世の孫になるので、『古事記』と四世代の差がある。これは名を取り違え、一世代を三世代や四世代にしたのだろう。「豊御気主、別名健甕依」というのは、豊御気主も建甕槌の別名で、大御気主も同じ人の別名かもしれない。また健飯賀田須は健飯勝と同じ人だろう。「たす」は縮まれば「つ」となり、まったく同じ名なのだから。こう考えると、この系譜は『日本書紀』も『新撰姓氏録』も『先代旧事本紀』もすべて正しくなく、『古事記』こそ正しいのである。

【宣長の注釈】「即以意富多々泥古命」は、この名の前に「この」という語を読み添えるべきで、文の形から必ずそうなる。またここで初めて「命」と付けるのは、それ以前が祖先の神の言葉、または自分自身が述べる言葉なので「命」と呼ばなかったのに対し、ここは『古事記』の地の文として述べるためである。

【宣長の注釈】「神主」は、神に奉仕する中心の人をいう呼び名である。「斎主」「祭主」なども意味は同じだ。『日本書紀』には「大田田根子を大物主大神を祭る主とした」とあり、神功皇后紀にも「皇后は吉日を選んで斎宮に入り、自ら神主となった」とある。これによって、古代に神事を重くみていたこと、神主の職が重かったことを知るべきである。『万葉集』巻十三には「斎串を立て、神酒を据えて祭る神主の、雲の群がる山の陰を見ると心ひかれる」という歌がある。『続日本紀』巻十七には「大神の神主、従六位上大神朝臣伊可保に従五位下を授けた」とある。

【宣長の注釈】「御諸山」は上巻(巻十二の二十五丁)に出ている。「意富美和之大神前」は、すなわち大和国城上郡の大神神社で、すでに巻十二と巻二十に出ている。この神社は、この御世に初めて建てたようにも読めるが、そうではない。すでに白檮原宮の段にも美和之大物主神とあり、後の文に「美和山に至って神の社にとどまった」というのも、古い時代の出来事なのである。さて、この神社に今は御殿がなく、ただ山に向かって拝むのは、どういう理由だろうか。古くは御殿があったと見え、『日本書紀』のこの天皇八年の御歌にも「三輪の殿の、朝開く戸を、押し開きなさい、三輪の殿の戸を」と詠まれ、「神宮の門を開いて……」などともある。『日本紀略』にも「保長二年七月十三日、二十一社に幣を奉った。大神社の宝殿が鳴ったためで、特別の祝詞がある」と見える。『童蒙抄』にも、三輪明神の社に参り、この女に会えるよう祈り申し上げたところ、社の戸を押し開いて神がお姿を見せた時に、という話などがある。

【宣長の注釈】「拝祭」は「いつきまつりたまいき」と読むべきである。『日本書紀』には「八年夏四月、庚子を朔日とする月の乙卯の日、高橋邑の人、活日を大神の酒をつかさどる者とした。冬十二月、丙申を朔日とする月の乙卯の日、天皇は大田田根子に大神を祭らせた」とある。大神は大美和大神である。『竟宴集』には「多々ねこを求めなかったなら、夢に見た大物主の神は荒ぶっただろう」という歌がある。『新撰姓氏録』には「神宮部造は、葛城の猪石岡に天降った天破命の子孫である。その六世の孫、吉足日命は、磯城瑞籬宮で天下を治めた崇神天皇の御世に天下に災いがあったため、遣わされて大物主神を斎き祭った。すると災異はやんだ。天皇は『天下の災いを消して民に福を与えた。今後は宮能売神となれ』と命じ、宮能売公の姓を賜った。その後、庚午年の戸籍には神宮部造と記した」とある。この人は意富多々泥古命に付き添って祭った人などだったのだろうか。

【宣長の注釈】「伊迦賀色許男命」の名の意味は、前の伊賀迦色許売命の注(巻二十二の四丁)で述べたとおりである。この人は物部連の祖で、『新撰姓氏録』穂積朝臣の項に「石上と同祖で、神饒速日命の五世の孫、伊香色雄命の子孫である」と見える。また佐為連、真神田曾禰連、巫部宿禰、水取連、宇治宿禰、宇治山守連、長谷山直、若湯坐宿禰、矢田部首、物部飛鳥津首、采女臣、物部などの各氏族の項には、いずれも「饒速日命の六世の孫、伊香我色雄命」とある。尋来津首の項には三世の孫とあるが、これもある本で六世の孫とするのがよい。『先代旧事本紀』巻五の物部連の系譜を考えると、饒速日命の子が宇摩志麻治命、その子が彦湯支命、その子が出石心大臣命、その子が大矢口宿禰命、その子が大綜杵命、その子が伊香我色雄命、すなわち伊香色雄命である。そうすると、この人は天皇の母方のおじに当たる。

【宣長の注釈】「仰」は、後の「一つも忘れず幣を奉った」までのすべての事柄に掛かる。八十毘羅訶を作ることだけを命じたのではない。この間に述べられることはすべて、この命が承って、神への供物を管理し、作り整え、執り行ったのである。『日本書紀』には「物部連の祖、伊香色雄に供物を分かつ役を務めさせることを占うと吉であった。またすぐ他の神々を祭ることを占うと不吉だった。十一月、丁卯を朔日とする月の己卯の日、伊香色雄に命じ、物部八十手を用いて神を祭る品を作らせた。そして大田田根子を大物主大神を祭る主とし、長尾市を倭大国魂神を祭る主とした。その後、他の神々を祭ることを占うと吉であった」とある。この文章は少し紛らわしく、はっきりしない書き方なので、注意しないと趣旨を見失う。そこで詳しく解く。まず「他の神々」とは、大物主大神と倭大国御魂神の二柱に対して、それ以外の天社・国社の神々をいう。伊香色雄命に命じて供物を管理し整え、神々を祭ろうとする時、まずこの二柱を最初に祭るべきなのに、そうせず他の神々を祭ることを占わせたため、不吉だったのである。そこでまず二柱を祭り、その後で他の神々の祭りを占うと、吉だった。「すぐ他の神々を祭ることを占うと不吉」と「その後、他の神々を祭ることを占うと吉」の「すぐ」と「その後」に注意して読むべきだ。大物主大神は八百万の神々を率いて皇朝をお守りする大神だから、そうあるべきことである。また倭大国御魂神も、皇居の置かれた大倭国の国土の御魂の神なのだから、これもそうあるべきことなのである。

【宣長の注釈】「八十毘羅訶」は上巻(巻十四の五十八丁)に出ている。ここでこれを作ったのは、『日本書紀』によれば物部八十手であり、伊迦賀色許男命が自分の手で作ったのではない。この品を用いて大美和大神を祭り、さらにほかの天神地祇も祭ったのである。前の「また命じて……」の「また」を見ると、このことは大美和大神の祭りには関係ない別の事柄のようにも読め、八十毘羅訶もほかの天神地祇の祭りだけに用いたようになるが、そうではない。伊迦賀色許男命が管理した供物で大美和大神を祭ったことは、右に引いた『日本書紀』の文で明らかだ。『古事記』の「また命じて」の「また」は、大美和大神を祭るほかに別のことをしたという意味ではない。大多々泥古命を神主とし、また伊迦賀色許男命に命じて……という意味で、それも大美和大神の祭りの内なのである。「神主とし、また伊迦賀色許男命に命じて……を作らせ、御諸山で拝み祭った」と語の順序を組み立てて理解すべきだ。ここは注意しないと混同しやすい。

【宣長の注釈】「天神地祇之社」は、『日本書紀』では「天社地社」とも「天社国社」ともある。これらもここの文によって「あまつかみくにつかみのやしろ」と読むことができる。『和名抄』には「天神、和名あまつやしろ。地祇、和名くにつかみ、またはやしろ」とある。天神のほうも「あまつかみ、またはやしろ」とするべきで、正確でない書き方だ。『万葉集』巻二十には「あめつちのかみ」とある。神祇令には「天神地祇は、神祇官がすべて常の定めによって祭る」、また「天皇が即位すると、天神地祇をすべて祭る」とある。後者について『令義解』は、即位後の冬十一月に祭ること、後条でいう大嘗祭のことだとする。また『令義解』は「天神とは伊勢・山城の鴨・住吉の神や、出雲国造が祭る神などの類である。地祇とは大神・大倭・葛木鴨・出雲大汝神などの類である」という。「出雲国造が祭る神」は出雲の熊野で須佐之男命、「大汝神」は杵築大社をいう。天神とは天においでの神、また天から降っておいでの神をいい、地祇とはこの国土にお生まれになった神をいう。『令集解』の疏は「天から下ったものを神といい、地において現れたものを祇という」とするが、「就」も「顕」も穏当でない。

【宣長の注釈】「定奉」の「奉」は祭るという意味である。これは、もとから社はあっても仮の造りだったり荒れたりしていたものを、改めてよく修理し、定めを設けて祭ったのだろう。「定」とは祭りの作法だけでなく、祭るべき社々も定めたのだろう。後世、神祇官の帳簿に記して祭る社を定めることも、この時に始まったのだろう。『日本書紀』には「そこで別に八十万の神々を祭り、天社・国社、および神に属する土地と戸を定めた」とある。「別に」とは、まず大物主大神と倭大国御魂神の祭りを定め、その後さらに別に、ということである。

【宣長の注釈】「宇陀墨坂神」の「宇陀」は前(巻十八の七十二丁)に見える。「墨坂」は『日本書紀』神武天皇紀に「女坂には女軍を置き、男坂には男軍を置き、墨坂には焼いた炭を置いた。女坂・男坂・墨坂という名はこれから起こった」とあるので、焼いた炭を置いたことに由来する。このことは白檮原宮の段(巻十九の五十二・五十三丁)で『日本書紀』を引いて詳しく述べた。天武天皇紀には「将軍吹負は近江軍に敗れ、わずか一、二騎を率いて逃れ、墨坂に至ったところ、菟田軍の到着に出会った」とある。『新撰姓氏録』難波忌寸の項には「大彦命が……蝦夷を治めるため遣わされた時、兎田の墨坂に至り、ふと赤子の泣く声を聞いた」とある。刊本が「墨」を「黒」とするのは誤りである。『万葉集』巻四には「あなたの家へ通って夫婦として暮らす、その住坂(すみさか)の家路も、私は忘れない。生きているかぎり」という歌も見える。この坂が宇陀郡のどのあたりかというと、一説には萩原駅の西にあるという。右の古書の趣旨からは、いつも人が往来する大道と読めるので、実際そうだろう。萩原は今も長谷から伊賀・伊勢へ越える大道で、その西は長谷まで山中の坂道である。

【宣長の注釈】ここに祭る神が、後にどの社となったかは明らかでない。そこで今考えると、『延喜式』神名帳にある、大和国宇陀郡の宇太水分神社だろう。大社で、月次祭・新嘗祭の対象である。『日本三代実録』には貞観元年正月に正五位下を授けたとある。古代から重く祭っていた神の社が、中古にまったくなくなるはずはないからだ。古くから名高い重要な神社が消えたり不明になったりするのは、乱世を経た後の近世のことで、延喜の頃などにはほとんどなかった。したがって必ず神名帳に載る宇陀郡十七座の内のはずだが、十六座はみな小社で、大社はこの水分社だけだからである。この社は今、下井足村という所にあり、萩原の近くなので、場所もよく合う。また後に引く龍田の風神祭の祝詞から考えると、水垣宮の御世にこうして特別に祭った神々は、豊作を祈るためだったのだろう。『古事記』には疫病のことだけがあるが、あの祝詞などによれば凶作の年も続いていた。一般に豊作祈願では各地の水分神と山口神を祭る。祈年祭と月次祭の祝詞でも、特に「山口においでの皇神たちの御前に申し上げる……」「水分においでの皇神たちの御前に申し上げる。吉野・宇陀・都祁・葛木と御名を申し上げる……」と並べて述べること、ここでも大坂神、すなわち大坂山口神社と並べて祭ることを考えたい。『日本三代実録』貞観元年九月、風雨の祈願に使いを遣わし幣を奉った四十五社の多くは山口神と水分神で、その中には大坂山口神と宇陀水分神も含まれる。これらをよく考えると、墨坂神は宇陀水分神社だと決めてよい。『日本書紀釈』に、兼方の考えとして「大和国宇陀郡の八咫鳥神社は、あるいはこの神社か」とするのは、まったく根拠がない。『日本書紀』雄略天皇紀には「七年……天皇は少子部連蜾蠃に、私は三諸岳の神の姿を見たいと言った……。一説には菟田の墨坂の神という」とある。

【宣長の注釈】「大坂神」について。大坂のことは玉垣宮の段(巻二十五の二十四丁)で述べる。神は『延喜式』神名帳の、大和国葛下郡、大坂山口神社である。大社で、月次祭・新嘗祭の対象とされ、『日本三代実録』には貞観元年正月に正五位下を授けたとある。今は穴蒸村という所にあり、俗に牛頭天王と呼ぶ。ここは穴蒸越といって、河内国石川郡へ越える山道である。

【宣長の注釈】「赤色黒色の楯矛」について。「黒」の字を諸本で「墨」とするのは誤りで、ここでは『日本書紀釈』の引用と延佳本に従った。なぜ赤と黒なのかはわからない。『日本書紀』によれば、これも神の教えによるのだから、深い理由があるのだろう。墨坂が東にあるから陽の色の赤、大坂が西にあるから陰の色の黒、などというのは、例の中国流の考えで、まったく古代の心ではない。こういうことは、その理由とたまたま合う場合もあるものだ。武器を神社に奉ることについては、『日本書紀』垂仁天皇紀に「二十七年秋八月、癸酉を朔日とする月の己卯の日、神を祭る役人に命じ、武器を神への供え物にすることを占わせると吉だった。そこで弓矢と横刀を諸神の社に納め、さらに神地・神戸を定め、時節ごとに祭った。おそらく武器を神祇への供え物とすることは、この時に始まったのだろう」とある。

【宣長の注釈】「武器を神祇に祭ることはこの時に始まった」というのはどうだろうか。すでに、この水垣宮の御世に楯と矛を奉ることがあるではないか。神功皇后紀には「皇后は、きっと神のお心によることだと言い、大三輪の社を立てて刀と矛を奉った」などとあり、後々までいつものことだった。『日本三代実録』巻十で、石清水八幡宮に楯・矛と御鞍を奉る告文には、「新宮を造営し、楯・矛やさまざまな神宝を奉るべきところ、神宝はすでに奉り終えましたが、楯・矛・御鞍などを残しておりました。それを今、作り飾って……奉ります」などとある。これを考えると、さまざまな物の中でもこうして楯と矛を特別に重んじて奉るのは、水垣宮の御世のこの先例が、次第に伝わってきたのだろう。

【宣長の注釈】「祭」は「奉る」ということで、もとは同じ言葉である。したがって楯と矛を奉って祭るという意味で「祭」の字を書いたのだろう。『日本書紀』には「九年春三月、甲子を朔日とする月の戊寅の日、天皇の夢に神人が現れて、『赤い楯八枚と赤い矛八本で墨坂神を祭り、また黒い楯八枚と黒い矛八本で大坂神を祭れ』と教えた。四月、甲午を朔日とする月の己酉の日、夢の教えによって墨坂神と大坂神を祭った」とある。

【宣長の注釈・龍田の風神祭の祝詞】「龍田でほめたたえる言葉を尽くして祭る皇神の御前に申し上げます。志貴島で大八島国を治めた皇御孫命が、末長くお召し上がりになる御食として、赤く色づく稲穂をお召し上がりになる五穀をはじめ、天下の民の作る物が、草の片葉に至るまで実らず、一年二年にとどまらず長年損なわれました。そこで多くの物知りたちに、『占いに現れる神のお心について、この神のことだと申し上げよ』と命じました。この物知りたちが占っても、現れる神のお心をつかめないと申し上げるのをお聞きになり、皇御孫命は、『神々には、天の社・国の社とも忘れることなく、取り残すことなく、ほめたたえる言葉を尽くして祭っているのに、天下の民の作るさまざまな物を実らせず損なうのは、どの神なのか。そうする神は、これは自分の心だと悟らせてほしい』と誓い祈られました。すると皇御孫命の御夢に、次のような神のお告げがありました。『天下の民の作る物を悪い風や荒れる水に遭わせ、実らせず損なっている私の名は、天御柱命・国御柱命である』と御名をお知らせになりました。『私の前に奉る幣帛は……。私の宮は、朝日の向かう所、夕日の隠れる所の、龍田の立野の小野に定め、私の前でほめたたえる言葉を尽くして祭れば、天下の民の作る物は、五穀から草の片葉に至るまで、実り栄えさせてあげよう』とお告げになりました。それで皇神の言葉によって教えられた所に宮柱を定めて建て、この皇神の御前にほめたたえる言葉を尽くして祭るため、皇御孫命の立派な幣帛を持たせ、王や臣たちを使いとして、皇神の御前に申し上げさせることを、神主・祝部たちは皆聞くようにと宣ります……。この立派な幣帛を、心安く十分な幣帛として、皇神がお心平らかにお受けくださり、天下の民の作る物を悪い風や荒れる水に遭わせず、実り栄えさせてくださるなら……秋の祭りに奉りましょう……」とある。ここで「志貴島に」という所から「宮柱を定め奉って」までは、すべて水垣宮の御世のことである。「志貴島」というと欽明天皇の御世のようにも聞こえるが、そうではない。この祝詞をここに考え合わせると、墨坂・大坂の神を特別に祭るのも、龍田と同じく、穀物の実りのためだったのである。

【宣長の注釈】「又於」から「河瀬神」までの十一字は真福寺本に従った。ほかの諸本は「及河瀬又於坂之御尾神」とする。これでも意味は通り、「また河瀬および坂の御尾の神に」という同じ意味になるが、真福寺本のほうが正しいからである。「又」と「及」の置き方も正しく、「又於」というのも前の文と同じで、坂の御尾を先、河瀬を後とする順も上巻の例に合う。ただし真福寺本では「又」の上に「之御」の二字がある。これは「坂之御尾」の「之御」が混同され、前にも誤って入り込んだものなので、ここでは削った。ほかの諸本では「及河瀬」の三字が乱れ、後ろから前へ移ってしまったのである。

【宣長の注釈】「坂の御尾」「河瀬」については、上巻の大穴牟遅神の段に「坂の御尾ごとに追い伏せ、また河の瀬ごとに追い払って……」「坂の御尾ごとに追い伏せ、河瀬ごとに追い払って……」とある所(巻十の五十七丁)で述べた。「山」でなく「坂」、川では特に「瀬」というのは、いずれも通り道に即した呼び方だ。その神々は、倭建命の段に出る足柄坂の神・科野坂の神や川の神などの類だろう。坂と川の二つを挙げ、そのほかこの類の諸神も含めたのだろう。その意味で「及河瀬神」を「河瀬の神まで」と読んだ。ここにはもう一つ考えがある。坂の御尾の神は各地の山口神、河瀬の神は各地の水分神をいうのではないだろうか。つまり宇陀の水分神と大坂の山口神を特別に祭り、さらにほかの各地の水分神・山口神も漏らさず祭ったということかもしれない。そうなら「又於」の後に「其余之」などが必要にも見えるが、「悉く」とあれば意味は十分だろう。ただ、水分神を河瀬神と呼ぶのはどうだろうかという疑問があるので、この説はやはり成り立ちにくいかもしれない。「無遺忘」は「もつることなく」、漏れることなくと読むべきだ。祝詞の「多くの島々を取り落とすことなく」、『万葉集』巻一の「多くの川の曲がり角を一つも落とさず」などと同じく、漏らさず残さずという意味である。「忘」の字にも「遺すこと」と注している。先に引いた龍田祭の祝詞にも「天の社・国の社とも、忘れることなく、取り残すことなく」とあり、『続日本紀』巻十の詔にも「漏れ落ちることがあってはと、おそれかしこみ……」とある。

【宣長の注釈】「幣帛」は「みてぐら」と読み、上巻(巻八の四十三丁)に出た。「役気」の「役」を、ある本は「没」、ある本は「俣」とするが、いずれも「役」の誤りである。延佳本は「疫」とするが、ここでは一本の「役」に従った。理由は前の「役病」の注で述べたとおりで、ここも「かみのけ」と読むべきである。「国家」は「あめのした」と読むべきで、『日本書紀』でもそう読む例が多い。「安平也」は「たいらぎき」と読むべきだ。「き」は言葉の調子を整える語である。後の文にも「天下が太平で、人民が富み栄えた」とあり、『日本書紀』仁徳天皇紀にも「こうして政令が行き渡り、天下は太平で、二十余年何事もなかった」などとある。いずれも同じ様子である。『日本書紀』には「そこで疫病はようやくやみ、国内は次第に静まり、五穀は実り、民は豊かになった」とある。

【宣長の注釈】ある人が尋ねた。「大物主大神は、八百万の神を率いて皇御孫命をお守りになる神です。この御世には天皇の悪い政治も聞かれないのに、この段のように祟って天下を騒がせ、人民を苦しめなさるのは理解できません。これはどういうことでしょうか。」答える。神のお心と行いは、あの外国で仏や聖人などという者のように、普通の道理でこちらからあれこれ決めつけ、論じられるものではない。善いことも悪いことも、すべて人には推し量りがたいのである。

【『古事記』本文】この意富多多泥古という人が神の御子だとわかったいきさつは、こうである。先に述べた活玉依毘売は美しい人だった。そこへ、世にたぐいない立派な姿をした神である若者が、真夜中に突然やって来た。二人は互いにひかれ合い、夫婦として交わるうち、いくらもたたない間に、この美しい娘は身ごもった。父母は不思議に思い、娘に尋ねた。「お前が身ごもったことは確かだが、夫もいないのに、どうして身ごもったのか。」娘は答えた。「どこの誰とも、名も知らない美しい若者が、夜ごとやって来ます。一緒に過ごすうち、自然に身ごもったのです。」父母はその人を知ろうと、娘に教えた。「赤土を寝床の前にまき、へそ(丸く巻いた麻糸)の糸を針に通して、その人の衣の裾に刺しておきなさい。」「閇蘇」の二字は音を表す。娘は教えられたとおりにした。朝になって見ると、針を付けた麻糸は、戸の鍵穴から外へ引き通っていて、残っていたのはわずか三巻きだけだった。そこで鍵穴から出ていったとわかり、糸をたどって行くと、美和山に至り、神の社で終わっていた。そのため、神の御子だとわかった。そして麻糸が三巻き残っていたことから、その土地を「美和」と名づけた。この意富多多泥古命は、神君と鴨君の祖である。

【宣長の注釈】「神の子と知った」とは、大物主神の御子だとわかったことをいう。白檮原宮の段に「神御子」とあるので、ここもそれにならって「子」を「みこ」と読むべきだ。「其」は「それ」と読み、その人を指す古い言い方で、例は多く、前にも出た。「容姿端正」は「かほよかりき」と読むべきで、理由は白檮原宮の段の「勢夜陀多色比売は容姿が麗美だった」の注(巻二十の十四丁)で述べた。『土佐日記』にも「けれども死んだ子は顔のよい子だった」、『源氏物語』乙女巻にも「顔がとてもよかったので」などとある。『日本書紀』は「端正」を「きらきらし」と読み、端麗・閑麗・佳麗・姝妙・端厳などもそう読んでいる。『万葉集』巻九の長歌「其姿之端正爾」の「端正」を「うつくしけさに」とするのはよくなく、「きらきらしきに」と読むべきだ。『日本霊異記』にも「端正、きらきらし」とあるので、ここもそう読むのは悪くない。ただ「きらきらし」という読みは、あるいは仏像から出た言葉ではないだろうか。『日本書紀』欽明天皇紀に「仏の姿が端厳」とある。それでも、最初の「かほよかりき」のほうがよいだろう。軽島宮の段にも「その姿が端正なのに心をひかれ」、高津宮の段にも「名は黒比売、容姿が端正だった」などとある。

【宣長の注釈】「神壮夫」の「神」は諸本にないが、ここでは延佳本と『日本書紀釈』の引用に従った。「かみおとこ」と読むべきだ。延佳は「あやしきおとこ」、師は「くしきおとこ」と読んだ。これも神という意味で違いはないが、やはり文字どおり「かみ」と読むのがよいだろう。神であって普通の人とは異なり、ひときわ姿が美しいということである。「壮夫」には、上巻で「おとこという」と読みの注がある。

【宣長の注釈】「形姿威儀」は「かほすがた」と読むべきだ。朝倉宮の段にも「形姿が立派で美しい」とある。「すがた」は単なる形だけでなく、立ち居振る舞いなどの様子も含める呼び名で、「威」の意味も備える。「威」は俗にいう貫禄のある、気高いことで、ここで「威儀」と書くのは、その意味も含むのである。『日本書紀』雄略天皇紀には「容儀」「形容」など、皇極天皇紀には「中臣鎌子連は気構えが気高く、立ち居振る舞いは近寄りがたかった」とある。『万葉集』は多く「光儀」と書き、「儀」「容儀」などとも書く。師はここを「かたちよそひ」と読んだが、「よそひ」は装束や飾りをいう言葉に思われるので、どうだろうか。「於時」は師の「よに」という読みに従いたい。「ときに」は当時、「よに」は世間ということで、時間と空間の違いはあるが、文脈では同じ意味になる。その中でも「ときに」より「よに」のほうがよく聞こえるからだ。「無比」は「たぐひなきさね」と読むべきだ。

【宣長の注釈】「夜半之時」は、師の「さよなかに」という読みがよい。「さ」は「真」の意味で、真夜中のことだ。「倏忽到来」は「たちまちきつ」と読むべきである。「倏忽」は白檮原宮の段(巻十八)や穴穂宮の段にも見える。師は「ゆくりなく」と読んだ。それも意味は合うが、景行天皇紀の「不意之間」にはよく合っても、「倏忽」には少し疑問がある。また「到来」を延佳本などは「まうけり」と読む。これは『日本書紀』などで「来」を「けり」、つまり「来あり」と読むのと同じく、「まうけり」は「参り来あり」で、言葉自体は古い。『日本書紀』にもこう読む字は多い。しかし普通の場所へ来ることに「参る」を添えるのは中古の習慣で、上代にはなかったので、この読みも採りにくい。「故」を一本は「欲」、『日本書紀釈』の引用は「故欲」とするが、ともに誤りだ。「相感」は「あひめでて」、また「かたみにめでて」とも読むべきである。「かたみに」は互いにということだ。

【宣長の注釈】「共婚供住之間」は六字を一まとまりにして「すめるほどに」と読むべきだ。古くは男が女のもとへ通い、夫婦として交わることを「住む」といった。「共婚供住」と書くのは、漢文ではただ「住む」だけでは古語の意味が十分に表れないため、その意味を示すための文字である。次の文では同じことを「供住」とだけ書き、「共婚」を省いていることからわかる。文字どおりに読めば、古い言葉を失ってしまう。『万葉集』巻四の「君が家に吾が住坂の家路をも」も、通って夫婦として住むことと墨坂を掛けたものだ。『古今集』恋四の典侍藤原因香朝臣という女性の歌の詞書に、「右大臣が通って来なくなったので……」とある。また恋五には、業平朝臣が紀有常の娘のもとへ通っていたが、恨むことがあり、しばらくは昼だけ来て夕方には帰ってばかりいたので……、とある。『拾遺集』物名の歌には「長年あなたとだけ寝て暮らしてきたのです。ほかの相手との子を産むはずがありましょうか」とある。ここでは夫婦として交わることを「ねすむ」と詠み、「ねずみ」を隠している。そのほか歌集や物語にも、普通にたくさん用いられる言い方である。

【宣長の注釈】「未経幾時」は「いくだもあらねば」と読むべきだ。『万葉集』巻五の「玉のような手を差し交わし、ともに寝た夜から、いくらもたたないのに……」、巻十の「ともに寝てからいくらもたたないのに、もう帯を求めるのか。恋の思いもまだ過ぎ去らないのに」などによる。まだいくらもたたないのに、という意味の古語である。一般に「ぬに」というところを「ねば」という例は、古代にはとても多い。ここに引いた『万葉集』巻十の「不過者」も「過ぎぬに」という意味だ。「姙身」は「はらみぬ」と読み、後の「懐姙」も同じである。「自姙」の「自」は、上巻の「自吾子也」「自我勝」「天原自闇」「自得照明」などの「自」と同じく、もともと言うまでもなく、というような意味だ。それぞれの箇所を考え合わせて理解したい。このことはすでに巻八の三丁でも述べた。したがって、ここは身ごもったことが疑いなく明白だ、という言葉である。「夫がいない」ことに掛かるようにも見えるが、そうではない。「夫」は「を」と読むべきだ。上巻の須勢理毘売命の御歌にも「あなたのほかに、夫はいません」とある。

【宣長の注釈】「有麗美壮夫、不知其姓名」は「うるはしきをとこの、そのなもしらぬが」と読むべきだ。「有」の字は読まない。また「姓名」はただ「な」と読むべきである。これは水垣宮の御世より前のことで、まだ姓というものがあるはずもない時代だからだ。それを「姓名」と書くのは漢文の書き方によるので、師が「うぢな」と読んだのはよくない。「名も知らぬ」には、どこのどういう人かも知らないという意味も含む。「毎夕到来」は「よごとにきて」と読むべきだ。「赤土」は「はに」と読むべきで、その理由は上巻の注(巻十の四十九丁)で述べた。師は「そほに」と読んだ。それもよいが、やはり「はに」がよい。

【宣長の注釈】「床前」は、師の「とこのへ」という読みに従いたい。寝床の前に赤土をまくのは何のためか。後に理由は見えないが、推し量るに、赤土についた足跡を見て、その人が出ていった方向を知る用意だろうか。もしそうなら、戸の外にするはずで、寝床の前というのはどうだろう。あるいは衣の裾に赤土がついて染まったのを目印として、その人を見分けるためだろうか。どちらにしても、次のへその麻糸だけで用は足りそうだから、赤土は不要にも見える。ただ、一つの方法で見失った時に備え、二通りの仕掛けをしたのかもしれない。また考えるに、「床前」の後に「又」という語がないのは、赤土もへその麻糸のことに関わり、別のことではないのだろうか。しかしそうだとすれば、どういう仕掛けなのか理解しにくい。なおよく考えるべきことである。

【宣長の注釈】「閇蘇」について、『和名抄』には「『楊氏漢語抄』に、巻子はへそという、とある。今考えるに原文は詳しくわからないが、世間に伝わる、績んだ麻を丸く巻いたものの名である」とある。名の意味は「綜麻」だろうか。『和名抄』に「綜の和名はへ」とあり、『説文』はこの字を織り糸と注する。『万葉集』巻一の「綜麻形乃」を、ある人が「へそがたの」と読むのも捨てがたい読みだ。「紡麻」はただ「を」と読むべきだ。「績麻」は『万葉集』などに多く出る古語なので、ここもそう読みたくなるが、すでに「へそ」といった以上、紡いだ麻なのは当然で、くどく言うのはどうだろうか。それでも「紡」を添えて書くのは例によって漢文の書き方である。また「閇蘇」の後に「之」がないので、「の」を入れず直接「へそを」と読むべきだ。古くは、丸く巻いた麻をそう呼び慣わしたのだろう。「針」は『和名抄』に、和名は「はり」とある。「其衣」は通って来る若者の衣をいう。

【宣長の注釈】「襴」は『日本霊異記』に「すそ」とあり、『和名抄』には「『陸詞』に、裾は衣の下である。和名は『ころものすそ』、また『きぬのしり』という」とある。一方「襴」は「音は蘭、俗にも字の音のままいう」として和名を挙げない。天武天皇紀で「襴」を「すそつき」と読む「つき」は、「続き」でも「着き」でもあろう。これは少し後の装束で、衣の下に横幅の布を継いだものをいう。『和名抄』衣服部の「襴衫、すそづけのころも」がそれであり、音を「蘭」とするのもこれだ。「襴衫」は襴を付けた衫ということになる。襴や裾などは、少し後には区別され、それぞれ特定の物を指すが、上代の「すそ」はそうした文字にこだわってはいけない。倭建命の段に「美夜受比売の意須比に月経がついていた」とあり、その歌に「おすひのすそに……」とある。『万葉集』にも「裳のすそ」が多く、「下」とも書く。今も「裾」という所である。「如教而」は「をしへのごとして」と読むべきだ。「して」は「そうして」という意味である。「旦時」は「あしたに」、また「つとめて」とも読むべきだ。理由は巻十八の五十八丁で述べた。これはあの若者がいつものように来て泊まり、帰った朝である。

【宣長の注釈】「鉤」は「かぎ」と読むべきだ。『和名抄』の門戸具には、「『楊氏漢語抄』に、鉤匙は戸のかぎ、またからかぎという」とあり、また「『四声字苑』に、鑰は戸を閉める道具である。『楊氏漢語抄』に、鑰匙は門のかぎ」などとある。「かぎ」はもともと物の形が曲がっていることをいい、今もそうで「かぎの手」という言葉もある。明宮の段にも「鉤で沈んだ所を探した」とあり、形に即してどんな物にもいったのが、門戸の鍵の名にもなったのである。中国でも、形が曲がって物をかき寄せる道具などを「鉤」ということが多い。「控通而出」は、師の「ひきとほりてあり」という読みがよい。「通」を「とほし」と読むのはよくない。通っているということなので、「通し」では合わない。とても小さな鍵穴から出入りされたのは、神である若者だったからだ。だからこそ父母もまったく気づかなかったのである。

【宣長の注釈】「三勾」は「みわ」と読むべきだ。後に引く『土佐国風土記』は、まさに「三輪」と書く。長い物を曲げて丸くしたものを「わ」といい、「輪」もこれだ。そのようにすることを「わがぬ」「わぐ」ともいう。「わぐ」は「わがぬ」が縮まったのだろう。ここは丸くなった物自体を指すので、「わ」がもとの言葉である。「わがね」「わぐ」を名詞にして、「みわがね」「みわぐ」などと読んでもよいが、それは後の形だ。前の「唯」は、この「三勾」に掛かると理解したい。「耳」はここでは「のみ」と読むべきだ。『古事記』でこの字を置く所の多くは「のみ」と読めないことは、首巻で論じたとおりだ。「のみ」は物や事を限り、それ以外にはないと示す言葉である。残った麻のことは、ここでは必要ないが、次に美和という地名の由来を語るため、先にいっておくのである。文章の形として必ずこうあるべき所で、今も文章を作る人は、こうしたことをよく理解しておくべきだ。「爾即」はここでは「かれここに」と読むべきで、「故爾」「故於是」などの箇所と同じ文の勢いだからである。

【宣長の注釈】「糸」は延佳本で「絲」とする。意味は同じだが、諸本はみな「糸」だ。『和名抄』には「絲の和名はいと、線はいとすぢと読む」とある。前後ではすべて「麻」というのに、ここだけ「糸」とすることに注意したい。前後では物の実体をいう必要があるが、ここは引き延ばされている物をたどる場面なので、麻でも何でも、単にその細い糸をいえばよいからである。

【宣長の注釈】「尋行」、たどって行く人は、つまり活玉依毘売だろう。『新撰姓氏録』の書き方もそうである。「美和山」は『万葉集』をはじめ歴代の歌にもとても多く詠まれ、特に名高い土地だ。出雲国造の神賀詞には「大御和の神奈備」とある。『古今集』の「私の庵は美和山のふもとです。恋しく思うなら訪ねておいでなさい。杉の立っている門ですよ」という歌を、『古今六帖』は美和の神の御歌と記す。今考えると、この故事について、この時に美和の神がお詠みになったことになぞらえて詠んだ歌だろう。それでこの神の御歌だと伝えられたのだろう。美和川は朝倉宮の段に見え、『万葉集』巻十に歌がある。「留神社」は、引き延ばされてきた糸が、この社の内に入り、ここを限りに終わっていたことをいう。

【宣長の注釈】「その麻によって……」について。あの家に残った麻の量で、この土地を名づけるのは、他人から見るとひどく遠い結びつきに思える。しかしこれは、その女の家からいい始めた名なのだろう。つまり翌朝、へそに巻いてあった多くの麻が、わずか三巻きだけ残っているのを初めて見た時の印象から、三巻き残った麻をたどって見つけた場所という意味で、「美和」といい始めたのだろう。

【宣長の注釈】『日本書紀』の「十年……その後、倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻となった。しかしその神はいつも昼は姿を見せず、夜やって来た……」という話は、この故事によく似ている。全文は黒田宮の段の、この姫命の注(巻二十一の四十四丁)に引き、論じるべきこともそこで詳しく述べた。『土佐国風土記』には「倭迹々媛皇女は大三輪大神の妻となった。夜ごと一人の若者がひそかに来て、明け方に帰った。皇女は不思議に思い、綜麻を針に通し、若者が来た時にその裾に針を刺した。朝になって見ると、器に残ったのはわずか三輪だった。それで当時の人は三輪村と呼び、社の名も同じになった」とあるが、これは二つの話を一つに語り伝えたのだろう。また後世の書にも、似た故事を記したものがあちこちにある。

【宣長の注釈】「神君」を一本は「大神君」とするが、諸本には「大」がない。「神」の字を「みわ」と読んでいる。美和を「神」と書く理由は、古く大和国に皇居があった御代、この美和大神を特に尊び奉り、ただ「大神」といえば、この神を指したからである。すでに崇神天皇紀八年の「大神の酒をつかさどる者」「大神を祭らせた」の大神も美和大神だ。これらの「大神」を「おほみわ」と読むのは誤りである。「大美和を祭らせた」では言葉が足りないからだ。やがてその文字を「大美和」という名にも、そのまま用いるようになったのだろう。「飛鳥」という文字をそのまま「あすか」に使うのと同じ趣旨である。「大」を省いていう場合にも「神」の字を使ったのだ。『和名抄』の大和国城上郡の郷名に「大神、おほむわ」とある。「み」を「む」とするのは中古以来の音便で、正しくない。また今の本で「和」を「知」とするのは後の写し間違いなのに、大己貴の「貴」を連想して「おほむち」だと理解するなどは、まったく根拠のない誤りである。中古の書には多く「おほうわ」ともいい、これも音便だ。「み」を「む」「う」とする音便は多く、どれも正しい古語ではない。後世に「おほわ」「おほが」というのは、さらに訛った形である。そのうち「おほが」は、世間の「おほわ」を聞き、それは神を略した「か」が訛って「わ」となったのだろうと考え、こざかしく改めていい始めたのかもしれない。『延喜式』神名帳にも「大神」と記される。

【宣長の注釈】この氏族は、『日本書紀』神代巻にも「……これが大三輪の神である。この神の子が甘茂君ら、大三輪君ら……」とあり、この巻にも「いわゆる大田田根子は、今の三輪君らの始祖である」と見える。垂仁天皇紀には「三輪君の祖、大友主」とある。『先代旧事本紀』巻四は「大田田爾古命の子が大御気持命、その子が大鴨積命、次が大友主命。この命は磯城瑞籬朝の御世に大神君の姓を賜った」という。天武天皇紀には「五年八月、大三輪真上田子人君が亡くなった。天皇はそれを聞いて深く悲しみ、壬申の年の功によって内小紫の位を贈り、大三輪真上田迎君という諡を与えた」とあり、同十三年十一月には「大三輪君に朝臣の姓を賜った」とある。『続日本紀』巻十七には「八幡大神の禰宜である大神社女と、主神司の大神田麻呂の二人に、大神朝臣の姓を賜った」、巻二十九には「大和国の人、大神引田公足人、大神私部公猪養、大神波多公石持ら二十人に、大神朝臣の姓を賜った」とある。

【宣長の注釈】『新撰姓氏録』大和国神別には、「大神朝臣は、素佐能雄命の六世の孫、大国主の子孫である。初め大国主神は、三島溝杭耳の娘、玉櫛姫を妻とした。夜明け前に帰り、一度も昼に来なかった。そこで玉櫛姫は績んだ苧を衣に結びつけ、明け方、その苧に従って探した。茅渟県の陶邑を経て、まっすぐ大和国の御諸山へ行った。戻って苧を見ると、残りは三巻きしかなかった。これによって姓を大三縈と名づけた」とある。一本は「御諸山」の前に「真徳」の二字がある。『元々集』に引くものは「真穂」となっているので、「徳」は「穂」の誤りだろう。

【宣長の注釈】さて、この三輪の故事の女性を三島の溝杭耳の娘としているのは、すでに前で論じたとおり、伝承が混ざった誤りである。

また、文章全体を省きすぎたため、説明が足りないところがある。三島から三輪山へ行くのに茅渟の県を通ったというのも、地理と合わない。苧の糸が三つのまとまりだけ残ったことにちなんで、氏の名を「大三縈」とした、という文章も理解できない。子が生まれたことさえ述べていないのに、いったい誰の氏の名をいうのだろうか。〕『類聚国史』巻十九には、「弘仁十二年八月、大神・宇佐の二氏の者を八幡大菩薩の宮司とした」とある。〔『臨時祭式』にも「八幡神の宮司には大神・宇佐の二氏の者を任じ、他氏の者をまじえて任じてはならない」とある。〕『日本三代実録』巻四には、「大神朝臣庸主が死去した。庸主は右京の人で、自分は大三輪の大田田根子の子孫だといっていた。もとの氏姓は神直だったが、名を成した後、大神朝臣の氏姓を賜った」とある。巻六には「真神田朝臣全雄に大神朝臣の氏姓を賜った。大三輪の大田田根子命の子孫である」、巻五十には「大神朝臣良臣が官に出向いて訴え出て……」などと見える。この氏の名は「神」とも「大神」ともいい、「大」を付けるかどうかは、初めから一定しなかったのだろうか。『日本書紀』でも、箇所によってまちまちである。〔天武天皇紀では、同じ人物についてさえ「三輪君子首」とも「大三輪真上田君子人」とも記す。『続日本紀』巻二は、この人を「神麻加牟陀君児首」と記す。奈良時代の末ごろから、氏名に必ず「大」を付けるように定まったのだろう。〕

「鴨君」について。「鴨」は地名で、大和国葛上郡の鴨に由来する。この氏について、先に引いた『先代旧事本紀』巻四は、「大田田禰古命の孫の大鴨積命は、磯城の瑞籬の宮の天皇の治世に、賀茂君の氏姓を賜った」と記す。〔『日本書紀』神代巻で「甘茂君ら、大三輪君ら」と、甘茂君を先に挙げるのは、兄の系統の子孫だからだろうか。〕天武天皇紀には、鴨君蝦夷という人が見え、十三年十一月には、鴨君に「朝臣」の姓を賜ったとある。『続日本紀』巻二十五は、天平宝字八年十一月のこととして、次のように記す。「高鴨神を大和国葛上郡のもとの場所に戻した。この高鴨神について、法臣円興と、その弟で中衛将監・従五位下の賀茂朝臣田守らが、こう申し上げた。『昔、大泊瀬天皇が葛城山で狩りをされたとき、一人の老人がいて、いつも天皇と競い合って獲物を取った。天皇は怒り、この人を土佐国に流した。これは、私どもの先祖が祭っていた神が老人に姿を変え、追放されたのである。』そこで天皇は田守を遣わして神を迎えさせ、もとの場所で祭らせた。」〔高鴨神とは、『延喜式』の大和国葛上郡に「高鴨阿治須岐託彦根命神社四座」と載る神である。〕

『新撰姓氏録』の大和国神別には、「賀茂朝臣は大神朝臣と祖先を同じくし、大国主神の子孫である。大田田禰古命の孫、大賀茂都美命〔別名、大賀茂足尼〕が賀茂神社を祭った」とある。〔ここでいう賀茂神社は、先の高鴨神社だけをいうのか、あるいは『延喜式』で同じ郡に載る鴨都波八重事代主命神社を含めていうのかもしれない。この二社の神は、ともに大国主命の子であるため、同じ大田田根子命の子孫が祭っているのだろう。なお、この氏のほかに、『新撰姓氏録』には鴨君・賀茂県主・鴨県主などが別に載る。混同してはならない。〕

〔『古事記』本文〕また、この天皇の治世に、大毘古命を高志方面へ、その子の建沼河別命を東方の十二国へ遣わし、従わない人々を服従させて国を治めさせた。また、日子坐王を丹波国へ遣わし、玖賀耳之御笠という者を討ち取らせた。〔「麻」から下の五字と、「玖賀」の二字は、字の意味を取らず音で読む。〕

大毘古命は境原の宮の天皇〔孝元天皇〕の皇子で、その段に登場した。「高志道」の「高志」は越国のことで、上巻に出ている〔本書巻十一〕。「道」の意味は次に述べる。〔『延喜式』には、越中国射水郡の道神社、加賀国石川郡の味知神社がある。『新撰姓氏録』にも「道公は、大彦命の孫、彦屋主田心命の子孫である」などと見える。これらは、ここでいう「道」と関係がないだろうが、ひとまず挙げておく。〕「建沼河別命」についても、境原の宮の段に出ている〔本書巻二十二〕。

「東方十二道」の「東方」は「ひむかしのかた」と読むべきである。〔師は「方」を「へ」と読んだが、このようなところでは適切でない。〕古くは、東西南北のどれにも「かた」を添えていうことが多かった。「十二道」は十二の国という意味である。『国造本紀』の上毛野国造の条に「東方十二国」とある。先の「高志道」も、後の文では「高志国」となっている。また孝徳天皇紀に、「さきに良家の大夫を選んで東方八道を治めさせたが、国司として、六人は法に従い、二人は命令に背いた……」とある。ここは八人の国司のことをいうので、「八道」が八国であることは明らかである。〔その八国は、この十二国のうちの八国だろう。〕では十二国とはどの国を数えたのか、今となっては確かには分からない。試みに挙げれば、伊勢〔伊賀・志摩はこれに属すると考える〕、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、〔次頁に続く〕

〔前頁からの続き〕相模、武蔵、総〔上総・下総のこと。安房は後に上総から分かれた〕、常陸、陸奥、といった国々だろうか。〔陸奥は、後の区分では東海道に入らないが、後の本文に「相津で出会った」とある以上、この十二国に含まれる。倭建命の段でも「東方十二道」という言葉が、蝦夷を服従させたくだりに見えることを考えるとよい。〕倭建命の段にも「東方十二道」とあるから、これが上代の区分だったのだろう。国を「道」というのは、朝廷からその国を治める人を派遣することに関連した呼び方である。神代に、天尾羽張神が「恐れ多いことですが、お仕えいたしましょう。ただ、この道には、私の子の建御雷神を遣わすのがよいでしょう」と答えたのは、天上の神の使者に対する言葉である。この「道」は、葦原中国を服従させるために出かける務めをいう。黒田の宮の段の「播磨を道の口として、吉備国を服従させた」というのも、服従させていく最初の国を播磨としたことを「道の口とする」と表したのである。丹波道主王という名も、丹波国を治めるために遣わされたことから「道主」と呼ぶ。それぞれの段〔本書巻二十一の五十一丁、巻二十二の六十二丁〕を見比べて考えるべきである。上の「高志道」の「道」もこの意味である。〔『日本書紀』に「北陸」とあるからといって、後世の北陸道のことだとだけ考えては、「道」という語の意味を十分につかめない。〕

したがって、後に東海道・東山道などの名を設け、全国について畿内以外を七道に分けたのも、一方では中国の制度〔唐の太宗の時代に、国内を初めて十道に分けた〕にならい、一方では上代からの呼び方を受け継いだものだろう。〔そもそも、畿内以外を七道に分け、それぞれの名を定めたのが、どの天皇の時代だったかは詳しく分からない。考えるに、孝徳・天智天皇のころだろうか。孝徳天皇二年には、畿内の境界を定めたことは記されているが、その箇所にも七道の決定は見えない。同じ年の文章に「畿内・東方八道」とあるのは、なお上代の呼び方なので、この時点ではまだ全国を七道に分ける制度がなかったと分かる。ところが『日本書紀』のこの巻にさえ「東海」「北陸」などとあるのは、後にできた名を使って記したもので、当時の呼び方ではない。『古事記』の「東方十二道」「高志道」こそ古い呼称である。景行天皇紀の「東山道」も同様であり、孝徳天皇紀より前にこうした名が見えるものは、すべて後世の名で記したのである。成務天皇紀の「山陽・山陰」は、場所を問わず山の南側・北側という意味で、山陽道・山陰道をいうのではない。「七道」という言葉は、文武天皇紀に初めて見える。〕

「遣」の字が、「東」の下にある本と「方」の下にある本があるが、どちらも誤りである。ここでは延佳本と、もう一本によった。「麻都漏波奴〔まつろはぬ〕」は、白檮原の宮の段の「不伏人」の注〔本書巻十九の六十七丁〕で述べたとおりである。「和平」は「ことむけやはす」と読む。〔この語の用例も、白檮原の宮の段に引いたものを参照すれば分かる。〕ここは、前に出た高志道も含めていう。「日子坐王」は伊邪河の宮の段〔本書巻二十二の四十九丁〕に、「旦波」も同じ宮の段〔巻二十二〕に出ている。「玖賀耳之御笠」は、服従しない人々の頭領の名だろう。ただ「玖賀耳」は氏名とも思われない。地名かと考えても、丹波のこの地名は文献に見えない。〔玖珂郡があるのは周防国である。〕どうにも理解しにくい。あるいは「玖賀耳」と「御笠」は別人で、二人の名なのだろうか。それなら「之」は「及」か「又」の誤写だろう。「耳之」という続き方が、どちらにしても疑わしいからである。〔氏名なら「部」を「耳」と誤ったのか。地名だとしても「耳」はどうだろう。また、初めからすべてを人名と見ても、途中に「耳之」が入る名の例はまだ見つからない。〕「御笠」は、『和名類聚抄』に丹後国加佐郡があるので、この土地に由来する名だろうか。〔天武天皇紀にも、丹波国訶沙郡と見える。〕

「令殺」は「とらしめたまひき」と読む。「殺」を「とる」と読む根拠は、日代の宮の段で、倭建命に「西の方に熊曾建が二人いる。服従せず、礼儀をわきまえない者たちだ。だから、その者たちを取れ」と命じて遣わしたこと、また「伊服岐の山の神を取ろうとして出かけた」〔倭建命のこと〕、穴穂の宮の段の「人が天皇を取った」〔目弱王が天皇を殺したこと〕などである。これらはいずれも、殺すことを「取る」といっている。また、倭建命の段の「お前たち熊曾建の二人が、服従せず無礼だとお聞きになり、お前たちを取り殺せと命じて、私を遣わされた」という箇所は、「取殺」と書くが、用例に従い、二字を合わせて「とれ」と読むべきである。〔この同じ命令を、先に引いた箇所では「取」とだけ書くことから分かる。〕玉垣の宮の段の「沙本毘古王を撃った時」の「撃」も、同じく読むべきである。『万葉集』巻六に、「敵が千万の軍勢であっても、あれこれと言い立てず、討ち平らげて帰ってくる、そういう立派な男だと思っております」とある。〔藤原宇合卿が西海道の節度使として下向するのを送った歌である。「取而来」は、討ち平らげて帰ってくるという意味で、捕らえて連れてくることではない。〕また、延喜十四年の渡会神主の『本系帳』には、「巻向玉紀宮で天下を治めた天皇〔垂仁天皇〕の〔次頁に続く〕

〔前頁の『本系帳』の引用の続き〕治世、越国に阿彦という荒々しい凶賊がいて、天皇の教化に従わなかった。そこで天皇は、討ち平らげに行けと命じ、しるしとなる剣を授けて遣わした。幡上は下向して討ち平らげ、帰って報告した。天皇は喜び、大幡主という名を加えて授けた」ともある。〔『延喜式』には加賀国能美郡の幡生神社が載る。「生」は「主」の誤りだろう。このことは、話のついでに触れるだけである。〕ふだん「鷹が鳥を取る」「猫が鼠を取る」「鵜が魚を取る」などという「取る」も、もとは同じ意味である。〔本文の割注の「者」の字は、延佳本にはないが、ほかの本にはみなある。また、ほかの同様の注も、すべて「者也」となっている。〕『日本書紀』には、こうある。「十年九月、大彦命を北陸へ、武渟川別を東海へ、吉備津彦を西道へ、丹波道主命を丹波へ遣わした。その際、『教えを受け入れない者がいたら、兵を挙げて討て』と命じ、それぞれに印綬を授けて将軍とした。」〔この「西道」は吉備国である。吉備津彦命がその国を服従させに下向したことは、『古事記』では黒田の宮の段に見える。これは、時代について伝承が食い違うのではなく、この命が登場するのに伴って、その段にこの出来事も載せたのである。また、丹波国に遣わされた人物を、『古事記』は日子坐王とするのに、ここでは丹波道主命とする。道主命は日子坐王の子なので、父子の間で伝承が食い違ったのである。この点は『日本書紀』の方が正しいのかもしれない。〕

〔『古事記』本文〕こうして大毘古命が高志国に向かっていたとき、腰裳を着けた少女が、山代の幣羅坂に立ち、歌っていた。「こはや。御真木、入日子よ。御真木、入日子よ。ご自分の命を、ひそかに奪おうと、後ろの戸から、あちらこちらへ、前の戸から、あちらこちらへ、うかがう者がいる。それをご存じないとは、御真木、入日子よ。」大毘古命は不思議に思い、馬を引き返して、その少女に「お前のいうその言葉は、何のことだ」と尋ねた。少女は「私は何もいいません。ただ歌を歌っているだけです」と答えた。すると、どこへ行ったとも分からないまま、たちまち姿が消えてしまった。

「高志」を「但馬」とする本が二本ある。字形も似ておらず、まったく理由もないのに、どうして誤ったのだろうか。ここでは真福寺本と延佳本によった。「罷往」は「まかりいます」と読む。「往」を「います」という例は、『万葉集』巻五の、「唐の遠い国境へ任命されて、赴いていらっしゃい」という歌、巻十二の「山を越えて行かれるあなたを」、巻十五の「大船を荒海に出して行かれるあなた」「栲衾〔たくぶすま。新羅に掛かる枕詞〕、新羅の方へ行かれる」、巻十四の「足柄の八十山〔多くの山々〕を越えて行ってしまわれたら」など、ほかにも多い。後世に「どこそこへおはします」というのも同じである。「腰裳」は字どおり「こしも」と読むべきである。〔延佳も師も二字を単に「も」と読んだが、それなら「裳」一字でよい。わざわざ「腰」を添えるのだから、そうではあるまい。〕『新撰姓氏録』に、葛木襲津彦命の子として腰裙宿禰という人名も見えるので、古く、こういう名の衣服があったのである。〔「裙」は雄略・欽明天皇紀などでも「も」と読み、『万葉集』にも「裳」の意味でこの字を用いる箇所がある。〕ただし、それが普通の裳とは別のものか、普通の裳をそうも呼んだのか、その違いは詳しく分からない。

〔『台記』別記には、久安六年正月十日の女御入内のことがあり、同二十二日の女房の衣の色目を、「白い衣五枚、濃い紫の打衣、梅の織物の表着、葡萄染の織物の唐衣、白い腰裳」と記す。また、三月五日の臨時祭の打出などの記録には、「葡萄染の唐衣、款冬の腰裳」とある。これも普通の裳をいうのか別物なのか、まだよく考えていない。ほかの記録類にもこの名が見えたように思うが、今は確かに思い出せない。いずれにせよ、これらは後世のことなので、上代にいうものと同じとは思えない。このような物の類については、後世の例から上代を論じることは難しいが、名が同じなので引いておいた。〕上代には「褌」も「も」と呼んだのではないかと思われる事例がある〔その理由は本書巻六の四十八丁で述べた〕。それと区別するため、外側に着ける裳を「腰裳」ともいったのだろうか。ただ、『万葉集』の歌などから考えると、古く裳は女性が一般に着けたものだった。それなのに、ここで着けていることを特にいうのは、普通の裳とは違うからなのか。また考えると、この者は『古事記』にも『日本書紀』にも、〔次頁に続く〕

〔前頁からの続き〕ともに「少女」と記され、『日本書紀』には「童女」とも書くので、まだ幼い女の子だろう。後世には、女性が初めて裳を着ける「裳着」という儀式がある。それを考えると、上代にも少女のうちは裳を着けなかったのに、この少女は着けているという、ふつうと違う姿だったため、特にそう書いたのかもしれない。この衣服については、なおよく考える必要がある。「服」は「けせる」と読む。〔「きたる」と読んでも誤りではない。〕倭建命の歌に「ながけせる、おすひのすそに〔あなたが着ていらっしゃる、おすいの裾に〕」とあり、着ているという意味の古語である。詳しくは、その歌の注〔本書巻二十八の九丁〕で述べる。「山代の幣羅坂」について。古く、大和から越国へは、山城・近江を通って下った。「へらさか」の「へ」と「ひ」は、とりわけ近く通じ合う音なので、どちらでもいったのだろう。「日置」を「へき」ともいうのと同じである。『日本書紀』の一伝には「平坂」とある。〔久世郡に那羅郷があるからといって、この「平坂」を「ならざか」と読む人がいるが、それはよくない。〕道の途中にある坂なのは分かるが、このほかの文献に見えないため、どのあたりかは詳しく分からない。当時の状況から考えれば、相楽郡のうち、大和との境に近い場所だろう。〔その付近の地理をよく調べれば、考え明かせるかもしれない。あるいは今いう一之坂だろうか。木津川の南で、大和国の境にある。〕

「歌曰」は「うたひけらく」と読む。「古波夜〔こはや〕」〔この三字が延佳本にないのは、『日本書紀』と見比べて、余計な判断で削ったのだろう。ほかの本にはすべてある〕は三音の句である。これは「美麻紀伊理毘古波夜〔みまきいりびこはや〕」という句の調子を助け、勢いをつけるため、その末尾だけを切り取って、初めに歌い出したものである。歌には今でもこういう例が多い。「美麻紀〔みまき〕」が一つの句。「伊理毘古波夜〔いりびこはや〕」と合わせた二句は天皇の名であり、「はや」は嘆きの言葉である。この点は倭建命の段の「あづまはや」の注〔本書巻二十七の八十一丁〕で詳しく述べる。この二句を重ねて歌うのは、歌に一般的な繰り返しでありながら、特に深く切実な嘆きを表す。

「意能賀袁袁〔おのがおを〕」について。初めの「袁」を、諸本がみな「素」とするのは写し誤りである。ここでは『日本書紀』がこの句を「飫廼鵝烏塢」と記すことに基づいて改めた。〔師は「素」を採り、「巣」の意味で、上巻の「御巣」と同じだとしたが、よくない。まず『古事記』には、「素」を音を表す仮名として用いた例がない。「袁」は「赤裳表」などでも誤写される箇所が多いから、ここも「袁」の誤りに違いない。また「す」としては意味が解けない。師のように住みかの意味に取れば、後ろの戸・前の戸とは関係するが、「殺そう」という言葉に合わない。もし住みかなら、「ぬすみしせむと」の二句が「いゆきたがひ」の下になければ、文が整わない。よく読み味わってみるべきである。〕「おのが」は御真木入日子自身の、ということだ。〔歌い手自身のことではない。〕「お」は命をいうような語である。およそ物をつなぎ保ち、絶えないようにするものを「お」といい、「緒」もその意味から付いた名である。命も、生が続き、絶えない間をいうので、それを「お」ともいったのだろう。「たまのを」ともいうのは、魂を離さず保ち続けることによるのだろう。「としのをながく」というのも、年が長く続くことである。また『万葉集』の歌に多い「いきのをに思ふ」も、〔「気」は当て字で、〕生の緒という意味で、命を懸けて慕うということなのかもしれない。〔巻十一の四十一丁で「生緒」と書くのが、本来の表記だろうか。また巻十四の「いきに吾する」も「生」で、命に懸けるという意味か。巻十二には「気緒爾言気築之〔いきのをに、わがいきづきし〕」ともあるので、「いきのを」は呼吸をいうのではあるまいと思う。〕命とは、生をつなぐ緒だからである。以上の語を考え合わせ、「おのがお」が自分の命という意味だと理解すべきである。〔契沖は、「おの」は吾田媛、「お」は夫で、その夫の武埴安彦をいうとしたが、甚だしい誤りである。理由は次に述べる。〕

『万葉集』巻十四に、「おのがをを、おほになおもひそ、にはにたち、ゑますがからに、こまにあふものを」という歌がある。冒頭の句は別の意味にも聞こえるが、「おのがを」という語が同じなので引いておく。〔この歌について、私は以前、冒頭もここに引いた『古事記』の句と同じ意味と考え、結句の「古麻」は「古庇〔こひ〕」の誤りだという師の説に従って、全体をこう解いていた。「あなたが庭に立って微笑んだのを見てから、私は恋をして思い悩んでいる。このままでは命も持ちこたえられそうにないのだから、私の命をいいかげんに思って見捨てないでください。」しかし、「庇」を音を表す仮名に用いた例はほとんど見えず、そのうえこの歌の前後はどれも駒を詠んだ歌なので、これもやはり駒でなければならない。そうなると、冒頭の意味も、ここの句とは同じではあるまい。稲掛大平の考えでは、初めの「を」は緒で、馬を引く綱をいい、それを、男を恋い慕い、自分の方へ引き寄せようとする気持ちに重ねたという。次の句は、その自分の思いをおろそかに思わないでください、という意味である。結句の「駒に逢ふ」も、馬を引くことに重ね、あなたを引き寄せようとする思いに出会っている、ということだ。上では単に「緒」、下では単に「駒」というが、互いに照らし合わせると、そういう意味に聞こえる。この〔次頁に続く〕

〔前頁からの続き〕次の歌にある「左乎妣吉〔さをひき〕」の「を」も、同じ意味の「緒」だという。大平のこの考えがよい。〕二つ目の「袁」は助詞である。諸本では、その下に「式」の字がある。〔一本は「弐」、一本は「或」とするが、どちらも「式」の誤りと見える。延佳本は「式」とする。〕強意の助詞「し」とすれば言葉は整うが、この字を用いることがどうにも理解できない。〔音を表す仮名として用いた例がない。とりわけ入声の字なので、どうだろう。「試」に相当する音もあるが、それは別系統の音である。〕ここでは、『日本書紀』にこの助詞がないことによって削った。この句は、調子のうえでも五音でよく整うところである。

「奴須美斯勢牟登〔ぬすみしせむと〕」は、ひそかに天皇を殺そうとして、という意味である。「ぬすむ」は、何事であれ、人の許さないことを、知られないよう隠し、ひそかに行うことをいう。〔人の物を取ることだけに限らない。『日本書紀』ではこれに当たるところに「農殊末句」とある。契沖が「農」を「の」と読み、「詔」の意味だとしたのは、たいへんな誤りである。古く「農」を「の」の仮名として用いたことはなく、また「詔」をどうして「のすまく」などといえるだろうか。〕殺すことを「しせ」というのは、上巻の沼河日売の歌に「いのなしせたまひそ」とあるとおりで、その箇所〔本書巻十一の二十丁〕で詳しく述べた。

「斯理都斗用〔しりつとよ〕」〔「斗」は清音で、濁らせてはならない〕は、後ろの戸から、という意味である。「麻幣都斗用〔まへつとよ〕」は、前の戸から、という意味。「伊由岐多賀比〔いゆきたがひ〕」の「い」は語の調子を整える接頭語で、全体として行き違うということだ。宮殿の戸口に寄り、出入りの様子や人目をうかがい、見つからないようあちらこちらへ身を避けて、ひそかに入り込もうとねらう様子をいう。高津の宮の段で、口子臣について「前の殿の戸に参って伏すと、すれ違って後ろの戸から出てしまい、後ろの殿の戸に参って伏すと、すれ違って前の戸から出てしまった」とあるのと、言葉がよく似ている。〔『日本書紀』によれば、建波邇安王本人は山代から、妻は大坂から、分かれて攻めようとした。それを「後ろの戸から、前の戸から」というのかとも思えるが、そこまでの意味はあるまい。〕「宇迦迦波久〔うかがはく〕」は、うかがうこと、という意味である。

「斯良爾登〔しらにと〕」は、知らずに、という意味である。知らないことを「しらに」というのは古語で、『万葉集』などにも多い。「に」は「ぬ」が活用して変わったものだろう。「と」は、『万葉集』巻二の「鴨山の岩根を枕にしている私のことも知らないで、妻は待っているだろう」という歌で、「不知等」と書く「等」と同じで、「知らないものだから」という意味である。『日本書紀』にはこの「と」がない。〔なくても、おおよその意味は同じである。〕『日本書紀』には、その次に「比賣那素寐殊望〔ひめなそびすも〕」という句がある。こちらの歌はそういう言葉なしに結ぶので、言い足りないようにも聞こえるが、そうではない。その理由を次に述べる。「美麻紀伊理毘古波夜〔みまきいりびこはや〕」と結ぶことで、危害を加えようとする者がいることにもお気づきにならず、何もご心配なくいらっしゃるとは、という、深く危険を案じて嘆く気持ちが自然にこもって聞こえる。〔何もお気づきなくいらっしゃるとは、という意味を言葉の外に含ませたところが、「ひめなそびすも」に相当する。こちらはそのことを直接いわず、深い意味をこめているのである。このような歌は何度も声に出してみれば、奥にこもる意味も自然に心に浮かんでくるものだ。〕

この歌全体の意味は、「天皇ご自身の尊い命をひそかに奪おうとして、宮殿を左右からうかがう者がいるのに、お気づきにならず、御真木入日子命よ、何もご心配なくいらっしゃるとは」と、危険を案じて嘆き、遠回しに注意を促してお知らせするものなのである。天皇の名を二度、三度と繰り返して結ぶところに、限りなく深い嘆きが聞こえる。『日本書紀』は、「大彦命が和珥坂の上に着いた時、少女がいて、こう歌った」と記す。〔一伝には、「大彦命が山背の平坂に着いた時、道の脇に童女がいて歌った」とある。〕その歌は、「みまき、いりびこはや、おのがおを、しせむと、ぬすまくしらに、ひめなそびすも」。〔「ぬすまく」はひそかに企てること。「ひめなそび」は、契沖が「媛の遊び」と解いている。そうかもしれない。「のあ」が縮まれば「な」になるからである。しかし、それを吾田媛が香山に来たこととし、歌全体を吾田媛への戒めだというのは、甚だしい誤りだ。吾田媛を戒める言葉を大彦命に告げて、何になろう。『古事記』の歌が「みまきいりびこはや」で結ぶことを見れば、その誤りは特にはっきりする。「媛遊び」は、天皇が美女を集めて宴などをなさることをいうのだろう。〕一伝には、「おほきとより、うかがひて、ころさむと、すらくをしらに、ひめなそびすも〔大きな門から、うかがって、殺そうとしていることも知らず、女たちとお遊びなさるとは〕」ともある。〔これは先の歌の「しせむと」以下の三句、あるいは「おのがおを」以下の四句の別伝であって、独立した一首ではない。どちらにせよ、歌全体の意味は『古事記』のものとまったく同じである。契沖の説のように解しては、この別伝の初めの二句などが、特にうまく説明できない。〕

「思怪」の「思」を「異」とする本もあり、それでも意味は通る。「返馬」は、馬を止めたのなら「駐」とあるはずなのに「返」とある。これは少女が歌い捨てて、大毘古命の来た方へすれ違って通り過ぎたため、命がそちらへ引き返したのだろう。「何言」の読みは、継体天皇紀の歌の「からくにを、いかにいふことそ、めづらこきたる」〔韓国について、何ということだ、目頬子が帰って来た、という意味〕によって定めるべきである。〔この歌での言い方は、どういうことなのか、という意味で、少し〔次頁に続く〕

〔前頁からの続き〕意味に違いはあるが、言葉そのものは「何ということか」なので、ここの読み方も同じである。〕「爲詠歌耳」は「うたをこそうたひつれ」と読む。〔「こそ」に「耳〔のみ〕」の意味があることは、首巻で述べたとおりである。〕単に「何もいっていません」と答えるだけで終わらず、さらにこういうのは、歌はふつうの直接的な発言とは違い、意味をこめて物事を相手に悟らせるものだからである。「ふつうの言葉と同じように、いいかげんに聞き流さないで、心を留めてください」という答えなのだろう。「即不見其所如而」〔「如」は行くこと〕は「ゆくへもみえず」と読む。〔「ゆくへ」は「行方」ということだ。それを「行く末」の省略と考え、「ゆくゑ」と書くのは誤りである。〕「忽失〔たちまち消えた〕」について。この少女は神だったのだろう。『日本書紀』には、「大彦命が不思議に思い、童女に『お前のいうのは何の言葉か』と尋ねると、『言葉でしょうか。ただの歌です』と答え、先の歌をもう一度歌って、たちまち見えなくなった」とある。

〔『古事記』本文〕そこで大毘古命は引き返して再び参上し、天皇に申し上げた。天皇は、「思うに、これは山代国にいる、お前の異母兄の建波邇安王が、反逆の心を起こしたしるしだ。おじよ、軍を起こして行け」と仰せになり、丸邇臣の祖の日子国夫玖命を添えて遣わした。〔「波邇」の二字は音で読む。〕一行は丸邇坂に神聖な甕を据えてから出発した。山代の和訶羅川に着くと、建波邇安王が軍を起こして待ち受け、行く手を遮った。両軍は川を間に置いて向き合い、互いに挑み合った。このためその地を伊杼美と名付けた。今は伊豆美という。日子国夫玖命が「そちらの者から、神に祈って放つ、最初の矢を射よ」と求めると、建波邇安王は射たが、当たらなかった。国夫玖命が矢を放つと、建波邇安王に命中して死んだ。その軍はことごとく敗れ、散り散りに逃げた。逃げる軍を追い詰め、久須婆の渡しに来たとき、敵兵はみな追い詰められた苦しさから、糞を漏らして褌に付けた。そこでこの地を「屎褌」と名付けた。今は久須婆という。また、逃げる軍の行く手を遮って斬りかかると、敵兵は鵜のように川に浮かんだ。そこでその川を鵜川と名付けた。また兵たちを斬り散らしたので、その地を波布理曾能と名付けた。こうして平定し終えると、参上して報告した。〔「波」から下の五字は音で読む。〕

「更」は「請〔申し上げる〕」まで全体にかかる。〔ただ「還〔帰る〕」だけを修飾するのではない。〕一度お別れを申し上げて旅立った人が、再びお目にかかるという意味である。「請」は「まをす」と読む。幣良坂で少女が歌った歌の意味が尋常でなく、聞き捨てにできない重大なことだったため、再び拝謁し、起きたことを報告したのである。「答詔」の「答」は、ふつうは人の質問に答えていうことだが、ここは必ずしもそうではない。大毘古命が報告したのを受けて、天皇が仰せになることをいう。「此者」の下の「爲」は「おもふに」と読む。上巻の「国土を生み成そうと思うが、どうしたらよいか」、また「汚いものを差し上げると思うのか」、高津の宮の段の「人民が豊かになったと思う」などに例がある。〔漢文の語順で考えるなら、「起邪心之表」から返り、「……のしるしであるにすぎない」と読むことも可能だが、そういうつもりで置いた字ではあるまい。延佳は「起邪心」から返って「ため」と読んだが、それは特によくない。〕「在」は「なる」と読む。〔「なる」は「にある」が縮まった言葉である。〕「我之庶兄」の「我之」は「汝之」の誤りと思われるので、「なが」と読むべきである。建波邇安王は孝元天皇の子で、大毘古命の兄弟であり、崇神天皇の兄弟ではない。崇神天皇にとっては異母のおじだからである。〔師もこれを疑い、「異母のおじなのに『庶兄』と書くのは、理由があるのか分からない。ひとまず『あらめをぢ』と読んでおくべきだ」といった。しかし、叔父を兄という理由はなく、「庶伯父」を「庶兄」と写し誤るとも考えられない。そのうえ、〔次頁に続く〕

〔前頁からの続き〕おじと甥の間より兄弟の間の方が近く親しいのだから、その兄弟である大毘古命に仰せになるなら、きっと「お前の異母兄」というはずである。親しい兄弟の方を差し置いて、少し関係の遠い甥に当たる天皇が「私のおじ」と仰せになるはずはない。それなのに諸本がみな「我」とするのは、後に「汝」を写し誤ったのか。それとも「な」と「あ」は特に近く、通用していう例もあるほどなので、阿礼が口で唱えた音を、安麻呂朝臣が「あ」と聞き取ったまま、何気なく「我」と書いたのかもしれない。『古事記』は阿礼の暗誦を聞いたとおりに記した書なので、そういうことがありえないわけではない。いずれにせよ、ここは必ず「汝」でなければならない。〕「庶兄」を「まませ」と読むべきことは、白檮原の宮の段〔本書巻二十の三十九丁〕で述べた。境原の宮の段で皇子たちを挙げる順番は、大毘古命が最初で建波邇安王が最後だが、あれは母親の順によったものなので、実際にはここで天皇がいうように、建波邇安王が兄だったのだろう。「建波邇安王」は、境原の宮の段では「建波邇夜須毘古命」とある。「邪心」は「きたなきこころ」と読む。すでに上巻〔本書巻七の四十三丁〕に出ている。若桜の宮の段にも「私には汚れた邪心はありません」とある。『続日本紀』巻二十六には「この奴らも、このような逆らう汚い心を起こしていたのだとは、すでにはっきり分かった」、また「反逆の心によって朝廷を揺るがし傾けようとして」、巻二十九には「汚く悪い奴ども」、巻三十には「悪く汚い心によって」などと見える。およそ朝廷に忠実な心を「清い心」「明るい心」といい、不忠な心を「汚い心」、そのような人を「汚い奴」というのである。

「表」は「しるし」と読む。『日本書紀』でもそう読み、「徴表」と書く例もある。『万葉集』巻十九には「をとめらの、のちのしるしと〔乙女たちのため、後の世のしるしとして〕」とある。天皇がこのように仰せになったことを考えると、大毘古命の報告を聞いて、思い当たることがおありだったのだろう。建波邇安王の従来の人柄をご存じで、この時すでに不審な行動もあり、疑わしく思っておられたところなのかもしれない。『日本書紀』では、百襲姫命の申し上げたことによって気づかれた、という筋立てである。どちらでもありえよう。「伯父」は「をぢ」と読み、「小父」の意味である。『和名類聚抄』にも「伯父、和名をち」とある。〔父の兄を伯父、弟を叔父、姉を伯母、妹を叔母と書き分けていうのは中国のことである。わが国では父の兄弟をどちらも「をぢ」、父の姉妹をどちらも「をば」という。『新撰字鏡』には「阿伯、父の兄、えをぢ」「阿叔、父の弟、おとをぢ」とあるが、これは少し後の呼称だろう。〕ここでは大毘古命に向かっていう。『日本書紀』安閑天皇巻では、大伴金村大連に「大伴の伯父」と仰せになっている。〔この「伯父」を「おきなども」と読むのはよくない。〕舒明天皇巻には、山背大兄王が蘇我蝦夷大臣を「叔父」と呼んだ言葉がある。これらは実の叔父ではなく、父と同世代の人を尊び親しんで呼ぶ言葉らしい。今の俗語でも普通にいうことである。ここでは、実際に天皇の叔父なのだから、なおさらである。「宜行」は「ゆかせ」と読む。「ゆけ」を伸ばした古語で、建波邇安王を討ちに行けということである。

この箇所を『日本書紀』はこう記す。「大彦命は引き返して、事情を詳しく報告した。天皇の叔母、倭迹迹日百襲姫命は、聡明で知恵が深く、まだ起こらないことも見抜く人だった。その歌の不思議な意味を知り、天皇に申し上げた。『これは武埴安彦が謀反を起こそうとしているしるしです。武埴安彦の妻の吾田媛が、ひそかに来て、大和の香山の土を取り、ひれの端に包んで、「これは大和国を象徴するものだ」と祈って、帰っていったと聞いています。これで何か事が起こると分かります。早く手を打たなければ、必ず手遅れになります。』そこで天皇は将軍たちをさらに引き留め、相談した。」〔将軍たちとは、先に出た四道に派遣する将軍たちである。〕「丸邇臣」は、伊邪河の宮の段〔本書巻二十二の四十六丁〕に出る。「日子国夫玖命」の名は、国を平らげるという意味だろうか。〔「む」と「ふ」が通じる例は多い。この氏に彦国姥津命など「彦国」という名がいくつもあるのは、始祖の天帯彦国押人命の名に由来するのだろうか。〕この人は『新撰姓氏録』の吉田連の条には「天帯彦国押人命の四世孫、彦国葺命」、真野臣・和邇部・粟田朝臣などの条には「天足彦国押人命の三世孫、彦国葺命」とも見える。〔四世孫・三世孫のどちらが正しいだろうか。〕伊邪河の宮の段の、日子国意祁都命〔本書巻二十二の四十八丁を参照〕の子か孫だろう。『日本書紀』垂仁天皇巻の五人の大夫の中にも「和珥臣の遠祖、彦国葺」と見え、『国造本紀』にも「和邇臣の祖、彦訓服命」とある。「副」は、大毘古命に付き添わせるということ。「丸邇坂」について。『延喜式神名帳』には、大和国添上郡に和邇坐赤坂比古神社、また和邇下神社がある。〔和爾村は今も奈良の南にある。雄略天皇紀に「春日和珥臣」ともいうのは、上代にはこの付近まで春日の地だったからである。〕この坂は『日本書紀』神武天皇巻にも見える。〔丸邇池は高津の宮の段に見える。〕明の宮の段の御歌の「和邇佐」は、〔次頁に続く〕

〔前頁からの続き〕この坂である。〔「さ」は坂のこと。「さか」は坂のある所の意味である。「赤坂比古」も、この坂に由来する神名なのかもしれない。〕師木の都〔この天皇の都〕から山城に行くには、この坂を越える道筋になる。「居忌瓮〔神聖な甕を据える〕」は黒田の宮の段に見え、その箇所〔本書巻二十一の四十八丁〕で述べた。この事件について、『日本書紀』はまず、「ほどなく、武埴安彦とその妻の吾田媛が反逆を企て、軍を起こして急に攻めてきた。二人は別々の道を進み、夫は山背、妻は大坂から入り、都を襲おうとした。天皇は五十狭芹彦命を遣わして吾田媛の軍を討たせた。大坂で迎え撃って打ち破り、吾田媛を殺し、その兵をことごとく斬った」と記す。続いて、「大彦と和珥臣の遠祖の彦国葺を遣わし、山背に向かって埴安彦を討たせた。そこで神聖な甕を和珥の武鐰坂の上に据え、精鋭の兵を率いて進み、那羅山に登って陣を張った。官軍が集まり、草木を踏みならしたので、その山を那羅山と名付けた」とある。

「和訶羅川」は泉川の旧名で、その由来は次に見える。「待遮」について。「待ち……」という表現は古語に多い〔すでに上で述べた〕。「遮」は「さへぎる」と読み、「さへ」は妨げ、「ぎる」は限ることで、ふさいで隔てることをいう。〔「霧」なども同じ意味から付いた名である。〕「各中挾河而對立相挑」の「中挾」は「なかにおきて」、「對立」は「むきたちて」と読む。上巻の黄泉の段の「千人が引くほどの大石で黄泉比良坂をふさぎ、その石を間に置いて、それぞれ向き合って立ち……」、また誓約の段の「天安川を間に置いて、それぞれ誓約するとき」などに基づく。〔「置」と書くのは日本の古い言葉で、「挾」と書くのは漢文の表し方である。〕それぞれの注〔本書巻六の二十九丁、巻七の四十八・四十九丁〕も考え合わせるべきである。「各」は「相挑」までかかり、互いにということ。「挑」は相手を誘い動かすことで、そこから争う意味にも転じた。ここでは、互いに挑発し、戦おうと勇み立つことをいう。「今謂伊豆美也」の六字は、諸本ではみな小字だが、ここでは改めて本文の大字にした。同様の例を考えると、白檮原の宮の段の「その地を楯津と名付け、今は日下の蓼津という」、玉垣の宮の段の「その地を懸木と名付け、今は相楽という」「その地を墮国と名付け、今は弟国という」、訶志比の宮の段の「その浦を血浦と名付け、今は都奴賀という」などは、すべて大字の本文で、注にする例はないからである。伊豆美は、『和名類聚抄』の山城国相楽郡水泉郷〔いづみ〕で、『続日本紀』巻三十一には出水郷とある。『万葉集』巻四には「蛙の鳴く泉の里に」、巻十一には「宮殿用の材木を引き出す、泉の杣山に」などの歌がある。川は〔すなわち木津川である〕、『延喜式』雑式に「山城国泉川の樺井の渡瀬には、官が東大寺の工人を率い、毎年九月上旬に仮橋を造る」と見える。『万葉集』巻一の「泉川に運び越していく真木の材木を」、巻九の「恋しい人の門に入り――泉川の」〔「入り」から「泉」へ音をつなぐ表現〕、巻十三の「真木を積む泉川の速い瀬」、巻十七の「楯並めて〔たたなめて。泉に掛かる枕詞〕、泉の川は」、また「青丹よし〔奈良に掛かる枕詞〕、奈良山を過ぎ、泉川の清い川原に馬をとどめ」、『古今集』羈旅の「都を出て今日で三日、みかの原、泉川」、『新古今集』恋の「みかの原を通って流れる泉川」など、このほかにも歌はたいへん多い。『日本書紀』には、「さらに那羅山を避けて進み、輪韓川に着き、埴安彦と川を挟んで陣を張り、互いに挑み合った。そこで当時の人が川を挑川と改めて呼び、今の泉川はそのなまりである」とある。

「其廂人」は「そなたのひと」と読む。明の宮の段にも「川辺に伏せ隠した兵が、あちら側とこちら側で一斉に立ち上がった」とあり、〔これも「かなた・こなた」と読んでよい。〕「廂」は軍防令に「左右廂」とあり、『令義解』には「左右廂とは、左右の方というのと同じである」とある。〔この箇所の『令義解』の説明には誤りがありそうだが、「左右の方と同じ」という部分はそのとおりだろう。『唐六典』には「牧場の馬にはみな焼き印を押す。左の肩には小さい『官』の字、右のももには年、尾の脇には監の名を記し、すべて左右廂に従う」とある。その前には「馬の監を左右に分け、良馬と粗馬を区別する」「細馬の監を左、粗馬の監を右と称し、土地の名を監の名にする」とある。これから見れば「左右廂」は左右の監のことで、監の名を記すとは、例えば「左の何々監」「右の何々監」と押すことだ。「すべて左右廂に従う」は、いずれにもその左右を記せということである。したがって、ここでも「廂」は監の左右、左方・右方をいうにすぎない。〕何であれ、あちらとこちら、二つの側があることについて使う、軽い意味の字である。〔「廂」という特定の物があるのではない。そもそも『玉篇』は「東西のわき屋」と注し、『史記索隠』にも「正寝の東西の部屋を、いずれも廂と呼ぶ」とある。その意味を取って、左右に並ぶものは何でも左廂・右廂という。ここの使い方は、さらに転じ、ただ、あちらとこちらが向かい合うことをいうのである。〕「忌矢」は「いはひや」と読む。両軍が近く向き合って戦いを始める時、まず互いに一本ずつ矢を射交わす作法である。戦いの最初なので、特に重く扱い、身を清め慎み、神にも祈って放つため、「忌矢」という。〔後世にも「矢合わせ」の儀式があるのは、この作法が残ったものである。〕「可彈」は「はなて」と読む。

〔前頁からの続き〕朝倉の宮の段にも「それぞれ名を名乗って矢を放った」とある。「乞云」は、下の句を先に読んでから返り、「こふままに」と読む。〔「ままに」に当たる字はないが、そう読めば文の勢いがよい。〕「彈矢者」は「はなづるやは〔放つ矢は〕」と読むべきである。〔また、「やはなづば〔矢を放つと〕」と読んでもよい。〕「射」は、師が「いあてて」と読んだのがよい。『日本書紀』には、「埴安彦が敵軍を見て、彦国葺に『何のわけがあって、お前は兵を起こして来たのか』と尋ねた。彦国葺は『お前は天に背き、道に外れ、皇室を傾けようとしている。だから正義の兵を挙げ、お前の反逆を討とうとするのだ。これが天皇の命である』と答えた。両者は先に射ようと争い、武埴安彦が先に彦国葺を射たが、当たらなかった。次に彦国葺が埴安彦を射ると、胸に当たって殺した」とある。「其軍」は建波邇安王の軍である。「散」は、師の「あらけぬ」という読みがよい。『日本書紀』神代巻でも「散去」をそう読む。「久須婆の渡し」〔「婆」は諸本が「波」とするが、ここは真福寺本に従った。次の箇所も下巻も「婆」とするからである〕は、『和名類聚抄』の河内国交野郡葛葉郷〔くすは〕である。〔今も楠葉村があり、「す」を濁らせ、「は」は濁らせずに呼ぶ。『和名類聚抄』も「葛」の字を使うのは、中古からそう呼んだからだろうか。〕『日本書紀』継体天皇巻に樟葉宮、『続日本紀』巻五に交野郡楠葉駅などが見える。「度〔渡し〕」は、穴穂の宮の段にも「逃げて玖須婆川を渡った」とある。淀川にあり、今も楠葉の渡しという。〔対岸は摂津国である。〕ここは山城国綴喜郡との境に近い。淀川は泉川の下流なので、川沿いに綴喜郡を通って逃げる軍を追い、この渡しに着いて追い詰めたのだろう。

「被迫窘而」は「せめらえたしなみて」と読む。「らえ」は「られ」の古い形である〔すでに上で述べた〕。「たしなむ」は、『日本書紀』神代巻の「辛苦困厄」、神武天皇巻などの「厄」、欽明天皇巻の「劬労」、斉明天皇巻の「困苦」などを読む語で、〔「窘」は字書に、追い詰められる、困る、切迫する、と注される〕苦しみ困ることをいう。「屎」は上巻〔本書巻五〕に出る。ひどく苦しんで追い詰められた時、自然に漏れてしまうことがあるものだという。「褌」も上巻〔本書巻六の四十九丁〕に出ている。「今者謂久須婆」の六字は、諸本ではみな小字だが、ここでは改めて本文とする。理由は先の伊豆美の注と同じである。「遮」は、後ろから追う官軍のうちに、別の道から前方へ回って行く手を遮った者もいたのだろう。「如鵜浮於河」は、「うのごと、かはにうきたりき」と読むべきである。前方をふさがれてどうしようもなく、川へ逃げ入り、水に浮き漂う姿が鵜のようだったということだ。「鵜」は上巻〔本書巻十四〕に出る。「斬者」は、斬りかかると、というような意味で、すべて斬り終えた後のことではない。〔真福寺本には「斬」の上に「前」があるが、「爲」などの誤りで、「斬ろうとすると」ということか。旧版本も延佳本も「鵜が川に浮かぶようだった」と読むが、それは誤りだ。「川に浮かぶ」こと自体はたとえではないから、「ようだった」に含めてはいけない。たとえは鵜だけなので、「鵜のように」である。「浮於河」まで鵜の様子としてたとえに含めるなら、その後にさらに「浮き流れた」「浮き漂った」などがなければ言葉が足りない。よくよく読み味わうべきである。〕「鵜川」という地名は文献にも見えず、今も聞かない。なお考えるべきである。〔「その川を名付けた」とあるからといって、泉川の別名だと考えてはならない。同じ川の流域ではあるが、その一地点に付けた名で、木津の渡しから楠葉の渡しの間にあるはずである。〕この出来事は『日本書紀』には見えない。

「斬波布理」について。「はふる」は「屠る」と同じである。上巻の八岐大蛇の段に「その蛇を切り散らすと」とある「散」も、「はふり」と読むべきだ。そこの「切」を『日本書紀』が「寸斬〔ずたずたに斬る〕」とすることから、「はふる」の意味が分かる。また、白檮原の宮の段で兄宇迦斯について「引きずり出して斬り散らした。そこで、その地を宇陀の血原といった」とあるのは、その後の文までここと同じ形である。したがって「散」を「はふり」と読むべきこと、「はふる」が散らす意味であることが、ますます明らかになる。〔『万葉集』巻十三の「剣太刀を磨くように研ぎ澄ました心を、天雲のように思い乱して」という歌の「散之」も、「はふらし」と読むべきで、今の本の読みは誤りである。また、流浪することを「はふる」というのも、落ち着いていた人が散り乱れる意味で、もとは同じである。水があふれるのも同じだ。「あふる」と「はふる」は通じていうことが多い。俗語で物を捨てるのを「ほをる」というのも、「はふる」が発音しやすく変わったもので、もとは同じ語・同じ意味である。〕ここは「波布流〔はふる〕」とあるべきなのに、「理〔り〕」なので文が収まらず、後に助辞を添えなければ読みづらい。音を表す仮名に、書かれていない助辞を添えて読むのは好ましくないが、日代の宮の段の「如何泥疑之」〔「ねぎし」と読んでも「し」を補わざるをえない。末尾の「之」は『古事記』で音仮名に用いた例がないので、単に添えた字であり、「斯〔し〕」に当たるのではない〕や、白檮原の宮の段の「遠延」なども、助辞を添えなければ読みにくい。そこでここも「し」を補って、後の「故」に続けて読んだ。この出来事は、先の「逃げる軍を遮って……」の続きにも聞こえるが、そうではない。あれとは別の場所で起きた、もう一つの出来事である。「波布理曾能〔はふりその〕」は、『和名類聚抄』の山城国〔次頁に続く〕

〔前頁からの続き〕相楽郡祝園郷〔はふその〕があり、これである。〔「り」を省いて呼ぶのは、中古からのことだろう。「祝」の字を使うので、もとは「はふりその」だったことが明らかである。今は祝園の東・西・南・北・中の五村がある。〕『延喜式神名帳』には祝園神社もある。〔中古以後の歌に詠まれる柞山・柞杜は、祝園と別の場所か同じか、よく考えるべきである。〕先の鵜川と、この祝園の出来事は、泉川の渡しから久須婆までの途中で起きたことなので、本来は久須婆の話より前に置くべきだろう。しかし、追い詰めた先の土地のことを先にいい、途中のことに戻って後からいうのも、出来事を記す一つの方法である。「覆奏」について。「復」を「覆」とも書くことは、上〔本書巻十七の四十五丁〕で述べた。ここは大毘古命と日子国夫玖命のことである。『日本書紀』には、「敵の軍勢が恐れて退いたので、川の北側まで追って破り、半数以上の首を斬った。死体や骨があふれるほどだったので、その所を羽振苑と名付けた。また、兵が恐れて逃げ、糞を褌に漏らし、鎧を脱いで逃げた。逃れられないと分かると、頭を地に打ちつけて『我が君』といった。当時の人は、鎧を脱いだ所を伽和羅、糞を褌に漏らした所を屎褌と名付けた。今いう樟葉はそのなまりである。また、頭を地に打ちつけた所を我君と名付けた」とある。〔伽和羅という地名は、『古事記』では軽島の宮の段に出るが、由来が違う。「褌屎」の箇所は、文字が抜けたのだろう。我君は『延喜式神名帳』の山城国相楽郡、和伎坐天乃夫支売神社のある地である。この社は、今の大平尾・小平尾の両村の間の涌杜という森にある、涌出宮という神社である。「和伎」を「涌」に読み替えたのだ。『日本書紀』の「我君」に、版本が「あぎみ」と読みを付けたため、これが和伎のことだと昔から誰も気づかなかった。古語に通じていないためである。〕

〔『古事記』本文〕そこで大毘古命は、先の命令に従って高志国へ向かった。一方、東方へ遣わされていた建沼河別は、父の大毘古と相津で行き会った。それで、その地を相津という。こうして二人は、それぞれ派遣された国々を治め、戻って報告した。

「先命」は、先に「大毘古命を高志道へ、その子の建沼河別命を東方十二道へ遣わして……」とあった、その命令のことである。ここは「大毘古命は」と、この命だけにかかるように見えるが、自然に建沼河別命にもかかって聞こえる。〔「先の命に従い、大毘古命は高志国へ、建沼河別命は東方の国へ向かった」というのと同じである。〕「自東方」は「於」とあるべきところで「自」を用いる理由を、次に述べる。「所遣」は「まけし」と読む。「まけ」は「まからせ」が縮まった語で、〔「からせ」を縮めると「け」となる〕遣わしたという意味である。〔「任」の字の読みに関連して、本書巻九の四十八丁で述べたことも考え合わせるべきだ。〕『万葉集』巻十七に、「遠い地方を治めよという、大君の任命のままに、出て来た」、また「大君の任命のままに、ますらおの心を奮い起こし、山坂を越えて遠い地方へ下り」、また「大君の任命のままに、遠い越を治めるため、出て来た」などとあることから分かる。「與其父大毘古」は、前にすでに「大毘古命は」とあるので、本来は単に「東方へ遣わされた建沼河別と」とあればよさそうなのに、改めて「その父大毘古と」とする。この文は、建沼河別の方を主として述べているからである。

「相津」は、『和名類聚抄』の陸奥国会津郡〔あひづ〕である。〔会津・耶麻・大沼・河沼を会津四郡と呼びならわす。『和名類聚抄』に大沼・河沼は見えない。桃生郡の次にある大沼は、別の場所だろうか。白河郡の箇所に「国を分けて高野郡とし、今は分けて大沼・河沼の二郡とする」とあるが、「今は分けて」以下は、会津郡の箇所にあったものが取り違えられたのか。「国を分けて」と「今は分けて」が重なるのも、不自然だからである。〕『万葉集』巻十四に「あひづねの……」とある。〔「ね」は峰。〕『古今和歌六帖』には「思いがけず会津川を渡り、つらい浮名を水に流してしまったなあ」、また『後撰集』の離別には「君ばかりを信じて信夫の里に住む私なのに、会津の山が遠く、君に会えないのはなぜ」という歌がある。〔この相津を延佳が近江の大津としたのは、「あふ」と「おほ」を混同した、甚だしい誤りである。また師は、近江の粟津を「は」と「ひ」が通じる音なので相津というのだろうとしたが、これもよくない。玉垣の宮の段の「尾張の相津」も、これとは別である。〕『新撰姓氏録』の難波忌寸の条には「大彦命が、磯城瑞籬宮の天皇の治世、蝦夷を治めるため遣わされた時……」とある。これは、この命が陸奥まで行った証拠である。「往遇」は、建沼河別命が東方十二国を順に服従させて下り、大毘古命が越の国々を服従させながら下り、陸奥で〔次頁に続く〕

〔前頁からの続き〕二つの方角から進んで来て行き会ったことをいう。会津は今も、東海道から下る道と、北陸道から下る道が出会う土地である。〔今の東海道方面からの道は、常陸国から陸奥に入り、赤館・白河などを通って会津に至る。北陸方面からは、越後国から二つの道があり、一つは新発田から行く大きな道、もう一つは長岡から行く道である。昔と今では道路にも変化はあるだろうが、これらの道筋はおおよそ大きく変わってはいないはずだ。会津へは上野国・下野国からの道もあるが、建沼河別命が下ったのは、そのどちらでもあるまい。〕先に「自東方」の「自」を使うのは、道の先でこのように出会うことを述べようとするからである。〔北から下った人と、東から下った人が出会ったのである。相津をほかの国と考えては、この「自〔から〕」にも合わない。よく読み味わうべきだ。〕このような遠国で出会うのは、単なる知人どうしでも感慨が深いはずである。まして父と子が出会ったのだから、互いの思いは格別だっただろう。その深い情を表すため、前の文で改めて「その父」といったのだろう。〔そうでなければ、「その父」とはいわなくてもよいところである。この相津が陸奥の会津だということに、歴代の学者が今まで気づかなかったのは、どうしたことだろう。『古事記』に名の由来までこれほど詳しく見えるのに、その土地の人も今なお知らずにいるのだろうか。〕

「和平所遣之國政而」は「まけつるくにの、まつりごとことむけて」と読む。「政」は、ここでは服従する人をなだめ受け入れ、従わない人を討って、その国を平定することをいう。それも朝廷にお仕えする務めの一つだからである。〔およそ「まつりごと」は、臣下が天皇の命を受けてお仕えすることの呼び名である。本書巻十八の七丁で詳しく述べたので、考え合わせるべきだ。〕倭建命の段の「所遣之政」もこの意味である。「政を和平する」という表現は少し不自然にも聞こえるが、若桜の宮の段にも「天皇のご命令の務めは平定し終えましたので、参上してお仕えしておりますと申し上げさせた」とある。〔天皇の命を受け、墨江中王を殺したことを「政」というのである。〕『日本書紀』舒明天皇巻にも「水の向こうの政を平らげる」とあり、古語ではこういういい方もしたのだろう。これらは、その任務を果たしたことを「和平」といったのである。〔師は「政」を「訖」の誤りとして、「派遣された国を平定し終えて」と読んだ。それなら無理なく整う。前にも「このように平定し終え、参上した」とあり、上巻にも「葦原中国の平定を終えたとの報告」などがあるからである。しかし、若桜の宮の段に「政旣平」の例があるので、やはり「政」の誤記ではない。〕『日本書紀』には、「群臣に『今や反逆者はすべて処刑され、畿内に問題はない。ただ海の外の荒々しい人々は、まだ騒ぎをやめていない。四道将軍らは急いで出発せよ』と命じた。将軍たちはそれぞれ旅立ち、十一年夏四月壬子朔己卯、異民族を平定した事情を報告した」とある。〔ここで「海外」というのはどうだろう。四道はどれも海の外ではない。また、四道将軍がみな夏四月の同じ日に帰って報告したというのも、どうだろう。漢文による脚色のため、このようなことも起こるのだろう。〕

〔『古事記』本文〕こうして天下は平和になり、人々は豊かに栄えた。そこで初めて、「男の弓端の調」と「女の手末の調」を納めさせた。〔弓で得た獲物や、女性の手仕事で作った織物などの貢ぎをいう。女性自身にも納税の義務があったかは、後の注で検討する。〕そのため、この天皇の治世をたたえ、「初めて国を治められた御真木天皇」と申し上げた。

「太平」は「たひらぎ」と読む。『日本書紀』の景行・仁徳天皇巻などでもそう読み、垂仁天皇巻には「人々は豊かで満ち足り、天下は平和だった」とある。「男」は「をとこ」と読む。『古事記』では「をとこ」に「壮夫」を当て、若く盛んな男性をいう。「男」の字は単に「を」に当たるが、老若を問わず「をとこ・をみな」と呼ぶこともある。『万葉集』巻二十にも「秋の野には、もののふの男も女も、今こそ行こう、花の美しく咲くさまを見に」と詠む。〔この歌は、一・三・四・二・五の順に句を並べて見るべきで、「男も女もの花」という続き方ではない。〕「弓端」は「ゆはず」と読む。『和名類聚抄』には、『釈名』を引いて「弓の末を弭といい、和名ゆみはず」とある。〔「ゆみ何々」という語は「み」を省いて「ゆ何々」という例が多いので、古くは「ゆはず」といった。〕『日本書紀』神代巻に「弓弭」、神武天皇巻に「皇弓之弭」などもある。〔「弭」も弓の末端の名である。〕はずは弓の両端にあって、角や骨などで作る部品である。『万葉集』巻十六の歌に、〔鹿自身の言葉として〕「私のひづめは、御弓のはずに」とあるのは、鹿のひづめなどでも作ったのだろう。また巻一の「梓弓の鳴りはずの音がする」〔今の本は「弭」の上の「利」を「加」と誤っている〕、巻二の「手に持つ弓はずが鳴り……聞くも恐ろしく」などからは、射るとき高い音を立てるものがあったらしい。〔これは古代の〔次頁に続く〕

〔前頁からの続き〕弓はずがどれもそうだったのか、大して音のしないものもあったのか、詳しくは分からない。今の弓も音はするが、それほど高くはない。〕矢にも「はず」という部分がある。ここは単に「弓」といえばよいところを、「弓端」といった、美しい言い回しである。〔実際には弓をいう修辞なので、「ゆすゑ」と読むべきかとも考えた。「弭」は弓の末の一部分だけを指す狭い名なので、弓全体にその名を使うのはどうかと思えるが、「末」は末の方を広くいうので、弓の意味にも使いやすい。弓について「末」というのはふつうで、「梓弓」は「末」にかかる枕詞にもなる。しかし、なおよく考えれば、「はず」は一部分の名でありながら、「ゆはず」といえば自然に弓の末端の意味にもなるので、「末」というのと同じである。また「端」の字も、「末」より「弭」に近い。「末」ならその字を使えばよいのに、そうしないのは「はず」だからか。「弭」はややなじみの薄い字で、当時はまだ「はず」の表記として広く用いられなかったため、「端」と書いたのだろう。さらに「手末」と対にするには、「ゆすゑ」より、言葉を変えて「ゆはず」といった方が、表現もいっそう美しい。〕「女」は「をみな」と読む。「手末」は上巻〔本書巻十四の二十一丁〕に出て、手先というような意味である。

「調」は「みつぎ」と読む。遠飛鳥の宮の段には「御調」と書く。『日本書紀』の「調」「賦」などは、みな「みつぎ」「みつぎもの」と読む。〔「苞苴」もそう読み、敏達天皇紀には「調物」ともある。〕「朝貢」「脩貢職」などは「みつぎたてまつる」と読む。「みつぎ」の「み」は尊敬を表す「御」、「つぎ」は「つぐ」を名詞にしたもので、敬って供給するという意味である。〔「給」は、互いに足りるようにする、供える、備える、とも注される。この字をふつう「たまふ」と読むため、上から下へ下さることだけだと思われがちだが、それだけではない。〕俗語で人に物を「みつぐ」という「つぐ」と同じで、「つぐ」は続ける意味だから、「みつぎ」とは、公の用に使うさまざまな物を、下の者が供給して差し上げる意味の名である。〔「み」を省いて単に「つき」ともいう。次に引く『万葉集』巻十八の歌は「萬調」と詠み、『日本書紀』の読みでも見える。『拾遺集』にも、「調の絹」を「月の衣」にかけて詠んだ歌がある。〕朝廷に貢ぐ物は、すべて「みつぎ」で、田から納める租税も含まれる。〔次の『万葉集』巻十八の歌から分かる。〕ただし、通常は田租以外に貢ぐさまざまな物を「みつぎ」といい、ここもそうである。〔「調・庸・賦・貢」の字があって区別が紛らわしいので、おおよそをいう。「調」は次に詳しく述べるとおり。「庸」は、労役に出るべき人が出ない場合、その日数に応じて代わりの物を納めること。令の制度では一日につき布二尺六寸で、「庸布」とはこれである。「賦」はこの種の負担を広くいう名で、別種の負担があるわけではない。「貢」も「賦」と同じような意味だが、物を献上する行為に多く使う。〕

『万葉集』巻一に、「山の神が差し上げる御調として、春には花を髪飾りにして……」という歌がある。〔山の花や黄葉を、山の神が天皇に差し上げる御調に見立てていうのである。そう考えれば、天下にあるあらゆる物は、まことに神が貢いでくださる御調なのだ。〕巻十八には、「天の日継を治めてこられた大君の、代々お治めになる四方の国は、山川が広く厚く恵みをもたらすので、献上する御調の宝は、数えることも尽くすこともできない」、また「天皇の治める国の、天下の四方の道、馬の蹄が届く限り、船のへさきが泊まる限り、昔から今の今まで、あらゆる貢ぎの第一として作ってきた、その稲の実りを」という歌がある。〔稲穀を「萬調の司」といったのである。「司」は第一ということ。これから見れば、田租も貢ぎ物に含まれる。〕巻六には、「淡路の野島の海人が、海底の沖の岩礁に潜り、鮑の珠をたくさん取り、船を並べてお仕え申し上げる、その尊さを見ると、御食つ国の毎日の御調として」とあり、巻二十には「お治めになる四方の国から、献上する御調の船は……」とある。『金葉集』賀には、「貢ぎ物を運ぶ男たちを数えると、里人の数が二万人に増えている」と詠む。では上代の貢納制度はどうだったのか、細部は分かりにくい。孝徳天皇紀には、「大化二年春正月甲子朔、改新の詔を宣べた。その第四条に、従来の賦役をやめ、田にかかる調を行う。絹・絁・糸・綿は、その土地に産するものによる。田一町につき、絹一丈、絁二丈、布四丈とする」とある。〔糸・綿の絇・屯の量は、諸本に見えない。〕「別に戸ごとの調を取り、一戸につき貲布一丈二尺。調の副物、塩や食物も、土地の産するものによる……」と続く。〔文章を省いて引いたので、原書を参照すべきだ。〕同年秋八月庚申朔癸酉には、「調賦は男の個人に課して取れ」と詔した。〔正月に定めた田ごとの調と戸ごとの調を改め、男一人ずつに課す調にしたのだろう。〕賦役令には、「調の絹・絁・糸・綿・布は、いずれも土地の産物による。正丁一人につき絹・絁八尺五寸、六丁分で一疋。糸八両、綿一斤、布二丈六尺で、糸・綿・布はそれぞれ二丁分で絇・屯・端の単位になる。雑物を納める場合は……」とある。〔雑物の品目はここでは省く。原書を参照すべきだ。〕「次丁二〔次頁に続く〕

〔前頁の『賦役令』の引用の続き。〕次丁二人、中男四人を、それぞれ正丁一人分に換算する。調の副物については、正丁一人につき、しかじかとある。〔副物の品目もここでは省略した。〕京と畿内では、正丁一人につき調の布一丈三尺とし、次丁二人、中男四人を、それぞれ正丁一人分とする。〔正丁は二十一歳から六十歳までの男子、次丁は六十一歳から六十五歳までの男子と残疾のある者、中男は十七歳から二十歳までの男子をいう。右に挙げたさまざまな品を、一人がすべて納めるというのではない。絹であれ布であれ、その土地で産するものを一種類ずつ納める。雑物や副物も同じである。諸国の調の品目は『主計式』に詳しく載っている。また、諸国からの貢献物は、この調とは別に定められている。各国は国内の調を取り集め、国司や郡司がそれを率いて京へ運び、大蔵省へ納める。その使者を「貢調使」という。調の制度は『賦役令』『民部式』『主計式』などに詳しいので、照らし合わせて考えるとよい。〕

ここでいう「弓端の調」とは、弓で射止めた獣の肉や皮などを献上することをいう。上代には日常的に獣肉を食べ、皮を衣服や敷物に使うことも多かった。そのため、それを代表としてこう呼んだのである。〔『古語拾遺』は、『日本書紀』仁徳巻の佐伯部と兎餓野の話に関連して、この「男の弭の調・女の手末の調」を記し、「今、神祇の祭りに熊の皮、鹿の皮、角や布などを用いるのは、これによる」と述べている。しかし令や式の時代になると、獣の利用は全体に少なくなっていたらしい。調の雑物にはそうした物は見えず、副物の中に猪の脂三合、干し肉一合五勺、鹿の角一頭分、鳥の羽一隻があり、諸国の貢献物の中に皮革や羽毛がある程度である。『主計式』には、大鹿の皮一張、小鹿の皮二張、鹿や猪の干し肉、雉の干し肉、鹿や猪の鮨、猪の脂、鹿の角、緋色に染めた革などが載っている。〕ただし上代であっても、男子の調が弓で得た物だけに限られていたとは思われない。「女の手末」に対応させ、表現を整えてこう呼んだのである。
「手末の調」は、女性が手で作った物、絹や布などを献上することをいう。〔『新撰姓氏録』に、調首は百済国の努理使主の子孫であり、弘計天皇の御代に養蚕と機織りをして絹や絁の見本を献上したので、調首の姓を賜った、とある。〕手で行う仕事を広く「手末」という。『日本書紀』雄略巻の「手末才伎」も、手先で物を作る職人をいう。ところで先に引いた孝徳巻や令によると、調を納めるのは男子だけで、女性は納めない。それでも女性の手で作る物を「女の調」といったのだろうか。神功巻で、新羅王が「毎年、男女の調を献上します」と申し上げたのも、そのように読める。〔ここで納めるのは新羅王であり、新羅の女性が直接納めるという意味ではない。〕しかし男子だけが納める制度は後世にでき、上代には女性も納めたのかもしれない。〔孝徳朝や令の制度は、多くが中国の唐の制度に基づいている。〕断定はできない。上代の言葉が、このようなことにも表現を整え、「弓端の」「手末の」などと語り伝えてきたのは、実に立派で優美なことである。

「初めて貢らしむ」は、ここで初めて納税の制度を定めたという意味だろう。はっきりした定めこそなかったとしても、それ以前のどの御代にも、それぞれの分に応じて御調を献上することは、必ずあったはずだからである。『日本書紀』には、「十三年春三月の詔に、この時に人民を改めて調べ、年長者と年少者の順序、課役の先後を明らかにせよ、とある。秋九月、初めて人民を調べ、改めて調と労役を課した。これを男の弭の調、女の手末の調という」とある。〔この詔の言葉は、例のとおり編者が文章を飾って作り加えたもので、上代の考えや言葉そのものではない。ただし「改めて調べる」「改めて課す」と述べている点は、実際そうだったのだろう。初めて課税したということではない。〕この『書紀』が「始めて」を「人民を調べる」にかけているところに、実情を細かく伝えた形が残っているのだろう。

「稱」は「たたへ」と読む。〔『日本書紀』では「ほめまをす」と読み、神武巻も同じである。〕『書紀』神代巻に「稱辭」とあり、『延喜式』の祝詞にも「稱辭竟奉〔たたへごとをへまつる〕」という表現が多く見える。いずれも「たたへごと」と読む。『大神宮儀式帳』にも「天津告刀乃太告刀乃、厚廣事遠多々倍申〔天の祝詞、その立派な祝詞の、厚く広い言葉をたたえ申し上げる〕」とある。水がいっぱいになることを「たたへたり」というのと同じで、言葉を尽くし、十分に満たすように褒めたたえるという意味なのだろうか。「稱辭竟奉」の「竟〔をへ〕」も、その意味だろう。祈年祭の祝詞の、「四方の国は、天が壁のように立つ果て、国土の退く限り、青雲のたなびく果て、白雲が降りて向かい伏す限り、青海原では、棹の先を乾かすことなく、船尾が行き着く果てまで」といった表現は、みな言葉を極限まで尽くして、言い切ったものである。
〔また『書紀』推古巻の「その名を称して上宮厩戸豊聡耳太子という」、天武巻の「大三輪真上田迎君という諡を贈った」などの訓では、褒めたたえることを「たとへ」という。そういうのは、物を褒める際、祝詞などでもほかの物にたとえて、「横山のごとく打ち積み置きて」などということが多いからだろう。出雲国造の神賀詞でも、いろいろな物にたとえて天皇を褒め申し上げている。また、よく使う「常磐に堅磐に」も、「岩のように」とたとえていうのである。それで、褒めたたえることを、そのまま「たとふ」と呼ぶのだろう。このことから考えると、あの「稱――〔次頁へ続く〕〕

〔前頁の注の続き。〕「稱辭」を「たたへごと」と読むのは、「たとへごと」がなまったものかもしれない。この「稱辭」の訓のほかには、褒めることを「たたへ」という例が見当たらないからである。ただし「稱」を「たとへ」というのも、先に挙げた『書紀』の訓以外には見えない。そこで今は、従来どおり「たたへ」と読む。〕
「所知初國」は「はつくにしらしし」と読む。この称号は、後の御代になってから申し上げた言葉だろう。「その御世」といい、御名まで申し上げていることなどから、その天皇の在世中に述べたものとは読めない。だから「所知」は「しらしし」と読むべきで、「しらす」とは読まない。〔最後の「し」は、過去のことをいう言葉である。「しらす」なら現在のことになる。〕『書紀』神武巻には、「それで古い言葉では、この天皇を、畝傍の橿原において、宮柱を底つ岩の根に太く立て、屋根の高い部分を高天原に高くそびえさせ、初めて天下を治めた天皇、とたたえる」とある。孝徳巻にも「初めて国を治めた皇祖の時から」とある。神武天皇をこのようにたたえ、さらに崇神天皇にも同じ称号を申し上げる理由は、師の説のとおりだろう。すなわち、それ以前には服属していなかった遠方の国々まで、初めて天皇の治めが行き渡り、天下がことごとく平らかになった御代だからである。
では、「初めて」は「治める」にかかるはずなのに、なぜ「初国」と、国にかけていうのか。「国」とは、天皇が治める範囲の土地の名であり、〔このことは上巻ですでに述べた。〕「食国〔をすくに〕」ともいう。この御代に至って初めて、天下すべてが実際に食国となった。その食国を指して「初国」というのである。初めて食国となった国、とでもいう意味だ。『書紀』には、「こうして天つ神・国つ神がともに調和して祭りを受け、風雨は時に従い、穀物は実り、どの家も豊かで人々は満ち足り、天下が太平になった。それゆえ、御肇国天皇とたたえ申し上げた」とある。

〔『古事記』本文〕また、この御代に依網池を造り、軽の酒折池も造った。
「依網池〔よさみのいけ〕」の土地については、伊邪河宮の段の「依網之阿毘古」の注〔『伝』巻二十二の七十九葉〕で詳しく述べた。この池は『日本書紀』にも「六十二年冬十月、依網池を造った」とある。推古巻には「十五年冬、河内国に依網池を造った」とあるので、河内国丹比郡の佐羅郷にあった池である。この『古事記』の高津宮の段に「依網池を造った」とあるのも同じ池だ。〔現在、丹北郡池内村という所にある池である。ある説は、この御代に造った池を推古巻の池とは別とし、今も摂津国住吉郡庭井村の近くにある池だという。その池については、『伝』巻二十二の依網の箇所で『競宴集』の注を引いたので、参照してほしい。しかし、その池が昔の依網池だという証拠は古い書物に見えない。河内国の池についてはあちこちに証拠があるので、疑いがない。この御代に「造る」と記し、高津宮の段や推古巻にも「造る」とあることに矛盾はない。もともとあった池が浅くなったり崩れたりしたのを、後に改めて修理した場合にも「造る」といえるからである。〕明宮の段の御歌に「水たまる、依網の池の、堰杙打ち」とあるのもこの池である。〔『書紀』では、大雀命の御歌とし、河俣江と詠み合わせている。河俣江は河内国若江郡にあるので、池も同じ国にあって、つながりが理解できる。〕なお、本文の最初の「作」がない写本もあるが、それも誤りとはいえない。〔後に「作」があるので、「依網池、また軽の酒折池を造る」と、まとめて読むことができるからである。〕

「軽の酒折池」。軽という地名は境岡宮の段に出る。〔『伝』巻二十一の十六葉。〕酒折池は、ここのほかには見当たらない。同じ名の例には、倭建命の段の酒折宮がある。『書紀』では、〔依網池を造ったのと同じ年の〕十一月に「苅坂池・反折池を造った」とある。苅坂は軽坂で、反折は「さかをり」と読むのだろうか。そうなら、この『古事記』も「軽の池、酒折の池」で、最初の「池」の字が抜けたのか。あるいは『書紀』の「反」が「坂」の誤りなのか。また、ある写本はその字を「及」とする。これに従えば「折の池」になるので、『古事記』の「酒」が「池」の誤りなのか、それとも『書紀』に「酒」の字が抜けているのかもしれない。双方の本文が入り組んでいて決め難いので、ひとまず底本のまま読んだ。
玉垣宮の段、『書紀』応神巻〔十一年〕、『万葉集』巻三の歌には、軽池が出てくる。同じ巻三や巻十二などで「猟路の池」と詠むのも、軽路の池だと師はいわれた。この軽池を酒折池ともいったのか、それとも別の池なのか、詳しくは分からない。〔摂津国住吉郡には遠里小野村という所があり、現在「をりをの」と呼んでいる。したがって『万葉集』巻七・巻十六の「住吉之遠里小野之」は、現在の本の訓が誤っており、「をりのをのの」と六音で読むべきである。ここも、もし「折の池」なら、その土地にある池だろうか。これはあくまで試みに述べるだけである。〕

〔『古事記』本文〕天皇の御年は百六十八歳。御陵は、山の辺の道の、勾の岡の上にある。

「御年百六十八歳」。『日本書紀』では、「六十八年冬十二月、戊申を朔とする壬子の日に崩御。時に百二十歳」とある。〔これによれば、父天皇の九年にお生まれになったことになる。ところが、父天皇の二十八年正月に「皇太子とした。年十九」とあるのは一年違い、その年は二十歳に当たる。逆に十九歳という記載に従えば、崩御時は百十九歳となる。〕ある書物には百二十七歳とある。
古い版本、真福寺本、もう一つの写本などには、ここに「戊寅年十二月崩〔つちのえとらの年十二月に崩御〕」という七字の細注がある。今は延佳本と別の写本にないのに従った。このような細注は、ここから先の御代にも時々あり、下巻に記す御代では、ない方が少ない。いずれも後から書き加えたものだとは誰もが考えるが、よく考えてみると、この加筆も非常に古いものと思われる。どの注も干支や年月が『書紀』の記載と違い、下巻のいちばん最後になって初めて一致するからである。もしずっと後の人の仕事なら、必ず『書紀』の年代に従って記すはずだ。それと違うのは、ほかの古い書物に根拠があるからだと考えられる。〔上代の干支や年月は、『書紀』のようなものだけではなく、当時の古書にはそれぞれ異なる記録があったはずだから、両書が完全には一致しないのも当然である。もしこの注が後世の人のものなら、どの書物に根拠があっても、必ず『書紀』を差し置いてその書物だけに従うことはしなかっただろう。〕いちばん最後の方が『書紀』と合うのは、時代が近く、記録が詳しくなっていて、諸古書にも相違がなかったからだろう。〔また、この御代より前にそういう注がないのは、根拠とした書物に、開化天皇までは崩御の年月が記されていなかったためだろう。後世の人の加筆なら、『書紀』に従って神武天皇以来を漏れなく注記したはずである。〕

そこで思うに、あるいは太安麻呂朝臣が、一つの書物に基づいて、自分で書き加えたものかもしれない。〔本文に続けず細注にしたのは、阿礼が誦んだ言葉ではなく、個人の判断で別に加えたものだったからだろう。〕安麻呂自身の手になるものでなくても、必ず古い時代の人の仕事であろう。〔世間の人は『書紀』と合わないから採用しないようだが、私はむしろ、合わないところに奥深い価値があると思う。〕それでも今この本文に採らないのは、稗田の老翁が誦み伝えた、天皇の勅命による古い言葉そのものではあるまいと考えるからである。戊寅の年は、『書紀』の年代ではこの御代の五十五年に当たり、十三年の差がある。これも、ある書物の年代記録なのだろう。〔必ずしも『書紀』だけにこだわる必要はない。〕月は一致している。

「山邊道勾之岡上」は「やまのべのみちのまがりのをかのへ」と読む。『日本書紀』には「翌年秋八月、甲辰を朔とする甲寅の日に、山辺道上陵に葬った」とある。一方、垂仁巻には「元年冬十月、癸卯を朔とする癸丑の日に葬った」とある。〔これほど月日が食い違うのは、どうしたことか。〕『諸陵式』には、「山辺道上陵。磯城瑞籬宮で天下を治めた崇神天皇。大和国城上郡にある。墓域は東西二町、南北二町。守戸一戸」とある。〔また「衾田墓。手白香皇女。大和国山辺郡にある。守戸がないので、山辺道勾岡上陵の陵戸に兼ねて守らせる」とある。「道上陵」は『書紀』に基づく名だが、こちらで『古事記』と同じく「勾岡上陵」というのは、延喜のころにもそう呼んでいたのである。「道上」だけでは、景行天皇陵と混同しかねない。〕景行天皇の御陵も山辺の道上とある。〔これは『古事記』『書紀』『式』とも同じである。〕二つは近い場所にあるのだろう。
山辺は、『和名抄』に大和国山辺郡〔やまのべ〕とあり、『神名式』には山辺御県坐神社もある。この郡は城上郡の北に隣接する。『後撰集』には、伊勢が初瀬に参詣する途中、山辺という辺りで詠んだ歌、「草枕、旅となりなば、山の辺に、白雲ならぬ、我や宿らむ〔旅の身となったからには、山の辺に宿るのは白雲ばかりでなく、この私でもあるのだろう〕」がある。『更級日記』にも、〔初瀬へ参る道の記事で、東大寺、石上について述べた後に、〕「その夜、山辺の何々という寺に泊まって」とある。中昔までは山辺という土地があり、その土地の名から郡名にもなったのである。山辺というのは、山辺郡南部から城上郡へかけての広い土地の名で、この二つの御陵〔崇神・景行〕のある所は城上郡に属する。〔山辺郡にある衾田墓を、こちらの陵戸に兼ねて守らせるという記載から、この御陵が山辺郡の境に近いと分かる。〕したがって御陵名の山辺も、隣の郡名の山辺も、もとは同じ地名である。
「道の勾の岡」の「道」は、長谷から山城国の方へ往来する大道をいう。〔この道筋は今も大道である。〕「勾の岡」は、その大道が曲がる所にあるための名だろう。〔単に「山辺の勾の岡」とせず、特に「道の」とつけるのは、御陵が大道のすぐ近くにあったためだろう。『書紀』の「道上」もそのためである。なお、大和国内には「勾」という地名があちこちに見えるが、ここはそれらとは別で、ただこの岡についた名である。〕御陵について『大和志』には「在――〔次頁へ続く〕

〔前頁の『大和志』の引用の続き。〕「渋谷村の南にあり、陵のそばに塚が四つある」という。〔『前皇廟陵記』には、「一説に、今の東山であろうか。俗に宇和奈利山といい、玉身墓ともいう」とあるが、どの辺りなのか、はっきりしない。また大和国の人の話では、三輪から丹波市へ向かう途中の柳本村から七、八町東の山際に、岩屋が二つある。どちらも奥行き五、六丈で、奥に石槨がある。毎年十二月末日の夜には、その上に自然に灯がともり、恐ろしい声がするという。そのほかにも不思議な話があり、これが崇神・景行二天皇の御陵ではないかともいう。
荒木田久老はこう述べる。「柳本村の東の山際に、塚山が二つある。一つは、少し坂を上がった所にあって、周りに池があり、そばには小さな塚も一つ二つある。今この山を爾佐牟邪山〔にさむややま〕と呼ぶのは、『御陵山』がなまったのだろうか。もう一つは、その山の東の高い所にあって、形は同じく、周囲に池があり、山の上には碁石を敷き詰めている。この二つは疑いなく御陵に見える。崇神・景行とも山辺の道上と記されるが、一方は道下を誤ったのだろう。この上下の二つの塚山こそ、両天皇の御陵であろう」と。
しかし、一方は「道下」の誤りで、上下にある二つの塚だというのはどうだろう。「道上」の「上」は、高低の「上」ではなく、道のほとりという意味である。だから二天皇の陵を、ともに道上といってよい。ただし、この『古事記』では、崇神陵は「勾の岡の上」、景行陵は単に「道上」とあるので、崇神陵は高い所にある方だろう。『大和志』の記載、大和の人の話、久老の話は、すべて同じものを指すのか、それぞれ別なのか、詳しくは分からない。地元の人と久老の話は同じ場所に思えるが、形の説明が一致しないのは疑問である。
渋谷村と柳本村は近隣にあり、ともに山辺郡の境にごく近いので、二つの御陵がこの辺りにあること自体は確かだろう。この付近の昔の大道は、今の道より東寄りにあったのだろう。また、今の歴代御陵図を見ると、どの天皇のものか確かでない陵が幾つかある中に、渋谷村に続く土地にある一つを「上山塚」と記している。これは『大和志』の記すものと同じか、別なのか。この辺りには塚山が多いというので、今、確実に特定するのは難しいだろう。私はまだこの付近を詳しく訪ね調べていないから、細かいことはいえない。さらによく考えて定めるべきである。〕

古事記伝 巻二十四 玉垣宮 上巻

本居宣長 著

伊久米伊理毘古伊佐知命は、師木の玉垣宮にお住まいになり、天下を治めた。この天皇は沙本毘古命の妹、佐波遅比売命を妻とし、品牟都和気命という一人の子をもうけた。

また旦波比古多多須美知能宇斯王の娘、冰羽州比売命を妻とし、印色之入日子命、次に大帯日子淤斯呂和気命、次に大中津日子命、次に倭比売命、次に若木入日子命の五人をもうけた。「印色」の二字と、「淤」から「気」までの五字は、音を表す。

また冰羽州比売命の妹、沼羽田之入毘売命を妻とし、沼帯別命、次に伊賀帯日子命の二人をもうけた。また沼羽田之入日売命の妹、阿邪美能伊理毘売命を妻とし、伊許婆夜和気命、次に阿邪美都比売命の二人をもうけた。「阿邪美能伊理毘売命」は名の字を音で読み、また、この二人の子の名も、音を表す字で記す。

また大筒木垂根王の娘、迦具夜比売命を妻とし、袁邪弁王という一人の子をもうけた。

また山代の大国之淵の娘、苅羽田刀弁を妻とし、落別王、次に五十日帯日子王、次に伊登志別王の三人をもうけた。「刀弁」の二字と「伊登志」の三字は音を表す。また大国之淵の娘で、先の苅羽田刀弁の妹にあたる弟苅羽田刀弁を妻とし、石衝別王、次に石衝毘売命、別名・布多遅能伊理毘売命の二人をもうけた。この天皇の子は合わせて十六人、男子が十三人、女子が三人である。

この天皇は、のちに中国風の諡号で垂仁天皇と呼ばれる。「師木」は前の伝二十三・二葉に出た。「玉垣宮」の「玉垣」は、垣をたたえていう名である。朝倉宮の段の歌に「三諸の神域に築く、尊い玉垣」、『日本書紀』神武巻には「玉牆の内つ国」などの例がある。ここはその言葉を宮の名とした。『日本書紀』には「二年冬十月、纏向へ都を移した。これを珠城宮という」とある。纏向については、日代宮の段で詳しく述べる。師木は広い地域の名で、纏向もその中の地名である。師は、『日本書紀』に「珠城宮」とあることから、ここも「タマキ」と読み、「キ」は「カキ」の略だと述べた。しかし「キ」なら「木」か「城」と書くはずで、「垣」と書く以上、『古事記』の伝える読みは「カキ」である。

この宮について『帝王編年記』は、大和国城上郡、今の纏向川の北で、里の西の田の中にあるとする。纏向川は穴師川ともいい、巻向山から出て穴師村を通り、西へ流れる。『大和志』には穴師村の西とあり、確かにその付近だろう。穴師も古い土地で、『延喜式』に「穴師坐兵主神社」、『万葉集』巻七には「巻向の穴師の川」、巻十二には「纏向の穴師の山」などがある。

「沙本毘古命」と「佐波遅比売命」は、どちらも伊邪河宮の段、伝二十二・五十八葉に出る。「品牟都和気命」は、後には「本牟智和気御子」とある。名については、そこで述べる。『日本書紀』には「二年春二月、辛未を一日とする己卯の日、狭穂姫を皇后に立てた。后は誉津別命を生んだ。生まれると天皇はかわいがり、いつもそばに置いた。しかし成人しても言葉を話さなかった」とある。

「旦波比古多多須美知能宇斯王」は、伊邪河宮の段、伝二十二・六十二葉に出る。ここの名は、諸本がいずれも「能」を欠いている。延佳が前の文章に基づいて補い、師もそれを採用しており、ここでも従った。この名は前に二か所あり、どちらも「能」がある。後にも二か所あり、一つにはなく、一つにはある。ない箇所は延佳本でも補っている。そもそも「ウシ」の前には必ず「の」があるのが例なので、ここにも「能」があるはずだ。「冰羽州比売命」は前の伝二十二・七十葉に出る。

「印色之入日子命」の「印色」は、『日本書紀』によれば「イニシキ」である。名の意味では、「印」は崇神天皇の名「印恵」の「印」と同じで、「色」は「磯城」だろう。「入」の意味は前の伝二十二・四十五葉で述べたとおりである。『日本三代実録』巻四には、薩摩国の「伊爾色神」という名が見える。

「大帯日子淤斯呂和気命」。「帯」は音を借りた字で、「足りる」の「タラシ」を表す。「淤斯呂」は「押し知る」だろう。『日本書紀』は「忍代」と書く。この「押し」は「おしなべて」「押し照る」などの「押し」で、全体を表す。「知る」は「しろしめす」、すなわち治める意味である。「和気」については日代宮の段、伝二十六・十九葉で述べる。『文徳実録』巻八には、伯耆国の「大帯孫神」が見える。

「大中津日子命」の名の意味は特別なものではない。『日本書紀』応神巻には「中子」、継体巻と欽明巻には「仲」、舒明巻には「仲子」があり、『万葉集』巻十四には「トノノナカチ」、つまり「殿の仲子」がある。『続日本紀』巻二十四と巻二十六には、女性の名に「中千」があり、「仲智」とも書く。また中古の物語では、二番目の娘を「中の君」と呼ぶ。この皇子は『日本書紀』では「大中姫命」と記され、皇女である。この問題は後で考察する。倭建命の孫にも同じ名がある。

「倭比売命」。世間でこの名の「比売」の「比」を濁らせ、「ビメ」と読むのは誤りである。『古事記』からは清音の「ヒメ」と明らかに分かる。名の意味に特別なことはない。この天皇の妹にも千千都久倭姫命、弟にも倭日子命という方がいる。倭比売命について『古語拾遺』は、「天皇の第二皇女、母は皇后狭穂姫」とし、異なる伝えを記す。『日本書紀』では、母の冰羽州比売命を丹波国から召し上げたのが垂仁十五年なので、第四子である倭比売命が生まれたのは十八、九年以後のはずである。それなのに二十五年に天照大御神を託されたとすると、まだ七、八歳以下で、年代が合わないようだ。これを考えれば、母を狭穂姫とする方が正しそうに思える。しかし『日本書紀』の年代は、無理に拠り所としにくいことが多いため、『古語拾遺』は別の一つの伝承として扱うべきである。

『日本書紀』の年代を一途に信頼できない理由を挙げよう。景行天皇は即位六十年に亡くなり、百六歳だったとあるから、垂仁五十四年の生まれに当たる。それなのに妹の倭姫命が、垂仁二十五年にすでに生きていたのは、どういうことだろう。また垂仁十五年に召し上げた冰羽州比売命は、五十四年には七十歳を超えていたはずなのに、子を産むというのもどうだろう。このように食い違うことが、実に多いのである。

『倭姫命世記』という本は、崇神五十八年の記事で倭姫命のことを記すが、偽書なので論じる価値がない。また神代巻の『口決』には、「大倭姫命は垂仁天皇の娘である。ある日、箱の中に小さな虫がいて、人に化けた」とある。別の書は、「開化天皇の手箱の中で、小虫のように動くものがあり、見ると人の子だった。天皇は不思議に思って育てさせたところ、美しい女性になった。これが倭姫命である」とする。いずれも信じられない。『口決』に「雄略天皇の時代には五百歳で、大神宮へお仕えした」とあるのも、『倭姫命世記』のでたらめな説に基づく誤りである。

「若木入日子命」の「木」は城を意味する。『日本書紀』には、皇后・日葉酢媛命は男子三人、女子二人を生み、第一を五十瓊敷入彦命、第二を大足彦尊、第三を大中姫命、第四を倭姫命、第五を稚城瓊入彦命といったとある。「沼羽田之入毘売命」の名の意味はまだ分からない。沼羽田は丹波の地名などだろうか。『日本書紀』には「渟葉田瓊入媛」とある。前に丹波道主王の子を挙げた箇所にも、後にこの姉妹を挙げる箇所にも、この名は見えない。この問題は後で詳しく論じる。

「沼帯別命」の「沼」の意味は、前の伝二十三・六葉で述べたとおりである。『日本書紀』には「鐸石別命」とある。「ヌタラシ」と「ヌデシ」は、同じ言葉の音が変わったものに聞こえる。『新撰姓氏録』は、和気朝臣・稲城壬生公・山辺公などを、この命の子孫とする。この問題は後の「石无別」のところで論じる。「伊賀帯日子命」の「伊賀」の意味は分からない。『日本書紀』には「妃の渟葉田瓊入媛は鐸石別命と胆香足姫命を生んだ」とある。男子を表す「日子」と女子を表す「姫」で、伝承が違う。さらに『古事記』にも『日本書紀』にも、この後に五十日帯日子王という方がいる。「イガ」と「イカ」は「カ」の濁音と清音だけの違いである。『日本書紀』では姫と彦なので、「胆香」と「五十日」は同じ名のようにも思えるが、字を変えて書いているのは、少し意味が違うのだろうか。

「阿邪美能伊理毘売命」。古い版本と別の一本は「美」の下にもう一つ「美」があるが、余計な字なので、ここはその字のない諸本に従った。名の意味はまだ分からない。丹波の地名なのだろうか。『日本書紀』には「薊瓊入媛」とある。「薊」は音を借りた字だろう。『和名類聚抄』では、薊の和名を「アサミ」としている。この名も、前後で姉妹を挙げる箇所には見当たらない。さらに後で論じる。

「伊許婆夜和気命」の「婆」は諸本で「波」と書くが、ここは真福寺本に従った。後の箇所では、どの本も「婆」とするからである。名の意味はまだ分からない。『日本書紀』には「池速別命」とある。ある書は、この命が下野国室の八島に住んだという。室の八島は池で、中に小島が八つあり、熱気のため常に煙が立っていたが、今は池の跡だけで水も枯れ、煙も立たないという。『六帖』の歌にも「下野の室の八島に立つ煙」とある。この説どおりなら、「池」という名はその池によるのだろうか。『古事記』の一本は「許」を「計」とするが、本文中に「計」を仮名として使う例はなく、「許」を「計」と誤った例は多いので、確実に写し間違いである。「郁」という字だったのかとも思うが、陸奥の神名にも「伊去」とあるので、その余地はない。『続日本紀』『新撰姓氏録』『日本三代実録』などには「息速別命」とある。「息」は「イコフ〈憩う〉」という訓を取ったので、「イキ」ではあるまい。神名帳には、陸奥国牡鹿郡に伊去波夜和気命神社がある。

「阿邪美都比売命」は、母の名にちなむ名前だろう。『日本書紀』には「次の妃・薊瓊入媛は池速別命と稚浅津姫命を生んだ」とある。「大筒木垂根王」は、伊邪河宮の段、伝二十二・五十二葉に出る。「迦具夜比売命」の名は、輝くという意味か。そうなら、たたえる名である。『竹取物語』のかぐや姫も、顔立ちの美しさをたたえて付けた名だ。前に「大筒木垂根王と讃岐垂根王、この二王には合わせて五人の娘がいた」とあるので、この姫もその一人だろう。

「袁邪弁王」の名の意味はまだ分からない。あるいは「邪」が「那」の誤りか。両字を取り違えた例はほかにもある。応神天皇の妃にも「袁那弁郎女」という方がいる。『日本書紀』には、この皇子は見えない。「山代大国之淵」。『和名類聚抄』には山城国宇治郡大国郷があり、その土地だろう。「淵」は人の名である。「苅羽田刀弁」は、伊邪河宮の段にも同じ名があり、伝二十二・五十六葉で述べたとおりである。苅羽田は地名で、本来の郷の名で呼ぶため同名になる。

「落別王」は、『日本書紀』に「祖別命」、『新撰姓氏録』に「於知別命」、『先代旧事本紀』巻十に「意知別命」と書く。「祖」は祖父を意味する。名の「意」は「大」、「知」はいつものように、たたえる言葉である。「知和気」の例には、『日本書紀』で景行天皇の皇子に「国乳別皇子」という方がいる。

「五十日帯日子王」の「五十日」は、「厳」の意味だろう。「伊登志別王」の「伊」の意味はまだ分からない。「登志」は「とし〈速い〉」だろう。『日本書紀』には「胆武別命」、『先代旧事本紀』には「五十建石別命」とある。「武」と「速」は同じ意味から付けたのである。延佳本は「速石」とするが、『日本書紀』と合わせて考えると「建」が正しいだろう。師は『日本書紀』の「胆武」も『古事記』に合わせて「イトシ」と読んだが、「武」を「トシ」と読む例はないので、あちらは「イタケ」である。『日本書紀』には「山背の苅幡戸辺を妻とし、男子三人を生んだ。第一を祖別命、第二を五十日足彦命、第三を胆武別命という」とある。

「弟苅羽田刀弁」は、先の苅羽田刀弁の妹である。「石衝別王、次に石衝毘売命」の最初の五字「石衝別王次」は、諸本がすべて落としている。延佳本は補い、「下に二柱とあるので補った。また後に石衝別王が出てくるから、脱落したことは疑いない」とする。まさにそのとおりなので、ここでも従った。子が十六人、男子十三人という総数も、この王がいなければ合わない。「衝」は「ツク」と読む。師は「ツキ」と読み、「石衝」は地名だろうと述べたが、どうだろう。名の「石」は、たたえる言葉だろう。「衝」の意味はまだ分からない。天皇の妹に千千都久倭比売命という方がおり、その「ツク」と同じ意味だろう。『釈日本紀』に引く『上宮記』には、「伊久牟尼利比古大王は伊波都久和希を生んだ」とある。これは継体天皇の母、振媛命の六代前の祖先である。

「布多遅能伊理毘売命」の名の意味はまだ分からない。布多遅は地名などだろうか。『日本書紀』仲哀巻には「両道入姫命」とある。『日本書紀』には、垂仁三十四年春三月、天皇が山背を訪れたとき、側近が「この国には綺戸辺という美しい人がいます。山背の大国不避の娘です」と申し上げたとある。天皇は矛を手に取り、「必ずその美しい人に会えるのであれば、道中にしるしを見せよ」と祈った。仮の宮に近づくと、大きな亀が川の中から出てきた。天皇が矛を上げて亀を突くと、たちまち白い石になった。天皇は側近へ「この出来事から考えると、きっと願いがかなうしるしだろう」と言い、綺戸辺を呼んで後宮へ迎え、磐衝別命をもうけたという。ここには石衝毘売命は出ない。

この二人の「石衝」という名を、天皇がこの二人の母を妻に迎えようとしたときのしるしとして、亀を突くと白い石に変わったという話に結び付け、「石を突く」という意味かと思う人もいるだろう。しかしそうではない。また母の父の名を「不避」とするのは、どういうことか。ある説は、『古事記』に「淵」とあるので、「避」は「遅」の誤りで、これも「フチ」と読むべきだとする。そのとおりだろう。「綺戸辺」と「苅幡戸辺」を異なる字で別の名のように記し、苅幡戸辺を大国不避の娘ではないように別に書くのも、どれも疑問である。『古事記』の伝えの方が明瞭に読める。しかも『日本書紀』仲哀巻には、「母である皇后は両道入姫命といい、活目入彦五十狭茅天皇の娘である」とあるので、『古事記』の方が正しいのである。

「男王十三」。このうち初めの八人をすべて「命」、後の五人をすべて「王」と書くのは、どんな違いによるのだろうか。母の身分の上下によるのかとも思うが、そうでもあるまい。伊許婆夜別命は、前では「命」、次では「王」とある。この後の各時代の皇子にも、一定の決まりはない。

こうして大帯日子淤斯呂和気命が天下を治めた。身長は一丈二寸、脛の長さは四尺一寸だった。次の印色入日子命は、血沼池を造り、また狭山池、日下の高津池を造った。さらに鳥取の川上宮に住み、刀を千本作らせ、石上神宮へ納めた。そしてその宮にいて、河上部を定めた。

「こうして大帯日子……」。『日本書紀』によると、垂仁三十年春正月、天皇は五十瓊敷命と大足彦尊へ「それぞれ望むものを言いなさい」とおっしゃった。兄の王は「弓矢が欲しい」と、弟の王は「皇位を継ぎたい」と申し上げた。天皇は「それぞれ望みどおりにしよう」と言って、五十瓊敷命には弓矢を与え、大足彦尊には「お前は必ず私の位を継げ」とおっしゃった。

「御身長」の「長」は「高」と同じ言葉で、高さのことである。そもそも物の長さを「タケ」というのは、立っている物に限られ、横に長い物へいうのは誤りだ。「一丈二寸」は「ヒトツエマリフタキ」と読む。「丈〈ツエ〉」は、もと杖で物の長さを測ったことから出た名である。『万葉集』巻十三・三十四葉の「杖足らず八尺の嘆き」も、「一丈には足りない八尺」とつなぐ言い方で、「百足らず八十」などと同じである。『和名類聚抄』には「杖、ツヱ」とある。「都延」と書くのは誤りだ。「寸〈キ〉」は刻むことを意味する。『万葉集』で「たまきはる」を「玉刻春」とも書き、「キ」に「刻」の字を借りていることからも分かる。さて、ここにいう丈や尺は、律令で定めた尺より短かっただろう、と師は述べた。

そうかもしれないが、今は詳しく分からない。「御脛」は、『和名類聚抄』に「『説文』は腓を脛といい、『釈名』は脛を茎に似ているからだとする。和名はハギ」とあり、膝より下のことである。「四尺一寸」は「ヨサカヒトキ」と読む。「尺〈サカ〉」について、師は「十量〈ソバカリ〉」が縮まった名で、「尺」の字音から来たとするのは誤りだと述べた。「ソバ」は縮まって「サ」となり、「リ」を省く例は普通にある。若桜宮の段には「ソバカリ」という人名もある。「尺」の字音と考える説は、「シャク」を拗音でなく直音にすると「サク」になり、さらに「ク」が「カ」に転じたと理解するのである。しかし古語が偶然、漢字の字音に似ることは各所にある。少しでも似ていればすべて漢字音に由来するとするのは偏っている。身長が一丈二寸なのに対して、脛が四尺一寸では長すぎる。思うに、体のほかの部分に比べ、とりわけ脛が長かったのだろう。脛の長さを別に記すのも、そのためである。

「血沼池」。この土地については白檮原宮の段、伝十八・三十九葉で述べた。『日本書紀』には、垂仁三十五年秋九月、五十瓊敷命を河内国へ遣わして高石池と茅渟池を造ったとある。『和泉志』は、「珍努池は日根郡野々村の西にあり、広さ三百三十畝。印色入彦命が掘ったと伝え、今は布池という」と記す。

「狭山池」。『和名類聚抄』には河内国丹比郡狭山〈サヤマ〉郷があり、今も丹南郡の大きな村である。神名帳には狭山神社もある。池について『日本書紀』崇神巻は、六十二年秋七月に「今、河内の狭山の埴田は水が少なく、そのためこの国の民は農業に励めない。多くの池や水路を開いて暮らしを楽にせよ」と命じたと記す。冬十月には依網池、十一月には苅坂池と反折池を造り、別の伝えは天皇が桑間宮にいたときにこの三つの池を造ったとする。ここには狭山池を造ったとあってよいはずなのに、ないのは記載漏れだろうか。また垂仁巻にも、この池の記事は見えない。

『続日本紀』には、天平四年十二月に河内国丹比郡の狭山下池を築いたとある。これは別の池だろう。また天平宝字六年四月、河内国狭山池の堤が決壊し、延べ八万三千人の労力で修復したとある。神名帳には同郡の狭山堤神社があり、大社で、月次祭と新嘗祭にあずかる。池の堤を守るために祭る神だろうか。この社は今も池の南にある。『堀川院後百首』には、「春の深まった狭山池の根蓴。その根を繰る『くるし』さもなさそうに、蛙が鳴いている」と歌われる。『河内志』には、「丹南郡の狭山池は狭山村にある。錦部郡の天野・小山田の二つの谷の水がここにたまって池をなし、周囲はおよそ一里。永禄年間に安見美作守が修復し、慶長年間には片桐東市正がさらに修繕した」とある。今もよく知られた、非常に大きい池である。

「日下の高津池」。この日下は和泉国大鳥郡にあり、白檮原宮の段、伝十八・三十二葉に出たので照合してほしい。池を『日本書紀』は「高石池」とするため、ここの「津」も「師」の誤りなのだろうか。神名帳には和泉国大鳥郡の高石神社があり、『日本書紀』持統巻には河内国大鳥郡の「高脚海」、『万葉集』巻一には「大伴の高師の浜の」とあり、後の歌にも数多い。今も高石村があり、そこに池があるのは古代の池だろうか。また白檮原宮の段では、日下の楯津と名づけた土地を、後に「蓼津」というので、「高津」ともいったのかもしれない。「タツ」と「タカ」は音が近い。『日本書紀』にも、草香津に来たとき、盾を立てて大声で雄たけびしたとあるので、「誥津」とも呼んだのか。いずれにしても、日下は船着き場なので、高津という名も土地の様子に由来する。池が今もあるのかは分からない。高石村の池だろうか。ある説は、河内国河内郡日下村にあって、今の御所池だとするが、これは誤りである。

「鳥取の河上宮」。『和名類聚抄』に和泉国日根郡鳥取〈トトリ〉郷があり、その場所である。今も鳥取郷といって十二の村がある。『新撰姓氏録』の和泉国神別には鳥取氏があり、この氏の人が住んだため土地の名にもなったのだろう。名の由来は、後の「鳥取部」のところで述べる。「河上」は『日本書紀』では「菟砥川上宮」で、宇度川の上流である。この川は、同郡内の玉田山から流れ出て、自然田村付近で井関川と合流し、さらに下流で金熊寺川と合流する。それより下は大川というが、古代には下流まで宇度川といったのだろう。この辺りはすべて今も鳥取郷の中である。『和泉志』は菟砥河上宮を自然田村にあるとし、この村も鳥取郷に属する。

『延喜式』諸陵式には、「宇度墓は五十瓊敷入彦命の墓。和泉国日根郡にあり、墓域は東西三町、南北三町、守る戸は二戸」とある。この墓が『延喜式』に載るのは、皇太子だったためである。古代の皇太子は一人に限らなかったことは、白檮原宮の段でも述べた。さらに日代宮の段で詳しく述べる。『和泉志』には「宇度墓は自然田村の東、宇度川の上流、玉田山にある」とする。そうであれば、この命はこの河上宮に住んでいたのだろう。「横刀」は「タチ」と読み、太刀や剣と違いはない。「壱仟口」は「チヂ」と読む。「ヂ」は、二十・三十・百などの「チ」と同じで、一万・二万などの「ツ」も同じである。

「壱仟」は「一千」を大字で書いたものである。(こうした「大字」については伝五・六十二葉で述べた。)「口」は刀の数え方で、『日本書紀』垂仁巻には「出石小刀一口」、神功巻には「七枝刀一口」、雄略巻には「大刀八口」などの例がある。これは後の世に刀を「何振り」「何腰」と数えるのと同じである。刀に限らず、鋤や鍬など、品物に応じて「何口」と数える例は多い。『延喜式』のさまざまな品目の明細などを見れば分かる。

「石上神宮」は前の伝十八・五十二葉に出てきた。『日本書紀』によれば、垂仁三十九年十月、五十瓊敷命は茅渟の菟砥の川上宮にいて剣を千本作り、その剣を「川上部」、また「裸伴(アカハダガトモ)」と名づけ、石上神宮に納めた。その後、命に石上神宮の神宝を管理させたという。茅渟の菟砥の川上とは鳥取の川上のことで、別の伝承ではない。「裸伴」の訓にある「我」は濁音の「ガ」で、「の」の意味である。これを清音で読んで「アカハダカ」と理解するのは誤りだ。刀の名に「伴」とあるのは、千本を一つの集まりとした全体の名前だからで、「川上部」の「部」も同じ意味である。川上宮で作らせたので「川上」と名づけた。「裸」という名の由来は、まだ考えつかない。『先代旧事本紀』には「赤花之伴」とも記される。

「その宮」は川上宮を指す。師がそう述べたとおりである。『日本書紀』にこの命が石上の神宝を管理したとあるため、ここも石上神宮を指すように思えるが、そうではない。すぐ次の「河上部を定めた」という文へ続くからであり、この一句は先の「川上宮にいて」と切り離された文章ではない。

「河上部」。古代には、何々部という集団が数多くあった。「部」は群れという意味である。「ムレ」は縮まって「メ」となり、「メ」と「マ」は通じ合う。また「トモ」ともいい、「伴」と書くこともある。それぞれの部の長を「トモノミヤツコ」という。「伴造」については伝七・八十葉で詳しく述べたので、参照されたい。今の武家で何々組というのと同じである。

『日本書紀』には、次の伝えもある。「五十瓊敷皇子が茅渟の菟砥の川上にいて、河上という鍛冶を呼び、刀を千本作らせた。このとき、楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部の十の品部を皇子に与えた。千本の刀は忍坂邑に納めたのち、忍坂から移して石上神宮に納めた」という。この「河上という鍛冶」は、千本の刀を「河上部」と呼ぶことから、その作者の名を河上とした一つの伝承だろうが、どうだろうか。河上は地名だからである。この十の品部は皇子に与えられ、川上宮に所属したので、「河上部」と呼ばれたのだろう。これは刀の名の「河上部」とは別なので、同じ名前だからと混同してはいけない。「定める」は、朝廷の側からいえば十の品部を皇子に与えて川上宮の部とすること、皇子の側からいえば、それを賜り、自分に所属する部と定めて領有することである。『古事記』の「何々部を定める」は、普通その部を初めて設ける意味だが、ここは『日本書紀』の十の品部が、このとき新設されたとは読めず、もとからあったものを皇子に所属させたと読める。そのため、ここもその意味で解する。

次に大中津日子命は、山辺之別、三枝之別、稲木之別、阿太之別、尾張国之三野別、吉備之石无別、許呂母之別、高巣鹿之別、飛鳥君、牟礼之別などの祖先である。次に倭比売命は伊勢大神宮をお祭りした。次に伊許婆夜和気王は沙本穴太部之別の祖先である。次に阿邪美都比売命は稲瀬毘古王の妻となった。次に落別王は小月之山君、三川之衣君の祖先である。次に五十日帯日子王は春日山君、高志池君、春日部君の祖先である。次に伊登志和気王は子がいなかったため、御子代として伊登志部を設けた。次に石衝別王は羽咋君、三尾君の祖先である。次に布多遅能伊理毘売命は倭建命の后となった。

「山辺之別」は、大和国山辺郡に由来するのだろうか。氏族については、『新撰姓氏録』右京皇別に「山辺公は和気朝臣と同じ祖先」とある。和気朝臣は後に出る。ただし、これは『古事記』の伝えとは違う。この問題は後の「石无別」のところで論じる。「三枝之別」も地名によると思われるが、どの国かは不明で、氏族も調べがつかない。「三枝部連」はあるが別の氏である。「稲木之別」も地名だろうが、特定できない。尾張国丹羽郡や出羽国河辺郡などにこの地名があり、ほかにもあるはずだ。『新撰姓氏録』左京皇別には「稲城壬生公は垂仁天皇の皇子・鐸石別命から出た」とある。

この氏から分かれた一族だろう。「阿太之別」は土地も氏族も調べがつかない。大和国宇智郡に阿陀郷はあるが、『古事記』では白檮原宮の段で「阿陀」と記されており、その場所ではないだろう。あるいは「太」の字が、もとから誤っているのか。次の「沙本穴太部之別」のところで述べることと照らし合わせて考えてほしい。

「尾張国之三野別」の三野は地名である。『延喜式』神名帳に、尾張国中島郡の見努神社があるので、その土地だろう。延佳本は「之」の下に「別」を入れるが、これは三野も国名と解釈して、二つの氏に分けるため勝手に補ったものだ。諸本には、この「別」はない。それでも仮に延佳本に従うなら、ここで「国」とあるのは尾張国内の地名ということになるだろうか。そうでなければ「尾張之別」とあるはずで、「何々国之別」という例はない。ただし尾張に「国」という地名も見つからず、どちらにしても誤りと見える。三野を尾張国内の地名と考える場合にも、『古事記』で各地の氏を国名で挙げるときは、普通「国」の字がないのに、ここだけあることが問題になる。これは隣国の名も三野〈美濃〉で、「尾張の三野別」では二つの国を並べたように聞こえて紛らわしいため、尾張には「国」と付け、三野がその国の中の地名だと示したのだろう。延佳本は「野」の下にも「之」を入れるが、これも周りの例から勝手に加えたもので、諸本にはない。『古事記』では「別」の付く氏名の多くに「之」があるが、国名を挙げた場合は国名の直後に「之」を置き、続く地名の下では省く。「吉備之石无別」がその例で、ほかの段も照らし合わせれば分かる。氏族は調べがつかない。「三野臣」「三野連」などはあるが、別の氏である。

「吉備之石无別」。『和名類聚抄』には備前国磐梨〈イワナス〉郡石生〈イワナス〉郷があり、その場所である。この地名は『古事記』に「石无」、郡名にも「磐梨」とあるので、もとは「イワナシ」であることが明らかだ。『和名類聚抄』の「イワナス」は、少し後の時代の発音だろう。「无」も「梨」も「ナス」とは読みにくいからである。

氏族については、『続日本紀』巻二十六に、備前国藤野郡の藤野別真人広虫女・藤野別真人清麻呂ら三人に「吉備藤野和気真人」、藤野郡大領の藤野別公子麻呂ら十二人に「吉備藤野別宿禰」、別公国守ら九人に「吉備石成別宿禰」の姓を与えたとある。この清麻呂は、のちに道鏡の事件で大きな功績を立てた人である。彼らのもとの姓が磐梨別公だったことは、後に引く『類聚国史』に記される。ここで「別真人」「別公」などに使われる「別」は地名で、カバネ〈氏族の身分称号〉の「別」と混同してはならない。その地名は『和名類聚抄』の備前国磐梨郡和気郷である。また和気郡もある。『続日本紀』によれば、養老五年四月に邑久・赤坂二郡の郷を分けて藤野郡を設け、神護景雲三年六月には藤野郡を和気郡と改称し、延暦七年六月には和気郡の川の西の住民が願い出て、その地域に磐梨郡を設けることを許された。このように、氏名に使われる「別」はもと和気郷から出た。和気郷は一時期藤野郡内にあったため「藤野別真人」などと呼んだが、その後、郷名を取って藤野郡が和気郡となり、さらに分割して磐梨郡を設けたため、もとの和気郷は磐梨郡に属し、和気郡とは別の郡になったのである。

また藤野別真人らのもとの姓が磐梨別公だったのは、「石生郷」が後の時代には和気郷と並ぶ一つの郷の名であっても、古代にはもっと広い地域の名で、その中に和気郷があったためだろう。そのため、「別公」という姓の人にも「磐成別宿禰」を与えたのである。このとき磐梨はまだ郡名ではなかったが、広い地域の名だった。「磐梨別公」も、ここに出る「石无別」から分かれた氏である。ただし「石无別」の「別」はカバネなので、あの地名ではない。一方、「磐梨別公」などの「別」は地名で、カバネは「公」である。これらは非常に紛らわしいので、いま詳しく違いを説明した。細かく考え、混同しないでほしい。

『続日本紀』巻二十九には、吉備石成別宿禰国守ら九人に「石成宿禰」の姓を与えたとある。これは「吉備」を取り除いたのである。また、備前国藤野郡の別部大原・忍海部興志・財部黒士、邑久郡の別部比治、御野郡の物部麻呂ら六十四人に「石生別公」を与えたともいう。巻三十三には和気宿禰清麻呂・広虫に朝臣の姓を与えたとある。清麻呂らの姓が「和気宿禰」とあるのは理解しにくい。これより前に宿禰になった記事は見当たらないので、記載が漏れたのだろう。

『新撰姓氏録』右京皇別には、次のようにある。「和気朝臣は垂仁天皇の皇子、鐸石別命の子孫である。神功皇后が新羅征伐から凱旋した翌年、都へ戻ろうとしたとき、忍熊別皇子らがひそかに反乱を計画し、明石の境に軍を備えて待ち受けた。皇后はこれを見抜き、弟彦王を播磨と吉備の境へ遣わし、関所を築いて防がせた。いわゆる和気関はこれである。平定後、従軍の功績を記し、領地を与えて報い、吉備の磐梨県を賜ったため、そこに住み始めた。光仁天皇の宝亀五年、姓を和気朝臣へ改めて与えられた」。

「被」の字の下には「賜」が抜けているのだろう。弟彦王は和気氏の系図から考えると、鐸石別命の子が稚鐸石別命、その子が田守別王、その子が弟彦王である。『類聚国史』には「延暦十八年二月、贈正三位、民部卿・造宮大夫・美作備前国造を務めた和気朝臣清麻呂が亡くなった。もとの姓は磐梨別公、のち藤野へ改めた」とあり、また「宝亀元年、天皇が即位したとき、勅命で都へ呼び、和気朝臣の姓を与えて元の位へ戻した」ともある。後の世に代々医術で名高い和気氏も、この氏である。『続日本後紀』巻五には、備前国の石生別公諸上らが本籍を改めて右京八条三坊に移ったとあり、『文徳実録』巻二にも磐梨郡少領の石生別公長貞などが見える。

この氏も、先の山辺之別や稲木之別なども、『古事記』とは違って、いずれも鐸石別命の子孫とされる。垂仁天皇の子について『日本書紀』には大中姫命がいて、大中津日子命はいないことを考えると、「大中津日子命」はもともと沼帯別命の別名だったのが、大中姫命と混同され、別の一人とされたのではないだろうか。もしそうなら、ここは『日本書紀』の伝えを正しいと見るべきである。

「許呂母之別」。次の落別王の子孫に「三川之衣君」があるので、それと取り違えた伝承ではないだろうか。ほかに手掛かりはない。「高巣鹿之別」は、諸本には「鹿」の上に「庶」があるが、余計な字と見えるので、今はその字のない真福寺本に従った。「庶」は「鹿」と形が似ているため、誤って重ねたものだ。上巻の「鹿屋野比売」の「鹿」の上に余計な「麻」があるのと同じである。「庶鹿」に「モロカ」と訓を付けてあるが、もし「モロ」なら「諸」を使うはずで、『古事記』の表記の仕方から「庶」とは書けない。ほかに読む言葉もない。土地も氏族も調べがつかない。「高巣鹿」は大須賀・蜂須賀・白須賀などに類する地名と聞こえる。また高鴨・高尾張などと同様、「高飛鳥」が「タカ」の「カ」に「ア」の響きを含むため、「タカスカ」となったのだろうか。そうなら、次の飛鳥君とも関係がありそうである。

「飛鳥君」は大和の飛鳥ではあるまい。どこの国だろうか。土地も氏族も調べがつかない。「飛鳥直」などはあるが別の氏である。「牟礼之別」。神名帳には摂津国島下郡の牟礼神社、伊勢国多気郡の牟礼神社がある。『和名類聚抄』には周防国佐波郡牟礼郷、讃岐国三木郡武例郷などがあるが、どれとも決められない。氏族についても調べがつかない。

「伊勢大神宮をお祭りした」。『日本書紀』垂仁二十五年三月には、天照大神を豊耜姫命から離して倭姫命へ託したとある。全文は伝十五・三十三葉に引いて詳しく述べたので、参照してほしい。『大神宮儀式帳』にも次のようにある。「次に纏向珠城宮で国を治める活目天皇の時代になり、倭姫内親王を御杖代〈神にお仕えする代理〉としてお祭りした。倭姫内親王が大神をうやうやしくいただき、お望みになる土地を探していたとき、宇治の大内人として仕えていた、宇治土公らの遠祖・大田命へ『あなたの国の名は何か』とお尋ねになった。大田命は『多くの船が渡り集う度会の国です。この川は、佐古久志留伊須々の川といいます。この川上には神宮にふさわしいよい場所があります』と申し上げた。そこで、見つけたよい場所を神宮の地と定め、『朝日が向かって来る国、夕日が向かって来る国、波の音も風の音も聞こえず、弓矢や鞆の戦いの音も聞こえない国、心安らかに鎮まる国だ』とお喜びになり、神宮を定めた。そのとき、荒木田神主ら大神宮の禰宜の氏族の遠祖に当たる、国摩大鹿島命の孫・天見通命を禰宜とし、倭姫内親王は朝廷へ帰参した」。さらに詳しく書かれているので、原書を参照されたい。

なお『倭姫命世記』には、この姫命が雄略天皇二十二年、登由気大神が丹波国から伊勢へ移るころまで生きてお仕えし、その翌年二月に、自ら尾上山の峰へ退いて亡くなったとある。しかしこれはひどい偽説である。そもそもあの本には、さまざまな信じがたい、でたらめな説ばかりが多い。

「沙本穴太部之別」。「アナホ」の「ホ」に「太」と書くのは、「オホ」を表す「意富」の「意」を省いた借字である。『万葉集』巻十三の「爾太遥」、巻十九の「爾太敷」などにも例があり、『古事記』にも「御太之前」とある。まず「穴太部」は、『日本書紀』雄略十九年春三月に、命じて穴穂部を設けたとある。これは子のいなかった穴穂天皇の名を伝えるために置かれた御名代だろう。それが部の人々の居住地の名となり、姓にもなった。神名帳には尾張国葉栗郡の穴太部神社があり、今もこの地名は各地にある。『日本書紀』天武巻には穴穂部造に連の姓を与えたとあり、『続日本紀』巻十八には下総国の「穴大部阿古売」という人の名などが見える。

ここでは、大和国添上郡佐保に住んでいた氏なので、「沙本」と付けたのだろうか。また考えるに、「沙本」の「沙」は「阿」の誤りで、「本」の下には「君」が抜けており、穴太部之別とは別の氏の「阿本君」なのだろうか。「沙」は後の書き写しで誤った可能性もあれば、初めに稗田阿礼が誦んだ時点で、同じ韻のため取り違えた可能性もある。そう考えるのは、『続日本紀』巻三十八に次のようにあるからだ。「建部朝臣人上らは申し上げた。私たちの始祖、息速別皇子は伊賀国阿保村に住んだ。遠明日香の朝廷の時代、皇子の四代後の子孫・須珍都斗王に、土地にちなんで阿保君の姓を与えた。その子・意保賀斯は武芸が群を抜き、後世の手本とするに足りたため、長谷旦倉の朝廷は、健部君の姓に改めて与えた」。

続けて、「願わくは、もとに戻して名を正し、阿保朝臣の姓をお授けください」と申し上げ、勅命で許された。こうして人上らに阿保朝臣を、健部君黒麻呂らには阿保公を与えたという。伊賀国伊賀郡には阿保郷があり、「須珍」という名も同じ国の名張郡周知郷にちなむのだろうか。『新撰姓氏録』右京皇別にも、「阿保朝臣は垂仁天皇の皇子・息速別命の子孫。息速別命が幼いころ、天皇は皇子のため伊賀国阿保村に宮を造って領地とし、そのまま子孫もそこに住んだ。允恭天皇の時代、居住地の名によって阿保君の姓を与えられ、廃帝〈淳仁天皇〉の天平宝字八年、公から朝臣の姓へ改めて与えられた」とあるためである。

あるいは、先の「阿太之別」の「太」がもともとの誤字で、阿保朝臣はそちらの氏なのかとも思える。「穴太」の例なら「太」を「ホ」と読むこともできるが、「阿」は音を表す仮名なので、続く「太」だけ訓を取るとは考えにくい。先祖に当たる皇子の兄弟の間で伝承が違う例は、ほかにもある。いずれに当たるのか、決めにくい。

「稲瀬毘古王」は、延佳が景行天皇の皇子・稲背入彦命だと述べており、そのとおりだろう。「稲」を諸本は「称」とするが誤りなので、今は延佳本に従った。「入」を省いて呼ぶのは、「豊鉏入毘売」を「豊鉏比売」、「五十瓊敷入彦命」を「五十瓊敷命」と記すのと同様で、例は多い。名の意味はまだ分からない。「稲」は字の意味どおりで、「瀬」は「兄」だろうか。『日本書紀』神代巻には「稲背脛」という名があり、倭建命の子にも「稲依別王」がいる。この王について『日本書紀』景行巻には、「次の妃・五十河媛は神櫛皇子と稲背入彦皇子を生んだ。弟の稲背入彦皇子は播磨別の始祖である」とある。『古事記』にはこの皇子の名は見えないが、景行天皇の子は合わせて八十人いて、そのうち五十九王は記載しないとあるので、その中の一人だろう。

「嫁」は「ミアヒマシキ」と読む。叔母を妻とした例は、古代にはあちこちにある。「小月之山君」は、諸本が「月」を「目」としているが、誤りと断定できるので改めた。小月は、神名帳に近江国栗太郡の小槻大社と小槻神社がある、その地である。大和国高市郡にも小槻村はあるが、そちらではない。「山君」は山を守ることによる氏の名で、その理由は次の「春日山君」のところでも述べる。また穴穂宮の段の「佐々紀山君」(伝四十・三十七葉)のところで詳しく述べるので、照らし合わせて理解してほしい。『日本書紀』仁徳巻にも「近江山君」という氏の人が出てくる。小月はその氏の人々が住んだ土地である。

『続日本紀』巻十二には小槻山君広虫、『続日本後紀』巻十九には近江国栗太郡の小槻山君家島に興統公の姓を与えた記事がある。『日本三代実録』巻七には小槻山君広宅、巻二十四には近江国栗太郡の小槻山公今雄・有緒らが本籍を改めて左京四条三坊へ移った記事、巻二十七には小槻山公今雄・有緒・良真らにそろって阿保朝臣の姓を与え、息速別命の子孫だとする記事がある。息速別命の子孫として阿保朝臣となったのは、どういうことだろう。先祖に当たる皇子の兄弟について、伝承が混じったのだろう。『新撰姓氏録』左京皇別には「小槻臣は垂仁天皇の皇子・於知別命の子孫」とある。小槻山君の一族の中に、小槻臣となった者があったのだろう。

「三川之衣君」の「三」を、諸本は「二」と書くが誤りなので、ある一本に従った。『和名類聚抄』には参河国賀茂郡挙母〈コロモ〉郷があり、今も残っている、その地である。氏族は調べがつかない。このほか『国造本紀』には、「伊賀国造。志賀高穴穂朝の時代、皇子意知別命から三代後の子孫・武伊賀都別命を国造に定めた」とある。「皇子」の前に「垂仁天皇」の四字が抜けたのだろう。なお、「祖」の下の「也」は、二つの異本にはない。

「春日山君」の春日は、大和の春日だろうか。『新撰姓氏録』和泉皇別には「山君は垂仁天皇の皇子・五十日足彦別命の子孫」、摂津皇別には「山守は垂仁天皇の皇子・五十日足彦命の子孫」とある。これによって「山君」が山を守ることによる姓だと分かる。春日は居住地である。和泉国の山公氏は、この春日の一族から分かれたのだろう。「高志池君」の「池」は、古い版本とある一本には「絶」とあり、別の一本はその字に「イケ」と振り仮名を付ける。ここは延佳本・真福寺本に従った。土地も氏族も調べがつかない。

「春日部君」。『和名類聚抄』には尾張国春部〈カスガベ〉郡があり、『日本書紀』安閑巻には火国の春日部屯倉、阿波国の春日部屯倉などがある。どの国なのか分からない。安閑巻には「春日部采女」ともあるが、これも地名だろうか。『続日本紀』巻二十三には春日部三関、巻二十九には陸奥国牡鹿郡の春日部奥麻呂が出てくる。『続日本後紀』巻十七には、越前国丹生郡の春日部雄継ら二人について、「部」を取り除いて「春日臣」としたとある。神名帳には加賀国能美郡の滓上神社があり、これは「カスガミ」か。「カスガベ」とも読まれている。これらがここの氏なのか、別の氏なのか、はっきりしない。『新撰姓氏録』には「春日部村主」という姓もある。

「五十日帯日子王」の子孫には、以上の氏のほか、『日本書紀』に「子石田君」、『新撰姓氏録』に讃岐公・酒部公などが見えるが、どれにも問題がある。「子石田君」という姓はほかの文献には見えず、とりわけ「子」の字は疑わしい。

また讃岐公と酒部公は、景行天皇の皇子・神櫛王の子孫である。その理由は、その王のところで述べるので照らし合わせてほしい。「子代」は「ミコシロ」と読む。列木宮の段には、「この天皇には皇太子がいなかったので、御子代として小長谷部を定めた」とある。天皇や后、皇子などに子がいないとき、その名を後世まで残すために、その名を負わせた何々部という集団を設けるのである。そのため「御名代」ともいう。

『日本書紀』景行巻には、「その功績と名を記録に残そうとして、武部を定めた」とある。これは日本武尊のためである。安閑巻には、天皇が大伴大連金村へ「私は四人の妻を迎えたが、今まで後継ぎがいない。死んだ後は、私の名も絶えてしまう。このことを思うたび、心配がやまない」とおっしゃったとある。金村は、「それは私も心配するところです。わが国で天下を治める方は、後継ぎのあるなしにかかわらず、必ず何かのものによって名を残すものです。皇后と次の妃のために屯倉の地を設け、後世へ伝えて、その業績を明らかにしましょう」と申し上げた。天皇は「よい。早く設けよ」とお命じになった。また孝徳巻の大化元年の詔には、「古くから、天皇の時代ごとに標代の民を置き、名を後世へ伝えてきた」とある。

同じ巻には「子代離宮」が出てきて、異本に「難波狭屋部邑の子代屯倉を壊し、行宮を造った」とある。この場合は地名である。同じ大化二年正月一日、改新の詔の第一条に「昔の天皇たちが設けた子代の民を廃止する」とある。同年三月にも「昔の天皇の時代に置いた子代」とあり、孝徳天皇の時代にすべて廃止された。そもそもその時代から、あらゆる制度を中国のやり方に倣い、古い慣習はすべて廃れたのである。さらに高津宮の段の「御名代」(伝三十五・十葉)のところで詳しく述べるので、照合されたい。

「伊登志部」。諸本は「登志」の二字を落とし、「部」を「都」と誤って「伊都」とする。延佳本は「伊都部」とするが、思うに「伊都」とある本に「部」を勝手に補ったのだろう。「都」を「ト」の仮名に使う例は、紀伊国伊都郡などにはある。しかし『古事記』にはないので、ここで「ト」と読むことはできない。「ツ」と読んでも皇子の名に合わない。師は皇子の名「伊登志」の「登」を「ツ」と読み、「伊都部」は「都」の下に「志」が抜けたのかと述べた。しかし「登」を「ツ」の仮名に使う例もないので、その説もどうだろう。真福寺本は「伊部」とするため、「登志」の二字が抜けたものだと明らかに分かる。

『日本書紀』安閑巻には、「婀娜国に胆年部屯倉を置いた」とある。これは各地に以前から伊登志部があり、その場所に屯倉を設けたのである。このとき多くの屯倉を設けたが、その名はいずれも地名なので、この胆年部も地名である。伊登志部の人々が住んだことから、地名にもなったのだ。婀娜国は備後国安那郡である。

「羽咋君」。『和名類聚抄』には能登国羽咋〈ハクイ〉郡羽咋〈ハイク〉郷があり、神名帳にも同郡の羽咋神社がある。その土地である。『万葉集』巻十七・二十丁には「羽咋の海」を詠んでいる。『国造本紀』には、「羽咋国造。泊瀬朝倉朝の時代、三尾君の祖・石撞別命の子、石城別王を国造に定めた」とある。しかし「朝倉朝」は年代が合わず、誤りだろう。『日本書紀』景行巻には「妃は尾氏、磐城別の妹」とあるが、「尾氏」は「三」を落としたもので、『先代旧事本紀』には「三尾氏」とある。『新撰姓氏録』右京皇別には「羽咋公は垂仁天皇の皇子・磐衝別命の子孫で、別名を神櫛別命という」とある。この「亦名神櫛別命」の六字は、ある一本では小字の注になっている。これは後の人が書き加えた誤説だと思う。神櫛命は景行天皇の子である。仮にもともと本文にあったのなら、「之後」の前に置かれているはずだ。『類聚国史』には能登国の人として羽咋弥公・羽咋公吉足などが見える。

「三尾君」。『和名類聚抄』には近江国高島郡三尾〈ミオ〉郷があり、『延喜式』神名帳には水尾神社がある。臨時祭式は「三尾」と書く。その土地である。『日本書紀』継体巻には近江国高島郡三尾の別荘、『続日本紀』巻二十五には高島郡三尾の崎が出てくる。『万葉集』巻七・十五丁には「高島の三尾勝野の」、巻九・十八丁には「水尾崎」がある。『拾遺集』には、「高島の三尾の中山を、材木を伐り出す杣山とし、千代も続く、並び立つ蔵を次々と造っていこう」という歌がある。氏族については、『日本書紀』に「磐衝別命は三尾君の始祖」とあり、『国造本紀』の、先に引いた羽咋国造と賀我国造の条にも「三尾君の祖・石撞別命」などとある。この氏の人は、玉穂宮の段に出てくる。

「倭建命の后となった」。日代宮の段には、「この倭建命は伊玖米天皇の娘・布多遅能伊理毘売命を妻として、帯中津日子命を生んだ」とある。さらにその箇所、伝二十九・三十一葉で述べる。

この天皇が沙本毘売を后としていたとき、沙本毘売命の兄・沙本毘古王は、同じ母から生まれた妹に、「夫と兄とでは、どちらがいとしいか」と尋ねた。妹は「兄がいとしい」と答えた。そこで沙本毘古王は企てを明かした。「お前が本当に私を愛しているのなら、私とお前で天下を治めよう」。そして、何度も鍛え折り返した紐付きの小刀を作って妹に渡し、こう言った。

【古事記本文】「この小刀で、天皇がお眠りになったときに刺し殺せ」と言った。天皇はこの企てを知らず、后の膝を枕にしてお休みになった。后は紐付きの小刀で天皇の首を刺そうと三度まで振り上げたが、いとしさに堪えきれず、刺すことができなかった。泣く涙があふれ、天皇のお顔に落ちた。天皇は目を覚まし、后にお尋ねになった。「不思議な夢を見た。沙本の方から激しい雨が降ってきて、急に私の顔を濡らした。また、錦のような模様の小蛇が私の首に巻きついた。この夢は、いったい何のしるしだろうか」。后は隠し通せないと思い、天皇に申し上げた。「私の兄、沙本毘古王が、『夫と兄とでは、どちらがいとしいか』と私に尋ねました。そのように面と向かって問われ、私は兄に気強く向き合って答えることができず、『兄がいとしい』と答えました。すると兄は、『私とお前で天下を治めよう。そのために天皇を殺せ』と私に持ちかけ、何度も折り返して鍛えた紐付きの小刀を作り、私に渡しました。そこで私はお首を刺そうと三度まで振り上げましたが、急にいとしさがこみ上げ、刺せませんでした。泣いた涙がお顔に落ちて濡らしたのです。きっと、このことが夢のしるしなのでしょう」。

【宣長の注釈】「沙本毘売を……」の御名に、ここだけ「命」の字がないのはどういうわけか。脱落したのだろうか。この兄妹は伊邪河宮の段(伝二十二)に出ており、日子坐王の子なので、天皇とは父方のいとこに当たる。「后とした時」とは、この比売命がこの天皇の后になられたことを、先に述べておく表現である。続く事件が后になったその時すぐに起こったわけではないが、文を続けるために「之時」と言ったのである。「兄」は同じ母から生まれた兄なので「イロセ」と読む。以下もすべて同じである。「伊呂妹」は同母の妹で、「イロモ」と読む。その理由は前の伝十三・六十三葉で詳しく述べた。

【宣長の注釈】「夫」は「ヲ」と読む。夫を「セ」「セコ」ともいうが、ここは兄と並べて言うので、その読みでは意味が紛れる。兄のことも「セ」「セコ」と呼ぶからである。上巻の須勢理毘売命の歌には「那遠岐弖、遠波那志」、つまり「あなたをおいて夫はいない」とある。「孰愛」は「イヅレカハシキ(どちらがいとしいか)」と読む。「愛」を「ウツクシキ」や「ウルハシキ」と読むのもよく、意味は同じである。明宮の段にも「兄の子と弟の子では、どちらがいとしいか」とある。「ハシキ」の用例には、倭建命の歌の「波斯祁夜斯」、万葉の「愛八師」、書紀継体巻の勾大兄皇子の歌の「婆絶稽矩謨」、万葉巻二の「三吉野の山の松の枝はいとしいことよ」、高津宮の段の天皇の歌の「阿賀波斯豆麻(私のいとしい妻)」、万葉巻十八の「波之伎故(いとしい子)」、巻十九の「波之伎和我勢故(いとしいわが夫)」、巻二十の「波之伎都麻良(いとしい妻たち)」などがあり、ほかにも多い。「愛兄」は「イロセゾハシキ(兄がいとしい)」と読む。

【宣長の注釈】「謀」は、後の文では「誂」となっており、書紀も「誂」とする。しかしここは、謀反を起こそうとする企てを初めて述べる所なので「謀」がよい。「ハカル」は「神議」などのように、人と相談して論じ定めることだからである。「八塩折之紐小刀」について。「紐小刀」は上巻(伝十六・十六葉)に出る。「八塩折」は上巻の「八塩折之酒」(伝九・三十葉)と考え合わせると、何度も折り返して金属を溶かし、十分に鍛え上げたことをいい、刀の鋭さをほめた名である。師は『万葉考別記』で、「八塩の衣」などと同じく「八塩折」は紐の色をいうと述べたが、それはよくない。小刀の呼び名を、付けている紐の色によっていうはずがない。

【宣長の注釈】「寝」は「ミネマセラムトキ(お眠りになった時に)」と読む。後に「御寝坐」とあるのと同じである。書紀にはこうある。「四年秋九月、皇后の同母兄の狭穂彦王が謀反を起こして国家を危うくしようとした。皇后がくつろいでいる時をうかがい、『兄と夫では、どちらがいとしいか』と語りかけた。皇后は質問の意図を知らず、気軽に『兄です』と答えた。そこで皇后に事を持ちかけ……『私が天皇の位につくことがかなうなら、必ずお前とともに天下を治めよう。安心して長い生涯を終えられるのだから、愉快ではないか。どうか私のために天皇を殺してくれ』と言った。小刀を取って皇后に渡し、『これを衣の中に忍ばせ、天皇がお眠りになった時、首を刺して殺せ』と言った。皇后は心の中で震え、どうしてよいか分からなかった。しかし兄王の決意を見ると、すぐには諫められそうもない。そこで小刀を受け取り、ほかに隠す所もなく衣の中に入れたが、ついには兄を諫めたいという気持ちを持っていた」。
〔訳注:本書の引用中の字は「異」に見えるが、引用元では「冀(こいねがう)」とある。底本の字形の確定は保留し、ここでは皇位に就く願望をいうものとして訳した。〕

【宣長の注釈】次の「謀」は「ハカリゴト」と読む。沙本毘古王が考え、持ちかけた企てのことである。「御膝」について、『和名抄』は「膝はすねの上端。ヒザ」とする。

【宣長の注釈】「枕」は「マクラキテ(枕にして)」と読む。万葉巻五・十一葉に「いつの日の、どのような時だろうか。私の音色を分かってくれる人の膝の上を、私は枕にするのだろう」とある。琴が人の膝に置かれて弾かれることを、琴自身の言葉で歌う。「マクラカム」「マクラキテ」などと活用する。巻十九には「妹の袖を私は枕にしよう」とある。「マクラク」は枕にすることをいい、鬘にすることを「カヅラク」というのと同じ語の形である。万葉巻十八の「楊奈疑可豆良枳(柳を髪に飾り)」、巻十九の「菖蒲可都良久麻泥爾(菖蒲を髪に飾るまでに)」などがその例だ。また「マキテ」と読んでもよく、同じ意味である。「マク」と詠んだ歌は特に多い。「枕」という名も、もとは「マク」から出た語で、「纏座(マキクラ)」の「キク」を縮めて「マクラ」としたのである。物を据える道具は、何でも「座」という。枕は物を巻いて、頭を据える台にしたという名である。そのため枕にすることを、そのまま「マク」ともいう。「手をまく」「袖をまく」がこれである。記の歌には「マクラマク」ともある。同じ意味を重ねていても、物の名となった語に、その働きを表す語を添えるのは普通で、「歌をうたふ」と同様だ。万葉巻十四には「宮にいるわが夫よ、大和女の膝を枕にするたび、私を忘れないで」とある。
〔訳注:「妹の袖を私は枕にしよう」という引用に付された細字の丁数は判読できない。〕

【宣長の注釈】「膝」の下の「為」は、「而」の写し誤りだろう。草書の字形が似ているからである。白檮原宮の段の「為遠延」、日代宮の段の「為泥疑」と同じ書き方かとも考えたが、「御寝坐」は記のあちこちにあり、どこにも前に「為」を置く例はない。「御寝坐也」は、若桜宮の段では「大御寝也」ともいう。書紀仁徳巻には「隼別皇子は皇女の膝を枕に横になった」、雄略巻には「安穂天皇は皇后の膝を枕に、昼、酔って眠っていた。そこで眉輪王が熟睡した隙をうかがって刺し殺した」とある。「其天皇之御頸」は「ソノオホミクビヲ」と読む。「天皇」は読まない。ここで読むと語のつながりがよくない。「三度」は師の「ミタビマデ」という訓がよい。「挙而」は「フリタマヒシカドモ(お振り上げになったけれど)」と読む。「フリ」は、紐小刀を振り上げることだ。上巻の「この比礼を三度振り上げ」(伝十・三十九葉)、白檮原宮の段の「打羽挙」(伝十八・十七葉)も「フリ」と読み、同じ意味である。上巻の黄泉の段で、十拳剣を「於後手布伎」とする「フキ」も、「振り」と同じだ(伝六・二十二葉)。それぞれ照合されたい。「シカドモ」と読むのは、後の文に「雖」とあるのと同じ意味だからである。「雖」がなくても、「而」には逆接の意味がある。

【宣長の注釈】「不忍哀情」の「不」は、諸本ではどれも「爾」だが、師が「不」の誤りだろうと述べたのに従い、今改めた。「不忍」の例には、上巻の「不忍御腹之急」「不忍恋心」、この下の「不忍其后」、朝倉宮の段の「不忍於悒」などがある。四字を「タヘカヅニカナシクオモホシテ(堪えきれないほどいとしくお思いになって)」と読む。ここで「情」を「ココロ」と読むと語のつながりが悪い。「タヘカヅニ」は「堪えがたく」と同じで、「カテニ」は万葉などに多く、「難爾」とも書く。「カ」を濁音で書く例はごく少なく、多くは清音で書かれる。なお後の文は「哀情忽起」である。それと合わせると、ここは「爾忍」の二字が「忽」の誤りで、「情」の下に「起」が脱落したのかもしれない。「不能刺頸」は、師の「エサシタマハズ(刺すことがおできにならず)」がよい。前に「御頸を」とあるので、ここで再び「首を」と読んでは文が拙い。「涙」は「ミナミダ」と読む。上巻には「御涙」とある。

【宣長の注釈】「御面」は「オホミオモ」と読む。師は「ミオモワ」と読んだ。万葉巻九と巻十九に「面輪」、巻十九に「御面、これをミオモワという」とあるからである。しかし「オモワ」は顔の様子をいう語なので、ここには合わない。皇極紀の歌の「於謀提(おもて)」も、「後」を「ウシロデ」というのと同じで、「テ」はその様子をいう語である。ただ顔そのものをいうときには、「オモ」が正しい名だ。ここは天皇のお顔である。「落溢」は「オチナガレキ(落ち流れた)」と読む。「溢」を書いたのは、書紀の「流れる涙が袖からあふれ、天皇の顔を濡らした」という意味だが、ここを「モル」「アフル」とは読みづらい。「カカル」よりも「ナガル」の方が「溢」の字に近い。「涙が流れる」は万葉などに普通の表現で、巻十九にも「流れる涙を止めかねることよ」とある。「驚起」は「オドロキマシキ」と読む。「オドロク」は目を覚ますことにもいう。

【宣長の注釈】「沙本」は大和国添上郡である。この土地は諸陵式にも見える。武烈紀の影媛の歌には「『はるひの』春日を過ぎ、妻のこもる佐保を過ぎ」と詠む。「鳴佐保」の「鳴」は、「をはつせ」「をつくば」の「を」と同じ、接頭の音である。今の佐保は奈良の北の方にある。この地の山・川・里は、万葉の各巻にも後世の歌にも多く詠まれる。沙本毘古王が住んでいた土地なので、このように夢に現れたのである。「暴雨」は「ハヤサメ」と読む。『字鏡』は「涷、激しい雨。ハヤサアメ」とする。『倭姫命世記』にも「速雨二見国」といい、ある本がこの「雨」を「再」とするのはどうだろう。『和名抄』には「暴雨、和名ムラサメ」とあるが、ここは「ハヤサメ」の方がよい。上巻の八千矛神の歌に「あなたが泣くであろうことは、朝の雨が……」とある。

【宣長の注釈】万葉巻二には「泣く涙が長雨のように降り落ちると……」とある。「急」は、師の「ニハカニ(急に)」という読みがよい。「治」は「ヌラシツ(濡らした)」と読む。「濡」とする本もあるが、同じ意味だ。「錦色小蛇」の「小蛇」は「ヘミ」と読む。これについては上巻、伝十・三十六葉で詳しく論じた。「ヘミ」を「反鼻」の字音に由来すると思うのは誤りである。「錦色」とは、錦のような模様があることをいう。「蚺蛇」という種類があり、『和名抄』は「『文字集略』に、蛇の模様が連銭錦のようだという。和名ニシキヘミ」とする。『埤雅』にも「尾は丸く、うろこのある体に斑点があり、錦の絞り染めのようだ」とある。ただし『和名抄』の「ニシキヘミ」は小蛇のはずだが、本草の書を見ると蚺蛇は非常に大きいので、この漢名は合わないようだ。ただ錦の模様を理由に当てたのだろう。漢名が何であれ、そこにこだわるべきではない。

【宣長の注釈】「纏繞」は「マツヘリシ(巻きついた)」と読む。「シ」は助辞で、「キ」でなく「シ」とするのは、上に「ナム」を補って読む、その係りに応じるためである。「如此之」は「カクノ(このような)」と読む。「カクノ何々」は聞き慣れず疑問に思う人もいるだろうが、続紀巻一の宣命に「如此之状乎聞食悟而」、巻二十四に「加久乃状聞食悟止宣大命」とある。普通にいう「カクノゴトク」も同じ形である。「有何表也」は「ナニノシルシニカアラマシ(何のしるしであろうか)」と読む。万葉巻四には「剣太刀を身につける夢を見た。何のしるしだろう。あなたに会うためだろうか」とある。「以為不応争」は「アラソハエジトオモホシテ(争って否定することはできまいとお思いになって)」と読む。「エ」は「レ」と同じ、古語の形である。否定しがたいだろうという意味だ。師は「アラソヒガテニ」と読み、また「アラソヒカテシト」とも読める。「妾」は「アガ(私の)」と読む。「妾」の字は漢文の書き方で、男が自分を「僕」と書くのと同じである。

【宣長の注釈】「是不勝面問故」は「カクトフニハエオモカタズ(このように問われては、気強く向き合えず)」と読む。この文は非常に読みにくい。古い刊本や延佳本は「マノアタリトフニタヘズ」とする。それで意味はおおむね通るので、もとからその意味で書いた可能性もある。しかし、その読みは古語の形でなく、全く漢籍を訓読する言い方である。師の「マサカノコトドヒニアヘズ」は、語はどれも古語だが、「マサカ」も「コトドヒ」もここに合わない。そこでよく考えると、「勝面」は上巻、猿田毘古神の段で天宇受売神に「あなたはか弱い女性だが、向き合う神に気おされず向かえる神だ。だからあなた一人で行って尋ねよ」と命じた、その「面勝」と同じだろう(伝十五・十四葉)。つまり「兄がこのように面と向かって問うので、私は気強く向き合って、『兄より夫君がいとしい』とは答えられなかった」と申し上げたのだろう。「是」は「このように」に当たる。「勝面」は「面勝」の上下を誤写したのか、後人が「面勝」という古語を考えず、漢文の読み方だけを考えて「不勝面問」であるべきだと、勝手に入れ替えたのかもしれない。また「面に勝つ」という意味で、初めから「勝面」と書いた可能性もないわけではない。ただ「問」の位置からは、もともと「面と向かって問われることに堪えられず」の意味で書いたようにも思える。しかしその読みでは古語から遠いので、たとえ編者の意図でなくても、「面勝」と読んで間違いにはなるまい。「得」を補うのも、書紀の同じ段に「八十万の神は皆、目を強く見合わせて問いかけることができない」とあるのによる。「故」の字は読まない。

【宣長の注釈】「妾答」の「妾」は読まない。「誂」は「アトラヘラク(持ちかけて言ったことには)」と読む。書紀にもそのように訓が付く。『説文』は「互いに呼び誘うこと」、史記の注は「ほのめかす言葉で人の心を動かすこと」とする。続紀巻二十の詔に「小野東人が上道朝臣斐太都を呼び、持ちかけて言ったことには……」とある。古今集春にも「吹く風に頼んで花を咲かせるものなら、この一本だけはよけておけと言おう」と詠む。「哀情忽起」は「タチマチニカナシクナリツ(たちまちいとしくなった)」と読む。「起」は「ナリツ」に当たる。「忽」が「哀情」の後にあるのは漢文の語順である。「治」の字を「沾」と書く本もあるが、意味は同じである。師は前の文によって「溢」の字だろうと述べたが、それはよくない。

【宣長の注釈・書紀からの引用】「五年冬十月、天皇は来目へ行幸し、高宮に滞在された。その時、皇后の膝を枕に昼寝をなさった。皇后はまだ計画を実行せず、ただ思い悩んでいたが、『兄王の企てを行うなら、まさに今だ』と思った。涙が流れ、天皇の顔に落ちた。天皇は目を覚まし、皇后に『今、夢を見た。錦の模様の小蛇が私の首に巻きつき、また大雨が狭穂から降ってきて顔を濡らした。何の前兆か』とおっしゃった。皇后は企てを隠せず、恐れおののいて地に伏し、兄王の謀反を詳しく申し上げた。……『涙が自然に流れてお顔を濡らしたので、今の夢になったのでしょう。きっとこの事の現れです。錦の小蛇は私に渡された小刀、大雨が急に降ったのは私の涙です』」。

【古事記本文】天皇は「私は、あやうく欺かれるところだったのか」とおっしゃった。そして軍を起こし、沙本毘古王を討たせた。王は堅固な稲城を造って、戦いを待ち受けた。沙本毘売命は兄を思う心に堪えられず、宮の後ろの門から逃げ出し、その稲城に入った。この時、后は身ごもっていた。天皇は、后をいとしみ大切にしてもう三年になるうえ、身ごもってもいるので、たまらなくいとしくお思いになった。そのため軍をとどめ、急には攻め立てなかった。こうして時を置く間に、后は身ごもっていた子をお産みになった。御子を外へ出して稲城の外に置き、『この子を天皇の御子と思し召すなら、お育てください』と天皇に伝えさせた。天皇は后の兄を恨んではいても、なお后への愛情に堪えきれず、后を取り戻したいと思われた。そこで兵士の中から、力が強く動作の素早い者を選び集め、『御子を受け取る時、その母も奪い取れ。髪でも手でも、つかめる所をつかんで引き出せ』とお命じになった。后はあらかじめそのお気持ちを知り、髪をすべて剃り、その髪で頭を覆った。また玉の緒を腐らせて手に三重に巻き、衣も酒で傷ませながら、見かけは完全な衣服のようにした。このように用意して御子を抱き、城の外へ差し出した。力の強い兵士たちは御子を受け取り、すぐに母をつかんだ。しかし髪をつかむと髪はひとりでに落ち、手をつかむと玉の緒がすぐ切れ、衣をつかむとたちまち破れた。そのため御子は受け取れたが、その母を引き出せなかった。兵士たちは戻り、『髪はひとりでに落ち、衣は簡単に破れ、手に巻いた玉の緒もすぐ切れました。それで母は連れ出せず、御子だけを受け取りました』と申し上げた。天皇は残念に思い、玉を作る人々を憎んで、彼らの土地をすべて取り上げた。このため、ことわざに『土地を得ない玉作り』というのである。

【宣長の注釈】「殆」は「ホトホト」と読む。後の「ト」を濁らせるのはよくない。俗に音便で「ホトンド」というので、ンの後が自然に濁る例に引かれるのだが、この語はもともと同じ「ホト」を重ねたものなので、濁らせるべきではない。万葉巻三の「私の若い盛りが再び戻ってくるだろうか。奈良の都も見られないままになってしまいそうだ」、巻七の「御幣を取る三輪の神職が清めまつる杉原で、薪を伐ろうとしても、畏れ多くて手斧を手に取れない」、巻八の「わが家のひとむらの萩を、思う子に見せぬまま、あやうく散らしてしまうところだった」、巻十四の「ほとほと妹に会わずに来てしまった」、巻十五の「帰った人が来たと言ったので、あなたかと思って、あやうく死ぬところだった」などに例がある。この語は「ホトリホトリ」で、ある事の起きるすぐ近くまで至る意味である。ここは欺かれそうなところまで至ったことをいう。今の言葉なら「もう欺かれようとしていた」ということだ。「見欺乎」は「アザムカエツルカモ」と読む。上巻の「易子之一木乎」と同じ語調である。
〔訳注:巻八・巻十四の引用に付された細字の丁数は判読できない。〕

【宣長の注釈】「撃」は「トリニツカハス(討ち取りに遣わす)」と読む。「トリ」と読む理由は、水垣宮の段の「玖賀耳御笠を殺させた」の箇所(伝二十三・六十葉)で詳しく述べたとおりである。ここは「遣わす」も補うべき文の勢いである。「稲城」は書紀雄略巻にも「根使主は逃れて日根へ至り、稲城を造って戦いを待った」、崇峻巻にも「物部守屋大連は子弟と奴の軍を自ら率い、稲城を築いて戦った」とある。師はこう述べた。「稲を収める囲いは、垣を堅くし、周りに溝を掘るなどして、盗人が入りにくいよう特に頑丈に造る。その稲を収める囲いのように堅く造ったものを、稲城というのである。日本紀の『稲を積んで城を造った』は誤りだ。稲を積んで何が頑丈になるだろう」。その説のとおりだろう。書紀の「積稲」は、名に基づいて編者がいつものように書き加えた飾りの文と見える。「稲城」は、姓氏録の大春日朝臣の条に「食糧を積んで垣とした」とある類とは、意味合いが違うだろう。

【宣長の注釈】必ずしも稲を収める囲いと全く同じ構造というのではなく、ただ堅固に造ったものを、このように呼びならわしていたのである。「不得忍其兄」は「ソノイロセヲオモホシカネツ(その兄を思う心に堪えられなかった)」と読む。諸本が「得」を「待」とするのは誤りで、延佳本に従った。後の「不得忍」と同じ意味の文である。兄を思う心に耐えられなかったということだ。万葉巻十一の「山科の彊田〈コハタ〉山を、馬があっても歩いて来た。あなたへの思いに堪えられず」、巻十四の「恋いながらもいようとするが、遊布麻山に隠れたあなたを思う心に耐えられない」、巻十五の「妹を思って眠れずにいると、秋の野で雄鹿が鳴く。妻を思う心に堪えられず」など、多くの「思不得」と同じである。堪えがたいことを「シノビカネ」とも多く詠むが、ここは「オモホシカネ」の方がよい。
〔訳注:巻十四・巻十五の引用に付された細字の丁数は判読できない。〕

【宣長の注釈】「後門」は「シリツミカド」と読む。水垣宮の段の歌には「シリツド(後ろの戸)」があり、万葉の「常津御門」「天津御門」などとも合わせれば、読み方が分かる。天皇の宮の後方の門である。「納」は「イリマシキ(お入りになった)」と読む。「此時」は「コノヲリシモ(ちょうどこの時)」と読む。「妊身」とここで先に述べるのは、この後、天皇がその懐妊を心にかけることがあるので、あらかじめ言っておく文章の書き方である。

【宣長の注釈】「不忍其后懐妊及愛重至于三年」は「その后をいとしみ大切にしてもう三年になるうえ、身ごもってさえいるので、たいそういとしくお思いになった」と読む。「カナシ」とは「イトホシ」と読んでもよい。ここは漢文の形で書かれ、そのままでは古語にしにくいので、字面にこだわらず、全体の意味をよくとって読むべきである。延佳が「及愛重」を「ウツクシミヲシキテ」と読むのは、文意にも古語にも合わず、「シキテ」が何を意味するのか分からない。師は「妊娠していることと、いとしむ心の重さに耐えられず」と読み、「至于三年」を別に読んだが、これもよくない。言葉の続き方が古語らしくないうえ、「三年に至る」は「愛重」に続くのに、切り離すと意味が大きく変わる。その理由も以下に述べる。私が上記のように読むのは、「懐妊」を先、「愛重」を後では古語にしにくいので、両者の順を入れ替えたためである。愛重は日ごろから続くこと、懐妊はこの時の特別な一事だからだ。「愛重」は、天皇が后をいとしみ、大切にされたことをいい、「愛」と「重」は二つの働きで、「愛が重い」ではない。ここで「愛」は名詞でなく用言で、「ウツクシミ」の「ミ」は「オモミ」の「ミ」と同じ形である。万葉巻十九の「わが夫の言葉がいとしくて、外に出ると」の「愛美」と同じだ。「重みす」は大切でかけがえのないものとして扱うこと、今の言葉なら「大切にする」である。普通にいう「おもむずる」は音便で変わった形で、「いやしみす」を「いやしむず」、「したしみす」を「したしむず」というのも、「ミ」がンへ変わる同じ音便だ。この「ミ」は万葉などに非常に多い。続紀巻三の詔の「労彌重彌所念坐」、巻四の「天地心乎労美重美畏坐」の「重美」と同じである。「いとしみ、大切にし」という二つの「ミ」の用法は、万葉巻十二の「白妙の袖を別つことを、つらいと思って」という表現と同じである。
〔訳注:巻十九の「わが夫の言葉がいとしくて、外に出ると」という引用に付された細字の丁数は判読できない。〕

【宣長の注釈】「三年に至る」は、后が宮中に入ってからのことだろう。昨日今日のことではなく、夫婦としての交わりがすでに何年かを経ているという意味である。書紀によれば、二年二月に皇后となり、この乱は五年の冬に起こった。「三年」を後に続け、軍をとどめていた間に三年になったと理解するのは誤りだ。もしそうなら、その語は必ず「急には攻め立てなかった」の後に来るはずだが、実際には「故廻軍」の前にあるので、その意味ではない。「たいそういとしくお思いになった」という読みが、「不忍」に当たる。その用例は後で出るので、そこで述べる。読む時は「その后」という所で、いったん語を切って理解するとよい。これは訓読についての注意である。原文では「不忍」が「其后」の前にあるので紛れないが、ここでは「その后の、いとしみ大切にし……」と読むため、つながりが紛らわしくなる。ただし「身ごもってさえいるので」までに続けて読めば、「その后の」とした意味も明らかになる。

【宣長の注釈】「廻」は「ヤスラハシメツツ(軍をとどめながら)」と読む。「カヘシテ(引き返させて)」とも読めるが、それではこの場の意味と少し違う。師の「モトホラセテ(巡らせて)」も適切とは思われない。この「廻」は「徘徊」の意味で書いたのだろう。「徘徊」は「徘回」とも書き、「回」と「廻」は同じだからである。「徘徊」には「さまよう」「進まない様子」と注が付く。文選の張衡「思玄賦」の「馬倚輈而徘回」への注も、「ためらって進まないこと」という。「ヤスラフ」は進まない意味、また休む意味なので、ここに合う。万葉巻十一の「木の間を移ってゆく月の光が惜しくて、ためらううちに夜は更けてしまった」、『六帖』の「あなたが来るか、私が行こうかとためらううちに……」がその例である。

【宣長の注釈】前の「不急攻迫」は「スムヤケクモセメタマハザリキ(急いで攻め立てることもなさらなかった)」と読む。「急」は、万葉巻十五の「スムヤケクハヤカヘリマセ(速やかに、早くお帰りください)」による。普通は「スミヤカニ」というが、ムとミは通じる音なので、どちらでもよい。「カニ」を「ケク」というのが古語の形で、明らかに・遥かに・穏やかに、なども「あきらけく」「はるけく」「のどけく」という。「スムヤケク」の「スム」は進む意味で、「ヤケク」は付けた語である。「逗留」は「トドコホレル」と読む。万葉巻四に「衣の袖に取りすがって泣く子にも……」とある。「トド」は留まること、「コホル」は凍ると同じ語で、流れる水も凍れば止まるためである。「既産」は師の「アレマシヌ(お生まれになった)」に従う。「既」は読まない。この御子がお生まれになったのは、後に「稲城を焼く時」とあるので、事件の終わりごろだろう。城を焼けば、ほどなく決着するはずだからである。

【宣長の注釈】「令白」は、后がこの言葉を城を攻める官軍の兵士に告げ、天皇のもとへ伝え申し上げさせたのである。「矣」は助詞「ヲ」の代わりに置かれる。古い刊本や延佳本などにはないが、真福寺本に従った。別の二本には上の「子」がなく、この「矣」はある。それは「子」を落としたのだ。さらに後に「バ」も補い、「私はともかく、この御子をば」と読む。「天皇之御子」の「天皇」は「オホキミ」と読む。ご本人に向かっては、そのように申し上げるのが例だからだ。万葉などの「天皇」も「オホキミ」と読むべき例が多いのに、今の本が区別せずすべて「スメラキ」とするのは誤りである。「所思看者」の「看」を「斉」「斎」とする本は誤りで、真福寺本・延佳本に従った。万葉巻十五に「オモホシメス」、続紀巻二十の詔に「所念看波奈毋」とある。師は「看」を「斎」として「オモホシイツキマサバ」と読んだが、よくない。后がこう申し上げたのは、母である自分が稲城に入って天皇に背いた以上、御子まで見捨てられ、皇子とされないかもしれないためである。それでも、もし母の罪をお許しになり、御子はやはり御子とお考えになるなら、という意味だ。

【宣長の注釈】「治」は「ヲサメ」と読む。この語については上巻、伝十二・二十丁で詳しく述べたので照合されたい。続紀巻四の『親が自分の幼い子を養い育てるように、お世話し、慈しんで』、巻十五の『養ってくださるべき一人二人の者たちを選び、お世話くださる』、巻二十二の『この家の子どもたちは私の同胞であるのに、親王たちをお世話する時に、この者たちをお世話しないでおこうか、いや、そうはするまいと思って、あなたの冠位を上げて授け、お世話する』、巻二十五の『明るく清い心で仕える家々・氏々を絶やさず、おさめよという勅命』など、多くの例がある。ここは皇子として引き取り、養育してくださいという意味だ。皇極紀には「視養」ともある。師は「ヒタシタマヘ」と読んだが、ここではよくない。「天皇詔」の「詔」は余計な字だろう。続く「雖怨」から「軽捷而」までは天皇の言葉ではなく、語り手の文章だからである。誤字かとも思うがそうは見えず、文の脱落とも思いにくい。あるいは阿礼が「スメラミコト」と誦んだ、その「ミコト」を聞き違えて「詔」と理解し、聞いたとおりに書いたのかもしれない。したがって、この字は読まない。

【宣長の注釈】「雖怨其兄」は「其兄ヲコソキラヒタマヘレ(その兄こそ敵として退けられたが)」と読む。このように読めば「雖」の逆接の意味は自然に現れる。「怨」は注に「仇」「讎」とある意味で、怨敵である。「キラヒタマフ」と読むのは、続紀巻二十の「卑しい奴らを退け追い払ったため」、巻二十五の「道祖王の兄・塩焼を皇位に定めようと言って、先に捨て退けた……」、巻二十六の「今後、小さな過ちのある人でも、誘われると聞くなら、法に従って罰し退けよという勅命」、巻二十九の「朝廷を傾け、国家を乱したため退けた氷上塩焼の子……」、巻三十の「退け、捨て、排除する者だ」などによる。これらはいずれも、反逆の心で朝廷をだまそうとする者などを、敵として捨て退けることをいう。続紀巻二十六の宣命にも「自分の敵である男女二人がいる」とあり、書紀神代巻の「棄物」の「棄」にも「キラビという」と訓注がある。こうした例から、この語はここによく合う。

【宣長の注釈】「不得忍愛」は「イトカナシトオモホセリケレバ(たいそういとしく思っておいでだったので)」と読む。「カナシ」は「イトホシ」としてもよい。崇峻紀の「哀不忍聴」を「いとおしがっておいでになって」と読むのも、「不忍」の字面にこだわらず読むべき証拠である。ここは前の「不忍其后……」から続くので、そこと同じ言葉で読むべきだ。「愛」も「カナシ」の中に含まれる。「カナシ」は悲しむ・いとおしむ・恋い慕うなどの意味を兼ねており、こう言うだけで、堪えられないという意味も自然に備わる。万葉巻四の「宮に行く子が、本当にいとしくて」。

【宣長の注釈】巻十四に『どこを通って、いとしい夫は私のもとへ通って来るだろう』『いとしい妻がどこへ行くものかと思って、山菅のように背中合わせに寝たことが、今は悔しい』、巻十五に『思い悩んでいるだろう妻のいとしさよ』、巻二十に『いとしいわが子よ、長い年月会わなければ、恋しいだろう』(中略)『惜しみつつ、いとおしんでいらっしゃる』、また『いとしい妻の手枕を離れ、なんとも悲しいことよ』など、例はなお多い。「故即」の二字は読まない。前の「ケレバ」の中に「故」の意味が含まれる。「有得后之心」は「ソレエタマハムノミココロマシキ(その方を取り戻そうというお気持ちであった)」と読む。「ソレ」は「其」で、后を指す。近い前に「后」があるので、ここで字どおりにまた「后」と読むと重複して煩わしい。「有」を「マシ」とするのは敬語である。「得賜はむの御心」と続ける形は、万葉巻十二の「真玉葛、絶えようという心は、私は思わない」、巻十四の「玉葛、絶えようという心は私にはない」、古今集恋四の「あなたが来るか、私が行こうかとためらううちに」などと同じである。
〔訳注:この段落で挙げる『万葉集』の引用に付された細字の丁数は判読できない。〕

【宣長の注釈】「力士」は「チカラビト」と読む。書紀のこの巻に「当麻蹶速は天下の力士である」、皇極紀に「健児に相撲を取らせた」「力人に武器を持たせて家を守らせた」とある。万葉巻十六には「力士舞」も見える。「軽捷」は「ハヤキ(すばやい)」と読む。明宮の段の歌に『棹を取るのがすばやい人こそ、私のもとへ来るだろう』とある。書紀仁徳巻には「強力な者がいて百衝といい、すばやく勇猛だった」、履中巻には「力が強く、すばやい」とある。「捷々」には動きが敏速な様子と注が付く。「取其御子」は、稲城の外へお出しになった御子を受け取ること。「乃掠取」の「乃」を古い刊本や延佳本が「巧」とするのも悪くはないが、「乃」の方が穏当なので、真福寺本と別の一本に従った。「掠」は奪い取る意味で「カソヒ」と読む。続紀巻二十の詔の「加蘇比奪、盗止為而」による。継体紀の「求捉」、皇極紀や天武紀の「捉」も同じ語である。これらを「カソヰ」とするのは仮名遣いの誤りだ。普通には「カスム」ともいう。「或髪或手」は「ミカミニマレ、ミテニマレ(髪でも、手でも)」と読む。「マレ」は「モアレ」が縮まった語である。「掬」は「ツカム」と読む。万葉巻十六(十五丁)に『恋の奴が、つかみかかって』とあり、巻四にも例がある。

【宣長の注釈】「予」は「アラカジメ」と読む。ただしこの仮名表記は古書に見えないため、「ジ」の字は「士」でなく「遅」かもしれず、決めがたい。なお考える必要がある。古い刊本や延佳本には「予」の前に「有」があり、二字でも「アラカジメ」と読めるが、ほかの諸本にはなく、ない方がよい。万葉巻三の「前もって妹を引き留める塞を置けばよかったのに」、巻四の「あらかじめ荒々しいあなたを……」「あらかじめ人の噂が激しい」、巻六の「前もってあなたが来ると知っていたなら」、巻九の「前もって自分の妻と別れて」などにある。これらをよく「カネテヨリ」と読むのはよくない。また「カネテ」とも読める。万葉巻二の「こうなると、かねて知っていたなら」、巻十の「かねて寒さも……」、巻六には「予兼而知者」と重ねた例もある。「其情」は、天皇がこうお考えになるだろうというお気持ちを、后が推し量って知ったということだ。ただ「心」でなく「情」と書く点からは、お気持ちではなく、こう企てられる事柄を指すのかもしれない。その場合「ハカリゴト」などと読むべきだが、それもどうかと思うので、やはり「ミココロ」でよいだろう。

【宣長の注釈】「以髪」は、剃り落としたご自分の髪で、という意味だろう。前後の「其」を二つ省き、ここを「以其髪」とすれば意味が明瞭になるのに、「其」がなくただ「髪」とあるので、別の髪のようにも聞こえて紛らわしい。しかし別の髪ではあるまい。そこで「ソノミカミモテ」と読んだ。「頭」を「ミカシラ」と読む理由は、上巻の伝五・八十一葉で述べたとおりである。「玉緒」は手飾りの玉を通すための紐である。古く一般に手に玉を巻いたことは、上巻、伝七・三十四~三十五葉で述べた。「三重纏手」は「ミテニミヘマカシ(お手に三重にお巻きになり)」と読む。「マカシ」は「纏い給い」の意味だ。師が四字を「玉の緒の三重の手纏を」と読んだのはよくない。その意味なら「三重の手纏の玉の緒を」というべきで、「玉の緒の……」では順が違う。「御衣」は「ミケシ」と読む。この語は上巻の八千矛神の歌に見える(伝十一・三十四葉)。「全衣」は「マタキミソ」と読む。腐らせたのに対して、腐っていない衣という意味である。「マゴロモ」としてもよく、「真」に完全な意味がある。「服」は「ケセリ(着ておいでになった)」と読む。前の「衣」と続けて「ミソ」とも読めるが、それでは後に言葉が足りない。髪には「覆」、玉の緒には「纏」とあるので、ここにも「ケセリ」などの語が必ずあるべきだ。この言葉は倭建命の歌にあり、その所、伝二十八・九葉で述べる。

【宣長の注釈】「如此設備」という表現は、上巻の八俣遠呂智の段にもある。「抱」は書紀などで「イダク」「ウダク」「ムダク」と読むが、万葉巻十四に「カキムダキ」とあるので、それによって「ムダキ」と読む。大后がご自身で御子を抱いてお渡しになることから考えると、上代には身分の高低を問わず、女性が子を産むと自ら抱いて父に見せる、決まった礼があったのだろう。書紀神代巻で吾田鹿葦津姫が「子を抱いて来て差し出し、『天つ神の子を、どうしてひそかに自分だけで育てられましょう。そこで様子をお知らせします』と言った」のも、その礼だろう。しかしこの后は兄の稲城に隠れて産んだため、そのようにはできなかった。そこで今、お渡しするに当たり、離れたままでもその礼を行われたのだろう。そうでなければ、このような戦乱の中で、高貴な女性が自ら抱いて出るはずがない。古書を読む際は、こうした所へよく注意を向け、上代の行いを細かく考え知るべきで、決していい加減に見過ごしてはいけない。前の「稲城の外に置いた」も、この一件と同じである。前にまず概略をいい、ここで詳しく述べたのだ。別の一件として、先に人を使って外へ置かせたようにも聞こえるが、そうではない。

【宣長の注釈】「御祖」は、古くは母を指す。記ではすべてそうである。「握其御髪者」は「御」のない本もあるが、ある方がよい。続く「御手」「御衣」にも「御」があるからだ。「自落・且絶・便破」の「自」「且」「便」は、それぞれ違う意味ではなく、言葉を替えていう文章の表現である。「御衣易破」の「易」は、前の文と照合すると「且」の誤りだ。今の諸本はいずれも「易」とするが、「マタ」と読む。前は「玉緒且絶、御衣便破」だったのを、ここでは「且」「便」を入れ替えている。「亦所纏」の「亦」は読まず、「玉緒モ」の「モ」に意味を含ませる。ただし、この「亦」には意味がある。髪も落ち、衣も破れ、玉の緒も切れたので、あらゆる手を尽くしても、結局お連れするための手掛かりがなかったことを強く申し上げている。また前と順序を替え、玉の緒の話を最後にしたのは、次に玉を作る人のことがあるので、近くにつなぐためだろう。

【宣長の注釈】「取得御子」について。ここで母を連れ出せなかったことを先に、御子を受け取れたことを後に申し上げたのは、単に前の文章の流れによるのか。あるいは、天皇の望みをかなえられなかったことを恐れ慎んで、そちらを先に申し上げたのか。それとも御子を受け取れた功績を確かなものにしようと、そちらを最後に述べたのか。一般に事柄を並べるとき、先にいう方が重くなる場合も、後にいう方が重くなる場合もあり、ここは決めにくい。「悔恨」は「クイウラミ」と読む。「悔い」の仮名は「クイ」で、ヤ・イ・ユの音で活用する語だ。二字をただ「ウラミ」と読んでもよい。「悔」にも「恨む」と注があるためだが、やはり「悔」は「クイ」だろう。初めに后が宮を逃げ出された時、気づかず引き留められず、ついには失うことになったのを、この時になって今さら悔やまれたのだろう。

【宣長の注釈】「作玉人等」は「タマツクリセシヒトドモ(玉を作った人たち)」と読む。この時、皇后が手に巻いた玉を作った人々である。「タマツクリヒトドモ」とも読めるが、それでは世の玉作り全体をいうようになる。ここは全員ではあるまい。この一件で全員をとがめられたのでは、あまりに過ぎるからである。玉作りについては上巻の玉祖連の注(伝十五・五十九葉)で述べた。后の手をつかめなかったのは玉の緒が原因なので、責任は緒にあって玉にはない。それなのに玉を作る人をとがめたのは、緒も一緒に彼らが作り、玉を通して整え、献上していたのだろう。「其地」は、その人々の領地である。諸国の「玉造」という地名も、多くは上代に玉作りの人の土地だったのだろう。「皆奪」は「ミナトリタマヒキ(すべて取り上げられた)」と読む。一本には「奪」の後に「取」もあるが、同じ意味だ。「皆」は、この時玉を作った人々の土地をすべてということで、世の玉作り全部の土地ではない。「奪」は天武紀の「没官」と同じく、朝廷へ取り上げることである。書紀のこの巻で当麻蹶速の土地を奪い、野見宿禰にすべて与えたのと同じだ。続紀巻三十の「授けた姓を取り、別の部とする」「その名も取り上げ」、巻四十の「官を解き位を取るべきところ、官と位だけを取り上げ」なども、公に取り上げることを「取」という同じ例だ。師は「奪」を「オヒタマヒキ」と読んだ。令などに「追」とあるためだが、「追」も公に取り上げることであり、字どおり「オヒ」とは読めない。天武紀にも「官位尽追」とある。「諺」は「コトワザ」と読む。語の意味は上巻、伝十三・三十九葉で述べた。

【宣長の注釈】『不得地』は『トコロエヌ(土地を得ない)』と読む。ことわざはどれも物事のたとえに使うもので、記に出るものも皆そうだ。ここは、褒美を得ようとして行ったことのため、逆に罰を受けるような場合のたとえとして言いならわしたのだろう。この一件だけをいうなら「土地を奪われた」などというはずなのに「得ない」とするのは、褒美に土地を得られるはずが得られない、というたとえだからである。玉作りが玉の緒を腐らせて作ったのは、皇后からの特別なご注文だったので、その褒美の土地を得ようと思っていたところ、かえって土地を取られたのだ。趣は違うが、竹取物語で、くらもちの皇子に頼まれた玉作りの職人たちが蓬萊の玉の枝を作って献上したのに、まだ報酬をいただいていないと文書を差し出して求めた話も、いくらか似たところがある。

【古事記本文】天皇はまた、后に伝えておっしゃった。「子の名は、普通、母が付けるものだ。この子の御名を何と付けようか」。后はお答えになった。「今、稲城を焼いている時、火の中で生まれたのですから、御名は本牟智和気御子(ほむちわけのみこ)となさるのがよいでしょう」。天皇はまた「どのようにしてお育て申し上げようか」と伝えさせた。后は「乳母を選び、大湯坐・若湯坐という養育の役を定めて、お育てください」とお答えになった。その言葉に従って御子を育てた。さらに天皇は后へ尋ねさせた。「お前が結び固めた、りっぱな下紐を、誰が解くことになるだろう」。后は「旦波比古多多須美智能宇斯王の娘で、兄比売・弟比売という二人の女王は、清らかな公民ですから、お仕えさせるのがよいでしょう」とお答えになった。こうしてついに沙本毘古王を討ち殺し、その同母の妹も兄に従って亡くなった。「美豆能」の三字は音を表す。

【宣長の注釈】「亦」は真福寺本に従った。諸本にはないが、ある方がよい。「命詔」の「命」は「令」の誤りだろうという師の説は、そのとおりだ。前の「令白天皇」の「令」と同じである。ここは直接お話しになったのではなく、使者を通じてお伝えになるので「令」であるべきだ。「天皇命」という表記も上巻にあるが、ここはその例ではない。「詔」を「命詔」ともいえるかもしれないが、そうでもあるまい。後の「命詔」も同じである。「母名」は「ハハナモツクルヲ(母が付けるものなのに)」と読む。「ナモ」「ヲ」は助辞で、「ツクル」は名を付けることだ。「名」は普通「ナヅク」と読むが、ここは上に「名」とあるので、ただ「ツク」というのが言葉の決まりである。常の訓にこだわって「ナヅク」と読むのは漢籍の訓読のようで、たいへん俗な読みだ。子の名を母が付けることは、書紀神代巻の豊玉姫の話に、「子が生まれた後、天孫が近づいて『子の名をどう付けたらよいか』と尋ねると、『彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と号するのがよいでしょう』と答えた」とあるので、神代以来の礼である。『文徳実録』巻一に、先代までの制度では皇子が生まれると乳母の姓を御名にしたとあるため、ここの「母名」を「オモノナ」と読んで乳母の姓かとも思うが、そうではない。乳母の姓を御名にするのは、やや後のことと見える。その理由は伝二十七で詳しく述べた。

【宣長の注釈】「是子之御名」について。ご自分の御子の名に「御名」とおっしゃることは、後世の感覚ではどうかと思われるかもしれないが、このようにおっしゃるのが上代の言葉である。「何称」は「ナニトカツケム(何と付けようか)」と読む。「称」は「タタヘム」としてもよい。「答白」の「白」を古い刊本や延佳本が「曰」とするが、ここでは真福寺本や別本に従った。以下もすべて「白」だからである。「ミコタヘマヲシタマハク(お答え申し上げることには)」と読む。「当火焼稲城之時」は「イナキヲヤクトキ(稲城を焼く時)」と読む。「当」「火」は読まない。「火中」は「ホナカ」と読む。倭建命と弟橘比売命の歌に「燃える火の中に立って」とある。「本牟智和気御子」は、前では「品牟都和気命」で「智」と「都」が違う。書紀では「誉津別」で、後の「品遅部」も書紀では「誉津部」である。音が通じるため、チともツとも伝わったのだろうか。御名の「本」は火、「牟智」は大穴牟遅などの「ムヂ」と同じだろう。チもツも清音、ヂは濁音で違いがあるが、「品遅部」のヂは濁音なので、清音・濁音の両方で言ったのかもしれない。師は「ホムチ」を「火の内」としたが、それはどうだろう。「日足奉」の意味は上巻の「治養」の注、伝十七・六十八葉に詳しく述べた。

【宣長の注釈】今この養育のことをお尋ねになるのは、生みの母がいなくなるためである。「御母」は「ミオモ」と読み、乳母をいう。「オモ」は子を養い育てる女性の総称で、その中で乳母は特に中心となるので、単に「オモ」という。また、生みの母も中心になって育てる者だから「オモ」という。生みの母を「オモ」と呼ぶのは、養育する面からの呼び名で、ただ生母の古名と理解するのは正確でない。生母に使う例は、書紀仁賢巻の「於母亦兄、これをオモニモという」、万葉巻二十で父母を「オモチチ」と詠むものがある。同巻の「アモトジ」も防人の歌で、東国ではオをアという。曽禰好忠集にも「おもとじの乳ぶさのむくい……」とある。書紀神武巻には「孔舎衛の戦いで、大樹に隠れて難を逃れた人が、その樹を指して『恩は母のようだ』と言ったので、土地を母木邑と呼んだ。今、オモノキというのは、その訛りである」とある。新井氏の『東雅』は「百済の方言では母をオモといった。今の朝鮮でも母をオモというのは古語の名残である。わが国の語が伝わったのか、向こうの語がわが国に伝わったのかは分からない」とする。私が考えるに、この呼称には神武天皇の時代の故事があり、古くから乳母にもいうので、もともとわが国の語が朝鮮へ伝わったのだろう。生母を「オモ」といい「母」と書くので、乳母のオモも同じく「母」一字で書いたのは、古くは字にこだわらなかったためである。

【宣長の注釈】乳母を単に「オモ」という例は万葉巻十二にあり、『幼子のためにこそ乳母は求めるというのに、あなたは乳を飲むとでもいうので、乳母を求めているのでしょうか』と詠む。「乳母」と書いてあっても「オモ」と読むべきことは、結句に「於毛」とあるので分かる。今の本の訓はひどく誤っている。さらに『悔しいことに年を取ってしまった。そうでなければ、あなたが求める乳母として行っただろうに』ともある。孝謙天皇の乳母、山田宿禰比売島は、続紀巻二十、万葉巻二十で「山田御母」と呼ばれる。『和名抄』は、乳母について「日本紀の師説ではメノオト、妻の妹という意味で、その事は同書にある。唐式に乳母とあるものの和名はメノト。『弁色立成』に嬭母とあり、今考えると乳母のこと、和名チオモ」とする。古い本には「チオモ」の「チ」がない。「大湯坐・若湯坐」の「湯坐」は「ユヱ」と読む。「ユザ」は誤りだ。書紀雄略巻の「湯人、これをユヱという」がこれである。神代巻には「またいう。彦火々出見尊は女性を選んで乳母・湯母・飯嚼・湯坐など、すべての役をそろえ、養育させた。その時は仮にほかの女性を用いて皇子に乳を与えた。これが、世に乳母を取って子を育てることの起こりである」とある。

【宣長の注釈】「湯坐」は、子を湯につからせる女性と受け取れる。神代巻で「湯母」と「湯坐」を分けるのは、湯母が子に湯を飲ませる女性だからだろう。「飯嚼」は飯をかんで子に食べさせる者なのだから、湯を飲ませる者もいるはずだ。しかし「ユヱ」の意味も、「坐」を書く理由も、まだ理解できない。あるいは「ユスヱ」の「ユス」が縮まって「ユ」となり、「ユヱ」というのか。そうなら、子を湯の中に据える意味かもしれないが、まだ確かでない。「大・若」は、大と小というようなことだ。後にも述べる。「随其后白以」は「ソノキサキノマヲシタマヒノマニマニ(その后のおっしゃったとおりに)」と読む。延喜式の祝詞の『大神たちの乞い願われるままに』、また『皇大御神の乞い願われるままに』、また『皇御神が乞い願われたままに』などの形による。「所堅」は「カタメシ」と読む。師の「ユヒタル」もよいが、わざわざ「堅」と書くので、やはり「カタメ」がよい。結び固めたということだ。万葉巻二十に『枢に釘を刺して固定するように、固く契った妻の心は危なげがないからだろうか』とある。「等之」は「てし」、「去々里」は「心」、「阿用久奈米」は「危く無み」である。巻七の『私の紐を妻の手で結う――その「結う」にかけた結八川』、巻十五の「旅先でも解けずにいよと、妻が結んだ紐は、すっかりなじんだことよ」なども例である。

【宣長の注釈】「美豆能」は「水穂」「水垣」「水枝」「瑞之御殿」などの「ミヅ」で、みずみずしく立派なさまをいう。「水」は音を借りた字で、書紀がどれも「瑞」と書くのは、意味の上では全く当たらない。「小佩」について師は「下紐で、『ヲヒモ』と読む。腰にまとうので『佩』とも書く」と述べた。そういうこともあるだろう。紐なら「佩」の字はかなり遠く、紐を「美豆能」と形容するのも少し珍しいが、必ず紐のことに違いない箇所で、ほかに読む語がない。「帯」と「佩」は近く、通用することもあるので、「帯」の意味で「佩」と書いたのだろうか。「帯」を「ヒモ」と読む例もある。「誰解」について。古く夫婦は互いに下紐を結び合い、次に会うまでは他人に解かせまいと固く約束して、大切に慎んでいた。今はこの皇后と永く別れるので、今後その下紐を解く人は誰だろうと、後を継いで后となるべき人をお尋ねになったのである。このように尋ねるのも、ひたすらこの后への情愛が深く厚いためだろう。

【宣長の注釈】夫婦が互いに下紐を結んで固く約束する例は、万葉巻九の「妻の結んだ紐を、どうして解こう。たとえ切れるなら切れても、直接会うまでは」という歌である。ほかに万葉巻十一の「菅の根のように心を込めて、あなたが結んだ私の紐を、解く人はいないだろう」、巻十二の「二人で結んだ紐を、一人で私は解くまい。直接会うまでは」、「海石榴市の多くの辻に通い慣れて、結んだ紐を解くのが惜しい」、「遠い先のことも近い今のことも合わせて約束し、結んだ、私の下紐が解ける日があろうか」、「紫の帯の結びを解きもしないまま、むなしく妹を恋い続けるのか」、「高麗錦の紐の結びも解き放たず、身を慎んで待っても、かいがないことよ」、巻十四の「筑紫にいる美しい子のために、陸奥のかとりの乙女が結んだ紐を解く」、巻十五の「一人だけで着てきた衣の紐を解いたら、誰が結んでくれるのか。家は遠いのに」、巻二十の「海を遠く渡って年月が過ぎても、乙女たちが結んだ紐を決して解くな」など、なお多くある。これらによって理解すればよい。このように、夫婦の間で紐の結びを重んじ慎んだことは、万葉の中にほかにも多く見える。

【宣長の注釈】「旦波比古多多須美智能宇斯王」は、伊邪河宮の段(伝二十二・六十一葉)に出る。「智」の下の「能」は諸本にないが、延佳本が補ったのに従った。理由は前に述べた。「王之」の下の「女」は諸本がどれも落としており、延佳本に従った。「兄比売・弟比売」のように姉妹を呼ぶ例は、日代宮の段の神大根王の娘たち、書紀雄略巻の呉衣縫の兄媛・弟媛などがある。このほか兄比売・弟比売という名は多い。皇極紀の「長女・少女」は、固有の名でなくてもそのようにいったのである。「二女王」は「フタハシラノヒメミコ」と読む。この女王たちは皇后の姪である。ただ、伊邪河宮の段や、この段の前後に出るものは、いずれも二人ではなく、御名も場所ごとに一致しない。この問題は次の巻で論じる(伝二十五・四十三葉)。ここで皇后が二人と申し上げたのは、遠い丹波国のことなので、人数まで詳しくはお聞きになっておらず、ただ姉王・妹王と伝え聞いたままを申し上げたのだろうか。

【宣長の注釈】「浄公民」は「キヨキオホミタカラ」と読む。「公民」は奴婢に対して自由身分の人をいう呼称で、古書に普通に多く出る。孝徳紀では「王民」ともいい、「良」「良人」「良男」「良女」も、いずれも「オホミタカラ」と読む。続紀巻四十の「公民を奴婢に変えてしまう……」などが例だ。同巻二十九の神社・寺の封戸の百姓と公戸の百姓を挙げ、「公民と同じに扱う」という例では、神戸・寺戸の百姓に対して、公戸の百姓を公民という。ただし、必ずしも奴婢と対比せず、単に「天下の公民」などといえば人民のことだ。水垣宮の段の「人民」の注(伝二十三・二十三葉)とも照合されたい。「浄」は血筋の貴さをいうのだろう。当時、最も高貴な血筋なのが、この女王たちだったのだろう。孝徳紀の「神や王の名を負いながら、人に贈る物とされ、他人の奴婢となって、清らかな名を汚す」も、「清名」は貴い名と受け取れる。古くから皇后には特に高貴な一族の女性を選んで立てるのは、いうまでもない。外国が身分の高低を選ばず、みだりに立てるのとは比べられない。現行の制度を考えても、皇后の次の二人の妃にさえ臣下の娘は迎えず、「四品以上」とされる。品は親王の位で、臣下にはいわない。また「浄」は本人の行いが貞淑なこととも聞こえるが、わざわざ「公民」と続けているのだから、やはりその意味ではないと思う。続紀巻十二、葛城王の上表に「卒立清浄民……」とあるのも、同じ意味だろう。

【宣長の注釈】「民」というと低い身分の者だけのように思えるが、そうではない。天皇からは、貴人も一様に「公民」と呼ぶ。「臣・連・伴造・国造・八十部・天下の公民」と並べるときは低い身分の者を指すが、貴賤を問わず天下の人すべてを公民ともいう。孝徳紀の「国の公民、大小の領有する人々……」は、官位を帯び、人々を領するほどの人まで公民とする例である。また「名々王民」は、朝廷に仕える人すべてを王民と呼ぶ。「宜使」は「ツカヒタマフベシ(おそばにお使いになるとよいでしょう)」と読む。この語の例は、上巻の大山津見神の呪いの言葉の「私の二人の娘を並べて差し上げたのは、石長比売をお使いになるなら……、また木花之佐久夜毘売をお使いになるなら……」の注(伝十六・二十八葉)に挙げた。照合されたい。ほかに記の軽島宮の段で日向髪長比売が美しいとお聞きになり、召し上げてお使いになろうとされたこと、高津宮の段で吉備黒日売の容姿が美麗とお聞きになり、召し上げてお使いになろうとしたこと、「天皇のお使いになった妾は……」などがある。

【宣長の注釈】「ツカヒタマフ」、また「ツカハス」は、人を使う側からいう語で、「ツカヘマツル」は、使われる側からいう語であり、同じ語の活用である。「仕」は「ツカハレル」の「ハレ」を縮めて「ヘ」としたもので、「ツカヘム・ツカヘ・ツカフ・ツカフル」と活用する。この時の「フ」は「ハル」が縮まったものだ。「使」は「ツカハム・ツカヒ・ツカフ・ツカヘ」と活用する。この場合の「ツカヘ」は命じる言葉で、「仕へ」の「ヘ」とは違う。また「ツカハス(遣わす)」は「ツカフ(使う)」を延ばした形で、「立つ」を「タタス」というのと同じだ。人をある所へ派遣するとき、その人を「ツカヒ(使い)」というのも、「ツカフ」を名詞にしたものである。したがって「使ふ・仕へ・遣はす・使ひ」などは、みな元は同じ語が活用したものだ。

【宣長の注釈】「沙本比古王」の「比」は、それ以前はすべて「毘」なのに、ここだけ諸本が「比」とするのは、写し誤りだろう。「殺」を「トル」と読むことは、水垣宮の段(伝二十三・六十葉)で述べたとおりである。「従」は、兄が殺されるのに従って、妹も一緒に亡くなったということだ。前に稲城を焼いたとあるので、兄妹とも火の中で亡くなられたのだろう。

【宣長の注釈】ただ、この稲城を焼いたことには、少し疑問がある。すでに城に火が付いたなら、中の人も何も焼けてしまうまで長い時間はかからないはずなのに、その間に使者が師木の都から沙本まで往復して、さまざまなことを問い答え、決めたというのは理解しにくい。本牟智和気御子が生まれたのは、城に火が付いた後である。后が「この子を御子と思うなら育ててください」と申し上げ、天皇のもとから受け取りに遣わしたので、まずこれで一往復になる。また、御名・育て方・下紐を解く人、という三つの質問は、御子は受け取ったが后は連れ出せなかったという報告の後、折り返しまた尋ねに遣わしたものだから、合わせて二往復である。初めに受け取りに遣わした時は、后も一緒に取り戻すおつもりだったので、それらのことを前もって尋ねるはずはなく、后が一緒に帰って来るのを待たれたはずだからだ。あるいは、初めに燃え上がった火を消すなどしていったん静まり、城がしばらく持ちこたえて、その時間があったのかもしれない。詳しい様子は分からない。

【宣長の注釈・書紀からの引用】「ただちに近くの県の兵を動員し、上毛野君の遠祖・八綱田に、狭穂彦を攻めさせた。狭穂彦は軍を起こして防ぎ、たちまち稲を積んで城を造った。堅固で破れず、これを稲城という。一月を越えても降伏しなかった。皇后はこれを悲しんで言った(宣長の引用中略)。王子の誉津別命を抱き、兄王の稲城へ入った。天皇はさらに兵を増やして城を囲み、城中へ『早く皇后と皇子を出せ』と命じたが、出さなかった。そこで将軍八綱田は火を放ち、城を焼いた。皇后は付き添いの女性に皇子を抱かせ、城の上を越えて外へ出し、願い申し上げて……『私がつかさどってきた后宮のことは、よい伴侶にお任せください。丹波国には五人の女性がおり、いずれも心が貞淑で清らかです。丹波道主王の娘たちです。宮中に迎え、后宮の人数を満たしてください』と言った。天皇は承知された。その時、火が燃え上がり城は崩れ、兵たちは皆逃げ出し、狭穂彦と妹は城中でともに死んだ。天皇は将軍八綱田の功をほめ、その名を『倭日向武日向彦八綱田』と称した」。記の「浄公民」を、書紀で「いずれも心が貞淑で清らか」と書いたのは、例によって中国風にしようとした文章で、意味を取り替えたのである。

古事記伝 巻二十五 玉垣宮の下巻。本居宣長、謹んで著す。

【『古事記』本文】その御子を連れてお遊びになる様子はこうだった。尾張の相津にあった二股の杉で、二股の小舟を作って都へ運び、大和の市師池・軽池に浮かべ、御子を連れてお遊びになった。しかし御子は、長いひげが胸の前に届くまで成長しても、言葉をお話しにならなかった。「登波受」の三字は音を表す。ところが空を飛ぶ鵠の鳴き声を聞き、初めて「あぎとひ」、幼児のように声をお出しになった。「阿藝登比」の四字は音を表す。そこで山辺の大鶙という人を遣わし、その鳥を捕らえさせた。「大鶙」は人の名である。この人は鵠を追い、紀伊国から播磨国へ行き、さらに因幡国へ越え、丹波国・但馬国に至った。東へ回って近江国へ行き、美濃国を越え、尾張国から伝い歩いて信濃国へ追い、ついに越国まで追って行った。そして和那美の水門で網を張り、鳥を捕らえて朝廷へ献じた。それでその水門を和那美の水門という。また御子はその鳥をご覧になり、話そうとお思いになったが、思うようにはお話しになれなかった。

【宣長の注釈】「其御子」は本牟遅和気御子をいう。「尾張の相津」という土地は、ほかの資料に見えず、今も聞かない。尾張国の地図を見ると春日部郡に文津という村がある。これを「あやづ」というのだろうか。そうなら「あひづ」が訛ったのではないだろうか。なお調べたい。尾張国であることは、後に引く『尾張国風土記』の記事などとゆかりがある。

【宣長の注釈】「二俣榅」の「榅」は杉である。諸本は「相」とするが、ここでは延佳本に従った。この字については巻九の二十四丁に詳しく述べた。「二」の前に「以」が落ちたのかもしれないが、なくても悪くはない。今、尾張国春日部郡に杉という村があり、中島郡には二俣という村もある。そのいずれかが古い相津の地で、この杉に由来する名ではないだろうか。伝承はないか、土地の人に尋ねたい。「二俣小舟」は二股の杉で作ったので、その一本の木全体を、二股の形のまま掘り抜いた舟だろう。作り方や形の細部は今わからない。『日本書紀』履中天皇紀には「天皇は二股の舟を磐余の市磯池に浮かべ、皇妃とそれぞれ一方ずつに乗って遊宴した」とある。この話は『新撰姓氏録』の若桜部造の項にも見える。

【宣長の注釈】「倭の」というのは、前に「尾張の……」といったためだろう。「市師池」は、右の履中天皇紀の磐余の市磯池と同じだろう。磐余は十市郡にあり、この土地のことは若桜宮の段で述べる。池は今も十市郡池内村にあるという。履中天皇紀には「二年十一月、磐余池を作った」とあり、続いて三年十一月に市磯池での遊宴があるので、磐余池がすなわち市師池だろう。『万葉集』巻三に「百伝ふ磐余の池に……」、『夫木和歌抄』には「桜を散らす室の山風が吹いたらしい。市師の池には白波があふれている」とある。「軽池」の軽は、境岡宮の段(巻二十一・十六葉)に出た。『日本書紀』応神天皇紀の「十一年冬十月、軽池を作った」は、もとからあったものを修理し直したのだろうか。この池は今も軽村にあるという。『万葉集』巻三には「軽池の入江を行き交う鴨でさえ、玉藻の上でひとり寝をしないのに」とある。

【宣長の注釈】「是御子」の後には「い」という助詞を読み添えるべきだ。『日本書紀』『万葉集』の歌や『続日本紀』の宣命には多く見え、文の形によって必ずそういうべき所がある。「八拳鬚」という言葉は、上巻の須佐之男命の注(巻七の十九丁)に見える。『出雲国風土記』仁多郡三津郷の項に「大穴持大神の御子、阿遅須伎高日子命は、ひげが八握りもの長さになるまで、昼も夜も泣き、言葉が通じなかった。そこで父神は御子を舟に乗せ、多くの島を巡って心を和らげようとなさったが、なお泣きやまなかった……」とあるのは、よく似た話である。「髪」は「髯」などの誤りだろう。「于」は「至」の誤りか、その前に「至」が落ちたのだろう。右の『尾張国風土記』の話も、これに少し似ている。

【宣長の注釈】「まこととはず」について、『日本書紀』には「誉津別命が生まれ、天皇はかわいがって、いつもそばに置かれたが、成人しても話さなかった」とあり、また二十三年に群臣に告げて「誉津別王はすでに三十歳で、ひげは八握りにもなるのに、なお幼児のように泣き、いつも話さない」とある。天智天皇紀にも「建皇子は言葉を話せなかった」とある。「こととふ」は「ものいふ」と同じである。『万葉集』巻二に「明日帰って妻に話しかけ」、巻四に「お言葉もお掛けにならず」、また「よそながら見るだけで、話すよしもないので」「言葉をいわない木でさえ……」、巻五に「ものをいわない木ではあっても」「語りかけることもなく」、巻七に「せめて目だけでも私だけに見せてほしい。言葉をいわなくても」、巻十八に「語らいの乏しい子ら」、巻二十に「愛しい母にまた語りかけよう」「せめて今日だけでも語り合おうと」など、なお多く見える。「ことどひ」と名詞にするときは「と」が濁る。言うことを「問ふ」という例はほかにもあり、「問ひ放つ」などもそうだ。

【宣長の注釈・『尾張国風土記』引用】「丹羽郡吾縵郷。巻向珠城宮で天下を治めた天皇の御世、品津別皇子は七歳になっても話さず、『傍同郡下』、言うことができなかった。その後の皇后の夢に神が告げ、『私は多具国の神で、名は阿麻乃弥加都比女という。まだ祭りをする人を得ていない。私に祭る人を付ければ、皇子は話せるようになり、また長寿となる』といった。天皇が神を探す者を占わせると、日置部らの祖、建岡君が占いに合った。そこで探しに遣わした。建岡君は美濃国の花庶山に至り、賢木の枝を取り、かずらにして、『私のかずらが落ちる所には、必ずこの神がいる』と誓った。かずらがそこに落ちたので、神がいると知り、社を建てた。社によって里の名を付け、後の人は訛って阿豆良里という。」この「傍同郡下」は解しにくく、誤字があるのだろう。「後の皇后」は比婆須日女命だろう。この皇子の母である皇后はすでに亡くなっているからだ。ただ「皇后」といえば母と混同するので、「後」といったのだろう。「多具国」はまだ考証していない。「卜人」の「人」は「合」の誤りだろうか。「花庶」は花鹿だろう。『延喜式』に美濃国大野郡の花長神社・花長下神社がある。「阿豆良」は同じく尾張国丹羽郡の阿豆良神社で、『和名抄』には同郡の吾縵郷がある。今の本は「吾」を「五」と誤る。今もこの村があり、「吾鬘」と書いて「あづら」という。「鬘」は「縵」を誤り伝えたものだ。〔「傍同郡下」の意味と、山名二字目の原刊字形には留保が残る。〕

【宣長の注釈】「故今」の「今」は「余」の誤りだろう。市師池・軽池へ連れて遊ばせた時を指して「今」といったようにも見えるが、そうではあるまい。仮にそうでも、「今」というのは落ち着かない。二股の舟を池に浮かべて遊ばせたことも、話せないためにしたことだと考えると、「今」はその時を指すようにも見える。しかしそうなら、初めに「この御子は言葉を話さず」といい、その次に「尾張国に……御子を遊ばせた時、空を飛ぶ鳥の声を聞いた」と書くはずだ。そう書いていない以上、池で遊ばせたことは、話せないこととは関係のない事柄に思われる。

【宣長の注釈】「高往」は「たかゆく」と読み、空を飛ぶというような意味だ。「高」は空をいう。このことは巻三の五丁に詳しく述べた。高津宮の段の女鳥王の歌に「たかゆくや、はやぶさわけの」、『万葉集』巻四に「空を行く雲にもなりたい、空飛ぶ鳥にもなりたい」とある。この「高飛」も「たかくとぶ」と読むのはよくない。「鵠之音」は「たづがね」と読むべきだ。遠飛鳥宮の段の軽太子の歌に「たづがねの」とあり、『万葉集』などにも多い。上代には鶴も鵠も鸛も、まとめて「たづ」といった。「くぐひ」「おほとり」など区別した名は、やや後のことだろう。『万葉集』巻三の「近江の海の多くの港に、たづがたくさん鳴く」も、「たづ」を「鵠」と書く。鵠と鶴は別だが、中国でも鶴を鵠という例は多く、字音も鳥も似ているため混同されることがある。『五雑俎』は「鵠はすなわち鶴」とさえいう。また鶴は晩秋から春までしかこの国にいないのに、『万葉集』は夏や初秋の歌で「たづ」の鳴くことを詠む。これは鵠や鸛などを「たづ」といったのである。ここも鶴を通わせて鵠と書いたのか、それとも「くぐひ」を「たづ」といったのか、区別しにくい。いずれにしても読みは「たづ」だろう。

【宣長の注釈】『和名抄』には「『四声字苑』に、鶴は鵠に似て、くちばしが長く脚が高いもの。和名はつる。『唐韻』に、鶖は鶴の別名。『楊氏抄』に、たづ」とある。また「野王の考えでは、鵠は大鳥。『漢語抄』に、こふ。『日本紀私記』に、くぐひ」、さらに「『本草』に、鸛は水鳥で、鵠に似て木に巣を作るもの。和名はおほとり」とある。天武天皇紀は鶴を「おほとり」と読む。『字鏡』は鵠を「くぐひ」、また「こひ」とする。『漢語抄』の「こふ」と『字鏡』の「こひ」は通じて同じ名だろう。今この三つを漢字でいうなら、鶴はつる、鵠は白鳥、鸛はこうという鳥だ。それなのに前記の書で鵠を「こふ」「こひ」とするのは、取り違えたようだ。今の「こう」は鸛に当たる。また「くぐひ」は鵠とも鸛ともいうが、鸛とするのは誤りだろう。神楽歌「湊田」には「湊田に、白鳥よ、たくさん群れているよ……」、東遊「彼乃行」には「あそこを行くのは、雁か、くぐひか……」とある。師が「くぐひは今の白鳥で、こうではない。こうは雌雄一組だけでいて群れないので、多くいるという『八居』には合わない。白鳥は多く群れる」といったとおりだ。また雁と見まがえるのも、白鳥ならそうだろう。

【宣長の注釈】「為阿芸登比」は「あぎとひ」を名詞として読み、「為」を「したまひき」と読むべきだ。白檮原宮の段の「為遠延」、日代宮の段の「為泥疑」などと似た書き方である。名詞として読むとは、同じ言葉でも「あぎとひたまふ」なら動詞だが、「あぎとひしたまふ」なら「あぎとひ」が名詞になることをいう。「あぎとひ」は幼児が初めて言葉を発することだろう。「あぎ」は「吾君」で、こういう例は多く、向かい合う相手を指す。「とひ」は「こととひ」の「とひ」で、言葉をいうことだ。つまり幼児が初めて話す時、相手を「吾君」ということなのだろう。今、話すことを覚える際に、じじ・ばば・とと・かかなどというのと同じ意味だ。じじは老人、ばばは老女、ととは父、かかは母をいう。『日本書紀』の「得言」の読みは、この『古事記』によったものだが、「得言」という字はその言葉の意味に十分合わない。『蜻蛉日記』の「たくさんの人があぎとふようにするので……」が何をいうかは詳しくわからない。また『日本書紀』神武天皇紀の「魚がみな浮かび出て、水に従い噞喁する」の字には、魚の口が水面に見えること、と注している。

【宣長の注釈】「山辺」は姓ではない。それで後に「之」を加えている。地名で、大和国山辺郡であり、前(巻二十三の九十六丁)に出た。「大鶙」の「鶙」は「たか」という読みに従いたい。鷹である。師は「わし」と読んだが、やはり「たか」だろう。この鶙は鶗と同じ字で、『玉篇』に「鶗鴂は仲春に鳩になる」と注し、鴂の字の注には「鶗鴂は鵙の類」とある。『礼記』月令の「鷹が鳩になる」がそれである。『字鏡』に鶙を「にほ」とするが、ここには合わない。この人は鳥を追い回ったことによって、この名を得たのだろう。『日本書紀』では天湯河板挙という。鳥を追い探す例には、『日本書紀』景行天皇紀で、倭建命が変じた白鳥を、使者を遣わして探させたことなどがある。「これは人の名である」という注は後の人の仕業だと師はいった。しかし人の名ではなく、八咫烏のような霊鳥なのかという疑問を予想し、もとから付けた注かもしれず、わからない。

【宣長の注釈】「紀伊国から播磨国へ至る」は、海路で直接着いたのか、和泉・摂津を経たのか、どちらでもありうる。大和から紀伊へ行ったことは述べないが、「紀伊国から」という中に自然とその意味が含まれるのが古語の形だ。今の話し言葉も同じで、たとえば都から伊勢へ行き尾張へ行くことを都でいう時、「伊勢から尾張へ行く」といい、都から伊勢へ行くことは省いても自然にそう聞こえる。「因幡国へ越える」は山を越えるので「越」といった。因幡は播磨の西北に接する国だ。『和名抄』には因幡国邑美郡の鳥取郷がある。

【宣長の注釈】「丹波国・但馬国」は、因幡から近江へ行く道順なら但馬を先にいうべきだが、丹波を先にしたのは、普段国名を挙げる順によったのだろう。『延喜式』には但馬国城崎郡の久々比神社、養父郡の和奈美神社がある。後の文から推すと、この国でも網を張って捕ろうとしたが、捕まらなかったのだろう。これらの社は、その時、鳥を捕らえるために祭ったのだろうか。また丹後国竹野郡に網野神社があり、『和名抄』には同郡の網野郷・鳥取郷がある。今の本は「網」を「納」と誤るが、東大寺の古文書には網野郷とある。「東へ追い回る」は、因幡から但馬へ行く時点ですでに東へ回るので、その所にあるはずだ。それをそこでいわず、ここでいうのは、播磨から丹波までは大和から見てみな西寄りの国だが、近江は大和の東寄りだからである。つまり「東方」とは、大和から東という意味だ。

【宣長の注釈】「尾張国から」という所は、美濃・信濃と東へ続く道筋だが、尾張は美濃の南にあって、信濃へ続く順路ではない。それでもこう書くのは、鳥の飛んで行くままに追ったので、道を曲がって行ったのだろう。「伝」は「つたひて」と読むべきだ。延佳が「伝は転の誤りか」というのは、中国の書物の用法だけを考え、古語を知らないためだ。中国の書では「伝」を「つたふ」という意味に使う例がなくても、ここではよく意味の合う字である。高津宮の段に「その島から伝って」、『日本書紀』舒明天皇紀に「唐への留学生、高向漢人玄理は、新羅を経て帰ってきた」、天武天皇紀にも同様の例があり、『万葉集』巻二十には「太上天皇・皇大后は河内の離宮へおいでになり、さらに難波宮へおいでになった」などとある。歌でも島伝い・浦伝いなど、普通に使う言葉で、日代宮の段の歌に「いそづたふ」ともある。「伝ふ」は、行った所からまた別の所へ行くことだ。前の国々を順に追ったことも、すべて伝って行ったわけだが、ここだけこういうのは、単に言葉を変えただけである。

【宣長の注釈】「高志」を旧刊本やある本が「但馬」とするのは誤りで、今は真福寺本と延佳本に従った。信濃から但馬へ行くのでは国の順がひどく違ううえ、前にすでに但馬へ至ったとある。また「但馬」という表記も『古事記』の用例と合わず、伊邪河宮や明宮の段でも「多遅麻」とだけ書く。この誤りは、『日本書紀』に「一説には但馬国で捕らえた」とあり、『延喜式』には同国に和奈美神社があるなどのため、後人が「多遅麻」とある所との関係も知らず、なまじ知ったつもりで改めたものだ。水垣宮の段にも同じ誤りがあり、ここから移した作為と思われる。この国は上巻(巻十一の三丁)に出た。『延喜式』には越中国婦負郡の白鳥神社、『和名抄』には同国新川郡の鳥取郷がある。

【宣長の注釈】「和那美の水門」は、「門」を諸本が「河」とするが誤りで、ここでは一本に従った。越国のどの国・どの郡にあったか、ほかの資料には見えない。今この名の土地はないか、その国の人に尋ねたい。今、越中国射水郡には「くぐの湊」があり、そのあたりに鳥取村があるという。「網」は『和名抄』に「『纂要』に、獣の網を罝、鹿の網を罘、兎の網を置という。これらの読みはみな『あみ』」とあり、また「『広雅』に、罔は魚の網、あみ」とある。「和那美」は羅網である。「羅」は巻十九の十四丁で述べた。これは網の一種だろう。師はこの「網」も「わなみ」と読んだが、「網」と書く所はただ「あみ」と読むべきである。

【宣長の注釈】「その鳥を捕って、持ち上り献じた」について。空飛ぶ鳥をこんなに遠い国々まで追って捕まえるのは、疑わしいようにも思えるが、今、鳥に詳しい人に聞くと、思いつきの考えとは違い、遠国まで追い求めて捕ることができるという。『日本書紀』には「二十三年……冬十月、天皇が大殿の前に立ち、誉津別皇子がそばにいた時、鳴く鵠が大空を渡った。皇子は見上げ、『あれは何か』といった。天皇は、皇子が鵠を見て言葉を発したと知って喜び、左右の者に『誰かあの鳥を捕って献じられるか』といった。鳥取造の祖、天湯河板挙が『私が必ず捕って献じます』と申し上げた。天皇は『この鳥を献じれば必ず厚く賞しよう』と命じた。板挙は遠く鳥の飛ぶ方を望み、追い求めて出雲へ行き、捕らえた。一説には但馬国で捕ったという。十一月、板挙が鵠を献じると、誉津別命はその鳥をもてあそび、ついに言葉を話せるようになった。そこで板挙を厚く賞し、鳥取造の姓を与え、鳥取部・鳥養部・誉津部を定めた」とある。『延喜式』には河内国大県郡の天湯川田神社、『和名抄』には同郡の鳥坂郷・鳥取郷がある。『出雲国風土記』には神門郡に来食池があり、内山真龍は、これは鵠池で、この故事に由来する名ではないかという。

【宣長の注釈】『新撰姓氏録』には「鳥取部連は角凝魂命の三世の孫、天湯河桁命の子孫である。垂仁天皇の皇子、誉津別命は三十歳近くになっても話さなかったが、飛ぶ鵠を見て『これは何か』と尋ねた。天皇は喜び、天湯河桁に探させた。出雲国の宇夜江へ行って捕らえ、献じると、天皇は大いにほめ、鳥取連の姓を与えた」とある。「三世の孫」は疑わしく、「三」の上に「十」などが落ちたのだろうか。「亦見」は、皇子があの鵠を再びご覧になったことをいう。また「亦」を「物を言おうと思う」に掛けてもよい。

【宣長の注釈】「於思物言而如思爾勿言事」は諸本に少しずつ違いがある。初めの「於思」二字は旧刊本と延佳本にはないが、真福寺本やほかのいくつかの本にはあるので従った。「思」が重なるため、作為的に削った本なのだろう。「而」は諸本ではみな「爾」の後にあるが、真福寺本だけは「物言」の後に置き、「爾」の後には置かない。「如」は諸本では「加」、延佳本だけ「如」だ。ここではそれぞれを合わせ、よいと思われるものを選んだ。ただし「於」は理解しにくく、「所」の誤りで「所思」だろうか。「爾」も落ち着かず、「念」または「者」などの誤りで「如思念」か「如思者」だろうか。読みは「ものいはむとおもほすが、おもほすがごといひたまふことなかりき」とすべきだ。「於」「爾」は読みがたい。「於思」がなく「而」が「爾」の後にある本に従うなら、初めを「ものいはむとおもほすがごとくにて」と読み、後は同じになる。師は「こととはすことおもほすままなりしかれども、ことごとにこととひますことなし」と読んだが、よくない。延佳も「爾而」を「しかれども」、「事」を「ことごとに」とするが、書き方はそうは見えない。「事」は軽く添える語の「こと」を、そのまま書いたにすぎない。また『古事記』の「勿」はどこでも「不」と同じ形で用いるが、ここは「事」という語があるので、普通の「不」の読み方では読みにくく、「なかりき」と読んだ。全体の意味は、物を言おうとお思いになったが、思うとおりに話されなかった、である。「於思」のない本なら、話そうとする様子には見えるが、話されない、となる。「ものいふ」も古語で、穴穂宮の段の「宇多遅物言王子」、『万葉集』巻十四の「ものいはずきにて」(巻四では「物不語来而」と書く)、巻十六の「物を言わないうちに」などがある。師が「物言」を「こととはす」と読んだのはどうだろう。「物」があるから、そうは読みづらい。「こととふ」だけをひたすら古語としたのは偏りである。

【『古事記』本文】天皇は心配なさり、おやすみの時、夢にお告げがあった。「私の宮を、天皇のお住まいのように整えなされば、御子は必ず本当の言葉を話すだろう。」「登波牟」の三字は音を表す。このお告げを受け、太占でどの神のお心かを占い求めたところ、出雲大神の祟りによるものだった。それで御子をその大神の宮へお参りさせようとし、誰を付き添わせたらよいか占うと、曙立王が占いに合った。
そこで天皇は曙立王に命じ、誓いによる占いをさせた。曙立王は「この大神を拝むことによって本当にしるしがあるなら、この鷺巣池の木にいる鷺よ、誓いによって落ちよ」と宣言した。「宇気比」の三字は音を表す。こう述べると鷺は地に落ちて死んだ。王がまた「誓いによって生き返れ」と宣言すると、鷺は生き返った。また甜白檮の前にある葉の広い熊白檮も、誓いによって枯らし、さらに生き返らせた。そこで曙立王に「倭者師木登美豊朝倉曙立王」という名を与えた。「登美」の二字は音を表す。
曙立王と菟上王の二人を御子に付き添わせて遣わす時、奈良の入口から出れば足や目の不自由な人に出会い、大坂の入口からでも同じ人々に出会うが、木の入口だけは脇道のよい入口だと占いに出たので、そこからお出かけになった。途中到着した土地ごとに、品遅部をお定めになった。

【宣長の注釈】「御寝」は「みねませる」と読むべきだ。白檮原宮の段に「一夜おやすみになった」とある。「覚」は出雲大神がお告げになることだ。「御舎」は「みあらか」と読み、上巻(巻十四の四十八丁)に詳しく述べた。「修理」は「つくる」と読み、この文は「わがみやを、すめらみことのみあらかのごと、つくりたまはば」と読むべきである。出雲大神の宮については、上巻で大国主神が服従された時、「ただ私の住まいは、天神の御子が天の日継を治める立派な天の御殿のように……造ってくだされば、私は遠く隠れてお仕えしましょう」と願われたのに従い、「出雲国の多芸志の小浜に天の御舎を造って」とある。これらは巻十四に詳しく述べた。もとから天皇のお住まいのようだっただろうに、今またこうお告げになるのは、次の事情だろう。『日本書紀』崇神天皇紀には「六十年……の事件によって、出雲臣らは大神を祭らず、間があいた。この時、丹波の氷上の人で氷香戸辺という者が、皇太子活目尊に『私の幼い子が、ひとりでに「玉藻鎮石……」といいます。幼児の言葉のようではありません。何か神のお告げがあるのでしょうか』と申し上げた。皇太子が天皇に奏上すると、勅して祭らせた」とある。この頃から宮殿が壊れ、その後もまだ修理されずにいたのだろうか。この話を崇神天皇の御世とするのも一伝承で、実際にはこの垂仁天皇の御世だったかもしれない。活目尊に申し上げたとあるのも、それらしい理由がある。それで、もとのように造り直せということだろう。

【宣長の注釈】「布斗摩邇邇占相而」は上巻(巻四の三十九・四十・四十一丁)に見える。「どの神のお心か」について、神のお心ということは、水垣宮の段の大物主神のお告げの「我が御心」の注(巻二十三の二十五丁)に詳しく述べた。ここでは夢のお告げがどの神のものかわからないので、占って求めたのである。「爾祟」は「そのたたりは」と読むべきだ。変わった書き方だが、こう読むほかない。「祟り」は御子が話されないことをいう。『古今集』俳諧に「古くなった恋が神のように古び、祟るので、私は祈りようもない」、『古今六帖』に「木綿を掛けて祈る三室の神が、古びて祟るので、祈りようもない」「但馬糸のようによっても逢えないこの思いを、何の祟りとして祓えばよいのか」とある。「出雲大神」は杵築においでの大国主大神で、『日本書紀』崇神天皇紀にも「出雲大神宮」とある。

【宣長の注釈】「令拝」はここでは「をろがましめに」と読むべきで、「に」は添える語だ。『日本書紀』推古天皇紀の歌に「かしこみて、つかへまつらむ。をろがみて、つかへまつらむ」とある。普通「をがむ」というのは、この「ろ」を省いたものだ。『私記』に「拝ををがむというのは、折れかがむということ」とある。この時、神の宮を修理する前に御子をお参りさせたのは、早く御利益を得ようとお急ぎになったのだろうか。「誰人」の二字は「たれ」、また「いづれのひと」と読むべきだ。『日本書紀』の歌に「たれやしひと」、『万葉集』の歌に「たれしのひと」などがあるが、歌の言葉と思われ、普通の語りでそういうものではない。師は「たれそのひと」と読んだが、それもどうだろう。「令副」は「そはしめば」と読むべきだ。「そへしめ」では語法が違う。「そへ」はすでに「添うようにする」が縮まったものなので、さらに使役の「令」を加えると重複する。「そはしめ」といえば、つまり「添へ」の意味なのである。

【宣長の注釈】「吉」は「えけむ」と読み、「よからむ」の意味だ。天智天皇紀の童謡に「たたにしえけむ」、同時の童謡に「吉き」を「えき」ともいう。この言い方は上巻に「どの神を遣わせばよいか」という例がある。ここでは後に「とうらなふに」を加えて読むべきで、そうしないと言葉が足りない。「副」の前の「令」、または「吉」の後の「爾」などが、「占」の誤りだろうか。師は「令副」の前に「亦占相者」の四字が落ちたといったが、前に置くのはどうだろう。もしこの四字が落ちたのなら、「占相者」の三字は「吉」の後にあるべきだ。「曙立王」は開化天皇の曾孫で、大俣王の御子であり、前(巻二十二の六十七丁)に出た。

【宣長の注釈】「食卜」は「みうらにあへり」と読むべきだ。『日本書紀』のこの巻には「中臣連の祖、探湯主に命じ、誰に大倭大神を祭らせるか占わせると、淳名城稚姫命が占いに合った」、天武天皇紀には「新嘗祭の国郡を占うと、斎忌は尾張国山田郡、次に丹波国訶沙郡がともに占いに合った」、また「斎宮に行こうと占わせると癸巳の日が合った」とある。『続日本紀』巻二十六には「美濃と越前が御占に合い、大嘗の儀式を平らかに執り行い奉仕したこと……」、『大神宮儀式帳』には「占いに合った土地」などがある。「合えり」に「食」の字を使うのは漢文の書き方で、字どおり「はむ」と読むのは中国書の読み方であり、日本の言葉ではない。「占いに合う」とは、役目に当てるべき人を何人も選び、誰がよいかと占って、その占いに当たることだ。日時・方角・土地なども同じである。上代のこのような占いは、みな鹿の肩の骨を焼いて行った。上巻の石屋戸の段(巻八)に見える。亀を使うのは外国の占いで、後に伝わったことだ。「令宇気比白」の「比白」を諸本は誤って「皆」の一字にするが、延佳の訂正に従った。「宇気比」は上巻(巻七)に出た。

【宣長の注釈】注の「宇気比三字」も、諸本はそろって「宇気二字」と誤るが、延佳の訂正に従った。これは本文の「比白」を「皆」と誤ったため、後人がこざかしく改めたものと思われる。「因拝此大神」の「此」は「あの」というような意味で、出雲大神を指す。中古まで「あの」というべき所を「この」という例が多い。ここから「落」までは、宇気比として述べた言葉である。「有験者」は、あの夢のお告げのしるしがあるなら、という意味だ。この点には議論があり、後に述べる。「是鷺巣池」の「是」は、まさにこの池に行って、その場でいう言葉だ。この池は『延喜式』神名帳に大和国高市郡の鷺栖神社があるので、その土地だろう。『大和志』は社を四分村にあるとし、今は鷺栖八幡という。池はもうないのだろうか。調べたい。『日本書紀』持統天皇紀の注釈に「『氏族略記』では、藤原宮は高市郡鷺栖坂の北にある」という。

【宣長の注釈】「鷺乎」の「乎」は、上巻の「愛しき我が妹命よ」の注(巻五の六十四丁)で述べた。『古事記』のほかの例には穴穂宮の段の「己が妹よ」、朝倉宮の段の「奴よ」などがあり、呼びかける語で「よ」というような意味だ。「宇気比落」の「落」は、諸本が「給」と誤るので、真福寺本と延佳本に従い、「おちよ」と読むべきだ。本来「宇気比する」といえば、誓いをする人の側についていうはずで、ここで誓いを受ける物にいうのは、今の感覚では疑問にも聞こえる。それで師は前の「乎」を「令」の誤りとし、「おとせ」と読んだが、それはよくない。古くはこうもいったのだろう。次の「宇気比活」も同じである。上代の言葉は後世の決まりと異なることもあるので、今の考えだけで疑ってはいけない。今も似た例があり、「風吹く」の「吹く」は風についていう言葉だから、風に吹かれる物についてはいえないはずなのに、物が「吹き散る」「吹き上がる」という。それにならって理解したい。このように落ちたり生き返ったりすること自体が、宇気比なのである。

【宣長の注釈】「如此詔」は曙立王が宣言したのである。天皇の勅命に基づいて述べる宇気比なので、こういった。次の「又詔」も同じで、後世、勅命を人に伝えることを「宣」とするのと同じだ。この「詔」を天皇のお言葉と理解し、「因拝此大神……落」までを曙立王に命じた言葉とするのは誤りである。師が「落」を「おとせ」と読んだのも、天皇の命令と理解したためだ。しかしそれでは「本当にしるしがあるなら」「鷺よ」の「よ」などが、みな落ち着かない。これらは直接に宇気比をいう言葉なのだから、「詔」の字にこだわってはいけない。「宣」と同じと見れば問題はない。「宇気比其鷺……」の「宇気比」三字は除いて読むべきだ。読むと語が調和せず、後人がこざかしく加えたものだろう。「その鷺を宇気比する」では曙立王の側からいうのに、「地に落ちて死ぬ」は鷺の側からいうことになり、一続きの言葉の中で両者が混ざるからだ。「宇気比活」の「活」は「いきよ」と読むべきだ。師の「いかせ」という読みは、これも「詔」を天皇の命令と理解したためである。

【宣長の注釈】「爾者」の「爾」は読みがたい。これも後人が加えたのだろうから、今は除いて読んだ。師は「しかすれば」と読んだが、それなら「為然者」などと書くはずで、「爾者」とは書けない。また「故」などがないと言葉も足りない気がする。真福寺本では「爾者」の後に「宇気比者」の四字があり、どうにも読みにくい。これも後人の付加だろう。これにならって考えても、「其鷺」の前の「宇気比」、この「爾」なども、みな後人の作為だとますます明らかだ。この段の文は、後世の人には「宇気比によって落ちよ」「宇気比によって生きよ」という言い方が疑わしく、「詔」という字もあって紛らわしく聞こえたため、むやみに言葉を加えたのである。だがその付加によって、かえって言葉が整わず、通じにくくなった。「詔」を曙立王が宇気比を宣べた言葉とし、右の作為を除けば、とてもよく通じる文になる。「更活」は死んだ鷺が生き返ったことだ。

【宣長の注釈】「甜白檮之前」は「あまかしのさき」と読むべきだ。『延喜式』神名帳に大和国高市郡の甘樫坐神社があり、この土地である。遠飛鳥宮の段の「味白檮の言八十禍津日の前」、『日本書紀』允恭天皇紀の「味橿丘の辞禍戸岬」、皇極天皇紀の「甘橿岡」、斉明天皇紀の「甘樫丘の東の川上」なども同じだ。『大和志』では丘も神社も豊浦村にあるといい、実際そのあたりだろう。「東の川上」は飛鳥川である。「甜白檮」は白檮の一種で、それに由来する地名だろう。「前」はここが丘なので、その丘の突き出た先をいう。『万葉集』巻二十にも「をかのさき」という例がある。海辺でも山岡でも岬をみな「前」と書くのが『古事記』の例だ。神名帳には近江国伊香郡にも甘櫟前神社がある。

【宣長の注釈】「葉広熊白檮」は、倭建命の歌に「くまかし」、朝倉宮の大御歌に「はびろくまかし」などがある。「葉広」は葉が茂り広がった一本の木全体をいうのだろうか。樫の葉はそれほどたいへん幅の広いものではないからだ。高津宮の大后の歌にも「はびろゆつまつばき」とある。「かし」を『古事記』はみな「白檮」と書き、『日本書紀』は多く「橿」、また「樫」と書いて「これをかしという」と注する。前に引いた斉明天皇紀の甘樫丘の所である。『和名抄』には「橿、和名はかし」とある。『字鏡』には欄・檟・白樹などに「かしのき」とするが、欄・檟二字は上と同じとするものの、みな確かでない字だ。古書は「樫」とも書く。『古事記』の「白檮」を「白」の字から白樫と理解するのは誤りで、ただ「かし」である。『日本書紀』用明天皇紀に「赤檮、これをいちびという」とあるから、古くは赤檮をいちび、白檮をかしに当てたのだ。ところが樫にも白樫・赤樫があるので、白檮・赤檮の字と混同しやすい。また「櫟」は多く「いちび」に使うが、「かし」にも使ったのだろうか。前に引いた近江の社名「甘櫟」などは必ず「あまかし」と読むはずだからだ。樫といちびはよく似た木である。鳥獣草木の名の漢字は、古くは書ごとに思い思いに当てたため、違いが多い。中国でさえ互いに紛れて確かでないものが多いのだから、日本ではなおさらだろう。後世に本草という学を主にする人々の説も、精密に見えて、なお定めがたいことが多い。いずれにしても漢字は仮に当てたものなので、深く追究すべきでもない。

【宣長の注釈】「熊」は「くみこもり」などという言葉と通じ、漢字は借りて書いたもので、葉が茂って隠れるような様子をいう。したがって「熊白檮」も一つの種類の名ではない。『字鏡』には、くまづづら・くまはじかみなどという木の名もあり、くまなさなどの「くま」も同じ意味だ。『字鏡』の「構、くまかし」は特定の種類の名らしいが、それは後のことだろう。「令宇気比枯……」は、前の鷺の宇気比とまったく同じ出来事なので、それにならってわかるため、宇気比の言葉も省き、縮めてこう書いたのだ。鷺の所で「落ちよ、生きよ」というのは、宇気比の直接の言葉だからだ。ここで「枯れさせ、生き返らせた」というのは、発言ではなく、出来事を短く述べた文章だからで、この違いを考えたい。「亦令」の「亦」を旧刊本と延佳本は「忽」とする。ほかの本はみな「亦」で、「忽」でも意味は通るが、「亦」のほうがよい。前の鷺の話で詳しく述べる時さえ「忽ち」とはいわないのに、この白檮の話は簡略に少ない言葉で述べているので、そのような語はありそうもないからだ。

【宣長の注釈】「倭者師木登美豊朝倉」の「者」は必ず写し間違いだ。人名にあるはずの語ではない。『日本書紀』顕宗天皇紀のお言葉の「倭者彼々茅原浅茅原、弟日僕」の「者」も理解しにくいが、これは名ではない。また同じ時の新室を祝う言葉に「出雲者新墾……」などもある。あるいは「老」の誤りだろうか。それでひとまず「おゆ」と読んだ。師は「彦」の誤りとしたが、それなら「比古」「日子」などと書くはずで、『古事記』で「彦」を使う例はない。「老」とするなら「おい」とも読めるが、孝徳天皇紀で人名の老に「これをおゆという」とあるので、「おゆ」と読んだ。「倭」と名づけられた例は、『日本書紀』のこの巻にも倭日向武日向彦八綱田などがある。大和は都のある国の名で、歴代天皇のお名にも神倭……をはじめ多く付けられた美称なので、一般の人を厚く賞する際もこの名を与えたのだろう。「老」も、授けられた美称としては見当たらないが、人名には多い。「師木」「登美」はともに大和の地名で、前に出た。「朝倉」も同じで、土地のことは朝倉宮の段で述べる。このようにその人にゆかりがなさそうな地名を名乗らせることは、神倭伊波礼毘古天皇の「伊波礼」と同じで、詳しい理由はわからない。その土地を与えたともいえそうだが、そうではない。「伊波礼」などは天皇の名にもあるからだ。あるいはその土地とゆかりがなくても、ただ美しい名を取ったのだろうか。「しき」は石城で堅固な意味、「とみ」は富の意味、倉も物を積んで納める所で、めでたい名だからだ。「いわれ」も物が集まり満ちる意味で、美しい地名なのである。

【宣長の注釈】「菟上王」は曙立王の弟で、前(巻二十二の六十七丁)に出た。「二王」は「ふたはしら」と読むべきだ。「其御子」は本牟知和気王をいい、遣わす先は出雲である。「那良戸」の奈良は、大和国添上郡だ。『日本書紀』崇神天皇紀に「武埴安彦と妻の吾田媛が反逆を企て、軍を起こして突然やって来た。道を分け、夫は山背、妻は大坂からともに入り、都を襲おうとした……。再び大彦と和珥臣の遠祖、彦国葺を山背へ遣わし、埴安彦を討たせた。和珥の武鐰坂の上に斎瓮を据え、精兵を率いて那羅山に登った。官軍が集まって草木を踏みならしたので、その山を那羅山という」とあり、これが名の由来だ。「蹢跙」は「ふみならす」という。こうして元明天皇の和銅三年から桓武天皇の延暦三年まで、七、八代、七十余年の都だったことは、いうまでもない。高津宮の大后の歌に「あをによし、ならをすぎ」、『日本書紀』武烈天皇紀の影媛の歌に「あをによし、ならのはざまに」などとある。『万葉集』には奈良山・奈良の都・奈良の里など各巻にとても多いが、巻三に「あをによし奈良の都は、咲く花が照り映えるように今こそ盛りである」などとある。

【宣長の注釈】「戸」は家だけでなく、海や川でも国でも、出入りする口をいう。海川で水戸・島戸・迫戸・川戸などというのがそれだ。仲哀天皇紀にも「穴門から向津野の大渡し場までを東の門、名籠屋の大渡し場を西の門とする」などとあり、「戸」と「門」は同じである。「那良戸」は奈良山を越えて大和へ入る入口だ。今の都の粟田口・丹波口などと同じである。師は大和は四方がみな山の門なのでこういうとしたが、山だけに限らず、国境に山がなくても入口を戸という。高津宮の段に「山代から回って奈良山口に着いた」とあり、『万葉集』巻三に「佐保を過ぎ、奈良の手向けに置く幣は」とある。「たむけ」は越えて行く山の坂道を登りきった所で、そこで神に手向けをするためそういう。今の「とうげ」は「たむけ」が訛ったものだ。奈良の手向けは、手向山という所である。巻十三にも「そらみつ大和の国から、あをによし奈良山を越えて、山代の筒木の原……」などとあり、上代から今まで、北の山城から大和へ出入りする大道だ。この入口を出て出雲へ行くには、山代・丹波などを経て行く。「自」は「よりは」と読むべきで、そこから行くなら、という意味だ。ただ「よりは」では言葉が足りなく見えるが、古語ではこうもいったのだろう。「よりせば」は中国書風の読みである。「よらば」とも読めるが、やはりよくあるまい。

【宣長の注釈】「遇跛盲」は「あしなへめしひあはむ」と読むべきだ。「盲に」と「に」を添えるのは古典語の決まりに合わない。そのことは上巻、巻十六の二十一丁に例を引いて詳しく述べた。『和名抄』には「『説文』に、蹇は歩き方が正しくないこと。あしなへと読む。こちらではなへくという」とある。「跛」も『説文』で同じように注し、ある書は片方の足が利かないこととする。またここでいうのは、俗に腰が抜けるという状態だろうか。字書では「躄」を跛の重いもの、両足で歩けないこととするので、歩けない者も「あしなへ」といえる。『万葉集』巻二の「若草のような、足を痛めた私の背の君」の「足痛」も、師は「あしなへ」と読んだ。「盲」は『和名抄』に「めしひ」とある。『字鏡』は瞶ほか四字をみな「めしひ」とするが、理解しにくい字である。また別の字を「めくら」とも記し、今もそういう。〔引用中の目偏の難字の字形は留保する。〕旅立つ時に足や目の不自由な人に出会うのを不吉としたのは、前者は歩けず、後者は行く先を見られないため、旅行では特に忌むと考えたのだろう。師は二か所とも「跛盲」を「路眚」の誤りとし、「みちまけ」、つまり道のまどわしに遭うことと読んだ。『字鏡』の「眚、音は先定の反切で去声、目にかすみが生じること、まけ」によるというが、理解しにくい。「まけ」は目のかすみで、道のまどわしをどうしてそういうのか。また道のまどわしに遭うとは何なのかも確かでない。諸本はいずれも「跛盲」で、「路眚」とする本はない。旧刊本だけは後の「跛」を「路」とするが、前は「跛」と書くので、「路」は必ず誤字だ。

【宣長の注釈】「大坂戸」について。『和名抄』には大和国葛上郡の大坂郷、『延喜式』神名帳には葛下郡の大坂山口神社がある。葛上と葛下で郡が違うのは境が近いためで、別の土地ではない。水垣宮の段に大坂神、明宮の段に大坂の道中……とある。若桜宮の段で天皇が難波宮から大和へ行く所にも、「大坂山口に到着した時、その女は『武装した者たちが多く菅山を塞いでいます。当岐麻の道を回り、越えておいでください』と申し上げた」、水歯別命が難波から大和へ上る所にも「大坂山口に着く……」とある。『日本書紀』崇神天皇紀では武埴安彦が妻と反乱を起こし、都を襲おうとする時、「夫は山背、妻は大坂からともに入った」とある。また倭迹々姫命の墓を造る所には「大坂山の石を運んで造った……当時の人は『大坂に継ぎ登れる石群は……』と歌った」とある。天武天皇紀に「将軍吹負は……近江軍が大坂道から来ると聞いた……」、また「吹負は大和を平定し、大坂を越えて難波へ行った」、さらに「八年十一月、初めて龍田山・大坂山に関を置いた」などとある。「坂」を「江」とする本はよくない。『万葉集』巻十には「私が大坂を越えて来ると、二上山に黄葉が流れる。時雨が降りながら」と詠まれている。

【宣長の注釈】以上の引用から、この入口は河内国から大坂山を越えて入る口だとわかる。山は大和と河内の境にあり、二上山の北側を越える。右の『万葉集』の歌もその様子に聞こえる。若桜宮の段の「大坂山口」は河内側から登る口だ。また孝徳天皇の大坂磯長陵も河内石川郡にあり、この山の西側である。この道は古くは主に通る大道だったが、今はそれほどの大道ではない。穴蒸越といい、葛下郡の穴蒸村から河内国古市郡の飛鳥村へ出て、古市などを経て難波へ通う。穴蒸村の隣の逢坂村は、本来「大坂」なのを、後世「おほ」と「あふ」が同じ発音になったため、「逢」の字を誤って書いたのだろう。この入口から出雲へ下るのは、河内・和泉・摂津などを経て行くのである。「唯」は、奈良・大坂の入口だけでなく、どの入口もよくなく、ただ木の入口だけがよい、ということだろう。西の国々へ下る道はこの二つだけでなく、龍田山の道などほかにもある。「木戸」は紀伊国から大和へ入る口で、真土山を越える道だ。『和名抄』に大和国広瀬郡の城戸郷があり、『万葉集』に木瓲宮などがあるが、ここはそこではない。『万葉集』各巻に、紀伊へ往来する人がこの山を越す歌が多いのは、この道である。今も真土峠といい、大和国宇智郡から紀伊国伊都郡へ越す大道だ。「是」は「ぞ」と読むべきだ。

【宣長の注釈】「掖月」の「月」は「戸」の誤りだと師はいったが、確かにそのとおりだ。「掖戸」とは、この木戸が西国へ下るには正面の直接の道ではなく、脇へ曲がって行く道なのでそういうのである。木戸をいつもそう呼ぶのではなく、今出雲へ行く道についていったのだろう。師の説では、「木戸を掖戸とする以上、奈良坂の東に今もある、山背の木津の里へ越す山道のことだ。崇神天皇紀の神少女の歌『おほきどゆ、うかがひて……』は奈良坂の道をいい、奈良という名はその御代以来で、古名が木だったことがこの歌からわかる。大木戸の道の地名は変わり、脇道のあたりだけ古いまま木戸といった」とする。しかしこの説はどうだろう。歌の「おほきど」は地名ではなく皇宮の御門をいい、大きな城門だ。『古事記』で同じ歌が「前の戸から、後ろの戸からよ」となるのと合わせてもわかる。また「うかがって」というのも、門戸のことでなければどうだろうか。

【宣長の注釈】「卜而」は、どの入口から出かければよいか占うと、このような結果が出た、ということを簡単な一言にしたもので、古文の美点である。「自那良戸」から「吉戸」までが占いの結果だ。「出行」は「いでます」とも読めるが、「幸」でなく「行」と書くので、ここはやはり「いでゆかす」と読むべきだ。「木戸から」というべき所を省いていわず、それでも自然にそう聞こえるのも古文のよいところである。「毎到坐地」は、泊まる所や少し留まる所などをいうのだろう。そうでないと「毎」が落ち着かない。通り過ぎる村里ごとに、一つも漏らさず品遅部を定めるはずはないからだ。ただし「毎」を軽く見て、単に到着される各地という意味とも考えられる。

【宣長の注釈】「品遅部」は本牟智別王の御名を付けた部である。このように御名を部に付ける理由は、前(巻二十四の十五丁・二十五丁)に述べた。『和名抄』には大和国葛下郡の品治郷(ほむち)、因幡国邑美郡の品治郷、安芸国山県郡の品治郷、備後国品治郡(ほむち)の品治郷などがある。これらは大和から出雲へ往来する道筋の国々なので、この時定めた品遅部に由来する名だろうか。『出雲国風土記』には神門郡の比布知神社、また日淵川がある。これも「ほむち」が訛ったのではないか。今は社も川も「ほちいし」という。また姓に付けた例は伊邪河宮の段に「曙立王は伊勢の品遅部君の祖」「息長日子王は吉備の品遅君の祖」などとある(巻二十二の七十五丁)。氏人は『続日本紀』巻二十八に品治部公島麻呂、『類聚国史』巻八十七に出雲国楯縫郡の人、品治部首真金などが見える。

【『古事記』本文】こうして出雲へ着き、大神を拝み終わって都へ帰る時、肥河の中に黒木の橋を作り、仮宮を造って御子をお迎えした。出雲国造の祖、岐比佐都美という者が、青葉の山を飾り、川下に立てて大御食を献じようとした。その時、御子はおっしゃった。「あの川下の、青葉の山のようなものは、山のように見えるが山ではない。ひょっとして、出雲の『石硐の曾宮』においでの葦原色許男大神をお祭りする、祭主の大きな祭場なのか。」
付き添わせた王たちは、その言葉を聞いて喜び、その様子を見て喜んだ。王たちは御子を檳榔の長穂宮にお迎えし、早馬の使いを朝廷へ遣わした。その御子は肥長比売と一夜夫婦として過ごされた。ところがひそかにその美しい人を見ると、大蛇だったので、恐れて逃げた。肥長比売は恨み、海原を光らせ、舟で追って来た。御子はいっそう恐れ、山のたわんだ所から御船を引いて越し、都へ逃げ上った。「多和」の二字は音を表す。
そこで付き添いの者たちは帰って報告した。「大神を拝んだおかげで、大御子がお話しになりました。それで帰って参りました。」天皇は大いに喜び、すぐ菟上王を出雲へ戻し、神宮を造らせた。また、この御子のため、鳥取部・鳥甘部・品遅部・大湯坐・若湯坐をお定めになった。

【宣長の注釈】「肥河」は前(巻九の十五・十六丁)に出た。「黒樔橋」は「くろきのすばし」と読むべきだ。「樔」は「巣」と同じなので、「簀」の意味に借りた。また字書には、竹の簀で魚を捕る道具を「樔」というともあるので、直接「簀」の意味で書いているのかもしれない。簀は普通、竹や葦などを編んだものをいうが、ここは細い木を隙間なく並べて編み、渡したものを簀橋というのだろう。明宮の段の「船の中の箐椅」もこれだろう。「箐」は「笭箐」という小さな籠のことで、ここには当てはまらないので、簀の字の誤りである。甕栗宮の段の「魚簀」の「簀」も、一本で「箐」と誤る例がある。「黒」は黒木、皮を削っていない木のことだろう。それで「木」がなくても、そう読んだ。必ず黒木のことのはずで、ただ「くろ」とだけしては、「くろきすばし」「くろすばし」「くろすのはし」など、どう読んでも落ち着かない。また黒木を除いては、ほかに黒という理由が思い浮かばない。谷川氏は、黒木の丸太を渡し、その間に柴などを挟んで造る橋で、今も山川にそうした橋が多いという。ここは仮宮へ行き来するため、仮に架けた橋である。『大神宮雑事記』には「天平宝字六年九月十五日、洪水で五十鈴川の岸が洗われ、流れた。度会郡司に尋ね、例により大神宮の前の御川に黒木の御橋を造り奉った」とある。『大神宮儀式帳』にも「正南の御門は伊鈴の御河にあり……御橋は度会郡司が黒木で造り奉る」とある。

【宣長の注釈】「仮宮」は訶志比宮の段にも「高志の前の角鹿に仮宮を造っておいでになった」とあり、若桜宮・穴穂宮・甕栗宮の段などにも見える。『日本書紀』には「行宮」が多く、『文選』李善注に「天子が出かけて泊まる所を行宮という」とある。皇極天皇紀には「東宮の南庭の仮の宮」ともある。『和名抄』の古本には「『日本紀私記』では行宮をかりみやという。今考えるに俗には頓宮という」とある。『出雲国風土記』の注釈には、出雲郡杵築郷に仮宮村があり、誉津別皇子の仮宮を造ったことからこの名があるという。「仕奉」は、何でも上の方のために行うことを「つかへまつる」という古語だ。今、俗に「つかまつる」というのも、その訛ったものだ。ここでは造ることをいう。『万葉集』巻十三に「大殿をつかへまつりて」、祈年祭の祝詞に「皇御孫命の天の御蔭・日の御蔭として、立派な御舎を造り奉り」、大殿祭の祝詞に「皇御孫命のために造った立派な御殿」などとあるのは、みな同じである。

【宣長の注釈】「出雲国造」は前(巻七の六十六丁)に出た。「岐比佐都美」は人名で、「きひさ」は地名によるのか。「つみ」は山津見などの「つみ」である。『出雲国風土記』に「出雲郡神名火山……曾支能夜社、伎比佐加美高日子命社がこの山の頂にあるため、神名火山という」とあり、同郡の式外社に支比佐社がある。この人を祭ったのだろうか。「加美」は「都美」の誤りだろう。神名帳には伊勢国安濃郡にも奄芸郡にも比佐豆知神社があり、似た名だ。「つみ」と「つち」は意味が通じる。「青葉山」は青葉の木々が生い茂る山をいう。『万葉集』巻八に「秋の露は色を移すものだった。水鳥の青羽のような青葉の山が、色づくのを見ると」とある。「羽」の字が「葉」の意味へ続く。『源氏物語』などにもこの呼び名があるが、いずれも特定の名所とするのは誤りだ。ここは食事を献じる時、眺めを楽しんでいただくため、その姿を仮に造ったものなのである。

【宣長の注釈】「大御食」は日代宮の段にも「大御食を献じる時……」「朝夕の大御食」とあり、『日本書紀』景行天皇紀に「諸県君の泉媛は、大御食を献じるために一族を集めた」とある。『万葉集』巻一に「遊副川の神も、大御食にお仕え申し上げようと……」、巻二十に「大御食にお仕え申し上げようと……」などと見える。「見山非山」は「やまとみえてやまにはあらず」と読むべきだ。

【宣長の注釈】「石硐の曾宮」の「硐」は「坰」と書くのと同じように思われ、隈ということである。硐の字は巻十四の四十丁にもあるので、考え合わせたい。どの社を指すかは詳しくわからない。杵築大社ではなく別の社らしい。地元の説は大社のことで、「曾」は熊曾などの「曾」で強い意味だとするが、信じがたい。『出雲国風土記』には「神門郡滑狭郷は郡役所の西南八里。須佐能袁命の御子、和加須世理比売命がおいでになった。天下を造った大神命が妻として通われた時、その社の前に岩があり、表面がたいへん滑らかだった。『滑らかな岩だなあ』といわれたため、なめさという」とある。その注釈では奈売佐社は滑狭郷神西村にあり、大穴持命と須世理比売をともに祭り、俗に岩坪という。内山真龍はこれが石硐の曾宮ではないかという。今考えると、風土記の岩や、俗称の岩坪などは、確かに根拠がありそうだ。肥河の川下という地理にも合う。滑狭郷は神門湖に近く、肥河の注ぐ方だからだ。『延喜式』には同郡の那売佐神社がある。今の本は「佐」を「伎」と誤るが、風土記の「那売佐」がよい。また斉明天皇紀の「出雲国造に命じて厳神の宮を修めさせた」は、杵築の社らしく聞こえるが、「厳神」というのは珍しい。あるいは「厳」は「巌」の誤りで、この石硐の宮ではないか。「神」を「くま」とは読めないが、石見や淡路などの郷名には「神」と書いて「くみ」という例がある。また「巌」の後に「隈」などが落ちたのかもしれない。この「厳神の宮」については、試みに注意を向けておくにすぎない。

【宣長の注釈】「葦原色許男大神」の御名は巻九の六十一丁に出た。同じ神を祭っても、社ごとに御名が変わる例は多い。大国主命を三輪では大物主命といい、建御雷命を香取では斎主神という類だ。この石硐の曾宮では特にこの御名で祭るのだろう。『延喜式』では那売佐社の次に、同社においでの和加須西利比売神社が並ぶ。大国主命には五つの名があるが、須世理毘売命と結婚する段では、須佐之男大神の言葉でも葦原色許男といわれるので、この宮が那売佐社なら、この名で祭るにも理由がある。今、皇子がこう話されたことからすると、この宮は上代には世に知られた大きな社だったのだろう。「以伊都玖」は前(巻六の六十六丁)に出た。「祝」は伊邪河宮の段にも「御上の祝が祭る天御影神」とあり、そこで述べた(巻二十二の五十八丁)。師は「之祝」を「祝之」の誤りかとしたが、もとのままでも悪くない。

【宣長の注釈】「大廷」は「おほには」と読むべきだ。真福寺本は「廷」を「庭」とするが、どちらでもよい。古書は朝廷も朝庭と書き通わせる。『和名抄』では美作国の郡名「大庭」を「おほむば」とし、相模国高座郡や但馬国二方郡の郷名も同じだ。「には」の「に」を音便で「ん」とした、くずれた言葉である。『日本書紀』の訓などに「おほば」とあり、後世もそういうのは、さらに「おほんば」の「ん」を省いたものだ。音便の「ん」の後では清音も濁るのが通例で、「は」を濁らせた後、「ん」を省いても濁りが残ったのである。したがって正しい古語は「おほには」である。およそ場所をいう「ば」もみな、もとは「には」で、音便で「何々んば」となり、さらに「ん」を省いたものだ。「ば」という言葉は古くはない。『万葉集』巻十に「渡伐」とあるが、「伐」は誤字らしい。巻十二の「雁羽の小野」は地名で、「穂田の刈婆加」なども場所の意味ではない。『日本書紀』清寧天皇紀に「臣・連を大庭で饗応した」、推古天皇紀に「唐からの贈り物を庭の中へ置いた」「南門から入り、庭に立った」「南庭で殯をした」、舒明天皇紀に「庭で迎え、大殿へ招き入れた」、孝徳天皇紀に「庭へ進み、二度拝礼した」とあり、ほかに中庭・庭内などもある。『斎宮式』にも大垣の周囲や大庭などを掃除すること、とある。このように大庭は、皇宮・役所・個人の家いずれでも、門の内、殿の正面前方の庭である。紫宸殿の大庭なども見える。今の玄関前や白洲のような所だ。『西宮記』の「大庭は建礼門から東へ七、八丈ほど」の箇所は、別にそう呼ぶ場所があったのだろう。古く、祝の大庭には祭りのため榊を並べ立てて飾る所があったのだろう。それで今も、あれなのかとお尋ねになったのだろう。

【宣長の注釈】「遣わした付き添いの王たち」は、前に見えた曙立王・菟上王である。「聞いて歓び、見て喜んだ」は、皇子がこのようにお話しになるのを聞き、その様子を見たのである。「檳榔の長穂宮」の「檳榔」は「あぢまさ」と読む。地名らしいが、ほかの資料には見えず、出雲国内にあるはずだが、どのあたりか詳しくわからない。地元の説では、垂仁天皇の皇子が大社へ来た時、天穂日命の十五世の子孫、来日田維命が迎え、肥川へ黒樔橋を架け、檳榔の木で仮宮を造って食事を奉り、その宮を長穂の新宮といった。その土地を古く長穂邑といったが、これによって「にひみや村」となり、今は字音で新宮村といい、神門郡にあるという。どうだろうか、なおよく調べたい。あるいは出雲郡・楯縫郡のあたりだろうか。後に考えを述べる。また考えると、びろうの葉には六、七尺ほどのものもあり、長く上へ立ち伸びるので、「あぢまさ」は「長穂」の枕詞なのかもしれない。高津宮の大御歌に「あぢまさの島も見ゆ」とあるのは、淡路での歌だから別だが、同じ地名の例ではある。『和名抄』には越前国今立郡の郷に味真(あぢま)が見え、天智天皇紀には狭井連檳榔、『続日本紀』巻三には若犬養宿禰檳榔という人名もある。

【宣長の注釈】「檳榔」という物について、『和名抄』には「『兼名苑』に、檳榔は葉が柔らかく、木の先に十余りの房があり、一房に数百の実があるもの。『本草』に、檳榔子は別名を賓門子という」とあり、和名はない。『続日本紀』巻三十四には檳榔の扇、『斎宮式』の年々の供え物には檳榔の葉二枚、戸坐所用などがある。また檳榔毛の車というものもある。『小右記』長和三年十二月二十五日に、「左大臣が『檳榔はたいへん手に入りにくい。諸卿は唐車を使うといっているが、お前はこの話を聞いていないか、どうか』といった。『昔、檳榔毛車は毎年新しくせず、傷みに応じて取り替えました。何の問題があるでしょう。毎年張り替えるため手に入りにくくなるので、唐車にするのは納得できません』と答えた」とある。ある人は「檳榔毛車などのびりょうは蒲葵で、その名は比閭の字音だ。比閭は今いう棕櫚で、檳榔ではないが、中国でも誤って棕櫚を蒲葵としたことがあったため、日本でも蒲葵を比閭としてびりょうと呼び、檳榔の字を使ってきた」といった。今考えると、この説もそうかもしれない。ただ、びりょうを比閭の音とするのは誤りで、びろうともいうから、檳榔の字音である。『和名抄』も「檳榔、こちらの音は賓朗」という。古く「あぢまさ」といった物は檳榔の字を当てたが、実際には檳榔か蒲葵か定めにくい。ただ中古の檳榔扇・檳榔毛車の檳榔も蒲葵らしいので、あぢまさも蒲葵だろうか。今、薩摩に檳榔島があり、そこにあるのも蒲葵という。檳榔・棕櫚・蒲葵はおおよそ似た物で、中国ですでに混同があるのだから、日本で昔その漢名を当てた時、混同したのももっともだ。また土佐の海にもびろう島があり、人家などはなく、山はすべてびろうの木が生えるという。

【宣長の注釈】「坐」は「ませまつりて」と読むべきだ。「まつり」は奉るという意味である。『日本書紀』清寧天皇紀に「柴宮を建て、仮に安置し奉った」、欽明天皇紀に「小墾田の家に安置した」、敏達天皇紀に「仏像二体を迎えた」などとあり、この「請」を「ませ」と読む例はほかにもある。孝徳天皇紀には「仏像四体を迎え、塔の内にお置きした」とある。また『万葉集』巻十五に「遠い異国に君をいさせず」ともある。「ませ」は「いますようにする」が縮まった古語である。「駅使」は前(巻二十三の二十八丁)に出た。ここは御子がお話しになったことを、急いで都に奏上したのだ。「一宿」は「ひとよ」と読むべきで、『古事記』には一夜をこう書く例があちこちにある。

【宣長の注釈】「肥長比売」の「肥」は音で「ひ」とするのか、訓で「こえ」とするのか定めにくく、ひとまず古い読みに従った。「長」は訓なので、その前も「ひ」なら日・氷などを書くのが普通なのに、わざわざ「肥」と書いて音を取るのは疑わしい。そうなら「音を表す」と注するのが通例だからだ。ただし続いた言葉に音と訓を混ぜる例もないわけではなく、肥河などにも音の注はない。また「こえなが」は少し聞き慣れないので、「ひなが」と読んでいる。名の意味はまだ理解できない。「こえなが」なら、蛇だったということから、体が太って長かったための名かもしれない。「ひなが」なら地名などだろうか。『延喜式』に出雲国神門郡の比那神社はある。神名の志那都比古が級長津彦とも書かれるのも同じである。「窃伺」は「かきまみたまへば」と読むべきで、前(巻十七の六十一丁)に出た。「蛇」はここでは「をろち」と読むべきだ。この物については前(巻九の二十二丁、巻十の三十六丁)に述べた。こうして蛇が美人に化けて皇子と交わったのは、必ず大神のお心だったのだろう。なお後に述べる。「遁逃」は、後の文から海路で逃げられたのだ。「患」はここでは「うれたみて」と読むべきで、八千矛神の歌に「うれたくも」とあり、その注(巻十一の十四丁)で述べた。「海原を光らせる」は、上巻にも「海を光らせて寄って来る神がいた」とある(巻十二)。

【宣長の注釈】「自船」について。『日本書紀』応神天皇紀に「舟を浮かべる」、仁徳天皇紀に「川を舟で山背へ行く」、推古天皇紀に「海を渡って行く」などがある。また倭建命の歌の「あしよりゆく」は、足で歩くということで、『万葉集』巻十三の「人の夫は馬で行くのに、私の夫は歩いて行くなら」などの「より」も同じである。「舟で」「馬で」「徒歩で」を、古典語ではみな「より」という。「益」は『万葉集』巻五に「いよよますます」、巻十に「いよいよますますに」とある。「山多和」について契沖は『河社』で、今も山里の者は、山の低くたわんだような所を「たわ」という、と述べる。『万葉集』巻十八の「山のたをりに」、巻十九の「山のたをりに立つ雲を」、巻十三の「高山の峰のたをりに射目を立て」などと同じだ。巻八・巻十の「山の常陰」も、「常」は借り字で「とを陰」、くぼんだ所の陰である。「たわ」と「たを」が通うことは、巻十四の六十五丁に述べたとおりだ。

【宣長の注釈】「御船を引き越す」は、舟を陸へ上げ、引いて、山の低い所から向こうへ越すことだ。『日本書紀』欽明天皇紀には「三十一年秋七月、高麗の使者が近江へ来たので、許勢臣猿と吉士赤鳩を遣わした。難波津を出て舟を狭々波山へ引き、飾り立てて、近江の北山へ迎えに行った」とある。これも難波で舟を用意し、陸路で引いて来て狭々波山を越え、近江の湖へ遣わしたのだ。また『万葉集』巻一の藤原宮の役民の歌に「立派な木を切り出した檜の御材を、もののふの八十宇治川に、玉藻のように浮かべ……泉川へ持ち越す御材を……」とある。「持ち越す」も宇治川から泉川まで陸路で運ぶことである。「越す」の意味は、これらから理解したい。

【宣長の注釈】皇子が逃げられた海路は、出雲国内の入り海なのか、北の大海なのか。長穂宮の所在地がわからないので定めにくい。しかし舟を山越えさせたことから考えると、宮は出雲郡・楯縫郡の北側にあり、そこから北の大海を東へ逃げられたのだろうか。蛇も舟で追って来たため、御船ごと陸へ上げ、出雲・楯縫・秋鹿郡あたりの山を南へ引き越し、南側の入り海にまた浮かべ、さらに入り海を東へ逃げ上ろうとしたのだろう。最初に逃げた海が入り海なら、舟を山越えさせる意味がわからない。入り海から陸へ上がるのなら、前方にはもう舟を浮かべる海がないので、舟は捨て、陸路で逃げるはずだからだ。舟を引いて越すのは、その先でまた浮かべて使うためである。この段は出雲の地理を知らないと詳しく理解しにくい。出雲国の北側は大海で、出雲郡はその海の西側へ回り込む。また国内に入り海があり、東から西へ細長く入り、その北側には島根・秋鹿・楯縫の三郡が東西に続き、西は出雲郡、北は大海である。入り海の南側は意宇郡で、西で出雲郡に続き、入り海はそこで終わる。内山真龍の考えでは、上代にはこの入り海が出雲郡の南を通って西の大海につながり、島根郡から出雲郡までの四郡は離れた島だったという。そうだったかもしれない。ただし、この段の話は、西の海へ通じていたかどうかに関係なく、後の地形と同じでも成り立つ。

【宣長の注釈】「行也」の「也」は諸本にないが、今は真福寺本に従った。「覆奏」は御子もお連れして都へ上り、報告したのである。「大御子」はここだけ「大」を添えるのは、父である天皇に申し上げる言葉だからだろう。天皇について「大御何々」というのは普通だが、「大御子」は珍しい。「物詔」は、物をいうことを尊んだ言葉である。「のりたまふ」が正しいが、ここなどは後世のように「り」を省いて「もののたまふ」と読んでも誤りではあるまい。「菟上王を返す」は、再び出雲へ遣わすことで、出雲から上って来た時なので「返す」という。今回は曙立王は遣わさない。

【宣長の注釈】「神宮を造らせた」は杵築の宮である。「令」を諸本は「命」とするが、今は延佳本に従った。先の大神のお告げに「我が宮を修理せよ」とあったのだから、すぐ造り奉るべきだった。それより先に御子をお参りさせるのは、そういうこともあろうが、「本当にしるしがあるなら」と宇気比で試し、実際にしるしがあったという報告を聞いてから造ったのを見ると、初めはなおお告げを疑っておられたように思える。そこで考えるに、肥長比売が蛇の姿を現し、御子を追ったのは、この疑いに大神がお怒りになった行いだったのかもしれない。ああ、おそれ多いことである。ただし実際の理由はわかるものではなく、ここまで推測していうべきではないが、その疑いと肥長比売の不思議な話、神宮を造るのが遅かったことを照らし合わせ、少し思い至ったために述べた。

【宣長の注釈】「鳥取部」は、あの鵠を捕った人に鳥取造という姓を与えただけでなく、その出来事によってこの部を定めたのである。姓を賜ったことは『日本書紀』『新撰姓氏録』にあり、前に引いた。鳥取造はその部の長とされたのだろう。『和名抄』には備前国赤坂郡の鳥取郷、『延喜式』には伊勢国員弁郡の鳥取山田神社・鳥取神社などがある。これらもこの部に由来する地名だろうか。そのほか、鳥を追った国々にもこの地名があるのは、前に挙げたとおりだ。姓にした例は『新撰姓氏録』に鳥取部連・鳥取連・鳥取などがあり、みな天湯川板挙の子孫である。崇峻天皇紀の捕鳥部万という人は、この氏族の人か、またはこの部の人だろう。『続日本紀』巻二十六には鳥取部与曽布、鳥取連大分などが見えるが、これらは姓である。

【宣長の注釈】「鳥甘部」の「部」は諸本にないが、今は延佳本に従った。「甘」は「かひ」と読む。『日本書紀』は鳥養部と書く。古くは何々飼いという「養」に、甘の字を使うことが多かった。『古事記』には御馬甘・猪甘、『日本書紀』にも鷹甘・猪甘などがあり、ほかの書にも多い。なぜ養うことにこの字を使うかは詳しくわからない。あるいは『詩経』小雅の「甘い雨を祈る」の『正義』に「物を育てるものを甘、害するものを苦とする」という意味からか。また字書に「𩚵は甘の音、餌の意味」とあるので、その偏を省いたのか。ただ古書には前・椅など、字義と別に使い慣わした字も多く、その類かもしれない。この部は、まず捕まえて来た鵠を飼う者のことだろうが、さらに別にその名を付けて定めたものもあるのかもしれない。いずれもあの鵠の件による。『日本書紀』雄略天皇紀には鳥を養う人があり、また「鳥官の鳥が菟田の人の犬にかみ殺され、天皇は怒り、顔に入れ墨して鳥養部とした」とある。鳥官は食用の鳥を養っておく所とも思えるが、天皇の怒りからすればそうではなく、愛玩の鳥だろう。また「直丁ら……そこで詔して鳥養部とした」なども鳥を飼う人である。『和名抄』には大和国添下郡の鳥貝郷(とりかひ)がある。「貝」は借り字で、『万葉集』巻十二の取替川もここだ。そのほかにも鳥養という土地はあちこちにある。

【宣長の注釈】「品遅部」を定めたことは、すでに前に出たのに、またいうのは、さらに別に定めたのか、あるいは御子のため定めた部をここですべて挙げたのかもしれない。「大湯坐・若湯坐」もすでに前(巻二十四の五十六丁)に出た。ただし前は御子を養育した時の役人で、ここはそれにより、別にその名を付けて部を定めたのだろう。『日本書紀』雄略天皇紀の「湯人の廬城部連武人」は、当時その役に奉仕した人らしい。「湯人」は「ゆゑ」というと注する。孝徳天皇紀の「湯部」も「ゆゑ」と読むべきで、これはこの部のことらしい。また姓にもなり、天武天皇紀十三年十二月に、大湯人連・若湯人連へ宿禰の姓を与えたとある。『続日本紀』巻八にも若湯坐連家主らへ宿禰姓を与えたとある。『新撰姓氏録』には「若湯坐宿禰は石上と同祖で、若湯坐連は胆杵磯丹杵穂命の子孫」とある。胆杵磯丹杵穂は『先代旧事本紀』では饒速日命の別名だ。だが大湯坐宿禰はない。『続日本紀』巻三十一には遠江国の人、若湯坐部竜麻呂が見える。『和名抄』には上総国周淮郡の湯坐郷がある。

【『古事記』本文】また、あの皇后が申し上げたとおり、美知能宇斯王の娘たち、比婆須比売命、弟比売命、歌凝比売命、円野比売命の四人を呼び上らせた。しかし比婆須比売命と弟比売命の二人を留め、その妹二人はたいへん醜いため、故郷へ帰した。円野比売は恥じていった。「同じきょうだいの中で、姿が醜いため帰されたと近所に聞かれるのは、ひどく恥ずかしい。」そして山代国の相楽へ着いた時、木の枝に首を掛けようとして、死のうとした。それでそこを懸木と呼び、今は相楽という。また弟国へ至ると、ついに深い淵へ身を投げて亡くなった。それでその土地を墜国といい、今は弟国という。

【宣長の注釈】「其后」は、前に沙本毘古王とともに稲城の中で亡くなった、沙本毘売命のことである。

【宣長の注釈】「随白」は「まをしたまひのまにまに」と読むべきだ。その理由は前(巻二十四の五十七丁)に述べた。また丹波の姫たちのことを申し上げた話も、同じ段の五十九丁に見える。「比婆須比売命」は前(巻二十二の七十丁)、「弟比売命」も前(巻二十二の七十丁、巻二十四の五十九丁)に出た。

【宣長の注釈】「歌凝比売命」はここに出るだけで、前にも後にも、『日本書紀』にもまったく見えない。これは円野比売の別名を、誤って別人にした伝承だと思う。理由は順に詳しく述べる。名の意味は「常人には思いもよらぬ、恐ろしい心」だろう。穴穂宮の段に「宇多豆物言王子」があり、『日本書紀』武烈天皇紀は「奇偉」を「うたて」と読む。その理由も後に述べる。心を「こり」という例は、神代巻の田心姫命である。『万葉集』巻二十の東人の歌にも「妹がここり」とある。田心姫命に関してさらに考えると、宗像の三女神を『日本書紀』が「今、海の北の道中においでで、道主貴という」とするのと、この姫たちの父、丹波道主命は名が同じである。また丹波は古くは丹後も含むので、「海北の道中」にもつながりがある。円野比売が丹波へ帰されたことも、三女神を筑紫へ下し、「お前たち三神は道の中に下って住め」と命じた話に少し似ている。これらによって田心姫神と混同し、歌凝比売という名を伝えたのかもしれない。「円野比売命」は前(巻二十二の七十丁)では真砥野比売命と出た。

【宣長の注釈】「合わせて四人」について。あの皇后が申し上げた所では、ただ兄比売・弟比売とあり、ここに挙げた名はない。この姫たちの名は、全体としてとても紛らわしい。まず伊邪河宮の段で初めて出る所は、「美知能宇志王は丹波の河上の摩須郎女を妻として、比婆須比売命、次に真砥野比売命、弟比売命、朝廷別王の四人を生んだ」とある。女性は三人である。次にこの段の初めでは「丹波の比古多々須美知能宇斯王の娘、氷羽洲比売命を妻として……を生んだ。またその妹、沼羽田之入日売命を妻として……を生んだ。またその妹、阿邪美能伊理毘売命を妻として……を生んだ」と三人が見える。次に皇后が申し上げる所は「丹波の比古多々須美智宇斯王の娘で、兄比売・弟比売という二人の姫」とする。『日本書紀』は「十五年春二月、丹波の五人の娘を呼び、宮中に入れた。一番目は日葉酢媛、二番目は渟葉田瓊入媛、三番目は真砥野媛、四番目は薊瓊入媛、五番目は竹野媛。秋八月、日葉酢媛命を皇后に立て、皇后の三人の妹を妃とした。ただ竹野媛は姿が醜いため故郷へ帰した」とする。これらは名も数も順番もそれぞれ違い、ここに挙げるものもまた合わない。どれをどれに当てて一つに定めるのか、難しそうだが、よく考えて思い至った説がある。

【宣長の注釈】まず比婆須比売命はどこでも同じで紛れがなく、兄比売もこの姫に違いない。次に弟比売をすべて照らして考えると、独立した一人の名ではなく、沼羽田入毘売と阿邪美入毘売を合わせていう呼び名である。この段の初めと『日本書紀』には二人の名があって弟比売はなく、逆に弟比売のある所には二人の名がないからだ。姉を兄比売というのに対し、妹は何人でも弟比売と呼ぶ例による。皇極天皇紀の「長女・少女」と同じだ。この二人はともに妃となり、同列に並んでいたため、普段から二人まとめて弟比売と呼んだまま伝えたのである。この例から見ると、兄比売・弟比売だけを挙げる所は、円野比売も含む三人を弟比売としたのだ。そこで「二人の姫」とする理由はその注に述べた。しかし伊邪河宮の段とここでは円野比売を別に挙げる。円野比売は故郷へ帰され、離れた一人なので、その名を別に伝えたのである。特にここは次に本人の話をするため、先に名を挙げる必要がある。またこの段の初めだけ、沼羽田比売と阿邪美比売を弟比売とせず別々に挙げるのは、それぞれが生んだ皇子を挙げる所だからだ。いつものようにまとめて弟比売といえば、皇子たちの母が区別できず、同じ母の子に聞こえてしまうためである。

【宣長の注釈】さて三人の順は、伊邪河宮の段では真砥野比売、次に弟比売、つまり沼羽田比売と阿邪美比売の二人となるのに、ここでは逆に弟比売を先にする。この違いはどういうことか。全体の順序は『日本書紀』のように、一番目が比婆須比売命、二番目が沼羽田之入毘売命、三番目が円野比売命、四番目が阿邪美能入毘売命だったのだろう。弟比売は二番目と四番目を合わせた呼び名なので、三番目の円野比売の前に並べても後に並べても理屈は通り、問題はない。伊邪河宮の段では真砥野比売を先、弟比売を後にしたのは、弟比売が普通、姉に対して妹をいう呼び名だからだ。厳密には沼羽田・真砥野・阿邪美と並べるべきだが、妃になった沼羽田と阿邪美を常に弟比売と呼ぶままに伝えたので、その名に引かれ、二番目も自然に四番目の位置に含まれたのである。一方ここでは、二人の弟比売は都に留まって妃になるため、皇后比婆須比売に続けて先に並べ、円野比売は一人離れて帰されたため、末に挙げた。伊邪河宮の段はただ父王の子たちを挙げる所なので弟比売という呼び名に即した順にし、ここは都に留まることと故郷へ帰すことをいう所なので、趣旨が異なり、順が逆になるのである。こうしたことからも、古い伝承の趣旨がでたらめでなかったこと、また『古事記』にこざかしい手直しがないことがわかり、たいへん尊い。

【宣長の注釈】「合わせて四人」は、もとは比婆須比売・沼羽田比売・阿邪美比売・円野比売の四人という伝承だったのだろう。それを弟比売という一人の名とし、歌凝比売を別の一人として四人とするのは、伝え間違いだろう。歌凝比売が円野比売の別名だろうことは前にも述べ、さらに後にも理由を述べる。『日本書紀』がこの四人のほかに竹野媛を加えて五人とするのも、竹野媛は歌凝比売と同じく円野比売の別名だったのが混同され、別人になったので、実際は四人だったのだろう。その混同は、同書で丹波道主命を一説には彦湯隅王の子とし、伊邪河宮の段には丹波大県主の娘、竹野比売が比古由牟須美命を生んだとあることから考えられる。竹野比売は道主命の祖母の名で、土地も同じ丹波であり、歌凝の「たこ」と竹野の「たか」も通う音なので、あれこれによって歌凝比売の名が紛れ、竹野媛となったのだろう。したがってこれも実際は円野比売だ。さらに、故郷へ帰されたのが『古事記』では円野比売なのが証拠になる。三人を妃にしたという中で真砥野媛だけ生んだ皇子がないのも、その人が帰された竹野媛だからだ。『先代旧事本紀』は真砥野媛が磐衝別命・稚浅津姫命を生んだとするが、採るに足りない。母は『古事記』『日本書紀』とも別の妃で、真砥野媛ではないのに、勝手に取り替えたのだ。以上のように定めれば、それぞれの違いには自然な理由があり、実質はすべて一つに合い、矛盾しない。細かく見分けて考えるべきである。

【宣長の注釈】「喚上」は師の「めさげ」という読みに従いたい。明宮・高津宮の段にも見え、『万葉集』巻五に「春になったら奈良の都へ呼び上げてください」とある。「めさげ」は「めしあげ」が縮まった古語で、「さしあげ」を「ささげ」、「かきあげ」を「かかげ」というのと同じ形だ。「比婆須比売命・弟比売命の二人を留めた」というのも、弟比売を一人とした誤りだ。前には三人がそれぞれ皇子を生んだのに、どうして二人といえるのか。伊邪河宮の段で男性の朝廷別王を含め「四人」と注するのも、弟比売を一人と数えたためで、実際は五人だ。これらはみな名前だけを数えた後の誤りで、もとの伝承ではあるまい。ここからも弟比売はどこでも一人の名ではないことが、ますます明白だ。「妹の王二人」は歌凝比売・円野比売をいうが、両者は同じ人で実際は一人なので、これも誤りである。続く故郷への帰途の話が円野比売だけで、歌凝比売の話がないからだ。別人がいるなら、一人の話をする以上、歌凝比売はどうなったかも必ず述べるはずなのに、何もないのは、実際にはその人がいないためだ。特にいうことがなくても、「歌凝比売一人は丹波へ帰った」とでも締めくくるべきである。『日本書紀』でも帰されたのがただ一人であることを考えたい。

【宣長の注釈】「凶醜」は「みにくき」と読むべきで、師の「しこなる」はよくない。上巻の石長比売も「姉はたいへん醜かったため、恐れて送り返した」とある(巻十六の二十七丁)。「本土」は「もとつくに」と読むべきで、上巻や高津宮・近飛鳥宮の段などの「本国」と同じだ。「慚言」の「慚」は読まない。発言の中に恥ずかしいという言葉があるからだ。発言で「恥ずかしい」というのだから、その前に「恥じて」といわなくても意味は含まれ、さらにいうと重なって煩わしい。「慚」の字を置いたのは漢文の書き方によるだけだ。

【宣長の注釈】「同兄弟」は字どおり「おなじきはらから」と読むべきだ。「同」も含めて「はらから」と読んでもよいが、きょうだいが同じように召された中で、という意味だろうから、「同」も別に読むほうがよい。「姿」は「かほ」と読むのが通例。「以」は「よりて」と読み、前には「因」があった。「隣里」は「ちかきさと」、また「となりのさと」も悪くない。『日本書紀』巻二十二では「さとどなり」「となりざと」と読む。「となり」は戸並の「らび」が縮まって「り」となったもので、もと家についていったのを国や里へ転じたものだ。「甚慚」は「いとはづかし」と読むべきで、上巻にも「甚怍(いとはづかし)」とある。「取懸」は延佳の「とりさがり」がよい。『万葉集』巻十六の言葉に意味を求めない歌に「吉野の山に氷魚が掛かっている」とあり、「懸有」は「さがれる」という反復句が付く。『和名抄』にも、垂れ下がるいぼを「さがりぶすべ」という。「欲死」は「しなむとぞしたまひける」と読むべきだ。そうしても亡くならなかったのは、従者などが止めたのだろう。『万葉集』巻十六にも桜児が林へ入り、木に首を掛けて死んだ話がある。「懸木」も「さがりき」がよい。「かかりき」などでは「さがらか」へ訛るつながりが遠いからだ。この場の様子を考えると、帰途の従者も多かったろうに、木の枝へ首を掛けるまで止めず見ているはずはない。したがって「欲」は「取懸」の前にも掛かり、そうしようとして木の下へ寄りかかったりしたのだろう。それも貴人には珍しいことなので、実際に首を掛けていなくても、その木をさがりきと名づけることはありうる。そして木の名から、やがて土地の名にもなったのだろう。

【宣長の注釈】「今、相楽という」は、「り」と「ら」、「き」と「か」が通う音なので、こう訛ったのだ。『和名抄』に山城国相楽郡(さがらか)・相楽郷(さがらか)、神名帳に同郡の相楽神社がある。『日本書紀』の「さがら」「さはら」もさらに訛った形で、今もさがらという。また相楽村もあり、そこは今もさがらかというらしい。欽明天皇紀には高麗の使者の館を山背国相楽郡に建てたとあり、『万葉集』巻三にも「山代の相楽山の……」とある。「峻淵」の「峻」は「浚」の誤りだろうか。浚は深いという意味である。峻は山などにはいうが、淵にはいえない。峻調などは高いという意味なので別だ。あるいは恐ろしい意味か。そうなら「かしこき」と読むべきだが、やはり遠い気がする。師は「ふかき」と読んだが、峻ではそう読む根拠がない。『和名抄』には山城国久世郡に竹淵(たかふち)郷がある。『山城志』では綴喜郡禅定寺村の建藤神社を竹淵とも書き、古い久世郡竹淵郷とする。これによれば「たかふち」という淵の名だったとも考えられるが、弟国という場所とは地理が合わない。あれこれ考えても、峻のままでは読む言葉をまだ思いつかない。また深いのなら直接「深」と書くはずなので、「浚」も『古事記』には少し遠いが、「ふかき」と読んでおきたい。「墮」は「おちいりぬ」と読むべきだ。過って落ちたのでなく、死のうとしてわざとである。

【宣長の注釈】「歌凝」という名は、弱々しい女性がこれほど恐ろしいことを思いつき、身を失われたのを「常人には思いもよらぬ、恐ろしい心」といったのだろう。したがって事件後、世の人々が呼んだ名だろう。『日本書紀』は右の話を「竹野媛だけは姿が醜いため故郷へ帰された。帰されたのを恥じ、葛野へ着くと、自ら輿から落ちて死んだ。それで墜国と名づけた。今、弟国というのは訛りである」とするだけで、相楽の話も淵へ落ちた話もない。しかし単に地面へ落ちただけでは死ぬはずもないので、輿から淵へ落ちられたのだろう。『古事記』には輿からとはないが、実際そうだったのだろう。そうでなければ従者も相楽の件に懲り、気を緩めたり目を離したりしないはずで、どうして身を投げられよう。突然、輿の内から直接なさったなら、人も気づかなかったからだ。「弟国」は『和名抄』の山城国乙訓郡(おとくに)、神名帳の同郡乙訓坐大雷神社で、『日本書紀』継体天皇紀十二年には弟国に都を移したとある。古い弟国は今の井内村・今里村あたりで、井内村に乙訓明神社がある。今里村の法皇寺は昔、乙訓寺といったとある書はいう。『宇治拾遺物語』にも、長岡を過ぎて乙訓川のそばを通ると思うと、また寺戸の岸を登る……とある。寺戸村も今にある。

【『古事記』本文】天皇はまた、三宅連らの祖で多遅摩毛理という者を常世国へ遣わし、「ときじくのかくの木の実」を求めさせた。「登」からの八字は音を表す。多遅摩毛理はついにその国へ至り、木の実を採り、八かげと八ほこの形にして持ち帰る間に、天皇はすでに亡くなっていた。そこで四かげ・四ほこを分けて大后に献じ、残る四かげ・四ほこを天皇の御陵の前へ供えた。そして木の実を掲げ、泣き叫んで申し上げた。「常世国の、ときじくのかくの木の実を、持って帰って参りました。」ついに泣き叫びながら死んだ。この「ときじくのかくの木の実」は、今の橘である。

【宣長の注釈】「三宅連」は『新撰姓氏録』の右京諸蕃新羅の部に「新羅国王の子、天日桙命の子孫」とあり、摂津国諸蕃新羅にも同じく天日桙命の子孫とし、一説には伊久米入彦命を祖とするという。古本はこうあるが、刊本の摂津の項は「滋野宿禰と同祖、田遅麻守の子孫」とする。滋野宿禰と同祖とは理解できない。滋野宿禰は神別の姓で、諸蕃ではないからだ。古本の「一説には……」も理解しにくい。この姓はもと地名から出たのか、屯倉によるのか、確かでない。天武天皇紀に三宅連石床が見え、同十三年十二月に三宅連へ宿禰姓を与えたとある。この時宿禰を賜ったのに『姓氏録』が連だけとするのは、宿禰になった一族が絶え、もとの連のままの一族なのだろう。また天武天皇紀で三宅吉士に連姓を与えたものは別姓だろう。『姓氏録』の三宅人も別である。「多遅麻毛理」は新羅から来た天之日矛の玄孫で、詳しい系譜は明宮の段の末に見える。この人のことはそこで述べる(巻三十一の十九丁)。

【宣長の注釈】「常世国」は、上巻の少名毘古那命の段で述べたように、日本からはるかに隔たり、簡単には往復できない国を広くいう呼び名だ。詳しくは巻十二の九丁で述べたので、考え合わせたい。ここは新羅を指したのだろう。多遅麻毛理は新羅人の子孫で、その国に橘があってたいへんよい果実だと伝え聞き、天皇に申し上げたため、このことが起きたはずだからだ。そうでなければ、当時まだ外国との往来もないのに、橘の存在をお知りになる理由がない。新羅と考える理由はまず以上だが、さらに細かくいえば、橘は中国でも南にあり、寒い北にはないと聞くので、三韓などにはどうだろうか。韓にないのなら、この常世国は中国かもしれない。そうなら祖先の時代から中国にこの果実があると伝え聞いていたのだろう。これは今の朝鮮に橘があるかどうか、よく聞いて決めるべきだ。中国だとしても、やはり新羅から伝って行ったのだろう。古くはみなそういう例である。

【宣長の注釈】「ときじくのかくの木の実」について、『日本書紀』は「九十年春二月、天皇は田道間守に命じ、常世国へ遣わして非時香菓を求めさせた。今いう橘がこれである。香菓は『かくのみ』という」とする。読みの注では「能」の後に「許能」が落ちたのではないだろうか。同じ字が重なると、よく脱落するものだ。「ときじく」の「じ」は濁る。『日本書紀』の表記のように、時季に合わないことを、何についてもいう。『万葉集』巻一に「山を越す風が季節外れに寒いので」、また「吉野の耳我山には季節外れにも雪が降るという」、巻三の富士山の歌に「季節外れにも雪が降った」、筑波山の歌に「冬木のように、登って見る時でないとして、見ずに行くなら」、巻四に「いつでもおいでなさい、あなた。時が悪いなどということがありましょうか」、巻八の六月の歌に「季節外れに藤が色よく咲く」、巻十三に「小治田の年魚道の水を……人は時季外れに飲むという」(暑くて水を飲むべき時でないこと)、巻十八に巻四と同じ「時が悪いなどということがあろうか」などがあることから理解できる。「時を区別せず、常に変わらない」とするのは少し違う。時季でないという言葉から、自然にそうも聞こえるだけだ。橘の実をこういうのは、夏から実り、秋を経て冬の霜雪にもよく耐え、採ってからも長く腐らず、時季でない時にもいつでもある物だからである。

【宣長の注釈】「かく」は『日本書紀』の表記のように香りの意味らしいが、香りは普通「か」といい、「かく」というのをまだ聞かないので、「く」の意味は詳しくわからない。「かぐはし」は香りがすばらしいことで別語だ。清濁も異なり、こちらは濁音の「具」を書くが、「かく」の「く」は『日本書紀』の読みの注も清音の「倶」、『万葉集』巻十八の歌も「香久」「可久」など、みな清音なので、混同してはいけない。あるいは三韓でこの名を香菓といい、その国の字音では「かく」だったのか。それなら「かくの木の実」は、三韓でかくと呼ぶ果実という意味になる。または香の字音を、その国では「かく」と呼んだのか。今も朝鮮の音では、日本で「う」で終わる字を「く」の音で呼ぶ例が多い。香が三韓でかくなら、迦具山を香山と書くなども、その字音を借りて慣わしたのだろう。これは「かぐはし」の意味で書いたのではない。神武天皇紀の「香山、これをかぐやまという」という注は訓のように見えるが、神代巻の「興台産霊、これをこごとむすびという」の興台も字音である。そうなら、普通の香りの「か」ももとは字音かという疑いがありそうだが、「か」はもとから日本の言葉だ。もとからの日本語と字音が自然に似たり同じだったりすることも時にはあり、これも混同してはいけない。「遂到其国」の「遂」は、至るに掛かるのか、実を採るに掛かるのか。どちらでも、到達も入手も難しかったことがこの言葉に表れている。

【宣長の注釈】「縵八縵矛八矛」「縵四縵矛四矛」と、再び「縵四縵矛四矛」とある文は、諸本すべてに脱字や誤字があって一致しない。それぞれによしあしはあるが、完全な本はない。旧刊本は初めを「縵八矛」の三字、次を「縵矛四竿」、最後を「縵四縵矛四竿」とする。ある本は初めを「縵八芋」、次を「縵芋四矛」、最後は旧刊本と同じ。別の一本は初めを「縵八芋」、次を「縵竿四矛」、最後は旧刊本と同じ。もう一本は初めを「縵八竿縵八矛」、次を「縵竿四矛」、最後も同じ。さらに一本は初めを「縵八弟縵八矛」、次は「縵四縵矛四矛」で完全だが、最後を「縵矛四矛」とする。延佳本は初め・次・最後とも完全で、ただ「八矛」「四矛」の「矛」をすべて「竿」とする点だけが違う。私の見た諸本の違いは、おおむねこうである。見慣れない文で、特に同じ字が重なるため紛れやすく、誤って落としたり、作為的に省いたりしたのだろう。「矛」も「竿」が正しいかと思えたが、よく考えるとそうではない。『日本書紀』の八竿、さらに崇神天皇紀の矛八竿という続きまで見て、中古の人がこざかしく改めたのだ。崇神天皇紀の矛は本当の矛で、ここは違うのに。延佳本だけが正しく完全なので、ここでもそれに従った。ただ末尾側の「矛」をすべて「竿」とするのはよくないので、そこは矛とする本を取った。延佳本が完全なのは異本を照合して定めたためだが、矛を竿としたのは、半分の異本がそうするのを『日本書紀』に照らしたためだろう。矛を選ぶ理由は、後に引く『万葉集』巻十八の歌に、はっきり「やほこもち」とあるからだ。「もち」は持つこと。また『日本書紀』で八竿を「やほこ」と読むのも、もと『古事記』に八矛とあったためらしく、今の諸本も半分は矛なので、この字なのは明らかだ。この形の物は普通何本の竿と数えるので、言葉がやほこ・よほこでも字は竿だろうと思う人もいようが、そうではない。『日本書紀』は古語にこだわらず漢字表現を主にするため八竿と書くが、『古事記』は多く字にこだわらず古語を主にするので、ここも古語どおり八矛・四矛と書くのである。

【宣長の注釈】「縵」は「かげ」と読むべきだ。この字を書くのは、ヒカゲノカズラで作る頭飾りの意味である。上代にはヒカゲノカズラを主に頭飾りにしたため、この字を書いた。また蘿そのものもただ「かげ」というので、その場合にもこの字を使った。蘿をかげという例は、『万葉集』巻二の「山かげが面影に見えつつ」にある。前からのつながりでは蘿の意味で、「影」は面影のことだ。「山」は今の本で玉と誤るが、集の中に山を玉と誤る例は多い。巻十三の「雲聚山陰」は「髪飾りの山かげ」の意味で、山に生えるヒカゲノカズラをいうので、ここも今の本は山を玉と誤る。

【宣長の注釈・前コマから続く】『万葉集』巻十四に「やまかづらかげ」(師の説では山縵は蘿)、巻十八に「かづらかげ、かぐはしき君を」とあるのがその例である。古く蘿は尊び賞する物だったので、「かぐはし」の枕詞にした。「香」はここでは音を借りた字で、言葉の初めに添えるものだ。こう見ると、この「縵」は借り字のようでも、まったくの借り字ではない。蘿の「かげ」も、もとは日の陰という意味で、その理由は後に述べるが、ここでの「かげ」も陰の意味だからだ。持統天皇紀に「華縵を殯宮へ進めた。これをみかげという」ともある。理由は巻八の五十三・六十四丁に述べた。「げ」を清音で読み、掛ける意味にするのは誤りである。『万葉集』巻二の山縵を古くから玉縵と書き誤り、古今の歌人が、その後の「影」を掛ける意味の掛詞と理解したため、この「縵」も掛ける意味だと考えたのだろう。後の数量を八掛・四掛とするのは理屈がないわけではないが、初めの物の名を掛としたら、何を指すのか。『うつほ物語』の衣櫃一かけ・櫃一かけ、『源氏物語』の衣装箱を多くのかけ、衣櫃二かけなどの「かけ」は、『河海抄』が荷と注したとおり、別のことなので混同してはいけない。

【宣長の注釈】ここで「縵」というのは蔭橘子、「矛」というのは桙橘子という物である。『内膳式』には、橘子四蔭、また橘子二十四蔭と桙橘子十枝、また橘子四蔭と桙橘子十枝、また橘子三十六蔭・桙橘子十五枝・掇橘子一斗、また橘子四十五蔭と掇橘子二斗二升五合があり、『斎宮式』にも橘子十蔭などがある。ただ橘子何蔭とあるものを、ここで蔭橘子と推すのは、並ぶ桙橘子が本文の矛八矛に正確に当たり、それに対して何蔭というので、もとは蔭橘子といったことが相互にわかるからだ。式の頃は「何蔭」といえば蔭橘子に限るため蔭を省いて橘子とし、桙橘子はその頃には何矛とはいわなかったので古い名のまま残したのである。これはそれぞれ別種の橘ではなく、同じ橘の採り方が違うのだ。詳しい形はわからないが、名から考えると、蔭橘子は枝ごと折り、葉も付けたままのものだろう。葉のある木は普通「蔭」というからだ。『大神宮式』で麻績などの機殿の祭りに使う雑物に「麻三十鬘、周囲二尺を一鬘とする」とある。この鬘も「かげ」と読むべきだ。麻の量は普通何斤というのに、ここだけ鬘とするのは理由があるはずだ。これも葉を付けて用いるためか。使い方を知らないので決めにくいが、麻績の祭りなので、麻の使い方もほかの祭りと違う理由があり、葉つきのまま使うこともあろう。そうなら蔭橘子と同じ趣旨である。桙橘子は、やや長く折った枝の葉をすべて取り、実だけ付けたものだろう。上代の矛の形に似たところがあったのだろうが、それほど似なくても、その形なら矛といえる。「掇橘子」は落ちた実を拾ったという名で、枝も葉もないものだろう。だからこちらは何斗・何升と量るのである。

【宣長の注釈】ここで蔭橘子・矛橘子をただ縵・矛とだけいい、橘子といわないのは、前に「ときじくのかくの木の実」「その木の実を採る」とあるので、さらに名をいわないのが古典的な言葉の例だからだ。こういう所でまた名を繰り返すのは俗な文章である。たとえば今でも、橘十籠のうち葉つき五籠、葉なし五籠といえば、初めに橘があるので自然にわかるのに、また葉つきの橘・葉なしの橘といえば、くどく拙いではないか。数量を何縵・何矛というのも、木を一木・二木、里を一里・二里、歌を一歌・二歌と数える類で、名そのものを数え方に使ったものだ。この例は多い。式が蔭橘子を何蔭とするのは上代からのままだが、矛橘子を何枝とするのは語が変わったので、枝もその形による。『日本書紀』の八竿も、このような長い物は普通何竿と数える例による。「将来之間」は「もちつてきつるあひだに」と読むべきだ。『日本書紀』の年紀なら、出発から帰還まで十一年である。「既」は師の「はやく」という読みがよい。古典語では過ぎた以前のことを「はやく」という例が多く、ここは帰って来るより前に、ということだ。「大后」は皇后である。「大」を「太」とする本はよくない。このことは白檮原宮の段に詳しく述べた。ここは比婆須比売命をいう。『日本書紀』ではこの大后はすでに三十二年に亡くなっており、伝承が異なる。

【宣長の注釈】「御陵戸」は「みはかのと」と読むべきで、ここの「御陵」などは「みさざき」でも悪くない。「戸」は前というような意味だ。『万葉集』で「やど」を屋前・屋戸と書き通わせるように、戸の前も戸という。「外山」の外も同じく前という意味で、外とも意味が通う。上巻で天の石屋戸に伏せて……という戸も、その前のことなのでわかる。師は陵戸は陵を守る家でなく御陵の門などだといったが、直接門などを指すのではない。「擎」は掲げること。前に置いたといい、また掲げたというのは矛盾に見えても、そうではない。置くのは四縵・四矛全体、掲げるのはその一部を手に持ったのだ。全部一緒に掲げられるわけではないからだ。また「置」は『万葉集』の幣を置くと同じく、ただ献じることと見てもよい。こうして掲げたことで悲しみの深さがいっそうわかり、今その場を見るようである。「叫哭」は「さけびをらびぬ」と読むべきだ。『万葉集』巻九の「菟原壮士が天を仰いで叫び……」による。『日本書紀』も叫哭と書き「をらびなきて」と読む。雄略天皇紀に呼号、孝徳天皇紀に啼叫などもある。「をらぶ」は大声で泣き叫ぶこと、悲しみの甚だしい時の様子である。「侍」は「さもらふ」と読むべきで、上巻の注(巻十四の四十一丁)に詳しく述べた。御前に慎んで控えていることで、単なる敬語として添えたのではない。

【宣長の注釈】「叫哭死也」は「をらびしにき」と読むべきで、泣き叫ぶまま、その場で死んだのだ。ただ「ついに死んだ」では、しばらく後で亡くなったようにも聞こえ、勢いがないので、叫哭を重ねていった。『日本書紀』顕宗天皇紀の「隼人は昼夜、陵のそばで泣き叫び、食事を与えても食べず、七日で死んだ」も似た話である。『日本書紀』は「九十九年秋七月、天皇が崩じた……。翌年春三月、田道間守が常世国から帰り、非時香菓八竿・八縵を持って来た。泣き悲しんで、『朝廷の命を受け、遠い異境へ行き、万里の波を踏み、はるかに弱水を渡りました。常世国は神仙の秘密の地で、普通の人には至れません。このため往復に十年を経ました。どうして一人で激しい波を越え、再び故郷へ向かえると思えたでしょう。しかし聖帝の神霊によって、ようやく帰れました。今、天皇は亡くなり、命にお応えできません。生きていても何の益がありましょう』といい、御陵に向かって泣き叫び、自ら死んだ。群臣は聞いて皆涙を流した。田道間守は三宅連の始祖である」とする。この発言はすべて、例によって編者が脚色して加えた漢文で、当時いうはずの言葉ではない。特に常世国を神仙の秘密の地とする言葉は古代の意味と大きく違うので、このような空文に決して惑わされてはいけない。また生きて何の益があるかとしては、故意の死となり、かえって情が深くない。実際は『古事記』のように、死のうとは思わなかったのに、あまり泣き叫んで泣き死にしたのだ。それでこそ悲しみは深い。発言も『古事記』は短いが、かえって深い情と多くの悲しみが自然にこもり、『日本書紀』の多弁な文章より、はるかに痛ましく聞こえる。『日本書紀釈』が引く『天書』第六には「景行天皇二年春三月、辛未を朔日とする壬午の日、丹馬物果が帰って献じ、垂仁天皇を慕って陵を拝み、泣いて申し上げた……。地に伏して泣き、陵を拝んで死んだ。景行天皇は忠義をあわれみ、陵のそばに葬らせた」とある。「果」は「里」の誤りだ。この『天書』は時々引かれるが、おおよそ『日本書紀』により、それ以上に中国風に書く一方、かえって拙い文が多い。事実の相違も時々あって不確かだ。歴代天皇を中国風の諡で呼ぶので、桓武天皇以後に作られた書である。ここに引いたのは『日本書紀』と少し違いがあるためと、理解のために論じるついでである。

【宣長の注釈】「橘」は『和名抄』に「たちばな」とある。名は持ち帰った人により、「たぢま花」といったのだろう。この物は花より実が主なので、花で名づけるのはどうかともいえようが、名の形からはやはり「ばな」は花に思える。「花橘」ともいい、これは花を賞する名だ。実の歌でも花橘と詠み、『万葉集』巻六は橘花とさえ書く。持ち帰った実を種としてまき、生えた木に初めて花が咲いた時、「たぢま花」と呼び始め、名になったのだろう。師の説は、持ち帰った人の名から後に「田道間名」と呼び、古くは「ち」を濁っていっただろう、今も上総や南部の人は濁るし、「ば」と「ま」が通うのは普通だという。人の名に由来する点はよいが、最後の「な」を名とするのはどうだろう。名を説明する時ならそういえても、直接「名」という語を名前の中に付けるものではない。任那国などの例と同じにはいえない。また古く「ち」を濁ったというのも当たらない。『古事記』『万葉集』などの仮名表記はみな清音の知で、濁音字の例はない。今の上総などの濁りは東国の訛りだ。多遅麻毛理に由来するなら本来は濁るはずだが、続く「ば」を濁るため、濁音が重なるのが聞き苦しく、自然に「ち」を清音で呼んできたのだろう。

【宣長の注釈】明宮の大御歌に「かぐはし花たちばな」とお詠みになった。古くは花も実も特に賞した物で、『万葉集』各巻に歌はとても多い。巻六には「橘の花、枝に霜が降っても、いっそう常緑の木、その葉までも」とあり、巻十八には「この橘の、常世から来た物のように、末永く我が大君は、今ご覧になるように」とある。「とこよもの」は常世国から来た物ということだ。また次の長歌がある。「言葉にするのもたいへんおそれ多い。皇祖の神の大御世に、田道間守が常世へ渡り、八ほこを携えて帰って来た時、季節外れにもある、かくの木の実を、かしこくも残してくださったので、国いっぱいに生い育って栄え、春には新しい小枝も伸びる。ほととぎすの鳴く五月には、咲き初めた花を枝から折り、乙女たちへの土産にもし、白い袖にもこき入れ、香りのよさに置いて枯らしもする。熟した実は玉のように糸に通して手に巻き、いくら見ても飽きない。秋になると時雨が降り、山々の梢は紅に色づき散るが、橘の実はひたすら照り輝き、ますます見たいと思う。雪降る冬になり霜が置いても、葉は枯れず、常磐のようにますます栄える。それだから神代以来、その名にふさわしくこの橘を、ときじくのかくの木の実と名づけたのだろう。」橘については、おおよそこの歌に備わっている。『古今集』には「五月を待つ花橘の香をかぐと、昔の人の袖の香りがする」とある。この昔の人を多遅麻毛理とする注は誤りだ。

【宣長の注釈】『続日本紀』巻十二、和銅元年に県犬養宿禰三千代へ橘姓を賜った勅には、「橘は果実の長で、身分高い人の好む物。枝は霜雪をしのいで茂り、葉は寒暑を経ても枯れない。珠玉と光を競い、金銀と交じってさらに美しい……」とある。「珠玉と」の前に「実」が落ちたのだろうか。武蔵国に橘樹郡があり、橘樹郷(たちばな)と御宅郷(みやけ)が並ぶのも、ゆかりがあるのだろう。『新撰姓氏録』の橘守という姓が三宅連と同祖なのは、公の橘の木を守る者を管轄する氏族だろう。初めのゆかりによって、多遅麻毛理の子孫へ任せたのである。師がこの氏も「たぢまもり」と読むべきだとしたのは合わない。個人の名とは関係なく、ただ橘を守ったことによる。両者を同じにするなら、個人名も橘を守ったためというべきだが、あの名は但馬国に由来し、橘によるのではない。『万葉集』巻十の「橘を守る、守部の里の……」も、古くこの木を特に守ったことから、守部の里の枕詞にしたのだ。また単に「守」という名への掛詞だけでなく、この里に橘を守る人が住んだので守部と名づけたのかもしれない。どちらでも『冠辞考』の説には少し違う所がある。

【宣長の注釈】ある説は、昔の橘は今の蜜柑で、今別に橘と呼ぶ物ではないという。別の説は、昔の橘は今の橘であり、蜜柑は後から渡来して味がよいため広まり、橘は劣るので押され、自然に珍しくなったという。どちらがよいか定めにくい。今考えると、まず現在の橘は珍しく、実は柑子より小さく、味も蜜柑よりはるかに劣る。古くあれほど賞され、世に多かったのなら、これではなく蜜柑のほうが該当しそうだ。薬の橘皮にも昔から蜜柑の皮を使う。昔の橘をいつからか蜜柑だけで呼ぶようになり、後に別種へ橘と名づけたのだろうか。今の橘は『延喜式』『伊勢物語』などの小柑子だろうと思えるので、初めの説がよいか。しかしまた、もし昔の橘が今の蜜柑なら、昔のまま今もたちばなと呼ぶはずで、名を蜜柑へ変える理由がない。そうなら、後から渡った物を初めてその美味しさに従って蜜柑と呼んだのかとも考えられ、後の説も道理がある。また「みかむ」は『和名抄』の「橘橙は柚の類で、『漢語抄』には柚柑とある」という柚柑が訛り、後に蜜柑と書いたのかとも思う。橘・柑・柚は中国でも混同され、種類も多いので、漢名でも決めがたく、昔と今の違いもとても紛らわしい。さらに、昔の橘は今の柑子、今の蜜柑は昔の柑子だという説もあるが、柑子は今も柑子という物だろう。

【『古事記』本文】この天皇の御年は百五十三歳であった。御陵は菅原の御立野の中にある。

【宣長の注釈】百五十三歳とある御年について、『日本書紀』には「九十九年秋七月、戊午の朔日、纒向宮で崩じた。百四十歳だった」とある。その年齢なら崇神天皇二十八年のお生まれのはずだが、この巻の初めで御間城天皇二十九年とするのとは一年違う。また二十四歳で皇太子となったとするのも、崇神天皇紀四十八年の立太子とは合わない。二十八年生まれなら四十八年は二十一歳、二十九年生まれなら二十歳だ。さらに崇神天皇紀の「元年二月、御間城姫を皇后に立てた。それ以前に皇后は活目天皇を生んでいた」は大きく違う。元年以前にお生まれなら、四十八年には五十歳ほど、崩御は百七十歳ほどになるはずだからだ。ある書には百三十、また百四十一ともいう。

【宣長の注釈】「菅原の御立野」は、『日本書紀』に「九十九年……冬十二月、癸卯を朔日とする壬子の日、菅原の伏見陵に葬った」とある。『諸陵式』には「菅原伏見東陵。纒向珠城宮で天下を治めた垂仁天皇。大和国添下郡にあり、領域は東西二町・南北二町、陵戸二戸、守戸三戸」とある。菅原伏見西陵は安康天皇で、同じ添下郡にある。菅原は神名帳にも同郡の菅原神社があり、今も菅原村がある。『万葉集』巻二十には「大きな海の底のように深く思いながら、裳裾を引きならした菅原の里」、『古今集』雑下に「さあ、ここで一生を過ごそう。菅原の伏見の里が荒れるのは惜しい」、『後撰集』雑三に「菅原の伏見の暁に見渡すと、霞と見まがう小長谷の山」とある。この御陵を『日本書紀』が伏見とするのは疑わしい。『続日本紀』巻六、霊亀元年夏四月に、櫛見山陵(生目入日子伊佐知天皇の陵)に守陵三戸、伏見山陵(穴穂天皇の陵)に四戸を充てた、とあるからだ。ここで伏見は穴穂天皇で、『古事記』もその陵を伏見岡とする一方、垂仁天皇の陵は伏見といわない。合わせると、もとは櫛見で、『日本書紀』もそうだったのを、後人が式などで伏見と改めたのかもしれない。式が『日本書紀』によったとも思えるが、東陵・西陵とある以上、その頃はすでに二陵とも伏見と呼んだのだろう。くし・ふしが紛れて一つになったのだろうか。あるいは垂仁の陵も所在地は伏見だったため、もとから伏見陵ともいい、陵号は櫛見ともいったのかもしれない。『続日本紀』の櫛が伏の写し間違いともいえそうだが、伏見陵と並記されるので、そうではない。なお考えるべきである。

【宣長の注釈】『古事記』の「御立野」は、ほかの書に見えない地名だ。龍田の風神祭の祝詞に「龍田の立野の小野に、私の宮を定め」とあり、今も社の所在地を立野というが、平群郡なので別の土地である。『諸陵式』の三立岡墓も広瀬郡で違う。また『続日本紀』の櫛見から、あるいは「立」は「奇」の誤りで「御奇野」かとも考えたが、『古事記』に「くし」を奇と書く例はない。『新撰姓氏録』には、御立史は三河国青海郡の御立に住んだため、その姓を賜ったとあり、御立という地名の例として引いておく。この陵は『大和志』で宝来村の東にあるという。俗に蓬来山と呼ぶ、高く大きな陵で、広い池が囲む。大きな池の中に立つ姿から蓬来山というのだろう。場所は斉音寺村だろうか、そこにあると記す書もある。奈良から一里余り西で、菅原村も近い。

【『古事記』本文】また、その大后、比婆須比売命が亡くなった時、石棺を作る者を定め、また土師部を定めた。この后は狭木の寺間陵に葬られた。

【宣長の注釈】「時」は亡くなった時のことだが、「薨じた」といわないのが古文である。水垣宮の段の「倭日子命、この王の時、初めて陵に人垣を立てた」と同じで、理由はその注(巻二十三の十七丁)に述べた。師が「薨」の脱字として補ったのは、かえってよくない。「石祝作」の「祝」は「棺」の誤りと師はいったが、確かにそうだろう。草書の形がよく似るので、誤ったのだろう。「いしきつくり」と読むべきだ。

【宣長の注釈】『和名抄』には「『四声字苑』に、棺は遺体を入れるもの、和名はひとき。野王は、槨は棺を囲むもの、和名はおほとこという」とある。棺も槨も上代にはともに「ひとき」といった。「おほとこ」は少し後の名らしい。「ひつき」は「ひとき」が変わったものだ。柩もひつきと読み、遺体を納めた棺をいう。また普通はただ「き」ともいう。『日本書紀』景行天皇紀の「棺槨」は「みひとき」、孝徳天皇紀の「棺槨」は「みひつき」、また「棺」は「き」と読む。「み」は御の意味だ。孝徳天皇紀の轜車も柩車のことをいい、轜を喪車と注する。「き」は「おくつき」などの「き」で、遺体を収める構えである。おくつきは『万葉集』に多く、人を葬った場所をいい、天智天皇紀では丘墓と書く。「おく」は地下のことだ。「ひとき」は人の遺体を収めるのでいう。神代巻で須佐之男尊が「柀は人々が地下の墓に横たわるための道具にしてよい」としたことから、内棺は上代から木で造ったようなので、ここで石棺というのは外側の槨だろう。以前、大和を見て回った時、十市郡安部村の近くの洞窟に少し深く入り、奥に、上を屋根の形にし、高さ・縦・横とも六尺ほどの石槨が立つのを見た。まさに古代の貴人の墓と思われたので、石棺というのはこうした物だろう。さらに外の石組み全体まで含め、すべて「いしき」といったのだろう。

【宣長の注釈】『新撰姓氏録』左京神別に「石作連は火明命の六世の孫、建真利根命の子孫である。垂仁天皇の御世、皇后日葉酢媛命のため石棺を造って献じたので、石作大連公の姓を賜った」とある。山城国神別にも石作は火明命の子孫とし、摂津国神別・和泉国神別にも石作連が見える。『和名抄』には山城国乙訓郡の石作郷(いしつくり)、尾張国中島郡の石作郷(いしづくり)などもある。石棺を造る職人は以前からいただろうが、この御世に改めて部を定めたのである。初めて石棺を造ったという意味ではない。天智天皇紀には「六年春二月、天豊財重日足姫天皇と間人皇女を小市岡上陵に合葬した。同日、皇孫の大田皇女を陵前の墓に葬った。皇太子は群臣に『皇大后天皇の勅を奉じ、民を思いやって石槨造りの労役を起こさない。後世永く戒めとしたい』と告げた」とある。ただし、この後も石槨を造ることがやんだとは見えない。

【宣長の注釈】「土師部」は「はにしべ」と読むべきだ。『和名抄』の各国の郷名では、多く土師を「はにし」とするためで、後に引く。また黄櫨も同書で「はにし」とするのに、その木の弓を『古事記』は波士弓といい、『日本書紀』の読みの注にも波士とある。この例から土師も古く「はし」といったのだろう。「し」は土の物を造る者ということで、「為る」の意味である。職人の類を何々師というのはみなそうで、今も例は多い。中国でも何々師ということが多いので、その師の字を使っただけだ。したがって字は中国の意味で書いたとしても、「し」という言葉は為るの意味で字音ではなく、音を借りた仮名でもなく、師木のように訓を借りた字でもない。混同してはいけない。

【宣長の注釈】土師のことは『日本書紀』にこうある。「三十二年秋七月、皇后日葉酢媛命が亡くなり、葬る日が近づいた。天皇は群臣に『殉死のやり方は前からよくないとわかった。今度の葬儀はどうすればよいか』と尋ねた。野見宿禰が進み出て、『君王の墓に生きた人を埋め立てるのはよくありません。後世へ伝えてよいものでしょうか。よい方法を考えて申し上げたい』といい、使者によって出雲国から土部百人を呼び上げた。自ら率いて粘土を採り、人馬やいろいろな物の形を造り、天皇へ献じた。『これからは生きた人に代えて土の物を陵墓に立て、後世の法則としてください。』天皇は大いに喜び、『お前のよい考えは、まさに私の心にかなう』と告げ、初めてその土の物を日葉酢姫命の墓へ立てた。これを埴輪、また立物といい、『今後、陵墓には必ずこれを立て、人を損なってはならない』と命じた。野見宿禰の功を厚く賞し、「鍛地」とある土地も与え、土部の仕事を任せ、本姓を改めて土部臣とした。これが土部連らが天皇の葬儀をつかさどる由来であり、野見宿禰はその始祖である。」水垣宮の倭日子命の墓の話(巻二十三の十七・十八丁)も考え合わせたい。この大后の死を三十二年とするのは伝承が違う。『古事記』では天皇より後に亡くなったようなので、野見宿禰の功も景行天皇の御世になる。しかし垂仁天皇の后の陵だから、その御世のこととして伝えたのは自然である。「埴輪」は『和名抄』に「はにわ。『日本紀私記』では、陵の周縁に粘土の人形を車輪のように立てたもの」とある意味だ。半ばを土に埋めて立てる。今も残る陵がある。陵に土の馬があることは雄略天皇紀九年に見える。野見宿禰は出雲国の人で、本姓は出雲臣である。

【宣長の注釈】この後、土で造る物だけでなく、葬礼や陵墓に関する仕事はすべて土師連がつかさどるようになった。仁徳天皇紀六十年に、白鳥陵の守を土師連らに授けたことが見え、雄略天皇紀には、土師連小鳥に田身輪邑で墓を造らせたとある。推古天皇紀では、来目皇子が筑紫で亡くなり、周芳の娑婆で殯を行い、土師連猪手を遣わして殯のことをつかさどらせた。皇極天皇紀では、吉備島皇祖母尊が亡くなると土師娑婆連猪手にその葬儀を扱わせた。孝徳天皇紀では、天皇が崩御し、南庭に殯宮を起こして、百舌鳥土師連土徳にその仕事を任せた。『続日本紀』巻十一では「今月七日の地震は尋常でなく、山陵が動いたおそれがある。諸王・真人を遣わし、土師宿禰一人を付き添わせ、諱所八か所と功績ある王の墓を点検させよ」と詔し、巻三十二では、三方王・土師宿禰和麻呂と六位以下三人を遣わして淡路で廃帝を改葬させた。これらの例がある。

【宣長の注釈】『職員令』の諸陵司の条に「土部十人。葬礼を補佐する」とあり、『令義解』は「土師宿禰のうち年齢・位の高い者を大連とし、その次を小連とする。ともに紫衣を着て刀剣を帯び、代々葬儀を執り行う」とする。大連・小連という名は古来の礼法ではあるまい。中国の『礼記』雑記に、孔子が「少連と大連はよく喪に服した。東夷の人である」と述べ、注が「夷狄に生まれながら礼を知ったことをいう」とする、その名を借りたのだろう。

【宣長の注釈】葬礼や陵墓以外にも土の器を献上したことが、雄略天皇紀に見える。「土師連らに、朝夕の御膳を盛る清浄な器を献上するよう命じた。そこで土師連の祖、吾笥は、摂津国の来狭々村、山背国の内村・俯見村、伊勢国の藤形村と、丹波・但馬・因幡の私有民部を献じ、贄土師部と名づけた」とある。「盛」の上に「造」などの字が抜けたか。『新撰姓氏録』にも贄土師連がある。

【宣長の注釈】土師連について、『日本書紀』神代巻には天穂日命を出雲臣・土師連らの祖とし、天武天皇紀には十三年十二月、土師連に宿禰の姓を賜ったとある。『新撰姓氏録』右京神別は、土師宿禰を天穂日命の十二世の孫、可美乾飯根命の子孫とし、「光仁天皇の天応元年、土師を改めて菅原氏を賜り、勅によって大枝朝臣に改めた」と続ける。ただし光仁天皇以下の部分はここにあるべき記事ではなく、後人の加筆である。同書の山城神別は、土師宿禰を天穂日命の十四世の孫、野見宿禰の子孫とする。大和神別では秋篠朝臣と同祖、天穂日命の十二世の孫、可美乾飯根命の子孫とする。ある書では、野見宿禰は可美乾飯根命の子で、菅原の伏見邑に住んだという。摂津神別は土師連を天穂日命の十二世の孫、飯入根命の子孫とする。飯入根は崇神天皇紀に見える甘美韓日狭の兄である。可美乾飯根と甘美韓日狭は同一人か。あるいは狭は根の誤字ではないか。和泉神別では、土師宿禰を秋篠朝臣と同祖、天穂日命の十四世の孫、野見宿禰の子孫とし、土師連も同じとしている。

【宣長の注釈】『続日本紀』巻三十六には、土師宿禰古人・同道長ら十五人がこう申し出たとある。「土師の祖は天穂日命から出て、その十四世の孫を野見宿禰といいます。纒向珠城宮で天下を治めた垂仁天皇の世には古い風習がなお残り、葬礼に節度がなく、死者が出るたびに多くの人を殉葬しました。皇后が亡くなった時、野見宿禰が進言し、土師三百人余りを率いて自ら粘土を採らせ、種々の物の形を造って献上しました。祖先の仕事を見ると吉事・凶事の両方があり、亡くなった日には葬儀を扱い、祭りの日には吉礼に参加してお仕えするのが本来の道理です。ところが今は葬儀だけを扱っています。祖先の仕事の趣旨はそこにはありません。居住地の名によって土師を菅原の姓に改めるよう願います。」勅によって許された。巻三十七では土師宿禰安人らが土師を秋篠に改めたいと願い、許された。巻四十には、天皇が「私の外祖母は土師宿禰である。その土師氏を大枝朝臣に改めよ。菅原真仲・土師菅麻呂らも同じく大枝朝臣とせよ」と詔した。また菅原宿禰道長・秋篠宿禰安人らに朝臣の姓を賜り、土師宿禰諸士らにも大枝朝臣を賜った。土師氏には四つの腹があり、中宮の母方の家は毛受腹なので、毛受腹には大枝朝臣を賜り、ほかの三腹は秋篠朝臣か菅原朝臣に属した。「腹」は一族をいう。毛受腹は和泉国大鳥郡毛受の土師氏の一族である。『新撰姓氏録』は菅原朝臣・秋篠朝臣・大枝朝臣を、いずれも土師朝臣と同祖とする。『日本三代実録』巻十三には、大枝朝臣音人・大枝朝臣氏雄らが、「大枝を姓としているが、呼び方を変えることは願わず、枝の字だけを江に改めたい」と上表し、許されたとある。

【宣長の注釈】『類聚三代格』に載る延暦十六年四月の太政官符には、土師宿禰らが葬儀を扱うことをやめさせる件として、こうある。「野見宿禰の子孫は、先祖の功績を受け継ぐ恩賞に浴すべきである。ところが葬儀だけをつかさどり、吉礼に参加しない。喪礼は人情として嫌うことであり、特定の一氏だけをその職掌に定めるのは、事の道理から考えてまことに穏当でない。永くこれを停止するよう願う。」これ以後、この氏が葬礼や陵墓の事をつかさどることはやんだ。さて、『古事記』本文の「土師部を定めた」は土師連だけのことではなく、土の物を造る職人全体の部を定めたのである。土師連はその部を率いてつかさどる長である。

【宣長の注釈】『和名抄』には、河内国志紀郡と丹比郡の土師郷、和泉国大鳥郡の土師郷(はにし)、上野国緑野郡の土師郷(はにし)、下野国足利郡の土師郷、丹波国天田郡の土師郷、因幡国八上郡と知頭郡の土師郷、備前国邑久郡の土師郷(はし)、阿波国名方西郡の土師郷(はし)、筑前国穂波郡の土師郷(はし)、筑後国山本郡の土師郷などがある。みな古く土師の住んだ土地だろう。

【宣長の注釈】「狭木」は『和名抄』の大和国添下郡佐紀郷である。『神名式』には同郡の佐紀神社もあり、『諸陵式』の狭城盾列池後陵と狭城盾列池上陵も、ともに大和国添下郡にあるという。すべて同じ土地である。垂仁天皇紀には三十五年に倭の狭城池を造ったとあり、『続日本紀』巻三十では、高野天皇を大和国添下郡佐貴郷の高野山陵に葬ったとする。『万葉集』巻一に佐紀宮の記事があり、その歌で高野原と詠むのは高野山陵の土地だ。巻十三には「春日の三笠山に月が出てくれないだろうか。佐紀山に咲く桜の花が見えるように」とある。巻十にも「をみなへし、佐紀野に生える白菅から」、巻十五にも「をみなへし、佐紀野の萩に」と見える。「をみなべし」は枕詞である。この地名は今はない。現在の超昇寺村・常福寺村・山陵村などの辺りが、佐紀郷の土地だろう。

【宣長の注釈】「寺間」という地名はほかの書に見えず、今も聞かない。ただし『続日本紀』巻二十七に、大和国の従七位下寺間臣大虫ら四人に大屋朝臣の姓を賜ったとある。この姓はこの地名から出たのだろう。そもそもこの地名の「寺」は音を借りた字とも思えない。仏の建物を「てら」というのは、もと朝鮮の言葉だという。そうなのだろう。それなら、寺という物ができてからの地名を、古い時代にさかのぼらせて述べたのだろう。この御陵については『大和志』に、添下郡の日葉酢姫命の墓は常福寺村にあるという。

古事記伝 巻二十六

本居宣長 著

日代宮 一の巻

〔『古事記』本文〕大帯日子淤斯呂和気天皇〔おほたらしひこおしろわけのすめらみこと、景行天皇〕は、纒向の日代宮にお住まいになり、天下を治めた。天皇は、吉備臣らの祖先である若建吉備津日子の娘、針間の伊那毘能大郎女〔いなびのおほいらつめ。「伊那」は音を表す〕を妻として、櫛角別王、大碓命、小碓命〔別名は倭男具那命〕、倭根子命、神櫛王の五人をもうけた。
また、八尺入日子命の娘、八坂之入日売命を妻として、若帯日子命、五百木之入日子命、押別命、五百木之入日売命をもうけた。別の妻の子は、豊戸別王と沼代郎女。また別の妻の子は、沼名木郎女、香余理比売命、若木之入日子王、吉備之兄日子王、高木比売命、弟比売命である。
また、日向の美波迦斯毘売〔みはかしびめ〕を妻として、豊国別王をもうけた。また、伊那毘能大郎女の妹、伊那毘能若郎女〔「伊那毘能」の四字は音を表す〕を妻として、真若王と日子人之大兄王をもうけた。また、倭建命のひ孫である須売伊呂大中日子王〔「須売伊呂」の四字は音を表す〕の娘に当たる訶具漏比売を妻として、大枝王をもうけた。

この天皇を、後世につけられた中国風の諡では、景行天皇と申し上げる。
各天皇の段の冒頭では、御名を掲げるとき「何々命」とするのが通例だが、ここで「天皇」とあるのは、それ以前には例がない。以後では成務・仲哀・欽明・崇峻などがそうなっている。〔そのほかはすべて「命」である。この違いに、特別な意味はないだろう。〕
「纒向〔まきむく〕」は、『神名帳』に大和国城上郡の纒向坐若御魂神社が載る、その土地である。朝倉白檮宮の段の三重の采女の歌に「まきむくの、ひしろのみやは……」とある。『万葉集』巻七には、「雷のように名ばかり聞いていた、巻向の檜原山を、今日こそ見た」「三諸の、その山並みに、子らの手を巻くという名の巻向山は、連なりが見事なことだなあ」「巻目の、弓月が岳に」などがある。〔「向」を「目」とも書くからといって、「もく」と読むのは誤りである。〕ほかに「巻向の、穴師の川から」「巻向の、川音高しも」、巻十五の「巻向の、檜原に立てる、春霞」、巻十二の「纒向の、穴師の山に」など、歌の例は多い。『日本書紀』では垂仁天皇の都も纒向にある。〔『伝』巻二十四の四葉と照らし合わせるとよい。〕巻向山は、三輪山の北東に並ぶ山である。
「日代宮〔ひしろのみや〕」も地名によるのか、単に宮の名なのか、詳しくは分からない。〔この大宮の辺りも檜の林だったので、「檜代」の意味で名づけたのだろうか。「代」は、何であれ、その物の場所として定め、区切った所をいう。また「城」を「しろ」という古い例は見えないが、延暦十三年に山背国の表記を「山城」に改めた際の詔には、「この国は山と川が襟や帯のように取り巻き、自然に城をなしている」とある。古くから「しろ」という言葉があったので、「城」の字を用いたのだろう。これも古語なら、直接「檜城」といってもよい。城を「しろ」というのも、もとは右の「代」の意味なので、結局は同じことである。〕『書紀』には、「四年春二月、天皇は美濃へ行幸した。冬十一月、美濃からお帰りになると、改めて纒向に都を置いた。これを日代宮という」とある。

「吉備臣」については黒田宮の段で述べた。〔『伝』巻二十一の五十二葉から五十七葉までを参照。〕「若建吉備津日子」も黒田宮の段に出る。〔ここは「命」の字が抜けたのだろうか。『伝』巻二十一の四十六・四十七葉、五十二葉。〕この命は孝霊天皇の御子であり、景行天皇は孝霊天皇から五代目の子孫だから、その娘を妻とするのは時代が合わないようにも見える。しかし上代の人は長寿の者が多かったから、あまり疑うには当たらない。〔ただ、『書紀』で崇神十年に、この命の兄の吉備津彦を西道へ派遣したとするのは、孝霊朝の末から約百三十年後に当たる。また孝霊朝の末から景行朝の初めまでは、二百九十年にもなる。吉備臣の祖である御友別は、この若建日子命の孫で、応神二十二年に見える。孝霊朝末から五百年以上もたって、そのひ孫に当たる者が生きていたというのは、どうだろう。したがって『書紀』の年代は、どちらにしても疑わしい。〕倭建命の東征に従った吉備建日子も、『姓氏録』によればこの命の御子である。また、父の若建吉備津日子と子の吉備建日子との名が似ていることから考えると、その間の世代にも似た名の人がいて、二、三代分を一代に混同した可能性も、ないとはいえない。

「伊那毘能大郎女〔いなびのおほいらつめ〕」の伊那毘は、『和名抄』の播磨国印南郡〔いなみ〕である。『万葉集』巻一〔二十二葉〕に「いなみ国原」、巻三〔三十七葉〕に「稲日野」、同巻〔二十葉〕に「稲見の海」、巻四〔三十葉〕に「稲日つまの、浦のあたりを過ぎて」とある。巻六には、神亀三年、播磨国印南野へ行幸した時の歌として、「すみずみまでお治めになる、わが大君が、神であるままに、高くお治めになる、稲日野の、大海原を……」とあり、このほかにも多くの歌がある。〔古くから「いなび」とも「いなみ」ともいったことが分かる。〕『続日本紀』巻二十六には、播磨国賀古郡の馬養造人上が、「私の先祖は吉備都彦の子孫、上道臣息長借鎌で、難波高津朝廷の時に、播磨国賀古郡印南野に住まいました。その六代の子孫……です。どうか居住地の名を取り、印南野臣の姓をお授けください」と申し出たとある。〔賀古郡印南野とあるので、この野は印南郡から賀古郡にまで広がる土地だったのだろう。なお人上が御友別命の十一代の子孫であることは、『三代実録』巻三十六に見える。〕これによって、印南付近には若建吉備津日子命の子孫が、後世までいたことが分かる。
「郎女」という呼称は前に説明した。〔『伝』巻二十一の十葉、巻二十二の七十葉。〕「大」というのは、妹も同じく天皇の妃だったので、姉妹を区別し、姉を「大」、妹を「若」と呼んだので――〔次頁へ続く〕

〔前頁からの続き。〕ある。〔ただし、必ずしも妹と区別するのでなく「大郎女」と呼ぶ例も、允恭天皇の御子などの名に多い。〕
「櫛角別王」の名で、「櫛」は「奇し〔不思議で霊妙な〕」という意味である。「角」は葛なのか綱なのか。〔「つの」と「つな」が通じる例は多い。〕あるいは地名なのか、詳しくは分からない。『日本書紀』には、この御子はいない。
「大碓命・小碓命」。『書紀』には、「大碓皇子と小碓尊は、同じ胎から同じ日に双子として生まれた。天皇はそれを不思議に思い、碓に向かって言葉を述べた。それで二人を、大碓・小碓と名づけた」とある。〔『和名抄』には、「臼。『四声字苑』に、穀物をつく器とある。和名はうす」、また「碓。祝尚丘『切韻』に、足で踏んでつく道具とある。和名はからうす」とある。『万葉集』巻十六に「さひづるや、辛碓につき、庭に立つ、碓子につき」とある。「碓子」は「碓丁」の誤りか。「からうす」は、杵に柄があることから「柄臼」というのであって、「韓臼」という意味ではない。上代からあった道具と考えられる。〕双子にお生まれになったのを不思議に思ったからといって、ほかにも物があるのに、特に碓へ言葉を述べたのは、どういう事情があったのだろう。ともかく、碓には何らかのいわれがあったはずである。
〔御子の名の「碓」は「うす」と読む。「碓に誥す」の碓は「からうす」と読むべきである。『古事記』も『書紀』も、御子の名を「臼」とせず「碓」と書くのは、もともと碓という道具に由来する話なので、昔からその字を書き伝えたのだろう。文字のなかった時代に、ただ「うす」と語り伝えるだけでは、碓であることが分からない。したがって天皇が言葉を述べた話の方では、「からうす」と語り伝えていたはずである。三河国猿投村という所では、昔から碓を使うことを禁じるという。そこには、さなき山という山に『延喜式』の猿投神社があり、今も大きな社である。景行天皇を祭るとも、大碓命を祭るともいう。また尾張の熱田でも碓を禁じ、使えば必ず祟りがあるという。〕

「倭男具那命〔やまとをぐなのみこと〕」。後の本文で熊曾建に自ら名乗るのも、この御名である。「男具那」は『書紀』に「童男」と書き、「これををぐなという」とある。雄略巻には「童女君」という名がある。〔読みは詳らかでない。今の本では「をぐなきみ」と読むが、納得できない。〕それと比べると、子どもの男子を「をぐな」、女子を「めぐな」といったのだろうか。〔そうなら、童女君は「めぐなぎみ」と読むべきか。〕「ぐな」は髪の形による呼び名で、「うなゐ」の「うな」と通じて聞こえる。〔『和名抄』に「髫髪。和名うなゐ。俗には垂髪の二字を用いる。子どもの垂らした髪をいう」とあり、『字鏡』にも「髫。髪が肩に届いて垂れるさま。うなゐ」とある。このほかにも、総角・髫など、髪による呼称は多い。「わらは」も、髪を分け散らしていることからの呼び名である。今の俗語の「前髪」なども同類だ。〕この御名をお持ちになった理由は、『書紀』に「この小碓尊は、別名を日本童男、また日本武尊という。幼い時から雄々しく優れた気性を持ち、成人すると顔や姿が抜きん出て立派で、身長一丈、鼎を持ち上げる力があった」とあるとおりである。幼少から世に優れた御子だったので、日本国で優れた男の子、という意味である。〔「倭何々」という呼称は、どれも世に抜きん出ることを表す。〕
『書紀』には、「二年春三月、播磨稲日大郎姫〔一説に稲日稚郎姫〕を皇后とした。后は二人の男子を生んだ。第一は大碓皇子、第二は小碓尊〔ある書では、皇后は三人の男子を生み、第三を稚倭根子皇子とする〕」とあり、『古事記』とは違う。〔『書紀』の各御代の御子の名は、垂仁天皇の御子まではすべて「何々命」とするのに、この御代からは多く「何々皇子」「何々皇女」と記される。『古事記』でも、垂仁天皇の御子までは「何々命」が多く、この御代からは「何々王」が多い。この違いも古くからあったのだろう。ただし『古事記』に「何々皇女」はなく、女性の王も男性と同じく「何々王」とする。こちらが古い伝承をそのまま伝えるのだろう。〕

「倭根子命」。『書紀』では八坂入媛を母とする稚倭根子皇子があり、別の書では稲日大郎女の子とすることは、先に引用したとおりである。そもそも孝霊天皇も孝元天皇も「大倭根子……」、開化天皇も「若倭根子……」と申し上げるので、この王が同じ御名を持つのは不思議である。〔倭根子という称号は、『伝』巻二十一の三十五葉で述べた。〕
「神櫛王」の「櫛」も「奇し」の意味である。『姓氏録』では神櫛別命という。『書紀』には、「次の妃の五十河媛は、神櫛皇子と稲背入彦皇子を生んだ」とある。〔稲背入彦皇子は『古事記』のここにはいない。ただし、玉垣宮の段に同じ御名が見える。〕
「八尺入日子命」は、水垣朝の天皇の御子である。〔『伝』巻二十三の六葉に出る。〕「八坂之入日売命」の名の意味は、父の命と同じである。『書紀』四年の記事に、この比売命が宮中にお入りになった由来が見える。五十二年、〔夏五月に皇后の播磨大郎姫が亡くなり、〕秋七月、八坂入媛命を皇后とした。
「若帯日子命」の御名には、特に説明すべき点はない。「五百木之入日子命」の五百木は、「百磯城」などと同類の、たたえる呼称なのか。〔また『書紀』雄略巻では伊勢に廬城河があり、「廬城部」という姓もある。〕『姓氏録』には、「高篠連は、景行天皇の皇子、五百木入彦命の子孫である」と――〔次頁へ続く〕

〔前頁からの続き。〕見える。〔この姓については『続日本紀』巻三十八に見える。〕
「押別命」は、『日本書紀』では「忍之別」とするが、「之」は余分に入った字である。〔理由は後で述べる。〕「おしわけ」と読むべきだ。〔『古事記』には「之」がなく、そもそも「何々別」という名に「の」を挟む例もない。『旧事紀』では忍足別とする。〕「押」は「大」の意味だろう。
「五百木之入日売命」の名の意味は、兄の命と同じである。〔ある書が引用する『尾張国風土記』に、「葉栗郡若栗郷に宇夫須那神社がある。廬入姫が生まれた土地なので、この名がある」という。この方の母は美濃国の出身で、そこで天皇の妻となったのだから、この姫が尾張国で生まれたということにも理由がある。兄の五百木入日子命が尾張連の娘と結婚したことは、明宮の段に見える。それもつながりがあって理解できる。〕
『書紀』には、「四年春二月、天皇は美濃へ行幸し、八坂入媛を呼んで妃とした。七男六女を生んだ。第一は稚足彦天皇、第二は五百城入彦皇子、第三は忍之別皇子、第四は稚倭根子皇子、第五は大酢別皇子、第六は渟熨斗皇女、第七は渟名城皇女、第八は五百城入姫皇女、第九は麛依姫皇女、第十は五十狭城入彦皇子、第十一は吉備兄彦皇子、第十二は高城入姫皇女、第十三は弟姫皇女」とある。〔この十三人のうち四人は『古事記』と一致し、八人は母が異なる。残る一人の大酢別は『古事記』にいない。考えるに、この人は忍之別と同一の王なのに、二人に分かれたのである。前に述べたように「忍之別」の「之」は余分で、「忍別」が本来の形である。「忍」は「大」の意味なので、「おほし」と「おほす」という御名の伝承の小さな違いから混乱し、二人になったのだろう。億計天皇の御名を「大脚」とも「大為」とも書く例も考え合わせるとよい。したがって、「之」が余分な字だということは明らかで、『古事記』に大酢別がいないのも当然である。〕

「又妾」は「またのみめ〔ほかの妻〕」と読むべきである。倭建命の段の「又一妻」、高津宮の段の「天皇所使之妾」と同じである。〔『日本書紀』なら「妃」と書くところを、「妾」や「妻」と記すのは、漢字そのものの意味にこだわらない古い記録の書き方である。読みも「妾」の字にとらわれてはならない。『和名抄』には妾を「をむなめ」とするが、それは一般の人に使う呼称であって、天皇の妻たちを呼ぶ語ではないだろう。また師は、「をむなめ」は俗称だろう、庶妹を「あらめいもうと」というので、妾は「あらめ」と読むべきだ、「正」に対する「麁」の意味である、といわれたが、どれもよくない。〕『書紀』では「妃」ばかりでなく、夫人・庶妃・嬪・女御なども「みめ」と読む。
ここで単に「妾」とだけ記すのは、〔必ずしも、非常に身分が低いので名を記さなかったということではなく、〕師のいうとおり、母の名が伝わらないためにこう記したのである。〔名が伝わらなかった理由は、『書紀』によれば、この天皇は十二年から十九年まで、長く西国におられた。その間、そこでしばらく妻とした女性などは、子を生んでも、都が遠いため、名が世間に広く知られないことがあったのだろう。御子たちの名にも、伝わらないものが多いのはそのためだろう。〕
「豊戸別王」の「戸」は、「速い」という意味などだろうか。〔『旧事紀』は豊門入彦命を挙げ、また豊門別命も挙げるが、どうだろう。〕『書紀』には、「次の妃の襲武媛は、国乳別皇子〔一説に宮道別皇子〕、国背別皇子、豊戸別皇子を生んだ。兄の国乳別皇子は水沼別の祖、弟の豊戸別皇子は火国別の祖である」とある。〔襲武媛は熊曾国の女性で、名が武媛なのだろうから、「そのたけひめ」と読むべきだ。父の名は伝わっていなかった。『古事記』は、本人の名まで知られていなかった形の伝承である。なお、国乳別・国背別の二王も『古事記』にはいない。〕

「沼代郎女」は『日本書紀』にその名はないが、別の母〔稲日大郎女〕の子として渟熨斗皇女があり、それと同じ人だろう。「ぬのしろ」と読むべきである。〔師は「ぬなしろ」とも「ぬのし」とも読まれた。「ぬなしろ」はあり得る。「沼河」などと書く例もあり、沼名木郎女という名もあるからだ。しかし「ぬのし」とは読めない。「し」の音を表す字に「代」を使うはずがないからである。〕名の意味で、「ぬ」には例が多い。〔前に挙げた。〕「しろ」は天皇の御名の「しろ」と同じだろうか。また、名は『書紀』の形に従い、母は『古事記』で豊戸別と同じであることに従えば、西国の地名などかもしれない。〔越中国や土佐国などには、布師という地名の例がある。また考えるに、「ぬで」と読むべきだろうか。「で」に「代」の字を書く例は、他田宮の段の糠代比売命、『書紀』仁徳巻の玉代などがある。『万葉集』巻五の「かりで」も「餉代」の意味である。「ぬで」は鐸であり、『書紀』にはこの天皇の弟に鐸石別命という例もある。また後に見える銀王の名についても考えるところがある。ただし、ひとまず『書紀』の「渟熨斗」に従い、「ぬのしろ」と読んだ。〕
「沼名木郎女」の名の意味は、崇神天皇の御子にも沼名木之入日売命があり、その箇所で述べたとおりである。「香余理比売命」の「香」は、『書紀』の「麛」という字に従い、「かご」と読むべ――〔次頁へ続く〕

〔前頁からの続き。〕きである。名の意味については、前に例がある。
「若木之入日子王」は、叔父にも同じ御名がある。どうしたことだろう。『日本書紀』にはこの王はいないが、五十狭城入彦皇子があり、同じ人物だろう。〔『書紀』の方が正しいのだろう。〕「吉備之兄日子王」は、吉備国にいわれのある名なのだろうか。「高木比売命」の名には、特に説明すべき意味はない。〔伊邪河宮の段に高材比売という人があるが、そちらの「材」の字は疑わしい。〕『書紀』では高城入姫皇女とする。〔これは応神天皇の妃、高城入姫命の名と混同したのだろう。〕「弟比売命」。以上の六人も、『書紀』では八坂入媛命を母としている。
「日向の美波迦斯毘売」。『書紀』には、「十三年夏五月、襲国をすべて平定した。この国の高屋宮に住み始めて、すでに六年になっていた。その国に御刀媛という美しい人がいたので、召して妃とした。豊国別皇子を生んだ。日向国造の祖である。御刀は、みはかしという」とある。なぜ特に「御刀」という名を負ったのだろう。〔あるいは『万葉集』で、「剣太刀、身に添う妹」といった表現を多く使うように、深く愛して、御自身から離さないという意味で名づけたのだろうか。〕「豊国別王」の名には、特に説明すべき点はない。
「伊那毘能若郎女」の「若」は、宇遅能和紀郎子の例により、師が「わき」と読まれたのがよい。〔「若」は「わか」「わき」「わく」ともいう。別雷などの「わけ」も「わき」で、「若」の意味である。〕『書紀』では「稲日大郎姫、一説に稲日稚郎姫」とあるだけで、別に若郎女はいない。「伊以下……」という本文の注は、上に置くべきなのに、ここにあるのはどうだろう。
「真若王」の名には、特に説明すべき点はない。〔『旧事紀』では真稚彦命とする。〕明宮の段には品陀真若王という名も見える。〔五百木之入日子命の御子である。〕

「日子人之大兄王」の「人」は、大人という意味である。〔前の「日子」の「子」に「お」の母音があるため、自然に「ひと」という形になったのである。〕首長を「人」という例もある。「大兄」は字のとおりである。舒明天皇の父の名も、押坂彦人大兄皇子と申し上げた。ほかにも「大兄」という御名は多い。〔履中天皇の大兄去来穂、安閑天皇の勾大兄、用明天皇の初めの名の大兄皇子、山背大兄王などがあり、そのほかにもある。〕『書紀私記』には、「昔、皇子を大兄と呼び、近臣を少兄と呼んだ。宿禰という語の意味は少兄から取ったものだ」という。〔『書紀』で大兄を「おひね」と読むのは正しくない。〕『書紀』には真若王もこの王もいない。しかし仲哀巻には、「叔父の彦人大兄の娘、大中姫を妃とした」とある。それを見ると、景行巻にないのは脱落である。〔五百木入日子命と混同して落ちたのだろう。『書紀』では、母に当たる稲日大郎女と若郎女も一人に混ざり、また、五百木入日子命の孫で応神天皇の妃である中日売命と、仲哀天皇の妃の大中姫とは、同じ名だからである。〕『姓氏録』には、「茨田勝は、景行天皇の皇子、息長彦人大兄瑞城命の子孫」とある。〔「瑞」を「磯」とする写本があり、『旧事紀』では息前彦人大兄水城命とする。〕
「曾孫」は、『和名抄』に「『爾雅』に、孫の子を曾孫という、とある。和名ひひこ」とし、『字鏡』にも「曾孫、ひひこ」とある。〔契沖は、物が隔たることを「ひ」という。孫は一重隔たった子、曾孫はさらに一重隔たった子である。目を覆う膜を「ひひ」というのもこの意味で、水の上に張る氷を「ひ」というのも、この意味だ、と述べる。〕
「須売伊呂大中日子王」の「すめ」は尊称で、「皇神」などの「すめ」と同じである。〔「皇」の字を当てるのは、天皇についていうためである。しかし「すめ」という語は、もともと「皇」の字の意味なのではない。この王の名にも用いられることから分かるとおり、ただ尊ぶ呼び名なのである。天皇を「すめらみこと」と申し上げるのも、もとは尊びたたえ申し上げる称号なのだろう。〕「いろ」は前に述べた。〔『伝』巻二十一の十葉。〕欽明天皇の御子にも、須売伊呂杼という方がある。

「訶具漏比売〔かぐろひめ〕」は、髪の黒さをたたえた名だろうか。『万葉集』巻五〔五・六葉〕に「蜷のわた、か黒き髪に」、巻十三〔三十葉〕に「蜷のわた、か黒き髪に」といった例があるからである。〔このほかにも例がある。『旧事紀』には、伊勢の幡主の娘として賀具呂姫という同名の人がいる。〕
この比売については、後に倭建命の御子らを挙げる所にも、「御子の若建王は飯野真黒比売を妻とし、須売伊呂大中日子王を生んだ。この王は柴野比売を妻とし、迦具漏比売命を生んだ。そこで大帯日子天皇は、この迦具漏比売命を妻とし、大江王を生んだ」とある。これによると「ひ孫」は迦具漏比売を指す。〔大中日子王を指すのではない。しかし本文に「曾孫、名は」と「名」の字があるのは、大中日子をひ孫とした文章である。途中の時代から、このように読み違えて語り伝えたのか。それとも、後の系譜で一代を落としたのか。いずれにしても一方は誤りだろう。また大中日子は、母の真黒比売が倭建命のひ孫なので、母方からいえば倭建命の玄孫〔やしゃご〕に当たる。〕
景行天皇がこの訶具漏比売を妻としたというのは、誰もが疑問に思うところである。今よく考えてみると、これは伝承の混乱なのだった。〔ただし、なおこの伝承を成り立たせる説明を試みるなら、『書紀』の年代によれば、天皇の二十七年に倭建命は十六歳とあり、六――〔次頁へ続く〕

〔前頁の注の続き。〕六十年に天皇は崩御した。その年は倭建命が生まれてから四十九年目なので、まだひ孫はいるはずがない。仮にいたとしても、結婚できる年齢には育っていないから、年代が合わない。しかし『書紀』の年代には、ひどく食い違う例があちこちにあり、倭建命の年齢にも前後の矛盾があるので、そこへ無理にこだわるべきではない。この天皇は百三十七歳とあるから、倭建命を若い時の子とすれば、百歳を過ぎたころに、そのひ孫を妻とすることも、絶対にあり得ないわけではない。百歳を過ぎて子をもうけた例も、上古には幾つかあるからである。それでも、やはりそうではないだろう。ひ孫は間に二代を隔てるとはいえ、自分の子孫である。その子と結婚するのはどうだろう。同母の兄妹の結婚を忌んだ例を考えれば、これも忌んだはずではないか。それはともあれ、この妃の話は伝承の混乱であって、実際にはなかったことと思われる。〕
そこで延佳が「迦具漏比売を景行天皇の妃とするのは、疑問を持たずにはいられない。おそらく孝霊天皇の皇子、稚武彦命を、倭建命と誤ったのだろう」と述べたのは、よく当たっている。ただし、倭建命と誤ったという点は違う。倭建命の御子の若建王と、若建彦命とが混同されたのである。〔名が同じことを考えてほしい。〕混同の経緯はこうだ。迦具漏比売が生んだという大枝王の娘、大中日売〔仲哀天皇の妃〕を、『書紀』〔仲哀巻〕では彦人大兄の娘とする。それなら大枝王は、日子人之大兄と同一だと決まる。したがって、大枝王の母・迦具漏比売の祖父に当たる若建王は、日子人之大兄の母の父である若建彦命と混同されたのではないか。
また迦具漏比売は、応神天皇の妃とされる。〔その段に見える。〕それが祖父の名の混乱から、稲日若郎女〔若建彦命の娘で、日子人之大兄王の母〕とも混同され、誤って景行朝の妃と語り伝えられたのである。〔応神天皇の妃とする方にも、さらに混乱がある。それはその段、『伝』巻三十二の十四葉で論じる。〕
「大枝王」の「枝」は、後の本文では「江」と書く。この王は日子人之大兄王と同一なのに、母の伝承の混乱によって別の一人に分かれたことは、右に説明したとおりである。『書紀』にはこの御子はいない。

『古事記』の各天皇の段では、御子を挙げると、母ごとの終わりに何人と注記するのが通例である。しかしこの段だけ、初めの伊那毘能大郎女の子の終わりにだけ「五人」とし、そのほかには人数の注がない。これには理由があるはずだ。この天皇の御子については「記録に入らない五十九王」とあり、伝わっていない人が多い。ここに挙げた各母の子の中にも、まだ漏れた御子がいるかもしれないと考えたのだろう。〔何人と注記すれば、それだけで、ほかにはいないようになってしまう。最初の母の所だけ注記するのは、そこに挙げた子以外にはいなかったことが、明らかだったのだろう。〕
『日本書紀』には、右に挙げた御子のほか、「妃の三尾氏磐城別の妹、水歯郎媛が五百野皇女を生んだ」とある。〔二十年春二月、この皇女を遣わし、天照大神を祭らせた。〕また「次の妃、阿部氏木事の娘、高田媛は武国凝別皇子を生んだ。伊予国の御村別の祖である。次の妃、日向髪長大田根は日向襲津彦皇子を生んだ。阿牟君の祖である」とある。〔これらを合わせ、『書紀』に名が記された御子は全部で二十四人である。〕

〔『古事記』本文〕この大帯日子天皇の御子は、書物に記す二十一人、記録に入らない五十九人、合わせて八十人である。そのうち、若帯日子命、倭建命、五百木之入日子命の三人は、「日嗣の御子」という名をお持ちになった。それ以外の七十七人は、それぞれ国々の国造、和気、稲置、県主に任じられた。

「所録」は、師が「ふみにしるせる」と読まれたのに従うべきである。〔字のまま、単に「しるせる」と読むのでは、言葉が足りない。「録」は、記された書物と、記す行為の双方を兼ねる字なので、「ふみにしるせる」に当たる。〕古い御代の出来事は、書物がまだなかった時代には、口頭で語り伝えた。文字に記すようになった後は、その伝承の言葉も書物に記して伝わった。ここで記録というのは、浄御原朝に阿礼へ誦むよう仰せになったとき、根拠とした書物を指して阿礼がいった言葉なのか。それとも、もとの書物にこう書かれていたのか。どちらでもよいだろう。
「二十一王」は、上に挙げた人数と一致する。〔『書――〔次頁へ続く〕〕

〔前頁の注の続き。〕紀』が挙げるのは二十四人である。〕「不入記」も、師の「しるさざる」という訓がよい。〔字のまま「ふみに……」と読むと、「ふみ」が上と重複して煩わしい。「ふみ」は前半に置くべきで、ここには要らない。〕
「八十人」というのは、もとの伝承では単に大体の数をいったのであって、〔俗に七、八十人というようなものだ。〕必ずしも正確に数えたのではないだろう。〔「記録に入らない五十九人」「そのほかの七十七人」などは、この八十を厳密に八十と解釈して計算した、少し後の言葉だろう。〕『日本書紀』にも「合わせて八十人の子」とある。〔『旧事紀』には、「天皇の生んだ男女は、合計八十一皇子、うち男子五十五人、女子二十六人。その中で六人、男子五人、女子一人を留め、ほかはすべて諸国に封じた。皇子五十人、皇女二十五人、合わせて七十五人は、それぞれ国や郡を与えられ、国史には載らない」と述べ、五十五人の皇子と一人の皇女の名を挙げている。どれも信じ難い。この文章も『古事記』と『書紀』を混ぜ合わせて書いたもので、ひどく拙い。〕
「三王が太子の名を負う」というのは、上代では普通のことである。古い御代の「日嗣の御子」とは、皇子の中で特に尊び、特別な地位に定めた方のことで、必ずしも一人に限らず、二人、三人といることもあった。〔まずは皇后の生んだ年長の御子、そのほか特別ないわれのある皇子たちである。〕皇位は、必ずその日嗣の御子の中の誰かが継いだ。中国では王位を継ぐと定めた子を皇太子というので、その字を借りて、日嗣の御子に当てたのである。〔日本でも、その御子たちの中の一人が最終的に皇位を継ぐよう、初めから定めたのだが、両者には違いがある。中国の太子は、もともとただ一人に限って定める呼称であり、日本では一人に限らない称号なのである。したがって「太子」の文字だけにとらわれず、上代のあり方をよく考えなければならない。〕

証拠を具体的に挙げよう。まず鵜葺不合命の四人の御子のうち、五瀬命と若御毛沼命〔神武天皇〕の二人が太子だったと考えられること、また神武天皇の太子が、神八井耳命と神沼河耳命〔綏靖天皇〕の二人だったことは、それぞれの段で詳しく論じたとおりである。〔『伝』巻十八の四・五・六葉、巻二十の四十八葉。〕
次に『日本書紀』崇神巻の四十八年、豊城命と活目命〔垂仁天皇〕の二人から、夢によって後継者をお定めになったのも、この二人がもともと太子だったからである。〔そうでなければ、なぜこの二人だけに限って詔があっただろうか。〕また垂仁巻の三十年に、五十瓊敷命と大足彦尊に「お前たちは……」と仰せになるのも、二人が太子だったからである。〔五十瓊敷命の墓が『諸陵式』に載り、後々まで祭られていることも考え合わせるとよい。〕
応神巻の四十年には、「大山守命と大鷦鷯尊を召し、問いかけて……」とある。この二人も宇遅稚郎子とともに、もともと三人とも太子だったからである。二十八年の記事にも「太子菟道稚郎子」とある。一方、仁徳巻には、天皇が生まれた日に木菟が産殿へ入った話に続いて、「鷦鷯の名を取って太子の名とし、大鷦鷯皇子といった」とある。『古事記』明宮の段にも「太子大雀命」、『姓氏録』〔雀部朝臣の条〕にも、応神朝の「皇太子大鷦鷯尊」とある。どれも上代からの伝承の言葉のまま記した文章である。宇遅若郎子が皇位を固く大雀命に譲り、自ら退こうとしたのも、大雀命が兄であり、ともに太子だったからなのである。

〔ところが『日本書紀』は、何事も中国の様式をまねているので、皇太子を立てることなども、上代からまったく中国と同じだったかのように文章を作って記している。そのため古代の実情が隠れ、見えなくなったようである。天皇の母を「皇大后」と記したため、その時の天皇の正妻を「大后」と呼ぶ古いあり方が隠れ、人々に理解されなくなり、たまたま古書にそう書いてあっても、逆に疑うようになったのと同じである。
それでも、中国風に整えた通常の書き方に反し、古伝のまま記した所も時々ある。大雀命を太子とするのも、その例である。編者が注意せず、ふと整え損ねて書いたものだ。だから『書紀』でも、中国風の飾りがない所に注意し、『古事記』と比較して出来事のあり方をよく考えれば、隠れた上代の実情も、非常によく分かるのである。
それなのに延佳が、「三王が太子の名を負うというのは、皇太子に立てた意味ではなく、国を与えた諸王と同じ列に入らないだけである。『日本紀』と合わせて考えるべきだ。この『古事記』は文字にこだわらず、妃を后と呼び、薨を崩とするなど、この種の例がもともと多い」と述べるのは、後に中国をそのまままねて定めた制度と、『書紀』の文章にとらわれ、上代の実情を深く考えないための誤説である。『古事記』が文字にこだわらないとしても、日嗣の御子と呼ばれない人を「太――〔次頁へ続く〕〕

〔前頁の注の続き。〕子」と書く理由はない。妃を后と記すのも同じである。後世の制度や『日本書紀』の文章を根拠にして上代を論じるのは、延佳だけではない。世間の学者は大体みな同様で、この病から抜け出た人は、まだ見たことがない。だからここで、その言葉を引いて論じたのである。〕
若帯日子命と五百木之入日子命は大后の生んだ年長の御子であり、倭建命は最初の大后の御子なので、この三人が特別に太子とされたのだろう。〔兄の櫛角別王もいるが、それ以上に倭建命を特にかわいがられたらしい。『書紀』二十八年の記事にも、「天皇は日本武の功績をほめ、格別に愛した」とある。また大碓命が天皇の御心にかなわなかったことは、四十年の記事に見える。『古事記』にも、その事情がうかがえる。〕
「自其餘」は「それよりほか」と読むべきである。〔「余」や「他」を「ほか」というのは雅語でないと思う人もいるようだが、そうではない。『万葉集』巻十一に、「荒磯を越えて、外を行く波の、外心〔よそよそしい心〕」、また『古今集』春の伊勢の歌にも「ほかの散りなむ、後ぞ咲かまし〔ほかの花が散ってしまった後に咲いてほしい〕」とある。〕「国々の」は、後の「県主」までにかかる。〔国造だけにかかるのではない。〕国造については上巻で述べた。〔『伝』巻七の六十六・六十七葉。〕

「和気〔わけ〕」は国造や稲置などと同類で、諸国の各地で、その土地の長として治める人をいう。〔前の段では、境岡宮に血沼別、多遅麻竹別、伊邪河宮に葛野別、近淡海蚊野別、若狭耳別、三河穂別などがあり、それ以後も、この後にも「何々別」が多く出てくる。どれもこれである。この段の中でも「三野之宇泥須和気」と、音を表す字で書いている。〕名の意味は、「吾君兄」という尊称だろう。〔「別」は当て字である。同類に「君」という姓もあり、「直」もある。「あたひ」も「阿多比兄」に由来することは、『伝』巻七で述べたとおりで、同じ仲間の語を比べれば分かる。「宿禰」も「少兄」である。〕姓の呼称は、もともとどれも尊んでいう名なのである。
これに関連して、ここで述べるべきことがある。各御代の皇子の名や、皇子でない人の名にも、「何々別」が多い。〔諸国の姓では「何々の別」というが、人名ではそのまま「何々別」といい、「の」を挟まない。〕これも意味は「吾君兄」である。〔天皇が御自身の子を「君」と名づけるのはおかしいと思う人もあるだろうが、それは誤解である。応神天皇が、大雀命を「さざきあぎ」とお呼びになった例もあるではないか。〕ただし、ここに挙げた国々の姓としての別と、人名の別とは、もともと別のもので、混同してはならない。〔語の意味は同じでも、同一のものではない。『万葉集』には、さらに別種の「わけ」がある。自分より下の者を指す呼称で、「汝」などの類である。これも、もとは「吾君兄」の意味で尊んで呼んだのだが、何代にもわたって使い慣れるうち、後には自然に、逆に低く扱う呼び名になった。「汝」も「名持」の意味で、もとは尊んだものが、後には見下す呼称になったのと同じだ。中国で人を「卿」と呼ぶのも、もとは敬称でありながら、後には低く呼ぶ語になった点で同じである。この『万葉集』の「わけ」は紛らわしく、疑問に思う人がいる。私には詳しい考えがあるが、長くなるので、ここでは省いた。〕

「稲置〔いなぎ〕」は「伊良君」の意味なのだろうか。「ら」と「な」が通じる例はある。〔『古事記』の比良鳥命を、ほかの書で夷鳥命とするのが、その例である。〕「いら」は「いらつめ」などの「いら」である。〔語の意味は前に説明した。〕「県主」は志賀宮の段に出るので、そこで述べる。〔『伝』巻二十九の六十四葉。〕稲置も県主も別と同類であり、このことは上巻〔『伝』巻七の八十三葉〕で述べたとおりである。これらの皇子の子孫には、ほかに「君」などの姓もあり、次の本文に出てくるが、ここに挙げないのは、和気・稲置・県主の中に含めて省いたのである。
「別賜〔わけたまふ〕」とは、国造、別、稲置、県主などにそれぞれ任じ、国々の各地へ配置して遣わすことをいう。〔したがって、この「分けて賜う」の別と、国々の姓である別とは違い、まったく関係がない。それなのに、人々が混同し、国々の「別」という姓も、皇子の「何々別」という名も、この「分けて賜う」という意味から生じた呼称と解釈するのは誤りである。国々の姓の別は、少しも「分けた」という意味ではない。本文で「別」とせず「和気」と書くのも、あるいは「分けて賜う」と混同されることを恐れたのだろう。ところが『姓氏録』佐伯直の条に、「成務天皇の御代、播磨国を二分して与えた。それで針間別と呼んだ」などとあり、二分して与えたから別と名づけたように読めるのは、そのように取り違えて伝えた説だろう。
皇子の名の別も、分けたという意味ではない。この天皇の淤斯呂別命、応神天皇の大鞆別命・品陀別命、履中天皇の伊邪本別命のように、天皇自身の御名にも使われることから、分かれたという意味でないと分かるはずだ。さらに『姓氏録』には「神別」「皇別」という区分もある。これは神から分かれ、――〔次頁へ続く〕〕

〔前頁の注の続き。〕皇統から分かれた、という意味で分類する名である。これも混同してはならない。〕七十七人の王の中には女性も多いはずなのに、「すべてを国々へ分けて遣わした」というのは、おかしいようにも思える。しかしここは、女性の王の事情まで分けて細かく述べる所ではない。大づかみにこういうのが、古い語り方なのである。〔『日本書紀』も同じように記すので、古い伝承のままの言葉だろう。〕
『書紀』には、「天皇の子は男女合わせて八十人である。ただし日本武尊、稚足彦天皇、五百城入彦皇子を除いた七十余人は、みな国郡を与えられ、それぞれの国へ行った。だから今、諸国で『別』と呼ぶのは、その別王の子孫である」とある。この文章には納得できないことがある。〔単に「諸国の別という者」といえば、七十余人の皇子の子孫で今もいる人は、みな何々別という姓だけで、国造・稲置・県主などはいないように読める。『書紀』自身が「神櫛皇子は讃岐国造の祖」「日向襲津彦皇子は阿牟君の祖」などと記すのに、ここで別としかいわないのはどうなのか。一つを挙げてほかを省く例は多いが、この文章はそうは読めず、別だけに限定したように聞こえる。
「別王の子孫」も紛らわしい。「別王」は古い呼称らしくなく、「わかれのみこ」と読んでも「わけみこ」と読んでも、古語とは思えない。漢文としても、どういう呼称なのか。おそらく諸国に分けて任じた王という意味で書いたのだろうが、「諸国の別という者」に続けて「その別王」とするので、国々の姓の別まで、分けて任じた意味から生じたかのように混ざって読める。編者自身が、そう誤解して記したのかもしれない。もし別王の子孫だから別というのなら、別王ではない倭建命の子孫にも別の姓があることを、どう説明するのか。国々の姓の別は、分けて任じた由来の呼称ではないことは、先に述べたとおりである。『書紀』のこの文章のために、決して混同してはならない。注意しなければ誤るだろう。さらにいえば、この文章では諸国の別はすべて景行朝の皇子の子孫で、それ以外の系統はいないように読める。これもどうしたことか。〕

〔『古事記』本文〕若帯日子命は天下を治めた。小碓命は、西と東の荒ぶる神々と、従わない人々を平定した。次の櫛角別王は茨田下連らの祖。次の大碓命は、守君・大田君・島田君の祖。次の神櫛王は、紀国の酒部阿比古・宇陀酒部の祖。次の豊国別王は、日向国造の祖である。

小碓命を、兄の櫛角別王・大碓命より先に挙げるのは、この御子が、早く亡くなったからこそ即位しなかったので、そうでなければ天下を治めるはずの御子だったからである。この人だけ「次の」としないのも、そのためだ。「東西」は「にしひむかし〔西・東〕」というのが、わが国の言い方の通例だろう。〔特にここでは、西方を平定したのが先なので、こう読むのがよい。〕「荒ぶる神・従わない人」という表現は前に説明した。〔『伝』巻十九の六十八葉。〕「平」は、ここでは「ことむけ」と読むべきだ。
「茨田下連」は、非常に疑わしい。まず「下連」という姓はほかの書物に見えず、例がない。〔ただし『姓氏録』諸蕃には、高安下村主がある。〕また茨田連は、白檮原朝の皇子、神八井耳命の子孫で、その段に見える。〔『伝』巻二十の五十一葉。〕景行天皇の御子の子孫にこの姓があることは、どの書物にも見えない。〔『旧事紀』に櫛角別命を茨田連の祖とするが、それは『古事記』に従って書いたのである。〕伝承の混乱だろう。〔『姓氏録』には、茨田勝を景行天皇の皇子、息長彦人大兄瑞城命の子孫とする記事があり、これとの混同か。また同書には、下家連を彦八井耳命の子孫とするので、「茨田」は、この茨田勝と白檮原宮の段の茨田連とが混同され、「下連」は下家連の「家」の字が抜け、茨田連と一つになったのかもしれない。彦八井耳命は茨田連の祖である。さらに同書に、江首を彦八井耳命の七代の孫、来目津彦大閑宿禰大碓命の子孫とする記事もある。これも混乱があるように思え、「大碓命」とある点に、混乱の何らかのいわれがありそうだ。〕
「大碓命」は、前後の例によれば、その下にも「者」の字があるべきなのに、諸本にないのは脱落か。〔延佳本にあるのは、新たに補ったのだろう。〕「守君」の守は、『書紀』によれば、〔文章は後で引く。〕美濃国の地名のはずだが、書物には見えない。〔今、この地名はないのか、調べる必要がある。〕『和名抄』には信濃国佐久郡に茂理郷がある。〔こ――〔次頁へ続く〕〕

〔前頁の注の続き。〕れは美濃の隣国である。〕この氏については『日本書紀』にも見え、後で引用する。氏人には、斉明巻・天智巻の守君大石、持統巻の守君苅田などがいる。『姓氏録』〔左京皇別〕には「守公は牟義公と同氏で、大碓命の子孫」、また〔摂津国皇別〕にも「守公は牟義公と同祖で、大碓命の子孫」とある。
「大田君」。大田という地名は諸国に多いが、ここは『和名抄』にある美濃国大野郡大田郷、または安八郡大田郷の、どちらかだろう。この姓の祖について、『書紀』は応神天皇の御子の根鳥皇子を、大田君の祖とする。伝承が異なるのである。『姓氏録』には見えない。〔『続日本紀』巻四十には大田首豊継が見えるが、別の姓である。〕
「島田君」。『和名抄』の尾張国海部郡島田郷だろうか。〔美濃に近いからである。駿河国富士郡、常陸国茨城郡などにも同じ郷名がある。常陸では久慈郡に大田郷もあるので、大田も島田も、常陸の地名なのかもしれない。〕この姓はほかの書物には見当たらない。〔島田臣はあるが、別の姓である。〕大碓命の子孫は、右のほかにもまだあり、後に出る。『姓氏録』には「池田首は、景行天皇の皇子、大碓命の子孫」ともある。〔『和名抄』に、美濃国池田郡池田郷がある。〕

「紀国の酒部阿比古」。〔諸本が「阿」を「訶」とするのは誤りで、今は真福寺本と延佳本に従った。また「比」は「毘」のはずだが、どの本も「比」とする。〕酒部については次に述べる。阿比古は姓で、前に説明した。〔『伝』巻二十二の八十葉。〕紀国に酒部氏がいたことは、『続日本紀』巻二十六に、紀伊国の国司・国造・郡領・供奉人などに位階や品物を与え、女嬬の酒部公家刀自らにも、それぞれ差をつけて与えたとある。〔天平神護元年十月のことで、紀伊国への行幸に対する恩賞である。また『書紀』天武巻の「十二年冬十月、紀酒人直に連の姓を賜った」という記事は、紀氏の支族であり、こちらとは別の姓だろう。〕
「宇陀酒部」。『職員令』の造酒司には、酒部六十人がいて、酒杯を差し出し、巡らせる役を担当するとある。地名にも、『和名抄』の下野国河内郡酒部郷などがある。『姓氏録』〔右京皇別〕には、次のようにある。「酒部公は、同じ皇子の三代後の子孫、足彦大兄王の子孫である。大鷦鷯天皇の御代、韓国から、兄の曾々保利と弟の曾々保利の二人が参ってきた。天皇が、どんな技があるのかと尋ねると、酒造りの技があるといい、御酒を造らせた。そこで麿には酒看都子、山鹿比咩には酒看都女という名を賜い、酒看都を氏とした」と。
〔「同じ皇子」は、この氏の前に挙げる讃岐公の条に、「五十香足彦命の子孫」とある、その人を指す。しかしこれは誤りで、讃岐公も神櫛命の子孫である。次に引く和泉国皇別の酒部公の条のとおりだ。このことは次にも述べる。右の引用のうち、版本では「人兄」の字順を「兄人」に誤り、「曾々」の曾を一字落とし、三つの「都」をすべて「即」に誤っている。ここではみな古本に従った。「皆」は「白〔申し上げる〕」の誤りだろう。「麿に賜う」以下は、紛らわしい書き方である。考えるに、麿と山鹿比咩は足彦大兄王の子孫で、この氏の人だったのだろう。その二人に酒看都古・酒看都女という名を賜い、曾々保利の造った御酒を、天皇がお飲みになる時に差し上げる役にしたのだろう。「看」は「めし」とも読むべきで、御酒を召し上がることに奉仕する名である。「み」と読んでも意味は同じだ。
『万葉集』巻十六に、「高杯に盛り、机に並べて、母に差し上げよう、めづこの刀自、父に献上しよう、みめこの刀自」とある。この「めづこ」「みめこ」は、看都子・看都女と同様に聞こえる。また『大嘗祭式』には、造酒児〔神事の言葉では「さかつこ」〕や酒波という役もあるが、これらの名の意味は異なる。〕

また『姓氏録』〔和泉国皇別〕には、「酒部公は讃岐公と同祖で、神櫛別命の子孫」とある。『続日本紀』巻五には、酒部君大田・粳麻呂・石隅の三人が、庚寅年の戸籍に基づいて鴨部の姓を賜った記事がある。巻八に酒部連相武、巻三十五に酒部造上麻呂、巻三十六に酒部造家刀自、『文徳実録』巻八に酒部君真貞などが見える。『姓氏録』の酒部公も、これらの人々も、紀国の酒部の一族なのか、宇陀の酒部の一族なのか、また別の一族なのか、区別は分かりにくい。
神櫛王の子孫は、右のほかに、『書紀』で「神櫛皇子は讃岐国造の祖」とされる。『姓氏録』の「讃岐公は、大足彦忍代別天皇の皇子、五十日足彦命の子孫」というのは、混乱による誤りで、神櫛命の子孫とすべきである。前の酒部の注と照らし合わせるとよい。『続日本後紀』巻五には、「国民の永直・同姓永成ら、合計二十八戸の公の姓を改め、朝臣を賜った。永直は讃岐国寒川郡の人で、遠い祖先は景行天皇の第十皇子、神櫛命である」とある。『三代実録』巻九には、「右京の人、讃岐朝臣高作・同姓時雄・同姓時人らに、和気朝臣の姓を賜った。祖先は景行天皇の皇子、神櫛命から出る」とある。
「日向国造」は、『書紀』にも「豊国別皇子は、日向国造の祖」とある。『国造本紀』には、「日向国造。軽島豊明朝の御代、豊国別皇子の三代後の子孫、老男を国造に定めた」とある。〔『旧事紀』が豊国別命を吉備別の祖といい、また別に豊国別命を日向諸県君の祖とするのは、どうなのだろう。〕

〔『古事記』本文〕天皇は、三野国造の祖、神大根王の娘、兄比売と弟比売という二人の女性が美しいとお聞きになり、確かめて宮へ呼び寄せようと、御子の大碓命を遣わした。しかし遣わされた大碓命は、二人を呼び上げず、自分が二人とも妻とした。そして別の女性たちを探し、その娘たちだと偽って天皇のもとへ差し上げた。天皇は別人だと知りながら、しきりに結婚したそうな様子で長く見つめる目に遭わせ、実際には結婚せず、彼女たちを思い悩ませた。
大碓命は、兄比売を妻として押黒之兄日子王を生んだ。〔三野の宇泥須和気の祖である。〕また弟比売を妻として押黒弟日子王を生んだ。〔牟宜都君らの祖である。〕

「三野国造」は前に出た。〔『伝』巻二十二の七十二葉。〕「神大根王」は、諸本で「神」の字が落ちているが、延佳が補ったものに従った。『日本書紀』にも「神骨」とあるので、この字の脱落であることは確かだ。この王は彦坐王の御子で、前に出る。〔同じく巻二十二の七十二葉。〕「兄比売・弟比売」と姉妹の女性を呼ぶ例は、前にもある。〔『伝』巻二十四の五十九葉。〕『書紀』では兄遠子・弟遠子という。「二嬢子」は、諸本で「二」が落ちている。今は真福寺本と延佳本に従った。「ふたをとめ」と読むべきだ。『書紀』応神巻・安康巻などにも「嬢子」とあり、『古事記』には特に例が多い。白檮原宮の段には「七媛女」ともある。「その容姿が麗しく美しい」という表現も、白檮原宮の段に見える。〔『伝』巻二十の十五葉。〕
「聞看定」の「看」は諸本で「者」に誤っており、延佳本に従った。「定」は「さだめに」と読むべきである。〔師の「さだしまシテ」という訓はよくない。〕『書紀』に「大碓命を遣わし、その女性の容姿を調べさせた」とあるので、大まかなうわさを聞いただけでは確かでないため、聞いたとおり本当にそうなのかを確かめるため、見に遣わしたのである。〔その意味では少し言葉が足りないようにも聞こえるが、こう縮めていうのが古文である。「遣」の前の「而」は、後の「それでその人々を取って遣わした」と同じ形だ。また「御子大碓命を遣わし、呼び上げるために」と直接続くのも、少し言葉不足に見えるが、これも古文の省略した言い方である。「呼び上げる」は、「呼び上げようとなさる」の意味である。〕『続日本紀』巻三十の詔にも、「……聞き求めたところ、私が思っていたとおり大神の御命令ではないと、聞いて確かめた」とある。
「喚上」は前に出た。〔『伝』巻二十五の四十六葉。〕呼び上げようと思い、そのように命じて託すことをいう。〔すでに呼び寄せたのではない。〕軽島宮の段にも、天皇が日向国の諸県君の娘、髪長比売の美しさを聞き、人を遣わして呼び上げようとした時、とある。

「所遣」は「つかはさえたる」と読むべきである。『万葉集』巻五〔二十葉〕に、「唐の、遠い国境へ、遣わされて、行っておいでの方よ」とある。〔この「され」を今「さえ」と読むのは、前にも説明した古語の語法である。「つかはす」は遣わす側からいう言葉で、「つかはさる」は行く側からいう言葉だ。この違いも前に述べた。〕「勿」は、『古事記』では「不」と同じ形で使われることを首巻で述べたとおりで、二人の娘を天皇に差し上げなかった、という意味である。「己」は「おのもと」、「婚」は、ここでは「たはけ」と読むべきである。前に例がある。〔『伝』巻二十の三十九葉。〕「他女人」は「あたしをみな」、「詐名」は「とまをして」と読む。こういえば、名を偽る意味は自然に含まれる。
「令経長眼」の「眼」は、諸本で「肥」、真福寺本で「服」に誤り、今は延佳本に従った。文字に従って「ながめをへしめ」と読むべきだ。〔「へしめ」を「へせしめ」「へさしめ」などと読むのは正しくない。『万葉集』巻十七の「見之米」、巻二十の「依志米」、また「令得」などと同じ語形である。「みせしめ」「みさしめ」「えせしめ」「えさしめ」といった言い方は後世のものだ。〕「長眼」とは、心を向けて長く見続けることをいう。〔「長目」という語のもとは、まず「め」が「見えること」を縮めたもので、『万葉集』の「妹が目見ず」「君が目を欲」なども、妻が見える姿を見ない、あなたが見えることを望む、という意味である。「夢」も眠りの間に見えるものをいう。この「見える」は、向こう側から目に映ることをいう言葉だが、見るこちら側の動作としてもいう。顔についている「目」も、ほかから物が見えることの名を、見るこちら側の器官につけたようなものである。したがって「長目」は長く見ることで、これも――〔次頁へ続く〕〕

〔前頁の注の続き。〕もとは「長く見える」という意味で、向こうから見えてくることだが、それを、こちらから見る動作にも使う。「ながむ」と活用するときも、「む」は「見える」を縮めたもので、向こうから見える意味を、こちらから見ることに使っている。「ながめ」に「眺」などの字を当て、その字の注に「眺望」「遠く見る」とあることからすれば、「長」は遠方を見る意味にも思える。しかし古くからの用例を考えるとそうではなく、やはり長く見続ける意味である。思い悩むことがある時、人はじっと物を眺め続けるので、中昔からは、物思いそのものも「ながめ」というようになった。また、声を長く引いて歌うことも「ながめ」というが、それは別のことだ。〕
ここでは、その女性たちを御前に仕えさせ、結婚したいとお思いのように、じっと見続けることをいい、天皇がなさる「長目」である。〔師は「ながめわたれども」と読み、女性の側の長目とされたが、どうだろう。それでは「令」を置く意味に合いにくい。〕「恒令経」は、そういう目に何度も遭わせたということだ。「亦勿婚而」は「まためしもせずて」と読むべきである。「惚」は、〔諸本が「楤」とするのはよくない。〕ここでは「ものおもはしめたまひき」と読む。上巻にも、「苦しい瀬に落として悩ませた時」「悩み苦しませる」などとあり、この字についてはその箇所で述べた。〔『伝』巻六の四十三葉、巻十七の四十四葉。「惚恫」は志を得ないこととも注されるので、「ものおもふ」という訓も当たっている。〕
天皇が、ひどく結婚したそうにいつも見つめるので、女性たちは、妻として召してくださるかと期待して待つ。しかし結婚することはないから、かえって思い悩むのである。〔『古今集』の「それならば、思っていないとはっきりいってくれればよいのに。どうして二人の仲を、玉だすきのように掛かるばかりの、どちらつかずにしておくのか」という歌と同じ心情である。〕天皇がこうしたのは、その女性たちが例の二人の娘ではないとよくご存じでありながら、知らないふりをして、大碓命の欺きに仕返ししたのである。

『日本書紀』には、「四年春二月、天皇は美濃へ行幸した。この月、美濃国造の神骨の娘、姉の兄遠子と妹の弟遠子は、ともに国で並ぶ者のない美人だと聞き、大碓命を遣わして容姿を調べさせた。しかし大碓命はひそかに二人と通じ、報告もしなかった。それで大碓命を恨んだ。冬十一月、美濃からお帰りになった」とある。これによれば、美濃国に滞在していた間の出来事だったのである。〔ただし、ここには大きな疑問がある。景行二十七年に日本武尊は十六歳とあるので、生まれたのは十二年になる。それなのに、同じ日に双子として生まれた大碓命の話が四年に出るのはどうしたことか。天皇の美濃行幸を四年としたのが誤りか、それとも大碓命のこの話を、その行幸と同じ四年に置いたのが誤りか。いずれにしても間違いがあるはずだ。〕
「押黒之兄日子王」の「押」は「大」の意味である。「黒」はどんないわれなのか分からない。上巻の隠伎島の別名「忍許呂」と同じ言葉だろうか。〔『伝』巻五の八葉。允恭天皇の御子に黒日子王・白日子王があり、そちらは白と対になるので黒色の意味と思える。しかしここは兄弟ともに黒と呼ぶので、黒色の意味ではないだろうと思う。〕
「三野之宇泥須和気」。『古事記』では各地の別の姓をすべて「別」と書くのに、ここだけ「和気」とするのは、前の「国造、また和気、及び……」に続くので、その和気が姓の別と同じだと知らせるためである。〔前に「別」とせず「和気」と書いたのは、「分けて賜う」の別と意味を混同されることを避けたためで、先に述べたとおりである。『古事記』は文字にとらわれないといっても、このような点には注意して書くことが多い。よく心に留めるべきだ。〕宇泥須は、地名も姓も、まだほかの書物に見当たらない。〔『旧事紀』は景行天皇の御子の中に兄彦命を挙げ、大分穴穂御埼別・海部直・三野宇泥須別らの祖とする。しかし確かではない。同書がこの御代の皇子の名を挙げる所には、乱れがあちこちに多いからである。〕

「押黒弟日子王」は、〔「黒」の下に「之」があるべきだが、諸本ともにない。〕『旧事紀』が天皇の御子の中に弟引命という人を挙げ、牟宜都君の祖と記している。〔延佳本が「引」を「別」とするのは、よくないらしい。「ひこ」を「ひき」という例としては、『書紀』神功巻で、襲津彦を韓国の書では沙至比跪という。〕
『書紀』には、「二十七年冬十月、日本武尊を遣わして熊襲を討たせた。時に十六歳。日本武尊は、弓の上手な者を得て一緒に行きたい。どこにいるのか、といった。ある人が、美濃国に弓の上手な弟彦公という者がいると申し上げた。そこで葛城の人、宮戸彦を遣わして弟彦公を呼んだ。弟彦公は石占横立と、尾張の田子稲置・乳近稲置を率いて来て、日本武尊に従って出発した」とある。この弟彦公は、この王なのだろう。〔美濃国の人とあるからだ。ただし、この王は倭建命の甥なのに、他人のような書き方で、「公」ともするのは、伝承が違うためである。また倭建命が十六歳の時に、大碓命の御子がすでにこうしているのは、年齢が合わず疑問である。〕
「牟宜都君」は、『和名――〔次頁へ続く〕

〔前頁からの続き。〕抄』の美濃国武芸郡〔むげ〕がこれである。『日本書紀』には、「四十年秋七月、天皇は群臣に、東国がまだ治まらないので誰を遣わして乱れを平らげようか、と仰せになった。日本武尊が、私はすでに西征の労を負いました。この任務は大碓皇子のなさるべきことです、と申し上げた。大碓皇子は驚き、逃げて草の中に隠れた。使者に呼び戻させ、天皇は、お前が望まないなら無理に遣わすだろうか。まだ敵に向かいもしないうちから、なぜそんなに恐れるのか、と責めた。そのため、ついに美濃を与えて、その領地へ行かせた。身毛津君・守君の二族の祖である」とある。
氏人には、雄略巻の身毛津君大夫、天武巻の牟宜都君広、『続日本紀』の牟宜都君真依などがいる。〔『続日本紀』巻三十六の牟義都公比呂は、この広である。郡名や『姓氏録』などによれば、「都」を省いて「牟義」ともいったのだろう。〕また『釈日本紀』が引く『上宮記』には、牟義都国造、名は伊自牟良君と見える。『姓氏録』〔左京皇別〕には、「牟義公は、景行天皇の皇子、大碓命の子孫」とある。〔『主水司式』の御生気の御井祭の条に、「天皇の御生気の方位に従い、宮中または京内で使える井戸を一つ選んで定める。前年冬の土用に牟義都首にさらい清めさせ、その井戸を祭る。春日の明け方には牟義都首が水をくみ、役所へ渡して献上する」とある。これがこの氏か、別氏かは分からない。また、こうした役があるのはどんないわれからなのか、それもまだ考えていない。〕

〔『古事記』本文〕この御代に田部を定めた。また東の淡水門、膳の大伴部、大和の屯家を定めた。また坂手池を造り、その堤に竹を植えた。
「田部」は「たべ」と読むべきだ。〔「たのべ」と「の」を添えるのは誤りである。「何々部」というのに「の」を挟む例は、ほとんど見えない。〕『和名抄』の長門国・備前国などの郷名の田部にも、「たべ」とある。田部とは、屯家の御田を労役として耕させるために定めた、民の集団である。〔屯家と御田については、次の「倭の屯家」の注で詳しく述べる。普通のように自分の田として耕し、租税を納めるのではなく、公の御田を労役として耕す。中国の古い井田法で公田を耕したのにも似ている。したがって御田でできた稲は、すべて屯家へ納まる。耕作の労の代償として、その一部を分け与えたのか、それともほかの負担を免除したのか、そうした細かいことは分からない。〕『書紀』には、「五十七年冬十月、諸国に命じ、田部と屯倉を設けさせた」とある。〔これは田部と屯倉を並べたので、「たべの」と読むのは誤りである。〕

『日本書紀』安閑巻には、次のようにある。「元年秋七月、詔して、皇后は天皇と一体であっても、内と外という名目は異なる。屯倉の土地をあて、皇后の御所を整えて、後代へ跡を残すべきである、と述べた。そこで勅使を派遣して良田を選ばせた。勅使は大河内直味張に、今、お前は肥えた雌雄田を献上せよ、と命じた。味張は急に惜しくなり、この田は日照りの時には水を引きにくく、大雨では水につかりやすい。労力が大変かかり、収穫はごく少ない、と勅使を欺いた。勅使はその言葉どおり、何も隠さず復命した」と。〔味張の領地から良田を選び、後宮にあてる屯家の土地として献上せよ、という意味である。〕
「冬十月、天皇は大伴大連金村に、私は四人の妻を迎えたが、今も後継ぎがない。死後には私の名が絶える。大伴の伯父よ、どんな手だてを立てよう。このことを思うたび、心配がやまない、と仰せになった。金村は、私も同じことを憂えています。わが国で天下を治める方は、後継ぎの有無にかかわらず、物に名を託すべきです。どうか皇后と次の妃たちのために屯倉を設け、後世まで残し、今の御代の跡を明らかにしてください、と申し上げた。天皇は、よい、早く整えよ、と仰せになった。金村は、小墾田屯倉と各国の田部を紗手媛に、桜井屯倉と各国の田部を香々有媛に、難波屯倉と各郡の耕作に従事する者を宅媛に与え、後世に示すのがよいでしょう、と申し上げた。天皇は奏上どおり実施させた」と。〔各国の田部を与えるとは、国々の田部の中から取り分け、新たに与える屯倉に所属させて与えることである。その屯倉の御田を耕させるためだ。〕

「閏十二月、三島へ行幸した。大伴大連金村が県主飯粒に良田の所在を尋ねた。飯粒は限りなく喜び、慎んで誠意を尽くし、上御野・下御野・上桑原・下桑原と竹村の土地、合計四十町を献上した。金村は勅命を受けて、天下の土地はすべて王の領地である。味張よ、お前はその中の小さな民にすぎないのに、なぜ王の土地を惜しみ、軽々しく使者の命に背いたのか、と告げた。そして今後、味張は郡の支配に関与してはならない、と命じた。飯粒は喜びと恐れをともに抱き、子の鳥樹を大連に献じ、身近に仕える者とした。大河内直味張は恐れて悔い改めようとし、地に伏して汗を流し、大連に、愚かな民の罪は万死に当たります。どうか、郡ごとに耕作する者を春に五百人、秋に五百人、天皇に献上させてください。子孫も絶やさず続けます。これによって命をお許しいただき、永い戒めとしたいのです、と申し上げた。別に狭井田六町を大伴大連へ贈った。三島竹村屯倉で、河内県の部曲を田部としたのは、この時に始まる」とある。〔「钁丁」は、公の御田を耕す労役に使われる成年男子をいう。――〔次頁へ続く〕〕

〔前頁の注の続き。〕農繁期には、田部のほかに人を追加して使ったのだろう。五百丁は五百人である。「三島……」以下は、昔から三島竹村屯倉の御田を耕すのに、河内県の民を田部として使ったが、それは味張が耕作する人を献上し始めた時に起こったことだ、という意味である。河内県は、味張の領地だった。〕
『日本書紀』欽明巻には、「十七年冬十月、蘇我大臣稲目宿禰らを遣わし、大和国高市郡に韓人大身狭屯倉〔ここで韓人とは百済人をいう〕と、高麗人小身狭屯倉を置き、紀国には海部屯倉を置いた。ある本では、各地の韓人を大身狭屯倉の田部とし、高麗人を小身狭屯倉の田部とした。韓人と高麗人を田部としたので、それによって屯倉の名としたという」とある。〔屯倉の名というのは、韓人大身狭屯倉・高麗人小身狭屯倉という呼称である。〕三十年春正月の詔には、「田部を定めてから久しい。十余年を経て、戸籍から逃れ、負担を免れる者が多い。胆津を遣わし、白猪田部の成年男子の戸籍を調べさせよ」とある。夏四月、胆津は詔に従って白猪田部を調べ、戸籍を定め、農民の戸を確定した。天皇はその功績をほめ、白猪史の姓を賜った。〔記事の「瑞子は上に見える」は、十七年の記事を指す。その文章は次の「倭の屯家」の所で引く。白猪田部は、白猪屯倉の田部をいう。〕敏達巻には、「三年冬十月、蘇我馬子大臣を吉備国へ遣わし、白猪屯倉と田部を増やし、田部の名簿を胆津に授けた」ともある。次の「倭の屯家」の注も参照するとよい。
諸国に田部という地名があるのも、昔、この部が住んだ跡だろう。〔『和名抄』に、下総国匝瑳郡、下野国足利郡、長門国豊浦郡、筑前国早良郡などの田部郷があり、『延喜式』には近江国高島郡の田部神社もある。〕『続日本紀』〔巻二十六〕には田部宿禰という姓の人も見え、『古事記』には桜井田部連もいる。「定めた」とは、この時に初めて設けたのではなく、以前からあったものを増やすなどして、多く定めたのだろう。〔『書紀』五十七年の記事も、そういう趣旨である。〕

「東の淡水門を定めた」の東は、「あづま」と読む。〔あづまという名は倭建命以後に始まったが、ここはさらに後世の伝承の言葉だからである。〕淡は安房国である。〔東というのは、四国の阿波と区別するためだ。〕『古語拾遺』の、神武天皇の御代の記事には、次のようにある。「天富命〔太玉命の孫〕に斎部の諸氏を率いさせ、木綿や麻などを作らせた。また日鷲命の孫を率いて肥沃な土地を求め、阿波国へ遣わし、穀と麻を植えさせた。天富命は、さらに良い土地を求め、阿波の斎部の一部を率いて東国へ行き、麻と穀を植えた。良い麻が生えたので総国といった。〔古語では麻を総という。今の上総・下総の二国である。〕阿波忌部が住んだ所は安房郡と名づけた。〔今の安房国である。〕天富命は、そこに太玉命の社を立てた。今、安房社という」と。〔『延喜式』の安房国安房郡安房坐神社で、名神大社、月次・新嘗の祭りを行う。今、洲崎大明神と申し上げるのがこれである。〕
『続日本紀』巻八には、養老二年五月、甲午朔の乙未の日、上総国の平群・安房・朝夷・長狭の四郡を分けて安房国を置いたとある。巻十四には天平十三年十二月丙戌、安房国を上総国へ併合したとあり、巻二十には天平宝字元年五月乙卯、安房国をもとのとおり分立したとある。
『書紀』では、「五十三年秋八月、天皇は群臣に、私が愛する子を思う心は、いつやむだろう。小碓王が平定した国々を巡りたい、と仰せになった。その月、伊勢へ行幸し、東海道へ入った。冬十月、上総国に至り、海路で淡水門を渡った」とある。この時の淡は、まだ一国の名でなく、上総国の中にあった。水門は、安房と相模国御浦郡の御崎〔今も御崎という〕との間で、外海から内海へ入る海の入口である。〔この内海は、東を上総、西を武蔵、北を下総に囲まれ、淡水門は南側の入口だ。天皇がここを渡ったというのは、都へ帰る道で、上総から相模へ渡ったのである。〕ここで「定めた」というのは、天皇がお渡りになった際、初めてこの名を定めたというのだろうか。または、この海路が初めて開かれたことをいうのかもしれない。

「膳の大伴部を定めた」の「膳」は「かしはで」と読み、料理を担当する膳夫をいう。この役については前に述べた。〔『伝』巻十四の五十五葉。〕『日本書紀』五十三年には、〔前に引いた箇所の続きとして、〕淡水門を渡った時、覚賀鳥の鳴き声が聞こえ、その姿を見たいと捜して海中へ出ると、白い蛤を得た。膳臣の遠祖、磐鹿六雁は、蒲をたすきとし、蛤をなますにして差し上げた。その功をほめ、膳大伴部を賜った、とある。「大伴部」は、膳夫が多く、その集団が大きいという呼称である。「賜った」は、その多くの膳夫の部をすべて統率させ、その長にしたことをいう。〔「膳大伴部」という姓を賜ったのではない。この点は注意しないと混同する。ところが『姓氏録』には別に膳大伴部という姓があり、この故事を挙げる。それはどういうことか。この姓は膳臣氏から分かれた、後世の姓であって、祖先の六雁が膳大伴部を率いた由来を、自分たちの姓としたの――〔次頁へ続く〕〕

〔前頁の注の続き。〕である。その氏の条にこの故事を挙げるのも、「膳大伴部」という名の由来を示すためだ。〕このことは、境原宮の段の膳臣の注とも照らし合わせるとよい。〔『伝』巻二十二の八葉。『貞観儀式』の神今食の儀に、「膳伴造が火をきり起こし、御飯を炊く」とあるのも、この膳大伴部氏だろう。〕「定めた」は、この時初めて多くの膳夫たちを「膳の大伴部」と名づけ、磐鹿六雁命に所属させたという意味だろう。
「大和の屯家」。屯家は「みやけ」と読む。『日本書紀』垂仁巻に、「二十七年、来目邑に屯倉を設けた。屯倉は、みやけという」とある。〔屯倉が初めて記事に見えるのはここである。ただし、この時に始まったのではなく、それ以前からあったのだろう。〕名の意味は「御家」である。「家」を「やけ」とも「やか」ともいう例には、朝廷も「大家〔おほやけ〕」ということや、『書紀』で「舎屋」「宅屋」などを「やかす」と読むことがある。「やかす」は「家栖」の意味である。〔『源氏物語』にも、家を「やか」という例がある。〕家持という人名もある。〔「やけ」「やか」が通じるのは、食物を「うけ」「うか」ともいうのと同じ語形の関係である。〕したがって「みやけ」は、「おほやけ」と同じ趣旨の名で、もとは官の施設をいうのである。

その官の施設の中でも、区別してこの名を持ち、諸国の各地にあった「屯家」は、〔穴穂宮の段では「屯宅」とも書く。〕『日本書紀』では「屯倉」、また「官家」とも書く。地名や姓では「三宅」と書くことが多いが、どれも同じものである。ただし「官家」の表記は、百済国などを「官家国」という場合に多く用い、日本国内の「みやけ」を官家と書く所は、ごく少ない。韓国については、欽明巻で「弥移居」とも書くが、これは韓国の人が書いた字である。韓国を「みやけ」ということは、阿志比宮の段で詳しく述べる。
昔は諸国の各地に朝廷の御田があり、前に出た田部を使って耕させた。〔『書紀』仁徳巻・孝徳巻・天武巻などに「屯田」とあるのがこれで、単に朝廷の御田という意味だ。「屯」の字にとらわれてはならない。〕その御田でできた稲穀を収める倉と、付属する役所を合わせて「みやけ」といった。〔「屯倉」は倉の方に着目した表記で、「屯家」「官家」は、もとの「御家」という意味や、官の施設に着目した表記である。しかし「みやけ」は倉と役所の両方にわたる名なので、字も互いに通じて用いた。
「屯」の字を書くのは、中国で国境を守る兵が駐留中に田を耕すことを屯田といい、自分の田ではなく、ほかの土地へ役として行って田を耕すからだろう。日本の御田を田部に耕させることも、少し似ているので、その字を借りて御田を屯田と書き、そこから「屯田の倉」「屯田の家」の意味で、屯倉・屯家とも書いたのだろう。あるいは御田の稲穀を集めて置く所なので、「集まる」意味で「屯」を使ったのかもしれない。そうなら御田を屯田とするのは、「屯倉の田」の意味だろう。どちらにしても文字は借りたものだから、どちらの説明でもよい。〕御田も含め、全体を通常「みやけ」と呼んだ。〔「何々屯倉を置く」などは、御田も含めていう。〕
御田を管理する人を田令という。〔欽明巻に見える。〕屯田司ともいう。〔仁徳巻・天武巻。〕倉と役所を管理する人は屯倉首といったらしい。〔清寧巻に、播磨国赤石郡の縮見屯倉首、忍海部造細見という人が出る。〕『書紀』の各巻に見える記事を次に引くので、考え合わせて、そのあり方を理解してほしい。〔古い制度の大まかな形を分かりやすく、私たちの今の世にたとえるなら、国造・別・君・直・稲置・県主などは諸大名のようなもの、屯田は諸国の幕府直轄領、屯家はその倉や代官所のようなものである。ただし屯田は各地に散らばって非常に数が多く、今の直轄領のように、一か所に広大な土地がまとまっていたのではない。屯家も各屯田ごとにあった。〕

『日本書紀』安閑巻二年五月には、各地に屯倉を置いたとある。〔本文には諸国の二十六か所を挙げるが、ここでは省いて「各地」とした。〕九月には桜井田部連・県犬養連・難波吉士らへ、屯倉の税を管理するよう命じた。
宣化巻元年夏五月の詔には、「食は天下の基本である。そのため穀物を集め、食糧を蓄え、将来の凶作に備え、来訪する良い客を厚くもてなす。筑紫国は、遠近の人々が朝廷へ参る時に至る所である。そこで私は阿蘇伊君を遣わし、河内国茨田郡の屯倉の穀物を、さらに運ばせる。蘇我大臣稲目宿禰は尾張連を遣わし、尾張国の屯倉の穀物を運ばせよ。物部大連麁鹿火は新家連を遣わし、新家屯倉の穀物を運ばせよ。阿倍臣は伊賀臣を遣わし、伊賀国の屯倉の穀物を運ばせよ。那津のほとりに官家を修築せよ。また筑紫・肥・豊の三国の屯倉は散在して遠く離れているので、諸郡に命じ、一部を那津のほとりに移し集めて建てよ」とある。
欽明巻十七年秋七月には、蘇我大臣稲目宿禰らを備前の児島――〔次頁へ続く〕

〔前頁の『日本書紀』の引用の続き。〕郡へ遣わして屯倉を置き、葛城山田直瑞子を田令とした。田令は「たづかひ」という、とある。推古巻十四年にも、各国に屯倉を置いたとある。前の田部の注で引いた文章も、考え合わせるとよい。
孝徳巻二年春正月の改新の詔には、第一条として、昔の天皇たちが設けた子代の民や、各地の屯倉などを廃止する、とある。同年の詔にも、官司の各地の屯田、吉備島皇祖母の各地の貸稲を廃し、屯田を群臣や伴造らに分け与えよ、とある。皇太子の奏上には、「現に神であり、八島国を治める天皇が、屯倉を古代のまま置くかどうかと私にお尋ねになりました。私は慎んで詔を承り、天に太陽が二つなく、国に王が二人ない以上、天下を一つにし、万民を使うことができるのは、天皇お一人です。特に入部と、私に与えられた民から仕丁を選ぶことは、従前の定めに従いますが、そのほかを私用に使うのは恐れ多いことです。そこで入部五百二十四人、屯倉百八十一か所を献上します」とある。
〔この文章の趣旨から考えると、当時、群臣にも、賜って私有していた屯倉が多くあり、それはすべて公に献上させ、本来の天皇御料の屯倉だけは旧来どおり残したようにも読める。しかし孝徳朝には、古い制度を数多く廃し、何事も変わったので、屯倉というものは大体この時から絶えたのだろう。〕後には、ただ各地の地名として残るだけになった。

「倭屯家」は、大和国城下郡の倭郷にあった屯家をいう。〔大和国全体という意味ではない。仁徳巻で、この屯家について倭直氏の人に尋ねていることから分かる。〕『和名抄』に同郡の三宅郷〔みやけ〕があり、その跡だろう。
『日本書紀』仁徳巻には、次のようにある。額田大仲彦皇子が倭屯田と屯倉を支配しようとし、その屯田司で出雲臣の祖である淤宇宿禰に、「この屯田は、もともと山守の土地である。だから今、私が治める。お前が管理してはいけない」といった。大鷦鷯尊が倭直の祖、麻呂に、「倭屯田はもと山守の土地というが、どういうことか」と尋ねると、私は知りませんが、弟の吾子籠が知っています、と答えた。吾子籠は、「伝え聞くところでは、纒向玉城宮の天皇の御代、太子大足彦尊に命じ、倭屯田を定めさせました。その時の勅命は、倭屯田は代々天下を治める天皇の屯田であり、天皇の子であっても、天下を治める者でなければ支配できない、というものでした。山守の土地とするのは誤りです」と答えた。大中彦皇子は、もはやどうすることもできなかったという。
〔ここで、垂仁天皇の御代に太子大足彦尊へ命じて定めさせたとするのと、『古事記』が景行天皇のこの御代に定めたとするのとは、少し伝承が違う。なお、右の額田大仲彦皇子を、大山守皇子の誤りだろうと考えるのは、かえって誤りである。〕

「坂手池」。〔「手」を「た」と読むのも、「ど」と読むのも、どちらも誤りである。「手」が後の語に続く場合には「た」ということが多いが、語の後ろにあるのを、どうしてそういえるだろう。「ど」と読むのは、『続日本紀』巻三十六の河内国尺度池などを考えたためかもしれない。しかし「手」を「ど」と読む理由はない。〕『万葉集』巻十三〔三十葉〕に「鳥網張る、坂手を過ぎ……」とある、その土地だろう。大和国にある。〔この歌の坂手も、今の本で「さかと」と読むのはどうだろう。『延喜式』の十市郡に坂門神社があるので、そこを考えたのかもしれない。あるいは古本では「坂戸」だったのが「手」に誤写され、読みだけがもとのまま残ったのかもしれない。それなら坂門神社と同じ土地で、ここへ引用するべきではない。しかし、〕今も城下郡に坂手村があり、そこなのだろう。先の歌の道順にも合う。〔『延喜式』には、尾張国中島郡にも坂手神社がある。これは単に地名の例を挙げただけである。〕
「その堤に竹を植えた」。堤は「包む」意味の名である。『字鏡』に「坡陂。土で水をせき止めるもの。つつむ」とあり、『和名抄』に「陂堤。和名つつみ。隄は堤とも書く」とある。『日本書紀』には、「五十七年秋九月、坂手池を造り、その堤の上に竹を植えた」とある。こうして両書とも、堤に竹を植えたことを記しているのは、〔ほかにはこのような例が見えないが、〕古代には珍しいことだったのだろうか。

古事記伝 巻二十七――日代宮の巻、その二。本居宣長が謹んで著す。

【古事記本文】天皇は小碓命(おうすのみこと)におっしゃった。「なぜ、お前の兄は朝夕の食事の席へ参らないのか。お前一人で、兄をねぎらいながら説き聞かせよ」。「泥疑」の二字は音を表し、以下も同じである。こう命じた後、五日になっても、兄はやはり参らなかった。天皇は小碓命にお尋ねになった。「なぜ兄は長いこと参らないのか。まだ教え諭していないのか」。小碓命は「もう、ねぎらい申しました」と答えた。天皇が「どのようにねぎらったのか」とお尋ねになると、「朝早く、兄が便所に入った時につかまえ、手をつかんでひしぎ、体から引きちぎり、薦に包んで投げ捨てました」とお答えになった。

【宣長の注釈】「何」は「ナニトカモ」と読む。孝徳紀の歌に「どういうわけで、いとしい妻が、再び咲き出て来ないのか」とある。「汝兄」が櫛角別王なのか大碓命なのか、二人のうちどちらかは決めがたい。考えるに、この段は、書紀二十八年の記事と様子が似ている。そこでは日本武尊が「私は先に西征で苦労しました。今回の役目は必ず大碓皇子の仕事でしょう」と申し上げ、大碓皇子は驚いて草の中に逃げ隠れ、使者に呼び戻されて天皇に責められる。だから同じく大碓命についての、異なる伝承かもしれない。しかし書紀の話は、倭建命が西国を平定した後なので、どうだろう。どちらとも決めがたい。

【宣長の注釈】「朝夕之大御食」の「朝夕」は「アシタユフベ」と読む。万葉巻四に「旦夕爾」とある。また「アサヨヒ」と読んでもよく、万葉巻十七の「アサヨヒゴトニ」など、多くの例がある。ただし、朝と夕をはっきり言い分けるなら、「アシタユフベ」というべきだろう。食事なども「朝の」「夕の」と分けていう時には、必ず「アシタノ」「ユフベノ」といい、「アサノ」「ヨヒノ」とはいわないだろう。また「アサユフ」は万葉までには見えず、やや後の語だろう。これはついでに述べた。

【宣長の注釈】「大御食」は前の伝二十五・三十一葉に出る。祈年祭の祝詞には「皇御孫命の、朝御食・夕御食の……」とあり、月次祭の詞も同じだ。大神宮の『延暦儀式帳』には「朝大御饌・夕大御饌」、外宮の儀式帳にも「天照坐皇大神の朝の大御饌、夕の大御饌を、日ごとに供え奉る」とある。「不参出来」のようにお尋ねになることから考えると、上代、天皇が朝夕の食事を召し上がる儀礼はたいへん厳重で、しかるべき皇子たちも出席してお仕えになったのだろう。そのほかにもさまざまな儀式があったと分かる。

【宣長の注釈】天皇の食事の儀礼がそうであれば、ほかの貴人や一般の人にも、それぞれの身分に応じた礼儀があったと推し量れる。わが国の古代には、こうしたことをわざわざ論じなかったため、何の礼儀もなかったように思うのは、昔の様子をよく考えない誤りである。中国は何事も大げさに論じる習慣なので、それを見ると、このような礼儀はあちらにだけあったように思えるらしい。声高に論じはしなくても、わが国の上代にも、あるべき礼儀はすべて備わっていたと、この一件から推測できる。ところが後には、中国の大げさな説を信じ、その国の習慣だけをよいとして、どの国もまねるうち、わが国の上代の儀礼はすべて消え、細部がどうだったか分からなくなった。たいへん悲しいことである。それでも、このような事に触れて、その端々が見えるのは実に貴い。いい加減に見過ごしてはいけない。姓氏録の雀部朝臣の条には、「星河建彦宿禰は応神天皇の時代、皇太子大鷦鷯尊に代わり、木綿の襷を掛けて天皇の食膳を監督し、大雀臣の名を授かった」とある。これも皇子たちが食事にお仕えになった例である。そもそも食は命をつなぐ、何より大切な営みなので、儀礼がこれほど厳重なのは当然だ。中古に至っても食膳の儀式が厳重だったことは、諸家の記録や物語を見て知るべきである。

【宣長の注釈】「専」は、上巻の猿田毘古神の段の「お前一人で行って尋ねよ」と同じで、意味はそこの伝十五・十四葉で詳しく述べた。「泥疑」の例は万葉巻六にある。天皇が節度使たちに酒を賜った歌で、「遠く国を治める朝廷へ、お前たちがこうして出向くなら、私は安らかに過ごし、手をこまぬいて君臨していよう。天皇である私は尊い手でかきなでてねぎらおう、打ちなでてねぎらおう。帰る日には、ともに飲もう、この豊かな御酒を」とある。巻二十にも「東国の男たちは立ち向かって振り返りもせず、勇み立つ、勇敢な兵たちを、ねぎらい慰め……」とある。豊後国風土記には「直入郡の禰疑野。昔、纏向日代宮で天下を治める天皇が行幸した時、この野に土蜘蛛がいた。天皇は自ら討とうとされ、この野で兵士たちを次々とねぎらわれたので、禰疑野という」とある。この話は書紀の十二年十月にも見える。これらと、上巻の石屋戸の段の「太い祝詞を申し、願い申し上げる」を合わせると、ここでの「泥疑」は、今の「ご苦労ですが」という気持ちを込め、兄王へお出ましをお願いすることだ。風土記の兵士をねぎらう例も、その労苦を思い、「大儀ながら」という心持ちで、ほめ慰め、励んでもらうことを願う意味である。石屋戸の段の説明(伝八・四十六葉)とも考え合わせたい。この語は使う場所によって中心の意味が少しずつ違うようでも、突きつめればすべて一つの意味に帰する。

【宣長の注釈】「教覚」は、必ず出席しなくてはいけない事情を説き聞かせよ、ということだ。「至于五日」は「イツカトイフマデニ(五日という日数になるまでに)」と読む。「久不参出」は、朝夕の食事に出ないだけでなく、全く参内しないことをおっしゃったのだろう。初めの問いのころは食事にこそ来なくても、それ以外は来ていたのに、このころはすっかり来なくなったのだろう。小碓命に手を引きちぎられてしまったのだから、当然そうなったのだろう。「有未誨乎」は「イマダサトヘズアリヤ(まだ諭さずにいるのか)」と読む。「ズアリ」は「ザリ」と同じである。「ザリ」「ザル」は「ズアリ」「ズアル」が縮まった同じ語だが、別に「有」を添えて書くのは古い書き方で、万葉などに例が多い。「有未」を単に「ザリ」と読んでも同じだが、「有」を添えた以上、もとの語どおり「ズアリ」と語り伝えたのだろう。後世は「ザリヤ」を「ザルヤ」というが、それでは語の続き方に反して俗になる。このように文が終わる疑問の「ヤ」の前は「アリヤ」「ナシヤ」の形であり、「アルヤ」「ナキヤ」とはしない。だから「ザルヤ」「ナカルヤ」は俗語である。この違いをよく理解しておくべきだ。また師がここを「オシフマジキコトアルヤ」と読んだのは、たいへんよくない。「有」の古い用法を考えなかったのであり、「ザルヤ」の悪いことも前述のとおりである。

【宣長の注釈】ここは「まだねぎらい、教え諭していないのか」ということだ。ここでは「泥疑」と「覚」を省き、次では「教」と「覚」を省いて単に「泥疑」という。「既為泥疑」は「スデニネギツ(すでにねぎらった)」と読む。「為」を添えるのは白檮原宮の段の「為遠延」と同じ形で、伝十八・四十七葉の説明と照合されたい。「如何」は「イカサマニカ」と読む。今の言葉の「どのように」に当たる。万葉巻一に「どのようにお思いになってか」とあり、巻二や巻十三にも同じ例がある。

【宣長の注釈】「朝署」の「署」は「曙」の偏を省いたものである。延佳本が「曙」とするのは、いつものように勝手に改めたのだろう。諸本はすべて「署」であり、偏を省く例は上巻「呉公」の注(伝十・三十九葉)で詳しく述べた。二字は師の「アサケ」に従う。「アシタ」と同じ意味で、そう読んでもよい。万葉には「朝開」「旦開」「朝明」「安佐気」などが多い。伊勢国には朝明(アサケ)という郡名もある。「入廁」について、『和名抄』に「廁、和名カハヤ」とある。便所については白檮原宮の段、伝二十・十八葉でも述べた。入ったのは兄王である。「持捕」は「トラヘテ」と読む。真福寺本が「持」を「待」とするなら、便所に入るのを待ち構えて捕らえたことになる。しかし古語で「待……」という例は、どれも待ち受けて行うことなので、どうだろう。ここは便所の中で待ち受けていたとは聞こえず、そういうこともあるまい。若桜宮の段にも「曾婆訶理がひそかに自分の王が便所に入るのをうかがい、矛で刺し殺した」とある。便所では帯刀なども外し、装束や警戒も解いて用を足すので、普段より狙いやすいのである。そのため後世の乱世でも、武士は便所にいる間に用心するものだ。

【宣長の注釈】「搤批」は上巻、伝十四・二十七葉で述べたので照合されたい。ここもそこに倣い「ツカミヒシギテ」と読んだ。上巻の例から考えると、ここも兄王の手をつかんで押しつぶしたのだ。次の「枝」が手を指すので、その手をつかんでひしぎ、引きちぎったという意味である。「枝」は手足をいう。書紀雄略巻で「夫婦の両手両足を木に張り付け、仮屋の上に置いて火で焼き殺した」という「四支」と同じである。三代実録巻三十には美作守「四支王」が見える。変わった名で、誤字かもしれない。刊本は「王」を落とし、古本にはある。『和名抄』形体部は「顧野王の説では、肢は四肢、和名エダ」とする。手足は樹の枝と同じ形なので、どちらもエダという。樹の枝を先としてそれになぞらえたのではなく、両方とも本来の名だ。延佳は「枝」を「肢」にすべきかというが、エダという名が同じなので、通用させて「枝」と書くのは古くは普通である。漢籍でも孟子の「長者のために枝を折る」を、趙氏の注は「手の関節を按摩すること」といい、後漢書の王襲伝への注も、孟子の「折枝」を引き、劉熙の「今の按摩のようなこと」とする。支・枝・肢はもと同じで、通用する字なのだ。「引闕」は、兄王の手を体から抜き離すことだ。「手」でなく「枝」というので、両手両足をすべて引きちぎったようにも聞こえるが、そうではあるまい。前に「捕らえて搤批」とあるので、手をつかんでひしぎ、その手を引きちぎったのである。「引闕」には「手」より「枝」がふさわしい。体につく部分を除く意味だからだ。上巻にも「湯津々間櫛を引き闕き」とある。
〔訳注:底本は「王襲伝」と読めるため、その表記を残した。引用先は「王龔伝」の可能性があるが、同定を保留する。按摩をいうという本文の説明には影響しない。〕

【宣長の注釈】「薦」は「コモ」と読む。『和名抄』の座臥の道具には「唐韻では薦は敷物、和名コモ」とある。台所・食膳の道具に「漢語抄では食単、スコモ」とあるのも、式などの「食薦」である。万葉巻十三の「破れた薦を敷いて」、巻十四の「布能未知可久弖麻乎其母能」は「節が近い真小薦の」の意味で、巻十六には「薦畳」が見える。また『和名抄』草類の「本草では菰、別名蔣、和名コモ」は、真菰という水草のことだ。もともとコモは敷物の名で、敷物にするから草もそう呼んだのか、草の名が先で、それから作る敷物にもその名が付いたのか、どちらが先かは分からない。ここは敷物のコモである。「裹投棄」は、抜き離した手についていうのだろう。殺して死体をこのようにしたのではあるまい。手を引きちぎられた後、兄王の命がどうなったか、生死は分からない。手や足を失っても、死なないことはある。

【古事記本文】天皇は、わが子の勇ましく荒々しい心を恐れ、「西に熊曾建という二人がいる。服従せず礼を欠く者たちだから、討ち取れ」とお命じになり、遣わした。この時、命はまだ髪を額に結ぶ年ごろだった。小碓命は、おばの倭比売命から衣と裳をいただき、剣を懐に入れて出発された。熊曾建の家に着いて見ると、家の周りを軍が三重に囲み、新しい屋を建てて住んでいた。落成の祝いをしようと食物を用意していたので、その付近を歩き回り、祝いの日をお待ちになった。その日になると、結っていた髪を少女の髪のようにくしけずって垂らし、おばの衣と裳を着て、すっかり少女の姿になり、女性たちに交じって屋の中へ入られた。熊曾建の兄弟二人はその少女を見て心を奪われ、自分たちの間に座らせ、盛んに酒宴を開いた。宴たけなわとなると、小碓命は懐から剣を抜き、熊曾建の襟をつかみ、胸から刺し通した。弟の建はそれを見て恐れ、逃げ出した。命は屋の梯子のもとまで追いつき、背中の衣をつかんで、剣を尻から刺し通した。熊曾建は「その刀を動かさないでください。申し上げたいことがあります」と言った。命はしばらく許して押さえ伏せた。すると「あなたはどなたですか」と尋ねたので、「私は纏向の日代宮においでになり、大八島国を治める大帯日子淤斯呂和気天皇の御子、名を倭男具那王という。お前たち熊曾建二人が服従せず礼を欠くとお聞きになり、お前たちを討ち取れと命じて遣わされたのだ」とお答えになった。

【古事記本文】熊曾建は申し上げた。「本当に、あなたがその王でいらっしゃるのですね。西方には、私たち二人を除いて強く勇敢な者はいません。しかし大倭国には、私たちより勇敢な方がおいでだったのですね。そこで御名を差し上げます。今から後は、倭建御子(やまとたけるのみこ)とお呼び申し上げるのがよいでしょう」。言い終わると、命は熟れた瓜を裂くように、刺した剣を上へ動かして相手を切り裂き、殺した。この時から御名を倭建命というようになった。帰って都へ上る際には、山の神・川の神、そして海峡の神まで、すべて言い聞かせて従わせながら、都へ向かって上られた。

【宣長の注釈】「其御子」は倭建命である。「建荒」について。天皇はただ、ねぎらって教え諭せと命じただけなのに、思いがけず先のようなことをなさった。これは単に勇敢なだけでなく、たいへん荒々しい行いをいう。「惶」についてよく考えると、ただ勇ましいだけでなく「荒」といい、「行い」でなく「情」、つまり心とする点などから、この行いによって心の荒さを知られ、今後もどれほど荒々しいことをするだろうかと、恐れられたのである。だから熊曾討伐に遣わしたのは、一方では都におられることを恐れ、遠ざけようという天皇のお気持ちもあったのかもしれない。西の敵を平らげて報告すると、続けてすぐ東方の平定に遣わしたのも、この理由と受け取れる。その時、倭比売命へ申し上げた言葉も、そう聞こえる。さらにその所で理由を述べる。書紀には、荒々しさを嫌って遠ざけた様子は全く見えず、初めから終わりまでこの皇子を特にいとしく思われる趣である。伝承が違っていたのだろう。「詔之」の「之」を古い刊本や延佳本は「云」とするが、ほかは皆「之」である。

【宣長の注釈】「熊曾建」の熊曾は国名で、上巻の伝五・十五葉に出る。「建」の例は白檮原宮の段、伝十九・三十二葉に出る。「二人」は、後に兄弟二人とある、そのことである。書紀では一人だ。「不伏」は、白檮原宮の段、伝十九・六十八葉に見える。

【宣長の注釈】「无礼」は「ヰヤナキ」と読む。「无」を諸本はすべて「兄」と誤っており、延佳の訂正に従った。万葉巻十二に「妹と言えば、礼を欠くおそれがあって」とあり、書紀では「軽」を「ナメシ」とも読むので、ここも「ナメキ」と読めるが、次に引く続紀では「無礼」と「ナメク」を並べるので、やはり「ヰヤナキ」がよい。「ヰヤ」のヰをイと書くのは誤りで、続紀の宣命には「為夜」とある。記の高津宮の段の「その王たちは礼を欠いたので退けた」、穴穂宮の段の「言葉で申し上げるのは礼を失うと思う」、玉穂宮の段の「筑紫君石井は天皇の命に従わず、たいへん無礼だった」、書紀武烈巻の「無敬」などに見える。続紀巻二十にも「近ごろ、王たち臣たちの中に、無礼で反逆する者がいる」、巻二十四にも「お前のため、無礼を働き、従わず、なめ侮る者は」とある。後者の「売」を今の本は「壹」と誤っている。例はほかにも多い。「ヰヤ」は、書紀の「神を礼す、賢人を礼す」、また「恭」「敬」などに当たる語で、「ウヤマフ」「ウヤウヤシ」のウヤと同じである。書紀景行巻にも「無礼」とある。「取」は殺せというような意味である。水垣宮の段、伝二十三・六十葉で述べたので照合されたい。後では「取殺」とある。「当此之時」は、どこか漢文風の語だが、ここはこのようにもいえる所なので、字どおりに読んだ。

【宣長の注釈】「其御髪結額」は「ソノミカミ、ミヒタヒニユハセリ(その御髪は、額の上に結っておられた)」と読む。書紀崇峻巻で、蘇我大臣馬子が皇子たちや群臣を勧めて物部守屋大連を討つ所に、「この時、厩戸皇子は額に髪を束ね、軍の後に従った」とあり、小注に「古い習慣では、十五、六歳の少年は額に髪を束ね、十七、八歳には二つに分けて角子とした。今も同じ」とするのと同様である。ここも、年齢が十五、六歳であったことを、このようにいうのだ。書紀は髪のことを述べず、「日本武尊を遣わして熊襲を討たせた。時に十六歳」とあるので分かる。厩戸皇子の例も、次に四天王の像を作って頭髪の上に置いたとあるため、その説明に先に髪形を述べたようだが、やはり年齢を知らせる文だろう。単に頭髪へ置いたことをいうためだけなら、先に髪を説明しなくてもよい。ここも後に「少女の髪のように」とあるので、そのための前置きに聞こえるが、それなら「爾小碓命」の後にいうべきなのに、それより先に述べたのは、年齢を知らせるためだ。髪のことを先にいい、次に「そこで小碓命……」とする順序が少し不自然に聞こえるのも、そのためである。書紀の「束髪於額」を「ヒサゴバナニシテ」と読むのは古語だろう。そうなら記の「結額」も同じ読みがよさそうだが、記の表記の例からすると、その場合は語のとおり「為匏花」などと書くはずで、「結額」とは書かない。だから、ここはやはり字の意味に沿って読むべきだ。「ひさごばな」は、額に束ねた形が瓢箪の花に似たためだろう。うつほ物語の初秋巻で「皆、相撲の装束をして、ひさご花を挿すなど、たいそう珍しいことをしながら」とあるのは、瓢箪の花を髪に挿したことだろう。

【宣長の注釈】このように髪を結うのは十五、六歳のころなので、前に「当」とあるのも、その年ごろに当たられたということだろう。「姨」は「ミヲバ」と読む。倭比売命は、父である天皇の同母の妹である。『和名抄』では、伯母は父の姉、叔母も同じくヲバ、父の姉妹は姑といい、別に阿叔母ともいう、とある。一方「姨」は母の姉妹だが、どちらもヲバというので、通用させて書いたのだ。『字鏡』には「姨母、ヲバ」とある。ヲバは「小母」の意味の呼称である。倭比売命は、前の伝二十四に出る。

【宣長の注釈】「御裳」について。『和名抄』は「裙裳。釈名では、上を裙、下を裳という。和名モ」とするが、上と下に分けるのは中国の言い方で、こちらではただ裳という。「モ」は「纏衣(まといごろも)」が縮まった名だろうか。腰にまとう衣だからである。裏の裳もまとう物で、そのことは伝六・四十八葉で述べた。「給」は「タマハリ」と読む。「タマハル」は「給われる」、つまり与えられるのを受けることである。今、「タマフ」と「タマハル」を同じと理解するのは誤りだ。タマフは与える側、タマハルは受ける側からいう。ここは倭比売命が与える側でなく、倭建命が受ける側から述べるので、「タマヒ」と読むと違う。またタマフを「タブ」、タマハルを「タバル」ともいい、両者の区別も同じである。このように女性の衣服をそろえて出発された理由は、後に見える。とりわけ倭比売命の衣と裳をお願いしていただいたのは、この姫が伊勢大御神の御杖代、神に仕える代理なので、その威力と霊力をお借りしようというお気持ちだったのだろう。そうでなければ、女性の衣服が必要でも、新しく仕立てて用いればよく、はるばる伊勢まで申し求めるはずがない。

【宣長の注釈】「剣」を諸本は「小剣」とするが、ここでは「小」のない真福寺本・延佳本に従った。書紀も単に「裾の中の剣」という。「御懐に入れた」とあるため、後人が勝手な判断で「小」を加えたのだろう。懐に隠し持つ物も、玉垣宮の段では「紐小刀」といい、記に「小剣」の例はない。ただし小刀も剣の一種で、あちらは小刀、こちらは小刀ではないから、「小剣」と書けないわけでもない。後はどの本も単に「剣を出し」「剣で」とするが、初めに一度「小剣」といえば、その後の「小」を省くのも普通だ。だから「小剣」を全く悪いともいい切れない。師は二字を「サビ」と読んだが、どうだろう。小剣なら「コダチ」「ヲダチ」または「チヒサキタチ」と読むべきだ。ここは普通の剣だろう。「懐」は「含む所」の意味である。私の郷里あたりの庶民は、ほとんど「ほところ」という。姓氏録の物部氏には懐大連という人がおり、布都久呂大連とも書く。旧事紀は布都久留大連である。剣を懐へ入れたのは、女性の姿になるため隠されたのだ。だから普通の剣だとしたのである。普通の剣は長いので懐に収まらないのでは、という疑問もあるだろうが、下の方へ差し延べれば、長くても入らないわけではない。

【宣長の注釈】「囲」は「カクミ」と読む。書紀仁徳巻の大后の歌に「カクミヤギリ(八重に囲んで)」、万葉巻二十に「若草の妻も子どもも、あちらこちらで大勢囲んで」などとある。ここは自分の警護のため、いつも兵士を備えて周りを囲ませていたのである。「言動為御室楽」は「ニヒムロウタゲセムトイヒトヨミテ(新しい屋の祝いをしようと、にぎやかに言い騒いで)」と読む。「御」は「新」の誤りだろう。「御室楽」では「室」が何の役目もないように聞こえる。甕栗宮の段には「志自牟の新室楽へ着き」とある。落成祝いについては、その所、伝四十三・九葉で述べるので照合されたい。前の「室を作り」も、新築のことだろう。そうでなければ「作」とは何だろう。書紀は「親族をすべて集め、宴を開こうとした」とするが、その「宴」を「ニヒムロウタゲ」と訓む。書紀の文自体に新室はないのに、そのように読むのは、古事記の古本に「新室楽」とあったのに基づくのだと思われる。

【宣長の注釈】「楽」を「ウタゲ」と読むのは、右の書紀や天智巻で「宴」、允恭巻で「讌」をそう読むためである。この「楽」は宴を楽しむ意味で、音楽の意味ではない。「ウタゲ」は「拍上(うちあげ)」が縮まった名である。書紀顕宗巻に、縮見屯倉の首が新室を祝って楽しみ、夜が更け酒宴が盛んとなり、順番に舞い終え、天皇が立って新室を祝う場面がある。その歌の『手のひらを響かせて手を打ってください。わがトコヨタチよ』という句がそれで、注は「拍上賜は酒を飲む意味」とする。酒を飲んで楽しみ、手を打ち上げることからの名だ。今も宴会で手を打つことがある。竹取物語の「三日うちあげ遊ぶ」、うつほ物語・藤原の君の巻の「七日七夜、豊明かりして、うちあげ遊ぶ」、栄華物語・見はてぬ夢の巻の「酒を飲み騒いで、うちあげ騒ぐ」、同・浅緑の巻の「三日ほど、さまざまな殿方が出入りし、うちあげ遊ばれる」、同・本のしづくの巻の「三日ほど、めでたくうちあげ遊んで過ぎた」、宇治拾遺物語の「酒を差し上げて遊ぶ様子……うちあげ、たたく拍子が楽しげに聞こえたので、ままよと走り出て舞おう……」などが例だ。ある人は、美濃の俗語では嫁入りの際、婿が初めて舅の家へ行くことを「ウチャゲ」というと話した。ウタゲという古語の残ったものだ。
〔訳注:「トコヨタチ」の意味は確定せず、ここでは呼びかけとして原語を残した。〕

【宣長の注釈】「言動」は、世間にも高く聞こえるほど言い騒ぐことだ。万葉巻十九の、豊かな宴の今日、武人たちが島山の明るい橘を髪に挿し、紐を解き放ち、千年を繰り返し祝って「吉等余毛之」、楽しげに仕える、とする歌の「吉」は、「言」の誤りで「祝いの言葉を響かせ」としたのではないか。「食物」は伝九・八葉、「設備」も同・三十三葉に出る。「傍」は師の「アタリ」に従う。「遊行」は「アルキツ(歩き回った)」と読む。上巻の例も同様に読んだ(伝十・二十四葉)。万葉巻五には「アソビアルキシ」とあるので、そう読んでもよい。「待楽日」は、あらかじめ女性の姿で事を果たそうと計画し、女性の衣服をそろえて出かけたところ、ちょうど熊曾建が近いうちに落成祝いをすると聞き、それなら特に都合がよいとお考えになり、その日を待ったのである。「臨」は「ナリツ」と読む。以下も同じ。「如童女之髪搟垂其結御髪」は、「その結っていた髪を、少女の髪のように、くしけずって垂らし」と読む。「結御髪」は、額に結っていた「ひさごばな」の髪形を指す。

【宣長の注釈】「童女」は上巻に出て、ヲトメと読むことはそこで述べた(伝九・十九葉)。昔、少女の髪は幼い時から結婚するまで垂らしていたことが、師の『万葉考別記』に詳しくあり、おおむねその説のとおりだ。万葉巻七の「未通女らの放ち髪を木綿山……」、巻十六の「少女の放ち髪を、結い上げてしまおうか」などがその例である。後の歌に続く椎野連長年の説明は誤っている。「放」は結わないことだ。上代の女性の髪は、上巻、伝七・三十四葉でも述べたので参照されたい。「如童女之髪」を「ウナヰノゴト」と読んでもよい。『和名抄』は「髫髪、和名ウナヰ。俗に垂髪の二字を用いる。後漢書注では、子どもが肩まで髪を垂らすこと」とし、『字鏡』にも「髡、ウナヰ」とある。この「髡」の字は理解できない。万葉巻十六には「童子」「童児」と書いた例もある。

【宣長の注釈】「㧧」は、『和名抄』の身なりを整える道具に「梳、ケヅルと読む」、『字鏡』に「㧧、頭をケヅル」とある。『説文』では髪を整えることで、漢籍では普通「くしけづる」と読む。櫛で髪を整えることだ。俗に「トク」というのは、乱れを解いて整える意味で「理」の意味に当たる。万葉巻三の「髪梳の小櫛」の髪梳を「クシゲ」と読むのは誤りで、田中道麻呂の「ユスルノヲ」がよい。ユスルは髪をくしけずることだ。万葉巻九の真間の娘子の歌には『髪さえも、といてもとけず』、巻十六には『蜷の腸のように黒い髪を、櫛を持って、ここにくしけずり垂らし、解き乱して』などとある。「梳」はもと木偏だが、わが国では古く手偏で書いたようで、手で行うためだろう。『字鏡』も手の部へ載せる。別に「梳・櫛、クシ」とあるのは木の部なので、櫛の意味では木偏、髪を整える意味では手偏にしたのだろう。記も諸本すべて手偏なので、今もそれに従った。

【宣長の注釈】「服」は「ケシテ」と読む。お着になって、という古語で、「ミケシ(御衣)」のケシを動詞として使ったものだ。ミケシはお着になる物という名で、刀を「御佩し」、弓を「御執し」と呼ぶのと同じである。執し・佩しを動詞にすると「執して」「佩して」となるように、ケシも「ケシテ」となると分かる。後の倭建命の歌の「汝が着せる……」の所で詳しく述べる(伝二十八)。「既」は完全に・すっかりという意味だ。記の序の「己因訓述者……」、書紀継体巻の「全」、万葉巻十七の「天下をすっかり覆って降る雪の」なども同じである。また「私の名は、すでに立つ、その立田山……」もある。後者は普通にいう「早くも」の意味か、あるいは「すっかり」の意味かもしれない。「姿」は「スガタ」と読む。書紀雄略巻には容儀・形容、皇極巻には容止、万葉には光儀・容儀・儀などの字で表す。巻二十には『母と父の玉のようなお姿は、忘れられない』とある。

【宣長の注釈】「交立女人之中」の「立女」を、諸本は「妾」と誤っている。真福寺本に従った。書紀も「女人の中にいた」とする。「妾」も全く誤りとは思えないが、「人」があるので、やはり違うだろう。「妾人」と書くのはどうかと思うからだ。ただその本に従うなら、「妾人」は「ヲミナメドモ」と読む。『和名抄』は妾を「ヲムナメ」とし、孝徳紀の妻妾もそう訓む。女は中古以後「ヲンナ」というが、古語は「ヲミナ」で、『字鏡』にもそうある。したがって妾の古語も「ヲミナメ」だったのが、『和名抄』のころには、すでにミを音便でムといったのだろう。ある人によれば、今も陸奥南部あたりで妾を「をなめ」という。物語には「かけめ」、後世の書には「思ひ物」、今は「てかけ」「めかけ」などという。師の「アラメドモ」という読みはよくない。そもそも「あらめ」という呼称はない。また「人」を添える点から、もし妾人なら「メシヒトドモ」の方がよいだろう。正式な妾というより、妾めいた女性たちと聞こえるからである。「メシ」は、幸・御などを書く意味で、中古の物語でも、そのような者を「めしうど」という例が時々見える。

【宣長の注釈】「室内」は「ムロヌチ」と読む。書紀神功巻の歌の「ハラヌチ(腹の内)」による。「濃」はヌの仮名である。「入坐」の「坐」は単なる敬語で、お入りになるということだ。入って座るのではない。「兄弟」は「アニオト」と読む。「嬢子」は前と同じく「ヲトメ」と読む。「見感」の「感」を諸本は「成」や「咸」と誤っており、延佳本に従った。書紀にも「その少女の姿に心を動かされた」とある。「己中」は、兄と弟の座った間をいうのだろう。

【宣長の注釈】「坐」は「マセテ(座らせて)」と読む。理由は玉垣宮の段、伝二十五・三十四葉で述べた。万葉巻七にも、さまざまに漢女を座らせて、という例がある。これを「カラスヱテ」と読むのは誤りで、漢女は中国の女性をいう。「盛楽」は「サカリニウタゲタリ」と読む。このようにいう時のウタゲは動詞である。書紀には「日本武尊は髪を解き、少女の姿となって、川上梟帥の宴会の時をひそかにうかがった。剣を裾の内に帯び、宴の部屋に入って女性たちの中にいた。川上梟帥はその容姿に心を奪われ、手を取り、同じ席に座らせ、杯を上げて酒を飲ませ、戯れかかった」とある。「酣時」の「酣」を諸本は「酎」と誤っているので、延佳本に従う。「タゲナハナルキハニ(宴たけなわの時に)」と読む。酣には、酒を楽しむ・酒の楽しみ・十分に飲むなどの注がある。「タゲナハ」は「ウタゲナカバ」が縮まったものだろう。初めの音を略す例は普通に多い。またナカを略してナというのは、級長津彦神をシナツヒコという例や、天武天皇の御名の淳中を訓注でヌナという類と同じだ。最後のハは本来濁るはずだが、前のゲも濁音で、近くに濁音が重なるため、自然に清音でいう習慣になったのだろう。ゲは必ず濁らせるべきで、普通これまで清音でいうのは正しくない。

【宣長の注釈】「酒酣」を「サケタケナハ」と読むのはよくない。二字をまとめてタゲナハと読むべきだ。またタケナハのタケを、日がたける、草がたけるという意味と考えるのは誤りで、後の二つは高くなるという別の語である。日がたけるとは古くは朝日が高く昇ることだったのに、今は誤って日が西に傾くことにいう。そのため酣まで、酒宴の盛りが過ぎて少し静まった時と思うのは誤りだ。さらに紛らわしい例がある。史記高祖本紀の「酒闌」へ、文穎は「闌はまばらになること。飲む者の半分がやめ、半分が残るのをいう」と注する。この闌もタケナハと読むのは、酣と同じ意味と取り違えた訓だろう。そう読む根拠はないので、この字によってタケナハの意味を誤ってはいけない。また「闖」をタケナハと読むのも闌から移った誤りで、闖は闖入、つまりむやみに入り込む意味であり、酒宴とは何の関係もない。俗語でいえばタゲナハは酒宴の真っ最中のことだ。甕栗宮の段にも「盛楽酒酣」、書紀も「酒酣」で、タケナハと訓む。しかし今回の書紀は「その時、夜が更け、人がまばらになり、川上梟帥も酔っていた」と記す。「人闌」を人が少なくなって、と読むように、本当の闌の意味で書いたのだろう。それなら記の酣時とは伝承の意味が違う。ただよく考えると、古い伝えの書では酣だったのを、史記の酒闌を酣と同じ意味と考えて、人闌と書き替えた可能性もある。たいへん紛らわしい。しかしどちらにせよ、酣と闌は意味が違い、酣にまばらになる意味はない。混同してはいけない。

【宣長の注釈】ここの「熊曾」は兄の建である。次に弟のことが出るからだ。「衣衿」は諸本が衿を落としており、真福寺本・延佳本に従った。「コロモノクビ」と読む。『字鏡』には「袊は衿、コロモノクビ」とある。『字彙補』の「袊は衣の前襟」という字かもしれない。さらに「衿領は衣の上の縁、コロモノクビノモトホシ」ともあり、モトホシは俗にいう襟である。『和名抄』は「釈名では、衿は頸を包むためのもの、領の音、和名コロモノクビ」とする。今の本の「拾」は「衿」の誤りだ。ただ今の『釈名』はここを領とするので疑問があるが、『字鏡』にも衿とあるから、わが国では領を衿と書きならわしたのだろう。こうした例は多い。襟とは別字だが、どちらも衣のクビ、俗にいう襟で、通用する。ここは胸から刺し通したとあるので、衣の襟をつかむとは、今いう胸ぐらをつかむようなことだ。天武紀でも襟を「キヌノクビ」と訓む。「刺通」は胸から刺して背中まで貫くこと。「椅」は階段で、この字は伝二十・二葉で述べた。『和名抄』は「考声切韻では陛は堂の段、俗に階の字を書く。ハシ、別にシナとも読む」とする。

【宣長の注釈】「背皮」の「皮」は写し誤りである。衣服を着ていれば皮膚はつかめず、たとえ裸でも、背の皮はつかめる場所ではない。師が「以」の誤りとして「以剣」と読んだのに従うべきだ。「剣」の前に「以」がないと言葉が足りない。あるいは「以」が別に脱落し、皮は、上代に寒さを防ぐため衣服の上の背中だけに獣の皮を掛けたものかとも考えるが、やはり違うだろう。「背」は「セ」と読み、衣服の後ろ側を指すのだろう。俗語でも衣の後ろを背といい、物語でも衣を縫う所に「御背を合わせる」などとある。

【宣長の注釈】「自尻刺通」は、前方の下腹あたりへ貫かれたのである。逃げる者を追い、後ろから捕まえたので、尻から刺した。「其熊曾建白言」は弟の建である。兄は胸を刺されたので即死しただろうが、弟は尻から刺されたためすぐには死なず、しばらく耐えて、話すこともできたのだ。「莫動其刀」と申し上げたのは、刺さった刀を動かせば、たちまち命が絶えるからだ。「有白言」は「マヲスベキコトアリ(申し上げることがある)」、また「マヲスコトアラム」とも読める。「暫許」の暫は「シマシ」と読む。万葉巻十五の「シマシクモ」、巻十八の「フレシマシカゼ」、巻十四の「シマラクハ」などが例である。許は師の「ユルシツ」がよい。「バカリ」では後の押伏に言葉が足りなくなる。すぐに殺してしまうはずのところ、相手のいうまま承知して、しばらくとどまり待たれたのである。「押伏」は相手をうつ伏せに押し伏せ、押さえておられたことだ。書紀には「日本武尊は袖の中の剣を抜き、川上梟帥の胸を刺した。まだ死なないうち、梟帥は頭を下げ、『待ってください。申し上げることがあります』と言った。日本武尊は剣をとどめて待った」とある。

【宣長の注釈】「誰」は「タレニマスゾ(どなたでいらっしゃるか)」と読む。「タレナルゾ」と同じで、「ナル」は「ニアル」が縮まったもの、その敬語がマスである。「所知大八島国……」は上巻の伝五・二十一葉に出て、国号考で詳しく述べた。「大帯日子……」の名乗りについて。現に在位する天皇なので、後世の考え方では、「どこそこの宮においでになる」などといわず、御名も申し上げず、ただ天皇とだけいうべきに思われるが、上代はむしろ、このように特に名乗り上げるのが優れた行いだったのだろう。書紀も梟帥が「あなたはどなたですか」と尋ね、武尊が「私は大足彦天皇の子、名は日本童男です」と答える。「者也」はここで「ニマス(である)」と読む。前の「吾者」に続くのであって、「名」に続く語ではない。「意礼」は人を卑しめて呼ぶ言葉で、上巻、伝十五・十七葉に出る。「取殺」は二字で「トレ(討ち取れ)」と読み、前の「取」一字と同じである。

【宣長の注釈】「信然」は「マコトニサニマサム(本当に、その王でいらっしゃるのでしょう)」と読む。倭男具那王だと名乗られたのを受け、本当にその王なのだろうと申し上げたのだ。この王が世に並ぶ者のない勇猛さであることを、以前から伝え聞いており、今、思い合わせていうのである。「マコトニシカリ」と読み、服従せず無礼だというお言葉を受けたとも考えられそうだが、そうではない。「於西方」は都から西にある諸国の中で、ということ。「除」は「オキテ(除いて)」と読む。「建強」は「タケクコハキ(勇ましく強い)」と読む。今のツヨシを古くはコハシといった。俗に恐ろしいことをコハシというのも、強い者は恐ろしいからだ。ここは、私たち二人に並ぶほど勇敢な者はいないという意味である。「大倭国」は畿内の大和を指す。「益」は、まさっての意味。「建男」は「タケキヲ」と読む。師はタケヲと読んだが、それでは「益而」の而に合わず、その読みなら前は「まされる」とするはずだ。「坐祁理」のケリは、目の前の事に少し驚き、感嘆する語である。「自今」で自の下に于を置く一本は誤りだ。「倭建御子」の意味は、前の「大倭国に……」を受けて考えるべきだ。西には私たちと並ぶ勇者がいないのに、さらに強い男が倭国にはいたのだ、という気持ちで呼び申し上げたのである。もとの倭男具那の倭にちなむとも見えるが、やはりそうではあるまい。「応称」は「タタヘマヲスベシ(お称え申し上げるのがよい)」と読む。

【宣長の注釈】「熟苽」は「ホゾチ」と読む。「苽」を延佳本が「瓜」とするのは勝手な改変である。諸本は苽で、『集韻』には瓜を俗に苽と書くのは誤りとあるが、わが国の古書は多く苽と書く。『和名抄』は「熟瓜、和名ホゾチ。十分に熟し、蔕が落ちる意味という説がある」とする。よく熟れて、自然に蔕から切れて落ちるという名だ。蔕はホゾといい、蔕・蒂は通じる。「ホゾチウリ」のウリを省く例も、よくある。斎宮式には七月の節の役人以下の料として熟苽百個とあり、九月も同じ。大膳式には七月二十五日の節に、参議以上四個、五位以上二個とする。内膳式には、六・七・八月に供えるさまざまな野菜として熟苽八個がある。清慎公集では、女御が簀子に長櫃に入れたホゾチを置かせ、夕立になって格子を下ろした隙に、瓜がなくなったので、「盗人はホゾチを見ても、雨が降れば干し瓜だといって、取り隠すのだろうか」と詠む。古今著聞集には、暁行法印が人の家へ行くと瓜が出たが、傷んで水っぽかったので、「山城のホゾチだと人は思うだろうが、水をくんだこれは瓢箪だった」と詠んだ。

【宣長の注釈】「振折」は、師が「折」を「析」の誤りとしたのがよい。「振折」では振るという語に根拠がない。「ホゾチノゴトフリサキツ(熟れた瓜のように、振って裂いた)」と読む。師が「ホゾチヲ、フリサクナシテ」と読んだのはよくない。振析は熟苽の後にあるので、そのようには読めず、瓜を裂く動作にも「振る」は合わない。「熟れた瓜のように振り裂く」は、瓜を裂くように相手を振り裂く意味で、同様の例は多い。「瓦解」を瓦のように解ける、「蜂起」を蜂のように起こると読み、意味は瓦が崩れるように崩れ、蜂が飛び立つように起こる、というのと同じだ。「振」は物を動かし上げることをいい、ここでは尻から下腹へ刺し通した刀をそのまま動かして、上へ裂き上げたことだ。「熟苽の如く」は、この王のすさまじい勇猛さを示す。熊曾を切り裂くのが非常に容易だったことを、柔らかく裂きやすい熟れた瓜にたとえたのだ。「也故」を諸本が「故也」とするのは、上下を入れ替えた写し誤りである。延佳本に也がないのは、私に削ったのだろう。今改めた。若桜宮の段の「矛で刺して殺した。故に……」という例も考えたい。

【宣長の注釈】書紀にはこうある。「川上梟帥はさらに申し上げた。『私は国中で最も強い者なので、人々は私の威力に勝てず、従わない者はありません。多くの武人に会いましたが、皇子のような方はいません。この卑しい賊の口から、尊号を差し上げたいのです。お聞きくださいますか』。尊は『聞こう』と言った。『今から皇子の号を日本武皇子とお称えください』。言い終わると、その胸を貫いて殺した。今に至るまで日本武尊と称するのは、この理由である。その後、弟彦らを遣わし、仲間をすべて斬って一人も残さなかった」。「山神・河神」は、後の「山河荒神」と同じで、山や川にいて人を害する残忍・凶暴な神をいう。白檮原宮の段の熊野の山の荒神、この段の足柄坂の神・信濃の坂の神・伊服岐山の神・走水の渡りの神・柏の渡りの悪神、また書紀のこの巻の「山に邪神、野に姦鬼があり、通り道をふさぎ、人々を苦しめる」という類である。川の神が荒ぶったことは、はっきり書いた例を見ないが、それもあっただろう。書紀仁徳十一年の茨田堤を築く所の川の神も、この類としてよいだろうか。

【宣長の注釈】「穴戸神」は穴戸にいる荒ぶる神である。穴戸は長門国と豊前国の間の海峡で、筑前国の北の海から山陽道の南の海へ入る入口だ。穴戸という名の由来について、源貞世、いわゆる今川了俊の『道ゆきぶり』にはこうある。「十一月二十九日、長門の国府を出て赤間関に着いた。火の山とかいう山のふもとの荒磯を伝い、早鞆の浦へ行くと、向かいの山は豊前の門司関の上の峰だった。海の幅は八町ほどという。満ち引きの潮は宇治の甲の瀬より激しく流れ落ちる。穴戸の豊浦の都というのは、今の赤間関と門司関の間が一つの山で、その中に潮が行き来する穴のような通路だけがあり、岸の東西に家が密集していたので、穴戸といったのだ。皇后の軍船が通りにくかったところ、船の準備をした後、一夜のうちに穴戸の山が二つに分かれ、今の早鞆の渡りとなった。山はそっくり西の海へ寄り、島となった。その島の向かいは柳の浦といって、昔、里内裏のあった所なのだろう」。土地の人が古くから語り伝えた名の由来を聞いて、記したのだろう。

【宣長の注釈】ただし、両岸に家が密集したため穴戸といったという部分は、古語で海の出入口を「戸」というのを知らず、民家の戸と誤解した説である。本当は穴のような海の出入口という意味なのだ。皇后の軍とは、神功皇后が朝鮮を服従させた時の軍をいうと聞こえる。その際、一夜で山が分かれたというのも古い伝説らしい。島となったというのは引島のことで、「引」という名にも由来があると聞こえる。ただこの島名はすでに仲哀紀に見える。後の名でさかのぼって記したのかもしれない。穴戸についてはさらに、内山真龍の考察にこうある。「長門の壇浦と豊前の早鞆崎の間は、土地の人は一里あるというが、非常に近く、わずか五、六町ほどだ。向き合う両岸の山が崩れ欠けたような形を見ると、上代には長門と豊前が続いた岩山で、その下に東西へ通じる洞があり、潮も船も通ったのだろう。それで穴戸というのだろう。仲哀紀の洞海もここだ。その後、洞の上の山を切り開き、今のような普通の海になったのだろう。しかし今も岸は高く、間の海は非常に狭く、穴のようで、満ち引きの潮は早い川のように流れる。西へ行くと次第に広がり、長門の赤間関から豊前の柳浦までの船路は一里という。早鞆神社は豊前の地にあるが、今も土地の人が長門の社というのは、昔は陸続きで長門国の内だったからだろう、と真龍はいう。

【宣長の注釈】私、宣長が考えるに、これらの考察は貞世の記録とおおむね似ている。洞海(クキ)のクキはクグリで、山の下の洞をくぐって船が往来したことからの名だろう。今、海峡の北は長門国で、壇浦・赤間関が西へ並び、さらに西は大海である。南は豊前国で、早鞆・門司関・大里・柳浦・小倉が西へ並び、その西は筑前国に続く。引島は海峡の西の入口にあり、長門に属する。ついでにいうと、早鞆神社は海布刈社ともいい、毎年十二月晦日の夜に海布刈神事がある。その夜はいつもより非常に潮が引き、神主が海辺の石段を五百段下りて、海底の海藻を刈る。同時に長門一宮の神主も松明を持ち、北から五百段下りて向かい合い、丑の時が過ぎるころ南北へ別れる。これによって五百段浦、略して壇浦という、と伝える。この海峡から、国も穴戸国といった。今の長門国である。国のことは豊浦宮の段、伝三十九で述べる。

【宣長の注釈】書紀は「海路で倭へ帰り、吉備へ着いて穴海を渡った。そこに悪神がいたので殺し、難波へ至ると柏の渡りの悪神を殺した」とする。また別の所に「吉備の穴の渡りの神と難波の柏の渡りの神だけが、悪心を持って毒気を放ち、通行人を苦しめたので、悪神をすべて殺し、水陸の道を開いた」とある。伝承が異なるのである。同じ場所の悪神の話が同様に二度出るのは、一つの事が紛れて二つになったのか。あるいは初めの穴海は記と同じ長門だったのが、後の穴の渡りと混同されて吉備となったのか。いずれにしても混乱があるはずだ。記はただ穴戸とするので吉備ではない。書紀によって誤解してはいけない。吉備の穴海・穴の渡りは備後国安那郡の海である。郡名はもとアナだが、『和名抄』のヤスナ、今の呼び方も、穴という語を嫌って後に変えたものだ。駿河の郡名「益頭」の読みをマシヅと変えた類である。安閑紀の婀娜国、国造本紀の吉備穴国造などもこれだ。今の安那郡に海はないが、南の深津郡は養老五年に分かれたので、昔は海まで安那郡だった。書紀の吉備穴戸武媛という名から、この吉備の地も穴戸といったらしい。神名帳の備中国下道郡の穴戸山神社は別の場所だろう。『和名抄』には同郡の穴田郷もある。

【宣長の注釈】「言向和」は上巻の伝十三・十葉と二十四葉に出る。「参上」は、ここでは都へ帰ろうとして、その道をお進みになったことをいう。もう到着したのではない。「マシキ」のキは過去の語だが、昔の出来事を語っているので支障はない。後の「参上覆奏」の方が、実際に都へ到着したことをいう。

【古事記本文】倭建命は出雲国に入られた。出雲建を討とうとやって来て、まず親しく友となった。ひそかにイチヒの木で刀そっくりの物を作って帯び、一緒に肥河で水浴びをした。倭建命は先に川から上がり、出雲建が外して置いた太刀を取って帯び、「刀を交換しよう」とおっしゃった。後から上がった出雲建は、倭建命の木刀を帯びた。そこで倭建命が「さあ、刀を合わせよう」と持ちかけた。互いに刀を抜こうとした時、出雲建は偽の刀を抜けず、倭建命はご自分の刀を抜いて、出雲建を打ち殺された。そして歌った。「幾重もの雲が湧く出雲。その出雲建が帯びた太刀は、つづらをたくさん巻いてはいても、本当の刀身がない。ああ、哀れだ」。このように敵を払い平らげ、都に帰って復命された。

【宣長の注釈】「出雲国に入られた」のは、穴戸の神を服従させ、都へ帰る途中、出雲建も従わせるため出雲へ向かわれたのである。出雲建も、服従せず礼を欠く者だったのだろう。書紀の伝承は大きく違い、後で引用する。神名帳には大和国山辺郡の出雲建雄神社がある。

【宣長の注釈】「到」は出雲国へ到着されたことだ。「結友」は「ウルハシミシタマヒキ(親しく睦み合われた)」と読む。万葉巻十六に「死ぬも生きるも同じ心と結んだ友は変わらない」とあるので、結をムスビと読んでもよさそうだが、字どおりでは古語にならないだろう。師の「トモガキトシタマフ」もよいとは思えない。万葉巻十八の「百合の花のように、後にも会おうと思うからこそ、今この時も親しく交わるのだ」も、友として睦び合うことを詠む。上巻の愛友の注(伝十三・六十葉)も考え合わせたい。「赤檮」は「イチヒノキ」と読む。書紀用明巻には「赤檮、これをイチビという」とある。毘は濁音の字だが、書紀では清音にもよく使う。記も万葉も、この木には比を使うので濁らせてはいけない。『和名抄』は櫟子をイチヒ、『字鏡』は杞や櫟をイチヒノキとする。万葉巻十六の「この片山に二本立つ、いちひのもとに」、また市柴・五柴なども、その木の柴だろう。今もイチヒといい、イチカシともいう、樫の仲間である。記ではカシに白檮、イチヒに赤檮を当てる。詳しくは伝二十五・二十葉で述べた。

【宣長の注釈】「作詐刀」は師の「タチニツクリナシテ」に従う。偽の刀の古名もあったかもしれないが、伝わらないので今は分からない。字のまま「イツハリダチ」などと読んでは古語ではあるまい。作りなすは、本物の刀に似せて作ることだ。「為御佩」は「ミハカシツ」と読む。為は「して」に当たり、記にはこの書き方が多い。「ミハカシトシツ」とも読めるが、ミハカシというと刀そのものの名になるので、ここにはよくない。帯びられたという意味である。動詞に御を付けるのは、寝ることを御寝坐という類と同じだ。「共」は出雲建と一緒に、ということ。「肥河」は上の伝九・十九葉、十六葉に出る。「沐」は師の「カハアミシタマヒキ」がよい。書紀にも游沐とある。沐は『説文』が髪を洗うとするように、入浴の意味はないのに、記も書紀もその意味で使う。普通、沐浴と続けていうため混同したのだろうか。霊異記も澡浴にカハアミテと訓を付け、文選の孫興公「游天台山賦」の、霊妙な渓流を過ぎて一度身を洗う、という濯もカハアムと読む。万葉巻十六にも「鍋で湯を沸かせ……狐に浴びせよう」とある。

【宣長の注釈】「自河先上」は、すでに水浴びを終え、出雲建より先に川から上がったこと。「解置横刀」は、前に刀を外して置いたとは書いていないが、水浴びの時に外すのは当然である。「為易刀」は「タチカヘセム(刀を交換しよう)」と読む。上代には刀易という行為があったのだろう。「後」は、命が先に上がったのに対していうだけだ。「倭建命之詐刀」の詐を諸本は作とする。作刀でも意味は通るが、前後とも詐刀なので、ここだけ別字のはずはない。真福寺本・延佳本に従った。ここでの詐刀は「コダチ」と読み、以下も同じだ。前とは違う読みになるが、前はイチヒの木で、とあって、木刀といわずとも分かるので、語の形が違う。書紀に木刀とあるのによる。ただ書紀はキダチと読むが、高津宮の天皇の歌で木钁をコクハと読む例に従い、コダチとした。そのコクハを小钁とするのは誤りで、小の音を借りる時は必ず古を書くのが、記の表記の決まりだからである。

【宣長の注釈】「倭建命誂云」の命は諸本にないが、延佳本に従った。また誂を誹とするのは誤りである。誹はそしる意味なので合わない。古い刊本や延佳本の「アザムキテ」も根拠がなく、師のタハレテも、俳の字ならそう読めようが、誹には合わない。ただ師の本の傍らに誂と添えた字はよいので、今改めた。誂は『説文』に互いに呼び誘うと注があり、玉垣宮の段の「私に持ちかけて言った……」(伝二十四・三十六葉)、万葉巻九の「互いに持ちかけ、言葉にしたので」などに見える。「伊奢」は誘う言葉で、率去来などとも書く。「合刀」について、上代の刀易は、ただ刀を交換して帯びるだけでなく、刀を合わせて試す作法もあったのだろう。そうでなければ今、突然こうおっしゃるはずがない。交換には決まった作法があったから、このようにいったのだろうし、ただ交換して帯びるだけでは、何のためか分からない。しかし、その刀合わせの詳しいやり方は今は分からない。「不得抜詐刀」から考えると、この偽の刀は刀身と鞘が分かれず、ただ外見を刀に似せた物だったのだ。木で刀身を作り、鞘へ入れたのではなく、俗にいう刀身と鞘を一体に作り付けた物だから、抜けなかったのである。ある人は「木だけなら本物よりはるかに軽く、初めに帯びる時、誰でも偽物と気づくはずなのに、気づかず抜こうとまでしたのはなぜか」と疑った。答える。そのような細部を今論じるべきではない。初めから人を欺こうと作ったのだから、重さも何も、欺けるように作られたのだろう。

【宣長の注釈】「抜其刀」は、ご自分が帯びた、出雲建が外して置いた刀である。「歌曰」の曰を諸本は白と誤っており、真福寺本・延佳本に従った。「夜都米佐須」の夜を古い刊本が衣とするのも誤りだ。この句は八雲刺で、「八雲立つ」と同じである。書紀は「椰句毛多莵(やくもたつ)」とする。ヤツクモのモがメに通じ、ツクがツに縮まったのだ。八雲をヤツクモというのは、万葉巻十八で八世をヤツヨとするのと同じで、八峰をヤツヲという例も同様だ。ヤはもともと、どれもイヤ、ますます重なる意味である。このヤツメを、ツとクが同じ韻なのでクモをツメといった、と考えるのは正確でない。クをツに通わせるのは遠すぎる。

【宣長の注釈】続紀巻十一に歌曲名として「八当刺曲」がある。これも八雲立つ曲という意味に聞こえる。曲名は歌の冒頭から取るのが例で、上巻の夷振の所で詳しく述べたとおり、この曲もそう名づけたのだ。ヤツモサスブリと読み、このヤツメと照らすと、どちらもヤツクモが縮まったと分かる。八当をヤモと読んでは八雲から遠い。クモのモをメというのは、もともと通じる音であるうえ、雲は特にクメともいえる。上巻の豊雲野神の注で述べたように、クモとコモリはもと同じ語なので、籠もる意味でクメともいえる。雲は物を覆い込めるものだからだ。立つを刺すというのは、師のいうとおり、物が立ち上がることを差し上がるとも普通にいうためである。万葉巻三にも「八雲刺、出雲の子ら」とある。延佳は、ヤツメサスは八芽萌で藻に縁のある語、万葉の伊都藻と出雲が通じる、とした。師は「崇神紀の玉萋鎮石は『いづ藻』の枕詞なので、延佳説も根拠がなくはないが、刺す・立つは藻とは無関係で、藻に八芽萌ともいえない。やはり、ますます雲が立つことをヤツメサスともいうのだ」と述べた。本当にそのとおりだ。また、春の芽は生き生きしているので「いやつ芽さす」であり、出雲のイヅは生き生きした意味だという人もいるが、それも誤りである。芽は張るなどといい、刺すという例はない。イヅイヅシという語も聞いたことがない。

【宣長の注釈】「伊豆毛多祁流賀」は出雲建が、ということ。「波祁流多知」は帯びている剣で、先ほどの木刀を指す。真福寺本ではこの間に「都豆」の二字がある。次の句の冒頭が誤って重なったのかもしれないが、断定しにくい。あるいは調子を助け、次の句に勢いをつけるため、語の頭を先に出したのかもしれない。同様の例は水垣宮の段の歌にもあるので参照されたい(伝二十三・六十四葉)。「都豆良佐波麻岐」は、契沖が、つづらをたくさん巻くこと、柄につづらを多く巻いたのだ、とした。ただ柄だけでなく鞘も巻いたことだろう。同じ契沖が、ハとヤが通じるのでサハは鞘かとしたのはよくない。サハは多く、である。ツヅラは延喜式などでは黒葛と書く。『和名抄』の馬鞭草、クマツヅラは別種だろう。万葉巻十四の浜つづらは浜にあるものをいい、安蘇山つづらは山の名アソヤマである。古今集恋四には「梓弓、引野のつづら」、うつほ物語俊蔭巻には「青つづらを大きな籠に組んで」、拾遺集の「こにやく」という物名歌には「野を見れば春らしくなった。青つづらを籠に組もうか、若菜を摘むために」とある。今もこれで組んだ大きな籠をツヅラという。書紀釈にも、上古には葛を刀に巻いたとある。

【宣長の注釈】「多く」の語はサハニ・サハナリなどと使い、ただサハという例はほとんど見つからない。しかしここは別の語とは聞こえず、たくさんの意味だろう。サハニは、今いう沢山に、にぴったり当たる。万葉の「やまさは人」、俗語の「山ほど」「山々」、また「沢山」を考え合わせると、多くという語も「沢」から出たのだろうか。この句は、刀の柄と鞘につづらをたくさん巻いただけの、外側の飾りにすぎないことをいう。「佐味那志爾阿波礼」は、本当の刀身がない、ああ、ということである。真をサという例は多く、前に述べた。身は刀身である。木で偽造した刀だから、刀身がない。契沖がサミを鉏としたのは適切かどうか、まだ決められない。鉏は上巻の佐比持神の注、伝十七・四十七葉で詳しく述べ、サミも論じたので照合されたい。

【宣長の注釈】契沖は、アハレとは、このつづらを巻いた物を木刀と知らず、斬り合って殺されたことを、当時の人が哀れむのだ、とした。当時の人というのは書紀に注釈したためで、書紀は「時の人が歌った」とし、記とは伝承が違う。今比べると、末の二句は、時の人が詠んだとする方が優れて聞こえる。出雲建の話は書紀崇神六十年では、出雲臣の遠祖・出雲振根と弟・飯入根の話として次のようにある。「年月がたっても恨みを抱き、弟を殺そうと考えた。弟を欺いて『近ごろ止屋淵に藻が多く生えた。一緒に見に行こう』と言い、弟は従った。兄は前もって木刀を本物に似せて作り、自分で帯び、弟は真刀を帯びた。淵へ着くと兄は『水が清らかで冷たい。一緒に水浴びしよう』と言った。二人は刀を外して岸へ置き、水へ入った。兄が先に上がり、弟の真刀を取って帯びた。後から弟は驚いて兄の木刀を取り、斬り合おうとしたが、抜けなかった。兄は弟の飯入根を打ち殺した。そのため時の人は『やくもたつ……』と歌った」。第二句以下は記と全く同じだが、伝承はたいへん異なる。

【宣長の注釈】「如此」は熊曾建の話からここまでをすべていう。「撥治」は「ハラヒタヒラゲツ(払い平らげた)」と読む。「ハラヒホゲツ」とも読める。白檮原宮の段の、服従しない人々を退け払って、という箇所(伝十九・六十八葉)で詳しく述べた。「覆奏」は伝十三・十一葉に出て、覆の字も伝十七・四十五葉で述べた。

【古事記本文】天皇はまた続けて倭建命に、東方十二道の荒ぶる神と服従しない人々を、言い聞かせ平定するようお命じになった。吉備臣らの祖、御鉏友耳建日子を付き添わせて遣わす際、ヒヒラギで作った長大な矛を授けられた。「比比羅」の三字は音を表す。命は命令を受けて出発する時、伊勢大御神の宮へ参り、神の御門を拝み、おばの倭比売命に申し上げた。「天皇は、私に早く死ねとお思いなのでしょうか。西方の悪者たちを討てと遣わし、帰参してまだいくらもたたないのに、軍勢も賜らず、今度はまた東方十二道の悪者たちを平らげよと遣わすのはなぜでしょう。こう考えると、やはり早く死ねとの思し召しなのです」。悲しんで泣きながら出発する時、倭比売命は草那芸剣(くさなぎのつるぎ)を授け、さらに袋を渡して、「急なことがあれば、この袋の口を解きなさい」とおっしゃった。「那芸」の二字は音を表す。

【宣長の注釈】「頻」は「シキテ」と読む。万葉巻十一の「重ね重ねあなたを見る機会がほしい」などに多い。数は借字である。シクシク、イヤシキも同じ語で、事が次々重なることをいう。普通のシキリニもシキが延びた語で、それで重とも書く。「東方十二道」は水垣宮の段、伝二十三・五十七葉に出る。「荒夫琉神」の琉を古い刊本・延佳本は流とするが、ほかは皆琉である。悪神・荒神とも書き、前に何度も出た。「摩都楼波奴人」は伝十九・六十七葉、「言向和平」は伝十四・六十八葉に出る。吉備臣は黒田宮の段、伝二十一・五十二~五十七葉で述べた。「御鉏友耳建日子」の名のうち、鉏友は懿徳天皇の御名の注(伝二十一・十葉)のとおりで、耳は例の尊称だ。後では吉備臣建日子、書紀では吉備武彦という。姓氏録には「下道朝臣は吉備朝臣と同祖で、稚武彦命の孫、吉備武彦命の子孫」とある。また「廬原公は笠朝臣と同祖、稚武彦命の子孫。その孫の吉備建彦命は景行天皇の時、東方へ遣わされ毛人と鬼神を討ち、阿倍・廬原国に至り、復命の日に廬原国を与えられた」とする。『和名抄』には駿河国安倍郡・廬原郡がある。さらに「真髪部は稚武彦命の子、吉備武彦命の子孫」ともある。稚武彦命の孫とも子ともいうのは、どちらが正しいだろう。稚武彦命のことは伝二十六・四葉でも述べた。

【宣長の注釈】書紀は今回、この人と大伴武日連を同行させ、七掬脛を食事役として遣わしたとする。「比比羅木之八尋矛」について。『和名抄』は「楊氏の漢語抄では杠谷樹、別名黄芩、和名ヒヒラギ。巴戟天も同じ」とするが、黄芩を当てるのは理解できない。『字鏡』も巴戟天・杠谷樹をヒヒラギとする。ある人は、ヒヒラギの漢名は枸骨、別名剛穀で、その字音から杠谷といったのではないか、と述べた。続紀巻二には、大宝二年正月に造宮職が長さ八尋の杠谷樹、俗名ヒヒラギを献じ、同年四月に秦忌寸広庭が杠谷樹の八尋の桙を献じ、使者を通じて伊勢大神宮へ奉納したとある。『倭姫命世記』は、日本建命がヒヒラギの八尋鉾を大神宮へ献上し、倭姫皇女が緋色の袋へ入れて大神の貴い宝とし、八尋尊として播磨機殿へひそかに収め、大神の御霊としてあがめ祭った、とする。これは記のこの段と右の続紀を合わせて作った話ではないか。播磨風土記で、息長帯日女命が新羅平定に出発する時の神の言葉にも「ヒヒラギの八尋桙が底へ届かない国……」とあり、出雲風土記の島根郡生馬郷の条には、八尋鉾長依日子命という神名も見える。

【宣長の注釈】桙を桙根ともいうのは、古く物の名にネを添える例が多いためで、屋根・岩根・島根なども同じである。書紀神武巻の剣根は人名なので、名の上にネを添えたのか、剣自体も剣根といったのかは分からない。さて上代の矛は刃のある物だけでなく、木だけの物もあり、このヒヒラギの矛もそうである。刃があり柄だけがヒヒラギなら、柄の材の名を矛の名にする理由がないことを考えたい。続紀巻十八には桙削という職人も見える。柄を削るなら桙柄削というべきで、ただ桙削というのは木の桙だからである。古書で鉾の字を木偏の桙へ変える例が多いのも、木の矛が多かったためだろう。桙には本来、矛の意味はなく、日本での使い方である。中国でも槍叉などは刃がなく木で作った物だ。だから昔の木矛は、今いう棒の類だったのだろう。ただ、刃のある物も木だけの物も形はいろいろあり、広矛という名も見える。近世の槍も矛である。八尋とは、たいへん長いということだ。

【宣長の注釈】書紀神代巻では、大穴牟遅神が国を譲る時、国を平定した際に手にした広矛を、経津主神・武甕槌神へ与え、「私はこの矛で治める功を成した。天孫がこれで治めれば必ず平安であろう」といった。また、このヒヒラギの八尋矛こそ、その広矛であり、大穴牟遅命から皇孫へ献じて以来、朝廷に伝わった物を、今倭建命へ授けたのだという説もあるが、どうだろう。あまりに推測が過ぎる。神功巻にも、皇后が手にした矛を新羅王の門へ立てて後世のしるしにした、とある。古く将軍などは矛を手にするもので、今回ヒヒラギの矛を賜ったのも、そのためだ。書紀はあらゆることを強いて中国風にしようと、この矛まで斧鉞と改めた。矛のつもりで書いた可能性はあっても、たいへん不適切だ。このような時に斧鉞を使うのは異国の習慣で、わが国では古今とも用いたことが全くない。二字をホコと読み、桙と理解すべきだ。神功巻の「皇后が自ら斧鉞を執って軍を指揮した」も同じで、その後に皇后が手にした矛とあるので、実際は矛だったと分かる。継体巻・天武巻の斧鉞を執る、授けるなども、どれも漢文上の表現にすぎない。

【宣長の注釈】「罷行」は「マカリイデマス(おいとまして出発なさる)」と読む。罷を諸本は羅と誤り、真福寺本・延佳本に従った。罷は天皇の御所を去ってほかへ行くことで、参の反対である。「神朝廷」の廷を真福寺本は庭とするが、同じことだ。神朝廷は大神の宮の御門を指す。朝廷の字に特別な意味はなく、読みが同じなので借りただけだ。天皇の朝廷も、名の意味は元は御門から出た。『延暦儀式帳』は御門十一間、うち屋根のある門が三間、それぞれ長さ一丈五尺、幅一丈、高さ九尺、屋根のない門が八間、それぞれ長さ一丈三尺、高さ九尺とする。また四門として瑞垣御門・番垣御門・玉串御門・玉垣御門も挙げる。これらは前の屋根付き門などの名だが、そのうち番垣御門は屋根なしで、その理由は次に述べる。番は藩に当たり、籬、つまり囲いの意味である。「於菅」の菅は屋根を指し、通常の形の門をいい、「於不菅御門」は世にいう鳥居である。鳥居という名は古くは見当たらない。

【宣長の注釈】また『儀式帳』には「内玉垣御門」「外玉垣御門」「板垣御門」ともある。内玉垣御門は前記の玉串御門、外玉垣御門は玉垣御門である。板垣御門については次に述べる。これらの門にはそれぞれ垣があり、その垣に付属している。『儀式帳』には、瑞垣一重が長さ49丈・高さ1丈、玉垣三重のうち一玉垣が長さ14丈、二玉垣が周囲60丈、三玉垣が周囲102丈、板垣が周囲138丈6尺とある。瑞垣は一番内側の垣で、その門を瑞垣御門、または第一御門という。一玉垣は内側から二番目で、番垣という。これは四方を囲まず南の正面だけにあるため、これだけは「周囲」といわず、長さも14丈と、ほかの垣とは大きく違う。その門は番垣御門、または第二御門という。屋根を葺かない門だが、鳥居とは形が異なり、俗に猿頭御門という。二玉垣は内側から三番目で、瑞垣の外を囲み、その門は玉串御門、または第三御門という。現在、人々が参拝する門がこれである。三玉垣は四番目で二玉垣の外を囲み、門は玉垣御門、または第四御門という。外玉垣御門もこれで、今は垣がなく門だけが残る。板垣は三玉垣の外を囲み、その内側を内院と呼ぶ。今はこの垣もすっかり失われた。板垣御門は屋根を葺く三つの門に入らないので、屋根を葺かない門だったのだろう。以上は『儀式帳』に基づく考察である。多少疑問もあるが、詳しく論じると長くなるので、概略を示した。

【宣長の注釈】「白其御姨倭比売命」について。『儀式帳』には、大御神の宮を定め、さまざまなことを決めたのち、倭姫内親王は朝廷へ戻ったとある。一見すると倭比売命はその時すぐ都へ帰ったようだが、そうではない。終わりまでの経過を一つにまとめた文章であり、実際の帰京は何年も後だったはずだから、倭建命が訪れた時にはまだ伊勢の宮にいたのである。『書紀』景行紀では20年に五百野皇女を遣わして天照大神を祭らせ、倭建命の参拝を28年とする。それなのに倭姫命がなお伊勢にいるのは、年代が合わない。五百野皇女が倭比売命に代わったのは、倭建命の参拝後だったはずである。

【宣長の注釈】「既所以思吾死乎」は「はやくあれをしねとやおもほすらむ」と読む。「所以」を「ゆえ」と読むと文が落ち着かない。「おもほす」だけなら「以」が余るが、後の「所思看」と対応させれば、ここもそう読むべきである。「以」はもとは「思」の下にあって「以吾」だったのを、後に誤って上へ移したのだ。「を」と読むところに「以」を使う例は『古事記』に多い。「既」はここでは、早くそうなれと願う意味の「はやく」で、「死」にかかる。字義には合わないが、すでに過ぎたことも「はやく」というため、この字を当てた。言葉さえ同じなら文字にはこだわらないのが古い表記の常である。後の「吾既死」でも分かる。「や」「らむ」は「乎」の意味に当たり、「や……らむ」は当時の俗語の「……か」に当たる。全体で「私に早く死ねとお思いなのか」という意味である。「何」は「いかなれか」と読む。「いかなればか」の「ば」を省く古語の形で、後の「悪人等を平遣」までかかる。「悪人」は「まつろはぬひと」と読む。後の例も同じである。「悪神」は「あらぶるかみ」と読むが「あらぶるひと」の用例は見つからない。水垣宮の段の「そのまつろはぬ人等を言向け和せしむ」という例による。ここでは前の熊曾建らを指す。「撃遣」は「とりむけつかはし」と読む。

【宣長の注釈】「間」は「ほど」と読む。『万葉集』巻十一の「拷間」、巻十六の「五月間爾」などが例である。「未経幾時」は「いくだもあらねば」と読む。打消の「ぬ」を「ねば」と続ける古語の例は多い。『万葉集』巻五には「手の末に玉環まきて、さ寝し夜の、いくだもあらねば、つつか杖、腰にたがねて……」(手に玉の腕輪を着けて共寝した夜から、いくらもたたないのに、杖を腰に取り添えて……)、巻十には「さ寝始めて、いくだもあらねば、白栲の帯乞ふべしや、恋も尽きねば」(共寝を始めて間もなく、恋心も尽きないのに、白い帯を返せといえようか)とある。「不賜軍衆」は少し疑問で、「不」は「亦」や「又」の誤りではないか。その場合は「また軍勢を授けて」となる。しかし軍勢を授かることはない、というのがここではふさわしい言い方なので、やはり古写本どおりなのだろうか。「私を死なせようとお思いなのか」と述べる以上、「授けない」とあっても理由がないわけではない。「今更」は「今また改めて」の意味。「東方十二道」は水垣宮の段、伝巻二十三57丁に出た。「平遣」は「ことむけにはつかはすらむ」と読む。「らむ」を補うのは、前の「何」に応じる結びだからである。「何」はここまでかかり、天皇への恨みを申し上げる言葉である。

【宣長の注釈】「思惟」の二字は「おもへば」と読む。「猶」は白檮原宮の段、伝巻十八9丁で述べたように、あれこれ考えた末、結論を決めたことを示す。「所思看」は「おもほしめすなりけり」と読む。諸本の「看」を「者」とするのは誤りで、真福寺本による。玉垣朝の段にも「所思看者」、『続紀』巻二十にも「所思看」、『万葉集』巻十五32丁には「おもほしめすな」、巻十八に「おもほしめすなりけり」とある。ここで「なりけり」を補うのは、そうだと考え定め、少しも疑わない言い方である。前の「はやく私を死なせようとお思いなのだろうか」は、まず大まかに考えた時の言葉なので、「や」「らむ」を使い、まだ断定していない。それから考えを巡らし、やはり早く死なせようと思っておいでなのに違いない、と結論した言葉である。事情を踏まえ、文章をよく味わって理解してほしい。これほど武勇に優れた皇子がこのように申し上げた心中を思うと、まことに悲しい言葉である。それでも父天皇の命令に背かず、過ちもなく、勇気もいささか衰えずに使命を果たしたのは、実に得難く尊い。これ以後も勇気を失わず成功を収め、父の命令を守る勇敢で正しい心を持ちながら、恨むべきことは恨んで悲しみ、悲しむべきことは悲しんで泣く。これこそ人間の真心だ、と宣長はいう。もし中国人なら、これほどの人物は内心で深く恨み悲しんでも隠し、表には出さず、こういう時もいつもの勇ましく強い言葉ばかり述べるだろう、と比較する。この例から、中国の人が表面を飾ることと日本の古人の真心との違いを、ほかのことにも推し広げて理解すべきだという、宣長の見解である。「罷時」は、倭比売命のもとを退いて東国へ下る時をいう。

【宣長の注釈】草那芸剣は上巻、伝巻九37丁と巻十五20丁に出た。名の由来は後で述べる。この剣は神代から天皇の三種の宝の一つとして代々宮中にあったのに、なぜ今は伊勢神宮にあるのか。『古語拾遺』には、「磯城瑞垣朝になると神威をおそれ、同じ殿に置くことを安んじなくなった。斎部氏に石凝姥神・天目一箇神の子孫の二氏を率いさせ、新しく鏡を鋳て剣を造り、身を守る御璽とした。これが今、即位の日に献ずる神璽の鏡と剣である。一方、大和の笠縫邑に磯城の神籬を立て、天照大神と草薙剣を遷し、皇女豊鍬入姫命にお祭りさせた」とある。このように天照大御神の御霊鏡と一緒に遷したため、伊勢にあるのだ。『書紀』崇神・垂仁紀の天照大御神遷座の箇所に剣がないのは、伝承から自然に省かれたのだろう。『古語拾遺』の伊勢鎮座の記事にも剣がないが、これも省略である。それほど重い宝を、倭比売命が自分の判断で倭建命に渡したことは、後世の感覚では非常に理解しにくい。しかしそうする理由があったのだろう。普通の人間の考えで、むやみに推測はできない。別の考えとして、「草那芸」は「大葉刈」などのように剣の切れ味をいう名称で、一振りだけの固有名ではなかったのではないか。『古事記』には倭建命が草を薙いだため名が付いたとはなく、『書紀』もそれは別伝として掲げ、本文には記さない。『延喜式』にも伊勢国度会郡、外宮の摂社として草薙神社があり、これも別の剣にちなむ神名である。それなら倭建命に授けた剣も三種の宝とは別物か、とも考える。しかし『古事記』『書紀』とも、この名の別の剣を記さず、一振りの名と読める。ことに『書紀』神代巻には「この剣は今、尾張国の吾湯市村にある」とあるので、この別物説は成り立たない。

【宣長の注釈】「御囊」は後に出るので、その箇所で説明する。「而詔」を旧刊本と一本が「詔而」とするのは、上下を取り違えたもの。真福寺本・延佳本と別の一本による。『書紀釈』の引用も同じで、さらに「而」のない本もある。「急事」は「とみのこと」と読む。急な出来事のことである。「とみ」は「と(速)」から動いた語形で、「頓」の音だとするのは誤り。『古今集』には「とみの事とて書をもて来たり」、『伊勢物語』にも「とみの事とて御書あり、驚きて見れば」とある。『源氏物語』夕顔巻の夕顔が突然息絶える箇所にも「かかるとみの事には、誦経などをこそはすなれ」(こういう突然の事態には、誦経などを行うものだ)とある。このほか「とみに」の例も多い。これは当時の俗語の「早速に」に当たる。「急事」はまた「にはかなること」とも読める。

【宣長の注釈・書紀との比較】『書紀』は次のように記す。「40年夏6月、東方の者が多く反乱し、辺境が騒いだ。秋7月、天皇は群卿に『今、東国は不安で荒ぶる神も多く現れ、蝦夷も皆背き、繰り返し民を襲う。誰を遣わして鎮めるか』と問うた。臣下は誰を遣わすべきか分からなかった。日本武尊は『私は先に西征で苦労した。今度の役目は大碓皇子が担うべきです』と申し上げた。大碓皇子は驚き……日本武尊は勇ましく告げ……天皇は斧鉞を手にして日本武尊に授け……『東の者の中でも蝦夷が特に強く……昔から王の教化を受けていない。今、お前の人柄を見れば……姿は我が子でも実は神のような人だ……天下はお前の天下、位はお前の位である……』と述べた。日本武尊は斧鉞を受け……天皇は吉備武彦と大伴武日連を同行させ、七掬脛を料理役とした。冬10月に日本武尊は出発し、道を曲げて伊勢神宮を拝み、倭姫命に『今、天皇の命を受け、東へ行って背く者を討ちますので、お別れを申し上げます』といった。倭姫命は草薙剣を取り、『気をつけ、怠らないように』と授けた」。皇子が天皇に述べた言葉は、『古事記』で倭比売命に申し上げた内容とひどく異なる。しかし元の伝承が違ったのではなく、撰者が無理に中国風にした文章だ、と宣長は考える。『書紀』のこの段は特に中国風で、上代の心や言葉ではない。古い伝説のうち中国風でない部分を省き、中国風の文を多く飾り添えたように見えるという。そのため今の引用でも、その種の文は煩雑なので多くを省略した。その段で『古事記』の趣旨に近いのは、「私は先に西征に苦労した。今度の役は大碓命がすべきだ」と述べた箇所だけである。

【古事記本文】そこで尾張国へ着き、尾張国造の祖である美夜受比売の家に入られた。結婚しようと思ったが、都への帰りに結婚しようと約束を決め、東国へ向かわれた。そして山や川の荒ぶる神々も、服従しない人々も、ことごとく従わせ、平定された。相武国に着いた時、そこの国造が「この野原の中には大きな沼があり、その沼に住む神は、はなはだ荒々しい神です」と偽って申し上げた。その神を御覧になろうと野原に入ると、国造は野原に火を放った。だまされたと知った倭建命は、叔母の倭比売命から頂いた袋の口を開けて見ると、中に火打ちがあった。そこでまず剣で草を薙ぎ払い、その火打ちで火を起こし、向かい火を付けて火を焼き退け、外へ戻られた。そして国造たちを皆斬り殺し、その体に火を放って焼いた。それで、その土地は今も「焼遣」と呼ばれている。

【宣長の注釈】尾張国の名の意味は、まだ思い当たらない。『万葉集』巻十三の「小沼田之、年魚道之水乎……」の「沼」は「治」の誤りで、「をはりだ」だろう。『続紀』巻二十九に、尾張国山田郡の小治田連薬ら八人に尾張宿禰の姓を与えたとあることを考え合わせると、尾張を小治田とも呼んだのか。そうなら「小治」で、田にちなむ名だろう。神代には伊都之尾羽張という剣名もあるので、「尾羽張」が縮まったのかとも思うが、尾張という国名は倭建命以前からある。草薙剣が大蛇の尾から出たことに結びつける説も当たらない。国の形が南へ長く尾を張るようだから、という説もどうか。この国の『風土記』と称する書には「終わり」の意味とする説明もあるが、はっきり納得しがたい。この『風土記』は全般に少し後世のものである。国名については、掖上宮の段、伝巻二十一22丁の尾張連の注とも考え合わせてほしい。『神名帳』山田郡には尾張神社と尾張戸神社がある。尾張国造の氏族については同段、伝巻二十一21丁で詳しく述べた。『国造本紀』に「志賀高穴穂朝に、天別天火明命の十世孫、小止与命を国造に定めた」とある。小止与命は美夜受比売の父だから、志賀高穴穂朝とするのは代が違う。この点も伝巻二十一で述べた。『姓氏録』河内国神別の尾張連は、火明命の十四世孫、小豊命とする。『旧事紀』巻五の系譜では小止与命は饒速日命の十一世孫である。

【宣長の注釈】その系譜は、饒速日命の子が、天香語山命、その子が天村雲命、別名天五多底、その子が天忍人命、その子が天戸目命、その子が建斗米命、その子が建宇那比命、その子が建諸隅命、その子が倭得玉彦命、別名市大稲日命、その子が弟彦命、その子が淡夜別命、その子が乎止与命、となる。ただし始祖を饒速日命とするのは偽りで、実は天火明命だということは、伝巻十五9丁、巻二十一21丁で述べた。この氏の者が尾張国に住んだのは小豊命が最初だったのだろうか。その孫の尻綱根命の時に尾張連の姓を賜った。後世にこの氏の者が尾張にいた記事としては、『宣化紀』に尾張連を遣わして尾張国の屯倉の穀物を運ばせたこと、『続紀』巻二に尾張国へ行き、尾治連若子麻呂・牛麻呂に宿禰の姓を与えたこと、巻十七に命婦従五位下尾張宿禰小舎を尾張国造に任じたことなどがある。熱田の大宮司もこの氏族で、後で詳しく述べる。美夜受比売は『書紀』では尾張氏の娘とする。『熱田大神縁起』という書の末尾には、貞観16年に神宮別当尾張連弟稲が、寛平2年に参議藤原朝臣村椙が、学者に尋ねて文章を整えたとある。古記録を探り、古老の話を聞いて記したものだろう。この書については後の引用箇所でも述べる。同書には、「日本武尊は斧鉞を受け、二度拝礼して……天皇は吉備武彦と建稲種公に同行を命じた……尾張国愛智郡に着くと、稲種公が『この郡の氷上邑に私の故郷があります。どうか大王には車を止め、お休みください』と申し上げた。日本武尊はその誠意に感じて礼を述べるうち、傍らに美しい娘を見た。姓と名を尋ね、稲種公の妹、宮酢媛と知り、稲種公に命じて娘を迎えた。婚姻後は深く寵愛し、数日滞在して別れを忍びなかった」とある。『神皇正統記』にも、日本武尊は信濃から尾張へ出て、その国には尾張稲種宿禰の妹、宮簀媛という女性がいたとある。稲種宿禰について『旧事紀』は、乎止与命が尾張大印岐の娘、真敷刀婢を妻として建稲種命を生んだという。ただし同書は乎止与命の子を男子一人として建稲種命だけを挙げ、妹の宮簀媛がない。記載漏れだろう。美夜受比売の母も真敷刀婢だったのかもしれない。この比売については後の伝巻二十八でも述べる。

【宣長の注釈】祖先の姉妹などについても、「誰の娘・誰の妹」とせず「某氏の祖」と記すことは、高岡宮の段にもあり、伝巻二十一4丁で例を挙げた。『尾張国風土記』にも「尾張連等の遠祖、宮酢媛命」とある。「亦思還上之時将婚」の「亦」は、意味の上では「思」の下にあり、「再び都へ帰り、この場所へ来る時に」と考えたのである。「時」の下に「こそ」を補い、「将婚」は「めさめ」と読む。「将」は普通「む」だが、前に「こそ」があれば必ず「め」で結ぶ。「め」は「む」の変わった形である。「期定而」は「ちぎりおきて」と読む。「悉言向……」は、これから述べることをまとめ、先にいっておく文章である。「相武国」の「武」は、諸本では「模」で、『書紀釈』『神名秘書』などの引用も同じだが、真福寺本・延佳本による。『古事記』には「武」を音仮名にするほかの例はない。しかし国名・地名には、普段音仮名にしない字を用いる例が多い。吉備の吉、高志の高、伊賦夜坂・波邇賦坂の賦、伊服岐山の服、当芸野・当岐麻の当などで、「武」もこの類である。国名の表記そのものも、山代・无邪志・三野・科野・高志・多遅麻・稲羽・針間・阿岐など、普通と違うものが多く、上代からの書き方を受け継いだようだ。ここも元は相武だったのを、後人が自分の知識で相模へ直したのだろう。そうした例はほかにもある。美濃をいつも三野と書くのに、上巻の一か所だけ美濃とすることや、近淡海という書き方からすれば遠淡海のはずなのに遠江とすることも、後人の手だろう。『元正紀』に酒部連相武という人名があるのも、古くこの国名を相武と書いた証拠である。『国造本紀』もこの字を書く。『和名抄』は相模を「さがみ」とするが、元は「さがむ」で、後の歌もそうなっている。「模」も「む」の仮名で、「み」には音が遠い。大隅国の郡名「馭謨」も「ごむ」で、謨と模は同音である。東遊歌の「さがあむのおね」は相模の峰だろう。『万葉集』巻十四の「相模嶺の小峰」なども「さがむ」と読むべきだ。「さがみ」は後の変化だろう。上総国の郡名夷隅も、『和名抄』は「いしみ」だが、『古事記』には「いじむ」とある。国名の意味は後の歌の箇所で述べる。「その国造」については後で述べる。

【宣長の注釈】「大沼」について、『和名抄』は『唐韻』の「沼は池である」を引き、和名を「ぬ」とする。刊本には「奴万」とあるが、古本と別の一本には「万」がない。古く「ぬ」というのも普通だったが、明宮の段の末に阿具奴摩という沼名があり、『万葉集』巻十四にも「伊香保のぬま」「かほやがぬま」「いならのぬま」「ぬま二つ」などがあるので、ここは「ぬま」と読む。師の賀茂真淵は、ここの沼は借字で「大野」だといった。次に「その野に入る」とあるためだろう。古くは野を「の」といい、『万葉集』などに沼と野を通用させた例もあるから、理由がなくはない。しかし前に「野中に」とあるのに、さらに大野とするのはどうか。「道速振」は上巻、伝巻十三9丁に出た。少し後世の『駿河国風土記』に、「安倍郡の椎田池は、和銅元年3月から5月まで、昼夜百回余りも底が地震のように鳴った。5月満月の夕、一頭の黒牛が池底から出、一個の玉を背負っていた。その玉の光は四方を照らした……」とある。このように後世さえ池から霊妙なものが現れたのだから、上代には荒ぶる神が沼中に住んだ例もあっただろう。今回の話は偽りだが、そうした出来事が世にあったので、もっともらしく偽って申し上げたのである。「看行」は「みそなはしに」と読む。高津宮の段の「欲見行」、朝倉宮の段の「看行」、『書紀』仲哀紀の「分明に山川海原を看行」、『続紀』巻十の「所見行歓賜」、巻十五の「見行波」、鎮火祭祝詞の「奇しとて見所行須時」などに例がある。ほかにも『続紀』の「所思行佐久止」「所念行左久止」「念行須」「所知行須」「所聞行」「聞行須」、『三代実録』巻八の「念行米須」、『万葉集』巻二の「所知行」などがある。これらを「おもほしめす」「しろしめす」「きこしめす」と読むのに、「看行」だけを「みそなはす」とするのは、「しろしめす」を「所知看」とも書くように、「めす」自体が「見る」だからである。御覧になることを「みしめす」といえば同じ言葉が重なるため、そうはいわない。

【宣長の注釈】そもそもこのように「行」を添えることについて、龍田風神祭の祝詞の「思志行波須乎」は「おもほしおこなはすを」と読むべきである。「波」があるので「おもほしめす」とは読めない。この例から考えると、「所念行」「所知行」「所聞行」の「行」も、本来はみな「おこなはす」といったために書いたのだろう。それが「めす」と意味が同じなので、「めす」と読む場合にも「行」を書き慣らしたと思われる。『万葉集』の「所知行」、『三代実録』の「念行米須」などは「おこなはす」と読めないからである。したがって「みそなはす」も「みしおこなはす」が縮まった語である。「看」を「みし」というのは古語で、「しお」が縮まって「そ」となり、「こ」が省かれた。あるいは「しおこ」全体が縮まって「そ」になったのだろう。この語は平安京の時代になってからも仮名で書かれ、『古今集』の序に「今もみそなはし、後の世にも伝はれとて」などとある。『栄花物語』「本のしづく」巻に、田舎の人が厳しい公の催促も放り出し、ほかのことをすべて放り出して皆都へ上り、「このたびの事はみそなはさむ」と思っていた、とある。しかし身分の低い人が自分のことに使うのは、使い方が違うのではないか。「入坐其野」は大沼のある野原である。先に「この野の中に」とあるので沼はこの場所の野にあるはずなのに、「その野へ」といえば此と彼が食い違うように見える。しかし古くは「この」を今の「あの」「かの」の意味に使い、中古の物語にも多い。ここも見渡した野を指し、今の「あの野」と同じだから矛盾しない。「野に入る」は上巻の根堅洲国の段にも「入立野」とあり、『万葉集』巻十一にも「わざみ野に、我は入りぬと」などがある。「其姨」の「其」は「かの」と読み、「所給囊」にかけて理解する。「解開」は「ときあけつ」と読む。前の「急事があればこの袋の口を開けよ」という言葉に従って開いたのである。

【宣長の注釈】火打ちについては上巻、伝巻十四61丁で述べた。この倭建命の故事にちなみ、古くは旅立つ人に火打ちを贈ることがあった。『後撰集』では、陸奥へ下る人に火打ちを贈る際、貫之が「をりをりに、打ちて焚く火の、煙あらば、心ざすがを、しのべとぞ思ふ」と書き添えた。折々に火を起こして煙を見たら、あなたを思う私の心を偲んでほしい、という歌である。「心ざすが」には、火打ちに添える小刀の「さすが」も掛けている。『八雲御抄』は小刀を「心さすが」ともいうとし、為家卿の抄は「さすが」は腰刀で、火打ちに付けるものだとする。今も物を切る小刀を「さすが」という。『公忠集』には、安中へ下る人へ白い袋を青いもので擦り染め、火打ちを入れて贈るとして、「打ち見てば、思ひ出でよと、我が宿の、忍草して、摺れるなりけり」とある。ふと見たら私を思い出してほしいと、家の忍草で染めた袋だ、という意味である。『敦忠集』には、親盛が唐物使として行く時、金属の火打ちと、火口に沈香を用い、「緒」を摺った袋(「緒」の字は判読保留)に添え、「打ちつけに、思ひ出でやと、故郷の、忍草にて、摺れるなりけり」とある。ふと思い出してほしいと、故郷の忍草で染めたのだ、という歌である。『万葉集』巻十八にも「針袋、これは賜りぬ、摺袋、今は得てしか、翁さびせむ」(針袋は頂きました。今度は摺り染めの袋も欲しい、老人らしく持ち歩きたい)とある。この「摺袋」を火打ち袋とする説があるが、どうだろう。ただ色を摺ったというだけで、どんな袋かは分からないのではないか。箙(矢を入れる道具)の袋だという説もあるが、それもどうだろうか。

【宣長の注釈】『源平盛衰記』巻四十四は、日本武尊の錦の火打ち袋を述べる箇所で、「今も人が腰刀に錦の赤皮を下げ、火打ち袋というのはこのためだ」とする。新井氏の『軍器考』にも、寛正年間の記録には足利将軍の腰の刀にもこれを付けた記事があり、織田信長の時代までなお見えるが、今はそのような物を作ることは見られない、とある。別の書は、「採桑老」の舞の図で、老翁の面をかぶり狩衣のような物を着け、腰の「さすが」らしい物に袋を結んでいるのは火打ち袋だと、楽人の家に伝えるという。また、天皇の御しるしの宝剣の鞘にも、赤地の錦で作った袋状の火打ち袋を結び付けているという。今の巾着は火打ち袋が変化したものだとする書もある。現在も倭建命の火打ち袋の形として伝える物はいろいろあり、確かに非常に古そうなものもある。しかし、それが直ちに倭建命の品の形だとするのは信じがたい。中には近年わざと古風に作ったような形もある。ある書は、『延喜式』の尾張国愛知郡、日割御子神社は倭建命の火打ちを祭るというが、どうだろうか。

【宣長の注釈】「先以御刀……」の「先」は、火を起こす準備として先に草を刈った、というようにも読めるが、そうではあるまい。前に「袋の中に火打ちがあった」とあるので、すぐ火を起こす話へ続きそうなところ、それより前に行ったことを「先」と述べるのだろう。「苅撥草」は、向こうから燃えてくる火を身近へ寄せ付けないための行為だったはずである。草がなければ火は燃えないからだ。『書紀』の別伝に「王の帯びる叢雲剣が自ら抜け、王のそばの草を薙ぎ払った。これによって逃れたので草薙と名付けた」とあるのも、その意味である。ただ草を払っただけでは逃げられた理由が分かりにくいが、草がなくなって火が近くまで来ないため助かったのである。剣が自ら抜けた点は『古事記』とは伝承が違う。ところで『古事記』に、この事件で草薙と名付けたとないのは、伝承が違うのか、文章がいつの間にか抜けたのか、決められない。『書紀』も本文にはここの草薙剣を記さず、神代巻の「日本武尊の時、草薙剣と改名した」も別説として載せる。『古事記』も後では「その御刀の草那芸剣」とするのに、ここだけ「その御刀」というので、別の剣かとも疑える。ただ、続けて「草を刈り払う」というため「草那芸剣で」と重ねる煩わしさを避けたのかもしれない。そうなら、なおさら後に「それで草那芸と名付けた」がなくては説明不足なので、文章の脱落かといったのである。脱落なら、『古事記』の伝承もこの事件による命名となる。元々その伝承がなかったなら、「草那芸」は事件とは無関係に、大葉刈・天縄斫などのように切れ味をいう名だったのだろう。その場合、草を払ったため名付けたという説は、草払いの事件に結び付けたものともいえるが、それも元々一つの伝承だったはずである。「草薙」とは実は青人草、すなわち人民を平定する意味だとする説は、例の中途半端な知識に基づく中国風の考えで、論ずる価値もない、というのが宣長の判断である。

【宣長の注釈】『駿河国風土記』にも、「草の生える、主のない土地である。この葦原には天孫降臨以来、草むらの神はいなかった。そのため降臨後、草薙の称がある……。ある書は、日本武尊が東の者を討ち、駿河国浮島原と阿部市へ来ると、東の者が尊をだまし、狩りと称して広野へ誘い、日中に火を放った。当時は10月で草が枯れ、火を添えると油を注ぐようだった。煙が迫って軍が危うくなると、帯びた叢雲剣が自ら抜け、野火を払った。これで草薙の名があるというが、この話は大きな誤りだ」とある。しかしこの『風土記』はやや後世のもので、仮名さえしばしば誤り、信じがたいことが多い。草薙の名を説明する説も中国風の考えである。『神名帳』には駿河国有度郡の草薙神社がある。前記『風土記』は天照大神を祭る場所といい、草奈岐という地名、草薙山も挙げる。また廬原郡に久佐奈岐神社がある。同『風土記』は稚足彦天皇元年に初めて祭り官幣を奉ったとし、東草奈岐という地名も挙げる。「著向火」は、向こうから燃えてくる火へ向けて、こちらからも火を付けることである。こうすると向こうの火勢が弱り、負ける。『源氏物語』真木柱巻に「この御けしきも憎げに、ふすべ恨みなどし給はば、なかなかことつけて我も向火つくりてあるべきを」とある。

【宣長の注釈】不機嫌そうに恨み言でもいわれたなら、こちらもそれを口実に怒り返せたのに、という意味である。『河海抄』は『日本紀』巻七を引用し、人が腹を立てることに対し、こちらからも怒ることだという。竹河巻の「いとうしろめたき御心なりけりと、向火つくれば」に対し、『花鳥余情』も、燃えてくる火にこちらから火を付ければ向こうの火が消えるのを向かい火といい、それと同じく相手の怒りにこちらも怒ってみせれば相手はやむ、と説明する。これらはこの故事にちなみ、怒る人へこちらも怒って向かうことを向かい火と呼び慣わしたものだ。『和名抄』は野火について『字統』の「燻は野火を防ぐこと、燹とも書く」を引き、野人の説では「ほそけ」とし、孫愐の『切韻』から「燹は逆焼である」を引く。「火退」の意味で、逆に焼いて向こうの火を退ける向かい火である。「焼退」は「やきそけつ」と読む。「そけ」は「退かせる」が縮まったもので、向かい火で燃やし、向こうの火を退けること。「還出」はその野から出ることで、前の「入坐其野」と対照して読む。「即著火焼」は『書紀』の「賊をことごとく焼き滅ぼした」と同じく、国造らを焼くこと。ただし既に「切滅」とあるので、斬り殺した死体を焼いたのか、住居を焼いたのか。あるいは「切」は軽く添えただけで、焼き滅ぼしたことをいい、地名の由来を示すために焼いたことだけを分けて述べたのかもしれない。どの場合でも、野に火を放って王を焼き殺そうとしたことへの報復だろう。「著火焼」を先の野火のことと解するのは誤りである。「故其地者於今」の「其地者」の三字は私が補った。『古事記』で事件による地名の由来を述べる時は、必ず「故、その所を号して某という」「故、その地を某という」など、場所を示す言葉があり、それがない例は一つも見ないので、脱落が明らかだからである。白檮原宮の段の「血沼海に至り、御手の血を洗ったので血沼海という」「踏み穿って宇陀へ行ったので宇陀の穿という」は、先に血沼海・宇陀とあるので、ここでその地を繰り返さなくてもよく、例外にはならない。「於今」を伴う例は上巻の「故其地者於今云須賀也」だけなので、それに倣って「故」の下に、「其地者」の三字を補った。

【宣長の注釈】「焼遣」の遣は、真福寺本と一本では「遺」で、ここでは旧刊本と別の一本などによる。約500年前にできた書の引用も「遣」とする。しかしどちらの字も非常に理解しにくい。『書紀』『万葉集』『神名式』などによると「津」の誤りだろうか。「遣」の下の横画を除くと津によく似る。延佳本は津とするが、ほかの本にないので独自の改訂だろう。あるいは「道」の誤りかもしれない。道なら「やきぢ」で、「やきづ」は後の訛りか、もとから「ぢ」「づ」と通用したのか、どちらも考えられる。いずれにしても遣・遺では読めないが、字はひとまず底本どおりにし、読みは津に従った。後の人によく考えて決めてほしい。『万葉集』巻三に「焼津辺に、我が行きしかば、駿河なる、阿倍の市道に、逢ひし児らはも」(焼津のあたりへ行った時、駿河の阿倍の市道で会ったあの娘たちよ)とある。『神名式』は駿河国益頭郡の焼津神社を挙げる。今も焼津村があり、野焼村、別名野脇という所もある。『和名抄』は益頭郡を「ましづ」、益頭郷も「ましづ」とし、『風土記』には麻賤郡などとある。しかし益頭は音を借りた字で、焼津のことである。谷川氏もそう述べた。頭の音を取るなら、益も「やく」を転じ「やき」に使ったのである。それを「ましづ」ともいうのは、後に「焼く」を忌んで、表記の訓に読み替えたのだろう。ほかにもそうした例がある。

【宣長の注釈・書紀との比較】『書紀』には、「この年、日本武尊が初めて駿河に至ると、そこの賊は従うふりをして、『この野には鹿が多く、息は朝霧のよう、足は茂る林のようです。どうか狩りをなさいませ』といった。日本武尊は信じて野へ獣を探しに入り、賊は王を殺そうと野に火を放った。王はだまされたと知り、火打ちで火を起こし、向かい火で焼いて逃れた。『だまされ、危ういところだった』といい、賊をすべて焼き滅ぼした。それで焼津という」とある。『書紀』が駿河とし、事件の跡を示す地名も駿河に明らかにあるのに、『古事記』が相武とするのは疑問に思われる。しかし『古語拾遺』も、「倭武尊が東征の年、相模国で野火の難に遭い、この剣で草を払って助かり、草薙剣と改名した」とする。『帝王編年記』も相模国の出来事とする。これは別の国を記したのではなく、古代と後代で名が変わっただけで、実は同じ土地である。上代には駿河国という広域の国名がなかった。駿河は元々一つの郷の名で、駿河郡駿河郷がそれである。やや後にその郷名を取り、郡の名にし、さらに広域の国名にもしたのである。

【宣長の注釈】その土地まで含め、広い地域全体を相武と呼び、倭建命の時も駿河という広域名はまだなかったのだろう。このことは後でも述べる。前記『駿河風土記』は御間城入彦天皇3年に伊豆国を割いて別国にしたというが、例によって信じがたい。『古事記』は当時そのままの伝承によって相武と記し、『書紀』は後に分かれた国名を用いたのである。したがって倭建命をだました国造も、現在の相模国の国造ではない。焼津の地名から考えれば、駿河の益頭・有度・安倍・廬原あたりの国造らだろう。上代には後の郡や郷ほどの範囲も某国と呼び、その領主も国造といった。『国造本紀』は珠流河・廬原・相武の国造などを挙げるが、それに縛られる必要はない。このあたりには、ほかにも国造があったはずだからである。

【古事記本文】そこからさらに奥へ進み、走水の海を渡る時、渡りをつかさどる神が波を起こして船を漂わせ、進んで渡れなくなった。そこで后の弟橘比売命が、「私が皇子に代わって海へ入りましょう。皇子は遣わされたお役目を果たし、天皇へ御報告なさってください」と申し上げた。海へ入ろうとする時、菅の敷物を幾重にも、皮の敷物を幾重にも、絁(粗絹)の敷物を幾重にも波の上へ敷き、その上へ下りて座った。すると荒波はおのずから静まり、船は進めるようになった。その時、后は歌った。「さねさし、相武の小野で、燃える火の、その炎の中に立って、私を気遣ってくださった、あなたよ」。七日後、后の櫛が海辺へ流れ着いた。その櫛を取り、御陵を造って納めた。

【宣長の注釈】「入幸」は「いりいまして」と読む。後の例も同じ。「います」は行っていらっしゃる意味で、「行坐」を「います」という例は多い。白檮原宮の段には「ここから奥へ入らせるな」とある。そこは「いりまし」と読んだが、ここでは「いり」だけだと言葉が足りない感じなので「いりいまし」とした。「入る」は東国のさらに奥へ向かうこと、ここでは駿河から今の相模へ行くことである。「走水海」の地名は今もあり、「はしりみづ」という。『書紀』では、「さらに相模へ進み、上総へ行こうとして海を望み、『これは小さな海だ。立ち走りでも渡れよう』と声高にいった。海中へ進むと突然暴風が起こり、王の船は漂って渡れなかった。同行する妻、穂積氏忍山宿禰の娘、弟橘媛が、『風が起こり波が荒れ、船は沈もうとしています。必ず海神の心でしょう。私の身で王の命に代わり、海へ入りたい』と申し上げ、言い終わると波を分けて入った。暴風はすぐにやみ、船は岸へ着いた。そこで人々はその海を馳水と名付けた」とある。「馳水」と呼ぶのは、前の「立跳渡」という大言によるのか。「跳」には走ると注があり、『万葉集』にも「たちばしりせむ」という言葉がある。あるいは、この時の波が速かったための名かもしれず、それなら浪速国の命名と同じ趣旨である。今も相模国御浦郡の海辺、浦賀から約30町北に走水という村があり、上総に向かい合う。今は船が泊まる港ではない。海辺の山には走水観音という寺があり、諸国を往来する船が前を通る時、初穂米を献ずるという。観音という像は実は弟橘比売などの像で、その縁で海路の祈願をしたことが残ったのではないか、とも思う。由来は分からないが、後の考察のために少し注意を促しておく。この海は前の「東の淡水門」の入り海で、その水門は伝巻二十六35丁に出た。

【宣長の注釈】「渡神」は明宮の段の末にも「その渡りの神が妨げて入れない」とあり、『書紀』この巻の難波の柏の渡しの悪神などの類か。ただし柏の渡しの神はこの王が殺したとあるのに、ここではそうではない。『書紀』が海神とするので同じ類の悪神ではないのか、それとも悪神でも王の力で平定できないほどの神なのか、細部は分からない。「興浪」は師の「なみをたて」という読みがよい。荒波を起こしたのである。「廻船」は「みふねたゆたひて」と読む。『万葉集』巻二十に「大船の泊つる泊りのたゆたひに」、また「大船の、たゆたふ見れば」、巻十一に「大船の、たゆたふ海に、碇下ろし」などの例が、見える。そのほか『万葉集』巻七の「海原のたゆたふ波に」、巻十五の「天雲のたゆたひ来れば」、巻四の「天雲のたゆたふ心」など多く、『古今集』恋一の「大船のゆたのたゆたに」も同じ言葉である。船が風波に揺さぶられて漂い、前へ進めないことだ。

【宣長の注釈】師は「ふねをもとほらせて」と読んだ。それなら「もとほして」とも読めるだろう。「もとほし」は「もとほらし」から「ら」を省いた形で、巡らす意味である。詞志比宮の段の大后の歌の「ほきもとほし」、甕栗宮の段の歌の「しまりもとほし」などがその例である。俗に縁側というものを雅語で「もとほし」というのも周囲を巡らす意である。ここでは船を停滞させることを「もとほし」とし、『万葉集』の「徘徊」を「たもとほり」と読むのと同じ意味に解することになる。しかし船が進まないことを「もとほる」といった例はない。『万葉集』に「さきたもとほり」などはあるが、漕ぎ巡ることで意味が違う。したがって「廻」の字義からは少し離れるが、船に用いる語に従い「たゆたひて」と読むべきである。「不得進渡」は「えすすみわたりまさず」と読む。「進む」は船の航行にも用い、次にも「得進」、『書紀』仲哀紀などにも「御船不進」「船得進」、『万葉集』巻四にも「大船を、漕ぎの進みに」などがある。「后」は本来、天皇の妃に限って申す称号だが、ここにそうあり、後にも「大和にいる后たち」とあるのは、倭建命が帯中津日子天皇の父なので、すべてを天皇に準じて扱う例である。『書紀』も名に「尊」と書き、「崩」「陵」を用い、仲哀紀では倭建命の妻を「母皇后」とする。「后」という称号については、上巻の「嫡后」、白檮原宮の段の「大后」の注、伝巻十一30丁・巻二十10丁で詳しく述べた。

【宣長の注釈】弟橘比売命の名の「弟」は、上巻の歌の「おとたなばた」の「おと」と同じく、褒める称である。その意味は伝巻十三66丁で述べた。「橘」は少し前の御代に常世国から渡来し、珍しく、世間で特に尊ばれたものにちなむ名だろう。この比売命を『書紀』が「王に従う妾」とするのはどうか。後に「次妃」と記すのと合わず、『書紀』の文章の規則では妃と呼ぶほどの人を妾とはいうべきでない。また『古事記』が後に倭建命の妻五人を挙げる中、三人は単に某比売なのに、布多遅能伊理毘売命とこの比売命の二人には「命」を加える。普通の扱いでないことからも、ここを后とするのが適切だと分かる。『延喜式』には上総国長柄郡の橘神社があり、この比売命を祭るのではないか。和泉国大鳥郡の多治速比売命神社もこの比売を祭るという。同郡の大鳥神社は倭建命を祭るので、つながりがある。古くは軍旅にも妻を伴うのが普通だったらしく、『書紀』にも多く例がある。雄略紀では、吉備上道臣弟君が新羅へ服従を求めに行った時、妻の樟媛がその国で国家に忠を尽くした。同紀では紀小弓宿禰の新羅遠征に、吉備上道の采女、大海を賜って同行させた。欽明紀には、新羅討伐に遣わされた河辺臣瓊缶が妻とともに新羅の将に捕虜とされたこと、同じ時に調吉士伊企儺が殺され、その妻大葉子も捕らわれたことがある。推古紀には、当麻皇子を新羅へ遣わした時、同行した妻の舎人姫王が播磨で亡くなった。舒明紀には、蝦夷討伐の将軍、上毛野君形名の妻が現地で勇気を示した。こうした記事から分かる。

【宣長の注釈】「御子」は、天皇の皇子に直接向かっても「御子」と呼びかけるのが古語である。「入海中」は「うみにいりなむ」と読む。「中」のない本もあり、それでも悪くない。「所遣之」は「まけの」と読む。「まけ」は「まからせる」が縮まった語で、天皇の命令によって都の外の諸国の官などへ遣わすことをいう。伝巻九48丁、巻二十三83丁に詳述した。ここでは東国を平定するための派遣を指す。「政」は仕え奉る仕事の意味で、天皇の命を受けて行う事柄は何でも「まつりごと」という。白檮原朝の段、伝巻十八7丁に詳しい。ここの文は水垣宮の段の「派遣先の国の政を平定し、復奏した」と同じなので、伝巻二十三88丁と考え合わせるとよい。「菅疊」は白檮原宮の歌にも「すがたたみ、いやさやしきて」とある。「八重」はいずれもいつもの「いやへ」、幾重にも重なる意味である。「皮疊」「絁疊」について、旧刊本と延佳本などは絁を絹とするが、ほかの本はみな絁で、上巻もこの字である。上巻の海神宮の段に、みち皮の敷物を幾重にも敷き、その上に絁の敷物を幾重にも敷いて座る、とあり、敷物についてもそこで詳しく述べた。伝巻十七29・30丁を参照。「下坐」は御船から下りられたのである。

【宣長の注釈】「暴浪」は「あらなみ」と読む。『万葉集』巻二に「荒波に」、巻六に「着き給はむ、島の崎々、寄り給はむ、磯の崎々、荒波風に過はせず」(お着きになる島々の岬も、寄港なさる磯の岬も、荒波や風に遭わせず)などがある。二つの引用の参照丁数は判読を保留する。「はやなみ」とも読める。「自伏」の伏は、師の読み「なぎつ」に従う。「自」は上巻の石屋戸の段の「高天原と葦原中国が自得照明」の自と同じで、「即(すなわち)」に近い。伝巻八3丁にも述べた。「得進」は「えすすみき」と読む。この「得」の使い方は上巻の「得作」、伝巻十二17丁に詳しい。なお『神明鏡』は、この事件を、「そこから相州を越え上総へ渡る時、伏戸の渡しで波が荒れ、船が覆りそうになった。梶取りが『船中の美人を龍神が御覧になったのでしょう』といったので、数百人の兵を失うよりはと、最愛の橘姫という夫人を一人海へ流した。実にかたじけないことである。それで船は荒れることなく総州へ渡った……」と記す。「歌曰」は「うたはせるみうた」と読む。歌の内容から考えると、敷物の上に下り、まだ沈まないうちに、王の船が少しずつ遠ざかるのを眺めて詠んだのだろうか。

【宣長の注釈】「さねさし」が相模の枕詞なのは分かるが、何を意味するのかは、まだ解けない。以下はあえて試みに述べる推測である。「さし」は国名で、「さね」は「ま(真)」と同じく褒める語ではないか。「真」を「さね」とも読み、まかずら・さねかずらも真実という意味の名らしい。「さなかずら」ともいうのは、稲を「いな」、金を「かな」というのと同じ語形の変化である。『万葉集』巻十四では萱を「さねかや」とも読む。それなら「さし」という国を褒めて「さねさし」といったのだろう。「さし」を国名とするのは、駿河・相模・武蔵を元々一括して「さし国」と呼び、それを二つに分けて相模・武蔵にしたのではないか、という考えによる。駿河が後に相模から分かれたことは前に述べた。「さがむ」は「さしかみ」の「し」を省き、武蔵は「身さし」の意ではないか。古書には身刺と多く書く。「身」は中でも中心となる所をいい、屋の中心を「むや」と呼ぶのと同じで、後の「もや(母屋)」は「むや」の訛りである。武蔵はさし国の内の中心となる広い土地なので、こう名付けたのだろう。「さ」が濁るのは発音の都合である。国を二つに分ける時は前後や上下が普通だが、丹波を丹波・丹後に分けても丹前といわないように、さし上に対してさし下と呼ばなくても例がある。「さねさしさがむ」と続けるのは「み吉野の吉野」「さ檜前檜前」と同様である。延佳は「佐」の下・「斯」の上に「泥」が脱落したのかとして、下巻の軽皇子の「さねしさねてば」や『万葉集』の「さねさねてこそ」を挙げるが、よくない。ここを「さねさねし」としては結句に合わない。契沖は、武蔵を『旧事紀』『古事記』が胸刺と書き、「むねさし」が「むさし」となったので、狭胸刺の「む」を省いたのか、両国が元は一つだからこう続けたのか、相模は武蔵より小さいので狭胸刺なのか、と考える。しかし『古事記』は牟邪志と書き、胸刺とは書かない。『旧事紀』も牟邪志と胸刺を別々に挙げるので、この説は疑わしい。師は「さ」は接頭語、「ね」は「ぬ」に通じ、ぬとむも通じるので、武蔵・相模が一国だった時は「むさし」をこうも呼んだのだという。しかし「むさし」を「ねさし」と呼べるだろうか。また、相模は小さい峰が多いので小峰刺の意、刺は立つことだという説も疑わしい。私自身も以前、「さ」は真、「ね」は峰で富士山を真峰と褒め、「さし」は立つこと、駿河も元は相模なので富士山にちなむ枕詞かと思ったが、これもよくない。

【宣長の注釈】「さがむのをのに」は「相模の小野に」である。「さがむ」という国名の意味はまだ分からない。前の試案によれば「さしかみ」の「し」を省き、「か」が濁るのは発音の都合となる。「かむ」が上の意味なので「さがみ」ともいうのかもしれない。上・神などを「かむ」というのは後ろに語が続く時だから、この国名の「さがむ」も、元は「さがむ国」「さがむの小野」など、語を続ける時の発音だったのだろう。後世の『風土記』には嵯峨身という説を挙げるが信じられない。足柄・箱根から見下ろす国なので坂見の意だ、という説もよくない。師の考えは伝巻七69丁の牟邪志国造の注に挙げた。「もゆるひの」は燃える火のこと。「ほなかにたちて」は火の中に立って、ということ。玉垣宮の段にも「稲城が焼ける時、火中で生まれた」とある。『万葉集』巻三の「明石の浦に、焼く火の穂にぞ出づる」は「火のほ」という続きこそ同じだが、火のように外へ表れたという意味で、ここでは違う。また「炎」という語も別で、「ほのほ」は火の穂の意味である。

【宣長の注釈】火が「ほ」となるのは、木が「こぬれ(木末)」「こかげ」「こは(木葉)」で「こ」となるのと同じで、後に言葉が続く時の形である。火をいつでも「ほ」というのが古語だと思うのは誤りで、この点は前にも述べた。歌のここまで四句は、倭建命が野火の難に遭った時のことだろう。『聖徳太子伝暦』の「斑鳩の宮の、甍に燃ゆる、火の、火群の中に、心は入りぬ」という歌は、この歌を作り替えたものである。あの書には『古事記』『書紀』の歌を借り、少し変えたものがある。「とひしきみはも」は「問ひし君はも」で、二通りに取れる。一つは「私の、妻問いをしてくれた君」、もう一つは「私の身を案じて尋ねてくれた君」である。初めの解釈では「問う」は妻問うなどの問う、夫婦の交わりをいい、あれほどの困難の中でも離れず、共に手を携えて夫婦として交わった君、となる。この場合、問う行為は相手の側に属する。野火の難の時、この比売も王と一緒にその中にいたのである。後の解釈では、災難の時に王が比売の身を案じ、どうしているか尋ねたことがあったのだろう。あれほど急迫した中でも忘れず気遣ってくれた情けを、深くしみじみと思い、このように詠んだのである。二つのうち、後者の方がいっそう情趣が深く、自然に聞こえるが、古代の心にかなう点では前者が少し勝る。結びの「はも」は嘆息の言葉で、「はや」と似るが少し違う。「はや」は次の「あづまはや」の注で述べる。「はも」は恋い慕い、どこにいるのかと探し求める気持ちを含む。『万葉集』巻三には「こうなってしまうものなのに、萩の花のように笑っているかと尋ねてくれた君よ」、同巻に「阿倍の市道で出会った娘たちよ」、巻十一に「心の中に隠して思う妻よ」「満ち足りないか、妻よと尋ねた君よ」、巻十二に「死ぬなら一緒にと言ってくれた君よ」、巻十四に「私を偲んでいるだろう、家にいるあの子よ」、巻二十に「いつおいでになるのと尋ねてくれたあの子よ」など、なお多くの用例がある。
〔訳注:巻十一の二つ目の引用と巻十四の引用に付された細字の丁数は判読できない。〕

【宣長の注釈】「七日之後」は「なぬかありてのちに」と読む。「ありて」はその日数を経ることで、「ありありて」「ありさりて」「ありがよふ」などの「あり」であり、俗語にも「ありのはてに」という。『万葉集』巻八に「今二日ばかり、あらば散りなむ」、巻十三に「久しくあらば、今七日ばかり、早くあらば、今二日ばかり、あらむとぞ」などがある。「依于海辺」が相模の海辺か上総の海辺かは決めがたい。「御陵」は墓だが、古書は文字にこだわらないので陵と書いた。「治置」について、『崇峻紀』は「葬」を「おく」と読む例がある。ここの置も埋葬の意味か、あるいは櫛なので「置く」といったのかもしれない。この墓も相模か上総か不明である。師の書入れには、相模国梅沢のあたりの吾妻森がこれだという、とある。梅沢は余綾郡で、大道の小田原と大磯宿の間にある。吾妻山に吾妻明神の社があり、何か伝説があるか尋ねたい。

【古事記本文】そこからさらに奥へ進み、荒々しい蝦夷らをことごとく従わせ、また山や川の荒ぶる神々も鎮め、都へ帰ろうとされた。足柄坂のふもとで携えた食事を召し上がっていると、坂の神が白い鹿に姿を変えて現れ、立った。そこで食べ残した蒜の一片を投げ打つと、鹿の目に当たり、打ち殺した。坂を上り、その上に立つと、何度も深く嘆き、「あづまはや――ああ、わが妻よ」といわれた。「阿」以下の五字は音を表す。それで、その国を「あづま」と呼ぶのである。

【宣長の注釈】「悉」は「山河荒神等」までかかる。「蝦夷」は「えみし」である。宣長は、体に長い毛が多いことをエビになぞらえた名だと説明する。「び」と「み」は通じ、蝦夷と書くのもそのためで、蝦と鰕は通用する字だという。『書紀』は蝦蛦とも書くが、「蛦」には別の意味はなく、蝦にならい、なんとなく夷に虫偏を付けたのだろうとする。『続紀』には蝦狄ともあり、「し」の意味はまだ解けないと述べる。後には訛って「えびす」といい、さらに後には、えびすを夷・戎などの読みに用い、蝦夷の方は「えぞ」とだけいう。「えぞ」が元々「えみし」と別の名か、これも訛りかは分からず、古い書にはなく、中古から見える。中国の書ではこの国を毛人国という。『敏達紀』は蝦夷の首長、綾糟の名を挙げ、「魁帥は大毛人である」と注するが、首長をみな大毛人と呼んだのか。『書紀』神武巻の歌には「えみしを、ひだり、ももなひと、ひとはいへども、たむかひもせず」とある。蝦夷は一人で百人に当たると世間ではいうが、抵抗もできずに討たれた、という意味である。

【宣長の注釈】この歌は大和の八十梟師らの勇猛さを蝦夷にたとえたので、彼らを直接蝦夷と呼んだのではない。蝦夷が特に勇猛だと考えられたからである。ここから宣長は、蝦夷は日本人と外見も心も異なり、元々非常に異なる集団で、その本国は海を隔てた蝦夷島だ、と論じる。上代からその人々が陸奥北部へ渡って住み着き、元の土地は穀物も育たず暮らしにくい一方、陸奥はよい土地なので、多くが移ったとする。次々に人口が増えて陸奥中央まで広がり、日本人と混住した、というのが宣長の見方である。『書紀』には、景行25年に武内宿禰を遣わして北陸・東方諸国の地形と民の暮らしを調べさせ、27年に帰還して「東方に日高見国がある。男女とも髪を結い、体に入れ墨をし、勇猛で、総称して蝦夷という。土地も肥沃で広く、攻め取れる」と奏上したとある。宣長は、日高見国とはどこの国でも広い平地をいう名で、ここは陸奥のそのような土地を指すという。『延喜式』には桃生郡の日高見神社もある。この文は陸奥の人すべてが蝦夷だったように読めるが、そうではなく、元来の日本人の間に混住する蝦夷について、男女ともこうだ、と述べたのを、文章が悪いため紛らわしくしたのだとする。『書紀』は無理に漢文を作るので、かえってこのような例が多い、という。さらに宣長は、蝦夷は元々別の集団なので、日本の地域から自然に生じたはずはなく、もしそうなら後世も陸奥にいるはずなのに今はいない、と論ずる。多賀城碑の「蝦夷国の境まで120里」についても、当時の道で20里ほど、桃生郡付近で仙台領の中央だという人の説に賛成し、蝦夷が混住する地域の境をいうので、その先が元来の蝦夷国という意味ではない、と説明する。以上は宣長による集団・領域の解釈である。

【宣長の注釈・史書の引用】『書紀』はさらに、「景行40年、東方で多く反乱が起こり、辺境が騒いだ。秋7月、天皇は群卿に東国の不安、荒ぶる神と蝦夷の反乱、人民への襲撃を述べ、誰を遣わすか問うた……。斧鉞を日本武尊に授け、『東方の者は気性が荒く、侵略を旨とし、村や邑に長がおらず、互いの境を欲して奪う。山や野の悪神は道を塞ぎ人を苦しめる。中でも蝦夷は最も強く、男女が混じり、父子の区別なく、冬は穴、夏は木の巣に住み、毛皮を着て血を飲み、兄弟も疑い合う。山を飛ぶ鳥のように登り、草を獣のように走る。恩を忘れ、恨みには必ず報い、矢を頭に隠し、刀を衣に帯び、集団で境を侵し、農作業の時を狙って民を略奪する。討てば草に隠れ、追えば山へ入り、昔から王の教化を受けない……』といった」と記す。宣長は「農桑を狙って人民を奪う」から、陸奥の一般の人々は蝦夷とは別だとし、蝦夷がその土地の民を奪い、支配していた者も多かったのだろうと述べる。続いて『書紀』は、「日本武尊は上総から陸奥へ入り、大鏡を船に掛け、海路で葦浦を巡り、玉浦を横断して蝦夷の地域へ着いた。首長の島津神・国津神らは竹水門で防ごうとしたが、船を遠望すると威勢をおそれ、勝てないと悟って弓矢を捨て、拝礼して『お姿は人に優れ、神でいらっしゃるか。御名を知りたい』といった。王は『私は現人神の子である』と答えた。蝦夷らは震え、裾を上げて波を分け、自ら船を支えて岸へ導き、身を縛って罪を認めた。王は罪を許し、首長を捕虜として随行させた」と記す。葦浦・玉浦・竹水門はすべて陸奥の土地だろう。「蝦夷境」は陸奥で蝦夷が住む地域の境をいう。後には捕らえた蝦夷らを神宮に献じたともある。宣長は、後世の史書の俘囚・夷俘はこのような捕虜を陸奥・出羽や諸国に住まわせたもので、子孫も良民と一緒にせず、俘囚という別の集団とし、子孫も勇猛な振る舞いを好み、しばしば反乱した、と説明する。『応神紀』3年には東の蝦夷が皆貢物を献じ、彼らを使って廐坂の道を作った。『仁徳紀』55年には蝦夷が反乱し、田道を討伐に遣わした。『雄略紀』23年には、新羅征討将軍の吉備臣尾代が吉備へ来た時、蝦夷500人が集まって近隣郡を襲った。この例から、軍に蝦夷を率いて使役することもあったと分かる。清寧紀4年、欽明紀元年には蝦夷・隼人の帰属、皇極紀元年には越辺の蝦夷数千人の帰属がある。斉明紀元年秋7月には、難波の朝廷で北の蝦夷99人、東の蝦夷95人を饗応し、柵養の蝦夷9人・津刈の蝦夷6人へそれぞれ冠位を二階授けた。北の蝦夷は越国にいる者、東の蝦夷は、陸奥にいる者をいう。越国も陸奥と同じく北辺に蝦夷が渡来し、多く住んだのである。越の北辺とは出羽の土地で、出羽は元々越後国、すなわち越の領域だった。『続紀』和銅元年9月には越後国の申し出により出羽郡を新設するのを許し、同5年9月には初めて出羽国を置いたとある。したがって越の蝦夷とは出羽にいた者である。出羽を陸奥から分けて作った国だとするのは誤りで、『続紀』同5年10月の「陸奥国の最上・置賜二郡を割いて出羽国に属させた」を取り違えたのだ。越後から分けて出羽国を作った後、陸奥の二郡をそこへ属させたのである。

【宣長の注釈・史書の引用】『斉明紀』4年には、「名を欠く阿倍臣が180艘の船軍を率いて蝦夷を討つと、齶田・渟代二郡の蝦夷は恐れて降伏を願った。齶田の恩荷は進んで誓い、『清い心で朝廷に仕える』と述べた。小乙上の位を授け、渟代・津軽二郡の郡領を定め、有間浜に渡島の蝦夷らを集めて大いに饗応し、帰還した」とある。「渡島」は蝦夷の本国、いわゆる蝦夷島だろう。『持統紀』に越度島とあるので越国内の地名にも見えるが、そうではない。古くはその本国も越に属したのだろう。多くは津軽から渡るので、津軽は後には陸奥に属したが、斉明紀の文では昔は越に属したように読める。その土地から渡るので「越の渡島」といったのだろう。斉明5年には、「再び名を欠く阿倍臣に180艘を率いさせた。齶田・渟代の蝦夷241人とその捕虜31人、津軽郡の蝦夷112人と捕虜4人、胆振鉏の蝦夷20人を一か所に集めて大いに饗応し、褒美を与えた。一艘の船と五色の絹でその地の神を祭り、肉入籠へ至ると、問菟の蝦夷、胆鹿島・菟穂名の二人が『後方羊蹄を政所にできます』と申し上げた。その言葉に従って郡領を置き、帰った」とある。別の本は「阿倍引田臣比羅夫が粛慎と戦って帰り、捕虜49人を献じた」とする。この記録だけが「蝦夷国」と呼ぶのは、蝦夷の本国だからだ、と宣長は解する。ほかは単に蝦夷としかいわない。

【宣長の注釈】胆振鉏・肉入籠・問菟・後方羊蹄なども、その国の地名だから日本の地名と様子が違い、「しりへし」は今もその国にあり、「しりべつ」ともいう。斉明4年と5年の記事は将軍も船数も同じで、内容も似るので、一度の出来事が異伝の混同で二度記されたのだろう。粛慎との戦いは、その国が蝦夷国の北西に接する近国だから、蝦夷征討に伴って討ったのだろう。同6年にも阿倍臣の粛慎征討があるが、これも5年の一件を重複したのだろう、とする。同じ年、坂合部連石布と津守連吉祥を唐へ遣わし、陸奥道の蝦夷の男女二人を唐の主に見せたともある。引用された伊吉連博徳の書によると、唐の主は国の位置を問い、使者は東北と答えた。何種類あるかには、三種で、遠い者は都加留、その次は麁蝦夷、近い者は熟蝦夷、ここにいるのは毎年日本の朝廷へ貢物を献ずる熟蝦夷だと答えた。穀物があるかには、なく、肉を食べて暮らすとし、家屋はあるかには、なく、深山の木の下に住むと答えた。宣長は、穀物がないなどは蝦夷の本国のことで今もそうだとし、遠い者を都加留とする説明の方は陸奥・出羽の住民を指すらしいので、麁・熟も両国内で居住地の遠近が違うのだろう、と解する。『天武紀』11年には陸奥の蝦夷22人に位を授け、同年、越の蝦夷伊高岐那らが俘人7,000戸を一郡としたいと願い、許されたとある。その後も両国の蝦夷の反抗は歴代の史書に見える。和銅2年には陸奥・越後で騒乱があり、越後は後の出羽の土地。養老4年には陸奥で反乱し按察使を殺した。宝亀5年、同11年にも反乱し、後者では陸奥上治郡の大領、伊治公呰麻呂が按察使を殺した。この人物は「夷俘の種」とあり、蝦夷の子孫だった。延暦7年からの乱は長く鎮まりにくかったが、坂上大宿禰田村麻呂に功績があった。元慶2年の出羽の夷俘の反乱は翌年に平定した。続いて宣長は、陸奥・出羽の蝦夷は次第に姿を消し、津軽の果てまで良民ばかりになり、近世には本国の松前も日本人の土地になった、と述べる。

【宣長の注釈】宣長は、全員を殺したり本国へ追放したりしたのでなく、いつとはなしに自然に消えたのだと説明し、その理由を考察する。陸奥・越の蝦夷という者は、初めは皆、蝦夷の本国から移住した者だったが、それだけを指すのでなく、住み着いた後に内地で生まれた子も、何代たっても蝦夷の子は蝦夷とされた。そのため両国に多く増え広がった、と宣長は説明する。その中に日本人女性を妻として子を生み、その子も同じように婚姻し、三、四代を経れば、次第に外見が変わって日本人に似るだろうという。今も裕福な蝦夷がまれに松前の貧しい女性を妻にし、その子は毛が少し短く少なく、蝦夷だけの家系とは少し外見が違うという話から、古代も推測できると述べる。古くは外見が日本人でも蝦夷の家系の者は子孫まで蝦夷・俘囚と呼んだが、後には制度が明確でなくなり、また上代のように本国から自由に移住することもできないので、おのずと区別が消えて皆日本人になったのだ、というのが宣長の説明である。今も南部・津軽には少数の蝦夷がいるというが、ずっと後に事情があって移住した者の子孫だろうし、その外見も日本人とそれほど違わないそうだ、とする。蝦夷の本国については新井氏の『蝦夷志』などいくつも書があるが、古代の陸奥・出羽の蝦夷の由来と経過を詳しく述べたものがないため、ここで詳しく記したのである。

【宣長の注釈】「足柄之坂本」について。『和名抄』は相模国の足柄上郡を「あしがらのかみ」、足柄下郡も同様に記す。ただし古本は両郡とも「柄」がなく、これが正しいだろう。諸国の郡郷名は二字にまとめて書くため、字を省く例が多い。省かず三字で書くのはその国での独自の表記で、これも多く例がある。下郡には足柄郷もある。『万葉集』巻三に「鳥総立て、足柄山に、船木伐り」、巻七に「足柄の、箱根飛び越え、行く鶴の」、巻九に足柄坂を越す歌がある。巻十四には「あしがらの、をてもこのもに」「あしがらの、はこねのやまに」「あしがらの、みさかかしこみ」、巻二十に「あしがらの、みさかたまはり」「あしがらの、さかにたして」「あしがらの、やへやまこえて」などがある。巻十四には「あしがり」と読む歌もあり、後の歌には関所を多く詠む。この山は駿河と相模の境で、東国への道は今こそ箱根を越えるが、古くは足柄越えが大道だった。ここは甲斐へ向かう道なので、なおさら足柄を通る。相模からこの坂を越し、富士の北東麓を経て甲斐へ出る道である。「坂本」は相模側から上る坂のふもとをいう。

【宣長の注釈】「食御粮」は「みかれひきこしめす」と読む。穴穂宮の段にも山代の苅羽井で御粮を食べる時とある。どちらも「みをしす」と読めなくはないが、ことさら「粮」と書く以上、「みかれひ」と読むべきだ。『書紀』では「食」「飲食」「進食」などを「みをしす」と読む。『字鏡』は粮を「かれひ」とし、『爾雅』は米穀とする。『和名抄』は『四声字苑』から、餉は食を人へ贈ること、訓は「かれひおくる」、俗に「かれひ」という、と引く。「餉」を「かれひおくる」と読むのはよいが、「かれひ」だけには当たらない。また『考声切韻』から、糧は旅に費やす米、また備えた食、和名「かて」と引く。『万葉集』巻五には「いつもは知らない長い道を、暗がりの中、どう進んでいけよう、旅の食料もないのに」とあり、異伝は末句を「乾飯もないのに」とする。この原語「可利豆」は「加禮比豆」の縮約で、「禮比」が「利」に縮まる。「加禮比豆」は乾飯にする材料の米であり、乾飯の代金ではない。「加豆」は「加理豆」の「理」を省いた形で、こうして「理」を省く例は多い。これも同じく「加禮比豆」である。「かれひ」は乾飯で、旅では飯を乾かして携える。それから意味が移り、乾かしていなくても旅先で食べる飯を「かれひ」という。『古今集』旅の詞書には、但馬の湯へ行く途中、二見浦で夕方にかれいひを食べたとあり、『伊勢物語』にも沢のほとりの木陰に下りて座り、かれいひを食べたとある。『和名抄』の旅の道具には『漢語抄』の「櫑子、かれひけ」を引く。今の「わりご」という、内部に仕切りのある器だと注する。「け」は食器の笥であり、今の弁当もかれひである。「坂の神」は後の科野の坂の神と同類である。「白鹿」は「しろきか」と読む。『和名抄』も鹿の和名を「か」とする。鹿の正しい名は「か」なので、『万葉集』で鹿一字を書いた所は皆「か」で調子がよく、今の本がすべて「しか」とするのは誤りだ、と宣長はいう。「しか」と読む箇所には牡鹿と書くので、「しか」は雄に限る名らしい。「しか」と読むはずの所に単に鹿と書く例は、『万葉集』中にいくらもない。『和名抄』には牡鹿「さをしか」、牝鹿「めか」、鹿の子「かご」とある。「かのしし」というのも、猪を「ゐのしし」というのと同じく、名が「か」だからである。地名や借字にも鹿を「か」に用いるのは、それが正しい名だからだ。これに対し「かせぎ」を古名と思って『書紀』までそう読むのは、かえって誤りである。一般と違う耳慣れない言葉を古語だと思うのは誤りで、鹿をかせぎとする確かな例もない。春日の祭神の鹿島神が東国から大和へ来た伝説に「かせぎに乗って」とあるだけで、父母を「かぞいろは」という類と考えるべきだ。

【宣長の注釈】『仁徳紀』には白鳥陵の守、目杵という者が突然白鹿になって走った話もある。白鹿は普通は珍しいものとされ、『仁徳紀』の上毛野臣の祖、竹葉瀬が新羅へ行く途中で得て引き返し献じた例や、『推古紀』の越国からの献上例がある。「来立」は「きたちき」と読み、『万葉集』巻五にも「寝屋戸までに、来立ち呼ばひぬ」とある。「咋遺之」は師の「みをしのこりの」がよい。「蒜」は『和名抄』の葷菜類に、『唐韻』の「蒜は葷菜、和名ひる」、『楊氏漢語抄』の「蒜顆、ひるさき」とある。顆は小さな頭という注がある。また大蒜は「おほひる」、小蒜は「こひる」、別に「めひる」、獨子蒜は「ひとつひる」、沢蒜は「ぬひる」などとある。明宮の歌にも「いざ子ども、野蒜摘みに、蒜摘みに……」とあり、のびるは野蒜である。「打殺」は「うちころさえたりき」と読む。『書紀』はこの話を甲斐酒折宮の記事より後の、信濃坂の出来事とする。伝承が違い、こう記す。「山中で食べる時、山神が王を苦しめようと白鹿となり、前へ立った。王は不思議に思い、一片の蒜を弾くと目に当たって死んだ。すると王は道を失い、出口が分からなくなった。白犬が来て導く様子を見せたので、従って行くと美濃へ出られ、越から来た吉備武彦と会った。以前は信濃坂を越す者が神の気に当たり病臥したが、白鹿を殺した後は蒜を噛んで人や牛馬に塗ると、神の気に当たらなくなった」。

【宣長の注釈】「登立」は、『書紀』継体紀の歌の「みもろが嶽に、登り立ち、我が見せば」に例がある。「みせば」は「みしすれば」、つまり見ればの意味である。『万葉集』巻一にも「天の香具山、登り立ち、国見をすれば」、また「高殿を、高知りまして、登り立ち……」などがある。「三歎」は「ねもころになげかして」と読む。「三」をそのまま「みたび」と読んでもよいかもしれないが、古語で嘆くことに三度どうしたと回数をいうだろうか。中国の書は物事を念入りに繰り返すのを「三……」といい、三思・三省などが例である。「三歎」も中国語なので、ここにもその字を用いたのだろう。繰り返し深く嘆いたことをいう。上巻の海神宮の段に「大一歎」とあり、そこでは一を「ひとつ」と読んだ。その理由と嘆きについては伝巻十七33丁で述べた。「あづまはや」は『書紀』では「吾嬬者耶」と書き、「婦はつまという」と注する。本来「あがつま」という所を「あづま」というのは、『万葉集』巻十四の「おのづま」と同じ言い方である。他巻の自妻・己妻も同様に読むべきだ。「吾君」を「あぎみ」というのも同じ。『仁賢紀』は「若草、吾夫何恰矣」と書き、「あがつまはや」と読むとする。それに従えばここの吾婦も「あがつま」と読むべきかもしれないが、意味は同じである。「はや」は対象を思って深く嘆息する言葉である。『書紀』の「者耶」は意味に合わず、は・やはともに嘆きの声である。「何恰矣」も正確ではないが、者耶よりは近い。「はも」と似て、さらに重く響く。ただし「はも」にはどこにいるかと探し求める意があり、「はや」にはそれが感じられない。

【宣長の注釈】用例は、水垣宮の歌の「みまきいりびこはや」、この段末の倭建命の歌の「つるぎのたち、そのたちはや」、『書紀』允恭紀の「うねめはや、みみはや」、雄略紀の「いひしたくみはや、あたらたくみはや」、『出雲風土記』の「いぬはや」といった言葉などである。伊農は夫の神の名で、女神の発言である。『拾遺集』巻六の「君が住む、宿の梢の、行く行くと、隠るるまでに、顧みしはや」(君の住む家の梢が、去るにつれ隠れるまで振り返ったことだよ)、『源氏物語』須磨巻の「いざりせむとは思はざりしはや」などもあり、ほかにも多い。一方、白檮原宮の歌の「われはやゑぬ」は「は」が主題を示す者、「や」は余り、の意。推古紀の皇太子の歌の「きみはやなぎ」、『万葉集』巻七の「年はや経なむ」、巻九の「吾とはや恋む」などは、「は」が者、「や」が疑問で、嘆きのはやとは異なる。ここでは、海へ入った弟橘比売命を思ってこういわれた。海であれ坂であれ、その国の境を離れる時には、別れの悲しさが改めて込み上げ、耐えがたいものだからである。

【宣長の注釈】『万葉集』巻十五にも、「畏みと、告らずありしを、み越路の、妹が名告りつ、手向に立ちて」(恐れ慎んで口にしなかった妻の名を、越路の峠に立って呼んだ)とある。「たむけ」は手向で、坂の上をいう。俗にいう「とうげ」はこれが訛った言葉である。音注の「以音」の下の「也」は師が余分な字とする。確かにそうだが、同様の例がほかにもないわけではない。「その国を阿豆麻という」の国は、狭くいえば相模を指す。弟橘比売命が亡くなったのは相模の海だからである。広くは足柄山より東の諸国をいう。一国を指すようにも見えるが、山の東の諸国をまとめて「その国」といってよい。『書紀』が「山東の諸国を吾嬬国と名付けた」とするように、古今とも都から東方の国々を広くあづまという。『書紀』のこの段は、「蝦夷を平定して日高見国から帰り、西南へ常陸を経て甲斐国の酒折宮にいた……。日本武尊は『蝦夷の凶悪な首長はみな罪に服したが、信濃・越はまだ従わない』といい、甲斐から北へ向かい武蔵・上野を経て、西の碓日坂に至った。いつも弟橘媛を思っていたので碓日嶺へ登り、東南を望んで深く嘆き、『吾嬬者耶』といった。そのため山東の諸国を吾嬬国と名付けた。ここで道を分け、吉備武彦を越へ遣わして地形の険しさと人民の服従を調べさせ、自分は信濃へ入った」とする。『古事記』とは違いが多い。

【宣長の注釈】違いを考えると、まず行程は、『古事記』なら蝦夷を従わせて帰り、相模から足柄を越えて甲斐へ、そこから信濃を経て尾張へ帰るので、国の順序がすべて合う。『書紀』は常陸から甲斐へ至り、その後に甲斐から北へ転じ、武蔵・上野を経て西の碓日坂へ至り、信濃へ入るとし、順路が合わない。常陸と甲斐の間には武蔵、場合によっては相模があるのに、それを述べず、隣接する国のように常陸から甲斐というのはどうか。常陸・武蔵などを経て、とすべきだろう。ただ、常陸だけを記すのは歌にその地名があるためかもしれない。また甲斐から信濃へ行くのに武蔵・上野へ回るのは、大きく道が違う。両国に反抗者がいて平定に行ったのなら、必ずそう述べるべきで、書かなければ理由がない。もとは常陸・武蔵・上野を経て碓日坂へ至る話が、伝承の混同で前後したのかもしれない。こうなると甲斐へ行った理由も分からない。『古事記』なら常陸・武蔵・相模・甲斐・信濃と順路だが、『書紀』は違う。常陸・武蔵・上野から碓日を越えて信濃へ行き、その後に別に甲斐へ寄ったとすれば、歌の九夜十日では短すぎる。どちらにしても甲斐行きの理由が不明だ。妻を嘆いた場所も足柄と碓日で異なり、どちらが正しいか決められない。上野に吾妻郡、訓は「あがつま」があることからは碓日の方が正しいかもしれない。郡名はたいへん古く、必ず由来があるはずだからである。碓日説なら、『古事記』のあづまという地名もこの吾妻郡によく合い、後の「東国造を授けた」もその土地のこととなる。しかし足柄説でも、国造・郡名には別の考えがあり、後の国造の注で述べる。

【宣長の注釈】しかし『書紀』の順序では、妻を嘆く時が遅く、ふさわしくない。常陸から甲斐へ行くには、足柄か他の道か、必ず先に山を越える。甲斐の都留郡丹波山は武蔵の多摩川の源流にあたり、武蔵から甲斐へ越える道で、今は大菩薩通という。土地の人は倭建命がこの国へ入った道と伝える。いずれにせよ武蔵か相模から山を越えるので、嘆きはその時にこそあるべきだ。初めの国境越えで嘆かず、後の碓日坂で嘆くのでは遅すぎないか。相模の海で亡くなった妻を恋うのだから、足柄がふさわしく、後の上野西方の碓日では少し遠い感じもする。ただし行程を常陸・武蔵・上野・碓日と直すなら、碓日坂はまさに嘆くべき場所となる。どうしても決めがたい。『万葉集』巻十二の「息の緒に、我が思ふ君は、鶏が鳴く、東の坂を、今日か越ゆらむ」(命をかけて思うあなたは、東の坂を今日越えるのだろうか)の東方坂も、足柄か碓日か決められない。

【古事記本文】その国から山を越えて甲斐へ出て、酒折宮にいらっしゃる時、「新治、筑波を過ぎてから、何晩寝たのかね」と歌われた。すると火を焚く老人がその歌を継ぎ、「日々を数え合わせれば、夜では九夜、昼では十日です」と歌った。そこで老人を褒め、東の国の国造に任じた。

【宣長の注釈】甲斐という名は、山の峡にあるためとする説がよい。「かひ」は「間」と同じである。「出」は、前の「入幸」が向こうへ進むことだったのに対し、こちらへ帰ってくる意味だろう。酒折宮の名の意味はまだ分からない。坂折の意味か、酒折が正しい字なら「八塩折の酒」があるので酒造りの語かもしれない。『古事記』には酒折池もある。「折」は伝巻九の八塩折酒の注で詳しく述べた。酒造りにちなむ地名なら、初めにそういう由来があった場所だろう。今、山梨郡に酒折村があり、酒折天神という社がある。甲府から東へ約10町で、甲斐の萩原元克の『甲斐名勝志』は、倭建命が東方征討の際、行宮を建てて滞在した場所で、祭神は倭建命、八幡社もあり、昔の宮跡は今、古天神という、とする。「坐」はしばらく滞在したということだろう。そうでなければ「到」などとするはずで、宮と名付くのも滞在したためだろう。

【宣長の注釈】「にひばり、つくはをすぎて」は新治・筑波を過ぎて、ということ。『和名抄』には常陸国の新治郡新治郷、筑波郡筑波郷があり、『延喜式』にも筑波山神社がある。仙覚の『万葉抄』は、『常陸国風土記』がにひばり国・つくは国などというとする。『万葉集』巻九にも「筑波嶺に、登りて見れば……新治の、鳥羽の淡海も、秋風に、白波立ちぬ……」とあり、筑波山の歌は各巻にも後の歌集にも多い。「つくは」の「は」をいつも濁らせるのは誤りで、古書は清音の波の字だけを書く。『書紀』が日高見から常陸を経て甲斐へ帰ったとするように、常陸を通って来たので、その国の新治と筑波を過ぎてから、という意味になる。武蔵・相模を述べず、甲斐から遠い常陸を挙げるのは、この歌の地名の理由を示すためだろう。契沖は『厚顔抄』の説などを引き、新治は筑波へ続ける枕詞かとし、新しい田を作る意味か、『万葉集』巻十二の「新治今作道」、巻十四の「信濃道は今の墾り道」のように、新しく道を築くことか、という二説を述べるが、ともによくない。また師の『冠辞考』は、新墾・筑波を「新しい毬をつく」といい換え、続く歌は毬をつく数の言葉で作るという説を挙げる。しかしそんな技巧はずっと後世のことで、この御代にそこまでの意味を込めて詠んだとは思えず、そもそも毬をつくことも確かでない。さらに『和名抄』には新治郡に月波郷、読み「つきは」がある。その木が久の誤りで「つくは」なら、新治の月波を詠んだのかとも考えたが、これもよくない。新治と筑波は二か所である。陸奥から甲斐まで過ぎた土地は多かったはずなのに、特にこの二か所を思い出して詠んだのは、何か理由があったのだろう。今、その理由は分からない。『常陸風土記』にも、倭武尊が東方を巡って新治県を通ったとある。

【宣長の注釈】「いくよかねつる」は、周囲の人に「何晩泊まったのか」と尋ねる言い方である。何日たったかといわず、夜に寝た数でいうのは、日数の経過を「幾夜寝て」と数えるのが古今とも普通だからである。子供も「いくつ寝て」という。特に旅では夜の宿泊で数え、俗にも幾夜泊まりで行くなどという。契沖が、幾夜とあっても実は幾日の意で、継がれた歌の最後の句に注目せよとするのはよくない。「幾夜寝ただろう」なら自分で考える意味だが、「ねつる」の「つる」は人へ問いかける言い方である。このように詠んだのは、新治・筑波のあたりに何か思い出す事情があったのだろう。「御火焼之老人」は「みひたきのおきな」と読む。甕栗宮の段にも「火を焚く童子」とある。上代には、夜の明かりに多く焚火を使った。後世の衛士の焚火、神社の庭火、篝火なども照明のためで、古い習慣の名残である。『宮衛令』には夜に門で火を燃やすことがあり、『義解』は内・中・外の三門で衛士が焚くと説明する。左右衛門式にも黄昏後は宮門・閤門で衛士に火を焚かせるとある。神社には火炬屋という名もある。

【宣長の注釈】上代は屋内でも焚火をし、甕栗宮の火焚き童子も竈のそばにいるとある。この竈は照明の火を焚く炉のような物で、飯を炊く普通の竈ではない。『書紀』が、ここの老人も童子も「燭を持つ者」と書くのは、無理に中国風に改めた文章で、実態と違う。燭を持つ者なら竈のそばという理由がない。『書紀』にはこの類が非常に多く、注意して読むべきだと宣長はいう。「続御歌」について、まず五・七・五の三句の歌は、この次や高津宮の段で片歌と呼び、実際に半分のようなものである。詳しくは次の片歌の注、伝巻二十八54丁で述べる。『書紀』も「王の歌の末を継いだ」とし、二つをつなげて一首のようにする。合わせると旋頭歌になる。特にここは王が相手に「幾夜寝たか」と尋ねるので、末を継いで返答とする。甕栗宮でも志毘臣が「大宮の向こうの端は、隅が傾いている」と詠み、その続きの句を求めた時、袁祁命が「大工が下手だからこそ、隅が傾くのだ」と応じたのと同じである。ほかにも三句で問答する例は『古事記』にある。『万葉集』巻八では、尼が「佐保川の水を堰き止めて稲を植えた田を」と前半を詠み、大伴宿禰家持が「刈り取って新米を食べるのは、私一人でしょう」と継ぐ。これは普通の五句31音の歌を二人で分けて詠んだ最初に見える例である。後世はここの新治・筑波の問答を連歌の始まりとし、連歌を筑波の道と呼ぶ。しかし三句の問答は既に神武の段にもあるのに、そちらでなくこちらを採るのは、『書紀』だけ知り『古事記』の歌を知らないためか。ただ「末を継ぐ」という文言によって、これを最初とするのなら、もっともである。

【宣長の注釈】「かがなべて」は、日々を並べて、ということ。「か」は二日・三日・幾日など、日数を数える語で、「かが」と重ねるのは日々・夜々と同じである。この「か」は「気長く」の「け」と音が通じ、同じものだ。その理由は上巻の「日八日、夜八夜」の注、伝巻十三52丁に詳述した。日数を「幾日」という時は昼夜を合わせる。幾日の昼・幾日の夜といえるのも、「か」が夜を含むからである。ただ「いくよ」と対比する時は昼を「いくか」といい、昼夜のうち昼を主として昼だけにも用いる。「なべて」は、新治・筑波を過ぎた日から今日までの日数を並べ、全部合わせること。「おしなべて」が「すべて」と同意になるのも、並べ上げて合計する意味である。『万葉集』巻三の「気並而」は、今の本の「いきなめて」という読みは誤り。巻六の「日不並二」も読みを誤る。巻八の「日並而」、巻二十の「我が背子が、宿の撫子、日並べて、雨は降れども、色も変はらず」、巻十一の「夜並べて、君を来ませと」などから分かる。ただし『万葉集』はみな日や夜を重ねる意味なので少し使い方が違うようだが、突き詰めれば同じで、ここも日々を重ねてと解して同意になる。

【宣長の注釈】この句は昔から皆誤って解してきた、と宣長はいう。契沖は、物を数える時に指を曲げ並べるので「かがめ」の末を省いたのか、あるいは「かうがへなべて」なのかとし、『万葉集』巻一の「馬なべて」を「馬数而」と書くので「なべて」は数えることだ、とする。しかし指のことなら、指といわなくては伝わらず、対象を何もいわず「屈並」だけで指を示せようか。『万葉集』巻八も「指折りかき数ふれば」と明示する。また「かが」を「かうがへ」とするのも分からず、日数を数えるのに「考える」は似合わない。『万葉集』を引いて「なべて」を数えるとするのはよいが、それも日々を数えるとすれば、さらに明らかだ。師も「かがなべ」をそのまま「考える」とし、自分の文で考えることをわざわざ「かがなへ」と書いたが、それも誤りである。考えるを「かがなへ」という用例はなく、この場面に考えるという言葉も合わない。契沖の「考え数えて」ならまだ考えるの比重は軽いが、単に考えてとするのは、いよいよ理解できない。

【宣長の注釈】ここには直接必要のないことだが、人が迷うことなので、ついでにいう。「考へ」の「か」は「かやすき」「かよわき」「かよれる」などの「か」で、「むかへ」は向かい合わせること。あれとこれを向かい合わせて確かめ、思い巡らす意味の語である。元は「かむかへ」と「む」を明瞭にいい、後の「か」も清音のはずだが、中古から「かうがへ」「かんがへ」というのは、どちらも音便で崩れたものだ。「よにはここのよ」は、夜には九夜である。「ひにはとをかを」は、昼には十日を、である。最後の「を」は「よ」というような語で、古歌に多い。契沖は十日「を過ぎた」の意が込もるとするが、古意ではない。上巻の「あなにやし、えをとこを」、伝巻四30丁で述べたのと同じである。「夜は、日は」とするはずを「夜には、日には」とする「に」は、今の感覚では落ち着かないが、古くはこの形でもいったのだろう。別の考えとして、『万葉集』巻十三の「朝庭に、出で居て嘆き、夕庭、入り居て思ひ」、巻十七の「朝庭に、出で立ちならし」、巻二の「夕庭に、進み平らげず」などの朝庭・夕庭に倣い、夜庭・昼庭だったのかもしれない。そうなら夜の務めが九夜、昼の務めが十日となる。後世の上日・上夜のようなものだ。『万葉集』巻十三に「朝宮、仕へ奉りて」、巻二に「朝の宮仕えの人々を……夕の宮仕えの人々を」とあり、前者は朝の宮仕え、後者は朝・夕の宮仕えをする人々をいう。今、老人が火を焚いて夜の務めに出ているため、新治・筑波からここまで昼夜仕えた自分の労苦で答えたとするのも、ふさわしい。昼が十日なら夜も十夜のはずなのに九夜なのは、この時まだ宵なので、当夜を数えなかったのだろう。「譽其老人」は、すぐに返歌を作ったことを賞した。夜庭・昼庭説なら、その勤労をも賞したのだろう。

【宣長の注釈】「給東国造也」は「あづまのくにのみやつこになしたまひける」と読む。字面どおり「東国造を給ふ」では漢文の読み下しで、古語の形ではない。これは東の諸国の一国の国造に任じたので、国名は伝わらず、ただ大まかにこう語り伝えたのだろう。「東」という一国があるのではない。一国の名なら前の阿豆麻のように音仮名で書くのが『古事記』の例で、「東」と書く以上、東方の諸国の総称なのは明らかだ。ただし妻を嘆いた所を碓日坂とすれば、東国は上野の吾妻郡だろう。別に考えると、この老人が常陸から甲斐まで昼夜怠らず、よく仕えながら東国を旅してきた功績により、「東国造」という称号を授かったのかもしれない。「給」と書くのも、ほかの「某国造と為す」と違い、何か理由がありそうだ。称号を賜う例からは「給」の下に「号」などが脱落したのかもしれない。「譽」も字義どおりに、賞賛して呼ぶ名にかかわるのだろう。この説なら上野の吾妻郡は老人に与えた国で、東国造という称号の人が領したため、後に吾妻と名付いたのかもしれない。そうなら碓日坂説は、上野の吾妻という地名のこの由来に引かれ、足柄と混同した伝承だろう。これに対し、東方をあづまと呼ぶのは倭建命の言葉にちなみ後に始まったので、この時に東国造という称号を授けるのはおかしい、という反論がある。しかし、あづまはやといい、亡き比売を忘れず恋い慕う心なら、亡くなった東方を自ら「わが妻の国」と呼んでもおかしくない。必ず後世の呼称と決められない。また老人へその称号を授けたのは、私がいとしく思う妻が亡くなった東の国の国造だ、という意味を込め、特別に親しんだ心とも考えられる。

【宣長の注釈・書紀との比較】『書紀』には、「酒折宮にいた時、燭を掲げて食を勧めた。その夜、王は歌で侍者に問うた。歌は『古事記』と全く同じである。侍者たちは答えられなかったが、燭を持つ者が歌の末を継いで答えた。この歌も『古事記』と同じである。王はその聡明さを褒め、手厚く賞した。この宮で靫部を、大伴連の遠祖、武日に与えた」とある。『冠辞考』は新しい毬をつく説を挙げ、単に各地で泊まった日数なら誰でも答えられるはずで、この老人だけが手毬をつく時の数え言葉で継いだため賞されたのだ、とする。しかしそれは後世の考えである。ただ日数によって答え申し上げたとしても、歌がよくできていれば、どうして賞しないことがあろう。この歌が毬を数える意を含まなければ大したことがなく、賞するに足りないというなら、『古事記』『書紀』『万葉集』の多くの歌は捨てられてしまうだろう。

【宣長の注釈】『書紀』の「侍者たちは答えられなかった」は、老人を賞したという話に合わせ、例によって撰者が加えた文章だろう。『古事記』にはこの言葉はない。たとえ古い伝承そのままの文であっても、その場ですぐに皆が返歌を作れなかったことに、何の不思議があろうか。

古事記伝 巻二十八

本居宣長 著

日代宮 三の巻

〔『古事記』本文〕倭建命はその国から科野国へ越え、科野の坂の神を従わせて、尾張国へ帰って来られた。そして、以前に結婚を約束しておいた美夜受比売のもとに入られた。食事を差し上げるとき、美夜受比売は酒の杯を両手で捧げて差し上げた。ところが、彼女が着ている襲(おすひ。「意須比」の三字は音を表す)という衣の裾に、月経の血が付いていた。倭建命はそれを御覧になって歌われた。
「ひさかたの、天の香具山。鋭い鎌に触れる木の切り株のように、細くか弱い、あなたのしなやかな腕を枕にしようと私はするけれど、一緒に寝ようと私は思うけれど、あなたの着ている襲の裾に、月が昇ってしまったことだ。」
すると美夜受比売は、こう答えて歌った。
「高く輝く日の神の御子、安らかにお治めになる、わが大君。あらたまの、年が過ぎれば、あらたまの、月も次々に過ぎてゆきます。もっともなこと、もっともなことです。あなたを待ちかねて、私の着ている襲の裾に、月も昇ろうというものです。」
こうして二人は結ばれた。その後、倭建命は御刀である草那芸剣を美夜受比売のもとに置き、伊服岐の山の神を討ち取るために出かけられた。〔最初の歌の序詞には、本文に脱字があるのではないかという宣長の説が、以下に述べられる。〕

「科野」は、すでに巻十四・三十葉に出ている。「科野の坂の神」について、『日本書紀』にはこうある。「日本武尊は信濃へ入られた。この国は山が高く谷が深く、青い峰が幾重にも重なっている。人は杖に頼っても登りにくく、岩は険しく石段は曲がりくねり、長い峰が数千も続いて、馬も轡を止めて進めない。しかし日本武尊は、もやをかき分けて峰を越え、遠く大山を通り抜けられた。峰に着くと空腹になり、山中で食事をされた。山の神は王を苦しめようと、白鹿に姿を変えて王の前に立った……。」〔続きは巻二十七・八十葉に引用した。〕これは、この坂の出来事である。『万葉集』巻二十の信濃国の防人の歌、「ちはやぶる、神の御坂に、幣祭り、斎ふ命は、母父がため」――神の御坂に幣を供えて無事を祈るのは父母のためだ――というのも、この坂をいう。
ここは古い官道で、美濃国恵那郡から信濃国伊那郡へ越える国境の坂である。〔『書紀』推古三十五年五月には、蠅の大群が空中に集まって信濃坂を越え、雷のような音を立て、東の上野国まで行って自然に散ったとある。斉明六年には、科野国から「蠅の群れが西へ飛び、大坂を越えた。大きさは十囲ほどで、高く青空まで達した」と報告があった。『日本紀略』天延三年七月二十九日にも、東国の民家が風で多く損なわれ、信濃御坂の道が崩れたとある。この山は現在、恵那が嶽と呼ばれる大きな山である。『延喜式』には、美濃国恵那郡の恵那神社・坂本神社が載る。坂本は昔の駅で、ここから御坂を越えて信濃国伊那郡の阿智駅に達した。「その原」「伏屋」などという所は、御坂を下って阿智駅へ至るまでの間にあるという。阿智神社も『式』に見える。〕
後に木曽路が開かれてからも、中古まではこの御坂の道を往来したが、いつの頃からか廃れて、木曽路だけを通るようになった。〔昔の御坂の道は、木曽路より南にある。『続日本紀』大宝二年十二月に「初めて美濃国の岐蘇山道を開いた」、和銅六年七月に「美濃・信濃二国の境は道が険しく、往来が困難なので、吉蘇路を通した」とある。「道が険しい」とは、この御坂をいう。『新古今集』には、信濃の御坂を描いた絵のうち、「その原」という所で旅人が宿り、夜を明かした場面について、藤原輔尹朝臣が詠んだという詞書がある。『今昔物語』には、信濃守藤原陳忠が任期を終えて上京しようと御坂を越えたとき、馬に乗ったまま梯から深い谷へ落ちたとある。これらから、中古までは御坂を通っていたと分かる。『後拾遺集』には、為善朝臣が三河守として下るとき、墨俣という辺りで休み、信濃の御坂を遠く眺めて詠んだ能因法師の歌がある。「白雲の、上より見ゆる、あし引の、山の高根や、御坂なるらむ」――白雲の上に見えるあの高い峰が御坂だろうか――というのも、この御坂である。後世の歌に木曽の御坂が詠まれるために混同し、これらまで木曽の御坂と考えるのは誤りである。単に「御坂」「信濃の御坂」というのは、木曽の御坂ではない。〕
坂の神について、『書紀』の記事は右に引いたとおりである。『古事記』で蒜を投げつけて殺されたのは足柄の坂の神だから、こちらとは別である。ただし、科野の坂にも、あれと同じ種類の神がいたのだろう。

「先日」は「さきに」と読む。「日」の字は読まない。数か月も過ぎてから以前のことを「さきつひ」などと呼ぶのは、古語らしくない。「所期」は「ちぎりおかしし」と読む。〔「おかしし」は「おきたまひし」の意味である。〕前に「帰って来るとき結婚しようと思って約束をし、東国へ出発した」とあった、その約束を指す。
「捧大御酒盞」については、上巻の八千矛神の段に「その后が大御酒の杯を取り、近くへ立ち寄って捧げ上げ……」とある。杯については、そちらの巻十一・四十六葉で述べた。朝倉宮の段にも、「三重采女が大きな杯を捧げ上げて差し上げた」とある。「其」は「それ」と読む。人の名を出した後、このように「其」と言ってその人を指す例は、『古事記』に多い。「意須比」は巻十一・八葉、「襴」は巻二十三・五十葉にすでに出ている。

「月経」〔女性の月水を、月経とも経水ともいう〕は、どう読めばよいだろうか。『和名抄』には「月水、俗にさはりという」とある。『うつほ物語』俊蔭巻には「いつから御けがれがお止まりになったか……」とある。〔妊娠して何か月かを尋ね、月経が何月から止まったのかと言っている。〕『風雅集』神祇には「もとよりも、塵に交はる、神なれば、月の障も、何か苦しき」――私はもともと世俗に交わる神なのだから、月のさわりがあっても何の差し障りがあろう――という歌が載る。和泉式部が熊野へ参詣したが、月経のため奉幣できず、「晴やらぬ、身の浮雲の、棚引て、月のさはりと、なるぞ悲しき」――晴れない身の浮雲がたなびき、月のさわりとなってお参りを妨げるのが悲しい――と詠み、寝たその夜、夢の中で神から先の歌を告げられたという。
ただ、「さはり」も「けがれ」も、月経があるという出来事の呼び名であって、血そのものを直接指してはいない。それで「さはりが付いた」などと言うのは、どうも妙に聞こえる。そこで今は、ひとまず「さはりのもの」と読んだ。〔「さはりのち」と読んでもよい。「ち」は血である。延佳も師の真淵も、歌を根拠に「つき」と読んだが、それは誤りである。理由は歌のところで述べる。〕「見其月経」は「そをみそなはして」と読む。〔字面どおりにすべて読むと、くどくて拙い。ただし、前を「さはりのち」と読むなら、ここも「そのちを」と読むべきである。「其月経」という書き方は漢文の構文である。〕

「ひさかたの」は「天」に掛かる枕詞である。〔「さ」を濁って「ざ」と読むのは誤りだ。古書ではみな清音用の仮名を書く。〕意味は『冠辞考』に述べられている。「あめのかぐやま」は天香山で、ここでは大和国の山をいう。この山は巻五・六十六葉に出ている。「とかまに」は「利鎌に」、鋭い鎌に、ということだ。『和名抄』には「鎌、和名かま」とある。
「さわたるくび」は、六音で一句を作り、「ま渡る杙」の意味である。「渡る」はここでは触れること、「杙」は細く小さな、柴と呼ぶほどの木の根元の株をいう。この後にも「小竹の刈り杙」と出てくる。〔刈った後に残った株で、「伐り杙」も同じ。〕『和名抄』にも「株、草木の本なり。くひせと読む」とある。〔「くひせ」は杙の根に近い部分で、「せ」は「すゑ」を縮めた形だろう。「いしずゑ」の「すゑ」のようなものだ。〕この二句は、鎌に触れて刈られるほどの細い木の株、と言っており、ここまでは次の句を導く序である。大祓詞にも「焼鎌の敏鎌もちて、打ち払ふ事のごとく……」――焼いて鍛えた鋭い鎌で払い除けるように――とある。〔ただし、「杙」の「ひ」は清音なのに、濁音用の仮名「毘」を書くのはどうしたことか。『古事記』は仮名の清濁を厳密に区別しており、「比」「毘」を取り違えたと思えるのは、この箇所と、高津宮の段の歌で「つひに」を「都毘爾」と書く箇所の、二つしか見当たらない。『音使』に、イのように発音する所では濁音用の仮名も使う、と言うのは誤りだ。そのような例はない。〕

一方で「さ渡る」は、『万葉集』巻十の「ほととぎす、鳴きてさ渡る」「ほととぎす、鳴きてさ渡る」、巻十一の「高山に、たかべさ渡る」「雲間より、さ渡る月の」、祝詞の「谷蟆のさ渡る極み」など、どれもあちらこちらへ移り行くことだけに使う語である。鎌に触れる意味に取るのも、他の用例と違って少し落ち着かない感じがする。
そこで、次に引く熱田の縁起の歌と考え合わせると、「とかまに、さわたるくび」の二句は、もとは「こちごちの、やまのかひに、さわたる、くぐひがくび」という四句だったものが、多くの脱字や誤字を生じたのではないだろうか。〔「許知」を「斗迦」と誤り、「碁知能夜」を落とし、さらに「能迦比」を落とし、上の「久」と下の「久」を取り違えて、その間の「具比賀」を落としたのだろう。そもそも、この二首を縁起の歌と比べると、少しずつ言葉が違うだけで、内容は初めから終わりまで同じなので、この部分も同じ内容だったように思える。〕「あちらこちらの、山の谷間を、渡る、白鳥の首」ということで、やはり次の句を導く序である。朝倉宮の段の大御歌にも、「たたみこも、平群の山の、あちらこちらの、山の谷間に」とある。「鵠」については、巻二十五に述べた。

「ひわぼそ」は四音で一句を作り、弱く細いという意味である。「ひわ」は、『源氏物語』真木柱巻の「とても小柄な方が、いつもの御病気で痩せ衰えて、ひわづで……」、柏木巻の「宮は、あれほどひわづな御様子で……」、竹河巻の「源侍従といって、たいそう若くひわづだと思った人は……」などの「ひわづ」、『栄花物語』音楽巻の「宮はたいそうひわやかで、美しくいらっしゃる」などの「ひわやか」と同じ語で、細くたおやかなことをいう。〔「ひわづ」は俗に「ひなづ」と言うのと同じで、「ひわやか」も同じ意味である。〕今の言葉でも、細く弱い物がたわむ様子を「ひわひわ」「ひわつく」という。これである。
したがって、これより前の言葉は、細くたおやかだという意味を導く序であり、〔鎌に払い刈られる木でも、白鳥の首でも、同じ意味でつながる。〕この句は、美夜受比売の腕が細くしなやかなことをおっしゃっている。
〔契沖は「比波」の二字を前の句に付け、「後の方で椎を『しひひ』というのにならうべきだ。古語ではこう言ったのか」と説くが、誤りである。椎を「しひひ」とするというのは、白檮原宮の段の大御歌を指すが、そこでも椎を「しひひ」と呼んでいるのではない。これはそこで述べる。師も同じく「比波」を前の句に付け、「『新撰字鏡』草部に『茈、くひゐ』という物はあるが、仮名が異なる。これは若木をいうようだ。また、『仁徳紀』の『いくみ竹』は、茂り籠もった竹だから、この『くび』も『くみ』と通じ、『ひ』は木と通じて、茂り籠もった若木なのか」と言われた。「くび」を若木とするのはよいが、下の「ひ」をつなぐのはどうだろう。「くみ」と「くび」が通じるのもよいとして、ここで繁茂する意味を言う必要はない。木を「ひ」とも言わない。また『万葉考』で「くびは若木で、串ともいう……下の『ひ』は『生』の省略」と言うのもどうだろう。「くび」と「串」は同じではなく、「生」の意味もここでは要らない。
契沖や師の説だと、「曾」を「者」の意味と見たのだろう。そうでなければ、この字が余る。しかし、ここは序の終わりなので、「は」という助詞を置く所ではない。そのような例はない。「細」に濁音用の「煩」を書くのも、「ひわぼそ」と続くからこそである。「比波」を前の句へ付け、単に「ほそ」というなら、どうして語頭を濁音にしようか。昔から解釈者がみな「ひわ」という語を理解できなかったため、この箇所が明らかにならなかったのである。〕

「たわやがひなを」は「手弱腕を」である。「たわや」は「栲手夫」「手弱女」などの「たわや」で、手弱女を「たをやめ」ともいうように、たおやかなことをいう。「かひな」は腕である。『字鏡』には「肱、臂なり、かひな」、『万葉集』巻三には「かひなに懸けて」などとある。〔「かひな」はほかにも物語などに多く出て、今も普通に使う。ただ、『和名抄』では「腕、手の腕なり。和名たたむき、一説にうで」、また「臂を肱という」「肘、臂の節なり、和名ひぢ」などとあり、「かひな」という名は見えない。『字鏡』に「臂、たたむき」とあるので、「かひな」と「ただむき」は同じだろう。『書紀』では「腕」「臂」などをみな「ただむき」と読む。契沖が前の句の「煩曾」もこの句へ付け、九音の句とするのは誤りである。〕
「まかむとは」は、腕を枕にしようとは、ということ。「まく」は枕にする意味で、上巻の沼河比売の歌にも「栲綱の、白き腕……真玉手、玉手さしまき……」とある。詳しくはその歌の注、巻十一・二十四葉で述べた。「あれはすれど」は「私はしようとするけれども」の意味。〔私は腕を枕にしようとするけれども、と言っている。〕
「さねむとは」は、一緒に寝ようとは、ということ。「さね」は「まね」で、多くは男女が連れ添って寝ることをいう。〔「率寝」、連れ添って寝る意味で、『継体紀』の歌の「うれいね」――一緒に寝よう――のようなものだ。〕遠飛鳥宮の段、軽太子の御歌には「うるはしと、さねしさねてば」――愛しい人と、寝た、共に寝たなら――とある。『万葉集』巻二には「さ寝ずは遂に、有りかつましじ」――一緒に寝なければ到底生きていけまい――、また「そのさ寝し夜は、幾くもあらず、はふつたの、別れし来れば」――共に寝た夜はいくらもないのに、別れて来たので――、巻三には「我妹子と、さ寝し妻屋に」、巻十四には「さ寝らくは、玉の緒ばかり」――共に寝るのはほんのつかの間――など、ほかにも多い。「あれはおもへど」は、私は思うけれども、という意味である。

「ながけせる」は、あなたが着ている、という意味である。〔延佳本で「勢」を「藝」に変えたのは、古語を知らず、勝手に直した浅はかな誤りである。『古事記』で「藝」はギの仮名にしか使わないので、これを「藝」にすると「けぎる」となる。そんな語があるだろうか。他の本がみな「勢」とするのだから、なおさらである。「祁」をキと読むのも誤りだ。〕
「けせる」は「着てある」の意味の古語で、「着たる」と同じである。〔「着たる」は「着てある」の縮まった形。〕まず「着てある」を古語で「ける」という。『万葉集』巻十五に「我が旅は、久しくあらし、この我がける、妹が衣の、垢つく見れば」――旅は長くなったらしい。私が着る妻の衣に垢が付いたのを見ると――とある。この返歌も、『熱田縁起』では「わがける」となっている。〔「来てある」も古語で「けり」という。『書紀』で「来」「帰」「参」「赴」などをケリと読み、『万葉集』で「けり」という語に「来」の字を使うのがそれで、これも「着てある」と同じ仕組みである。〕その「ける」を、「立っている」を「たたせる」、「行っている」を「ゆかせる」と言うように、〔この類はとても多い。〕「けせる」と言う。『万葉集』巻四にも「我が背子が、けせる衣の……」とある。〔「盖」を今の本でキと読むのは誤りで、カイという音の字をケの仮名に用いるのは一般的な例である。〕御衣を「みけし」というのも同じ活用である。〔巻十一・三十四葉を参照。〕「おすひのすそに」は、襲という衣の裾に、の意味である。

「つきたちにけり」は、月が昇ったことだ、という意味である。「月」は空の月で、「立つ」は空に昇って見えることをいう。〔『天智紀』では「朔」を「月立」と書く。〕『万葉集』巻七の「向かひの山に、月立つ見えて」、巻十一の「三諸の山に、立つ月の」、巻十四の「小筑波の、嶺ろに月立し」〔月が昇ったの意〕などの例がある。女性の月経は毎月巡って来るものなので、その血が付いて見えることを空に月が出たのにたとえて、こうおっしゃったのである。
〔契沖が「つきは月経だ」と注したのは誤りだ。月経の付いたことを歌われてはいるが、「つき」という言葉そのものは月経の名称ではなく、空の月を意味する。例えば、花が散るのを見て「雪が降ったことだ」と歌うようなものである。したがって、この「つき」という語を根拠に、前の「月経」をツキと読むのは誤りだ。月経をどうして単に「つき」と言おうか。「月のさはり」と呼び、中国でも月水・経・月事などと呼ぶのは、毎月巡って通うものだからである。〕

『熱田大神縁起』には、次のようにある。〔世に寛平縁起という。この書については、巻二十七・五十葉で述べた。〕「日本武尊は尾張へ帰って来られ……車を駆って宮酢媛の家に着かれた。食事が供えられ、宮酢媛は手に美しい杯を捧げて差し上げた。媛の着ている衣裙〔これをオスヒという〕は月経の血で染まっていた。日本武尊はこれを見て、こう歌われた。
『ますげ、尾張の山と、あちらこちらの、山の谷間を、飛び渡る、びがはの、はぼそ、たわやかな腕を、枕にして寝ようと、私は思うのに、寄り添って寝ようと、私は思うのに、いとしいあなた、その着ている襲の表に、朝の月のように、月が昇ってしまったことだ。』」
〔「意須比」に「衣裙」の字を当てるのは適切でない。「麻蘇義」の「義」はゲの仮名なので、これは「真菅」である。菅を「そが」とも呼ぶことから分かる。「真菅よし、蘇我の川原」などと続ける。さらに『大神宮儀式帳』に「百張蘇我乃国」とあることを考え合わせれば、「ますげ」は尾張に掛かる枕詞である。『古事記』の「天の香山」を「尾張の山」とするのは、尾張でこう歌い変えて伝えたのか、それとも、もとは尾張の山だったのを大和国で天の香山と歌い変えたのか。
「とみわたる」は飛び渡ること。「毘何波乃」は脱字があり、もとは「久具毘何波志乃」などとあったのが、「久具」の二字と「志」の字を落としたのだろう。「波富曾」は前に「比」が落ちている。ところが今の本では、知ったかぶりの者が「何波乃」の三字まで削ってしまったのは、どうしたことか。中途半端な物知りがこうして古書を傷つけるのは、まことに悲しい。「うへ」は表、「あさづき」は朝の月だろう。〕〔歌中の「びがはの、はぼそ」は、本文が破損している形をそのまま示した。宣長の補訂説は、右の注のとおりである。〕

「たかひかる、ひのみこ、やすみしし、わがおほきみ」は、「高光る、日の御子、安見しし、わが大君」である。この四句については『冠辞考』にも述べられている。「たか」は天をいう。〔巻三・五葉で述べた。〕「光る」は「照る」と同じなので、「高光る」は「天照る」のような意味である。〔『万葉集』では「高照」とも多く書く。〕「日の御子」とは、日の神の子孫ということだ。〔契沖が、「日」は当時の景行天皇を指し、その皇子だという意味に取るのは誤りである。〕
「やすみしし」も『冠辞考』の説のように、安らかにお治めになる意味である。〔「八隅知」と解するのは中国的な考え方で、古い意味から大きく外れる。それなのに『万葉集』で多くこの字を書くのは、奈良の頃にはすでに中国的な考えが付いて、この字の意味に解し直したからかもしれない。同じような例はほかにもある。『続日本紀』巻十五の大御歌が「夜須美斯留、和己於保支美」とするのは、「留」を後人が勝手に変えたのだろう。古本では「志」で、『年中行事秘抄』の引用でも「志」とある。〕
『天武紀』『続日本紀』などの「安殿」も、〔大安殿・内安殿・外安殿・中安殿・小安殿などがある。〕「やすみどの」で、天皇が安らかに天下を御覧になり、お治めになる殿という名である。「大安殿」は大極殿のことだ。〔ところが「おほやすみどの」と読むべきことを知らず、今の『皇極紀』『天武紀』で「大極殿」を「おほあむどの」と読むのは、古本の脇に「大安殿」と読み仮名のように書いたのを見誤ったのだろう。『撰集抄』で西行法師が崇徳天皇の陵に参り、生前のことを申し上げるところに、「清涼殿・紫宸殿の間でやすみなさって、百官にかしずかれ……」というのは、たまたま古語が残ったのだろうか。当時の言葉としては珍しい。また『欽明紀』の「安立室」は、「安」が漢文の「置く」という意味なのでヤスミとは読むべきでないが、文の言葉自体は古いものである。〕

師は「みしし」を、「お立ちになる」を「立ちしし」、「いらっしゃる」を「おはし」などと言う類の、尊んで申す語だと言われた。それはそうだが、十分に細かな説明ではない。「立ちしし」「おはし」などの末尾のシは過去をいう語なのに、〔いわゆる過去の「し」である。〕この「みしし」の最後のシはそうではない。いま現にいらっしゃる大君を申し上げる語だからである。したがって最後の「志」は「する」の意味で、〔安見をなさるということ。〕上の「斯」は「見る」を古語で「みし」と言った、そのシである。「物見」「花見」の「見」が名詞であるように、この「安見」も名詞である。そこで「やすみし」と続けて読み、最後の「し」を切り離して読むべきだ。「やすみ」と「しし」に分けるのは、意味を細かく理解しない誤読である。
『万葉集』巻十九の「豊の明かり、見しする今日は、国看せして……」と同じ言い方だ。〔これも「国を御覧になさって」ということ。「国見をして」とは少し違う。また「する」を「せす」というのも古語なので、「せして」は「して」である。「やすみしし」をこの形にすれば「やすみしせし」となる。〕それなら「やすみしす」と言うはずなのに「し」となるのは、歌の言葉の一つの形である。「いさなとり、海」と続けるのも同じ例だ。〔これも本来は「いさなとる、海」と続きそうな言い方である。〕
「やすみしし、わが大君」の二句は、朝倉宮の歌にも二か所、『仁徳紀』『推古紀』の歌などにもあり、『万葉集』にも多い。『万葉集』には「高照る、日の皇子」だけで「やすみしし」以下を省くもの、「高光る、わが日の皇子」とするものもある。〔「高光る、日の朝廷」とも詠む。〕四句を続けて詠むときは、『万葉集』ではどれも「やすみしし」以下を前に、「たかひかる」以下を後にする。〔「わが」は『万葉集』の仮名書きでは「和期」「吾期」などとある。後の「お」に続くため「が・お」が縮まって「ぎ」になり、長く歌うと自然に「ぎ・お」となるのである。したがって、これは「わが大君」と続くときだけのことで、「吾」を一般に「わぎ」ともいうと考えるのは誤りだ。〕
この四句は、天皇に申し上げるのはもちろん、皇太子にも使い、『万葉集』には皇子一般を指す歌もあちこちに見える。〔「日の御子」も「大君」も、皇子や諸王まで含めて使う敬称だからである。〕ここでは倭建命を指して申し上げている。

「あらたまの」は年や月に掛かる枕詞で、「あたらあたらま」の縮まった語である。『万葉集』巻二十に「年月の、移りゆく折々に、逢っていても」〔ある本では「あらたあらた」。〕とある。「あたらあたら」は年月日時が移ってゆくことをいい、年月は移り巡るものなので、巡って来るたびに逢うという意味である。同じく巻三の「私の黒髪が、真白な白髪になるまで、移りゆく世を、共に生きようと」、〔「新」は当て字で「あたらあたら」と同じ。〕巻六の「移りゆく世の、出来事なのだから」、巻十三の「岩に、苔が生えるまで、移りゆく世を、無事に通おうと、約束して」〔「夜」は当て字で「世」の意味。〕などと考え合わせればよい。「あたら世」と言っても、単に「世」と同じことになる。「世」は年月日が移りゆく期間をいうからである。
「あらたま」は、その「あたらあたら」の、上の「あたら」を縮めて「あら」、下を縮めて「た」としたものだ。〔「あた」は「あ」、「たら」は「た」に縮め、下の「あ」は「ら」の母音に含まれるので省かれる。〕「ま」は「間」で、期間をいうのと同じ。〔荒木田久老は、『万葉集』巻二十の「あたらあたら」について、別本の「あらたあらた」を採り、「新世」も「あらたよ」と読む。そして「新しい」を「あたらし」というのは平安京の時代になって訛った形で、正しくは「あらたし」だから、『万葉集』ではすべて「あらた」と読むべきだと言う。この説に従えば、「あらたま」はそのまま「あらた」の「間」で、意味は右に述べたのと同じである。〕
『万葉集』巻五には「あらたまの、来経ゆく年の」、巻十一には「あらたまの、きへが竹垣」、巻十四にも「あらたまの、伎倍の林」などと詠む。「伎倍」は地名だが、枕詞との結び付きは、年月が来て過ぎてゆく意味によるので、巻五の歌と同じである。〔『冠辞考』が、これらは遠江国麁玉郡の伎倍郷を指しており枕詞ではない、とするのは誤りだ。麁玉郡に伎倍という郷はない。同国山香郡に岐階という郷が載るが、「階」は「陛」の誤りで、「伎倍」はここだろうから、麁玉郡ではない。〕また、「たまきはる」という枕詞も「あらたま」と同じ意味である。その理由は、高津宮の段でその語が出てくる巻三十七で述べよう。

「としがきふれば」は、年が過ぎて来れば、ということ。〔ここでの「が」の使い方は、俗語めいて聞こえる。中古ではこのような所を「の」と言い、「が」とは言わない。しかし上巻の歌でも「日が隠らば」、『万葉集』東歌でも「日が照れば」と詠んでいる。上代にはこのようにも言った。一般に中古で「の」と言う所を、昔は「が」とする例が多い。〕『万葉集』巻五に「万世に、年は来経とも」、巻十二に「年をぞ来経る」などがあり、巻十三に「あらたまの、年は来去りて」ともある。
「つきはきへゆく」は、〔「波」を「婆」とする本もあるが、今は二つの別本に従った。〕月は次々に過ぎてゆく、という意味である。『万葉集』巻十五に「あらたまの、月日も来経ぬ」とあり、「あらたまの月」と続ける例は、ほかにも多い。また「年月」とも続け、巻十三には「あらたまの、立つ月ごと」などともいう。「気長く」などの「け」は、この「きへ」が縮まったもので、時を経て長く、の意味である。
ここは、〔本来「月が過ぎれば年は過ぎてゆく」と言うところを逆にして、〕「年が過ぎれば、月は過ぎてゆく」と言う。年が過ぎれば、その間に多くの月が経っているということで、襲に月経の血が付いた理由を言うため、月が移り替わることを中心に据えた言葉の運びである。〔よく心を留めて味わってほしい。〕

「うべなうべな」は、〔旧版本や真福寺本などには、もう一つ「うべな」があり、三度重なっている。今は延佳本や別本などにないのに従った。〕「もっともだ、もっともだ」ということで、「な」は添える助詞である。『仁徳紀』の歌に「うべなうべなうべな、我を問はな」、『万葉集』巻十三に「うべうべな、母は知らじ、うべうべな、父は知らじ……」などとある。そうあって当然だ、と承知する意味だ。〔俗に「そのはずだ」「もっともなことだ」と言うようなもの。〕高津宮の段には「うべしこそ」〔『万葉集』にも同じ形がある。〕、『推古紀』の大御歌には「うべしこも」などもある。『万葉集』では「うべもこも」「うべこのみ」ともいう。『神武紀』には「諾、これをうべなりという」ともある。
また『万葉集』巻十六に「否も諾も」とあるので、〔『源信明集』の歌には「いなともうとも」、『拾玉集』には「なやうや」ともある。「なや」は否や、である。〕「うべ」も「う」と承諾する意味の語である。〔今も承諾する返事を「おお」「うう」という。「唯」と答えるのも「うう」に通じる。〕

「きみまちがたに」は、君を待ちかねて、という意味である。普通は「待ちがてに」と言う。〔『万葉集』の仮名書きもみなそうで、「が」には濁音用・清音用の両方の字を使う。〕昔はこのようにも言ったのだろう。〔確かな別の例は見付からない。〕『万葉集』巻十四の「ここはこがたに」も、ここには来にくいので、という意味だろうか。ここでは美夜受比売自身が待ちかねるのではなく、月経の方が君を待ちかねて、と言いなしている。
「わがけせる」は、私が着ている、の意味。〔延佳本が「勢」を「藝」に変えたのが勝手な改変であることは、前に述べた。〕「おすひのすそに」は、旧版本と別本で「能」の下に「須比能」がもう一度ある。歌にはこのように繰り返す例もあちこちにあるから、〔『雄略紀』の歌の「かむかぜの、伊勢の、伊勢の野の」などは、特によく似ている。ここも前の「の」にオの音が含まれるため、「おすひの、おすひの」と繰り返した言葉である。〕余分な字とは言い切れない。ただ、ない本が多いので、今はそちらに従った。
「つきたたなむよ」は、月がきっと昇ることだよ、という意味。契沖は、後世の歌なら「たちなむよ」と言うべきだ、と述べた。確かに後世なら「たたなむ」は「昇ってほしい」という願望になるが、昔は「たちなむ」という意味でこうも言ったのだろう。昇るのも当然なことだ、というような意味である。

歌全体の意味はこうである。「わが大君。前にお約束くださったときから年が経ち、その間に多くの月が過ぎました。ですから、あなたを待ちかねて月が昇り、見えてしまうのは、本当に当然のこと、もっともなことです。」月が替われば空の月も昇り、見え始めるものだからである。〔倭建命の歌の「月立ちにけり」は、ただ空に月が見えるという意味だった。それをこの返歌では、月が替わり、新しく月が見え始めるという意味に取り直したのである。月初めの「朔」の意味だ。〕
この歌から考えると、美夜受比売はこのとき初潮を迎えたのだろう。それで初めての不慣れなことだったため、気を付けずに襲にも血が付き、人の目にも触れたのではないだろうか。〔もっとも、ここまで推測するのは細かすぎる考えで、どうだろうか。〕

『熱田縁起』には、次のようにある。「宮酢媛はお答えして歌った。『安らかにお治めになる、わが大君、高く輝く、日の御子。あらたまの、過ぎてゆく年を、長い年月、月を重ねて、あなたを恋い、あなたを恋い慕って待ちかね、あなたを待ちかねて、もっともです、もっともです、もっともです。しもや、私の着ている、襲の表に、朝の月のように、月が昇ったのでしょうか。』」
〔「志母夜」の三字は理解しにくく、必ず脱字がある。「いちしろくもや」――はっきりとも――などとあったのが、「伊知」「路久」の四字を落としたのだろうか。いずれにしても「や」は疑問の助詞である。「祁流」は、今の本で『古事記』延佳本に従い「藝」を補って「祁藝流」にしたが、かえって余計な改変だ。「着ている」を「ける」とも言うことは、前に述べた。特にここは自分のことなので、尊敬の形である「けせる」より「ける」の方がよい。結びは「けり」であるべきように思えるが、前の疑問の「や」を受けるため「ける」となる。『古事記』の「たたなむよ」と考え合わせて、その意味を理解してほしい。〕〔「しもや」は、原文の欠損がある語として音のまま残した。〕

「日本武尊は、また歌われた。『鳴海のあたりを、遠く見やると遠い。この夕潮の中を、火高への道へ、無事に渡り通せるだろうか。』」
〔縁起には「奈流美は宮酢媛の住む郷の名で、今は成海邑という」と注がある。「なるみ」は愛智郡の成海郷で、その海辺を指しておっしゃった。「ら」は付け添えた助詞で、「浦」の意味ではない。注が鳴海を媛の住む所とするのは誤りだ。「ひたかぢ」は火高への道である。熱田社のある書には、「氷上邑を後に火高里と呼んだ。神社や民家が何度も火災に遭ったため、火高を大高と改めた」とある。ただし「後に火高里と呼んだ」というのは誤りで、もとから氷上とも火高とも呼んだのだろう。こここそ宮酢媛の郷であり、鳴海は火高の里へ行く途中の道である。歌の趣から分かる。「ひたかぢ」は「ひたかち」、ひたすら徒歩で、という意味かとも思ったが、そうではない。それなら「ゆ」と言うはずなのに「に」とあるからである。「わたらへむかも」は、渡りきれるだろうか、という意味。〕

「これより前、日本武尊は甲斐の坂折宮で宮酢媛を恋い慕い、こう歌われた。『年魚知県の、氷上の愛しい姉子は、私が来ると思って、寝床をあけて寝ているだろうか。ああ、愛しい姉子よ。』」
〔「あゆちがた」は年魚知県で、潟ではない。「ひかみあねこ」は宮酢媛を指し、氷上にいる姉子、という意味である。『曾丹集』の歌にも「あねこが閨」とあり、今も若い女性を「姉」「姉御」などと呼ぶ。『延喜式』には愛智郡の火上姉子神社が載り、この媛を祭るという。今も知多郡大高村にある。大高村は鳴海駅から十町ほど西南にあり、昔は愛智郡で、今も郡境に近い。火高の里と呼んだのは、ここである。
「とこさるらむや」は、床をあけて寝ているだろうか、という意味。昔、夫のいる女性が夜に独りで寝るときは、寝床の半分をあけ、片寄って寝た。夫が寝るはずの場所を空けておくのである。『万葉集』巻十八の「夜床片去り」は、このことだ。今の本では「左」を「古」と誤る。また巻四の「枕片去り、夢に見え来し」ともある。「片去夢」は、片寄って寝るときの夢ということ。これも寝床をあけ、枕を片側へ寄せて寝ることをいう。結びの「を」は「よ」と同じ。〕
縁起にはさらに、「この数首の歌は、この地の風俗歌となった」とある。〔尾張国の風俗歌となり、代々歌い伝えたのである。〕右の三組の歌は、みな非常に古い。確かに大昔からこの国に伝わった一つの伝承だろう。〔この縁起は、もとはすべて古い伝説だったのを、寛平年間に文章を整えた際、言葉を『書紀』に合わせてすっかり改めたようで、文章も内容もおおよそ『書紀』と同じになっている。しかし、これらの歌は昔の伝承のままと思われ、どれもすばらしい。〕

「御合而」は、返歌に心を動かされ、月経中であることを避けず、そのまま結ばれたのだろうか。あるいは、その期間が過ぎてからだったのかもしれない。
「その御刀の……」について、『日本書紀』には「日本武尊は再び尾張へ帰り、尾張氏の娘の宮簀媛を妻とし、一か月以上滞在された。そのとき、近江の胆吹山に荒ぶる神がいると聞き、剣を解いて宮簀媛の家に置き、歩いて出かけられた」とある。『尾張国風土記』にはこうある。「熱田の社について。昔、日本武命が東国を巡って帰るとき、尾張連らの遠い祖先である宮簀媛命を妻にし、その家に宿られた。夜、厠へ行こうとし、身に帯びた剣を桑の木に掛け、そのまま忘れて殿へ入った。気付いて再び取りに行くと、剣は神のように光っていて、手に取ることができなかった。そこで宮簀姫に、『この剣には神の気がある。私の形見として大切に祭りなさい』と言われた。そのため社を立て、郷に由来する名を付けた。」〔「田郷」の「田」は「由」の誤りだろう。〕

『熱田縁起』には、こうある。「宮酢媛の家に帰り着き……しばらく滞在された。ある静かな夜、厠へ入られた。傍らに桑の木が一本あったので、帯びていた剣を解いて枝に掛けた。厠から出ると剣を忘れ、寝殿へ戻った。明け方に目が覚めて気付き、桑に掛けた剣を取ろうとすると、木いっぱいに光が輝き、その光が人を射た。しかし、その神々しい光を恐れず、剣を取って持ち帰り、桑の木が光った様子を媛に話された。媛は『あの木には以前から不思議なことなどありませんでした。剣の光だと分かります』と答え、黙って息を凝らした。その後、宮酢媛に『私は都へ帰る。きっとあなたを迎えよう』と語り、剣を解いて渡し、『この剣を宝として持ち、私の寝床を守るものとしなさい』と言われた。そばに仕える大伴建日臣が諫めた。『これは置いて行くべきではありません。なぜなら、この先の気吹山には凶暴な神がいると聞きます。剣の威力がなければ、どうしてその害を除けましょう。』日本武尊は声高く、『たとえあの凶暴な神がいても、足を上げて蹴り殺してやろう』と言い、結局、剣を置いて出発し、気吹山へ行かれた。」
また、「日本武尊が突然亡くなられた後、宮酢媛は生前の約束に背かず、独りで寝床を守り、神剣を安置した。光は太陽に次ぐほどで、雲や霞が門にかかり、願う人には影が形に従い、響きが音に応じるように霊験があった。そこで宮酢媛は親族や旧知の人を集めて相談した。『私は年老い、今日明日の命も分かりません。目を閉じる前に社を占い定め、神剣をお遷しする必要があります。』皆は感動し、社の地を定めた。すると一本の楓の木がおのずと燃え、水田へ倒れたが、炎の光は消えず、水田はなお熱かった。よって熱田社と呼んだ」とある。

『書紀』神代巻には、「これは今、尾張国吾湯市村にあり……これを草薙剣という。熱田の祝部が掌る神がこれである」とある。この景行巻にも「初め日本武尊が帯びていた草薙の横刀で、今、尾張国年魚市郡の熱田社にある」とある。〔「吾湯市」「年魚市」は愛智郡である。『和名抄』の「阿伊知」は訛った形で、『万葉集』なども年魚市と書く。「熱田」は「年魚市田」が縮まった名かもしれない。『天智紀』七年には「僧の道行が草薙剣を盗み、新羅へ逃げようとしたが、途中で風雨に遭って道に迷い、帰った」、『天武紀』朱鳥元年には「天皇の病気を占うと草薙剣の祟りだというので、その日のうちに尾張国熱田社へ送り納めた」とある。『熱田縁起』では、道行はついに斬刑に処せられたという。ある書では、道行が剣を盗み出しても持ち去れず帰って来てから、帝の宮に納められたとする。それなら、そのときから朱鳥元年までは、都に安置されていたのである。〕
『神名帳』には尾張国愛智郡の熱田神社〔名神大〕が載る。『古語拾遺』には「その草薙剣は今、尾張国熱田社にあるが、まだ祭礼の制度に組み入れられていない」とある。〔同書にはまた、「まして草薙神剣はまさしく天皇のしるしである。日本武尊が凱旋した年から尾張国熱田社に置かれ、外国の賊が盗んで逃げようとしても国境を越えられなかった。神宝の霊験はこれで分かる。ならば奉幣の日には同じように敬うべきなのに、長い間欠けたままで、その礼を整えない。これも取り落としたことの一つである」とある。これが「まだ祭礼の制度に組み入れられていない」という意味で、月次祭・新嘗祭などの幣にあずかられないことをいう。
史書には、弘仁十三年六月に尾張国熱田神に従四位下を奉授し、天長十年六月に尾張国に鎮座する従三位熱田大神に正三位を奉授し、嘉祥三年十月に尾張国熱田神へ正三位を授け、貞観元年正月に尾張国の正三位熱田神へ従二位を奉授したとある。このうち天長十年の昇階には誤りがあるだろう。〕

この社は代々尾張連氏が祭ってきたのに、『書紀』が「熱田の祝部が掌る」とするのは疑わしい。熱田の祝部とは何という氏姓だろうか。尾張連のうち、この社を掌る者をそう呼んだのだろうか。縁起には「尾張氏の者を神主・祝などの職に任じた」とある。尾張氏が大宮司として伝わってきたが、大宮司尾張員職の娘が藤原季兼に嫁いで季範を生んだ。この季範が藤原氏として初めて大宮司になり、それからは代々藤原氏となった。
『玉葉集』には「桜花ちりなむ後のかたみには、松にかかれる藤を頼まむ」――桜が散った後の形見には、松に掛かる藤を頼りにしよう――という歌と、次の説明がある。「これは熱田大明神の御歌という。昔、この社の大宮司は代々尾張氏だったが、尾張員職の娘で松という名の者が藤原季兼と親しくなり、季範を生んだ。その後、明神がこのように託宣されたため、季範が初めて大宮司となり、その子孫は今まで絶えないという。」大将軍頼朝卿の母は、この季範の娘である。その後、季範の子孫に跡継ぎが絶え、卜部氏の子を養子にして継がせたこともあるという。それでも今なお藤原と名乗っている。

大宮司の次に権宮司という職がある。そのうち一家は総検校に就き、馬場家と呼び、もう一家は祭主に就いて、祝師ともいい、田島家と呼ぶ。この二家は今まで尾張宿禰の姓で、昔から絶えず伝わっているという。その次に大内人という職があり、姓は守部宿禰、家は大喜と呼ぶ。また八剣神社の神職も尾張宿禰で、家を大喜という。
熱田社には東西に二つの社殿が並び立つ。東を世に土用御殿といい、草薙剣を納める。ある説では、「土用御殿という呼び方は、社の伝承には全くない。渡用御殿という名はある。それを土用と言い換え、近世になって土と金の説をこじつけ、神剣を納める御殿の呼び名にした」とする。そうだろう。いずれにしても「土用」という名があるはずはない。
西は正御殿と呼び、五座の神を祭る。西から第一が天照大神、第二が須佐之男尊、第三が倭建尊、第四が宮簀媛命、第五が建稲種命で、中央の倭建尊を主とする。先の縁起にも「熱田明神を尾張氏の氏神とし、宮酢媛と建稲種命は大宮の相殿神である」とある。別の説が「大宮は日本武尊、東は素盞鳴尊、南は宮簀姫命、西は伊弉並尊、北は倉稲魂命、中央は天照大神」とするのはどうだろうか。社の伝承にも違っている。
八剣宮というのは熱田の境内に別にあり、『式』の八剣神社がこれである。和銅元年、勅命で新たに神剣を造らせ、別に祭った社だという。

氷上宮は、先に述べた火上姉子神社である。縁起には「宮酢媛が亡くなってから祠を建てて尊び祭り、氷上姉子天神と呼んだ。その祠は愛智郡氷上邑にある。海部氏を神主とする。海部は尾張氏の別姓である」とある。その氷上社の末社に常世社というものがあり、宮酢媛の墓だと伝える。
また『式』には愛智郡の上知我麻神社・下知我麻神社がある。『和名抄』の千竈郷がこの土地で、今の本は「竈」を「電」と誤る。上知我麻社は乎止与命を祭るといい、俗に源大夫宮と呼ぶ。下知我麻社は同命の妻・真敷刀婢を祭るといい、俗に紀大夫宮と呼ぶ。
『源平盛衰記』が道行の剣盗難を語るところには、「後世またこのような者が出るだろうと、全く同じ剣を四本造り添え、社内に立てられた。一人の神官が一人に伝授するときは、五本の指を上げ、こうして見分けを伝える方法がある。それ以外の人は、もとの剣と新しい剣を区別できないという」とある。〕
「伊服岐能山之神」は、諸本で「山」の字がないが、今は延佳本に従った。〔延佳本だけにあるのは、編者が補ったのだろう。しかし、この字はもと必ずあったものが脱落したのである。〕

〔『古事記』本文〕そこで倭建命は、「この山の神は、素手でじかに討ち取ってやろう」と言われ、山へ登られた。そのとき山のほとりで白い猪に出会われた。大きさは牛ほどもあった。倭建命は言葉を高くあげて、「この白猪に化けたものは、山の神の使いだろう。今は殺さなくても、帰りに殺してやろう」と言い、そのまま登られた。すると山の神は大きな雹を降らせ、倭建命を打ち、意識を乱れさせた。〔この白猪に化けたものは、神の使いではなく、神そのものだったのであろう。それなのに言葉をあげたため、苦しめられたのである。〕倭建命は引き返して山を下り、玉倉部の清い泉に着いて休まれた。そのとき少しずつ意識がはっきりしてきた。それで、この泉を「居寤の清泉」、居て意識が覚めた泉、と名付けたのである。

「この山」は伊服伎山である。近江国と美濃国の境にあり、〔西は近江の坂田郡、東は美濃の不破郡・池田郡。〕『神名帳』に近江国坂田郡の伊夫伎神社、美濃国不破郡の伊富岐神社が載る。〔今も坂田郡・不破郡の双方に伊吹村という所がある。〕『三代実録』巻三十三には、近江国坂田郡の伊吹山護国寺を定額寺に列する詔があり、僧三修の申請に「この山は七高山の一つである……」とある。
〔『藤原武智麻呂公伝』という書には、こうある。「近江守に転じ……巡察で坂田郡へ行き、山川を眺め、『伊福山の頂に登って見晴らしたい』と言った。土地の人が言うには、『この山に入ると激しい風、雷雨、暗い雲霧が起こり、蜂が群れて飛び刺します。昔、倭武皇子が東国の荒ぶる鬼神を平らげ、ここへ帰って来て登ったところ、半ばで神に害され、白鳥になって空へ飛び去りました。』公は……五、六人を率い、草木をかき分けて登った。頂に近付くと、突然二匹の蜂が飛んで来て刺そうとした。公が袖をあげて払うと、蜂はその手に従って退き帰った。従者は皆、『徳が神を動かしたので、害される者が一人もいない』と言った。終日ゆったり歩き回って景色を眺め、風も雨も静まり、天気はよく晴れた。これは公の威勢によるのである。」僧の作った書で、いつものように信じにくいことが多い。
『源平盛衰記』が宝剣の由来を語るところには、「素盞鳴尊が天照大神へ剣を奉った。大神は大いに喜び、『これは私が天岩戸に籠もったとき、近江国の胆吹が嶽へ落ちた剣である』と言われた。あの大蛇というのは、胆吹大明神が姿を現したものだった……」とある。「いふき」という名は、山の神が毒気を吹く意味だと谷川氏が言う。そうだろう。
『万葉集』にはこの山の歌がない。また『六帖』などでさしも草を詠む伊吹山は下野国だと、顕昭の『袖中抄』にもある。契沖も、「清少納言の草子に、下野へ下るという人への歌として、『思ひだにかからぬ山のさせも草、たれかいふきのさとは告げしぞ』――思ってもみない山のさせも草、誰が伊吹の里だと告げたのでしょう――とあるので、下野国なのは確実だ」と言う。〕曾禰好忠の歌には、「冬深く野はなりにけり近江なる、伊吹のとやま雪ふりぬらし」――野は冬が深くなった。近江の伊吹の外山では雪が降ったらしい――とある。〔『続古今集』に入っている。〕

「徒手」は「むなでに」と読む。〔旧版本の「從手」は誤りで、諸本はみな「徒手」である。それなのに師が、「『日本紀』に徒手という例はあるが、ここは從手だ。『万葉集』にもこの語があり、この後にも『足ゆゆく』とある。手のまま、足のまま、という意味である」と言われたのはよくない。「手ゆ」「足ゆ」などの例と、ここは意味が違う。〕『天武紀』の「どうして兵士一人もなく、徒手で東国へ入るのか」は、「たむなで」と読む。〔手が空であるという意味か、または初めの「た」は余分な字かもしれない。〕刀や矛も持たず、空の手で、ということだ。〔俗に素手という意味である。『持統紀』は「徒跣」をスアシと読むので、スデといっても俗語とはいえまい。〕『書紀』神代巻の「空手」は、得るべき物を得られず、手が空であることをいう。ここでこのようにおっしゃるのは、刀を美夜受比売のもとに置いて来られたからである。
「白猪逢于山辺」は「やまのへにしろゐあへり」と読む。〔「しろゐに」と「に」を補って読むのは、前に詳しく述べたとおり、古い雅語の構文に合わない。〕『四時祭式』の祈年祭の幣物の条には、「御歳社には白馬・白猪・白鶏を各一つ加える」とある。〔由来は『古語拾遺』の末に載る。この祭りの白猪は近江国から貢ぐと『貞観儀式』にある。ただ、そこでは「豚一頭」とするので、白いものは普通は得がたいから、その頃にはすでに通常の色のものを用いたのだろうか。『延喜式』では上代以来の規定のまま「白」と記したのか。「豚」は「猪」と同じ。今、伊勢国飯高郡には白猪が嶽という山の名もある。〕上巻には赤猪も出ている。

「言挙」は、『万葉集』巻六に「千万の、軍なりとも、言挙げせず、取りて来ぬべき、男とぞ思ふ」――千万の軍勢でも、大言せずに討ち取って来るような勇者だと思う――、巻七に「走井の上に、言挙げせねど」――走井にかけて嘆きを口にしたわけでもないのに――、巻十三に「あきづしま、大和の国は、神からと、言挙げせぬ国、しかれども、我は言挙げす……」、また「葦原の、水穂の国は、神ながら、言挙げせぬ国、しかれども、言挙げぞ我がする」、巻十八に「言挙げせずとも、かくしあらば、年は栄えむ」――言葉で言い立てなくても、こうあれば年々栄えるだろう――などとある。『書紀』では「興言」〔『私記』にコトアゲ。〕「揚言」とも書き、「称之」などもそう読む。「こと」は言葉か、あるいは物事の意味かもしれない。「あげ」は「論う」などのアゲで、物事の様子や、あるべき姿を、こうだこうだと取り上げて言い立てるのが言挙である。
「使者」は「つかひもの」と読む。〔「者」を添えて書くのは、その意味だからで、どこかへ遣わす普通の使者という意味ではあるまい。今も世間で、ある神の使いというものがある。春日の鹿、熊野の烏、石清水の鳩、山王の猿などである。この考え方は古いものだ。〕この白猪をそう言われたのは、普通の猪に見えず、何か異様なものが仮に化けたと分かる姿だったのだろう。〔そうでなければ、ただ白猪だと見て通り過ぎられたはずだからである。色が白いので通常の猪ではないとされたのかとも言えようが、白猪は毎年の祭りにも用いられたのだから、昔はそれほど珍しいものではない。〕
「今は殺さなくても……」〔漢文の構文としていえば、「今」は「不」の下に置く意味である。〕とは、相手を軽く見て、このようにおっしゃったのである。

「大氷雨」は、遠飛鳥宮の段にも「大氷雨を降らす」とある。『和名抄』には、「『文字集略』に霈は大雨であるという。『日本紀私記』では火雨といい、和名ひさめ。雨氷も同じ。今考えるに、俗にひふるという」とある。『書紀』では「大雨」「甚雨」「淫雨」などを、みなヒサメと読む。〔『推古紀』『天智紀』などで「火雨」とするのは、もとは「大雨」だったのを、後人がヒサメという読みを取り違え、勝手に「大」を「火」に改めたのだろう。『和名抄』が引く『私記』も同じである。今、俗に「火の雨」というのも、氷の雨である。〕
「ひさめ」はもともと氷が降ることをいい、『天武紀』の「氷が降り、大きさは桃の実ほどだった」がそれである。〔今いうヒョウで、「雹」の字がこれである。「ひょう」というのは、この字の音をハウと呼んだのが訛ったのだろうか。『和名抄』や『書紀』の読みでは「雹」をアラレとする。アラレは本来「霰」だが、昔は雹も共にアラレと呼んだのだろう。「雹」も、右の「氷零」も、ヒサメともヒフルとも読める。〕そこから意味が移って、普通の雨が激しく降るのにも使ったらしく、遠飛鳥宮の段の氷雨は、歌ではアメと詠む。〔もし雹ならアメとは読まないはずだろうか。ただアメはこうしたものの総称だから、実際には雹でも歌ではアメと詠んだのかもしれない。〕『和名抄』が霈にもヒサメと注し、『書紀』が大雨・甚雨などをそう読むのも、このことである。
ここの場合は、「打ち、惑わせた」とあるので、雹である。『書紀』にも「氷を降らせた」とある。〔今の本で「氷」を「水」とするのは筋が通らず、「氷」の誤りなのは確かだ。〕「大」は、降った氷の粒が大きかったことをいうのだろう。

「零」は「ふらしつ」と読む。この山の神が降らせたのである。ここでまた「倭建命」と名を言うのは、文章が拙く聞こえ、単に「命」「王」などでよさそうに思われるかもしれない。〔そう思うのは、かえって漢文の型に慣れた後世の考え方である。〕しかし、このように言うのが古い文章の型なのだ。〔『古事記』の文章の例に心を留めて見れば分かる。〕
「打惑」〔「惑」は諸本で「或」と誤るが、今は延佳本に従った。〕は、白檮原宮の段に「御軍がみな遠延して伏した」とあり、その後で「惑い伏した御軍」と呼ぶのと同じである。したがって、ここも「惑」は「遠延」、正気を失ってぐったりすることと全く同じ意味で、「うちをやしまつりき」とも読める。「遠延」は巻十八・四十七葉の注と考え合わせてほしい。「まどはし」と読んでも、ただ道などに迷わせるだけでなく、意識を失わせることをいう。

注の「正身」は「むざね」と読む。「身実」、本当のその身、という意味である。『書紀』の景行巻の「姿は私の子だが、実は神人である」、孝徳巻の「僧尼・奴婢・田畑の実状を調べる」などの「実」の読みに従った。これらの「実」は本人という意味ではないが、読みの意味は「身実」なので、「正身」にも合う。〔ただ、右の二つの「実」をムザネと読むときのムは、花と実、虚と実などの「実」の意味で、「虚」は実がないことをいう。だから、人の身体などとはひとまず違うが、突き詰めれば同じ意味で、ムという名はもともと一つである。〕「身」をムとも言い換えるのは、古語では普通である。
〔ここの「正身」に当たる所は、『書紀』では「主神」と書いてカムザネと読む。ただ、その字は使いに対して、その主君である神を意味するようなので、カムザネという読みは適切でない。中古の物語などの「客ざね」「使ざね」は、客の中の主な人、使いの中の主な人をいう。したがって「神ざね」なら、諸神の中の主な神という意味になるからだ。もっとも「客ざね」などは後に意味が変わったので、もとは何々ざねと言えば、本当のその身だったのかもしれない。もしそうなら、カムザネという読みも「主神」という字には合わなくても、神そのものという意味には合うだろう。〕
「正身」は、正しくその身という意味の字である。若桜宮の段にも「その本人を滅ぼす」、穴穂宮の段にも「しかし、その本人が参上しないわけは、功績には報いたものの……」などとある。『宮衛令』には「兵衛・衛士が上番するときは、みな必ず本人を検査してから奏聞する」、『続日本紀』巻五には「郡司の主政・主帳は国司が……本人に会い、式に従って試験し、それから任命せよ」、巻三十には「謀反の一味、橘奈良麻呂らと連座した人数のうち、二百六十二人は罪が軽く、赦すべきである……ただし名簿を本籍地に登録しても、本人は京に入ってはならない」とある。『三代実録』巻十三の詔には「応天門と左右の楼などが突然焼け、火災があった……ある者が、大納言伴宿禰善男の仕業だと告げた。驚き怪しまれて役所に調べさせたところ、本人は強く言い争って認めなかったが、子や従者らを拷問して調べると、事件の事情が明らかになり、もう疑いはなかった」とある。『万葉集』巻十六にも「本人は来ないで、むなしく贈り物だけを寄こす」とある。これらから理解すればよい。今、俗に「その本人」ということである。中古の物語などでは「さうじみ」という。〔サウジミは「正身」の字音だろう。マサシミのマを略し、発音の都合でサをサウと言ったのかとも思うが、そうではあるまい。〕

「当」は「にぞありけむを」――そうだったのであろうに――と読む。〔このように読むと、この字を書いた意味に合う。〕「見惑」は「まどはさえ」と読む。〔「惑」を諸本で「成」「或」と誤るが、今は真福寺本・延佳本に従った。〕
この二十三字の細字の注について、師は「後人の仕業だろう。『古事記』に例のない書き方である」と言われたが、そうではない。この類は、『古事記』編纂の際に安万侶朝臣が加えられたのか、さらに昔からの伝承のままなのかもしれない。それを別に注にしたのは、語り伝えた者が自分の考えで添えた言葉だからである。また、このような注は『古事記』に折々例がある。

「玉倉部」は、〔「倉」を「食」とする本は誤りで、今は真福寺本・延佳本に従った。〕『天武紀』に「近江方が精兵を出し、突然玉倉部邑を攻撃した」とある土地がよく合う。しかし、今は詳しいことが分からず、美濃国不破郡だろう。〔『書紀』に山の下とあるので、伊吹山から遠くないはずだ。今、不破郡のうち、あの山に近い所に玉村がある。これについては次に述べよう。師は、『天武紀』に倉歴と二度出るうち、一つは玉倉部で、近江国甲賀郡の蔵部とは別だと言い、クラブと読まれた。しかし、二度出る倉歴は別ではなく一つで、『和名抄』の甲賀郡蔵部郷である。そこの文章を見れば分かる。今は伊賀国阿拝郡に属し、上柘植のうちに倉部村としてある所で、近江との境に近い。中古以来、歌で「くらぶ山」と詠むのはここだ。こちらの玉倉部は、そこから位置が大きく違う。混同してはならない。〕

「清水」は「しみづ」と読む。『書紀』では「好井」「寒泉」などもそう読む。『和名抄』には「『日本紀』に、妙美井、しみづ、とある」といい、「し」は「すみ」を縮めたものである。「息」は「いこひ」と読む。『字鏡』には、三つの異体字が同じ形の字として挙がり、「休むことで、いこふ」とある。〔引用の最初の「鮎」は「憩」の字の誤りだろう。〕ここには休まれたとだけあるが、「それでその清水を名付けた……」とあるのを見ると、その水を飲まれたのだろう。『書紀』にもそうある。〔『字鏡』の引用に並ぶ三字のうち二字は、原画像の字形をなお確認する必要がある。意味は「いこう」と示されている。〕

「居寤の清水」は、〔旧版本と延佳本では「寤居」だが、他の諸本はみな「居寤」で、『書紀』も同じ。〕所在地は「玉倉部」の注で述べたとおりである。『書紀』に山の下の泉とあるので、伊吹山の麓だろう。しかも、その次の文に「尾張へ帰る」とあるから、麓といっても〔近江側ではなく〕美濃側である。『古事記』の「引き返して下られた」も、もと登った道を引き返したように聞こえる。次に当芸野・尾津前と続く道順も、この清水が美濃にあるのでなければ合わない。
〔『式』には美濃国多芸郡の御井神社もあるが、伊吹山から遠い。やはり不破郡の、あの山に近い場所を探すべきである。後世、近江国坂田郡に醒井という有名な清水があり、里も今なお醒井と呼ぶ駅となっている。源親行の『東関紀行』には、「評判に聞いた醒井を見ると、木陰の暗い所の岩根から流れ出る清水が、涼しすぎるほど澄み渡り、本当に身に染みるようだ」とある。『撰集抄』には、延喜末年の旱魃の際、仲算という僧が水を湧かせようと剣で山の崖を切ると、突然流れ始めたと記す。しかし、醒井という名は倭建命のこの出来事に由来するように思えるものの、あの清水は伊吹山からやや遠く、また進む道筋も違うので、これではあるまい。旧版本などが「居寤」の字を逆に「寤居」としたのは、近江の醒井をこれと考えた後人が勝手に改めたのだろう。もし醒井なら「井」の字を書くべきで、どうして「居」と書こうか。〕
「居寤」という名は、休まれ、しばらくそこに居て意識が覚めたという意味だろう。旅の途中なので、「行く」に対して「居る」と言うのである。

『古今六帖』には、「東路のゐさめの里は初秋の、長夜を独り明かす我が名ぞ」――東国への道にある「ゐさめ」の里、その名は初秋の長い夜を独り目覚めて明かす私の名のようだ――、「吾のみと思ふは山のゐさめ里、ゐさめに君を恋ひ明かしつる」――私ばかりが思う、不破山のゐさめ里、独り目覚めたままあなたを恋い、一夜を明かした――という歌がある。〔「ゐさめ」を、夜眠らず起きていて、目が覚めている意味に取って詠んだ歌である。〕これらの「ゐさめの里」は、この清水のある土地だろう。というのは、後の歌の初句の「と」は「ぞ」の誤りで、「吾のみぞ思ふ」の末を「不破山」に掛けたものだからである。〔そうでなければ初めの二句の意味が分からない。〕不破山は『万葉集』巻二の人麻呂の歌にも見え、〔美濃の不破郡にあることは言うまでもない。〕『天武紀』の内容でも、玉倉部邑は不破の行宮から遠くない土地のようだからだ。〔天武天皇の頃までは里を玉倉部と呼び、その後、清水の名によって居寤の里と呼ぶようになったのだろう。〕

『日本書紀』にはこうある。「胆吹山へ着くと、山の神は大蛇に化けて道をふさいだ。日本武尊は、主の神が蛇になったのだとは知らず、『この大蛇はきっと荒ぶる神の使いだ。主の神を殺してしまえば、その使いまで求めて殺す必要があろうか』と言い、蛇をまたいで進まれた。そのとき山の神は雲を起こして氷を降らせ、峰も谷も霧で暗くなり、進める道がなくなった。慌てて、どこを通ればよいか分からなくなったが、それでも霧を押して進み、ようやく出ることができた。なお酔ったように意識がはっきりしなかったので、山の麓の泉の傍らに腰を下ろし、その水を飲んで意識が覚めた。それで、この泉を居醒泉という。」

〔『古事記』本文〕そこを出発し、当芸の野辺へ着いたとき、倭建命はこう言われた。「私の心は、今までは空をも翔けて行こうと思っていたのに、今は足が歩けず、舟の舵のような形になってしまった。」〔「当芸斯」の三字は音を表す。〕それで、この土地を当芸と呼ぶ。
そこから少し進まれたが、たいそう疲れ、杖を突いてゆっくり歩まれた。それで、そこを杖衝坂と呼ぶ。尾津前の一本松のもとへ着かれると、以前食事をしたとき置き忘れた刀が、失われずにまだあった。そこで歌われた。
「尾張に、まっすぐ向かっている、尾津の崎の、一本松よ、ああ、いとしいお前。一本松が、もし人であるなら、刀を身に帯びさせようものを、衣を着せてやろうものを。一本松よ、ああ、いとしいお前。」
そこから三重村へ着いたとき、また「私の足は、三重巻きの『まがり』という菓子のようになり、ひどく疲れている」と言われた。それで、その土地を三重と呼ぶ。

「発」は、前の「休まれた」を受けて出発するのである。〔他の場所ではこの語を使っていない。〕「当芸の野上」については、『和名抄』に美濃国多芸郡〔読みはタキ〕があり、『式』に同郡の多伎神社がある。『万葉集』巻六には、美濃国多芸行宮での歌として、「昔から、人が言い伝えて来た。老人が、若返るという水だ、その名で知られる滝の瀬は」とある。〔「滝の瀬」は、いわゆる養老の滝の流れをいい、この土地の名を詠んだのではない。混同してはならない。このことは次にも述べる。ただし「名に負ふ」は、この地名を持つという意味である。〕また「田跡川の、滝が清らかだからか、昔から、宮仕えをした、多芸の野辺に」とある。この歌からすれば、この野はいわゆる養老の滝の近くらしい。〔今も野があり、たいへん広いという。〕不破郡から伊勢の尾津前へ行く途中である。〔不破郡から多芸郡・石津郡を通って伊勢国桑名郡へ至る道だ。師は、当芸は美濃の多芸ではなく近江の別の地名だと言われたが、それは居寤を近江の醒井と考えられたことからの誤りである。〕
「野上」は「ののうへ」と読む。『万葉集』巻二十に「高円の、秋野の上の」、また「高円の、野の上の宮」などがあり、「をのうへ」ともある。「うへ」はあたりという意味なので、「野上」は「野辺」と同じ語だ。〔「うへ」の「う」を省き、「野のへ」「山のへ」「川のへ」ともいう。また「の」も省いて「野辺」「山辺」「川辺」ともいう。どれも同じである。後世には「うへ」といえば上下の上だけの意味、「へ」なら辺の意味だと分け、また「へ」は必ず濁ることになった。昔はウヘともヘともいい、言葉のつながりに応じてベと濁ることもあり、すべて同じ語である。〕

「恒」は「つねは」と読み、上巻の海神宮の段の「三年暮らしたが、つねは嘆くことがなかった」の「つね」と同じで、「今までは」という意味である。「自虚」は、空までも、という意味。「翔」は「かけり」で、『仁徳紀』の歌に「とみかけり」、『万葉集』巻十七に「雲隠り、翔りいにきと」などとある。
「念」は「おもひつるを」と読み、後の「然」の字は読まない。「を」は「ものを」という意味で、この助詞が「それなのに」の意味を含む。今までこのように思っておられたのは、非常に強く雄々しく勇んだ御心だったからである。立派な男の心は、誰もこのようであってほしいものだ。
「あゆむ」は、足で数えるという意味の語だろうか。物の数を数える動作に似ているからである。〔私の伊勢国の山里の人などは、アヨブという。〕ここでは馬や輿に乗られてもよさそうなのに、こうして疲れ苦しみながら、なお徒歩で歩まれるのはどうしてかといえば、それほど雄々しいお気性だからである。歩けなくなるまでも、歩かずにいられようかと、たいそう励まれた御心は、「今までは空をも翔けて行こうと思っていた」という御言葉で分かる。

「たぎし」は、『和名抄』の舟の道具の条に、「『唐韻』に、柁〔舵とも書く〕は船を正しく進める木という。『楊氏漢語抄』に、柁は船尾のもので、杝とも書き、日本語でたいしという。今考えるに、船人が挾抄を舵師と呼ぶのがこれである」とある。延佳はこれを引いて、「この物だろうか」と言う。確かにそうだ。〔『玉篇』には「柁は船を正しく進める木で、船尾に設け、舵と同じ」、『釈名』には「船尾のものを柂といい、船を助けてまっすぐにし、流れに従わせ、よそへそれないようにする」とある。〕
師はこう言われた。「柁は今いう舵である。『万葉集』などの『かぢ』は舵ではなく、今いう櫓のことだ。しかし歌や祝詞では『かぢ』『かい』ばかりをいい、『たぎし』とは言わない。歌に詠み慣れず、句の調子も合わないため、自然に使われなかったのだろう。祝詞でも調子を選ぶからである。」
「たぎし」を「たいし」というのは、中古から発音の都合で訛った形だ。大和の地名の当麻を、後にはタイマというのと同じである。〔ほかにもキを音便でイとする形は非常に多い。〕「多芸志耳命」などの名も、この道具によるのだろうか。語の意味は、『万葉集』巻七の「大船を、荒海に漕ぎ出し、やふなたけ」が、船をいっそう力強く、ということで、力を出し、左右へ動かして船を進めることをいうので、船を思う方向へ動かして進める意味の名だろう。〔「し」の意味は分からない。「たけ」「たぎ」を通わせていう例は多い。〕「たぎし」が今の舵であることは確かだが、当時の形がどうだったか、今と同じか違うかは分からない。

「成形」は「かたちになれり」と読む。「かたちなせり」とも読める。〔ナセリは「のようだ」の意味だが、ここは「になれり」とする方がよいだろう。〕舵の形になったとは、どんな形だろうか。その道具の形が詳しく分からないので、御足の様子も分かりにくいが、『和名抄』に「『毛詩』の注には、足が腫れたものを尰という。また低く湿った土地では、その人々に尰が多いという。『弁色立成』では、腫れた足をこちらでコヒという」とある。〔今も脛が腫れた人をコヒズネという。『説文』は「尰、脛の気腫」と注する。また今、油を造る道具にコヒという木がある。中央が太く、両端はだんだん細くなる。足の腫れた形に似ているので、コヒというのだろうか。〕この王も山の神の毒気に当たり、この病気になられたのだろうか。昔の舵は、この腫れた形に似ていたのだろうか。さらによく考えるべきである。
〔師は、「御足が、舵の柄の曲がった形に似たという意味だ。後に『私の足は三つに折れ曲がったようだ』とも言われるのと考え合わせよ」と言われた。しかし舵が今の舵なら、その柄はそう言うほど曲がった物ではない。昔は形が違ったとしても、曲がっていたかどうか分からないのだから、曲がった形が似たとは言いにくい。さらに次の「三重」の注で述べよう。〕

「それでこの地を当芸と呼ぶ」とは、この地名の由来を語っている。〔『続日本紀』巻七に、「霊亀三年九月、天皇は美濃国へ行幸し……当耆郡へ行って多度山の美しい泉を御覧になった。十一月、詔して……霊亀三年を養老元年と改めた」とある。この泉は世にいう養老の滝で、右に引いた『万葉集』巻六の歌も、その泉を詠んだものだ。しかし、その二首がどちらも「滝」と詠むので、多芸郡・多芸野などの名は養老の滝に由来するようにも聞こえ、紛らわしいが、そうではない。タギという地名は、ここに見えるとおり、倭建命の御言葉から起こったのである。〕

「そこから少し進み……杖衝坂という」の文章は、延佳本の頭注の考えのとおりだろう。そこには、「伊勢国へ桑名郡から入ると、尾津を通り、次に三重、次に杖衝、次に能褒野というのが今の順路である。したがって『自其地』から『謂杖衝坂也』までの二十四字は、後の『三重という』の下にあるべきだ」とある。杖衝坂というのは、今も伊勢の三重郡にある有名な場所だからである。〔この土地については三重の後で述べる。〕それなのに、あれとは別の坂だろうと、どういうわけか師が言われたのは、たいへんよくない。
この杖衝坂の出来事は、もとは延佳の言うように三重の次にあったのだろう。それが「舵の形になった」と「三つに折れ曲がったようだ」との内容が似ているため、途中で取り違え、順序を誤って当芸の次に語り伝えたのを、そのまま記したものらしい。「少し進んだ」というのも、三重から今の杖衝坂が近いのによく合う。〔『書紀』には、当芸・三重・杖衝坂の出来事はどれもない。〕
「因甚疲」の「因」は、諸本がみな「固」と誤るが、今は師の訂正に従った。

「稍」は「ややややに」と読む。『万葉集』巻五に「少しの間も、よいことはないままに、やややや、姿がかがまり」、巻七に「沖の櫂、ややややに漕ぎ手……」とある。〔後の「爾水手」を今の本は「志夫乎」と誤り、「漸々」の読みも誤る。〕「漸」は普通ヤウヤクと読む。〔右の巻五の歌も、今の本はそう読む。〕しかし、この言葉を古書に正しく仮名で書く例がないので、確かなことは分かりにくい。よく考えると、ヤウヤクはヤヤヤヤが発音の都合で変わり、訛ったものなのだ。
〔右の『万葉集』の二例がどちらも「漸々」と字を重ねるのも、ヤヤヤヤと繰り返す語だからである。ヤヤヤヤが音便でヤウヤウになる。中古の物語なども今の言葉も、やうやうという。しかし漢籍などを読む際、やうやうでは何となく頼りなく聞こえるため、末尾のウをクと読む習慣になり、ヤウヤクとなったのだろう。「やうやう」は「よく」を「よう」、「とく」を「とう」というのと同じ例だと考え、クを正しいと思って、そう読むようになったのだろう。〕
意味は、急がず、ゆるゆると静かに何かをすることで、今、俗に「そろそろと」というのと同じだ。〔字書も、「稍」は漸の意味、「漸」はゆっくりして速くないこと、と注する。その上で、この語には二つの使い方がある。一つは右の巻七の歌のように、ゆっくり、そろそろと、の意味。もう一つは、俗にいう次第に、だんだんに、徐々に、の意味で、右の巻五の歌はこちらである。〕

「尾津前」は、ここの歌から見て「つ」を濁らずに読む。『和名抄』に伊勢国桑名郡の尾津郷〔読みはヲツ〕があり、『神名帳』にも同郡の尾津神社がある。その土地だ。今は土地の名も社の名も残らず、ただ戸津村というのがあり、そこだと伝える。
〔今、桑名から二里ほど西北、多度神社から二十町ほど東南に、溝野村と戸津村が東西に並んでいる。その間の八剣宮という社を尾津神社だといい、戸津が尾津だとして、ここの倭建命の故事も語り伝える。美濃から伊勢へ通じた古道で、今もそうである。美濃の多芸郡から石津郡を通って至る所で、美濃との国境から一里余り南にある。今は海から遠いが、昔はすぐ海辺で、尾張の津島から渡る船の泊まりだったと伝える。本当にそうだったのだろう。今の桑名郡長島の辺りから尾張の海西郡・海東郡などは、昔は多くが海だったのを、少しずつ南へ陸地を広げて今のようになったので、尾津崎は戸津村の辺りにあり、上代は尾張の年魚市県へまっすぐ向かう土地だったのだろう。
内山真龍は、「この辺りは多度山の尾根の先が長く延びた土地で、その山の先端を里人は鼻長という。本当に崎と呼ぶにふさわしい地形だ。また今は海が遠いが、その様子から、昔は海辺だったことがはっきり分かる」と言う。この言葉から考えると、多度山の尾崎にある津なので尾津といったのかもしれない。私は以前、桑名郡に尾津という名が残らないため、今の尾張海東郡の小津村を考え、この辺りは『延喜式』『和名抄』の頃までは伊勢国桑名郡に属し、上代にはもとから海辺だっただろうから、そこの崎なのか、と考えたが、それはよくなかった。〕

『日本書紀』には、「日本武尊はこのとき初めて身体に痛みを覚えたが、少しずつ身を起こし、尾張へ帰ろうとされた。しかし宮簀媛の家には入らず、そのまま伊勢へ向かい、尾津へ着いた」とある。実際、伊吹山を下り、当芸野の辺りにいらした間は、まだ尾張の美夜受比売のもとへ帰ろうと思っておられたのだろう。それが身体の疲労がますます耐え難くなるにつれ、故郷を恋しく思う御心が起こり、〔国を思う歌があることでも分かる。〕尾張へは帰らず、大和へ帰ろうとして、伊勢へ向かわれたのだろう。〔伊勢から伊賀を通って大和へ至る。〕『古事記』も『書紀』も、尾張へ戻らず伊勢へ向かわれた理由は記さないが、きっと右のわけだったのだろう。〔『書紀』の「尾張へ帰る」は、尾張へ帰ろうとして、その道へ向かわれたということで、すでに尾張国に入ったのではない。後の「宮簀媛の家に入らず」というのは、尾張国には入られなかった意味なのである。〕

「一本松の許」の「許」は、下、木陰をいう。『万葉集』巻六に、道岡へ登り、一本松の下に集まって酒を飲む歌として「松は何代を経たのだろう……」とあり、後世の歌でも詠む。〔今、俗に一本松というものだ。尾津前の松は、今も八剣宮という所に「剣掛けの松」として、その跡を残す。〕
「先御食之時」は、〔「之」の字が諸本にないが、今は真福寺本・延佳本に従った。このような所には「之」があるのが普通だからである。〕「さきにみをしせししとき」と読む。「先」とは、倭比売命のもとを出発し、東国へ向かおうとして、この土地へ来られたときをいう。
昔、伊勢から東国へ向かう大きな道は、〔今のように桑名から熱田へ、直接海を渡らず、〕この尾津の辺りまで来て木曽川の河口を渡り、〔昔の尾津は、この川が海に入る辺りだったのだろう。〕尾張の津島辺りを通り、年魚市県へ至った。その間は、おそらく南がずっと海辺だったのだろう。〔今、津島から甚目寺などを通って名古屋へ至る道の辺りが、昔の大道だったのだろう。昔は甚目寺の門前まで波が打ち寄せたという里人の伝えもある。今はその辺りから南の海まで二里ほどあるだろう。昔はその間の土地の多くが海だったのである。〕

「御食」は、『書紀』で「食」「飲食」「進食」などをみなミヲシスと読む。上巻には「食はオスと読む」とあり、息長帯比売命の大御歌にも「をせ」とある。「せしし」は「せし」を延ばした古語の形で、「なさった」と言うようなものだ。〔古語では「す」を延ばして「せす」といい、それを活用させ、「し」を「せしし」という。最後のシは過去を表す助詞である。「立つ」を「たたす、たたしし」、「行く」を「ゆかす、ゆかしし」、「取る」を「とらす、とらしし」などというのと同じである。〕
「所忘」は「わすらしたりし」と読む。『万葉集』巻五に「竜田山、見ま近付かば、忘らしなむぞ」――竜田山が間近に見えたら、お忘れになるでしょう――とある。これも「わする」を延ばして「わすらす」と言う古語で、おのずと敬意を表す言葉になる。

「御刀」は、草那芸剣とは別である。混同してはならない。『日本書紀』には、「以前、日本武尊が東へ向かわれた年、尾津浜にとどまって食事をされた。そのとき剣を解いて松の下に置き、忘れたまま去られた。今ここへ来ると、剣はまだ残っていた。それで歌われた……」とある。

「をはりに」は、尾張に、ということ。「ただにむかへる」は、まっすぐ向かっている、の意味である。〔「ただに」は俗にいう「まっすぐに」。〕土地の様子は前に述べたとおりである。『万葉集』巻四に「遠い国の方へ、まっすぐ向かう」、巻六に「淡路の島に、まっすぐ向かう、敏馬(みぬめ)の浦の」などとある。
「をつのさきなる」は、尾津崎にある、という意味。『書紀』の歌にはこの句がない。なくてもよいが、前の二句からの続き方は、ある方がよい。「ひとつまつ、あせを」は、一本松、わが親しい兄よ、ということだ。〔延佳本が「勢」を「藝」とし、後の同じ語もそうするのは、吾君の意味だと考えて勝手に改めたのだろうか。諸本はみな「勢」である。〕朝倉宮の歌にも「あせを」とある。同段の大御歌では、『古事記』の「はりの木の枝」という句に当たる所を、『書紀』は「はりが枝、あせを」とする。「わが兄」と言うのは、松を褒め、かわいがり、親しんでおっしゃるのである。この「あせを」を『書紀』では「あはれ」としている。

「ひとにありせば」は、人であったなら、の意味である。「たちはけましを」は、刀を帯びさせてやるのに、ということ。「はけ」は「佩かせる」を縮めた形で、「浮かせる」をウケ、「聞かせる」をキケ、「向かせる」をムケなどと言うのと同じである。〔この形は、ほかにもとても多い。〕「きぬきせましを」は、衣を着せてやるのに、という意味。どちらの「まし」も「む」、「を」は「ものを」の意味である。『書紀』ではこの二句が逆になり、衣が先、刀が後にある。〔強いて良し悪しを言えば、衣が先にある方がよいだろう。〕結びの「ひとつまつあせを」は、『書紀』にはない。
一首の意味は読んだままで、刀を失わず、今まで保っていた功績を褒めて歌われたのである。〔ふと考えると、刀を松の枝に掛けて置かれたように思えるが、『古事記』は「その地に忘れた」、『書紀』も「松の下に置く」と言うので、そうではない。松の下の地面に置かれたのである。それでも松をこう褒められたのは、その木の下にある物なので、松が守っていたように思えるからだ。〕

「三重村」は、『和名抄』の伊勢国三重郡〔読みはミヘ〕、『天武紀』の「三重の郡家へ着く」、『万葉集』巻九の「我が畳、三重の河原の」などの三重である。朝倉宮の段にも「伊勢国の三重采女」と出ている。三重村の場所は、『和名抄』のこの郡に采女郷があり、〔今も采女村がある。〕三重川もそこに近いので、その辺りだろう。〔この川を、今の四日市の北の三滝川だというが、そうではあるまい。采女村の北にある、今のうつべ川だと思われる。〕「また言われた」の「また」は、前にも「私の足は……」と言われたことがあるので、こう言うのである。

「如三重勾而」は「みへのまがりなして」と読む。「勾」は、『和名抄』の飯餅類に、「『楊氏漢語抄』に、環餅は藤葛のような形のもの、和名まがり、とある」と載る物である。〔『説文』には「粔籹は油で揚げた輪の菓子である」、『斉民要術』には「粔籹を環餅といい、輪や腕輪の形にかたどる」とある。〕『字鏡』にも、餌はマガリモチ、また饌と餹も同じでマガリ、と見える。『大嘗祭式』の神へ供える雑物にも「勾餅、筥五合」とある。『土佐日記』には、「都へ上る途中で見ると、山崎の小櫃の絵も、まがりのほら貝のような形も変わらなかった。本当に、人の心だけは分からない」とある。〔ある注では、「まがりは餅で、関東で餅をまがりという。山崎から、ほら貝のような餅を油で揚げて京へ出す。東寺では稲荷祭にこれを供える」とある。『庭訓往来』にも伏兎・曲煎餅といい、伏兎も同じ類で、『和名抄』にあり、『拾遺集』物名にもある。〕
形がぐるぐる巻かれ、『土佐日記』のいうように宝螺貝に似ていたのだろう。〔宝螺は『和名抄』に出る。〕そこで「まがり」と名付けたのである。〔『漢語抄』の「藤葛のような形」も、藤の蔓が絡み合うように巻いていることをいう。中国の環餅は輪や腕輪に似るというので、中が空の輪らしいが、日本のまがりは、単に巻いた形で、輪ではなさそうだ。〕「三重」は、その形が三重に巻いていることをいう。この物は大嘗祭の供物に入っているので、上代からあったと分かる。〔大嘗祭は、あらゆる行事も品物も上代の例に従うものだからである。〕
御足がこの物のようになったとは、最初に舵の形にたとえられた時より、さらにひどく腫れ上がり、今は紐で何重にも強く縛って区切ったような、俗に「しぎりの入った」という状態で、長い物が巻き重なったような形になった、とおっしゃったのだろう。〔ひどく腫れた物は、所々を締めたようになることがある。その様子を、先の宝螺貝の形と考え合わせてほしい。〕足全体が曲がったというたとえではない。
〔いくら歩き疲れても、足は曲がるものではないからだ。師は「三重の勾」を、歌の「ありぎぬの三重」と合わせ、「ありぎぬ」は玉を付けた衣、「三重」は三重の勾玉として、三重に曲がった玉だとされたが、どうだろう。勾玉が三重に曲がることは古書に出ていない。勾玉は少し曲がるだけで、何重にも曲がって巻いた物ではないから、三重と言う理由がない。また、勾玉を単に「勾」と呼ぶ例も全くない。しかも勾玉は、『書紀』でその曲がった形をすばらしいもののたとえに使うほど美しい物なので、御足の曲がって醜い姿を、あの美しい玉の形にたとえられるはずもない。普通、よいことを悪い物に、悪いことをよい物にたとえるものではないのだから。「ありぎぬの三重」は別の意味である。その歌が出る朝倉宮の段、巻四十二・三十四葉で述べよう。たまたま「三重」という語が同じだからといって、混同してはならない。〕

『延喜式』には、この三重郡に足見田神社がある。〔倭建命を祭ると伝える。〕『和名抄』にも葦田、読みアシミタという郷が見える。これも、ここの御足の出来事に由来する名なのだろうか。「甚疲」は、ただ歩いて疲れた、〔俗にいう、くたびれた。〕というだけでなく、足を病んで苦しんでおられることを言われたのである。
杖衝坂の出来事がこの次にあるはずの理由は、前に述べた。この坂は三重郡の采女村の西にあり、今も杖衝坂といい、三重と能煩野の間にある。〔今の四日市駅と石薬師駅の間で、采女村の西端からすぐに登る坂であり、上は平地だ。〕ただ、昔の大道は今の道より三町ほど北にあったのを、近世に今の筋へ移したという。そのとき坂の名も今の大道へ移したのである。〔昔の大道は、采女村の神社の北に今もある道だ。しかし弘治元年、関氏が亀山城を築き、亀山・石薬師を駅として、大道を南へ移したという。ただし今の杖衝坂も昔の坂と細い谷一つを隔てるだけで、同じ山の中だから、それほど遠く離れた別の場所ではない。〕
倭建命が今たどって来られた道は、尾津前から桑名郡・朝明郡を通ってこの杖衝坂まで、今の道のりでは七里余りほどである。

〔『古事記』本文〕そこから進み、能煩野へ着いたとき、国を思って歌われた。
「大和は、国々の中のすぐれたところ。折り重なって囲む、青い垣のような山々。その内にこもる大和は、なんと美しい、愛しいことか。」
また歌われた。
「命が、無事に保たれている人は、たたみこも、平群の山の、クマカシの葉を、髪飾りに挿しなさい、お前たちよ。」
この歌は、国を思う歌である。また、こう歌われた。
「いとしい、わが家の方から、雲が立ち昇って来るよ。」
これは片歌である。このとき御病気が非常に重くなり、こう歌われた。
「乙女の、寝床のほとりに、私が置いて来た、剣の大刀。ああ、あの刀よ。」
歌い終えると、すぐに亡くなられた。そこで早馬の使者を都へ差し立てた。

「能煩野」が伊勢国鈴鹿郡にあることは、『諸陵式』に出ており、後に引用する。「煩」は濁音である。〔『書紀』は「褒」と書くが、清音でノホと読むのはよくない。〕今その地形を見ると、おおよそ鈴鹿郡の北側は半分以上が野である。その中には村里も多く、田畑も多いが、ずっと広い荒野になった所も多く、全体は一続きの大きな野として、郡の東西の端まで広がっている。〔上代の様子も推し量れる。〕西は少しずつ高くなり、〔所々に急に高い場所もある。そのような所は低地から眺めると山のようだが、登ると上はまた平らな野である。『万葉集』の「山辺の、五十師の原」という土地も、この野の東側にあり、東から登る所は山だが、上は平らで、西へ広い野になる。この土地については、別に詳しく考察している。〕徐々に登る土地なので、名の意味は「登り野」だろう。
西の端には高山が並び続き、〔近江国との境である。〕その中に野登山という最も高い山がある。これも野から少しずつ登るための名だろう。この野を今は場所ごとに広瀬野、鞠が野などというが、これらは全体の名らしくないので、昔の「能煩野」は広い範囲をまとめた名だったのだろう。〔今、土地の人はこの名を知らない。〕

「思国以」は「くにしぬはしつ」、国を恋しく思われた、と読む。シヌフに「思」の字を当てるのは『万葉集』に例があり、「偲」「慕」とも書く。この語は中古以後シノブというが、昔はシヌフといった。『万葉集』に多く、みな「思奴布」「思努波武」などと書く。末尾のフも後には濁るが、昔は清音で呼んだのだろうか。『万葉集』はみな清音用の「波・比・布」だけを書き、濁音用の仮名を用いる所がない。〔巻二の「思奴幡武」の「幡」も濁音ではない。語の清濁が今と昔で異なる例が多いことは、巻一で述べた。〕ここでは病気がしだいに重くなるにつれ、ますます大和の国を慕い、恋しく思われたのである。
「やまとは」は、大和は、ということ。「くにのまほろば」は、〔「婆」を旧版本や延佳本などは「波」とするが、今は真福寺本と二つの別本などに従った。〕『書紀』ではマホラマとなっている。この語はすでに『国号考』で解いた。この二句は、大和国は大八島国の中の、まほらである国だと、褒めておっしゃっている。

「たたなづく」は「たたなはり、なづく」である。〔それなら「たたななづく」と言うはずで、「たたなづく」では「な」が一つ足りないように見えるが、同じ音が重なるときは一つを省いて縮めることが多い。「なな」を縮めて「な」というのである。「たびびと」を「たびと」とするようなもので、このことは前にも述べた。したがって「づく」を単純に「付く」と考え、「たたなはり付く」とする説明では足りない。「楯名著」「楯並附」などという説も、みなよくない。〕
「たたなはり」について、契沖は『礼記』の「主君の佩玉が垂れるなら、臣下の佩玉は地にたわみ重なる」という文を引いた。この「委」の意味である。『枕草子』の「横の方で、髪がたたなわり、ゆったりしている」のも同じで、長いものなどが縮まって寄り合い、重なった状態をいう。青垣山についていうのも、形が同じだからだ。後の「なづく」は、「なづき田」の注、巻二十九・四葉と考え合わせてほしい。
「あをかきやま」は青垣山である。上巻の「大和の青垣の東の山」の注、巻十二・二十五葉で述べた。『万葉集』巻一に「登付、青垣山」とある。〔「付」を今の本は「有」としてタタナハルと読む。しかし「たたなはる」に「有」を添える例はなく、「有」ならタタナハレルと読むべき形だ。師が「有」は「付」の誤りだと言われたのは正しい。〕巻十二にも「田立名付、青垣山」とある。
「ごもれる」は、内にこもっている、という意味。〔「碁」を『書紀』は「許」と書き、清音のコである。〕『万葉集』巻六に「吉野の離宮は、たたなづく、青垣隠り」ともある。『神武紀』の「また塩土老翁に聞いたところ、東に美しい土地があり、青い山々が四方を囲む」というのも、大和国を指し、この意味である。

「やまとし」は大和のことで、「し」は添える助詞である。「うるはし」は美しいということ。師は、この語は「うらくはし」が縮まったものだと言われた。〔ラクがルに縮まる。〕『雄略紀』の大御歌に「こもりくの、泊瀬の山は、なんとも、美しい」、『万葉集』巻十三に「うらくはし山だ、泣く子を守る山は」、巻十七に「うらくはし、布勢の湖に」とあり、これらは特にここに合う。
また、ここは愛しく思われる意味でもあろう。軽島宮の段の太子の御歌に「こはだ乙女は……愛しいと思う」、『万葉集』巻十五に「愛しいと、私が思う妻を」とある。ほかにも、かわいく思うことをウルハシという例は多い。〔美しさをいうのとは違うようだが、突き詰めるともとは同じ意味になる。〕
「又歌曰」は、ただ「また」と読む。「いのちの」は命の、である。「またけむひとは」は、〔旧版本では「多」の字を「曾多」と二字並べて小字にする。「曾」は後人が『書紀』に従って脇に書き添えたのだろう。二つの別本では「曾」だが、今は真福寺本・延佳本に従った。『書紀』は「曾」である。〕無事であろう人は、という意味。『万葉集』巻四に「私の命が、無事で幸いな限り」、巻十二に「本当に私の命は、無事でいられようか」、巻十五に「命さえ、無事であるなら」とある。

「たたみこも」は畳菰で、次の「へ〔ぐり〕」に掛かる枕詞である。こう続くのは、畳んだ菰には「へ」、重なり、があるからだ。〔二重・三重・八重などの「へ」である。〕「畳む」は重ねることなので、菰を重ねて幾重もある意味で「へ」という。また「畳」を、すでに畳という物に仕立てた名と考え、「畳の菰」と見てもよい。〔菰などを折り重ねて造る物を畳という。〕その場合も、「へ」へ続く意味は同じである。
〔『冠辞考』が、畳にする材料の菰を「編み隔つ」と言うためだとするのは、少し違う。「へだつ」は重を立てる意味なので、もとは「重」と同じだが、二つの意味がある。一つは重ねて幾重にもすること、もう一つは物と物の間を塞いで絶つことで、「隔」の字は後の意味に当たる。しかしこれも、もとは重を立てることから生まれた意味である。「菰を編み隔つ」というのも、重ねる意味なら違わないが、そうではなく「隔」の字の意味で言われたように聞こえる。〕
『万葉集』巻十六の「二畳、平群」も同じ結び付きである。また「薦畳、八重畳、平群の山」ともある。巻十一の「畳薦、隔編数」、巻十二の「畳薦、重編数」なども、幾重にも重ねて層をなす意味で同じだ。〔ここの「隔」も、重を立てる意味で、「重ね」と同じことだ。同じ意味を「重編」ともいうので分かる。また「編数」は、畳を細かく密に編むので、編み目の数が多いことをいう。重なる層の数が多いことではない。〕

「へぐりのやまの」は、大和国平群郡の山の、という意味である。〔『大和志』は「平群山は平群谷の上方にあり、いくつもの峰が平らにそろって群がるため、その名がある」とする。今、平群谷という所があるので、その辺りの山ではあろう。しかし「平らにそろう」というのは、「群」が音を表す当て字であることを知らない、ひどい誤りだ。〕この土地は巻二十二・二十九葉に出ている。
ある人は、「この平群山は大和ではなく、『神名帳』の伊勢国員弁郡の平郡神社の土地である。社は今の志知村にあり、山を平郡山と書いて、へいづ山という。今も樫が非常に多い」と言う。しかし、この歌は故郷を思って詠まれたのだから、大和国の平群山であることは確かだ。
「くまかしがはを」は、クマカシの葉を、ということ。この木は玉垣宮の段の「葉の広い熊白檮」の注、巻二十五・二十葉で述べた。朝倉宮の大御歌にも、「草香辺の、こちらの大和、たたみこも、平群の山の、あちらこちらの、山の谷間に、立ち栄える、葉の広いクマカシ」とある。なお、この句は『書紀』では「しらかしが葉」となっている。

「うずにさせ」は、髪飾りとして挿しなさい、という意味である。髻華について『推古紀』十一年十二月には、「初めて冠位を行い……全部で十二階とする。それぞれ位に当たる色の絁という絹で縫い、頂を袋のようにまとめて縁を付ける。ただし元日には髻華を着ける。髻華をウズという」とある。十六年八月には「唐の客を朝廷に召し……このとき皇子・諸王・諸臣は、みな金の髻華を頭に着けた」、十九年五月五日には「菟田野で薬狩りをした。この日、諸臣の服の色はみな冠の色に合わせ、それぞれ髻華を着けた。大徳・小徳は金、大仁・小仁は豹の尾、大礼以下は鳥の尾を用いた」とある。
『孝徳紀』大化三年には、「この年、七色十三階の冠を定めた……小錦冠以上の鈿は金銀を混ぜて造り、大青・小青冠の鈿は銀、大黒・小黒冠の鈿は銅で造る。建武の冠には鈿がない」とある。〔『釈日本紀』は「ウズは玉を連ねた玉冠だろうか。兼方が考えるに、髻華は鈿である。今の挿頭花はこれをかたどったのか」という。「玉を連ねた玉冠だろうか」は誤りだ。「鈿」は『説文』に金の花飾りと記す。〕
『万葉集』巻十三には「斎串を立て、神酒を供えてお祭りする、神主らの、髪飾りにしたヒカゲノカズラは、見るとうらやましく、心ひかれることだ」とある。〔「山蔭」はヒカゲノカズラで、それを鈿にした。今の本は「山」を「玉」と誤る。〕巻十九には「豊の明かりをなさる今日は、多くの官人たちが、島の山に明るく照る橘を、髪飾りに挿し、衣の紐を解き放ち、千年の長寿を祝い、祝いの声を響かせ、にぎやかにお仕えする、その姿のなんと尊いことか」、また「島の山に、照り映える橘を髪飾りに挿して、お仕えする、大丈夫たち」とある。〔後の「者」は誤字か。〕つまり草木の枝を頭に挿すことだ。〔「うずに挿す」とは、別にウズという物があってそこへ挿すのではない。挿した物そのものがウズなのである。〕後世の「かざし」は、昔の髻華である。
ただし、『推古紀』『孝徳紀』の冠位の等級に従い、金銀や動物の尾などで造って挿すものは、上代の習わしではない。〔推古天皇のとき、初めて制度として定めたのだろうか。〕『万葉集』の歌に詠まれる方こそ、昔の姿である。

「そのこ」は三音で一句をなし、その人よ、ということ。前の「命が無事であろう人」を指して言われる。『書紀』では「このこ」である。昔は男女を問わず、人を「子」と呼ぶことが多い。「さあ、子らよ」などというのと同じだ。
歌全体は、病気がしだいに重くなるにつれ、ますます大和を恋しく思われて詠んだもので、「命が無事な人たちは、大和国へ帰り、平群山の樫の葉を折って髪飾りにし、楽しく遊びなさい。〔この山は特に樫で名高かったのだろう。朝倉宮の天皇の大御歌にも詠まれることは、右に引いたとおりである。木々の中でも樫は昔、特に尊ばれ、さまざまなことに用いたため、ここでも詠まれた。契沖は、樫は常緑樹なので、命が無事である人は……としたのだと言うが、必ずしも常緑だからではない。ただ、この木を普段からよく髻華に使うからである。「楽しく遊びなさい」の意味であることは、右の『万葉集』巻十九の歌から推し量れる。〕私は大和へ帰ることもできず、ここで今死のうとしている。それが悲しい」と歌われたのである。たいへん、たいへん胸に迫る御歌である。

「この歌は」とある。『古事記』で何々歌だと記す例は、一首なら「この歌は」と言い、二首以上なら「この二歌は」「この三歌は」と数を言う。したがって、ここも「この二歌は」とあるはずなのにそうでないことから、右の二首はもと続いた一首だったのだろうか。『書紀』では一つの歌になっているので、それと合う。〔ただ、神功皇后の段の酒楽の歌も一首のように聞こえるのに二首という。それを考えると、ここも「国を思う歌」と名付けたのが「いのちの……」の一首だけだから「二歌」と記さなかったのか、とも思える。しかし「やまとは……」の前に「国を思って歌われた」とあるので、その歌も含めて言うことは確かである。〕
「思国歌」は「くにしぬひうた」と読む。『書紀』にも「これを思邦歌という」とある。

「はしけやし」は、『書紀』では「はしきよし」だが、同じことである。師の『万葉考』別記に詳しく説かれている。〔その中で「はし」を「くはし」の略とするのは、どうだろう。むしろハシがもとで、クハシは「奇しく愛しい」ではないか。『続日本紀』の宣命にもクスハシキと見える。〕
「はしき」の例は、『万葉集』巻二の「み吉野の、山松の枝は、愛しいことだ」、巻三の「愛しい佐保山」、巻六の「愛しいわが妻」、ほかに「愛伎」という字、巻十八の「愛しいあの子であればなあ」、〔「子」は女性をいう。〕巻二十の「愛しい妻たちは」などで、ここにも「愛伎」と書く所がある。〔これをヲシキと読むのが誤りなことは、契沖も述べた。〕「き」と「け」は通じる音である。〔「祁」はケの仮名なので、キと読むのは誤りだ。〕『万葉集』巻四には「はしけやし、遠くない里を」、〔ここも二句のつながりが同じで、巻六は「愛也思」と書く。〕巻十五に「はしけやし、妻も子供も」などとある。また「かなしき」を「かなしけ」とする例もあちこちにある。
「やし」「よし」の例は、「よしゑやし」、〔『継体紀』の歌が「どの人も」をヤヤヒトモとするヤヤも同じ。〕「おふをよし」「あをによし」「ますがよし」などである。〔これらも音が通じ、ヤシとヨシは同じである。〕

「わぎへのかたゆ」は、わが家の方から、という意味である。「わがいへ」を縮めて「わぎへ」というのは、高津宮の段の大后の御歌にも、「私の見たい国は葛城の高宮、わが家の辺り」と見え、『万葉集』にはとても多く、昔の普通の言い方である。〔巻五には「わがへ」もある。〕昔は旅先から本郷をいうとき、家、わが家、と呼ぶことが多い。〔国ともいう。〕『万葉集』の歌などは、みなそうである。〔中古以来は、多く「故郷」と呼ぶが、昔は『万葉集』の旅の歌でも、他国から本郷を「故郷」と詠む例は一つもない。古風の歌を作る人などは、理解しておくべきである。〕
「くもゐたちくも」は、雲が立ち昇って来るよ、ということ。「雲居」は普通、雲のある場所をいうが、昔は雲そのものを指すことも多い。『万葉集』巻三の「雲居たなびき」、巻七の「雲のように、弓槻が岳高く、雲居が立つらしい」、巻十一の「香山に、雲居たなびく」、巻十七の「夕方になると、雲居たなびき」なども、すべてそうである。〔契沖が「雲が居る状態から立って来ること」とするのは、どうだろうか。〕
最後の「も」は助詞で、「よ」というようなものだ。〔ヨ・ヤ・モは意味が通じる。間の「も」についても見よ。〕古い歌には、こう結ぶものが多い。高津宮の段の「わがとらすも」、『崇神紀』の「ひめなすびしも」、『神功紀』の「いきつべろしも」、『允恭紀』の「こよひしるしも」、『雄略紀』の「あぢひなだすも」など、ほかにもある。『万葉集』にも多く、巻七には「めぐりくも」ともある。〔これも「来も」の例である。〕
この御歌は、国を慕って大和の方を眺め、その空に雲が立って来るのを御覧になり、「愛しく思うわが家の方から、雲が昇って来るよ」と歌われたのである。〔悲しいとき、何ということもない目に見える物、耳に聞く物にも心が留まり、しみじみと感じるのは人情である。〕

右の三首の御歌は、『書紀』ではこうなっている。「十七年春三月、天皇は子湯県へ行き、丹裳小野で遊ばれた……この日、野の中の大石に登り、都を思って『はしきよし……』と歌われた。さらに続けて『やまとは……いのちの……』と歌われた。これを思邦歌という。」つまり、日向国で天皇が歌われた大御歌としている。また、後の二つを続いた一首とするのも、『古事記』とは大きく違う伝承である。今は、どちらが正しいとも言いにくい。
〔しかし強いて言えば、まず天皇と倭建命の違いを考えると、「いのちの……」は倭建命の歌としてよく合う。病気が重いために詠まれた様子だからだ。天皇が何となく都を思う歌としては、似つかわしくない御言葉である。「やまとは……」は、どちらの歌としてもよい。「はしけやし……」も、どちらの歌でもよいが、順番としては『書紀』のように最初にある方がよく聞こえる。都の方の空の雲を遠く眺め、そちらを思って「やまとは……」と歌う続き方がよいからである。三首とするか、一首とするかは、どちらが優るとも劣るとも思えない。〕

「片歌」について。思国歌・片歌などの名称は、師の言われたとおり、その歌を昔からそう呼んで伝えてきたものである。歌を扱う楽府では、どの歌にもこのような名称があって、種類を分ける。巻二十七・十二葉の夷振の注などと考え合わせてほしい。『古事記』に出る名称は、酒楽の歌、志津歌、本岐歌、志良宜歌、読歌、天語歌、宇岐歌などである。〔これらは何々歌という名のものだ。このほか何々振という名の歌は、夷振のところに挙げたとおりである。〕
片歌と名付けたのは、三句で、普通の五句・六句の歌の半分、片方のようだからである。〔五句の歌も上三句を本、下二句を末とするので、三句は一方に当たる。六句の歌なら、三句はそのまま半分だ。後に旋頭歌という形式は五・七・七、五・七・七なので、片歌は正しくその半分である。『建武年中行事』の賀茂臨時祭の条には「もろ歌」があり、『略解』は本と末のある神楽歌だとする。したがって「もろ歌」は片歌に対する名で、本と末がそろったものをいう。〕
こう名付けたのは少し後だろうが、上代からこの五・七・七の三句を、半分のものとしたらしい。白檮原朝から、この形はどれも質問や返答などで、『古事記』『書紀』にある限り、末までみなそうである。〔白檮原宮の「かつがつも、いや先立たる、えをしまかむ」という大御歌が三句の歌の最初で、大久米命が歌で尋ねたことへの返答だ。その次の二首も問答である。この景行段の「にひばり……」「かがなべて……」も問答で、そこで「続けて御歌」というのも、三句だけでは片方のようだからだ。高津宮の「高行くや、隼別の、みおすひがね」という歌も、大御歌の問いへの答えである。その後の『書紀』も、問いか答えである。『仁徳紀』の「水底に、臣の乙女を、誰が養おう」という大御歌は質問で、答えは五句の歌だ。『皇極紀』の謡歌三首の一首も三句だが、独立した一首ではなく、三首続けて意味を完結するのだろう。『斉明紀』の三首続く大御歌の第三も三句で、前の歌に残った思いを歌い足された様子である。だから三句は、もとから片方のようなものだった。後に『万葉集』以降では三句の歌は見えず、いわゆる連歌も、本と末を合わせて一首にする。〕
したがって、独立した一首が三句なのは非常に珍しいので、特に片歌と名付けたのだろう。このほか『古事記』の高津宮の段では、建内宿禰の「汝が御子や、つひに知らむと、雁は子産むらし」という歌も、本岐歌の片歌だと記す。〔ほかに独立した三句の歌は、この後の「浜つ千鳥……」だけだ。これも四首並ぶ一つなので、『斉明紀』の大御歌の類とすべきだろう。これらに種類の名を挙げるなら、片歌というべきである。また、右の三首を『書紀』のように一首とする伝承に従えば、この三句を片歌と呼ぶのは、後で別に抜き出し、一首として名付けたのだろう。〕

「甚急」は「にはかになりぬ」と読む。『万葉集』巻十六の「死のうとする命が、今まさに迫って来た」に従った。〔車持氏の娘が夫を恋い、病んで死のうとするときに詠んだ歌の言葉で、考え合わせてほしい。〕死ぬ間際に迫ったことをいう。〔「急」の字を字書が「迫る」「行き詰まる」と注する意味で、普通、予期せず素早く起こったことを「にわかに」というのとは意味が違う。〕『古今集』哀傷の、在原滋春が死のうとするときの歌の詞書に、「病気で、いよいよ今というときになったので」とあるのに当たる。〔『大和物語』で業平朝臣の「つひに行く」の歌を載せる所にも、死がいよいよ今というときになって詠んだ、とある。〕

「御歌曰」は、ここでは「みうたを」と読む。「をとめの」は乙女の、ということで、尾張の美夜受比売を指して言われる。「とこのへに」は寝床のほとりに、「わがおきし」は私が置いた、という意味である。「つるぎのたち」は、大刀の切れ味の鋭さを褒めた名で、「つるぎだち」ともいう。「つるぎ」という名の由来は、上巻「都牟刈の大刀」の注、巻九・三十五葉で述べた。ここでは、あの草那芸の大刀を指しておっしゃっている。「そのたちはや」は、あの大刀は、ああ、ということ。「はや」という助詞は、巻二十七・八十一葉で述べた。

この御歌は、前に「御刀の草那芸剣を美夜受比売のもとに置き、伊服岐の山の神を討ち取るため出かけた」とあった、あの大刀を思って歌われたのである。病気がいよいよ最期というときにも、なお、この大刀のことだけはお忘れにならず、これほど深く思い込んでおられる御心から、勇ましい御気性が少しも衰えないこと、また御心が永遠にこの大刀に留まることが分かり、まことに胸を打つ、ありがたい御歌である。
〔武士であろうとする人などは、特にいつもこの御心を思い起こし、臨終に至っても、役に立たず味気ない儒教・仏教の考えなどを思わず、深くこの歌を心に留め、亡くなった後の世まで、空を翔けてでも子孫の勇気を助け守ろうと思うべきである。また、この御子の御霊が永久にこの大刀に留まることを思い、熱田社を軽んじてはならない。〕

「崩」について、天皇でない方に「崩」と書く例は、宇遅之和紀郎子のところで述べよう。この倭建命は、特にあらゆることを天皇になぞらえて申し上げる方なので、なおさらである。〔『書紀』でも「尊」の字を使い、『阿波国風土記』には「倭健天皇命」とまで記す。〕

「貢上駅使」は、早馬の使者を都へ送り、亡くなられたことを天皇へ申し上げるのである。駅使は巻二十三・二十八葉に出ている。『日本書紀』には、「能褒野へ着くと、身体の痛みがひどくなった。そこで捕らえた蝦夷らを神宮へ献じ、吉備武彦を遣わして天皇へ奏上した……その後、能褒野で亡くなられた。時に三十歳」とある。〔二十七年の条に十六歳とあり、亡くなったのは四十三年とするので、三十二歳に当たり、三十歳では二年違う。この御子の年齢・年代については、後にも述べよう。〕

古事記伝 巻二十九 本居宣長 著 日代宮の第四巻

【古事記本文】そこで、大和にいた后たちと御子たちは、皆、下って来て御陵を造った。そして、その土地で御陵を取り巻く田を這い回り、泣きながら歌った。「御陵に寄り添う田の稲の茎に、稲の茎に、這い巡っている野老のつるよ。」(「那豆岐」の三字は音を表す。)

【宣長の注釈】「后たち」は倭建命の后たちである。この命は、あらゆる点で天皇に準じて扱うので、妻をも后ということは、巻二十七の六十四丁に述べた。后と呼ぶのは一人に限らなかったので「等」とする。このことは巻十一の三十丁、巻二十の十丁などに詳しく述べた。後に御子たちを挙げる箇所に出る妻のうち、后の位に当たる人が何人かいたのだろう。布多遅能伊理毘売命は、玉垣宮の段にも倭建命の后となったとある。「御子たち」も同じ命の子である。「諸」は御子だけでなく后たちにも掛かる。上巻の「天神諸」と同じで、前の語に属する。「下到」は、大和から伊勢に下っておいでになったのである。

【宣長の注釈】御陵は『御陵式』に「能褒野墓。日本武尊。伊勢国鈴鹿郡にあり、墓域は東西二町、南北二町。守戸三戸」とあるものだ。『続日本紀』大宝二年八月の、倭建命の墓に雷が落ち、使いを遣わして祭ったという記事もこの陵だろう。能褒野は巻二十八の四十五丁に述べた。御陵の場所は今は明らかでないが、高宮村に丸山というものがある。庄野宿と石薬師宿の間で、大道の少し西だ。茶臼山・経塚・白鳥塚ともいい、大変大きく高く丸く、周囲には堀の跡もかろうじて残り、まったく上代の御陵の形である。ひとまずこれではないかと思う。谷川氏も、高宮村にひよどり塚というものがあり、能煩野の御陵はこれだろうとするが、この塚のことだ。またある人も、この塚を御陵として、この一帯は高宮郷で高飛野といい、白鳥塚のほとりに王子田・宝冠塚という小地名があるという。七、八町ほど北には御所垣内という田の小地名もあり、地元では鍬を入れると祟りがあると伝える土地だという。

【宣長の注釈】延佳は「今、鈴鹿郡長世郷の藤野に陵墓があり、俗に多気比墓という。これが能褒野墓で、多気比は建部のなまりか」とするが、上代の陵墓の形をよく考えず、後世の考えで大ざっぱに述べたものだ。この武備塚は、石薬師宿から二里余り西、長沢村の北の野にある林の中にあり、高さ六、七尺ほどの小さな塚で、小木や竹が茂っている。前に社がある。同じ林の中、塚の後ろには車塚、一町ほど東南には宝冠塚・宝裳塚などがあるが、いずれも非常に小さい。この頃は武備塚を能煩野陵と定め、世間もそう理解しているようだが、上代の御陵の形ではまったくない。仮に長い年月で崩れて小さくなったのなら、内側の石組みが必ず露出するはずなのに、それもまったく見えない。門人の白子の人、坂倉茂樹も、倭建命の旅に従った吉備武彦か大伴武日連らの墓ではないかと考える。そうかもしれない。お供した縁で、亡くなってから同じ能煩野に葬られたこともあろう。また倭建命の子孫には建部氏があり、後にはこの国の安濃郡などにもその氏人がいたので、遠祖の御陵の近くを慕ってこの野に葬った墓かもしれない。いずれにしても武備塚は御陵ではあるまい。

【宣長の注釈】長沢村の少し西南の野には、高さ一丈余り、周囲十丈ほどに見える古塚もある。東側中腹の土が崩れた所に穴があり、石室の入口が見える。口は狭く、内部は奥行き八、九尺、幅七、八尺ほどで、上を大石で覆い、側面にも石を積んでいる。地元では二子塚、二子穴という。周囲のあちこちにも、埋まった大石が少し露出している所が幾つもあり、この塚の石組みが散ったものだろう。西にはもう一つ塚がある。二子塚は確かに上代の貴人の墓には見えるが、御陵とは決めにくい。ある人は、大碓命と小碓命が双子なので塚の名に理由があるとする。また長沢村の長瀬神社の神像が背の高い姿だというのも、倭建命の身長が一丈余りだったことに理由があり、近くに御門という土地もあるなど、いろいろ由緒があるように聞こえるという。しかし大碓命と双子だったからといって、そのことを墓の名にするのもどうだろうかと思う。

【宣長の注釈】また亀山宿と庄野宿の間、大道の北、名越村に近い所に丁子塚がある。周囲二十丈ほどの丸い山で、東へ長い尾が延び、この形から丁子と呼ぶのだろう。中から土の物が掘り出されることもあり、周囲に石組みがあり、少し離れて小丘が五つあるという。まだ行って見てはいないが、その形を聞くと、これも上代の陵墓の形ではある。石薬師宿を西南へ出た所、大道の右には日之坪という小山があり、これも陵墓に似る。山の後ろは山上の広い平野だが、大道から見上げる頂は、後ろから見ても一つの塚である。これを御陵とする人もいるが、どうだろうか。中世の城跡だともいう。能煩野陵は、以上のように各所に古塚があるものの、今、どれと確かに決める根拠はない。郡内をくまなく探せば、挙げた以外にも古塚があるはずだ。よく尋ねて考えるべきである。

【宣長の注釈】「那豆岐田」の「なづき」は、前の御歌の「たたなづく」の「なづく」と同じで、なびき寄り添う意味である。「き」は「か・き・く」と活用する語だ。「なみ」は「なびき」のことで、藤なみや、物がなみ寄るという例があり、人や鳥獣が懐くというのも同じだろう。これから考えると、『和名抄』の「脳、頭中の髄脳。なづき」も、頭の中へ帰り集まるという名かもしれない。ただし確かではない。「たたなづく、青垣、山隠れる」も、四方を重なって囲む山が、中の国へなびき寄ることをいう。中の国から見ると周りの山々はすべてその国へ寄り添うように見える。「なづき田」も同じく、四方にあって御陵に寄り添う田である。「なびく」は形が実際になびかなくても、寄り添うことをいう。青垣の山は形が重なり連なるので「たたなづく」といい、田は重なっていないので、ただ「なづき」とする。契沖は地名とするが誤りだ。「その地の」と書くことで地名でないと明らかだ。師は「づ」を助詞として「稲つ城田」、稲城の辺りの田かともいうが、これも信じられない。「稲つ」とはいえず、稲城ならそのまま「いなき」というはずだ。『出雲風土記』に脳磯・脳島があるが、どういう由来の名だろうか。脳が意味に合った字か、音を借りた字かも明らかでない。

【宣長の注釈】「匍匐」は上巻で枕元を這い、足元を這って泣くとあるのと同じ(巻五・六十五丁)。「迴」は「もとほり」と読む。白檮原宮の大御歌の「這ひもとほろふ、しただみの、い這ひもとほり」の所(巻十九・四十五丁)で述べた。ただしそちらの「這ひ」はつるなどが延びることで、人が這うのではない。理由は同巻四十七、四十八丁にある。『万葉集』巻三、大納言大伴卿が亡くなった時の歌に「幼子のように這い巡り、朝夕、ただ泣いてばかりいる。あなたがいなくなって」とあり、巻二に「鶉のようにい這い巡り」、巻三にも「鶉こそい這い巡れ」とある。「い」は言葉の初めに添えるものだ。

【宣長の注釈】「哭」は師の読みにならって「みねなかしつつ」と読むべきだ。ただし師は「なき」としたのを、ここでは「なかし」に改めた。「なかし」は「なき」を延ばした古語で、敬意を表す言葉になる。欽明天皇紀の「殯に奉哀す」、孝徳天皇紀の「阿倍大臣が亡くなり、天皇が朱雀門に出向いて擧哀し、公卿たちも皆それに従って哀哭した」、天武天皇紀の「皆喪服を着て三度擧哀した」などの奉哀・哀哭・擧哀、さらに斉明・天武・持統天皇紀の發哀、天武天皇紀の發哭、持統天皇紀の慟哭は、いずれも「みねたてまつる」と読む。皇極天皇紀の「蘇我臣蝦夷と鞍作の遺体を墓に葬り、泣くことも許す」の哭泣、天武天皇紀の發哀などは「ねつかへ」「ねつかふ」と読む。「ね」は喪を悲しんで泣くことで、もとは「見泣き」であり、亡くなった人の顔かたちなどを見て泣く意味だ。神代巻の「弔喪大臨」(葬儀を弔って大いに泣く)の「臨」を「みなき」と読み、見て泣く意味なのと合わせて理解すべきである。「奉る」は目上の人のためにすることを表す敬語なので、孝徳天皇紀の天皇の擧哀は「かなしみたまふ」、天武天皇紀で十市皇女の葬儀に天皇が臨み「降恩以發哀」とする發哀は「みねしたまふ」と読む。「ね」自体が泣くことでも、「ねなく」と重ねるのは普通で、「ねになく」「ねのみなく」ともいう。眠りをいう「い」も「いぬ」「いをぬ」と重ねるのと同じだ。「ね」は名詞、「なく」は動詞だからである。「いぬ」も「い」が名詞、「ぬ」が動詞で、同じ意味の名詞と動詞を重ねる例は、歌を歌う、舞を舞うなどほかにも多い。「ね」を音と理解するのは誤りだ。後世の歌で涙を「ね」というのは多いが、泣く意味から移ったものだ。

【宣長の注釈】「なづきの」は四音の句である。「なづき」は動詞なので「の」と続けるのを疑う人もあろうが、物の名となれば動詞も名詞のようになり、「の」で受ける例は多い。ここでは特に「の」がなければ句の調子が整わない。次の「たの」の二音もこの句に含めて六音と読むのは誤りだ。句の調子を味わえばわかる。この四首のうち後の三首はすべて初句が六音なので、これも六音かと思えるが、この歌はそうではあるまい。

【宣長の注釈】「たのいながらに」は、田の稲の茎に、ということだ。神代巻に粟莖があり、『字鏡』には秤稈を「あはがら」とし、『説文』は稈を穀物の茎とする。『万葉集』巻十一に「我が家の穂蓼の古い茎を摘んで育て、実がなるまであなたを待とう」とあり、字書にも草木の茎を幹という。「いながらに」を繰り返すのは古歌によくある。「はひもとほろふ」は、つるが延びて巡ることだ。白檮原宮の大御歌(巻十九・四十五丁)にあり、前に引いた。

【宣長の注釈】「ところづら」は野老のつるである。『和名抄』芋類に、崔禹錫の『食経』を引き「薢は苦く少し甘みがあり、毒がなく、焼き蒸して食糧にする。和名ところ。俗に菝の字を使い、『漢語抄』は野老の二字を使うが、いずれの出典も未詳。『兼名苑』の注では黄薑といい、根が黄白色で苦いもの」とある。『大膳式』にも薢二合、薢四葉などがある。『万葉集』巻七の十一丁に「冬薯蕷葛、いや常しくに」、巻九に「冬薯蕷づら、尋め行きければ」とある。今の本で「さねかづら」と読み、『古今六帖』が「まさきづら」として載せるなどは皆誤りだ。田中道麻呂はこういう。「巻七・巻九の冬薯蕷をまさきづらとするのは理解できない。まさきを冬薯蕷という理由がない。『六帖』は読み方がわからず勝手に読んで採ったのだ。『冠辞考』のまさきについての説明は詳しいが、冬薯蕷に当たる理由がまったく見えない。冬薯蕷は野老である。野老の葉もつるも薯蕷に非常によく似て見紛うほどだ。薯蕷は十月初め頃までつるがあり、その後枯れる。野老もたいてい同じ頃枯れるが、物陰などでは冬も葉が青く、春まで残るものもあるから、まさに冬薯蕷といえる。巻七の『いやとこしくに』は『とこ』を重ねたとも、常緑だからとも考えられる。巻九で『尋め行く』とするのは、つるをたどって根を掘るためだ。」この考えは非常によく当たっている。『拾遺集』には、春に出かけ、野辺の女たちに何をしているか尋ねると野老を掘っていると答えたので、「春の野に、ところ求むと」と詠み、返歌があった話もある。「葛」は俗に「つる」といい、つる草には何々づらという名が多い。葛については巻六の十九丁に詳しく述べた。

【宣長の注釈】この御歌の趣旨は、契沖もいうように、悲しみに堪えず這い回る姿を、その田の稲の茎に野老のつるが絡みつく様子にたとえたように聞こえる。しかしそれでは最後に言葉が足りない。結びの句が伝承から落ちたのだろうか。試みに補うなら、最後に「い這ひもとほり、ねのみし泣くも」(這い巡って、ただ泣いている)などの二句があるはずだ。白檮原宮の大御歌と照らし合わせて考えるべきである。

【古事記本文】そこで、倭建命は八尋もある大きな白智鳥(しろちどり)に姿を変え、空を翔けて浜の方へ飛んでいった。(智は音を表す。)后と御子たちは、刈られた細竹の切り株で足が傷ついても、その痛みを忘れ、泣きながら追いかけた。この時、歌った。「浅い篠の生える野原で、腰まで行き悩む。空を行かず、足で行くことよ。」また海の潮の中へ入り、行き悩みながら歩いた時、歌った。(那豆美の三字は音を表す。)「海を行けば、腰まで行き悩む。大河原に生える草のように、海は進むのをためらう。」また鳥が飛んで磯に止まった時に歌った。「浜の千鳥よ、浜からは行かず、磯伝いに行くことよ。」以上の四首は、いずれもその葬儀で歌ったものだ。そこで今に至るまで、天皇の大御葬でもこれらの歌を歌う。

【宣長の注釈】「八尋」は、『古事記』の八尋和邇などと同じく、その大きさをいう。鳥が八尋もあるなら尋常でなく、格別に大きかったのだろう。「白智鳥」は『日本書紀』では白鳥とあり、『古事記』でも次に出る陵の名は白鳥である。仲哀天皇紀には「私は成人前に父王を失い、その神霊は白鳥となって天に上った。仰ぎ慕う思いは一日もやまない。白鳥を得て陵の池で飼い、その姿を見て思慕の心を慰めたい」と詔し、諸国に白鳥を献上させ、越国が四羽を献じたとある。何の鳥かは詳しくわからない。『万葉集』巻四に「白鳥の、鳥羽山松の」とある。『冠辞考』は、白鳥は必ずしも鷺だけではなく、仲哀天皇紀で飼うというのは鵠かもしれず、出雲国造の神賀詞の白鵠も「しらとり」と読むべきだからだとする。鵠は巻二十五の六丁に詳述した。巻九に「白鳥、鷺坂山」ともある。鷺が白いから続けたのか、鷺の別名を白鳥といったのかは決めにくい。中国の『詩』の疏に鷺を白鳥という例があり、ここの白智鳥を白鷺とする説もある。なぜここで特に「しろちどり」というのかも詳しくわからない。白い千鳥かとも思えるが、千鳥なら単に白鳥とはいえず、仲哀天皇紀の内容も千鳥とは聞こえない。またもとは白鳥だったのを、次の歌の知登理によって後人が智を加えたかとも思えるが、「智字以音」という注まであるので、そうでもあるまい。

【宣長の注釈】そこでさらによく考えると、后たちと御子たちが千鳥にたとえて詠んだ歌に基づき、推してこの白鳥を白智鳥と呼び、それを初めにまでさかのぼらせて語り伝えたのかもしれない。歌で千鳥と詠む理由は後に述べる。また仲哀天皇紀の、陵の池で白鳥を飼って父王を恋い慕う心を慰めたいという詔から考えると、当時、天皇が白鳥を「父鳥」と呼び、世間にも伝わってそう呼んだのを初めにまで及ぼし、「白父鳥」といったのだろうか。「ちち」を「ち」だけにするのは、同音が重なる語を一つ省く例が多いためで、明宮の歌にも「まろがち」という例がある。

【宣長の注釈】「化」は、葬った倭建命の遺体が姿を変えたのである。『日本書紀』には「群卿・百官に命じ、伊勢国能褒野陵に葬った。その時、日本武尊は白鳥となって陵から出て、大和を目指して飛んだ。群臣が棺を開けると、死装束だけが残り、遺骨はなかった」とある。「翔天」は、高津宮の歌の「雲雀は、天に翔る」、仁徳天皇紀の歌の「隼は、天に上り、飛び翔り」などと同じ。伊勢国鈴鹿郡の石薬師寺を高富山という。高富は高飛で、この辺りの旧名であり、石薬師宿も旧名は高飛だった。倭建命が白鳥となって飛び去ったことから起こった名だと伝える。

【宣長の注釈】「浜に向かって飛び行く」は、『日本書紀』の「大和を目指して飛ぶ」と違うように見える。大和は西にあり、鈴鹿郡から海浜は東だからだ。ただし回りながら進むなら、方向にそれほどこだわる必要はない。能煩野から浜へ行くなら、奄芸・河曲・三重の三郡の海辺だろう。鈴鹿郡の東南から東北にかけて三郡が並び、海はその東だからだ。『神名式』には朝明郡の鳥出神社がある。ある説では、倭建命が白鳥となって飛び出た土地なので鳥出といい、今この辺りを富田というのは「とりで」がなまったのだろうとする。大和の琴弾原も富田といい、同じ由来で同じ名なのを考えるべきだという。鳥出神社は今、飛鳥社というともいう。しかし朝明郡は三重郡の北なので、能煩野から大和へ向かうには、さらに遠回りになる。

【宣長の注釈】ところが『先代旧事本紀』には、日本武尊は東夷を平定して帰る途中、まだ帰参しないうちに尾張国で亡くなったという説がある。尾張国愛智郡白鳥村にも白鳥社があり、この尊の陵と伝える。一説には、天武天皇の世に白鳥三陵にならい、ここに尊の神霊を祭ったともいう。どれも確かではないが、能煩野陵を出て、初めに東北の朝明郡の浜へ向かって飛び、尾張へ着いて止まった土地に陵を造ったのが、愛智郡の白鳥社なのかもしれない。次にそこからまた飛び去り、大和へ行ったのか。『日本書紀』は初めに尾張へ飛んだことを伝え落とし、『古事記』は尾張も大和も落として、最後の河内だけを伝えたのかもしれない。『旧事紀』も、白鳥の止まった所に陵を造ったことを誤り、その国で亡くなったと伝えたのかもしれない。確実にいえることではないが、浜へ飛ぶという本文、尾張にも白鳥陵があること、『旧事紀』の説を合わせると、そういうこともあったかもしれない。尾張には草薙剣を置いて来たので、神霊がまずそこへ飛ぶのにも理由がある。朝明郡の鳥出社も尾張へ向かうには筋の通る位置なので、あれこれ試みにいうだけである。

【宣長の注釈】「於其」の後に、地か野などの字が抜けているのか。「その野」なら能煩野を指す。しかし諸本にその字を持つものはないので、ひとまず「其」を「そこなる」と読んでおく。真福寺本と延佳本は其を是とするが、於是というべき箇所でもない。また下の語に掛けて「この」と読むのもどうだろうか。

【宣長の注釈】「小竹」は「しぬ」(志怒)と読むべきだ。上巻には「小竹を佐々と読む」とあるが、ここではそうは読むまい。御歌に士怒とあるからだ。神功皇后紀に小竹を「しぬ」とする読みの注があり、『万葉集』巻一でも「しぬひつ」の借り字を小竹櫃とし、細竹とも書く。『和名抄』は篠を細竹とし、和名しの、またささともいい、俗に小竹の二字を用いてささという、とする。古くは「しぬ(志怒)」といい、後には「しの(志能)」というのは、野・角・楽・忍などの類である。ただ『万葉集』巻一の人麻呂の歌に四能とあるのは珍しい。この「しぬ」は細竹をはじめ、すすきや葦などにもいい、その類の茎の総名である。『万葉集』巻一の、旗・幡にする「しの」を押しなびけるという例もすすきの茎を指し、「しのすすき」も、ただすすきのことである。

【宣長の注釈・前コマから続く】「しぬ」(後の「しの」)は一種類の植物の名ではなく、葦にも「葦の篠屋」などという。主に小竹・細竹と書くのは、代表的な物に基づく。同じ小竹と書いても「ささ」は竹に限る名で、「しぬ」は竹に限らない。「しぬ」という名は、柔らかくなびく意味、今のしなやかの意味である。「ぬ・の・な」はよく通い合い、「心もしぬに思ふ」「恋しぬぶ」の「しぬ」も、心がしなえてしおれることだ。「思ひしなえて」ともよくいうのと合わせて理解すべきで、小竹も同じく「しなひ」の意味で「しぬ」という。茂る意味とするのは誤りだ。後世は茂ることを「しのに」というが、古くはない。ここでの小竹は細竹でも、すすきなどの類でもよい。

【宣長の注釈】「苅杙」は、俗に刈り株というものだ。『和名抄』は『東宮切韻』を引き、根株は草木の根元、根は「ね」、株は「くひぜ」と読むとする。『字鏡』にも柚・櫂樴・杙などを「くひぜ」とする。木を切った後の株を「きりくひ」といい、『字鏡』にも杠・樴を「きりくひ」とする。『万葉集』巻十六に、法師たちの髭の剃り杭に馬をつなぐ、ともある。髭を剃った後に短く生えた様子を、草木の株になぞらえたものだ。

【宣長の注釈】「雖足䠊破」は「みあしきりやぶるれども」と読み、足が傷つくことをいう。䠊は字書で刖・断足、つまり足を切り離すとするが、ここでは「足きる」という言葉が同じなので書いただけで、字義にこだわらないのは古くよくあることだ。今も手足の怪我を「手切る・足切る」というように、単に傷がつくことを「きり」という。「忘其痛」の忘を忍とする本もあり、それも悪くないが、今は延佳本と別の一本に従う。真福寺本の忌は忘の誤写だ。忍より忘の方がよい。「痛」は「いたみ」と読むべきで、「いたさを」「いたみをしのびて」などはよくない。「忘」は痛みを感じないかのようだということだ。

【宣長の注釈】「哭追」は「なくなくおひいでましき」と読む。「なくなく」は俗に「なきなき」というのと同じで、泣きながらということだ。俗語の「言い言い・聞き聞き」を雅語では「言ふ言ふ・聞く聞く」とするのと同じ規則である。白智鳥を恋い慕って、飛んで行く方へ追いかけたのだ。歌は后たち・御子たちの誰かが詠んだもので、次の二首も同じである。

【宣長の注釈】「あさしのはら」は、契沖によれば浅小竹原で、『万葉集』巻十一にも「神なびの浅小竹原の」とある。巻七にも、恋人の家と思って通った道の篠すすきや、私が通るとなびく篠原の歌がある。初句が六音なのは、『古事記』にも『日本書紀』にもほかに例がない。雄略天皇紀の歌の初句「みちにあふや」は、途中に母音「あ」があるので、この例ではない。ここの三首がそろって六音から始まるのは、何か理由があるのか。

【宣長の注釈】「こしなづむ」は腰まで難渋することで、契沖は、仁徳天皇紀の御製で注し、この句で文を切るべきだという。その御製は「難波辺に、船を寄せよ。腰まで難渋して、その船を寄せよ。大御船を寄せよ」という歌で、腰まで水に入り御船を引くことだ。『万葉集』巻十三の、夏草を腰まで分けて難渋する歌、巻十九の、降る雪を腰まで分けて進む歌もその例である。「なづむ」は上巻の「踏みなづみ」(巻七・四十一丁)でも述べた。ほかにも巻二の「なづみ来し」、巻三の、雪解けの山道でさえ難渋して来る歌、巻四の、遠い道の間を難渋して参る歌、巻七の、山川で馬が難渋する歌、巻十三の、君が歩いて難渋して行く歌など、非常に多い。ここでは白智鳥の飛ぶ方を追うので道もなく、腰まで深く茂った篠を分けて進み、すらすら行けず、とどこおり苦しむのである。

【宣長の注釈】「そらはゆかず」は空を行かないという意味だ。ここは明らかに清音なのに、濁音用の賀を使うのは不思議で、このことは首巻に詳述した。契沖は、白智鳥は空を行くが、私たちは空を行けない、という意味とする。鳥が空を行くのに対していうのである。『万葉集』巻十四の、「下野の安蘇の河原から、石も踏まず空を通って来たよ。あなたの心を知らせて」という歌も、気持ちの急ぐまま空を行くように来たという意味だ。「あしよゆくな」は足によって行く、徒歩で行くことだと契沖がいう。古語で「より」を「よ」ということは白檮原宮の段に詳述した。徒歩より・馬より・船よりというのが古い言い方で、足で行くので「足より」という。「な」は助詞で「よ」に似た、少し嘆く意味がある。『万葉集』に多く、巻一の「しみじみと眺めて偲ぼう、巨勢の春野を」、巻十三の「玉たすきを掛けるように、心に掛けて思おう。おそれ多くはあるけれども」の「な」がこれに似る。巻四の「私は恋しく思っていようなあ」など、矣那と続く例もほかにある。歌の終わりでは巻十の「ひそかに使いを遣れば、わかるだろうなあ」がある。

【宣長の注釈】一首の意味は、何とか追いつこうと努めるけれど、私たちは白智鳥のように空を飛べず、徒歩では篠原に難渋してすらすら進めないことよ、というものだ。「海鹽」は「うしほ」と読み、巻十の七丁にも出た。白智鳥が海へ飛んで行くのを、后たち・御子たちがなお慕い、海の潮の中まで入り、追いつきたいと願うのである。

【宣長の注釈】「うみがゆけば」は海を行けば、という意味だ。契沖は賀を「から」として良が抜けたか略したかといい、師は賀を「ままに」の意味としたが、いずれもよくない。陸に対して海を「うみが」というのである。どちらの「が」も場所の意味で、在所・住所の「か」、坂・岡の「か」、山里をやまがというのと同じだ。陸は国の場所、海賀は海の場所である。景行・崇峻天皇紀では北陸を「くにがのみち」「くぬがのみち」と読む。崇神天皇紀の「くめがのみち」のめはぬの誤り。崇峻天皇紀や『西宮記』『北山抄』の「くるがのみち」はぬがるに変わったのだろう。欽明天皇紀の陸海は「くぬがうみ」、孝徳天皇紀の水陸の陸も「くぬが」と読む。これに対して海を「うみが」というと知るべきだ。「くぬが」は後まで残って今も「くが」というが、「うみが」は早く失われたので、欽明天皇紀の海もただ「うみ」と読む。しかしこの御歌の「うみが」は確かに陸に対する語なので、海陸・水陸などで海をいう語は「うみが」と読むべきだ。ただし孝徳天皇紀のその水は、海だけでなく田や川すべてをいうので「みづ」と読む。同巻で水陸を「たはたけ」と読む所もあり、用法による。その中で海陸の意味なら、水を「うみが」と読むべきである。

【宣長の注釈】「こしなづみ」は前の歌と同じ意味だが、ここでは仁徳天皇紀の大御歌と同じく、腰まで潮に入って難渋するのである。「おほかはらの」は大河原の、という意味だ。ここでは水の中を河原という。普通は川辺の土地だけを河原とするが、そうとは限らない。『万葉集』巻七の「弓削川原の埋れ木の」、巻十一の「大野川原の水隠り」なども水中を河原とし、例は多い。海原・渡原などというのと同じである。

【宣長の注釈】「うゑぐさ」は生えている草である。生えることを植というのだと契沖は述べ、巻十四の「植え竹の根元まで鳴り響いて」を引く。巻三の東の市の植木、巻十九の我が家の植木の橘、巻十八の鶯が植木の間を鳴き渡る例なども同じで、「うゑ」は師のいうように生え育つことだ。「うゑ」といえば人が植えた木草のように聞こえるが、それだけではない。ただ巻三の春日の里の植えた水葱や、巻十四の同じ言い回しは、人が植えた水葱と聞こえる。ここでの二句はたとえで、大河原の草のように「いさよふ」と続く。理由は後に詳しく述べる。たとえを挙げて「のように」という意味を後に含めるのは、古歌はもちろん、中古の歌にも普通にある。后たち・御子たちが当時河原の草を分けて歩いたということではない。取り違えないようにすべきだ。

【宣長の注釈】「うみがは」は海は、という意味だ。「いさよふ」の「さ」は清音で、『万葉集』などでも清音の仮名だけを使い、濁らせるのは誤りである。『万葉集』巻三には、雲のように心がためらう歌、山の端で出るのをためらう月や雲の歌、巻十四には、たなびく雲がためらうようだという例がある。「たゆたふ」に似て、前に進まず、ためらいとどまる意味だ。「たゆたふ」は巻二で猶豫不定、巻十一で猶豫とも書き、巻四には、もう会わないとためらったらしいという歌や、恋人の心がためらって会わないこの頃、という歌がある。巻十一にも天雲のようにためらう心ではないという歌、巻十二にも天雲のようにためらわず安らかな心があればという歌がある。雲について両語を使うので、意味が似ていることがわかる。ただし同じではない。「たゆたふ」は、雲ならあちらこちらへ漂い、方向が定まらず進まないこと、人の心ならこうしようか、ああしようかと思い迷って進まないことだ。「いさよふ」は、ただためらい止まって進まないだけで、方向が決まらない意味はない。だから月には「いさよふ」とだけいい、「たゆたふ」とはいわない。猶豫不定などの字も、たゆたふには使うが、いさよふには使わない。この違いを知るべきである。

【宣長の注釈】ここは、海の中を追おうとすると腰まで潮につかって進みにくく、海を行けずにためらい止まるという意味だ。師が前の「なづむ」と同じでとどこおる意味だとしたのは、少し違う。「なづむ」は物に妨げられて進めないこと、「いさよふ」は自らためらい、止まって進まないことだ。ここも潮のためではあるが、その障害を直接いうのではなく、それが理由で自らためらうことをいう。よく区別すべきだ。その姿を大河原の草にたとえるのは、海水中でためらい立つ姿が、川水の上に育つ草が水と一緒には流れず、波に揺られて立つのに似るからだ。契沖がこの意味を理解せず、大河原では草の茂みに妨げられ、海でも川でもためらって進めないと解くのは誤りである。本文は海の潮に入るとあるだけで河原を行くとはない。「うみがは」の賀が濁音なのも、川という意味でない証拠だ。その解釈では言葉の続きも自然でない。

【宣長の注釈】「又飛居其磯」は白智鳥のことだ。「又」は後の「歌曰」に掛かり、また歌ったという意味である。飛ぶに掛け、海へ行った鳥が飛び戻って磯へ止まったと解してはいけない。前に飛び行くといったのに、ここで再び飛ぶというのは、后や御子たちのことと区別して白智鳥の話と知らせるためだ。篠の刈り株や潮に入る記事は皆、后や御子たちのことなので、飛ぶといわなければ混同する。「其」はその辺りの、というほど。「磯」は歌の後で述べる。「居」は降りて止まること。「歌曰」は后たち・御子たちが歌ったのである。

【宣長の注釈】「はまつちどり」の「ど」は、ここでは清音の字を使うが、上巻の歌では杼と書き、次に引く神代巻の例も濁音の字で、『万葉集』巻十九にも智杼利と書くので、濁らせるべきだ。浜の千鳥のことである。「つ」は「の」に通じる助詞で、島つ鳥・野つ鳥・家つ鳥などと同じだ。神代巻の御歌にも「はまつちどりよ」とあり、磯千鳥・河千鳥などともいう。

【宣長の注釈】「はまよはゆかず」は浜からは行かないという意味だ。旧版本など複数の本は由が抜け、真福寺本は波、延佳本は用がない。こうしてそれぞれ一字ずつ少ないのを、今は諸本を合わせて定めた。真福寺本・延佳本も意味は通るが、波と用の両方がある方がよい。契沖の『厚顔抄』が今定めた形になっているのは、旧版本と延佳本を合わせて補ったのだろう。

【宣長の注釈】「いそづたふ」は磯を伝うこと。「伝う」は、着いた所からすぐ別の所へ移って行くことだ。巻二十五の九丁に詳述した。ここでは海の上で、岸に近い所を伝って行くのである。

【宣長の注釈】この御歌の初めに「浜つ千鳥」というのは、後で浜や磯をいうため、白智鳥を千鳥にたとえたのである。千鳥は主に浜や磯にいる鳥だからだ。したがって、この歌を根拠に白智鳥を千鳥だと理解するのは誤りだ。実際に千鳥だから歌ったのではなく、何の鳥であれ、ここでは千鳥にたとえたのだ。混同しないようにすべきである。次に浜と磯を対にするのは、どちらも水際の名ではあるが、詳しくは少し違うからだ。同じ水際でも、浜は陸側、磯は水側をいう。『万葉集』巻一の「水伝ふ磯の浦廻の」では、磯は水の所で、その陸側を浦廻という。巻六の沖つ島の荒磯の玉藻も、藻は水中に生える。巻七の遠近の磯中にある白玉も、水中だから中という。巻十二の磯廻から漕いで行く例も水中だ。巻十五の、玉の浦に舟を止めず、浦磯を見ながら浜辺から行くという歌は、はっきり浜と磯を区別する。舟を止めるなら陸へ上がるのだ。また陸の物を磯の何々、水中の物を浜の何々と互いに通わせていうこともあるが、水中でも陸に寄せていえば浜、陸でも水に寄せていえば磯という。衣通媛の海の浜藻が寄るという歌も、藻は水中の物だが陸に寄るので浜藻といい、『万葉集』の磯の室木などは、陸でも波が寄せる際にある意味で磯という。これらにならって理解すべきだ。本文の「磯に居る」も陸だが、歌の磯伝いという表現により、水の上を行く側からいい、時々その水際へ降りて休むことをいう。

【宣長の注釈】『字鏡』は濱を水涯として「みぎは・いそ・はま」、湄を水際として「はま・いそ」などとするので、「はま」と「いそ」は同じように見えるが、そうではない。濱・湄という漢字を両方に読めるだけで、言葉が同じとはいえない。たとえば歸を「ゆく」とも「かへる」とも読めても、二つの言葉が同じでないのと同じだ。あらゆる語もこのように考えるべきである。『和名抄』は『唐韻』を引いて濱は水際、和名はまとするだけで、磯は載せない。『玉篇』は磯を水中の石原とし、ほかの字書にも石が水を激することを磯というなどとある。「いそ」はこの字に当たるのか。しかし日本の古書は皆、別字の「礒」を使っている。「礒」には日本語の「いそ」の意味が見えなくても、古書に従うべきである。

【宣長の注釈】「浜からは行かず」は陸を行かず、「磯伝ふ」は海を行く意味だ。陸海といわず浜・磯というのは水際だからで、沖といわないのは、遠くへ去らず、岸に近い所を伝って行くためだ。前に引いた『万葉集』巻十二の歌から様子を理解すべきである。浜を飛んでくれれば追いつけもしように、浜を行かず磯伝いに飛ぶので、水中は追いにくく、ついに追いつけないことよと、悲しみ嘆いたのである。

【宣長の注釈】「四歌」は「ようた」と読み、四首ということだ。高津宮段の六歌、遠飛鳥宮段の三歌・二歌、朝倉宮段の四歌なども同じ。神代巻の両首の歌、皇極天皇紀の謡歌三首、『古今集』序のふたうた、『土佐日記』の一歌で言い尽くせないのでもう一つという例など、皆、何首を何歌という。今の人が一首・二首を「ひとくさ・ふたくさ」と呼ぶのは大きな誤りだ。「ひとつ・ふたつ」はあっても、その例も道理もない。『古今集』序の古注の、およそ六くさに分かれるという文を六首と誤解したのか。これは六種類のことである。

【宣長の注釈】「その御葬」は、師のいうように、この後、河内国の御陵で葬った時に歌ったことを、後からこう述べたのだろう。葬の字は多くの本で異体の𦵏を使い、次の箇所もほかの箇所も同じで、誤写ではなく古くからの書き方だろう。この歌は、能煩野にすでに葬った後のことだから、能煩野での葬儀に歌ったのでないのは明らかである。能煩野では御陵を造っただけで、葬る前に白鳥に変わって去ったともいえようが、『日本書紀』では能煩野に葬ったのが明らかで、『古事記』も次の河内陵の記事と比べれば、すでに葬ったことは確かである。

【宣長の注釈】ここでの葬は「はふり」と読むべきで、次の大御葬も同じだ。遺体を送り出す儀式をいい、「はふる」もその儀式をいう。同じ葬の字でも「その所に葬る」などは「かくしまつる」と読むことを、巻五の六十八丁に述べた。この言葉は、遠飛鳥宮の歌の「大君を、島に葬らば」、また『続日本紀』巻三十一の詔の、大臣の家の子らを見放さず滅ぼさず慈しもう、という「はふる」ともと同じ言葉で、放すことである。

【宣長の注釈】今、物を投げることを「ほうる」というのも「はふる」が音変化で崩れたものだ。また「あふる」とも通じる。『万葉集』巻十四の、国に満ちあふれて峰に立つ雲という「はふり」、巻十九の、天下の四方の民を見放さず憐れむという「あふさはず」もそうだ。今の本では夫を天に誤り、師は末の誤りとして「余さず」とするが、それは俗語である。先の『続日本紀』の詔と合わせ、放さずと知るべきだ。物語でも「はふらかす」「あふらかす」を通わせていう。葬は住み慣れた家から出し、野山へ送るので、放して遣る意味からいう。『万葉集』巻二の、秋山の黄葉が茂って迷う妻を求めたいが山道を知らないという歌、かぎろ火の燃える荒野に天雲隠れ、鳥のように朝立ち、入日のように隠れたという歌、巻三の、白い袂を別ち、親しんだ家を出て乳児の泣く声も置き、朝霧のようにほのかになって山代の相楽山の際を過ぎたという歌などは、皆葬を詠み、離れて行く様子だ。巻二の高市皇子の城上の殯宮での歌にも、言葉の違う百済の原から神葬りしておいでになるといい、巻十三にも、城上の道から石村を見ながら神葬りする、とある。『伊勢物語』にも、崇子という親王が亡くなり、その葬の夜、隣に住む男が葬を見ようとした、とある。

【宣長の注釈】葬儀に歌を歌ったことは、上巻で天若日子が死んだ時、昼八日、夜八夜、遊びをしたとあることでもわかる。巻十三の五十四丁を考え合わせたい。武烈天皇紀では、鮪臣が殺された時、影媛がその所へ行き「いそのかみ」で始まる歌を詠み、遺体を収め葬ったとある。孝徳天皇紀では、皇太子が造媛の死を聞くと、野中川原史満が「山川に」「梢ごとに」で始まる歌を献じ、皇太子が御琴を与えて歌わせた。斉明天皇紀では、皇孫建王が八歳で亡くなり、今城谷の上に殯宮を建てて収め、天皇は非常に悲しんで「今城なる」「射ゆ鹿猪を」「飛鳥川」の歌を作り、折々歌って泣いた。葬儀そのものではない例もあるが、同じ類である。中国の挽歌も葬儀で歌う歌だ。「其歌者」は「此歌者」といいそうな所だが、倭建命の御葬で歌ったものを指して「其」という。

【宣長の注釈】「天皇の大御葬」について。上代の葬儀が、天皇・皇子・その他の人々でどのようだったかは知りにくい。『喪葬令』に親王・諸王・諸臣の規定が少しあるが、令には中国の制度が多く、上代を知る根拠にしにくいうえ、詳しいことは見えない。天皇についてはまったく載らない。天武天皇の時に定めた葬式として伝わる文書は、ひどい偽書である。孝徳・天智天皇の世から多くのことを中国に倣ったので、その後の葬儀も中国のことが多く混ざり、さらに仏法によるようになって、上代の式はほぼ失われたようだ。しかし辺鄙な土地には、今も上代からのことが残るように見える例が多く、それも少しずつ変わるのは惜しい。物知りが、これこそ上代の式だといって行う葬式は、後世の中国風の考えで決めたものなので、かえって誤った行いが多いのである。

【宣長の注釈】代々の天皇の大御葬で、ことにこの歌を歌う理由はこうだろう。倭建命は仲哀天皇の父で、万事、天皇に準じて扱うのはもちろん、神の中でも尊い神として世に比べるもののない大功を立て、ついには白鳥となって飛び去るなど、すべて尋常でなかった。そのうえ壮年で、旅先で亡くなるなど、悲しさも尋常でない。これらの歌も格別に優れ、悲哀が非常に深い。そうしたさまざまな理由によるのだろう。

【古事記本文】こうして、その国から飛んで行き、河内国の志幾に止まった。そこでその地に御陵を造り、お鎮まりいただいた。その御陵を白鳥御陵と名づけた。しかし、そこからまた空に翔け上がり、飛んで行った。

【宣長の注釈】「その国から」は伊勢国からである。前に浜へ飛び、磯に止まったとある続きで、改めてその国から飛ぶというのは少し不自然にも見えるが、河内に止まったことをいう所なので、話を新しく起こして伊勢からというのも当然だろう。また『日本書紀』では河内の前に大和に止まったので、『古事記』でも大和の記事が脱落し、「その国」は大和かとも思える。しかし、もし大和の記事があれば、この前後に「また」「さらに」などの語があるはずなのにないので、『古事記』にはもともと大和の話がなかったのである。「飛翔」は仁徳天皇紀の歌の「隼は、天に上り、飛び翔り」と同じだ。

【宣長の注釈】「河内国の志幾」は『和名抄』の河内国志紀郡志紀郷である。『神名帳』には同郡の志貴県主神社、志紀長吉神社などがある。朝倉宮段の志幾の大県主の家もここだ。『古事記』は大和の地名を師木、河内の地名を志幾と書き分ける。この土地については巻二十一の四丁も考え合わせるべきだ。『日本書紀』では旧市村に止まったとあり、『和名抄』の河内国古市郡古市郷である。古市郡は志紀郡の南に続き、今の古市も志紀郡境から遠くないので、上代にはそこまで含めた大きな土地の名を志紀といったのだろう。旧市邑も志紀の中で、別の土地ではあるまい。熱田社の寛平の縁起にも、さらに河内国志紀郡へ飛び、旧市邑に止まったとある。旧市は一つの村の小地名で、以前からあったのか、少し後の名を『日本書紀』が使ったのかもしれない。古くは志紀郡で、後に隣郡に属した土地がほかにもあるので、旧市ももと志紀の中だったのは確かだ。

【宣長の注釈】「御陵を作る」。この御陵は今も古市郡古市にある。『河内志』は、陵の上に祠があり伊岐宮というとし、泉州大鳥神社の流記は、石津という名は、孝徳天皇が伊岐宮を造る時、讃岐から石を運んでこの港へ置いたことによるとする。伊岐宮は、御陵を造っても白鳥は生きた神霊としているので、それを祭る宮という意味で「生き宮」なのだろうか。「鎮坐」は、生きた白鳥なので葬ったのではないため、こういう。それなら、神社で御霊を祭るように、その地に鎮め祭ったのだろう。神社といわず御陵を造るというのは、この白鳥も能煩野陵に葬った遺体が変化したものだからだろう。鎮坐の意味は巻十一の四十九丁に詳述した。

【宣長の注釈】「白鳥御陵」の白鳥は、讃岐の地名では『和名抄』が「しろとり」とするが、『日本書紀』『万葉集』の読みにならい「しらとり」とした。『万葉集』巻九も今の本はしろとりとするが、『六帖』にはしらとあるので、古くはそう読んだのだろう。「御陵」はここでは「みさざき」と読むべきで、巻十七の八十四丁に理由を述べた。河内の古市の御陵は今も白鳥陵と呼ぶ。『日本書紀』には「使者に白鳥を追わせると、大和の琴弾原に止まったので、そこに陵を造った。さらに河内の旧市邑に止まり、そこにも陵を造った。当時の人はこの三陵を白鳥陵と呼んだ。しかしついに高く翔けて天に上ったので、衣冠だけを葬った。功名を記録しようとして武部を定めた。この年は天皇即位四十三年であった」とある。

【宣長の注釈】大和の琴弾原は、允恭天皇紀の琴引坂と同じ土地か。その御陵は今、葛上郡富田村にあり、今も白鳥御陵という。仲哀天皇紀で、陵の池に白鳥を飼い眺めて心を慰めたいと詔したのは、この大和の陵のことかもしれない。仁徳天皇紀六十年の話では、白鳥陵の守を労役に回した時、天皇が現場へ出向くと、陵守の目杵が突然白鹿となって走った。天皇は「この陵はもとから空なので、守をやめさせ労役へ回したが、この怪異は恐ろしい。陵守を動かすな」と命じ、土師連らにも陵守を授けた。これは河内の陵だろう。三陵と呼ぶのは、能煩野・琴弾原・旧市のすべてを白鳥陵とする意味だが、『古事記』は河内だけをそう呼ぶように聞こえ、能煩野まで含むとは聞こえない。伝承が違うのか。衣冠だけを葬ったとはどういうことか。白鳥に衣冠があるはずはないので、別に命の衣服を持って来て琴弾原と旧市の陵にも埋めたのだろうか。

【宣長の注釈】『古事記』に大和の琴弾原の記事がないのは、早い時期に伝え落としたのだろう。阿礼が誦み思い出していた頃に落としたか、それより前かはわからないが、記録する時にはすでになかったように聞こえる文の形なのは前に述べたとおりで、後の写し落としではない。「翔天」はここでは「あまがけりつつ」と読む。前に出た用法とは言葉の勢いが違うだろう。出雲国造神賀詞の「天翔り国翔りつつ」、『万葉集』巻五の「久方の天の道から天翔り」などと同じ。中古の物語では死者の霊がこの世に現れることを天翔けるといい、『うつほ物語』俊蔭巻の、天翔けってもどれほど甲斐なく見ているだろう、などがその例だ。
〔訳注:「翔天」の訓の末字は「且」「豆」のどちらか判読が確定せず、「あまがけりつつ」という読みは暫定。〕

【宣長の注釈】「飛び行く」。『日本書紀』の「天に上る」は、いつものように中国の書物らしく書いた表現だけで、実際に天上へ昇ったのではあるまい。『古事記』のように見るべきだ。『和名抄』に和泉国大鳥郡大鳥郷があり、『神名式』に同郡の大鳥神社があり、倭建命を祭るという。河内からさらに飛び去る時、そこにも少し止まった由来などがあったのか。同じ郡の多治速比売命神社は、弟橘比売命を祭るという。『源平盛衰記』では、日本武尊は白鶴となって西へ飛び、讃岐に至り白鳥明神となったとする。『和名抄』に讃岐国大内郡白鳥郷があり、白鳥は「しろとり」とある。今も白鳥村には白鳥大神宮があり、海辺の非常に大きい森だ。この森には大変大きい白鶴が昔から今まで住み、長さ七尺ほど、頭は人の頭ほどで、時折森の外へ出ても、大勢が集まるのに会って少しも怖がらないという。地元では倭建命がこの鶴に乗って来たと伝えると、讃岐の人がいう。また、もとは白鳥明神と呼んだが、寛文の頃、高松の領主が願い出て大神宮の号を賜り、社領二百石も公から与えられたという。

【古事記本文】およそ、この倭建命が国を平定して巡行した時には、久米直の祖、七拳脛が、いつも膳夫としてお供し、お仕えした。

【宣長の注釈】「凡」は「すべて」と読むべきで、白檮原宮段末(巻二十・六十三丁)に例と説明がある。「平国」は「くにむけに」と読み、国を従わせるために、という意味で、「むけ」は動詞である。この語は上巻の言趣(巻十三・十丁)で述べた。神代巻の葦原中国を平らげさせる、国を平らげる時についた広矛、また『万葉集』巻五の「韓国を、向け平らげ」などがその例だ。ここでは前の熊曾・蝦夷などの話をまとめていう。「久米直」は巻十五の八十一丁に出るが、その氏なのか。

【宣長の注釈】「七拳脛」は脛の長い人だったので付いた名だろう。『越後国風土記』にも、美麻紀天皇の世、越国に八掬脛という人がいて、脛が八掬も長く、非常に力強かったという類例がある。孝徳天皇紀の高田首根麻呂の別名は八掬脛、『新撰姓氏録』にも竹田連の祖、八束脛命がある。『日本書紀』の蝦夷平定に出発する所では、天皇が吉備武彦・大伴武日連に日本武尊に従わせ、七掬脛を膳夫としたとあり、姓は記さない。尾張国氷上社の祠官は久米直氏で、その系図に、大久米命の十世の孫、久米直七拳脛があり、祠官の祖とする。子に久米八甕があり、熱田社の寛平縁起で稲種公に従う久米八腹というのはこの人か。

【宣長の注釈】「恒」は「いつも」と読む。『万葉集』巻四の「いつ藻の花の、いつもいつも」(巻十にもある)の例があり、国の平定へ出るたび、いつでもということだ。「為膳夫」は「かしはでとして」と読み、膳夫で、という意味。倭建命がこの人を膳夫にした、あるいは膳夫になって、とするのとは少し違う。結局は一つに見えても、言葉の意味にはそれぞれ少し違いがある。膳夫は巻十四の五十五丁に出た。卑しい仕事のように聞こえるが、上代は御食事を重く大切にしたので、人を選んだ軽くない職だったろう。上巻の櫛八玉神、景行天皇が東の淡水門で白蛤を得た時の磐鹿六雁、応神天皇紀で吉備臣の祖御友別が兄弟子孫を膳夫として饗応したことなどを考えるべきだ。倭建命の平定には多くの役職があったはずなのに、特にこの職だけを挙げる点からも重さがわかる。「従」は「みとも」と読み、玉垣宮段に、遣わされた御伴の王たちとあるのと同じだ。

【古事記本文】倭建命は、伊玖米天皇の皇女、布多遅能伊理毘売命と結婚し、帯中津日子命をもうけた。また、あの海に入った弟橘比売命と結婚し、若建王をもうけた。近江の安国造の祖、意富多牟和気の娘の布多遅比売との間には稲依別王、吉備臣建日子の妹、大吉備建比売との間には建貝児王、山代の玖玖麻毛理比売との間には足鏡別王をもうけた。また、ある妻の子に息長田別王がいる。以上、倭建命の子は合わせて六人である。(布多遅能伊理毘売の八字は音を表す。)

【宣長の注釈】伊玖米天皇は師木の玉垣宮で天下を治めた垂仁天皇である。「女」はここでは「ひめみこ」と読む。布多遅能伊理毘売命は巻二十四の九丁に出て、倭建命の后となったとある。叔母・伯母との婚姻の例では、母方なら鵜葺草葺不合命と玉依毘売命、綏靖天皇と五十鈴依媛などがある。後者は『日本書紀』の伝承で、『古事記』は異なる。父方では、雄略天皇と波多毘能若郎女(別名若日下部命)、舒明天皇と田眼皇女などがあり、後者は『日本書紀』の説である。平安京になってからも、阿保親王と伊登内親王などがそうだ。

【宣長の注釈】帯中津日子命の名の「帯」は足りる意味。「中津日子」というのは、ここで最初に挙げても長子ではなく、第二子だったための名だ。『日本書紀』では、日本武尊が両道入姫皇女を妃として、稲依別王、次に足仲彦天皇、布忍入姫命、稚武王をもうけたとあり、伝承が違う。子の順序は後の稲依別王の所で述べる。仲哀天皇紀にも、足仲彦天皇は日本武尊の第二子で、母の皇后両道入姫命は活目入彦五十狭茅天皇の皇女とある。

【宣長の注釈】「その海に入った弟橘比売命」は巻二十七の六十一丁に見える。「其」は前の記事を指し「かの」と読む。師は「其入海」の三字を後人の注として削るべきだとしたが、そうではない。この種の文は多い。この比売命は前でも后とあり、ここでも比売の下に命を加えるなど、普通の妻の一人ではなかったことは、巻二十七の三十九丁に述べたとおりだ。若建王の名には特別な意味はない。『日本書紀』は、この子を先に引いたように両道入姫命の子とし、別に、穂積氏忍山宿禰の娘弟橘媛を妃として稚武彦王をもうけたとする。伝承が異なる。孝霊天皇の子にも稚武彦命があるので、それと混同したのだろう。

【宣長の注釈】近江の安国造は、伊邪河宮段に安直があり、巻二十二の七十一丁で述べた。意富多牟和気の名の「たむ」は地名か。大和に田身山という例がある。伊邪河宮段に大多牟坂王があり、同じ人かはわからない。その所(巻二十二・七十五丁)に『国造本紀』を引いたので考え合わせたい。布多遅比売の名の意味も詳しくわからず、地名だろうか。

【宣長の注釈】稲依別王の「稲」は字の意味どおりだろう。「依」は「宜」で、理由は前に述べた。『旧事紀』は別に稲入別命も挙げるが、別人ではなく、名の伝えが少し違うだけで同じ王だろう。『大神宮儀式帳』にも大歳神の子、稲依比女命があり、同じ名の例だ。『日本書紀』ではこの子も両道入姫命の子で、長子とするのは伝承の違いである。母の名が似ていたので混同したのだろう。実際には別人なのを『日本書紀』が一人にしたのか、一人なのを『古事記』が二人に分けたのか、どちらが正しいかは決めにくい。ただし母が誰であれ、帯中津日子命の「中津日子」という名から考えると、稲依別王が必ず長子だったろう。『古事記』の順序は生まれ順でなく、母の尊卑によるのである。

【宣長の注釈】吉備臣建日子は、前に吉備臣らの祖の御鉏友耳建日子とあった人で、巻二十七の三十九丁で述べた。大吉備建比売の「建」は兄の名による。建貝児王の貝を諸本が皆、見とするのは誤りで、ここで改めた。『日本書紀』と比べると貝が明らかで、他田宮段の静貝王・貝鮹王・小貝王にも同じ誤りがある。名は卵や蚕などに由来するのか。『日本書紀』では吉備武彦の娘、吉備穴戸武媛を妃として、武殻王と十城別王を生んだとある。殻を今の本で鼓とするのは誤りで、すぐ後に武卵王とも書くので殻と明らかだ。『旧事紀』が別に武養蚕命を挙げるのも、別人でなく名の文字の違いだ。殻の字をかひこに使うのは、字書の卵甲、卵の殻の意味からで、『文選』潘岳の西征賦にも積み重ねた卵の殻の危うさという例がある。数・穀などもかひこと読むが、やはり殻の字だろう。

【宣長の注釈】玖玖麻毛理比売の「くくま」は地名か。『和名抄』には上総国市原郡に菓麻と書いてくくまという郷の例があり、仲哀天皇紀にも来熊田造の祖が出る。『和名抄』の山城国久世郡栗隈郷があり、読みは原刊で「久里久米」とする、仁徳・推古天皇紀には山背の栗隈県とある。これを「り」を省いて縮めたのか。詳しくはわからない。「もり」も守か森か明らかでない。この女性は、姓も父の名も伝わらなかったのだろうか。

【宣長の注釈】足鏡別王の足は「あし」と読むべきで、『日本書紀』に蘆と書くためだ。名の意味はまだわからない。『日本書紀』でこの子がないのは伝承から抜けたのである。仲哀天皇紀元年十一月に、越国が白鳥四羽を献じ、運ぶ使いが菟道川辺で宿ると、蘆髪蒲見別王が白鳥を見て奪った。天皇は先王に無礼だと怒り、兵を遣わして殺した。蒲見別王は天皇の異母弟だ、とあるのはこの王で、名の伝えが少し違うだけだからだ。異母弟としながら兄弟一覧に挙げないのは前後が合わないので、脱落という。『旧事紀』は倭建命の子の中に葦敢竈見別命を挙げる。敢はカムの音なのでカミの仮名にしたのも当然だろうし、髪の誤字かもしれない。菟道川辺で宿る時というのは、この王の母が山代の人なので、母の所にいたのだろう。

【宣長の注釈】「又一妻」は師の「またあるみめ」という読みがよい。この段の初めの、また妾の子、というのと同じだ。息長田別王の息長は近江の地名で、巻二十二の六十一丁に出た。田の意味はまだわからない。息長の、と「の」を添えても読めるが、息長帯比売命など、のを添えない例が多いので、それにならう。『日本書紀』にはこの子がない。「合わせて六人」は、『日本書紀』では異なって七人だ。こちらにない布忍入姫命・十城別王・稚武彦王があり、息長田別王がなく、足鏡別王も景行天皇紀には出ないからで、仲哀天皇紀の蒲見別王を入れれば八人となる。『旧事紀』は十五人を挙げるが、武卵王と武養蚕命、五十日彦王と伊賀彦王は、それぞれ一人を二人にした誤りだろう。

【古事記本文】帯中津日子命は天下を治めた。稲依別王は犬上君・建部君らの祖。建貝児王は讃岐の綾君、伊勢の別、登袁の別、麻佐首、官首の別らの祖。足鏡別王は鎌倉の別、小津石代の別、漁田の別の祖である。

【宣長の注釈】犬上君の犬上は『和名抄』の近江国犬上郡で、「いぬかみ」と読む。『万葉集』巻十一に、鳥籠山にある不知哉川の歌がある。この王の母は近江の人なので、この姓にも縁がある。『日本書紀』でも、兄の稲依別王は犬上君・武部君の二族の始祖とする。氏人は、神功皇后紀に祖の倉見別、推古天皇紀に御田鍬、孝徳天皇紀に犬上健部君(健部は名か)、斉明天皇紀に白麻呂などが見える。天武天皇紀十三年十一月には犬上君に朝臣を賜り、『新撰姓氏録』左京皇別は、犬上朝臣は景行天皇の皇子、日本武尊から出たとする。

【宣長の注釈】建部とは何か。『日本書紀』は、日本武尊が白鳥となった後、その功名を記そうとして武部を定めたとする。『出雲風土記』では、出雲郡健部郷の名の由来を、纒向の日代宮の天皇が、わが子倭健命の名を忘れまいと健部を定め、その時、神門臣古禰も健部に定めた。健部臣らが昔から今まで住むので健部という、とする。古禰は健部に定められた人々の一人で、この人だけでなく、諸国に多く定められたのである。「建」は倭建命の名を取った呼称。このことは玉垣宮段の子代(巻二十四・二十五丁)に例を挙げ詳述した。稲依別王は子なので、その子孫が建部の人々を率いてつかさどり、建部君という姓を負ったのである。

【宣長の注釈】諸国に建部という土地が多いのは、この建部の集団が住んだことから付いた名で、引いた出雲の例から推してわかる。『和名抄』に伊勢国安濃郡の建部があり、たけむべとするのは、たけるべのるを音変化でむとしたのだ。『日本書紀』にもたけるべの仮名があるので、すべてそう読むべきにも見えるが、倭建の名もたけと読んで来たので、一般にはたけべと読むべきだ。同書には美濃国多芸郡と石津郡の建部、出雲国出雲郡の建部、美作国真島郡と備前国津高郡の健部があり、『神名帳』に近江国栗太郡の建部神社もある。ほかにもあるだろう。建部君氏も各所にあったらしい。『旧事紀』は稚武王を近江建部君の祖、武田王を尾張国丹羽建部君の祖とし、巻五には阿努建部君もあり、伊勢の氏だろう。その中でここはどの国の氏か決めにくい。『新撰姓氏録』右京皇別では建部公を犬上朝臣と同祖、日本武尊の子孫とする。『続日本紀』巻十七に建部公豊足、巻二十七に近江国志賀郡の建部公伊賀麻呂に朝臣を賜った記事があり、『続日本後紀』巻十七には肥後国飽田郡の建部公弟益ら男女五人に長統朝臣を賜り左京三条に籍を移したとあるが、どの族かは不明。『続日本紀』巻二十五で健部公人上ら十五人に朝臣を賜るのは、垂仁天皇の子の子孫で別系統である。理由は同書巻三十八にあり、巻二十四の二十二丁にも引いた。

【宣長の注釈】讃岐の綾君の綾は『和名抄』の讃岐国阿野郡で、今は綾北条・綾南条の二郡に分かれる。姓は『日本書紀』でも武卵王を讃岐綾君の始祖とし、天武天皇紀十三年十一月には朝臣を賜ったとある。『続日本紀』巻四十では、阿野郡の綾公菅麻呂らが「祖先は庚午年の後、己亥年になって朝臣を賜り、和銅七年以前の三回の戸籍にも朝臣とあるのに、養老五年の造籍で遠い庚午年籍を根拠に削られた。これほどの憂いはない。三回の戸籍と旧位記に基づいて朝臣を賜りたい」と申し出て許された。『続日本後紀』巻十九には、阿野郡の綾公姑継・綾公武主らが本籍を改め、左京六条三坊へ移ったとある。『日本霊異記』にも香川郡坂田里の富人夫婦がともに綾君だという例がある。しかし『新撰姓氏録』には見えない。

【宣長の注釈】讃岐国鵜足郡に讃留霊王という祠がある。『讃留霊記』という古書によれば、景行天皇二十二年、南海の大きな悪魚が船の往来を悩ませたので、倭建命の子が下って討ち平らげ、そのまま留まって国主となったため讃留霊王といい、綾氏・和気氏らの祖だという。景行天皇の子、神櫛王とも大碓命とも伝える。讃岐国主の始まりを倭建命の子、武卵王とする古書があるので、この王かもしれない。近頃の讃岐の記事には、今も国に異変が起きようとすると祠が必ず鳴り動くという。私の考えでは、讃岐国造の始祖なら神櫛王だろう。しかし倭建命の子、また綾君・和気君らの祖というのは武卵王に聞こえる。「さるれい」はどんな由来の呼称か。讃留霊という字は後人の当て字だろう。

【宣長の注釈】「伊勢の別」は、もとは伊予の別君だったのを、豫を勢に誤り、君を落としたのだろう。後の誤写には見えず、伝承の途中か、阿礼が誦んだ頃の誤りか。いずれにせよ編纂前からの誤りに見える。『和名抄』の伊予国には和気郡(わけ)があり、次に引く『日本書紀』の十城別王の記事も考え合わせるとわかる。『新撰姓氏録』右京皇別は別公を建部公と同氏とし、建部公は日本武尊の子孫とする。和泉国皇別の和気公も犬上朝臣と同祖、倭建尊の子孫とする。ここでの別は地名なので、後には必ず君があるべきで、何々の別だけなら、別が姓の称号になってしまう。

【宣長の注釈】「登袁の別」は、袁を諸本が赤に誤るので、真福寺本・延佳本に従った。同様の誤りはほかにもある。この地名はまだほかの資料に見つからない。『日本書紀』では武卵王の同母弟に十城別王がいて伊予別君の始祖とする。『古事記』を正しいとすれば、武卵王が登袁の別と伊予の別君の祖だったのを、『日本書紀』が登袁の別を別の子の名、十城別王と誤解し、伊予別君をその子孫にしたのだ。この場合、登袁は必ず地名であり、さらに調べるべきだ。逆に『日本書紀』を正しいとすれば、『古事記』が十城別王を登袁の別という姓と誤り、伊予別君も建貝児王の子孫にしたことになる。この場合、登袁は子の名なので地名とは限らない。どちらが正しいかは決めにくいが、十と登袁がもとは同じものと思われる。以前、袁は誤写で、陸奥の登米郡、備後の斗意郷、筑前の登志郷かと考えたのは誤りである。

【宣長の注釈】「麻佐首」の麻を真福寺本は鹿とするが、佐は仮名なので上も仮名でなければどうか。鹿なら佐が誤りだろうが、思い当たることがないので元のままにする。地名も姓も考えはない。「官首の別」の官首は二字とも明らかに誤写だ。孝徳天皇紀に宮首阿弥陀があるが、首は称号である。『続日本後紀』巻四の宮人朝臣の人かとも思える。首を必登とする例もあるためだが、そうではあるまい。常陸国鹿島郡の宮前郷や、『続日本紀』巻四十の居住地によって宮原宿禰を賜る例も考えられるが、いずれも違うだろう。「宮道」のはずで、根拠は『旧事紀』が稚武王を近江建部君と宮道君の祖とすることだ。しかし『古事記』と照らせば、稚武王は例の兄弟間の伝承の混同で、宮道君の祖は建貝児王だろう。景行天皇の子に宮道別皇子が『日本書紀』に見えるのも、十城別王と同様に、宮道の別を取り違えたのか。土地は『和名抄』の三河国宝飯郡宮道郷(みやち)で、宮道山もここだ。『新撰姓氏録』にはないが、『続日本後紀』巻四には宮道宿禰吉備麻呂・同姓吉備継らに朝臣を賜ったとある。初め別の称号だったのが君となり、宿禰になったのはそれ以前だろう。『日本三代実録』巻三十には宮道朝臣弥益があり、醍醐天皇の外祖母の父である。『新国史』延喜十一年には、山科の神二座について、宮道氏の内蔵少允宮道良連らの申請による氏神の記述(一部判読保留)があり、醍醐天皇の外祖母宮道氏の祖とする。『神名式』の山城国宇治郡山科神社二座も、ともに大社で月次・新嘗に預かるとし、この社は勧修寺村にあり宮道大明神という。建貝児王などを祭るのか。

【宣長の注釈】足鏡別王の前には、例からすると「次」が抜けたのだろう。「鎌倉の別」は『和名抄』の相模国鎌倉郡鎌倉か。姓については考えがない。『旧事紀』では葦敢竈見別命を籠口君らの祖とする。「小津石代の別」のように地名を二つ重ねる姓は、国名を添える場合以外、『古事記』に例がないので、小津の後に君が抜けたのか、石が君の誤りで代の前に何か抜けたのか。いずれにせよ小津君という一姓があるはずだ。次に引く『旧事紀』に尾津君があるからだ。小津という地名は各地にあるが、ここは『神名帳』の近江国野洲郡小津神社の土地か。詳しくはわからず、姓もほかに考えがない。石代は、万葉集巻一・二・七に歌のある紀伊国日高郡の磐代か。これも土地も姓も不明だ。もし石が君の誤りで代の前に脱字があるのなら、なおさら考える手掛かりがない。

【宣長の注釈】「漁田の別」の漁は明らかに誤写だが、どの字の誤りか手掛かりがない。ただ『旧事紀』は稚武彦命を尾津君・揮田君・武部君の祖とする。稚武彦命は例の兄弟間の混同として、揮田なのか。尾津君も関連するからだ。もしそうなら「ふきた」である。皇極天皇紀に揮鈎、『古事記』神代巻で後ろ手に振ることを布伎とした所を『日本書紀』は背揮と書く。ふりを古語ではふきという。『万葉集』巻九にも振田向宿禰がある。『新撰姓氏録』の吹田連はふきたではなく、吹が次の誤りで、すぎたを音変化ですいたという。『日本三代実録』巻六の次田連がそれだ。ただ、この考えも確かではない。ふきなら吹や振と書くはずで、揮はこの本の表記例に合わない気がするが、その誤字とも見えない。ほかに考えがなく、漁田では読みようがないので、ひとまずふきたと読んでおく。旧版本のすがたは、漁のすなどりという読みから勝手にすなだとした本の、なをがに誤ったのだろう。延佳本も読み方がわからずそのまま付けたので、論ずるほどでもない。なおよく考えるべきである。

【宣長の注釈】挙げたほかにも倭建命の子孫の氏として、『新撰姓氏録』に県主は和気公と同祖で日本武尊の子孫、また聟木は倭建尊の三世の孫、大荒田命の子孫などとある。聟木の木を本とする本もある。

【古事記本文】次に、息長田別王の子は杙俣長日子王。この王の子は、飯野真黒比売命、息長真若中比売、弟比売の三人である。

【宣長の注釈】杙俣長日子王の杙俣は地名で、『和名抄』の摂津国住吉郡杭全郷である。くまたとあるのは、くの下にひが抜けたのだろう。初めからくなら杭と書く理由がない。だから『和名抄』によって『古事記』の杙までくと読むのは、かえって誤りだ。この本でくに杙を当てる例はなく、後では咋とも書く。飯野真黒比売命の飯野は、『和名抄』の伊勢国飯野郡か、『神名帳』の同国河曲郡飯野神社などの土地か。女性名の黒については訶具漏比売の所(巻二十六・十二丁)で述べた。この三姉妹の中で一人だけ命を付けるのはなぜか。次に出る時は付かない。

【宣長の注釈】息長真若中比売の中は、例から「なかつ」と読む。津は書いても省いてもよい。第二の娘なので中つ比売という。応神天皇の妃となり、その段にも出るので巻三十二で述べる。弟比売の名には特別な意味はない。若沼毛二俣王の妻で、明宮段末にも出るので巻三十四で述べる。三人を諸本は二人とするが誤写だろう。延佳本が三人とするのは改めたらしく、ここでも従った。

【古事記本文】前に挙げた若建王は飯野真黒比売と結婚し、須売伊呂大中日子王をもうけた。須売伊呂の四字は音を表す。この王は近江の柴野入杵の娘、柴野比売と結婚し、迦具漏比売命をもうけた。そこで大帯日子天皇は迦具漏比売命と結婚し、大江王をもうけた。大江王は異母妹の銀王と結婚し、大名方王と大中比売命の二人をもうけた。この大中比売命が、香坂王と忍熊王の母である。

【宣長の注釈】「上云」という例は軽島宮段の末にあり、伊邪河宮段には上所謂ともある。息長田別王までは先に挙げた順のまま述べたが、若建王をここに置くのは順序が違うため、新しく話を起こしたのである。そもそも先の例は子孫の姓を挙げるものなのに、ここは違うからだ。ただ息長田別王も姓を挙げず同じ例なのに先に置いたのは、初めの順序のままで例に反しないためだ。しかし順序を正すなら、息長田別王以下は若建王以下の後へ置くべきである。とはいえ飯野真黒比売についても、息長田別王のことを先にいわなければどうだろうか。

【宣長の注釈】飯野真黒比売は若建王の甥の子である。須売伊呂大中日子王は巻二十六の十二丁にも出た。柴野入杵の柴を諸本が此等の二字に誤るのは、等を略してホと書くことから始まった。真福寺本と延佳本に従い、娘の名も同じだ。柴野は近江の地名だろう。今もこの名がないか調べるべきだ。入は「いろ」と通じ、理由は巻二十一の十丁に述べた。杵は君だろう。崇神天皇の子に大入杵命という例がある。柴野比売の名の意味も同じ。迦具漏比売命は巻二十六の十二丁に出た。大帯日子天皇が結婚したという記事は伝承の混乱で、同巻十三丁に論じたので、考え合わせるべきだ。

【宣長の注釈】大江王も前に出る。江を前では枝と書く。日子人の大兄王を取り違えたことも前に述べた。「庶妹」は「ままいも」と読むべきで、あらめいろとなどは誤りだ。『字鏡』に町をまま妹とするが、町の字は理解できない。庶をままと読むべきことは白檮原宮の庶兄の所(巻二十・三十九丁)で述べた。嫡出かどうかではなく、ただ異母という意味である。

【宣長の注釈】銀王という名は、景行天皇の子として『古事記』にも『日本書紀』にも見えない。この家系にはいろいろ混同があるらしく、大江王自体も疑わしいので、無理には明らかにできない。大江王は日子人の大兄王だが、その人が『日本書紀』の仲哀天皇紀には出て景行天皇紀に出ないのは、兄の五百木之入彦命と混同して脱落したのだろうと前に述べた。それなら、大江王の娘の大中比売も、五百木之入彦命の孫の中津比売と混同し、銀王はもとは五百木之入彦命の娘、品陀真若王の異母妹なのかもしれない。また名の形が耳慣れないのは、沼の草書を誤写したのか。そうなら「ぬづ」と読む。大江王の異母姉妹に前に出た沼代郎女があり、「ぬのしろ」と読んだが「ぬづ」かもしれない。同巻十丁で述べたので考え合わせたい。しかしいずれも決めにくく、ひとまず銀の字どおり「しろかね」と読んでおく。

【宣長の注釈】大名方王の名方は長田と同じで、允恭天皇の娘の長田大郎女を『日本書紀』が名形大娘とするのもその例だ。地名で、摂津国八田部郡の長田か。この名はほかの国にもある。大中比売命の中の下に延佳本は津を加えるが、訶志比宮段にあるため勝手に補ったのだろう。中津という名の津を省くのは普通なので、なくても問題ない。諸本にないのに従う。次に出る同じ名は、延佳本では比売が抜けている。『日本書紀』は叔父の彦人大兄の娘とするが、それが正しい伝承で、理由は巻二十六の十三・十四丁に述べた。仲哀天皇の后となり、その段に出る。

【宣長の注釈】香坂王・忍熊王については訶志比宮段、巻三十で述べる。「御祖」は古語で母をいうことを巻十の十六丁に述べた。ここは帯中日子天皇の后となったといいそうな所なのに、子の名を挙げて母というのは、この二人の王の名が高いためだろう。その王の母といえば、仲哀天皇の后であることは、いわなくても自然に明らかになる。

【古事記本文】この大帯日子天皇は、百三十七歳であった。御陵は山辺の道の上にある。

【宣長の注釈】百三十七歳を『日本書紀』は、六十年冬十一月、乙酉を一日とする辛卯の日、高穴穂宮で崩御し百六歳だったとする。高穴穂宮で亡くなったというのは、五十八年春二月に近江へ行き、志賀に三年いて、その宮を高穴穂宮という記事による。しかし父天皇の三十七年に二十一歳で皇太子となったとする記事から数えれば、百四十三歳のはずで、百六歳とは大きく違う。死去時に百六歳なら、皇太子となった頃は生まれる前ではないか。ある書の百十三歳は、二十一歳で立太子した年から数えて百四十三としたものから、後に四が抜けたのだろう。

【宣長の注釈】山辺の道上の土地については、崇神天皇の山辺道の勾の岡上陵の所(巻二十三・九十六~九十八丁)に述べた。成務天皇紀二年冬十一月、癸酉を一日とする壬午の日、大足彦天皇を大和の山辺道上陵に葬ったとある。『諸陵式』は、纒向日代宮の景行天皇の山辺道上陵は大和国城上郡にあり、東西・南北とも二町、陵戸一戸とする。『大和志』は柳本村の東にあり御陵と呼び、陵のほとりに六つの塚があるとする。別説では、山辺郡上総村の東にあり、地元で王の墓山といい、山辺・城上両郡の境だという。『大和志』はそれを荒墳の中に収め、柳本村東の陵とは別にする。どちらがこの陵か詳しくわからない。勾の岡上陵の所にも述べたので考え合わせるべきだ。

志賀宮巻

【古事記本文】若帯日子天皇は、近江の志賀の高穴穂宮で天下を治めた。この天皇は、穂積臣らの祖、建忍山垂根の娘、弟財郎女と結婚し、和訶奴気王一人をもうけた。

【宣長の注釈】この天皇の後世の中国風の諡号を成務天皇という。志賀は『和名抄』の近江国滋賀郡で、しがと読む。今も志賀という土地があり、郡は南の勢多川から北の比良山の北まで延びる。古くから広い範囲の名だったろう。『万葉集』巻一の「さざなみの志賀の辛崎」「さざなみの志賀の大わだ」、巻二の近江の志賀の山寺、志賀の細波、巻三の志賀の大津、巻七のさざなみの志賀津の海人など、例は多く、後世の歌にも多い。後世の歌で志賀の故郷と詠むのは、天智天皇の大津宮の跡だ。巻一の長歌と反歌でわかる。高穴穂宮跡と思うのは誤りである。

【宣長の注釈】高穴穂宮は、景行天皇紀に、五十八年春二月に近江へ行き志賀に三年いてこれを高穴穂宮といい、六十年冬十一月にここで崩御したとある。成務天皇紀には遷都の記事はない。景行天皇が出向いてこの宮で亡くなった後、お供していた成務天皇もそのままこの宮にいたのである。土地は『神明鏡』が今の志賀寺とし、『新撰姓氏録』に志賀穴太村主という姓もある。『朝野群載』巻十一にも穴太駅が見える。延喜二十年三月二十二日の右弁官から近江国への文書で、渤海の客へ冬の衣服を与える使者をその日に越前へ派遣するに当たり、右衛門府生正六位上の国造恒世らを穴太駅家へ差し遣わすという内容だ。今も穴太村があり、京から山中越で近江坂本へ越える途中だ。高は土地が高い意味か、宮の名を美しく呼んだのかもしれない。石上広高宮などの類がある。

【宣長の注釈】穂積臣は巻二十二の二丁に出た。建忍山垂根の忍山は地名か。『神名帳』に伊勢国鈴鹿郡の忍山神社があり、同国朝明郡には穂積神社もある。垂根は大筒木垂根王の所(同巻五十二丁)で述べた。倭建命の后、弟橘比売命の父を『日本書紀』が穂積氏忍山宿禰とするのは同じ人か別人か、紛らわしい。娘の弟財も弟橘と名が似て、姉妹かどうかも紛らわしい。後に述べる。継体天皇紀にも穂積臣押山という人がいて、朝鮮の書では委意斯移麻岐弥と呼ぶとある。

【宣長の注釈】弟財郎女の弟は弟橘比売の弟と同じ(巻二十七・六十四丁)。財は美しく称えた名で、『万葉集』巻十六で女性を「宝の子ら」と褒めるのと同じだ。郎女は巻二十一の十丁、巻二十七の七十丁に述べた。仁賢天皇の子にも財郎女、反正・敏達天皇の子にも財王があり、宝王とも書く。皇極天皇の名も宝皇女という。和訶奴気王の奴は主か。出雲国造神賀詞に、若い水のようにますます若々しくお若くなるという言葉もあるので、それに由来するのか。気は食か。応神天皇の子にも若沼気二俣王がある。神武天皇の若御毛沼命も少し似る。

【宣長の注釈】『日本書紀』では、この天皇には子がいない。考えると、母方の祖父や母の名が似るので、倭建命の子の若建王と混同し、伝承に違いができたのかもしれない。『日本書紀』で若建王の外祖父とする穂積氏忍山宿禰は、この王の外祖父と姓も名も同じで、母の名も似るうえ、王の名もわかたけ・わかぬけで、たとぬだけが違う。『日本書紀』によれば、和訶奴気王は若建王のことで倭建命の子なのを、『古事記』が別人として成務天皇の子にしたことになる。『古事記』によれば、弟橘比売の父は忍山宿禰ではなかったのに、成務天皇が忍山垂根の娘弟財郎女と結婚し和訶奴気王をもうけた話の、母子の名が弟橘・若建に似るため混同し、『日本書紀』が忍山を弟橘比売の父とし、和訶奴気王を若建王と同一視して、成務天皇に子がないとしたことになる。どちらが正しいかは決めにくい。

【宣長の注釈】さらに『日本書紀』に従うなら、成務天皇に子がいればその子が位を継ぐはずなのに、倭建命の子が継いだので、子がいない伝承が正しいともいえよう。しかし倭建命は景行天皇が格別に愛した子で、並外れた威徳があり、父の詔にも、この天下はお前の天下、この位はお前の位とある。たとえ成務天皇に子がいても、倭建命の子が継ぐべき理由があったのだろう。また和訶奴気王が早く亡くなったかもしれない。だから倭建命の子が継いだことだけで、成務天皇に子がなかったとは決められない。

【古事記本文】そこで、建内宿禰を大臣とし、大きな国・小さな国の国造を定め、諸国の境界や、大きな県・小さな県の県主も定めた。

【宣長の注釈】建内宿禰は巻二十二の十五丁に出た。「大臣」は「おほおみ」と読むべきで、古代の大臣はみなそう読む。『和名抄』で大臣を「おほいまちぎみ」、太政大臣を「おほまつりごとのおほまつぎみ」とするのは後の制度だ。「まうちぎみ」は音変化で崩れた呼び方で、「まつぎみ」は、侍従の読みも「おもとひとまちぎみ」とあることから、「まへつぎみ」の途中を縮めたものだ。「まうちぎみ」を『北山抄』『江次第』などで「末不千君」とするのは、文字の音を取り違えて「不(ふ)」の仮名を書いている。これはもともと音便によるのだから、「宇(う)」と書くべきである。「まへつぎみ」は景行天皇紀の歌にあり、前つ君、天皇の前に控える公という意味で、臣たちのことだ。『万葉集』巻一の「物部の大臣」は「おほまへつぎみ」と読むべきで、和銅元年の天皇の大御歌なので、当時すでにそう呼んだのだ。後世の「おとど」は殿舎の呼び方と同じで、大殿がなまった語。物語の「おほいどの」も大殿である。

【宣長の注釈】『日本書紀』には三年春正月、武内宿禰を大臣とし、天皇と同じ日に生まれたため特別に寵愛されたとある。大臣という号は、師もいうように後世の官職名ではなく、臣に大という美称を加えて尊んだものだ。中国の大臣という語を取ったとするのは、古代を知らない者の勝手な説である。連姓の人へ大連の号を賜るのと同じで、大連も官名でなく、連姓の人に限る。このことは玉穂宮の荒甲大連の所(巻四十四・十六丁)に詳述する。姓の称号に大を添える例は、伊邪河宮段・朝倉宮段の大県主、『続日本紀』の大国造・大忌寸・大宿禰などもある。だから古代の大臣は、どの御世でも臣姓の人だけだ。建内宿禰の姓氏はまだ記されないが、子らの子孫が皆臣姓なので、本人も臣と呼んだはずだ。正式に名乗る姓の称号でなくても、そう呼ぶのは当然のことである。

【宣長の注釈】この号はここから始まり、その後『日本書紀』では、雄略天皇紀の初めに平群臣真鳥を大臣、大伴連室屋・物部連目を大連とする。両者を並べて置いたことが資料に見える初めで、以後、ともに政治を行った。上下の序列は固定していなかったようで、大連を先にいう所もある。その時、その人によったのか。清寧天皇元年には平群真鳥、継体天皇元年には許勢男人が引き続き大臣となり、宣化天皇元年に蘇我稲目宿禰、欽明天皇紀初めにも稲目が引き続き大臣。敏達天皇元年に蘇我馬子宿禰がなり、用明・崇峻天皇紀初めにも見える。この後は大連が見えない。舒明天皇紀初めに蘇我蝦夷臣が大臣、皇極天皇元年も同じ。孝徳天皇紀初めに阿倍内麻呂臣を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂臣を右大臣とした。阿倍内麻呂は倉橋麻呂ともいう。これが左右の大臣を置いた初めで、いつからともなく官職らしくなっていた大臣の号が、この時から完全に官職名となった。

【宣長の注釈】ただし、その二人もなお臣姓であった。それまで別の称号の人が大臣となった例はない。『旧事紀』が、尾張連の祖建諸隅命は孝昭天皇の世に大臣となり、その氏人も後に大臣となった、物部連の祖出石心大臣命も同じ世に大臣、同氏の鬱色雄命も孝元天皇の世に大臣だったとするのは、古代を知らない者の勝手な偽りだ。遠飛鳥宮段の物部氏、大前小前宿禰大臣も、大使主を取り違えたもので、大臣でないことはそこで詳述する。皇極天皇までの大臣は皆、建内宿禰の子孫で、ほかの氏人が見えず、子孫に限定したようにも見える。しかし大連が一氏に限らなかったことから、大臣もそうではなく、ほかの氏人が見えないのは偶然だろう。建内宿禰は格別に長寿の忠臣で、幾代も政治を行った余威により、子孫の各氏が強い勢力を持ち、大臣となる人が自然にその中にいたのだろう。蘇我氏が特に代を重ねたのも当時の自然な勢いだ。孝徳天皇の時に阿倍氏がなったのも、古い例に反しない。

【宣長の注釈】同じ孝徳天皇の大化五年夏四月、巨勢徳陀古臣を左大臣、大伴長徳連を右大臣とした。この長徳は臣姓でなく連姓なのに大臣となったので、古い意味には合わない。それ以前にも中臣鎌子連を内臣としており、大臣ではないが連姓の人にその号を賜り、この人はついに天智天皇八年に内大臣となった。天智天皇十年春正月には、大友皇子を太政大臣、蘇我赤兄臣を左大臣、中臣金連を右大臣とし、これが太政大臣の始まりである。皇子を大臣としたのは王と臣の区別がなく、古い意味はますます失われた。ただし後には再び、親王が大臣になることはやんだ。古代の王と臣の違いは巻十八の三十六・三十七丁に述べたとおりである。

【宣長の注釈】官職は神代からあり、宮の首・膳夫・斎主などは皆、官職である。五部の祖神は今いう文官、大伴連・久米直の祖神などは武官で、中臣・忌部という呼称もそのまま職である。大和に都が置かれると、さらに多くの職が見え、何々部というものにも官職が多い。後世の弁・掃部・大炊・主殿・主水・靫負も後で作った名ではなく古い官名の残りで、八十伴緒は中国の百官のようなものだ。ただし宣長のいう「戎国」で時々別人を選んで任官するのとは大いに違い、日本の上代は職を代々継いだので、家の職を姓氏とする例が多かった。後世と様子が違うため、人々は上代に官職がなかったかのように思う。しかしなかったのは、各部門の末端の職ではなく、天下の政治全体を担う職の名だ。分野ごとの職には名が必要だが、大政を行う人は天下のあらゆる事を統べ、特定分野に限らないので、区別する官名がないのが理屈である。代々その人はいても官名はなかった。景行天皇紀で建内宿禰を棟梁の臣とするのも官名ではないことは巻二十二の十七丁に述べた。大臣・大連も前に述べたとおりで、『旧事紀』の記述は論ずるに足らない。さて、本文の建内宿禰を大臣としたことは独立した一項で、次の記事には掛からない。

【宣長の注釈】大国・小国は、ただ諸国ということを文章で表すだけだ。後世の大国・上国・中国・下国という等級ではないので、どれを大国・小国と決めるのでもない。『万葉集』の初瀬小国などの小国は、小さいという意味ではなく別の意味だ。祝詞の奥山の大峡小峡、遠山近山に育つ大木小木という大小と同じ。大県小県も、大小さまざまな国や県をまとめた言い方である。国造は巻七の八十丁に出た。

【宣長の注釈】定め賜ったということについて。『日本書紀』四年春二月には、今後、国郡に長、県邑に首を置き、その国の有能な者を長として中央の守りにせよ、とある。五年秋九月には国郡に造長、県邑に稲置を置き、標識として楯と矛を賜ったという。徹底して中国風に書くので国造・県主の名は見えなくても、実際はこの『古事記』と同じくその類を定めた意味である。造・稲置だけは古い呼称だが、ほかの国郡県邑などは意味を取って漢文にしたもので、実際の古名でないので文字にこだわらない。楯と矛を標識に与えるのは古伝だろう。『旧事紀』の『国造本紀』でも、この世に定めたとする国造が多い。この書は全部は信じにくいが、まったく根拠がないとも見えず、資料はあったのだろう。推古天皇紀二十八年に、皇太子と島大臣が相談し、天皇紀・国記、臣・連・伴造・国造・百八十部と公民らの本紀を記録したとあり、国造の本紀も含むので、その名を取ったのだろう。『続日本紀』巻二の、諸国の国造の氏を定め、名は国造記に詳しい、という本なら、各国造の姓名も正しく記しただろう。

【宣長の注釈】国造はこの時初めてできたのではなく、前からあったが、この時さらに広く多く定めたのだろう。国造とだけいっても同類の君・直・別・稲置なども含む。伴造・国造という時も同じで、皆各国にいる臣だからだ。古い姿は巻七末で述べた。総称では国造、区別すれば国造・君・直・別・稲置などとなり、中国の諸侯を公侯伯子男の五等に分けるのと自然によく似る。後世の人が国造だけを諸侯に似たものとし、残りを姓の称号だけと思うのは詳しくなく、古代に暗い。これらには尊卑の差があったようだが、今は順序を詳しく知りにくい。ただ国造が最上だったとは見える。また五種類だけに限らず、各国にはほかの長の号もあった。孝徳天皇の世に古い制度が改められ、国造らから選んで各郡の大領・少領などに任じたことはその天皇紀にあり、以後は多くそうなった。

【宣長の注釈】『日本三代実録』巻五が、孝徳天皇の世に国造の号を永く停止したとするのは違う。制度を改めただけで、その後も各国に号は残った。国造と国司を同じものと理解するのも誤りだ。国造は世襲でその国にいた人、国司は京から派遣され任期で交代する人である。国造を国司に変えたのでなく、国造による統治を国司による統治にしたというべきだ。後世、一部の神社に国造の号が残るのは、古く一体だった祭祀と政治のうち、孝徳天皇以後、国政は国司、神事は従来どおり国造が扱う制度となったためだ。『続日本紀』巻二には大幣を配るため諸国の国造を急ぎ入京させたとあり、神事に関わる例は多い。その制度の残りで後にはすっかり神職のようになり、『類聚国史』も神祇部に収めた。天武天皇崩御時、諸国の国造が到着するごとに誄を述べ、歌舞を奏したのも古い儀式の残りで、そのような礼典にも仕えたのである。『続日本紀』巻二十八には陸奥国の大国造と国造を任じる記事があり、巻二十九で常陸・上野などの采女を国造とするのは、格別に変わったやり方で、高野天皇の世である。

【宣長の注釈】諸国の境について。『日本書紀』五年秋九月には、山川を隔てて国県を分け、道筋に沿い邑里を定め、東西を日の縦、南北を日の横とし、山の日当たり側をかげとも、日陰側をそともと呼ぶ、とある。かげともは影つ面、そともは背つ面で、つおを縮めてとという。上代の境界制度の細部は知りにくいが、古書の随所の記事から考えると、後世ほど明瞭でなくても、もとからおおよその境界はあり、この世でさらに確かに定めたのであろう。初めて境を作ったのではない。後にも『新撰姓氏録』が、坂合部は大彦命の子孫で、允恭天皇の世に国境の標を立てて坂合部連を賜ったとする。孝徳天皇の大化二年には諸国の境を調べ、文章か図で示し、国県名は帰参時に定めると命じ、天武天皇十二年には伊勢王・羽田公八国・多臣品治・中臣連大島と判官・記録係・工匠らを天下巡行に遣わして国境を分けさせたが、年内に終わらず、十三年に再び伊勢王らを遣わした。『続日本紀』巻十三の天平十年にも各国に国郡図を作って提出させたとある。次第に細かくなったのだろう。

【宣長の注釈】天下の国々の区分が古書に出るのは、水垣宮段の高志道(後の北陸道)、東方十二道(東海道で十二は国の数、日代宮段にもある)、崇神天皇紀の北陸・東海(崇峻天皇紀には北陸道・東海道とある)・西道(山陽道)と四道(北陸・東海・西道・丹波)、景行天皇紀の東山道十五国などだ。孝徳天皇紀に畿内を定める記事があるが、後とは境界に少し違いがある。それ以前の崇神・仁徳・欽明天皇紀の畿内は文章上の語だけだ。持統天皇紀の四畿内は後の五畿内と同じで、当時は河内と和泉が一国だったため。天武天皇紀に山陽道・山陰道が出るが、成務天皇紀の山陽・山陰はこの二道ではない。また東海・東山・山陽・山陰・南海・筑紫の六道が並び、北陸がないのはなぜか。文武天皇紀には七道と出る。諸国の総数は古書に見えず、『国造本紀』にも漏れが多いはずなので根拠にできない。これも孝徳天皇の世には確かに定まったのだろう。

【宣長の注釈】古い国の区分は、後世のように国を郡、郡を郷に分けるほど明確でなく、国の中の土地も国と呼ぶ例が多い。『古事記』の陸奥の石城国造、常道の仲国造などは、陸奥も国なのに中の石城も国、常道の中の仲も国という。継体天皇紀の春日国、『万葉集』の吉野国・初瀬国なども、後に郡となる程度の土地を同じく国と呼んだ例だ。だから天下の国を合計何国と明確に定めなかっただろう。それでも大まかには国は広く、県はそれより小さく、里・村はさらに小さい。何々国の何々県といい、神功皇后段の末羅県の玉島里、崇神天皇紀の茅渟県の陶邑、景行天皇紀の八代県の豊村などから大小がわかり、後世と大筋は違わない。県と郡は後に詳述する。郷と里はともにさとなので古くは同じだった。後の文字上の区別では、孝徳天皇紀や令の里は郷に当たるが、『出雲風土記』では郷の中に里があり、何々郷の何々里という例や、郷を里と呼ぶ例もある。国・県は土地全体の名、村・里は人の住む所の名で、もとは性質が違うが、土地は広く、その中の居住地は狭いので、自然に大小を表すようになった。

【宣長の注釈】村と里は、名が違うように厳密には差があるが、自然に通わせていう。里は大小を問わず広く使う名らしい。京を御里といい、奈良の京も奈良の里、旧都を古里というのでわかる。村にはそのように京を呼ぶ用法はない。名の意味も、村は人家が群がる意味、里は居住する場所の意味だ。その後も一国を二つに分け、二国を一つにするなど変化があったが、嵯峨天皇の弘仁十四年、越前を分けて加賀を立て、六十八国に定まってからは今の形で、永く変わらない。このうち壱岐と対馬は島といい、国とはいわない。

【宣長の注釈】国名から一字を取り何々州と呼ぶのは、中頃、利口ぶった人が中国の制度に倣い私的に始めたことで、公の制度ではない。日本には州という制度はなく、古い正式文書には一度も何々州といわない。このような呼称も、公の制度を離れ、勝手に私事を行うのは恐れ多いことだ。近世の儒者などが、孝徳天皇以来は郡県制なのに何々国は不適切だというのは、かえって誤りである。万事を中国風に改めても国を国のまま定めたのは古い意味を守り、まことにすばらしい。中国の考えからでも、こうした制度は定める王の考え次第で、一律にいうべきでない。中国でも後には前代にない国郡の区分や名が多くあるが、必ずしも不適切とはいわないではないか。まして日本の制度が、宣長のいう「戎国」の例にこだわる必要があろうか。

【宣長の注釈】大県小県は、何々県では「あ」を省く例が多いので、「おほがた・をがた」とも読める。大小は大国小国と同じく、後の大郡・上郡・中郡・下郡・小郡の等級でなく、ただ諸県というほどだ。「あがた」は上がり田で、もとは畠のことだ。仁賢天皇紀は畠を「はだけ(波陀該)」と読み、『和名抄』は麦を耕す土地、また陸田で、はたけとする。田は水田も畠もまとめる名で、水の付かない所を畠・上田と呼び、水田より高く上がる意味だ。神代巻で陸田の種と水田の種を分けても、まとめてたなつものということから、田に畠も含むとわかる。今も田地に畠を含むのと同じだ。神代巻の高田、『万葉集』巻十二の上に種まく例は高い水田だが、高い所をあげという証拠である。あがたがもと畠である根拠は、八千矛神の歌の山県で茜を突く話、高津宮の歌の山県にまいた青菜などだ。山県は山あがたで、郡名の山県などからもわかる。山で茜を探し青菜をまくので、山の畠と知るべきである。

【宣長の注釈】だから、地名の下へ別に県を付けるのでなく、県自体や何々がたを名とする土地、河内の大県、美濃の方県・山県、信濃の小県、但馬の二方、安芸の山県、日向の諸県などの郡名や、多くの郷里名は、もと畠から付いた。地名に付ける場合もほかも、前に語がある時の上代の読みは「あ」を省き「がた」とすることが多かったらしい。挙げた郡名や年魚市県・松浦県などがその例だ。しかし後に海辺の潟と混同し、年魚市県や松浦県まで潟とだけ理解して、海辺の土地だけに使うようになった。古くは海のない国々にも、県を使う名が多いのである。

【宣長の注釈】祈年祭の祝詞は、御県の皇神たちに、高市・葛木・十市・志貴・山辺・曾布と名を申し、この六御県で生まれる甘菜・辛菜を持参し、皇孫の長く続く御食事として召し上がるので、立派な幣帛を言葉を尽くして奉る、と告げる。月次祭の祝詞も同じで、広瀬の大忌祭の祝詞も、大和の六御県の山口にいる皇神へ幣帛を奉るという。これは秋の稲の祭りなので、六御県には御田もあるのだろう。孝徳天皇紀にも、大和の六県に遣わす使者は戸籍を作り田畝を調べよ、とある。六県の御県神社は『神名帳』にそれぞれあり、みな大社で月次・新嘗にも預かる。高市郡の久米御県神社は小社なので別だろう。祝詞に甘菜・辛菜とある点を考えるべきで、ほかにも多種の畠の作物がある中から選んでいうだけだ。六御県は都の近くで朝廷の食用の畠作物を作り献上する土地なので、神を重く祭り、この祝詞もある。つまり県は御上田から起こった名で、それにならい諸国の朝廷用地もいい、本文の大県小県はこれである。

【宣長の注釈】上巻の佐那県、神功皇后段の末羅県、『日本書紀』神武天皇紀の菟田県、崇神天皇紀の茅渟県、景行天皇紀の長峡・直入・子湯・八代・高来・八女、仲哀天皇紀の儺、神功皇后紀の度逢・山門、応神天皇紀の川島・上道・三野・波区芸・苑・織部、対馬の上県・下県なども各国の県である。ただ『日本書紀』の例には後で論ずる問題がある。同じ朝廷用地でも御田は別にあり、屯田と書く。そのことは巻二十六末に詳述した。県は畠の作物をはじめ様々な物を献上する土地らしい。推古天皇紀で蘇我大臣が、葛城県は元来自分の本拠だから、永く得て自分の封県としたいと願い、天皇が、私の世に失えば後の君が愚かな女が天下を治めて県を失ったというだろう、と答えることからも、県が朝廷用地とわかる。

【宣長の注釈】後世まで地方官が赴任国を県と呼ぶのも、古く京から各国の朝廷用地へ官人が往来した頃の名目の残りだ。『万葉集』巻七の「青みづら、依網原に、人も逢はぬかも、石橋の、遠江県の、物語せむ」は、「依網の原で誰かに会えないものか。遠江の国の話をしよう」という歌で、遠江の国司が下る途中、三河の依網原で詠み、県は赴任先の遠江を指す。『古今集』の詞書で、文屋康秀が三河の掾となり、県を見に出かけて来られないかと誘う例、『土佐日記』の、ある人が県での四、五年を終えて、という例も赴任国のことだ。ただ田舎の意味と理解するのは誤りで、田舎一般を県とはいわない。県召も朝廷用地の官人を任命する名目で、ただ地方の官を任じるという意味ではない。

【宣長の注釈】漢字を使う世になると、あがたに縣を当てるようになり、少し後には朝廷用地に限らず、中国の県に当たる程度の土地を広く県と呼ぶようになった。後に県という土地も、もとは国といったのである。あがたは本来、朝廷用地だけの名だ。だから景行・神功・応神紀などの多くの県の中には、当時そう呼ばなかった土地を、編者が後の呼び方によって書いたものも混ざるように見える。『日本書紀』にはそうした例が多いので注意すべきだ。あがたに縣を使う理由は、中国の封建制と郡県制による。封建とは、日本の上代に国造らが各国を治めたように、中国でも諸侯がそれぞれ国を治めたことだ。秦の始皇帝が諸侯をすべて滅ぼし、国中を自分の用地にしたのを、天下を郡県にするという。それ以前も諸侯が他国を取り自領にするのを県にするという例があった。漢も郡県制のままだったので、日本でも初めはその意味で朝廷用地のあがたに縣を当てた。しかし中国では秦以来封建が廃れ、代々郡県制だったので、郡も県も国の中の小区分の名となった。日本でもそれに倣い、後には国の一般的な小区分にも使ったのである。

【宣長の注釈】後に孝徳天皇の世となり、それまで県といった土地をみな郡と名づけ、天下の国の区分名を郡と定めた。中国で州を分けて郡とした時代の制度による。中国では郡を県に分けるので郡が大きく県が小さいが、日本のこの時の郡は、もと県だった土地で、大小の違いではない。だからその後の『日本書紀』にも国県という語が残り、古い呼び方で国郡をいうのである。孝徳天皇紀では四十里を大郡、三十里以下四里以上を中郡、三里を小郡とする。里は集落の数で距離ではない。『類聚国史』の延暦十七年の詔にも、難波朝廷が初めて諸郡を置いたとある。この世は万事の制度を中国風に改め、国造・別・直・君・稲置・県主らの治めた土地もすべて公に収め、各国に国司、各郡に郡司を置いた。『類聚三代格』弘仁二年の詔が郡領の職は難波朝廷が置いたとするのがそれだ。雄略・安閑・欽明天皇紀などの郡司は、いつもの編者の文章で、当時の呼称ではない。

【宣長の注釈】何々国の何々こほりという。「許富理(こほり)」は古来の名ではない。新井氏は、こほりは朝鮮語から出たもので、今の朝鮮語でも郡県をこほるという、と述べる。この説はもっともだろう。継体天皇紀の朝鮮の地名に熊備己富里・背評がある。評は現地の言葉で郡をいうのでこほりと読む。中国の『梁書』にも、新羅では内地の町を啄評というとあり、日本でもその言葉に倣って郡に評の字を使ったことがある。『続日本紀』巻一の衣評督衣君県と助督衣君豆自美の衣評は、薩摩の穎娃郡。巻二十五の氷高評は紀伊の日高郡で、巻二十八にも評督がある。『大神宮儀式帳』にも、難波朝廷が天下に評を立てた時、新家連阿久良が督領、牟良が助督として仕えた記事や、評の督領として仕えた例がある。督・督領は大領、助督は少領に当たるように聞こえる。

【宣長の注釈】以上のように郡を定めたのは孝徳天皇の世からなので、それ以前の『日本書紀』の郡は当時の呼称でなく、編者の文である。字にこだわらず、こほりとは読まず、あがたと読むべきだ。ただし以前から県と通わせて郡の字を少し使った可能性もあり、朝鮮との往来の多い頃に言葉を聞き慣れ、日本でもこほりといったかもしれない。しかし確かでないので断言できない。『日本書紀』はもっぱら漢文の字面を整えるので、各時代の文字用法を詳しく知りにくく、紛らわしいことが多いと注意して読むべきだ。縣をこほりと読む所も多いが、孝徳天皇以前ではそう読むべきでなく、以後ならよい。

【宣長の注釈】県主は、大和国をはじめ諸国にある県をつかさどる人の号だ。ここでの県は朝廷用地で、この世の頃は一般の土地を何でも県とはいわず、県主もすべての土地にいるのではない。『古事記』には高市・師木・十市の県主などが見える。神武天皇紀は弟猾に猛田邑を与えて猛田県主としたとする。大和国十市郡の猛田で、邑を与え、その中の朝廷用地の管理者としたのだ。同じ猛田の中に朝廷用地と本人に与えた地がある。県主を単に土地の領有者と取り違えてはいけない。また弟磯城、名は黒速を磯城県主とする記事もあり、神武天皇の世からあったものである。

【宣長の注釈】県主も国造・君・直・別などと同じ類で、日代宮段では残りの七十七王を各国の国造、また和気・稲置・県主としたとある。安閑天皇紀で津国三島県主の飯粒が良田四十町を献じ、天武天皇紀では高市郡大領に高市県主許梅がいる。孝徳天皇の制度以後、県主も郡司に任じたらしい。職を代々子孫へ伝えるので、何々県主がそのまま姓になる。両書にも『新撰姓氏録』にも県主が少ないのは、朝廷用地だけにいたためだろう。ただ県主だけという姓にも何か理由があっただろう。伊邪河宮段の丹波の大県主、朝倉宮段の志幾の大県主は、臣に大臣、連に大連のように大を加えて尊んだのか。あるいは大県小県とあるように、県が大きいことをいうのか。その場合、大は県に付き、県主には掛からない。本文で県主を定めたといっても、職を初めて置いたのでなく、国造と同じ意味である。

【古事記本文】天皇は九十五歳であった。御陵は沙紀の多他那美にある。

【宣長の注釈】九十五歳を『日本書紀』は、六十年夏六月、己巳を一日とする己卯の日に崩御、百七歳とする。しかし父天皇の四十六年に二十四歳で皇太子となった記事によれば、六十年は九十八歳で、どうしたことか。景行天皇紀は立太子を五十一年秋八月とし、これも前後が違う。武内宿禰と同日に生まれたとも合わない。六十年に百七歳なら景行天皇十四年生まれで、その二十五年に武内宿禰を北陸・東方諸国の視察へ遣わした時、十二歳になってしまうからだ。ほかの書には百九歳、九十八歳もあり、九十八は立太子年と合わせたものだろう。旧版本・真福寺本などは、ここに小字で「乙卯の年三月十五日に崩御」と十字を載せる。この種の小字注は巻二十三の九十五丁で述べた。乙卯は『日本書紀』では四十五年で、十五年違い、月日も合わない。これも古い一つの伝承だったろう。

【宣長の注釈】沙紀は玉垣宮段の狭木という土地(巻二十五・七十一丁)。仲哀天皇紀には、稚足彦天皇は六十年に崩御、翌年秋九月、壬辰を一日とする丁酉の日に大和の狭城盾列陵へ葬り、盾列をたたなみというとある。楯をたたとするのは、稲をいな、船をふなとするのと同じで、後に語が続く時、第四音から第一音へ変わる規則だ。神武天皇の大御歌にも、楯並べてをたたなめづと詠む。『諸陵式』は、志賀高穴穂宮で天下を治めた成務天皇の狭城盾列池後陵は大和国添下郡、墓域は東西一町・南北三町、守戸五戸とする。池後は『続日本紀』巻十の、楯波池からつむじ風が来て南苑の木二本を折り、雉となったという、その池の後ろで、北側の意味だろう。あるいは京から遠い側か。平城宮の頃の呼称らしいので、その場合は西だ。この池は垂仁天皇紀三十五年の狭城池と同じか別か不明。今、常福寺村近くに大池があり、それかもしれない。

【宣長の注釈】『前皇廟陵記』は『扶桑略記』から、康平六年、興福寺の僧静範が池後山陵を掘り宝物を盗み、共犯十六人とともに流罪となった話を引く。『百錬抄』にも、十二月十五日に盾列山陵を修復し、盗まれた宝物を返納、朝務を休み宣命があったと記す。『諸陵式』は神功皇后陵を狭城盾列池上陵とする。今、池後・池上の二陵といわれる陵は超昇寺村の西北に近接し、西を成務天皇陵、東を神功皇后陵という。成務陵を地元では石塚といい、その西に山陵村があり、神功陵は御陵山という。しかし『続日本後紀』巻十三、承和十年の記事では、図録を調べると北が神功陵、南が成務陵なのに、人々は南を神功陵と伝え、その口伝だけに従い、神功皇后の祟りのたびに誤って成務陵で謝罪していたので今日改める、とある。今は省略して引くが、全文は神功陵の所で引く。これは今の方位と合わず、どうしたことか。ここでは南北、今いわれる二陵は東西だからである。

【宣長の注釈】佐紀郷には全部で四陵がある。垂仁天皇の大后、比婆須比売命の寺間陵(巻二十五・七十一丁に出て、『大和志』は常福寺村にあるとする)、盾列の二陵、称徳天皇の高野陵(今いう二陵の西北の陵をそう呼ぶ)だ。『続日本後紀』の南北によれば、今いう神功陵は取り違えで、今の寺間陵か高野陵のどちらかが神功陵かもしれない。成務陵も、今成務陵という方か、神功陵という方か、二つを区別できないのではないか。また池後が池の北なら、北が成務、南が神功という当時の口伝が、かえって正しいのかもしれない。式は承和より後の書でも、その口伝に従った頃の呼称のまま池後と載せた可能性がある。池後の名がさらに古ければ、口伝の方がいっそう正しそうだ。しかし後は京から遠い方の意味もあり得るので断言できない。いずれにせよ佐紀の四陵は互いに紛らわしい。宣長はまだ周辺の地形を詳しく調べて知らないので、どちらと決めて論じにくい。なおよく考えて明らかにすべきことである。

古事記伝 巻三十――訶志比宮の巻、上。本居宣長が謹んで著す。

【古事記本文】帯中日子天皇は、穴門の豊浦宮と筑紫の訶志比宮で天下を治められた。天皇は大江王の娘、大中津比売命を妻とし、香坂王・忍熊王の二人の子が生まれた。また息長帯比売命を妻とし、この方が大后となった。子は品夜和気命、次に大鞆和気命、別名品陀和気命の二人である。この太子が大鞆和気命という名を負うのは、生まれた時、腕に鞆(とも、弓を射る時に腕を守る道具)のような形の肉があったからで、その名を付けた。このことから、母の胎内にいながら国を平定したのだと知られたのである。

【宣長の注釈】この天皇を、後の中国風の諡では仲哀天皇という。穴門については日代宮の段、伝巻二十七26丁に詳述した。ここでは国名で、今の長門国である。『書紀』崇神・欽明紀などでも皆穴門とし、孝徳紀もそうなので、その頃までは長門といわなかったのだろう。どの御代に改名したかは不明だが、あの海峡の間が長いため長門と名付いたのだろう。孝徳紀の詔に「今、我が親たる神祖の治めた穴戸国中……」とあるのは、この仲哀天皇がそこにいたことをいうのである。

【宣長の注釈】豊浦宮は、『和名抄』の長門国豊浦郡、訓は「とよら」の土地である。豊受神を「とゆけ」という例に倣えば、古くは「とゆら」だったかもしれないが、確かな例を見ないので『和名抄』どおりに読んだ。浦は「う」を省いていうこともある。宮の場所は『帝王編年記』に長門豊浦郡北の樹林とある。「北」の上下どちらかに脱字があるだろう。源貞世の『道行ぶり』は、長門国府へ来ると北浜という、東南を向く家々があり、集落を過ぎて神功皇后の社前へ出た。社は南向きで、穴門豊浦の都の宮跡だという、と記す。『和名抄』は国府を豊浦郡に置くとし、今の長府という所で、今も豊浦宮跡だという。『書紀』では、仲哀2年2月に角鹿へ行って行宮を造り、笥飯宮と呼んだ。3月には南国を巡り、紀伊の徳勒津宮にいた。熊襲が反乱して貢物を献じなかったので、討つため船で穴門へ向かい、6月に豊浦津へ泊まった。皇后は角鹿を出て7月に豊浦津へ着き、9月に穴門に宮を造って穴門豊浦宮と呼んだ、とする。8年正月までここにいたようだ。翌年、天皇は筑紫の宮で亡くなり、遺骸をひそかに収め武内宿禰に託し、海路で穴門へ運んで豊浦宮に仮安置した。神功紀には、新羅を討った翌年2月、皇后が群卿と百官を率いて豊浦宮へ移り、天皇の遺骸を収め、海路で都へ向かったとある。なお推古紀の豊浦宮は大和にあり、別である。

【宣長の注釈】訶志比宮は『和名抄』の筑前国糟屋郡香椎郷、訓は「かすひ」の地である。ただし「し」が「す」になるのは後の訛りだろう。一般に椎と書き、『書紀』も橿日とするので、「かしひ」であるのは確かだ。神功紀には橿日浦ともあり、『万葉集』巻六に香椎浦の三首がある。香椎廟は今も香椎村にある。『続紀』巻二十二は天平宝字3年8月に大宰帥船親王を遣わし、新羅を討つべき事情を奏上したとし、巻二十四は同6年11月に参議藤原巨勢麻呂・散位土師犬養を遣わし、新羅遠征の軍事訓練のため奉幣したとする。『続後紀』巻一には天長10年4月、和気真綱を八幡大菩薩宮と香椎廟へ遣わし、剣と幣帛を献じ、新帝即位を告げたとある。この廟は仲哀天皇とも神功皇后ともいわれ、決まらないというが、以上の『続紀』の趣旨なら神功皇后だろう。『兵範記』も香椎大多羅志姫宮とする。ここだけ古書が神社と呼ばず廟とするのは例がなく、『神名帳』にも載らないので、理由があるはずだ。中国の意味では神社をすべて廟といってもよいが、日本にそういう例がないのに、ここだけ特別なのは、神功皇后の征討後、三韓が服従して来朝した時代に、かの国から皇后の霊を祭った宮だからではないか。日本の普通の神社と区別して廟と称したのかもしれない。これは試みに推し量っただけの説である。後世の歌の香椎宮はこの廟である。また『宇佐八幡宮縁起』が、嵯峨朝の弘仁14年、皇后の託宣によって大帯姫宮を新造する勅命があったとするのは、『延喜式』の豊前国宇佐郡、大帯姫廟神社だろう。宇佐の三座の一つで、廟とするのは香椎廟に倣った称だろう。

【宣長の注釈】『書紀』は仲哀8年正月に筑紫へ行き、岡浦に入り、儺県へ着いて橿日宮にいたとする。岡浦は筑前の遠賀郡の浦である。儺県は神功紀の儺河、宣化紀の那津などと同じ場所で、斉明紀は娜大津とし、長津へ改名したとある。那珂郡がこれかもしれないが、長の「が」は濁音、珂は清音なので別かもしれない。神功紀の初めには仲哀9年2月、筑紫の橿日宮で天皇が亡くなったとある。『書紀』によれば、天皇は2年2月に越・紀へ行ってから大和へ帰らず、西国で亡くなったので、豊浦宮・訶志比宮で天下を治めたというのである。大江王と大中津比売命は日代宮の段、伝巻二十六14丁、巻二十九44丁に出た。香坂王の香坂は地名だろう。「香」は『書紀』が麛と書くことから「かご」と読む。『説文』は麛を鹿の子とする。忍熊王の前には、普通の例からすれば「次」が脱落したのか。忍熊も地名か。大和添下郡の押熊村がこれかもしれない。村の神社は一座が押熊神、一座が麛坂神だという。この王を『姓氏録』の和気朝臣の条は忍熊別皇子とする。孝徳紀には中臣連押熊という人も見える。

【宣長の注釈】『書紀』は、これより先に叔父彦人大兄の娘、大中姫を妃とし、麛坂皇子・忍熊皇子が生まれたとする。息長帯比売命は伊邪河宮の段、伝巻二十二74丁に出た。『書紀』が「皇太后を死後に尊び、気長足姫尊という」と、死後の諡のように記すのは理解しがたい。『続紀』巻十八には気長足媛皇太后、『摂津国風土記』には息長足比売天皇とある。また普通なら「息長帯比売命を娶り、御子を生む」と続ける所を、結婚したといったん区切るのは、この大后が特別な存在だからか。「大后」は皇后で、その理由は白檮原宮の段で詳しく述べた。品夜和気命の「品」は「ほ」「む」の二音を合わせた音仮名で、次の品陀も同じである。「む」をはっきりムと発音すべきで、「ほん」は後の音便による崩れた形だ。『書紀』が譽と書くことでも分かり、今さえ誉は「ほむ」といって「ほん」とはいわない。「ほむや」は地名かもしれない。しかし弟の「ほむだ」とたいへん近いので、「ほむ」が共通の称名で、「や」「だ」で分けた名なのかもしれない。ほむ・や・だの意味はいずれも未解決である。「わけ」は伝巻二十六19丁で説明した。『書紀』は、さらに来熊田造の祖、大酒主の娘、弟媛を娶り、誉屋別皇子が生まれたとし、伝承が異なる。『姓氏録』は、間人宿禰を仲哀天皇の皇子、誉屋別命の後裔とし、間人造は間人宿禰と同祖で誉屋別命の後裔とする。また蘇宜部首も、仲哀天皇の皇子、誉屋別命の後裔とする。『継体紀』初めの、丹波国桑田郡にいた仲哀天皇五世孫の倭彦王は、どの皇子の子孫か。品夜和気命の末かもしれない。『和名抄』に丹波天田郡の土師郷、丹後竹野郡の間人郷もあるので、間人宿禰らの祖先ではないか。香坂王・忍熊王の子孫なら、あの時に皇位の候補として選び出せなかっただろう。

【宣長の注釈】大鞆和気命の名の理由は次にある。品陀和気命は『書紀』では誉田別尊と書く。品陀は地名で、今の河内国古市郡の誉田村がそれである。この村に天皇の御陵がある。地名は古書に見えないが、古い名だろう。今は「こんだ」と呼ぶが後の訛りで、誉と書く以上「ほむだ」であるのは確かだ。古くは志紀郡に属した。若い頃この地に住んだのだろう。品陀天皇が品陀真若王の娘を娶ったことは伝巻三十二5丁にあり、それもこの地に住んだ縁である。品陀真若王の名も河内の誉田に住んだためで、品陀和気命もここに住んで娘を娶ったのだろう。死後ここへ葬ったのも、初めに住んだ縁かもしれない。ただ、兄の名とたいへん近いので、地名ではないのではという疑いも前に述べた。河内の誉田は陵があるため後に付いた名ではないかとも疑える。『雄略紀』の誉田陵は誉田天皇の陵という意味で、地名は蓬蔂丘とあるからである。ほかに誉田という地名は古書に見えない。しかし品陀真若王の品陀は確かに地名に聞こえるので、決められない。吉野の国巣らの歌で大雀命を「ほむだのひのみこ」と詠むのは、品陀天皇の皇子と申したものだ。「太子」は前に出た。

【宣長の注釈】「初所生時」の初は、生まれたその時を指す。「はじめ」と読むべきで、「はじめて」では少し意味が違う。「如鞆宍生御腕故」は「みただむきに、ともなせるししありしゆゑに」と読む。腕は『和名抄』で「ただむき」、別に「うで」とあり、上巻の沼河比売の歌にも「しろきただむき」とある。鞆は伝巻七39丁に出た。宍は『和名抄』が『玉篇』から肉・肌膚の肉とし、和名「しし」とする。宍は肉の古字で同じ意味だ。この肉は胎内からすでにあって生まれたので、後の「胎内にいながら国を定めたと知られた」から分かる。生まれた時に初めてできたのではない。そのため「生」は「ありし」と読むべきだ。白檮原宮の「生尾人」も尾のある人で、元々あるものを生と書き、その時にできたのではない。『応神紀』は、胎内にいる時に天神地祇から三韓を授けられ、生まれると腕に鞆に似た肉があり、皇太后の男装して鞆を負う姿に似たので、誉田天皇と呼んだ、とする。しかしこれは本来、大鞆別尊というべきなのを、別名の誉田と取り違えた伝承である。その後の小字に、上古は鞆を「ほむた」と呼んだとあるのは、誉田天皇というのが伝承の混同によるもので、本来は大鞆別だったと見分けず、推測で注した誤りである。上代から鞆は「とも」としかいわず、「ほむた」といったことはない。

【宣長の注釈】「著其御名」は鞆を名として負わせたこと。普段「名……」の名を「なづく」と読むのも、名を付ける意で、物語などは名といわず「……と付けて」ともいう。今も同じ言い方である。それなのに「なづく」だけに固執し、「命名」まで「なをなづく」と読むのは誤りで、既に名といった以上、命は単に「つく」と読めばよい。「名を名付く」では重複して煩わしい。漢文の訓読ならどちらでもよいが、世の人が「なづく」だけ雅語、「名を付く」「名に付く」は俗語のように思うため、区別しておく。「是以」は、生まれた時に鞆形の肉があったことによる。「知坐腹中定国也」は「みはらぬちにましまして、くにさだめたまへりしことしらえたり」と読む。国の上の定は諸本になく、私が補った。底本のままでは意味が通らず読めないので脱字は確かだ。どの字かは分からないが、旧刊本の「御国定め賜はむ事」という読みは、定がなければ思いつかない。古本に定があってそう読み、後に字だけ脱落して読みが残ったのだろう。定なら意味も合うので補った。延佳本は、後の神託の「この国は、お前の腹中にいる御子の治める国である」により、知を補い、師も従った。知でも自然に読め、誰もそう思うだろうが、よく考えれば違う。その理由は以下に述べる。腹中を「みはらぬち」と読むのは、『仁徳紀』の歌の「うちのあそがはらぬちは……」による。濃はぬの仮名で、『万葉集』巻五・十七の国中も「くぬち」とし、「にう」が縮まって「ぬ」となる。

【宣長の注釈】ここで国とは国名を限定せずにいう語だが、指す先は三韓で、日本ではない。外国を単に国というのを疑う人もあろうが、国がある・ないという類の一般語なので差し支えない。その証拠として『応神紀』の初めは、胎内で天神地祇から三韓を授けられ、生まれたとする。鞆形の肉を説明する前置きに、特に三韓を授けたとある点に注目すべきだ。神功紀の神託にも「お前はその国を得られない。ただ今、皇后は初めて身ごもっており、その子が得る」「王たるお前はその国を得られず、今皇后の懐妊する子が得るだろう」とある。お前とは仲哀天皇、その国は三韓である。継体紀にも「住吉大神が初め、海の向こうの金銀の国、高麗・百済・新羅・任那などを、胎中の誉田天皇へ授けると告げた」、また「胎中の帝以来、内官家を置く」「海の向こうで官家を置く国」「諸蕃は胎中天皇以来……」などとある。官家の国は三韓をいう。宣化紀の詔にも「海の向こうの国々は……胎中の帝から私の代まで……」とある。宣長は、これらはみな三韓を得た話を神功皇后でなく胎中天皇に結び付け、「胎中天皇」という称も朝鮮の国々を服従させる話に限って用いるという。日本を治める一般の話にはこの称を使わないことからも、ここが日本を指さないと分かる、とする。また鞆形の肉も征討のしるしで、鞆は平時に何となく負うものではなく、戦では一般の兵も負うので、王として国を治めるしるしにはならない。以上から、国は三韓だと解すべきだという。「定」は後の「新羅を御馬飼に定め、百済を渡りの屯家に定めた」の定と同じで、征服して服従させ、属国にすることをいう。『書紀』にも新羅・高麗・百済の王が永く西蕃と称し、朝貢を絶やさず、それで内官家を定めたとある。「知」は、あの肉があることから、御子が胎内にいながら朝鮮の国々を征討・平定したのだと、生まれた時に知られたというのである。

【古事記本文】この御代に、淡道の屯家(皇室の直轄領と倉庫)を定めた。

【宣長の注釈】『書紀』にも仲哀2年2月、その月に淡路屯倉を定めたとある。淡路は淡道国のこと。屯家については伝巻二十六37丁で詳しく述べた。

【古事記本文】大后の息長帯日売命には、その頃、神が取り憑いておられた。天皇が筑紫の訶志比宮にいて熊曾国を攻めようとした時、天皇は琴を弾き、建内宿禰大臣は清めた庭にいて、神の言葉を求めた。大后に神が取り憑き、「西に国がある。金銀をはじめ、目にもまばゆく輝く珍しい宝が数多くある。今、その国を授けよう」と教え告げた。天皇は「高い場所へ登って西を見ても、国土は見えず、大海だけだ」と答え、偽りをいう神だと思い、琴を押し退け、弾かず黙って座っていた。神はたいへん怒り、「この天下はお前が治めるべき国ではない。お前は一筋の道へ向かうがよい」といった。建内宿禰大臣は「恐れ多いことです、わが天皇。どうかなお大御琴をお弾きください」と申し上げた。「阿蘇婆勢」は音を表す五字である。天皇は少し琴を引き寄せ、気も進まぬまま弾いていたが、間もなく琴の音が聞こえなくなった。火を掲げて見ると、すでに亡くなっていた。

【宣長の注釈】「当時」は「そのかみ」と読み、その時というような意味である。後世の人が単に昔の意味と思うのは違い、過去のことを語る際、その時と指す語である。『書紀』には今というべき所を当時と書き「ただいま」と読む箇所がある。読みは文脈に合うが、当の使い方は正しくない。日本で当を今・此の意味に使い、当時・当日・当所・当国というのは、どれも合わない。当はおおむね「その」に当たり、それぞれその時・その日・その所・その国の意味だ、と宣長はいう。ここでその時とは、西国にいた頃を広く指す。その理由は次に述べる。「帰神」は「かみよりたまへりき」と読む。帰は『古事記』で「より」によく使い、『万葉集』にも「神依板」があるので、よるは古語である。「より」は「かかり」とも読め、大后に神が憑いていたことだ。その状態は上巻の石屋戸の「爲神懸而」、伝巻八57丁で述べた。あちらは前に爲があって名詞なので「が」と濁るが、ここは「より」でも「かかり」でも動詞だから濁らない。ただし後の帰神は「かむがかり」と読む。その理由はその所で述べる。後にも大后帰神とあるのに、ここで同じことをいうのは重複して無駄のように見えるが、そうではない。神が憑いたのは後の一回に限らず、その前後、日常的なことだったので、ここで先に普段の様子を述べるのである。当時というのもそのためだ。そうでなければ当時は余計になり、またこの前置きがなければ、その時だけ神が憑いたように聞こえる。『書紀』の海中から如意珠を得た話も普通の出来事ではなく、その頃から神が憑いていたためだろう。天皇死後の神懸かりにも大后と明記はないが、この言葉がそこまで響き、同じ大后と分かる。この神託は単なる細かな話ではなく、永く財宝の国を従わせ定める根本なので、たいへん重大である。それなのに『書紀』が皇后の巻の初めに、幼くして聡明・叡智で容貌が立派とだけ書き、この尊く霊妙な神懸かりを省くのは、中国風でない話だからだろう、と宣長は批判する。中国の史書が皇后の事績を伝え聞いて「鬼神の道に事え、妖術で人々を惑わす」などと書くのは、恐れ多くも、かの国の人が神道の正しさと妙を理解せず、いつもの無責任な暴言だ、と宣長はいう。

【宣長の注釈】神が誰かは、後の「今、こう教える大神の名を知りたい」によれば、初めは知られていなかった。そのように尋ねた時、名乗りがあり、後の箇所に出る。熊曾国は上巻、伝巻五15丁に出た。「天皇控御琴」は、前に天皇とあるのに繰り返すので煩雑にも見えるが、天皇はこう、建内宿禰はこうと役割を分けるためである。琴は上巻の天詔琴、伝巻十49丁で述べた。服従しない国を従わせるため、こうして琴を弾くのは、上代では何をするにも先に神の心を問い、命を受けて行ったからで、ここも征討の吉凶を神に尋ねている。『書紀』は少し異なり、こちらから尋ねたのでなく、神が皇后に取り憑いて教えたように書く。しかし『古事記』の琴を弾く文は、こちらから求めた様子である。熊曾征討を問うのでなければ、神の命を請う理由がない。『書紀』神功紀では皇后自ら神主となり、武内宿禰に琴を弾かせ、中臣烏賊津使主を審神者として、幾重にも積んだ繒(きぬ)の供え物、千繒・高繒を琴の頭と尾に置いて尋ねたとある。神の言葉を求める時は必ず琴を弾き、その上へ神が降り、人に取り憑いて告げるのである。天詔琴の注とも考え合わせたい。『万葉集』巻九の「神の鎮まる森で、神を迎える板にする杉の……」の神依板もこれで、神を迎えるための板である。

【宣長の注釈・儀式書の引用】『大神宮儀式帳』の六月の例では、15日夜の亥の刻に第二御門で御巫内人へ琴を渡し、大御事を請い、16日に宮から西の河原へ退出するとある。九月神嘗祭でも、15日夜の亥の刻、第二御門へ御巫内人を控えさせて琴を渡し、天照坐大神の神託を請い、告げられたさまざまな罪穢れを、禰宜の館から始め、内人物忌四人それぞれの館ごとに祓うとある。御巫内人の職掌にも、三節祭の15日夜の亥の刻に第二御門へ控え、木綿の髪飾りと琴を受けて大神の命を求めるとある。同宮の『年中行事』六月15日条では、御巫内人は外幣殿から鵄尾の琴を受け、門外の東で御殿へ向かう。まず祝詞を申し、「不浄の疑いがあるので、御前の占いで清浄を占い定めてください。恐れながら申します」と告げる。次に笏で琴を三度掻き、毎度、警蹕という神前を清める掛け声を発し、神を降ろす。歌は「あはりや、遊波須度万宇佐奴、阿佐久良仁、天津神・国津神よ、お降りください」、次は同じ前半に「鳴る雷も、お降りください」、さらに同じ前半に「上津大江・下津大江も、おいでください」と歌う。歌の前半「遊波須度万宇佐奴、阿佐久良仁」は、語の区切りと意味を確定できないため原語を残す。御巫内人は同じ詞を申し、琴を掻き、内嘯、すなわち口笛を吹く。その音が鳴れば清浄、鳴らなければ不浄とする。その後また三度琴を掻き、警蹕の声を発して神を上へ送り、歌は前と同じだが、降ろした神の名を呼び、今度はお帰りを申し上げる、とある。これも『儀式帳』と同じ儀礼で、上代の礼が残ったのである。何事も中国風を学ぶ世となって上代の礼儀は多く失われたが、神事にかろうじて残った、と宣長はいう。今も古社で琴板と呼ぶ板を叩き、神を降ろす作法があり、『万葉集』の神依板と考え合わせるとよい。神の命を請うことは、上代の人心が素直だった時は必ず正しい託宣があったが、後に浅い知識の中国風の心で疑い、信じなくなるにつれ、正しい託宣もないようになったのだ、と論じている。
〔訳注:『年中行事』引用の「御琴請作」の「作」に見える字と前後の接続は未確定で、琴を受けて門外の東で御殿へ向かうという訳は暫定。〕

【宣長の注釈】建内宿禰大臣は伝巻二十二15丁に出た。大臣についても伝巻二十九50丁で述べた。天皇と大臣がこのように自ら奉仕したことからも、古代に神事をどれほど重んじたか分かる。「沙庭」は神を降ろし、その言葉を請う場所で、清めた場所という「さやには」が縮まった名。「さや」が「さ」となる。『書紀』の審神者はその場に控える人で、本来「さにはびと」と読むが、その意味で人も単に「さには」と呼んで差し支えない。『釈』が引く公望私記の、今は琴を弾く人を沙庭と呼ぶ、という説明は、その頃も称が残っていたのだろう。「居」は座っているだけでなく、神の言葉を請い、承り、さらに問い返すべきことを尋ねるなど、神に応対する一切をいう。後の場面もそうで、その様子から分かる。単に座るなら、琴を弾く天皇も同じ庭にいるのに、特に一人を取り上げるのは、神に応対する役を特に「沙庭に居る」というのである。

【宣長の注釈】「請神之命」は、あることの吉凶を尋ね、教え諭す言葉を求めること。ここでは前述のとおり熊曾征討を問う。『続紀』巻十四、天平14年11月にも、大隅で空に大鼓のような音がし、野の雉が驚き、地が大いに揺れたとの報告に、使いを遣わして調べ、神の言葉も求めさせたとある。ここの「帰神」は「かむがかりして」と読む。前はその頃の日常の様子を先に述べたが、ここはそのうち、まさに今、教える事実を取り上げるので、俗にいう託宣があって、ということ。同じ文でも意味に少し差があり、同じ読みでは重複するうえ違いも分からないので、必ず言い方を変えて読む。「言教覚詔者」は「ことをしへさとしたまひつらくは」と読む。「言」は言依・言向などと同じく事柄のこと。古くは文字にこだわらず、特に言と事はよく通用させた。後にも「言教之大神者」があり、龍田風神祭祝詞に「皇神が事を教え諭された所で」、鎮火祭祝詞に「……と教え諭してくださった」、遣唐使時の奉幣祝詞に「皇神が、船を据える場所は私が造ろうと教え諭し、そのお言葉どおりに造ってくださったので……」などがある。「西方有国」は『書紀』が新羅国とし、ここも後に船の波が新羅国へ押し上がるとあるので、新羅を主に三韓全体へ及ぶだろう。

【宣長の注釈】金は『万葉集』巻十八では「くがね」だが、『和名抄』の「こがね」に従うべきで、諸書でも普段もそういうからである。意味は黄の金で、「き」が「こ」になるのは木陰・木末と同じ。「に」が荷前で「の」、「ひ」が火影で「ほ」となるように、イ段の音がオ段へ移る同じ形である。銀は『和名抄』で「しろかね」。『万葉集』巻五にも「銀も金も玉も、何になろう。何よりも優れた宝である子供に、どうして及ぼうか」とある。古く日本では金銀が出なかったので、それが豊富な国を服属させ授けよう、ということだ。『書紀』神代巻の天香山の金は高天原の話なので別だが、それも黄金でなく一般の金属、鉄である。三韓を『書紀』の神功・継体紀は金銀の国、顕宗紀は金銀の蕃国、武烈紀は銀郷と呼ぶ。銀郷は金の脱落かとも思うが、前後が四字句の漢文なので元からないのだろう。不審な文である。その国が服属してから、代々の貢物に必ず金銀がある。『推古紀』には、高麗の大興王が日本の天皇の仏像造営を聞き、黄金300両を献じたとあり、皇極紀にも高麗の金銀、天武紀にも新羅の調の金銀や天皇・皇后・太子への別献、持統紀にも新羅の金銀が見える。使用する金銀は、おおむね朝鮮の国々から渡ったのである。

【宣長の注釈】一方『続紀』巻二には、文武5年3月に凡海宿禰麁鎌を陸奥へ遣わして金を精錬し、同月、対馬島が金を献じ、大宝と改元した。8月には、以前に大和国忍海郡の三田首五瀬を対馬へ遣わし、黄金を精錬させたとある。これらが日本で金が出た最初である。同巻十七には天平21年2月、陸奥国が初めて黄金を献じ、畿内七道の神々へ奉幣して告げたとある。大宝元年の陸奥の金は、まだ黄金にならず献上もなく、ここで初めて献じたのだろうか。対馬の献金が既にあるのに「初めて」というのは、陸奥からの初献上ということか。また対馬は単に金といい、8月に黄金を精錬したとするので、十分精製していないものだったため、陸奥を初めとするのか。この時の詔は、日本には天地開闢以来、黄金を他国が献ずることはあっても、この土地にはないと思っていたのに、東方の陸奥守、従五位上百済王敬福が、小田郡に黄金があると報告し献上した、とする。『万葉集』巻十八の「陸奥国の金を出だせる詔書を賀く」長歌はこの詔のこと。『称徳紀』も、天平年間に陸奥が駅使を走らせ、小田郡の黄金900両を献じ、日本の黄金はここから初めて出たとする。銀について『天武紀』3年3月、対馬国司守の忍海造大国が、この国で初めて銀が出たと報告・献上し、小錦下を授けられた。日本に銀が出た初めなので、神々へ献じ、小錦以上の大夫らにも広く賜ったとある。『持統紀』5年7月には伊予国司田中法麻呂らが宇和郡御馬山の白銀3斤8両と銅一籠を献じ、『続紀』巻三には紀伊国の阿提・飯高・牟漏の三郡が銀を献じたなどとあり、次々に各地から産出したのである。

【宣長の注釈】『顕宗紀』には銀銭も見えるが疑わしく、仮にその頃使ったとしても朝鮮から来た銀だろう。金銀が埋蔵されていても、古代には出ず外国のものを使わせ、はるか後に産出し始め、次第に増えて近世は世界でも比べるものがないほど多く出る。これも神の心で、必ず理由があるはずで、普通の人間の道理では測れない、と宣長はいう。「爲本」は師の「はじめて」がよい。遠飛鳥宮の「大后を始め諸卿ら」、朝倉宮の「刀・弓矢を始め」、続紀巻四の「親王を始め、王臣百官ら」などと同じ。「目之炎耀」は「めのかがやく」と読む。「まの」はよくない。目を日とする諸本は誤りで、真福寺・延佳本による。『書紀』は眼炎と書き、まばゆいという意味で、物語の「目もあやなり」と同じ。『字鏡』の眩・眴の「めめぐる」「めかがやく」は語意こそ同じだが、用いる意味が違う。珍宝の二字は「たから」と読む。『書紀』神功・皇極紀などにもこの表記がある。「多在」は「さはなる」と読み、「なる」は「にある」の縮約だから、多くあること。『書紀』は宝の国とし、神功紀にも財宝国・財国・財土という。百済の肖古王が宝蔵を開き珍品を見せ、「我が国にはこのような宝が多く、貴国へ献じたいが道を知らない」と日本の爾波移へ語る話や、新羅の貢物は珍しいものが非常に多いという記事もある。欽明紀には大将軍大伴狭手彦が高麗を討ち、珍宝や財物、七織の帳、鉄屋を得て帰ったともある。

【宣長の注釈】「帰賜」は師の「よせたまはむ」に従う。「よせ」は寄らせる、従って来させることで、祈年祭祝詞の、遠い国へ多くの綱を掛け引き寄せるように神が寄せる、とある例や、『万葉集』巻十四の「寄せ綱延へて、寄すれども」、女をこちらへ引き寄せようとしても、という歌、巻十九の「寄る木積すごと、寄り来む児もがも」などがある。「賜」は国を与えて属国とする意味で、単に敬意を添える語ではない。三韓を服属させ授けることは、『書紀』神代巻にも素戔鳴尊の「朝鮮の島には金銀がある。我が子の治める国に浮宝、船がなければよくない」とあり、神代からのひそかな約束だったと宣長はいう。『書紀』仲哀8年の記事では、橿日宮で熊襲討伐を議した時、神が皇后に託して「なぜ熊襲の不服従を憂えるか。そこは国の背にある空しい国で、兵を挙げるほどでない。それより宝の国があり、美人の目や眉のように見える、海向こうの国である。まばゆい金銀や美しい色の品が多い、栲衾の新羅国だ。私をよく祭れば刃を血に染めず服従させられ、熊襲も服従する。天皇の船と、穴門直の踐立が献じた大田という水田を幣にして祭れ」と告げた。美人の目や眉のよう、とは『万葉集』巻六の「眉のごと、雲居に見ゆる、阿波の山」のように、遠くの山の見え方をいう。向津国は海の向こうに遠望する国で、継体紀の歌の遠ざかる「壱岐の渡り」も同様。前に宝国があるといったので、「有向津国」の有は「なり」と読む。彩色は錦繍・綾羅をはじめ色の美しい品々だろう。天武紀の新羅の献物、金銀・霞錦・綾羅・金器・屏風や、孝徳紀の金銀・錦綾・五綵がその例だろう。推古紀の高麗僧曇徴が彩色・紙・墨を作れるという彩色は、何を指すのだろうか。

【宣長の注釈】「ただ大海がある」までが天皇の返答である。「爲詐」は「いつはりせす」と読む。「せす」は「す」を延ばした古語で、見るをみす、聞くをきこす、立つをたたすとするのと同じく、なさるという意味。『万葉集』巻十九の「国をご覧になり、世の栄えを明らかに示す今日には……」などに例がある。今は偽りをいう、空言をいうとするが、古くは「いう」でなく「する」といった。中古も同じである。「謂」は「おもほして」。「押退」の退は「そけつ」と読む。「しりそく」は後方へ退くことで、ここはそうではなく、後世の押し遣ると同じ。「默坐」は「もだいましぬ」と読む。『万葉集』巻三の「もだ居て」、巻四の「もだえあらねば」「もだもあらましを」、巻七の「もだあらじと」、巻十一の「もだもあらむ」、巻十七の「もだもあらむ」などの例による。普通は「もだす」というので「もだしましぬ」とも読めそうだが、古語のもだす・もだしという例をまだ見ないため、『万葉集』の言い方に従って読んだ。「いましぬ」は『万葉集』の歌にある「居有」に当たる。

【宣長の注釈】「もだ」は「むだ」に通じ、何もせずいる意味で、俗にも徒や空の意味をむだという。ここでは本来、琴を弾き続けて神の命を承るべきなのに、やめたまま何もせずいたことをいう。神の「大忿」について宣長は、ああ恐れ多い、と繰り返す。「凡」はここでは「おほかた」と読む。「茲天下者……」は、宝の国を得られないだけでなく、この日本の国も治められまい、ということ。教える神はその時まだ誰か知られなかったが、後の名乗りによれば天照大御神である。その命を信じず、偽りをいう神とまでいった以上、大神が大いに怒るのも、天下を治められないのも当然で、恐れ多いと宣長は述べる。さらに、世の人々もよく考えるべきで、天皇だけでなく誰であれ、大神の心に背いて一日片時も生きられようか、と読者に呼びかけている。「向一道」は黄泉国へ行け、ということ。師が、天下には諸道があるが黄泉にはただ一筋の道しかないといったように、天下が四方八方の全域を含むのに対し、一国はどこでも一方に偏り、全域ではないためこういった。『崇神紀』で豊城命と活目尊の夢を判断し、兄は東だけを向くので東国を治め、弟は四方を臨むので位を継げとする趣旨に似る。「道」は「向かう」にちなむ言葉。黄泉国は根之堅洲国と呼び、特に片隅の国だから、一方に偏るのはなおさらだ。堅洲を片隅とする説は伝巻七25丁と参照されたい。『源氏物語』若菜下の「道異になりぬれば」も、死者がこの世と違う道へ行ったという意味だろう。『万葉集』巻十一の「……墨縄の、ただ一道に」や『続紀』巻二十七の「一道にしつ」は、一筋に、の意味である。

【宣長の注釈・書紀からの引用】『書紀』は、天皇が神の言葉を疑い、高岳へ登って遠望したが、海が広がるだけで国が見えず、「見回しても海だけで国はない。空に国があるのか。どの神がむなしく私を誘うのか。祖先の天皇たちは神々をすべて祭ったのに、祭り残した神がいるのか」と答えたとする。神はまた皇后に託し、「天つ水影のように押し伏せて私が見ている国を、ないとなぜ私の言葉をそしるのか。そのように信じないお前は国を得られない。今、皇后が初めて身ごもっている、その子が得る」といった。なお信じず、強いて熊襲を攻めたが、勝てず帰った。神功紀の別伝では、筑紫橿日宮の天皇に、神が沙麼県主の祖、内避高国避高松屋種へ託し、「御孫尊よ、宝の国が欲しいなら現に授けよう。琴を持って来て皇后へ差し上げよ」といった。皇后が琴を弾くと神が託し、「今欲する国は鹿の角のように実りがない。天皇の船と穴戸直の踐立の大田を幣として祭れば、美人の目のように見え、金銀がまばゆい国を授ける」と教えた。天皇は「神でもなぜでたらめをいうのか。どこに国があるのか。船を既に神へ献じたら、私は何に乗るのか。どの神かまだ知らないので、名を知りたい」と答えた。神は「信じない王は得られず、皇后の胎内の子が得るだろう」といい、その夜、天皇は突然病にかかって亡くなった、ともある。

【宣長の注釈】「白」は天皇へ申し上げること。「恐」は、神の命を信じず、かえってそしったことを恐れ、申し上げた。「我天皇」は「わがおほきみ」と読む。日代宮・朝倉宮の歌や『万葉集』にも多い。天皇と書いても、おほきみと読むべき例は多く、すめらみこと・すめらぎだけで、おほきみとは読まないと思うのは誤りである。『続紀』巻四では元明天皇が聖武天皇を我王と呼び、巻十では聖武天皇が元正天皇を同じく呼ぶ。巻九に我皇天皇、巻十に我皇太上天皇などもある。「大御琴」は、前後では御琴なのにここだけ大御なのは、人へ直接申し上げる言葉だからである。ここからも『古事記』が古語を失わない尊さが分かり、地の文と直接語りかける言葉の差を見分けたい。「あそばせ」は、お弾きくださいということ。『うつほ物語』俊蔭巻で、仲忠がいつもの曲を弾かず意外なものを弾くので、これでは褒美をどうすればよいか、もう少し細やかに「あそばせ」と頼むと、調子を変えて弾く。『源氏物語』少女巻にも、大臣が和琴を引き寄せ、「さらに御遊をしましょうか」と秋風楽に合わせて歌ったとある。明石巻の「演奏なさるよりもお心を引かれるお姿が、ほかのどこにありましょう」などもある。

【宣長の注釈】また紅梅巻に「気を許して演奏なさることもなく、折々におくつろぎになってお弾きになる琵琶の音を、昔聞いたことを思い出します」などとあり、「さあ演奏しましょうか。琴を持って来なさい」ともある。「あそばせ」は「あそべ」を延ばした古語で、敬意を表す。歌舞・管絃を行うのは皆「あそぶ」といい、管絃を名詞で「あそび」ともいう。上巻の天若日子の「日八日、夜八夜、遊ぶ」、伝巻十三52丁や、石屋戸の「爲樂」も「あそびし」と読むべき例で、伝巻八63丁に述べた。神楽・東遊も同じである。「神遊」は神楽で、古書に「かぐら」という語は見えず、『古今集』は神あそびの歌とする。中古の物語も管絃をもっぱら御遊と呼ぶ。『続紀』巻十五では皇太子の五節舞を見た太上天皇が、今日の舞は単なる遊びだけでなく、天下の人へ君臣・祖子の道理を教え示すものだろう、と詔した。刊本で遊を迹とするのは誤りで古本による。ただし君臣・祖子の道理という説明は大げさな中国風の考えで、音楽はただ遊びだというのが素直な元の意味だ、と宣長はいう。歌舞・管絃以外を「あそばす」という例は下巻朝倉朝の歌、伝巻四十二3丁で述べる。あそぶの元の意味は今の俗語と同じで、何にでも使うが、歌舞・管絃は遊びの極みなので、特にこの名を負うのである。

【宣長の注釈】「稍取依」の稍は素早くないこと。取依は押し退けた琴を再び引き寄せること。「なまなまに」の生は、十分に整わず熟さないことをいう。物語の「なまなまの上達部」「なまなまの博士」や、なまじいの「なま」も同じ。なまなま・なまじいには中途半端という意があり、俗語の「なまなかに」も、まだ到達していない半ばの意味で生に通じる。ここは熱心に十分弾かず、しぶしぶ少しずつ弾く様子で、稍とも合う。神の命を信じず、弾くまいと思ったのに、人に促されて気が進まず弾いたからである。「控坐」の坐は「いまし」で、単なる尊敬の添え字ではなく、弾いて座っていること。「未幾久而」は「いくだもあらずて」と読む。『万葉集』巻五の「いくだもあらねば」、巻十の「さ寝始めて、いくだもあらねば」などによる。「あらねば」は、ないのにという意味。ここは幾らもたたず、間もなく、である。『万葉集』巻四・十一の「幾久毛」の現行の読みは古語に合わず、「いくひさも」か「いくばくひさも」などと読むべきだが、ここでは久を読まない方がよい。「不聞」は「きこえずなりぬ」で、なりぬは徐々に音が絶えたこと。「擧火」は字どおり「あげて」と読む。師はともしてとし、上巻に燭一火もあるのでそれも可能だが、ここは元からあった灯を近くへ寄せ、掲げて見たように聞こえる。ただし沙庭には灯をともさない礼だったのか、それならともしてとなるが不明である。あるいは灯がなく焚火だけだったので、近くで見るため新しく点火したのか。いずれにせよ「あげて」で悪くない。『天武紀』の擧燭も近くへ持って掲げる意で「あげて」と読むべきだ。「旣」は師の「はやく」、俗に「はや」という読みへ従う。

【宣長の注釈・書紀との比較】『書紀』は神託を8年のこととし、9年2月、癸卯朔の丁未に天皇が突然「痛身」となり、翌日亡くなったとする。小字には、神の言葉を信じ用いなかったため早く亡くなったと分かる、とあり、別伝では自ら熊襲を討ち、敵の矢に当たって亡くなったとする。いずれも異なる伝承である。「有痛身」を本は「なやみたまふことあり」と読むが、単なる病なら痛身とは書かないだろう。体に痛みがあったのかもしれない。

【古事記本文】人々は驚き恐れ、天皇を仮に葬る殯宮に安置した。改めて国の大幣を取り、「ぬさ」の二字は音を表す。生きたまま皮を剥ぐこと、逆さに皮を剥ぐこと、田の畔を壊すこと、溝を埋めること、糞をして穢すこと、自分の母や娘との交わりなどの「親子婚」、馬・牛・鶏・犬との交わりといった、さまざまな罪の類を取り上げ、国の大祓を行った。再び建内宿禰が沙庭で神の言葉を求めると、教え告げられた内容はすべて前の日と同じだった。

【古事記本文】「そもそもこの国は、あなたの腹中にいる御子が治める国である」。

【宣長の注釈】「驚懼」は天皇の急死に驚き、神の祟りを恐れること。「殯宮」は「あらきのみや」と読む。『万葉集』巻三の、長屋王が死を命じられた後の倉橋部女王の歌に「大君の仰せは恐れ多いので、喪を営むような時ではないのに、王は雲隠れなさった」とある。この大荒城は喪の時をいい、同集の「某尊の殯宮の時」と同じだからである。地名とする解釈はひどいこじつけで、時ではないのにとは、本来喪を営む時期でないのに、の意。長屋王は謀反の疑いで罪を厳しく問い、自死させたと『続紀』にあり、今の武家の切腹命令のようなもので、寿命を終えての死でないため時ではないといった。荒城の「あら」は、鉱石や、まだ磨いていない玉である璞などに用いるあらと同じで、死んだばかりでまだ何も処置できない状態をいう。今も新しい亡者・斎・火を「あら……」と呼ぶ。「き」は墓の「き」と同じ。死んで間もなく、まだ埋葬を終えず、一時遺体を収め置く殿をあらきと呼び、天皇のものはあらきの宮というのである。今、伊勢の私の郷里松坂でも、死者が出た家では細竹や葦を二、三尺ほどに切って適度に束ね、縦に札へ結び、二、三日門口へ立てて新しい喪のしるしとし、「あらかき」と呼ぶ。これも荒城の趣旨だろう。諸国の習慣を調べれば古い作法や名が多く残っているはずだ。『允恭紀』には殯宮を担当する大夫、玉田宿禰や、殯宮へ参集する記事がある。『敏達紀』は広瀬に殯宮を建て、推古紀は南庭で殯し、殯宮で誄を述べる。舒明紀は百済宮で崩じ、宮の北で殯し百済大殯とする。天智紀は新宮、天武紀は南庭に殯宮を建てたとある。宮中にも別の場所にも設けたのである。大荒木森という地名も、古代天皇の大殯宮の跡なのだろう。

【宣長の注釈】『書紀』などは殯をみな「もがり」と読む。ある説は喪あがりの意味とし、仲哀紀の「火なし殯斂、これをほなしあがりという」による。もっともで、師はこの注により殯をすべて「あがり」と読んだ。しかし『万葉考』で、あらきのあらは仮の意、きはかりの縮約で、元々あがりと同語だとするのはどうか。両語は元から別である。殯をどちらで読んでもよく、あがりの宮でも誤りではないが、ここはあらきの宮の方が直接よく合う。動詞の殯すは、あがりすでよい。あがりの意味は、天皇の死を神上と呼ぶことに基づく。底の石根の国・黄泉へ行くというのを忌み、その反対の天へ上るといい換えたのである。僧を髪長、葦をよしと逆にいうのと同じで、皇子にも天を治めるなどといい、場合によって普通の人にも使う。そういう死の際の、天へ上るための終わりの行事の意であがりという。師は遠江では死後三日目の行事を「三日のあがりす」というと述べた。京などでは「しあげ」といい、これも天へ送り上げる行事で同じである。そこから転じて、物事の完成を出来上がる・し上がる、病が治ったばかりを病み上がり、雨が晴れると雨上がりなどという。また下げるべきものも上げるといい、膳を上げる、神に供えた物のお下がりを上がりという類もある。天皇の位に関して下す・下るを忌むため反対をいうのかもしれない。仕事を終えて退くことも上がるというが、それは散るということかもしれない。『万葉集』巻二には天皇の大殯の時のほか、日並知皇子尊、高市皇子尊の城上殯宮、明日香皇女の木綴殯宮の時などとある。師は、天皇以外は別に殯宮を建てず、一周忌まで墓に奉仕する期間全体を殯といったとする。しかし宮がなかった証拠も、確かにあった証拠も見えない以上、殯宮の時と書くのだから、仮に実際の宮は建てなかったとしても、殯宮と呼んだのは明らかだ。

【宣長の注釈】『孝徳紀』の、王以下庶人まで殯を営んではならないという制からすれば、皇子は殯をしたし、それ以前は王以下もしたはずである。また歌の「殯宮の時」は喪の時で、必ずしも宮に遺体がある間だけでなく、実際これらの歌は埋葬後まで詠むので、一周忌までとする師の説は当たる。『斉明紀』の、皇孫建王が8歳で亡くなり、今城谷の上に殯を設け、私が死んだら陵に合葬せよと詔した例は、天皇の死後まで置くので、普通とはたいへん違っただろう。「坐」は「ませまつりて」、お置き申し上げてと読む。玉垣宮の「御子を横極の長穂宮に坐せ」の注、伝巻二十五34丁で理由を述べた。『書紀』では、皇后と武内宿禰は天皇の死を天下へ知らせず隠した。皇后は武内宿禰・中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部胆咋連・大伴武以連へ、民が知れば気が緩むだろうといい、四大夫に百官を率いて宮中を守らせた。遺体をひそかに武内宿禰へ託し、海路で穴門へ移して豊浦宮で火を用いない殯斂を行い、甲子の日に宿禰が帰って報告した。その年は新羅の役で葬れなかったとある。「更」は再び改めてで、後の神の命を請うまでかかる。

【宣長の注釈】「国之大奴佐」の国は、次の国之大祓と同じく諸国をいう。師が筑紫内の諸国かとするのもあり得る。普通は天下の諸国だが、ここは筑紫の国々とも、一国としての筑紫とも考えられ、決められない。国中からという意味で、大は大祓と同じく、広く国中から集めるためである。「ぬさ」は神へ手向ける物も、祓いに出す物もいう。『万葉集』は皆前者で、幣・幣帛とも書く。語源は「ねぎふさ」が縮まったもので、願い祈って差し出す意。祓いのぬさも罪穢れを取り除いてほしいと願うので、神へ献じ祈るのと趣旨は同じである。「ふさ」は麻で、『古語拾遺』はよい麻が生えるので総国と呼び、古語で麻を総といい、今は上総・下総の二国とする。ほかに麻をふさという例は見ないが、総国の名からすれば確かにそうだったのだろう。供物にはさまざまな品があるのに、特に麻の名を使うのは、主要な一種にちなんだからで、麻とも書く。後に引く神祇令が各戸から出す品を麻だけとすることからも分かる。『大神宮儀式帳』の三祭16日、西の河原の祓いでは、各自ぬさ麻を持って宮の東へ向き、各人が自分に関する穢れと、後家、すなわち自分の家の穢れを明らかに述べ(「人別之」の次の一字は判読保留)、持つ麻を一本ずつ御巫内人へ渡す。内人は取り集め、各人の穢れを詳しく伝えて申し上げるとある。「ぬさ麻」はぬさとして出す麻で、ぬさと麻の二つではない。ここのぬさは大祓の祓物で、上巻の千位置戸、伝巻九1~6丁と考え合わせ、古代の大ぬさの意味を知るとよい。

【宣長の注釈】しかし今の京などでは、大祓の大ぬさは名だけ残り、古い形が大きく変わって本来の意味が失われた。『貞観儀式』は神祇官が切麻を配り、祓いの後に大麻を行い、次に五位以上が切麻を扱い、散会するとする。ただし「次」の下の字は私が見た本では皆不鮮明で、撮か援などだろうか。「行大麻」をどう行ったかも不明である。『江次第』は、神祇官人以下が大麻を持ち、上卿以下の座前で引き、上卿・弁・大夫・諸司ごとに料を異にするとし、『西宮抄』の、上卿の料は「祐曳」という品(語義は未確定)、という文も引く。『古今集』の「大麻の、引く手あまたに、なりぬれば……」について、顕昭は、陰陽師の持つ串に差した紙垂で、祓いが終われば各人が引き寄せて撫でるものだとする。この説明なら、歌の引く手と『江次第』の座前で引くとは別で、混同すべきでない。公の大祓の名を借り、私的な祓いにも大麻というのか。それでは「大」が合わない。ただし師の『冠辞考』の、大きなぬさという説によれば、儀式書も切麻に対して大きい意味で、古代の大ぬさとは元から別だったのかもしれず、詳しくは分からない。いずれにせよ、古代の大ぬさと中古以降のものは趣旨が違う。また神事で榊の枝に麻と紙を垂らしたものもぬさといい、紙は木綿の代わりである。神社から授ける御祓大麻も、木綿と麻を串へ挟む形で、やはり紙を代用する。

【宣長の注釈】「取」は、神祇令が、大祓をする諸国は郡ごとに刀一口・皮一張・鍬一口・雑物、戸ごとに麻一本、国造は馬一疋を出すと定めるように、各郷・各戸から祓物を出させて集めること。それによって国中の各人の罪穢れを祓い清める。『天武紀』5年8月は、四方で大解除を行い、国造は国ごとに祓柱として馬一匹・布一常、郡司は刀一口・鹿皮一張・钁一口・小刀一口・鎌一口・矢一具・稲一束、各戸は麻一本を出すとする。10年7月にも天下の大解除で国造らが奴婢一人を祓柱として出すとある。今の京などでは定例の大祓に、各戸・各人から祓物を出すことはなかったらしく、『貞観儀式』『延喜式』にもない。『儀式』は神祇官が朱雀門前の道の南に六か所へ祓物を置き、馬はその南で北向きにするとするが、神祇官が用意するだけである。四時祭式の六月・十二月晦日の大祓の品々は、その六か所の物だろう。別に大麻・切麻はあるが、前述のとおり古い形と違う。ただ、神官や神事に罪があれば臨時の祓いを科し、物を出させる制度は中古まであった。

【宣長の注釈・延暦20年5月太政官符の引用】罪の程度に準じて祓いを科す定めは次のとおりである。大祓の料物28種は、馬一疋、大刀二口、弓二張、矢二具、小刀六枚、木綿六斤、麻六斤、庸布六段、鍬六口、鹿皮六張、猪皮六張、酒六斗、米六斗、稲六束、鮑六斤、堅魚六斤、雑干し肉六斤、塩六升、海藻六斤、滑海藻六斤、食薦六枚、薦六領、杯六口、盤六口、柏十五把、瓠四柄、楉四枚、席一領。大嘗祭を欠き、またその斎月中に弔喪・問病、死刑文書への署名、処罰、肉食、不浄に関わることをした者に科し、官人は現職も解く。上祓の料物26種は、大刀一口、弓一張、矢一具、小刀二枚、木綿三斤、麻三斤、庸布三段、鍬三口、鹿皮三張、酒三斗、米三斗、稲三束、鮑三斤、堅魚三斤、雑干し肉三斤、塩三升、海藻三斤、滑海藻三斤、食薦三枚、薦三領、杯四口、盤四口、柏十把、瓠二柄、楉三枚、席一領。新嘗・鎮魂・神嘗・祈年・月次・神衣などの祭を欠き、伊勢大神宮の禰宜・内人を殴り、天皇の食物を穢し、新嘗等の祭の斎日に弔喪・問病など六つの禁忌を犯した者に科す。中祓の料物22種は、小刀一枚、木綿一斤、麻一斤、庸布一段、鍬一口、鹿皮一張、酒一斗、米一斗、稲一束、鮑一斤、堅魚一斤、雑干し肉一斤、塩一升、海藻一斤、滑海藻一斤、食薦二枚、薦二領、杯四口、盤四口、瓠一柄、柏五把、楉二枚。大忌・風神・鎮花・三枝・鎮火・相嘗・道饗・平野・園韓神・春日などの祭を怠った者、物忌・戸座・御火炬という祭祀に仕える者たちを殴った者、物忌女と私通した者、穢れに触れたまま御膳所に関与した者、忌火等の祭の斎日に祝・禰宜や祭に携わる神戸の人を殴った者、また弔喪・問病など六つの禁忌を犯した者に科す。下祓の料物22種は、小刀一枚、木綿六両、麻六両、庸布一段、鍬一口、鹿皮一張、酒四升、米四升、稲四把、鮑六両、堅魚六両、雑干し肉六両、塩四合、海藻六両、滑海藻六両、食薦一枚、薦一領、杯二口、盤二口、瓠一柄、柏五把、楉二枚。諸々の祭祀を怠った者、斎日に祝・禰宜および祭に携わる神戸の人を殴った者、また諸禁忌を犯した者に科す。料物は各一覧のとおり納める。

【宣長の注釈】官符は続けて、右大臣の宣命によれば、従来は神事の罪に祓いを科して贖罪させたが、善悪の二祓を一人に重く科し、規定が煩雑で納入品も多く、運用が過酷で細かすぎ、民を深く損なうため、以上の例へ改めるとする。暴行による傷害が重い場合は、祓いのほか法により処罰し、斎期間外のけんかは律で処罰して祓いの対象にしない。祝・禰宜らに処罰すべき罪があれば先に職を解いて処罰し、神戸の民も斎期間外なら法に従う。以上を奏上し、勅命で願いどおり認められた、という。『類聚三代格』の文である。ここで大祓とは、大・上・中・下の四等級の最上位で、国の大祓という意味ではない。混同してはならない。『斎宮式』も雑色人以上のけんかに上祓、官人や宮中の男女が仏事を修し、私通・密かな婚姻をした時に中祓を科す。『三代実録』巻十一は、内膳の典膳、雀部祖道が役所内の死穢を隠したため上祓を科したとする。神事ではないが穢れの罪だからである。『日本紀略』寛弘7年9月25日にも、大原野社の近くに葬送する者がいて、担当者らが大祓を負ったとある。「生剝・逆剝」の生は「いき」で、「いけ」は誤り。師の『祝詞考』は、『古事記』に機屋の屋根を穿ち、天の斑馬を逆剥ぎにして落とし入れたとある、それだと述べる。

【宣長の注釈】生剝は生きたまま皮を剥ぐこと、逆剝も同じ事柄で、重ねるのは古文の表現であり例が多い。逆剝を死んだ獣の皮を剥ぐこととする説は、普通の行為なのになぜ罪目に入るのか説明できず、誤りで、生剝の逆剝と理解すべきだという。ただし宣長は、死獣の皮を剥ぐのは常事だという師の説明には注意が要るとする。この罪は生死を問わず皮剥ぎ自体を罪とするのでなく、生剥ぎの馬で神聖な機屋を穢したことをいう。『古語拾遺』も生剝逆剝とし、小注に生きた駒を逆に剥ぐとある。したがって意味では「生剝の逆剝」と読むべきだが、天つ罪・国つ罪の各項は短い罪名なので、ここだけ「の」を加えてはほかと違うため、二項のように呼び慣らしたのである。逆剝は尾から首へ逆向きに剥ぐこと。通常の皮剥ぎもこの向きで、単に剥ぐといっても同じなのに、特にこういうのは言葉の飾りである。『書紀』神代巻にも天斑駒を剥ぐ、別伝には逆に剥ぐとある。畔離・溝埋について、同巻には春に種子を重ね播き、秋に天斑駒を田へ放つ話、別伝には水路を堰き、溝を埋め畔を壊し、種を重ね播き、秋の実りに縄を張る話、また春の種播きで畔を壊し、秋の穀物に縄を張る話などがある。ここはそれらから一つ二つを挙げ、残りを含ませたのである。

【宣長の注釈】「屎戸」は「くそへ」と読む。「くし」とするのは、くそを嫌って避ける後世の言い方で、古くはなく、『書紀』も排便を「くそまる」とする。戸を「と」と読むのもよくない。上巻の、大嘗の殿へ糞をした話である。戸は借字で「へり」の「り」を省き、糞を排出すること。知るをし、渡りをわた、腸をわたとする類である。『和名抄』の痢を「くそひりのやまひ」という「ひり」に通じ、放屁・嚏の「へひる」も元は同じ言葉で、今、小虫が卵を物へ産み付けるのを「へりつける」というのも同じ。昔からこの戸をへと知らず、『古語拾遺』の小注が糞を戸へ塗るとするほか、字に従って戸口と解したのは誤りである。師の、場所の意味で便所にするという説も、便所だけでは言葉が足りない。罪目はみな剥ぐ・埋める・壊す・交わるなど行為で名付けるので、ここも糞をして穢す行為を指すはずである。ここまで皆、須佐之男命が犯した罪で、上巻、伝巻八初めと照合してほしい。大祓詞は、国中で生まれる人々が過ち犯すさまざまな罪を、天つ罪として数え分け、畔放・溝埋・樋放・頻蒔・串刺・生剝・逆剝・屎戸を挙げる。天上で犯したため天つ罪といい、『儀式』もそうする。師は、須佐之男命の犯した七つの罪になぞらえ、後に人が犯す同類の罪もそう呼ぶという。『大神宮儀式帳』も畔放・溝埋・樋放・敷蒔・串刺・生剝逆剝・屎戸を天都罪として挙げる。『古語拾遺』は毀畔を「あはなち」、埋溝を「みそうめ」、放樋を「ひはなち」、重播を「しきまき」、刺串を「くしさし」とし、生剝逆剝・屎戸を続ける。生剝以下に古語の読みがないのは、どうしたことか。

【宣長の注釈】「上通下通婚」は、旧刊本などで下通が脱落するため真福寺・延佳本による。上通の下にも婚があって脱落したようにも見えるが、元から最後の一字だけだろう。「おやこたはけ」と読む。『古事記』の表記なら祖子婚と書きそうで、上通下通とは書きそうもないため、別の読みも考えられる。しかし各項が罪名なので、ここも罪名でなくてはならず、字に逐一従うとほかと合わない。親子を上下とするのも古語でないので、意味により書いた字と考え、読みを字に縛られてはならない。婚が上通の下になく、末尾だけにあるのも、上通・下通を一つにまとめ、後の四種の婚の罪名と同じ形で読むためである。

【宣長の注釈】「たはけ」は、交わってはならない相手と性的関係を結ぶことである。『字鏡』の「奸」に「姦を犯すこと。たはく」とある。「婬」には「たはる」ともあり、『万葉集』巻二十の「多波和射」も、もとは同じ語である。『日本書紀』では婬・奸・通だけでなく、娶・婚などの字も、みな「たはく」と読む。
ここでいう罪名は、『儀式』や大祓詞などの「己母犯罪」「己子犯罪」「母與子犯罪」「子與母犯罪」の四種をまとめたものだ。ただし、ここに並ぶ罪名には省略した言い方が多いので、初めの二種だけを指し、後の二種には触れていないと考えることもできる。大神宮儀式帳なども初めの二種だけを挙げ、後の二種を省いているから、四種と見ても二種と見ても支障はない。「上通」は自分の母を犯すこと、「下通」は自分の娘を犯すことを表し、女性とその母をともに犯すことを上通に、女性とその娘をともに犯すことを下通に含められる。
四種のうち「母與子犯罪」とは、関係を持った女性の娘とも関係を持つことだ。「母」はその娘との関係でいう。師は「他人の母を許し、またその子を許すこと」と説明したが、「他人の母」では、誰かの母親である女性と関係を持つ罪のように聞こえてしまう。それが意味するところではない。誰かの母親という意味なら「人の母」というはずで、単に「母」とはいわない。「子與母犯罪」は、関係を持った女性の母とも関係を持つことだ。この「子」は、その母との関係でいう。『仁賢紀』の「住道の人、山寸が、玉作部鯽魚の娘をも犯した」という記事は、この罪に当たる。初めの二種で「己母」「己子」と「己」を添えるのは、後の二種の母・子と区別するためである。この四種を言い分けた表現は、古語の優れたところで、後世の人にはこのようにはいい表せない。「親子婚」といえば、この四種全体を含むことになる。

【宣長の注釈】「馬婚」は「うまたはけ」、「牛婚」は「うしたはけ」、「鷄婚」は「とりたはけ」と読む。上巻の八千矛神の歌では鶏を「かけ」と呼ぶが、ここでそう読むのはふさわしくない。鶏を単に「とり」と呼ぶのも普通のことである。東にかかる枕詞の「とりがなく」を、『万葉集』では「鶏之鳴」と書く。「犬婚」は「いぬたはけ」と読む。
前の生剝からここまで、並べられているのはすべて罪の名なので、意味をくみ取り、それぞれ名詞として読まなければならない。剝・離・埋・戸・婚はみな動作を表す語だが、名目となるときは名詞になる規則で、読み方も変わる。罪を名前で呼ぶのは、現在でも「人殺し」「火放け」「贋銀爲〔偽銀作り〕」「関所破り」というのと同じだ。これらの罪名も、そのようなつもりで読む。
また、阿離は「畔を離ち」、馬婚は「馬にたはけ」という意味でも、名目として呼ぶときには「を」「に」などの助詞を省く。これは昔も今も同じ決まりである。「舟に乗る」を「舟乗」、「山に伏す」を「山伏」というのと同じだ。だからここでも離阿とは書かず阿離と書き、於馬婚・婚馬などとせず、馬婚と書いている。この点からも名詞として読むべきことがわかる。
この四種の家畜は家で飼い、いつも人の身近にいるので、性的関係を持った者もいたのだろう。『天武紀』には、牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食べてはならないとの制がある。『日本紀略』には応和二年四月十九日丙午、斎院の禊の日、出雲守橘秦胤の家の下男一人が犬と交わった、という記事もある。

【宣長の注釈】大祓詞には、国つ罪として、生膚断・死膚断・白人・胡久美・己母犯罪・己子犯罪・母與子犯罪・子與母犯罪・畜犯罪・昆虫の災・高津神の災・高津鳥の災・畜仆し・蟲物爲る罪を挙げ、このようなたくさんの「つみ」が現れる、とある。
この国つ罪の各項には、昔からさまざまな解説があるが、当たっていないものが多い。それは、古い意味を知らず、また「つみ」という語の意味をつかまずに、「罪」の漢字だけに即して考えるからだ。「つみ」の意味は次に詳しく述べるので、そこを考え合わせてほしい。
ここに挙がる国つ罪は、「穢れ」「悪い行為」「災い」の三種に分かれる。生膚断から胡久美までは穢れである。生膚断なども皮膚が切れて傷ついたことによる穢れであって、人を殺した罪を挙げているのではない。「白人」は白癩の類、「胡久美」は瘜肉、こぶやいぼのように盛り上がる肉の類で、どちらも『和名抄』に見える病の呼び名である。これらを含めたのも、穢れとされるためだ。『儀式』の大嘗祭の条で、忌むべき六項目の中に「穢悪の事にあずかること」を挙げ、その細注に「祓詞にいう天つ罪・国つ罪の類は、すべて神が穢らわしいとし、嫌うものである」とある。ここからも、これらの条項に穢れを挙げたものがあるとわかる。ここでの病と穢れの結び付けは、宣長が説明する当時の祭祀観である。
己母犯罪から畜犯罪までは悪い行為である。昆虫・高津神・高津鳥は災いである。高津神の災は、雷に打たれて死ぬようなことをいうのだろう。高津鳥は、空を飛ぶ鳥という意味で、「昆虫」と同じような言い方である。大殿祭の詞に「天乃血垂飛鳥乃禍無久〔天から血が垂れる災い、飛ぶ鳥の災いがなく〕」とあるのでわかる。「高」は空をいう。上代の人家は簡素で、野山の中に交じって住んでいたので、鳥や虫の害が多かった。このことは『神代紀』で大己貴命が少彦名命とともに、鳥獣・昆虫の災いを除くため、その禁厭、すなわちまじないで災いを防ぐ方法を定めた、とあることなどからわかる。

【宣長の注釈】災いも「つみ」と呼ぶ理由は、次の説明を参照されたい。
次の「畜仆し」以下は、再び悪い行為である。この一項を前の悪い行為のすぐ後に置かず、災いの項を挟んで別に挙げたのは、前のものと性質が異なるためだろう。前のものは人に直接害を与える行為ではないが、これはまさに人に害を与える行為だからだ。この三種の区別は、言い方を変えている点からもわかる。穢れに属するものはただ名称を挙げ、「罪」とはいわない。悪い行為は「何々の罪」、災いは「何々の災」といい、三種に分けている。文章を考えて見てほしい。
師の『考』では、白人・胡久美を新羅人・高句麗人とし、「美」は「麗」の誤りだとしている。そして己母犯以下の四種の罪は、日本に来住したそれらの国の人々が犯したもので、日本の人が母子で交わったことなど、仮にも聞いたことがないので、白人・胡久麗はそのような交わりに結び付けて述べている、とする。しかし、この説明には納得できない。まず、『儀式』にも「故求彌」、伊勢の儀式帳にも「古久彌」とあるので、「美」が「麗」の誤りとはいいにくい。また、日本人の母子間の交わりが記録にないからといって、そんなことがなかったと、どうして断定できよう。民間にそれがあっても、何かの機会でもなければ、そのような内々の細かな事柄まで古い記録に書くはずはない。記載がないことを、なかった証拠にはできない。
貞観儀式には、これらのうち高津神の災・高津鳥の災の二つがなく、残りは同じである。大神宮儀式帳には「国つ罪として犯し始めた罪は、生秦断・死秦断・己母犯罪・己子犯罪・畜犯罪・白人・古久彌・川入・火焼の罪である。これらを国つ罪と定め、過ちを犯した人にさまざまな祓いの品を出させ、祓い清めると定めた」とある。白人・古久美が己母犯罪などよりも後に置かれていることからも、新羅・高麗の人を指すのではないと明らかである。
「川入」は川で溺れ死ぬこと、「火焼」は火に焼かれて死ぬことで、これらも穢れである。「かはいれ」「ほやき」と読み、人を川に沈めたり火で焼いたりして殺すこととする説は、穢れを「つみ」と呼ぶことを知らない、例の無理な解釈だ。「国つ罪として犯し始めた罪」という言い方は、天つ罪の例から考えると、御孫の命が天降った後にこれらを犯し始めた出来事があったため、それ以来、国つ罪の項目として定まったということなのだろう。

【宣長の注釈】「罪類」。そもそも「つみ」は「つつみ」が縮まった語で、古語の「つつみなく」「つつまはず」などの「つつみ」と同じであり、さまざまな悪しき事をいう。「つつむ」と「つつしむ」はもとが同じだが、「つつしむ」は悪しき事が起こらないように、起こさないようにする面をいい、「つつむ」はそれを表に出すまいと隠す面をいう。「つつみなく」は悪しき事がないことだ。これらは派生した意味こそ異なって見えるが、もとは一つである。
したがって、悪い行為だけをいうのではない。嫌い避けるべき悪しき事であれば、穢れや災いなど、自分の意思でしたのではなく、自然に起こったことも、すべて「つみ」という。ところが世間では「罪」の漢字にとらわれ、悪い行為だけをいうと考えて「つみ」本来の意味をわきまえないため、祓いの罪目が理解できず、誤って解説することが多い。「罪」の字は悪い行為に限って当てたもので、「つみ」の意味全体には合わないことが多い。この字にとらわれてはならない。
物語などでは、人の容貌に悪いところがないことを「罪なし」と表現することが多い。これも中古まで古い意味が残っていたものだ。それを、前世に悪業の罪がなかったので美しく生まれたという意味だ、などとするのは、ひどく無理な解釈である。また、災いに遭うことを「つみ」と呼ぶのも、自分の犯した罪の報いで災難に遭うのだとする説も、同じく無理な解釈だ。すべて漢字の「罪」にとらわれた誤りである。
「類」とは、列挙された項目だけに限らず、そのほかにも数多くあるものを含めた言い方で、大祓詞などの「ここだくの罪出でむ〔これほどたくさんのつみが出てこよう〕」と同じだ。あの文章も、列挙した以外に、省いた罪目がなお多いので、こういうのである。
さて、ここに挙がる国つ罪を見ると、性的な交わりの類だけ、馬・牛・鶏・犬との場合まで一つずつ詳しく挙げ、ほかにも多いはずの別の罪は一つも挙げていない。妙に思えそうだが、ここにこそ古い文章の巧みな美しさがある。ほかの罪をあえて一つも挙げず、交わりの一類だけを詳しく列挙し、ほかの罪もこれにならって、一類ごとにさまざまなものがあると察せさせたのだ。ほかの罪が一項もないことに注意すべきである。したがって「類」は、直前の「婚」などと同じ種類という意味ではない。通常これらの婚と並べて名を挙げる、さまざまな罪をいうのである。

【宣長の注釈】「種々求」とは、国じゅうの人について、天つ罪・国つ罪のさまざまな項目のうち、どれであれ犯したものを探し出すことをいう。穢れや災いなども、その事が起きていることを「犯した」と呼ぶ。大祓詞などの「ここだくの罪出でむ」とは、そのように探し求めるままに、人々が犯したさまざまな「つみ」が数多く現れることをいう。

【宣長の注釈】昔の人は心が素直だったので、身に犯したことのある者は、大祓にはおおむね隠さず申し出た。明かして申し出れば、その「つみ」は祓いによって除かれ清まるが、明かさなければ清まらないからである。
「国之大祓」の「国」「大」の意味は、「国之大奴佐」の所で述べたように、国じゅうすべてを対象とする祓いということだ。毎年の朱雀門前の大祓なども、国じゅうを対象とはしないが、百官のすべてが行うため大祓という。
『日本書紀』天武巻には、五年八月に「四方で大解除を行え。用いる物は云々」との詔がある。これは前にも引いた。七年には「この春、天神地祇を祭ろうとして、天下でことごとく祓禊を行った」、十年七月には「天下に大解除を行わせた」とあり、後者も前に引用した。朱鳥元年七月にも、諸国に大解除を行わせる詔がある。『続日本紀』には、文武天皇二年十一月に使いを諸国へ遣わして大祓を行ったこと、大宝二年十二月壬戌には大祓を廃止したが、東西の文部の解除は平常どおり行ったこと、慶雲四年正月には諸国の疫病のため使いを遣わして大祓を行ったことが見える。
『文徳実録』では、嘉祥三年四月辛亥に喪服を除くため、まず大中臣氏の者を五畿内・七道の諸国へ遣わして大祓を修し、癸丑に天皇が吉服を着て、朱雀門前で大祓を行ったとある。大嘗祭式では、大祓使は八月上旬に占いで決めて遣わし、左右京に一人、五畿内に一人、七道にはそれぞれ一人とする。下旬には改めて祓使を占定し、左右京に一人、五畿内に一人、近江・伊勢の二国に一人を遣わす。在京の諸司は晦日に集まって祓い、六月・十二月の二季と同じ作法とする。
『三代実録』には貞観七年七月二十九日戊申の晦日、それより前に武徳殿の前で人が死んだため、建礼門前で大祓を行い邪気を除いた、とある。『小右記』でも、天元五年四月二十一日に作物所の板敷の下で犬が死んでいたこと、二十三日に大祓があり、賀茂祭の期間中、内裏に穢れがあるときは、先例では大祓を行うということが記されている。

【宣長の注釈・師の『祝詞考』の説】大祓は神代から伝わり、橿原宮で初めて国を治めた御代にも、絶えず行われていただろう。しかし上代の記録では『古事記』以外には記載が漏れ、後になって天武天皇紀に見える。持統天皇紀にまったく見えないのも、記載が漏れたためだろう。天武天皇の御代の初めの記事には臨時の大祓が見え、大宝元年になると、六月・十二月の晦日に行うことが令の条文に挙がる。このように定例となったことを考えると、早くから年二度の大祓もあったのかもしれない。しかし、天武天皇の御代には二度とも七月初めに行われ、文武天皇の御代の初めにも六月・十二月の晦日の記事がないことを考えると、この定例は大宝元年に定められたものとすべきだ。それ以後の史書では、定例なので省略して記さない。大宝二年十二月晦日の大祓が廃止されたのは、その月に太上天皇が崩御したためである。文部の解除は外国の流れをくみ、日本の神事ではないので、服喪中でも行われたのである。

【宣長の注釈】諸国の大祓の作法を記したものはないが、朝廷で行う式によって推し量ることができる。神祇令には「六月・十二月の晦日に大祓を行う。東西の文部は祓刀を奉り、祓詞を読み終える。百官の男女は祓所に集まり、中臣が祓詞を述べ、卜部が解除を行う」とある。
文部の読む祓詞について、『令義解』には「文部は漢音で読む」とあり、その詞も『式』の大祓詞の末尾に載る。師の『考』によれば、これは文部の遠祖の時代から伝わった文章とは思えず、はるか後代の様子なので、中国または百済などの巫祝の唱える詞に基づいて作ったのだろう、もともと日本に由来することではない、という。また「卜部が解除を行う」というのも上代のことではなく、令の時代の定めだろう。この件は大祓詞の終わりの文章についての論に述べてある。
『続日本紀』の養老五年七月には、文武百官に、妻・娘・姉妹を率いて六月・十二月晦日の大祓の場に集まるよう、初めて命じたとある。令の「百官男女」の女は女性の官人であって、官人の妻や娘ではない。しかし『式』で妻・娘・姉妹に触れないのは、「百官男女」の中に含めたためかもしれない。また考えると、令の「百官男女」の文言は養老五年に改められ、これも妻・娘・姉妹を含んでいうのかもしれない。
四時祭式の「六月晦日の大祓」には、十二月もこれに準じるとして、「晦日の申の時より前に、親王以下の百官は朱雀門に集まり、卜部が祝詞を読む」とある。ただし「卜部が読む」は、きっと後人が改めた誤りである。祓詞は中臣が読むもので、式の本文にこのような誤りがあるはずはない。
太政官式には「六月・十二月の晦日には、宮城の南の道で大祓を行う。大臣以下五位以上は朱雀門に就く。弁・史は各一人、中務・式部・兵部などの省を率い、参集した人数を申し出る。百官の男女はみな集まって祓いを受ける。臨時の大祓も同じ」とある。

【宣長の注釈】朱雀門前の大祓の作法は貞観儀式にも見えるが、祓いそのものの手順は「各員が立ち定まった後、神祇官が切麻を配る。終わると中臣が進んで座に就き、祝詞を読む。『お聞きなさい、刀禰たちよ』と唱えると、全員が『おう』と応じる。祓いが済むと大麻を巡らし、次いで五位以上が切麻を行い、その後、退出する」とあるだけだ。「刀禰」は百官をいう。
この中の切麻を配ること、大麻を巡らすことなどは、昔の祓いの様子には思えず、後代のことだろう。令の時代ですら、文部が漢文の祝詞を読むことや卜部が解除を行うことなど、昔とは異なる作法が混じっている。その後、時代ごとに移り変わった程度も、推し量ることができよう。

【宣長の注釈】中古以降は、祓いはおおむね陰陽家の仕事のようになり、『江次第』などでも六月・十二月晦日の宮中の作法がさまざまに記される。まして個人の祓いは、すべて陰陽師に行わせるようになった。『伊勢物語』に、陰陽師・かむなぎを召し、「恋をしまい」という祓いの品を持って出かけ、祓いを行うにつれて云々、また「もう恋はしまいと、御手洗川で行った禊は……」とあるのを見てもわかる。
大祓が次第に衰えたことは、『小右記』の天元五年六月二十九日の記事にもわかる。「今日の大祓の場所には公卿が一人も参らず、そこで右少弁惟成を上卿の代理として行った。内侍たちも支障があると称して祓所へ出向かず、女史を内侍の代理とした」とある。天元は円融天皇の御代である。
世の人が仏事にばかり心を寄せ、神事をおろそかに思うため、祓いは一人一人自身の祓いであることまで忘れてしまったのだ。なんと畏れ多いことか。また参らない者がとがめられたとも聞かないのは、上の方でも神事をおろそかにお考えだったためだろう、と宣長は嘆いている。

【宣長の注釈】「亦」は、また、再びということで、「請神之命」までにかかる。「具」は詳しく、余すところなくという意味で、上巻の八千矛神の歌に「まつぶさに」とある。
「如先日」は「さきのごとくにて」と読む。「日」は読まない。もし日も読むなら「先日」を「ひとひ」と読むべきだ。上巻に、戻って降り、再び天の御柱を以前のように回ったという文がある。ここは、前に「西の方に国があり、金銀をはじめ云々」と告げた事も、再び同じように教えたというのか。それとも、それは繰り返して告げるはずもないので、「この天下はあの天皇の治める所ではなく、天皇は一つの道に向かうべきである」といった先の告げのとおり、崩御したということを教えたのか。「ごとくにて」と読むのは、次の「およそこの国は云々」が、先と同じように教えた言葉に続けて告げる言葉だからである。
「此国」は、前の「茲天下」と同じく日本をいう。『書紀』に「お前はその国を得ない。ただ今、云々、その子は得る」とあるのによれば三韓を指すようにも聞こえるが、そうではない。『書紀』の「汝不得其国」に当たるところも、『古事記』では「茲天下者云々」とあるからだ。
「汝命」。神は大后に憑いて告げているのに、その大后を「汝命」と呼ぶのは少し不審にも思える。しかし天皇が崩御し、今は大后が君主である。神の命を請うのも大后自身が請うのであり、神の告げも大后に教え知らせるものだから、このようになるのが当然である。

【宣長の注釈】「所知国者也」は、上巻で天照大御神の命により、豊葦原の水穂国を御子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命の治める国として委ね、天降らせたという文や、日子番能邇々芸命に「この豊葦原の水穂国は、お前が治める国である」と命じて委ねたという文と同じである。
『書紀』では、胎内の御子のことは前の神託、つまり仲哀巻の神の命にあり、上で引用したとおりで、この段にはない。ここに当たる神功巻では次のようにいう。「皇后は、天皇が神の教えに従わず早く崩御したことを悲しみ、祟る神を知り、財宝の国を求めようとした。群臣・百寮に罪を除き過ちを改めさせ、改めて小山田邑に斎宮を造った。三月、吉日を選んで斎宮に入り、自ら神主となり、武内宿禰に琴を弾かせ、中臣烏賊津使主を呼んで審神者とした。千繒・高繒を琴の頭と尾に置き、『先日、天皇にお告げになったのは、どの神ですか』と請うた」。
「親爲神主」。この様子から考えると、「神主」という呼び名は、もともとこの段のように、神の命を請うとき、神が憑いて言葉を告げるべき人を、あらかじめ定めて設ける、その人を指したのだろう。後に神に奉仕する人の呼び名となったのも、神託のために設ける人から意味が移ったのだろう。
「千繒・高繒を云々」。琴の頭と尾に織物を置くのは、神の命を請うときの通常の作法なのだろう。「はた」は、布でも絹の類でも、織ったもの全体をいう名である。「しづはた」が倭文布を指すことからもわかる。したがって「繒」をそう読むのも適切だ。機織りの道具を「はた」というのは、はたを織る道具だからで、こちらは後から派生した呼び名である。

【古事記本文】そこで建内宿禰は申し上げた。「畏れ多い我が大神よ、その尊い御腹にいらっしゃる御子は、男の子でしょうか、女の子でしょうか」。神は「男の子である」と答えた。さらに詳しく請うて、「今、このように教え告げられる大神の御名をお知りしたく存じます」と申し上げると、「これは天照大神の御心である。また底筒男・中筒男・上筒男の三柱の大神である」と答えた。このとき、その三柱の大神の御名が明らかになった。「今、まことにその国を得たいと思うなら、天神・地祇、また山の神と川・海のあらゆる神に、ことごとく幣帛をささげよ。

【古事記本文】我が御魂を船の上におまつりし、真木の灰を瓢に入れ、また箸やひらで〔葉で作った平たい供物皿〕をたくさん作り、すべて大海にまき浮かべて、渡って行くがよい」。なお「比羅伝」の三字は音を表す。

【宣長の注釈】「我大神」は、その神に向かって申し上げる言葉で、「我が大君」などというのと同じである。下巻の朝倉宮の段でも、天皇が葛城の神に向かって「畏き我が大神」と申している。『万葉集』巻十九に「住吉の我が大御神」、巻二十に「住の江の我がすめ神」などともある。
「其神腹」の「其」は、「坐」の上に置く意味で理解すべきだ。「神腹に坐す其の御子」という意味で、「其の神」というつながりではない。特に神の御腹というのは、大后には今、神が憑いているため、その身体がそのまま神の身体であるからだ。
「何子歟」は「なにのみこぞも」と読む。皇子か皇女かを尋ねるのである。さまざまな事のうち、まずこれを尋ねたのは、天皇が崩御したばかりで、場合によっては国難も起こりかねない時なので、この御子がどうか皇子であってほしいと願う心が切実だったためだろう。普通の時ですら、胎内の子が男か女かを早く知りたがるのは、世の常である。
「男子也」は「ひこみこぞ」と読むのがよい。「欲知」は「しらまくほし」と読む。今の人は「欲」をみな「ほりす」と読むが、それではよくない場合も多く、ただ「む」と読む方がよい場合も多い。これは前に詳しく述べた。また「ほし」と「ほりす」は意味は同じでも使い方が異なる。「哀し」と「哀しむ」の違いに似て、「ほし」は哀し、「ほりす」は哀しむに当たる。この違いをわきまえて読むべきである。催馬楽の「我が門」に「若菜を知らまく、ほしからば」とある。

【宣長の注釈】「天照大神」。師は「大」の下に「御」の字が抜けたのかというが、白檮原宮の段もこのように「御」がない。ただし、いずれも「おほみかみ」と読む。「御心」。神を「某神の御心」ということは、水垣宮の段で例を引いて述べた。『伝』巻二十三の二十五葉である。底筒男・中筒男・上筒男の三柱の大神は、上巻の御禊の段に出る。『伝』巻六の七十・七十一葉である。
ここで天照大神には「御心者」といい、三柱の大神には「御心」がないのは、違いがあるのだろうか。違うとすれば、次の「我が御魂」以下はこの三柱の神の御魂を指すので、この神託は全体が三柱の神の発言であり、「天照大神の御心」と述べたのも三柱の神なのだろうか。そうならば、このたびのことは直接には三柱の神が行うが、その根本は天照大御神の御心にあり、その大御命を三柱が承って執り行うことを告げたのかもしれない。
また、単に同じ意味で、前の「御心」を三柱にもかけ、ここでは省いただけの文章かもしれない。「亦」という接続から見ると、そのように解すべきか。『書紀』の趣旨にも、この区別は見えない。

【宣長の注釈・『日本書紀』の引用】「先日、天皇に教えられたのはどの神でしょう。どうかその名を知りたく存じます」と請うと、七日七夜を経て、ようやく答えがあった。「神風の伊勢国、百伝ふ度逢県、さく鈴五十鈴宮にいる神、名は撞賢木嚴之御魂、天疎向津媛命である」。また「この神のほかにも神はいらっしゃいますか」と問うと、「幡荻穂出吾也、尾田吾田節の淡郡にいる神がいる」と答えた。さらに神がいるかと問うと、「天に事代し、空に事代する、玉籤入彦嚴之事代神がいる」と答えた。また問うと、「いるかいないかわからない」と答えた。そこで審神者が「今は答えず、後になってさらにお告げになるのですか」と問うと、「日向国の橘の小門の水底にいて、みずみずしく若く現れ出る神、名は表筒男・中筒男・底筒男という神がいる」と答えた。さらに問うと、「いるかいないかわからない」と答え、その後はほかにも神がいるとはいわなかった。このように神の言葉を得て、その教えに従って祭った。
【宣長の注釈】「撞賢木」は「齋賢木」で、「いづ」の枕詞である。神を祭る榊は忌み清めるものなので続く。「いづ」は上巻の御禊の段で述べたように、清浄な意味だ。天照大御神は伊邪那岐大神が禊をして清まったときに生まれたので、「いづの御魂」である。「天疎向津媛」は、この国土から天の日を仰ぎ見る意味の御名である。
「幡荻穂出吾也」は意味がわかりにくい。「吾」が写し誤りなのではないか。「尾田」以下も、どの国の地名なのか、まだわからない。「所居」と「之有」の間には神名が脱けていることが、前後の例からわかる。その名は、後の段で天照大神の荒魂を広田国に、事代主尊を長田国に、表筒男ら三神の和魂を大津の渟中倉の長峡に祭れとある所と照らすと、稚日女尊だろう。後の段では天照大神の次、事代主尊の前に、「稚日女尊が『私は活田の長峡の国にいたい』と教えた」とあるのに、ここにはその神がないからだ。橘の小門は、伊邪那岐大神が禊をし、あの三柱の神が生まれた場所である。この『古事記』では、右の神々のうち、「尾田云々にいる」とされた神(稚日女尊だろう)と事代主神がないのは、省略した伝えである。

【宣長の注釈】『書紀』の細注でも、「どの神かわからず、名を知りたいと願うと、神は表筒雄・中筒雄・底筒雄と三神の名を告げ、さらに『我が名は向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊である』といった。天皇は皇后に『よくない事を聞くような言葉だ。なぜ速狭騰というのか』といった」とあり、あの二神の名告りは見えない。
速狭騰尊は天照大御神で、伊邪那岐大神が天の御柱を用いて天上へ送り上げ、天に昇られたことを示す御名である。『万葉集』の「指上日女之命」と同じようなものだ。天皇が不吉な事を聞いたようにいったのは、「早く上がる」という言葉を忌んだためである。高貴な人の死を「あがり坐す」というからだ。
天照大御神は特別な神なので、いうまでもないが、そのほかでは、このたびの事を直接行ったのは住吉大神である。この『古事記』の後の文章にも、特にその荒御魂を祭ったことだけが記される。『書紀』継体巻の「住吉大神は、初め、海の向こうの金銀の国を、胎内にいた誉田天皇に授けると予告した」という文も、この件をもっぱらこの大神のこととして述べている。

【宣長の注釈】『式』の遣唐使の時の奉幣祝詞には、こうある。「天皇の大御命によって、住吉でお祭り申し上げる皇神たちの前に申し上げます。大唐へ使いを遣わそうとするとき、船を据える場所がないため、播磨国から船に乗って使者を遣わそうとお考えになっていたところ、皇神が『船を据える場所は私が造ろう』と教え諭してくださり、そのお言葉どおりに造ってくださったので、喜び、ありがたく思い、お礼の幣帛を官位姓名の者に捧げ持たせて奉ります、と申します」。
臨時祭式には「遣唐使船の船着き場を開く祭〔住吉社〕」として、神祇官が使いを社へ遣わして祭る、とある。『万葉集』巻十九の入唐使に贈る歌には、「住吉の我が大御神よ、船の舳をお治めになり、艫にもお立ちになって、寄るであろう磯の岬々、漕ぎ着くであろう泊々で、荒風や波に遭わせず、無事に連れ帰ってください、もとの国の家へ」とある。
このように、外国に関わることは、主としてこの大神が治めるのである。それだけでなく、海路一般の安全も主にこの大神に祈る。『万葉集』巻二十にも、「住の江の我がすめ神に、幣を奉り祈り申し、難波津に船を浮かべ据え云々」とある。今の世も海路を守る神として祭ることは同じである。

【宣長の注釈】「此時云々」という十三字の注を、師は後人が付け加えたものというが、必ずしもそうとは思えない。御名が「顕れる」とは、初めに神の命を請うたときには名告りがなく、どの神ともわからなかったが、今回尋ねたことで、初めてこのように御名を告げたことをいうのだろう。水垣宮の段で、大物主大神が夢に「顕れ」、「これは我が御心だ」といったのと同じ「顕」である。『伝』巻二十三の二十五葉と照らして考えるべきだ。
別の可能性も考えられる。『万葉集』巻六の「住吉の荒人神」の「荒」は「現」で、人の姿で現れることをいう。朝倉宮の段で葛木の一言主神について「あのとき顕れた」とあり、『書紀』景行巻・雄略巻などの「現れて人の神となる」も、人の姿で現れる神で、これと同じだ。摂津国風土記にも、昔、息長足比売天皇の世に住吉大神が現れ、天下を巡行したとある。『宇佐八幡宮縁起』にも、皇后が外国を征そうとすると、白髪の老人が来て導き、この老人は住吉大明神だった、という。この縁起には疑問のある事柄もあるが、「現人神」と呼ぶことを考えれば、このとき人の姿で現れた古い伝説が確かにあったのだろう。そうなら、ここの「顕」も姿を現して出たことかと思える。しかしここは「御名者」とあるので、その意味ではない。
天照大神の御名が明らかになったことには触れず、この三柱の大神だけをいうのも、このたびの事では主となる神だからだ。『書紀』の、和魂は王の身体に付き、荒魂は先鋒になる、という文も、どの神と断らずにこの神を指す点で、同じ趣旨である。

【宣長の注釈】「其国」は三韓である。「天神地祇」。臨時祭式の「蕃国に使いを遣わす時の祭」に、使者を出そうとするときは郊野で天神地祇をまとめて祭る、とある。『書紀』推古巻で、来目皇子を新羅攻撃の将軍にして「諸神部を授けた」というのも、諸神を祭るためなのだろうか。
「河海」は「うみかは」と読む。天神地祇といえば山・海・川の神も含むはずなのに別に挙げたのは、ここで天神地祇というのは、後の神祇官の帳に載る神社のように、定めて幣帛を奉る神社だからだ。山の神・海川の神は、それ以外で、このたび韓国を平定しに行く途中、通過する道筋の山・海・川の諸神である。水垣宮の段で、天神地祇の社を定めて奉り、坂の御尾神や川瀬の神にも、忘れ落とすことなく幣帛を奉ったとあるのと同じ類だ。
「幣帛」は上巻、『伝』巻八の四十三葉に出る。「我之御魂」は三柱の大神の御魂である。『書紀』は和魂と荒魂を区別しているが、ここで単に御魂というのは両方を合わせていう。「船上」は韓国へ渡る軍勢の船の中をいう。「坐」は「ませて」と読む。理由は前に述べたとおりである。『万葉集』巻十九に「住吉の我が大御神、船の艫にもお立ちになって」とある。これは上でも引用した。

【宣長の注釈】『書紀』では、神はさらに「和魂は王の身体に付き寿命を守り、荒魂は先鋒となって軍船を導く」と教えた。その教えを得て拝礼し、依網吾彦男垂見を祭りの神主にした、とある。原文の「玉身」の「玉」は、「王」の誤りだろうか。また、荒魂を携えて軍の先鋒とし、和魂を王の船の鎮めとして請うた、ともある。
「真木灰」の「真木」は、『書紀』神代巻・神武巻で「槇、これをまきという」、『和名抄』で「『玉篇』に、槇は木の名、柱にして埋めても腐らない木である。『日本紀私記』に末木という」とある木、今でも「まき」と呼ぶものだろうか。それとも檜か、単に良い木をいうのか、判別しにくい。灰は『和名抄』に「はひ」とある。
「瓠」は、『和名抄』に「瓢は瓠で、飲み物の器になる。和名なりひさご」、また「杓は水の器。和名ひさご」とある。「ひさご」がもともと瓠の名で、それを水をくむ器にしたため器の名にもなり、木で作った柄杓も同じくひさごと呼ぶので、植物の方を「なりひさご」といったのか。それとも、先に水をくむ器の名があり、瓠もそう呼んだのか。この先後関係はまだわからない。いずれにせよ「なりひさご」は、蔓に実ることによる名である。今「ひしゃく」というのは「ひさご」がなまったものだ。また単に「しゃく」というのも「ひしゃく」の省略で、漢字「杓」の音ではない。
『異称日本伝』という本は、韓国の書の「瓠公はもと倭人で、初め瓠を用いて海を渡って来たのでそう呼ばれた」という記事を引き、それは正しくなく、神功皇后の征伐の故事をこじつけたものだとして、この『古事記』の段を引用する。しかし、それこそ逆にこじつけである。

【宣長の注釈】「ひらで」。『書紀』神武巻には、葉盤を八枚作って食べ物を盛り、もてなしたとあり、葉盤は「ひらで」と読む。大嘗祭式では、神に供えるさまざまな物は大膳職が用意し、多加須伎八十枚を備える。高さ五寸五分、口径七寸、蓋はなく、四か所に折った足がある。それぞれに葉椀、すなわち「くぼて」を置き、笠の形の葉盤、すなわち「ひらづ」をかぶせ、木綿〔ゆう〕で結んで飾る。比良須伎も八十枚で、高さ・口径・飾りは多加須伎と同じだが「足不折」とする。
これは、食べ物を盛った葉椀を多加須伎の上に置くのであって、多加須伎を葉椀に置くのではない。比良須伎というのは、足がないための名で、「足不折」とは折った足がないという意味だろう。比良須伎の上に置く物も、同様に葉椀に盛り、葉盤で覆うのだろう。その説明がないのは、装飾が多加須伎と同じという文に含めたためだろう。
前に引いた延暦二十年の御制の祓いの品にも、枚手六十枚分の柏十五把、四十枚分の十把、二十枚分の五把とある。外宮儀式帳には、大御饌に奉る御枚手五十六枚、また湯貴として奉る御枚手が合計千二百六十枚とある。『字鏡』に挙がるいくつかの器名の漢字を「くぼて」また「ひらて」とするのは、どうも理解しにくい。
「ひらで」は、くぼんだ器を指す「久煩豆」(くぼて)に対する名で、浅く平らであることをいう。その形は、右の式で笠形とあることから大体わかる。『書紀』で葉盤と書くように、葉を縫い合わせて作った物である。『書紀釈』に、柏の葉に物を盛ることだとあるのは、少し違う。ここにも「作る」とあるので、単に柏の葉に盛ることではない。
〔訳注:『字鏡』の器名を表す四字の判読は保留した。読みと、くぼんだ器・平らな器という説明は本文で確認できる。〕

【宣長の注釈】神楽歌の「韓神」に「やひらでを、手に取り持ちて」とある。『愚按抄』では、やひらでは八枚の平盤で、柏の葉を縫って作り、神への供物を盛る物だという。恵慶僧の歌で『新勅撰集』に出るものに、「霜枯れの季節、カシワの広葉を八葉盤に縫い合わせようと、神職たちが急いでいる」とある。「刺す」は縫い合わせて作ることだ。今の大嘗祭で用いる葉盤も、柏の葉を竹の針で盃の形に縫い合わせたものだという。
葉椀は葉盤と同じ物で、形がくぼんで深い点だけが異なる。『うつほ物語』俊蔭巻に、さまざまな植物の葉をくぼてに縫い、椎・栗・柿・梨・芋・野老などを入れた、とある。嵯峨院巻の神楽の準備の所にも、政所でくぼてを縫い、山から榊を持参した、とある。『相模集』には「神山の柏のくぼてを縫いながら、再び成長する我が身は栄えることだろう」という歌がある。
「多作」は箸とひらでについていうように見えるが、「多」は真木灰を入れた瓢にもかかる。「皆々」は、単に「皆」というより重ねることで勢いがあり、意味が強まる。「又々」「猶々」などと同じである。
「散浮」。そもそもこれらをこのようにするのは、どんな理由で何のためなのか、わからない。当時はよく知られたことだったのか。それとも神の御計らいなので、初めから理由を知ることのできないものだったのか。それもわからない。師は真木灰以下を船中の占いかというが、神がそうせよと教えているのだから、占いとは考えにくい。あるいは、灰も瓢も軽くてよく水に浮くので、船が沈まず、軽く速く進むようにという祝い事なのかもしれない。師は、ひらでには魚の餌を盛るのかというが、どうだろう。箸とひらでは、海の神に食事を手向けるものかもしれない。ひらでといえば、何かを盛ることは断らなくても明らかだ。
『播磨国風土記』には、息長帯日女命が新羅国を平定しようと下ったとき、諸神に祈ると、国堅大神の子の爾保都比売命が国造の石坂比売命に憑いて教えた(引用の言葉は略されている)。

【宣長の注釈・『播磨国風土記』の引用】このように教え、ここで赤土を出した。その土を天の逆桙に塗り、神舟の舳先と船尾に立て、船の裳や兵たちの着物も染め、海水をかき濁した。渡るとき、底に潜る魚や高く飛ぶ鳥は行き来せず、進路を遮らなかった。このようにして新羅を平伏させ終えた、とある。
【宣長の注釈】「神舟」の「神」は「御」の誤りか。船の「裳」は後世の幕のような物だろう。人が裳を着た様子に似ているため、そう呼ぶのだろう。
また『書紀』には、皇后が橿日浦へ戻り、髪を解いて海に向かい、「私は神々の教えを受け、皇祖の御霊を頼りに、大海を渡って自ら西を征そうとする。そこで今、頭を海水で洗う。もし験があるなら、髪が自然に二つに分かれるように」といって海に入って洗うと、髪が自然に分かれた、とある。皇后はその髪を結って髻とし、群臣に「私は女だが、ここで仮に男の姿を取る」といった、という記事もある。
「可度」は、韓国へ渡るということである。

【古事記本文】こうして神の教えどおりに準備し、軍勢を整え、船を並べて渡って行くと、海原の大小の魚がことごとく御船を背負って渡った。そこへ強い追い風が起こり、御船は波のままに進んだ。その船の波は新羅の国へ押し上がり、すでに国の半ばまで達した。
そこで国王は恐れかしこみ、「今から後は天皇の命に従って馬飼いとなり、毎年、船を連ね、船腹も櫂も乾く暇なく、天地とともに変わることなくお仕えいたします」と申し上げた。こうして新羅国を馬飼いの国とし、百済国を海の向こうの直轄地である「渡屯家」と定めた。そして御杖を新羅国王の門に突き立て、住吉大神の荒御魂を国を守る神として祭り鎮め、海を渡って帰った。

【宣長の注釈】「如」は「ごとくして」と読む。「して」は、それを行ってという意味で、天神地祇に奉ることから大海にまき浮かべることまで、前にあるさまざまな事を行ったのである。「して」を入れないと「如」が次の整軍以下にかかり、意味が違ってしまう。
「整軍」の「ととのふ」は、声をかけて集め立てる意味である。『万葉集』巻二に、御軍の兵を呼びそろえて鳴らす鼓の音、巻三に、網引きのため網子を呼び整える海人の声、巻十に、牡鹿が妻を求めて鳴く声、巻十九に、もののふの多くの男子をいたわり、呼び整える、とある。巻二十には、芦が散る難波の港の大船に櫂を隙間なく並べ、朝凪には水夫を呼びそろえ、夕潮には舵を引き回し、声をかけて漕いで行くあなたは、という歌がある。また、難波津に船を浮かべ、多くの櫂を備え、水夫を呼びそろえ、朝、船出して私は漕ぎ出してしまった、ともある。こうした用例から理解すべきである。
漢籍の『詩経』大雅に「ここにその軍勢を整える」とあるのによって、この漢字を用いたのかと思う人もあろうが、そうではない。もともと「ととのふ」という古い伝承の言葉なのである。

【宣長の注釈】「双船」の「双」は「つらなめて」と読む。連ね並べてという意味で、『万葉集』巻十九の「布勢の海に小舟を連ね並べ、櫂を掛け、漕ぎ巡ると」という用例による。ただ「ならべて」と読んでも問題はないが、ここは調子よく、言葉に勢いを持たせて読むべき所だ。師は「あともひて」と読んだが、それも『万葉集』に多い古語ではあるものの、「双」の字には合いにくい。巻十五には、海人の少女たちが小舟に乗って、連なって浮かんでいる、という例もある。
摂津国風土記の美奴売松原の条には、次のようにある。「美奴売は神の名で、神はもと能勢郡の美奴売山にいた。昔、息長足比売天皇が筑紫国へ行くとき、川辺郡の神前松原に諸神を集めて幸いを求めた。この神も集まり、『私もお守りします』といい、『私の住む山には杉の木があり、どれもよい材です。それを切って私のため船を造り、その船でお出かけなさい。きっと幸いがありましょう』と教えた。天皇はその教えに従い船を造らせ、この神の船で新羅を征した。帰って来たとき、この浦に神を祭り、船もとどめて献じ、土地を美奴売と名付けた」。別伝では、船が牛の吼えるように大きな音を出し、対馬の海から自然にこの場所へ戻り、乗れなくなった。占うと神の御心だとわかったので、その場にとどめた、という。
「魚不問大小」は「うをども、おほきなるちひさきも」と読む。上巻の海の宮の段で同じ形の文を「はたのひろもの、はたのさもの」と読んだが、ここではそう読むべきでない。「不問」の字に従えば「大きい小さいをいわず」となる。『書紀』仁徳巻に「不問日夜」、『続日本紀』巻三十一に「夜日不云」とあり、『万葉集』の歌にも同様の表現がある。しかしここは後に「悉」もあるので、不問まで読むと語が重なりすぎてよくない。この二字を読まなくても、自然にその意味は含まれる。

【宣長の注釈】『書紀』推古巻には「無大小」ともある。ここを「とほしろき・とほひろき」などと読むのは、『書紀』神代巻の海の宮の段の「大小之魚」を「とほひろくひきうをども」と読むのによるのだろう。しかし、その読み自体が納得しにくいうえ、ここは特にそのように読むべき所ではない。『書紀』神武巻には「魚は大小を問わずみな酔って流れた」、雄略巻には「事の大小を問わずすべて皇太子に委ねた」とある。『栄花物語』疑の巻にも、そのあたりの家々は大小の区別なく、という表現がある。この箇所に当たる『書紀』は「海中の大魚」とするが、「小」が脱けたのか、それとももともと大魚だけなのか。
「負御船」は、船腹に集まって付き、背で担ぎ支えるように進むことだ。「順風」は「おひかぜ」と読む。『書紀』の「大風、順に吹く」という文による。「おひ風」は「負ひ風」の意味だろう。「追ひ風」かとも思うが、やはりそうではあるまい。いずれにせよ仮名は「おひ」である。この名は『万葉集』などに見えないが、たまたま記録から漏れたのだろう。後世の語とは思えない。巻二十の「青海原の風や波がなびき、行き来に妨げがない」という歌の「なびき」も、ここに近い意味だろう。
「大起」は「さかりにふきて」と読む。師は「みさかりにふきて」と読んだ。また順風を「まかぜ」としたのは、どうだろう。「従浪」は、師の「なみのまにまにゆきつ」に従うべきである。字どおりに「なみにしたがひつ」とも読める。『書紀』の、波に従い、櫓や櫂を操る苦労もなかったという意味で、波が船を運ぶのに任せたのである。「御船之波瀾」は、御船を運んで来た波をいう。

【宣長の注釈】「新羅」は「しらぎ」と読む。名の意味は、漢字の音を用いたものだろう。『姓氏録』に新良貴という姓があり、『出雲国風土記』に「栲衾、志羅紀の三崎」、遠飛鳥宮の段には新良と書き、『書紀』は新羅などと書く。
ある人は、新羅は「しら」と読むべきで、「ぎ」は「くに」が縮まったものだから、「しらぎ」は新羅国という意味であり、「しらぎの国」とはいえない、とする。これは一応もっともらしい。漢籍に斯盧国ともいうので「しら」と呼ぶことはあり得よう。しかし日本語では、はっきり「しら」という例をまだ見ない。また百済・高麗を「くだらぎ」「こまぎ」という例もないので、しらぎだけ国を「ぎ」というのもどうか。たとえ「ぎ」がもとは国の意味でも、くだら・こまと並べて「しらぎ」と呼んで来た以上、「しらぎの国」といって何の差し支えがあろう。国名の「あふみ」はもと淡海の意味だが、その海を「あふみの海」ともいうではないか。次に引く『万葉集』巻三の歌も「しらぎのくにゆ」と読むべきで、「しらのくにより」と読むのはどうか。また一本に「新羅木国」とある「木」は「之」の誤りである。「新羅木」と書く例はない。
「鶏林」とあるのもこの国である。新羅の始まりについて、『書紀』神代巻には、素戔鳴尊が子の五十猛神を率い、新羅国へ降りたとある。「韓郷の島」とあるのもその地だ。宣長は、その後、少名毘古那命が天降り、三韓もそのほかの国々も治め整えたのだろう、と考える。そして漢籍にいう三韓の事柄や、周の武王が箕子を朝鮮に封じたという話などは、それよりはるか後のことだとする。
『万葉集』巻三には「栲角の新羅国ゆ〔新羅国から〕」とある。『続日本紀』巻十二には、新羅使の金相貞が入京し、新羅国が旧来の号を王城国と改めたので、その使者を帰したとある。

【宣長の注釈】「押騰」。波に「押す」を使う例は、難波の枕詞「おしてる」を、師が「襲い立つ波」と続く言葉だとした説に見える。ただし「おし」を「襲」とし、「おそひ」が縮まったとしたのはよくない。ただ「押す」である。
「半国」は「くになからまで」と読む。師は「くにのみなかに」としたが、「半」と書いた意味とは少し異なる。国の半分まで波に水没したということである。
『書紀釈』の潮満瓊・潮涸瓊の所には、次の問答がある。「この二種はどこにあるのか」との御質問に、先師は「元暦の頃、宇佐宮を検査したとき、本宮の報告に、満瓊・涸瓊の二種がこの宮にあると記して進上した。そうすると宇佐宮に残っているのか」と答えた。さらに「神功皇后が三韓を征したとき、新羅の潮が王宮の庭に満ちた。もしやこの玉を持って行ったのか、どうか」と問われ、先師は「宇佐宮には応神天皇・姫神・大帯姫の三座が鎮まる。二種の玉が今その宮にあり、また皇后の三韓征伐で潮が宮庭に満ちたことから考えると、確かに玉を持って行ったのだろうか。しかし確かな所見はない。神功皇后が海中で如意宝珠を得たことは、皇后紀に見えるだけである」と答えた。
ここには紛らわしい問題がある。大后が持って韓国を平定した玉は、神代のあの二つの玉だったのか、それとも海中で得た如意珠だったのか、はっきりしない。神代の玉なら、その後まで宇佐宮にあるのは、大后が持っていた縁によるのだろう。しかし如意珠の方も、韓国平定の際に効験があったからこそ、それを得た話が伝わったはずだ。何の効験もなく、役立たなかったなら、どうして如意珠と名付け、得た事を語り伝えたりするだろう。

【宣長の注釈】そうならば、当時大后が持っていたのは如意珠で、後まで宇佐宮に残るのもその珠なのに、誤って神代の二珠と伝えたのかもしれない。ただし宇佐宮の縁起には、龍王から干珠・満珠を借り、海に投じて三韓を降伏させ、二珠を肥前国佐嘉郡の河上宮に納めたとある。これは、宇佐宮にあるものを無理に神代の珠とするため、こう述べたのか。しかし神代の珠が特にあの宮に残る由来こそ、はっきりしない。
ここでは、神代の珠と如意珠との紛らわしさを述べている。どちらにせよ、今、御船の波が国の半ばまで押し上がったのは、まさしくその珠の効験だったはずだ。奇しく霊妙な神の御業であることは、いうまでもない、と宣長はいう。
『書紀』には「冬十月、和珥津から出発したとき、飛廉が風を起こし、陽侯が波を上げた。海中の大魚がみな浮かんで船を支え、大きな追い風が吹いた。帆船は波に従い、櫓や櫂を操る苦労なく、たちまち新羅へ着いた。船に従う潮波は遠く国中まで達した。そこで天神地祇がことごとく助けていると知った」とある。飛廉以下の二句は、例によって漢文で飾ったもので、わずらわしい。別伝には、皇后が男の姿で新羅を征したとき、神が導き、このため船に従う波が新羅の国中まで遠く届いた、とある。

【宣長の注釈】「国主」の「主」は諸本とも「王」とするが、今は師の訂正に従う。『古事記』中の用例がみな国主だからである。明宮の段の末や遠飛鳥宮の段などにあり、明宮には「百済の国主」ともあるが、「国王」の例は見えない。『書紀』には国王・国主の両方がある。ここは「こにきし」とも「こきし」とも読む。
『北史』や杜佑の『通典』などには、百済王は於羅瑕と称し、民衆は鞬吉支と呼ぶが、中国語ではどちらも王を意味するとある。『書紀』を見ても「こにきし」「こきし」の訓は百済王だけに付き、新羅・高麗の王には付かないので、百済王だけの称号だったのだろう。一方、朝鮮の『三国史記』に歴代の新羅王を記した所を見ると、初期はみな「某尼師今」とあるのを、『東国通鑑』は「某王」と改めている。したがって新羅王の称号は尼師今だったのだろう。しかしこの称号は『書紀』の私記・釈・現行本の訓に見えないので、今、安易に採用すべきではない。そこで当面、百済王の称号を借りて読む。垂仁巻に任那王・新羅王子などにもそう読む例が、ないわけではないからだ。
また『書紀釈』の王后・太子の所に、私記として「古爾於留、また古爾世之、いずれも百済の語である」とある。「世之」の後には「牟」が脱けたのだろう。『書紀』現行本の訓は、大后に「斤於流」「コムヲル」「コニヲル」、王后にも「コニオル」、太子に「コニセシム」「コムセシム」などを付ける。「コニ」「コム」は、王に関する称号らしい。王子には「セシム」、大夫人には「ハシカシ」、夫人には「ハシカシ」「オリケ」「オリク」とも付け、その中には高麗についていうものもある。『北史』百済伝が、王の妻は於陸と称し、中国語の妃に当たるとするのによれば、「オリケ」はクをケと誤ったのかもしれない。
百済の国主を「ニリム」と読む所も所々にあり、そのほかにも異なる訓があるが、写し誤りなどもあるらしく確かでない。雄略巻では百済王の弟の名「軍君」を「コニキシ」「コムキシ」と読み、細注に「崑支君である」とし、『百済新撰』を引いた所にも昆支君とある。王の称号と同じなので紛らわしい。同巻には昆支王という名もある。三国のうち百済だけ、その国の言葉による称号があちこちに伝わるのは、特に親しく仕えたためだろう。新羅王の先祖などのことは、軽島宮の段の末、『伝』巻三十四の四葉で述べる。

【宣長の注釈】「畏惶」の「惶」は諸本にないが、真福寺本・延佳本に従う。「おぢかしこみて」と読む。「以後」は「ゆくさき」。「随天皇命而」は「おほきみのみことのまにまに」と読む。「まにまに」の下に「而」を添えて書く理由は首巻で述べた。
「御馬甘」。「かひ」に「甘」を当てることは『伝』巻二十五の三十九葉に述べた。穴穂宮の段にも馬甘とあり、『書紀』雄略巻には「典馬、これをうまかひという」とある。飼部・馬飼という表記もあり、外宮儀式帳には「御馬甘、内人」ともある。
「毎年」は師の「としのはに」という読みに従う。『万葉集』巻五に「年ごとに春が来たなら」、巻十六に「いよいよ年ごとに」、巻十七に「年ごとに、思い合う者同士、このように遊ぼう」、また「このようにばかり会って、見ては心を晴らそう、毎年」という例がある。巻十九に「毎年、このように見たいものだ」、さらに毎年という語を「としのは」と呼ぶ旨の注もある。巻十八には「年のはごとに」という例もある。
「双船」は、ここでは「ふねなめて」と読む。『万葉集』巻一に「船並べて、旦川を渡る」とある。「船腹」は「ふなはら」と読む。「ふねのはら」でもよいが、次の「さをかぢ」に対して、言葉の調子よく読むべきである。

【宣長の注釈】「腹」とは、船の両側から下、水に浸かる部分までを含めていう。魚などの腹と同じである。「不乾」は『書紀』のように「ほさず」と読むのがよい。乾く間もなく、貢物を献上しようという意味だ。
「柂檝」は、柂を延佳本では舵と書くが同じことで、ここは真福寺本ともう一本に従った。師の「さをかぢ」という読みがよい。『万葉集』巻三に「棹も櫂もなくて、どうしようもない。漕ごうと思っても」、巻十に「櫂も棹もなくて」、祈年祭の祝詞に「青海原は、棹櫂を乾かす暇もなく、船の至る限り」、『書紀』敏達巻に「楫櫂」とあるからだ。
『和名抄』では、楫は船を速く進めるもので和名「かぢ」、側らで水をかくのは櫂で棹とも書き、『漢語抄』では「かい」とする。また棹は船を突く竹竿で和名「さを」、柂は船の向きを正す木で、『楊氏漢語抄』では船尾のもの、舵とも書き、和語は「たいし」とある。したがって柂は「たいし」で、今いう舵、楫は今いう櫓や櫂の類である。
しかし師の『祝詞考』で、古歌では「たいし」と読まず「さをかぢ」と読むのは、たいしでは句の調子が合わないためで、祝詞も調子を整える点で歌と同じだ、といったように、調子を作る言葉としては「さをかぢ」「かぢさを」というのが古語である。『万葉集』の「八十梶を掛け」「真梶しじ貫き」などからも、「かぢ」が今の舵ではないとわかる。漢字は、船を進める道具を互いに通用させ、さまざまに書くので、拘泥すべきでない。字にこだわって「たいしかぢ」などと読むのは誤りだ。

【宣長の注釈】『書紀』推古巻の新羅・任那二国王の上表には、「天上には神があり、地上には天皇がいます。この二神を除いて、何を畏れましょう。今後は互いに攻めず、船と櫂を乾かす暇もなく、毎年必ず参朝します」とある。持統巻では、新羅から「我が国は日神・皇祖の代から、舳先を並べ、櫂を乾かす暇もなく仕えて来た国です」と申し上げたという。
『続日本紀』巻十八には、新羅王子の金泰廉らが朝廷を拝し、貢物を奉ったうえで、新羅国王の言葉として「日本を照らし治める天皇の朝廷に、新羅国は遠祖から代々絶えることなく、船と櫂を連ねて参り、国家に奉仕して来ました」と奏上したとある。巻三十六にも、新羅使が産物を献じ、「新羅は国を開いて以来、歴代天皇の恩徳と教化を仰ぎ頼り、船と櫂を乾かす暇もなく貢物を奉って来ました。その年月は久しいものです」と奏上した、とある。『書紀』天智巻には、新羅王に御調を運ぶ船一隻を賜ったという記事もある。

【宣長の注釈】「共与天地」は「あめつちのむた」と読む。「あめつちとともに」でも悪くない。『万葉集』巻二には、波とともにあちらこちらへ寄る、また野の風とともになびくように、巻四には波とともになびく玉藻が、巻九には神とともに荒々しく争い、勝てず、巻十には峰に降り積もった雪が風とともにここへ散るらしい、巻十二には風とともに雲が行くように、という例がある。巻十五には「風のむた寄せ来る波に〔風とともに寄せる波に〕」「君がむた行かましものを〔あなたと一緒に行けばよかったのに〕」とある。すべて「ともに」を「のむた」という古語である。
『書紀』神代巻には、皇位の栄えが天地とともに窮まりないように、とある。『万葉集』巻二には、天地とともに命を終えようと思いながら仕えて来たが、その願いはかなわなくなった、という表現があり、出雲国造神賀詞には、現御神が大八島を天地・日月とともに安らかに平らかに治める、という詞がある。
「無退」は「とことはに」と読む。「無退」や今引いた『書紀』の「無窮」は、意味によって漢文風に書いたものなので、字にこだわりにくい。「退」は仏書にいう退転などの退の意味で書いたのか。それとも「遏」を写し誤ったのか。もし後者なら、単に「やむことなく」と読むべきである。

【宣長の注釈】新羅王が申し上げた詞全体を見ると、美しく華やかに調子を整えた文章なので、その趣旨をくみ、祝詞のように読むべきである。『書紀』の誓いの詞も同じ様子だ。ある人が「もともと新羅の言葉ではなく、日本語に訳したものだから、それほど文を飾って読むべきではないのでは」といった。これに答える。外国語を訳したことは当然として、この種の詞は祝詞のように美しく述べるのが常だったらしい。新羅王が実際に述べた詞がどのようなものだったにせよ、当時の例にならい、日本の古い言葉で美しく訳して伝えた雅な詞を、どうしていい加減に読んで済ませられようか。
「定御馬甘」。馬飼いと定めることは王の申し上げた詞の中にあるので、もとは向こうから申し出たことか。ただ、その前に「天皇の命に従って」とあるので、こちらの命を承諾して述べたようにも聞こえる。しかし「命のまにまに」は全体にかかり、服従することを申し上げたものだから、馬飼いとなることは、やはり向こうから申し出たのだろう。
多くの職の中でも特に低いものとされたこの職に就くと申し出たのは、ひたすら深く厚く服従することを表すためである。『続日本紀』巻十五で、天下の馬飼の雑戸の人々を免じた際、「お前たちが今負っている姓は、人が恥とするものである」と詔した記事がある。

【宣長の注釈・『日本書紀』の引用】「新羅王は恐れ震え、身の置き所もなくなり、人々を集めていった。『新羅が建国して以来、海水が国を侵すなど聞いたことがない。もしや国の天運が尽き、海となるのか』。まだいい終わらないうちに、軍船が海に満ち、旗は日光に輝き、鼓や笛の音が起こり、山川がみな揺れた。王は遠くから見て、尋常な軍ではない、きっと我が国を滅ぼすのだろうと思い、恐れて気が動転した。

【宣長の注釈・『日本書紀』の引用】それでも今ようやく気付き、「東には神国があり、日本というと聞く。また聖なる王があり、天皇という。きっとその国の神兵だ。どうして兵を挙げて防げようか」といった。白旗を掲げて降伏し、白い組紐で自らを縛り、地図と戸籍を封じ、王の船の前に降った。頭を地につけて「今より後、天地の続く限り伏して馬飼いとなり、船と櫂を乾かす暇もなく、春秋に馬梳きと馬鞭を献じ、海が遠いことをいとわず、毎年、男女の貢物を奉ります」といった。
さらに重ねて誓った。「東の日が改めて西から出ることもなく、阿利那礼河が逆流することもなく、河の石が天へ昇って星となることもないのに、春秋の参朝を欠き、馬梳き・馬鞭の貢ぎを怠ったなら、天神地祇がともに討ち滅ぼしてください」。
別伝では、新羅王宇流助富利智干が迎えに出てひざまずき、王の船に取り付き、頭を地につけて「臣は今より後、日本国にいらっしゃる神の御子の内官家となり、朝貢を絶やしません」といった、とある。

【宣長の注釈】「百済」は「くだら」と読む。この名が古書ではっきり現れるのは、『和名抄』の摂津国の郡名「百済、くたら」や、『続日本紀』巻三十二の人名「県造久太良」で、後者も百済の意味だろう。その名の由来はまだわからない。これは「くだら」という呼び名についていう。「百済」の漢字名については、『北史』に、初め百家が渡って来たので百済と号したとある。
『書紀』継体巻には「扶余」ともある。扶余はもとは別の国だが、百済が扶余の別種とされるので、後に百済の名にもしたのだろう。百済王の姓は多く「余」とされるが、『唐書』は「夫余」とするから、これも国の名を取ったのだろう。雄略巻の「尉礼国」も百済である。これを「ねぎらふ国」と読むのは甚だ妄りで、ここも「くだらの国」と読むべきだ。『東国通鑑』に、尉礼は百済の旧名だという。国王の先祖やその他の事は、明宮の段、『伝』巻三十三の十九葉で述べる。

【宣長の注釈】「渡屯家」は、師の「わたのみやけ」という読みがよい。海を渡って行く向こうにあるので「渡」という。海を「わた」というのも渡る意味だ。『書紀』欽明巻には「海表弥移居」「海北弥移居」などとある。海表・海北も「わたの」と読むべきで、「表」「北」は意味によって添えた字である。
屯家については日代宮の段、『伝』巻二十六の三十七葉に述べた。外国である百済をこのように定めたのは、日本国内の屯家になぞらえたのである。『書紀』雄略巻で高麗王が「百済国は日本国の官家で、その由来は遠く久しいと聞く」と述べる。欽明巻では、百済が丈六の仏像を造った願文に、天皇に仕える弥移居の国もともに福祐を受ける、とある。また「百済の官家を滅ぼそうとすれば、必ず後の患いを招く」ともある。孝徳巻には百済の使いに「遠い皇祖の世以来、百済国を内官家とした」と詔したことが記される。
この段の『書紀』は、「高麗・百済の二国王は、新羅が地図・戸籍を納めて日本国に降ったと聞き、ひそかに軍勢を探らせ、勝てないと知った。自ら軍営の外に来て頭を下げ、誠意を示し、『今より永く西蕃と称し、朝貢を絶やしません』といった。このため内官家と定めた。これがいわゆる三韓である」とする。
「西蕃」を「にしのとなり」と読み、ほかの巻で「蕃屏」を「かくれまがき」と読むなどは、漢字に無理に合わせたもので、まったく当たらない。隣はもともと隣なのに、今さら隣と称すとは、どういう理由だろう。「かくれまがき」も漢字の音に寄せた無理な読みである。「蕃」を古くは何といったのか、その呼び名が伝わらないのでわからない。今は意味から考え、字に縛られず「みやつこくに」と読むべきだ。「御臣の国」という意味である。

【宣長の注釈】三韓について、中国の歴代史書を合わせて考える。まず『後漢書』には韓に三種があり、一は馬韓、二は辰韓、三は弁辰とある。弁辰は弁辰韓・弁韓ともいい、卞韓というのも同じだ。馬韓は西方にあり、三韓中で最大で、五十余国を含む。辰韓はその東で十二国、弁韓は辰韓の南で、こちらも十二国である。『魏志』は弁辰韓合わせて二十四国としながら、挙げた国名は二十六ある。辰韓と弁韓を合わせたのか、紛らわしい。この書の三韓の記事には、まとまりがなく煩雑な所が多い。
宣長は、新羅は弁韓の中の一国で、東と南が海に面し、日本に最も近い国であり、『魏志』が弁辰韓二十六国の中に挙げる斯盧国がこれに当たる、と考える。『唐書』も新羅を弁韓の子孫とするので、『北史』が「その祖先はもと辰韓の種」とするのは誤りだろう、という。「辰」の字から辰韓と弁辰を混同する例は、ほかの書にも所々にある。ただし、土地は弁辰の内でも、もと辰韓の系統だという意味なのかもしれない。いずれにせよ弁韓の国であり、辰韓とすると、その南には弁韓が続くため、東と南が海に面することに合わない、とする。『魏志』は馬韓五十余国の中にも駟盧国を挙げるが、そちらではない。
百済は、『後漢書』の伯済という国だろう。『魏志』の馬韓五十余国の中にも伯済国があり、これである。『北史』も百済を馬韓の属とする。新羅の西北にあり、西と南が海に面し、北の方にも小さな海がある。日本へ来るには新羅からよりも遠い。

【宣長の注釈】『書紀』の各巻の記述も、そのように読める。
高麗は高句麗ともいい、古い朝鮮の北にあった。三韓はみなその朝鮮より南なので、高麗はもとは三韓の内の国ではない。『後漢書』『魏志』なども三韓とは別に挙げる。その後、高麗・百済・新羅がそれぞれ周囲の国を併合し、次第に強大となったため、後には自然にこの三国を三韓と呼ぶようになった。中国の南北朝頃からの史書にも、主にこの三国の伝がある。しかし神功皇后の時代には、まだこの三国を並べて三韓と呼ばなかったはずなのに、「いわゆる三韓である」と記したのは、後世の呼び名を及ぼしたものだ、と宣長は説明する。
一方、『東国通鑑』が百済を馬韓、新羅を辰韓、高麗を弁韓とするのは、百済だけは合うが、ほかは違う。新羅が辰韓ではなく弁辰であるという点は、前に説明した。はるか北にある高麗を南端の弁韓に当てるのは、どういう妄説か。高麗が後に南の国々を併合して強大となった時代でも、領域は弁韓に達しない。弁韓は新羅が領有しているからである。宣長はこのように論じ、『東国通鑑』には取るに足りない誤りが多いと批判する。
高麗は日本では「こま」と呼ぶ。その名の意味はまだわからない。漢字を「狛」とも書くのは、隣国に濊貊という国があり、『後漢書』には句驪を一名貊といい、その別種に小水貊という人々もあるので、「貊」があのあたり全体の旧称だったのかもしれない。

【宣長の注釈】『書紀』を見ると、三韓の地域には、右の三国以外にも国々があった。まず崇神・垂仁巻から任那国が見える。これは日本の朝廷から与えた名で、彌摩那とあるのと同じ音の表記である。応神以後の諸巻にも現れるが、欽明天皇の御代に新羅に滅ぼされる。その所に「一本では二十一年に任那が滅んだという。総称は任那、個別には加羅・安羅・斯二岐・多羅・卒麻・古嵯・古他・散半下・乞飡・稔礼の十国である」とある。その後、再び立てられたが、結局は滅んだと見える。
加羅国は任那の旧名で、崇神天皇の御代、外国として初めて来たのはこの国である。そのため西方の外国一般の呼び名となり、三韓も中国もみな「から」という、と宣長は考える。それを三韓だけの名と理解し、中国をそう呼ぶのは誤りだとする方が、かえって誤りである。『万葉集』巻十九には漢人とあり、同巻では遣唐使を「韓国へ遣る」「韓国に行き足らはし」などというではないか。
右の十国中の加羅国は、任那の中に旧名を残した一国で、神功巻以後にも現れる。安羅・多羅なども神功巻から見える。そのほか卓淳・南加羅・㖨の国などもある。継体巻には耽羅が初めて見え、斉明巻以後にも現れる。後世の書で度羅島というのはこれである。粛慎は欽明巻から次々に見える。挹婁・靺鞨ともいい、高麗の東北にあって、東端は蝦夷に隣する国である。
聖武天皇の神亀五年には、渤海国から使いが来て服属した。高麗の別種で姓を大といい、高麗が滅んだ後、付近の国を領有して強大となった者である。『唐書』『五代志』などに伝があり、日本へ初めて来たのは王の大武芸の時だった。その後も続き、今の都に移ってからも延喜の頃まで来た。当時「狛人」といったのはこの渤海国のことである。古い高麗・朝鮮・三韓の地域は、今では一つに合わさり、朝鮮の領域となっている。ここでの「今」は宣長の時代を指す。

【宣長の注釈】中国とは、推古天皇の御代から大御使を遣わし、相手の国王も使いを寄こして、交渉が始まった。日本に来る諸外国の中でも、特に大きな国である。
ところがこの『古事記』は、高麗・百済二国の王についての記事をすっかり省き、百済も「その王が云々」とは触れず、ただ突然「渡屯家と定めた」とだけいうので、唐突で理由がないように聞こえる。また屯家と定めたことも、『書紀』では三国全体に及ぶように読める。継体巻には「住吉大神は初め、海の向こうの金銀の国、高麗・百済・新羅・任那などを、胎内の誉田天皇に授けると予告した。そのため大后気長足姫尊と大臣武内宿禰は、初めて各国に官家を置き、海外の蕃屏とした。その由来は古い」とある。また「海外の諸蕃には、胎中天皇の時から内官家を置いた」ともある。欽明巻には海外の諸弥移居の事を奏上したとあり、敏達巻の「新羅が内官家の国を滅ぼした」は任那のことだ。推古巻にも「任那はもと我が内官家である」とある。いずれも百済だけに限らず官家といっている。『万葉集』巻十五でも新羅へ行くことを、「天皇の遠い朝廷として、韓国に渡る我が夫は」と歌う。
それなのに、ここでは百済だけに限って述べることなどは、一見不審に聞こえる。

【宣長の注釈】しかし『書紀』をよく考えると、神功皇后の四十六年に次のようにある。
【宣長の注釈・『日本書紀』の引用】斯摩宿禰を卓淳国へ遣わした。卓淳王は告げた。「甲子の年、百済人の久氐・弥州流・莫古の三人が来て、『百済王は東に日本という貴い国があると聞き、われわれを参朝させようと遣わした。それで道を求め、ここに来た。道を教えて通わせてもらえるなら、我が王は君王の徳に深く感謝するだろう』といった。私は『東に貴い国があるとは以前から聞くが、まだ交わりがなく、道を知らない。海が遠く、大船に乗ってようやく行き着ける』と答えた。久氐らは『それでは今は行けない。いったん帰り、船を整えてから通おう。もし貴い国の使者が来たら、必ず我が国へ知らせてほしい』といって帰った」。
そこで斯摩宿禰は、従者の爾波移と卓淳人の過古の二人を百済へ遣わし、王を慰問させた。百済の肖古王は大いに喜び、宝蔵を開いて珍しい品々を見せ、「我が国にはこうした宝が多い。貴い国へ奉りたいが、道がわからず、志があっても実行できなかった。今は使者に託し、ほどなく献上する」といった。爾波移は戻って志摩宿禰に伝え、宿禰は卓淳から帰った。四十七年、百済王は久氐・弥州流・莫古を遣わして朝貢させた。そのとき新羅の貢物の使いも久氐らとともに来た。

【宣長の注釈】これによれば、百済の朝貢の始まりは、同じ御世でもずっと後で、新羅を平定したときからではない。したがって『古事記』の「渡屯家と定めた」も、後の出来事を、新羅を馬飼いと定めたことに関連させ、この段でまとめて伝えたのだろう。「その王が云々」とないのも、そのためだ。
高麗の朝貢についても百済の例から考えると、『書紀』応神巻の七年秋九月に、高麗・百済・任那・新羅の人々がそろって来朝したとあるのが初めだろうか。仮に初回でなくても、応神天皇の御代に入ってからのことだろう。大后の御世の出来事ではないので、この『古事記』はここに高麗の事を述べないのだろう。
百済・高麗などの朝貢の始まりは、以上のような伝承が正しいはずなのに、『書紀』がこの段に二国王の話を置くのは、例によって編者が私に加えたものと思われる。そうでなければ、同じ御世なのに、四十六年の記事と前後が食い違うのはどういうことか。四十六年の文は詳しく具体的で、実に古記録らしい。
まして高麗は百済の北千余里にあり、日本の今の路程なら百余里も離れ、新羅へはさらに遠い。大后の新羅征伐を聞き、人を遣わして探らせ、その者が帰った後、王が新羅の軍営へ来るには、早くても六、七十日かかるだろう。ところが大后は十月三日に対馬を船出し、十二月十四日にはすでに筑紫へ帰って御子を産んだとある。新羅での滞在は長くないはずで、その間にどうして高麗王が軍営へ参れよう。このことからも、二国王の記事が編者の追加だとわかる、と宣長は論じる。
また、屯家と定めたことを百済だけについていうのは、三韓の諸国の中でも、後まで特に忠実で親しく仕えたため、屯家の国とも特に呼んだのだろう。

【宣長の注釈】「御杖」は、『書紀』では皇后が杖として使った矛とする。前に述べたように、昔の矛にはいろいろあり、木だけで刃のないものも普通にあるので、杖のように突くものを杖と呼んでも違わない。つまりこの杖は矛である。
「門」は「かなど」と読む。遠飛鳥宮の段の穴穂太子の歌に「かなどかげ」、すなわち門の陰とある。『万葉集』に金門と書く意味である。詳しくはその歌の所、『伝』巻三十九の三十六葉に述べる。「衝立」は、これだけでは事情の説明が足りない気がする。次に引く『書紀』のような意味なのだろうか。
『書紀』には、国中に入って重宝の倉を封じ、地図・戸籍や文書を収め、皇后が杖とした矛を新羅王の門に立て、後世へのしるしとした。そのためその矛は今もなお新羅王の門に立っている、とある。さらに微叱己知波珍干岐を人質とした。新羅王波沙寐錦は、金銀や彩色の品、綾・羅・刺繍・絹を八十隻の船に積み、官軍に従わせた。このため新羅王はいつも八十隻の船の貢物を日本国へ献じる、その由来はこれである、とする。ただし重宝の倉を封じることと地図・戸籍を収めることの二句は、例の漢文による飾りと思われる。

【宣長の注釈】「墨江大神」は、前に出た底筒男・中筒男・上筒男の三柱の神である。この大神が墨江で祭られたのは、この出来事より後だが、このように後の名によって語り伝えるのは普通のことである。
「荒御魂」。和御魂・荒御魂について、『書紀』のこの巻で大神は、「和魂は王の身体に付き、寿命を守り、荒魂は先鋒となって軍船を導く」と教え、和魂を「にぎみたま」、荒魂を「あらみたま」と読む注がある。『出雲国風土記』には「天神千五百万、地祇千五百万、この国に鎮まる三百九十九の社、さらに海神など、大神の和魂は鎮まり、荒魂はみなことごとく寄り集まってくだされ」とある。これらから二つの御魂のあり方を知るべきだ。
『書紀』神代巻の幸魂・奇魂は、どちらも和御魂の働きをいう名である。その理由は、上巻の大国主神の段、『伝』巻十二の二十葉で述べたとおりである。それなのに幸魂を荒魂、奇魂を和魂に当てるのは誤りである。

【宣長の注釈】出雲国造神賀詞には、大穴持命が、皇御孫命の鎮まる大倭国を申し上げ、自らの和魂を八咫鏡に託し、倭大物主櫛甕玉命と名乗って、大御和の神奈備に鎮まった、とある。大神宮儀式帳には、荒祭宮を大神宮荒御魂宮と称するとあり、神名帳には、大和国城上郡の狭井坐大神荒魂神社がある。神祇令の鎮花祭についての『令集解』も、狭井は大神の麁御霊であるという。古書に見えるこの名は、おおむね以上のとおりだ。
「にぎ」と「あら」は、対にしていうことが多い。和多閇・荒多閇〔にぎたへ・あらたへ〕、和稲・荒稲、和海布・荒海布、毛柔物・毛麁物などがそうで、「にご」も「にぎ」と同じ語である。この和・荒にはさまざまな意味がある。荒金・荒玉などは、物が生まれたままで、まだ加工・調整を加えないものをいい、それに対して整えたものを「和何々」という。荒稲・和稲もこれで、生・熟の意味である。「にぎたづ」という地名を熟田津と書く。
また、物が粗いか細かく整っているか、強いか柔らかいか、家などが荒れるか豊かににぎわうか、という対にも用いる。「饒ふ」も同じ系統の語だ。風や波が騒ぐのを荒れる、静まるのを和ぐという。神の心も荒れる、和むという。「なぐ・なぎ・なごむ」と「にぎ・にご・にごむ」なども同じ系統である。
物の隙間が広いことを「あらし」という。「天間麁籠」や「あらら松原」の類だ。遠く離れることを「あらぶ」といい、『万葉集』の「あらぶる君」「あらびな行きそ」などがそれである。散り分かれることを「あらく」という。ただしそれに対応する「にぎ」系の語は、まだ思い付かない。これらは漢字なら生熟・精粗・疎密などに当たる。疎を「あら」という例は多いが、反対の密を「にぎ」という例は思い当たらず、「にぎはふ」がそれに近い。また柔を「にぎ」とはいっても、その反対の剛を「あら」とはいわない。柔に対する「あら」は、強暴などに当たる。
以上のさまざまな用法を広く考え、和御魂・荒御魂という名の意味を推し量るべきである。

【宣長の注釈】神の御霊をこの二つに対していうのは、その働きを表す名にすぎない。御霊の全体は全体としてあり、二つに分けたもの以外には何もない、というわけではない。以前、ある人にこの二つの御魂について問われ、私は火にたとえて答えたことがある。
一つの火から火を分け取り、灯火と薪に付けると、どちらにも火が移って燃える。しかし元の火も消えず、減らず、もとのままある。御霊の全体はこの元の火で、和御魂・荒御魂は灯火や薪に移した火のようなものだ。
世の人はこの意味を知らず、御魂全体を二分し、一方が荒魂なら、もう一方は必ず和魂だと決めるが、それは誤りだ。例えば伊勢の荒祭宮は大御神の荒魂を祭るが、だからといって本宮を和魂と呼ぶのではない。本宮は御魂の全体である。摂津の広田神社も天照大御神の荒魂である。同じ神の荒魂が一つに限らないのも、一つの火をいくつもの薪へ分け移したようなものだ。
大和の大三輪は大国主神の和魂であるが、狭井神社はその大三輪神の荒魂なので、和魂の神にさらに荒魂があることになる。これは分け取った灯火から、さらに火を分けて薪に移すようなものだ。大国主神は、このように大和に和魂も荒魂もあるが、出雲の杵築大社も同じ神の御魂である。元の火がなおそのままあるのと同じだ。三輪が和魂だから、杵築は荒魂だと決めるのも誤りである。杵築が御霊の全体であることは、前に引いた神賀詞の文からもわかる。

【宣長の注釈】ある人が問う。「『書紀』では、住吉大神の荒魂は長門国に、和魂は摂津国に祭ったとあります。それなら御霊全体は、どの社にあるのでしょう」。
答える。社を建てて祭るか祭らないかは、こちら側のことで、向こうの御霊そのものには関係しない。神代の尊い神々の中にも、主となる社がない神は多い。だからといって御霊がないとはいえない。また、このたび住吉大神を祭ったのは、その和魂・荒魂の御力によって功が成ったためである。和魂・荒魂は別の物ではなく、その神の御霊そのものだから、ほかに御霊全体の社が別にないとしても、何の問題があろう。
どの神でも、和魂・荒魂と断らず、こちらにもあちらにも社を建てて祭る場合があるが、それも同じ御霊である。必ず和魂・荒魂という呼び分けに限るわけではない。ただし同じ神でも、祭る社によって、その御魂に尊卑や大小の違いはある。火を分けるとき、灯火でも薪でも、そのほかの物でも、火を付ける物の大きさや量に応じ、移った火にも違いがあるのと同じだ。
また、神に御霊があるように、普通の人にもそれぞれ霊があり、死ぬと黄泉の国へ去るとしても、なおこの世にもとどまり、福や禍を起こす点で神と同じである。

【宣長の注釈】ただし、その人の位の高低、心の賢愚や強弱によって、この世に魂が残る様子も異なる。初めからほとんどないに等しい者もいれば、数百年・千年を経てもはっきり盛んで、まさしく神となる者もいる。
黄泉へ去った魂が、この世にも残るとはどのようなものか。それは元の火を別の場所へ持ち去るとき、光はなお元の場所にも届き、しばらく明るいのと同じだ。持ち去る火が遠ざかるほど、元の場所に届く光は少しずつ弱くなり消えていく。それと同じく、多くの年を経ると残った霊は消えていく。一方、尊い神などは黄泉へ去っても、この世に残る御魂がいつまでも衰えず盛んである。これは火が大きいため、別の場所へ持ち去って到着した後も、元の場所へ届く光がなお盛んで変わらないのと同じである。以上は宣長が述べる魂のあり方である。

【宣長の注釈】「国守神」は「くにまもりますかみ」と読む。字どおり「くにもりのかみ」とも読めるが、神が守ることを山守・野守・道守・渡守などと同じようにいうのは、どうかと思うからだ。ただし昔は同じようにいった可能性も否定できず、そうであれば字に従って読むべきである。韓国を鎮め、背かせず、永く日本の朝廷に服して朝貢するように守る神をいう。
「祭鎮」は「まつりしづめて」と読む。「鎮」は『万葉集』巻七に鎮斎とあり、ほかにも「いはふ」と読むべき所があるので、ここもそうかと思うが、やはり、これまで船上にお迎えしていた神を、社を建て、その場所へ鎮座させる意味だろう。「鎮まる」はとどまる意味だということは前に述べた。
『書紀』では、従軍した表筒男・中筒男・底筒男の三神が皇后に「我が荒魂を穴門の山田邑で祭らせよ」と教えた。穴門直の祖の践立と津守連の祖の田裳見宿禰が、神の望む場所を必ず定めて奉るよう申し上げたので、践立を荒魂を祭る主とし、穴門山田邑に祠を建てた、とある。神名帳の長門国豊浦郡「住吉坐荒御魂神社三座」、いずれも名神大とするのがこれである。
『三代実録』には、貞観元年正月、長門国の従五位下住吉荒魂神を従五位上に、十七年十月、従五位上住吉荒御魂神を正五位下に、同年十二月、従四位下住吉荒魂神を従四位上に、仁和二年十一月、従四位上住吉荒魂神を正四位下にしたとある。『編年集成』には豊浦の住吉とあり、この神社は今も山田村という所にある。

【宣長の注釈】ところが『古事記』では、「海を渡って帰った」という文より前に置かれ、新羅国で鎮め祭ったように聞こえるのは、どうしたことか。「国守神」も、韓国を単に「国」と呼ぶのは、その国にいるときの言い方である。日本へ帰って長門でいうなら、「韓国を守る神」などとなるはずだ。したがって、長門の住吉を指すなら、「国守」は外国を防いで日本を守る意味とすべきだ。長門とは別に新羅にも鎮め祭った、ともいえそうだが、やはりそうではあるまい。
『書紀』には、次の話もある。「皇后の船は難波を目指したが、海中を巡るばかりで進めず、改めて務古の水門に戻って占った。天照大神が『我が荒魂は皇居に近付けてはならない。私の心にかなう広田国に住むべきだ』と教えたので、山背根子の娘の葉山媛に祭らせた。稚日女尊は『活田の長峡の国にいたい』と教え、海上五十峡茅に祭らせた。事代主尊は『私の心にかなう長田国で、私を祭れ』と教え、葉山媛の妹の長媛に祭らせた。表筒男・中筒男・底筒男の三神は、『我が和魂は、大津の渟中倉の長峡にいて、行き来する船を見守ろう』と教えた。そこで神の教えに従って鎮座させると、無事に海を渡ることができた」。

【宣長の注釈】これらは、すべて先に教えを告げた神々である。「皇居」の「居」を現行本が「后」と書くのは誤りで、『帝王編年記』の「居」がよい。広田は神名式に、摂津国武庫郡の広田神社、名神大、月次・相嘗・新嘗とあり、世に西の宮という社である。活田は同国八部郡の生田神社、名神大、月次・相嘗・新嘗で、生田の杜というのがこれだ。長田は同じ郡の長田神社で、これも名神大、月次・相嘗・新嘗である。
大津の渟中倉の長峡は、『和名抄』にある同国兎原郡住吉郷の地で、今も住吉村と呼び、本住吉という神社もある。この土地は武庫山から分かれて南へ長く伸びた尾根の端で、古名を「ぬなくらの里」といったという。まさに長峡と呼ぶにふさわしい。今の海辺までは村から七、八町ある。
一方、現在の住吉郡の住吉は、後に移された場所で、この渟中倉の長峡ではない。今の住吉の場所では、『神功紀』の、難波へ直行しようとしたが海中を巡って進めず、務古水門へ戻って占い、その後、無事に海を渡ったという文に合わない。兎原郡の住吉なら、よく合う。『伝』巻六では、これを現在の住吉の地として、述べたのは正確ではなかった。

【宣長の注釈】現在の場所へ移した事についての考証は、高津宮の段、『伝』巻三十五の二十葉に述べた。
「還渡也」は、新羅国から海を渡って帰ったことをいう。この文が、住吉大神の荒御魂を鎮め祭るという文の後にあるのは、前に述べたように不審である。無理に説明を付けるなら、荒御魂を祭ったのは長門で、そこから難波までも海路を帰るので、大倭国へ戻るまでを含めて「還渡」といったため、後に置いた、ともいえよう。しかし、やはりそうは聞こえず、新羅から日本の地へ海を渡って帰った意味に読める。したがって、もとは「還渡」が「門」の字の次にあり、その後に「即以云々」と続いた文を、阿礼が暗誦していた間などに、順序を取り違えたのではないか。

【宣長の注釈・征伐をめぐる宣長の主張】儒者などはこの大后の韓国征伐を論じ、当時の新羅が日本に背いたとも聞かず、何の罪もないのに理由なく攻めたのは、ただ財宝を欲したので、不義の行動、大義名分のない戦だ、などという。宣長はこれを、自分個人の小さな知恵で物事の道理を決める、例の「漢国意」であり、真の道を知らないものだと批判する。
宣長によれば、この征伐は神の御心から起こり、すべて神の御業なので、必ずそうあるべき道理がある。その道理は極めて微妙で、人間に推し量れる範囲を超える。軽々しくあれこれ論じるのは、畏れ多く、身の程を知らない誤りだという。神の御業という説明を虚偽・妄想とするのも、自分の知恵だけを頼る者の常套句だとする。また『垂仁紀』の記事に基づいて任那のための征伐だったとする説も、漢意にへつらい、大義のない不義の戦という非難を無理に避けようとする私論で、神の教えだったことを忘れている、と批判する。
さらに『三国史記』『東国通鑑』などが、百済・新羅・高麗の歴史で日本を単なる対等の国のように低め、この大后の征伐や三国が服従して朝貢した様子を記さないのは、嫌って隠したためだ、と宣長は主張する。『三国史記』には、新羅の阿達羅尼師今二十年夏五月に倭女王卑弥呼が使者を遣わして来聘したこと、助賁尼師今三年夏四月に倭人が突然来て金城を囲み、王が自ら戦うと賊が潰走したことなどがある。宣長は、これらはわずかに関連するように聞こえるが、「賊が潰走した」などはひどい虚偽だとする。『東国通鑑』はこれらさえ除いて記さない、ともいう。そして、これらの書は誤りや虚偽が多く論じるに足りないが、世の人は何かの書にあると信用し、古く三国が服従したことを疑うかもしれないので、少し注意を促しておく、と述べる。以上は宣長による信仰上・史料評価上の議論である。

【古事記本文】その務めがまだ果たされない間に、胎内の御子が生まれようとした。そこで御腹を鎮めるため、石を取って裳の腰に巻き付け、筑紫国へ渡って来てから、御子が生まれた。「阿礼」の二字は音を表す。そのため御子の生まれた所を「宇美」と名付けた。また、裳に巻き付けた石は、筑紫国の伊斗村にある。

【宣長の注釈】「其政」は韓国征伐のことをいう。「まつりごと」は、臣・連・多くの伴緒が朝廷に仕えることをいう語だと、白檮原宮の段、『伝』巻十八の七葉で詳しく述べた。古くは仕える人についていい、君主についていう例はないのに、ここでこうあるのは、この征伐が天照大御神の大命を受けた行動で、大御神に仕える事だからである。その理由は前に見える。
「未竟之間」は、まだ果たし遂げない間という意味だ。「竟」は、倭建命の段の、命じられた務めを「遂げた」の遂と同じである。「まだ終わらない」といえば、七、八割は終わり、あと少し残るようにも聞こえるが、石を取る以下の話はまだ新羅へ渡る前なので、その意味ではない。
「懐妊臨産」は「はらませるみこ、あれまさむとしつ」と読む。師は四字を「みこあれましなむとす」と読んだが、それだけでは意味が足りず、必ず「はらませる」という語もあるべき所だ。『書紀』推古巻の「皇后懐妊開胎の日云々」は、その御子を述べる箇所なので、そのように読むだけでよい。ここは新羅へ渡る前、筑紫での出来事である。
「為鎮」は「いはひたまはむために」と読む。「いはひ」は「しづめ」とも読め、「ために」は「としつ」とも読める。後者なら「たまはむ」も「たまふ」と読む。

【宣長の注釈】この務めを終えて帰るまで、御子がお生まれにならないよう祈ったのである。
『書紀』崇神巻の、忌み清めた瓮を和珥坂の上に「鎮」め置いたという文、『万葉集』巻三・十三などの「忌戸を斎ひ掘り据ゑ」という表現がある。巻十九の遣唐使に酒を賜う大御歌には、「大和の国は、水の上でも陸を行くように、船の上でも床に座るように、大神が守り祝う国である」とある。同巻の、大船に櫂を隙間なく並べ、この我が子を韓国へ遣わすので「いはへ神たち」と祈る歌から、「鎮在」の読みも定めるべきだ。その反歌に、四つの船が早く帰って来るようにと、私の裳の裾に「しらか」〔祈りのしるしとなる白い物〕を付け、祈って待とう、とある。これらは「鎮」を「いはひ」と読む例なのに、現行本はいずれも読みを誤り、この字をそう読むことを知らない。
「いはふ」の用例はなお多い。巻十五には、妻が無事であれと祈れば、沖の波が幾重に立っても妨げなどあろうか、新羅へ行くあなたが帰るのを今日か明日かと祈って待とう、家の人は旅する私が早く帰るよう祝い島で祈って待つだろう、白妙の私の衣の袖を手に取って祈ってください、あなた、じかに会う日まで、という歌がある。巻十九には、別れてあなたが行ったなら、大和の人々はそれぞれ祈りながら待つだろう、という歌もある。
「取石」。次に引く『万葉集』巻五の歌の前書きによれば、肥前国彼杵郡平敷という土地の石が占いにかなったので、取って用いたのである。ある人によると、平敷は今の長崎近くの浦上村平野宿という所で、今も美しい赤石・白石が多く出る。火打石にも、磨いて緒結〔ひもに付ける留め具〕という物にもするという。
〔訳注:「しらか」が具体的に何を指すかは確定できないため、白髪・木綿などのいずれかに限定せず訳した。〕

【宣長の注釈】「纏御裳之腰」の纏は「まかして」と読む。「お巻きになって」ということだ。石を包み、帯のような物で裳の腰に結び付ける意味である。『書紀』は腰に挿す、『筑前国風土記』は御腰に挿す、『万葉集』は御袖の中に挿すと書き、実際は御裳の中であるとの注を付ける。これらは次にすべて引用する。この裳は下裳だろう。下裳については上巻、『伝』巻六の四十八葉に述べた。
「渡筑紫国」は韓国を平定し終え、海を渡って帰って来ることをいうので、「わたりきまし」と読むべきだ。ただ「わたりまし」では何か意味が足りない感じがする。「阿礼坐」はお生まれになったということで、白檮原宮の段、『伝』巻二十の三十五葉に詳しく述べた。
「謂宇美」。『書紀』にも、皇后が新羅から帰り、十二月戊戌を朔とする月の辛亥の日に筑紫で誉田天皇を産んだので、当時の人がその出生地を宇瀰と呼んだ、とある。応神巻では筑紫の蚊田で生まれたとするので、その場所の旧名は蚊田だったのだろう。今も筑前国糟屋郡に宇瀰村と宇瀰神社があり、八幡大神を祭るという。
『愚管抄』には、筑紫へ帰り、うみの宮の槐に取りすがって応神天皇を産んだとあり、今も植え継いだ大きな槐が社内にあるという。一方、『帝王編年記』は、筑紫へ帰って誉田皇子を産み、その場所は筑前国那珂郡筥崎浜だと記す。ある説では、応神天皇の胞衣を箱に入れて埋めたため筥崎といい、そのしるしの松が筥崎宮の近くにあるという。筥崎の松を歌う歌は『拾遺集』に、「しるしの松」と歌うものは『新拾遺集』にもある。
筥崎にはさまざまな説があって確定できないが、この御子に縁のある土地ではあるだろう。神名式には、筑前国那珂郡の八幡大菩薩・筥崎宮、名神大とある。また次に引く『筑前国風土記』では、宇美も子饗原と同じ所で、怡土郡にあるように聞こえる。土地の人によく尋ねて、考え定める必要がある。

【宣長の注釈】「伊斗村」の斗を諸本が計とするのは誤りで、今は延佳本による。『和名抄』の筑前国怡土郡、「いと」と読む所がこれである。『続日本紀』巻十九には、初めて怡土城を築き、大宰大弐吉備朝臣真備に専ら担当させたとある。宗像郡にも怡土郷があるが、そちらではあるまい。
『書紀』仲哀巻には、筑紫の伊覩県主の祖の五十迹手が天皇の行幸を聞いて云々、天皇が「いそし」と褒めたので伊蘇国と呼び、今、伊覩というのはなまりだ、とある。『筑前国風土記』の怡土郡の条には次のようにある。「穴戸の豊浦宮で治めた足仲彦天皇が、熊襲を討とうとして筑紫へ来たとき、怡土県主らの祖、五十迹手は、枝の多い榊を抜き取って船の舳先と船尾に立て、上の枝に八尺瓊、中の枝に白銅鏡、下の枝に十握剣を掛け、穴門の引島へ迎えに参って献上した。天皇が何者かと問うと、『高麗国の意呂山に天降った日桙の子孫、五十迹手である』と奏した。天皇は『いそしいことだ』と褒め、五十迹手の本国は恪勤の国と呼ぶべきだとした。今、怡土郡というのはなまりである」。
この二書はいずれも、もとの地名は伊蘇国で、伊斗はなまったものだとする。しかし今考えると、五十迹手という名の方がこの地名によったように聞こえる。また『魏志』の日本の伝にいう伊都国も、まさにこの土地である。あれはこの大后の御世頃の様子を伝え聞いて記したはずなのに、すでに「伊都」とある以上、この名を訛とするのは疑わしい。

【宣長の注釈】この石については『書紀』にも、秋九月、吉日を占って出発が近付いたところ、ちょうど皇后の出産の時が来た。皇后は石を腰に挿し、「事を終えて帰る日に、この土地で産もう」と祈った。その石は今も伊覩県の道端にある、と見える。「開胎」を現行本は「うむがつき」と読むが、前に引いた推古巻の「懐妊開胎の日」も生まれようとする直前をいうので、ここもその意味である。
『筑紫国風土記』には次のようにある。「逸都郡子饗原に石が二つある。一つは長さ一尺二寸、周り一尺八寸、もう一つは長さ一尺一寸、周り一尺八寸で、白く、丸く、磨いて作ったようだ。伝承では、息長足比売命が新羅を攻めようと軍を出す際、産気付いてきたとき、この二石を裳の腰に挿し、新羅へ進んだ。凱旋して芋湄野に至ると太子が生まれたので、この因縁から芋湄野と呼ぶ。産むことを芋湄というのは土地の言葉である。民間の女性が急に産気付いたとき、裳の腰へ石を挿して時を延ばすまじないをするのも、これによるのだろうか」。
子饗原は『万葉集』では子負原と書き、歌では「こふのはら」とある。民間の女性についての話では、今も筑紫で出産するとき、そばから励ます言葉に「まだ異国は治まっていないぞ」ということがあると、ある人がいう。
『筑前国風土記』にはこうある。「怡土郡の西にある児饗野、その西に白石が二つある。一つは長さ一尺二寸、太さ一尺、重さ四十一斤、もう一つは長さ一尺一寸、太さ一尺、重さ四十九斤である。昔、気長足姫尊が新羅を征伐しようとこの村に来ると、御身は妊娠中で、急に生まれそうになった。すぐ二石を腰へ挿し、『私は西の境へ向かい、この野に来た。胎内の皇子が神であるなら、凱旋後に生まれるように』と祈った。西の境を平定して帰るとすぐに産んだ。これが誉田天皇である。当時の人は石を皇子産石と呼び、今はなまって児饗石という」。ただし「朕欲」の後には字が脱けている。

【宣長の注釈・『万葉集』巻五の前書き】筑前国怡土郡深江村の子負原、海に面した丘の上に二石がある。大きい方は長さ一尺二寸六分、周り一尺八寸六分、重さ十八斤五両。小さい方は長さ一尺一寸、周り一尺八寸、重さ十六斤十両である。どちらも卵のような楕円形で、その美しさはいい尽くせない。いわゆる径尺の璧である。ある説では、肥前国彼杵郡平敷の石が占いにかなったので取ったという。深江駅家から二十里ほど、道のすぐ近くにあり、公私の往来の者はみな馬を降りてひざまずき拝む。古老の伝えでは、息長足日女命が新羅を征討したとき、この二石を御袖に挿し、胎内を鎮めたという。ただし実際には御裳の中である。このため道行く人が敬い拝むので、次の歌を作った。

【宣長の注釈・『万葉集』の引用歌】口にするのも、まことに畏れ多い。足姫という神の命が、韓国を平定なさり、御心を鎮めようと、真珠のような二つの石をお取りになって、祈りをこめられた。世の人にお示しになり、万代まで語り継ぐようにと、海の底の、沖の深江、その海辺の子負原に、自らお置きになった。神として、神々しくいらっしゃる奇しい御玉よ、今、目の当たりにも、なんと尊いことか。
反歌――天地とともに久しく語り継ぐようにと、この奇しい御玉を、そこにお置きになったらしい。

【宣長の注釈】怡土郡には今も深江村があり、肥前の唐津へ通う道の駅である。子負原は深江の西にあり、「こぶ」と濁って呼ぶ。石は二つとも盗人が持ち去り、今はないと土地の人がいう。歌の「くしみたま」は、石を「奇しい御玉」と称したのであり、御魂という意味ではない。
石の長さが一尺余もあるので、どうして腰に付けられたのかと疑う人もいるだろう。しかし宣長は、大后の時代から奈良の都の頃までは五百年以上が過ぎているので、小さかった石が大きくなったのを疑う必要はない、と説明する。そして、石も長い年月で少しずつ大きくなるのは今でも普通のことだ、と述べる。これは宣長自身の石についての見解である。

【古事記本文】また筑紫の末羅県の玉島里に到着し、その川辺で食事をしたときは、四月上旬だった。そこで川の中の岩にお座りになり、裳の糸を抜き取り、飯粒を餌にして、その川の鮎を釣った。川の名は小河、また岩の名は勝門比売という。このため四月上旬には、女が裳の糸を抜き取り、飯粒を餌にして鮎を釣る習わしが、今に至るまで絶えない。

【宣長の注釈】「筑紫の末羅県」。末羅の名の由来は『書紀』に見え、次に引く。肥前国なのに肥の国とせず筑紫というのは、筑紫を西海道九国の総称と見れば問題ないが、やはりそうではあるまい。肥前の地域は、もとは筑紫国の内で、肥の国に属したのは、もう少し後ではないかと思える点がある。その理由は上巻、『伝』巻五の十三葉に述べたので、照らして考えてほしい。

【宣長の注釈】『和名抄』には肥前国松浦郡、「まつら」とある。「県」は「がた」と読む。「こほり」も「まつらのあがた」もよくない。『万葉集』の文章の「松浦之県」は漢文なので、読みの証拠にはできない。巻五に「まつらがた」とあるのがこれである。この「がた」を潟と思うのは誤りだ。「松浦がた、佐用姫という娘が領巾を振った、その山の名ばかりを聞いているのだろうか」という歌を考えるべきだ。佐用姫の故郷を指すとしても、後の山にかかるとしても、潟では理由がない。県であることは明らかだ。
県については志賀宮の段、『伝』巻二十九の五十八葉以後に詳しく述べた。末羅も古くは御県だったのだろう。『古事記』の「某県」は古い呼び名のままで、実際に「あがた」と呼んだ土地である。『書紀』などが郡と通用させ、編者の考えで書いたものとは違う。『万葉集』巻十六にも松浦県とある。この地を歌う例は巻五に「君を待つ松浦の浦の」「百日も行かぬ松浦道」「君待つら山」など、なお多く、次にも引用する。
巻十五に「足姫が御船をお泊めになっただろう松浦の海」とあるので、新羅から帰るときもこの浦に船を泊め、ここから筑前へ到着して御子を産んだのだろう。この例から考えると、初めに新羅へ船出したのもこの浦だったのではないか。出発地や停泊地がどこだったかは『古事記』『書紀』には見えないが、『万葉集』がここに停泊したと歌う以上、そのような伝えがあったのだろう。古く韓国へ渡る際には、多くこの浦から船出したのではないか。巻五の佐用姫の故事などを考えるべきである。

【宣長の注釈】「玉島里」の名の由来は、わからない。『土佐国風土記』の吾川郡玉島には、ある説として、神功皇后が国を巡ったとき船を泊め、島へ降りて岩場で休むと、鶏卵のように丸い白石を得た。掌に置くと光が四方に輝いたので、大いに喜び、「これは海の神が賜った白真珠である」といって島の名とした、とある。これに照らせば、松浦の玉島もそのような由来で名付けたのかもしれない。『万葉集』巻五には、「人はみな見るだろう、松浦の玉島を。私は見ずに恋い慕っているのだろうか」という歌がある。

【宣長の注釈】「到坐」。『書紀』によれば、最初に船出したときでも、帰って停泊したときでもない。船出より前、別に筑前から筑後を経て、この土地へ行ったのである。
『書紀』では、まず三月の出来事で、そこを御笠と名付けたとあるのは筑前の御笠郡、次に層増岐野というのは筑前の夜須郡である。続いて山門県に着いたというのは筑後の山門郡で、その次の夏四月に松浦県へ到着したとあるから、筑後を経たというのだ。その後に橿日浦へ行く記事があるので、その時には筑前へ戻ったと読める。したがって松浦へ来て鮎を釣ったのは、船出の折ではない。続く冬十月、対馬の和珥津から新羅へ渡った。『書紀』の順序は以上のとおりである。
ただし、この順序のすべてにこだわる必要はない。橿日浦へ行ったのが先で、松浦に着いたのはその後、つまり船出の時だった可能性もある。四月・十月という時期にも、もとより必ず従うべきではない。また、和珥津からの船出も、松浦から出て壱岐を経て対馬に着き、そこから改めて船出したのである。今も対馬の上県郡に鰐津・鰐浦があり、秋冬に朝鮮へ渡るときはそこから出て、春夏は佐須奈浦から出ると島の人がいう、とある人が伝える。
『古事記』がここに記したのは、前の出来事を追って、別に述べたものだ。筑前で御子を産んだ次に続く出来事ではなく、「亦」という語からも、別段であることが明らかだ。

【宣長の注釈】「其河辺」は、『万葉集』巻五に松浦川とも玉島川とも歌われる川である。「玉島のこの川上に」「松浦川、七瀬の淀は」などの用例が多く、次にも引く。「御食」は「みをしせす」と読む。倭建命の段で、尾津の前の一本松に着き、先に食事をしたとき云々とある所、『伝』巻二十八の三十八葉に述べたとおりだ。「せす」は「す」を延ばした古語で、「なさる」というような意味である。
「之時当」の三字は「をりしも」と読む。折も折、鮎を釣るのによい時期に当たったという意味だ。四月は「うづき」というが、そう名付けた意味はまだわからない。月々の名には昔から説があるが、みなよくない。その中では、三月を「いやおひ〔ますます生い育つこと〕」によるとする説だけはよい。また師の『考』が、七月は穂含月、八月は穂発月、九月は稲刈月だとする説などは、そうであるかもしれない。そのほかはどうだろう。九月は稲熟月かもしれない。ただ「が」と濁るのは、刈でも熟でもどうかと思われ、音便による濁りなのか、別の意味なのか、決めにくい。私自身も、ほかにこうかもしれないと思い付いたものはあるが、十二か月すべてを考え得ていないので、今はいわず、さらに考えてから述べよう。

【宣長の注釈】「上旬」は「はじめのころ」、また「つきたちのころ」と読む。「かみのとをか」という語は信明集の歌にもあるが、上代の語ではなさそうなので、そのように読むのはよくないだろう。「つきたち」は月立、月が始まることで、後に朔の字を当て「ついたち」という。「つき」を「つい」とするのは音便である。
宣長は、上代では一年を春夏秋冬の四つに分け、それぞれを初め・中・末の三つに区切るだけで、後のように十二か月を定めて何月何月と呼ぶことはなかった、と考える。一年を十二か月に定め、月々の名を付けたのは仁徳天皇の御代頃か、ともいう。この御代もなお以前の区切り方だっただろう。その理由は以前著した『真暦考』に詳しく論じたので、参照してほしいという。したがって、ここに四月上旬とあるのは、当時そのようにいったのではなく、後の名称で伝えたものだとする。
「磯」は『書紀』では「石上」と書く。これを「いそのうへ」と読むのは『古事記』によったのだろう。『万葉集』巻五の歌にも「いし」とあるので、石であるはずなのに磯と書くのは、古く石を「いそ」ともいったらしいためだ。「いそのかみ」を石上と書き、『万葉集』などでも磯と石を通用させる例が多い。したがって、この磯は借字で、石だったのだろう。
巻五には、足姫という神の命が、魚を釣ろうとお立ちになった、その石を誰が見ただろう、という歌がある。第三・第四句は「魚釣すと、御立しせりし」の意味で、結句の吉は志の誤りか。ある人によると、今も玉島川の岸に一辺七尺ほどの大石があり、紫石と呼び、大后が釣った場所と伝える。別の人は、浮島と玉島川の間の松原にあり、一辺五尺ほどだという。さらに、この石の上で女が釣れば鮎を多く得るが、男が釣っても得られないと伝える。

【宣長の注釈】「抜取御裳之糸」は、織り地の糸をほぐして抜き取り、釣り糸にすることである。『古今集』に、藤衣のほつれる糸は、悲しむ人の涙の玉を通す緒になったのだ、という歌がある。
「飯粒」は「いひぼ」と読む。「ぼ」の清濁はまだ考えていないが、ひとまず普通の読みに従う。『書紀』安閑巻の人名にも飯粒とあり、そう読む。播磨国の郡名「揖保、いひほ」も、『和名抄』にあるが、飯粒の意味の名だろう。神名式の揖保坐天照神社を臨時祭式は粒坐とする。俗にいう飯粒である。『霊異記』が粒を「つひ」とするのは、つぶと通うのか。皇后が召し上がる、その御飯の粒をそのまま取って用いたのだ。
「餌」は、『和名抄』が『四声字苑』を引き、食べ物で魚・鳥を誘うこと、和名「え」とする。「年魚」は、『和名抄』に、本草に鮧魚、蘇敬の注に一名鮎魚、和名「あゆ」とある。『楊氏漢語抄』では銀口魚、また細鱗魚といい、『崔禹錫食経』には、姿は鱒に似て小さく、白い皮で鱗がなく、春に生まれ、夏に育ち、秋に衰え、冬に死ぬので年魚と名付ける、とある。『天智紀』の童謡に「み吉野の、吉野の鮎、鮎こそは云々」とある。

【宣長の注釈】注の「小河」。『書紀』に玉島里の小河とある。「小」は小長谷・小筑波などの小と同じ、名を整える接頭語で、必ず小さい意味ではない。小田・小野・小浜と同じ類で、小河の例も多い。『万葉集』には小国・小里・小林・小峰などもある。
「勝門比売」。旧刊本・延佳本には勝の下に騰があるが、勝を誤写したものが別に加わったのだろう。一本では騰だけあって勝がない。今は真福寺本などによった。名の意味は、『書紀』によるとこのとき大后が祈ったことがあるので、その趣旨から、新羅に勝ったことによって後に名付けたのかもしれない。「門」は場所の意味か。「比売」は尊んだ呼び方だろう。
ある人は勝門を「よど」と読むべきだとし、『万葉集』の「松浦川七瀬の淀」や、神名式の肥前国佐嘉郡の与止比女神社を引く。今、浮島と玉島川の間、一里ほど川上に淀姫大明神の社があり、それに当たり、浮島は『源氏物語』玉鬘巻に見えるという。しかし「勝門」をよどと読む理由はない。もし「よどひめ」なら勝を誤字とすべきだが、やはりそうではあるまい。
筑前国宗像郡に勝浦という所があり、神功皇后が新羅に勝って帰り、この浦へ上がったので「かつら」と名付けたと土地の人は伝える。かつら潟は歌にも詠まれる名所だ。勝浦村の西は昔は遠くまで干潟だったが、寛文十一年に新田を開き、今は潟がないという。ここで勝門比売というのは肥前の玉島だが、あるいはこの筑前の勝浦の伝承と混同したのではないか。
「故四月上旬之時」以下は、すでに暦を用いる時代になってからのものと読める。暦を使い始めたのは推古天皇の御代からと思われるので、月の名はもちろん、上旬を「つきたち」というのも、その時代の語だろう。これらは『真暦考』を参照して理解すべきである。

【宣長の注釈】「女人云々」は、この大后の故事を思い、特にその作法を行ったのである。何となくその頃に鮎を釣るだけのことではない。四月上旬に鮎を釣ることは珍しくなく、どこでも普通にあるからだ。玉島川に今もこの行事が残るかは、土地の人に尋ねるべきことである。
『万葉集』巻五には、次の歌がある。「松浦川の瀬が光り、鮎を釣ろうと立つあなたの裳の裾は濡れてしまった」「松浦の玉島川に鮎を釣ろうと立つ娘たち、その家路を私は知らない」「遠い人を待つという松浦の川で若鮎を釣るあなたの腕を、私こそ枕にしたい」「若鮎を釣る松浦川の波のように、並々に思うだけなら、私がこんなに恋い焦がれようか」。これらの歌も、次の『書紀』の文から見ると四月上旬のことだった。

【宣長の注釈・『日本書紀』の引用】夏四月、壬寅を朔とする月の甲辰の日、北へ進んで火前国松浦県に着き、玉島里の小河のほとりで食事をした。皇后は針を曲げて釣針とし、飯粒を餌とし、裳の糸を抜いて釣り糸にして、川中の石に上り、釣針を投げた。そして「私は西の方へ財宝の国を求めようとしている。事が成るなら、川の魚が釣針を飲むように」と祈った。竿を上げると、細鱗魚が釣れた。皇后は「珍しいものだ」といった。「希見」は「めづらし」という。このため当時の人はその所を梅豆邏国と名付け、今、松浦というのはそのなまりである。そこでその国の女性は毎年四月上旬に川へ釣針を投げ、鮎を捕る習わしを今まで絶やさない。ただし男は釣っても魚を得られない。

古事記伝 巻三十一 本居宣長 著 訶志比宮の下巻

【古事記本文】息長帯日売命が大和へ帰る時、人々の心に疑わしいところがあったので、喪船を一艘仕立て、御子をそこへ乗せ、「御子はもう亡くなった」と前もって言い漏らさせた。こうして帰ると聞いた香坂王と忍熊王は、待ち受けて討とうと思い、斗賀野へ出て占いの狩りをした。香坂王がくぬぎの木に上って座り、狩りを見ていると、大きな怒った猪が現れ、その木を掘り倒して王にかみつき、殺した。弟の忍熊王はこの有様にも恐れ慎まず、軍を起こして待ち迎えた。喪船へ向かい、兵のいない船を攻めようとすると、喪船から兵が降り、戦いとなった。忍熊王は難波の吉師部の祖、伊佐比宿禰を将軍とし、太子の側は丸邇臣の祖、難波根子建振熊命を将軍とした。敵を追い退けて山代まで来ると、双方また向かい合い、退かずに戦った。建振熊命は計略を用い、「息長帯日売命も亡くなったので、もう戦うことはない」と伝えさせ、弓の弦を切って降伏するふりをした。敵将はそれを信じ、弓を緩め兵器を収めた。すると建振熊命の軍は髷の中から用意した弦(別名うさゆづる)を取り出し、張り直して追撃した。忍熊王の軍は逢坂へ逃れ、また向き合って戦ったが、太子側の軍はさらに追い迫ってこれを破り、沙沙那美へ出て、敵兵をことごとく斬った。忍熊王と伊佐比宿禰は追い詰められ、船で海に浮かび歌った。「さあ君よ、振熊に痛手を負わされるよりは、鳰鳥の近江の海に、潜ろうではないか、私たちは。」そして海へ入り、ともに死んだ。

【宣長の注釈】「因疑人心」は「人の心うたがはしきによりて」と読むべきだ。師の「人の心を疑ひおもほせば」も悪くないが、疑うといえば疑う必要がないのに疑う場合もある。「疑わしい」は実際に理由がある様子である。香坂王・忍熊王が従わない様子や、人々がその側へ付くかもしれないことを測りにくく、疑わしかったためだ。喪船は棺を載せた船。孝徳天皇紀で轜車をきくるまと読む例によれば、きぶねかとも思えるが、ここはもぶねと読んでおく。「一具」は一つそなへと読み、一をもはらとするのは誤りだ。一は一艘、具は仕立てること。実際の喪船でなく、計略でその形にしたのである。『日本書紀』によれば天皇の棺を載せた船へ御子も乗せたといえようが、『古事記』の趣旨は違い、天皇の喪船そのものの話を省いている。

【宣長の注釈】御子は新しく生まれた品陀別命、応神天皇である。先とは前もってすること。崩と申し上げることは、宇遅能和紀郎子の所(巻三十三・七十八丁)で述べる。「言い漏らさせる」は俗に言いふらさせることだ。漏らすと特にいうのは、この時は世情が定まらず、本当に御子が亡くなっても隠すべきことなので、秘密が自然に漏れたようにいわせたのだろう。この計略は二王の気を緩ませ、油断させるためである。「こうして帰る」について、『日本書紀』は、新羅討伐の翌年二月、皇后が群卿・百官を率い穴門の豊浦宮へ移り、天皇の遺体を収め海路で京へ向かったとする。忍熊王が兵を起こして待つと聞き、武内宿禰に皇子を抱いて南海へ回り紀伊水門に泊まらせ、皇后の船は難波へ直行したとあり、『古事記』と違う。こちらでは大后も御子も同じ海路をまっすぐ上ったのである。

【宣長の注釈】香坂王・忍熊王は巻三十の四丁に出た。「聞いて」は大后が帰ると聞いたのである。太子が亡くなった話も本当と信じたらしく、後に様子が見える。「待ち取る」は待ち迎えて討つ意味で、この取は討つことだ。例は前に詳述した。斗賀野は仁徳天皇紀三十八年、天皇と皇后が高台で避暑すると、夜ごと兎餓野から鹿の寂しく澄んだ鳴き声が聞こえたという野だ。兎はとの仮名で、つと読むのは誤り。『摂津国風土記』にも雄伴郡の夢野について、昔、刀我野に牡鹿がいたので夢野と名づけたとある。雄伴郡がどの郡かは不明。『和名抄』の西成郡の雄惟郷は、惟が誤写で雄伴、古く郡だったのか。なら斗賀野は西成郡で、そういう本もある。仁徳天皇紀では猪名県の佐伯部がその鹿を献じ、猪名郷は河辺郡で、同郡には雄上郷もある。しかし鹿の声が難波宮まで聞こえたなら、遠い河辺郡ではあるまい。地元の人によく尋ねるべきだ。『万葉集』巻十一の吾妹子を聞く都賀野辺の歌は、この野か別か。

【宣長の注釈】進み出るとは、大和から摂津まで出て来たことだ。出の後に於のない本もあるが同じである。「うけひ狩り」は、『日本書紀』が祈狩と書き、うけひがりと読むと注し、事が成るなら良い獣が捕れよ、といった意味からいう名である。息長足姫尊が、事が成るなら川魚が釣針を飲めと祈って鮎を釣ったのと同じ趣旨で、上代にはこの種のことが多い。

【宣長の注釈】歴木は景行天皇紀に、筑紫へ着き高田行宮にいる時、長さ九百七十丈の倒木があり、天皇が何の木か問うと老人が歴木と答え、神木だからこの国を御木国と名づけよ、とある。公望の私記は『筑後国風土記』を引き、三毛郡の役所の南に高さ九百七十丈の棟の木があり、櫟と棟は名が違うので記すとする。棟は楝の誤写か。仁徳天皇紀にも、荒陵の松林の南に二本の歴木が生え、道を挟み梢が合わさったとあり、いずれもくぬぎと読む。御木国と名づけたのでくぬぎは国木の意味という人がいるが、それは誤りだ。『和名抄』は本草から釣樟、別名烏樟をくぬぎとし、別に櫸樹もくぬぎ、日本紀私記では歴木とする。二種を同じ名で別々に載せるのは同名異物か、分けたのが誤りか。『字鏡』は櫪・櫟を同じくくぬぎとする。古書の歴木は櫪の意味で、例のように偏を省いたのだろう。中国の書にもその例や櫪と櫟を通用させる例があるが、同じ物ではない。

【宣長の注釈】くぬぎは今もくぬぎ、くのぎという木である。契沖は、今もくのぎといってつるばみのなる木だとするが、橡をくぬぎの実とするのは違う。『和名抄』の橡は櫟の実という文によるのだろうが、橡はいちひの実で、くぬぎではない。いちひに櫟を当てるので、その字から混同してはいけない。ただし『古事記』『日本書紀』の歴木が本当にくぬぎかどうかは決めにくい。巻二十五の葉広熊白檮の所でも述べたように、魚・鳥・草・木の漢字は古く人々がそれぞれ当てたので違いが多く、漢名からは決められない。歴木が櫪を表すとしても、どの日本の木に当てたかは確かでない。『風土記』の棟も伝承の違いではなく、記録者の当てた漢名が違うだけだろう。

【宣長の注釈】『万葉集』巻十二の「度会の大川辺の若歴木、私が長く旅にいたら妻は恋しがるだろうか」という歌では、上句は「わがひさ」と語を重ねるための序なので、歴木は必ずひさぎだと明らかだ。くぬぎと読む本では、若と我しか響かず、歌の主題の久に関係しなくなる。巻四の、佐保川の岸の役所の小歴木を刈るなという歌は、しばと読むのが正しい。どの木であれ柴をいい、小を添えて示す。しかし歴木と特に書くのは一種類の木を考えていたのだろうが、何かは不明で、川岸に多い木だろう。巻六にもひさぎの生える清い川原という例があり、今も川辺にある木なので合う。『和名抄』は『唐韻』の楸という木を『漢語抄』がひさぎとすると記す。だから『古事記』『日本書紀』の歴木もひさぎかもしれないが、ひとまず『日本書紀』の読み、くぬぎに従った。

【宣長の注釈】上って座るという表現は、朝倉宮の歌で、私が逃げ上った、峰の榛の木の枝、とある。「坐」はいましと読み、木の上にいることだ。ただ上ることに敬意を添えた字ではない。「而是」はそのままでは言葉が続かない。而は草書で於に似るから於是かとも思えるが、違うだろう。単に木に上っただけでも理由がないので、而の下に文章が抜けたのか。上って何かしたという文が必要だからだ。あるいは是は見の誤字か。木の上にいて狩人が獣を狩るのを見たというのである。『日本書紀』の、二王がそれぞれ仮屋にいると赤猪が出たという記事と比べると似るので、ひとまず是を「見たまふに」と読んだ。

【宣長の注釈】怒猪は師のいかりゐという読みがよく、俗にいう手負いの猪だ。雄略天皇紀にも怒った猪が草中から飛び出して人を追い、人々が木に登って恐れたとある。『拾遺集』の物の名「きさの木」の歌にも、石をかんで向かって来る怒り猪は象牙にも劣らないという。朝倉宮段では、天皇が葛城山で猪を鳴鏑で射ると、猪が怒って唸り寄り、天皇が恐れて榛に登る。「堀」は掘で、本来手偏だが昔から土偏で書き、中国にも通用例がある。ここでは根を掘り出し木を倒すことだ。「咋食」は『日本書紀』が顔にかみつき殺したとするのと同じ。「その様子を畏れない」は、占いの狩りでこのような不吉な怪異が起きたのに慎まないという意味で、ただ猪を怖がらないことではない。軍を起こし待ち向かうの向は迎の意味。上巻にもその表記例があり、白檮原宮段にも登美の那賀須泥毘古が軍を起こして待ち迎え戦うとある。

【宣長の注釈】『日本書紀』は兵を引き住吉へ戻り駐屯したとするが、『古事記』は、進み出た斗賀野の近くで待ち迎えたように聞こえる。空船は師の「むなしぶね」がよい。むなしき船でなければ整わないようでも、古語では哀しい妹をかなし妹、美しい妻をくはしめという例が多い。兵士が乗らない船の意味だ。忍熊王側は御子が亡くなった話を本当と信じ、実際の喪船なら兵がなく攻めやすいと思って、まずこの船を攻めようとしたのだろう。空を偽りの意味にも使うので、偽喪船という可能性もある。その場合、本当の喪船と思い棺を奪おうと攻めたことになるが、空船はその意味ではあるまい。兵を降ろすとは、表面は喪船を装い、隠して乗せていた兵を出し陸へ下ろすことだ。

【宣長の注釈】『日本書紀』はこう記す。「麛坂王・忍熊王は天皇の崩御、皇后の西征と皇子誕生を聞き、密かに相談した。皇后に子ができれば群臣はその幼主を立てるだろう。兄の我々がなぜ弟に従うのか。そこで天皇の陵を造るふりをして播磨の赤石に陵を起こし、船をつなぎ淡路島から石を運ぶ一方、各人に武器を持たせ皇后を待った。犬上君の祖倉見別と、吉師の祖五十狭茅宿禰が麛坂王に付き、将軍となって東国の兵を起こした。二王は菟餓野で、事が成るなら良い獣が捕れよと占いの狩りをした。それぞれ仮屋にいると赤猪が現れ、仮屋へ登って麛坂王をかみ殺し、兵はみな恐れた。忍熊王は倉見別に、非常な怪異なのでここで敵を待てないといい、住吉へ引き返した。」この時に戦ったという記事はない。

【宣長の注釈】難波吉師部の難波はその郷里で、姓ではない。だから『日本書紀』はただ吉師とする。ほかに多く出る難波吉士という姓とは別なので混同しない。吉師部は姓で、『新撰姓氏録』摂津国皇別の吉志を、難波忌寸と同祖、大彦命の子孫とするのがこれだろう。大彦命は孝元天皇の子で阿倍氏の祖なので、この氏もその分かれだろう。吉師部という名は地名から出たのか。今も島下郡の吉志部村があり、この氏の郷里だろう。もとは吉師が住んで地名が付いたのか。吉師については阿知吉師の所、巻三十三の二十三丁に詳述する。あるいは吉志舞からか。『続日本紀』巻十一、四天王寺へ食封を施入した時、摂津職が吉師部楽を奏したとある。阿倍氏の人が新羅から大嘗会の日に帰り、初めて吉志舞を奏した話は巻二十二の八丁に述べた。吉師という称号が新羅に由来するので、その舞を伝えたため吉師舞とし、舞った人の子孫が大嘗会ごとに継いで舞うので吉師部氏としたのか。その場合は氏人の郷里だから地名が付いた。しかし氏が地名から出たのなら、その祖が初めて舞い、氏に伝えたので舞の名が付いたとも聞こえる。どちらが先かは決めにくい。継体天皇紀の吉士老以後に多く出る吉士何々も、朝鮮の吉士に由来する呼称で、この氏人ではない。混同すべきでない。

【宣長の注釈】伊佐比宿禰は、『日本書紀』に五十狭茅宿禰、歌にも伊佐智須区禰とあるので、比は地の誤字か。上巻の神名にも地を仮名として使う例がある。いさちという名の例も、巻二十三の七丁に挙げた。しかしこちらは次にも比と書くので決めにくい。比の字に即していえば、いさちは「勇つひ」を縮めた形で、つは助詞、ひは彦・姫のひだろう。その意味は巻三の十三丁に述べた。いさひはつを省いただけか。つを加えたり省いたりする例は多い。この人は引用した『姓氏録』によれば大彦命の子孫だろう。本人の時にはまだ吉師部姓でなく、子孫がそう呼ぶのはずっと後のことだろう。将軍は『日本書紀』でいくさのきみと読む。古い類似の呼称からは、いくさのうしなどとも読める。高津宮段にも将軍山部大楯連があり、『日本書紀』では崇神天皇紀から出始める。

【宣長の注釈】太子について。この御子は大后の胎内にいる間に父天皇が亡くなったので、実際には胎内から天皇であり、胎中天皇とさえいう以上、生まれた後は当然、天皇であった。しかし母が健在で天下の政治を行い、神武天皇以来、幼い天皇の例もまだなかったので、この間はひとまず日嗣の御子と呼んだのだろう。成長しても母の存命中はその呼び方を続けたのか、天皇と呼んだかは今はわからない。後にも御子とあるが、建内宿禰が率いるという文ではなお幼かったように聞こえるし、父天皇の段の中なので、天皇と記さないのも当然だ。これらのことは、後世の制度や中国の例を離れ、日本の上代の様子を十分理解した人でなければ疑うだろう。後で詳しく論ずる。『日本書紀』三年春正月、丙戌を一日とする戊子の日に誉田別皇子を太子に立てたというのは、いつもの中国風の記述で、日本の古いあり方ではない。理由は前にも論じた。

【宣長の注釈】御方は、『日本紀略』天慶三年十二月十九日、庚戌の、土佐国が八多郡を海賊に焼かれ、合戦で御方の人も賊も多く矢に当たり死んだと報告する記事にもある。後世の味方という表記は、根拠のない誤りだ。普段も自分の側をみかたというのは、軍での御方から移ったのか、身方という別の言葉か。丸邇臣は巻二十二の四十六丁で述べた。難波根子建振熊命の何々根子という名は、孝霊天皇の名の所(巻二十一・三十五丁)に例がある。振の意味はまだわからず、熊は勇猛の意味か。『日本書紀』のこの巻は和珥臣の祖武振熊とし、仁徳天皇六十五年には難波根子武振熊とする。その年代では、今年から仁徳天皇六十五年まで百七十年余りあるので、長寿の人だったろう。

【宣長の注釈】『新撰姓氏録』和爾部朝臣の条にある、彦姥津命の三世の孫、難波宿禰はこの人か。また真野臣の条では、天足彦国押人命の三世の孫、彦国葺命の子孫として、子の大口納命、その子難波宿禰、その子大矢田宿禰を挙げ、後に気長足姫皇尊が新羅を征して凱旋した時、そのまま留めて鎮守将軍としたという。納は誤写だろう。この系譜なら難波宿禰は彦国葺命の孫で、時代もおおむね合い、彦姥津命の三世の孫にも当たる。彦姥津命は巻二十二の四十八丁、彦国葺命は巻二十三の七十四丁で述べた。

【宣長の注釈】追い退けるは前の合戦から続き、その時に太子側が忍熊王の軍を退けたこと。還り立つは、山城まで追われた軍がそこで留まり、再び陣を立て向き直ることだ。『日本書紀』の宇治へ退いて駐屯したという記事がこれだが、そちらではまだ戦わず宇治まで退いたので違う。各々退かずは、忍熊王の軍がそこで向かい直り、太子の軍も退かないことだ。『日本書紀』は、皇后が南へ紀伊に出向き、日高で太子に会い群臣と相談し、忍熊王を攻めるため小竹宮へ移り、三月に武内宿禰・武振熊へ数万の兵を率いて忍熊王を討たせた。武内宿禰らが精兵を選び、山背から宇治へ出て川北に駐屯すると忍熊王が出陣したとする。ここで太子と呼ぶのは、三年に立太子したという記事と合わないが、ここが古伝のままなのである。『日本書紀』は漢文で損なわれながらも、時折古いままを残す。その話では、先に太子を武内宿禰に抱かせて南海路から紀伊へ送り、皇后の船は難波へ直行しつつ、そこに泊まらず紀伊へ来て太子と会った。『古事記』は初めから母子が同じ海路を上ったと聞こえる。

【宣長の注釈】「伝えさせた」から「もう戦うことはない」まで。先に太子は亡くなったと伝え、今また大后も亡くなったので、忍熊王以外に君はいないから戦う必要はないと伝えさせ、降伏するふりをしたのだ。先に喪船から兵を降ろし戦ったとあるので、その時に偽の喪船と明かしたようにも聞こえるが、そうではない。もし明かしたなら、太子が亡くなったのも偽りだと敵にわかり、今また大后も亡くなったという同じ計略を信じるはずがない。したがって兵を降ろした時も、船は本物の喪船として通し、敵は偽りと知らず、太子はもう亡くなったと思っていたのだ。『日本書紀』はこの点が違い、後に引く通りである。

【宣長の注釈】弓絃はゆづらと読む。絃は弦の誤りともいえようが、古くは通用させたのだろう。『万葉集』巻二十に「梓弓、つら緒取りはけ」とある。はくるは弓に弦を掛けることで、巻十四にもつらはかまかもとある。ただ仁徳天皇紀の歌に従い、ゆづるとしてもよい。古くはつらともつるともいったのだろう。植物の葛も今はつるという。師は万葉のつら緒を連なる緒の意味とするが、どうだろうか。『和名抄』は弦をゆみつるとする。「欺陽」はいつはりて、陽は佯と同じで偽ること。「帰服」はまつろひぬ。「その将軍」は伊佐比宿禰である。既はことごとくの意味。旧版本の帥を師は即としたが、諸本みな既とする。その意味は前にも述べた。「信」はたのみて。「弭」ははづしと読む。この仮名表記は古書に見つからず、づはずかもしれないが、ひとまず世間の表記に従う。さらに考えるべきだ。またはじきとも読めるか。万葉巻十四の「陸奥の安達太良真弓はじき置きて」は弦を外して置くことだ。「兵を蔵める」は、抜いて持っていた刀を鞘へ収めるなどをいう。

【宣長の注釈】頂髪中はたぎふさのなかと読む。崇峻天皇紀の、四天王像を作り髪の中に置くという箇所や、景行天皇紀の札を髷に隠す箇所も同じ読みである。たぎは髪を上げること、ふさは上げ集めた多い髪を束ねた所をいう。多くの物をまとめるのをふさぬというのも同じ語だ。『万葉集』で髪たくと多く詠むのは上げること、ふさは物が多く茂ることをいう。したがって後世のもとどりである。師はそのままもとどりと読むが、それは中古以後の名らしい。ここからは太子側の話になる。

【宣長の注釈】設弦はまけたるつる、用意した弦と読む。まけは後世のまうけで、うは後に音便で加わり、古語はまけである。つるはつらとしてもよい。師はうさゆづると読む。それも備える物だから一理ある。しかしよく考えると、うさゆづるは通常必ず携える物なので、敵を欺いて弦をすべて切り捨てるなら、それも一緒に捨てなければ敵に疑われる。通常の予備弦は捨てた上、別に隠しておいた弦なので、それを区別するため本文はうさゆづると書かなかったのだろう。そう書くと普段の予備弦と混同するからだ。髪の中にわざわざ隠した点から、通常の予備弦と別だと理解すべきである。普段の予備弦は隠す物ではない。ただし次の注のない本に従えば、うさゆづると読むのも誤りでない。表立って備えるか別に隠すかの差こそあれ、いずれも備えた弦だからだ。しかしこの書の例から、そう読むなら仮名で書くか、設弦と書いて読みを注すはずなのに、そうしていない。やはりその読みではあるまい。

【宣長の注釈】「別名うさゆづる」という注は真福寺本にない。師も後人の書き加えとする。本文の設弦をそのままうさゆづると読むのだから注の必要はない、という考えだろう。それにも理由がある。この名は仁徳天皇紀の歌にも出る古い語なので、本文で直接そういえばよく、別名として注すべきではない。ほかにまけづるなどの古名で記したなら、その別名もわざわざ注す必要はない。後人が本文を正しく理解せず、あの歌を思って注したともいえる。しかし本文は通常の予備弦と別なので、設弦と書いて区別したのに、読者が混同してうさゆづると読むのを恐れ、そう読まないことを確かにするため別名と注した可能性もある。ある人が、そうなら別物だと注すべきで、別名では同じ物に聞こえる、と疑った。確かに紛らわしく、今の人ならそう注さない。しかし古人の注は細かくなく大らかで、今聞くとぴったりしないことが多い。意図をくめばこの注もあり得る。表に用意するか隠すかの違いがあっても予備弦には違いなく、「うさゆづるではない」とも書きにくいので、別名と注して区別したのだろう。別名といえば本文をそのままそう読まないとわかるからだ。この解釈なら、必ず後人の作とは決めにくい。ひとまず諸本通りに記した。

【宣長の注釈】うさゆ弦は、切れた時の掛け替えに用意した弦だ。仁徳天皇紀の歌に「うまひとの、たつることだて、うさゆづる、たゆまくがむけ、ならべてもがも」とある。うまひとは貴人で、契沖が物部とするのは誤り。初めの二句は予備弦に掛かる文ではない。ことだては名詞で読み、太は濁音を表す。『万葉集』巻十八の世人の立つることだても同じ。一方、同巻の大伴らが立つることだては動詞なので、前後で見分ける。この歌は、弦が切れた時の予備弦のように、貴人として立てる事柄だから后妃を並べ置きたい、と詠んだものだ。『日本書紀』のこの段は儲弦と書いてをさゆづると読む。をとうは特に近い音で通用する。仁徳天皇紀だけに基づくならうさゆとするはずなのに、をさゆとするのは、その古い言い方が世に残ったためだろう。契沖は蔵弓弦の略かというが、蔵とするのはどうか。軍防令は兵士一人に弓一張、弦袋一口、副弦二条を備えるとし、『江家次第』賭射条は、射手の弦が切れたら替え弦を掛け、弓場の柱に当てて張るとする。射場始条も地に跪いて替え弦を掛けるといい、『中右記』にも懐から取り出し掛けるとある。

【宣長の注釈・日本書紀の引用】武内宿禰は全軍に髪を椎髻に結わせ、その中に二本ずつ弦を隠し、木刀を佩かせた。皇后の命として忍熊王に、天下を欲するのでなく幼い主君を抱き君王に従うだけで、戦うつもりはない、互いに弦を切り武器を捨て和睦しよう、そうすれば君王が天皇となり安らかに政治を専らにできる、と誘った。軍中に命じて弦を切り刀を川へ投げる様子を見せると、王は信じ全軍の兵器を川へ投げ弦を切らせた。そこで武内宿禰は予備弦を出して張り直し、真剣を佩いて川を渡り進んだ。

【宣長の注釈】逢坂の名の由来は後に引く『日本書紀』にある。大化二年の詔が、畿内の北を近江の狭々波合坂山から内とするように、山城と近江の境で近江に属する。今の大津の西の坂道だ。『万葉集』巻六には、大伴坂上郎女が賀茂神社へ参拝し、相坂山を越えて近江の海を望み、木綿で豊かに手向けする山を今日越え、と詠む。この手向山が逢坂山である。巻十に、愛しい人に逢うという名の逢坂山の膚すすき、巻十三に、相坂を出てみれば淡海の海に白木綿花のような波が一面に立つ、また、乙女らに逢うという名の逢坂山で、手向けの草の麻を取って供え、巻十五に、愛しい人に逢うという名の逢坂山を越えて来て、と詠む。

【宣長の注釈】逃げ退くのは忍熊王の軍。向かい立つのは、また留まり太子の軍に対すること。ここで戦は三度目となる。追い迫って敗るのは太子の側である。先に追い退け、次に追い撃ち、今は追い迫るというのは、次第に迫る順序だ。せむは迫らせることで、この書では迫を多く用いる。上巻でも建御名方命が逃げ、追われ信濃の諏訪の海に追い詰められたという。沙々那美は近江の地名で、由来は師の『冠辞考』に詳しい。志賀も古くは広い名で郡名となるが、沙々那美はさらに広かったのか。『万葉集』には沙沙那美の志賀は多いが、志賀の沙々那美はない。巻九に楽浪の比良山ともあるので、比良まで含んだのだろう。『綺語抄』は近江志賀郡にささなみ山があり、志賀のささなみというはずを、ささなみや志賀のと伝えるのには何か理由があるのかとする。明宮の歌にもささなみぢ、道の意味で出る。

【宣長の注釈】出の字は真福寺本に従った。他の本はすべて於とする。草書がよく似るので誤る例が多く、『出雲国風土記』を諸本対校しても多い。於なら上の敗へ返して「ささなみに敗りて」と読むべきで、そこで敗ったという意味だ。『日本書紀』の歌の宇治に捕へつも、宇治で捕らえたという同様の表現である。敗は到の誤りかとも思う。しかし出という方が趣がある。宇治から山科を通り逢坂までは山の中だが、東へ越えると沙々那美の地で湖へぱっと開け、まさに出るという地形だ。前に引いた万葉の「相坂を打ち出でて見れば」も考え合わせたい。後世の打出浜という名もその意味で、『拾遺集』にも近江の打出浜の打ち出でて、とある。

【宣長の注釈】その軍とは忍熊王の軍。『日本書紀』は、王が欺かれたと知り、倉見別・五十狭茅宿禰に、武器がない今どうして戦えようといい、兵を引いたとする。武内宿禰の精兵が追い、逢坂で行き合い破ったので逢坂と名づけた。兵は狭々浪の栗林へ逃げ、多く斬られ、血があふれたので、その栗は今に至るまで御所に献じないという。この栗林は催馬楽「鷹の子」の「あはづの原のみくるす」の地だろう。粟津原は志賀郡で大津と勢多の間にあり、瀬田の渡しへ沈み死んだという記事によく合う。ここは古く沙々那美の地だった。海に浮かぶのは、陸では追い詰められ、瀬田の渡しの岸まで来て行き場を失ったからだ。『日本書紀』も逃げ場がなく、五十狭茅宿禰を呼んで歌ったとする。

【宣長の注釈】いざあぎは、さあ、わが君よ、の意味。いざは誘い掛ける語で、結びのかづきせなに続く。あぎは明宮で天皇が大雀命へさざきあぎと呼ぶ例や、『日本書紀』同巻の歌のいざあぎも、みなわが君だ。崇神天皇紀で叩頭した所を吾君と名づけた地は、神名帳の和伎、山城相楽郡の和伎坐天乃夫支売神社で、これからもわかる。今その社を涌出宮というのは、本来の意味を知らず涌とした誤りだ。臣や子にも対面では君と呼ぶのが普通で、契沖のわが子という解釈は違う。ここでは伊佐比宿禰に呼び掛ける。『日本書紀』はこの次にいさちすくねの句がある。「ふるくまが」は前に出た太子側の将軍、振熊の、の意味。『日本書紀』では「たまきはる、うちのあそが、くぶつちの」の三句である。

【宣長の注釈】いたでおはずはは、痛手を負わずは、という表記だが、意味は負うよりは、である。痛手は巻十八の三十八丁、五瀬命が登美毘古の痛矢串を受け、卑しい奴の痛手を負ったといった所で説明した。これは古語の構文で、『万葉集』に二十首余りあり、先に『詞瓊綸』巻七の古風の部で挙げた通り、すべて、こうしているよりは、という意味を、こうあらずは、と表す。巻十二の、これほど恋い続けるよりは高山の岩を枕にして死んでしまいたいものを、という歌がその例で、ほかも同じだ。しかしこの構文をよく理解する人がなく、歌ごとに難しく解いても明らかでない。契沖もこの歌を、痛手を負うと体が不自由で入水もしにくいから、それほどの傷を受けないうちに、とするが理解できない。今死のうとする際に、そんな傷を受けなければというのは意味が通らない。負うよりはとすれば、たいへん明らかなのに。

【宣長の注釈】にほどりのは、かいつぶりの、という語。『和名抄』は郭璞の『方言』注を引き、鸊鷉は小さい野鴨で水中へ潜るのを好み、和名にほとする。ただし引用に誤りがあり、楊子『方言』では、小さくてよく潜るものを鸊鷉、大きいものを鶻鷉という。今のかいつぶりで、地方では今もにほ、みほという。この句は一つ句を隔て、かづきに掛かる枕詞だ。後世の「にほてるや近江の海」は、ここから直後の句への枕詞と思い、さらににほどりをにほてると誤ったもの。湖をにほの海と詠むのもその誤りから出た。青丹よし国、うち押し照る宮といった例に似るが、にほはこの湖と直接関係しない。諸説はどれも無理な説で、『日本書紀』と比べればわかる。明宮の歌もみほどりのかづきと続き、万葉巻十四のにほどりの葛飾早稲も、潜くという意味を掛け、巻四ににほ鳥の潜く池水とある。さらに師の『冠辞考』を参照すべきだ。

【宣長の注釈】あふみのうみには、淡海の海に、という意味。淡海自体が湖のことでも、国名になればその国の湖をいう。『日本書紀』の武内宿禰の歌はあふみのみとも詠み、うを省く例は多い。忍熊王の歌にはこの一句はない。「かづきせなわ」は潜ろう、私は、の意味。師は吾者のはが抜けたかとするが、私だけでもよい。『日本書紀』はわもない。潜くは頭を突っ込む意味で、頭から逆さに水へ沈むこと。水鳥にも、漁をする海人にも使い、後世、海人の仕事だけとするのは誤りだ。ここは海に沈んで死のう、ということ。「せな」はせむと同じで、むをなという例は『日本書紀』『万葉集』に多く、『詞瓊綸』に挙げた。ただむは自分にも他人にも物にも広く使うのに、なは自分でしようと望む時にだけ使い、他者にはいわない。『日本書紀』のいざあはなも逢おうの意味だ。契沖がせむな、あはむなの略とするのは違う。歌全体は、もうどうしても逃げられないので、振熊に追われ痛手を負い苦しむより、私はいっそ海へ飛び込み早く死のう、さあ、わが君も一緒にそうせよ、という意味である。

【宣長の注釈】ともに、は伊佐比宿禰と一緒にである。『日本書紀』では、ともに瀬田の渡しへ沈み死んだ時、武内宿禰が「あふみのみ、せたのわたりに、かづくとり、めにしみえねば、いきどほろしも」と歌う。『近江の海、瀬田の渡しに潜る鳥が、目に見えないので気が晴れない』という意味で、末二句は二人の死体が見えず気が晴れないということだ。探しても見つからず、数日後に宇治川へ出たので、また「あふみのみ、せたのわたり、とけづくとり、たなかみすぎて、うぢにとらへつ」と歌った。瀬田の渡しに潜った鳥を、田上を過ぎ宇治で捕らえた、というのだ。捕らえるというのは鳥にたとえたため。『摂津志』には、河辺郡中山寺村の中山寺の後ろの荒れた塚を麛塚といい、忍熊王の墓と伝えるとある。

【古事記本文】そこで建内宿禰命は、太子をお連れして禊をしようと、近江と若狭を通り、越前の角鹿で仮の宮を造ってお泊めした。その地に鎮座する伊奢沙和気大神の言葉が夜の夢に現れ、「私の名を改め、御子の御名を自分の名にしたい」と告げた。そこで「恐れ多くも、仰せの通り御名をお譲り申し上げます」と祈って答えた。神はまた「明日の朝、浜へ来なさい。名を改めたお礼の贈り物を差し上げよう」と告げた。朝、浜へ行くと、鼻の傷ついたイルカが一面の浦へ寄っていた。御子は神へ「私に食事の魚を下さった」といわせ、御名を御食津大神ともたたえた。それで今も気比大神という。イルカの鼻の血が臭ったため、その浦を血浦と呼び、今は都奴賀という。

【宣長の注釈】率はゐてまつりてと読む。師はてを省いてゐまつりてとした。理屈では他の語にてを添え、てまつるという例がないので正しいが、この語だけはなぜか古くからゐてまつるという。清寧天皇紀の小楯らが億計・弘計を摂津へお連れする記事、孝徳天皇紀で皇太子が皇祖母尊・間人皇后を飛鳥河辺行宮へお連れする記事や、難波宮へお連れする記事も、奉をそう読む。物語類もゐてたてまつるという。敬っていう奉るは古語ではまつる、中古以後はたてまつるなので、この後世の形が古語のゐてまつるに当たる。禊は巻六の四十三丁で説明した。御を添えてみみそぎと読む。太子に禊をさせ申し上げることなので、みそぎせさせまつらむとしてと読みたくなるが、みそぎせむとしてでよいだろう。

【宣長の注釈】近江と若狭を巡ったというが、この禊が何のためかはわからない。思うに上代は、貴賤を問わず、少しでも心に掛かる罪・穢れ、災い、願いがある時はもちろん、特別なことがなくても禊祓をしたのだろう。軽いものは近くの海や川、重いものはやや遠い国の海辺へ行ったのだろう。『万葉集』巻四には、君のため噂がうるさいので故郷の飛鳥川へ禊をしに行く、別伝では竜田を越え三津の浜へ行くとある。巻六は佐保川の流れで祓い清めたい、巻十一は清い川原で身を清め保つ命は妻のため、と詠む。一か所でなく数か所続けても行っただろう。斎王が伊勢へ行く道で六つの境川、帰京の際は難波へ下り三か所で禊をするのも、上代の式の名残である。後世の定まった場所、大七瀬は難波・田蓑島・河後・大島・橘小島・佐久那谷・辛崎、小七瀬は鴨川の河合・一条・土御門・近衛・中御門・大炊御門・二条の末、霊所七瀬は耳敏川・河合・東滝・松崎・石影・西滝・大井川で、『河海抄』にある。いずれも上代に数か所で行った名残から定めたのだ。『源氏物語』澪標巻に難波の七瀬の祓、明石巻末にも難波での祓がある。ここも近江の湖や若狭の海辺などで、禊をしながら巡ったのだろう。

【宣長の注釈】高志の前の角鹿について。高志は越国で巻十一の三丁にあり、その前が越前である。前については巻二十一の五十丁で述べた。『和名抄』は越前をこしのみちのくちとする。角鹿は後で扱う。この文は近江・若狭を巡った時と続くため越前もその内にあるように聞こえるが、古い文の形で、二国を経て越前へ来た時、その国の角鹿に、という意味だ。巡ってありしと読み、しは過去を表すので、二国はすでに通り過ぎたとわかる。一見不要な説明だが、この国々を経て各所で禊をしつつ進んだと示すので、越前への到着もなお禊のためだろう。仮宮は巻二十五の三十丁、坐はませまつりきと読む理由を同巻三十四丁で述べた。

【宣長の注釈】伊奢沙和気大神之命は気比大神の御名である。龍田大神を天御柱命・国御柱命、出雲国造の神賀詞で熊野大神を櫛御気野命、大三輪大神を倭大物主櫛甕玉命という類だ。ただ単に神名を挙げる時に之命を付ける例はないので、ここは名の尊称でなく、夢に現れて告げた言葉をいうのかもしれない。『日本書紀』では十三年二月、武内宿禰に太子を伴い角鹿の笥飯大神を拝ませたとするが、こちらは禊のため浦へ来たので、参拝が目的でなく、到着したため神が夢に現れたという。どちらが正しいか決められない。『日本書紀』によれば、越前まで禊に行くのは遠すぎるのでこちらの文の誤りか。こちらに従えば、書紀が古記を取り違えたのか。わざわざこの神だけを拝みに行く理由がわからないからだ。神社が仲哀天皇を祭るという『帝王編年記』の説は信じにくい。仲哀天皇紀の、二年二月に角鹿へ行き行宮を造り笥飯宮とした記事と合わせ、取り違えたのだろう。どんな神かは詳しくわからない。『続日本後紀』承和六年、遣唐使船が帰着できず、住吉神と気比神へ幣を捧げ帰着を祈った記事がある。住吉と同じくこの願いを祈るからには、異国のことと関係する神だろう。都怒我阿羅斯等や天日槍の話に思い当たる点もあるが、確かでないのでいいにくい。

【宣長の注釈】夢を夜の夢という例は、万葉巻五の『ぬばたまの夜の夢に継いで見えこそ』、夜の夢の中に続けて現れてください、という例など多い。これは太子の夢でなく、付き添う人の夢だろう。まずは建内宿禰かと思うが、ほかの人でもよい。太子なら御夢とあるはずだからだ。

【宣長の注釈】「私の名を御子の御名に改めたい」と読む。私の名を改め、御子の名を頂き自分の名にしたい、という意味である。易は自分の名を変えることで、互いの名の交換ではない。以吾名の字面では、私の名を御子に与え交換するようにも読めるが、以は単にをという助詞に当てた例だから、こだわってはいけない。御子の名を変更するという意味はない。上巻の「互いのさちを交換して使いたい」という文とは書き方が違い、比べて区別すべきだ。

【宣長の注釈】言禱はことほぎてと読む。大殿祭祝詞に、天津璽の剣・鏡を捧げ持ち、言寿ぎ申すとあり、古語はことほき、今の寿詞の類だと注す。持統天皇紀にも寿詞がある。ほぐという語は後の歌のかむほぎの所で説明する。ここは大神の改名を祝い申し上げるのだ。師は言禱がこの位置にある理由がなく、御子答白之とし、後の故亦と称其御名の間へ移すべきとするが、原文のままでも何の支障があろう。恐はすぐ承諾して承る言葉で、巻九の二十六丁に例を挙げた。易奉は御子の名を大神へ譲り献じること。必ずしも相互交換でない。御子の二つの名、大鞆和気命と品陀和気命のどちらかというと、後も品陀天皇と呼ぶので、大鞆和気の方を譲ったのだろう。それ以後、御子は大鞆和気命とは呼ばなかったのだろう。大神は伊奢沙和気から大鞆和気大神となったはずだ。気比大神とだけ伝え、この名が世に知られないのは、たまたま文献に見えないため。熊野大神の櫛御気野命、三輪大神の櫛甕玉命も、神賀詞以外では知られないのと同じである。

【宣長の注釈】ところが応神天皇紀は、一説では太子の時に越国で角鹿の笥飯大神を拝み、名を交換し、大神を去来紗別神、太子を誉田別尊と呼んだ、それなら大神の元名は誉田別神、太子の元名は去来紗別尊となるはずだが、ほかに見えず不明、と記す。この一書の説は誤りである。『古事記』と似るが、同じ趣旨の伝えを取り違えたのだ。然則以下は編者の考察で、これもこちらの趣旨を理解せず大まかに見たため疑いが生じた。きちんと読み分ければ筋は明らかなのに。

【宣長の注釈】白之はまをしきと読む。建内宿禰が率いたとあるように、太子は幼く、祝いも返答も本人でなく宿禰が申し上げた。出来事の順は、名を譲ると答えてから祝いをいうはずだが、先に言禱と書くのは逆ではない。名を譲ると申し、ことほいで申し上げたという意味で、申し上げるを重ねないため前に置いた、かえって優れた古文なのだ。「また神が告げた」は、祝いは夢の翌朝だろうから、その夜に再び告げたのだろう。夢と繰り返さないのは先の記述から明らかなため。「明日の朝」は師のあすのあしたがよい。万葉巻十五に明くるあしたもあり、書紀で明旦をくるつあしたとするが、ここはそうではない。浜は角鹿の浜。来るべしと命じられたのは太子である。

【宣長の注釈】易名之幣はなかへのいやじり、俗にいえば改名祝いの贈り物で、大神の改名をいう。『日本紀竟宴集』で源兼似が木兎宿禰を題に、『木兎宿禰が皇の御子と名を替えたのは、君を祝う心からなのだった』と詠むのは互いに名を交換する話だ。それにとらわれ、ここの易名も同じと思ってはいけない。交換しなくても名を変えることを易名という。幣をいやじりとする理由は、師が遣唐使の時の奉幣祝詞の「礼代の幣帛を」を、代は奉る実物と解くことによる。安康段に妹への礼物として押木の玉縵を持たせ献じる例、崇神天皇紀に大和国の物実とする祈りがある。出雲国造神賀詞の「神の礼自利、臣の礼自と、御祈りの神宝を献る」について、師は神のいやじりを穂日命以来の神々の礼物、臣のいやじを国造の礼物とし、りを省くのは唱える調子のためかという。
〔訳注:引用歌の「須女羅加美許理」の末字の判読は確定していないため、「皇の御子」とする読みには留保がある。〕

【宣長の注釈・前段の続き】師はさらに、礼代と書くので大意はわかるが、いやじりのりはるしを縮め、礼のしるしという意味で、紀の物実をものしろと読むのも同意だとする。その考えに従った。ここは特に神が太子へ献じる物なので、神のいやじりとまったく同じだからだ。幣は普通みてぐら、にぎてと読むが、おおむね神への捧げ物をいう。君に捧げるのも同意でも、神から君への贈り物には似つかわしくない。人に贈る物をまひとも読むが、ここはそれでもなく、いやじりがよく合う。献じるのは大神から太子へである。其旦はつとめてと読み、夜の出来事を話した翌朝のことをいう。高倉下の所にもあり、物語に多い。浜へ行くのは太子で、于は多くの本にない。なくてもよいが『日本書紀釈』の引用と真福寺本に従った。

【宣長の注釈】鼻の傷ついたイルカ。「毀鼻」ははなやぶれたる、またはかけたると読む。事情は後に述べる。『和名抄』は『臨海異物志』から、鱏䱜は黒い大魚で浮沈を繰り返すと引き、『兼名苑』の別名、鰭䱜・鯆䱐や、野王が江豚ともいうとの説を挙げ、和名いるかとする。『出雲国風土記』の島根郡、南の入海の産物にも入鹿があり、『字鏡』は鮪をいるかと記す。貝原氏は海豚を当て、長さ六尺ほどで黒く、形は海鰌や豚に似て、脚に似るひれ、分かれた尾があり、鱗はなく、唇は鱖魚のようで、上下とも長く尖り、皮が厚く油が多い魚という。今漁師に聞いてもこの説明通りだ。漢籍を調べると鱏䱜・江豚・海豚は同じ物らしい。

【宣長の注釈】すでに一つの浦に寄るとは、太子が来る前から、浦いっぱいにいたこと。真福寺本の津でもよい。一浦は一つの浦に満ちることで、書紀神代巻の一箕に盛るも、箕いっぱいのことだ。『うつほ物語』に一山に満ちて、『大和物語』に一寺で探させたが逃げ失せたとあり、一寺は寺じゅうである。『源氏物語』須磨の一宮のうち忍びて泣きあへり、『蜻蛉日記』の京一京や、涙を一目浮かべてというのも同じで、目に満ちるということだ。イルカが寄ったのは大神が太子へ神饌の材料として献じたためで、改名のお礼の品である。鼻がすべて傷ついているのは、神がすでに捕らえさせて献じたからだ。捕らえるのは目に見えない神の働きなので人には見えない。

【宣長の注釈】古くイルカは鼻を突いて捕ったのだろう。だから鼻が傷ついていた。甕栗宮や万葉の歌にしび突くとあり、鮪は今も口を突くという。イルカ漁の方法は知らないが、この段から古くは鼻を突いたはずだ。紀伊熊野浦の漁師の話では、普通八、九尺、最大一丈二、三尺で、千本づれといい、頭を上げ大群で来る。非常に速く、船をこいでも追い付けない。毛理、つまり銛に、やなはという四十尋の縄と浮きを付け投げ、刺さっても逃げるので二本目を打って捕る。一頭を捕れば必ず二頭捕れる。一頭が銛を負って遅れると、仲間を哀れむのか、もう一頭が残り遠くへ去らないため、それも捕るのだという。銛は空高く投げ、魚の上から落として突くもの。イルカは鼻が上を向くのでそこを突いたのだろう。そうでなければ毀鼻という理由がない。谷川氏が、鼻が上向きで音を出すから毀鼻という、とするのは理解できない。漢籍の、鼻が頭上にあり声を出し水を噴くとの文によるが、それは通常の特徴だから、わざわざ毀鼻とはいわない。鼻毀でなく毀鼻と書くのは、鼻を傷つけて捕る意味だが、太子が見た時にはすでに傷ついているので、やぶりたるでなくやぶれたると読むべきである。

【宣長の注釈】白させるとあるのは、幼い太子が直接申し上げず、その命として建内宿禰が申すからである。御食之魚はみけのなと読む。魚をまなとしてもよく、上巻の真魚と同じだ。大神の神饌の材料の魚である。また御食を太子に関わる語とし、太子の食事の魚と見ても通じる。天皇は自分のことにも御何々といい、太子も同様に自分の食事を御気と呼ぶだろうからだ。ただし私に、と始まる文のつながりから、やはり大神の御食の魚と見る方がよい。

【宣長の注釈】魚を食料とする時は一般になと呼ぶと前にも述べた。「私に御食の魚を下さった」の一言に、神の恵みを深くありがたく思い、喜び感謝する意味が自然に備わる。古語は短く美しく、漢文風に飾った書紀の煩わしい多言と比べたい。「また」は、すでに自分の名を献じた上、さらにこの名で神をたたえたということ。御食津大神の津はのに当たるので、みけつのと重ねて読むのは誤りだ。外宮儀式帳で天照大神が、私の食事の神、等由気大神といい、神名式の御巫の祭る八神にも御食津神がある。祈年祭祝詞は大御膳都神とする。大膳職の御食津神社、『三代実録』巻二の河内恩智大御食津比古命神・比咩命神など、同一神ではなさそうだが、食に関わる神をこう呼ぶ。ここも太子へ食材の魚を献じたためである。気比の気は食、比は産霊などの霊だろう。霊は巻三で述べた。書紀の笥飯という漢字の意味ではない。御食津大神の意から食霊大神といい、地名の気比もそこから来る。垂仁天皇紀にすでに地名があり、仲哀二年に笥飯宮とあるのは、後の名で語り伝えたのである。

【宣長の注釈】『神名帳』は越前国敦賀郡に気比神社七座、すべて名神大とする。七座を御食津大神・仲哀・応神・神功・建内宿禰・若武彦命・建功狭日命とする説は疑わしい。後二神は『国造本紀』によったのだろう。持統六年九月、越前国司が角鹿郡浦上浜で得た白蛾を献じ、笥飯神に二十戸を増封した。『続日本紀』巻三十に奉幣、巻三十四に従八位相当の神宮司を初めて置く記事がある。『続日本後紀』巻四では正三位勲一等気比大神の祝・禰宜へ鹿島・能登の両大神に準じ笏を持たせ、巻八、承和六年十二月に従二位へ進めた。『文徳実録』巻二では嘉祥三年十月に正二位、『三代実録』巻二では貞観元年正月に従一位、寛平五年十二月二十九日の格では正一位勲一等気比大神宮とある。万葉巻十二の飼飯の浦に寄る白波、巻三の飼飯の海の庭よくあらしは、ここかどうか不明で、飼は笥と取り違えたのか。巻十七の気比大神宮へ参るは気多の誤りで、気多社は能登羽咋郡にある。

【宣長の注釈】そのイルカの其を毀鼻とする旧版本などは誤り。鼻血の鼻を其としたり、其鼻血とする本も誤りである。血は鼻の傷から出たもの。臰は臭の俗字で、くさかりきと読む。『字鏡』にも齅・嗅をくさし、臭をくさしとする。浦いっぱいの大量のイルカなので、血の臭気も一面に満ち、地名になったのだろう。皇極天皇紀には、茨田池が非常に臭く、大小の魚が夏に腐ったように臭って死に、水が白く変じて臭気がなくなったとある。血浦はちうらと読む。師のちのうらならのをぬに縮め、つぬがに近いが、うとぬも近く通用例が多いので、やはりちうらだ。

【宣長の注釈】つぬがは血浦の変化した名で、血の臭からかとも聞こえる。一方、垂仁天皇紀の一説は、御間城天皇の世に額に角のある人が船で越国の笥飯浦へ泊まったので角鹿と名づけたとする。どちらが正しいか不明だが、応神天皇の歌ですでにつぬがと詠むから、書紀の方が正しいだろうか。血浦という名が御自身の目の前の出来事から生まれたなら、その名を詠んだはずで、生まれて間もない名がすぐつぬがへ変わるとは考えにくい。ただその人を都奴賀阿羅斯等というので地名が人名から生じたようにも聞こえるが、この名は日本語らしく、元の名でなく日本で付けた名だろう。それも額の角によって付けたのだろう。元の名は別名として記す方で、額の角も本当の角でなく、頭に被った物をそう見たのだろう。

【宣長の注釈】後にはつるがともいい、『和名抄』の越前国敦賀郡、つるががこれである。武烈天皇紀に角鹿の塩の話、『国造本紀』に、志賀高穴穂朝で吉備臣の祖若武彦命の孫、建功狭日命を角鹿国造としたとある。神名帳に敦賀郡角鹿神社、万葉巻三に、笠朝臣金村が角鹿津で乗船する時に越の海の角鹿の浜よりと詠む歌がある。『後撰集』の別れの歌「我を君思ひつるがの越ならばかへるの山は惑はざらまし」は、『あなたが私を思ってくれたという敦賀の越の国なら、帰るという名の山で道に迷わなかったでしょうに』という歌で、『思ってくれた』の『つる』に敦賀の名を掛けた。

【古事記本文】太子が帰って来る時、母の息長帯日売命は待ち酒を醸して献じ、歌った。

この御酒は、私が醸した御酒ではありません。酒をつかさどる、常世におられ、岩のように立っておられる少名御神が、神として祝い、あらゆる仕草で祝い、盛大に祝い、さまざまに言葉を尽くして祝って、差し上げてきた御酒なのです。杯を干してしまわず、続けて召し上がれ。さあ、さあ。

【古事記本文】こう歌って大御酒を献じると、建内宿禰命は御子に代わって答え歌を歌った。

この御酒を醸した人は、その鼓を臼のそばに立て、歌いながら醸したのでしょうか。舞いながら醸したのでしょうか。この御酒は、御酒はなんと、飲むほどますます楽しいことよ。さあ、さあ。

【古事記本文】これは酒宴を楽しむ歌である。

【宣長の注釈】帰って上るのは、角鹿から大和の都へである。『日本書紀』は三年正月に誉田別皇子を皇太子とし磐余の若桜宮に都したとするので、そこだろう。この書では母を御祖と呼ぶ。待ち酒は、よそから来る人に飲ませようと醸して待つ酒だ。万葉巻四の、大伴旅人が民部卿になった丹治県守へ贈る歌に、君のため醸した待ち酒をむなしく独り飲もうか、友がないと思って、とある。県守が大宰大弐の時に上京し、そのまま民部卿となり筑紫へ戻らなかった時、旅人が京へ送った歌である。巻十六の、うまい飯を水で醸し、私が待った甲斐はまるでない、待つ人がすぐ来ないので、という歌も待ち酒だ。『日本書紀』も十三年、太子が角鹿から戻った日、皇太后が大殿で宴し、杯を挙げ祝って歌ったとする。

【宣長の注釈】このみきはは、この御酒は。わがみきならずは、私が醸して献じる御酒ではないという意味で、続く言葉からわかる。崇神天皇紀の歌も同じ二句で始まり、後に引く。『日本後紀』延暦二十二年、遣唐使藤原葛野麻呂に賜酒した歌も、この酒は大御酒ではなく、無事に帰っておいでと祈って祝った酒だ、と詠む。

【宣長の注釈】くしのかみは酒のかしらである。横井千秋はいう。くしは酒の元の名で、応神天皇の歌、須須許理が醸した御酒に酔った、ことなぐし・ゑぐしに酔った、の末の二つのぐしがそれだ。前の語につながるので濁る。御酒・白酒・黒酒などのきはくしを縮めた名で、さけは別名だ。県居の大人は飲むと心が栄えるのでさかえを縮めた名とする。かみは上で、長子を子上というほか、書紀で長・首・魁・帥・尊長をひとこのかみ、膳長をくらがみ、氏上をこのかみ、氏長をうぢこのかみと読み、役所の長もかみというのと同じだ。普通は神と解し、それでも穏やかに通じるが、この書で神の仮名はすべて迦微で、美を使わないから、ここは神ではない。少名毘古那神をそう呼ぶのは、特に酒をつかさどる記事はないものの、大穴牟遅神と国土を作り固めたからだ。書紀では二神が力を合わせ天下を営み、人々・家畜の治療や鳥獣昆虫の災いを防ぐ法を定め、今もその恩恵を受けるという。すべての物事は二神の恵みで、万葉巻六の大汝・少彦名が名づけ始めたのだろう、巻七の二神の作った妹背の山、巻十八の二神の神代から語り継いだ、というように、起源を二神に結び付けることが多い。崇神天皇紀でも大田田根子が大神を祭った日、活日が神酒を献じ、この御酒は私の御酒でなく大和の大物主の醸した酒、活日が差し上げます、さあ、活日が差し上げます、さあ、と歌い神宮で宴する。ここも酒の始まりを二神へ帰し、その首長たる神が献じた酒、と詠んだのだ。以上が千秋の考えである。

【宣長の注釈】この考えはよく聞こえる。くしは巻三十三の四十五丁、応神天皇の歌の説明も考え合わせたい。契沖の奇の神という説に、師は、くしは活用語だからのと続かず、薬の神でくすりのすりをしに縮めたとする。確かにくしのとはいわない。薬の神にも正しい由来があり、酒を祝う歌なので特に関係する。しかし神に美を使う例がないので、千秋説に従うべきだ。万葉巻七の櫛上二上山の櫛上も、くしのかみと読んで同じかと思ったが、本来別の話だろう。今、物事のかしらの所を水上といい、それが源と同意だから、酒の源・酒の首長の意味が通じ、ますます当たると思う。『私記』は少彦神を造酒神とし今も遺跡があるというが、根拠があるのか、この歌だけに基づくのか、遺跡がどこかも不明だ。

【宣長の注釈】とこよにいますは常世国におられること。上巻に少名毘古那神が常世国へ渡ったとあり、その国は巻十二の九丁で詳述した。また、あの国でなく、永久に変わらずおられる意味かもしれない。変わらないことを常世という例もそこに挙げた。ただ国なら永久の意味はなく、永久なら国の意味はない。どちらか一方に読むべきで、上代の歌は一途なので、この種の意味を二つ兼ねることはなかった。常世国の常世は借字で、漢字の意味ではないことも前に述べた。

【宣長の注釈】いはたたすは岩立たす。たたすは立つを延ばし、立ちたまうというような語だ。契沖は『私記』の石の立つようにとの説明を引き、立っておられるのでなく、とこしえにおられる様子という。立つを軽く読んだのだ。『私記』も岩のようにおられる意味なら同じで、祝い歌なのであり得る。一方『神名帳』には能登羽咋郡の大穴持像石神社、能登郡の宿那彦神像石神社があり、巻十二十一丁で引いた『文徳実録』巻八、齊衡三年の記事からも二神と岩には縁があるので、常世で御霊が岩として立つのかもしれない。常世は神の大体の居所、岩立たすは日本各地で像の岩として立つこと、とも読める。常世を永遠とすれば、岩で立つので永久におられる意味か。大和添上郡の天乃石立神社はどの神か不明だ。すくなみかみのは少名御神の、つまり少名毘古那神。万葉巻七にも少御神とあり、御神という例は大御神や、巻十七の国つ御神、巻十八の沖つ御神などにある。

【宣長の注釈】かむほぎは神寿、神として祝うこと。出雲国造の神賀詞や持統天皇紀の天神寿詞に見える。天神寿詞はかむほぎと続け、あまつかみの、と読まない方がよい。今は之を添えて天神之と書くが、古語を考えない漢文風の表記だ。かむは神集い・神議り・神祝などと同じ。ほぎは大殿祭祝詞の言寿、古語ことほきのほきである。万葉巻十八に千年ほくとぞ、巻十九に、千年祝い、言葉で祝い、すばらしくお仕えする姿を見る尊さ、また千年ほくといえ、巻六にほぐ豊御酒に我酔ひにけりとある。巻十九の吉は言の誤りか。『倭姫命世記』にも国ほき申す・国ほき給うなどがある。この歌は四度ほぎといい、三つは本岐なのに一つだけ菩岐なので発音の区別かとも思うが、そうでもあるまい。師は菩を濁音と考えたが、上巻の神名では清音だ。岐は清濁双方に使うので決めにくい。ただ万葉巻十八・十九がほくなので、きは清音だったか。後世ことぶきがぶを濁らせ、きは清音なのもそのためだろう。しかし今は普通の読みに従い濁音にし、なお考える。本岐を延ばしてほかひともいい、次の酒楽で述べる。

【宣長の注釈】ほぎくるほしは、祝いの動作を盛んにすること。万葉巻四に、会って何日もたたないのに、これほど狂おしく思う、とある。くるふは物が静止せず、あちこち動くことで、ここはあらゆる手だてを尽くし、さまざまに祝うのだ。くるほしは自分が狂うのでなく、その事柄を動かす形である。万葉巻六の祈酒の歌、焼き太刀のかど打ち放ち丈夫の、ほぐ豊御酒に我酔ひにけり、の初二句も祝いの仕草を詠むのだろう。打酒は祈酒の誤り、禱はほぐと読み、ねぐ・のむは誤りで、初二句にも誤字があるはずだ。書紀ではこの二句と次の二句の順が逆になっている。とよほぎは豊かに祝うことで、豊楽・豊栄登・豊御禊の豊と同じ。これらは行事についていう例で、物についていう例はさらに多い。

【宣長の注釈】ほぎもとほしは、祝いをめぐらすこと。古語のもとほるは巡る、もとほすは巡らせる。今のまはる・まはすに当たり、一つにとどまらずあちこちで行うことで、撫でまわす、叩きまわすなども同類だ。思いまわす、言いまわすも多方面から考え、言葉をめぐらし、よく表現すること。この語もさまざまに祝う意味で、くるほしと似る。契沖の祝ひまはりという解釈は一理あるが、もとほりともとほしの差から、ここは祝ひまはしだ。甕栗宮のしまにもとほしは文字通り巡らすこと。『宇治拾遺物語』で、翁が伸び縮みし、身をよじって声を上げ、庭じゅう走り舞う様子がこの二語に近い。書紀ではこの二句がかむほぎより前にある。まつりこしは献じて来たことで、まつるだけでも献じる意味になる。万葉巻十一に山神の奉る御調、巻十八に万の調まつるなどがある。少名毘古那神が常世国から酒を持ち来て太子へ献じたのだ。常世を永遠と読めば場所は問わない。神が自ら来たとは限らず、贈り届けたのである。送られた物にも来るというのは今昔同じだ。

【宣長の注釈】みきぞは三音の一句で、御酒ぞの意味。あさずは、あささずを縮めたのか。池や川の水が干上がるのをあすといい、活用はあせ・あするだから、干上がらせるはあさすとなる。今のあせさすで、万葉巻十四の駒をはさせてと同じ形だ。ならばあささずは干さずで、旅人をたびと、留まるをとまるというように重なる音を省いたのか。そうなら杯を空にせず、続けて飲んで下さい、の意味だ。『日本書紀私記』の師説、あぶさずも、契沖は意味不明とするが、捨て置かずの意味で一理ある。あぶさずははぶらさずで、万葉巻十九の四方の人もあぶさはず憐れむ、光仁天皇の宣命の、大臣の家の子らも放り捨てず、失わず慈しむ、源氏玉鬘の皆を落としあぶさず取りまとめる、などと同じ。これなら、粗末に放置せず、めでて飲んで下さいとなる。延佳の残さずという注はどうか。契沖の飽かず説も、飽かずをあさずとはいえない。師の浅からず説も疑わしい。をせは飲めで、明宮の国主の歌にもあり、食べるにも飲むにもをすといい、書紀神代巻の飲食、景行巻のその水を飲むなどもそう読む。

【宣長の注釈】ささについて『日本書紀私記』は楽の意味とし、神楽をささ、楽浪をささなみと読むという。契沖は審神者の説明の、沙は唱え進める意味、出居の神楽をささの庭と呼ぶという注を引く。今も物を強く勧める時ささというからその意味か、しかし答え歌末にもあるので不明、自分が飲もうという語かもしれない、万葉で神楽浪・楽浪をささなみとするので祝いの語か、と述べる。まず万葉がささに神楽・楽と書くのは、神楽でささと唱えるためで、神楽声浪という表記の声からわかる。他は声を省いたのだ。巻八五十四丁の石屋戸の説明と考え合わせるべきだ。私記が楽そのものの意味とするのは万葉を取り違えたのか。楽をささとはいわない。ささの庭も神楽でそう唱えるためだろうが、沙庭は意味がまるで別なので、その注へ引くのは誤りだ。

【宣長の注釈】神楽のささとこのささは、元は同じだろう。石屋戸の時のめでたい先例から、神楽だけでなく、人へ酒食を勧めるにも自分で飲食するにも、祝っていうのだろう。あの時は数々の幣と神楽で天照大神を誘い出したので、その例から飲食の祝い言葉になったと考えてよい。唱え進めるという私記の説明も祝いの面では合うが、沙庭の注には関係がない。契沖がここへ引くこと自体は理由がある。崇神天皇紀の活日の歌末「いくひさ、いくひさ」も、作者の名の後のさはこれと同じで、離して二度いう。歌全体が似ることからもわかる。私記と契沖の幾久という注は誤りで、祝いに幾久というのは非常に後世の語だ。万葉にもあるが別の意味で祝いではない。今は飲食に限らず何かを促し誘うにもささというのは、飲食の祝い言葉から変わったのだろう。ただ、石屋戸で大神を誘い出した意味からすれば、初めから万事に使えただろう。契沖が強く勧める時と限るのは不十分だ。女性が酒をささと呼ぶのも、この歌の名残ではなく、酒のさを重ねただけ。鳥をとと、尿をしし、香の物をこうこう、飯をまま、乳をちち、手をててという類である。

【宣長の注釈】前に待酒を醸して献じたといい、また大御酒を献じるのは重複して拙いようだが、そうではない。何かを作って大御饌として献じるのと同じで、前は品名、後は御酒を召し上がる食事を御膳というように定まった語だ。大御酒に、と読むつもりで理解する。「御子のため」はみために。敏達紀の国のため、崇峻紀の護世四天王のため、天智紀の天皇のため、万葉巻七の妹の御ため私田刈るなどに例がある。太子が幼いので代わって答えたのだ。許能美岐袁はこの御酒を。醸したでなく醸したであろう人と推量するのは、誰だと決めないため。大后が少名御神の献じた酒というのを受け、誰が醸したか、その人はわからないという形で詠む。

【宣長の注釈】そのつづみは、その鼓。古歌でそのという時は普通、前に指すものがあるが、ここは不明で、考えは後で述べる。『和名抄』は鼓をつづみ、大鼓をおほつづみ、俗に四の鼓ともいい、小鼓には一・二・三の名があり、拍子の順から取ったとする。これは古本で、今の本は十一字が違い、四のつづみ、今案ずるに細腰鼓とある。古く鼓といったのは今の太鼓で、今つづみと呼ぶのはその一種。和名抄の大鼓は今の太鼓の一種で、雅楽では今もそれを大鼓と呼ぶ。俗の太鼓が古い鼓で、猿楽の大鼓・小鼓は今のつづみの大小なので、古い大小の鼓とは違う。時代による名の違いを見分けなければ混同する。槌、別名枹・桴は大鼓を打つ物でつづみのばち、摺鼓はすりつづみ、鼗鼓はふりつづみ、腰鼓は俗に三のつづみ、令ではくれつづみと読み今の呉楽で使う物だという。そのほか鉦鼓・鞉鼓もあるが和名がない。

【宣長の注釈】ある人は、つづみは都曇の字音で、『唐書』礼楽志の天竺楽に都曇鼓があり、『白孔六帖』は都曇・答臘を外国の楽器とし、都曇は腰鼓に似て小さく、答臘は蠟鼓だという、と述べる。どちらも元の音に当てた名らしい。あづみを阿曇と書く例からも、つづみは確かに都曇の字音らしい。なら日本に元からあったのでなく外国から来た物で、大后の時代にはまだなかったはずなのに、なぜ歌うのか。考えると、この時日本にあったのでなく、新羅征討の時、宿禰もその国で初めて打つのを見聞きし、非常に珍しく思ったのを今思い出したのだろう。だからその鼓と詠むのだ。そのは、大后の歌の常世を受け、その国の人が、あの珍しく見聞きした鼓を打ちはやして醸したのだろうということか。そう見れば時代の疑いも、そのの指すものも解け、よく合うのではないか。

【宣長の注釈】うすにたてては、鼓を臼のそばに立て打つこと。契沖は酒を造る米をつく時というが、醸すという言葉を忘れたのか、米つきをかむとはいえない。明宮段にも吉野の国主らが吉野川の白檮の上に横臼を作り、そこで酒を醸し、献じる時に口鼓を打ち歌い、樫生ふる横臼に醸した御酒をうまく召し上がれ、まろが父、とする。上代は臼で酒を醸したので、巻三十三四十四丁で述べる。うたひつつは歌いながら。『儀式』大嘗会の儀では、造酒の童女が御飯稲、次いで酒造りを助ける酒波らと共に手を替えず、搗きながら歌うとし、歌詞はその時に作ると注す。これは稲つきだが醸す時も同様だろう。かみけれかもは醸したからか、で、ければにやのばを省いた形。古歌の例は『詞の玉緒』巻七に多い。万葉巻十七の恋ひけれこそはも、恋ひければこそはである。書紀はかみけめかもとし、梅はめの仮名でむではない。まひつつは舞いながら。書紀はこの二句を欠くが、ないと歌が非常に劣るので、脱落したのだろう。

【宣長の注釈】このみきのは、この御酒の。次のみきのは三音の一句で、前句を繰り返す古歌の例は多く、倭建命の歌のいながらに、いながらにの類だ。書紀はこれも欠く。あやにも三音の一句で、意味は阿夜詞志古泥神と沼河比売の歌、巻三四十四丁・巻十一二十六丁で述べた。契沖の六音一句説は違う。うただのしささの多は諸本に脱落し、真福寺本・延佳本に従った。うたは転で、物事が進み甚だしくなる意味だ。うたて・うたたとも通用し、本来の『うたた楽し』の同音を一つ省いたのである。飲むほどますます楽しいということ。契沖の宴の略説は誤りで、師の歌が楽しいという説も、この御酒のあやにからの続きに合わない。

【宣長の注釈】ささは『日本書紀釈』の注に古事記はたのしささとあるが、書紀はきさとする。今の本も『類聚国史』も作沙なので枳は後の誤写かと思うが、古事記と違うための注だから誤写ではない。きは先のけれかもの結びとなり、楽しいことよと結ぶより、醸したからであろうか、楽しいことよ、の形で語法が整う。ささを一つのさとするのはいくひさと同じだ。もしささのままでも文法の誤りではない。その場合けれかもで文を切り、かが後へ掛からない構文である。このささは太子が自ら飲む時の祝いでも、側で宿禰が代わりに歌うので大后同様に太子へ勧める言葉でもよい。全体は飲みながらの歌で、太子自身の心でも、共に飲んだはずの作者自身の心でも通る。

【宣長の注釈】歌全体はこういう意味だ。誰であれ、この酒を醸す時は、常世国であの鼓を臼のそばに置いて打ち、歌い舞い、念入りに祝ったからだろうか、その祝いの効き目で飲むほど楽しさが増す、さあ召し上がれ、召し上がれ。大嘗会の稲つき歌も仕事を祝うので、酒造りの歌舞も酒をほめ祝ったと考えられる。酒楽はさかほがひと読む。ほがひはほぎを延ばした語で、ねぐをねぎらふというのと同じ。宮内省式の大殿祭をおほとのほかひというのがこれだ。祝詞式の大殿祭の詞も大殿ほがひの詞である。『字鏡』の祠をほかふと読むのはやや疑問だが、言葉の根拠となる。書紀の皇太后が杯を挙げ太子を祝うのもさかほがひしたまひと読む。楽の字は宴で歌うためで、字義がほがひと合わなくても、大殿祭の祭と同じ使い方だ。師のさかえらぎは楽の字には合うが違うだろう。後世の『新猿楽記』にも酒祝とあり、ほがひは非常に古い語なので、昔から伝えた呼称だろう。この書では二首以上なら二歌・三歌とするのに、ここはそうしないので一首かと思うが、やはり前の御歌も合わせていうようだ。

【古事記本文】この帯中津日子天皇の享年は五十二歳。御陵は河内の恵賀の長江にある。

【宣長の注釈】凡はすべてこのと読み、巻二十六十三丁で述べた。他の例がみな凡此なので、ここもこのを補う。五十二歳はいそぢまりふたつ。五十は古くいといい、いそは見つからないが、数を明確にいう所でいだけではどうかと思い、ひとまずいそとした。三十から九十の中で五十だけそがない理由はなお考えるべきだ。五はいつでいの例はないのに、五百はいほでいつほとはいわない。つを省いたのだろうが五十と紛らわしい。二十も二から変わったらしく、はたそとなりそうなのにそがない理由も疑問で、ついでにいう。享年は書紀の細注も同じだ。ただ書紀で九年に五十二歳で亡くなるなら、生年は成務十九年となり、父倭建命の没後三十六年で、おかしい。書紀の紀年はこうして互いに合わない。この不一致から倭建命の子ではないと疑うのは、疑うべき年代を疑わず、疑う必要のない親子関係を疑う誤りだ。書紀に紀年の食い違いが多いのは珍しくない。成務四十八年に三十一歳で太子となったとするのも一年違う。

【宣長の注釈】旧版本・真福寺本などはここに「壬戌年六月十一日崩也」の十字の細注がある。この種の細注は巻二十三で論じた。壬戌は書紀では成務五十二年で、十八年違う。また成務段の細注は乙卯年没なので翌年を仲哀元年とすると壬戌は七年となる。月日も書紀の二月五日とは合わず、これも古い別伝なのだろう。

【宣長の注釈】河内の恵賀の長江。恵賀は応神陵の恵賀の裳伏岡や、雄略紀・顕宗紀の餌香市、崇峻紀の餌香川原、天武紀の衛我河の地だ。続日本紀巻三十に会賀市司を任命する記事もある。餌香川は石川ともいい、石川郡から北へ古市郡、志紀郡の東境を経て大和川へ入る。長江は允恭陵の恵賀の長枝と同じ地。この陵は神功紀に二年冬十一月、丁亥を一日とする甲午の日、河内の長野陵に葬ったとし、諸陵式は恵我長野西陵、穴門豊浦宮で天下を治めた仲哀天皇の陵で、河内国志紀郡、東西・南北各二町、陵戸一戸・守戸四戸とする。允恭陵も書紀で長野原、式で恵我長野北陵で、両書とも長江とはしない。式には両陵とも恵我とあるが書紀にはない。長野神社も志紀郡にあり、続日本紀巻十八の大内・山科・恵我・直山等の陵へ使いを遣わすという恵我が西陵か北陵かは不明だ。別の長江らしい名には志紀長吉神社があり、吉をえと読めば同地か。師は江を沼の誤字かとするが、允恭陵にも長枝とあるので違う。長吉神社を今の丹北郡長原村の日蔭明神とする説が正しければ、長江とは別だ。そこは志紀郡境に近くても西側で、恵賀は応神・允恭両陵や川の位置から東側だからである。ただ同社と断定する証拠がないので、今の場所にこだわる必要もない。

【宣長の注釈】『河内志』は陵を丹南郡岡村、そばに塚が六つあるとする。岡村は続日本紀では志紀郡で、今もその境に近く、長野神社も今は丹南郡葛井寺村で岡村に近い。允恭陵の西なので西陵にも合う。しかし恵賀は志紀郡の東側なのに岡村はやや西へ離れ、長江・長野は恵賀内の小地名なので広いはずはない。両陵が同じ名なら、西陵は岡村より少し東、北陵に近い所にありそうだ。ただ私はまだ地理をよく知らず断言しにくい。錦部郡長野荘上原村をこの陵とし、『廟陵記』もそう書くのは、地方がまるで違うので大きな誤りだ。長野の名だけで誤ったのだろう。筑前大保村の大霊石神社はこの天皇を祭るといい、前の塚を陵というが、穴戸の豊浦宮へお移しする間、しばらく仮に納めた跡か。疑わしい。播磨明石郡にあるものは、書紀にいう香坂・忍熊両王が造った陵だろう。

【宣長の注釈】諸本にはこの次に「皇后は百歳で亡くなり、狭城楯列陵に葬る」という十六字の細注がある。師が後人の書き加えとしたのは、まったくその通りだ。文体がこの書の例でなく、各天皇段の末の細注とも違う。皇后という語も下巻には二か所あるが、この巻にはない。天皇の享年はたいてい書紀と違うのに、ここだけ百歳で一致するのも疑わしい。狭城楯列も書紀そのままの文字で、こちらなら狭木・沙紀、多他那美と書く。したがって後世、書紀によって補ったのだ。壬戌年などの細注が書紀と大きく違うのと比べれば古くないとわかる。延佳本が古い細注を除き、皇后の注だけを入れるのは、書紀との一致を喜んだ、かえって誤りの扱いである。万事、書紀との一致を喜び異同を嫌うのは、学者の漢意の癖だ。少しでも違う方こそ古い別伝に聞こえる。そこでこの注は除いた。

【宣長の注釈】ただ、この大后はおおよそ一代の天皇のようだったので、ここにも天皇と同じ例で記しておこう。書紀では六十九年夏四月十七日(辛酉を一日とする丁丑の日)、百歳で稚桜宮に亡くなり、冬十月二十七日(戊午を一日とする甲申の日)、狭城盾列陵に葬り、気長足姫尊と追尊した。この年は己丑という。その日に追尊したというのは理解しにくく、中国で葬る時に諡を付ける例に倣い書いたのだろう。享年を百十一とする本もある。諸陵式は、狭城盾列池上陵、磐余稚桜宮の神功皇后、大和添下郡、東西南北各二町、守戸五戸とする。陵は巻二十九六十五丁で述べた。『続日本後紀』承和十年四月に、陵守が先月十八日、食事時に陵が雷のように二度鳴り、赤気が旋風のように南へ飛び、申の時にも再び鳴り、西へ飛んだと報告する。正躬王を遣わし検査し、陵の木七十七株、数え切れない若木を伐った。藤原助・坂上正野らを北南両陵へ謝罪に遣わした。図録では北が神功、南が成務なのに、俗伝では南を神功陵とし、その祟りのたびに成務陵へ謝り、以前の弓・剣も誤って奉ったので、その日、正しい陵へ奉り直したという。『百錬抄』は永保三年五月二十日、神功陵の樹木焼失を公卿が審議し、翌日から三日間朝廷の政務を休んだと記す。

【宣長の注釈】この書は息長帯比売命の治世を立てず、事績を仲哀段の末に記し、直ちに応神段へ進む。書紀は大后の巻を挟み、仲哀没の翌年を摂政元年、没年を六十九年とし、その翌年を応神元年とする。これには世の識者に種々の議論がある。私がこの違いを考えると、古事記は昔の実際のあり方の伝えをそのまま記し、書紀は中国の例と後世の考えで明確に定めたのだ。古書にそう記したものがあり従ったのか、編者の判断かは知らない。上代は天皇が亡くなれば即、太子の世で、太子が天皇となる。特定の年月日に即位したと境を設けるのは中国に倣った後のことだ。ゆえに仲哀没後、品陀別命は胎内から自然に天皇で、その治世だった。胎中天皇と呼ぶのもそのため。反乱の場面で大后側でなく太子側というのも、太子の治世だからだ。なお太子と呼ぶ理由は後で述べる。皇太子に立てる年月日を明確にすることも上代にはなかった。

【宣長の注釈】しかし胎内にいる間、臣・連ほかすべての役人は大后に仕え、その間に新羅の大事業もあった。幼時はもちろん、成長後も母の存命中は敬って仕え、その意に従うので、御子は自然に太子のようで、大后が天皇のようだった。だから摂津風土記などは大后を天皇とさえ記す。ただ本当に大后の治世とはいえず、摂政という呼称も当時はなかった。ところが識者が中国の例や後世の明確な制度にとらわれ是非を論じ、儒者には位を惜しんで太子へ譲らなかったという人さえいる。畏れ多いことで、上代の何事も明確に区切らないあり方を考えない漢意の誤りだ。元から御子の世で、大后の世でないなら、何を譲るのか。摂政の世というのが後からの定めと理解すれば、そんな論は出ない。万事を細かく区別する中国の方が整って、大らかなら乱雑に見えるが、実は違う。人の世は本来それほど区切られず、大らかなのが実際の姿だった。中国などは人心が悪く乱れが多いため、防止のために細則を定めた。どの国でも時代が下り、人心が悪く乱れが多くなるほど制度が細かく明確になることからもわかる。

【宣長の注釈】本来御子が天皇で、大后の治世でないので、古事記はその治世を立てない。ただ存命中は大后の代のようで、御子は太子のようだから、角鹿への旅なども大后の事績に続けて記し、天皇とせず太子と呼ぶ。このはっきり区切らない記し方が当時の実態なのである。書紀が巻を立て摂政の世とし、その年で記すのは、上代をすべて中国の例と後世の制度に合わせる書だから、この間も明確にせずにはいられないという必然の傾向だ。義理から正すなら、近世の水戸中納言光国卿の史書のように大后の世を立てず、摂政元年を応神元年にしてもよいだろう。しかしどちらも後から強いて定めることで、元から固定したことではない。どちらでもよい中、書紀も天皇でなく皇太后、摂政と書き、完全なその治世ではない差を示しており、道理があって実態にひどく背かない。摂政という称と独自の年立ては当時の実態でなくても、天皇本人でない差を示すにはそうした呼称が必要で、ひとたび一代を立てれば年も記す必要がある。かえって摂政元年をそのまま応神元年とすると実態と違う面もあるので、書紀の記し方にもみな理由がある。正史でもあるから、そのままで何の差し支えがあろう。

古事記伝 巻三十二

本居宣長が謹んで著す。

明宮の巻・上

〔『古事記』本文〕品陀和気命(ほむだわけのみこと)は、軽島(かるしま)の明宮(あきらのみや)で天下を治めた。この天皇は品陀真若王(ほむだのまわかのみこ。品陀の二字は音を表す)の娘である三人の姉妹を妻とした。名は高木之入日売命(たかぎのいりひめのみこと)、中日売命(なかつひめのみこと)、弟日売命(おとひめのみこと)である。〔小字の注――三人の父・品陀真若王は、五百木之入日子命(いおきのいりひこのみこと)が、尾張連の祖・建伊那陀宿禰(たけいなだのすくね)の娘、志理都紀斗売(しりつきとめ)を妻としてもうけた子である。〕高木之入日売命の子は、額田大中日子命(ぬかたのおおなかつひこのみこと)、大山守命(おおやまもりのみこと)、伊奢之真若命(いざのまわかのみこと。「伊奢」の二字は音を表す)、その妹の大原郎女(おおはらのいらつめ)、高目郎女(こむくのいらつめ)の五人。中日売命の子は、木之荒田郎女(きのあらたのいらつめ)、大雀命(おおさざきのみこと)、根鳥命(ねとりのみこと)の三人。弟日売命の子は、阿倍郎女(あべのいらつめ)、阿具知能三腹郎女(あわぢのみはらのいらつめ。阿具知能の四字は音を表す)、木之菟野郎女(きのうののいらつめ)、三野郎女(みののいらつめ)の四人である。〔本文の人数表記は「五柱」。宣長は後の注で「四」の誤りとする。〕また、丸邇(わに)の比布礼能意富美(ひふれのおおみ。「比布礼能意富美」は音を表す表記)の娘、宮主矢河枝比売(みやぬしやかわえひめ)を妻とし、宇遅之和紀郎子(うぢのわきいらつこ)、その妹の八田若郎女(やたのわきいらつめ)、女鳥王(めどりのみこ)の三人をもうけた。また、矢河枝比売の妹の袁那辨郎女(おなべのいらつめ)を妻とし、宇遅之若郎女(うぢのわきいらつめ)一人をもうけた。また、咋俣長日子王(くいまたながひこのみこ)の娘、息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)を妻とし、若沼毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)一人をもうけた。また、桜井田部連の祖・島垂根(しまたりね)の娘、糸井比売(いといひめ)を妻とし、速総別命(はやぶさわけのみこと)一人をもうけた。また、日向の泉長比売(いずみのながひめ)を妻とし、大羽江王(おおはえのみこ)、小羽江王(おはえのみこ)、幡日之若郎女(はたひのわきいらつめ)の三人をもうけた。また、迦具漏比売(かぐろひめ)を妻とし、川原田郎女(かわらだのいらつめ)、玉郎女(たまのいらつめ)、忍坂大中比売(おさかのおおなかつひめ)、登富志郎女(とおしのいらつめ)、迦多遅王(かたぢのみこ)の五人をもうけた。また、葛城の野伊呂売(のいろめ。「伊呂売」の三字は音を表す)を妻とし、伊奢能麻和迦王(いざのまわかのみこ)をもうけた。この天皇の子は合わせて二十六人、男子十一人、女子十五人である。このうち大雀命が天下を治めた。

この天皇に後世贈られた漢風の諡は、応神天皇である。「軽島」は、大和国高市郡の軽のこと。この地は境岡宮の段にも出た(『伝』巻二十一、十六葉)。「島」は海に浮かぶ島だけをいうのではない。秋津島・師木島と同じく、周囲に一定の境のある土地にもいう。このことは『国号考』の秋津島・師木島の説明で詳しく述べた。「明宮」は、『続日本紀』巻三十二に「軽島豊明宮で天下を治めた天皇の御代」、巻四十に「軽島豊明朝」とあり、『摂津国風土記』にも「軽島豊阿岐羅宮で天下を治めた天皇の世」と見える。『山城国風土記』『古語拾遺』『日本霊異記』の序などにも豊明宮とあるが、『古事記』『日本書紀』では「豊」を付けない。『摂津国風土記』の「阿岐羅」という表記から、「明」は「あきら」と読むことが明らかで、「あかり」は誤りである。『日本三代実録』巻十六には、大和国の朝日豊明姫抜田神という神名も見える。『日本書紀』では四十一年に「天皇、明宮に崩ずる」と記すだけで、初めにこの宮へ移った記事がない。その記事が脱落したのである。

品陀真若王は河内国の品陀に住んでいたのだろう。この地については『伝』巻三十、六葉で述べた。なお、仁賢天皇の子にも真若王という名がある。「三柱の女王」――『先代旧事本紀』によれば、この姉妹の母は、真若王の母の妹である。該当する文は次に引用する。「一名」は「ひとはしらのみなは(一人の名は)」と読む。高木之入日売命と似た名に、景行天皇の娘の高木比売命がある。その娘を『日本書紀』が高城入姫皇女と記すのは、こちらの女王の名と混同したのだろう。中日売命・弟日売命は、いずれも名前の意味に特に難しい点はない。

小字の注について。五百木之入日子命は景行天皇の子で、その段に出た(『伝』巻二十六、八葉)。尾張連も前に出た(巻二十一、二十一葉)。建伊那陀宿禰は『先代旧事本紀』では建稲種命とされ、饒速日命から十一代目の子孫、乎止与命の男子で、母は尾張の大印岐の娘、真敷刀婢だという。ただし、尾張連の祖は火明命である。饒速日命とする説が誤りであることは前に論じたとおりである。志理都紀斗売という名は、地名によるのか。『日本書紀』安閑天皇紀には備後国の後城、『和名抄』には備中国の後月(しつき)郡がある。この二つは同じ土地だろう。ともに「後」の字を当てているので、もとは「しりつき」と呼んだのだろう。「七」の字を使うのも、単なる「し」とは音が違うためだろう。『新撰姓氏録』には同じ氏の尻調根命も見える。「斗売」については前に述べた(『伝』巻八、二十八葉)。

『先代旧事本紀』にはこうある。「饒速日命から十二代目の子孫の建稲種命は、通波県君の祖・大荒田の娘、玉姫を妻とし、男子二人、女子四人をもうけた。十三代目は尻綱根命。その妹の尻綱真若刀婢命は五百城入彦命に嫁ぎ、品陀真若王を生んだ。次の妹の金田屋野姫命は、甥の品陀真若王に嫁いで三人の女王を生んだ。高城入姫命、中姫命、弟姫命である。この三人はいずれも誉田天皇の后妃となり、十三人の皇子を生んだ。」兄妹に共通する「尻綱」の「綱」は「調」の誤りかもしれない。尻綱根命は、上に引いた『姓氏録』の尻調根命と同じ人物らしく思われるからである。なお『神名帳』には、備前国御野郡の尾治針名真若比女神社もある。この小字注の内容は、ほかの例に従うなら日代宮の段に置いて、「五百木之入日子命が誰々を妻とし、品陀真若王をもうけた。この王の娘三人の名は……」などと記すはずである。ここに置かれているのは通例と違う。しかし、後から書き足したようにも見えず、もとからこの形であったのだろう。

「故高木之入日売命之御子」の「命」は、諸本にない。師の賀茂真淵は、本来「命生御子」とあるべきところから「命生」の二字が落ちたといわれた。後の「中日売命之御子」「弟日売命之御子」と比較すると、ここにも必ず「命」があるはずなので補った。ただし、次の二人の女王にも「生」がないため、ここにも「生」はなくてよい。師はさらに、「三柱女王」から「伊奢之真若命」までの書き方が前の例と異なるのは、乱れていた本文を後人がこのように書き直したためだろう、三人とも「之御子」とする「之」は、通例では「生」のはずだ、といわれた。確かに、ここでは「誰々の娘、誰々を妻とし、子の誰々を生んだ」という書き方をせず、小字注の形も含めてほかの例とは異なる。しかし、乱れた文章ではなく、後から書き直した形跡もない。初めからこのようだったのだろう。このままでも悪くないし、この書き方ならどれにも「生」がなくてよい。「御子」の二字も多くの本にない。真福寺本には「子」があり、延佳本だけが「御子」とする。「御」は新たに補ったのかもしれない。いずれにしても、後の例と同様、「御子」があるべき箇所である。

額田大中日子命の「額田」は地名である。各地に同名の地があるが、『和名抄』の大和国平群郡額田(ぬかた)郷だろうか。『日本書紀』仁徳天皇紀には、額田大仲彦皇子が大和の屯田を管理しようとした記事がある。これを大山守命の誤りだとするのは、かえって間違っている。同紀の六十二年には、この皇子が闘鶏(つげ)で狩りをして氷室を見つけた話もある。また『和名抄』には河内国河内郡額田(ぬかた)郷もあるので、その地かもしれない。河内は母方と縁がある。今の額田村にはこの皇子をまつる社がある、とある人がいっている。大山守命の名は、後にこの命が登場する箇所で説明する。伊奢之真若命は、崇神天皇の子に同名の人物がいる(『伝』巻二十三、七葉)。大原郎女の「大原」は大和国高市郡にある。『万葉集』巻二に「大原の古りにし里に……」と歌う歌がある。天武天皇が藤原夫人に贈った御歌である。『万葉集』巻八に、藤原夫人は字を大原大刀自というとある。今も大原村がある。

高目郎女の名は、師の読まれた「こむく」に従う。「高」は、『古事記』で「高志」と書くのと同じく、「こ」の音を示す字である。「目」は「もく」とも読めるが、『万葉集』などが「巻向」を「巻目」と書くので、「むく」でよい。これは地名で、『和名抄』の河内国石川郡紺口郷、『神名帳』の咸古神社がその地である。『日本書紀』仁徳天皇紀にも、十四年に咸玖に大溝を掘ったとある。『日本書紀』は「これより先、天皇は皇后の姉、高城入姫を妃とし、額田大中彦皇子、大山守皇子、去来真稚皇子、大原皇女、澇来田皇女をもうけた」と記す。今の本では「澇来田」の「来」が落ちている。「澇」は字書によれば「潦」と同じで、たまり水とも、水に浸ることとも説明される。仁徳天皇紀にも「北河の水害を防ぐため、茨田堤を築こうとして」などとある。木之荒田郎女の名は、『神名帳』にある紀伊国那賀郡荒田神社の地によるのだろう。『和名抄』の同郡には荒川郷があるが、その「川」は「田」の誤りではないか。

大雀命の名の由来は、『日本書紀』仁徳天皇紀にこう記される。「天皇が生まれた日に、木菟(つく。ミミズク)が産殿に入った。翌朝、誉田天皇が大臣の武内宿禰を呼び、『これは何のしるしだろう』と尋ねた。大臣は『めでたいしるしです。昨日、私の妻が出産したときにも、鷦鷯(さざき。ミソサザイ)が産屋に入りました。これも不思議なことです』と答えた。天皇は『わが子と大臣の子が同じ日に生まれ、ともにめでたいしるしがあったのは、天が示したことである。互いの鳥の名を取り替えて子に名づけ、子孫の代までの契りにしよう』といわれた。そこで、鷦鷯の名を皇子に付けて大鷦鷯皇子といい、木菟の名を大臣の子に付けて木菟宿禰といった。」これが名の由来である。『和名抄』には「鷦鷯、和名ささき。『文選』鷦鷯賦には、鷦鷯は小鳥で、ヨモギやアカザの間に生まれ、垣根の下に育つ」とある。『新撰字鏡』では「鷦」を「かやくき」、また「ささき」とする。高津宮の段の歌にも「さざき取らさね」とある。根鳥命は、まだ名の意味が分からない。この王の子は後に出る(『伝』巻三十四、六十二葉)。『日本書紀』には「二年春三月、仲姫を皇后に立てた。皇后は荒田皇女、大鷦鷯天皇、根鳥皇子をもうけた」とある。

阿倍郎女の「阿倍」は地名で、その地については境原宮の段の阿倍臣の注で述べた(『伝』巻二十二、七葉)。阿具知能三腹郎女の「阿具知」は、『日本書紀』に「淡路」とあるので、「具」が「波」の誤りかとも思う。草書では二字が似ているからである。しかし、『古事記』の各所にある「あわぢ」はみな「淡道」と書かれ、ここだけ仮名書きであることが疑わしい。あるいは、もとは「阿波知」であったのに古い記録が二字を書き違え、稗田阿礼もそのまま唱え覚えたため、この字になったのだろうか。ひとまず本文の字はそのままにする。ただし、「あぐち」という語はいぶかしいので、読みは『日本書紀』に従って「あわぢ」とした。『和名抄』には淡路国三原(みはら)郡がある。木之菟野郎女は、紀伊国伊都郡に今もある宇野という土地によるのだろう。『日本書紀』欽明天皇紀にも河内国更荒郡の鵜野邑が見えるが、ここは「木之」とあるので、その河内の地ではあるまい。

三野郎女は美濃国による名だろうか。『日本書紀』には「皇后の妹の弟姫は、阿倍皇女、淡路御原皇女、紀之菟野皇女を生んだ」とあり、この女王がいない。ただし、「この天皇の男女の子は、合わせて二十王である」とする人数に対し、名は十九人しかない。三野郎女一人が後に抜けたのだろう。しかし、ある一本に「三野郎女」とあるのも、後人の補いである。『日本書紀』は「郎女」をすべて「皇女」に改めて記すので、その通例と違うからである。『先代旧事本紀』巻五では、弟日売命の子は菟野皇女の後に大原皇女・滋原皇女があり、合わせて五人である。〔「五柱」について。〕この人数は合わない。一人の名が脱落したかとも思えるが、そうではない。後の「女王十五」という数とも合わないため、「五」は「四」の誤りだろう。中日売命・弟日売命の娘たちに、畿内でもない紀伊国や淡路などの名を付けたのは、どのような事情によるのだろうか。

丸邇之比布礼能意富美の「丸邇」は氏の名で、伊邪河宮の段に出た(『伝』巻二十二、四十六葉)。「比布礼」は個人名だが、その意味はまだ分からない。「意富美(おおみ)」は名の後に付ける一種の称号で、下巻の穴穂宮の段、都夫良意富美の注で詳しく説明する。『日本書紀』がこの名を「和珥臣の祖、日触使主」とするので、意富美は使主(おみ)なのかと疑うこともあろうが、そうではない。意富美・臣・大臣・使主を取り違えた例はあちこちにある。その混同と使主についても、下巻、穴穂宮の段の都夫良意富美の注で詳しく述べる。広高宮・師木島宮の段にも、この名と紛らわしい名があるが、それはその箇所で説明する(『伝』巻四十、十七葉)。

宮主矢河枝比売の「河」を「阿」とする本もあるが、誤りである。「宮主」は、師は「みやじ」と読まれた。後世に宮主という役職があり、そう呼ぶためだろうが、ここは字のとおり「みやぬし」と読むべきである。上巻にも稲田宮主という名があり、そちらにはそう呼ぶ理由がはっきりしている。しかし、この比売に付けた事情は分からない。上巻には八河江比売という名もあり、名の意味はそこで述べたのと同じである(『伝』巻十一、七十一葉)。天皇が初めてこの比売と結婚した話は後に出る。宇遅能和紀郎子の「宇遅」は、『和名抄』に山城国宇治郡宇治郷、久世郡宇治郷とある地である。二つの宇治郷は一つの土地が二郡にまたがっている。この王が菟道宮にいたことは、『日本書紀』仁徳天皇紀に見える。『山城国風土記』には「宇治というのは、軽島豊明宮で天下を治めた天皇の子、宇治若郎子が桐原日桁宮を造って住んだため、その御名により宇治と名づけた。もとの名は許乃国だった」とあるが、これは因果が逆である。この王の名は、この地に住んだために付いたのである。『出雲国風土記』などにも、誰々の神が住んだため、その神にちなんで地名を付けたという説明があるが、このように順序を取り違えた例が多い。

「和紀」は「若」の意味である。「若」は「わき」「わく」とも音を通わせていう。鴨の別雷神も「若雷」という意味で、「わき」と読むべきである。『狭衣物語』の「篠のわきば」も若葉のことだろう。また、若い子を「わくご」といい、若産霊を「わくむすひ」と書く。このように「わか」「わき」「わく」は通じるが、この王の名は「和紀」とあるとおり「わき」と読むべきで、「わかいらつこ」はよくない。『古語拾遺』が稚子を「腋子」と説明する説は論じるにも及ばないが、そうした説も「わきこ」という言い方があったために生じたのである。「郎子」は「いらつこ」と読むことが、「郎女」と対比すれば分かる。「郎女」の読みと「いら」の意味などは前に述べた(『伝』巻二十一、十葉、巻二十二、七十葉)。郎子を名に含む例には、仁徳天皇の子の波多毘能大郎子、継体天皇の子の大郎子などがある。この王の事績は後に出るので、さらにその箇所で述べる。

八田若郎女の「若」は、兄の名にならって「わき」と読む。「田」は濁らず「た」である。高津宮の段の御歌に「夜多」とあるからである。「八田」は『和名抄』の大和国添下郡矢田郷、『神名帳』の矢田坐神社がある地だろう。この女王は高津宮の段に出る(『伝』巻三十六)。女鳥王の名は、雌鳥に縁があったのだろう。この女王も高津宮の段に出て、その御歌に「めどりの、わがおおきみ」とある。〔参照巻数は原刊が空欄で、「七葉」とだけある。〕『日本書紀』には「次の妃、和珥臣の祖・日触使主の娘、宮主宅媛は、菟道稚郎子皇子、矢田皇女、雌鳥皇女を生んだ」とある。『先代旧事本紀』では、この王たちの母を物部多遅麻大連の娘、香室媛といい、巻五では山無媛としている。袁那辨郎女の名は、『日本書紀』が書く「小甂」という字の意味によるのか。『先代旧事本紀』では香室媛の妹、小甂媛とする。玉垣宮の段の袁邪辨王も、「邪」は「那」の誤りで、同じ名だろう。宇遅之若郎女も宇治に住んでいたのだろう。そう考える理由は後に述べる。この女王も高津宮の段に出る。『日本書紀』には「次の妃、宅媛の妹の小甂媛は、菟道稚郎姫皇女を生んだ。小甂は烏儺謎という」とある。「謎」の字に基づいて「おなめ」と読むのは誤りである。ここでは「謎」の漢音を用いて「べ」を表す。仲哀天皇紀にも「御嗣は、みなべという」とある。

咋俣長日子王は前に出た(『伝』巻二十九、四十一葉)。息長真若中比売も前に出ている。『日本書紀』は「河派仲彦の娘、弟媛は稚野毛二派皇子を生んだ。派は、またという」とする。また『釈日本紀』が引く『上宮記』には「一説では、凡牟都和希王は経俣那加都比古の娘、弟比売麻和加を妻とし、若野毛二俣王をもうけた。若野毛二俣王は母の〔姉か妹である〕恩己麻和加中比売を妻とし、大郎子をもうけた」とある。凡牟都和希王は応神天皇。「経」は書き誤りである。「母恩」の間には「姉」か「弟」が落ち、「恩己」は「息長」の誤りである。ここでは中比売の名と、その妹の弟比売の名が混同されている。『古事記』の倭建命の段には咋俣長日子王の娘が三人挙げられ、息長真若中比売は二女、弟比売は三女である。また、この段の末に「若野毛二俣王は、母の妹の百師木伊呂辨、別名・弟比売真若比売命を妻とし、大郎子をもうけた」とある。つまり、弟比売は若野毛二俣王の妻なのに、『日本書紀』『上宮記』は応神天皇の妃で二俣王の母とし、『上宮記』は中比売を二俣王の妻としている。『日本書紀』には二俣王の妻の話がないので、母を弟比売とするのも異伝として理解できる。しかし『上宮記』はいささか理解しがたい。「中」「弟」という名から、中比売が姉だったことは疑いないのに、母の姉を妻としたというのは、どうなのだろう。古くは母の妹を妻にした例はいくつもあるが、母の姉を妻にしたとは考えられない。それゆえ、この点は『古事記』の伝えが正しいはずである。そもそもの混乱は、中比売も「息長真若」、弟比売も「弟比売真若」といい、「真若」が共通するために起こったのだろう。

若沼毛二俣王の「若沼毛」は、成務天皇の子の和訶奴気王の名について述べたとおりである(『伝』巻二十九、四十八葉)。「二俣」は地名だろうか。その場所は考える必要がある。『延喜式』神名帳には、周防国都濃郡の二俣神社がある。この王の子たちは、この段の末に列挙される。桜井田部連の「桜井」は、『和名抄』の河内国河内郡桜井郷だろう。この地については、『伝』巻二十二、二十八葉の桜井臣の説明も参照されたい。『日本書紀』崇峻天皇紀に、河内国が餌香川の河原について報告する話の中で「そこに桜井田部連勝淳が飼っていた大蛇が……」とある。これは河内国にこの氏の人がいた証拠である。「田部」は、屯家に属する天皇の田を耕作させるために定められた人々の集団である。日代宮の段(『伝』巻二十六、三十二葉)で詳しく述べたので参照されたい。この氏は河内の桜井に住み、田部を率いた氏である。『日本書紀』安閑天皇紀には「桜井屯倉と諸国の田部を香々有媛に賜った」、また「ここに始めて、河内県の部曲を田部の中心とした」とある。これらも日代宮の段に詳しく引用したので、併せて考えてほしい。「河内県」は河内郡である。この氏はそうした事柄に縁があるのだろう。『万葉集』巻三の「桜田部……」という歌は、尾張国の佐倉という地の田を詠んだものなので、こちらには全く関係しない。混同してはならない。

さて、この氏が誰の子孫であるかは書物に見えず、『姓氏録』にも載らないので、祖先を知るのは難しい。ただ『国造本紀』に「穴門国造は、纒向日代朝の御代、桜井田部連と同祖の遞伎都美命の四代後の子孫、速都鳥命を国造に定められた」とある。この遞伎都美命の子孫らしいが、その名もほかの書物にはまだ見つからず、なお検討が必要である。『日本書紀』天武天皇紀には「十三年十二月、桜井田部連に宿禰の姓を賜った」とある。『日本三代実録』にもこの氏の人々がいくつか見え、讃岐国にもいる。島垂根の「島」は地名か。「垂根」という名の例は伊邪河宮の段に出た(『伝』巻二十二、五十二葉)。糸井比売も地名による名だろう。『神名帳』には大和国城下郡糸井神社があり、その地と思われる。『姓氏録』の大和国諸蕃には糸井造がある。『続日本紀』巻二十九には糸井部という氏の名も見え、『和名抄』には但馬国養父郡糸井郷、読み「いとい」とある。『日本書紀』安寧天皇紀にも糸井媛、敏達天皇紀には糸井王が見える。速総別命の名は、隼に縁があったのだろう。『和名抄』には「鶻の和名は、はやぶさ。隼の読みも同じ」とある。下巻、高津宮の段の歌にも「高行くや、はやぶさわけ……」と歌われる。この王のことはその段にさらに出る(『伝』巻三十七、七葉)。『日本書紀』は「次の妃、桜井田部連男鉏の妹の糸媛は、隼総別皇子を生んだ」とする。

日向之泉長比売の「泉」は、『和名抄』の薩摩国出水(いずみ)郡だろう。昔は大隅・薩摩をも含めて日向といったことは、前に述べたとおりである。『日本書紀』景行天皇紀には、諸県君泉媛という名もある。「長」はどのような理由で付いたのか、分からない。『日本書紀』孝安天皇紀にも長媛という名があり、神功皇后紀にも見える。

大羽江王・小羽江王の名の意味は、まだ分からない。「羽江」は、輝きや、物が生える意味だろうか。『日本書紀』の安寧・孝昭・孝安天皇紀には磯城県主葉江、顕宗天皇紀には黄媛という名が見える。「黄」は「はえ」と読み、字書では草木が芽を出した姿と説明する。『日本書紀』には「次の妃、日向泉長媛は、大葉枝皇子・小葉枝皇子を生んだ」とある。幡日之若郎女は、前の書き方に従えば、この名の前にも「妹」があるはずである。名前の意味はまだ分からず、地名かもしれない。機織りの梭(ひ)にちなむのかとも思うが、仁徳天皇の男子の名にもあるので、梭ではあるまい。実は、この女王は仁徳天皇の娘で、母が日向の髪長媛である。母の名と日向之泉長比売の名が似ていたため、取り違えてこちらにも入れたと見られる。『日本書紀』には、この箇所にこの女王がいない。その方が正しいだろう。

迦具漏比売は倭建命の曾孫で、日代宮の段に出た(『伝』巻二十六、十二葉)。そこに景行天皇がこの比売を妻としたとあるのは、応神天皇が妻としたという伝えを取り違えたもので、理由はその箇所で述べた。しかし、ここで応神天皇の妻とされるのも混同した伝えで、実際には若沼毛二俣王の妃だったように思われる。この段の末の「若野毛二俣王は弟日売真若比売命を妻として、子をもうけた」という弟日売を、『日本書紀』『上宮記』は応神天皇の妃としているからである。この混同は前に詳しく論じた。ここで迦具漏比売の娘とされる忍坂大中比売には、二俣王と弟日売の間の娘にも同名の人物がいる。登富志郎女も、二俣王の娘の琴節郎女と同一人物らしい。娘たちについては、この段の末、『伝』巻三十四で詳しく述べるので、併せて考えてほしい。また、弟日売も同じく倭建命の曾孫で、その父の長日子王を『日本書紀』は仲彦と記す。これは迦具漏比売の父、大中日子と同じである。これらの事情を総合すると、迦具漏比売とは弟日売と同一人物なのである。応神天皇の妃ではなく二俣王の妃であったのを混同した、という意味である。したがって、『日本書紀』に迦具漏比売の話がなく、その子とする五人も載らない方が正しいはずである。この五人もすべて二俣王の子だったのが、混同されたのだろう。

川原田郎女は、地名による名だろう。玉郎女は、たたえて付けた名か。忍坂大中比売は、この段の末の若沼毛二俣王の娘にも同名の人がおり、そこで説明する(『伝』巻三十四、五十二葉)。こちらが混同によることは、上に述べたとおりである。登富志郎女も、上に述べたように二俣王の娘、琴節郎女と同一人物のはずで、同じ箇所で詳しく説明する。琴節という名と照らすと、「登」の前から「許」が落ちたのかとも思える。しかし、もしそうなら、同じく「琴節」と書くはずなのに、こちらは音を表す字で書かれている。もとから「許」はなく、「とおし」と伝わっていたのだろう。迦多遅王も地名によるのだろうか。葛城之野伊呂売の「野」も「伊呂」も多くの例がある名前で、いずれも前に出た。師は「売」の前に「比」が落ちたのだろうといわれたが、「何々女」という名も数多くある。

伊奢能麻和迦王は、高木之入比売命の子の中に既に挙がっており、ここに再び出るのは誤りだろう。この王を入れると、「合わせて二十六王、男子十一人」という人数にも合わなくなる。師は「前に出る名の方を余分な重複とし、ここを除いてはいけない」といわれた。ここは母の名を挙げて子がこの王一人だけなので、余分な記事とは考えにくく、前は五人のうちの一人だから、そちらが余分だろうということである。しかし、どちらを重複とするか、必ずそうだと決めることは難しい。まず母の名の「入比売」と「伊呂売」は少し似ており、「葛木」と「高木」も少し似ている。いずれにしても、それが混同の原因だろう。実際は野伊呂売の子だったのを、高木之入毘売の子と誤ったのかもしれない。あるいは、入比売と野伊呂売は名の伝わり方が違うだけで実際は一人なのに、別人と思い、子も別に列挙したのかもしれない。

〔『古事記』本文〕そこで天皇は、大山守命と大雀命に、「お前たちは、年上の子と年下の子のどちらをかわいく思うか」と尋ねた。〔小字の注――天皇がこう尋ねたのは、宇遅能和紀郎子に天下を治めさせたいと思っていたためである。〕大山守命は「年上の子をかわいく思います」と答えた。次に大雀命は、天皇の問いの意図を察して、「年上の子はもう一人前になっており、心配することがありません。年下の子はまだ幼いので、そちらがかわいく思われます」と答えた。天皇は「さざき、わが君よ、わが思うとおりだ」といった。「佐邪岐阿芸」の五字は音を表す。こうして、それぞれに役目を分けて命じた。「大山守命には海と山に関する仕事を任せよう。大雀命は国の政治を取りまとめて仕えてほしい。宇遅能和紀郎子が皇位を継ぎ、天下を治めるのだ。」大雀命は、天皇の命令に背かなかった。

「問大山守命与大雀命詔」の「詔」は、独立した語として読まない。漢文の「某に問いて曰く」の「曰」と同じ形で書いたものだが、そのまま漢文の形で訓読してはよくないことは、最初の巻で述べた。この天皇には多くの子がいるのに、特にこの二人に尋ねたのは、この二人と和紀郎子の三人が、もとから皇位を継ぐ候補だったためである。大山守命の母は高木之入日売命、大雀命の母は中日売命で、ともに母の身分が高いから、太子とされるのは当然である。宇遅能和紀郎子は母の身分は高くないが、天皇に特別愛されていたことが、この段から分かる。上代の太子は一人に限らなかったことは、日代宮の段(『伝』巻二十六、十六葉)で詳しく述べた。この三人がもとから太子であった事情も、そこで述べた説明を参照されたい。

「兄子」は「あになるこ」、「弟子」は「おとなるこ」と読む。『日本書紀』に「長と少と」とあるため、「一人前の子と幼い子と」と読むべきにも見えるが、「兄子」「弟子」はその意味ではない。子の中で兄である方と弟である方という意味で、『日本書紀』の長・少も同じである。しかも、次の「兄子者既成人」の「成人」を「ひととなれり」と読むので、「兄子」までそう読まないことは明らかである。延佳本の「いろえのこ」「いろとのこ」は、根拠のない読みである。それでは自分の兄弟の子、つまり甥になってしまう。また師は「兄子」を「せこ」、「弟子」を「てご」と読み、『万葉集』にも「てご」があり、「はてこ」の意味だといわれたが、これらも当たらない。『万葉集』の「手児」は、まだ母の手を離れない子をいう。「せこ」は「わがせこ」などとはいうが、自分の子のうち兄の方をそう呼ぶ例はない。「愛」は「はしき」と読み、後に出るものも同じである。玉垣宮の段の「夫と兄とを愛する」という箇所で、この語の例を説明した(『伝』巻二十四、三十葉)。

「所以発是問者」は「かくとわしけるゆえは」と読む。師は、この小字の文章を後人の注とされた。「発是問」の三字が『日本書紀』と同じであるなど、疑う余地もなくはないが、やはりもとからの注だろう。後人の作とは見えない。大山守命の「兄子を愛しむ」という答えは、当然の道理に従って述べたものである。「知」は、『日本書紀』に「予め天皇の表情を察し」とあるように、早くから意図を悟ったことをいう。「成人」は「ひととなりつれば」と読む。『万葉集』巻五に「いつしかも、ひととなりいでて……」、『続日本紀』巻三十の宣命に「白壁王は、諸王の中で年齢も長じ」などの例がある。師の「ひたしなれ」という読みはよくない。

「無悒」は「いぶせきことなきを」と読む。『万葉集』には、巻四の「久方の、雨の降る日を、ただひとり、山辺におれば、いぶせかりけり」(雨の日に一人で山辺にいると気が晴れない)、巻八の「こもりのみ、おればいぶせみ」(閉じこもってばかりでは気が晴れない)、「霧隠り、心いぶせみ、出で見れば」(霧に隠れて気が晴れず、外へ出て見ると)、巻九の「こもりておれば、見飽かぬと、いぶせき時し」(閉じこもっていると見飽きないものを見られず、気がふさぐとき)、巻十一の「水鳥の、鴨の住む池の、下樋なみ、いぶせき君を、今日見つるかも」(水の抜ける樋がない池のように、会えず思いがつかえていたあなたに今日会えた)、巻十二の「母が飼う蚕の、繭隠り、心いぶせく」(母の飼う蚕が繭にこもるように、こもって気が晴れず)、同巻の「眉隠り、いぶせき心、いづくしか、妹に逢わずて」(眉を曇らせ、会わずにいるとどうにも気が晴れない)、巻十八の「手枕まかず、紐解かず、まろ寝をすれば、いぶせみと、心なぐさに」(腕枕もせず紐も解かず着たまま寝るので、気が晴れず、その慰めに)などの例がある。「おほつかなきことなきを」と読んでもよい。巻八の「春山のおほつかなくも思ほゆるかも」(春山がおぼつかなく思われる)、巻十一の「今夜のおほつかなさに」(今夜の心もとなさに)、「紀の国の、この木の暮れの、夕月夜、おほつかなきも」(木の国の木の間の夕月のように、心もとないことよ)などがある。師は「いふかしみなし」と読まれた。それもよいが、どの読みでも「無」は「なきを」と読むべきである。巻四に「春されば、いふかし我妹」(春になると恋しく気になるわが妻)、巻十一に「いふかしみ、妻恋すらしも」(気が晴れず妻を恋しがるらしい)、「下いふかしみ思えるに」(心の底で気がかりに思っているのに)、「下いふかしみ、思えりし、妹が姿を」(ひそかに恋しく思っていた妻の姿を)などがある。およそ「いぶせし」「いふかし」「おほつかなし」「おほほし」の四語は、もとは一つの語らしく、意味も同じである。そのため『万葉集』は通わせて「欝悒」と書く。前後の語によって、この四つの読み分けがあるはずだが、今の本には取り違えてよくない訓を付けた箇所が多い。「ゆかし」と読むのも誤りである。後世に四語の意味が少しずつ違うようになったのは、自然に分かれてきたためである。「いふかし」の「ふ」、「おほつかなし」「おほほし」の「ほ」は後世には濁って読むが、『万葉集』はすべて清音で書く。「いぶせし」の「ふ」も同様に清音かと思われるが、巻十八の「夫」、巻十二の「蜂音」は濁音を示すようなので、ここでは濁って読んだ。『日本書紀』もこの文を「無悒矣」と記し、「いきどおりなし」と読む。それもよい。神功皇后紀の歌に「近江の海、瀬田の渡りに潜く鳥、目にし見えねば、いきどおろしも」(瀬田の渡りの水に潜る鳥のように、姿が見えず、気が晴れない)、『万葉集』巻十九に「いきどおる、心のうちを思い延べ」(ふさぐ心をのびやかにして)などがある。「いきどおる」は後世には怒りだけをいうが、本来は怒ることに限らず、「悒」の意味でもある。字書でも「悒」は不安、憂いと説明される。下巻、朝倉宮の段にも「悒いに忍びず」とある。

「弟子者」の「者」の後には「ぞ」を補い、「弟子はぞ」と読む。ここには必ず「ぞ」が必要である。「は」は「まだ幼いので」という部分に、「ぞ」は「かわいい」に掛かる。「兄子者……」と対比して、兄と弟のうち、弟の方こそかわいい、という意味である。「はぞ」と重ねる例には、『万葉集』巻六の「我はぞ退く、遠き土佐道を」(私は退いて遠い土佐の道へ行く)、巻十二の「相思わぬ、君にはあれど、片恋に、我はぞ恋ふる、君が姿を」(あなたは思ってくださらないが、私は片思いであなたの姿を恋う)などがあり、巻六の十二丁の長歌にもある。「未成人」は「いまだわかければ」と読む。「いまだ」といいながら「ず」「ぬ」などの否定を付けないのも、普通のことである。必ず否定を伴うと思い込むのは、「未」の字にとらわれた誤りである。この下の「是」は読まず、その前にある「是」も同じである。「わかき」は、まだ成長していないことで、『日本書紀』などの「稚」、また「幼」もそう読む。中世の物語などにも、幼いことを「わかし」という例が多い。「佐邪岐阿芸」は「雀、吾君」で、大雀命に呼び掛けたもの。「阿芸」は、訶志比宮の段の歌の「伊奢阿芸」の注で述べた(『伝』巻三十一、二十葉)。「詔別」は、上巻の禊祓の段にも「このように命じ分けた」とある(『伝』巻七、五十八葉)。大祓詞の「天つ罪と、のり分けて」も、国つ罪と天つ罪を分けて告げることをいう。「法」は、その音を借りた字である。

「山海」は順を入れ替えて「うみやま」と読む。「山海」と書くのは漢文の語順である。同様に日月・昼夜・男女・山野なども、日本と中国ではいう順序が違うことが多い。「政」の意味は白檮原宮の段(『伝』巻十八、七葉)で説明した。「為」は「まつりごとせしたまえ(職務を行いなさい)」と読む。字のとおりに読むと古い言葉に合わない。続く「白賜」と同じ意味だからである。『古事記』には、同じ事柄を二つ三つ述べる際、一つを古語のまま、もう一つを漢文風に記し、相互に照らして読めるようにした例が多い。これは最初の巻で述べた。ここでいう職務は、後の「この御代に、海部・山部・山守部を定めた」という記事に関係する。『日本書紀』にも「五年秋八月、諸国に命じて海人および山守部を定めた」とある。こうした人々の集団を定め、それぞれの仕事を奉仕させたが、大山守命にはその諸集団を統率する役目を任せたのである。『日本書紀』のこの巻で阿曇連の祖、大浜を海人の長に任命した話、顕宗天皇紀で吉備上道臣らが山部を治めていた話、来目部小楯を山の官に任じ、山部連の姓を与え、吉備臣を副官とし、山守部を配下とした話、韓袋宿禰が山を守り、山部連に属した話なども、みな同類である。ただし、『日本書紀』は「山川林野を管理させた」とするので、少し伝承が異なり、海の仕事は任せなかったのだろうか。『古事記』は林野を山に、川を海に含めて「海山」といったのだろう。もっとも、『日本書紀』は漢文風の表現が多く、一字一字に基づいて細部まで論じるのは難しい。「大山守」という名は、海人部・山部・山守部を治めたうちの一つにちなんで付いた。自身が山を見張るという意味ではなく、山守を統率する長という意味である。「大」は御名をたたえる語で、山や山守という仕事そのものに付くのではない。『万葉集』巻二の「ささなみの大山守」の「大」は山守をたたえるので、この名とは違う。理由は後に述べる。

『日本書紀』仁徳天皇紀の初めには、額田大仲彦皇子が大和の屯田を管理しようとして、「この屯田はもとから山守の土地だから、私が治めよう」といった話があり、その後に「大山守皇子は、先帝が自分を立てなかったことを常に恨んでいたが、さらにこの恨みが重なった」と続く。ここで額田大仲彦皇子とあるのを疑い、大山守皇子の誤りではないかと思うのは、かえって間違いである。『釈日本紀』が「額田大仲彦皇子は大山守皇子の同母兄である。屯田を山守の土地といったのは、弟の大山守の田地にすべきだという意味であろう」と説明するように、大仲彦皇子は大山守命と同母の兄弟なので、「山守の土地だから自分が治めよう」といったのである。昔、同じ母の兄弟は、父子のように特に親密だったためである。大山守命の恨みがさらに重なったというのも、同母兄の望みがかなわなかったことへの恨みである。

「食国(おすくに)」は上巻に出た(『伝』巻七、八葉)。天皇が治める天下全体をいう名である。「執以白賜」は「とりもちてまおしたまえ」と読む。「白」を旧版本と延佳本が「自」とするのは誤りで、ほかの諸本はみな「白」である。「自」とする本に基づく訓は、論じるにも及ばない。「執以」の例は、上巻の「次に思金神は、前の事を取り持って政治を行った」という箇所で説明した(『伝』巻十五、二十九葉)。「白賜」の例には、『万葉集』巻二の「わが大王の、天下、申し賜えば」(わが大王が天下の政治をお執りになったとき。この大王は高市皇子を指す)、巻五二十五葉の「万代に、天下、申し賜わね、御門去らずて」(いつまでも朝廷を離れず、天下の政務を執ってほしい)、同巻の「愛しき盛りに、天下、申し賜いし、家の子と」(年若い盛りに天下の政務を担当した、うちの一族の子と)、『続日本紀』巻十七の「御世々々に当たりて、天下申し賜い」、巻二十二の「明るく清き心をもって、御代を重ね、天下申し賜い、朝廷を助け仕え奉り」などがある。「白」は、政務を取りまとめて仕えることをいう。『万葉集』巻十九の「わが大王、大臣の申しし政は、今日よりは」(大王よ、大臣が執った政治は今日からは……)、「いにしえに、君の三代を経て、仕えけり、わが大王は、七代申さね」(昔の人は天皇三代に仕えた、わが大王は七代まで仕えてほしい)、『続日本紀』巻三十一の「聞こしめさざるやならむ」などにも例がある。また、上位の人のためにする行為に添えることもある。『万葉集』巻五の「都まで送り申して」は「送り奉って」に通じ、敬意を添えた表現である。今も世間の文で、何事にも「何々申し」と添えるのと同じである。

二人への役目の割り振りについて。大山守命は兄と思われるので、より上の役目を得るはずなのに、逆に下になり、大雀命の方に天下の政治という重い役目を任せられた。これは、その答えが天皇の意向に合わなかったか、合ったかによる。「天津日継」は上巻に出た(『伝』巻十四、三十六葉)。「故、大雀命者……」は、後に大山守命がこの命令に背いたことと対比して述べている。後にも「天皇が崩じた後、大雀命は天皇の命に従って天下を宇遅能和紀郎子に譲った。ところが大山守命は天皇の命に背き、なお天下を得ようとした」とある。ここで大山守命の違反を述べないのは、この段が役目を分けて命じたことを中心とするため、命令に従った方だけを述べたのだろう。「勿違」は「たがいまつらざりき(背かなかった)」と読む。「勿」を「不」の意味で用いる『古事記』の例であることは、最初の巻で述べた。

『日本書紀』にはこうある。「四十年春正月、天皇は大山守命と大鷦鷯尊を呼び、『お前たちは子をかわいがるか』と尋ねた。二人は『たいそうかわいがります』と答えた。さらに『年上と年下では、どちらをよりかわいがるか』と尋ねると、大山守命は『年上の子にまさるものはありません』と答えた。天皇は不快な表情を見せた。大鷦鷯尊はあらかじめそれを察し、『年上の子は長年を経て既に成人し、もう心配することがありません。年下の子は、無事に成長するか分からないため、とりわけかわいく思います』と答えた。天皇は喜び、『お前のいうことは、まことにわが心に合う』といった。このとき天皇は、かねて菟道稚郎子を太子にしたいと思っていたが、二人の皇子も納得させようと、こう尋ねたのである。そのため、大山守命の答えを喜ばなかった。……菟道稚郎子を後継者に立て、その日に大山守命には山川林野の管理を任せ、大鷦鷯尊は太子の補佐として国政を執らせた。」そもそも、この段で天皇が母の身分の高い兄たちを差し置き、母の身分の低い弟を後継者にしたことや、大雀命の答えが天皇に迎合したことなどを、どうかと批判するのは、中国風の考えである。上代の事柄に、そうした賢しらな議論をするのは無益である。

〔『古事記』本文〕あるとき、天皇が山を越えて近江国へ出かけた際、宇治の野辺に立ち、葛野の方を見はるかして歌った。

「千葉の」――葉の茂る葛をいう枕詞――その葛野を見渡せば、
あちこちに広がる家々の庭が見える。
山に囲まれた、この国の平野も見える。

木幡村まで来ると、美しい娘が道の分かれ目で行き会った。天皇が「お前は誰の子か」と尋ねると、娘は「丸邇の比布礼能意富美の娘で、宮主矢河枝比売と申します」と答えた。天皇は「明日、帰るときにお前の家へ立ち寄ろう」といった。矢河枝比売が父に詳しく話すと、父は「その方は天皇でいらしたのだな。畏れ多いことだ。わが娘よ、お仕え申し上げなさい」といい、家を立派に飾って待った。「那理」の二字は音を表す。翌日、天皇がその家を訪れた。ごちそうを差し上げる際、娘の矢河枝比売に大きな酒杯を持たせて献上した。天皇は、娘に杯を捧げ持たせたまま歌った。

この蟹よ、お前はどこの蟹か。
数々の土地を伝わって来た、角鹿の蟹だ。
横歩きに進んで、どこまで来たのか。
伊知遅島、美島へと急いで来て、
カイツブリのように潜る海人が、浮かんで息をつくように、
蟹も急いで来て、息をつく。
私も息をつきながら、起伏の続くささなみへの道を
足早に進んでいたとき、
木幡の道で私に行き会ったあの娘――
その後ろ姿の、すっきりと小楯を立てたような美しさよ。

〔以下は、宣長は別の一首と解する。〕
歯の並ぶくちばしが鋭い、ヒシの実のような――
その「わに」に名を重ねる、櫟井の和邇坂の土。
掘り始めの上の土は赤みがかり、
底の土は鈍い黒色なので、
三つの栗の真ん中を選ぶように、その中間の土を選び、
頭を突くほど照りつける強い日には当てず、
眉墨にして濃く眉を描き、その端を垂らした美しい女。
昨日、私に行き会ったのを見て、
あのようにもしたい、このようにもしたいと願った娘。
その娘と、今日は宴もいよいよ盛り上がり、
こうして向かい合っていることよ、並び添っていることよ。

このように結ばれて生まれた子こそ、宇遅能和紀郎子であった。「宇遅能和紀」の五字は音を表す。

ここでも「一時」は「あるとき」と読む。「近淡海」は、師の読まれたように、単に「あふみ」と読む。前にも「淡海」だけの表記があるので、「近」は読まない方がよい。「越幸」とは、大和から近江へは奈良坂・逢坂などの山を越えて行くので、こういうのである。この行幸も、前にあったように禊のためだったのかもしれない。次の歌に「ささなみへの道」とあり、木幡には一泊を経ただけで帰って来ることを考えると、ささなみまでの行幸らしい。唐崎などは後世までも禊に出かける場所である。「宇遅野上」の「野上」は「ののうえ」と読む。『万葉集』巻二十・二十五葉の「高円の、秋野の上の」、同巻二十六葉の「高円の、野の上の宮は」、巻六・二十葉の「多芸の野の上に」などの例がある。宇治は前に出た。「野」はその付近の野原だろう。今ここだと指し示せるわけではない。「御立」は「みたたして」と読む。『万葉集』巻二の「御立ちせし島を見るとき」(お立ちになった島を見るとき)、巻五の「たらしひめ、神の命の、御立ちせりし、石を誰見き」(足姫の神の命がお立ちになった石を誰が見たのか)、巻十九の「船舳にも、御立ちまして」(船首にお立ちになって)などの例がある。

「葛野」は歌の表記に従って「かづの」と読む。この地は上巻にも出た(『伝』巻十二、三十九葉)。そこで垂仁天皇紀を引いて述べたように、古くは乙訓付近も葛野といった。葛野・乙訓・紀伊の三郡にまたがる平野を、広くまとめて呼んだ名だろう。延暦十三年十月の詔も、今の京の地を「葛野の大宮地」と呼ぶ。それなら、宇治から眺めるのも当然である。ある説は、この葛野を久世郡富野村の古名で、葛野郡とは別だとする。宇治から葛野郡は遠くて見えないと思い、歌の「ももちだるやには」を富野という名にこじつけたのだろう。古い葛野が広い範囲の名だったことを知らない誤りである。「望」は、師に従って「みさけて」と読む。『万葉集』巻五の「しばしばも、見さけむ山を」(何度もはるかに眺めようと思う山を)、巻三の「わが見しこの崎を、ひとり過ぐれば、目もさかず来ぬ」(以前ともに見た崎を一人で通ると、目も向けず来てしまった)などの例がある。「さかず」の例から「みさかむ」とも読めそうだが、「振りさけ見る」ともいうので、やはり「さけ」である。「さけ」は遠くを見ることで、「振りさけ見る」ともいう。

「知婆能」は、契沖によれば「千葉の」で、葛には葉がよく茂るため、その枕詞である。下総国の千葉郡も、その意味で名づけたのだろうか。「加豆怒袁美礼婆」は「葛野を見れば」である。契沖によれば「かづ」は「かづら」の後半を省いた形。「葛」の字音と考えるのは誤りで、後の「かどの」は「かづの」が転じたものである。「毛々知陀流」の「もも」は「物々」で、もろもろの意味。「もろもろ」は「物々」に「ろ」を添えた形である。数の百も、もとは多くの物を示す意味から出たため、「百」といって、もろもろを表す場合が多い。中国でも同じで、百官が諸官をいうのもその例である。ここを直接、数の百と考えると本末を取り違える。意味は通じても、数の百を持ち出したのではなく、もろもろの意味と考えるべきである。「ちだる」は、上巻の「とだる天の御巣」の注で説明したとおりで、「千足」の意味ではない。〔原刊の参照は巻十四・三十九葉と読めるが、続く「四十四十一葉」の数字の配列は判読を留保する。〕「夜邇波母美由」は「家の庭も見える」。この二句は、多くの民の住まいが見えるという意味である。広大な葛野の平原には、村が多かっただろう。契沖は「矢場か」として、立派な住居が多く、梁などを設けて弓を習う場所も見えるので、兵士の多さを喜んだのかというが、大変な誤りである。師も、今の京の地は昔から一国の中心だったのだろうといわれたが、今の京の付近は宇治から見渡せる場所ではない。

「久爾能富母美由」は、師のいうように、倭建命の歌の「国のまほろば」(『伝』巻二十八)と同じである。「国の富」は山に囲まれた平原をいう。詳しくは『国号考』の「やまと」の条で述べた。葛野、すなわち愛宕・葛野・乙訓・紀伊の四郡に続く平原は、東・北・西に山が巡り、山城国の奥深い中心地なので、まさしく「国の富」である。立派な家々が多いのを国の華と思ったのかという契沖の説明は当たらない。『日本書紀』には「六年春二月、天皇は近江国に行幸し、菟道の野の上まで来て歌った」として、この歌を載せる。内容はまったく同じだが、木幡村の話は全く載らない。木幡村については、『神名帳』に山城国宇治郡の許波多神社、『諸陵式』に山城国宇治郡の巨幡墓とある。『万葉集』巻十一にも「山科の、木幡の山を、馬はあれど、徒歩よりぞ来し、汝を思いかねて」(馬はあるのに、あなたが恋しくて木幡山を歩いて来た)という歌がある。今も木幡村があり、大和と近江を結ぶ主要な道筋である。「道衢」は「ちまた」と読む。上巻の「道俣神」と同じ字義で、道が分かれる所をいう。「八衢」は、方々へ分かれる道が多いことをいう。「麗美娘子」という語は前にも各所に出た。下巻、朝倉宮の段で、天皇が丸邇の佐都紀臣の娘との結婚のため春日に行ったとき、その娘が道で会う様子も、丸邇氏の娘であることも、この場面と似ている。

天皇の言葉の「明日」は「あす」、「還幸」は「かえりまさむ」と読む。「委曲」は、上巻の天若日子の段にも「詳しく、天つ神の命じたとおりにいう」とある。「父答曰」の「答」は、娘が詳しく話した際に「明日お立ち寄りになるそうですが、どうすればよいでしょう」と尋ねたはずなので、それに答えたのである。ただし「答曰」の二字は「いいけらく」と読む。「坐那理」は、上巻の「在祁理」「有祁理」「坐祁理」などと比べれば、「那」が「祁」の誤りで、「ましけり」である。「いたく騒ぎてありけり」という文も、上巻と白檮原宮の段の二箇所でともに「祁」を「那」に誤っている。それが明らかな誤りであることは、該当箇所で述べた(『伝』巻十三、五葉)。ここは娘の話を聞き、普通の人でなかったと直感して、「天皇でいらしたのだなあ」と驚き、感嘆した言葉である。この話からも、上代の万事がどれほど大らかだったか分かる。後世なら、大行幸が通るのを沿道の人が知らずにいることなど、ありえただろうか。

「恐之」は、『古事記』では人の命令を承って「かしこまりました」と応じる語に多く使う(『伝』巻九、二十六葉で説明した)。ここはその人に直接答える言葉ではないが、意味は同じである。「我子」は、単に自分の子というより少し気持ちを込めた呼び方で、「わが君」「わが兄」と同じく、親しみを示し、「あご」というのと同じである。それなら「あこ」と読むこともできるが、「あぎみ」「あがきみ」、「あせ」「あがせ」と両方の形があるので、ここも「あがこ」と読む。「厳飾」は、後の「厳飾之処」で師が「いかめしく」と読まれたように、ここもそう読む。『日本書紀』舒明天皇紀に「厳矛、いかしほこという」、皇極天皇紀に「厳、いかしという」とあり、古書では「いかし」に「茂」の字も多く当てる。「厳」「飾」「茂」を併せて意味を理解してほしい。物語で、壮大で立派に美しいことを「いかめし」というのがそれである。今の言葉なら「結構な」「重々しい」「立派な」に当たる。仏典で飾りを「荘厳」というのも同じで、「茂」も盛んに繁る意味から当てたのだろう。

「候待者」は「さもらいまつれば(うかがい待っていると)」と読む。ある本は「待」を「侍」とし、「候」に続くので理由がないわけではないが、やはり「待」である。『万葉集』巻二十の「難波に来居て、夕潮に、船を浮け据え、朝凪に、舳向け漕がむと、さもらうと、我がおるときに」(難波に来て夕潮に船を浮かべ、朝凪に船首を向けて漕ぎ出そうと、頃合いを見て待っているとき)など、多くの例がある。機会をうかがって待つ意味で、上巻でも詳しく述べた(『伝』巻十四、四十四葉)。次の「明日」は「またのひ」と読む。前は天皇の直接の発言なので「あす」としたが、ここは地の文だから、そう読んではいけない。上巻には「来日」の表記に基づき「くるひ」と読む所もあるが、ここはそうは読めないと思う。物語などでは翌日を「またのひ」といい、「またの年」などの表現もある。「大御饗」は前に出た(『伝』巻十四、五十五葉、巻十八、二葉、巻十九、十二葉)。「矢河枝比売命」の「命」は、次の「令」と紛れて入った余分な字だろう。この名に「命」を付ける例はほかにないからである。「大御酒盞」も前に出た(巻十一、四十六葉、巻二十八、五葉)。「任令取」は「とらしめながら」と読む。天皇はまだ杯を受け取らず、娘が捧げ持つままにしている。「取」は捧げ持つことをいう。中世の物語に「御杯取」とあるのも、多くはこれである。今は前に置いた杯を取り上げて飲むが、昔はそうではなく、捧げ持って献上する人の手から、そのまま受け取って飲んだのである。

「許能迦邇夜」は「この蟹よ」である。「や」は「よ」のような語で、上巻の「この口よ、答えない口よ、葦原蟹よ」と同じである。『和名抄』は「顧野王によれば、蟹は八本足の虫である。和名かに」とし、「蟛螖は蟹に似て小さい」「蟛蜞は稲つき蟹(いなつきがに)の類」「石蟹は海辺の石の下に生息するので、こう名づける。和名いしかに」ともいう。「伊豆久能迦邇」は「どこの蟹か」。「どこ」は『万葉集』巻五にも「いづく」とあり、「いづこ」はやや後の言葉である。蟹について歌ったのは、契沖もいうように、この饗宴の酒の肴に蟹が出たためだろう。白檮原朝の段の御歌に鯨を歌ったのと同じである(『伝』巻十九、十六葉)。昔、蟹を天皇の食膳に用いたことは、『万葉集』巻十六の「蟹のために痛みを述べる長歌」からも分かる。『日本三代実録』巻三十五には、摂津国の蟹の塩辛と陸奥国の鹿の脂を、御膳の贄として献上しないよう命じた記事もある。この御歌は最初の九句半が前置きで、最初の八句では、蟹について二句ずつの問答の形で歌っている。初めの二句が問い、次の二句が答えである。契沖が、これを蟹自身の返答とするのはよくない。自分で問い、自分で答える形なのである。

「毛々豆多布」は「百伝ふ」で、多くの場所を次々と伝わって行く意味だと『冠辞考』にある。下巻、近飛鳥宮の段の御歌の「あさぢ原、小谷を過ぎて、ももづたふ、ぬで揺らくも」(チガヤの原の小谷を越え、次々に続くヌルデが揺れるよ)も同じ意味と『冠辞考』にいう。『日本書紀』神功皇后紀の「ももづたふ、度逢県」も、長い道のりを伝い渡って行く意味である。『万葉集』巻七の「ももづたふ、八十の島廻を、漕ぐ船に」(多くの島々を伝って漕ぐ船に)も、巻九の同じ用例も、遠くまで伝わって行く意味である。ところが『冠辞考』は、この例を「百まで数え伝えるうちの八十」という意味だとする。それはほかの例と違って誤りである。また、『万葉集』巻三の「百伝ふ、磐余の池」の「百伝」は、「角障」を写し間違えたものだ。『日本書紀』継体天皇紀、『万葉集』巻三のほかの二例、巻十三の二例など、磐余の枕詞はいずれも「角障経」で、「百伝」という例がほかに一つもないことから誤写と分かる。ただし「角障」の二字だけを記す例もある。「経」がないのは、本来あったのを「百伝」と誤ったため、「経」を余分な字と思って後に削ったのかもしれない。また、この字はなくてもよい。「百伝磐余」についても『冠辞考』が、八十の島廻と同様、「百まで数え伝えるうちの五十」の意味としたのは誤りである。

「都奴賀能迦邇」は角鹿の蟹である。角鹿は前に出た(『伝』巻三十一)。昔、この浦の蟹は名産だったのだろう。契沖は、蟹は越前の名物で、他国より格別に大きなものがあるというが、本当にそうか。その国の人によく聞いて定めるべきである。契沖はまた、数ある場所のうち角鹿の蟹といったのは、この天皇が笥飯大神と名を交換した縁もあるためかという。しかし、そのような理由まであるはずはない。角鹿に「百伝ふ」と添えるのは、蟹がその浦から多くの土地を経て来たことをいう。後の歌の言葉から分かる。角鹿は多くの山道を伝って行く土地だから、とだけ考えるのは不十分である。それなら角鹿より遠い土地も多く、ほかの地名にもこの詞を付ける例があるはずだが、その例がない。単に角鹿の遠さをいうのでなく、蟹が来たことに基づくと理解すべきだ。ある人は、「百伝ふ角鹿」は、遠く伝って伸びる「つの(蘿)」に「つぬが」を掛ける意味だという。天智天皇紀の童謡の「まくず原、何の伝言」も、葛が伝って伸びる意味を「伝えていう」に掛けたもので、古くは「蘿」と「角」を音を通わせていった、と説明する。それも一理ありそうに聞こえるが、「百伝ふ」の用例はみな一つの意味なので、ここだけ別の意味ではあるまい。

「余許佐良布」は「横去らふ」。「さる」を伸ばして「さらふ」と歌い、蟹が横歩きすることをいう。「去」は「行」と同じ意味である。『夫木集』には源仲正の歌「横走る、葦間の蟹の、雪降れば、あな寒げにや、急ぎ隠るる」(横走りする葦の間の蟹が、雪が降ると、いかにも寒そうに急いで隠れる)がある。次の句へ続けるなら「さらひ」とするところを「ふ」とするのは、「このように横歩きするものは」という意味合いである。「伊豆久邇伊多流」は「どこに着くのか」。この二句がまた問いで、次の二句が答えとなる。「伊知遅島」は地名だろう。「美志麻邇斗岐美」の「美島」も地名だろう。この二箇所がどこなのか、詳しくは分からない。角鹿から木幡へ来る道筋を考えて歌っているので、近江の湖の島々なのだろうか。契沖が越前にあるのかというのは、角鹿から山城へ来る道中の越前の範囲をいうのなら、誤りではない。しかし、両方とも「島」と呼ぶ以上、やはり湖の付近のように思われる。もし越前の海の島と思っていうのなら、誤りである。

「斗岐」は「とき」、すなわち早く来ることである。「斗」は助詞の「と」ではない。『古事記』で助詞の「と」には「登」だけを使い、「斗」は使わない。また、『古事記』『万葉集』などが速さを表す音に当てる字は必ず「斗」「刀」で、「登」などとは書かない。蟹が非常に速く歩くことについていったのである。「とく」というところを「と」とするのは、「はやく来た」を「はや来た」ともいうのと同じ。ただ速く来るだけでなく、急いで行こうとして来たという意味である。速くと急ぐ意味の「と」の例は多い。『万葉集』巻十一の「夜の更けぬとに」(夜が更けないうちに早く)、巻十五の「恋ひ死なぬとな」(恋い死なないうちに早く)は、いずれも急ぐ意味である。巻十九の「行くとも来とも、船は早けむ」(行くのも帰るのも船は速いだろう)は、船旅では往きも帰りもできるだけ早くと急ぐので、そういう。『日本書紀』継体天皇紀の歌の「うけいのやとへ、かけは鳴くなり」(鶏は早くと急ぐように鳴く)、『万葉集』巻二十の「桜花、散りか過ぎなむ、我が帰るとに」(私が早く帰ろうというのに、桜は急いで散り過ぎるだろうか)なども同じである。「禰」は「爾」と同じ。鶏が急いで鳴き、桜が急いで散ろうとするように、こちらの心に感じるのである。契沖は「三島に速いのか、見ている間に速いのか」という。三島という地名はよいが、「斗岐」をただ「速い」とするのは誤りで、後へどう続くのか理解できない。「見ている間」は論じるにも及ばない。また師は「速く行く」の略かといわれたが、目前の蟹について歌う以上、「行く」ではなく「来る」でなければ合わない。この句は次の一句半を隔てて「息つき」へ続く。初めからの意味をまとめれば、「この蟹よ、多くの所を経て、遠い角鹿からここ木幡へ来ようと急ぎ、伊知遅島・美島まで来て、息をつく」ということである。

「美本杼理能」はカイツブリを指し、前の忍熊王の歌の「にほどりの」と同じである。その箇所で説明した(『伝』巻三十一、二十一葉)。ここも「潜き」を引き出す前置きである。「迦豆岐伊岐豆岐」は「潜き、息つき」で、「潜き」はさらに「息つき」の前置きとなる。海人が潜り、浮かび上がると長く大きく息をつくからである。カイツブリが水に潜って浮上し、息をつくと考えても一応は通るが、やはりそうではないだろう。「みほどり」は「潜き」の前置きにすぎず、その鳥のように海人が潜る、という続きである。『枕草子』にも、海人が海底から浮上した様子について、「船の縁を押さえて吐いた息などは、見ている人さえ力が抜けるほどで……」とある。潜水についても前に述べた(『伝』巻三十一、二十二葉)。この「息つき」は、急いで速く歩くと息苦しくなるので、休みながら長く息をつくことをいう。ここまでは蟹が道を急いで来て息をつく前置きで、ここからそのまま天皇自身のことへ移り、ささなみへの道を息をつきながら行くという意味になる。契沖は、カイツブリが浮上して息をつくのは休むことだから、道を行くのを潜水に、息をついて休むのを浮上にたとえたのかという。しかし、これは細かすぎる誤りである。契沖は『万葉集』の解釈でも、このようにたとえを細部にまで当てはめた誤りが多い。仏典のたとえを解く説にならった癖だろう。『万葉集』巻五にも「かくのみや、息つきおらむ」(このようにばかり嘆息しているのだろうか)、「夜はも、息つき明かし」(夜はため息をついて明かし)などの例がある。

「志那陀由布」の「しな」は坂道のこと。理由は師の『冠辞考』の「しなてる」「しなざかる」の条にあり、上巻の『伝』巻五、四十七葉でも述べた。「たゆふ」は、平らでなく高く低く、上り下りする坂道の様子で、今の言葉で「うねる」という姿である。「たゆたふ」と同じ語で、「たゆむ」、今の「たるむ」も、もとは同じだろう。『万葉集』巻七の「海原たゆとう波に」、巻十一の「天雲の、たゆたう心」など、多くの例はどれも落ち着いて定まらないことをいう。巻二で「大船のたゆたう」を「猶予不定」と書く字からも分かる。船は波に揺られて定まらず、雲も波も静止せず動くから、そういう。人の心にいう場合も同じである。坂道の「たゆふ」も、平らで一定した道ではなく、高低があり、上ったり下ったりして一定しないという同じ意味である。海原の波とは形までも全く同じである。

「佐々那美遅袁」の「ささなみ」は近江国の地名で、前に出た(『伝』巻三十一、十八葉)。「ぢ」は道で、ささなみに往来する道をいう。大和へ上る道を大和路、筑紫へ下る道を筑紫路というのと同じで、ささなみにある道という意味ではない。『万葉集』巻四の「大和道の島の浦廻」から理解できる。大和国には島や浦はないが、どの国であっても大和へ上る道中は大和道という。ここは近江のささなみへ行くときだから、こう歌った。宇治から山科付近には小さな坂がいくつもあり、まさに「しなだゆふ」道である。『万葉集』巻十三の「しな立つ、筑摩さ野方」とあるのと同じ様子である。契沖は「しなだゆふ」を「ささなみ」の枕詞とし、「ささなみ」を小波と理解する。波が段々に立ち寄せるので「しな」というのか、「たゆふ」は、たゆむ意味で、後から続く小波の遅さをいうのか、あるいは絶えるのか、と説明する。また、『万葉集』巻十三の「しな立つ、筑摩さ野方」は、筑摩が近江国坂田郡にあるので、段々に立つ小波の筑摩という意味なのか、ここも段々に立つ小波ということだろう、という。しかし、これらは誤りである。「ささなみ」が波でなく地名であること、「しな」が坂道であることを知らず、ただ階段の段と考えたため、「しなだゆふ」を解きかね、煩雑な誤説をいうのである。ささなみは地名で波とは関わらず、しなは坂道であることは、師の説が明らかにしている。契沖が『源氏物語』早蕨巻の「しなてるや、にほの水海」を引く説も合わない。あの歌は、もとの「にほどりの、近江の海に……」を取り違え、近江の海の枕詞に「にほてる」があることと「しなてる」を混ぜて誤って歌ったのだから、もとより詳しく論じるに及ばない。師が「しなだゆふ」を、しなってたわむ篠麻の意味の枕詞とされたのは、そういうこともありそうである。しかし、よく考えると「息つき」からの続きは坂道の苦しさを述べたものに聞こえるので、枕詞ではなく、実際に今進む道の様子を歌ったのである。

「須久須久登」は、今いう「すかすかと」に当たり、滞らず速く進む姿である。『竹取物語』で、かぐや姫について「この子を育てているうちに、すくすくと大きくなっていく」とするのは、速く成長する意味である。『狭衣物語』の「それからすぐ、火の光が見える方へすくすくとお進みになるが」も同じである。ほかの物語などの「すかすかしく」「すかやかに」も同じ語、同じ意味である。したがって、これらの「すか」の「か」を濁らせるのは訛りだろう。「すがすがし」とは別の語である。今の「ずかずか」も「すかすか」の「す」が濁ったもの。契沖がここを「すごすごと」の意味とするのは誤りである。その読みでは前の「息つき」にも合わない。前置きの蟹が急いで来たことと、この「すくすくと」を対応させて読む必要がある。

「和賀伊麻勢婆夜」は「私が進んでいたときに」で、「や」は「よ」のように添えた語である。行くことを「います」という例は、『万葉集』巻三の「よくしていませ、荒きその道」(その道は荒いので、気をつけて行ってください)、巻四の「いや遠く、君がいませば」(あなたがますます遠くへ行くので)、巻十五の「大船を、荒海に出だし、います」(大船を荒い海へ出して行く)、同じく巻十五の「たくぶすま、新羅へいます」(新羅へお行きになる)、巻二十の「足柄の、八重山越えて、いましなば」(足柄の重なる山を越えてお行きになったら)など多い。これは、そこにいることを「います」というのと意味は違うが、語は一つである。その証拠に、『古今集』の詞書の「法皇が西川へおはしました日」などは、行くことを「おはします」といい、そこにいる意味の「おはします」と同じ語である。今も「ある所にござらせられる」なら、そこにいることで、「ある所へござらせられる」なら行くことになる。意味は違っても言葉は同じである。「いる」という語を「行く」にも通わせて用いるのは、古代も中世も今も同じなのである。「ある所にお出でなさる」「ある所へお出でなさる」も同じ例だ。契沖らが「います」を「いにます」の略とし、いる意味とは別語とするのは誤りである。それなら「西川へおはしまし」をどう説明するのか。『万葉集』巻十七には「わがせこが国へましなば」と、「い」を省いて「ます」とさえいうので、こうした例からも判断されたい。「息つき」からここまでは、「起伏のあるささなみへの道を、苦しくて息をつきながら、足早に進んでいたところ」と順に理解する。苦しい坂道を急ぐ様子をわざわざ歌うのは、そのような道を急いでいて何の楽しみもなかったところへ、思いがけず美しい娘が行き会い、格別の喜びを覚えたことを示すためである。「や」を添えるところにもその気持ちが見える。心を留めて味わってほしい。そうでなければ、ただ道を行ったといえば足り、「息つき」も「すくすくと」も不要な言葉になってしまう。

「許波多能美知邇」は「木幡の道に」。「阿波志斯袁登売」は「行き会った娘」で、前の地の文に「麗美娘子が、その道の分かれ目で行き会った」とあることを指す。「遇」は娘の方から行き会うのであり、天皇が娘に会った意味に取るのは、この漢文の構文に合わない。前にも例を引いて詳しく述べた。「宇斯呂伝波」は「後ろの方は」である。「て」は「つへ」が縮まった形。「つ」は「の」に通じる語、「へ」は方角をいう。「おもて」の「て」も同じで、「おもて」は顔のある方、「まへ」は目の方、「うしろ」は尻の方である。後の二つには「つ」がないという違いだけで、「へ」は同じだ。今の言葉で山の方を「山手」、海の方を「海手」というのも、「て」が「つ方」を表す同じ語である。ただし「道の長手」「縄手」などの「手」は道を意味する別語なので、混同してはいけない。契沖は「後ろ手は」で、手は添えた語、矢河枝姫の後ろ姿のことだとする。大づかみにはそのとおりである。前の姿をおいて後ろの姿を歌ったのは、行き会って別れ去る娘を見送ったためで、顔立ちについては次の歌で述べるからでもある。

「袁陀弖呂迦母」の「おだて」は小さな楯である。「ろ」「も」は添えた語、「か」は「哉」で、感嘆してたたえる語であり、後世の「かな」と同じである。「小楯のような姿だなあ」というほどの意味になる。娘の後ろ姿が少しも縮こまったり、弱々しく乱れたりせず、楯を立てたように平らでまっすぐなのを見送り、たたえたのである。「ろかも」の例には、下巻、高津宮の段の大后の歌「大君ろかも」、天皇の御歌「誰が種ろかも」、朝倉宮の段の「ともしきろかも」、仁徳天皇紀の大后の歌「かしこきろかも」、『万葉集』巻三の「尊きろかも」、巻五の「恋悲しきろかも」などがある。いずれも一首の末尾だけに置き、途中には置かない。この御歌も「行き会った娘……」をここで結び、次は別の一首だろう。内容からも一つの歌とは思われない。一首とすると、後にまた「行き会った女」と同じことが二度出るのはどうか。わざと反復した様子でもない。また、眉化粧を後にし、後ろ姿を先に歌うはずもない。ここまでは昨日の出来事を振り返った歌、次は当日の気持ちを歌ったものなのである。したがって二首と考えるべきである。『古事記』には、ほかにも二首を一首のように続けて記す例がある。

「波那美波志」は、歯が並んで生えたくちばしのこと。「比々斯那須」は「菱のように」である。「比」は一字余分かもしれず、延佳本には一字しかない。しかし、諸本がともに「比比」とするので、延佳が自分の判断で削ったのかもしれない。今いう蕗を、古くは「ふふき」といったのと同様に、菱も「ひひし」といったのかもしれない。『和名抄』も款冬を「やまふふき」、別名「やまぶき」とする。『和名抄』の菱子は「ひし」である。この二句は、次の一句を隔てて「わに」の前置きとなる。句を隔てた前置きの例は、「にほどりの、近江の海に、潜せな」のようなものである。丸邇という地名を鰐に掛け、その歯が非常に鋭いことをいう。『和名抄』には『麻果切韻』を引いて、「鰐は鼉に似て四足があり、くちばしは長さ三尺、歯は非常に鋭い」とある。『文選』の注も同様である。私はこの動物の姿をまだよく知らないが、くちばしが三尺とあれば、魚と呼ばれるものでも、くちばしといってよい。魚にくちばしはどうかと考え、「波志」を「は」と添え語の「し」に分けることも考えられるが、前置きの言葉の中で「は」というのは、ここではどうだろう。菱は『日本書紀』のこの御代、大雀命の歌にも「川俣江の、菱殻の、刺すように……」とあり、鋒のように鋭く尖って刺すため、歯の鋭さをたとえたのである。『万葉集』の巻七・十六にも菱の歌がある。契沖はこの二句を「歯並みは椎のごとく」とし、「し」は添え語で、歯並びの美しさが椎の実を並べたようだと説明する。『詩経』の「歯は瓠の種のようだ」に似るとして、この娘の歯をいうとしたのは誤りである。師も同じ趣旨で、「しひひ」の後の「ひ」は濁り、「み」に通じるので椎の実かといわれたが、これもよくない。娘の歯をほめるなら、眉化粧の後にあるべきで、ここにあるのはおかしい。眉と歯をいうなら、順序も眉が先、歯が後である。仮に歯を先にしても、前置きは先の方に置くべきで、最初は何の前置きもなく突然「歯並みは」といい、後の眉に長い前置きを置くことはありえない。長い前置きは初めに置くものだ。いずれにしても、娘の歯とすると唐突である。前の歌と一首としても、歯はやはり唐突だし、「し」を添えるのも不自然で、決してそうする所ではない。
〔訳注:引用歌の「佐辭鷄」に続く末字は判読が確定していない。ここでは菱が刺すという引用の趣旨を訳した。〕

「伊知比韋能」は「櫟井の」で、地名である。『日本書紀』允恭天皇紀の「大和の春日に着き、櫟井の上で食事をした」という地で、大和国添上郡にある。今も櫟本村・櫟枝村などがあり、どちらも和爾に近い。契沖は、前を「歯並びは椎のようだ」と続け、さらに「椎に似た櫟」と続けたというが、一つの「なす」を前にも後にも使うような煩雑な歌が、古代にあっただろうか。「和邇佐能邇袁」は「丸邇坂の土を」である。真福寺本では「邇」と「袁」の間に「佐能邇」がもう一度ある。歌うものにはそうした繰り返しが多く、『古事記』の歌にも例があるので、悪くない。丸邇坂は水垣宮の段に出た(『伝』巻二十三、七十五葉)。『日本書紀』の同じ御代の「和珥武鐰坂」もそれである。古くはこの付近を櫟井と呼んだのだろう。坂を「さ」とだけいうことは、上巻の天之狭土神の注で述べた(『伝』巻五、四十七葉)。「に」は土全体をいう名であり、赤色を「丹」というのは、そこから派生した意味である。青土を「青丹」、赤土を「赭」「赤丹」「埴」、そのほか白土・八百丹などという。「丹」はいずれも土の音を借りた字である。契沖が「和珥狭野の土」というのは誤りだ。古い「野」は「の」ではなく「ぬ」の音の「怒」で表し、「能」で表す例はない。また「野」ならその後に「の」を加えなければ文が整わない。『大和志』が添上郡に和珥狭野という土地が今もあるかのように記すのは、ひどく根拠のない記述である。師も「佐」を「泥」の誤りとし、「泥」は野だといわれたが、『古事記』の「泥」は「ね」の音だけで、「ぬ」には使わない。しかも歌なので、訓を取って当て字とすることもできない。「佐」が坂であることは確実である。数ある土地の中で丸邇坂を特に挙げたのは、昔、眉墨に適する土がとりわけここから出たためだろう。娘が丸邇氏なので、その縁も考えて歌ったのかもしれない。

「波都邇波」は「初土は」で、掘り始めの上の方にある土である。「波陀阿可良気美」は「肌が赤みを帯びているので」。表面の土は土の肌に当たるため、こういう。つまり、初土は表面なので赤みがある、という意味だが、そのままはいえないので「肌赤ら」と歌った。「初土の肌」という意味ではない。「赤らけ」の「け」は、「寒けし」「清けし」などと同じく、「赤らけし」「赤らけき」と活用する部分である。「み」は「風速み」「道遠み」などの「み」で、次の「土黒きゆえ」の「ゆえ」と同じく、「赤みがあるために」という意味である。契沖がこの「み」を次の句の先頭に付けたのは、大きな誤りである。「赤らけし」は真っ赤なことではなく、少し赤みや黄色みがあることもいう。「あから橘」「あから柏」などの例も多い。ここは眉化粧のために採る土なので、青黒い土が少し赤みを帯びているのである。契沖は、土を掘ると上土は大抵黄色か赤色だから、『万葉集』が黄土・赤土と書いてともに「はに」と読み、『和名集』にも例があり、「はに」が「はつに」の中略であることがこの歌で分かるという。しかし、どれも誤りである。「はに」を「はつに」の略と思い込んで、それに合わせた無理な説である。そもそも両者は別語である。上土が必ず黄色か赤色と決まっているのでもなく、土地によって違い、むしろ下土が黄色や赤色の場所も多い。この歌は丸邇坂の土についていうだけで、どこでもそうだという意味ではない。

「志波邇波」は「底の土は」の意味。真福寺本の「波」を「婆」とするのは誤りだろう。「しは」は物の終わりをいうらしい。年の終わりの月を「しはす」といい、極月と書くのがその例である。ここも「初土」と対比して「終土」と考えるのが、特に筋が通っている。『万葉集』巻十一の「しはせ山、責めて問えども、汝が名は告らず」(しはせ山の名のように、どこまでも問い詰めても、あなたは名を告げない)も、「しはせ」を最後まで究めて責める意味に取って、「責める」の前置きにしたらしい。そうでなければ、ただ「せ」一語だけでは「責める」の前置きにはならない。「師歯」を「しばしば」の意味に取るのも、どうだろう。契沖は、地面を掘って底から出る黒い土を俗に「しほ土」といい、「しは土」が変わったのかという。また塩土老翁を引き、ここも塩土を音を通わせて「しはに」と歌ったのかというが、それは全く合わない。師が「しは」は下土だとされたのもよくない。「邇具漏岐由恵」は、契沖のいう「土黒きゆえ」でもよいだろう。同じ黒色でも光沢のない黒さなのか。また「に」は「鈍」の意味で、鈍い黒色かもしれない。それも光沢がない意味は同じである。ここまでの四句は、表面の土が赤みを帯びるのも、底の土が鈍い黒色なのも、眉墨には適さないので取らないことをいう。

「美都具理能」は「三つ栗の」で、「中」の枕詞である。説明は『冠辞考』にある。「曾能那迦都邇袁」は「その中間の土を」で、真福寺本には「その」がもう一度ある。表面の土と底の土の間にある土をいう。それが眉墨としてよい色なので、採って用いたのである。契沖は、はにとしほ土の中間には青い土があるからというが、これも必ずそうと決まるのではなく、ただ丸邇坂の土の様子を述べたのである。また、実際の丸邇坂の土がそうでなくても、歌としてそう作っていうこともできる。このように上・下・中を挙げて中を選ぶのは、『日本書紀』の同じ御代の御歌で、下枝はどう、上枝はどうといい、「三つ栗の中つ枝の」とするのと同類である。物をいろいろ挙げ、悪いものを捨て、最後によいものを挙げて選ぶ例は、上巻の八千矛神の歌などにもある。初めに悪いものを挙げて捨てるのは、最後によいものを挙げて選ぶための前置きにすぎない。

「加夫都久」は「頭を突く」ことだと、契沖はいう。『日本書紀』神武天皇紀の歌に「くぶつつい」、神功皇后紀の歌に「くぶつち」、また「頭槌の剣を」とある。契沖は、兜の「かぶ」も頭で、「と」は鋭い意味か、かぶるの「かぶ」も「頭入」の略だとする。しかし、「と」が鋭い意味だという点と、「入」の略だという点は誤りで、蕪(かぶ)の「かぶ」まで引くのも当たらない。『日本書紀』神代巻の「垂穂」を「かぶして」と読むのも、頭を伏せることをいう。この句は、激しく照りつける日を浴びると、頭を突かれるように感じることをいう。長い間強い日に当たると頭が痛くなるためだという契沖の説明は、少し違う。師は「上附」で、日が天空にある意味とされたが、それもよくない。「麻肥邇波阿弖受」は「真日には当てず」である。『古事記』は「肥」を火の音、「比」を日の音に使い分けるのに、ここは明らかに日でありながら「肥」を使う。たまたま誤って当てたのだろう。契沖は、『万葉集』巻十四に「真日暮れて」とあり、強い日を当てると青い土の色が変わるので当てないのだという。「真日」の「真」は、激しく照ることを強め、「頭突く」と同じ意味で重く用いている。巻十四の「真日」の「真」には、それほど強い意味はないらしい。「真」には軽く添える場合と重く用いる場合があり、巻二十の「旅というとも、真旅になりぬ」などは重い例である。この二句は、穏やかな日の光に当てて乾かしたことを知らせるためにある。だから強い日差しを述べ、それには当てないと歌う。単に日を当てないというだけでは、意味が足りない。柔らかな日差しで乾かし、粉にして眉墨に用いたのである。『万葉集』巻十六の蟹の長歌に、「この片山のもむ楡を、多くの枝からはいで、天を照らす日の下で干し、韓の碓でつき……」とあるのに似ている。初めからここまでは、次の眉を歌うための前置きのようなものだ。

「麻用賀岐許邇」は「眉化粧を濃く」の意味。契沖が「許邇」を次の句の先頭に付けたのは誤りである。昔、「眉何々」と複合する場合、眉は多く「まよ」といった。『日本書紀』仲哀天皇紀の「美女の䁏。䁏は、まよがきという」、『万葉集』巻五の「笑まい、まよ引き」などがそうである。「引き」は長く引いた眉をいう。『新撰字鏡』は「黛は青黒色で、女が眉を飾る黒い色。和名まゆ、まよがき」とする。『和名抄』も『説文』を引いて「眉は目の上の毛」、「黛は眉を描く墨。和名まゆすみ」とする。「許邇」は色濃く、という意味で、「濃く」と同じである。「邇」は添え語なのに、契沖が「丹」と説明したのは誤りだ。「加岐多礼」は「描き垂れ」である。「描く」はその土で眉の筋を描いて形を整えることをいう。『源氏物語』末摘花巻でも、顔に紅粉を付けることを「かきつけ」という。「垂れ」は、眉が三日月のように細く曲がり、端が垂れるためにいう。『万葉集』巻六の「三日月の、たわむまよ引き」、巻十四の「まよ引きの横山」、巻十九の「沖つ波、たわむ眉根」も、形が似ているためである。「とをむ」はたわむことをいう。女の顔の美しさをいうのに眉を中心にする例は、巻十二の「わが妹子が、笑む眉引き、面影にかかり」、巻十九の「青柳の、細き眉根を、笑み曲がり」など、ほかにも多い。中国も同じことである。

「阿波志斯袁美那」は「行き会った女」で、昨日、木幡の辻で行き会った姿を見たことを歌う。「女」を「おむな」「おうな」などというのは、後に発音が変わった訛りで、正しくない。古くはすべて「おみな」といい、下巻、朝倉宮の段の御歌もそうで、『万葉集』巻二十にも「をみな」とある。「をんなご」は「女の子」、「をなご」はその略である。「嫗」は老いた女で、「女」の「袁」と「嫗」の「於」とを区別する。姫については上巻の『伝』巻九、十八葉で詳しく述べた。「をみな」を「貌を〔一字判読留保〕よし」の呼び名とする説明は当たらない。「迦母賀登」の「か」は次に説明する。「もが」は願望の語で、「も」を添えた「もがも」も同じ意味。後世には「もがな」という。下巻、朝倉宮の段の「わきづきの、下の板にもが」(脇の下の板でありたい)、『日本書紀』雄略天皇紀の「命も、長くもがと」(命が長くあってほしいと)、『万葉集』巻三の「花にもが」「かくもがと」、巻五の「千尋にもがと、思い暮らしつ」(千尋もあるほど長くあってほしいと思い暮らした)、「千年にもがと、思ほゆるかも」(千年続いてほしいと思われる)、巻六の「かくしもがと、天地の、神をぞ祈る」(こうあってほしいと天地の神に祈る)などが例である。契沖が、この句を「鴨か」で、緑の眉墨をいうとするのは、大変な誤りだ。眉が緑色だからといって、人を「鴨か」などとどうして歌うだろうか。

「和賀美斯古良」は「私が見た娘」。「見た」は昨日のことで、次の句も同じである。女性を「こら」という例は『万葉集』に多い。巻三の「焼津辺に、わが行きしかば、駿河なる、阿倍の市道に、逢いし子らはも」(焼津へ出かけたとき、駿河の阿倍の市の道で出会った娘よ)、巻五の「松浦なる、玉島川に、鮎釣ると、立たせる子らが、家路知らずも」(松浦の玉島川で鮎を釣ろうと立っている娘の家へ行く道が分からない)などがある。「ら」は必ずしも複数ではなく、一人にも使う。東歌では「ころ」という例が多い。「迦久母賀登」は、前の「迦母賀」の「か」と、ここの「かく」とが対になる。『万葉集』巻二の「か寄りかく寄り」(あちらへ寄り、こちらへ寄り)、「か行きかく行き」、巻三の「かもかくもせむ」、巻四の「……心は持たず」、「かにもかくにも」、巻五の「かにかくに」、巻十六の「かもかくも」などの「か」「かく」である。「彼此」「左右」と書くとおりで、中世から「か」の代わりに「と」を使い、「とかく」「とにかくに」といった。今の「どうこう」「どうにもこうにも」に当たる。娘をどうにか得て、ああしたい、こうしたいと、いろいろ思い描いて望んだことをいう。たとえば、酒杯を持たせて飲みたい、腕枕をして寝たい、手を取り合って歩きたいなど、さまざまに願ったのである。私は前には、「か」は「あの」で、あの娘がほしいと思ったこと、「かく」はその娘を得た今の姿で、こうありたいと思ったことをいうのかと考えていた。分かりやすく思えるが、「か」と「かく」が対応して聞こえるため、やはりその意味ではなく、上に述べたとおりである。また契沖は、この句の頭の「か」を前の句に付けて「私が見た娘だろうか」、残りを「雲か」とし、詩にも「雲客」などという例があるとするが、何ともいいようのない誤りだ。人を雲かと思うことなどあるだろうか。「阿賀美斯古」は「私が見た娘」で、「こ」は「こら」と同じである。「私」を前は「わが」、ここは「あが」、娘を前は「こら」、ここは「こ」と、同じことを前後で少しずつ言い換えるのは、古い歌の通例である。

「宇多気陀邇」は、諸本では「多」が二字続くが、ここでは延佳本に従った。延佳が自分の判断で一字を削った疑いもあるが、やはり「多多」の一字は余分だろう。同じ字を誤って重ねた例はほかにもあり、ここは必ず五音の句であるべきだ。六音にすると、六・六・七・七音の四句になる。上代の歌は後世のように必ず五・七・五・七ではないが、六音・七音だけが四句連続する例はなく、間には四音や五音の句があるはずである。この言葉は非常に理解しにくいが、あえて考えると「うたた宴に」、宴がいよいよ盛んになる、という意味だろう。「うたた」の「た」を一つ省き、さらに「うたげ」の最初の「う」を省いた形である。同じ音が重なる場合に一つを省く例も、語頭を省く例も多い。本来「うただけに」だったものの「だけ」の順を取り違えたのだろう。「宴」なら「た」は清音、「け」は濁音のはずなのに逆なのは、「うたた」から続くため「た」が濁り、その影響で「げ」が逆に清音になったためである。これは古代の音変化の一つで、上巻の豊久士比泥別の「しひ」の清濁と同じ。該当箇所(『伝』巻五、十四葉)の説明と併せて考えてほしい。訶志比宮の段の歌の「宇多陀怒斯」も「うたた楽し」と説明した(巻三十一、四十九葉)。「うたた」の「た」を一つ省くことも、「た」が濁ることも同じで、どちらも宴の歌である点も考えてほしい。「うたた」は、そこの注にも述べたように、ますます進んで盛んになる意味である。契沖は「多気」の二字を倒して写したとして「宇多気多陀邇」、すなわち「宴直に」、酒宴の席で直接目に見ることだという。しかし「宴に直に」を「宴直に」といっては言葉が整わない。師は「うたたけにだに」で、「うたた」は物事が度を越す意味だから、あまりにも親しく近づいていることよ、と歌うのだとされた。しかし、「うたたけ」の「け」という言葉は上代らしくなく、「だに」も合わない。

「牟迦比袁流迦母」は「向かい合っていることよ」。「伊蘇比袁流迦毋」は、契沖によれば、「い」は語の初めに添える音で、「並び添っていることよ」である。「そひ」は並んで連れ添うこと。今も夫婦でいることを「そう」というのと同じで、黒田宮の段の「二人相添いて」の注で説明した(『伝』巻二十一、四十七葉)。一首全体の意味はこうである。初めの「はなみはし」から「まひにはあてず」までは前置きで、濃く美しく眉を描き、端を垂らした美しい娘に昨日、道で会って、どうにかしてこの女を得て、ああしたい、こうしたいと思った。その女に今日は御杯を持たせ、宴がますます盛んになり、同じ席でこのように向かい合い、並び添っていることよ、と、たいそう楽しく思って喜んでいるのである。

「如此御合……也」は、「このように結ばれてお生まれになった子こそ、宇遅能和紀郎子でいらした」と読むべきである。前の段で、この皇子に皇位を継がせると命じ、続いて矢河枝比売の話を記したのは、この一段全体が和紀郎子の由来を語るように読めるからで、このように読めばその意が伝わる。単に何ということもなく矢河枝比売の話を記したと見て、ここも「子の宇遅能和紀郎子をお生みになった」などと読むと、前に既にこの皇子のことがあるため、話の順序が逆になったようで、どうかと思われる。なお、「宇から下の五字は音を表す」という注は、この名が初めて出る箇所にこそあるべきで、ここにあるのはどうだろう。この段から考えると、丸邇の比布礼臣の家は木幡村の近くだったのだろう。矢河枝比売の生んだ子も、そのため宇治に住んだと思われる。宇治と木幡はとても近い。また妹の袁那辨郎女が生んだ子も宇遅之若郎女といい、宇治に住んでいたための名らしい。どちらも母方の祖父の家に近い土地として宇治に住んだのである。昔の子は母の家で生まれ育ったのだった。

〔『古事記』本文〕天皇は、日向国の諸県君の娘、髪長比売(かみながひめ)の容貌が美しいと聞き、自分のもとで仕えさせようと、都へ呼び寄せた。そのとき太子の大雀命は、娘の船が難波の港に着いた姿を見て、その美しい顔立ちに心を動かされた。そこで大臣の建内宿禰に、「日向から呼び寄せた髪長比売を、私に賜れるよう、天皇のお許しを願ってほしい」と頼んだ。建内宿禰が天皇に願い出ると、天皇は髪長比売をこの皇子に与えた。そのときの様子はこうである。天皇が豊明(とよのあかり)の宴を催した日に、髪長比売に酒を受ける葉の杯を持たせ、太子に賜りながら歌った。

さあ、わが子らよ、
野蒜を摘みに、蒜を摘みに行こう。
私の行く道の、香り高い花橘は、
上の枝は鳥がとまって花や実をなくし、
下の枝は人が摘んでなくしてしまう。
三つ栗の真ん中のように、中ほどの枝に
小さく丸くなり始めた橘の実――
その赤らみに重なる、美しいこの娘を、
お前がさあおいでと誘ったなら、よさそうだなあ。

天皇はさらに歌った。

水をたたえる依網の池で、堰の杭を打とうと水に入ると、
菱の殻が足を刺すとも知らず、
ジュンサイの蔓が延びて、足に絡むとも知らなかったように、
お前が既にこの娘を慕っていたとも知らず、
私が迎えようと思った心の、何と愚かだったことか。
今こそ悔やまれる。

このように歌って、娘を太子に賜った。

娘を賜った後、太子は歌った。

道の遠い果ての日向にいる、こはだの娘よ。
雷のように、遠く噂に聞くだけだったけれど、
今はこうして、互いに枕を交わして寝るのだ。

また歌った。

道の遠い果ての、こはだの娘は、
逆らうことなく、ともに寝てくれた。
そのことを、こよなくいとおしく思う。

日向は上巻に出た。諸県君の「諸県」は、『和名抄』の日向国諸県郡、読み「むらかた」の地である。古書がすべて「諸県」と書くことを考えると、もとは「もろがた」で、「むら」はやや後の訛りなのかもしれないが、ひとまず『和名抄』に従って読む。「かた」は「県(あがた)」なので、必ず濁って「がた」と読む。この氏族は、『先代旧事本紀』に「豊国別命は日向諸県君の祖」とあるほか、書物に見えない。豊国別王は景行天皇の子で、『古事記』には日向国造の祖とある。諸県君もこの王の子孫なら、髪長比売の父は、この王の子か孫だろう。『日本書紀』景行天皇紀には、既に諸県君泉媛という人が出ている。高津宮の段には「前に述べた日向の諸県君牛諸の娘、髪長比売」とあるのに、ここは氏だけで個人名がない。その名が脱落したのだろう。『日本書紀』には牛諸井、小字の異説には牛とあり、『淡路国風土記』にも「諸県郡牛」とある。「郡」は「君」の誤りだろう。

髪長比売の名の意味は、字のとおり、髪が長いのだろう。ただし、『日本書紀』には景行天皇の妃にも日向髪長大田根という人がいるので、あるいは地名かもしれない。または、そちらがこの名から混同されたのか。この天皇の妃にも日向之泉長比売があり、景行天皇紀には諸県君泉媛もいる。「顔容麗美」は「かおよし」と読むことを、前に述べた(『伝』巻十六、二十二葉、巻二十、十五葉)。代名詞「其」を「それ」と読む理由も同じ箇所で説明した。「将使」は「つかいたまわむとして」と読む。師の「みつかひもて」という訓ではない。「使う」は、今も人を使うという場合の「使う」である。上巻の「石長比売を使えば」(巻十六、二十八葉)、玉垣宮の段の「ゆえに使うべし」(巻二十四、六十葉)の注で述べたとおりである。「喚上」は玉垣宮の段に出た(巻二十五、四十六葉)。『日本書紀』の小字の異伝には、こうもいう。「日向諸県君牛は朝廷に仕えていたが、老いて務められなくなり、退職して故郷に帰った。そこで娘の髪長媛を献上した。娘が播磨まで来たとき、天皇は淡路島に行幸して狩りをしていた。……誰かと問うと、『諸県君牛は、年老いて退職しましたが、朝廷を忘れられず、娘を献上したのです』と答えた。天皇は喜び、呼んで御船に従わせた。」

「太子」について。前に述べたように、昔の太子は一人に限らず、大雀命も太子だった。「太子」は後人の誤りで「御子」であるべきだという師の説明は、かえって当たらない。難波については、前の「浪速之渡」の注で述べた(『伝』巻十八、二十七葉)。「泊」は船が到着すること。西国から上る船がみな難波津に着くのは、今も昔も同じである。この太子は難波にいたため、娘の船が着いたときに見たのである。「姿容」は「かお」と読むことを前に説明した(巻十三、五十七葉)。「端正」は「よき」で、これも前に述べた(巻二十三、四十六葉)。「説」も前に出た(巻二十四、三十六葉)。「告」は命じることをいい、「告げる」ではない。「令賜」は、「賜」の主体が天皇、「令」の主体が大臣である。中世の物語などで単に賜うことを「たまわす」というのとは違い、天皇が私に賜るようにせよ、という意味である。「請大命」は、上巻で二柱の神がともに天へ上って天つ神の命を請うのと同じで、太子の頼んだ事情を申し上げ、許可の命令を願うことをいう。「其御子」は、この前後ではみな太子なのに、ここだけ御子とすることに特別な意味はないだろう。ただし「太子」は地位を示す表記なので、どれも単に「みこ」と読んでよいことを知らせるため、一箇所をこう書いたのかもしれない。『古事記』にはこうした例が多い。「所賜状者」は、比売を太子に与えたときの様子をいう。

「豊明」は「とよのあかり」と読む。下巻、若桜宮の段には「大嘗の祭を行い、豊明の宴をしたとき……」とあり、高津宮・朝倉宮などの段では「豊楽」、『万葉集』巻十九では「豊宴」とも書く。「明」は語の響きに従った字で、字そのものの意味にとらわれる必要はない。「楽」「宴」は意味を取った字である。『日本書紀』でも宴・讌・宴楽・宴会・宴饗・肆宴などを「とよのあかり」と読む。「とよ」は通例のほめ言葉である。「とよの」と「の」を添える例もあり、『万葉集』の「豊の年」、後世の「豊の御禊」などがそうである。「あかり」は、もとは天皇が酒を召し上がって顔色が赤くなることを申し上げた語である。大嘗の祝詞に「天上の食物として、長く遠く続く食物として、皇御孫命が大嘗の食事を召し上がるために……千秋五百秋、平らかに安らかに召し上がり、豊かに赤らんでいらっしゃる皇御孫命の……」とある。『台記』の大嘗会別記に載る中臣寿詞にも、「悠紀・主基の黒酒・白酒を、大倭根子天皇が、天上の食事として、長く遠く続く食事として、汁にも実にも赤く顔に表れるほど召し上がり、豊かに赤らんでおられ……」とある。祈年祭の祝詞などの「赤丹穂に聞こし食し」も同じく、酒で顔が赤くなることをいう。『続日本紀』巻二十六の「黒酒・白酒の御酒を、赤く顔に表れるまで召し上がって、ほがらかに楽しみ」という文からも分かる。『儀式』の大嘗祭・新嘗会の儀、『日本三代実録』巻四十六などにも同様の表現がある。

師は、「明坐」も「赤丹穂」も、出雲国造の神賀詞の「赤玉のように赤らんでいらっしゃる」を引き、病気がなく顔色が赤いことと説明された。その神賀詞は確かにそうだろう。しかし、今引いた文献は普段の顔色ではなく、酒を召し上がって赤らんだ様子をいう。『続日本紀』の文から分かる。大嘗の祝詞は食事とだけ述べ、酒をいわないのに「豊明に」とあるのはなぜかというと、食事には酒も含むからである。まして大嘗で酒を特に重んじるのはいうまでもなく、中臣寿詞の文からも分かる。病気がなく赤らむのも、酒を飲んで赤らむのも、顔が赤いという点では同じである。また、顔の美しさも「あかる」という。この御歌の「あからおとめ」、『万葉集』の「丹穂面」なども、顔が赤く華やかなことをいう点は同じである。

したがって「豊明」は、もとは「豊明に明らみ坐す」と、同じ意味を重ねた形の語だった。「とよほぎほぎ」「神集いに集う」「厳の千別きに千別く」と同類で、それがそのまま宴の名になったのである。「あかる」は顔が華やぐことで、神代の歌の「朝日の笑み栄え」も、朝日が赤く差し出るようにという意味である。また「酒」という名も、師のいうように「さかえ」の縮まった形で、飲むと心も顔色も華やぐためだ。豊明とは、天皇をはじめ人々が酒を飲んで顔を赤らめ、笑い楽しむことから付いた名と理解すべきである。ところが師は、大嘗祭の祝詞の「豊明に明らみ坐さむ」について、「豊明」を枕詞とし、「豊明節会は卯の日の祭を終えた翌辰の日の夕方、豊楽院で宴を催すこと。夜で、庭火や立ち明かしが盛大に輝くため豊明という。公の夜宴を一般に豊明というのも同じで、とよは大きい意味だ」と説明された。これはどうだろう。「明らみ坐さむ」を顔が赤いこととしながら、「豊明」を灯火の明るさとするのは理解できない。これは「神集いに集う」などの同義を重ねる表現なので、前の「あかり」と後の「あかる」が別の事柄である理由はない。また、この組み合わせの「豊明」は単に顔が赤らむことをいう段階で、まだ宴を指す名ではない。それを宴として解くのは、語の成り立ちの順序を取り違える。『続日本紀』巻二十六には「今日は大新嘗の祝いの豊明を召し上がる日である」、巻三十にも「今日は新嘗の祝いの豊明を召し上がる日である」とある。『万葉集』巻十九には「豊宴を催す今日、もののふの八十伴の男が、島山の赤らむ橘を髪飾りに挿し、紐を解き放ち、千年を祝い祝い、声を響かせ、笑い楽しみながら仕える、その姿を見る尊さよ」と歌う。『うつほ物語』藤原の君の巻にも「七日七夜、とよのあかりして、打ち上げ遊ぶ」とある。「打ち上げ」は宴である。豊明は大嘗・新嘗に限らず、いつの宴にもいう名で、ここもそうである。『類聚国史』の天長四年正月の踏歌の宴にも、詔で「今日の豊楽」とある。後世には新嘗の節会だけを指すように、これを豊明節会と呼ぶ。

「大御酒柏」は、酒を受けて飲むための葉である。『貞観儀式』の大嘗会の儀には、「次に神服の男七十二人が、青摺りの布衣と日陰の鬘を着け、それぞれ酒柏を持つ。酒柏とはユズリハの葉を白木に挟んで四重にし、左右にそれぞれ四枚ずつ付けたもの」とある。また午の日の儀には、「次に神祇官の中臣・忌部、小斎の侍従以下、番上以上の者が左右に分かれて入り、造酒司が一人ずつ柏を与える。これに酒を受けて飲み終えると、柏を鬘にして和舞を舞う」とある。『大嘗祭式』にも見える。詳しくは、下巻、高津宮の段の「大后が豊楽をしようとして、御綱柏を採る……」(『伝』巻三十六、二葉)と、同段の「豊楽をするとき、大后は自ら大御酒柏を取り、諸氏族の娘たちに与えた……」(巻三十七、二十二葉)の注と併せて考えてほしい。もともと葉に酒を受けて飲むのは、非常に古い時代の習慣だったが、定まった儀礼になり、豊明などでは必ず行われた。『万葉集』巻十九にも、「皇祖神の遠い御代々々には、折り敷いて酒を飲んだという、このほほがしわ」と歌う。また催馬楽の『美濃山』には、「美濃山に、びっしりと生えている玉柏。豊明の宴で出会うことの、何と楽しいことよ、何と楽しいことよ」とある。酒柏に用いることをいう歌である。「かしは」は、もとは特定の木の名ではなく、どの木でも飲食に使う葉をいう。そのため『日本書紀』仁徳天皇紀は「葉」と書き、「かしはという」とする。古くから「何々がしは」と名の付く木が各地にあるのは、その中でもいつもよく用いた木をそう名づけたのである。古書が「かしは」に「柏」を当てる理由は分からない。『和名抄』は「槲」を挙げて和名かしはとするが、どの木かはっきりしない。今もっぱらかしはと呼ぶ木なのかもしれない。およそ上代は、飲食の道具に葉を多く用いた。後の『万葉集』巻二にも、「家にいれば器に盛る飯を、旅にいるので椎の葉に盛る」という歌がある。飯を炊く甑にも葉を敷き、覆って炊いたため、「炊く葉」の意味でかしはといったのである。「ひらで」という器も、『日本書紀』が「葉盤」と書くように葉で作ったものだ。「膳夫(かしはで)」も食事の葉を扱うための名である。『伊勢物語』にミルを高坏に盛り、柏をかぶせて出すとあるのも、古い習慣が残った例である。今も料理の器に草木の葉を敷いたり覆ったりすることがある。

「賜其太子」は、髪長比売を太子に与えることである。「御歌」の歌い手は天皇。『日本書紀』はこう記す。「十一年、ある人が『日向国に髪長媛という娘がいます。諸県君牛諸井の娘で、国中の美女の中でも最も優れています』と奏上した。天皇は喜び、心の内で迎えたいと思った。十三年、天皇は専使を遣わして髪長媛を呼び寄せた。秋九月中に日向から着くと、桑津邑に滞在させた。皇子の大鷦鷯尊は髪長媛を見て、その美しさに心を動かされ、いつも恋しく思っていた。天皇は、皇子が彼女を愛して結婚を望んでいると知った。そこで後宮の宴の日、初めて髪長媛を呼んで宴席の上座に座らせ、大鷦鷯尊を招き、髪長媛を指し示し、歌った……。」

「伊邪古杼母」は「さあ、子らよ」である。『日本書紀』では「阿芸」とする。「こども」は自分に属する子弟や従者などをいう。『万葉集』巻一の「いざ子ども、早く大和へ」、巻三の「いざ子ども、大和へ早く」、巻二十の「いざ子ども、たわわざなせそ」(さあ皆、気を緩めてはいけない)などが例である。「怒毘流都美邇」は「野蒜摘みに」。『日本書紀』には「怒珥比蘆菟弥珥」とある。「蒜」は前に出た(『伝』巻二十七、七十九葉)。これは野に自然に生える蒜である。中国にも野蒜という一種がある。ある説は、「ぬびる」は『和名抄』の沢蒜、和名「ねびる」のことだというが、どうだろう。「比流都美邇」は「蒜摘みに」である。契沖は、『私記』が師説として、臭い植物を先にいうのは香りのよい植物をいうための前置きだとするのに対し、そこまでの意味はなく、単に歌い始めるきっかけだろうという。それもありそうだが、なお考えると、ただ橘をいうためだけの前置きなら、どこへ行く道でもよいのに、わざわざ野に植物を摘みに行く道とする。また摘む植物は多いのに蒜を選ぶ以上、蒜に意味があるのだろう。これは格別に匂いの強い植物なので、次の「香」という語につなげたのだろう。ただし『私記』のいうように、臭い物と芳しい物を対比したのではない。香りの良し悪しに関係なく、ただ「香」という言葉へつなぐ。それが古代の意である。「和賀由久美知能」は「私の行く道の」。『日本書紀』は「能」を「珥」とする。「の」なら花橘に掛かり、「に」なら直接次の句へ掛かる。橘と道を組み合わせた例には、『万葉集』巻二の「橘の陰踏む道の八衢に」、巻六の「橘のもとに道踏み」などがある。この歌は初めから「ほつもり」までが前置きだが、その中でもここまでは橘の前置きである。初めに「いざ、子らよ」といい、その呼び掛けを結び切らないように聞こえるのは、「さあ皆、野蒜摘みに行こう」と誘い、摘みに行く道の、と続ける意味を縮めて歌ったためである。

「迦具波斯」は「香くはし」である。「くはし」は、師が「うるはし」は「うらくはし」の縮まった形だといわれたように、「うるはし」と同じ意味である。「くはし」には細・妙、また『日本書紀』では微妙、『万葉集』巻十三では麗などの字を当てる。古語では「うるわしい」というところを「くはし」という例が多い。ここは「名くはし」「花くはし」などと同類で、香りの美しさをいう。後世の「かんばし」「かうばし」は、「かぐはし」の発音が変わったもので、「は」が濁るのは、音の変化の後には濁音になる例が多いためである。香り以外にいう例も、『万葉集』巻十八の「かぐわしき筑波の山」、巻十九の「かぐわしき親の御言」、巻二十の「かぐわしき君」などがある。これらは香りの美しさから意味が広がったのだろうか。神楽歌の「榊葉の香をかぐわしみ」は、榊に香りというのは珍しい。「波那多知婆那波」は「花橘は」。『日本書紀』には末尾の「は」がない。橘は玉垣宮の段で詳しく述べた(『伝』巻二十五の末)。『万葉集』巻十一の「香ぐわしき花橘を」、巻十九の「花橘の香ぐわし」、巻二十の「橘の下吹く風のかぐわしき」なども例である。

「本都延波」は「上の枝は」。「つ」を濁るのは誤りで、「ほ」は穂先や高い所の意味である。『万葉集』巻九の「ほつ枝は、散り過ぎにけり」(上の枝はもう散ってしまった)、巻十の「ほつ枝の梅を」、巻十三の「橘のほつ枝を過ぎて」、巻十九の「青柳のほつ枝よじ取り」などがある。上巻、石屋戸の段にも上枝・中枝・下枝とあり、下巻、朝倉朝の歌にも「ほつえ、なかつえ、しづえ」と歌う。「登理韋賀良斯」は、延佳のいう「鳥がとまって、なくしてしまう」である。『万葉集』巻九のホトトギスの歌にも、橘の花を「とまって散らす」とある。契沖は「採り居枯らし」で、花を折り置いて愛で、枯れるまでそのままにするためだとし、巻十八の橘の長歌の「かぐわしみ、おねづからしみ」がその意味だという。しかし誤りである。折って置くことを、どうして「居」というだろうか。それでは次の「人が摘んでなくす」と同じになる。ここが鳥のとまることなので、次を人の摘むこととするのである。「枯らし」は、花や実を散らして、なくしたことをいう。鳥がよく集まる枝は枯れやすくもあるが、その意味ではない。次の「人取り枯らし」も同じ。『万葉集』巻十四の「垣内柳、末摘み枯らし、我立ち待たむ」も、葉を摘んでなくす意味である。花・実・葉のいずれでも、枝からなくなるのを「枯る」という。「冬枯れ」もそれである。『日本書紀』は、次の二句を先に置き、この二句をその後に記す。

「志豆延波」は「下の枝は」。諸本が「志」を「友」とするのは誤りで、延佳本の「支」も恣意的な訂正だろう。『古事記』は「支」を音仮名に用いない。朝倉宮の段の歌に基づき、「志」と定めた。『日本書紀』は「辞豆曳羅波」とする。『万葉集』巻五の「わが宿の梅の下枝に」、巻七の「向かいの岡の若い楓の下枝を取り」、巻九の「下枝に残った花は」、巻十の「梅の下枝」などが例である。「比登登理賀良斯」は「人が摘んで、なくしてしまう」で、『日本書紀』は「人みな取り」とする。「美都具理能」は「三つ栗の」という枕詞で、前に説明した。「那迦都延能」は「中の枝の」。『万葉集』巻十三にも「花橘を、上の枝には鳩、中の枝にはイカルがとまり、下の枝には小鳥がとまる」とある。「本都毛理」は、『日本書紀』では「府保語茂理」と書く。契沖は、ふくらんで内にこもることだとし、神代紀で「含」を「ふふむ」と読み、「ふ」「ほ」は通じ、つぼんでいる様子をいうとする。『万葉集』巻十四の「ユズリハのふふまるときに」、巻十八の「桜花、いまだふふめり」、巻二十の「児の手柏のほほまれど」などと、「つぼむ」という中世以来の語とを併せると、ふくらんでつぼまる意味で、縮めて「ほつもり」といったのだろう。延佳は「疐守」、へたを守って残る実で、食べられずに残った大きな実かという。「疐」は「蔕」(果実のへた)と同じ字で、『和名抄』が「ほそ」と読み、今「ほぞ」ともいうのを考えたのだろうが、それは「ほそ」の訛りだから「ほず」ならともかく、「つ」には合わない。大きな実の話も無関係である。師は児の手柏の「ほほまれど」から、「都」は「保」か「裳」の誤りで「ほほもり」だろうとされた。語としてはありそうだが、『古事記』は保も裳も音仮名に用いない。私自身、以前は『日本書紀』に従い、初めに「布」が落ちたか、「ふほ」が「ほ」に縮まり、「都」が「許」の誤りで「ふほこもり」ではないかと考えた。しかし、『古事記』は「こもり」を「許母理」と書き、「毛」の例がない。また「こもる」なら『日本書紀』のように濁るはずで、清音の「許」を使えないので、この考えも誤りだった。ここは小さな実がなり始めた橘の姿を歌うので、「つぼむ」がよく当てはまる。今も物の形がようやく丸くなることを、そういう。花にいうのも形による。「ふふむ」と指す状態は同じでも、語そのものの意味は違う。「つぼむ」は古語でないと思う人もいようが、丸いことを「つぶら」といい、「つぶ」の例は多いのだから、「つぼむ」といわなかったはずはない。古書にないのは、たまたま記されなかったのだろう。十分熟した実でなく、なり始めを歌うのは、新鮮で珍しい姿をほめたのだろう。初めからここまでは、次の「あから」の前置きである。巻十八の「あから橘」、巻二十の「あから柏」、巻十九の「あかる橘」と同じく、実が赤みを帯びる意味だ。橘の実は初めから黄色で少し赤みがあるため、なり始めでも「あから」と続ける。契沖が、髪長媛の盛りを中枝に、整った姿を橘の成熟にたとえたというのは、そういう意ではない。

「阿迦良袁登売袁」は「赤らんで美しい娘を」。『日本書紀』は「阿伽例蘆嬬等咩」とする。女性の美しさをこういう例には、『万葉集』巻十一の「さにつらう妹、色妙の子」、巻七の「さにつらう漢女」、巻十四の「さにつらう妹」「丹穂面」、巻十六の「赤根さす日」、巻五の「紅の面、ある本は、にほなす」などがある。いずれも同じ意味で、師によれば、つややかに色づいた顔をいい、異国の「紅顔」などと同じである。紅葉にも「さにつらふ」と歌う例がある。「伊邪佐佐婆」は、人を誘い立てることを「いざさす」という語である。『万葉集』巻十四の「麻糸を麻笥いっぱいに績まなくても、明日が来ないわけではない。さあ小床へ」は、夜に男が女を訪れ、女が麻を績んでいるのを、早く寝ようと誘う歌である。「今夜それほど麻笥にたくさん績まなくてもよい。明日もあるから、明日ゆっくり績んでほしい。今夜はさあ、小床へ入って寝よう」という意味。第四句は、明日が来ないわけでもなく、明日もあるのだからという意である。「いざせ」は「いざさせ」で、さあ小床へと女を誘う言葉。中世に、人を誘って「いざさせたまえ」というのと同じである。ここも「誘ったなら」で、大雀命がこの娘を誘い、求婚したなら、という意味である。『万葉集』巻一の「わぎもこを、いざみの山を」も、妻を誘う意味の枕詞で、「いざ見よう」と続くのではない。巻七には「若々しいので、さあ連れて行こう、河の波に遊ぶ、いましする妻を」という例もある。

「余良斯那」は「よさそうに思われる」というほどの意味である。旧版本やある一本は「余」を「尓」とするが、ここは真福寺本・延佳本に従った。「らし」は「時雨降るらし」など、普通にいう「らし」で、今の「何々らしい」と同じ。「時雨降るらし」は時雨が降りそうな様子に思えることをいう。ここも今の「よさそうだ」の意味である。白檮原宮の段の歌の「今撃たばよらし」(『伝』巻十九、三十八葉)も同じ。「な」は添える語で、長く息をつく気持ちがある。「移りにけりな」の「な」などと同じである。契沖は「尓良斯那」とする本に従い、「似つかわしいのではないか。さあ、お前をこの娘の夫に指名すれば似合うだろうということか」とする。「似らし」なら一応ありえようが、ほかは論じるにも及ばない誤りだ。「夫に指名する」を、ただ「指す」とだけいうだろうか。師はこの二句も『日本書紀』に従い、「佐」は「迦」、「尓」は「衣」の誤りで、「いざさかばえらしな」として、橘が栄えることに寄せたのか、あるいは酒をもって娘を祝うのか、酒は栄えの意味だ、といわれた。しかし、橘の繁栄に寄せる意味はない。「枯らし」ともいうからである。また「衣」は『古事記』が音仮名に用いない字だ。私も初めは『日本書紀』に従い、「佐」を「迦」、「尓良」の二字を「延」の誤り、「斯」を余分な字として、「いざさかばえな」だろうと考えた。白檮原宮の「今撃たばよらし」も、「余」を「尓」とする本に従い、「尓良」を「延」の誤りと説明した。しかし、後によく考えるとすべてよくなかった。あちらも「余」が正しく、「よらし」はここと同じく、よさそうだという意味だった。『日本書紀』はこの二句を一つにし、「いざさかばえな」とする。『万葉集』巻十八の橘の長歌にも「霜が降りても、その葉も枯れず、常盤のように、ますます栄え」とあるので、娘に酒を勧めて栄えさせようというのかもしれない。しかし歌全体が『古事記』とほぼ同じなのに、ここだけ意味が大きく違うのも疑わしい。「いざさかば」も誘ったならの意で、「え」はよいだろうという意味か。ただし、それでは『万葉集』の歌と合わず、なお考える必要がある。一首の意味は、この赤らんで美しい娘をお前が誘ったらよさそうだから、求婚して会ったらどうかと、大雀命に向かっていったのである。

「又御歌曰」も天皇の歌である。「又」は単に「また」と読む。「美豆多麻流」は「水たまる」で、池の枕詞である。契沖のいうように『万葉集』巻十六にも「水たまる、池田の朝臣が……」とあり、巻十三にも「蓮の葉に、たまれる水の」とある。「余佐美能伊気能」は「依網池の」。『日本書紀』は「の」を「に」とする。この池は水垣宮の段に出た(『伝』巻二十三、九十三葉)。「韋具比宇知」は「堰の杭を打ち」。『日本書紀』は「うち」を「つく」とし、続いて「川俣江の」という一句がある。したがって意味は『古事記』と異なり、そちらは川俣の前置きにすぎない。『新撰字鏡』には「械、いくひ」とある。「械」は「杙」の誤りか。また「堰、いせく」ともある。およそ「い」は、何かに用いる水のある場所をいい、田へ水を引く溝もそう呼ぶ。今「ゆ」ともいうのは「い」と音を通わせた同じ語で、「いで」を「ゆで」ともいう。「湯種」も、この水場に漬けておく種籾で、今その溝を「ゆみぞ」ともいう。「井」も同じ語で、昔は川にも井といったのは、水を汲み取る場所を指すためである。その水路の岸が崩れないように、あるいは水をためるために、竹や柴を組んで固めるものを「いせき」といい、それを支えるために打ち並べる杭を「いくひ」という。

「比斯賀良能」は「菱殻の」。諸本には「賀」の一字しかなく、「比斯」「良能」の四字がすべて抜けている。ここでは『日本書紀』に基づいて補い、一句とした。そのままでは全く意味が通らず、脱落したことが明らかだからである。『日本書紀』ではこの前に「川俣江の」という句があるので、それも脱落したかと思われるが、そうすると前の「池の」から言葉が整わず、「打ち」も「打つ」でなければ合わない。『古事記』は『日本書紀』と違い、初めから「川俣江の」はなかったのである。「佐斯祁流斯良邇」は「刺したことを知らずに」。旧版本の「祁」が「良」なのは誤りで、諸本はみな「祁」である。『日本書紀』は「流」を「区」とする。依網池の堰の杭を打とうと水に降り立つと、底の菱の殻が足裏を刺す。そのことも知らずに降り立ったという比喩である。たとえた意味は、大雀命が早くからひそかに髪長比売を慕っていたことを、天皇が知らなかった、ということである。

「奴那波久理」について、契沖は『和名抄』水菜の部を引く。「顧野王によれば、蓴は水草である。蘇敬の『本草注』では、三、四月から七、八月までを一般に糸蓴といい、甘く柔らかい。霜が降りてから二月までは環蓴といい、苦く渋い。和名ぬなは。」今、蓴菜(じゅんさい)というものである。沼に生え、縄のように長いので「沼縄」の意味だという。『万葉集』巻七にも「浮くジュンサイを、岸にも沖にも、寄せて採りたいものだ」と歌う。「くり」は名に添えた部分で、三稜草(みくり)などの「くり」と同じく、手繰り寄せて採るための名だろう。蔓草類を「何々づら」というのと同類である。ここを蓴を手繰る動作そのものとすると、歌の組み立てがよくない。理由は次にいう。「波閇祁久斯良邇」は「蔓が延びていることを知らずに」。これも、堰の杭を打つ人が水中の蔓を知らずに降り立ち、足に絡みつくことをいう。「堰の杭を打ち」は菱殻の二句だけに掛かり、蓴の方は別に、手繰り寄せようとしたら蔓が長く延びていた、という意味にも考えられる。しかし、それでは歌の形が整わない。こうして二つの事柄を並べるときは、両方を同じ形に整えるものなのに、蓴が二句、菱殻が三句では、「堰の杭を打ち」が余分に一句余り、蓴の方は一句足りなくなる。したがって「堰の杭を打ち」までは両方に掛かるのである。たとえの意味は前と同じである。ただ、別に考えると、比喩は菱殻までで、「延けく」は比喩ではなく、「ぬなはくり」は「延けく」の枕詞かもしれない。女を慕って求婚することを「はふ」というからである。この場合、全体は、杭を打つ人が菱殻に足を刺されると知らずに水へ入ったように、私も大雀命がひそかにこの娘を慕っていると知らず、自分が迎えようと思っていた、という意味になる。読む人がよいと思う方を採ってほしい。ところが『日本書紀』は蓴の二句が「依網の池に」のすぐ後にあり、趣旨が違う。そちらは二つの比喩が「延けく」「刺けく」までで、「知らず」は比喩の側に掛からない。蓴の延びるように、菱殻の刺すように、大雀命が思いを寄せていたことを知らない、という意味である。『古事記』の趣旨は上に述べたとおりだが、「ぬなはくり」を枕詞とする場合は、後の「知らず」は比喩ではなくなる。

女性を慕って妻問いすることを「はふ」という例は、下巻、高津宮の段の「隠りづの、下ゆはへつつ、行くは誰が夫」(人知れずひそかに慕い続け、出かけていくのは誰の夫か)がある。「下ゆ」は下から、つまり表に出さずという意味で、「つま」は夫である。『万葉集』巻九の「隠り沼の、下はへ置きて」(隠れた沼の水草のように、ひそかに心を寄せて)、巻十二の「玉葛、はへしあれば、年に来ずとも」(蔓草が延びるように心が結ばれていれば、年内に来なくても)、巻十四の「あが下はへを、こちでつるかも」(私のひそかな思いを、口に出してしまったことよ)、「至らむとぞよ、あが下はへし」(私のひそかな思いは、きっと届くだろう)、巻十八の「下はふる、心しなくは、今日もあらめやも」(ひそかに慕う心がなければ、今日まで生きていられただろうか)などもある。巻二十の「住吉の浜松が根の下はへて、わが見る小野の草な刈りそね」(浜松の根が下に伸びるように、私がひそかに思いを寄せるあの野の草を刈らないでほしい)は、妻問いそのものではないが、ひそかに心を寄せる意味は同じである。「和賀許々呂志叙」は「私の心」で、「し」は添え語。「ぞ」は契沖も余分な字かというが、確かにそうだろう。後にもう一つ「ぞ」があるからで、これを重ねる例はない。『日本書紀』では「わ」を「あ」とし、「ぞ」はない。「伊夜袁許邇斯弖」の「お」を、『日本書紀』は「于」とする。「いや」は、白檮原朝の歌の「いや先立てる」と同じで、ますますという「弥」とは少し違い、この上なくという意味である。「最」を「いや」と読むことは『伝』巻六、二十八葉で述べた。「おこ」は、中世の文献の「おこなり」「おこがまし」「おこの者」の語で、「おかし」と同じ言葉、同じ意味である。「おかしき」は「おこしき」に当たる。ここでは、今の「あほらしい」の意味である。

『日本三代実録』巻三十八には、「右近衛の内蔵富継、長尾末継は、散楽の芸に巧みで人を大いに笑わせた。いわゆる嗚呼人に近い」とある。版本の「嶋滸」を古本に従って「嗚呼」として引いた。『西宮記』にも同じ記事があり、そちらは「嗚呼者なり」とする。「所謂」という字は適切でないだろう。ここは人を笑わせる芸をする者をいう。中国の書にも、『後漢書』に烏滸蛮という国、烏滸人が見え、『文選』の呉都賦などにもある。『本朝文粋』の村上天皇御製「弁散楽」の「嶋橘が来朝し、人を笑わせる見世物をした」も中国の話である。「嶋橘」は「烏滸」の誤りだろう。これでは「おこ」が中国の書から入った語だと思う人もいそうだが、そうではない。この天皇の歌に既にある以上、もとからの古語である。後に中国にも「嗚呼」「烏滸」があるため、『三代実録』などでは混ざったのだろう。古語の「おこ」は、それらとはもともと別である。中世の「おこなり」「おこがまし」「おこの者」も古語なので、「嗚呼」などの字を当てるのは誤りである。『日本書紀』の「于古」を『釈日本紀』が「尾籠なり」とするのも、音を借りてそう書き慣れたのだろう。後にその字音から「びろう」という語も生まれたと思われる。しかし、その字に基づいて意味を説明する説は誤りである。契沖が「于古」は「集」かとし、『日本書紀』では集うことを「うこなはる」と読むので、わが思いがいよいよ集まる意味か、と注したのも、大変な誤りである。

「伊麻叙久夜斯岐」は「今ぞ悔しき」。『日本書紀』にはこの句がない。ないと落ち着かないように思われるが、『万葉集』にもその形で結ぶ歌が多く、『詞の玉緒』巻七に引いたとおりである。一首の意味は、大雀命がひそかに髪長比売を慕っていたのを今まで知らず、自分が迎えようと思っていた心は愚かだった、その事情を聞いた今こそ悔しい、ということ。実際に本気でそう思ったのではなく、宴席の楽しさに乗って歌ったものである。『日本書紀』は「大鷦鷯尊は髪長媛を賜れると知って大いに喜び、返歌した」として、大雀命の歌とするが、これは伝承の誤りだろう。大雀命の歌では、このときの事情に全く合わない。「このように歌って賜った」は、既に前に「太子に賜った」とあるので、今の人には同じことを重ねてくどく感じられようが、昔の語りはみなこうしたものである。「被賜」は「たまわりて」と読む。「たまう」は与える側からいう語、「たまわる」は受ける側からいう語なので、古書には「被」を添えることが多い。ここは天皇が与えることを太子が受ける側からいうので、「たまわる」である。今の人が「賜う」「賜る」を同じものと思って使うのは、でたらめである。古語で「たまう」を縮めて「たぶ」ともいうが、受ける側からは「たばる」という。「歌曰」は、ここでは「よみたまえる」と読む。『日本書紀』には「大鷦鷯尊が髪長媛と親しく結ばれた後、二人だけで向かい合って歌った」とある。

「美知能斯理」は「道の後」、道の遠い果てのことである。道前・道後は黒田宮の段で説明した(『伝』巻二十一、五十葉)。ここは日向国を指す。都から下る道順によって、九州の国々は北を前、南を後とする。筑前・筑後、豊前・豊後、肥前・肥後はみなそうで、日向、すなわち大隅・薩摩までを含む地域は九州の最南端だからである。あるいは諸県郡を指すとも考えられる。この郡は日向国の最南端で、『和名抄』の郡の配列も北から南へ進む。伊勢国でも度会・多気・飯野の三郡を神三郡、また道後と呼ぶと『神宮雑例集』にあり、これも南の端、都から下る道の後に当たるためである。しかし、ここは広く日向国とする方がよいだろう。『万葉集』巻十一の「道の後、深津島山」は備後をいい、巻十七の「道の中」は越中をいう。「古波陀袁登売袁」は、初瀬娘子、香取娘子、難波壮士などと同じ形で、「こはだ」は日向国の地名だろうか。今も諸県郡付近にそういう地名がないか、その国の人に尋ねるべきである。あるいは、ほめた言葉で「細かな肌」の意味かもしれない。物が細密なことも、色が濃いことも「こまやか」といい、細かいと濃いとは通じるので、きめ細かな肌を「こはだ」といいそうである。また「互いに枕を交わす」とあるので、肌を歌うのも似つかわしい。『万葉集』巻二には「妻の命の、なよやかな柔肌も、わが身に添えて寝られないので」、巻十四には「新肌に触れた娘のいとおしいこと」などがある。『神名帳』には、大和国宇陀郡の岡田小秦神社も見える。これは「おはだ」と読むべきで、無関係かもしれないが、筆のついでに注意を促しておく。「袁」は結びの句に掛けて理解する。呼び掛けの「よ」としてもよいだろう。

「迦微能碁登」は「神のように」で、神は雷をいう。「岐許延斯迦杼母」は「聞こえていたけれども」。『日本書紀』には末尾の「も」がない。日向国という遠い場所なので、ただはるか遠くのものとして噂に聞いていた、という意味である。有名な美女として聞いていたという意味ではない。『万葉集』巻十三の「神のごと、聞こゆる滝の」は、音高く聞こえる意味で、ここより少し意味が違う。巻六の「鳴る神の、音のみ聞きし、三吉野の」(雷のように名ばかり聞いていた吉野の)、巻七の「鳴る神の、音のみ聞きし、巻向の、檜原の山を、今日見つるかも」(噂にだけ聞いていた巻向の檜原山を今日見た)、巻十一の「天雲の、八重雲隠り、鳴る神の、音にのみやは、聞き渡りなむ」(幾重もの雲に隠れる雷のように、ずっと噂に聞くだけで終わるのか)などは、ただ音や噂だけを聞くことへの前置きである。「阿比麻久良麻久」は「互いに枕を交わして寝る」ことである。契沖は、『日本書紀』継体天皇紀の勾大兄皇子の歌「妻の手を私が枕にしよう、私の手を妻に枕にさせよう」と同じだとする。その意味はよいが、「相枕」という一語ではなく、「あひ」と「まくらまく」に分けて読むべきである。「相」は互いにということ。「枕」という名は、もとは巻くことから出た。昔の袖は横に長かったので、巻いて枕にしたためである。それをもとに、実際には袖を巻かなくても、枕にすることを一般に「まく」といい、「手をまく」「手枕まく」などという。「枕をまく」は語が重なるようだが、歌を歌う、舞を舞うと同じく、物と動作を重ねていうのは普通である。上巻の歌の「玉手さしまき」は、男女が互いに手を差し交わして枕にすること。倭建命の歌の「たわやかな腕を、枕にしようと、私はするけれど」、万葉巻二の「栲の布のような腕を枕に交わし、太刀のように身に添えて寝た、若草のような若い妻は」、「美しい枕として交わし」、巻三の「家にいれば妻の手を枕にしよう」、巻十二の「玉釧の手を交わして寝た妻も」、「ともに枕を交わして寝た妻を」、巻十四の「妻の袖を枕に、巻来の山の」など、ほかにも多い。

「古波陀袁登売波」は、『日本書紀』には最後の「は」がなく、ない方がよく聞こえる。この歌は、前の歌でいい尽くせない気持ちを、もう一首に歌ったものなので、初めの二句が全く同じである。「阿良蘇波受」は「争わず」で、承知せず嫌がることもなく、受け入れて従ってくれたことをいう。「泥斯久袁斯叙母」は、『日本書紀』には「も」がない。「ね」は寝ること。「しく」は添え語の中でも一つの型である。『万葉集』巻七の「わが夫などどうなってもよいと、背中を向けて寝たことが、今は悔しい」、巻十四の「いとしい妻などどうなってもよいと、背中を向けて寝たことが、今は悔しい」も同じ型である。巻四の「思っていたとおり、妻の面影が見える」、巻七の「玉を拾ったことは、いつも忘れない」、巻八の「来たこともはっきりと」、巻十の「恋しさは、心長く続くものなのに」、巻二十の「恋しいことの多い私は」などの「しく」もみな同じである。この中の「寝しく」「拾しく」「来しく」は、「し」が過去を表すように聞こえるが、そうではない。「恋しく」は過去のことをいうのではないから、それでは説明できない。また、この「恋しく」は、普通の「恋しく思う」などの「しく」でもない。したがって、ここで挙げたものはいずれも、「しく」という独立した一型の助辞なのである。その後の「し」「も」も添える語である。「をしぞ」という続きは普通に多く、「ぞも」の例には、巻十三の「あなたこそ私の思い人という、私こそあなたの思い人という」、巻十五の「ほかの人より、妻こそ困ったものだ」などがある。「宇流波志美意母布」は、いとおしく思うことで、『日本書紀』には「意」がない。『万葉集』巻十五の「うるわしいと、私が思う妻を」、『日本書紀』神代巻の「わが愛しい妹」「愛しい、わが夫よ」「友と親しくする」なども例である。友との交わりにいうのも、男女の間にいうのも、本来は同じ意味である。

古事記伝 巻三十三――明宮の巻、中。本居宣長が謹んで著す。

【古事記本文】また吉野の国主たちは、大雀命が腰に佩く御刀を仰ぎ見て、歌った。

【古事記本文・歌】ほむだの日の御子、大雀、大雀。その佩いていらっしゃる太刀は、根元から切っ先まで切れ味鋭く、振れば、冬の木の枯れ落ちる葉がさやさやと鳴る、その音のように、さやさやと澄み輝く。

【宣長の注釈】「又」は、前にも歌を挙げ、さらに歌を挙げようとするためである。吉野は前に、『伝』巻十八の六十三葉に出た。「国主」は白檮原宮の段では国巣、『書紀』では国樔、後世の書ではみな国栖と書く。ここだけ主の字を使うのは珍しく異例である。
白檮原宮の段でもいったように、「くず」は後の音便で、もとは「くにす」だったのだろう。それが「にす」と「ぬし」の音が通って似て聞こえるため、このようにも書いたのだろう。国主は「くにぬし」で、にぬが自然に縮まって「ぬ」となり「くぬし」となる。その「ぬし」と「にす」が近く聞こえるためである。師は、「くにぬし」の意味で「ぬ」を省き、しをすに転じたのか、宮主にもぬを省く例がある、とした。しかし、くにぬしの意味というのは、国主の漢字の意味どおりの名と思ったのだろうか。いずれにせよ、この主は漢字の音を借りたのではなく、仮に当てた字であり、国の主という意味の名ではない。国巣については白檮原宮の段、『伝』巻十八の七十一葉に述べ、さらに後でも述べる。

【宣長の注釈】「大雀命の佩く御刀を仰ぎ見る」。これは次に大御酒を醸して奉るとあるのと、同じ時の出来事か。それとも別の時でもよい。

【宣長の注釈】「本牟多能」は品陀天皇の、という意味だ。この御名の多は、ほかではみな陀と書くので、濁って「だ」と読む。「比能美古」は日の御子。この呼称は、倭建命の段の歌の所、『伝』巻二十八の十一葉に述べた。「意富佐邪岐」は大雀命で、同じ語を繰り返すのは古歌の常である。「波加勢流多知」は、佩いていらっしゃる太刀をいう。
「母登都流芸」は「本つるぎ」で、「本」の意味は後の説明を待ってほしい。「つるぎ」は、上巻の都牟刈の大刀の所、『伝』巻九の三十五葉に述べたように、「つむがり」が縮まった名で、もとは刀が物を鋭く切断する様子をいう語である。そのため刀の切れ味をほめ、「つるぎの刀」「つるぎだち」、単に「つるぎ」ともいって、鋭い刀そのものの名にもなった。ここは本来の意味で御刀をほめる語で、刀の名称をいったのではない。
師は、上代の御物なので昔の剣の意味で本剣といい、『万葉集』の「もとほととぎす」と同じだとするが、どうだろう。ほととぎすの場合は、去年も来たという意味で「もと」というので、古代の剣を「もとつるぎ」とはいえない。また「本」は、次の「末」に対していったのだ。

【宣長の注釈】「須恵布由」は「末振」で、「末」は前の「本」に対し、太刀を振ることをいう。「ふゆ」の詳しい意味は次を見てほしい。振ることを「ふく」という例は、上巻で伊邪那岐大神が十拳剣を背後に「ふきつつ」とあるのを、『書紀』が「揮」と書くことによる。また『書紀』に見える須佐之男命の五世の孫、天之葺根神は、『古事記』の大国主神の父、天之冬衣神と同じ神らしい。これは『伝』巻九の五十八葉で述べた。大刀に縁のある名と思われるので、「ふく」を「ふゆ」ともいい、どちらも「ふる」と同じ語なのだろう。
別の考えでは、「ふゆ」は次の「ふゆき」の初めを先に口に出し、繰り返したものかもしれない。上代の歌は歌われたものなので、そのような例も時々ある。水垣宮の段で「みまきいりびこはや」の前に「こはや」とあるような例だ。
「布由紀能須」は「冬木のす〔冬木のように〕」である。師は古木のようにとするが、どうだろう。「なす」を「のす」という例は、『万葉集』巻十四・十三丁の「波にあふのす〔波に遭うように〕」「小楢のす、まぐはし子ろは」「高き嶺に、雲の付くのす」、巻二十の「白玉を手に取って見るように、家にいる妻にまた会いたいものだ」など、なお多い。
「なす」は稲掛大平のいうように「似す」という語なので「のす」ともなる。「似る」が「のる」とも活用するためである。『万葉集』には春にかかる枕詞「冬木成」が所々にあり、それを冬木盛の写し誤りとする師の説は、動かせないほどもっともに思われる。しかしここに、確かに「ふゆきのす」とあるので、あちらの例も疑いがないわけではなく、なお考えるべきだ。この「冬木のす」は、ただ「枯」という語にかかる枕詞で、「からがしたき」という句全体の意味にかかるのではない。

【宣長の注釈】「加良賀志多紀能」は「枯が下木の」である。枯を「から」ともいうのは、高津宮の段の枯野が、歌では「からぬ」となる例などと同じだ。この枯は前の歌の枯と同じ意味で、葉が落ちてなくなることをいう。「下」は、出雲国造神賀詞の「いつみ高に天下を知ろしめす事のしため」の「した」と同じで、下の方という意味だ。「しため」は下の方が見えることをいう。ここでは俗な言い方なら、葉が落ちる下地、つまり落ちようとしている様子である。延佳も契沖も、前句の最後の「す」を次の句の頭に付けたのは誤りで、伊勢の神宝の須我流の横刀を引いたのも、ここには合わない。
この二句は、次の「さやさや」を導く序である。木の葉が落ち散ろうとする頃、木枯らしに揺れる音がさやさやと鳴る、というつながりになる。高津宮の歌に「なづの木のさやさや」、『万葉集』巻二・十九丁に、笹の葉が山いっぱいにさやさやと乱れても、白檮原宮の歌に「木の葉さやぎぬ」、巻十に、萩の葉がさやぎ、秋風が吹いて来る、という例がある。
「佐夜佐夜」は「清々」、澄みきっていることである。前の句からのつながりは木の葉のざわめく音だが、歌の中心となる意味は、澄んでいることで、両者の意味は異なる。御太刀の刃が優れている様子を見てほめる語で、後世の「抜けば玉散る」「氷の刃」などに通う表現である。

【宣長の注釈】師は、『万葉集』の「つるぎの後、玉纏田井」というつながりのように、昔の太刀では尻鞘に美玉をたくさん結び下げたのを「末振」といい、振と古木とで音を響かせて重ね、古木の枯れ枝に嵐が吹き渡る音のように、玉が触れ合ってさやさやと鳴ることを述べた、上代にして巧みに続けた歌だとする。しかし、どうだろう。太刀をほめるのに玉の音をいうのも疑わしく、玉と述べていないのに、推して玉とするのもどうか。玉の音なら、必ず玉といわなければ意味が通じないことになる。しかも太刀の尻を飾る玉は鞘に付いていて動く物ではないのに、どうして触れ合って鳴ろうか。枯れ枝がさやさやと鳴るのも、どうだろう。葉があってこそ、その音はするはずだ。また師の説では「した」という語の意味も通じない。

【宣長の注釈】「本」「末」は、根元から先までという意味である。根元から先まで「つるぎ」、鋭く優れて見え、振るととても澄んで見えることを、根元と先の二方に分けていうのだ。根元だけがつるぎ、先だけがさやさやというのではなく、根元・先の両方が、つるぎにもさやにもかかる。
これは古語の常である。『万葉集』巻一の、朝は船を並べて川を渡り、夕方は船を競わせて川を渡る、という歌も、並べる・競うの両方が旦川・夕河の両方にかかる。朝だけ並べ、夕方だけ競うのではない。巻三の、朝の狩りに鹿・猪を踏み起こし、夕方の狩りに鶉・雉を立たせる、という歌も、朝は鹿・猪、夕方は鶉・雉という限定ではない。朝夕の狩りで獣を踏み起こし、鳥を飛び立たせる意味である。これらにならって理解すべきだ。

【古事記本文】また吉野のかしふで横臼を作り、その臼で大御酒を醸した。それを奉るとき、口鼓を打ち、芸をしながら歌った。

【古事記本文・歌】かしふで横臼を作り、横臼で醸した大御酒を、おいしく召し上がれ、我が君よ。

【古事記本文】この歌は、国主たちが大贄を奉るたび、いつも今に至るまで歌い続けている歌である。

【宣長の注釈】ここで国主たちといい直さないのは、前の文を受け、「また」にその主語を含めたからだ。「白檮上」の上は、歌に照らすと、生の誤りだろう。白檮という地名で、歌の「ふ」に当たる生の字が脱け、上は「宇治野の上」などの上かとも考えられるが、そうではあるまい。また白檮という地名で、ふ・ほが通じて「上」という意味かとも思うが、単に白檮という地名も不審で、上を「ふ」という例もない。したがって「かしふ」と読むべきで、歌の所の説明とも照らしてほしい。
「横臼」は歌で「よくす」とあっても、通常は「よこうす」と読むべきだ。歌は調子によって延ばしたり縮めたりするので、一般の語を必ず歌どおりにする必要はない。ただし歌と同じ読みでも悪くはないだろう。
「横」は形による名だろう。今「竪臼」というものがあることから、背の高い臼を竪臼、低い臼を横臼とするのだろう。竪臼は、立っている臼という意味ではあるまい。横臼に対する名だからだ。契沖は、普通の臼は木を縦にくぼめるが、これは横にくぼめたのでそう呼ぶのかとするが、そうではあるまい。

【宣長の注釈】「醸大御酒」。訶志比宮の段の歌にも、この酒を醸した人は鼓を臼に立て、歌いながら醸したのか、舞いながら醸したのか、とある。上代の酒は、飯を水に浸したものを臼へ入れ、踏み鳴らすように搗いて造った。ある人は、上古の酒は一夜酒といい、米を一昼夜水に浸して臼でひいたものだとするが、米というのは違い、飯を浸すのである。また臼でひくというのも上代の方法ではない。『万葉集』巻十六には「うまい飯を、水に醸しなす」とある。前に引いた歌の、歌い舞いながらというのは、臼で搗く際の動作である。大神宮儀式帳の酒作物忌の職掌に、陶工が作って進める三口の甕に、碓で搗いた白御酒を用意して奉る、とあることからも、搗いたとわかる。
貞観儀式の大嘗の酒の条に陶臼があるのは、このためか。大嘗会式にも陶臼三十口とある。また臼四腰・杵八枝は、御酒に用いる米を搗く道具らしい。しかし考えると、ここで奉った酒は『書紀』では醴酒とあり、一夜酒だから臼で搗いたのかもしれない。儀式帳も白御酒とするので、上代でも醴酒だけを臼で搗き、すべての酒がそうだったのではないかもしれない。訶志比宮の歌の酒も醴酒だったのか。一方、上代の醸造はすべてこのようで、『書紀』が歌の横臼という語から推して醴酒と書いた可能性もある。
酒を造ることを「かむ」という理由は、前に、『伝』巻九の三十一葉に述べた。

【宣長の注釈】「撃口鼓」は、『書紀』では打口とある。今いう舌鼓を打つ動作なのか、それとも上下の唇をはじいて音を出すことなのか。「撃」の字に従えば、口を開いて喉から声を出し、掌で打つことかとも考えられるが、そうではあるまい。「撃」は、鼓というために使った語にすぎないのであろう。

【宣長の注釈】いずれにせよ、そのしぐさは、酒を飲んでおいしそうな顔をすることなのであろう。【『日本書紀』の「仰いで笑う」というのも、酒を飲み、楽しくなって笑いをこらえきれない様子を演じるのである。】

【宣長の注釈】「爲伎」は「わざをなして」と読むべきである。【師の賀茂真淵は「まひをなして」と読んだ。私も以前は、下巻の朝倉宮の段にある御歌の「まひするをみな」によって「まひして」と読んだ。しかし、よく考えると、『日本書紀』には舞のことがなく、後世に至るまで国栖については「歌笛」とだけ記され、舞は諸書に見えない。この『古事記』でも「舞」でなく「伎」の字を用いている。これらを考え合わせると、舞と呼ぶような動作ではなかったのだろう。】『日本書紀』の「口を打って仰いで笑う」がこれに当たる。【仰向いて笑うのは、本当におかしくてそうするのではなく、わざとそのしぐさをするので、「爲伎」と記したのである。】

【宣長の注釈】「加志能布爾」は「白檮之生に」、すなわち「かしのふという土地で」ということである。今も樫尾村という場所があり、国栖に近い。これがその土地である。【『延喜式』神名帳には大和国吉野郡の川上鹿塩神社があり、現在は大蔵明神というそうである。】この地名は、もとはカシの木が生えていたことに由来するのであろう。「鹿塩(かしほ)」とあることから考えると、もとは「かしふ」といったのを【「ふ」と「ほ」は通じる音である】、ここでは歌なので調子を整えるために「の」を加えたのか。それとも、もとは「かしのふ」といったのを、やや後に「の」を省いて「かしほ」になったのか。【古く「の」といったところを後に省いた例は多い。】今はどちらとも決めがたい。【契沖は、先の本文の「白檮上」について、国栖の言葉には訛りもあるようだから「上」を「ふ」と通わせていったのか、「白檮」は地名か、カシの木を敷いたその上なのか、また今の『古事記』の本が「生」を誤って「上」としたのか、と述べた。そのうち、地名かという見解と、「生」を「上」に誤ったかという見解はよい。それ以外はすべてよくない。】

【宣長の注釈】「余久須袁都久理」は「横臼を作り」である。【「こ・う」を縮めて「く」という。】「余久須爾」は「横臼に」である。「迦美斯意富美岐」は「醸みし大御酒」、すなわち「醸した大御酒」である。『日本書紀』では「迦美斯(かみし)」が「迦米流(かめる)」となっている。【「かみし」と「かめる」は意味がわずかに違う。ここではどちらでもよいが、「かめる」の方が少し優れている。前者は醸した過去をいい、後者は醸し上がっている状態をいう。この二つの活用の形には、どの動詞でも違いがあるのに、今の人はその区別をわきまえず、同じように使っているようだ。】

【宣長の注釈】「宇麻良爾」は「おいしく」というのと同じである。『日本書紀』顕宗天皇の巻の、家の完成を祝う室寿の言葉には、「新しく開いた田の、十握(とつか)と称えられる長い稲穂で、浅い甕に酒を醸した。おいしく飲み召し上がれ、おいしく飲み召し上がれ」とあり、その「美飲喫哉」を「于魔羅俑鳥野羅甫屢柯侫也」と音で示している。【このうち「をやらふる」がどういう意味なのか、私にはわからない。】

【宣長の注釈】「岐許志母知袁勢」は「きこし・もち・をせ」である。「もち」は添えた言葉である。【契沖は、「も」と「め」、「ち」と「し」はそれぞれ同じ韻で通じるから「きこしめしをせ」であると説明したが、これは無理な解釈である。】「をす」は「めす」と同じ意味なので、全体では「きこしめせ」、すなわち「召し上がれ」となる。「飲む」を「をす」という例は、訶志比宮の段の大后の御歌にもある。

【宣長の注釈】この二句に注目したい。自分が献上する酒を、このように「おいしく召し上がれ」というところに、人の真心があったのである。古代には、神に物を献じる際もその品のよさを称え、人に物を贈る際も自分が費やした労力や思いの深さを述べた。中世に至るまで、歌ではみなそのような心を詠んだ。それが後世には逆になり、贈り物やもてなしの際、へりくだる言葉だけをよいとする。宣長は、これは中国の風習が移ったもので、真心ではなく表面だけの偽りの言葉だと批判する。たとえば、人からもらった物は、少なく質が悪くても、たくさんのよい品だったように礼をいい、自分が贈る物は、美しく大きくても、粗末で小さな品だという。相手からもらった品とこちらから贈る品が全く同じ程度なのに、言葉が正反対なのだから、偽りであることは目に見えている。それでも世間の習慣になると、それをよいことだと思っているようだ。この国栖の歌も、後世の人ならこのように詠んだだろうか。あれほど山奥に住む身分の低い者が、たいへん恐れ多い天皇の御前に品を献じるなら、どれほどへりくだる言葉を述べたことだろう。それなのに「おいしく召し上がれ」と申し上げている。ここから古代人の心の率直さを考えるべきである。後世の人は心の中ではすばらしい品だと誇りながら、口ではひどくへりくだる。宣長は、こうした例からも「漢国意」、すなわち中国風の考え方には、真実でないことが多いと知るべきだという。

【宣長の注釈】「麻呂賀知」の「麻呂」は、「われ」「おのれ」などと同じ、自分をいう言葉である。【これは非常に古い呼び方だが、奈良時代以前の書物では、ここ以外には見当たらない。平安京の時代の書物には、普通に数多く現れる。古代の人名にも「麻呂」が多いが、それもこの自称から出たのであろう。契沖がここで『日本書紀』継体天皇の巻の「よいことだ、麻呂古よ」などの文を引用したのは、「麻呂古」を「わが子」という意味だと考えたからであろう。しかし同じ巻に「朕の子、麻呂古」ともあるので、これは勾大兄皇子の別のお名前とみられる。このほかにも「麻呂古」という名は幾つか見える。ただし、その名もみな「わが子」という意味でつけたのであろうか。さて師の説では、自分を「まろ」と称するのは、賢いことを「かどあり」というのに対して、「かどがなく丸い」という意味で、拙く愚かな自分をいう呼び方だ、と師は説明した。しかし、それは古代の言葉のあり方とは思えず、中国風の考え方のように感じられる。

【宣長の注釈】「知(ち)」は人を尊んでいう呼び方で、葦牙彦遅神(あしかびひこぢのかみ)の「ぢ」などと同じである。上巻『伝』巻三の二十八葉に述べた。ここでは「わが君」という意味で、天皇を指して申し上げている。【必ずしも「父」という意味ではない。「父」と呼ぶのも尊んでいうので、その用法の一つではあるが、初めから父だと受け取ると、語の意味の本末を取り違える。「ち」は父に限られない尊称である。契沖が直接「父」と解いたのは十分でない。天子は民の父母だからそういうのだとする説明は、さらに中国風の考え方であって、そのような意味でいったのでは決してない。また、師は、この時の国栖は「君」という言葉を知らず、「父」を天下の尊称にしたのであろうと説いたが、これもどうであろうか。】

【宣長の注釈・『日本書紀』の引用】「十九年の冬十月、天皇は吉野宮にお出ましになった。その時、国栖の人々が参朝し、醴酒を献上して歌った。〔歌は省略。〕歌い終わると、口を打ち、仰向いて笑った。今、国栖が土地の産物を献上する日に、歌の後で口を鳴らして仰向いて笑うのは、上古から伝わるきまりなのであろう。国栖の人々は、たいへん素朴で飾り気がない。ふだん山の果実を採って食べ、またカエルを煮て最上の味とし、これを『毛瀰(もみ)』と呼ぶ。住む場所は都の東南、山を隔てた吉野川の上流で、峰は険しく谷は深く、道は狭く急である。そのため都から遠くはないが、もとはめったに参朝しなかった。しかし、この時から後は、土地の産物を献上するためにたびたび参上した。その産物は、栗、キノコ、アユなどである」とある。

【宣長の注釈】「大贄を献ずる時々、恒に……」について。「大贄(おほにへ)」は、朝廷に献上する食べ物である。この段にも「海人が大贄を貢ぐ」とある。『日本書紀』仁徳天皇の巻には、海人が新鮮な魚を包んだ贈り物を献上しようとして、まず菟道宮へ持参した話がある。また、猪名県の佐伯部十組が苞苴を献上し、天皇が膳夫に「その包みは何か」と問わせると、「牡鹿でございます」と答えた話がある。『和名抄』は、『唐韻』の「苞苴は魚肉を包んだもの」という説明を引き、『日本紀私記』では「おほにへ」、俗には「あらまき」という、と記す。【「大嘗(おほにへ)」と語のもとは同じだが、指している事柄は違う。】国栖が献上したのは、『日本書紀』にあるように栗、キノコ、アユなどであろう。【後世の書物にその品目の記録は見当たらない。】「時々」は、そのたびごとに、という意味である。

【宣長の注釈】「詠む歌である」について。『新撰姓氏録』の大和国神別に、「国栖は石穂押別神の子孫である。神武天皇が吉野に行幸した時……その時、詔によって国栖という名を賜った。その後、孝徳天皇の御世に初めて名を賜った者が、国栖意世古と、次の号世古の二人である。允恭天皇の御世、乙未の年中、七つの節会に御贄を献上し、神態を奉仕して、今まで絶えていない」とある。【この文のうち、神武天皇の御世のことはその段で引用したので、ここでは省いた。さて「孝徳」の「徳」は誤字だろうか。允恭天皇より前に置かれているからである。また「号世古」の「号」は「乎」の誤りだろう。「神態」とは、ここにいう口鼓を打ち、しぐさをして歌うことをいう。古来の風俗なので「神態」というのである。国栖の人が書物に見える例としては、『続日本紀』巻三十一に、正六位上の国栖小国に外従五位下を授けたという記事がある。】

【宣長の注釈・儀式書の引用】弘仁の『内裏式』の元日儀礼には、「酒杯がひと巡りすると、吉野の国栖が儀鸞門の外で歌と笛を奏し、御贄を献上する。【外国の使節がいる場合は奏さない。他の儀式もみなこれに準ずる。】」とある。正月七日の節会には「最初の酒杯の後、吉野の国栖が御贄を献上し、歌と笛を奏する」とある。十六日の踏歌の儀式や十一月の新嘗会の儀式などにも、このことが見える。『貞観儀式』の大嘗祭の儀礼には、「宮内省の役人が、吉野の国栖十二人と楢笛を吹く者十二人を率い、【いずれも青摺りの布衫を着る】朝堂院の南左掖門から入り、位置について古風を奏する」とある。また「群官が初めに入る時には隼人が声を発し、皆が立つ位置に落ち着くとやめる。それが終わると国栖が古風を五回奏し、次に……」とある。同じ大嘗祭の辰の日の儀礼にも「最初の酒杯の後、吉野の国栖が儀鸞門の外で歌と笛を奏し、併せて御贄を献じる」とある。新嘗会、元日、正月七日、十六日の踏歌の各儀式も同様である。また九月九日の儀礼には「酒杯が一度か二度回った後、吉野の国栖が承明門の外で風俗の歌を奏する」とある。【儀鸞門は豊楽院の正門、承明門は内裏の正門である。】

【宣長の注釈・『延喜式』などの引用】『延喜式』大嘗祭式の卯の日の儀礼には、「宮内省の役人が吉野の国栖十二人と楢笛を吹く者十二人を引率し、【いずれも青摺りの布衫を着る】朝堂院の東掖門から入り、位置について古風を奏する」とある。太政官式の大嘗祭の条にも「吉野の国栖が風を奏する」とある。【「楢笛」とは、どういう笛であろうか。あるいはナラの葉を巻いて笛にしたものなどをいうのだろうか。「楢」の字は、『儀式』のある本では「榴」、別の本では「猶」とする。】宮内省式には「諸節会では吉野の国栖が御贄を献じ、歌と笛を奏する。各節会とも十七人を定員とする。【国栖十二人、笛を吹く者五人。ただし笛を吹く者のうち二人は山城国綴喜郡にいる。】十一月の新嘗会では各人に禄を与える。【位のある者には調の布二端、位のない者には庸の布二段。】」とある。また、諸節会で群官に饗宴を賜う対象の規定では、正月一日と十六日、九月九日の三節会について、親王以下の者を列挙する中に、国栖と笛を吹く者を挙げる。正月七日と十七日、五月五日、七月二十五日、十一月の新嘗会の五節会についても、親王以下の者とともに、国栖と笛を吹く者を挙げる。民部省式には「吉野の国栖には、永久に課税と労役を課してはならない」とある。

【宣長の注釈】『政事要略』巻二十七、十一月の第三の項目には、『清涼記』を引いて、新嘗祭の中の辰の日の節会について、「吉野の国栖が承明門の外で歌と笛を奏する。【歌詞は『賀芝乃……』という。】御贄を進める」などとある。同書が歌詞として載せるのは、ここにある歌が訛ったもので、「賀芝乃不爾(かしのふに)、與古羽須遠惠利天(よこはすをゑりて)、賀女多於保美岐(かめたおほみき)、味良居於世古世丸賀朕」となっている。【国栖が代々伝えてきた間に、このように歌い方が訛ったのであろう。しかし中世まで歌い伝え、奉仕を絶やさなかったのは、実にすばらしいことであった。それなのに、その後、国栖が参上しなくなり、この歌を歌うことが絶えたのは、たいへん残念である。

【宣長の注釈】「賀女多(かめた)」は「醸した」という意味だろう。「居」は写し誤りなのか、それとも「け」と歌ったままを記したのか。「於世古」は音仮名が乱れている。「古世」は、『万葉集』に多い「こそ」なのか。平安京以後の歌では、それを「こせ」と詠んだ例があるからである。「朕」は、「ち」が訛って「ちん」と歌ったために、この字を使ったのだろうか。そうでなければ、この字は使わないはずである。】さて、上の諸書は「歌笛を奏する」といい、笛についても記しているが、この『古事記』にも『日本書紀』にも笛を吹いたことは記していない。それは「伎をする」という表現に含めたのであろう。【笛は少し後になって付け加えたものだともいえようが、そうではあるまい。初めからあったことだろう。その笛は「楢笛工」と見えるので、先にいったようなものかと思われる。しかし『北山抄』の大嘗会の条に「国栖は古風を五回奏する。『承平記』には、その笛は指で穴をこするようだとある」と記すのは、音がそう聞こえるということなのか、本当にそのように演奏するのか。この笛については、さらに考える必要がある。】

【宣長の注釈】『小右記』の寛弘八年〔一〇一一年〕正月一日乙亥の条には、「国栖の奏はなかった。参上しなかったためである。近年はそうである。大和守の頼親の時に徴発されてから、すでに参上しなくなった」などとある。このころから、国栖の人が宮中に入って奉仕することは絶えたのである。【この後の『江家次第』などの書物にも、節会に「国栖が承明門の外で歌と笛を奏する」とあるのは、実際の国栖の人ではなく、ただその模倣にすぎない。『公事根源』の元日節会の条には、「今、国栖の奏として歌を歌い笛を吹き鳴らすのは、吉野から年始に参上したという意味である」とある。『近代年中行事細記』の元日節会の条には、「次に国栖の奏……。私にいう、国栖というのは楽人一人が南階の石敷きの下に控え、歌と笛を奏すること。笛は双調の音取」とある。また白馬の節会の条には「次に国栖の奏。音取は平調」、踏歌の節会の条には「国栖の奏。音取は壱越調」とある。楽人が笛で音取を吹き、その模倣をするのである。】

【古事記本文】この天皇の御世に、海部・山部・山守部・伊勢部をお定めになった。また剣池を造った。また新羅の人々が渡って来たので、建内宿禰命が彼らを率い、堤や池を造る労役に就かせ、百済池を造った。

【宣長の注釈】「此の御世」は、後の「また須須許理らが渡って来た」まで、広い範囲にかかる言葉である。「海部」は「あま」と読む。【「部」を別に「べ」と読むのは誤りである。】『和名抄』でも、尾張や紀伊などの郡名「海部」を「あま」と記している。海部については、下巻の甕栗宮の段の御歌に「しびつくあま」などとある。上巻やこの後の本文、また『日本書紀』『万葉集』などでは「海人」と書く。『日本書紀』『万葉集』には「白水郎」、『万葉集』には「泉郎」「漁人」「海夫」などの表記もある。『和名抄』は、『弁色立成』に「白水郎」とあるのを引き、「今考えるに『日本紀』では『漁人』の二字を用い、別の説では『海人』の二字を用いる。和名は『あま』」とする。【「白水」は「泉」の字を分けたものであろう。実際に「泉郎」とも書く。】また「漁子」【和名「いをとり」】、「漁父」【「むらぎみ」】、「潜女」【「かづきめ」】なども、すべて海部の仲間である。

【宣長の注釈】「山部」について。『日本書紀』顕宗天皇の巻には、「上道臣らを厳しく責め、その領有する山部を奪った」とある。【安閑天皇の巻の「筑紫国胆狭山部」は、豊前国に諫山郷があるので、そこの「部」であって、「胆狭の山部」という区切り方ではあるまい。】山部連という姓もある。これについては次に述べる。「山守部」は山を守ることを職務とする、部の民の一種である。【大山守命はこれらの部を統轄なさった。先の「山海の政をする」とあるのがこれである。後の山部連という姓も、この部を管理することを示す。】『日本書紀』には「五年秋八月、諸国に命じて海人と山守部を定めた」とある。顕宗天皇の巻には、小楯が「山を管理する役職はかねてからの願いです」と申し上げたので、その役職に任じ、姓を山部連氏と改めて授け、吉備臣を補佐とし、山守部を支配下の民とした、とある。【「山守部を民とした」は、小楯と吉備臣の双方にかかる。】また、狭々城山君の韓帒宿禰を陵墓に仕える民とし、山も守らせ、戸籍から除き山部連に属させた、という記事もある。これらを考えると、山部と山守部は別の二つではなく、同じものと思われるのに、ここで別々に挙げたのはなぜだろうか。『日本書紀』に「山部」がない方が正しいのであろう。

【宣長の注釈】『万葉集』巻二には「ささなみの大山守は、誰のために山に標縄を張るのか。主君はもうおられないのに」とある。巻三には「山守がいたとは知らずに、その山に標縄を張り立てて」とあり、また「山の主は、たしかにいるだろうが」とある。巻六には「大王が境を定めなさったとして、山守が居て守っているという山」、巻七には「山守の里の辺りを通る山道だ」とある。【巻二の「大山守」の「大」は、ささなみの山が大津宮の近くの山で、特別な由緒があることから、その山守を敬っていう言葉である。「大御座」などの「大」と同じである。】『続日本紀』巻五には「初めて守山戸を置き、諸山の木を伐るのを禁じさせた」とある。【「初めて置いた」とは、当時はこの部が絶えて存在しなかったため、改めて置いたのだろうか。】

【宣長の注釈】「伊勢部」について。玉垣宮の段に「河上部を定めた」【『伝』巻二十四の十五葉】とあり、下巻の高津宮の段には「葛城部を定めた」、若桜宮の段には「伊波礼部を定めた」などとある。その土地の「部」と名づけ、その土地ごとに置いた例は多く、それぞれに由来がある。しかし、この伊勢部はどのような理由で定めたのか、わからない。『日本書紀』にこのことは見えない。【他の書物にも伊勢部というものは見当たらない。『日本三代実録』巻十四には大和国の「馬立・伊勢部・田中神」とある。これは三つの神社の名であろう。】

【宣長の注釈】「剣池」はすでに前に出てきた。【『伝』巻二十二の四十葉。】したがって、ここで「造った」というのは、以前からあった池が崩れていたのを、修復し直したのであろう。【同様の例はほかにもある。】『日本書紀』にも「十一年冬十月、剣池・軽池・鹿垣池・厩坂池を造った」とある。「堤池」は、堤と池の二つをいう。堤は川や池などの土手を築くこと、池は池を掘ることである。「つつみ」は、水を包み込んで外へ漏らしたりあふれさせたりしないという意味の名である。『万葉集』巻三に「あの山の堤でせき止められている海だ」などとある。『和名抄』には「隄は堤とも書く。和名は『つつみ』」とある。

【宣長の注釈】「爲役之」の「役」を諸本がいずれも「渡」とするのは誤りであろう。ここでは延佳本に従った。高津宮の段にも「秦人を使役して茨田堤と茨田屯家を造った」とあるからである。この三字は「えだたせて」と読むべきである。【「爲」は「たたせ」の「せ」に当てている。『古事記』にはこの例が多い。「之」は新羅人を指し、「これを」という意味で書かれているが、ここでは読みには出さない。】「えだち」は「役立ち」、つまり労役に立つことである。【「え」は漢字「役」の音読みではなく、もとからの古語である。水垣宮の段の「役病」の箇所、『伝』巻二十三の二十二葉と合わせて考えるべきである。】「え」は「充つ」を縮めた語なのか、詳しくはわからない。「たち」は、民がその仕事のために出立して赴くことをいう。『万葉集』巻十四・二十丁の「大君の命令を畏れかしこみ、愛しい妻の手枕を離れ、よだち来たことよ」は、「えだち」を東国の言葉で「よだち」といっている。巻十六・三十丁にも「課役に召し集めれば」とある。【今の本で「エダス」と読むのはよくないようだ。】ここでは、建内宿禰が渡って来た新羅人を率いて使役し、各地に堤を築き、池を掘らせるなどしたのである。

【宣長の注釈】「百済池」は、ここ以外には古い書物に見当たらない。「百済」は単に池につけた名なのか【これについては後で論じる】、それとも土地の名なのか。「百済」という土地は、『和名抄』に摂津国の百済郡【「くだら」と読む】、また河内国錦部郡の百済郷がある。『日本書紀』敏達天皇の巻の「百済大井に宮を置いた」、皇極天皇の巻の「百済大井家」などは、後者の土地である。【同巻の「石川の百済村」は同じ場所なのか、別の場所なのか。錦部郡と石川郡は隣り合っている。】また舒明天皇の巻の「百済川のほとりを宮の場所とした」「百済宮に移った」というのは、『日本三代実録』巻三十八に「大和国十市郡の百済川」とある所で、川は広瀬郡との境にある。【今も広瀬郡に百済村があり、この川に近い。古代の百済大寺もここである。舒明紀と『三代実録』を照らし合わせるべきである。天武紀の「百済家で武器を整えた」というのも、ここであろう。】『万葉集』巻二の「百済の原」もこの土地であり、巻八の「百済野」も同じだろう。【『大和志』は広瀬郡の百済池について、「百済村の西、広さ四百畝」と記している。ここでいう池は、この池なのだろうか。】

【宣長の注釈】この本文は、新羅人を使役して各地の堤や池を整え、さらに百済池を造ったという意味であるが、「而」という接続の字があるため、少し紛らわしく感じられる。【「堤」が百済池そのものの堤のように聞こえるが、そうではない。その読み方では、前にある「池」の字が余ってしまう。「而」を除いて「又」に替えれば意味が明瞭になるようだが、そうすると百済池を造ったことは新羅人の労役と結びつかず、別の一件になってしまう。そのため「又」とはいわないのである。】「而」は、新羅人を使役したという内容を、この池を造ったところまでつなぐ言葉である。さて、『日本書紀』では、「七年秋九月、高麗人・百済人・任那人・新羅人がそろって来朝した。その時、武内宿禰に命じ、諸韓人を率いて池を造らせた。そのため、その池を韓人池と名づけた」とある。

【宣長の注釈】この点には、さらに論じることがある。まず、『古事記』が「百済池」というのが地名によるのでなく、単なる池の名だとすると、新羅人を使役して造ったのだから「新羅池」と名づけるはずなのに、わざわざ「百済池」というのはなぜか。『日本書紀』の「韓人池」と合わせて考えると、百済国はとりわけ親しく朝廷に仕えた国だったからであろうか、諸韓国の中でも特に百済を「韓人」と呼ぶことがある。欽明天皇の巻の十七年の条には「韓人の大身狭屯倉、高麗人の小身狭屯倉」とあり、「韓人というのは百済である」と注する。また異伝にも「韓人・高麗人」とあり、高麗に対して百済を韓人と呼んでいる。そうすると、「韓人」と「百済」が同じ意味なので、もとは韓人池だったものを百済池ともいったのか。もしそうなら、最初の命名の意味としては、『日本書紀』のように諸韓人であっても、『古事記』のように新羅人であっても、「韓人」とはいえるから同じことである。その名を後に百済の意味に取って、百済池ともいうようになったのだろうか。あるいは、韓人を使役して造ったため本名は韓人池だったが、百済という土地にあることから百済池ともいうのだろうか。

【宣長の注釈】どちらにせよ、以上の考えによれば、『古事記』と『日本書紀』の違いは、一方が新羅人、他方が諸韓人とすることだけで、池は同じである。あるいは、両書はもともと別の伝承に基づき、池も別なのか。『大和志』は、韓人池は城下郡の唐古村にあり、今は柳田池というと記しているが、「唐古(からこ)」という村名から推し当てたのではないか。いつものように、確かではない。】

【古事記本文】また、百済の国主の照古王は、牡馬一頭と牝馬一頭を阿知吉師に託して献上した。〔原注:この阿知吉師は阿直史らの祖先である。〕また太刀と大鏡も献上した。また、天皇は百済国に、「賢い人がいたら献上せよ」と仰せつけた。そこで命令を受けて献上した人が、和邇吉師である。その人に『論語』十巻と『千字文』一巻、合わせて十一巻を託して献上した。〔原注:この和邇吉師は文首らの祖先である。〕また技術者として、韓鍛の卓素と、呉服の西素の二人を献上した。

【宣長の注釈】「百済国主」の「国主」は、「こにきし」とも「こきし」とも読むべきことを、神功皇后の段【『伝』巻三十の六十葉】で述べた。百済国についても、そこに出てきた。【同巻の六十五葉。】この国王の先祖について、『続日本紀』巻四十には「百済の遠い祖先の都慕王は、河伯の娘が太陽の精気に感じて生んだ者である」、また「百済の太祖、都慕大王は、日神の霊が降り、扶余を領有して国を開いた」などとある。都慕王は『新撰姓氏録』の各所にも見える。【大和朝臣・百済朝臣・百済公などの条で、刊本が「孝慕王」とする箇所も、古い本では「都慕王」である。】

【宣長の注釈・中国史書の引用】中国の書物『後漢書』は、扶余国について次のように記す。「初め、北方の索離国の王が外出している間に、侍女が身ごもった。王が戻り、彼女を殺そうとすると、『先に天から鶏卵ほどの大きさの気が私に降りてきました。それで身ごもったのです』といった。王は彼女を閉じ込めたが、やがて男の子を生んだ。王は子を豚小屋に捨てさせたが、豚が口の息を吹きかけたので死ななかった。馬小屋に移しても馬が同じようにした。王は神の子だと考え、母に育てることを許した。名を東明という。東明は成長して弓が巧みになった。王はその強さをねたんで再び殺そうとした。東明は逃げ、南の掩滞水に至り、弓で水を打つと、魚やスッポンが集まって水面に浮かんだ。それに乗って渡り、扶余に行き着いて、その王となった。」また『北史』百済伝は、この『後漢書』の記事を記した後、「東明の子孫に仇台がおり、仁と信に篤く、初めて帯方の旧地に国を建てた。漢の遼東太守、公孫度は娘を嫁がせた。ついに東夷の強国となった。初め百家が渡ってきたので、百済と名づけた」と記す。

【宣長の注釈・中国史書の引用】また『後漢書』は高句麗も扶余の別系統とする。『魏書』には次のようにある。「高句麗は扶余から出ており、自分たちの先祖を朱蒙という。朱蒙の母は河伯の娘で、扶余王に部屋の中へ閉じ込められたが、太陽に照らされた。身をよけても日光は追ってきた。やがて身ごもり、五升ほどの大きな卵を生んだ。扶余王はそれを犬に与えたが食べず、豚に与えても食べなかった。……そこで母に返した。母が物に包み、暖かい所に置くと、男の子が殻を破って出てきた。成長すると朱蒙と名づけた。その土地の言葉で朱蒙とは弓の名人という意味である。……扶余の臣たちがまた殺そうと企てた。母はひそかに知って朱蒙に告げた。……朱蒙は烏引・烏違の二人と扶余を捨て、東南へ逃げた。途中で大河に行き当たったが、橋がなく渡れない。扶余人の追跡は非常に急だった。朱蒙が川に『私は太陽の子で、河伯の外孫である。今日逃げて来たが、追っ手が迫っている。どうすれば渡れるのか』というと、魚とスッポンが一斉に浮かび、橋となった。朱蒙はそれで渡ることができた。……ついに普述水に至り、……紇升骨城に着いてそこに住み、国を高句麗と名づけた。」『北史』もこのように記している。

【宣長の注釈】この朱蒙の物語は、先の『後漢書』の東明の物語にたいへんよく似ている。違う部分は伝承の違いで、実際には同じ話と思われる。『続日本紀』の「河伯の娘」などという記述も、朱蒙の話に一致する。都慕・東明・朱蒙は音がやや近いので、朝鮮の音では特に近く通じ、実際は同じ人物であろうと宣長は考える。『梁書』が「高句麗の先祖は東明から出た」として、先の東明の話を記し、高句麗の祖とするのは、朱蒙と混同したのか、それとも朱蒙こそ東明だと理解して記したのか。いずれにしても適切であろう。さて、朝鮮の『東国通鑑』は「百済の始祖、高温祚王」といい、以後の各代を記し、氏は扶余とする。始祖の元年を漢の成帝の鴻嘉三年に当てている。それは垂仁天皇の十二年に当たる。〔以上は宣長の年代の対応と人物同定である。〕

【宣長の注釈】このように百済は、息長帯比売の大后の時から皇朝に帰服し、代々、とりわけ親しく忠実に仕えてきた。【そのため、百済から来て日本にとどまった人は多く、代々の王の子孫も多い。『新撰姓氏録』の「諸蕃」の部には、そうした氏が多く載っている。】しかし、斉明天皇六年に、新羅と唐によって国を滅ぼされた。義慈王という王の代であった。

【宣長の注釈】その時、義慈王の子の豊璋と禅広の二人は、日本に来て住んでいた。豊璋は本国へ帰され、その後のことがあったが、禅広は日本にとどまった。持統天皇の御世に「百済王」という称号を賜ってから、その子孫が受け継ぎ、氏とカバネになった。「百済」が氏で、「王」がカバネである。「王」は「こにきし」と読むべきで、「おほきみ」と読むのは大きな誤りである。『日本書紀』はこの二人を余豊璋・余禅広とも記す。「余」は百済王の姓である。また「善光」とある人物は、禅広と同じなのか別人なのか、詳しくはわからない。禅広の子は昌成、その子は良虞と南典、良虞の子は敬福である。このほか、代々の史書に多数出てくる「百済王某」という人々も、みなこの氏に属し、それぞれ官位を賜り、完全に日本の朝廷の臣下の列に加わっていた。この氏は平安京の時代にも続き、『新撰姓氏録』右京諸蕃に載る。河内国交野郡には、この氏の住居跡という場所が今もあるそうで、そこには百済寺もある。『西宮記』には、百済王氏の人が交野の検校に任じられたことも見える。】

【宣長の注釈】「照古王」について。【師は「芭蕉」などの字音の例にならって「せをこわ」と読んだ。それも一つの方法ではある。しかし、『古事記』『日本書紀』に多数出てくる朝鮮の人名は、すべてをその方式で読むのは難しいので、今は単に字音のまま「せうこわう」と読んでおく。ただし、後世のように音を変えて「ショーコオー」と唱えてはならない。仮名どおり「せ」と「わ」、そして二つの「う」を、それぞれ正しく読むべきである。また「照」の字音を「しやう」と仮名書きするのも誤りである。】『日本書紀』神功皇后の巻では、四十六年に「百済背古王」、四十九年に「その王、肖古」、五十五年に「百済肖古王が亡くなった」と見える。「背」はいずれも「肖」の写し誤りで、この王を指す。【「肖」と「照」は同じ音なので、通わせて書いたのである。『東国通鑑』によれば、肖古王は百済第六代の王で、元年は後漢の桓帝の永康元年、成務天皇三十七年に当たる。神功皇后が新羅を征したという年は、この王の三十四年に当たる。】

【宣長の注釈】また欽明天皇の巻で百済の聖明王が「昔、わが先祖の速古王・貴首王の時代、安羅・加羅・卓淳の旱岐たちは……」というのも、あの大后の御世のことで、速古王は肖古王と同じである。これは「肖」と「速」の字が、百済の音で通じるために書いたとみられる。【「速」は「道」の誤りかとも思えるが、そうではあるまい。『新撰姓氏録』の百済系の氏の条にも、「速古王の子孫」とするものが多い。ある本ではすべて「肖古王」とするが、それこそ後の人が勝手に改めたもので、もとは「速古」であろう。また「連古王」という例もあるが、それも「速」の誤りだろう。「近速王」という例もあり、これは「古」が抜けたもので、近肖古王と同じ人物だろう。近肖古王については次に述べる。】

【宣長の注釈】『続日本紀』巻四十には、津連真道らの上表として、「真道らの家系は百済国の貴須王から出る。貴須王は百済建国以来、第十六代の王である。百済の太祖、都慕大王は……。代が下って近背古王に至り、遠く天皇の徳化を慕い、初めて日本に使いを送った。神功皇后が摂政だった年である。その後、軽島豊明宮で天下を治めた応神天皇……国主の貴須王……」とある。【ここも「肖」を「背」に誤っている。また、ここで肖古王というべきところを近肖古王としたのも、混同の誤りである。近肖古王は肖古王とは別人で、『東国通鑑』などによると、その元年は仁徳天皇三十四年に当たり、はるかに後である。貴須王については、『日本書紀』では肖古王の子で、大后の六十四年に亡くなったとある。「貴首」とも書き、『東国通鑑』では「仇首王」とする。『姓氏録』には「近貴首王」という例もある。】これらによると、この王は大后の摂政の時代の人物で、応神天皇の御世には及ばなかったようにみえる。しかし大后の御世という時期も、『古事記』では応神天皇の御世に含めているので、食い違わない。【したがって、馬を献上し、阿知吉師を差し出したことなどは、大后の御世と呼ぶ時期で、「五十五年、肖古王が亡くなった」という記事より前のことであったのだろう。】

【宣長の注釈】ところが『日本書紀』は応神天皇十五年に、「百済王が阿直岐を遣わし、良馬二匹を献上した」などと記す。その時の百済は阿花王の代なので、伝承が違うのである。【『日本書紀』には、応神三年に「百済国は辰斯王を殺して謝罪し、紀角宿禰らは阿花を王に立てて帰った」、十六年に「百済の阿花王が亡くなった」とある。そのため十五年は阿花王の時で、『古事記』が照古王とするのとは合わない。阿花王は肖古王の曾孫である。『東国通鑑』などでは阿花を「阿莘」と書き、その元年を晋の太元十七年とするので、仁徳天皇八十年に当たる。没年はその十四年とあり、履中天皇六年に当たるから、『日本書紀』とは約百二十年ずれる。『東国通鑑』などには信じがたい記述も多いが、この年代についてはそちらが正しいだろう。『日本書紀』は伝承が乱れて年代が違ったと思われる。この応神天皇の御世は、百済では肖古王と貴須王の時であろう。「阿花」の「花」は「華」であるべきで、「莘」は「華」を誤ったものだろう。〔以上の人物同定・年代判断・文字の訂正は宣長の説である。〕】「牡馬」は「をま」、「牝馬」は「めま」と読むべきである。『万葉集』巻五には「美麻(みま)」【「御馬」である】とある。『日本書紀』には、「土馬(つちうま)」「驄(あをま)」などがある。【前に続く言葉があると、多くは「う」を省いて「ま」という例である。】

【宣長の注釈】「壱疋」は「ひとつ」と読むべきである。『日本書紀』で「馬何匹」という箇所は、すべてこの例で読まれている。雄略天皇の巻に「馬八匹」とあり、その歌に「うまのやつぎ」とあるのは、八匹ということなのだろうか。詳しくはわからない。【今の世で布などや獣の数に付ける「疋」を「ひき」というのは、馬から出た呼び方で、一牽き、二牽きということなのだろうか。それとも「疋」の字音が訛ったものなのか。】馬は日本には神代からあったもので、『日本書紀』欽明天皇の巻には、百済の使者が帰国する時に、良馬七十匹を百済に与えたことさえ記される。それなのにここで逆に百済から献上したのは、格別に優れた馬だったのであろう。

【宣長の注釈】「阿知吉師」は、『日本書紀』で阿直岐といい、その子孫の氏を阿直史ということなどから考えると、正しくは「阿知伎吉師(あちききし)」であったのが、同じ音の重なるため、一つ省いていうようになったのであろう。【『日本書紀』の阿直岐を「あとき」と読むので、「とき」を縮めて「ち」というのかとも考えられるが、そうではあるまい。】「吉師」は「きし」と読むべきで、次の和邇吉師も同じである。【延佳本が「吉」を前の名に付け、「師」を「ふみよみ」と読むのは誤りである。そもそも「某師」という呼称の例はない。】『日本書紀』には「吉士某」「某吉士某」といった名が多い。【まれに「吉師」とも書く。】それがこれである。もとは新羅の十七等の官位のうち第十四を「吉士」ということが、中国の書物【『北史』】に記される。日本でもそれを取り入れ、渡来人の位に用いたとみられる。継体天皇の巻の吉士老、敏達天皇の巻の吉士金子・吉士木蓮子・吉士訳語彦、安康天皇の巻の難波吉士日香蚊、雄略天皇の巻の日鷹吉士堅磐固安銭・難波吉士赤目子など、各巻に多数見える。【住んでいた土地によって「某の吉士」といったのである。後にはそのまま氏とカバネになったと思われるものもある。】

【宣長の注釈】吉士と呼ばれる人々の事績を考えると、朝鮮へ遣わす使者になったり、朝鮮から来た人を受け入れたりして、みな外国に関する仕事に仕えている。そうすると、もと朝鮮から渡来して住んだ者をこの位に任じ、その子孫も職務を受け継いだとみられる。この阿知吉師・和邇吉師も、その類である。【ただし『日本書紀』ではこの人々を「吉士」とは記さない。それを考えると、この御世にはまだ吉師という称号はなく、少し後になって、吉士という者にならい、この人々にもさかのぼって吉師という名を付けて語り伝えたのだろうか。この時に、まだ新羅の官名を取り入れることなどはなかったはずだからである。しかし、実際はどうだったか、今は決めがたい。】『日本書紀』には、「十五年秋八月、百済王が阿直岐を遣わし、良馬二匹を献上した。軽坂の上の厩で飼い、阿直岐に飼育を担当させた。そのため、馬を飼う場所を厩坂と名づけた。阿直岐は経典も読めたので、皇太子の菟道稚郎子は彼を師とした」とある。

【宣長の注釈】この阿直岐と直支王を同一人物と考える人がいるが、それは誤りである。直支王は、応神八年の細字の注に引く『百済記』で、「阿花王は……王子の直支を日本の朝廷へ遣わし、先王以来の親交を修めた」とある。十六年には「百済の阿花王が亡くなった。天皇は直支王を呼んで『国に帰って王位を継げ』といい、それから……」、二十五年には「百済の直支王が亡くなった」とある。八年から十六年まで、日本に来ていたことを示している。『東国通鑑』には「阿莘王が亡くなった。太子腆支は倭国に人質としていた……。倭王は兵百人を付けて腆支を護送した……。国人は迎えて王に立てた」とある。この腆支を直支ともいうことは、朝鮮の『三国史記』に見える。倭王がしたことも『日本書紀』と一致する。『日本書紀』は直支に「とし」という仮名を付ける。「腆支」と「直支」は音が近い。「支」は「し」という音で、『集韻』が「祇」の音も注するのは地名の場合だけで、普通の音ではない。日本で「き」の音仮名に用いる「支」は、「伎」の偏を省いた別の用法である。直支王はおおよそ以上のような人物なので、阿直岐と混同してはならない。「腆」は「あつし」と読む字だから、日本で阿直岐と書いたのだという説も誤りである。また『東国通鑑』が腆支王の元年を晋の義熙元年とするのは、履中天皇六年に当たり、『日本書紀』と年代が大きく違う。先にも述べたように、『日本書紀』の伝承が乱れており、阿花王・直支王はこの御代ではなく後の御代のことと思われる。したがって阿直岐と直支王が別人であることは、なおさら明らかである。

【宣長の注釈】「阿直史」は「あちきのふみびと」と読むべきである。【「直」の字を書くので、「ぢ」という濁音であったかもしれない。今は阿知吉師の名に従い、「ち」を清音としておいた。また「史」は、淡海公の名などを「不比等」とも書くので、「み」を省いて「ふひと」と読んでもよい。】「阿直」は氏で、祖先の名に由来するのであろう。「史」は文を書く人という意味のカバネである。このほか船史・壱伎史・楊候史など、『新撰姓氏録』の諸蕃には「史」のカバネを持つ氏が多い。『日本書紀』にも「阿直岐は阿直岐史の始祖である」と見え、天武天皇の巻には「十二年冬十月、阿直史に連のカバネを賜った」とある。『新撰姓氏録』には、「安勅連は百済国の魯王の子孫である」とある。『続日本後紀』巻三には、「阿直史福吉と同族の枚公ら三人に、清根宿禰の氏とカバネを授けた。枚公の先祖は百済国の人である」とある。

【宣長の注釈】「また太刀と大鏡を献上した」というのは、阿知吉師に託したのではなく、別の時のことである。「また」といったのはその意味である。太刀も鏡も日本にある物なのに献上したのは、必ず普通と違う珍しい姿の物だったのだろう。【鏡は「大」とあるので、格別に大きく珍しかったのであろう。】このことを『日本書紀』神功皇后の巻は、「五十二年秋九月、久氐らが千熊長彦について参上し、七枝刀一口、七子鏡一面、各種の重宝を献上した」などと記す。【七子鏡は中国の書物にも見える。周囲に七つの小さな円形があり、俗に九曜紋というものに似た姿の鏡であろうか。】あの大后の摂政の御世というのは、この応神天皇の御代に含まれるので、ここの記述と御代が違うわけではない。

【宣長の注釈】「百済国」は「科せ賜ふ」、つまり仰せつけるという動詞にかかる。【「もし賢人がいるなら」にかかるのではない。】「科」は仰せつけることである。「賢人」は「さかしびと」と読むべきである。『日本書紀』では「賢」「賢人」「賢哲」「賢良」「明哲」「君子」などをそのように読む。上巻の八千矛神の歌に「さかしめ」、『日本書紀』仁徳天皇の巻に「賢遺、これを『さかしのこし』という」、『万葉集』巻三に「いにしへの七人の賢人たちも」などとある。【また「さかしきひと」「かしこきひと」と読んでもよい。】

【宣長の注釈】「和邇吉師」について。【真福寺本と延佳本には「吉」の字がない。ただし真福寺本では、次の細字の原注にはこの字があるので、ここでは誤って抜けたのである。ところが延佳本は、先の阿知吉師を『日本書紀』の阿直岐によって「吉」まで名に付け、「師」を一字離して「みふみよみ」と読むのに合わせ、ここも同じように読むため、勝手に「吉」を削ったのであろう。ここでは多くの写本と、『日本書紀』の注釈書が引用する文が、みな「吉師」とするのに従った。】『日本書紀』には、「十五年……天皇は阿直岐に『お前より優れた博士は、ほかにもいるか』と尋ねた。『王仁という人が秀でています』と答えたので、上毛野君の祖の荒田別と巫別を百済へ遣わし、王仁を呼び寄せた。十六年春二月、王仁が来た。皇太子の菟道稚郎子は師とし、さまざまな書籍を王仁から学んで、通じないものはなかった」とある。【『続日本紀』で祖父を王狗というので、「王」は姓であろう。しかし『古事記』が「和邇」とすることに照らして、「わに」と読むべきである。字音のまま「わうにむ」と読み習わすのはどうなのだろう。】

【宣長の注釈】『続日本紀』巻四十で、文忌寸最弟と武生連真象らは、家系を問いただす勅命を受けて、次のように申し上げた。「漢の高帝の子孫に鸞がおり、その子孫が王狗である。百済の久素王の時代になり、日本の朝廷が使いを送り、学問のある者を招いた。久素王はそこで、狗の孫の王仁を献上した。」【久素王は貴須王であろう。】『古語拾遺』には、「軽島豊明の朝廷に至り、百済王が博士王仁を献上した。……後の磐余稚桜の朝廷に至ると、三韓の貢献は代々絶えることがなく、斎蔵の傍らに内蔵を新築して官物を分けて収めた。そこで阿知使主と百済の博士王仁に命じ、その出納を記録させ、初めて蔵部を改めて定めた」とある。【応神天皇十六年から稚桜朝の元年までは百十余年たっている。王仁がその御世まで生きていたのは、非常な長寿だったのだろうか。疑わしい。もしかすると、王仁の子孫というところを伝え誤ったのか。『河内志』は「王仁墓は河内国交野郡藤坂村の東北、御墓谷にあり、今は於爾墓という」と記す。】

【宣長の注釈】『論語』はともかく、『千字文』をこの時に献上したというのは理解できない。この御代のころには、まだその書が世間に伝わるはずがないからである。【その理由は、『集註千字文』の序に次のようにあるためである。「晋の武帝は魏の後を継ぎ、初め鄴州城にいた。大夫の鍾繇がこの文を作って天子に献じると、帝は愛し、手から離さなかった。晋は宋の文帝に追われ、丹陽へ難を避けた。千字文は車の中にあったが、道中で雨に遭い、車が漏ってぬれた。丹陽に着いてから書物の箱に納めた。晋は十五帝、計百五十年にわたり天下を治めた。宋の文皇帝劉裕が即位して天下を治め、晋帝の書庫を開くと、この千字文があったが、雨で乱れ損なわれ、順序が失われていた。右将軍王義之に韻を整えさせたが、できなかった。宋の治世は計六十年。斉が継いで丹陽を治めたが、順序を整えられる者はいなかった。斉の治世は三十年。梁の武帝が即位し、周興嗣に命じて韻を整えさせ、千字文ができた。」この『集註』は、梁の李邏という人の作である。〔この序文に記された歴史伝承を、宣長が引用している。〕

【宣長の注釈】そもそも、この晋の武帝は応神天皇と同時代に当たるので、その時すでに千字文ができていたとしても、まだ世に広まっていない。その後しだいに乱れ損なわれて読みにくくなり、はるか後の梁の武帝の時に韻を整え、完全になったのだから、世間に広まり、百済辺りにまで伝わったのは、さらにその後のはずである。梁の武帝は、日本では武烈天皇から欽明天皇の御世に当たる。「秦の商鞅の千字文というものがあり、この御世に渡来したのはそれだ」という説もあるが、誤りである。たとえそのような書があっても、ここでいうのはそれではなく、鍾繇が作ったとされる、今の千字文のことである。】したがって、この書は実際にはずっと後に渡来したのだろう。しかし重く用いられ、とりわけ世間で書写し、習い、暗誦する書物だったため、応神天皇の御世に和邇吉師が持って来たと、世間で語り伝えたのであろう。古くから世間で重く用いられたことは、

【宣長の注釈】『日本三代実録』巻二十七の次の記事からわかる。「貞観十七年夏四月二十三日、皇太子が初めて千字文をお読みになった。従五位上・守右少弁兼東宮学士の橘朝臣広相が侍読を務めた。親王・公卿が皆集まり、宴飲して歓を尽くして退出した。五位以上と、陣のもとに仕える六位に、それぞれ差を付けて禄を賜った。」【後には皇太子の読書始は必ず『孝経』と決まっているようだが、古くはそうではなかったのである。】また『うつほ物語』楼の上の巻に、「大臣がこの君一人に千字文をお教え申し上げると、その日のうちに耳で覚えてしまわれた」とあり、『栄花物語』玉の台の巻には、「ある僧坊を見ると、かわいらしい男の子たちが千字文を唱えて習い、孝経を読んでいる」などとあることからもわかる。

【宣長の注釈】さて、日本の朝廷に中国の書物が渡り、文字が使われるようになったのは、この時が初めである。【その理由は『伝』の首巻に述べたとおりである。『日本紀』講読終了の宴の歌で、橘直幹は王仁について「海の幾重もの白波を越えてこそ、八島の国に書物は伝わった」と詠んだ。そもそも、この時のことを『日本書紀』は「皇太子が王仁から諸典籍を学んだ」とだけ記し、書籍を献上したことを記さない。宣長は、その理由を次のように考える。『日本書紀』は全体をたいへん中国風に飾って編集され、神武天皇の御世にも文字や書籍がすでにあったように記している。そのため上古に書物がなかったことを物足りなく思い、この御代に初めて渡来した事実を避けて隠したのであろう。またある人は『東国通鑑』により、百済では仁徳天皇六十二年に当たる年に初めて文字による記録ができたのに、それ以前に百済から書籍を献上したとはどういうことか、と疑う。しかしそれはかえって誤りである。この時に書籍を日本に献上したことは確かで、議論の余地がないから、百済にはすでにあったことが明らかである。それなのに誤りの多い『東国通鑑』を疑わず、逆にこちらのことを疑うのは、いつもの中国への拘泥だ、と宣長は批判する。

【宣長の注釈】『続日本紀』巻四十の津連真道らの上表には、「真道らの家系は百済国の貴須王から出る。……軽島豊明宮で天下を治めた応神天皇が、上毛野氏の遠祖の荒田別に命じて百済へ派遣し、学識のある者を捜し招かせた。国主の貴須王は使者の趣旨を恭しく受け、王族から選び、その孫の辰孫王、別名智宗王を、使者に従って入朝させた。天皇は喜び、特に寵命を下して皇太子の師とした。これにより初めて書籍が伝わり、儒学の教えが大いに開かれた。文教の興りはまさにここにある。……ここから分かれて初めて三つの氏となり、それぞれの職務によって氏を名づけた。葛井・船・津連らがそれである。……願わくは連のカバネを改め、朝臣を賜りたい」とあり、勅命で住む土地によって菅野朝臣の氏とカバネを賜ったと記す。これは和邇吉師の話と同じようで、人物が違う。辰孫王も和邇と同時に一行として来たが、『古事記』『日本書紀』などではその伝承が漏れたのであろう。『新撰姓氏録』には「菅野朝臣は百済国の都慕王の十世の孫、貴須王から出る」「葛井宿禰は菅野朝臣と同祖」「津朝臣は菅野朝臣と同祖」「船連は菅野朝臣と同祖」などとある。】

【宣長の注釈】「即ち貢進す」の「即」は、「以」の誤字なのか。「此の和爾吉師」について。【「爾」をある本では「邇」とする。前も「邇」なので、ここもそうするのがよいが、今は諸本に従った。「爾」と「邇」は全く同じように使われる例だからである。また延佳本に「吉」がないのは、勝手に削ったのであろう。その理由は前述した。諸本にはみなある。】「文首」【「ふみのおびと」と読む】は、『日本書紀』に「いわゆる王仁は、書首らの始祖である」、『古語拾遺』に「博士王仁は、河内文首の始祖である」などと見える。この氏の人々は、『日本書紀』雄略天皇の巻に河内国古市郡の人、書首加竜、斉明天皇の巻に河内書首【名は欠ける】、天武天皇の巻に書首根麻呂などが見える。天武十二年九月には文首に連、十四年六月には書連に忌寸のカバネを賜った。『続日本紀』巻四十の文忌寸最弟らの上表には、「文忌寸らにはもと二家あり、東文は直、西文は首と称し、ともに並んで仕事を行ってきた歴史は古い。今、東文は一族全体がすでに宿禰となったのに、西文は恩恵を受けず、なお忌寸のままにとどまる」などとあり、そこで最弟と真象ら八人に宿禰を賜ったとある。『新撰姓氏録』【左京諸蕃・漢】は、「文宿禰は漢の高皇帝の子孫、鸞王から出る」、また「文忌寸は文宿禰と同祖で、宇爾古首の子孫である」とする。

【宣長の注釈】この氏については、紛らわしい点が多い。まず、この氏とは別に「文直」という氏がある。これは和邇の子孫ではなく、漢直から分かれた氏で、カバネも直である。『新撰姓氏録』に「文忌寸は坂上大宿禰と同祖で、都賀直の子孫である」とあり、『日本書紀』にはこの氏の人々もあちこちに見える。首と直というカバネによって区別すべきである。その人々は代々大和国に住んだので「倭文直(やまとのふみのあたひ)」といい、和邇の子孫の方は「河内文首(かふちのふみのおびと)」という。先に引いた『続日本紀』などで東文というのは倭文直、西文というのは河内文首であり、「東」「西」をそれぞれ「やまと」「かふち」と読むのである。学令の「東西史部」について、『令義解』は「皇城の左右に住んでいるので東西という」とするが、この注は紛らわしい。皇城の左右には関係なく、河内は西、大和は東なので東西というのである。皇城の左側に住んでも、大和国なら東という。天武天皇の御世には、文首も文直も連となり、さらに忌寸となったので、両氏はますます紛らわしくなり、ただ東西によって区別するようになった。

【宣長の注釈】『続日本後紀』巻三には、「左京の人の文忌寸歳主と同族の三雄らに、浄野宿禰の氏とカバネを賜り、河内国の文忌寸継立には、忌寸を改めて宿禰を賜った。歳主・三雄・継立らの先祖は、いずれも百済国の人である」とある。継立は河内の人なので、西文であろう。歳主らも一緒に挙げられているので西文であろう。文氏の先祖は中国の人だが、百済を経て来たので、百済の人ということも食い違わない。】

【宣長の注釈】神祇令には、「六月と十二月の晦日の大祓には、東西の文部が祓刀を奉り、祓の詞を読む」とある。『令義解』は「東は漢文直、西は漢文首」と説明する。『延喜式』祝詞の大祓詞の終わりには、「東文忌寸部が太刀を献じる時の呪。西文部もこれに準ずる」とある。【文部が刀を奉って祓の詞を読む儀礼は、四時祭式に見える。この祓の詞は、大祓詞の末尾にある「謹んで皇天に請ふ……」という漢文で、『令義解』には「文部が漢音で読むべきものをいう」とある。この氏の人々が刀を献じ詞を読むのは、本国からの伝承だったはずだが、いつの御代から日本の儀礼に交えて用い始めたのだろうか。さて、「文部」を「ふひとべ」と読むのは誤りである。「ふひとべ」と読むのは別の「史部」である。学令の「東西史部」について、『令義解』は「前代から代々その業を継ぎ、史官や博士となり、それによってカバネを賜った者を総称して史という」と説明する。これは「某史」というカバネの諸氏で、大和や河内に住む者をいうのであって、文首・文直のことではない。混同してはならない。

【宣長の注釈】また、神祇令の『令義解』で「東漢文直・西漢文首」という「漢」は、どちらも中国人の子孫の氏であるために付けたものである。中国から来た者を広く「漢の某」と呼ぶ。しかし、それとは別に「漢直」という氏もあるので、混同しやすいことを心得ておくべきである。ただし皇極紀の倭漢書直県、孝徳紀の倭漢書直麻呂などは、倭文直が漢直から分かれた氏であるため「漢」を付けている。これは『令義解』の意味とは違う。また「文」の字を「あや」とも読むため、漢直と紛れて、文首・文直の「文」を「あや」と読むこともあるが、誤りである。文首氏については、このように混同しやすい点が多く、注意しなければ間違いが多くなる。】和邇吉師の子孫としては、『新撰姓氏録』に文宿禰などのほか、武生宿禰・桜野首・栗栖首・古志連などがある。みな文首から分かれたのであろう。

【宣長の注釈】「手人」は諸本とも「人手」とするが、前後を取り違えて写したことが明らかなので、ここで改めた。【師は「人手」のまま「てびと」と読んだが、「てびと」をその順に書く理由はなく、そのような表記は『古事記』の用例にも合わない。】『日本書紀』雄略天皇の巻には、吉備臣弟君が百済から帰り、漢手人部・衣縫部・宍人部を献上した記事があり、また「百済が献じた手末の才伎」「西漢の才伎」「百済が献じた今来の才伎」ともある。仁賢天皇の巻には、「日鷹吉士を高麗へ遣わして巧みな技術者を招いた」「日鷹吉士は高麗から帰り、工匠の須流枳・奴流枳らを献上した。今の大和国山辺郡額田村の熟皮・高麗はその子孫である」などとある。職員令の内蔵寮の規定には、「典履二人は靴・履物・鞍具を縫い作り、百済手部を監督する。百済手部十人は種々の縫製を担当する」とあり、大蔵省の規定も同様である。【どちらも「事」は「革」の誤字か、それとも「事」の前に「革」が脱落したのか。】「手部」も「てびと」と読むべきである。「手人」は、さまざまな物を作る工人の呼称である。【今、俗に職人という者である。】内蔵寮式の雑作手には、御櫛を作る者二人、夾纈の者二人、臈纈の者二人、暈繝の者二人、油絹を作る者二人、席を織る者一人、また染色の者五人などとある。この「手」もみな手人という意味である。本文では、韓鍛と呉服の二人を指している。

【宣長の注釈】「韓鍛」の「鍛」は「かぬち」と読む。上巻【『伝』巻八の二十四葉】に見える。今「かぢ」というのは「かぬち」が訛ったのである。朝鮮の鍛冶が渡来してから、日本にもとからいた者を倭鍛冶と呼んで区別した。【『日本書紀』綏靖天皇の巻に「倭鍛部」が見えるのは、後の呼び方でいったのである。日本と朝鮮では鍛冶の技法に違いがあったのだろうか。それとも朝鮮では各種の器物を特に巧みに造ったため、招いたのだろうか。いずれにせよ、後まで倭と韓を区別したのは、違う点があったはずである。今の鍛冶はどちらの系統なのだろう。刀鍛冶などの方法は、もとからの倭鍛冶の系統であろう。】『続日本紀』巻九には、近江国の韓鍛冶百島、丹波国の韓鍛冶首法麻呂、播磨国の韓鍛冶百依、紀伊国の韓鍛冶杭田ら、合わせて七十一戸について、「氏の名は雑工に関わっているが、起源を尋ねると、もとから雑戸の身分ではない。そのため、その名称を除き、いずれも公戸に従わせた」とある。巻二十九には、「讃岐国寒川郡の韓鉄師毘登毛人、韓鉄師部牛養ら百二十七人に、坂本臣の氏とカバネを賜った」とある。巻四十には、播磨国美嚢郡大領の韓鍛首広富などが見える。

【宣長の注釈】「呉服」は「くれはとり」と読む。【「はとり」は「機織」を縮めた語で、「と」を濁らせるのは誤りである。】呉の国の機織りの人である。【したがって「はとり」を「服」だけで書くのは、「服部」の「部」を省いたのである。】『日本書紀』では、このことを「三十七年春二月、阿知使主と都加使主を呉へ遣わし、縫製に巧みな女を求めさせた。阿知使主らは高麗へ渡り、呉へ行こうとしたが、高麗から先の道がわからなかったので、道を知る者を高麗に求めた。高麗王は久礼波と久礼志の二人を付けた」と記す。案内役とし、これによって呉に行くことができた。呉王は工女の兄媛・弟媛・呉織・穴織の四人の女性を与えた。

【宣長の注釈・日本書紀の引用】四十一年春二月、阿知使主らは呉から筑紫に着いた。その時、宗像大神が工女たちを求めたので、兄媛を大神に奉った。これが今、筑紫国にいる御使君の祖先である。それから三人の女性を率いて摂津国へ行き、武庫に着いたが、天皇が亡くなり、間に合わなかった。そこで大鷦鷯尊に献上した。この女性たちの子孫が、今の呉衣縫・蚊屋衣縫である」とある。しかし宣長は、これは雄略天皇の御世のことが混同されたものだとする。【雄略天皇の巻には、「十二年夏四月、身狭村主青と檜隈民使博徳が呉へ使いとして出た。十四年春正月、身狭村主青らは呉国の使者とともに、呉が献上した手末の才伎である漢織・呉織、衣縫の兄媛・弟媛らを連れ、住吉津に泊まった。……衣縫の兄媛を大三輪神に奉り、弟媛を漢衣縫部とした。漢織・呉織・衣縫は、飛鳥衣縫部と伊勢衣縫の祖先である」とある。事の様子がたいへんよく似ていることを考えるべきだ。連れて来た四人の名が全く同じで、兄媛を神に奉ったことまで同じである。したがって、呉へ行ってこの工人たちを連れて来たのは雄略天皇の御世のことだったのに、応神天皇の御世に百済から献上した服部の話と、伝承で取り違えられたのである。久礼波・久礼志が案内した話も、雄略天皇の御世のことであろう。

【宣長の注釈】呉と通交し始めたのは、そもそもその御世だと思われる。仁徳天皇五十八年の「呉国が朝貢した」という記事も確かでない。雄略天皇のころ、呉はすでに滅びていたが、三韓などでは呼び慣れたまま、その土地をなお呉といっていたのである。また『日本書紀』が呉織・漢織を二人としたのも誤りで、実際は一人、漢織とは呉織のことである。その理由は、漢と呉を区別する時、「漢」は三国時代に魏が領有した土地、「呉」は江南の土地をいうが、日本などでは呉も含めて一つに「漢」ということが多いからである。『日本書紀』は呉の人の子孫も「漢の某」といい、『新撰姓氏録』諸蕃の漢の部にも呉を含める。したがって、呉織を漢織とも呼んだのを、二人と思って別に挙げたのである。雄略天皇の巻で弟媛を漢衣縫部としたことからもわかる。弟媛は呉から来たのに「漢の」と呼んでいる。よって、この『古事記』に「漢服」という人物がいないのが正しいのである。】

【宣長の注釈】この箇所では、『古事記』が百済から献上したとするのが正しい伝承である。それを特に「呉服」と呼んだのは、後の雄略天皇の御世に初めて呉から来た機織りが珍しく、もてはやされて名高くなり、ついには外国の機織りをすべて「呉服織」というようになったためである。この御世に百済から献上した人にも、後の呼称を用いて呉服と語り伝えたのである。【今の世まで「呉服」という呼称があるのも、その名の名残である。また「呉藍(くれなゐ)」が必ずしも呉の国の物に限らず、紅色の名になったのも同じである。「からくれなゐ」といっても、中国から来た呉の国の染料とは限らないことから、同様に考えるべきである。『日本書紀』がこの呉服を呉から来たように記すのも、「呉」の名に引かれ、雄略天皇の御世の話と混じったのであろう。また同書は四人の女性というが、『古事記』の呉服の名「西素」は男の名のように聞こえる。そのうえ穴織は漢織、すなわち呉服なので、四人とした点も誤っている。呉を「くれ」というのは、久礼波・久礼志が案内した国だからなのか、それとも呉への案内をしたことから二人にその名がついたのか、どちらが先かはわからない。ある人は「くれ」は「呉」の字音が変化したのだというが、それはいつもの無理な説である。】「二人」は卓素と西素を指す。百済が献上したものの記事はここまでである。

【古事記本文】また秦造の祖先、漢直の祖先、それに酒の醸し方を知る者で、仁番、またの名を須須許理という者らが渡って来た。

【宣長の注釈】「秦造の祖先」の「秦」は「はだ」と読む。その祖先とは弓月君である。『日本書紀』応神十四年には、「この年、弓月君が百済から来帰し、『私は自国の百二十県の人夫を率いて移住しようとしましたが、新羅人が妨げたため、皆、加羅国にとどまっています』と申し上げた。そこで葛城襲津彦を遣わし、弓月君の人夫を加羅から呼び寄せようとしたが、三年たっても襲津彦は戻らなかった」とある。十六年八月には、「平群木菟宿禰と的戸田宿禰を加羅へ遣わし、精兵を授け、『襲津彦が長く帰らないのは、きっと新羅人が阻んでいるからだ。お前たちは急いで行き、新羅を攻め、道を開け』と命じた。木菟宿禰らが精兵を進め、新羅の国境に至ると、新羅王は驚いて罪を認めた。そこで弓月の人夫を率い、襲津彦とともに帰って来た」とある。【ここには「弓月君は秦造の始祖である」という文があるべきなのに、ないのは、伝承から漏れたのである。】

【宣長の注釈】『古語拾遺』のこの御世の段には、「秦公の祖の弓月は、百二十県の民を率いて移住した」とある。『新撰姓氏録』【左京諸蕃・漢】には、「太秦公宿禰は、秦の始皇帝の三世の孫、孝武王の子孫である。その子の功満王が仲哀八年に来朝し、その子の融通王【別名弓月王】は応神天皇十四年に、二十七県の人々を率いて移住し、金銀・玉・絹布などを献上した。仁徳天皇の御世……」とある。【この続きは後で引く。ここでは孝武王を始皇帝の三世の孫とし、弓月をその孫とするので、弓月は始皇帝の五世の孫となる。他の氏の条にも、五世の孫という例がある。しかし始皇帝の最後の年は孝元天皇五年に当たり、応神天皇元年までは四百八十年あるので、世代が合わない。孝武王は十三世の孫だったのに「十」が脱落し、弓月は十五世の孫なのか。ある秦忌寸の条には「始皇帝の十四世の孫、奮義王の子孫」とある。奮義王は功満王の兄弟だろうか。この世代数なら年数に合う。また功満王が仲哀天皇の御世に来朝したというのも、伝承の誤りだろう。「弓月王」は別の秦忌寸の条でも王とする。中国や朝鮮の人には、実際の国王でなくても王族を某王と呼ぶ例が常に多い。「弓月」と「融通」は同じ語が変化した名である。「二十七県」は「二」の前に「百」が抜けたのだろう。

【宣長の注釈・新井氏の説の引用】弓月君の移住について、新井氏は次のようにいう。「三韓のうち辰韓は、もと秦の逃亡者が苦しい労役を避けて朝鮮へ来て滞在していたのに、馬韓が東の境の土地を分け与えたものである。そのため秦韓ともいう。その北は狛に接する。秦の始皇帝三十二年、蒙恬に三十万の兵を動員して長城を築かせ、三十五年には太子扶蘇に上郡で蒙恬の軍を監督させた。三十七年、始皇帝が死ぬと宦官の趙高が乱を起こし、胡亥を立て、扶蘇に死を命じたという。しかし日本の秦氏が始皇帝の三世の孫、孝武王の子孫だということによれば、扶蘇は死なず、ひそかに逃れて遼を渡って来たのか。それとも子がいて乱を避け、濊貊の地の君となった者を孝武王といったのか。長城の兵のうち扶蘇父子のどちらかに従って来た者たちも、馬韓の東の境の土地を得て旧主に従ったが、功満・融通の時に隣国の敵によって国を失い、百済に属した。ついには人々を率いて日本に来たのである。晋の太康以後に辰韓の朝貢が絶えたとあるのも、秦氏が日本へ来た時と合う。」〔秦氏の出自をめぐる新井氏の推測として引用されている。〕】

【宣長の注釈】また『新撰姓氏録』【山城国諸蕃・漢】には、「秦忌寸は太秦公宿禰と同祖で、秦の始皇帝の子孫である。物智王・弓月王が譽田天皇、諡は応神の十四年に来朝し、上表してからいったん帰国し、百二十七県の狛姓を率いて移住した。金銀・玉・絹布や種々の宝物を献じ、天皇は喜び、大和の朝津間・腋上の地を賜って住まわせた。その子は真徳王、次は普洞王【古記では浦東君という】……」とある。【この続きも後で引く。「物智王」は「功満王」の写し誤りではないか。「狛」は「百」の誤りだろう。新井氏は逆に「百二十七県」の「百」は「狛」の誤りとし、また「功満王」とは狛王ということで、功満・融通はもと狛の君だったのであろうという。これらの説はどうであろうか。】
〔訳注:引用文は「物智王弓月王」と続くが、両者の続柄や、どちらまでを来朝者とするかは確定できない。ここでは二名を並記した原文に沿って訳した。〕

【宣長の注釈】『日本書紀』雄略天皇の巻には、十二年に秦酒君のことがあり、十五年には次のようにある。「秦の民は分散し、臣や連らがそれぞれ勝手に使役して秦造に任せなかった。秦造の酒はたいへん憂え、天皇に仕えた。天皇は彼を寵愛し、秦の民を集めて秦酒公に賜った。公は百八十種の勝部を率い、庸・調の絹を献上して朝廷に山積みにした。そのため禹豆麻佐という姓を賜った。【別には禹豆母利麻佐という。いずれも満ち積もる様子である。】」秦の民は、弓月君が率いて来た百二十七県の人々である。「仕」の字は「白」などの誤りか、その上に文が抜けたのか。秦酒公は『新撰姓氏録』の各所にも見える。「姓を賜る」は「号を賜る」とあるべきだ。「うづまさ」は姓ではない。その後も姓は秦のままだからである。

【宣長の注釈】この号の意味は、「うづ」は、今でも物をたくさん積んだ状態を「うづ高い」というのに合う。『万葉集』巻十五の「名に負う鳴門のうづ潮に」も、高い潮の意味と聞こえる。「もり」も、盛り・森などと同じように通じる。「まさ」は「百八十種の勝部」の「勝」であろう。『新撰姓氏録』諸蕃には「勝」という氏があり、上勝・不破勝・茨田勝など、カバネとしてもあって、秦勝という例もある。これらをみな「かち」と読むのは誤りで、「まさ」と読むべきである。朝鮮で一種の称号だったのであろう。それに日本で「勝」の字を用いたのは、「まさる」という訓を利用した当て字だろう。「うづまさ」に「太秦」という字を当てるのは、いつからのことだろうか。】

【宣長の注釈】先の『新撰姓氏録』太秦公宿禰の条の続きには、次のようにある。「仁徳天皇の御世、百二十七県の秦氏を諸郡に分けて置き、養蚕して絹を織り、献上させた。天皇は『秦王の献じる糸・綿・絹布を身に着けると、柔らかく肌が暖まる』と仰せになり、波多公という氏とカバネを賜った。秦公酒は雄略天皇の御世に、糸・綿・絹布を山のように積み上げた。天皇は喜び、禹都万佐という号を賜った。」【「秦氏」の「氏」は「民」の誤字だろう。「秦王」は融通王をおっしゃったのである。「肌膚賜姓波多」の六字は、刊本では「如次登召志」とあり、誤字のようで解しがたい。今は古い写本に従った。ただしこの写本も、ここは私的に改めたものではないかという疑いはあるが、必ずこのような文であるべき箇所である。

【宣長の注釈】「肌を暖める」などということについて、『古語拾遺』にも「献上する絹綿が肌に柔らかいので、秦の字を『はだ』と読む」とある。しかし、その意味なら「暖かい」または「柔らかい」という語を取って名づけるべきで、「肌」という語を取る理由はない。新井氏もこの説を信じず、「はだ」は朝鮮の語だという。『古語拾遺』のその続きには、「秦氏が献上した絹を祭神の剣の柄に巻き付ける。今の世俗でもそうする。これが、いわゆる秦の機織りの縁である」ということも見える。】

【宣長の注釈・『新撰姓氏録』の引用】秦忌寸の条の続きには、「子の真徳王、次に普洞王【古記では浦東君という】。大鷦鷯天皇、諡は仁徳の御世に『波陀』という氏を賜った。今の『秦』の字の訓である。次に雲師王、次に武良王。普洞王の子の秦公酒は、大泊瀬稚武天皇、諡は雄略の御世に、『普洞王の時に率いていた秦氏の民は、すべて奪い取られ、今いる者は十分の一にも足りません。勅使を遣わして調べ集めてください』と願った。天皇は小子部雷と大隅・阿多の隼人らを遣わして捜し集め、秦氏九十二部、一万八千六百七十人を得て酒に賜った。酒は秦氏を率い、養蚕して絹を織り、箱に盛り、宮門に赴いて献上した。丘や山のように朝廷に積まれた。天皇は喜び、特別な寵命を下して禹都万佐の号を賜った。これは満ち積もって利益があるという意味である。諸秦氏を使役して宮の傍らに八丈の大蔵を構え、献上物を納めた。そのためその地を長谷朝倉宮と名づけた。この時、初めて大蔵の官員を置き、酒を長官とした。秦氏らは一人の祖先の子孫であるが、住む土地や職務によって幾つかの系統に分かれた。天平二十年、京と畿内にいる者には、すべて伊美吉のカバネを賜った」とある。

【宣長の注釈】仁徳天皇の御世の話は『日本書紀』には見えない。その四十一年と四十三年の条の「百済王の孫の酒君」は、秦酒君と混じったのではないか。また、ここで「秦氏」とあるのも、みな「秦民」の誤りであろう。「うづまさ」の意味について「利益がある」とするのは、「まさ」を「益す」の意味に取った誤りである。『古語拾遺』が「積まれるに従って埋まり増す」というのは、特に俗説である。大蔵のことは『古語拾遺』にも見え、ここと少し違う。また欽明紀には、秦大津父を大蔵の官に任じたことが見え、「秦人・漢人など諸外国から移住した者を集め、国郡に配置して戸籍に登録した。秦人の戸数は計七千五十三戸で、大蔵掾を秦の伴造とした」とある。この大蔵掾は秦大津父であろう。伴造は、その部の長である。

【宣長の注釈】秦氏の人々は、なおさまざまに見える。『日本書紀』推古天皇の巻には、秦造河勝が蜂岡寺を造ったことがある。【この寺は同巻で葛野の秦寺ともいい、山城国葛野郡太秦村にある。太秦や河勝についてはいろいろな説があるが、宣長は、仏教者がいい出したいつもの根拠のない説だと批判する。】皇極天皇の巻に「葛野の秦造河勝」などとあり、山城国葛野郡が本拠地である。同巻の歌は河勝のことを「うづまさは……」と詠む。『続日本後紀』巻五には、「山城国の秦宿禰氏継は本籍を改め、四条三坊に編入された」とある。天武天皇の巻では十二年九月、秦造に連、十四年六月、秦連に忌寸のカバネを賜った。持統天皇の巻では十年五月、秦造綱手に忌寸を賜った。『続日本紀』巻八には秦朝元に忌寸を賜ったとある。【刊本が「朝」の下に「臣」を置くのは余分な字である。秦朝元は巻十一や『懐風藻』にも見える。】巻十四には、「造宮録の正八位下、秦下島麻呂に従四位下を授け、太秦公の名を賜った。……大宮の垣を築いたためである」とある。【「うづまさ」をここでも名、『姓氏録』でも号というので、氏ではないことがわかる。それなのに『姓氏録』が「太秦公宿禰」と項目を立てるのは、いつの御世に氏として賜ったのか。「秦下」の「下」は「忌寸」の誤りなのか。】

【宣長の注釈】『日本三代実録』巻七には、「山城国葛野郡の秦忌寸春風・秦忌寸諸長ら三人に、時原宿禰の氏とカバネを賜った。その先祖は秦の始皇帝の子孫である」とある。巻四十四には、「左京の秦宿禰永厚・秦公直宗、山城国葛野郡の秦忌寸永宗、右京の秦忌寸越雄、左京の秦公直本ら男女十九人に、惟宗朝臣の氏とカバネを賜った。永厚らが自らいうには、秦の始皇帝の十二世の孫、功満王の子の融通王の末裔である。……百二十七県の人々を率い、譽田天皇十四年癸卯に日本に属した」という。【この氏が宿禰になった記事は見当たらない。『続日本後紀』承和三年の条に宿禰とあるので、それ以前になったのであろう。】

【宣長の注釈】「漢直の祖先」の「漢」は「あや」と読む。【「漢」を「あや」というのがどういう由来なのか、詳しくはわからない。「漢織」を『日本書紀』が「穴織」とも記すことから考えると、「あな」と同じく「あや」という感嘆の声から出たのか。新井氏は「漢」の字音が訛ったようにいうが、信じられない。】この祖先は阿智使主と、その子の都加使主である。『日本書紀』に「二十年秋九月、倭漢直の祖の阿知使主と、その子の都加使主が、一族の十七県の人々を率いて移住した」とあるのがこれである。【「倭」というのは河内漢直もあるため、それと区別するのである。河内漢直は後で述べる。】ところが、若桜宮の段の初めに「倭漢直の祖の阿知直」とあり、『日本書紀』の同じ箇所にも漢直の祖の阿知使主が見え、また雄略天皇・清寧天皇の巻に東漢直掬が見えるのは、たいへん疑わしい。【応神天皇二十年から履中天皇の御世の初めまでは百十余年たっているので、阿知使主は非常な長寿だったのか。また、その二十年から清寧天皇の御世までは百九十余年あるから、都加使主が生きているはずはない。「掬」は「都加」と同じ人物である。】

【宣長の注釈】そこで考えると、この父子が移住したのは仁徳天皇の御世の末のことであったが【その時、都加使主はごく幼かったのであろう】、混同して応神天皇の御世と誤って伝えたのではないか。【この御世には外国から来た人が多かったので、仁徳天皇の御世に来た人々まで混ぜて、この御世のことと伝えたのである。雄略天皇の御世に来た呉の機織りの話も、この御世に混じった同じ例である。合わせて考えるべきである。】この氏について、『日本書紀』雄略天皇の巻には、「十六年冬十月、漢部を集めるように命じ、その伴造を定め、直のカバネを賜った。ある本では、漢使主らに賜り、直のカバネを賜ったという」とある。【「賜」が二つあるのは余分ではない。上の「賜」は漢部を賜るという意味である。】

【宣長の注釈】この氏の人々は、欽明天皇の巻に東漢氏直駒【「氏」は余分な字か】、崇峻天皇の巻に東漢直駒・東漢直福因・東漢直県、孝徳天皇の巻に倭漢直比羅夫が見える。天武天皇の巻には、【六年六月の、東漢直らへの詔などのほか】十一年五月に倭漢直らへ連、十四年六月に漢連と河内漢連へ忌寸のカバネを賜ったとある。【河内漢連は、十二年九月に「川内漢直に連のカバネを賜った」とある氏である。推古天皇の巻には河内漢直贄という人が見える。この氏の先祖は誰なのか、まだ考えがつかない。こちらも阿知使主の子孫なら、『古事記』『日本書紀』が阿知使主を「倭漢直の祖」とするのは紛らわしい。「倭の」と限定すれば、河内の方はその子孫ではないように聞こえるからである。河内の方は別人の子孫なのだろうか。さらに考える必要がある。『新撰姓氏録』河内諸蕃には、「火撫直は、後漢の霊帝の四世の孫、阿知使主の子孫である」という例がある。】

【宣長の注釈・『続日本紀』の引用】『続日本紀』巻三十八に、坂上大忌寸苅田麻呂らが次のように上表したとある。「私たちは、後漢の霊帝の曾孫である阿智王の子孫です。漢の帝位が魏へ移った時、阿智王は神牛の教えに従い、帯方へ出て行きました。すると宝帯という瑞兆を得、その姿は宮城に似ていたので、そこに国と町を建て、人々を養いました。その後、父兄を集め、『東の国には聖なる主君がいると聞く。帰順し従ってはどうか。ここに長く住めば、滅ぼされる恐れがある』と告げました。そして同じ母から生まれた弟の迂興徳と七つの氏の民を連れて移住し、来朝しました。譽田天皇が天下を治めた御世です。その時、阿智王は『私の旧居は帯方にあり、人々は男女とも技芸を持っています。近ごろは百済と高麗の間に仮住まいし、ためらって去就を決めていません。どうか使者を遣わして呼び寄せてください』と願いました。そこで、私たちの八つの系統の氏族に勅命を下し、手分けして使いを派遣すると、男女ことごとく村ごと使者に従って来て、永久に公民となりました。年月を重ねて今に至り、今諸国にいる漢人もその子孫です。私たち苅田麻呂らは、祖先の王族としての地位を失い、下人の低いカバネを受けています。どうか忌寸を改め、宿禰を賜りたいと願います。」詔によってこれを許し、坂上・内蔵・平田・大蔵・文・調・文部・谷・民・佐太・山口など、忌寸の十氏、十六人に宿禰のカバネを賜った。

【宣長の注釈】「十氏」は「十一氏」の「一」が抜けたのであろう。これらの氏はみな阿知使主の子孫である。坂上氏は、『日本書紀』欽明天皇の巻の東漢坂上直子麻呂、推古天皇の巻の倭漢坂上直、天武天皇の巻の坂上直国麻呂・坂上直熊毛・坂上直老などが見える。漢直のうちなので、天武天皇十四年に忌寸になった者に含まれる。『続日本紀』巻二十五には「坂上忌寸苅田麻呂に、坂上大忌寸を賜った」とある。今度宿禰となったため、苅田麻呂の系統を大宿禰という。大忌寸の「大」を、そのまま宿禰に移して賜ったのであろう。文氏は、先の文首の箇所で述べた倭漢文直という氏で、皇極紀・孝徳紀にその人物が見える。天武天皇の御世に倭漢直が連、さらに忌寸になった時、この文直もそのうちとして連、忌寸になった。この氏については、先の文首の箇所と合わせて考えるべきである。内蔵宿禰・平田宿禰・文忌寸・谷宿禰・佐太宿禰・山口宿禰などは、みな『新撰姓氏録』に見え、坂上大宿禰と同祖とする。調連と民首はいずれも「百済国の努理使主の子孫」とあり、大蔵氏は見えない。

【宣長の注釈】『新撰姓氏録』【右京諸蕃・漢】には、「坂上大宿禰は、後漢の霊帝の子、延王から出る」とある。【『続日本後紀』巻七には、坂上忌寸豊雄が忌寸を改めて宿禰を賜ったとある。】『続日本紀』巻三十二で坂上大忌寸苅田麻呂らは、「檜前忌寸を大和国高市郡司に任じる理由は、先祖の阿智使主が軽島豊明宮の天皇の御世に、十七県の人夫を率いて移住し、高市郡檜前村を賜って住んだからである。高市郡の中は檜前忌寸と十七県の人夫で埋まるほどで、他の氏は十分の一か二にすぎない」と述べる。【『姓氏録』は、檜前忌寸を坂上大宿禰と同祖、阿智王の子孫とする。】巻三十七では、倭漢忌寸木津吉人ら八人が、「自分たちは阿智使主の子孫である」と述べ、「倭漢」の二字を除いて木津忌寸とすることを許された。【『姓氏録』は、木津忌寸を後漢霊帝の三世の孫、阿智使主の子孫とする。】『続日本後紀』巻一には、山田造古嗣・大蔵忌寸横佩・内蔵忌寸秀嗣らに宿禰を賜い、うち横佩・秀嗣の先祖は、後漢霊帝の曾孫の阿智王から出て、譽田天皇の御世に移住した者であると記す。『日本三代実録』巻六には、「大蔵伊美吉広勝に宿禰を賜った。後漢の孝霊皇帝の四代の孫、阿智使主の子孫で、坂上大宿禰と同祖である」とある。また「坂上伊美吉能文・坂上伊美吉斯文ら九人に、坂上宿禰の氏とカバネを賜った。後漢の孝霊皇帝の四代の孫、阿智使主の末裔で、坂上大宿禰と同祖である」とある。

【宣長の注釈】『新撰姓氏録』には、このほかにも同祖の氏があちこちにある。【医術で名高い丹波氏も坂上氏から出ている。】「酒を醸すことを知る」とは、世間で特に優れた酒を醸すという意味で、「知る」は技が巧みであることをいう。【下巻にも、上手なことを「知る」という例がある。】「仁番」は「にほ」と読むべきである。【先の照古・卓素・西素などと同じく、字音のまま「にんほん」と読んでもよいが、総じて「ん」の韻は整わない音で、古くから省く例が多い。ここでは特に二つ重なって聞き苦しいので、省いて読むべきである。そのうち、師は「番」を「は」と読んだが、この字も「蕃」も『古事記』の中では「ほ」の音仮名に用いられる。「附袁の反切」なので、呉音は「ほん」である。】

【宣長の注釈】「須須許理」は、『日本書紀』にも他の古書にも、その人のことが見えない。ただし『新撰姓氏録』の酒部公の条に、「大鷦鷯天皇の御代、韓国から来た兄の曾曾保利と弟の曾曾保利の二人に、天皇が『何の技があるか』と問うと、ともに酒を造る技があると答えたので、御酒を造らせた」などとある。【この文は『伝』巻二十六の二十四葉で詳しく述べた。照らし合わせるべきである。】この曾曾保利と同じ人物のように聞こえるが【「すず」と「そそ」は通じ、「こ」と「ほ」も同じ段の音として通じる】、仁徳天皇の御代というのは伝承が異なるのだろう。【また『字鏡』には「酢」を「すずほり」とするが、その意味は詳しくわからない。同書には「酗、醟なり、ささかり」ともあり、音は須須許理に通じる。しかし「酗」は酔って怒ること、「醟」は酒による過失と注するので、ここの意味には合わない。『姓氏録』には、工造は呉国の人で太利須須の子孫、上勝は百済国の人で多利須須の子孫、高安漢人は狛国の人で小須須の子孫などとあるが、これも似た名である。また『日本書紀釈』の顕宗巻、「旨酒、餌香市」の下には、私記の師説として「高麗人が餌香市に来住し、うまい酒を醸した。人々が争って高値で買って飲んだので、こういう」とある。これは須須許理の話などが伝わっていったものではないか。】

【宣長の注釈】「等」は秦造の祖先・漢直の祖先・仁番らを指す。「参渡来」も、秦造の祖先から三人についていう。【これらの人々は百済国から献上した者たちに含まれず、この御世に自ら渡って来たのである。】

【古事記本文】そこで、この須須許理が大御酒を醸して献上した。天皇はその献上された大御酒で心が浮き立ち、次のようにお歌いになった。

【古事記本文・御歌】須須許理が醸した御酒で、私は酔ってしまった。心の憂いを和らげる酒、笑いの湧く酒に、私は酔ってしまった。

【古事記本文】このようにお歌いになりながらお出かけになった時、大坂の道中の大石を御杖でお打ちになると、その石は走って逃げた。それで、ことわざに「堅い石さえ酔った人を避ける」というのである。

【宣長の注釈】「宇羅宜(うらぎ)」は、自然と心が楽しく浮き立つことをいうと思われる。若桜宮の段にも「大御酒にうらぎて、大御寝なさった」とある。『出雲国風土記』【仁多郡三津郷の条】には、「大穴持命の御子、阿遅須伎高日子命は、髪が八握りの長さに伸びるまで、昼夜泣き続けて言葉が通じなかった。そこで父神は御子を船に乗せ、島々を巡って『うらかし』なさったが、なお泣きやまなかった」ともある。【「うらぎ」は自然にそうなることをいい、「うらかし」は「うらぎ」させることをいう。ここでは泣くのをやめて楽しくおさせするのである。契沖は、世間で幼児を「てうらかす」というのも、この「うらかす」に「手」を加えたものなのだろうか、といっている。】

【宣長の注釈】「須須許理が」について。【契沖は、この名がもし日本語なら「煤凝り」だろう、古い家では煤が固まるからだ、といい、『古事記』の櫛八玉命の箇所などを引くが、根拠がない。煤が「凝る」ことには関係があっても、それがこの人と何の関係を持つというのか。また、この人は仁徳天皇の段と『姓氏録』にも見える、というのも違っている。】「迦美斯美岐邇」は「醸した御酒に」である。「和禮惠比邇祁理」は「私は酔ってしまった」である。『万葉集』巻六にも、「ますらをが祝う豊御酒に、私は酔ってしまった」とある。

【宣長の注釈】「許登那具志」は「事を和める酒」である。「なぐ」は慰むということだ。『万葉集』巻八の「心が慰むかと」、巻十一の「思っていた心が、今ようやく和らいだ」、巻十五の「私の持つ心が慰むかと、これほど多くも」、巻十七の「しきりな恋だ、慰む日もなく」、巻十八の「酒に浸って慰めるけれど」などは、みな慰む意味である。【風などが「なぐ」というのも、もとは同じ語で、意味も同じである。】また『丹後国風土記』には、「天女八人が降りて来た。……その天女はよく酒を醸し、一杯飲めばあらゆる病が除かれた。……再び竹野郡船木里の奈具村に至り、村人たちに『この地では私の心がなぐしくなった』といった。【古語で、事が穏やかになるのを『なぐし』という。】そこでこの村に住みとどまった。これが竹野郡の奈具社に鎮座する豊宇賀能売命である」とある。【この文では酒造りと「なぐしく」は別の事柄で、無関係に見える。しかしこの歌と合わせて考えると、実は酒造りの話にも理由があるのかもしれない。

【宣長の注釈】神名帳には丹後国竹野郡の奈具神社がある。『大神宮儀式帳』の「味酒の鈴鹿の国」は、伊勢国鈴鹿郡である。その枕詞の「あぢさけ」は、この須須許理という名の「すず」と何か関係があるのではないか。また、その郡には名串村という所があり、神名帳には加志志里神社がある。】さて、この句は、さまざまな憂いや悲しみを和らげる酒という意味だから、「ことなぐくし」の「ぐ・く」と同じ音が続くところを、一つ省いたのである。【同じ音が重なる言葉の一つを省く例は、先にも述べたとおり、常に多い。】「くし」を酒とするのは、大后の段の歌の「くしのかみ」の下で挙げた、横井千秋の考えによった。【『伝』巻三十一の四十二葉。】照らし合わせるべきである。【契沖が「こと」は言葉、「な」は「の」、「ぐし」は「苦し」で、大御酒を召して物をいうのが苦しいとおっしゃった、とするのは、たいへんな誤りである。】

【宣長の注釈】「惠具志爾」は「笑いの酒に」で、飲むと心が楽しくなり、笑いに満ちる酒という意味である。「笑う」を「ゑ」という例は多い。【契沖が「笑うのも苦しい」とするのは、大きな誤りである。】師は、御酒に酔い、心のさまざまな思いも和らいで、お笑いになる意味だという。「如此之歌」の「之」は、用例のない置き方である。【師は「歌之」の順を逆に写したのだといったが、それも『日本書紀』には普通でも、『古事記』では用例がない。】「歌」は「うたはしつつ」と読むべきである。「乍」の字はないが、文の流れは必ずそうなる箇所である。【前の「之」は、もしかすると後ろにあって、「乍」の誤りなのか。】「幸行」は、大御酒に酔って心が浮き立ち、どこという当てもなく、気の向くままにお出かけになることである。だから行き先をどこともいわない。

【宣長の注釈】大坂は玉垣宮の段に出てきた、大和から河内へ越える坂である。その箇所で詳しく述べた。【『伝』巻二十五の二十四葉。】大石をお打ちになるのは、酔っておられるためのしぐさである。「走避」は、ひどく打たれまいとして、心のある物のように逃げ去ることだ。【「避」は、お打ちになる御杖をよけるのである。】「諺」は上巻に出た。【『伝』巻十三の三十九葉。】「堅石」は、師の「かたしは」という読みがよい。『日本書紀』雄略天皇の巻にも「堅磐、これを『かたしは』という」とある。ここで単に石といわず、ことさらに「堅い」というのは、石はどれほど打たれても痛まず、傷つきもしない堅い物だが、その堅い石さえ、という意味である。このことわざの意図は、酒に酔い乱れた人は正気でなく、どんな乱暴なことをするかわからないので、堅い石すら恐れて避けるのだから、必ず恐れて避けるべきものだ、とたとえていうのである。【ことわざとして挙げるものは、みな単にその時の出来事だけをいうのではなく、物事のたとえに使う表現である。上巻の「雉の頓使」や、玉垣宮の段の「土地を得ない玉作」などの下でも述べたとおりで、照らし合わせるべきである。】

【宣長の注釈】『袋草紙』に、夜道を行く途中で唱える呪文の歌として、「堅い石よ、『つかせせくりに』〔杖でつつき回す意か〕、『くめる酒』〔語義未詳〕、手も足も酔い、私も酔ってしまった」とある。これもこの故事を詠んだものと思われる。【第二句の「つか」は「つゑ」の誤りなのか。御杖で大石をお打ちになったことだろう。「手酔ひ」はそのような手の動作をなさること、「足酔ひ」は行く当てもなくお出かけになることである。「くめる」はわからない。「のめる」の誤りだろうか。これを夜道の呪文とした意味は、堅い石まで逃げたのと同じく、どんな恐ろしいものも私を恐れて逃げ去り、近づかないだろう、ということにあるはずである。】

【古事記本文】天皇がお亡くなりになった後、大雀命は天皇の命令に従い、天下を宇遅能和紀郎子に譲った。一方、大山守命は天皇の命令に背き、なお天下を得ようとして、弟の皇子を殺すつもりで、ひそかに兵を整えて攻めようとした。大雀命は兄が兵を備えていると聞き、すぐ使者を遣わし、宇遅能和紀郎子に知らせた。宇遅能和紀郎子は驚き、川辺に兵を潜ませ、その山の上に絹の垣を張り、幕を立てた。さらに舎人を自分に見せかけ、御座の床几にあらわに座らせた。役人たちが恭しく往来する様子は、まさしく皇子の居所のようだった。そして兄王が川を渡る時のため、船や櫂を準備する際、さなかずらの根を搗いて、その滑らかな汁を船内の簀の橋板に塗り、踏めば倒れるように仕掛けた。

【古事記本文・宣長の訓による】郎子自身は布の服とふんどしを着け、身分の低い者の姿になり、櫂を持って船に立った。そこへ兄王が、兵士の装いを隠し、兵たちに服の下へ鎧を着せ、自身も同じ装いで川辺に来た。船に乗ろうとした時、厳かに飾られた場所を見て、弟王はそこにある床几に座っていると思い、櫂を持って船に立っているとは全く気づかなかった。そして櫂を持つ者に、「この山に怒り猛る大猪がいると聞いた。その猪を取りたいが、取れるだろうか」と尋ねた。櫂を持つ者は「できません」と答えた。「なぜだ」とまた尋ねると、「時々、あちこちで取ろうとする者がいても取れないので、できないと申し上げました」と答えた。川の中ほどまで渡った時、船を傾けさせ、兄王を水中に落とした。兄王は浮かび上がり、水の流れに従って下りながら歌った。

【古事記本文・大山守命の歌】ちはやぶる、宇治の渡しで、棹を取るのが早い人よ、私のもとへ来てくれないか。

【古事記本文】その時、川辺に潜んでいた兵が、あちら側、こちら側から一斉に起き上がり、矢をつがえて追い流した。兄王は訶和羅の崎まで流れ着いて沈んだ。そこで鉤で沈んだ所を探ると、服の下の鎧に当たって「かはら」と鳴った。そのため、この場所を訶和羅の崎と名づけた。遺体を引き上げた時、弟王は歌った。

【古事記本文・宇遅能和紀郎子の歌】ちはや人、宇治の渡しに、その渡り瀬に立っている、梓の木、真弓の木。伐ろうと心では思うけれど、取ろうと心では思うけれど、根元の方では、君を思い出し、梢の方では、妹を思い出す。心の痛むことを、そこで思い出し、いとしいことを、ここで思い出す。伐らずに帰って来る、梓の木、真弓の木よ。

【古事記本文】そして大山守命の遺体は那良山に葬った。〔原注:この大山守命は、土形君・幣岐君・榛原君らの祖先である。〕

【宣長の注釈】「天皇が崩御した」について。『日本書紀』には「四十一年春二月、甲午を朔とする戊申の日、天皇は明宮で崩御した。【ある伝えでは、大隅宮で崩御したという。】」とある。【大隅宮は難波にあり、二十二年の条に見える。】「天皇之命」は「さきのおほみこと」、先の大命、と読むべきである。「天皇」を字のまま読むと、前の「天皇」と重なって煩わしいからである。これは先に見えた、大山守命・大雀命・宇遅能和紀郎子の三人の太子に対し、それぞれ仰せになった大命である。「譲る」というのは、大雀命も同じく皇太子でいらっしゃったためである。この語からも、三人とも皇太子だったことがわかる。【もし『日本書紀』のように宇遅王だけが皇太子だったなら、天下は初めからその王が治めるはずで、大雀命が「譲る」という理由がない。ともに太子だったから譲るのである。】「ゆづる」は場所をよけることをいう。【三人の御子がともに皇太子なので、誰もが天下を治められる。しかし天皇の大命があるため、宇遅王に地位をよけてお譲りするのである。】仏足石の歌には「ゆづりまつらむ」とある。『日本書紀』仁徳天皇の巻の初めには、「その時、皇太子の菟道稚郎子は大鷦鷯尊に位を譲ろうとし、即位せず、大鷦鷯尊に相談した。……大鷦鷯尊は答えて……辞退して受けず、互いに譲り合った」とある。【譲り合う時の言葉は長文で、当時の言葉では全くなく、みないつもの中国風に飾った文章なので、たいへん煩わしい、と宣長はいう。】「大山守命は……」について。『日本書紀』には「この時、額田大仲彦皇子が大和の屯田と屯倉を管理しようとした」などとある。「その後、大山守皇子は、先帝が自分を退けて皇太子に立てなかったことを常に恨み、さらにこの恨みが加わったので、『私が皇太子を殺し、そのまま帝位に登ろう』と企てた」とある。【「この恨み」とは大和の屯田・屯倉のことで、額田大仲彦皇子は同母の兄だからである。】

【宣長の注釈】「弟皇子」は宇遅王である。御子を「皇子」と書くのは、『古事記』ではここ以外に例がない。【玉垣宮の段やこの後でも、弟王・兄王などと書く。「王子」は各所にあり、後の本文もそうなので、ここも元は王子だったのを、『日本書紀』の表記に慣れた後の人が、ふと写し誤ったのであろう。】「竊」は師の「しぬびに」という読みがよい。「兵」も師の「いくさびと」がよく、後もみな同じである。「大雀命……」について、『日本書紀』には、大鷦鷯尊が前もって計画を聞き、ひそかに皇太子に告げ、兵を備えて守らせたとある。「使者を遣わす」は、山城国の宇治にいる宇遅王のもとへ遣わしたのである。【宇遅王が宇治に住んでいたのは前述した。】「河辺」は宇治川のほとりである。「伏」は「かくし」と読むべきで、後の「川辺に伏し隠れた兵」が詳しくいい直した表現である。天武紀にも伏兵という。「その山」は宇治山である。

【宣長の注釈】「絁垣」は、絹を長く延ばし、垣のように立てて隔てるものをいう。『大神宮儀式帳』の新宮への遷御儀礼には、「人垣を立て、衣垣を引き、蓋を差しかざして、列をなしてお移りになる」とある。【今の遷宮にも絹垣として、この物がある。】「帷幕」は「あげはり」と読むべきである。『和名抄』は『四声字苑』の「幄は大きな帳である」を引き、和名「あけはり」とする。『日本書紀』斉明天皇の巻には、宮の地に紺の幕を張ったとある。【継体天皇の巻は帷幕を「きぬまく」と読み、『和名抄』にも幕の和名を「まく」とするが、これは漢字の音と思われる。また帷の和名を「かたびら」とするが、ここでは帷と幕という二つの物ではない。二字を合わせて一つの物として読むべきだ。よく帷幕と続けるため、そのように書いただけである。帷にも字書で「幕なり」という注がある。】また「とばり」と読んでもよい。『和名抄』は『唐韻』の「幌は帷幔である」を引き、和名「とばり」とする。【『和名抄』は、帷をかたびら、幕をまく、帟をひらはり、幄をあけはり、幔をまだらまく、幌をとばり、帳を俗音で「ちゃう」と、いろいろ挙げる。しかしそれはやや後世のことで、古くはそこまで区別しなかっただろう。中国でも字を通用させることは普通なので、これらの字ごとに拘泥せず、古い名によって読むべきである。「あげはり」は「幄」の字を使い、家のように上に張る物の名と思われるが、横に張る物にも通じていえよう。横から上まで連ねて張るからかもしれない。】この箇所では、前の絁垣こそが今の幕のような物なので、帷幕は後世の幄のような覆いなのかもしれない。】

【宣長の注釈】「舎人」は、すぐそばで親しく仕える者である。『日本書紀』には、仁徳天皇の巻に近習舎人、武烈天皇の巻に近侍舎人、顕宗天皇の巻に左右舎人などとある。【これらはもともと単なる舎人で、別にそのような種類の名称があるのではない。】『古事記』『日本書紀』を通して考えると、舎人は天皇や王たちが使う者である。【『万葉集』でも、みな皇子に仕えるという詠み方である。巻十三には、「朝は召してお使いになり、夕べも召してお使いになった舎人の子らは、行く鳥のように群れて控え、待っていても、もうお召しにならないので……」とある。『続日本紀』巻八には、舎人親王に内舎人二人・大舎人四人・衛士三十人、新田部親王に内舎人二人・大舎人四人・衛士二十人を賜り、舎人は身辺の雑務、衛士は道中の警護に充てるとある。臣下の家にはこの呼称はない。巻五の左大臣の舎人は、後代のことなのであろう。】ここでは宇遅王の舎人である。

【宣長の注釈】「とねり」という名は、「殿に控えて仕える者」という意味なのか。【「のはべ」を縮めると「ね」になる。「侍る」の意味は、上巻『伝』巻十四の四十四葉で述べた。『万葉集』巻二の日並皇子尊の宮の舎人らの歌には、「東のたぎの御門に控えていても、昨日も今日も、お召しはない」とある。もう一つ考えがあり、それは後で述べる。師は「殿守」の意味だといったが、殿守はもとから「とのもり」という別の語である。】『日本書紀』では、帳内・官者・兵衛などの字も使う。【中国で「官者」と呼ぶ宦官は日本の朝廷にはいないが、仕える様子は舎人に似たところがある。「兵衛」は舎人に正確には当たらない。「舎人」の字を主に使うのは、『漢書』の注の「舎人は身近で仕える者の総称で、後に官となった」という意味による。舎人という称号は『周礼』や『史記』秦始皇紀などにもあるが、日本のとねりに当てるのは、この『漢書』の注の意味からである。「後に官となった」という点までよく合っている。】

【宣長の注釈】やや後には大舎人という者もある。【この名は『日本書紀』雄略天皇の巻から初めて見える。職員令には左右大舎人寮があり、大舎人八百人とする。『令集解』には、弘仁十年に減らして四百人に定めたとある。】内舎人という者もある。【同じ令の中務省の規定には、「内舎人九十人。刀を帯びて宿直し、雑務に奉仕し、天皇が外出する時は前後に分かれて護衛する」とある。大宝元年に初めて置いたことは『続日本紀』に見える。久安四年に六十人としたことは『百錬抄』に見える。中国でも隋の官に太子内舎人という、皇太子に属する官がある。】

【宣長の注釈】また東宮職員令にも舎人監があり、その下に舎人六百人とある。さて、「刀禰(とね)」という呼称もあるが、これはもとから舎人とは別である。【広瀬の大忌祭の祝詞には、「王たち、臣たち、役人たち、大和の六御県の刀禰、男女に至るまで……」とあり、龍田祭の祝詞も同じである。『続日本後紀』巻九には「公卿・百官および刀禰ら」「諸祝・刀禰ら」とある。『西宮記』五月五日の条では、内弁が「刀禰を召せ」といい、少納言が応じて出て召すと、王卿以下が列になって入る。釈奠の条では、上卿が「刀禰を礼に入れよ」と告げ、諸大夫以下が南門から入る。九日の宴の条には「刀禰を召せとの仰せ。大臣・大夫を刀禰と称する」などとある。神楽の弓立歌には「伊勢島の海人の刀禰ら、堅魚を干しておけ」とある。『大神宮儀式帳』には「二郡の郡司の子弟および諸刀禰ら」とある。『中右記』嘉保二年の条には、大原の刀禰らが両院の下部となって行事の命じる炭を納めず、また西七条の刀禰が同じく下部であると申し立て、行事の命じる針を納めないことなどが見える。伊勢神宮の諸書には、宇治郷刀禰・沼木郷惣刀禰・諸郷刀禰・小俣村惣刀禰職・射和村刀禰職などがある。『後拾遺和歌集』神祇の部の詞書には「里の刀禰」ともあり、散位も「とね」と読み、命婦や女性の官人などを「ひめとね」と読む。

【宣長の注釈】刀禰は、もともと上・中・下を問わず、公に仕える者の総称で、非常に低い身分の者まで含めていう。そのため後には自然と低い呼び方のようにもなったのである。神楽歌の「海人の刀禰」も、海人が朝廷の御贄を捕る仕事をするのでそう呼ぶ。「里の刀禰」は村の長などをいうのだろう。『吏部王記』の「百官の主典以上を刀禰と称する」は、主典が官職の最下位だからそういったのであり、百官についての説明である。したがって主典より下を刀禰といわないという意味ではない。「主典以上」なので、上は大臣までいうこともわかる。それなのに、六位をいうとか、六位以下をいうとかの説はみな誤りである。『西宮記』で「刀禰を召す」といって、王卿以下が列になって入ることからも、王卿以下がみな刀禰であることは明らかだ。「とね」の名の意味は、「伴の部(とものべ)」だろう。「も」を省き、「のべ」を縮めて「ね」としたのである。

【宣長の注釈】舎人と刀禰は、もとは一つの名で、後に分かれたのかという疑いもある。師は、刀禰は後の呼び方で、舎人から変化したといったが、そうではない。刀禰もたいへん古い名と思われ、舎人から刀禰に変わるとは考えにくい。もし元が一つなら、「とねり」の方が「とね」から出たのであろう。しかし、さらに考えると、もとから別の名だったはずである。また舎人も「り」を省いて刀禰といったことがあるのか、と思わせる理由もある。『日本書紀』が欽明天皇の御子を舎人皇女とするのに、『古事記』では泥杼王とするのは、「杼泥」の順序を逆に写したのだろうか。「杼」は濁音なので疑わしいが、それでも舎人を刀禰ともいったように聞こえる。当時、御子の名は乳母の氏を取ることが多かったので、これもそうであろう。『姓氏録』には等禰直、また舎人という氏がある。後世の書物では、あの総称の刀禰を「舎人」と書くこともある。何となく混同したのか、それとも舎人も刀禰というため、借りて通用させたのか。】

【宣長の注釈】「王と為す」は、宇遅王に見えるように仕立てたのである。「露」は、よく見える場所に、ということだ。【敵から、ここだとよく見えるように構えたのである。】「呉床」は師の「あぐら」という読みがよい。後の本文にもあり、朝倉宮の段にも大御呉床、御呉床とある。上巻の天若日子の段の胡床と同じ物である。【胡と呉という漢字の違いには関係しない。『和名抄』には牙床を「くれどこ」とする例もあるが、それではない。】『大神宮儀式帳』の荒祭宮の装束には、呉床一具【漆塗り、長さ二尺三寸】とある。この物については、胡床の箇所【『伝』巻十三の三十九葉】で述べたとおりである。「坐」は「ませて」と読むべきである。【「まさせ」を縮めて「ませ」ということは前述した。】相手は舎人だが、王に見せかけた場面なので、このように尊敬する語を使っている。

【宣長の注釈】「百官」は「つかさづかさ」と読むべきである。『続日本紀』巻九の宣命に「官々」【百官官人ともいう】、大祓詞に「天皇の朝廷に仕え奉る官官人等」などとある。『日本書紀』の百官・百僚・有司なども、みなこのように読む。【「もものつかさ」とも読む。】天皇はすでに崩御し、宇遅王はまだ即位していないが、皇位を継いで天下を治めるべき御子なので、朝廷の役人たちが仕えても当然である。しかし、ここでは単に皇太子に所属する役人たちをいうのかもしれない。【百官という字面に拘泥してはならない。下巻の若桜宮の段で、水歯別命が曾婆加理を欺く箇所の「大臣の位を賜り、百官に拝ませた」は、意味合いが違うだろう。その理由はその箇所で述べる。】「恭敬」は「ゐやび」と読むべきである。【「ゐやまひ」とも読む。その読みでもよい。】

【宣長の注釈】うやうやしく、という意味である。【「うや」と「ゐや」は同じ語である。】『日本書紀』には神を礼拝する、賢人を礼遇する、などの表現がある。「往来」は師の「ゆきかふ」という読みがよい。「既」はことごとく、で、ここでは「さながら」に通じる。【さながらも、すべてという意味である。】後も同じである。「如」は「ごとして」と読むべきで、そのような状態にするという意味である。「兄王」は大山守命。「川を渡る」は、攻めて来る時のことをいう。「爲」は諸本で抜けているが、真福寺本と延佳本に従った。「船楫者」の「者」は「亦」の誤りであろう。草書は似ている。「船と楫」というべきで、ここで船頭をいうはずはなく、「飾る」も船頭にはふさわしくない。またこの後に「また」があるべき箇所だからである。そこで「ふねかぢ」と読み、「者」は次に付けて「また」と読むべきである。『日本書紀』神武天皇の巻にも「舟楫を備えた」とある。

【宣長の注釈】「佐那葛」は、『和名抄』が蘇敬の『本草』注を引き、「五味は皮と肉が甘く酸っぱく、種の中が辛く苦く、全体に塩味があるので五味と名づける。和名さねかづら」とするものだ。『字鏡』には「藉、さなかづら」、また木防己をさなかづらとする例などがある。『万葉集』でも多くは「さなかづら」と詠み、巻十には山さなかづら、巻二には狭根葛、巻十一には核葛ともある。【巻十二の真玉葛は「またまづら」と読むべきだろうが、田中道麻呂は「きさねかづら」といった。後の歌では、この植物をさねかづらとだけ詠む。】「舂」は師の「うすにつき」に従うべきである。【「に」を省いて「うすづく」というのは、漢文を読む時の訓であろう。】『万葉集』巻十六には「からうすにつき、うすこにつき」とある。「滑」は「なめ」と読むべきである。【師は「なめり」と読んだ。それも一つだが、古くそういう例をまだ見ない。この語は性質をいう時は普通「なめらか」、名詞では『万葉集』にも「常滑」などとある。今の俗語でも「なめ」という。】さねかづらはたいへんぬめりのある植物で、今も水に浸して髪を梳くのに使う。【そのため美男葛、美人草ともいい、ふのり葛という地方もあるそうだ。】そこで「さな」の名は「さなめ(真滑)」を縮めたもので、「さね」も「なめ」を縮めて「ね」としたのだろうと考える。【師の『万葉考』別記の説も、同じ意味に帰着するようだ。】

【宣長の注釈】「等椅」の「等」は「簀」の誤字である。【「等」では理由がないが、諸本がみな同じ字なので、ここでも元のままにしておいた。延佳本が「簀」とするのは改めたのであろう。また同本が「椅」をすべて土偏にするのが誤りであることは、前述したとおりである。】「すばし」と読むべきである。竹などを簀に編んで渡し、船内をあちらこちらへ歩く便にした物であろう。玉垣宮の段の黒樔橋【『伝』巻二十五の二十九葉】と合わせて考えるべきである。「蹈応仆」は「ふみてたぶるべく」と読むべきである。【「蹈」を「ふめば」「ふまば」などと読むと理屈は確かなようだが、活用させすぎで、後世の言葉のようになる。またここは大山守命が必ず踏むように仕掛けたので、「ふみて」という読みがよい。】

【宣長の注釈】「王子」は宇遅王である。「賤人」は「やつこ」と読むべきである。ただし、王に対して普通の人を臣という用法【白檮原宮の段で五瀬命が「賤奴のためにひどい傷を負った」といったのは、王に対して臣をいうやつこで、『伝』巻十八の三十七葉に詳述した】とは違い、ここは字のとおり、身分の低い者をいう。【王に対して臣をいうところから、自然に低い身分の人をいう語にもなったのである。】「執楫」は川の渡し船なので、「楫」を「さを」と読むのがよいようにも思えるが【後の歌も「さをとりに」という】、やはり「かぢ」でよい。【船を進める道具は何でも総じてかぢというので、棹にも当たるからである。】「隠伏」は二字を合わせて「かくし」と読むべきである。別の場所に兵を伏せておく意味ではなく、兵士の装いを隠すことをいう。【「伏」の字に拘泥してはならない。】次の「服の下に鎧を着る」が、そのことである。

【宣長の注釈】「鎧」は、『和名抄』が『唐韻』の「鎧は甲である」を引き、和名を「よろひ」とする。また『釈名』の、甲は鱗や殻のある物に似る、という説明を引く。「よろふ」という動詞を名詞にして、身を整え装う意味の名である。【後世でも甲を着ることを「よろふ」といい、「具足」も同じ意味である。ついでにいうと、今の人が「甲」をかぶと、「冑」をよろひと考えるのは逆である。】『万葉集』巻一には「とりよろふ天の香具山」とある。「衣中服」は「ころものうちにきせて」と読むべきで、「服」は兵士たちに着させるのである。この表現に、王自身も同じ装いをすることが含まれる。また「服」を「きて」と読み、王が着る表現として、兵士たちもその中に含めたと考えても違わない。下巻の穴穂宮の段にも「衣中服甲」とある。こうしたのは、攻めようとする様子を隠して宇遅王を油断させるためである。「厳」は師の「いかめしく」という読みによるべきで、その理由は、前の「その家を厳しく飾る」とある箇所【『伝』巻三十二の三十一葉】で述べた。

【宣長の注釈】「厳かに飾った場所」は、「その山の上に絹の垣を張り……」とあった場所である。「望」は「みやりて」と読むべきである。倭建命の御歌には「鳴海を見やれば遠い……」とある。【熱田社の寛平本縁起に出る。】『万葉集』巻十にも「私は見やろう、あなたのいる辺りを」とある。「弟王がその呉床に座ると思った」は、あの舎人を宇遅王だと思ったのである。「執楫而」の三字は多くの本にないが、真福寺本と別の一本によった。【なくても悪くはない。】「都」は「かつて」と読むべきである。『万葉集』巻四の「花かつみ、かつても知らぬ恋をもするかも」は、花かつみを序にしているので、必ず「かつて」と読む。『日本書紀』もこの読みを用いる。また『万葉集』巻十五には「木高くは、かつても植ゑず」とある。「執楫者」は「かぢとれるもの」と読むべきである。【ここを「かぢとり」と読むのはよくないだろう。】

【宣長の注釈】「怒る大猪」について。大后の段の「大いに怒る猪」や雄略紀の「嗔る猪」などは、その時に怒っていることをいうので自然だが、ここは、その場でのことではなく、猪の普段の様子を語るので、「怒る」というのはいかにも不自然に聞こえる。しかし「いかり猪」という呼称があることから考えると、単に猛々しさをそういい習わすのであろう。このように猪について問うのは、猪を取りに来たように思わせるためである。「答曰」の「曰」は、諸本が「白」とするが、次にも答曰とあるので真福寺本に従った。【「是以白」の「白」は船頭自身の言葉なので別である。】「不能也」は「ええたまはじ」と読むべきである。最初の「え」は、不可能を表す語【「え……せじ」の「え」である】、次の「え」は猪を獲るという意味だ。『伊勢物語』の「五条辺りの女を、え得ずなってしまったことと……」「女の、え得まじかったのを……」などと同じである。「何由」は「いかなれば」と読むべきである。

【宣長の注釈】「時々也」は「よりより」と読むべきである。【「也」は読まない。どういう意味で置いたのか。次も同じである。】持統紀にもこの読みがあり、崇峻紀の三度、推古紀の両度、持統紀の六斎などで「より」と読むのと同じである。「をりをり」と音が通じ、もとは同じ語だ。【漢文でも「時」をよりよりと読むのは、古語が残ったのである。允恭紀の歌には「ときどき」ともあるが、ここはそう読むべきではない。】「往々也」は「ところどころにして」と読むべきである。『続日本紀』巻八の「所々の池」、巻三十四の「京中の所々の屋根の上」などと同じだ。【『文選』などにもこの読みがある。ただしここはまさしく場所ごとという意味なので、「往々」の字は少し合わないようだが、普通そう読む字を用いたのである。師は「さきざき」と読んだが、「時々さきざき」とはいえない。「ゆくゆく」という語もここには合わない。巻九の宣命に「時々、状々に従って」とあるので、ここも「状々」の誤りかとも思うが、やはりそうではあるまい。】「雖爲取」は、取ろうとする者がいても、という意味であろう。【自分自身のことを述べたのではあるまい。】「不得」は「ええず」と読むべきである。

【宣長の注釈】この問答は、すでに漕ぎ出してから船の中で行われた。次に「川の中ほどまで渡ると」とあるのでわかる。【そもそも大山守命と宇遅王は、同母ではないが兄弟なのだから、全く顔を見知らないはずはない。それなのに、これほど繰り返し言葉を交わしても最後まで気づかなかったのは、どうしたことだろう。古代には兄弟といっても、母が違えばそれほど疎遠だったのか。また『日本書紀』には「ひそかに渡し守の中へ交じった」とあるので、この問答は同じ船の別の船頭がし、王は顔が見えないようにして傍らにいたのかもしれない。ある人は、宇遅王は他所に隠れて様子を見て、船頭には他人を仕立てればよいのに、自分から敵の乗る船に立つのは非常に危険ではないか、何の策略なのかわからない、と疑った。この疑問はひととおりもっともだ。しかし古代の人々は勇ましさをよいこととし、身分の高い人でも、人にさせるはずの仕事を自らした。だから後世の心で無理に疑うべきではない。】

【宣長の注釈】「その船を傾けさせた」は「令」とあるので、王自身がしたのではなく、同じ船の船頭などに前もって命じ、させたのである。【そもそもこうなると、さねかづらの汁を簀橋に塗ったのは何のためなのか。無駄なことのように聞こえる。簀橋を踏んで倒れるように仕掛けたのに、その策略が外れて倒れなかったため、こうしたのか。そうであれば、これも予定していたのであろう。しかしそれなら、初めの策略が外れたことを述べないと、説明が足りないように感じる。また、船を傾けた時、浮いた簀橋に乗って逃げようとする場合に備え、さねかづらの汁を塗ったのかもしれない。さらに考える必要がある。『日本書紀』には、このさねかづらのことなどはないのは、理解できないと思って省いたのだろうか。】

【宣長の注釈】「墜とし入れる」は、大山守命を、である。【船を傾ければ宇遅王も同じく落ちるはずだが、前もって計画したことなので、溺れない備えがあったのであろう。】「爾」の下に諸本が置く「今」は、余分な字だろう。今は延佳本にないのに従った。【「今は」と読み、初め沈んだが今は浮かび出たという意味かとも思うが、よくない。やはり「爾」と形が似るため混入したのだろう。】「浮かび出て水に随って流れ下る」は、この王が水泳に巧みで、沈み溺れず、浮き上がって水に任せて流れ、川下へ逃げたのである。【溺れて、自然に浮かんで流れたのではない。ここは注意しないと取り違える。】『日本書紀』には、「皇太子が兵を整えて待つ中、大山守皇子はそれを知らず、数百の兵を率いて夜半に出発し、菟道に来た。川を渡ろうとすると、皇太子は布の袍を着て櫂を取り、ひそかに渡し守の間に交じって、大山守皇子を乗せて渡った。川の中ほどで渡し守に合図して船を踏み傾けさせると、大山守皇子は川に落ちて沈み、再び浮かんで流れながら歌った」とある。

【宣長の注釈】「ちはやふる」は、『日本書紀』では「ちはやひと」とある。どちらも宇治の枕詞で、『冠辞考』に見える。【ただし同書が「ちはや」の「ち」を「稜威(いつ)」と同じに解いたのは誤りで、「いつ」は別の語である。】「うぢのわたりに」は宇治の渡しに、である。【渡りとは渡る場所をいう。】「さをとりに」は棹を取るために、である。【契沖は、棹を取ることかといいながら、また『万葉集』巻十九の「櫟野にさをどる雉」などを引き、その「さをどる」が「狭踊る」なので、身のこなしの軽い者をおっしゃるのか、ともいうが、合わない。】この句は結びの「来む」にかかる。「はやけむひとし」は、契沖が「早いであろう人、しは助詞」といった。【「はやけむ」は「早からむ」の意味である。】「わがもこにこむ」は、私のそばへ来よう、ということだ。『日本書紀』の垂仁・清寧・欽明の巻などでは左右、皇極の巻では床の傍らを「もとこ」と読み、そばの場所という意味である。【「ところ」を省いて「こ」というのは、宮の場所を「みやこ」というのと同じである。】垂仁の巻で左右を「もとこびと」と読むのは、そばにいる人である。ここはその「と」を省いて「もこ」とした。【「と」と「こ」が同じ段で通じて、単に「もと」となっただけだと思うのは精密でない。】

【宣長の注釈】この句を契沖は、味方に素早い者がいれば、私のそばへ助けに来てくれ、といったのかとする。その意味なのであろう。「棹取に」とは、自分を乗せる船を用意して、というのと同じである。【ある人は、王が水泳に巧みで溺れないなら、船を寄せなくてもよいので、そうはいわないはずだと疑った。この疑問は一応もっともだが、この時、岸では宇遅王の兵が矢をつがえて追い立て、ついに逃げ切れず沈んだことを考えると、味方の救助を待つのは当然である。契沖はまた、水泳に長じているため、皇太子側の人々に向かって自慢したのかともいう。その意味は、船を傾けて私を落としたが、私は溺れず、このように浮いて逃げる、そちらに身軽な者がいるなら、ここへ来て私を捕らえよ、しかし捕らえられまい、と誇ったということだ。これもありそうには聞こえるが、そうだと「棹取に」がどうなるか。これを「さ踊り」かとも思うが、「登」は清音で、『日本書紀』も同じく清音の「刀」を使うので、踊りではない。

【宣長の注釈・師の説の引用】またこの歌について、師は次のように考えた。「思いがけず川に落ち、水中で歌を詠むなど、あるはずがない。しかも、この歌を歌うと伏兵が起きて矢を射かけたというが、それは皇太子側の兵なので、大山守命の歌とすると歌と本文がつながらない。これは神武天皇が大室屋の八十建を討った時のように、皇太子側で合図を決め、歌を聞いて立ち上がったのであろう。だからこの歌は皇太子側の合図の歌である。もとの本文は『即ち流るるを見て歌ひて曰く』だったのに、『見』が抜けたのだろう。大山守命の歌だと思い込む人が、勝手に『見』を除いたのかもしれない。」

【宣長の注釈・師への反論】しかし、この考えはかえって誤りである。まず、この歌は『古事記』だけでなく、『日本書紀』の書き方でも確かに大山守命の歌で、歌の内容もその王のものと聞こえ、宇遅王側の歌とは聞こえない。また、前述のように、王は水泳に巧みで浮かび上がり、自ら流れに乗って逃げているのだから、歌を詠めないはずはない。上代の人の歌は本当の感情から出たので、このような時でも、どうして生まれないことがあろうか。後世のようにあれこれ考えを巡らせて作る歌と、同じに扱うことはできない。ただ溺れて流されているのだと思うから、疑問が生じるのである。また「見」が抜け、宇遅王側の合図の歌だったとするなら、「ここに弟王、流るるを見て」などとないと説明が足りず、そのようには理解しにくい。神武天皇の時のことを例に出されたが、それとは前後の文章がたいへん違うので、照らし合わせて理解すべきである。また大山守命の歌では歌と本文がつながらないというが、伏兵は別に合図を決めて起きたはずだから、大山守命の歌でも、文章へのつながりは無理なくよく通じる。】

【宣長の注釈】「伏し隠れた……」は宇治王側の兵士で、前の「兵を川辺に伏せる」がこれである。「彼廂此廂」は「かなたこなた」と読むべきで、理由は水垣宮の段の「其廂人」の箇所【『伝』巻二十三の七十七葉】に述べた。「一時共」は「もろともに」と読むべきである。【『古事記』では「一時」だけでもそう読み、ここは「ともに」に当てて「共」を添えたのである。】「興る」は、前もっての約束によって立ち上がることだ。【その約束は特別のことではないので、記すのを省いた。必ずしも先の歌を聞いて起きたのではない。この伏兵が起きたのは、「船を傾けて水中に落とした」の続きの出来事である。】

【宣長の注釈】「矢刺而」は上巻にもあり、そこで述べた。【『伝』巻十の三十葉。弓に矢をつがえることである。】「流す」は少し説明が足りないように感じるが【矢を川へ射込むように聞こえるものの、それを流すとはいわないし、矢そのものを流す理由もない】、大山守命が流れに乗って逃げるのに対し、矢をつがえて射止めようとする姿を見せ、【わざと射ずに】追って流すのであろう。【この語は前の「水に随って流れ下る」から続くものとして読むべきである。】本来なら早く射殺すはずなのに、わざと放して流していったのは、宇遅王の心によるもので、その理由は次の歌に見える。

【宣長の注釈】「訶和羅の崎」は、崇神紀の「そこで当時の人は、鎧を脱いだ所を訶和羅と名づけた」とある場所で、山城国綴喜郡の、今の河原村であるという。それと同じ土地で、名の由来は異なる伝承なのである。この場所は宇治川の下流【宇治川は宇治郡と綴喜郡の境、次いで宇治郡と久世郡の境を流れ、紀伊郡に入り、下流で泉川と合流して淀川といい、さらに綴喜郡と乙訓郡の境を流れて河内へ至る】の、綴喜郡と乙訓郡の境を流れる辺り【そこでは淀川という】の川辺で、綴喜郡側にあるのだろう。【崇神紀の内容も、それで地理によく合う。】「沈み入る」は、大山守命がついに逃げられず、溺れて亡くなったのである。

【宣長の注釈】「鉤」は「かぎ」と読むべきである。【今の鳶口などに似た形の物である。】『日本書紀』皇極天皇の巻には木鉤、欽明天皇の巻には鉤戟も見える。「甲」は鎧である。「訶和羅鳴」の「かはら」は、鎧に鉤が当たって鳴る音をいう。【新井氏は、「かはら」は甲の古名だとして、この段と崇神紀を引き、亀の甲を俗に「かめのかわら」というのも同じ意味だという。今考えると、神名帳の筑後国三井郡の高良玉垂命神社は建内宿禰を祭り、高良を「かはら」と唱える。これは朝鮮を平定した時に、その大臣が着た鎧なのだろうか。伊勢国奄芸郡、丹波国氷上郡にも加和良神社があり、神名帳に見える。『出雲国風土記』意宇郡には式外の加和羅社もある。これらも甲による名であろう。屋根を葺く瓦が朝鮮語だという説も一理あるが、これも亀の甲と同じく、もとから日本の語で、「かわら」の「わ」が「は」に変わったのかもしれない。これらを合わせると、甲の古名だという新井氏の説がよい。そうすると、この地名を「かはら」と鳴ったためというのは別の伝承で、実際は鉤を鎧に掛けて引き出したことによって名づけたのだろう。『日本書紀』が甲を脱いだために名づけたとするのも、古名だとすればよく合う。鎧を脱いで身軽な「かわらか」になった意味で、『源氏物語』の「かはらかなり」と同じだという説は、どうであろうか。また、甲をかはらという語自体が、この故事の鳴る音から生まれたともいえようが、やはりそうではあるまい。】

【宣長の注釈】「骨」は「かばね」と読むべきで、大山守命の遺体をいう。古くは「骨」の字を、遺体にも通わせて使った。【もとは遺体が年月を経て骨だけになったことをいうところから出たのだろう。今「死骸」という「骸」も骨の意味である。】『日本書紀』顕宗天皇の巻の「御骨を埋めた所」、欽明天皇の巻の「骨が険しい山に積もる」なども遺体をいう。【『万葉集』巻十八にも「海を行けば水漬く屍、山を行けば草むす屍」とある。】「掛」は「かき」と読み、掻き取る意味である。【鉤に掛けて出すという意味ではない。】上巻の「胸乳を掻き出す」の箇所【『伝』巻八の五十八葉】で述べたとおりだ。『日本書紀』には、「伏兵が多数現れ、岸に着けず、ついに沈んで死んだ。遺体を捜させると考羅の渡しに浮かんだ。その時、皇太子は遺体を見て歌った」とある。

【宣長の注釈】「ちはやひと」について。【「ひ」は清音で、濁らせるのは訛りである。『日本書紀』も清音の「臂」を使う。】『冠辞考』に見える。「宇遅の渡しに」は前と同じである。「わたりぜに」は、川を向こう側へ渡る場所である。『万葉集』巻十二に「大和路の渡し瀬ごとに」、巻十七に「はひつき川の渡り瀬」などがあり、「渡る瀬」とも詠む。【「渡る」は動詞だが、「渡り瀬」は名詞である。】「是」を『日本書紀』では「涅」とする。【「涅」は、『万葉集』の「走り出の堤」「出なぎさ」などの「出」の意味だろう。契沖は「渡り出」は岸の端をいうのであろうとする。】「たてる」は【三音で一句】立っていることで、渡し瀬の付近の岸に生えていることをいう。『日本書紀』神代の巻には、門前に植えられた湯津桂について、「所植、これを『たてる』という」とある。

【宣長の注釈】「あづさゆみ」は【五音の句である。契沖が、前の「たてる」をその前へ付けて八音の句とし、次の「まゆみ」をここへ付けて八音の句とするのは、どちらもよくない】、梓弓、つまり単に弓ということである。【ここでは梓という木自体に意味はない。】『和名抄』は孫愐の『切韻』を引き、梓は木の名で楸の仲間、和名「あづさ」とする。その木も葉もキリに似ている。梓弓はこの木で作った弓だが、古くは弓にこの木を多く使ったので、材が何の木であっても、単に弓を梓弓と呼び慣れていた。【種類を区別する時には梓製の弓をいうが、普通はそうではない。】「まゆみ」は【三音で一句】檀の木である。『和名抄』は『唐韻』を引き、檀は木の名、和名「まゆみ」とする。弓に適した材なので真弓の木という。色が白いので白檀ともいう。ここは川辺にこの木が生えているのを見て、それを大山守命にたとえてお詠みになったのである。

【宣長の注釈】この二句は、読み取りに注意が必要である。【注意しないと紛れる。】まず「梓弓」は枕詞のようなものだ。【「立っている梓の木」というつながりではない。「立っている」は檀の木が立つことで、梓弓はその木をいうのでなく、単に弓という枕詞のような表現なので、歌の内容そのものには関わらない、と理解すべきである。】「まゆみ」は「梓弓の真弓」という語のつながりである。したがって、梓弓から続く言葉の連想は弓だが、歌が指す実物は檀の木なのである。【「立てる梓弓」と続くため、梓の木が立っているようにも聞こえ、また梓弓・真弓と並ぶため、梓製と檀製の二つの弓のようにも聞こえる。いろいろ紛らわしいので、よく味わって区別すべきだ。契沖がどちらも弓と注し、伏兵の弓だとするのは誤りである。弓に「立つ」という表現はあっても場面によるので、伏兵が弓を構えて射かけることを、どうして「立てる梓弓」といえようか。また梓と檀の二種類の木が生えているのかとも思えるが、そうなら単に梓とあるはずで、「梓弓」なら弓である。さらに大山守命一人をたとえるので、二種類ではない。白檮原宮の段の歌が「あめつつ・ちどり・ましとど」と四種をたとえるのとは、事情が違う。ここは梓弓を枕詞のように、まゆみを檀の木と見れば、無理なく簡単に理解できる。】

【宣長の注釈】「いきらむと」の「い」は語調を整える接頭語で、「伐ろうと」の意味である。【契沖の「射斬ろうと」で斬るとは殺すことだ、という説は、前を弓と見たための誤りである。「射切る」は扇の的などのような物にはいうかもしれないが、射殺すことをどうして射斬るといおうか。古語にそのような用法はないはずである。】「こころはもへど」は「心には思うけれど」で、『万葉集』に多い。古歌で「おもふ」の「お」を省く例は多い。「いとらむと」も「い」は接頭語で、「取ろうと」である。そこに生えている檀の木を、伐って取ろうと思うけれど、という内容を、「伐る」と「取る」に分け、「伐ろうと……取ろうと……」と二つにいうのは、古歌の表現として普通に多い。【契沖の「射取ろうと」という説も誤りで、「射取る」も古語ではない。前に梓弓とあるので、誰もがついそのように思うらしいが、よく味わい、「い」がいずれも接頭語であることを理解すべきである。逆に、その二つの「い」を「射」と見るため、前のまゆみも弓のことだと、ますます迷ってしまうのである。】この四句は、大山守命を殺そうとは思うけれど、ということのたとえである。

【宣長の注釈】「もとへは」は根元の方では、である。【「へ」は清音で、『日本書紀』も「弊」を使う。濁らせてはならない。】「君をおもひで」は君を思い出して、である。【「で」は濁音で、『日本書紀』も「涅」を使う。「而」に当たる接続の意味ではない。】『万葉集』巻十七には「君を思い出し、巡って来た」、巻二十にも「家を思い出し」などとある。「出」を「い」を省いていう例は、古歌に多い。【ここは「思ひ」の「ひ」に「い」の音があるので、なおさらである。】契沖は「君」を応神天皇だろうといった。そのとおりである。

【宣長の注釈】「すゑへは」は【古い刊本ではこの二句が抜けるが、他の本にはみなある】、「先の方では」という意味である。「もとへ・すゑへ」は、たとえに使った檀の木の根元と梢に託して、君と妹のことをいっている。根元の方を伐ろうとすると……、梢の方を伐ろうとすると……、というのと同じである。【契沖は、一つには……二つには……というようなものだとする。その意味ではそのように注してもよい。しかし、もとへ・すゑへをともに弓の縁語とするのは、前を弓と見たことによる誤りである。本末というのは、伐って取ろうとする対象についていうべきだ。弓の縁語だからといって、人を射ようとする時に、相手のことを思う意味を、自分の持つ弓の本末に託すのは理由がなく、話が食い違う。この御歌は大山守命を檀の木にたとえ、その身の上を哀れに思うのだから、たとえた木についていうのでこそ、よく合う。この違いをよく理解すべきである。】継体紀の歌には、「竹の育ちのよい竹、よい竹、根元の方は琴に作り、先の方は笛に作り」とある。『万葉集』巻十三にも、「三諸は人が守る山。麓にはアシビが咲き、山の上にはツバキが咲く」とある。【これは山の本末で、麓と山頂をいう。】

【宣長の注釈】「妹をおもひで」は妹を思い出して、である。契沖は、大山守皇子の同母妹に大原皇女と澇田皇女がおり、その皇女たちをいたわったのか、それとも二人のうち一人を皇太子の妃としていたのか、と述べる。たしかにそう聞こえる。または大山守命の妃をおっしゃるのかもしれない。【古く「妹」という呼び方の範囲は広いので、このうちどれか、今は決めがたい。】

【宣長の注釈】「いらなけく」は、『万葉集』巻十七にも、「悲しくここに思い出し、いらなけくそこに思い出す。嘆く心が安らぐこともなく」とある。【この御歌によって詠んだのであろう。】これ以外、古書には見えず、意味は詳しくわからない。中世の書物には時折見える。そのうち『大和物語』の「自分の姿がいらなくなったのを思うと、たいへん居たたまれなくて」というのは、容貌がひどく衰えてやつれたことなので、ここの意味にもやや近い。契沖もこれを引き、しおれて勢いがなくなることか、『和名抄』が苛を「いら」、小さな草に生じるとげとするので、「いらなし」、とげがないという意味か、とする。師も、苛無しで、気力もないというのに近いだろうといった。【『字鏡』には木のとげを「木のいらら」とする語があり、『源氏物語』橋姫の巻には「寒そうにいららぎた顔で」とあり、『河海抄』は寒さで鳥肌が立つことと注する。手習の巻には、ごわごわしていららぎた物を着ているという表現がある。『古今著聞集』には「いらいらしき者」とあるが、これは今も心がいらだつというのと同じである。これらはみな「苛」の意味に合う。それに対して考えると、「いらなき」は苛無しでもあろう。】実際、物事を哀れに思い、心がしおれることで、『万葉集』の「思ひしなえ」「心もしぬに」などと同じようなのだろうか。

【宣長の注釈】しかし『宇治拾遺物語』には「いらなき大刀を磨き」、また「むしり綿を着たように、いらなく白い」などの例があり、『徒然草』には「数珠をこすり、印を大げさに結ぶなどして、いらなく振る舞い」、『大鏡』には「この史は文挟みに文書を挟み、いらなく振る舞って、この大臣に差し上げる」などとある。これらは目立って甚だしい意味のようで、俗にいう「けしからぬ」などに近い。今、低い身分の人が使う「えらい」にも音が通じ、「えらい」は「いらない」の訛りなのかもしれない。これらと合わせると、『大和物語』も「けしからぬ姿」、この歌も、兄王を目の前で殺すのはあまりにひどい行いだと思う意味かとも聞こえる。しかし、それでは「思い出す」の「出」に合わず、先の『万葉集』巻十七の歌にも合わない。また、思い出し方が甚だしい意味かともいえようが、それでは「かなしけく」と並ぶのに合わない。『字鏡』には「頽」とその異体字を挙げ、髪のないことを「いらかなし」ともいうが、ここに関係するとは思えない。稲掛大平は、「いら」は郎子・郎女などの「いら」で、人を親しみいとおしむ意味、「なけく」は「はしたなく」などの「なく」のように添えた語なのか、といった。さらによく考える必要がある。
〔訳注:「頽」に続く二つの異体字の字形は未確定だが、髪がないという字義と、「いらかなし」の訓は読める。〕

【宣長の注釈】契沖は、「なけく」は「なく」で、「け」が入るのは古語だという。【「く」を「けく」というのは、よく・あしくを「よけく・あしけく」というのと同じである。ただし「露けく」という語だけは、それに対応する別の例がない。これはついでにいったことである。】「そこにおもひで」は、それについて思い出して、である。『日本書紀』には「伝」の字がない。「かなしけく」は悲しく、である。「ここにおもひで」は、これについて思い出して、であり、『日本書紀』はこちらも「伝」の字がない。古くは「それ」を「そこ」、「これ」を「ここ」という例が多い。【「それゆえに」を「そこゆえに」といい、「これを思えば」を「ここ思へば」というような例で、必ずしも「その場所」「この場所」という意味ではない。】

【宣長の注釈】ここは「そこ」も「ここ」も意味が同じである。【前のことを指し、「それ」「その」といっても、「これ」「この」といっても同じになる例は多い。たとえば前に山城の宇治川といって、後で指す時は、その川でもこの川でも同じである。】「いらなく」と「かなしく」を分けて二度いうために、語を替えてそこ・ここといっただけで、両方とも、前の根元と梢を一緒に指している。【契沖が、「そこ」は君、「ここ」は妹を指すと分けるのは、古語の意味ではない。『万葉集』の長歌などで「そこ……ここ……」といっても、指す内容は一つで、二つでない例が多い。また根元と梢を指すとせず、君と妹を指すとするのも精密でなく、「に」に合わない。】「に」は、根元と梢について、という意味である。【もし君と妹を直接指すなら、「そこを」「ここを」といわないと合わない。】「いらなけく」「かなしけく」も、ともに君と妹を一緒にいっている。【これも分けて読むのはよくない。】したがって、根元・梢、それ・これという二つの表現は、必ず君と妹に一対一で当たるのではない。どれも歌の表現上の構成なのである。

【宣長の注釈】「いきらずぞくる」の「い」も接頭語で、「伐らずに来る」である。「来る」は宇治から訶和羅の崎まで来ることで、大山守命を宇治ですぐ殺そうと思ったが、君と妹のことを思い出し、心がしおれて悲しく、殺しきれないままここまで追い流して来た、ということを、川辺に立つ檀の木を伐り取れずに来たことにたとえたのである。「梓弓、真弓」は前と同じで、前の語をもう一度いって結ぶのは古歌の普通の表現だ。「那良山」は前に出た。【『伝』巻二十五の二十二葉。】『万葉集』巻一には「あをによし奈良の山」、巻七には「あをによし奈良山を越えて」などと、各巻に多く見える。「葬る」は、『日本書紀』にも「那羅山に葬った」とある。その那良山のどの辺りだったか、詳しくわからない。【『大和志』は添上郡の古墳を、南都猿沢池の東、鬼薗山にあり、大山守皇子の墓と伝え、鬼家ともいうと記す。しかしそこなら那良山とはいえず、やはり奈良の北の山にあるように思う。ついでにいうと、『古事記』には「葬」を「莖」とする箇所が多く、どの本にもある。写し誤りではなく、古く、わざと画数を減らし、便利なように書き習わしたのであろう。そのような例はある。】

【宣長の注釈】「土形君」は、『日本書紀』にも、大山守皇子が土形君と榛原君の二族の始祖であると記す。『和名抄』には遠江国城飼郡の土形郷【ひぢかた】がある。この地による氏なのだろうか。【土形の地名は他国にもあるが、榛原も遠江にあるため、そう考える。】この氏は『姓氏録』には見えない。「幣岐君」は幣伎、日置とも書き、「ひき」「ひおき」ともいう。地名は各国に多い。【『和名抄』には伊勢国一志郡の日置をひおき、能登国珠洲郡をひき、越後国蒲原郡をひおき、但馬国気多郡をひおきとし、ほかにも多い。能登の例はひきだが、他はひおきが多く、「へき」はない。各国にこれほど多い地名なので、何か由来があるはずだが、その意味はまだ考えがつかない。「日置」と書くことからは「へき」が訛りのように聞こえるが、『古事記』がすでにそう記すので、むしろこちらが正しい呼び方なのだろう。では元がへきなら、なぜ日置と書くのか。へきを正しいとすれば、ひおきは字面に従って後から勝手に付けた訓なのかもしれない。伊勢の例も『和名抄』はひおきとするが、近世では戸木村という。今も「へき」と呼ぶ地名は多いので、土地の人は古くからみなそう呼び伝えたのだろう。】

【宣長の注釈】この氏がどこの国かは決めがたいが、榛原と土形が遠江にあるので、遠江なのだろうか。今、城東郡には比木村という所がある。一方、『和名抄』の丹波国多紀郡に榛原郷と日置郷があるので、こちらかもしれない。氏については、『新撰姓氏録』【右京皇別】に、日置朝臣は応神天皇の皇子、大山守王の子孫であると記す。「榛原君」について。【「榛」は「はり」と読み、『万葉集』に「はりはら」とあり、当て字で針原とも書く。】『和名抄』には遠江国の榛原郡【はいはら】と榛原郷【はいはら】がある。これに由来するのか。【隣の城飼郡には土形郷があり、今の比木村もあることは先述した。榛と蓁は同じで、「はり」を「はい」というのは後の音便である。】また、先に引いた丹波国の地名によるのか、決めがたい。【この地名は他国にもあるが、遠江か丹波のどちらかだろう。】

【宣長の注釈】『新撰姓氏録』【摂津国皇別】には、「榛原公は息長真人と同祖で、大山守命の子孫である」とある。【息長真人は稚渟毛二俣王の子孫なのに同祖とするのは、混同した誤りである。】また【河内国皇別】には、榛原は譽田天皇の皇子、大山守命の子孫であるとある。

【古事記本文】その時、大雀命と宇遅能和紀郎子の二人が互いに天下を譲り合う間に、海人が大贄を献上した。兄は辞退して弟に献上させ、弟はまた兄に献上させた。譲り合っている間に何日もたち、こうしたことが一度や二度ではなかったので、海人は往復に疲れ果て、泣いてしまった。そのため、ことわざに「海人だからか、自分の物のために泣く」という。ところが宇遅能和紀郎子は早く亡くなったので、大雀命が天下を治めることになった。

【宣長の注釈】「各讓」は「あひゆづりたまふ」と読むべきで、後の「相譲」と同じく、互いに譲り合うことである。『日本書紀』には、「その後、菟道に宮を建てて住み、なお大鷦鷯尊に位を譲ろうとして、長く即位しなかった。皇位が空いたまま、すでに三年たった」とある。【そもそも宇遅王が宇治に住んだのは前からのことなのに、今初めてのように「その後」と記すのは理解できない。もとから住んでいなければ、大山守命が宇治へ攻めて来た理由がなくなる。住居は前からだが、今、宮を造り直したというのかもしれない。しかし大雀命に譲り、自分は即位しない考えなのに、この時に宮を造り直すはずはない。】「海人」の下には、語調のため、助詞の「い」を添えて読むべきである。【この助詞はすでに前で述べた。】「大贄」は前に出た。【この巻の十一葉。】「兄」は大雀命、「弟」は宇遅若郎子である。

【宣長の注釈】「弟辭」の「辭」は読まず、ここに「また」を添えて読むべきである。【この文は必ず「兄は……弟は……」とする形なのに、「兄は辞退して……弟は辞退して……」とすると、後の「辞退して」が「は」に合わず、整わない。両方に辞退という語を出すなら「弟も」となるが、それでは全体の調子がよくない。「兄は・弟は」とあるべきなので、後の「辞」は読まないのである。「辞退する」を初めの側でいえば、後の側にも意味が及ぶ。漢字は意味によって両方に「辭」と書いたのであって、読みは日本語の形に従うべきである。】「経多日」は「あまたひへぬ」と読むべきである。【師の「ひさはにへぬ」はよくない。古語で物の多いことを「さは」とはいっても、使う事柄による。多くの日数がたつことを「さはに」とはいわない。】『万葉集』巻九に「逢わない日数が多く、月がたったのだろう」などとある。また「ひまねくなりぬ」と読んでもよい。巻十七の「別れたら、会わない日が幾日もあって恋しいだろう」「三島野で狩りをしない日が多く、月を重ねた」、巻十八の「月を重ね、会わない日が多く、恋する心……」、巻十九の「親の言葉を朝夕聞かぬ日が多く、遠い鄙にいるので」「これほど多く、逢わぬ日が多く、私は思っている」は、いずれも日数が重なることを「まねく」という例だ。【「さ」はいつもの「ま」の意味である。これらによれば、巻九の歌の「数多」も「まねく」と読むべきである。】

【宣長の注釈】「一二時」は「ひとたびふたたび」と読むべきで、一度や二度ではないとは、何度もということである。「往還に疲れる」は、あちらへこちらへ何度も行き来したためだ。【宇遅王は宇治、大雀命は難波にいて、間は遠い道のりである。】「海人乎」は「あまなれや」と読み、『日本書紀』もそう読む。また「あまもや」とも読める。近飛鳥宮の段の歌の「おきめもや」や『万葉集』巻二の「われはもや」などでは「も」は助詞で、「や」は上巻の「我がなに妹の命や」の箇所【『伝』巻五の六十四葉】で述べたように呼びかけの語で、「よ」と同じである。【そのため「もよ」といっても同じ意味になる。】「なれや」と「もや」では意味が違うので、それは次に述べる。「因己物而」は「おのがものから」と読み、『日本書紀』も同じである。この「ものから」は、普通の接続語のものから【思うものから、いわぬものから、など】とは違い、「物」は自分の持ち物である。【助詞の一部ではない。】「から」は字のとおり、原因によってという意味である。『古今集』恋四の「自分の物でありながら、形見として見るのだろうか」と同じで、ただし「から」の意味は少し違う。【ここは自分の物が原因で、という意味だが、『古今集』の例は、自分の物でありながら、という意味である。】

【宣長の注釈】このことわざは、普通なら自分にない物が欲しく、それを得られなくて泣くのに、この海人は自分にある物を人に献上できずに悲しみ泣く、という、普通と逆のことから生まれた。世間で、自分の物を人に与えたいのに、与えられない事情があって困る者のたとえにいうのである。「海人乎」の二つの読みで意味が違うというのは、「なれや」なら、その困る者について、昔の海人だからなのか、といい、「もや」なら、単に海人よと、この時の海人を呼んでいうのである。ただし、ことわざ全体の意味は同じなので、どちらでもよいが、『日本書紀』が「有」の字を加え「有海人耶」とするので、「なれや」によるべきである。【「なれや」は「にあれば」を縮めた語なので、「有」を加えたのである。】

【宣長の注釈・『日本書紀』の引用】「その時、海人が新鮮な魚の包みを持ち、菟道宮に献上した。皇太子は海人に『私は天皇ではない』といって返し、難波へ献じさせた。大鷦鷯尊も返し、菟道に献じさせた。そのため魚は往復する間に腐り、海人は帰って別の新鮮な魚を取って献上した。しかし前と同じく譲り合い、魚はまた腐った。海人はたびたび戻されるのに苦しみ、ついに魚を捨てて泣いた。そこで『海人であるのか、自分の物によって泣く』ということわざができたのは、この出来事による」とある。「然」は、前の「各々天下を譲る……」を受ける言葉である。

【宣長の注釈】「早く崩ず」について。宇遅王に「崩」の字を使うことは、「かむさりまし」という語が必ずしも天皇に限らず、「薨」にも当てるので、『古事記』は言葉に従い、漢字の区別には拘らなかったのかもしれない。しかし、この字を記すのは、天皇以外では五瀬命・倭建命【この二人には特別な理由があり、それぞれの箇所で述べた】、あとは応神天皇が太子だった時、だますために「御子はすでに崩御した」といった例【これは後に天皇になることから、その字を使ってよい】だけなので、漢字にも意味があるのかもしれない。そうなら、この王は皇太子で、とりわけ皇位を継ぐと定められていたためであろうか。この王が早く亡くなったことは、『古事記』では特に事情もなく亡くなったように聞こえるが――

【宣長の注釈・『日本書紀』の引用】『日本書紀』では、「皇太子は『兄王の志を変えられないなら、どうして長く生きて天下を煩わせようか』といって自ら命を絶った。大鷦鷯尊は皇太子が亡くなったと聞いて驚き、難波から急いで菟道宮へ来た。皇太子が亡くなって三日たっていた。大鷦鷯尊は胸を打ち叫び泣き、どうしてよいかわからず、髪をほどいて遺体にまたがり、『わが弟皇子よ』と三度呼んだ。するとその場で生き返り、自分から起きて座った。大鷦鷯尊は皇太子に話し、皇太子も兄王に申し上げた。……さらに同母妹の八田皇女を差し上げて……、再び棺に伏して亡くなった。大鷦鷯尊は白い喪服で哀悼し、激しく泣き、菟道の山上に葬った」とある。【髪をほどいて遺体にまたがるのは、古代に死者を呼び返す方法であろう。谷川氏は「これは我が国の招魂の法である」といったが、「我邦」という言い方は中国風の表現である。】

【宣長の注釈】諸陵式には、「宇治墓、菟道稚郎皇子。山城国宇治郡にある。墓域は東西十二町・南北十二町、守戸三戸」とある。【墓域が非常に広いのは、山だからであろう。『山城志』は、この墓は朝日山にあり、傍らには興聖寺があるが、近年永井心斎が墓域を削りならして建てたもので、旧名は神明山だという。宇治の離宮はこの王を祭るという説があり、その離宮は神名帳の宇治神社だともいう。『続日本後紀』巻九には、中納言藤原朝臣吉野が「昔、宇治稚彦皇子は、我が朝廷の賢明な方であった。この皇子が遺言して、自分の骨を散らさせたのを後世がまねた」と奏上したとある。何か根拠があって申し上げたのか、たいへん理解しがたい。骨を散らすなど、当時あったはずのことではない。後世、火葬が始まって普及した時代に、この王もそうしたとする説が生まれたのであろう。形もない虚説のように聞こえる。】

【宣長の注釈】『万葉集』巻九には宇治若郎子の宮跡の歌として、「恋人のもとへ今来るという、今木の嶺に茂り立つ、妻を待つ名の松の木は、昔の人も見ただろう」という歌があるが、「今木の嶺」は疑わしい。【宇治の宮のほかに今木にも宮があったのかもしれない。今木は欽明紀では大和国の今来郡であり、皇極紀・斉明紀・孝徳紀にあるのも大和である。『万葉集』巻十の今城岳も大和と思われる。『続日本紀』巻三十七の田村後宮・今木大神という田村も奈良にある。ところが『山城志』が今来嶺を宇治彼方町の東南、今の離宮山とするのは、この歌から推し当てた説であろう。『姓氏録』では山城に今木連や今木という氏があるが、宇治の辺りにこの地名があるとは古書に見えない。今木大神は後に平野へ移し祭った。ある人は、世間では平野の今木神を仁徳天皇といい、家隆卿も「難波津で冬ごもりした花だからだろうか、平野の松に掛かる白い木綿は」と詠むが、それは誤りで、この『万葉集』の歌によれば宇治若郎子のはずだ、という。そうであってもよい。】

【宣長の注釈】ついでに、平野を平氏の氏神とするのは、桓武天皇の産土神であるためだろう。『続日本紀』宝亀六年三月に、「田村旧宮に酒宴を設け、群臣が杯を献じて長寿を祝い、一日じゅう歓を尽くした」とあることから考えると、田村旧宮は光仁天皇がまだ白壁王といった時の住まいで、今木大神はその土地に鎮座する神である。桓武天皇もそこで生まれたので、産土神であろう。そのため延暦元年に特別に神階を授け、ついに平安京へ移し祭ったのである。平安京の平野へ移したのも延暦年間のことで、『類聚三代格』に見える。なお『万葉集』巻一の「菟道の宮処」は、この若郎子の宮による表現なのか、それとも天皇が行幸した時の行宮についていうのかもしれない。】

【宣長の注釈】「そこで大雀命が……」について。『日本書紀』仁徳天皇の巻には、「元年春正月、丁丑を朔とする己卯の日、大鷦鷯尊は天皇の位に即いた」とある。

古事記伝 巻三十四 本居宣長 著 明宮の下巻

【古事記本文】また昔、新羅の国主の子で、天之日矛という人が渡って来た。そのいきさつはこうだった。新羅国に阿具奴摩(阿から摩までの四字は音を表す)という沼があり、そのほとりで身分の低い女が昼寝をしていると、日光が虹のように陰部を照らした。身分の低い男がそれを不思議に思い、いつも女の様子を見ていた。女はその昼寝の時から妊娠し、赤い玉を産んだ。男はその玉を頼んでもらい、いつも包んで腰に着けていた。男は谷間で田を営んでおり、耕す人々の食べ物を一頭の牛に載せ、谷間へ入ると、国主の子の天之日矛に会った。日矛は「なぜ食べ物を牛に載せ山へ入る。おまえはきっとこの牛を殺して食べるつもりだ」といい、捕らえて牢へ入れようとした。男は「牛を殺すのではなく、田で働く人の食事を運ぶだけです」と答えたが許されないので、腰の玉を外し献じた。日矛は男を許し、玉を持ち帰って寝床のそばへ置くと、美しい娘に変わったので正妻にした。娘はいつも種々の珍しいごちそうを用意し、夫に食べさせた。国主の子は思い上がって妻をののしった。女は「私はおまえの妻でいるはずの女ではない。祖先の国へ行こう」といい、ひそかに小舟で逃げ渡り、難波にとどまった。この方が難波の比売碁曾社に鎮座する阿加流比売神である。

【宣長の注釈】又は、この代の出来事を一件ずつ起こす又と同じで、ここは別に昔の話を挙げる。昔はこの治世より前だが、どの代か詳しく伝わらないため広く昔という。書紀は垂仁三年のこととするが疑わしい。同九十年に常世へ遣わされた田道間守は日矛の玄孫で、八十年余りの間に成人の玄孫がいるのは不可能ではなくても、他の例からなお疑問だ。八十八年の曾孫清彦の記事末に昔と記す昔は、三年を指すともいえるが、それより前の話に聞こえる。清彦に関わるため、一緒にして同代と伝えたのか。摂津風土記が比売碁曾神の渡来を応神の明宮の世とするのも違う。ここへ記したのは、この治世に外国人の来朝が多かったためだろう。有を者とする本も通じ、昔者の二字で昔となるので、有の語はなくてもよい。

【宣長の注釈】新羅国主は巻三十五十八丁・六十丁に出た。その始祖は『姓氏録』右京皇別、新良貴に、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の子稲飯命の子孫で、稲飯命が新良国の国主、新羅王の祖となったとある。末文の出於・者・令は理解しにくく、出は者、者は之、令は也の誤りか。そう直すと前の文と合う。上巻は御毛沼命が波の穂を跳び常世国へ渡ったとし、合わせると御毛沼命が新羅へ渡り最初の王となったのだ。姓氏録の稲飯命とは兄弟の間で伝えが違うのである。巻十七八十一丁も参照したい。『三国史記』『東国通鑑』等のいう新羅王の始祖は、さらに後の王だろう。第三代脱解王は倭の東北千里の多婆那国生まれで、国王と女国の王女が結婚し、七年妊娠して大卵を産んだという。また始祖三十八年の瓠公は元は倭人で、初め瓢箪で海を渡ったための名という。何か理由がありそうだが、どちらも垂仁の代なのでずっと後だ。姓のことは遠飛鳥宮の段、巻三十九で述べる。原文の参照丁数は空欄である。

【宣長の注釈】天之日矛は渡来後、日本で称した名だろう。『古語拾遺』は海檜槍と書くので、檜の木の矛からか。海の意味ではなく天だろう。書紀神代巻にも天香山の金属で日矛を作るとある。参渡来はまゐわたりけりと読む。このけりは助動詞でなく、来ている、縮めればきたり、という古語だ。万葉巻十七の玉梓の使のければ、巻十五の、この我がける妹がは、来ているのでという意味から理解できる。後は衣を着ているのと同じ形。万葉で助動詞けりに来を書くのも、この語の借用である。まゐをまうと読むのは後の音便だ。渡って来た理由は、後のひそかに小船に乗って、という文へ続く。一沼の一は普通読まない例が多いが、ここは読むとよいだろう。和名抄は沼を池とし、和名ぬま、古本はまがない。字鏡にも沼という水の名をぬまとする。ぬだけでもいい、万葉にはぬまの例も多い。

【宣長の注釈】あぐぬまのぬまは日本語で表したので、ありなれ河の類だ。次の此沼を旧版本が泥と誤り、師がここも泥としたが、諸本はどちらも沼である。一賤女はあるしづのめと読む。あるは或るで、一人のは日本語らしくない。身分の低い者をしづという例は万葉巻十八の、みふみ指すしづをのともにある。粗く織った倭文を着る者だからしづと呼ぶという契沖説は誤り。昼寝はひるねしたりき。虹は和名抄でにじ、今も同じだが、天武紀の殿内の大虹の読みや、万葉巻十四の伊香保の八尺のゐでに立つぬじのから、ぬじと読むべきで、それが古語だろう。万葉だけなら東国語かと思えるが書紀の訓も同じだ。陰上は上巻でほとと読む。男はあるしづのをで、有は読まない。その様子は日光が女の陰部を照らす様子で、その下に見てを補って理解する。恒は、その後いつも、である。

【宣長の注釈】行はおこなひで、仕業・振る舞いと同じ。允恭紀の歌のささがねの蜘蛛のおこなひは、古今集ではくものふるまひとする。万葉巻四に行事、巻十一に行とも書く。うかがうのは異様な光景を見て普通でないと思い、ほかにも変事があるかと見守ったのだ。赤玉は上巻の豊玉毘売の歌にもある。この女の話は、前に引いた続日本紀の、百済の遠祖都慕王は河伯の娘が太陽の精を受けて産んだ、また日神の霊が降りたという話によく似る。『後漢書』などにもある。乞い取るは頼んで自分の物にすることで、奪うのではない。さらに変事があるかと見ていたところ、本当に不思議な物を産んだので、やはり並の物でないと尊く思い、頼んでもらったのである。

【宣長の注釈】山谷之間はたにまと読む。文字通り山の谷の間ではいけない。ここはともかく、次の山谷も山を読むはずはなく、漢文風に書いただけだ。万葉巻十七の山谷越えては山と谷の二つ。巻十一の山高み谷辺にはえる玉かづら、巻十九の繁山の谷間に生える山吹などの例がある。営田はたつくれりと読む。上巻にも高田を作り下田を営む、天照大神の営田などがある。耕人はたびとで、次の田人と同じ。この書は同じ事を、一方は意味で、一方は言葉通りに書き、相互に読みと意味を示す例が多い。序巻で述べた通りだ。栄花物語の御裳着巻にも田人の歌を聞くとあり、霊異記の農夫をたつくるをと読むのはよくない。田子も同じだ。

【宣長の注釈】飲食はくらひもの。飲の字にこだわらず、飲み物込みでもそういえる。土佐日記にも酒を食らうとある。次の食も同じで、神武紀の饗食、宣化紀の食は天下の本、天武紀の俗人に養わせる、などもそう読む。神代紀・持統紀のおしものは、相応の身分の人へいう語らしい。一牛はただうしで、一は漢文風の字。和名抄も牛をうしとする。負はおほせで、万葉巻二十のゆき取り負ほせにある。和名抄の特牛、万葉の牡牛・事負之牛のことひは殊負で、特に多くの荷を負う名だ。国主の国は旧版本に脱落するが諸本にある。遇逢はあへり。「天之日矛に」とにを補うのは俗言で、直接「天之日矛あへり」とするのが雅言の語法で、前に詳述した。問うのは日矛から男へ。殺食はころしてくらふならむ、殺して食べるつもりなのだろうと読む。

【宣長の注釈】牢へ入れようとする。囚を因とし後に続ける本や日本書紀釈の引用があるが、この書は因で文を起こす例がないのでよくない。獄囚はひとや、人を閉じ込める家のこと。どの家も人の家だが、物を入れるように人を閉じ込めるので特にそう呼び、棺と同じ例だ。神功紀の臣らを捕らえ囹圄に禁ず、仁賢紀の牢へ下して死なせる、敏達紀の獄、孝徳紀の獄中囚、天武紀の大赦で囹圄が空になる、霊異記の囹圄を二字合わせてひとやと読む例がある。

【宣長の注釈】この男をとがめ牢へ入れようとしたのは、人の牛を盗み殺そうとしていると思ったのだろう。盗むとは明記しないが、谷へ入るのを怪しむのはそう聞こえる。盗みをいわないのは、殺す罪の方が重いためだろう。賊盗律は官私の馬牛を盗み殺すと二年半の徒刑とし、軍事・国家に使うので他の家畜と違うと注す。中国の律も同じで、盗みと殺しを合わせるが殺す方を重くする。どの国でも理由なく牛を殺すのを上代から罪としたのだろう。だから律もそう定めたのだ。腰の玉はいつも包んで着け、身から離さなかった。解くは腰へ結んだのをほどくこと。

【宣長の注釈】幣はまひしつと読む。日本書紀釈の引用は与とする。垂仁紀の武器を神への幣にする、仁徳紀の河神が私を幣に求める、孝徳紀の神へ供える幣、天武紀の幣を捧げ家にへつらう、推古紀の新羅の幣物を多く得る、孝徳紀の賄賂の贈り物、なども同じだ。まひをまひなひ・まひなふというのは、卜をうらなひ、商をあきなひ、行をおこなひとする類。万葉には、まひはせむ、月読壮士へ幣をするから今夜を五百夜続けて、庭の撫子を贈るから散らすな、道の神々へ贈り物をしよう、あなたが育てた撫子を贈り物にして、などの歌がある。古今集の旋頭歌にも、『贈り物もなく、ただ名を告げる花なのか』とある。男が大事にした玉を差し出したのは、命に関わる大事だったためだろう。

【宣長の注釈】玉を持ち来るのは、日矛が自宅へ持ち帰ること。床辺は倭建命の歌にも、とこのべに我が置きしとある。仍はかれと読み、故と同じ使い方。書紀には多いが古事記にはここを含め二例しかなく、もう一つは下巻近飛鳥宮段で、かくてなどと読む理由をそこで述べる。仍を因と注すので自然に故の意味へ通じる。普通のよりて・よてを文頭でいうのは漢文訓読で、日本語の語法ではない。婚はまぐはひしてで、巻十三十五丁にあり、嫡妻も同五十八丁で説明した。正妻としたことで深く愛した様子がわかる。

【宣長の注釈】珍味はためつもので、巻九九丁の種々味物の所で説明した。類聚国史は大同四年正月、七日・十六日の節会へ各国が珍味を献じることを、民を煩わせるので停止したと記す。恒はいついつもと読む。つねになら上の常と重なって煩わしい。万葉巻四にも、いつ藻の花のいついつ来ませがあり、同じ歌は巻十十七丁にも載る。夫はとこぢで、巻十一三十二丁にある。食はすすめきと読み、食べさせるをすすむという。朝夕ごと、いつも珍味を勧めたのである。驕るの仮名は古書になく決めにくいが、おほごるの意味らしく、おごるとすべきだ。広くなるをひろごるというのと同じで、ほこるも大の語の一部を省いた同義語。大はお、ほのどちらを省く例もある。大ぼこりの意とするのは違う。物語の心おごりは名詞だが、ここは動詞で読む。女は玉から変じた普通でない美しい娘なので、日矛も初めは尊び大切にしただろうが、常にごちそうを用意し、丁寧に自分を立てるのを見て、ひたすら自分に従う気なのだと思い、思い上がった。詈は見下し無礼にいうことで巻十九八丁にある。凡はおほかた。訶志比宮で神が、およそこの天下はおまえの治める国ではない、といった凡と同じだ。

【宣長の注釈】祖先の国は父の国、日本を指す。この娘は女の陰部へ日光が差したため妊娠し生まれたので、父は天の太陽だ。その太陽は伊邪那岐大神の禊によって筑紫の阿波岐原で生まれたからである。このことから、天照大神が太陽そのものだという古伝の趣旨がいよいよ明らかだ。近世の理屈をいう人の説のように、日本に住む神人で太陽ではないなら、娘が日本を祖国という理由がなくなる。小船は和名抄で、艇を一、二人乗りの小船、おぶねとする。高津宮の歌にも、おぶねつららくとある。

【宣長の注釈】比売碁曾社は神名帳に摂津東生郡の比売許曾神社、名神大で月次・相嘗・新嘗を受けるとある。四時祭式は下照比売社、別名比売許曾社、臨時祭式も両名を記す。この下照比売は新羅から来た娘の神号で、神代巻の同名神と混同するのは大きな誤りだ。今の高津宮だというが、仁徳の高津宮を思っての根拠のない推測だけではなさそうだ。ただ今の高津という名は、あの高津宮とは別である。今の高津は孝徳紀の蝦蟇行宮だろう。うつほ物語の歌にもかはづとあると聞き、それもあり得る。三代実録の貞観元年、下照比女神へ従四位下を授けたのもこの社だ。摂津風土記は、応神の代、新羅の女神が夫から逃れ、筑紫の伊波比の比売島へ一時住んだが、ここはまだ遠くなく男神が追って来るといい、さらに移ってこの島に留まり、前の住居の名から島名を付けたとする。巻五二十五丁の女島も考えたい。和名抄には肥前基肄郡の姫社郷もある。神名帳の豊前田川郡、辛国息長大姫大目命神社は続日本後紀で香春岑神とし、これも比売呼語曾神社という。日本書紀釈は豊前風土記の、田河郡鹿春郷に新羅の神が渡り川原へ住んだので鹿春神という記事を引き、豊州の比売語曾社は神名帳・風土記にないが、任那と新羅は同種なので辛国神をその垂迹とするのかと考察する。

【宣長の注釈】阿加流比売神は神の名で、比売碁曾は社名だ。あかるの意味は玉によるのか。神代紀の羽明玉・天明玉・櫛明玉も玉に関わる名で、下照比売も光り輝く玉のためか。両方とも玉によらず、娘の美しさをほめた名かもしれず、どちらでもよい。神名帳の摂津住吉郡、赤留比売命神社は同じ神を別の所へも祭ったのだろう。出雲の櫛御気野命は意宇郡熊野大神の名なのに、同郡に別に久志美気濃神社があるのと同じである。

【宣長の注釈・日本書紀の異伝】一説では崇神天皇の世、額に角のある人が船で越の笥飯浦へ泊まり、意富加羅国王の子、都怒我阿羅斯等と名乗ったという。また本国にいた時、農具を負わせた黄牛が農村へ行く途中に消え、足跡を追うと郡家に入っていた。老人が、郡の役人たちは荷から牛の目的を察し、殺して食べ、持主が来たら償おうと相談して実行した、代償を聞かれたら財産でなく郡の祭神を求めよ、と教えた。役人が来て尋ねると教え通り答え、祭神の白石を受け取った。寝室に置くと美しい少女となり、阿羅斯等は喜び結ばれようとしたが、他所へ出た間に消えた。妻に聞くと東へ行ったというので、海を遠く渡り日本へ追って来た。少女は難波で比売語曾社神となり、豊国の国前郡でも同名の神となって、二か所に祭られる。これは別の伝えだ。国前郡は豊後なので、豊前田川郡香春を誤伝したのか。豊後にこの神があるという文献はない。

【古事記本文】天之日矛は妻が逃げたと聞き、追って渡って来た。難波へ着こうとすると渡しの神が阻み、入れなかった。引き返して但馬へ泊まり、その国に留まり、俣尾の娘、前津見と結婚し、多遅摩母呂須玖をもうけた。その子が多遅摩斐泥、その子が多遅摩比那良岐。その子は多遅麻毛理、多遅摩比多詞、清日子の三人である。清日子は当摩の咩斐と結婚し、酢鹿の諸男、妹の菅竈由良度美(竈は上声、由良度美の四字は音を表す)をもうけた。前に挙げた多遅摩比多詞は姪の由良度美と結婚し、葛城の高額比売命をもうけた。この方が息長帯比売命の母である。

【宣長の注釈】追って渡るとは慕って探し求めること。書紀は日矛が帰化したとだけ記し、理由は見えず、一説は日本に聖帝がいると聞いたためとする。比売碁曾神を追ったという話はなく、それは別に意富加羅の都怒我阿羅斯等に関わり、日矛とは無関係で、伝えが違う。どちらが事実か決めにくいが、強いていえば書紀が正しいかもしれず、その理由は後で述べる。『東国通鑑』には、漢の永寿三年、新羅阿達羅王四年に迎日県を置いたとある。その由来は、東海岸に迎烏と細烏の夫妻がいて、夫が海辺で藻を採る時、日本の小島へ漂着して王となり、妻も夫を探して流れ着き妃となった。日月の精とされ、その後県を置いたという。やや似た話である。

【宣長の注釈】難波へ着こうとするのは、妻がそこにいると途中で聞き、探しに来たのだろう。渡しの神は難波の神で、景行紀に難波柏済の悪神があり、古事記同段にも倭建命が走水を渡る時、神が波を起こし船を回して進ませなかったとある。塞はさへてと読む。上巻の黄泉比良坂を千引石でふさぐ記事、巻六二十九丁・三十四丁も考えたい。この神は荒ぶる悪神として理由なく邪魔したのか、それとも渡しに鎮まり、妻を守って会わせないため阻んだのか、詳しくわからない。

【宣長の注釈】還を師はかへぐりてとした。但馬へ泊まると続くから一理あるが、ここは東へ難波付近まで来たのを西へ戻るだけなので、字通りかへりてと読む。北の海へ回る全行程をいうのではない。書紀の都怒我阿羅斯等の異伝も、角のある人が笥飯浦へ泊まり、日本の聖帝を聞き帰化しようと穴門まで来て、引き返し、道を知らず島々を渡り歩き、北海から出雲を経て来たとする。日矛の経路によく似て、日本の聖帝を聞くという文まで同じなので、娘の話も両者の間で混ざったのだろう。

【宣長の注釈】多遅摩は但馬。名の意味はまだ考えつかない。子孫代々が多遅摩何々と呼ぶので、その名から国名が生じたともいえそうだが、違うだろう。ここへ泊まった理由は、直接難波へ入れなかったため北海を回り、陸路で難波へ向かおうとしたのか。しかし国へ留まる以下は疑問だ。まだ妻に会えないのに、そのまま但馬へ住み、探して来た妻をすっかり忘れたようで、初めの日矛とは別人のようになるのはどうか。結局会えなかったのなら、その理由を述べてから但馬定住をいうべきで、話を放置して移るのは首尾が確かでない。この点から、娘の話は書紀通り都怒我阿羅斯等に関わり、日矛とは無関係かと思う。だからそちらの伝えが正しいかもしれないといったのだ。

【宣長の注釈・日本書紀の引用】一説はこういう。天日槍が播磨の宍粟邑へ小舟で着いた時、天皇は三輪君の祖大友主と倭直の祖長尾市を遣わし、誰か、どの国の人かと尋ねた。新羅国主の子で、日本に聖帝がいると聞き、国を弟知古へ譲り帰化した、と答え、葉細珠・足高珠・鵜鹿々赤石珠・出石刀子・出石槍・日鏡・熊神籬・胆狭浅大刀の八品を献じた。天皇は宍粟邑か淡路島の出浅邑の好きな所へ住めと命じたが、本人が各国を見て気に入る所を賜りたいと願い、許された。宇治川をさかのぼり近江吾名邑へしばらく住み、若狭を経て但馬へ西行し、定住した。近江鏡谷の陶工はその従者である。

【宣長の注釈】播磨風土記では、天日槍命が韓国から宇頭川の下流へ来て、葦原志挙乎命へ、あなたは国主だから宿所を得たいと願い、海中を許されると、客神は剣で海水をかき分け泊まったとする。また黒葛がすべて但馬へ落ちたので、伊都志の地を占めたとある。宇頭川は播磨だろう。宍粟郡の伊和坐大名持御魂神社も神名式に見える。筑前風土記は怡土県主の祖五十跡手が、高麗国の意呂山へ天から降った日桙の子孫だと奏上したという。高麗とするのは異伝か、新羅の日矛と別人かは不明。五十跡手は仲哀紀にも出る。

【宣長の注釈】俣尾は書紀では麻拖能烏、一説では麻多烏で、意味はまったき男か。前津見の前はさきと読む。書紀はまへで、まへかさきか不明だが、さきには後述の根拠がある。さきは幸か。つは助詞、見は耳と同じ敬称で、書紀も耳とする。女性の名には珍しいが、上巻の布帝耳神は女神である。書紀では父が前津耳、娘が麻拖烏で、逆になっている。神名帳の但馬養父郡、佐伎都比古阿流知命神社二座のさきつひこが前津耳と同じらしいので、書紀の父名の方が正しいか。さきと読む根拠もこれで、本人を祭る社かもしれない。ただ俣尾を娘にすると、女性にをというのも珍しい。

【宣長の注釈】多遅摩母呂須玖は書紀の但馬諸助で、助もすくと読むのか。意味は不明で、出石郡諸杉神社はこの人を祭るか。比泥のひは霊か、ねは敬称。書紀にこの人はない。出石郡には日出神社、比遅神社もあり、ねとでは通用する。比那良岐も意味は不明で、ひは霊、きは君か。神代に比那良志毘売がある。書紀の一説は諸助の子とする。毛理は守か森か不明で、養父郡に杜内神社もある。この一族を多遅摩何々と呼ぶのは国名を添えたもの。清日子らは大和にも住んだらしいので、そこで但馬の何々と呼び慣れた名が伝わったのだろう。毛理を橘の守り手とするのは本末逆で、橘こそ彼の名によると玉垣宮段で述べた。書紀の一説は清彦の子とするが、本書では誰の子か不明。比泥の一代がないので、清彦の子でも日矛の玄孫なのはこちらと同じだ。三宅連の祖ということも玉垣宮段に出る。

【宣長の注釈】比多詞は日高か霊高か、書紀にはいない。清日子の意味は文字通り。書紀は日槍の曾孫清彦とし、昔小舟で但馬へ来た新羅王子が前津耳、別名は前津見・太耳の娘麻拖能烏と結婚し、諸助をもうけ、諸助は清彦の祖父だという。また一説は、出島の太耳の娘との子が諸助、子が日楢杵、その子が清彦、その子が田道間守とする。こちらの玄孫に対し書紀で曾孫なのは比泥の一代がないため。この人は後にも書紀を引いて述べる。三柱の注は比那良岐の子三人をいう。

【宣長の注釈】当摩は地名で大和のことか。書紀では清日子が京へ召され、大和にも住んだようだからだ。臣の家というのも大和の家で、この女性との結婚もそこにいた頃だろう。当摩は下巻若桜宮段、巻三十七にも出るが参照丁数は空欄。咩斐の意味は不明だ。和名抄の越中婦負郡はねひとするが、万葉巻十七にめひ川・めひの野とあるので、ねひは後の訛りでめひだろう。酢鹿は但馬二方郡須加神社の地で、次の菅も同じ。三代実録巻十五の菅神もこれだ。諸は母呂須玖のもろと同じだろう。男は文字通りである。

【宣長の注釈】菅竈由良度美の由を申とする諸本は誤りで、真福寺本・延佳本に従う。竈も地名だろう。和名抄には但馬二方郡久斗郷がある。竈に上声を注すのは、すがのとは読まずすがかまとする時、続けると去声になるため、単独の竈のように上声にせよということだ。のを挟めば元から上声なので特に注す必要がなく、のを読まないとわかる。しかし菅と竈は別の要素だから、ひと続きにせず、菅で切り、竈由良と読むべきで、意味は菅の竈である。由良も地名か。但馬にもあるか尋ねたい。伯耆八橋郡・隠岐知夫郡には由良郷があり、後者の由良比女神社は名高い。度美は女性名のとめ・とべと通じるのか。南方刀美・布忍富・大科度美は男神で富の意味だから、それかもしれない。母が大和当摩の人なら兄妹も大和で育つはずなのに但馬の須賀で呼ぶのは、実際は但馬生まれか、父の本国だからそう呼ぶ理由があったのか。

【宣長の注釈】上云の云を之とする諸本によらず、真福寺本・延佳本に従う。伊邪河宮の上所謂、日代宮の故上云などと同じ例だ。姪は和名抄で兄弟の娘、また弟の娘とし、めひと読む。葛城の高額比売命は伊邪河宮段に出て、開化天皇の玄孫、息長宿禰王の妻である。但馬で生まれたのなら大和の地名、葛城高額を名にするのは、後に大和へ移ったためだろう。父比多詞も清日子と大和へ通い、そこで生まれた可能性もある。母由良度美も大和にいたかと思える理由は前述した。また息長宿禰王の子、大多牟坂王が但馬国造の祖というのも但馬との縁で、巻二十二七十四丁・七十六丁で述べた。息長帯比売命の御祖も伊邪河宮段にあり、御祖は母をいう例を巻十の十八丁で説明した。

【古事記本文】その天之日矛が持って渡った物は、たまつたからといい、数多くの珠を緒に通した二連、波を起こす比礼、波を切る比礼、風を起こす比礼、風を切る比礼、沖の鏡、岸辺の鏡の八種である。比礼の二字は音を表し、以下も同じである。これらが伊豆志の八前大神である。

【宣長の注釈】持ち渡るのは新羅から。玉津宝は尊く美しい宝で、八種全体をいう。たまは元々どんな物でも尊く美しい物をたたえる語で、玉何々という名が多いのもそのため。玉の字は借字で、最初の珠二本だけを指さない。珠玉自身の名も、その尊さ・美しさから特についたのである。珠玉の名が先にあり他の物へ広げたという理解は逆で、丸く玉に似るためという説も、丸くない物に多く使うので理由にならない。二貫は多くの珠を緒に通した二本で、二連というようなこと。又は八種の中で類を分け、次の又も同じである。

【宣長の注釈】振浪はなみふる、波を振るの意で、振を上に置く漢文表記だ。花見る・月待つのようにをを省くのは普通で、まして物の名なら当然である。次の切・振も同じ。波を振るとは波を起こすこと。万葉巻二の夕羽振る波が寄る、巻六の朝羽振る波の音が騒ぐ、巻十一の風が激しく振る波、巻十四の波の穂がいたぶらしい、巻十七の打ち来る白波が荒磯に寄る、といった例がある。相模風土記は鎌倉郡見越崎で速い波が石を崩すので、振石の意味でいはふりと呼ぶという。万葉巻十四にも鎌倉の見越の崎の岩崩えのとあり、土佐日記にも、いそふりの寄る磯には年月を問わず雪が降るとある。

【宣長の注釈】これらは波が自ら起きるのを振るという。波を振るは波を起こさせる意味なので自動と他動の差があるが、どちらもふるといい、ふらすとはしない例は多い。比礼は巻十の三十七丁の蛇比礼の所で説明した。振ると急に波が起こるのである。切浪の切は絶ち止める意味。ただ波の中を切り分ける意味かもしれず、その場合は止めるのと違う。鳥の羽のかざきりも切り分ける意味だ。振風は風を起こす。吹くのも振るといい、万葉巻二に朝羽振る風こそ寄せめとあるように、古くふくとふるは通用する。起こさせるのもふるというのは波と同じ。切風は風を止める比礼だが、これも切り分ける意味か。和名抄は嘯をかざきりとする。四種とも取り出し振ると、風波がすぐ起きたり止んだりし、海神が火遠理命へ授けた潮満珠・潮干珠と同じ趣旨である。

【宣長の注釈】沖津鏡・辺津鏡の名の由来はまだ考えつかない。師は海中から出た宝鏡だろうとした。四種の比礼から考えれば、日矛は遠い海を渡るので、八種すべて航海の備えで、それぞれ海上で役立つ力を持ち、鏡もそうだから沖・辺の名なのかもしれない。二本の珠も同様か。書紀の鵜鹿々赤石玉も、うかがい明かす玉で、闇でひそかに物を照らし見る意味かと思い、それに準じて考えたのである。

【宣長の注釈・日本書紀の引用】垂仁三年三月、新羅王子天日槍が帰化し、羽太玉・足高玉・鵜鹿々赤石玉を各一個、出石小刀一口、出石桙一枝、日鏡一面、熊神籬一具の七品を持参し、但馬に納め神物とした。また八十八年七月、天皇は、日槍の宝が但馬で神宝とされていると聞くので見たいといい、使いを曾孫清彦へ遣わした。清彦は羽太玉・足高玉・鵜鹿赤石玉を各一個、日鏡一面、熊神籬一具を献じたが、出石という小刀だけは献じたくないと思い、袍の中に隠し佩いた。天皇は知らずに清彦を厚遇し酒を賜ると、袍から小刀が見えた。何の刀かと直接問われ、隠せないと悟り、神宝の一つだと答えた。天皇は、神宝を仲間から離してよいのかといい、献じさせて神府へ納めた。後で宝庫を開くと小刀が消えたので清彦へ問わせると、昨夜自然に自宅へ来て翌朝には消えたと答えた。天皇は恐れ、もう探すなと命じた。その後小刀は淡路へ移り、島人は神として祠を建て、今も祭るという。羽太・足高は形からの名だろう。熊神籬には考えがあり別に注した。出石は地名による。

【宣長の注釈】しかし右の宝は、こちらの八種と数も名も違い、品物も多くが同じでない。三年の記事の一説は八種だが、やはり品目が違う。考えるに別物なのだろう。新羅から持参した多くの宝の中でも、この八種は特に尊く優れるため出石大神として祭る御霊の実体となったので、大和へ呼び寄せ見物するような物でない。清彦が献じたのは、それ以外の宝だったはずだ。京へ召した宝は神府に納め、大和に留まり但馬へ戻らなかった。これが別物の証拠で、石上の神庫などに納まったのだろう。小刀も淡路で祭るので出石の御霊の一つではない。淡路のこの神は文献にないが、津名郡都志郷は出石に関わる名かもしれない。一説が品を貢献物と呼ぶのも別物の証拠だ。書紀は出石大神を一切記さず、小刀の祭祀まで書くのに、もしこの宝が大神そのものなら必ずそう記すはず。記さないのは違うからである。一説で数だけ八種と一致し紛らわしいのは、本当の出石大神の宝の数と混ざり、献上の品も八種と伝え、数を満たす品目を語った可能性がある。

【宣長の注釈】出石は和名抄の但馬出石郡出石郷で、いづしと読む。地元の山から珍しい石が出るので、そのための名だろう。石山という高山に大洞窟があり、奥から出る石は自然に角張り、石工が加工したようで、大きさや厚さは違っても丸い石は一つもなく、薄鼠色で肌が細かい。周囲の村々が昔から大量に採っても尽きないという。したがってこの石から地名が生じたのであり、刀や矛から地名になったという説は逆だ。それらの品名の方が地名による。備前御野郡の出石郷もここに縁があるのか。書紀の異伝の出島もこの地だろう。

【宣長の注釈】大神は神名帳の伊豆志坐神社八座、すべて名神大である。続日本後紀は承和十二年七月、国司の申請で無位から従五位下を授けたとし、三代実録は貞観十年十二月に正五位下、十六年三月に正五位上へ進めたと記す。日本紀略は貞元元年二月二十五日、社内へ烏や鵠が集まり、老人が、国中一の霊社で鳥雀も蚊虻も入らないのにといったので占ったとする。古語拾遺が垂仁の纏向玉城朝に新羅王子海檜槍が帰化し、出石で大社となるというのはどうか。八座だから八種の宝を祭るのは確かなのに、本人を祭るようにいうのは誤りだろう。同郡の御出石神社の方が日矛を祭る社で、混同したのか。彦火々出見尊を祭るという説も理解できない。今は八種の宝が一つも伝わらないと聞くが、本当か。長い年月に焼失・戦乱で散逸したのか。それとも神体そのもので人が見られないのを知らず、別に宝があるはずと思い、別にはないからそういうのか。よく尋ねたい。源重之集には、出石宮の神馬に決して乗るな、祟るかもしれないという歌がある。八前は上巻の墨江の三前大神などと同じ例である。

【古事記本文】この神には伊豆志袁登売神という娘がいた。多くの神が求婚したが誰も結ばれなかった。二人の神の兄弟がいて、兄を秋山の下冰壮夫、弟を春山の霞壮夫といった。兄は「私が願っても結ばれない。おまえはこの娘を得られるか」と聞き、弟は「たやすく得られる」と答えた。兄は「得られたなら、私は上下の衣を脱いでおまえへ渡し、身の丈ほどの甕酒を醸し、山川の幸もすべて用意して、賭けの品にしよう」といった。宇禮豆玖の四字は音を表し、以下も同じ。弟が母へ詳しく伝えると、母は藤葛(布遅の二字は音を表す)を取り、一晩で衣・袴・靴・下靴を織り縫い、弓矢も作った。それを身に着け持たせ娘の家へ行かせると、みな藤の花に変わった。春山の霞壮夫は弓矢を娘の便所につなぎ置いた。娘が不思議に思い花を持ち帰る時、その後ろへ立ち、家へ入り、結婚して一子をもうけた。兄へ報告すると、兄は弟の成功を恨み、賭けの品を渡さなかった。母へ訴えると、「私が生きるこの世では、よく神に習うべきなのに。人間のしわざに習ったからか、約束の品を渡さないとは」と怒り(許曾の二字は音を表す)、伊豆志川の川中の島の竹で八つの目の粗い籠を作り、川石を塩と混ぜ竹の葉へ包ませ、呪文をいわせた。「この竹葉が青くなるように、萎れるように、青ざめ萎れよ。この塩が満ち干るように、満ち干れ。この石が沈むように、沈んで横たわれ。」そうのろい、かまどの上へ置かせた。兄は八年間、ひからび、しおれて病み臥せった。苦しみ泣いて母に願うと、のろいの道具を取り除かせ、体は元通り安らかになった。これが神うれづくという言葉の由来である。

【宣長の注釈】この神は前の伊豆志大神を指す。大神の名は細注にあっても、こうした細書は注でなく本文という例で、前に理由を述べた。その娘とは、御霊が一時、生きた男に姿を変え、女性と結婚してもうけた娘だ。中途半端に理屈をいう儒者は疑うだろうが、上代にはよくある例で、三輪大物主が男となり勢夜陀多良比売と結ばれ伊須気余理比売をもうけた類だ。巻二十の八丁も参照すべきだ。娘の名は地名による。神と呼び、話全体が神代めくので、非常に古い時代に聞こえる。この点からも日矛の渡来は大昔だとわかる。

【宣長の注釈】八十神は多くの神で、上巻の大国主の兄弟八十神と同じ。ここは御霊でなく当時の人だが、娘を神と呼ぶのと同じく、非常に古く事柄が神代のようなので神と伝えた。娘は神の子なので世に並ぶ者のない美人で、皆が競って求めたのだろう。万葉巻二にも、皆が得難いという安見児を私は得た、という歌がある。不得婚はええず、得られずと読む。言葉の由来は前に述べた。前後も得るとするので必ずこう読み、婚の字は意味を表しただけだ。

【宣長の注釈】二神はふたりのかみと読む。神にふたりはどうかとも思えるが、ふたはしらのとはいえない。二人は八十神の中でも外でもよい。皆が結ばれないなら外ともいえるが、大勢の一人だけが成功しても皆が得られないといえないわけではないので、中としても差し支えない。八十神を失敗者たちと見て外とするのもよい。兄弟と明記しないのは、すぐ兄・弟と続き自明なので省いた文なのだ。

【宣長の注釈】秋山の下冰壮夫の下冰は借字で、木々が赤く色づいた秋山の色をいう。万葉巻二の秋山下部留妹、巻十の金山舌日などを師が紅葉の色とした、その通りだ。部留をべると読むのは誤り。元の意味は朝備で、秋山の赤さが赤根さす朝の空のようなこと。備はぶると活用するので、したぶるともいう。万葉巻十一に朱引く朝ともある。境原宮の山下影日売、孝霊紀の真舌疑も、山下のやを省いたか。万葉の山下光る紅葉、春に鶯が来ると山下輝く錦のように花が咲き、旅で恋しく山下赤のそほ船が沖を漕ぐ、といった山下も同じで、山朝備の備を省く。影・光は輝く意味で、かげ・かがやく・かがよふ・かげろふは同語の活用、紅葉の照りをいう。春の鶯の歌でも、紅葉は錦のようだという序にすぎず、主題と関係しない。春の花に秋の紅葉の序は変と思うかもしれないが、女郎花の咲く野に生える白つつじという例のように、序は歌意とは別だ。山の下と字通りに解せば下は不要で、借字と味わうべきだ。船の歌も赤への枕詞で、やまのしたとも読めるが、やまもとのという地形の解釈では、沖を漕ぐという文に合わない。

【宣長の注釈】下部留妹・山下影日売は女性の紅顔をほめるので、この名も美しい秋山の色でたたえたもの。師の冠辞考は、弟にのろわれ萎れたので秋山の萎れ男、したびはしなび、万葉のしたぶるも、しなぶるを転用した色の意味とする。木葉が萎れる頃に赤くなるため、こちらでは枯れる面、万葉では色づく面を取るというが、違う。意味の転用にも限度があり、女性の美しい顔を萎れるとほめるだろうか。この名ものろいとは無関係なので混同しない。契沖のしなへる説も、師が退けた通り誤りで、下が乾く意味という説も合わない。

【宣長の注釈】春山の霞壮夫は、穏やかに霞む春山の美しさでたたえる。兄弟名は、万葉巻十三が春山の茂り、秋山の色づきで宮人をほめるのと同じだ。和名抄は霞を赤い気の雲、かすみとする。語義は赤染で、霞む空が朝夕に赤く映えるためだろう。常に赤いわけでなく、日の光の映る所で名づけ、霞の字もその意味だ。字書にも東方赤と注す。但馬美含郡の香住郷はこの人に関係するか。雖乞は恋い求めてもという意味。後世の恋ふの活用と違う形だが、元は乞ふと同語で、こはむ・こひ・こふ・こまのように活用したのか。後にもこひとはいう。また母へ求婚を頼む意味かもしれず、高津宮で天皇が速総別王を仲立ちに女鳥王へ求婚したという乞も両方に聞こえる。

【宣長の注釈】上下衣服はかみしものきもので、鎮御魂斎戸の祭の祝詞の、御衣は上下を備えて奉ると同じ。上は衣、下は袴。師は伊邪那岐の禊に衣・裳・褌があるので下は裳とするが、男の裳は下着で、衣と対に立てる物でない。禊では身に着けた全品を挙げたため裳もあるが、上下といえば表に着る袴である。ただ帯や下裳も一式に含むとはいえる。後世の吉部秘訓に白い両面の上下、赤色の上下とあり、ほかにも浅黄・赤色の上下などが多い。上は狩衣・直垂・素襖など上の服、下は袴。同色一式だから何色の上下といい、今の裃も下は袴である。

【宣長の注釈】避は国を避る、譲るという避で、着ている衣を脱いで弟へ譲り渡す意味。裸になることをいうのではない。身高は師のたかたけがよく、高さのこと。万葉も山の嵩を高と書く。嵩は高さの名で、竹も長く高く伸びるための名だ。釀甕酒は、みかにさけをかみと読む。文字順では甕釀酒か釀酒甕がよさそうでも、古事記は常に漢文の規則や一つの表記順に従うわけでなく、言葉をよく考え読むべきだ。師の甕の酒をという読みは、入っている酒には使えても、醸す行為には使えない。酒はきでもよい。普通酒は甕で醸すのに特に甕というのは、身の丈に量る酒量を明確にするためだ。和名抄は甕をみか、大甕も同じとし、もたひともいうが、その名は古く見つからない。字鏡や古書はみかである。人の丈ほどの深さまで醸すので大きく高い甕だ。祝詞の甕の上高知も形の高さからいう。そうして弟へ与えるということだ。

【宣長の注釈】山川の物は、山・野・川・海の種々の産物。野を山、海を川に含めて省いた。祝詞が野の甘菜・辛菜、海のひれの広い魚・狭い魚、沖や岸の藻までという一方、山の毛の柔らかい物・粗い物、野に生える物とするように、互いに省く。祝詞は山・野・海をいい、川を明記しないが、これも省略である。

【宣長の注釈】うれづくのうれは八千矛神の歌のうれたくで、巻十一十四丁に述べた通り、悔しがり憤る意味。書紀の慨哉・慨然や、妬む・励むと読む慷憤・慷慨とも同じで、後の兄が悔しがるのがこれである。づくは今の賭けづく。京のかけろくも禄の意味かと理解できるが、かけづくが古語に合う。うつほ物語初秋で仲忠が帝に碁で負け、帝が面白がって早く賭けの負け業をせよと命じ、仲忠ができない事ならそう奏上しますと答える。遊仙窟にも酒や宿を賭ける例がある。契沖はつぐのひの略とし、次の賭けの品を償わないという文からもあり得る。償いはつが清音、ぐが濁音なのに、前へ語が付くとつが濁りくが清音となるのは、古い音便の例だ。今の力づく・金づくもそこからの変化。ここでは弟が簡単に得られるというのを兄がねたみ、成功なら兄から弟へ、失敗なら弟から兄へ、同じ品を渡すという賭けだろう。

【宣長の注釈】云爾はいふと読み、爾は読まない。この表記はほかに例がない。その母は弟の母で、兄は腹違いらしい。布遅葛は後で藤の花となるので藤のつる。葛はつらと読み、今のつるで、巻六の十九丁に詳述した。褌はこの書では袴。襪沓はくつしたぐつで、字順に襪を先に読むと落ち着かない。和名抄は履を草・麻の履物でくつとし、ほかにも多くの履物を載せる。襪・韤は足を包む衣で、したぐつ。字鏡も同じだ。引用中の字(判読保留)には本来くつの意味がなく、ここで用いるのは偏を省いた字なのだろうとする。したぐつは靴の内側にはく靴という名だ。

【宣長の注釈・前段の続き】衣服や下靴まで作る説明から、弟が賭けに負けた時に兄へ渡す準備だったのかもしれない。そうでなければ下靴を作るまで述べなくてもよさそうだが、断定はできない。衣褌等の等は下靴などを含み、その物に限らずほかもあると示す。後のなどと同じで、などは何とが音便でなんど、さらにんを省いた形。万葉巻五の絶綿らはもも同類だ。取らせるは持たせること。遣わすのは霞壮夫で、衣服は前の衣・袴・靴類すべて。藤は和名抄でふぢ。成るは変化すること。衣服は藤葛で織ったので縁があるが、弓矢も花のしなだれる形に多少似る関係があるのか。

【宣長の注釈】前は兄との対比なので弟だけと呼び、ここは対比でないので春山の霞壮夫と名を挙げた。その弓矢はすでに藤の花だが、衣服も同じ花なので、それと区別し弓矢から変わった花とわからせるため、元の名で呼ぶ。厠は前にも説明した。娘がそこへ入ったのを省き、厠というだけで自然にわからせるのも美しい文だ。繫は掛けること。その花は弓矢が変じた藤で、前は弓矢、ここは花として互いに意味を示す古文はすばらしい。不思議に思うのは花の季節でなかったか、季節でも便所にあれば不思議だろう。持って来るのは家の中へ持ち帰ること。

【宣長の注釈】娘の後ろへ立つというだけなら、花がなくても入れるので、弓矢が変わった話が無駄に思えるが違う。衣服もすべて藤の花になったというのがここで働く。体が花に隠れて見えず、娘は人がついて来ると知らず、便所にあったのと同じ花だと思い、もう怪しまないのである。だから弓矢の変化も意味がある。母は初めからこのように家へ入れるため仕組んだのだ。大物主が丹塗矢となり同じように便所へ入った巻二十の故事にも似る。後に立つ表現は白檮原宮段の八咫烏の後に従い進む例がある。一子はこひとり。師のこだけの読みもよい。

【宣長の注釈】懐慨はうれたみて、前のうれづくと同じ。字書では懐を気持ちが激し不平であること、愾を恨み怒る・ため息をつくとし、穴穂宮段にも懐慨憤怒がある。賭けの物は衣服から山川の幸までの品々。償はつぐのふ。字鏡のづくのふはどうか。つぐは給う、のふは整ふなどの付属部分で、占ふ・商ふなどのなふも同類だ。御祖は母で、古語に多い。ただ初めは母だけなのにここで御祖となるのは、子から見た呼称と本人についての呼称との差かと思うが、後でも子について御祖というので理由は不明。我が御世の事は生きている世の事で、世は人が現実に生きる命の間をいう。また世継ぎの世で、自分の子のことかもしれない。いずれにしても自分に御を付けるのは普通の人らしくないが、この段全体が神代の姿で伝わったためだ。母を御祖とするのも同類である。

【宣長の注釈】能許曾の曾を男とする諸本は誤りで、真福寺本・延佳本に従った。能はよく何々せよのよく、こそは助詞。神習は師のかみならはめがよく、神の行いをこそよくまねるべきものなのに、の意味。うつしき青人草は巻六二十四丁にある。習乎はならへや、ならふればにや、習うからなのかと読む。ならふやは古語の形でない。不償の不はぬで、ならへやの結びだからずでは合わない。万葉巻四の、私の思いを人に知らすや、夢に箱を開けられたと見た、は、知らせたからかの意で、しらすやと読まない。また心から思ふや、妻の夢に見えるのは、も思えばにや。巻六の妹に恋ふや、時を定めず鳴くは恋ふればにや、巻九の夏冬行くや、皮衣や扇を離さない山住人は行けばにや、巻十二の乳飲むや、君が顔を求めるは乳を飲めばにや。例はさらに多いのに今の本は多く読み誤る。

【宣長の注釈】全体の意味は、私の世の事はすべて神の行いをよくまねるべきなのに、この子は神でなく人間の行いをまねるからか、支払う品を支払わない、ということ。師は、神は正直で契約を破らないのに、そうでない人間をまね破ったことを母が恨んだとする。上代なら人も正直なはずでは、と疑うかもしれないが、後世よりずっと正直でも、特に正直な神と比べれば人はそうでなかったのだ。兄子はあになるこで、巻三十二の十八丁に述べた。下冰壮夫は腹違いでも継子だから子と呼べる。その伊豆志川はその土地の川というような意味で、今も伊豆志川という。川島は川の中の島。

【宣長の注釈】之節竹は諸本が一とするが真福寺本の之に従った。どちらか決めにくいが、継体紀の歌のいくみだけ・なよだけに基づき、ひとまず節竹とした。一節竹も悪くない。竹には節があるので単に竹のことか、材料に使う際、節の間を切って使う名か。書紀の歌も琴や笛に加工する時で、ここも籠を作る所だから、河島の節竹というのが種類の名に聞こえても差し支えない。一節竹なら節間一つ分を使う意味だろう。契沖の、いくみ竹の四たけ、四節かという解釈はどうか。同じ一物を二語でいう古歌の例で、いくみ竹とよだけは別でない。師のなよ竹の略説もよく聞こえない。和名抄は節を内部を隔てる所、ふし、二節の間をよとする。よは節間だが、それも節と書くのは古くから普通だ。

【宣長の注釈】籠はこと読む。かたまだけを古名とするのは片手落ちだ。和名抄もことし、万葉巻十四の、丘のくくみらを摘んでも籠に満たない、あなたと寝なくては、の歌にこがある。師は第四句を籠にも満たずとし、乃は誤字だろうという。巻十一の鳥籠の山もこを含む。巻十七十一丁の无間勝間の説明も参照したい。荒は目が粗いこと。神代紀の大目の粗い籠の例がある。八目は疑問で、籠の目なら八十目などが似合い、八は大体十に満たない数を大まかにいうので合わない。大の誤字ではないか。書紀にもその名がある。八目鳴鏑なら八目でよく合う。

【宣長の注釈】和名抄は、陶隠居が塩を九種とし白塩を常食するといったと引き、崔禹錫の食経に石塩は白塩ともいうとあり、黒塩もあるとする。和名はしほ、日本紀私記はかたしほ。古本に従い、版本は異なる。合はあへづで、あへはあはせを縮めたもの。朝倉宮の歌の尾行令合ををゆきあへとする例がある。和名抄の、生姜・にんにくをつき酢で和えるあふ・あへもの、肉を刻み混ぜるあへづくりと同じ。安布はあはすの縮約だ。またかつとも読め、万葉巻十六の醤・酢ににんにくをつき合わせての合も同意。人名の和をかつと読むのもこれで、つを濁らせ、仮名もかずとするのは意味を知らない誤りである。

【宣長の注釈】その竹葉は籠を作った竹の葉で、たけのはと読む。師のたかばも古語だが、この位置ではよくない。包んで籠へ入れるのだろう。入れるとは明記しなくても、籠を作るとあるので自然にそうわかる。こうするのは、のろいの道具の準備である。

【宣長の注釈】「この竹葉」は「このたかば」と読む。ここから「沈臥」までは呪文である。青は「あをむ」。青むとは青くなることだが、竹葉は初めから青いので本来は合わない。ただ萎むに対してこういうのであり、現在青いことから「あをめる」とも読めようが、「しぼむ」と対にするなら「あをむ」がよい。次の塩の満ち干と同じ形で、「この竹葉の青むがごと」と読む。後も同様。萎は「しぼむ」。万葉巻十八に「植えた田も蒔いた畑も朝ごとにしぼみ枯れてゆく」、古今集序に「しぼめる花の色なくて」とあり、漢文の序は萎花と書く。師は「しなぶ」としたが、しなぶる・しなびは今の言葉で、古い例は見当たらない。下冰をしなびとする解釈も先に退けた。而は読まず、後も同じ。大山津見神の誓約の言葉「木の花の栄えるように栄えていなさい」に準じる。青萎は「あをみしぼめ」と読む。

【宣長の注釈】「この塩の満ち干るごと」は、竹葉と同じようにいえば「この塩が満ちるように、この塩が干るように」となる所を縮めた文だ。満ち干するのは潮で、先の塩とは同じ物ではないが、塩は潮からでき、名も同じなので通わせた。満ち干の主眼は干ることだけで、満ちはそれをいうため添えたにすぎない。青萎も同じで青に主眼はなく、後の干萎という結果からわかる。古歌が花の散ることを咲き散るという時、咲いていたものが散るので、咲く方に主眼はないのと同じだ。ここも青い葉が萎れ、満ちていたものが干るように、という意味。

【宣長の注釈】「この石の沈むように沈み臥せ」は、多くの本が而沈の二字を落としている。同じ沈が二度出るための脱落で、延佳本ともう一本に従った。師の「しづく」は、万葉では水中に物の見えることをいい、沈むとは違う。沈むは古くから「しづむ」である。臥は「こやせ」。巻五五十六丁の病み臥すの説明を参照したい。人が起きるのは浮くようで、横たわるのは沈むようなので、石の沈みに寄せた。心の浮き沈みとも同じ。葉と塩は萎む・干るだけなのに、石は沈むだけでなく臥せるを足す。沈むだけでは人の身体のこととして十分直接に伝わらないためだ。前二つにそろえれば浮き沈むとなるが、石は重く浮かないので浮くとはいわない。この点からも、青い・満ちるは主眼ではないとわかる。ここまでが呪文。

【宣長の注釈】呪わせたのは、母が霞壮夫に教え、兄をのろわせたのである。神代紀には、磐長姫が恥じて「天孫が私を退けず妻としたなら、生まれる子は岩のように永く生きたのに、妹だけを妻としたので花のように散る」とのろう例がある。海神は彦火火出見へ釣針を渡し、「兄へ返す時、貧しさのもと、飢饉の始まり、苦しみの根、といってのろってから渡せ」と教える。神功紀は天へ向かいのろったと記す。雄略紀は井戸を指し「民だけが飲め、王は飲めない水となれ」とのろう。武烈紀は、真鳥大臣が失敗を恨み、身を免れられず策も望みも尽き、塩を広く指して天皇の食べる海塩をすべてのろい、殺されたが、角鹿の海塩だけを忘れたので、それが天皇の用となった、と記す。ほかにも例があり、古くこの術があったのだろう。「のろふ」の意味は、申し述べ請うことか。ただ良いことを願う例はなく、人を悪くしようと願う場合だけである。能呂布も同じで、伊勢物語の天の逆手を打ってのろう例もそうだ。「まじなふ」は吉凶両方にいうが、「まじ」は悪いことだけなので、良い方にもいうのは後の転用かもしれない。字書も詛を、神に願い災いを加えさせること、相手が挫折し敗れるよう祈ることと説明する。

【宣長の注釈】烟は師の「かまど」という読みに従う。家を幾烟と数えるのもかまどからで、今も家をかまどという。上は炉のすぐ上でなく、煙の昇る上方の高い所だろう。烟をそのまま「けぶり」と読んでもよい。霞壮夫自身の家の煙の上方に、先の呪物を置いたのだ。八年の間とは、ひからび萎れ病み臥していた期間が八年ということ。海神が兄は三年の間必ず貧しくなるという巻十七四十二丁の文と同じで、「間に」と「に」を加えて読むべきではない。

【宣長の注釈】干は「かわき」。字鏡にこの仮名があり「かはき」は誤りだ。干ると乾くは同じだが、人の身体には干るといえない。先の塩には乾、ここには干と字を変えたのも、読みの違いを示すのかもしれない。身体の潤いが失われるのは塩の干る呪いの効き目、潤いを失い草木の花葉のように萎れるのは竹葉の呪いの効き目だ。枯は臥の誤字ではないか。石のように沈み横たわれという効き目なので臥が必要と考え「こやしき」と読んだ。上巻にも病臥在がある。病だけで臥す呪いが実現し、枯は干萎病全体をまとめた言葉とも思えるが、それでは干萎と重なり、沈む呪いの結果が足りない感じがする。病み臥すとあってこそ明確だ。枯を擁護するなら、干萎に縁のある語として添えたとでもいうべきか。

【宣長の注釈】患泣は倭建命の段にもあり、上巻は泣患ともいう。母に願う様子は実母のようにも聞こえるが、やはり継母だろう。詛戸の戸はその物を指すと思われる。師は場所の意で、その戸をのろいの場所にするため戸と読み、さらに考えるべきだとしたが、場所ではなかろう。煙の上へ置いた物で、須佐之男に千位置戸を負わせた巻九五丁の戸と同じ。令返は母が霞壮夫に、煙の上に置いた呪物を取り戻し、取り除かせることだ。呪文を逆に願い元通りにする意味ともできそうだが、詛戸をという文はそれではない。ただ物を除くのは願いを戻すので、結局同じことになる。その身は兄の身体。安平は「たひらぎき」で、水垣宮段の国安平と同じ。神うれづくと神を付けるのは、この故事が極めて古く、全体に神代のようなためだ。

【宣長の注釈】言本は文字通り言葉の由来でも、事の由来でもよい。神代紀が、今も夜一つの火を避け、夜櫛を投げることを避けるのはこれによる、桃で鬼を避ける由来だ、自分の爪を慎重に取り収める由来だ、とする緣を「ことのもと」と読むのは、出来事についての事本である。仁徳紀の「海人がいるのか、自分の物のため泣く」ということわざの由来は、言葉についてなのでここに等しい。ここも神うれづくという慣用の言葉の由来だ。言葉の由来なのは当然だが、それを事の由来と見てもよい。言い慣わしも、元に出来事があるからだ。上巻の、雉の頓使ということわざはこれが由来、という本も同じ。つまり世間に神うれづくといってすることの、言葉の起こりがこの故事だというのである。師は後人の注としたが、そうではない。

【古事記本文】また品陀天皇の皇子、若野毛二俣王は、母の妹にあたる百師木伊呂弁、別名弟日売真若比売命と結婚し、大郎子、別名意富富杼王をもうけた。次に忍坂の大中津比売命、田井の中比売、田宮の中比売、藤原の琴節郎女、取売王(取は上声)、沙禰王で、七人である。意富富杼王は三国君・波多君・息長君・坂田酒人君・山道君・筑紫の米多君・布勢君らの祖先である。根鳥王は異母妹の三腹郎女と結婚し、中日子王と伊和島王の二人をもうけた。また堅石王の子は久奴王である。

【宣長の注釈】若野毛二俣王の野は、前に沼とあるのと同じ。古く野も広く「ぬ」といったからだ。母弟は母の息長真若中比売の妹で、巻二十二六十四丁の伊邪河宮段にも例がある。漢文や書紀で同母の弟を母弟というのとは異なる。母の妹と結婚する例は、神代の葺不合命と玉依比売命にもある。

【宣長の注釈】百師木伊呂弁、別名弟日売真若比売命は日代宮段、巻二十九四十丁に出る倭建命のひ孫で、そこには弟比売とだけある。百師木は百石城の意味だが、なぜそう名乗ったかは不明。伊呂弁の例は崇神紀の八坂振天某辺、継体紀の色部など、いずれも女性名。某と書いた字は前に説明した。伊呂は伊呂泥・伊呂杼などのいろ、弁は何々刀弁という女性名の弁で、巻二十三三丁を参照したい。真若は男女の名に多く特別なことはない。前に品陀天皇の妃として出た迦具漏比売は、この弟比売の別名で若野毛二俣王の妃だったものが混同されたのだろう。巻三十二十五丁に理由を述べた。釈日本紀所引の上宮記では二俣王の母の名を弟比売麻和加とする。これらは後にも述べる。

【宣長の注釈】大郎子の名に特別な意味はない。郎子という呼称は前にあり、継体天皇の皇子にも同名がある。意富富杼は継体天皇の袁本杼命と比べると、意富は大、袁は小で、富杼は共通する。書紀は男大迹と書き、男は借字。したがって富杼は意富杼の意を省いたものだ。大を意富から富だけにする例は多く、前の大・小にもオの音があるここなら、なおさらである。継体は小大杼、この王は大大杼となる。大杼の意味は不明で地名か。持統紀には土師連富杼も見える。近江高島郡に大処郷・大処神社があり、おほどと読むこの土地か。高島との縁は後に述べる。曽祖父が大大処なので継体を小大処としたのだろう。ただ古事記は処の濁ったトに普通は度を使うのに、ここは杼なのが疑問だ。富杼を陰部の意味とするのは誤り。そのトは登だけを用い、濁音の杼を用いない。

【宣長の注釈】上宮記は別伝として「凡牟都和希王が経経於那加部比古の娘、弟比売麻和加と結婚して若野毛二俣王を生んだ。二俣王が母恩己麻和加中比売と結婚し、大郎子、別名意富々等王、妹の践坂大中比弥王、妹の田宮中比弥、妹の布遅波良己等布斯郎女の四人を生んだ」と記す。凡牟都和希は品陀別、すなわちこの天皇。経経は古事記なら咋俣、書紀なら川派なので、経の写し誤りだろう。母恩己は母の下に弟が脱落し、恩己は息長の誤りだろう。践坂は忍坂、比弥は比売と同じだ。

【宣長の注釈】忍坂は大和の地名で巻十九二十九丁に出た。上宮記の践坂大中比弥王がこの人だが、忍坂を践坂とするのはなぜか。この比売は允恭天皇の皇后で、その段に出る。安康紀は、母は忍坂大中姫命で稚渟毛二岐皇子の娘、とし、允恭紀には、皇后が母と家にいた時、庭で遊び云々という話がある。先に品陀天皇の皇女として同名が出たのは、この比売が混同されたもの。理由は巻三十二で述べた。

【宣長の注釈】田井は地名で、和名抄の河内志紀郡田井郷か。後にも河内との縁があり、今も田井中村があるためだ。山城久世郡・大和葛下郡などにも田井村、高市郡・山辺郡などに田井荘、河内茨田郡にも田井村がある。和名抄の伊勢奄芸郡田井郷は多井と注し、神名式に同郡の多為神社、美濃賀茂郡にも多為神社がある。この比売は上宮記にない。田宮も地名で、和名抄の河内交野郡田宮郷か。先の田井も同国だからだ。東大寺古文書の越前坂井郡田宮荘も後に述べる縁があり、伊勢度会郡には田宮寺もある。上宮記は田宮中比弥とする。

【宣長の注釈】藤原の琴節郎女は、上宮記に布遅波良己等布斯郎女とある。藤原は地名で、大和高市郡大原村という説はもっともだ。今も大原村と、付近に鎌足大臣の旧跡という所がある。万葉巻一の天皇から藤原夫人への歌は「私の里には大雪が降っている。大原の昔の里に降るのは後だろう」。天武天皇と鎌足の娘のことで、巻八は大原大刀自と記す。大原がその故郷で、天皇も初めはこの女性の家へ通い住んだので昔の里と詠んだのだろう。巻十一にも大原の古い里という。鎌足の本拠が大原だったため藤原姓を賜ったので、大原が藤原であることは明らかだ。ただし持統天皇の京の藤原宮は別の土地で、混同してはいけない。万葉巻一の長歌では藤井が原という土地を略して藤原といったのだろう。香具山の西、耳成山の南である。持統紀の釈所引の私記は、師説では未詳とし、氏族略記に高市郡鷺栖坂の北とあると考証する。香具山は十市郡だが宮は西の高市郡だったのだろう。鷺栖坂は玉垣宮段の鷺巣池の注と考え合わせたい。大原とこの宮を一緒にするのは地理を考えぬ妄説だ。大原は香具山の南、飛鳥に近く、長歌に合わない。推古紀の藤原池は宮の藤原らしい。添上郡にも藤原村があるが、それも別だ。

【宣長の注釈】琴節の意味はまだわからない。字は借字で、顕宗紀の節歌曰とは関係しない。先に応神天皇と迦具漏比売の五人の子の一人に出た登富志郎女は、この女性が混同されたのだろう。巻三十二に述べたように、登富志と琴節の音はとても近い。歌で名高い衣通姫も同じ人だ。允恭紀は忍坂大中姫皇后の妹、弟姫とし、姿が比類なく美しく、そのつややかな美しさが衣を透かして輝くので衣通郎姫と呼んだとする。衣通と琴節の音が近いためだ。衣通は「そとほし」と読む。ソとコ、ホとフは古くから通い、登富志は通そのものと同じだ。書紀や古今集序の「そとほり」は読み誤りで、書紀の左傍には「きぬとほし」ともある。登富志の前に曾が落ちたのか。琴節のコはころものコで衣をコだけでいえる理由があるのか。ソを誤ってコと伝えたのか。どれでも、登富志・琴節・衣通は一つに聞こえる。また藤原に別殿を建て住まわせ、天皇が初めて藤原宮へ行ったとの記事も、ここの藤原という名に合う。これは大原に建てた殿で持統天皇の宮とは違う。允恭紀七年から十一年に詳しく、十一年には国造らに命じ衣通郎姫の藤原部を定めたともある。紀伊の玉津島神をこの姫とする説は根拠がなく、契沖が詳しく論じた通り。古事記では允恭の皇女、軽大郎女の別名も衣通郎女とし紛らわしいが、巻三十九三丁で述べる。

【宣長の注釈】取売王の取の下の上声注は、鳥と同じ音に読めということ。意味はわからないが地名か。大和葛上郡に上鳥郷・下鳥郷があり、続日本紀・懐風藻・万葉集に刀利姓も見える。売は女性のメを常にこの字で書く例なので女王だろう。沙禰王の禰は弥の誤りか。古事記の禰は宿禰以外に例がなく、弥は首巻に示したように多く、両字の混同は古書に多い。名の意味は不明で地名か。弥なら近江伊香郡の佐味神社、大和十市郡の佐味村、書紀の佐味君、万葉巻九の沙弥女王などがある。この二王は上宮記にない。

【宣長の注釈】三国君は越前坂井郡三国湊、同郡三国神社の土地にちなむ。湊は今も名高い。継体紀は、父彦主人王が振媛の美貌を聞き、近江高島郡三尾の別邸から使いを出し妻に迎え、天皇が幼いうち父が死ぬと、母は故郷を遠く離れ、このままでは親に仕えられないと嘆き、越前の高向へ帰り養ったと記す。天皇を三国へ迎えた記事もあり、和名抄には坂井郡高向がある。上宮記も同じ趣旨で、三国は母の故郷で天皇の育った地だ。ならばこの氏は、彦主人王の子で天皇と同母の兄弟が、ともに三国にいた、その子孫だろう。彦主人王は意富富杼王の孫である。書紀が継体の皇子、椀子皇子を三国公の祖とするのは異伝だ。継体も意富富杼王の子孫なので同じようでも、継体の子孫なら古事記はその段で挙げるはずで、ここで挙げる以上そうではない。意富富杼と継体の袁本杼の名が似て混同されたのだろう。どちらが正しいか決められない。孝徳紀に三国公麻呂、天武紀十三年十月には三国公ら十三氏へ真人姓を賜ったとある。真人はこの時定めた八色の姓の第一で、朝臣が次ぐ。正しくは「まひと」で、まうと・まつなどは後世音便で崩れた発音だ。姓氏録の左京・右京・山城国の皇別はいずれも椀子王の子孫とするが、同書は多く書紀によって定めたものだ。

【宣長の注釈】波多公は地名によるが、各地に同名が多く定め難い。巻二十二二十丁の波多八代宿禰・波多臣の注で詳述した。天武紀に羽田公矢と子の大人、同十三年十月の真人姓授与が見える。姓氏録左京皇別は八多真人を応神の皇子、稚野毛二俣王から出たとする。続日本後紀巻六は、八多真人浄雄が、姓氏録の始祖は誤りで家の大患だと訴え、訂正の詔が出たと記す。今本は訂正後だろう。旧本は三国真人と同じく椀子王の子孫と誤記したのではないか。この氏から三国君の混同も推し量れる。今本が訂正前の誤ったままとも考えられるが、まずそうではあるまい。

【宣長の注釈】息長君の君は、諸本では次の坂の下にあるが、上下を写し違えたので移した。後にも述べる。諸陵式の息長墓が近江坂田郡にあるその地にちなむ。天武紀の息長横河、続日本紀巻十三の坂田郡横河頓宮の地である。万葉巻十三には「にほ鳥の息長川」「立つくまの息長の遠智の小菅」、東大寺文書には坂田荘・息長荘、更級日記には不破関やあつみ山などを越え近江のおきながという人の家に泊まる例がある。天武紀十三年十月に息長公らが真人となり、姓氏録左京皇別は稚渟毛二俣王の子孫とし、息長丹生真人も同祖とする。山城国皇別は息長竹原公を応神の三世孫阿居乃王の後とするが、阿居乃王は意富富杼王の子か。続日本紀巻二十六に息長連清継の真人姓授与があり、連だった一族もいたのか。姓氏録右京皇別にも息長連は稚渟毛二俣王の後とある。

【宣長の注釈】酒人は「さかびと」。崇神紀の佐介弭苔の介はカの仮名で、さかうど・さかんどは後世の音便で正しくない。諸本に脱字があり定めにくいので二通りに解く。第一は坂の下の君が本来は前の息長に付く君で、君坂を上下逆にし、坂の下の田を落としたもの。または上の君を落とし、田を君と誤ったのでも同じで、今そう補った。坂田は近江坂田郡。允恭紀は、先の琴節郎女に当たる衣通郎姫が母と近江坂田にいたとするので、その兄弟の意富富杼王もいたのだろう。継体の父彦主人王の別邸は高島郡三尾、息長も近江坂田郡で、一族はあちこち近江に縁がある。酒人も地名で、和名抄の摂津東生郡酒人郷か。三河碧海郡にも酒人神社がある。姓氏録左京皇別は坂田酒人真人を息長真人と同祖とする。書紀にこの姓のない理由は後に述べる。

【宣長の注釈】第二は坂の前後に君と田を落とし、坂田君と酒人君の二姓とする解釈で、地名は二つとも今述べた通りだ。天武紀に坂田公雷、十三年十月の真人姓授与がある。姓氏録は坂田宿禰を息長真人と同祖、稚渟毛二俣王の子孫とする。天武朝に出家して信正と称し、近江の槻本公転戸の娘と結婚し石村を生み、母の姓の槻本公に付けた。その子が外従五位下の老、その子が従五位上の奈弖麻呂、従五位下の豊成、豊人らで、桓武朝延暦二十二年に宿禰姓を賜った。父の志を述べ、祖父の育った地名から坂田宿禰へ変え、今上弘仁四年に朝臣姓へ変えたという。朝臣を賜ったとしつつ見出しが宿禰なのは不審で、今上以下は後の加筆か。類聚国史は延暦二十二年正月、槻本公奈弖麻呂と弟豊人・豊成に宿禰を賜り、父老の事情からの授与とする。日本紀略は弘仁十四年十二月に坂田朝臣弘貞を南淵朝臣へ改めたと記す。文徳実録巻九の南淵朝臣永河の卒伝は、槻本公老の孫、坂田朝臣奈弖麻呂の第二子で、兄弘貞と父の遺志を述べ南淵姓を賜ったとする。南淵の姓から坂田は大和高市郡かとも疑うが、なお近江だろう。姓氏録では奈弖麻呂が初めて坂田を賜るようだが、先祖が近江人なので古い姓で坂田君の一族だったのだろう。後にも述べる。

【宣長の注釈】書紀が継体の皇子、中皇子を坂田公の祖とするのは三国君と同様の異伝だ。姓氏録左京皇別の坂田真人も仲王の後とするが書紀に従う。酒人君は天武紀十三年十月の真人姓授与に出る。継体の菟皇子を酒人公の祖とするのも三国・坂田と同様の異伝で、姓氏録の大和国皇別の酒人真人と未定雑姓の酒人小川真人も菟王の後とする。二つの読み方のうち、天武紀には坂田公・酒人公があり坂田酒人公がないので、二姓説がよさそうだ。しかし姓氏録に坂田酒人真人があり息長真人と同祖とするので、決められない。坂田酒人君とするなら、書紀の坂田真人・酒人真人との違いはこう考えられる。坂田酒人君は坂田君から分かれ、天武朝に一緒に真人となったが、本家の坂田君に含めて別記されなかった。真人であることは姓氏録からわかる。物部朴井連も物部とともに朝臣になったのに別記されない同種の例で、巻十九六十六丁に述べた。単なる酒人君はもともと別姓で、書紀通り継体の子孫だろう。ただし古事記のここを二姓と読むなら、その出自は古事記と違う伝えになる。別の酒人と区別して本家の坂田を添えたのだろう。注意しないと混同する。なぜ本家でなく分家を挙げるかは、時代により本家が衰え分家が栄え、栄えた方を記したのかもしれない。三代実録巻七は近江坂田郡穴太氏の系図を息長・坂田酒人の「両人」と同巻にして提出させたとするが、両人は不審で両氏の誤りだろう。それなら息長と坂田酒人の二氏である。

【宣長の注釈】山道君がどこの地名にちなむかは不明。畿内や近江に名が残っていないか探すべきだ。肥後合志郡山道郷は次の筑紫の米多君と縁はあるが、真人姓を賜った氏にこれほど遠国の例はほとんどない。天武紀十三年十月に山道公ら十三氏へ真人を賜ったとある。今本は山道を落とし十三氏という数に合わないが、釈日本紀所引には酒人公の次にある。姓氏録の左京・右京皇別も息長真人と同祖、稚渟毛二俣王の後とする。筑紫の米多君の米を末・未とする諸本は誤りで、古事記にその二字を音仮名にする例はない。真福寺本に従う。和名抄の肥前三根郡米多郷、メタという土地である。国造本紀は、志賀高穴穂朝に息長公と同祖、稚沼毛二俣命の孫、都紀女加を筑紫米多国造にしたと記す。ここの米も延佳本は末と誤り、旧版本の米がよい。ただ高穴穂朝は二俣命の孫と時代が合わず乱れた記事だ。続日本紀巻三には米多君北助がある。

【宣長の注釈】布勢君はどこの土地か不明。越中射水・因幡高草・隠岐海部・播磨揖保・美作大庭などに布勢郷、各地に布勢神社がある。中でも近江伊香郡の布勢立石神社はこの一族と地の縁がある。ただ前の「筑紫の」がこの姓にも掛かるのかは不明だ。氏も確実な記録はなく、布勢臣・布勢朝臣は別姓。姓氏録の、布勢公は仲哀の皇子忍稚命の後というのは、この氏の異伝か。続日本紀巻十八の布勢真虫に君姓を賜った例もこの氏か。

【宣長の注釈】継体天皇は意富富杼王のひ孫だが、その段は品陀天皇の五世孫とだけ記し系譜を挙げない。伊邪河宮段が神功皇后の系譜を記すのと同じように、ここで継体の祖先を記すべきなのに、子孫の氏族だけで系譜がないのは欠落だ。そこで上宮記によって試みに書けば、意富富杼王が中斯和命と結婚し宇比王を生み、宇比王が牟宜都国造の伊自牟良君の娘、久留比売命と結婚し宇志王を生み、宇志王が伊玖米天皇の七世孫、振比売命と結婚し袁本杼命を生んだ、と記すべきだ。詳細は継体の段で述べる。根鳥王は応神の子で前に出た。庶妹は先述の通り「ままいも」、三腹郎女も前にある。中日子王に特別な語義はない。伊和島王は地名か。大神宮例文は五百野皇女の次の斎王を伊和志真王、仲哀の娘とするが、中日子王の妹というのを足中日子命の娘と取り違えたのではないか。仲哀にはその名の子がないからだ。二王という注は真福寺本などでは二柱である。

【宣長の注釈】堅石王は「かたしは」。雄略紀の人名、日鷹吉士堅磐固安銭に、堅磐は柯陀之波と読むとある。和名抄の筑前穂波郡堅磐郷の加多之万は、方を万と誤り、さらに万を萬と書いたものだろう。その地名による名か。ただこの王は前に出ず、書紀にもいない。突然ここへ挙げる理由はないので、伝承の混乱か、前の文章が後に脱落したのか。前に迦多遅王はいるが、同じ古事記で前後が違うはずはない。久奴王も地名だろうか。

【古事記本文】この品陀天皇の年齢は百三十歳。御陵は河内の恵賀の裳伏岡にある。

【宣長の注釈】凡此とまとめる例は巻二十の白檮原宮段の末にもある。百三十歳について、書紀は四十一年春二月、甲午を一日とする戊申の日(十五日)、明宮で百十歳で没した、一説は大隅宮と記す。仲哀九年庚辰の生まれなら四十一年庚午は百十一歳で一年違う。別の書の百十一歳は年数を合わせたのだろう。大隅宮は難波にあり二十二年の記事に見える。旧版本・真福寺本などはここに「甲午年九月九日崩」の八字の細注がある。この種の注は巻二十三九十五丁で詳説した。甲午は書紀では応神五年、没年の三十六年前、または仁徳二十二年、二十四年後に当たる。月日も書紀と違い、これも別の古伝だろう。河内恵賀は巻三十一五十二丁に出る。

【宣長の注釈】裳伏は「もふし」か「もふす」か不明だが、ひとまず穏当なもふしと読んだ。田中道麿は、万葉巻四の「私が漁で捕った、藻に伏す束鮒(つかぶな)」という歌のくだりは、誰もが藻に隠れた鮒と解すが、裳伏産の意味ではないかという。諸陵式は恵我藻伏山岡陵、軽島明宮で治めた応神天皇、河内志紀郡の北、東西五町・南北五町、陵戸二戸・守戸三戸とする。山岡は古書でよく使う崗を二字に誤ったのではないか。河内志は古市郡誉田村にあり、式では志紀郡、陵辺に塚が七つあって馬塚・鞍塚・円塚・登久理塚・久且塚などといい、東の馬鬣型の塚を武内宿禰墓と伝えるとする。前皇廟陵記所引の誉田八幡宮縁起は、古市郡長野山の藻伏山岡陵へ葬り、欽明二十年二月十五日に勅命で陵前に社を建てたとする。同書は、両郡が隣り陵が郡境にあるだけだろうと考証する。扶桑略記は治暦二年四月二十五日の石清水宮司の報告に、三月二十八日、夜の戌の刻に、河内の誉田天皇陵が震動し光を放った異変があったと記す。欽明二十年創建の縁起は信じ難く、社は後に建っただろう。今も陵前にある。書紀がこの陵を記さないのは通例と違い、後の脱落か。雄略九年には藷丘の誉田陵で狩りをしたとあり、藷葉は伊致蘇姑と読むという。裳伏岡を藷丘岡ともいったのか、疑わしい。姓氏録の上毛野朝臣条の同じ故事には応神陵の辺とだけあり地名はない。

【宣長の注釈】旧版本などが裳伏と岡の間に入れる「百舌鳥陵也」の五字は、確実に後人が書き足した乱れた注だ。百舌鳥は和泉で場所が大きく違う。毛受から裳伏山へ改葬したという説もあるが、それならその経緯を書くはずで、この注は裳伏そのものを百舌鳥とするので明白な誤り。もふす・もずの音の近さから当て推量しただけだ。契沖の河社は、百舌鳥は今は万代と書き和泉大鳥郡にあり、万代八幡という、陵に似た山上の社があって、氏人は毎年正月の三日間肉を断ち、遠国へ移住しても守り続ける、仁徳・履中・反正三代の陵の外にある、と記す。百舌鳥の地名は仁徳陵の所で述べる。ここは真福寺本・延佳本などにない方に従った。

【古事記本文・本文異同】古事記中巻、終わり。「終」のない本もあり、「巻」もない本もある。

古事記伝 巻三十五

本居宣長が謹んで著す。

古事記 下巻

高津宮の巻・上

〔『古事記』本文〕大雀命(おおさざきのみこと)は、難波の高津宮で天下を治めた。この天皇は、葛城の曾都毘古(そつびこ)の娘、石之日売命(いわのひめのみこと)を妻とし、大后とした。生まれた子は、大江之伊邪本和気命(おおえのいざほわけのみこと)、墨江之中津王(すみのえのなかつみこ)、蝮之水歯別命(たじひのみずはわけのみこと)、男浅津間若子宿禰命(おあさつまわくごのすくねのみこと)の四人である。また前に述べた日向の諸県君牛諸の娘、髪長比売を妻とし、波多毘能大郎子(はたびのおおいらつこ)、別名・大日下王(おおくさかのみこ)、波多毘能若郎女(はたびのわきいらつめ)、別名・長日比売命(ながひひめのみこと)、またの名・若日下部命(わかくさかべのみこと)の二人をもうけた。「波多毘能」の四字は音を表す。また異母妹の八田若郎女と、異母妹の宇遅能若郎女を妻としたが、この二人との間に子はいなかった。大雀天皇の子は合わせて六人、男子五人、女子一人である。このうち伊邪本和気命が天下を治め、次に蝮之水歯別命が、さらに男浅津間若子宿禰命が天下を治めた。

旧版本・真福寺本などには、初めに「大雀天皇から豊御食炊屋比売命まで、全部で十八天皇」という十八字の小字注がある。旧版本は「雀」を「鷦鷯」とし、真福寺本は「八」を「九」とする。これは飯豊命を一代と数えたのか、単に八の誤りなのか。この注は後人が加えたのだろう。中巻にも同種の注はないので、ここでは延佳本と別の一本に注がないのに従った。この天皇の後世の漢風の諡は、仁徳天皇である。大雀命の「雀」を旧版本が「鷦鷯」とするのは、後人が『日本書紀』に基づき、自分の判断で改めたものだ。諸本はみな雀で、中巻にも後の本文にもすべて雀とある。

難波は前に出た(中巻の白檮原宮の段の「浪速」の注、『伝』巻十八、二十七葉。また明宮の段、巻三十四)。高津宮について、『日本書紀』は元年に「難波に都し、これを高津宮という」とする。元年に初めて難波へ移ったわけではない。この命がもとからそこにいたことは、『日本書紀』の「難波へ進めた」「難波から走って菟道宮へ至った」や、『古事記』明宮の段の「大雀命が、娘の船が難波津に着くのを見て……」などから分かる。『万葉集』巻三には「天の探女の石船が泊まった高津は、浅くなってしまったことよ」と歌う。難波の地形は今も、北の大坂から南の住吉付近まで、長く続く岸があり、東は高く、西は低い。昔はこの岸まで潮が来た。昔、島といった場所も今は地続きになった所が多い。『万葉集』の「浅くなった」という歌のころには、既にこの岸まで潮が来なくなったのだろうか。船が着く難波津は、この岸の高い所だったので、高津といったのだろう。ある人は、宮は今の大坂市内にあったという。上本町通の安堂寺町筋の民家の裏に小さな祠があり、今も古宮の跡と伝える。その場所が高津宮の跡で、天満の社司、渡辺氏の家に伝わる難波の古図からも、その所に当たると考えられるという。それもありそうだが、古宮の跡と伝えるだけでは、昔の神社の跡でもそう呼べるので、この宮の跡と確定はできない。ただ、その付近から遠くはないと思われる。今は「かうづ」を高津と書き、そこがこの宮、その神社はこの天皇だというが、谷川氏は、かうづは『日本書紀』孝徳天皇紀の蝦蟇行宮の地で、『うつほ物語』の歌にも地名が出るという。それもありそうだ。古代の高津なら今もそのまま「たかつ」と呼ぶはずで、どうして「かうづ」となるだろうか。また、今の高津神社は明宮の段末の難波之比売碁曽社だという。そのことは巻三十四、十一葉で述べた。『摂津志』が高津宮を別名・大郡宮とするのも根拠のない説である。大郡は欽明天皇紀から各巻に出るが、高津宮と同じだとする根拠は全くない。孝徳天皇紀には小郡宮も出る。

葛城之曾都毘古は大臣・建内宿禰の子で、前に出た(『伝』巻二十二、三十五葉)。石之日売命は、『日本書紀』の天皇の歌にも、「つのさはふ〔磐にかかる枕詞〕、磐之姫が……」と詠まれる。名は、磐石のように堅く、いつまでもおられるようにと、祝ってほめたものだろうか。『日本書紀』には「三十五年夏六月、皇后の磐之媛命は筒城宮で亡くなった。三十七年冬十一月、甲戌の朔の乙酉の日、皇后を那羅山に葬った」とある。『諸陵式』には「平城坂上墓、磐衝媛命。大和国添上郡にある。墓域は東西一町、南北一町。守戸は置かず、楯列池上陵の陵戸に兼任させる」とある。ある人は、『枕草子』の鶯陵がこの墓で、鶯山の頂にあるという。『神名帳』には伊豆国賀茂郡の伊波乃比咩命神社、伊波比咩命神社もあるが、こちらの比売命ではあるまい。

「大后」について。『続日本紀』巻十に、正三位の藤原夫人を皇后に立てる詔として、次のようにある。「この皇后の位を授けることは、私の時だけに始まるのではない。難波高宮の大鷦鷯天皇は、葛城曾豆比古の娘、伊波乃比売命を皇后として、ともに天下の政治を治め、行われた。今、新しく珍しい政治をするのではなく、もとから行ってきたことなのだと告げる……。」「高宮」は「津」が落ちたのか。これは王族ではなく臣下の娘を皇后に立てた、古い先例を引いたものである。そもそも神武天皇の大后は大三輪神の娘なので、別である。その後、開化天皇までの代々について、『日本書紀』は臣下の娘を皇后にしたと記すが、『古事記』には、その間、大后とする記事がない。崇神天皇以後は、どちらにも、臣下の娘が大后に立った例は石之比売命以外にないので、この例を引いたのである。曾都毘古は孝元天皇の曾孫だが、父の大臣の代から既に臣下の列に入っている。神功皇后の父は開化天皇の玄孫だが、なお王なので同じ例ではない。昔は王族でなければ大后にならないのが通例だった。『日本書紀』が開化天皇まで臣下の娘を皇后とするのは、本当は妃や夫人の地位で、大后とはいわなかったのを、いつものように飾って記したと思われる。何年何月何日に皇后を立てたという記述も、もとは潤色だということは前に述べた。ともかく『日本書紀』は中国風にすることを主眼としたため、こうして古い意味が失われたことが多いのは、たいそう嘆かわしい。大宝の定めで妃を内親王としたことも、『職員令』の「妃二人、四品以上。夫人三人、三位以上。嬪四人、五位以上」から分かる。「品」は親王の階級なので、四品以上とは王族である。夫人・嬪に「品」でなく「位」をいうのは臣下だからだ。妃でさえそうなのだから、皇后はいうまでもない。この制度からも上代のことを推し量るべきである。それなのに石之比売命が大后になったのは、よほど特別の理由があったのだろう。

大江之伊邪本和気命という名の「大江」は、『日本書紀』で「大兄」と書くのと同じ意味で、江は音を表す借字である。この呼び名は日代宮の段の「日子人之大兄王」の注(巻二十六、十一葉)で述べた。「伊邪」は水垣宮の段の「伊邪能真若命」の注(巻二十三、七葉)で述べた。「本」は大きいという意味で、「和気」も前に説明した。墨江中津王は、摂津国の墨江に住んでいたのだろう。「中津」は『日本書紀』で「仲」と書く意味である。津は「之」と通じる助詞なので、その下に「の」を加えず、「なかつみこ」と読む。舒明天皇紀にも初瀬仲王という人が出る。この王の事績は若桜宮の段に出る。

蝮之水歯別命の「蝮」は「たじひ」と読む。『日本書紀』に「多遅比瑞歯別天皇と称する」とあり、『民部式』にも、戸籍を照合する者は、蝮部という姓を丹比部と書いたり、永吉という名を長善と書き換えたりする例を、不一致と扱ってはならない、とあるからである。つまり蝮部と丹比部は同じである。後の「蝮部を定める」の注で引く『姓氏録』も参照してほしい。旧版本が「みはら」と読み、延佳も従って「淡路国三原郡である。『日本書紀』では瑞歯別は淡路宮に生まれたという」などとするのは誤りで、蝮をみはらと読む根拠はない。なぜ多治比を蝮と書くのかは詳しく分からない。蝮は俗にいうマムシで、ある人は「たちばみ」ともいうとする。それなら昔はこの虫を多治比と呼んだのだろう。「たちばみ」は「たじひはみ」だろうか。また「はみ」を縮めれば「ひ」となる。『和名抄』は和名を「はみ」、『字鏡』は「のづち」とする。多治比は河内国の地名で、その場所はこの命の段で述べる。『日本書紀』のこの天皇の段には、「天皇は淡路宮で生まれた。瑞井という井戸があって、その水をくみ太子を洗ったところ、多遅花が井戸に落ちたので太子の名とした。多遅花は今いうイタドリの花である。それで多遅比瑞歯別天皇と称した」とあるが、これは話が混同した伝えである。『三代実録』巻十二の丹墀真人貞峯らの上表には、「古い記録を調べると、檜隈廬入野宮の宣化天皇の子、加美恵波皇子が十市王を生み、十市王が多治比古王を生んだ。この王が生まれた夕べ、突然、多治比の花が飛んできて産湯の釜に浮いた。この不思議な徴によって多治比古王と名づけた」とある。花の話はこの多治比古王の誕生時の出来事なのに、水歯別命も多治比というため、こちらのことと誤って伝えたのだろう。『姓氏録』の丹治宿禰の条にも『日本書紀』と同じ話があるが、そちらも『書紀』によったのだろう。後世の『三代実録』を採って『書紀』を誤りとする理由は、この命が河内の多治比に都を置いたので、もとからそこに住み、御名がその地名に基づくことが明らかだからである。地名のほうがこの命の名に由来したとも考えられるが、既に履中天皇の歌に「多遅比野」と詠まれているのである。「水歯」はこの命の段に出るので、そこで説明する。景行天皇紀には水歯郎女という名もある。

男浅津間若子宿禰命という名の「浅津間」は、大和国葛上郡の地名である。葛城は母の皇后の故郷なので、つながりがある。仁徳天皇紀の歌に「あさづまの」、天武天皇紀に「朝嬬へ行き、そこで大山位以下の者の馬を長柄の杜で見た」とある。長柄も葛城にある。『姓氏録』に大和の朝津間腋上の地、『万葉集』巻十に朝妻山や「朝妻の片山の木に……」などが出る。今も朝妻村がある。『和名抄』には近江国坂田郡の朝妻郷もあり、中世の書物にも見えるが、それではない。『日本書紀私記』が難波にあるというのも根拠がない。「男」は音を借りて「小」と書くのと同じで、小長谷・小筑波・小佐保などの「を」である。『古今集』の歌の「こよろぎの磯」も、相模国の餘綾で、もとは「をよろぎ」なのを、小と書いたため後に「こ」と読み誤ったのだ。同じ例はほかにもある。小野・小川・小篠・小車・小櫛などの小も同じで、小さいという意味ではなく、「ま」「み」などのように美しく飾る語である。小と大は反対なのに、どちらもほめ言葉にする。「若子」は「わくご」と読む。武烈天皇紀の歌に「しびのわくご」、継体天皇紀に「えなのわくご」、舒明天皇紀に「きつのわくご」、『万葉集』巻十四に「とののわくご」などがある。「宿禰」は前に述べた(巻二十二、十二葉)。兄の大江命の名の「大兄」に対して、こちらは若い兄、つまり弟という意味である。『日本書紀』には「二年春三月、辛未の朔の戊寅の日、磐之媛命を皇后に立てた。皇后は大兄去来穂別天皇・住吉仲皇子・瑞歯別天皇・雄朝津間稚子宿禰天皇を生んだ」とある。

「前に述べた」とは明宮の段(巻三十二、五十五葉)を指す。諸県君牛諸の名の「諸」は「もろ」と読む。諸県の諸に倣って「むら」とするのはよくない。名の意味はまだ分からない。この人は前に出た。髪長比売も前に出た。波多毘能大郎子の名は地名なのか、詳しくは分からない。「郎子」という呼び名は前に説明した。大郎子という名も明宮の段末に見える。大日下王の「日下」は河内国河内郡の地名で、朝倉宮の段(巻四十一、九葉)で述べる。この王の事績は穴穂宮の段(巻四十、三葉)に出る。波多毘能若郎女、別名・長日比売命の名も、まだ意味が分からない。応神天皇の娘に同じ名があるのは、この皇女と混同したので、その理由はそこで説明した。若日下部王について、延佳本が「部」を書かないのは、自分の判断で除いたのだろう。諸本にはこの字がある。河内の日下を日下部とも呼んだのだろうか。朝倉宮の段の歌に「くさかべの、こちのやま」とあるので、この名も部を添えていったのである。穴穂宮の段には部のない形も出る。この皇女は雄略天皇の大后となり、その段に事績が出る。雄略天皇紀には草香幡梭姫皇女とあり、小字に「別名・橘姫」とある。橘姫の名は大和国の橘に由来するのだろう。后になった後、そこに住むことがあったのだろう。『日本書紀』がこの皇女を履中天皇の皇后ともするのは、伝承の混同だろう。その理由はその段で述べる。仁徳天皇紀には「また妃に日向髪長媛という人がおり、大草香皇子と幡梭皇女を生んだ」とある。「庶妹」は前に説明したとおり「ままいも」、異母妹と読む(巻二十九、四十三葉)。八田若郎女は前に出た(巻三十二、十一葉)。その事績はこの後に出る。宇遅能若郎女も前に出た(同所)。『日本書紀』にはこの皇女を妻とした記事はない。「無御子也」は「みこまさざりき」、子はいなかった、と読む。「凡そ此の大雀天皇……」について、『古事記』でこのように子を数える場合、ふつう天皇の名を挙げず「此の天皇」とだけ書く。その中で日代宮の段だけが、ここ同様に「凡そ此の大帯日子天皇……」としている。

〔『古事記』本文〕この天皇の御代に、大后の石之日売命の名を後世に伝えるため葛城部を定めた。また太子の伊邪本和気命のため壬生部を、水歯別命のため蝮部を、大日下王のため大日下部を、若日下部王のため若日下部を、それぞれ名を伝える集団として定めた。

「御名代」とは、その名を後の世に広く残し伝えるために、部の民を定めて置くことである。清寧天皇紀には「二年春二月、天皇は子がないのを嘆き、大伴室屋大連を諸国へ遣わして、白髪部舎人・白髪部膳夫・白髪部靫負を置き、自分の跡を後世の人に見せたいと願った」とある。武烈天皇紀には「六年秋九月……私には跡継ぎがない。どうして名を伝えよう。先帝の旧例に従って小泊瀬舎人を置き、代わって名を伝え、永遠に忘れられないようにせよ」とある。継体天皇紀には、大伴大連の奏上に「この天皇に跡継ぎがなかったので、私の祖父・室屋大連が国ごとに三種の白髪部を置き、名を後世に残した」とある。また太子の妃・春日皇女が跡継ぎのない嘆きを述べ、天皇が「我が子、麻呂古よ。お前の妃の言葉は深く道理にかなっている。匝布屯倉を与え、妃の名を万代に伝えよ」と詔した記事もある。安閑天皇紀元年には、秋七月の「皇后は天子と一体であっても、内と外の呼び名ははるかに異なる」という詔に続き、冬十月、天皇が大伴金村大連に「四人の妻を迎えたのに今も子がなく、万代の後には私の名が絶える」と告げた。金村は「私もそれを憂えています。わが国で天下を治める王は、跡継ぎの有無を問わず、物に託して名を残すものです。皇后と次の妃のため屯倉の土地を置き、後世に残して今の跡を明らかにしてください」と答え、天皇は許して早く定めよと命じた。これらもみな御名代で、その意味が分かる。この呼び名はここで初めて出るが、制度がこの御代に始まったわけではない。既に玉垣宮の段に「伊登志和気王は子がないので、子の代わりに伊登志部を定めた」とある(巻二十四、二十五葉に詳述)。景行天皇紀の「日本武尊の功名を記録するため武部を定めた」というのも御名代で、早い御代から続いていたのである。後には遠飛鳥宮・朝倉宮・甕栗宮の段などにもこの呼び名が出る。

孝徳天皇の御代、天下の制度をすべて改めた際、御名代の類もみな廃止された。『日本書紀』の大化二年春正月、甲子の朔の改新の詔には、「第一、昔の天皇らが置いた子代の民、各地の屯倉、また臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘を廃止する」とある。また皇太子は使者に次の趣旨を奏上させた。「天皇は私に、群臣・連・伴造・国造が所有する、昔の天皇が置いた子代・入部、皇子らの私有する御名入部、皇祖大兄の御名入部とその屯倉を、昔どおり置いておくか、とお尋ねになった。私は……と答えた。そこで入部五百二十四人、屯倉百八十一か所を献上する。」別の詔にも、王の名を軽々しく川や野に付けたり、民の名として呼んだりするのは恐れ多い、とある。三年の詔にも、神の名や天皇の名から臣・連の氏や造などの姓を作ったため、神や王の名が汚される習俗となっている、今の代に改めなければ後世の人は改まる前の事情をどう知るのか、とある。文章の細部には分かりにくい所があるが、大筋は上記の制度をみな廃止したということである。「入部」の「入」は、皇子・皇女の名に多い入毘古・入日売の入と同じで、親しみ、いとおしむ意味である。「いろも」のいろ、「いらつこ」のいらなども、前に説明したように同じ語だ。そこで后や子たちを愛して定める部という意味で入部といい、これも御名代なのである。そもそも名は、身分の上下にかかわらず、その人をほめる意味で付ける。名を呼ぶのは敬い、たたえることなのに、後世、名を呼ぶのを無礼とし、避けるようになったのは中国の習慣をまねたものである。昔、御名代を置いたのは、引用した『日本書紀』の各巻にもあるように、その名を物に託して広く後世に残すためだった。孝徳天皇の時に、名を軽々しく呼ぶのは恐れ多いとして廃したのは、中国風の考えで、古い時代の意図とは反対である。これによっても、日本と中国では物事に向かう心がさまざまに異なると知るべきである。

葛城部の葛城は大后の故郷である。歌にも「葛城高宮、我が家のあたり」とある。『日本書紀』には「七年秋八月、大兄去来穂別皇子のため壬生部を定め、皇后のため葛城部を定めた」とある。壬生部の壬生は、皇極天皇紀の「乳部、これは美父という」という注により、「みぶ」と読む。夫の音は濁る。昔から「みぶ」「にぶ」の二つの読みがあり、決めにくいようだが、この『書紀』の訓注に従って決めるべきである。乳部と壬生が同じ理由は後に述べる。ある人が『拾芥抄』の「美福門は壬生氏が造ったので、壬生は美布と読むはずだ」という記述を挙げたのも一つの証拠である。『和名抄』で各地の壬生郷を見ると、三河国八名郡には美夫と書く例もある。一方、遠江国磐田郡・安房国長狭郡・筑前国上座郡の壬生郷はすべて爾布とする。『躬恒家集』にも壬生忠岑を仮名で「にふのただみね」と書く。これらからは「にぶ」とも思われるが、それは少し後に発音しやすい形へ変わった読みだろう。今、京都の壬生もみぶ・にぶ両方で呼ぶ。ある人が、にぶは乳部の漢字音で、訓注の美は写し誤りだというのは誤りである。この呼び名は乳部の漢字音と全く関係がなく、迷ってはいけない。師が、壬生はもと丹生という地名だったとしたのもよくない。それなら初めから丹生と書くはずで、別にある丹生と区別して壬生と書き続けたのは、別物だからである。「みぶべ」は「うみぶべ=御産部」の「う」を省いた語で、誕生時の産殿で奉仕する諸集団をいう。もとは「みぶべ」を略し、みぶというようになった。『日本書紀』神代巻の鸕鷀草葺不合尊の誕生の箇所には、「別の伝えでは、彦火火出見尊は女性を乳母・湯母・飯嚼・湯坐とし、さまざまな担当をそろえ、養育させた」という。『古事記』玉垣宮の段の本牟智和気命の誕生にも、「乳母を取り、大湯坐・若湯坐を定め、日々養育せよと命じた」とある。『旧事紀』巻五にも、品陀天皇が尻綱連に「あなた自身の腹から生まれた十三人の皇子らを、あなたが率いて日々養育しなさい」と命じ、連は大いに喜んだ。連の子・稚彦連とその妹の毛良姫の二人を壬生部に定めた〔原刊は「汝自腹所産」とし、「汝」は独立読字でも確認したが、尾綱連への命令内の出生主体には不整合があり、解釈を留保する〕とあるのが、その例だ。天武天皇の崩御時の誄で「第一、大海宿禰蒭蒲が壬生の事を述べた」というのも、大海宿禰が乳母の氏族なので養育のことを述べたのである。幼名が大海人皇子だったことから、乳母の氏族だと分かる。当時、皇子・皇女の名を乳母の姓から取るのが通例だったからだ。『釈日本紀』の兼方の「壬生の事とは封戸の事」という説明は、たいへん幼稚である。皇極天皇紀の「上宮の乳部の民」で乳と書くのは、子の養育が乳を中心とするからで、この字からも意味が分かる。ただし、ここで壬生部を定めたとは、誕生時に直接奉仕した人々そのものを指すのではなく、後にこの皇子の御産部という名で民戸を定め置いたことである。上宮の乳部の民も上宮太子の御産部として定めた民であり、同じ巻の「東国に行き、乳部を基盤に軍を起こす」も、その民が東国にもいたということだ。各地に壬生という地名が多いのは、昔の各御代に置いた壬生部が住んだ土地で、やがて姓にもなったのである。推古天皇紀十五年の「壬生部を定めた」は、誰のためなのだろう。当代の天皇のためなので名を挙げないのかもしれない。「壬生」と書く壬の意味は詳しく分からない。『史記』律書に、黄鐘から壬を説き、「壬は任で、陽気が下で万物を養うこと」というので、その養育の意味を採ったのだろうか。壬と妊は同じで、胎妊・出産をいうとする説もある。出産はそうだが、妊娠はみぶと関係しない。壬はみずのえだから水の意味だとか、ニムという音を採ってニを表す借字だとする説も、みな誤りである。ミにもニにもこの字を借りた例がないではないか。「生」は誕生の意味を採るのであって、蓬生・浅茅生などの草の生える所という意味ではない。それらと同じと考え、「ふ」と清音で読むのは誤りだ。

蝮部は、この皇子が住んだ河内の地名による呼び名である。『姓氏録』の丹比宿禰の条には、「御殿宿禰の子、色鳴。大鷦鷯天皇の御代、皇子の瑞歯別尊が淡路宮に誕生した。そこで諸国に多治比部を定め、皇子を養う湯沐邑とし、色鳴を管理者として丹比部の戸を治めさせた。丹比連と呼び、ついに姓とした」とある。和泉国の皇別にも丹比部という姓がある。蝮部という姓もあるが、そちらは由来が異なるようだ。ただし丹比部と蝮部の字を通用させることは前述のとおりである。大日下部と若日下部も、蝮部と同じ例である。雄略天皇紀には、「根使主は官軍に殺された。天皇は担当官に命じ、その子孫を二分し、一方を大草香部の民として皇后に与え、もう一方を……」とある。皇后に与えるのなら若草香部のはずなのに、大草香部とある大は誤字ではないか。ただ、この時には既に大日下王がいなかったので、大草香部も皇后があわせて所有したのだろうか。

〔『古事記』本文〕また秦人を使役して茨田堤と茨田三宅を造った。丸邇池と依網池も造り、難波の堀江を掘って海へ通じさせ、小椅江を掘り、墨江の津を定めた。

秦人は、応神天皇の御代、秦造の祖の弓月君が率いて渡来した人々である。その事情は該当段で述べた(巻三十三、三十四~三十九葉)。「役」は「えだてて」と読む。『日本書紀』では「つかひて」とも読む。明宮の段にも、新羅人が渡来し、堤や池の工事に使役して百済池を造ったとある。「えだたせ」と「えだて」は同じで、「たて」は「たたせ」を縮めた形だからである。「えだち」についてはその箇所(巻三十三、十六葉)で述べた。
茨田は、『和名抄』の河内国茨田郡、読み「まむた」で、茨田郷もある土地である。「茨」は、常陸国茨城郡を「むばらき」とするように「うばら」「むばら」というはずなので、「まむ」はやや後の訛りだろう。初めから「まむた」なら、この字を書くはずはない。もとは「うばらた」で、「う」を省き、「ば」を「ま」に変え、「ら」を通例の音便で「ん」といったのだろう。『日本後紀』の延暦二十三年には茨田親王の名を万多に改めたとある。これは表記を改めたので、この時すでに「まむた」と呼んだと分かる。武蔵国荏原郡にも満田郷があり、これも「まむた」か。皇極天皇紀には茨田池も出る。この池は今も平池村にあるという。
堤について、『日本書紀』の十一年の詔には、北の川の水害を防ぐため茨田堤を築くとある。二か所が壊れ、塞ぎにくかった時、天皇の夢に神が現れ、「武蔵の強頸と、河内の茨田連衫子の二人を……そうすれば堤は完成するだろう」と教えた。そこで人々はその二か所を強頸断間・衫子断間と呼んだ。同年、新羅人が朝貢し、この工事に従事させたともある。北の川は淀川である。新羅人を使役したとするのは、『古事記』の秦人とは違う。『姓氏録』河内国皇別の茨田宿禰の条は、彦八井耳命の子孫である菅呂母能古が仁徳天皇の御代に茨田堤を造ったとする。「菅呂母能古」の五字は版本では「男野現宿禰」だが、ここは別の一本に従った。ただし『書紀』の訓注と音仮名が全く同じなのは疑わしい。茨田郡は西北の端で淀川に接するので、洪水を防ぐ堤なのである。今も伊加賀村から太間村・池田村付近まで、堤の形がわずかに残るという。『神名帳』には茨田郡の堤根神社があり、今の野口村にあるという。
仁徳天皇紀五十年には、河内の人が茨田堤で雁が卵を産んだと報告した記事がある。『続日本紀』巻三十、宝亀元年七月には志紀・渋川・茨田などの堤を修理し、延べ三百人余の労力を用いたとある。「百」は「万」の誤りか。巻三十二、同三年八月には、月初めからの雨と大風で、河内国の茨田堤六か所などがすべて決壊したとある。巻三十八、延暦三年閏九月には、同郡の堤十五か所が決壊し、延べ六万四千人余に食料を与えて築かせたとある。『続日本後紀』巻十八、嘉祥元年八月には洪水で茨田堤が各所で崩れ、九月に役人らを派遣して堤を調べさせたとある。

秦人は、応神天皇の御代に秦造の祖・弓月君が率いて渡来した人々で、その事は応神天皇の段(巻三十三、三十四~三十九葉)で述べた。「役」は「えだてて」、労役に就かせて、と読む。『日本書紀』ではこの字を「つかひて」とも読む。明宮の段には「また新羅人が渡来し……堤や池の工事に使役して百済池を造った」とある。「えだたせ」と「えだて」は同じで、「たて」は「たたせ」を縮めた語だからである。労役をいう「えだち」はそこで説明した(巻三十三、十六葉)。

茨田は『和名抄』の「河内国茨田郡、まむた」で、茨田郷もある、その場所である。茨は、常陸国茨城郡を「むばらき」というように「うばら」「むばら」と読むはずで、「まむ」とするのは少し後の訛りだろう。もとからまむたなら茨の字を使えない。もとは「うばらた」で、うを省き、ばをまに変え、らを発音上の変化でんとしたのだろう。『日本後紀』に「延暦二十三年、茨田親王の名を萬多に改めた」とあるのは文字を改めたので、既に当時、まむたと呼んだことが分かる。武蔵国荏原郡の満田郷も、まむただろうか。皇極天皇紀には茨田池も出る。今も平池村にあるという。堤について、仁徳天皇紀十一年には「北河の水害を防ぐため茨田堤を築こうとしたが、二か所が築くと崩れ、ふさぎにくかった。天皇の夢に神が現れ、武蔵の強頸と河内の茨田連衫子の二人を……と教えた。堤は完成したので、当時の人は二か所を強頸断間・杉子断間と呼んだ。この年、新羅の人々が朝貢したので、この工事に従事させた」とある。北河は淀川であり、新羅人を使役したという点は、『古事記』の秦人と異なる。『姓氏録』河内国皇別には、「茨田宿禰は彦八井耳命の子孫。菅呂母能古は仁徳天皇の御代に茨田堤を造った」とある。菅呂母能古の五字は版本では男野現宿禰だが、今は別本に従った。ただし『日本書紀』の訓注と仮名が全く同じなのは疑わしい。茨田郡は西北側が淀川に接するので、この堤は氾濫を防ぐためのものだ。今も伊加賀村から太間村・池田村付近まで、わずかに堤の形が残るという。『神名帳』には茨田郡の堤根神社があり、今の野口村にあるという。仁徳天皇紀五十年には、河内の人が茨田堤で雁が卵を産んだと奏上した記事がある。『続日本紀』巻三十には「宝亀元年七月、志紀・渋川・茨田などの堤を修理し、延べ三百余人の労力を用いた」とある。百は万の誤りか。巻三十二には「同三年八月、一日から雨が降り、大風も加わり、茨田堤の六か所などが決壊した」、巻三十八には「延暦三年閏九月、茨田郡の堤が十五か所決壊し、延べ六万四千余人に食糧を給して築いた」とある。『続日本後紀』巻十八にも「嘉祥元年八月の洪水で茨田堤が各所で途切れ、九月に役人らを遣わして築かせた」とある。

茨田三宅について、『日本書紀』には「十三年秋九月、初めて茨田屯倉を置き、これに伴って舂米部を定めた」とある。宣化天皇紀元年夏五月の詔にも、河内国茨田郡の屯倉の穀物を、さらに運ぶという。筑紫へ運ぶのである。三宅一般については前に述べた(巻二十六、三十七葉)。丸邇池については、仁徳天皇紀に「十三年冬十月、和珥池を造った」、推古天皇紀に「二十一年冬十一月、掖上池・畝傍池・和珥池を造った」とある。丸邇は前に出た(巻二十三、七十五葉)。ただ、ある説では、ここでいう和邇池は大和ではなく河内国石川郡喜志村にあり、今も仁徳天皇の御代に造ったと伝え、推古天皇紀の池とは別だという。どうだろうか。この説どおりなら、丸邇は池だけの名なのか。河内に丸邇という地名は書物に見えない。推古天皇紀の和珥池は大和国添上郡池田村にあり、光台寺池ともいうという。依網池は水垣宮の段に出て、そこで述べたように(巻二十三、九十三葉)、その御代に造ったものが浅くなったり崩れたりしたので、今の御代にまた修理したのだろう。

堀江について、仁徳天皇紀十一年夏四月の詔にはこうある。「この地方を見ると、郊外の湿地は遠く広がるが田畑は少なく、川の水は横に流れて、下流は速く流れない。少し長雨があれば海の潮が逆流し、村里を船で行き、道も泥だらけになる。群臣は相談し、水の横流れするもとを切り開いて海へ通じさせ、逆流を防いで田畑と家を保全せよ。」冬十月、宮の北の郊外を掘り、南に流れる水を西の海へ導いたので、その流れを堀江と名づけたという。「この地方」は難波付近を指す。「南の水を引く」は、横に南へ広がっていた水を西の海へ導くことである。昔は淀川と大和川の下流が広く乱れて流れ、耕地が少なく水害が多かったので、この時、江を掘って水流をまとめ、直接海へ通したのである。これが今の大坂の大川である。大和川が今、住吉の南へ流れるのは近世のことで、昔は大坂の京橋の川へ来て淀川と合流した。今も古大和川という川筋がある。『帝王編年記』にも「今の山崎川が海に通じる、これが堀江である」とある。山崎川は淀川のことである。渡辺という場所はこの江のそばにあり、南渡辺・北渡辺という里だった。そこの渡しを堀江の渡しといい、その渡しのほとりなので里も渡辺といった。橋があった時には渡辺橋と呼び、今の天神橋付近だったという。現在の大坂の南堀江・北堀江の堀は古代の堀江ではないので、混同してはならない。今の堀江は近く元禄のころ掘ったものである。また難波の古図には、別に堀江・堀江川と記す所がある。それは次の小椅江の注で述べる。

欽明天皇紀十三年には「仏像を難波堀江へ流して捨てた」、敏達天皇紀十四年には「焼け残った仏像を取り、難波堀江へ捨てさせた」、推古天皇紀二十七年には「摂津国の漁師が堀江に網を沈めた」とある。『万葉集』巻三には「夜が更け、堀江をこぐ松浦船の櫂の音が高く響く。水の流れが速いからか」、巻十には「難波堀江の葦辺には、霜が降りたので雁が泊まっているらしい」、巻十二には「松浦船の行き交う堀江の、速い流れ」と歌う。巻十八には太上天皇が難波宮にいた時の、左大臣橘宿禰の歌がある。「堀江には玉を敷いておけばよかった。大君が御船でお渡りになると、前から知っていたなら。」これに答える御製は「玉を敷かなかったとあなたが悔やんでいうその堀江には、玉を一面に敷きつめて、続けて通いましょう」。これらは、御船で江をさかのぼって宴をした日の歌である。巻二十には「防人を乗せて堀江をこぎ出る、出て行く船」、「船の集う堀江の川の水際で、来ては鳴くのは都鳥だろうか」、「朝なぎに櫂を引いて上り、夕潮に竿をさして下り……」などがある。『古今集』恋四に「堀江をこぐ、棚のない小舟の行き帰り……」、『後撰集』冬に「真菰を刈る堀江に浮かんで泊まる鴨の……」、恋一に「あなたを思う心の深さと比べようと、摂津の堀江を見に行くのが、この私なのです」もある。例はさらに多い。「海に通す」の海を、多くの本が迴とするのは誤りで、真福寺本と延佳本に従った。「通」は師が「とほし」と読んだのがよい。

小椅江の「椅」を延佳本が土偏で書くのは、前に述べたように誤りである。『日本書紀』には「十四年冬十一月、猪甘津に橋を造ったので、その所を小橋と呼んだ」とある。今も東生郡に猪飼野村と小橋村が近接している。猪飼野村は大坂城の東南、その西に小橋村があり、天王寺から東へ十町ほどである。猪飼野には今も鶴橋という平野川の橋があり、難波の古図もそこをつるが橋とする。ただ、この江を掘ったというのは、どの川か詳しく分からない。昔、大和川がこの小椅付近を流れ、ここでも広く乱れていたのを、堀江と同じように川筋を北へ掘り通して堀江へ導いたのだろうか。河内からこの付近に流れる川はどれも昔から何度も流路が変わったので、古代にここを流れた大和川が、後に今の古大和川の筋へ移ったのかもしれない。今、猪飼を流れるのは平野川で、大坂の京橋の上で古大和川に合流する。平野川は、昔は河内の丹比郡の狭山池を水源としたという。今は大和川の支流で、渋川郡から住吉郡平野を通って来る。猫間川や今川などもこの付近だ。それで小椅江は平野川などかと思うが、それほど大きな川ではない。難波の古図を見ると、猪飼付近を流れ、今の平野川に当たる川を百済川と記す。猪飼より南の田島付近には池のように広い所があり、堀江と記し、そこから西へ分かれ木津付近へ流れる支流も堀江川とする。猪飼から西へ分かれる支流も堀江川と書く。その図では大和川は既に今の古大和川の所にある。図の年代は分からないが、大体四、五百年をさかのぼる物とは見えない。池のような所を堀江、分流を堀江川とすることから考えると、古代、大和川がここを流れ、小椅江を掘って水をまとめたものも堀江と呼んだのだろうか。後に大和川がほかへ移った後、池のような所にわずかな名残があり、名もそこに残ったのかもしれない。なお、よく考えるべきである。『古事記』は江を掘ったことだけで橋を記さず、『日本書紀』は橋の建設だけで江の掘削を記さないが、互いに記事が抜けているので、伝承そのものが異なるのではあるまい。この時、江を掘って橋を渡したのだろう。『書紀』が猪飼を津とすることからも、大きな川で船の着く場所だったと分かる。小椅という名は『書紀』のとおり橋にちなむのだろう。古図から考えると、この江も堀江と呼び、先の堀江と区別する時には、橋があるため小椅江といったのだろう。

墨江の津について。まず息長帯比売命の時に住吉大神を鎮め祭った土地は、その段(巻三十、七十七葉)で述べたように菟原郡の住吉で、今の場所ではない。今の地へ移した伝えがなく、いつの御代か分からないが、この御代にこの津を定めた記事からよく考えると、大神を今の地へ移したのも同時だったのだろう。神功皇后の霊をあわせ祭ったのもこの時だろうか。雄略天皇紀の記事は既に今の場所のことらしいので、それより前に移ったとは分かる。住吉という地名も菟原郡から移った名で、今の住吉神社は巻六、七十一葉で述べた。移したのは神の教えによったことに疑いはない。この御代、難波に宮を構えたので、大神も都の近くにいたいと思われたのだろうか。津について神功皇后紀の神の言葉には、「大津の渟中倉の長峡にいたい。そうすれば往来する船を見守れる」とある。菟原郡にいた時からその場所は大きな港で、『和名抄』の同郡の津守郷も港を守る人の居住地だろう。大神を移したのに伴い、津も移し定めたのだろう。これが今の住吉郡の住吉津である。郡名も移した後のもので、住吉に近い西生郡の津守郷も菟原郡から一緒に移ったのである。雄略天皇紀十四年春正月には、「身狭村主青らが呉国の使者とともに、呉から献上された手末の才伎、漢織・呉織、衣縫の兄媛・弟媛らを連れて住吉津に着いた。この月、呉の客のため磯歯津の道を開き、呉坂と呼んだ」とある。これを今の住吉とするのは、大和の都へ入るため磯歯津路を開いたからである。磯歯津は『万葉集』巻六で和泉国の千沼とあわせ詠まれ、千沼は住吉の南の近い場所だ。ある人は次のようにいう。「住吉の東一里ほどに喜連村があり、河内との境に当たる。昔は河内に属し、『万葉集』の河内国伎人郷という場所で、くれが訛って喜連となったのである。孝謙天皇紀や『三代実録』などの伎人隠もここである。住吉から喜連へ行く間に低い丘が横たわり、『万葉集』巻三の『四極山を越えて見ると』の山、呉坂はこれだろう。今も住吉から河内へのこの道を、昔、呉人が通った道と伝える。喜連村には呉羽明神という社もある。また四極山とあわせ詠まれる笠縫島は、『内匠式』の、菅蓋一具や菅笠の材料について、摂津国の笠縫氏が来て作る、という笠縫氏の居所で、今の東生郡深江村である。今も菅を多く作って朝廷に献上する。今は島ではないが、昔は郡内で多くの川が合流し、広い沼が海のようで舟が行き来し、本当に島だった。」その説はなお詳しいが、ここでは省いて挙げた。呉国の使者は外国の中でも珍しい客なので、難波津へ着けず、特に住吉津へ入るよう、あらかじめ定めておいたのだろう。外国に関する事はこの大神の管轄だからである。『万葉集』巻十九の遣唐使を送る長歌に、「難波へ下り、住吉の御津で船に乗り、直に渡る」とある。「三津」は住吉津をほめて御津といったもので、難波三津・大伴三津などという場所ではない。これも遣唐使なので、特にこの津から船出したのだろう。

〔『古事記』本文〕そこで天皇は高い山に登って、四方の国土を見渡し、こう命じた。「国の中に炊事の煙が立たない。民はみな貧しいのだ。これから三年間、民の税と労役をすべて免除せよ。」そのため宮殿が傷み、どこも雨漏りがしたが、まったく修理せず、樋のような容器で雨水を受け、漏らない所へ移って過ごした。後に国中を見ると、煙が満ちていた。民が豊かになったと思い、今ならよいとして税と労役を課した。民は栄え、労役を苦痛にしなかった。このため、その御代をたたえ、聖帝の世といった。

「高山」は「たかやま」と読む。中世以後は「高き山」とだけいうが、昔はたかやまが普通だった。必ずしも俗にいう高山でなく、ほどほどの高さでもいう。難波の近くにはそう呼べる山がないので、大和などへ行く途中で山を越えた時か、それとも国見のため、わざわざ登ったのか、詳しいことは分からない。「四方」の「よも」は四面のことで、ここでは天下全体でなく、山上から見渡せる近くの国々である。『万葉集』巻一には「天の香具山に登って国見をすると、国原には煙が立ちこめ、海原にはかもめが飛び立つ」、「吉野川のたぎる川内に、高殿を高くお造りになり、登って国見をすると」とある。巻三に「国見する筑波山を」、巻九に「並び立つ筑波山を……登って……国のすぐれた所を詳しく示してくださると」、巻十三に「春になると、植槻の上の、遠い人を待つという松の下道を通ってお登りになり、国見をなさる」とある。「国中」は「くぬち」と読み、巻五に「青丹よし、国中ことごとく見せたいものを」、巻十七に「越の中、国中ことごとく」とある。「煙が立たない」は、巻五の貧窮問答歌に「かまどには火の気が立たず、甑には蜘蛛の巣が張り、炊事も忘れて」とあるような状態である。「貧窮」は「まづし」。「至三年」は「みとせといふまで」、三年の間、と読む。

「課役」は「みつぎえだち」と読む。『日本書紀』では「おほせつかふ」「えつぎ」とも読む。課と役の二つの負担で、『賦役令』にも「課役をともに徴収する」「課を免除し役を徴収する」「課役をともに免除する」などの区別がある。『令義解』は「課とは調・副物・田租など」とする。民に課して献上させる物全般で、田租を除いた物だけを課という場合もあるが、普通は田租も含む。上代の量や品目はどうだったか分からない。『賦役令』では、調の絹・絁・糸・綿・布はその地方の産物に従い、正丁一人当たり絹・絁八尺五寸、糸八両、綿一斤、布二丈六尺とする。雑物を納める場合には別の定めがあり、次丁二人、中男四人を、それぞれ正丁一人分に数える。調に添える副物も別に定める。一人が右のすべてをそろえるのでなく、その土地の産物をどれか一品納め、副物はそれ以外である。田租は『田令』に、長さ三十歩、幅十二歩を一段、十段を一町とし、段租は稲二束二把、町租は稲二十二束とある。『令義解』は、一段の田では稲五十束、一束ごとに籾五升を得られるので、一町では五百束になると説明する。調・田租の制度は孝徳天皇紀大化二年も参照すべきである。ただ白雉三年の小字注が段租一束半、町租十五束とするのは、これと違っており、どうしたことか。以上の調・副物・田租などをあわせて課という。役は『賦役令』に、正丁は年十日の労役、次丁二人で正丁一人分とある。詳しくは令を見ればよい。『万葉集』巻十六の「氏戸らが課役を徴収すると……」の課役を「えだす」と読むのはどうか。二つをいうなら『書紀』のように「えつぎ」、役だけなら「えだち」と読むべきである。「氏戸」は誤字に見える。

「除」は「ゆるせ」、免除せよ、と読む。「せ」と命令形にするのは、役人に命じた言葉だからである。ここまでが詔で、実際に免除したことは詔の中に含めて省略する、古い書き方である。「破壊」は「やれこぼれつ」と読む。破をやれという例は、武烈天皇紀の歌の「破れむ柴垣」にある。宮殿のもとの様子について『書紀』元年は、宮垣や室屋に彩色を加えなかったとするが、いつもの潤色した漢文に見える。「雨漏りがしても」は、『日本紀竟宴』の歌に「漏る雨を葺き直さないことを、民は喜ぶ」とある。「都」は「かつて」と読む。理由は上巻で述べた(巻十七、六葉)。「修理」は皇極天皇紀の歌の「はじめつくらふも」に従い、「つくらひ」と読む。「つくろひ」ともいうが、ここはつくらひを採る。普通はつくると読むが、つくらふはそれを伸ばした語で、意味は同じである。新築も、壊れた物を直すのもともにつくるといい、修理の字も両方に用いる。ただ後世はつくるだけだと新築のように聞こえるので、ひとまず読み分けた。「勿」は、この書では不という否定の意味で用いると、巻一で述べた。「楲」は、諸本には椷、また禾偏に咸の字で書くものもあるが、別の一本に従った。禾偏の字は誤りである。椷は字書に篋・函の類・木箱とあり、はこの意味だ。それもありうるが、雨漏りを受けるのに箱では少し遠い感じがする。楲は『玉篇』に池の水を流す木の装置とあり、武烈天皇紀にも池の樋の意味で出る。必ずしも細長い樋でなくても水を受ける物をいえるから、椷より少しふさわしく思われる。この字は虎子、大小便を受ける器、今いう「まる」とも説明する。ここでは大小便ではないが、液体を受ける点で関係がないわけではない。「ひ」と読むべきで、『和名抄』には「楲、和名いひ」とある。

「後」は、三年たった後のことだろう。「煙が満ちた」に関して、『日本紀竟宴』の歌は大鷦鷯天皇について、「高殿に登って見れば、天下の四方に煙が立ち、今こそ豊かになった」と歌う。『新古今集』賀には、貢物を免除して国が豊かになったのを見た仁徳天皇の歌として、「高き屋にのぼりて見れば煙立つ、民のかまどはにぎひにけり」を載せるが、これは先の竟宴の歌を後世風に作り変えたものを、この天皇の御歌としているのである。『万葉集』巻一にも「天の香具山に登って国見をすると、国原に煙が立ちこめる」とある。「為」は「おもほして」、お思いになって、と読む。理由は巻一で述べ、水垣宮の段の例の所でも説明した。「今」は「いまはと」と読む。今なら課しても耐えられるだろう、という意味である。延佳本の「令」は勝手な改変らしく、よくない。「之栄」の之は余分な字だろう。栄之を逆に写したかとも思うが、そのような之の使い方は『日本書紀』には多くても、『古事記』ではあまり見ない。水垣宮の段にも「人民栄」とある。この句は税の免除の効果をいい、次の句は労役の免除の効果をいう、二つの内容である。

「聖帝」の二字は「ひじり」と読む。日知の意味だが、もともと日本にあった呼称ではあるまい。上巻の「聖神」は借字である。聖の字から作った訓だろう。百済から来た和邇などが作った読みなのかもしれない。「すめらみこと」に天皇の字を当て、この称号を定めたのもこの人かと思われることは、上巻で述べた。漢籍で聖人の徳を日月にたとえるのを採り、日のように天下を治めるという意味だろう。「日のごとく知る」の「ごとく」を省くのは普通のことだ。これを日本固有の呼称とし、日嗣を治める意味と考えるのは誤りである。「日嗣知り」を「日知」とするのは古い言い方に合わない。そういう意味なら、代々の天皇はみな初めから日知なのに、なぜ仁徳天皇だけを特にそう呼ぶのか。天皇をたたえて日知というのは、この天皇から始まった、中国の例をまねた呼称である。『万葉集』巻一に「橿原の聖の御代から」、『続日本紀』巻十に「この高天の御座におられて、天地四方を整えられるのは、聖なる君であられ、賢い臣が仕え申し上げるので、天下が平らかで……」、巻十五に「飛鳥浄御原宮で大八洲を治めた聖の天皇」などとある。『万葉集』巻三の「酒に聖と名づけた昔の大聖人」のように、天皇以外にもいう。それは中国で王でなくても徳があれば聖人と呼ぶ例による、聖の字の訓である。後世、僧をひじりというのも聖の字から転じた呼称だ。『古事記』序の「煙を見て民をいつくしみ、今に聖帝と伝える」も、この天皇のことをいう。

「聖帝の世」の世の字は諸本にないが、真福寺本に従った。「その御世をたたえて」とある以上、ここに世がなければ言葉が足りない。旧版本などの「謂聖帝止申也」の止申は、「謂」を「と申す」と読む訓点だったのを、後に本文へ書き込んだのだろう。中巻白檮原宮の段でも「指声」という訓を本文に誤記した例があり、それに似る。また真福寺本の帝の下は「世上申也」で、これは先の止をさらに上と誤ったものである。ほかの諸本に世がないのは、上に御世とあるので後人が勝手に省いたのだろう。師は「於是天皇」以下の一段を、『日本書紀』により後人が加えたものとし、四字・六字に整えた文章が多く古い文でないというが、かえって誤りである。後人の仕業ではなく、文章もすべて『古事記』の例に合う。四字・六字に整えるのは日本の古い漢文では普通で、漢文は必ずそう書くと考えたようだ。この段に限らず、記事のある所はどこも四字・六字の文が多い。その上、序がこの話を挙げるので、後人の追加でないと分かる。序が挙げる各御代の事は、すべて本文にある。『日本書紀』には、「四年春二月、天皇は群臣に、私は高台に登って遠く見たが、国中に煙が立たず、民が貧しく炊事をする家がないと思った、と詔した。三月、今から三年間、税と労役を免除し、民の苦しみを休めよと命じ、その日から始めた。粗末な衣服や履物はすっかり傷むまで作りかえず、温かい飯や汁は酸っぱく腐るまで取りかえなかった。……それで宮垣が崩れても直さず、茅葺きの屋根が傷んでも葺かなかった。風雨は隙間から入り衣や寝具をぬらし、星の光が屋根の破れから漏れ、床や敷物も露出した。その後、風雨が季節にかなって五穀がよく実り、三年の間に民の暮らしは豊かになった。徳をたたえる声が満ち、炊事の煙も盛んに立った。七年夏四月、天皇が高台から遠くを見ると煙が多く立った。九月、諸国は工事を願い出たが、なお耐え忍んで聞き入れなかった。十年冬十月、ようやく税と労役を課して宮室を建てた。それで今も聖帝と称する」とある。この箇所の『書紀』は、とりわけ中国風の潤色が多いので、今は多くを省いて引いた。

〔『古事記』本文〕大后の石之日売命は、たいへん嫉妬深かった。そのため天皇の妻として仕える女性たちは宮中をのぞくこともできず、何か特別なことをすると、大后は足を踏み鳴らすほど激しく嫉妬した。「母阿賀迦邇」の五字は音を表す。天皇は、吉備海部直の娘、黒日売が美しいと聞き、呼び寄せてそばに仕えさせた。しかし黒日売は大后の嫉妬を恐れ、故郷へ逃げ帰った。天皇は高殿にいて、黒日売が船出するのを見送り、歌った。「沖には小舟がいくつも連なって浮かぶ。くろざやの〔意味の確定しない語〕、美しい、いとしいわが人は、国へ下ってゆく。」大后はこの歌を聞いてひどく怒り、大浦へ人を遣わして、黒日売を船から陸へ追い下ろし、徒歩で追い立てて去らせた。

「甚多」は「はなはだ」と読む。甚を其とする本は誤りである。『万葉集』巻七に「はなはだも降らない雨なので」、巻十に「はなはだも降らない雪なので」「あまり夜更けに行かないで」、巻十三に「天地の神も、ひどく恋い慕う私の心を知らないのか」などとある。はなはだは中世の物語ではあまり使わず、『源氏物語』などでは、特に無骨な儒者の言葉に用いた例があり、当時は雅でない語としたのだろう。ただ漢籍で甚を必ずはなはだと読むのは古語の名残である。『日本書紀』では「にへさに」と読むことが多いが、適切でない。にへさは物が多いことをいい、その由来は『肥後国風土記』にあり『釈日本紀』が引く。甚多の二字を「いたく」と読んでもよい。「嫉妬」は上巻に出た(巻十一、三十一葉)。「所使」は「つかはす」、お仕えさせる、の意味で、上巻(巻十六、二十八葉)と中巻(巻二十四、六十葉)で詳しく説明した。「妾」は「みめ」、妻たちと読む。中古の物語でも女御・更衣などをみかどのみめといった例がある。この字は日代宮の段の「又妾」の所(巻二十六、九葉)で述べた。

「不得臨宮中」は「宮の内をものぞくことができず」と読む。上巻の石屋戸の段の「少し戸から出て臨み坐す」も、のぞきまさす、の意味で、そこで説明した(巻八、六十五葉)。「言立者」は「ことだてば」と読む。『続日本紀』巻四には、代々の天皇が高御座でこの天下を治め、いつくしむのは言葉を立てていうまでもなく、親の心が子を養うように治めてきた、とある。巻十にも「天下の政治は、一人で治めるものではなく、必ずともに治める政治があるべきだ。これは特別にすることではなく、天に日月があり、地に山川があるように、並んでおられて……」とある。巻十七にも「特別なことではない」とある。『万葉集』巻二十にも「仕えてきた祖先の職務として、特にお授けになって」とある。『伊勢物語』の「正月なので事立として大御酒をくださった」なども合わせて考えると、ふだんと違う特別なことをするのを事立という。言の字は借字である。孝徳天皇紀の「計従事立」は漢文の語なので別である。ここも、妻たちの中に、ふだんと違う身づくろいなどがあれば、という意味で、天皇の寵愛を受けたのかと大后が疑うからである。

「足母阿賀迦邇」は、足をばたつかせる様子で、足ずりなどをする姿をいう。『万葉集』巻五の「立っては座り、足ずりし、叫び、伏し仰ぎ、胸を打ち嘆く」、巻九の「寝返りし、足ずりをしながら」、「足ずりして泣くばかりなのか」などと同様で、嫉妬が激しく燃え上がる様子である。「足垂」の垂は摩の誤りか。足掻の例は巻七の「赤駒が足をかくように激しく」、巻十一の「赤駒の足掻きが速いので」などがあり、『字鏡』にも、地を踏み、跳び、馬が走る様子を「あがく」とする。『うつほ物語』国譲り巻にも「思うことが平穏であるようにと、手をあがいて祈り、願を立てた」とある。

吉備海部直が誰の子孫かは分からない。同族の人として、雄略天皇紀に吉備海部直赤尾、敏達天皇紀に吉備海部直難波・吉備海部直羽島などが出る。ここで姓だけを挙げるのは、名が伝わらなかったのだろう。黒日売という名は、履中天皇の妃や玉穂宮の段などにもあり、日代宮の段には迦具漏比売・真黒比売もある。名の意味は迦具漏比売の所で述べた。次の歌でも説明することがある。黒日子という名もある。「其容姿端正」は「それかほよし」、その人は美しい、と読む。白檮原宮の段に例があり、そこで述べた(巻二十、十五葉)。其は黒日売を指す。「喚上」は「めさげ」、呼び上げて、と読む(巻二十五、四十六葉)。本国は吉備国である。「高台」は「たかどの」と読む。応神天皇紀・仁徳天皇紀もそう読み、仁徳紀の台上、継体紀の高堂も同じだ。『和名抄』は楼について、『弁色立成』では「たかどの」というとし、台は「うてな」とする。ただし台と書いても高殿の意味である。『続日本紀』巻二には西高殿で宴をしたとあり、『万葉集』巻一にも「吉野川のたぎる川内に、高殿を高くお造りになり、登って国見をすると」とある。「船出浮海」の四字は師の「船出するを」という読みに従う。浮海は漢文の表現で、別に読まなくてよい。船出するという中に意味が備わる。「望瞻」は師の「みさけましつ」、遠く見送られた、という訓に従う。この語は明宮の段の「葛野を望む」の注(巻三十二、二十九葉)で述べた。

「淤岐幣都波」は「沖の方には」で、幣は辺という意味ではない。「袁夫泥都羅羅玖」は「小舟が連らく」、いくつも連なって浮かぶことだ。小は、実際には小さくなくてもいう。下の羅を旧版本などが之とするのは、羅々の繰り返し記号を誤読したもので、この書は之を音仮名に使わない。延佳本の羅羅之は、羅々の本と羅之の本を勝手に合わせたものだ。真福寺本などに従った。玖は活用の語尾で、か・き・く・けと変わる。枕にするを「まくらかむ・まくらく」、蔓にするを「かづらき・かづらく」という類である。浮くのうを省いたかとも思うが、そうではあるまい。契沖が之のある本に従い「列敷」と注したのは誤りだ。『万葉集』巻十五に「漁をする海人の娘たちは小船に乗り、連なっている」、巻十九に「布勢の海に小舟を並べ、網をかけ、こぎ巡って」などがある。この句は黒日売の船だけでなく、まず多くの船が浮かんでいる全景を見た様子である。黒日売には供が多くても、逃げ帰るのに何隻もの船を使う人数はいないはずだからだ。

「久漏邪夜能」は、諸本が久を文と誤っているので改めた。この書には文を音仮名に用いる例がなく、白・黒の音仮名に漏を用いる例があるので、確かに久である。延佳本が夜を省くのは勝手な削除だ。「くろ」は黒で、この比売の名に関係することは確かだが、「ざや」は分からない。今の備中国小田郡に黒崎があるので、古書には見当たらないが、夜は岐の誤りで「黒崎の」なのだろうか。それなら彼女の故郷がここで、黒日売の名も地名にちなむのだろう。故郷を挙げて呼ぶのは、明宮の段の御歌の「道の後、こはだおとめ」と同じである。別案として、邪は都の誤り、夜能は能夜の転倒で「黒津のや」かとも、邪夜は都良の誤りで、らを助詞とする「黒津らの」かとも思った。しかし古今の吉備に黒津という地名は聞かないので、現存する黒崎のほうがよい。また黒酒・白酒というので、夜は祁か気の誤り、「黒酒の」として、酒のうまさにたとえてほめた語かとも思った。黒を特に採るのは比売の名に寄せたためか。しかし、それもどうだろうか。契沖は文とする本により、『万葉集』巻四の「二鞘の家を隔てて恋いながらいるだろう」を引き「もろさやの」とするが、文が誤字なのは明らかだ。二鞘は『六帖』ではもろさやとするが、今の『万葉集』どおり「ふたさや」と読むべきである。仮にもろさやという語があっても、この歌には隔てるという語もなく、それだけで別れている意味にはならない。師が、対屋の意で次の「ま」に掛けた枕詞だとするのも、対屋という解釈が納得できない。

「まさづこわぎも」の「ま」は、真という美称である。「さづ」は『万葉集』巻七の「照左豆が手に巻く、管玉も欲しい」にある照左豆が人の美貌をほめる呼び名なら、同じかもしれない。「さづこ」は、赤く美しく輝く子をいう「さにづらふこ」を縮めた名だろうか。顔の色をほめてさにづらふというのは『万葉集』によくある。しかし巻七の歌全体からは美称とも女性をいうとも聞こえず、よく分からない。師は、照は借字で、売り物を見せる「衒ふ」、左豆は商人で、玉を売り歩く商人を照左豆といったとするが、歌に合うとも思えず、商人をさづという根拠もない。狩人のさつ男と同じだとする説も根拠がない。そこで考えるに、佐はいつものように真と通じる美称で、ここでは重ねて真佐としたのだろう。青を「さを」といって真青を意味し、さらに重ねて「まさを」ともいう。佐が真と通じることは前に述べた。豆は「て」に当たると見られる字〔原字の字形は弖・互のどちらか確定できない〕の誤りで、「まさてこ」なのだろうか。古書では豆と互をよく誤る。「てこ」は、光り輝く子とほめる名である。『万葉集』巻三・巻九の真間の手児名、巻十四の石井の手児・沢渡の手児などがその例で、手は借字だ。親の手もとの幼児を手児ということもあるが、そちらは「たご」と読み、別なので混同してはいけない。美貌をほめて照るというのは、下光比売という名や、巻十一の「玉のように照り輝く君」のようなものだ。「まさづこ」は真佐照子なのか、さらに考えるべきである。契沖が前句をもろさやとしたまま、ここを真鋤津子とし、推古紀の歌と同じく、大刀なら真鋤のようにお思いになる意味だとするのは、甚だ遠い解釈だ。師の「正つ子、まなごの類」という説も、女性をほめて正というのは疑わしく、つという語尾も不自然で、特に濁っている以上、助詞ではありえない。「わぎも」は吾妹を縮めた語で、吾妹子ともいう。『万葉集』巻二十にはわがいもこもある。継体天皇紀の歌にも倭蟻慕と書き、『万葉集』にはさらに多い。

「くにへくだらす」は国へ下っていく、の意味で、るを伸ばしてらすという。「大浦」は難波の海上だろう。既に船出した後なので海辺ではない。『日本書紀』応神紀・仁徳紀などの大津も難波津らしく、この段に難波の大渡ともあるので、その海上を大浦といったのだろう。吉備までの海岸の地名かとも思ったが、そうではあるまい。「人を遣わす」は黒日売の後を追い、船で海路を行かせること。「追下」は船から追い立て陸へ下ろすことだ。「徒歩」は、『万葉集』巻十三に「山背の道を人の妻は馬で行くのに、わが夫は歩いて行く。それを見るたび泣くばかり……」、「あなたが歩き苦しんで行くのを見ると……」、また「馬を替えれば、お前が歩くことになるだろう。たとえそう言ってくれても、石を踏むことになろうが、私が歩こう」などとある。こうした仕打ちは、船なら楽に行けるのを歩かせて、苦しめるためである。「追去」は師の「やらひたまひき」、追い払われた、と読むのがよい。上巻の「神やらひにやらひたまふ」や、神代紀の逐之と同じである。この段の仕打ちこそ、本当に足をばたつかせて嫉妬したといえる行いだ。

〔『古事記』本文〕天皇は黒日売が恋しく、大后には「淡路島を見たい」と偽って出かけた。淡路島で遠くを見渡し、こう歌った。

〔『古事記』の歌〕おしてるや、難波の崎から出で立って、私が国見をすれば、淡島、淤能碁呂島、アジマサの生える島も見える。佐気都島も見える。〔難波から淡路に移る部分の言葉が抜けた可能性を、宣長は後で指摘する。〕

〔『古事記』本文〕その島からさらに渡り、吉備国へ行った。黒日売はその国の山方という所に天皇を迎え、食事を差し上げた。汁物を煮ようと、その土地の青菜を摘んでいると、天皇は娘が菜を摘む所へ来て歌った。

〔『古事記』の歌〕山の畑にまいた青菜も、吉備の人、あなたと一緒に摘むと、なんとも楽しいことよ。

〔『古事記』本文〕天皇が都へ帰る時、黒日売は歌を差し上げた。

〔『古事記』の歌〕大和の方へ、西風が雲を吹き散らす。雲が離れるように、遠く離れて暮らしても、私があなたを忘れるでしょうか。決して忘れません。

〔『古事記』の歌〕また歌った。「大和の方へ行くのは、どなたの夫でしょう。隠れた水のように、人目を忍んで私に心を寄せながら、去ってゆくのは、どなたの夫なのでしょう。」

「欺く」は、本当は吉備へ行って黒日売に会おうとするのに、ただ淡路島を見に行くと言って大后をだますことである。「淡路島を見たい」というのは、応神天皇紀二十二年に「天皇は淡路島で狩りをした。この島は海を隔てて難波の西にあり、峰や谷が連なり、草が茂り、長い波が寄せ、鹿・鴨・雁が多くいるので、たびたび訪れた」とあるほどの土地だからである。履中天皇や允恭天皇の淡路島での狩りも見える。「淡路島にいた」について、『日本書紀』には仁徳天皇の淡路行幸は全くない。ただ反正天皇が淡路宮で生まれたというので、大后と一緒に行ったことはあったのかもしれない。しかし、ここは大后をだまして黒日売に会うためだから、大后と同行するはずがなく、その時とは別だろう。なお、行幸自体に混同らしい点があることは次に述べる。「遙望」は「はろばろにみさけまして」、遠く見渡して、と読む。皇極紀の謡歌に「はるか遠くに言葉が聞こえる」、『万葉集』巻五に「はるか遠く思われることよ、白雲の幾重にも隔てる筑紫の君は」、巻十九に「はるか遠くに鳴くほととぎす」、巻二十に「はるばる別れて来たので」とある。

「おしてるや」は難波に掛かる枕詞で、『冠辞考』に説明がある。諸本が淤を於とするのは誤りで、この書は於を音仮名に用いないから、真福寺本に従う。「なにはのさきよ」は「難波の崎から」。延佳本の由は勝手な改変で、諸本は用である。その理由は前に詳述した。『日本書紀』のこの天皇の別の歌にも「おしてる、なにはのさきの」とある。「いでたちて」は、その場所へ出て立って、という意味。「わがくにみれば」は「私が今、国見をすれば」であって、「私の国を見ると」とつなぐのでなく、初めの私が、で切る。海を見渡していて陸ではないが、遠くを眺めることは、国土でなくても一般に国見といったのだろう。ただ問題がある。「難波の崎から出で立って」なら、この句は難波の崎から見る意味なので、淡路島にいたという前文と合わない。「から」は見ればに掛かり、『万葉集』に多い出で立つも、その所へ出ることで、そこから出発するのではない。船で海路へ出るのを出で立つというのも不自然だ。仮に難波を出発してと読んでも、まだ海上なのだから合いにくい。淡路島にいたという前文の誤りかとも思うが、後の島々は淡路から見える場所で、難波からは見えないだろう。そこで「出で立って」の上に二句が抜けたのだろうと思う。淡路へ着いた言葉があるはずで、仮に「難波の崎から渡って、淡路の島から出で立って」のような形だったのだろう。「用伊」と続く字が前後にあるため、写す時に飛ばしたのかもしれない。よくある誤りである。

淡島は上巻に出る島(巻四、三十六葉)、淤能碁呂島も上巻に出る(同、十二葉)。どちらも淡路島に近い地方にあることは上巻の注で述べた。「あぢまさの」は檳榔の、の意味で、この植物は玉垣宮の段(巻二十五、三十四葉)で述べた。「島も見ゆ」は島も見える、ということ。この島は檳榔が多く生えるので、その名を負ったのだろう。今も薩摩・土佐の海などに檳榔島といい、この木が多い島があるという。「佐気都島も見える」の島名の意味は分からない。この二島も淡路から遠くはないはずだが、場所も詳しく分からず、書物にも見ない。その地方の人や船乗りによく聞いて考えるべきだ。この御歌は、見渡す景色だけで、黒日売を思う気持ちがないのはどうしたことか。これは次に述べる。「その島」は淡路島。「伝ひて」は、初めに行った場所からさらに別の場所へ移って行くことで、玉垣宮の段の注(巻二十五、九葉)で説明した。『万葉集』巻二十に「海原の恐ろしい道を、島づたいにこいで渡って」、「島づたいに行く」とある。

吉備国へ行ったことについて。黒日売の話全体によく似た記事が、応神天皇紀にある。二十二年、吉備臣の祖・御友別の妹、兄媛が夏四月に大津から船で吉備へ帰るのを、天皇が高台から見送り、「あはぢしま……」と歌った。その秋九月には淡路島で狩りをし、そこから吉備へ移って、もてなしを受けたというのである。一方、仁徳天皇紀十六年には、天皇が宮人の桑田の玖賀媛を愛したが、皇后の嫉妬に苦しんで妻にできず、丹波の桑田へ帰したという記事があり、黒日売はまったく出ない。考えるに、『古事記』の伝えは、この玖賀媛の話と、応神紀の兄媛の話が一つに混ざったのだろうか。玖賀と黒は名もやや近く、皇后の嫉妬で故郷へ帰るのも似ている。兄媛の話は初めから終わりまでよく似る。そうなら淡路から吉備へ行ったのも、本来は応神天皇の事が混同したのかもしれない。その場合、前の「沖へつは……」や次の「山方に……」の歌も応神天皇の歌だろう。「くろざやの」も兄媛の故郷をいい、黒日売も兄媛の別名だった可能性がある。先の「おしてるや」の歌は、仁徳天皇が別の機会に淡路へ行った時のものなのだろうか。そのため黒日売を思う気持ちが歌にないのかもしれない。

「その国」は吉備国。「山方」は地名だろう。古書で何々の地という場合は地名の例があり、上巻の鳥髪の地・須賀の地などと同じだ。吉備の山方は古書に出ないが、あったのだろう。安芸国には山県郡があり、安芸を含めて吉備の国の内ともいえるが、やはりそこではあるまい。備中などに今もこの地名がないか、地元の人に尋ねるべきだ。地名については次の歌の注でも述べる。「令大坐」は「おほましまさしめて」、天皇を迎え入れ、おいでいただいて、と読む。『続日本紀』巻四に「大坐々而」、巻二十七に「よくおいでになれば」、巻三十に「ご自身でおいでになるので」、巻三十一に「悔やみ、惜しみ、痛み、悲しんでおられる」、「憂えておられる」、「おいでになる間に」などの例がある。『三代実録』巻二十一にも「このように思っておられる大御心によって」とある。平野祭の祝詞に「万代までおいでくださるように」、斎内親王を奉入する祝詞に「堅い岩のように、平穏無事においでいただこうと」などもある。『古今集』詞書の「おまし」は、おほの一部を省いておという形で、普段いう「おはします」も、おほましましの「ほま」を縮めてはとした形である。諸本が令の上に命を置くのは余分なので削った。令と形が似るため、誤って重ねたのだろう。真福寺本で令がなく命だけなのは令の誤写で、命が余字である証拠だ。黒日売の名に命を添える例は前後になく、この人は命と呼ぶほどの身分でもない。

「食事を差し上げる」は、前に各所で御食・御饗を献るというのと同じである。「大御羹」は、『和名抄』で羹を「あつもの」とする。ぬるいより熱いのをよしとして、熱物という名なのだろう。物を添えるのは、蒸し物・ゆで物・あぶり物・あえ物や、今いう吸い物・香の物などと同じである。允恭天皇紀には「御膳の羹の汁が凍って氷となった」、『万葉集』巻十六には「水葱の煮物」とある。「煮るために」は、巻十の「春野の嫁菜を摘んで煮ているらしい」にもいう。「菘菜」は「あをな」と読む。この後の歌にもそうある。『和名抄』は本草の注を引き、蕪菁を北方では蔓菁といい、和名をあをなとする。温菘はこほねとする。持統天皇紀に蕪菁、『万葉集』巻十六に蔓菁、『字鏡』にも蔓・蕪菁・胡明子などをあをなとする例がある。古人は意味に合えば字を用いたので、字の違いに拘って疑うべきでない。細かく区別するなら、普段いう菜は菘、蔓菁・蕪菁という物は、かぶらなだという。ここは今いう菜で、今も青菜という。昔の「な」は魚や菜などおかず全般をいうため、特に青菜と分けたのだ。今は菘に限って菜という。「採る」の主語は黒日売である。二度目の「採菘処」の菘は、師のように「な」とだけ読むのがよい。前に青菜といったので、ここは菜とすれば文章が整う。『万葉集』巻一に「籠もよ、美しい籠を持ち、美しいへらを持って、この丘で菜を摘む娘よ」とある。「山方に」は、山の畑で、地名を直接いうのではない。縣はもともと上田、畑の名だったことは志賀宮の段(巻二十九、五十八葉)で詳述したので参照してほしい。その地を山方と呼んだのも、山畑があるからだろう。方は音を借りた字である。歌のこの言葉から、前の山方の地も地名でないとするのは誤りだ。天皇を迎えて食事を出したという文章では、確かに地名と聞こえる。

「まけるあをなも」は、まいてある青菜も、の意味。「吉備人と」は黒日売を指している。この書は吉備をいつも吉で書くのに、ここで岐を使うのは歌だからであり、音仮名の使い方の厳密さが分かる。「ともにしつめば」は、一緒に摘めば。しは助詞である。「たぬしくもあるか」は、楽しいことよ。たぬしは、今いう、うれしくおもしろい、の意味だ。一首の意味は明らかである。ただ「まいてある青菜も」の言い方を細かく解釈すれば、この山畑は朝廷の食料を作る御縣なので、そこで菜を摘むのはもとからの仕事だが、今、天皇自身が来て黒日売とともに摘むと格別に楽しい、という意味かもしれない。そうなら御料地の御縣だから山県を地名にしたのも、特に理由がある。諸国の御縣は志賀宮の段にも述べたので参照してほしい。しかし、そう読むのはかえって細かすぎるかもしれない。まいてある、は軽く見て、山の畑の菜を摘むのはさほど楽しい仕事ではないが、黒日売と一緒なら楽しい、という意味としてもよい。「上幸」は都へ帰り上ること。「御歌を献る」の御は余字か、それともこの下に字が抜けたのか。

「やまとへに」は大和の方へ、の意味で、遠国から畿内の方を指してこういう。この御代の都は難波だが、大和を基準にする。「にしふきあげて」は、西風が吹き散らして、という意味である。西風をにしとだけいうのは、風の語を省いたのではない。この御代には、そこまで縮めた言葉はまだなかっただろう。この歌から考えると、ひむかし・にしは、もとはその方角から吹く風の名で、ひむかしは東風、にしは西風だったのが、その風の来る方角の名へ転じたのだろう。古代、方角を東・西とだけいわず、東の方・西の方と多くいったのも、西風・東風の来る方、という言い方からだろう。後世は方角の名をもとと考えるので、にしだけだと西風の風を省いたように聞こえるが、そうではない。「し」は風で、風神の志那都比古のしや、嵐のしも同じである。風は神の息で、息をしということは、師の『冠辞考』の志長鳥の条で説明する。暴風のはやち、東風のこちなどのちも、通じる音で同じだろう。東風・西風の名は、ひむかしは日向風で、東を日向という例は多い。にしは詳しく分からないが、仮にいえば和風、晴れる風だろうか。なぎを縮めればにとなり、なぎをにぎともいう。「なぎ」は空が晴れることもいう。普通は無風だけをいうと思いがちだが、雨・雲・霧がなく晴れることもいう。『古今集』恋の「雲もなく和ぎたる朝の我なれや、いとはれてのみ……」は、たいそう晴れていることをいうため、なぎたる朝という。雨雲や霧の晴れることをなぎというからで、無風はこの歌に関係しない。なぐは何でも静まり収まることなので、雨雲・霧の晴れるのにもいえる理屈だ。西風は特によく雲霧を吹き払うから、なぎ風といったのか。そうなら次の「雲ばなれ」とのつながりにも格別の理由がある。ひむかし・にしをもと風の名とすれば、みなみ・きたもそうだったのか、それとも方角の名が先なのか、まだ考えがつかない。『万葉集』巻十八の「南が吹き、雪解けが増して、射水川……」も、南風をみなみとだけいう。この歌のにしを風の省略と考えてまねたのか、当時ふつうそういったのかは明らかでない。普通の言い方なら、みなみももと風の名だったか。どちらとも決めにくく、きたも同様に考えるべきだ。

「あげ」は上へ上る意味にも聞こえる。西風は大和の方へ吹くので、上るともいえる。しかし、やはり吹き散らさせる意味だろう。集まっている物が分かれ散るのを「あがる」といい、ここは自然に散るのでなく、風に散らされるので「あげ」という。分けさせるを「わけ」、埋めさせるを「うづめ」というのと同じ活用である。「くもばなれ」は雲が離れることで、西風に散らされ、遠く分かれるさまを次の句への序とした。前の「西風が吹き散らして」も、この句のためにいう。契沖は、天皇が西風を追い風に上るのを雲にたとえ、雲の離れるように別れる意味を重ねたとする。それにも根拠はあるが、追い風で上るところまでをたとえたわけではあるまい。ただ「大和の方へ」には、天皇が都へ帰る意味も含むだろう。「そきおりとも」は、遠く離れていても、の意味。延佳本の「そそき」は、頭注に大殿祭の詞のそそきが引かれているので、それと同じと考えて勝手に曾を足したのだろう。諸本は曾一字である。「そき」は離れて遠ざかることで、退くも後ろへ離れ、「とほぞく」も遠く離れる。契沖が引く『万葉集』の山のそき野、そきへなどは、遠く離れた場所をいう名詞で、こちらは動詞だから品詞が異なる。巻十五の「雲ばなれ、遠き国辺の」も、遠く離れる同じ続き方である。「居りとも」は、後世の感覚なら「をるとも」といいそうだが、そうではない。白檮原宮の段の歌にも「人が多く入っていても」とあり、その所(巻十九、三十五葉)で説明した。居るの活用は、上巻の退居の注(巻十四、二十八葉)にも詳述した。この句は、天皇が帰り上り、これから都と吉備に遠く離れて暮らしても、という意味。上の序は、風に吹かれた雲が遠く離れるように、というつながりだ。「われわすれめや」は、私は忘れるだろうか、という反語で、天皇を決して忘れない、の意味である。『丹後国風土記』で、水江浦嶋子の出会った神女の歌とする「大和の方へ風が吹き上げ、雲が離れ、遠く離れていても、私を忘れないで」は、この歌のにしをかぜに替え、第四句に「よ」を添えて七音にし、結句を変えて、そちらの話に移した伝承である。

二首目の「やまとへに」も前と同じ。「ゆくはたがつま」は、行くのは誰の夫か、という意味である。波を婆とする本は誤りなので、真福寺本などに従った。「こもりづの」は隠れた水の、という次句への枕詞で、『冠辞考』に説明がある。ただ、そこで引く『万葉集』巻十一の隠処の処は、泉の誤りではないか。処なら「ど」と読むので、づという音は難しい。また、みづを省けばみとするはずで、づという例を知らない。泉の字で、いづみを省いてづと読むのかもしれない。そうならこの歌のづも泉だろう。なお考える必要がある。「したよはへつつ」は、内々に心を寄せながら、という意味。用と由が通じるという契沖の説明がよい。したよは、人目を忍んで何かをすることだ。『万葉集』巻四に「恋で人は死ぬものだ。水無瀬川の水の下のように、私はひそかに日ごと痩せる」、巻十に「藤波、春の野に這う葛のように、人知れぬ恋にやつれている」とある。夜は借字で、よ・からの意味である。巻十一に「埋もれ木のように、内々にこそ恋う」、「隠れた沼の水のように、内に恋えば」、「隠れた沼の底で恋えば」、巻十二に「隠れた沼の底で恋おう」、「隠れた沼の水のように、内から恋しさがあふれ」、巻十七に「隠れ沼の底から恋しさがあふれ」とある。枕詞からの続き方と意味まで、この歌と同じである。

「はへ」は、心を寄せて求婚することをいう。明宮の段の歌の「はへけくしらに」の注(巻三十二、六十九葉)を参照してほしい。そこに『万葉集』の歌を引いた。遠飛鳥宮の段の軽太子の歌の「下樋を合わしせ、下通ひに我が問ふ妹を」も、下延と同じ意味である。ここでは、天皇が大后の嫉妬を恐れ、公然とは行けず、偽って隠し、吉備へ来てひそかに黒日売を求めたことをいう。契沖が、こうしよう、ああしようと前から考えておくのをしたよはへつつという、とするのは大きな誤りだ。師が『冠辞考』で波を濁らせ、下婚、ひそかな求婚と注するのも合わない。用は、先に引いた『万葉集』で明らかなように、从をいう。婚はよばひで、よばへという例はない。婚と延は出来事としては同じでも、語は別なのだ。最後の「ゆくはたがつま」は前と同じで、行くは天皇が都へ帰ることをいう。どなたの夫かと、わざとぼかしていう中に、大后を恐れて思うとおりにもできず、急いで帰ってゆく天皇をいとおしく思う気持ちがこもる。そのため、別れを惜しむ思いがいっそう深く、しみじみと聞こえる。

古事記伝 巻三十六――高津宮の巻、中。本居宣長が謹んで著す。

【古事記本文】それより後、大后は宴を催そうとし、御綱柏、すなわち三角柏と呼ぶ葉を採るため、紀伊国へお出かけになった。その間に天皇は八田若郎女と結婚した。大后が三角柏を御船いっぱいに積み、帰って来られた時、水取司で使われていた吉備国児島出身の仕丁が、国へ帰る途中、難波の大渡で、大后の後に続いていた倉人女の船に出会い、こう話した。「天皇はこのごろ八田若郎女と結ばれ、昼も夜も楽しく過ごしておられます。大后はそれをご存じないからなのでしょうか、のんびりお遊びに出かけておられますが。」倉人女はこれを聞くと、すぐ大后の御船を追って近づき、仕丁のいったとおりを詳しく申し上げた。すると大后はひどく恨み怒り、船に積んでいた三角柏を、すべて海へ投げ捨てた。そのため、この地を御津の崎と名づけた。

【宣長の注釈】「自此後時」は【「後時」の二字を「のち」と読む】、吉備の黒比売の話の後に、さらにこういうこともあったとして、次の話を語り出す言葉である。「豊楽」は「豊明」と同じ、宴のことだ。【「明」は言葉のままを書き、「楽」は意味によって当てた字である。】中巻、明宮の段に出てきた。【『伝』巻三十二の五十七葉。】

【宣長の注釈】「為将」は「せむとして」と読む。【「将為」と書く意味である。すぐ下の本文には「為豊楽之時」とあり、「為」を「ために」と読むのはよくない。】

【宣長の注釈】「御綱柏」(みつのかしは)。『造酒司式』の大嘗祭に供える物の規定に、「三津野柏二十把【一日八把】、長女柏四十八把【一日十六把】」とある。【「二十把」は「二十四把」であろう。「四」が脱落したのだ。】同じ箇所の東宮の分の規定もこうなっている。『大嘗祭式』には、酒を盛る柏のことがあちこちに見える。

【宣長の注釈・儀式書の引用】『大神宮儀式帳』の六月祭の条には、次のようにある。「……大神宮司をはじめ諸司の官人らが、第五の重に進み入って座につき、倭舞を奉仕する。大神宮司を先頭に、禰宜、大内人、宮主、神司、諸司の官人らの順である。【その儀式が終わると、一人ずつ直会の酒を出す。采女二人が仕え、御角柏に盛って一人ずつ与える。】……」九月祭の条にも、「……その直会の酒は、采女二人が第四の御門の東側に控え、御角柏に盛って一人ずつ捧げ与える」とある。【このことは『大神宮式』にも見え、そちらには単に「柏」とある。】『外宮儀式帳』にも同じように見える。「御綱」「三津野」「御角」は、どれも同じ言葉だ。古くは「つの・つぬ・つな」のような音を通わせる例がある。この柏は葉が三方に分かれ、その先が尖っているので、「三角」という意味で名づけたのだろう。

【宣長の注釈内の諸説】荒木田経雅によると、現在、大神宮の祭りに使う三角柏は、俗に「三柏」と呼ぶものだという。葉は厚くてつやがあり、常緑で、「大名柏」と呼ぶ葉に似ているが、三方に分かれ、先がみな尖っている。外宮では現在、赤芽柏を三角柏として使う。しかし十二月の祭りにも六月・九月と同じように用いるのに、赤芽柏には冬に葉がなく、使えない。したがって古い三角柏ではない、と経雅はいう。また伊勢のある書物はこういう。「『年中行事』の三節祭の御遊に出す柏の酒を見ると、一人の女官に柏を持たせ、もう一人が柳の葉で、その柏の上に酒を注いだとある。今は杓で柳の葉の上に注ぎ、柏を使うことは絶えている。名高い柏なので、復活させたい。志摩国の土貢から、今も神事用の品を貢いでくるが、その中に三角柏があり、葉の形は穀の葉に似ている。」これを見ると、柏を使うことはいったん絶え、現在また使っているのは、その後、復活したのだろう。したがって今のものが古いものと一致するかは確かでない。土貢という所から絶えず献上するのは、どの柏なのだろうか。さらによく調べる必要がある。谷川氏は、伊勢神宮で三角柏というのは「大朴」の木で、大和国では「児手柏」という、といっている。これは赤芽柏のことだろうか。赤芽柏は、俗に「あかべ」とも呼ぶ木である。

【宣長の注釈・和歌の引用】『新千載集』恋二には、次の歌がある。「御裳濯川という所に斎宮が滞在してお祓いをなさった際、女房を隠れて見ていると、三角柏という葉を送ってきて、『これは何というのですか』と尋ねたので、申し送った歌。祭主輔親。『吾妹子が 御裳濯川の 岸に生る 君をみつのの 柏とを知れ』――愛しいあなたのいる御裳濯川の岸に生える、あなたを見ているこの柏を、三角柏とお知りください。」【第四句を、ほかの書物はどれも「君をみつつの」と引用している。『新千載集』に入れる時、直したのだろうか。】『続古今集』恋四、小侍従の歌は、「思ひあまり 三角柏に 問ふ事の 沈むに浮くは 涙なりけり」――思い詰めて三角柏で占う願いは沈み、浮かぶのは私の涙ばかりであった。

【宣長の注釈・鴨長明『伊勢記』の引用】「この国には三角柏というものがある。小侍従は『神風や 三角柏に とふことの 沈むにうくは 涙なりけり』と詠んだ。これで占うことがあるのだろうか。長年、不思議に思ってきたので、今回、人々に尋ねたが、みな聞いたことがないとしかいわない。どのようなことなのだろう。この柏は、輔親卿集に『御裳濯川の岸に生える』と詠んでいるので、その辺にあるのかと尋ねると、『昔はあったかもしれないが、今は志摩国の、とくの島という所にある。木の上に蔓のように生えているものに登って採る。下ろす時、平らに伏せて落ちたものは採らず、縦になって落ちたものだけを採る。その落ち方によって、尋ねたことへの答えがあると伝えている。これは神宮の年四回の祭りで必ず必要な品である。御前の御遊が終わると、第四の御門の脇に、「とくらのこ」と呼ぶ神酒を用意する。神職たちが三角柏を一葉ずつ持って近づくと、その上に酒を注ぐ。特にこれを腰に差して出てくる』という。長柏ともいうのだろうか。寂阿法師の百首歌に、『思ふ事 とくの御島の 長柏 長くぞ頼む 広きめぐみを』――願いのかなう、とくの御島の長柏のように、末長く、広大な神の恵みを頼みにしています――とある。このようには聞いていたが、まだ姿を見たことがなかった。その日、ある人が送ってきた。柏のようで幅三、四寸、長さ三尺ほどあり、普通の草木の葉とは実に似ていない。」【ここで三尺とは枝の長さをいうのか。葉の長さなら、三寸を写し間違えたのではないか。】

【宣長の注釈・『袖中抄』の引用】『袖中抄』にも、「わぎもこが 御裳すそ川の 岸におふる 人をみつつの 柏とをしれ」とある。顕昭はいう。「輔親集によると、斎宮が九月の祭りにお参りになる夜、御裳濯川におとどまりになっていた時、そこにいた女房が三角柏という柏を送り、『これは何というのか』といったので詠んだ歌である。中納言俊忠卿の家で恋の歌を十首ずつ詠んだ時、『逢うことを占う』という題で俊頼は、『神風や 三角柏に 事問ひて 立つを真袖に 包みてぞくる』――神の国の三角柏で占うと、逢えるしるしに立ったので、袖に大切に包んで帰ってくる――と詠んだ。私が考えるに、ある人の話では、伊勢大神宮では三角柏を取って占い、投げて立てば願いがかない、立たなければかなわない。そのため、恋人に逢えるか占って立てば、逢えるはずなので、袖に包んで喜ぶのだ、という。三角というのは三葉の柏だろうか。」

【宣長の注釈・『拾玉集』の引用】『拾玉集』には、「神宮では、儀礼の折に昔からの例として長柏を用い、これを三角柏という。その柏は志摩国吉津島の境にある土貢島の山中で、木の上に生える」とある。

【宣長の注釈・儀式書の引用の続き】『大神宮年中行事』には、「七月四日、風日祈宮の神事、柏流しの神事を行う。その次第は去る四月十四日の御笠の神事の勤めと同じ」とある。『神名秘書』には、「風神の祭りを行い、柏流しと呼ぶ。豊年ならば浮いて流れ通り、不作の年なら沈んで覆り、損なわれる。四月と七月にこれを祭る」とある。さて、豊楽の宴に柏を使うことは、中巻、明宮の段の「大御酒柏」の所で述べた。【『伝』巻三十二の五十九葉。】この段の末にある「取大御酒柏……」の所でも述べよう。【『伝』巻三十七の二十二葉。】照らし合わせて考えてほしい。

【宣長の注釈】「幸行木国」。木国は上巻に見える。その名のとおり木の多い国なので、柏も特にたくさんあるのだろう。大后がご自身でお出かけになったのは、遊覧も兼ねてのことだろう。【次の文に「静遊幸行」とあることからも分かる。】「婚八田若郎女」。この皇女は明宮の段に出てきた。【『伝』巻三十二。】大后の嫉妬をはばかり、不在になる時を待って結ばれたのだ。『日本書紀』には、「……太子が兄王に申し上げ……同母妹の八田皇女を差し上げ、『お納めになるには足りない者ですが、後宮の女性の一人に加えてください』といった……」とある。【太子は宇治若郎子、兄王は大雀命である。】これによれば、この皇女はすでに宇治若郎子から天皇に差し上げられていた。【昔、親のいない女性にとっては、同母の兄が親に相当し、誰に嫁がせるかも同母の兄が決めた。その例は穴穂宮の段の初めに見える。】しかし大后をはばかって、それまで結ばれることができなかったのだろう。『日本書紀』はいう。「二十二年春正月、天皇は皇后に話し、八田皇女を迎えて妃にしようとした。皇后は許さなかったので、天皇は歌を詠んで願った。……皇后は答歌を詠み……天皇はまた歌を詠み……皇后は答え……天皇はまた詠んだ。……皇后は、ついに聞き入れないといい、黙ってしまって、それ以上は返事もしなかった。」

【宣長の注釈】「積盈」。「盈」、つまり、いっぱいにするという表現がよい。望みどおり柏をたくさん採ることができ、何一つ不足なく、たいそううれしい気持ちで帰って来られる大后のお姿が見える。「水取司」のことは、中巻、白檮原宮の段の「宇陀水取」の下でも述べた。【『伝』巻十九の二十六葉。】さらに『職員令』には、「主水司。正一人は、飲料水、濃い粥・薄い粥、氷室に関することをつかさどる。佑一人、令史一人、水部四十人、使部十人、直丁一人、駆使丁二十人、氷戸」とある。【『延喜主水式』にこの役所の仕事が記されているので、調べるとよい。】

【宣長の注釈】昔、飲む水は一般に「もひ」といった。【川や池などにそのままある水は「みづ」といい、「もひ」とはいわない。魚そのものを「うを」、食べる魚を「な」というような区別である。】催馬楽の「飛鳥井」には、「あすかゐに やどりはすべし かげもよし みもひもさむし みまくさもよし」――飛鳥井で宿をとるのがよい、木陰もよく、飲み水も冷たく、馬の草もよい――とある。【「美毛比毛左牟之」は「御水も寒し」である。】『万葉集』巻十六には、「……出でて流れる水は、ぬるくは出ない。冷たい清水のように、心もすがすがしく……」とある。【この「寒水」を「ひやみづ」と読むのは俗な読みだ。】『和名抄』の「漿は、俗に『におもひ』という」も、「煮た御水」の意味だろう。【また、今、俗に「おもゆ」というものも、「御もひ」であって、「湯」から来た言葉ではない。】『赤染衛門集』にも「おもひを汲みに行く」とある。

【宣長の注釈】「所駆使」は「つかはゆる」、すなわち使われる、と読む。【「ゆる」は「るる」と同じ。】使役されるという意味である。『日本書紀』敏達巻には「役所で働かせ、国に帰ることを許さない」、孝徳巻には「それぞれ自分の人民を置き、思うままに使役する」とある。「駆役」も「つかふ」と読んでいる。【「駆使」を「つかひと」と読む場合もあり、「使い人」の意味だ。】『続日本紀』巻七の詔にも、「天下の人民が四方に流浪し、課役を逃れようとして王族や臣下に仕え、あるいは資人になることを望み、あるいは出家を求める。王族や臣下は、その本来の所属を通さず、私に使役している……」とある。【「駆」は「駈」と同じ字で、『玉篇』は「追い立て、遣わす」とする。】「吉備国」は前に出た。「児島」は上巻に出る。【『伝』巻五。】「島」の下の「之」は、真福寺本と別の一本などでは「郡」とする。しかし『古事記』の文に「郡」とあるはずはないので、ここは旧印本・延佳本・別の一本に従った。

【宣長の注釈】「仕丁」は「よほろ」と読む。【仮名表記は、『和名抄』の近江国浅井郡の郷名「丁野、よほの」や、同書の「膕は曲げた脚の内側、和名よほろ」、『字鏡』の「膕、よほろのすぢ、膝の後ろの大きな筋」などを根拠とする。『日本書紀』にも「膕」「踵」の表記がある。『うつほ物語』には「御髪は膝の裏を越えておられた」、『宇治拾遺物語』には「膝裏の筋を切られたので逃げようがない」などともある。「よほろ」は、俗にいう脚の「ひかがみ」、その筋は「よほろすぢ」という。これも労役に服する「丁」から出た名のように聞こえる。さて「仕丁」は『日本書紀』で「つかへのよほろ」「つかひよほろ」などと読み、丁の一種類で、すべての丁を指すわけではない。しかしここでは前に「所駆使」、使われている、とあるので、ただ「よほろ」と読めばよい。「つかへ」は「つかはえ」を縮めた語なので、「使われるよほろ」は、すなわち「つかへよほろ」である。】まず「丁」とは、一般に人民のうち労役に使われる者を呼ぶ名だ。【中世の書物で「夫」、今の世で「人足」というものに当たる。『戸令』には、「男女は三歳以下を黄、十六歳以下を小、二十歳以下を中とし、男は二十一歳から丁、六十一歳から老、六十六歳から耆とする」、また「老と残は、ともに次丁とする」とある。『賦役令』には、「正丁は一年に十日役に服する……次丁二人を正丁一人に相当させる。中男は……」とある。男の二十一歳から六十歳までを正丁、六十一歳から六十五歳までを次丁、十七歳から二十歳までを中男という。「残」は身体に障害のある者のことで、壮年でも次丁とする。「歳役十日」は、毎年定まった労役である。】

【宣長の注釈・「仕丁」の続き】その労役の種類によって、それぞれ「何々丁」という名がある。【役丁・荷丁・軍丁・丁匠・運丁などである。『金葉集』にも、「貢ぎ物を運ぶ丁を数えると、『二万の里』という名のとおり人数が多くなった」と詠まれている。】仕丁について、『日本書紀』孝徳紀には、「仕丁は従来の三十戸に一人【一人を廝に充てる】という制を改め、五十戸につき一人とし、諸司に配当する」とある。『賦役令』には、「仕丁は五十戸ごとに二人とし、そのうち一人を廝丁に充て、三年に一度交替する。本来の役所がその才能を必要とし、本人も交替を望まない時は認める」とある。【孝徳紀には二か所にこの制度が見え、どちらも五十戸に一人とする。令の「二人」は「一人」の写し間違いだろうか。また、ある人は「以一人」の前に「十人」の二字が落ちているのではないかと考えている。それもありそうだ。仕丁十人のうち一人を廝に充てるという意味である。「廝」は『令義解』に「使と同じ。水汲み・炊事に給仕する者で、火頭と同じ」とあり、その十人の水汲み・炊事など、さまざまな用をする者である。】持統紀には、「諸司の仕丁には一か月に四日の休みを与える」とある。『類聚国史』には、延暦二十四年十二月、公卿らが議して、「……追加で割り当てられた仕丁一千二百八十一人を、その人数どおり廃止していただきたい……」と奏上し、許されたことなどが見える。つまり、諸国の人民五十戸の中から一人ずつ都に上り、諸官司で役に服する者だ。【三年ごとに交替する。】

【宣長の注釈】『職員令』の諸官司の規定に、「直丁何人、駆使丁何人」とあるのが、これである。【『日本書紀』雄略巻に「信濃国の直丁と武蔵国の直丁が宿直して、互いに話した……」、持統巻に「直丁八人に官位を与えた……」などとある「直丁」も「つかへのよほろ」と読む。直丁は役所に詰めて働く者、駆使丁は外へ出て行う仕事に使われる者で、この二種類が仕丁である。】これらは後世の定めだが、古代もだいたいこれに基づき、さほど違わなかったと思われる。本文の者は、吉備の児島の民で、仕丁に選ばれ、難波の都で主水司に使われていた者である。「是」は、字のままに「これ」と読めばよい。前にもところどころに同じ例があった。【漢文での使い方とは異なる。】

【宣長の注釈】「退己国」は、先の令に三年に一度交替するとあったように、交替して吉備国に帰るのである。持統紀には、「新羅の仕丁八人が本国に帰ったので、恩を施し、禄を与えた」とある。【新羅の人も仕丁としてお使いになったことがあったのだ。ただし、これは一般的なことではないだろう。】『続日本紀』巻十三には、「仕丁が労役を終えて郷里へ帰る時、初めて道中の食料を支給した」などと見える。「退」は「まかる」と読む。『万葉集』などでも、「まかる」にこの字を当てる所が多い。【都からほかへ行くことを「まかる」、ほかから都へ行くことを「まゐる」という。】

【宣長の注釈】「大渡」。『日本書紀』仲哀巻には「向津野大済」もある。【豊前国にある。】後世には「淀の大渡」などともいった。難波は格別の土地なので、そこの港を大津、入り江を大浦などというように、渡し場も大渡というのである。「所後」は、大后のお供をしていた者が、御船に遅れて来たことだ。「倉人女」。この名称は、ここのほかに古書で見つからない。後に「女蔵人」という者だろうか。【女性で蔵人の役を勤める者だ。『古今集』雑上に、「寛平の御代に、上の侍にいた男たちが……蔵人たちが笑って……」とあるのも、后の宮の女蔵人である。】ただし、それは後の制度だと思われるので、ここは蔵司に属する女性だろうか。『後宮職員令』には、「蔵司の尚蔵一人は、神璽、関契、天皇の衣服・手拭い・櫛・身につけて用いる品、珍宝、色絹、賞賜をつかさどる。典蔵二人の職掌は尚蔵と同じ。掌蔵四人は色絹の出納・賞賜をつかさどる。女孺十人」とある。この役所は古代からあったのだろう。【『万葉集』巻十五の目録に「中臣朝臣宅守が蔵部の女を妻とし……」とある。】なお、若桜宮の段にある「蔵官」の下も照らし合わせてほしい。【『伝』巻三十八の三十一葉。「船に会えり」と言葉を補って読むのは後世の言い方である。この表現のことは前に詳しく述べた。】仕丁が船で国へ下る時、難波の大渡で、この倉人女の乗った船と行き会ったのである。「語云」は、仕丁が倉人女に語って知らせるのだ。【仕丁が主水司にいた間に、この倉人女とは知り合いだったのかもしれない。知り合いでなくても差し支えない。】

【宣長の注釈】「天皇者皆」。【延佳本に「皆」がないのは、思いつきで削ったのだろう。ほかの諸本にはどれもある。】「皆」は「比日」の二字を写し誤ったもので、「このごろ」と読む、と師がいわれた。その説がよいだろう。『万葉集』などにも「比日」と書く例が多い。「戯遊」は「たはれますを」と読む。【「ます」は尊敬を表す「坐」、「を」は助辞である。】『日本書紀』景行巻には、「宴を楽しむ日、群卿・百官はみな遊びに心を奪われ、国家のことを顧みない」とある。『万葉集』巻九には「美しい姿に心を寄せ、逢ったあの娘は、戯れる女だった」とある。『古今集』秋上には「百種の 花の紐とく 秋の野に 思ひたはれむ 人な咎めそ」――さまざまな花がほころぶ秋の野で、心を浮き立たせて遊ぼう。人よ、とがめないでくれ――とある。『後撰集』雑一には「まめなれど あだ名はたちぬ たはれ島 よる白波を 濡衣に著て」――私はまじめなのに浮気者のうわさが立った。戯れ島に寄る白波のように、ぬれぎぬを着せられて――、また別の歌に「名にし負ば あだにぞ思ふ たはれ島 浪のぬれ衣 いくよ着つらむ」――その名からして浮気者と思ってしまう、戯れ島よ。波のぬれぎぬを幾夜着てきたのか――とある。『字鏡』には、「姪、遊び楽しむこと、戯れること。ふける、また、たはる」「妖、楽、戯、姪、号」「娼、戯、婬、姚。たはし」「姚、戯、遊。ふける、また、たはし」などがある。【斉明紀には「妖女」ともある。『万葉集』の「風流士」「遊士」などを「たはれを」と読むのは誤りである。】

【宣長の注釈】「不聞看此事乎」。【旧印本では「看」が脱落している。】「このこときこしめさねかも」と読む。【古語では「ね」の下に「ば」がある意味になる。】中世の雅語の「きこしめさねばや」、つまり、ご存じないからでしょうか、という意味で、「ば」を省いた例は『万葉集』などに多い。巻八に「十二月には淡雪が降ることを知らないからなのか、梅の花が、つぼみのままではいられず咲いている」とある。【その第三句「不知可毛」と同じ。「しらぬかも」と読むのは古語を知らない読みであり、「知らないからだろうか」の意味なのだ。】

【宣長の注釈】「御船」は、先を行っておられる大后の御船である。「追近」は「おひしきつ」と読む。【「近」を字のままに「ちかづきて」と読むと、次の「白」とのつながりが悪い。師は「おひつきて」と読まれたが、その意味である。】「しき」は追いつくこと。後に出る御歌の「あがはしづまつ いしきあはむかも」の「しき」と同じだ。「白之状具如仕丁之言」は、「よほろがいひつるごと、ありさまつぶさにまをしき」と読む。【文字の順に従って読むと漢文風になる。】上巻の「更往廻其天之御柱如先」を、「更に、その天の御柱を、先のように回っておいでになった」と読むのと同じ形だ。【『伝』巻五の三葉と照らし合わせてほしい。】「投棄」は「なげうちうてき」、投げ捨てた、と読む。【「棄」を「うて」ということは、上巻の八千矛神の御歌に見え、「蝦棄」の所など、これまで何か所でも述べた。】この大后の振る舞いは、八千矛神の歌にある「口に出して言ったなら、私に会うたび嫉妬するだろう」という気持ちに通じる。【『夫木抄』の権僧正公朝の歌、「難波江に 御綱柏を 散らしても 恨みに堪へぬ 色を見せばや」――難波の入り江に御綱柏を散らしてでも、恨みに堪えかねる心を見せたい――は、この話を詠んだものだ。】

【宣長の注釈】「御津前」。『日本書紀』仁賢巻【六年】には「難波御津」、斉明巻【五年の細注】には「難波三津之浦」とある。『万葉集』巻一の「大伴の御津の浜松」「大伴の御津の浜」、巻十五の「大伴の御津の泊まり」など、ほかにも多い。昔、難波から出航する船は主としてこの津を発ち、帰りもここに泊まった。『万葉集』巻十五の多くの歌に詠まれるとおりで、しだいに難波の中の一地名になった。難波の古図には、高津の西の海辺に三津里・御津浜がある。その場所だろう。【この付近には、現在の大坂にも三津寺町があり、三津社や三津寺もある。三津寺は『古今集』雑下の詞書や『江次第』などにも見える。「大伴の御津」と続けるのは「稜威」の意味による。「い」と「み」が通う例は、上巻の建御雷神の下、『伝』巻五の七十三葉で述べたとおりだ。「稜威」の「つ」は必ず濁ることも前に述べた。「大伴」と「御津」のつながりについては、昔から詳しい説がなく、『冠辞考』の説もよくない。また同書が御津と住吉の津を同じもののようにいっているのも誤りだ。住吉の津は前に述べたとおり、別である。】

【宣長の注釈・『日本書紀』との比較】『日本書紀』には、「二十二年春正月、天皇が皇后に話し、八田皇女を迎えて妃としようとしたが、皇后は許さなかった。そこで歌を詠んで願い……皇后が答え……天皇がまた詠み……皇后が答え……天皇がまた詠んだ……。皇后は、結局聞き入れないといい、黙ってそれ以上答えなかった」とある。そして「三十年秋九月、皇后は紀伊国へ遊びに行き、熊野岬に着いて、その土地の御綱葉を採って帰った。【葉はここで『かしは』という。】この日、天皇は皇后の不在を見計らって八田皇女と結婚し、宮中へ迎えた。皇后は難波津に着き、これを聞いて大いに恨み、採ってきた御綱葉を海に投げ、岸に上がらなかった。そのため当時の人は、葉を散らした海を『葉済』と名づけた」とある。『古事記』の「御津前」と『書紀』の「葉済」では伝えが異なり、ここは『書紀』の方が正しいだろう。【難波の柏済は景行紀にも見えるが、それは後の名を使って語り伝えたものである。】「御津」は「大津」と同じように、この港をたたえた名としか思えない。【ところが『古事記』の伝承では、「御綱」と名が似ているため混同したのだ。また「御津」を「三津」とも書くのは単なる当て字なのに、難波津・高津・敷津の三つをいう、などという説は甚だしい誤りである。】ただし、柏渡という場所も、御津の辺りにあったのだろう。【『摂津志』が長柄川にあるかのようにいうのは、地理を誤っている。】

【古事記本文】大后は宮にはお入りにならず、御船をそらして堀江へ漕ぎ上らせ、川に沿って山代へ上って行かれた。この時、歌われた。

【古事記の歌】つぎねふや、山代川を、川上り、私が上って行くと、川のほとりに育っているサシブの木。その下に育っている、葉の広い、神聖な椿。わが大君は、今もその花のように輝き、その葉のようにゆったりとおいでなのでしょうか。

【宣長の注釈】「不入坐宮而……」は、天皇をお恨みになり、背を向けられた振る舞いである。「宮」は難波の皇宮だ。

【宣長の注釈】「引避」は「ひきよきつ」と読む。『万葉集』巻七に「神の崎の荒磯も見えぬほど波が立った。どこを行こうか、よけて通る道もないのに」、巻十一に「狭い道を、人よ通らないで。そのままにして、あの方が来る時の脇道にしよう」とある。『古今集』春には、「吹く風に頼んで言いつけられるものならば、この一本の木は避けて吹けといいたいものを」とある。ここは、いつもなら泊まるはずの難波を避けたのである。

【宣長の注釈】「泝於堀江」。堀江は前に出た。【「泝」というのなら「ほりえを」と読みそうだが、「於」があるのは「に」と読むためだ。海から堀江へお入りになったことをいい、すでに堀江に入っていて、その中を上って行くことではない。】「泝」は「さかのぼらしつ」と読む。『万葉集』巻二十に「堀江より みをさかのぼる 楫の音の」とある。【さかのぼるとは、水の流れに逆らって上ることだ。】「随河」。川は淀川である。【堀江はこの川の河口であることは、前に述べたとおり。】「随」は、この時、ここへ行こうと目的地を定めてお出かけになったのではない。難波の宮を避けたいのがお心なので、行き先を決めず、ただ川に沿って上るうち、自然に山代へ到着されたのだ。「此時」は、川を上っておいでになる間をいう。

【宣長の注釈】「つぎねふや」は「継苗生や」である。【この語は『日本書紀』に四首あるが、どれも「や」はなく、『万葉集』巻十三の例にもない。『古事記』では四首のうち二首には「夜」があり、二首にはない。師は、あるものを余計な字とされたが、この歌も次の歌も、諸本にそろってあるので、ここではそのままにする。】「や」は「よ」というような、歌い出しの言葉だ。「なへ」を縮めて「ね」という。「継苗」は、山の木を伐った跡に、また木を育てるため植える苗をいう。「生」は、その苗をあらかじめまいて育て、用意しておく土地である。【粟田・豆田・浅茅生・蓬生などのように、いずれもその植物が生える土地を「何々生」という。】稲苗を育てる田を苗代というように、山の木の継苗を育てる土地を「山代」というのだろう。考えてみると、山の主な用途は材木を出すことなので、材を伐る仕事自体を「山」という。【杣人が材を伐り始めることを山口、材を作る斧を「やまたづ」という。これらの「山」は、どれも材木に関していう。】ここでは、その代わりに生やす材木の継苗を育てる土地なので「山代」といったのである。

【宣長の注釈】『万葉集』に「開木代」とも書くのは、この意味だ。【「開木」を「代」と切り離して意味を取れば、木を伐り出す仕事、すなわち「山」である。「代」につなげて取れば、材を育てる「継苗」の意味となる。どちらに取っても、この考えに合う。「継苗生」という私の考えから、「開木代」と書く意味も合わせて明らかにできる。】したがって、この枕詞は「継苗生の山代」という意味でつなげたのだ。【昔から『万葉集』の「次嶺経」という表記によって、続く山々を越えて行く意味に解してきたのは当たらない。まず「次嶺」という言葉自体が疑わしいし、山城国は大和から近い山を一重越えるだけで、そういうほど連続した山々を越えて行く国ではない。どうしてそのようにいうだろうか。】山代は、もともと一国全体の大きな名だったとも考えられるが、初めは継苗を育てる「山代」から名づけた、一つの郷などの名だったかもしれない。【初めから一国の名であっても、この枕詞のつながる意味は同じだ。】

【宣長の注釈】「やましろがはを」は「山代川を」である。この川は、『山城国風土記』の「賀茂建角身命は……山代国岡田の賀茂に至り、山代川に沿って下り、葛野川と賀茂川の合流する所に至った」という記事によれば、淀より上流の木津川をいう。【この川は淀で宇治川と合流し、それから淀川となる。山代国から流れてくるので、淀より下を山代川といってもいけなくはないが、やはり『風土記』に従い木津川とすべきだ。契沖は、『日本書紀』では木津川だろうとしながら、『古事記』では「堀江へ上り、川に従って山代へ上幸した」といってこの歌があるので、淀川を山城川といったのだという。これは「上幸山代」を、まだ山代へ到着しない間のことと見た説明のようで、よくない。「山代へ上幸」とあるのは、すでに山代へお入りになった後としても、少しも差し支えない。『風土記』の考察を漏らしたため、あれこれ論じたのである。木津川の古い名は泉川だが、それは上流の相楽郡付近での名で、山代川は、その下の綴喜郡・久世郡などを流れる間の名かもしれない。また国名を使った呼称なので、泉川という辺りまで含め、全体を山代川と呼んだ可能性もある。】

【宣長の注釈】「かはのぼり」は、御船で川を上ること。「かは」は直接に山代川を指すのでなく、淀川の下流をいう。淀川を上り、その先の山代川を私が上ると、というつながりだ。次の御歌の「やましろの」の所と合わせて考えてほしい。「わがのぼれば」は「私が上ると」。【上りながら見れば、という意味である。】「かはのへに」は「川のほとりに」。ここから下は『日本書紀』と異なるので、後で述べる。「おひだてる」は「生え育っている」。【後世には「た」を濁らせないが、古語では濁る。】「さしぶを」は「烏草樹を」である。【延佳本が「夫」を「天」とするのは、次の句の「夫」を旧印本などが「天」と誤ったのを正しいと思い、ここも勝手に改めたのである。よくない。】

【宣長の注釈】前の句の「を」は、「よ」というような語だ。『和名抄』には「楊氏漢語抄にいう、烏草樹は『さしぶのき』。『弁色立成』も同じ」とあり、『字鏡』にも「烏草樹、さしぶ」とある。【また「楄、させぶ」ともある。】この木について契沖はいう。「現在、山里の人は『させぼの木』という。柃に似て、小さな実がなり、熟すと黒みを帯びた紫色で、子供などは採って食べる、と聞く。柃は『和名抄』に見え、今、俗に『ひささき』という木である。『出雲国風土記』大原郡佐世郷の所に、須佐能袁命が佐世の木の葉を頭に差して躍った、とある。また『倭姫命世記』の『ささむえの木の枝』も、この烏草樹ではないか。」ある人は、烏草樹を今は俗に「ささぶの木」「しゃくぶの木」ともいう、といっている。【『出雲国風土記』の「佐世の木の葉」はこれだろうか。また『倭姫命世記』の「佐々牟江に御船を泊め、その所に佐々牟江宮を造っておいでになった」というのは、『神名帳』に伊勢国多気郡の竹佐々夫江神社とある土地だ。これも、この木に由来する名だろうか。】

【宣長の注釈】「さしぶのき」は前と同じだ。【「夫」を旧印本・別の一本・延佳本などが「天」とするのは誤り。『古事記』に「天」を仮名として使う例はない。ここは真福寺本に従った。】契沖も師も、前の句末の「を」をこの句の頭につなげ、「小」の意味に取られた。しかし、それでは二句の調べのつながりが悪い。「しがしたに」は「その下に」。「しが」は、前にいった物を指して「その」ということだ。この段の後の歌の「塩に焼き、しがあまり」、発栗宮の段の歌の「しがあれば」、雄略紀の歌の「しがつくるまでに」、『万葉集』巻五の「はしきよし、しがかたらへば」、巻十八の「しが願ひ、心だらひに」、巻十九の「鵜が川に立って獲ろうとする鮎の、その嘆くことよ」、また「つげをぐし、しがさしけらし」「秋花の、しが色々に」など、どれも同じ用法だ。朝倉宮の段の大后の御歌は、これとまったく同じ続け方で「そがはの……」【「その葉の」の意味】、また「そのはなの……」とある。これで「しが」が「その」と同じだと分かる。

【宣長の注釈・契沖説への批判】契沖は、「しが」は「己之」であり、『万葉集』で「さが」を「己之」と書くので、「さ」と「し」が通い、「しが」とも「さが」ともいうのだ、とする。その根拠は、巻十三の「己之母乎取久乎不知」、巻十二の「高麗劒己之父乎取久乎思良爾」、巻十三の「己之家尚」、巻十六の「己妻尚乎」などの「己之」を「さが」と読むことである。しかし「さが」という言葉は古語にはない。これらの「己之」は、師もいわれたとおり「わが」と読めばよいのに、何の根拠で「さが」と読んだのか、さっぱり分からない。しかも、いずれも字のとおり「おのが」、つまり「私の」という意味であり、「しが」とは少し意味が違うのだ。

【宣長の注釈】「おひだてる」は前と同じ。「はびろ」は「葉広」である。【三音の句。】中巻、玉垣宮の段にも「葉広熊白檮(はびろくまかし)」とあり、そこで述べたとおり、一枚の葉についていうのでなく、葉が茂って広がる木全体をいうのだろう。【白檮も椿も、そういうほど一枚の葉が広い木ではないからだ。】「ゆつまつばき」は「五百箇真椿」である。【旧印本・延佳本などは「麻」を「婆」とする。それなら「葉」の意味だが、ここでは真福寺本と別の二本などの「麻」に従う。後に引く朝倉朝の大后の御歌も「麻」だからである。】「ゆつ」の意味は、上巻の湯津石村・湯津楓などの所で述べた。【『伝』巻五の七十一葉、巻十三の二十七葉。】椿の枝葉が繁く多いことをいう。「つばき」という名自体、「五百箇葉木」、葉のたいへん多い木、という意味だろうか。【ある説は「艶葉木」とするが、「艶」という言葉は古めかしくない。】『和名抄』には、「『唐韻』に、椿は木の名、和名つばき。『楊氏漢語抄』に、海石榴、和名は同じ。日本の式などではこの字を使う」とある。『日本書紀』でも「海石榴」、『万葉集』では多く「椿」と書く。【これは今も取り違えることのない木なので、漢字はどちらでもよい。】烏草樹はそれほど高く大きい木でないのに、椿がその下に育つというのは、烏草樹が川岸のやや高い所にあり、その下の低い所に椿があるのだろう。【木陰に生えているという意味ではない。】

【宣長の注釈】「しがはなの」は「その花の」で、「しが」は椿を指す。「てりいまし」は、輝いておいでになること。『万葉集』巻十八に、「常世物 この橘の いや照りに わご大君は 今も見るごと」とある。「しがはの」は「その葉の」。「ひろりいますは」は、広くゆったりとおいでになるのは、という意味。「ひろり」は、広々としている様子を表し、くつろいでおいでになることだ。朝倉宮の段の大后の御歌にも、「……生ひだてる 葉広ゆつ真椿 そが葉の ひろりいまし その花の てりいます 高光る 日の御子に……」とある。「おほきみろかも」は「大君なのだろうか」。「ろ」は助辞だ。「ろかも」という言い方は、中巻、明宮の段の御歌の「をだひろかも」の下で述べた。【『伝』巻三十二の四十一葉。】

【宣長の注釈・歌の異文】この御歌は「かはのへに」から下が、『日本書紀』では異なり、「川隈に 立ち栄ゆる 百足らず 八十葉の木は 大君ろかも」――川の曲がり角に、豊かに茂って立つ、数多い葉の木は、大君なのでしょうか――となっている。

【宣長の注釈・異文の続き】「やそばのき」は「八十葉の木」で、何の木であれ、葉が繁っていることを詠まれたのである。契沖は、『和名抄』に「槇樅、和名そばのき」とある木とし、「八」はそばの木が多いこと、「百不足」は「や」の一音にかかる、とする。また『万葉集』巻十三の「百不足山田道乎」も、「山」の「や」を八と取ってつなげたのだ、という。しかしそれは誤りだ。「百足らず」は八十や五十に続くもので、八につなげる例もなければ、そうする理由もない。師は『万葉集』の例について、八十の「十」を省き、八十の意味でつなげた、といわれたが、これも納得できない。この歌について、私の門人の斎田清綱は、「もと『足日木』とあったのを、『日』を『百』、『木』を『不』と誤った。それを『百不足』の誤りだと思い、ついに『足』を下へ移した」と考えている。この説がよい。山にかかる枕詞には「あしひき」以外の例がないからである。

【宣長の注釈・歌全体の意味】川辺に育ち、輝くように栄える椿を見て、天皇のお姿を恋しく思い浮かべ、「今もわが大君は、あの椿の花のように輝き、葉のようにゆったりとおいでなのだろうか」と歌われたのだ。「いますは」の「は」を「おほきみ」の下へ、結びの「かも」を「います」の下へ、それぞれ入れ替えて理解する。【「は」と「かも」を入れ替えず、そのままに取ると、この時、目の前で天皇のお姿を見て、「あれは天皇でいらっしゃるのか」とおっしゃる意味になり、場面に合わない。このように語の位置を入れ替えるのは無理な説に思う人もあるだろうが、古代には、そうして言葉を離して置いても意味が通じたのである。『日本書紀』の歌も同じ形で、「大君は、あの八十葉の木のように栄えておいでなのか」という意味。「木は」の「は」と「かも」を入れ替えなければ分かりにくい。よく味わってほしい。】そもそも大后は、嫉妬のあまり堪えられず、背を向けて来られた。しかし、そうするほどかえって、ますます恋しく思う心にも堪えられず、このように思われたのである。

【古事記本文】それから山代を回って奈良の山の入口に到着され、歌われた。

【古事記の歌】つぎねふや、山代川を、宮を避けて私が上って行くと、私が見たい国は、ここから青丹よし奈良を過ぎ、小楯の大和を過ぎて行く葛城。高宮の、私の家の辺りなのです。

【古事記本文】こう歌って引き返し、しばらく筒木の韓人、名を奴理能美という者の家にお入りになった。

【宣長の注釈】「廻」は、難波の辺りから大和へ行くなら河内を通るのが直道なのに、山代を経るのは回り道になるので、こういう。「那良山口」。奈良は前に出た。【『伝』巻二十五の二十二葉。】「山口」は「の」を補い、「やまのくち」と読む。月次祭の祝詞に「山の口に坐す皇神たちの……」とあるからだ。この山は山城国相楽郡から大和国添上郡の奈良へ越える道で、いわゆる奈良坂である。『万葉集』巻一の「青丹よし 奈良の山の」「青丹よし 奈良山を越え」、巻三の「佐保過ぎて 奈良の手向に 置く幣は」【「手向」は俗にいう峠】、巻十三の「奈良山の 児手柏の……」「見飽かぬ 奈良山越えて」、巻十六の「青丹よし 奈良山過ぎて」、巻十七の「青丹よし 奈良山過ぎて 泉川」などにもある。

【宣長の注釈・奈良山口の位置】『日本書紀』には、「皇后は大津に泊まらず、さらに船を引いて川を上り、山背を回って大和へ向かい……奈良山を越え、葛城を望んで歌われた」とあり、御歌は『古事記』とまったく同じである。「奈良山を越えて」とある以上、『古事記』の「山口」は奈良側から上る山の入口だろう。【『古事記』だけでは、山を越えたといわず、すぐ「山口」とあるので、山城側から上る口のように聞こえるが、『書紀』と合わせて考えると、やはりそうではない。】大和に都があったころ、そちらを普段から奈良の山口と呼んでいた、その呼称のまま語り伝えたのである。ここは山代から来られる場面ではあるが、山を越えたことをいわなくても、こういえば大和側の入口だと分かったのだろう。【「私が見たい国は……」と詠まれる様子も、山代側の山口での歌とするより、『書紀』のように奈良山を越し、葛城を遠く見やって詠まれたとする方が、よく理解できる。】

【宣長の注釈】「つぎねふや、やましろがはを」は前の歌と同じ。【「波」を旧印本と別の一本などが「婆」とするのは誤り。真福寺本・延佳本・別の一本などに従う。】「みやのぼり」は「宮上り」。難波の宮を避けて通り過ぎ、川を上って来られたことをいう。【「避けて通り過ぎて」という意味は、言葉の外に自然に含まれている。契沖は、葛城に宮を造って住もうと思われたのでこう歌った、とするが、それは合わない。そう思っていても、まだ宮を造っていないのに、どうして「宮上り」といえよう。また、この語は「宮を通り過ぎて上る」意味で、「宮へ上る」とは取りにくい。師は「みや」は水脈で、遠江の人は「川のみよ」という、といわれたが、それもどうだろう。】したがって、「宮上り、山代川を、吾上れば」と、句の順を変えて理解すべきである。【前の歌の「かはのぼり」で述べたことと合わせてほしい。】「わがのぼれば」は前と同じ。

【宣長の注釈】「あをによし」は奈良の枕詞で、「青土よし」である。青土は青い色の土のこと。明宮の段の御歌に「和邇坂の土を……」とあるのも眉墨の材料なので、青土だと考えてほしい。「よし」については『冠辞考』に、「『よ』と呼びかける語で、『し』は助辞。これを添える例は『真菅よし』『玉藻よし』『大魚よし』『あさもよし』など、ほかにも多い」とあるとおりだ。【契沖は『万葉集』巻十三の「緑青吉」という表記によって、昔、奈良で良い緑青を産したためだろう、とする。しかし緑青と見るのはよくない。単に青い土である。昔は緑青も「あをに」といったので、『万葉集』はその字を借りたのだろう。実際には緑青ではあるまい。緑青では奈良につながる理由がない。明宮の御歌の「に」は眉墨の材料なので、緑青であるはずはなく、ただ青い土だ。あの御歌によって、緑青以外も「あをに」といえることが分かる。「よし」を「良い」という意味にするのもよくないことは、『冠辞考』が論じたとおり。】

【宣長の注釈・『冠辞考』への批判】『冠辞考』は、朝倉宮の段の歌「やほによし、いきづきのみや」や、出雲国造神賀詞の「八百丹杵築宮」などによって、「あをに」を「八百土」とする。「あ」を延ばすと「いや」になる。また「八百」の「百」を「ほ」というのは、もとは濁音で、「ほ」の濁音と「を」の清音が通う例なので、「やほ」と「あを」は異ならない、とする。しかしこれは無理な説だ。「あ」と「や」は通うこともあろうが、「を」と「ほ」を通わせる例はない。清音・濁音の説明も分からず、「百」がもと濁音だったというのは根拠がない。思うに、後世に「八百」を「やを」と唱えるため、「ほ」と「を」が通うと説明しようとしたのだろう。しかし「はひふへほ」を「わゐうゑを」のように発音するのは後世の音便で、古くから音を通わせた例ではない。

【宣長の注釈・奈良につながる理由】奈良に続く理由は、これも『冠辞考』のいうように、土をならし、踏み固めるという意味である。それなら単に土といえばよいのに、なぜ特に青いというのか。応神天皇の眉墨の材料の青土を採ろうとされた和邇坂も奈良山に近いことを考えると、昔、奈良山にも青土が多く、名産だったのだろう。【顕昭の『袖中抄』が引く『万葉抄』に、「奈良坂には昔、青い土があった」とあるのは、何か根拠があったのか、推測が当たったのか。】崇神天皇の御代、軍兵がその青土を踏みならした土地、という意味でつながるのだろう。「奈良」という名はその故事から付いたので、そういうこともできる。「おしてる難波」の例なども考えてほしい。【その故事によらず、単に青土をならす意味ともできるが、それなら土だけでよいのに、特に青いというのは、やはり故事によるうえ、青土がこの山の名産だったからだろう。そうでなければ「青」が無駄になる。】

【宣長の注釈・別説の紹介と判断】ここに、ある人の興味深い考えがある。「あをによし」は、伊邪那岐・伊邪那美の二大神が唱和した「あなにやし」と同じだ、という。「あな」と「あや」が通い、その「あや」が「あを」にも通う例は、阿夜惶根神を『日本書紀』で青橿城根尊ともする例である。「やし」と「よし」が通うのは、「はしきやし」を「はしきよし」ともいうようなものだ。したがって、これは奈良の枕詞ではなく、「私が見たい国は……」にかかる言葉で、後に奈良の枕詞になったのは、この御歌の続き方によって転じたのだ、という。実にありそうで、おもしろい考えだ。しかし、さらに考えると、この歌は奈良と大和という二つの地名を並べ、後の大和には枕詞があるのに、先の奈良にはないのでは、どうだろう。こう並べる場合、初めに枕詞があり、次にないことはあっても、その逆はありそうにない。また、後にこの歌から転じて奈良の枕詞となったというのも、説としては成り立つが、武烈紀の歌にも奈良の枕詞としてある。あの時代に、すでにそう転用したとは考えられない。やはり、もとから奈良の枕詞だったことは動かないと思う。「ならをすぎ」は、奈良を過ぎ、である。

【宣長の注釈】「をだて」は大和の枕詞で、「小楯」である。【諸本には、この後に「夜麻」の二字があるが、ここは真福寺本にないのに従った。『日本書紀』にもなく、意味もない方がよいからだ。真福寺本は一般に誤字・脱字が非常に多いので、この二字も脱落かとも思ったが、そうではあるまい。他本は、次にある「夜麻」と紛れて重複させたのだろう。】大和国は楯を立て並べたように山が周囲を囲む国なので、こういう。詳しくは『国号考』で述べたとおり。「楯」を「をだて」という例は、明宮の段の御歌にもある。「やまとをすぎ」は「大和を過ぎ」。ここでは城下郡の倭郷をいう。この郷も『国号考』に詳しく述べた。「をだて」という枕詞は国全体についてつながるものだが、名が同じなので、ここでは郷の大和にも用いた。

【宣長の注釈】「過ぎ」とは、実際に奈良とこの土地を通過されたのではない。【この歌を詠まれたのは奈良の山口で、そこから山代へ戻ったので、奈良にもまだ到着していない。】「私が見たい国は、ここから奈良を過ぎ、大和を過ぎて行く葛城だ」という意味である。したがって「あをによし」からの四句は、「国は」の後に移して理解する。「わがみがほし」は「私が見たい」。契沖は、「見がほし」は「見まくほしき」の意味で、顕宗紀の歌に「大和辺に 見が欲し物は 忍海の この高城なる 角刺の宮」とあり、『万葉集』にも多い、という。『万葉集』巻三の「春は山を見たい」「並び立つ、見たい石山と」、巻六の「山を見ると、山も見たい」、巻十一の「見たい君の」、巻十七の「大和を見たいだろう」、巻十八の「ますますいつも、やはり見たい」「いよいよ見たい」、巻十九の「真珠のような、見たいお顔」などがその例である。【契沖が、『万葉集』の「見容之」という表記から、昔から「ほ」を「を」のように発音したのだろうかというのは、誤りだ。「容」の「ほ」の類を、わ・ゐ・う・ゑ・をのようにいうのは、後世の音便で崩れた言い方である。昔は、は・ひ・ふ・へ・ほをどれも本来の音のまま正しく発音し、音便でわ・ゐ・う・ゑ・をのようにいうことはなかった。今の発音を基に疑ってはいけない。】

【宣長の注釈】「くには」は「国は」で、三音の句。「かづらき」は「葛城」、四音の句。この土地は前に出た。「たかみや」は「高宮」、四音の句。『和名抄』の大和国葛上郡「高宮、多加美也」がこれだ。『日本書紀』垂仁巻に「天皇は来目へ行幸し、高宮においでになった」、皇極巻に「蘇我大臣蝦蟆は、自分の祖先の廟を葛城の高宮に建てた」、持統巻に「天皇は高宮へ行幸した」などとある。『釈日本紀』の引く『土佐国風土記』にも「葛城山の東のふもとの高宮の岡」とある。「わぎへのあたり」は「私の家の辺り」。「わがいへ」を縮めて「わぎへ」といい、『万葉集』にたいへん多い。【巻五では「わがへ」とも詠む。催馬楽の「わいへむ」は「わぎへ」の「ぎ」を「い」といい、「む」を添えた、音便で崩れた形である。】「あたり」は、その近くまで含め、ゆるやかに指す語で、今の俗語とまったく同じ意味だ。【中世の物語などでは、多く「わたり」という。】『万葉集』には「当」と書き、この字の意味から生まれた言葉だろう。【今の「何々の辺り」の「辺」に相当する。ただし俗語の「辺」に当たっても、古く「へ」といった語とは少し異なる。】

【宣長の注釈・歌に込めた心】こう詠まれた理由は、大后の父が葛城之曾都毘古なので、葛城は故郷で、実家が高宮にあったのだろう。女性は結婚すると夫の家を自分の家とするが、その夫に背く時には、身を寄せる所がない心地で、また親の家が恋しくなるものである。今、大后も天皇に背こうとして難波の宮を避け、【「宮上り」がそれである】、山代川をあてどなく上るうち、頼る所がないと思われるままに故郷が恋しくなり、葛城へ帰ろうと思って奈良山を越えられた。【先の「私が上ると」という、後の文へつなぐ「ば」の言葉を、「私が見たい……」につなげて味わってほしい。】しかし、やはり今さら故郷へ帰るのもどうかとためらわれ、行くことができず、思い直してまた山代へ戻ろうとなさった。その時のお気持ちを述べられたのである。【『日本書紀』では、初めから大和へ行くつもりで川を上ったように聞こえる。しかし、そうなら当然、葛城へ着くはずなのに、奈良山を越し、この歌を詠んですぐ山代へ戻るのは唐突だ。大和へ行こうと思われたのは、山代川を上る間の思いつきだったのだろう。『書紀』の初めにある「向倭」は、いつものように編者が加えた文かもしれない。】

【宣長の注釈】「還」は、今通って来られた山代の方へ引き返すこと。【師は、この「還」は助辞で、目的地の高宮までは行かず、かえって筒木に入られたのだ、といわれたが、そうではない。】「暫」は「しまし」、または「しまらく」と読む。『万葉集』巻十五に「しましくも」【十四葉・三十一葉にもある】、巻十八に「舟しまし貸せ」、巻十四に「しまらくは」などの例がある。【『万葉集』の諸巻で「須臾」と書く所も、このように読む。現在の本は「しばし」「しばらく」とするが、仮名ではどれも「麻」と書き、「婆」と書く所はない。】

【宣長の注釈・前頁からの続き】ここで「暫」というのは、ひとまず仮にお入りになったということだ。「筒木」は、『和名抄』の山城国綴喜郡【つつき】の綴喜郷【つつき】である。【今、普賢寺庄という十村があり、これが古い綴喜郷だという。「綴」と書くため、二つ目の「つ」を濁らせて「つづき」と読むのは誤りだ。「綴」は音の「てつ」から取ったので、「つづり」という訓を取ったのではない。】『日本書紀』継体巻に「五年冬十月、都を山背の筒城へ移した」とあり、二十年までここに宮を構えられた。【この宮は『古事記』には見えない。】『万葉集』巻十三にも、「そらみつ 大和の国、青丹よし 奈良山を越え、山代の筒木の原……」とある。「韓人」は、韓国から帰化した人をいい、この人は筒木に住んでいたのだ。

【宣長の注釈】「奴理能美」は「ぬりのみ」である。【「み」は「使主」、おみ、のことだ。前の「の」に「お」の響きが含まれるため「み」という。使主については穴穂宮の段で述べよう。】『姓氏録』左京の調連には、「水海連と同祖。百済国人、努理使主の子孫。誉田天皇、諡して応神の御世に帰化した。孫の阿久太の子に弥和、次に賀夜、次に麻利がいる。弥和は弘計天皇、諡して顕宗の御世に養蚕・織物を行い、絁・絹の見本を献上したので、調首の姓を賜った」とある。また右京の民首は「水海連と同祖。百済国人、努利使主の子孫」、山城国の民首も「水海連と同祖。百済国人、努理使主の子孫」、河内国の水海連も「百済国人、努理使主の子孫」、調曰佐も「水海連と同祖」などとある。山城国の伊部造の「百済国人、乃里使主の子孫」も、この人のことだろう。【これらの氏は、どれも諸蕃の百済の部に収められている。】今、大后がその家に入られることから考えると、もと百済の貴族で、日本でも相応の暮らしをしていたのだろう。【だからこそ、子孫の氏も多かったのであろう。】

【宣長の注釈】大后がこの家に入られたのは、初めからここを目指したのではあるまい。故郷を慕って奈良山の口まで来られたが、思い直して山代へ戻った。それでも難波の宮にはまだ帰るまいと思うので、さしあたり身を落ち着ける所がなく、ひとまずこの家に入られたのだろう。「暫」に注意したい。【その付近に、ほかにふさわしい家がなかったのか、あるいはこの人が近ごろ特に親しく奉仕していた縁でもあったのかは、分からない。】『日本書紀』には、「また山背へ戻り、筒城の岡の南面に宮室を建てて住んだ」とあり、奴理能美の家に入ったことは見えない。

【古事記本文】天皇は、大后が山代から上って行かれたとお聞きになり、舎人の鳥山という者を使者に遣わし、送り出す歌を詠まれた。

【古事記の歌】山代で追いつけ、鳥山。追いつけ、追いつけ。私のいとしい妻に追いついて、逢ってくれるだろうか。

【宣長の注釈】「上幸」は、大和国へお出かけになったこと。古く、代々大和に都があったころ、一般に大和へ行くことを「上る」といい慣れた、そのままの語りである。【この時は難波が都だが、多くの御代で都は大和だったので、その時の言い方を使う。また、難波が都だった時も、代々の呼び方に従い、大和へ行くことを「上る」といったのかもしれない。】「聞看」の「看」は、旧印本と別の一本では「其」と誤り、ほかの二本では「者其」とする。【「者」は「看」の誤りで、「其」があること自体は差し支えない。「其」だけの本も、「看」を誤ったのでなく、脱落させたのかもしれないが、】ここは真福寺本・延佳本に従った。「舎人」は前に出た。【『伝』巻三十三の五十三葉。】「鳥山」。御歌から考えると、速く行くよう願う気持ちから、特に「鳥」という名の人を遣わしたのだろうか。【そこまでいうのは考えすぎかもしれない。】「使」は、大后を引き留め、難波の宮へお戻しするため遣わした使者である。

【宣長の注釈】「送御歌」は、鳥山の出発を見送って詠まれた御歌で、御歌を贈るという意味ではない。【御歌を舎人に下さるのなら「賜」とあるはずで、舎人への下賜を「贈」とはいわない。】大后へ贈るようにも聞こえるが、歌の内容はそうではない。【以前は、この文は大后に贈るように読めるのに歌はそうでなく、鳥山に詠み与えたものだから、「賜」とあるべきで「送」はふさわしくない、と思っていた。『日本書紀』にはただ「乃歌之曰」とある。】さらに、次の二首は明らかに大后へ贈る歌なのに、そちらはかえって単に「歌曰」としかない。それだけではどういうことなのか分かりにくい。そこで、ここは「歌曰」、そちらに「送御歌曰」とあるべきで、入れ替えると両方よくなる、もともとそうだったのを語り伝える間に取り違えたのだろう、とも思った。しかし、やはりそうではあるまい。

【宣長の注釈】「やましろに」は「山代に」。「いしけとりやま」は、「い」が発語で、「追いつけ、鳥山」となる。「しけ」は追いつくことだ、と契沖はいう。今の俗語の「追いつけ」の意味である。『日本書紀』雄略巻の歌にも、ぬばたまの陰の黒馬について、「鞍を着けていたら、追いつけずに終わっただろう、あの黒馬は」と歌う例がある。【その第四句が「しからまし」、追いつけなかっただろう、である。】『万葉集』巻二にも、「置いて行かれ、恋い続けるよりは追いつこう。道の曲がり角ごとに目印を結んでおいてください、あなた」とある。【ここの「追及」を今の本で「おひゆかむ」と読むのは誤りだ。】山代で、とおっしゃるのは、大后が山代からお出かけになったためとも取れるし、まだ大和へ着かないうち、山代国内で追いつけ、というのかもしれない。「いしけいしけ」は「追いつけ、追いつけ」。何とか早く、という天皇の切実なお心が伝わる。『万葉集』巻十にも「さをしかの声、いつぎいつぎ」などがある。『日本書紀』では二つ目の「い」はなく、「伊辞鶏之鶏」とある。

【宣長の注釈】「あがはしづまに」は「わが愛しい妻に」で、大后を指す。【「摩」を真福寺本は「麻」とする。】『日本書紀』では「あがもふつまに」とある。【「もふ」は「思う」。】「愛」は、『万葉集』巻二の「はしき妻とは」、巻四の「はし夫」、巻十三の「愛しい妻の子」、巻十四の「はしき妻らは」「はしき、たが妻」なども同じ意味だ。なお、この言葉は巻二の「山松の枝は、はしきかも」、巻三の「はしき佐保山」、巻十九の「はしきわが背子」などにもある。「はしきやし」も「愛しいよ」ということ。【「し」は助辞。】「いしきあはむかも」は「追いついて逢うだろうか」で、追いついてくれるだろうかと気づかわれるお心がこもっている。【「迦」を真福寺本は「加」とする。】

【宣長の注釈・記事の順序】『日本書紀』では、この段に「皇后は……山背から回って大和へ向かった。翌日、天皇は舎人鳥山を遣わして皇后を帰らせようとし、歌を詠まれた。……皇后は戻らず、なお行って山背川に着き……」と、山代川の御歌より前に記す。【したがって、鳥山を遣わした時点が『古事記』と異なるようだ。『古事記』は、すでに山代川を上り、大和へお出かけになったことを天皇が聞いて、遣わしたように読める。】

【古事記本文】さらに続けて丸邇臣の口子を遣わし、歌われた。

【古事記の歌】三諸の、あの高い山にいる大猪の腹。大猪の腹にある、肝の向かい合う「こころ」――せめてその心だけでも、私を思ってはくれないのでしょうか。

【古事記の歌】つぎねふ、山代女が木の鍬で掘り出した大根、その根の白さのように、白いあなたの腕。それを枕にして寝たことがないのなら、知らないともおっしゃれましょうが。

【古事記本文】口子臣がこの御歌を申し上げた時、大雨だった。それでも雨を避けず、御殿の前戸に進んで平伏すると、大后は避けて後戸から出て行かれた。後戸に進んで平伏すると、今度は前戸から出て行かれた。そこで口子は、はいつくばってうろたえながら、庭の中でひざまずいた。その時、たまった雨水は腰まで届いていた。口子は赤い紐を付けた青摺りの衣を着ていたので、水が赤い紐を洗い、その青い所がみな赤く染まった。口子臣の妹の口日売は大后に仕えていたので、歌った。

【古事記の歌】山代の筒木の宮で申し上げている、私の兄上を見ると、涙がこみ上げてきます。

【古事記本文】そこで大后が、そのわけをお尋ねになると、「私の兄の口子臣です」と申し上げた。

【宣長の注釈】「又続」は、鳥山の報告を待たず、続けざまに遣わしたようにも聞こえる。しかし御歌の内容から考えると、鳥山の返答を聞いた後のことだ。【『日本書紀』にも、鳥山を遣わしたが大后は戻らず、さらに進んだとあり、次の使者は、やや後になる。】「丸邇臣」は前に出た。【『伝』巻二十二の四十六葉。】

【宣長の注釈】「口子」。【「口」を旧印本と別の一本などが「日」とするのは誤り。真福寺本・延佳本に従う。以下もすべて同じ。】『日本書紀』には、「的臣の祖、口持臣。一説に和珥臣の祖、口子臣」とある。「みもろの」は「御室の」で、三輪山のこと。その理由は、上巻の「御諸山」の所で述べたとおりだ。【『伝』巻十二の二十七葉。】「山」と付けず、ただ「みもろ」と呼ぶ例も、そこで引いた歌のとおりである。「そのたかきなる」は「その高城にある」。「たかき」は山をいう。その理由は遠飛鳥宮の段の太子の御歌、「あしひきの」の下で述べたので、合わせて考えてほしい。【『伝』巻三十九の二十三葉。】

【宣長の注釈】「おほゐこがはら」は「大猪の腹」である。【旧印本と別の一本などにはこの句がない。真福寺本・延佳本にあるので採った。なくてもよいが、ある方が調べがよい。】「猪子」はただ猪のことで、子供の猪ではない。馬を駒、鹿を鹿児ともいうのと同じだ。【上巻の天之真鹿児弓の所、『伝』巻十三の二十葉で述べた。】「豬」は猪そのものなのに「ゐのこ」と読むのもこのため。【「豬」は猪の子という意味ではない。猪の子は「豚」である。】「おほゐこが」は前と同じ。このように重ねて歌うのは古代の普通の形だ。「はらにある」は「腹にある」。初めからここまでの五句は、次の句の「肝」をいうための序である。【肝は人にも何にもあるのに、特に猪をいうのは、猪は屠って腹の中を見ることがあるためだ。人の腹の中などは見ない。これらからも、古歌が何事も実際の物に基づくと分かる。】

【宣長の注釈・地名説への批判】契沖は「みもろ」を葛上郡の室、「こころ」を孝昭天皇の都、掖上の池心宮とし、「おほゐこがはら」は室にある原の名だろう、とする。しかし、どれも誤りである。その意味なら「おほゐこが原にある高城」というはずで、「高城にある原」とはどうしていえよう。また「心」を地名として続けるなら、「高城にある」という語が穏当でない。『大和志』が、葛上郡の池心宮は別名を大韋古原といい、今は蓬原という、とするのは、甚だしいでたらめだ。どれも「おほゐこがはら」が一見、地名のように聞こえるため誤ったのである。

【宣長の注釈】「きもむかふ」は「肝向かふ」で、「心」の枕詞。『万葉集』巻二の「肝向かふ心を痛め」、巻九の「肝向かふ心を砕いて」などの例がある。こう続く理由は、まず腹の中のいわゆる五臓六腑を、古代にはまとめてすべて「きも」といったからだ。【個別の名は、後に漢籍の五臓六腑の名の漢字に合わせて設けたもの。今も鳥獣の腹の中のものを、全部「きも」という。「肝」も「胆」も同じ「きも」と読むのは、古い名の名残だ。】腹の中で多くの「きも」が向かい合い、集まって「こりこり」している、という意味で「こころ」へつながる。「凝る」を「ころ」ともいうので、【淤能碁呂島が「おのずから凝る」の意味であるように】、「こころ」は「ころころ」、すなわち「凝り凝り」である。海藻の心太も、固まるという意味の名だ。【『和名抄』に「凝海藻」と見える。】『日本書紀』神代巻の田心姫、『万葉集』巻二十で「妹の心」を「いもがここり」とする例などから分かる。『万葉集』に多い「岩根こごしき」も、「凝り凝りしている」の意味。【「己凝敷」「凝木敷」などの表記で分かる。岩が群れ集まることだ。】同集に多い「むら肝の心」も同じ意味で、群がる内臓が凝り集まっているということだ。【『冠辞考』の説はよくない。「群り物」という言葉が古代にあったとは思えない。また契沖が、「心肝」というので、心臓に向かう肝臓ということだろうか、とするのもよくない。ここで前の句から続く「こころ」は、単に固まるという意味で、心臓でも、物を考える心でもない。】

【宣長の注釈】「こころをだにか」は「せめて心だけでも、なのか」。【諸本はみな「呂」が脱落するが、契沖が補ったのがよいので従う。延佳本は「許」まで一つ削って「許袁」とするが、「子」だと思って勝手に削った独断の改変である。真福寺本の「迦」を「賀」とするのも誤り。】「だに」は助辞だ。【「肝向かふ」から続く意味は、固まり集まることだが、御歌の本意は物を思う心である。】「あひおもはずあらむ」は「互いに思わずにいるのだろうか」。【九音の句だが、中に「お」と「あ」があるため、七音の調べを外れない。「あひもはざらむ」と縮められることから分かる。】大后がご自身で帰らなくても、せめて心だけは私を思ってよいはずなのに、その心さえ私を思って下さらないのか、と、先の使者鳥山のつれない報告を恨んでおられるのだろう。【鳥山を遣わしても戻らないばかりか、返事の内容も、ひどくそっけなく冷たいものだったのだろう。】あるいは、「私はこんなに深く思っているのに、その私の心だけでも思いやって下さらないのか」というのかもしれない。「つぎねふ」は前に出た。「やましろめの」は「山代女の」。『万葉集』の「大和女」【巻十四】、「河内女」【巻七】などと同じ形で、「初瀬女」などもある。

【宣長の注釈】「こくはもち」は「木の鍬を持ち」である。【師は、木の鍬という物はあるはずがないので「こ」は「小」だろうといわれたが、そうではない。『古事記』では「小」や「子」の仮名には必ず「古」を使い、「許」の例はない。『日本書紀私記』にも「木鍬を持つ」と注している。】『和名抄』には、「『兼名苑』に鐝、和名くは。『説文』に钁、大きな鋤、和名は同じ」とある。鉄を付けず木だけで作った鍬は、今もある。【契沖は『和名抄』の「枚、漢語抄に『こすき』、鍬の類」とあるのを引き、これだろうか、「枚」は木へんなので「こすき」は木鍬だろう、とする。鋤にも木だけの物があるなら、鍬にもあるだろう。ただし「すき」と「くは」は別なので、ここの木鍬を「枚」かというのは当たらない。】「うちしおほね」は「打った大根」。「打つ」は、木鍬で土を打ち起こし、掘ることだ。『和名抄』には、「『爾雅集注』に、蘆菔は根が白く、食べられる。和名おほね、俗に大根の二字を使う。『兼名苑』では萊菔、『本草』では蘆服、『孟詵食経』では蘿菔というが、いずれも蘆菔の別称である」とある。

【宣長の注釈】「ねじろの」は「根白の」で、大根の根が白いことをいう。【この後に「ような」を補って理解する。】『万葉集』巻十四にも「川上の ねじろ高萱」とある。「しろただむき」は「白い腕」。上巻の沼河比売の歌にも「栲綱の白きただむき」とある。大根の白さのように白い腕、というのである。【契沖の「白い手に似ている」は、形まで似るという意味だが、そこまでの意はなく、色の白さだけをたとえた。】「まかずけばこそ」は「枕にしたことがなかったならばこそ」。「けらば」の「ら」を省いて「けば」というのは古語の例だ。【「よからば」を「よかば」という類は多い。】もとになる「ずけり」は、『万葉集』巻三の「なお来ないのがましだった」、巻十八の「見ても飽かないことだ」などの形で、それを活用して「まかずけらば」といった。【「けり」を「けら」と活用する例も、巻五の「なりにけらずや」、巻六の「咲きにけらずや」など多い。】

【宣長の注釈】契沖は「けば」が分からず、「け」は不明、古い助語なら「まかずはこそ」、「せ」と通うなら「まかずせばこそ」で、皇后の腕を枕にしないなら、という意味だろうとする。そして、八田皇女を召すのを皇后が許し、試そうとなさる時、皇后の手枕を離れる時にこそ、という歌意だ、と説く。しかし、すべて誤りである。古語の活用の筋さえ分かれば、よく通じるのに。この一句は、これまで大后の腕を枕にして寝たことがなかったならばこそ、という意味だ。「しらずともいはめ」は「知らないともいうだろう」。契沖の、今でも人の言うことを聞き入れまいとする時「そんなこと私は知らない」という、その意味だろう、という説のとおりである。大后が鳥山につれなく返答されたことをいう。【話しかけられたのに「知らない」というのは、そっけない返事だ。】一首の意味は、「これまであなたの腕を枕にして寝たことがなかったのなら、そんなに冷たく『知らない』ともおっしゃれよう。しかし長年、夫婦として親しく過ごした間柄なのだから、少し恨むことがあっても、今さらそうあるべきではないのに」という、大后への恨みである。この歌は『日本書紀』ではここになく、別の時に置かれる。その問題は後で述べよう。

【宣長の注釈】「白此御歌」は、大后のもとへ参上して申し上げること。この二首は必ずしも大后へ直接贈った歌ではなく、このように天皇がお詠みになった、と告げたのだろう。「時」は「をりしも」と読む。「大雨」は「あめいたくふりき」、雨が激しく降った、と読む。【『日本書紀』で大雨・甚雨などを「ひさめ」と読むが、ひさめは氷雨、つまり雹のことである。『古事記』では氷雨と書く。詳しくは倭建命の段、『伝』巻二十八の二十五葉で述べた。】『万葉集』巻八に「降る雪は、ひどく降らないで」、巻十に「春雨は、ひどく降らないで」などとある。「不避」は「さけず」。「前殿戸・後殿戸」は「まへつとのど・しりつとのど」。前後とは、一つの御殿の前側・後ろ側である。【前殿・後殿という別々の建物ではない。】後の文にも「大后のおいでになる御殿の戸」「その御殿の戸の敷居の上」とある。『日本書紀』崇神巻の御歌の「三輪の殿戸を」、『万葉集』巻十八の「主の殿戸に」の例もある。「後戸・前戸」は「しりつと・まへつと」。水垣宮の段の歌に、「後ろ戸から行き違い、前戸から行き違い」とあり、「たがひ」もここと同じだ。同じ戸を、前では殿戸、後では単に戸というのは文章の変化である。「違」は、大后があちらこちらと行き違って、口子臣に会うまいとなさること。【先の歌の「知らずともいはめ」の「知らず」は、この様子から理解してほしい。】「匍匐」は「はひ」と読む。前に出た。【『伝』巻十七の六十七葉。】

【宣長の注釈】「進赴」の「赴」は「退」の誤りだろう。【「赴」では、この場面に合いにくい。師は「進み向かいて」と読まれたが、そういう箇所ではない。】『日本書紀』垂仁巻に「うつむき仰ぎ、むせび、進み退きして血の涙を流す」、景行巻に「朝夕、進み退きし、帰る日を待つ」とある。神武巻・景行巻などでは「棲還」も「しじまひて」と読んでいる。【『続日本紀』巻九の詔に「進むも知らず、退くも知らず」、巻十七にも「進むも知らず、退くも知らず、夜昼長く恐れかしこみ思うのは」とある。】これらから「進退」として、「しじまひて」と読む。【後の「し」が清音か濁音かは詳らかでないが、ひとまず濁らせた。】恐れかしこみ、どうしてよいか分からない様子だ。『万葉集』巻三の「鶉のように慎み、はいつくばり」、中巻、倭建命の段の「はいつくばり、恐れて仕え奉り」の様子に近い。「庭中」は『万葉集』巻二十に「にはなかの」とある。「跪時」は「ひざまづきをるときに」と読む。【旧印本と別の一本などの「将」は「時」の誤り。真福寺本・延佳本に従う。ひざまずくとは、地に膝をついてかがんでいる敬礼の姿勢。雄略紀で「跪礼」を「ゐやひて」と読むのもそのためだ。師の「うずすまれば」は、朝倉宮の段の御歌にある言葉だが、ここには合わず、意味が違う。】「居る」を補わなければ、言葉が足りない感じがする。允恭紀の「中臣烏賊津使主は……弟姫の庭に伏して、天皇の命でお召しすると述べ……七日間、庭に伏していた……」という例に似ている。

【宣長の注釈】「水潦」は、『和名抄』に「『唐韻』に潦は雨水、和名にはたづみ」とあり、雨の時、地上にたまって流れる水である。【師は「にわかに出る泉」の意味といわれたが、当たっているのかどうか、何ともいえない。】『万葉集』巻二の「にはたづみ、流れる涙」、巻九の「にはたづみ、流れる涙」、巻七の「さほど多くも降らぬ雨なのに、庭のたまり水がひどくなった。行く人が知ってくれよう」などにもある。「至腰」の「至」は「つけり」と読む。『日本書紀』神代巻に「潮が足をぬらした時……腰に届いた時……」とある。「著紅紐青摺衣」。【「摺」は他の古書で「揩」とも書く。考えてみると、「揩」はこすって拭くと注され、「する」の意味に合うが、「摺」にはその意味が見えない。もと「搨」を誤ったのか。「搨」には写し取るという注もある。または「揩」の写し間違いか、あるいは日本で特にこの字を使い慣れたのか。そういう例も多いので、ここは原本のままに書いた。】「紅紐」は、師が「あかひも」と読まれたのに従う。

【宣長の注釈・摺衣の用例】昔は一般に摺衣を美しいものとして、男女とも、折を選ばず着ていたことが、『万葉集』の数知れない歌などから分かる。朝倉宮の段には、「天皇が葛城山へ上られた時、百官がすべて赤い紐の付いた青摺りの衣服を賜り、着た」、同じ段には「丹摺りの袖」とある。天武紀には「高市皇子に……榛摺りの御衣三具を賜った……」、『続日本紀』巻十五には「……琴を弾き、歌わせ、五位以上に摺衣を賜った……」、巻二十九には「……道鏡と五位以上に一人一領の摺衣……」、巻三十には「葛井・船・津・文・武生・蔵の六氏の男女二百三十人が歌垣を奉仕し、いずれも細布の青摺衣を着て、赤い長紐を垂らした……」とある。『類聚国史』には延暦十二年十一月、「交野へ狩りに行き、右大臣従二位藤原朝臣継縄が摺衣を献上し、五位以上および命婦・采女らに与えた」、同十八年正月辛酉には、「大極殿で群臣と渤海の客に宴を賜り、音楽を奏し、客以上に摺衣を賜った……」とある。『万葉集』巻七には、「月草で衣を染めています。あなたのために、色美しい衣を摺ろうと思って」「時ならず、まだらな衣を着たいことだ。榛原よ、まだその時でなくても」、巻十には「思う子の衣を摺るのに、美しく色づいておくれ、島の榛原よ、秋にならなくても」とある。ほかにも摺衣の歌は数知れず多い。

【宣長の注釈】榛摺りとは、榛の木で摺り染めること。「榛」と書くのも同じで、今、俗に「はんの木」ともいう。『万葉集』に「榛」、また「萩」と書いてあるのも、みなこれである。それを萩として「はぎ」と読むのは誤りだ。萩は同集では「芽子」と書く。これについては別に詳しく述べよう。摺衣は榛に限らず、さまざまな材料でいろいろな色に染めた。その後も摺狩衣【信夫摺りなど】が見える。神事では古い慣習が伝わり、後世まで、大嘗祭・新嘗祭・賀茂の臨時祭などで必ず摺衣を用いる。青摺りは山藍で摺り染めたものをいう。【古代には山藍だけでなく、何であれ青色に摺ったものをいったのかもしれないが、詳しくは分からない。】『万葉集』巻九にも、紅の赤い裳を幾重にも引き、山藍で摺り染めた衣服、という歌がある。

【宣長の注釈・祭服の規定】『弘仁内裏式』十一月の新嘗会の式には、「この日の小斎では、身分の高下を問わず、みな青摺りの袍を着る」とある。『貞観儀式』大嘗会の儀には、「……青摺りの袍をそれぞれ一領。【表は山藍で摺り染め、裏は浅緑。】」また、「祭りの前日……夕暮れ、参議以上は宮内省に赴いて斎服を受ける。神祇官の伯以下、琴を弾く者以上の十三人には、それぞれ榛藍摺りの綿入れの袍一領、白袴一腰。史生以下、神服以上の百三十七人には、それぞれ青摺りの布の衫一領……。次いで、小斎を行う親王以下・諸官人、内侍以下・女孺以上に、青摺りの袍をそれぞれ一領与える。【五位以上は男女を問わず、薄い紅と濃い紅を組み合わせた垂れ紐とし、ほかは結び紐とする。祭りも宴会も同じ衣を着て、日蔭の鬘を加える。】」とある。『延喜大嘗祭式』にも、「……小斎の親王以下は、みな青摺りの袍。五位以上は紅の垂れ紐【薄い紅と濃い紅を組み合わせる】、ほかはみな結び紐。内親王および命婦以下・女孺以上も青摺りの袍、紅の垂れ紐【五位以上は同じく濃淡を組み合わせる】、ほかは結び紐。【親王以下・女孺以上、みな日蔭の鬘を着ける。】」とある。先の「内親王」は「内侍」の誤りだろうか。

【宣長の注釈・祭服の規定の続き】『縫殿式』には、新嘗祭の小斎の諸司用として、「青摺りの布の衫三百十二領。【細布百三十領、佐渡布百八十二領で、一領につき二丈一尺。】縫料四丈、貲布六端一丈二尺。【一つにつき長さ二尺二寸、幅六寸。】山藍五十四囲半、模の糊にする米二斗四升八勺、生糸四絇、紅花は大斤で十五斤五両……。中宮の小斎人に青摺りの細布の衫四十九領……、緋の紐の材料……」とある。【「別」とあるのは、衫一領ごと、緋の紐一条ごと、という意味。「模」は摺り出す模様の型で、『小右記』にも「青摺の模」と見える。「飯」は糊の材料だろう。糊を混ぜて摺るのだろう。】『造酒式』の即位に伴う大嘗祭への供奉料にも、「……青摺りの調布の衫四十領。【四領には赤紐を付け、小斎人四人の分、三十六領は大忌人三十六人の分。】……小斎・大斎の人に、青摺りの調布の衫を充てる」とある。【これは造酒司の小斎・大斎の人である。】『四時祭式』の鎮魂祭の官人以下の装束料には、「伯以下・史以上の七人、宮主一人は榛摺りの袍……。それぞれ青摺りの袍一領、袴一腰を賜る」とある。

【宣長の注釈・『西宮記』の引用】『西宮記』新嘗会の条には、「小忌の王卿以下は、青摺りの布の袍、日蔭の鬘、浅沓などを着ける……。大忌の王卿以下は平常どおり……。豊明の日、小忌の王卿は青摺りの布の袍、赤紐、日蔭の鬘などを着ける……」とある。また五節の舞姫について、「節会の夜は羅の青摺りの長い袂……左右に赤紐を付け、日蔭の鬘を着ける」とある。臨時祭の条には、「舞人の装束は青摺りの布の袍。赤紐は左側に付ける。ただし小忌の時は右側……」、陪従の装束にも「青摺りの布の袍、赤紐……」とある。神今食の条には、「小忌の王卿以下は、新嘗会と同じ青摺りを着る。ただし鬘はない」とある。

【宣長の注釈・『雅亮装束抄』の引用】「小忌の着方。束帯の上に青摺りを着る。摺りの色は青く、梅と雉を摺る。公卿・殿上人から蔵人まで、五節の節会の日や大嘗会などに着る。……裾はこれも一重なので、舞人と同じように、下襲の裾に縫い留める。これにも赤紐があり、右肩の上にその中央を縫い付け、前後に下げる。後ろは脇に留めるのがよい。……また、舞人の装束は……その上に青摺りを着る。前は闕腋のように下襲の上に着る。狩衣の裾を長くした形に、山藍というもので竹桐と鳳凰を摺ってある。青摺りの裾は一重だが、下襲の裾の上に中央の縫い目どうしを合わせ、闕腋と同じように留め、裾を掛けるのも闕腋と同じである。左の袖の縫い目の上方に赤紐を付ける。後ろへ下がる方は、受け手の中に通して下げ、前は青摺りを一針留めた所から下げる。赤紐は幅五分ほど、途中に総角結びをし、裏表の下がった所に蜷結びをして、平たい貝を押してある。濃い打紐一本と、蘇芳の打紐一本がある。」

【宣長の注釈・装束の説明の続き】『続抄』には、「諸司の小忌は、身頃二幅、左右の袖が各一幅、計四幅。紙縒りで留める……。大嘗会または豊明節会での小忌の袍の着順は、ただ闕腋と同じで、袍を小忌に替えるだけ。衛府の官人でなくても、小忌では闕腋の形にする」とあり、摺り方も記されている。同書に「赤紐は濃い打紐と蘇芳の打紐で、細い平紐。小忌は右肩、舞人は左肩に付ける。舞人は片肌を脱ぐため」と見える。ある書物には、「赤紐は長さ八尺、幅三分余り。赤二筋、黒二筋で、蝶や鳥の下絵、あるいは貝を押す。地は平絹か綾。一筋ごとに十二の結び」とある。これらの書物で小忌というものも青摺りというものも、同じ青摺りの衣で、新嘗などの小忌人の衣を小忌、臨時祭の舞人の衣を青摺りと呼び慣らす。仕立てが少し違うだけだという。赤紐を小忌では右肩、青摺りでは左肩に付けるのは、舞人が片肌を脱ぐためだと、前の書にあったとおり。現在、この紐は緋色の羅で組む、とある人はいう。この種の衣服も、時代とともにしだいに姿を変えたことは、これらの書物に順次現れる赤紐から分かる。

【宣長の注釈】「払」は、上巻に「天の詔琴が木に触れて、地が動き鳴った」ともある。ここは、庭のたまり水で赤紐がぬれたことをいう。「青皆……」の「青」は諸本にはないが、真福寺本に従った。青摺りの色をいう。【この字がないと、言葉が足りない感じがする。】「変紅色」は、師の「あけになりぬ」という読みがよい。【赤はもと「あけ」で、それを「あか」というのは、酒が「さか」、竹が「たか」となるのと同じ。「変」は「かへりぬ」とも読める。一般に色が変わることを「かへる」ともいう。】上巻にも「肥河が血に変わって流れた」とある。「口日売」は、『日本書紀』では国依媛とする。「仕奉」は、もとから宮仕えをしていたこと。それで、この時も御前にいた。「やましろの」は「山代の」。「つつきのみやに」は「筒木の宮に」。筒木は前に出た。ここは奴理能美の家だが、【前に見えるとおり】、今、大后がおいでなので宮という。【先に殿戸というのも同じ理由。】「ものまをす」は「物申す」。『万葉集』巻十六に「石麻呂に、私は申し上げます……」とある。

【宣長の注釈・「物申す」の続き】『古今集』の旋頭歌にも、「見渡した向こうにいる人に、物申す私は……」とある。【契沖はこれらの歌を引き、次に話を切り出す初めの語だとする。『万葉集』『古今集』の歌にはよいが、この歌には合わない。ここは口子臣が申し上げている様子を詠むからだ。】この歌では、次の句につなげて理解する。「あがせのきみは」は「私の兄上は」。『日本書紀』ではこの句を「わがせをみれば」とする。『古事記』のままではどうだろう、伝え誤ったのかもしれない。『書紀』の方がよいので、それに従って解すべきだ。兄が降る雨にぬれ、たまり水に浸かり、庭で恐れかしこまっているつらそうな姿を見ると、という意味になる。

【宣長の注釈】「なみたぐましも」は「涙ぐましいことだ」。【「涙」の「た」は普段は濁らせるが、ここも『日本書紀』も『万葉集』巻五も「多」と書く。もとは清音だろうか。ただし『万葉集』巻二十の二か所は「太」で、この字は濁音である。】契沖は、涙ぐむ・葦が角ぐむなどは、芽を出す意味だという。【芽ぐむも同じ。】「ぐむ」を「ぐまし」というのは、直接そうだと断定せず、その様子をやわらかくいう語だ。ここは、兄の姿を見ると悲しくて涙がこみ上げる、という意味である。【前の句を『古事記』のままにすると、口子臣が涙ぐんでいるのを見たことになる。それでは一首の意味もはっきりせず、大后が理由を尋ねることにも合いにくい。】『万葉集』巻三に、「妻と来た敏馬の崎を、帰りに一人で見ると涙ぐましい」、『後撰集』に、「昔なじみの野中の清水を見るだけで、こみ上げるのは涙だった」とある。「問其所由」は、「見ると涙が出る」と詠んだのは、どういう理由で、それほど悲しいのか、とお尋ねになったこと。「僕之兄……」の前には、「あの人は」を補って理解する。

【宣長の注釈・『日本書紀』の引用】『日本書紀』はいう。「冬十月、甲申を朔とする日に、的臣の祖、口持臣を遣わして皇后を呼び戻そうとした。【一説に、和珥臣の祖、口子臣。】口持臣は筒城の宮に着き、皇后を説得したが、皇后は黙って答えなかった。口持臣は降る雨にぬれ、夜昼を重ねても、皇后の御殿の前に伏して避けなかった。妹の国依媛は皇后に仕え、ちょうどそばに控えていた。兄が雨にぬれるのを見て涙を流し、歌った。……皇后は国依媛に、『なぜ泣くのか』と問うた。『今、庭に伏してお目通りを願っているのは、私の兄です。雨にぬれるのも避けず、なお伏してお目通りを求めるので、悲しくて泣くのです』と答えた。皇后は、『兄に帰るよう伝えなさい。私は決して戻らない』といった。口持臣は帰り、天皇に復命した。」【本文の「雪」は「零」、降る、の誤りだろう。】

【古事記本文】そこで口子臣、その妹の口比売、奴理能美の三人は相談し、天皇にこう奏上させた。「大后がお出かけになったのは、奴理能美の飼っている不思議な虫をご覧になるためです。その虫は、ある時ははう虫、ある時は卵、ある時は飛ぶ鳥となって、三つの姿に変わります。この虫を見るため、お入りになっただけで、ほかのお気持ちはございません。」これを聞いた天皇は、「それなら不思議に思うので、見に行きたい」とおっしゃり、大宮から上って奴理能美の家へお入りになった。ちょうど奴理能美が自分の飼う三種に変わる虫を大后に差し上げていた時だった。天皇は大后のおいでになる御殿の戸にお立ちになり、歌われた。

【古事記の歌】つぎねふ、山代女が、木鍬で掘り出した大根のように、さわさわと、あなたが騒がしくおっしゃるものだから。見渡す木の枝葉が盛んに茂るように、大勢のお供を連れて、私は入って参りました。

【古事記本文】この天皇と大后の歌われた六首は、志都歌に対する返歌である。

【宣長の注釈】「三人」は「みたりして」と読む。『万葉集』に「一人して」「二人して」などの例が多い。「令奏」は、人を難波の宮へ遣わして奏上させること。「大后幸行」は、今回、山代へお出かけになったことを広くいう。【奴理能美の家へ出かけたことだけをいうのではない。】「匐虫」は、普通に虫全般をいう。【ただ鳥を飛鳥というのと同じ。】虫ははう物だからである。雄略紀の御歌の「はふ虫」、大殿祭の祝詞の「はふ虫」、神代紀・大祓詞の「昆虫」、継体紀の「地に伏す虫」などの例がある。『和名抄』には「『唐韻』に匐は虫が進むこと。『はふ』と読む」とある。

【宣長の注釈】「殻」は、旧印本と別の一本などは「鼓」、真福寺本は「穀」、延佳本は「榖」とするが、いずれも誤りなので、ここで改めた。「殻」は卵で、「かひこ」と読む。『和名抄』に「卵、和名かひこ」とある。殻のこと、この字を鼓と誤る例などは、中巻、日代宮の段の建貝児王の下で詳しく述べた。【『伝』巻二十九の三十二葉。】合わせて考えてほしい。「飛鳥」は、旧印本と別の一本などが「非虫」、延佳本と別の一本が「蜚」とし、ここは真福寺本に従った。【「蜚」は、後人が勝手に改めたのだろうか。前に「飼う虫」、後に「三種の虫」とあるので、変化しても虫のはずで、鳥ではない、と思ったのだろう。「蜚」は「飛」と通うので、「蜚虫」とあるべきところ、後の「虫」が脱落したのか。ただし「蜚」は虫の部なので、一字を飛ぶ虫という意味で書いた可能性もある。「非虫」は、「蜚」を誤って二字にしたか、「蜚虫」の前の字の「虫」を脱落させたのか。】

【宣長の注釈】「飛鳥」は、単に鳥をいう。飛ぶ物だからだ。もし「蜚」の本文に従うなら、師の「とぶむし」という読みに従うべきで、羽のある飛ぶ虫をいう。【延佳が『和名抄』の「蜚蠊、和名つのむし」を引き、そのように読むのは誤り。】その場合、先の「匐虫」は、飛ぶものに対して飛ばない虫、殻も虫の卵となる。しかし、なお「飛鳥」の方がよいと思う。【「飼う虫」「三種の虫」とあるため、飛ぶ虫とする方が穏当そうだが、飛ばない虫が飛ぶ虫になるのは、それほど不思議なことではない。普通に蟻なども急に羽ができて飛んで行き、ほかにも同類のことは常にあるのだから。】「三色」は、師の「みくさ」に従う。『日本書紀』などにもそう読み、次の「三種の虫」と同じだ。【新年祭の祝詞などの「種々色物」は必ず「いろ」と読むが、一般に三種・四種を「みいろ・よいろ」、種々を「いろいろ」というのは、「色」の漢字から生まれたようで、古語とは思えない。昔は、白黒などの色以外には「いろ」といわなかっただろう。】

【宣長の注釈】「奇虫」。ある時は鳥にもなる物なのに、一方だけを取って虫とは呼びにくいはずだ。それを前でも「飼う虫」、次でも「三種の虫」というのは、初めは普通の虫だったのが、後に卵にも鳥にも変わるようになったのだろう。そこで初めの姿によって虫というのだ。【初めから虫なら「ある時は虫に変わる」とはいえない、と疑う人もあろうが、それは変化が始まって以後の状態をいう。卵になり、鳥になり、また虫に戻り、常に次々と三種に変わるのである。「一度は」は、虫になる時も、卵になる時も、鳥になる時もある、という意味。しかし初めはただ虫だったことは、「飼う虫」「奇虫」の表現から分かる。また、三種に変わるのに特に虫と呼ぶのは、卵や鳥より虫でいる時間が長いためかとも思ったが、そうではあるまい。中国では鳥獣虫魚の総称を「虫」というので、その意味かとも思うが、日本でそのようにいった例は聞かない。】

【宣長の注釈】「看行」は「みそなはしに」と読む。諸本の「者」は「看」の誤りなので、用例によって改めた。【延佳本が「行」の下に「見」を補うのも、やはりよくない。また「者」はもとのままで、その下に「看」が脱落したのかもしれない。】例は、中巻、倭建命の段の「その神を見ようと行き、その野に入られた……」、朝倉宮の段の「天皇が、その浮き尽くした葉をご覧になり……」などだ。【後の例の「看」も諸本は「者」と誤るが、真福寺本・延佳本は「看」である。】「看行」は倭建命の段で詳しく述べた。【『伝』巻二十七の五十三葉。】「虫」の下の「而」は読まない。【「ご覧になろうとして」とも読めるが、よくない。「随……而」の所でも「而」を読まないのと同じ。】「耳」は「ことなれ」と読むことを首巻で述べた。「無異心」は「けしきみこころはまさず」と読む。【大后のことを奏上する言葉なので、「心」は「御心」、「無」は「坐さず」と敬語にする。】これ以外に別のお考えはございません、という意味。上巻の「……参上しただけで、別心はない」と同じだ。

【宣長の注釈】「然者吾」は「欲見行」へかかる。【「思奇異」へつなげて読んではいけない。】「欲見行」は「みにゆかな」と読む。【「見行」を旧印本・延佳本などは「行見」とするが、真福寺本と別の二本などに従う。】「な」は「む」と同じ古語である。「大宮」は、難波の都の皇大宮。「上幸行」の「上」は、山代川を御船で上られることをいう。

【宣長の注釈・『日本書紀』の桑の歌】『日本書紀』には、「十一月、甲寅を朔とする庚申の日、天皇は川を船で進んで山背へ行幸した。桑の枝が流れてきたので、ご覧になって歌われた」とあり、歌は「つのさはふ 磐之媛が おほろかに きこさぬ うら桑の木、寄るましき 川の隈々 よろほひ行くかも うら桑の木」である。――磐之媛が、決して粗末にはおっしゃらない、美しい桑の木。寄るはずもない川の曲がり角ごとに、寄りかかりながら流れて行くことだ、美しい桑の木よ。【「おほろか」は粗末。「きこさぬ」は「おっしゃらない」。『書紀』の古い歌には、「のたまう」を「きこす」という例が多い。「うらぐは」は「うらぐはし」を桑に掛けた語で、うるわしい桑のこと。桑は養蚕に使い、女性が大切にして粗末にしないので、大后がいつも粗末にはおっしゃらない愛しい桑、といった。「よろほひ」は寄りかかること、「ほひ」はその様子だ。大后がそれほど大切になさる物で、川に散り流れるはずもないのに、曲がり角ごとに寄りながら流れて行くことよ、と、桑を見るにつけても大后を思う御歌である。契沖の解釈などは甚だしく誤っている。】

【宣長の注釈】「所養之」の「之」は諸本にないが、真福寺本に従った。【『古事記』では、このような所は多く「之」がある。】「三種虫」の前に「変」が落ちたのか、と師がいわれたのは、確かにもっともだ。しかし諸本すべてに「変」がないことから、さらに考えると、この虫はもともと一匹だけではなく、多くいたのだろう。ある時点に、虫のもの、卵のもの、鳥のものが交じっていたのだろう。その状態によって「三種」ともいえる。【そうなら現に鳥のものまで虫とは呼べそうにないが、すでに前でも虫といっているのだから、何の差し支えがあろう。】「献於大后」は、天皇を大后のもとへ入らせ、お二人の仲を取り直すための策略である。「御立」は、『万葉集』巻二の「お立ちになった島を見る時」、巻五の「お立ちになった石を誰が見たか」、巻十九の「船のともにお立ちになって」の例がある。

【宣長の注釈】「つぎねふ……」からの四句は前に出た。「さわさわ」の序であり、今回、山代へ行く道中でご覧になったことを詠まれた歌だ。したがって、先の「ねじろの、しろただむき」という御歌も、『日本書紀』ではこの歌の次に置かれ、同じ時のものとなっている。『古事記』が別に先に出したのは、伝承の混乱だろう。【昔、この種の歌は、実際に見聞きする物に即して詠み出し、関係のないよそのことを引き寄せて詠むことは、ほとんどなかった。根白の御歌も、必ず今回詠まれたと思われるので、『日本書紀』が正しかったのである。】

【宣長の注釈】「さわさわに」。【「爾」を真福寺本は「邇」とする。】前からのつながりでは、清々しく清潔なことをいう。大根は色も味も非常に清潔だからだ。『日本書紀私記』にも、「大根の根をかむ時、さわやかである」とある。【契沖はこの説を不確かだとし、木鍬で畑を打つ音だとするが、大きな誤りだ。そうなら「大根を打つ、さわさわと」とあるはずで、「打った大根」とはどうしていえよう。また鍬で土を打つ音がどれほどあるか。「さわさわ」というほどの音がしようか。】「わ」と「や」が通い、「さわさわ」は「さやさや」と同じ。それを騒がしい意味に転じて詠まれたのである。騒がしい様子をいう例は、上巻の「口の大きな、尾ひれの鱸が、さわさわと寄り集まり」にあり、そこの注を照らし合わせてほしい。【『伝』巻十四の六十九葉。】大后が嫉妬して、騒がしくおっしゃることだ。清々しい意味と騒がしい意味を通わせる例は、明宮の段の国栖人の歌の「樫の木の、さやさや」にもある。【前からの続きは騒ぐ意味だが、歌の本意は清々しさ。『伝』巻三十三の四葉も考えてほしい。】

【宣長の注釈】また『万葉集』巻四の「玉衣の、さゐさゐ沈み」、巻十四の「あり衣の、さゑさゑ沈み」も同じだ。【「あり衣」は鮮やかな衣。これには考えがある。】「さゐさゐ」「さゑさゑ」は「さやさや」と同じで、ヤ行の音とワ行の音が通う。前から続く意味は清潔さである。【鮮やかな衣の清潔さ、というつながり。また、衣ずれの音につなげたのかもしれない。『源氏物語』初音に「黒い搔練りの、さゐさゐしく張った一襲……」とあり、注に「さゐさゐしくは、さやさやと鳴る意味」とする。司馬相如の『子虚賦』の「萃蔡」も、『漢書音義』に衣の音とする。「さゐ」「さい」「さるさる」は互いに通じる。】それを騒がしい意味へ通わせたのも、同じだと考えてほしい。【師は「さわさわ」は清々しさで、先の歌にも同じたとえがあり、白い腕といったので、ここは省いて、清らかな大后の白い腕が忘れられず遠くまで来た、という意味だとする。しかし言い方に合わない。その意味なら「清らかであればこそ」「清らかであるため」といわなければ分からない。】

【宣長の注釈】「ながいへせこそ」は「あなたがおっしゃるからこそ」。「あなた」は大后、「こそ」は助辞だ。【だから結びが「くれ」となる。】「あなたがおっしゃるのでこそ」の意味で、「ば」を省くのは古歌の普通の形である。【「いはせこそ」のはずなのに「いへ」とある「へ」は、単なる音の通用だろうか。しかし、このような活用は厳密で、勝手に音を変えない。思うに「はせ」を縮めると「へ」なので、後に「せ」は残っていても、その音に引かれて「へ」となったのかもしれない。そうした例もある。「わが大王」を『万葉集』で「わぎ大王」とするのも、次の「お」の音に引かれ、「が」が「ぎ」になったのだ。契沖が、ここは「いへれこそ」で、「せ」と「れ」は同韻なので通う、とするのは、意味は違わないが精密でない。古語には「言ふ」を「いはす」、「聞く」を「きかす」とする形があり、ここの「せ」は「す」の活用だから、「いへれこそ」と同じではない。古語で「見」を「みし」、「見る」を「みす」とし、その活用を「せ」とするのも同様。継体紀の「わがみせば」も意味は「見れば」だが、言い方が違う。これに準じて理解してほしい。師がこの句を「あなたの夫だぞ」とされたのは誤りである。】

【宣長の注釈】「うちわたす」は「向こうを見渡す」ことだ。『万葉集』巻四の「見渡す竹田の原に」、『古今集』の「見渡す向こうの人に」など、どれもそうだ。【中世までのほかの例も同じ。『後撰集』の「うち渡し 長き心は 八橋の 蜘蛛手に思ふ ことは絶えじ」は、橋にちなみ、その長さを見渡すように、末長い心で、八橋の枝分かれのように思い続ける、という歌だ。『拾遺集』の「舟岡の 野中に立てる 女郎花 渡さぬ人は あらじとぞ思ふ」も、舟にちなみ、見渡さない人はいない、という意味。古歌の「世の中は 夢の渡りの 浮橋か うち渡しつつ 物をこそ思へ」の第二・第三句は、『万葉集』に詠まれた吉野の「夢のわだ」と、そこに渡した浮橋で、「うち渡し」というための表現。歌意は、つらい世の中に、じっと眺めながら物思いすることだ。思い悩む時、物をつくづく見渡して眺めるのを、うち渡しつつ、という。俊成卿の「都出でて 伏見を越ゆる 明け方は まずうち渡す 瀬川の橋」も、まず見渡すこと。『夫木集』の「堀川の 堰の井杭の うち渡し 逢はでも人に 恋ひ渡るかな」は、人を遠く見やるだけで逢えないことだ。】

【宣長の注釈】このとおりなので、中世までは人々がみな意味をよく理解していたらしい。近世になると知る人がなく、みな誤解して、遠いこと・長いことだ、などという。前に引いた歌には、遠い・長いでは理解できないものがあり、それで誤りと分かる。【『後撰集』の例でも、長さは橋についていう語なのだ。】「やがはえなす」の「や」を『日本書紀』が「那」とするのは、「耶」の写し間違い。【『書紀』の「那」によって、契沖が、かえって『古事記』の「夜」を写し間違いか同韻の通用かと疑い、師も『書紀』に従って「奈」の誤りとされたが、いずれも逆の誤りだ。「うちわたす」は必ず長い意味だと思い込んだため、『書紀』の誤写に気づかなかった。『古事記』には「奈」を仮名に使った例がない。】

【宣長の注釈・祝詞の用例】この句は、春日祭の祝詞の「……平らかに、天皇の朝廷に、いかしやぐはえのように仕え、栄えさせたまえ……」、平野祭の祝詞の「親王・王・臣・百官らを夜も昼もお守りになり、天皇の朝廷を、いよいよ高く、広く、いかしやぐはえのように盛んに栄えさせ、仕えさせたまえ……」の「やぐはえのごとく」と同じ語である。師の『祝詞考』は、「いかし」は『日本書紀』で厳・重、諸祝詞で茂と書き、盛んに満ち、勢いが厳かなこと。「やぐはえ」は「いや木栄え」で、木がいっそう茂り栄えること。木が繁る所を「はやし」、また「はえ」というのも、この「栄え」である。今、遠江の人が草木の孫枝の茂ることを「やごばえ」というのもこれだ。この語は、もとあった古語を使ってたとえたのだ、という。そのとおりだろう。「木」を「が」「ぐ」とも通わせたのだろう。【ただし「やが」「やぐ」は「いや木」でなく、別の一語かもしれない。しかし全体の意味は右のとおり。後世の「いやがうえ」も「弥之上」ではなく、「やがはえ」がなまったのだろう。】「なす」は「ように」。【祝詞には、まさに「ごとく」とある。】

【宣長の注釈】ここでこう詠まれたのは、連れて来られた諸司のお供の人々が多く、盛んに集まるのを、枝葉の茂りにたとえたので、意味も祝詞とまったく同じだ。【祝詞も王族・臣下・百官が盛んに栄えるたとえ。この語は、この御歌をはじめ、ほかでも使う古語があって、祝詞はそれを取り入れたのだろう。】これも、その時に見渡された梢を使ったたとえなので、前に「うちわたす」とある。【『書紀』の今の本の「那」が「耶」の誤りだと分かる人がなく、契沖は「長延」として、縄などを長く延ばしたように長い道を行幸した意味だ、とする。ほかにも長延説はあるが、みな合わない。「延びる」は「はへ」であり、「延(え)」と「閇(へ)」とは、仮名の字も違うのに。】

【宣長の注釈】「きいりまゐくれ」は「来て、入って、参って来た」。「まゐ」を「まゐり」の下を省いた形とするのは、語の本末が逆だ。「まゐり」は「参り入る」、「まうで」は「参り出る」で、「まゐ」こそ語のもとである。中巻、白檮原宮の段の歌に、「忍坂の大室屋に、人が大勢、来て入っている」、『万葉集』巻四に「遠い道を、手間をかけて参って来て」「持って参ろう」、巻二十に「……私は参って来よう」とある。一首全体は、「あなたが嫉妬して騒がしくおっしゃるからこそ、私は多くのお供を連れ、狭苦しく煩わしいのに、わざわざ来たのだ」といわれたのである。【「いや木栄え」にたとえてお供が多いというのは、行幸が簡単ではなく、煩わしいことをいう。】

【宣長の注釈】「所歌」は、師の「みうたはしたる」という読みがよい。動詞にも「み」を添えるのは「御寝坐」「御立」などと同じである。「六歌」は「むうた」、六首のこと。【「むつのみうた」と読みそうだが、ここはただ数をいうので「むうた」とすべきだ。一般に歌の数をいう時は「いくうた」というのが雅語の常で、『古事記』にも二歌・三歌・四歌とある。】前の「山代川を川上り」からここまでの七首から、口比売の一首を除いて六首である。【直接、大后と詠み交わしたのでない歌も交じるが、それも大后との間柄についての御歌なので、ひとまとまりにこういう。】

【宣長の注釈・『日本書紀』の後続記事】『日本書紀』には、「翌日、天皇は筒城の宮へ行って皇后を呼んだ。皇后は参上して会おうとしなかったので、天皇は歌われ……また歌われた……。皇后は人を介して、『陛下は八田皇女を迎えて妃とされました。私は皇女と並んで后でいようとは思いません』と奏上した。皇后はとうとうお会いしなかったので、天皇は宮へ帰った。天皇は皇后を恨んでひどく怒ったが、なお恋しく思われた」とある。また、「三十五年夏六月、皇后磐之媛命が筒城の宮で亡くなり、三十七年冬十一月、壬戌を朔とする乙酉の日に奈良山へ葬った」とある。【『諸陵式』には「平城坂上墓、磐之媛命……」とある。】

【宣長の注釈】「志都歌之返歌」。この段の末にも同じ表現がある。そちらでは諸本がどれも「歌返」とし、延佳本だけが「返歌」とする。ここも諸本は「返歌」だが、真福寺本は「歌返」。考えると、「歌返」の方が正しいだろうか。【そうなら、段末は字の順を取り違えたのでなく、延佳本が例によって勝手に「返歌」へ改めたのであり、ここの諸本も上下を取り違えたことになる。】もし「歌返」なら「うたひかへし」と読むのだろうか。しかし、やはり「返歌」の方が意味が穏当で、「夷振之上歌」などの形にも合うので、ここも後の箇所も、ひとまず「返歌」に従っておく。

【宣長の注釈・志都歌】志都歌は、朝倉宮の段にも二か所に見える。【どちらも「志都」で、「都」は清音。「倭文」の「つ」も普通は濁るが、古書では清音の「都」と書くので、「静」の「つ」も昔は清音だったのだろう。】神楽歌の古本に、「……次、薦枕、静歌。【拍子は十、本・末それぞれ五。】尻上。【拍子は十四、本・末それぞれ七。】」とある。また裏書に、「前の宮人・木綿志天・前張の三首は、それぞれ静歌を二返。続いて琴の拍子を打ち、尻挙を二返……」と見える。韓神の歌にも静韓神・早韓神がある。「早」に対して「静」ということから、志都歌は、ゆっくり歌う意味の名だろう。

【宣長の注釈・返歌の資料】返歌については、『古今集』の大歌所の歌、神楽歌の中に「返し物の歌」として「青柳を片糸に縒って……」を載せる。神楽の「青柳」の歌である。【「返し物の歌」は、この一首の題。『袖中抄』が次の「真金吹く」の歌も続けて挙げるのは誤りで、そちらは別に注がある。】『古今六帖』の琴の歌には、「吾妻琴 春の調べを 借りしかば 返し物とは 思はざりけり」とある。【『伊勢集』の詞書では、故中務宮が琴を借りられた時、とあり、伊勢の答歌も『六帖』に載る。】『袖中抄』の返し物の条は、これらを引いて、次のようにいう。「神楽譜に、『朝倉、吹返し、催馬楽拍子……。朝倉や木の丸殿に……。この歌を御前の返歌とする。延喜二十一年の勅定である。神楽を奉仕する時は榊の音振りで歌う。また、星が終わると弦・管をかき返し、催馬楽の歌人が朝倉を奉仕する』とある。私が考えるに、朝倉を歌うのを『朝倉を返す』といい、吹返し、弦・管をかき返す、催馬楽拍子ともいう。『返す』とは、笛も琴も別に調子を改めることか。催馬楽拍子というので分かった。……」【以上が『袖中抄』。】

【宣長の注釈・音楽書の資料】『江次第』の石清水臨時祭の儀には、舞人が階を出て返歌に従って退出するとあり、抄に「反歌は大比礼返しである」とある。『源氏物語』若菜上には、「歌を歌う人々を御階に召し、すぐれた声を出し尽くして返り音になる。夜が更けるにつれ、楽器の調べも親しみ深く変わり、青柳を奏する……」とあり、注では「返り声になるとは、呂から律になること」とする。『体源抄』も、「返り声で青柳を歌う」とは、律の声を返り声ということだ、とする。【これは、律の声すべてを返り声と呼ぶのでなく、呂の声から変わって律になったことをいう。】また、「朝倉返し」とは朝倉の歌を催馬楽の拍子で歌うことで、神楽は一越調だが、催馬楽の拍子に琴を調えるのだ、という。【これも『袖中抄』の「星が終わると……」の所を見て理解してほしい。】

【宣長の注釈・返歌の結論】以上を合わせて考えると、調子が変わることを「返る」という。物の上下が変わるのを「覆る」、裏表が変わるのを「翻る」というのと同様で、調子が変わるのは、呂から律へ転じることだ。その調子を変えた時に歌う歌を「返歌」といい、「返し物」も同じである。【「青柳」は調子が律に変わる時に歌うので返し物と呼ぶ。『源氏物語』の「楽器の調べも親しみ深く変わって」は、呂から律に変わる様子。『六帖』の歌は、春の調べは呂で、律ではないので、返し物だとは思わなかったといい、借りた琴を返すべき物とは思わなかった、と掛けて戯れたのである。『袖中抄』が朝倉を御前の返歌とするのも、調子の変わる時に歌うものと定めたこと。「朝倉を返す」も、調子を変えてその歌を歌うことで、朝倉返しとはこれだ。その時は旋律も拍子も、みな変わるらしい。「大比礼返し」も、返歌として大比礼を歌うことである。】

【宣長の注釈・古代への適用】そもそも、楽器の調べや歌を呂・律に分けるのは、中国の定めによる後世の制度である。【ただし日本では、どういう理由か呂・律の名が中国と逆で、日本の呂は中国の律、日本の律は中国の呂である。漢学者は不審に思わないでほしい。】それなのに、ここの返歌を、調子が変わることとして説明するのはどうか、と思う人もあろう。しかし呂・律という名前は後のものでも、古代から歌声や楽器の調べには、おのずと強い・柔らかいという違いがあったはずだ。それを切り替えて歌うこともあり、返歌と名づけたであろうことを、どうして疑う必要があろう。【そのようなやり方が古代から伝わり、それを受け継いで、後世にも同じことをするのである。】

古事記伝 巻三十七。高津宮の下巻。本居宣長著。

【古事記本文】天皇は八田若郎女を恋い慕い、歌を贈った。

【古事記の歌】八田の一本の菅は、子も持たず、立ち荒れてしまうのだろうか。惜しい菅原よ。言葉の上でこそ菅原というけれど、実は惜しい、清らかな女性よ。

【古事記本文・八田若郎女の返歌】八田の一本の菅は、たとえ独りでいても、大君がそれでもかまわないと仰せになるなら、独りでいてもよいのです。

【古事記本文】そこで八田若郎女の名を伝える御名代として、八田部を定めた。

【宣長の注釈】天皇が八田若郎女を恋う話は巻三十六に出た。賜遣は「おくりたまへる」。字のままでは言葉がよくないので、賜は贈の誤りかもしれない。夜多能は三音句で八田の。地名は巻三十二十一丁で説明した。比登母登須宜波は一本菅はで、神代の歌の一本薄と同じ類。和名抄の菅はすげという。皇女をたとえたもので、女性を菅にたとえる例は万葉巻七の「真珠つく越の菅原、私は刈らない。人が刈るだろう、惜しい菅原」、巻十三の「しな立つ筑摩さ野方、息長の遠智の小菅。編み連ねるにも足らず、敷くにも足らぬのに刈り持って来て置き、私に慕わせる、遠智の小菅」などがある。

【宣長の注釈】古母多受は子も持たずして。ここのズは後世ならデだが、古語にデはなく、万葉の歌もみなズと読む。契沖は、筍を竹の子というように草木の元に寄って生えるものも子といい、皇女には皇子がないので一本菅にたとえ惜しんだ、とする。拾遺集にも、子を持つのは私だけか、高砂の松も子を持つ、という歌がある。多知迦阿禮那牟は立ちか荒れなむ、立ち栄えるの反対だと契沖はいう。以前私は阿を訶の誤り、枯れなむと考えたが、皇女へ贈る歌で不吉に枯れるとはいわないだろうと思い直した。それでもこうした歌の言い回しとしてありうるかもしれず、袁祁命の歌にも訶禮を阿禮と誤る例がある。阿多良須賀波良は惜しい菅原。

【宣長の注釈】許登袁許曾は言をこそで、ヲはニと同じ。後世ニという所にヲを使う例はほかにもある。軽太子の歌の「言をこそ畳といはめ」、催馬楽の「言をこそ明日ともいはめ」もそうだ。須宜波良登伊波米は菅原といおう、の意。先のすがはらをすげはらと少し変えるのは古歌に普通である。契沖は軽太子の歌を、言葉では畳よ慎めというが、本当は我が妻よ慎めという意味とし、この歌も実は菅原でなくあなたをいう、と説明する。私は、万葉の「口にいえばたやすいが心で軽く思わない」という歌と同じく、菅原と口でいえば軽々しいが実は惜しい女性だ、という意味とも考える。それでも契沖説が優るだろう。伊波米はここも引用二例も伊閇となるべきように思えても、よく考えれば伊波米で十分通じる。

【宣長の注釈】阿多良須賀志賣は惜しい清らかな女性。雄略紀の歌にも「惜しい工人よ」「惜しい須弥奈岐よ」の例がある。契沖は神代紀の吾心清清之によって、清い女とほめたとする。菅も清いので祓いに使い、すがすがしいという意味でスゲと名づけたから、まず菅にたとえたという。師は、すがしめはさかしめ・くはしめなどと同じ言い方とする。物語で女性の美しさをきよらなりというのと同じ心持ちだ。

【宣長の注釈】返歌の初めの二句は前と同じ。ひとりをりともは独りでいても。「をるとも」でなく「をりとも」とすることは巻十九三十五丁に説明した。子も持たずという天皇の歌を受ける。大君シのシは助詞。よしときこさばは、それでもよいと仰せになるなら、子がなくてもかまわないと続く。契沖が好とし、私を好ましいと仰せになるならとするのはどうか。自分のことをそのようには詠むまい。キコスを仰せになるの意で使う例は、書紀のこの天皇の「磐之媛が、はっきり仰せにならない」、万葉巻四の「心を込めて仰せになり、長い年月をというなら」などがある。巻四の手を今本は乎と誤る。巻十一の「知らないなら知らないと仰せよ、私の名を告げるな」、巻十二の「偽りでも会おうと仰せよ、恋の種に」、巻十三の「寝るなと母が仰せになっても」「行く君は仰せになった」、巻二十の「我が背子がこう仰せになるなら」もそうだ。語源は聞かせることだろうが、使う意味は単に仰せになる。言葉は語源だけを述べると実際の意味を外すことが多く、使用上の意味を主に解くべきだ。最後の独りでいてもには、子がなくても天皇が見捨てまいと仰せなら、独りでも頼もしくお慕いしよう、という意が込められる。

【宣長の注釈】御名代は巻三十五十丁、何々部については巻二十四十五丁を参照。旧事紀の物部氏系譜は、八田皇女を皇后とし皇子がなかった時、大別連に命じ皇子の代わりとして后の名を氏とし、氏造として矢田部連姓を賜ったとする。しかし后号を氏とする等は小賢しく改めた文で、氏造という表現もわからない。皇后の御子代に矢田部を定め、大別連を部造として矢田部連姓を賜った記事を、理解せず書き変えたのだ。同書にはこの類が多い。部造はその部を管理する者である。同書では皇女の母が物部の女性、大別連はその弟なので、その縁で八田部を管理させたのだろう。姓氏録は矢田部連・矢田部造・矢田部首を伊香我色雄命の後、矢田部を饒速日の七世孫大新河命の後とする。両命は大別連の先祖。ほかに鴨県主と同祖の矢田部もある。和名抄には摂津八田部郡の八部郷がある。書紀は三十八年春正月、癸酉を一日とする戊寅の日(六日)に八田皇女を皇后に立てたと記す。

【古事記本文】また天皇は弟の速総別王を仲立ちにして、異母妹の女鳥王に求婚した。女鳥王は速総別王に「皇后が激しく妬むため、八田若郎女をお迎えし寵愛することもおできになりません。だから私は天皇にお仕えせず、あなたの妻になろうと思います」といい、二人は結婚した。そのため速総別王は返事を申し上げなかった。天皇は直接女鳥王のいる所へ行き、殿の戸の敷居に座った。女鳥王が機に向かい布を織っていたので、天皇は歌った。

【古事記の歌】女鳥よ、私の大切な人よ。おまえが織っているその布は、誰のためのものなのか。

【古事記本文・女鳥王の返歌】空高く飛ぶ隼、その速総別王のおすひにする布です。天皇は内々の事情を悟り、宮へ帰った。

【宣長の注釈】速総別王は巻三十二十三丁に出た。媒は「なかびと」。催馬楽の浅水に、年を経た私を誰か仲人に立て、あなたを訪ねて来るのだろう、という例がある。中人の意味で今のなかうど。字鏡の奈加太豆の豆は疑わしく知だろう。なかだちも古名と思われる。女鳥王は巻三十二十一丁、乞は巻三十四三十四丁に説明した。女鳥王がいう前に、速総別が天皇の求婚を伝える言葉があるべきだが、仲立ちにして求婚とある中に含むので省いた。皇后は石之比売。强は「おずし」で、巻八四十九丁に説明したように、妬み深く気性が激しいこと。不治賜とは、望むままに迎え寵愛することもできないの意。治の語義は巻十二二十一丁に詳述した。不仕奉吾の吾は、仕えないの前へ移して解く。

【宣長の注釈】女鳥王の所坐へ直接行ったとは、単にその殿へ行ったと違い、彼女の座る場所まで直に入ったことだ。また速総別が返答しないので、自ら行った意味もあろう。所坐は座る所。上巻の不知所出が出ようとする場所を知らずの意味なのと同じで、所は形式だけの字でない。坐の下に処が落ちたという師説は違う。閾上は一本や釈日本紀所引では間だけで、それも悪くないが、真福寺本・延佳本などに従う。関とする一本は誤りで、旧版本は王から王まで十七字が落ちる。閾はしきみ。和名抄は門の限り、別名閫、和名しきみ、俗にとしきみとし、霊異記にもとしきみがある。敷いて戸を支えるので敷持の名か。

【宣長の注釈】賣杼理能は女鳥の、和賀意富岐美能は私の大切な人の。吾と親しみ敬っていう。淤呂須波多は織る服の意味。おるを延ばし、おらす・おろすというのは古語の普通の形である。ラでなくロになるのも、うつるからうつろふ、隠るからかくろふ、知るからしろしめすと同じ。ハタには機と、織物一般の二義がある。倭文布のしづはた、神功紀の千織・万織、天武紀の綾纈・綺の例でもわかる。機だけと思い、織物全体の意味を知らない人が多いようだが、機はハタを織る道具、はたものを省いたものだ。はとりを服部と書くのも、服を織る部だからである。はた織りも機を使って織る意味と布を織る意味の二通りがあり、書紀の表現なら機らしいが、次の句と合わせると布とする方が近い。

【宣長の注釈】多賀多泥呂迦母は誰のためのものか。多泥は必ず加泥とあるべきで、八千矛神の歌の茜を阿多泥とするのと同じく、加の草書を多と誤ったのだろう。返歌の速総別の御おすひがねと同語で、誰がかねかと問うためだ。タメをタネという例はないので、為とするのはよくない。ロとモは助詞で、巻三十二四十一丁に説明した。高行やは空を飛ぶような意味で、単なる高い所へ行くとは少し違う。巻二十五五丁の高く往く鵠の声の所で述べた。隼の枕詞である。波夜夫佐和氣能は速総別の。

【宣長の注釈】美淤須比賀泥は御おすひ用のもの。おすひは上代に姿を覆い隠すため着る服で、巻十一八丁に詳説した。がねは後の后がね・坊がね・博士がね・婿がね、すなわち将来その役になる人という言葉と同じ。あらかじめ準備するものの意味だから、おすひにする材料となる。万葉の何々がね・がにも、動詞などから続くだけの違いで同語。例は詞玉緒巻七に挙げた。天皇の誰用の布かという問いへ、速総別王のおすひ用だと答えるので、前の多泥も加泥である。前はノに続いてカ、ここはおすひに直結してガとなる。この返歌は、速総別が天皇の仲立ちをし、内密に言葉を伝えて通う時に着るおすひなのです、と取り繕ったのだろう。おすひは男女とも姿を隠す服だからだ。そう解さないと、求婚する天皇の前で、ためらいもなく速総別用だと公言することになり、いかに率直な上代の人でもありえない。必ず包み隠すはずだ。

【宣長の注釈】知其情の情は多くの本が落とすが、真福寺本・延佳本に従う。情は内々の実情で、心を裏ともいうように内と通じ、漢文も情状・情実という。返歌ではもっともらしく取り繕っても、実際は速総別と結婚し、忍んで通うための服を織るのだと、天皇は悟った。返歌を前述のように解かず何となく読むと、知其情という文が正確に当てはまらない。情は表向きの言葉に対する内実の意味なので、よく味わうべきだ。還入は「かへりましき」と読む。ここで入るは不要で、添えて書いただけだ。朝倉宮段の賜入、万葉巻二の奉入歌、祝詞式の斎内親王奉入時も、入を読まない例である。

【宣長の注釈・書紀引用】四十年三月、雌鳥皇女を妃に迎えようと隼別皇子を仲人にしたが、皇子は密かに結婚し、長く返事をしなかった。夫がいると知らず天皇が殿へ来た時、皇女は機を織り、女たちは「ひさかたの天の金機、雌鳥が織る金機は、隼別のおすひ用」と歌った。天皇は密婚を知り恨んだが、皇后の言葉を尊重し兄弟の情も厚く、忍んで罰しなかった、と書紀は記す。

【古事記本文】この後、夫の速総別王が来た時、妻の女鳥王は歌った。「雲雀は空に翔ける。空高く飛ぶ隼、速総別よ、近くの鷦鷯をお取りなさい」。天皇はこの歌を聞き、軍を起こして速総別王を殺そうとした。二人は一緒に逃れ、倉椅山へ登った。

【古事記本文・速総別王の歌】「橋立ての倉椅山は険しいと、岩を踏み渡りかね、私の手をお取りになる」。「橋立ての倉椅山は険しいけれど、妻と登れば険しくもない」。二人はそこからなお逃げ、宇陀の蘇邇へ来た時、天皇の軍が追いつき殺した。

【宣長の注釈】此時は誤字かという師の疑問はもっともで、後にも到来の時とあるためだ。前後に此後時・此時之後があるので、ここも時の前後に後が落ちたのかと考え、ひとまず「こののち」と読んだ。夫は「を」。須勢理比売の歌の、あなたを置いて夫はない、や和名抄の夫を乎とする注、後夫のうはを・前夫のしたをからわかる。到来はきませる。ひばりは雲雀で、和名抄は雀に似て大きい、和名ひばりとし、楊氏漢語抄の鷦鷚も同じ名とする。天に翔けるは飛んで高く昇ること。高行や隼別は前と同じだが、ここは名を呼び、そのまま隼にたとえた。

【宣長の注釈】さざき取らさねは鷦鷯をお取りなさい。取れをとらせと延ばし、さらにネとする形で、行けをゆかさね、遣れをやらさねというのと同じ。取れをとりね、行けをゆきねともいい、どれも同義だ。大雀命、天皇を殺してというたとえである。釈日本紀が、鷹は仁徳四十三年からだからそれ以前を鷹の技で解してはいけないとするのは当たらない。鷹狩りの開始はこの朝でも、鷹類は元から自ら鳥を捕る。雲雀は高く飛び捕りにくいから近い鷦鷯を取れというための句で、雲雀自体にたとえの意味はない。契沖の、雲雀のように隼も高く飛んで取れという説は書紀の歌にとらわれ、「雲雀は」という語勢に合わない。なぜ天皇殺害を勧めたかは、求婚に従わず速総別と結婚した以上、天皇から必ず咎められるのが恐ろしかったのだろう。

【宣長の注釈・書紀引用】やがて隼別皇子が皇女の膝を枕に横たわり「鷦鷯と隼ではどちらが速い」と聞くと、「隼が速い」と答えた。皇子は「それなら私が先なのだ」といった。天皇は聞いてまた恨み、皇子の舎人たちは「五十槻の上の隼は天へ昇り、天に翔け、鷦鷯をお取りなさい」と歌った、と書紀はいう。婆は瑳の誤り。天に翔けるを天位へ昇る意味とする契沖説は誤りで、この二句は隼の勢いだけをいう。伊菟岐は五十槻で、厳木はよくない。天皇が歌を聞いたのは伝え聞いたのだろう。欲殺は「とりたまはむとす」。殺すを取ると読むことは巻二十三六十丁で詳説した。逃退は「にげさり」。詞志比宮段末はにげしりぞきとしたが、ここは穴穂宮段の逃去と同じ表現なので、そうは読めない。

【宣長の注釈】倉椅山は大和十市郡にあり、崇峻の倉椅柴垣宮、諸陵式の倉梯岡陵と同じ土地。今の倉橋村は桜井から多武峰へ行く途中、山は村の東で、神名式の下居神社を文徳実録は椋橋下居神とし、今の下居村も倉橋の南に続く。天武紀七年に倉梯河上の斎宮、十二年十月に倉梯の狩り、続日本紀の慶雲二年三月癸未に倉橋離宮行幸がある。三代実録の貞観十一年七月八日には河岸が高さ二丈・深さ一丈二尺崩れ、幅一尺七寸の鏡を見つけ献上したとある。万葉巻三には、椋橋山が高いからか月の光が乏しい、巻七には橋立ての倉椅山に立つ白雲、同じ枕詞を付けた川の歌もある。二人が登ったのは、書紀によれば伊勢へ越えて行くためだった。橋立てのは梯立ての意味の枕詞で、倉の梯に続く理由を冠辞考が述べる。さがしみとは険しいために。字鏡も複数の山の険しい字へ佐加志の訓を付ける。この語を嵯峨の漢字音と思うのは誤りで、たまたま一致したにすぎない。

【宣長の注釈】伊波迦伎加泥弖は版本にカ二字の脱落、一本にキ・ネの脱落があるが、真福寺本・延佳本などに従う。岩に取りつくことができず、の意味。吾手取すものトラスはトルを延ばし、モは助詞で古歌に多い。険しい山を岩にすがり登る時、女鳥王はか弱い女なので岩に取りつけず、速総別の手を取るという歌だ。契沖は第四句を妹は来かねてとするが、どの本によるのか。毛を自分で加えたのかとも思うが、そういうことをあまりしない人で、大和志の引用も同じなので不審だ。師も採用したが誤りで、険しい山なら来かねてでなく登りかねてというはず。来ることができないのに私の手を取るのも矛盾する。肥前風土記は杵島という孤山に春秋男女が登り酒宴・歌舞をし、「霰降る杵島の高峰が険しいため、草を取りかねて妹の手を取る」という杵島曲を記す。熊とする字は疑わしい。この御歌を所々変えて歌に用いたものだ。万葉巻三の同趣の歌を仙柘枝の歌と題するのは誤り。荒木田久老は可奈和を可爾手の写し違いとする。
〔訳注:風土記の引用歌中の難字と、宣長が「熊字いかが」と疑問を示す字の対応は、判読が確定していない。歌の大意と宣長の疑問を訳した。〕

【宣長の注釈】二首目のさがしけどは険しいけれど。妹と登ればのバは婆のはずなのに、諸本が波とするのは写し誤りだろう。妻を伴い一緒に登れば険しく苦しいと思わないという意味。書紀の歌は「梯立ての険しい山も妻と二人越えれば安らかなむしろのようだ」とし同じ意味である。逃亡は「にげて」の二字一訓。宇陀は巻十八七十二丁に出た。

【宣長の注釈】蘇邇は大和宇陀郡の東端の山中で、今は長野・掛・小長尾・今井・葛・伊賀見・太郎路・塩井の八村があり、曽爾谷という。古い漆部郷だそうで、伊賀・伊勢の境に近い。今、長谷から伊勢へ越える大道は萩原駅で二つに分かれ、北は伊賀経由で伊勢一志郡、南の赤羽根越は直接同郡へ出る。蘇邇は二道の間、南道の菅野駅の少し西北にある。書紀から考えると、二人は蘇邇から一志郡家城を経て川口へ行ったらしく、古い大道はこれだったか。川口関もこの道だ。殺は「しせまつりき」と読む。シセは巻十一二十丁に説明した。

【宣長の注釈・書紀引用】歌を聞き天皇は激怒し「私怨で親族を失いたくなく忍んだのに、私事が国に及ぼうとする」と隼別を殺そうとした。皇子は雌鳥と伊勢神宮を頼り走り、天皇は吉備品遅部雄鮒と播磨佐伯直阿俄能胡に追いつき殺せと命じた。皇后は、重罪でも殺す時に体をさらさないでほしいと願い、皇女の足玉・手玉を取るなとの命が出た。追っ手は宇陀の素珥山へ迫り、二人は草中に隠れ辛うじて逃れ、急いで山を越えて歌った。逃したと知った追っ手は急追し、伊勢の蒋代野で殺した。皇女の玉を探し裳の中から取り、二人の遺体を廬杵川辺に埋めて復命した。こう書紀は記す。聞いた歌は鷦鷯を取れの歌で、伊勢で殺した点は古事記と異なる。廬杵川を今の一志郡家城川、河口をその川口とする谷川氏説はもっともだ。雲出川上流に北・南家城村が川を挟み、川口はその東。北家城付近に石組みの夫婦窟があり、この二人の墓だろう。上に家があり、その下の一部が崩れ構造が現れたのだろう。

【古事記本文】将軍の山部大楯連は、女鳥王が腕に巻いていた玉のくしろを取り、自分の妻に与えた。後に宴を催した時、各氏の女性たちが皆参内し、大楯連の妻もそのくしろを自分の腕に着けて来た。皇后の石之日売命は自ら酒杯を取り皆へ配ったが、そのくしろを見分け、妻には杯を与えず退かせた。夫の大楯連を呼び出し「王たちが無礼のため退けられたこと自体は、不審なことではない。だがおまえ、この臣下よ。自分の君の御手に巻かれていた玉のくしろを、まだ肌も温かいうちに剝ぎ取り持ち帰り、そのまま妻へ与えたとは」と仰せになり、死刑に処した。

【宣長の注釈】将軍は巻三十一十一丁を参照。山部連は甕栗宮段に小楯が出る。顕宗紀は、先祖の伊予来目部小楯、別名磐楯が天皇を見つけ迎えた功で望みを問われ、宿願の山官を拝命して山部連姓を賜ったとする。天武十三年十二月に宿禰姓を賜り、赤人もこの氏。延暦四年五月には、先帝と天皇の名を公私に犯すのは忍びないので避けよとし、白髪部を真髪部、山部を山へ変え、以後山宿禰となった。しかし始祖は不明で姓氏録にもない。大和皇別の山公は内臣と同祖で味内宿禰の後、和泉皇別の山公は垂仁の皇子五十日足彦別命の後、同国神別の山直は天穂日の十七世孫の後というが、姓の種類が違うので該当しないだろう。続日本後紀巻八に山直池作の宿禰授与があり、摂津神別の山直は山代直の誤りだろう。赤人を垂仁の末とする説は山公の条を見て即断したもの。山部と山辺も別氏で混同してはいけない。元が伊予来目部なら大久米命の末で久米直と同祖か。伊予との縁は巻十五八十二丁を参照。書紀では山部連姓は顕宗朝なのに、ここでこう記すのは疑わしく、山部連の祖の大楯とあるべきだろう。書紀の伝えは後述の通り姓名が違う。

【宣長の注釈】玉釧の釧を諸本は釵、真福寺本は剣と誤る。師が釧に直し「くしろ」と読んだのが正しい。冠辞考のくしろ着く・さくくしろ・しげくしろ・玉くしろの各項に詳しい。万葉も字を鍬・鉏などに誤り訓まで誤るが、久志呂・串呂と音書きする例が名を示す。和名抄は指にあるものを環、腕にあるものを釧、ひぢまきとする。くしろの名が既に失われ知られなかったのか。六帖も万葉のくしろの歌を櫛の歌にする。顕昭が袖中抄でその歌と釧の字・腕飾りの定義を挙げたのは、さすが物知りだ。師の考証で名が再び明らかになった。和名抄が農具の鍬をかなかき、一名くしろとするのは、釧を鍬と誤記した資料の訓を見て農具と誤認したのだろう。くしろには玉や鈴が付いたらしく、玉釧は玉付きのもの。玉を美称とし鈴付きとも思えるが、書紀は珠とだけいうので玉付きだ。鈴付きの例は冠辞考にある。

【宣長の注釈】此時之後はこののち。前にも自此後時がある。豊楽は巻三十六二丁、氏々は巻三十九十二丁を参照。書紀の内外命婦という呼び方は後世の漢文式の称である。朝参は「みかどまゐりす」。雄略紀に臣・連・伴造が毎朝参り、舒明紀に朝参が怠られたので卯に始め巳以後退き鐘を合図とし、天武紀には二人を朝参させるな、また文武官人と畿内の位持ちは四季の初月に必ず朝参せよ、とある。万葉巻十八にも、参内する君の姿を久しく見ず田舎にいて恋しい、という歌がある。同歌のマキイリという読みは疑わしく別の古語がありそうだが未詳。みかどまゐりも字に即して作ったように聞こえるが、ひとまず書紀訓に従った。其王の其はかので女鳥王を指す。参赴はまゐれりで、師のまうけりはここではよくない。

【宣長の注釈】書紀では石之比売は既に亡く、この時の皇后は八田皇女だが、書紀の年代に必ず拘る必要はなく、古事記は異伝として石之比売在位中のこととするのだろう。古事記は年次を立てず、順序も前後に拘らず事を一つずつ記す。酒の杯は巻三十二五十九丁と巻三十六二丁を参照。諸は宴に集まる人全体を指し、氏々に掛け「もろもろの氏々」と読まない。ここは後宮の宴で女性だけらしく、夫を呼び出すことからも男性不参加とわかるし、皇后が男性へ手ずから杯を与えることもあるまい。なら女性以外に対象がないので諸が氏々に掛かるようにも聞こえるが、そうなら先に氏々の女性をいう所で付けるはずで、初め略し後に詳しくする理由がない。女性以外を指さなくても、諸は宴の人全体という意である。皇后自ら杯を与えるのは古い宴の儀式だったのだろう。

【宣長の注釈】大楯の妻のくしろが女鳥王のものだと見分けた。杯を受けようと前へ寄り手を伸ばしたのでよく見えたのだろう。書紀の事情からも、とても美しく貴いくしろがあり、女鳥王のは格別だったらしい。皇后が出兵時に足玉・手玉を取るなと願い、殺した後に裳の中を探して得たのも、もともと名高い玉だったからだろう。引退は「ひきそけ」で、宴から退場させる。其王等は二人の王。無礼は巻二十七十一丁を参照。退賜は「きらひたまへる」で退け捨てたの意。この読みは巻二十四四十五丁の兄をきらうの注で宣命を引き説明した。前の引退も意味は通うが、そちらをきらひとは読めない。

【宣長の注釈】異事は「けなること」。けしきこと・あやしきこともよい。万葉の、常より異なって鳴く、異様な心などの例があり、欽明紀にも異がある。皇后が先に二王のことをいうのは、玉を取るのが大罪なら、二王を殺させたのはどうかという異論を予想したためだろう。夫之の之を云とする諸本は誤りで延佳本に従い「それの」と読む。それは大楯を直接指し、今、人へその方というのと同じ。爾もいまし・そのと読め、通じる。夫の字義は合わなくても訓のソレを使ったので、古事記に同類は多い。奴乎の乎を手とする諸本は誤りで「やつこや」と直す。ヤは呼び掛けで、朝倉宮段の「奴よ、自分の家を天皇の御殿に似せた」と焼かせる叱責と、語勢も咎め方も同じ。上巻の我が愛しい妹命よ、玉垣宮段の鷺よ、穴穂宮段の我が妹よの乎も同じ言い方だ。

【宣長の注釈】己君について、古くは王と臣を分け、皇子もすべて君としたことを巻四十の三十三丁で詳述する。奴よも単なる罵倒ではなく君に対する臣の意である。己は軽く読む。自分だけの私的な君という意味ではない。於膚煖は「はだもあたたけきに」。この字は溫と煖を合わせた日本製か。古語はあきらけし・さやけし・のどけし・ゆたけしで、あきらか等とはいわない形なので、ここもあたたかなるでなくあたたけきとした。万葉の筑紫の綿は暖かく、の語も同形。モを補うのはゆったりした言い方だ。殺してすぐ肌も冷めぬうち、いたわりなく剝ぎ取った、薄情で恐ろしい行為をいう。与は「あたへたること」。ことよの意味で、古い仮名文に多い感嘆の語だ。

【宣長の注釈】給死刑は「ころすつみにおこなひたまひき」。書紀に死刑・極刑・大辟罪の語があり、続日本紀巻三十二にも法に従い斬罪に行い給うという例が、給を行うとする根拠になる。刑を給うは古語らしくなく漢文通りなので、字のまま読まない。置くより行うがよく合う。書紀は、皇后が役人に皇女の玉を見たかと問わせると雄鮒らは否定したが、新嘗月の宴で近江山君稚守の妻と采女磐坂媛の二人が立派な珠を着けていたので皇后が疑い、役人に由来を問わせたとする。佐伯直阿俄能胡の妻の玉と答えたので取り調べると、皇女殺害の日に探し取ったと白状した。殺されるところを私有地を献じ助命を願い、その地を納め死罪を許され、玉代と名づけたという。

【古事記本文・天皇の歌】ある時、天皇が宴をしようと日女島へ行くと、島で雁が卵を産んだ。建内宿禰を呼び、歌でそのことを尋ねた。「たまきはる内の阿曾よ、おまえこそ世の長老だ。そらみつ大和の国で、雁が子を産むと聞いたことがあるか」。

【古事記本文・建内宿禰の歌】「高く輝く日の御子よ、もっともなことをお尋ねです。本当にもっともなお尋ねです。私こそ世の長老ですが、そらみつ大和の国で雁が子を産むとは、いまだ聞いておりません」。そう申し上げ、琴を借り受けて歌った。「あなた様がやがて天下を治める、そのしるしとして雁は子を産むのでしょう」。これは祝寿の歌の片歌である。

【宣長の注釈】日女島は摂津西成郡。難波古図では九条島の南に並び、今の勘助島付近、大坂西部の南寄りに当たる。今の稗島とする説は、稗島が下中島内、大坂の西北で古図と合わないので、さらに調べるべきだ。摂津風土記は、応神の代、新羅の女神が夫から逃れ筑紫の伊岐比売島へ住んだが、まだ遠くなく男神が追って来ると、ここへ移り、前の居所の名を島名にしたとする。巻五二十五丁も参照。安閑紀は大隅島と媛島松原への放牧を命じ、続日本紀の霊亀二年二月は二牧を廃し民の耕作を許したとする。万葉巻二は、和銅四年に河辺宮人が松原で女性の遺体を見て、妹の名は千代に伝わるだろう、小松に苔の生える万代まで、と悲しんだ歌を載せる。その島へ宴のため行ったのである。和名抄は大きいのが鴻、小さいのが雁、和名かりとする。生卵はこうみたりき。建内宿禰を召すのは、同行していたのを近くへ呼んだのか、同行していない人を呼び寄せたのか、どちらでもよい。

【宣長の注釈】たまきはるはウチの枕詞で、あらたまのと同意。巻二十八十三丁で説明した通り、年月日時の移りゆくことをいう。あらたま来経るのアラを省き、経の音を通わせハとしたものだ。倭建命の歌の「あらたまの年が来れば、あらたまの月は来経ゆく」がそれである。ウチは現に現れること、ウツと通じ、現身・現世という人の生きる期間を指す。だから万葉は命・世に多く続ける。うつそみの命・世とも比較したい。内限も現世の限り。世をあたら世というのも、あらたまの世・たまきはる世と同じ。世・命・現はすべて時の経過の間なので、たまきはると続く。魂が極まるとする従来説は誤りで、そんな意味はありえない。憶良の長歌の注が人寿百二十年とするのは、その説になじんだ後人が前の内教の引用を移したもので、自注ではない。巻十・十二の吾山は、草書の似る春山の誤り。春へ続くのも年・月へ続くのと同じ意味だ。

【宣長の注釈】内の阿曾の内は大和宇智郡。兄弟が住み、兄を味師内宿禰、弟を建内宿禰といい、ともに内宿禰である。味師・建は美称で巻二十二十五丁に詳述した。アソはアソミの略、アソミは我が兄臣を縮め、親しみ敬う称だ。天武朝から朝臣と書き姓となった。続日本紀や釈日本紀もその用法を記す。朝臣の字は訓のアサハミを借りたもので元来の意味ではないが、朝廷の臣という字義も取ったのだろう。後のアソンは音便で崩れたもの。初め賜った氏の多くが元の臣姓なのは我が兄臣の意味からか。神功紀の歌も武内をたまきはる内の阿曾といい、万葉巻十六も池田・穂積・平群の阿曾と詠む。那許曾波はおまえこそはで、こそ・はは助詞だ。

【宣長の注釈】余能那賀比登は諸本が賀の後に乃を入れ、返歌も同じだが、真福寺本のない方に従った。長の人という言い方は疑わしく、書紀も遠人・長人でノを入れず、古事記のノの仮名は能が普通で乃は三例ほどしかない。長人に不慣れな後人が世の中の人と誤解し加えたのだろう。意味は世の長老。世を年齢とし年齢の長い人とも思えるが、書紀に国の長人もあるので世の中がよい。書紀は世の遠人とし、遠いも長いも長く時を経た意味で、さらに「おまえこそ国の長人」の二句を加え、調べがよい。景行朝に生まれ、この時二百数十歳だったはずで、巻二十二十六丁に詳しい。並ぶ人なく長命だったろう。そらみつは大和の枕詞で、空から見たの意。神武紀・冠辞考に詳しく、書紀の歌はあきづしまとする。大和の国にはニの脱落した諸本によらず、この大和は日本全体を指す。雁子牟は産むのウを省いたもので、母音省略は多い。

【宣長の注釈】聞くやは三音の独立句で、前に連ねない。書紀の汝は聞かすかも、聞くを延ばした同義で、輸は清音。聞かないかとする契沖説は歌意に遠い。日本で雁が子を産むという未聞の珍事を、長老の内の阿曾は聞いたかと尋ねた歌である。語白の白を曰・自とする本もあるが、旧版本などに従う。普通の返歌と違い、質問を語り聞かせるので答といわないのか。高く輝く日の御子はこの天皇を指し、書紀は「やすみしし我が大君は」とする。うべしこそは、もっともであることよ。シ・コソは助詞で、書紀はうべなを重ねる。倭建の歌や、奈良山の峰に霧が立つから垣下の雪が消えないのも道理、羽衣だからこそ君の御衣と差し上げた、などの歌にもある。問ひたまへはお尋ねになる。書紀の我を問はすなも同じで、ヲはニに通じ、ナは助詞。まこそにはまことにこそで、コソ・ニは助詞。軽太子のありといはばこそににもニが付く。真の用い方は珍しいが、後のげにもこそに通じる。

【宣長の注釈】契沖はコソをコトと通じる寔か、うつほ物語のただこそと同じく自分を詠むのか、とするがどちらも違う。コソが助詞でないと次のタマヘという結びに合わず、古歌にそんな乱れはない。師は曾を魯の誤りとしてまごろ、目の前の意味かとするが、古事記に魯を音仮名にする例も、まごろという言葉もない。吾こそは・世の長人は先と同じで、ここも乃のない真福寺本に従う。書紀はここまで四句を欠くが、後二句がないと意味が不足する。そらみつは書紀ではあきづしま。加理古牟登は前と同じ。いまだ聞かずは、書紀の我は聞かずよりよく聞こえる。全体は、私にお尋ねはまことに道理で、仰せ通り私こそ長老だが、この年まで日本で雁が子を産むとはまだ承らない、という意味だ。

【宣長の注釈】被給はたまはり。たまふは与える側、たまはるは受ける側からの言い方なので古書は被を添える。中古までは分けたのに近世が混同し、与えることまでたまはるというのは誤り。ここは一時借り受ける。汝王やのヤは呼び掛けで疑問でない。神代の八千矛神の命よと同じ。宣命の汝御命、古事記の汝命とも同趣だが、若桜宮段の汝王は少し違う。つひにしらむとの毘は比の写し誤りだろう。清音で、古事記は普通清濁を正しく区別し、万葉にも末つひにとある。やがて天下を治めようとして、の意味だ。天下・国・世を明記しなくても、この場でこれを治めるといい、前歌の大和の国も受けるのでわかる。雁は子産むらしのラシは推測で、今のそうだに当たる。

【宣長の注釈】全体は、日本で初めて聞く雁の産卵は、あなた様がやがて天下を治める瑞兆だろうと祝った歌だ。師は、まだ皇子の時の話で書紀と異なるという。まさにそうだ。書紀は五十年三月とするが、その年次に必ず拘る必要はない。古事記は順を問わず一事ずつ集める例が多く、この天皇のことだから皇子時代の話もここへ置いたのだろう。契沖が、いつまでも治める証しと解くのは強引で、ついに治めるは将来を予告する言葉だ。ほきは祝寿歌で、神功皇后の歌と巻三十一四十一丁を参照。片歌は巻二十八五十三丁に詳説した。書紀は河内の人が茨田堤での産卵を知らせ、使者が確認し、天皇と武内が歌を問答したと記すだけで、汝王やの歌はない。

【古事記本文】この御代、免寸川の西に高い木があり、朝日の時の影は淡路島に届き、夕日の影は高安山を越えた。この木を切り船を造ると、非常に速く進んだ。船を枯野と名づけ、朝夕に淡路島の清水を汲み、天皇の飲み水を運んだ。船が壊れると塩を焼く薪とし、燃え残りで琴を作ると、その音は七里に響いた。そこで歌を詠んだ。

【古事記の歌】枯野を塩焼きの薪にして、その燃え残りを琴に作り、かき鳴らすよ。由良の海峡、その海の岩に波に揺られて立つ、水に浸る草木の葉が鳴るように、さやさやと、澄み響くよ。これは志都歌の返し歌である。

【宣長の注釈】免寸川の免は確かに写し誤りだが、正字はわからない。兎かと思うがその川名がなく、ほかも未詳。寸は元の字でも、上の字次第では誤字でもありうる。免を仮名や借字にする例や読みはなく、寸には借字例がある。したがって読みもひとまず空ける。影の方向から川は必ず高安山の西、河内高安・若江・渋川の各郡か。若江は高安の西、渋川はさらに西。志紀・丹北郡の北寄りかもしれず、志紀は高安の西南、丹北はその西で、木本村・枯木村の名もあるが由来不明なので注意を促すだけだ。いずれも間に山がなく東に高安山を常に望む土地だろう。その西から摂津住吉郡の海岸まで山がないので、この間の川のはず。この種の話は日常見る土地からいうため、西に淡路、東に高安を望む場所でなければ合わない。

【宣長の注釈】和泉志の、日根郡兎才田村の兎才田川で、東に木の跡があるという説は信じ難い。和泉の南端から高安山は遠く幾重にも山が遮り、影が届かず方向も違う。河内東部の多くの山から高安と特定するのは、目近に見えるためだろう。字が似て跡もあるという話はもっともらしくても、才の字を仮名とするのも無理である。免を麁の誤りとし泉南八木郷荒木村の川とする説も同じ理由で難しい。坂本郷坂本村の川という説もあり、別名大木村は、大木の朝の影が大津浦・兵庫へ、夕の影が槇尾山を越えたための名と里人が伝える。跡の地名は兵庫畑、川は槇尾山から出る槇尾川、下流は大津川という。この説も高安には遠いが、古事記の山名が誤伝かもしれないので完全には否定できず、なお検討したい。一高樹の一は読まず、漢文式に添えた字だ。朝日・夕日に当たるのは木で、その影が遠くへ至る。語順が繰り上がったのであって、影自体に日が当たる意味ではない。

【宣長の注釈】淡路は既出。高安山は河内高安郡の東で今も同名、天智・天武・持統紀や続日本紀の高安城の山だ。天智紀は大和とするが天武紀から河内とわかり、天武・持統・元明の行幸もある。現代人にはそんな巨木はなく作り話と思えようが、今も深山の意外な大木を聞き、上代の巨木も史料に見える。景行紀十八年七月は筑後御木に長さ九百七十丈の倒木があり、老人が、倒れる前は朝の影が杵島山、夕の影が阿蘇を覆ったといい、天皇が神木だから御木国と名づけたとする。筑後風土記は朝の影を肥前藤津郡多良峰、夕を肥後山鹿郡荒爪山とする。近江栗太郡も栗の巨木が数十里に枝を広げ栗本と呼び、今も実・枝や、すくもという燃料になる葉を掘り出すと伝える。各国に類話があるので、上代は各地に特別な大木があったと知るべきだ。

【宣長の注釈】書紀のこの代の造船記事は、六十二年六月、遠江国司が大井川から流れ曲がり角に止まった周十囲、根一つ末二つの巨木を報告し、倭直吾子籠に船を造らせ南海経由で難波へ運び御船とした、というものだけ。枯野は応神五年十月、伊豆で長さ十丈の船を造り海で試すと軽快に走り、そう名づけたという異伝だ。伊豆には軽野神社・狩野郷もある。書紀が正しければ古事記は二つの代の話を混同し、古事記が正しければ書紀は伊豆の官船と軽野という名から仁徳の話を応神へ混同したのだろう。今は決められない。枯が軽いの意味なのは両書共通。枯れた野をからのというので字を借りたのだろう。軽い速い船なのに枯野は字義が違い後人の訛りか、とする書紀細注は借字を知らぬ小賢しさだ。ノの意味は不明で、主の意味かもしれない。

【宣長の注釈】船名の例は続日本紀に佐伯・播磨・速鳥という遣唐使船、能登という高麗使船、続日本後紀に遣唐使船大平良があり、それぞれ従五位下を授けられた。佐伯の号を首とする版本は誤り。万葉の歌にも船の名と言ったのに、と名へ序を掛ける。寒泉はしみづ。古く冷たい水を寒しといい、景行紀の冷水、万葉の寒水、倭姫世記の水が寒いので寒川と名づけた例がある。この清水は巻二十一十三丁の淡路御井宮の井か。播磨風土記の別伝では、高津宮の代に楠の影が朝は淡路、夕は大和を覆い、伐って船にすると一漕ぎで七波を越すので速鳥と呼び、朝夕、明石駅の駒手御井の水を食事用に汲んだが、ある日不適となり歌を詠みやめたという。「住吉の大倉に向かい飛んでこそ速鳥というのに、なぜ速鳥なのか」。酌は水を汲み積んで運ぶこと。後撰集も大島の水を運ぶ早船のように早く会いたいと詠む。大御水は天皇の用だからで、水をモヒということは巻三十六六丁に説明した。景行紀の倭姫が冷水を食事へ供える例、倭姫世記の良い水を問う例、赤染衛門集の小舟の男二人が冷たいおもひを汲み沖へ行くという例もある。

【宣長の注釈】焼塩を塩焼とする諸本は上下の誤りで真福寺本・延佳本に従う。塩を焼く薪に使ったということ。焼遺木は焼け残れる木、焼け残りの木。焚き残りの木として未使用の薪ともできそうだが、書紀の余燼から燃えさしがよい。体源抄は箏の甲板の木に塩風・日差しに当たる孫枝を選ぶとするので、潮になじんだ船材も琴に良かったのだろう。焼け残りが良いのかとも思う。中国の焦尾琴も似た話だが、焼けたからでなく元来良材だった。響は聞こえたで、遠く届く良琴の意。七里はこの代にまだ道の距離を定めないので村の数かとも思えるが、やはり後の距離の定めを遡らせ伝えたのだろう。雑令の五尺を一歩、三百歩を一里は土地用の大尺で、大尺一尺が普通の一尺二寸だから、一歩は普通の六尺、今の一間と同じ。三百歩は今の五町だ。今は間を積み町、町を積み里とするが、古く距離に幾町とはいわず、中古の幾段とともに、元は田地の単位から移った語である。

【宣長の注釈】歌の作者は記されず、書紀では応神の歌。枯野を塩に焼きとは塩焼きの薪として燃やすことで、船を塩にしたようにも聞こえるが、古語なので決めつけ難い。塩のために焼き尽くしたの意味かもしれない。シガアマリはその残り。シガは先にいった物を指すそのがで、巻三十六十七丁と同じ。シを前の焼きへ付ける読み方は誤りだ。余りは燃え残り。琴に作りは、継体紀の琴の材料を詠む「かとけのいくみ竹、なよ竹、琴に作り」の例と同じ。かき弾くのカキは単なる添え語でなく、弦を弾くことを掻くともいう。ヤは感嘆の添え語である。

【宣長の注釈】由良の門は淡路津名郡の由良湊神社の土地。門は水門で、今も名高い由良湊、淡路東岸にある。紀伊とするのは誤り。万葉の紀伊の由良は三崎・崎で、水門とは呼ばない。また曽禰好忠の由良の門は丹後与謝郡だが、後世はそれも紀伊と誤解する歌が多い。もし書紀通り天皇の歌なら、応神も仁徳も淡路へ行ったことがあり、見た景色を詠んだのだろう。門中とは水門の海上。水門・島門・迫門の門は船の出入口の海で、後の湊は陸地の名のようでも、もとは海の名を陸へ及ぼしたものだ。

【宣長の注釈】伊久里は海の岩。万葉に石見の辛の崎の岩に海松が生える歌、淡路野島の海人が沖の岩へ潜り鮑珠を採る歌がある。クリから栗を連想し小石とするのは誤りで、海松の生えることからも小さいとは限らない。海底の石だけでもない。万葉の海底は沖の枕詞で岩に掛からず、水中・水上、大・小の岩をいう。ここは海面に出た大岩だろう。布禮多都は波に揺られて立つ。フレは振られの縮約で、折られをオレ、知られをシレという類と同じ。巻三十四二十二・二十三丁にあるように、波が立つことも風の吹くことも振というので、波に揺られ岩上に立つ。触れると解くと、岩に生えず隣の木が岩に触れることになり、岩に生えるのを触立ともいえない。意味をなさない解釈だ。

【宣長の注釈】那豆能紀は水に浸る植物。倭建の海へ行けば腰まで浸るの歌や、この巻の船の歌に同じ語がある。万葉のなづさふも水底にいる・浮ぶ・渡るなど水に接すること全般で、別に考証がある。海水に浸り生えるので那豆の木といい、波に揺れる。荻・葦の類だろう。木は元来植物全体で、草も含み、茜を染木とする歌や、草名の末尾のキも同様だ。植物の固有名・海樹・珊瑚の和名とするのは当て推量。字鏡の杆をナヅと読む例も木の名とは思えない。契沖の夏の木も濁音のヅに合わず、夏木ならどこでもあるのに由良の門中と限定する理由がない。葉の茂る爽やかさと、風波の騒ぐ音を一緒にする解釈も混乱し、無理に解いたものだ。由良の門から五句は、海水に浸り岩に生える葦や荻が、波に揺れ葉をさやさや鳴らす音を、最後の佐夜佐夜へつなぐ序である。

【宣長の注釈】さやさやは、琴の明るく澄んだ響き。前句からは草の葉の音でつながり、歌全体はかき弾くよ、澄み響くよとなる。巻三十三四丁の歌と同型だ。志都歌の返し歌は巻三十六五十六丁参照。諸本の歌返によらず延佳本の返歌に従う。書紀の応神三十一年八月では、朽ちて使えなくなった伊豆献上の枯野の功を忘れず、船名を後世へ伝える方法を問う。群卿は船材で塩を焼き五百籠を諸国へ与え船を造らせ、五百船が武庫水門へ集まった。燃え残りを不思議に思い献上し、天皇が琴を作らせると遠く澄み響き、天皇が歌った、とある。竟宴の歌にも、年を経た古い流木を拾ったから澄む響きが遠く聞こえる、とある。

【古事記本文】この天皇の年齢は八十三歳。御陵は毛受の耳原にある。耳は上声で読む。

【宣長の注釈】真福寺本は天皇の後に之があり、ほかにも例がある。捌は八。書紀は八十七年春正月、戊子を一日とする癸卯の日(十六日)に没したとするが年齢はない。応神十三年に髪長媛を求めた時すでに成人なら、没時は百三十歳を大きく超えるはず。帝王編年記は百十歳、竟宴の歌は煙のない家を恵んだ天皇が八十年余り治めたとする。旧版本・真福寺本などに丁卯年八月十五日に没したという細注があり、旧版本は前例なく大字にする。丁卯は書紀なら仁徳五十五年または允恭十六年で月日も違うが、これも一つの伝えだろう。

【宣長の注釈】耳の下の上は上声で読む注で、地名の本字ではない。耳原はみみはら・みみのはらか決め難く、摂津島下郡にも同名村がある。書紀は六十七年十月、河内石津原で陵地を定め工事中、鹿が民の間へ走り込み倒れ死んだので傷を調べると、耳から百舌鳥が飛び出し、中が食い裂かれていたため百舌鳥耳原と名づけたとする。したがって石津原内の土地。和名抄の石津郷・神名式の石津太社神社、今の上石津・下石津村は陵に近い。今の毛受荘九村は陵の東南で陵は荘内ではない。前皇廟陵記所引の天王寺旧記は、難波荒陵村の四天王寺西南に仁徳が予定した荒陵があったが適さず石津原へ変え、それが大山陵で、空の陵を俗に茶臼山という。推古元年の四天王寺創建も荒陵とある。書紀は八十七年冬十月、癸未を一日とする己丑の日(七日)に百舌鳥野陵へ葬ったとし、諸陵式は和泉大鳥郡の百舌鳥耳原中陵、東西八町・南北八町、陵戸五戸とする。中陵は南北にも陵があるため。堺の東南、舳松村の俗称大仙陵がこれで、大鷦鷯の字音の訛りという説はどうだろう。和泉志は陵外の七つの塚を、武内宿禰と呼ぶ長塚、王仁と呼ぶ長山塚、狐山・寺山・土鼈山・平塚山・円山と記す。

古事記伝 巻三十八

本居宣長が謹んで著す。

若桜宮の巻

〔『古事記』本文〕伊邪本和気命(いざほわけのみこと)は、伊波礼の若桜宮で天下を治めた。この天皇は、葛城の曾都毘古の子、葦田宿禰の娘、黒比売命を妻とした。生まれた子は、市辺之忍歯王(いちのべのおしはのみこ)、御馬王(みまのみこ)、その妹の青海郎女(あおみのいらつめ)、別名・飯豊郎女(いいとよのいらつめ)の三人である。

旧版本は冒頭に「子」と置く。前代の仁徳天皇の子という意味である。真福寺本は、この先、巻末まで各御代の初めに、ほぼすべて「弟の何々命」「御子の何々命」などを置く。古い本はみなそうだったのを、ほかの諸本は後に削ったのだろう。旧版本でここだけ子があるのは、たまたま一つ残ったのだろう。ならば真福寺本に従って、どこもそう書くべきとも思うが、中巻には一代も例がないのに、この巻からそうなるのは疑わしい。そのため今は中巻の例に従い、子のない諸本を採る。後の各段も同様にする。この天皇の後世の漢風の諡は、履中天皇である。

伊波礼は大和国十市郡にある。神武天皇紀には、「兄磯城の軍が磐余の村に満ちていた」とある。また「磐余は、もと片居、また片立といった。天皇の軍が敵を破った際、大軍が集まって満ちたので磐余と改めた」ともいう。別の説では「天皇が厳瓮の食物を食べて出征した時、磯城の多くの梟帥がそこに集まっていた。天皇と大いに戦い、ついに討ち滅ぼされたので磐余邑と名づけた。磐余はいはれという」とする。どちらも、軍が満ち集まったことからの地名である。礼は村の意味で、『書紀』でも村をあれと読み、古書もこの地名をすべて石村と書く。清寧・継体・用明天皇らもここに宮を置き、神功皇后紀三年にも磐余に都したとある。履中天皇紀元年春二月、壬午の朔には、太子が磐余稚桜宮で即位したとある。ただ二年冬十月にも磐余に都したとあるのはどうか。継体紀の歌に「つぬさはふ、いはれの池の」、『万葉集』巻三に「石村を通り過ぎることもできず」、「磐余池に」、「石村の道を」、巻十三に「石村山に」などと歌う。『万葉集』の「百伝ふ」は角障の誤りだろう。いはれの枕詞は『書紀』も『万葉集』もすべてつぬさはふで、百伝ふの例はない。『神名帳』に大和国十市郡の石寸山口神社がある。寸は村の木偏を省いた字で、祈年祭・月次祭の祝詞や『三代実録』巻二なども石寸と書く。これをいはきと読むのは、偏を省く例を知らない誤りで、いはきという社はない。『古事記』用明天皇の墓の石村も石寸と書き、天武紀では村主を寸主とする。四時祭式・臨時祭式の石根も村の誤りで、『三代実録』は石村である。したがって十市郡であることは確かで、高市郡とするのは誤りだ。今の十市郡石原田村の石原に伊波礼の名が残るとする説もあるが、どうだろうか。

若桜宮という名の由来は、履中紀三年と『姓氏録』若桜部造の条にあり、その文章は後の若桜部臣の所で引く。宮跡は『大和志』が池内村とするが、どうだろうか。『神名帳』には大和国城上郡若桜神社があり、今は十市郡に属す。今の桜井付近の谷村にある白山権現がそれだという。桜井という地名も、もしかすると若桜宮の名残かもしれない。神功皇后紀の「磐余に都した」の下にある「これを若桜宮という」という小字注は、履中天皇の宮名を思って後人が勝手に書き足したものだ。『書紀』はわかには稚を用い、若とする例がないことからも分かる。『古語拾遺』が神功皇后の代を磐余稚桜朝、履中の代を後磐余稚桜朝とするのも誤りである。

葛城之曾都毘古は前に出た(巻二十二、三十五葉)。葦田宿禰の名は、『諸陵式』の「片岡葦田墓、大和国葛下郡にある」という土地にちなむ。『神名帳』にも同郡の片岡坐神社がある。『古今集』以後によく歌う片岡の朝原もここである。『姓氏録』には大和国の葦田首という姓もあり、この人の父・曾都毘古の故郷も葛城なので関係がある。備後の葦田郡、但馬国気多郡の葦田神社ではない。ある人は葦田を葉田の誤りとし、黒比売を『書紀』が羽田矢代宿禰の娘とし、鳥の行き来する羽田の汝妹ともいうからだとするが、それこそ誤りである。『書紀』の初めには、羽田矢代宿禰の娘・黒媛を妃にしようとした話があるが、元年には葦田宿禰の娘・黒媛を皇妃に立てたとある。羽田矢代宿禰は武内大臣の子、曾都毘古の兄で、記紀とも羽田矢代宿禰とのみいい、羽田宿禰の例はない。『書紀』の文字も羽田で葉田はなく、『古事記』も波多八代宿禰とする。黒媛はほかにも多い名だから、羽田矢代の娘と皇妃の黒媛は別人かもしれない。また「羽田の汝妹」という語から混同し、葦田宿禰の娘を羽田矢代の娘とも伝えたのかもしれない。いずれにせよ、葦田は葉田の誤りではないので混同してはいけない。顕宗紀の小字注にもこの人が出て、蟻臣は葦田宿禰の子とある。

黒比売命と同じ名は多く、意味は日代宮の段の迦具漏比売の注(巻二十六、十二葉)で述べた。履中紀元年秋七月、己酉の朔の壬子に、葦田宿禰の娘・黒媛を皇妃に立てたとある。『私記』が羽田矢代宿禰の娘とするのは誤りで、二人が別なのは前述のとおりだ。五年秋九月には、空から風のような声が「剣刀の太子王よ」と呼び、また「鳥の行き交う羽田の、あなたの妻は、羽狭に葬られて逝った」と呼んだ。すると急に使者が来て皇妃の死を告げた。十月、甲寅の朔の甲子に皇妃を葬ったという。羽田は大和国高市郡の波多だろう。母の故郷などで、皇妃も初めそこに住んだため、羽田の汝妹といったのだろう。市辺之忍歯王の市辺は、今の山城国綴喜郡市野辺村だろうか。『日本霊異記』には河内市辺井上寺の里ともいう。今の河内国志紀郡国府村付近には市辺の墓というものもあるという。「忍歯」は近飛鳥宮の段に、この王の歯が三枝のように重なった歯だったというので、それにちなむ名である。歯についてはそこ(巻四十三、五十三葉)で述べる。顕宗紀には磐坂皇子ともいう。今の大和国城上郡磐坂村だろう。同郡の『和名抄』の大市郷・上市郷を市辺とする説もあるが、市辺は違うだろう。この王の事は穴穂宮・甕栗宮・近飛鳥宮の段にも出る。『書紀』は、黒媛を皇妃とし、磐坂市辺押磐皇子・御馬皇子・青海皇女、別伝では飯豊皇女を生んだ、とする。

御馬王は、『万葉集』巻五で馬を美麻と書くのに従い「みま」と読む。名の由来はまだ分からない。雄略紀にこの王が捕らえられ殺された話があり、その文章は穴穂宮の段で引く。青海郎女の郎を諸本は皇とするが、真福寺本などに従った。この書に皇女という書き方の例がないからで、後人が『日本書紀』により勝手に変えたのだろう。青海は地名だろうが、場所はまだ分からない。『神名式』には若狭国大飯郡、越後国頸城郡、同国蒲原郡に青海神社がある。『和名抄』に蒲原郡青海郷、安乎美、三河国碧海郡、阿乎美、碧海郷、阿乎美などがあり、『姓氏録』右京神別には青海首もある。ある人は今の若狭に青浦・青島という場所があり、大飯郡に飯豊天皇を祭る神社もあるという。

飯豊郎女の郎も諸本は皇とするが、真福寺本などに従う。飯豊は鳥の名で、その鳥に関係して付いた名だろう。『和名抄』は張華『博物志』を引き、鵂鶹という鳥は、人が手足の爪を切って地に捨てると、その家に入って拾い取るとし、『漢語抄』では「いひとよ」というとする。皇極紀三年三月には、休留が豊浦大臣の大津の家の蔵で子を産んだとあり、休留は茅鴟という小字注がある。『釈日本紀』の兼方は梟の異名だとする。天武紀十年八月には伊勢国が白い茅鴟を献上したとある。『和名抄』に陸奥国宇多郡飯豊郷、『神名式』に白川郡飯豊比売神社、賀美郡飯豊神社、安積郡飯豊和気神社もある。この皇女は甕栗宮の段で忍海郎女ともいい、そこでなお説明する。『日本書紀』の異伝もそこで述べる。『書紀』はこの次に、妃の幡梭皇女が中磯皇女を生んだとし、六年春正月、草香幡梭皇女を皇后に立てたとする。この皇女の事はたいそう紛らわしく、朝倉宮の段で説明する。

『古事記』のほかの例からすれば、この次に忍歯王の子たちとその母を挙げるはずである。顕宗・仁賢天皇の母が出ないのも説明が足らず、通例と違う。今、仮にほかの例と顕宗紀によって補えば、次のような文があるべきだろう。「市辺之忍歯王は、葦田宿禰の子・蟻臣の娘、波延比売を妻とし、居夏比売・意富祁王・袁祁王・橘王の四人を生んだ。このうち意富祁王と袁祁王の二人が天下を治めた。」〔以上は宣長が仮に補った文章である。〕

〔『古事記』本文〕初め難波宮にいたころ、大嘗の宴で酒を楽しまれ、深く眠っていた。弟の墨江中王は天皇を殺そうとして、御殿に火を付けた。倭漢直の祖・阿知直は、ひそかに天皇を連れ出し、馬に乗せて大和へ逃れさせた。多遅比野に来て目を覚ました天皇は「ここはどこか」と尋ねた。阿知直は「墨江中王が御殿に火を付けたので、お連れして大和へ逃げるところです」と答えた。天皇は歌った。

〔『古事記』の歌〕多遅比野で眠ると知っていたなら、立てて囲う薦も持って来たものを。ここで眠ると知っていたなら。

〔『古事記』本文〕埴生坂に着いて難波宮を見やると、火はまだ赤く燃えていた。天皇はまた歌った。

〔『古事記』の歌〕埴生坂に私が立って見ると、炎を上げて燃えている家並みは、妻の家のあたりだ。

〔『古事記』本文〕大坂の山の入口まで来た時、一人の女性に会った。女性は「武器を持った人々が大勢この山をふさいでいます。当岐麻の道へ回って、越えておいでください」と申し上げた。天皇は歌った。

〔『古事記』の歌〕大坂で出会った娘に道を尋ねると、まっすぐの道は告げず、当麻の道を教えてくれる。〔本文〕こうして大和へ上り、石上神宮に滞在した。

「本」は文字どおり「もと」と読む。こうした所は多く初めというが、もとも古語だろう。今も初めからそうでないという時に、もとともいう。後のことを末というのと対する語である。この上には天皇という語があるはずで、なければ言葉が足りないようだ。難波宮にいた時とは、父の天皇が亡くなった後、まだその都にいたころである。「大嘗」は前に述べた(巻八、六葉)。天皇が亡くなれば太子はただちに天皇なので、即位の儀礼は後でも、大嘗といった。ただし天皇以外も新嘗をすることは前述のとおりなので、太子でも新嘗はありうる。皇極紀にも、天皇が新嘗をし、同日太子・大臣もそれぞれ新嘗をしたとある。しかし大と添えるのは天皇の新嘗に限るだろう。「坐」は、大嘗の行事の間、そうしておられる、の意味である。師は嘗の下に宮が落ちたかというが、一応はそうも考えられるものの、よく考えると宮を入れるほうがよくない。斎戒中を斎にいる、服喪中を諒闇にいるというのと同じだ。「豊明をする」も前に述べた(巻三十二、五十七葉)。ここは大嘗の宴で、為は「せす」、なさる、と読み、「きこしめす」、お楽しみになる、とも読める。「うらぎ」は、明宮の段の「献上された酒を楽しんで」の所(巻三十三、四十四葉)で述べた。「お眠りになる」は白檮原宮・玉垣宮の段にも例がある。この大嘗の出来事は『日本書紀』には出ない。

墨江中王は前に出た(巻三十五)。「天皇を取ろうとした」の皇を諸本は下とするが、真福寺本に従った。後人が、天皇を取るという古語を知らず、不審に思って天下を取るに変えたのだろう。取るは殺すという意味で、穴穂宮の段の「人が天皇を殺すのを、どうして……」や、水垣宮の段(巻二十三、六十葉)にも例がある。『日本書紀』ではこう語る。「仁徳天皇八十七年春正月に天皇が亡くなり、太子が喪を終え、まだ即位しない間、羽田矢代宿禰の娘・黒媛を妃にしようとした。結納が済み、住吉仲皇子に吉日を告げさせたが、仲皇子は太子の名をかたって黒媛と通じ、手鈴を家に忘れて帰った。翌夜、太子は何も知らず訪れ、室に入り、帳を開いて寝台に座ると、枕もとで鈴が鳴った。不審に思って何の鈴かと尋ねると、黒媛は、昨夜お持ちになった鈴ではないか、なぜまた私に聞くのかと答えた。太子は仲皇子の仕業と知り、黙って退いた。仲皇子は事が発覚するのを恐れ、太子を殺そうと、ひそかに兵を起こして宮を囲んだ。」『古事記』とは異なる。こちらは天皇を殺そうとした理由を述べないので、自分が天皇になろうとしただけに読める。

倭漢直は明宮の段で漢直といい、そこで詳述した(巻三十三、三十九葉)。阿知直もそこで説明したので参照してほしい。この氏の姓(かばね)が直になったのは雄略天皇の御代なのに、この人を直というのは不審だ。『日本書紀』は阿知使主とする。後の姓で呼んだのだろうか。『続日本紀』『姓氏録』などの阿智王もこの人で、『神名式』に信濃国伊那郡阿智神社がある。後にもまた出る。「盗み出す」は、墨江中王の側に知られず、天皇をひそかに連れ出すこと。ぬすむは、許されないことを人に知られないようひそかに行う意味で、水垣宮の段の歌の「ぬすみしせむと」の注(巻二十三、六十六葉)で述べた。この時、天皇はひどく酔って熟睡しており、そうされたのをご自分では知らなかった。そのことは後に分かる。多遅比野は『和名抄』の河内国丹比郡、たぢひ、後の丹南・丹北である。郷名の丹上・丹下も丹比の上・下だろう。『神名帳』に同郡丹比神社があり、反正天皇の多治比柴垣宮、雄略天皇の墓、多治比の高鷲など、みなここである。孝徳紀に丹比坂、天武紀に大津・丹比の二道から軍勢が多く来たとある。丹南郡には大津神社がある。今の丹南郡丹治井村と、丹北郡の雄略陵はやや遠いので、古い丹比は広い範囲の名だったのだろう。丹南郡の野田・東野・野々上・野村・向野・野中などの村名は、多遅比野の名残だろう。

「目を覚ました」――ここまでは何もご存じなく、馬の上でも眠っていたのである。「此間」はここ、「何処」はいづくと読む。いづこというのは後世の形で、理由は前に述べた。初めから事情を知らず、特に夜のことらしいので、ふと目覚め、ひどく不思議に思い、ここはどこなのかと考えた様子だ。「率逃」は「お連れして、大和に逃げて行くのです」と読む。率を連れ奉ると読む理由は前(巻三十一、二十四葉)に述べた。逃の下には行くを読み添える言い方である。質問と歌からすれば、ここは多治比野です、という答えもあったはずだが、前の文章に任せて省略したのだ。「多遅比野に」は丹比野で、という意味。「寝むと知りせば」は、寝ると知っていたなら、である。普通なら知らばだが、あらばをありせば、ならばをなりせばといい、尽きぬをつきせぬ、絶えぬをたえせぬという類の一つの言い方だ。この野でしばらく馬を止めて休んだ時に目覚めたのだろう。それで、この野で寝るという形に詠んだのである。実際は眠る間に知らずに来たので、ここで改めて寝たのではない。

「たつごもも」の下のもは助詞である。『和名抄』は『釈名』の、縛壁はむしろを壁に縛り付けたもの、という説明を引き、『漢語鈔』では防壁をたつごもというとする。『大神宮儀式帳』に蒲立薦三張、外宮の帳には同じ物を三枚とし、『主計式』には防壁一枚、長さ四丈、幅七尺とある。この歌と合わせると、むしろを継ぎ合わせ、屏風のように立てる物だろう。名も儀式帳の表記のように立てる薦の意味で、『和名抄』の壁に縛り付けるという説明は少し合わない。「持ちて来ましもの」は、持って来たものを、の意味で、「ものを」のををいわない例は、朝倉宮の段の「過ぎはぬるもの」、応神紀の「会い見るもの」、『万葉集』巻四の「寄せたものを」、巻五の「問い返すものを」など、ほかにもある。この句が八音なのはたいへん珍しいが、『万葉集』にもごくまれにある。三音と五音の二句としても読める。二句は諸本が字を落とすなどして正しくないので、別の一本に従った。旧版本などや延佳本は「多都基母基母知弖……」、真福寺本は「多都碁母母知母許弖麻志乎能」とし、みな誤っている。ただ、ものの母を牟とする本は、誤りと決めにくい。通じる音でむのともいったのだろう。真福寺本の乎も牟の誤りらしい。しかし、まだ類例がないので、今は多いほうのものを採った。末尾の「寝むと知りせば」も初めと同じで、婆を波とする諸本に対し真福寺本に従った。歌全体は、野で寝ると前から知っていれば、周りに立てる防壁も持って来たのに、こんなことになるとは知らず、何も持って来なかった、という意味である。

『日本書紀』には、平群木菟宿禰・物部大前宿禰・漢直の祖阿知使主の三人が太子に知らせたが、信じなかったので、三人で支え、馬に乗せて逃がしたとある。別の伝えでは、太子が酔って起きないので、大前宿禰が抱いて馬に乗せたという。埴生坂は河内国丹南郡で、『諸陵式』に仁賢天皇の埴生坂本陵が河内国丹比郡にあるとする。『河内志』は、丹南郡羽曳山は郡の東南にあり、山が起伏して石川・古市・錦部の三郡に続き、平尾岳・丹比丘・埴生坂も同じ山脈で、古歌がある、として『日本書紀』のこの段を引く。その古歌はここにある天皇の歌である。この道は今もこの山中を越えるので、これが埴生坂だろう。坂を越えた東は古市郡である。孝徳紀の丹比坂も、前の文章から考えて同じ坂だろう。推古紀で来目皇子を河内の埴生山の丘に葬ったというのもこの山だろう。今の丹北郡西大塚村付近の来目皇子陵という場所は山ではなく、埴生山とは場所が違うので、伝承の誤りだろう。「望見」は「みやりたまへば」、見やると、と読む。熱田宮の寛平の縁起の倭建命の歌に「鳴海の方を見やると遠い」、『万葉集』巻十に「私は見やろう、君のあたりを」とある。「炳」は赤く見えたりと読む。字書には火が明るいこととする。「天皇はまた歌った」の天皇は、ここではなくてもよいはずだ。

歌の「はにふざか」は埴生坂で、その下に、にを補って理解する。「わがたちみれば」は、私が立って見ると、という意味。「かげろひの」は輝く火のことで、『冠辞考』に説明がある。『万葉集』ではいろいろ解釈される語だが、ここは単に輝く火をいう。巻五の火之迦具土神の注も参照すべきだ。「燃ゆる家群」は難波の都の家々で、木群・草群のように家が集まる所をいへむらという。村も同じ意味である。「妻が家のあたり」は妻の家の付近のこと。この句は九音だが、中に母音い・あがあり、『万葉集』巻十五にも「問はばいかに言はむ」のような句がある。『日本書紀』には、仲皇子は太子が不在と知らず宮を焼き、夜通し火が消えなかった。太子は河内の埴生坂に着いて酔いがさめ、難波を振り返り火を見て大いに驚いた、とあり、歌はない。ただ、この段階で酔いがさめるというのは前の話と合う理由がなく、どうだろうか。

大坂は前(巻二十五、二十四葉)に出たので参照してほしい。「山口」は「やまのくち」と読む。普通はやまぐちというが、月次祭の祝詞に「山の口に坐す」とあるからだ。ここは河内側から登る入口である。『日本書紀』が飛鳥山の山口というのは、大坂がこの山越え全体の名で、飛鳥山はその河内側の登り口の名だからだ。飛鳥については後の注を参照してほしい。「遇一女人」は「女性に出会った」と読む。一の字は読まず、原文の訓で女にと助詞にを補うのは後世の言い方になる。この事は前に詳述した。「兵」は武器。「塞」は「せきをり」、ふさいでいる、と読む。「当岐麻道」は『和名抄』の大和国葛下郡当麻、多以末の道だ。正しくはたぎまだが、たいまとするのは後に発音が崩れたのである。『万葉集』巻六の山城の布当も、ふたいとするが、ふたぎと読むべきだ。『神名帳』には同郡の当麻都比古神社、当麻山口神社などがあり、当麻寺・当麻村はよく知られる。垂仁紀に当麻邑、天武紀に当麻の辻が出る。この道は河内国石川郡から大和国葛下郡へ越える山道で、歌に多い二上山の南にある、今の竹内越である。大坂の道とは河内国古市郡の飛鳥で分かれ、南へ進んで石川郡を通り、山を越して葛下郡竹内へ出る。「廻」は師のもとほりてという古語もあるが、ここはめぐりてのほうがよい。「越」を諸本が起とするのは誤りで、延佳本の越にするべきとの注に従う。

「おほさかに」は大坂で、の意味。「あふやをとめを」は、出会った娘を、という語形で、やは助詞だ。娘に、の意味でをを使うのは古代には例が多い。仁徳紀の歌の「われをとはす」も私に尋ねる、であり、『万葉集』巻十五の「どこへと私を問えば、どう答えよう」なども同じだ。ただし、このをは呼びかけの余と見てもよい。「道問へば」は道について尋ねると、の意味。大きな道だから、道筋が分からず尋ねたのではあるまい。『日本書紀』の「この山に人がいるか」と同じく、先に敵がいないか、道の状況を聞いたのだろう。「ただにはのらず」は、直道の大坂道については告げず、という意味である。人に話して知らせるのをのるというのは古語で、『万葉集』には告や謂の字で多く書く。「たぎまちをのる」は当麻の道を教えることで、知は清音に読む。石上神宮は前(巻十八、五十二葉以後)に出た。『日本書紀』は次のようにいう。「急いで大坂から大和へ向かい、飛鳥山に至ると山口で娘に会った。この山に人がいるかと問うと、武器を持つ人が山中に満ちているので、当麻の小道から越えるのがよいと答えた。太子は娘のおかげで難を免れたと思って歌った。その後、引き返し、土地の兵を動員して従わせ、龍田山から越えた。太子は石上振神宮にいた。」娘が当麻道を教えたのに龍田道で越えたのは、何か理由があるのか。龍田越は今の龍野越で、大坂道より北にある。『古事記』は娘の言葉どおり当麻道で越えたように読めるので、どの道かを改めて記さない。もし別の道なら、必ずその道をいうはずだからである。

〔『古事記』本文〕そこで、天皇と母を同じくする弟の水歯別命がやって来て、到着を申し上げさせた。天皇は人を介して「私はお前を疑っている。墨江中王と心を合わせているのではないかと思うので、会って話すことはしない」と伝えた。命は「私にはよこしまな心はありません。墨江中王と心を合わせてもおりません」と答え申し上げた。天皇はまた「それなら今、難波へ戻って墨江中王を殺してから上って来なさい。その時には必ず会おう」と伝えた。
そこで命はすぐ難波へ下り戻り、墨江中王の近くに仕える隼人、曾婆加理をだまして言った。「お前が私に従うなら、私が天皇となり、お前を大臣にして天下を治めようと思う。どうだ」。曾婆訶理は「お言葉のままに」と答えた。命はこの隼人にたくさんの褒美を与え、「それなら、お前の主君を殺せ」と言った。曾婆訶理はひそかに主君が厠へ入るのを待ち受け、矛で突き殺した。
命は曾婆訶理を連れて大和へ上る途中、大坂の山の入口に着き、こう考えた。「曾婆訶理は私のために大きな手柄を立てた。しかし、自分の主君を殺したのは卑劣な行いである。とはいえ、手柄に報いなければ、私が約束を偽ったことになる。約束どおりにしてやれば、かえってこの者の心が恐ろしい。だから手柄には報いても、当人の身は滅ぼしてしまおう」。
そして曾婆訶理に「今日はここにとどまり、まずお前に大臣の地位を与えよう。明日、大和へ上る」と言った。その山の入口にとどまり、仮の宮を造り、急に宴を開いた。隼人に大臣の地位を与え、役人たちに拝礼させた。隼人は喜び、願いがかなったと思った。
命は隼人に「今日は大臣と同じ杯で酒を飲もう」と言った。共に飲む時、顔が隠れるほどの大きな金属の椀に、差し出す酒を盛った。まず王子が飲み、次に隼人が飲んだ。隼人が飲むと、大きな椀で顔が隠れた。その時、命は敷物の下に置いておいた剣を取り出し、隼人の首を斬った。翌日、命は大和へ上った。このことから、その地を近飛鳥と名づけた。
大和へ着くと、「今日はここにとどまって身を清め、明日参上して神宮を拝もう」と言った。このことから、その地を遠飛鳥と名づけた。こうして石上神宮へ参上し、「お命じになったことは、すべて片づけてまいりました」と天皇に申し上げさせた。天皇は命を中へ召し入れ、話を交わした。

「伊呂弟」は、母を同じくする弟のこと。中巻の伊邪河宮の段に「同母弟」とあるのがこれであり(伝二十二・七十二葉)、穴穂宮の段にも出ている。「いろせ」「いろね」「いろも」ともいう。上巻の「伊呂妹」の箇所で詳しく説明した(伝十三・六十三葉)。「水歯別命」は前に出ている(伝三十五)。
「参赴」は「まゐきまして」と読む。中巻の白檮原宮の段にもある(伝十九・五十七葉)。石上神宮にいる天皇のもとへ参上したのである。「令謁」は「まをさしめたまふ」と読む。師は「ものまをさせたまふ」と読んだ。「物申す」も古語だが、ここではそのようにいうべきではない。まず人を中へ入れ、到着したことを申し上げさせたのである。中古でいう「消息す」、今でいう「案内を乞う」にあたる。取次ぎを頼む時の「ものまう」という言葉も、「物申す」のことである。
「令詔」は、人を出して天皇の言葉を伝えさせること。真福寺本に「令」がないのは脱落である。

「同心乎」は「おやじこころならむかと」と読む。師は「ひとつこころならむ」と読んだが、どうだろうか。心を合わせて一味になることを、古くは「おやじこころ」といったのだろう。『続日本紀』巻二十五の宣命に「今聞くに、仲麻呂と心を合わせ、ひそかに私を除こうと謀った」、巻二十六の宣命に「逆らい悪をなす仲麻呂と心を合わせ、朝廷を動かし傾けようと謀って」とある。ただし、いずれも「心」の下に「に」に当たる文字がないため、別の読みがあるかもしれない。今は思いつかない。「くみして」と読むのもどうかと思い、「心を同じくして」と読めば漢文訓読風になる。
中古にも用例は多い。『源氏物語』玉鬘巻の「同じ心で互いに勢力を添え合うこと」、また「わずかな兄弟も、この監と心を同じくしないというので仲たがいしてしまった」などである。今「同心す」と音読みするのも、古くから「おやじ心」といってきた言葉に基づく。「大根」を「だいこん」というのと同じである。
そもそも「同じ」を「おやじ」というのも古語である。『日本書紀』天智紀の童謡に「おやじ帯のく」、『万葉集』巻十四に「おやじ枕は」、巻十七に「妹も吾も心はおやじ」、また「おやじ時に」、巻十九に「ここもおやじと」などがある。

「疑」は、師が「おもほす」と読んだのがよい。漢文の書き方では「疑」と書いているが、天皇自身が疑っていることをそのまま「疑ふ」といっては適切でない。このあたりが日本語と漢文との違いである。「……とお思いになる」といって、疑っておられる意味を表す。
「不相言」の「相言」は、穴穂宮の段の「我が相言ひし嬢子は……」、また「語らって遣わした」、『続日本紀』巻三十四の宣命の「その人たちと和やかで安らかな関係になるように話し合え」、『万葉集』巻十一の「相言ひ初めては」などにある。人と会って互いに話すことである。中古には「あひごとす」ともいった。『伊勢物語』の「まったく話を交わすこともできず」、俊頼朝臣の『無名抄』の「その間に訪ねて来る人とは、どうあっても話をすることさえない」などがその例である。
「答白」の「白」は、真福寺本では「曰」になっている。「穢邪心」は「きたなきこころ」と読む。上巻、および中巻の水垣宮の段の「邪心」の箇所で説明したとおりである(伝二十三・七十三葉)。「不同」は「おやじこころにもあらず」と読む。「心」の字は前にあるため、ここでは省いて書いたのである。

「所近習」は「ちかくつかへまつる」と読む。『日本書紀』仁徳巻に「近習舎人」、推古巻・舒明巻に「近習者」とある。「隼人」は前に出た(伝十六・三十八葉、十七・五十二葉)。勇猛な者たちなので、皇子たちにもそれぞれ付属して仕える者がいたのだろう。
「曾婆加理」は、この後五回出る名では、いずれも「加」が「訶」になっている。ここだけ「加」なのは、後に誤ったのかもしれない。名の意味はまだ考えつかない。師は「十量」の意味かといったが、「十」を「そ」というのは「三十」「四十」などの場合であって、単独でそういう例は見当たらないのではないか。『日本書紀』では「刺領巾」という。
「従」は「きかば」と読む。「天皇」は、ここでは「すめら」と読む。古い言い方である。一般に「天皇」とあっても「おほきみ」がよい場合、「すめらみこと」がよい場合があり、その箇所の文脈による。「大臣」は前に出た(伝二十九・五十葉)。曾婆訶理は「臣」という姓の者でもないのにこういったのは、だますためだったのだろう。
次の「答白」の「白」は、諸本では「曰」だが、ここは真福寺本に従った。「随命」は「みことのまにま」と読む。『万葉集』巻十八に「官のまにま」、巻二十に「大君のみことのまにま」とある。

「多禄給」は、師の「ものさはにたまひて」という読みに従うべきである。『日本書紀』欽明巻に「賞禄」、皇極巻・孝徳巻に「給禄」、天智巻に「賜爵禄」などとある。古い宣命の「大御物賜ふ」などが、すなわちこの「禄」である。後世には音読みで「ろく」という。令にも禄令がある。日本のような「禄」の字の使い方は、中国の書物にはほとんど見られない。孝徳紀の「その禄を重くするのは、民のためである」のようなものが、中国の書物でいう使い方である。
「汝王」は「いましのきみ」と読む。お前の仕える主君ということで、墨江中王を指す。「己王」の「王」も「きみ」と読む。次の文の「己君」と同じである。「入廁」は前に出た(伝二十七・五葉)。「竊伺」の二字は「うかがひつ」と読む。中巻の水垣宮の段の歌に「うかがはくしらにと」とある。「殺」は「しせまつりき」と読む。「殺す」を「しせ」ということは前に説明した。
「大坂山口」は前に出た所と同じ。「大功」は「おほきいさを」と読む。後世の言葉なら「ゆゆしき」「いみじき」とも読めそうだが、『万葉集』などにこの意味で「ゆゆしき」を使う例はなく、「いみじき」という言葉も見えないので、「おほき」と読んだ。墨江中王を殺した手柄のことである。

「既」をこのような所に用いるのは、古い言い方だろう。序文の「已因訓……」は、残らず、すっかり、という意味である。伝二・十八葉で説明したので参照されたい。ここも同じで、「まぎれもなく、確かに」という意味であり、次の「既」も同じである。『日本書紀』継体巻にも「全く壊れて色なし」などとある。
「不義」は「きたなきしわざなり」と読む。『日本書紀』神代巻では「黒心」「濁心」「悪心」などを「きたなきこころ」と読み、『続日本紀』の宣命でも「逆悪」「邪」などを同じように読むべき所が多い。「逆穢心」などともある。上代には、道に外れ、よこしまで悪いことを「きたなし」といった。
「然」は「しかりとて」と読むと文の流れにはよいが、「とて」という語は、鎮火祭の祝詞に一例あるだけで、古い『万葉集』などにも見えないので、今は「しかれども」と読んでいる。「不賽」は「むくいずば」と読む。「賽」は「報いる」こと。「可謂無信」は「いつはりせしになりぬべし」と読む。「大臣にしよう」といった言葉が、うそになってしまうと思ったのである。
そもそもこの箇所は「不義」「無信」など、言葉も考え方も中国風である。この頃にはもう中国の書物の思想が入り始め、こういう理屈を論ずることも少しずつ行われていたのだろう。物事の筋道を細かく分け、あちらもこちらも立てて考え述べるのは、上代の率直な心ではない。もともと中国思想による文章なら、「不義」は「ことわりならず」、「無信」は「まことなし」と読んでもよいが、それでも読めるかぎりは古い心・古い言葉に従うべきである。

次の「既」も前と同じく、「すっかり」の意。「行其信」は「ちぎりしごとおこなはば」と読む。「まことをたてなば」と読んでもよい。初めの約束どおりに、完全に実行すれば、ということである。
「惶其情」は「そのこころこそかしこけれ」と読み、曾婆訶理がどう考えるかを恐れたのである。曾婆訶理が心の中で、「私を大臣にしてくださったのはありがたいが、私は自分の主君を殺した不義な者なのに、このように褒美をくださるのは、実際にはなさるべき行為ではない」と思うかもしれない。もしそう思えば、命が先に「私が天皇となる」といったことなどを、天皇、つまり履中天皇に申し上げるかもしれず、どうなるかわからない。それは自分、水歯別命にとって恐ろしい一大事である、と恐れたのである。だから「還」といっている。褒美をもらいながら悪く思うので、「かえって」なのである。師は「また」と読んだ。言葉のつながりにはそのほうがよいが、意味はそうではない。中巻の日代宮の段にも「この天皇、その御子の勇猛で荒々しい心を恐れて」とあり(伝二十八・二十六葉)、「惶情」という用法の例である。
「正身」は前に出た(伝二十八・二十六葉)。ここでは曾婆訶理本人の身をいう。「殺」でなく、わざわざ「滅」とあるのには意味があるのだろう。この者が生きて世にいれば、先に「私が天皇となる」といったことを本当だと思い、天皇へ漏らしてしまうかもしれない。その恐ろしさから、当人を亡き者にしようと思ったのである。
この段の意味をよく考えると、曾婆訶理を殺したのは、その不義を罰するためではない。その心を恐れ、口を封じるためである。そうでなければ「惶其情」とあるのに合わない。前の「これは不義である」は、褒美を与えるべきでない理由をいうだけで、殺そうとする理由を述べているのではない。取り違えてはならない。『日本書紀』とは伝承の趣旨が違うのである。
「先」は、大和へ到着するより先に、ということ。

「大臣位」について。大臣は位階ではないのに「位」というのは、古い言い方である。官職と位階が別になった後の考え方ではおかしく思えても、それは後世の考えである。古くは位は官職に備わるもので、別にはなかった。まして古い「大臣」は官職ですらなく、この点は前に詳しく説明したとおり、ほめたたえる呼び名で、それにもおのずからその地位があった。
『日本書紀』皇極巻に「大臣の位に擬す」、天智巻に「大織冠と大臣の位を授ける」、『続日本紀』巻二十五の宣命に「元の大臣の位で仕えさせることを」、巻二十七の宣命に「右大臣藤原朝臣には左大臣の位を授け……吉備朝臣には右大臣の位を授ける」、巻三十一の宣命に「太政大臣の位へ上げて授ける」などとある。官職と位階が別になった時代にも、古い言い方をそのまま用いたのである。『三代実録』巻三十三にも「かたじけなくも大将の位を」とあり、物語の文章などにも、官職を「何々の位」ということが多い。
「上幸」は大和国へ上ること。「其山口」は前にいった所で、大坂を河内側から上る入口である。「仮宮」は前に出た(伝二十五・三十葉)。「忽」は、師の「にはかに」という読みがよい。「為」は「せして」と読み、「なさって」という意味の古語である。『万葉集』巻十九に「国見しせして」とある。「看之」は「み」で、国見をなさって、ということ。また「豊宴みしせす今日は」ともある。この「見為」を師が「みしせす」と読んだのがよく、今の本の読みは誤りである。
「百官」は前に出た(伝三十三・五十六葉)。水歯別命はこの時まだ天皇ではないのにこういうのは、「私が天皇になる」とだました振る舞いで、大臣の地位を与えたのと同じである。

「令拝」は、古くから定まった作法だったのだろう。後の『江家次第』の「太政大臣任官の事」に、「新任の大臣はまず自邸に着き、公卿以下は中門の外に並ぶ。主人は南階の東の柱に向かって立ち、最も位の高い者が中門の外から入って立ち、再拝を終え……」とある。また「新任大臣の大饗」の項に、「公卿たちは中門の外で待ち、主人は南階を下りて座の下の方に向かって立つ。最も位の高い者以下は中門から入り、階段の前に並び立って再拝を終え……」などとある。これにあたるのだろうか。ただし、これらは大饗のための拝礼なのかもしれない。
「飲同盞酒」は、宴の席でのこと。「隠面大鋺」は、酒を盛り、傾けて飲む時に、顔が隠れるほど大きな椀をいう。「鋺」は『日本書紀』神代巻に「玉鋺」、『大神宮儀式帳』に「水まり三百口」、『字鏡』に「鋺、かなまり」とある。『うつほ物語』には「天人の装いをした女が山中から出て来て、銀のかなまりを持って水を汲んで歩く」とある。『和名抄』金器類には「金鋺。『日本霊異記』に『その器はみな鋺である』とある。俗に『かなまり』という。考えるに『鋺』の字の出所は不明である。古語では椀を『まり』というので、『金椀』の二字を用いるべきである」とある。確かに「鋺」の字は本来適切でなく、「椀」である。それでも古い書物はみな「鋺」と書く。古くは偏を取り替えて書く例が多く、原文に一例、字形の判読を保留するものがあり、また「鉾」を「桙」と書くようなものなので、不審に思うことはない。
「進」は「すすむる」と読み、差し出すこと。「覆面」は、飲む時に器を傾けるため、顔が覆い隠されるのである。

「置席下」は、隼人を斬るため、あらかじめ剣を隠して用意しておいたのである。この時に顔が隠れるほど大きな椀を使ったのも、剣を取り出すところを隼人がすぐ見つけ、素早く逃げることを恐れ、取り出す様子を見せないための仕掛けである。
「席」は「むしろ」と読む。『日本書紀』垂仁巻・顕宗巻・斉明巻などでは「しきゐ」と読み、それも古語らしいが、仁徳巻の歌に「やすむしろ」とあり、『和名抄』に「筵、和名むしろ。席の訓も同じ」とある。
「頸」は旧版本では「頭」となっている。上巻にも「その子、迦具土神の頭を斬る」とあり(伝五・七十一葉)、穴穂宮の段にも「天皇の頸を打ち斬る」とある。「明日」は、ここでは「くるひ」と読む。その理由は上巻の「来日」の箇所で説明した(伝十・三十九葉)。先にある「明日」は発言の中なので「あす」と読むが、こちらは地の文なので「あす」とは読まない。
「上幸」は、大和へ上ること。「其地」は、「隼人の頸を斬った」という所までの土地を指し、大坂の山の入口である。大和へ上り着いた土地をいうのではない。

「近飛鳥」。『日本書紀』には「大坂から大和へ向かい、飛鳥山に至った」とある。『和名抄』には、河内国安宿郡を「あすかべ」という。この郡名は、飛鳥部造の氏人が住んだことによる。その「飛鳥部」という氏名も、この飛鳥に住んだことから付いたのだから、郡名のもともとの由来も飛鳥である。飛鳥部造は『姓氏録』の河内国諸蕃の部に見える。『神名帳』の同郡には飛鳥戸神社がある。今は古市郡に飛鳥村があり、この社もそこにある。このあたりは古くは安宿郡の内だったのだろう。大坂は中巻、伝二十五・二十四葉でいったとおり、今「穴蒸越」という道で、河内の飛鳥村を通って大和へ越える。したがって、この近飛鳥は今の飛鳥村のあたりだろう。
「留此間……」という言葉は、遠飛鳥の地での発言である。「祓禊」は「はらひ」と読む。「みそぎ」と読んでもよい。石上神宮を拝もうとするためだろう。そうでなくても、人を斬って穢れたので、一般的な清めをするということでもよい。

「遠飛鳥」は大和国高市郡にあり、『神名帳』の飛鳥坐神社・飛鳥山口坐神社・飛鳥川上坐神社などがある土地である。允恭天皇の遠飛鳥宮、また顕宗・舒明・皇極・斉明・天武の各天皇の都も、みなこの飛鳥にあった、よく知られた土地である。近飛鳥宮の段の「飛鳥川」の箇所でも述べよう(伝四十三・六十一葉)。
名の意味は、二か所とも、ここにあるように「明日」といったことによる。ただ「明日」といっただけで地名にするのは少し不自然にも思える。しかし、何気ない発言だけによるのではない。河内でもここでも、その日のうちに出発できるところを延ばして翌日にした点が、二か所で全く同じだった。その珍しい出来事によるのである。「か」は「ありか」「すみか」などの「か」と同じく、場所の意味だろう。
この名は二か所とも、水歯別命が天皇になった時代に、改めて意図的に名づけたのだろう。この時はまだ天皇ではないので、気軽に地名を改められるはずはない。また、自然に呼び始めた地名でもない。自分の治世になってから、その初めの大事な出来事に由緒のある土地だから、改めて名づけたのだろう。そうすると「近」「遠」は丹比柴垣宮からの近さ・遠さをいうのである。以前、私は難波から上る道順で、初めに近い方、後に遠い方といったのだと思ったが、それは誤りだった。
顕宗天皇の都もこの遠飛鳥にあるのに「近飛鳥宮」というのは紛らわしい。そのことは顕宗天皇の段で説明しよう。

では、この地名をなぜ「飛鳥」と書くのか。『日本書紀』天武巻に「十五年、改元して朱鳥元年といい、また宮を飛鳥浄御原宮と名づけた」とある。この「飛鳥」は「とぶとりの」と読むべきで、「あすか」と読むのは誤りである。朱鳥というめでたいしるしの出現を喜び、年号もそれに改め、宮の名にもその朱鳥を取って「飛鳥の……」と名づけたのである。「あすか」はもともとの地名だから、それなら、わざわざ「また宮を名づけて……とした」と述べる理由がないと考えるべきである。
このように宮を「飛鳥の……」といったことから、地名の前にもその語を添えて「飛鳥の明日香」といい、ついにはその枕詞の文字をそのまま地名にも使って書いたのである。「かすが」を「春日」と書く例と同じだ。古い歌に「春日の、かすが」とあるのは、春の日が霞む、という意味のつながりによる。その枕詞の「春日」の文字を、そのまま地名に用いた。「明日香」を「飛鳥」と書くのもこの例である。こうして河内の明日香も、大和の例にならって、同じく「飛鳥」と書くのである。

「政既平訖」の「平訖」は「ことむけをへつ」と読む。中巻の水垣宮の段に「遣わされた国の政を平定して復命した」とあり、その箇所で説明した(伝二十三・八十四葉)。参照されたい。倭建命の段にも「命じられたことを果たしたので、復命しなければならない」とある。ここでは天皇の大命を受けて墨江中王を殺したことを「政」といっている。
「侍之」という言葉は、上巻、伝十四・四十三葉で詳しく説明したので参照されたい。中巻の玉垣宮の段にも「時じくの香くの木の実を持ち、参上し侍る」とある。「相語」は「かたらひたまひき」と読む。

『日本書紀』にはこうある。「瑞歯別皇子は太子がいないのを知り、後を捜して追いかけて来た。皇子は到着を告げさせ、『私によこしまな心はありません。ただ太子のお姿がないのを心配し、ここへ来ただけです』といった。しかし太子は弟王の心を疑い、召し入れなかった。太子は人を介して弟王に告げた。『私は仲皇子の反逆を恐れ、一人で逃れてここに来た。どうしてお前を疑わずにいられよう。……本当によこしまな心がないのなら、難波へ戻って仲皇子を殺せ。その後に会おう』。瑞歯別皇子は太子に、『……忠実で正直な者を見つけて〔私に同行させ〕、私が太子を欺いていないことを明らかにしたい』と申し上げた。そこで木菟宿禰を付き添わせ、送り出した。
瑞歯別皇子は……難波へ行き、仲皇子の様子をうかがった。仲皇子は太子がもう逃亡したと思い、備えをしていなかった。そばに仕える隼人に刺領巾という者がいた。瑞歯別皇子はひそかに刺領巾を呼び、『私のために皇子を殺せ。必ずお前に厚く報いよう』と持ちかけ、錦の衣と袴を脱いで与えた。刺領巾はその言葉を頼みとし、一人で矛を持ち、仲皇子が厠へ入るのを待ち受けて突き殺し、すぐ瑞歯別皇子のもとへ行った。
木菟宿禰は瑞歯別皇子に申し上げた。『刺領巾は他人のために自分の主君を殺しました。我々のためには大きな手柄でも、自分の主君に対しては、あまりに情けのないことです。どうして生かしておけましょうか』。そこで刺領巾を殺し、その日のうちに大和へ向かった。夜半に石上へ着いて復命すると、太子は弟王を呼び、厚くいたわり、村合屯倉を与えた」。

〔『古事記』本文〕天皇はこの時、阿知直を初めて蔵の役人に任じ、生活を支える土地も与えた。またこの治世に、若桜部臣たちに若桜部の名を与え、比売陀君たちには比売陀君という姓を与えた。また伊波礼部を定めた。

「天皇於是」は、本来「此御世」とあるはずの所なのに、それは後に記し、ここではこのようにいっている。阿知直への褒賞は、初めに危難から救った手柄に報いるものだった。その功績は天皇自身の身の上に関わるので、特に「天皇」と記したのだろうか。
「任蔵官」。『日本書紀』にはただ「六年春正月、初めて蔵職を設け、それによって蔵部を定めた」とあり、阿知直をこの官に任じたことは見えない。『古語拾遺』には、まず神武天皇の段に「この時、天皇と神との隔たりはまだ遠くなく、同じ殿・同じ床で過ごすのを常としていた。そこで神の物と朝廷の物もまだ分けず、宮中に蔵を建てて斎蔵と呼び、斎部氏に永くその職を任せた」とある。そして「後の磐余稚桜朝になると、三韓の貢献が代々絶えなかったので、さらに内蔵を建て、朝廷の物を分けて納めた。阿知使主と百済の博士王仁にその出納を記録させ、初めて改めて蔵部を定めた」とある。ただし、この治世に王仁が生きていたかは、伝三十三で述べたとおり疑わしい。
さらに「長谷朝倉朝になると、秦氏は……。これ以後、諸国の貢調が年々あふれるほどになったので、さらに大蔵を設け、蘇我麻智宿禰に三蔵を監督させた。秦氏が物の出し入れを行い、東西の文氏が帳簿を点検し記録した。こうして漢氏に姓を賜って内蔵・大蔵とし、秦・漢の二氏を内蔵・大蔵の主鑰とした。これが蔵部の由来である」とある。三蔵とは斎蔵・内蔵・大蔵である。
東西文氏のうち、東は倭文直で阿知直の子孫、西は河内文首で王仁の子孫である。この二氏については伝三十三・二十九葉で詳しく述べた。「漢氏」は阿知直の子孫の諸氏を広くいう、漢直のことで、倭文直もその一流である。漢直については同巻三十九葉の説明も参照されたい。

『姓氏録』の摂津諸蕃に「蔵人、阿智王の後裔」とあり、この阿智王は阿知直である。また右京諸蕃漢に「内蔵宿禰、都賀直から四代後の東人直の後裔」とある。都賀直は阿知直の子である。大蔵氏は『姓氏録』には見えないが、『続日本紀』『続日本後紀』に見え、同じく阿知直の子孫である。伝三十三で引いた文章のとおりである。こうして阿知直を初めとして、その子孫まで蔵の官に任じられたのである。
大蔵については、『日本書紀』清寧巻に「……星川皇子は……ついに大蔵官を占拠して外の門を錠で閉ざし、備えを固めて事態を平定しようとし、権勢をほしいままにして朝廷の物を費やした……」、欽明巻に「秦大津父を寵愛し……大蔵省に任じた」、また「大蔵掾を秦伴造とした」とある。天智巻には「八年十二月、大蔵が焼けた」「十年十一月、近江宮が焼け、大蔵省の第三倉から出火した」、持統巻には「難波の大蔵」などとある。

『職員令』には、「大蔵省。卿一人。諸国の調、および銭・金銀・珠玉・銅鉄・骨角・牙歯・羽毛・漆・帳幕の出納、はかり・ます・物差し、売買価格の評価、各地の貢献の雑物を扱う。大輔一人、少輔一人、大丞一人、少丞二人、大録一人、少録二人、史生六人、大主鑰二人、少主鑰二人、蔵部六十人、価長四人……」とある。
また「内蔵寮。頭一人。金銀・珠玉・宝器・錦綾・糸・毛氈・敷物、外国からの珍しい献上品、毎年供進する御服、および特別な勅命に用いる物を扱う。助一人、允一人、大属一人、少属一人、大主鑰二人、出納を担当する、少主鑰二人、蔵部四十人……」とある。さらに『延喜式』の大蔵省式・内蔵寮式にも出ている。
『和名抄』には、大蔵省を「おほくらのつかさ」、内蔵寮を「うちのくらのつかさ」とある。後世、内蔵をただ「くら」というのは、大蔵に対してこちらを単に蔵と呼び慣わしたのである。物語などの「くらづかさ」も内蔵寮のことだ。中国にも『周礼』に廩人・倉人という蔵の役人がある。しかし、それを取り入れて日本でもいったのではない。「くらびと」はたいへん古い言葉で、おのずから一致したのである。

後世の「蔵人」は、『日本紀略』に「弘仁元年三月、正四位下左中将巨勢朝臣野足と従四位下中務大輔藤原朝臣冬嗣を共に蔵人頭とし、大舎人大允清原真人夏野と右近将監朝野宿禰鹿取を共に蔵人とした」とあるのが始まりである。『職原抄』には「蔵人所は、嵯峨天皇の治世、弘仁年間に初めて置いた。外国の侍中・内侍などの職に倣ったのか……」とあり、さらに詳しい。
こちらは天皇のそばに仕える職で、倉庫の仕事には関わらないのに「蔵人」というのは、古い蔵部に由来する名だろう。古く内蔵の出納などに仕えた人は、おのずと天皇の身近に親しく仕えたので、その名によったのだろう。すでに高津宮の段にも「倉人女」という者が見え、皇后のそばに仕える者だったらしい。倉人女については伝三十六で説明した。
「粮地」は、師の「たどころ」という読みに従うべきである。『日本書紀』清寧巻に「また田地を漢彦に与えた」、孝徳巻に「田地を給付した」、また「田荘」などとあるのと同じように思われるからだ。師は「かきべ」とも読んだが、顕宗巻の「民地」、諸巻の「部曲」を「うぢやつこ」「かきのたみ」と読むことからすると、「かき」は支配下の民を指す呼び名らしく、ここには合わない。

「於若桜部臣等……」。『日本書紀』にはこうある。「三年冬十一月、天皇は磐余市磯池に二股船を浮かべ、皇妃と別々に乗り、遊宴をした。膳臣余磯が酒を献じた時、桜の花が御杯に落ちた。天皇は不思議に思い、物部長真胆連を呼んで『この花が季節でもないのに来たのは、どこの花か。お前自身で捜して来なさい』といった。長真胆連は一人で花を捜し、掖上の室山で見つけて献じた。天皇はその珍しさを喜び、宮の名にした。磐余稚桜宮というのはこの由来による。この日、長真胆連のもとの姓を改めて稚桜部造といい、膳臣余磯も稚桜部臣と呼んだ」。
『姓氏録』には、「若桜部造。饒速日命から三代後の出雲色男命、その四代後の物部長真胆連。初め、去来穂別天皇、諡は履中が磐余市磯池に二股船を浮かべ、皇妃と別々に乗って遊宴をした。この時、膳臣余磯が酒を献じ、桜花が飛んで来て御杯に浮かんだ。天皇は不思議に思い、物部長真胆連を遣わして捜させた。掖上の室山で見つけて献じると、天皇は喜び、余磯に稚桜部臣の姓を与えた」とある。『日本書紀』の文章を取って記したのである。だが、これは若桜部造の条なのに、余磯への賜姓だけを記し、長真胆連への若桜部造の賜姓を記さないのは誤りである。
また同書には、「若桜部造。速日命から十代後の止知尼大連の後裔。履中天皇の治世に桜の花を採って献じたので、物部連を改め、若桜部造の姓を与えられた」ともある。「速日」の前に「饒」の字が落ちたのだろう。
宮の名の「若桜」の由来も、ここに見える。「若」は桜の花の美しさをたたえていうのである。『清正集』の「早く咲けと植えて待っていた若桜は、咲かずに春が過ぎてしまいそうだ」という歌では、若木の桜らしいが、ここはその意味ではない。

この時「若桜部」を与えられた二氏のうち、「臣」の方は、『姓氏録』右京皇別の「若桜部朝臣。阿部朝臣と同氏。大彦命の孫、伊波我牟都加利命の後裔」という氏である。牟都加利命は膳臣の祖で、膳臣については伝二十二・二十八葉に詳しく述べた。
氏人としては、天武紀に稚桜部臣五百瀬が見える。「百」を「十」と書く箇所があるのは誤りである。この人物は持統紀にも出る。同じ天武天皇の十三年十一月には「若桜部臣に朝臣の姓を与えた」とあり、『続日本紀』巻二十五には若桜部朝臣上麻呂・若桜部朝臣伊毛などが見える。
『日本書紀』でも初めて余磯に与えた箇所では「姓」とせず「号」といい、『古事記』でも「名を賜う」とある。師はこの「名」を「君」の誤りとしたが、「君」とする根拠はない。初めに与えた時は姓でなく呼び名だったものが、子孫に受け継がれ、ついに姓になったのだろう。ここに「若桜部臣たちに」とあると、それ以前からすでに若桜部臣といったようにも聞こえるが、そうではない。起源を語る時に後の名で呼ぶのは、一般的な例である。

「比売陀君等……」。師は「ここは比売陀の誰々たち、と人名になるはずなのに『君』とあるのは誤りか」といったが、それは誤りである。「若桜部臣等に」と同じ例だからだ。「賜姓謂……」は「……といふかばねをたまひき」と読む。『続日本紀』巻二十七の宣命に「物部浄之朝臣という姓をお授けする」とあるのが根拠で、どの箇所もこの例にならって読むべきである。
この氏は日代宮の段に祖先が見えるが、伝二十二・六十八葉で述べたとおり、『古事記』以外の『日本書紀』『姓氏録』などには見えない。ここで特に取り上げたのは、若桜部などと同様、「比売陀」と呼ぶ由来があったのに、伝わらなかったのだろう。「之君」の「君」を諸本で「名」とするのは、前の「若桜部名」の「名」につられた書写の誤りである。ここでは延佳本に従った。
「伊波礼部」は、宮の所在地である石村、すなわち磐余に由来する部だろう。

〔『古事記』本文〕天皇の年齢は六十四歳。御陵は毛受にある。

「六十四歳」。『日本書紀』には「六年三月、壬午を朔とする丙申の日、天皇はご病気で体調が整わず、稚桜宮で崩御した。時に七十歳」とある。しかし仁徳天皇三十一年に「皇太子に立てられ、時に十五歳」とあるのによれば七十五歳のはずで、七十歳とは合わない。七十歳とするなら、仁徳三十一年には八歳にあたる。
旧版本・真福寺本・別の一本などには、この間に他の例と同じく「壬申年正月三日崩」の八字がある。細注にする本も大字にする本もある。壬申年は『日本書紀』では仁徳天皇六十年、また允恭天皇二十一年にあたる。月日も合わないのは、それぞれ別の伝承なのだろう。ただし『古事記』が仁徳天皇を丁卯年崩御とするのによれば、壬申年は履中天皇五年にあたるが、仁徳天皇の崩御した年を元年として数えれば六年となり、『日本書紀』の六年というのに合う。
「毛受」。延佳本は「受」の下に「野」がある。次の御陵の記載にならって補ったのだろうが、今は諸本にないのに従った。古く、このあたりの土地の様子には、あちらは野というべき土地で、こちらはそういうべきでない土地、という違いがあったかもしれない。『古事記』は古い伝承のままに記し、こういう点もたいへん細かいのである。
『日本書紀』には「冬十月、己酉を朔とする壬子の日、百舌鳥耳原陵に葬った」とある。『諸陵式』には「百舌鳥耳原南陵。磐余稚桜宮で天下を治めた履中天皇。和泉国大鳥郡にあり、陵域は東西五町、南北五町、陵戸五戸」とある。『和泉志』には「大山陵の南、上石津村にある。陵のそばに墓があり、亀塚・乳岡塚・飲酒塚などの名がある」とある。大山陵が仁徳天皇陵であることは、その段で述べた。この履中天皇陵はその南、上石津村の北にある。

多治比宮の巻

〔『古事記』本文〕水歯別命は、多治比の柴垣宮にいて天下を治めた。この天皇の身長は九尺二寸半、歯は長さ一寸、幅二分で、上下が等しく整い、すっかり玉を連ねたようであった。

真福寺本は、冒頭に「弟」の字がある。前の天皇の弟であることを示す。この点は若桜宮の段で述べたとおりである。この天皇の後世の中国風の諡は、反正天皇という。
「多治比」という土地については、若桜宮の段の「多遅比野」で説明した(この巻十一葉)。「柴垣」は、上巻に「青柴垣」とあり、「柴は『ふし』という」と注されているのによれば、ここも「ふし」と読むべきだろう。しかし甕栗宮の段の歌に「やへのしばかき」「みこのしばかき」などとあるので、やはり「しば」と読んだ。普通は「か」を濁るが、用字はすべて清音の「加」なので、清音で読むべきである。『神名帳』の伊勢国鈴鹿郡にも支婆加支神社がある。崇峻天皇の宮も倉椅柴垣宮といい、『日本書紀』欽明巻には泊瀬柴籬宮も見える。
柴の垣は仮の簡単な造りなのに、あちらこちらの宮の名にわざわざ付けるのは、どういう理由だろう。この治世ほどになれば、皇宮の垣が実際に柴であるはずはなく、まして崇峻天皇の頃ならなおさらである。実際には柴垣でなくても、水垣宮の例のように、上代に「柴垣」をみずみずしい美しさをたたえる名としていったので、その意味で名づけたのだろうか。それとも質素さを示すため、わざわざ柴の垣で造ったのか。さらに考える必要がある。
『日本書紀』には「元年冬十月、河内の丹比に都し、これを柴籬宮という」とある。しかしこの天皇は、皇子だった時から多治比に住んでいたことが、「多治比の水歯別命」と呼ばれたことからわかる。宮について『帝王編年記』には「丹比郡。今、宮坂の上、道の北の空地がこれである」と記す。『河内志』に「丹北郡柴籬宮。松原荘植田村の広庭神祠の東北にある」とあるのは、根拠があるのだろうか。『編年記』の地と一致するかどうか、なおよく調べる必要がある。

「此天皇」は、真福寺本に「此」がない。「御身之長」の「長」は「たけ」と読み、高さ、つまり身長をいう。
「九尺二寸半」。「尺」を「さか」というのは、この漢字の音を取ったのか、それとももともとの古語なのか。いずれにしても古い言葉である。「寸」を「き」というのは、刻むという意味である。『万葉集』の「たまきはる」を「玉刻春」と書き、「き」に「刻」を当てるのも同じ意味で、巻十三には「まきもち」を「真刻持」とも書く。「き」は「きだ」「きざむ」などのもとになった語である。
「二寸半」は二寸五分なので、この「半」は「いつきだ」と読む。「なから」と読むのは誤りだ。『日本書紀』孝徳巻が「二尺半」を「ふたさかあまりいつき」と読むのにならうべきである。二尺半は二尺五寸である。
身長が九尺を超えるのは、あまりに高すぎて異様にも思える。もしかすると「九」は「六」などの誤りかとも思う。しかし『日本書紀』で倭建命を「身長一丈」、仲哀天皇を「身長十尺」とすることを合わせて考えると、古い丈尺の長さは今と違い、そのようなこともあったのだろう。仮に古い一尺が今の七寸程度なら、九尺余りも一丈もありうる。次にも述べよう。

「御歯」。『和名抄』には「『説文』に、歯は口の中で物を折る骨という。和名は『は』」とある。「長」は「ながさ」と読む。日本語では立っている物には「たけ」、そうでない物には「ながさ」といって、同じ字でも区別する。後世すべてを「たけ」というのは誤りである。
「一寸」は、別の書物に歯を一寸八分、また一寸一分とするものもある。「二分」は「ふたきだ」と読む。「分」を「きだ」と読む理由は、『日本書紀』景行巻に「碩田」という国名があり、「これをおほきだという」とある。それは『和名抄』の豊後国大分郡、読みは「おほいた」、という土地で、「きだ」に「分」を当てているからだ。「き」を「い」というのは後の音便である。「分」は寸分の分の意味だろう。寸分の分を「きだ」と読む例はまだ見ていないが、きっとそうだと思う。「寸」も刻む意味なら「分」と同じで区別がないようだが、この種の名では、意味が同じでも少し違う語で区別する例がある。師はこの「二分」を「ふたわき」と読んだが、たいへんよくない。
歯の幅が二分なら、普通と違わないのに、なぜ特に取り上げるのだろう。古い一尺が今の七寸程度だったなら、二分は普通よりむしろ細いだろう。ひょっとすると、ここはかえって細いのを珍しいとしているのか。長さ一寸に幅二分なら、ずいぶん細くて珍しいはずである。
長さを測る「ひろ」「つか」は、もともとの古語である。「丈・尺・寸・分」というのは、漢字に合わせて設けた訓なのだろうか。ただし確実にはわからない。古い一尺は今の七寸ほどだったのかもしれないが、この点はまだ詳しく考えられていない。現在の定めは、もっぱら唐代の中国の基準に従ったものと見える。

「上下」は、上の歯と下の歯である。「等斉」は「ひとしくととのひて」と読み、普通にいう「そろう」こと。「既」は前にも述べたとおり、「残らず」の意味で、「全く」にも通じる。ここは「全く」に近いと思われる。師は「宛」などの誤りかといったが、そうではない。このような所で「既」というのは古い言い方である。
「如貫珠」は、色が白く美しく、玉のようだというのだろう。「貫」は並んだ様子によるのだろう。均等にそろった形をいうのではないか。古い玉には細長い管状の物があり、この歯の形もそれに似ているようだが、その玉は縦に糸を通すもので、横には通さないから、歯が並ぶ形とは似ない。形は大まかにたとえ、主に色の美しさをたとえたのだろう。この三字は漢文にもよくある言葉だが、そこから取ったのではないだろう。自然に思いつくはずのたとえだからである。
『日本書紀』は「生まれながらに歯が一つの骨のようで、容姿が美しかった」とだけいう。「一つの骨のよう」は「等斉」と合う。水歯別という名も、このように歯が美しかったことによって付いたのである。

〔『古事記』本文〕天皇は丸邇の許碁登臣の娘、都怒郎女を妻とし、御子の甲斐郎女、次に都夫良郎女をもうけた。また同じ臣の娘、弟比売を妻とし、御子の財王、次に多詞辨郎女をもうけた。合わせて四人の御子である。

「丸邇」は丸邇臣という姓で、伊邪河宮の段に出た(伝二十二・四十六葉)。「許碁登臣」の名の意味はまだ考えつかない。『日本書紀』神代巻には興台産霊、これを「こごとむすび」という、という神名もある。『姓氏録』の布瑠宿禰の条に「天足彦国押人命から七代後の米餅搗大使主命の後裔。その子、木事命」とあるのは、この人だろう。時代も仁徳天皇の治世とあるので一致する。
「都怒郎女」の名の意味も、「甲斐郎女」「都夫良郎女」の名の意味も、まだ考えつかない。継体天皇の御子にも都夫良と同じ名があり、『日本書紀』ではそちらの母も丸邇臣氏である。穴穂宮の段には、男性で都夫良意富美という人もいる。『日本書紀』には「元年秋八月、大宅臣の祖、木事の娘、津野媛を皇夫人とし、香火姫皇女・円皇女を生んだ」とある。大宅臣は丸邇臣と同祖の氏なので、同じものだろう。
「財王」は、『日本書紀』では皇女となっている。『古事記』は皇子も皇女もただ「王」と記す例があるため、男女はわからない。ただ、反正天皇のほかの皇女はみな「郎女」なのに、この御子だけ「王」とするのは、どういうことだろう。中巻の高穴穂宮の段にも弟財郎女がいる。名の意味や、同名の御子たちについてはそこで説明した(伝二十九・四十八葉)。

「多詞辨郎女」の名は地名だろうか。『神名式』に、大膳職坐高倍神社がある。あるいは鳥の名だろうか。『万葉集』巻三・巻十一にもこの鳥の名がある。『和名抄』の「鳧」の項には、「集注に、鴨は一名を沈鳧といい、姿は鴨に似て小さく、背に模様があるものという。『漢語抄』に『たかべ』という」とある。『日本書紀』は皇子としており、伝承が違う。『日本書紀』には「また皇夫人の妹、弟媛を迎え、財皇女と高部皇子を生んだ」とある。

〔『古事記』本文〕天皇の年齢は六十歳。御陵は毛受野にある。

「天皇之」は、真福寺本に「之」がない。「六十歳」。『日本書紀』には「六年春正月、甲申を朔とする丙午の日、天皇は正寝で崩御した」とあるが、年齢は記されていない。
旧版本・真福寺本・別の一本などには、この間に「丁丑年七月崩」という六字がある。日付がないのは伝わらなかったのだろうか。丁丑年は『日本書紀』では仁徳天皇六十五年、また允恭天皇二十六年にあたる。ただし『古事記』で履中天皇が壬申年に崩御したとあるのによれば、丁丑年は反正天皇五年にあたる。
「毛受野」。『日本書紀』允恭巻に「五年秋七月、地震。これより先、葛城襲津彦の孫の玉田宿禰に、瑞歯別天皇の殯を主宰させていた。地震のあった夜……。冬十一月、甲戌を朔とする甲申の日、瑞歯別天皇を耳原陵に葬った」とある。
そもそも、このように数年たってから葬ったのは、なぜだろう。考えるに『日本書紀』では、群臣が允恭天皇に即位をたびたび熱心に請願したが、重い病で歩けないと固く辞退したという。また妃が願った言葉の中に「大王は辞退して即位なさらず、位が空いて、すでに年月が過ぎました」とある。そうすると実際には、允恭天皇が辞退してまだ即位しなかった間に五年が過ぎたため、この葬儀が遅れたのだろうか。それなのに、允恭天皇の即位を反正天皇崩御の翌年とするのは、伝承の混乱なのだろうか。翌年なら「すでに年月が過ぎた」とまでは、いわなかっただろう。
『諸陵式』には「百舌鳥耳原北陵。丹比柴籬宮で天下を治めた反正天皇。和泉国大鳥郡にあり、陵域は東西三町、南北二町、陵戸五戸」とある。『和泉志』には「大山陵の北、中筋村に属する。今は楯井原陵と呼ぶ。陵のそばに鈴塚という墓がある」とある。この御陵を里人は田出井山という。

古事記伝 巻三十九――遠飛鳥宮の巻。本居宣長が謹んで著す。

【古事記本文】男浅津間若子宿禰命は、遠飛鳥宮においでになり、天下を治められた。この天皇は、意富本杼王の妹、忍坂之大中津比売命と結婚し、御子の木梨之軽王、次に長田大郎女、次に境之黒日子王、次に穴穂命、次に軽大郎女、別名は衣通郎女、【衣通王という名を付けたのは、体の輝きが衣を通して現れたためである。】次に八瓜之白日子王、次に大長谷命、次に橘大郎女、次に酒見郎女を生んだ。【九柱。】天皇の御子は、全部で九柱である。【男王五柱、女王四柱。】この九柱のうち、穴穂命が天下を治め、次いで大長谷命が天下を治められた。

【宣長の注釈】真福寺本では冒頭に「弟」があり、御名の「命」も「王」とする。この天皇は、後に漢風の諡で允恭天皇と申し上げる。「遠飛鳥」は、若桜宮の段で述べた。【『伝』巻三十八の二十七葉。】「此天皇」の「此」は諸本にないが、真福寺本に従った。【中巻からここまで、この種の箇所にはすべて「此」がある。以下は、ある所とない所がある。あるのは古い言葉のままで、ないのは漢文風の表現である。ほかの箇所も同じ。】意富本杼王と忍坂之中津比売命は、中巻、明宮の段の末に出た。【『伝』巻三十四の五十一葉・五十二葉。】『日本書紀』には、「二年春二月、丙申を朔とする己酉の日、忍坂大中姫を皇后に立てた」とある。

【宣長の注釈】「木梨之軽王」。「木梨」も地名か、または梨の一種にちなんだ御名だろうか。【『神名式』に播磨国賀茂郡の木梨神社がある。】「軽」は、大和国高市郡の地名で、前に出た。この王のことは後に見える。「長田大郎女」の長田は地名だろう。【『和名抄』では、摂津国八田部郡・伊賀国伊賀郡・伊勢国飯野郡・遠江国長上郡などに長田郷がある。阿波国には名方郡があり、『神名式』には近江国高島郡・美作国大庭郡などに長田神社がある。ほかにもあるだろう。】この方は、履中天皇の御子なのが混同された伝承である。その理由は穴穂宮の段で述べる。【『伝』巻四十の十一葉。】

【宣長の注釈】「境之黒日子王」の境は地名だろう。【雄略紀の、この王が焼死させられる所に、「坂合部連の贄宿禰が皇子の屍を抱いて焼かれ、死んだ」とある。これによれば、この人は乳母方の人だろうか。それなら境は乳母の姓かとも思えるが、やはりそうではあるまい。】「黒」は、どのような理由で名づけられたか、詳しく分からない。この御子のことは後に見える。「穴穂命」の御名も地名。この土地は、この命の段で述べよう。「軽大郎女」の軽は、兄王の御名の軽と同じ。この女王のことも後に見える。

【宣長の注釈】「衣通郎女」は「そとほし」と読む。その理由は明宮の段の末、琴節郎女の下で述べた。【『伝』巻三十四の五十三葉。】この名を『日本書紀』が皇后【大中津比売命】の妹、弟姫の別名とするのは、伝承が異なるのである。どちらが正しいか、たいへん紛らわしい。【『古事記』の琴節郎女も、まさに『書紀』の弟姫と思える。「琴節」が「衣通」に通じるなら、衣通郎女は『書紀』のいう人物なのに、『古事記』が軽大郎女の別名としたのが混同なのか。あるいは衣通郎女は『古事記』どおり軽大郎女で、琴節は別の意味の御名だったのを、『書紀』が語の似ているため混同し、弟姫の別名としたのか。弟姫は皇后の妹、軽大郎女は皇后の子なので、姨と姪が混同されたのである。どちらが正しいのだろう。】名の由来を述べる注について、『日本書紀』は弟姫を、「容姿は比べるものがないほど美しく、その美しさが衣を通して輝いたので、人々は衣通郎姫と呼んだ」とする。

【宣長の注釈】「八瓜之白日子王」。八瓜は大和国高市郡の地名で、中巻、伊邪河宮の段の八瓜入日子王の下で述べた。【『伝』巻二十二の六十三葉。】「白」は、どんな理由の御名なのだろう。【兄の黒日子は肌が黒く、この王は白かったのかもしれない。『神名式』に能登国能登郡の白比古神社があるが、ここに関係するわけではない。その郡には、何々彦・何々姫という社が多い。】この王のことも後に見える。「大長谷命」は、長谷に住んでいたのだろう。即位しておいでになった大宮も、そこにあった。「橘大郎女」の橘は、大和国高市郡の地名。【今も橘村があり、橘寺もここだ。】『万葉集』巻二の橘の島宮も、この土地だろう。【『日本書紀』の「但馬橘」は、但馬もすなわち橘であるのに、誤って重ねた名だ。】「酒見郎女」も地名だろうか。【『和名抄』に播磨国賀茂郡の酒見郷、『神名式』に尾張国中島郡の酒見神社などがある。】九柱という注の二字は延佳本にない。「等」も諸本にはないが、真福寺本・延佳本に従った。『日本書紀』では、皇后の子を木梨軽皇子・名形大娘皇女・境黒彦皇子・穴穂天皇・軽大娘皇女・八釣白彦皇子・大泊瀬稚武天皇・但馬橘大娘皇女・酒見皇女とする。

【古事記本文】天皇が初めて天の日継、すなわち皇位を受け継いで天下をお治めになることになった時、辞退しておっしゃった。「私は長く続く病があるので、皇位を継いで治めることができない。」しかし大后をはじめとする卿たちが、かたく願い申し上げたので、ついに天下を治められた。この時、新良国の王が、船八十一艘で貢ぎ物を献上した。その使節の長は金波鎮漢紀武という。この人は医術に深く通じていたので、天皇の御病気を治した。

【宣長の注釈】「天津日継」は上巻に出た。【『伝』巻十四の三十七葉。】「為将所知之時」は、お治めになるはずだった時、というような意味だ。【治めようと思われた、というのではない。】「天皇辞」の「天皇」は、読むと煩わしいので読まない。「一長病」は「うちはへたるやまひ」と読む。【「一」は読まない。漢文風に添えた字で、『古事記』の一横刀・一賤夫・一高樹などの「一」と同じ。真福寺本にはない。「長」は久しい・常であるという意味。師は「とこしへなる」と読まれたが、そう読むべきではあるまい。】長く引き延び、いつまでも続く意味である。『古今集』で貫之が屏風絵の花を詠んだ歌にも、「咲き始めた時から後は、ずっと世の中が春なのか、いつも同じ色である」とある。【『万葉集』巻十三の「うちはへて、思ひし小野は」は、別の意味に聞こえる。】

【宣長の注釈・即位辞退の事情】『日本書紀』に、成人すると重病になり、身の動きが不自由だった、とある。辞退のお言葉にも、重病を患い歩けない、とある。【身の動きが不自由というのは、この歩けないことだろう。重病を治そうと激しい治療をし、そのため歩けなくなったのか。「ひそかに身を傷つけて病を治そうとした」とあるからだ。あるいは歩けないのも、その重病の症状だろうか。】辞退について『書紀』はいう。「瑞歯別天皇が崩じると、卿たちは相談し、『大鷦鷯天皇の御子には雄朝津間稚子宿禰皇子と大草香皇子がいるが、雄朝津間稚子宿禰皇子が年長で、慈愛深く孝心も厚い』とした。吉日を選び、ひざまずいて璽を差し上げると、皇子は辞退した。『私は天の恵みに恵まれず、久しく重病を患い、歩くこともできない。病を除こうと、口先だけでなく、ひそかに身を傷つけるほど治療したが、なお治らない。それで先帝は、病が身にまといつく者は、長く生きても皇位を継げないといわれた。また兄の二天皇も私を愚かと見て軽んじた。卿たちは知っている……私はお受けすることはできない。』群臣は再拝し、『帝位を長く空けてはおけません……』と述べたが、なお辞退して聞き入れなかった。そこで群臣はかたく願い、『……大王、どうかお聞き入れください』と申し上げた。」

【宣長の注釈】「大后」は忍坂之大中津比売命。【この時はまだ大后とは呼ばないが、後から記した表現である。】「始而」の用例は、中巻、神功皇后の段の「金銀為本……」の所で述べた。【『伝』巻三十の十九葉。】「諸卿等」は「まへつきみたち」と読む。景行紀の歌に「まへつきみ」とある。【詞書の百官を指して詠む。】「前つ公」、天皇の御前に控える公たちという意味。『日本書紀』の侍臣・群卿・群僚・群臣・卿大夫・公卿・大夫・卿等・大夫将相などを、いずれも「まちぎみ」「まちぎむだち」と読む。【「まちぎみ」「まうちぎみ」は「まへつぎみ」が音便でなまったもの。「きんだち」も「きみたち」が音便で崩れた形だ。『書紀』の訓には、一般に後世の音便形が多い。】「奏」は、皇位を継いでお治めになるよう願い申し上げたこと。「乃」は「ぞ」と読む。この種の所で「ぞ」は強い働きを持ち、「乃」によく当たる。

【宣長の注釈・『日本書紀』の続き】『日本書紀』はいう。「元年冬十二月、妃の忍坂大中姫命は、群臣が悩むのを苦しく思い、自ら手を洗う水を持って皇子の前へ進み、申し上げた。『大王が辞退して即位なさらず、皇位が空いて年月が過ぎました。群臣・百官は憂えて、どうしてよいか分かりません。どうか願いに従い、あえて帝位におつきください。』しかし皇子は聞き入れず、背を向けて黙っていた。大中姫命は恐れ、退くこともできずに控え、四、五刻が過ぎた。真冬で風も激しく冷たく、捧げた器の水がこぼれ、腕は凍え、寒さに耐えかねて死にそうになった。皇子は振り返って驚き、助け起こしていった。『……どうして最後まで辞退できよう。』大中姫命は喜び仰ぎ、群卿に、『皇子は群臣の願いを聞き入れられます。今こそ天皇の璽符を差し上げなさい』といった。群臣は大いに喜び、その日に璽符を捧げ、再拝して差し上げた。皇子は……と述べて即位した。」「此時」は、初めて即位された時を指すのか、また広くこの御代をいうのかもしれない。

【宣長の注釈】「新良」は新羅で、中巻に出た。【『伝』巻三十の五十九葉。】「国主」もそこで見える。【同六十一葉。】貢ぎ物の「御調」は、中巻、水垣宮の段で詳しく述べた。【『伝』巻二十三の八十七葉。】「八十一艘」。『日本書紀』神功巻には、「新羅王波沙寐錦は、微叱己知波珍干岐を人質とし、金銀や色の品、綾・羅・縑・絹を八十艘の船に載せ、官軍に従わせた。新羅王が常に八十艘で日本へ貢ぐのは、これが始まりである」とある。仁徳巻の四十七年には、「……新羅人が作り、貢ぎ物の絹二千四百六十匹と、種々の雑物を、八十艘で献上した」とあり、この允恭巻にも同様の記事がある。【これらによると、ここで八十一艘という「一」は余計な字か。それとも実際は八十一艘だったのを、『書紀』はどれも「一」を省いたのか。】

【宣長の注釈】「大使」は、字のまま「おほつかひ」と読むべきだ。【師は「つかひざね」と読まれたが、『日本書紀』もそう訓読する。】欽明紀には、百済に「……馬武を大使として派遣し、参朝して対面させよ」と命じた記事、また高麗の使者や大使の記事がある。敏達紀には「高麗の大使が副使らに語った……」、舒明紀には「高麗の大使宴子抜、小使若徳、百済の大使恩率素子、小使徳率武徳が、ともに朝貢した」、皇極紀には「大使翹岐」などとあり、後の諸巻にも見える。【日本から外国に遣わす使者にも大使・小使があったことは、欽明紀・斉明紀・天武紀などに見える。孝徳紀には押使・大使・副使・判官がある。】

【宣長の注釈】「金波鎮漢紀武」の「金」は姓である。新羅王の姓が金なので、【『唐書』新羅伝に、王の姓は金とある。朝鮮の『東国通鑑』には、「脱解王九年春三月、新羅王は小児閼智を得て、養子とした。王が夜、金城の西の始林に鶏の声を聞き、明け方、瓠公を見に遣わすと、金色の小箱が梢に掛かり、白い鶏が下で鳴いていた。報告を受けて箱を取って開けさせると、中に姿のすぐれた男児がいた。王は喜び、『これは天が私に賢い跡継ぎを授けたのではないか』といい、閼智と名づけた。閼智は土地の言葉で小児の呼び名。金の箱から出たので姓を金とした。鶏の不思議があったので、始林を鶏林と改め、国号ともした」とある。】この人も、その一族だろう。『日本書紀』に、この姓を持つ新羅人は多い。【ただし古い巻には見えず、孝徳巻から見える。】

【宣長の注釈】「波鎮」は新羅の爵位だ。神功紀に、新羅王が微叱己知波珍干岐を人質にした、とある。【波珍と波鎮は同じ。】『釈日本紀』の「波珍干岐」の注は、『私記』の師説として、新羅の爵位で、日本の正三位に当たる、とする。【これは波珍への注で、干岐については次に「称号である」とあるからだ。】『東国通鑑』には、「新羅は官を十七等とし、一は伊伐飡、二は伊尺飡、三は匝飡、四は波珍飡、五は大阿飡。いずれも真骨に授ける。真骨は王族である……」とある。【『北史』新羅伝も、官は十七等で、一は伊罰干、宰相のように貴く、次は伊尺干、迎干、破弥干、大阿尺干……とする。『北史』の干を『東国通鑑』で飡とするのは、音の違いだろう。天武紀にも飡とある。『北史』の破弥干の「弥」は「珎」の誤り。『私記』が波珍を正三位に当てるのは、一段違うのか。第四等なら従二位というべきだろうか。ただし正一位を除いて対応させたのかもしれない。】天武紀の「新羅は波弥飡金智祥、大阿飡金健勲を遣わし、政務について尋ね、貢ぎ物を進めた」の「弥」も「珎」の誤りだ。【『北史』は弥だが、神功紀は波珍、『古事記』は波鎮、『東国通鑑』も波珍だからである。】

【宣長の注釈】「漢紀」は、かの国の王族の称号だ。『日本書紀私記』の師説に、「干岐は号である」とある。【その後の『弘仁私記』の「冠位の名」は、波珍への注だろう。「波珍干岐」と続く所への注だからだ。干岐への注なら誤りで、干岐は冠位ではない。『南史』新羅伝の官名に子貴旱支・壱旱支・斉旱支・謁旱支・壱吉支・奇貝旱支とある。「支」の音はシだが、明らかに旱岐と聞こえる。日本も「支」をキの仮名に使うのは、韓国にならったのだろうか。それらを官名というのも、伝聞の誤りだろう。「壱吉支」は「支」の上に「旱」が落ちたのだろう。】神功紀の卓淳王末錦旱岐【卓淳は国名】、加羅国王己本旱岐、継体紀の任那王己能末多干岐などは、王を旱岐と呼ぶ。崇神紀の意富加羅国王の子、都怒我阿羅斯等の別名、于斯岐阿利叱智干岐、継体紀の新羅の上臣伊叱夫礼智干岐、欽明紀の任那諸国旱岐ら、安羅・加羅・卓淳の旱岐ら、新羅の下旱岐などもある。【ほかにも多い。】これらは、その国々の王族なのだろう。韓の諸国では、王もその一族も、まとめて旱岐といったのだ。【日本で天皇から諸王まで「おほきみ」と申し上げるのと同様だろう。「波珍旱岐」は「二品親王」などというのと同じように聞こえる。】

【宣長の注釈】波珍の「珍」を「鎮」、旱岐を「漢紀」とするのは、同音の字を通用する古い例で、『万葉集』で都を堵、『日本書紀』で復命を服命と書くのと同じだ。【もともと新羅でも、これらは音だけを借りる仮名で意味はないので、波を破、旱を干ともする。】「武」が本人の名である。【『北史』の波珍干によれば、波鎮漢までが爵で、名は紀武かとも思う。しかし神功紀に波珍干岐、天武紀に波珍飡があるので、波鎮は波珍飡、漢紀は旱岐で、名は武だ。】「金」という姓を爵の前に置くのは、その国の古い言い方だろう。【日本にも源二位・藤大納言のような例がある。天武紀の波珍飡金智祥の語順は、中国式である。】

【宣長の注釈】「薬方」は「くすりのみち」と読む。【「方」は「わざ」とも読める。】『日本書紀』神代巻に「病を治す方法を定める」とある。【その「方」を「さま」とも読むが、そう読むべきではない。】薬方を知るとは、薬を使って病を治す技を知ることだ。【医者を薬師というのも同じ。中国の医家が薬の配合を「薬方」というのとは違う。】天智紀で百済人の中に「薬を解す」と注する者がいるのと同じである。「帝皇」は、仁徳紀に「天下を治める帝皇」「帝皇の子」、允恭紀に「帝皇の後裔」、『続日本紀』巻三十に「天の御門、帝皇が御命もて」などともある。古くは、このようにも書いた。「すめらが」と読む。【これは古語で用例が多い。「何・賀」というと不敬に思うのは後世の感覚だ。】「治差」は「をさめまつりき」、治し申し上げた、と読む。【「差」は意味に沿って添えた字。】何事でも良くするのを「治む」という。『続日本紀』巻四の詔の「御病を治したい」、巻三十六の詔の「病止み」、『三代実録』巻二十六の詔の「天皇の御体に苦しい所がおありになり……すなわち癒えておおさまりたまい……」【「愈息」は「をさまり」とも読むか】、巻二十九の詔の「御病を治したまい」などの例がある。

【宣長の注釈・『日本書紀』との相違】『日本書紀』では、「三年春正月、新羅へ使者を遣わし、よい医者を求めた。秋八月、医者が新羅から着き、天皇の病を治療させると、ほどなく治った。天皇は喜び、医者に厚く褒賞して帰国させた」とある。また「四十二年、天皇が崩じると、新羅王は聞いて驚き悲しみ、貢ぎ物の船八十艘と、さまざまな楽人八十人を献上した……」とする。これは伝承が異なるのである。【どちらが正しいのだろう。】

【古事記本文】そこで天皇は、天下のさまざまな氏や名を持つ人々の氏姓が、入り乱れ誤っていることをお嘆きになり、味白檮の言八十禍津日の前に、玖訶瓮、くかへ、という釜を据えて、天下の八十友緒、さまざまな奉仕集団の氏姓を定められた。【玖訶の二字は音で読む。】また、木梨之軽太子の御名代として軽部、大后の御名代として刑部、大后の妹の田井中比売の御名代として河部を定められた。

【宣長の注釈】「天皇」の「皇」を旧印本と別の一本などは「王」とするが、真福寺本・延佳本に従った。「氏々」は、高津宮の段に「氏々の女ら」、崇峻紀に「氏々の臣・連」、皇極紀・孝徳紀に「氏々の人ら」、『続日本紀』巻二十にも「氏々の人ら」、巻二十五の詔には「諸氏々の人ら」などとある。

【宣長の注釈】「名々」。まず「名」は、その人のありさまをほめたたえて付けたものなので、名を呼ぶことは敬うことである。【「名」の本来の意味は「為(な)」で、何かになったその様子をいう。「為人」もその人が持つ姿・ありさま、物の形を「なり」というのも同じで、名とはもと、その物のありさまだ。たとえば筆は、文を書く手という由来の名、硯は墨をするという由来の名で、万物の名はみなそうだ。人名も、行いや容貌、縁など、その人の様子に従って付けた。名そのものが称賛の語でなくても、名づける気持ちはたたえることなので、呼ぶのは敬意である。中国で、人名を呼ぶのを無礼とするのは逆の違いだ。日本でも後世にそうなったのは中国の影響であり、後の習慣で古代を疑ってはいけない。】昔は氏ごとの職務が定まり、代々受け継いで仕えたので、その職務自体が家の名だった。【氏の職務は、もと祖先の功績によって賜り、奉仕するものなので、これもたたえる意味で名となる。】したがって職務そのものも名といった。それが代々家に伝わるので、名はまた姓のようでもある。「名々」は「職々」で、ここでも氏々というのと等しい。

【宣長の注釈・名と職務の用例】孝徳紀の詔には、「……初めの王の名々を、臣・連・伴造・国造が、その品部を分け、それぞれの名を区別した。しかし人民や品部を取り交ぜ、国や県に住まわせたので、父子が姓を替え、兄弟が宗を異にし、夫婦が互いに名を異にするようになった……」とある。また、「天皇の名々は、あるいは臣・連の氏、あるいは造らの区分となり……それぞれ名々を守る」ともいう。【品部は何々部というもの。初めの王の名々・天皇の名々は御名代のことで、天皇の御名が臣下の姓となり、また何々部という集団の名になることをいう。】天皇や皇子の御名を、御名代の部や家が代々受け継ぐと、その名は姓となる。だから「夫婦が名を異にする」は、姓を異にするというような意味だ。『続日本紀』巻九の詔の「それを負って奉仕する姓名を賜い」、巻十八の「骨名の緒を絶ち、由来のない氏となる」もある。【ここでの名も姓である。】

【宣長の注釈・万葉歌と詔の用例】『万葉集』巻十八には、「大夫の清らかなその名を、昔から今の世まで流してきた、祖先の名を絶やさず……」、また「物部の多くの伴の男が、それぞれ名を負って、大王の広いお心のままに……このようにこそお仕えしよう」とある。【「名々負」を今の本は「名負名負」と誤る。】巻二十には、「受け継ぎ仕える祖先の職務であると、言葉に明らかにして授けてくださった……惜しむべき清らかなその名よ……親の名を絶やすな」とある。【いずれも、祖先から受け継いだ家の職務を名という。】『続日本紀』巻二十五の詔には、「祖先の大臣として仕えた位と名を継ぐと思わず……」【位名は位と職務】、また「祖先の名を盛んに継ぎ広めようと思わない者はいない」とある。これらから、氏々の職務も姓も名と呼ぶと分かる。巻十七の詔には「進んでは天皇の大いなる名を承り、退いては婆々大御祖の名を継ぎ……男だけが父の名を負い、女はそうしていられないものなのか。代わって仕える道理がある……」とある。ここでは、皇位を継いで天下を治める職務を「天皇の大御名」といい、後宮の政務を「御母の御名」といっている。【婆々は母のこと。】【次に、父の名を負う、とあるのも、父の職務を受け継ぐことをいう。】

【宣長の注釈】「氏姓」は「うぢかばね」と読む。「うぢ」は人々が普通に理解する氏である。【源・平・藤原などの類だ。】「かばね」は、うじをたたえる称号で、うじ自体も指す。【源・平・藤原は氏だが、それもかばねという。うじも、もともとたたえて付けた名だからである。】また、朝臣・宿禰など、うじの下に付けて呼ぶ称号も指す。これは明らかに尊んでたたえる称号だ。【語そのものは称賛の語でなくても、授ける意図がたたえることなのである。】さらに、うじと朝臣・宿禰の類を続けたものも、かばねという。【藤原朝臣・大伴宿禰など。】つまり、うじは源・平・藤原の類に限り、【朝臣・宿禰などを、うじということはない】、かばねは、うじにも、朝臣・宿禰の類にもわたる呼び名である。

【宣長の注釈・氏姓の漢字との関係】「うぢかばね」と並べる場合、うじを源・平・藤原の類、かばねを朝臣・宿禰の類として分ける場合もあれば、特に区別せず重ねる場合もある。ここの「氏姓」は、どちらに取っても違わない。【「うぢ」に「氏」を当てるのは適切だが、「かばね」に「姓」は、合う場合と合わない場合がある。それなのに世の人々が、氏・姓の漢字だけによって、うじ・かばねの意味を分けようとするため、たいへん紛らわしく感じられる。そこで詳しく説明する。中国で姓と氏の関係が紛らわしいため、日本のうじ・かばねも、その漢字に引かれて、いっそう紛らわしく思われるのだ。中国では姓と氏は別のようでも、しばしば通用して同じものをいう。「姓は某氏」という言い方から、それが分かる。ただし用法がまったく同じなのではなく、「姓は某氏」とはいっても「氏は某姓」とは決していわない。源や藤原の類は、姓といっても氏といってもよく、一般に「うぢかばね」に「氏姓」と書くのも適切である。それでも「かばね」のうちに「姓」が合わない場合があるのはなぜか。朝臣・宿禰の類は中国にはないものなので、それに合う漢字もないからだ。「姓」は源や藤原などをいう時のかばねには合うが、朝臣・宿禰をいう時のかばねには合わない。それを無理に漢文に書く際、やむを得ず「姓」を使う。『日本書紀』などに「姓を賜い、朝臣という」と書かれたことに紛らわされ、朝臣・宿禰を姓、藤原・大伴を氏だと考える人もいるが、それは誤りだ。それなら、源・平・藤原はともに朝臣なのだから、みな同姓とするのか。朝臣・宿禰の類を姓と理解してしまうと、源・藤原の類と混同し、区別がつかなくなる。そこで後世の書物では、朝臣・宿禰の類に「尸」を書いて区別する。これは単なる借字なので、「姓」を書くより紛らわしくなくてよい。ただし正式な漢文に「尸」などと書くわけにもいかないから、ひとまず「姓」と書いても差し支えない。読む人が意味を理解し、漢字に惑わされてはならない。そもそも日本の言葉の意味を漢字によって取り違えることはよくあるが、この「かばね」は、とりわけ漢字のために人が思い惑う例である。決して「姓」という字にとらわれず、その字を忘れて考えるべきだ。】

【宣長の注釈・引用】『日本書紀』推古巻には「氏姓の由来を調べさせた」とある。『続日本紀』巻29の詔には「丈部姉女を身近に仕える者として、冠位を上げ、根かばねを改めて処遇した」、また「刑を一等軽くして、お前たちの根かばねを改め、遠流の罪に処する」とある。【「根」も、かばねを尊んでいう言葉である。】

【宣長の注釈】「忤過」は、氏姓を取り違えること。氏姓は朝廷から賜るものであり、少しでも勝手にすることはできない。【その起こりまで考えれば、天下の人すべての氏姓を朝廷が与えたはずはなく、初めは自然に決まったものも多かっただろう。しかし、いったん定まってからは、個人がむやみに扱わず、すべて朝廷が統制した。】古代には氏姓をたいへん重んじ、厳格に扱ったことが、代々の歴史書に見える。それでも自然に混同して取り違えたり、偽ったりする者がいたのである。

【宣長の注釈】味白檮は、中巻の玉垣宮の段にも出る【本書巻25・19丁】。「味」は「うま」とも読めるが、多くは「甘」と書き、『日本書紀』などでも「あま」と読むので、ここでも「あま」に従う。「言八十禍津日前」は、もともとの普通の地名とは思われない。今回の探湯によって特に名づけられたもので、場所そのものは味白檮の岬なのだろう。八十禍津日については上巻の禍津日神の注【本書巻6・57丁】で述べたとおりである。氏姓を取り違えるのは世の災いなので、それを正す場所という意味で名づけられたのか。【甘樫に鎮座する四座の神も、この探湯のために祭られたのではないか。そうなら、八十禍津日・大禍津日・神直毘・大直毘の四柱ではないだろうか。これは試みにいうだけの推測である。】

【宣長の注釈】「言」は、氏姓を違えて偽っていう言葉だろうか。【師の賀茂真淵は、古い文の言葉だろうというが、納得しにくい説である。】『万葉集』巻14に「現世の、たくさんのうわさが激しくとも、それに抗しきれず、私をうわさの種にしないで」とある。【稲掛大平は、「ことのは」は「ことなひ」だろうといい、「音」を「音なひ」というのと同じだとする。】この歌と本文では順序が逆だが、「八十」と「言」がつながる形は同じである。「前」は、丘の突き出した先端である岬の意味である。【師は「くま」と読んで、檜隈という土地だろうといった。檜隈も同じ辺りなので、それも考えられるが、『日本書紀』では「岬」と書いているので、やはり岬である。『古事記』の他の岬にも、みな「前」を使っている。】

【宣長の注釈】「玖訶瓮」の「くか」は、『日本書紀』が「盟神探湯、これを区訶陀智という」と説明するように、熱湯へ手を入れて探り、神に誓うことをいう。【「陀智(だち)」は「役立ち」などの「たち」で、何かの行為に取りかかることを「何々に立つ」「何々立ち」というのは昔も今も多い。「くかだち」は「か」が清音、「だ」が濁音である。「か」を濁らせ「た」を清音にする読みは誤りだ。】『日本書紀』応神巻の9年には、天皇が武内宿禰と甘美内宿禰に問いただしたが、双方が自説を強く主張して真偽を決められないため、神に誓って探湯をするよう命じ、二人は磯城川の辺りに出て探湯を行い、武内宿禰が勝ったとある。継体巻には、日本人と任那人が子どもの帰属を争って判断できず、毛野臣が好んで誓湯を置き、「本当の者はただれず、偽る者は必ずただれる」といい、湯へ手を入れて、ただれて死ぬ人が多かったとある。【熱湯を探って誓うことは、中国の書物にも見える。】垂仁巻には、中臣連の祖として「探湯主」という人名もある。

【宣長が引く『日本紀竟宴集』の歌】この天皇について、「甘樫の丘の探湯が真偽を明らかにしたので、混乱していた民の氏姓もすっきり正された」、また「混乱した氏を、探湯の甕を据えて見分けただけだろうか。海の真珠までも姿を現したのだ」と歌う。武内宿禰については、「筑紫を経て探湯を行ったとき、潔白だった身は、六代の天皇に仕えてきたのだなあ」と歌う。

【宣長の注釈】「瓮」は、その探湯の熱湯を沸かす釜である。【「へ」はこの種類の器の総称で、「かなへ」は金属製の瓮、「なべ」は魚や野菜を煮る瓮であり、ほかにも「何々へ」という名が多い。】ここで釜を据えたことだけを述べ、探湯を実行したことを省いているのは、古い文章の書き方である。【大祓詞も、天津金木を切るといった後、それを置座に作ることはいわず、すぐ「置座に置き足らわして」と続ける。同じ書き方である。】「八十友緒」は上巻の「五伴緒」の箇所【本書巻15・18丁】で説明した。『万葉集』巻18に「やそとものを」とある。『日本書紀』崇神紀の「八十諸部」も同じように読むべきだ。【「やそもろとものを」という読みは、古代の言葉ではない。】

【宣長の注釈】「定め賜う」は、真偽を正して決定したという意味である。『新撰姓氏録』序には、「允恭天皇の治世に、多くの姓が入り乱れた。そこで詔を下し、盟神探湯を行わせた。本当のことを申し立てた者は無事で、偽って名乗った者は害を受けた。それ以後、涇水と渭水が別々に流れるように、氏姓の区別が明らかになった」とある。『日本書紀』の4年の詔には、「上下が争い、民は安らかでない。自分の姓を誤って失う者も、わざと高貴な氏を名乗る者もいる。世が治まらないのは、おそらくこのためである。公卿・役人・諸国造たちは、それぞれ帝王の子孫だ、ほかの天降った神の子孫だという。そこで氏姓を持つ者を沐浴・斎戒させ、盟神探湯を行わせる」とある。味橿丘の辞禍戸の岬に探湯の甕を据え、人々をそこへ向かわせ、「本当なら無事であり、偽りなら必ず害を受ける」といった。人々はそれぞれ木綿の手だすきを着けて甕に進み、探湯をした。本当の者は無事で、偽った者はみな傷ついた。そのため、故意に偽っていた者は驚き、あらかじめ退いて進み出なかった。これ以後、氏姓はおのずと定まり、偽る者もいなくなったという。【その注に「あるいは泥を釜に入れて煮立て、腕をまくって熱い泥を探る。あるいは斧を火の色になるまで焼いて手のひらに置く」などとあるのは、後人の追加である。「禍戸」は「まかつへ」と読む。「ひ」と「へ」は通う音で、「禍津日」と同じ言葉である。通行本で「まがと」と読むのは誤りだ。】

【宣長の注釈】「軽太子」の「太子」は「みこのみこと」と読む。【「日嗣の御子」という言い方は普通だが、個人名を付けて「何々の太子」とある時は「御子の命」というのが通例であり、「何々の日嗣の御子」とはいわない。】『日本書紀』推古巻の「厩戸豊聡耳皇子命」、天武巻の「草壁皇子尊」「高市皇子命」などと同じである。【これらはいずれも皇太子である。】『続日本紀』巻1と『万葉集』巻1の「日並知皇子命」を、『続日本紀』巻4では「日並知皇太子」と書く。これからも、「皇太子」を「みこのみこと」と読むことが分かる。【『万葉集』巻3で安積皇子を「御子の命」と歌うのは、皇太子ではないが、聖武天皇のただ一人の男子だったので、皇太子に準じて申し上げたのだ。歌の調子もそのようになっている。】

【宣長の注釈】「御名代」は前に説明した。「刑部」は「忍坂部」のことで、「おさかべ」と読む。『和名抄』では伊勢国三重郡、遠江国引佐郡、備中国賀夜郡・英賀郡などに刑部という郷名があり、どれも「おさかべ」とする。【因幡国高草郡にも同名の郷があり、こちらは「おむさかべ」とする。】これは皇后の出身地、大和国城上郡の忍坂に由来する。なのに「刑部」と書くのは、その地の忍坂部の人々が刑部の職に奉仕し、その職名の漢字を書き慣れたためだろう。【したがって「おさかべ」という名は忍坂部に由来し、刑部という官職に由来するのではない。逆に「刑部」という漢字は忍坂部の名に由来するのではなく、もとは別々である。「おさかべ」を元来の刑部の職名だと理解してはならない。師が「おしかなへ部」だといったのも誤りである。刑部という職名を「おさかべ」といったことはない。『和名抄』では刑部省を「うたへただすつかさ」とし、『日本書紀』持統巻でも「うたへのつかさ」と読む。】

【宣長の注釈】田井中比売は中巻・明宮の段の末に出る【本書巻34・52丁】。『日本書紀』では「弟姫」とし、「衣通郎姫」もこの人のこととして、7年から11年の間に、天皇が深く寵愛したことや、その折々の歌などを記す。【天皇に深く愛されたという点は同じだが、「衣通郎女」という名を持つ人物は『古事記』の伝承とは異なる。ほかの事柄には違いがなく、『日本書紀』の方が詳しい。】特にその人の御名代まで定めたのである。「河部」について、御名代は普通、その人に付いている地名を取るが、これは地名とは思いにくく、名と関係があるとも思えない。【「河」の前後の字が落ちたのかとも思うが、何々河・河何々としても、どのような関係になるか、まだ考えつかない。】それなら元は「田井部」で、「田」が落ち「井」を「河」に誤ったのか、あるいは田井の二字を河の一字に誤ったのか。さらに考える必要がある。『日本書紀』には、弟姫のため藤原に別の殿舎を造って住まわせたこと、11年の記述にも、衣通郎姫が藤原宮に住んでいたこと、諸国造に命じて衣通郎姫のために藤原部を定めたことがある。

【『古事記』本文】天皇は78歳でお亡くなりになった。御陵は河内の恵賀の長枝にある。

【宣長の注釈】78歳とある。『日本書紀』では42年春正月、乙亥を月初とする戊子の日に崩御し、年齢は「若干」として具体的な歳の数は記していない。別本には81歳とも68歳ともある。【『先代旧事本紀』の78歳は、この『古事記』に従ったものだ。『一代要記』『編年記』などでは80歳とする。】古い刊本、真福寺本、また別の一本などには、ここにほかの天皇の場合と同様、「甲午年正月十五日崩」の九字がある。甲午年は『日本書紀』では安康天皇元年に当たる。【允恭天皇の崩御年を安康天皇元年とすれば一致する。】正月は『日本書紀』と一致するが、15日は一日違う。【戊子は14日である。】

【宣長の注釈】恵賀長枝。『日本書紀』では、冬10月、庚午を月初とする己卯の日、天皇を河内の長野原陵に葬ったとする。【『一代要記』では河内国志紀郡恵我長野北原陵に葬ったとする。】『延喜式』諸陵式には、「恵我長野北陵。遠飛鳥宮で天下を治めた允恭天皇。河内国志紀郡にある。陵域は東西三町・南北二町。陵戸一戸、守戸四戸」とある。【北陵というのは、南に恵賀の裳伏岡陵、西に恵我長野西陵などがあることに対していう。】この土地は訶志比宮の段【本書巻31・53丁】で説明した。『河内志』は、志紀郡沢田村にあり、陵のほとりに塚が十三、その七つは沢田村、三つは道明寺村、残りは古室村の内にあると記す。

【宣長の注釈・前頁からの続き】『陵記』では国府の市野山にあるとするが、国府と沢田は並んでいるので、同じ陵を指すのだろう。

【『古事記』本文】木梨の軽太子は、皇位を継ぐことに定まっていた。太子は、父の天皇が在世のうちに、同じ母から生まれた妹、軽大郎女と関係を持ち、歌った。
「山の田を作り、山が高いので地下の樋に水を走らせる。そのように人目を忍んで私が訪ねる、愛しい人よ。人知れず私が泣いて恋い慕う妻よ――今日こそは、苦しい思いを休めて肌を触れ合わせよう。」
これは「しらげ歌」である。
〔宣長は、本文冒頭の「天皇の崩御後」と「まだ即位しない間」を、後に述べる百官の離反の時期を示す言葉として読む。妹との関係やこの歌の時期を示す言葉には取らない。〕

【『古事記』本文・歌】また歌った。
「笹の葉に打ちつけるあられの、たしたしという音のように、確かに一緒に寝た後なら、人から非難されてもかまわない。(続く別の一首)愛しいあなたよ、ともに寝たならば。刈り取った薦のように、乱れるなら乱れよ、ともに寝たならば。」
これは「ひなぶり」の上歌である。

【宣長の注釈】「天皇崩之後」は、後に出る「百官」以下にかかる。【「定木梨之」以下につなげてはならない。軽太子のことは、天皇がまだ崩御していない時の出来事だからである。】「定所知日継」は「日継知らしめすに定まれる」と読む。【師は「定」を太子の下へ移すべきだといった。確かに読みにくい字の置き方であり、「立」や「令」の誤りかとも思うが、誤字ではない。】意味は、この皇子は『日本書紀』の記述のように、すでに皇太子だったので、天皇崩御後は皇位を継ぐことに定まっていた、というのである。【注意しないと、崩御後に初めて太子に定めたように受け取れるが、そうではない。名に付けて「太子」と記すのも、すでに太子だったことを示す。別に、すでに太子なので、崩御に際してこの皇子に皇位を継がせようと決めた、とも考えられる。しかし、そうなら、その上に決定の主体として「百官」などの言葉がなくては不自然だ。】

【宣長の注釈】「未即位」、つまり位に就くという言い方は、もとからの日本語とは思われず、漢籍によった言葉だろう。ただ、このころはすでに漢学があったので、そういったのだろう。字のとおりに読めばよい。これも後の「百官」以下にかかる。【「奸」以下につなげてはならない。】「伊呂妹」は上巻【本書巻13・63丁】に出る。「奸」は「たはけ」と読む。白檮原宮の段【本書巻20・39丁】を参照されたい。この出来事も歌も、天皇の在世中のことである。【崩御後ではない。】その理由は後の「是以百官」の箇所で述べる。『日本書紀』では、23年春3月に木梨軽皇子を太子に立てたとする。容姿が美しく、見る人が心を動かされ、同母妹の軽大娘皇女も美しかった。太子はいつも皇女と結ばれたいと思ったが、罪を恐れて黙っていた。しかし思いが募って死にそうになり、「ただ死ぬくらいなら、罪があっても、どうして忍んでいられよう」と考え、ついにひそかに通じた。そこで憂いが少し晴れ、歌ったという。【「非死者」は「死ぬよりは」の意味である。『万葉集』にこの形は多い。】

【宣長の注釈】「あしひきの」は、山にかかる枕詞である。【「ひ」は清音である。『日本書紀』『万葉集』などにも多く、どれも清音の仮名を使う。「び」と濁るのは誤りだ。この枕詞はここで初めて現れ、その後にたいへん多い。】「足引城之」の意味だと考える。「足」は山の麓、「引」は長く延びていること。「城」は一区画の土地一般をいい、ここでは山の平らな場所をいう。周囲に限りがあって、自然に一つの区画となるからである。【「ひきき」を「ひき」というのは、同じ音が続く時に一音を省く例で、「旅人」を「たびと」という類が多いことは、前にも述べた。】したがって、麓を長く引く平地のある山、というつながりになる。『日本書紀』神武巻の、高尾張邑に土蜘蛛がおり、その邑を葛城と改称したという話も、その土地が山の上なので「城」と名づけたのである。【「高尾張」の「高」からも分かる。】欽明巻の歌「からわきの、きのへに立たす」の「きのへ」も山の上である。白檮原宮の天皇の歌の「宇陀の高城」、高津宮の歌の「三諸の、その高城なる」、顕宗巻の「おとのみの、きなる、たかきなる」などの高城も、みな山をいっている。【そうでなければ、顕宗巻の歌で角刺宮へつながるのに合わない。白檮原宮の歌に以前付けた注はよくなかった。あれも単に山と見るべきである。】

【宣長の注釈・前頁から】そもそも「あしひき」には昔からさまざまな説があるが、どれも当たらない。「やまだをづくり」は、山の田を耕すこと。【「づ」は必ず清音の「つ」であるべきなのに濁音の字を使うのは、後の書き写しの誤りだろう。『古事記』の仮名は清濁を混同しない。『日本書紀』は清音の「莵」を使う。】「やまだかみ」は、山が高いので、という意味。【「だ」は古い音便で濁った。『日本書紀』も「娜」と書く。】「したびをわしせ」は、地下の樋に水を走らせること。下樋は地中を通す樋である。『万葉集』巻11に「水鳥の鴨が住む池に下樋がないように、思いが通わず、もどかしく思うあなた」とある。【下樋がないので水が外へ通わないことを、心がふさがる「いふせき」の序にする。】巻9には「下檜山、その下を行く水が表へ出ないように」とある。【これも山名に下樋の意味を重ねる。】伊勢国神郡の境には下樋小川という場所もある。「わしせ」は契沖がいうように「はしらせ」の略である。【このように「ら」「り」を省く例は多い。「わたし」の誤りという説は違う。】「走る」は水の流れをいい、『伊勢物語』の「水はしらせ」、走井・石走瀧などと同じである。山田を耕す際、山が高く水を掛けにくいので、地下に樋を通して水を引くのである。ここまでの四句は、次の句へつなぐ序である。

【宣長の注釈】「したどひに」は、人目を忍んで妻を訪れること。下樋の水が地中を通るように、ひそかに訪ねる。「わがとふいもを」は、私が訪れる愛しい人よ、という意味で、「を」は「よ」に近い。次の「を」も同じである。『日本書紀』にはこの二句がない。【「ひそかに訪れる」なら序と密接につながるが、「ひそかに泣く」だけでは、序とのつながりが少し遠い。】「したなきに」は、ひそかに泣くこと。この太子の後の歌にも「したなきになく」とある。「わがなくつまを」は、私が恋しさに泣いて求める妻よ、という意味である。【「麻」は諸本が「摩」とするが、ここでは真福寺本によった。】『日本書紀』は「を」がなく、続いて「かただびき、わがなくつま」の二句がある。

【宣長の注釈】「許存許曾婆」は、「婆」が「波」の誤りで、「存」も「布」の書き誤りであり、「今日こそは」と読む。【「存」は『書紀釈』の引用、真福寺本・延佳本などのままとした。旧刊本や別本には「在」とあるが、それも誤りで、「存」「在」を仮名に用いる例はない。『日本書紀』の「噂」も「哺」の誤りだろう。】「今日」を「こふ」という例はまだ見たことがないが、「けふ」が「この日」の意味なら、「こふ」ともいえることは、今夜・今年などの「こ」からも分かる。【「ふ」は「ひ」と通う音に変化したもので、火を「ふ」ともいうのと同じだ。「許」が「祁」の誤りかとも思うが、『日本書紀』も「去」なので、そうではない。】「やすくはだふれ」は、苦しみを休めて肌を触れ合わせよう、という意味。ひそかに訪れ、ひそかに泣いて苦しんだことが休まるのである。【「容易に」の意味ではない。】「ふれ」は意味では「ふるれ」と同じだが、活用は振る・降るの「ふれ」と同じである。【「ふるれ」を縮めたのではない。】触れるという動詞も、古代にはそのように活用したのだろう。【中古以後は「ふれ・ふる・ふるる・ふるれ」と活用するだけだが、古くは振る・降ると同じく「ふらむ・ふり・ふる・ふれ」とも活用したのだろう。他にもこういう例は多い。「隠れる」も古くは「かくり」と多くいい、ら・り・る・れの活用で、後世とは異なる。「触る」も、それにならって理解できる。】神楽歌の階香取には「わぎもこに、や、ひとよはだふれ」、万葉集巻2には「重なり合う柔らかな肌さえ、剣や刀のように身に添えて寝なければ」とある。【『日本書紀』の「津娜布例」は「津」が「波」の誤りである。『日本書紀』の仮名に訓を用いた例はなく、「伝ふれ」としても「娜」が濁音なのは合わない。】

【宣長の注釈】「しらげ歌」は「しりあげ歌」を縮めた名である。「掻き上げ」を「かかげ」、「差し上げ」を「ささげ」、「持ち上げ」を「もたげ」というのと同じだ。神楽歌の譜には、前張の各曲を「尻上」、薦枕の静歌も「尻上」とし、また「尻挙は拍子を三度用いる。すなわち榊の音振である」とある。次の「夷振之上歌」の注とも合わせて考えられたい。「ささばに」は笹の葉に。「うつやあられの」は、打つよ、あられの、という意味。【「や」は助詞。】万葉集巻1も「あられ打つ」と歌い、あられが物に当たる様子は、まさに打ちつけるようである。この二句は次の句の序になる。

【宣長の注釈】「たしだしに」は、上からつなげれば笹の葉にあられが降る音で、それに「確々に」、つまり確かに、という意味を重ねる。朝倉宮の天皇の歌にも「たしにはいねず」とある。「たし」という語は、万葉集巻12の「確かな使いがないので」、また『出雲国風土記』島根郡手染郷の記述にもある。そこでは、天下を造った大神が「この国は確かに造った国だ」といったので「たし」と名づけたが、今の人は誤って手染郷という、とする。【この「丁寧」も「たし」と読むべきだ。そうでなければ手染という名につながらない。】「いねてむのちは」は、女を伴って寝た後は、という意味。「率寝」は上巻【本書巻17・79丁】で説明した。女を伴って寝るのである。

【宣長の注釈・前頁末から】「ひとはかゆとも」は、人からとやかくいわれても、という意味。「人」は百官などをいう。「人」とだけ書いて「人に」の意味となるのは、「人知れず」「人笑え」が、人に知られず・人に笑われる、を意味するのと同じである。【受け身の「何々せられる」という時、本来「人に」というべきところの「に」を省く例なのだろう。】「はかゆ」は「はからゆ」の「ら」を省く。【古語では「らる」を「らゆ」といい、古い歌はみなそのように歌う。「ら」「り」を省くことも普通である。】斉明紀の天皇の歌に「射ゆ獣をつなぐ川辺の若草の」とある「いゆ」は、射られるという意味だ。また神武紀の「中矢而」、天武紀の「被矢」なども、射られる意味で「いえ」と読む。これらから言葉の形を理解されたい。【「人は議る」の「る」を「ゆ」に通わせたのだとして、人がとやかくいうとしても、という意味に取るのは細かい点を捉えていない。「いゆしし」も、射る鹿ではなく、射られる鹿であることを考え合わせるべきだ。】ここまでで一首だろう。その意味は、先の歌で肌を触れ合わせたとあるのは、ほんのわずか、かりそめに逢っただけで、【その時はうれしく、心も休まっただろうが、】なお満たされず、かりそめでなく確かに逢う方法がほしい、しっかり逢えた後なら、百官たちに非難され罪に落とされても、どうなろうとかまわない、というのである。【契沖は、末句の「ゆ」と「ふ」は通うので「人者雖易」か、つまり太子の位はもうよく、人がほかの者に替えてもよい、という意味だとしたが、それは誤りである。それでは「人は」が不要だし、太子の位を替えることを単に「替える」とだけはいわないはずだ。】

【宣長の注釈】「うるはしと」について契沖は、「愛しと」、愛しい妻よ、という意味であり、万葉集巻14の「その愛しい人を外に立たせておけようか」「愛しい私の馬は疲れても」「可愛い娘よ、さあ巻いて寝よう」など、愛しいと思う人をその形で呼ぶ例から理解できる、とする。白檮原宮の天皇の歌の「えをしまかむ」の「え」も同じである。【今の俗語で幼い子を可愛がって「いと」というのも、いとおしい子という意味で、同じだ。小さな子を「ちひさ」ともいう。】「さねしさねてば」は、「真寝し、真寝てあれば」という意味。【「し」は助詞、「てば」は「てあれば」の意味。契沖は、八田皇女の歌でも注したとおり「し」は助詞だが「だに」の意味もあり、万葉集巻15の七夕歌の「秋萩に染まった私の衣が濡れようとも、あなたの舟の綱さえ取ったなら」の類が多く、今の歌も同じだとする。】「さ」はいつものとおり、真という意味である。【前に詳しく説明した。】「さね」は男女が連れ立ち、親密に寝ることをいう。【ただ寝るという語に「さ」を添えただけではない。】中巻の倭建命の歌「さねむとは、あれはおもへど」の注【本書巻28・9丁】で述べたとおり。万葉集巻14には「さねをさねてば」とある。【この「乎」は「之」の誤りか。】

【宣長の注釈】「かりこもの」は、契沖のいうとおり「刈り薦の」である。刈った薦は乱れるので、「乱る」にかかる枕詞として万葉集に数えきれないほど歌われる。古今集にも「刈り薦の、思い乱れて」とある。「みだればみだれ」は、乱れるなら乱れよ、という意味。【契沖は「よ」を加えて理解すべきだとする。一般にこの類では、後世なら「よ」という所を、古代にはいわない例が多い。】心が乱れることをいうのだろう。「さねしさねてば」は、前の言葉を繰り返す。【末尾の「婆」を諸本は「波」とするが、真福寺本によった。】「うるはしと」から、別の一首だと考える。【「たしだしに、いね」と「さね」は同じことであり、「ひとはかゆとも」と「みだればみだれ」も気持ちが同じである。そのように似たことを、一首の中に重ねて歌うはずはない。前半と後半は全体の形もよく似ている。こういう似た内容を二首に歌うのが古代の常である。一首の中で同じことを繰り返して二度いう場合とは、形が違う。】

【宣長の注釈】「夷振之上歌」の「ひなぶり」は上巻【本書巻13・72丁】に出る。この歌をひなぶりという理由も、その注で述べたとおりである。【この歌には「ひな」という語はないが、「おきつとり」や「あかだま」「よなみ」と歌う歌と曲調が同じなので、同じ部類に収めたのである。】「上歌」は、『日本書紀』神代巻にも、そこで交わす二首の歌を「挙歌」と呼ぶとある。神楽の採物歌には「諸挙」、前には「後挙歌」、後には「片下」というものがある。これらを比べれば、いずれも歌い方や曲調から付けた名である。【ところが神代巻の挙歌について、『纂疏』が、挙げて歌うべき歌だと説明するのは、当て推量の根拠のない説である。『梁塵愚按抄』が諸挙の注で「歌の節である」というのはよいが、続いて「第一句を省き、第二句を三度重ねて歌う」と説明するのは納得できない。】右の歌は二首なので、ほかの例なら「此二歌者」と記すはずである。【その例はこの巻のあちこちにある。】そうせず単に「此者」とするのは、古くから二首を続け、一首のように歌い慣わしていたのだろう。そこで本文でも続けて記したのである。

【『古事記』本文】このため、天皇の崩御後、軽太子がまだ即位しない間に、百官をはじめ天下の人々は軽太子に背き、穴穂御子に従った。軽太子は恐れて、大前小前宿禰大臣の家へ逃げ込み、武器を作って備えた。【この時作った矢は矢尻が銅製だったので、その矢を軽箭と呼ぶ。穴穂王子も武器を作った。この王子の作った矢は今の時代の矢と同じで、これを穴穂箭と呼ぶ。】穴穂御子は軍勢を起こし、大前小前宿禰の家を囲んだ。その門に着いた時、激しい雨が降ってきたので、味方の兵たちに歌いかけた。
「大前・小前宿禰の、金門の陰へ、こちらへ寄っておいで。雨宿りをしてやむのを待とう。」

【『古事記』本文】すると大前小前宿禰は、手を挙げ、膝を打ち、舞い歌いながら出てきた。その歌は、
「宮仕えの人の足結びの小鈴が、落ちてしまったと、宮の人たちも里の人たちも、どよめき騒いではならない。」
これは宮人振である。このように歌いながら服従して御前に参り、申し上げた。「我が君である御子よ、同じ母から生まれた兄王へ、武力を向けてはなりません。向ければ、きっと世間の笑いものになります。私が捕らえて差し出しましょう。」そこで穴穂御子は兵を解き、退いた。大前小前宿禰は軽太子を捕らえ、連れて出て献上した。太子は捕らえられ、歌った。
「天伝う軽の乙女よ、ひどく泣けば人が知ってしまう。波佐の山の鳩のように、声をひそめて泣け。」

【『古事記』本文・歌】また歌った。
「天伝う軽の乙女よ、人目を忍びに忍んで、身を寄せかがめて通ってゆけ。軽の乙女たちよ。」

【宣長の注釈】「是以」は、先に同母妹の軽大郎女と関係を持ったとあることを受ける。【間に歌を掲げたのは、その関係の記述に付けたものである。】前の「天皇崩之後」もここにかかり、出来事の順にいえば、「木梨軽太子は皇位を継ぐことに定まり、軽大郎女と関係を持った。このため天皇崩御後、まだ即位しない間、百官が……」と続く。「百官」は、ここでは「もものつかさ」と読む。中巻の明宮の段【本書巻33・56丁】も参照されたい。「及」はここでは「はじめ」と読む。

【宣長の注釈】背いたのは、同母妹と関係を持ったことが、『日本書紀』に見えるように、きわめて不義な行いだったからである。【古くは同母の兄弟姉妹を「はらから」と呼んで特に親しくし、異母の兄弟姉妹は遠く、「はらから」としなかった。そのため異母の間の婚姻は普通であり、今の都である京都の時代に至るまで、天皇にもいくつもの例がある。一方、同母の間で関係を持つことは、上代から重く忌まれた。『日本書紀』のこの出来事の書き方からも分かる。なのに桓武天皇が同母妹の酒人内親王を妃とし、朝原内親王をもうけたとあるのは理解しにくい。同母とするのは歴史書の誤りなのだろうか。】「歸」は「よりぬ」と読む。師は「つきぬ」と読んだが、それもよい。『日本書紀』安康巻の初めには、軽皇子が暴虐を行い、女性とみだらな関係を持ったので、国の人が非難し、群臣は従わず、みな穴穂皇子に従ったとある。

【宣長の注釈】大前小前宿禰大臣について。【この歌の中や、『日本書紀』神功巻の「いさちすくね」を考えると、「何々宿禰」という名に「の」を加えるのはよくないのかとも思うが、ここではひとまず従来の読みどおり「の」を入れた。歌の音調により「の」を省くこともあるからだ。】『日本書紀』では物部大前宿禰で、すでに履中巻にも出る。『先代旧事本紀』では、宇摩志麻治命の九世の孫、物部麦入宿禰連公が、物部目古連公の娘・全能媛を妻にして四人の子をもうけたとある。【物部大前宿禰連公・物部小前宿禰連公・物部御辞連公・物部石持連公の四人である。】したがって麦入宿禰の子で、大前と小前は兄弟二人の名である。【『日本書紀』も大前とだけ書き、小前とはいわない。『新撰姓氏録』には一箇所、小前とあって大前とはいわず、二人だったことは明らかである。】ここで一人の名としたのは、歌の文言によって誤った伝承なのだろう。【名の形も兄弟らしく、一人の名には聞こえない。】『先代旧事本紀』では、大前宿禰は氷連らの祖、小前宿禰は田部連らの祖とする。【『新撰姓氏録』では氷連を伊己燈宿禰の子孫とする。伊己燈宿禰は麦入宿禰の父であり、大前宿禰の祖父である。】『新撰姓氏録』には、高橋連は饒速日命の十二世の孫・小前宿禰の子孫、鳥見連も同神の十二世の孫・小前宿禰の子孫とある。ここで「大臣」は「おほみ」と読む。大臣という漢字は混同である。「おほみ」の称号について混同した例があることは、穴穂宮の段、都夫良意富美の注【本書巻40・17丁】も合わせて考えられたい。師のいうように、大臣という称号は「臣」というかばねの人にしかない。【前に詳しく述べた。】物部氏にこの称号があるはずはない。

【宣長の注釈】「兵器」は「つはもの」と読む。白檮原宮の段【本書巻20・44丁】で述べた。「銅其箭之内」の「内」は「前」の誤りで、字形に少し似たところがある。【矢の内部などというはずはない。延佳が「銅」は「洞」の誤りかと注すのは違う。矢の中を空洞にするとは思えない。師は「内」は「末」または「本」の誤りで、矢尻だといった。矢尻という点は正しいが、末も本も字形が遠く、矢に本末という言い方も聞き慣れない。】上巻にも「御刀之前」「剣前」などがある。『和名抄』は『釈名』を引き、矢の軸を簳、脇に付ける部分を羽、先端を鏃、別に鎌と呼ぶとし、「さき」「やじり」と読む。『字鏡』にも「鎌、矢の鏃、さき」とある。「銅」とは、鏃は神代以来一般に鉄で作るのに、ここで新しく銅製にしたことをいう。【師が、昔の鏃は角で作ったので鹿児矢ともいった、とするのは誤りだ。鹿児矢を鹿の角の鏃から付いた名と理解したための誤りで、その由来ではないことは上巻で述べた。鏃が古代から鉄製だったことは、『日本書紀』綏靖巻で倭鍛部の天津真浦に真鹿児矢の鏃を作らせたとあるのでも分かる。角なら鍛冶が作るはずはない。】〔訳注:引用の「簳」の字体と、その後の細字の音注には判読の留保がある。軸・羽・矢尻の区別を述べる大意は読める。〕

【宣長の注釈】「軽箭」。銅の鏃は、この時、軽太子が新しく作らせたものなので、こう名づけられた。【旧刊本で「箭也」の下にさらに「箭也如本」の四字があること、別本の「箭也」、真福寺本の余分な文字などは、いずれも重複・混入である。今は延佳本にないことに従った。】「今時之矢者也」は普通の鉄の鏃をいう。【旧刊本などの「者」の前にも「也」があるのは余計な字である。延佳本に「者」がないのは、例によって勝手に削ったのだろう。真福寺本や別本、『書紀釈』の引用は、みな「者」を持ち、『古事記』のこのような箇所は、そのように書くのが通例だ。古代以来の形なのに「今時」というのは、古代と対比したのではなく、昔から今まで同じで、今普通に使う矢という意味である。】「穴穂箭」。普通の矢なら、わざわざ名づけるのは不自然にも思えるが、この時、軽箭があったので、それと対比して呼んだのである。【「是」を旧刊本などは「此」とする。ここでは真福寺本・延佳本によったが、どちらでもよい。】『日本書紀』は、太子が穴穂皇子を襲おうとひそかに武装し、穴穂皇子も兵を起こして戦おうとしたので、「穴穂括箭」「軽括箭」がこの時始まったとする。【「括箭」は納得できない。括は矢筈だが、矢筈の作りに大きな違いがあるはずはなく、違ってもそれを名にするはずはない。鏃と筈を混同した誤りだろう。「括」にこだわらず、『古事記』に従い「あなほや・かるや」と読むべきだ。軽矢はともかく、穴穂矢はもとからある形なので、「始まった」とは、この二つの名前ができたことをいうのだろう。】

【宣長の注釈】「圍」は「かくみ」と読む。『日本書紀』仁徳巻の皇后の歌に「かくみやより」【八重の囲いという意味】、万葉集巻20に「あちこちに、たくさん取り囲んで」とある。「門」は「かなと」と読む。【旧刊本や別本の「明」は誤りで、真福寺本・延佳本に従った。】この歌自体にも出て、万葉集巻4の「小金門に」、巻9の「金門に、人の来て立てば」、巻14の「愛しい子の金門より」、また「防人に立った朝の金門出に」などにもある。「金門」は金具を細かく打って頑丈にしたための呼び方か。古代は全体に金属を張ったのかもしれない。【「かど」は「かなと」の略である。】「大冰雨」は中巻の倭建命の段にも出る。ここはただ「ひさめ」と読んで、「大」は読まない。歌は単に「あめ」なので、普通の雨が激しく降ることか、それとも「あめ」が降る物の総称で、実際には雹だったのか、決めがたい。氷雨は中巻【本書巻28・25丁】で詳しく述べたので、合わせて考えられたい。

【宣長の注釈】「零」を旧刊本と別本は「雹」とするが、真福寺本・別本・延佳本などに従った。「おほまへ」は大前、「をまへすくねが」は小前宿禰の、という意味である。二人の名なので、内容としては「大前宿禰・小前宿禰の」だが、それでは歌いにくいため、二つの「宿禰」を兼ねて一つだけ歌った。この家は『日本書紀』で大前宿禰の家というのに、歌では『日本書紀』でも二人の名を出すのは、弟の小前宿禰も一緒に住んでいたのだろう。「かなとかげ」は、門の上屋の陰である。【「と」は清音で、濁らせてはならない。】「かくよりこね」は、このように寄って来い、という意味。【「こね」は来い。】『日本書紀』の「かくたちよらね」も同じである。これは率いている味方の兵へ、私のようにみなこの門へ進み寄って攻めよ、と命じたのだ。折よく雨が降ったので、雨宿りをしようという言い方に託したのである。【「かく」は、今でも人を率いて先を行く人が「こう参れ」というのと同じ気持ちだ。契沖は、太子の味方をせず自分の方へ参れ、と大前宿禰に歌いかけたとし、師もそういった。しかし、それでは冒頭の二句が落ち着かず、「かく」の意味も通りにくく、末句とも離れる。続く大前宿禰の歌や、その後の申し上げた言葉との対応もよくない。よく考えられたい。】

【宣長の注釈】「あめたちやめむ」は、雨宿りして雨がやむのを待とう、という意味。【真福寺本・延佳本の、下の「米」を「末」とするのは誤りで、旧刊本などに従った。『古事記』で「末」を仮名にした例はなく、言葉も「ま」では整わない。『日本書紀』も「梅」として、メの仮名を使う。】物陰に立ち寄って休み、雨がやむのを待つ、いわゆる雨宿りである。【契沖が、こちらへ参れば門陰で雨を避けるように世の乱れを治めようという比喩だとするのは誤りだ。ただ味方の兵へ、門まで進んで攻めよというのを雨宿りに託したにすぎない。また契沖が「泥」を「で」とも読み、万葉集巻9の歌を証拠とするのもよくない。『古事記』に「泥」をデの仮名に用いる例はなく、古語に「よりこでな」という言い方もない。万葉集の「氏」も誤りで、別本の「尼」がよい。】

【宣長の注釈】膝を打つのは、何となく楽しい時の動作である。『大神宮儀式帳』の六月月次祭には、その夜の直会の食事に歌を奉るとあり、「五十鈴の宮に食事を供え、打つ膝の音が宮にとどろく」と歌う。続いて舞う歌は、「大宮人が楽しさに打つ膝の音が宮にとどろく。どよめきながら遊びをするらしい、天の河原に。膝の音がする、膝の音がする」というものだ。【九月の祭も同じ歌とある。】神楽の竈殿遊の歌にも、本方は「どよめきながら遊びをするらしい、天の河原に。膝の音がする、膝の音がする」、末方は「天の河原に、どよめきながら遊びをするらしい。膝の音がする、膝の音がする」とある。『体源抄』にも「一緒に膝を打つ手」という記述がある。【万葉集巻16の安積山の歌の注に、先の采女である風流な娘が、左手に杯をささげ、右手に水を持って膝へ打ち、その歌を歌ったとあるのは、膝へ水を打ち注ぐことである。俗に水を打つというのと同じで、膝を手で打つのではない。】

【宣長の注釈】「儛詞那伝」は、舞って手を動かすことをいう。【舞うことと「かなで」が別の二つなのではなく、「かなで」は舞う手の動きである。】『栄花物語』御裳着巻には、先ほどの楽人たちは道中では慎ましく見えたのに、その場では思うままに声を立てて遊び、かなでる姿がとても面白かったとある。【別本には「かなで」の三字がない。】御賀巻には、明日少将はお祝いに舞いかなでるつもりだろうと、何度もいったとある。『大鏡』には、寝殿の隅に盛りと咲く紅梅の枝を折って挿頭にし、ほんの形ばかり手を動かして舞ったとある。神楽歌の古本の「其駒」の歌の注にも、この歌の時には人長が座から立ち、必ずかなでするとある。

【宣長の注釈・引用】『体源抄』には「乙」という字で記す例が多い。【大神景通家の日記に「早韓神の間に人長がかなでする」、また恒方の説に「かなでは歌ごとにあったが、近代は舞わない。ただ上拍子は韓神と其駒でかなでする。歌の心を舞うのである」とある。今の世でも、折々に興が乗る時は必ずかなでるべきであり、手や肘、踏む足、向きなども度を過ごさないという。古人の説には、陵王・還城楽の乱序、安摩・鹿楼の大鼓は打ち方が同じだが、安摩は速く打つべきで、舞人は拍子に応じてかなでるから、大鼓が遅れると舞えないとある。また承和12年正月8日、尾張浜主はすでに115歳で宮中へ参り、天皇の前で和風長寿楽を舞った。老いて立ち居に堪えないのに、手をかなで足を踏む様子は若者のようだった。その時の歌は「春ごとに百色鳥がさえずり、今年は千代も生きよと舞いかなでる」である。】「かなづ」に「奏」を当てるのは、『礼記』楽記の「節奏」の注が、「節は曲の節、奏は動作をいう」と説明することによる。【ただし「かなづ」はもっぱら手についていう言葉なので、動作という説明も十分には合わない。「乙」は、かなでる手の形から仮に書いただけなのだろう。】今、大前宿禰がこうするのは、穴穂皇子が包囲して攻めようとしても防ぐ気がなく、驚き恐れることもなく、心は安らかで楽しんでいることを示したのだろう。歌と、続けて申し上げる言葉とを合わせて理解すべきである。「参来」は、門前にいる穴穂皇子のもとへ出て来たこと。

【宣長の注釈】「みやひとの」は宮人の、という意味。【「ひ」は清音で、古書はみな清音の仮名を使う。】「あゆひのこすず」は、足結びに付ける小鈴である。『日本書紀』雄略巻には、大臣が庭に立って足結びを求めると、妻が持って来て、悲しみに心を痛め、「臣であるあなたは、栲の袴を七重に着け、庭にお立ちになり、足結びをなでているのだなあ」と歌い、大臣は装束を済ませて軍門へ進んだとある。皇極巻にも「大和の忍(おし)の広瀬を渡ろうと、足結びを手で整え、腰の身支度をしている」と歌う。万葉集巻7には「足結びが濡れる」、巻11には「朝に出る、あなたの足結びを濡らす露の原」、巻17には「若草の、足結びを作り」とある。【『和名抄』は旅の道具に、行纏を「むかはぎ」といい、本朝式では脛巾、俗に「はばき」という、とするが、足結びは出ない。天武紀には脛裳も脚帯もあるから、むかはぎ・はばきと足結びは別物らしい。】雄略紀の文章と歌、また脚帯という字を合わせて考えると、袴をまくり上げ、膝の辺りで結び固める帯だと思われる。皇極紀や万葉集の歌も、それで意味が合う。【ある説が褌のことだというのは根拠がない。】小鈴というのは、古代には足結びにも鈴を付けたからである。足玉として玉で飾りもした。

【宣長の注釈】「おちにきと」は、落ちてなくなったので、という意味。【「と」は「とて」に近い。】「にき」は、落ちて失われ、見えなくなったこと。【落ちたままそこにある鈴なら「落ちたり」という。】「みやひととよむ」は、宮人がどよめいて騒ぐこと。万葉集巻2の「白波がとどろく」、巻6の「山にも野にも、獲物を得て矢を手に挟んだ狩人たちが、どよめいて見える」などと同じ。【ほかにも「とよむ」は多い。】「さとびともゆめ」は、里人も決して、という禁止の表現である。【「さとびと」の「び」は古書がみな濁音の仮名を使う。】「ゆめ」は行為を禁じる言葉で、万葉集巻3の「波よ決して立つな」、巻7の「風よ決して吹くな」などが多い。【謹・忌などとも書く。】この二句は、宮人も里人も決して騒ぐな、という意味を縮めて述べたのである。【「も」の働きでそう聞こえる。この一つの「も」で、省かれた多くの意味が伝わるのはたいへんよい。契沖は、宮人が騒いであれこれいうほどのことでもない、まして里人まで騒いでよいか、里人は決して騒ぐな、としたが、それは違い、「も」の語勢に反する。】一首すべてが比喩であり、太子を滅ぼすのは容易なのに、大げさに軍を起こして向かうのは、足結びの小鈴が落ちた程度のことで宮人・里人が騒ぐようなもので、あるまじきことだから、決して騒がれないでください、という意味である。【太子は私がたやすく捕らえて差し出します、ということだ。宮人・里人は比喩の中だけの言葉で、実際の歌の意図に具体的な宮人・里人が含まれるのではない。契沖も師も、その実際の意味にまでかけたのはよくない。】

【宣長の注釈】「宮人振」は、歌の初めの語を取って付けた名である。「何々振」という名の由来は、上巻の夷振の注【本書巻13・72丁】で述べた。「参帰」は「まゐきて」と読む。【服従して参るため「帰」を書く。】「我天皇之御子」は穴穂皇子を指す。特に尊び、親しんで申し上げる表現であり、「我」は「御子」までにかかる。「天皇」は「おほきみ」と読む。【古書に天皇と書く場合にも、「おほきみ」と読むべき箇所が多い。】「伊呂兄王」は軽太子のことである。

【宣長の注釈】「無及兵」はたいへん読み下しにくいが、あえて「せめたまふな」と読んだ。【まず「及兵」は漢文によって書いたようだが、出典はまだ調べがつかない。字のまま「兵を及ぼす」と読むのは漢文の訓読であって、古い日本語の形ではない。古語としてどう読むか、いろいろ考えてもまだ思いつかないので、無理に「攻め賜うな」とした。「な攻め賜いそ」でも同じである。前の「於伊呂兄王」の「於」も、「兵を及ぼす」という漢文訓読に合わせたものか。「に」と読んだ場合、「及兵」に当たる古語がまだ分からないので、これも字に従わず「を」と読んだ。さらによく考えるべきだ。師は「ないくさしたまひそ」と読んだが、意味はよくても、古語の「いくさ」は兵士をいい、戦闘そのものをそう呼ばないので「いくさする」とはいえない。また私自身、『古事記』の「兵」は多くが武器なので、ここもそうで、「及兵」は後世の「刃に掛ける」ほどのことか、それなら「つはものあてたまふな」と読むのかとも考えたが……、そういう意味ではなさそうだ。『古事記』には兵士を「兵」と書く例もある。】

【宣長の注釈】「人咲」は、世間の人がそしり笑うだろう、という意味。「僕捕以」以下は、先の「無及兵」につなげ、軽太子を攻めないでください、私が捕らえて差し上げます、と理解する。「捕」は『日本書紀』神功巻の歌に「うでにとらへつ」とある。大前宿禰がこう申し上げたのは、初めからこのつもりで太子を家にかくまったのか、初めは太子に味方したが、穴穂皇子の軍勢を見てかなわないと悟り、急にこう考えたのか、分からない。【太子がこの家で武器を作って備えたことから見ると、大前も初めは太子の味方だったのか。】「解兵」は「いくさをやめて」と読む。【起こした兵士を退出させることである。】「退坐」は、師の「さりましき」という読みがよい。ただすっかり諦めて帰ったのではなく、攻め進むのをやめ、緩めて退いたのだろう。「参出」は穴穂皇子の御前へ出たこと。「貢進」は太子を差し出したこと。『日本書紀』は、太子が群臣は従わず、民も離れたと知り、物部大前宿禰の家へ逃げ隠れたとする。穴穂皇子が聞いて囲むと、大前宿禰が門を出て迎えた。穴穂皇子は「おほまへ」の歌、大前は「みやひとの」の歌で答え、皇子に「太子を害さないでください。私が取り計らいましょう」と申し上げた。そのため太子は大前宿禰の家で自殺したとある。【一説では伊予国へ流した。】

【宣長の注釈】「あまだむ」は、空を飛ぶ雁へとつながる、軽の枕詞である。【「牟」を旧刊本などで「手」とするのは誤りで、真福寺本・延佳本によった。】『冠辞考』の「あまもとぶや」の項に詳しい。万葉集巻10に「天飛ぶや、軽の道」、巻15にも「空を飛ぶ雁を使いにできたらなあ」とある。【契沖が「牟」を「手」とする本によって、手を「乎」と見て、天田を敷くといい、田を刈るへ続くと説明したのは、「天田振」という字に惑わされた誤りである。】「かるのをとめ」は軽大郎女を指す。『日本書紀』は「の」がない。「いたなかば」は、激しく泣いたなら、という意味。万葉集巻3の、あなたが恋しく、ひどくどうしようもなく、【「いたも」を「いとも」と読むのはよくない。】巻15の「いたもすべなし」などと同じで、「いた」は「いたく」に当たる。【「いたも」の意味は「いとも」に同じで、巻4には「いと」ともある。】「ひとしりぬべし」は、人が知ってしまうだろう、という意味。『日本書紀』は「志」が「瀰」である。その点は次に述べる。

【宣長の注釈】「はさのやまの」について契沖は、履中紀の、鳥が行き交う羽田のあなたの妻は、羽狭に葬られて行った、という歌の羽狭か、とする。【また高市郡にある山名かというのは、軽が高市郡にあるからだろうが、ここは軽に関係するわけではないので、どの郡かは分からない。『大和志』の、羽狭山は吉野郡北荘馬佐村の上方にあるという記述も、例によって信じにくい。馬佐という村名からの推測だろう。】「はとの」は三音一句で、鳩の、という意味。『和名抄』は顧野王の説を引き、この鳥は種類が多く、鳩が総称で、和名は山鳩とする。また本草を引き、鴿は首が短く灰色で、和名は家鳩とする。鳩には種類が多いが、どれも喉にこもった声で鳴き、高くはっきりした声ではないので、忍び泣きの序にした。【鳩のように、と理解する。】「したなきになく」は、ひそかに泣くことだが、結びは必ず「なけ」であるはずだ。【「なく」では前の「べし」と呼応しない。】声を上げて激しく泣けば人が知るので、忍んでひそかに泣け、といったのである。【上が『日本書紀』のように「べみ」なら、「なく」と結んでよく、人が知ってしまうため、ひそかに泣く、の意味となる。しかしこの『古事記』の歌は「なけ」でなければならず、「なく」は後の誤伝だろう。】この時は、大郎女も太子について大前宿禰の家に一緒にいたので、呼びかけたのだろう。『日本書紀』では允恭天皇24年の「おほきみを」の歌と並べ、軽大娘皇女を伊予へ流す時の太子の歌としている。伝承が違うのである。【後でも述べる。】

【宣長の注釈】「あまだむ」は前と同じ。【この「牟」も旧刊本は「手」と誤るが、ほかの本はみな「牟」。】「かるをとめ」も前と同じ。「しただにも」は、師のいう「下々にも」がよく、忍び泣きの「下」と同じで、ひそかにひそかに、というような意味である。【契沖が、この句は分からない、天田が高い田なら下田でも、というのか、と説明したのは誤りだ。】「よりねてとほれ」は、身を寄せかがめて、通って行け、という意味。【「余」を諸本が「尒」とするのは誤りで、真福寺本によった。契沖も師も、「尒」は「余」の誤りとする。】「より」は物陰などへ寄って隠れること。「ね」は「なえ」を縮めた言葉である。【由来は『冠辞考』の「夏草」の項にある。後の歌の「夏草の、あひねの浜」の箇所でも述べる。】身を潜め、低くかがんで行くことで、これも人目を忍ぶという意味である。「とほる」は『日本書紀』神代巻に「行去」と書くように、通り過ぎることである。【俗語でも、どこかを行くことを、どこかを通るともいうが、単に行くのとは異なる。】したがって歌の意味は、道中でも人目を忍び、物陰に寄って身を潜め、通り過ぎよ、悲しみ激しく泣く姿を人に知られるな、というので、前の歌と同じである。【契沖が「ねて」を寝ることだとして、寄り添って寝た後に行けという意味だとするのは誤りだ。この歌で寝ることをいう理由はない。また単に行くことを「とほる」とはいわない。】

【宣長の注釈】「かるをとめども」は、軽の乙女たち、という意味だが、「等」は一人にも使う。「子ら」などと同じである。この歌は『日本書紀』にはない。【『日本書紀』のように、先の忍び泣きの歌を軽大郎女が伊予へ流される時のものだとする伝承に従えば、この歌も同じ時のものとなる。その方が「とほれ」の意味はいっそうはっきりし、伊予へ下る道中についていったことになる。】

【『古事記』本文】こうして軽太子は、伊予の湯へ流された。また流されようとする時、歌った。
「空を飛ぶ鳥も使いなのだ。鶴の声が聞こえる時には、私がどうしているか、名を挙げて尋ねてくれ。」
この三首は天田振である。また歌った。
「大君である私を島へ放ち流しても、船から余って帰るように、きっと戻って来るぞ。私の畳を、決して傷めないでおくれ。口では『畳』というけれど、私の妻よ、あなたこそ決して身を損なわないでおくれ。」
この歌は、夷振の片下である。

【『古事記』本文・衣通王の歌】衣通王が歌を献じた。
「夏草の、あひねの浜の、牡蠣貝に足を踏みなさらないで。道を掃き明けて通ってください。」

【宣長の注釈】「伊余湯」の伊予は上巻で説明した。「湯」は、『和名抄』に伊予国温泉郡があり、神名帳にも同郡の湯神社がある、この地である。よい温泉があるために付いた地名だ。【ここでの「湯」は、温泉のある場所という普通名詞ではなく、地名である。】『日本書紀』舒明巻は11年12月に伊予の温湯宮へ行幸したとし、天武巻13年冬10月には、大地震の時に伊予の湯泉が埋まって出なくなったとある。【『釈日本紀』が引く『伊予国風土記』は、湯郡について、大穴持命が悔い悲しみ、宿奈毘古那命を生き返らせようとして、大分の速見の湯を地下の樋で運び、宿奈毘古那命を浸すと、しばらくして生き返り、起き上がって「ほんのしばらく寝ていたことだ」といった。その時足を踏んで立った跡が、今も湯の中の石にあるとする。この湯の尊く不思議な効能は神代だけのものではなく、今の世でも病を得た人々の病を除き、身を保つ大切な薬である。天皇たちが行幸したのは五度で、景行天皇と八坂入姫命を一度、仲哀天皇と息長帯姫命を一度、上宮聖徳皇子を一度とする。その際には高麗の恵慈僧、葛城臣らが侍った。その時、湯岡のそばに碑を立て、「法興6年10月、丙辰の年、我が法王大王は恵慈法師・葛城臣とともに伊予の村を散策し、神の泉をよく見て、そのすばらしい効験をたたえ、思いを述べようと、ひとまず碑文一篇を作る」と記した。さらに舒明天皇と皇后を一度、皇極・天智・天武の三天皇を一度とし、これを行幸五度という、とある。】

【宣長の注釈・引用】万葉集巻3には、山部宿禰赤人が伊予温泉に来て作った歌がある。「皇祖の神の言葉によって治める国々の限りには、湯も多くあるけれど、島や山のよい国だとお思いになったのだろうか。伊予の高嶺の射狭庭の岡に立ち、歌を思い、言葉を思われた、その御湯の上の木立を見ると、木も次々と生い育ったことだ。鳴く鳥の声も変わらず、遠い代まで、ますます神々しくなってゆくだろう、この行幸の地は。」【仙覚抄が引く伊予国風土記には、上宮聖徳皇子を一度とし、高麗の恵慈僧・葛城王らが侍い、湯岡のそばに碑を立てた。その碑を立てた場所を伊社迩波の岡という。伊社迩波という名は、人々が魂を安らかにしたいと願い、誘い合って来るため、そう呼ぶ、とある。】このように、後世まで名高い温泉である。【中古の書物にも出る。今、道後の湯というのがこれだ。】

【宣長の注釈】「流」は「はなちまつりき」と読んだ。『源氏物語』須磨巻に、遠くへ放ち遣るべき評議もあるという、『浜松中納言物語』に、公に罪せられ、筑紫へ放たれていらした、などとあるのは、流罪をいう古い言葉が残ったものだろう。【『宇津保物語』俊蔭巻の、俊蔭の船が波斯国へ放たれた、とあるのは、風に漂ってたどり着いたことをいうが、言葉の根本の意味は同じである。】また「はふりまつりき」とも読める。その理由は次の歌の「島にはふらば」の注で述べる。【後世は「流す」というが、古い日本語とは思えず、後に「流」の字に従っていうようになったのだろう。『日本書紀』推古巻・孝徳巻などには「流刑」があるが訓はない。天武巻の「配流」を「ながされかたる」と読む。遠流・中流・近流などの定めも、中国にならったものである。】

【宣長の注釈】「亦」は、後の「歌曰」にかかる。「将流之時」は「はなたれたまはむとせしときに」と読む。【「延」は「れ」の意味である。】歌ったのは太子である。「あまとぶ」は空を飛ぶこと。【前の歌では「あまだむ」なので、ここも同じはずだが、言葉が異なるのは、後に音楽として歌う間に変わったのだろう。】「とりもつかひぞ」は、鳥も使者だという意味。遠い所へ行き来するので、鳥を使者という。万葉集巻11には「妻を恋しく思って眠れない夜明け、鳥になり、ここから飛び渡って妻への使いにしたい」、巻15には「空を飛ぶ雁を使いに得られたら、奈良の都へ言づてを送ろう」、巻20には「空を行く雲も使いだと人はいうけれど」とある。『古事記』神代の歌の「あまはせづかひ」も、空を飛ぶ鳥だろうか。その理由はそこの注【本書巻11・15丁】で述べたとおりである。

【宣長の注釈】「たづがねの」は、鶴の声の、という意味。「きこえむときは」は、聞こえるであろう時は。「わがなとはさね」は、私の名を尋ねておくれ、である。「問へ」を伸ばして「問はせ」とし、さらに「問はさね」とする。【「行け」を「ゆかさね」、「名を告げよ」を「なのらさね」というなど、例は多い。】私の名を尋ねよとは、私の様子を尋ねよという意味。人のことを尋ねる時には、何々はどうか、と名前を出すからである。「天田振」は、前の二首の冒頭の言葉を取った「あまだむぶり」である。【「む」を省く。「あまとぶ」も同じ語。「天田」は借字にすぎず、丹波国の天田郡、肥後国飽田郡の天田郷などとは関係しない。】

【宣長の注釈】「又歌曰」は、これも太子が歌う。【師は、衣通王の歌であり、「又」の下にあった「衣通王」が脱落したのだろう、太子の歌では道理がない、と考えたが、かえって誤りである。ここを衣通王の歌とすれば、後の「衣通王献歌」も「此衣通王」に変えなければ前後が合わないし、衣通王の歌では歌意も不自然だ。】「おほきみを」は、太子が自分を大君といったのである。【『日本書紀』では軽皇女を指す。】自分を大君という例は、雄略天皇の歌や『日本書紀』推古天皇の歌などにある。「を」は「よ」に近い呼びかけ。【普通の「を」とは違う。】「しまにはふらば」は、島へ放ち流すなら、という意味。四国は離れた国なので島という。【「婆」を諸本は「渡」とするが、真福寺本によった。】「はふる」は放って捨て遣る意味で、契沖の説明もこのことだ。「は」と「あ」は通じ、「あふる」も同じである。万葉集巻14の「国にはふり、峯に立つ雲を」は、国にあふれ出て峰に立つ雲のこと。巻19の、四方の人を漏らさず、も、はぶらかさず、という意味だ。【「夫」が本文では「天」に誤っている。師は「末」の誤りとして、余らせずだとしたが、よくない。】『続日本紀』巻31の詔の「大臣であったあなたの家の子らをも、放って捨てず、失わせず、慈しもう」も、同じ意味である。

【宣長の注釈・引用の続き】後の物語にも「はぶらかす」「あぶらかす」が多い。【古今集の「身は捨てても、心だけはさまよわせまい」、源氏物語若紫巻の、心のままに連れて行って行方不明にしたらしい、夕顔巻の、この道中でさまよってしまうのだろうか、明石巻の、このまま身を放浪させたのか、東屋巻の、みっともない姿で世にさまようことも、橋姫巻の、落ちぶれてさすらおう、手習巻の、どうしてこのような人が、あんな田舎人の住む辺りに落ちぶれたのだろう、玉鬘巻の、見失わず世話をなさる、などである。『河海抄』は「あぶさず」を、はぶれさせずと説明する。】死人を「はふる」というのも、家から外へ出し、野山へ送り放つ意味で、語の起こりは同じである。【死人をはふるとは、家から出して送り遣ることであり、土中に埋めることを「はふる」とはいわない。後世はもっぱら「葬」の字によって混同したのである。放ち流すことも葬ることも語源は同じだが、この「はふら」を『日本書紀私記』で葬る意味だとしたのは大きな誤りである。契沖は、崇神紀で「溢」をハフルと読むこと、今の俗語で物を捨てることを「はうる」というのも同じか、と述べ、「は」と「あ」が通じるので「あふる」「はふる」は同じだとする。】『日本書紀』のこの句は「しまにはふり」である。

【宣長の注釈】「ふなあまり」は船余りで、「帰り来む」にかかる枕詞である。【歌の実際の内容には関係しない。】こうつながるのは、船に乗ろうとする人が、客が多く満員だと乗れず、いったん引き返して来るからだ。【渡し船などでも、よくあることである。契沖は、荷物が余分で重いと船が転覆することになぞらえて、このように続けたのか、とする。しかしそれは荷物が重いことで、余ることではないので、どうだろう。またこの歌は島から帰って来ようというのだから、枕詞であっても、船の転覆は忌んで歌わないはずだ。】

【宣長の注釈】「いがへりこむぞ」は、帰って来るぞ、という意味で、「い」は発語の音である。【「叙」を諸本が「殿」とするのは誤りで延佳本によった。真福寺本の「劔」も「叙」の誤りである。発語の「い」の後で「か」が濁るのは疑問もあるが、万葉集巻14に「いわのへに、いがかるくもの」とあり、古い音便なのだろう。『日本書紀』も「餓」を使う。】島に留まらず逃れて帰って来る、【あるいは道中から引き返す、】という意味である。【帰還を許される時が来て帰るというのとは違う。だから「船余り」も、船で行くはずなのに行かずに帰って来る意味の枕詞なのである。】大郎女の心を慰めようとして、こういったのだろう。

【宣長の注釈】「わがたたみゆめ」は、私の畳を決して傷めないで、という意味。自分が普段座ったり寝たりする、床の敷物をいう。【万葉集巻9にも「わがたたみ、三重の河原の」とある。昔の畳は後世のように室内いっぱいに敷き詰めず、普通は板敷きで、畳は特に設けて敷いた。だから「私の畳」ともいう。】師は、旅人の家ではその人の寝床の畳を清め慎んで大切にした、そこにもし過ちがあれば、旅先の人に異変が起こるからだ、と説明し、この歌と万葉集巻15の「家の人が慎んで待たなかったのか、畳に過ちがあったのだろうか」を引いた。【朝鮮へ使者として向かった人の途中での死を悼む長歌である。今の本の「未」を、師が「末」として説明したのは、確かにそうだろう。】また師は、古代には死後一年、その人の寝床に手も触れず慎んだ、黄泉路でも無事を願う人情なのだから、ありうることだ、帰らない人を待って、床に塵が積もる、荒れるというのも、床を清め、手を触れないためだ、といった。実際、古い歌には、その人の寝床を大切にした様子が多い。したがってこの句も、私の畳に決して過ちをしないでくれ、という意味だ。【契沖が、畳そのものに向かって、私の畳よ、慎んで大君の帰りを待て、と注したのは、古代を知らない誤りである。】ここまでの五句が一首であり、次の三句は、残った気持ちを片歌で補い足した形である。

【宣長の注釈】「ことをこそ」は、言葉こそは、という意味で、高津宮の天皇の歌【本書巻37・3丁】にもあるので参照されたい。「たたみといはめ」は、畳とはいおうが、の意味。「わがつまはゆめ」は、大郎女を指して、我が妻は決して、という意味。三句を通していえば、言葉では世間の慣用のとおり畳というけれど、実は畳だけのことではない、我が妻よ、決して身を損なわず、無事に私の帰りを待ってほしい、といったのだ。ここの「は」は、『日本書紀』の「を」なら呼びかけの「よ」として問題ないが、「は」だと少し分かりにくい。おそらく、【畳と妻を対比したのではなく、】太子自身と対比し、私はこのように放たれて行くが、我が妻は決して、という意味なのだろう。

【宣長の注釈・日本書紀との伝承の違い】『日本書紀』は、24年夏6月、天皇の食膳の羹が固まって氷となったので、その理由を占うと、身内の乱れ、おそらく近親同士の不義があると出た、とする。ある人が、木梨軽太子が同母妹の軽大娘皇女と関係を持ったといい、問いただすと事実だった。しかし太子は皇位継承者なので罰することができず、軽大娘皇女を伊予へ流した。その時、太子がこの歌を歌ったとする。伝承が異なるのである。【『日本書紀』の話はどうだろうか。一般に、同じ罪でも女性を許し、男性より軽く罰するのは古今の定まりである。それなのに太子を罰せず、大郎女だけを罰するのはありそうにない。太子が皇位継承者なので罰しにくいというなら、大郎女もそれに伴って許されるべきだ。特にこれは男女の不義の罪なのだから、男性の方が重いはずではないか。また歌の様子も、大郎女が流されることを歌ったとは思えず、「帰って来るぞ」は必ず本人の言葉であり、「私の畳を決して」も、旅立つ人がいうべき言葉だ。だから大郎女を流したという伝承はどのみち誤りで、『古事記』のように流されたのは太子、時も天皇崩御後、兄弟の争いによるのだろう。両書を合わせて始終を考えると、初めの24年には不義は発覚したが、太子は皇位継承者なので罰しにくいとして許され、無事だったのだろう。この時大郎女を流したという『日本書紀』の話は混同した伝承である。その後天皇が崩御し、百官をはじめ天下の人がこの不義を嫌って太子に背き、穴穂皇子に従った。太子は争い、穴穂皇子に敵対して敗れ、穴穂皇子の命令で流された。実際の理由は敵対したことだったのだろうが、それは理由とせず、不義の罪を表立って述べて流したのだろう。争乱自体の起こりも、もとはこの不義なので、そういう罪を掲げるのは道理に合う。大郎女を流した話が24年の発覚時にあるのも、この罪状の言い立てによって混同されたのである。『日本書紀』が大前宿禰の家で太子が自殺したとするのも誤りで、そこにある別伝の「伊予国に流した」が正しいだろう。出来事の始終をよく考え、伝承の混同を理解するべきである。】

【宣長の注釈】夷振の片下について。夷振は前に説明した。「片下」は、前の尻上歌・上歌などの「上」と比べて理解すべきで、「上」も「下」も歌う曲調からいう。「片」は、三句の歌を片歌というように、本でも末でも片側を下げて歌うのだろう。「諸挙」と対比して考えられたい。古い東遊の譜には、一歌・二歌、次に駿河舞、次に求子、次に「かたおろし」とある。【一つの歌の名なのか、どの歌でも片下に歌うことなのかは分からない。】夫木集巻32の寂蓮法師の歌には、「夜深い貴船の奥の松風に、禰宜の鼓が片下の音を響かせる」とある。『拾芥抄』風俗部にも片下がある。【同書の神楽採物歌には「片折・諸挙」とあり、諸挙と並ぶので、片折は片下だろう。「おろし」を中古以来、発音しやすいよう「おり」とも歌ったのか。ただし「折」は仮名として違っている。】

【宣長の注釈】「献」は本来なら「たてまつりたまふ」と読むべきだが、古語では「奉る」という時に「賜ふ」を付けないのが通例である。【祝詞などに例がある。】上巻にも、弟の玉依毘売に託して歌を献じた、とある。「なつくさの」は「あひね」にかかる枕詞で、『冠辞考』に説明がある。【別の考えもあり、次に述べる。】「あひねのはまの」は地名だろう。【契沖は「相寝の浜か」という。】契沖も師も伊予国にあるのだろうといい、そのとおりだろう。【しかし今、伊予の人々に聞いてもみな分からないといい、ほかの書物にもこの名はなく、名前の形も上代の地名らしくない気もする。よく考えると、この時が夏で、草葉が茂って互いになびいた浜辺を歌ったのかもしれない。その理由は次に述べる。そうなら浜は道中の海辺を広く指し、冒頭の句も枕詞ではなくなる。】

【宣長の注釈】「かきがひに」は牡蠣貝に、という意味。【「賀」は真福寺本では「加」。】『和名抄』は『四声字苑』を引き、牡蠣は殻が石のようなもので、和名は「かき」とし、貝を「かひ」、また殻虫の皮甲を貝と同じ和名でいうとする。ここでは、中身を取った牡蠣の殻が浜辺へたくさん捨てられていることをいうのだろう。「あしふますな」は、足で踏まないで、という意味。【足踏みは足で踏むこと。「ふむ」を伸ばして「ふます」という。】牡蠣殻の上を踏み、足を傷めなさらないで、というのである。万葉集巻12に「浅茅原、茅の生えた所に足を踏み」、巻14に「信濃道は今の開墾道。切り株に足を踏ませないで、靴を履いて、あなた」とある。

【宣長の注釈】「あかしてとほれ」は、道を明けて通り過ぎよ、という意味。【「杼」は後の写し誤りだろう。「て」の下なので音便で濁る箇所ではなく、必ず清音の「と」でなければならない。】「明ける」とは、足を傷つける牡蠣殻をよく掃きのけ、道を空けて行ってください、ということ。【俗に「道を明ける」というのもこれだ。『源氏物語』末摘花巻の、踏み明けた跡もない、も雪を踏んで道を開くことをいう。冒頭を夏草がなびき合う浜路と取るなら、茂った草に隠れて牡蠣貝が見えないので、よく見分けて通ってください、という意味になる。契沖が、夜を明かしてから、としたのは誰もがすぐ思いつくが、それなら「夜」がなければ言葉が足りない。】万葉集巻11の「苧の生える原の下草に露があるから、明けて行って。母には知られても」の「明けて」も同じ意味である。【これは露が乾くのを待って行け、ということ。衣を濡らす露がなくなるのは、道が明くことである。末句に母は知るともとあるため、夜明けまで待つように聞こえるが、そうではない。夜が明けても朝のうちは露は乾かない。露が乾くまで待って行けば、母が気づくのはいっそう明らかだ。】この歌は、とりわけ深く心を打つ歌である。

【『古事記』本文】その後、また恋い慕う思いに耐えられず、後を追って行く時、歌った。
「あなたがお行きになり、日が長くたちました。やまたづの――私が迎えに行きましょう。待ってばかりはいられません。」
【ここでいう山多豆は、今の「たつぎ」である。宣長は「造木」の「造」を「建」の誤りとし、大工道具の名と解する。】

【『古事記』本文・歌】衣通王が追って来た時、太子は懐かしく迎え、歌った。
「山に囲まれた泊瀬の山の、大きな尾根には旗を張り立て、小さな尾根にも旗を張り立て、大きな尾根で『なかさだめる』[この句の意味は宣長も未詳とする]、思う妻よ、ああ。
(続く別の歌)槻の弓が横たえられ、梓の弓が立て掛けられるように、長く逢わずにいたが、今また手に取って見る、思う妻よ、ああ。」

【『古事記』本文・歌】また歌った。
「山に囲まれた泊瀬の川の、上の瀬に清めた杭を打ち、下の瀬に立派な杭を打ち、清めた杭には鏡を掛け、立派な杭には美しい玉を掛ける。その玉のように私が慕う愛しい人、その鏡のように私が思う妻が、大和にいるというのならこそ、家にも帰ろう、故郷をもしのぼうものを。」
このように歌い、そのまま二人一緒に自殺した。この二首は読歌である。

【宣長の注釈】「亦」は、ここも「歌曰」にかかる。「不堪恋慕而」は「おもひかねて」と読む。万葉集巻4には、絹の衣がしなだれるように心も沈み、家の妻に物もいわず来てしまって、思いに耐えられない、巻11には、山科の木幡の山を、馬はあっても歩いて来た、あなたへの思いに耐えかねて、また、夕月のころの、夜明けの闇の後の朝の影のように、私の身はなった。あなたを思う気持ちに耐えられず、また、思い続けても、思いに耐えられない、山鳥の尾のように長いこの夜を、巻14には、恋しながらもじっといようと思うのに、夕方の山に隠れたあなたを思うと耐えられない、とある。拾遺集の冬の貫之の歌にも「思いあぐね、愛しい人のもとへ行くと、冬の夜の川風が寒く、千鳥が鳴く」とある。

【宣長の注釈】「往」は「います」と読む。万葉集巻3の、無事にいらしてください、あの道を、巻4の、いっそう遠くあなたが行かれると、巻5の、無事に行き早く帰って来てください、巻12の、山を越えて行くあなたをいつ待とう、巻15の、大船を荒海へ出して行くあなた、つつがなく早く帰って来てください、また新羅の辺りへ行くあなたの顔を、巻20の、足柄の山を越えていらっしゃったなら、などはみな、行くことを「います」という。これは、そこにいることをいう「います」と同じ言葉を、行くことにも用いたのである。巻17の、あなたが国へお帰りになったら、では行くことを「まし」といい、【「い」をいわないので、】そのことが分かる。【「います」を「いきます」「いゆきます」の略と考えるのは違う。それでは巻17の例をどう説明するのか。古今集の、法皇が西川へお出かけになった日、また布引の滝を御覧になろうと七月七日にお出かけになった時、なども、行くことを「おはします」という。「おはします」は「います」と同じである。今の俗語でも、行くことをどこそこへござるといい、来ることもござるという。「おはします」も来ることに使う。いる・行く・来るを同じ言葉で表すのは、古今自然に同じなのである。ただし万葉集などで、来ることを「います」という例はまだ見ていない。】

【宣長の注釈】「歌曰」の歌い手は同じく衣通王である。「きみがゆき」は、あなたの旅、という意味。あなたは太子を指し、「行き」は名詞で、御幸の「ゆき」と同じである。【動詞として、行って、というのではない。】万葉集巻3の、私の旅は長くはない、巻19の、あなたの旅が、もし長くなったなら、巻20の、私の旅を思って胸が苦しくなったら、足柄の峰をはう雲を見て、いっそうしのんでおくれ、なども同じである。「けながくなりぬ」は、月日が長くたったという意味。「け」は「きへ」を縮めた語である。【師がつなぎの言葉とするのも、契沖が息とするのも違う。】「来経」は年月日が経過することで、中巻の美夜受比売の歌の注【本書巻28・15丁】で述べた。万葉集巻13の、この旅の日々に妻と離れて、も、旅で月日を過ごす間を「旅のけ」という。「長く」は久しくの意味で、「けながく」は万葉集に多い。巻5に、あなたが旅立って日が久しく過ぎ、奈良路にある庭の木立も神々しく古びたことだ、とある。「やまたづの」は「山釿の」だろう。「迎え」にかかる枕詞である。

【宣長の注釈・前頁末から続く】「山釿」だろうという理由を述べる。まず『和名抄』の大工道具に、『釈名』を引いて、釿は斧の削り跡を平らにする道具で、和名は「ておの」とある。『字鏡』も同じで、今も手斧という道具である。今、杣で木を伐るのに使うかは分からないが、古代は伐採にも使ったらしい。万葉集巻7に、御幣を手にする三輪の神職が祭り清める杉の原で、薪を伐り、危うく手斧を取り上げられるところだった、とある。木を伐るための釿を「やまたづ」といったのだろう。【古代には材を伐り出すことに「山」という例が多く、伐り始めを「山口」というなどがそうである。】「たづ」は、『和名抄』に、『唐韻』では鐇は幅の広い刃の斧で、漢語抄では「たつき」という、とあるものだ。【まさかりのことである。】『大神宮儀式帳』の木本祭の道具には、鐇四柄・立削一柄、忌鍛冶の作る道具には、大鐇二柄・立義鐇二柄・前鐇八柄とある。外宮儀式帳の同じ祭にも、小鐇一柄・大鐇一柄・立削鐇一柄がある。【立削と立義を比べれば同じ物で、いずれも「たつぎ」と読むべきだ。「削」は弓削の例と同じで、「義」は古書でギ・ゲの両方に用いるので、ここは削と比べゲと読む。】単に鐇、または大鐇とあるのはまさかり、立削・立義は、木を伐る手斧だと考えられる。それなのに『和名抄』が鐇だけを「たつき」とするのは、昔はまさかりも伐採用の手斧もともに「やまたづ」といい、少し後には両方を「たつぎ」ともいったためだろう。【「たづ」が「たつ」と清音になるのは、後に「ぎ」を付けると濁音が続くため、自然に前が清音になるのだろう。儀式帳は「削」、和名抄は「岐」だが、古代はキとギを通用することも多い。なお後で説明する。『和名抄』では「たつき」は鐇、釿は「ておの」なので、たつきは鐇だけの名にも見える。しかし儀式帳の大鐇は明らかにまさかりだから、立削は手斧だと分かる。また「迎え」の枕詞としては手斧でなければ合わない。両書を合わせれば、古くは両方を「たつぎ」ともいったと分かる。手斧は古くから「てをの」ともいい、これは「たのぎをの」を縮めた名かもしれない。】

【宣長の注釈】「迎え」につながる理由は、手斧は刃を自分へ向けて使う道具だからである。刃物の中で自分へ向けて使うのは、だいたいこの道具だけなので、「迎え」の枕詞になった。これからも「やまたづ」が伐採用の手斧であることが、いよいよ明らかである。【『袖中抄』にもいろいろな説があるが、どれも十分には理解できない。契沖もそれに基づき、万葉集の「山たづね」という本文から、杣人は山へ入ってよい材を尋ねる人なので「山尋」と名づけ、その後を省いたのか、とする。また「迎え」につながるのは、伐った材を増水時に上流から流し、下流へ行って迎え取るためだという。どちらも遠回しな無理な説明だ。契沖は鐇とする説にも、「たつき」の「き」は省けず、「つ」「づ」の清濁も違うと反論するが、「やまたづ」が本の名で、後に「たつき」といったのだろう。清濁については前述のとおりである。師は幅広い刃の斧の類とし、両手で振り上げて正面へ打つことから「迎え」につながると説明し、幣帛を両手に捧げて供えることを「手向け」という例を考えよとした。斧の類という点はよいが、「迎え」の説明は違う。両手で振り上げて正面へ打つのは斧だけでなく、太刀や槌も同じだから、特に斧をいう理由にならない。また斧は必ず正面に打つわけでなく、斜めにも普通に打つので、迎えの序にはできない。幣帛を手向ける例も当たらない。いずれにせよ、この枕詞には必ず自分の方へ迎える物でなければ合わず、手斧は刃を必ず自分へ向けて打ち、それが手斧に限る特徴なので、必ずこの道具だと考えられる。】

【宣長の注釈】「むかへをゆかむ」は、迎えに行こう、という意味で、「を」は助詞である。万葉集巻6にも「やまたづの、迎え参り出よう、あなたが来られるなら」とある。「まつにはまたじ」は、待ってはいまい、という意味。師の、待つことに堪えられないのだ、という説明は、前の「不堪恋慕」と考え合わせると、確かにその意味だろう。【ただ、待つに堪えないことを単に待たないというだけでは、今なら少し不足した感じがするが、それでも伝わったのだろう。】この歌を万葉集巻2が、難波高津宮の天皇の代に磐姫皇后が天皇を思って作った四首の中に、「あなたが行って日が久しく過ぎた。山を尋ね迎えに行こうか、それとも待とうか」とし、山上憶良の『類聚歌林』にあるとするのは、作者も歌詞も誤伝である。【末句の「待ちにか待たむ」は前と合わず、「山」というのも不自然だ。四首を掲げた後に『古事記』を引用してこの歌を載せるのは、万葉集を編んだ人がしたのか、仙覚などが書き入れたのか、判断しがたい。】

【宣長の注釈】本文の注の「是今造木者也」は、「造」が「建」の誤りだろう。「今のたつぎなり」と読む。【「木」をキという例は、上巻の「子之一木」の注【本書巻5・64丁】で述べた。ここは儀式帳の「立削」に従いギと読んだ。『和名抄』は「岐」なので、キと読んでもよい。】「建木」は借字で、立削鐇などとある名そのものだ。この注は、上巻で「あかかがち」を今のホオズキといい、中巻の玉垣宮の段で「ときじくのかくの木の実」を今の橘というのと同じく、その当時の名で注したものだ。【「造木者也」を木を作る物だと理解すると「者」の字が合わない。『袖中抄』は者と物を通用する例は普通だと助けるが、『古事記』の「者也」は、どれも「者」を添えるだけで、単に「なり」と読む所である。この段の「今時之矢者也」、上巻の何々神者也など、例は多い。師は「者」を「斧」の誤りとしたが、なおよくない。造木者でも造木斧でも、昔は木を加工する道具でなく、今そうなったのなら分かるが、木を加工することは昔から同じなのに、どうして「今」と断るのか。「今」は、必ず当時の名を示す言葉である。「造」が誤字なのは確かだ。万葉集の引用にも「造木」とあるので、誤字ではないのかと疑う人もいようが、仙覚などの書き足しかもしれず、万葉集の編者の仕事でも、すでにそのころ誤っていたのだろう。古書の誤字には、思いのほか古くからの誤りがあるものだ。】

【宣長の注釈】追いついたのは衣通王である。「待懐」は、衣通王を迎え取って、太子が懐かしく思うこと。【王を恋しく思ったのであり、「懐」の語を軽く見てはならない。】『古事記』の待問・待取・待撃・待向・待攻・待遮などは、いずれも古い表現である。「こもりくの」は「隠国の」で、長谷の枕詞。『冠辞考』に出る。「はつせのやまの」は長谷の山の、という意味で、土地のことは朝倉宮の段で述べる。「おほをには」は、契沖によれば大きな峽には、という意味。山口祭の祝詞に、奥山の大峽・小峽に立つ木を、とあり、『日本書紀』も峽を「を」と読む。【神功巻の長峽などがその例。丘も「を」と読み、畝丘・頓丘などがそうである。万葉集には向峯・八峯などもあり、字はいろいろでも「を」という名は同じだ。】「はたはりだて」は、旗を張り立てて、ということか。「さををには」は、小さな峽には、という意味。「おほをにし」は、大きな峽に、で、「し」は助詞である。

【宣長の注釈】「なかさだめる」は、まだ意味を考えつけない。【延佳は「汝の定める」としたが理解できない。師は「泣かさ」とした。それはありうるが、後の「だめる」が分からない。契沖の説も無理があって理解しにくい。】この句が分からないため、前の事柄も何の意味か分からない。【師は、この句の下に多くの句が脱落した、前の大峽だけを受けて小峽を受ける言葉がなく、旗を立てる理由もないといったが、確かにそうである。古い歌の通例では、前に大峽と小峽を挙げれば、後も両方を述べるはずなのに、ここは大峽だけで小峽がなく、整わない。脱落だろう。「おほをにし」の次に七音の一句、その次に「さををにし」があるはずだ。ただ、また考えると脱落ではなく、初めから後半は大峽だけかもしれない。まず両方を挙げて試し、ついに大峽を選んだことの比喩である。そうなら「さだめる」は大峽の方へ決めた意味だろう。しかし「なか」はなお不明で、夫婦の仲とするのは後世風の言い方だ。前の旗を張り立てることも、どんな比喩か理解しにくい。また真福寺本などは「おほをよし」とするので、甕栗宮の歌の「大魚よし、鮪突く海人よ」と考え合わせると、大魚よということか、旗を張り立てるのも大魚の鰭を張り立てることか、とも思うが、それでは長谷の山に関係しない。いずれにせよ、分かりにくい歌であり、なおよく考える必要がある。】

【宣長の注釈】「おもひづまあはれ」は、思う妻よ、ああ、という意味。朝倉宮の天皇の歌にも「その思ひ妻あはれ」とあり、万葉集巻11に、奥山の岩もとの菅の根のように、深く思われることだ、私の愛しい妻は、巻13に、愛しい妻を心に乗せて、という例がある。ここまでが一首で、次は別の歌と聞こえる。ただ、【同じ時に続けて歌ったため、】早くから一つの歌として伝えたのだろう。【師は、後に「此二歌者」とあるので次も別歌でなく続けて読むべきだとしたが、もとは別の歌だったのだろう。】

【宣長の注釈】「つくゆみの」は槻の木の弓の、という意味。『日本書紀』神功巻の歌にも「つくゆみ、とまりやまたぐへ」とある。【槻を「つく」というのは月夜を「つくよ」というのと同じ例。後世の歌は「つきゆみ」とする。】「こやるこやりも」は、横たわることをいい、「こやる」は古い言葉である。『日本書紀』推古巻の太子の歌の、横たわっているこの旅人よ、万葉集巻5の、なびくように横たわって寝て、巻9の、妻が横たわる、巻13の、横たわっているあなたは、などがある。【万葉集で「臥有」と書くものは、みな「こやせる」と読む。「ふしたる」はよくない。】古今集の「横ほり伏せる小夜の中山」は、『奥義抄』によれば「横ほりくやる」とする本がある。「くやる」も「こやる」も同じだ。万葉集巻5の「うちこいふして」、巻12・17の「反側」「展転」などの「こい」も同じ語の活用である。「あづさゆみ」は梓弓。「たてりたてりも」は立っていることをいう。【契沖は、最初の「り」は前の「こやる」に合わせれば「る」ではないかとする。そのとおりだが、表現を変えてこのようにもいうのかもしれない。】「こやるこやり」「たてりたてり」と、どちらも同じ言葉を重ねるのは、どういう理由なのだろう。

【宣長の注釈】「こやる」「たてり」について契沖は、長く弓を横たえて置いたり立て掛けたりすることに、逢えない間をたとえたのだとする。【長く手に取らず、横に寝かせるか、物へ寄せ掛けて置くことで、いつも弓を手に持って伏せたり起こしたりすることではない。それでは比喩の意味が通らない。】女を弓にたとえ、手に取ることを逢うことにたとえるのは、万葉集の歌に多い。ここは大和から別れて来て、長く逢わなかったことを、弓を手に取らず置いたことにたとえた。【槻弓・梓弓、伏せる・立てると二通りにいうのは、古い歌のいつもの表現で、意味はただ弓を手に取らず置くことだけである。】「のちもとりみる」は、その置いた弓をまた手に取って見ることで、別れていたが、後の今、再び逢うことの比喩。「おもひづまあはれ」は前と同じである。

【宣長の注釈】「こもりくの」は前と同じ。「はつせのかはの」は長谷の川の、という意味。【川のカは必ず清音のはずなので、「賀」は「加」の写し誤りだろう。】「かみつせに」は上の瀬に。【これも賀の字は同様。】「いくひをうち」は、清めた杭を打つことである。【契沖も師も「い」を発語としたが合わない。発語の「い」は動詞の前には置くが、名詞の前には置かない。鏡・玉を掛けるとあるから神祭のことと思われ、斎代であるべきだ。中巻・明宮の歌の「いぐひ」とは違う。】斎を「い」というのは斎垣などと同じ。「しもつせに」は下の瀬に。ただ上の瀬・下の瀬と分けるのは表現の形だけで、川瀬の意味である。「まくひをうち」は立派な杭を打つ。「いくひには」は清めた杭には。「かがみをかけ」は鏡を掛ける。「まくひには」は立派な杭には。「またまをかけ」は立派な玉を掛ける。師は、川瀬に杭を打って鏡・玉を掛けるのは、神祭でよくしたことだろうという。冒頭からここまでは、次の玉と鏡を出すためだけの序である。

【宣長の注釈】「またまなす」は玉のように、「あがもふいも」は私の思う妻、「かがみなす」は鏡のように、「あがもふつま」も私の思う妻、という意味。玉・鏡は特に大切にするものなので、愛しい人の比喩にした。「ありと」は三音一句で、いると、の意味。「いはばこそに」は、いうのならこそ、である。【延佳本に「爾」がないのは勝手に削ったのだろう。真福寺本の「余」は誤りで、ほかの本はみな「爾」。契沖は余計な字だとする。】「こそ」の後に「に」を添えるのは、【後世には聞き慣れないが、】高津宮の歌【本書巻37・31丁】にも「まこそに」とある。この二句は、ただ、いるのならこそ、という意味で、「いう」は添えた言葉である。例は多い。「いへにもゆかめ」は家にも行こうものを、の意味。古代は旅先で本来の土地を家とも国ともいった。【故郷というのは後世の言い方。】「くにをもしのはめ」は、国をもしのぼうものを、である。【「しのふ」は後世「ふ」が濁るが、古くは清音で、この例から万葉集の多くの例まで、清音の仮名を使う。「しのふ」は「しなふ」と通い、身も萎えるようにわびしく思う意味だろう。】一首の意味は、鏡のように、玉のように、私が愛する妻が大和にいるなら、大和へ帰り、家をも恋しく思おうが、今は妻がここへ来たので、家も国も恋しくはなく、帰る必要もない、というのである。万葉集巻13にもこの歌があるが、末尾を「真珠のように思う妻も、鏡のように思う妻も、いるというのなら、国にも家にも行こうが、誰のために行くのか」とするのは、たいへん劣り、誤伝なのだろう。【続けて『古事記』を調べると、という引用があるのは、万葉集の編者が書き入れたのか、後に仙覚などが加えたのか分からない。】この段の歌はどれも、たいへん深く心を打つ歌である。

【宣長の注釈】「自死」は「みづからしせたまひき」と読む。「しせ」は殺すことで、上巻の歌の「いのちはな、しせたまひそ」の注【本書巻11・20丁】で述べたとおりである。天寿に至らず、故意に死ぬのは自殺である。【二人が一緒に自殺したのは、今の俗語で「心中」ということの始まりとでもいおうか。】

【宣長の注釈】「読歌」は、音楽として演じる際、ほかの歌曲のように声を節づけ飾って歌わず、読み上げるように直に唱えたための名だろう。一般に「よむ」は、物を数えるように、一つ一つはっきり唱えることである。【物を数えることも「よむ」といい、歌を作ることも、心で思うことを順に言葉へ出すので「よむ」という。中国で詩を作るのを「賦す」という、その賦と自然によく似ている。この「読歌」は、自分で歌を作ることではなく、音楽での歌い方である。中国でいう徒歌のように、ただ伴奏なしで歌う歌だろう、という人もいるが、それでは合わない。】

古事記伝 巻四十。穴穂宮の巻。本居宣長著。

【古事記本文】穴穂御子は石上の穴穂宮で天下を治めた。天皇は同母弟の大長谷王子のため、坂本臣らの祖、根臣を大日下王へ遣わし、「あなたの妹、若日下王を大長谷王子に娶らせたいので、差し出してほしい」と伝えさせた。大日下王は四度拝み「いつかそのような仰せがあろうかと思い、妹をほかへ出さず大切に置いていました。畏れ多くも仰せ通り差し上げます」と答えた。しかし言葉だけでは礼を欠くと思い、妹を差し上げる礼の品に押木の玉かずらを持たせ献上した。根臣はその品を盗み、大日下王は命を受けず「妹を同格の親族の男の下敷きにするのか」といい、刀の柄を握って怒ったと讒言した。天皇は激怒して大日下王を殺し、その正妻、長田大郎女を連れて来て皇后にした。

【宣長の注釈】真福寺本は冒頭に御子、允恭の子と記す。若桜宮段初めで説明した。名に御子を付ける見出しは例がなく、同本には後に王とする例もあるが、ほかの本は命とする。この天皇の後の漢風諡号は安康。石上は巻十八五十二丁に出た。宮跡は帝王編年記に石上左大臣家の西南、古川の南とあり、大和志は山辺郡田村とする。丹波市・布留村に近い布留川南の土地で、早くから住んだので穴穂王と呼ばれた。書紀は允恭四十二年十二月、己巳を一日とする壬午の日(十四日)に即位し、石上へ遷し穴穂宮としたと記す。天皇に子はなく、姓氏録の孔王部首をその子孫とする条は不審。古事記で無子の天皇は初めてだが、書紀は成務も無子。坂本臣は巻二十二三十三丁参照。根臣の語義は不明で書紀は根使臣。大日下王は仁徳の子。某の妹は古く同母妹を指す。若日下王は朝倉宮段にも述べる。欲婚は「あはせむとす」、列木宮段の手白髪命と合わせる例と同じ。

【宣長の注釈】四拝は「よたびをがみて」。下に八度拝みという例もある。推古紀のしまろがみて仕えまつろうと私記が拜を「ひらかがむ」、体を平らにかがめることとする説明から、ロを省き身を屈め伏す意味だ。万葉の鹿のように膝を折り伏す歌などと合わせ、姿を知るべきである。四時は鹿を表し、伊は語頭に添える助詞である。今の人が拝むを合掌だけと思うのは仏教の拝礼から来た誤りで、尊い物を見ることを拝むという用法も中古まではない。

【宣長の注釈】門人長瀬真幸は、上代の拝礼は今の庶民の礼のように頭を下げ両手を地へついたものという。神代紀の彦火火出見が両手をつく例、推古十二年の宮門で両手を地につけ膝を曲げ敷居を越えたら立つ規定、魏志の、言葉を取り次ぎ事柄を奏する時に、かがみ又は跪き両手を地につけ敬う記述からわかる。慶雲元年に官人の跪伏をやめて朝廷は中国式となったらしいが、四年の詔は、停止を命じたのに内外の庁で進退が無礼、応答が乱れたので取り締まり淳風へ戻せとする。古い習いをやめにくかったのだ。民間は規制なく今まで伝わり、笏を持ち立ち座りする拝礼こそ後の中国式で、庶民の礼が古い姿という。もっともだ。今の神への拝礼が中国風なのは、古く仏の礼が神へ移ったためだろう。身分の低い人が神にも合掌する例からもわかる。

【宣長の注釈】四度・八度は伏したまま頭を上下する回数で、後の宮廷の立ち座りではない。心から敬えば自然に頭が下がり、四度の定めも古くからだろう。中国式は二度の再拝だが、続日本紀巻十三の広嗣が使者へ下馬して両段再拝した例は、二度を二組、計四度という古い数を残す。類聚国史の延暦十八年正月一日(丙午)は、渤海使がいるので四拝を二拝とし拍手をやめたとし、通常は四拝だったとわかる。外国人へ日本の礼こそ見せたいのに、全部中国式にするのは情けない。後に一般は二拝となり、神だけ四拝を残した。北山抄・伊勢儀式帳に四度拝神・四段拝が見える。小右記の寛弘二年三月十二日、大原野社の神殿預である宿禰(人名の字は判読保留)が禄を受ける時、神を拝むような両段再拝は珍しいというのは、その頃すでに神以外四拝でなかったため。長和五年三月十四日の石清水祭で三度か四度か議論し、神の儀だから四度と決めたのは、宇佐神を仏として祀る例があり、仏式なら三度かという疑問からである。

【宣長の注釈】後の八度拝も、数の多さだけかとも思えるが、四度もあるので正確な八度だろう。四度を二組行う深い敬意の表し方で、古くから自然に生まれ、後の神事にも残る。伊勢儀式帳の八度拝、四度拝み四拍手し、また四度拝み四拍手して退く例、大神宮式の二組の再拝と拍手を、膝で退く動作を挟み繰り返す例がある。末尾の一拝は回数でなく、最後に伏して退く動作だという経雅神主説がよい。江家次第や公卿勅使記も四拝・拍手を二組行う。中右記の寛治八年九月一日は遷宮の潔斎後、卜部兼政の説に従い外宮・内宮各八度、計十六度拝んだ。同書は八度を両段再拝と呼ぶが、それは四度の名なので誤り。大神宮年中行事も八度と拍手二組を記し、今も使うという。うつほ物語にも七度伏し拝む例、喜び立ち座り七度拝む例がある。大日下王も深く喜び敬ったのだ。

【宣長の注釈】疑有は「あらむかと思へる」。疑問のカに疑の字を当てる例は万葉にもある。外へ出さずとは若日下を高貴な人として大切に置くことで、万葉の、菟名負乙女を人にも見せず秘めて住まわせる歌と同趣。是恐は巻九二十六丁に説明した。奉進までが大日下の返答。古く同母だけをはらからといい、異母にも使うのは中古からの中国風だ。同母妹を娘のように大切にしたので、返答も娘についてのように聞こえる。宇遅能和紀郎子が同母妹八田若郎女を大雀へ贈った例も同じ。言以白事は、ただ言葉だけで申し上げることは、の意。下のコトは添え語。其は読み難く者の誤りか。思は言以の前へ置いて解き、大日下王が心にそう思ったのである。

【宣長の注釈】礼物は師の「ゐやじろ」に従う。遷居の祝詞や伊勢大神宮への詔に礼代の幣があり、師は礼を尽くし返答する、その代となる実物と解す。神賀詞の礼自利を礼のしるしとする説明も同じで、どちらも礼の表れ。ジと濁るのは自の字、ジリでなくジロなのは代の字による。崇神紀で香山の土を領巾に包み国の物実とする例のシロも同じ。若日下を大長谷へ差し上げる際の礼の品で、大山津見が娘と多くの机代の物を差し出す例、詞志比宮の改名の幣とも同じだ。

【宣長の注釈】押木の玉かずらは書紀では押木珠縵、別名立縵・磐木縵。由来は不明だが、大神宮式の金具に押木の鋪金十二口、径各一寸五分とあるので、その形を模した茎へ玉を通し立てたのか。磐木は岩の立つ姿、木は茎かもしれない。貞観儀式は親王四品以上の冠を漆地金装、白玉八個を立縵の形の上、紺玉二十個を前後の押鬘へ立て、立玉は花と台座、居玉は台座だけで茎なしとする。唐風の礼服でも玉飾りは日本の古いかずらを残すらしい。押鬘と押木が同じかは要調査。茎付きで立つ玉から姿を推し量れよう。立玉に関して木と呼ぶなら神宮式の押木とは別で、押は玉を立てる台を頭へ押さえる意味か。このかずらが貴重で美しかったことは雄略十四年の記事に見える。一般のかずらは巻六の十九丁に詳述した。

【宣長の注釈】讒は「よこしまつり」。催馬楽・万葉・書紀・字鏡の例にヨコスの語があり、続日本紀の細字付き讒治奏はしこちか。己妹乎の乎は巻五六十四丁と同じ。為等族之下席は「ひとしうがらのしたむしろにならむ」と読む。なさめやという語勢でも、そのメヤに当たる字がない。師の読みも席を取るとは解せず疑わしい。ウガラは生まれの親族、ヤガラは家族か。ガをすべて濁らせるか、清濁の違いがあるかは不明。ここは若日下と大長谷が、おばと甥でありながら共に天皇の子という同格の親族であること。下席とは妃になり、交合で男の下に敷かれる意で、上席との対ではない。まともな返答でなく、怒ってあざける戯言だ。

【宣長の注釈】曰を白とするのは真福寺本。横刀は大刀で既出。手上は巻五七十六丁、取は師の「とりしばりて」に従う。神武紀の剣の柄を握る訓、天武紀の按剣も根拠になる。怒歟の歟は疑問でなく添え字。根臣の悪事が露見し殺された経緯は雄略十四年に詳しい。嫡妻は「むかひめ」で巻十に出る。長田大郎女は書紀の履中の娘、中蒂姫、別名長田大娘皇女で、仁徳の皇子、大草香と結婚し眉輪王を生んだ人。履中紀の中磯皇女も同じ名である。古事記が履中の子に挙げず、允恭の子の長田大郎女とするのは混同。書紀の允恭の子、名形大娘皇女も同じ誤伝で、長田と名形は実際は一人だ。允恭の子なら安康の同母妹なのに、后にはできない。

【宣長の注釈】取持来の持は軽い添え語で、以と同じ。将の誤りとしてヰテとする師説は違うだろう。万葉の衣の袖に染め付け持ちての持も同じ。皇后はおほきさき、大后と同じ。古事記はこの箇所と甕栗宮段以外は大后と書き、巻二十十丁で説明した。書紀の異伝は、元年二月に大泊瀬のため大草香の妹、幡梭皇女を求めた時、大草香は重病が治らず妹が独りになることだけ心配で死ぬに死ねないが、陛下が妹の醜さをお嫌いにならず、お召しになる女性に加えてくださるなら、大きな御恩であり、もったいない仰せを辞退する理由はない、とする。真心を示し押木珠縵、別名立縵・磐木縵を使者へ渡し、軽い品でも誠の証しとして受け取ってほしいといった。根使主は美しさに心を奪われ盗み、同族とはいえなぜ自分の妹を妻にやれようかと拒まれた、と偽った。天皇は信じて兵で家を囲み大草香を殺し、中蒂姫を宮へ入れ妃とし、幡梭を大泊瀬へ娶らせた。翌二年春正月、癸巳を一日とする己酉の日(十七日)に中蒂姫を皇后とし深く寵愛した、と記す。

【古事記本文】その後、天皇は神牀に座り昼寝をしていた時、后に「何か気掛かりがあるか」と尋ねた。后は「天皇の厚い御恩を受け、何の気掛かりがありましょう」と答えた。后の前の夫との子、目弱王はこの年七歳で、ちょうど殿の下で遊んでいた。天皇は知らず、「私はいつも気になることがある。おまえの子の目弱王が成人し、私が父王を殺したと知れば、私に悪心を抱くのではないか」といった。目弱王は聞き取り、天皇が寝たところを密かにうかがい、そばの大刀を取って首を斬り、都夫良意富美の家へ逃げ込んだ。

【宣長の注釈】神牀の牀を材・林とする諸本は誤りで延佳本に従う。水垣宮段には、天皇が神牀で神託を求めた夜の夢に大物主が現れる例がある。ただそちらは祈り潔斎して座るから問題ないが、ここは昼に后と寝るので神牀は不似合いで、神の誤字かと疑う。師は御牀だろうとした。寝るなら特記不要でも、昼は寝床にいる時でないのであえて記したのかもしれない。それでも諸本が神で既出例もあるため、そのままにする。神牀とすれば、何かの神託を求め座りながら潔斎を怠り、昼に后と寝るのは大変な不謹慎だ。大日下の妃を奪う不義もする天皇なので、寵愛の余り潔斎も犯し、不意の殺害に遭ったのは神の咎めかもしれない。なお考えたい。寝はみねましき。後の御寝や白檮原宮段の例に従い、文脈から后と一緒に寝たのである。

【宣長の注釈】厚い御恩は「我が大君の御慈しみが深いので」と読む。また「天皇の深い御慈しみをこうむれば」とも読める。万葉巻二十に「御言こうむり」などの例がある。天皇を我が大君と呼ぶ例で、敦澤は漢文式、古語の寵愛は厚いより深いがよい。先子は前夫大日下との子。目弱の名は、和名抄が石決明(アワビ)の別名として挙げる「よわ」にちなむ。書紀は中蒂姫が大草香との間に眉輪王を生み、母によって罪を免れ宮中で養われたとする。當于其時而はその折しも。少王はわかきこ、幼い子で、八歳の建王の歌にも同語がある。吾恒有所思は、先の問いに対し、私はいつも気掛かりがあるという。何者は何ぞといへば。殺を弑とする本もよい。還は復讐することで、師のつひには遂の誤字と見たのか。かへりずなら向こうから、かへりてならこちらへの報復になる。父の仇討ちは本人には邪心でなくても、天皇殺害は邪心であり、殊に天皇の言葉なので当然その見方だ。為有はあらむと読む。聞取は聞いて失わず心に留めることで、この時初めて父殺害を知ったのだろう。竊伺は巻三十八二十二丁参照。傍らの大刀から、天皇も普段から刀を身近にしたとわかる。

【宣長の注釈】都夫良意富美は書紀の円大臣で、ツブラの訓もある。どこにも氏姓がない理由は不明で、まだ賜らなかったのか。公卿補任は葛城円使主、武内の曽孫、襲津彦の孫、玉田の子とする。オホミという称は、比布礼能意富美、大前・小前宿禰大臣にもある。大臣・臣・使主と混同されるが、オホミは独立の称号だ。丸邇の比布礼や武内の子孫の円なら臣ともいえるが、物部の大前・小前には臣姓がない。円が大臣になった記録もないので、大臣とは限らない。大使主も本来の例がなく混同だ。使主は阿知・都加や、その子孫の漢人、姓氏録の渡来諸氏に見え、外国由来か日本で外国人用に定めた号だろう。日下部連使主をオミと読む書紀注は、韓国語らしくなく、日本の臣の称を使主にも借りたのか。同音でも文字で区別したのだろう。なお検討したい。

【宣長の注釈】仲哀紀の中臣烏賊津連を神功紀が烏賊津使主とするのも臣の混同だ。中臣に臣姓はないので、イカツオミという名で、祖先にもオミの名があり、続日本紀も父をオミサヤマ、本人をイカツオミとする。雷大臣命もこの人で臣と大臣を混同したもの。古書の三称の混同に注意したい。允恭紀の同名人物は時代が遠く、前は重臣、後は舎人なので別人。同姓同名だけで疑ってはいけない。この円の家は葛城で、後文と雄略紀・公卿補任からわかる。雄略紀の異伝は、安康三年八月、沐浴しようと山の宮へ行き、楼へ上り酒宴の後、皇后に「親しくとも眉輪が恐ろしい」と語った。楼下の幼い王は全部聞き、天皇が皇后の膝を枕に昼寝すると、熟睡をうかがい刺し殺したとする。

【古事記本文】天皇の年齢は五十六歳。御陵は菅原の伏見岡にある。

【宣長の注釈】五十は古語で普通イだが、数を明確にいうここはイソと読む。書紀は三年八月甲申朔の壬辰(九日)に眉輪王に殺されたとし年齢はなく、ほかの年表の五十六は古事記によるだろう。この段は諸本とも没年月日の細注がない。菅原は既出。伏見の翁が三年寝たからという地名説は後の作り話。書紀の三年後の埋葬は、乱が平定され即位するまで遅れたのだろう。清輔の奥義抄が書紀を引き野中陵とするのは古本の異文でなく、後の呼び名を用いたのだろう。諸陵式は大和添下郡の菅原伏見西陵、東西二町・南北三町、守戸三戸。続日本紀は霊亀元年四月に四戸を当てたとする。大和志は宝来家村にあり、字は兵庫山ともいう。西陵は垂仁の伏見東陵に対する名だ。

【古事記本文】大長谷王子は当時オグナ(童形の髪を結った若者)で、この事件を聞くと憤激し、兄の黒日子王へ行き「人が天皇を殺した。どうしよう」といった。しかし黒日子王は驚きもせず、事を軽く見た。大長谷は「一つには天皇、また一つには兄弟なのに、兄が殺されたと聞きながらなぜ驚きもせず、そんな頼りない態度なのか」と罵り、襟をつかみ引きずり出し、刀で殺した。兄の白日子王にも同じ報告をすると、やはり無関心だった。襟をつかみ小治田へ連れ、穴を掘り立ったまま埋めると、腰まで埋めた時、両目が飛び出して死んだ。

【宣長の注釈】オグナは巻二十六六丁に説明した。この時の振る舞いは子供らしくないので、年齢でなく子供の髪形のことだろう。昔は三十余歳でもそういう人がおり、今の相撲人が年長でも前髪を残すのと同じか。この王が三十余歳だった理由は巻四十二末に述べる。此事は目弱の弑逆。懷慨は既出、忿を怨とする本は誤りか。黒日子王は前の境之から境に住んだのだろう。取は殺の誤りでなく殺すの古語。不驚而は師のうちもおどろかずがよい。有怠緩之心はおほろかに思ほせりで、師のなげらなりは意味はよくても語が疑わしい。おこたるとはしない。おほろか・おろそか・なほざりは同意。詈は既出、一は一つには、無恃心は師のたのもしげなくに従い、なぜ怠るに掛かる。聞は聞きつつ、次の不驚而はおどろきもせずて。怠乎もおほろかに思ほせるで、乎は読まない。何の下にヤを付けない古語の形を知らず、漢文の乎・耶に引かれて後人が付けるのは誤りだ。怠緩之心・怠・緩は同語を略記し合い、互いに照らして読む例である。

【宣長の注釈】衿は熊曾の衣の襟を取るのと同じで、ひきおびと読むのは別の帯との混同。白日子王の後に之許を補う師説もよいが、黒日子王と同じ文なので省略とも解せる。八瓜に住んだか。告状如前は先のように事情を告げ、緩亦如黒日子王はこの王も同じくおほろかに思った、の意味。小治田は高市郡で八瓜から遠くないだろう。隨立は立ちながら。墮の字もよく、埋者の者や埋の有無・位置に異本がある。両目は師のめふたつながらでよい。ただ土で腰まで埋めただけでなく、大石などを詰め強く圧迫する、俗に石こづめといったものだろう。そうでなければ両目が出るほど苦しくはなるまい。今の野口村の倭彦王墓は白日子の生埋め塚で、里人も伝えるという説があるが、どうだろう。

【宣長の注釈】書紀の異伝では、舎人県の報告に天皇、後の雄略が驚き、兄たちを疑い武装して白彦を問い、相手が黙ると殺した。黒彦も危害を予感し黙ると怒りはいよいよ激しくなり、さらに眉輪を尋問した。王は位を求めず父の仇を報じただけといい、黒彦は疑いを恐れ密かに王と語り、隙を見て円の家へ逃れたとする。この文は不審で、白彦をすぐ殺す勢いなら黒彦も殺すはずなのに、なぜ放置して眉輪へ行ったのか。眉輪もすぐ殺す勢いなのに、相談し共に逃げる時間はなぜあったのか。例によって漢文を取り繕ううち事実が食い違ったのだろう。

【古事記本文】さらに大長谷は軍で都夫良意美の家を囲んだ。意美も兵を出し戦い、放つ矢は盛りの葦の穂が散るようだった。大長谷は矛を杖として家の内をうかがい、「私が話をつけた娘は、この家にいるか」といった。意美は武器を外して出て、八度拝み「求められた訶良比売は差し上げます。五か所の屯宅も添えて献上します」と答えた。この五村の屯宅は、今の葛城の五村の苑人である。「娘本人が出ないのは、昔から臣や連が王宮へ隠れるとは聞いても、王子が臣の家へ隠れるとは聞かないためです。私のような卑しい者が戦っても勝てませんが、私を頼りこの家へ入った王子を、死んでも見捨てません」。そういうと武器を取り中へ戻り戦った。ついに力尽き矢もなく、王子へ「すっかりひどい傷を負い、矢も尽き、もう戦えません。どうしましょう」と申し上げた。王子は「ほかにすべはない。今、私を殺せ」と答えた。そこで刀で王子を刺し殺し、自らも首を切って死んだ。

【宣長の注釈】亦は次の事件をいうので、再び軍を起こしたの意味ではない。都夫良意美は意富美を縮めた称。富のある本も悪くないが、次は諸本ともないので合わせた。爾の後に都夫良意美も、を省き、王の軍を迎え戦うのである。葦來散は穂の散る譬えで、葦だけで穂を含む例は万葉の難波の枕詞「葦が散る」にある。堀川百首の寒蘆の歌にも、「難波潟の綱手になびく葦の穂が、うらやましくも立ち上ることだ」、「難波潟の葦の穂先に風が吹くと、寄せる波の花かと見える」とある。海辺に葦が多く、盛んに散る穂が射出す矢の密さに似る。ただ來は不自然で、敵の矢がこちらへ来ると解せなくもないが、盛の草書の誤りと考え、盛りにと読む。師の華説は古事記の用字に合わず、花は字形が遠い。私も葦之の誤りや重複を疑ったがそうではない。万葉の矢が大雪のように乱れ来る、欽明紀の雨のように放つ例も同じ譬えである。

【宣長の注釈】杖とするは御杖に使って。家の内をうかがう臨は石屋戸の神話と同じで、密な矢を恐れない勇気が見えるようだ。相言は求婚することで、前に娘を求めた事実は後文にある。若は今なら不自然でも古語では使ったのだろう。有は在の誤りか、字に拘らぬ表記か。延佳が在へ直すのは私改である。意美へ富を補ったのも同様。大命は本来天皇の言葉だが、後の即位からそう伝えたのだろう。参出は王の前へ出る。兵は刀・弓矢・矛などで、外すには手にした物を置くことも含む。八拝は既述。先日は先にと読み日を読まない。問は求婚。訶良比売は朝倉宮段の韓比売で、侍はさもらはむ、前に仕えさせる、つまり差し上げる。亦副の亦を立とする本は誤りだ。

【宣長の注釈】屯宅の屯に脱字・誤字があるが延佳本に従う。屯家は朝廷の田に付く倉や役所なのに私物のように献じるのは、額田大中彦が屯田・屯家を管理したように、意美が古くから管理したものだろう。屯倉百八十一か所献上の例もある。娘へ添えるのである。細注の五村屯宅は本文と同じ五か所のはずで、次の五村から写し違えたもの。苑人も覺でなく苑がよい。御苑に従事する民で、職員令の園池司には長官一人、補佐一人、書記一人、使部六人、直丁一人と園戸が属し、諸苑池と野菜・果樹などの栽培をつかさどる。その園戸が苑人だ。元の屯家の民が後に苑人となった五村で、和名抄の忍海郡園人郷か。忍海は葛城上下郡の間にあり、姓氏録の園人首も地名由来だろう。正身は本人で、ここでは訶良比売を指す。

【宣長の注釈】「参上しない理由は」とあるのは、訶良比売は差し上げるが、今ここへ本人が参上しないのには以下の事情があるので、自分の手からは差し上げず、自分が死んでから娶っていただきたい、という意味だろう。「臣連」の臣はオミ。後世のオンは音が変わった形で正しくなく、オンノコという読みは「子」を付け足したものだ。意味は「大身」である。磐余甕栗宮の段で葛城の神の出現を「宇都志意美」とするのも「現つ大身」で、同じ語だ。これは朝廷に仕える人を、他の人が尊んで呼ぶ名称である。朝廷に仕えるので臣の字を当てたが、君に対する臣という意味ではない。君臣の臣はヤツコといい、書紀などでもそう読む。巻七八十丁でも述べた。ヤツコが単に卑しい者を指すようになり、後には君臣もキミオミと読む習慣になったのだろう。氏族の姓の臣もこのオミである。連は巻六六十八丁で説明した。臣・連を並べていうのは、多くの氏族のうち、京の近くに住み、とりわけ朝廷の身近で仕える人たちだからだ。古く仕える人々を都から地方まで広くいう時は「臣連伴造国造」といった。伴造・国造は巻七八十丁以降に説明した。地方まで含めない時は臣連という。書紀では雄略紀から持統紀までたびたび現れる。それより前の時代の記事にこの呼び名が見えない場合は、漢文風に書き換えられたためだ。群卿・百僚・公卿・大夫などは、いずれも漢文の名称で、日本古来の呼び名ではない。推古紀には「天皇記・国記と、臣・連・伴造・国造・百八十部、および公民などの本記を記した」、孝徳紀の即位儀礼には「百官・臣・連・国造・伴造・百八十部が列をなして周囲から拝礼した」とある。

【宣長の注釈】「王」は古くは皇子からその子孫の諸王まで、すべてミコと呼んでこの字を書いた。古語では遠い祖先まで「親」といい、末々の子孫まで「子」というので、天皇の子孫も代々ミコと呼ぶのである。後に親王という称号ができると、ミコは親王だけを指し、諸王はオオキミと呼んでミコとは呼ばなくなった。また、大君は天皇をはじめ皇子・諸王に共通する呼び名で、王もオオキミと読むが、古く個人名に付けて某王という場合はミコとだけ読み、オオキミとは読まなかった。後世は親王をミコと呼ぶのと区別して、諸王の某王を某(なにがし)のオオキミと呼ぶようになった。本来オオキミは天皇をはじめ御子・御孫という、とりわけ尊い人を指したのに、後には諸王だけの称号のようになったのである。大君は諸王に至るまですべて君の側に属し、臣の側には属さない。これは外国とは大きく違う。ところが後には天皇だけを君と仰ぎ、皇太子をはじめ「臣」と自称なさるようになった。これは中国の制度に移ったためだ。古くは皇子はもちろん、諸王であっても臣とは名乗らなかった。王と臣には君臣の区別があって混同せず、あらゆる儀礼も大きく異なっていた。しかし万事が中国の制度に従うにつれ、臣の家が次第に勢力を増し、ついに古い君臣の区別が消え、臣が尊く、諸王がたいそう権勢のない卑しい存在になってしまった。後世にも「諸王諸臣」と並べて呼ぶのは、古い区別がわずかに名称として残ったものだ。したがって目弱王は天皇の子ではなく皇子の子だが、それでも君の側に属するから、臣連と対比していっている。

【宣長の注釈】「隠」はコモルと読む。上巻の天石屋戸の話にも「恐れを感じ、天石屋戸を開けて閉じこもった」とあり、書紀の舒明天皇の歌にも「畝傍山は木立が薄いのに、頼りになると思ったからか、気都の若子は閉じこもられたのだろう」とある。古事記では王と王子は同じ意味で用いる。「臣之家」の臣は前の臣連と同じならオミと読むはずだが、臣連の一方を省いて臣だけでいうだろうか。あるいは之は連の誤字かもしれない。対になる王宮には之がない。君臣の臣なのだろうか。どちらでも意味は変わらないので、ひとまずヤツコと読む。王の住まいを宮、臣の住まいを家というのは、古くからの区別だろう。今でも宮と呼ぶのが親王・皇子などに限られ、臣にはいわないのは古い意味が残るためだ。「隠於」の於は旧刊本や別本にはなく、今は真福寺本・別の一本・延佳本に従った。真福寺本には臣之の之もない。王が臣の家へ隠れた例は、すぐ前の軽太子が大前・小前宿禰の家へ逃げ込んだ事件がある。それなのに「聞いたことがない」というのは理解しがたい。考えるに、軽太子が大前・小前宿禰の家へ入り、穴穂御子が攻めた事件と、ここで都夫良意美の家が攻められる事件は、状況がよく似ており、時代もほぼ同じといえるほど近い。この言葉は、実は前の事件で大前宿禰がいったものが、伝承で混ざったのではなかろうか。

【宣長の注釈】「是以思」は、王には身分の高さに加え、多くの奉仕者と強い勢力があるので臣連が王宮へ逃れることはあるが、臣連は身分が低く、奉仕者も少なく勢力が弱いので、王がその家を頼って隠れる例はない、そのことから考えると、という意味だろう。「賤奴」は単にヤツコと読む。君臣の臣の意味である。白檮原宮の段、巻十八三十六丁に詳しく述べた。舒明紀の賤臣もただ臣の意味で、中国語のようにへりくだって賤といったのではない。続日本紀巻二十五の詔に「王を奴と成すとも、奴を王というとも、汝の為さむまにまに」とある。この奴も臣であり、奴婢ではない。古くは発音が同じなら、字はどのようにも借りて書いた。この詔でも王は君の側にあって、臣とは隔たることがわかる。わざとあり得ない極端な例を挙げ、それすらお前の思いのままに、というので、王と臣を混同しないことはこのとおりだ。奈良時代には何事も中国風に変わっていたが、古い意味はなお残っていたのである。ここで賤奴というのは都夫良意美自身を指し、王と対比して臣といっている。漢文で私をへりくだり臣というのとは違うので、よく注意しないと混同する。「意富美」は前述。自分でこう名乗るのは珍しい。「竭力」は漢文めくが、「心を尽くす」という語は古いのでそうもいっただろう。師が「力の限り」と読んだのもよい。「無可勝」は「え勝ちまつらじ」。「己」は私というのと同じだ。「随家」の随は間違いなく写し誤りだが、すべての本が同じである。延佳本だけ隠とするのは前文にならい独断で直した余計な手出しで、隠ではまったく意味が通じない。師は賤の誤りとした。字形が遠いので確かではないが、意味はよく合うため、ひとまず従い「やつこの家」と読む。賤は臣の意味で、自分をへりくだる臣ではない。自分についてはすでに己といっている。王でありながら臣の家へお入りになった、ということで、前の「王子が臣の家へ隠れたとは聞かない」と合わせて考えると、前例もなく臣の家を頼って来られたことを、深くお気の毒に思っているのだ。

【宣長の注釈】王子は目弱王。「死而」は而のない本もあるが、真福寺本・延佳本に従い、「いのち死ぬとも」と読む。死ぬことをこのようにいう古語の例は雄略紀の歌「命を失っても」や万葉にもある。「取其兵」は、前に外した武器を再び取り身に帯びたということ。「力窮」はチカラツキで、前の力を尽くすと対応する。「矢尽」は「矢も尽きぬれば」。「手悉傷」は師の「痛手負ひぬ」に従う。手の字を書くのは必ずテという語による。白檮原宮の「賤奴が痛手」、訶志比宮の歌の「痛手負はずは」も同じだ。「無可為」は師の「せむすべなし」に従う。万葉に多い語である。「死也」の也は諸本にないが真福寺本に従う。雄略紀冒頭の異伝では、天皇が引き渡しを求める使いを送り、大臣は使者に「臣下が事件を起こし王室に逃げ込むとは聞きますが、君王が臣の家に隠れることは存じません。今、坂合黒彦皇子と眉輪王は私の心を深く頼り、家へ来たのです。どうして引き渡せましょう」と答えた。そこで天皇はさらに軍を増して家を囲む。大臣は身支度を終え軍門に進み、ひざまずいて「処刑されても、ご命令には従えません」と拝し、「娘の韓媛と葛城の家七か所を差し上げ、罪を償いたい」と願う。天皇は許さず家に火を放ち、大臣・黒彦・眉輪の三人は焼死した。坂合部連の贄宿禰は皇子の遺体を抱いて焼け死に、その舎人が焼けて見分けにくい骨を集め、一つの棺に納め、新漢の擬本の南の丘に合葬したという。「擬」の字は不明で、槻だろうか。使者を送ったのは円意美に目弱王の引き渡しを求めたのである。韓比売の件も古事記の伝承とは少し違う。

【古事記本文】その後、淡海の佐佐紀山君の祖先、韓帒が申し上げた。「淡海の久多綿の蚊屋野には猪や鹿がたくさんおります。立っている足は荻の原のようで、突き上げた角は枯れ木のようです」。そこで大長谷王は市辺忍歯王を連れて淡海へ行き、その野に着くと、それぞれ別の仮宮を建てて泊まった。翌朝、まだ日が出ないうちに、忍歯王は何の疑いもなく馬に乗って大長谷王の仮宮のそばへ来て立ち、従者に「まだお休みだ。早く申し上げなさい。夜はもう明けた。狩場へお出ましになってよい頃だ」と告げ、馬を進めて出て行った。大長谷王の御所に仕える者たちは、「うとましいことをいう王子です。警戒なさいませ。しっかり身をお固めください」と申し上げた。そこで衣の内に鎧を着け、弓矢を携えて馬で出かけ、たちまちのうちに忍歯王の馬に並び、矢を抜いて射落とした。さらにその身体を切り、馬の飼い葉桶のような容器に入れ、地面と同じ高さに埋めた。 久多の二字、宇多氐の三字は音を表す。

【宣長の注釈】淡海は前述。「佐佐紀山君」は孝元紀に、大彦命を阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狭々城山君など七族の祖とする。古事記では大毘古命の子孫は阿倍臣だけを挙げた。姓氏録の左京皇別には「佐々貴山君、阿倍朝臣と同祖」とあり、摂津皇別にも同じ姓が載る。神名帳の近江国蒲生郡の沙々貴神社は安土や観音寺山などの近くにある。ある書は佐々木神社の四座を、少彦名命・大鷦鷯尊・狭々城山君すなわち大彦命・宇多皇子敦実親王とするが、どうなのだろう。少彦名命を祭るのは、神代紀でこの神がミソサザイの羽を衣にするとした話から結び付けたのか。大鷦鷯尊も名前から作った付会だろう。後世の宇多源氏の佐々木氏はこの地から出たため、敦実親王はその一族が後に合祀したのだろう。和名抄の同郡篠笥郷がこの地だろう。この氏はここに住む山君である。山君という姓は巻二十四二十三・二十四丁、小月山君・春日山君の箇所と、巻三十三十四・十五丁の山部・山守部の考察を参照されたい。

【宣長の注釈】顕宗紀元年五月には、狭々城山君韓帒宿禰は皇子押磐の謀殺に関わった罪で、処刑を前に頭を地面に打ち付けて哀願し、その言葉がひどく哀れだったため、天皇は殺すに忍びず、陵戸に充て山の番を兼ねさせ、氏族の帳簿から除いて山部連に属させた、とある。一方、倭帒宿禰は妹の置目の功によって、元の狭々城山君姓を賜った。古事記のその段にも韓帒の子らに御陵を守らせたとある。つまり韓帒は顕宗の世に佐々紀山君姓を削られ、陵戸となり、山部連になった。山の番も命じられたのは元来山君だからだ。同族の倭帒には従来どおりの姓が与えられた。私は以前、顕宗紀のこの事件から、姓は韓帒に始まり、佐々紀はサザキ、陵の意味で忍歯王陵を守るため、山君は山の番を兼ねたために付いたと考え、近江の佐佐紀という地名もこの氏族が住んだからだと思ったが、それは誤りだった。小月山君・春日山君のように、その土地に住む山君という例に合うし、倭帒へ授けた姓を本姓とするので、古くからの姓なのである。続日本紀に同族が蒲生郡司とあるのも自然で、さらに文徳実録にも見え、三代実録巻三十二には、近江国蒲生郡大領、外正六位上の佐々貴山公是野に、米二千斛・穀三千斛を献じて国の財政を助けた功で外従五位下を授けたとある。これらはみな倭帒の子孫だろう。ではなぜ古事記が韓帒をその氏の祖とするのかと疑う人もあろうが、一族の祖先の兄弟姉妹まで、すべて祖と呼ぶ例である。倭帒については近飛鳥宮の段で述べる。韓帒は、同族の倭帒宿禰とともに、どんな由来の名なのかまだわからない。「白」は大長谷王への申し上げである。

【宣長の注釈】久多も綿も、はっきりしない。尾張には神名帳所載の久多神社が中島郡に、綿神社が山田郡にある。蚊屋野も不明だが、愛知郡には蚊野郷がある。このように地名を三つ重ねるのはなぜか。久多綿と蚊屋野の二つの場所なのかもしれない。そうなら、二つ挙げたうち、まず蚊屋野へ狩りに行ったのである。この土地については巻四十三五十四丁の近飛鳥宮の段でも考察するので照合されたい。「猪鹿」は師のシシという読みがよい。朝倉宮の御歌に「しし伏す」「しし待つ」などがあり、狩りの話では猪も鹿もシシと呼ぶ。詳しくは巻四十一四十八丁、その御歌の注で述べる。

【宣長の注釈】荻はススキと読む。神功紀の陶荻、仁徳紀の茅荻などが根拠である。荻を万葉でも後世でもオギに使うが、古く草木の名に当てる字は決まらず、書き手によって変わることが多い。書紀のこれらの荻は確実にススキなので、ここもそうだろう。さらに書紀のこの箇所は弱木林とし、景行紀にも、野には鹿が多く、その気配は朝霧のよう、足は茂った林のように連なって伏す、という話がある。真福寺本では荻を茂とするから、茂原の写し誤りかもしれない。師はシゲトを「茂本」、本は木のことと説明した。猪鹿の立つ足の譬えにはススキより若い木のほうが似合うとも感じられる。いずれにせよ、非常に多いという譬えだ。「指挙」はササガタル。顕宗紀の室寿の言葉にも牡鹿の角を挙げる表現がある。「枯樹」の樹を松とする真福寺本ほかもある。カラキと読むのは書紀も同じで、古く枯をカラと読む例はカラガシタキ・枯山・枯野など多い。この譬えは一本の木の上に枝が多く突き出すことをいう。書紀は枯樹末とする。市辺忍歯王は巻三十八四丁に既出。「相率」は「あひいざなひて」。その野とは蚊屋野。「各」は忍歯王と大長谷王のそれぞれ。「明旦」はツトメテ。書紀のクルツアシタという読みはここに採れない。前夜のことを述べ、明けた朝をツトメテという例で、ここも前に泊まったとあるので翌朝である。「未日出之時」の時はトニと読む。継体紀の歌や万葉の「夜の更けぬとに」「恋ひ死なぬとに」「さ夜更けぬとに」「我が帰るとに」などが例だ。このトを時の略とするのは誤りで、今の「夜が更けないうちに」の「うちに」と同じ意味の「外に」である。一方を内、他方を外と見る立場が違うだけで、行くを来るともいうように意味は通う。ここでは日の出後を内にして、まだ出ない以前を外と呼ぶのである。

【宣長の注釈】「以平心」の心を止とする本は誤りで、真福寺本・延佳本に従う。「何の御心もなく」と読む。師の「うらもなく」も意味は同じだが、ここには合わず、何の疑いもないという意味だ。「到立」は「ゆき立たして」。朝倉宮の段の行立も同じ。「御伴人」は書紀の従・従人・傔人などに当たる。「未寤坐」は「いまだ覚めまさぬにこそ」と読む。師の「いまだ驚きまさぬよ」はどうだろう。大長谷王の従者を問いただしている。もう目覚めたなら早く出立されるはずなのにそうでないのは、まだ眠っておられるのだ、ということだ。「早可白也」は、私はこういってもう出かけた、と早く大長谷王へ伝えよということ。「既訖」はアケヌ。猟庭は狩場である。場所を表す場を中古以降バというが、ニワが音便で変わったものだ。大庭・馬場・猟場などは古くすべてニワといった。「乃進馬」以下は、そのようにいいおき、自分はひとり先に出かけたのである。「宇多氐物云王子」は忍歯王を指し、大長谷王へ申し上げている。ウタテは巻八の十一丁、「物いう」という古語は巻二十五十一丁で例とともに説明した。この時の忍歯王の言葉に、それほど非難すべき点は見えないのに、このように告げたのはなぜか。平心とあるので、悪意はまったくなかった。ただ大長谷王がまだ寝ているのをひどく遅いと思い、気が急くままに顔色や物言いが妙な様子に見えたのだろうか。「応慎」は「御心したまへ」。「衣中」以下は大長谷王の身支度である。鎧は明宮の段末にも衣中服鉄・衣中甲などがある。「倏忽之間」はタチマチニで、巻十八四十七丁参照。「自馬」の自は諸本で白と誤るが、真福寺本・延佳本に従った。徒歩で行く、舟で行くの「より」と同じ自で、馬に乗って行かれたということ。万葉十三の「他人の連れ合いが馬で行くのに、自分の夫が徒歩で行けば」も例である。

【宣長の注釈】「往双」は、忍歯王が馬に乗っている所へ、馬を進め並ばせたということ。隙間もなく近寄る意味ではない。矢を射るのだから少し隔たりがあったはずだ。「抜矢」は身に帯びた矢入れから矢を抜いたこと。「馬櫪」はウマブネと読む。玉篇は槽を櫪、馬を養う器とする。和名抄の鞍馬具の項は唐韻を引き、「槽は馬槽、和名は舟と同じ」とするが、この末尾五字を古写本は馬舟也とする。説文も家畜の食器とする。和名抄はまた、唐韻を引き「櫪は馬櫪、和名シキイタ」とするので、シキイタと読みたくなるが、そうは読めない。まず槽も櫪であるのは玉篇でわかる。和名抄の櫪は馬を立たせる敷板なので舟とはいいにくいようだが、ここは遺体を入れて埋めたとあるので、板ではないことが明らかだ。玉篇も馬を養う器といい、板だけには限らないだろう。板なら器とはいえない。櫪にはいろいろあるうち、和名抄は板だけの物をシキイタと呼び、ここでいうのは槽のように作った容器なのだろう。その形の物は通じてウマブネと呼べるが、シキイタとは呼べないからだ。「入」は忍歯王の遺体を入れたこと。「与土等」は、普通王などを葬る時は高く塚を築いて埋葬するのに、ここでは少しも盛り土せず、穴を掘って低く、地面と同じ高さに埋めたということ。土は地面の意味である。

【宣長の注釈】雄略紀冒頭の異伝では、十月、大泊瀬は、穴穂天皇が以前、市辺押磐皇子に国を譲り後事を託そうとしたことを憎んだ。皇子に使いを送り、狩りを口実に野へ誘って「近江の狭々城山君韓帒が、来田綿の蚊屋野には猪鹿が多く、角は枯木の枝、集まる脚は若木の林、息は朝霧のようだといいます。冬の初めの寒風が吹くこの時、皇子と野へ行き、心を楽しませ親交を深めたい」といった。市辺は従って狩りに出たが、大泊瀬は弓を引き馬を走らせ、「猪がいる」と偽って叫んで市辺を射殺した。側仕えの佐伯部売輪は遺体を抱き、何が起きたかわからず驚き悲しみ、頭や足の側を行き来して泣き叫んだが、天皇はなお彼の殺害を謀った。同月、御馬皇子は親しい三輪君身狭に会いに行こうとして道を進み、思いがけず軍に道を遮られた。三輪の磐井のそばで迎え撃ったが、ほどなく捕らえられ、処刑に際し井戸を指して「この水は民だけが飲め、王だけは飲めなくなれ」と呪ったという。御馬皇子は忍歯王と同母の弟である。忍歯王を殺した理由は、この書紀の伝承と古事記とで違う。

【古事記本文】そこで市辺王の二人の王子、意富祁王と袁祁王は、この騒動を聞いて逃げ出した。山代の苅羽井に来て食事をしていると、顔に入れ墨のある老人が来て食べ物を奪った。二人は「食べ物は惜しくないが、お前は誰なのか」と尋ねた。老人は「山代の猪甘です」と答えた。二人は逃れて玖須婆の川を渡り、針間国へ行き、志自牟という土地の者の家に身を隠して、馬や牛の飼育の仕事をした。

【宣長の注釈】「意富祁王」は諸本に富がないが延佳本に従った。真福寺本もここにはないが後の二か所にはある。元はあったのを後人が書紀に合わせ勝手に除き、真福寺本で欠ける所は脱落だろうか。袁祁王とともに、書紀は億計尊・弘計尊とする。億は意富で、意一字でも大を表し、袁と対になる例は、姉妹の名の意祁都比売命・袁祁都比売命などがある。古くはオを表す意と袁の発音が違った。両者の混じった今の発音で疑ってはいけない。この名前からも古い発音の区別がわかる。名前の意味は大きい笥と小さい笥か。顕宗紀では、弘計天皇は去来穂別天皇の孫、市辺押磐皇子の子で、母は荑媛とする。細注は荑をハエと読み、系譜によれば市辺は蟻臣の娘荑媛を娶り、三男二女を生み、第一を居夏姫、第二を億計王、別名嶋稚子・大石尊、第三を弘計王、別名来目稚子とする。蟻臣は葦田宿禰の子である。仁賢紀は億計天皇の諱を大脚、字を嶋郎、弘計と同母の兄とし、細注に別名大為とある。他の天皇に諱・字を記さずここだけ記すのは旧本によったためだという。大脚・大為・大石は表記が違うだけで、いずれもオホシ。嶋稚子・嶋郎も同じで、郎はワクゴと読む。大脚も嶋郎も単なる名前なのに諱・字と区別するのは中国風の書き方で、古来の区別ではない。袁祁王の別名に来目稚子がある。万葉三の「久米の若子が住んでいた三穂の岩屋は、見ても見飽きないことだ」の「はだすすき」は三穂の枕詞で、歌の端書によれば紀伊国である。袁祁王が紀伊にいた記述がないので別の久米若子かとも思えるが、やはりこの王子だろうか。播磨へ行く前に紀伊にも滞在したのが二つの史書から漏れたのかもしれないが、詳しくはわからない。同巻の「風早の美保の浦辺の白つつじを見ても寂しい、亡くなった人を思うので」、「威勢のよかった久米の若子が触れたであろう、磯の草が枯れるのが惜しい」という二首も、その紀伊の三穂の石室付近で詠んだのだろう。歌の端書は混乱した誤りである。また同巻の生石村主真人の歌は「大汝や少彦名が住んでいたであろう志都の岩屋は、幾代を経たのだろう」とあり、或説はこの志都石室を播磨の石の宝殿とし、その前の社を生石子と呼ぶ。私は以前、三穂石室と志都石室の二首で末句が混ざり、久米若子がいたのは播磨の志都石室、生石子の名も兄王の大石に関わるかと考えたが、誤りだった。石の宝殿を志都石室とすることも元々誤りで、あれは人が入って暮らせる形ではない。

【宣長の注釈】袁祁王は本人の段では袁祁之石巣別命とある。「聞」は、近江で起きた騒動を大和で聞いたこと。古い記録では御馬王まで殺されたのだから、二人の王子も当然捜されただろう。それで急いで逃げ出したのである。「苅羽井」は、神名帳の山城国綴喜郡の樺井月神社に当たる。続日本紀・続日本後紀・三代実録・臨時祭式などは樺井神社とだけ記す。万葉二十には山背国から贈り返した歌として「立派な男と思っているのに、太刀を帯びたまま、かにはの田で芹を摘んでいるとは」とあり、雑式にも山城国樺井渡の管理者の記事がある。カリハが後にカニハとなり、今はカバイと呼ぶ。伊邪河宮の段の人名、苅幡も同国相楽郡の地名で、和名抄は蟹幡と書きカムハタと注し、今はカバタという。苅幡と苅羽井は隣り合う郡なので、元は一つの土地ではなかったか、地理をよく調べて考えるべきだ。五社百首の俊成の歌「身分の低い女が、かわたの原で摘む芹も、誰のために袖を濡らして摘むのだろう」は、先の万葉の歌に基づき芹を詠んだのに、加婆多とある。ふと取り違えたのか、それともカニハとカバタが同じだからなのか。

【宣長の注釈】「食御粮之時」の時は多くの本にないが、真福寺本・延佳本に従う。師の「みかれひ、聞こしめす時に」という読みがよい。倭建命の足柄坂本での食事にも御粮とあり、巻二十七七十七丁に説明した。「面黥老人」の人を入とする諸本は誤りで、真福寺本に従い、師の「めさけるおきな」と読む。白檮原宮の段の黥利目、歌の「などさけるとめ」と合わせ、巻二十の二十七丁の考察を参照されたい。履中紀には阿曇連浜子を恩赦で死刑から黥刑へ軽減し、人々が阿曇目と呼んだとある。また天皇が淡路島で狩りをした時、手綱を持った阿内飼部らの入れ墨がまだ治っておらず、島の伊弉諾神が血の臭いに堪えないと託宣した。占うと黥を受けた阿部らの臭いと出たので、以後飼部に黥を施すのをやめたという。雄略紀では鳥官の鷹が菟田の人の犬に噛み殺され、天皇がその人を黥にして鳥養部とした。黥刑は上代からあったのか、履中紀で当時の人が阿曇目と呼んだという記事からは、その時始まったようにも読めるが、どうだったのだろう。履中が飼部の黥を止めたのは馬飼部に限るのだろう。ここに猪甘があり、雄略紀にも鳥養部がなおあるからだ。これらを合わせると、黥を受けた者は皆、天皇のさまざまな御部に配属されたと見える。ただし御部の人がすべて黥を受けた者だけだったのではあるまい。面黥と書き、ヒタヒキザムともサクともいう時の面・額・目は、みな同じことを指す。メサクも実際に眼を裂くのでなく、その周辺を刻むのである。この老人は近飛鳥宮の段にまた登場する。

【宣長の注釈】「不惜粮然」は「かれひは惜しまぬを」と読む。然は、食料を惜しんでいうのではないが、という意味で書いた字で、その意味がヲという助詞に含まれる。古語ではこのような場合にヲを使う。「猪甘」の甘は飼養の意味で、甘を当てることは巻二十五三十九丁の鳥甘部の注で説明した。古くは身分を問わず普段から獣肉を食べたので、食用に猪を飼っていた。中古以降は獣肉を食べず、猪を飼うこともなくなり、猪といえば野山のものだけになった。それを中国では野猪、崇峻紀では山猪といい、人家で飼うものは俗にブタという豬だが、同じ動物である。イノコというのも単に猪で、鹿をカコ、馬をコマというのと同じで、猪の子という意味ではない。猪の子を表す字は豚である。家猪は巻十十六丁、白猪は巻二十八二十四丁にも見え、イノコという読みは武烈紀の歌にもあるが、これもただ猪で子ではない。猪を飼ったことは、続日本紀巻十一、天平四年七月、畿内の民の飼う猪四十頭を公正な代価で買い、山野へ放して命を全うさせよ、という詔からもわかる。天智紀に猪槽、仁徳紀に猪甘津の地名が見える。猪甘津は摂津国東生郡で、姓氏録には猪甘首という姓も載る。猪甘は公の猪の飼育に奉仕する人で、私的な商売ではない。山代に公の猪を飼う事情があって、それに仕えていたのだろう。

【宣長の注釈】玖須婆の川は巻二十三七十八丁参照。苅羽井を経てここへ来たのは、古く大和から山城を通り西国へ下る本道で、この道は今もある。この渡しを向こうへ渡ると摂津国島上郡である。針間国は前述。「志自牟」は書紀では縮見屯倉首、忍海部造細目とある。地名をここで人名としたのは、その土地の屯倉首なので、自然に名前のように伝わったためだろう。後世で志自牟殿などと呼ぶようなもので、そういえば本人の名前に聞こえる。その場所は書紀が播磨国赤石郡、和名抄が同国美嚢郡志深、シジミ郷とする。摂津有馬から播磨姫路へ行く丹生山田越という道の途中に、今も志深という場所があるという。馬甘は巻三十六十一丁に既出。「牛甘」も志自牟の家の牛馬を飼う者を意味し、後世の牛車を扱う牛飼童のようなものではない。天武紀には都努臣牛甘という人名も見える。

【宣長の注釈】顕宗紀の異伝では、穴穂天皇三年十月、父の市辺押磐皇子と側仕えの佐伯部仲子が蚊屋野で大泊瀬天皇に殺され、同じ穴に埋められた。顕宗と億計王は父が射殺されたと聞いて恐れ、逃亡して隠れた。側仕えの日下部連使主と子の吾田彦がひそかに二人を奉じ、丹波国余社郡へ避難させた。使主は田疾来と改名したが、なお処刑を恐れて播磨国縮見山の石室へ逃れ、首をくくって死んだ。顕宗は使主の行方を知らず、兄の億計王を誘って播磨国赤石郡へ向かい、ともに丹波小子と名乗り、縮見屯倉首のもとで働いた。吾田彦もここまで離れず、固く臣下の礼を守ったという。

古事記伝 巻四十一

本居宣長 謹んで著す

朝倉宮の巻・上

〔『古事記』本文〕大長谷若建命は長谷の朝倉宮にいて天下を治めた。天皇は大日下王の妹、若日下部王を妻とし、また都夫良意富美の娘、韓比売を妻として、御子の白髪命、次にその妹、若帯比売命の二人をもうけた。白髪太子の名を伝える御名代として白髪部を定め、また長谷部舎人と河瀬舎人を定めた。

「大長谷若建命」の「若建」という名は、ここで初めて出る。この天皇の後世の中国風の諡は、雄略天皇という。
「長谷」は『和名抄』の大和国城上郡長谷郷、読みは「はつせ」、である。『神名帳』の同郡にも長谷山口神社がある。遠飛鳥宮の段の軽太子の歌に「こもりくの、はつせの山の」、この天皇の段に「長谷の山口」、『日本書紀』継体巻の歌に「こもりくの、はつせの山」とある。『万葉集』では巻一の「こもりくの泊瀬山は……」を初め、各巻にたいへん多く、後世の歌にも多い。古今を通じて有名な土地である。
名の意味はまだ思いつかない。あるいは、大和の真ん中を流れるこの川の、初めの瀬という意味だろうか。川上はさらに遠いが、国中ではこの地が上流の瀬である。「長谷」と書くのは土地の様子によるのだろう。中古からは「はせ」ともいい、今はもっぱら「はせ」とだけいう。

「朝倉宮」。『日本書紀』に「十一月、壬子を朔とする甲子の日、天皇は役人に命じて泊瀬朝倉に壇を設け、即位し、そのままそこに宮を定めた」とある。『姓氏録』の秦忌寸の条には「……大泊瀬稚武天皇の治世……諸秦氏を使って宮のそばに八丈の大蔵を造り、その貢ぎ物を納めた。そこでその地を長谷朝倉宮と名づけた。この時、初めて大蔵の官員を置き、酒を長官とした」とある。これが宮の名の由来である。ただし『日本書紀』によると、もともとの地名のようにも思える。実際にはどうだったのだろう。
「朝倉」という地名はあちこちにある。中巻の玉垣宮の段で曙立王に与えた称号「倭は師木登美豊朝倉曙立王」の「朝倉」も地名か、それとも別の由来か。斉明天皇が西国で用いた仮の宮も朝倉橘広庭宮という。「朝」とはどういう意味だろう。熊野の高倉下の故事にちなんで祝っていうのか。なお考える必要がある。また『和名抄』に「校倉、あぜくら」とある。この名も「朝倉」が変化した同じ言葉だろうか。
この宮は、『帝王編年記』では「城上郡磐坂谷である」といい、『大和志』では「黒崎・岩坂の二村の間にある」という。

「大日下王」は前に出た。「若日下部王」も前に出た(伝三十五・八葉)。延佳本に「部」がないのは、前述のとおり、独断で削ったのだろう。安康天皇が大日下王のもとへ根臣を遣わし、この天皇のためにこの女王を妻に迎えようとしたことは、安康天皇の段に見える。
『日本書紀』履中巻に「次の妃、幡梭皇女は中蒂姫皇女を生んだ。七年、草香幡梭皇女を皇后に立てた」とあるのは、どうも理解できない。『古事記』には応神天皇の御子に幡日之若郎女がいるので、その人かとも思う。しかしその幡日之若郎女は、仁徳天皇の御子の伝承が混じったものだと、前に述べたとおりである。允恭天皇の御子には橘大郎女がいて、この若日下王も『日本書紀』の雄略巻では「別名橘姫」とあるから、これが混じったので、実は允恭天皇の御子の橘大郎女ではないか。あるいは中蒂姫皇女が大日下王の妃なので、その縁で混同されたのか。いずれにせよ、若日下王を履中天皇の皇后とする『日本書紀』の記事は伝承の混乱で、中蒂姫皇女の母である皇后は、別の女王だろう。
「都夫良意富美」「韓比売」は共に前に出た。『日本書紀』清寧巻には「元年春正月……葛城韓媛を尊んで皇太夫人とした」とある。

「白髪命」。普通「しらが」と濁るが、「か」は本来清音である。証拠があり、『万葉集』巻十七にも「しろかみ」を「之路髪」と書く。『日本書紀』清寧巻に「白髪武広国押稚日本根子天皇は大泊瀬幼武天皇の第三子で、母は葛城韓媛という。天皇は生まれながらに白髪であった……」とある。これが名の由来である。「若帯比売命」の名の意味に特に説明すべきことはない。
『日本書紀』には「元年春三月、庚戌を朔とする壬子の日、草香幡梭姫皇女、別名橘姫、を皇后とした。この月、三人の妃を立てた。第一の妃は葛城円大臣の娘、韓媛で、白髪武広国押稚日本根子天皇と稚足姫皇女、別名栲幡娘姫皇女、を生んだ。この皇女は伊勢大神の祠に仕えた。次に吉備上道臣の娘、稚媛があり、一本では吉備窪屋臣の娘という、二人の男子を生んだ。兄は磐城皇子、弟は星川稚宮皇子という。後の本文に出る。次に春日和珥臣深目の娘、童女君があり、春日大娘皇女、別名高橋皇女、を生んだ……」とある。稚媛については七年の箇所に「この年、吉備上道臣田狭は……」とある。
磐城皇子は、『古事記』の近飛鳥宮の段の石木王だろう。春日大娘皇女も、広高宮の段に「天皇は大長谷若建天皇の御子、春日大郎女を妻とし……」とあるのに、ここには記載が漏れている。

「白髪太子」。『日本書紀』に「二十二年春正月、己酉朔、白髪皇子を皇太子とした」とある。「御名代」は前に出た(伝三十五・十葉)。白髪部のことも、前の御名代の箇所で述べたとおりである。孝徳紀には白髪部連、天武紀には白髪部造などの姓も見える。『続日本紀』巻三十八の「白髪部の姓を真髪部に改めた」は、光仁天皇の名に触れるためである。『姓氏録』にも真髪部がある。
「長谷部舎人」は天皇自身の御名代である。『姓氏録』にも長谷部造という姓がある。『日本書紀』武烈巻に「天皇の先例に従って小泊瀬舎人を置き、御名に代わる呼び名とし、いつまでも忘れられないようにした」とあるのも、その天皇の御名代である。舎人については前に説明した(伝三十三・五十四葉)。
「河瀬舎人」。『日本書紀』に「十一年夏五月、近江国栗太郡が、白い鵜が谷上浜にいると報告した。このことによって部を定め、川瀬舎人を置いた」とある。世にまれな出来事なので、後世まで語り伝えさせるため、舎人の一部の名に付けて残したのだ。「河瀬」だけではその出来事との結びつきが遠いようだが、相応の理由があったのだろう。師は、川の魚を守る人をいう、としたが、それではここに記す理由も、舎人とする理由もない。天武紀にも川瀬舎人造という姓が見え、『姓氏録』には川瀬、『旧事紀』には川瀬造がある。

〔『古事記』本文〕この時、呉の人々が渡って来た。その人々を呉原に住まわせたので、その地を呉原と名づけた。

「此時」は、中巻の明宮の段の「此之御世……」などにならって読むべきである。「呉人」の呉は、中国内の国の名。王統は呉の泰伯から始まり、周代にも知られていた国である。漢の後に魏・呉・蜀の三国に分かれ、さらにその後、南朝・北朝に分かれた時代にも、南朝の国はかつての呉の地にあった。魏は漢の跡を継ぎ、北朝は魏の跡を継いだのである。雄略天皇の頃は南北朝時代で、呉とは称していなかったが、朝鮮諸国などでは古くからの呼び方を続け、北朝を漢、南朝を呉と呼び慣わした。
この南北朝の頃、日本の朝廷からたびたび使節を遣わして通交したことが中国の史書には記される。しかし、あれらは大きな混乱のある記事で、実際の日本朝廷の使節ではない。この点は私の『馭戎慨言』に詳しく論じた。中国の史書には日本から使節を出した記事だけが見え、中国から使節を遣わした記事は一つもない。
また『日本書紀』応神巻の三十七年・四十一年の記事は、雄略天皇の治世の出来事が混じり、応神天皇の出来事としても伝わったもので、実際には応神天皇の治世にそういう事はなかった。その理由は伝三十三・三十二葉の呉服の箇所で詳しく述べたので参照されたい。呉についてもそこで説明した。『日本書紀』に仁徳天皇五十八年「呉国が朝貢した」、また雄略天皇六年「呉国が使いを遣わして貢献した」とあるのも疑わしい。朝鮮諸国の人が偽って行ったのだろう、と私は考える。

今回渡って来た呉人も、『日本書紀』には「呉国使」とあるが、実際に南朝の国王が遣わした使節ではないだろう。例のように朝鮮諸国の人々などが計画して呉王の使節に仕立て、呉の人を遣わしたのだろう。これらも『馭戎慨言』で論じた。
「呉原」は、『日本書紀』に檜隈野とあるので、大和国高市郡である。今、栗原村というのは、「くれ」が「くり」に訛ったもので、この場所だろう。『神名帳』の同郡には呉津孫神社もあり、その社は右の栗原村にあるという。「安置」は一時滞在する間のこと。永くとどまって帰国しなかったというのではない。

『日本書紀』にはこうある。「八年春二月、身狭村主青と檜隈民使博徳を呉国への使いに遣わした。十年秋九月、身狭村主青は呉が献じた二羽の鵝を連れて筑紫へ着いた……。十二年夏四月、身狭村主青と檜隈民使博徳が呉へ出使した。十四年春正月、身狭村主たちは呉の使節と共に、呉が献じた手末才伎、漢織・呉織、衣縫の兄媛・弟媛らを連れ、住吉津に泊まった。この月、呉の客のため、磯歯津路を通る道を設け、呉坂と名づけた。三月、臣・連に命じて呉の使節を迎え、呉人を檜隈野に置いたので、呉原と名づけた。衣縫の兄媛を大三輪神に奉り、弟媛を漢衣縫部とした。漢織・呉織は、飛鳥衣縫部・伊勢衣縫の祖である」。
八年と十二年に二度使いを出したというのは、実際には一度だったものが、年代の異なる伝承が混じって二度と記されたのではないか。磯歯津路・呉坂については伝三十五・二十葉で、漢織・呉織については伝三十三・三十二・三十三葉で詳しく述べた。

〔『古事記』本文〕初め、皇后が日下にいた時、天皇は日下の直越道を通って河内へ出かけた。山に登って国中を見渡すと、屋根に堅魚木を載せた屋敷があった。天皇はその家について、「あの堅魚木を載せた屋敷は、誰の家か」と尋ねさせた。「志幾の大県主の家です」との答えだった。
天皇は「臣下の者が、自分の家を大君の宮に似せて造ったのか」といい、すぐ人を遣わして家を焼かせようとした。大県主は恐れおののき、頭を下げて申し上げた。「臣下の身でありながら、臣下らしく分別が及ばず、誤って造りました。まことに恐れ入ります」。そこで詫びの献上品として、白い犬に布をまとわせ鈴を付け、一族の腰佩という者に犬の綱を取らせて差し上げた。天皇は火を付けるのをやめさせた。
天皇は若日下部王のもとへ出かけ、その犬を贈り入れて伝えた。「これは今日、道中で手に入れた珍しい物だ。妻問いの贈り物として贈る」。若日下部王は人を介して申し上げた。「天皇が日に背を向けてこちらへお越しになるのは、たいへん恐れ多いことです。私の方から参上し、お仕えいたします」。そこで天皇は宮へ上り帰る途中、その山の坂の上に立ち、歌った。

〔『古事記』の歌〕日下部の、こちらの山と、畳薦の平群の山、そのそれぞれの側の、山あいに、盛んに茂り立つ、葉の広い熊樫。低い方には、入り組んで竹が生え、高い方には、立ち繁って竹が生える。その「いくみ竹」のように、今は交わって共寝をせず、その「たしみ竹」のように、今は確かには共寝をしない。それでも、またいつか交わって共寝をしよう、あの恋しい妻よ、ああ。
〔『古事記』本文〕天皇はこの歌を持たせ、使いを返した。

「大后」は若日下部王で、『日本書紀』の「元年春三月、草香幡梭姫皇女を皇后に立てた」という人である。「日下」は河内国河内郡で、今も日下村があり、生駒山の西にあたる。白檮原宮の段の「日下の蓼津」、玉垣宮の段の「日下の高津池」などは和泉国で、別の場所である。その理由は各箇所で述べた。
地名の意味は明らかでない。今「暗がり峠」ということから考えると、「くらさか」の意味だろうか。師は「ひくさか」の「ひ」を省いたとしたが、どうだろう。「日下」と書く理由も不明である。「はつせ」を長谷、「さきくさ」を三枝と書く類で、何か由来があるはずだ。地名が「暗い坂」の意味で、日が下がれば暗くなることから「日下」と書いたのだろうか。なお考える必要がある。師は「低坂」で、その「ひ」を「日」と書き、「く」を省き、「下る」という訓を借りて「坂」を「下」と書いたのかとしたが、たいへん無理がある。『日本書紀』は「草香」と書く。同書は地名などの文字を、古い書き方によらず新たに改めた例が多い。古くはみな「日下」と書いたのである。
『姓氏録』の日下部宿禰もこの地から出た。河内国にも日下連・日下部連などがある。兄の大日下王も、この皇后も、ここに住んだため名に付けたのである。「之時」の「之」を旧版本や別の一本などで「也」とするのは誤り。ここは真福寺本・延佳本・別の一本などに従った。

「日下之直越道」は、大和の平群郡から生駒山の内、南の方を越えて河内国に至り、若江郡を通って難波へ下る道である。今いう暗峠がこれである。この暗峠を『万葉集』の立田山小鞍の嶺とするのは誤りで、小鞍の嶺は闇野越のことだ。今の日下村はこの道沿いでなく、やや北にあるが、「くさか」の名はこの坂から出て、古くは坂のあたりも日下といったのだろう。暗峠の道は今も大坂へ下る道で、摂津国東生郡の深江という所を経て大坂へ至る。近道なので「直越」という。
『日本書紀』神武巻の「そこで引き返し、改めて東へ胆駒山を越え、中洲へ入ろうとした」というのもこの道である。次に「孔舎衛坂」とあることからすると、「くさか」はもともと「くさゑざか」の縮まった名なのかもしれない。
『万葉集』巻六に「草香山を越えた時、神社忌寸老麻呂が作った歌二首」として、「難波の方の潮の引いた穏やかな浜を、つぶさに見よう……」「直越のこの道から見て、押し照る難波の海と名づけたのだろう」という歌がある。二首とも日下山の坂道から見渡す様子を歌ったのである。巻八の草香山の歌にも「押し照る難波を過ぎ、うちなびく草香の山を、夕暮れに夜越えて来ると……」などとある。「直越」は同巻十二の「磐城山をまっすぐ越えておいでなさい」、巻十七の「塩路から直に越えて来ると」などにもある。

「幸行河内」は、若日下部王のいる日下へ天皇が行くこと。「山上」は日下山の上である。「望国内」は「くにみしせれば」と読む。高い所から国中を見渡すことを古く「国見」といった。『万葉集』巻一に「天の香具山、登り立ち国見をすれば」、また「高殿を高く知ろしめし、登り立ち国見をすれば」、巻三に「国見する筑波の山を」、巻十に「雨間を開けて国見もしようものを」など、ほかにもある。
「みしせれば」の「みし」は「見る」の尊敬形で、「見たまふ」を「みしたまふ」という類である。古語にはこの形が多い。「し」は過去を表す「し」でも、助詞の「し」でもない。「国見をなさると」という意味である。『万葉集』巻十九に「国見しせして」とある。

「堅魚」は、屋根の上の堅魚木である。まず魚の「かつを」について、『和名抄』には「『唐韻』に、鰹は大きな鯤という……。『漢語抄』に『かつを』という。式の文章では『堅魚』の二字を用いる」とあるが、中国の「鰹」はこれに当たらない。「かつを」は「かたうを」が縮まった名で、「堅魚」と書いた。古い書物はみなこの字を使う。後にこの二字を合わせ、日本で「鰹」という字を作ったのだろう。中国の「鰹」を当てたのではない。中国の鰹は鱧で、日本の堅魚とは大きく違う。
古く「堅魚」といったのは、この魚の肉を長く裂き、煮て乾かした、いわゆる鰹節である。『貞観儀式』『延喜式』などに多く見えるのは、みなこれだ。そのため「堅魚何斤」とあり、『儀式』には「堅魚一連」ともある。『和名抄』塩梅類の「本朝の式にいう堅魚の煎じ汁、かつをいろり」も、鰹節の煎じ汁である。硬いので「堅魚」といい、もとは生魚の名ではなかった。今でも海があってこの生魚がある国々では生の物を「かつを」といい、鰹節は鰹節と呼ぶが、京などでは普通「かつを」といえば鰹節のことである。

屋根の上に置く「かつをぎ」も、形が鰹節に似るための名である。「加棟木」「固木」などの意味だとか、鰹は水の物なので、その名を取って火を防ぐのだとか、さまざまな説があるが、みな誤りである。『貞観儀式』に「大嘗宮の正殿一棟……甍に五尺の堅魚木八枚を置き、搏風を付ける」とあり、『延喜式』大嘗祭にも同じようにある。「搏風」は千木で、『延喜式』では「高搏風」とある。『大神宮儀式帳』には「正殿一区……堅魚木十枚、長さ各七尺、直径一尺七寸。材木それぞれの端を金で飾る」とある。
後世には神の宮だけにあるが、上代はそうではない。この話から、天皇の御殿にもあったとわかる。王たちの宮にはどうだったかは不明である。神社にあるのは、神を天皇になぞらえて尊ぶことが多いので、いうまでもない。
大県主の家にこれを載せたのを咎めたことからすると、堅魚木は天皇の御殿だけに置き、臣民の家には置けない決まりだったのだろうか。あるいは臣民の家まで広く置く物だが、その造り方・置き方に差があり、ここは臣下の家の堅魚木とは違い、天皇の御殿に似た形だったため咎めたのか。もしそうなら、天皇の御殿の物は臣下の家の物と大きく形が違ったのだろう。この時代には天皇の宮なども次第に壮麗になり、古い形式を残しながらも、こうした物の造り方に違いが出ていたのだろう。

造り方を咎めたとすれば、本文の「上」は、普通でなく高く立派に造ったことをいい、「載せる」という語に重みがあるのか。それとも「上」は単に置くことで、「天皇の御殿に似せて造る」の方に、造り方の違いが表れるのか。もし臣民の家に置けない物なら「上」は単に置く意味であり、造り方の違いなら、この二通りの解釈がある。確実には決められない。
屋根にこれを置くのは、もともと風を防ぐために棟を押さえたのだという説もあり、それもありうる。ある人は、山城国愛宕郡の雲が畑という村では、今も民家の棟に「かつう木」があって風除けとし、田舎の草葺屋根の棟にある「烏おどり」という物も同じだという。この説はもっともである。
ただし、天皇の御殿に限り、臣民の家には置けない物なら、風除けではなく、もともと特別な由来があるのかもしれない。風除けなら、宮より簡素な臣民の家にこそ必要だからである。一方、造り方の違いなら、もとは風除けとして貴賤を問わず備えた物が、時代が移るにつれ、天皇の御殿などでは自然に飾りとなり、きわめて壮麗になったのだろう。

また、普通は「堅魚木」というのに、ここで「木」をいわず単に「堅魚」とするのは、この時代の言葉としては省略しすぎたようにも聞こえる。そこからもう一つ考えると、屋根に置くのはもともと風除けではなく、魚の名「かつを」を「勝つ雄」という意味に取りなし、鰹節の形代を造って載せたので、初めから単に「堅魚」といったのかもしれない。そうなら「堅魚木」は後に「木」を加えて呼んだ名だろう。その場合、天皇の御殿などの物が特に壮麗であるのも当然である。いずれも、さらによく考えて決めるべきことである。

「家」は屋敷全体をいう名、「舎屋」はその中に建つ建物である。日下山から志幾までは少し離れているが、この屋敷の屋根の堅魚木が特に立派で目立ったため、よく見えたのだろう。「其上」の「其」は「かの」と読み、「あの」の意味。「答白」の「白」は諸本で「曰」だが、ここは真福寺本に従った。
「志幾之大県主」の志幾は、『和名抄』の河内国志紀郡、読みは「しき」、である。志紀郷もある。この土地は中巻の倭建命の段にも出て、そこで説明した(伝二十九・二十四葉)。この大県主は、『姓氏録』河内国神別の、大県主という姓で天津彦根命の後裔とする氏だろう。「大県主」は中巻の伊邪河宮の段にも旦波大県主とあり、「大」を付ける例などはそこで述べた(伝二十二・四十三葉)。

一方、師木県主という氏には二流あり、一つは饒速日命の子孫、一つは神八井耳命の子孫である。前者については中巻の高岡宮の段、伝二十一・二葉で詳しく述べた。この二流のどちらかという可能性もあろうか。そうなら神八井耳命の子孫の方だろう。饒速日命の系統は大和の師木から出て、神八井耳命の系統はもともと河内の志幾から出たからである。
『姓氏録』河内国皇別の「志紀県主、多朝臣と同祖、神八井耳命の後裔」、また「志紀首、志紀県主と同祖……」がそれである。右京皇別の志紀首、和泉国皇別の志紀県主も同じ。『三代実録』巻六には「河内国志紀郡の人、志紀県主員成・同福主・同福依ら三人に宿禰の姓を与え、もとの所属を改めて左京職に属させた。神八井耳命の後裔で、多朝臣と同祖」とある。これら以外に『姓氏録』の大和国神別の志貴連、和泉国神別の志貴県主などは、饒速日命の子孫の方である。
『神名帳』の河内国志紀郡志貴県主神社は、二流のどちらの県主なのだろう。饒速日命の系統も、この河内の志幾に縁があることは伝二十一で述べた。この大県主の「大」も、大国造・大宿禰などの例があるので、右の志紀県主かもしれない。しかし『姓氏録』に別に大県主があるので、やはりそれだろうと思う。天津彦根命の子孫には、河内国に凡河内国造・額田部湯坐連・津夫江連などもあり、土地との縁もある。

「奴乎」の「奴」は、王に対する臣下をいう。次の「奴」も同じである。見下していったのではなく、臣を「やつこ」ということは前述したとおり。「奴」という字にとらわれてはならない。「乎」は「よ」というような語で、上巻の「愛しき我がなに妹の命よ」、穴穂宮の段の「わが妹よ」などにもある。
「似天皇之御舎而造」の「天皇」は「おほきみ」と読む。ここは諸王にまで及ぶのだろうか。漢字だけにとらわれてはならない。「天皇」と書くのは、その中の最高の者について書いたのだろう。天皇も諸王も共に「大君」と呼び、あらゆる事柄で差は少ない。一方、王と臣との差は大きく、住居も王のものは天皇と同じく「宮」、臣のものは「家」といった。そのため王の宮の造りも、天皇の宮と大きく違うはずはないからである。あるいは天皇に限るのか。どちらにしても「おほきみ」と読むべきである。
「似」は「にせつ」と読むべきようにも見えるが、似た状態についていっているので、やはり「につ」と読むのがよい。堅魚木を置くこと自体、臣下の家には許されないなら、それを置いたのが天皇の御殿に似ているのである。また造り方に差があるなら、造り方が似ているということである。この二つの意味は前に述べたとおり。

「稽首白」は「のみまをさく」と読む。上巻にもあり、そこで詳しく説明した(伝十七・五十一葉)。「奴有者」は「臣下であるから」の意味。「なれば」は「にあれば」が縮まったもので、「なり」は「にあり」である。「奴」は王に対する臣のことで、漢文でへりくだって「僕」というのとは違う。
「随奴」は「やつこながら」と読み、臣下という身分のままに、という意味。「随」は、天皇を「神ながら」と申し上げるのと同じで、『万葉集』巻二には「皇子ながら」ともある。「不覚而」は、王は高貴なのでそれに応じた分別もあるが、臣は身分が低いため、それなりに堅魚木のような身分の違いも理解せず、ということ。「甚畏」の「甚」を「其」とするのは誤りで、今は真福寺本に従った。
「能美之御幣物」の「のみ」の意味は、上巻の「稽首白」の箇所で述べた。「御幣物」は「ゐやしり」と読む。理由は中巻の訶志比宮の段の「名を変えた礼の品を献じる」の箇所で説明した(伝三十一・二十九葉)。穴穂宮の段の「妹のための礼物……」の箇所も参照されたい(伝四十・八葉)。「御」があるから「みてぐら」かとも思うが、やはりそうではないだろう。「御」は天皇に献じる品なので加えたのだろう。師は「みまひ」と読んだが、どうかと思う。『日本書紀』允恭巻の「玉田宿禰は罰を恐れ、馬一頭を吾襲に与えて礼幣とした」の「礼幣」も「ゐやしり」と読むべきである。ただし、この場合は「みまひ」でもよい。

「布繋白犬」は「白犬にぬのをかけて」と読む。「繋」は字書に「繋ぐこと」ともあるので「かけて」と読むべきである。これは犬をつなぐための布ではない。綱は別にあり、服を着せるように、布を犬の身にまとわせたのだろう。「布で犬を」と読むと意味が違ってしまう。「繋」を「つなぐ」と読んでも、「犬に布を」と読むべきで、「犬を」としてはならない。巻き付けて結び固めるため「繋」と書いたのだろう。この字にとらわれて、つなぎ止めた意味と取り違えないようにしたい。
『和名抄』には「『兼名苑』に、犬は一名を尨という。『爾雅集注』に、狗は犬の子という。和名は『ゑぬ』。また犬と同じ」とある。この書き方は理解しにくい。「犬」の下に和名を挙げず、「狗」の下だけに挙げるのはどうか。また古くから「いぬ」が正しいのに、それを置いて「ゑぬ」というのはどうか。これは狗の和名なのか。「また犬と同じ」も紛らわしい。
この献上した犬は、後に「奇物」とあるので、並の犬でなく、特別に優れた、いわゆる逸物だったのだろう。お詫びの品なのだから、そうあるはずである。「著鈴」。古くは物に鈴を付けることが多かった。中でも犬などに付けるのは今も行うが、たいへん古い習慣だったのである。

「族」は、『日本書紀』神代巻の訓注「宇我良(うがら)」に従って読む。この注によれば「うがら」「やがら」「はらがら」などはすべて「が」を濁る語で、「はらがら」は今も濁っていう。『万葉集』巻三の「親族兄弟」の「親族」は、今の本は「やから」と読むが、「うがら」と読むべきである。「腰佩」は、『続日本紀』巻二十五にも船連腰佩という同名の人がいる。「若日下部王」は、真福寺本・延佳本に「部」がない。
「賜入」の「入」は、「奉る」を「奉入」と書く場合の「入」と同じように思える。『万葉集』巻二の「奉入歌」、『祝詞式』の「斎内親王を奉入する時」、天長五年の宣命の「大神の御杖代として鎮め奉り入れた」、『三代実録』巻三十の「進め入る」などがある。「奉出」とも書き、その例は上巻、伝十六・二十六葉に示した。
この「入」を別に読まなくてもよいかとも思う。しかし女王のもとへ贈るので、少し敬意を表す語のように聞こえるから、字のままに読んだ。今の「申し入れる」、また「進入」「贈入」などと書く「入」も、少し敬意のある言葉で同じ意味に思える。
さらに次の「令詔」「令奏」の「令」から考えると、この時天皇はまだ女王の宮に入らず外にいたため、中へ入れる意味でもあろう。右の「奉入」にも入れる意味はある。どちらにしても「いれ」と読むべきで、「たまはり」は誤りである。「たまはる」はいただく側の言葉なので、与える側と受ける側を取り違えることになる。

「奇物」は「あやしき物」「くすしき物」とも読めるが、師の「めづらしきもの」がよいと思う。『霊異記』にも「奇、めづらしく。また、あやしきという」とある。この言葉は『日本書紀』神功巻の「皇后は『珍しい物である』といった。希見は『めづらし』という」、履中巻の「希有」、崇峻巻の「ここに万の犬があった……この犬は世に聞くことのまれな犬だった」にもある。「万」は人名である。『万葉集』巻八の「めづらしみ」を「希将見」と書く例があり、巻十二・二十丁、巻十一・二十四丁にも同じ書き方がある。巻十二には「目頰志久」ともある。字は違っても意味は「希見」と全く同じである。
「都麻杼比之物」。諸本は「麻」を「摩」と書くが、今は真福寺本に従った。どちらでもよいが、用例の多い方に従ったのである。『万葉集』巻三に「しつはたの帯を解き替え、仮屋を建てて妻問いをしたのだろう」、巻四に「婚問に」、巻十六に「妻問ふと」、巻十八に「息長の娘たちの妻問いの夜に」、巻十九に「たまきはる命も捨てて、争って妻問いをした」などがある。『冠辞考』の「ふせやたて」の説明はよくない。仮屋は妻問いのために建てるのである。「物」は、妻に迎えようとして贈る品のこと。

「令奏」は、この時天皇がまだ宮の中へ入らず外にいるので、人を出して申し上げさせるということ。それで「令」という。前の「令詔」も同じである。あるいは宮中には入っていても、まだ顔を合わせず、別の場所にいたのかもしれない。それでも「令」の意味は同じである。
「背日」は「ひにそむきつ」と読む。「そむく」は背を向けること。東の大和から西の河内へ出かけるのは、東から昇る太陽を背にすることをいう。中巻の白檮原宮の段の「日に向かって戦うのはよくない……日を背に負って撃つ」と同じ類だが、意味は裏表になる。あちらは敵と戦うため日を背に受け持つ意味だとその箇所で述べたが、こちらは日に背き違う意味だからである。太陽を後ろにする点は同じでも、事柄によってこのように吉とも凶ともなる。
「己直参上」の「直」は「仕奉」に係り、「参上」に係るのではない。天皇が河内へ出かけず都の宮にいたままで妻に迎えられるよう、私が参上して、そのままお仕えします、という意味である。この間に「弁能誰知能」の五字がある本は誤り。次の歌の初めの二句の文字が混じり、ここにも入ったのだ。「誰」はさらに「許」を誤った字である。

「還上坐於宮」の宮は、大和の宮である。歌も合わせてこの段を考えると、この女王のもとへ通うのは、これが初めてだったのだろう。この時は右のように恐れ、契りを結ばず、むなしく帰ったのである。日に背を向けて行くことを深く恐れたのは、婚姻の初めだったためだ。何でもなく西へ行くことを恐れるはずはないし、妻問いだからといって後々までいつも同じように慎むべきものでもない。
この天皇はあれほど勇猛で荒々しい心なのに、女王の諫めに従って帰ったことを、よく考えるべきである。古人が日に背くことをいかに恐れたか、また婚姻の始めをどれほど重く慎んだかは、伊邪那岐・伊邪那美の二柱の大神が初めて交わった時なども合わせて考えると、たいへん厳しいものだった。軽く見過ごしてはならない。「其山」は日下山、「坂上」は直越道の坂である。

「久佐加辨能」は「日下部の」である。この歌から、日下という地名を日下部ともいったとわかる。もともと日下部は、日下に住むことから付いた部の名だった。その部が住んでいるので、逆に土地も日下部といったのである。日下部がここに住んだことは、中巻の伊邪河宮の段の日下部連の箇所で述べた(伝二十二)。
「許知能夜麻登」は「こちらの山と」。この「と」は次の「平群の山と」に続く。「多々美許母、幣具理能夜麻能」の二句は、すでに中巻の倭建命の歌にもある(伝二十八・四十七・四十八葉)。大和国平群郡の山である。

「許知碁知能」は「こちらこちらの」である。後の「こ」を濁るのは重複するからだ。「あちらこちら」をなぜ「こちらこちら」というかといえば、こちらから「あちら」という場所も、そちらからは「こちら」になるため、こちら側の「こちら」と、あちら側の「こちら」なのである。これは荒木田久老が『万葉集』の歌について述べた説で、まさにそのとおりである。昔からみな「こ」と「を」が通じたとして、単に「あれこれ」という語と理解しているのは精密でない。それでは彼と此とが混ざり、区別がなくなる。「おのおの」と同じで、この語は「おの、おの」、すなわち自分の「おの」と他人の「おの」をいうのである。
『万葉集』巻二の「槻の木の、こちらこちらの枝の」、また「枝数の多い槻の木が、こちらこちらに枝を差しているように」、巻三の「なまよみの甲斐の国と、うち寄する駿河の国と、それぞれの側にある国の真ん中から立つ富士の高嶺は」もこの意味。久老は、甲斐国の「こちら」と駿河国の「こちら」、それぞれのこちらだと説明する。巻九の「白雲の立田山を……こちらこちらの花の盛りに」なども、みな同じである。
この歌では、こちらの日下部の山と、あちらの平群の山の、それぞれの「こちら」である。日下山の内のあちらこちらと、平群山の内のあちらこちら、各々の山の各所かとも思うが、やはりそうではないだろう。

「夜麻能賀比尓」は「山の峡に」。ここは「賀」でなく必ず「加」のはずである。『古事記』は原則として清濁の仮名が混じらない。後人が、賀・加などは無造作に混用していると思って書き誤ったのだろう。『和名抄』には「『考声切韻』に、峡は山あいの狭い所。俗に『山のかひ』という」とある。
「多知邪加由流」は「立ち栄ゆる」、盛んに茂り立つこと。「さ」を濁るのは古い音便で、古語にはこの類が多い。『日本書紀』仁徳巻の皇后の歌にも「川の曲がりのほとりに盛んに茂る、多くの葉を付けた木は(河隈に、立ち栄ゆる、百足らず、八十葉の木は)」とある。「波毘呂久麻加斯」は「葉広熊白檮」で、中巻の玉垣宮の段に出た(伝二十五・二十葉)。
「母登尓波」は「本には」で、下の方をいう。契沖は、後の「すゑへ」に合わせれば「もと」の下にも「へ」の字があって「もとへには」だろうとしたが、そうではない。同じことを二度いう時、少し変えていうのは古語の常である。

「伊久美陀気淤斐」の「い」は「いり」の「り」を省いたもの。「くみ」は、師によれば「くまかし」の「くま」と同じで、葉が繁るので「こもり竹」というのを縮めて「くみ竹」という。この説は『冠辞考』の「さす竹」の条にある。ただしそこで「はたすすき、くめ」を例に引くのは合わない。「はたすすき」は第四句の「みほ」に係り、「御穂」の意味だからだ。「い」を発語とする説もどうだろう。発語の「い」は動詞などの用言に限られ、名詞の頭に置く例はない。「くみ」自体はもと用言でも、「くみ竹」となれば体言なので、発語の「い」は付かない。
別に考えると、物のあちらとこちらが一つに交わる意味かもしれない。「組」という名も糸を交ぜ合わせた意味である。そうなら「いくみ竹」は葉が茂り、互いに入り交じり合うことだろう。普通にも、物事が複雑に交じるのを「入り組む」というのと同じだ。契沖が「いくみ竹」は竹の種類の名だとしたのは誤りで、一種の竹の名ではなく、ただ茂ることをいう。「淤斐」は生えること。『日本書紀』継体巻の歌にも「いくみ竹、よき竹」とある。

「須惠幣尓波」は「末方には」で、上の方をいう。「へ」は清音で、真福寺本には「に」がない。この「本末」は山あいの下の方・上の方であり、熊樫の根元・梢ではない。理由は後で述べる。
「多斯美陀気淤斐」は、師によれば「立ち繁り竹生い」で、その説は『冠辞考』の「さす竹」の条にある。「立つ」は生い立つ様子をいい、『万葉集』巻一にも「春山と、しみさび立てる」とある。「立ち栄ゆる」の「立ち」も同じである。契沖が「たしみ竹」を竹の種類の名としたのは誤りだ。前の「いくみ竹」とこれとは二種類でなく、どちらも普通の竹の様子である。一つの物を二つに分けていう例は古歌に多い。『万葉集』巻二の「秋山の、したへる妹、なよ竹の、とをよる子ら」の類で、これも二人でなく、一人をこういったのである。
繰り返す「伊久美陀気」について。前の「いくみ竹生い」は、この句をいうための序であり、この句はさらに次の句をいうための序である。

「伊久美波泥受」は、「美」の下に「陀」がある本もあるが、前の句に引かれて紛れ込んだものだ。今は真福寺本・延佳本に従った。「いくみ」の意味は前と同じ。師の説では、こもって寝ることで、私のもう一つの考えでは、夫婦が一つに交わって寝ることである。どちらでも「い」は入る意味。こもるなら囲いの中へ入り、交わるなら夫婦が互いに身を交えて寝る。「ねず」は寝ない、である。
契沖は「『日本書紀』神代巻では『相与』を『くみど』と読む。『い』は発語で、『だ』が『ど』と通じるなら、『いくみだはねず』は『相与は寝ず』か。あるいは『だ』が余計な字で、『くみどは』は『相与て』か」とした。大まかには違わないが、言葉の細かな意味が違う。上巻の「くみどに……」の箇所も参照されたい(伝四・三十三葉)。
「多斯美陀気」が序となる理由は「伊久美陀気」と同じ。「多斯尓波韋泥受」は、契沖が「確かには連れて寝ない」としたとおりである。遠飛鳥宮の段の軽太子の歌の「たしたしに、ゐねてむ後は」の箇所で述べたので参照されたい(伝三十九・二十七葉)。
「能知母久美泥牟」は「後も、くみ寝む」。共寝の意味は前述した。今回は会えずむなしく帰っても、また後で思いを遂げよう、というのである。「後も」は、今だけでなく後もという意味ではなく、普通にいう「もう一度」の意味だ。

この歌は、ここまでの説明だと二つの竹だけに役割があり、「葉広熊樫」は不要のようにも見える。「いくみ竹」は「いくみ」を、「たしみ竹」は「たしに」をいうためなのに、樫には後を受ける言葉がないからである。しかし、よく考えるとそうではない。樫も葉が茂って入り交じりながら立つ点は竹と同じなので、「いくみはねず」「たしに」は竹だけでなく、意味の上では樫からも受けている。また「山の峡に立ち栄ゆる」も、樫だけでなく竹に係る。
全体を普通にいえば、山あいの下から上に生え、盛んに繁り、入り組んだ樫と竹、ということである。ところが樫を離して別にいい、山あいと上下の位置も別にいうので、言葉のつながりが確かでないように見える。だが、このように言葉を入り交じらせ、ゆるやかにつなぐのも歌の味わいで、古歌にも後世の歌にも例が多い。注意しなければ取り違える。
師が「熊樫を詠んだのは、山の上下に竹が生えることをいうために、まず中の峡にある物をいっただけ」としたのは、右の意味を理解しなかったための無理な説である。

「曾能淤母比豆麻」は、あの恋しい妻、ということ。「阿波礼」は「ああ、いとしい」という感動の言葉である。遠飛鳥宮の段の軽太子の歌にも「思ひ妻、あはれ」とある。
「令持此歌而」は、この治世の頃にはすでに歌を文字に書いて贈ることもあったので、これもそうなのか。あるいは師のいうように、「御言持ち」という類で、歌を承って行き、口頭で伝えることなのかもしれない。書いた物を持つのではないという師の説も、ありうる。言づてをすることも「持つ」といえる。上巻の「歌を贈る」も神代のことなので、口伝えである。
「返使」には二つの解釈がある。一つは「かへしつかはしき」と読み、天皇の使いを日下山から女王のもとへ遣わすこと。今出て来た方へ遣わすので「返」という。もう一つは「つかひをかへしたまひき」と読み、女王が天皇へ遣わした使いを返すこと。
後の説では、この時天皇はまだ女王の宮まで行かず、日下山を越えたあたりから、妻問いの意向を伝えた。それへの返事として、女王が天皇のいる所へ使いを出し、日に背いてお越しになるのは……と申し上げさせた。その使いに歌を持たせて返したのである。この解釈によるなら、それ以前の出来事もそのように理解すべきである。

〔『古事記』本文〕またある時、天皇が遊びに出かけ、美和川に着くと、川辺で衣を洗う少女がいた。容姿がたいへん美しかった。天皇が「お前は誰の子か」と尋ねると、「私の名は引田部の赤猪子です」と答え申し上げた。天皇は「誰とも結婚せずにいなさい。近いうちに呼び寄せよう」と伝え、宮へ帰った。
赤猪子は天皇のお召しをひたすら待ち、八十年が過ぎた。赤猪子は思った。「お召しを待つうちに長い年月が過ぎ、姿もやせ衰え、もう何の望みもない。それでも、待ち続けた気持ちを明かさなければ、胸のふさがる思いに耐えられない」。そして、たくさんの贈り物を持たせ、参上して献じた。
ところが天皇は、以前に言いつけたことをすっかり忘れ、「お前はどこの老女か。何のために来たのか」と尋ねた。赤猪子は答えた。「あの年、あの月、天皇のお言葉をいただき、今日までお召しをお待ちして八十年が過ぎました。今はすっかり年老い、もう何の望みもございません。ただ自分の思いを申し上げようと、参ったのでございます」。
天皇は大いに驚いた。「私は昔のことをすっかり忘れていた。それなのにお前は思いを守ってお召しを待ち、若い盛りをむなしく過ごした。なんといたわしいことだ」。心の中では赤猪子と結ばれ、その思いに報いたいと思ったが、ひどく年老いていることがためらわれ、結ばれることができず、歌を与えた。

〔天皇の歌〕神の社の、斎きまつる樫の木よ、樫の木よ。何とためらわれることか、樫原の乙女よ。

〔天皇の歌〕引田の、若い栗の林、その「若い」のように、あなたが若いうちに、共寝をしていればよかったものを。年老いてしまったことだなあ。

〔『古事記』本文〕赤猪子の涙は、着ていた、赤い土で染めた袖をすっかり濡らした。天皇の歌に答えて歌った。

〔赤猪子の歌〕神の社に、美しい垣を築き、築き終えて余らせたもの。それと同じく、取り残された私は、いったい誰に頼ればよいのでしょう、神の宮人よ。

〔赤猪子の歌〕日下江の、入り江の蓮、花咲く蓮。その盛りのように、身の盛りにある人は、なんとうらやましいことでしょう。

〔『古事記』本文〕天皇はこの老女に多くの褒美を与え、帰らせた。この四首は志都歌である。

「遊行」は「あそばしつつ」と読む。中巻の白檮原宮の段の「七人の乙女が高佐士野に遊びに出かけた」という類である。「美和河」は初瀬川の流れ。美和については白檮原宮の段(伝二十)・水垣宮の段(伝二十三)に出た。『万葉集』巻十に「夕暮れごとに川蛙が鳴く、三輪川の清い瀬の音を聞くのもよい」とある。「其容姿甚麗」の読みは、白檮原宮の段で述べた(伝二十・十四葉)。
「己名……」。上巻で邇邇芸命が木花佐久夜毘売命に「誰の娘か」と尋ねた時は、「大山津見神の娘、名は……」と答え、中巻で応神天皇が宮主矢河枝比売に「お前は誰の子か」と尋ねた時も、「丸邇比布礼能意富美の娘、名は……」と答えている。ここは自分の名だけで「誰々の娘」といわないから、伝承の中で父の名が抜けたのだろう。「誰の子か」とあれば、必ず父の名を答えるものだからである。

「引田部」は、天皇の歌の「比気多能」に従って「ひけたべ」と読む。『和名抄』の讃岐国大内郡引田郷も「ひけた」と記す。『神名帳』の大和国城上郡に岐田神社があり、この土地に由来する姓だろう。佐渡国雑太郡にも引田部神社がある。
『日本書紀』天武巻の三輪引田君難波麻呂、持統巻の引田朝臣広目・引田朝臣少麻呂なども、この姓だろうか。『三代実録』巻五十に「大神朝臣良臣……大神引田朝臣らは、遠祖は同じでも分流がそれぞれ異なり……」とある。この大神引田朝臣は三輪引田君のことだろう。これによれば、大神朝臣の分流である。大神朝臣については伝二十三・五十三葉を参照されたい。「赤猪子」は、赤い猪に縁があって付けた名だろう。

「不嫁夫」は「とつがずてあれ」と読む。鎮火祭の祝詞に「夫婦二柱が結ばれて」とある。「嫁継」は必ず「とつぎ」と読むべきである。『和名抄』の鶺鴒の項には「『日本紀私記』に『とつぎをしへどり』という」とあり、『日本書紀』神代巻の「交道」、敏達巻・孝徳巻の「嫁」、また「女自ら人に適く」などもこの言葉である。「とつぐ」は漢文訓読の言葉のように思えるが、そうではなく古語である。古語が漢文訓読に残った、この類の例は多い。
師はここを「つましあらずは」と読んだが、その意味ではない。「結婚せず、私が呼ぶのを待ちなさい」というので、「夫がいなければ呼ぼう」というのではない。「童女」とあるとおり、まだ幼い女らしい。
「今将喚」の「今」は、「今帰って来よう」などという「今」で、やがて、追って、近いうちに、という意味。この時すぐ妻とせずにこういったのは、まだ少女だったためである。「天皇之命」は、約束どおり呼び寄せる命令のことで、後の「命」も同じである。

「仰待」は、仰ぎ望んで待つこと。『万葉集』の歌に多い「高々に待つ」もこの意味で、次に同じことを「望」と書くのも同じだ。今「首を長くして待つ」というのも、仰ぐ意味で共通する。「望」も、師が「あふぎまつる」と読んだのがよい。
「多年」は「ここだくのとし」と読む。大祓の詞に「ここだくの罪を」とあり、『万葉集』巻四の「ここだく待てど」、巻五・巻十七の「ここだ」、巻十四の「ここだくも」、巻十八の「ここだくに」など、各巻に「幾許」と書く例が多い。この語の例は、中巻の白檮原宮の段の歌の「こきしこく」の箇所でも詳しく述べた(伝十九・十八葉)。
「姿体」は「かほかたち」と読む。二字を単に「かほ」とも読めるが、後に「容姿既耆」もあるので、「かたち」という語も含むのがよいと思う。「痩萎」は「やさかみかじけてあれば」と読む。「かじけ」の「じ」の仮名が濁るかは明確でないが、「しげ」という語に近いので、ひとまず「自」と書いた。『日本書紀』垂仁巻の「渟名城稚姫命はすでに全身がやせ衰え、祭ることができない」、天智巻の「憂い、やつれることが甚だしい」などによった。

「無所恃」は、呼び寄せてもらえる見込みがないこと。「不忍於悒」は「いぶせくてえあらじ」と読む。「悒」を「いぶせく」と読む理由や、ほかの読みうる語については、中巻の明宮の段の「無悒」で詳しく述べた(伝三十二・十九葉)。「不忍」は「えあらじ」と読む。「たへじ」などでは、何となく漢文訓読に近く、古語とも思われない。『万葉集』巻四の「黙ってはいられないので」などと同じ意味だからである。「じ」は「ず」でもよいが、前に「以為」、つまり「思った」とあるので「じ」が合う。
「百取之机代物」は上巻にある(伝十六)。「参出」は皇宮へ参上すること。「所命」は「のりたまひし」と読む。「忘」は、『万葉集』巻五に「わすらしなむか」とある。「誰」は『日本書紀』継体巻の歌に「たれややひとも」とある。「やや」は助詞で、誰である人も、という意味。「老女」は「おみな」と読み、上巻でも述べた(伝九・十八葉)。
「何由以」は、『万葉集』巻二十に「なにすれぞ」とあるのに従って読んだ。今も漢文で「なんすれぞ」と読むのは、この古語の名残である。「其年其月」の「其」は両方とも「ある、あの」という、特定の年や月を指す。「被」は『万葉集』巻二十に「かしこきや、みことかがふり」とあり、「が」は濁り「ふ」は清む。同巻五にも「かがふり」と書く。「至于今日」は諸本に「于」がないが、今は真福寺本に従った。

「参出耳」の「耳」は、その前を「……としてこそ」と読み、その「こそ」にあてる。この点は伝の初巻に詳しく述べた。「としてこそ」は「とてこそ」と同じで、古語では「とて」とはいわない。「驚」の下には「詔」か「曰」などが必ずあるはずで、脱落したのだろう。
「守志」は「みさをに」と読む。「操」は字書でも、守ること、思いを保つこと、と注している。『霊異記』に「風、みさを」、また「気調、みさを」とある。『拾遺集』雑下には「三つ瀬川を渡るみさおもなかった……」とあり、竿と操を掛けた歌である。「盛年」は師の「みのさかり」に従った。この点は次の天皇の歌の箇所でも述べよう。
「愛悲」は「いとほし」と読む。「愛」を諸本で「受」とするのは誤り。延佳本の「憂」は独断で改めたのだろう。今は真福寺本に従った。『続日本紀』巻二十四の宣命に「恥ずかしく、いたわしく思う」とある。これにならえば、同巻四の宣命などの「労弥」も「いとほしみ」と読むべきである。物語にも多い言葉で、今の「いとしい」もこの言葉である。

「心裏欲婚」は「めさまくほしくおもほせども」と読む。「心裏」を前の句に付けるのはよくない。この種の文では一句を四字で書く例が多いからである。ここでの「欲」は、普通に願い欲しがるのとは意味が違う。思いを守って召しを待ち、結婚もせず、むなしく老いたことをいたわしく思い、老女のために一度は結ばれ、その心を慰めてやりたいと思ったのである。
「極老」は「いたくおいぬる」と読む。『万葉集』巻十一で「極太」を「いたく」と読む所はあるが、その読みも確実ではない。師の「おいきはれる」はどうだろう。「おいはてたる」と読めるかとも思うが、このような「はて」の用例は古語ではまだ見ない。巻九に「船はきはまるだろう」などはあるが、言い方が違う。「憚」は、歌の「ゆゆしきかも」の意味である。

「美母呂能」は「御室の」で、一般に神社をいう。「みむろ」とも「みもろ」ともいう。また三輪山をいうことも多いので、その意味でもよい。引田部は三輪に縁があるからである。御室についてはすでに上巻で説明した(伝十二・二十七葉)。
「伊都加斯賀母登」は「斎かれた樫の木」。この「つ」は濁音なので「豆」と書くべきなのに、「都」とするのは不審である。「いつ」は忌み慎んで斎きまつる意味。『万葉集』巻十一の「天飛ぶや、軽の社の斎槻」も同類で、『日本書紀』はみな「厳」と書く。「もと」は単にその木のことであるという師の説は正しい。木を「本」という例は多く、普通「木の下」を「木の本」というのとは違う。大祓詞の「彼方の繁木本」なども同じ。
『日本書紀』垂仁巻に「一説には……天照大神を厳橿の本に鎮座させて祭った」とあり、『倭姫命世記』では大和国の伊豆加志本宮とする。しかし別の地名ではなく、斎かれた樫の木の下だろう。この歌の「伊都」に関して濁音を考えると、『万葉集』巻十一に「わが背子が、斎き立てかねる、いつかしがもと」とある。「五」の字なので不審にも見えるが、巻二十には「五手船」を二か所で「伊豆手船」と書くから、「五」は古く「づ」と濁って読んだのだろう。なお、今挙げた二例の「厳橿が本」は木の下をいい、この歌とは違うので混同してはならない。
「加斯賀母登」は「樫の木」で、前の斎かれた樫を重ねていう、古歌の例である。

「由由斯伎加母」は「忌みはばかられることだなあ」の意味。初めの三句は、この句をいうための序で、神社の木を恐れ慎む意味でつながる。『万葉集』巻四の「神の木にも手を触れるというのに」、また「うま酒を、三輪の神職が斎く杉に手を触れた罪のためか、あなたに会いがたい」、巻七の「三輪の神職が鎮め斎く杉原を、薪に切る、なんと危うい国の手斧を取ってしまった」なども、神木を恐れ慎む意味である。
この天皇の歌は、先に「そのひどい老いをはばかって」とあったように、ひどく老いた容貌がためらわれ、結ばれることに耐えられないという意味である。契沖は、志を固く守ったことをほめた歌とした。それも一理あるが、それでは「ゆゆし」の古い使い方でなく、後世の使い方となる。また末尾の「樫原乙女」とも合いにくい。理由は次に述べる。
古く「ゆゆし」は、忌みはばかられることをいった。恐れてはばかる場合があり、この歌の序の神木がそれである。嫌わしくてためらう場合もあり、この歌の老いた容貌がそれで、「忌々しい」もこちらである。この二つから転じて、後には善悪を問わず、程度の甚だしいことにも使った。「ゆゆしい大事」など、ほめても悪くいっても用いるのはその意味だ。「いみし」と「ゆゆしき」も、文字・言葉・意味が通じ、同じように聞こえる。
『万葉集』巻二の「……ゆゆしきかも」、巻三の「言うのも忌みはばかられることよ」、巻四の「独り寝をして、言葉に出していうことさえはばかって」、巻十二の「絶えた紐を、忌まわしいと」、巻六の「いうのもゆゆしくあるが」、また「心に掛けるのも、ゆゆしく恐れ多い」、巻十の「ゆゆしいほど、私は嘆いていることだ」、巻十五の「ゆゆしくも君に恋い続けることだ」、巻十七の「言葉に出していうのは、ゆゆしくて」などがある。

「加志波良袁登売」は「樫原の乙女」。「樫原」は前の斎かれた樫が生える所をいい、歌の意味は、ひどく老いた容貌が忌みはばかられ、その点で斎かれた樫のような乙女よ、というのである。
契沖のように「ゆゆしきかも」を、志を固く守ったことへの称賛とすると、この句に合わない。序の樫を受けて直接「樫原の乙女」というのは、その樫になぞらえ、樫のような乙女という意味だからである。もし称賛なら、「ゆゆし」を称賛の意味に用いるか、樫の葉が色を変えず常緑であることなどをほめるのであってこそ、たとえて樫原の乙女といえる。だが樫を「ゆゆし」というのは、恐れて慎む意味である。それになぞらえたまま、ほめて「樫原の乙女」とは、どうしていえよう。序のつながりと歌の本意とが違うことは普通にあるが、ここは直接「樫原の乙女」で結ぶので、序と意味が同じでなければならない。
老女をあえて「乙女」というのは、妻として迎えたいと思うことに関わる歌だからである。

「比気多能」は「引田の」。「和加久流須婆良」は「若栗栖原」で、次の「若く間」をいうための序である。この老女の里、引田に栗林があったので詠んだのだろう。栗の木を多く植え育てた土地を栗栖原といい、各地の地名にも多い。ただ「栖」の意味や、この木だけに用いる理由は、まだ思いつかない。他の木では何々原・何々園・何々生などというが、何々栖の例は覚えがない。「御栖」というものはあり、田原御栖・丹波御栖などが見える。
「和加久間尓」。契沖の『厚顔抄』で「久」を「加」とするのは、『万葉集』によって改めたのだろう。前の「加」と続けて「加加」とあったのを「加久」に誤った可能性もあるが、諸本すべて「久」なので、今は本文のままとした。契沖は『万葉集』巻十六の「射られた鹿の跡をたどる川辺の若草、そのように身が若かった時、一緒に寝たあの子よ」を引き、若い時に、などの意味かとした。同歌の「和草」は「和」の下に「加」が落ちたのか。いずれにしても若草だろう。「く」と「か」は通じる音なので、『万葉集』の「若かへ」と同じ語らしいが、その語そのものの意味はまだ考えつかない。師は「く」は「かる」の縮約、「ま」は「方」で様子と同じ、「若い様子に」としたが、「かる」の縮約というのはどうか。
「間」は「いにしへま」「むかしま」などの「ま」だろう。そうすれば、赤猪子が若かった間に、という意味らしい。『日本書紀』斉明巻の歌にも「猪鹿をつなぐ川辺の若草のように、若くあったが……」とある。「韋泥弖麻斯母能」は「共寝をしていればよかったものを」。「淤伊爾祁流加母」は「年老いてしまったことだなあ」である。

「赤猪子之泣涙」は、意味はわかるが「之」の語が落ち着かない。「赤猪子泣而涙……」、赤猪子が泣いて、その涙が……などとあるべき所である。「所服」は「けせる」と読む。中巻の倭建命の歌の「わがけせる、おすひの裾に」を参照されたい(伝二十八・九葉)。
「丹揩」。摺り染めの衣全般については、高津宮の段の「青摺衣」で詳しく述べた(伝三十六・四十葉)。「揩」の字もそこで説明した。「丹揩」は赤土や黄土で摺り染めたもの。『万葉集』では黄土も赤土も「はに」と読み、『和名抄』も「埴、和名はに」とある。「はに」は色が美しく映えることからの名で、光映土の意味だろうか。『日本書紀』神代巻には「赭」もあり、その「そほ」は赤いことをいう。
色の美しい土で衣を摺ることから、『万葉集』巻一の「岸の埴生で、衣を美しく染めてあげたかったのに」、巻六の「住吉の岸の黄土の色に染まって行きたい」などと歌った。「にほふ」は黄土に触れ、衣にその色が移ることをいう。巻十の「わざわざ衣を摺り染めはしない。女郎花の咲く野の萩に染まっていよう」、巻十五の「秋萩に染められる私の裳……」などの「にほふ」も同じである。土で衣を染めることがあったので、このようにも歌ったのである。
「悉湿」は、師の「とほりてぬれぬ」がよい。『万葉集』巻二に「敷妙の衣の袖は通って濡れた」、巻十五に「わが袖は、袂まで通って濡れようとも」とある。「而歌」の二字は真福寺本にない。脱落したのだろうか。

「美母呂尓」は「御室に」。「都久夜多麻加岐」は「築くや玉垣」で、「玉」は美称、「か」は清音で濁ってはならない。「築く」のは土で造った垣で、今いう築地である。「ついぢ」は「築土」のこと。古くは神社にも土を築いた垣があったのだろう。
ここには二つの解釈がある。一つは神の社の周囲に垣を築くこと。もう一つは、垣を築いて社の境域を定めること。後なら「御室に」は、御室にするために、の意味になる。「都岐阿麻斯」は、築いて余らせること。初めの解釈なら、垣を築き終えて土が余る意味である。契沖が、玉垣を築きかけてやめ、築き残した、とし、師もまだ築き終わらない意味としたのは、どちらも「余す」に合わない。後の解釈なら、必要より広く垣を築き、その内側の区域が無用に余ることになる。

「多尓加母余良牟」は「誰に頼ればよいのだろう」。「誰」を「た」とだけいうのは聞き慣れなくても、「たが」というのと同じである。「吾」を「わ」、「己」を「おの」、「其」を「そ」、「此」を「こ」というのと同じ型だ。契沖が「たれ」の下を省いたとするのは精密でない。何となく省略した例ではないからである。
垣を築く比喩の側で考えると、初めの解釈なら、築き終わって余った土を何にしよう、神の垣の材料なのでほかには使えない、という意味。後の解釈なら、神の社のために垣で囲んだ中の、無用に余った場所を何にしよう、という意味である。しかし「誰」というのは、歌の本意を直接述べた言葉。天皇が妻に迎えると約束したために、神の社用の材料のように他の用途へ回れず、年老いて、無用に余った物のようになった身は、もう誰に頼ればよいのか、頼る先がない、という意味なのだ。
物にたとえた古歌は、たとえる物についての言葉と、歌の思いを直接いう言葉を縫い合わせることが、『万葉集』にも多い。この例を知らないと、古い比喩の歌で言葉に迷う。この歌も比喩だけなら「何にしよう」だが、「誰に」「頼ろう」は本意の側の語なのである。
契沖が、不実な心を神が知った後は頼る先がないことのたとえか、としたのは理解できない。師が、玉垣を築きかけた宮人はほかの仕事によってはならず、完成を待つだけだというのを、自分に二心がないことにたとえたとした説も合わない。築きかけた宮人が他事に頼ってはならないというのは無理があり、そのうえ「余す」に合わない。

「加微能美夜比登」は「神の宮人」で、「ひ」は清音。神の社の垣を築く人をいって、自分をたとえたのである。ただし自分自身に対応するのは築いて余った物であって、築く人ではない。このように詠んだのは、大まかにいっただけである。『万葉集』巻七にも「皇祖神の神の宮人……」とある。この歌は天皇の第一の歌への返歌だという契沖の説は、そのように思われる。
「久佐迦延能」は「日下江の」。河内の日下か、和泉の大鳥郡の日下か、二か所のどちらかは不明だ。蓮の特に多い入り江なのだろう。『万葉集』巻四にも「草香江の入り江に餌をあさる葦鶴が」とある。「伊理延能波知須」は「入り江の蓮」。「波那婆知須」は「花蓮」で、契沖のいうように、「花橘」「花薄」などと同じ言い方である。

「微能佐加理毘登」は「身の盛り人」。師が、「身の」をいったん挟んで、「花蓮、盛り人」と続く、としたとおりである。「みの」は人の身で、蓮の実の意味はない。
ただし、『古事記』が草木の実の仮名には「美」を書かず必ず「微」を用いることを考えると、ここも人の身でなく蓮の実で、その後に「盛り人」と続けたのかもしれない。「実の盛り」というのは少し不自然にも聞こえるが、「蓮」は『和名抄』が『爾雅』を引いて「その実を蓮という」とするように、もとは実の名である。「はちす」も蜂の巣の形による実の名で、花だけでなく実も重視される物なので、「実の盛り」ともいえよう。そうして「実の盛り」から「盛り人」と続いたことになる。
しかし、人の身にも「微」を使うかどうかは、まだ調べていないので確定できない。身にも「微」を使うなら、人の身の意味とすべきである。『万葉集』にも「身の若かへに」とあるからだ。「身の盛り人」は若く壮健な人をいう。

「登母志岐呂加母」は「ともしきことだなあ」で、「ろ」は助詞。「ろかも」の例は中巻の明宮の段の歌で述べた(伝三十二・四十一葉)。ここで「乏し」は、よいと思い慕う意味である。
『万葉集』にはこの言葉の例が多い。巻一の「(あさもよし)紀伊の国の人はうらやましい。真土山を往き来して眺めているだろう紀伊の人はうらやましい」、巻五の「松浦川、玉島の浦で若鮎を釣る娘たちを見る人のうらやましさ」、巻六の「島陰に隠れて私は漕いで来ると、うらやましい、大和へ上る真熊野の船」、巻七の「妹に恋いながら私が越えて行くと、背の山は妹に恋いずにいる、そのうらやましさ」、また「妹に恋いながら私が行くと、うらやましくも並んでいる、妹の山と背の山」、巻十七の「山吹の茂みに飛びくぐる鶯の声を聞いているあなたは、うらやましい」、巻二十の「何の物思いもせず、防人に行くのはどなたの夫かと尋ねる人を見ると、うらやましい」などは、まさにうらやましいという意味である。また巻十七の長歌の「音だけも名だけも聞いて、ともしぶる私は」は、よいと思い慕うことを「ともしぶる」といっている。
この返歌は、天皇の第二の歌「ひけたの……」に答え、今こんなに年老いていなければ結ばれただろうに、と若い盛りの人をうらやんだのである。「日下江の」としたのは若日下皇后をうらやんだのか、ともいえようが、その意味はないだろう。契沖が「ともし」を、少ない意味と、珍しいとほめる意味との両方かとしたのは合わない。それでは歌の意味がたいへん遠くなる。うらやましいことを「乏し」という例を考えなかったための誤りである。
「多禄給」は若桜宮の段にも同じようにある(伝三十八・二十二葉)。「志都歌」は前に出た(伝三十六・五十六葉)。

〔『古事記』本文〕天皇が吉野宮へ出かけた時、吉野川のほとりで少女に出会った。姿が美しかったので、この少女と結ばれ、宮へ帰った。後にまた吉野へ行くと、かつて少女に出会った所にとどまり、そこへ大きな腰掛けを据えた。天皇はそこに座って琴を弾き、娘に舞わせた。娘の舞が見事だったので、歌を作った。

〔天皇の歌〕腰掛けに座る、神たる私の手で、弾く琴に合わせて、舞を舞う乙女。その姿のまま、いつまでも生きていてほしいものだ。

「吉野宮」。吉野は中巻の白檮原宮の段に出た(伝十八・六十三葉)。宮について史書に初めて見えるのは、『日本書紀』応神巻の「十九年冬十月、吉野宮へ行幸した」である。その治世に初めて造ったのか、さらに前からあったのかは不明だ。世に優れた土地なので、代々の天皇が折々に訪れ、遊覧する離宮だった。
斉明紀に「二年、吉野宮を造った」「五年三月、天皇は吉野へ行き宴を開いた」、天武紀に「天命開別天皇十年冬十月、東宮は吉野宮へ入った」「八年五月、吉野宮へ行幸した」、持統紀に「三年正月、天皇は吉野宮へ行幸した」とあり、持統天皇の時代には年々たびたびの行幸が記される。
『万葉集』巻一には「吉野宮へ行幸した時の天皇の御製歌」として、「よい人が、よい所としてよく見て、よいといった吉野を、よく見よ、よい人よ、よく見よ」という歌がある。これは天武天皇である。同じ天皇の「み吉野の、耳我の嶺に……」という長歌も、行幸の時に詠んだのだろう。

また「吉野宮へ行幸した時の柿本人麻呂朝臣の歌」に、「あまねく治めるわが大王が統治する天下には、国は多くあるが、山川の清らかな河内だと御心を寄せる吉野の国、その花散る秋津の野辺に宮柱を太く立てておられると……」、別の歌に「天下を治めるわが大王は、神でありながら神らしく振る舞おうと、吉野川の激しく流れる河内に高殿を高く造っておられ……」とある。これらは持統天皇の治世である。
巻六には「天平八年夏六月、吉野離宮へ行幸した時、山部宿禰赤人が詔に応じて作った歌」として、「あまねく治めるわが大王が御覧になる吉野の宮は……」、反歌に「神代から吉野宮へ通い続け、高く治めていらっしゃるのは、山と川がよいためだ」とある。この行幸は『続日本紀』にも見える。
巻十八の「天平感宝元年五月、急に吉野離宮へ行幸した時の諸歌」には、「高御座、天の日継として天下を治めた、天皇であり神である尊い命が、畏れ多くも造り始め、尊くも定めた、この吉野の宮へ、通って御覧になるのだろう……」、反歌に「昔を思っていらっしゃるのだろうか、わが大君は吉野宮へ通って御覧になる」とある。ほかにも、代々の天皇がこの離宮へ行った時の歌が歌集には多い。
吉野川も先の白檮原宮の段に出た。『万葉集』巻一に「見ても飽きない吉野川の、いつも変わらぬ滑らかな岩床のように、絶えることなく、また帰って見よう」、巻九に「昔の賢人たちが楽しんだ吉野川原は、見ても飽きないことだ」とあり、ほかにも多い。

「有童女」は「をとめのあへる」と読む。「有」をそのまま「ある」と読むのはここでは適切でない。後にも「童女之所遇」とあり、上巻の「笠沙の御前で美人に出会った」、若桜宮の段の「大坂山口に至った時、一人の女に出会った」などと同類である。
「其童女之所遇」の「遇」を諸本で「過」とするのは誤りで、今は真福寺本に従った。「所遇」は出会った場所という書き方で、漢文の「所遇」と同じ意味ではない。『古事記』にはこの型の表記がある。前の行幸で少女が天皇に出会った土地をいう。
「於其処」の「処」を諸本で「家」とするのも誤りで、真福寺本に従った。延佳本は「その少女の過ぎた所、その家にとどまり」と読むが、同じことが無駄に重なり、言葉が整わない。「過」は、『日本書紀』雄略巻の「吉備国へ行ってその家に立ち寄った」、景行巻の「道をそれた」など、また後世の物語の「よぎる」としても読めるが、それでも文章が整いにくい。真福寺本ならこの文は明らかである。
「大御呉床」の「呉床」は「あぐら」と読む。歌にもそのまま出る。中巻の明宮の段にもあり(伝三十三・五十六葉)、この物については上巻の「胡床」の箇所でも説明した(伝十三・三十九葉)。

「阿具良韋能」は「あぐらに座る」で、腰掛けに座っているというような意味。「加微能美弖母知」は「神の御手もて」。神とは天皇自身のことである。天皇が自分自身についても尊んでいうのは普通である。「以」は後に「もつ」というが、古くは「もち」「もちて」といった。このことは首巻の六葉で述べた。『万葉集』巻六に「天皇、わが御手でかき撫でてお祈り申し上げ、打ち撫でてお祈り申し上げる」とある。
「比久許登尓」は「弾く琴に」で、弾く琴に合わせてという意味。「麻比須流袁美那」は「舞をする女」。「登許余尓母加母」は、常世にもあってほしい、という願いである。『万葉集』巻六・十三葉にも「かも」に「願」を当てる。この「とこよ」は、人が変わらず生き続けることをいう。「よ」は人の年齢。「とこよ」には種々の意味があり、伝十二・九葉で述べた。
ここでは娘の姿と舞をほめ、見飽きず、このままいつまでも生きていてほしいと願った。娘の寿命だけでなく、主に舞についていっている。「もかも」は願望の語で、『万葉集』巻四の「空を行く雲にもなりたい、高く飛ぶ鳥にもなりたい」などの例が多い。願いの「かも」は普通「がも」と濁るが、ここに清音の「加」を書くから、古くは清音だったのだろう。
契沖がこの句を「常世なのか」、仙女かと不思議がった意味だとしたのは、大きな誤りである。仙女を「常世」とだけいっては意味が通らないし、疑問の「か」を「にもかも」といえるはずもない。仙女か、という意味なら「常世の娘なかも」などでなければ通じない。

『本朝月令』が五節舞の起源について語る説は、この話から作ったものと見える。その説は『江家次第』巻十の細注、『政事要略』巻二十七、『河海抄』などにあり、こういう。「五節舞は浄御原天皇の作ったものという。伝承では、天皇が吉野宮にいて、日暮れに興に乗って琴を弾くと、突然、前の峰の下から雲が立ち、高唐の神女のような姿が、かすかに曲に合わせて舞った。天皇だけが見て、ほかの人には見えなかった。袖を五度変えて挙げたので五節と名づけた……。その歌は『乙女ども、乙女らしく舞うことよ。唐玉を袂に巻いて、乙女らしく舞うことよ』」と。
この歌は『万葉集』巻五の長歌の「乙女たちが、乙女らしく振る舞おうと、唐玉を袂に巻き……」を取って作ったものだ。そもそも五節舞を天武天皇が作ったことは『続日本紀』巻十五の宣命に見えるが、右の神女の話はまったく見えない。

〔『古事記』本文〕続いて阿岐豆野へ出かけて狩りをした時、天皇が腰掛けに座っていると、虻が腕に食いついた。するとトンボが飛んできて、その虻を食べて飛び去った。「蜻蛉」はアキヅと読む。そこで天皇は次の歌を作った。

〔天皇の歌〕御吉野の、袁牟漏の岳に、獣が潜んでいると、誰が大御前に、申し上げたのか。国を安らかに治める、わが大君が、獣を待とうと、腰掛けにお座りになり、白玉のような、袖をお召しになった、その腕に、虻が食いついた。その虻を、トンボがすばやく食べた。このように功を立てて、自分の名を国名にしようと、そらみつ、大和の国を、アキヅシマというのだなあ。

〔『古事記』本文〕それ以来、その野を阿岐豆野と呼ぶようになった。

「即幸」は、前の段と同じ行幸の時のことである。
「阿岐豆野」は吉野の内にある。『大和志』は「川上荘西河村にある」という。そうだろう。契沖の「今の下市という所か」という説はどうだろうか。『万葉集』巻一には「お心を吉野の国の、花の散る秋津の野辺に、宮柱を太く立てていらっしゃると……」、また「御吉野の秋津の川の」、巻六には「御吉野の蜻蛉の宮は……」、巻十には「蜻蛉野の」、巻十二には「御吉野の蜻蛉の小野に」など、このほかにも多くある。後世の歌で「かげらふの小野」と詠むのもこの野だが、トンボを後世「かげろふ」と呼ぶようになったためにできた、誤った名である。
「御獵之時」は「みかりせすときに」と読む。「せす」は「なさる」といった意味だ。『万葉集』巻一の「神さびせすと」、同巻の「たひや取りせす」など、多くの用例がある。巻六には「国を安らかに治めるわが大君は、御吉野の秋津の小野の、茂る野には獣の足跡を見る者を置き、山には射手を配置して、朝の狩りには獣を踏み起こし、夕べの狩りには鳥を飛び立たせ、馬を並べてお狩りをなさる、この春の茂る野で」とある。これは神亀二年五月、吉野離宮への行幸の時の歌である。

この「アム」と読む字は虻のことである。延佳本が「蝱」にしたのは、勝手に改めたものだ。ここでは諸本のままにしておいた。『日本書紀』では「虻」とも「蝱」とも書く。両者は同じ字である。『和名抄』に「『説文』には、蝱は人に食いつく飛ぶ虫、とある。和名はアフ」という。この『古事記』の字は字書に見えないが、わが国で古くから書き慣らした字なのだろう。そういう例は多い。
師は「囘と亡が同じなので、虻をこの字に書くのか」といった。囘と亡が同じだということは、まだ調べていない。もしそういう例があるなら、この説のとおりでもよい。字書では罔・网・㘝などが同じだというから、亡にも通わせて書くのだろうか。『字鏡』では、別の虫偏の字を「ヌカガ」、また「虻・䗈、同じ。ヌカガ」としているので、この類の字と虻には通じる理由があるのだろう。〔この段の外字の正確な字形は原刊画像でなお確認を要する。〕

「腕」は『和名抄』に「『陸詞切韻』に腕は手の腕とある。和名はタタムキ、別にウデともいう」とある。上巻の歌にも「白きたたむき」「白たたむき」、高津宮の段の天皇の歌にも「たたむき」がある。また、ここでの歌に従うなら「たこむら」とも読める。
「蜻蛉」は『日本書紀』神武巻にもある。『和名抄』は「蜻蛉、和名カゲロフ」として、アキヅという名を挙げない。古くアキヅといったものを、少し後からカゲロフというようになったのだろう。ただし『万葉集』でカギロヒに蜻蜓・玉蜻などの字を借りて書いているので、そのころからカゲロフともいったのだろう。カゲロフはカギロヒの訛ったものだ。ある人は、今も陸奥の仙台・南部などではアケヅという、といった。今の世でトンバウという虫である。この虫には種類が多く、名もさまざまだ。なお歌で「かげろふの、あるかなきか」などと詠むのは、もともと虫名のカゲロフではない。漢文で陽炎といい、歌では「糸ゆふ」というものを指す。それを虫の名と混同し、トンボの一種で、とりわけ細く小さく、かすかなものだと思って、歌でもそう詠むようになったのは誤りだ。
「飛」は「とびき」とだけ読むと、どこか言い足りない感じなので、「とびいにき」とした。『日本書紀』では「連れて去った」とある。

『日本書紀』にはこうある。「四年秋八月、辛卯を一日とする戊申の日、吉野宮へ行幸した。庚戌の日、河上の小野へ行った。山野を管理する虞人に獣を追わせ、自分で射ようと待っていると、虻がすばやく飛来して天皇の腕に食いついた。すると突然トンボが来て虻を食い、持ち去った。天皇はその心をほめ、群臣に『私のためにトンボをほめる歌を作れ』と命じた。誰もあえて作ろうとしないので、天皇自ら歌った……」と。

「美延斯怒能」は「御吉野の」。『日本書紀』では「やまとの」となる。
「袁牟漏賀多氣爾」。牟の下にもう一つ牟を重ねた本は誤りである。多は清音のタだ。『日本書紀』では濁音用の陀を書いているが、この歌の陀は多く、どれも清音の箇所なので、ここも清音である。今は何々の岳という時、タを濁らせるが、古くはどれも清音だった。『日本書紀』は「をむらのたけに」とする。『大和志』に「小牟漏岳は国栖荘小村の上方にある。青い峰が高くそびえ、谷川が麓をめぐり、山中に祠がある」という。これだろうか。さらによく尋ねる必要がある。契沖が地名かといったのはよい。しかし『日本書紀』斉明巻の「をむれがうへに」を引き、『私記』の「小山の上である」という注を引用して述べるのは合わない。「たけ」とある以上、地名であることは明らかだ。『夫木集』巻十二には「狩りをする、をむらの岳にすむ鷹は、油断できない声で鳴くのだろうか」とある。
「志斯布須登」は「猪鹿が潜んでいると」。「伏す」は隠れていることをいう。狩りについていう時、猪・鹿などの獣はまとめてシシという。『日本書紀』神代巻の「獸」もそう読む。「そこで兄は弟のよく当たる弓を持ち、山に入って獣を探したが、ついに獣の乾いた足跡すら見つからなかった」とある。

「多禮曾意富麻幣爾」は「誰ぞ大前に」。「たれか」というべき所を「たれぞ」という例には、『万葉集』巻十四の「誰がこの家の戸を揺すっているのか」、催馬楽「浅水」の「誰が訪ねてくるのか」などがある。いろは歌にも「わが世、誰ぞ常ならむ」とある。「大前」は天皇の御前だ。祝詞などの「大前」を「ふとまへ」と読むのが誤りだと、この歌で分かる。
「麻袁須」は三音の句で、「申す」。この二句は『日本書紀』では「誰かこの事、大前に申す」となり、一本では「大前に申す」を「大君に申す」とする。師は「これは『書紀』の方がよい。今の『古事記』は文字が抜けるなどしたのだろう」といった。そのとおりである。『古事記』では「多禮曾」の下に「許能許登」の四字が抜けたのかもしれない。ただし今の本のままでも意味は分かる。

「夜須美斯志和賀淤富岐美能」は「国を安らかに治める、わが大君の」。この言葉は中巻にも出た(伝二十八・十一葉)。天皇が自分を大君というのは当然としても、「わが」と自分でいうのはどうかと感じるが、やはりそういう言い方もあるのだろう。「朕たる大君」という意味に取るのは、ほかの例に合わない。
「斯志麻都登」は「獣を待とうと」。『万葉集』巻七には「袖をまくり上げ、獣を待つわが夫」とある。「阿具良爾伊麻志」は「腰掛けに座り」。「斯漏多麻能」は「白玉の」。白玉については『冠辞考』にある。
「蘇弖岐蘇那布」は、契沖のいう「袖を着そなふ」、つまり袖を身に着ける、でよいだろう。デは濁音のはずなので泥と書くべきなのに、清音用の弖があるのは、古くは清音だったのだろうか。『万葉集』にも、ここと同じく清音の「て」に当たる字を書いた所があるが(原字の弖・互の字形判別は留保する)、多くは蘇泥・蘇田・蘇遲など濁音の文字を使う。
別の考えとして、古語で「見る」の敬語をミソナハスというのは「見し行はす」を縮めた言葉だと、前に述べた。それと同じく、これも「着し行ふ」を縮めたものかもしれない。そうなら「お召しになる」の意味だ。また『万葉集』巻五の「深栲を、ありのことごと着そへども」は「着装えども」の意味か。巻十七の「かきつばたを衣に摺りつけ、立派な男たちが服を整えて狩りする月が来た」という歌は、服を整えて狩ることだ。「服」の字で分かる。競って狩る意味に取るのは誤りである。これらはここと意味が違うだろうが、似た言葉なので挙げた。「着そなふ」は袖だけのことではないのに、ここで袖をいうのは、腕の話に関係するからである。

「夜須美斯志」からここまでの六句は、『日本書紀』では「大君は、そのことをお聞きになり、玉を巻いた腰掛けに立ち、倭文を巻いた腰掛けに立ち、獣を待とうと私はそこにおり、猪を待とうと私は立っていた」となる。一本では「立ち」を「座り」とする。「さゐ待つと」は「真猪を待つと」、猪を待つという意味である。ここも『書紀』の方が優れて聞こえる。『古事記』では「大前に申す」の下に、どこか言葉が足りない感じがする。

「多古牟良爾」は「手腓に」、腕のふくらんだ所に、である。腕は足のふくらはぎに似ているので「手のこむら」という。『和名抄』には「『陸詞』に、腓は脚のふくらはぎとあり、コムラと読む」とある。『説文』も「腓、脛の腹」とし、膞もコムラと読む。『字鏡』には「踹、脛の腹。コムラ」とある。『日本書紀』ではこの句を「たくふらに」としている。
「阿牟加岐都岐」は「虻がかきつき」。『日本書紀』は最後のキの下に「つ」がある。「曾能阿牟袁」は「その虻を」。「阿岐豆波夜具比」は「トンボがすばやく食い」。「食って」と「て」を添えて理解する。具は必ず清音のクであるはずなのに濁音用の字があるのは、後の誤りだろう。『日本書紀』の倶が正しい。師は倶の誤りとしてすぐ改めたが、『古事記』には倶を音仮名にした例がない。谷川氏がトンボには「かつむし」の名があるというのは「勝つ虫」で、この歌の意味に基づく名だろう。

「加久能碁登」は「このように」。諸本では碁が基だが、ここでは真福寺本に従った。『万葉集』巻二十に「山吹の花の盛りに、このようにあなたに会うことが、千年も続いてほしい」とある。
「那爾淤波牟登」は「名に負おうと」。「と」は後世の「とて」に当たる。「蘇良美都」は「そらみつ」で、倭にかかる枕詞であり、前に出た(伝三十七)。「夜麻登能久爾袁」は「倭の国を」。「阿岐豆志麻登布」は「蜻蛉島という」。トフはトイフである。蜻蛉島については『国号考』に詳しく述べた。『万葉集』巻一に「よい国だなあ、蜻蛉島、大和の国は」とあるなど、なお多く見える。

「加久能碁登」以下の五句全体は、「今トンボがこのようにして私に仕えて功績を立て、倭の国の名に自分の名を負わせようとした。そのために、あらかじめ古くから倭の国をアキヅシマと呼んでいたのだなあ」とおっしゃるのである。古くからこの倭の国をアキヅシマというのは、今このようにトンボが私に仕えて功を立て、その国名に自分の名を負わせようとするためだった、といっても同じ意味だ。もちろん実際にそうだったというわけではない。たまたま虫の名と国名が同じなので、この虫の功績をほめるために、そのように取りなしておっしゃった。これは歌によくある表現である。

この五句は『日本書紀』では、「這う虫のお前まで、大君に仕え奉るのか。お前の姿は残しておこう、蜻蛉島、大和」となっている。「お前の姿は残しておこう」というのを見ると、この地を蜻蛉野と名づけ、お前の名を残そう、という意味に聞こえる。それなのに最後が「蜻蛉島、大和」となるのは理解しにくい。伝承の誤りではないか。契沖はここに二つの解釈を述べるが、どちらも通じにくい説である。「一本では」として細注に挙げた歌は、この『古事記』とまったく同じである。ただしトフはトイフとなる。

「故自其時」以下。この時より前の名は河上の小野だったのだろう。『日本書紀』にそう見える。今も川上荘という土地の内にある。
師は「『書紀』が、この野をその場でこのように命名したように記すのはどうか。ただ、この時の出来事から自然に蜻蛉野と呼ぶようになったのだ」といった。この『古事記』の歌の趣旨なら、そうもいえるだろう。『日本書紀』の歌には「お前の姿は残しておこう」とあるので、この時に特に命名した意味が読み取れる。『日本書紀』には「そこで蜻蛉をほめ、この地を名づけて蜻蛉野とした」とある。

古事記伝 巻四十二――朝倉宮の巻・下。本居宣長が謹んで著す。

【『古事記』本文】またある時、天皇が葛城の山へ登ると、大きな猪が出た。天皇が鳴鏑で猪を射ると、猪は怒り、「うたき」といううなり声を上げて迫った。【宇多岐の三字は音を表す。】天皇はそのうなりを恐れ、ハンノキに登って歌った。
「天下を治める、わが大君が狩り遊ばした猪、射られて苦しむ猪のうなりが恐ろしく、私が逃げ登った、荒々しい尾根のハンノキの枝よ。」

【宣長の注釈】葛城は前に出た。「山上」は、単に「やま」と読むべきか。「登幸」について、『日本書紀』は狩りとする。『古事記』は明示しないが、歌に「やみしし」とあるので狩りである。「大猪」は「おほゐ」と読む。仁徳天皇の歌に「おほゐこ」とある。【狩りでは普通「しし」というが、ここはそう読んではならない。】鳴鏑は上巻【本書巻10・40丁】に出る。「うたき」は怒る声だろう。【キは『日本書紀』が「根」を使うので清音で読む。『古事記』の「岐」は清音にも濁音にも使い、首巻で詳しく説明した。『出雲国風土記』秋鹿郡大野郷に、和加布都奴志命の猪狩りがあり、同郡には大野津神社と宇多貴神社が並んでいて、延喜式にも載る。猪のうなりに関わる神名ではないか。遠い話だが、言葉が同じなので引いた。】今の俗語の「うなる」と通じるように聞こえる。

【宣長の注釈】「榛」は「はりのき」と読む。【諸本の「模」は誤りで、真福寺本・延佳本に従った。単に「はり」とだけ読むのはよくない。】今、俗にハンノキという木であり、万葉集の榛もこれである。【すべてハリと読む。ハギと読んで萩と思うのは誤りだ。】契沖は、顕昭は萩と榛を同じにするが、万葉集は草のハギを芽・芽子、木のハギを榛と書く、榛はハリで、ハギはハリキのリを省いたのだ、俗にハンノキといい、日本書紀の榛摺衣や、万葉集の衣を染める歌に多く、今も田舎では植えて染料にする、萩にも花ずりがあるので顕昭が誤った、榛はまったく芽子ではなく、万葉集をよく見分けよ、と説明する。そのとおりである。【ただし契沖の言い方には紛らわしいところがある。草のハギは萩、木のハギはハリという説明は紛らわしい。萩にも草のものと木のものの二種があり、顕昭が榛といったのは木の萩だからである。榛の字をそれに当てたのは誤りだが、契沖がなおハギと読んで木のハギというと、その木の萩のように聞こえる。榛と書くのはハリの木で、萩ではない。ハリをハギともいったことがあったかは分からない。もしあったなら、契沖のいうようにハリキの略なのだろう。ともかく万葉集の榛はハリであり、ハギと読んだとしても萩ではない。また万葉集の榛をハギと読むべきでもない。万葉集の榛と芽子は歌の内容が明確に違い、榛は衣へ摺り染めることを歌い、花を歌わず、芽子は主に花を歌う。師の『万葉考別記』が榛も花の咲く芽子と同じだとしたのは誤りだ。巻1の「引馬野に、色美しい榛原へ入り交じって、衣を染めよ」も、ハリの木立へ入り、衣を摺り染めよということである。巻3の「行き来するあなたこそ見るのだろう」の歌も、ハリの木そのものを見るのではなく、真野の榛原という場所全体を見るというのである。その前の、猪名野は見せたが、角の松原をいつ見せよう、の類であり、榛を萩の花と思い違えてはならない。巻14の「伊香保の、そのそばの榛原よ、私の衣に付いておくれ」、巻1の「狭野の榛が衣に付く」のように、衣に付くという内容が同じことからも、ハリと読むと分かる。榛を草冠の「蓁」でも書くので、なお萩かと疑う人もいようが、漢字が通用するために書くにすぎない。】

【宣長の注釈】「やすみしし、わがおほきみの」の二句は前に出た。「あそばしし」はお射りになったことをいう。「あそぶ」はまず楽しむことを主とする語で、【本書巻30・24丁で詳しく述べた。】また、広く狩りなどについてもいう。〔原語「加比る」の訓は確定できず、以下の鳥狩り・弓射の例から訳した。〕上巻の「鳥遊」も鳥を狩ることだ【本書巻14・13丁】。宇津保物語も弓を射ることを「あそばす」という。そのほか甕栗宮の歌の「遊び来る、鮪の鰭の所に」、天智紀の「打ち橋の、爪の遊びに」、万葉集巻3の、世間の遊びの道に、巻5の、梅の花、今日の遊びで逢ったことだ、梅の花を折って挿頭にして遊んでも、巻13の、登って国見をなさる、拾遺集の詞書の、碁をお打ちになった、などにも使う。【どれも今の俗語の遊ぶと、だいたい同じ意味である。源氏物語橋姫巻の、琴を習い、碁を打ち、偏突〔へんつぎ。漢字の偏や旁を使う遊び〕などちょっとした遊びにつけても、も同じ。「あそぶ」の敬語として「あそばす」というのも今と同じであり、そこから転じ、今は「する」を尊んで「あそばす」「なさる」ともいう。】

【宣長の注釈】「ししの」は猪の。「やみししの」は傷ついた猪、今いう手負いの猪である。『日本書紀』にこの句がないのは、後の脱落だろう。「うたきかしこみ」は、うなりが恐ろしくて。「わがにげ」は私が逃げて。「のぼりし」は登った、の意味。「ありをの」は、師のいう荒い山の尾根、という解釈がよいだろうか。【延佳も傍らに「荒峽」と記す。】「ありそ」などと同じ例だ。【ただ「ありそ」は「あらいそ」のライを縮めたからアリとなるが、荒い尾根なら「あらを」となるはずで、「ありを」というのは疑問もある。それでも荒をアリともいうのか。】『日本書紀』では後に「うへの」がある。【契沖は、尾根の上にある、という意味で、万葉集巻1の「ありねら、対馬の渡り」と同じく、長くある嶺・尾根というのかとするが違う。万葉集の「在根良」は誤字であり、単に「在る」で長くあるとするのも不自然だし、その意味でも、長くあるという理由は何か。】

【宣長の注釈】「はりのきのえだ」はハンノキの枝。『日本書紀』は「はりがえだ、あせを」とする。『古事記』は「あせを」の三音一句が落ちたのだろう。この言葉は必ずあるはずだ。中巻の倭建命の歌にも「一つ松、あせを」とある【本書巻28・40丁】。同じ意味である。『日本書紀』は、5年春2月に葛城山で狩りをすると、雀ほどの神鳥が現れ、長い尾を地に引き、「ゆめゆめ〔決して油断するな〕」と鳴いたとする。すると怒った猪が草むらから飛び出して人を追い、狩人たちは木に登って恐れた。天皇は舎人に、猛獣は人に向かうと止まる、その時に射て刺せ、と命じた。しかし舎人は臆病で、木へ登って顔色を失い、気も動転した。猪は天皇を噛もうと突進し、天皇は弓で刺し止め、足を上げて踏み殺した。狩りを終えて舎人を斬ろうとすると、舎人は処刑間際にこの歌を作ったという。【歌い手を舎人とするのは伝承の違いであり、その方が優れて聞こえる。「我が大君の」といい、「私が逃げ登った」というのは、どう見ても天皇の歌らしくない。ただ「あせを」と歌うのは、木に登って命が助かった時のようで、処刑時の歌には見えない。また書紀は、この歌の次の皇后の話で、天皇が「楽しいことだ、私は狩りをしてよい言葉を得て帰った」といったとするが、ひどく中国風である。日本の上古の人の言葉ではなく、ましてこの天皇がどうしてそのようなことをいおう。こういう言葉をいうのを立派なこととするのは中国の習わしで、いわゆる俳諧風のことだ。】

【『古事記』本文】またある時、天皇が葛城山へ登った際、百官はみな、紅色の紐の付いた青い摺り染めの衣を賜り、着ていた。その時、向かい合う山の裾から山上へ登る人々があった。その一行は天皇の行列とまったく同じで、装束の様子も人数もそっくりで、違いがなかった。天皇は遠くに見て、「この大和国に、私のほかに王はいない。今、このように進むのは誰か」と問わせた。相手の答えぶりも、天皇の言葉と同じだった。天皇はひどく怒って矢をつがえ、百官もみな矢をつがえた。すると相手の人々も、みな矢をつがえた。

【『古事記』本文】天皇はまた、「それなら名を告げよ。互いに名を告げてから、矢を放とう」と尋ねた。相手は答えた。「私が先に問われたので、私が先に名を告げよう。私は、凶事も吉事も、一言で取り去る神、葛城の一言主の大神である。」天皇は恐れかしこみ、「恐れ多いことです、我が大神。現し身、つまり人の姿でおいでとは存じませんでした」と申し上げ、大刀・弓矢をはじめ、百官が着ていた衣も脱がせ、拝んで献上した。【「宇都志意美」の五字は音を表す。】一言主大神は手を打ち鳴らし、捧げ物を受け取った。天皇が帰る時、大神は山を降りて来て、長谷の山口まで見送った。一言主大神が姿を現したのは、この時である。

【宣長の注釈】「百官人等」と四字をつなぐ書き方は、孝徳紀や祝詞・宣命などに多く、古く決まった書き方だったのだろう。「百官」は明宮の段【本書巻33・56丁】に出る。「著紅紐之青摺衣」は高津宮の段【本書巻36・40丁】に出る。「給」は「たまはりて」と読み、百官が受けて着た側からいう。【「たまひ」なら天皇が与える側からいうことになる。】「服」は「きたり」と読む。【後の本文は「衣服」の二字で「きぬ」とするが、ここを同じにすると、着るという動詞がなく、文が不足するので、服を必ず分けて読む。高津宮の例も「服」なので比べられたい。】ここで装束を特に述べるのは、後に装束の姿や、百官の着る衣を脱がせることが出るからである。

【宣長の注釈】山について「を」というのには二種ある。一つは高い所で、上巻の「谿八谷、峽八尾」、高山尾上、坂之御尾、万葉集の向峯・八峯・東峯之上、また岡のヲなどがそれである。【谷と対比するので峽が高所だと分かり、古書は高所のヲに峽をよく用いる。山間の意味ではなく、尾は借字。書紀では丘とも書く。坂之御尾は、本書巻10の説明を訂正する。中巻の水垣宮の坂之御尾神が、坂の上の神だからである。峯の字も高所だからだが、ヲは必ずしも峰だけではない。ヲノトを常に峰の入口と思うのは不十分だ。「をか」は高所のヲに、住み処・あり処と同じ、場所をいうカを添えた名で、坂のカも同じである。だから丘の字をヲにもヲカにも使い、万葉集巻7には向岡とも書く。ここまでの尾の字は、すべて借字である。】もう一つは頭尾の尾で、鳥獣の尾と同じく、山裾が長く延びた所をいう。【山には腹・足ともいい、古事記の「みふと」などと同じく、尾ともいう。】ここはその意味で、山上と対比するので分かる。中巻の白檮原宮の「畝火山の北方、白檮の尾の上」、古今集の「山桜を私が見に来ると、春霞が峰にも尾にも立ち隠す」は、この尾である。【ただし高所のヲにも尾の字を多く借りるので、この二つは紛らわしい。よく区別するべきである。】

【宣長の注釈】「既」は、まったく、ことごとく、の意味で、序の解【本書巻2・18丁】で述べた。「鹵簿」は「みゆきのつら」と読む。【『漢宮儀』では天子の車駕の順序を鹵簿といい、甲冑・盾を持つ兵士が外側にいて先導し、みな簿に記すためこの名があると説明する。】天武紀もこの読みである。「みゆき」も古語で、万葉集に「わがゆき」などがあるから、天皇の旅を御行というのである。「装束」は真福寺本で「束装」とする。【上巻にも、書紀神功巻の別伝の文章にもこの順序があり、古代にもこのように書いたのだろう。】

【宣長の注釈】「不傾」は、きっと写し誤りだろう。【師は傾を揖の意味として「をろがます」と読んだが、「相似」からのつながりが落ち着かない。延佳は喉の誤りとするが理解できない。】正しい字は不明だが、あえていえば「頒」の誤りとして「わかれず」と読むのか。【漢字の意味は合わないが、分けるとも注すので、区別がない意味に借りられなくもない。】ほかの考えがないのでひとまずそう読んだ。なお考える必要がある。「望」は「みやらして」と読む。【見遣るも古語。】万葉集巻10・13丁の、私はあなたの辺りを見遣ろう、熱田社寛平縁起にある倭建命の歌の、鳴海を見遣れば遠い、などがある。「除吾」は万葉集巻5の、私をおいてほかの人はいないだろうと、に同じ。「無王」は「きみはなきを」と読む。「誰人」以下は、上巻の、誰が我が国へ来て、ひそひそこのようにいうのか、に似る。「亦如天皇之命」は、相手もまた同じように答えたのだろう。

【宣長の注釈】矢をつがえることは上巻【本書巻10・30丁】に出る。「其人等」は向かいの山裾から登る人々。「然」は、先の答えを受けた言葉。「告其名」は「そのなをのらさね」と読む。【「その」も前の答えを受ける。】万葉集巻1に「名告らさね」とある。「各」は、そちらもこちらも。「弾」は「はなたむ」と読み、中巻の水垣宮でもこの字を使う。「見問」は「とはえたれば」と読む。【「とはえ」は「とはれ」の古い形。】「吾先為」の「先」を欠く本もあるが、真福寺本・延佳本によった。

【宣長の注釈】「雖悪事」は「まがことも」と読む。御門祭の祝詞に、悪事は古語で「まがこと」とある。【「悪」の字にこだわってはならない。後に引く土佐風土記の「凶事」の方が広く適切で、悪も凶の中に含まれる。】「も」に「雖」の意味がある。【「雖」は意味による表記で、「いへども」では古語らしくない。師の「まがこととても」も、「とても」は古語でない。万葉集巻10の、立っても座ってもあなたの思うままに、では同様の字でも、歌の形から「たつともうとも」と読まねばならず、ここは異なる。「事」の後の「而」は「雖」に対応させた漢文の形式である。】「善事」は「よごと」と読む。【「雖」は前と同じ働き。】万葉集巻20の、新年の初春の今日降る雪のように、いっそう重なる吉事を、は元日の雪を吉事とする。【「よごと」には言葉と出来事の違いがあり、寿詞・賀詞などは言葉であって出来事ではない。ただ古書は言・事を通用するので、文脈で区別する。ここも「善」にこだわらず、土佐風土記の「吉事」の方が広く適切である。】凶事も吉事も一言という意味は次で述べる。【ある書は、雄略帝が葛城で狩る時、神が現れ、誰かと聞くと「主だ」と答えたので一言主神という、とする。別の書も、山に入る者が名を聞き、神が「主」と答えた一言から名づけたとするが、神名から作り出した説に聞こえ、古事記・風土記と異なる。】

【宣長の注釈】「言離」は「ことさか」と読む。土佐国風土記は言放と書き、日本書紀神代巻には泉津事解之男、孝徳巻には事瑕という婢があり、事瑕をコトサカと説明するので、それらによる。【神代巻の神名も放ち離れる意味で、「解」の字も意味が通る。孝徳巻の「瑕」は理解できないが、コトサカの由来は神名と同じなので同じ言葉だろう。「瑕」は「遐」と通用するので、遠ざかる意味で使ったのかもしれない。】この神名の由来は、凶事でも吉事でも、神の一言によって解かれ、放ち離れるという意味だろう。「言」は借字で「事離」である。【事は凶事・吉事のこと。凶事を取り去るのはよいが、吉事まで取り去るのはどうかと思う人もいよう。しかし神の怒りなどによって、人の吉事を取り去ることもないとはいえまい。ただ一言で凶事も吉事もたちまち解き離すのは、たいへん尊く畏れ多い大神なのである。】

【宣長の注釈】「葛城之」は、真福寺本に「之」がない。一言主大神の名の意味は、前の文章から分かる。【大物主神とも事代主神ともする説があるが、詳らかではない。】「恐我大神」は中巻・訶志比宮の段【本書巻30・46丁】にも、建内宿禰が我が大神を恐れ申し上げる例がある。「うつしおみ」は、師のいうように「現大身」である。【「大」は「御」に近い。】日本書紀の、この時の大神の答えの「現人の神」と同じことである。【現人神とは、姿を現して人の体を持つ神という意味。】普通、神は姿を隠し、目に見えないが、ここは御身がはっきり見えることをいう。日本書紀神代巻の「顕見蒼生」を「うつしきあをひとくさ」と読む例や、本書巻6・24丁も参照されたい。「大」は尊んでいう言葉である。

【宣長の注釈】「有し者」は「まさむとは」と読む。【「ある」の敬語は「ます」。】「宇」の下に「都」がある本は誤りで、真福寺本によった。「所服」は、師の「けせる」という読みがよい。中巻の倭建命の歌に「ながけせる」とある【本書巻28・9丁】。「衣服」は、紅紐の付いた青摺衣をいう。「献」は百官が献じるのでなく、天皇が献上する意味である。【それでも「奉り賜ふ」と読まないのは古語の通例で、奉ると賜ふを続けず、必ず賜ふというべき所でも、ただ奉るというのである。】

【宣長の注釈・喜んで手を打つ例】「手打」は物を得て喜ぶ動作である。日本書紀顕宗巻の室寿の言葉に、手のひらを曲げ高く打ち上げてください、いつまでも、とある。【「宴」はこの「打ち上げ」、手を打ち上げることからの名で、中巻の日代宮の段【本書巻27・15丁】に詳しい。】持統巻では皇后即位時に公卿百官が並んで拝し、手を打つ。続日本紀巻28では僧侶が仏門の作法を守らず、俗人のように手を打って喜ぶ。三代実録巻36では、大極殿落成時、右大臣が朝堂院含章堂で祝いの宴を設け、飛騨の工匠二十人ほどが喜びを抑えられず、席を立って手を打ち、歌い舞い、満座が大いに笑い楽しむ。貞観儀式の即位大嘗会・卯日の儀では、国栖が古風を五度、悠紀国が国風を四度演じ、語部が古詞、隼人司に率いられた隼人が風俗の歌舞を奏した後、皇太子以下五位以上が庭の版へ出て、ひざまずき、四度手を打つ。【一度ごとに八遍で、神語にいう八開手である。】六位以下も同じである。【小斎人は拍手の対象外で、このことは江家次第にもある。】春日祭の儀は、酒が三巡して、一段手を打って終える。園・韓神の祭では、属が版へ出て御飯を頂いたと申し、神祇官が三段手を打ち、酒が三巡すると一段手を打つ。【平野祭にも同じ例がある。】鎮魂祭では、大膳の進・属以下が神祇官、次いで大臣以下へ食事を配り終え、進が版で御飯を頂き終えたと申し、皆で三度手を打つ。【前後に「はい」と答える。】酒が三巡して、また一度手を打つ。【延喜式にもある。】北山抄の十一月辰日の節会でも、白黒の御酒を供え、臣下へ配る。【名を呼んで与え、手を打って飲む。】土佐日記の歌の、追い風が吹くと進む船も帆手を打って喜んだ、【喜びの拍手を船の帆手にかけたもの、】なども、みな楽しみ喜ぶ心から手を打つのである。

【宣長の注釈・受け取る時に手を打つ例】物を受け取る時にも手を打つ。貞観儀式の園・韓神祭で、緩木綿〔ゆるゆう。儀礼で身に着ける繊維の飾り〕を与える際、神祇官、参議以上、五位以上、諸司の判官以下召使以上、史生以下歌女以上は、みな手を打って受ける。平野祭でも皇太子へ渡すと、皇太子は手を打ち、そのたび「はい」と答えて受け取り、身に着ける。九月十一日の伊勢大神宮への幣帛奉献では、忌部が呼ばれると「はい」と答えて昇殿し、ひざまずいて四段手を打ち、まず豊受宮の幣、次に大神宮の幣を受ける。【拍手は前と同じ。幣を持つたび一段手を打つ。】自分で持って版へ戻る。大神宮儀式帳の六月祭では、大神宮司が、頭に着ける御蘰の木綿〔ゆう〕を持って入り、正道〔中央の通路〕の「同重」でひざまずき、大神宮へ向かって控える。〔「同重」の具体的な位置は確定できない。〕命婦が退出して受け、斎内親王へ奉ると、親王は手を打ち、木綿を取って頭に着ける。宮司が太玉串を持って再び入り、同じくひざまずく。命婦が出て受け、親王へ渡すと、親王は手を打ち、自ら持ち、捧げて参入する。【九月祭も同じ。「親王」は斎内親王である。】これらは自分の物を得て喜ぶのでなく、ただ受け取る動作として手を打つのである。

【宣長の注釈・拝して手を打つ例】また貞観儀式の大原野祭では、神馬四頭・走馬八頭を神殿前へ並べ、神主が祝詞の座に就き、二段再拝し、大臣以下もともに拝する。祝詞を読み終えて二段再拝し、手を打つ。平野祭では皇太子以下も二段再拝し、四段手を打つ。江家次第の公卿勅使の儀でも、使以下が四度拝してから手を打ち、さらに四拝して手を打つ。これらは拝して手を打つ例である。【ただし、もとは役目を終えた喜びから出たのかもしれず、初めから拝む時にも手を打ったのかもしれない。拍手の回数が決まったのは、少し後のことだろう。】

【宣長の注釈・拍手の回数】前に引いた大嘗会儀式には、四度、一度ごとに八遍、神語の八開手である、とある。大神宮式には、二段再拝、膝で下がって二段再拝、二段短拍手、一拝。大神宮儀式帳には、四段拝し、短手二段を打ち、一段拝し、また四段拝し、短手二段を打ち、一段拝して終える、また四度拝し、手を四段打ち、さらに四度拝し、手を四段打って終える、また四段拝し、八開手を打ち、短手一段を打って拝し、さらに四段拝し、八開手・短手一段を打ち、一段拝する、とある。まず八開手について、四度・一度八遍は、八回を四度、合計三十二拍のように聞こえるが、八開手とは一度ごとに八回打つことをいい、四度の合計ではない。つまり八回打つのが八開手である。短手はその半分で四回。短手二段なら四回ずつ二組で八開手と総数は同じだが、八開手と呼ばないのは、四回ごとに二組へ区切って打つためだろう。

【宣長の注釈・拍手論の続き】単に「手四段」とあるのは短手四組で、計十六回である。前に引いた書物の単なる「拍手」も短手一組、四回であり、「拍手一度」も同じで、一回だけではない。大神宮年中行事の「拝八度、手両端」の端は段で、手は一組四回、二組で八回。拝八度は四拝を二組いい、その一組ごとに八回手を打つので、合計十六回となる。荒木田経雅神主は、今も四度拝して八回手を打ち、膝で下がり、また四度拝して八回手を打ち、後手を打つといった。後手は後に打つことで、儀式帳の式と同じである。神を拝む拍手の数には後世さまざまな説があるが、以上の数が正しい。江次第抄の、上卿の拍手は音を立てず、指先を合わせ、静かに打ち合わせるという作法は、たいへん後世風で、本来の意味を失っている。大きな音を立てるのを見苦しいとして、外見だけを整えたのであり、大きな音で強く打つことこそ本来の意味である。また、世に「かしはで」というのは、拍と柏の字形が似ているため、膳部に結びつけて混同した後世の誤りである。古代に拍手を「かしはで」といったことはなく、なお膳部と関連づけて弁護する説は大変なこじつけだ。中国の周礼が九種の拝礼に振動という拝を挙げ、その注で、両手を打ち合わせる、また今の倭人は拝む時に両手を打つ、古い作法が残ったものだろう、と説明する例もある。】

【宣長の注釈】捧げ物について。【真福寺本は「捧」を「奉」とする。】中古の書物や物語に多く、漢字音で「ほうもち」ともいう。【ただし中古は、仏事で仏へ供える物を指す。そこに古い名が残ったのである。】「満山末」の満は、きっと写し誤りなので、正しい字を考える必要がある。【延佳本の「深」は、例によって勝手な改変だろう。師は、みやまを深山と書くのは後世のことで古書にはなく、真山の意味だから、と満を従の誤りとした。意味はよいが、山の末というのはここでは落ち着かない。】満は降、【草書ではかなり似る、】末は来の誤りなのではないか。【山の上を山末という例は古書に多く問題ないが、ここはそういう箇所ではない。】この考えによって、ひとまず山を下りて来て、と読んだ。「於長谷山口」は、宮に近い辺りまでだろう。【書紀は来目水までとし、伝承が異なる。「於」を師はマデと読んだが、意味はそうでも、やはり字に従って読むべきである。】「送奉」は、一言主大神が天皇を見送ることだ。

【宣長の注釈】一言主大神は、神名帳の大和国葛上郡「葛木坐一言主神社」である。【名神大社で、月次・相嘗・新嘗の祭に関わる。今は森脇村にある。】文徳実録巻2は嘉祥3年10月、葛木一言主神らへ正三位、三代実録巻2は貞観元年正月、正三位勲二等の同神らへ従二位を授けたとする。【同書巻24には、肥前国の葛木一言主神へ従五位下を授けた例もある。山城国下鴨社内には、一言・二言・三言の社があるという。続古今集神祇の賀茂氏久の歌は「君を祈る、この一言の神の宮よ、二心のない思いは知ってくださるだろう」である。土佐国風土記には、高賀茂大社があり、その神名を一言主尊とする。暦録は雄略天皇が葛城山で狩ったと記し、別説は、神と天皇が競い、不遜な言葉があったので天皇は激怒し、土佐へ移した、神は隠れ、祝が代わりに仕え、初め賀茂の地、後にこの社へ移ったとする。天平宝字8年の記事、国記、また多氏の古事記を引き、大神が、私は吉事も一言、凶事も一言で放ち離す葛木一言主神だと答え、天皇は驚き、馬から下りて拝し、百官も拝し、大神も答拝し、天皇同様に山獣を射て狩った、言葉を交わした時に不敬な発言があったのか、と論じる。ここまではすべて風土記の文章である。宝字8年のことは続日本紀巻25にあり、本書巻11で引いた。しかし、この風土記は高賀茂神と一言主神を混同した誤りである。土佐へ移されたのは高賀茂神で、一言主神ではない。天皇の葛城狩りの際に現れた様子がよく似るため混同したのだ。一言主神のことは古事記・書紀のとおりなら追放する理由がなく、高賀茂神の話は別である。したがって釈日本紀が一言主神の箇所にこの風土記を引くのも誤り。なお本書巻11・60丁でも説明した。

【宣長の注釈・役行者伝説への批判】また役君小角、いわゆる役行者が呪術で鬼神を使い、葛城山から金峰山へ石橋を架けさせる際、怒って一言主神を縛ったという故事がある。後撰集以後の歌や歌書によく出て、広く知られる。古くは日本霊異記にあり、最後に、一語主大神は役行者の呪縛から今も解放されていない、とする。宣長は、この類の話は神を低め仏法を高めるための企てによる、僧たちの作り話だと批判する。この話も小角自身か、その流れをくむ者の創作だろうという。雄略天皇さえこれほど恐れる威徳の高い一言主大神を、小角のような低い身分の者が少しでも制御できようか、きわめて不遜で畏れ多い虚言だ、とする。小角は葛城山に長くこもったというが、その間、大神の怒りに触れなかったのは、たいへんな幸運だったという。続日本紀巻1では、小角を伊豆島へ流したこと、初め葛木山に住み、呪術で名高く、韓国連広足が師事したが、後にその能力をねたんで、人を惑わすと讒言したため遠方へ配流されたことを記す。また世の伝えとして、小角は鬼神を使って水を汲ませ薪を採らせ、命に従わなければ呪縛したという。宣長は「世に伝える」は確実でなく、愚かな俗人の話だとする。しかも一言主神はそこに出ず、讒言したのは韓国連広足なのに、日本霊異記は一言主神が讒言したとするのはどういうことか、虚構であることは明らかだ、と批判する。】

【宣長の注釈】「彼時所顕也」は、前に「うつしおみ」とあり、書紀で大神自身が現人の神といったように、現実の体が目に見える姿で現れたという意味だろう。【中巻の訶志比宮の住吉三神の名が初めて明らかになった話と同じく、一言主という名が初めて明らかになったことかとも思うが、ここには御名とないので違うだろう。神社が初めてできたことかとも思うが、それも違う。天皇の、現し身でいらっしゃるとは存じなかったという言葉は、神名や社はもとからあったようないい方だ。】日本書紀は、4年春2月、天皇が葛城山で狩りをすると、背の高い人が丹谷に現れ、その顔や姿が天皇に似ていたとする。天皇は神と知りながら、どちらの方かと聞いた。相手は、私は現人の神だ、まず王の名をいわれれば答えようといった。天皇が幼武尊と名のると、一事主神と答えた。二人は一緒に狩りをし、一頭の鹿を追い、互いに矢を射るのを譲り、馬を並べて駆けた。言葉は慎み深く、仙人に逢ったようだった。夕方、狩りを終えると、神は来目水まで天皇を送り、人々はみな徳ある天皇だといったという。

【『古事記』本文】また天皇が、丸邇の佐都紀臣の娘・袁杼比売と結婚しようと春日へ出かけた時、道で一人の若い女に出会った。女は天皇の行幸を見て、岡の辺りへ逃げ隠れた。そこで天皇は歌った。
「乙女の入り隠れた岡を、鋤き崩す金の鋤が、五百本もあればよいのに。鋤いてしまえば、隠れる所もなくなるものを。」
それでその岡を金鋤岡と名づけた。

【宣長の注釈】丸邇は氏の名で、前【本書巻22・46丁】に出た。佐都紀臣は個人名で、サツキの意味は五月か。「臣」はかばねである。袁杼比売の名の意味は、まだ分からない。【師は小戸という地名だろうとしたが、戸の音には仮名の「度」を使い、「杼」は使わないので、どうだろう。】この比売は後にも出る。【書紀で春日大娘皇女を産んだ、春日和珥臣深目の娘・童女君というのは、父と娘の名がともに違って伝わった同一人物か。袁杼比売も後の描写から采女だったのではないかと思われ、童女君も元は采女だったとある。】春日は前【本書巻21・40丁】に出る。丸邇臣の本拠は丸邇だが、【土地は本書巻23・75丁で述べた。】春日へ行ったというのは、古い春日は広い地名で、丸邇もその内だったからである。後にも「春日之袁杼比売」とある。「媛女逢道」は、乙女が道で逢う、という意味で、この乙女は特定されていない。【袁杼比売のことではない。】

【宣長の注釈】岡辺は「をかび」と読む。万葉集巻5に、丘辺では鶯が鳴く、巻17に、丘辺から秋風が吹いた、とある。ビとベは通う音で同じ言葉であり、やまび・かはびもある。「逃隠」は、恐れ恥じて隠れたこと。「其御歌」の御は諸本にないが、真福寺本によった。【こうした所は御のない例が多いが、あってもよいだろう。】「をとめの」は乙女の。「いかくるをかを」は隠れる岡よ、という意味で、「い」は発語である。【万葉集巻1にも「山際、い隠るまで」とある。】下の「を」は呼びかけの「よ」に近い。【普通の「を」として、後の鋤きはねるにつないでもよい。後世の感覚では「かくるる岡」でなければ続かないようだが、古語の「隠る」は、かくらむ・かくり・かくると、登る・渡るの類に活用したので、そのまま「かくる」と続ける。】

【宣長の注釈】「かなすきも」は金属製の鋤も、という意味。【「かな」を「なか」とする本は順序を写し誤ったので、延佳本に従った。】高津宮の天皇の歌に「こくは」【木の鍬】とあり、木の鍬があるように木の鋤もあるため、金鋤という名があったのだろう。【契沖が「なかすき」の本に従い、長い鋤の意味で、カはガだろうとしたのは誤りだ。】「いほちもがも」は五百個も欲しい、という意味。チは二十・三十・百・千などのチで、一つ・二つのツと同じく、「いほつ」と同じ意味である。【契沖の五百千という解釈はよくない。】万葉集巻18に「鮑の玉を五百個も欲しい」とある。「すきはぬるもの」は鋤いて払いのけるもので、【スキは「すく」と活用する動詞。】鋤いて崩してしまおうものを、という意味である。契沖は、万葉集巻5の「空を飛ぶ鳥でありたい。都まであなたを送り届け、訪ねて帰って来ようものを」の末句と同じだという。そのとおりだろう。ただ、この「もの」は、何々しようものをというのでなく、直前の金鋤や鳥そのものを指すのかもしれない。応神紀の天皇の歌の「吉備の妹に逢って見たもの」も同じ形か。「ものを」を「もの」とだけいう例は、本書巻38・12丁の若桜宮の天皇の歌「周りを囲う薦も持って来たものを」の所でも挙げた。「はぬ」は、万葉集巻2の「沖の櫂よ、ひどくはねないで、岸の櫂よ、ひどくはねないで」にもある。

【宣長の注釈】一首の意味は、乙女をよく見たいのに岡の向こうへ隠れて見えず、残念に思い、金鋤を五百本も得たい、岡の土を鋤き起こし払いのけ、崩してしまえば、隠れた乙女の姿が見られるのに、ということである。「金鋤岡」の金を全とする本は誤りで、真福寺本・延佳本によった。この岡は金鋤と元から関係したのではなく、天皇が金鋤と歌った岡という意味で名づけた。長谷と春日の間だろうが、詳しい場所は分からない。崇神紀には「和珥武鐅坂」がある。【和珥の地で、鋤の言葉も共通するが、同じ場所とは思えない。契沖は金を全とする本でタケスキと読み、崇神紀を引いて、今の全鋤かとするが、全をタケと読む根拠はあるのか。大和志も添上郡櫟本村の全鋤丘とし、崇神紀とこの歌を引き、「なかすきも」とする。書紀の武をタカとは読めず、全ならなおさらで、さらに那をタの仮名にするのも、ひどいこじつけである。】

【古事記本文】また天皇が、長谷の「百枝槻」と呼ばれる大きな槻の木の下で宴を催していたとき、伊勢国の三重から出仕した采女が、大きな盃を高く捧げて献上した。そのとき、百枝槻の葉が落ち、大きな盃に浮かんだ。采女はその葉に気づかず、そのまま御酒を差し上げた。天皇は盃に浮く葉を見て、采女を打ち伏せ、刀をその首に突きつけて斬ろうとした。すると采女は天皇に「私を殺さないでください。申し上げたいことがございます」と言い、次のように歌った。

【古事記本文・采女の歌。宣長の読み方による】
纒向の日代の宮は、
朝日が明るく照らす宮、
夕日がかげっていく宮。
竹の根が満ち、木の根が広く這う宮。
数多くの土塊を積み、杵で突き固めて造った宮。
(真木を裂くという)檜の御門の、新嘗祭の御殿に生え、
枝を数多く茂らせた槻の木は、
上の枝が天を覆い、中の枝が東の国々を覆い、
下の枝が都の外の国々を覆っている。
上の枝の先の葉は、中の枝に触れながら落ち、
中の枝の先の葉は、下の枝に触れながら落ち、
下の枝の先の葉は、
(鮮やかな衣の)三重の娘、この私が捧げている、
みずみずしい玉の盃へ。
かつて国の初めに浮いていた脂のようなものが、
今この盃に落ちて漂い、水がこおろこおろと固まるように――。
このことこそ、かえって、言いようもなく畏れ多く、めでたいことです。
高く輝く日の御子よ。
このことを語り伝えよう、このことを。

【古事記本文】この歌を歌って申し上げたので、天皇は采女の罪をお許しになった。

【宣長の注釈】「百枝槻」の槻は、和名抄に「唐韻によれば、槻は木の名で、弓を作るのに適する。和名はツキノキ」とある。【字鏡が別の木偏の字に「つき」と読ませるのは、槻を写し誤ったのだろうか。】師の賀茂真淵は、今のケヤキという木の仲間だとする。【ある人によると、今もツキ、またシロケヤキ、シデともいう。杣人は、ケヤキとツキは非常によく似て見分けにくいが、削れば分かり、ケヤキの木目は縦だけ、ツキの木目は縦横にあるという。】万葉集巻2に「立派に立つ、百の枝を持つ槻の木が、盛んに枝を張り、春の葉が茂るように」とある。百枝は枝が多く茂ることだが、ここでは次にも「その百枝槻の葉が落ち」と特定する言い方なので、とくに大きく、「長谷の百枝槻」という名で知られた木だったのだろう。
〔訳注:『字鏡』が掲げる木偏の字は判読できない。「つき」と読ませることと、宣長が槻の写し誤りかとする説明は確認できる。〕

【宣長の注釈】「豊楽」は前に説明した【本書巻32・57丁】。「爲」はキコシメス、またはアスと読む。その理由も前に述べた【巻38・9丁】。槻の木の下で宴をすることは、万葉集巻20に「家持の屋敷の門にある槻の木の下で宴会をした」とあり、そのころまでも続いていた。ほかに天武紀には「多禰島の人々を飛鳥寺の西の槻の木の下でもてなした」、持統紀には「蝦夷の男女213人を飛鳥寺の西の槻の木の下でもてなした」とある。皇極紀には「法興寺の槻の木の下で」、孝徳紀には「大きな槻の木の下に群臣を呼び集めて」、持統紀には「飛鳥寺の西の槻の木の下で隼人の相撲を御覧になった」ともある。【飛鳥寺の西の槻も、とくに大きな木だったと分かる。】

【宣長の注釈】「三重婇」の婇を、諸本は妹と誤っている。延佳本が采女にしたのも、例によって独断で改めたものだ。ここは真福寺本と、もう一本に従い、以後も同様にする。三重は、和名抄に「伊勢国三重郡、みへ」とある土地で、前にも出て説明した【本書巻28・40丁】。この郡には采女郷もある。婇はウネベと読む。その郷名も和名抄が「うねべ」と注し、六帖も平仮名で「するがのうねべ」と書く。古い書物にはウネベと書く例が多い。ベは部の意味で、女という意味ではない。【普通ウネメというのは、部が音便でメになったもので、公卿を「かんだちめ」というのと同じだ。職員令の采女司に「采部六人」とあるのは別のもので、男性であり、采女ではない。「采女部」を略した名である。宮内省式の「大斎……采女司28人」の割注に「官人2人、采部6人、采女20人」とあり、別だと分かる。続日本紀巻26にも、采女司の采部で、采女臣家足という人が出る。ただし、令集解・簾中抄・拾芥抄などが斎宮の役所の中に挙げる「采部司」は采女司のことで、混同してはいけない。】

【宣長の注釈】この古事記はどこも「婇」の一字で書いており、これが古い書き方なのだろう。【玉篇にも婇の字を挙げて「婇女である」とする。後漢書の皇后紀の論には、「さらに美人・宮人・采女の3等級を置いた。いずれも爵位や定められた俸禄はなく、年々の折々の賞賜で賄うだけだった。漢の制度では、いつも8月の算民〔課税のための住民調査〕に合わせ、中大夫を掖庭丞や人相を見る者とともに洛陽の村々へ派遣し、良家の少女のうち、13歳以上20歳以下で容姿が美しく、人相の基準に合う者を調べた。宮中へ連れ帰り、採用してよいか選んでから天子に仕えさせた。迎え入れることを慎重にし、善良で賢い女性を詳しく求めるためである」とある。その注は、采とは選ぶことで、選び取ることから名づけたという。仏典の大智度論に「昔、須陀須摩王がいた……朝に車に乗り、婇女たちを連れて庭園に入り遊んだ」、晋訳の華厳経に「王が道を得たとき、正殿に婇女が取り巻き、七宝がおのずから現れた」とある。これらの婇女も采女のことらしいから、日本の古書で婇と書くのにも根拠がある。婇はもと、采女の二字を一つに合わせた字だろう。】万葉集巻4にも「駿河婇女」とあり、政治要略巻25が引く昌泰3年の興福寺縁起にも「公主・命婦・妹女」とある【妹は婇を写し誤ったのだろう】。しかし律令や日本書紀などが采女と書くため、後世は一般にその二字だけを書くようになった。【後世に婇という表記を知らなくなり、延佳がこの古事記の婇まで全部采女に改めたのは、古いことに疎いためだ。】

【宣長の注釈】ウネベという名は、ウナゲベが縮まったものだ。【ナゲがネに縮まる。】ウナゲとは、物を首の後ろに掛けること。【和名抄に「項は首の後ろ、和名うなじ」とある。】万葉集巻16の「首に掛ける玉の」、【神代の歌の「うながせる」も、ウナゲルを引き延ばした言葉である。】神代紀の「その首に掛けたもの」などがその例だ。万葉の歌が「玉手綱、畝火山」と続けるのも、冠辞考の説明どおり、玉手綱を首に掛けるという意味からウネへ続ける。同じこの例によっても、ウネメのウネがウナゲだと分かる。【允恭紀で「畝火」という言葉が采女と取り違えられたことも、考え合わせたい。師は万葉考でウネベを「氏の女」が略され転じた名としたが、これはたいへんよくない。「うぢのめ」を「うねめ」に縮めること自体も無理があるし、「氏の女」という区別も成り立たない。王族の女性を除けば、氏に属さない女性などいるだろうか。】

【宣長の注釈】采女は主に天皇の食事に仕え、首に領巾を掛けるので「嬰部」、ウナゲベというのである。【食事を供する際にとくに領巾を掛ける理由は、領巾がもともと、振って虫などを払うために身につける物だったからだ。食事のときなどにそのための備えとしてとくに着用したのが、やがて礼服になった。上代に虫を払うため領巾を振ったことは、本書巻10・37丁で述べた。】大祓の詞の「領巾を掛ける伴の男たち」も、主に采女などをいうと師が説明したとおりだろう。【采女の領巾についての天武紀と続日本紀巻3の記事は、後で引く。】

【宣長の注釈】采女の記事が初めて見えるのは、仁徳紀40年の采女磐坂媛である。ただし制度がこのとき始まったのではなく、上代からあったのだろう。【帝王編年記などが履中天皇の代から始まったとするのは誤解だ。履中紀で、倭直吾子籠が妹の日之媛を献上して死罪を許されたところに、「倭直らが采女を貢ぐのは、おそらくこのとき始まったのだろうか」とあるのを、取り違えたのである。また倭姫命世記にも采女は出るが、その記事は信用しにくい。】

【宣長の注釈】采女が主として天皇の飲食に仕えたことは、この後で述べる。【履中紀にも「小墾田の采女に命じ、玉田宿禰に酒を与えさせた」、雄略紀にも「倭の采女の日媛に、酒を捧げて出迎えさせた」とあり、後宮職員令でも、水司と膳司の下に采女が置かれる。】

【宣長の注釈】孝徳紀には、「采女は、郡の少領以上の者の姉妹や娘で、容姿の整った者を差し出させる【従う男1人、女2人】。200戸を采女1人の食料に充て、庸として納める布や米は、次丁に準ずる」とある。後宮職員令にも「諸氏は氏ごとに……采女を差し出す場合は、郡の少領以上の者の姉妹や娘で容姿の整った者を、すべて中務省に届け出て天皇に奏上する」とある。【軍防令には「采女を差し出す郡は、兵衛を差し出す例の対象としない」とある。】これらは少し後にできた制度だろう。上代は必ずしも同じではなかったにせよ、おおむねこのようだったのだろう。【雄略紀には百済から采女を献上したことも見える。】

【宣長の注釈】采女は姓で呼ばず、国や郷の名を取って、どこそこの采女と呼ぶのが習慣である。【古い書物はみなそうで、後世も同じだ。源氏物語にも「肥後の采女」などとある。】

【宣長の注釈】采女の総数は書物に見えない。後宮職員令には「宮人」とあり、令義解が「役所に仕える女性の総称」と説明するので、この中に采女も含まれるだろう。人数は決まっていなかったのか。同令では水司の下に6人、膳司の下に60人とあるが、総数ではあるまい。采女司式の「采女47人に宮城近くの土地を与える」という記事も、総員とは思えない。
【続日本紀巻2には、大宝2年、筑紫の7か国と越後国に、采女と兵衛を選んで差し出すよう命じ、ただし陸奥国は除いたとある。これらの国は遠いので、それまで貢いでいなかったのだろう。また神護景雲2年には、常陸国筑波の采女・壬生宿禰小家主、上野国佐位の采女・上野佐位朝臣老刀自らが、本国の国造に任命されている。宝亀2年には因幡国高草の采女・国造浄成女なども見えるが、これは通常とは違う例だろう。類聚国史には、大同2年5月に諸国から采女を貢ぐことをやめ、同年11月にも同じ命令を出したとあり、ただし云々として「五位以上に叙せられた者、および雑色の役に補された者は、采女の名から除く」とある。弘仁4年正月には、伊勢国壱志郡・尾張国愛智郡・常陸国信太郡・但馬国養夫郡に対し、郡司の娘や妹のうち、16歳以上20歳以下で、容貌が整い、采女にふさわしい者を各1人差し出すよう命じている。後世にも、台記の久安6年「女御入内別記」の禄法の所に「御膳宿の采女32人」とあり、このころも大勢いたと分かる。禁秘御抄には、「食事に陪する采女は、当然いるべきものである。近ごろは次第に衰え、その極みに達している。ぜひ対処すべきである」とある。】

【宣長の注釈】職員令には、「采女司は、正1人【采女などのことを調べ、取り締まる】、佑1人、令史1人、采部6人、使部12人、直丁1人」とある。

「大御盞を差し上げた」の「盞」は、師は「うき」と読んだ。歌によれば、その読みもあり得るが、ほかの箇所の例を広く考えると、やはり「さかづき」と読むべきだと思う。上巻の八千矛神の段、巻十一の四十六葉にも、后が大きな酒杯を取り、近寄って差し上げたとある。中巻の倭建命の段にも、美夜受比売が大きな酒杯をささげて献じたと見える。『続日本後紀』巻五の遣唐使への餞別の宴の記事では、大使の常嗣朝臣が席を離れて進み、二声で采女を呼んだ。采女は天皇の酒杯を持ち上げて、食膳に仕える采女へ渡した。常嗣朝臣がひざまずいて「平」と唱えると、天皇は杯を上げ、続いて酒を勧める役が進んで、常嗣朝臣に酒を賜ったとある。『西宮記』の陪膳の規定にも、節会の食膳は采女が奉仕するとある。また、延長二年正月二十五日、甲子の日、院が内裏で子の日の宴を催した際には、天皇は南殿に出御し、中務卿親王が席を離れて立ち、采女を呼んだ。采女は「はい」と答えて進み、酒を運ぶ。食膳に仕える采女が杯を上げて献じようとすると、親王は続けて「平」と唱え、天皇は杯を取って飲み終え、「精」と称した、と記される。

「杯に落ち葉が浮いたことを知らなかった」のは、顔を伏せ、目より高く杯を上げて献じたので、見えなかったのだろう。「猶」は、改めるべきことを改めず、そのままにしている意味で、今の言葉の「やはり」に当たる。昔は杯に酒を盛って献じたのである。「看行」という言葉は、中巻の倭建命の段、巻二十七の五十三葉で詳しく述べた。「その采女を打ち伏せた」というのは、慎みを欠き、粗略で怠慢だったことを、たいへんお怒りになったのである。「應白事」の「白」は、旧刊本や別の一本などでは「日」と誤り、延佳本では「曰」とするが、今は真福寺本に従った。

「まきむくの、ひしろのみやは」は、「纏向の日代の宮は」という意味である。この宮については、中巻の巻二十六、三葉で述べた。これは景行天皇の宮の名なのに、雄略天皇のこの時代に、そのように歌うのは不思議である。ここは長谷の槻の木の下の宴なのだから、その木を歌うはずだし、宮についても長谷の朝倉宮をいうはずである。昔の治世の宮を持ち出すのは分からない。そのため、この段の出来事全体が、もとは景行天皇の時代の話で、混乱して今の治世の出来事として伝わったのかとも思うが、そうではないだろう。

あるいは、この歌の「下枝は鄙を覆へり」までが、景行天皇の時代に、宮にある名高く美しい槻の大樹をほめた歌で、それが有名な歌として伝わっていたために取り出し、今の長谷の百枝槻をその木になぞらえて、後半を新たに作り足して歌ったのだろうか。あるいは、日代宮の槻は、名高く美しい木の典型として語り伝えられた大木だったので、今の百枝槻をその木そのものとして表現し、初めから新しく作った歌でもあり得る。契沖が、西国の熊襲などになぞらえたとする説はよくない。一方、景行天皇の時代に、食膳を担当する者が酒杯を忘れたのに、おとがめがなかったという話を挙げ、今回、杯に槻の葉が落ちて浮いたのに気づかなかったのもそれと似るため、かえって縁起のよいこととして歌い直そうとしたのだ、という説明は、「盞」をわざわざ「うき」と歌ったことなどにも理由が通り、面白く、そうとも思える。

「あさひの、ひてるみや」は、「朝日が照る宮」という意味である。上巻の「この地は、朝日のまっすぐ差す国、夕日の照る国」という箇所、巻十五の七十八葉と照らし合わせてほしい。「ゆふひの」は「夕日の」である。「ひがけるみや」は、日が陰る宮をいう。「がける」は、日光が差していたのが差さなくなり、陰になることを、中世の歌で「かげろふ」、今の言葉で「かげる」という、それに当たる。ただし、「が」を濁らせ、「け」を清音にするのは古い音の変化で、同じ例がいくつもある。上巻の豊久士比泥別の注、巻五の十四葉で述べたとおりである。契沖は「日が隠れる」意味とした。確かに龍田の風神祭の祝詞にも「夕日の日隠る所」とあるが、「隠れる」を「がける」とはいえないので、やはり「隠」ではない。また、ある人の「日影入り」という説は、とりわけよくない。

「たけのねの」は「竹の根の」、「ねだるみや」は「根が十分に伸び満ちる宮」、「このねの」は「木の根の」、「ねばふみや」は「根が広がる宮」という意味である。『万葉集』巻三にも、「磯の上に、根ばふむろの木」とある。この四句は、竹や木の根によって土地が堅固であることを祝うのだろうか。それとも、竹の根のようにすべてが満ち足り、木の根のように長く久しく栄えるよう、祝うのだろうか。

「やほによし」は「八百土」で、「よし」は添える助詞である。『冠辞考』にも見える。契沖が「よし」を「吉」とするのは、不十分な説である。そもそも土は数でいうものではないのに、「八百」というのはなぜか。もちろん、厳密な数でなく、量が多いことをこのようにいうのは普通だが、ここはそれでもないだろう。宮の垣を築く時、粘土を適当な大きさに固めたものを、数多く次々と並べて積み重ねるからだろう。また、垣だけでなく、宮の敷地全体も、そのように固めるのかもしれない。

「いきづきのみや」は「杵築の宮」で、最初の「い」は語頭に添えた音である。「杵築」とは、杵で突き固めて築くことをいう。『出雲国風土記』の出雲郡杵築郷の条に、天下を造った大神の宮を奉るために神々が集まり、宮の場所を杵で突き固めて築いたので、「きづき」という、とあるようなものだ。先の「朝日の」からここまでは、日代宮をほめたたえている。

「まきさく」は「真木裂く」で、檜にかかる枕詞である。『冠辞考』にも見える。「ひのみかど」は「檜の御門」という意味だ。師は、ほかに「高光る、日の宮人」「日の御門」という例があるので、ここも真木・檜から「日」へ意味を移して掛け、「日の御門」だといった。しかし、その意味なら単に「高光る」といえばよく、どうして「真木裂く」というのだろう。『万葉集』の「日之御門」は、例のように「日」の字を音に借りただけとも考えられる。また巻五には「高光る日の大御朝廷」とあるが、それは比較的後の歌なので、檜を日の意味に取り替えて詠んだともいえ、古くは「日の御門」という言い方がなかった、とすることもできよう。それでも、すぐ後の天皇の歌に「高光る日の宮」とある以上、「日の御門」ともいえたことは疑えない。結局、古くから「檜の御門」と「日の御門」の両方があり、それぞれ別の表現で、一つの言葉ではなかったのである。したがって「真木裂く」というここは、単に「檜の御門」で、「日」の意味はない。

「にひなへやに」は、師が「新嘗屋に」だとするのがよい。契沖が、最初の「に」を前の句の末尾に付けて、残りを「引き並べた屋」かとするのは誤りである。天皇が新穀を召し上がる新嘗祭の殿舎のことで、上巻の「大嘗を召し上がる殿」と同じである。新嘗については、そこで、巻八の六葉に詳しく述べた。

「おひたづる」は、生え立っていることをいう。「ももだる」は「百足」で、次の句の「枝」にかかり、枝が数多く、十分に茂っている意味である。応神天皇の歌に「ももちだる、やには」とある箇所、巻三十二の二十九葉と比べてほしい。「つきがえは」は「槻の枝は」で、まず枝全体をいい、その後、上・中・下の枝に分けて述べる。「ほつえは」は「秀つ枝は」、上の方の枝という意味である。

「あめをおへり」は、「天を覆っている」という意味である。契沖が「おへり」を「負う」とするのは誤りで、延佳も師も「覆へり」としたのがよい。ただし延佳が、助詞の「を」を「覆ふ」の最初の「お」と考えたのは、音仮名の使い方を知らないための誤りである。「袁」は助詞の「を」だ。「おほへり」というべきところを、「ほへ」を縮めて「へ」といっている。天を覆うとは、宮殿を「天の御蔭」「日の御蔭」などというのと同じく、天を覆う屋根になる意味である。「天」に当たる語を「空」として、空を覆えるほどの袖がほしい、などと詠む歌もある。
〔訳注:例歌の上句「天の處空に」に相当する字形は判読が確定していない。ここでは空を覆うほどの袖を望むという趣旨を訳した。〕

「なかつえは」は「中つ枝は」、「あづまをおへり」は「東国を覆っている」という意味である。東方の国を「あづま」と呼ぶ由来は、中巻の倭建命の段、巻二十七の八十二葉に出る。「鄙」という語には東国も含まれるのに、別に東国を挙げるのは、ただ、上・中・下の三つの枝に分けて、それぞれの覆う範囲をいうためだけである。そもそも歌は、そこまで物事の理屈を突き詰めて述べるものではない。事実に反せず、道理に背くことでさえなければ、思い浮かぶまま広く述べ、言葉を美しく整えるのがふさわしい。契沖は、わが国では東国は畿内の次に位置づけられ、七道を数える時も、東海道を五畿内の次にするためだという。また『古今集』の東歌の注でも、豊城命のことなどを引き、東方の国を特に別に挙げる理由をいうが、どれもよくない。したがって、「鄙」のほかに西国をいわず東国を挙げることに、特別な意図や理由があるわけではない。

「しづえは」は「下枝は」で、後では「しもつえは」ともいう。上枝・中枝・下枝は、どれも先に出た。「ひなをおへり」は「鄙を覆っている」という意味である。都の外なら、どこでもまとめて「ひな」という。『日本書紀』の神代の歌にも、「あまざかる、鄙つ女」とある。「ひな」の語源について、古い説では「日がない」こととし、師は「田居中」、または「日の下」といったが、いずれもよい説明とは思えない。こうして天、鄙、さらには東国までいうのに、都をいわないのは、槻の枝が覆う範囲の広さ、遠さを表しているからである。遠い所だけを挙げ、近くの都の中はいうまでもないので省く、その点に趣がある。契沖は、「ひな」とは下界のことで、畿内と東海道の外を下界になぞらえて呼ぶのか、というが、どれも誤りである。下界とする根拠もなく、東海道を除いて、そこは鄙でないとすることもできない。東国を別に挙げることから出た説だが、かえってよくない。また「あめ」を畿内になぞらえたとするのも、先に述べたとおり、よくない。

「ほつえの」は「秀つ枝の」、「うらばは」は「枝の先の葉は」という意味である。先端を「うれ」とも「うら」ともいうのは、普通のことである。「おちふらばへ」は、落ちて触れることをいう。契沖が、降り落ちる意味で、「降る」を「ふらばへ」というのは古語だとするのは誤りである。「ふれ」を「ふらばへ」というのは、音を伸ばして活用させた言葉で、「らばへ」を縮めれば「れ」となる。『万葉集』巻二には、上の瀬に生える玉藻が、下の瀬に流れ触れる、という歌がある。今の本は最後の「觸經」を「ふれふる」と読むが、ここでの句によれば、「ふらばへ」と読むべきことは明らかである。また、『万葉集』が「觸」と書くことからも、触れる意味だと分かる。「經」は音を借りた字である。

「しもつえに」は「下枝に」で、「しづえ」と同じである。契沖が、先の句に合わせると「も」は余分だろうとするのは、かえってよくない。その考えでは「づ」と「つ」の違いまで取り違えている。このように、同じ言葉を二度いう時、少し形を変える例は、古い歌に多い。上巻の八千矛神の歌で、「ありときかして」といい、また「ありときこして」というような例である。

「ありぎぬの」は、三重にかかる枕詞で、「鮮やかな衣の」という意味である。この点は『玉勝間』巻六で述べた。「みへのこが」は、「三重の娘が」で、歌っている娘自身を指す。衣から「三重」へ続くのは、表・裏・中の重なりの三つだからか、それとも特定の理由なく三重というのだろうか。『万葉集』巻九には、「わが畳、三重の河原」と続ける例もある。「ささがせる」は、差し上げていることをいう。「賀」は多くの本で「加」とするが、今は真福寺本と延佳本に従った。「ささげる」というところをこのようにいうのは、「立つ」を「立たせる」、「行く」を「行かせる」という類の活用の仕方である。

「みづたまうきに」は、「みずみずしい玉の杯に」という意味である。「みづ」が「玉」にかかるのか「杯」にかかるのかは、どちらでもよいだろう。また、玉で作った杯なのか、「玉」は単に杯をほめる言葉なのかもしれない。『日本書紀』の景行天皇の巻には、十八年八月に的村へ着いて食事をしたが、その日、食膳の担当者たちが杯を忘れたので、当時の人々が杯を忘れた場所を「浮羽」と呼び、今はなまって「的」という、昔の筑紫の言葉では杯を「うきは」と呼んだ、とある。『筑後国風土記』にも、昔、景行天皇が国々の巡行を終えて都へ帰る時、食膳を担当する者がこの村で酒杯を忘れ、天皇が「ああ、惜しい、私の酒杯よ」といったため、「うきはや郡」と呼び、後の人が誤って生葉郡と呼ぶ、とある。土地の言葉で酒杯を「うき」というとの注もある。「怠」は「忘」の誤りだろう。杯を「うき」ということは、これらに見える。ただし、『日本書紀』のいうように筑紫の言葉で、ほかの国では使わない名なのだろうか。ほかには例が見えない。それなのに、ここで特にこの名を使うのは、契沖のいうように、景行天皇のあの出来事を念頭に置いたためなのかもしれない。
〔訳注:景行紀引用の「今謂的訛也」と、風土記引用の「宇枳波夜郡」の一字には字形の留保がある。杯を忘れたことにちなむ地名の由来と、筑紫の語を説明する趣旨は確認できる。〕

「うきしあぶら」は、「浮いていた脂」である。神代の初めに、国土がまだ若く、浮いた脂のように漂っていた、とある、その脂のようなものを、そのまま脂として表現するのである。理由は次に述べる。したがって、前の句の「玉の杯に」は、この一句を飛び越して、後の「落ちなづさひ」へ続く。「浮いていた」とは、神代の初めに浮いていたということで、今、酒杯に落ち葉が浮くことをいうのではない。混同してはいけない。契沖が、この意味を知らず、濃い酒が脂の凝ったものに似ることをいうとしたのは誤りである。『和名抄』には「酒膏」を「さかあぶら」とし、『江家次第』の大臣家の大饗の条には、公卿たちが集まって弁官・少納言の席で少し飲むことを「待油」といい、中関白の時には細殿で待膏があった、などとする。しかし、これらはここと関係がないので、取り違えないでほしい。ただし、酒に「待油」という言い方があるのは、もとはこの歌から出たことなのかもしれない。それは分からない。

「おちなづさひ」の「おち」は落ちること、「なづさひ」は浮くことをいう。この言葉は、水に浮くことにも、底に沈むことにも、渡ることにも使い、いずれも水に触れることを表す。『万葉集』を見れば分かる。『玉勝間』でも詳しく述べた。昔から学者たちは皆、この言葉を誤って解釈している。ここは水でなく杯の酒に浮くのだが、酒も水の類なので違いはない。浮く意味の例には、『万葉集』巻三の「黒髪は、吉野川、沖になづさふ」、巻四の、鳥のようになづさって行くという歌がある。これは水鳥が水に浮かんで進むように、という意味である。巻十二の「にほ鳥の、なづさひ来しを」など、ほかにもある。ここまでの三句は、神代の初めに空中へ浮いていた脂が、今この玉の杯に落ちて浮かんだ、と、槻の落ち葉を縁起よくたとえて表現しているのである。言葉のつながりをよく味わって理解してほしい。ここは注意しなければ混乱しやすい。
〔訳注:巻三の引用末「奧名豆颯」の字形は判読が確定していない。宣長が水に浮く意味の例として挙げる趣旨は確認できる。〕

「みなこをろこをろに」は、「水がこをろこをろと凝って」という意味で、前の「浮いていた脂」と照らし合わせて読むべきである。上巻には、天つ神々が伊邪那岐命・伊邪那美命の二神に、この漂う国を整えて固めよと命じ、天沼矛を与えて委ねたとある。二神が天浮橋に立ち、矛を差し下ろしてかき回すと、塩が「こをろこをろ」となった、とある、巻四の十一葉の箇所である。これは、この国土ができ始めた、たいへん尊く、めでたい出来事なので、今、杯に落ち葉が浮くことをそれになぞらえて、祝い申し上げている。「みな」は、もとの話では塩、つまり海水としているのを、ここでは酒なので「水」に替えていったのだろう。また「みな」は「御魚」で、酒肴として献じる意味に取りなしたのかとも思うが、そうではないだろう。契沖が「こをろこをろ」を槻の葉の落ちる音とするのは、もとの話の「鳴」が音を借りた字だと知らず、音が鳴る意味だと考えたための誤りである。「みな」を「皆」とするのもよくない。師も「皆」として、酒も葉も一緒に、という意味にしたが、ここは「皆」というところではない。ここで言いさした表現には、その後に凝って淤能碁呂島となる、これこそ国土が生まれ出る始まりなのだ、という意味を含め、祝っているのである。

【宣長の注釈】「許斯母」は「これしも」である。「阿夜尓加志古志」は、ここでは尊く、よいという意味を兼ねている。前の句の「しも」は軽く、「かえって」という意味を含む。今、酒杯に落ち葉が浮いているのに気づかず、そのまま献上した過失が、かえって尊く、めでたいことなのである、と申し上げている。「多加比加流」「比能美古」は、前に出た。「許登能、加多理碁登母、許袁婆」は、上巻に出た。【『伝』巻十一・十六葉。】「献出」について。ここは、天皇に向かい、直接指し示して申し上げるのである。「この歌を献じた」というのは、何かに書いて差し上げたようにも聞こえるが、この場面を考えると、そうではない。ただ歌い上げてお聞かせすることをいう。「その罪を許した」について。歌の形も、詠んだ趣向も、たいへん優れて美しいので、手厚く褒美を与えたことは、もっともなことである。

【古事記本文】そこで、大后が歌をお詠みになった。

【大后の歌。宣長の解釈による】大和の、この高市〔都〕の、小高い高みにある新嘗祭の殿に、生い茂っている、葉を広く茂らせた、枝葉豊かな椿。その葉のようにゆったりと、その花のように照り輝いていらっしゃる、高く輝く日の御子に、豊かな御酒を献上なさい。このことを語り伝えよう、このことを。

【古事記本文】続いて、天皇が歌をお詠みになった。

【天皇の歌。宣長の解釈による】ももしきの、大宮に仕える女たちは、鶉鳥のように領巾をかけ、まなばしら〔セキレイの別名とされる鳥〕のように裳の後ろを並べ、庭の雀のように群れ集まって座り、今日は、酒宴を楽しんでいるのだろうか。高く輝く日の宮の人々よ。このことを語り伝えよう、このことを。

【古事記本文】この三首は、天語歌である。そして、この宴で、その三重の采女をほめ、多くの褒美を与えた。

【宣長の注釈】大后は若日下王である。「夜麻登能」は「大和の」。「許能多気知尓」は「この高市に」である。師は、これは高市郡のことではなく、都をほめていったのだ、とした。一般に「市」は四方から人が集まる場所をいうので、【必ずしも、物を売る人が集まる所だけの名ではない。】都もほめて「高市」といえる。神代、高天原についても「天の高市に八十万の神を集めた」とあり、人が集まる所をいう名である。大和国の高市郡も、神武天皇の畝火宮の地に関連した名だろう。【ただし、この郡名は、高市御県という場所があることから見れば、そこから出た名のようにも思える。しかしそうではなく、その御県は高市の内にある御県という意味で、高市はやはり都による名だろう。この「高市」を、契沖が朝倉宮のある所の市場だとしたのは、後世の「市」という名にとらわれ、都とは別に市場というものがあると考えた誤りだ。また『大和志』が、この高市を城上郡柳本村とするのも、例によって信じがたい。】「古陀加流」は「小高くある」である。【本来は「古陀加々流(こだかかる)」というところを、同じ音が重なる場合は一つ省く例によって、こういったのである。】山のように高いのではなく、平地の中で高い所なので「小高い」という。今の言葉でも普通にいう。【契沖も師も「木高る」といったが、『古事記』の仮名遣いでは、「木」には「許」を書き、「古」は書かない。「小」には必ず「古」を書く。】

【宣長の注釈】「伊知能都加佐」は「市の高い所」である。師は「つかさ」は最も高い所をいう、とした。契沖は、『万葉集』には山のつかさ、野のつかさ、岸のつかさなどと詠み、高い方をいうのだろう、水のかさなどというのも「つかさ」の初めを省いたものだろう、といった。一般に「官司」というのは、元は最も高い所をいう言葉から出たのだろう。それなのに契沖が、「つかさどる」の意味で高い方をいうのだろうとしたのは、言葉の本末が逆である。「つかさどる」は「官司」から出た言葉で、派生したほうなのだから。また水のかさなど、物の「かさ」は、実際に「つかさ」から出た言葉なのかもしれない。【「かさが高い」「かさがない」などと、普通にいう。】「野山司」は『万葉集』巻十に、「野豆可佐」は巻十七と巻二十に、「涯之官」は巻四に見える。いずれも、その高い所をいうと思われる。ここでいう「市」も、先の高市である。【別に、物を売る市場のことではない。】
〔訳注:「野山司」「野豆可佐」「涯之官」の引用先の巻は読めるが、四か所の細字の丁数は判読できない。〕

【宣長の注釈】「尓比那閇夜尓」は、前の歌にあったのと同じである。これも大宮の中で、天皇が新嘗の食事を召し上がる殿を指すが、前の歌と、それに先立つ言葉を変えて、このように詠まれたのだろう。【高市の中で、小高く、最も高い所は、必ず大宮だからである。たとえ実際に最も高い土地でなくても、大宮は必ずこのようにいうものだ。】「淤斐陀弖流」からの三句は、高津宮の段の、大后の歌に出る。【『伝』巻三十六・十七葉。】「曾賀波能」は「その葉の」である。ここからの四句も、その高津宮の段の歌に出る。ただし、そちらは「その花の、照りいまし、その葉の、広りいますは」とある。【『伝』巻三十六・十八葉。】「多加比加流」「比能美古尓」は前に出た。「登余美岐、多弖麻都良勢」は、上巻の須勢理毘売命の歌に見える。【『伝』巻十一・五十二葉。】ここでは前に「日の御子に」とあるので、酒を献上せよ、と人に命じている。「毛々志紀能」は「大宮」の枕詞で、『冠辞考』に見える。「淤富美夜比登波」は「大宮人は」であり、大宮に仕える人々をいう。【「宮人」という時の「ひ」は清音である。後世、濁音の「び」とするのは、昔の読み方と違っている。】

【宣長の注釈】「宇豆良登理」は、【延佳本が「宇」を「可」とするのは、いつもの、自分の浅い考えで改めた誤りである。『古事記』には「可」を音仮名として使った例がない。諸本はすべて「宇」としている。】鶉鳥のことである。【普通は「うづら」とだけいい、「鳥」とは付けない。しかし、普段はそういわない名にも、「何々鳥」「何々魚」「何々の木」などと付けていう例がある。『古事記』の「和邇魚」や、『万葉集』の「鴨鳥」など、その例はほかにも多い。】『和名類聚抄』には「鶉、和名は宇都良」とある。【ある説では、「うづら」は朝鮮語で、今の朝鮮でも「もづら」という、とする。日本の言葉が、あちらの国にも伝わったのだろう。延佳本がこれを「可豆良」としたのを採用し、師も「蔓」と解し、「登理」は取り掛ける意味だ、といったのは誤りである。仮名のことをあれほど大切だといっていたのにふさわしくなく、『古事記』の仮名遣いの例にも気づかなかったのは、どういうことか。しかも「蔓」では、次の二つの鳥の名を挙げてたとえている、その例とも違ってしまう。】

【宣長の注釈】「比禮登理加気弖」は「領巾を取り掛けて」である。領巾という物の由来は、上巻の蛇比礼のところで述べたとおりだ。【『伝』巻十・三十七葉。】これを振ることは、『日本書紀』欽明天皇紀の歌に「韓国の、城の上に立って、大葉子は、領巾を振るよ……」、『万葉集』巻五・二十葉に「松浦潟、佐用姫という娘が、領巾を振った……」などと見える。昔は女性が一般にこれを掛けていたと思われ、『日本書紀』崇神天皇紀には「埴安彦の妻、吾田媛は、大和の香山の土を取り、領巾の端に包んで……」とあり、『万葉集』巻十三・二十八葉には「浜菜を摘む海人の乙女たちが、まとっている領巾も照り映えて……」などとある。『皇太神宮儀式帳』には「生絹の御比礼八端」【裾の長さはそれぞれ五尺、幅は二幅。】とあり、『外宮儀式帳』にも「生絹の比礼四具」【長さはそれぞれ二尺五寸、広さは生地の幅のまま。】とある。色は、みな白かったのだろうか。『万葉集』の歌には「栲領巾の白」とも「細領巾の鷺」とも続けて詠んでいる。『和名類聚抄』には「領巾は女性の首の上の飾りである。『日本紀私記』には比礼という」とある。『日本書紀』天武天皇紀には「十一年三月、詔して、膳夫・采女たちの手纏(腕飾り)と肩巾を、いずれも着けてはならないとした」とある。『続日本紀』巻三には「慶雲二年四月、これより前、諸国の采女の肩巾を調えるための田は、令によって廃止されていたが、この時、元のように戻した」とある。『延喜式』縫殿式の年中の御服、中宮の料には「領巾四条の料、紗三丈六尺」【一条につき九尺。】とある。『北山抄』の内宴の条には「陪膳する女蔵人の比礼の料の羅については、前年に織部司に命じる。一人につき一丈三尺」などとある。【また『延喜式』の中に「帔」とある物も、比礼のように思われるが、どうだろう。よく調べるべきである。漢籍でいう「帔」は比礼ではない。取り違えてはいけない。】『枕草子』にも、采女の装束に比礼を掛けたことが見える。大殿祭の祝詞に「比礼掛くる伴緒……」とあり、大祓の詞にも同じ表現がある。この前に「鶉鳥」といった意味は、契沖が、鶉のまだら模様が肩から胸まであるのを、領巾を掛けた姿にたとえたのだ、といったとおりだ。【実際、この鳥には首から胸にかけて白い斑がある。領巾を掛けた姿は、それに似ていたのだろう。】

【宣長の注釈】「麻那婆志良(まなばしら)」は、セキレイの別名だという。『和名類聚抄』には、この名は見えない。【和名は「尓波久奈布理(にはくなぶり)」、『日本紀私記』にいう「止豆木乎之閇止里(とつぎをしへどり)」とあるだけだ。】『新撰字鏡』には、「鴡」の訓に「みさご」、また「まなばしら」、「鴗」の訓に「かり」、また「まなばしら」、さらに判読できない鳥偏の字の訓に「つつまなばしら」などとあるが、どれも詳しくはわからない。

【宣長の注釈】「袁由岐阿閇」は「尾を行き合わせる」である。「あへ」は「あはせ」を縮めた形で、「あひ」とは違う。【一般に、「ひ」と活用する語を「へ」という時には、そうさせるという意味を表すものが多い。「集う」を「つどへ」というのは集める意味、「添う」を「そへ」というのは添える意味、「浮く」を「うかべ」というのは浮かせる意味である。この類は多い。】ここで「行き合う」といっても、あちらとこちらから向かい合って出会うのではない。並び連なることをいい、「白鳥の行き合う間」などという「行き合う」と同じである。あの「まなばしら」という鳥が群れている、その尾が多く並ぶのをたとえにしている。領巾を掛けた宮中の女性たちが大勢並んで座り、その裳の後ろに長く引かれた部分が、並び連なっている様子をいっているのだ。【また、前の句は女性、こちらは男性が裾を引いて座る様子なのかとも思うが、そうではないだろう。前の「比礼取り掛け」のところには「て」があるが、ここの「由岐阿閇」の下には「て」という語がない。つまり、上から一続きであって、女性と男性とを並べて述べた形ではない。しかも、男女が混じって座り、宴をするはずもない。したがって、これはただ女官たちの様子をいったのであり、男性の官人の様子ではないだろう。この句について、契沖は「セキレイは尾を引いて巧みに歩くので、宮中の女性が裳の裾を長く引いてもつまずかず、よく立ち居振る舞うことにたとえたのだろうか」というが、それはひどい誤りである。次の句に「座って」とあるのだから、巧みに歩くことにたとえる理由はない。そのうえ、尾を引いてうまく歩くことを、どうして「尾行敢」などといえよう。そのような拙い言い回しがあったとは、とても思えない。】

「尓波須受米」は「庭の雀」。雀はよく庭に降りて群れるので、庭雀とおっしゃったのだろう。これも前の二例と同じく、次の句を導く序である。
「宇受須麻理韋弖」は「大勢が群れ集まっていて」。ウズは群れることで、上巻の「うじたかれ」のウジと音が通い、同じ意味だ。ジとズは、ことに近く通じる音である。ウジについて前に述べた説明(伝六・十三葉)を考え合わせれば分かる。蛆も多く群れるという意味の名だろう。小さな虫を俗にウズムシというのも、ウジムシと同じである。スマリは『日本書紀』の「八坂瓊の五百箇の御統、御統をミスマルという」と同じ言葉で、大勢が集まることだ。ミスマルは玉を多く貫いて連ね、集めたものをいう。『万葉集』巻十・巻十八の「白玉の五百箇集ひ」も同じである。したがってこの句は、庭の雀のように大勢が群れ集まっている、とおっしゃるのだ。
契沖は、スとクが同じ韻なので「蹲っていて」だといい、師も受は豆の誤字で「うづくまり」だとして、祝詞の「集侍」を挙げて同じ言葉とした。しかしどちらも誤りである。まず、うずくまる姿のたとえに庭雀はふさわしくないし、婦人がうずくまっているはずもない。また祝詞の「集侍」もうずくまる意味ではない。

「祁布母加母」は、契沖のいうように「今日だろうか」。古い歌のこの言葉はどれもその意味で、二つのモはいずれも助辞である。
「佐加美豆久良斯」は、宴で楽しむことだ。『万葉集』巻十八には「橘の下を照らす庭に、御殿を建てて、酒宴をしていらっしゃる、わが大君よ」、また「酒宴をして遊び明かすけれど」、巻十九には「酒宴をして栄える今日の、なんと尊いこと」とある。この言い方の意味について師は、「『万葉集』巻二十の『みづく白玉』のミヅクと同じで、酒に深く浸って酔うことだ」といった。今考えると、巻十八の「海を行くなら水に漬かる屍」という言葉も水に浸ることなので、酒に浸るという意味でいうのだろうか。この「水漬く屍」は『続日本紀』天平二十一年の宣命にもある。俗にも酒が大好きでしばしば飲む者を、酒に漬かっているという。

さらに別に考えると、『神名帳』には「造酒司に鎮座する酒殿の神二座、酒彌豆男神・酒彌豆女神」とあり、『姓氏録』酒部公の条には、「大鷦鷯天皇の御代、韓国から兄・曾々保利、弟・曾々保利の二人が来た。天皇が何の才があるかと聞くと、酒造りの才があると答えた。御酒を造らせ、麻呂には酒看都子、山鹿比咩には酒看都女の号を授け、酒看都を氏とした」とある。この文章の刊本には誤字があるので古本に従った。
これらのサカミヅは酒そのもののことだ。その意味は「栄える水」だろう。サケとだけいう名は、ミヅを省いたものだろう。師も、サケという名は栄えることで、飲むと心が栄えるからだといった。こうして宴をするのをサカミヅクというのは、「栄水飽く」、酒を満足するまで飲んで楽しむことかもしれない。「らし」は推測する言葉である。

「比能美夜比登」は「日の宮人」で、前の「大宮人」と同じだ。天皇は日の御子なので、すべてを日の神になぞらえて申し上げる例に従い、大宮も日の宮という。『万葉集』巻一に「日の御門」、巻五に「高光る日の御朝廷」などもある。この宮人は宮女たちを指しておっしゃる。
この歌をここに載せるのは疑わしい。「今日もかも」のカは疑問、「らし」は推測で、目の前の様子を詠んだ言葉ではないから、槻の下の宴にいて、前の歌と同じ時に詠んだとは思えない。同じ宴で、宮女たちが隔ての向こうにおり、そちらで宴をする気配をこちらから聞いて推測した、とも考えてみたが、それでも「今日もかも」は通じにくい。
思うにこれは、ある時後宮で女たちが宴をしていたのを、天皇が別の殿舎から思いやって詠んだのだろう。前の歌とは違う時の歌が混じったのではないか。その理由は、後に三首とも楽府で同じ天語歌の部となったため、前の二首に引かれて、この歌もここに入って伝わったのだろう。同様の例はある。神代巻の「あまざかる……」が「あめなるや、おとたなばたの……」と同じ時の歌として伝わるのも、同じ夷振の部だったための混同だ。このことはその歌の箇所、伝十三に詳しく述べたので考え合わせてほしい。

「天語歌」は「余り言葉のある歌」の意味だろう。三首とも、末尾に「ことの、かたりごとも、こをば」という三句が添わり、歌の意味の外にある余分な言葉だからである。
『万葉集』には朝廷を天になぞらえて「ひさかたの都」と詠み、都人を「天人」ともいう例があるので、公の宴の歌だから天語歌というのかとも考えたが、そうではない。師は「高光る日の御子」という言葉があるための名だとしたが、それもよくない。上巻にもこうした言葉を添えた歌はあるが、神代の歌で、別に神語として伝えられたので、区別されたのだろう。また『姓氏録』の天語連という姓は何に由来するのか分からない。『続日本紀』巻八の海語連と同じ姓だろうか。

「譽其三重婇而」は、三重の采女が、前に挙げた非常にめでたい歌を詠んで天皇をことほいだことを、天皇がほめたのである。旧刊本やある一本などには而の字がないが、ここでは真福寺本・延佳本などに従った。
「給多祿也」。若桜宮の段にも「多くの禄を与えた」とあり、禄についてはそこで述べた(伝三十八・二十二葉)。後世まで伊勢国三重郡に采女郷があるのも、きっとこの采女が歌によってたいへんほめられ、ひどく名高かったためだろう。まことに尊いことである。今も采女村という村がある。

〔『古事記』本文〕この宴の日、春日の袁杼比売も御酒を献上した。その時、天皇は歌った。

〔天皇の歌〕みなそそく〔水にいつも浸る、という意味の枕詞〕、臣下の乙女が、背の高い酒器を手にしていることよ。その酒器を取り、しっかり持ちなさい。下をしっかり、上もしっかり持ちなさい。背の高い酒器を持つ娘よ。これは宇岐歌である。

〔『古事記』本文〕そこで袁杼比売は、次の歌を献上した。

〔袁杼比売の歌〕国を安らかに治める、わが大君が、朝にも、寄りかかっていらっしゃり、夕べにも、寄りかかっていらっしゃる、その肘掛けの下の、板にでもなりたいものよ。うらやましい、肘掛けさん。これは志都歌である。

「是豐樂」は、前に出た長谷の百枝槻の下での宴である。「袁杼比賣」はすでに出た(この巻・十八葉)。この人も采女だったのだろうか。その理由は前に述べた。
「美那曾曾久」は、クを清音で読む。「水灌く」で、次の句のオにかかる枕詞だ。『冠辞考』に説明があるので、「みなそこふ」の項も考え合わせてほしい。水の中にいることをソソクというのは少し変に聞こえるが、水に浸っていることもソソクという。したがって、常に水に浸っているという意味である。
次にオと続くのは魚を意味する。魚はウヲだが、前のソソクのクの韻を長く引いて歌うとクウオとなり、そのウオがヲに縮まるので、自然と魚に聞こえる。魚のウを省いてヲというのは普通にある上、ここはクの韻のウから続くから、なおさらそう聞こえる。

このオへのつなぎ方には諸説あるが、どれもよくない。契沖は『日本書紀』仁徳巻の歌について、於瀰の於は阿と通じてアミという鳥名であり、古くはそのままオミといった可能性もあるから、水に潜るオミと続けたのか、と述べ、「水潜るアミの羽交いの……」という歌を引いた。しかしアミという鳥は古い文献に聞かない。『万葉集』巻三の「牽留鳥」を鳥名と誤解したのだろう。その留鳥は網のことで、鳥を捕らえるという意味でそう書いているのだ。
また、言葉を隔てて乙女のヲにかかるとする人、大海の魚につながるとする人もいるが、どれもよくない。「宇乎を縮めると於だから音仮名の理屈は明らかだ」という人もいるが、宇乎を縮めれば乎であって於ではない。於と思うのは、於と乎の音の属する違いを分けない誤りである。
師は『日本書紀』仁徳巻の於を弘に、ここの淤を私に改めて説明したが、『古事記』には私などを音仮名にした例がまったくない。しかも『古事記』と『日本書紀』が申し合わせたように同じ言葉を同じように書き誤るはずもなく、あれこれ無理な説である。師が古書の文字を誤りとして改めたものには、こうした行き過ぎの誤りも多いので、注意して読むべきだ。

「淤美能袁登賣」は、契沖のいう「臣下の娘」でよい。多くの本に袁がないのは脱字で、ここでは真福寺本・延佳本に従った。『日本書紀』武烈巻・天智巻の歌の「おみのこ」、つまり臣下の子や、『万葉集』巻三の「臣の壮士」などと同じ呼び方である。
師は淤を私の誤りとし、「麻を績む少女」で、女という名も麻績女の意味だとしたが、誤りである。特に麻を績むことを仕事にする女ならそう呼べるが、女全般をどうしてそう呼べるのか。女という名が麻を績むためだという説は契沖も述べたが、それも誤りだ。乙女のヲは嫗のオと対になり、オは大、ヲは小の意味であって、麻の意味ではない。『万葉集』の「臣の壮士」と対照しても、ここが「臣の少女」であることは明らかである。ここでは袁杼比売を指している。

「本陀理登良須母」は「秀樽を取ることよ」。この歌の本は三箇所とも、延佳本では太になっているが、例によって勝手に改めたものだ。諸本はどれも本である。樽は、もともと酒を盃へ注ぐ器で、『説文』に「尊、酒を注ぐ器」とあるので分かる。尊・罇・樽は同じことだ。わが国でタリというものにも、古く酒を注ぐ器だったため、この字を当てた。古い樽は、後世の瓶子や銚子のように使った器である。ところが後世の樽は酒を入れておく器となり、注ぐ器ではない。逆に瓶子は『和名抄』にカメとあり、古くは酒を注ぐ器ではなかった。銚子はサシナベとあって酒器ではなかったが、後世には両者とも酒を注ぐ器になった。古代から後世にかけて、形も使い方も移り変わったのだ。
タリという名は「垂れる」で、口から酒が垂れ出る意味だろう。後世にタルというのは音が転じたもので、鳴鏑を古くナリカブラ、後世ナルカブラといい、椽もタリキからタルキになったのと同類である。『和名抄』漆器類には「『辨色立成』に樽は罇とも書くとあり、『説文』に見える。今考えるに和名はない」とある。『延喜式』でも酒樽はごくまれにしか見えない。これを見ると、古代のタリという名は途中で都の周辺では失われ、地方に残ったものが、後にまた広がったのだろうか。
「秀」は形が細長く高いことだろう。「とらす」は「取る」を延ばした言葉で、モは『万葉集』の「うぐひす鳴くも」などと同じ。この娘が樽を手に持つ姿を御覧になっておっしゃった言葉である。

契沖はこの句が理解できず、ホダリは相撲の名かといって、以下の句もすべて相撲で説明したが、論ずるまでもない誤りだ。師が、延佳本の本を太にした本文に従って、糸をかける絡梁だと説明したのも誤りである。断じて絡梁でない理由をいえば、まず太は『古事記』ではほとんど音仮名に使われず、中巻に一例だけあるものも濁音である。『日本書紀』『万葉集』などでも濁音に使い、清音にした例はない。またここは宴で御酒を献上する場面であり、糸の道具である絡梁を手に取ることを歌う理由がまったくない。そもそも絡梁は立てて置き、糸を掛ける器具で、手に持って使う物ではない。「取る」ということもふさわしくないではないか。

「本陀理斗理」は「秀樽を取り」。本は旧刊本では夫、二つの別本では大と誤っており、真福寺本に従った。斗はここから四箇所、諸本でどれも計と誤っているが、延佳本・契沖本に従った。「取る」の音仮名は前では登を使い、『古事記』では登が多いものの、中巻の明宮の段の歌に「斗理」「斗良牟」もあるので、斗でよい。ここからは娘を戒め、歌っておっしゃる言葉だ。
「加多久斗良勢」は「しっかり取りなさい」。このカタクは、『日本書紀』のこの巻の歌にある「大君に、固く仕え奉ろうと」のカタクと同じで、怠らずに勤め励む意味である。
「斯多賀多久」は「下をしっかり」。諸本は賀の下にさらに加があるが、ここでは加のない真福寺本に従った。師は最初のシを前の句、次の句のヤをこの句に付け、「誰のために固く思ったのか」としたが、よくない。契沖もヤをこの句に付けている。

「夜賀多久斗良勢」は「上をしっかり持ちなさい」だろうか。ウハは縮めるとワになるが、ワ行とヤ行を通わせて、ヤともいうのだろうか。サワクとサヤクなど、ワとヤが通じる例もある。屋、つまり屋根も、上の意味だろうか。また「いやがうへ」も上の上ということで、イヤ全般に上の意味があるのだろうか。夜は麻の誤字で「まがたく」なのか、それともイヤで「いよいよ堅く」なのか。ただ「下」とある以上、「上」もあるように思われる。さらによく考える必要がある。
師はここまでの三句を、「しっかり取ったとは、誰のために心を固めたのか。私のために固く心を定めよ」という意味だとした。しかしそうすると句の続きと調べが悪く、言葉の様子もその意味には聞こえない。ここはそういう内容を歌う場面ではない。この上下は酒器の下と上である。形が長く高いので、下と上に手を添えて持つのである。
「本陀理斗良須古」のコは子で、袁杼比売を指し、「秀樽を持つ娘よ」とおっしゃる。

一首全体では、袁杼比売が大御盃に注ぐ御酒の器を持つ姿の、正しく美しいことに天皇が感じ入り、たたえている。器の上下をしっかり持てというのは、さらに清らかな心でよく勤め、怠らず仕えよと、酒器を持つことに託して、奉仕全体を戒めるのである。この戒めが、そのまま賞賛となる。何事でも、よいことをほめるために、さらによくせよと戒め励ますのは普通のことだ。
「宇岐歌」は何に由来する名か、まだ分からない。師は「酒盞歌」としたが、それなら前の三重の娘の歌にこそいえることで、この歌には理由がない。歌う声の浮き沈みから名づけた「浮歌」なのだろうか。それなら次の志都歌も「沈歌」かと思われるが、あちらはやはり前にいったとおり「徐歌」、ゆっくり歌う歌だろう。

「阿佐斗爾波」は「朝戸には」。斗は諸本で計、真福寺本で許と誤っているが、次の「由布斗」にならって改めた。斗であることは確かだからである。『古事記』に計を音仮名にした例はなく、計とあるのはどれも許か斗の誤りだ。したがって計の本文をもとにした説はみな当たらない。
「伊余理陀多志」は、イが発語の言葉で、「寄り立ち」。『万葉集』巻十七には「葦垣の外にもあなたが寄り立って」とある。「由布斗爾波」は「夕戸には」。斗を真福寺本と延佳本では計と誤っているので、旧刊本や二つの別本などに従った。
朝戸と夕戸とは、朝用と夕用の二つの戸があるわけではない。『万葉集』巻二の「朝の宮をお忘れになったのか、夕べの宮をお見捨てになったのか」と同じ言い方である。この朝宮・夕宮も、朝夕いつもいらっしゃる宮ということだ。ここも朝に戸を開く時には、夕べに戸を閉める時には、ということで、ただ朝夕にはという意味になる。朝夕というのは、いつもいつもという意味で、俗に「朝も晩も」というようなものだ。戸そのものは歌の趣旨に必要ないが、朝夕に開け閉めするので、朝夕をいうために御殿の御座のそばの様子で表したのである。
契沖は朝異・夕異として、朝ごと・夕ごとの意味とし、師は朝影・夕影だとして、これを根拠に『万葉集』巻一の朝庭・夕庭までアサケニハ・ユフケニハと読んだ。また朝食・夕食だという人もいるが、どれも誤りである。

「和岐豆紀賀」は、師のいうように「脇机」、肘掛けのことである。『和名抄』の坐臥の道具に「几。『西京雑記』によると、漢の制度では天子は玉の几、公侯は竹木の几を用いた。和名オシマヅキ。今考えるに几の類には脇息という名もあるが、出典は不明」とある。オシマヅキは押座几という名で、肘掛けである。脇息という名は漢籍でも『戦国策』の注などにある。『後撰集』の歌にも「脇息を押さえて座って……」とあり、『小右記』は腋息とも書く。腋と脇を同じ意味と理解して書いたのだろう。
『日本書紀』斉明巻には「肘掛けがひとりでに折れた」、また「机の脚が理由なくひとりでに折れた」とあり、天武巻には「高市皇子以下、小錦以上の大夫たちに……と几・杖を賜った。ただし小錦の三階には几を与えなかった」とある。ワキヅキが上代からの名で、少し後にオシマヅキ、さらに後に脇息というようになった。契沖が旧刊本の和を知とした誤字によって「千木槻」としたのは、論ずるまでもない。
肘掛けは座って寄りかかる物なのに「寄り立たす」とあるのは変に聞こえるが、座っていらっしゃる姿にも「立たす」といってよい。立つことと座ることを対にすれば、座ることを立つとはいえないようだが、姿の形については座るのも立つといえる。高くある物の形をすべて立つという例なので、人の座った姿も高くあり、そういって差し支えないだろう。古くは立ったまま寄りかかる肘掛けもあり、それなのかとも考えたが、やはりそうではないだろう。

「斯多能」は「下の」。「伊多爾母賀」は「板にもがな」で、その板にでもなりたいと願う言葉だ。契沖は『万葉集』巻十一の「こんなにも恋するくらいなら、朝ごとにいとしい人が踏む地面にでもなりたいものを」と似た意味だという。同巻八の「玉の緒の命にかけて恋するよりは、あなたの御船の梶柄になりたい」など、こうした例はまだ多い。
「下の板」は、師のいうように肘掛けの板である。肘掛けは押さえて腕の下にある物だから、下というのだ。あるいは古い肘掛けには脚の下にも板があり、それをいうのだろうか。そうなら、上の板を置いて下の板をいうのは、へりくだる意味があるのだろうか。しかしやはり師の説が古代の意味に合うだろう。
「阿世袁」は「わが兄よ」。師のいうとおり、肘掛けに呼びかけている。倭建命の歌に「一つ松、わが兄よ」とあるのと同じだ。この言葉はそこで述べた(伝二十八・四十葉)。ここでは天皇のお体に親しく接することをうらやんでいる。
一首は、天皇が朝夕いつも寄りかかって座る、御脇の下の肘掛けの板にでもなって、お体のすぐ近くで親しくお仕えしたい、という意味である。「志都歌」は高津宮の段に出た(伝三十六・五十七葉)。

〔『古事記』本文〕天皇の年齢は百二十四歳。陵は河内の多治比の高鸇にある。

「壹佰貳拾肆歲」。『日本書紀』には「二十三年秋七月、辛丑を一日とする月、天皇が病気になった……。八月、庚午を一日とする丙子の日、病状はますます重くなり、百官と別れを告げてすすり泣き、大殿で亡くなった」とあるが、年齢はない。允恭巻の七年生まれという記事に従えば、亡くなった年は六十三歳で、『古事記』と大きく違う。
『帝王編年記』にはこうある。「雄略天皇の没年齢は百四歳。だが百四には疑いがある。天皇は安康天皇の同母弟である。また今年から百四年前は仁徳天皇六十四年丙子に当たり、父の允恭天皇は仁徳六十二年生まれだから、三歳で子を生むことになり、無理だろう。『暦録』は百二十四というが、それではなおさら父より前に生まれたことになる」と。この百四は何の記録にあるのか。『日本書紀』の古本にあったのだろうか。別の書には九十三ともある。
旧刊本・真福寺本・ある一本などには、この間に、例の小字注で「己巳年八月九日に亡くなった」とある。己巳年は『日本書紀』では仁賢天皇二年に当たる。

この天皇の年代は非常に疑わしい。まず『日本書紀』にも信じがたい点がある。大后・若日下王は仁徳天皇の皇女なのに、安康天皇元年に大長谷命のために結婚を申し入れたとある。その年、大長谷命は三十七歳に当たり、若日下王は六十余歳のはずだ。仮に父・仁徳天皇の崩御年に生まれたとしても五十六歳で、求婚するような年齢ではない。また雄略天皇が允恭七年に生まれ、在位二十三年で亡くなったとすると、引田部の赤猪子の話なども年数が合わない。
そこで『日本書紀』の年代を離れ、別に『古事記』の各代の小字注で考えてみる。仁徳天皇が丁卯年に亡くなったという年は即位五十五年、『古事記』で履中天皇が亡くなった壬申年は、『日本書紀』では仁徳六十年、反正天皇の丁丑年は仁徳六十五年、允恭天皇の甲午年は仁徳八十二年に当たる。雄略天皇の己巳年は『日本書紀』の仁賢二年に当たる。この年代に従い、雄略天皇を百二十四歳とすれば、仁徳五十四年生まれで、父・允恭天皇が五十歳の時となる。
安康天皇の段では小字注が欠けているので、ひとまず『日本書紀』によって在位三年で亡くなったとする。すると雄略天皇元年は戊戌年、三十三歳の時となり、『日本書紀』で仁徳八十六年とする年である。そこから己巳年まで、在位は九十二年になる。

この年代によると、仁徳・允恭天皇などの治世は『日本書紀』よりはるかに短くなり、年数が大きく違う。しかし必ずしも『日本書紀』にこだわる必要はない。あちらでも継体天皇は二十五年に亡くなったとする一方、割注には「ある本では二十八年甲寅に亡くなったという」とある。比較的近い時代でさえこれほど異なる伝えがあったのだから、もっと昔はなおさらだ。『古事記』の割注も、前述のとおり古い一つの伝えと思われる。
右の年代に従えば、仁徳天皇の崩御から安康天皇元年までは三十年に満たないので、大后・若日下王の年齢にも不都合がなく、雄略天皇の治世が長くなるので、赤猪子の話も年数がよく合う。また安康天皇の亡くなった時、雄略天皇を童男とするのはどの説でも合わないようだが、袁具那という呼び方は必ずしも年齢に限らないらしいことは、伝四十・二十一葉で述べたとおりなので、これも矛盾しない。
しかしこの小字注の年代にも、また大きく合わない点がある。意富祁命・袁祁命は父の押歯王が殺された時に大和を逃れたとあるのに、雄略天皇の九十二年の治世を経たのなら、清寧天皇が亡くなるころには百余歳になってしまうからだ。このことは、さらに次の段で論じよう。

「河内の多治比」は前に出た(伝三十八・十一葉)。「高鸇」はタカワシ。鸇を旧刊本では島、二つの別本では鷄と誤っているが、真福寺本・延佳本に従った。『旧事紀』にも鸇とある。『字鏡』は鷲をワシ、『和名抄』は鵰をオホワシ、鷲をコワシとする。一方、鸇は鷹の類と見えるので、ワシではないが、古くはこの字も使ったのだろう。
『日本書紀』清寧巻には「元年十月、癸巳を一日とする辛丑の日、大泊瀬天皇を丹比高鷲原陵に葬った」とある。『諸陵式』には「丹比高鷲原陵。泊瀬朝倉宮で天下を治めた雄略天皇。河内国丹比郡にあり、墓域は東西三町、南北三町、陵戸四戸」とある。『河内志』では丹北郡島泉村にあるとし、「隼人の墓は高鷲原陵の北にある……」という。この隼人のことは『日本書紀』清寧巻に見える。この陵は俗に丸山というそうだ。志紀郡と丹南郡の境に近い所である。

古事記伝 巻四十三 本居宣長著 甕栗宮の巻

【古事記本文】白髪大倭根子命は、伊波礼の甕栗宮においでになり、天下を治めた。この天皇には皇后も御子もいなかったので、御名を伝える名代として白髪部を定めた。天皇が亡くなると、天下を治める王がおらず、皇位を継ぐ王を尋ね求めることになった。市辺忍歯別王の妹の忍海郎女、別名飯豊王は、葛城の忍海にある高木の角刺宮においでになった。

【宣長の注釈】冒頭に真福寺本は「御子」の二字を置く。前の雄略天皇の子という意味で、この書き方は巻三十八冒頭で説明した。大倭根子の称号は巻二十一三十五丁に既述。書紀は白髪武広国押稚日本根子天皇とする。後の漢風の諡は清寧天皇。伊波礼は巻三十八二丁参照。甕栗宮という名には由来があるはずだ。帝王編年紀は十市郡の白香谷に当てるが、その地名は今は聞かず、大和志は池内御厨子村とする。書紀では雄略天皇が子らの中で特別に寵愛し、二十二年に皇太子とし、二十三年の記事を経て、清寧元年正月戊戌朔(一日)、役人に磐余甕栗で壇場を設けさせて即位し、そのまま宮を定めたとある。皇后はオオキサキで、この字の用例は巻四十十二丁にもある。二つの無はマシマサズと読む。無御子の無は多くの本になく、それでも悪くないが真福寺本・延佳本に従った。御名代は巻三十五十丁参照。通常は「某命の御名代として」と為の字を置くので脱字かもしれないが、なくてもよいのかもしれない。白髪部の設置は朝倉宮の段、巻四十一四丁にもあった。二度定めたのか、一つの事件が二度伝わったのか。「天下を治める王がない」は、この時どの天皇の御子もいなかったということ。日継は巻十四三十七丁参照。所知之王也の也は真福寺本になく、それでもよい。問はトフで、求め尋ねる意味。市辺忍歯別王は巻三十八四丁に既出だが、別の字が付くのはここだけで、前出の所にはない。

【宣長の注釈】忍海郎女は巻三十八五丁に既出で、忍海の名の由来は次の文でわかる。そこでは青海郎女、別名飯豊郎女とある。青は忍の誤字かとも思えるが、書紀も青海とする。書紀の顕宗紀は天皇の姉の飯豊青皇女とし、冒頭の注でも押磐皇子の子とするので、たいそう紛らわしい。すでに履中紀が、押羽皇子と同母の妹に青海皇女がいて、別に飯豊皇女ともいうと記したのに、顕宗紀で急にその娘へ変わるのはありそうにない。よく考えると、書紀と古事記の伝承は異なり、書紀では飯豊皇女と、履中天皇の子の青海皇女とは別人なのだ。青海皇女の下の「一に飯豊皇女という」は別名ではなく、押羽皇子の娘とされる飯豊皇女を履中の子、すなわち青海皇女とする別伝を挙げたものだ。その別伝は古事記と同じ伝承である。忍海は和名抄に大和国忍海郡、オシノミとあり、葛上・葛下二郡の間にあって、古くは葛城に含まれた。今も忍海村があり、地名は神功紀五年にも載る。「高木角刺宮」の高木は地名ではなく、白檮原宮の歌の宇陀能多加紀などと同じく山をいうのだろう。山をキという例は多く、巻三十九二十三丁のアシヒキノの注で述べたとおりだ。ここは宮の呼び名と見るべきである。角刺の由来はまだわからない。あるいは宮がもともと高城で高所にあり、その造りも普通を超えて高くそびえ、角を突き上げるようだという意味で付いた名なのだろうか。

【宣長の注釈】書紀の言葉からも、この宮は世に格別な宮だったとわかる。ここで皇女がこの宮にいると記したのは、皇位を継ぐ王を捜す時、男の王がまったく存命せず、この女王だけがおられた、という意味である。特に宮まで挙げた文章には、そこでしばらく天下を治めたという意味が含まれる。ほかに王がいなければ、臣連や多くの伴緒は自然にこの姫尊を君と戴き仰いだだろう。それでも独立した一代に立てず、ここに治天下とも書かないのは、ごく短期間で一年にも満たなかったためか。また女性による統治には神功皇后があるが、その方も正式な天皇の例とはされず、古事記なども一代に数えず、後の諡も皇后であって天皇とは呼ばない。そのため前例がないような扱いになったからかもしれない。下文の「その姨の飯豊王が問い得て」と結び付けて理解したい。清寧紀では三年正月の記事の後、七月に飯豊皇女が角刺宮で、という記事が突然入るが、脈絡のない所へなぜ記したのか、書き方がたいへん拙く、角刺宮を挙げることも不要に聞こえる。元の古伝にはここへ置く理由があったはずなのに、書紀が取捨して記した結果、理由のない話になったのだろう。顕宗紀では清寧五年正月の崩御後、皇太子億計王と顕宗が位を譲り合い、長く決まらなかったため、姉の飯豊青皇女が忍海の角刺宮で政務を執り、忍海飯豊青尊と名乗ったとある。当時の歌は、大和で眺めたいものは忍海の高城にある角刺宮だ、という意味で、この歌からも宮が並外れていたことがわかる。歌の廬は、書紀の用例ではいずれもルの音を表す仮名である。以上、古事記と違う伝承もある。

【古事記本文】山部連小楯は針間国の長官に任じられ、その国の志自牟という人が催す新築祝いの宴へ来た。宴が盛り上がり酒がまわると、順番に皆が舞った。竈のそばにいた火を焚く二人の少年にも舞うよう命じると、一人が「兄さん、先に舞って」、兄も「弟よ、先に舞って」と譲り合い、会衆はその様子を笑った。ついに兄が舞い終え、次に弟が舞おうとして、次の言葉をうたった。「武勇あるわが親しい君が帯びる大刀、その柄の上に丹を塗り、その緒には赤い布を細く裁ち、赤い旗を立てる。その姿がよく見えていたのに隠れる、山の尾根の竹を、根元から掻き刈り、その先をしなびかせるように、八絃琴を調えるように天下をお治めになった、伊邪本和気天皇の御子の市辺押歯王。この奉公人は、その末の者である」。小楯連は聞いて驚き、床から転げ落ち、室内の人々を追い出した。そして二人の王子を左右の膝に載せて悲しみ泣き、人々を集めて仮宮を建て、そこへお住まいいただき、早馬の使いを朝廷に送った。その姨の飯豊王は聞いて喜び、王子たちを宮へ迎え上らせた。 訶岐の二字は音を表す。 この詠は宣長の後続注に従って訳した。「魚簀」の読みと構文について宣長は複数の案を挙げ、確定していない。

【宣長の注釈】山部連は巻三十七十九丁に既出。小楯の近い先祖には、高津宮の時代の大楯もいる。袁陀臣は明宮の御歌に見える。針間国は巻二十一四十七丁参照。「宰」はミコトモチ。天皇の大命を受け、持って赴き、その国の政治を行う、という名である。万葉二十の「君の御言を持ちて通はく」は長官のことではないが、言葉は同じ。巻五の二十丁には、命を戴いて唐の遠い土地へ派遣されるという遣唐使の歌がある。巻十七の「天皇が治める国なので、御命を持ち別れて赴けば」は、宰のミコトモチを動詞として用いる。同巻の「大君の命を畏み、治める国の事を執り行って」は、御命を持ってという表現ではないが、行う事柄は同じである。この職の起源は不明だが上代からあっただろう。神功紀の新羅宰、蘇那曷叱知などの例もあり、国司も同じで、仁徳紀に遠江国司、雄略紀に任那国司などが出る。ただ古くは後世のように各国へ常置したとは見えない。各国に必ず置き制度を定めたのは孝徳の世からのようだ。書紀の記し方が整わず、すぐにはわかりにくいが、おおむねそう読める。大化元年八月に東国などの国司を任命し詔したとある東国は、内容からは畿内・七道の全諸国を含むように見える。天武紀は畿内・陸奥・長門以外の国司を大山位以下から任命せよという。後の書物が国造と国司を同一視したり、皇極の時に国造を国司へ改めたとしたり、並置したとしたりするのは、古代の実態を詳しく考えない誤りだ。後世の書物の古代説明には、この種の大きな間違いが多い。国造は前述のとおり世襲でその地に居続ける者、国司は時々人を選び朝廷が任命する者で、本来まったく違う。職員令の大国の守一人・介一人・大掾一人・少掾一人・大目一人・少目一人・史生三人、以下上国・中国・下国と定めるものが国司である。「任」はマカレルと読む。任をマケと読むのはマカラセ、赴かせる意味なので、外任の官に限る。ここは任を受け赴く人についていうからマケではなくマカレルである。孝徳紀の国司之任をマケと読む古訓も、天皇が赴かせる、マカテはマカリテ、と説明し、古語によく合う。「人民」はオホミカラ。巻二十四五十九丁、公民の注と照合されたい。

【宣長の注釈】志自牟の自を落とす本が多いが真福寺本・延佳本に従った。巻四十四十八丁に既出。「新室」のムロは単なる家とは違い、家の中でも奥にあって室の字を当てるもので、「堂には上がったが室には入らない」という言い方にも表れる。こもった造りの屋で、古くは土で築き塗り込め、夏涼しく冬暖かく過ごす場所だった。履中紀は室を「よどの(寝室)」とも読む。大和物語の「紀伊の室郡へ行く人は、風の寒さも感じずにすむだろう」という歌にもある。今ムロという土で塗り込めた物は、その名残かもしれず、あるいはムロヤを短くした語か。僧の住まいを古今集の詞書などでムロというのは庵室の室によったものだ。神代紀の無戸室、天武紀の御窟殿・御窟院も塗り込めた殿だろう。和名抄古本は辨色立成を引き、窟は地室、ムロとする。詳しくは巻十九二十九丁、忍坂大室の注を参照。万葉十一の新室の壁草を刈る歌のカキは壁で、新室を踏み鎮める歌は踏み固める意味、十四にも新室の例がある。「楽」はウタゲス。宴と新室楽は巻二十七十五丁で述べた。新しく家を造ると特に宴をしたようだ。允恭紀の、新室を葺いて天皇が自ら琴を弾き皇后が舞う記事、落窪物語で衛門督が三条の家に移り三日ほど管弦の遊びを催す話にも、古い新室楽の趣が残るだろう。ここの文は小楯のための宴とも読めるがそうではなく、志自牟の祝いの宴へ小楯がたまたま来て加わったのだ。「盛楽酒酣」は「盛りに宴げて半ばなる時」。巻二十七二十丁で詳述した。酣をタケナハと読むのはウタゲナカバが縮まった形で、ここは前に宴とあるのでナカバと読む。「以次第」は師の「ついでのままに」に従う。ツイデはやや後の音便形で、正しくはツギテだが、その古語が伝わらないので、ひとまず通常どおり読む。集まった人の身分や年齢などの順序だろう。

【宣長の注釈】「焼火少子」の少を諸本は小とするが、以下は一貫して少なので延佳本に従う。古書で両字を通用する例は多い。ヒタキワラハと読む。倭建命の段の火焚きの老人、巻二十七八十七丁と照合したい。斎宮式に火炬少子二人と、斎王到着日にその郡の少女が松明を持つ規定、大炊式に御火童四人、主殿式に火炬小子四人を山城葛野郡秦氏の子孫から選び、成人したら交代を求める規定などがある。古く火焚きには子供を多く使い、これらの式も古来の例を伝えたのだろう。ただ、子供でなくても火焚きの少子と呼んだだろう。後世の牛飼童が成人にも使われるのと同じだ。二人は父の押歯王の殺害時に逃れ、その後雄略・清寧の二代を経ているので、今なお子供のはずがない。袁祁の統治八年、年齢三十八歳という後文によれば、この時は三十歳だ。したがって火焚きなので少子と呼び、実際に子供という意味ではあるまい。後の膝に載せる描写や書紀の両児という表現は、この呼び名から混じった言葉だろう。ここでもう一つ、畏れ多いが試みに考えてみたい。前述の雄略の年数の不審から、二人は実は押歯王の子でなく孫だったのではないか。殺害時に逃れたのは一人でも二人でもよいが、その一人が二人の父で、丹波・播磨の民間に流浪して妻を娶ったのかもしれない。終生名を隠して暮らしたため、その人の名は伝わらず知られなかったのだろう。古くは子孫を広く子といったので、その子らも押歯王の子と呼び、後に実子のように伝えたのか。次の名乗りも押歯王の子と断定せず末と結ぶのは孫だからかもしれない。この考えなら二人は父の流浪中に生まれ、今なお本当に子供だったことになる。飯豊王が書紀のように押歯王の子なら、二人を孫とした時、古事記が姨と呼ぶのも本当に姨となる。また雄略在位を古事記細注による九十二年と見ても、孫なら二人が子供であることと年数が矛盾しない。ただ誕生時の父は九十余歳になるが、古代には百余歳で子を持つ例も珍しくないので妨げではない。しかしこれは一度試みに挙げた考えで、なお断言できない。雄略陵を壊そうという発言や置目嫗の話を思うと、押歯王はやはり父と聞こえ、祖父では遠く感じられる。事実は決めがたい。

【宣長の注釈】二口はフタリと読む。二人を古いフタタリの形では読めないからだ。「竈傍」はカマノヘ。宴席の照明用に火を焚く竈だろう。飯を炊く台所の近くで宴をしたとは考えにくいためだ。一方の少年は袁祁、兄は意富祁である。兄のナセには万葉十四の夫を指すナセノコ、十六の名兄乃君などの例があるが、ここは本当の兄を指す。弟の「汝弟」はナオトで、万葉十七の奈弟乃美許等にも実の弟を指す例がある。「会人」は師のツドヘルヒトに従い、宴の会衆を指す。「その譲り合う様を笑う」とは、卑しい火焚きの者のくせに身の程に合わず立派な人らしく振る舞う、と笑ったのである。「爲詠曰」はナガメゴトシテノタマハク。詠は長く声を引いていう言葉で、師のウタヘラク、歌うという読みはよくない。書紀などでは歌を詠ということもあるが、これは歌の体裁とは別種なので歌とは書かず、同じウタフでは区別できない。字書にも詠を長言と説明する。歌とも説明され、意味は通じても、読みを同一にするべきではない。後世の音楽にもエイというものがある。朗詠のように漢語の詩を用いるが、起源は上代のこの御詠のようなものだったのだろう。源氏物語紅葉賀の青海波の舞に、詠をなさる声は仏の迦陵頻伽の声だろうかと聞こえる、という箇所がある。河海抄は小野篁作の青海波の詠を引き、桂殿・桐楼が新年の春を迎え、庭樹の下に花、梁には燕という内容の詩を挙げる。体源抄も狛朝葛の続教訓抄を引いて、舞楽の曲にいう詠は思いを述べることで、心を口に出すので囀ともいう、と説明する。

【宣長の注釈】「物部」は師のモノノフという読みを採る。モノノフとモノノベの違いなどは巻十九六十一丁に説明した。上代は武勇を尊んだため、人を褒めてモノノフといい、朝廷に仕える人も総じてそう呼んだ。ここは賞賛である。物部と書くとモノノベと混じるが、フとベは清濁こそ違っても音が近いので、古くから共通の表記にしたのだろう。万葉でも多くそう書く。ここがモノノベでなくモノノフなのは明らかだ。師の冠辞考は古代にモノノフという呼称がないというが、私にはたいへん古い呼称と聞こえる。仮名書きの例も万葉に多く、巻一に物乃布、三に物乃負、十七に物能乃敷、十八に毛能乃布などがある。

【宣長の注釈】「我夫子之」は相手を敬い、親しんで呼ぶ言い方。允恭紀の夫を指すワギナコギ、万葉などのワガセコガ・ワガセと同じで、敬愛の呼称としての例も多い。「大刀之手上」は巻五七十六丁参照。「丹盡著」の盡は画の書き違いで、師の説明のとおりだ。ニカキツケと読む。明宮の歌の、白く描き赤く描くというカキと同じで、万葉七の衣に描く例もある。丹で彩る武具は、弾正式の笏・大刀への彩色を五位以上に許す規定、兵衛式の丹で彩色した細布の甲形・冑形、大神宮式のスガルの横刀一振りの鞘に金銀泥で描く規定などにも見える。「其緒者」はソノヲニハ、その大刀の紐には、ということ。大刀の紐は巻十一七丁参照。「載赤幡」は師のいうとおり載が裁の誤りで、「赤はたを裁ち」と読む。ここの幡は当て字で、赤い布地をいう。帛・絹・布などの織物をハタといい、古書ではしばしば服の字を使う。幡と書いたのは次の赤幡に表記を揃えたのだろう。古く字そのものに拘らない例は多いので混同してはいけない。師がここまで文字どおり「赤幡に裁り」としたのはよくない。書紀の赤絹・赤織絹などと同じで、赤い布を細く裁って大刀の紐にした意味だ。細い紐を布から切り出すので裁という。玉篇も裁を裂く意味とし、万葉七にも「衣を裁つ愛しい人よ、裏地を用意し、私のために裁つなら少し大きく裁ってほしい」という例がある。次の「立赤幡」は文字どおり旗を立てること。続日本紀巻十四の大蔵・内蔵・大膳・大炊・造酒・主醤などに赤旗一組を与え、天皇への供物の前に立て目印とする規定や、荷を送る駄馬に小さな緋旗を立てる規定、霊異記で栖軽が緋の鉢巻と赤旗の鉾を携え馬で走り出す話にも見える。「見者五十隠」は「見ゆれば、い隠る」。見ゆればは前の赤く彩る以下を指す。イは発語、五十は当て字で、書紀にもよくある。朝倉宮の歌の「をとめの、い隠る岡へ」や万葉六の「い隠り行けば」が例である。

【宣長の注釈】山の尾は巻四十二八丁に説明した。三はミという敬称の当て字で、上巻の坂之御尾と同じ。「竹矣」より前の十句は、この竹をいうための序である。赤旗を立てるまで、目立ってよく見える様子を集めている。赤は特に目に立つ色なので、赤い物を次々に挙げるのだ。一方、竹は葉が茂って物を隠す。クミタケ、サスタケの君という枕詞に隠す意味があるのは冠辞考にあるとおりで、万葉十一の「刺す竹の、こもりてあれ、我が背子」も同じである。目立つ赤い物さえ竹の茂みに入れば見えなくなるので、その茂りをいう序なのだ。赤い装束で山道を行き、今まで見えたものが竹の向こうへ隠れる様子を表す。師は、大刀の紐を竿に付けて旗とし、賊の赤旗を見て恐れ山へ隠れたのかと解したが、私にはいずれも理解できない。刀の紐を旗にする理由も、賊を持ち出す理由もなく、山をいうだけのためにこんな序を置くとも思えない。「訶岐苅」の訶岐は掻くことで、手でする動作にはよくいう語だ。古文のこの種の対句は本と末を並べるので、ここにも本の字があって落ちたのだろう。師は上の矣が本の誤字かというが、矣はここに必要だ。「竹を掻き刈り」と続けて一句にもできそうだが、序は竹が主なので「竹を」を独立した一句と読むほうがよい。「末押靡魚簀」の文字は諸本に麈・箒・管などの異同があり、今は真福寺本などを参照して定めた。師は魚簀を誤字か前後の脱文だろうとした。すぐにはそうも聞こえるが、何の字、何の語が欠けたのかはまだわからない。ひとまず本文のまま強いて解くなら、魚簀は「〜のように」のナスに当てた字か。魚を積む簀をナスといったのだろう。上巻の折竹以下、巻十四七十丁と照合したい。古い祝詞のように節を整えた文では珍しい当て字を特に多用する。この詠でも赤い布を赤幡、発語のイを五十と書くので、魚簀も当時普通に使った語への当て字だろう。「末はしなびかすなす」と読む。動詞を受けてナスという例は万葉一の「衣に着なす」などにある。ナビカスは万葉十七のススキを押しなべる例、ほかの巻の梶楫・旗・笹・浅茅を押しなべる例と同じで、これらの靡は自動詞ナミでなくナベと読むべきだ。ナビはナビケが縮まった使役の形で、ここはナスへ続くためナビカスと読む。

【宣長の注釈】本と末を対にする例は、書紀のこの場面の言葉や、大殿祭の祝詞で天津金木の本を打ち切り末を断ち、天津菅曾の本と末を刈るなどにもある。書紀が、石上の神木を本末切り整え、市辺宮で天下を治めた、とするのと合わせると、この竹のくだりは一つの譬えで、次の八絃琴とは別かもしれない。祝詞にも風・朝霧・大津辺など四つの譬えを重ねる例がある。ここまでは本文を直さずに解いた考えだ。もし魚簀の二字が誤りなら組管かもしれない。和名抄に簫をアヂキ、簧の字も使うとあり、魚と組は字形が似なくても草書なら誤写し得る。竹を丸くも四角くも曲げ、思うとおり管を組むように、天下を御心のまま治める譬えで、後の如もこれにかける、という考えである。別には魚が草書の似る合、簀が笛音の二字の誤りなら、合笛音、笛の音に合わせて琴を調える意味になる。その場合、竹は最初の考えのように笛とは別の譬えにも、笛と琴を作る材料にも読める。琴も竹で作ることは継体紀の歌にあり、歌のフキは笛、ナスは鳴らすことで琴にかかる。イチミ竹は琴に、余竹は笛に適するという事情でもあったのか。これも一つの考えだ。また魚簀の後に脱文があり、「編むなす」などだったかもしれない。魚を載せる簀を編むように竹を並べて琴にすることで、竹の琴なら何本も並べるはずだ。その意味では「琴に作る」までないと不足にも感じるが、そこを省くのが古語の例である。大殿詞も、金木を整えて座へ作る過程を省き、すぐ座を置くことをいう。それと同じだろう。このようにさまざま思い当たる案はあるが、確かにこうだと決められるものはない。試みに述べるだけで、なおよく考えなければならない。

【宣長の注釈】八絃琴は東遊の歌にも「七つ緒の、八つ緒の琴を、調べたる」とある。上代の琴は絃の数が定まらなかったのだろう。六帖の琴の歌には「六本の弦の撚り目ごとに香りがする。弾く娘の袖が触れたのだろうか」と六緒があり、後世の和琴も六絃に定まっている。「如調」は「しらべたるごと」と読むのだろうか。シラブは調子を合わせること、シラベタルは合わせ終わって調子が整ったこと。天下がよく治まるのを、琴の調子がよく整うことに譬えたのである。当時すでに外国風の律の定めがあったかはわからないが、そうした制度がなくても琴笛の調子を合わせることは当然あったはずだ。出雲国造の神賀詞が、玉が美しく釣り合うような明神として天下を治めるといい、鏡の面の平らかさのように明らかに物事を見通し、大八島を天地日月とともに安らかに治めるというのも、このような譬えである。

【宣長の注釈】「天下を治めた」は押歯王にかけて読むべきだ。書紀に市辺宮で天下を治めるとあるためである。ただし古事記の文章は伊邪本和気天皇にかかるようにも聞こえる。押歯王についてこう名乗るのは、雄略紀に、穴穂天皇が以前から市辺押磐皇子へ国を譲り後事を託そうとしたのを雄略が憎んだ、とあるためだろう。穴穂の在世中から継承が決まり、崩御後は群臣・百官が皆この皇子に従い、殺されるまで天下の政治を執ったのだろうという説は、本当にそうだったのだろう。安康殺害後の乱から市辺殺害までには、少し時間があったようで、巻四十十九丁でも述べた。その間、市辺宮で天下を治めたのだろうが、雄略に憎まれ殺され、雄略の世になったので、短い統治は世に伝わらなくなったのだろう。「奴末」は諸本みな同じ。延佳本が末奴と逆にするのは書紀の御歯僕に従う改変と思える。一見そのほうがよさそうでも、考えると元の奴末のほうが趣がある。「この奉公人は押歯王の末である」を語勢によってこう述べたのだ。力を込める場面で続けざまにいうので、かえって勢いが増す。「押歯王の」で一度言葉を切って読むとよい。普通、王は自分を奴とはいわないが、今は志自牟の奴の境遇なのでそう名乗るのである。書紀の僕も、中国語のへりくだる意味では古来の意味に合わない。自らを卑下し僕などというのは中国の考えで、日本古代にはなく、王族ならなおさらである。前に詳述した。実子を御子といわず末と広く呼ぶのだろう。あるいは前述のように、本当に孫だからなのかもしれない。

【宣長の注釈】床はアグラとも読む。「堕転而」は驚きのあまり急いで降りようとして慌て、転がり落ちたこと。王族の尊さがこれでもわかる。室人はムロナルヒト、宴に集まった者。追い出すのは王と普通の人が同室に交じるのを畏れたためだ。「左右の膝に載せた」は理解できない。この時すでに子供でないし、仮に子供でもあの名乗りをできるほどなら、膝に載せるほど幼くはなかったはずだ。これは火焚きの少年と伝わる呼称からの描写だろう。「坐」はマセマツリテ。「泣悲」は尊い王が落ちぶれ卑しい奉公人になったことを悲しむ。人民はここではタミドモ。仮宮は巻十五二十丁参照。王を一時でも普通の人家に置くのは畏れ多く、こう処置した。驛使は巻十三二十八丁参照。二人がおられることを朝廷へ報告する。書紀は小楯が自ら報告したとし、この功を褒賞した記事が顕宗元年にある。飯豊王が聞いて喜んだのは、この時しばらく政務を執っており、統治すべき男王が絶えた状態だったためだ。書紀は清寧五年正月の崩御、同年十一月の飯豊青尊崩御を記すので、その間飯豊が政務を執ったことになる。正式な天皇や一代には数えなくても尊と呼び、崩・陵というのは古事記と同じ趣だ。年齢は一代要記が四十五歳。前皇廟陵記・紹運録・皇代暦は、諸王の系図になく和銅の奏聞によって加えたとし、扶桑略記は和銅五年上奏の日本紀には甲子年二月生まれ、四十五歳とあり、これを丙子年・四十八歳の誤りとする。しかし甲子生まれなら四十九歳なので四十八も一年違う。私には甲子年二月生まれが甲子年十一月崩御の誤写と思え、四十五歳は間違いではない。古事記どおり履中の子なら、書紀の年数でも八十歳以上、古事記細注の年数では百二十三歳以上になる。押歯王の娘で仁賢の姉としても細注では百十歳以上だが、いずれも書紀のほうが正しそうだ。書紀の陵名は葛城埴日丘陵。諸陵式は大和葛下郡の埴口墓とし、東西・南北各一町、守戸三戸。旧事紀も口で、どちらが正しいのか。大和志は北花内村にあり、天和年間に桑山氏が墓を壊し八幡社を建てたとする。「宮」は角刺宮。「令上」は二人の王をそこへ迎え上らせたことである。

【宣長の注釈】書紀の異伝では清寧二年十一月、大嘗祭の物資のため派遣された播磨国司、山部連の祖の伊予来目部小楯が、赤石郡の縮見屯倉首、忍海部造細目の新室で市辺押磐の子の億計・弘計に会った。畏敬して抱きかかえ、君として仕えようと丁重に養い、私財を使い柴の宮を建て仮住まいとし、早馬で報告する。天皇は驚き悲しみ、「喜ばしいことだ、天が広い慈しみで二人の子を授けた」といった。その月、小楯に節を持たせ、左右の舎人を率い赤石へ迎えに行かせる。三年正月、二人が摂津に着くと臣連を遣わし、王の青蓋車で迎え入れ、四月、億計を皇太子、弘計を皇子とした。顕宗紀の詳しい異伝では、清寧二年十一月、小楯は縮見屯倉首が新室を祝い夜を徹して宴をする所へ来た。弘計が兄へ言葉をかけ、二人は竈の左右で灯火を持つ役を命じられる。夜更け、酒がまわり人々が順に舞い終えると、屯倉首は「この灯火を持つ者は、人を尊び自分を低くし、人を先、自分を後にして、恭しく節度を守り譲って礼を示す。君子といえる」と小楯に話した。小楯は絃を奏で舞を命じたが、二人は長く譲り合い、遅い、早く舞えと叱られる。兄の舞の後、弘計は衣帯を整え室寿を述べ、それから拍子を取り、「稲筵、川沿いの柳は、水が流れるとなびいて起き上がり、その根は失われない」という歌をうたう。小楯が美しい、また聞きたいというと、特別の舞をし、「大和のあちらこちらの茅原・浅茅原、その弟とは私である」と明かした。小楯は不思議に思い、さらに歌わせる。弘計は「石上の布留の神木の本を切り末を整え、市辺宮で多くの国を治めた押磐尊の御裔、私はそれである」と告げた。小楯は席を離れ悲しみ再拝し、配下も畏れ伏し、郡民を集め宮を建て仮住まいとして、都へ赴き迎えを願う。清寧は自分に子がないので後継にできると嘆じ、禁中で大臣・大連と相談し、節と舎人を小楯へ与え迎えに遣わした。三年正月の摂津到着、青蓋車での入宮、四月の立太子は前と同じである。この王青蓋車はいつもの漢文的な飾りで、日本には古今その制度の車はない。ほかにも煩わしい漢文の飾りがたいへん多い。また事件を清寧在位中とする点で、古事記とは大きく違う伝承だ。

【古事記本文】天下を治めようとするまでの間に、平群臣の祖、志毘臣が歌垣に出て、袁祁命が結婚しようとする美しい女性の手を取った。その女性は菟田首らの一族の娘で、名は大魚。袁祁命も歌垣に加わり、志毘臣が次のように歌った。

【古事記本文・志毘臣の歌】大宮の、遠く向こうの軒端は、隅が傾いている。

【古事記本文・応答】このように歌って後の句を求めると、袁祁命が歌った。「大工が下手だからこそ、隅が傾くのだ」。

【古事記本文・歌】大君である私は、心を広くしているので、臣の家の、幾重もの柴垣へ、今は入って行かずにいる。本文は志毘臣の歌とするが、宣長は後の注で、袁祁命の歌が伝承で取り違えられたと解する。

【古事記本文・袁祁命の歌】潮瀬の、波の折れる所を見ると、泳ぎ寄る、志毘のひれの端に、妻を伴って立つ姿が見える。志毘のひれの端に。

【古事記本文・志毘臣の歌】大君、王の柴垣は、八段に固く結んでも、その締まりがゆるい。切り破れるだろう、その柴垣は。焼けるだろう、その柴垣は。「大君の御子」は宣長によれば王を重ねて呼ぶ表現で、天皇の子という意味ではない。

【古事記本文・袁祁命の歌】大魚よし、鮪を突く海人よ。お前が私から離れてしまえば、私は心から恋しく思うだろう、志毘を慕う、その志毘を慕うお前を。宣長は「大魚よし」を鮪の枕詞、「海人」を志毘に慕い寄る娘の譬えとし、末尾は「志毘突く」を繰り返す後半の「突く」を省いた形と解する。

【古事記本文】このように歌で争い夜を明かし、それぞれ帰った。翌朝、意富祁命と袁祁命は相談した。「朝廷の人たちは、朝は朝廷に参上し、昼は志毘の家の門に集まる。だが今なら、志毘はきっと寝ていて、門にも誰もいない。今を逃せば討つことは難しい」。そこで軍を起こし、志毘臣の家を囲んで殺した。

【宣長の注釈】「天下を治めようとする間」は二人の王にかかるので、名を挙げない。この時はどちらが即位するかまだ定まらず名を指定できないが、即位するのは必ず一人なので二王とも書けない。意味は二つ考えられる。一つは後の志毘殺害にかけ、志毘の勢力が強く、天下を治めようとする王たちをも畏れず、歌垣で無礼に争ったことをいう。もう一つは単に、即位までの間に次の事件があった、と時を示すだけである。平群臣は巻二十二二十丁に既出。志毘臣は真鳥大臣の子で、当時の様子は後に引く書紀のとおりだ。ただ書紀は武烈紀冒頭に置き、仁賢が崩御し武烈が皇太子で統治しようとする時の事件とする。この二つの伝承のどちらが正しいか、今は決められない。しかし大伴金村が賊を平らげ、政を太子へ返し尊号を請う言葉は、意富祁・袁祁の二王にこそよく当てはまる。武烈は最初から皇太子で、仁賢のただ一人の子なのだから即位は当然で、わざわざ煩わしく請う理由がどこにあろう。

【宣長の注釈】歌垣は書紀に「歌場、ウタガキ」とある。摂津風土記では雄伴郡波比利岡の西に歌垣山があり、昔、男女が集まり歌垣をしたための名とする。常陸風土記の香島郡、童子女松原の伝承は、若く美しい那賀の寒田郎子と海上の安是嬢子が、互いの評判を聞いて恋い慕い、月日の後に嬥歌の会、ウタガキまたはカガヒで出会い、歌を交わしたという。これらから歌垣とカガヒは同じことである。万葉九の筑波山の長歌も、男女が集まるカガフウタガヒでは、他人の妻と自分も交わり、自分の妻へも他人が言い寄るのは、この山の神が昔から禁じないことで、今日だけは目をとがらせず言葉も咎めるな、とうたう。注は東国の俗語でカガヒというとする。万葉六の「称合之声所聞」をカガヒと読む説は、合の字の意味が合わないので誤りだ。歌垣の様子はこの長歌のとおりだが、垣は当て字で、書紀の場も名の意味には合わない。垣という慣用表記から場所の意味にしたのだろうが、本来は行事の名である。歌カガヒのカヒを縮めてキとし、ウタカガヒからの古い音便で前のカが濁り、後が清音になったものだ。上巻の豊久士比泥別の例と同じ。カガヒは長歌のカガフという動詞を名詞にした形で、カグレ、交わる語の縮まったものだろう。万葉九の真間娘子の歌に、夏虫が火へ入り、港へ舟を漕ぐようにカグレ、人が言い寄るという例がある。ほかに見ない語だが、妻を求める古語だったのだろう。嬥歌の字にもその意味がよく合うとは見えず、慣用の字だろう。字書は往来する様子、人が歌うことなどとするが、カガヒに当てる根拠は見えない。今のカケアヒ、また人や物が争うカラカフもカガヒから変わったのかもしれない。つまり歌垣は、互いに歌い交わることの名だろう。地方では山の上にも行ったが、都では市で行い、この時も書紀では海石榴市である。万葉十二の、海石榴市の八十衢で結んだ紐を解くのは惜しい、という歌もそこで契ったことをいう。続日本紀では天平六年二月癸巳朔(一日)、天皇が朱雀門で二百四十余人の歌垣を見た。五位以上の風流を好む者も交じり、頭役を定め本末の唱和で難波・倭部・浅茅原・広瀬・八裳刺の曲を歌わせ、都の男女に見せ、参加者へ身分に応じた禄を与えた。宝亀元年三月庚申の由義宮行幸では、辛卯に、葛井・船・津・文・武生・蔵の六氏の男女二百三十人が、青摺の細布衣に長い紅紐を垂れ、並んでゆっくり進み、「乙女らに、男たち添ひ、踏みならす、西の都は、万代の宮」と歌い、一節ごとに袖を挙げて拍子をとった。ほかの四首はみな古歌なので、煩わしく載せない。その時、五位以上・内舎人・女孺も加わり、歌の後、河内大夫藤原雄田麻呂以下が和舞を奏し、六氏に布二千段・綿五百屯を与えた。西の都は河内弓削の由義宮で、博多川も近くにある。ただ、この時代の歌垣は本来のものではなく、古い姿だけ模した一種の芸能だったのだろう。「立」はそこへ行って行事に加わることをいい、この種の言い方は多い。

【宣長の注釈】書紀では袁祁命でなく、皇太子時代の武烈天皇の事件となる。「将婚」はミアハサムトスル。美人はヲトメで、後の嬢子と同じ意味だ。菟田首の菟には真福寺本ほかで菀・苑とする異同がある。この姓はほかに見えず、大和の宇陀から出た氏かもしれないが、古事記の宇陀水取・宇陀酒部などはすべて宇陀と書くので菟田は疑わしい。等は氏のような意味で、父の名が伝わらないため付けたのだろう。大魚の名は後で論じる。書紀では物部麁鹿火大連の娘の影媛である。「志毘臣が歌う」とあるが、伝承で歌の順序が乱れたので、書紀が皇太子のシホセノの歌を最初に置くのが正しい。志毘が娘の手を取り傍らに立つのをご覧になった場面だから、先に袁祁命から歌いかけるはずで、志毘が先なのも、大宮の歌が先なのも場面に合わない。そこで下のシホセノの歌をここへ移し、それから解く。文も「袁祁命も歌垣に立ちて歌ひたまはく」とあるべきだ。「潮瀬」は潮が筋をなして流れる所。書紀の異文に易瀬隈斗がある。「波折を見れば」の波折は波が高く立つ所で、万葉七の白波の八重折、二十の海原を見れば寄せては折れる波の上に海人の乙女が浮く歌も同じ。八重折は波が重なり起きて撓み折れる形である。ナヲリを別の人名などの読みに結び「除く波」と解すのは誤り。「遊び来る」は泳ぎ寄ること。「志毘がはたでに」は鮪の鰭で、和名抄にも鮪をシビ、鰭をハタ、俗にヒレという。契沖の旗手説や旗を鰭に譬えた説などはよくなく、ただ魚の鰭の意味だ。「妻立ち見ゆ」は、ツマタテルミユのはずが古い形になった、という契沖の説明があり、万葉の船出為利所見や漁りをする人の見える歌も例になる。

【宣長の注釈】この歌は志毘という名にかけ、魚のシビに譬える。前三句は魚の描写で、第四句から娘を手にしてそばへ立つ志毘の姿をいう。だから出会いの場面の直後に置くべきなのは確かだ。元の順序では前の歌とのつながりがなく、後の志毘がますます怒るという描写にも合わない。この歌には、それほど怒ることがない。師は魚に譬えられて怒ったのかというが、もともとシビという名の人をシビと呼んで、なぜ怒るのか。次の怒りの歌もこれに答えておらず、つながりが不自然だ。契沖は、志毘が無礼に威張って手を振るのを、鰭を広げ踊る魚に譬えたのか、鰭の陰に影姫が隠れて見えるのか、足をつま立てているのかなどというが、いずれもよくない。この歌の後に、志毘が歌う、という文を置くべきである。「大宮の」は袁祁命の境遇を宮に譬える。臣の家には宮といわないのは前述した。「遠つはたで」は師のいう屋根の端だろう。左右へ張り出す軒か、脇に付く小屋・廊かもしれない。ヲトは、ちらりとそちらを見やるような軽い言い方で、必ずこちらに対する向こうではなく、今のアトのような語だ。祝詞の彼方の例も多い。契沖が弟に掛けたとするのは、袁と意の仮名の違いを無視した誤りだ。「隅傾けり」は隅が傾いたことで、欽明紀の人名傾子にもカタブコの読みがある。王が鮪の鰭に譬えたのへ、宮の屋根の端で言い返し、寂しく勢力のない王を、軒の隅が崩れ傾く見苦しい宮に譬えて嘲り、自分が娘を得たことも誇ったのである。契沖の旗が風で傾く説では旗の頭を隅とはいえず、師の、女の心が自分へ傾いた意味という説もよくない。

【宣長の注釈】「歌の末を求める」は巻二十七八十丁、倭建命の歌を継ぐ注を参照。「大工」は大匠で、舒明紀にも宮・大寺を造るのに書直県を大匠とする例があり、職人の長だろう。契沖が久を又と誤る本に従い大きな畳とするのは違う。「袁遲那美許曾」は拙いからこそ、という意味である。続日本紀の詔、仏足石の歌、雄略紀・欽明紀の拙弱・微弱、竹取物語の拙い舟人なども同類で、愚かさや弱さを含む語だ。ミは「風が激しいので」「霧が深いので」という時のミと同じで、理由を表す。「隅傾けれ」の加は真福寺本に従い、諸本の賀から改めた。宮の隅が傾くのは、それを造る大工が下手だからだ、と相手を見下すのである。契沖は堂の木や石でなく弱い心を下げていうとしたが、ただの隅ではなく宮の隅なので、そのような譬えではない。畳を弱さの譬えにするのも、畳の隅が傾くというのもありそうになく、強引な解釈だ。この歌は表面では相手の末句を継いで隅が傾く理由を説明し、裏では、大工が下手だからで私に落ち度はない、と相手の歌を打ち消している。

【宣長の注釈】「そこで志毘臣がまた歌う」も伝承の誤りで、これは袁祁命の歌に聞こえる。大工の歌は相手の末句を継いだだけなので、別に自分の思いを述べた歌なのだ。志毘臣の三字を除いて読む。「大君の」は王ご自身を指し、同じ自称の例は軽太子の歌、巻三十九四十九丁にある。「心をゆらみ」は心が広くゆったりしているので、という意味。ユラはユタと通じ、せかせかせず穏やかに思うことだ。万葉の「ゆたに思へば」や、大船のゆくりゆくり、温泉や岩を揺るがす水などを詠むタユラ・タユタの例も、広さ・ゆるやかさを表す同系の語である。ここで理由を示すミというのは自分の心なのだから、元々広いというより、わざと余裕を持たせている意味かもしれない。その場合ユラメとなりそうでも、埋む・埋み、積む・積みなどの活用のように、古くユラム・ユラミともいったのだろうか。どちらかはなおわからないが、生来の余裕か意識して寛容にするかの違いだけで、意味は同じである。「臣の子の」は単に臣のことで、雄略の歌や天智の童謡にも王と対する言い方がある。「八重の柴垣」は通常ガキと濁るが、古書は清音字だけを書く。卑しい垣のように聞こえても皇宮名にもあり、本来の名であって、堅く囲む意味だ。「入り立たずあり」は、今入ろうと思えば幾重に結んで防いでも簡単に破って入れるが、心に余裕があるから当分入らずにいる、という宣言である。師や契沖は志毘の歌として解したため意味が合わないが、その威勢のある語調は王の歌である。娘をすぐ得ようと思えば妨害されても構わないが、今はしばらくお前へ任せておく、ということだ。

【宣長の注釈】書紀では、大工の歌の次に志毘の歌があり、それが古事記の伝承で落ちたのかもしれない。その混乱から心をゆらみの歌まで志毘の歌にしたのだろうか。書紀は、臣が王の八重の垣を詠む歌の次に、太子が、大刀を垂れ佩き抜かずにいる歌を置く。これは娘を思いながら、しばらく待ち、迎えない譬えだ。契沖がオホタチを鮪が形媛を遠くに取ったと解すと前後につながらず、古事記の心をゆらみのほうが正しいだろう。言葉は違っても意味は通う。さらに鮪の答えの、八重の垣を造れない海の鮪という歌は、王よ、八重の垣のように娘を固く囲おうと思っても、すでにこの海の鮪が持っているので得られない、おかしなことだ、と嘲る。契沖は、私家の垣を朝廷の組垣と取り違えるのが君臣転倒だというが、それは中国的な考えで、ここにその意味はない。古事記にもこの答歌があって落ちたのかもしれず、そうなら心をゆらみへの答えとしてよいが、書紀の大刀の歌への答えではつながりが弱い。志毘がさらに怒るのは、大工の歌で自分を拙いとされたためだ。大宮を侮るだけでも慎みに欠けるのに、心をゆらみの歌を聞いてますます怒った。「大君の御子」は大君と御子を重ねただけで、天皇の子の意味ではない。柴垣は王宮の垣で、王が志毘の家の垣を詠んだため、それで応じた。「八節しま­り」のヤフは八段に結ぶこと。契沖の、フに府を書く理由への疑問はあるが、儀式書の大嘗祭の稲実殿の周囲を十六丈四方とし、高さ四尺の柴垣を四節に結ぶ規定からフが節とわかる。十布の薦も同じで、八重の柴垣は万葉にもある。シマリは固く締まること。今のシメルに当たり、続日本紀や弘仁の詔の結・勤結理・務米志麻理も、結び目を作るのでなく心を締める意味である。万葉の玉勝間・島熊山も籠を固く結ぶ関係で、巻三十一四十二丁参照。「しま­りもとほし」は結びがゆるい。「切れむ柴垣」は縄ではなく垣が切り破られることで、諸本で岐を氣とするのは、次の夜氣牟の氣に引かれた誤りだろう。今は真福寺本の岐による。「焼けむ柴垣」は焼かれるだろう垣。どんなに幾重に固めても、自分が破れば破れ、焼けば焼ける、何が堅いものか、と怒るままに歌う。契沖のいう謀反の心の表現とも読めるが、歌はもともと朝廷を恐れず侮る心を明らかにしている。譬えとしては、今は娘を任せるが後には得るという王の言葉に、後で得て固く守っても放ってはおかず、たやすく奪い返すといっているのだろう。

【宣長の注釈】書紀では鮪が王の八重の垣を詠んだ次に、太子が、臣の子の八重の垣よ、下から雲が動き地が震えて来れば破れる垣だ、とうたう。言葉は違っても、古事記の御子の柴垣と同じ歌の別伝である。もし古事記でも志毘の先の答歌が落ちたなら、この歌は王の歌かもしれないが、今は決めがたい。両書の歌垣には作者の入れ替わり、順序の乱れ、脱落かと思える不自然さがあり、考えられる限りを述べたが、なお決められない点が多い。「王子がまた歌う」という最後の歌は、志毘への答えでなく、娘へ贈る歌である。「意布袁余志」は大魚よという鮪の枕詞。冠辞考は布を誤りとして直すが、契沖のいうようにオホのホを縮めてフになったもので、誤りではない。白檮原宮の歌で大石をオヒシと読むのもホイをヒに縮めた例である。オホとオフの通う例には、河内の凡、丹後の凡海をオフシアマと読む地名、大河内、大磐宿禰と生磐などもある。この段で娘を大魚と呼ぶのは、枕詞オフヲを娘の名と誤解して伝えたのではなかろうか。女性の名には似合わない気がする。ただ試みに注意を促すだけである。「志毘突く海人よ」は鮪を突き捕る漁師で、万葉十九の鮪を突く海人の漁火、六の鮪釣りも例になる。ヨは呼びかけだが、実際にその人へ直接話すのでなく、一般にその名を呼び出す言い方である。漁師へ直接向けると次のシガにつながらない。「しがあれば」のアレは荒ぶるでなく、疎く離れて来ないことだ。万葉の鳥が疎く去らないでほしい、疎くなった妹を恋う、などにも例がある。「うらこほしけむ」は心に恋しく思うだろう。ウラはうら悲し・うら寂しなどの心、古語のコホシは恋しいで、書紀や万葉にも例が多い。ケムはカラムと同じ推量。「志毘突く志毘」の前のシビツクは、鮪を捕る漁師が魚を慕い寄ることを、この娘が志毘を慕うことに譬えた表現で、突き殺す意味を含まない。契沖や師の、鮪を突くように志毘臣を殺せば、という解釈はツクの字にとらわれたもので、歌全体の意味から考えなければならない。シガアレバは譬えを離れて娘に直接いう言葉で、シガは海人に譬えた娘、つまり「お前が」の意味だ。お前が志毘臣に従い私から疎く離れるなら、私はお前を恋しく思うだろう、というのである。契沖も師もアレバを「在れば」としたが、それならアラバというべきで、下のケムにも合わない。志毘を殺した後で恋しく思い出すという契沖説も、志毘を殺して娘を得るので鮪のほうが娘を恋しがるという師説も、「海人よ、しがあれば」につながらない。いずれも鮪を突くことを志毘殺害の譬えとだけ見た誤りだ。「志毘突く志毘」と繰り返すのは古歌の形で、娘が志毘に慕い寄るのを、繰り返し恨めしく思う心が表れる。後の志毘は「志毘突く」をもう一度いう時の突くを省いたもの。契沖が最後にヲの脱落を考えるのは、脱字説は違っても意味としてそう取るのは悪くない。書紀の太子から影媛への歌は「琴の端に寄って来る影媛よ、玉であれば、私の欲しい玉、鮑の白玉だ」。琴の端に来るまでは影の序である。これは古事記の大魚よしの歌の別伝で、言葉は違っても娘を思う様子は同じだ。次に鮪臣が影媛に代わって答えた歌は「帯の倭文の布を結び垂らすが、ほかの誰とも相思わない」。初めは誰への序で、志毘以外は誰も思わないという意味である。この答歌は古事記にはなく、落ちたのかもしれない。志毘が自分の思うままに詠んでも、娘の心も本当に同じだっただろう。後に引く影媛の記事と、石上・青丹よしの二首からわかる。

【宣長の注釈】「このように歌って」は王と志毘の歌をまとめていう。「鬪明」はカガヒアカシテ、歌を交わし争って夜を明かすこと。諸本に開・關などの異同がある。開の字と見て夜明けのアケボノやアカトキと読む案も考えられるが、やはりカガヒと読む鬪がよい。カガヒには男女が歌を交わし競う意味があり、万葉にもカガフという動詞の例があるからだ。「各退」はアラケマシヌ、集まった者が別れて去ること。書紀の散去や誘聚の後の解散、疎く離れる荒、物の間隔を開ける今のアラクも同じ意味である。「翌朝」はツトメテ、巻四十の四十丁参照。意富祁の富は巻四十の四十四丁に説明した。「二柱」を細注にする諸本は誤りで、延佳本の大字に従う。朝廷の廷を真福寺本などは庭とし、古事記・万葉にはその表記もある。「志毘門」は志毘の家。宮を朝廷・御門というように、臣の家も門・家門・氏門と呼び、今でも家筋を門という。この言葉は志毘の大きな威勢を示し、書紀にもその様子がある。「亦今者」の亦は不要かもしれず、互の本、除く延佳本もある。師も余分だとしたが、いずれにせよカレ(だから)という意味で読む。「亦寝」の亦を延佳本は必とし、独断の改変の疑いはあるが、ここはカナラズと読むべき所だ。昨夜徹夜で歌を交わしたので、眠くて今は寝ているだろうという。「門にも人がない」は、朝なので臣連や伴緒が皆朝廷へ出向くためである。「謀りがたいだろう」の謀は企むという意味。「乃殺也」の乃を欠く真福寺本は、前の臣之家の之を乃と誤るなど混乱して落ちたのだろう。いずれにせよ乃は読まず、トリタマヒキと読む。殺すをトルというのは巻二十三六十丁参照。

【宣長の注釈】武烈紀の異伝では、仁賢の崩御後、平群真鳥大臣が政治を独占して自ら王になろうとし、皇太子のためと偽って宮を建て、完成すると自分で住み、君臣の礼を顧みなかった。太子が物部麁鹿火大連の娘、影媛を娶ろうと仲人を送ると、娘はすでに真鳥の子の鮪と関係があったが、太子を拒むのを恐れて海石榴市で待つと答えた。太子はその日、平群大臣に自分の官馬を求めたが、大臣は、誰のために飼う馬か、命令次第だ、と戯れの返答をして、いつまでも差し出さなかった。太子は怒りをこらえ約束の歌垣へ行き、影媛の袖を取りゆっくり歩いていた。そこへ鮪が来て二人の間に割り込む。太子は袖を放し、前へ退いて潮瀬の歌を歌った。鮪と、臣の子の八重の垣、大刀、八重の根、八重の垣などの歌を交わし、太子は鮪がすでに影媛を得ていることを知った。父子が自分を敬わないのを怒り、その夜、大伴金村の家へ使いを送り討伐を相談した。大伴は数千の兵で道を遮り、鮪を乃楽山で殺した。異本は、影媛の家に泊まっていた鮪がその夜殺されたとする。その時の影媛の話が続く。

【古事記本文】二人の王子は、互いに天下を譲り合った。意富祁命は弟の袁祁命に、「針間の志自牟の家にいた時、お前が名を明かさなければ、私たちは天下を治める君にはなれなかった。これはお前の功績だ。私は兄でも、お前が先に天下を治めなさい」と固く譲った。辞退しきれず、袁祁命が先に天下を治めた。

【宣長の注釈】「各」は師のカタミニ、互いに、という読みに従う。意富祁の富はここでは真福寺本にもある。前に何度も譲り合う言葉があったのを「各相譲」にまとめ、最後の発言だけを記したのだろう。非臨の間には為などが落ちたのか。非を不の意味に使うのは巻頭で説明した。既は全くの意味で、書紀には全をスデニと読む例もある。その前に「こうして天下を治められるようになったのは」を補って理解する。「先に治める」は繰り返されるので注意したい。自分は統治しないのではなく、自分もするが弟を先に、という意味だ。「辞し得ず」は、何度も譲り合った末、この言葉でついに辞退しきれなかったこと。顕宗紀の異伝は、清寧崩御の同月から兄弟が長く譲り合い、姉の飯豊青皇女が忍海角刺宮で政務を執り、十一月に没したとする。十二月、百官が集まると億計は帝の璽を弟の席に置き、二度拝して臣下の列に入り、帝位は功ある者が占めるべきで、身分を明かし迎えられたのは弟の計画だからと天下を譲る。弟も、弟として即位をはばかり、清寧が兄を皇太子とした先の命令を挙げ、固く辞退する。兄も重ねて述べ、弟は兄が絶対に位に就かないと知り、意向に逆らわず承知したが、その場では即位せず、元年正月に大臣・大連らが奏上して承認したという。清寧時代から顕宗即位まで、両書には大きな違いがある。古事記では清寧崩御後、飯豊が政務を執る時に二王を迎えるが、書紀では清寧在位中に迎え、すでに兄を皇太子、弟を皇子とする。飯豊の政務も、古事記では後継の王がいないため、書紀では兄弟が位を譲り合って即位しないためで、伝承の趣が異なる。

【宣長の注釈】清寧については年齢も御陵も記さず、以前にはなかったことだが、これより後には記さない例も多い。書紀は五年正月甲戌朔の己丑(十六日)、宮で崩御し年齢は若干とする。ある書は三十九、また四十一という。御陵は同年十一月庚午朔の戊寅(九日)に河内坂門原陵へ葬ったとあり、諸陵式は河内古市郡、東西・南北二町、陵戸四戸とする。帝王編年紀の河内高安郡椎田原陵は誤りだろう。河内志は古市郡西浦村で白髪山陵と呼び、そばの円丘を后白髪というとする。前皇廟陵記は一説に、平野山中の観音堂の上の大松の下だと記す。

近飛鳥宮の巻

【古事記本文】袁祁之石巣別命は近飛鳥宮で天下を八年間治めた。天皇は石木王の娘の難波王を娶ったが、子はいなかった。

【宣長の注釈】真福寺本は冒頭に「装束別王の御子、市辺忍歯王の御子」の十三字を置く。装束は伊奢本の三字を誤ったのだろう。石巣別の名はここ以外になく、書紀にも見えず、由来はまだわからない。漢風の諡は顕宗天皇。近飛鳥と遠飛鳥は巻三十八二十七丁で詳説した。この宮は大和高市郡で、地理としては遠飛鳥の土地なのに近というのは、允恭の遠飛鳥宮も大和にあり、国の中では単に飛鳥と呼び慣れるため、同じ飛鳥で允恭の遠い時代に対し、こちらの時代を近いと呼ぶのだ。最初の遠近は距離、後の遠近は時代で、意味を区別しないと迷う。書紀では元年正月己巳朔(一日)、大臣・大連の奏上を受け、近飛鳥八釣宮に百官を召して即位した。異本は宮が少郊と池野の二か所、または甕栗とする。八釣は地名で巻二十二六十三丁参照。帝王編年紀は大和高市郡龍田、都宮の西北、大和志は上八釣村とする。ここに八年と年数を挙げるのは、師のいう後人の注とは思えない。後にも例が多い。

【宣長の注釈】石木王の娘の難波王を、書紀は元年正月に皇后となった難波小野王とする。初め難波に住んだのだろう。小野も地名で、前述の宮の異伝の少郊を私記がヲノと読むのと同じ土地かもしれないが、少郊という字はどうなのか。石木王は雄略紀の磐城皇子だろう。古事記には漏れているのだろう。同母弟の星川皇子の乱で母の吉備稚媛・異父兄などが星川とともに焼死した話は清寧紀冒頭にある。書紀細注は難波小野王を允恭の曾孫、磐城王の孫、丘稚子王の娘とするが、允恭の子に磐城王は両書とも見えず、雄略の子なのを伝え誤ったのだろう。難波王が磐城の娘か孫かは確定できない。仁賢紀二年九月は難波小野皇后が過去の不敬を恐れ自殺したとし、細注で顕宗時代の話を記すが、理解しがたい。予想外の人が突然天皇になったならともかく、億計は元々皇太子で次の天皇になるとわかっていたのに、なぜ死ぬほど恐れる無礼を以前にしたのか。実際にはそれほどひどい不敬でもないのを恐れたという文章もおかしい。ささいなことで天皇が皇后を責めるようなことがあるだろうか。

【古事記本文】天皇が父の市辺王の遺骨を捜した時、淡海国の老女が進み出て、「王子の御骨を埋めた所は私だけがよく知っております。歯でも見分けられます。歯はサユリの茎のように重なって生えておられました」と申し上げた。人々を集めて土を掘ると遺骨が見つかり、蚊屋野の東の山に陵を造って葬り、韓帒の子らに守らせた。その後、御骨を持ち帰り、天皇は宮へ帰ると老女を召し、場所を見失わず覚えていたことを褒めて置目老媼という名を与え、宮内へ迎え厚く慈しんだ。家を宮のそばに建て、毎日必ず呼んだ。大殿の戸に大きな鈴を掛け、呼ぶ時は綱を引いて鳴らし、こう歌われた。「浅茅原の、小谷を過ぎて、百伝ふ〔鈴にかかる枕詞〕、鈴が揺れ鳴るよ。置目が来るらしい」。老女は「たいそう年を取りましたので、故郷へ帰りたい」と申し上げた。願いどおり帰らせる時、天皇は見送って歌われた。「置目よ、近江の置目よ。明日からは、山の陰に隠れて、見えなくなってしまうのだろうか」。

【宣長の注釈】御骨はミカバネ、遺体の意味で、巻三十三六十六丁参照。淡海の久多綿の蚊屋野に埋められたのは巻四十の四十二丁に既述で、地面と同じ高さで塚を築かなかったため場所がわかりにくく、捜したのだ。天皇自身が淡海へ行ったのは、後の還上坐でわかり、書紀も同じ。「老媼」はオミナで、説文も老女とする。巻九の十八丁参照。書紀は狭々城山君の祖、倭帒宿禰の妹とするが、古事記では普通の身分の低い女性に聞こえる。参上した先は淡海の行在所だろう。所埋は埋めた所、専は私以外に知る者がないという意味。歯でもわかると付け加えるのは、場所の説明が本当かなお疑われるのを、歯で識別できると保証するのだ。「三枝」は冠辞考のサキクサの項のとおり、きっとサユリのことだろう。福草と書く福はサキの当て字で、中国の瑞草とするのは誤り。巻二十の三十一丁の山由理草の説明とも照合したい。「押歯」は和名抄が蒼頡篇を引いて、歯が重なり生えることをオソハとする。冠辞考も、三枝のように重なる歯と解す。草の三本の茎が向き合う姿のように重なる歯だったのだろう。掘土は老女に教わった場所を掘ること。蚊屋野は巻四十の三十八丁参照。葬を延佳本が墓に変えるのは独断の改変で、後で述べる。ヲサメマツリテと読み、倭建命の櫛を陵に納め治め置く例と同じ。韓帒は巻四十の三十七丁参照。子孫に陵を守らせるのは同所で引いた顕宗紀元年五月の記事と照合したい。倭帒宿禰は韓帒の兄弟だったのか、詳しくはわからない。これは後に陵戸という者で、続日本紀の陵を守り奉仕する人々という詔にもつながる。

【宣長の注釈】市辺王の陵には、近江蒲生郡日野の音羽村にあり、御廟野・御骨野の名もあって、石槨が露出し薬師堂が傍らにある、牛馬を入れると急死する、と地元で伝える説がある。ただ書紀に同形の二基を築いたとあるのに今は一基で、初めの埋葬地は遠い蒲生野のこぼち塚という。別の人は音羽の墓を息長の墓とし、山城愛宕郡北端の久多谷、久多越、近江高島郡和出村、若狭遠敷郡の蚊屋野が、山城・近江・若狭・丹波の四国境で近接することを挙げる。そこに二つの塚があり御子塚というので、久多綿の蚊屋野と市辺陵はこちらだとする。どちらが正しいか、なお調べる必要がある。「その後御骨を持ち上った」は理解しがたい。すでに蚊屋野の陵へ葬ったとあるからだ。延佳本が葬を墓に変えるのは、遺骨を都へ持ち帰り、蚊屋野には旧埋葬地の標を造っただけと考えたのだろう。しかし古事記はそのような標を御陵とは書かず、骨を持ち帰ったなら大和での再葬記事もあるはずなのにない。大和にその墓があるとも伝わらない。一度蚊屋野へ葬って、後に大和へ改葬したとも考えられるが、再葬場所をいわず骨の移送だけをいうのも理解できない。師は歯を印に持ち帰ったのか、土や衣を蚊屋野へ葬り骨を持ち帰ったのかともいうが、同じく疑問だ。ほかの物ならともかく、歯でも持ち帰ったまま葬らず放置するのだろうか。「還上坐」は天皇が淡海から大和の都へ戻ったこと。「不失見置知其地」の最初の其は読まず、その地は旧埋葬地。師のワスレズという読みを採る。見置の置には眞・貞の異同があるが延佳本などに従う。その地へ目をとめ心に留めたことで、今の見ておく・聞いておくのオクも本来そうした重い意味がある。置目の目にも其・図の誤字があり真福寺本・延佳本に従う。見置にちなむ名で、目を置いたという意味ではない。仍はカクテ。カネテとも読めるが近くに故があり重なるのを避ける。敦広は厚く広く慈しむこと。続日本紀や神代紀にも厚支広支・広厚の例がある。「所住屋」はスムヤで、スムルでもスメルでもない。今の人は言葉の形を区別せず同じと思いがちだ。「鐸」はヌリデと読む。末尾が濁っても清音字で書く。字鏡のヌリデ、政事要略の儀制・塞手などの例があり、説文は大きな鈴とする。

【宣長の注釈】『万葉集』巻十七にも「白塗りの鈴」とある。スズは総称で、その中の大きなものをヌリデという。古い書物ではスズを鈴、ヌリデを鐸と書き分ける。『和名抄』は『楊氏漢語抄』の「鐸子、スズ」と、『三礼図』の「鐸は今の鈴で、その舌を銅で作る」という説明を引くが、ヌリデという名は見えない。『古語拾遺』には「鉄鐸、古語でサナキ」とあるが、サナキという名もほかには見当たらない。「引鳴」は、懸けた長い綱を大殿の中から引いて鳴らすことだ。
「阿佐遅波良」は浅茅原。「袁陀爾袁須疑互」は小谷を過ぎて、ということ。小谷は普通の谷で、小野・小川などと同じように小を添えた語だ。小初瀬・小佐保・小筑波などの地名もある。ヲダニをヲタニと読む案も考えられるが、ダは濁音なのでそうではない。浅茅原と小谷が地名である可能性もある。浅茅原は神功紀やこの巻以後の記事に見え、神楽歌にも「かさの浅茅原」とある。今も城上郡には笠村と茅原村がある。書紀の「鳴鐸」は高市郡の尾会村のことか。「鳴」は例の小を添えたものかもしれず、小谷という地名もありそうだ。ただ、実際にそれらの土地を通って来るわけではなく、鈴について歌う以上、特定の地名を持ち出すより、野山を経て来る様子とする方がよいだろう。そうなら書紀の鳴鐸の「鳴」は「茅」の誤字だろうか。
「毛毛豆多布」は百伝ふ。軽島宮の段の歌に出ており、巻三十二の三十三丁参照。『冠辞考』では、多くの野山を経て来る意味とした。浅茅原や小谷を過ぎると歌うのはそのためで、置目が宮のそばに住んで鈴の音で来る場合も、歌では野山を経る様子を述べたのだろう。また鐸にかかる枕詞とも考えられる。その場合は多くの野山を経る意味を直接表すのではなく、鈴を鳴らして行く駅路に由来する枕詞となる。契沖は、置目が綱で鈴を鳴らすことによる枕詞とした。いずれにしても駅路で鈴を鳴らして旅することに由来する。契沖の「多く足を運ぶ意味」という説明は大きな誤りだ。『万葉集』巻十四の「鈴を掛ける、はゆま駅の…」にも駅路の鈴が見える。
「奴豆由良久母」の豆は濁音。延佳本は豆の下に夜を加えるが、今は諸本に従った。書紀では與があり、「響々」とも書く。ヌヅはヌリデを縮めた名だろう。ある人は、ヌヅはもともと百済の言葉だという。そうならヌリデもそうなのだろうか。なお検討したい。ユラクは玉や鈴が揺れて鳴る音で、上巻の「玉緒もゆらに…」の所、巻七の四丁にも述べた。「置目来らしも」は置目が来るらしいということ。ラシは推測、モは助詞で、「見えずかもあらむ」のモと同じである。
鈴を聞いて置目が来るかのように歌うのは少し食い違うようにも思われる。ただ、鈴で呼ぶといつもすぐ来るので、鳴らせばもう来るように思って、このように歌ったのだろうか。書紀の文章にはよく合うが、こちらの古事記では天皇自身が鈴を引き鳴らす場面なのである。
『日本書紀』にはこうある。「二年二月、天皇は詔した。父王は多くの難に遭い、荒れ野で命を落とした。私は幼く、逃げ隠れていたが、思いがけず捜し迎えられて帝位を継いだ。広く遺骨を捜したが、知る人はいない。皇太子の億計と泣き嘆き、悲憤を抑えられなかった。この日、老人たちを集め、天皇自身が一人ずつ尋ねた。一人の老女が進み出て、置目は遺骨を埋めた所を知っております、お教えしましょう、と言った。〔置目は老女の名で、近江国狭々城山君の祖、倭帒宿禰の妹である。後の文にも出る。〕天皇と億計皇太子は老女を伴い、近江の来田綿の蚊屋野へ行き、掘ると果たして老女の言うとおりだった。穴に臨んで激しく泣き叫び、言葉にも深い悲しみを表した。昔から、これほど痛ましいことはない。仲子の遺体が御骨と入り交じり、見分けられなかった。そこで磐坂皇子の乳母が、仲子は上の歯が抜けております、それで見分けられます、と申し上げた。乳母によって頭蓋は見分けられたが、四肢のほかの骨はなお区別しにくかった。そのため蚊屋野に同じ形の二つの陵を造り、葬儀も同じにした。置目を宮のそばに住まわせ、厚く尊んで恵み、不足のないようにした。この月、天皇は詔した。老女はひとり弱り衰えて、歩行に不便である。綱を張り渡して、それにすがって出入りできるようにせよ。綱の端には鈴を懸け、取次ぎの者を煩わせず、入る時はそれを鳴らせば、私はあなたの来たことがわかる。老女は命令どおり鈴を鳴らして進み、天皇は遠くその音を聞いて歌った」。

【宣長の注釈】「退く時」はヤリタマフトキニ、帰るのを許す意味である。マケタマフトキとも読める。マケはマカラシムを縮めた形で、前に地方の官へ赴かせる場合にいい京官にはいわないと述べた。「見送」は旅立つ所へお出ましになって送ること。万葉二十にも、浜の松の並びを見ると、見送る家人が立った姿に似る、という歌がある。「置目もや」のモヤは助詞で、書紀は無與とし、万葉二の吾者毛也も同じ。「近江の置目」は地名と人名で、契沖の海の奥へかける説には意味の根拠がない。「明日よりは」は明日からのこと。「み山隠りて」のミヤマは真山のような語。カクレをカクリテというのは、契沖の単なる音の通用説ではなく、古語と後世で活用が違うためだ。古くはカクラム・カクリ・カクル、後はカクレム・カクレ・カクルとなる。上巻や推古紀、万葉五・十五・十七などにもカクリの例がある。山の陰で見えなくなるのであって、山へ入って隠れるのではない。「見えずかもあらむ」は見えなくなるのだろうか、という意味。続古今集が「さざなみや、近江の置目、明日よりは、み山隠れて、見えずもあらなむ」と変えたのは、老女の置目を少女とし、推量のアラムを願望のアラナムへ直したもので、理解しがたい。歴代の撰集が古い歌を変えると、この種の誤りが多い。アラナムでは見えなくなれという願いになり、元と正反対で意味が通じない。この程度の違いも見分けず強いて直すことがあるのだ。書紀二年九月では、置目が気力衰え老いて弱り、綱に頼っても歩けないので故郷へ帰り余生を送りたいと願い、天皇は悲しんで物千段を与えた。帰りの道へ送ると再会しがたく恋い慕い、歌ったという。

【古事記本文】天皇は、初め難に遭って逃げた時に食べ物を奪った猪甘の老人を捜し出して呼び上らせ、飛鳥川の河原で斬った。その一族の膝の筋もすべて断った。そのため今でも、子孫が大和へ上る日には、自分から足を引きずる。老人の居場所をよく見定めたので、その土地を志米須と呼ぶ。「志米岐」の三字は音を表す。

【宣長の注釈】難に遭って逃げた話は、穴穂宮の段の末、巻四十の四十三丁に出る。「求」は文頭の「初」の上にあるのと同じ意味で、今になって老人を捜すこと。「喚上」は都へ呼び上らせることである。飛鳥川は巻三十八の二十七丁参照。推古紀にも見え、孝徳紀の飛鳥河辺の行宮、斉明紀の飛鳥川原宮などがある。川原は今いう河原だけでなく、川の近くの土地を広くいう。川原寺もこの川辺にあったのだろう。『万葉集』巻二の「飛鳥の明日香の川の上つ瀬に…」、巻三の「明日香川、明日も渡らむ…」など、多くの歌に詠まれ、後世まで名高い。「斬」は猪甘の老人を斬ったということ。「族」は巻四十一の十七丁に出た。
膝の筋は、膝裏、俗に「ひつかがみ」という所の筋だろう。『和名抄』には膝をヒサ、筋をスヂとする。神功紀の「新羅王の膝膕を抜く」も似た話である。『和名抄』は膕にヒサノカハラ、髕にアワタゴ、俗にアワタという訓を挙げ、髕と膝は名が違っても同じものとする。こちらは今いう膝頭で、筋そのものではないが、似た例なのだ。
「是以」を諸本は以是とするが、真福寺本に従った。「至今」の至の下には、真福寺本で子の字がある。「子孫」はコドモと読む。先祖を親といい、子孫を末々まで子というのは古い言い方である。〔先祖の訓を示す仮名二字は原刊の判読を保留する。〕「上於倭之日」の日は単に時という意味か。それとも、道中ではそうせず、大和へ到着した日ということだろうか。「自跛」は自分から足を引きずること。『和名抄』が『説文』を引く「蹇、歩き方が正しくない」はアシナヘと読み、この国ではナヘクともいう。『字鏡』にも足の不自由なことをいうナヘクなどが見える。巻二十五の二十三丁とも照合したい。祖先が膝の筋を断たれたために、子孫が末々までこのようにするということからも、天皇の威徳の恐ろしさがわかる。
「其老」の下には人の字が落ちたか。「所在」は居場所の意味。「見志米岐」は、天武紀の「都とする土地を見定めさせた」という視占と同じで、岐は過去を語る助辞である。『宇津保物語』俊蔭巻にも、四、五百人の人里離れた恐ろしい者たちが、住む場所を求め「この山をみしめて」、山いっぱいに住んだとある。シメは「しめゆふ」などのシメと同じで、場所を探し、ここだと見定めることだ。
ただ、ここでは見定めた人を誰とも記さず、どういう人物だったかも挙げないのは不自然である。もとは「故其老人、能見志米岐所在」と、其老を上へ置き、老人自身が人に知られない隠れ場所をよく選んだという話だったのが、伝わる間に混乱したのではないか。この読みなら、天武紀や宇津保物語の用例ともいっそうよく合う。あるいは誰が見つけたかは伝わらないが、深く隠れていた老人をよくも発見したものだと、その働きを称えたのだろうか。
「故其地」の上には号の字が落ちたのではないかと師はいう。古事記のこのような所には号がある例が多いが、ない例もある。国名を記さないので、今のどこかはわからない。「志米須」のシメは、上の見志米のシメに違いない。スは栖、すなわちすみかのことか。師は村の意味かというが、村をスという根拠はない。村主などを考えたのかもしれないが、それでは説明できない。
また「示す」は、人に実際に見定めさせる意味で、シメは同じでもスは使役を表すから、この地名をそのまま示すとすることもできない。神功紀の「宝蔵を開いて珍しい宝物を見せた」の示をミシメと読むのも、示すと見占めるを同じと考えたためかもしれないが、これは単に人に見せるという別の言い方で、意味が通じても言葉を混同してはならない。スを栖とするなら、この地名は、見定められた老人のすみかの意味だろう。スミカをスというのは古語である。さらに前文を老人自身が隠れ場所を選んだと解するなら、自分で見定めたすみかという意味となる。この地名がほかの書物に出るか、また今もこの話を伝える場所があるか、調べたい。

【古事記本文】天皇は父王を殺した大長谷天皇を深く恨み、その霊に報復しようと、陵を壊すため人を遣わそうとした。同母の兄の意富祁命は、「この陵を壊すのを人に任せてはいけません。私自身が行き、あなたのお望みどおり壊して参りましょう」と申し上げた。天皇は「そうだ。その言葉どおり行ってください」と答えた。意富祁命は都から下り、陵のそばを少し掘って戻り、「もう掘り壊しました」と報告した。天皇は帰りの早さを不審に思い、「どのように壊したのか」と尋ねた。「陵のそばの土を少し掘りました」と答えると、「父の仇に報復するのだから全部壊すはずだ。なぜ少しなのか」と問うた。兄は穏やかに答えた。「父王の仇を討ち、その霊に報復しようというのは、まことにもっともです。しかし大長谷天皇は父の仇である一方、父の従兄弟でもあり、天下を治めた天皇です。ただ父の仇だけを思って、天下を治めた天皇の陵を全部壊せば、後世の人は必ず非難します。とはいえ父王の仇に何も報いないわけにもいきません。そこで陵の周辺を少し掘り、それで恥を受けたことが後世へ伝わるようにしたのです。道理を考えて、このように申し上げました」。天皇は「それも大変もっともだ。言葉のとおりでよい」と答えた。

【宣長の注釈】「その霊」は雄略の霊で、生身の天皇がもうこの世にいないので、その霊へ報復するという。和名抄のミタマ・ミカゲ、続日本紀の代々の天皇の御霊も同じ語だ。「毀」はヤブル。後文の破壊・壊も同じ。師はアバタスと読み鎮火祭の祝詞を根拠にしたが、そのアバタシはあらわにする意味で、荒らし壊す意味ではない。ここは遺体を掘り出すのでなく、高く築いた陵の山を壊すのだ。書紀の骨を取り散らすは、いつもの文章上の飾りだろう。ヤブルは物一般に使える語で、今の感覚で塚に使うのを疑ってはいけない。陵を壊そうとするのは、父の遺体を地面と同じ高さに埋められたことへ報復する気持ちかもしれない。「遣」はツカハス。ツカハシタマフという言い方は俗で、ツカハスにタマフを添えることはない。「意富祁命」の富を欠く諸本に対し、延佳本に従った。次に出る同名も同じ。他人に任せてはいけないとは、ほかの人では天皇の心どおりにならないだろう、という意味だが、兄自身は少し掘ってやめようと思っている。「専」は他人を交えず一人でということ。従者や作業の役夫までいないのでなく、処置にほかの者を交えないのだ。ここでの「天皇」はオホキミと読む。「参出」は戻り参入する意味で、師の出を来へ変える案は不要、参出・参入は同じことをいう。天皇の言葉が敬語なのは兄への発言だからだ。「下幸而」の而は多くの本で欠けるが、真福寺本と延佳本に従った。雄略の陵は河内国丹比郡にある。傍はカタヘ。破壊でなく少し掘ると書くのは、兄に壊す意図がないためで、次の答えも同じである。「すでに」は、壊す時間もないほど早く戻ったのに完了といい、天皇が疑うのを促している。大きく高い陵を短時間では壊せないので、不思議に思ったのだ。「如何」はイカサマニ。「悉破壊」は盛り上げた所を残らず平地にすることで、父王の埋葬の仕方への報復である。答曰の曰を白とすべきという師の説は、前の答白と合う。「爲然」は少しで止めたこと。怨はアダ。同じことを繰り返すため、父王の王と御陵の御を省いたが、読む時は補う。「還」はカヘリテハ、仇であるのと裏腹に、ということ。「従父」は父の従兄弟をいい、雄略と市辺がいとこ同士だからだ。『爾雅』釈親は、父のいとこを「従祖父」とする。晜は昆と同じ字で、兄の意味。従祖父は祖の代で分かれた父という意味なので、ここも従祖父と書くべきところを祖の字を省いたのだろう。ただ、従父某という呼び方の例はあっても、単に従父と呼ぶ例は見当たらず、そもそも父のいとこをこう呼ぶことはない。『和名抄』は『爾雅』を引いて「母の姉妹を従母といい、母方のおば」とする。それにならえば、父の兄弟こそ従父と呼べそうだが、それでもこの場面には合わない。

【宣長の注釈】では、父のいとこを昔は何と呼んだのか。『和名抄』にも見えないが、古くは広くオヂと呼んだのだろう。同じような例として、孝霊天皇の御子で、崇神天皇の大おばに当たる倭迹迹日百襲姫命を、崇神紀はただ「天皇の姑」と呼ぶ。これにならい、ここの従父もヲヂと読むべきだ。
「取」は一つの考えにとらわれること。「唯」はタダシと読む。後世の文で但の字をそう読み、話の向きを変える所に置くのと同じで、古語なのだろう。猶をナホシと読む例があるように、唯もタダシといったのかもしれない。「以是恥」は、カクハヂミセマツリテアレバ、こうして恥を受けさせ申し上げたのだから、という意味。字をそのまま読めば漢文の言い回しになるが、人に恥を見せるという言い方自体は古語で、上巻にも「私に恥を見せた」とある。少しでも陵を掘ったことは、雄略天皇に恥を受けさせたことになる。「後世に示す」は、市辺王を殺した報いとして今このように陵を壊されることを、後の世まで見せ知らせるという意味だ。
「足」はアヘナム〔原刊の音仮名第二字は閇・閉の字体判読に留保があるが、脇の振り仮名はヘ〕と読む。「これで十分だろう」という意味である。何かをするに足りる、足りないという字面どおりの言い方は漢文で、日本語の言い方ではない。古事記はできる限り古語のまま書いていても、時にはこうした漢文の表現が混じるから、文字どおりには読めない。
「それも大きな道理だ」は、天皇が父の仇を討とうとする考えを兄が「まことに道理です」と受けたのに、今度は天皇が兄の説明を受けて、そう答えるのである。「それ」は兄の今述べた言葉を指す。大という字を添えるのは深く感心したためで、自分の考えより兄の道理の方が優れていると認めたのだ。「如命可也」はミコトノゴトクヨシ、お言葉のとおりでよい、の意味。命は兄の言葉である。ヨシに可を使うのは、中国で王が臣下の提案を聞き入れ許す時の表記にならう。「制して可という」など、漢籍によく見え、書紀もヨシと読む。

【宣長の注釈】『日本書紀』にはこうある。「二年秋八月、天皇は億計皇太子に言った。父王には罪がなかったのに、大泊瀬天皇は射殺し、その骨を野に捨てた。今なお〔その遺骨を〕得られず、憤りと嘆きが胸に満ち、伏しては泣き、歩いては叫び、仇と恥をすすごうと思う。私は聞いている…〔引用はこの箇所を省略する〕。願わくはその陵を壊し、骨を砕いて投げ散らしたい。今これで報復するのは、孝行ではないか。
億計皇太子はすすり泣き、答えることができなかったが、やがて諫めた。いけません。大泊瀬天皇は正統に政務を統べ、天下を照らし、国の内外が喜んで仰いだ天皇です。父王は天皇の子でしたが、運が開けず皇位には就きませんでした。このように見れば、尊卑には明らかな違いがあります。それなのに陵を壊すなら、誰を君主として天の霊に仕えるのでしょう。壊してはいけない理由の一つです。
また、天皇と私が白髪天皇の厚い寵愛と格別な恩を受けなかったなら、どうして皇位に臨めたでしょう。大泊瀬天皇はその白髪天皇の父です。私が聞くところでは…〔引用はここも省略する〕。陛下は国を受け継ぎ、徳行は広く天下に聞こえています。それなのに陵を壊したということが国の内外に知れれば、私は、国に臨み、民をわが子のように治めることはできなくなるのを恐れます。壊してはいけない理由の二つ目です。天皇は、よいことを言った、と答え、作業をやめさせた」。〔ここで書紀の引用が「今なお遺骨を得られない」とする点は、先の遺骨発見の記事とそのままにはつながらない。原文の言い方を残した。〕

【古事記本文】天皇が崩御すると、意富祁命が皇位を継いだ。天皇の年齢は三十八歳、天下を治めたのは八年。御陵は片岡の石坏岡の上にある。

【宣長の注釈】書紀は三年四月、丙辰を朔日とする庚辰の日(二十五日)、八釣宮で崩御したとする。意富祁の富は欠く本が多いが真福寺本・延佳本に従う。天津日継の継を真福寺本は続とする。巻十四三十七丁参照。三十八歳について書紀に年齢はなく、ある書は三十一、別の書は四十八という。統治八年は冒頭と同じことを再び記し、古事記にはほかに例がない。師は後人の注とした。片岡は巻二十一六十丁参照。石坏岡の坏岡は旧刊本などで落ち、真福寺本・延佳本に従った。仁賢紀では元年十月、丁未を朔日とする己酉の日(三日)に傍丘磐杯丘陵へ葬った。諸陵式は大和葛下郡、東西二町・南北三町、陵戸一戸・守戸三戸の南陵とし、後に北陵もあるので南という。大和志は今市村にあったが宝永年間に陵が崩れ民家となったとし、たいへん畏れ多いことだ。平野村、またその北の字片岡山とする書もあるが、武烈陵と紛らわしく、さらに調べる必要がある。

広高宮の巻

【古事記本文】意富祁命は石上の広高宮で天下を治めた。天皇は大長谷若建天皇の御子、春日大郎女を娶り、高木郎女・財郎女・久須毘郎女・手白髪郎女・小長谷若雀命・真若王を生んだ。また丸邇の日爪臣の娘の糠若子郎女を娶り、春日山田郎女を生んだ。御子は合わせて七人。そのうち小長谷若雀命が天下を治めた。

【宣長の注釈】冒頭に、真福寺本は「袁祁王の兄」と記す。「意富祁命」の「富」は多くの本にないが、真福寺本・延佳本に従った。また、真福寺本は「命」を「王」とする。この天皇の後の漢風の諡は仁賢天皇である。「石上」は前に出た【巻十八・五十二丁】。
「広高宮」は美しく尊ぶ呼び名だろう。神代紀にも、宮を造る決まりとして「柱は高く太く、板は広く厚く」とある。『日本書紀』は元年正月五日、皇太子が石上広高宮で即位したとする。所在地は、『帝王編年記』では山辺郡石上の左大臣の家の北辺、田原とあり、『大和志』は山辺郡嘉幡村とする。
「春日大郎女」は朝倉宮の段では記し漏らされているが、『日本書紀』にあり、その段【巻四十一・三丁】で引用した。また仁賢紀は、元年二月二日、もとからの妃の春日大娘皇女を皇后に立てたとする。春日大娘皇女は、大泊瀬天皇が和珥臣深目の娘、童女君を娶って生まれた御子である。
「高木郎女」と同じような名には、景行天皇の御子の高木比売命、応神天皇の妃の高木入比売命などがある。この人は『日本書紀』の高橋大娘皇女だろう。高橋は大和国添上郡の地名で、崇神紀や武烈紀の歌などに見える。母の別名にも高橋皇女とあり、同じ土地にちなむのだろう。「財郎女」の名の意味は巻二十九・四十八丁で述べた。「久須毘郎女」の名の意味は、上巻の熊野久須毘命の注【巻七・五十七丁】で述べたとおりである。『日本書紀』の朝嬬皇女がこの人だろう。朝嬬は地名で、前に出た。

【宣長の注釈】「手白髪郎女」の白髪は当て字で、タシラカという土器の名にちなむ。『貞観儀式』の大嘗会の儀に、水部の一人が多志良加を持つとあり、大嘗祭式・宮内式・『江家次第』などにも同じように見える。四時祭式の神今食の供え物には四口、大嘗祭式の神に供える雑器には八口、主計式には多志羅加二口【一斗入る】、また手白髪甕四口などがある。水部の者が持つとあるので、水を入れる器なのだろうか。一斗入るというので、やや大きな器と思われる。『和名抄』にはこの器が見えない。皇女がこの名を負うには、それにちなむ理由があったのだろう。
「小長谷若雀命」の雀を鷦鷯とする旧刊本などは、後人が『日本書紀』に従って改めたものなので、真福寺本・延佳本などに従った。後に出るものも同じである。小長谷は、長谷に住んでいたため、大長谷天皇に対して小と呼んだ。若雀も大雀天皇に対する名である。『日本書紀』は七年正月、小泊瀬稚鷦鷯尊を皇太子に立てたとする。
「真若王」と同じ名は多く、男女ともに例がある。この人は『日本書紀』によれば皇女である。『日本書紀』には、皇后が一男六女を生み、順に高橋大娘皇女・朝嬬皇女・手白香皇女・樟氷皇女・橘皇女・小泊瀬稚鷦鷯天皇・真稚皇女とある。一本は樟氷皇女を第三、手白香皇女を第四にする。このうち橘皇女は『古事記』のここでは漏れているが、広入野宮の段に、天皇が意富祁天皇の御子の橘中比売命を娶ったとある。
「丸邇」は氏の名で、前に出た【巻二十二・四十六丁】。諸本には邇の下に臣があるが、真福寺本にはないのでそれに従った。臣は人の名の下にもあり、カバネはそこに付ければ、氏の名の下には重ねて付けないためである。
「日爪」はヒツマと読む。延佳本が爪を瓜に変えてフリと読むのは、例の独断による誤りだ。『日本書紀』の細注の日觸に引かれたのだろうが、その細注も、応神天皇の妃に和珥日觸使主の娘がいるのと混同した誤りである。日觸は『古事記』ではヒフレとあり、瓜をフリともいわない。この人は師木島宮の段にも混じって再出するが、『日本書紀』の「日抓」の抓は枛の誤りで、ツマである。神代紀の枛津姫命や、『万葉集』の「真木のつまで」もその例だ。『字鏡』は抓をつまむ、爪で刻む意味とし、ツムと読ませるが、それはここの字ではない。
爪はツメだが、ツマとも普通にいう。酒がサカ、舟がフナ、稲がイナとなるように、後へ語をつなぐ時の形である。また、食を「うかの御魂」、天を「天原」というように、「の」でつなぐ時にも元の形へ転じる例が多い。ここも「の臣」とつなぐので、ツマを爪で書いたのだろう。枛の木偏を省いた形なのかもしれない。いずれにしても爪はツマと読め、抓をツメと読むのは難しいから、必ずヒツマである。読みが紛らわしく迷う人がいるので、詳しく述べた。
「糠若子」はヌカノワクゴと読む。糠は『和名抄』にはないが、『字鏡』には「秕は俗に糠と書く」、またヌカとあり、『万葉集』巻四も「ぬか」という語に糠を当てて書く。『日本書紀』がアラと読むのは誤りで、アラにこの字を用いるはずはない。若子はワクゴと読む例で、「何々若子」という名はどれも間に「の」を入れる。ただし、女性でこの形の名は珍しい。『日本書紀』の糠君娘という名の君は、若を写し誤った本を、そのまま採ったものなのだろう。

【宣長の注釈】「春日山田郎女」の山を、諸本は少、真福寺本は小とするが、延佳本に従った。春日は母方の家にちなむ。丸邇は春日の内にあり、『日本書紀』も丸邇氏を春日和珥臣という。この皇女が春日に住んでいたことは、継体紀の勾大兄皇子の歌に見え、そこでは春日皇女と呼ばれる。山田は『和名抄』の河内国交野郡山田郷だろうか。後に山田という所に住んだのかもしれない。『日本書紀』には、和珥臣日爪の娘の糠君娘が一女を生み、春日山田皇女というとある。一本は、和珥臣日觸の娘の大糠娘が生んだ山田大娘皇女で、別名を赤見皇女とする。『神名帳』には近江の犬上郡・坂田郡の山田神社、伊香郡の赤見神社もあり、これらの地名なのだろうか。
安閑紀には、元年三月、有司が天皇のために億計天皇の娘、春日山田皇女を迎えて皇后にしたとある。別名は山田赤見皇女である。二年十二月、天皇が崩御して河内の旧市高屋丘陵へ葬られた時、皇后の春日山田皇女と、天皇の妹の神前皇女をこの陵へ合葬したという。『諸陵式』は古市高屋墓を春日山田皇女の墓とし、河内国古市郡にあり、東西・南北各二町、守戸二戸とする。
「若雀命」の命の前に之を入れる諸本があるが、ない真福寺本に従った。また一本は命の後に「坐長谷」の三字を置く。
この仁賢天皇について、『古事記』は年齢も御陵も記していない。どうしたことだろう。『日本書紀』は十一年八月八日、寝殿で崩御したとするが、年齢は記さない。ある書は五十歳、別の書は五十一歳とする。御陵については、同年十月五日に埴生坂本陵へ葬ったとある。『諸陵式』では、石上広高宮で天下を治めた仁賢天皇の埴生坂本陵は、河内国丹比郡にあり、東西・南北各二町、守戸五戸である。埴生坂は前に出た【巻三十八・十三丁】。『河内志』は、丹南郡黒山村の管内にあり、陵のそばに塚が二つあるとする。俗に天武天皇の陵というのは誤りである。また、葛井寺の南にある、錦部郡野中村にある、などという説もすべて誤りだ。

列木宮の巻

【古事記本文】小長谷若雀命は長谷の列木宮で天下を八年間治めた。この天皇には皇位を継ぐ御子がいなかったので、御子に代わるものとして小長谷部を定めた。御陵は片岡の石坏岡にある。天皇が亡くなり、皇位を継ぐ王がいなかったので、品太天皇の五代後の子孫の袁本杼命を淡海国〔近江国〕からお迎えし、手白髪命と結婚させて、天下の統治をお任せした。

【宣長の注釈】この天皇の漢風の諡は武烈天皇である。「列木宮」について、『日本書紀』は皇太子が有司に命じ、泊瀬列城に壇場を設けて即位し、そこを都に定めたとする。仁賢紀にも、天下を治めるに及び泊瀬列城を都としたとある。これらの文からすると、列木はもとからの地名だったのだろう。宮跡は、長谷寺の南にある出雲村の北方の、武烈天皇の御屋敷という所だという。
「无太子」は、前の例なら「御子」とあるべきなのに、特に「太子」というのは意味があるのだろうか。この天皇で、遠く仁徳天皇以来の皇統が絶えることを思って、皇位を継ぐ御子がいないといったのだろうか。「御子代」の子を名に変える延佳本は、例の独断の改訂だろう。子代は中巻の玉垣宮の段【巻二十四・二十五丁】で述べた。
「小長谷部」について、『日本書紀』は六年九月の詔を載せる。「国を伝える要は、子を立てることにある。私には後継がないので、どうして名を伝えようか。先の天皇たちの例に倣い、小泊瀬舎人を置き、私に代わる呼び名として、末永く忘れられないようにしよう」。
武烈天皇の年齢は記さず、『日本書紀』も八年十二月八日、列城宮で崩御したとするだけで、年齢はない。十八歳・五十七歳とする別書もあるが、どちらも『日本書紀』の紀年に合わない。「片岡の石坏岡」は、継体紀に、二年十月三日、小泊瀬稚鷦鷯天皇を傍丘磐杯丘陵へ葬ったとある。『諸陵式』は、泊瀬列城宮で天下を治めた武烈天皇の傍丘磐杯丘北陵は、大和国葛下郡にあり、東西二町・南北三町、守戸五戸とする。『大和志』は同郡平野村といい、別の書は字石の北、また別の書は字片岡山とする。
「すでに崩御」とは、前に陵を記してあり、ここは崩御そのものではなく崩御後のことを記す文なので、「既」というのである。「五世之孫」はイツツギノミコと読む。『続日本後紀』巻十五の歌の「ななつぎのみよに」、『古今集』序の「世はとつぎになむなれりける」は御代継ぎの数をいうが、父子の世継ぎも同じである。ここで孫をマゴと読むのは誤りで、子の子ではなく、末の子孫をいう。マゴは子の子に限っていう語で、古くは子の子をヒコといった。マゴというのは後の語である。ミコは広く子孫まで通じる呼び名なので、何世孫もすべてミコ、またはコと読むべきだ。この系譜は袁本杼命の段で詳しく述べる。

【宣長の注釈】「袁本杼命」の名の意味は、中巻の意富富杼王の注【巻三十四・五十一丁】で述べたとおりである。『日本書紀』は別名を彦太尊とする。同じような名には彦太瓊尊、彦太忍信命などがある。
「近淡海国から」の近は読まない。表記では遠淡海に対して近と書いても、言葉では昔も今もただアフミというためである。
継体紀の冒頭には、父王が振媛の美しさを聞き、近江国高島郡三尾の別宅から三国坂中井へ使いを遣わして迎え、妃とし、天皇が生まれたとある。天皇が幼いころ父王が亡くなると、振媛は「私は今、故郷を遠く離れている。どうして養い育てられよう。高向へ帰り、天皇を養育しよう」と嘆いた。高向は越前国の村の名である。小泊瀬天皇が崩御し、もとから男女の御子がなく後継が絶えようとした時、大伴金村大連が相談したという。元年正月には金村がさらに相談し、「男大迹王は生まれつき慈愛と孝心に富み、皇統を継げる。丁重に即位を勧め、帝業を継ぎ栄えさせていただこう」といった。物部麁鹿火大連・許勢男人大臣らも、「皇族の枝葉から賢者をよく選べば、男大迹王しかない」と賛成し、臣連たちに節を持たせ、天皇の車を用意して三国へ迎えに行った、とある。三国も高向も越前国坂井郡で、三国へ迎えに行く点は『古事記』と違う。
しかし、この天皇は曾祖父の意富富杼王以来、近江に住んでいたと思われる縁が多い。意富富杼王の子孫の息長君・坂田君などは、いずれも近江の地名である。巻三十四の各氏の注も考え合わせるとよい。この天皇も本来の居所は近江だったのだろう。『日本書紀』に見える父王の三尾の別宅、妃たちの父である三尾君の祖・息長真手王・坂田大俣王なども、みな近江の地名にちなむ。もとの住まいは近江で、越前の三国にも通って住んでいたのだろう。
『釈日本紀』が引用する『上宮記』にも、「汙斯王が彌乎国の高島宮にいた時、布利比売命がたいそう美しいと聞き、人を遣わして三国坂井県から呼び上げ、娶った。生まれたのが、伊波礼宮で天下を治めた乎富等大公王である。父の汙斯王が亡くなると、母の布利比弥命は『私ひとりで王子を抱え、親族のいない国で、私だけでは養い育て上げるのが難しい』といい、祖先の国である三国へ下り、高向村に住んだ」とある。
「手白髪命に合す」の合を令とする本は誤りで、真福寺本・延佳本などに従った。合は結婚させ奉ることで、「めあわす」の「あわす」も同じである。俗に「一つにする」というのも、合わせさせる意味だ。臣連たちが相談して、このように定めたのである。だから自ら娶るという「娶」でなく「合」という。「あはせ」は、ほかの者が二人を合わせる言葉なのだ。

【宣長の注釈】「天下を授け奉った」は、前の天皇が譲ったのではなく、臣連たちが相談して行ったのでこういう。臣下が自分の物でもない天下を授けるとはどういうことか、と疑う人もいよう。しかし「授ける」は必ずしも自分の所有物でなくても、人へ委ね与える場合に使える言葉だ。ある人が問う。「武烈の崩御後に袁本杼を迎え立てた状況から見て、大伴金村をはじめ賢く忠義ある臣がいなかったわけではない。それなのに、この天皇があれほど恐ろしく荒々しく悪い行いをしたのを、少しも問題にせず、在位中ずっと思うままに暴れるのを、ただ座って見過ごしたのはなぜか」。答える。君主が善くても悪くても、臣下が自分の判断で処置しないのが古い道の優れた点であり、君臣の義を永く完全に守り、崩れも廃れもしない道なのだ。君主が悪ければ臣下があれこれ判断することを善いこととするのは外国の道で、実際には逆らう行為だから、かえってさまざまな乱の原因になるのだ。君主の行いがひどくても臣下が問題にせず、なさるままに見過ごすのは、その場では愚かで不忠にも見えるが、そうではない。悪政も君主の生涯を越えて続くことはないので、人々の苦しみには限りがあり、一時のことである。しかし君臣の道を乱せば、害は永く尽きない。陽成天皇の悪行のため藤原基経が退位させたのは、国や世のための賢く忠実な行為と聞こえても、古い道ではなく外国のやり方で、たいへん恐ろしい。それ以来、天皇の威が次第に衰え、臣下の勢力が強大になっていったのではないか。

古事記伝 巻四十四――玉穂宮の巻。本居宣長が謹んで著す。

【古事記本文】袁本杼命(おほどのみこと)は伊波礼の玉穂宮で天下を治めた。天皇は、三尾君たちの祖である若比売と結婚し、大郎子、出雲郎女の二人をもうけた。また、尾張連たちの祖である凡連の妹、目子郎女と結婚し、広国押建金日命、建小広国押楯命の二人をもうけた。意富祁天皇の御子、手白髪命を皇后とし、天国押波流岐広庭命をもうけた。「波流岐」の三字は音を表すために使っている。息長真手王の娘の麻組郎女とは、佐佐宜郎女をもうけた。坂田大俣王の娘の黒比売とは、神前郎女、茨田郎女、馬来田郎女の三人をもうけた。茨田連小望の娘の関比売とは、茨田大郎女、白坂活日子郎女、小野郎女、別名長目比売の三人をもうけた。三尾君加多夫の妹の倭比売とは、大郎女、丸高王、耳王、赤比売郎女の四人をもうけた。「耳」には上声の注がある。阿倍の波延比売とは、若屋郎女、都夫良郎女、阿豆王の三人をもうけた。

【古事記本文】この天皇の御子は合わせて十九人で、男子七人、女子十二人である。そのうち、天国押波流岐広庭命、広国押建金日命、建小広国押楯命が、それぞれ天下を治めた。佐佐宜王は、伊勢神宮に仕える斎王となった。

【宣長の注釈】この段の冒頭には、真福寺本だと「品太王五世孫」、すなわち応神天皇から五代後の子孫である、という六字がある。この五世孫という点は、『日本書紀』にも「誉田天皇の五世孫で、彦主人王の子である。母は振媛という。振媛は活目天皇の七世孫である」と書かれている。「彦主人」は「ひこうし」と読むべきだ。『続日本紀』巻一の阿倍朝臣御主人という名も、「うし」を「主人」と書いている。これらを「あるじ」や「ぬしひと」と読むのは、どれも誤りである。ところで、『日本書紀』はここで五代の系譜を詳しく示すべきなのに、「五世孫」とだけ書くのは、ずいぶん大ざっぱである。『続日本紀』には『日本書紀』について「紀三十巻、系図一巻」とあるので、もとは別巻の系図があり、そこにこの系譜も載っていたのだろうか。『古事記』でも、中巻の明宮の段の末尾に、この五代の系譜を詳しく載せるべき形式であることは、巻三十四の六十一葉で述べたとおりである。

【宣長が引く『上宮記』】『釈日本紀』が引用する『上宮記』は、次のように伝えている。ある伝えでは、凡牟都和希王は、経俣那加都比古の娘、弟比売麻和加と結婚し、若野毛二俣王をもうけた。若野毛二俣王は母恩己麻和加中比売と結婚し、大郎子、別名意富富等王、その妹の践坂大中比弥王、田宮中比弥、布遅波良己等布斯郎女の四人をもうけた。意富富等王は中斯知命と結婚し、宇非王をもうけた。宇非王は牟義都国造の伊自牟良君の娘、久留比売命と結婚し、汗斯王をもうけた。汗斯王が結婚した相手は、伊久牟尼利比古大王から、伊波都久和希、偉波智和希、伊波己里和気、麻和加介、阿加波智君、乎波智君と代々続く系譜の女性である。乎波智君は、余奴臣の祖である阿那尓比弥と結婚し、都奴牟斯君と、その妹の布利比弥命をもうけた。この布利比弥命が汗斯王の妻である。

【引用に添えた宣長の注】凡牟都和希王は応神天皇である。「経俣」の「経」は誤字だろう。『古事記』には「昨俣」とある。「母恩己」は「母」の後に「弟」が抜けているのだろうし、「恩己」は「息長」を誤ったものである。「践坂」は『古事記』では「忍坂」と書く。「中斯知」の「知」は「和」の誤りで、『釈日本紀』の後の箇所に「和」とある方が正しい。「伊久牟尼利比古」は活目入彦、すなわち垂仁天皇である。

【宣長の説明】この系譜の意味をたどると、応神天皇の御子が若野毛二俣王で、母は昨俣中津比古の娘である。その若野毛二俣王の子が、大郎子から布遅波良己等布斯郎女までの四人で、母はいずれも息長麻和加中比売である。ここまでの系譜は『古事記』の明宮の段の末にもある。息長麻和加中比売という名には混乱があり、その事情は巻三十二の十二葉で説明した。次に、大郎子の子が宇非王で、母は中斯和命である。中世の書物では、この宇非王をどれも「私斐王」と書く。しかし「私」を音仮名に使う例は古い書物にないので、誤りだろう。後世のどの書物にもそう書いてあるのは、最初に誤った書物に基づいて次々に書き写したためである。「私」が何の字の誤りなのかは、まだ分からない。「弘」だろうか。「弘」と「宇」は音が通じるので、「うひ」とも「をひ」とも伝わったのかもしれない。ただ、「弘」も『日本書紀』以外では、ほとんど音仮名に使われないので、疑問は残る。「玖」の誤りだろうか。「宇」と「玖」は横に通じる音である。さて、宇非王の子が汗斯王で、この人が彦主人王に当たる。母は牟義都国造氏の娘である。牟義都とは美濃国武芸郡で、その国造については巻二十六の三十一葉に出ている。中世の一説では、大郎子の子を彦主人王として宇非王の一代を省くが、それは誤りだろう。

先ほどの引用の「伊久牟尼利比古大王」から「布利比弥命也」までが、振媛命の系譜を挙げた部分で、『日本書紀』の「活目天皇の七世孫」と一致する。縮めていえば、「汗斯王は、伊久牟尼利比古大王の七世孫である布利比弥命と結婚した」という文なのだが、その七代の系譜を間に続けて挙げている。実に古い文章の形である。後世の人はその形を理解せず、訓点を誤って付けたため、『釈日本紀』の次の箇所に載せる系図は、関係を大きく取り違えている。読者はそれに惑わされないでほしい。振媛命の系譜は、伊久牟尼利比古大王の子が伊波都久和希、その子が偉波智和希、その子が伊波己里和気、その子が麻和加介、その子が阿加波智君、その子が乎波智君となり、その子が都奴牟斯君と布利比弥命の二人である。この二人の母は、余奴臣の祖、阿那尓比弥である。

【続く『上宮記』の引用】汗斯王が弥乎国の高島宮にいた時、布利比売命がたいへんな美女だと聞き、人を遣わして三国の坂井県から呼び寄せ、結婚した。二人の間に生まれたのが、伊波礼宮で天下を治めた乎富等大公王である。父の汗斯王が亡くなった後、王の母である布利比弥命は、「親族のいない国で、私一人が王子を抱え、育てていくのは難しい」と言った。「養育」は「ひだしたてまつる」という。そこで、祖先のいた三国へ下り、多加牟久の村に住んだ、という。

【宣長の注】母の振媛命のことは、『日本書紀』にもほぼ同じように記されている。「弥乎国の高島宮」は、『日本書紀』には「近江国高島郡三尾の別業」とあるが、『上宮記』の書き方は、たいへん古い形に見える。『和名抄』の近江国高島郡三尾郷、高島郷がこの地である。「三国の坂井県」は越前国坂井郡で、『日本書紀』にも「三国坂中井」とあり、「中は那という」と注す。『和名抄』には「さかのい」とある。『延喜式』神名帳には同郡の三国神社、『続日本紀』巻三十五には越前坂井郡の三国湊がある。「多加牟久村」は『日本書紀』では「高向」と書き、越前国の村名だと注す。『和名抄』には越前国坂井郡高向郷を「たかむこ」とし、『延喜式』神名帳にも、同郡の高向神社がある。

この継体天皇の祖先の系譜は、ほかの古い書物にはすべて抜けているのに、たまたま『上宮記』の文章に残っている。これは実にうれしく、貴重なことである。この文章が伝わらなかったなら、この系譜についての古く正しい伝えは、ついに世に知られずに終わっただろう。ところで、曾祖父の意富富杼王を中世の書物が速総別命の子とする説は、採用できない。意富富杼王が若沼毛二俣王の子であることは、『古事記』中巻の明宮の段の末にも、今引いた『上宮記』にもあるので、議論の余地はない。速総別皇子の子ともいうのは、もとは何を取り違えたのだろう。昔、そのような別伝があったのだろうか。今残る古い書物には、その伝えは見えない。それなのに中世の諸書が皆そう書くのは、いったいどの本に基づいたのだろうか。いずれにせよ、『古事記』と『上宮記』の古く確かな記述を差し置き、確かな根拠も示せない説に従うべきではない。

この天皇は、後に漢風の諡号で継体天皇と呼ばれる。「伊波礼」は先に、巻三十八の二葉に出た。「玉穂宮」について、『日本書紀』には、五年冬十月に山背の筒城へ都を移し、十二年春三月に弟国へ、二十年秋九月、丁酉を朔日とする己酉の日に磐余玉穂へ都を移した、とある。最後の日付には、ある本では七年とする異伝もある。筒城は巻三十六、弟国は巻二十五に出た。初めに越前から上って来てから五年まで、どの宮にいたのかは資料に見えない。『日本書紀』の書き方だと、玉穂はもとからあった地名のようにも聞こえるが、やはりこの宮をほめたたえる呼び名なのだろう。『大和志』は、この宮の跡は分からないとしている。

「三尾君」は、中巻の玉垣宮の段、巻二十四の二十七葉に出る。近江国高島郡の氏族である。「若比売」は父の名が伝わらない。先祖本人の姉妹なども、単に「ある氏族の祖」と呼ぶ例は多く、巻二十一の四葉で説明したとおりである。「大郎子」は、その高祖父と同じ名である。「大」は長子であることを示す。妹には大郎女という方もいる。「郎子」「郎女」は親しみを込めた呼び名なので、長子をそのように呼べば、同じ名が繰り返されることになる。「出雲郎女」は、大和国城上郡に出雲村があるので、そこに住んでいたのだろうか。『日本書紀』には、「次の妃、三尾角折君の妹、日稚子媛は、大郎皇子と出雲皇女を生んだ」とある。

「尾張連」は、中巻の掖上宮の段、巻二十一の二十一葉に出た。「凡連」の「凡」は「おおし」と読み、「大」の意味である。この点は上巻の凡河内国造の注、巻七の七十三葉で述べた。『新撰姓氏録』には凡海連という姓もあり、火明命の子孫とされ、尾張連から分かれた氏族である。「目子郎女」は、目微比売などと同じく、ほめたたえる名なのだろう。

「広国押建金日命」は、天下を治めるに当たっての呼び名なのだろう。「押」は「大」の意味である。「金日」の意味は、まだ分からない。師は、宮の名の「金箸」の「はし」を縮めると「ひ」になるので、「金日」は「金箸」ではないかといったが、どうだろう。「建小広国押楯命」も同じく称号である。旧い刊本などで、「建」の前にも「小」があるのは余分な字である。兄の名にある「広国」を受けて、弟を「小広国」という。『日本書紀』には、「最初の妃、尾張連草香の娘で目子媛、別名色部という人は、二人の子を生み、二人とも天下を治めた。一人は勾大兄皇子で、広国排武金日尊となり、もう一人は檜隈高田皇子で、武小広国排盾尊となった」とある。欽明天皇の巻の割注にも、檜隈高田天皇とある。

「意富祁天皇」の「富」は諸本にないが、今は真福寺本と延佳本に従って入れた。「手白髪命」は先の巻四十三、七十三葉に出た。

「是大后也」は「この方が皇后である」という意味で、真福寺本には「也」がない。『日本書紀』は次のように伝える。元年二月、大伴大連はこう願い出た。「昔の王が天下を治めるには、王室を守る堅固な備えがあってこそ天地を安定させられ、後宮の近親者があってこそ先王の事業を継がせられる、と聞いています。手白香皇女を皇后に立て、神祇伯たちを遣わして神々を慎んで祭り、天皇に御子が授かるよう願い、民の期待に十分応えてください」。天皇はこれを認めた。三月、手白香皇女を皇后に立てると詔した。皇后は宮中での教えを整え、やがて男の子一人を生んだ。これが天国排開広庭尊である。「開」は「はらき」という。この方は嫡子だったが幼かったため、二人の兄の治世の後に天下を治めた。『延喜式』の諸陵の規定には、手白香皇女の衾田墓は大和国山辺郡にあり、墓域は東西二町、南北二町、専属の守戸はなく、山辺道勾岡上陵の陵戸に兼ねて守らせる、とある。

「天国押波流岐広庭命」も、天下を治めるに当たっての称号なのだろう。もとの名は伝わらなかったのだろう。「波流岐」は、『日本書紀』が「開」と書く意味である。「心をはるく」というのも、「心を開く」という意味で同じだ。出雲国造の神賀詞にも、「まそひの大御鏡の……面を、おしはるして、見行くことのごとく……」、すなわち大きな鏡の面を開いて見るように、という言葉がある。催馬楽の「東屋」で、「おしひらいて」を、ある本が「おしはらひて」とするのも、「払う」ではなく「開く」の意味である。「広庭」は、それより前の語を受けて続く称号である。『日本書紀』の斉明天皇の巻には、「朝倉の橋の広庭の宮」という宮の名も見える。

「息長真手王」の「真」は、諸本にはどれもなく、後の他田宮の段に出る名にもない。延佳本だけは両方に「真」があるので、『日本書紀』に基づいて補ったのだろう。どちらの箇所でも諸本にこの字がない以上、名は「息長手王」なのかもしれないとも思うが、何となく聞き慣れない感じがする。そのため、ここでもひとまず『日本書紀』に従い、延佳本のまま書いた。なお十分に考える必要がある。この王が誰の子かは、はっきりしない。息長は近江国坂田郡の地で、先に出た。「真手」の意味は、まだ分からない。

「麻組郎女」は「をくみ」と読むべきである。『日本書紀』には「麻績」とあるので、こちらも「をみ」と読むべきかとも思う。しかし「績」と「組」は意味が違い、「組」をそう読む理由はない。また、「み」という音だけを表すために「組」と書くこともできない。「をみ」は「をうみ」なので、「う」と「く」が通じて、この名は「をくみ」とも「をうみ」とも伝わったのだろう。『肥後国風土記』にも、肥君たちの祖である健緒組という名が見えている。

「佐々宜郎女」の名は、『日本書紀』が「荳角」と書くとおり、ささげ豆を意味するのだろうか。その植物と、何かゆかりがあったのだろう。『和名抄』には、大角豆は一名白角豆といい、色が牙や角に似ているためその名があり、和名は「ささげ」だとある。師は、息長が近江にあるので、この名も近江の地名「佐々木」だろうといった。『和名抄』でその地名を「篠筒」と書くので、根拠のない説ではない。ただ、その地名は『古事記』では「佐々紀」と書くから、ここで「宜」と書くはずはない。「宜」を師が「ぎ」と読んだのは誤りで、「宜」は「げ」を表す音仮名である。『日本書紀』には、「次に、息長真手王の娘、麻続娘子は荳角皇女を生んだ。荳角は、ささげという。この皇女は伊勢の大神の祠に仕えた」とある。

「坂田大俣王」の坂田は、近江国坂田郡である。大俣も地名だろうか。敏達天皇の御子にも同じ名がある。この大俣王は、あるいは大富杼王の子か孫などで、坂田君氏の祖なのだろうか。「黒比売」は、先にも同じ名がある。「神前郎女」は、『和名抄』に近江国神崎郡の神崎郷を「かむさき」と記すので、その地名を取った名なのだろう。この皇女を安閑天皇の陵に合葬したことが、『日本書紀』に見える。

「茨田郎女」の「茨」は諸本にないが、今は延佳本に従った。延佳本は『日本書紀』によって補ったのだろう。これも地名を取った名で、巻三十五の十五葉に出る。「次馬来田郎女」の六字は、諸本ではすべてない。真福寺本には「次田郎女」とあり、「馬来」の二字が抜けている。今は真福寺本と『日本書紀』に従って補った。馬来田は上総国の地名で、巻七の七十七葉に出た。この皇女がなぜその地の名を持つのかは分からない。「茨田」と「馬来田」は発音が似ているので、もとは一人の茨田郎女だったのが、取り違えによって二人と伝わったのではないだろうか。『日本書紀』の天武天皇の巻には、男性の名にも大伴連馬来田がある。「三柱」の二字は、前後の形式に合わせて、今補ったものである。

「また茨田連小望の娘、関比売を妻として、茨田大郎女をもうけた」という二十字は、どの本にもなく、今、『日本書紀』によって補った。その理由は後で述べる。茨田連は、巻二十の五十一葉に出た。この皇女は母の家の関係で、茨田に住んでいたのだろう。先に挙げた茨田郎女より早く生まれたので、「大郎女」と呼んだのである。先の茨田郎女も、何かの事情で同じ茨田に住んでいたのだろうが、姉に当たる方を「大郎女」として、二人の名を区別している。

「白坂活日子郎女」の「子」は余分な字で、『日本書紀』に従って削るべきである。女性の名に「日子」という例も、そうする理由もないからだ。白坂は地名なのだろうが、どこかはまだ分からない。「活日」は称号で、『日本書紀』の崇神天皇の巻などに例がある。そこには高橋村の人の活日とある。これは男性の名で、歌では「いくひ」と表記される。「小野郎女」は、諸本で「小」が抜けている。今は延佳本に従った。延佳本は『先代旧事本紀』や『日本書紀』の一本などによって補ったのである。小野は近江国滋賀郡の地名で、巻二十一の二十七葉で述べた。

「長目比売」は、名の意味について特に付け加えることはない。「目」を用いた名は、先にも例がある。「三柱」は、諸本では「四柱」、真福寺本や別の一本などでは「二柱」になっているが、今は実際の人数に合わせて改めた。「四柱」としたのは、文章の抜けた状態で数えて直したためだろうし、「二柱」は「三」の字を「二」と見誤ったものだろう。

そもそも、この箇所を『日本書紀』と比べると、抜けている文章が多い。もともと伝承が違うのかとも思うが、真福寺本では「田郎女」の次に、さらにもう一つ「次田郎女」とあることや、「茨田」の「茨」、「小野」の「小」などが抜けていることを考えれば、やはり脱文である。また、後で御子の総数を十九人、そのうち女子を十二人とするのに、今の本文のままでは二人足りない。そこで、『日本書紀』に従い、先に示したとおり補った。『日本書紀』には、「坂田大跨王の娘の広媛は、長女の神前皇女、次女の茨田皇女、三女の馬来田皇女を生んだ。茨田連小望の娘、あるいは妹ともいう関媛は、長女の茨田大郎皇女、次女の白坂活日姫皇女、三女の小野稚郎皇女、別名長石姫を生んだ」とある。なお、その本文では「活日」の「日」を「目」と誤っているので、『古事記』と『先代旧事本紀』によって改めた。また、「小野」の「小」も「北」と誤っており、別の一本や『先代旧事本紀』が「小」とするのがよい。

「三尾君」は、先に出た三尾君と同じ一族なのだろう。「加多夫」は、『日本書紀』では「堅楲」と書く。「楲」は別の一本では「梭」だが、どちらでも「ひ」である。「ふ」と「ひ」は、とりわけ近く通じる音である。この名の意味は分からない。『日本書紀』の雄略天皇の巻には、凡河内直香賜という人も見え、「香賜」は「かたふ」というと注す。「倭比売」は、ほかにも同じ名がある。「大郎女」という名なのは、皇女たちの中で最年長だったためだろう。

「丸高王」は「まろこ」と読むべきだ。「高」を「こ」と読むのは字音で、「高志」などと同じである。『日本書紀』には「椀子」とある。「ろ」と「り」は通じる音なので、師はこちらも『日本書紀』に従って「まりこ」と読んだが、「丸」を「まり」と読むのは難しい。また、欽明天皇の御子についても、『日本書紀』の「椀子皇子」を『古事記』では「麻呂古王」としているので、それと比べても分かる。そもそも「まろこ」とは、子を親しみ、いとおしんで呼ぶ言葉である。「まろ」は自分のことだから、「わが子」というようなものだ。『日本書紀』のこの巻の詔に、「ああ、まろこよ」や「わが子、まろこ」とあるのは、勾大兄皇子を指して親しく呼びかけているのであって、その皇子の別名ではない。そのような愛情を込めた呼び名が、そのまま固有の名にもなったのである。欽明天皇の御子にもこの名の方がおり、敏達天皇の御子、忍坂日子人太子の別名も麻呂古といった。

「耳王」の「耳」に添えた「上」は、上がる調子で発音するという声調の注で、名の一部ではない。同じ例は、上巻の神名に多い。名の意味は、上巻の忍穂耳命の注、巻七の五十四葉で説明したとおりである。「赤比売郎女」には、名の意味について特に付け加えることはない。『日本書紀』には、「三尾君堅楲の娘、倭媛は男の子二人、女の子二人を生んだ。一人目が大郎子皇女、二人目が椀子皇子で、この人は三国公の祖となった。三人目が耳皇子、四人目が赤姫皇女である」とある。この「大郎子皇女」の「子」は余分な字だろう。女性の名に「郎子」という例はない。また、三国公の祖については『古事記』と伝承が違い、その点は巻三十四の五十四葉で述べたとおりである。

なお、今の『日本書紀』の本には、この巻の三葉から五葉の間に、文章の順序が乱れた箇所がある。正しくは、三葉の「計之大王」の後は、四葉の「子民治国……」へ続く。五葉の「於二兄治後」の後は、三葉の「有其天下……」へ続く。四葉の「曰耳皇子」の後は、五葉の「其四曰……」へ続く文章である。『日本書紀』を読む人のために、この機会に知らせておく。

「阿倍」は、ここでは地名だろうか。氏族の名ならば君・臣などの姓を添え、「誰それの娘」あるいは「妹」などとあるはずなのに、そうした言葉がないからである。この地については、巻二十二の七葉で述べた。「波延比売」は、名の意味が「光り映える」ことなのだろうか。『日本書紀』が「荑」と書くのは、音を借りた表記だろう。「荑」は字書で草木が生え始めたさまと説明され、「生える」の意味である。『日本書紀』では、顕宗天皇、仁賢天皇たちの母も荑媛という。「若屋郎女」は、孝霊天皇の御子にも同じ名があり、名の意味は巻二十一の四十五葉で述べた。「都夫良郎女」は、反正天皇の御子にも同じ名がある。

「阿豆王」は、『日本書紀』では「厚皇子」と書く。「あづ」と「あつ」は、「つ」の清音と濁音が違う。名の意味は、まだ分からない。『日本書紀』は、「和珥臣河内の娘、荑媛は、男の子一人、女の子二人を生んだ。一人目は稚綾姫皇女、二人目は円娘皇女、三人目は厚皇子である」とする。また、以上の御子のほかに、「根王の娘、広媛は男の子二人を生み、兄の兎皇子は酒人公の祖、弟の中皇子は坂田公の祖となった」と記す。これは『古事記』と伝承が違う。『古事記』には、この二人の御子はなく、酒人君、坂田君の祖も違うことは、巻三十四の末尾で述べたとおりである。

「十九王、男七、女十二」という人数は、男子七人は合うが、総数十九人と女子十二人が合わない。現存する本文に挙がる女子は十人だからである。そこで先に説明したとおり、『日本書紀』に従って皇女二人を補った。天下を治めた御子の中で「天国押波流岐広庭命」を最初に挙げるのは、皇后の生んだ御子だからだろう。「次」とは、ここで名前を挙げる順序について便宜的にいうだけの言葉である。その後の二か所の「次」も同じである。

「伊勢神宮に仕えた」という箇所について、中巻の水垣宮の段には「豊鉏比売命は伊勢の大神の宮に仕えて祭った」、玉垣宮の段には「倭比売命は伊勢の大神の宮に仕えて祭った」とある。日代宮の段にも「伊勢の大御神の宮」とあるので、「大神」とだけ書く場合も「おほみかみ」と読むべきことが分かる。「御」を省いて書いた例である。したがって、ここも「神」の前に「大」があったのが抜けたのか、あるいは省いて、単に「神宮」と呼んだのだろう。『日本書紀』の天武天皇の巻にも「伊勢の神の宮」とある。さて、『古事記』には、先の豊鉏比売命と倭比売命を除けば、皇女が伊勢の斎王になることを書いていない。ここだけそう記すのには理由があるのだろうか。それとも、特別な理由があるわけではないのだろうか。

『日本書紀』で伊勢の斎王として出て来るのは、倭比売命の次が景行天皇の皇女の五百野皇女、その次が雄略天皇の皇女の稚足姫皇女、次がこの佐々宜皇女である。今考えると、五百野皇女が景行天皇二十年に斎王となってから、雄略天皇の治世までは三百七十年に及ぶので、その間にも、交代して務めた斎王が必ずいたはずだ。『大神宮例文』という書物の歴代斎王の記録では、五百野皇女の次に伊和志真内親王があり、仲哀天皇の皇女としている。しかし、それは誤りだろう。仲哀天皇には皇女はいない。『古事記』には、応神天皇の御子の根鳥王の子として伊和島王があるので、その方なのだろうか。ただ、その人を加えても、なお年数が埋まらない。また、稚足姫皇女は雄略天皇三年に亡くなったので、それから継体天皇の時代までにも斎王がいたはずなのに、あちこち記録が抜けて、事情が伝わらないのだろう。あるいは、古代には後世と違い、斎王のいない期間もあったのだろうか。いずれにせよ、今は詳しく知ることが難しい。

「拝」は「いつきまつり」と読むべきである。水垣宮、玉垣宮の段と比べれば、ここは「祭」を省いて書いたものだと分かる。「大御神」の「御」を省くのと同じ種類の書き方で、『古事記』にはこのような例が多い。また、「拝」を「いつき」と読む例は、上巻にある。

【古事記本文】この治世に、筑紫君の石井は天皇の命令に従わず、無礼な振る舞いが多かった。そのため、物部荒甲大連と大伴金村連の二人を遣わして、石井を討たせた。

「此御世」は、真福寺本では「此」の後に「之」がある。「竺紫君」は、『日本書紀』では筑紫国造といい、その子の葛子は筑紫君とする。実際には「君」という氏姓の人を、国造とも呼ぶのである。諸国の国造・君・別・直などの人々全体をまとめても「国造」といったので、石井も君でありながら、総称で国造と伝えられたのだ。『日本書紀』の孝元天皇の巻には、兄の大彦命は阿倍臣や筑紫国造など、合わせて七族の始祖だとある。大彦命は巻二十二に出た。『国造本紀』には、筑志国造は志賀高穴穂朝の時代に、阿倍臣と祖を同じくする大彦命の五世孫、田道命を国造に定めた、とある。『日本書紀』の欽明天皇の巻には、弓のうまい筑紫国造が出て来る。天智天皇、持統天皇の巻には、筑紫君薩夜麻という人が見え、『続日本後紀』巻十八にも、肥前国の筑紫公という人がある。

「石井」は、文字どおりの意味の名なのだろうか。「天皇之命」は「おほみこと」と読むべきである。「无礼」は、巻二十七の十一葉に出た。「物部」という氏については、中巻の白檮原宮の段、巻十九の六十二葉で述べた。

「荒甲大連」は、『日本書紀』では「麁鹿火」とある。『古事記』でも、「甲」の後に「斐」があったのが抜けたのだろう。あるいは「甲」を「かふ」と読み、「ひ」と「ふ」が通じるのだろうか。先の三尾君加多夫を『日本書紀』では堅楲と書き、伊豆国那賀郡の石火郷にある神社を『延喜式』神名帳では伊志夫神社とする。また、『万葉集』巻二十に「葦火」を「あしふ」と読むのも、「ひ」と「ふ」が通じる例である。したがって、この人の名も「あらかひ」とも「あらかふ」ともいったのかと思うが、『古事記』の用字例から考えると、「かふ」を「甲」と書くはずはない。師は、「かひ」に「甲」と書くのは貝の意味だといったが、それもどうだろう。貝の意味で「甲」と書くのも、『古事記』の用字例ではない。そこで「かひ」と読んだ。『古事記』では、「かひ」と続く言葉は必ず「甲斐」と書いている。名の意味は、まだ分からない。『日本書紀』の雄略天皇の巻には、小鹿火宿禰という人も見える。

この人は、『新撰姓氏録』の高岳首の条には、饒速日命の十五世孫、物部鹿火大連とある。「麁」の字が抜けているが、同じ人である。『先代旧事本紀』には、物部麁鹿火大連公は麻佐良大連の子で、麻佐良大連は木蓮子大連の子とあり、これによれば饒速日命の十四世孫に当たる。『日本書紀』には武烈天皇の巻の初めから現れ、宣化天皇の巻には元年秋七月に亡くなったとある。大連だったことは武烈天皇の巻にも書かれ、初めて名前が出る時点ですでに大連とされている。継体天皇の巻の元年には、大伴金村大連、物部麁鹿火大連を、それぞれ従来どおり大連とした、とある。初めて大連に任じられた記事はなく、仁賢天皇の時代からそうだったのだろうか。安閑天皇の巻の初めにも、二人を従来どおり大連としたとあり、宣化天皇の巻の初めも同じである。

そもそも「大連」という官職名は、『日本書紀』の垂仁天皇二十六年に物部十千根大連とあるのが初出である。ただし、これが大連の始まりだとも、ここで任じられたとも書かれてはいない。ところが『延喜式』巻一の歴運記には、仲哀天皇が初めて大連を置き、元年に大伴建持を大連とするよう命じた、とある。これはどういうことだろう。『日本書紀』の仲哀天皇九年に大伴武以連は見えるが、大連とは書かれていない。もし『延喜式』の説が正しければ、物部十千根を大連と記したのは『日本書紀』の誤りなのだろうか。事情ははっきりしない。また、『先代旧事本紀』には、尾張連の祖の瀛津世襲命を孝昭天皇の時代に大連にしたといい、物部連の祖の大新河命は、垂仁天皇の時代に、もと大臣だったのを、物部連公の姓を賜った際に大連へ改め、大連という称号はこの時に始まった、とする。これらの説は、どちらも信じ難い。

『日本書紀』の履中天皇二年には、物部伊莒弗大連が見える。次に、雄略天皇の巻の初めには、大伴連室屋と物部連目を大連としたとある。明確に「大連とした」と記すのは、ここが初めてである。室屋連は武持大連の子、目連は伊莒弗大連の子だと、『一代要記』や『公卿補任』などに見える。清寧天皇の巻には、大伴室屋大連を以前どおり大連としたとあり、武烈天皇の巻の初めには、大伴金村連を大連としたとある。継体天皇元年、安閑天皇、宣化天皇の各巻の初めの記事は、先に引いたとおりである。欽明天皇の巻の初めには、大伴金村大連、物部尾輿大連を、ともに従来どおり大連とした、とある。尾輿が最初に大連に任じられた記事はそれより前にないが、安閑天皇元年には物部大連尾輿とある。

敏達天皇元年には、物部弓削守屋大連を従来どおり大連としたとある。守屋が初めて任じられた記事は、それ以前にない。『公卿補任』には尾輿大連の子とあり、『先代旧事本紀』も同じ説である。用明天皇の巻の初めにも、物部弓削守屋連を従来どおり大連としたとある。その後、崇峻天皇の治世の初めに守屋連が滅ぼされてからは、大連が見えなくなる。そうであれば、おそらく蘇我馬子大臣が自分だけに権勢を集中させるため、大連を廃止させたのだろう。この大連という職名が、「連」の姓を持つ人に限られることは、中巻の志賀宮の段の「大臣」という職名の注、巻二十九の五十葉で述べたとおりなので、照らし合わせて考えてほしい。

「大伴金村連」の大伴氏については、上巻の巻十五、七十八葉に出た。金村連は道臣命の九世孫で、室屋大連の孫である。『新撰姓氏録』の仲丸子の条には、日臣命の九世孫、金村大連とある。『日本書紀』の継体天皇の巻でも、金村自身が「わが祖父、室屋大連」といっている。室屋大連は、『新撰姓氏録』の佐伯宿禰の条、高志壬生連の条に、道臣命の七世孫とある。また、『日本書紀』の宣化天皇の巻には、狭手彦連は金村大連の子とあり、『日本三代実録』巻五は金村大連公の三男、狭手彦とする。それに対して『新撰姓氏録』の大伴連の条には、道臣命の十世孫、佐弖彦とあるので、これらはすべて代数が合う。ただし、『新撰姓氏録』の神松造の条が、道臣の八世孫、金村大連公とするのだけは、一代違っている。金村の父は、はっきりしない。『日本書紀』の欽明天皇元年には、この大連の住吉の邸宅が見える。『延喜式』神名帳にある大和国葛下郡の金村神社は、もしかするとこの大連を祭ったのだろうか。それとも別の神か、まだ分からない。

この人は、『日本書紀』の武烈天皇の巻の初めに、大伴金村連を大連としたとある。継体天皇の時代にも大連だったことは、荒甲大連の注で引いたとおりである。それなのに『古事記』が単に「連」とするのは、『日本書紀』と伝承が違い、この時点ではまだ大連でなかったということなのだろうか。それとも、後に「大」の字が抜けたのだろうか。安閑、宣化、欽明の各天皇の治世に、引き続き大連を務めたことは、先に引いた『日本書紀』のとおりである。敏達天皇の巻になると、元年に物部守屋大連を従来どおり大連とした、とだけあり、金村は出て来ないので、すでに欽明天皇の治世に亡くなっていたのだろう。『一代要記』には、欽明天皇二年に亡くなったとある。

「石井を殺した」の「殺」は、「とる」と読むべきことを、巻二十三の六十葉で述べた。石井について、『日本書紀』は次のように記す。二十一年夏六月、近江毛野臣は六万の兵を率いて任那に向かい、新羅に破られた南加羅と㖨己呑を復興させ、任那に合わせようとした。このころ筑紫国造磐井は、ひそかに反逆を企てていたが、実現が難しいことを恐れ、何年も機会をうかがっていた。新羅はこれを知り、密かに磐井へ賄賂を送って、毛野臣の軍を阻むよう勧めた。磐井は火・豊の二国を押さえ、その務めを果たさせなかった。海路では高麗・百済・新羅・任那などの毎年の貢ぎ物を運ぶ船を誘い寄せ、国内では任那へ遣わされる毛野臣の軍を遮った。そして、「今でこそ使者だが、昔は私の仲間だった。肩を並べ、同じ器で食事をしたではないか。どうして、にわかに使者となったからといって、私をお前の前にひれ伏させることができようか」と言い放ち、戦って受け入れず、思い上がっていた。そのため毛野臣は途中で阻まれ、足止めされた。天皇は、大伴金村大連、物部麁鹿火大連、許勢男人大臣たちに、「筑紫の磐井が背き、西方の地を占拠した。誰を将軍にすればよいか」と問うた。大伴大連たちは皆、「正直で、思いやりと勇気があり、軍事にも通じる点では、今、麁鹿火にまさる者はいません」と答え、天皇は認めた。秋八月、天皇は大連に命じ、物部麁鹿火大連は二度礼をして答えた。翌二十二年冬十一月、大将軍の物部麁鹿火大連は、賊の将である磐井と筑紫の御井郡で直接戦い、ついに磐井を斬って境域を平定した。十二月、筑紫君葛子は、父の罪に連座して殺されることを恐れ、糟屋屯倉を献じて、自分の死罪を免れるよう求めた。

ここに金村大連を遣わした記事がないのは、伝承が違うのである。ただし、先の麁鹿火大連が二度礼をして申し上げる言葉の中に、「昔の道臣、さらに室屋に至るまで、天皇を助けて征伐した」とある。こういう言い方ならば、金村大連の言葉でこそあるはずだ。物部氏の人が、別の氏族である大伴氏の祖先の功績だけを述べるとは、とても思えない。そうであれば、この時の大将軍は『古事記』のとおり二人で、この奏上は金村大連の言葉だったのが、取り違えられて麁鹿火大連の言葉になったのだろうか。『日本書紀』の記し方には疑いがある。

『筑後国風土記』には、こうある。上妻県の役所から南へ二里の所に、筑紫君磐井の墓がある。高さ七丈、周囲六丈で、墓の敷地は南北それぞれ六十丈、東西それぞれ四十丈である。石人と石盾を各六十体・枚、交互に列にして四方へ巡らせている。東北の角には別の区画があり、「衙頭」、つまり政務を執る所と呼ぶ。その中には、一体の石人が落ち着いた様子で立っており、「解部」、すなわち裁きを担当する者という。その前には、裸で地に伏す人が一人あり、「偸人」、つまり盗人と呼ぶ。添えられた注には、豚を盗んだために裁かれる者という趣旨が記されるが、字句に不明な点がある。そばには石の豚四頭があり、「贓物」、すなわち盗品と呼ぶ。そこにはさらに、石馬三頭、三間の石殿、二間の石蔵がある。古老の伝えでは、雄大迹天皇の時代、筑紫君磐井は強大な力を振るって乱暴を働き、天皇の威化に従わず、生前にあらかじめこの墓を造った。やがて官軍が動き、襲いかかろうとした時、勝てないと知って、一人で豊前国上膳県へ逃れ、南の山の険しい峰の奥で生涯を終えた。官軍は追いかけたが、行方を見失った。兵士たちは怒りが収まらず、石人の手を打ち折り、石馬の頭を打ち落とした。古老は、上妻県に重い病の人が多いのは、このためだろうか、と伝えている。

この文章の「周囲六丈」は、「六」の前に「卅」などが抜けているのだろうか。六丈では、高さ七丈と釣り合わない。また、「偸人」に添えた細注の「生」は「坐」を誤ったのだろうか。その後の難字は「搦」か「捕」だろうか。「羅」は「罰」の誤りだろう。さて、『日本書紀』の講義終了後の宴で詠まれた歌には、「あらかひは、つくしのいはい、たひらけみ、こころゆかずぞ、おもふべらなる」とある。麁鹿火は筑紫の磐井を平らげても、心が晴れないと思っているらしい、という歌の後半は、この『風土記』の「追ったが行方を見失った」と合い、『日本書紀』の「ついに磐井を斬った」とは合わない。

この石井の墓について、ある人の考証には、上妻郡一条村から十町ほど南、長嶺の山中に、石人一体がかろうじて残るという。その十間ほど東には、石の小屋の形をしたものがある。『風土記』の石蔵だろうか。その石屋は、奥行七尺五寸、幅三尺五寸、高さ二尺八寸、棟の高さ一尺三、四寸、入口の幅一尺三寸余りで、石人は地面から高さ六尺あるという。図も添えられていて、その石人の少し前方に離れた所に、石人の首の半分が一つと、石人の下部の茎のような形の石が一つ描かれている。

【古事記本文】天皇は四十三歳であった。御陵は、三島の藍御陵である。

「四十三歳」について、『日本書紀』には、二十五年春二月に天皇の病が重くなり、丁未の日に磐余玉穂宮で亡くなり、その時八十二歳だったとある。その割注には、次の説明がある。ある本には、二十八年、甲寅の年に亡くなったとある。それをここで二十五年、辛亥の年に亡くなったとするのは、『百済本記』を採用して本文を書いたためである。その書物には「辛亥年三月……また聞くところによると、日本の天皇、太子、皇子がともに亡くなった」という。これによれば、辛亥の年は二十五年に当たる。後に考え合わせる人は、このことを知っておいてほしい、と。ところで「春二月」の後には、「辛丑朔是月」の五字があるはずだ。そうでなければ、丁未が何日か分からない。「辛丑朔」は、安閑天皇の巻に見える。年齢については、武烈天皇が亡くなった年にこの天皇が五十七歳だったとあるので、元年に五十八歳、二十五年に八十二歳という計算が合う。『古事記』の伝承とは、大きく違っている。

先の割注は、一説では二十八年の甲寅年に亡くなったのを、二十五年の死去とするのは、もともと『百済本記』に基づいて決めたのだ、という意味に読める。そもそも、この治世ほどなら比較的新しい時代なので、崩御の記事などは明確で、簡単に異説が生じるはずのないものなのに、このような議論があり、外国の書物によって決めたというのは、どういうことなのだろう。ある一本にこの割注がないのは、こういう説明はどうかと思って、後世の加筆とみなし削ったのだろうが、後から加えた文章には見えない。もし二十五年の辛亥年に亡くなったなら、壬子・癸丑の二年間、皇位が空いていたのを、どのように説明すればよいのか。その理由が書かれていないのも、どうだろう。このことから考えると、二十八年に亡くなったとする方が正しいのだろうか。そうなら、その年をそのまま安閑天皇の元年としたのである。もし二十五年に亡くなったのなら、安閑天皇が当然即位すべきだったのを、皇后の生んだ欽明天皇へ譲ろうとし、欽明天皇も譲り返して、二年間皇位が空いたものの、その譲り合いの記事が伝承から抜けたのだろうか。欽明天皇の巻の初めに、安閑天皇の皇后へ譲ろうとした記事があるのも、その名残なのかもしれない。

この間に、旧刊本、真福寺本、その他の一本などでは、例の形式の小さな注で「丁未年四月九日に崩御」とある。旧刊本では大きな字で本文に続けて書き、真福寺本では「崩」の後に「也」がある。丁未年は『日本書紀』によれば二十一年なので、四年違う。月も日も違っている。これも一つの伝承だったのだろう。「御陵者」の「者」は「在」の誤りである。ほかの例はすべて「在」で、「者」の例はない。上巻の日子穂々手見命の段に「御陵者即在……」とあるだけだが、そこは後に「在」がある。「三島」は、中巻の白檮原宮の段、巻二十の十三葉に出た。

「藍」は地名である。延佳本が「野」を補ったのは、いつもの余計な手直しである。藍という地名なのだから、「野」といわなくてよい。履中天皇の御陵について「毛受にある」と記すのに、わざわざ「野」を補ったのと同じだ。ここは、『和名抄』に摂津国島下郡の安威郷、読みは「あい」とあり、『延喜式』神名帳に同郡の阿為神社、『日本書紀』の雄略天皇の巻に三島郡の藍原とある土地である。今も同郡に安威村があり、安威山、安威川などもある。『日本書紀』には、二十五年冬十二月、丙申を朔日とする庚子の日に藍野陵へ葬ったとある。『延喜式』の諸陵の規定には、「三島藍野陵、磐余玉穂宮で天下を治めた継体天皇の陵。摂津国島上郡にあり、墓域は東西三町、南北三町、守戸五戸」とある。「島上」は「島下」の写し間違いだろうか。ただし安威は両郡の境にたいへん近いので、御陵の場所も昔は島上郡だったのだろうか。今は島下郡である。『前皇廟陵記』は、今は島上郡と島下郡の境の大田村にあり、俗に池上、また茶臼山というとする。『摂津志』にも、島下郡大田村にあり、地元では池上陵という、とある。

大田村は安威村と隣り合う。ある説では、島下郡十日市村の西に糠塚、または灰塚と呼ぶ塚があり、これを藍野陵だというが、誤りだろう。十日市村は太田村より西にある。また『山城名跡志』には、綴喜郡内里村の山に王塚があり、継体天皇の陵と伝えるが疑問で、この天皇の陵は摂津国にある、と書く。文末の「御陵也」の「御陵」二字には、ほかに例がない。後の人が加えたものだろうから、削るべきである。真福寺本には「陵也」とあり、「御」がない。このことから考えると、「陵」は「野」の誤りで、「陵」と誤ったため、後にさらに「御」を補ったのかとも思うが、そうではないだろう。真福寺本は、後になって「御」が抜けたものだろう。

金箸宮の巻

【古事記本文】広国押建金日命は、勾の金箸宮で天下を治めた。この天皇には御子がいなかった。御陵は河内の古市の高屋村にある。

真福寺本には、この段の初めに「御子」とある。「広国押建金日命」の「命」は、真福寺本では「王」と書く。この天皇は、後に漢風の諡号で安閑天皇と呼ばれる。

「勾」は、大和国のあちこちにあったと思われる同名の土地のうち、ここは広瀬郡の地だろうか。『日本書紀』の崇峻天皇の巻には広瀬の勾原とあり、『和名抄』には大和国広瀬郡に下句郷がある。これは「しもつまがり」と読むべきである。「句」は「勾」の正しい字形で、『説文』には曲がることと説明される。しかし「まがり」には普段「勾」とばかり書くので、「句」は別の字のように思われている。「口」を省いて「ム」と書くのは、「円」「鶏」など、多くの字で普通にあることである。なお、伊邪河宮の段に出る当麻の勾君の「勾」が、この勾と同じ土地か別かは、はっきりしない。ただ、この宮は『帝王編年記』では大和国高市郡にあるといい、『神明鏡』にも高市郡の勾金橋宮と記す。高市郡だというのは、懿徳天皇の都について『日本書紀』に軽の地の曲峡宮、欽明天皇の巻に軽曲殿とある、その土地と同じなのだろうか。『大和志』は、金箸宮は高市郡曲川村にあり、村の旧名は曲金だとする。曲川村は軽から離れて遠く、広瀬郡の境に近い。もしこの宮がそこなら、崇峻天皇の巻の勾原や『和名抄』の下句と同じ土地で、昔は広瀬郡に属し、後に高市郡へ移ったのだろうか。なお、よく考える必要がある。どこなのか、定め難い。ところで、この天皇を『日本書紀』では勾大兄皇子と呼ぶので、もとからこの地に住んでいたのである。それを『日本書紀』が「都を移した」と記すのは、例の形式的な書き方である。
〔訳注:例字のうち「鶏」に当たる字の原字形は確定できない。「口」を省いて「ム」とする例を挙げる趣旨は確認できる。〕

「金箸宮」の「箸」は、橋の意味なのか、それとも箸とゆかりがあって名づけたのか、分からない。『日本書紀』はもとからあった地名のように書くが、この宮をほめたたえる名のようにも聞こえる。『続日本紀』巻十八に「勾金崎宮」とあるのは、「橋」を「崎」と誤ったのである。『日本書紀』には、元年春正月、大倭国の勾金橋へ都を移し、そのため宮の名とした、とある。「大倭国」という記し方は、ほかに例がない。

「御子がいなかった」という点は、『日本書紀』にこうある。元年三月、役人が天皇のために婚礼の贈り物を納め、億計天皇の娘の春日山田皇女、別名山田赤見皇女を皇后とした。ほかに三人の妃を立てた。許勢男人大臣の娘の紗手媛、その妹の香々有媛、物部木蓮子大連の娘の宅媛である。冬十月、天皇は大伴金村大連に、「私は四人の妻を迎えたが、今に至るまで世継ぎがない。私の死後には、私の名が絶えてしまう」と述べた。ところで、山田皇女はすでに継体天皇七年の記事に出ており、そこでは皇太子の妃とする。それなのに、ここで初めて婚礼の贈り物を納めたと書くのは、前後が食い違う。『日本書紀』が漢文として飾り立てた文章の信じ難さは、このようなものである。

『古事記』は、この天皇の寿命を記していない。『日本書紀』には、二年冬十二月、癸酉を朔日とする己丑の日、勾金橋宮で亡くなり、七十歳だったとある。真福寺本、旧刊本、その他の一本などには、ここに「乙卯年三月十二日に崩御」とある。旧刊本では大きな字で本文に書くが、真福寺本や別の一本などでは、いつものように細字の注にしている。また真福寺本では「十三日」とし、旧刊本も「二」の横に、異本では「三」とあると記す。乙卯年という年は『日本書紀』と一致する。これより前の各治世では、この細注の崩御の年がすべて『日本書紀』と合わないのに、ここで初めて合うのは、時代がやや近くなったからだろう。ただし月と日は合わない。

「河内之古市」の「之」は諸本にないが、今は真福寺本に従った。『和名抄』には河内国古市郡、読みは「ふるち」とあり、古市郷もある。今もその地名がある。『日本書紀』の景行天皇の巻には、河内に至って旧市村にとどまったとあり、雄略天皇の巻には河内国古市郡、欽明天皇の巻には河内の古市で殯をした、と見える。「高屋村」は、『延喜式』神名帳に河内国古市郡の高屋神社があり、この土地である。今も古市の近くに高屋村がある。『万葉集』巻九の「衣手の高屋に」という高屋は、ここのことだろうか。大和国城上郡にも同名の土地があるので、どちらかは分からない。

『日本書紀』には、冬十二月に天皇を河内の旧市高屋丘陵に葬り、皇后の春日山田皇女と、天皇の妹の神前皇女を、この陵に合葬したとある。『延喜式』の諸陵の規定では、古市高屋丘陵は勾金橋宮で天下を治めた安閑天皇の陵で、河内国古市郡にあり、墓域は東西一町、南北一町五段、陵戸一戸、守戸二戸とする。『大和志』には、古市高屋丘陵と古市高屋墓は、どちらも古市郡高屋村にあり、春日山田皇女の墓は今は八幡山と呼び、安閑天皇陵の隣にあると書く。このことからすると、「合葬」は、同じ場所へ葬ったということだろうか。この墓も『延喜式』に載っている。『前皇廟陵記』には、この御陵を今の高屋村の城山だとする説があり、明応年間に畠山尚慶が城を築いたとする。また、近年、地元の人が陵を掘り、古代の器物などを得たという説もある。ここで城を築いたとする場所は、御陵とは別なのだろうか。この城は、『大和志』が高屋城として古市村にあるとし、さらに詳しく記しているので、参照して考えてほしい。

檜坰宮の巻

【古事記本文】建小広国押楯命は、檜坰の廬入野宮で天下を治めた。天皇は意富祁天皇の御子、橘中比売命と結婚し、石比売命、小石比売命、倉若江王をもうけた。「石」は「いし」と読む。後に出る場合も同じである。また、川内の若子比売と結婚し、火穂王と恵波王をもうけた。この天皇の御子は合わせて五人で、男子三人、女子二人である。

真福寺本には、この段の初めに「弟」とある。この天皇は、後に漢風の諡号で宣化天皇と呼ばれる。この諡号は『続日本紀』巻二に初めて見える。「檜坰」は、『和名抄』の大和国高市郡檜前郷、「ひのくま」である。『延喜式』でも檜隈の諸陵はどれも高市郡にあるとする。今も檜隈村がある。『日本書紀』の雄略天皇の巻には檜隈民使、檜隈野、欽明天皇の巻には檜隈村、天武天皇の巻には檜隈寺が見える。『万葉集』巻七に「さひのくま、ひのくま川の」とあり、巻十二にも見える。「さ」は「真」というのと同じ意味である。欽明天皇の巻の割注では、この天皇を檜隈高田天皇と呼ぶが、これは皇子だった時の名と思われるので、もとから檜隈に住んでいたのである。高田は、葛下郡の今の高田だろうか。いずれの土地でも、この点は同じである。

「廬入野宮」は、「廬」を普通「いほ」とだけいうため、「り」の音に当てて「入」を加えた表記である。『日本書紀』にも「入」があるので、「いほいり」という意味の名かとも思えるが、そうではないだろう。『阿波国風土記』には「檜前伊富利野乃宮」とある。『日本三代実録』巻十二には、「私が古い記録を調べると、檜隈廬入野宮……」とある。これを刊本では「古」を「吉」と誤り、「記」から下の五字を抜かして「吉野宮」としているので、今は古本によって引いた。世間で吉野の蔵王権現という神を安閑天皇だとする説は、この『三代実録』の本文の誤りに基づき、さらに宣化を安閑と誤ったためではないだろうか。慶雲四年の威奈大村という人の墓誌には、「檜前五百野宮」とある。「り」を省く言い方もあったのだろう。また、『日本書紀』の敏達天皇の巻では、単に檜隈宮で天下を治めた天皇とも呼ぶ。『日本書紀』は、元年春正月に檜隈廬入野へ都を移し、それを宮の名にした、と記している。

「橘中比売命」が、意富祁天皇の段に出ていないのは、どうしたことだろう。『日本書紀』では、その天皇の巻に橘皇女とあり、宣化天皇の巻では橘仲皇女とする。橘は、大和国高市郡の地名である。今も橘村、橘寺などがある。橘寺は、『日本書紀』の天武天皇の巻や『万葉集』巻十六などに見え、巻七の「橘の島」も、ここのことだろうか。

「石比売命」は、姉妹がどちらも「石」を名に持つので、石に何かゆかりがあったのだろうか。ある人は、『日本書紀』の神代巻の「国稚、地稚」という「稚」に当たり、「若い」という意味ではないかといった。しかし、そこで「いし」と読む言葉自体が確かでないことは、巻三で述べたとおりである。この皇女は、欽明天皇の皇后である。『延喜式』の諸陵の規定には、「磯長原墓、石姫皇女。河内国石川郡の敏達天皇陵内にあり、守戸三戸」とある。

「訓石如石」は、「石」を「いし」と読む、という意味である。分かりにくい注の付け方ではあるが、上巻に「天を読むこと天のごとし」とあるのと同じ形式である。「石」は普通「いし」と読むが、『古事記』ではほとんど「いは」の意味だけに用い、「いし」と読む箇所はめったにない。さらに、仁徳天皇の皇后の石之比売命は「いはのひめ」なので、それと混同しないようにこの注がある。先の「天」の注も、「あめの」「あまの」のように「の」を加えず、「あめ某」と直接続けて読む時の注である。ここも石之比売の「の」を加える読みと紛れないよう、「の」を加えずに「いしひめ」と読むことまで示す点で、「天」の訓の例とまったく同じだ。師は、この訓注の後ろの「石」を「岩」に直して「いは」と読んだが、それは誤りである。『日本書紀』は「いは」に「磐」と書くが、『古事記』では「石」としか書かず、「磐」や「岩」と書く例は一つもない。また、「いは」と読ませるなら、「伊波という」と注すのが形式である。「岩のごとく」と注すのも、すでに「石」を「いは」と読む所が非常に多いのに、ここで初めて注す理由がない。上巻に「石は伊波という」と注があるのは、この字が最初に出る箇所だからで、それより下では、みな「いは」の意味に用いる。千引石なども「いは」と読むべきことは、その箇所で述べたとおりである。

「小石比売命」は、姉の名の「石」を受けて「小石」と呼ぶのである。「広国」と「小広国」という名と同じ例だ。この皇女も、欽明天皇の妃である。「倉若江王」の「倉」は、今、大和国添上郡にある倉庄村のことだろう。『和名抄』には、大和国広瀬郡の上倉郷、下倉郷もある。蘇我倉山田麻呂などの「倉」も、同じ土地なのだろう。「若江」は、河内国若江郡だろうか。地名が二つ重なるのは妙に思えるが、最初は若江に住んで若江王と呼ばれ、その後に倉という所へ住んだ、といった事情で、もとの名と合わせて呼んだのである。さて、この王は『古事記』では男性である。後の人数の注に男子三人とあるので分かる。ただ、その「三」を真福寺本では「二」とする。もし男子二人なら、女子二人の「二」を「三」の誤りとするのだろうか。しかし、やはり男子二人の「二」の方が誤字だろう。『日本書紀』では皇女としている。この点には議論があり、師木島宮の段で述べる。

『日本書紀』の元年三月には、以前からの妃、億計天皇の娘の橘仲皇女を皇后に立てるよう詔し、この方は男子一人、女子三人を生んだとある。長女は石姫皇女、次が小石姫皇女、次が倉稚綾姫皇女、次が上殖葉皇子、別名椀子である。上殖葉皇子の母も、『古事記』と違っている。「川内の若子比売」の川内は、『日本書紀』では大河内と書くので氏の名かとも思うが、姓もなく、父や兄などの名も見えないので、やはり国の名だろう。河内国は、昔は大河内ともいった。玉穂宮の段に「阿倍の波延比売」などとあるのと同じ類である。「若子」という名の意味は、特に付け加えることはない。

「火穂王」は、『日本書紀』では「火焔」と書く。「ほのほ」は、つまり「火の穂」という意味で、普通「火焔」というもののことだ。どのようなゆかりでこの名を持つのかは分からない。ところが『日本三代実録』巻二十二には、第二皇子の殖葉王、すなわち火焔皇子とある。『摂津志』には、河辺郡東桑津村に火闌神の祠があり、あるいは火焔王の祠ともいうとし、同郡の火焔皇子墓も東桑津村にあるとする。「恵波王」の「波」は音を表す字で、濁らせず「は」と読むべきである。名の意味は、まだ分からない。『日本書紀』には上殖葉皇子、『新撰姓氏録』にも賀美恵波王とある。あるいは地名で、「上」は「下恵波」と対になる呼び名なのだろうか。『日本書紀』では、母を違える御子として先に出た。また、崇峻天皇の巻には宅部皇子が見え、割注に「宅部皇子は檜隈大皇の子で、上女王の父である。詳しくは分からない」とするが、宣化天皇の巻には出ていない。

【古事記本文】火穂王は志比陀君の祖である。恵波王は、韋那君、多治比君の祖である。

「志比陀君」は地名に基づく名で、摂津国河辺郡にあったのだろう。その理由は、次々に述べる。今、その郡には椎堂村がある。椎田がなまった名だろうか。『日本書紀』にも、火焔皇子は椎田君の祖だとある。この氏族は、ほかに見当たらず、『新撰姓氏録』にも載っていない。ただし『新撰姓氏録』には、摂津国の皇別の川原公について、為奈真人と祖を同じくする火焔親王の子孫で、天智天皇の時代に居住地に基づいて川原公の姓を賜った、と見える。河辺郡には今も河原村がある。『日本三代実録』巻七には、摂津国河辺郡の九世の川原公清永や、十一世の為奈真人菅雄ら五人の戸について、これらは宣化天皇の皇子の火焔の子孫なので、ともに課役を免除する記事がある。巻三十八にも、河辺郡の九世の川原公福貞、川原公福繼、有馬郡の川原公千被[初字は于とも読め、判読保留]、河辺郡の十世の川原公夏吉、川原公有利の五戸の課役を免除し、火焔親王は宣化天皇の第二皇子で、川原公・為奈真人たちの祖だとある。

「韋那君」は、『和名抄』に摂津国河辺郡の為奈郷があり、『続日本後紀』巻十四にも河辺郡為奈野、『日本三代実録』巻二にも同様の地名がある。この野を詠んだ歌は多い。『延喜式』神名帳の為那都比古神社は、豊島郡の方に入っている。『日本書紀』には、殖葉皇子は丹比公と偉那公、合わせて二つの氏族の祖だとある。その一族では、孝徳天皇の巻に猪名公高見、天武天皇の巻に韋那公磐鍬などが出て来る。『日本書紀』は、人名や地名の文字を、以前から書き慣わしていた字から、新たに考えた字へ変えて書くことがあり、場所ごとに表記が違って混乱しやすい。この氏姓も、猪名、偉那、韋那と書いているのがその例だ。思い出したので、この機会に注意しておく。同じ天武天皇の巻の十三年冬十月には、猪名公に真人の姓を賜ったとある。

「真人」という姓は、天武天皇の時代に定められた八色の姓の第一位で、その時、初めてこの姓を賜った十三氏は、みな継体天皇以後の比較的新しい時代の皇族の子孫である。『新撰姓氏録』に載る氏族も、すべてそうだ。その中に若沼毛二俣王の子孫があるのも、継体天皇の親族に当たるのだろう。ところが『新撰姓氏録』では、為奈真人は宣化天皇の皇子、火焔王の子孫だとし、摂津国の皇別の為奈真人についても、宣化皇子火焔王の子孫とする。先にも引いた『日本三代実録』巻三十八も、火焔親王は川原公・為奈真人たちの祖だとする。これらは、『古事記』『日本書紀』の伝承とは、兄弟のどちらを祖とするかが違っている。

「多治比君」について、『日本三代実録』巻十二に、丹墀真人貞峯たちの上表がある。それによると、宣和天皇の皇子の加美恵波皇子が十市王を生み、十市王が多治比古王を生んだ。この王が生まれた晩、突然、多治比の花が産湯の釜へ飛んで浮かんだ。その不思議な出来事によって、多治比古王と名づけた。成人してから、王は自分の身分に遠慮して退こうとする意思を固く持ち、氏姓を願い出たので、多治比公の姓を賜った。つまり、もとの意味を残すため、名をそのまま姓とした、という。この文章の「宣和」の「和」は、後に「化」を誤ったのだろう。多治比の花の出来事を『日本書紀』が反正天皇の記事に載せるのは、伝承の混乱による誤りであることは、巻三十五の六葉で述べたとおりである。

この氏族の人では、天武天皇の巻に丹比公麻呂が見え、十三年冬十月には、丹比公に真人の姓を賜ったとある。また同じ巻と持統天皇の巻に、丹比真人島が出る。持統天皇四年に島は右大臣となり、『続日本紀』巻二には、大宝元年七月、左大臣正二位の多治比真人島が亡くなったことと、宣化天皇の玄孫で多治比王の子であることが記される。『新撰姓氏録』には、多治真人は宣化天皇の皇子、賀美恵波王の子孫だとある。『続日本後紀』には、天長十年に多治比真人氏を改め、丹墀真人の姓を賜ったとある。そもそも、この姓も地名も、字を省いて丹比とも多治とも書き慣わしているので、丹墀も表記だけを改め、発音は従来どおり「たぢひ」なのだろうか。しかし改めて姓を賜ったとあるのは、発音も「たんち」へ改めたのだろうか。

『日本三代実録』巻十二には、丹墀真人貞峯たちの上表が、先に引いた「名を姓として、もとの意味を残した」という話に続いて、次のように記される。左大臣の志摩真人は、貞峯の高祖父である。天平六年、遣唐使の多治比真人広成は、唐へ渡った際に表記を丹墀へ改めたが、帰国して復命した後は、なお古い姓を用いた。そのまま百年間伝えて来て、改める考えはなかった。ところが天長九年、多治比真人貞成たちが願い出て、多治比の三字を丹墀の二字へ変えた。唐へ渡った時の新しい表記ばかりを尊び、多治比古が生まれた時の出来事に当たる文字を、どうして違えてよいのか。願わくは、昔の「多治」の字で、今の丹墀という姓を置き換えてほしい。ただし、字数が多くなるため「比」を省くことを願う。一字を除いても呼び方は変えない。そうすれば、先祖の不思議な誕生の由来を残し、子孫のための計らいを永く伝えられる、と、謹んで上表した。天皇はこれを許した。

この天皇について、『古事記』は年齢を書かない。安閑天皇から最後までの七代すべてで年齢を書かないのは、どういう理由だろう。また、この段にはいつもの崩御の細注もないが、後に文章が抜けたのだろうか。御陵も書かない。『日本書紀』には、四年春二月、乙酉を朔日とする甲午の日、檜隈廬入野宮で亡くなり、七十三歳だったとある。冬十一月、庚戌を朔日とする丙寅の日に、大倭国の身狭桃花鳥坂上陵へ葬り、皇后の橘皇女と、その幼い子を合葬したとする。割注には、皇后の没年は伝記に記されず、幼い子とは成人する前に亡くなったのだろうか、とある。『延喜式』の諸陵の規定では、身狭桃花鳥坂上陵は檜隈廬入野宮で天下を治めた宣化天皇の陵で、大和国高市郡にあり、墓域は東西二町、南北二町、守戸五戸としている。

「身狭」は、『日本書紀』の欽明天皇の巻に、蘇我稲目宿禰大臣らを倭国高市郡へ遣わして、韓人大身狭という屯倉を置いたとある土地だ。天武天皇の巻に狭々神社、『延喜式』神名帳に高市郡牟佐坐神社も見える。今、三瀬という土地で、三瀬は「むさ」がなまった名だろう。牟佐坐神社も、今、三瀬にある境原天神という社だといわれる。昔は、この御陵の辺りまで身狭のうちだったのだろう。「桃花鳥坂」は、『日本書紀』の神武天皇の巻で築坂村とする所である。垂仁天皇の巻にも、倭彦命を身狭桃花鳥坂へ葬ったとある。『大和志』には、身狭桃花鳥坂上陵は高市郡鳥屋村の西南にあり、俗に倶知山と呼ぶとする。東には小さな陵があり、皇后の橘皇女とその幼い子をここに合葬した。周囲に池があり、広さ三百三十畝、区域の外に小さな家が五軒ある、と書く。

『前皇廟陵記』にも、鳥屋村だとする説がある。ある人は、鳥屋村にあって御陵の周りは池であり、その中に御陵があって、西側に御陵へ上る道が一本ある、という。今考えると、綏靖天皇の御陵の「桃花鳥田」も、「田」「坂」というのは土地の形によって呼び分けた名で、この桃花鳥坂と同じ土地なのだろうか。巻二十一の五葉を照らし合わせて考えてほしい。桃花鳥田丘陵、桃花鳥坂陵、さらに倭彦命の墓などがあちこちにあるので、注意しなければ混同してしまう。私はまだこの辺りへ行って見たことがないので、どうともいえない。なお、よく訪ねて考えるべきことである。

師木島宮の巻

【古事記本文】天国押波流岐広庭天皇は、師木島大宮で天下を治めた。天皇は、檜坰天皇の御子、石比売命と結婚し、八田王、沼名倉太玉敷命、笠縫王の三人をもうけた。また、その妹の小石比売命と結婚し、上王一人をもうけた。春日の日爪臣の娘の糠子郎女とは、春日山田郎女、麻呂古王、宗賀倉王の三人をもうけた。宗賀稲目宿禰大臣の娘の岐多斯比売とは、橘豊日命、その妹の石坰王、足取王、豊御気炊屋比売命、もう一人の麻呂古王、大宅王、伊美賀古王、山代王、その妹の大伴王、桜井玄王、麻奴王、橘本若子王、泥杼王の十三人をもうけた。また、岐多志比売命のおばの小兄比売と結婚し、馬木王、葛城王、間人穴太部王、三枝部穴太部王、別名須売伊呂杼、長谷部若雀命の五人をもうけた。この天皇の御子は、合わせて二十五人である。

【古事記本文】そのうち、沼名倉太玉敷命、橘豊日命、豊御気炊屋比売命、長谷部若雀命の四人が、それぞれ天下を治めた。

真福寺本には、いつものように、この段の初めに「弟」とある。「広庭天皇」について、段の初めに天皇の名を挙げる場合、普通はみな「某命」という形なのに、このように「天皇」とする例は、中巻の景行・成務・仲哀天皇、この下巻の崇峻天皇などだけである。この天皇は、後に漢風の諡号で欽明天皇と呼ばれる。

「師木島大宮」の師木は、巻二十三の二葉に出た。「島」とは、もともと周囲に境目があって一まとまりになった区域をいう名で、海の中の島に限らない。「秋津島」も、もとは孝安天皇の都の名で、大和国内の地名である。応神天皇の都も軽という土地なのに、軽島明宮と呼ぶのと同じ類だ。この点は『国号考』の秋津島と師木島の各条で詳しく述べた。ここも秋津島宮や軽島宮などと同じく、師木の土地なので師木島というのである。『日本書紀』の敏達天皇の巻では、この天皇を磯城島天皇と呼び、孝徳天皇の巻にも、磯城島宮で天下を治めた天皇とある。

天皇の宮を「大宮」と呼ぶのは普通だが、各治世の段の初めは、みな「某宮におられた」という形で、「某大宮」と記す例は『古事記』にはない。これはどういうことだろう。『続日本紀』巻十二には、「昔、軽境原大宮で天下を治めた天皇」などという例はある。ただ、この治世は特に立派な時代で、その宮の名が後世、大和全体の呼び名にまでなるほどなので、特別に「大宮」と掲げたのだろうか。『日本書紀』には、元年秋七月、倭国磯城郡の磯城島へ都を移し、そのため磯城島金刺宮と名づけたとある。『大和志』は、この宮は城上郡金屋村の西南、初瀬川の南にあるとしている。

「檜坰天皇」の「坰」を、旧刊本や別の一本などが「隈」とするのは、『古事記』の用字例に合わない。今は真福寺本と延佳本に従った。後の「石坰」の「坰」も同じである。「八田王」は、『和名抄』に大和国添下郡の矢田郷があり、その地名による名である。『延喜式』神名帳の矢田坐神社なども、この地にある。『日本書紀』では箭田珠勝大兄皇子といい、この治世の十三年夏四月に亡くなったとある。「勝」は「かち」と読むのだろうか、それとも「まさ」だろうか。「勝」をそのように読めることは、巻三十三の三十六葉で述べた。『万葉集』巻十の「八田の野」も、この地である。

「沼名倉太玉敷命」は、『日本書紀』では第二子とする。「沼名」の意味は、中巻の神沼河耳命の注、巻二十の三十六葉で述べたが、なぜほめたたえる名になるのかは分からない。「沼名」を用いる名の例は、水垣宮の段の沼名木之入比売命の注、巻二十三の六葉でも述べた。「倉」は谷の意味だろうか。谷を「くら」ということは、上巻の闇淤加美神の注、巻五の七十七葉で説明した。沼名河という名や、天武天皇の名の渟名原を考えると、川とも原とも続くのだから、谷ともいうのだろうか。また『日本書紀』の神功皇后の巻で、住吉の大神が鎮座する地を「大津渟名倉の長峡」とする「倉」も、谷ではないかと思うためである。それでも、これがほめたたえる名になる理由は分からない。「太玉敷」は称号であり、兄王の「玉勝」と対になる名なのだろう。

「笠縫王」は、『日本書紀』の崇神天皇の巻に笠縫村があるので、その地名によるのだろうか。笠縫村は十市郡にあるといわれるが、確かではない。忍坂彦人太子の御子にも、同じ名がある。『日本書紀』の元年春正月には、正妃で武小広国押盾天皇の娘の石姫を皇后に立てた、この方は男子二人、女子一人を生み、兄を箭田珠勝大兄皇子、次を訳語田渟中倉太珠敷尊、末を笠縫皇女、別名狭田毛皇女とする。

「上王」を、延佳本で「石上王」とするのは、『日本書紀』に従い、独自に「石」を補ったのだろう。ほかの本には、いずれも「石」がない。『和名抄』では、大和国内の葛下・宇智・吉野・城下・高市などの各郡に賀美郷があるので、その中のどれかの地名による名だろう。『新撰姓氏録』の上村主などの氏姓も、それらの地名によるのだろう。『日本書紀』の崇峻天皇の巻には、上女王という名もある。『日本書紀』が、二年春三月に五人の妃を迎え、その最初は皇后の妹の稚綾姫皇女で、石上皇子を生んだとするのは、伝承の混乱だろう。稚綾姫は、『古事記』では倉若江王であり、男性であることは、檜坰宮の段で述べたとおりである。それを皇女とするのは、小石姫命と取り違えたのだろう。また、石上皇子も、『古事記』のとおり「上王」とするのが正しいはずである。

【宣長の注釈】「春日の日爪臣の娘・糠子郎女との間に生まれた御子は、春日山田郎女」という記事は、すでに広高宮の段にも見えている。【この記事の「春日」は、そちらでは「丸邇」とあるが、丸邇も春日の内にあるので、同じことである。】山田郎女は、その天皇【仁賢天皇】の御子である。それなのに、ここにもこのように記されているのは、伝承の誤りである。【春日山田郎女は安閑天皇の皇后なので、仁賢天皇の御子であることは明らかだ。したがって、この欽明天皇の段のほうが誤りだと判断すべきである。】

【宣長の注釈】「麻呂古王」について。【諸本には「古」の字がなく、『日本書紀』にも「麻呂皇子」とある。しかし、ここでは「古」の字がある真福寺本に従った。その理由は後で述べる。】この王も、後に出てくる麻呂古王が混同され、重複して記されたものであり、誤りである。『日本書紀』も『古事記』と同じである。「宗賀之倉王」について。【諸本では「王」の字が抜けている。ここでは真福寺本と延佳本によった。】「宗賀」も「倉」も地名で、すでに前に出てきた。この王も本来は小石比売命を母とする御子だったものが、このように伝え違えられたのだろう。『日本書紀』には「次に皇后の妹、日影皇女がいて、倉皇子を生んだ」とある。これも、実際の母は小石比売命なのに、誤って別の一人を立てた伝承であって、「日影皇女」というのは小石比売命の別名だったのだろう。宣化天皇の巻には、日影皇女という御子はいないからである。【そこで『日本書紀』の分注にも「ここでは皇后の妹というが……」とあり、この点を疑っている。一方、『帝王編年紀』では、宣化天皇の皇女として、倉稚綾姫皇女の同母妹に山下日影皇女を挙げているが、これは『日本書紀』のこの巻によって付け加えたものだろう。】このように、この三人の王【山田郎女、麻呂古王、倉王】の記事は、『古事記』も『日本書紀』も、どれも伝承が混乱している。山田郎女と麻呂古王は重複して記された誤りであり、倉王は母親を誤ったものである。

【宣長の注釈】「宗賀之稲目宿禰大臣」について。「宗賀」は氏の名で、すでに前に出た。【『伝』巻二十二・二十五葉。】稲目宿禰は、『新撰姓氏録』【田中朝臣と岸田朝臣の条】では、武内宿禰の五世の孫・稲目宿禰と見える。また【桜井朝臣と箭口朝臣の条には】蘇我石川宿禰の四世の孫・稲目宿禰大臣などと見える。【石川宿禰は武内大臣の子である。】『公卿補任』には「蘇我稲目宿禰は満智宿禰の曾孫、韓子の孫、高麗の子である」とある。【満智宿禰は『日本書紀』履中天皇紀に見える。石川宿禰の子だろう。韓子宿禰は雄略天皇紀に見える。】『日本書紀』宣化天皇紀には「元年二月、蘇我稲目宿禰を大臣とした」とあり、この欽明天皇紀には「三十一年三月、蘇我大臣稲目宿禰が亡くなった」とある。【『一代要記』には六十五歳とある。また『駿河国風土記』には「益頭郡の鳥羽陵。天国排開広庭天皇の三十七年、庚寅の二月、蘇我稲目が亡くなり、夢のお告げによって、ここに遺骸を納めた。その遺骸が鳥の羽の色に似ていたので、この名を付けた」とある。また「富士郡の懸畑神社の祭神は蘇我稲目である」などともある。この『風土記』は、現在の京都に都が移ってからのものである。】

【宣長の注釈】「岐多斯比売」について。この名は『日本書紀』には「堅塩」と書かれ、読みの注に「これを岐拖志という」とある。『和名類聚抄』には「崔禹錫の『食経』によれば、石塩は一名白塩といい、また黒塩というものもある。いま考えると、俗に黒塩を堅塩と呼び、『日本紀私記』に堅塩を岐多志というのが、これである」と見える。『延喜式』大膳式には「堅塩千五百顆」などとある。【現在、焼き塩と呼ぶものだ。】この品に関係があって、その名を付けられたのだろう。【『延喜式』神名帳には、大和国城下郡の岐多志太神社という社もある。】『日本書紀』推古天皇紀には「二十年二月、皇大夫人堅塩媛を檜隈の大陵に改葬した」とある。

【宣長の注釈】「橘之豊日命」について。『日本書紀』には第四子とある。「橘」は地名で、前に述べた。「豊日」は、お名前をたたえる称号だろう。【『日本三代実録』巻七には、大和国の豊日神という神が見える。『大和志』では、この社は山辺郡豊井村にあるとしている。】孝徳天皇も天万豊日尊と呼ばれる。

【宣長の注釈】「石坰王」について。地名だろう。その場所は、まだ考え当てられない。「足取王」について。この名は『日本書紀』には「臘子鳥」【この本では「子」が脱落している。】とあり、鳥の名である。『和名類聚抄』に「『弁色立成』では薦背鳥を阿止里といい、胡頽ともいう。楊氏の『漢語抄』では獦子鳥といい、和名は上と同じである。ある説に、この鳥は群れをなして飛び、兵士が列をなすように山林に満ちるので、獦子鳥と名付けるという」とある、それである。【『日本書紀』天武天皇紀には「臘子鳥が空を覆い、西南から東北へ飛んだ」などとある。『万葉集』巻二十には「国めぐる、あとりかまけり、行きめぐり……」とある。「かまけり」は、騒がしいという意味だ。】この鳥に関わりがあって付けられた名前だろう。

【宣長の注釈】「豊御気炊屋比売命」について。この名は、どのようないわれで付けられたのだろう。あの厩戸皇子の名の由来と同じようないわれがあったのだろうか。【『日本書紀』のその天皇の巻には「幼い時は額田部皇女といった」とある。】「次亦」について。これは前にも麻呂古王がいたので、「また」といったのだろう。【この「亦」という言葉からも、前の麻呂古王の「古」がないのは、誤りだとわかる。】

【宣長の注釈】「麻呂古王」について。継体天皇の御子にも同じ名がある。この名については、その継体天皇の段で述べた。【『伝』この巻・十一葉。】「大宅王」について。地名で、すでに前に出てきた。【『伝』巻二十一・二十六葉。】また、乳母の氏に由来するのかもしれない。【そのことは次に述べる。】『日本書紀』天武天皇紀にも同名の人物がいる。「伊美賀古王」について。名の意味は詳しくわからない。『日本書紀』には石上部皇子とある。「山代王」について。乳母の氏なのか、それとも地名【山代国にも山代という土地があっただろうということは、『伝』巻三十六・十五葉に述べた。】なのだろうか。『日本書紀』天武天皇紀には山背姫王という名もある。「大伴王」について。これは乳母の氏と考えられる。【淳和天皇の名の「大伴」も同様である。桓武天皇の御子たちの名は、男子も女子も、みな乳母の氏である。】皇子・皇女の名に乳母の氏を取ることは、『伝』巻二十一【七葉】で詳しく述べたので、参照されたい。ただ、古い御代には、この例の名は見えない。わずかにそれとわかるものは、この御代【欽明天皇】の御子たちから見え始める。以下で順に述べるとおりである。【ただし、これより先の、近い時代には、すでにあったのかもしれない。細かくは区別しにくいので、地名と説明した名の中にも、乳母の氏によるものがあるかもしれない。継体天皇の御子の出雲郎女、神前郎女、茨田郎女、小野郎女などや、宣化天皇の御子の若江王なども、その例なのか、わからない。】『延喜式』諸陵式には「押坂内墓。大伴皇女の墓。大和国城上郡の押坂陵の区域内にある。守戸はいない」とある。

【宣長の注釈】「桜井之玄王」について。「玄」は「弦」の偏を省いて書いたものである。【昔は字の偏を省いて書く例が多いことは、前に述べた。】『日本書紀』持統天皇紀にも「正月上玄」とある。「由美波理(ゆみはり)」【「由波理(ゆはり)」とも。】と読むべきである。『和名類聚抄』には【劉熙の『釈名』には「弦月は月の半ばの名で、その形は一方が曲がり、一方が真っすぐで、弓の弦を張ったようだからである」とある。】「弦、和名は由美八利。上弦と下弦がある」とある。『日本書紀』天武天皇紀には紀朝臣弓張という人物も見える。この名は、月が上弦か下弦のころに生まれたなどのいわれから、付けられたのだろうか。「桜井」は地名なのか【『伝』巻二十二・二十八葉。】、乳母の氏なのか。敏達天皇の御子にも同じ名がある。『日本書紀』では、この王の名はただ「桜井皇子」となっている。【考えるに、これは『日本書紀』のほうが正しく、『古事記』では、その敏達天皇の御子の名との混同で、こちらも「玄」と伝えたのだろう。同名といっても場合による。「桜井」も「玄」も続けて、両方とも同じ名というのは、ありそうにないからである。】

【宣長の注釈】「麻奴王」について。【真福寺本で「奴」が「恕」になっているのは、「怒」の写し間違いである。『古事記』では一貫して、「野」の音を表す仮名に「奴」を用いず、「怒」を用いるのが例なので、「怒」の字が適切だ。この「奴」も「野」の意味と思われるからである。】これも地名なのか、乳母の氏なのか。【『新撰姓氏録』には真野臣や真野造などが見える。】この王は『日本書紀』では肩野皇女とある。【河内国に交野郡があり、『新撰姓氏録』には肩野連が見える。また考えるに、「肩」は「間」の「門」が落ちた字で、『古事記』と同じものではないだろうか。】「橘本之若子王」について。「橘」は地名かと思うが、「本」というのがわからない。あるいは、橘の木の下で生まれたなどの、いわれがあったのだろうか。

【宣長の注釈】「泥杼王」について。この名は疑わしい。『日本書紀』に「舎人皇女」とあることからすれば、「杼泥」の二字を逆に写し間違えたのだろうか。しかし「杼」は濁音の「ど」を表す仮名なので、どうだろう。【遠飛鳥宮の段の歌にも、清音でなければならないところに誤って「杼」と書いた例が、一つある。】これは乳母の氏だろう。『日本書紀』天武天皇紀には舎人連糠虫という人が見え、『新撰姓氏録』にも舎人氏が見える。また『日本書紀』推古天皇紀には「当麻皇子が播磨へ行った時、同行した妻の舎人姫王が赤石で亡くなったので、赤石の檜笠岡の上に葬った」とある。この方は、ここにいう王なのか、別人なのか。

【宣長の注釈・『日本書紀』の引用】「次に、蘇我大臣稲目宿禰の娘、堅塩媛が、男子七人、女子六人を生んだ。一人目は大兄皇子で、橘豊日尊となる方である。二人目は磐隈皇女【別名は夢皇女】で、最初は伊勢大神の祭祀に仕えたが、後に茨城皇子と通じた罪により解任された。三人目は臘子鳥皇子、四人目は豊御食炊屋姫尊、五人目は椀子皇子、六人目は大宅皇女、七人目は石上部皇子、八人目は山背皇子、九人目は大伴皇女、十人目は桜井皇子、十一人目は肩野皇女、十二人目は橘本稚皇子、十三人目は舎人皇女である」とある。【「稚」の下には「子」が抜けているのだろう。】そもそも『古事記』では男子も女子も同じく「某王」と記し、【これは当時の呼び方のままである。】区別していない。『日本書紀』によって、男女を区別すべきである。

【宣長の注釈】「姨」は稲目大臣の妹である。【ただし、「小兄比売」といい、『日本書紀』にも「小姉君」とある名からすれば、大臣の姉だったのだろう。】『日本書紀』に「堅塩媛の同母の妹」とあるのは、伝承が異なるのである。【『日本書紀』に基づけば、ここの「姨」は「妹」の誤りかともいえる。しかし昔は一般に、姉に対して妹を「弟」と書くのが例であり、「妹」と書く例は一つもない。】「小兄比売」は、「兄比売」「弟比売」という名の例が多い、その「兄比売」に「小」を付けた名である。【この方の姉に大兄比売という人がいたのだろうか。たとえいなくても、このようにいえる。師は『日本書紀』の「小姉」の読みによって、こちらも「袁那泥(おなね)」と読んだが、「那泥」を「兄」と書くのは、『古事記』の書き方に合わない。むしろ『日本書紀』の「小姉」のほうも、この字によって同じく「袁延(おえ)」と読むべきだと思われる。】

【宣長の注釈】「馬木王」について。『日本書紀』には茨城皇子とある。「宇婆良(うばら)」の「良」を省き、「宇麻紀(うまき)」ともいったのだろう。【「婆」と「麻」の音が通じるのは普通だが、とりわけ『万葉集』巻二十では、茨をまさに「宇万良」と読んでいる。】これも乳母の氏だろう。『新撰姓氏録』には茨木造が二氏見える。「葛城王」について。『新撰姓氏録』には葛城朝臣、葛木忌寸、葛木直などが見える。敏達天皇の御子にも同じ名がある。また天智天皇も、初めは葛城皇子と呼ばれていた。そのほかにも同名の人がいる。

【宣長の注釈】「間人穴太部王」について。【「太」は真福寺本では「大」であり、どちらでもよい。】「間人」は「波志毘登(はしびと)」と読むべきである。【「はしうど」という読みは、後世に音が崩れたものだ。】「間」は音を借りた字で、【物の間を「はし」という例は多い。】土師人という意味である。【「土師」は「はにし」で、「に」を省く時は「し」を濁らせ、普通は「はじ」という。しかし、この名に「間」の字を借りて書いているのを見ると、清音の「し」でもいったのだろう。土師のことは、『伝』巻二十五・六十七葉で詳しく述べた。】そして、この名の「間人」は乳母の氏である。『新撰姓氏録』には間人宿禰、間人造などが見え、丹後国竹野郡には間人郷もある。「穴太部」は次に述べる。この名は、『日本書紀』用明天皇紀・推古天皇紀では、穴穂部間人皇女とも書かれている。【舒明天皇の御子にも、間人皇女という方がいる。】この方は用明天皇の皇后である。『延喜式』諸陵式には「竜田清水墓。間人女王の墓。大和国平群郡にある。区域は東西三町、南北三町。墓戸は二戸」とある。【天智天皇六年に小市岡上陵に合葬したという間人皇女は、舒明天皇の御子で、別人である。混同してはいけない。】

【宣長の注釈】「三枝部穴太部王」について。「三枝部」は乳母の氏である。この氏は前に出た。【『伝』巻七・七十九葉。】「穴太部」は、姉王の名にも、この王の名にも同じく付けられている点が疑わしい。あれこれ考えると、やはり二人の名はいずれも地名で、大和国にその土地があり、【おおよそ、この御代のころになると、御子たちはみな都に近い大和国内に住んでいたように思われるからである。】姉弟ともそこに住んだため、どちらも穴太部王と呼ばれたのだろう。ただ、大和のこの地名は書物に見当たらず、現在も聞かない。【吉野の奥に穴太はあるが、きっとそこではないだろう。】昔はあったのだろう。【この地名は、穴太部という人々が住んでいたことから付いたのである。穴太部については、『伝』巻二十四・二十一葉の「沙本穴太部」のところで述べた。「沙本穴太部」というのも、沙本に住んでいた穴太部をいう。】あるいは、安康天皇の穴穂宮の地を穴太部ともいったのだろうか。【河内の日下を日下部ともいう例がある。】どちらにせよ、この名は地名だと思われる。【あるいは、この二人の名は、どちらも乳母二人の氏を重ねた名なのかとも思う。「穴穂部造」という氏も『日本書紀』天武天皇紀などに見える。しかし、二人の氏を名に付けるとしても、三枝部王とも穴太部王とも呼ばれることはあろうが、二つの氏を一つに合わせて名乗ることは、ありそうに思えず、そういう例も見えない。まして、この場合は二人とも同じ名を付けられているので、乳母の氏とはいいにくい。また、二人の名がどちらも複姓なのかとも思うが、姉弟の乳母がともに複姓で、しかもともに穴太部氏であることは、ありそうに思えない。したがって、この名は地名とするほかに考えようがない。後の人は、さらによく考えてほしい。】

【宣長の注釈】ところで、この王は『日本書紀』には埿部穴穂部皇子とある。これは伝承の違いである。【この場合は『古事記』のほうが正しいだろう。姉弟がまったく同じ名だったとは考えられないからであり、まして「埿部」は乳母の氏なので、なおさらだ。「埿部」は「はしびと」なのに、この本では「はせつかべ」と読み、脇に「丈部」と書いている。これはひどい誤りである。「丈部」とは大きく違うのだから。天武天皇紀などに見える氏の「埿部」も同様である。】敏達天皇紀や用明天皇紀に、ただ穴穂部皇子とあるのも、この王である。崇峻天皇紀では、蘇我馬子に殺されている。

【宣長の注釈】「須売伊呂杼」について。日代宮の段には須売伊呂大中日子王という名があり、浮穴宮の段には蝮伊呂泥、蝮伊呂杼という名がある。名の意味は、それぞれのところで述べたとおりである。【『伝』巻二十六・十二葉、巻三十一・十四葉。】「長谷部若雀命」について。【「雀」を旧版本で「鷦鷯」と書くのは、後世の人のしわざであることは、大雀命の段で述べたとおりだ。】「長谷部」は乳母の氏である。長谷部君は前に見える。【『伝』巻二十二。】また『新撰姓氏録』には長谷部造もある。「若雀」は武烈天皇の名【小長谷若雀命】とあまりにもよく似ているので、その名と取り違えて、誤って伝えたのではないだろうか。『日本書紀』に、ただ「泊瀬部皇子」とあるのが正しいだろう。【その天皇の巻にも泊瀬部天皇とあり、「若雀」という名はいっさい見えない。】なお、この御子は、『日本書紀』では第十二子とある。

【宣長の注釈】「二十五王」について。『古事記』の中で、このように御子が多い段では、その下に小字で、男王何人、女王何人と、男女を分け、それぞれの人数も挙げるのが例だが、ここにはその注がない。ここは男王十六人、女王九人である。「次に長谷部之……」について。この御子が天下を治めたのは、炊屋比売命よりも先だが、ここでは上で名を挙げた順序に従い、その後に挙げたのである。【真福寺本には、この後の「天下」の下に「也」の字がある。前の三人の「治天下」の下にはその字がないが、ここは最後なので、あってもよいだろう。】

【宣長の注釈】「合わせて四柱……」について。歴代の御代を通じ、一人の天皇の御子たちのうち四人が天下を治めた例は、この天皇【と、近い時代の後水尾天皇の御子たちである明正天皇、後光明天皇、後西院天皇、霊元天皇の四人】の場合だけである。たいへん珍しいことなので、特にこのように書いたのだろう。この天皇の年齢は記されず、陵も記されていない。【いつもの小字の注もない。】『日本書紀』には「三十二年夏四月、戊寅を朔とする壬辰の日、天皇は病床に伏し、具合が悪くなった……。この月、ついに内の寝殿で崩御した。年齢は若干」として、具体的な歳の数は記していない。ある書物では、六十二歳という。

【宣長の注釈】陵について。『日本書紀』には、三十二年五月に河内の古市で殯をし、九月に檜隈坂合陵に葬ったとある。【推古天皇紀には「二十八年冬十月、檜隈陵の上を砂利で覆った。区域の外には土を積んで山を作り、それぞれの氏に割り当て、土山の上に大きな柱を立てさせた。この時、倭漢坂上直の立てた柱がたいへん高かったので、当時の人はその人を大柱直と呼んだ」とある。】『延喜式』諸陵式には「檜隈坂合陵。磯城島金刺宮で天下を治めた欽明天皇の陵。大和国高市郡にある。区域は東西四町、南北四町。陵戸は五戸」とある。この陵について、『大和志』には「高市郡平田村にある。俗に梅山と呼ぶ。そばに翁仲二体がある」とある。【荒木田久老はこういう。「この陵は、岡から平田村へ行く途中の、道の北側にある。陵の上は、たいそう念入りに砂利で覆われている。その山の中ほどに石人が四つ立っている。一つは男の姿で、袴をたくし上げて陰部を露出している。一つは女の姿で、両手で左右の乳を隠し、これも陰部を露出している。この二つは、どちらも頭に、奇妙な、見慣れない形のものをかぶっている。また一つは法師に似た姿、一つは猿に似ている。四つとも高さは四尺ほどあり、不思議なものである。どういういわれのものかはわかりにくいが、あるいは鈿女命のわざおぎにならった姿で、陵にまつられた御魂を招き奉る趣旨なのだろうか」と。】

他田宮の巻

【古事記本文】沼名倉太玉敷命は、他田宮にいらっしゃって、十四年間天下を治めた。この天皇は、異母妹の豊御食炊屋比売命を妻とし、静貝王(別名は貝鮹王)、竹田王(別名は小貝王)、小治田王、葛城王、宇毛理王、小張王、多米王、桜井玄王の八人の御子をもうけた。また、伊勢の大鹿首の娘、小熊子郎女を妻とし、布斗比売命と宝王(別名は糠代比売王)の二人の御子をもうけた。また、息長真手王の娘、比呂比売命を妻とし、忍坂日子人太子(別名は麻呂古王)、坂騰王、宇遅王の三人の御子をもうけた。また、春日の中若子の娘、老女子郎女を妻とし、難波王、桑田王、春日王、大俣王の四人の御子をもうけた。

【宣長の注釈】真福寺本には、この段の冒頭に、いつものように「御子」とある。この天皇は、後世の漢風の諡を敏達天皇という。「他田宮」について。【旧版本で「他」を「池」とするのは誤りである。】「他」は「袁佐(おさ)」と読み、『日本書紀』で「訳語」と書いてある意味である。【推古天皇紀には「通事」ともある。また、欽明天皇紀、『新撰姓氏録』、『和名類聚抄』の筑前の郷名などにある「曰佐」は、音を表す仮名である。ただし、これも朝鮮半島から伝わった表記だろう。この「曰」を「日」とするのは写し間違いである。「おさ」という語は朝鮮語だという人がいる。そうかもしれない。また「他」と書くのも朝鮮半島から来たものなのか。それとも日本で、「隈」を「陬」、「股」を「俣」と書くように生まれた表記なのか。その意味はわからない。他国の言葉を通訳する意味かとも思うが、そうではないだろう。】『和名類聚抄』では、駿河国有度郡の郷名にも他田があり、「乎佐多(おさだ)」としている。この宮は、『延喜式』神名帳の大和国城上郡に他田坐天照御魂神社がある、そこの地である。【持統天皇紀には「大津皇子に訳語田の邸で死罪を命じた」とある。】『大和志』では、この大宮は同郡の大田村にあるという。【右の神社も同じ村にあるという。これは「他田」と「大田」の音が似ていることからの当て推量ではないだろうか。ほかに根拠があるのか、心もとない。】一説には、同郡の戒重という場所だともいう。『日本霊異記』と『神明鏡』には磐余訳語田宮とあり、『帝王編年記』には十市郡とある。【先の大田村も古市郡の境から遠くなく、戒重は、もう少しその郡境に近い。磐余は十市郡である。】昔は、この他田のあたりまでを石村と呼び、十市郡に属していた時期もあったのだろう。『日本書紀』には「元年夏四月、壬申を朔とする甲戌の日、皇太子が天皇に即位した。この月、百済の大井に宮を置いた」「四年、この年、卜者に命じ、海部王の家の土地と糸井王の家の土地を占わせた。吉と出たので、訳語田に宮を造営した。これを幸玉宮といった」とある。

【宣長の注釈】「壱拾肆歳」について。【真福寺本は「十四歳」だが、この書き方は前後の例と違っている。】在位年数は『日本書紀』も同じである。「庶妹」は「麻々伊毛(ままいも)」と読むべきことを、すでに前に述べた。【『伝』巻二十九・四十三葉。】「静貝王」について。【旧版本やある一本などで「貝」を「見」とし、真福寺本で「具」とするのは、どれも誤りだ。ここでは延佳本に従った。次に出る二つの「貝」も同様である。】名の意味は、まだ考えがつかない。【次の竹田王の別名「小貝」と対になる名なのだろうか。もしそうなら、「貝」は借字で、別の意味があるはずだ。あるいは、「貝」は別名の「貝鮹」によるもので、「静」はほめたたえる名なのか。『万葉集』巻十一の「新室踏み静む子」も、「踏み」までは序詞で、「静子」はほめたたえる呼び名と思われる。】

【宣長の注釈】「貝鮹王」について。【「鮹」を「蛸」とする本は誤りであり、ここでは真福寺本と延佳本によった。】『和名類聚抄』には「『日本紀私記』によると、貝鮹は加比太古(かいたこ)という」とある。【これは貝の中にいる小さなタコで、両手両足を殻の外に出して海を泳いでいくものだという。】『延喜式』主計式には「貝鮹の鮨六斤」などと見える。このものにいわれがあって付けられた名だろう。「竹田王」について。名は乳母の氏なのか。『新撰姓氏録』には竹田臣、竹田連などがある。また地名なのか。十市郡の竹田神社が『延喜式』に見え、竹田原、竹田荘などは『万葉集』に見える。『日本書紀』推古天皇紀では、三十六年に天皇が崩御し、「近年、五穀が実らず、人民はひどく飢えている。私のために陵を造るにあたって、手厚い葬儀をしてはいけない。竹田皇子の陵に葬るのがよい」という遺詔を残したとある。そして壬辰の日、竹田皇子の陵に葬られた。『扶桑略記』には、竹田皇子の陵は河内国石川郡の磯長山田にあるという。「小貝王」について。名の意味は、まだ考え当てられない。『日本書紀』雄略天皇紀には小鹿火宿禰という人も見える。

【宣長の注釈】「小治田王」について。乳母の氏なのだろうか。『新撰姓氏録』には小治田朝臣、小治田宿禰、小治田連などがある。また、地名なのだろうか。【後に出てくる。】「葛城王」について。前にも同じ名があった。『日本書紀』には、この王はいない。「宇毛理王」について。この氏はまだ見当たらないが、乳母の氏だろう。【『延喜式』には阿波国勝浦郡の宇母理比古神社がある。】「小張王」について。『日本書紀』では「小」を「尾」とする。乳母の氏である。この氏は前に出ている。「多米王」について。乳母の氏である。『新撰姓氏録』に多米連、多米宿禰などが見える。「桜井玄王」について。用明天皇の御子にも同じ名がある。欽明天皇の御子にも同じ名があり、名の意味はそこで述べたとおりだ。【その欽明天皇の御子は、『日本書紀』のように、ただ桜井王だったのだろうが、この名との混同で、その王も玄王と伝えたのだろう。】『日本書紀』には「冬十一月、皇后の広姫が亡くなった。五年春三月、豊御食炊屋姫尊を皇后に立てた。この方は男子二人、女子五人を生んだ。一人目は菟道貝鮹皇女【別名は菟道磯津貝皇女】で、皇太子の聖徳に嫁いだ。二人目は竹田皇子。三人目は小墾田皇女で、彦人大兄皇子に嫁いだ。四人目は鸕鷀守皇女【別名は軽守皇女】。五人目は尾張皇子。六人目は田眼皇女で、息長足日広額天皇に嫁いだ。七人目は桜井弓張皇女である」とある。

【宣長の注釈】「伊勢大鹿首」について。『延喜式』神名帳には、伊勢国河曲郡の大鹿三宅神社がある。この土地から出た氏である。『続日本紀』巻十七の詔には、伊勢大鹿首とある。【また、巻二十三と巻三十四に大鹿臣子虫という人が見えるが、同じ氏なのか、異なる氏なのか。】『新撰姓氏録』【未定雑姓】には「大鹿首は、津速魂命から三代後の天児屋根命の子孫である」とある。【『大神宮雑事記』の治暦三年の箇所には、河曲神戸預の大鹿武則とある。『吾妻鏡』には、伊勢国に大鹿俊光、大鹿兼重、大鹿国忠などという人が見える。】「小熊子郎女」について。名の意味は、まだ考えていない。『日本書紀』では父の名を小熊とし、この娘の名は菟名子夫人とある。【「夫人」という字は、いつものように漢文風に作り替えて書いたものだろう。】「くま」と「うな」は音が似ているため、どちらかに取り違えがあったのだろう。「布斗比売命」について。「布斗」はほめたたえる呼び名である。【「命」とあるのは珍しい。】「宝王」について。名の意味や、同じ名の例などは前に述べた。【『伝』巻二十九・四十八葉。】「糠代比売王」について。【旧版本や、ある一本、別の一本などには「王」がない。ここでは真福寺本と延佳本に従った。】「ぬか」という語が男女の名に多いのは、どのような意味なのだろう。まだ考えがつかない。【「糠」は借字である。】『日本書紀』には「次に、采女で、伊勢の大鹿首小熊の娘、菟名子夫人が、太姫皇女【別名は桜井皇女】と、糠手姫皇女【別名は田村皇女】を生んだ」とある。

【宣長の注釈】「息長真手王」について。【諸本には「真」がない。ここでは延佳本によった。このことは前に述べた。】前に出ている。【この巻・八葉。】「比呂比売命」について。ほめたたえる名だろう。『日本書紀』四年春正月の記事に見え、同年冬十一月に皇后広姫が亡くなったとある。『延喜式』諸陵式には「息長墓。舒明天皇の祖母で、名を広姫という。近江国坂田郡にある。区域は東西一町、南北一町。守戸は三戸」とある。「忍坂日子人太子」について。「太子」は「美古能美許登(みこのみこと)」と読むべきことを、すでに前に述べた。【『伝』巻三十九・十八葉。】「忍坂」は住んでいた土地だろう。この地は前に出た。【『伝』巻十九・二十九葉。】「日子人」はほめたたえる名で、景行天皇の御子にも日子人大兄王という方がいる。【この方の名も『日本書紀』には彦人大兄皇子とある。】名の意味は、そこで述べた。【『伝』巻二十六・十一葉。】『日本書紀』孝徳天皇紀には「皇祖大兄【彦人大兄をいう】」とある。【その天皇の祖父である。】この王が太子に立てられたことは『日本書紀』に見えないが、【だからといって、この「太子」を「大兄」の誤りかという説は、かえってよくない。】用明天皇紀にも「太子彦人皇子」とある。舒明天皇の父なので、その御代に追って尊称を奉り、太子と呼ぶことになったのだろうか。『延喜式』諸陵式には「成相墓。押坂彦人大兄皇子の墓。大和国広瀬郡にある。区域は東西十五町、南北二十町。守戸は五戸」とある。【これほど格段に区域が広いのは、どういう理由だろう。地形によるのだろうか。『大和志』には「平尾村にある。王子家と呼ぶ。疋相村に隣接する。墓のほとりに小塚が六つある」とある。】『新撰姓氏録』【未定雑姓】には「御原真人は、渟中倉太珠敷天皇の皇子、彦人大兄王の後裔である」とある。

【宣長の注釈】「亦名」について。【諸本は「亦」を落としている。ここでは真福寺本と延佳本によった。】「坂騰王」について。東大寺の古文書の中に、大和国添上郡の酒登荘という地が見える。その地名だろう。「宇遅王」について。【「遅」を諸本では誤って「庭」とする。ここではある一本によった。】乳母の氏だろう。『新撰姓氏録』には宇治宿禰【また宇遅部も】ある。『日本書紀』には「七年春三月、菟道皇女を伊勢の祭祀に仕えさせたが、池辺皇子と通じ、そのことが露見して解任された」とある。「三柱」について。【この二字は諸本にない。ここではある一本によった。】『日本書紀』には「四年春正月、息長真手王の娘、広姫を皇后に立てた。この方は男子一人、女子二人を生んだ。一人目は押坂彦人大兄皇子【別名は麻呂古皇子】。二人目は逆登皇女。三人目は菟道磯津貝皇女」とある。この「磯津貝」という名は、伝承の混同による誤りだろう。【前に、菟道貝鮹皇女、別名は菟道磯津貝皇女とあるが、同じ父の御子たちの中に、これほどまったく同じ名があるはずはないからである。前の方は『古事記』も同じなので、誤りではない。こちらの名は『古事記』では宇遅王であり、『日本書紀』でも七年の記事には、ただ菟道皇女とある。したがって「磯津貝」は、前の方と混同した誤りである。どちらも菟道と呼ぶためだ。】

【宣長の注釈】「春日中若子」について。この「春日」は地名と思われるが、『日本書紀』には「春日臣」とあるので、やはり氏の名なのだろうか。「中若子」は、『日本書紀』には「仲君」とあるので、「若」は「君」の誤りなのか。どちらにしても、どうもすっきりしない名である。【『日本書紀』では「わか」の音には「稚」の字だけを用いるので、あちらの「君」は「若」の誤りではない。ただし、「君」の下に「子」が抜けているのか。「仲君」という名は、どうかと思われる。「吉弥侯部」という氏もあるから、「君子」という名はあってよい。『続日本紀』巻二十には「君子部という氏を吉美侯部に改めた」とある。『新撰姓氏録』には吉弥侯部があるが、現在の本では「侯」を「隻」と誤っている。】「老女子郎女」について。「老女」は「意美那(おみな)」と読むべきことを、前に述べた。【『伝』巻九・十八葉。】『続日本紀』巻十三には、紀朝臣意美那、家原音那などという人名も見える。【『日本書紀』でこの名を「老女君夫人」とする「君」は、『類聚国史』では「子」となっているので、「子」の誤りだろう。これに基づけば、父の名の「君」も「子」の誤りかもしれない。「仲子」という名の例がある。また「薬君」の「君」も「子」の誤りなのか。そして『古事記』の「郎女」を「夫人」と書いたのは、いつもの漢文風の書き換えである。】

【宣長の注釈】「難波王」について。乳母の氏である。『新撰姓氏録』には難波忌寸、難波、難波連などがある。この王は崇峻天皇紀にも見える。『新撰姓氏録』には、路真人、守山真人、甘南備真人、飛多真人、英多真人、大宅真人、成相真人などが、この王の後裔と記される。また橘朝臣も、この王の後裔である。【『新撰姓氏録』には「橘朝臣は甘南備真人と祖を同じくする。敏達天皇の難波皇子の子、贈従二位栗隈王の子が、治部卿従四位下の美努王である。美努王は、従四位下県犬養宿禰東人の娘、正一位県犬養橘宿禰三千代太夫人を妻とし、左大臣諸兄、中宮大夫佐為宿禰、贈従二位牟漏女王を生んだ……。和銅元年十一月己卯の日に大嘗会があり、二十五日の癸未の日の曲宴で、太夫人に橘宿禰の氏姓を賜った。天平八年十二月丙子の日、参議従三位行左大弁葛城王に詔し、橘宿禰諸兄の名を賜った」とある。『続日本紀』巻十二の天平八年十一月丙戌、壬辰の記事を参照されたい。同書巻十八には、左大臣正一位橘宿禰諸兄に朝臣の姓を賜ったとある。また『万葉集』巻六・三十二葉も参照されたい。】「桑田王」について。乳母の氏だろう。当時、この氏があったのだろう。【『新撰姓氏録』には桑田真人があるが、これはこの天皇の孫の後裔とあるので、該当しない。】地名ではないだろう。【丹波国には桑田郡がある。】後に同じ名が出てくる。

【宣長の注釈】「春日王」について。地名だろう。【この二人の順序は『日本書紀』と異なる。】この王は崇峻天皇紀に出る。『新撰姓氏録』には「香山真人は、諡して敏達という天皇の皇子、春日王から出た」「春日真人は、敏達天皇の皇子、春日王の後裔である」「高額真人は春日真人と祖を同じくし、春日王の後裔である」とある。「大俣王」について。乳母の氏なのか、地名なのか、詳しくはわからない。さらによく考えるべきである。玉穂宮の段に同名が見え、後にも同名の人【女王である】がいる。『日本書紀』舒明天皇紀の八年秋七月の記事に大派王とあり、皇極天皇紀にも見える。『新撰姓氏録』には「茨田真人は、敏達天皇の孫、大俣王の後裔である」とある。【「孫」というのは誤りだろう。】『日本書紀』には「四年春正月、この月、一人の夫人を立てた。春日臣仲君の娘で、老女君夫人という。【別名は薬君娘である。】男子三人、女子一人を生んだ。一人目は難波皇子、二人目は春日皇子、三人目は桑田皇女、四人目は大派皇子である」とある。

【古事記本文】この天皇の御子たち、合わせて十七人の王のうち、日子人太子は、異母妹の田村王(別名は糠代比売命)を妻とし、岡本宮にいらっしゃって天下を治めた天皇、中津王、多良王の三人の御子をもうけた。また、漢王の妹の大俣王を妻とし、智奴王と、その妹の桑田王の二人の御子をもうけた。また、異母妹の玄王を妻とし、山代王と笠縫王の二人の御子をもうけた。合わせて七人の王である。

【宣長の注釈】「十七王之中」について。前の例に従えば、「之」の上に「此」が抜けているのかともいえるが、日代宮の段などにも「幷八十王之中……」とある。「田村王」について。【この王は前に宝王とあったので、ここの「村」も『日本書紀』の「村」も、「柄」の誤りかとも思うが、そうではない。】『日本書紀』にも糠手姫皇女、別名は田村皇女とある。「田村」は地名だろう。この方が生んだ御子の名も『日本書紀』では田村皇子とあるので、母親の住んでいた土地に、その御子も住んでいたと思われるからである。その土地は、『新撰姓氏録』【吉田連の条】に「奈良京田村里」【『続日本紀』巻十八の藤原朝臣仲麻呂の田村第、また巻二十の田村宮、巻三十七の田村後宮なども、この地である。】とある土地だろう。『延喜式』諸陵式には「押坂墓、田村皇女。大和国城上郡、舒明天皇陵の中にある。守戸はいない」とある。【『日本書紀』皇極天皇紀の二年九月に、吉備島皇祖母命が亡くなったとあるのを、この田村皇女だという説は、「祖母」の字に引かれた誤りである。ここで「祖母」は実母の意味で、皇極天皇の母である。また天智天皇紀の三年六月にも島皇祖母命が亡くなったとあるのは、右と同じ出来事が誤って重複したのである。】

【宣長の注釈】「岡本宮にいらっしゃって天下を治めた天皇」は、舒明天皇である。『日本書紀』のその天皇の巻には「息長足日広額天皇は、渟中倉太珠敷天皇の孫、彦人大兄皇子の子である。母は糠手姫皇女という……」「元年春正月、癸卯を朔とする丙午の日、即位した」とある。【即位する前の名は田村皇子とある。】また「十三年冬十月、己丑を朔とする丁酉の日、天皇は百済宮で崩御した」とある。皇極天皇紀には「元年十二月、息長足日広額天皇を滑谷岡に葬った」「二年九月、息長足日広額天皇を押坂陵に葬った」【ある本では「広額天皇を高市天皇と呼ぶ」という。】とある。【後の「葬」の上には「改」が抜けているのだろうか。】『延喜式』諸陵式には「押坂内陵。高市岡本宮で天下を治めた舒明天皇の陵。大和国城上郡にある。区域は東西九町、南北六町。陵戸は三戸」とある。【『太子伝暦』には押坂内山陵とある。この陵について、『大和志』は「忍坂村の上にある。現在は丹家と呼ぶ」とし、押坂墓の田村皇女、押坂内墓の大伴皇女、押坂墓の鏡王の三人とも、舒明天皇陵の区域内にあるという。この陵は忍坂村の東北の山上にあり、南側が崩れて、大きな石組みが少し姿を現して見えるそうだ。】岡本宮は、『日本書紀』のその天皇の巻に「二年冬十月、天皇は飛鳥の岡のほとりに移った。これを岡本宮といった」とある、それである。【また八年六月には、岡本宮が火災に遭い、天皇は田中宮へ移ったとある。】この宮は、斉明天皇紀に「二年、飛鳥の岡本に改めて宮の場所を定め、宮殿を建てた。天皇はそこへ移り、後飛鳥岡本宮と名付けた」とあるのも同じ場所である。『帝王編年記』では「高市郡の島の東、岳本の地がこれである」という。【「島」は現在の島荘という所、「岳本」は現在の岡という所である。岡本宮という名は、推古天皇紀にも見える。】『大和志』には岡村にあるという。

【宣長の注釈】さて、ここでこの御子を挙げた書き方は、一般の例と異なる。【普通は、後に天下を治める天皇でも、まず名を挙げ、その後のところで「某命は天下を治めた」と記す。ここのように、初めから「某宮にいらっしゃって天下を治めた天皇」と挙げた例はない。】これには二つの意味が考えられる。一つは、この方が天武天皇の父なので、特に尊び崇めたのだろうか。【『古事記』はその天皇の勅命によったものだからである。また、天皇自身が口ずから語られた、そのままなら、なおさらである。】二つ目は、『古事記』は推古天皇で終わり、この天皇【舒明天皇】の御代までは記さないが、後に天下を治める天皇であるため、例を変えてこのように挙げたのだろうか。やはり前の意味だろう。

【宣長の注釈】「中津王」は、三人のうち二番目の御子なので、「仲」と呼んだのだろう。【「津」の下に「の」を付けずに読むべきである。】「多良王」について。乳母の氏なのか、【『新撰姓氏録』には多々良公がある。】地名なのか、詳しくはわからない。「漢王」について。「漢」は「あや」と読む。乳母の氏である。漢直は明宮の段に見える。この王が誰の御子なのかは、詳しくわからない。斉明天皇紀にも同名が見える。【天皇は初め、橘豊日天皇の孫の高向王に嫁ぎ、漢皇子を生んだ、とある。】「大俣王」について。同名が前に見える。「智奴王」について。乳母の氏だろう。『新撰姓氏録』には珍県主があり、血沼別は境岡宮の段に見える。また地名なのか。この土地は前の【白檮原宮の段】に出た。この王は皇極天皇と孝徳天皇の父である。『日本書紀』皇極天皇紀には「天皇は押坂彦人大兄皇子の孫、茅渟王の娘である」とある。『延喜式』諸陵式には「片岡葦田墓。茅渟皇子の墓。大和国葛下郡にある。区域は東西五町、南北五町。守戸はいない」とある。「桑田王」について。同じ名が前に見える。「山代王」「笠縫王」について。この二人も、欽明天皇の御子に同じ名の人がいる。以上の三人が続けて、これほど近いところに同名で出てくるのは、いささか疑わしい。あるいは伝承の混同ではないだろうか。

【古事記本文】陵は、河内の科長にある。

【宣長の注釈】この前には、「この天皇の年齢は若干」といった文があるはずだ。たとえ年齢を記さなくても、「この天皇」という言葉は、必ず必要なところである。【例はみなそうである。特にここでは「合わせて七王」から直接「陵は……」と続くと、日子人太子の陵のように聞こえて、どうかと思われる。】この前に、旧版本・真福寺本・ある一本などには「甲辰の年四月六日に崩御した」という、いつもの小字の注がある。【旧版本は、本文に続け、大字で書いている。この注は、年も月も日も『日本書紀』と違う。】『日本書紀』には「十四年秋八月、乙酉を朔とする己亥の日、天皇は病が重くなり、大殿で崩御した。この時、広瀬に殯宮を建てた」とある。年齢は記されない。ある書物には四十八歳という。「河内の科長」について。『日本書紀』崇峻天皇紀には「四年夏四月、壬子を朔とする甲子の日、訳語田天皇を磯長陵に葬った。これは、その母の皇后を葬った陵である」とある。『延喜式』諸陵式には「河内磯長中尾陵。訳語田宮で天下を治めた敏達天皇の陵。河内国石川郡にある。区域は東西三町、南北三町。守戸は五戸」とある。『大和志』には、葉室村の西にあるという。この科長には、合わせて六つの陵墓がある。【この天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇、石姫皇后、聖徳太子の陵墓である。】『延喜式』神名帳には、科長神社もある。

池辺宮の巻

【古事記本文】橘豊日命は、池辺宮にいらっしゃって、三年間天下を治めた。この天皇は、稲目宿禰大臣の娘、意富芸多志比売を妻とし、多米王一人の御子をもうけた。また、異母妹の間人穴太部王を妻とし、上宮之厩戸豊聡耳命、久米王、植栗王、茨田王の四人の御子をもうけた。また、当麻の倉首比呂の娘、飯女之子を妻とし、当麻王と、その妹の須賀志呂古郎女の二人の御子をもうけた。

【宣長の注釈】真福寺本には、この冒頭に「弟」とあり、また「命」は「王」となっている。この天皇は、後世の漢風の諡を用明天皇という。「池辺宮」は「伊気能弁(いけのべ)」と読むべきである。【『和名類聚抄』の讃岐国の郷名「池辺」に「伊介乃倍(いけのべ)」とあるのが、類例である。ただし「辺」を清音と濁音のどちらにするかは、どうなのだろう。】『和名類聚抄』にある、大和国十市郡池上郷の地である。『万葉集』巻七の「池辺の小槻の下」は、この地なのか。【巻八の「御在せし池の辺……」は、ただ池のほとりという意味である。その歌についても同じだ。また、池上真人、池辺直などという氏は、この地から出たのだろう。】この地名は、石村の池のほとりにあるため付けられたのだろう。石村の池は、『日本書紀』履中天皇紀に「二年十一月、磐余池を造った」とあり、継体天皇紀の歌や『万葉集』巻三にも見える。石村のことは、前に出た。【『伝』巻三十八・二葉。】『日本書紀』には「十四年秋八月、渟中倉太珠敷天皇が崩御した。九月、甲寅を朔とする戊午の日、天皇が即位した。磐余に居を置き、池辺双槻宮と名付けた」とある。『続日本紀』巻五には石村池辺宮で天下を治めた朝廷、巻二十八には池辺双槻宮で天下を治めた朝廷とある。【「双槻」は、この地に大きな槻が二本生えていたため付けられた宮の名だろう。『大和志』は、この宮は現在の安部の長門邑という所だとする。また、石寸山口神社も長門邑にあり、現在は双槻神社と呼ぶという。ある書物で、この宮を高市郡とするのは誤りである。】

【宣長の注釈】「三歳」について。【真福寺本では「参」が「三」となっている。】この年数は【『日本書紀』と一年違う。】即位した年から数えたものだろう。「稲目宿禰大臣」について。【真福寺本には「宿禰」の二字がない。】前に出ている。【この巻・三十九葉。】「意富芸多志比売」について。名は、意師木島宮の条の「岐多志比売」のところで述べたとおりである。「意富」は「大」の意味だ。この名に疑いがあるのは、そちらと同名で、こちらに「大」を付けるのは姉と理解されるのに、妹のほうが父の天皇の妃、姉のほうがその御子の妃というのは、どうなのかという点である。『日本書紀』では、この名は石寸名となっている。【「石寸」は「いしき」なのか、「いわれ」なのか。石村を古書では「石寸」と書くことが多い。ただし『日本書紀』では、石村をすべて「磐余」と書くのだが、これは人名なので、古書の表記のまま、このように書いたのか、詳しくはわからない。あの書物では一般に、地名・人名などの文字遣いに、このような紛らわしいものが多い。】「多米王」について。敏達天皇の御子に同名がある。『日本書紀』には「蘇我大臣稲目宿禰の娘、石寸名を嬪に立てた。この方は田目皇子【別名は豊浦皇子】を生んだ」とある。「間人穴太部王」について。前に出ている。

【宣長の注釈】「上宮之厩戸豊聡耳命」について。「上宮」は、『日本書紀』推古天皇紀に「父の天皇はこの子を愛し、宮の南の上殿に住まわせた。そのため、名を上宮といった」とあるのによれば、大宮の南に、別に上宮という宮があり、【「上殿」というのは文章上の表現だ。「宮の南」とある以上、別の一つの宮であることは明らかである。】それが特に高く尊い宮だったため、上宮と名付けられたのだろう。そして、その名が後まで残り、地名になったのである。『日本書紀』のこの巻に「初め上宮に住み、後に斑鳩へ移った」とあるのは、すでに地名になった後の呼び方を、初めの時点にもさかのぼらせていったのである。【文章の様子から、ただその宮そのものを指すのではない。】この地名は現在にも残り、十市郡に上宮村がある。【池辺宮の地に近い。】「宇閇能美夜(うへのみや)」と呼ぶ。したがって、この名もそう読むべきである。【『日本書紀』で「かむつみや」と読むのは、文字から当然と思われるように読んだだけで、この地名を調べた読みではない。現在まで残った昔の地名には、自然と音の変化したものが多いが、「かむつみや」を変えて「うへのみや」というような例は、ほとんどない。だから、初めから「うへのみや」といったのだろう。ただし、元は「上国」などの例のように「宇波都美夜(うはつみや)」といったのを、今は「うへのみや」というのなら、ありえないことではない。昔「つ」といったものを、後に「の」という例は多いからだ。この宮について、『太子伝暦』が「現在、坂田寺という所が、その宮のあった場所である」というのは、どうだろうか。坂田寺は、『日本書紀』のこの巻にも推古天皇紀にも南淵坂田寺とある。その寺は高市郡坂田村にあり、池辺宮より南側にはあるが、やはり上宮村こそ、その跡だと思われる。】

【宣長の注釈】「聡耳」は「刀美々(とみみ)」と読むべきで、耳が鋭いという意味である。『新撰字鏡』には「聆、止弥々」、また「耳とし」とある。【『日本紀竟宴和歌集』の、この太子を詠んだ歌に「登与止美己」とある「美己」は、「美々」の誤りだろう。『続日本後紀』巻四には矢田部造聡耳という人名も見える。】『日本書紀』推古天皇紀には次のようにある。「元年夏四月、厩戸豊聡耳皇子を皇太子に立て、摂政を執らせ、すべての政務を委ねた。橘豊日天皇の第二子である。母は皇后で、穴穂部間人皇女という。皇后は妊娠し、出産の日、宮中を巡り、諸官司を見て回っていた。馬を扱う役所へ来て、厩の戸口に差しかかった時、苦しむこともなく、たちまち生んだ」。【この時、用明天皇はまだ天皇ではないので、「諸官司を監察した」というのは、どうか。思うに、これはただ何げなく、そのあたりへ行った折のことだったのだろう。】「生まれるとすぐ言葉を話し、優れた知恵があった。成長すると、一度に十人の訴えを聞いて、取り違えずに判断でき、未来のことも知った。また高麗の僧、恵慈について仏教を学び、博士の覚哿について仏教以外の典籍を学び、いずれもことごとく通じた。父の天皇はこの子を愛し、宮の南の上殿に住まわせたので、その名を上宮厩戸豊聡耳太子といった」。【『日本霊異記』には「聖徳皇太子には三つの名がある。一つ目は厩戸豊聡耳、二つ目は聖徳、三つ目は上宮である。厩の戸口で生まれたので、厩戸という。生まれつき知恵があり、十人が同時に訴える内容を、一言も誤らず、聞き分けることができたので、豊聡耳という。立ち居振る舞いの威儀は僧のようで、加えて『勝鬘経』『法華経』などの経典の注釈を著し、仏法を広めて衆生を利益し、功績を積む者の位階を定めたので、聖徳という。天皇の宮の上殿に住んだので、上宮皇という」とある。】また『日本書紀』には「九年、皇太子は初めて斑鳩に宮殿を建てた」「十三年、皇太子は斑鳩宮に住んだ」「二十九年春二月、己丑を朔とする癸巳の日の真夜中、厩戸豊聡耳皇子命は斑鳩宮で亡くなった。この月、上宮太子を磯長陵に葬った」とある。【『扶桑略記』では、二月二十二日に亡くなり、三十九歳だったという。『日本書紀』の癸巳は五日なので、二十二日は異説である。また三十九歳では年代が合わないところがある。「三十」は「四十」の誤りだろう。ある書物には四十九歳とある。】『延喜式』諸陵式には「磯長墓。橘豊日天皇の皇太子、名を聖徳という。河内国石川郡にある。区域は東西三町、南北二町。守戸は三戸」とある。【『河内志』は「石川郡の叡福寺は山号を科長といい、御墓山とも呼ぶ。厩戸太子の墓があるためである。墓の上に小堂を建て、石柵で囲んでいる」などという。上太子という所である。】

【宣長の注釈】「久米王」について。乳母の氏なのだろうか。『新撰姓氏録』には久米朝臣、久米臣、久米直などがある。また地名なのかもしれない。【高市郡にある。】『日本書紀』推古天皇紀には「十年、来目皇子を新羅を討つ将軍とした」「十一年春二月、来目皇子が筑紫で亡くなり、後に河内の埴生山の岡の上に葬った」とある。【『続日本紀』巻二十八には「参議従三位山村王が亡くなった。橘豊日天皇の皇子、久米王の後裔である」とある。『新撰姓氏録』には「登美真人は、諡して用明という天皇の皇子、春日王から出る」とあるが、この「春日王」を、ある一本は「来目王」とする。これは「来目」を「春日」と写し間違えたのか。また、敏達天皇の御子なのを、誤って用明天皇の御子と伝えた可能性もある。その場合、「来目」は後の人が自分の判断で改めたのだろう。登美真人の始まりは『続日本紀』巻四十に見える。】「植栗王」について。乳母の氏なのだろうか。『新撰姓氏録』には殖栗連がある。また地名なのか。『延喜式』神名帳には城上郡の殖栗神社がある。【『日本書紀』天武天皇紀に同じ名が見える。】『新撰姓氏録』には「蜷淵真人は、諡して用明という天皇の皇子、殖栗王から出る」とある。「次茨田王」について。この四字は諸本で抜けている。ここでは、『日本書紀』によって補った延佳本に従った。「四柱」とあるので、脱落していることが明らかだからである。継体天皇の御子に同名がある。【茨田郎女である。】『日本書紀』には「元年春正月、穴穂部間人皇女を皇后に立てた。この方は男子四人を生んだ。一人目は厩戸皇子【別名は耳聡聖徳、豊聡耳法大王とも、法主王ともいう。この皇子は初め上宮に住み、後に斑鳩へ移った。豊御食炊屋姫天皇の代、皇太子の位にあり、すべての政務を統べ、天皇の仕事を行った。そのことは豊御食炊屋姫天皇紀に見える。】。二人目は来目皇子、三人目は殖栗皇子、四人目は茨田皇子」とある。

【宣長の注釈】「当麻之倉首比呂」について。「当麻」は氏の名、【大和国葛下郡の当麻から出た氏だろう。】「倉首」は姓で、「久良毘登(くらびと)」と読むべきである。【氏の名を二つ合わせた複姓ではない。「くらのおびと」と読むのは誤りだ。】この姓の例は、『日本書紀』天武天皇紀に次田倉人椹足、『続日本紀』巻二に春日倉首老、【『万葉集』巻一にも見える。】巻十一に河内蔵人首麻呂、巻二十七に春日蔵毘登常麻呂、巻二十九に白鳥椋人広、巻三十に秦倉人昔主、『万葉集』巻十九に高安倉人種麻呂などがあり、『新撰姓氏録』にも池上椋人、河原蔵人、日置倉人などがある。【文字はいろいろでも、すべて同じ姓である。】「首」を「びと」と読むのは、「お」を省いたもので、意味は「おびと」である。【この姓を「人」と書いた場合も、すべて「首」の意味である。「首」を「びと」といい、「人」とも書いた例は、『日本書紀』天武天皇紀にある忌部首子首、また三輪君子首などを、「子人」とも書く例がある。また『続日本紀』巻三十に「以前、天平宝字九年に首と史を改め、どちらも毘登としたので、両者を区別しにくく、氏族が混ざり、事態が穏当ではない。元の字に戻すべきである」とある。これも「首」を「びと」という例である。右の文の「九年」は「五年」の誤りだ。天平宝字五年からこの時までは、「首」の姓も「史」の姓も「毘登」と記したのである。】この「倉首」という姓は、元は倉に関する仕事に奉仕したことから起こった。その始まりは『古語拾遺』に見える。「比呂」は個人の名である。

【宣長の注釈】「飯女之子」について。【真福寺本には「女」がない。また師は、「之子」の二字は余計に入り込んだものだろう、といった。】名の意味に特別なことはない。『日本書紀』では父の氏名も違い、この名も広子とある。【真福寺本のこの箇所に「女」がないことから考えると、】「いひのこ」と「ひろこ」は音が近い。また、父の名の「比呂」と、この名の間にも、取り違えがあったのだろうか。「当麻王」について。地名なのか。【母の氏なので、その地に住んでいたのだろうか。】また、母の氏を名に取ったのか。『日本書紀』には麻呂子皇子とあり、推古天皇紀の十一年の箇所に「来目皇子の兄、当麻皇子を、新羅を征討する将軍とした」とあるのは、この王である。【したがって、この巻には「別名は当麻皇子」とあるべきところ、抜け落ちたのである。】『新撰姓氏録』には「当麻真人は、用明天皇の皇子、麻呂古王の後裔である」とある。「須賀志呂古郎女」について。【真福寺本では「賀」は「加」である。】「清白子」の意味か。【ただし『古事記』では、「白」「黒」の「ろ」には「漏」「路」を用いるので、こちらは別の意味なのか。】また『日本書紀』に「酢香手」とあるので、「しろ」は「代」なのか。【「代」を「て」という例があちこちにあるからである。〔「て」を示す原字の字形は判読を留保。〕】『日本書紀』には「葛城直磐村の娘、広子は、男子一人、女子一人を生んだ。男子は麻呂子皇子といい、当麻公の祖先である。女子は酢香手姫皇女といい、三代にわたって日の神に奉仕した」とある。また天皇即位の月に「酢香手姫皇女を伊勢神宮に任じ、日の神の祭祀に奉仕させた」とある。【「この皇女は、この天皇の時から炊屋姫天皇の代まで、日の神の祭祀に奉仕した。自ら退いて葛城へ帰り、亡くなった。炊屋姫天皇紀に見える。ある本では、三十七年間日の神の祭祀に奉仕し、自ら退いて亡くなったという」とある。】【この王が三代にわたって伊勢の斎王だったということは、父の天皇が崩御した時にも退かなかったのである。このことからも、昔は服喪ということがなかったとわかる。】前の例によれば、ここには「二柱」という小字の注があるはずだが、諸本にない。

【古事記本文】この天皇の陵は石寸の掖上にあり、後に科長の中陵に移された。

【宣長の注釈】「此天皇」の下に、旧版本・真福寺本・ある一本などには「丁未の年四月十五日に崩御した」という、いつもの小字の注がある。【旧版本では本文である。】年と月は『日本書紀』と一致するが、日は一致しない。【癸丑は九日である。】『日本書紀』には「二年夏四月、乙巳を朔とする癸丑の日、大殿で崩御した」とある。ある書物で六十九歳というのは、年代が合わない。「石寸掖上」について。【旧版本は「寸」を誤って「才」とする。】「寸」は「村」の偏を省いた字で、「石村」である。【このことは『伝』巻三十八・二葉で詳しく述べた。】「掖」は、『日本書紀』によれば、「池」の写し間違いだろう。【ただし『古事記』も『日本書紀』も、大宮の名には「辺」を書くのに、ここでは字を変えて「上」とするのは、その地名とは異なり、ただ石村の池の上という意味なのだろうか。】石村に掖上という土地は聞いたことがない。【葛城には掖上という土地があり、前に出た。】『日本書紀』には「二年七月、甲戌を朔とする甲午の日、磐余池上陵に葬った」とある。『大和志』には「十市郡の石寸腋上荒陵は、谷・長門の二村の境にある」とある。

【宣長の注釈】「科長中陵」について。「科長」は前に出た。『日本書紀』推古天皇紀には「元年秋九月、橘豊日天皇を河内磯長陵に改葬した」とある。『延喜式』諸陵式には「河内磯長原陵。磐余池辺列槻宮で天下を治めた用明天皇の陵。河内国石川郡にある。区域は東西二町、南北三町。守戸は三戸」とある。「中」というのは、この陵が敏達天皇陵と推古天皇陵との中間にあるので、後に区別してそう呼んだのだろう。【『延喜式』でこの陵を磯長原陵とする一方、石姫皇女の墓も磯長原墓とする。それは敏達天皇陵と同じ区域にあるのに、敏達天皇の陵は磯長中尾陵という。この点から考えると、こちらの「中」も「中尾」で、「尾」が抜けたのかもしれない。いささか紛らわしい。『太子伝暦』には、この陵も中尾山陵とあるが、信じがたい。その書物に「この天皇の二年秋七月、天皇を河内科長中尾山陵に葬った」とあるのも、改葬だったことをわきまえない誤りである。】『前皇廟陵記』には「一説に、春日村にあり、上太子の御墓山から東南へ五、六町ほど」とある。【『大和志』にも春日村にあるという。】

倉椅宮の巻

【古事記本文】長谷部若雀天皇は、倉椅の柴垣宮にいらっしゃって、四年間天下を治めた。陵は倉椅の岡の上にある。

【宣長の注釈】真福寺本は、この初めに「弟」とある。この天皇は、後世の漢風の諡を崇峻天皇という。「倉椅」は前に出た。【『伝』巻三十七・十五葉。】「柴垣宮」は、「多治比之柴垣宮」のところで述べたとおりである。【『伝』巻三十八・三十六葉。】この宮は、現在の倉橋村の金福寺という寺が、その跡だという。「四歳」について。【真福寺本では「肆」は「四」である。】『日本書紀』には「二年夏四月、橘豊日天皇が崩御した」「八月、癸卯を朔とする甲辰の日、炊屋姫尊と群臣が天皇に即位を勧め、天皇の位に即いた。この月、倉梯に宮を置いた」とある。「四年」は、その『日本書紀』と一年違っている。『日本書紀』には御子二人を挙げるのに、『古事記』に記さないのは、省略したのだろう。【『古事記』は、近い御代になるにつれ、次第に記事を省いているからである。】「肆歳」の下に、旧版本・真福寺本・ある一本などには「壬子の年十一月十三日に崩御した」という小字の注がある。【真福寺本には「崩」の下に「也」がある。また旧版本は、本文に続けて書いている。】年と月は『日本書紀』と合うが、日は違う。【『日本書紀』の乙巳は三日である。あるいは、その「巳」は「卯」の誤りなのか。乙卯なら十三日である。】ある書物には七十二歳とも七十三歳ともあるが、どちらも年代が合わない。

【宣長の注釈】「倉椅の岡の上」について。『日本書紀』には「五年冬十月、イノシシを献上した者があった。天皇はそれを指して、『いつか、このイノシシの首を切るように、私の憎む者を斬りたい』といった。武器を多く備え、いつもと違う様子があった。蘇我馬子宿禰は、この詔を聞き、自分が憎まれているのではないかと恐れ、人を招き集めて、天皇を殺す計画を立てた。十一月、癸卯を朔とする乙巳の日、馬子宿禰は群臣を欺き、『今日は東国からの調を進める』といい、東漢直駒を使って天皇を殺した。この日、天皇を倉梯岡陵に葬った」とある。【ある本には「大伴嬪の小手子が、寵愛が衰えたことを恨み、蘇我馬子宿禰へ使いをやって、『先ごろイノシシを献上した者があり、天皇はそれを指して、このようにいった』と伝えた」とある。】天皇が崩御し、その日のうちに葬ったという例が、古今を通じてほかにあろうか。当時の賊臣・馬子の権勢が推し量られる。『延喜式』諸陵式には「倉梯岡陵。倉梯宮で天下を治めた崇峻天皇の陵。大和国十市郡にある。陵地も陵戸もない」とある。【陵地も陵戸もないというのも例がない。何の理由もなく、このようになっているのは、これも賊臣・馬子の権勢を恐れたためだろう。しかし、せめて後になってからでも陵地や陵戸を置くべきなのに、それもなかったのは、どういうことか。】この陵について、『大和志』には「倉橋村の東にあり、現在は赤坂という。陵のほとりに家が六軒ある」とある。【この陵は、赤坂という坂の上にあり、丸い塚で、松の木が多く茂っているという。】

小治田宮の巻

【古事記本文】豊御食炊屋比売命は、小治田宮にいらっしゃって、三十七年間天下を治めた。陵は大野の岡の上にあり、後に科長の大陵に移された。

【宣長の注釈】真福寺本には、この冒頭に「妹」とある。この天皇は、後世の漢風の諡を推古天皇という。「小治田宮」について。この地は穴穂宮の段に出た。また『日本書紀』安閑天皇紀には小墾田屯倉、欽明天皇紀には蘇我稲目大臣の小墾田の家などが見える。この天皇の巻には「泊瀬部天皇の五年十一月、天皇は大臣馬子宿禰に殺された。皇位が空いたので、群臣は渟中倉太珠敷天皇の皇后、額田部皇女に即位を請うた。皇后は辞退したが、百官が文書を差し上げて即位を勧め、三度目になって皇后が承諾したので、群臣は天皇の璽印を奉った。冬十二月、壬申を朔とする己卯の日、皇后は豊浦宮で天皇に即位した」「十一年冬十月、己巳を朔とする壬申の日、小墾田宮に移った」とある。また皇極天皇紀の元年十二月には、天皇が小墾田宮に移ったとあり、孝徳天皇紀にも小墾田宮とある。斉明天皇紀には「元年冬十月、小墾田に宮殿を建て、瓦で覆おうとした」とあり、天武天皇紀には小墾田の兵庫がある。『続日本紀』巻二十三には小治田宮への行幸、また小治田岡本宮があり、巻二十六には「紀伊国へ行幸し、この日、大和国高市の小治田宮に着いた」とある。『万葉集』巻十一・二十葉には「小墾田の坂田の橋の」とある。【現在の本では「坂」を「板」と誤っている。】『日本霊異記』には「その雷が落ちた所を、現在は雷岡と呼ぶ。【古い都の小治田宮の所にある。】」とある。小治田は飛鳥と同じ土地で、この御代のころ、飛鳥を小治田といったのだろう。【右に引いた『続日本紀』にある小治田岡本宮は、飛鳥岡本宮と考えられ、『日本霊異記』の雷岡は、現在も雷土村といって、飛鳥の神奈備山と呼ぶ所だからである。また『万葉集』の「小墾田の坂田の橋」と、用明・推古天皇紀の南淵坂田寺は同じ土地で、現在も飛鳥の東南に近く、南淵村、坂田村などがある。これらから考えると、飛鳥一帯を広く小治田といったのだろう。この小治田宮を『大和志』は豊浦村にあるとする。豊浦村も近いが、その村のあたりにあるはずなのは、この天皇が初めに住んだ豊浦宮である。小治田宮は、今の雷土村・飛鳥村・岡村・坂田村などのあたりの、どこかにあったのだろう。また、十市郡の大福村がその地だとする説は、誤っている。】

【宣長の注釈】「三十七歳」について。【真福寺本では「卅七歳」と書く。】この年数は、即位の年から数えたものだ。ここには、旧版本・真福寺本・ある一本などに「戊子の年三月十五日、癸丑の日に崩御した」という、いつもの小字の注がある。【旧版本では本文である。真福寺本には「癸丑」の下に「日」がある。また旧版本では「年」を「歳」とするが、ここでは真福寺本とある一本に従った。前の例がそうだからである。】年と月は『日本書紀』と一致するが、十五日という日は異なる。【ただし、癸丑という干支は『日本書紀』と一致する。この小字の注に干支を記すのは、前に例がないので、『日本書紀』によって後から加えたのだろうか。もし元からの文なら、『日本書紀』とは干支の伝承が異なるのである。『日本書紀』は丁未が朔なので、癸丑は七日である。この小字の注に従えば、己亥が朔となる。】『日本書紀』には「三十六年春二月、天皇は病床に伏した。三月、丁未を朔とする壬子の日、病状が重くなり、癸丑の日に崩御した。【七十五歳だった。】すぐに南の庭で殯を行った」とある。【『日本書紀』に記す、この天皇の年代には食い違いがある。崩御した年に七十五歳なら、欽明天皇の十五年に生まれたことになる。ところが、敏達天皇の五年に皇后となったのを、この巻の初めに十八歳とするのは、どういうことか。その年は二十三歳に当たる。また、三十四歳の時に敏達天皇が崩御したというのも違う。その天皇が崩御した年は三十二歳に当たり、皇后になった時を十八歳とすれば二十七歳に当たる。どうなのか。崇峻天皇が崩御した年を三十九歳とするのは合うが、三十四歳という記事とは合わない。】ある書物には、七十三歳、一説には七十歳、また一説には八十五歳という。

【宣長の注釈】「大野の岡の上」は、『日本書紀』敏達天皇紀に「十四年、蘇我大臣馬子宿禰は、大野丘の北に塔を建て、斎会を設けた」とある地だろう。【『大和志』には「高市郡の廃大野丘塔は和田村にあり、礎石が今も残る。敏達天皇十四年……」とあり、これだとしている。】また天武天皇紀に「大野に着くころ、日が暮れた。真夜中になって隠郡に着いた」とある。【こちらの大野は山辺郡で、大和から伊賀の名張へ越える道にあり、今も大野村と大野寺がある。承元三年三月に後鳥羽上皇が行幸した、宇陀郡の大野の石仏というのが、これである。宇陀郡の境に近い所だ。】また『延喜式』諸陵式には、大野墓が大和国平群郡にあるという。【この墓を『大和志』は高安村にあるとする。】しかし、ここにいう陵は、これらではないだろう。

【宣長の注釈】「科長大陵」について。【師が「大」は「上」の誤りかといったのは、科長中陵があるためである。しかし、これは科長にある陵の中で、大きいため「大」といったのだろう。】『日本書紀』には、天皇が崩御した後、「秋九月、己巳を朔とする月、これより前、天皇は遺詔で『近年、五穀が実らず、人民はひどく飢えている。私のために陵を築いて、手厚く葬ることはしてはならない。竹田皇子の陵に葬るのがよい』といった。壬辰の日、竹田皇子の陵に葬った」とある。この竹田皇子の陵がどこか記していないのは、どういうことか。大野の岡なのか、科長なのか、詳しくはわからない。【『古事記』によれば、竹田皇子の陵は大野の岡にあったのだろう。そして、後に科長へ改葬したことが、『日本書紀』では抜けたのだろう。あの遺詔では民の苦しみを思い、手厚く葬ることを禁じたのに、科長の陵は「大陵」とあるので、たいへん大きいと理解される。したがって、初めに葬った陵ではないだろう。それなのに、『扶桑略記』が竹田皇子の陵を河内国石川郡磯長山田とするのは、この天皇の陵によっていったのだろうから、根拠にしにくい。】『延喜式』諸陵式には「磯長山田陵。小治田宮で天下を治めた推古天皇の陵。河内国石川郡にある。区域は東西二町、南北二町。陵戸一戸、守戸四戸」とある。【『扶桑略記』には、康平二年六月二日に河内国司が、盗賊が推古天皇陵を掘り荒らしたことを報告した、とある。】『大和志』では南山田村にあるという。【『前皇廟陵記』も同じようにいう。】

注

【原典の異本注】「終」の字がない本もあり、さらに「巻」の字も一緒にない本もある。

略年譜への序文

年を重ねるにつれて、これまで生きてきた昔のことが自然と思い出される。見るもの、聞くものの何につけても、昔ほど懐かしいものはない。私、春門が二十歳ぐらいのころ、鈴屋の先生のもとに初めてうかがってから、今ではもう五十年近くになる。その間のことを、ああだった、こうだったと思い起こしても尽きることはなく、春の山にたなびく霞のように、ぼんやりと眺めわたしていた。そこへ伴信友氏が、先生の略年譜というものを書いたと見せてくださった。読むと、先生に直接お目にかかっていたころのことがよみがえり、今、目の前にあることのように面影が浮かんで、うれしいとも悲しいとも言いようがなかった。
こう感じた私は、「早く広く世に出してください。遠い土地に住み、先生に親しくお目にかかれなかった人たちにも、こういうものを見せたいのです」と言い送った。すると信友氏は、以前からこう話していた。「いや、先生を古代の学問の道の先達として尊敬申し上げるのは、今さら言うまでもありません。私が伝えたいのは、若いころには世間の人と同じように、ささやかな事柄を学んでおられた先生が、三十歳近くになってこの学問を志し、川上の神聖な岩のように揺るぎなく、大きな功績を立てられたことなのです。それを知って、『遅くまいた稲にも、なお実りは期待できる』と、立派で厚い志を抱いてほしい。そのために、こうして書きました。同じ志の人がいれば、書き写してもらうぐらいのことはするでしょう。」
今年、私が江戸へ向かおうとしていたころ、「京都の鐸屋の人たちが版木に刻んで出版しようと考えています。ちょうどよい機会ですから、この話を進めてください」と言われた。それがうれしく、江戸に来てから信友氏に強くお願いし、ようやく承諾を得たのである。
そもそも、先生には鶴や亀のような長い寿命をまっとうしていただいても、なお生きていてほしいと願わずにいられない。その心を慰めてくれるのが、この年譜である。繰り返し繰り返し読んでも、いつまでも懐かしい。この序文を書くのにふさわしい人は、ほかにもいるだろう。それでも私が書くのは、昔、信友氏が先生に入門したときに私が仲介したという縁もあるからと、氏が許してくださったためである。

文政十二年九月二十五日、江戸・永田の里の旅宿にて。
村田春門 記。

鈴屋翁――本居宣長の略年譜
家系

系図は、本居家を、延暦の帝の子孫である平高望朝臣の末裔、権大納言・平頼盛卿から六代後の孫の家としています。
最初に挙げるのは平建郷(本居県判官)。そこから武遠(兵部大輔)、武秀(民部大輔)、直武(左馬助)、武基(民部少輔)、武之(和泉守)、武貞(左馬亮)、武延(左衛門尉)、武重(左馬亮)、武利(兵部大輔)、武連(惣助)と続きます。直武は伊勢国司・北畠顕能卿に仕え、武基から武連までは代々、北畠家に仕えました。
武連のところで、延連(正右衛門)と武秀(左兵衛)に分かれています。両者とも蒲生氏郷卿に仕えました。

武秀の系統には、名前不詳の七右衛門が続き、この人が家の名を小津に改めました。次も名前不詳で、二男の三郎右衛門です。続く定治(三四右衛門)は、小津喜兵衛某の長男として生まれた人です〔「喜兵衛」の原字は暫定の読み〕。その次に定利(三四右衛門)が載っています。
定利の子の世代には、定治(三四右衛門、小津孫右衛門某の子として生まれた人)と宣長が挙げられます。宣長は定治の後を継ぎ、家の名を本居に戻しました。別の呼び名は春庵・中衛。母は、村田孫兵衛豊商の娘、勝子です。

略年譜
〔年齢は数え年。年月日と出来事の配置は、この年譜の記載に従っています。〕

享保十五年(1730)、一歳。五月七日の子の刻、紀伊の殿様が治める伊勢国飯高郡松坂の里で生まれました。小津富之助と呼ばれました。

享保十六年、二歳。

享保十七年、三歳。

享保十八年、四歳。

享保十九年、五歳。

享保二十年、六歳。

元文元年、七歳。

元文二年、八歳。西村某に師事し、読み書きのけいこを始めました。

元文三年、九歳。

元文四年、十歳。

元文五年、十一歳。閏七月二十四日、父・定利が亡くなりました。通称を弥四郎に改めました。

寛保元年、十二歳。名を栄貞と付けました。斎藤松菊のもとで読み書きを学びました。岸江之仲について四書を読み始め、猿楽の謡曲も習いました。

寛保二年、十三歳。七月、あるいわれがあって、大和国の吉野山に鎮座する水分神社に参詣しました。

寛保三年、十四歳。

延享元年、十五歳。十一月二十一日、元服しました。

延享二年、十六歳。

延享三年、十七歳。このころから、普通の和歌らしい形の歌を詠み始めました。七月から浜田瑞雪に師事して弓を習い、ある人に茶の湯の作法も教わりました。正住院について学んできた五経を、すでに読み終えていました。

延享四年、十八歳。

寛延元年、十九歳。四月五日に旅立ち、近江の多賀大社に参詣しました。九日ごろ京都に入り、二十一日ごろ大坂へ下り、二十五日には伏見・宇治を通って京都へ戻りました。五月三日、朝鮮の使節が京都を出発する様子を見物し、四日に京都を立って、六日に松坂へ帰りました。

寛延二年、二十歳。

寛延三年、二十一歳。

宝暦元年、二十二歳。二月二十八日、兄・定治が江戸で亡くなりました。子どもがいなかったので、宣長が家を継ぎました。三月に江戸へ下り、七月十日に江戸を出発しました。帰り道に富士山へ登り、二十日に帰宅しました。

宝暦二年、二十三歳。三月、学問のために京都へ上り、まず堀景山に師事して儒学を学びました。景山は禎助といい、その先祖の正意は藤原惺窩の弟子で、一家は代々、安芸の殿様に仕える儒者でした。宣長は綾小路室町の南にある景山の家に寄宿しました。このころ、家の名を小津から、元の本居へ戻しました。

宝暦三年、二十四歳。九月、通称を健蔵に改めました。

宝暦四年、二十五歳。五月、医師の武川幸順法眼の弟子となり、小児科の医術を学びました。室町の南にある幸順の家に寄宿しました。

宝暦五年、二十六歳。二月、名を宣長、通称を春庵に改めました。ただし、一時期は「春」の字を「舜」と書いていました。

宝暦六年、二十七歳。契沖の著した『百人一首改観抄』『古今余材抄』『勢語臆断』などを読み、初めて古代の言葉や思想を学ぶ志を抱いたといいます。

宝暦七年、二十八歳。七月に京都から帰り、小児科の医師として働き始めました。これは、以前からの母の希望だったといいます。賀茂真淵の著した『冠辞考』を読み、古代を学ぼうという決意をますます固めたといいます。

宝暦八年、二十九歳。

宝暦九年、三十歳。

宝暦十年、三十一歳。

宝暦十一年、三十二歳。真淵が伊勢・大和・山城を旅して江戸へ帰る途中、松坂に一夜泊まった際、宣長は訪ねていき、古代を学ぶ上での要点を尋ねました。ついに名を書いた入門の届けを差し出し、弟子となりました。以後、たびたび手紙を交わして教えを受けました。(この年、真淵は六十五歳。)

宝暦十二年、三十三歳。伊勢の阿濃津の人、草深玄弘の娘を妻に迎えました。閏四月、母・勝子が信濃の善光寺に参詣し、尼になりました。

宝暦十三年、三十四歳。二月三日、長男の健蔵春庭が生まれました。
著作――『石上私淑言』は、この年までに完成(宣長の没後に刊行)。『手枕』も完成(寛政三年刊行)。『古今選』も完成(没後刊行)。六月、『紫文要領』が完成しました。

明和元年、三十五歳。『古事記伝』の原稿を書き始めました。

明和二年、三十六歳。

明和三年、三十七歳。

明和四年、三十八歳。正月十四日、次男の恭次郎春村が生まれました。
著作――九月、『草庵集玉箒』が完成しました(後年刊行)。

明和五年、39歳。正月一日、母が亡くなりました。
著作――九月、『国歌八論』とその『斥非』についての評が完成しました。

明和六年、40歳。十月の末日、師の真淵が七十三歳で亡くなりました。真淵が蓬萊雅楽に送った手紙には、「松坂の舜庵ともお会いになったそうですね。才のある人ですが、学問はまだ広く身に付いていません。どうか立派になってほしいと思っています」と書かれていました。

明和七年、41歳。正月十二日、長女の飛騨が生まれました。

明和八年、42歳。
著作――『直毘霊』『紐鏡』などが、この年までに完成しました(この年刊行)。

安永元年、43歳。三月五日に旅立って吉野へ行き、十四日に帰宅しました。
著作――吉野旅行の記録『菅笠日記』が完成しました(後年刊行)。

安永二年、44歳。正月二日、次女の美濃が生まれました。弟子は、すでに四十三人になっていました。

安永三年、45歳。
この年の入門者は1人。

安永四年、46歳。
著作――正月十日、『字音仮字用格』が完成しました(安永八年に刊行が完成)。
この年の入門者は4人。

安永五年、47歳。正月十五日、三女の能登が生まれました。
この年の入門者は4人。

安永六年、48歳。
この年の入門者は2人。

安永七年、49歳。
著作――二月末日、『馭戎慨言』が完成しました(寛政八年刊行)。
この年の入門者は1人。

安永八年、50歳。
著作――十一月、『万葉集玉の小琴』の、歌集本文を扱う部分の巻三までが完成しました。十二月、『詞の玉緒』が完成しました(後年刊行)。
この年の入門者は3人。

安永九年、51歳。
著作――十一月二十二日、『葛花』が完成しました(宣長の没後に刊行)。
この年の入門者は6人。

天明元年、52歳。このころから、自宅を「鈴の屋」と呼ぶようになりました。
著作――正月十六日、真淵の十三回忌に、その人をしのぶ歌を集めた『手向草』が完成しました(後年刊行)。九月十二日、『真暦考』が完成しました(寛政元年刊行)。
この年の入門者は3人。

天明二年、53歳。
この年の入門者は2人。

天明三年、54歳。
この年の入門者は9人。

天明四年、55歳。
この年の入門者は13人。

天明五年、56歳。
著作――『漢字三音考』が、この年までに完成しました(この年刊行)。十二月、『鉗狂人』が完成しました。
この年の入門者は7人。

天明六年、57歳。
著作――『玉匣』が、この年までに完成しました(寛政元年刊行)。『古事記』上巻の注釈も完成し、宣長自身も版木に刻むための原稿を書き、寛政の初めに刊行が完成しました。
この年の入門者は6人。

天明七年、58歳。十二月、高貴な方からの問いに答えて、『玉匣』と題する書物を差し上げました。それまでに書いておいた『玉匣』は、別巻として添えたといいます。
著作――正月四日、『刈葭』が完成しました(この年刊行)。『国号考』と『玉鉾百首詠』も、この年までに完成し、この年に刊行されました。後に養子の大平が『玉鉾百首詠』の解説を書き、刊行しました。十二月、『秘本玉匣』が完成しました。
この年の入門者は16人。

天明八年、59歳。
この年の入門者は19人。

寛政元年、60歳。弟子たちの求めに応じて、二月、尾張の名古屋へ出かけました。
著作――五月三十日、『神代正語』が完成しました(後年刊行)。
この年の入門者は26人。

寛政二年、61歳。八月、自画像を描き、歌を詠んで書き添えました。「師木島の倭心を人問はば、朝日に匂ふ山桜花」――日本の心とは何かと尋ねられたら、朝日に照り映える山桜の花だと答えよう、という歌です。十一月に京都へ上り、二十二日、新しく造られた御所へ天皇が移る際の行列を拝見しました。
著作――十一月、天皇のお移りを拝見して長歌を詠みました(後年刊行)。
この年の入門者は21人。

寛政三年、62歳。
著作――四月、『新古今集美濃の家づと』と、その補足の『折添』が完成しました(本編は寛政六年、『折添』は九年に刊行)。
この年の入門者は13人。
〔訳注:書名の「美濃」直後の一字は判読が確定していないため、ここでは通行の書名「美濃の家づと」を用いた。〕

寛政四年、63歳。
著作――『玉霰』が、この年までに完成しました(この年刊行。後に三井高蔭が、これを批判する『弁玉霰論』を著しました)。『古事記』中巻の注釈が完成しました。
この年の入門者は37人。

寛政五年、64歳。弟子の求めに応じ、正月の子の日から『玉勝間』を書き始めました。三月三日に旅立って京都へ上り、その間に大坂へも出かけました。四月十日に京都を出発し、帰り道に近江・美濃へ立ち寄り、さらに名古屋でしばらく過ごして、三十日に帰宅しました。
著作――『玉勝間』の最初の三巻は寛政六年、次の三巻は九年に刊行され、没後、残る六巻の刊行が完成しました。旅行記『結び捨てたる枕の草葉』と、『出雲国造神寿詞後釈』が完成しました(後者は寛政八年刊行)。
この年の入門者は44人。

寛政六年、65歳。紀伊の殿様に召され、十月十日に出発して和歌山へ参りました。殿様の前で『大祓詞』や『古今集』の序などを講義し、『詠歌大概』をもとに和歌の道をお話ししました。このとき奥医師の一員に加えられ、俸禄や、さまざまな品物をいただきました。さらに、殿様ご自身の、紋の付いたお召し物も賜りました。閏十一月二十三日に和歌山を出発し、大坂を経て京都へ立ち寄り、十二月に帰宅しました。
このとき、「私はまあ、立派な衣をいただいた。三つ葉葵の紋のある、綾織の衣を」と詠みました。〔原歌の「さきくさの」は「三つ」に掛かる枕詞。〕(この旅には稲掛大平を伴いました。)
著作――旅行記『紀見のめぐみ』が完成しました。(この旅で、稲掛大平も旅行記『名草の浜づと』の草稿をまとめました。)
この年の入門者は40人。

寛政七年、66歳。二月、通称を中衛に改めました。
著作――『大祓詞後釈』が完成しました(寛政八年刊行)。
この年の入門者は20人。

寛政八年、67歳。
著作――『天祖都城弁弁』が、この年までに完成しました(この年刊行)。このころ、『源氏物語玉の小櫛』が完成しました(後年刊行)。
この年の入門者は22人。

寛政九年、68歳。
著作――『古今集遠鏡』が、この年までに完成しました(この年刊行)。
この年の入門者は16人。

寛政十年、六十九歳。
著作――『古事記』下巻の注釈が完成しました。全巻の刊行が終わったのは、宣長が亡くなった後の文政五年でした。紀伊の殿様はこの本をたたえ、ご自身で書名を書いて大平に授けました。その筆跡を写して版木に刻み、巻頭に載せています。七月、『家譜修撰』が完成しました。十月、『うひ山ぶみ』が完成しました(寛政十一年刊行)。『鈴屋』の文集と歌集も書き整えました(没後刊行)。
この年の入門者は二十一人。

寛政十一年、七十歳。二月に紀伊国へ赴き、帰りに吉野へ出かけました。
著作――二月、『吉野百首詠』が完成しました。『古調古事記』が完成しました(宣長の没後に刊行)。
この年の入門者は二十三人。

寛政十二年、七十一歳。この年、伊勢国飯高郡山室の妙楽寺の山に、あらかじめ自分の墓所を決め、目印の石を立てておきました。そのとき、次の歌を詠みました。

山室に、千年もの春を過ごす住まいを定めて、風にも知られず散ることのない桜の花を見よう。

著作――『歴朝詔詞解』が、この年までに完成しました。この年、宣長自身が版木に刻む原稿を書いておき、没後に刊行されました。『神代巻髻華山蔭』も完成しました(この年刊行)。このころ数多く詠んでいた桜の歌を十月に書き集め、『枕の山』と名付けました。『地名字音転用例』も完成しました(この年刊行)。『疑斎弁』『真暦考不審弁』『臣道』も、この年までに完成しました。『臣道』は、主君に仕える道をある人に問われて書き与えた文章で、もともと題がなかったものに、ここでこの題を付けました。
『五部書説弁加評』は、以前に『説弁』そのものの中へ、ひどく誤った箇所を指摘する書き入れをしたものを、ここでこのように呼んだものです。『本末の歌』は、長歌を詠んで道の意味を示したもので、歌集などにも漏れているようなので、特にここへ挙げておきます。『尾張連物部連系図』も原稿をまとめていました。『言語活用抄』の原稿は、門人の田中道麿に内容を示して書かせたもので、『詞八衢』のもとになった書物といえます。
この年の入門者は二十四人。

享和元年、七十二歳。人々の求めに応じ、四月に旅立って京都へ上り、四条烏丸の東に宿を取りました。このとき、宣長のもとには学ぼうとする人が大勢集まり、各地から話を聞いてやって来た人もいました。

高貴な方々のところでは、中山大納言忠尹卿にたびたび招かれて、『延喜式』の祝詞を講義しました。その子の宰相中将忠頼卿も聴講しました。また、花山院右大将愛徳卿、園大納言基理卿、東園侍従基仲朝臣、大炊御門中納言経久卿、河鰭宰相実祐卿、今城右中将定成朝臣、三条大納言公修卿、野宮左少将定業朝臣、同家の侍従定静朝臣なども訪れて、講義を聞きました。日野一位資枝卿、富小路新三位貞直卿、芝山中納言持豊卿、園大納言などにも招かれて赴きました。

四条の宿で行った『万葉集』の講義には、富小路、日野中宮権大進資愛朝臣、錦小路新三位頼理卿、外山三位光実卿、倉橋中務権少輔泰行朝臣などが、私的に聞きに来ました。祝詞の講義には綾小路中納言俊資卿、富小路、錦小路、日野権大進が、『源氏物語』の講義には富小路、外山、日野権大進などが訪れました。ほかにも、芝山宮内大輔国豊朝臣や日野一位などが、私的に宿を訪ねてきたといいます。このほかにも、まだいたことでしょう。

このとき、公家の方々は数多くの歌を詠んで贈りました。中でも富小路は、古風な長歌も短歌も、ひときわ立派に整えて詠みました。
「山城の都にいる私も、伊勢の海の真珠のような先生の光を、いつまでも身に受けていたい。」
〔「とはにかづきて」は「とわに恩恵を受けて」と解した。地名などとの掛け方は留保する。〕

また、旅立ちの餞別には、「伊勢国へ帰る本居先生を送る歌一首と短歌」と題して、次のように詠みました。
お待ちしたかいがあって、伊勢国の松坂から先生が京都へ上り、旅の宿を取られた。奈良の都に伝わる昔のことや数多くの古い言葉を、朝夕解き明かしてくださると評判を聞き、宮廷の高貴な方も身分の低い人も、朝から日暮れまで、夕方から夜明けまで、鹿のように膝を折ってかしこまり、玉のつる草のように絶え間なく教えを受けた。私もその教えを受け、栂の木のように次々と、古代へ通じる道を踏み進むと、この上なく尊く、その奥へ分け入ると、この上なく畏れ多い。ああ、いとしい学びの親よと、大船に身を任せるように頼みにし、何度も訪ねたのに、一月もたたないうちに、朝の鳥のように、朝早く発ってしまわれる。何と言えばよいのか、どうすればよいのかも分からず、泣く子のように慕い、しょんぼりと旅の道へ見送りに出る。ふるさとの二見の浦、その「二見」の名のように、もう一度お目にかかれますように。ご無事に過ごし、どうかまた京都へお越しくださいと、菅の根のように心を込めて祈る、今日の別れ道。
天を仰いで、お帰りを待とう。「二度見る」に通じる二見の浦の名を、ひたすら頼みにして。

これらも、詠んでくださった歌のうちの、一つ二つです。宣長が亡くなった後には、どのようないわれがあったのでしょうか、富小路は、「伊勢の海の清らかな渚で、今日からは、私の宝となる真珠を拾おう」と口ずさんだといいます。
都が平安京となってから千年余りの間、公家がこのような古風の歌を詠むことは、世間ではほとんど聞かれませんでした。まことに立派で、尊いことです。

このときの公家の方々との集まりや、贈り交わした歌を弟子が書き集め、『玉の名づき』と名付けた一巻があります。また、このとき門人の石塚龍麿が遠江から京都に来て、松坂まで宣長を送りました。その間のことを記して『宮古日記』としたところ、宣長はそれを読み、歌を詠んで書き添えました。六月十二日、宣長は松坂の自宅へ帰りました。

九月十八日から体の具合を悪くし、次第に重くなって、二十九日――その月の末日――の明け方に亡くなりました。十月二日、以前から決めてあった山室山の頂の墓所へ葬りました。塚の上に桜を植え、石碑に「本居宣長之奥墓」と刻みました。この文字は、宣長自身が前もって書いておいたものだといいます。墓所は妙楽寺の境内にあり、松坂から南へ二里ほどのところです。

このときの出来事を、門人の青木茂房がまとめた『歎の下露』があります。また、尾張の起の人、加藤磯足の『時雨の日記』もあります。
宣長の霊は「秋津彦美豆桜根大人」とお呼びします。日ごろ親しんでいた桜の木で、笏の形の品を作って霊牌とし、その名を書き付けて家でお祭りしました。また、松坂の樹敬寺には先祖の墓があったため、そこにも石碑を立て、僧が付ける戒名のような名を用いて、家族がいつも参る場所としました。こうしたことは、宣長が前もって言い残しておいた意向に従ったものだといいます。

著作――『伊勢二宮さき竹の弁』は、この年までに完成しており、この年の八月に刊行されました。『後撰集言葉の束』も完成していました。この年の秋、急いで原稿を整え、刊行のために自ら版下を三枚分書きかけたところで亡くなりました(翌年刊行)。長年、弟子の質問に答えた書簡などを集めた『鈴屋答問録』という一巻がありますが、ほかにもまだあるでしょう。弟子たちの歌合で判定した文章を集めた本もあります。
この年の入門者は二十一人。没後にも三人が加わりました。弟子は四十余りの国にわたり、合計四百九十人です。

文政九年丙戌九月二十九日、謹んで編み終えました。

鈴屋翁略年譜へのあとがき

この一巻を書いたのは伴信友氏です。書こうとした最初の思いを尋ねたところ、こういうことでした。享和元年、信友氏は、同じく江戸にいて心の通い合う村田春門氏を仲介として、入門の届けを送り、鈴屋の弟子となって、直接その教えを受け継ごうと思い立ちました。ところが、ちょうどそのころ、先生はもう亡くなったと聞いて、たいそう残念に思い、驚きました。「ああ、何と悲しい。惜しい先生を亡くしたものだ」と嘆き悲しみましたが、「それでも、これからは書き残された本をよく読んで理解し、その教えを受け継ごう。直接教えていただけないからといって、何が違うだろうか」と考えたのです。

それから私、大平のもとに手紙を寄せ、写本になっているものはすべて書き写し、先生のまっすぐで正しい教えを、人一倍深く心に刻んで、尊び仰いでいました。先生が学問に聡明で、世に功績を立てただけでなく、生まれつきの人柄も、日ごろの行いも、世間の人とは違って誠実で正しかったことを聞き伝えると、学問の教えだけでなく、先生の書き残したものは何でも見たいと、強く求めるようになりました。そこで、先生が子どものころ、幼い心で書き留めた、ささやかな筆のすさびまでも写して送ったところ、信友氏は、そうした小さな事柄も、その当時の年齢に沿って書き留め、この年譜に載せたのでした。

その後、この原稿を私のもとへ送り、「これは私の実の子の子孫へ伝え、先生とはこういう方だったと示したいと思って書きました。まだ漏れていることはありませんか。間違いが交じっていませんか」と尋ねてきました。私は「少しも違っているところはありません」と答えて返そうと思っていたところ、ちょうど春門翁が近いうちに江戸へ出発すると聞き、よい機会だと思って託しました。
春門翁は大坂を出発し、京都の鐸舎の仲間たちと話す機会があり、そのついでにこの原稿を見せました。すると、その人たちが、原稿を譲り受けて版木に刻み、藤垣内の蔵版として刊行したいと願い出ました。春門翁は江戸へ着いてから信友氏に会い、この話を伝えたところ、氏は「それはお任せします」と承諾し、こうして刊行の運びとなりました。以上が、この本のできたいきさつです。

文政十二年己丑八月二十三日。
本居大平。

鈴屋翁略年譜の補足と訂正

伴信友が編んだ『鈴屋翁略年譜』は、要点をよく押さえています。ただ、簡潔すぎるきらいもあります。本居大平は校閲して「少しも違っているところはない」と述べていますが、それでも誤りは少なくありません。私は宣長の詳しい年譜を編もうと長年資料を集め、すでに原稿に取りかかったところ、ちょうど全集を再刊することになりました。そこで、この略年譜に少し補足と訂正を加え、さらに詳しいものを作りたいという願いの一端をかなえようと思います。原年譜に記された門人の数については、後に掲げる『本居宣長門人録』に譲り、ここでは論じません。

本居清造。

享保十七年。十二月七日、妹のはんが生まれました。宝暦十一年二月十四日に髪をそり、智遊と名乗りました。

享保二十年。二月二十六日、弟の親次が生まれました。寛延三年、母方の祖父・村田豊商の跡継ぎの養子となりました。

元文二年。西村某の通称は三郎兵衛です。この年の八月から、元文五年、十一歳の秋まで通って学びました。

元文五年。二月七日、妹のしゅんが生まれました。宝暦六年十二月十二日、飯高郡大口村の宮崎清九郎に嫁ぎました。
父の定利が亡くなったのは、閏七月二十三日の夜、戌の刻ごろで、忌日を二十四日としたことが『家の昔物語』に記されています。通称を弥四郎に改めたのは八月です。

寛保元年。栄貞と名乗ったのは三月です。原年譜の振り仮名は「ナガサダ」となっていますが、このころは「ヨシサダ」といい、寛延二年九月十六日に「ナガサダ」へ改めました。山田の今井田家に養子として入っていたころのことです。
斎藤松菊には、正月二十六日から翌年六月まで教わりました。岸江之仲について学び始めたのは七月です。

寛保二年。日記には、「七月十四日から二十二日まで吉野へ参詣。十六日の夜から十七日にかけて参拝。十九日は高野へ参詣し、二十日は長谷寺へ参る」とあります。宣長は、父の定利が吉野水分神社で祈願した後に生まれたため、そのお礼の参拝に出かけたのです。

延享元年。原年譜の「十一月」は「十二月」の誤りです。

延享二年。二月二十一日に出発し、二十三日に京都へ着き、二十五日に北野天満宮へ参詣しました。三月一日に京都を出て、三日に帰郷しました。三月二十六日、『伊勢州飯高郡松坂勝覧』一冊を編みました。四月十七日に出発し、二十六日に江戸へ到着。大伝馬町にある伯父・小津源四郎の店に滞在しました。翌年三月二十六日に江戸を立ち、四月九日に帰郷しました。

延享三年。原年譜に「このころから普通の和歌を詠み始めた」とあるのは、『玉勝間』巻二に、十七、八歳ごろから歌を詠んだと記されていることによるのでしょう。日記を見ると、寛延二年、二十歳の条には、「去年から和歌を志し、今年からは専らこの道へ心を寄せる」とあります。今井田家に養子として入り、山田に住んでいたころのことです。浜田瑞雪の通称は三十郎、名は良安です。茶の湯の作法を習ったのは寛延元年、正住院について学んだのは寛延二年です。

寛延元年。閏十月十五日の夜から、山村吉右衛門について茶の湯の作法を習いました。同月二十五日、観蓮社諦誉上人から、五重相伝と血脈という仏教の伝授を受け、「伝誉英笑道興居士」という名を授かりました。十一月十四日、山田妙見町の町年寄、今井田儀左衛門尹平の養子となり、その家へ移りました。寛延二年六月十五日には別宅へ移り、紙を商う仕事を始めました。寛延三年十二月、養子の縁組を解きました。

寛延二年。三月下旬から、山田の宗安寺の法幢和尚について和歌を学びました。十月二日から、正住院の住職に、五経を声に出して読む素読を教わりました。

宝暦元年。十一月、『かなつかひ』一冊を、十二月、『年代記』一冊を編みました。

宝暦二年。母方の祖母、村田元寿尼に付き添い、知恩院の御忌に参詣するため、正月二十二日に出発し、二十四日に京都へ着き、二月四日に帰郷しました。遊学のために松坂を出たのは三月五日で、七日に京都へ着き、十六日に景山へ入門しました。原年譜は、景山の先祖の正意を藤原惺窩の門人としていますが、宣長自身の手記では林道春の門人としています。また、景山の家を「室町の南」としたのは、「室町の西の町の南方」の誤りです。(景山は宝暦七年九月十九日に亡くなりました。)
九月二十二日、新玉津島神社の神職、森河章尹に入門して和歌を学びました。

宝暦三年。七月二十二日、堀元厚に入門し、医学書の講義を聞きました。(元厚は宝暦四年正月二十四日に亡くなりました。)健蔵へ改名したのは九月九日で、十一月には芝蘭と号しました。川口常文の『本居宣長大人伝』には、八月に『尾花がもと』(別名『おもひ草』)一冊が完成したと記されています。

宝暦四年。幸順に入門したのは五月一日です。十月十日、室町四条の南にあった幸順の家へ宿を移しました。幸順は英仁親王(後の後桃園天皇)の侍医で、漢学を景山に学んだ人です。

宝暦五年。改名したのは三月三日です。原年譜に「一時期、春の字を舜と書いた」とありますが、「一時期」という限定には疑問があります。両方を交ぜて使ったようです。ただし、「春」が本来の表記で、「舜」は別の表記です。そして、「舜」の字も初めは「蕣」と書き、宝暦九年の秋ごろから「舜」と書くようになりました。

宝暦六年。原年譜の「契沖の著した本を……」という記述は、『玉勝間』をもとにしたのでしょうが、それを宝暦六年のこととしたのは疑問です。『玉勝間』には「京都にいたころ」とあるだけです。まず、『古今余材抄』を見たのが宝暦六年ではないことは、宝暦四年三月に、その序文を扱う部分二冊を自分で写していることから明らかです。また、『玉勝間』の記述によれば、『百人一首改観抄』を見たのは、『古今余材抄』より前でなければなりません。『改観抄』を読んで初めて契沖という人の説を知り、その優れていることも知った、と『玉勝間』には書かれています。
一方、宣長は宝暦二年五月十二日に人から『伊勢物語』を借り、そこへ書き入れられたさまざまな説を抜き写し、末尾に「右の『伊勢物語』の説は契沖のもので、景山先生が増補した」と記しています。また、同年十一月二十一日に写し終えた『枕詞鈔』一冊は、契沖の説へ樋口宗武が自分の考えを加えた書物です。これらを合わせて考えると、『改観抄』を読んで契沖を知ったのは、宝暦二年に京都へ上ってから、間もないころと思われます。
二月ごろ、有賀長川に入門して和歌を学びました。有賀家の月例の歌会へ初めて出席したのは二月十五日です。五月十四日、『草庵集玉箒』前編六冊の原稿が完成しました。

宝暦七年。五月九日、堀景山が所蔵する『万葉集』の書き入れ、契沖の説を写し終えました。京都から帰ったのを原年譜が七月としたのは誤りで、十月六日です。三日に京都を出発しました。

宝暦八年。正月二十日、『古今選』を書き始め、三月二十二日に完成しました。二月から、嶺松院の月例の歌会へ、毎月二回出席しました。

宝暦九年。正月十三日、『源氏物語』の講義を始め、明和三年六月三十日に終えました。三月四日には『伊勢物語』の講義を始め、十二月十二日に終えました。

宝暦十年。正月二十六日、『土佐日記』の講義を始め、五月十四日に終えました。五月二十六日、『枕草子』の講義を始めました。十月九日には『百人一首改観抄』の講義を始め、十二月十二日に終えました。

宝暦十一年。真淵に会ったのは、宝暦十三年です。三月、『阿毎菟知弁』を書きました。五月、『万葉集』の講義を始め、安永二年十二月十四日に終えました。

宝暦十二年。草深玄弘の娘と結婚したのは、正月十七日です。

宝暦十三年。五月二十五日、松阪の旅館・新上屋に真淵を訪ね、会いました。『紫文要領』は六月七日に完成しました。六月、「隠居家」と呼ばれる家が破産し、財産を失いました。十二月二十八日、紹介者の村田伝蔵から、真淵が入門を許したという知らせの手紙が届きました。十二月十六日付の手紙です。翌明和元年の正月、入門の誓いの書面を提出しました。
原年譜は『手枕』の刊行を寛政三年としていますが、版下を大館高門へ送ったのが寛政四年の正月で、刊行が完成したのは寛政七年六月です。

明和元年。正月十八日、『日本書紀』神代巻の講義を始め、明和三年三月十日に終えました。正月二十一日、遍昭寺の月例の歌会が初めて開かれ、以後毎月出席しました。この会は天明四年二月に途絶えました。二月三日、『源氏物語和歌抄』一冊が完成しました。

明和二年。八月四日、初めて谷川士清に手紙を送り、神道と古い言葉の解釈についてその説を批判し、古代へ立ち返ろうとする自分の志を述べました。

明和三年。三月二十八日、『新古今集』の講義を始め、明和六年十二月四日に終えました。六月十四日、『古今題彙』一冊を編みました。七月二十六日、『源氏物語』の二回目の講義を始め、安永三年十月十日に終えました。この年には、『万葉集巻十一・十二・十三の中の重載歌の事、全篇の巻の次第の事』一冊も、すでに完成していました。

明和四年。正月十四日、自分で選んだ歌集『石上集』二冊を編みました。四月十八日、『明和四年選歌百首』一冊を編みました。六月二十五日、『古事記伝』巻四の清書を終えました。

八月五日、『本居氏系図』一冊を編みました。『草庵集玉箒』前編が完成したのは、すでに述べたとおり宝暦六年です。明和四年九月は、前編を刊行した時期です。続編は天明六年の秋に刊行されました。

明和六年。十二月四日、楫取魚彦から真淵の死去の知らせが届きました。

明和七年。正月二十六日、『古今集』の講義を始め、明和八年十月八日に終えました。

明和八年。三月十五日、『家譜修撰』が完成しました。十月九日、『直日霊』を書きました。『紐鏡』が完成したのも十月です。十月二十八日、『職原抄』の講義を始め、安永二年十一月十八日に終えました。十二月、『古事記伝』巻五の原稿が完成しました。

安永元年。二月七日から、門人の須賀直見の家で、『栄花物語』を皆で読む会を始めました。正月二十三日に『二十一代集』を読む会が終わったためです。『栄花物語』は安永四年六月七日に読み終えました。『菅笠日記』は五月ごろには完成しており、寛政七年八月に刊行しました。九月八日、『古事記伝』巻七の清書を終えました。

安永二年。閏三月七日、『古事記伝』巻八の清書を終えました。春、自画像を描き、「珍しい高麗や中国の花よりも、見飽きることのない色と香りを持つのは、桜なのだ」という歌を書き添えました。

安永三年。正月十八日、『史記』の講義を始めました。正月二十四日、『古今集』の二回目の講義を始め、安永四年十月十四日に終えました。四月七日、『古事記伝』巻九の清書を終え、七月二十三日には巻十の清書を終えました。十月十六日、『直日霊』の講義を始め、十一月三十日に終えました。十一月十日、『古事記伝』巻十一の清書を終えました。

安永四年。正月二十六日、『源氏物語』の三回目の講義を始め、天明八年五月十日に終えました。六月十三日から、須賀直見の家で『狭衣』を皆で読む会を始め、安永五年十月五日に読み終えました。六月十七日、『古事記伝』巻十二の清書を終えました。十月二十四日、『万葉集』を読む会を始め、天明六年十月十二日に読み終えました。

安永五年。十二月十一日、『古事記伝』巻十三の清書を終えました。

安永六年。十月二十五日、『古事記伝』巻十四の清書を終えました。十二月、『馭戎慨言』の原稿が完成しました。

安永七年。正月二十九日、『古事記伝』巻十五の清書を終えました。『馭戎慨言』の原稿は安永六年に完成しており、その清書を終えたのが、この年の二月三十日です。四月十五日、『古事記伝』巻十六の清書を終え、閏七月二十五日には巻十七の清書を終えました。

安永八年。二月、『国歌八論斥非再評の評』一冊が、すでに完成していました。七月、『敏太神社考』が完成しました。『万葉集玉の小琴』は十一月五日に完成し、天保九年三月に刊行されました。『玉の緒』は十二月六日に完成し、寛政二年には刊行が完成していました。

安永九年。二月十日、『古今集』の三回目の講義を始め、天明四年閏正月十日に終えました。

天明元年。正月二十三日、『古事記伝』巻十八を書き始め、天明二年二月七日に清書を終えました。『手向草』が完成したのは翌年です。真淵をしのぶ会は、この年の十一月九日に開かれました。『真暦考』が完成したのも翌年です。原年譜の「このころから家を鈴屋と呼んだ」という記述は誤りです。鈴屋は、天明二年の末に造った宣長の書斎だからです。

天明二年。正月十六日、『手向草』を編み、天明四年に刊行しました。二月二十日、『古事記伝』巻十九を書き始め、天明三年三月二十一日に清書を終えました。七月十五日、おこりの病にかかり、十月ごろ、ようやく回復しました。八月十八日、『天文図説』一冊を書きました。九月十二日、『真暦考』を書き、寛政元年の春に刊行しました。
十月十三日、二階に書斎を造り始め、十二月上旬に完成しました。これが鈴屋で、広さは四畳半です。後に掲げる鈴屋の図の説明を参照してください。十月、『御国詞活用抄』の原稿が、すでに完成していました。明治十九年十月に刊行されました。

天明三年。三月二十六日、『古事記伝』巻二十を書き始め、天明四年二月三十日に清書を終えました。

天明四年。正月二十八日、『家の昔物語』別巻一冊を書きました。閏正月二十日、『百人一首改観抄』の二回目の講義を始め、三月十日に終えました。三月六日、『古事記伝』巻二十一を書き始め、天明五年五月二日に清書を終えました。三月二十日、『公事根源』の講義を始めました。六月二十九日、『漢字三音考』の原稿が完成し、九月十一日に清書を終えました。

天明五年。正月二十日、次男の春村が、津の小西太郎兵衛の跡継ぎの養子となりました。五月二十五日、『古事記伝』巻二十二を書き始め、天明八年五月十二日に原稿が完成し、同月二十三日に清書を終えました。『鉗狂人』の刊行が完成したのは文政四年です。この年、『古事記伝』を出版する計画がまとまりました。

天明六年。五月上旬から病気になり、閏十月になっても全快しませんでした。十月二十二日、『万葉集』を皆で読む二回目の会を始め、寛政二年、巻五からは講義の形式に変えました。十一月三日、長女の飛騨が津の草深玄鑑に嫁ぎましたが、寛政四年に離婚しました。この年、『玉矛百首』が、すでに完成していました。『玉匣』の刊行は寛政二年三月です。『古事記』上巻の注釈――『古事記伝』巻一から巻十七まで――が完成したのは、すでに記したとおり安永七年です。
『古事記伝』を版木に刻むための版下は、巻十五・十六・十七・二十二・二十三・二十四の六冊を宣長自身が書きました。巻一から十四までと巻十八・十九・二十の計十七冊は息子の春庭、巻二十一は栗田土満、巻二十五から二十九までの五冊は娘の美濃、巻三十から三十四までの五冊は植松有信、巻三十五から最後までの十冊は丹羽勗が書きました。

天明七年。正月十六日、『新古今集』の二回目の講義を始め、寛政三年十月十八日に終えました。正月、『呵刈葭』上巻が完成しました。二月六日、『仮字の林』を書き始めました。『秘本玉匣』の刊行は嘉永四年五月です。四月末から病気になり、五月下旬に回復しました。

天明八年。三月十日の夜、村田春海が訪ねてきました。五月五日、『宣命抄』一冊が完成しました。六月二日、『源氏物語』の四回目の講義を始めました。

六月十二日、『古事記伝』巻二十三を書き始め、十月二十四日に清書を終えました。八月、『天祖都城弁弁』の初稿が、すでに完成していました。十月二十九日、『古事記伝』巻二十四を書き始め、十一月七日に清書を始めました。この年、『天地図』の原稿も、すでに完成していました。

寛政元年。正月、『続日本後紀長歌訓点』が、すでに完成していました。名古屋へ出かけたのは三月です。十九日に出発し、二十一日に名古屋へ着き、四月二日に帰宅しました。四月、『本末歌』が、すでに完成していました。『神代正語』は四月に書き始め、五月二十九日に完成しました。刊行は翌寛政二年二月です。
七月二十八日、『古事記伝』巻二十五を書き始め、十一月十日に原稿が完成し、十八日に清書を終えました。十一月十一日、巻二十六を書き始め、十二月九日に原稿が完成し、十二日に清書を終えました。十二月十二日、巻二十七を書き始め、翌寛政二年六月二十三日に原稿が完成し、七月七日に清書を終えました。

寛政二年。七月八日、『古事記伝』巻二十八を書き始め、十月二十九日に原稿が完成し、十一月八日に清書を終えました。九月、僧・文雄の著した『九山八海解嘲論』への反論が完成しました。同じ九月、『古事記伝』の最初の一帙、五冊が刊行されました。京都へ向けて出発したのは十一月十四日で、十六日に到着し、二十八日に帰宅しました。十二月二十一日、『古事記伝』巻二十九を書き始め、翌寛政三年四月十五日に清書を終えました。この年、『古事記伝』の最初の一帙を、妙法院宮が天皇のご覧に入れました。
天皇のお移りを拝見して詠んだ長歌が完成したのは、十二月か、翌年の正月でしょう。寛政三年十月に刊行され、『仰瞻鹵簿長歌』――天皇の行列を仰ぎ見る長歌――と題されています。

寛政三年。二月十九日、次女の美濃が、松阪の長井嘉左衛門、後に小津勘蔵と名乗る人に嫁ぎました。『美濃の家づと』とその『折添』が完成したのは四月十三日です。『家づと』の刊行は寛政七年十二月です。四月十六日、『古事記伝』巻三十を書き始め、十月二十四日に原稿が完成し、三十日に清書を終えました。十月二十八日、『伊勢物語』の二回目の講義を始め、寛政四年九月二十八日に終えました。十月三十日、『古事記伝』巻三十一を書き始め、十二月二十九日に原稿が完成し、翌寛政四年正月二十一日に清書を終えました。
十二月五日、加藤千蔭から初めて手紙が届き、翌寛政四年正月六日に返事を送りました。この年、『玉霰』が、すでに完成していました。九月九日に版下を出版元へ送り、刊行が完成したのは翌寛政四年の春です。

寛政四年。閏二月十一日、『古事記伝』巻三十二を書き始め、五月十九日に原稿が完成し、三十日に清書を終えました。閏二月十一日、『出雲国造神寿詞後釈』が完成しました。書き始めたのは正月二十二日です。閏二月、『古事記伝』の第二帙、六冊が刊行されました。
三月、門人の求めに応じて名古屋へ出かけました。五日に出発し、七日に名古屋へ着き、二十四日に名古屋を出て、二十七日に帰宅しました。四月十九日、『祝詞式』の講義を始めました。五月三十日、『古事記伝』巻三十三を書き始め、十月十一日に原稿が完成し、十三日に清書を終えました。十月八日、『古今集』の四回目の講義を始め、寛政七年五月二十六日に終えました。十月十八日、『古事記伝』巻三十四を書き始め、翌寛政五年正月十五日に原稿が完成し、二十四日に清書を終えました。十二月三日、紀州藩主・徳川治宝に仕え、五人扶持〔五人分の食料に当たる俸給〕を与えられました。

寛政五年。『玉勝間』の刊行時期は、第一編三冊が寛政七年六月、第二編三冊が寛政九年十二月、第三編三冊が寛政十一年九月、第四編三冊が享和二年ごろ、第五編は目録を含む三冊で文化九年正月です。
京都へ上ったのは三月十日です。京都を出たのは四月十二日で、帰宅したのは二十九日です。京都にいる間、四月二日に芝山持豊卿に、八日に妙法院宮真仁法親王にお目にかかりました。小沢蘆庵や伴蒿蹊なども訪ねました。『結び捨てたる枕の草葉』の刊行は安政二年です。九月二十三日、『古事記伝』巻三十五を書き始め、十一月二日に原稿が完成し、十二日に清書を終えました。『出雲国造神寿詞後釈』が完成したのは、前に記したとおり寛政四年です。

寛政六年。正月、『古今集遠鏡』が、すでに完成していました。二月二日、『古事記伝』巻三十六を書き始め、翌寛政七年五月十二日に原稿が完成し、六月八日に清書を終えました。三月、門人の求めに応じて名古屋へ出かけました。二十九日に出発し、四月一日に名古屋へ着き、二十二日に名古屋を出て、二十六日に帰宅しました。
十月十三日に和歌山へ着き、十一月三日と五日に『大祓詞』、六日に『詠歌大概』を御前で講義しました。閏十一月十三日、扶持を十人分に増やされ、御針医に相当する格式を与えられました。また、清信院殿――藩主治宝の父・重倫の実母――に召され、閏十一月十二日に『源氏物語』若紫巻と『古今集』俳諧部を、十六日に『古今集』の真名序と仮名序を講義しました。
帰り道に京都へ立ち寄ったのは二十六日で、二十九日に芝山持豊卿の父子と会い、十二月一日に京都を出て、四日に帰宅しました。十二月、松阪の医師の総代と連名で、同町の少名彦神社境内に、儒学・神学・歌学・医学の研究所を建てたいと願い出ました。『紀見のめぐみ』は安政二年に刊行されました。この年の六月から翌年の正月までの間に、長男の春庭が失明しました。

寛政七年。正月二十二日、清信院の命により、『伊勢物語古意可否の考』を書き終えました。中衛へ改名したのは二月十六日です。『大祓詞後釈』は三月三十日に書き始め、七月十五日に完成しました。四月二十三日、長男の春庭が、鍼術を習うために京都へ出かけました。七月二十日、『古事記伝』巻三十七を書き始め、十月十七日に清書を終えました。
八月十三日、浜田藩主の松平康定が伊勢参宮のため松阪に泊まったので、夜、旅館へ出向いてお目にかかりました。十六日、帰りにも一泊したため、正午ごろから旅館へ赴き、『源氏物語』初音巻を講義して、十時ごろ退出しました。十月二十二日、『古事記伝』巻三十八を書き始め、翌寛政八年正月二十八日に原稿が完成し、二月五日に清書を終えました。十二月十五日、三女の能登が、山田の安田伝大夫に嫁ぎました。

寛政八年。二月六日、『古事記伝』巻三十九を書き始め、五月二十九日に原稿が完成し、七月四日に清書を終えました。七月四日、『天祖都城弁弁』の第二稿を書き始め、九月二十日に版下を書き終えました。刊行は翌寛政九年五月です。七月十日、江戸から領国へ帰る松平康定に、桑名の旅館でお目にかかりました。七月二十一日、『古事記伝』巻四十を書き始め、十一月二十七日に原稿が完成し、十二月八日に清書を終えました。十一月二十五日、『出雲風土記意宇郡古文解』一巻を書きました。

十二月八日、『古事記伝』巻四十一を書き始め、翌寛政九年四月一日に清書を終えました。十二月十一日、蒲生秀実が訪ねてきました。この年、『源氏物語玉の小櫛』が完成しました。書き始めたのは寛政五年ごろで、この年の九月十八日に清書を始めました。寛政十一年の秋に刊行されました。

寛政九年。正月二十五日、長女の飛騨が、四日市の高尾九兵衛に嫁ぎました。四月十八日、『古事記伝』巻四十二を書き始め、九月二十二日に清書を終えました。『遠鏡』が寛政六年正月には完成していたことは、前に述べたとおりです。五月、『古事記伝』の第三帙、六冊が刊行されました。盆の後から初冬まで、体調がすぐれませんでした。八月六日、長男の春庭が京都から帰り、鍼医として働き始めました。十月二十六日、弟の村田与三兵衛親次が亡くなりました。十二月三日、『古事記伝』巻四十三の清書を終えました。十二月十六日、長男の春庭が、亡くなった村田与三兵衛の娘、伊伎を妻に迎えました。

寛政十年。三月四日、『古事記伝』巻四十四を書き始め、六月七日に原稿が完成し、十三日に清書を終えました。これで全巻が完成しました。四月か五月ごろ、『伊勢二宮さき竹の弁』が完成しました。六月二十六日、『家の昔物語』を書き始め、七月二十日に清書しました。その前案に当たる『家譜修撰』が完成したのは、前に述べたとおり明和八年です。『うひ山ぶみ』は十月八日に初稿、十三日に第二稿を書き始め、二十一日に完成しました。十一月十三日、『神代紀髻華山蔭』を書き始め、二十一日に原稿が完成し、十二月十日に清書を終えました。十一月には『地名字音転用例』も、すでに完成していました。『鈴屋』の文集・歌集七冊は、寛政十二年閏四月に刊行され、寛政九年までの作品を収めています。

寛政十一年。原年譜が紀州行きを二月としたのは誤りです。一月二十一日に出発し、二十四日に和歌山へ着き、二月二十四日に和歌山を出発しました。二十五日に吉野山へ登って水分神社に参詣し、二十八日に帰宅しました。今回、和歌山へ行ったのは、初めての正式な御目見を願うためで、二月三日に御目見を命じられました。二月十七日には『源氏物語』紅葉賀巻を御前で講義し、二十二日には清信院に召されて、『万葉集』巻一、『源氏物語』初音巻、『古今集』の大歌所の歌・神楽歌・真名序を講義しました。
二月、門人の稲懸大平とその家族を、宣長が引き受けて養うことが認められました。五月二十五日から、新刻の『古事記』、後に『訂正古訓古事記』と呼ぶ本の版下を出版元へ送りました。作業が完了したのは宣長の没後で、享和三年に刊行されました。

寛政十二年。四月二十三日、『歴朝詔詞解』が完成しました。書き始めたのは寛政十一年六月八日です。七月、息子の春庭と春村へ宛てた遺言書一巻を書きました。『枕の山』が完成したのは十月十八日で、宣長の没後に刊行されました。
この年、召されて和歌山へ赴きました。十一月二十日に出発し、二十四日に和歌山へ着き、翌享和元年二月二十三日に和歌山を出て、大坂・奈良を通り、三月一日に帰宅しました。和歌山にいる間、寛政十二年十一月二十九日、十二月四日、八日、十四日には『源氏物語』帚木巻を、享和元年正月十四日には『古語拾遺』を御前で講義しました。
山室山の奥墓については、後に掲げる写真版の奥墓の説明に述べてあります。『髻華山蔭』『地名字音転用例』などについては寛政十年の条、『本末の歌』については寛政元年の条、『言語活用抄』の原稿については天明二年の条で述べました。

『真暦不審考弁』は、文政三年十二月に刊行されました。

享和元年。二月十七日、奥詰の役を命じられました。原年譜に「四月に旅立った」とあるのは誤りで、出発したのは三月二十八日です。三十日に京都へ着き、四条通の東洞院から西へ入った町に滞在しました。六月九日に京都を出て、十二日に帰宅しました。京都でのことは、門人の石塚龍麿の『都日記』に詳しく記されています。五月二十三日、妹の宮崎しゅんが亡くなりました。八月十六日、『鈴屋新撰名目目録』を書き始めました。『答問録』は天保六年に刊行されました。

明治八年。三月二十一日、川口常文らが相談し、山室山の墓のそばに社を建て、「山室山神社」と名付けました。この神社については、後に掲げる写真版の山室山神社の説明に述べてあります。

明治十三年。七月六日、天皇の巡幸の道筋に当たることから、山室山の墓前へ、天皇の使者として侍従の富小路敬直が派遣されました。

明治十六年。二月二十七日、宣長に正四位が追贈されました。

明治三十八年。十一月十八日、従三位が追贈されました。十二月十一日、位階を授ける命を伝える使者として、三重県知事の有松英義が墓前を訪れました。

刊記

校訂 古事記伝。乾・坤、二冊。定価十円。

明治三十五年十一月十五日、初版発行。
大正十五年四月三十日、増訂再版発行。
昭和五年六月二十日、増訂五版印刷。
同年六月二十五日、増訂五版発行。

再校訂者、本居清造。
発行・印刷、吉川弘文館。代表者、林譲。

発行所、吉川弘文館。東京市京橋区鈴木町十一番地。
電話、京橋一四一番・五六五番。
振替貯金、東京二四四番。

発売所。
合資会社六合館、東京市日本橋区呉服橋町。
合資会社柳原書店、大阪市東区北久太郎町四丁目。
合資会社川瀬書店、名古屋市西区下長者町四丁目。
国際美術社、東京市牛込区早稲田鶴巻町三五一。