文学 / レオナルド・ダ・ヴィンチ文学的・哲学的断片(ソルミ編1908年版)

文学 / レオナルド・ダ・ヴィンチ

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収録範囲: ソルミ編1908年版の本文全単位。難読箇所の注記あり。
日本語訳の利用条件: CC0
追加日: 2026-10-02 / 更新日: 2026-10-02
原著: Frammenti letterari e filosofici
出典元ライセンス: Gutenbergは米国でパブリックドメインと表示。原著者1519年没、編者1912年没、1908年刊本。Gutenberg利用条件:https://www.gutenberg.org/policy/license.html
翻訳文ライセンス: CC0
ソルミ編1908年版の本文全単位。難読箇所の注記あり。

寓話

I.落ち着きのなさ

急流は、自らの川床にあまりにも多くの土砂や石を運びこんだため、流れる場所を変えざるをえなくなった。

II.紙とインク

紙は、インクの暗い黒色で一面に汚された自分を見て、インクに不平を言った。するとインクは、紙の上に書き記された言葉こそが、紙を保存させる理由になっているのだと示した。

III.水

水は、その本来の居場所である堂々たる海にいたが、空気の上へ昇ってみたいと思った。そして火の元素に励まされ、微かな蒸気となって昇ると、その希薄さはほとんど空気のように見えた。高く昇って、さらに薄く冷たい空気の中に達したところで、水は火に見捨てられた。微粒子は縮められて互いに集まり、重くなったので、落ちるにつれて、その高慢は逃走へと変わった。こうして天から落ち、やがて乾いた大地に飲みこまれ、そこに長く閉じこめられて、自らの罪を償った。

IV.炎とろうそく

炎たちは、すでにひと月のあいだガラス器をつくる炉で燃えつづけていたが、美しく輝く燭台に載ったろうそくが近づいてくるのを見ると、強く心を引かれ、なんとか近寄ろうとした。そのうちの一つは、本来の進路を離れ、自分を養っていた中空の燃え木の中に入りこみ、反対側の小さな割れ目から抜け出して、近くのろうそくに飛びかかった。そしてひどく貪欲に、むさぼるようにそれを食いつくし、ほとんど燃え尽きさせてしまった。自分の命を長らえようとして、出てきた炉へ帰ろうとしたが、むだであった。ろうそくとともに衰え、死ななければならなかったのである。こうして最後には、泣き、悔いながら、不快な煙へと変わり、姉妹たちを、輝かしく長い命と美しさの中に残した。

V.自らを低くする者は高められる

非常に高い山の頂上、その最高所に据わった岩のてっぺんに、少しばかりの雪が付いていた。雪は思いを自分の内に集め、考えはじめて、ひそかにこう言った。

「これほど小さなひとかけらの雪である私が、このような高い所を占め、ここから見えるかぎりのあれほど大量の雪を、自分より低い所に置いておくのは、傲慢で思い上がっていると思われて当然ではないか。たしかに、この少なさでは、こんな高みにいる資格はない。私自身の小さな姿を見れば、太陽が昨日、仲間たちに何をしたか、よくわかる。仲間たちは、わずか数時間で太陽に溶かされてしまった。それも、ふさわしい位置より高い所に身を置いたからだ。私は太陽の怒りを逃れ、低い所へ下り、このわずかな量にふさわしい場所を探そう。」こうして雪は下へ身を投げ、ほかの雪の上を転がりながら高い斜面を下りはじめた。低い場所を求めれば求めるほど、その量は増していったので、進むのを終えてある丘の上に止まったときには、それを支えている丘にほとんど劣らぬ大きさになっていた。そして、その夏、太陽によって溶かされた雪の中で、これが最後まで残った。自らを低くする者は高められるということを述べた話である。

VI.同じ主題について

雪の玉は、雪山から転がり落ちれば落ちるほど、その大きさを増した。

VII.石

水によってつい最近、地表に現れた、かなり大きな石があった。そこは、心地よい小さな林のはずれにある、石の多い道を見下ろす小高い場所で、石はさまざまな色の花に飾られた草々とともにいた。そして、自分の下の道にたくさんの石が置かれているのを見た。石はそこへ落ちていきたいと思い、独り言を言った。

「私はこんな草どもと一緒に、ここで何をしているのだろう。あの姉妹たちと暮らしたい。」そうして身を落とし、転がりつづけた末に、望んでいた仲間たちの間に収まった。だが、しばらくすると、車輪や、蹄鉄を打った馬の足や、旅人の足によって、絶え間なく苦しめられるようになった。ある者はひっくり返し、ある者は踏みつけ、時には一片が欠け落ち、またあるときには泥や動物の糞に覆われた。そして、自分が去ってきた場所、ひとり静かに安らいでいた場所を、むなしく見つめた。孤独な観想の生活を離れ、無数の悪に満ちた人々の間で、都会暮らしをしようとする者にも、同じことが起こる。

VIII.かみそり

ある日、かみそりは、自分自身の鞘にもなる柄から出て、日なたに身を置き、自分の体に太陽が映るのを見た。それをこのうえなく誇りに思い、過去を振り返って、ひそかにこう言いはじめた。

「さて、ついさっき出てきたあの店へ、私はまた帰るのだろうか。断じて帰るものか。これほど輝かしい美が、あんな卑しい心に堕することを、神々がお許しになるはずはない。石鹸を塗った無骨な百姓どものひげを剃り、手仕事に携わるなど、なんという愚行だろう。この体は、そんな仕事にふさわしいのか。断じてそうではない。私はどこか人目につかぬ場所に隠れ、静かに休らいながら一生を過ごそう。」こうして数か月隠れたのち、ある日ふたたび外気に触れ、鞘から出てみると、自分が錆びついたのこぎりのようになり、表面にはもはや輝く太陽が映らないことに気づいた。取り返しのつかない損傷を、むなしく悔いて泣き、独り言を言った。「ああ、これほど鋭かった、今は失われた刃を、床屋のもとで働かせていたほうが、どれほどよかったことか。あの光り輝く表面はどこへ行ったのか。あのいやらしく醜い錆が、たしかに食いつくしてしまったのだ。」同じことは、鍛錬する代わりに怠惰に身を任せる知性にも起こる。その知性は、上述のかみそりのように、鋭い精妙さを失い、無知という錆にその姿を損なわれるのである。

IX.百合

百合はティチーノ川の岸に根を下ろしたが、流れは百合もろとも岸をさらっていった。

X.くるみの木

くるみの木は、道の上へ張り出して、豊かな実りを通行人に見せびらかしていたので、誰もがそれに石を投げつけた。

XI.いちじくの木

いちじくの木は、実をつけずにいるあいだは、誰にも見向きされなかった。実をつけて人々に褒められたいと思ったところ、人々に曲げられ、折られてしまった。

XII.若木と杭

若木は、そばに置かれた乾いた古い杭と、周囲を取り囲む枯れた杭々に不平を言う。だが、一方は若木をまっすぐに支え、他方は悪い仲間からそれを守っているのである。

XIII.杉とほかの木々

杉は、自らの美しさを誇り、周りの木々を疑わしく思って、それらを自分の前から取り除かせた。すると、さえぎるもののなくなった風に、根こそぎ地面へ倒されてしまった。

注 cedroはここでは風に倒れる高木として「杉」と訳した。一方、FLF-0038の同語は大きな果実をつける木なので「シトロンの木」とした。語の歴史的な多義性による。

XIV.野生のクレマチス

野生のクレマチスは、自分の生垣に満足せず、枝を公道の向こうへ伸ばし、反対側の生垣にからみつきはじめた。そのため、のちに通行人に折られてしまった。

XV.悪い仲間は善人を自らの破滅へ引きずりこむ

老木にからまって年老いたぶどうの木は、その木が倒れると一緒に倒れた。悪い仲間と付き合ったために、それとともに滅びたのである。

XVI.同じ主題について

長い芽を伸ばして、ほかのどんな木よりも高く育とうとする柳は、毎年剪定されるぶどうの木と仲間になったため、自分もいつも切り損なわれた。

XVII.シトロンの木

シトロンの木は、自分のてっぺんに美しく大きな実をつけたいと思い、樹液の力を残らず注いで、それを実現した。だが、育った実は、高くまっすぐだった梢を垂れ下がらせる原因となった。

XVIII.桃の木

桃の木は、隣のくるみの木がたくさんの実をつけるのを見て妬み、自分も同じことをしようと決心し、あまりに多くの実をつけたので、その重みで根こそぎ引き倒され、平らな地面に折れてしまった。

XIX.楡といちじくの木

楡のそばに立っていたいちじくの木は、楡の枝には実がないのに、厚かましくも自分の未熟な実から日光を奪っているのを見て、罵った。「おい、楡よ、私の前に立っていて恥ずかしくないのか。まあ待て、私の子供たちが熟した暁には、お前がどうなるか見せてやろう。」やがて子供たちが熟すと、そこへ兵士の一隊がやってきて、実を取ろうとして、木をすっかり引き裂き、枝を払い、折ってしまった。そのように体を損なわれているいちじくの木に、楡はこう尋ねた。「おい、いちじくよ、子供のためにこんな惨めな有様になるより、子供を持たずにいるほうが、どれほどよかったことか。」

XX.木々と梨の木

月桂樹とミルトスは、梨の木が切られるのを見て、大声で叫んだ。「おい、梨の木、お前はどこへ行くのだ。実が熟していたころの高慢さは、どこへ行ったのだ。もう、お前の茂った枝葉で私たちを日陰にすることもあるまい。」すると梨の木は答えた。「私は、私を切る農夫と一緒に行く。彼は私を優れた彫刻家の工房へ運ぶだろう。その彫刻家は技を振るい、私を神ユピテルの姿にするだろう。そして私は神殿に奉納され、ユピテルに代わって人々に崇拝されるのだ。お前こそ、しょっちゅう枝を切られ、むしり取られる覚悟をしておけ。その枝々は、私をたたえるために、人々が私の周囲へ置くことになるのだから。」

XXI.網

魚を捕らえるのを常としていた網は、魚たちの激しい力に捕らえられ、運び去られた。

XXII.偽りの輝きを追うことから破滅が生まれる

軽薄でさすらい歩く蛾は、空を気楽に飛べるだけでは満足せず、ろうそくの快い炎に魅せられ、その中へ飛びこもうと決めた。そして、その楽しげな動きが、たちまち悲しみをもたらした。その光の中で薄い翅が焼けてしまい、哀れな蛾は、全身を焦がして燭台の足もとへ落ちた。ひどく泣き、悔やんだのち、濡れた目の涙を拭い、顔を上げて言った。「おお、偽りの光よ、お前は昔から、私のような者をどれほど惨めに欺いてきたことだろう。ああ、ただ光を見たかったのなら、太陽と、汚れた獣脂の偽りの灯とを、見分けるべきではなかったか。」

XXIII.栗の木といちじくの木

栗の木は、いちじくの木に登った男が枝を自分のほうへ引き寄せ、熟した実をもぎ、大きく開けた口へ入れて、硬い歯で砕きつぶしているのを見ると、長い枝を揺すり、騒がしいざわめきとともに言った。「おい、いちじくよ、お前が自然から受けている恩恵は、私よりもずっと少ない。見てみよ、自然は私の甘い子供たちを、まず薄い肌着で包み、その上に、裏張りのある硬い皮をかぶせて閉じこめた。しかも、それほどの恵みでは満足せず、頑丈な住まいをつくり、その表面に鋭い棘をびっしり生やして、人間の手が害を加えられぬようにしてくれたのだ。」するといちじくは、子供たちとともに笑いだした。笑いが収まると、こう言った。「人間は頭がよく、竿や石や棒をお前の枝の中へ投げこんで、実をことごとく奪えることを知っておくがよい。そして落ちた実を足や石で踏み砕き、傷つき損なわれた実を、その武装した住まいから引きずり出すのだ。私は、お前のように棒や石で扱われず、丁寧に手で触れられるのだよ。」

XXIV.いぼたの木と黒つぐみ

注 rovistico/rovistriceは古い植物名。ここではいぼた類として訳した。本文内の綴りの揺れは原文のまま。

いぼたの木は、若い実の満ちた細い枝を、厚かましい黒つぐみたちの鋭い爪と嘴で突かれ、哀れな嘆きとともに黒つぐみに訴えた。愛しい実を奪うのなら、せめて灼ける太陽の光から守ってくれる葉までは奪わず、鋭い爪で柔らかな樹皮を削り、剥がさないでくれと頼んだ。すると黒つぐみは、無礼に罵って答えた。「黙れ、野生の藪め。自然が、お前にこうした実をつけさせたのは、私を養うためだと知らないのか。私がこのような食物を食べるために、この世にいるのがわからないのか。無骨者め、お前は今度の冬には、火の食物になることを知らないのか。」木は涙を流しながらも、辛抱強くこの言葉を聞いた。それから間もなく、黒つぐみが霞網に捕らえられ、その黒つぐみを閉じこめる籠をつくるために枝々が集められた。そのほかの枝とともに、細いいぼたの枝も、籠を編む小枝に使われることになった。枝々は自分たちが黒つぐみから自由を奪う原因となったのを見て喜び、こう言った。「おい、黒つぐみ、お前が言ったように、私はまだ火に焼き尽くされてはいないぞ。お前が私の燃えるのを見るより先に、私がお前の捕らわれた姿を見るのだ。」

XXV.くるみと鐘楼

くるみは、烏に高い鐘楼の上へ運ばれたが、落ちた先の割れ目のおかげで、命取りの嘴から逃れることができた。そこで壁に向かい、神がこれほど高く大きく、これほど美しい鐘と荘厳な音に恵まれさせてくださった、その恩寵にかけて、自分を助けてほしいと頼んだ。老いた父の緑の枝の下へ落ちて、肥えた土の中で父の落ち葉に覆われることができなかったのだから、どうか自分を見捨てないでほしい、恐ろしい烏の凶暴な嘴にいたとき、そこから逃れられたら、小さな穴の中で一生を終えようと誓ったのだ、と言った。この言葉に壁は憐れみを催し、くるみが落ちた場所に、それを受け入れずにはいられなかった。やがてくるみは割れはじめ、石の隙間に根を伸ばして隙間を広げ、穴の外へ枝を出した。枝がたちまち建物より高く伸び、ねじれた根が太ると、木は壁を裂き、古い石を長年の居場所から押し出しはじめた。そのとき壁は、自らの災いのもとを泣いて悔やんだが、すでに遅く、むだだった。ほどなく裂け、その体の大部分が崩れ落ちた。

XXVI.柳とかぼちゃ

哀れな柳は、ぶどうの木や、そのほか近くにあるあらゆる植物のために、いつも切り損なわれ、枝を払われ、傷つけられ、細い枝が望みどおりの長さまで育ち、空へ向かって伸びる喜びを味わえなかった。そこで精神の力をすべて自分の内に集め、その力によって想像の扉を大きく開いた。そして絶えず考え、あらゆる植物を思いめぐらし、自分の枝を結び紐に使う助けを必要とせず、仲間になれる植物を探した。しばらくこの励みとなる想像にふけっているうち、不意にかぼちゃが思い浮かんだ。望みどおりの仲間を見つけたと思い、大喜びですべての枝を揺すった。かぼちゃは、結ばれるよりも、ほかのものを結びつけるほうに適しているからである。こう決めると、枝を空へ向かって伸ばし、その願いを仲立ちしてくれる親切な鳥を待った。やがて近くにかささぎを見つけ、こう言った。「優しい鳥よ、お願いだ。先日の朝、飢えた残忍で貪欲な隼がお前を食べようとしたとき、私の枝が与えた助けにかけて。また翼が休みを求めたとき、お前がたびたび私の上で休んだことにかけて。そして、私の枝の間で仲間たちと戯れ、恋を楽しんだことにかけて、お願いしたい。かぼちゃのところへ行き、その種をいくらかもらってきておくれ。そして種たちには、芽を出したら、私の体から生まれたものと同じように扱うと言っておくれ。そのほかにも、この思いを伝えて説得できる言葉を、ことごとく使っておくれ。もっとも、言葉の達人であるお前に教える必要はないが。これをしてくれるなら、お前と家族の巣を、私の枝の分かれ目に、何の家賃も取らずに受け入れよう。」そこでかささぎは、柳と改めていくつかの条件を取り決め、とりわけ蛇やテンを決して自分の上へ受け入れないことを約束させた。そして尾を上げ、頭を下げ、枝から身を投げると、体重を翼に託した。逃げゆく空気の上で翼を打ち、尾を舵にして、あちらこちらへ器用に向きを変え、かぼちゃのところへ着いた。丁寧に挨拶し、気のきいた言葉をいくらか述べて、頼まれた種を手に入れた。それを柳のところへ運ぶと、晴れやかな顔で迎えられた。かささぎは柳のそばの土を少し足で掻き、嘴を使って、柳を囲むように種を植えた。種はほどなく育ち、蔓を伸ばし広げながら、柳の枝という枝を占め、大きな葉で、美しい太陽と空を柳から奪いはじめた。しかも、この災いだけでは足りず、かぼちゃの実が生ると、不釣り合いな重さで、柔らかな枝先を地面へ引き下げ、奇妙なねじれと苦痛を与えはじめた。柳は実を振り落とそうと、身を震わせ、揺さぶったが、むだだった。こうした望み違いを何日も繰り返したが、しっかり強く結びついているため、その考えは実現しなかった。そこで風が通るのを見て助けを求めると、風は強く吹いた。すると柳の古い中空の幹は、根元まで二つに裂け、二つに分かれて倒れた。柳はむなしく自らを嘆き、自分は決して幸福にならぬように生まれついたのだと知った。

XXVII.鷲

鷲は、みみずくをからかおうとして、翼が鳥もちにくっつき、人間に捕らえられて殺された。

XXVIII.蜘蛛

蜘蛛は、欺きの網で蝿を捕らえようとして、その網の上で、すずめばちに残酷に殺された。

XXIX.蟹

蟹は、石の下へ入ってくる魚を捕ろうとして、そこに潜んでいた。すると洪水が、石を激しく崩しながら押し寄せ、転がる石に蟹は押しつぶされた。

XXX.ろばと氷

ろばは、深い湖の氷の上で眠りこんだが、体の熱が氷を溶かしたので、ひどいことに水の中で目を覚まし、そのまま溺れ死んだ。

XXXI.蟻と穀粒

蟻が一粒の黍を見つけた。黍は、蟻に捕らえられたと知ると、叫んだ。「芽を出したいという願いをかなえさせてくれるなら、私は百粒の自分となって、お前に返してあげよう。」そしてそのとおりになった。

XXXII.牡蠣と鼠と猫

牡蠣は、ほかの魚と一緒に、海辺にある漁師の家へ荷下ろしされると、鼠に海へ連れていってくれと頼んだ。鼠は牡蠣を食べようと考え、殻を開かせた。鼠が噛みつくと、牡蠣はその頭を挟み、動けなくした。そこへ猫が来て、鼠を殺した。

XXXIII.隼と鴨

隼は、鴨が目の前から逃れて水中に潜り、身を隠すのを辛抱できず、同じように水の中へ追っていこうとした。すると羽が濡れ、水中から出られなくなった。鴨は空へ飛び立ち、溺れる隼を嘲った。

XXXIV.牡蠣と蟹

牡蠣。これは満月のとき、殻をすっかり開く。蟹はそれを見ると、中へ小石か藁くずを投げこむ。すると牡蠣は殻を閉じられなくなり、蟹の餌となる。口を開いて秘密を話し、慎みのない聞き手の餌食となる者も、これと同じである。

XXXV.つぐみと小みみずく

つぐみたちは、人間が小みみずくを捕らえ、その足を丈夫な紐で縛って自由を奪ったのを見て、大いに喜んだ。だが、その小みみずくは、のちに鳥もちを用いて、つぐみたちから自由ばかりか、命そのものを奪う原因となった。

これは、自分たちより強大な国々が自由を失うのを見て喜ぶ国々について述べたものである。そのために援助を失い、敵の支配に縛られ、自由を、そしてしばしば命をも失うのである。

XXXVI.猿と小鳥

猿は、小さな鳥たちの巣を見つけると、大喜びで近寄った。鳥たちはすでに飛べるようになっていたので、最も小さい一羽しか捕らえられなかった。喜びに満ちた猿は、それを手に持ってすみかへ帰り、小鳥を眺めはじめると、接吻しだした。そして、心底からの愛情のため、あまりにも接吻し、ひっくり返し、抱きしめたので、その命を奪ってしまった。子供を叱らないために、不幸な結果を招く者について述べた話である。

XXXVII.犬と蚤

犬が去勢羊の皮の上で眠っていると、犬についた蚤の一匹が、脂のある羊毛の匂いを嗅ぎ、そこなら、犬を食物にするより暮らしがよく、犬の歯や爪からも安全だろうと判断した。そして、それ以上考えもせず、犬を離れた。厚い毛の中へ入りこむと、ひどく苦労しながら、毛の根元まで進もうとした。大汗をかいたあげく、蚤はその試みがむだだと悟った。毛は互いに触れ合うほど密生していて、蚤が皮膚を味わう隙間などなかったからである。そこで、長い苦労と骨折りの末に、自分の犬へ戻ろうとした。だが犬はすでに立ち去っていたので、蚤は長く悔やみ、苦い涙を流したのち、飢え死にするほかなかった。

XXXVIII.鼠といたちと猫

鼠は、小さなすみかをいたちに取り囲まれていた。いたちは絶えず見張り、鼠を亡きものにしようとしていた。鼠は小さな穴から、自分に迫る大きな危険を見つめていた。そこへ猫がやってきて、たちまちいたちを捕らえ、その場で食べてしまった。鼠はそこで、自分の持っていたはしばみの実をいくらかユピテルに供え、その神性に深く感謝した。そして、いったん失った自由を取り戻そうと穴から出たが、その瞬間、猫の凶暴な爪と歯によって、自由とともに命も奪われた。

XXXIX.蜘蛛とぶどうの房

蜘蛛は、ぶどうの粒の間に潜み、そのぶどうを食べる蝿を捕らえていた。ぶどうの収穫期になると、蜘蛛もぶどうと一緒に踏みつぶされた。

XL.同じ主題について

蜘蛛は、その甘さのために、蜜蜂やさまざまな蝿が盛んに訪れるぶどうの房を見つけ、欺くのにたいへん都合のよい場所を見つけたと思った。細い糸を伝って下り、新しい住まいへ入ると、毎日、ぶどうの粒の隙間がつくる開口部に出て、警戒していない哀れな虫たちを、盗賊のように襲った。何日か過ぎると、収穫人がそのぶどうを摘んで、ほかの房と一緒にしたので、蜘蛛も一緒に踏みつぶされた。こうしてぶどうは、欺かれた蝿たちに対してと同様に、欺く蜘蛛自身にとっても罠となり、欺きとなった。

XLI.構想

歯に噛まれた舌の寓話。

XLII.農夫とぶどうの木

農夫は、ぶどうの木がもたらす利益を知ると、高い所に支えるために、多くの支柱を与えた。しかし実を取ってしまうと、竿を外して木を倒れるに任せ、支えを薪にした。

XLIII.ぶどう酒とマホメットの伝説

ぶどうの神々しい液である酒は、マホメットの食卓で、黄金の豪華な杯に入れられ、それほどの栄誉を得意になっていたが、不意に反対の考えに襲われ、独り言を言った。「私は何をしているのだ。何を喜んでいるのだ。自分の死が近いのがわからないのか。杯という黄金の住まいを去り、人間の体の汚く悪臭のする洞窟へ入り、そこで香り高く快い液から、醜く嫌な尿へ変わるのだ。それほどの災いだけでは足りず、人間の内臓から出た、ほかの臭く腐敗した物とともに、汚い容器の中に、それほど長いあいだ横たわらなければならないのか。」そして天へ叫び、このような損害の復讐を求め、このような侮辱には、もう終止符を打ってほしいと頼んだ。この土地は、ほかの世界のどこよりも美しく良質のぶどうを産するのだから、せめてそれを酒にはしないようにしてほしい、と。そこでユピテルは、マホメットが飲んだ酒の精を脳へ昇らせ、彼を狂わせた。彼は数々の過ちを犯したので、正気に戻ると、アジア人は誰一人として酒を飲んではならぬという法律をつくった。こうして、その後はぶどうの木も実も、自由にされることになった。

(余白に)

酒は、すでに胃の中へ入り、沸き立ち、膨らみはじめる。その精は、すでに体を離れはじめる。すでに天へ向かい、自らの体と分かれる原因である脳を見いだす。すでにそれを汚しはじめ、狂人のように激怒させる。すでに友人たちを殺し、取り返しのつかぬ過ちを犯す。

XLIV.構想

酔漢に飲み尽くされた酒は、その飲み手に復讐する。

XLV.炎と大鍋(断片)

生温かい灰の中、小さな炭に残ったわずかな火が、そこに残るわずかな水分によって、乏しく貧しく自らを養っていた。すると料理女が、それを使っていつもの食事の仕事をするために現れた。炉に薪を置き、ほとんど死んでいたその火から、硫黄の付け木で小さな炎をよみがえらせ、並べた薪に燃え移らせ、その上に大鍋をかけると、何の疑いも持たず、安心して立ち去った。

すると火は、上に載せられた乾いた薪を喜び、立ち昇りはじめた。薪の隙間から空気を追い出し、戯れ、楽しげに行き交いながら、その間に自らを織りなしていった。

火は薪の隙間から吹き出しはじめ、そこを自分の楽しい窓にしていた。そして光り輝く赤い小さな炎を外へ放ち、閉ざされた台所の暗闇をたちまち追い払った。すでに大きくなった炎は、喜びながら周囲の空気と戯れ、穏やかなざわめきで歌い、快い響きを生み出した……。

火は、炉の中に見つけた乾いた薪を喜び、それに燃えつくと、薪を小さな炎で織り包みながら戯れはじめ、薪と薪との間の隙間から、あるときはこちら、あるときはあちらへと、身を伸ばした。

そして、楽しげに戯れながら薪の間を流れ、息を吹き出しはじめ、上の薪の隙間に姿を現しては、あちらこちらに楽しい窓をつくった。

自分が薪の上で勢いよく成長し、ずいぶん大きくなったのを知ると、火は温和で静かな心を、膨れ上がった耐えがたい高慢へと変えはじめた。そして、わずかな薪の上へ、上方の元素をことごとく引き寄せることさえできるように、ほとんど思いこむようになった。

そして激しく息を吹きはじめ、周りの炉を、爆ぜる音ときらめく火花で満たした。すでに大きくなった炎は、まとまって空中へまっすぐ立ち昇った……そのとき、最も高く昇った炎が、上にある大鍋の底にぶつかった。

XLVI.鏡と王妃(断片)

鏡は、自分の中に王妃を映して大いに誇っていたが、王妃が去ると、鏡は……の中に残された。

寓意

I.徳への愛

カランドリーノという鳥がいる。この鳥を病人の前へ連れてくると、病人が死ぬ運命なら、その者に横を向け、反対側を向いて、決して見ようとしないという。だが病人が助かる運命なら、この鳥は決して目を離さず、それどころか、あらゆる病を取り去る働きをするという。

注 calendrinoは病人の運命を示す伝説上の鳥カラドリウス系の名称。原文の形に近く「カランドリーノ」と音写した。

同様に、徳への愛は、卑しいものや邪悪なものを決して見ず、常に高潔で有徳なもののうちにとどまる。そして、鳥が緑の森の花咲く枝へ帰るように、常に高貴な心へ帰る。この愛は、繁栄のときより逆境のときに、いっそうよく現れる。より暗い場所に出会うほど、強く輝く灯火と同じである。

II.嫉妬

鳶については、巣の中の雛が太りすぎたのを見ると、肋をつつき、食べ物を与えずにおくと書かれている。

III.喜び

喜びは雄鶏にふさわしい。雄鶏は、どんな小さなことにも喜び、さまざまな戯れる動きをしながら、声を上げるからである。

IV.悲しみ

悲しみは烏にたとえられる。烏は、生まれた雛が白いのを見ると、深く悲しみ、悲痛に嘆きながら去って、雛を見捨てる。そして、黒い羽が少し見えるようになるまで、食べ物を与えない。

V.平和

海狸については、追われると、それが自分の睾丸の薬効のためだと知っているので、もはや逃げられなくなると立ち止まり、猟師と和解するために、鋭い歯で睾丸を噛み切り、敵に残していくと書かれている。

VI.怒り

熊については、蜂蜜を奪いに蜜蜂の巣へ行くと、蜜蜂に刺されはじめるので、蜜を放り出して復讐へ走るという。そして、刺すすべての蜂に復讐しようとするあまり、どれにも復讐できず、その生は怒り一色になる。地面へ身を投げ、手足をばたつかせながら、むなしく蜂から身を守るのである。

VII.慈悲、または感謝

感謝の徳は、やつがしらと呼ばれる鳥に最も豊かだという。この鳥たちは、父母から命と養育を受けた恩を知っており、親が年老いると、巣をつくってやり、抱いて温め、食べ物を与える。そして嘴で古く傷んだ羽を抜き取り、ある種の草で視力を取り戻させ、再び健やかになるようにする。

VIII.貪欲

ひきがえるは土を食べるが、いつも痩せている。土がなくなっては困るという恐れが強く、満腹するまで食べないからである。

IX.忘恩

鳩は忘恩にたとえられる。もはや餌をもらう必要のない年齢になると、父親と争いはじめ、父親を追い払い、その妻を奪って自分のものにするまで、争いをやめないからである。

X.残酷

バシリスクは非常に残酷なので、毒をもった眼差しで動物を殺せないときには、草木のほうを向き、それらをじっと見つめて枯らしてしまう。

XI.気前のよさ

鷲については、どれほど飢えていても、周囲の鳥たちに獲物の一部を残さぬことはないという。その鳥たちは、自分では食物を得られないため、鷲の取り巻きにならなければならない。そうすることで食べているのである。

XII.矯正

狼は、用心しながら家畜小屋へ向かうとき、うっかり足を踏み外して物音を立てると、その過ちを矯正するために、自分の足を噛む。

XIII.お世辞、または甘言

セイレーンは、非常に甘美に歌って船乗りたちを眠らせ、それから船に乗りこみ、眠っている船乗りたちを殺す。

XIV.思慮

蟻は、生まれながらの知恵で、夏のうちに冬への備えをする。集めた種が芽を出さないように、その生命を絶ち、必要な時期になると、それを食べる。

XV.愚かさ

野牛は赤色を憎むので、猟師たちは木の幹の根元を赤い布で包む。すると野牛はそこへ走り寄り、猛り狂って角を突き刺す。そこで猟師たちは野牛を殺す。

XVI.正義

正義の徳は、蜜蜂の王にたとえることができる。王は、すべてを理にかなって命じ、配置する。ある蜂には花を求めて行くことを、ある蜂には働くことを、ある蜂にはすずめばちと戦うことを、ある蜂には汚れを除くことを、そしてある蜂には王に付き添い、仕えることを命じる。王が年老いて翼を失うと、蜂たちは王を運ぶ。そして、そこで一匹でも職務を怠ると、容赦なく罰せられる。

XVII.真実

しゃこは互いに卵を盗み合うが、その卵から生まれた雛は、いつも本当の母親のもとへ帰る。

XVIII.忠実、または誠実

鶴は王にたいへん忠実で誠実なので、夜、王が眠ると、あるものは草原を巡って遠くを見張り、ほかのものは近くに控える。それぞれが足に石を一つ持ち、眠気に負けても、石が落ちて音を立て、その音で目を覚ますようにする。また別のものは、王の周囲で一緒に眠る。王が命を失わぬよう、こうした役割を毎晩交代するのである。

XIX.偽り

狐は、かささぎやこくまるがらす、あるいは同じような鳥の群れを見ると、すぐに地面へ身を投げ、口を開けて死んだような姿になる。鳥たちがその舌をつつこうとすると、狐はその頭を捕らえる。

XX.嘘

もぐらは目が非常に小さく、いつも地中にいる。隠れているかぎりは生きているが、光のもとへ出ると、たちまち死ぬ。嘘も、このようにして明るみに出るからである。

XXI.恐れ、または臆病

野兎は、いつも怯えている。秋に木々から落ちる葉は、絶えず野兎を恐れさせ、たいていは逃げ走らせる。

XXII.高邁

隼は、大きな鳥しか捕らえない。小鳥を食べたり、悪臭のする肉を食べたりするくらいなら、むしろ死ぬに任せるだろう。

XXIII.虚栄

この悪徳には、孔雀がほかのどんな動物よりも陥りやすいと書かれている。孔雀はいつも、尾を車輪のように広げて、その美しさを眺め、鳴き声を上げて、周囲の動物の視線を集めるからである。そして、これは最後にようやく克服できる悪徳である。

XXIV.不屈

不屈には不死鳥がたとえられる。不死鳥は、生まれながらに自分が再生することを知っているため、自分を焼き尽くす灼熱の炎を、揺るがずに耐え抜き、それから新たに生まれ変わる。

XXV.不定

不定を表すのは、あまつばめである。どんなわずかな不都合にも耐えられず、常に動きつづけているからである。

XXVI.節制

らくだは、この世で最も好色な動物であり、一頭の雌を追って千マイルでも行くだろう。だが、母や姉妹といつも一緒にいても、決して手を出さない。それほどよく自らを抑えることができる。

XXVII.不節制

アリコルノ、すなわち一角獣は、不節制のために自分を抑えられず、乙女を好むあまり、自分の獰猛さと野性を忘れる。疑いをことごとく捨て、座っている乙女のところへ行き、その膝で眠りこむ。猟師はこのようにして一角獣を捕らえる。

XXVIII.謙遜

謙遜の最もよい実例は、小羊に見られる。小羊は、どの動物にも従う。檻の中の獅子へ餌として与えられても、実の母に対するように従うので、獅子が殺そうとしないところが、しばしば目撃されている。

XXIX.高慢

隼は、尊大さと高慢のために、ほかのあらゆる猛禽を支配し、打ち負かそうとし、猛禽は自分一羽だけでありたいと望む。それで、鳥の女王である鷲に隼が襲いかかるのが、しばしば見られた。

XXX.節欲

野生のろばは、泉へ水を飲みに行って、水が濁っていると、どれほど喉が渇いていても飲むのを控え、水が澄むのを待つ。

XXXI.大食

禿鷲は、あまりにも大食に支配されているので、死骸を食べるためなら千マイルでも行くだろう。このために、軍隊の後をついてゆく。

XXXII.貞節

山鳩は、決してつがいの相手を裏切らない。一方が死ぬと、もう一方は永久に貞節を守り、緑の枝には決して止まらず、澄んだ水も決して飲まない。

XXXIII.色欲

こうもりは、放縦な色欲のため、交わりのいかなる一般的な決まりにも従わない。それどころか、雄と雄、雌と雌でも、たまたま出会うがままに、互いに交接する。

XXXIV.節度

白貂は、節度があるため、一日に一度しか食べない。また、自らの気高さを汚さぬように、泥にまみれた巣穴へ逃げこむよりは、猟師に捕らえられるほうを選ぶ。

XXXV.鷲

鷲は、年老いると、自分の羽が焼けるほど高く飛ぶ。そして浅い水の中へ落ちると、自然の許しによって、若さを取り戻す。自分の雛が太陽を見つめることに耐えられないと、餌を与えない。死にたくない鳥は、その巣に近づいてはならない。動物たちは鷲をひどく恐れるがよい。だが鷲は彼らを害さない。獲物の残りを必ず置いてゆくのである。

XXXVI.ルメルパ。名声

この鳥は大アジアに生まれ、自分自身の影を消すほど強く輝く。死んでもその光を失わず、以後、羽が抜け落ちることもない。ただし、抜き取られた羽は、もはや光らない。

注 ルメルパを含む動物伝承の記述は当時の説として訳し、現代動物学に合わせて訂正していない。

XXXVII.ペリカン

この鳥は、自分の雛を深く愛する。蛇に殺されて巣の中にいる雛を見つけると、心臓の向かい側を自分で突き刺し、流れ落ちる血で雛を濡らして、生き返らせる。

XXXVIII.サラマンドラ

サラマンドラは、火の中で自分の皮を浄める。徳を表す。この動物は、害を受ける器官を持たず、火以外の食物を求めず、しばしば火の中で皮を新たにする。

XXXIX.カメレオン

これは空気を糧として生き、空中では、あらゆる鳥を従える。いっそう安全であるために雲の上を飛び、追いかける鳥を支えられぬほど薄い空気のところへ達する。

注 原文はcamaleonを空気を食べ雲上を飛ぶものとして記す。奇異な記述も原文どおり保持した。

この高さ、すなわちカメレオンの飛ぶところへ行けるのは、天からそれを許された者だけである。

XL.アレポという魚

アレポは、水の外では生きられない。

XLI.駝鳥

これは鉄を自らの養分に変え、眼差しによって卵をかえす。武器を表す。武器は隊長たちの糧である。

XLII.白鳥

白鳥は、まったく汚れのない純白であり、死ぬときには甘美に歌う。その歌とともに、生を終える。

XLIII.こうのとり

この鳥は、塩水を飲んで病を追い払う。つがいの相手が不貞を働いたと知ると、捨てる。また、年老いると、その子供たちが、死ぬまで抱いて温め、食べ物を与える。

XLIV.蝉

これは、その歌声でかっこうを黙らせる。油の中では死に、酢の中では生き返る。焼けつくような暑さのときに鳴く。

XLV.バシリスク

残酷。あらゆる蛇はこれを避けて逃げる。いたちは、ヘンルーダの力によってこれと戦い、殺す。

XLVI.アスプ蛇。徳を表す

これは、歯に即死をもたらす力を持つ。そして呪文を聞かぬよう、尾で耳をふさぐ。

XLVII.竜

これは、象の脚に巻きつく。象がその上に倒れこむので、双方とも死ぬ。こうして、死にながら復讐を果たす。

XLVIII.蝮

これは交わるときに口を開き、最後に歯を閉じて夫を殺す。その後、胎内で育った子供たちは腹を引き裂き、母を殺す。

注 原文の「nel suo」は省略を含む不完全な表現。夫を殺すという続く記述から交接の場面として訳した。

XLIX.蠍

空腹時の唾液を蠍に吐きかけると、それを殺す。これは、食欲を控えることが、大食に由来する病を取り除いて絶ち、徳への道を開くのに似ている。

L.鰐。偽善

この動物は、人間を捕らえると、すぐに殺す。殺してから、嘆かわしい声と多くの涙でその死を悼み、嘆き終わると、残酷にむさぼり食う。偽善者も同じである。どんな些細なことでも顔を涙で満たしながら、虎の心を示す。そして、憐れみ深い顔をして、心では他人の不幸を喜ぶ。

LI.ひきがえる

ひきがえるは太陽の光を避けて逃げる。無理にそこにとどめられると、頭が下に隠れて光線を避けられるほど、体を膨らませる。明るく輝く徳を憎む者も同じであり、心を膨らませなければ、無理にでも徳の前にとどまることができない。

LII.芋虫。徳一般について

芋虫は、驚くべき技巧と繊細な仕事で、自分の周囲に新たな住まいを織り上げる、熟練した営みを経て、やがて美しい彩りの翅を備えてそこから出て、その翅で空へ飛び立つ。

LIII.蜘蛛

蜘蛛は、巧妙で見事な網を自らの内から生み出す。その網は、恩恵として捕らえた獲物を蜘蛛に返す。

LIV.獅子

この動物は、雷のような吼え声で、生まれて三日を過ぎた子供たちを目覚めさせ、眠っていたすべての感覚を開く。そして森にいるあらゆる獣は逃げ出す。

これは徳の子らにたとえることができる。彼らは、称賛の叫びによって目覚め、誉れある学問をいっそう進め、それによってますます高められる。邪悪な者はみな、その叫びから逃れ、有徳な者たちから遠ざかる。

また獅子は、敵に道筋を知られぬよう、足跡を覆い隠す。これは隊長たちにもよく当てはまる。敵に企てを知られぬよう、心中の秘密を隠すべきである。

LV.タランチュラ

タランチュラの咬み傷は、人間を、咬まれたときに考えていた意図に、そのままとどまらせる。

LVI.みみずく、または小みみずく

これらは、自分をからかう者から命を奪って懲らしめる。自分たちが食べてゆけるように、自然がそのように定めたのである。

LVII.象

大きな象は、人間にはまれにしか見いだされないもの、すなわち清廉、思慮、公正、そして信仰への忠実さを、生まれながらに持っている。月が新たになると、象たちは川へ行き、そこで身を清め、厳かに洗う。そしてその天体に挨拶をして、森へ帰る。また病気のときには、仰向けになり、まるで供物を捧げようとするかのように、草を天へ投げる。

老齢のために牙が抜け落ちると、地中へ埋める。二本の牙のうち、一方は食物とする根を掘るために使い、もう一方は、戦うために先端を保っておく。猟師に追い詰められ、疲労に負けると、象は牙を打ちつけて抜き取り、それを身代金にして自分を買い戻す。

象は慈悲深く、危険を知っている。独りで道に迷った人間を見つけると、親切にも、見失った道へ戻してやる。人間を見る前に人間の足跡を見つけると、罠を恐れ、立ち止まって息を吹き、ほかの象にそれを知らせる。象たちは列を整え、注意深く進む。

象は常に群れをなして進む。最年長が先頭を行き、二番目に年老いたものが最後尾にとどまり、このようにして群れの前後を守る。恥を恐れ、夜ひそかにするほかには交わらない。交わった後は、まず川で身を洗わなければ、群れに戻らない。ほかの動物のように、雌をめぐって争うことは決してない。非常に慈悲深く、生まれつき、自分より弱いものを傷つけることを嫌う。羊の群れや家畜の群れに出会うと、足で踏まぬよう、自分の手で脇へよける。挑発されないかぎり、決して害を加えない。穴に落ちた象がいると、ほかの象たちは枝や土や石で穴を埋め、底を高くして、その象が容易に抜け出せるようにする。豚の甲高い声をひどく恐れ、後ろへ逃げ、そのときには足で、敵に劣らぬほど味方にも被害を与える。川を好み、いつもその周りを歩き回るが、ひどく重いため泳げない。石を呑みこみ、木の幹をたいへん好む食物とし、鼠を憎む。蝿は象の匂いを好んで体に止まるが、象は皮膚に皺を寄せ、その狭い襞の間で蝿を殺す。

川を渡るときには、子供たちを下流側へ送り、自分たちは上流側に立って、水のまとまった流れを砕き、流れが子供をさらわぬようにする。

竜は象の体の下へ飛びこみ、尾で脚を縛り、翼と鉤爪で脇腹を抱えこみ、歯で喉を裂く。すると象が竜の上に倒れ、竜は破裂する。こうして象は、自らの死によって敵に復讐する。

LVIII.竜

竜は仲間どうしで集まり、筏のように体を編み合わせ、頭を上げて沼を渡り、よりよい餌場へと泳いでゆく。このように結び合わなければ、溺れてしまうだろう。団結は、このように働く。

LIX.大蛇

大蛇は、非常に巨大な動物であり、空中に鳥を見ると、鳥を口の中へ引き寄せるほど強く息を吸う。ローマ軍の執政官マルクス・レグルスは、軍隊とともに、この種の動物に襲われ、ほとんど打ち破られかけた。その動物は攻城機によって殺され、測ってみると百二十五フィート、すなわち六十四ブラッチャ半あった。その頭は、森のあらゆる木々を越えていた。

LX.ボア

これは大きな蛇で、自分の体で牝牛の脚に巻きつき、動けなくしてから、ほとんど干上がらせるほど乳を吸う。皇帝クラウディウスの時代、ウァティカヌスの丘で、この種の蛇が一匹殺されたが、腹の中には、丸呑みにされた幼児が、そのまま一人入っていた。

LXI.マクリは眠りのために捕らえられる

この獣は、スカンディナウィア島に生まれる。大きな馬の形をしているが、首と耳がひどく長い点で異なる。上唇が非常に長いため、前へ向かって食べると草を覆ってしまうので、後ずさりしながら草を食べる。脚は一続きで関節がない。そのため、眠るときには木に寄りかかる。猟師は、いつも寝る場所を知ると、その木をほとんど切り倒すところまで鋸で切っておく。獣が眠ろうとして寄りかかると、眠りのために倒れ、猟師はこのようにして捕らえる。走る速さは信じがたいほどなので、ほかの捕らえ方は、どれもむだである。

注 macliは古い博物学上の動物名で、ヘラジカに関係する伝承。「マクリ」と音写し、関節のない脚などの記述は訂正していない。

LXII.ボナソは逃げながら害を加える

これはパエオニアに生まれる。首には馬のようなたてがみがあり、それ以外は雄牛に似ている。ただし角が内側へ曲がっているため、突くことができず、逃げる以外に助かる手段がない。逃げるときには、走る道の四百ブラッチャにわたって糞を放つ。それは、触れたところを火のように焼く。

LXIII.こうもり

これは、光が強いところほど目が見えなくなり、太陽を見れば見るほど盲目になる。徳のあるところにはいられない悪徳を表す。

LXIV.しゃこ

これは雌から雄へと変わり、最初の性を忘れる。また、嫉妬からほかの鳥の卵を盗むが、生まれた雛は本当の母についてゆく。

LXV.燕

これは、クサノオウを用いて、目の見えない自分の雛に視力を与える。

LXVI.白貂

節度は、あらゆる悪徳を抑える。白貂は、汚れるよりも死を望む。

LXVII.獅子、豹、パンテラ、虎

これらは爪を鞘に収めており、獲物か敵に襲いかかるとき以外は、決して抜かない。

LXVIII.雌獅子

雌獅子は、猟師の手から子供たちを守るとき、槍を見て怯えないように、目を地面へ伏せる。自分が逃げたために、その場で子供たちが捕らわれないようにするのである。

LXIX.獅子

これほど恐ろしい動物も、空の荷車が立てる音ほど恐れるものはない。同じく、雄鶏の鳴き声も恐れる。雄鶏を見るとひどく怖がり、怯えた顔つきでその鶏冠を見つめる。また、顔を覆われると、ひどく臆病になる。

LXX.アフリカのパンテラ

これは雌獅子の形をしているが、脚はもっと高く、体はもっと細長い。全身が白く、小さな薔薇のような黒い斑点が散っている。すべての動物はこれを見るのを喜び、その顔が恐ろしいのでなければ、いつまでも周りにいるだろう。そこで、この動物はそれを知って顔を隠す。周囲の動物は安心し、その美しさをもっとよく楽しもうと近寄る。すると、たちまち最も近いものを捕らえ、すぐに食べてしまう。

LXXI.らくだ

バクトリアのらくだには瘤が二つ、アラビアのらくだには一つある。戦場では足が速く、荷物を運ぶのに極めて有用である。この動物は、規則と限度をきわめて忠実に守る。いつもより重い荷を載せられると動かず、いつもより長い道のりを行かされても同じく、ただちに止まるので、商人たちはそこで泊まらなければならない。

LXXII.虎

これはヒュルカニアに生まれ、皮膚のさまざまな斑点のため、いくらかパンテラに似ている。恐るべき速さをもつ動物である。猟師は、その子供たちを見つけると、さらって、取り去った場所へすぐに鏡を置き、足の速い馬に乗って逃げる。パンテラは戻ってくると、地面に据えられた鏡を見つけ、その中の自分を見て、子供たちがいると思う。だが、前足で掻いて欺きを見破ると、子供の匂いを頼りに猟師を追う。猟師は虎を見ると、子を一頭落とす。虎はそれを拾って巣へ運び、たちまちまた猟師に追いつく。猟師が船に乗りこむまで、同じことを繰り返す。

注 題名と後半はtigreだが、途中にpanteraとある。原文の動物名の切り替わりをそのまま残した。

LXXIII.カトプレパス

これはエチオピアのニグリカポという泉の近くに生まれる。あまり大きくない動物で、どの部分の動きも鈍い。頭が非常に大きく、支えるのが難しいため、いつも地面へ垂れている。そうでなければ、人間にとって最大の災厄となるだろう。その目に見られた者は、誰でもたちまち死ぬからである。

LXXIV.バシリスク

これはアレナイカ地方に生まれ、長さは十二指幅を越えず、頭に王冠のような白い斑点がある。蛇のように、鳴く声ですべての蛇を追い払うが、くねりながらは動かず、体の中央から前方を直立させて進む。一匹を、馬に乗った者が槍で殺したところ、その毒が柄を伝って昇り、人間ばかりか馬まで死んだという。穀物を損ない、触れたものだけでなく、息を吹きかけたものも枯らす。草を枯らし、岩を砕く。

注 Arenaicaは原文の地名表記を音写。キュレナイカを指す可能性があるが、本文では無断訂正していない。

LXXV.いたち、またはベッロラ

これは、バシリスクの巣穴を見つけると、撒き散らした自分の尿の臭いで、それを殺す。しかし、その尿の臭いは、しばしばいたち自身をも殺す。

LXXVI.ケラステス

これらには、動かせる小さな角が四本ある。食べようとするときには、その小角だけを残し、体全体を葉の下へ隠す。角を動かすと、鳥には、小さな虫が戯れているように見えるので、鳥はそれをついばもうとして、すぐに舞い降りる。すると蛇は、たちまち鳥をぐるりと巻きこみ、食べてしまう。

LXXVII.アンフィスバイナ

これには頭が二つあり、一つは本来の位置に、もう一つは尾にある。まるで一か所から毒を吐くだけでは足りないかのようである。

LXXVIII.ヤクルス

これは木の上にいて、投げ槍のように飛び出し、獣の体を貫いて殺す。

LXXIX.アスプ蛇

この動物の咬み傷には、咬まれた部分をただちに切り落とす以外、治療法がない。この猛毒の動物は、つがいの相手に強い愛情を持ち、いつも連れ立っている。不幸にも一方が殺されると、もう一方は、信じがたい速さで殺した者を追う。復讐にはあまりに一心で熱心なので、どんな困難も克服し、どんな軍隊も突き抜ける。ただ自分の敵だけを傷つけようとし、どれほどの距離でも進む。水を渡るか、非常に速く逃げるのでなければ、これを避けることはできない。目は奥まっていて、耳は大きく、視覚より聴覚によって、いっそうよく動かされる。

LXXX.イクネウモン

この動物はアスプ蛇の不倶戴天の敵で、エジプトに生まれる。すみかの近くにアスプ蛇を見ると、ただちにナイル川の泥土へ走り、全身に泥を塗る。そして日光で乾くと、再び泥を塗る。こうして一層ずつ乾かしながら、鎧のような三重か四重の衣をつくる。それからアスプ蛇に襲いかかり、巧みに争い、機会をとらえて喉へ飛びこみ、殺す。

LXXXI.鰐

これはナイル川に生まれ、四本の足があり、陸でも水中でも害を加える。陸の動物で舌がないものは、これ以外には見いだされない。また、上顎だけを動かして噛む。四十フィートにも育ち、爪があり、あらゆる打撃に耐える皮を鎧としてまとう。昼は陸に、夜は水中にいる。魚を食べると、口を開けてナイル川の岸で眠る。するとトロキロスと呼ばれる、非常に小さな鳥が、すぐに口へ駆け寄り、歯の間へ飛びこみ、内外を行き来して、残った食べ物をついばむ。このように心地よくくすぐることで、鰐に口をすっかり開けさせ、鰐はそのまま眠る。イクネウモンはこれを見ると、ただちに口へ飛びこみ、胃と腸を食い破り、ついには殺す。

LXXXII.いるか

自然は動物に、その有利な点ばかりでなく、敵の不利な点をも知る力を与えた。そのため、いるかは、背にある鰭の鋭さがどれほど有効か、鰐の腹がどれほど柔らかいかを知っている。そこで争うときには、下へ潜りこんで腹を切り、そのようにして殺す。

鰐は、逃げる者には恐ろしく、追う者には、はなはだ臆病である。

LXXXIII.河馬

これは、体が重苦しく感じられると、棘や、刈り取った葦の切り株があるところを探す。そしてそこで静脈をこすりつけて切り、必要なだけ血を抜くと、泥を塗って傷をふさぐ。姿はほぼ馬のようで、蹄は割れ、尾は曲がり、猪の牙を持ち、首にはたてがみがある。皮は濡らさなければ突き通せない。穀物を食べ、畑には後ずさりして入り、そこから出たように見せかける。

LXXXIV.朱鷺

これはこうのとりに似ており、病気だと感じると、喉の袋に水を満たし、嘴で自分に浣腸する。

LXXXV.鹿

これは、ファランジと呼ばれる蜘蛛に咬まれたと感じると、蟹を食べ、その毒を取り除く。

LXXXVI.蜥蜴

これは蛇と戦うとき、ノゲシを食べて、害を免れる。

LXXXVII.燕

これは、クサノオウの汁で、盲目になった雛に視力を取り戻させる。

LXXXVIII.いたち

これは鼠を狩るとき、まずヘンルーダを食べる。

LXXXIX.猪

これは、蔦を食べて自分の病を治す。

XC.蛇

これは、新たになろうとするとき、頭から始めて古い皮を脱ぎ捨てる。一昼夜で脱皮する。

XCI.パンテラ

これは内臓がはみ出した後でも、なお犬や猟師と戦う。

XCII.カメレオン

これは、いつも自分の止まっているものの色になる。そのため、止まっている葉とともに、しばしば象に食べられてしまう。

XCIII.烏

これはカメレオンを殺すと、月桂樹で身を浄める。

XCIV.高邁

隼は、大きな鳥しか捕らえず、よい匂いのしない肉を食べるくらいなら、先に死ぬ。

XCV.鶴

鶴たちは、見張りの不備で王が命を落とさぬよう、夜には足に石を持ち、王の周囲に立つ。

愛、畏れ、敬意。この三つを、鶴の持つ三つの石に書け。

XCVI.ごしきひわ

ごしきひわは、籠に入れられた雛にトウダイグサを与える。自由を失うより、むしろ死を。

XCVII.先を見越すことについて

雄鶏は、まず三度羽ばたかなければ鳴かない。鸚鵡は、枝から枝へ移るとき、先に嘴を置かなかったところへは、足を置かない。

XCVIII.よい仕事をするために

くるみの木の枝は、実を十分に育て上げたときにだけ打たれ、叩かれる。これは、名高い仕事を完成したがために、嫉妬によってさまざまな形で打ちのめされる者を示す。

XCIX.同じ主題について

よい果樹を接ぎ木された茨は、生来は徳に向いていなかったが、教師の助けによって、きわめて有益な徳を自らのうちから生み出す者を意味する。

C.亜麻について

亜麻は、死すべきものの死と腐敗に捧げられている。死に対しては、鳥や動物や魚を捕る罠の糸として。腐敗に対しては、埋葬される死者を包む亜麻布として。死者はその布の中で腐敗する。また、亜麻そのものも、浸軟して腐りはじめなければ、茎から離れない。それゆえ、葬儀の式を冠で飾り、装飾するには、この亜麻を用いるべきである。

CI.断片

流れる水の中で手に持った亜麻布は、その水に汚れをすべて流し去るが、これは……を意味する。

思想

学知についての思想

I.理論と実践

まず理論を記述し、その後で実践を記述しなければならない。

II.学知なしに実践する者の誤りについて

学知を持たず、実践に惚れこむ者は、舵も羅針盤もない船に乗る船乗りのようなもので、どこへ行くのか決して確かではない。

実践は、常に正しい理論の上に築かれなければならない。その理論の導き手であり入口でもあるのは遠近法であり、これがなければ、絵画の事柄では何一つうまくできない。

III.実践だけの画家のたとえ

道理を知らず、手慣れた技と目の判断だけで写す画家は、向かい合うものを何でも内部に映しながら、それについて何の認識も持たない鏡のようなものである。

IV.実践に対する理論の先行

学知は隊長であり、実践は兵士である。

V.同じ主題について

まず学知を学び、それから、その学知より生まれる実践に従え。

VI.画家への助言

そして、きわめて豊かな実技を望む画家よ、お前は理解しなければならない。自然の事物についての確かな基礎の上にそれを築かなければ、多くの作品をつくっても、誉れは少なく、利益はなお少なくなる。しかし、それを正しく行えば、お前の作品は多く、しかも優れたものとなり、大きな名誉と多くの利益をもたらすだろう。

VII.同じ主題について

ここで反対者は、それほどの学知は欲しくなく、自然の事物を描き写す実技だけで十分だと言う。それに対しては、ほかの根拠もなく自分の判断を信じることほど、私たちを欺くものはないと答える。錬金術師、降霊術師、そのほかの単純な頭脳の持ち主たちの敵である経験が、いつもそれを証明している。

VIII.小児において頭蓋が大きく発達するという解剖学的事実について

自然は、まず知性の住まいの大きさを整え、それから生命精気の住まいの大きさを整える。

IX.理論と実践の相違

重さの学が、実践によって欺かれる場合。

重さの学は、その実践によって欺かれる。多くの点で、実践はその学と一致せず、一致させることも不可能である。その原因は、重さを学問として扱う際に用いられる秤の支点にある。古代の哲学者たちは、その支点を、数学的な線の性質を持つものとし、場合によっては数学的な点に置いた。こうした点と線は実体を持たない。しかし実践では、支点を実体のあるものとする。秤そのものの重さと、秤の上で量る重さとを支えるために、必然がそう命じるからである。

私は、古代の人々が、この重さの判断で誤っていたことを見いだした。その誤りは、彼らが学問の多くの部分で実体のある支点を使い、別の多くの部分で数学的な支点、すなわち思考上の、実体のない支点を使ったことから生じた。

X.実用のない学問の不毛

言葉だけに終わる学問はすべて、生まれると同時に死ぬ。ただし、その手仕事の部分、すなわち機械的な部分である書くことは、このかぎりではない。

XI.同じ主題について

そこから生まれた成果が、それを行う者とともに死ぬような研究を避けよ。

XII.レオナルドの覚書

『水の運動の学』をまとめるときには、その学が無益なものとならぬよう、各命題の下に、その有用性を書き添えることを忘れるな。

XIII.諸論考の構成

水路を深くする方法。これは『有用性について』の書で扱え。そしてそれを証明する際には、すでに証明済みの命題を引用せよ。これが正しい順序である。もし命題ごとにその有用性を示そうとするなら、それを確かめるための新たな器具を、そのたびにつくらねばならず、四十巻の書の順序を、したがって図示の順序をも乱すことになるからである。つまり実践と理論を混ぜ合わせることとなり、混乱して途切れ途切れのものになる。

XIV.知識そのものの価値

どんな知識を獲得することも、常に知性に有益である。知性は、それによって無益なものを自らの内から追い払い、よいものを保っておけるからである。なぜなら、何ものも、まずそれについて知るのでなければ、愛することも憎むこともできないからである。

XV.知識を求める人間の自然な本能

善い人間は、生来、知ることを望む。

XVI.自然の観照から生まれる喜び

生の恵みにも、世界の美しさにも満足しない野心家には、罰として、自らその生を引き裂き、世界の有用さも美しさも享受できないことが与えられている。

XVII.自著を蔑む者たちに対するレオナルド

多くの者が、これは無益な著作だと言うであろうことを、私は知っている。彼らは、デオメトロが、その口の中で言葉をつくる風を、下のほうから出る風以上には重んじないと言った、そうした人々であろう。肉体にかかわる富と快楽だけを求め、魂の糧であり、真に確かな富である知恵への欲求をまったく欠いた人々である。魂が体より尊いだけ、それだけ魂の富も、体の富より尊いからである。

この種の人間が、この著作を手に取るのを見ると、私はしばしば、猿のように鼻先へ持っていき、食べられるものかと私に尋ねるのではないか、と心配になる。

XVIII.学知を蔑む者たちに対して

デメトリオスは常々、未熟で無知な者たちの言葉や声と、余分な風で満ちた腹から生じる音や物音との間に、違いはないと言っていた。これも理由のないことではない。そうした者たちが、下のほうから声を出そうと、口から出そうと、彼には違いがないと思われたからである。両者は、価値も実質も同じだったのである。

XIX.人体の構造についての考察

愚鈍で、習慣が悪く、思考に乏しい人間は、思索的で深い思考力を持つ人間と同じように、これほど美しい器具、これほど多様な仕組みを与えられるに値しないと思う。食物を受け入れ、それを出す袋一つでよい。実際、食物の通り道以上のものとは考えられないからである。声と姿のほかに、人間という種に属するものを、彼らが何一つ分かち持っていないように、私には見える。それ以外はすべて、獣よりはるかに劣る。

XX.物質的生活だけを目指す人々に対して

ある者たちは、食物の通路、糞を増やす者、便所を満たす者としか呼びようがない。彼らによって、この世でほかの何かが行われるわけでも、何かの徳が実践されるわけでもなく、彼らの後には、満ちた便所以外には何も残らないからである。

XXI.認識の二つの領域

過ぎ去った時代と、大地のありさまとを知ることは、人間精神の飾りであり、糧である。

XXII.最高善は知ることである

コルネリウス・ケルスス。「最高善は知恵であり、最大の悪は肉体の苦痛である。私たちは魂と体という二つのものから成り、そのうち前者はより優れ、体はより劣っているからである。知恵は優れた部分に属し、最大の悪は劣った、最も悪い部分に属する。魂における最善のものは知恵であり、同様に、体における最悪のものは苦痛である。したがって、最大の悪が肉体の苦痛であるように、知恵は魂の、すなわち賢者の最高善であり、ほかの何ものも、これと比べるべきではない。」

XXIII.人生における知識の価値

若いうちに、老年の損失を補うものを獲得せよ。老年の糧が知恵であると理解するなら、その老年に滋養が欠けぬよう、若いうちに励め。

XXIV.学知の賛美

……富者の名声は、その生とともに消え、宝の名声は残っても、蓄えた者の名声は残らない。そして、死すべき人々の徳の栄光は、その財宝の栄光より、はるかに大きい。

どれほど多くの皇帝や君主が過ぎ去り、その記憶は何一つ残っていないことか。彼らは、名を残すために、ただ領国と富とを求めたのであった。

徳に富もうとして、金銭には乏しいまま生きた者が、どれほどいたことか。そして、その望みは、徳が富にまさるだけ、有徳な者において、富者におけるよりもよく実現したのである。

財宝それ自体は、蓄えた者が死んだ後、学知のように、その者をたたえはしないことが、お前にはわからないのか。学知は、常にその創造者の証人となり、その名を高らかに告げる。学知は、それを生み出した者の実の娘であり、金銭のような継子ではないからである。

XXV.どんな旅でも学ぶことができること

この慈悲深い自然は、世界のどこでも、お前が模倣すべきものを見つけられるように取り計らっている。

XXVI.怠惰は知性の鋭さを損なう

鉄が使わなければ錆び、水が淀めば腐り、寒さの中では凍るように、知性も、働かせなければ損なわれる。

XXVII.意欲のない学習は実を結ばない

食欲がないのに食べると、不快な栄養となるように、欲求のない学習は記憶を損ない、取り入れたものを何一つ保てなくする。

XXVIII.同じ主題について

食欲がないのに食べると、健康を害するように、欲求のない学習は記憶を損ない、取り入れたものを何一つ保てない。

XXLX.自分の作品を判断するには、長い間隔を置いて見直さねばならない

注 原文の番号はXXLXで、通常のローマ数字XXIXではない。見出しでは原表記を保存した。

物体は、反対方向へ長く動くあいだに大きな遅れを生じさせてから戻ると、より長い道のりを経て、より強い打撃を与える。一方、絶えず短い運動を続けるものは、力が小さい。それと同じく、同じ事柄の研究も、長い時間の間隔を置いて行えば、判断力がいっそう完成し、自らの誤りをよりよく見分ける。画家の目が絵から離れるときも、同じである。

注 冒頭の運動の比喩は構文が難解。反対方向へ大きく動かしてから戻す動作と、短く反復する動作の対比として訳した。

XXX.時代の古さは世界の若さである

真理だけが、時の娘であった。

XXXI.真理の賛美

嘘はそれほど卑しいものであり、たとえ神について大いなることを語ったとしても、その神性から恩寵を奪う。一方、真理はそれほど優れたものであり、たとえ最も小さなものをたたえたとしても、それらを高貴にする。

疑いなく、真理と嘘との関係は、光と闇との関係に等しい。真理は、それ自体、非常に優れているので、たとえ低く卑しい題材に及ぶとしても、偉大で崇高な議論に及ぶ不確かさや嘘に、比べものにならぬほどまさる。私たちの精神が、嘘を第五の元素として持つとしても、事物の真理が、優れた知性にとって最高の糧であることに変わりはない。ただし、さまよう知性にとってはそうではない。だが、夢によって生きるお前は、大きく不確かな事柄についての饒舌家の詭弁や欺瞞を、確かで自然にかなった、それほど高遠ではない事柄についての議論よりも好むのだ。

XXXII.真理に抗うことの結果

真理を妨げるものは、苦い悔悟へと変わる。

XXXIII.学知の定義

学知とは、その究極の原理から始まる精神の論究をいう。その原理を越えては、その学知の一部となるようなものは、自然の中に何一つ見いだせない。たとえば連続量、すなわち幾何学の場合である。幾何学は、物体の表面から始めると、その表面の境界である線に起源を持つことがわかる。だが、それだけでは満足しない。線は点で終わり、点より小さなものは何一つありえないと知っているからである。

したがって点は、幾何学の第一原理である。自然の中にも、人間の精神の中にも、点に始まりを与えられるものは、ほかに何一つ存在しえない。もしお前が、筆尖の最も鋭い先端が面に触れたとき、それが点の生成であると言うなら、それは真実ではない。その接触は、自らの中心を囲む一つの面であり、その中心に点が宿る、と言うべきである。この点は、その面を成す物質ではない。また、その点も、宇宙のすべての点も、たとえ結び合わせられたとしても、仮にそれが可能だとしても、面のいかなる部分も構成することはできない。さらに、一つの全体が千個の点から成ると想像したとしよう。その千個という量から一部を分けた場合、その部分は全体に等しいと、まったく正しく言える。これは、ゼロ、すなわち無、つまり算術の第十の数字によって証明される。この無は〇で表され、一の後へ置くと十と読ませ、一の後へ二つ置けば百と読む。このように、加えられるたびに、数は常に十倍となって無限に増す。だが、ゼロそれ自体の値は、無にほかならない。そして宇宙のすべての無も、その実質と価値においては、ただ一つの無に等しい。

XXXIV.レオナルドが画家に与える規則の価値

これらの規則は、形象を検証するためだけに使うべきである。誰でも、最初の構成では何かしら誤りを犯し、それを知らない者は直さないからである。したがってお前は、誤りを知るために自分の作品を検証し、見つけた誤りを直し、二度と同じ過ちに陥らぬよう覚えておけ。だが、構成の最中に規則を使おうとすれば、いつまでたっても完成せず、作品を混乱させるだろう。

これらの規則は、お前に自由で正しい判断力を持たせる。正しい判断は、よく理解することから生まれ、よく理解することは、よい規則から引き出された道理に由来するからである。そして、よい規則は、あらゆる学問と技芸の共通の母である、よい経験の娘なのである。

したがって、私の規則の教えをよく心に留めれば、適切に整えられた判断力だけで、遠近法についても、人物やその他のものについても、あらゆる不釣り合いな作品を見分け、判断できるようになるだろう。

XXXV.絵画と学問の歴史的発展を支配する法則

画家たちが、すでにつくられた絵画しか師としないとき、絵画が時代を追って衰え、失われてゆくことについて。

他人の絵画を師とする画家の絵画は、あまり優れたものにはならない。しかし、自然の事物から学ぶなら、よい実を結ぶだろう。ローマ人以後の画家たちを見れば、それがわかる。彼らは常に互いを模倣し、時代を重ねるごとに、この芸術を衰退させた。その後に、フィレンツェ人ジョットが現れた。彼は、山羊や同じような獣しか住まない寂しい山中に生まれ、自然からこの芸術へ導かれ、自分が番をしていた山羊の動きを、岩の上に描きはじめた。そして同じように、その土地に見いだしたあらゆる動物を描きはじめた。こうして、多くの研鑽の後には、同時代の師たちばかりでなく、過去何世紀もの、あらゆる師を凌ぐに至った。その後、皆が出来上がった絵を模倣したため、芸術は再び衰え、世紀から世紀へと下り坂をたどった。ついに、マザッチョというあだ名のフィレンツェ人トンマーゾが、完全な作品によって、師たちの師である自然以外を師とする者たちの努力が、むなしいことを示した。

これらの数学的な事柄についても、同じことを言いたい。著述家だけを学び、自然の働きを学ばない者たちは、その術において、優れた著述家の師である自然の子供ではなく、孫なのである。自然の弟子である著述家を脇へ置いて、自然から学ぶ者を非難する人々の、この上ない愚かさを聞くがよい。

XXXVI.学問における権威主義への反駁

多くの者は、未熟な判断によって非常に尊敬している幾人かの権威に、私の証明が反していることを挙げ、私をもっともに非難できると思うだろう。彼らは、私の述べることが、真の師である、単純で純粋な経験のもとに生まれたことを考えないのである。

XXXVII.自然に従う者と、著述家の権威に従う者

たとえ私は彼らのように著述家を引証できないとしても、彼らの師たちの師である経験を引証することこそ、はるかに大きく、学び取るに値することである。彼らは、自分の労作ではなく他人の労作をまとい、飾り立て、思い上がって尊大に歩く。そのくせ、私には私自身の労作を認めようとしない。創始者である私を蔑むのなら、創始者ではなく、他人の作品の触れ役であり朗誦者にすぎない彼らは、なおいっそう非難されてよいではないか。

XXXVIII.他人の作品の注釈者に対する、真理の発見者の優越

創始者であり、自然と人間の仲介者である人々と、他人の作品を朗誦し、吹聴する人々との関係は、鏡の外にある対象と、鏡の中に見えるその似姿との関係として判断し、それ以外のものとして評価すべきではない。一方はそれ自体で何かであり、もう一方は何ものでもないからである。彼らは自然に恩義を感じるところの少ない人々であり、偶然に身につけたものをまとっているだけで、それさえなければ、私は彼らを獣の群れの中へ連れていけるだろう。

XXXIX.人文主義者たちに対して

私が学識ある文人ではないので、思い上がった者の中には、無学な人間であることを理由に、私をもっともに非難できると思う者がいるだろうことを、私はよく知っている。愚かな人々よ。マリウスがローマの貴族たちに答えたように、私もこう答えられることを、彼らは知らないのか。「他人の労作で自らを飾る者たちが、私自身の労作を、私に認めようとしないのか。」

私には文の学識がないので、論じたい事柄をうまく述べられないと、彼らは言うだろう。だが、私の述べることは、他人の言葉からよりも、経験から引き出されるべきことを、彼らは知らないのか。経験こそ、よく書いた者たちの師であった。だから私もそれを師とし、あらゆる場合にそれを引証するのである。

XL.古代の創始者たちに対するレオナルドの敬意

五つの正多面体について。文法や学問がそこから生まれた古代の創始者たちを非難する、ある注釈者たちに対して。彼らは、死んだ創始者を相手に騎士を気取り、怠惰と書物の手軽さのために、自分が創始者となる道を見つけられなかったので、絶えず偽りの論拠を用いて、自分たちの師を非難することにいそしんでいる。

XLI.権威の価値

権威を引いて論争する者は、知性を用いているのではなく、むしろ記憶を用いている。

XLII.芸術的・学問的創造の自発性

優れた学芸は、優れた天性から生まれた。結果より原因をたたえるべきであるから、よい天性を欠く優れた学者よりも、学識はなくとも優れた天性を持つ者を、いっそうたたえるがよい。

XLIII.古代の研究

古代のものの模倣は、現代のものの模倣よりも、たたえるに値する。

XLIV.学問における経験と数学の必要

人間のいかなる探究も、数学的な証明を経なければ、真の学問と呼ぶことはできない。

もしお前が、精神の中で始まり、精神の中で終わる学問にも真理があると言うなら、それは認められず、多くの理由によって否定される。第一に、そのような精神の論究には経験が生じない。経験がなければ、何ものも自らの確かさを示さないからである。

XLV.経験

知恵は経験の娘である。

XLVI.経験は誤らない。ただ、それに力の及ばないことを期待する、私たちの判断が誤るのである

人々は経験に対して不当に不平を言い、激しい非難を浴びせ、欺くものだと責める。だが、経験を責めるのはやめ、その不平を自分たちの無知へ向けよ。お前たちのむなしく愚かな欲望によって、経験の力の及ばないことを経験から約束されていると思いこませ、経験は欺くと言わせるのは、その無知なのだから。人々は、無実の経験に対して不当に不平を言い、しばしば誤謬や偽りの証明の責めを負わせるのである。

XLVII.原因に結果が続く必然性

経験は決して誤らない。ただ、お前たちの判断が誤るのである。私たちの実験で原因を与えていない結果を、経験から期待するからである。一つの原因が与えられれば、妨げられないかぎり、そこから続くものが、その原因の真の帰結であることは必然である。また、何らかの妨害が生じた場合には、その原因から続くはずだった結果は、その妨害の力が原因より強いか弱いかに応じて、多かれ少なかれ、その妨害の影響を受ける。

XLVIII.数学の確実性

数学の最高の確実性を非難する者は、混乱を糧とし、詭弁的な学問の矛盾を、決して黙らせられない。その学問から学ばれるのは、果てしない怒号だからである。

XLIX.数学の普遍的な適用可能性

比例は、数や尺度だけでなく、音、重さ、時間、位置、そしていかなる力のうちにも見いだされる。

L.学問について

数学的な学問のいずれをも適用できないところ、あるいは数学と結びついていないところには、何の確実性もない。

LI.読者に対するレオナルド

数学者でない者は、私の原理の論述を読むな。

LII.力学について

力学は数学的諸学の楽園である。力学によって、数学の実りへと至るからである。

LIII.力学と経験

どの器具も、経験に基づいてつくられなければならない。

LIV.経験と理性の一致

巧妙に働く自然と人類との仲介者である経験は、自然が死すべきものの間でなすことが、必然に縛られており、その舵である理性が教える以外の仕方では、行われえないことを教える。

LV.演繹

学問の進行の順序の中で、先に述べた結論から生まれる一般的な規則を示すことは、非難すべきではない。

LVI.既知から未知へ進まなければならない

空中における鳥の運動について真の学知を与えるには、まず風についての学知を与えなければならない。それは、水の内部の運動によって証明しよう。このように感覚で捉えられる学知が梯子となり、空気と風の中の飛翔物の認識へと導くだろう。

LVII.自然の法則は事実を支配する

自然におけるいかなる結果も、理由なしには存在しない。その理由を理解せよ。そうすれば、経験は必要ではない。

LVIII.経験は学知の基礎である

水について論述するときには、まず経験を挙げ、それから理由を挙げることを忘れるな。

LIX.同じ主題について

お前に念を押しておく。自らの命題を立て、上に記した事柄は、命題としてではなく例として引用せよ。命題とするのは、あまりに単純だからである。そして、このように記せ。「実験」。

LX.結果の探究から原因が発見される

だが、さらに先へ進む前に、まずいくつかの実験をしよう。私の意図は、まず実験を挙げ、それから推論によって、その実験がなぜそのように働かざるをえないのかを証明することだからである。

これが、自然の結果を探究する者たちが進むべき、真の規則である。自然は原因から始めて経験に終わるとしても、私たちは逆に進まねばならない。すなわち、先に述べたように、経験から始め、それによって原因を探究しなければならない。

LXI.実験を繰り返し、条件を変えなければならない

この事例から一般的な規則をつくる前に、二度か三度試し、実験が同じ結果を生むかどうかを確かめよ。

LXII.前の規則の実例

重さと形が等しい多くの物体を、等しい時間間隔で、一つずつ落下させるなら、それぞれの間隔の増分は互いに等しくなる。

上述の運動の結論についての実験は、次のように行うべきである。重さと形が等しい二つの小球を取り、動きはじめるときに互いに接するようにして、高い所から落とす。実験者は地上に立ち、落下によって二球がなお接触を保っているかどうかを見る。そしてこの実験は何度も行い、何らかの偶然が試験を妨げたり歪めたりして、実験が不正確となり、観察者を欺くことのないようにせよ。

LXIII.推論は経験の範囲に制限すべきであり、経験を越えて拡張すべきではない

動かされる物体を小さくすればするほど、その動因は、減少の割合に応じていっそう強くそれを押し進め、無限にまで、常に運動の速さを増してゆく。

そうすると、一つの原子は、たちまち星々の高さまで駆け上がる想像力や目と、ほとんど同じ速さとなり、その結果、進む道のりは無限になるはずである。無限に小さくできるものは、無限に速くなり、無限の道のりを進むだろうからである。あらゆる連続量は、無限に分割できるからである。しかし、この見解は理性によって、したがって経験によっても否定される。

ゆえに、探究者たちよ、想像力だけで自然と人間の仲介者になろうとした著述家を信用するな。自然の表面的な徴ではなく、自然についての実験の結果によって知性を鍛えた者たちだけを信用せよ。また、実験が、その本性を知らない者を、どのように欺くかを知れ。同じように見える実験が、しばしば大きく異なっていることが、ここに示されているからである。

LXIV.海が陸より高いため、水が山頂にあると主張する者たちへ

高い山頂に湧き出る水が海から来ており、海は山々より高いため、その重さが水を押し上げるのだとしたら、なぜその一部の水だけが、これほどの高さへ昇り、これほどの困難と時間をかけて大地を貫くことを許されるのか。そして、水という元素の残りの部分には、なぜ同じことが許されないのか。残りの水は空気と接しており、その空気には、全体が先の一部と同じ高さまで昇るのを妨げる力などないのに。この作り話を考えついたお前は、自然の学問を学び直してこい。そうすれば、この種の見解を持たずに済むだろう。お前は、すでに手にした実りの元手とともに、こうした見解を大量に蓄えこんでいるのだが。

LXV.視学と数学

注 Prospettivaはここでは光・視線・視覚の学を広く指すため「視学」とした。絵画実技の文脈では「遠近法」と訳している。

自然の原因と道理についての研究のうち、観察者を最も喜ばせるのは光である。数学の偉大な事柄のうち、探究者の知性を最も輝かしく高めるのは、証明の確実性である。

したがって視学は、あらゆる人間の論究と学問に優先させるべきである。その領域では、光線がさまざまな証明の方法と結びつき、数学にもまして自然学の栄光が見いだされ、双方の花で飾られている。

これらの学説は、長々と回りくどく述べられているが、私はそれらを、簡潔で決定的な形へまとめよう。題材のあり方に応じて、自然学的な証明と数学的な証明とを織り交ぜ、あるときは原因から結果を、あるときは結果から原因を導く。また私の結論には、それらのうちには述べられていないが、そこから引き出せる結論も加えよう。万物の光である主が、光について論じる私を照らしてくださるままに。

LXVI.認識は感覚に始まる

私たちのあらゆる認識は、感覚から始まる。

LXVII.上述の原理の帰結

感覚が魂に仕え、魂が感覚に仕えるのではないことについて。そして、魂に仕える感覚が欠けるところでは、魂は、この世において、その感覚の働きのすべてを欠く。生まれながらに口のきけない者や、目の見えない者に見られるとおりである。

LXVIII.感覚の証言は真理の基準である

もしお前が、見ることは、神聖な学知へ分け入るための、集中的で精妙な精神の思考を妨げ、その妨げのために、ある哲学者は自ら視力を奪ったと言うなら、私はこう答える。目は、感覚の主として、混乱した偽りのものを妨げるという務めを果たす。それらは学問ではなく、いつも大声を出し、手を振り回して争う議論にすぎない。耳も同じようにするべきであり、耳のほうがいっそう害を受ける。耳は調和を求め、その調和に、あらゆる感覚が関わるからである。そして、その哲学者が、自分の論議の妨げを取り除くために目をくり抜いたのなら、考えてもみよ。その行いは、その頭脳や論議と似合いのものだった。すべてが狂気だったからである。そんな狂乱に入るときには、目を閉じ、その熱狂が収まるまで閉じたままでいることはできなかったのか。その男は狂っており、その論議も狂っており、目をくり抜くことは、この上なく愚かだった。

LXIX.真の学問とは、感覚の証言に基づくものである

人々は、経験から生まれる知識を機械的なものと呼び、精神の中で生まれ、そこで終わるものを学問的なものと呼び、学知から始まって手仕事に終わるものを、半ば機械的なものと呼ぶ。

だが私には、あらゆる確実性の母である経験から生まれず、既知の経験にも帰着しない学問、つまり、その始まり、中間、終わりのいずれも、五感のどれをも通らない学問は、むなしく、誤りに満ちているように思われる。

もし私たちが、感覚を通る事柄の一つ一つを疑うのなら、神や魂の本質など、感覚を受けつけず、いつまでも議論や争いの続く事柄は、なおさら疑わなければならないのではないか。実際、理が欠けるところでは、いつも叫び声がその代わりを務める。確かな事柄では、このようなことは起こらない。したがって、叫び合うところに真の学問はないと言おう。真理には、ただ一つの定まった結末しかなく、それが明らかになれば、争いは永久に消滅するからである。もし争いが再び起これば、それは偽りで混乱した学問であり、確実性が再び生まれたのではない。

真の学問とは、経験によって感覚を通して取りこまれ、争う者たちの舌を黙らせたものである。それは探究者を夢で養わず、常に、最初の真実で既知の原理の上を、正しい帰結によって、順を追って終わりまで進む。基本的な数学、すなわち算術と幾何学と呼ばれる数と測定の学に、そのことが見られる。これらは、非連続量と連続量を、最高の真実性をもって扱う。

ここでは、三を二つ合わせると六より多くなるとか少なくなるとか、三角形の角が二直角より小さいとかいう論争は起こらない。あらゆる反論は永久の沈黙の中で消え去り、これらの学問に帰依する者たちによって、平和のうちに決着する。偽りの、頭の中だけの学問には、これができない。

もしお前が、こうした真実で確かな学問も、手を使わなければ完成できないから、機械的なものの一種だと言うなら、私は、彫刻家の手を通るあらゆる技芸についても同じことを言おう。それらは、絵画の一部分である素描の一種だからである。天文学やほかの学問も、手による作業を経る。しかし、絵画と同じく、まず精神的なものである。絵画も、初めは観想する者の精神の中にあり、手の作業なしでは完成に達しえない。

注 Astrologiaは当時、天文学的研究を含む語として用いられるため、ここでは「天文学」とした。

この絵画については、まず、その学問的で真実な原理を立てる。不透明な物体とは何か、固有の陰と投じられる影とは何か、明かりとは何か。すなわち、闇、光、色、物体、形、位置、遠さ、近さ、運動と静止である。これらは、手の仕事なしに、精神だけで理解される。これが、観想する者の精神にとどまる絵画の学知であり、そこから後に実作が生まれる。そして実作は、先の観想や学知より、はるかに尊いのである。

LXX.それ自身に任された精神の誤り

私たちの判断ほど、私たちを欺くものはない。

LXXI.同じ主題について

人間の最大の欺きは、その思いこみのうちにある。

LXXII.形而上学への反駁

自分たちの推論を経験で確かめていない思弁家の教えを避けよ。

LXXIII.人間に対する動物の優越

人間には豊かな思考があるが、その大部分はむなしく、誤っている。動物の思考はわずかだが、有用で真実である。そして、大きな嘘より、小さな確実性のほうがよい。

LXXIV.レオナルドの辞典より

三段論法――疑わしく語ること。詭弁――混乱して語り、偽りを真実とすること。理論――実践を伴わない学知。

LXXV.哲学に対する絵画の学知の優越

絵画は、自然がつくったあらゆるものの、表面、色、形に及ぶ。哲学は、同じ物体の内部へ入り、その固有の働きを考察するが、画家が得るほどの真実には満足に達しない。画家は、そうした物体の第一の真実を自らの内に捉える。目は、誤ることがいっそう少ないからである。

LXXVI.認識されるのは事物の本質ではなく、その結果である

元素とは何か。元素のいかなる本質の定義も、人間の力の及ぶところではない。だが、その結果の大部分は知られている。

LXXVII.地球を取り囲む水塊が球形をしていること

これに答えるのは難しいが、そのために、自分の考えを述べるのを控えるつもりはない。空気に包まれた水は、自然に、自分の球のうちでまとまっていようとする。その位置では、重さを免れるからである。その重さには二種類ある。すなわち、水の全体が元素の中心へ向かう重さを持ち、もう一つの重さは、水の球形そのものの中心へ向かう。もしそうでなければ、水は、中心より上にある半球だけを形づくるだろう。しかし、このことを学知として説明する方法を、私は人間の知性の中に見いだせない。ただ、鉄を引く磁石について言われるように、その働きは隠れた性質であり、自然にはそうしたものが無数にあると言うほかない。

LXXVIII.無限分割可能性は精神の抽象である

現実に分割できるものは、可能性においても分割できる。だが、可能性において分割できる量が、すべて現実にも分割できるわけではない。

LXXIX.無限は理性によって包摂できない

与えることができず、もし与えられたなら存在しなくなるものとは何か。それは無限である。もし与えることができたなら、それは限られた有限のものになるからである。与えることのできるものはすべて、その端でそれを取り囲むものとの境界を持つ。そして与えることのできないものとは、境界を持たないものなのである。

LXXX.同じ主題について

魂について。土が土に向かって動き、それを押し固めるとき、打たれた部分はわずかに動く。

水が水に打たれると、打たれた場所の周囲に円をつくる。

声は、空気の中を長い距離にわたって進む。

火の中では、さらに長く進む。

精神は宇宙の中を、さらに遠くへ進む。だが、精神は有限なので、無限のうちへは広がらない。

LXXXI.事物の目的は人間の精神を越える

事物を探究する者よ、自然がそれ自体で、自らの秩序に従い、通常どおり自然に生み出す事柄を知っているといって、誇るな。むしろ、お前自身の精神が構想した事柄の目的を知ることを喜べ。

LXXXII.古代人は解決不能な問題を立てた

読者よ、考えてみよ。経験によって、いつでも明確に知り、証明できる事柄が、何世紀もの間、知られず、誤って信じられてきたというのに、証明できない事柄である魂や生命が何かを定義しようとした古代人を、私たちはどれほど信じられるだろうか。目は、その働きをこれほど明らかに経験させているのに、私の時代に至るまで、無数の著述家により、ある仕方で定義されてきた。私は経験によって、それが別の仕方であることを見いだす。

LXXXIII.魂の定義の限界

人間の知性は、さまざまな発明をなし、異なる器具によって同じ目的に応えるが、自然より美しく、容易で、簡潔な発明を見つけることは、決してないだろう。自然の発明には何も欠けず、余分なものも何一つないからである。また自然は、動物の体に運動に適した手足をつくるとき、釣合い錘を用いず、その体を組み立てる魂を、その内に置く。

この議論はここでするものではなく、生きた体の構成についての論述に必要なものである。魂の定義の残りは、人々の父である修道士たちの精神に任せる。彼らは霊感によって、あらゆる秘密を知っているのだから。

権威の冠を戴いた書物には触れずにおこう。それらは最高の真理なのだから。

注 lettere incoronateは文字どおりには冠を戴いた文書。聖書などの権威ある宗教的文献への言及を含意する可能性があるため、本文は比喩を残して訳した。

LXXXIV.せっかちな知性に対して

著作を短縮する者は、認識と愛を傷つける。何ものへの愛も、その認識の子だからである。

認識が確かであるほど、愛はいっそう熱烈となる。その確かさは、愛されるべきものの全体を、一つに集まって構成している、すべての部分を完全に知ることから生まれる。

完全な知識を与えると公言する事柄の部分を省略するために、その全体を構成するものの大部分を置き去りにする者に、何の値打ちがあるだろうか。

たしかに、簡潔さをたたえるのは、愚かさの母である性急さである。まるで、人間の体のような、ただ一つの個別的なものを完全に知るだけの寿命さえ、彼らにはないかのように。そのくせ、宇宙を含む神の精神を包みこもうとし、まるで解剖するかのように、それを測り分け、無数の部分へ細かく砕こうとする。

おお、人間の愚かさよ。お前は生涯ずっと自分自身と一緒にいたのに、自分が最も豊かに持つもの、すなわち自分の狂気について、まだ知識がないことに気づかないのか。そのうえ、真理と、その内部にある事柄の知識を含む数学的な学問を蔑みながら、多くの詭弁で自分と他人を欺こうとする。そして奇跡へ飛びつき、人間の精神には捉えられず、いかなる自然の実例によっても証明できない事柄を、知っていると書こうとする。ある思索的な知性の作品を壊したときには、奇跡を成し遂げたように思う。だが、自分が、香り高い花や実の交じる葉に満ちた枝という飾りを、木から剥ぎ取る者と同じ過ちに陥っていることには、気づかない。

トログス・ポンペイウスの書いた『歴史』を短縮したユスティヌスが、そうしたように。トログスは、古人たちの優れた行為のすべてを、驚くべき装飾に満ちた、華麗な文で記した。それをユスティヌスは裸のものにしてしまった。自然の働きと人間の事柄の研究という、有用に使われた時間を、そのまま失われた時間だと思う、せっかちな知性にだけふさわしいものに。

そうした者たちは、獣と付き合っているがよい。宮廷の取り巻きには、犬や、ほかの貪欲な動物を置き、それらと連れ立って、いつも後を駆け回るがよい。そして、大雪の季節に飢えのため家へやってきて、お前を保護者と見て施しを求める、罪のない動物たちを追い回すがよい。

LXXXV.画室における画家の生活について

体の安楽が知性の充実を損なわぬよう、画家、あるいは素描家は、ひとりでいるべきである。とりわけ、絶えず目の前に現れ、記憶によく留めておくべき材料を与える、観察や考察に専念するときには、そうでなければならない。

ひとりでいるなら、お前はすべて自分のものである。たった一人でも連れがいれば、お前は半分しか自分のものではない。そして、付き合いの相手が無遠慮であるほど、なおさら少なくなる。さらに多くの人といれば、同じ不都合はいっそう大きくなる。もしお前が、「私は自分のやり方でやる。自然の事物の形をよく観察できるよう、脇へ退こう」と言うなら、私は、それは難しいと答える。彼らのおしゃべりに、たびたび耳を貸さずにはいられないからである。二人の主人には仕えられないのだから、お前は付き合いの務めを不十分に果たし、芸術の観察の成果は、それ以上に損なうことになる。そして、「彼らの言葉が届かず、邪魔にならないほど遠くへ退こう」と言うなら、私はこの点について、お前は気違いと思われるだろうと言う。だが、そうすれば結局、ひとりになるだけだとわからないのか。

LXXXVI.画家への助言

画家の知性は、鏡のようでなければならない。鏡は常に、向かい合うものの色へと変わり、目の前に置かれるものの数だけ、その似姿で満たされる。

ゆえに画家よ、お前の技によって、自然が生み出すすべての形の性質を模倣できる、普遍的な達人でなければ、優れた画家にはなれないと知るべきである。そして、それらを見て、精神に留めなければ、つくることはできない。だから、田野を歩くときには、さまざまな対象へ判断を向け、順に、あるときはこれ、あるときはあれを眺め、劣ったものの間から選び抜いた、さまざまなものを束ねて集めよ。

想像力を使って疲れ、仕事をやめて気晴らしに歩きに出ながら、精神には疲労を残したままでいる、ある画家たちのようにしてはならない。彼らは、さまざまなものを見たり、注意を向けたりしないばかりか、しばしば友人や親類と出会い、挨拶されても、見もせず、聞きもせず、ただ空気に出会ったのと同じように、相手に気づかないのである。

LXXXVII.別の助言

画家はひとりであり、目にするものを考察し、自分自身と語り合い、見るものすべての姿のうちから、最も優れた部分を選ばなければならない。そして、目の前に置かれるものの色だけ、多くの色へと変わる鏡のようにすべきである。そうすれば、画家は第二の自然であるかのように見えるだろう。

LXXXVIII.助言

画家の精神は、目の前に現れる注目すべき対象の姿があるだけ、それぞれの考察へ絶えず変わらなければならない。そうしたものの前で足を止め、観察して記し、場所、周囲の状況、光と影を考えながら、それらについての規則を立てよ。

LXXXIX.田野における哲学者たる画家の生活

画家には、絵画に関わる数学、自分の研究に無縁な仲間から離れること、目の前に置かれる対象の多様さに応じて変化し、ほかの心配事から離れた頭脳が必要である。

対象が感覚を動かすときのように、ある事柄を観察し、明確にしようとしているなら、そうした事柄のうち、どれが最も明確にしにくいかを判断し、それを究極の明晰さまで追究せよ。それから、ほかのものの解明に進め。

そして何よりも、精神を鏡の表面に等しくせよ。鏡の表面は、その対象の色があるだけ、さまざまな色へ変わる。仲間たちも、こうした研究において自分と似た者であるべきだ。それが見つからなければ、自分自身とともに観想せよ。結局、それ以上に有益な仲間は見つからないのだから。

XC.分析の必要

視覚が、最も速い働きの一つであり、一瞬で無数の形を見ることを、私たちは明らかに知っている。それでも、一度に理解できるのは、一つのものだけである。たとえば、読者よ、お前はこの文字で埋まった紙全体を一目で見て、たちまち、さまざまな文字で満ちていると判断するだろう。だが、その瞬間には、どんな文字なのか、何を意味するのかはわからない。文字を知ろうとすれば、一語ずつ、一行ずつたどらなければならない。また、建物の高い所へ登ろうとすれば、一段ずつ上がらねばならず、そうしなければ、その高みに達することはできない。

同じように、自然によってこの芸術へ導かれるお前に言おう。事物の形を真に知りたければ、その細部から始めよ。第一のものを、記憶にも実技にも十分に収めるまでは、第二のものへ進むな。そうしなければ時間を捨て、実際には学習を大いに長引かせることになる。そして、速さより先に、入念さを学ぶよう念を押しておく。

XCI.レオナルドの著作の性格

一五〇八年三月二十二日、フィレンツェのピエロ・ディ・ブラッチョ・マルテッリの家で開始。これは、多くの紙葉から抜き出して、ここへ書き写した、順序のない集成となるだろう。後に、それぞれが扱う題材に従い、ふさわしい場所へ順に置こうと思っている。これが終わるまでには、同じことを何度も繰り返すことになるだろう。だから読者よ、私を非難しないでほしい。事柄は多く、記憶はすべてを保って、「これは前に書いたから、今は書くまい」と言うことができないからである。この誤りに陥りたくなければ、何か一つ書き写すたびに、繰り返さぬよう、前に書いたすべてを読み直さねばならない。とりわけ、一度書いてから次に書くまで、長い間隔が空くのだから。

XCII.飽くことのない知識への欲求

北からの烈風が、泡立つ波とともに、スキュラとカリュブディスの間で打ち返すときの荒海も、これほど大きくは吼えない。硫黄の炎が力ずくで大山を裂いて開き、噴き出し吐き出される炎とともに、岩石や土を空へ雷のように放つときのストロンボリやモンジベッロも。また、モンジベッロの灼熱の洞窟が、閉じこめきれない元素を吐き戻し、その本来の領域へ押しやりながら、激烈な猛威の前に立ちはだかる障害を、何もかも猛烈に押しのけるときも……。私は、強い欲求に引かれ、巧妙な自然のつくる、さまざまで奇妙な形の大いなる混じり合いを見たいと願い、陰った岩々の間をしばらく巡って、大きな洞窟の入口へ達した。その前で、いくらか驚き、どういうものかわからないまま、腰を弓なりに曲げ、左手を膝に据え、伏せて細めた目の上に右手で陰をつくった。そして中を見て何か見分けようと、何度もこちらへ、あちらへ身を傾けたが、奥の深い暗闇のため、それはできなかった。しばらくして、不意に二つのものが私の内に目覚めた。恐れと欲望である。恐れは、その暗く威嚇する洞窟へのもの、欲望は、その奥に何か驚くべきものがないか、見たいというものだった。

注 原文は巨大な海の轟きの比較から洞窟の逸話へ、省略記号を挟んで移る断片。文脈を補って一つの完結した物語にはしていない。

自然についての思想

I.序

私より前に生まれた人々が、有用で必要な主題をすべて取ってしまったため、私は、大いに役立つ、あるいは喜びを与える題材を得られないと知る。そこで、貧しさのために市へ最後に到着し、ほかに手に入れられるものがなく、すでに他人が見て、受け取らず、価値の乏しさゆえに捨てたものを、ことごとく拾い集める人のようにしよう。

多くの買い手の後に残った、この蔑まれ、拒まれた商品を、私は自分の弱い荷に載せて運び、大きな都市ではなく、貧しい村々で配り歩き、自分の差し出した品にふさわしい報酬を受け取ろう。

II.自然と学知

自然は、かつて一度も経験に現れたことのない、無数の道理に満ちている。

III.必然的な法則が自然の事実を支配する

必然は、自然の師であり、守護者である。

必然は、自然の主題であり、発明者であり、永遠の手綱であり、規則である。

IV.結果がその原因の力に対応することは必然である

密で抵抗力のある表面を持つ球体は、等しい力によって動かされれば、硬く堅固な床で跳ね返ることによっても、空中へ自由に投げた場合と同じだけの運動をする。

おお、第一動者よ、お前の正義は何と驚くべきものか。お前は、いかなる力からも、その必然的な結果の秩序と性質を欠かせようとはしなかった。ある力が、自分に従うものを百ブラッチャ飛ばすはずであるのに、そのものが従って進む途中で障害に出会ったとする。お前は、衝突の力が新たな運動を起こし、何度かの跳躍によって、本来進むべき道のりの全量を取り戻すように定めた。そうした跳躍で進んだ道を測れば、同じ力で同様のものを空中へ自由に投げた場合と、同じ長さであることがわかるだろう。

V.自然の法則は破られない

自然は、自らの法則を破らない。

VI.同じ主題について

自然は、その内に注がれて生きる、自らの法則の道理によって縛られている。

VII.結果は必然的に原因に続く

あるものが、ほかのものの原因となり、自分の運動によって何らかの結果を引き起こすとき、結果の運動は、原因の運動に続かなければならない。

VIII.驚異は、結果がその原因に対応することにある(目の本性を研究して)

ここでは形が、ここでは色が、ここでは宇宙の部分のあらゆる像が、一点に集められる。そして、この一点は、何と驚くべきものであることか。

おお、驚くべき、不可思議な必然よ。お前は、自らの法則によって、すべての結果が、最も短い道を通って、その原因にあずかるよう強いる。

これこそが奇跡である。

これほど小さな空間の中で、像がどのように生まれ直し、広がった姿に再構成されうるかを、お前の『解剖学』に記せ。

IX.あらゆるものは、自らの法則に従う

雲の間の稲妻の例。おお、巧妙な自然の、強大で、かつては生きていた器具よ。お前の大きな力も役立たず、穏やかな生を捨てて、神と時が、母なる自然に与えた法則に従わなければならない。

おお、怯えたいるかや大まぐろの群れが、お前の無慈悲な猛威から逃げる姿は、何度見られたことか。そしてお前は、鰭をすばやく震わせ、二つに分かれた尾で雷のように打ち、海に突然の嵐を起こして、船々を激しく打ち、沈め、大きな波を立て、開けた岸辺を、恐れおののく魚で満たしたのだった。

X.受動性と能動性

同じものが、必然と力という二つの作用によって引かれることが、しばしばある。水は雨として降り、大地は水分を必要とするために、それを吸収する。太陽は、その水を、必要からではなく、力によって引き抜く。

XI.人体の構成における自然の配慮

目は魂の窓であるため、魂は常にそれを失うことを恐れる。そのため、人の前で何かが動き、急な恐怖を与えると、人は手を、生命の源である心臓の助けにも、感覚の主の宿る頭の助けにも、聴覚、嗅覚、味覚の助けにも向けず、ただちに怯えた感覚のもとへ向ける。全力で瞼を閉じて目を閉ざすだけでは足りず、すぐに反対側へ顔を背ける。それでも安心せず、手をそこへ当て、もう一方の手を伸ばし、恐れるものに対する前衛とする。

また自然は、人間の目が自ら瞼によって閉じるよう定めた。眠る人によって守られていなくても、何かに傷つけられないためである。

XII.瞳孔の拡大と縮小に見られる配慮

目の瞳孔は、その前に現れる対象の明暗がさまざまであるのに応じて、それだけさまざまな大きさへと変わる。

この場合、自然は、視覚の力が過剰な光によって害されるときには瞳孔を狭め、さまざまな暗さによって害されるときには、袋の口のように、その開口部を広げることで、視力を保護した。ここで自然は、住まいに光が多すぎる人が、窓を半分、あるいは必要に応じてそれ以上にも以下にも閉じ、夜になると、室内をよく見るために、窓をすっかり開けるのと同じことをする。自然はここで、絶えず前に現れる明暗の度合いに応じて、瞳孔を広げたり縮めたりし、常に調整し、釣り合わせることで、連続的な均衡を保っている。

XIII.自然を矯正すると称する者たちに対して

馬の鼻孔を切り広げる行為は、笑うべきことである。愚かな者たちは、まるで自然が必要なことを怠ったため、人間がその矯正者にならねばならないと信じているかのように、この習慣を守る。自然は二つの鼻の穴をつくった。それぞれは、息が通る肺の管の幅の半分である。たとえその穴がなかったとしても、十分な呼吸には口だけで足りる。そしてお前が、「口から呼吸するだけで十分なのに、自然はなぜ動物に鼻孔をつくったのか」と言うなら、私は、「口が食物を噛む仕事をしているときに使うため、鼻孔はつくられたのだ」と答える。

XIV.根の押し上げる力の現象について

木のどこかの樹皮が剥がれると、それを世話する自然は、ほかのどの場所よりもはるかに多くの養分を含む水分、すなわち樹液を、その剥がれた場所へ向ける。そのため、最初の損傷によって、かえってほかのどこよりも厚い皮が育つ。この水分の動きは非常に強く、救いに来た場所へ達すると、一部は球の跳ね返りのように上へ昇り、さまざまな膨らみや芽吹きを生む。その様子は、沸き立つ水にほかならない。

XV.翼の構造について

鳥の翼の肩に生じる舵は、鳥の猛烈な飛行にしばしば生じる、まっすぐな突進の方向を、容易に変えるため、巧妙な自然が考案したものである。まっすぐ激しく進むときには、翼全体を曲げるよりも、ごく小さな部分を曲げるほうが、はるかに都合がよいと、自然は見いだしたからである。

XVI.植物における葉の配列について

自然は、多くの植物の末端の枝において、常に第六の葉が第一の葉の真上に来るように、葉を配置した。そして、規則が妨げられなければ、その後も同じように続く。

こうしたのは、植物に二つの利益を与えるためである。第一に、翌年の枝と実は、葉の付け根の上に接している芽から生じるので、枝を濡らす水が下ってその芽を養い、葉の生え際のくぼみに、水滴がとどまれるようにするためである。

第二の利益は、翌年にその枝々が生じたとき、互いを覆わないことである。五本の枝は、五つの方向へ向かって生じるからである。

XVII.事物の普遍的な法則

あらゆるものは、生まれつき、自らの存在を保とうとする。

XVIII.同じ主題について

すべてのものは、普遍的に、自らの本性を保とうとする。したがって、動いている水の流れは、その原因の力に応じて、流れを保とうとする。そして、逆らう障害に出会うと、円を描き、曲がる運動によって、始めた流れの道のりを全うする。

XIX.本来の状態を離れたものは、そこへ戻ろうとする

すべての元素は、本来の場所を離れると、その場所へ戻ろうとする。とりわけ、火、水、土はそうである。

XX.最小努力の法則

あらゆる重いものは、最も短い道で中心へ落ちようとする。

XXI.あらゆる部分は、自らの全体の内にあることを望む

あらゆる部分には、自らの不完全さを逃れるために、自らの全体と再び結びつこうとする傾向がある。魂は自分の体とともにいることを望む。その体の器官という道具なしには、何も行えず、何も感じられないからである。

XXII.基体と形相

感覚が感覚されるものに動かされるように、愛する者は愛する対象によって動かされ、それと結びついて、同じ一つのものとなる。

注 原文のamatoは通常「愛される者」だが、前後のamanteとの関係から、ここは愛する主体を指す表現として訳した。

働きは、その結合から最初に生まれるものである。愛されるものが卑しければ、愛する者も卑しくなる。結びつけられるものが、それと結びつく者にふさわしければ、そこには喜びと快楽と満足が生じる。

愛する者が愛する対象に達すると、そこで安らぐ。重いものが据えられると、そこで静止する。

私たちの知性によって知られたもの……。

XXIII.最小努力の法則

自然のあらゆる作用は、最も短い道によって行われる。

XXIV.同じ法則

自然のあらゆる作用は、自然そのものによって、可能なかぎり最も短い方法と時間で行われる。

XXV.さらに同じ法則

自然のいかなる作用も、短縮することはできない。

自然のあらゆる作用は、見いだしうる最も短い仕方で、自然によって生み出される。

XXVI.自然は無限に変化に富む

自然は、変化させることにおいて、それほど楽しく、豊かである。同じ種類の木々の間でも、一つに近く似た別の木を見つけることはできない。木ばかりか、その枝、葉、実についても、ほかのものと正確に似ているものは、一つとして見いだせないだろう。

XXVII.錬金術師たちに対して

自然の偽りの解釈者たちは、水銀があらゆる金属に共通の種子であると主張する。自然が、この世に生み出そうとするものの違いに応じて、種子を変えることを忘れているのである。

XXVIII.自然の多様性について、さらに

もし自然が、身体各部の性質について、ただ一つの規則を固定していたなら、人間の顔はすべて似通い、互いを見分けられなかっただろう。だが自然は、顔の五つの部分を、次のように変化させた。その大きさには、ほぼ普遍的な規則を定めたが、その性質については守らず、それによって、一人一人をはっきり見分けられるようにしたのである。

XXIX.画家への教え

私は言う。普遍的な尺度は、人体像の長さについて守るべきであり、太さについてではない。自然の作品に現れる、たたえるべき驚異の一つは、どの種類の中でも、一つの個体が、別の個体に正確に似ていることがないという点だからである。したがって、その自然を模倣するお前は、輪郭の多様さをよく見て、注意を払え。

XXX.教え

同じ物語画の中で、互いに近い位置に同じ動きを繰り返し、また美しい顔も、いつも同じものにする画家たちには、最大の欠点がある。自然の中では、美しい顔が繰り返されることは決してない。もし、同じように優れた、過去の美しい人々がすべて生き返ったなら、その人数は、今の時代の人口より多くなるだろう。そして、この時代に、誰一人として正確に似た者がいないのと同じことが、そうした美しい人々の間にも起こるだろう。

XXXI.生物には構造の同質性がある

人体を知る者が、その後、普遍的な描写能力を得るのは容易である。陸の動物はすべて、身体各部、すなわち筋肉と骨が似ており、『解剖学』で示すように、長さや太さのほかには、違いがないからである。だが、水中の動物は多様である。その種類はほとんど無限なので、これについて規則を立てるよう、画家に勧めるつもりはない。昆虫類についても同じである。

XXXII.エネルギーの概念

勢いとは、動かすものから動かされるものへ移された、運動の刻印である。

あらゆる刻印は、持続へ向かう、あるいは持続を望む。

あらゆる刻印が持続を望むことは、太陽を見つめる者の目に太陽が残す刻印と、鐘を打つ槌が生む音の刻印によって証明される。

あらゆる刻印は持続を望む。動かされる物体に刻まれた運動の像が、それを示している。

XXXIII.普遍的な法則

あらゆる作用は、運動によって働かなければならない。

XXXIV.同じ法則

運動は、あらゆる生命の原因である。

XXXV.力の定義

力とは何か。

力とは、精神的な働き、目に見えない能力であると私は言う。それは、偶発的な外からの強制によって、運動から生まれ、自然のあり方から引き離された物体の中へ置かれ、注ぎこまれ、その物体に、驚くべき能力を持つ活動的な生命を与える。

XXXVI.同じ定義

力とは何か。

力とは、精神的で、実体を持たず、目に見えない能力であると私は言う。それは、偶発的な強制によって、自然の状態と静止から離れた物体の中に生じ、短い命を持つ。

XXXVII.物質は不活性である

感覚のないものは、何一つ自ら動かない。その運動は、ほかのものによってなされる。

XXXVIII.運動の伝達とその等価性の法則

勢いとは、運動によって生まれ、動かすものから動かされるものへ移された働きである。動かされるものには、勢いの命が続くかぎり、運動がある。

XXXIX.慣性の原理

自然で連続したあらゆる運動は、その始まりの線に沿って、進路を保とうとする。ここで始まりとは、運動が変化する、どの場所についても言う。

XL.力の起源

力は不足、あるいは過剰から生じる。それは物質的運動の娘であり、精神的運動の孫であり、重さの母であり起源である。重さは水と土の元素の中で有限であるが、力は無限である。もし力を生じさせる器具をつくることができれば、その力で無数の世界を動かせるからである。

力と物質的運動、重さと衝撃は、四つの偶有的な能力であり、それによって、死すべきもののあらゆる働きが、その存在と死を持つ。

力は精神的運動に起源を持つ。その運動は、感覚のある動物の四肢を駆け巡り、筋肉を膨らませる。筋肉は膨らむと短くなり、それに結ばれている腱を引き寄せる。ここから、人間の四肢の力が生じる。

一人の人間の力の質と量は、別の力を生み出しうる。その力は、一方の運動が他方より長いのに比例して、それだけ大きくなるだろう。

XLI.力のさまざまな側面

重力、力、偶有的運動、そして衝撃は、四つの偶有的な能力であり、それによって、死すべきものの目に見えるあらゆる働きが、その存在と死を持つ。

XLII.慣性の原理について、さらに

あらゆる運動は、自らを保とうとする。あるいは、動かされた物体は、動かすものの力の刻印が内部に保たれているあいだ、常に動きつづける。

XLIII.さらに

各々は、力によって自らの状態を保つ。もし、この地球の球に、一方の表面からもう一方の表面まで抜ける井戸のような、空気の通る直径を設け、その井戸へ重い物体を落とすことができたなら、その物体が中心に止まろうとしても、勢いが、何年もの間、それを妨げるだろう。

XLIV.ピュタゴラス説の天球の調和について

天球の摩擦が音を発するか否かについて。

あらゆる音は、密な物体に打ち返される空気から生じる。二つの重い物体の間で生じる場合にも、それらを取り囲む空気を介する。そして、その摩擦は、こすり合う物体をすり減らす。したがって天球は、互いの間に空気がないので、摩擦しても音を生じないはずである。また、そのような摩擦が実際にあるなら、天球は、これほど多くの世紀の間、毎日、それほど巨大な速さで回転してきたため、すり減ってしまっているはずである。仮に音を発しても、その音は伝わらない。水中での打撃の音は、わずかにしか聞こえず、密な物体の中では、さらに聞こえないか、まったく聞こえないからである。また、滑らかな物体は、摩擦しても音を立てないから、天球の接触、あるいは摩擦でも、同様に音は生じないだろう。もし天球が、摩擦で接する面において滑らかでないなら、凹凸があり、粗いことになる。したがって接触は連続せず、そうであれば真空が生じる。しかし真空は、自然には存在しないと結論されている。

ゆえに、摩擦があれば、各天球の境界は摩耗していたはずだと結論される。そして、両極に近いところより中央部のほうが速いだけ、それだけ中央部のほうがすり減るだろう。その後は、もはやこすり合わず、音は止み、踊り手たちも止まるだろう。ただし、一方の天球が東へ、他方が北へ回るなら、別である。

XLV.重力の法則について

土は、その球の中でも重いが、より軽い元素の中にあるほど、なお重くなる。

火は、その球の中でも軽いが、より重い元素の中にあるほど、なお軽くなる。

単一の元素は、自らの球の中では、どれも重さも軽さも持たない。

XLVI.同じ法則

重い物体が共通の中心へ向かって動くのは、その物体が、その中心を求める欲求を自らの内に持つためでも、中心が磁石のように、その重いものを引き寄せるためでもない。

XLVII.同じ法則

「重いものは、なぜその場所にとどまらないのか。」

「抵抗がないから、とどまらない。」

「では、どちらへ動くのか。」

「中心へ向かって動く。」

「なぜ、ほかの線に沿っては動かないのか。」

「抵抗を受けない重いものは、最も短い道によって下へ降りるからであり、最も低い場所は、世界の中心だからである。」

「では、重いものは、どうして中心を、これほど短い道で見つけることを知っているのか。」

「感覚を持たぬものなのに、まずさまざまな線をさまよってから進む、ということをしないのは、なぜなのか。」

XLVIII.太陽の賛美

星を、光条のない姿で見るなら、細い針のいちばん先で開けた小穴を、ほとんど目に触れるほど近づけて覗くときのように見るなら、星々が、何ものもそれより小さくは見えないほど微小なのがわかるだろう。実際、長い距離は、星々を相応に小さく見せる。その多くは、この星、すなわち水を伴う地球より、何倍も大きいのであるが。

さて、私たちの星が、それほど遠くからはどのように見えるか考えよ。そして、この暗い空間に散りばめられた星々の間へ、縦にも横にも、どれほど多くの星を並べられるか、考えよ。

私は、太陽の大きさは見たとおりのものにすぎないと言った、多くの古代人を非難せずにはいられない。その中にはエピクロスもいた。彼は、おそらく私たちのこの空気の中に置かれ、中心から等距離に光を放つ灯火から、その根拠を引き出したのだろうと思う。見る者には、その灯火は、どの距離でも大きさが小さくなって見えないからである。

XLIX.賛美の続き

太陽の大きさと力についての論証は、第四巻に譲る。だが、ソクラテスが、この天体を非難し、灼けた石に似たものだと言ったことには、まことに驚く。そして、この誤りによって彼を罰した者も、たしかに罪は軽かった。

注 太陽を灼熱の石とする説を原文はソクラテスに帰している。一般にアナクサゴラスと結びつけられる説だが、本文は原文どおりソクラテスとした。

私は、この太陽を崇拝することより、人間を崇拝することをいっそう称賛しようとする者たちを、非難するに足る言葉が欲しい。宇宙のうちに、太陽より大きく、力のある天体は見いだされないのに。その光は、宇宙に分布するすべての天体を照らす。すべての魂は太陽から降る。生きた動物の熱は魂から来るからであり、第四巻で示すように、宇宙には、それ以外の熱も光もないからである。そして、ユピテル、サトゥルヌス、マルスなどの人間を、神として崇拝しようとした者たちは、まことに大きな誤りを犯した。人間が私たちの世界ほど大きかったとしても、宇宙では一点に見える、極小の星のようにしか見えないのだから。しかも、その人間たちが死すべきものであり、墓の中で腐り、朽ち果てることを見ているのだから。

『天球論』とマルッロは、ほかの多くの者とともに、太陽をたたえている。

L.続き

おそらくエピクロスは、向かいの壁に投じられた柱の影が、影を生む柱の直径と等しいのを見たのだろう。そこで、影の集まりが、その始まりから終わりまで平行であるため、太陽も、この平行な帯の向かい側をなしており、したがって柱より太くはないと判断したのだろう。そして、太陽までの距離が長いため、影の縮まりが感知できないことに気づかなかったのである。

もし太陽が地球より小さければ、私たちの半球の大部分の星々は、光を持たないだろう。(太陽は見たとおりの大きさだというエピクロスに対して。)

LI.続き

エピクロスは、太陽は見たとおりの大きさだと言う。では、一フィートに見えるのだから、その大きさだと考えねばならない。そうすると、月が太陽を隠すとき、太陽は実際のように、月より大きくはないことになる。したがって、月が太陽より小さいのであれば、月は一フィートに満たず、その結果、私たちの世界が月を隠すとき、地球は足の指一本より小さいことになる。太陽が一フィートで、私たちの地球が月へ向けて錐状の影をつくるなら、影の錐体を生じさせる発光体のほうが、その錐体を生じさせる不透明体より大きくなければならないからである。

LII.続き

太陽の二十四時間の軌道に、太陽を何個並べられるか測れ。ここから、エピクロスが、太陽は見たとおりの大きさだと言ったことを検討できる。太陽の直径が一フィートに見え、その太陽が、二十四時間の軌道に千個入るとすれば、太陽は千フィート、すなわち五百ブラッチャ、一マイルの六分の一を進んだことになる。

そうすると太陽は、一昼夜の運行で、一マイルの六分の一を歩いたことになる。この太陽という、ありがたい蝸牛は、一時間に二十五ブラッチャを歩いたことになるのだ。

注 原文の毎時二十五ブラッチャという数値は、直前の一日五百ブラッチャと算術的に一致しない。数値を訂正せず保存した。

LIII.太陽は作用によってではなく、本性によって熱いことの証明

太陽について。人々は、太陽は火の色ではなく、はるかに白く明るいので、熱くないと言う。これに対しては、溶けた青銅は、熱ければ熱いほど太陽の色に似ており、熱が少なければ少ないほど火の色に近い、と答えられる。

LIV.同じ主題について

太陽は、本性において熱く、すでに言われたような、冷たいものではないことが証明される。

凹面鏡は、冷たくても、火の光線を受けると、火そのものより熱くして反射する。

冷水を満たしたガラス球は、火から受けた光線を、火よりもさらに熱くして外へ送り出す。

この二つの実験から、鏡や冷水の球から得られる光線の熱は、作用によって熱いのであり、鏡や球そのものが熱いからではないことがわかる。この場合、そうした物体を通る太陽についても同じことが起こり、作用によって温める。それゆえ、人々は太陽そのものは熱くないと結論した。だが、挙げられた同じ実験によって、太陽がきわめて熱いことこそ証明される。先の鏡と球の実験では、それらが冷たくても、火の熱から光線を受けると、熱い光線を返す。第一の原因が熱いからである。太陽についても同じことが起こる。太陽自身が熱いため、その光が冷たい鏡を通ると、大きな熱を反射するのである。

温めるのは太陽の輝きではなく、その本来の熱である。

LV.空間における光線の伝播

太陽光線は、空気の冷たい領域を通っても、その本性を変えない。冷水で満たしたガラス器を通っても、その本性を失わない。そして、どんな透明な場所を通っても、それは、同じだけの空気を貫くのと同じである。

LVI.星々は太陽から光を得るのか、自ら光るのか

人々は、星々は自ら光を持つと言う。その根拠として、金星と水星が自ら光を持たないなら、私たちの目と太陽の間に入ったとき、目から見て覆う分だけ、太陽を暗くするはずだと挙げる。だが、これは誤りである。発光体の前に置かれた暗いものは、その発光体の残りの部分から出る側方の光線に、すっかり囲まれ、覆われて、見えなくなることが証明されているからである。遠くにある、葉のない木の枝越しに太陽を見るとき、枝は私たちの目に対して、太陽のどの部分も隠さないことによって、示されるとおりである。

先に述べた惑星にも、同じことが起こる。それらは、自らは光を持たなくても、述べたように、私たちの目に対して、太陽のどの部分も隠さない。

第二の証明。人々は、星は夜、私たちの真上にあるほど明るく見えると言う。そして、もし自ら光を持たないなら、星と太陽の間に入る地球がつくる影が、星を暗くするはずだと言う。星は太陽を見ず、太陽からも見られないからである。だが、彼らは、月の錐状の影が、あまり多くの星にまで届かず、届く星においても、錐体はそれほど小さくなっているので、星の体のわずかな部分しか占めず、残りは太陽に照らされることを、考慮していない。

注 直前では地球の影を論じるが、この箇所の原文は「月の錐状の影」となっている。訳文も月とし、地球に訂正していない。

LVII.地球は一つの星である

お前の論考では、地球は、月によく似た一つの星であると結論しなければならない。そうして、私たちの世界の高貴さを証明するのだ。

そして、著述家たちに従って、多くの星の大きさについて論ぜよ。

LVIII.地球は宇宙の中で輝く

地球が一つの星であることについて。地球の大部分を覆う水の球は、太陽の像を受け取り、ほかのすべての星々と同じように宇宙へ輝く。その水の球によって、地球もまた一つの星であることが示される。

LIX.地球が一つの星であることを証明する順序

まず、目を定義せよ。

それから、星のまたたきが目に由来すること、ある星のほうが別の星よりよくまたたく理由、そして星の光条が目から生じることを示せ。また、もし星のまたたきが、見えるとおりに星そのもののうちにあるなら、そのまたたきは、星の本体ほどの広がりを示すと言え。星は地球より大きいのだから、一瞬でその星の大きさを二倍にするような運動は、あまりにも速いことになる。それから、火との境界にある空気の表面と、その限界にある火の表面を、太陽光線が貫くことで、天体の像が、昇るときと沈むときには大きく、空の中ほどにあるときには小さく見えることを証明せよ。

LX.地球は遠方の者には星に見える

私の書は、大洋がほかの海々とともに、太陽を介して、私たちの世界を月のように輝かせ、さらに遠くの者には星のように見せることを示す。そして、それを証明する。

LXI.地球は宇宙の中心ではない

地球は太陽の円の中心にも世界の中心にもなく、地球とともにあって結びついている諸元素の中心にある。月が太陽とともにわれわれの下にあるとき、そこに立つ者がいれば、このわれわれの地球は水の元素とともに、われわれに対する月とまったく同じ姿を示し、同じ働きをするであろう。

LXII. — 遠い昔、地球はいっそう鮮やかな輝きを持っていたこと。

月の役目を果たしている地球は、水が減ったため、われわれの半球では昔の光の多くを失った。このことは第四巻『世界と水について』で証明されている。

LXIII. — 月の本性についての問い。

一、きわめて軽いものには、不透明なものはない。

二、より軽いものが、より軽くないものの下にあることはない。

三、月は、それ自身の諸元素の中心に位置するか、しないか。

もし地球のように、自身の諸元素のうちに固有の場所を持たないなら、なぜわれわれの諸元素の中心へ落ちてこないのか。

また、月が自身の諸元素の中心になく、しかも下降しないならば、月はほかのどの元素よりも軽いことになる。

もし月がほかのどの元素よりも軽いならば、なぜ月は固体であり、透けて見えないのか。

LXIV. — 月の重さについて。

密なものには、空気より軽いものはない。

月の輝く部分は太陽の本体を映す水であって、太陽から受けた輝きをわれわれに反射すること、また、その水に波がなければ、月は小さく見えるであろうが、その輝きは太陽とほぼ等しいであろうことを、われわれは証明した。そこで今は、この月が重い物体であるか、軽い物体であるかを証明しなければならない。というのは、もし月が重いとすれば、地上から上へと高さが一段増すごとに軽さも一段増すことを認める以上、水は土より軽く、空気は水より軽く、火は空気より軽く、この順序で次々と続くのであるから、月が実際に持つような密度を持つならば、重さも持つと思われる。そして重さを持つならば、それのある空間は月を支えられず、したがって月は宇宙の中心へ下降して地球と合体しなければならない。月そのものでなくとも、少なくとも月の水は落下し、月から離れて中心へ向かい、月を裸にして光沢を失わせるはずである。ところが、月について理性がわれわれに予告することが起こらないのだから、月が自身の諸元素、すなわち水・空気・火に覆われていることは明らかである。そして、われわれの地球がその諸元素とともにこの空間でそうしているように、月もその空間でそれ自身によって保たれており、その諸元素の中の重いものは、われわれの諸元素の中のほかの重いものと同じ働きをしているのである。

LXV. — 同じ主題について。

月は密で重いのに、どうしてその位置にとどまっているのか。

LXVI. — 世界の諸天体は、それぞれの元素の中で重さを保つ。

卵の黄身、すなわち卵黄は、どちら側にも沈まずに卵白の中央にある。それは卵白より軽いか、重いか、等しいかのいずれかである。もし軽いなら、卵白のいちばん上まで上がり、卵の殻に接して止まるはずである。もし重いなら沈むはずであり、等しいなら、中央や下にあるのと同じように、どちらかの端にあってもよいはずである。

LXVII. — 生命の原理としての熱。

熱は湿りの運動の原因であり、冷気はそれを止める。冷たい領域が空中の雲を止めるのを見ればわかる。

生命のあるところには熱があり、生命の熱のあるところには体液の運動がある。

LXVIII. — 地球は大きな生き物である。

感覚的、植物的、または理性的な生命のないところには、何ものも生じない。鳥には羽が生え、毎年生え替わる。動物には毛が生え、獅子や猫などのひげのような一部を除いて、毎年生え替わる。野には草が生え、木には葉が生じ、毎年その大部分が新しくなる。したがって地球には植物的な魂があると言えるであろう。その肉は土であり、その骨は山々を形づくる岩石の連なり、その軟骨は凝灰岩、その血液は水脈、心臓の周りにある血の湖は大洋である。その呼吸は脈拍による血の増減であり、地球においては海の満ち引きにあたる。世界の魂の熱は大地に浸み込んだ火であり、植物的な魂の住まいは、大地のさまざまな場所で、温泉、硫黄鉱山、火山、シチリアのモンジベッロ、その他多くの場所から息を吐いている火である。

LXIX. — 人間と世界との比較。『水についての論考』の書き出し。

人間は古人によって小世界と呼ばれたが、まことにこの呼び名は適切である。人間が土、水、空気、火からできているように、この地球の体も同じだからである。人間が体内に肉を支える骨と骨組みを持つなら、世界には土を支える岩がある。人間の体内に、呼吸の際に肺が膨らんだり縮んだりする血の湖があるなら、地球の体には大洋があり、それも世界の呼吸によって六時間ごとに増減する。その血の湖から血管が出て、人間の体じゅうに枝分かれしてゆくなら、同じように大洋は地球の体を無数の水脈で満たす。地球の体には神経が欠けている。神経がないのは、それが運動のためにつくられているからであり、世界は永久に安定していて、そこには運動が起こらず、運動が起こらないので神経も必要ないからである。しかしその他のすべての点では、両者はよく似ている。

LXX. — 水。

地球の体は、動物の体と同じように、枝分かれした脈で織りなされている。それらはすべて互いにつながり、この地球とそこに生まれたものとに養分と生命を与えるために設けられている。

LXXI. — 水は世界の血液であり、線である。

注 見出し原文のLINEAを字義どおり「線」と訳した。LINFA(樹液)の誤読・誤植の可能性があり、要照合。

山々に湧く水は、その山を生かしておく血液である。その水脈に穴が開けられ、または横切って穴が通されると、生あるものを助ける自然は、流れ出した液の不足を補おうとする力を豊かに増し、そこへ念入りな救援をふんだんに送る。これは人間の打撲したところで、それを助けるために、患部を補おうとして血が皮膚の下に集まり、腫れの形になるのが見られるのと同じである。また、葡萄の木の高い先端を切ると、自然は最も低い根から、切られた場所の最も高いところまで樹液を送る。そしてそれが流れ出しても、生命の終わるまで、自然はそこに生命の液を送り続ける。

LXXII. — 同じ主題について。

水こそ、この乾いた大地の生命の液として定められたものである。それを枝分かれした脈に沿って、重いものの自然な流れに逆らって動かす原因は、あらゆる種類の動物の体内で体液を動かす原因とまさに同じものである。

LXXIII. — 山々の上の水。

地球という機構の生命の液である水は、その自然の熱によって動く。

LXXIV. — 水による変容。

水は自然の運び手である。

LXXV. — 大地の振動について。

地下を流れる水は、空気と大地とのあいだを流れる水と同じく、絶えずその流路の底を削り、深くするものである。

川によって運び去られた土は、その流れの末端に放出される。言い換えれば、川の高い流域から運ばれた土は、その流れの最も低い末端に放出される。

海面に淡水が湧き出すところは、島の誕生の明らかな前兆である。湧き出す水の量が少ないか多いかに応じて、その島が姿を現すのも遅くなったり早くなったりする。

このような島は、水の地下の流れがその通過する場所で土を運び、岩を削ることによって生まれる。

LXXVI. — 過去と未来における大規模な変容。

海岸は絶えず、海の中央へ向かって陸地を増してゆくこと。

海の岩礁や岬は絶えず崩れ、削られてゆくこと。

内海はその底を空気にさらし、そこに注ぐ最大の川のための流路だけを残すであろうこと。その川は大洋へ流れ、これと合流するすべての川の水とともに、そこへ水を注ぐであろう。

LXXVII. — 川の水。

地上に災害をもたらす強大な原因のうち、破壊的な氾濫を起こす川が首位を占めると、私には思われる。ある人々が考えたように、火がそうなのではない。火はその糧のないところで、ものを呑み込むのをやめるからである。傾斜した谷によって保たれる水の運動も、谷の最も低いところで終わり、消える。しかし火を起こすのはその糧であり、水の運動を起こすのは低さである。火の糧は途切れているので、その害も途切れ、分かれて生じ、糧のないところで火は死ぬ。谷の下りは連続しているので、川の破壊的な流れによる害も連続し、やがて川はその谷とともに海に至る。海は万物の低所であり、さまよう川の水にとって唯一の休息所なのである。

だが、いかなる言語、いかなる言葉で、荒れ狂う川の洪水がもたらす忌まわしい破壊、信じがたい崩落、容赦のない略奪を、私は表し、語ることができようか。どう語ればよいのか。まことに、そのようなことを示すには自分の力が足りないと感じる。それでも経験の与えてくれる助けを借りて、破壊がどのように行われるかを述べるよう努めよう。そのような激しい川に対しては、人間のいかなる防御も役に立たないのである。

LXXVIII. — 化石となった貝について。

おお時よ、つくられたものを素早く奪う者よ。この魚の驚くべき形が、空洞となり、あるいは曲がりくねった内臓を残してここで死んでから、おまえは幾人の王、幾つの民を滅ぼし、いくたび国家の変転やさまざまな出来事を生じさせたことか……。今や時によって壊され、おまえはこの閉ざされた場所に忍耐強く横たわる。肉の落ちた裸の骨によって、その上にある山の骨組みとなり、支えとなったのだ。

LXXIX. — 過去の全体を再構成するには、小さな徴で足りる。

事物は文字よりはるかに古いので、前述の海がこれほど多くの土地を占めていたという記録が、われわれの時代に見当たらなくても不思議ではない。また、たとえ何らかの記録があったとしても、戦争、火災、洪水、言語と法の変化が、古いものをすべて消し去ってしまった。しかしわれわれには、塩水の中で生まれたものが、当時の海から遠く離れた高山で見つかるという証拠だけで十分なのである。

LXXX. — 大洪水と海の貝について。

もし君が、今日イタリアの各地で、海から遠く離れたこれほど高い場所に見られる貝は、大洪水がそこに置いていったためだと言うなら、私はこう答えよう。君は、その水位を測った者が書いたように、大洪水が最も高い山を七キュビトも越えたと信じるのだから、いつも海岸の近くにいるこのような貝は、その山の上に残るはずであって、山の麓をわずかに上がったところに、どこでも同じ高さで、幾層にもなってあるはずはない。

また、こうした貝は海岸の近くにいるのを好むので、水がこれほど高く増してゆくにつれ、最初の場所を離れ、水の増加について最高の高さまで行ったのだと君が言うなら、こう答えられる。貝は、水の外にいる蝸牛より速く動く動物ではなく、泳ぐこともなく、むしろ身を支える溝を掘るので、いくらか遅くさえあり、一日に三ないし四ブラッチャ進むだけである。それゆえ、そのような速さでは、アドリア海からロンバルディアのモンフェッラートまで二百五十マイルもある距離を、その期間を数えた者が言う四十日間のうちに進むことはできなかったであろう。

また、波がそこへ運んだと言うなら、貝はその重厚さゆえに、底の上でしか身を保てない。これを認めないとしても、少なくとも、貝は最も高い山々の頂や、ラーリオ湖、すなわちコモ湖、マッジョーレ湖、フィエーゾレやペルージャの湖など、山間に閉じ込められた湖に残るはずだったことは認めてほしい。

また、中身のない死んだ貝殻が波によって運ばれたと言うなら、私はこう言おう。死んだ貝が行くところは、生きた貝の場所からさほど離れていない。この山々では、生きていたことがわかる貝がすべて見つかる。殻が対になっており、死んだ貝が一つもない一列に並んでいるからである。そして少し高いところには、川が海の非常に深いところへ落ち込んでいた付近に、波によって打ち上げられた死んだ貝がすべて、殻の離れた状態で見つかる。もし濁った大洪水が貝を運んだのなら、それらは泥の中で互いに離れ離れに入り混じり、今日見られるように整然と段をなして層状になってはいなかったであろう。

LXXXI. — 海から遠く隔たった広い範囲に貝が生じたのは、その土地と天の性質が、その場所を同様の動物の生成に適するよう整え、影響を及ぼすためだと言う人々について。

これらの人々にはこう答えられよう。もし動物を生じさせるそのような影響があるなら、一つの線上には、同じ種類、同じ年齢の動物しか生じ得ないはずである。老いたものと若いものが一緒にいることも、一つには蓋があり、別のものには覆いがないことも、一つは壊れ、別のものは完全なことも、一つには海の砂が詰まっていることも、そこに口を開けたまま残った完全な貝殻の内部に他の貝の大小の破片があることも、体の残りを欠いた蟹の口があることも、別の種類の貝がそれらに付着し、その上を動いた動物の姿をしていることも、あり得ないはずである。その殻の上には、木を食う虫のようにそこを食い削って進んだ痕跡が、なお残っているのだから。また、その間に、ある人々が矢じりと呼び、別の人々が蛇の舌と呼ぶ魚の骨や歯が見つかるはずもなく、もし海岸からそこへ投げ出されたのでなければ、これほど多くの異なる動物の部分が一緒になって見つかるはずもない。

また、大洪水がそれらをそこへ運んだのでもない。水より重いものは水に浮かず、前述のものがこれほど高い場所にあるには、水面に浮いて運ばれたのでなければならないが、その重さのために、それは不可能だからである。

海の塩水が入り込まない谷では、貝は決して見られない。ゴンフォリーナの上流にあるアルノの大きな谷を見れば、これは明らかである。ゴンフォリーナは、昔モンテ・アルバーノにつながって非常に高い堤の形をなしていた岩であり、この川をせき止めていた。そのため川は、その岩のすぐ先の麓にあった海へ注ぐ前に、二つの大きな湖を形づくっていた。第一の湖は、今日フィレンツェの町がプラート、ピストイアとともに栄えている場所にあり、モンテ・アルバーノは、今日セッラヴァッレのあるところまで、堤の続きをなしていた。上アルノ谷からアレッツォまでは第二の湖となり、前述の湖に水を注いでいた。この第二の湖は今日ジローネの見える辺りでせき止められ、上流の谷の全体を四十マイルの長さにわたって占めていた。この谷は、水を濁らせて運ばれてきた土をすべてその底に受け入れた。その土は今日でもプラトマーニョの麓の、川によって削られなかったところに、非常に高く残っている。その土の中には、そこを通った川が深く切り込んだ溝が見られる。これらの川はプラトマーニョの大山から下っており、その切り込みには貝や海の土の痕跡は一切見られない。この湖はペルージャの湖とつながっていた。

川が海へ注ぐところには、非常に多くの貝が見られる。ただしそのような場所では、混ざり合う淡水のために、水はそれほど塩辛くない。その徴は、昔アペニン山脈の川がアドリア海へ注いだところに見られる。それらの川の流域の多くでは、山間に青みがかった海の土とともに非常に多くの貝が現れ、その場所で掘り出される石はすべて貝でいっぱいである。

アルノ川も、ゴンフォリーナの岩から海へ落ち込んでいたとき、同じことをしたとわかる。海はその岩の先の、それほど低くないところにあった。そのころ海はサン・ミニアート・アル・テデスコの高さを越えていたからである。そこのいちばん高いところには、城壁の内側で、貝や牡蠣のいっぱい詰まった斜面が見られる。貝はヴァル・ディ・ニエーヴォレの方へは広がらなかった。アルノの淡水がそちらへは届かなかったからである。

貝は大洪水によって海を離れたのではない。陸の方から来る水は、たとえ海を陸の方へ引き寄せたとしても、海底を打つ水だったからである。陸から来る水は海の水より流れが速く、そのため力も強く、海水の下へ入り込んで底を動かし、そこで見つけた動かせるものをすべて、前述の貝やそれに似たものとともに連れ去る。そして、陸から来る水が海水より濁っているほど、それだけ海水より強く、重くなる。

したがって、前述の貝がそこで生まれたのでなければ、それほど内陸へ引き入れる方法を、私は見いだせないのである。

もし君が、フランスを流れるエラ川では、海が増すと八十マイル以上の土地が水に覆われる、それは大平原で、海面が約二十ブラッチャ上がるためであり、その平原には海から八十マイル離れたところにも貝が見つかる、と言うならば、こう答えられる。われわれの内海では、潮の満ち引きはそれほど大きな変動を起こさない。ジェノヴァ地方では変化がなく、ヴェネツィアではわずか、アフリカでもわずかであり、変動が小さなところでは、覆われる土地も少ないからである。

LXXXII. — その高さを越すほど高くなった大洪水によって、貝は海から何日も離れた土地へ運ばれたと言う人々への反駁。

私は言う。海が膨らんで上述の場所まで氾濫を起こしたのでなければ、大洪水が海に生まれたものを山へ運ぶことはできなかった。しかし、そのような膨張は起こり得ない。そうすれば真空が生じてしまうからである。

もし君が「そこは空気で満たされる」と言うなら、重いものは軽いものの上には支えられないと、われわれはすでに結論した。したがって、この大洪水は雨水によって生じたと必然的に結論される。そうであれば、それらの水はすべて海へ流れ、海が山へ流れるのではない。また、水が海へ流れるなら、それは海岸から貝を押しやるのであり、自分の方へ引き寄せはしない。

もし君が「海は雨水のために高くなって、それらの貝をその高さまで運んだ」と言うなら、水より重いものは水に浮かず、底にあり、波に打たれなければそこから動かないと、われわれはすでに述べている。

もし君が、波がそれらをそのような高い場所へ運んだと言うなら、深いところの底では波が上方の運動とは反対向きに戻ることを、われわれは証明した。このことは、海岸近くから運び去られた土によって海が濁ることから明らかである。

水より軽いものは波とともに動き、最も高い波によって岸の最も高いところに残される。水より重いものは、波に押されて水面でも底でも動く。これら二つの結論は、それぞれ適切なところで十分に証明されるが、それによってわれわれは、表面の波は貝を運ぶことができないと結論する。貝は水より重いからである。

もし大洪水が、海から三百、四百マイルも離れた場所へ貝を運んだのであれば、さまざまな種類を混ぜ合わせ、ひと山に積み重ねて運んだであろう。ところが、そのような遠いところでも、牡蠣はみな一緒に、二枚貝や烏賊も、また群れて暮らすすべての貝も、みな一緒に死んでいるのが見られる。そして単独で暮らす貝は、海岸で毎日見ているとおり、互いに離れて見つかるのである。

また、非常に大きな牡蠣が寄り合っているのを見つけると、その中には、まだ蓋のつながっているものが多く見られる。これは、ジブラルタル海峡が切り開かれたとき、海がそれらをまだ生きたままそこへ残したことを示している。

パルマとピアチェンツァの山々には、虫食いになった多くの貝や珊瑚が、まだ岩に付着しているのが見られる。私がミラノの大きな馬を制作していたとき、そのような場所で見つけられたものを、ある農民たちが大袋いっぱい私の工房へ持ってきた。その中には、もとのよい状態を保ったものが多くあった……。

地中や、厚い石板を深く掘り出した下からは、加工された梁の材木が、すでに黒くなって見つかる。私の時代にも、カステル・フィオレンティーノの地方で見つかった。それらがそのような深いところにあったのは、かつてそこを覆っていた海へアルノ川が運んだ泥が、これほどの高さに取り残されるよりも前であり、また、そこから絶えず土が運び出されることによって、カゼンティーノの平野がこれほど低くなるよりも前であった。

もし君が、そのような場所に貝がつくられ、絶えず生じ続けるのは、その土地と、そこに影響を及ぼす天の性質による、と言うなら、そのような意見は、よく考える頭にはとどまれない。貝の殻には成長の年数が数えられ、大小のものが見られるからである。それらは食物なしには成長せず、動かなければ食べることもできないが、そこでは動くことができなかったのである。

LXXXIII. — 化石は、現在と同様の生命を過去に映し出す。

地層と地層のあいだには、それらがまだ乾いていなかったころ、その間を進んだミミズの通り道が、今でも見つかること。

海の泥はすべて、今でも貝を含み、貝は泥とともに石化していること。

これらの動物が海から遠い場所へ大洪水によって運ばれたと主張する人々の、愚かさと浅はかさについて。

また別の無知な一派は、自然あるいは天が、天体の影響によってそれらをそのような場所につくったと断言する。まるで、長い時間をかけて成長した魚の骨がそこに見つからないかのように、また貝や蝸牛の殻に、その生涯の年数や月数を数えられないかのように。牛や去勢羊の角にも、どの部分も切られたことのない植物の枝分かれにも、それを数えられるというのに。

このような徴によって、その寿命の長さが明らかであると示された以上、これらの動物は食物を探すために動かなければ生きられなかったことを認めなければならない。しかも、それらが閉じ込められている土や岩を穿つための器官は、それらには見当たらないのである。

だが、大きな巻貝の中に、性質の異なる多くの種類の貝の破片や部分が見つかるのは、どうしてであろう。それがすでに海岸で死んでいたとき、海の波が、陸へ打ち上げるほかの軽いものと同様に、それらを中へ投げ込んだのでなければ、どうしてであろうか。

石の層と層のあいだに、なぜこれほど多くの破片や完全な貝が見つかるのか。それらがすでに海岸にあって、海の打ち上げた土に覆われ、その土がのちに石化したのでなければ、なぜであろうか。

もし前述の大洪水がそれらを海からそのような場所へ運んだのであれば、君は貝をただ一つの地層の境界に見つけるはずであり、多くの地層の境界に見つけるはずはない。

さらに、近くの川から運ばれてきて海が岸辺へと放出した砂や泥の層を、海が積み増していった年々を数えなければならない。もし君が、多くの大洪水がそうした地層と、その間の貝を生じさせたと言おうとするなら、毎年そのような大洪水が起こったと主張しなければならないであろう。

もし君が、この大洪水こそが貝を海から数百マイルも遠くへ運んだのだと言おうとするなら、それはあり得ない。大洪水は雨によって起こったのだから。雨は自然に、川とそれが運ぶものを海へ押し流すのであって、海岸の死んだものを山の方へ引き寄せはしない。

また、のちに洪水の水が山々を越えて上がったと君が言うなら、川の流れに逆らって進む海の動きは非常に遅かったので、海自身より重いものを、その上に浮かせておけなかったであろう。仮に支えたとしても、水が引く際に、それらをさまざまな場所へ散らして残したであろう。

しかし、ロンバルディアのモンフェッラートの方で、川の流れにさらされた岩に付着したまま、虫食いの状態で日々見つかる珊瑚を、われわれはどう説明するのであろうか。

また、その岩はすべて、牡蠣の一族や群れで覆われている。牡蠣が動かないことは、われわれも知っている。一方の殻で常に岩に付着し、他方を開いて、水中を泳ぐ小動物を食べるのである。それらの小動物は、よい餌場を見つけたと思い、かえってその貝の餌になる。

海藻の混ざった砂は、その間に挟まっていた海藻がなくなってから石化したのではないか。そしてこのようなものを、ポー川は岸が崩れるたびに、日々あらわにしている。

LXXXIV. — 山の中の貝について。

もし君が、貝は星座の働きによって自然がそれらの山々につくったものだと言おうとするなら、一つの同じ場所に、大きさも年齢も種類も異なる貝を、その星座がつくるということを、どのように示すのか。

そして、山々の異なる高さに、段々に固まっている砂利を、どう説明するのか。そこには、川の流れによって異なる土地からその場所へ運ばれてきた、さまざまな種類の砂利がある。砂利とは、そこへ運んだ水の流れによって、長く転がり、さまざまに打ち当たり、落下したために、角の取れた石の破片にほかならないではないか。

その山の高い岩の中に固まった、非常に多くの種類の葉や、貝と砂とに混ざって横たわる海藻、すなわち海の草を、君はどう説明するのか。このように君は、ばらばらに砕け、離れ、その貝の間に挟まった海の蟹とともに、何もかも石化しているのを見るであろう。

LXXXV. — 地質の成層について、大洪水説への反論。

二列の貝を説明するためには、大地が憤って海の下へ潜り、最初の層をつくり、そのあと大洪水が第二の層をつくったとでも言わなければならない。

LXXXVI. — 疑問。

ここに一つの疑問が生じる。それは、ノアの時に起こった洪水が全世界的なものであったかどうかである。これから述べる理由によって、そうではなかったように思われる。聖書では、その洪水は四十日四十夜にわたる絶え間のない全世界的な雨から成り、その雨が世界で最も高い山を六キュビト越えるまでになったとされている。もしそうであって、雨が全世界に及んだのなら、それは球形をしたわれわれの地球を覆ったことになる。球面のすべての部分は、その球の中心から等しい距離にある。それゆえ、水の球が上述の条件にあるとすれば、その上で水が動くことは不可能である。水は下降しなければ、それ自身では動かないからである。では、これほどの洪水の水は、動かないことがここに証明されたのに、どうして去ったのか。また、去ったとすれば、上へ向かったのでなければ、どのように動いたのか。ここでは自然の理屈が尽きるので、この疑問を救うためには奇跡の助けを呼び求めるか、あるいは、その水は太陽の熱によって蒸発したと言わねばならない。

LXXXVII. — 世界の生命はどのような終わりを迎えるか。

水の元素は、高くなった川の堤のあいだに閉じ込められ、海は盛り上がった大地のあいだに見られるようになる。そして周囲の空気は、軟らかくなった地球の機構を包み、取り囲まなければならず、水と火の元素との間にあったその厚みは、ひどく狭められ、必要な水を奪われるであろう。川には水がなくなり、肥沃な大地ももはや軽やかな葉を出さず、野はもはや垂れ下がる植物によって飾られない。動物はすべて、食べる新鮮な草を見つけられずに死に、獲物を奪う獅子や狼、そのほか捕食によって生きる動物にも食物がなくなる。そして人間も、さまざまな対策を施した末に、命を捨てなければならなくなり、人類は絶えるであろう。

こうして、肥沃で実り豊かな大地は、見捨てられ、乾いて不毛となる。それでも、その腹の中に閉じ込めた水の湿りと、活力ある本性によって、なおいくらかの成長を続け、ついには冷たく薄い空気を越えて、火の元素と接するに至ることを余儀なくされるであろう。そのとき地表は焼けただれた灰となる。これが地上の自然の終わりとなるであろう。

LXXXVIII. — 山々がゆっくりと削られることにより、水中に没する大地。

海底の低い場所は永続するが、山の頂はその逆である。それゆえ、地球は球状になり、すべて水に覆われ、住むことができなくなるであろう。

LXXXIX. — 力学の法則は無機的・有機的な現象を支配する。

器械の学、すなわち機械学は、最も高貴であり、ほかのあらゆる学問にまさって有用である。運動するあらゆる生体は、それによってすべての働きを行うからである。それらの運動は重心から生じ、重心は重量の等しくない部分のあいだに置かれている。そこには筋肉の少ないところと多いところがあり、また梃子と反対向きの梃子がある。

XC. — 人間が器械によって飛ぶ鳥を模倣できる可能性。

鳥は数学的法則に従って働く器械である。人間には、そのすべての運動を備えた器械をつくる能力があるが、同じだけの力を持たせることはできず、ただ釣り合いを保つ能力にまでしか達しない。したがって、人間が組み立てるそのような器械に欠けているのは鳥の魂だけであり、その魂を人間の魂でまねなければならないと言えよう。

鳥の魂は、鳥の四肢の必要に、人間の魂がそれらから離れたままで応ずるよりも、疑いなくよく応ずるであろう。ほとんど感じ取れないほどの釣り合いの運動では、特にそうである。しかし、感知できる多くの運動の変化に鳥が対処するのをわれわれは見るので、その経験によって、強く感じ取れる変化なら人間の認識にも知られ得ると判断できる。そして人間は、自ら魂となり導き手となった器械の落下を、十分に防ぐことができるであろう。

XCI. — 鳶の飛翔について書くうちに、ヴィンチの心によみがえる記憶。

このように詳しく鳶について書くことは、私の宿命であるように思われる。というのは、幼いころの最初の記憶として、私が揺り籠にいたとき、一羽の鳶がやって来て、その尾で私の口を開き、その尾で唇の内側を何度も打ったように思われるからである。

XCII. — 小さな鳥が非常に高く飛ばず、大きな鳥が低く飛ぶことを好まない理由。

その原因は、小さな鳥には綿羽がないので、高い空の甚だしい寒さに耐えられないことにある。そこにいる禿鷲や鷲などの大きな鳥は、豊かな綿羽を備え、幾重もの羽毛に覆われている。

また、小さな鳥は、弱く簡素な翼で、濃い低空の空気には身を支えられるが、抵抗の少ない薄い空気には身を支えられないであろう。

XCIII. — われわれは他のものの死によって、自らの生命をつくる。

死んだものの中には感覚のない生命が残っており、それが生きたものの胃の中で再び結びつくと、感覚と知性を持つ生命を取り戻す。

XCIV. — 動物の体は絶えず死に、再び生まれること。

栄養を取るものの体は、何であれ絶えず死に、絶えず生まれ変わる。以前の栄養が消えた場所でなければ、新しい栄養は入ることができないからである。そして、それが消えたなら、そこにはもはや生命がない。失われた栄養に等しい栄養を戻さなければ、生命は健康を失い、栄養をまったく取り去れば、生命は完全に破壊される。しかし、一日に消費されるだけの量を戻すなら、失われる生命と同じだけの生命が生まれ変わる。それは蝋燭の液から栄養を与えられる炎と同じである。その炎もまた、上で死んで消えるだけのものを、きわめて素早い補給によって、下から絶えず補っている。そして輝く光から、死ぬことによって暗い煙へと変わる。その死は、煙が絶え間ないように絶え間なく、その煙の持続は栄養の持続に等しい。一瞬のうちに炎の全体が死に、その栄養の運動とともに、全体が再生するのである。

XCV. — 物質の循環。

人間と動物とは、まさに食物の通り道、管であり、動物の墓、死者の宿、腐敗の鞘であって、他のものの死から自らの生命をつくっている。

XCVI. — 同じ主題について。

炎を見て、その美しさを考えよ。まばたきをして、もう一度見よ。今そこに見えるものは以前にはなく、以前そこにあったものは、もはやない。

つくり手が絶えず死んでいるのに、それをつくり直すのは誰なのか。

XCVII. — さらに同じ主題について。

アナクサゴラス。あらゆるものはあらゆるものから来て、あらゆるものはあらゆるものになり、あらゆるものはあらゆるものへ帰る。元素の中にあるものは、その元素からつくられているからである。

XCVIII. — 世界における死と苦痛の存在について。

ここでは自然は、多くの動物に対して、母というよりは残酷な継母であったように見えるが、ある動物に対しては継母ではなく、慈悲深い母であったように見える。

XCIX. — 同じ主題について。

なぜ自然は、ある動物がほかの動物の死によって生きることのないように、定めなかったのか。

自然は、絶えず生命や形を創造し、つくり出すことを好み、喜びとしている。それらが自らの地上的な物質を増すものであると知っているからである。そして自然がつくり出そうとする意欲と速さは、時が消耗させるそれにまさるので、多くの動物が互いの食物となるように定めた。それでもそのような願望が満たされないので、動物の大きな増殖や集合に対して、とりわけ、ほかの動物が食べないために大いに増える人間に対して、しばしば毒を含んだ疫病の蒸気を放つ。そして原因が取り去られれば、結果もなくなるであろう。

したがって、この大地は、絶え間のない増殖を望むことによって、自らの生命を失おうと努めているのである。

君が挙げ、示した理由によれば、結果はしばしばその原因に似る。動物は世界の生命の例である。

C. — 事物と生き物にある、解体への願望。

さて見よ。故郷へ帰り、最初の状態へ戻ろうとする希望と欲望は、灯火へ向かう蛾と同じように働く。人間は絶え間ない欲望を抱いて、常に新しい春を、常に新しい夏を、常に新しい月や新しい年を、喜んで待ち望む。望んでいるものが来るのは遅すぎると思いながら、自分自身の解体を望んでいることには気づかないのである……。

しかし、この欲望は精髄であり、諸元素の霊であって、人間の体の魂によって閉じ込められているため、常にそれを遣わした者へ戻りたいと願っている。そして知ってほしい。この同じ欲望こそ、自然に伴うあの精髄であり、人間は世界の模型なのである。

また、この人間には極度の愚かさがある。苦労しなくてすむように、いつも苦労しているのである。そして最大の労苦をもって得た財を楽しもうと期待するうちに、その生命は彼から逃げ去る。

CI. — 感覚は魂の役人であること。

魂は判断を行う部分に住むように見え、その判断を行う部分は、すべての感覚が集まる場所、すなわち共通感覚と呼ばれるところにあるように見える。多くの人が信じたように、魂の全体が体の全体にあるのではなく、その全体が一つの部分にある。もし魂の全体が体全体に、また各部分にも全体としてあるならば、感覚の器官が互いに同じ一つの場所へ集まる必要はなかったであろう。むしろ眼がその表面で感覚の働きを行えば十分であって、視神経の経路を通じて、見たものの像を感覚の中枢へ送る必要はなかったであろう。上述の理屈に従えば、魂は眼の表面でそれらを把握できたはずだからである。同様に聴覚も、耳の中にある錐体骨のくぼんだ孔の中で音声が響くだけで十分だったはずであり、その骨から共通感覚まで別の通路を設け、そこで音声が注ぎ込み、共通の判断へと伝わる必要はなかったであろう。

嗅覚もまた、必要に迫られてその判断の場所に集まることがわかる。触覚は中空の索を通って、その感覚の中枢へ運ばれる。それらの索は、四肢や内臓を包む皮膚の中へ、無数に枝分かれして広がってゆく。

中空の索は、働きを担う器官への命令と、それらからの感覚とを運ぶ。それらの索と腱は、筋肉や肋骨のあいだにあって、筋肉に運動を命ずる。筋肉は従い、その服従は膨らむことによって実行される。膨らむと筋肉の長さが縮み、腱をあとへ引くからである。それらは体の各部分の中に織り込まれ、指の先まで入り込み、その接触の原因を感覚の中枢へ運ぶ。

腱はその筋肉とともに、兵士が指揮官に仕えるように索に仕え、索は指揮官が総大将に仕えるように共通感覚に仕える。したがって、骨の関節は腱に従い、腱は筋肉に、筋肉は索に、索は共通感覚に従う。そして共通感覚は魂の座であり、記憶はその貯蔵庫、印象受容部はその報告役である。

CII. — 感覚の仕組み。

共通感覚とは、ほかの感覚から与えられたものを判断するものである。

共通感覚は、五感から与えられたものによって動かされる。

そして五感は対象によって動かされる。それらの対象は自らの像を五感に送り、像は五感から印象受容部へ、そこから共通感覚へ移される。そこで判断されたのち、記憶へ送られ、その力の大小によって、多かれ少なかれ保存される。

五つの感覚とは、見ること、聞くこと、触れること、味わうこと、嗅ぐことである。

古代の思索家たちは、人間に与えられた判断の働きは、一つの器官によって生じると結論した。ほかの五つの器官が、印象受容部を介して、そこへ報告するのである。彼らはこの器官を共通感覚と名づけ、その感覚は頭の中央に位置すると述べた。共通感覚という名は、ただそれが、見る、聞く、触れる、味わう、嗅ぐというほかの五感に共通する裁判官であるからだという。共通感覚は、自分と五感との中間に置かれた印象受容部によって動かされる。印象受容部は、表面の器官、すなわち五感から与えられる事物の像によって動かされる。五感は外界の事物と印象受容部との中間にあり、同様に対象によって動かされる。周囲の事物は自らの像を五感へ送り、五感はそれらを印象受容部へ移し、印象受容部は共通感覚へ送る。そしてそこから記憶の中に定着させられ、与えられたものの重要さ、または強さに応じて、多かれ少なかれ保持される。

印象受容部に最も近い感覚は、その働きも最も速い。それは眼であり、ほかの感覚にまさり、その首位をなす。われわれはこれだけを論じ、主題から遠ざからないよう、ほかの感覚には触れないでおこう。

CIII. — 自動的な運動について。

自然は人間の中に、腱を引く役目を持つ筋肉を配置し、共通感覚の意志と欲望に従って四肢を動かせるようにした。それは、君主がさまざまな地方や都市に配置し、その場所で君主を代表して、その意志に従う役人と同じである。そして、ある一つの事柄において、君主から口頭で授けられた権限に何度も従った役人は、のちには同じ場合に、自分だけで行動しても、その君主の意志から外れることはない。

指がしばしば同じことをするのが見られる。判断力から命じられたことを、ある楽器でこの上なく従順に学んだのち、判断力がそこへ注意を向けなくても、それを奏でるようになるのである。

脚を動かす筋肉もまた、人間がそれを意識しなくても、その働きを果たしているではないか。

CIV. — 神経は時に、魂のほかの役人の命令を受けず、ひとりで働くこと。

これは明らかである。麻痺した者や、寒がりの者、凍えた者の頭や手などの震える部分が、魂の許しを得ずに動くのが見られるからである。その魂は全力を尽くしても、それらの部分が震えるのを止めることができない。同じことは癲癇においても、また蜥蜴の尾のような切断された部分にも起こる。

CV. — 人間は自らの作品に自分自身を再現しようとすること。

画家にとって最大の欠点は、一つの物語画の中で同じ動作、同じ顔、同じ衣服のあり方を繰り返し、顔の大部分を、それを描いた親方に似せてしまうことである。このことには、私は何度も驚かされた。すべての人物に自分自身を生き写しにしたように見える画家を、何人か知っているからである。その人物たちには、つくり手の身ぶりや物腰が見られる。

もし画家が話し方や振る舞いの敏活な人なら、人物たちも同じく敏活である。親方が信心深ければ、人物たちも首をかしげ、同じように見える。親方が無気力なら、人物たちも怠惰を生き写しにしたように見える。親方の体の釣り合いが悪ければ、人物たちもそうなる。もし狂っていれば、それは物語画の中に大いに示される。人物たちはまとまりを嫌い、自分の行為に注意を向けず、まるで夢を見ているように、ある者はこちらを、別の者はあちらを見ている。このように絵の中のあらゆる特質は、画家自身の特質に従うのである。

私はこの欠点の原因を何度も考えてみた。そして、各人の体を支配し統べる魂こそが、われわれ自身の判断力が成立するより前に、われわれの判断をつくるものだと考えるべきだと思う。したがって魂は、人間の姿全体を、自分がよいと思うとおりに導いた。鼻を長くしたり、短くしたり、低くしたりし、同じように身長と姿を定めた。この判断は非常に強力なので、画家の腕を動かして、その人自身を繰り返し描かせる。魂には、それが人間を描く正しい方法に見え、自分と違うように描く者は誤っていると思えるからである。そして、自分が組み立てた体に似た人を見つけると、その人を愛し、恋する。このため、多くの人は自分に似た人に恋をし、妻にする。そして、そのような人々から生まれた子供は、しばしばその両親に似るのである。

CVI. — 人間の自然な本能は、事物と生き物の中に自分自身を探し求めるよう導く。

画家は、一般に釣り合いが立派だと認められる自然の人体を規範として、人物を描くべきである。さらに自分自身を測ってもらい、自分の体のどの部分が、前述の立派な体と大きく、またはわずかに異なるかを調べるべきである。それを知ったなら、自分の体にあるのと同じ欠点を、制作する人物に犯さないよう、全力で学び、備えなければならない。

そして知っておくがよい。この悪癖とは、最大限に戦わなければならない。それは判断力とともに生まれた欠点だからである。君の体の主人である魂こそ、君自身の判断力なのであり、自分の体をつくる際に行った仕事と似た仕事を、喜んで楽しむ。このため、女の姿がどれほど醜くても、怪物のようでないかぎりは、誰かしら愛する者を見つけられるのである。

だから、自分の体にある欠点を理解することを忘れず、自分がつくり出す人物では、その欠点を避けよ。

CVII. — 画家への助言。

不格好な手を持つ画家は、自分の作品でも同じような手を描くであろう。長い修練がそれを防がなければ、どの部分についても同じことが起こる。それゆえ画家よ、自分の体の最も醜い部分をよく見て、その部分を学習によって十分に補え。もし君が獣のように粗野なら、人物たちも同様で、知恵のないものとなるからである。同じように、君の中にあるよいところも悪いところも、それぞれいくらかは君の描く人物に現れるであろう。

CVIII. — 同じ主題について。

これが起こるのは、われわれの判断力が、さまざまな向きから人物の輪郭をつくるように手を動かし、自分が満足するまでそうするからである。そして、この判断力はわれわれの魂の能力の一つであり、魂はそれを用いて、自ら住む体の形を、自分の望みどおりに組み立てた。それゆえ、手を使って人間の体をつくり直すとき、魂は、自らが最初の考案者であった体を、好んでつくり直す。ここから、恋をする者は、自分に似たものに好んで恋をするということが生じる。

CIX. — 感覚の性質について。

能力は四つある。記憶と知性、怒りを起こす能力と欲望を起こす能力である。

注 原文lascibiliは四能力の伝統的区分からirascibili(易怒的能力)の誤読・異綴と判断して訳した。HTMLの編者注は[senso e desiderio](感覚と欲望)と補足しており、原文の校訂上の確認が必要。

最初の二つは理性的であり、残りは感覚的である。

五感のうち、見る、聞く、嗅ぐことには制止すべき点が少ないが、触れることと味わうことはそうではない。

犬や、ほかの食いしん坊の動物では、嗅覚が味覚を伴っている。

CX. — 夢の問題。

なぜ眼は、目覚めて想像しているときよりも、夢の中で物をいっそう確かに見るのか。

CXI. — 無意識の判断。

外気にさらされた眼の瞳孔は、太陽の運動の一段階ごとに、その大きさの程度を変える。

そして、瞳孔の大きさの程度が変わるごとに、見られる同じ物も、異なる大きさに現れる。ただし、周囲の物との比較によって、注視している一つの物に起こるその変化が、しばしば見分けられなくなる。

CXII. — 感覚の欺き。

眼は、適切な距離と適切な媒質のもとでは、その働きにおいて、ほかのどの感覚よりも誤ることが少ない。これから証明しようと思うが、眼は、対象を底面として眼へ導かれる錐体を構成する直線によってしか、見ることがないからである。

しかし耳は、対象の位置や距離について、大いに誤る。像は、眼の場合のように直線によって耳へ来るのではなく、曲がったり反射したりする線によって来るからである。そして、この像の通る道によっては、遠いものが近いものより近く思われることが、しばしばある。ただし、反響の声は、直線だけによってこの感覚へ届く。

嗅覚は、匂いの生じる場所を、いっそう確かめにくい。しかし対象に接触する味覚と触覚は、その接触についてだけ知る。

CXIII. — 時間について。

時間は連続量に数えられるが、目に見えず、物体を持たないため、幾何学の力のもとに完全に収まるわけではない。幾何学は、目に見える物体について絶えず行われるように、無限に多様な図形や立体によって時間を分割することはできないのである。時間が一致するのは、幾何学の最初の原理、すなわち点と線だけである。点は時間においては瞬間に対応し、線はある時間の量の長さに似ている。そして点がその線の始まりや終わりであるように、瞬間は、与えられたどの時間の長さについても、その終端と始まりである。線が無限に分割できるなら、時間の長さも、そのような分割と無縁ではない。また、分割された線の各部分が互いに比例し得るなら、時間の各部分も互いに比例し得るであろう。

CXIV. — 時間の概念について。

時間の性質を、幾何学的な性質から切り離して記述せよ。

CXV. — 無の概念について。

最も小さな自然の点は、すべての数学的な点より大きい。これは、自然の点が連続量であり、すべての連続体は無限に分割できるのに対し、数学的な点は量ではないために分割できないことから、証明される。

あらゆる連続量は、知性によって無限に分割できる。

われわれの間にある事物の大きさのうちでは、無の存在が首位を占める。その働きは、存在を持たないものの間に及び、その本質は時間に接して、過去と未来とのあいだにある。そして現在のものは、何一つ持たない。

この無は、部分が全体に等しく、全体が部分に等しく、分割可能なものが分割不可能なものに等しい。そして、それを表す第十の数字について算術家が示すように、割っても掛けても同じ総量を生じ、足しても引いても同じである。その力は、自然の事物の間には及ばない。

[無と呼ばれるものは、時間と言葉の中だけに見いだされる。時間の中では過去と未来とのあいだにあって、現在のものを何一つ保たない。同じように言葉の中では、存在しないと言われるもの、または不可能なものの中にある。]

時間のかたわらで、無は過去と未来とのあいだにあり、現在のものを何一つ持たない。また自然にあっては、不可能なものの仲間となる。したがって、述べたことから、無は存在を持たない。無があるところには、真空があることになるからである。

道徳についての思索。

I. — レオナルドの研究。

私は人々に、彼らの存在の第一の、あるいはおそらく第二の原因の起源を明らかにする。

II. — その解剖学への序文。

こうした図を見るより、解剖を行うところを見る方がよいと言う君よ、これらの図に示されるすべてを、一体の人体の中で見ることができるなら、君の言うことは正しいであろう。しかし、その一体では、いかに知恵を尽くしても、ごくわずかな血管を見て知るにすぎない。その血管について、真実で完全な知識を得るために、私は十体以上の人体を解体した。他のあらゆる部分を取り去り、血管の周囲にある肉をすべて、ごく細かな小片にして除去し、毛細血管からの気づかないほどの出血を除いて、血を流させないようにしたのである。これほどの時間には、一体だけでは足りなかったので、全体の知識が完成するまで、次々と多くの人体を調べていかなければならなかった。違いを見るために、私はその全体を二度繰り返した。

君がこの仕事を愛しても、おそらく胃のむかつきに妨げられるであろう。それが妨げにならなくても、切り刻まれ、皮を剥がれ、見るも恐ろしいそのような死体と、夜の時間をともに過ごすことへの恐怖に、妨げられるかもしれない。それにも妨げられなければ、おそらくこのような図示にふさわしい、すぐれた素描の力が欠けているであろう。

素描の力があっても、それには遠近法が伴わないかもしれない。それが伴っても、幾何学的証明の方法や、筋肉の力と働きを計算する方法が欠けているであろう。また、おそらく忍耐が欠け、勤勉ではないであろう。

こうしたものがすべて私に備わっていたかどうかについては、私の著した百二十冊の書が、是か非かの判決を下すであろう。それらの仕事において私を妨げたのは、貪欲でも怠慢でもなく、ただ時間だけであった。さらば。

III. — 解剖学から倫理学への移行。

したがって、ここでは十二の全身図によって、小世界の宇宙誌、すなわち人間の構造を君に示そう。私より前にプトレマイオスがその『宇宙誌』で行ったのと同じ順序による。次に、彼が全体を諸地方に分けたように、私は人体を諸部分に分けよう。そして各部分の働きをあらゆる面から述べ、それらの部分による場所的運動に関して、人間の全体の姿と力を知るためのものを、君の眼前に置こう。

そして、私が人間の姿を記述するのと同じように、人間の本性やその習性も示せるよう、われわれの創造主が許してくださいますように。

IV. — 解剖学研究から導かれる倫理的帰結。

おお人間よ、この私の労作のうちに自然の驚くべき営みを考察する君が、それを破壊することを忌まわしいと判断するなら、今、人間の命を奪うことはこの上なく忌まわしいと考えよ。その体の構成が、驚くべき技巧によるものに思えるなら、そのような建築の中に住む魂に比べれば、体は無に等しいと考えよ。まことに魂は、それがいかなるものであれ、神的なものである。それゆえ、その魂が自分の作品の中に、思うままに住むことを許せ。君の怒りや悪意によって、これほど偉大な生命を壊そうと望んではならない。まことに、生命を尊ばない者は、それを持つに値しないのである。

魂はこれほど不本意に体から離れるのだから、その涙と苦痛には、確かに理由があると私は思う。

V. — 実験的方法と、人間の行為に対するその帰結。

これらの規則は、真実と虚偽とを君に見分けさせるものである。それによって人々は、可能なことを、いっそう節度をもって期待するようになり、君も無知を身にまとわずにすむ。無知に覆われていれば、結果が得られないとき、絶望して憂鬱に陥ることになるであろう。

VI. — レオナルドが学問に課した限界。

多くの人が器具を用いて、いくらかのあいだ水中にとどまる方法について。また、食べずにいられるあいだじゅう水中にとどまる私の方法を、どのように、なぜ書かないのかについて。これを公表したり広めたりしないのは、人間の悪い本性のためである。人間は海の底で殺人を行い、船底を壊して、中にいる人々もろとも沈めるために使うであろう。他の方法を私が教えるとしても、それらには危険はない。革袋やコルクの上に置かれた呼吸用の管の口が、水面上に見えるからである。

VII. — 降霊術への反論。

人間の考えのうち、最も愚かだと見なすべきものは、降霊術を信じるに至る考えである。降霊術は、単純で自然なものを生み出す錬金術の姉妹であるが、自分自身に似たもの、すなわち嘘しか生まないだけに、錬金術よりはるかに非難に値する。

錬金術では、これは起こらない。錬金術は、自然の単純な産物を扱う役目を果たすからである。その仕事は自然自身にはできない。自然には有機的な道具がなく、この仕事のためにガラス器などをつくった人間が手を用いて行うことを、自然は行えないからである。

しかし降霊術は、風に動かされて翻る、まさに旗印であり、愚かな群衆の導き手である。群衆は、その術の無限の効果を、絶えず吠え立てて証言する。そして書物は、呪文や霊が働くこと、舌もなく話すこと、話すのに不可欠な有機的器官もなく話すこと、非常に重い荷を運び、嵐や雨を起こし、人間を猫や狼や他の獣に変えることを断言する言葉で満たされる。だが、真っ先に獣になるのは、こうしたことを断言する人々である。

確かに、低い知性の者たちが信じるとおり、この降霊術が実在するなら、人間を害するにも役立つにも、これほど力のあるものは地上にないであろう。もし、その術が、静かな晴天を乱して夜のような姿に変え、稲光や風を起こし、恐ろしい雷鳴と闇を走る稲妻を生じさせ、激風によって高い建物を壊し、森を根こそぎにし、その木々で軍勢を打ち、打ち破って倒し、さらに有害な嵐によって耕作者から労苦の報いを奪う力を持つというのが本当ならば、どうであろう。敵から収穫を奪う力を持つほど、大きな損害を与えられる戦法がほかにあるだろうか。風に命じ、どの艦隊でも破壊し沈める暴風を起こす者の戦いに比べられる海戦があるだろうか。まことに、そのような激しい力に命じる者は諸民族の支配者となり、人間のいかなる知恵も、その有害な力に抵抗できないであろう。大地の体内に隠された財宝や宝石も、すべてその者には明らかになるであろう。彼は空中を、東から西へ、また宇宙のあらゆる相対する方面へと、運ばれるであろう……。

しかし、これ以上述べる必要があろうか。この術によってできないことが何かあろうか。自分の死を取り除くことを除けば、ほとんど何もない。もしそれが真実なら、いかなる神をも顧みず、それほどこの術を欲しがる人間の間に、なぜ残っていないのか。

そして私は知っている。自分の欲望一つを満たすためなら、神を全宇宙もろとも滅ぼすであろう人間が、無数にいることを。

人間にそれほど必要でありながら、人間の間に残っていないのなら、それはかつて存在したこともなく、これから存在すべきものでもない。身体において不可視であるという霊の定義からも、そうなる。諸元素の内部には、物体のないものは存在しない。物体のないところは真空であり、諸元素の内部に真空はないからである。もしあれば、ただちに元素によって満たされてしまうであろう。

VIII. — 霊について。

この紙面の裏側までのところで、われわれは霊の定義についてこう述べた。霊とは身体と結びついた力である。それ自身では存立することも、いかなる場所的運動をすることもできないからである。もし君が、それ自身で存立すると言うなら、それは諸元素の内部ではあり得ない。霊が非物体的な量であるなら、そのような量は真空と呼ばれるが、自然の中に真空は存在しないからである。仮に存在するとしても、その真空が生じた元素が流れ込むことによって、ただちに満たされてしまうであろう。

そこで、重さの定義、すなわち「重力は、ある元素が他の元素の中へ引かれ、または押されることによって生じる偶有的な力である」という定義から、次のことが導かれる。どの元素も同じ元素の中では重さを持たず、自分より軽い上位の元素の中では重さを持つ。これは次の例でわかる。水の一部分は、他の水より重くも軽くもないが、それを空気中へ引き上げるなら、そのとき重さを得る。その重さはそれ自身を支えられないので、必然的に落下し、水の欠けている場所へ、水の中に落ち込む。霊が諸元素の中にあるなら、同じことが起こるであろう。それがある元素の中に、絶えず真空を生じさせることになるので、それらの元素から出てしまうまで、絶えず天へ向かって逃れなければならないのである。

IX. — 霊は諸元素の間で身体を持つか。

霊は、身体なしに諸元素のあいだに自ら存立することも、上方へ向かうのでないかぎり、自らの意志による運動をすることもできないと、われわれは証明した。しかし今は、この霊が空気の身体を取るなら、その空気の中に浸透しなければならないことを述べよう。もし一つにまとまったままなら、空気から分離し、前に述べたように、真空の発生に至るからである。したがって空気の中にとどまるには、ある量の空気の中に浸透しなければならない。そして空気と混ざるなら、二つの不都合が生じる。第一に、混ざった空気の量を軽くするので、その軽くなった空気は、それ自身で上へ飛び、より濃い空気の中にはとどまらない。さらに、このように散らばった霊の力は分裂し、本性を変えるので、もとの力を失ってしまう。

第三の不都合が加わる。霊の取ったこの空気の身体は、風の侵入を受ける。風は、まとまっている空気の部分を絶えず分離し、引き裂き、他の空気の中で回転させ、巡らせる。それゆえ、その空気の中に浸透した霊も、浸透した空気が引き裂かれるのとともに、手足をばらばらにされ、すなわち引き裂かれ、壊されるであろう。

X. — 空気の身体を取った霊は、自ら動けるか否か。

ある量の空気に浸透した霊が、その空気を動かすことは不可能である。このことは、「霊は、自らが浸透する量の空気を軽くする」と述べた前の命題から明らかになる。それゆえ、その空気は他の空気の上へ上昇するであろうが、それは空気が自らの軽さによって行う運動であって、霊の意志による運動ではない。また、その空気が風に出会えば、本論の第三命題によって、その空気は風に動かされるのであって、そこに浸透した霊に動かされるのではない。

XI. — 霊は話せるか否か。

霊が話せるか否かを示すには、まず声とは何か、どのように生じるかを定義しなければならない。そこで次のように言おう。声とは、密な物体に擦られた空気の運動であり、または密な物体が空気に擦られることである。両者は同じことである。この密なものと疎なものとの摩擦は、疎なものを圧縮し、抵抗を生じさせる。また、速い疎なものと遅い疎なものは、接触するところで互いに圧縮され、音や非常に大きな騒音を生じさせる。ほどほどの運動をもって疎なものが疎なものの中を動くと、音あるいはざわめきが生じる。空気の中で音を生む大きな炎のようなものである。速い疎なものが、動き得る疎なものへ入り込むと、疎なもの同士によって非常に大きな騒音が生じる。大砲から出た火炎が空気を打つ場合や、雲から出た炎が、雷の発生に際して空気を打つ場合のようなものである。

したがってわれわれは、霊は空気の運動なしに声を生み出せないと言おう。霊の内部には空気がなく、持たない空気を自分から押し出すこともできない。そして、自分が浸透している空気を動かそうとすれば、霊は増大しなければならないが、量を持たないなら増大できない。これは次のように述べる第四命題による。疎なものは、運動を始めるための固定した場所を持たなければ、動かない。特に、元素の中で元素を動かさなければならない場合にはそうである。元素は、蒸発するものの中心に対して一様な蒸散によるのでなければ、それ自身では動かない。これは、水中にある手で海綿を握りしめた場合に似ている。その海綿を内部で握る手の指の間の隙間から、水があらゆる方向へ、等しい運動で逃れ出るのである。

霊には分節された声があるか、また霊は聞かれ得るか。

そして、聞くとは、見るとは何か。声の波は、対象の像が眼へ向かうように、空気の中を進む。

XII. — 同じ主題について。

おお数学者たちよ、この誤りに光を当てよ。

霊には声がない。声のあるところには身体があり、身体のあるところには場所の占有があって、その場所の向こうに置かれたものを眼が見るのを妨げるからである。したがって、その身体は自分自身で、すなわち自らの像によって、周囲の空気をすべて満たす。

XIII. — 同じ主題について。

空気の運動や衝撃のないところに声はあり得ず、器官のないところに空気への衝撃はあり得ず、物体のない器官もあり得ない。そうである以上、霊は声も、形も、力も持てない。そして身体を取れば、扉の閉ざされたところを通り抜けたり、その中へ入ったりすることはできない。もし誰かが、「集められ、圧縮された空気によって、霊はさまざまな形の身体を取り、その器官によって話し、力強く動く」と言うなら、この点について私はこう言う。腱と骨のないところでは、想像上の霊が行ういかなる運動にも、力が働くことはあり得ない。

XIV. — 人相についての研究。

誤った人相占いと手相占いについては、詳しく述べない。それらには真実がないからである。このような空想に科学的な基礎がないことからも、それは明らかである。

顔の徴が、人間の本性、その悪癖や気質を、いくらか示すのは事実である。しかし、それは顔においてである。

a)頬を口の唇や鼻孔、眼窩から分ける線は、陽気でよく笑う人では明瞭である。それらの線があまり目立たない者は、思索を行う人である。

b)顔の各部の起伏が大きく深い者は、獣のようで怒りっぽく、理性が乏しい。

c)眉の間の線がきわめて明瞭な者は、怒りっぽい。

d)額の横線が深く刻まれた者は、ひそかに、あるいは公然と、多くの嘆きを抱く人である。このように、多くの部分について言うことができる。

しかし手についてはどうか。非常に大きな軍勢が、同じ時刻に刃に倒れた例を、君は見つけるであろうが、その手の線は一人として同じではない。難船の場合も同様である。

XV. — 永久運動を探求する者たちへの反論。

川を流れる水は、呼び寄せられるか、追い立てられるか、自ら動くかのいずれかである。呼び寄せられる、すなわち求められるのなら、求める者は何者か。追い立てられるのなら、追い立てる者は誰か。自ら動くのなら、思考力を持つことを示す。しかし絶えず形の変わる物体が思考力を持つことは、不可能である。そのような物体には判断力がないからである。

XVI. — 続き。

水はそれ自身では固い形を持たず、下降するのでなければ、自ら動くこともない。

水は、囲い込まれなければ、それ自身では静止しない。

XVII. — 同じ主題について。

おお永久運動の思索者たちよ、そのような探求の中で、君たちはいかに多くの空しい設計をつくり出したことか。金を探し求める者たちの仲間になるがよい。

XVIII. — 戒め。

不可能なことを望んではならない。

XIX. — 秘術への反論。

「私は奇跡を起こしたい。」ならば、もっと静かな他の人々より少ないものしか持たぬがよい。一日で金持ちになろうとする者は、長いあいだひどい貧乏の中で暮らす。金や銀をつくり出そうとする錬金術師、静止した水が永久運動によって自分自身に運動の生命を与えることを望む技師、そして最も愚かな降霊術師や魔術師に起こり、永遠に起こり続けるとおりである。

XX. — 医師への反論。

人々は、自分では知らない病気の医師に選ばれる。

XXI. — さらに。

誰もが、生命を壊す者である医師に渡すために、財産をつくろうと望んでいる。

それゆえ、医師は金持ちであるはずだ。

XXII. — さらに。

健康を保つように努めよ。それは、医師に用心すればするほど、よく成し遂げられるであろう。彼らの調合物は錬金術の類だからであり、錬金術についての書物の数は、医学について存在する書物より少なくない。

XXIII. — 動物の生命における苦痛の働き。

自然は人間の運動に際して、打ち当てると痛みを感じる部分を、すべて前面に置いた。これは脛や額、鼻で感じられることである。そしてこれは、人間を保護するためになされた。もしそうした部分にその痛みが備えられていなければ、そこで受ける多くの衝撃は、確実にその部分を破壊する原因となるであろう。

XXIV. — 植物に苦痛がない理由。

自然が、運動を伴う植物的な魂に苦痛を設けたのは、運動によって損なわれ、壊され得る器官を保護するためである。運動のない植物的な魂は、向かいに置かれた対象に打ち当たることがないので、植物に苦痛は必要ない。それゆえ、植物を折っても、動物の魂のように痛みを感じることはない。

XXV. — 生命を保つための情念の働き。

色欲は、生殖の原因である。

食欲は、生命を維持する。

恐れ、すなわち恐怖は、生命を長らえる。

苦痛は、器官を守る。

XXVI. — 勇猛と恐怖。

勇猛が生命を危険にさらすように、恐怖は生命を安全にする。

XXVII. — 体は魂の鏡である。

魂がその体にどのように住んでいるかを見たい者は、その体が日常の住まいをどのように使っているかを見るがよい。つまり、その住まいが秩序もなく乱雑なら、体もその魂によって、無秩序で乱雑に保たれているであろう。

XXVIII. — 肉体的物質からの魂の独立。

魂は、体の腐敗によって決して腐敗することはない。それはオルガンの音の原因である風と同じであって、管が一つ壊れれば、その欠陥のために、そこからよい効果が生じなくなるのである。

XXIX. — 記憶。

あらゆる損失は記憶の中に悲しみを残す。ただし最大の損失、すなわち死は別である。それは生命とともに、その記憶をも殺すからである。

XXX. — 精神は支配者である。

われわれの体は天に従い、天は精神に従う。

XXXI. — 理性と感覚。

感覚は地上的であり、理性は観照するとき、その外にある。

XXXII. — 感受性と苦悩。

感受性が大きいところでは、苦しみに際して、その苦悩もいっそう大きい。

XXXIII. — 徳は人間の真の財である。

失い得るものを富とは呼ばない。徳こそわれわれの真の財であり、それを持つ者の真の報酬である。徳は失われることなく、生命が先にわれわれを去らなければ、われわれを見捨てない。財物や外的な富は、いつも恐れを抱いて持つものであり、それらはしばしば、所有を失う持ち主を、恥と嘲りの中に置き去りにする。

XXXIV. — 時間の短さは心の錯覚である。

人間は誤って、時が逃げ去ることを嘆き、その速すぎることを責める。そして、その歩みは十分にゆとりがあることに気づかない。自然がわれわれに授けたよい記憶が、長く過ぎ去ったあらゆるものを、現在であるかのように思わせるのである。

XXXV. — 心と感覚の錯覚。

われわれの判断力は、さまざまな時間的距離で起こった事柄を、それにふさわしい本来の隔たりで判断しない。何年も前の多くのことが、現在に近く、すぐそばに思われ、多くの近いことが、われわれの青春の古さとともに、古く思われるからである。眼もまた遠くのものについて同じように働く。太陽に照らされているために眼に近く見えるものがあり、多くの近いものが遠く見える。

XXXVI. — 錘時計を考案しながら。

われわれのこの哀れな日々を分け、測るための方法や道筋には、不足がない。その日々を、空しく、いかなる称賛もなく、死すべき人間の心に自分の記憶を何一つ残さずに費やし、過ぎ去らせないことをも、われわれは喜ぶべきであろう。この哀れなわれわれの行路が、空しく過ぎ去らぬように。

XXXVII. — 徳ある生涯。

飛び去る歳月は、ひそかに流れ、人を欺く。年月より速いものは何もない。そして徳を蒔く者は、名声を刈り取る。

XXXVIII. — 警句。

眠る者よ、眠りとは何か。眠りは死に似ている。それならなぜ、生きながら眠りによって悲しき死者に似るよりも、死後に完全に生きている者と似るような仕事をしないのか。

XXXIX. — 瞬間は逃れ去る。

君が川で触れる水は、過ぎ去った水の最後であり、やって来る水の最初である。現在の時も、そのようなものだ。

XL. — 労働の高貴さ。

よく費やされた生涯は、長い。

XLI. — 勤勉な生涯。

よく費やされた一日が喜ばしい眠りを与えるように、よく用いられた生涯は喜ばしい死を与える。

XLII. — 破壊者たる時。

おお時よ、事物を食い尽くす者よ。おお嫉妬深い老いよ、おまえはすべてのものを壊す。老齢の硬い歯によって、あらゆるものを、少しずつ、緩やかな死によって食い尽くす。ヘレネは鏡を見ると、老いによって自分の顔にできた萎びた皺を見て泣き、なぜ二度もさらわれたのかと、ひそかに思う。

おお時よ、事物を食い尽くす者よ。おお嫉妬深い老いよ、それによってすべてのものは食い尽くされる。

XLIII. — 祝祭日に素描する者や、神の業を探究する者を非難する人々について。

愚者の中には、偽善者と呼ばれる一派がいる。彼らは絶えず、自分と他人とを、もっとも自分より他人を多く欺こうと努めるが、実際には他人より自分自身を多く欺いている。彼らこそ、祝祭日に、自然の作品が持つすべての形を真に知るための事柄を研究し、できるかぎりそれらの知識を得ようと熱心に努める画家たちを、とがめる者である。

しかし、そのようにとがめる者は黙るがよい。これこそ、これほど多くの驚くべきものをつくった者を知る道であり、これほど偉大な創造者を愛する道だからである。実に、大きな愛は、愛するものについての深い知識から生じる。君がそれを知らなければ、少ししか、あるいはまったく愛することができない。それの最高の徳のためでなく、そこから期待する利益のために愛するなら、骨をくれそうな人に向かって立ち上がり、尾を振って喜ぶ犬と同じことをしている。しかし犬も、その人の徳を知るなら、もしその徳が自分に適うものであれば、その人をはるかに深く愛するであろう。

XLIV. — 祈り。

主よ、私はあなたに従います。第一に、当然あなたへ捧げるべき愛のために、第二に、あなたは人間の生命を縮め、また延ばすことがおできになるからです。

XLV. — 祈願。

おお神よ、あなたは労苦という代価で、すべてのよきものをわれわれに売ってくださる。

XLVI. — 悪しき聖職者への反論。

そして多くの者は、愚かな群衆を欺く商売を始めた。もし誰かがその欺きを知っているとわかると、彼らはその者を罰した。

XLVII. — さらに。

ファリサイ人とは、聖なる修道士という意味である。

XLVIII. — すべてはすでに語られた。

新しく探究したところで、書けることは何もない。

XLIX. — 忍耐のたとえ。

忍耐が侮辱に対して果たす働きは、衣服が寒さに対して果たす働きと変わらない。寒さが増すにつれて着る物を増せば、寒さは君を害することができない。同じように、大きな侮辱に対して忍耐を増せば、その侮辱は君の心を傷つけることができない。

L. — 話し手への助言。

聞き手の耳を満たさない言葉は、いつでも退屈やうんざりした気持ちを与える。その徴として、聞き手がしばしば何度もあくびをするのが見られるであろう。それゆえ、好意を得たい人々の前で話す君よ、そのような退屈の兆しが見えたなら、話を短くするか、話題を変えよ。そうしなければ、望んだ好感の代わりに、憎しみと敵意を得るであろう。

また、人に話をさせずに、その人が何を好むかを知りたいなら、さまざまに話題を変えて話しかけよ。その人が、あくびも、眉をしかめることも、その他さまざまな動作もせず、熱心に聞いている話題があれば、話しているその事柄こそ、その人の好むものだと確信してよい。

LI. — 助言、貧苦、判断。

必要であればあるほど、ますます拒まれるものがある。それは助言であり、最も必要とする者、すなわち無知な者ほど、それを聞きたがらない。

恐れれば恐れるほど、逃げれば逃げるほど、近づいてしまうものがある。それは貧苦であって、それを逃れようとすればするほど、君はいっそう惨めになり、安らぎを失う。

作品が判断力と同じ水準にあるなら、それはその判断力にとって悪い徴である。作品が判断力を上回るなら、それは最悪である。自分がこれほどよくつくったことに驚く人が、その例である。判断力が作品を上回るなら、それは申し分のない徴である。そして、そのような状態にある者が若ければ、疑いなくすぐれた作者となるであろう。ただし、つくる作品は少ないであろう。しかし、その質は、人々を驚嘆させて立ち止まらせ、その完全さをじっと眺めさせるものになるであろう。

LII. — 格言、諺、象徴。

悪名ほど恐れるべきものはない。

この悪名は、悪徳から生まれる。

たとえ。焼いていない器は、壊れてもつくり直せるが、焼いた器はできない。

希望が死ぬとき、誓願が生まれる。

美しいものが、いつもよいとはかぎらない……。意味もないのに美しく話す者は、この過ちに陥っている。

一日で金持ちになろうとする者は、一年で絞首台に上る。

恩知らずにとって、施された恩恵の記憶は、もろい。

友を戒めるにはひそかに、褒めるには公然とせよ。

危険を恐れる者は、それによって滅びない。

私を害さない悪は、私を益さない善と同じである。

他人を害する者は、自分を安全にはしない。

過去について嘘をつくな。

愚かさは嘘の盾である。厚かましさが貧困の盾であるように。

自由のあるところに、規則はない。

必要とすればするほど、軽んじられるものがある。それは助言である。

よく理解していないものを褒めるのは悪いことだが、けなすのはさらに悪い。

君の口の中では言葉が凍りつく。君ならモンジベッロでもゼリーを固められるであろう。

脅しはただ、脅される者の武器である。

よく自らを正す者に、助言を求めよ。

正義は、力と知性と意志とを必要とし、蜂の王に似ている。

悪を罰しない者は、悪をなせと命じている。

蛇を尾でつかむ者は、そのあと蛇に噛まれる。

穴を掘る者の上に、その穴が崩れ落ちる。

快楽を抑えない者は、獣の仲間になるがよい。

自分自身を治めることより、大きな支配も、小さな支配も持つことはできない。

少ししか考えない者は、多く誤る。

終わりよりも、始めに抵抗する方が容易である。

危険にある船から与えられる助言ほど、誠実な助言はない。

若者の助言に身を委ねる者は、災いを覚悟するがよい。

君の評判は、子供の手にあるパンのように増えてゆく。

美しさと有用さは両立できないのか。要塞や人間に見られるように。

恐れない者は、しばしば災いに満ち、しばしば後悔する。

もし君の体がその徳に見合う大きさであれば、この世界には収まらないであろう。

幸運の入るところには、嫉妬が包囲を敷き、それと戦う。そして幸運が去るところには、苦痛と後悔が残される。

美と醜とは、互いによって、いっそう強く現れる。

しっかり歩く者は、めったに転ばない。

おお人間の惨めさよ、金のために、どれほど多くのものの奴隷となることか。

評判が実際の仕事を上回るとき、損害は最も大きい。

悪人をよく言うことは、善人を悪く言うのと同じである。

ここでは真実が、嘘によって嘘つきの舌を苦しめさせる。

生命を尊ばない者は、それに値しない。

死すべき美しいものは過ぎ去り、とどまらない。

労苦は、名声を腕に抱き、ほとんど姿を隠して去ってゆく。

延べ金は、火の中で精錬される。

杼。布が織り上がるまで、私は動き続ける。

曲がったものはすべて、まっすぐになる。

小さなことから、大きな破滅が生じる。

純金は試金によって知られる。

鋳型がそうであるように、鋳物もそうなる。

壁の足元を掘る者の上に、その壁が倒れかかる。

木を切る者には、その木が倒れることによって復讐する。

蔦は長命である。

裏切り者にとって、死は生である。他人と交わっても、信用されないからである。

幸運が来たら、しっかりつかめ。前から、と私は言う。後ろは禿げているからである。

恒心。始める者ではなく、続ける者。

障害は私を屈服させない。

どんな障害も、厳しい決意によって打ち砕かれる。

星を見定めた者は、振り向かない。

LIII. — 真実。

火は嘘、すなわち偽物を破壊し、闇を追い払って真実を取り戻す。

火は、あらゆる偽物を焼き尽くし、真実を見いだして示すものとして置かれるべきである。火は光であり、あらゆる本質を隠す闇を追い払うものだからである。

火は、あらゆる偽物、すなわち欺きを破壊し、ただ真実、すなわち金だけを保つ。

真実は、ついには隠れない。偽装も役に立たない。

これほど偉大な裁判官の前では、偽装は挫かれる。

嘘は仮面をつける。

太陽の下に、隠れたものは何もない。

火は真実を表すものとして置かれる。あらゆる偽物と嘘を破壊するからである。仮面は、真実を隠す虚偽と嘘を表す。

LIV. — 善をなすこと。

役に立つことに疲れるより先に、動きを奪われよう。役に立つことより先に、動きが尽きるであろう。

疲れるより先に死を。奉仕することに飽きることはない。役に立つことに疲れることはない。

どれほどの仕事も、私を疲れさせはしない。

謝肉祭のための標語である。Sine lassitudine――疲れを知らず。

ドゥカート金貨や宝石が降り注ぐ手は、奉仕することに決して疲れない。しかし、その奉仕は自分の利益のためだけであり、われわれの意図するものではない。自然が私をそのように整える、自然に。

LV. — 忘恩。

忘恩の手の中に、これを描け。

木は、それを焼き尽くす火を養う。

あまねく闇を追い払う太陽が現れると、君は、自分の必要と便宜のために、特に君の闇を追い払ってくれた灯を消す。

LVI. — 嫉妬。

嫉妬は、でっち上げの不名誉、すなわち誹謗によって攻撃し、それによって徳をおびえさせる。

この嫉妬は、天に向かって侮辱の手ぶりをする姿で描く。できることなら、神に対してもその力を用いるであろうからである。顔には美しい見かけの仮面をつけさせる。棕櫚とオリーヴによって眼を傷つけられ、月桂樹とミルトスによって耳を傷つけられる姿にする。勝利と真実が嫉妬を害することを示すためである。多くの稲妻を吐き出させて、その悪口を示す。痩せ細り、干からびた姿にする。絶えず衰え続けているからである。心臓は、膨れた蛇に食い荒らさせる。矢筒を持たせ、矢は舌にする。しばしば舌によって害するからである。豹の皮をまとわせる。豹は嫉妬のために、策略を用いて獅子を殺すからである。花でいっぱいの器を手に持たせるが、その中は蠍や蟇や、その他の毒でいっぱいにする。死にまたがらせる。嫉妬は死なないかぎり、支配しようとする力が決して衰えないからである。手綱にはさまざまな武器をつける。それらはすべて、死の道具だからである。

徳は生まれるとすぐに、自分に敵対する嫉妬を生み出す。嫉妬のない徳があるより先に、影のない物体があるであろう。

LVII. — 名声。

名声だけが天へ昇る。徳あるものは神の友だからである。不名誉は、逆さまに描かなければならない。そのすべての行為は神に逆らい、冥府へ向かうからである。

名声は、羽毛の代わりに全身を舌で覆い、鳥の形に描くべきである。

LVIII. — 快楽と苦痛。

これは不快とともにある快楽であり、双生の姿に描かれる。一方が他方から離れることは決してないからである。互いに反対のものなので背中合わせにし、同じ根拠を持つので、一つの同じ胴体に立つ姿にする。快楽の根拠は、不快を伴う労苦であり、不快の根拠は、さまざまな放埒な快楽だからである。それゆえ、ここでは右手に葦を持つ姿に描く。葦は空洞で力がなく、それで刺す傷は毒を持つ。トスカーナでは、葦を寝床の支えに用いる。それは、そこで空しい夢が見られ、人生の大部分が費やされ、非常に有用な時間、すなわち、心が澄んで休まり、体も新たな労苦を引き受けるにふさわしい朝の時間が、多く捨てられることを示す。また、そこでは多くの空しい快楽が得られる。心では自分に不可能なことを想像し、体では、しばしば生命を損なう原因となる快楽を味わう。それゆえ、こうした根拠によって、葦を持たせるのである。

LIX. — 人間の生理的な劣等性。

人間の体の構造を調べて、私は次のことを見いだした。他のあらゆる動物の構造と比べ、人間はより鈍く粗い感覚を持つ。それに対応して、器官もより精巧さを欠き、感覚の力を受け入れる場所も、より収容力に乏しいのである。

獅子の類では、嗅覚が脳の実質の一部を占め、それが鼻孔へ下り、嗅覚を迎える広い受け皿となるのを、私は見た。その感覚は、多数の軟骨性の小嚢の中へ入り、前述の脳の伸び出す方へ、多くの通路を持っている。獅子の類の眼は、頭の大きな部分をその容れ物とし、視神経はただちに脳と結びついている。人間ではその反対が見られる。眼窩は頭の小さな部分であり、視神経は細く長く弱い。その働きが弱いため、昼もよく見えず、夜はさらに悪い。前述の動物は、昼より夜によく見える。その証拠は、夜に獲物を捕り、昼に眠ることに見られる。夜の鳥もまた、そうする。

LX. — 人間の倫理的な劣等性。

君は自分を動物の王と述べたが、私はむしろ獣の王と言う方がよいと思う。君こそ最大の獣だからである。君が動物たちを殺さずにおいたのは、のちにその子らを君の食欲のために差し出せるようにするためではないか。その食欲によって、君は自分をすべての動物の墓にしようとしたのではないか。

もし真実を語ることが完全に許されるなら、さらに言おう。しかし、人間のことから離れず、地上の動物には起こらない、極度の邪悪について語ろう。それらの中には、脳の欠陥による場合を除き、自分と同じ種を食べる動物は見つからない。そのような欠陥は、人間の場合のように、動物や母親のごく少数に見られるが、人間ほど多くはない。そしてこれは、獅子の類、豹、黒豹、山猫、猫などの肉食動物にしか起こらず、それらは時として子供を食べる……。

だが君は、子供のほかに、父、母、兄弟、友人まで食べる。それでも足りず、他人の島々へ狩りに出かけ、ほかの人間を捕らえ、その睾丸を半ば裸にして太らせ、自分の喉へ押し込む。いったい自然は、君が満腹になれるほど多くの植物の食物をつくり出してはいないのか。また、それらだけで満足しないなら、プラティーナや他の料理の著述家が書いたように、それらを混ぜ合わせて、無数の料理をつくれないのか。

注 mezzo nudi li testiculiは構文・本文が不明瞭なため、字義に即して「睾丸を半ば裸にして」と訳した。校訂上の確認が必要。

LXI. — レオナルドの分類。

人間――人間の記述。その中には、ヒヒや猿など、人間とほとんど同じ種である多くのものを含める。

LXII. — 動物としての人間。

人間の歩行について。人間の歩行は、常に四足動物の一般的な歩き方と同じである。四足動物が馬の速歩のように足を交差して動かすのと同じく、人間も四肢を交差して動かすからである。すなわち、歩くために右足を前へ出すなら、それとともに左腕を前へ出し、いつもこのように続ける。

LXIII. — 動物から人間へは、緩やかな移行がある。

四足動物の運動を記述する、独立した論考をつくれ。その中には人間も含めよ。人間も幼いころには四つ足で歩くからである。

LXIV. — 流行の変遷。

私の生涯のうち、少年のころに見たことを覚えている。身分の低い者も高い者も、衣服の端を、上でも下でも横でも、あらゆるところで切り込み飾りにしていた。そしてその時代には、それが非常に美しい工夫に思われたので、その切り込み飾りにさえ、さらに切り込みを入れた。頭巾も靴も、同じようにして身につけ、衣服の主な縫い目から出る、さまざまな色のひだ飾りにも切り込みを入れていた。

その後、靴、帽子、財布、攻撃に用いる武器、衣服の襟、胴着の裾、衣服の引き裾、実際には美しく見せたがる者の口に至るまで、長く鋭い先端で尖らせるのを見た。

別の時代になると、袖が大きくなり始め、一つ一つの袖だけで衣服全体より大きいほどになった。次には、首の周りの衣服を高くし始め、ついには頭全体を覆った。その後は首の周りを開け始め、衣服が肩の上に載らなくなったので、肩で支えることができないほどになった。

次には衣服を非常に長くし始め、人々は足で踏まないように、いつも両腕いっぱいに布を抱えていた。その後は反対の極端に至り、腰と肘までしか着なくなり、しかも非常にきつかったので、大きな苦痛を受け、多くの者は下腹部を損なった。足もひどく締めつけられたので、足指は互いの上に重なり、胼胝だらけになった。

LXV. — レオナルドの弟子、ジャコモ。

一四九〇年四月二十三日、この書物を始め、馬の制作を再開した。

ジャコモは、一四九〇年のマグダラのマリアの祝日に、十歳で私と暮らすようになった。

盗人、

嘘つき、

頑固者、

大食い。

二日目に、シャツ二枚、靴下一組、胴着一着を裁たせた。そして、それらを支払うための金を脇に置くと、彼はその金を財布から盗んだ。私は確かな証拠を持っていたが、どうしても白状させられなかった。四リラ。

翌日、私はジャコモ・アンドレアと夕食をともにしに行った。このジャコモは二人分を食べ、四人分の悪事を働いた。小瓶を三つ壊し、葡萄酒をこぼし、そのあと私のところへ来て、また夕食を食べたのである。

また、九月七日、私と同居していたマルコから、十二ソルドの価値のある銀の尖筆を盗み、彼の小さな書斎から持ち去った。マルコがさんざん探したあと、それはジャコモの箱の中に隠されているのが見つかった。一リラ二ソルド。

注 本文の価額12 soldiと末尾の会計記載1リラ2ソルドの不一致は原文どおり保持。

また、翌年一月二十六日、私がガレアッツォ・ダ・サンセヴェリーノ殿の家で、その馬上槍試合の祝宴を準備していたときのことである。その催しに必要な野人の衣装を試着するため、数人の従僕が服を脱いでいた。ジャコモは、他の衣類とともに寝台の上に置かれていた、その一人の財布に近づき、中に見つけた金を取った。二リラ四ソルド。

また、その家で、師アゴスティーノ・ダ・パヴィアから、小長靴を一足つくるためのトルコ革を贈られたが、ジャコモは一か月のうちにそれを盗み、靴の修繕屋に二十ソルドで売った。その金で、本人が私に白状したところによれば、アニス菓子や砂糖菓子を買った。二リラ。

また、四月二日にも、ジャン・アントニオが自分の素描の上に銀の尖筆を置くと、ジャコモがそれを盗んだ。それは二十四ソルドの価値があった。一リラ四ソルド。

第一年。外套一着、二リラ。シャツ六枚、四リラ。胴着三着、六リラ。靴下四組、七リラ八ソルド。裏地付きの服、五リラ。靴二十四足、六リラ五ソルド。帽子一つ、一リラ。帯、紐など、一リラ。

LXVI. — 人間を分析するレオナルド。

今ある、またかつてあった、すべての悪をこの男が実行しても、その不正な心の欲望を満たすことはないであろう。どれほど長い時間をかけても、私はこの男の本性をあなたに描き尽くせないであろう。

LXVII. — ジュリアーノ・デ・メディチへの手紙の断片。

いとも高貴なるわが殿、待ち望んでいたご健康の回復を、私は非常に喜びましたので、自分の病までも、ほとんど私から去ったほどです。しかし、あのドイツ人の詐欺師の悪意によって、閣下のご希望に応えられなかったことが、大いに残念です。彼のためには、喜ばせられると思ったことは、何一つ怠りませんでした。さらに、私とともに住み、暮らすよう招きました。そうすれば、彼のする仕事を絶えず見られ、誤りも容易に直せますし、また彼はイタリア語を学び、それによって通訳なしに容易に話せるようになるはずだったからです。彼の金も、いつも期日前に渡しました。その後、彼は、鉄でつくるべきものと同じ、完成した木製の模型を欲しいと求め、それを自国へ持って行こうとしました。私はそれを断り、つくるべきものの幅、長さ、厚さ、形を図面で渡すと言いました。こうして、私たちは互いに不本意なままになりました。

第二に、彼は寝泊まりするところに、別の工房と万力や道具を設け、そこで他人のために働きました。その後は、衛兵のスイス人たちと昼食を取りに行きました。そこには暇な人々がいますが、彼はその点で誰にもまさっていました。たいていは二、三人で銃を持って出かけ、古い遺跡の間で鳥を撃ち、それが夕方まで続きました。

私がロレンツォをやって仕事を催促すると、彼は腹を立て、頭の上にこれほど多くの親方を置きたくない、自分の仕事は閣下の衣装部のためだ、と言いました。二か月が過ぎても、同じことが続きました。そこで衣装部のジャン・ニッコロに会い、ドイツ人が殿の仕事を終えたかと尋ねると、彼は、それは本当ではなく、ただ銃二丁の手入れを頼んだだけだ、と答えました。その後、私が催促させると、彼は工房を離れ、別の万力や鑢や、その他ねじを用いる道具をつくるのに多くの時間を費やしました。そこで絹糸を撚る小さな巻き機をつくり、私の者が入ってくるとそれを隠し、無数の罵りや小言を浴びせました。そのため、私の者は誰も、もう中へ入りたがりませんでした。

ついに私は、この鏡づくりの親方ジョヴァンニが、二つの理由から、すべてを仕組んだ者だと知りました。第一に、私がここへ来たために、閣下との交わりを奪われたと彼が言っていたからです……。もう一つは、この人々の部屋が……鏡をつくるために自分に適していると言ったことです。彼はそれを行動で示しました。この男を私の敵にしたうえ、自分の持ち物をすべて売らせ、工房を自分に譲らせたのです。彼はそこで、多くの職人とともに、市へ送る多量の鏡をつくっています。

LXVIII. — 哀れな学徒は、いかなる希望をもって、自らの力量への報酬を待てるのか。

この場合、私は少なからぬ敵を得ることになると知っている。誰も、私が自分のことを言っているとは信じないであろうからである。自分の悪癖を嫌う者は少なく、むしろ、そのような悪癖と本性上反対である人々だけが、それを嫌う。多くの者は父親を憎み、自分の悪癖をとがめる者との友情を壊し、それらに反する模範も、人間のいかなる助言も、受け入れようとしない。

もし徳があり善良な人が見つかるなら、その人をあなたがたのもとから追い出さず、敬意を払え。そうすれば、その人があなたがたの罠から逃れるために、あなたがたのもとを去って、隠遁所や洞窟、その他の孤独な場所へ身を寄せなくてすむ。そのような人が見つかるなら、敬意を払え。これらの人々こそ、あなたがたの地上の神々であり、あなたがたから彫像や像を贈られるに値するからである……。

ただし忠告しておくが、今でもインドのある地方で行われるように、その像を食べてはならない。そこでは、像が彼らの言う奇跡を行うと、祭司たちは、木でできているその像を切り刻み、土地のすべての人に分け与える。ただし、報酬なしにではない。そして各人は自分の分を細かく削り、最初に食べる料理の上へ振りかける。こうして、自分の聖者を食べたと信じ、これからはその聖者が、あらゆる危険から守ってくれると信じるのである。

人間よ、ここで自分の種について、どう思うか。君は自分で思うほど賢いのか。これは人間がすべきことなのか。

LXIX. — 脳と、かつてその中に住んでいた霊との対話。

その霊は、かつて去った脳に再び出会う。大きな声で、次のような言葉が発せられた。

「おお幸せな、幸運な霊よ、おまえがここを去ってからというもの、私は不本意ながら、この人間をよく知ることになった。これは卑劣さの住まいであり、あらゆる悪徳を伴う、最大の忘恩のまさしく貯蔵庫である。

しかし、なぜ私は言葉で空しく骨を折っているのか。罪のすべては、彼一人の中に見つかる。そして、彼らの中に何らかの善を持つ者がいたとしても、その者は私と同じように、ほかの人間たちから扱われる。要するに、私が得た結論はこうである。彼らが敵なら悪いが、友ならなお悪い。」

LXX. — 手紙の断片。

私のもとには、私から当然受けるはずのない多くのことを期待し、その思い上がった願望が裏切られたために、私からすべての友人を奪おうとした者がいます。しかし友人たちが賢明で、軽々しく彼の意に従わないとわかると、今度は訴えの口実を見つければ、私から庇護者たちを奪うと脅しました。そこで、このことを閣下にお知らせしました。彼がいつもの中傷を蒔こうとしても、その悪い本性の考えや行為を蒔くのに適した土地を、見つけないためです。彼が閣下を、自分の不正で邪悪な本性の道具にしようと試みても、その願望を裏切られますように。

芸術についての思索。

自由学芸に対する絵画の擁護。

I. — 序。

絵画は、自由学芸の数から追い出されたことを、もっともな嘆きをもって悲しんでいる。それは自然の真の娘であり、最も高貴な感覚によって行われるからである。

それゆえ著述家たちよ、君たちが絵画を自由学芸の数から除いたのは不当である。絵画は自然の作品だけでなく、自然が一度もつくらなかった無数のものをも扱うからである。

II. — なぜ絵画は学問に数えられないのか。

著述家たちは絵画の学問を知らなかったため、その段階や部分を記述できなかった。そして絵画自身も、その成果を言葉では示さないので、無知のために、前述の学問の後ろへ置かれた。しかし、それによって神性を失ったわけではない。

実際、彼らが絵画を高貴なものとしなかったのには、理由がないわけではない。絵画は、自然のすぐれた作品と同じように、他人の言葉の助けなしに、それ自身で高貴だからである。また、画家たちが絵画について記述し、学問にまとめなかったとしても、それは絵画の罪ではなく、それによって高貴さが劣るわけでもない。文筆を専門とする画家が少ないのは、絵画を理解するだけでも、一生では足りないからである。

このために、薬草や石や植物の効能を、人間が知らなかったから存在しないと言わなければならないだろうか。もちろん違う。人間の言葉や文字の助けがなくても、それらの薬草は、それ自体で高貴なままだと言うであろう。

III. — 絵画は普遍的な学問である。

その成果をより広く伝えられる学問ほど有用であり、反対に、伝えにくい学問ほど有用さが少ない。

絵画の成果は、全世界のあらゆる人々に伝えられる。その成果は視覚の力の対象であって、見ることによって共通感覚へ達するのと同じ仕方で、耳を通してそこへ達するのではないからである。

したがって絵画は、文字の場合のように異なる言語の通訳を必要とせず、自然が生み出すものと変わりなく、ただちに人類を満足させる。しかも人類だけでなく、ほかの動物をも満足させる。ある家の父親を写した絵で、それが明らかになった。まだ産着にくるまれた幼い子供たちがその絵をかわいがり、同じ家の犬や猫も、同様にしたのである。その光景は、見るも驚くべきものであった。

IV. — 絵画は広く複製して流布することができない。

模倣できる学問では、弟子は作者と等しくなり、その成果も同じようにつくれる。そのような学問は模倣者には有用であるが、ほかの財産のように相続物として残せない学問ほど、すぐれてはいない。

そうしたものの中で、絵画が第一である。数学では、教師が講じるだけのことを弟子も受け取れるが、絵画は、自然がその才を与えない者には教えられない。文字では写しが原本と等しい価値を持つが、絵画はそのように写されない。彫刻では作品の力に関して、型取りしたものが原作と等しいが、絵画はそのように型取りされない。印刷された書物のように、無数の子を生まない。絵画だけが高貴にとどまり、絵画だけがその作者をたたえ、貴重で唯一のものとして残り、自分と等しい子を決して生まない。この唯一性が、あらゆるところに流布するものより、絵画をすぐれたものにするのである。

東方の最も偉大な王たちが、姿を公にさらせば名声が減ると考え、覆いをかけ、身を隠して歩くのを、われわれは見ないだろうか。また、神々を表す絵が、非常に高価な覆いで常に隠されているのを見ないだろうか。それを開くときは、まず、さまざまな歌と種々の楽器によって、壮大な教会の儀式が行われる。そして覆いが取られると、そこに集まった大群衆はただちに地にひれ伏し、その絵が表す神格を礼拝し、失った健康の回復と永遠の救いを祈る。それは、その神格がそこに生きて現前しているかのようではないか。

このことは、他のいかなる学問や人間の仕事にも起こらない。もし君が、これは画家の力ではなく、描かれたもの自体の力だと言うなら、こう答えよう。その場合、人間の心は寝床にとどまったまま満足できるはずであり、絶えず見られるように、苦労や危険のある場所へ巡礼に行く必要はないはずである。

しかし、それでもそのような巡礼が絶えず行われるなら、必要もないのに、彼らを動かすのは何か。それはその像だと、君は確かに認めるであろう。その神格を姿と力において表し得る、ありとあらゆる書き物にも、この像をつくることはできない。したがって、その神格はこの絵を愛し、それを愛して敬う者を愛し、自分を写した別の像よりもこの絵において礼拝されることを喜び、それを通じて恩寵と健康の贈り物を与えるように思われる。その場所へ集まる人々の信仰によれば、そうなのである。

V. — 絵画に属する精妙な思索によって、絵画は人間のあらゆる仕事にまさること。

魂の窓と呼ばれる眼は、共通感覚が自然の無限の作品を、最も豊かに、最も見事に考察できる主要な道である。耳は第二であり、眼の見たことを語ってもらうことによって、高貴になる。

歴史家、詩人、そのほかの数学者たちよ、君たちが眼で物事を見ていなければ、文章でそれをうまく伝えられないであろう。詩人である君が、筆記具の絵によってある物語を描くなら、画家は絵筆によって、いっそう容易に満足を与え、理解するにも退屈の少ないものにする。君が絵画を無言の詩と呼ぶなら、画家も詩を盲目の絵画と呼べる。さて考えよ。盲目と無言とでは、どちらの傷がより有害か。詩人が画家と同じように創案において自由であっても、その虚構は絵画ほど人々を満足させない。詩が言葉によって形や動作や場所を表すのに対し、画家は形のそのものの似姿によって、それらの形を模倣するからである。さて見よ。人間により近いのは、人間という名か、その人間の似姿か。人間の呼び名は土地によって変わるが、その姿は、死によらなければ変わらない。

もし君たちが「詩の方が永続する」と言うなら、私はそれに対して、鍋職人の仕事はいっそう永続すると言おう。時は、君たちの作品やわれわれの作品よりも、それを長く保つからである。それでも、その仕事には創意が乏しい。また絵画も、銅板の上にガラス質の絵具で描けば、はるかに永続するものにできる。

われわれは芸術によって、神の孫と呼ばれ得る。詩が道徳哲学へ及ぶなら、絵画は自然哲学へ及ぶ。詩が考察する精神の働きを記述するなら、絵画は精神をもって運動に働きかける。詩が地獄の虚構で民衆をおびえさせるなら、絵画は同じものを実際に示して、同じことを行う。詩人を画家とともに、美しいもの、恐ろしいもの、忌まわしく醜いもの、怪物的なものを表す仕事に向かわせよ。詩人が思うままに形を変えても、画家の方がいっそう満足させずにいられるだろうか。絵が真物にあまりに似ているため、人間や動物を欺いた例が、見られなかっただろうか。

VI. — 絵画は現実をつくる。

想像と実物との関係は、影とその影を生む物体との関係と同じであり、詩と絵画との関係も同じである。詩はその事物を文字の想像の中に置くが、絵画はそれを眼の外に実際に与える。眼はそれらの像を、自然のものであるのと変わりなく受け取る。詩はそのような像なしに事物を与えるので、それらは絵画のように、視覚の力を通って印象受容部へは達しない。

VII. — 表象と記述。

絵画は、言葉や文字よりも、いっそう真実に、いっそう確かに、自然の作品を感覚に示す。しかし文字は、絵画よりも真実に言葉を表す。とはいえ、われわれは、自然の作品を表す学問の方が、作者の作品、すなわち人間の作品である言葉を表す学問より、驚嘆に値すると言おう。後者には、詩やその類の、人間の言語を通るものがある。

VIII. — 眼の卓越性。

観照する人々に宇宙の美を映し出す眼は、これほどすぐれたものである。それを失うことを受け入れる者は、自然のあらゆる作品の表象を、自ら奪うことになる。魂は眼を通して自然のさまざまなものをすべて自分に示し、それらを見ることによって、人間の牢獄の中でも満足している。だが眼を失う者は、魂を暗い牢獄に残す。そこでは、全世界の光である太陽を再び見る希望が、すべて失われる。夜の闇は短い命しか持たないのに、それをこの上なく憎む者が、どれほど多いことか。おお、もしそのような闇が、生涯の伴侶となったなら、その人々はどうするであろうか。

確かに、眼よりも聴覚や嗅覚を失いたいと思わない者は、一人もいない。聴覚を失うことは、言葉に帰着するあらゆる学問を失うことを認めるのに、それでもそうするのは、ただ世界の美を失わないためである。その美は、人工のものであれ自然のものであれ、人間の眼に映る物体の表面に存する。

IX. — 画家は直接、自然へ向かう。

絵画は詩より高貴な感覚に仕え、詩人よりも真実に自然の作品の姿をつくる。また自然の作品は、人間の作品である言葉よりはるかに高貴である。人間の作品と自然の作品との関係は、人間と神との関係と同じだからである。したがって、事実として真の似姿である自然の事物を模倣する方が、人間の行為や言葉を言葉で模倣するよりも、高貴なのである。

詩人よ、君がただ自分の専門によって、さまざまな事物の場所や形を創案して自然の作品を描こうとするなら、画家は無限の比率で、力において君を凌ぐ。しかし、詩とは別の他人の学問を身にまとおうとするなら、それらは君のものではない。占星学、修辞学、神学、哲学、幾何学、算術、その他のものがそうである。そのとき君はもはや詩人ではなく、別のものに変わり、ここで論じているものではなくなる。自然へ行こうとする君は、自然の作用について他人がつくった学問を媒介にして、そこへ行くのではないか。これがわからないのか。画家はそれ自身で、学者や他人の媒介の助けなしに、ただちに自然の作品の模倣へ向かうのである。

絵画によって、恋人たちは愛するものの像へ向かい、それを写した絵と話すように動かされる。絵画によって、人々は熱烈な誓願をもって神々の像を求めるように動かされ、同じ神々を言葉で表す詩人の作品を見に行くのではない。絵画によって動物は欺かれる。私はかつて、主人の似姿によって犬を欺く絵を見た。その犬は、絵に向かって大いに喜んでいた。同じように、犬が描かれた犬に吠え、噛みつこうとするのを見た。猿が描かれた別の猿に対して、無数の狂おしい振る舞いをするのも見た。燕が飛んできて、建物の窓から突き出すように描かれた鉄の棒に、とまろうとするのも見た。

X. — 絵画の表現力。

想像は、眼の見るような卓越したものを見ない。眼は対象の像、すなわち似姿を受け取り、印象受容部に渡し、そこから共通感覚へ送って、そこで判断がなされるからである。しかし想像は、記憶へ向かう場合を除いて、その共通感覚の外へ出ない。そして、想像されたものが非常にすぐれていなければ、そこで止まり、死ぬ。詩は、詩人の精神、すなわち想像力の中で、このような状態にある。詩人は画家と同じものを創案し、その虚構によって画家と同等であろうと望むが、実際には、前に示したように、はるかに隔たっている。したがって、このような創案について、絵画の学と詩との関係は、物体とそこから生じる影との関係と同じだと、真実に言える。それどころか、隔たりはさらに大きい。物体の影は少なくとも眼を通って共通感覚へ入るが、その物体の想像は共通感覚に入るのではなく、暗い眼の中で、そこに生まれるからである。おお、暗い眼の中で光を想像することと、闇の外に実際にそれを見ることとのあいだには、何という違いがあることか。

詩人よ、君が血なまぐさい戦闘を描こうとするとしよう。恐ろしく死をもたらす兵器の煙によって暗く陰った空気、それを濁らせる濃い塵、恐るべき死におびえた哀れな人々の恐怖に満ちた逃走と入り混じる戦闘を。この場合、画家は君にまさる。画家がその学によってただちに示すものを、君が十分に描写するより前に、君の筆は擦り減ってしまうであろうからである。画家が一瞬で示すものを、君が言葉で示すより前に、君の舌は渇きによって妨げられ、体は眠気と空腹に妨げられるであろう。その絵画に欠けるのは、描かれたものの魂だけであり、それぞれの体には、一つの方向から示せる部分のすべてが備わっている。詩にとって、その戦争に携わる者のすべての動き、手足の各部分、その装いをことごとく述べるのは、長く、きわめて退屈なことであろう。完成した絵画は、それらのものをきわめて短い時間に、真実に、君の前に置く。その表現に欠けているのは、兵器の轟音、恐怖を与える勝者の叫び、おびえる者たちの叫びと涙だけであるが、それらもまた、詩人は聴覚に表すことができない。したがって、詩は盲人に最もよく働きかける学であり、絵画は聴覚を失った人に同じことをすると言おう。絵画は、よりよい感覚に仕えるだけ、詩より高貴である。

詩人の真の仕事はただ、互いに話す人々の言葉を創案することであり、それだけは、自然のものと同じように聴覚へ示す。言葉は、人間の声がつくる、自然のものそのものだからである。しかし、その他のあらゆる点では、詩人は画家に凌がれる。しかも、絵画の及ぶ多様性は、言葉の及ぶ多様性より、比較にならないほど大きい。画家は、ふさわしい語がないために言葉では名づけられない、無数のものをつくるからである。画家が動物や地獄の悪魔を創案しようとするなら、どれほど豊かな発明によって駆け巡るか、君には見えないのか。

私はかつて、神的なものを表す絵を描いたことがある。それに恋をした者が絵を買い、ためらわずに口づけできるよう、その神性を示す徴を取り除こうとした。しかし結局、良心が溜息と情欲に勝ち、その絵を家から出さずにはいられなくなった。さあ詩人よ、生きたものの姿を示さずに美を描き、それによって人間に、そのような欲望を起こしてみよ。もし君が「私は地獄や天国、その他の歓楽や恐怖を描こう」と言うなら、画家は君を凌ぐ。沈黙したままその歓楽を語り、あるいは君をおびえさせ、心を逃走へ向かわせるものを、眼前に置くからである。絵画は詩より早く感覚を動かす。もし君が、言葉によって民衆を泣かせたり笑わせたりすると言うなら、私はこう言おう。動かすのは君ではなく、弁論家であり、笑いなのである。ある画家は、見た者がすぐにあくびをする絵を描いた。眼をその絵に向けているかぎり、同じことが繰り返された。その絵自身が、あくびをする姿に描かれていたのである。

また、他の画家たちは、情欲に満ちた、非常に淫らな行為を描き、それを見る者を同じ遊びへと駆り立てた。詩にはこれはできない。君がある神々の姿を書いたとしても、その文章は、描かれた神像と同じ崇敬を受けないであろう。その絵には、絶えず誓願とさまざまな祈りが捧げられ、異なる地方や東方の海を越えて、さまざまな人々が集まるからである。そして、その人々が救いを求めるのは、文章ではなく、その絵なのである。

視力よりも先に、聴覚、嗅覚、触覚を失いたいと思わない者がいるだろうか。視力を失う者は、世界から追い出された者のようだからである。もはや世界も、いかなるものも見えない。そしてこの生は、死の姉妹である。

XI. — 動物の生命における眼の重要性。

動物は、聴覚を失うより視力を失う方が、いくつもの理由によって大きな害を受ける。第一に、見ることによって、栄養となる食物を見つけるが、それはすべての動物に必要だからである。第二に、見ることによって、つくられたものの美、特に愛を引き起こすものの美が理解されるからである。生まれながらに眼の見えない者は、聴覚によってその愛を受け取ることができない。いかなるものの美しさも、それが何であるかを知ったことがないからである。その人には聴覚が残り、それによって声や人間の話だけを理解する。その話の中には、名を与えられたすべてのものの名前がある。しかし、それらの名前を知らなくても、楽しく生きることはできる。生まれながらに耳の聞こえない者、すなわち話せない者が、話せない者にいっそう属する素描によって楽しむのに、それが見られる。

XII. — 絵画は無言の詩である。

恋する者よ、君の思い人の真の姿を、画家ほど真実に、言葉で眼前に置ける詩人がいるだろうか。君の過去の喜びが再び現れる川、森、谷、田園の風景を、画家より真実に示せる者がいるだろうか。

もし君が「絵画は、それが何を表すかを代わって語る者がいなければ、それ自体では無言の詩である」と言うなら、君の書物の方が、もっと劣った状態にあるとわからないのか。書物を代わって語る人間がいたとしても、語られる事柄は何も見えないが、絵について語る場合には、それが見えるからである。絵に描かれた動作が、その人物の心の状態に正しく対応しているなら、あたかも話しているように理解されるであろう。

XIII. — 絵画と詩についての続き。

絵画は、見えるが聞こえない詩であり、詩は、聞こえるが見えない絵画である。したがって、この二つの詩、あるいは二つの絵画は、知性へ入り込むべき感覚を交換している。両者とも絵画であるなら、最も高貴な感覚である眼を通って共通感覚へ達すべきであり、両者とも詩であるなら、より高貴さの劣る感覚である聴覚を通るべきだからである。

したがって、絵画の判断は生まれながらに耳の聞こえない者に委ね、詩の判断は生まれながらに眼の見えない者に委ねよう。絵画が、どのような出来事に携わる人物についても、その心の状態に適した動作で描かれているなら、生まれながらに耳の聞こえない者は、疑いなく、その行為と行為者の意図を理解するであろう。しかし、生まれながらに眼の見えない者は、詩人の示す、詩の名誉となるものを、決して理解しないであろう。詩の高貴な部分には、身ぶりや物語の構成、飾られた楽しい場所を描くことがあるからである。たとえば透明な水を通して、流れの緑の底が見え、草地や細かい砂利の上で波が戯れ、水草がそこに混じり、魚が素早く泳ぐような描写である。そのようなことは、生まれながらに眼の見えない者に語るのも、石に語るのも同じであろう。その人は、世界の美を構成するいかなるものも、すなわち、光、闇、色、物体、形、位置、遠さ、近さ、運動、静止という、自然の十の飾りを、一度も見たことがないからである。

しかし、耳の聞こえない者は、より高貴さの劣る感覚を失い、話し声を一度も聞かなかったために、いかなる言語も学べず、言葉もともに失ったとしても、人間の体に生じるあらゆる状態を、話すことができ耳も聞こえる者より、よく理解するであろう。同じように、画家の作品、その中に表されること、また、その人物たちが何に対応するかも理解するであろう。

XIV. — 続き。

絵画は無言の詩であり、詩は盲目の絵画である。どちらも、それぞれの能力の許すかぎり自然を模倣する。そして、アペレスがその『誹謗』で行ったように、どちらによっても、多くの道徳的なあり方を示すことができる。

しかし絵画からは、最も高貴な感覚である眼に仕えるため、調和的な比例が生じる。すなわち、さまざまな多くの声が同時に結び合わされると、調和的な比例が生まれ、それが聴覚を大いに満足させるため、聴き手が驚嘆して、ほとんど生を忘れるようになるのと同じである。しかし絵の中に置かれた、天使のような顔の釣り合った美しさは、はるかに大きな効果を生む。その比例から調和した合奏が生じ、音楽が耳に対してするように、同じ一時に眼に仕えるのである。そして、その美しさが写された人を愛する者に、この美の調和が示されれば、その人は疑いなく、驚くべき感嘆と、比べようもなく他のあらゆる感覚にまさる喜びとに満たされるであろう。

しかし詩が、絵画で前述の調和を構成する各部分を、一つ一つ描写することによって、完全な美を表そうとしても、そこから生じる魅力は、音楽で一つ一つの声を異なる時に別々に聞かせる場合と変わらない。それらからは何の合奏もできないであろう。それは、顔を一部分ずつ見せ、先に見せた部分をいつも覆い隠すようなものである。そのような示し方では、忘却が妨げとなって、いかなる調和的な比例も組み立てられない。眼はその視覚の力によって、それらを同時に包み込むことができないからである。

詩人が創案するいかなるものの美しさにも、同じことが起こる。その各部分が、別々の時に別々に語られるので、記憶は何の調和も受け取らないのである。

XV. — 絵画は、一瞬にしてその全体を眼に示す。

絵画は、そのつくり手が生み出したとおりの姿を、ただちに君へ示す。そして、自然のつくるいかなるものも与え得るほどの喜びを、最高の感覚へ与える。この場合、同じものを、より低い感覚である聴覚の道を通して共通感覚へ送る詩人は、誰かがある事柄の語られるのを聞く場合以上の喜びを、眼には与えない。

さて見よ。眼に喜びを与える事柄について、長い時間をかけて語られるのを聞くことと、自然のものを見るのと同じ速さでそれを見ることとのあいだには、どれほどの違いがあるか。また、詩人の作品は長い時間をかけて読まれても、理解されないことがしばしばあり、さまざまな注釈を加えなければならない。しかし、その注釈者が詩人の意図を理解することは、きわめて稀である。しかも読者は、時間の都合がつかず、その作品のごく一部しか読まないことが多い。これに対して画家の作品は、見る者にただちに理解される。

XVI. — 続き。

絵画は、視覚の力の中に、その本質をただちに示す。それは、印象受容部が自然の対象を受け取る、そのものの道を通して行われる。同時に、感覚を満足させる全体を構成する各部分の、調和的な比例も組み立てられる。詩も同じことを伝えるが、眼より劣った媒介による。その媒介は、名づけられたものの形象を、眼よりも混乱して、より遅く印象受容部へ運ぶ。眼は対象と印象受容部との真の媒介であり、眼前に現れるものの真の表面と形を、最高の真実さをもって、ただちに伝える。そこから調和と呼ばれる比例が生じ、甘美な合奏によって感覚を満足させる。それは、さまざまな声の比例が聴覚に対して行うのと変わらない。しかし聴覚は眼より劣る。そこで生まれるものは、生まれるだけ死に、生まれるのと同じ速さで死ぬからである。これは視覚では起こり得ない。美しい四肢の比例から成る人間の美を眼に示すなら、その美は音楽ほど死にやすくも、すぐに消え去りもしない。むしろ長くとどまり、見て考察することを許す。音楽が何度も奏されるときのように生まれ直すのでもなく、退屈させもせず、かえって恋をさせる。そしてすべての感覚が、眼とともにそれを所有したいと願い、競って眼と争おうとするように見える原因となる。口は、描かれたのが口であれば、それを自分の体のうちに得ようとするように見える。耳はその美について聞くことを喜び、触覚はすべての通路からその中へ入りたいと願い、鼻もまた、そこから絶えず吐き出される空気を受け取りたいと願う。

しかし、その調和の美は、時によって数年で壊される。画家が模倣したその美には、このことは起こらない。時はそれを長く保つからである。そして眼は、その働きに関するかぎり、描かれた美から、生きた美に接するのと同じ真の喜びを受け取る。そこには触覚が欠けている。触覚は、その時にはより強い兄弟となるが、自分の目的を果たした後は、神的な美を観照する理性を妨げない。この場合、その美を写した絵画は、大部分の代わりを果たす。しかし、ここで画家と同等であろうとする詩人の記述には、その代わりは果たせない。詩人は、その美の各部分を語る言葉が、時によって互いに引き離され、その間に忘却が入り込み、比例が分断されることに気づかない。その比例を名づけるには、非常に長々と述べなければならない。名づけられなければ、神的な比率から成る調和的な比例を組み立てることもできない。それゆえ、描かれた美の考察を収めるのと同じ一時のうちに、記述された美を与えることはできない。そして、眼を通して入れるべきものを、耳を通して入れようとする者は、自然に対して罪を犯す。耳には音楽の働きを入れよ。あらゆるものの自然な形を真に模倣する、絵画の学をそこへ入れてはならない。

人間よ、君に町の自分の住まいを離れさせ、親族や友人を残し、山や谷を越えて田園へ行かせるものは、世界の自然の美でなくて何だろうか。よく考えれば、その美は視覚だけによって味わわれるのである。この場合、詩人も自分を画家と呼びたいのなら、なぜ君は、詩人の描写したそのような風景を手に取り、太陽の過剰な暑さを感じずに、家にとどまらなかったのか。その方が有益で、労苦も少なかったのではないか。涼しいところで、動かず、病気の危険もなく行えるのだから。しかしそれでは魂は、その住まいの窓である眼の恩恵を享受できず、楽しい風景の像を受け取れなかった。曲がりくねる川の戯れによって潤される、陰の多い谷を見ることも、色によって眼に調和をつくるさまざまな花を見ることもできず、眼に示され得るその他のすべても同様だったであろう。だが画家が、寒く厳しい冬の季節に、同じ風景や、君が喜びを味わったほかの風景を描いて眼前に置いたならどうか。ある泉のそば、花咲く野で、緑の木々の甘い木陰に、恋する君が愛する人と一緒にいる姿を再び見ることができるなら、その有様を詩人が描写するのを聞く以上の喜びを、君は受けないだろうか。

ここで詩人は答え、上述の理由には譲歩する。しかし、さまざまな虚構の中で、存在しないものを創案し、人々に話させ、議論させるので、自分は画家にまさると言う。また、人々を動かして武器を取らせ、天、星、自然、技芸、あらゆるものを記述するとも言う。これに対しては、彼の語るそれらのどれも、彼自身に固有の職分ではないと答えられる。話し、演説しようとするなら、その点では弁論家に負けると認めさせるべきである。占星学について語るなら、それは占星家から盗んだものであり、哲学は哲学者から盗んだものである。要するに、詩には固有の座がなく、さまざまな職人のつくった商品を集める小間物商以上のものには、値しないのである。

詩人が、自然の中に実際にあるものを言葉で描くのをやめると、そのとき詩人は画家と同等ではなくなる。詩人がそのような描写を捨て、自分が語らせようとする人物の、飾られた説得的な言葉を記すなら、そのとき彼は弁論家となり、もはや詩人でも画家でもないからである。天について語れば占星家となり、自然や神のことを語れば哲学者や神学者となる。しかし、何であれ物を描くことへ戻れば、画家と同じように言葉で眼を満足させられるならば、画家の競争相手となるであろう。

しかし、絵画の学の神性は、人間の作品も神の作品も、その表面、すなわち物体の境界線によって限られるものを考察する。そしてその線によって、彫刻家に彫像の完成を命じる。絵画は、その原理である素描によって、建築家に、建物を眼に快いものとする方法を教える。さまざまな器をつくる者にも、金細工師、織工、刺繍師にも教える。さまざまな言語を表す文字を見いだしたのも絵画であり、算術家に数字を与えたのも絵画である。幾何学に図形の表し方を教えたのも絵画であり、遠近法の研究者、占星家、機械の設計者、技師に教えるのも絵画なのである。

XVII. — 占星学の学問は眼から生まれること。眼によって生み出されるからである。

占星学には、視線と、絵画の娘である遠近法との働きでない部分は一つもない。画家こそ、自らの芸術の必要によって遠近法を生み出した者だからである。遠近法は線なしには成り立たず、その線の内側には、自然が生み出した物体の、あらゆるさまざまな形が含まれる。それらなしには、幾何学者の技術も盲目である。

幾何学者が、線に囲まれたあらゆる面を正方形に、あらゆる物体を立方体に換算し、算術もその立方根と平方根によって同じことを行うとしても、これら二つの学問は、連続量と不連続量の知識にしか及ばない。自然の作品の美であり、世界の飾りである質には、取り組まないのである。

XVIII. — 詩人が画家と語る。

詩人は、自分の学問は創案と尺度であり、これが詩の単純な本体だと言う。すなわち、題材における創案と、詩句における韻律であり、そのあとであらゆる学問を身にまとうのだと。これに画家は答える。絵画の学にも、同じ義務、すなわち創案と尺度がある。創案は、自分が描かなければならない題材について、尺度は、釣り合いを失わないよう、描かれるものについてである。しかし自分は、そのような三つの学問を身にまとうのではなく、むしろ他の学問が、その大部分において絵画を身にまとうのだと。たとえば占星学は、絵画の主要部分である遠近法なしには何もできない。ここで言うのは数学的な占星学、すなわち天文学であり、偽りの吉凶判断のことではない。愚か者を食い物にして暮らす者よ、お許し願いたい。

詩人は、美しい格言に満ちた別のものを表す、ある事柄を記述するのだと言う。画家も、同じことを行う自由があり、その点では自分も詩人だと答える。また詩人が、あらゆる動物の種にとって主要なことである愛へ、人々を燃え立たせると言うなら、画家も同じことを行う力を持ち、しかもいっそう強く行える。恋する者の前に、愛するもののそのものの姿を置くからである。その者はしばしば、絵に口づけし、話しかけ、文筆家が同じ美を眼前に示しても行わないことを行う。また画家は、人間の知性をさらに凌ぎ、生きているいかなる女をも表していない絵にさえ、人々を恋させ、惚れ込ませる。

詩人が耳を通して感覚に仕えるなら、画家はより高貴な感覚である眼を通して仕える。しかし私は、この人々に次のことだけを求める。すぐれた画家に戦闘の激しさを描かせ、詩人に別の戦闘を書かせ、それらを一緒に公に展示してほしい。見る者がどちらに長くとどまり、どちらをよく考察し、どちらを多く褒め、どちらがより満足させるかがわかるであろう。確かに、はるかに有用で美しい絵画の方が、より好まれるであろう。ある場所に神の名を書いて置き、その向かいに神の姿を置けば、どちらがより敬われるかわかるであろう。絵画が自然のあらゆる形をその中に含むのに対して、君たちは名前しか持たず、その名前は形のように普遍的ではない。君たちが描写の効果を持つなら、われわれは効果の描写を持つのである。

一人の詩人を取り、その恋人に向かって女の美を描写させよ。一人の画家を取り、その女を描かせよ。自然が、審判をする恋人を、どちらへより強く向けるかを見るであろう。確かに、物事の試しにおいては、経験に判決を下させるべきである。君たちは絵画を手仕事の技芸の中に置いた。もし画家たちが君たちのように、文章によって自分の作品を褒めたたえることができたなら、これほど卑しい呼び名のもとに置かれはしなかったと思う。想像の中に見いだしたものを、手が描く手作業だからといって、絵画を機械的と呼ぶなら、君たち画家も、知性の中にあるものを、筆をもって手で描いている。また、報酬のために行うから機械的だと言うなら、それを誤りと呼べるとして、君たち以上にその誤りに陥る者がいるだろうか。大学で講義をするとき、より多く報酬を払う者のもとへ行かないだろうか。何らかの報酬なしに、仕事をするだろうか。ただし、そのような考えを非難するために言うのではない。あらゆる労苦は報酬を期待するからである。あるいは詩人は、「私は大きなことを意味する虚構をつくろう」と言うであろう。画家も同じことを行える。アペレスが『誹謗』を描いたように。

注 原文voi pittori(君たち画家)は対話の文脈からvoi poeti(君たち詩人)である可能性があるが、原文を保持して訳した。

XIX. — 画家と競った詩人に対する、マティア王の返答。

マティア王の誕生日に、ある詩人が、世界の利益のために王が生まれたその日をたたえる作品を持参した。一方、ある画家は王の恋人の肖像を贈った。王はただちに詩人の書物を閉じ、絵の方へ向き、大いなる感嘆をもって、その絵に眼を据えた。

そのとき詩人は、ひどく憤って言った。「王よ、お読みください、お読みください。無言の絵より、もっと中身のあることをお聞きになれます。」

すると王は、無言のものを眺めることをとがめられたので、こう言った。「詩人よ、黙れ。自分が何を言っているのかわかっていない。この絵は、眼の見えない者のための君の作品より、すぐれた感覚に仕える。私に、見て触れることのできるものを与えよ。ただ聞くことしかできないものではなく。君の作品を肘の下に置き、画家のこの作品を両手で持って、自分の眼に捧げるという私の選択を、非難してはならない。手は自ら、聴覚より高貴な感覚に仕えることを選んだからである。私は、画家の学と詩人の学との関係は、それぞれが対象となる感覚同士の関係と同じだと判断する。

われわれの魂は調和から成り、調和は、対象の比例が見られ、または聞かれる瞬間にしか生まれないことを、君は知らないのか。君の学には、一瞬にしてつくられる比例がなく、一つの部分が他の部分から次々と生じ、先のものが死ななければ、次のものは生まれないことが、わからないのか。

このため私は、君の創案が画家の創案より、はるかに劣ると判断する。ただ、それから調和的な比例が組み立てられないからである。それは、私の前にあるこの顔の神的な美を構成する、きわめて美しい各部分の比例のようには、聴く者や見る者の心を満足させない。それらは同じ一時にすべて結び合わされ、その神的な比例によって、これほど大きな喜びを私に与える。そのため、人間が地上でつくった他のいかなるものも、これ以上の喜びを与えられないと、私は判断する。」

XX. — 可視的世界の崇高さ。

永遠の暗闇にいるのと聴覚を失うのと、どちらを選ぶかと問われて、盲目になるくらいなら聴覚とともに嗅覚をも失う方がよいと直ちに答えないほど、分別のない者はいない。

視力を失う者は、創造されたあらゆるものの形とともに世界の美を失うからであり、耳の聞こえない者が失うのは、打たれた空気の運動によって生じる音だけで、それは世界のうちのごく小さなものである。君は、学問はその扱う対象が高貴であるほど高貴であり、それゆえ神の本質についての誤った想像さえ、より卑しいものについての想像より価値があると言う。ならばわれわれは、神の作品だけを扱う絵画は、人間の行いに関する偽りの作り話だけを扱う詩より高貴であると言おう。

XXI.詩人による画家への反論

「画家よ、君は自分の芸術が崇拝されていると言うが、その力を自分に帰してはならない。それは絵画が表している対象の力なのだ」

そこで画家は答える。「詩人よ、君もまた模倣者を名乗るのなら、なぜ言葉によって対象を表し、その言葉を含む君の文字までも崇拝されるようにしないのか」

しかし自然は詩人よりも画家を厚遇した。恩恵を受けた者の作品は、受けない者の作品より尊ばれて当然である。

だから、言葉で聴覚を満足させる者と、絵で視覚に喜びを与える者を、ともにたたえよう。ただし言葉は偶然的なもので、画家が模倣する自然の作品より劣った作者によって作られているのだから、それだけ言葉の者への称賛は少なくすべきである。

その自然は、それらの表面の形のうちに境界をもって現れている。

XXII.詩人と画家の比較の結論

詩は目の見えない者にも最高の程度まで理解され、絵画は耳の聞こえない者に同じことをなしうる、とわれわれは結論した。そこで、絵画が詩より優れ高貴な感覚に仕える分だけ、絵画は詩より価値があると言おう。この感覚の高貴さは、ほかの三つの感覚の高貴さの三倍であると証明されている。人は視覚を失うより、聴覚と嗅覚と触覚を失う方を選んだからである。

視覚を失う者は、宇宙の眺めと美を失い、生きたまま墓に閉じ込められ、その中で動き、生きている者のようになる。

目が全世界の美を抱え込むことを、君は見てとらないのか。目は天文学の頭であり、宇宙地理学を作り、人間のあらゆる技芸に助言してこれを正し、人を世界のさまざまな場所へ動かす。目は数学の君主であり、その学問はきわめて確実である。星々の高さと大きさを測り、元素とその位置を見いだしたのも、星の運行によって未来を予言させたのも目である。目は建築と遠近法を、また神々しい絵画を生んだ。ああ、神の創造したあらゆるものにもまして卓越したものよ。どのような賛辞なら君の高貴さを表せよう。どの民族、どの言語なら君の真の働きを十分に語れよう。

これは人体の窓であり、魂はそこを通して世界の美を観照し、享受する。それゆえ魂は人間という牢獄に満足するが、これがなければその牢獄は魂の責め苦となる。このため人間の工夫は火を見いだし、火によって目は、先に暗闇に奪われたものを取り戻す。目は農耕と楽しい庭園によって自然を飾った。

だが、これほど壮大で長い論述を続ける必要があろうか。目によってなされないものが何かあるだろうか。目は人々を東から西へ動かし、航海を見いだした。そしてこの点では自然にまさる。自然の単純なものには限りがあるが、目が手に命じて作らせる作品は無限だからだ。画家が動物、草、木、土地の無限の形を創造することが、それを示している。

XXIII.音楽を絵画の妹と呼ぶべきこと

音楽は絵画の姉妹としか呼ぶべきではない。音楽は、目に次ぐ第二の感覚である聴覚の対象だからである。そして比例をもつ各部分を同時に働かせて結び合わせ、調和を構成する。それらの部分は一つ、あるいは複数の調和的な拍のうちに生まれ、消えることを余儀なくされる。その拍は、調和を構成する諸部分の比例関係を包み込む。それは、輪郭線が人体の美を生む各部分を取り囲むのと変わらない。

しかし絵画は音楽にまさり、それを支配する。絵画は不運な音楽のように、作られた直後に消えてしまうことがなく、存在し続け、実際にはただ一枚の表面にすぎないものを、生きた姿で君に示すからである。

ああ、驚くべき学問よ。君は死すべき人々のはかない美を生かしておく。それは自然の作品より長く存続する。自然の作品は、時間によって絶えず変えられ、定められた老いへと導かれるのだから。この学問と神的な自然との関係は、その作品と自然の作品との関係に等しい。それゆえ、この学問は崇拝される。

XXIV.絵画と音楽

より優れた感覚を満たすものが、より高貴である。したがって、視覚を満たす絵画は、聴覚だけを満たす音楽より高貴である。

より永続するものが、より高貴である。したがって、生まれながら消えてゆく音楽は、ガラスによって永遠に保たれる絵画より価値が低い。

いっそう普遍的で多様なものを内に含むものこそ、より卓越していると言われる。したがって絵画はあらゆる営みに優先させるべきである。それは自然に存在する形も存在しない形もすべて含むため、声だけにかかわる音楽よりも、大いにたたえ、高く評価すべきである。

絵画によって神々の像を作り、その周囲で神への礼拝を行う。音楽は絵画に仕えるものとして、その礼拝を飾る。絵画によって恋人たちにその恋の対象の写しを与え、時間と母なる自然がはかないものとする美を保存し、名高い人々の姿を残す。「音楽は書きとめれば永遠になる」と君が言うなら、われわれもここで文字によって同じことをしている。

だから、君が音楽を自由学芸のうちに入れたのなら、絵画もそこへ入れるか、さもなくば音楽をそこから取り除くべきである。

「身分の低い者たちが絵画を行う」と君が言うなら、音楽もまた心得のない者によって損なわれる。

「機械的でない学問は精神的なものだ」と君が言うなら、私は絵画も精神的だと答える。そして音楽と幾何学が連続量の比例を、算術が非連続量の比例を考察するのと同様に、絵画はその遠近法において、あらゆる連続量と、陰影、光、距離の比例の性質を考察するのである。

XXV.音楽家が画家と語る

音楽家は、自分の学問は画家の学問と同等とされるべきだと言う。それは多くの部分からなる一つの身体を構成し、鑑賞者は、その身体が生まれて消える拍と同じ数の調和的な拍のうちに、その優美さのすべてを観照するからである。そしてその拍によって、鑑賞者の身体のうちに宿る魂を優雅に楽しませるのである。

注 原文はmimico(物まね役者)だが、見出しと文脈から音楽家として訳した。原文は変更していない。

しかし画家は答えて言う。人間の四肢から構成される身体は、美が生まれては消える調和的な拍のうちだけで喜びを与えるのではなく、それを非常に多くの年月にわたって持続させる。その卓越性は、自然が全力を尽くしても保てない、釣り合った各部分の調和を、生かしておくほどなのである。

どれほど多くの絵が、時間や死によってその自然の原型が短い間に破壊された神的な美の姿を、保存してきたことか。そして画家の作品は、師である自然の作品よりも価値あるものとして残ったのである。

音楽家よ、君が、絵画は手を働かせて行うため機械的だと言うなら、音楽も口によって行われる。ただし味覚によるのではない。それは手の場合も、触覚によるのではないのと同じである。

言葉はまた、事実より価値が低い。だが学問について書く君は、心にあるものを書き記すとき、画家と同じように手によって写しているのではないか。

音楽は比例から成ると君が言うなら、私はまさにその比例によって絵画を追究してきた。これから君にもわかるだろう。

XXVI.詩人、画家、音楽家についての結論

物体を表現する点で、画家と詩人との間には、ばらばらにされた身体と一つにまとまった身体ほどの違いがある。詩人はある身体の美醜を描くとき、部分ごとに異なる時点でそれを示すが、画家はその全体を一度に見せるからである。

詩人は、一つの全体を作る各部分の真の姿を、画家のように言葉で示すことはできない。画家は自然において可能なだけの真実さをもって、それを君の前に置く。詩人の身に起こるのは、四人の歌い手のために作られた曲を一人で歌う音楽家の場合と同じである。まず上声を歌い、次にテノール、それからアルト、最後にバスを歌う。これでは、調和的な拍のうちに収められる和声的な比例の優美さは生じない。詩人は、美しい顔を部分ごとに示すようなことをする。そんなやり方では、その美に満足することは決してない。その美は、前述の各部分が一緒に構成する神的な比例にのみ存するからだ。それらは同時に初めて、各部分の集まりの神的な調和を作る。その調和は、見る者が持っていた自由をしばしば奪うのである。

音楽もまた、調和的な拍のうちにさまざまな声から成る甘美な旋律を作るが、詩人はそれらの声の調和的な区別を持たない。詩は音楽と同じく聴覚を通って判断の座に入るが、詩人には音楽の調和を描くことができない。絵画の調和的な比例のように、異なるものを同時に語る力がないからである。絵画は異なる部分が同時に組み合わされ、その快さは全体としても個々にも同時に判断される。全体としてとは構成体を対象とする点であり、個々にとは、その全体を作る構成要素を対象とする点である。それゆえ詩人は、物体の表現では画家に大きく劣り、目に見えないものでは音楽家に劣る。

しかし詩人がほかの学問の助けを借りるなら、いろいろな発明者が作った多様な品物を運ぶほかの商人のように、市に姿を現すことができよう。詩人が、弁論家、哲学者、占星家、宇宙地理学者など他人の学問を借りるとき、まさにそうしているのである。これらの学問は詩人からまったく別のものである。したがって詩人は、異なる人々を集めて商取引を成立させる仲買人だ。詩人に固有の仕事を探そうとすれば、さまざまな学問から盗んだものを集め、それで偽りの構成物、あるいはもっと穏当に言えば架空の構成物を作る者にすぎないとわかるだろう。そして、この自由な創作において、詩人は画家と同等になったのであるが、それは絵画のうちでもっとも弱い部分なのである。

XXVII.絵画が低い地位に置かれている原因

言葉を創作する点では詩は絵画にまさり、行為を創作する点では絵画は詩にまさる。行為と言葉との関係は、そのまま絵画と詩との関係である。行為は目の対象であり、言葉は耳の対象だからである。感覚相互の関係は、その対象相互の関係と同じであり、このため私は絵画を詩より上位と判断する。

しかし、その実践者が絵画の理を述べるすべを知らなかったため、絵画は長い間、弁護者を持たずにいた。絵画は語らず、自ら示して事実において完結するのに対し、詩は言葉に終始し、高慢にも、その言葉で自分自身をたたえるからである。

画家と絵画

I.絵画の領域の広大さ

目に見えるものはすべて、絵画の学問に数え入れられる。

II.絵画の起源

最初の絵画は、太陽が壁に作った人の影を囲む一本の線だけであったこと。

III.画家があらゆる種類の人間と、あらゆるものの主であること

画家が自分を恋に陥れる美を見たいと思えば、それを生み出す主となる。恐怖を与える怪物や、滑稽で笑うべきもの、あるいはまったく哀れなものを見たいと思えば、それらの主であり神である。風景や荒れ地を作りたいと思えば、暑い時には木陰や薄暗い場所を描き、寒い時には暖かい場所を描く。谷が欲しければ、あるいは高い山頂から広大な平野を見渡し、その向こうに海の水平線を見たいと思えば、その主となる。低い谷から高い山を、また高い山から低い谷や海岸を見たいと望むときも同じである。実際、宇宙の中に本質として、現存として、あるいは想像としてあるものを、画家はまず心の中に、次いで手の中に持つ。そしてその手はきわめて卓越し、事物がそうするように、同じ時に一目のうちに、釣り合った調和を生み出すのである。

注 frequenzaはここでは難解。事物の現存・現れという意味に暫定的に解した。

IV.絵画は第二の創造である

絵画を非難する者は自然を非難する。画家の作品は自然の作品を表すからであり、それゆえ、その非難者には感覚が欠けている。

V.画家は普遍的でなければ称賛に値しないこと

頭部一つ、あるいは人物一人だけを巧みに描く画家を、優れた師と呼ぶ者たちは、明らかに誤っていると言える。生涯を通じてただ一つのことを学べば、ある程度の完成に達するのは、確かに大したことではない。

だが絵画は、自然が生み出すもの、人間の偶発的な営みが作り上げるもの、つまるところ目で理解できるものをすべて包み込み、内に含むとわれわれは知っている。それゆえ、人物一人しかうまく描けない者は、私には劣った師と思われる。

君は、人々がどれほど多くの、どのような動作をするか見ていないのか。どれほど多様な動物、木、草、花、山地や平地のさまざまな景色、泉、川、都市、公私の建物、人間の使用に適した道具、さまざまな衣服や装飾や技芸があるか見ていないのか。

君が優れた画家と呼びたい者は、これらすべてを等しい技量と出来栄えで扱うべきである。

VI.画家と自然

画家は自然と論じ、競い合う。

VII.絵画を軽蔑する者は自然の哲学を愛さないこと

自然の目に見えるすべての作品を模倣する唯一のもの、絵画を君が軽蔑するなら、確かに君は、精妙な発明を軽蔑することになる。それは哲学的で鋭い思索によって、陰と光に包まれた形、様相、場所、植物、動物、草、花のあらゆる性質を考察する。まことにこれは学問であり、自然の嫡出の娘である。絵画は自然から生まれたからだ。だが、より正確には自然の孫と言おう。目に見えるものはすべて自然から生まれ、その生まれたものから絵画が生まれたのだから。したがってわれわれは、絵画を自然の孫、神の親族と呼ぶのが正しい。

VIII.重要な作品において、記憶を過信し、実物から写すことを軽んじてはならないこと

自然の形と作用をすべて自分の内に保持できると思い込む師がいるなら、その者は実に大きな無知を身にまとっていると思う。これらの作用は無限であり、われわれの記憶にはそれに足るほどの容量がないからである。

ゆえに画家よ、利益への欲望が、君の内で芸術の名誉に勝らないように気をつけよ。名誉を得る利益は、富を持つ名誉よりはるかに大きいからだ。これら、そしてほかにも挙げうる理由により、まず素描によって、先に想像の中に作った意図と構想を、目に示す形で与えることに努めよ。それから満足するまで取り除き、あるいは加えよ。次に、作品の中で配置したとおり、衣服を着た人や裸の人に姿勢を取らせよ。そして寸法と大きさを遠近法に従わせ、作品のどの部分も、理性と自然の作用による十分な助言を受けずに済ませることがないようにせよ。これこそ、君の芸術によって名誉を得る道である。

IX.自分の絵を判断すること

われわれは、自分の作品より他人の作品の方が誤りに気づきやすいことを、はっきり知っている。他人の小さな誤りを責めながら、自分の大きな誤りにはしばしば気づかない。このような無知を避けるには、まず遠近法に熟達し、次に人間やほかの動物の寸法を十分に知り、また優れた建築家となれ。つまり建物や、地上にある無限の形をもつそのほかのものの形についてである。より多くを知るほど、君の作品はより称賛に値するだろう。熟練していないものについては、実物から写すことを拒んではならない。

X.画家は制作中、あらゆる人の判断を聞きたがるべきこと

絵を描いている間は、確かに誰の判断も拒むべきではない。画家ではなくても、人はほかの人の姿を知っており、その人が背を曲げているか、肩が高いか低いか、口や鼻が大きいか、あるいはほかの欠点があるかを正しく判断できることが、明らかだからである。人々が自然の作品を正しく判断できると知るなら、われわれの誤りをも判断できると、なおさら認めなければならない。人が自作についていかに誤るか、われわれは知っている。自分の中でそれがわからなければ、他人について考察せよ。他人の誤りから益を得るだろう。

だから、忍耐をもって他人の意見を喜んで聞け。そして非難する者に君を非難する理由があるかどうか、よく考え、熟慮せよ。理由があるとわかれば直せ。ないとわかれば聞こえなかったふりをするか、相手を尊重しているなら、相手がどう誤っているかを理屈によって示せ。

XI.偽って、かつふさわしくもないのに画家と呼ばせる者たちの悪い言い訳

ある種の画家は、勉強が足りないため、金と青の美しさに頼って生きなければならない。彼らはまことに愚かにも、よい作品を作らないのは支払いが悪いからで、十分に報酬を受ければ自分たちも他人と同じくらいうまくできる、と言い立てる。なんと愚かな連中か。よい作品をいくつか持っておき、「これは高い報酬向き、これは中くらい、これは並の品」と言って、どの価格にも応じた作品があることを示すすべを知らないのか。

XII.鏡が画家たちの師であること

君の絵全体が、実物から写した対象に合っているか確かめたいときは、鏡を用意し、生きた対象をその中に映せ。そして鏡に映ったものと自分の絵を比べ、二つの像の対象が互いに一致するか、よく考察せよ。

とりわけ鏡、すなわち平面鏡を自分の師とすべきである。その表面に映るものは、多くの点で絵画に似ているからである。

つまり君は、平面上に描かれた絵が、浮き上がって見えるものを示すのを見る。鏡も平面上で同じことをする。絵画は一つの表面であり、鏡もそうである。絵画は、丸く突き出して見えるものを手で取り囲むことができないという意味で、触れることができず、鏡も同様である。鏡と絵画は、陰と光に囲まれたものの姿を示す。どちらも、その表面のはるか向こうにあるように見える。

鏡が輪郭と陰影と光によって、物が浮き出ているように君に見せることを理解し、しかも君の絵具のうちに鏡のものより強い陰と光があるなら、それらをうまく組み合わせるすべを知ることで、君の絵もまた、大きな鏡に映った自然のもののように見えるに違いない。

XIII.画家への教え

どの枝もどの実も、その葉が生じる位置の上に生まれる。葉は雨水や、夜に上から落ちる露の湿りを与え、またしばしば過度の太陽光の熱から守ることで、その母の役目を果たす。

だから、このような規則を知らない画家よ、心得のある人々の非難を避けるため、自分の描くものをすべて実物から写すことを好め。金もうけをする者たちのように、研究を軽んじてはならない。

XIV.絵画は形による言説である

人間と言葉とは作られたものである。そして画家よ、自分の人物像を働かせるすべを知らない君は、自分の言葉を使うすべを知らない弁論家に等しい。

注 冒頭Li omini e le parole son fattiは構文・意味が不明瞭。底本の語を保って暫定訳とした。

XV.学習の順序

若者はまず遠近法を学ぶべきである。次にあらゆるものの寸法を学び、次に優れた師の作品から学んで、よい身体表現に慣れよ。その次には実物から学んで、学んだ事柄の理を確かなものにし、さらに複数の師の作品を同時に見よ。その後、実践に移して技芸を行う習慣を身につけよ。

XVI.同じ主題について

私は言う。まず身体の各部分とその運動を学ぶべきであり、それを知り終えたら、人に起こる出来事に応じた動作へ進むべきである。第三に物語画を構成せよ。その研究は、さまざまな出来事によって偶然になされる自然な動作から行うべきである。道、広場、野外でそれらに注意し、簡単な輪郭の描写で記せ。つまり頭には一つの丸を、腕には直線または曲線を描き、脚や胴体にも同じことをする。そして家に戻ったら、その覚え描きを完全な形に仕上げよ。

反対者は言う。熟練し、多くの作品を作るには、学習の最初の時期を、さまざまな師が紙や壁に描いた多様な構図を模写することに用いる方がよい。それによって速やかな習熟とよい習慣が得られる、と。これにはこう答える。その習慣は、よい構図と研究熱心な師の作品をもとにするならよいだろう。しかしそのような師はまれで、ほとんど見つからない。だから自然を大いに劣化させて模倣したものへ行き、悪い習慣を身につけるより、自然そのものへ行く方が安全である。泉へ行ける者は、水を入れた器へ行くな。

XVII.物語画に人物を配置することを、よく学ぶ方法

遠近法を十分に学び、事物の各部分と身体をすべて心に収めたら、気晴らしに出かける際にはたびたび、人々が話す、争う、笑う、取っ組み合うときの位置や動作を、喜んで見、考察せよ。彼らにはどんな動作があり、周囲の人、仲裁する人、見物する人はどんな動作をするかを見よ。そして自分の小さな手帳に、このような簡単な線で記せ。その手帳はいつも携帯し、色をつけた紙にせよ。消すのではなく、古いものから新しいものに替えるためである。これらは消すべきものではなく、大いに注意して保存すべきものなのだ。事物の形と動作は無限に多く、記憶には収めきれない。それゆえ、これらを自分の著者、師として保管するのである。

XVIII.目覚めたときや寝つく前にも、暗い寝床で学ぶこと

暗い寝床にいるとき、以前学んだ形の表面の輪郭や、精細な思索によって把握したほかの注目すべきものを、想像の中で繰り返し思い描くことが、少なからず役立つと私は自ら試して知った。これはまさに称賛すべき行為であり、記憶の中に事柄を確かにとどめるのに有益である。

XIX.さまざまな創作に向けて才知を増し、目覚めさせる方法

それでも私は、これらの教えのうちに、新しい思索の工夫を一つ加えるのをやめない。それは小さく、ほとんど笑うに値するように見えるが、さまざまな創作へ才知を目覚めさせるのに大いに役立つ。つまり、さまざまな染みのついた壁や、色の混じった石を眺めることである。ある風景を考え出さなければならないなら、そこに山、川、岩、木、平野、大きな谷、丘でさまざまに飾られた風景の姿を見ることができる。また多様な戦い、人物の活発な動作、奇妙な顔つきや衣服、無限の事物を見ることもでき、それらを完全でよい形へまとめられる。このような壁や混じり合った色には、鐘の音と同じことが起こる。鐘の響きのうちに、君は自分の想像するあらゆる名や言葉を見いだすのである。

私はかつて雲や壁の染みを見て、さまざまなものの美しい創作へと刺激されたことがある。その染みは、それ自体ではどの部分も完全な形をまったく欠いていても、その運動やそのほかの動作においては、完全さを欠いていなかった。

XX.画家の部屋

小さな部屋や住まいは才知を正しい道へ導き、大きなものはそれを迷わせる。

XXI.芸術の理念と実践

作品が自分の判断力にまさる師は不幸である。判断力が作品にまさる者こそ、芸術の完成へ向かう。

XXII.芸術の限りない進歩

師を超えない弟子は哀れである。

XXIII.疑わない画家は、得るところが少ない

作品が作者の判断力を超えるとき、作者の得るものは少ない。判断力が作品を超えるとき、その作品は、貪欲が妨げないかぎり、改善をやめることがない。

XXIV.絵画についての教え

画家よ、自分の作品が見る者を引き寄せ、大きな驚嘆と喜びをもってそこにとどめるよう努めよ。引き寄せた後で追い払ってはならない。夜、曇っているか晴れているか空気の状態を眺めようと裸で寝床から飛び出した者が、その冷たさに追われ、直ちに元の寝床へ戻るようなことをしてはならない。君の作品を、暑い時、人々を寝床から誘い出し、夏の涼しさを味わう喜びのうちにとどめる空気のようにせよ。学識を得る前に熟練しようとしてはならず、この芸術から当然得られる栄誉に、貪欲が勝つことを望んではならない。

人間の美のうち、通行人を立ち止まらせるのは非常に美しい顔であって、豪華な装飾ではないと、君は見ていないのか。私はこれを、金やほかの高価な飾りで人物を飾る君に言っている。若さの輝く美が、過度で凝りすぎた装飾によって、その卓越性を減らすことを見ないのか。粗末で貧しい衣服に包まれた山の女たちが、着飾った女たちより美しくなるのを見たことはないか。

気取った髪の整え方や結い方を用いるな。愚かな頭の持ち主は、髪一本が片側に余計に寄っただけで、非常な不名誉を受けると思い込む。周囲の人々が、それまでの考えをすべて捨て、それだけを話し、それだけを責めると信じているのである。こういう連中は、いつも鏡と櫛を相談役とし、整えた髪を乱す風を最大の敵とする。

だから君の描く頭では、想像の風とともに髪を戯れさせ、若い顔の周りでさまざまに巻き返りながら、優美に飾らせよ。糊で髪を塗り固め、顔が釉薬をかけられたように見える者たちのまねをするな……人間の愚かさは増すばかりである。風が髪の揃いを乱さないようにするためのアラビアゴムを、船乗りたちが東方から運んで来ても足りず、彼らはさらにその上を探し求めているのだ!

絵画と彫刻の比較

I.

私は絵画に劣らず彫刻にも携わり、両者を同じ程度に行っているので、どちらがより大きな才知、困難、完成度をもつかについて、ほとんど非難されずに判定できると思う。第一に彫刻は特定の光、つまり上からの光に従属するが、絵画はどこへでも光と影を自ら伴って行く。したがって光と影が彫刻の重要な点である。この場合、彫刻家は、光と影を自ら生じさせる浮き彫りの性質に助けられるが、画家は、自然が当然それらを生むであろう位置に、人工の技によって作る。彫刻家は事物の色の多様な性質に応じた変化を表せないが、絵画には欠けるところがない。彫刻家の遠近表現はまったく真実らしく見えないが、画家のものは作品の何百マイルも向こうまで見える。空気遠近法は彫刻の作品に縁遠い。彫刻家は透明な物体を、発光体を、反射する光線を、鏡のような光る物体や同様の輝くものを、霧を、暗い天候を、そして退屈させぬためにここで述べない無限の事物を、表すことができない。

彫刻の取り柄は時間により強く耐えることである。もっとも、厚い銅板に白いエナメルを塗り、その上にエナメル絵具で描き、火に戻して焼いた絵画も、同じ耐久性をもつ。これは永続性において彫刻にまさる。彫刻家は、いったん誤ると修正が容易でないと言うかもしれない。しかし取り返しのつかない不注意が作品をより高貴にすると証明しようとするのは、悪い論拠である。むしろ、そのような誤りを犯す師の才知を直すことは、その者が台無しにした作品を直すより難しい、と私は言おう。熟練した優れた者はそのような誤りを犯さず、よい規則に従って一度にごく少しずつ削り、作品を立派に仕上げることを、われわれはよく知っている。また彫刻家は粘土や蝋で作るなら、取り去ることも加えることもできる。完成したら容易に青銅で鋳造でき、これが彫刻における最後の工程であり、もっとも永続するものである。大理石だけのものは、青銅のものよりも破壊されやすいからだ。

したがって、絵画の手法で取り去ったり加えたりできる銅板の絵は、青銅に等しい。青銅も、最初に蝋で作品を作っていたときには、取り去ったり加えたりできたからである。もしこの青銅彫刻が永遠なら、この銅板またはガラスの絵は、いっそう永遠である。青銅が黒く醜くなるとしても、絵はさまざまな美しい色と、前述の無限の変化に満ちている。もし君が板に描かれた絵だけを問題にしたいなら、私は喜んで、それと彫刻との判定を次のように下そう。絵画はより美しく、より想像力に富み、より豊かである。彫刻はより長持ちするが、それ以外には何もない、と。

彫刻はわずかな苦労で示すが、絵画においては、触れられないものを触れられるように、平らなものを浮き上がるように、近いものを遠いように見せるのは、驚異に思われる。実際、絵画は彫刻が用いない無限の思索に飾られている。

II.

彫刻は学問ではなく、もっとも機械的な技芸である。それを行う者に汗と肉体的疲労を生じさせ、その芸術家には、各部分の単純な寸法と、動作や姿勢の性質だけで足りるからである。こうして彫刻は、そのものが何であるかを目に示すだけで自己完結し、見る者に何ら驚嘆を与えない。絵画はそうではなく、学問の力によって、一つの平らな表面に、遠い地平を伴うきわめて広大な野を示す。

III.

絵画と彫刻との間に、私は次のほかに違いを見いださない。彫刻家は画家より大きな身体の労苦をもって作品を仕上げ、画家はより大きな精神の労苦をもって作品を仕上げる、ということである。

これが真実であることは、次のように証明される。彫刻家は制作にあたり、腕力と打撃によって、その中に収められた像からはみ出す余分な大理石やほかの石を削り減らす。これはきわめて機械的な作業であり、しばしば大量の汗を伴う。汗は粉塵と混じって泥となり、顔はそれで塗り固められ、全身は大理石の粉で白くなって、パン屋のように見える。さらに細かな破片をかぶり、雪が降りかかったようで、仕事場も汚れ、石の破片と粉塵で満ちる。

画家の場合はまったく逆である。ここでは優れた画家と彫刻家について話している。画家はよい服を着て、作品の前にゆったり座り、美しい色を含んだきわめて軽い筆を動かす。好みの衣服で身を飾り、その住まいは美しい絵に満ち、清潔である。そしてしばしば音楽や、さまざまな美しい作品を読む者を伴い、槌の響きやほかの騒音が混じることなく、それらを大きな喜びとともに聞く。

IV.

絵画の才知、技法、思考は、彫刻のそれとは比較にならない。彫刻は遠近法にかかわらない。それは作者によらず、素材の力によって生じるからである。

彫刻家が、作品から余分に削った素材は、画家のようには直せないと言うなら、こう答える。削りすぎる者は理解が乏しく、師ではない。寸法を掌握していれば、取り去るべきでないものを取り去ることはない。ゆえにその欠陥は、素材ではなく作業者にある、と言おう。

しかし私はそのような者については話さない。彼らは師ではなく、大理石を台無しにする者だからである。

師たちは目の判断を信用しない。目はいつも欺くからである。目分量で線を等しい二つの部分に分けようとする者が、試してみるとしばしば誤っていたとわかることが、その証拠である。このような疑いがあるため、よい判断者は常に用心するが、無知な者はそうしない。それゆえ優れた者は、各部分の長さ、厚さ、幅の寸法を知り、それによって絶えず作業を律する。そうすることで、必要以上に削らないのである。

しかし絵画は驚くべき技巧から成り、そのすべてがきわめて精妙な思索である。彫刻は思考の範囲がごく狭いため、それらをまったく欠いている。

自分の学問は絵画より長続きすると言う彫刻家には、その永続性は彫られた素材の徳であって、彫刻家の徳ではないと答える。この点では彫刻家はそれを自分の栄光に帰してはならず、そのような素材を作った自然に譲るべきである。

V.

絵画は彫刻より精神的な思考が大きく、技巧と驚異にも富む。必要に迫られて、画家の精神は自然そのものの精神へと変わり、自然と芸術の間の通訳となり、自然の法則に拘束された現れの原因を自然とともに検討しなければならないからである。また、目を取り囲む対象の像が、どのように真の姿を伴って瞳へ集まるか、等しい大きさの対象のうちどれが目に大きく見えるか、等しい色のうちどれがより暗く、あるいはより明るく見えるか、等しい低さのもののうちどれがより低く、あるいは低くなく見えるか、等しい高さに置かれたもののうちどれがより高く、あるいは高くなく見えるか、さまざまな距離に置かれた等しい対象が、なぜ一方は他方より明瞭でなく見えるか、を考察しなければならない。

この芸術は目に見えるものをすべて抱え込み、自らの内に収める。乏しい彫刻にはそれができない。すなわち、あらゆるものの色とその弱まりを扱い、透明なものを描く。彫刻家は自分の技巧なしに、自然に透明なものを見せるだけである。画家は対象と目の間の空気による色の変化で、さまざまな距離を示す。対象からの像が容易には通り抜けない霧を、その向こうに山や谷とともに雲を見せる雨を、その中や向こうに塵を巻き上げた戦士たちを見せる土煙を、濃淡さまざまな煙を描く。水面と水底の間で戯れる魚を、波打つ水草に囲まれ、川底の洗われた砂の上に横たわる、さまざまな色の滑らかな小石を、水面の下に見せる。われわれの上の異なる高さにある星々を、そして彫刻には到達できない、そのほか無数の現象を見せるのである。

VI.結論

彫刻には色の美がなく、色の遠近法がなく、目から遠いものの輪郭の遠近表現とぼけがない。近いものも遠いものも、輪郭を同じようにはっきり示すからである。遠い対象と目の間にある空気が、その対象をより覆うようにはできない。それは、前にかかった薄布の下に裸の肉を見せる、覆われた人物のようなものだ。また透明な水面の下の、さまざまな色の細かい砂利を作ることもできない。

風景と人物

風景

I.マッジョーレ湖上の雲の効果

私はかつて、このような空気の増大を見る場に居合わせたことがある。ミラノより北、マッジョーレ湖の方角に、巨大な山の形をした雲を見た。それは燃え立つ岩に満ちていた。すでに地平線上で赤くなっていた太陽の光が、その色で雲を染めていたからである。この雲は周りの小さな雲をすべて自分に引き寄せたが、大きな雲そのものは場所を動かさなかった。しかもその頂には、日没後一時間半まで太陽の光を保っていた。それほど巨大だったのである。そして日没後二時間のうちに、驚くべき前代未聞の大風を生み出した。

II.モンテ・ローザへの登山

空気が示す青さは、それ自身の色ではないと私は言う。それは熱を帯びた湿気が、きわめて細かく感覚にとらえられない微粒子へと蒸発することによって生じる。その湿気は背後から太陽光の打撃を受け、上を覆う火の領域の広大な暗闇の下で、明るく輝くのである。

私が見たとおり、モンボーゾへ登る者はこれを見るだろう。そこはフランスとイタリアを分けるアルプスの峰で、その山の麓は、四つの異なる方向へヨーロッパ全体を潤す四本の川を生む。これほど高い位置に麓をもつ山は、ほかにない。

注 Mombosoという原文の地名を保持。章見出しでは編者がMonte Rosaと同定している。地理的説明も歴史的記述のまま訳した。

この山は非常に高くそびえ、ほとんどすべての雲を突き抜ける。雪はめったに降らず、雲がもっとも高くなる夏に、雹だけが降る。この雹はそのまま保存されるので、雹が降ることや雲がそこへ上がることが、ひとつの世代に二度も起こらぬほどまれでなければ、雹が層々と重なり、きわめて高い氷の山ができるだろう。私は七月半ばに、そこに非常に厚い氷を見いだした。そして頭上の空気は暗く、山を照らす太陽は、低い平野よりはるかに明るいのを見た。その山頂と太陽との間には、より薄い空気しか介在しなかったからである。

III.構想

風や水のある風景、あるいは日没や日の出の風景を描写せよ。

IV.別の構想

陸と海の風を描写せよ。雨を描写せよ。

V.海のさまざまな色

波立つ海には一様な色がない。陸から見る者には暗い色であり、水平線に近いほど暗くなる。そこには、群れの中の白い羊のようにゆっくり動く、いくつかの明るい部分や輝きが見える。一方、沖にいて海を見る者には青く見える。これが生じるのは、陸からは、陸の暗さを映す波を見るために海が暗く見え、沖からは、波に映った青い空気を見るために青く見えるからである。

VI.丘の植生

草や木は、それを養う土が痩せ、水分に乏しいほど、色が淡くなる。山を構成する岩の上では、土はより乏しく痩せている。木々は山頂に近づくほど小さく、細くなる。土は前述の山頂へ近づくほど痩せ、谷の窪みに近いほど肥沃になる。

したがって画家よ、山頂では、山を構成する岩を、その大部分が土に覆われずに現れているように示せ。そこに生える草は小さく痩せ、大部分が水分の不足で色あせ、枯れているようにせよ。淡い草の間から、砂まじりの痩せた土が透けて見えるようにせよ。小さな木々は成長を阻まれ、ごく小さいまま老い、枝は短く密で、葉は少なく、人や風によって傷められた株から生じている。その錆色の乾いた根は大半が露出し、錆色の岩の層や裂け目に絡み合っているようにせよ。多くの場所では岩が高山の稜線を越え、薄く淡い錆色に覆われて見えるようにせよ。また一部は、天空の稲妻の打撃によって本来の色をむき出しにするようにせよ。稲妻の道筋は、その岩にしばしば遮られるが、岩も報復を免れるわけではない。

山の麓へ下るほど、植物は勢いを増し、枝葉は密になる。その緑には森を構成する植物の種類と同じだけの多様さがある。それらの枝分かれはさまざまな秩序をもち、枝葉の密度、形、高さも異なる。糸杉のように枝が狭く集まるものもあれば、樫や栗などのように枝が広く拡がるものもある。ごく細かい葉のものもあれば、ビャクシンやプラタナスなどのようにまばらなものもある。一緒に生えた木々の群れがさまざまな広さの空地で分かれているところも、部分の分かれ目や空地もなくつながっているところもある。

VII.夜を描く方法

光を完全に奪われたものは、すべて暗闇である。夜がそのような状態にあり、そこに物語の場面を描こうとするなら、大きな火を置き、その火に近いものほど強くその色に染まるようにせよ。対象に近いものほど、その性質を多く受けるからである。火を赤みのある色にするなら、それに照らされるすべてのものも赤くし、その火から遠いものほど、夜の黒い色に染まるようにせよ。君と火の間にある人物は、火の明るさによらず、夜の暗さの中で暗く見えるようにせよ。左右にいる者は半分暗く、半分赤みを帯び、炎の輪郭の向こうに見える者は、黒い背景の上に、すべて赤い光に照らされるようにせよ。

動作については、近くにいる者は、過度の熱を防ぐため手や外套を盾とし、顔を反対へ向け、より遠くにいる者たちの方へ逃げようとする姿にせよ。彼らの大部分が、過度の輝きに傷つけられる目を、手でかばうように描け。

VIII.嵐をどのように描くべきか

嵐をよく描こうと思えば、その作用を考察し、適切に表せ。風が海面と地表を吹き渡り、固定されていないものを動かし、全体のうねりとともに運び去るときのことである。

この嵐をよく描くには、まず裂け、ちぎれた雲が風の流れに沿って進み、海岸から巻き上がった砂塵や、荒れ狂う風の力で持ち上げられ空中に散った枝葉、そしてそれらに伴う多くの軽いものを描け。木や草は地面へ曲がり、風の流れに従おうとするように見せ、枝は自然な方向からねじれ、葉は乱れ、寄せ集められているようにせよ。そこにいる人々の一部は倒され、衣服と土煙に巻かれ、ほとんど見分けがつかないようにせよ。立っている者は木の後ろでそれに抱きつき、風に引きずられないようにしているようにせよ。他の者は土埃を防ぐため目に手を当て、地面へ身をかがめ、衣服と髪を風の方向へなびかせよ。荒れ狂う海は、そそり立つ波の間に渦と泡が満ち、風は、打ち合う空気の中に、細かな泡を濃くもつれた霧のように巻き上げるようにせよ。その中の船のいくつかは帆が破れ、帆の切れ端が切れた綱とともに空中にはためくように描け。マストの折れ倒れたもの、荒波の間で横向きになり、壊れた船を描け。叫びながら船の残骸に抱きつく人々を描け。猛烈な風に追われる雲は、高い山頂へ打ちつけられ、岩にぶつかる波のように、そこで絡み合う渦を作るようにせよ。空気は、砂塵、霧、厚い雲によって生じた深い闇のため、恐ろしく見えるようにせよ。

IX.戦闘を描く方法

まず、大砲の煙が、馬や戦士の動きによって立ちのぼる土煙とともに、空気の中で混じり合うようにせよ。その混合は次のように扱え。土煙は地上の重いものであり、細かいため容易に舞い上がって空気に混じるが、それでも下へ戻りやすい。もっとも高く上がるのはもっとも細かな部分なので、もっとも見えにくく、ほぼ空気の色に見えるだろう。塵を含む空気に混じる煙は、ある高さまで上がるほど暗い雲のように見え、上方では塵よりも煙の方がはっきり見えるだろう。

煙はやや青みを帯び、塵はその色を保つだろう。光の来る側では、空気、煙、塵の混合は、反対側よりはるかに明るく見えるだろう。戦士たちは、この混乱の中に深く入るほど見えにくくなり、明部と暗部との差も小さくなるだろう。

顔、身体、空気、銃兵とその隣の者たちを赤く染め、その赤みは原因から遠ざかるほど消えるようにせよ。君と光の間にいて遠くにある人物は、明るい背景に暗く見えるだろう。その脚は地面へ近づくほど見えにくくせよ。そこでは塵がより粗く、より濃いからである。

群れから走り出る馬を描くなら、その馬の跳躍の間隔ほど離れた、小さな土煙の雲を作れ。馬からもっとも遠い雲ほど見えにくく、高く拡がって薄く、近い雲ほど明瞭で小さく、濃くなるようにせよ。

空中にはさまざまな種類の矢を満たせ。上がるもの、下がるもの、水平に飛ぶものを描け。小銃の弾には、その軌道の後ろに多少の煙を伴わせよ。

手前の人物は、髪、眉、そのほか塵を受け止める平らなところに塵をかぶらせよ。勝者は走り、髪やほかの軽いものを風になびかせ、眉を下げ、左右反対の手足を前へ出すように描け。つまり右足を前に出すなら左腕も前に出すのである。倒れた者を描くなら、土埃が血の混じる泥となったところに滑った跡をつけ、ほどよく湿った地面の周りには、そこを通った人や馬の足跡を刻め。

死んだ主人を引きずる馬を描き、その後ろの塵と泥に、引きずられた身体の跡を残せ。敗れて打ち倒された者は青ざめ、眉のつなぎ目が高く、その上の肉には苦痛の皺が多いようにせよ。鼻の脇には鼻孔から弓なりに目頭へ至る皺を少しつけ、その皺を生じる鼻孔は上がっているようにせよ。唇は反り返って上の歯を見せ、歯は嘆き叫ぶように開いているようにせよ。片手は恐れた目をかばい、手の甲を敵へ向け、もう一方は地面について起こした胴を支えるようにせよ。口を大きく開いて叫び、逃げる者たちも描け。戦士たちの足元には、壊れた盾、槍、折れた剣、そのほか同様のものなど、さまざまな武器を置け。死者を描き、ある者は半ば塵に覆われ、ある者の周りでは塵が流れ出た血と混じってすべて赤い泥となり、血がその色のまま曲がりくねって身体から土へ流れるようにせよ。死につつある者は歯を食いしばり、目をむき、身体に拳を押しつけ、脚をねじらせるようにせよ。武器を失い敵に倒された者が、敵へ向き直って噛みつき、ひっかき、残酷で激しい復讐をする姿も見られよう。身軽な馬が鬣を風になびかせ、敵の中を走り、蹄で大きな害を与える姿も見られよう。手足を傷めて地面に倒れ、盾で身を覆う者と、身をかがめてその者を殺そうと力を尽くす敵も見られよう。

死んだ一頭の馬の上に、多くの人々が一塊になって倒れているのも見られよう。ある勝者たちは戦いをやめて群衆から出てきて、塵の刺激で目から流れた涙が作った泥に覆われた目や頬を、両手で拭うだろう。援軍の部隊は希望と不安に満ち、眉を引き締め、手で陰を作り、厚く混乱した煙霧の中を見つめながら、隊長の命令を待ち構えているだろう。同様に隊長は指揮棒を上げ、援軍へ向かって走り、彼らの足りない場所を示すように描け。またある川の中では馬が走り、周りの水を波、泡、濁流の騒ぎで満たし、水は空中へ、馬の脚や身体の間へ跳ね上がるようにせよ。血で満たされた足跡のほかには、平らな場所をまったく作るな。

X.大洪水の描写

空気は激しい雨で暗くなっていた。雨は横風の流れに曲げられ、斜めに落ち、空中で波をなしていた。それは塵がするのと変わらなかったが、ただこの氾濫には、落ちる水滴の作る線が横切っている点が異なった。その色は、雲を裂き、引き破る稲妻によって生じた火から与えられた。稲妻の閃光は、水に満たされた谷の巨大な海を打って開き、その開口は渦の中に、曲がった木々の梢を見せた。水のただ中には三叉の槍を持つネプトゥヌスが見え、アイオロスはその風によって、根こそぎにされて浮かぶ木々を、巨大な波と混ぜ合わせ、巻き上げていた。

地平線も全天も、絶え間ない稲妻の閃光を受けて、濁り、火のようだった。広がる波が大きな深淵を囲む丘を形作り、その波に露わにされた大木には、人と鳥がびっしりと集まっているのが見えた。

XI.続き

暗く雲に覆われた空気が、さまざまな風の流れに打ち合わされているのが見えた。風は降り続く雨に巻かれ、雹と混じり、引き裂かれた木々の無数の枝を、無数の葉とともに、あちらこちらへ運んだ。周囲には古い木々が、風の猛威に根こそぎにされ、裂かれていた。川の流れにすでに足元をえぐられた山の崩れが、その川の上に落ち込み、谷を塞ぐのが見えた。せき止められた川は氾濫し、非常に多くの土地を、その住民とともに沈めた。

また多くの山頂では、さまざまな種類の動物が寄り集まり、恐怖の末におとなしくなって、逃れてきた男や女、その子供たちと一緒にいるのも見られただろう。水に覆われた野の波は、大部分が板、寝台、舟、そして必要と死への恐怖から作られたさまざまな道具に覆われていた。その上には女、男、子供が入り混じり、さまざまに嘆き泣きながら、風の猛威に怯えていた。風は大嵐となって、水とその水に溺れた死者を上下にかき回した。水より軽いもので、さまざまな動物に覆われていないものはなかった。動物たちは休戦し、恐れの中で結びついて一緒にいた。その中には狼、狐、蛇、あらゆる種類のものがおり、死から逃れようとしていた。岸を打つ波はすべて、さまざまな溺死体を打ちつけて岸を攻め、その打撃によって、まだ生き残っていた者たちを殺した。

人々のいくつかの集団は、手に武器を取り、わずかに残った場所を、そこに救いを求める獅子、狼、猛獣から守っているのが見られたであろう。ああ、暗い空気の中には、どれほど多くの恐ろしい響きが聞こえたことか。雷鳴の猛威と、そこから放たれた稲妻が空気を打ち、その中を破壊的に走り抜けて、進路を遮るものを打った。雨と天の雷鳴と稲妻の怒りに混じる風の猛威が、暗い空気の中に立てるすさまじい音を避けようと、自分の手で耳を塞ぐ者を、どれほど多く見たことであろう。

また別の者は、目を閉じるだけでは足りず、両手を重ねてさらに目を覆い、神の怒りが人類に加える残酷な苦しみを見まいとしていた。ああ、どれほどの嘆きがあり、恐怖に駆られたどれほど多くの者が岩から身を投げたことか。大樫の巨大な枝が人々を乗せたまま、激しい風の猛威によって空中を運ばれるのが見えた。

どれほど多くの舟が転覆していたことか。無傷の舟にも、砕けた舟にも人が乗り、恐ろしい死を予告する苦しい身振りと動きで、助かろうともがいていた。別の者たちは絶望的な動作で命を絶った。それほどの苦痛には耐えられないと絶望したのである。ある者は高い岩から身を投げ、ある者は自分の手で喉を締め、ある者は自分の子をつかみ、激しい勢いでその身体を打ちつけ、ある者は自分の武器で傷つけ、自らを殺し、またある者は膝をついて神に祈った。ああ、どれほど多くの母親が、溺れた子を膝に抱いて泣き、両腕を広げて天へ上げ、さまざまな叫びが入り混じった声で、神々の怒りを責めたことか。別の者たちは手を合わせて指を組み、その手に噛みつき、血の出る咬傷でこれを食い裂き、計り知れぬ耐えがたい苦痛のため、胸を膝へ折り曲げた。

馬、牛、山羊、羊などの群れはすでに水に囲まれ、高い山頂の島に取り残され、身を寄せ合っていた。中央のものは高く上がってほかのものの上を歩き、互いに激しく争っており、その多くは食べ物の不足で死んだ。

すでに鳥は、人やほかの動物の上にとまっていた。露出した土地で、生き物に占められていない場所は、もう見つからなかったからである。死の使いである飢えは、すでに動物の大部分の命を奪っていた。そのとき、軽くなった死体が深い水底から離れ、上へ浮かび上がった。打ち合う波の間で死体は互いにぶつかり、空気を詰めた球のように、ぶつかった場所から跳ね返った。これらは前述の死者の土台となった。そしてこうした災厄の上には、暗い雲に覆われた空気が見え、荒れ狂う天空の稲妻が蛇のように動いて雲を裂き、深い闇の中で、あちらこちらを照らしていた。

注 「これらは前述の死者の土台となった」の原文の指示関係は不明瞭。死体・波についての記述を補筆せずに訳した。

空気の動きは、馬の走行によって動かされた塵の動きで見える。馬を取り巻いていた空気の中に、馬が去って残す空所を埋めるその動きの速さは、馬がその空気から逃れ去る速さと等しい。

風そのものは空気の中で見えないのに、風の動きが空中に作る道を私が描いたことを、君は非難できると思うかもしれない。この点には、空中に見えるのは風の動きではなく、風が運ぶものの動きだけである、と答える。

暗闇、風、海の嵐、水の大洪水、燃える森、雨、天の稲妻、地震と山の崩壊、都市の壊滅。

水、木の枝、人間を空中へ運ぶ旋風。

風に引き裂かれ、風の流れに混じって飛ぶ枝。その上にいる人々。

人々を載せた、折れた木々。

岩に打ちつけられ、粉々になった船。

家畜の群れについて。雹、稲妻、旋風。

体を支えられない木の上にいる人々。人でいっぱいの木、岩、塔、丘。舟、板、パンこね桶、そのほか浮くための道具。男、女、動物に覆われた丘。そして雲から走り、ものを照らす稲妻。

まず険しい山頂と、その麓を囲む多少の谷を描け。その斜面では、地表の皮が小さな低木の細根とともに剥がれ上がり、周囲の岩の大部分を露出させるようにせよ。それは断崖から崩れ落ち、乱れた流れによって大木のねじれ、こぶのある根を打ち、掘り崩し、木々を上下逆に倒すようにせよ。山々は裸になり、昔の地震で作られた深い裂け目を露わにせよ。山裾の大部分は、前述の高い山頂の斜面から落ちた木々の残骸によって埋められ、覆われるようにせよ。それらは泥、根、木の枝、その泥や土や石に浸されたさまざまな葉と混じり合うようにせよ。

またある山の崩落が谷の深部へ下り、川のせき止められた水の堤防となるようにせよ。その堤が決壊すると水は巨大な波となって流れ、とりわけ大きな波は、その谷の都市や村の壁を打ち壊すようにせよ。それらの都市の高い建物の崩壊は大量の塵を上げ、水は煙の形で高く舞い上がり、絡み合う雲となって降り注ぐ雨に逆らって動くようにせよ。

しかしせき止められた水は、自らを囲む水の広がりの中を巡り、渦を巻いてさまざまな物体を打ち、泥の泡とともに空中へ跳ね上がり、再び落ち、打たれた水を空中へ跳ね返らせるようにせよ。打撃の場所から逃れる円形の波は、その勢いで、対向して動くほかの円形の波の上を横切り、ぶつかった後、自分の基部を離れることなく空中へ盛り上がるようにせよ。

水がその広い水面から流れ出す口では、崩れた波が出口へ向かって伸びるのが見える。そこを過ぎて空中へ落下すると、水は重さと激しい動きを得る。その後、打った水へ入り込み、それを開いて、激しく底まで達する。底から反射して、水の広がりの表面へ跳ね返り、ともに沈んだ空気を伴う。その空気は浮上したところで泡となり、木片や水より軽いものと混じって残る。その周りに波が始まり、動きを増すほど周囲へ拡がる。その運動によって、波は底辺が広がるほど低くなり、それゆえ消えるころにはあまり見えない。しかし波がさまざまな物体へ再びぶつかれば、打ち寄せる別の波の上へ後ろ向きに跳ね返り、すでに始めた運動を保った場合に得たはずと同じ曲率の増加を保つのである。

雨は雲から落ちるとき、その雲、つまりその陰の側と同じ色をしている。ただし太陽の光が貫く場合は別で、その場合、雨はその雲ほど暗く見えないだろう。大山の大崩落や、そのほか巨大な建造物の崩落の重い塊が、大きな水域を打てば、大量の水が空中へ跳ね上がる。その運動は、水を打ったものの運動と反対の方向になされる。すなわち反射角は入射角と等しくなる。

水の流れに運ばれるもののうち、より重いもの、あるいは量の多いものほど、対岸から大きく離れるだろう。水の渦は、その中心に近い部分ほど速い。海の波頭はその基部の前へ落ち、その表面の丸い盛り上がりを打ち、こすり合う。この摩擦は落下する水を細かい粒に砕き、それが濃い霧となって、絡み合う煙や巻く雲のように風の流れに混じる。風はついにそれを空中へ持ち上げ、雲に変える。しかし空中を落ちる雨は、風の流れに攻められ、打たれると、その風の疎密に従って疎らにも密にもなる。それゆえ空中には、見る目に近い雨の落下が作る、透明なものの洪水が生じる。海に接する山の斜面を打つ波は泡立ち、その丘の背へ速く押し寄せ、戻るとき第二の波の到来とぶつかる。大きな轟きの後、それらは大氾濫となって、出てきた海へ戻る。大勢の人々とさまざまな動物が、増大する洪水に追われ、前述の水に近い山頂へ向かうのが見えた。

ピオンビーノの海の波。すべて泡立つ水から成る。

跳ね返る水について。ピオンビーノの風について。ピオンビーノにおける風と雨の渦。空気に混じる枝や木。舟に降り込む水を汲み出すこと。

XII.キプロス島

キリキアの南岸から南の方角に、美しいキプロス島が見える。そこは女神ウェヌスの王国であった。多くの者がその美に誘われ、渦巻く波に囲まれた岩の間で、船や索具を破損した。そこではなだらかな丘の美しさが、さすらう船乗りたちを、花咲く緑の中で憩うよう招く。その緑の間を風が巡り、島と周りの海を甘い香りで満たす……ああ、どれほど多くの船が、すでにそこで沈んだことか。どれほど多くの船が岩に砕けたことか。そこには無数の船が見られよう。壊れて半ば砂に覆われたもの、船尾を見せるもの、船首を見せるもの、船底を見せるもの、船側を見せるもの。それは死んだ船を甦らせようとする最後の審判のように見えるだろう。北の海岸全体を覆うほど、その数は多い。そこでは北風が響き渡り、さまざまな恐ろしい音を立てる。

東方への旅

注 東方旅行の記述は作品内の書簡体・幻想的記述として扱い、レオナルド本人の実際の渡航を立証するものとはしない。

書物の区分

説教と、信仰への説得。

突然の氾濫、その終わりまで。

都市の崩壊。

民衆の死と絶望。

説教師の追放と、その解放および好意。

それが与えた損害。

雪の崩落。

預言者の発見。

その予言。

西アルメニアの低地の氾濫。その排水は、タウロス山の切れ目を通っていた。

新しい預言者が、この破壊は自分の意図にかなって起こされたと示すこと。

書簡I.タウロス山とユーフラテス川の描写

バビロンの聖なるスルタンの代官、シリアのディオダリオ殿へ。

この北方の土地で新たに起こった出来事は、あなたばかりか全世界をも恐れさせるに違いないものです。これを順を追って、まず結果を示し、その後に原因を示して、お伝えいたします。

私はこのアルメニアの地方に来て、あなたが私を遣わされた職務を、愛情と熱意をもって果たしておりました。私たちの目的にもっとも適うと思われる地方から始めようと、私たちの国境に近いカリンドラの町へ入りました。

この町は、ユーフラテス川によって分けられたタウロス山の一部の斜面に位置し、西の方角に大タウロス山の角のような峰々を望みます。

これらの峰は天に触れるかと思われるほど高く、世界中の地上には、その頂より高いところはありません。つねに夜明けの四時間前には東からの太陽光を受けます。非常に白い石であるため強く輝き、このアルメニアの人々にとって、暗闇の中の美しい月明かりと同じ役目を果たします。その高大さゆえ、雲の最高の高さより、直線で四マイルも上へ出ています。この頂は西方の広い地域から見え、日没後、夜の三分の一まで太陽に照らされています。私たちが以前、そちらの晴天時に彗星だと判断したのはこれです。夜の暗闇ではさまざまに姿を変え、ある時は二つか三つに分かれ、ある時は長く、ある時は短く見えます。これは、空の地平線上の雲が山の一部と太陽の間へ入るために起こります。雲が太陽光を遮るので、山の光はさまざまな幅の雲で中断され、そのため輝きの形が変わるのです。

なぜ山は頂で夜の半分、あるいは三分の一の間輝き、西方の人々には夕方の後に、東方の人々には夜明け前に、彗星のように見えるのか。

なぜその彗星は形が変わるように見え、ある時は丸く、ある時は長く、ある時は二つか三つに分かれ、ある時は一つにつながり、見えなくなったり、また見えたりするのか。

書簡II.タウロス山の形

ディオダリオ殿、あなたの叱責が示唆するように、私を怠慢だとお責めになるべきではありません。あなたから賜った恩恵が生んだ、抑えきれぬ愛情こそが、私を駆り立て、これほど大きく驚くべき現象の原因を、きわめて熱心に求め、念入りに究明させたのです。その仕事は、時間をかけずには成し遂げられませんでした。さて、これほど大きな現象の原因について十分にご納得いただくには、まずその土地の形をお見せする必要があります。それから現象に進みます。そうすればご満足いただけると信じます。

ディオダリオ殿、あなたの切望されたお尋ねに、私の返答が遅れたことを、お嘆きにならないでください。お尋ねの事柄は、時を経なければうまく説明できない性質のものです。とりわけ、これほど大きな現象の原因を示すには、土地の性質を適切な形で記述する必要があります。それによってあなたは、お尋ねの事柄に容易に納得されるでしょう。

小アジアの形や、その広がりを囲む海と陸地が何であるかの記述は、省くことにいたします。あなたの勤勉で熱心な研究が、その知識を欠くはずはないと存じるからです。そして、これほど驚くべき有害な奇観の原因となった、タウロス山の真の形を記します。それが私たちの目的を果たすのに役立つからです。

このタウロス山は、多くの人がコーカサス山の尾根だと言うものです。けれど私は十分に確かめたいと思い、カスピ海の北に住む何人かと話してみました。彼らによれば、自分たちの山も同じ名を持つけれど、こちらの山の方が高く、それゆえこちらが真のコーカサス山であると認めています。スキタイ語でコーカサスとは、最高の高さを意味するからです。実際、東にも西にも、これほど高い山があるとは知られていません。その証拠は、山の西側の土地の住民が、もっとも長い夜の四分の一まで、頂の一部を照らす太陽光を見ることであり、東側の土地でも同じことが起こります。

タウロス山の性質と大きさ

タウロスのこの峰の影は、それほどの高さから生じるので、六月半ばの正午には、サルマティアの始まり、すなわち十二日の旅程にまで伸びます。十二月半ばには、北へ一か月の旅程にあるヒュペルボレイの山々にまで伸びます。吹く風と反対側は、つねに雲と霧に満ちています。岩へぶつかって分かれた風が、岩の後ろで再び合わさり、それによって四方から雲を運んできて、その衝突の場所に置くからです。そしてそこに集まる雲の大群のため、つねに稲妻の打撃を免れており、それゆえ岩はすっかり砕かれ、大きな崩壊に満ちています。

注 底本のpriva di percussione di saette(稲妻の打撃を免れる)と後続の「岩は砕かれる」には意味上の齟齬がある。勝手に否定を反転せず保持した。

その麓には非常に豊かな人々が住み、美しい泉や川に満ち、肥沃で、あらゆる恵み、とくに南向きの地域に豊かです。しかし約三マイル登ると、大きな樅、松、ブナ、そのほか同様の木々の森に入り始めます。その後さらに三マイルの間には、草地と非常に大きな牧場があります。その先、タウロス山の立ち上がりまでの残りはすべて万年雪で、いつの季節にも消えず、全体で約十四マイルの高さまで続きます。このタウロスの立ち上がりから一マイルの高さより上には、雲は決して達しません。ここで十五マイルとなり、直線でおよそ五マイルの高さです。そしてタウロスの角のような峰々の頂も、およそそれと同じだけあるとわかります。その中ほどより上では、空気は暖かくなり始め、風の吹くのを感じませんが、どんなものも長くは生きられません。そこには何も生じません。ただ、タウロスの高い裂け目で卵を抱く幾羽かの猛禽がいて、雲の下へ降り、草に覆われた山々で獲物を捕らえます。雲より上はすべて一続きの岩で、きわめて白い石です。高い頂へは、その登りが険しく危険なため、行くことができません。

書簡III.

私はこれまで何度も書簡で、あなたの幸運をともに喜んできました。今は友として、私の陥った悲惨な境遇を、あなたもともに悲しまれると存じます。この数日、私はこの哀れな土地の人々とともに、あまりに多くの苦難、恐怖、危険、損害に遭い、死者を羨まなければならないほどでした。元素が分離して大いなる混沌を解いた後、それらが力を、いや怒りを再び合わせて、人々にこれほどの害を与えたことは、今私たちが見、経験したもののほかにはなかったと思います。私たちが十時間のうちに経験したこれほどの災いに、これ以上何を加えられるのか、私には想像できません。

初めに私たちは、風の勢いと猛威に襲われ、打ちのめされました。これに大きな雪山の崩落が加わり、谷という谷を埋め、私たちの町の大部分を打ち砕きました。それだけでは足りず、運命は突然の大洪水によって、この町の低い部分全体を沈めました。その上さらに、突然の雨、いや水、砂、泥、石に満ちた破壊的な嵐が加わりました。それらは根、低木、さまざまな木の切り株と一緒に絡み合い、すべて空中を走って、私たちの上へ降り注ぎました。最後に火災が起こり、風どころか一万の悪魔が運ぶかと思われる勢いで、この地方全体を焼き尽くし、破壊しました。それはいまだに収まっていません。

生き残ったわずかな私たちは、ひどい狼狽と恐怖のうちに残され、呆然として、互いに話す勇気さえほとんどありません。あらゆる仕事を捨て、いくつかの教会の廃墟で、男も女も、幼い者も大人も入り混じり、山羊の群れのように身を寄せ合っています。以前は敵だった近隣の人々が、憐れんで食糧を援助してくれました。食糧の援助がなければ、全員が飢え死にしていたでしょう。

今、私たちがどのような状態にあるか、おわかりでしょう。しかもこれらすべての災いは、まもなく私たちに予告されているものに比べれば、何でもないのです。

私が以前、書簡で、あなたの幸福を心から喜ぶと示したように、あなたも友として、私の不幸を悲しんでくださることと存じます。

断片

必要に迫られてごく短時間で作られた、さまざまな種類の船の上に、人々が非常に急いで食糧を用意しているのが見えた。

暗い雨とその雲が映る場所では、波の輝きは見えなかった。

しかし天の稲妻の生む閃光が映るところでは、周囲の人々の目へ反射できる波の数だけ、閃光の像による輝きが見えた。

水の波の上に稲妻の閃光が作る像の数は、それを見る目の距離が増すほど増えた。これは月の輝きの記述で証明されている。

そしてその像の数は、見る目に近づくほど減った。これは月の輝きの定義、および太陽がその光を反射させ、その反射を受ける目がその海から遠くにあるときの、われわれの海の水平線についての説明で、証明されている。

人物

I.表情を伝える絵画

絵画、すなわち描かれた人物は、それを見る者が、その姿勢によって、人物の心の思いを容易に理解できるように作られるべきである。善良な人に語らせるなら、その動作をよい言葉にふさわしくせよ。同様に、獣のような人を描くなら、荒々しい動きをさせ、聞き手へ腕を投げ出し、頭と胸を足の位置より前へ突き出して、語る者の手に伴わせよ。口のきけない者が二人の話し手を見る場合と同じである。その者は聴覚を欠いていても、話し手の表れや動作によって、論争の主題を理解するのである。

私はかつてフィレンツェで、後天的に耳が聞こえなくなった一人の者を見た。その者に大声で話しかけても理解しなかったが、声を立てず静かに話すと、唇の動きだけで理解した。君はこう言うかもしれない。「大声で話す者も、小声で話すのと同じように唇を動かすのではないか。同じように動かすなら、一方も他方と同じように理解されるのではないか」。この点の判定は経験に任せよう。一人の者に、まず静かに、次に大声で話させ、唇に注目せよ。

II.画家への注意

天気の悪い日の夕暮れどき、道で男や女の顔に注目せよ。そこにはどれほどの優美さと柔らかさが見られることか。

III.絵画は描かれた人物の感情を示さなければならない

よい画家が描かなければならない主要なものは二つある。すなわち人間と、その精神の思いである。第一は容易で、第二は難しい。それは身振りと身体の部分の動きによって表さなければならないからである。これは口のきけない人々から学ぶべきである。彼らは、ほかのどの種類の人々よりもうまくそれを行う。

IV.口のきけない人が画家の師であること

人間の像には、その行為にふさわしい動作を持たせ、それを見ると、その人物が何を考え、何を言っているのか理解できるようにせよ。口のきけない人々の動作を模倣する者は、それをよく学ぶだろう。彼らは心の思いを表そうとするとき、手、目、眉、身体全体の動きで語るからである。

口のきけない教師を君に勧め、その者自身にはできない芸術を教えさせようとするからといって、私を笑うな。その者は行動によって、ほかのすべての者が言葉で教えるよりもよく君に教えるだろう。この助言を軽んじるな。彼らは動作の師であり、人が手の動きを言葉に合わせるとき、遠くからでも何を話しているか理解するからである。

V.絵画の価値は、表すしるしと意味との対応にある

人物の心にあるものを十分に示せるような動作で、その人物を描け。そうでなければ、君の芸術は称賛に値しないだろう。

VI.続き

魂の感情を表す動作が現れていなければ、その人物像は称賛に値しないこと。

動作によって心の感情をよく表す人物像ほど、称賛に値する。

VII.感情表現の無限の多様さ

人間の動作は、その心を巡る出来事の多様さと同じだけ多様である。それぞれの出来事は、その人の力が大きいか小さいか、また年齢によって、多かれ少なかれ人を動かす。同じ出来事でも、若者は老人とは異なる動作をするからである。

VIII.人間の年齢

人間の年齢、すなわち乳幼児期、少年期、思春期、青年期、老年期、衰老期を、どのように描くべきか。

老人は鈍く遅い動きをさせ、立ち止まっているときは膝を曲げ、両足を同じ位置で互いに離し、背中を下へ傾け、頭を前へ倒し、腕をあまり伸ばさないように描くべきこと。

女性は慎み深い動作で、脚を閉じ、腕を寄せ合わせ、頭を低くして横へ傾けて描くべきこと。

老女は大胆で、地獄の復讐女神のように、怒りの動作にすばやく移る姿で描くべきこと。その動きは、脚よりも腕と頭において、いっそうすばやく見えるようにすべきである。

小さな子供たちは、座っているときは活発で体をねじった動作、立っているときは臆病でおずおずした動作にせよ。

IX.大勢の中で語る者を描くこと

大勢の中で語らせたい者を描くときは、その者が扱う話題を考え、その話題にふさわしい動作を添えることを習慣にせよ。つまり説得の話なら、その目的に合う動作をさせる。いくつもの理由によって説明する話なら、話し手に右手の二本の指で左手の一本の指をつかませ、左手の小さい二本の指は曲げさせよ。顔は人々へ向け、口を少し開き、話しているように見せよ。座っているなら、少し身を起こし、頭を前へ出しかけているようにせよ。立たせるなら、胸と頭を人々の方へ少し傾けさせよ。

人々はそこに静かに注意を払い、全員が驚嘆の姿勢で弁者の顔を見るように描け。ある老人は、聞いた言葉に驚いて口の両端を低く保ち、それが頬の多くの皺を引き下げるようにし、眉の合わさるところを高くして、額に多くの皺を作らせよ。ある者は座って両手の指を組み、その中に左膝を抱えるようにせよ。別の者は片膝をもう片方の膝に乗せ、その上に置いた手で肘を受け、その腕の手が、身をかがめた老人の髭のある顎を支えるようにせよ。

X.《最後の晩餐》の構図についての覚え書き

飲んでいた一人は杯を元の場所に置き、発言者の方へ頭を向ける。

別の一人は両手の指を組み、眉をこわばらせて仲間へ向き直る。別の者は手を開いて掌を見せ、肩を耳の方へ上げ、驚きの口をする。

別の一人は隣の者の耳に話しかけ、聞く者はそちらへ身をねじって耳を向ける。片手にナイフを、もう一方にはそのナイフで半ば切られたパンを持っている。別の者は振り向く際、ナイフを持った手で、卓上の杯を倒す。

別の者は卓上に両手を置いて見つめ、別の者は一口の食べ物に息を吹きかける。別の者は発言者を見ようと身をかがめ、手で目に陰を作る。別の者は、かがむ者の後ろへ身を引き、壁とかがんだ者の間から発言者を見る。

XI.怒った人物をどのように描くべきか

怒った人物には、相手の髪をつかませ、その頭を地面へねじり、片膝を相手の脇腹へ置き、右腕の拳を高く上げさせよ。その者は髪を逆立て、眉を低く寄せ、歯を食いしばり、口の両端を弓なりにせよ。首は太く、敵へかがみ込むため、前側を皺で満たせ。

XII.絶望した者をどのように描くか

絶望した者は自分をナイフで刺し、手で衣服を引き裂いており、片手では傷口を裂こうとしているようにせよ。両足を離し、脚を少し曲げ、身体も地面の方へ傾け、髪を引き乱して散らせ。

幻想的な巨人

書簡I.

その黒い顔は、一目見ただけで、非常に恐ろしく、見るもおぞましい。とくに、恐ろしく暗い眉の下にある、くぼんだ赤い目は、天候を曇らせ、地を震わせるほどである。

信じてほしい。その燃える目を向けられれば、どれほど勇猛な男でも、翼を得て逃げたいと望まない者はいない。それに比べれば、地獄のルシフェルさえ天使の顔に見えた。鼻はしわ寄り、広い鼻孔から多くの太い剛毛が出ていた。その下には厚い唇をした歪んだ口があり、両端には猫のような髭、口内には黄色い歯があった。足の甲から上の部分だけで、馬に乗った人々の身体を超えている。

長く我慢することを嫌い、怒りを激怒へ変えると、強大な脚の猛威に動かされる足で、群衆の中へ踏み込んだ。蹴りによって人々を空中へ投げ飛ばし、彼らは密な雹のようにほかの人々の上へ落ちた。死にながら他者に死を与えた者も多かった。この残虐さは、大きな足の巻き上げた塵が空中へ昇り、この地獄の怪物を後退させるまで続いた。そして私たちは逃げ続けた。

ああ、この悪魔じみたものに対し、どれほど多様な攻撃が試みられたことか。それには、どんな打撃も無に等しかった。ああ、哀れな人々よ。難攻不落の要塞も、町の高い城壁も、人数の多さも、家々も宮殿も、君たちには役立たない。残るのは小さな穴や地下の洞だけだ。蟹やこおろぎ、あるいは似た動物のように、救いと逃げ場を見つけよ。

ああ、どれほど多くの不幸な母や父が子を奪われたことか。どれほど多くの哀れな女が伴侶を奪われたことか。確かに、親愛なるベネデットよ、世界が創られて以来、これほどの恐怖を伴って人々が一斉に嘆き、泣くのを見たことは、なかったと思う。

確かにこの場合、人類はほかのあらゆる種類の動物を羨まなければならない。鷲が力でほかの鳥に勝っていても、少なくとも飛ぶ速さでは負けない鳥がいる。ツバメはその敏捷さでクロウタドリの襲撃を逃れ、イルカは速く逃げて鯨や大きなマッコウクジラの襲撃を逃れる。しかし哀れな私たちには、逃走は何の役にも立たない。このものはゆっくり歩いても、どんな速い駿馬の走りよりはるかに速いからである。何を言い、何をすればよいかわからない。今にも頭から巨大な喉へ泳ぎ入り、混乱した死のうちに、大きな腹へ埋められてしまう気がする。

注 原文はmerlo(クロウタドリ)。猛禽を想定した誤記の可能性はあるが、訂正せず訳した。

書簡II.親愛なるベネデット・デ・ペルタルティへ

血と泥にまみれた地面のせいで、凶暴な巨人が倒れると、山が崩れたかと思われた。大地は地震に揺さぶられ、地獄のプルートーさえ恐れるほどだった。大きな衝撃で、巨人は平らな地面にしばらく気を失っていた。人々は何かの矢に当たって死んだと思い、ただちに大群が戻ってきた。倒れた樫の幹を、蟻が猛烈な勢いで走り回るように、彼らは広大な手足を駆け回り、数多くの傷で切り裂いた。

そこで巨人は意識を取り戻し、ほとんど群衆に覆われていると感じると、刺し傷の焼ける痛みを急に覚え、恐ろしい雷鳴のような咆哮を上げた。両手を地面につき、恐ろしい顔を上げ、片手を頭へやると、髪の中に生じる小さな生き物のように、髪につかまった人々でいっぱいなのがわかった。そこで頭を振り、猛烈な風に飛ぶ雹と同じように、人々を空中へ投げ飛ばした。この人々の多くは、自分たちの上に立って足で踏みつける者たちに、殺されていた。髪につかまり、その間へ隠れようとする彼らは、嵐のとき、帆を下ろして風を少なく受けるようにしようと綱を登る、船乗りたちに似ていた。

断片

東方の出来事の知らせか。六月、荒涼としたリビアから来た巨人が現れたと知れ……猛烈に群がる蟻のように……厳しい農夫の斧で倒された木の上を。

この巨人はアトラス山に生まれた英雄であり、エジプト人、アラブ人、メディア人、ペルシア人と戦った。海では鯨、大きなマッコウクジラ、船を糧に生きていた。

マルスは命を恐れ、ユピテルの椅子の下へ逃げていた……。

そして大きな転倒のため、その地方全体が震えたかと思われた。

予言と笑話

理性的な動物についての予言

I.予言

獅子の種族が、爪のある前脚で大地を開き、作った洞穴の中へ、服従するほかの動物とともに、自らを埋めるのが見られるだろう。

暗闇をまとった動物が地から出て、驚くべき襲撃で人類を襲うだろう。そして人類は、激しい咬傷によって血まみれにされ、それらに食い尽くされるだろう。

また忌まわしい飛ぶ種族が空中を走り、人や動物を襲い、大きな叫びを上げてそれを食らうだろう。腹を真紅の血で満たすだろう。

裂かれた肉から血が出て、人々の身体の表面を伝うのが見られるだろう。

人々に、自分の爪で自分の肉を引き裂くほど残酷な病が来るだろう。それは疥癬である。

植物が葉を失い、川が流れを止めるのが見られるだろう。

海の水が高い山頂を越えて天空へ昇り、人々の住まいの上へ再び落ちるだろう。つまり雲によって。

森のもっとも大きな木々が、風の猛威によって東から西へ運ばれるのを見るだろう。つまり海上で。

人々は自分の食糧を投げ捨てるだろう。つまり種を蒔くことによって。

II.産着の帯にくるまれて縛られる子供たちについて

海辺の町々よ。私はお前たちの市民、女も男も、私たちの言葉を理解しない者たちによって、腕も脚も強い紐で固く縛られているのを見る。そしてお前たちは、涙の出る泣き声、ため息、互いの嘆きによってしか、自分の苦しみと失った自由への思いを吐き出せない。縛る者はお前たちを理解せず、お前たちもその者を理解しないからである。

III.乳を飲む子供たちについて

多くのフランチェスコ、ドメニコ、ベネデットは、ほかの者が以前、近いところで食べたものを形づくるだろう。そして話せるようになるまで、何か月もいるだろう。

注 底本のfingerannoは「形づくる/装う」だが、授乳の主題と十分につながらず、読み・意味とも不確実。本文はそのまま、訳は暫定的。

IV.鳥の羽の上に眠ること

自分の存在と名を忘れ、ほかの死者の抜け殻の上で、死人のように横たわる者が、大勢いるだろう。

V.ある国から別の国へ手紙を書くことについて

きわめて遠い国々の人々が、互いに語り、答え合うだろう。

VI.嫁ぐ娘たちについて

父親たちが自分の娘を男たちの欲情へ与え、さらに褒美を添え、それまでのあらゆる用心を捨てるのが見られるだろう。娘を嫁がせるときのことである。

VII.娘たちの持参金について

以前は若い女たちを、親族の見張りでも城壁の堅固さでも、男たちの欲情と略奪から守れなかった。しかし、娘が裕福で、高貴で、非常に美しくても、その父や親族が、娘と寝てくれる者に高い代価を払わねばならない時が来るだろう。

確かにここでは、自然は人類を、世界に無益で、創造されたすべてのものを損なうものとして、絶滅させようとしているように見える。

VIII.寝床へ行く者が灯りを消すことについて

多くの者は、あまりにすばやく息を吐くことで、視力を失い、ほどなくすべての感覚を失うだろう。

IX.夢を見ることについて

人々は歩いていながら動かず、そこにいない者と話し、話していない者の声を聞くだろう。

X.さらに夢を見ることについて

人々は空に新たな破壊を見ると思うだろう。そこへ飛び上がり、そこから降る炎を恐れて逃げると思うだろう。あらゆる種類の動物が人間の言葉を話すのを聞くだろう。動くことなく、一瞬にして自分の身体で世界のさまざまな場所を巡るだろう。暗闇の中に非常に大きな輝きを見るだろう。ああ、人間という種族の驚異よ。どんな狂気が、お前をそこまで導いたのか。お前はどの種の動物とも語り、それらも人間の言葉でお前と語るだろう。自分が高いところから落ちても、傷つかないのを見るだろう。奔流がお前に伴うだろう。

XI.人とともに動く影について

人間や動物の形と像が現れ、それらの動物や人間がどこへ逃れても、ついて行くだろう。その動きは相手の動きと同じだが、それらがさまざまな大きさへ変わることは、驚くべきものに思われるだろう。

XII.夜、灯りによって人が作る影について

人間の形をした巨大な像が現れ、それに近づくほど、その広大な大きさを減らすだろう。

XIII.太陽による影と、水に映る姿が同時にあることについて

一人の人間が三人になり、みながその人について行くのが、しばしば見られるだろう。そしてしばしば、そのうちもっとも確かな一人が、その人を見捨てる。

XIV.さまざまな民族の言語について

人類は、互いの話すことが理解できなくなるだろう。たとえばドイツ人とトルコ人である。

XV.騎兵について

多くの者が、大きな動物によって、速い走りで自らの命の破滅と、きわめて早い死へ運ばれるのが見られるだろう。空中と地上で、さまざまな色の動物が、猛烈に人々をその生命の破壊へ運ぶのが見られるだろう。

XVI.鋸を引く者たちについて

手に刃のある鉄を持ち、互いに向かって動く者が多くいるだろう。彼らは疲労以外には、互いに何の害も与えない。一方が前へ進むだけ、他方は後ろへ退くからである。しかしその間に割って入る者は哀れである。最後には細かく切られてしまうだろう。

XVII.鍬を振るう者たちについて

母の皮を剥ぎ、その皮を母の身の上へ裏返す者が多くいるだろう。大地を耕す者たちである。

XVIII.種を蒔くことについて

そのとき、生き残る人々の大部分は、蓄えた食糧を家の外へ投げ出し、鳥や地上の動物が自由に食うに任せ、それらを少しも気にかけないだろう。

XIX.耕された土地

大地が上下を返され、反対の半球を見つめ、非常に獰猛な動物のために洞穴を開くのが見られるだろう。

XX.靴職人たち

人々は、自分の作品が解体され、壊されるのを、喜んで見るだろう。

XXI.草を刈ることについて

無数の命が絶たれ、大地に無数の穴が作られるだろう。

XXII.穀物とそのほかの種について

人々は、自分たちの生命を支えるために用意された食糧を、自分の家の外へ投げ捨てるだろう。

XXIII.穀物を打つことについて

人々は自分の生命の原因となるものを、激しく打つだろう。穀物を打つのである。

XXIV.遊ぶ者たちについて

動物の皮が、人々を静けさから引き離し、大声と罵りへ駆り立てるだろう。遊戯用の球である。

XXV.生の音について

注 見出しはVITA(生)だが本文はpiva(バグパイプ)。誤植の可能性があるが、見出しを無断訂正していない。

動物の皮を通り抜けた風が、人々を跳びはねさせるだろう。つまり踊らせるバグパイプである。

XXVI.骰子について

死者の骨が、すばやい動きによって、それを動かす者の運命を取り扱うのが見られるだろう。骰子である。

XXVII.打ち叩き、鞭打つ者たちについて

人々は皮を剥がれた草の皮の下へ隠れ、そこで叫びながら、自分の手足を打って、自らに責め苦を与えるだろう。

XXVIII.腸に詰めた豚と仔牛の舌

ああ、なんと汚らわしいことか。一匹の動物が、別の動物の尻に舌を入れているのが見られるだろう。

XXIX.シャツ姿で働く農夫たちについて

東方のただ中に暗闇が来て、イタリアを覆う空を、非常に深い闇で染めるだろう。

注 見出しと本文の関連は、この断片だけでは明確でない。謎の答えを補わず保持した。

XXX.床屋たちについて

すべての人々がアフリカへ逃げるだろう。

注 理髪師とアフリカを結ぶ語呂・文脈は、この断片だけでは不明。説明を創作せず逐語的に訳した。

理性を持たない動物についての予言

I.大砲を牽く

牛が、都市の崩壊の大きな原因となるだろう。馬や水牛も同様である。

II.食べられる牛について

土地の所有者たちは、自分自身の働き手を食べるだろう。

III.棒で打たれる驢馬について

無頓着な自然よ。なぜお前は不公平になり、自分の子供のある者には慈悲深く優しい母となり、ある者にはきわめて残酷で情け容赦のない継母となったのか。私は、お前の子供たちが、何の利益も得ずに他者の奴隷へ渡されるのを見る。施した恩恵への報酬の代わりに、非常に大きな責め苦で支払われ、自分を虐げる者の利益のために、いつも命を費やしている。

IV.驢馬について

多くの労苦は、飢え、渇き、苦しみ、棒の打撃、突き刺し、罵り、ひどい無礼によって報いられるだろう。

V.騾馬の耳の近くにある小さな鈴について

ヨーロッパの多くの場所で、大きさの異なる楽器がさまざまな調和を奏でるのが聞こえ、それをもっとも近くで聞く者は、非常な労苦を味わうだろう。

VI.銀や金の高価な荷を運ぶ騾馬について

多くの宝と大きな富が四足の動物のところにあり、それらはその富をさまざまな場所へ運ぶだろう。

VII.仔山羊について

ヘロデの時代が戻るだろう。罪のない幼子たちが乳母から奪われ、残酷な人々による大きな傷によって死ぬからである。

VIII.羊、牝牛、山羊などについて

無数の者が幼い子供を奪われ、その子供たちは喉を切られ、きわめて残酷に四つ裂きにされるだろう。

IX.鼠を食べる猫について

アフリカの町々よ。お前たちの子供が、自分の家の中で、お前たちの国のきわめて残酷で貪欲な動物に引き裂かれるのが見られるだろう。

X.蝋燭の蝋を作る蜜蜂

神への礼拝のために灯りを作る者が、溺れ死ぬだろう。

そして草を食べる者たちは、夜を昼にするだろう。獣脂である。

XI.蜜蜂について

さらに多くの者が蓄えと食糧を奪われ、理性のない人々によって残酷に沈められ、溺れ死ぬだろう。ああ、神の正義よ。なぜ目覚めて、お前の造ったものがこれほど虐げられるのを見ないのか。

XII.蟻について

多くの民が、自分と子供と食糧を暗い洞穴の中へ隠すだろう。そしてそこで、暗い場所の中、人工の光も自然の光もほかにないまま、何か月もの間、自分と家族を養うだろう。

XIII.蠅とそのほかの虫について

人々は鳥に変わって墓から出てきて、ほかの人々を襲い、その手や食卓から食べ物を奪うだろう。蠅である。

XIV.鳥もち猟に使う小梟や梟について

暗闇から出てきた恐ろしい動物のため、多くの者が頭を砕かれて死に、その大部分では目が頭から飛び出すだろう。

XV.コウノトリに運ばれる蛇について

空の非常に高いところで、きわめて長い蛇が鳥と戦うのが見られるだろう。

XVI.茹でた魚

水の動物が、沸き立つ水の中で死ぬだろう。

XVII.生まれぬうちに食べられる魚について

大きなものたちの死によって、無数の子孫が失われるだろう。

XVIII.海から投げ返され、殻の中で腐る二枚貝や巻貝について

ああ、死んだ後、自分の家の中で腐り、周囲を悪臭で満たす者が、どれほど多くいることか。

XIX.食べられるため雛を生めない卵について

ああ、生まれることを禁じられる者が、どれほど多くいることか。

XX.コクマルガラスとムクドリについて

その者の近くに住んでも大丈夫だと思う者は大群にのぼるが、そのすべてが残酷な死を遂げるだろう。父も母もその家族とともに、残酷な動物に食われ、殺されるのが見られるだろう。

XXI.蜜蜂について

群れをなして一緒に暮らし、蜜を奪うために溺れさせられる。多くのきわめて大きな民が、自分の家の中で溺れ死ぬだろう。

植物についての予言

I.胡桃、オリーブ、どんぐり、栗などについて

多くの子供たちが、情け容赦のない棒の打撃によって母親自身の腕から奪われ、地面に投げられ、その後引き裂かれるだろう。

II.打たれる胡桃の木について

よりよい働きをした者ほど、より多く打たれ、その子供は奪われ、皮を剥がれ、あるいは裸にされ、骨を折られ、砕かれるだろう。

III.オリーブの木から落ち、灯りとなる油を与えるオリーブ

われわれに食物と光を与える者が、激しく地面へ落ちるだろう。

IV.燃える木材について

大森林の木々と低木が、灰に変わるだろう。

V.接ぎ穂を養う木々について

父母が、自分の実の子よりも継子に、はるかに大きな恩恵を与えるのが見られるだろう。

物体についての予言

I.

I.牛の皮で作った靴底について

国の大部分で、大きな動物の皮の上を歩くのが見られるだろう。

II.動物の皮で作った篩について

動物の食べ物が、口以外のあらゆるところからその皮の中を通り、反対側を突き抜けて、平らな地面へ届くのが見られるだろう。

III.提灯について

力強い牡牛の獰猛な角が、夜の光を激しい風の猛威から守るだろう。

IV.同じものについて

牛はその角によって、火を死から守るだろう。提灯である。

V.去勢羊の角で作ったナイフの柄について

動物の角の中に鋭い鉄が見られ、それによって同じ種の多くのものの命が奪われるだろう。

VI.牛の角で作った弓について

牛の角のために、苦痛のうちに死ぬ者が多くいるだろう。

VII.寝床の羽毛について

飛ぶ動物たちが、自分の羽で人々を支えるだろう。

VIII.織機の筬について

分かれたものが、大きな結合の原因となることが多いだろう。つまり、割かれた葦で作られた筬が、絹の糸を結び合わせる。

IX.絹の糸巻き機

苦しめられながら剥ぎ取られ、ついには裸で動かずに残される者たちの、痛ましい叫び、高い悲鳴、かすれた激しい声が聞こえるだろう。これは、すべてを回す動力者のために起こるだろう。

X.人々を治める亜麻について

以前は縛られ、横たえられ、数多くのさまざまな打撃で責め苦を受けた者が、敬われ、尊ばれ、その教えを畏敬と愛をもって聞かれるだろう。

注 亜麻から作る紙、その紙に記された教えを指すと考えられるが、本文にない解答は本文へ補っていない。

XI.斧の柄について

森は、自らの死の原因となる子供を生むだろう。斧の柄である。

XII.死んでいる棒

死者の動きが、多くの生者を、苦痛と涙と叫びのうちに逃げさせるだろう。

XIII.罠と仕掛けについて

多くの死者が猛烈に動き、生者を捕らえ、縛り、その死と破壊のために、敵へ引き渡すだろう。

XIV.死んだ木材を運ぶ水の運動について

魂のない物体が自ら動き、無数の死者の一族を伴って運び、周りの生者から富を奪うだろう。

XV.車と船について

死者が生者を運ぶのが見られるだろう。車や船が、さまざまな場所へ。

XVI.多くの宝を保存する箱について

胡桃の木や木々、そのほかの植物の中に、非常に大きな宝が見いだされるだろう。それらはそこに隠され、よく守られている。

XVII.航海について

タウロス、シナイ、アペニン、アトラスの大森林の木々が、空気の中を東から西へ、北から南へ走るのが見られるだろう。そしてそれらは、大勢の人々を空気の中で運ぶだろう。

ああ、どれほどの誓願、どれほどの死者、どれほどの友や親族との別れがあることか。自分の地方も故郷も再び見ることなく、墓もなく死に、その骨を世界のさまざまな場所に散らす者が、どれほど多くいることか。

XVIII.航海について

大きな風が吹き、それによって東方のものが西方のものとなるだろう。南方のものも、大部分が風の流れに混じり、長い土地の道のりにわたって、それに従うだろう。

XIX.沈む船について

生命のない巨大な物体が、大勢の人々を猛烈に、その生命の破壊へ運ぶのが見られるだろう。

XX.木靴を履いて地上を行く動物たち

泥があまりに深くなり、人々は自分の土地の木々の上を歩くだろう。

XXI.革袋について

山羊が町へ葡萄酒を運ぶだろう。

XXII.日傘について

太陽の球の照射は、それを覆おうと思う者が、それに覆われるようなものとして現れるだろう。

II.

I.石灰に変えられ、牢獄を築く石について

この時より前に火によって壊された多くのものが、多くの人々から自由を奪うだろう。

II.町の城壁が、その堀の水へ映ることについて

大きな町の高い城壁が、その堀の中で上下逆さまになるのが見られるだろう。

III.焼き窯について

多くの者が、口から食べ物を奪われるだろう。焼き窯がそうされる。

IV.さらに焼き窯について

他人の手によって食べさせてもらう者は、口から食べ物を奪われるだろう。焼き窯である。

V.窯の口にパンを入れ、取り出すことについて

すべての都市、町、城、家で、食べたいがために、互いの口からその食べ物を取り出すのが見られ、何の抵抗もできないだろう。

VI.煉瓦と石灰の窯について

ついには大地が、何日もの加熱によって赤くなり、石が灰へ変わるだろう。

VII.攻撃する武器について

人間の作品が、人間自身の死の原因となるだろう。剣と槍である。

VIII.地下から出た鉄は死んでおり、それで非常に多くの人々を殺した武器が作られる

死者が地下から出てきて、その猛々しい動きで、無数の人間を世界から追い出すだろう。

IX.それ自体では決して誰も傷つけない剣と槍について

それ自体はおとなしく、何の害もないものが、悪い仲間のために恐ろしく獰猛になり、多くの人々の命をきわめて残酷に奪うだろう。そして、魂のない、洞穴から出てきた物体が人々を守らなければ、さらに多くを殺すだろう。つまり鉄の鎧である。

X.拍車の星形車について

星々のために、人々がどんな速い動物にも劣らない、非常な速さとなるのが見られるだろう。

XI.大砲の火について

ああ、どれほど多くの大建築が、火のために崩れ去ることか。

XII.鋳造穴と鋳型から出る大砲について

地下から出てくるものが、恐ろしい叫びで近隣の者たちを唖然とさせ、その息によって人々を死なせ、都市や城を崩すだろう。

XIII.火を起こす火打石。その火は、森林を失わせて得たあらゆる木の束を焼き尽くし、それらで獣の肉が調理される

山の大きな石が火を放ち、それが多くの巨大な森林の木材と、多くの野生動物や家畜を焼くだろう。

XIV.火口について

石と鉄によって、以前は見えなかったものが見えるようになるだろう。

XV.金属について

暗く深い洞穴から、人類全体を大きな苦難、危険、死の中へ陥れるものが出てくるだろう。

その多くの追随者には、数々の苦難の後、喜びを与えるだろう。しかしその味方でない者は、困窮と災難のうちに死ぬだろう。

これは無限の裏切りを犯すだろう。これは人々すべてを、殺人、強盗、不実へとますます駆り立て、説き伏せるだろう。これはその味方に疑念を与え、自由な都市から政体を奪い、多くの者から命を奪うだろう。これは多くの策略、欺き、裏切りによって、人々を互いに苦しめるだろう。

怪物のような獣よ。お前が地獄へ戻れば、人々にとってどれほどよいことか。こいつのために、大森林は木々を失って荒れ果て、無数の動物が命を失うだろう。

XVI.貨幣と金について

洞穴の深みから出てくるものが、世界のすべての民に、その助けを得ようとして、大きな苦難、不安、汗のうちに、汗を流して労苦させるだろう。

儀式についての予言

I.埋葬へ運ばれる死者について

素朴な人々が、大量の灯りを運び、視覚の力を完全に失ったすべての者の旅路を照らすだろう。

II.礼拝、葬儀、行列、灯り、鐘、会衆について

人々は、自分では知らぬまま、きわめて大きな栄誉と盛儀を与えられるだろう。

III.死者の日について

死んだ祖先のために泣き、灯りを運ぶ者が、どれほど多くいることか。

IV.聖金曜日になされる嘆きについて

ヨーロッパのあらゆる地方で、東方で死んだただ一人の人の死を、大勢の民が嘆くだろう。

V.キリスト教徒について

子を信仰する多くの者が、母の名でばかり聖堂を建てる。

VI.香炉について

白い衣服を着た者たちが、傲慢な動作で歩き回り、自分たちに何の害も与えていない者を、金属と火で脅すだろう。

VII.ミサを行う司祭たちについて

自分の技を行うため、きわめて豪華に着飾る者が、多くいるだろう。これは前掛けを用いるのと同じようになされると思われるだろう。

VIII.身体の中に聖体を宿す司祭たちについて

そのとき、主の身体が置かれている聖櫃のほとんどすべてが、自ら世界のさまざまな道を歩くのが、はっきりと見られるだろう。

IX.告解を聞く修道士たちについて

不幸な女たちが自分の意志で出かけ、すべての欲情と、恥ずべき、きわめて秘密の行いを、男たちに明かすだろう。

X.崇拝される聖人画について

人々は、聞くことのない人々へ語りかけるだろう。彼らは目を開いているのに見えない。その者たちへ話しても返答はない。耳を持ちながら聞こえない者に恩寵を求め、目の見えない者のために灯りをともすだろう。

XI.彫刻について

ああ、私は救い主が再び十字架にかけられるのを見る。

XII.売られる十字架像について

私はキリストが再び売られ、十字架にかけられ、その聖人たちが責め苦を受けるのを見る。

XIII.とうの昔に死んだ聖人たちによって生きる修道士たちの宗教について

死んだ者たちが、千年の後にも、多くの生きた者たちの生活費を出すだろう。

XIV.天国を売ることについて

無数の人々が、非常に高価なものを、その所有者の許可なしに、公然と平穏に売るだろう。それは一度も彼らのものでも、その権限の内にあるものでもなかった。そして人間の司法は、これを取り締まらないだろう。

XV.言葉を費やして大きな富を受け取り、天国を与える修道士たちについて

見えない貨幣が、それを費やす多くの者を栄えさせるだろう。

XVI.教会と修道士たちの住まいについて

多くの者が、仕事、労苦、生活や財産の貧しさを捨て、富と壮麗な建物の中へ住みに行き、それこそ神の友となる手段だと示すだろう。

習俗についての予言

I.万聖節の引っ越しについて

多くの者が自分の住まいを捨て、財産を携えて、ほかの土地へ住みに行くだろう。

II.木の板の中で眠る人々について

人々は、森や野に生まれた木々の間で眠り、食べ、暮らすだろう。

III.寝床を整えるために叩くことについて

人々はあまりに恩知らずになり、無料で宿を与える者を棒で打ち据えるだろう。そのため、内臓の大部分が元の位置から押し出され、その身体の中をひっくり返り回るだろう。

IV.病人によって生きる医師たち

人々はあまりに卑屈になり、自分の災い、すなわち自分の真の富である健康の喪失によって他人が栄えることを、ありがたく思うだろう。

V.共同体について

一人の哀れな者がおだてられ、そのおだてる者たちは、つねにその哀れな者を欺き、盗み、殺す者であるだろう。

VI.予言

高い山頂から取られた雪が、遠く暑い場所へ運ばれ、夏の時期の祭りに、広場へ降らされるだろう。

自然にはありえない出来事についての予言

I.穴について

多くの者が、取り去れば取り去るほど大きくなるものから、取り去る作業に携わるだろう。

II.枕の上に置かれた重さについて

多くの身体は、その上から頭が取り去られるのを見ると、明らかに膨らみ、取り去られた頭を返されると、直ちに大きさを減らすだろう。

III.虱を取ることについて

動物を捕る者が多くいて、捕れば捕るほど持つ数が減り、反対に、捕る数が少ないほど、持つ数が多くなるだろう。

IV.一本の綱に二つの桶をつけて水を汲むことについて

多くの者が、あるものを下へ引けば引くほど、それが反対の動きでますます逃れていく作業に、携わり続けるだろう。

哲学的な事柄についての予言

I.吝嗇家について

多くの者が、その悪さを知らず、つねに自分を恐れさせてきたものを、あらゆる努力と熱意をもって、猛烈に追い求めるだろう。

II.長くはいられないのだから気前よくなるべきなのに、老いるほど吝嗇になる人々について

より経験と判断力があると見なされる者たちが、ものを必要としなくなるほど、いっそう貪欲にそれを探し求めるのが見られるだろう。

III.富への欲望について

人々は、もっとも恐れるものを追い求めるだろう。つまり、貧窮に陥らないために、みじめに暮らすだろう。

IV.食べる前に殺すものについて

彼らを養うものは、彼らによって殺され、無慈悲な死をもって責めさいなまれるだろう。

V.墓である人間の口について

悪く暴力的な死を遂げた者たちの墓から、大きな音が出るだろう。

VI.かつて生きていた食物について

生命のあった身体の大部分が、ほかの動物の身体を通過するだろう。つまり、人の住まぬ家が細かくなって、人の住む家を通り、その家に利益を与え、その損なわれたものを伴って運び去る。すなわち、人の生命は食べられたものによって作られ、それらは人間の死んだ部分を伴って去るのである。

VII.毎年肉を取り替える人々の生命について

人々は死んで、自分自身の腸を通り抜けるだろう。

VIII.人間の残酷さについて

地上に動物たちが見られ、それらはつねに互いに戦い、非常に大きな害と、しばしば双方の死をもたらすだろう。

彼らの悪意には限りがない。彼らの凶暴な手足によって、世界の大森林の木々の大部分が倒されるだろう。そして食べ終えると、彼らの欲望を養うのは、あらゆる生き物に死、苦悩、労苦、戦争、激怒を与えることとなるだろう。その際限のない傲慢さによって、彼らは天へ昇ろうとするが、手足の過大な重さが彼らを下へ置くだろう。地上にも地下にも水の下にも、追い立てられず、動かされず、損なわれないものは、一つも残らないだろう。ある国のものは別の国へ移され、彼らの身体は、すでに彼らが殺したあらゆる生き物の身体の墓となり、通り道となるだろう。

世界よ。なぜお前は口を開け、この者を巨大な深淵や洞穴の深い裂け目へ落とし、これほど残酷で情け容赦のない怪物を、もはや天へ見せないようにしないのか。

IX.よい書物を読むことについて

死者の言葉に耳を傾ける者は幸いである。よい作品を読み、それに従うことである。

X.教訓を教える書物について

魂のない物体が、その格言によって、よく死ぬために役立つ教えを、われわれに与えるだろう。

XI.名声について

羽が人々を鳥のように天へ上げるだろう。つまり、その羽で書かれた文字によって。

XII.触覚を宿し、その上に文字が記される動物の皮について

感覚を包む衣である皮と語れば語るほど、知恵を得るだろう。

XIII.歴史について

分かれたものが一つになり、失われた記憶を人々に返すほどの力を受け取るだろう。つまり、ばらばらの繊維から作られ、人々の事柄や行いの記憶を保つ紙である。

XIV.地球上のどの点でも、二つの半球を分けることができる

人々はすべて、一瞬にして半球を替えるだろう。

XV.あらゆる点に東西の分かれ目がある

すべての動物が東から西へ、また北から南へ、互いに移り、逆方向へも同様に動くだろう。

XVI.半球は無数にあり、無数の線によって分けられるため、誰もがつねに片足と他方の足の間に、その線の一本を持っていることについて

一方の半球と他方の半球に立つ人々が、語り合い、触れ合い、抱き合い、互いの言葉を理解するだろう。

XVII.雲について

海の大部分が天へ逃げ、長い間戻らないだろう。つまり雲によって。

XVIII.水である、降りしきる雪

雲から落ち、山の斜面でまだ動いていた水が、長い間、何の動きもせずにとどまるだろう。そしてこれは、多くの異なる地方で起こるだろう。

XIX.雪の上を転がる雪玉

転落しながら大きくなる者が、多くいるだろう。

XX.川を濁らせ、土を運び去らせる雨について

天空の方から来るものが、その天空に面するアフリカの大部分をヨーロッパへ、ヨーロッパの土地をアフリカへ移し変えるだろう。そしてスキタイの地方の土地も、大きな混乱の中で互いに混じり合うだろう。

XXI.これは、山々から取り去った土を運び、海岸へ吐き出す川である。土が入るところでは海が退く

非常に大きな山々が、海岸から遠く離れていても、海をその場所から追い出すだろう。

XXII.濁り、土と混じって流れる水、空気に混じる塵と霧、自らのものと混じる火、そして互いに混じるほかのものについて

すべての元素が大きな混乱のうちに混じり合い、ある時は世界の中心へ、ある時は天へ走り、ある時は南方から冷たい北方へ猛烈に走り、またある時は東から西へ、この半球から別の半球へ走るのが見られるだろう。

XXIII.西へ走る東風

東方の部分が西方へ、南方の部分が北方へ走り、大きな轟きと震えと猛威をもって、世界中を渦巻くのが見られるだろう。

XXIV.色がまったくわからなくなる夜について

色どうしの違いがわからなくなり、すべてが黒い性質になる時が来るだろう。

XXV.火について

小さな始まりから生まれ、すばやく大きくなるものがあるだろう。これは創造されたものを何一つ重んじず、その力によって、ほとんどすべてのものの存在を、別の存在へ変えることができるだろう。

XXVI.凹面鏡が火を起こし、その火で窯を熱する。その底は、自らの天井の下にある

太陽光が地上に火をともすだろう。その火によって天井の下のものが熱され、遮るものに反射して、下へ戻るだろう。

XXVII.構想

動かすものを動かされるものから分ける運動が、われわれには残っている。

XXVIII.惑星について

多くの陸と水の動物が、星々の間へ上るだろう。つまり惑星である。

XXIX.助言について

それを必要とする者にもっとも必要なものが、認められず、つまりもっとも軽蔑されるだろう。

XXX.貧困への恐れについて

悪く恐ろしいものが、前述の人々にあまりに大きな恐怖を与えるので、彼らは狂人のように、それから逃れるつもりで、すばやく動いて、その測り知れない力のところへ集まるだろう。

XXXI.嘘について

冬、雪の下に隠れていたものはすべて、夏には露わになり、明らかになるだろう。これは、隠れ続けることのできない嘘について言ったものである。

笑話

I.修道士から商人へ

小さき兄弟会の修道士たちは、一定の時期に自分たちの四旬節を守り、その間は修道院で肉を食べない。しかし旅先では施しで暮らすため、目の前に出されたものを食べる許可がある。さて、そのような旅の途中、二人の修道士が、ある小商人と一緒に宿へ立ち寄った。同じ食卓についたが、宿が貧しいため、煮た若鶏一羽のほかには何も出なかった。小商人は、これでは自分にも少ないと思い、修道士たちの方を向いて言った。「記憶違いでなければ、あなた方はこういう日には、修道院でどんな肉も召し上がらないはずですね」。この言葉に、修道士たちは会則に従い、理屈をこねることなく、そのとおりだと答えざるをえなかった。こうして小商人は望みをかなえ、その鶏を食べてしまい、修道士たちはできるだけの食事で済ませた。

さて、この食事の後、三人は連れ立って出発した。しばらく行くと、かなり広く深い川に行き当たった。三人とも徒歩であった。修道士は貧しさのため、商人は吝嗇のためである。道連れの習慣によって、裸足の修道士の一人が、その小商人を肩に乗せて渡さねばならなかった。そこで修道士は木靴を商人に預け、その男を担いだ。

修道士が川の真ん中へ来たとき、彼もまた自分の会則を思い出した。聖クリストフォロスのように立ち止まり、自分に重くのしかかる者へ頭を上げて言った。「ちょっと教えてください。お金を身につけていますか」。「もちろんだとも」と商人は答えた。「私のような商人が、ほかにどうやって歩き回ると思うのです」。「ああ、困った」と修道士は言った。「私たちの会則では、お金を身に持つことは禁止されているのです」。そして直ちに、商人を水へ投げ込んだ。商人は、先ほどの無礼に機知ある仕方で復讐されたとわかり、恥ずかしさに少し顔を赤らめながらも、楽しげに笑って、穏やかにその仕返しを受け入れた。

II.画家から司祭へ

聖土曜日、ある司祭が慣例に従い、教区の家々へ聖水をかけて回り、画家の仕事場に来た。そこで画家の絵の何枚かに水を振りかけると、画家は振り向き、少し腹を立てて、なぜ自分の絵にそんなものを振りかけるのかと尋ねた。司祭は、これは習慣であり、こうするのが自分の務めで、善いことをしているのだ、善をなす者は善と、さらによいものを期待すべきで、神はそう約束している、地上でなす善には、一に対して百が上から与えられるのだ、と答えた。

そこで画家は、司祭が外へ出るのを待ち、上階の窓に現れて、大きな桶いっぱいの水を司祭に浴びせ、言った。「ほら、一に対して百が上から来ましたよ。あなたの聖水で私になさった善に、そういう報いがあるとおっしゃったとおりです。その水で、私の絵の半分を台無しにしたのですから」

III.職人が領主へ言った機知

ある職人は、何かを頼むつもりもなく、しばしば領主を訪ねていた。領主は、何をしに来るのか尋ねた。職人は、領主には得られない楽しみを味わいに来るのだと答えた。というのも、自分は庶民がするように、自分より力のある人々を見ることを喜ぶが、領主は自分より力のない者しか見られない。それゆえ領主たちは、この楽しみを欠くのだ、と。

IV.ピタゴラス派の者への見事な返答

ある者がピタゴラスの権威を用い、自分は以前にもこの世にいたと証明しようとしたが、一人の男がその話を最後までさせなかった。そこでその者は男に言った。「私が以前にもここにいた証拠に、お前が粉挽きだったのを覚えている」。男はその言葉に皮肉を感じ、まさにそのとおりだと認めた。なぜならその目印によって、お前が粉を運ぶ驢馬だったことを自分も思い出したからだ、と。

V.画家の返答

ある画家が尋ねられた。命のない人物像をあれほど美しく作るのに、なぜ自分の子供はあれほど醜く作ったのか。画家は答えた。絵は昼に作ったが、子供は夜に作ったのだ、と。

VI.友人から悪口を言う者へ

ある男は、友人がしばしば自分の友人たちの悪口を言うため、その者との交際をやめた。見捨てられた友人は、ある日その男に不満を訴え、さんざん嘆いた後、これほどの友情を忘れるに至った理由を教えてほしいと頼んだ。男は答えた。「もう君と付き合いたくないのは、君を大切に思うからだ。君が友である私の悪口を他人に言い、その人たちが、私と同じように君に悪い印象を持つのを望まないのだ。だから、もう付き合わなければ、私たちは敵同士になったと思われるだろう。君がいつものように私の悪口を言っても、付き合っている場合ほどは責められずに済むのだ」

VII.病人の言葉

臨終の床にある病人が、戸を叩く音を聞き、召使いの一人に誰かと尋ねた。召使いは、ボーナ夫人という女性だと答えた。病人は両腕を上げ、大声で神に感謝した。それから召使いたちに、その人を早く通すように言った。死ぬ前に一人のよい女を見たいからだ、生涯、一人も見たことがなかったのだから、と。

注 Bonaという人名と、bona(よい)の掛詞。本文の「よい女」は歴史的笑話の発言であり、現代的評価ではない。

VIII.寝坊助の言葉

ある者が、もう太陽が昇ったのだから寝床を出なさいと言われた。すると答えた。「太陽ほど長い旅と仕事をしなければならないなら、私ももう起きていただろう。だが私の歩く道のりはこれほど短いのだから、まだ起きたくはない」

IX.機知

ある男は、槍試合の相手を務める用意のできた女を見ると、その大きな板を眺め、自分の槍を見て叫んだ。「ああ、これほど大きな仕事場には、この職人は小さすぎる!」

注 槍試合・槍・仕事場の比喩を用いた性的な笑話。比喩の構造を保持した。

X.機知への返答

ある男が、別の男の脇に大きな剣を見て言った。「気の毒に。君がその武器に縛りつけられているのを、ずいぶん長いこと見ている。手は自由で、自由の身なのだから、なぜ自分をほどかないのか」。相手は答えた。「それは君の考えた冗談ではない。古いものだ」。からかわれたと感じた男は答えた。「君はこの世のことをあまりに知らないので、広く知られたことでも、君には新しいと思ったのだ」

XI.自慢屋への笑話

ある者が議論し、さまざまな見事な芸をたくさん知っていると自慢した。すると周囲の一人が言った。「私は、好きな相手に下穿きを脱がせる芸を知っている」。最初の自慢屋は下穿きを履いていなかったので、「いや、私のは脱がせられまい。長靴下一組を賭けよう」と言った。その芸を提案した男は挑戦を受け、下穿きを何枚も借り集め、長靴下を賭けた男の顔へ投げつけ、賭けに勝った。

注 trarreは「脱ぐ/引き出す」と「投げる」の掛詞。下穿きを脱がせる約束を、下穿きを投げつけることで果たす落ち。

XII.機知への返答

ある者が知人に言った。「君の目はすっかり妙な色に変わっているね」。相手は、よくそうなるのだと答えた。「君が気づかなかっただけだ」。「いつそうなるのか」。「私の目が君の妙な顔を見るたびにだ。あまりの不快さに激しく打たれて、青ざめ、妙な色になるのだ」

XIII.同じ話

ある者が別の者に言った。「君の目はすっかり妙な色に変わっている」

相手は答えた。「それは、私の目が君の妙な顔を見ているからだ」

XIV.機知

ある者が、自分の国には世界でもっとも奇妙なものが生まれると言った。相手は答えた。「そこで生まれた君が、その醜い姿の奇妙さによって、それが真実だと証明している」

XV.司祭の笑話

ある女が洗濯をしていて、寒さで足がひどく赤くなっていた。通りかかった司祭が驚き、どうしてそんなに赤いのかと尋ねた。女はすぐ、下に火があるからだと答えた。すると司祭は、自分を修道女より司祭たらしめるあの部位に手をやり、女へ近づき、優しく低い声で、親切にこの蝋燭へ少し火をつけてくれないかと頼んだ。

XVI.笑話

ある男がモデナへ行くと、自分一人の通行税として五ソルドを払わなければならなかった。男がひどく騒ぎ、驚き始めたので、周りの者が大勢集まった。なぜそんなに驚くのかと尋ねられると、マーゾは答えた。「どうして驚かずにいられよう。人間丸ごとで五ソルドしか払わないとは。フィレンツェでは、私はただア……を入れただけで、金貨十ドゥカートを払わねばならなかった。ここではア……も、タ……も、何もかも入れて、こんな小さな税で済む。神よ、この町と、その統治者を救い、守りたまえ!」

注 底本が性器名をc...等に省略しているため、日本語も伏せ字とした。通貨額は底本のまま。

XVII.機知ある言葉

二人が夜、危うい道を歩いていた。前の者が尻から大きな音を立てると、もう一人の仲間が言った。「今こそ、君が私を大切にしているとわかった」。「どうして」と前の者が言った。相手は答えた。「私が転ばず、君とはぐれないよう、君はコレッジャを差し出してくれるのだから」

注 coreggiaはここでは「屁」と「革紐・帯」を掛ける語。転倒・迷子を防ぐ手綱を差し出すという笑い。

XVIII.若者が老人に言った言葉

ある老人が人前で若者を侮り、大胆にもその若者を恐れない様子を示した。すると若者は、老人の長い年齢は、その舌や力よりもよい盾になっている、と答えた。

XIX.笑話

なぜハンガリー人は二重の十字架を持つのか。

注 底本にもこの一文だけがあり、笑話の解答や続文はない。欠落を創作していない。