芸術 / レオナルド・ダ・ヴィンチ絵画論(1890年版)

芸術 / レオナルド・ダ・ヴィンチ

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底本・参照: Trattato della pittura
収録範囲: 1890年版の本文8部935章。編者注は原文別置で日本語訳未完。Wikisource由来の編集要素と日本語訳はCC BY-SA 4.0。
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原著: Trattato della pittura
出典元ライセンス: レオナルドの原著と1890年刊本の歴史的本文は著作権保護期間満了の資料。現代のWikisource編集・翻刻への権利表示とは区別する。 / Leonardo da Vinci, Trattato della pittura, Roma: Unione cooperative editrice, 1890; digital transcription and editing by Italian Wikisource contributors. 各部のURL・履歴URLをsourcesに記載。 / CC BY-SA 4.0 / 取得ページの埋込みdc:rightsはCC BY-SA 3.0およびGFDLを記載し、現在のページ末尾のCC BY-SA 4.0と一致しない。この区別を保持し、現代の編集要素を無条件にパブリックドメインとは扱わない。
翻訳文ライセンス: CC BY-SA 4.0
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1890年版の本文8部935章。編者注は原文別置で日本語訳未完。Wikisource由来の編集要素と日本語訳はCC BY-SA 4.0。

第一部

第1部の前付挿図(1890年版・印刷3頁)
第1部の前付挿図(1890年版・印刷3頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

絵画は学であるか否か

原刊で第001章に隣接する挿図(1890年版・印刷3頁)
原刊で第001章に隣接する挿図(1890年版・印刷3頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

学と呼ばれるのは、その究極の原理から発する精神の推論であり、その原理よりも先に、その学を構成するものを自然のうちに見いだすことはできない。たとえば連続量の学、すなわち幾何学は、物体の表面から始めると、その表面の境界である線に起源をもつと分かる。しかしこれだけでは満足できない。線は点で終わり、点より小さいものはないと知るからである。したがって点が幾何学の第一原理である。自然にも人間の精神にも、点を生みだす原理となりうる別のものはない。もし尖筆の先の極度に鋭いところで面に触れることが点の創造だというなら、それは真実でない。その接触は中心を取り囲む面であり、その中心に点がある、といわねばならない。この点はその面の物質ではない。それ自体も、宇宙のすべての点も、たとえ結び合わされたとしても面をなす力をもたず、仮に結び合わせることができても、面のいかなる部分も構成しない。ある全体を千個の点からできたものと想像して、その千という量から一部分を切り離したとしても、その部分は全体と等しいといってよい。これは零、すなわち無、算術の十番目の数字によって証明される。無は O で表され、一のあとに置けば十を意味させ、二つ置けば百を意味させる。このように、それを付け加える数をつねに十倍にし、無限に増大させる。しかしそれ自体の値は無にすぎず、宇宙のあらゆる無は、本質と価値において一つの無と等しい。人間のどのような探究も、数学的証明を経なければ真の学とは呼べない。精神に始まり精神に終わる学にも真理があるというなら、それは認められず、多くの理由によって否定される。第一に、そのような精神の推論には経験がなく、経験なしには何ものも自らの確かさを示せないからである。

絵画と詩の例、および相違

想像と実現との関係は、影とそれを生む物体との関係に等しい。詩と絵画との関係も同じである。詩はその事物を文字による想像のうちに置くが、絵画はそれを眼の外に現実に示し、眼はあたかも自然の事物であるかのように、その似姿を受け取る。詩はそのような似姿なしに事物を示すので、絵画のように視覚の力を通じて感覚印象の受容部に達することはない。

どの学がもっとも有用か、またその有用性は何にあるか

その成果を広く伝えられる学ほど有用であり、逆に伝えにくい学ほど有用性が少ない。絵画の成果は視覚能力の対象なので、世界のあらゆる人々に伝えられる。それは聴覚を経由するものと同じ仕方ではなく、見ることによって共通感覚に達する。したがって文字の場合のように異なる言語の通訳を必要とせず、自然が生みだした事物とまったく同じく、ただちに人間を満足させる。人間ばかりでなく、ほかの動物にもそうである。これはある家の父親に似せて描かれた絵で明らかになった。まだ産着にくるまれた小さな子供たちがその絵に愛撫し、同じ家の犬や猫もそうした。その光景は眺めるにも驚くべきものであった。

絵画は言葉や文字よりも真実かつ確実に自然の作品を感覚に表すが、文字は絵画よりも真実に言葉を感覚に表す。しかしわれわれが述べたとおり、自然の作品を表す学は、作り手の作品、すなわち人間の作品である言葉を表す学よりも驚嘆に値する。詩その他、人間の舌を経て伝えられるものは後者に属する。

模倣できる学について、および絵画が模倣できず、それゆえ学であること

模倣できる学では、弟子は作者と等しくなれ、その成果も等しくできる。こうした学は模倣する者には有用であるが、ほかの財産のように遺産として残せない学ほど優れてはいない。そのなかで第一のものは絵画である。数学なら弟子は師が講じるだけを学び取れるが、絵画は自然がその資質を与えない者には教えられない。写しが原本と同じ価値をもつ文字のように、絵画は複写できない。作品の力において型取りが原物と等しい彫刻のように、型を取ることもできない。印刷された書物のように無数の子を生むこともない。絵画だけが気高さを保ち、絵画だけが作者をたたえ、貴重で唯一のものにとどまり、決して自分と等しい子を生まない。この独自性こそ、あまねく流布されるものよりも絵画を優れたものにする。さて、東方の偉大な王たちが、自分の姿を人目にさらし広く知らせると名声を損なうと考え、顔を覆い身を隠して歩くのをわれわれは見ないだろうか。また神々の姿を表す絵画が、きわめて高価な覆いでつねに隠されているのを見ないだろうか。それを開帳するときは、まずさまざまな歌と楽器によって盛大な教会儀礼が行われる。そして覆いが外されると、そこに集まった大勢の人々はただちに地に伏し、その絵に表された方を礼拝して、失った健康の回復と永遠の救済とを祈る。まるでその原像が生きてその場にいるかのようである。このことはほかのいかなる学にも、人間のいかなる作品にも起こらない。これは画家の力でなく、模倣されたもの自身の力だというなら、その場合には人間の心は寝床にとどまって満足できるはずで、現に絶えず見られるように、苦難や危険の多い場所へ巡礼に行く必要はないと答えよう。それでも巡礼が絶えず行われるなら、必要もないのに何が彼らを動かすのか。君もきっと、この像が動かすのだと認めるだろう。その原像の姿と力を記せるあらゆる書き物にも、この像がすることはできない。ゆえに、その地に集まる人々の信じるところによれば、原像はこの絵を愛し、それを愛して崇める者を愛し、自分を写したほかの姿よりもこの絵において礼拝されることを喜び、これを通じて恩寵と癒やしの賜物を与えるように見えるのである。

絵画が物体のあらゆる表面を包含し、その範囲に及ぶこと

絵画の扱う範囲は物体の表面に限られ、その遠近法は物体とその色の増減に及ぶ。眼から遠ざかる物は、距離を増すだけ大きさと色を失うからである。したがって絵画は哲学である。哲学は増大と減少の運動を論じるからであり、それは上述の命題に含まれている。その命題を逆にしてこういおう。眼に見られる物は、それと見る眼との間の空間を減らすだけ、大きさと識別しやすさと色を増す。

絵画を非難する者は自然を非難する。画家の作品は自然の作品を表しているからであり、それゆえこの非難者には感覚が欠けている。

絵画が哲学であることは、絵画が動作の生き生きしたありさまにおける物体の運動を扱い、哲学もまた運動に及ぶことによって証明される。言葉に終わるあらゆる学は、生じるや否や滅びる。ただしその手仕事の部分、すなわち機械的な部分である書記を除く。

絵画は自然物の表面、形、色を包含し、哲学はその自然的な力だけに及ぶこと

絵画は、自然が生みだしたあらゆるものの表面、色、形に及ぶ。哲学は同じ物体の内部に入り、その固有の力を考察するが、画家の得るような真実によって満足するには至らない。画家はこうした物体の第一の真実を自らのうちに包含するからである。眼は誤りがもっとも少ない。

発光体、透明体、均質なもの、媒質について、眼はほかの感覚よりも働きの誤りが少ないこと

適切な距離と適切な媒質のもとでは、眼はその働きにおいてほかのどの感覚よりも誤りが少ない。これから証明するつもりであるが、眼は直線によってしか見ず、その直線は対象を底面として眼へ至るピラミッドを構成するからである。耳は対象の位置と距離について大いに誤る。対象の像が眼の場合のような直線でなく、曲がり反射する線を通って来るためである。その像の通る道によって、遠い音が近い音より近く思われることも多い。ただし反響の声は直線だけによってこの感覚へ伝えられる。嗅覚は臭いの発する場所をさらに確かめにくい。しかし対象に触れる味覚と触覚は、その接触だけについて知る。

絵画を軽んじる者は哲学も自然も愛さないこと

自然の目に見えるあらゆる作品をひとり模倣する絵画を軽んじるなら、君は確かに精妙な創意を軽んじるのである。絵画は哲学的で精細な考察によって、海、場所、樹木、動物、草、花など、陰と光に囲まれた形のあらゆる性質を考える。まことに絵画は学であり、自然の正当な娘である。自然そのものから生まれたからである。しかしより正確には自然の孫といおう。目に見えるすべてのものは自然から生まれ、それらから絵画が生まれたからである。したがって絵画を自然の孫、神の縁者と呼ぶのが正しい。

画家があらゆる種類の人々と万物の主人であること

画家は、人間の思いに浮かびうるあらゆるものの主人である。心を奪う美しいものを見たいと望めば、それを生みだす権能をもち、恐怖を起こす怪物、滑稽で笑いを誘うもの、あるいは真に哀れを催すものを見たければ、その主人かつ創造者となる。人けのない場所、暑い季節の陰深く涼しい場所を生みだしたければ、それを描く。寒い季節の暖かな場所についても同じである。谷を望むなら同様であり、高い山頂から広い平野を見渡し、その向こうに海の水平線を見たいなら、それも思いのままである。低い谷から高い山々を見たい場合も、高い山々から低い谷や岸辺を見たい場合も同様である。実際、宇宙に本質として、現前するものとして、あるいは想像として存在するものは、まず彼の精神のうちにあり、ついでその手のうちにある。その手はそれほど優れていて、事物そのものと同じく、一目のうちに、同時に、釣り合った調和を生みだすのである。

詩人と画家について

絵画は詩よりも高貴な感覚に仕え、自然の作品の形を詩人より真実に作りだす。また自然の作品は、人間の作品である言葉よりもはるかに高貴である。人間の作品と自然の作品との関係は、人間と神との関係に等しいからである。したがって、実際に真の似姿である自然物を模倣することは、人の行為と言葉を言葉で模倣するより高貴である。詩人よ、君が君の本来の技だけで、さまざまな場所や物の形を創案し、自然の作品を記述したければ、能力の比較において画家に無限に凌駕される。詩から離れた他の学をまとおうとしても、天文学、修辞学、神学、哲学、幾何学、算術などは君自身のものではない。そのとき君は詩人でなく、姿を変えて、ここで論じられている者ではなくなる。君が自然へ向かいたいとき、自然の作用について他人が作った学を手段としてそこへ向かうのに対し、画家は学やほかの手段の助けなしに、独力でただちに自然の作品の模倣へ向かうことが分からないか。絵画によって、恋する者は愛するものの像へ向かい、模写された絵に語りかける。絵画によって、人々は熱烈な願いを抱いて神々の像を求め、同じ神々を言葉で描いた詩人の作品を見ようとはしない。絵画によって動物も欺かれる。私は以前、主人に似ているために犬を欺いた絵を見た。その犬は絵に向かって大いに喜びを示した。また犬たちが描かれた犬に吠え、噛みつこうとするのを見たし、一匹の猿が描かれた別の猿に向かって、限りなく狂態を演じるのも見た。燕が飛んで来て、建物の窓から突き出すように描かれた鉄棒にとまろうとするのも見た。これらはすべて、画家のきわめて驚くべき働きである。

詩と絵画との比較例

想像は眼が見るほどの優れたものを見ない。眼は対象の像、すなわち似姿を受け取り、それを感覚印象の受容部へ、そこから共通感覚へ渡し、そこで判断が行われるからである。ところが想像は、記憶へ向かう場合を除けば、その共通感覚の外へ出ず、想像されたものがきわめて優れていなければ、そこでとどまり、そこで死ぬ。詩はこのように、詩人の精神、すなわち想像力のうちに存在する。詩人は画家と同じものを創案し、その創案によって画家に比肩しようとするが、実際は上述の証明どおり、はるかに及ばない。したがって、この創案の場合には、絵画の学と詩との関係は、物体とそこから生じる投影との関係と同じである、と真実をもっていえよう。いや、その隔たりはさらに大きい。物体の影なら、少なくとも眼を経て共通感覚に入るが、物体の想像はそこへ入るのではなく、暗い眼の内部で生じるからである。ああ、暗い眼のうちに光を想像することと、闇の外で現実にそれを見ることとの、なんという違いだろう。

詩人よ、血なまぐさい戦いを描こうとするなら、恐ろしい殺戮の機械の煙が、空気を濁す濃い埃と混じって暗く陰惨になった大気や、恐ろしい死に怯えた哀れな者たちの恐怖の逃走を扱うだろう。この場合、画家は君に勝る。画家がその学によってただちに示すものを君が十分に記述するよりも先に、君のペンは使い果たされてしまうからである。画家が一瞬に示すものを君が言葉で示し終えるより先に、君の舌は渇きに、体は眠気と空腹に妨げられよう。その絵に欠けるものは、描かれた事物の魂だけであり、各々の体には一つの視点から示しうる部分の全体がそろっている。この戦争で行動する者たちのすべての動き、四肢の各部分とその装備を語るのは、詩にとって長く、はなはだ退屈なことであろう。完成した絵画はそれらを、きわめて簡潔かつ真実に君の前へ置く。その提示に欠けるのは、機械の轟音、敵を震え上がらせる勝者の叫び、おびえた者たちの叫びと泣き声だけである。それらは詩人にも聴覚へ現前させることができない。したがって詩は盲人にもっともよく働きかける学であり、絵画は聴覚を失った人々に同じことをするといえよう。ただし、より優れた感覚に仕えるだけ、絵画はさらに高貴である。

詩人の真の職分は、互いに話す人々の言葉を創案することだけである。それだけは自然の言葉と同じように聴覚へ表す。人間の声によって作られるその言葉自体が自然なものだからである。それに続くほかのすべてのことでは、詩人は画家に凌駕される。

しかし絵画の及ぶ種類の多さは、言葉の及ぶものより比較にならぬほど大きい。画家は、適切な語がないため言葉では名指せない無数のものを作れるからである。画家が動物や地獄の悪魔を創案しようとするとき、どれほど豊かな発想を自在に繰り広げるか、君には分からないか。

視覚よりも先に、聴覚、嗅覚、触覚を失うほうを望まない者がいるだろうか。視覚を失う者は、世界もそのどんなものも見られなくなるので、世界から追放された者に等しく、この生は死の姉妹だからである。

眼を失うことと耳を失うこととでは、どちらが人類に大きな害をもたらすか

動物は聴覚より視覚を失うほうが、いくつもの理由で大きな害を受ける。第一に、すべての動物に必要な、栄養を得る食物は視覚によって見つけられる。第二に、創造された事物の美、とりわけ愛を起こすものの美は視覚によって分かる。生まれつき見えない者は、何かの美とはどんなものかを一度も知らなかったので、聴覚を通してその愛を受け取れない。残されているのは聴覚で、それによってのみ声と人間の話を理解する。その話には、固有の名を与えられたあらゆるものの名前がある。しかしそれらの名前を知らなくても、楽しく生きられる。生まれつき聞こえない者、つまり話せない者に見られるとおりであり、その多くが喜びを感じる描画がそれを可能にする。もし視覚が、神聖な学に入り込むための集中した精緻な精神的認識を妨げ、その妨げゆえにある哲学者が自ら視力を奪ったというなら、こう答えよう。感覚の主人である眼は、混乱し虚偽に満ちたものを妨げることで、その務めを果たしている。それらは学でなく、いつも大声と手振りを伴う論争を引き起こす議論にすぎない。耳も同じことをすべきである。耳はそれによってさらに傷つけられる。耳は、すべての感覚を巻き込む争いの和解を望むからである。その哲学者が自分の議論への妨げを除こうとして眼をくり抜いたのなら、その行為は頭脳と議論に似つかわしかったと思え。すべてが狂気だったからである。そのような錯乱に入ったとき眼を閉じ、その熱狂が消えるまで閉じていればよかったのではないか。しかしその人は狂っており、議論も狂っており、眼をくり抜くことはこの上なく愚かだった。

天文学は眼を通じて生みだされるので、眼から生じること

天文学には、視線と、絵画の娘である遠近法の働きでない部分は一つもない。画家こそ自らの技の必要から遠近法を生んだからである。遠近法は線なしに独立して成り立たず、その線の内部に、自然が生む物体のさまざまな形がすべて含まれ、線なしには幾何学者の技も盲目である。幾何学者は線で囲まれたあらゆる面を正方形に、あらゆる物体を立方体に還元し、算術も立方根と平方根によって同じことをする。しかしこの二つの学は連続量と非連続量を知ることにしか及ばず、自然の作品の美であり世界の飾りである質については、心を砕かない。

詩人と論争する画家

恋する者よ、どの詩人が言葉によって、君の心に描く人の真の姿を、画家ほど真実に眼前へ置くだろうか。どの詩人が、君の過ぎ去った喜びの再現される川、森、谷、野の景色を、画家より真実に示せるだろうか。絵画は、代わって描かれたものを語る者がいなければ、それ自体では口のきけない詩であるというなら、君の書物はもっと悪い状態にあると気づかないのか。書物の代わりに語る人がいても、その話されている事物は何も見えない。しかし絵の代わりに語る場合には見える。描かれた人物の動作がその心の動きに適切に対応していれば、絵はあたかも話しているかのように理解されるのである。

絵画に属する精緻な考察によって、絵画が人間のあらゆる作品に優ること

魂の窓といわれる眼は、共通感覚が自然の無限の作品をもっとも豊かに、壮麗に観察する主要な通路である。耳は第二であり、眼が見たことを語られることによって高貴になる。歴史家、詩人、またほかの数学者たちよ、君たちが事物を眼で見ていなかったら、それを文章によってうまく伝えられはしなかっただろう。詩人よ、ペンによる絵で物語を表すなら、画家は筆でそれを、より容易に満足を与え、理解するのに退屈しないものとするだろう。君が絵画を口のきけない詩と呼ぶなら、画家も詩を盲目の絵画と呼べよう。さて、盲目と口がきけないのと、どちらがより大きな欠陥かを見よ。詩人は創案において画家と同じほど自由でも、その創作は絵画ほど人々を満足させない。詩が言葉によって形、動作、場所を表すのに対して、画家は形そのものの似姿をもって、その形を再現するからである。人間に近いのは人間という名か、それともその人間の似姿か、考えてみよ。人間の名は国によって変わるが、形は死によってしか変わらない。詩人が耳の道を通じて感覚に仕えるなら、画家はより高貴な感覚である眼の道を通じて仕える。しかし私はこの人々に、ただ一人のよい画家が戦闘の激怒を描き、詩人がもう一つを書き、それを一緒に公開することだけを求める。観客がどちらに長くとどまり、どちらをよく考え、どちらに多く称賛を与え、どちらがより満足させるかが分かるだろう。確かに、はるかに有用で美しい絵画のほうが喜ばれる。ある場所に神の名を書き、その向かいに神の姿を置けば、どちらがより崇敬されるか分かるだろう。絵画が自然のあらゆる形を自らのうちに包含するのに対し、君たちには名だけしかなく、それは形のように普遍的ではない。君たちが提示の効果をもつなら、われわれは効果の提示をもつのである。

ある女の美をその恋人に記述する詩人と、その女を描く画家を選んでみよ。恋する判定者を自然がどちらへ強く向かわせるかが分かるだろう。まことに事物の試験では、経験に判定を委ねるべきである。君たちは絵画を機械的技芸のうちに置いた。画家たちも君たちと同じく文章で自作を称賛する能力があったなら、絵画はこんな卑しい名のもとには置かれていなかったと私は信じる。手が想像のうちに見いだしたものを描き、まず手仕事であるから機械的だというなら、文筆家である君たちも、自分の知力のうちにあるものをペンで手ずから描くではないか。報酬のために作るから機械的だというなら、もしそれを過ちと呼べるとして、君たち以上にこの過ちに陥る者がいるだろうか。学びの場で講義するなら、より多く報いる者のところへ行かないか。何らかの報酬なしに作品を作ることがあるか。ただしこうした考えを非難するためにいうのではない。すべての労苦は報いを待つからである。詩人は、大いなることを意味する創作をしよう、というかもしれない。画家も同じことができ、アペレスの『誹謗』がその例である。詩のほうが永続するというなら、それなら鋳掛屋の作品のほうが永続するといおう。時は君たちやわれわれの作品より長くそれを保つからである。しかしそこには創意が乏しい。また絵画は銅の上にガラス質の顔料で描けば、はるかに永続させられる。われわれは技によって神の孫と呼ばれてよい。詩が道徳哲学に及ぶなら、絵画は自然哲学に及ぶ。詩が心の働きを記述するなら、絵画はそれを観察する。心は動きのうちに働く。詩が地獄の創作で人々を怖がらせるなら、絵画は同じものを現前させて同じことをする。詩人を画家と並べて、美しいもの、獰猛なもの、忌まわしく醜いもの、怪物じみたものを描かせよ。好きな仕方で好きなだけ形を変えてみよ。それでも画家のほうがよく満足させるだろう。模倣されたものにあまりによく似ているため、人間や動物を欺いた絵画を、人は見たことがないのか。

絵画と詩との相違

絵画は見えて聞こえない詩であり、詩は聞こえて見えない絵画である。ゆえにこの二つの詩、あるいは二つの絵画は、知性へ入るべき感覚を交換している。両方とも絵画ならば、もっとも高貴な感覚、すなわち眼を経て共通感覚へ達すべきであり、両方とも詩なら、より低い感覚、すなわち聴覚を経るべきだからである。そこで絵画の判断を生まれつき聞こえない人に委ね、詩は生まれつき見えない人に判断してもらおう。どのような場面でも、行動する人物の心の動きにふさわしい動作で描かれていれば、生まれつき聞こえない人は、行動する者の働きと意図を疑いなく理解する。しかし生まれつき見えない人は、詩人が示すもののうち、その詩を誉れあるものにする事柄を決して理解しない。詩の高貴な部分には、物語の身振りや構成、飾られた楽しい場所を描くことがある。たとえば透明な水を通して流れの緑の底が見え、波が草地や細かな小石の上で戯れ、草がそれらと混じり、魚がすばやく泳ぐ、といった描写である。それらは生まれつき見えない人にいうのも、石にいうのも同じであろう。世界の美を構成する何ものも、一度も見たことがないからである。それは光、闇、色、物体、形、位置、遠隔、近接、運動、静止という自然の十の装いである。これに対して、聞こえない人はより低い感覚を失ったのであり、言葉を聞いたことがなく、いかなる言語も学べなかったため、話す力も同時に失っているとしても、人間の身体に生じるあらゆる状態を、話せて聞こえる人以上によく理解する。そして同様に画家の作品と、そのうちに表されていること、人物がどのような事柄に適合するかを理解するのである。

絵画と詩の間にはどのような違いがあるか

絵画は口のきけない詩であり、詩は盲目の絵画である。両者はそれぞれの力の及ぶ限り自然を模倣し、アペレスが『誹謗』で行ったように、どちらによっても多くの道徳的なありさまを示せる。しかし絵画は、詩の対象である耳よりも高貴な感覚の眼に仕えるため、そこから調和した比例が生じる。すなわち、多くの異なる声が同時に結び合わされると調和した比例が生じ、聴覚を大いに満足させるため、聴く者が驚嘆して半ば意識を失うようになるのと同じである。しかし絵に描かれた天使のような顔の均整ある美は、それ以上のことをする。その均整から調和した響きが生じ、音楽が耳に対してするのと同じく、一時に眼に仕えるからである。この美の調和が、その美の原型となった人の恋人に示されれば、彼は疑いなく驚嘆し、ほかのすべての感覚に優る比類のない喜びを感じるだろう。ところが詩が完全な美を描こうとして、絵画では上述の調和を作る各部分を一つずつ描写しても、音楽で各声部を別々の時に一つずつ聞かせる以上の優美さは生じない。そこからは何の協和も構成されない。それは顔を一部分ずつ見せ、そのつど先に見せた部分を覆い隠すようなものである。眼がその視覚の力によって同時にすべてを包み込めないため、忘却が、こうした提示から調和の比例が構成されるのを妨げる。詩人が創作するどのようなものの美にも同じことが起こる。各部分が別々の時に分けて語られるため、記憶はそこからいかなる調和も受け取らない。

詩と絵画の間の相違

絵画は、その作者が生みだしたままの姿でただちに君に現れ、自然のどんな被造物にも与えうる楽しみを、最高の感覚に与える。この場合、詩人は同じものを、より低い感覚である聴覚の道を通じて共通感覚に送るので、誰かが事物について語るのを聞く以上の楽しみを眼に与えない。眼に喜びを与えるものについて長い時間をかけて話を聞くことと、自然物を見るときの速さでそれを見ることとの違いを考えてみよ。しかも詩人の作品は長い時間をかけて読まれても、理解されないことが多く、さまざまな注釈を要する。注釈者たちが詩人の意図を理解するのは、きわめてまれである。また読者は時間の不都合から、作品のわずかな部分しか読まないことが多い。しかし画家の作品は、それを見る者にただちに理解される。

絵画と詩の相違、および類似について

絵画はその本質をただちに視覚へ示し、感覚印象の受容部が自然の対象を受け取るのと同じ固有の媒介によって伝える。そしてそれと同時に、全体を構成する諸部分の調和した比例が形づくられて、感覚を満足させる。詩も同じことを伝えるが、眼より劣る媒介を通じてである。その媒介は、名指されたものの姿を、眼よりも混乱して遅く感覚印象の受容部へ運ぶ。眼は対象と感覚印象の受容部との真の媒介であり、その前に現れるものの真の表面と形を、最高の真実をもってただちに伝える。そこから調和と呼ばれる比例が生じ、その甘美な協和は、異なる声の比例が聴覚を満足させるのと同じく、感覚を満足させる。ただし聴覚は眼よりも低い。そこに生じるものは生じるだけ滅び、生まれるのと同じ速さで消えるからである。これは視覚には起こりえない。美しい四肢の釣り合いからなる人間の美を眼前に示すなら、その美は音楽のように滅びやすくはなく、たちまち消えることもない。それは長くとどまり、見て考察することを許す。繰り返し演奏される音楽のように再び生じるのでもなく、退屈させるのでもない。むしろ君を恋に陥れ、すべての感覚が眼とともにそれを所有したがり、眼と競って争おうとするかのようにさせる。口はそれを自分のために体内へ取り込みたいようであり、耳はその美が語られるのを聞いて喜び、触覚はあらゆる通路を通してそれに浸透したがり、鼻もそこから絶えず発する空気を受け取りたがる。しかしその調和の美は、数年のうちに時が壊してしまう。画家の模倣した美にはそれが起こらない。時が長くそれを保存し、眼はその働きに関する限り、生きた美から受けるのと同じ真の喜びを、描かれた美から受け取るからである。そこには触覚が欠けている。触覚は同時に兄の地位を得るが、望みを満たしたあとは、神聖な美を考察する理性を妨げない。この場合、美を模倣した絵画はその大部分を補うが、詩人の記述にはそれができない。この点で画家に並ぼうとする詩人は、美の四肢に言及する自分の言葉を、時が互いに引き離し、その間に忘却を挟み、比例を分断することに気づかない。しかも比例は、長々と述べなければ名指せない。名指せないからには、神聖な比例からなる調和した均整を構成できない。したがって、描かれた美を考察する一つの瞬間を、記述された美は与えられない。眼から入れるべきものを耳から入れようとする者は、自然に反する罪を犯す。耳には音楽の働きを入れよ。万物の自然の形を真に模倣する絵画の学を入れてはならない。人よ、都会の自分の家を離れ、親族と友を残し、山や谷の田園へ赴かせるものは、世界の自然の美以外に何があるのか。よく考えれば、君はそれをただ視覚によって享受するのである。この場合、詩人も自分を画家と呼びたがるなら、なぜ君は詩人の記述した風景を手に取り、家にとどまって、太陽の過度の熱を避けなかったのか。涼しいところで、移動せず、病気の危険もなくできるのだから、そのほうが有益で苦労も少なかったのではないか。しかし魂はそれでは、その住まいの窓である眼の恩恵を享受できず、快い場所の姿を受け取れなかった。蛇行する川の戯れに潤される陰深い谷も、その色で眼に調和をもたらすさまざまな花も、眼に示されうるその他すべてのものも見られなかった。だが、冬の厳しい寒さのなかで、画家が同じ風景や、泉のほとりなどで君が喜びを味わった別の風景を描いて眼前に置き、花咲く草原、青々とした木々の心地よい陰の下で、恋する自分と愛する人とを再び見られるなら、詩人がその出来事を記述するのを聞くのとは別の喜びを受けないだろうか。ここで詩人は答え、上述の理由には屈するが、自分はさまざまな創作のなかで人々に話させ、論じさせ、存在しないものを創案し、人々を武器へと奮い立たせ、天、星、自然、技芸、万物を記述するから、画家に優るという。それにはこう答えられる。語られたもののどれも、彼の固有の職分ではない。話したり演説したりしたければ、その点では雄弁家に負けると納得せねばならない。天文学を語るなら天文学者から、哲学を語るなら哲学者から盗んだのである。実際、詩には固有の居場所がなく、さまざまな職人の作った商品を集める小間物商以上の位置に値しない。これに対して絵画の学の神聖さは、人間の作品と神の作品とをともに考察する。それらは表面、すなわち物体の境界線によって区切られ、この線によって絵画は彫刻家に彫像の完成を指図する。その第一原理である素描によって、建築家には建物を眼に快く見せることを教える。さまざまな器を作る者、金工師、織工、刺繍師に教える。異なる言語を表す文字を発明したのも絵画であり、算術家に数字を与え、幾何学に図形の表し方を教え、遠近法家、天文学者、機械製作者、技師に教えるのも絵画である。

眼について

観照する者に宇宙の美を映し出す眼は、これほど優れたものである。それを失うことに同意する者は、自然のあらゆる作品の姿を自ら奪う。魂は眼を通じて自然のさまざまなものをすべて自らに示し、その眺めによって人間の牢獄のうちでも満足しているからである。しかし眼を失う者は、魂を暗い牢獄に残し、全世界の光である太陽を再び見る希望をすべて失わせる。夜の闇は短命であるにもかかわらず、それをこの上なく嫌う者はなんと多いことか。では、その闇が生涯の伴侶になったなら、彼らはどうするだろう。確かに、眼よりもむしろ聴覚と嗅覚を失うことを望まない者はいない。聴覚を失えば、言葉を終着点とするすべての学を失うことに同意するのである。それでもそうするのは、世界の美を失いたくないからにほかならない。その美は、偶成のものであれ自然のものであれ、人間の眼に映る物体の表面にあるのである。

詩人と画家の論争、および詩と絵画の相違

詩人は、自分の学は創案と尺度であるという。これが詩の単純な本体、すなわち題材の創案と詩句の韻律であり、そのうえで詩はあらゆる学をまとうのだと。画家はそれに、自分も絵画の学において同じ義務、つまり創案と尺度を負うと答える。創案は描くべき題材に関わり、尺度は描かれるものが不釣り合いにならないためのものである。しかし画家はそうした三つの学を身にまとうのではなく、むしろほかの学の多くが絵画をまとう。たとえば天文学は、絵画の主要な一部である遠近法なしには何もできない。ここでいうのは数学的な天文学であって、虚偽の占星術ではない。愚かな者たちのおかげでそれによって暮らす人々には、失礼を許してもらおう。詩人は、美しい格言に満ちた別のことを表すために、一つのことを記述するという。画家は同じことが自分にもでき、この点では自分も詩人だという。詩人が、あらゆる動物の種にとって主要なことである愛へと人々を燃え立たせるというなら、画家にも同じ力がある。そればかりか、画家は恋人の眼前に愛するもの自身の肖像を置くので、恋人はしばしばそれに口づけし、語りかける。文筆家が同じ美を示してもそうはしないであろう。さらに驚くべきは、生きた女を誰も表していない絵を、人間が愛し、恋することである。私もかつて神聖なものを表す絵を描いたが、それに恋して買った者は、ためらいなく口づけできるように、神であることを示す表現を取り除きたがった。しかしついには良心がため息と欲情に勝ち、その絵を家から出さざるをえなかった。さあ詩人よ、生きたものを写すことなく美を記述し、それによって人々にこうした欲望を呼び起こしてみよ。君が、地獄や天国、そのほかの喜びや恐怖を記述しようというなら、画家は君に勝る。黙ったままでその喜びを語り、あるいは恐怖を与え、逃れたい気持ちを起こすものを、眼前に置くからである。絵画は詩よりも速く感覚を動かす。君が、言葉で民衆を泣かせ、笑わせるというなら、動かすのは君ではなく雄弁家であり、それは詩とは別の学だといおう。しかし画家は笑いを起こしても、涙は起こさない。涙は笑いよりも重大な情動だからである。ある画家は、見た者がただちにあくびをし、絵を見続けるかぎりそれを繰り返すような絵を作った。その絵もあくびをしているように描かれていた。ほかの画家たちは、見る者に同じ営みを促すほど好色で淫らな行為を描いたが、詩にはそれはできない。また神々の姿を書き記しても、その文章は描かれた像ほど崇敬されはしない。絵には絶えず誓願とさまざまな祈りが捧げられ、異なる地方のさまざまな人々が東方の海を渡って集まり、文章ではなく、その絵に救いを求めるからである。

画家に対する詩人の反論

画家よ、君は自分の技が礼拝されるというが、その力を自分に帰すのでなく、絵が表すものに帰せよ。ここで画家は答える。詩人よ、君も模倣者を名乗るなら、なぜ言葉で事物を表して、その言葉を含む文字までも礼拝されるようにしないのか。しかし自然は詩人より画家を厚く恵んだ。恵まれた者の作品が、恵まれなかった者の作品より尊ばれるのは当然である。したがって、言葉で聴覚を満足させる者と、絵画で視覚の喜びを満足させる者とを称賛しよう。ただし言葉のほうの称賛は、その言葉が偶成的であり、画家の模倣する自然の作品より劣った作者の作ったものであるだけ、少ない。自然は事物の表面の形のうちに境界をもつのである。

画家と競う詩人に対するマッティア王の返答

マッティア王の誕生日に、ある詩人が、王が世界のために生まれた日を称える作品を献じ、ある画家が王の恋人の肖像を贈った。王はただちに詩人の書物を閉じ、絵へ向き直り、大いに感嘆して見つめた。そこで詩人はひどく憤り、王よ、お読みください、お読みください、口のきけない絵よりも中身のあるものをお聞きになるでしょう、といった。王は、口のきけないものを眺めることで非難されたと感じ、こういった。詩人よ、黙れ。おまえは何をいっているか分かっていない。この絵は、盲人向けのおまえの作品よりも優れた感覚に仕えている。聞くだけでなく、見て触れられるものを私に与えよ。おまえの作品は肘の下に置き、画家のこの作品を両手で持って眼に差し出した私の選択を非難するな。手は自ら進んで、聴覚よりも高貴な感覚に仕えることを選んだのだ。私は、画家の学と詩人の学との関係は、それらを対象とする感覚同士の関係に等しいと判断する。私たちの魂が調和から成り、調和は対象の比例が見え、あるいは聞こえる瞬間にしか生じないことを知らないのか。おまえの学では比例は一瞬に作られず、一つの部分が別の部分に次いで生まれ、前の部分が死ななければ次の部分は生まれないことが分からないのか。だから私は、おまえの創案を画家の創案よりはるかに劣ると判断する。そこから調和した比例が構成されない、ただそのためである。眼前にあるこの顔の神聖な美を構成する、きわめて美しい各部分の比例のようには、聴く者や見る者の心を満足させない。それらは同時に一つに結ばれ、神聖な比例によって、地上で人間が作ったどんなものもこれ以上を与えられないと思うほどの喜びを、私に与えるのである。

永遠の闇にいるか聴覚を失うか、どちらを選ぶべきかと問われて、盲目になるよりは聴覚と嗅覚を失いたいとただちに答えないほど、判断の鈍い者はいない。視覚を失う者は、世界の美と、創造された事物のあらゆる形を失うが、聞こえない者が失うのは、打たれた空気の運動が作る音だけであり、それは世界のうちのごく小さなものだからである。学は高貴な対象に及ぶほど高貴であり、だから神の本質についての誤った想像でも、より低いものの想像より価値がある、という者よ、その理屈によれば、神の作品だけに及ぶ絵画は、人間の行為についての偽りの創作だけに及ぶ詩より高貴だといえよう。絵画が自由学芸の数から追い出されたことを嘆くのは、正当な嘆きである。絵画は自然の真の娘であり、より高貴な感覚によって働くからである。文筆家たちよ、君たちが絵画を自由学芸の数から除いたのは不当である。絵画は自然の作品ばかりか、自然が一度も作らなかった無限のものにまで取り組むのである。

詩人と画家についての結論

詩は盲人にもっともよく理解され、絵画は聴覚を失った人に同じ働きをする、と結論したので、絵画が詩よりも優れ高貴な感覚に仕えるだけ、絵画は詩より価値があるといおう。その高貴さは、ほかの三つの感覚の高貴さの三倍であると証明される。人は視覚よりもむしろ聴覚、嗅覚、触覚を失うことを選ぶからである。視覚を失う者は宇宙の眺めと美を失い、生きたまま墓に閉じ込められ、そこで動き、生きている者のようになる。眼が全世界の美を包含することが分からないか。眼は天文学の首領であり、宇宙誌を作り、人間のあらゆる技芸を助言し修正し、人間を世界のさまざまな場所へ動かす。眼は数学の君主であり、その学はきわめて確かである。眼は星の高さと大きさを測り、元素とその位置を発見し、星の運行によって未来の事柄を予言させた。建築と遠近法を、神聖な絵画を生んだのも眼である。おお、神の創造したほかのあらゆるものに優るものよ。どんな称賛が君の高貴さを表しうるだろう。どんな民、どんな言語が君の真の働きを十分に記述できるだろう。眼は人体の窓であり、そこを通じてその道〔原文に疑問符〕が観照し、世界の美を享受する。それによって魂は人間の牢獄に満足し、それがなければその牢獄は魂の苦痛となる。そのために人間の工夫は火を発見し、それによって眼は以前に闇が奪ったものを取り戻す。眼は農耕と楽しい庭園によって自然を飾った。しかしなぜ私は、これほど高尚で長い議論を続ける必要があるのか。眼によってなされないものが何かあるだろうか。眼は人々を東から西へ動かし、航海を発明した。この点で眼は自然を凌ぐ。自然の単純な産物は有限だが、眼が手に命じる作品は無限だからである。画家が動物、草、樹木、場所の無限の形を創案することが、それを示している。

注 「その道」は原文の不確かな読みに従う。原文は la sua via (?) specula。

音楽は絵画の妹と呼ぶべきこと

音楽は絵画の姉妹としか呼ぶべきでない。眼に次ぐ感覚である聴覚の対象であり、同時に働く比例的な諸部分の結合によって調和を作るからである。それらは一つ、または複数の調和的な時間のうちに生まれ、死ぬことを強いられ、その時間は、調和を構成する各部分の比例を取り囲む。それは、人間の美を生む諸部分を輪郭線が取り囲むのと同じである。しかし絵画は音楽に優り、それを支配する。不幸な音楽のように、創造されるとすぐ死ぬのではなく、存在し続け、実際にはただ一つの平面であるものを、生きているかのように君へ示すからである。おお驚くべき学よ、君は死すべき者たちのはかない美を生かし、それを自然の作品よりも長くとどめる。自然の作品は時によって絶えず変えられ、必然の老いへ導かれるのだから。この学と神聖な自然との関係は、その作品と自然の作品との関係に等しく、そのために絵画は礼拝されるのである。

音楽家が画家に語る

音楽家は、自分の学は画家の学に等しく評価されるべきだという。音楽は多くの部分からなる一つの体を作り、それが生まれ死ぬ時間の数だけある調和的な時間のうちに、観照者はその優美さのすべてを観照する。そしてその時間によって、観照する者の身体に宿る魂を優雅に楽しませるからである。しかし画家はこう答える。人間の四肢からなる体は、その美が変化して別のものを形づくるような調和的な時間ごとに喜びを与えるのではなく、その時間ごとに生まれ死ぬのでもない。絵画はそれをきわめて長い年月にわたって永続させる。その優秀さは、自然が全力を尽くしても保てない均整ある四肢の調和を、生かしておくほどなのである。時や死が自然の原型を短期間に壊しても、神聖な美の像を保存してきた絵画はなんと多いことか。こうして画家の作品は、その師である自然の作品よりも高貴なものとして残ったのである。

音楽家が耳に向かう音に段階を与えるように、画家は眼に向かうものに段階を与える

眼の前の事物は次々と互いに接しているが、それでも私は二十ブラッチャごとに規則を定めよう。これは音楽家が音の間に行ったことと同じである。音は結びついて連続しているが、それでも音から音へ少数の段階を設け、一度、二度、三度、四度、五度と呼び、こうして声を上げ下げする違いに、段階ごとの名を与えた。音楽家よ、絵画は手を使って行われるので機械的だが、音楽は人間の器官である口で行われるのであり、それも触覚の器官である手の場合とは違って味覚に関係するためではない、というなら、それでも言葉は行為より劣るのである。しかし学を書く者よ、君も画家と同じく、精神のうちにあるものを手で書き写してはいないか。音楽は比例から成るというなら、私もまさにその比例をもって絵画を進めてきた。後にもっとよく分かるだろう。

より優れた感覚を満足させるものは、より高貴である。したがって視覚を満足させる絵画は、聴覚だけを満足させる音楽より高貴である。より永続するものはより高貴である。したがって生まれながら消耗してゆく音楽は、ガラス質の絵具によって永続する絵画より劣る。より普遍的で、多様な事物を含むものは、より優れているといわれよう。したがって絵画はあらゆる営みの上に置かれるべきである。自然に存在する形と存在しない形をすべて包含するからである。声だけに携わる音楽よりも、称えられ、高められるべきである。絵画によって神々の像が作られ、そのまわりで礼拝が行われ、それに仕える音楽が礼拝を飾る。絵画によって恋人たちにその恋の源の写しが与えられ、時と自然が移ろわせる美が保たれ、名高い人々の似姿が保存される。音楽は書き記すことで永続するというなら、われわれもここで文字によって同じことをする。したがって音楽を自由学芸のうちに置いたからには、絵画もそこへ入れるか、音楽をそこから除くかせねばならない。卑しい者が絵画を行うというなら、音楽もそれを知らない者によって損なわれる。機械的でない学は精神的なものだというなら、絵画は精神的なものだと答えよう。音楽と幾何学が連続量の比例を、算術が非連続量の比例を考察するように、絵画はあらゆる連続量と、その遠近法における陰、光、距離の比例の質とを考察するのである。

詩人、画家、音楽家についての結論

形あるものの表現に関して、画家と詩人との間には、ばらばらにされた体と結び合わされた体との間と同じ違いがある。詩人はどんな体の美醜を記述するにも、部分ごとに、異なる時にそれを示すが、画家はすべてを一時に見せるからである。詩人は全体を構成する四肢の真の形を、画家のように言葉で示すことができない。画家は自然において可能な真実をもって、それを眼前に置く。詩人には、四人の歌い手のために作られた曲を一人で歌い、まず上声を、次にテノールを、ついでアルト、最後にバスを歌う音楽家と同じことが起こる。その人からは、調和した時間のうちに包まれる調和的な比例の優美さは生じない。詩人は、美しい顔を部分ごとに見せるのと同じことをする。そうされては、その美に決して満足できないだろう。美は、上述の各部分がともに組み合わされた神聖な比例にのみ存するからである。各部分はただ同時に、結び合わされた肢体の神聖な調和を作り、それを見る者の自由をしばしば奪う。音楽もまた、その調和した時間のうちに、異なる声から成る甘美な旋律を作るが、詩人にはそれを調和として描く力がない。詩も音楽と同じく聴覚を経て判断の座に入るが、詩人には音楽の調和を記述できない。絵画の調和的な比例が同時に異なる部分から成るように、同時に異なることをいう力がないからである。それらの美しさは全体としても個別にも、同時に判断される。全体としては組み合わされたものの意図において、個別にはその全体を作る構成要素の意図においてである。このため詩人は、形あるものの表現では画家にはるかに遅れ、目に見えないものでは音楽家に遅れる。しかしほかの学の助けを借りれば、さまざまな発明者が作ったさまざまな品を運ぶほかの商人と同じく、市に姿を現せるだろう。詩人が雄弁家、哲学者、天文学者、宇宙誌家などの学を借りるとき、まさにこれをしている。それらの学は詩人からまったく分離している。したがって彼は、取引を成立させるために異なる人々を引き合わせる仲買人なのである。詩人の固有の職分を求めるなら、異なる学から盗んだものを集め、それらから偽りの複合物、あるいはもう少し穏当にいえば架空の複合物を作る者でしかないと分かる。この自由な創作の点で、詩人は画家と肩を並べた。しかしそれは絵画のもっとも弱い部分である。

どの学が機械的で、どの学が機械的でないか

経験から生まれる知識は機械的であり、精神に始まり精神に終わるものは学問的であり、学に始まり手の作業に終わるものは半ば機械的である、と人はいう。しかし私には、あらゆる確実性の母である経験から生まれず、既知の経験にも終わらない学は、空虚で誤りに満ちていると思える。すなわちその始め、中間、終わりが、五感のどれをも通らない学である。感覚を通るあらゆるものの確実性を疑うのなら、神と魂の不在など、感覚に背き、つねに論争と争いの的になる事柄については、いっそう疑わねばならない。実際、道理が欠けるところでは、いつも叫び声がそれを補う。確かなことではそうはならない。だから叫び声のあるところには真の学はないといおう。真理にはただ一つの到達点があり、それが明らかになれば争いは永久に消えるからである。争いが再び起こるなら、それは偽りで混乱した学であって、確実性が蘇ったのではない。しかし真の学とは、希望が感覚を通して入り込ませ、争う者たちの舌を黙らせた学である。それは探究者を夢で養わず、真で既知の第一原理を基礎に、つねに順序を追い、真の帰結をもって最後まで進む。これは第一の数学、すなわち数と測定、算術と幾何学と呼ばれ、非連続量と連続量を最高の真実をもって扱う学に見られる。ここでは三の二倍が六より多いか少ないか、三角形の角が二直角より小さいか、と論争することはない。すべての反論は永遠の沈黙のうちに消え、信奉者たちは平和にその学を享受する。偽りの精神的な学にはそれができない。もし、これらの真で既知の学も、手を使わなければ完成できないため機械的な種類に属するというなら、筆記者の手を通るあらゆる技芸について同じことがいえる。それらは絵画の一部である素描の種類に属する。天文学その他も手の作業を通るが、絵画と同じく、まず精神的なものである。絵画はまずその観照者の精神にあり、手の作業なしには完成に至れない。その学問的で真の原理は、まず遮光体とは何か、固有の陰と投影とは何か、照明とは何かを定める。すなわち闇、光、色、物体、形、位置、遠隔、近接、運動、静止であり、これらは手の作業なしに精神だけで理解される。これが観照者の精神にとどまる絵画の学であり、そこから、上述の観照または学よりもはるかに高貴な制作が生まれるのである。

その次に彫刻が来る。きわめて高貴な技芸だが、それほど優れた知力によって行われるものではない。画家が自分の技を進める二つの主要な点において、絵画はきわめて難しいからである。彫刻は自然、すなわち遠近法、陰、光によって助けられる。また色を模倣しない。画家は色において陰を光に対応させる方法を見つけようと苦心するのである。

注 原文の assenza4(不在)と speranza6(希望)には脚注番号が付着している。本文は提示された語を直訳し、essenza(本質)、esperienza(経験)などへの推定訂正は行っていない。

注 第二段落の主語の移行は不明瞭であり、自然の助けを受ける彫刻と、遠近・明暗を自ら作る絵画の対比として訳した。

なぜ絵画は学の数に入れられないのか

文筆家たちは絵画の学を知らなかったので、その段階と部分を記述できなかった。また絵画自身、その成果を言葉によって示さない。そのため無知によって、絵画は上述の諸学より後ろに残されたが、それによって神聖さを失ったわけではない。実際、彼らが絵画を高貴なものとしなかったことにも理由はある。絵画は他人の舌の助けなしに、自然の優れた作品と同じく、自ら高貴なものとなるからである。画家たちが絵画について記述し、それを学の形に整えなかったとしても、絵画の罪ではない。画家のうち文筆を職とする者が少ないのは、絵画を理解するだけでも一生が足りないからである。そのために絵画は高貴でないといわねばならないのか。人間が知らなかったからといって、草、石、樹木の効能が存在しないといわねばならないのか。確かにそうではない。それらの草は、人間の言葉や文字の助けなしに、それ自体で高貴であり続けるというべきである。

彫刻について、およびそれが学であるか否かを論じ始める

彫刻は学ではなく、きわめて機械的な技芸である。制作者に汗と身体の疲労を生じさせるからであり、この技芸家には四肢の単純な寸法と、運動や姿勢の性質を知るだけで足りる。それは、物がそのとおりであることを眼に示して完結し、観照者にそれ自体による驚きを与えない。絵画はこれと違い、学の力によって、平らな表面の上に遠い地平線を伴う広大な平野を示すのである。

絵画と彫刻との相違

絵画と彫刻の間に私が見いだす違いは、彫刻家は画家より大きな身体の労苦によって作品を進め、画家はより大きな精神の労苦によって進めることだけである。その真実はこう証明される。彫刻家は制作にあたり、腕力と打撃によって、大理石やほかの石の内部に包まれた形を超える余分な部分を削り取る。これはきわめて機械的な作業で、しばしば大量の汗を伴い、汗は粉塵と混じって泥になり、顔を覆う。全身は大理石の粉をまぶされ、パン屋のようになり、小さな破片に覆われて、雪を浴びたようになる。仕事場は汚れ、破片と石の粉塵でいっぱいである。画家にはまったく逆のことが起こる。ただし優れた画家と彫刻家を論じているのである。画家は身なりよく、大いに安楽に作品の前へ座り、美しい色をつけたきわめて軽い筆を動かし、好きな衣服で身を飾る。住まいには美しい絵が満ち、清潔で、しばしば音楽や、さまざまなすぐれた作品を読む朗読者が伴う。槌の騒音やほかの雑音が混じらず、それらを大いに楽しんで聴ける。また彫刻家は作品を仕上げる際、一つの丸彫り像ごとに多くの輪郭を作り、どの方向からも優美さが現れるようにせねばならない。こうした輪郭は凹凸の調和だけによってできるが、横顔として見られる場所へ移らなければ、それを正しく置けない。すなわち、凹部と凸部の境界が、それに接する空気と境をなすように見られねばならない。しかし実際には、これは作者の労苦を増さない。彫刻家も画家と同じく、どの方向から見た事物の境界についても真の知識をもつと考えられるからである。その知識は、画家にも彫刻家にもつねに潜在している。ただし彫刻家は、筋肉の間を作るところを削り、筋肉の隆起を作るところを残さねばならないから、筋肉の長さと幅を作っただけでは、適切な形を生みだせない。横へ動き、身をかがめたり起こしたりして、筋肉の真の高さとその間の真の深さを見ねばならない。彫刻家はその位置からこれらを判断し、輪郭を通じて修正する。さもなければ、彫像の境界、すなわち形を正しく置くことはできない。人はこのやり方を彫刻家の精神的労苦というが、実際に増すのは身体の労苦だけである。精神、すなわち判断に関していえば、その横からの見え方によって、筋肉が高すぎるところの四肢の輪郭を修正するだけだからである。これが彫刻家が作品を完成させる固有の日常の手順であり、どの方向から見た身体の形の境界についても真の知識をもつことによって導かれる。彫刻家は、削りすぎたら画家のように付け足せないという。それにはこう答える。その技が完全なら、寸法の知識によって十分な分だけを取り除き、余分には削らなかったはずだ。余分に削るのは無知から生じ、必要より多く、あるいは少なく削らせるのである。しかし私はそのような者たちを論じていない。彼らは師匠でなく、大理石を損なう者だからである。師匠は眼の判断を信用しない。それはつねに欺く。一本の線を目分量で等しい二つに分けようとする者が、経験によってしばしば誤りを知らされるとおりである。この疑いゆえに、よく判断する者はつねに恐れるが、無知な者はそうしない。そのため前者は、四肢の各々の長さ、厚み、幅の測定を知り、それによってつねに導かれる。そうすれば必要以上には削らない。画家には、作品を完成へ導く十の異なる考察がある。光、闇、色、物体、形、位置、遠隔、近接、運動、静止である。彫刻家が考慮するのは、物体、形、位置、運動、静止だけである。闇と光には関わらない。自然が彫像の上に自らそれらを生みだすからである。色にはまったく関わらない。遠隔と近接には半ば関わるだけで、線遠近法しか用いない。眼からの距離に応じて色や、境界と形の識別しやすさが変わる、色の遠近法は用いない。したがって彫刻には考察が少なく、その結果、知力の労苦も絵画より少ないのである。

画家と彫刻家

彫刻家は、自分の技は絵画より高貴であるという。湿気、火、暑さ、寒さを絵画ほど恐れず、より永続するからである。それには、このことは彫刻家の高貴さを増さないと答える。永続性は素材から生じ、作者から生じるのではないからである。その長所は絵画にも持たせられる。金属や焼いた土にガラス質の絵具で描き、窯で溶かして流し、さまざまな道具で磨き、平らで光沢のある表面を作ればよい。今日フランスとイタリアの各地、とりわけフィレンツェのロッビア家で行われるのを見るとおりである。彼らは、ガラスで覆った焼き物の上に、大規模な絵画作品を制作する方法を発見した。確かにこれは大理石彫刻と同じく打撃と破損を受け、青銅像のように破壊者の害を免れるわけではない。しかし永続性において彫刻に並び、美では比較にならぬほど凌ぐ。そこには二つの遠近法が結びつくが、丸彫り彫刻では、遠近法はすべて自然によって作られるからである。彫刻家が丸彫りの一体を作るとき、作るのは二つの像だけであり、眺められる無限の方向に応じた無限の像ではない。この二つのうち一つは正面、もう一つは背面から見られる。それ以外ではないことはこう証明される。正面から見る半浮彫の像を作っても、同じ方向から見た一体を描く画家より、表現において多くの仕事をしたとは決していえない。背を向けた像も同様である。しかし浅浮彫には丸彫りよりも比較にならぬほど多くの考察があり、考察の大きさでは幾分絵画に近づく。遠近法に従う義務があるからである。丸彫りはこの知識にまったく関わらず、生きた対象に見いだしたままの単純な寸法を使う。この点では、画家は彫刻家が絵画を学ぶよりも早く彫刻を学ぶ。さて浅浮彫の話に戻れば、それは丸彫りより身体の労苦が少ないが、探究ははるかに多い。物体の第一の部分と第二の部分、第二と第三というように、順次それらの間に置かれた距離の比例を考慮せねばならないからである。遠近法を知る君がそれを吟味すれば、眼に近い、あるいは遠い身体の部分に求められる浮き上がりの大小について、誤りに満ちていない浅浮彫は一つも見つからないだろう。丸彫りでは自然が彫刻家を助けるため、そのことは決して起こらない。だから丸彫りを作る者には、その大きな難しさがない。次に、作品の浮き上がりの大小を問わず、彫刻家の大敵となるものがある。制作した場所と似た適切な光がなければ、その作品には何の価値もない。下から光を受けると、作品はたいそう……見える。とりわけ浅浮彫は、相反する判断によって、その認識をほとんど消してしまう。これは画家には起こりえない。画家は対象の四肢を置くだけでなく、自然のきわめて大きな二つの役割、すなわち二つの遠近法を引き受け、さらに第三の、非常に大きな考察を要する陰と光の明暗を引き受けるからである。彫刻家はこれに無知であり、自然がほかの人工の見えないものを助けるのと同じ仕方で、自然に助けられるのである。

注 原文の le loro opere parranno assai は述語の内容が不完全なため、「たいそう……見える」と欠落を明示した。末尾の invisibili(見えない)は原文どおりに訳した。

彫刻は絵画より知力を要さず、多くの自然的な部分を欠くこと

私は絵画に劣らず彫刻にも携わり、両方を同じ程度に実践しているので、どちらがより知力、困難、完成度をもつかについて判定しても、さほど非難されないと思う。第一に、彫刻はある特定の光、すなわち上からの光に従属するが、絵画はどこへでも光と陰を伴ってゆく。したがって光と陰は彫刻の重要事である。この場合、彫刻家は、それを自ら生む隆起の自然によって助けられる。画家は人工の技によって、自然が理にかなってそうするはずの場所にそれを作る。彫刻家は事物の色のさまざまな性質に応じて変化させられないが、絵画はどの部分も欠かさない。彫刻家の遠近法はまったく真実に見えず、画家のそれは作品の向こう数百マイルにまで及んで見える。空気遠近法はその作品から遠い。彫刻家は透明体も発光体も、反射する線も、鏡やそれに類する輝く物体も、霧も暗い天候も表せない。退屈を避けるため述べないが、ほかにも無限にある。彫刻の取り柄は時間に対して強いことである。しかし同じ耐久性についていえば、厚い銅を白い琺瑯で覆い、その上に琺瑯の色で描き、火に戻して焼きつけた絵画は、永続性において彫刻に優る。彫刻家は、誤った箇所を簡単には直せないというかもしれない。しかし取り返しのつかない不注意が作品を高貴にするというのは、弱い論拠である。私はむしろ、そのような誤りを犯す作者の知力を直すほうが、彼の損なった作品を直すより難しいといおう。熟練した者はそのような誤りを犯さず、よい規則によって少しずつ削り、作品をよく仕上げることを、われわれはよく知っている。また彫刻家が土や蝋で作るなら、削ることも足すこともでき、完成すれば容易に青銅に鋳造できる。これが彫刻の最後の工程であり、もっとも永続するものである。大理石だけのものは破壊されやすいが、青銅はそうではないからである。したがって、前述のように取り除きも付け足しもできる銅の上の絵画は、青銅と同等である。青銅の作品も、まず蝋で作っていたときには取り除き、付け足せたのだから。こちらが青銅彫刻なら、あちらは銅とガラスからなる、きわめて永続するものである。青銅が黒く褐色のままであるのに対し、この絵画は多様で美しい色に満ち、上述した無限の変化をもつ。板絵だけについて論じたいなら、私も彫刻の側に同意し、こういおう。絵画はより美しく、創意に富み、豊かであるように、彫刻はより長くもつが、それ以外には何もない、と。彫刻はわずかな労苦によって、絵画では奇跡のように思われることを示す。すなわち触れられないものを触れられるように、平らなものを盛り上がったように、近いものを遠いように見せることである。実際、絵画は彫刻が用いない無限の考察に飾られている。絵画の知力、技巧、考察と、彫刻のそれとの間には比較の余地がない。彫刻が関わるのは、作者でなく素材の力によって生じる遠近法だけだからである。彫刻家が、作品から余分に削った素材を画家のようには元へ戻せないというなら、こう答える。削りすぎる者は理解が足りず、師匠ではない。寸法を掌握していれば、取り除いてはならないものを削らないからである。したがってその欠点は制作者のもので、素材のものではないといおう。しかし絵画は驚くべき技巧をもち、すべてがきわめて精緻な考察からなる。彫刻は考察がごく少ないため、それらをまったく欠く。自分の学は絵画より永続するという彫刻家には、その永続性は彫られた素材の力であり、彫刻家の力ではないと答える。この点では彫刻家はそれを自らの栄光とせず、その素材を作った自然に譲るべきである。

彫刻家と画家について

彫刻家の技は画家の技より身体の労苦が大きく、すなわちより機械的であり、精神の労苦は少ない。すなわち絵画に比べて考察が少ない。彫刻家はただ取り除くだけで、画家はつねに付け加えるからである。彫刻家はつねに同一の素材から取り除き、画家はつねにさまざまな素材を付け加える。彫刻家が求めるのは彫られた素材を取り巻く線だけだが、画家は同じ線に加えて、陰と光、色、短縮を求める。これらのうち陰と光と遠近法については、自然が絶えず彫刻家を助ける。画家はこれらを知力の力によって獲得し、自ら自然にならねばならないのに、彫刻家はつねにすでにできたものを見いだす。もし君が、画家の理解することを理解する彫刻家もいるというなら、こう答える。彫刻家が画家に属する部分を理解するかぎり、彼は画家であり、それを理解しないところでは、ただの彫刻家である。しかし画家はつねに彫刻、すなわち自ら明暗と短縮を生む隆起をもつ自然の実物を理解する必要がある。それゆえ多くの者は、陰と光と遠近法の考察に学識がないため自然へ戻り、実物を写す。この点で、自然についてほかの学や考察をもたず、ただ写すことだけを習慣にしているからである。そのような者のなかには、ガラス、透ける紙や薄布を通して自然の作ったものを眺め、その透明な面の上に輪郭を描く者もいる。比例の規則で輪郭を囲み、ときには拡大し、その輪郭の内部を明暗で満たし、陰と光の位置、量、形を記す。しかしこれは、自然の作用に従って想像から作ることのできる者が、幾分労苦を軽くし、正確に似せねばならない対象の真の模倣において、どの小部分も落とさないためだけに用いるなら、称賛されるべきである。自分では写すことも、自分の知力で考察することもできない者には、この工夫は非難されるべきである。そうした怠惰によって自分の知力を壊し、その助けなしでは決して何もよいものを作れなくなるからである。彼らは創案や物語の構成のすべてにおいて、つねに乏しく貧弱である。物語の構成こそ、この学の目的であることは、しかるべき場所で示されるだろう。

絵画と彫刻との比較

絵画は彫刻より多くの精神的考察を要し、技巧も驚異も大きい。必要に迫られて、画家の精神は自然自身の精神へと姿を変え、自然と技芸との間の解釈者にならねばならないからである。自然とともに、その法則に従って現れるものの原因を注解し、眼を取り巻く対象の似姿が、真の像としていかに瞳へ集まるか、大きさの等しい対象のどれが眼により大きく現れるか、等しい色のどれがより暗く、あるいは明るく見えるか、同じ低さにあるもののどれがより低く見えるか、同じ高さにあるもののどれがより高く見えるか、異なる距離に置かれた等しい対象がなぜ互いに異なる明瞭さを示すかを考える。この技芸は、見えるあらゆるもの、すなわち万物の色とその減退を、自らのうちに包み込み、収める。貧しい彫刻にはそれができない。絵画は透明なものを表すが、彫刻家は自分の技巧なしに、自然の透明物を示すだけである。画家は対象と眼の間の空気の色を変えることで、さまざまな距離を示す。対象の像が通り抜けにくい霧を、向こうに雲と山と谷を見せる雨を、その中や向こうにそれを巻き上げる戦士を見せる埃を、濃淡さまざまな煙を示す。水面と底の間で戯れる魚を、水面の下、緑の草に囲まれて、川底の洗われた砂の上に横たわる、さまざまな色の清らかな小石を示す。われわれの上方の異なる高さにある星を、その他数えきれない作用を示す。彫刻にはそこまで及べない。彫刻家は浅浮彫が絵画の一種だという。遠近法にあずかるので素描に関しては部分的に認められるが、陰と光に関しては、彫刻としても絵画としても誤りである。浅浮彫の陰は丸彫りの陰の性質をもたず、たとえば短縮された部分の陰は、絵画や丸彫り彫刻の暗さをもたないからである。しかしこの技は絵画と彫刻の混合である。

彫刻には色の美が欠け、色の遠近法が欠け、眼から遠いものの境界の遠近法とぼやけが欠けている。近いものの境界も遠いものの境界も、同じように識別できるものにするからである。遠い対象と眼の間の空気が、近い対象より多くそれを覆うようにはできない。光沢体や透明体、たとえば前にかかった薄衣を通して裸の肉が見える、ヴェールをまとった人物も作れない。透明な水の表面の下にある、さまざまな色の細かな小石も作れない。

絵画は彫刻より精神的な考察が多く、技巧も大きい。彫刻は見えるとおりのものでしかないからである。すなわち、ほかの自然物と同じく、隆起した物体であり、空気に囲まれ、暗い表面と明るい表面をまとっている。その技巧は自然と人間という二人の制作者によって行われるが、自然の働きのほうがはるかに大きい。自然が多少暗い陰と、多少明るい光によって作品を助けなければ、作品は平らな面のように、全体が一様な明暗の色となるからである。さらに遠近法の助けが加わる。それは短縮によって、身体の筋肉をもつ表面をさまざまな方向へ向け、一つの筋肉が別の筋肉を多少なりとも覆うように助ける。ここで彫刻家は、私が筋肉を作らなければ、遠近法もそれを短縮しない、と答える。それには、明暗の助けがなければ筋肉を見られず、したがって作れないと答える。彫刻家は、素材を削ることで明暗を生むのは自分だという。しかし陰を作るのは彼でも技芸でもなく、自然であると答える。闇のなかで彫れば、変化がないため何も見えない。また彫った素材が一様な明るさの霧に囲まれていても、その素材と接する霧との境界に、素材の輪郭が見えるだけである。彫刻家よ、君に問う。なぜ君は、上から作品を照らす特定の光のもとで行うのと同じ完成度に、野外で、空気の均質で全般的な光に囲まれて制作できないのか。素材を取り除くことで思いどおりに陰を生むのなら、なぜ特定の光で行うように、全般的な光のもとでも、彫られた素材に同じく陰を生ませないのか。確かに君は思い違いをしている。その陰と光を作るのは別の師匠であり、召使いである君は、彼がそれらの現象を刻む素材を用意するだけなのだ。だから他人の作品を誇るな。どんな身体でも、その四肢の長さ、厚さ、比例が君にはあれば足り、それが君の技である。残り、すなわち全体は、君より偉大な師である自然が作る。彫刻家は、浅浮彫を作り、現実には存在しないものを遠近法によって示すという。それには、遠近法は絵画の一部であり、この場合、前に示したとおり彫刻家は画家になる、と答える。

彫刻家の弁明

彫刻家は、大理石を必要以上に削れば、画家のように誤りを修正できないという。それには、必要以上に削る者は師匠ではないと答える。師匠と呼ばれるのは、自分の仕事について真の学をもつ者だからである。彫刻家は、大理石を加工中に割れ目が見つかり、その欠陥の原因は作者でなく石自身だった、と答える。それには、この場合の彫刻家は、描いている板が割れたり傷んだりした画家と同じだと答える。彫刻家は、連続量には無限の境界があるため、一つの像を作るときには無限の像を作らずにはいられないという。それには、その像の無限の境界は二つの半身、すなわち中央から後ろの半身と、中央から前の半身にまとめられると答える。両者がよく釣り合えば丸彫り像を構成し、この二つの半身がすべての部分に適切な隆起をもてば、それ以上の技巧なしに自ずと、その彫刻家が作ったという無限の像すべてに対応する。同じことは轆轤で器を作る者にもいえる。その器も無限の方向から示せるからである。しかし彫刻家が何をしようと、自然の作用は必要かつ適切なあらゆる場合に、絶えず助けを与えないだろうか。その助けには誤りがない。それが明暗、画家が光と陰と呼ぶものである。画家はきわめて大きな考察によってそれらを自ら生みだし、自然が彫刻家の知力なしに彫刻を助けるのと同じ量、質、比例を用いて、自分を助ける。また同じ自然は、遠近法が彫刻家の考察なしに自ら自然に作りだす適切な縮小によって、この技芸家を助ける。しかし画家はこの学を、自らの知力によって獲得せねばならない。彫刻家は画家より永続する作品を作るというだろう。それには、それは彫られた素材の力であり、それを彫る彫刻家の力ではないと答える。画家が焼き物にガラス質の絵具で描けば、その作品は彫刻より永続するだろう。

彫刻には光への依存があり、絵画にはないこと

彫刻が下から光を受ければ、怪物じみた奇妙なものに見える。絵画にはこれは起こらない。絵画はすべての部分を自ら伴っているからである。

絵画と彫刻の間の相違

絵画に現れる第一の驚異は、壁やほかの平面から浮き離れて見え、実際には壁の表面から離れていないもので、精妙な判断力を欺くことである。この場合、彫刻家の作品は、それがあるとおりに見えるだけである。このため画家は、陰が光に対応するように、陰についての知識の役割を果たさねばならない。彫刻家にはその学は必要ない。ほかのすべての形あるものと同じように、自然が作品を助けるからである。それらから光を除けば同じ一色になり、光を戻せば、異なる色、すなわち明と暗になる。画家が大きな考察をもって行わねばならない第二のことは、精緻な探究によって陰と光の真の質と量を置くことである。彫刻家の作品には、自然が自らそれを置く。第三は遠近法である。これは数学研究のきわめて精緻な探究と発明であり、線の力によって、近いものを遠く、小さいものを大きく見せる。この場合、彫刻は自然に助けられ、彫刻家の発明なしにそれを行う。

絵画と詩について

原刊で第040章に隣接する挿図(1890年版・印刷31頁)
原刊で第040章に隣接する挿図(1890年版・印刷31頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

言葉を創作する点では詩が絵画に勝り、行為を創作する点では絵画が詩に勝る。行為と言葉との関係は、絵画と詩との関係に等しい。行為は眼の対象であり、言葉は耳の対象だからである。このように感覚同士は、それらの対象同士と同じ関係にある。それゆえ私は絵画が詩より優れていると判断する。しかしその制作者たちが絵画の理を語れなかったため、絵画は長く擁護者をもたなかった。絵画は話さず、自らを示し、行為に終わるからである。詩は言葉に終わり、それによって活発に自らを称賛するのである。

第二部

第2部の前付挿図(1890年版・印刷33頁)
第2部の前付挿図(1890年版・印刷33頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版
第2部の前付挿図(1890年版・印刷33頁)
第2部の前付挿図(1890年版・印刷33頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

絵画の学の第一原理について

絵画の学の第一原理は点、第二は線、第三は面、第四はその面をまとう物体である。これは描かれるもの、すなわち描かれる物体についていったことである。実際には絵画は表面を越えては及ばず、その表面によって、目に見えるどんなものの形であれ、物体を描き出すからである。

絵画の学の原理

原刊で第042章に隣接する挿図(1890年版・印刷33頁)
原刊で第042章に隣接する挿図(1890年版・印刷33頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版
原刊で第042章に隣接する挿図(1890年版・印刷33頁)
原刊で第042章に隣接する挿図(1890年版・印刷33頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

平面は、自分に向き合う別の平面の全体に、その像の全体をもつ。これを証明する。rs を第一の平面とし、oq をそれに向き合う第二の平面とする。この第一の平面 rs は、その全体が面 oq のうちにあり、全体が o に、全体が q に、全体が p にあるという。rs は角 o および角 p の底辺であり、同様に oq 上に作られる無限の角の底辺だからである。

絵画の第二原理について

絵画の第二原理は、それによって描き出される物体の陰である。この陰の原理を示し、それに基づいて、上述の表面に立体を彫り出すように描くことへ進もう。

絵画の学が及ぶ範囲

絵画の学は、物体を覆う表面のあらゆる色と形、および距離の段階に応じた適切な縮小を伴う、その近接と遠隔に及ぶ。この学は遠近法、すなわち視線の母である。遠近法は三部に分かれる。第一は物体の輪郭線だけを含み、第二は異なる距離における色の減退を論じ、第三はさまざまな距離における物体の結合の喪失を論じる。ただし第一の、物体の線と境界だけに及ぶものは、素描、すなわちあらゆる物体の形の表現と呼ばれる。そこから陰と光、あるいは明と暗に及ぶ別の学が生じ、この学には大きな考察がある。また視線の学は天文学を生んだ。天文学は単なる遠近法であり、すべて視線と、切断されたピラミッドだからである。

注 第三の遠近法の対象は原文 congiunzione(結合)に従った。

若者が最初に学ぶべきこと

若者はまず遠近法を学び、次にあらゆるものの寸法を学ぶべきである。その次にはよい四肢に慣れるため、よい師の手になる作品から学ぶ。次には学んだものの理を確かめるため実物から学び、それからしばらく異なる師たちの作品を見る。その後、技を実践し、制作する習慣をつけるべきである。

若者はどのように学ぶべきか

自然の作品のあらゆる形を模倣する学を職としたい若者は、その形が置かれた場所にふさわしい陰と光を伴う素描を学ぶべきである。

幼い画家に与えるべき規則

視覚が存在するうちでもっとも速い働きの一つであり、一瞬に無限の形を見ることを、われわれは明らかに知っている。しかし一度には一つのものしか理解しない。読者である君が、この文字の書かれた紙全体を一目で見たとしよう。ただちにさまざまな文字でいっぱいだと判断するだろう。しかしその間には、どんな文字か、何を意味するかは分からない。文字の内容を知るには、一語ずつ、一行ずつ進まねばならない。また建物の高みへ上がりたければ、一段ずつ上る必要があり、そうしなければ高みへ達することは不可能である。同じように、自然がこの技へ向かわせる君にいう。事物の形を真に知りたければ、その小部分から始めよ。第一の部分を記憶と実技に十分身につけるまで、第二へ進んではならない。別の仕方をすれば時間を捨てることになり、少なくとも修業を大いに長引かせる。そして速さより先に入念さを学べと忠告する。

制作における画家の生活について

身体の快適さが知力の繁栄を損なわないように、画家あるいは素描家は一人でいるべきである。とりわけ、眼前に絶えず現れ、記憶のうちによく保存すべき材料を与える考察と観察に専念するときはそうである。一人なら君はすべて自分のものであり、一人でも仲間がいれば半分だけ自分のものとなる。その付き合いが無遠慮なほど、さらに少なくなる。大勢といれば、この不都合はなお大きい。自分の好きなようにし、自然の事物の形をもっとよく考察できるよう、離れたところへ退こうというかもしれない。しかしそれはうまく行かないという。しばしば彼らのおしゃべりへ耳を貸さずにはいられないからである。二人の主人には仕えない。仲間としての役目を悪く果たし、技の考察の成果はなお悪くなるだろう。彼らの言葉が届かず邪魔されないほど遠くへ退こうというなら、君は変人と思われるだろうと答える。しかしそうするなら、結局一人でいることになると分からないか。

絵画に適性のある若者の見分け方

素描を望み、愛しても、適性のない人は多い。それは、注意深さを欠き、自分の作品を陰によって決して仕上げない子供たちのうちに認められる。

教訓

裸体、頭部、衣服、動物、風景、その他の個別のものなど、一つのことしかうまくできない画家は称賛に値しない。どんなに鈍い知力でも、一つだけに向き、それをつねに実践すれば、うまくできないことはないからである。

若者はどのように修業を進めるべきか

画家の精神は、眼前に現れる注目すべき対象の形の数だけ、つねにさまざまな考察へ変わらねばならない。それらの前で足を止めて記録し、場所、周囲の状況、光、陰を考慮して、そこから規則を作るべきである。

学び方について

まず学を修め、それからその学から生まれる実践へ進め。画家は規則に従って学び、記憶にとどめないものを何一つ残さず、動物の四肢とその関節の間にどのような違いがあるかを見るべきである。

画家の知力は何に似るべきか

画家の知力は鏡のようであるべきだ。鏡はつねに対象とするものの色へ変わり、向かい合うものの数だけの似姿で満たされる。画家である君は、自然が生む形のあらゆる性質を自分の技で模倣する万能の師でなければ、よい画家にはなれないと知るべきである。それらを見て精神に写さなければ作れないのだから、野を歩くときは判断力をさまざまな対象へ向け、順にあれやこれを眺め、劣るものの間から選び抜いた多様なものを束ねよ。想像で疲れると仕事をやめ、散歩で体を動かしながらも、精神の疲れをそのまま保つ画家たちのようにしてはならない。彼らはさまざまなものへ注意を向けるどころか、友や親族に出会って挨拶されても、見ることも聞くこともせず、出会わなかったのと同じように相手を認識しないことが多い。

画家の判断について

作品が自分の判断力を上回る師は、劣った師である。判断力が作品を上回る者は、技の完成へと進む。

画家の教訓についての論考

実物から顔を写すことを職とする人々全体を見ると、もっともよく似せる者が、ほかのどの画家よりも物語の構成に劣ることを、私は見てきた。その理由は、一つのことをよりよく行う者には、自然がほかのこと以上にそのことへの適性を与えたと明らかになり、そのためそれをより愛し、より大きな愛がいっそう入念にさせたからである。一部分へ向けられた愛は、それだけ全体から失われる。喜びのすべてがその一つに集まり、個別のために普遍を捨てたからである。この知力の力は狭い範囲に限られ、広がる力をもたない。それは凹面鏡に似ている。太陽の光線を受け、その光線の量を広く拡散させて反射すると熱はぬるくなり、すべてを狭い場所へ反射すると、光線は非常に熱いが、狭い場所でしか働かない。人間の顔だけを愛し、絵画のほかの部分を愛さないこうした画家も同じである。さらに悪いことに、技のほかの部分を知らず、価値を認めず、判断もしない。自らも怠惰で動きが少ないため、その作品には動きがなく、自作より大きく敏捷な動きをもつものを非難し、悪霊に取りつかれた者やムーア舞踊の師匠のようだという。確かに適切さは守るべきである。すなわち動きは、その動く者の心の動きを告げるものでなければならない。恐れを伴う敬意を示す人物を描くなら、その表現が絶望や命令のように見えるほど大胆で尊大なものにしてはならない。私は最近、受胎告知の際に聖母をその部屋から追い出そうとしているような天使を見た。その身振りには、この上なく卑しい敵に加えられるほどの侮辱が表れていた。聖母は絶望して窓から身を投げようとしているようだった。ゆえに、そのような欠点に陥らないよう心にとどめよ。

このことについて、私は誰にも弁解しない。誰かが自分に向けていわれたと思うなら、自分流に行う者はそれぞれ、自分ではよいことをしていると思いながら、自らを有罪にするからである。これは自然の作品に一度も助言を求めず、ただ多く作ることだけに向かう者たちに認められる。一日にもう一ソルド稼げるなら、絵を描くより靴を縫うだろう。しかし彼らについてこれ以上長く論じない。自然の娘であるこの技のうちに、私は彼らを受け入れないからである。さて画家とその判断についていえば、人物を動かしすぎる者には、適切に動かす者の人物が眠って見え、ほとんど動かさない者には、適切で必要な動きを作る者の人物が、悪霊に取りつかれて見える。だから画家は、冷静に、あるいは熱く語り合う人々の様子を観察し、何を話しているかを理解し、その動作が話題にふさわしいかを見るべきである。

画家は一人でいるべきであり、見るものを考察し、自分に語りかけ、見るものの種類ごとにもっとも優れた部分を選ぶべきである。眼前に置かれる事物の色の数だけ自らを変える鏡に倣うのである。そうすれば、自分が第二の自然であると思われるだろう。

画家の教訓

画家よ、一流の画家たちを喜ばせようと努めれば、よい絵を描くだろう。真実をもって君を批評できるのは彼らだけだからである。しかし熟練していない者を喜ばせたければ、君の絵には短縮も隆起も敏捷な動きも少なくなる。そのため、絵画が優れた技芸とされる部分、すなわち少しも隆起していないものを浮き上がらせる点を欠く。この点で画家は彫刻家に優る。彫刻家の隆起にはそれ自体としての驚きがない。画家が技によって獲得するものを、自然が作っているからである。

画家の教訓

絵画に含まれるすべてを等しく愛さない者は、万能にはならない。たとえば風景を好まない者は、それをわずかで単純な探究で済むものと見なす。われらのボッティチェッリが、そのような研究は無駄であり、さまざまな色を含ませた海綿を壁へ投げつけるだけで、美しい風景の見える染みを壁に残せるといったようにである。確かに、その染みのなかには、探そうとするもののさまざまな創案が見える。人間の頭、いろいろな動物、戦い、岩、海、雲、森、その他そのようなものである。これは鐘の音と同じで、鐘が自分の思うとおりのことをいっていると聞き取れる。しかし染みが創案を与えても、どんな細部の仕上げ方も教えない。そしてこの画家は、きわめて劣った風景を描いたのである。

作品において万能であること

画家よ、万能となり、異なる判断を喜ばせるために、一つの構図のなかへ、陰が非常に暗いものと、非常に柔らかいものとを入れよ。ただしその陰と柔らかさの原因を明らかにしておくこと。

教訓

疑わない画家は、得るものが少ない。作品が制作者の判断力を上回るとき、その制作者の進歩は少ない。判断力が作品を上回るとき、貪欲が妨げなければ、作品の向上に終わりはない。

画家の教訓

画家はまず、よい師の手になる素描を写して手を慣らすべきである。指導者の判断のもとでその習慣ができたら、次にはよい立体を写して慣れるべきである。そのための規則は、立体から写すことについて述べるところで示そう。

物語と人物を略描する素描についての教訓

物語の下描きは素早くし、四肢を作りこむ際にも仕上げすぎてはならない。その四肢の位置だけで満足せよ。後で望むなら、ゆっくり仕上げられるからである。

絵画の制作者とその教訓

画家よ、自分の判断、または他人の助言によって作品に誤りを見つけたら、それを修正せよと忠告する。作品を公にするとき、それとともに自分の内実まで公にしないためである。次の作品で不名誉を挽回しようと自分を納得させ、言い逃れしてはならない。絵画は音楽のように作られてすぐ死なず、長いあいだ君の無知を証言するからである。修正には時間がかかり、その時間を別の作品に使えば大いに稼げるというなら、生活の用を超えて稼いだ金は、大したものではないと理解すべきである。大量に求めても、使い切れなければ君のものではない。使われない財宝はすべて、同じ仕方でわれわれのものであり、稼いでも自分の生活に役立たないものは、自分の意に反して他人の手にある。しかし二つの遠近法の考察によって学び、作品をよく磨くなら、金より多くの名誉を与える作品を残せる。金はそれ自身だけが尊ばれ、所有者を尊ばせない。所有者はつねに嫉妬を引きつける磁石、盗人の金庫となる。金持ちの名声はその命とともに消え、財宝の名声だけが残り、蓄えた者の名声は残らない。死すべき人々の徳の栄光は、その財宝の栄光よりはるかに大きい。名を残すために領国と富だけを求め、いまは何の記憶も残らない皇帝や君主が、どれほど過ぎ去ったことか。徳に富むため、金銭の貧しさのうちに生きた者が、どれほどいたことか。徳が富に優るだけ、この願いは金持ちより有徳な者に実現した。財宝はそれ自体では、蓄えた者の死後にその者を称えないが、学はそうすると分からないか。学はつねに創造者の証人であり、名声を告げるラッパである。学は生んだ者の娘であり、金のような継娘ではないからである。徳ではなく財宝によって、食欲や肉欲をもっと満たせるというなら、ほかの獣のように肉体の汚れた欲望だけに仕えた人々を考えてみよ。彼らにどんな名声が残るか。貧窮と闘わねばならず、学んで真に高貴になる時間がないと弁解するなら、自分以外を責めるな。徳の学びだけが、魂と身体の食物だからである。富裕に生まれながら、財宝によって恥をかかないよう、自分からそれを切り離した哲学者はどれほどいたことか。養わねばならない子供を口実にするなら、子供には少しで足りる。ただしその養いを徳とせよ。徳は忠実な富であり、命とともにしかわれわれを離れないからである。まず老後の資産となる元手の金を作りたいというなら、その追求には終わりがなく、君を老いる暇もなくし、徳を受け入れる器は夢と空しい望みで満たされるだろう。

自分の行為を判定するとき、自分の判断以上にわれわれを欺くものはない。それは敵の事柄を判断するにはよいが、友の事柄にはよくない。憎しみと友情は、動物におけるもっとも強い情動の二つだからである。だから画家よ、自分の作品について敵がいうことを、友がいうことに劣らず喜んで聞くようにせよ。憎しみは愛より強い。憎しみは愛を壊し、滅ぼすからである。判断する者が真の友なら、彼はもう一人の君自身である。敵にはその反対を見いだす。友は誤ることもある。さらに第三の種類の判断がある。嫉妬に動かされて生じる追従であり、よい作品の始まりを称賛して、嘘によって制作者の眼をくらませようとする。

さまざまな創案へ知力を高め、目覚めさせる方法

これらの教訓のうちへ、考察の新しい工夫を記すことを怠るまい。それは小さく、ほとんど笑うべきものに見えても、さまざまな創案へ知力を目覚めさせるうえで大いに有用である。それは、さまざまな染みに汚れた壁や、多様な模様の石を見ることである。何かの場所を創案しなければならないなら、そこには山、川、岩、木、広い平原、谷、丘でさまざまに飾られた風景の似姿が見えるだろう。また異なる戦い、奇妙な人物の素早い動作、顔つき、衣装、無限のものも見え、それらを完全でよい形に整えられるだろう。そのような壁や斑模様には、鐘の音と同じことが起こる。その響きのうちには、想像したどんな名前や言葉も見いだせるのである。

私のこの意見を軽んじてはならない。ときどき足を止め、壁の染み、火の灰、雲、泥、その他これに類する場所を見ることを、面倒と思うなという忠告である。よく観察すれば、戦い、動物、人間の構成、さまざまな風景の構成、悪魔などの怪物的なものの、新たな創案へ画家の知力を目覚めさせる、驚くべき発想を見いだすだろう。それらは君に名誉をもたらす。混沌としたもののなかで、知力は新しい創案へ目覚めるからである。ただし先に、描きたいもののすべての部分をうまく作れるようにしておけ。動物の四肢も、風景の部分、すなわち岩、植物なども同様である。

目覚めたとき、または眠る前、暗い寝床でも学ぶこと

暗い寝床にいるとき、以前学んだ形の表面の線や、精緻な考察で理解したほかの注目すべきものを、想像のうちで繰り返したどることが、少なからず有用であると私は試して確かめた。これはまさに、記憶を確実にするための、称賛すべき有益な行為である。

画家の喜び

画家の学の神性は、画家の精神を神の精神に似たものへ変える。自由な権能によって、多種の動物、植物、果物、風景、田野、山の崩壊、見る者に恐怖を与える恐ろしく凄まじい場所など、さまざまな存在を生むことへ思いを巡らすからである。また快く甘美で楽しい場所、さまざまな色の花咲く草原があり、草原は穏やかな風の動きの柔らかな波にたわみ、去ってゆく風を見送る。川は高い山から大洪水の勢いで下り、根こそぎの木を岩、根、土、泡とともに前へ押し、その奔流に逆らうすべてを押し流す。海は嵐のなかで、それと戦う風に争いを挑み、高慢な波とともに高く持ち上がっては落ち、波の下部を打つ風の上へ崩れ落ちる。風を自分の下へ閉じ込め、捕らえ、引き裂き、分け、濁った泡と混ぜ、激しい怒りをその上へぶちまける。ときには風に負けて海から逃れ、近い岬の高い岸を駆け上がり、山頂を越えて反対側の谷へ下る。その一部は風の激しさに奪われて空中へ混じり、一部は風から逃れて雨となり海へ落ち、一部は高い岬から激しく下り、その奔流に逆らうものを押し流す。しばしば新たに迫る波に出会い、衝突して空へ舞い上がり、空気を混沌とした泡立つ霧で満たす。その霧が風によって岬の斜面へ打ち返されると暗い雲が生じ、その雲は勝ち誇る風の獲物となる。

素描家が行うべき遊び

素描家たちよ、遊びから役に立つ楽しみを得たいときは、つねに自分の職業に関わることを用いよ。すなわち、眼の判断をよくし、事物の幅と長さの真実を判断できるようにすることである。そのようなことへ知力を慣らすため、一人が壁へ任意の直線を引き、各自が細い小枝か藁を手に持ち、十ブラッチャ離れて、最初の線の長さと思うところで自分のものを切る。それから各自が見本へ行き、自分の判断した長さをそれで測る。自分の寸法が見本の長さへもっとも近かった者を最上の勝者とし、皆から、あらかじめ決めておいた賞を与えよ。また短縮された寸法も取るべきである。槍か葦の棒を取り、その前方のある距離を眺め、その尺度が距離のなかに何回入るかを各自の判断で見積もる。さらに一ブラッチャの線を誰がもっともうまく引くかを競い、張った糸で確かめる。そのような遊びは、絵画の主要な働きである眼のよい判断を作るのである。

素早い実技より先に入念さを学ぶべきこと

素描家よ、よい有益な学習をしたければ、描くときはゆっくり行う習慣をつけよ。光のうちどれが、どれほど第一の明るさをもち、陰のうちどれがほかより暗いか、それらがどのように混じり、その量はどうかを判断せよ。互いに比較し、輪郭線がどちらへ向かうか、線のどれほどの部分が一方あるいは他方へ曲がるか、どこで明瞭さが増減し、太く、あるいは細くなるかを見よ。そして最後には、陰と光が線や印を残さず、煙のように結び合うようにせよ。この入念さに手と判断を慣らせば、気づかぬうちに、実技の速さが身につくだろう。

仲間と素描するほうがよいか否か

私は、多くの理由から、一人より仲間と素描するほうがずっとよいといい、断言する。第一に、未熟なまま素描家たちの一員として見られることを恥じ、その恥がよい学習の原因となる。第二に、よい競争心が、自分より称賛される者たちの仲間入りを促す。他人への称賛が君を駆り立てるからである。また自分よりうまい者のやり方を学べる。自分がほかの者よりうまいなら、彼らの欠点を避けることが利益となり、他人の称賛が君の力量を増すだろう。

よく記憶して学ぶ方法

学んだものをしっかり記憶したければ、この方法を守れ。同じものを何度も描き、覚えたと思ったら、見本なしに描いてみよ。見本を薄く平らなガラスに透写しておき、見本なしに描いたものの上へ置く。透写と自分の素描が合わない場所をよく記せ。誤った場所を見つけたら、二度と誤らないよう覚え、むしろ見本へ戻って、その誤った部分を、想像のうちに十分身につくまで何度も写せ。透写のための平らなガラスが手に入らなければ、きわめて薄い仔山羊の皮を取り、よく油を染ませてから乾かせ。一つの素描に使ったら、海綿で消して二つ目に使える。

画家は万能でなければ称賛に値しないこと

頭一つや人物一体だけをうまく描く画家をよい師と呼ぶ者は、明らかに誤っているといえる。生涯を通じてただ一つのことを学び、それが多少の完成に達するのは、確かに大したことではない。しかし絵画が、自然の生むもの、人間の偶成的な働きが作るもの、結局は眼で捉えられるすべてを包含すると知るわれわれには、人物一体だけをうまく描く者は、劣った師と思われる。人間がいくつの、どのような動作をするかが分からないか。異なる動物の多さ、樹木、草、花、山地と平地のさまざまな景色、泉、川、都市、公私の建物、人間の用にかなう道具、さまざまな衣装、装飾、技芸が見えないか。よい画家と呼びたい者は、これらすべてを同じ実技と優秀さで扱うべきなのである。

偽って画家と呼ばせる者たちの悪い言い分について

ある種の画家は、学びが乏しいため、金と青の美しさに頼って生きなければならない。彼らはきわめて愚かにも、報酬が悪いからよい仕事をしないのであり、十分に支払われれば自分たちもほかの者と同じくらい立派にできる、と口実にする。なんという愚かな人々か。よい作品をいくつか手元に置き、これは高い値のもの、これは中ほど、これは安いもの、といい、あらゆる値段の作品をもっていると示すことができないのか。

制作中の画家は、誰の判断も聞きたがるべきこと

描いているあいだは、誰の判断も拒むべきではない。画家でない人でも、ほかの人の形について知っており、その人が背中を曲げているか、肩が高いか低いか、口や鼻が大きいか、ほかの欠点があるかをよく判断できることは、明らかだからである。人々が自然の作品を正しく判断できると知っているなら、われわれの誤りはなおさら判断できると認めねばならない。人間が自分の作品においてどれほど誤るかを、われわれは知っているからである。自分にそれを認めないなら、他人のうちに考察し、他人の誤りから利益を得よ。ゆえに、忍耐して他人の意見を喜んで聞け。非難する者に君を非難する理由があるかを、よく考え、検討せよ。あると分かれば直し、なければ聞かなかったふりをせよ。あるいは君の尊重する人物なら、道理によって、その人が誤っていることを知らせよ。

重要な作品では、実物から写すことを軽んじるほど記憶に頼ってはならないこと

自然のあらゆる形と作用を自分のうちに保存できると思い込む師は、私には確かに、多大な無知を身にまとっているように思える。それらの作用は無限であり、われわれの記憶には、それに足りるほどの容量がないからである。ゆえに画家よ、利益への欲望が技の名誉を上回らないようにせよ。名誉を得ることは、富の名誉よりはるかに大きいからである。このほかにも述べうる理由から、まず素描によって、想像のうちに最初に生じた意図と創案を、眼に示せる形にせよ。次に満足するまで取り除き、付け加えよ。それから作品に定めたとおりに、着衣または裸体の人間を配置させ、遠近法に従う寸法と大きさによって、道理と自然の作用から十分考察しないまま、作品のどの部分も通過させないようにせよ。これが君の技に名誉をもたらす道である。

祝日に素描し、神の作品を探究する者を非難する人々について

愚か者のうちには、偽善者と呼ばれる一派がある。彼らは絶えず自分と他人を欺こうとし、自分よりも他人を欺こうとするが、実際には他人以上に自分を欺いている。彼らは、祝日に、自然の作品がもつあらゆる形の真の認識に属する事柄を学び、できる限りその知識を得ようと懸命に努める画家を非難する。しかしそのような非難者は黙るがよい。これこそ、かくも多くの驚くべきものの制作者を知る方法であり、かくも偉大な創造者を愛する方法だからである。実際、大きな愛は、愛するものについての大きな知識から生まれる。それを知らなければ、ほとんど、あるいはまったく愛せないだろう。その最高の徳のためでなく、そこから期待する利益のために愛するなら、君は、骨を与えてくれる人に向かって立ち上がり、尾を振り、喜びを示す犬のようにしているのである。もし犬がその人の徳を知り、その徳が自分にかなうなら、はるかに強く愛するだろう。

人物の多様性について

画家は万能であることを求めるべきである。一つをよく行い、ほかを悪く行えば、品格が大いに損なわれるからである。たとえば多くの者は、測定され均整の取れた裸体だけを学び、その多様性を求めない。しかし人間は、均整が取れていても、太く背が低いことも、長身で細いことも、中程度であることもある。この多様性を顧みない者は、いつも型で押したような人物を作り、全員が姉妹のように見える。それは大いなる非難に値する。

万能であることについて

知る人にとって万能になるのは容易である。陸上の動物はすべて、四肢、すなわち筋肉、腱、骨が似ており、長さや厚み以外には変わらないからである。それは解剖学で示されるだろう。非常に多様な水中の動物、および昆虫については、画家に規則を作るよう勧めない。その多様性が無限だからである。

学なしに実践する者の誤りについて

学なしの実践に惚れ込む者は、舵も羅針盤もなしに船へ乗り込み、どこへ行くか決して確信できない船乗りに似ている。実践はつねによい理論の上に築かれるべきであり、その導き手であり門であるのが遠近法である。それなしには何一つよく行えない。

画家を模倣することについて

画家たちにいう。誰も他人の様式を模倣してはならない。自然の息子でなく孫と呼ばれることになるからである。自然の事物はこれほど豊富なので、自然から学んだ師匠たちより、自然自身に頼るべきである。私はこれを、絵画によって富に達したい者のためでなく、この技から名声と名誉を求める者のためにいう。

素描の順序

まず、手慣れた習慣でなく、技の理に基づき実物から作られた、よい師の素描を写せ。次に立体から写し、その立体から取った素描を添えよ。それからよい実物を写し、それを実践に用いるべきである。

実物から写すことについて

実物を写すときは、写すものの大きさの三倍だけ離れていよ。

どんなものでも写すことについて

写すとき、あるいは線を引き始めるときは、写す物体全体を見て、その引き始めた線の延長方向に何が合うかを確かめよ。

写す際には、陰のなかに、暗さも形もほとんど知覚できない陰があることを記せ。これは第三の命題によって証明される。それは、球状の面は、それに向き合う暗さと明るさの変化の数だけ、異なる暗さと明るさをもつ、というものである。

実物を写す光はどの高さにあるべきか

実物を写す光は、変化しないよう北から取るべきである。南から取るなら、窓に布を張り、太陽が一日中照らしても変化しないようにせよ。光の高さは、どの物体も地面に落とす影の長さが、その左側の高さと同じになるように置くべきである。

注 最終文の a sinistra(左側)は原文どおりに残した。

物体の形を写すために選ぶべき光

どのような物体の形でも、それを描いて存在させる光を選ばねばならない。すなわち、人物を野外にいるものとして描き、太陽が露出していなければ、人物は大量の光に取り囲まれる。太陽がその人物に当たれば、陰は照らされた部分に比べて非常に暗くなり、固有の陰も投影も、境界が明確になる。その陰は光とあまり調和しない。一方の側からは青い空気が照らし、それに面する部分を自分の色に染めるからである。これは白いものではっきり現れる。太陽に照らされた部分は、太陽の色を分かちもつように見える。太陽が地平線へ下り、雲が赤くなるとき、これが非常にはっきり見られる。雲はそれを照らす色に染まるからである。雲の赤さは太陽の赤さとともに、そこから光を受けるものを赤くする。この赤みに面しない物体の部分は、空気の色のままである。その物体を見る者は、二色からなると判断する。この陰と光の原因を示す以上、その陰と光が上述の原因を分かちもつようにすることは避けられない。そうしなければ仕事は空しく、偽りとなる。人物が暗い家のなかにいて、君が外から見るなら、光の線上に立つとき、その人物の陰は暗く、ぼかされる。その人物は優美で、写す者に名誉を与える。大きな立体感があり、陰は柔らかく煙のようであるからである。とりわけ、室内の暗さがもっとも少なく見える部分では、陰がほとんど知覚できない。その原因はしかるべき場所で述べる。

自然または人工の立体を写す光の性質

陰によってあまりに明瞭に切り離された光は、画家たちから大いに非難される。したがってこの不都合を避けるには、開けた野外の物体を描くとき、人物を太陽に照らさせず、対象と太陽の間に何らかの霧や透明な雲があるものとして描け。太陽の形が明瞭でなければ、陰と光の境界も明瞭にはならないからである。

裸体を写すことについて

裸体を写すときは、いつも全体を写し、それからもっともよいと思う部分を仕上げ、それをほかの部分とともに実践に用いよ。さもなければ、四肢を決してうまくつなげない習慣をつけてしまう。頭を胸と同じ方向へ向けたり、腕を脚と同じ方向へ動かしたりする習慣をつけてはならない。頭が右肩へ向くなら、その各部分は左側を右側より低くせよ。胸を張らせるなら、頭を左へ向けたとき、右側の各部分を左側より高くせよ。

人工の立体または実物を写すことについて

立体を写す者は、写す人物の眼が自分の眼と同じ高さになるよう位置を定めるべきである。実物から頭部を写す場合には、こうすべきである。通りで出会う人物、すなわち人々の眼は、一般に君の眼と同じ高さにあるからである。それを高くしたり低くしたりすれば、肖像は似なくなる。

ガラスを用いて風景を写す方法

レアーレ判の半紙ほどの大きさのガラスを用意し、眼の前、すなわち眼と写したいものの間にしっかり固定せよ。次にガラスから眼を三分の二ブラッチャ離し、頭が少しも動かせないよう道具で固定する。片眼を閉じるか覆い、筆または描画用の石筆で、向こうに見えるものをガラスに記せ。それからそのガラスを紙に透写し、よい紙へ粉で転写せよ。望むなら、その後に空気遠近法をよく用いて彩色せよ。

風景を写す条件

風景は、木々が半ば照らされ、半ば陰になるように写すべきである。しかし太陽が雲に覆われているときに描くほうがよい。そのとき木々は、空の全般的な光と地の全般的な陰によって照らされるからである。木の各部分は、木の中心と地面に近いほど暗くなる。

蝋燭または灯火で物体の陰を写すことについて

夜のこの光には、透写紙を張った枠を間に置け。透けるように加工しなくても、事務用紙一枚をそのまま使えばよい。すると陰は煙のように、すなわち境界の定まらないものに見えるだろう。描いている紙には、紙を挟まない光を当てよ。

陰と光の優美さを与えるには、どの条件で顔を写すべきか

暗い住まいの戸口に座る人々の顔には、陰と光の非常に大きな優美さが加わる。見る者の眼には、顔の陰の部分が室内の陰によって暗くなり、同じ顔の明るい部分には空気の輝きが与える明るさが加わるのが見える。この陰と光の増強によって顔には大きな立体感が生じ、明るい部分では陰がほとんど知覚できず、陰の部分では光がほとんど知覚できない。このような陰と光の現れと増強によって、顔は大いに美しさを増すのである。

単純な陰と複合した陰を写す方法

太陽のない野外の全般的な光のもとにいるものとして描く人物を、室内の特定の光で写してはならない。野外は単純な陰を作り、窓や太陽の特定の光は、反射光の混じった複合した陰を作るからである。

顔や裸体の肌色を写す場所の光について

その場所は上が空へ開き、壁は肌色であるべきで、写生は夏、雲が太陽を覆うときに行う。あるいは、太陽光が北側の壁に当たらないほど南側の壁を高くし、反射した光が陰を損なわないようにせよ。

物語のために人物を写すことについて

画家はつねに、物語を描く壁の上で人物を置こうとする位置の高さを考慮すべきである。そのため実物を写すときは、完成作のその対象が見る者の眼より高く置かれるのと同じだけ、自分の眼を写すものより低くする。さもなければ作品は非難されるものになる。

姿勢をうまく作ることを学ぶために

人物の正しくよい姿勢に十分慣れたければ、自分の眼と写す裸体の間に、内側を糸で格子に区切った枠を固定せよ。そしてその裸体を写す紙にも、同じ方眼を薄く引け。次に格子の一箇所へ蝋の小球を置き、照準とせよ。裸体を見るときは、いつもそれを喉のくぼみに合わせる。後ろ向きなら、首の関節に合わせよ。この糸は、どんな動作においても、喉のくぼみ、肩の角、乳房、脇腹、その他の部分の下にある身体の各部分を教える。格子の横線は、一方の脚へ体重をかけたとき、他方よりどれほど高くなるか、腰、膝、足がどうなるかを示す。

ただし格子はつねに鉛直に固定せよ。そして実際の裸体が格子のどの部分を占めて見えるか、そのすべてにおいて、描いた裸体にも、描いた格子の同じ部分を占めさせよ。描く方眼は、人物を実物より小さくしたい割合と同じだけ、格子の方眼より小さくしてよい。それから人物を作る際には、格子の示した四肢の位置合わせの規則を記憶しておけ。格子は高さ三ブラッチャ半、幅三ブラッチャとし、自分から七ブラッチャ、裸体から一ブラッチャのところに置くべきである。

どの時期に事物の選択を学ぶべきか

若者は冬の夜を、夏に用意したものの研究に使うべきである。すなわち夏に描いた裸体をすべて集め、もっともよい四肢と身体を選び、実践に用いて、よく記憶するべきである。

姿勢について

それから次の夏には、体つきのよい者を選べ。ただし体に締め跡がつかないよう、胴着を着て育った者は避ける。その者に優美で洗練された動作をさせよ。四肢の輪郭の内部に筋肉がよく表れなくても、問題はない。よい姿勢を得るだけで満足し、四肢は冬に学んだものによって修正せよ。

裸体その他を実物から写すために

事物の位置の対応を見られるように、鉛のおもりを下げた糸を手に持つ習慣をつけよ。

像の寸法または分割

頭部を十二の度に分け、各度を十二の点に、各点を十二の分に分けよ。分を最小分に、最小分を半最小分に分けよ。

夜に立体を写す方法

立体と光の間に、あまり透明でない紙を置け。そうすればよく写せるだろう。

画家は立体とともに光に対してどう位置するべきか

原刊で第100章に隣接する挿図(1890年版・印刷50頁)
原刊で第100章に隣接する挿図(1890年版・印刷50頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

ab を窓、m を光の点とする。画家は、写す物体の陰の部分と明るい部分の間に眼があるかぎり、どこにいてもよいという。その場所は、点 m と、写す物体の上で陰と光を分ける境目との間に身を置けば見つかる。

光の性質について

大きく、高い位置にあり、強すぎない光が、物体の細部を非常に快く見せる光である。

四肢の判断において受ける欺きについて

不格好な手をもつ画家は、作品でも同じような手を作る。長い修業が妨げなければ、ほかのどの部分でも同じことが起こる。だから画家よ、自分の身体でもっとも醜い部分をよく見て、学習によってそれを十分に補え。君が獣のようなら、人物も同じく獣じみて知力がなく見えるだろう。同じように、君のうちにあるよい部分も悪い部分も、ある程度、君の人物に現れるのである。

画家が人間の内部の形を知る必要があること

腱、筋肉、筋束の性質を知る画家は、一つの肢を動かすとき、どれほどの、どの腱が原因となり、どの筋肉がしぼんでその腱を短くし、きわめて薄い軟骨へ変わるどの索が、その筋肉を取り囲み巻きつくかをよく知るだろう。こうして人物のさまざまな働きに応じて、異なる筋肉を多様かつ普遍的に示せる。異なる動作でもいつも腕、背、胸、脚に同じものを見せる多くの者のようにはならない。このようなことは、小さな誤りのうちに数えるべきではない。

注 筋肉の変化は原文 sgonfiando(しぼんで)に従い、現代解剖学に合わせて修正しなかった。

同じ顔の姿勢を繰り返す師匠たちの欠点について

同じ物語のなかで同じ動きを互いに隣り合わせて繰り返し、顔の美しさもいつも同じにする師匠たちには、最大の欠点がある。自然には、同じ美が繰り返されることは決してない。同じ程度に優れた美しい人々がすべて蘇れば、その人数は今の時代にいる人々より多くなるだろう。そして今の時代にも、まったく同じ顔の者がいないように、それらの美しい人々にも同じことが起こるだろう。

画家の最大の欠点について

画家の最大の欠点は、一つの物語のなかで同じ動き、同じ顔、同じ衣服の様式を繰り返し、ほとんどの顔をその制作者に似せることである。私はこのことに何度も驚いた。すべての人物に、実物から自分自身を写したような画家を何人か知っているからである。そこには作者の動作や振る舞いが見える。話や動きが速ければ、人物も同じく敏捷である。師匠が信心深ければ、人物も首をかしげて同じように見える。師匠が怠け者なら、人物は怠惰を実物から写したように見える。師匠が不均整なら、人物も同様である。狂っていれば、それは物語に大いに現れ、物語はまとまりを嫌い、人物は自分の行動へ注意を払わず、夢でも見ているかのように、あちらやこちらを見ている。このように絵画のどの性質も、画家固有の性質に従う。この欠点の原因を何度も考えた結果、私はこう判断すべきだと思う。各身体を統率し支配する魂こそ、われわれ固有の判断が成立する前に、われわれの判断を作るものである。したがって魂は、人間の姿全体を、自分がよいと思うとおりに作った。長い鼻、短い鼻、つぶれた鼻などを定め、その高さと形を確立した。この判断は非常に強力なので、画家の腕を動かし、自分自身を繰り返させる。魂には、それが人間を描く自分の流儀であり、自分と同じようにしない者は誤っていると思われるからである。自分が構成した身体に似た者を見つけると、それを愛し、しばしば恋する。そのため多くの者は自分に似た女に恋し、妻とし、そこから生まれる子供たちは、しばしば両親に似るのである。

習慣とする人物の選択において画家が誤らないための教訓

画家は、一般に称賛される比例をもつ自然の身体を規範として、自分の人物を作るべきである。さらに自分自身の寸法も測らせ、どの部分が、上述の称賛される身体と大きく、あるいは少し違うかを調べよ。この知識を得たら、自分の身体にあるのと同じ欠点を、制作する人物に生じさせないよう、あらゆる努力をもって防がねばならない。この悪癖とはとくに強く闘う必要があると知れ。それは判断力とともに生まれた欠点だからである。身体の師である魂こそ君自身の判断力であり、自分が身体を構成する際に行ったことに似た作品を、進んで喜ぶ。ここから、怪物のようでさえなければ、どんなに醜い女の姿にも、誰かしら恋人が見つかるということが生じる。ゆえに自分の身体の欠点を理解することを忘れず、自分が構成する人物では、それらを避けよ。

室内のある光で立体を写し、その後ほかの光の野外へ置く画家の欠点

自分の家で、特定の光のもとにある立体をしばしば写し、その写しを野外の空気の全般的な光のもとへ用いる画家には、大きな誤りがある。そこでは空気が、見えるすべての部分を同じように包み、照らすからである。こうして彼らは、陰のありえないところに暗い陰を作る。仮に陰があっても、ほとんど知覚できないほど明るいのである。また同様に、見られるはずのないところに反射光を作る。

絵画とその区分について

絵画は二つの主要部分に分かれる。第一は形、すなわち物体とその小部分の形を区別する線であり、第二はその境界の内部に含まれる色である。

形とその区分

物体の形はさらに二つに分かれる。すなわち、全体に対応する諸部分相互の比例と、動く生物の心の状態にふさわしい運動である。

四肢の比例

四肢の比例はさらに、性質と動きの二つに分かれる。性質とは、全体に対応する寸法のほか、若者の四肢を老人の四肢と、太った者の四肢を痩せた者の四肢と、優美な四肢を不格好な四肢と混ぜないことをいう。また男性に女性の四肢を作らないこともいう。動きとは、老人の姿勢や運動を、若者にふさわしいのと同じ活発さで作らないことをいう。また幼い子の動きを青年のように、女性の動きを男性のようにしてはならない。動作者にそぐわない動作を作るな。すなわち、非常に健康で力のある人は、その動きがそれを示すようにせよ。同じく力の乏しい人には、身体を倒しかねない弱々しく鈍い動きによって、それを示させよ。

絵画の制作者たちの異なる判断による非難を避けること

画家たち、および技のさまざまな部分について彼らと同じ意見をもたないすべての人々が与える非難を避けたければ、さまざまな様式で技を実践する必要がある。画家の作品を考察するそれぞれの判断に、何らかの部分で適合するためである。その各部分については、以下で述べる。

動きとさまざまな行為について

人間の人物像は、その行為に固有の動作をもち、見るだけで何を考え、何をいっているか分かるようにせよ。心に抱く考えを表そうとして、手、眼、眉、全身の動きで語る、口のきけない人々の動きを模倣する者は、それをよく学ぶだろう。君が学ぶ技を自分では行えない、言葉のない教師を勧めるからといって、私を笑うな。彼は行為によって、ほかのすべての人が言葉でするよりもよく教えるからである。この助言を軽んじるな。彼らは動きの師であり、誰かが手の動きを言葉に合わせていれば、遠くからでも何を話すか理解する。この考えには多くの敵と、多くの擁護者がいる。だから画家よ、両派を調和させ、場合に応じて、話す人の性質と、話される事柄の性質へ注意を払え。

輪郭、すなわち事物の明確すぎる境界を避けよ

人物の境界を、その人物が終わる背景自身とは別の色にするな。すなわち、背景と人物の間に暗い輪郭線を作ってはならない。

小さいものでは大きいものほど誤りが分からないこと

小さい形のものでは、大きいものほど誤りの性質を捉えられない。その理由は、その小さいものが人やほかの動物に似せて作られていても、非常な縮小のため、作者が各部分をふさわしい仕上がりまで探究できないからである。したがって完成せず、完成しないので誤りを見分けられない。たとえば、三百ブラッチャ離れた人を注意して見て、その人が美しいか醜いか、異様か普通かを判断してみよ。どれほど努力しても、その判断を確かなものにはできないと分かるだろう。その理由は、上述の距離によって人物が非常に小さくなり、細部の性質が分からなくなるからである。この人物の縮小をよく確かめたければ、眼から一パルモのところへ指を置き、指の上端が眺める人物の足の下に来るまで上げ下げせよ。信じがたい縮小が現れるだろう。このため、遠くにいる友の姿について、しばしば確信がもてなくなるのである。

なぜ絵画は自然物と同じように浮き出して見えないか

原刊で第115章に隣接する挿図(1890年版・印刷55頁)
原刊で第115章に隣接する挿図(1890年版・印刷55頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

画家は、自分の絵に、鏡に映るものほどの立体感と生気がないのを見て、自然を模倣することにしばしば絶望する。自分の絵具は、明るさでも暗さでも、鏡に見えるものの光と陰の質をはるかに上回る、と訴え、この場合、自分の無知を責めるが、原因は責めない。その原因を知らないからである。描かれたものが、鏡に映るものと同じ立体感をもって見えることは、両方が表面上にあるとしても、片眼で見ないかぎり不可能である。その理由は、一つのものの後ろに別のものを見る二つの眼、たとえば mn を見る ab があるとき、n は m を完全には覆えないからである。視線の底辺がそれほど広く、第一の物体の後ろに第二の物体を見るのである。しかし一方の眼を閉じて s とすれば、物体 f は k を覆う。視線が一点から生じ、第一の物体を底辺とするので、同じ大きさの第二の物体は見えないからである。

物語の場面を上下に重ねる仕事を避けるべき理由

画家たちが礼拝堂の壁面に用いるこの普遍的な慣行は、理に照らして大いに非難されるべきである。彼らは一つの段に風景と建物を伴う物語を描き、さらに一段上がって別の物語を描き、最初とは視点を変える。それから第三、第四と続けるので、一つの壁面が四つの視点で作られて見える。これはそのような師匠たちの最大の愚かさである。視点は物語を見る者の眼に置かれることを、われわれは知っている。一人の聖人の生涯を多くの場面に分け、一つの壁面にどう描けばよいかというなら、こう答える。最初の地面は、その物語を見る者の眼の高さに視点を置き、その地面に最初の場面を大きく描く。それから人物と建物を順次小さくし、異なる丘や平野に、物語の残りすべてを描け。壁面の上方の残った部分には、人物に比べて大きな木、物語にふさわしければ天使、あるいは鳥、雲などを描けばよい。そうしないなら、手を出すな。君の仕事はすべて偽りになるからである。

物を浮き出して見せるにはどの描き方がよいか

特定の光で照らされた人物は、全般的な光で照らされた人物よりも、よく立体感を示す。特定の光は反射光を作り、それが人物を背景から浮き立たせるからである。その反射は、一人の人物の明るい部分から生じ、手前にいる人物の陰へはね返り、その一部を照らす。しかし広く暗い場所で、特定の光の前に置かれた人物は、反射光を受けず、照らされた部分しか見えない。この描き方は、小さな特定の光による夜の表現にだけ使うべきである。

物体の光と陰と輪郭線とでは、どちらがより多くの考察と効用をもつか

物体の境界は、陰と光よりも多くの考察と知力を要する。曲がる四肢の輪郭線は不変であり、つねに同じだが、陰の位置、性質、量は無限だからである。

動物のさまざまな状態から生じる動きと、その陰と光では、どちらが重要か

絵画の考察のうちでもっとも重要なものは、各動物の心の状態、たとえば欲望、軽蔑、怒り、憐れみなどにふさわしい動きである。

人物が色の美に富むことと、大きな立体感を示すことでは、どちらが重要か

絵画が観照者に自らを示すのは、実際にはそうでないものを、盛り上がって壁から浮き出しているように見せるためだけである。色は、それを作る職人だけに誉れを与える。色が生む驚きは美しさだけであり、その美は画家の力ではなく、色を作りだした者の力だからである。あるものは、醜い色をまとっていても、立体に見えることで観照者に驚きを与えられる。

陰と光と、よい素描とでは、どちらが難しいか

限界に束縛されるもののほうが、自由なものより難しいという。陰にはある段階ごとの限界があり、それを知らない者の作品には立体感がない。立体感こそ絵画の重要事であり、魂である。素描は自由である。無限の顔が見られ、そのすべてが異なるからである。鼻の長い者も、短い者もいる。したがって画家もこの自由を取れる。そして自由のあるところには規則がない。

画家の教訓

解剖を知る画家よ、骨、索、筋肉の知識が多すぎるために、裸体のあらゆる細部を見せようとして、木のように硬い画家にならないよう注意せよ。これを防ぐには、老人や痩せた人において、筋肉がどのように骨を覆い、まとっているかを見よ。さらに同じ筋肉が、互いの間の表面の空間をどのように満たすかという規則を記せ。どれほど太っても識別できる筋肉はどれか、わずかな脂肪によって接触の境界が分からなくなる筋肉はどれかも記せ。太るといくつもの筋肉が一つになることが多く、痩せたり老いたりすると一つの筋肉がいくつにもなることが多い。この考察については、しかるべき場所で、とりわけ各肢の関節の間の空間において、その細部をすべて示す。

また、どの動物の四肢の関節のまわりでも、各肢の動きの違いによって上述の筋肉が示す変化を見落としてはならない。関節のある側では、筋肉を作る肉の増減によって、筋肉の識別が完全に失われるからである。

著者自身への覚え書き

各肢の異なる動きによって、どの筋肉とどの索が現れ、隠れ、あるいはそのどちらでもないかを記述せよ。この仕事は、師を称する画家と彫刻家にとって、この上なく重要かつ必要であることを忘れるな。同じことを子供についても行い、誕生から老衰まで、乳児期、幼少期、少年期、青年期というすべての年齢段階を扱え。それぞれについて四肢と関節の変化、どの部分が太り、痩せるかを記述せよ。

絵画の教訓

作品から名誉を得たい画家は、つねに、人々が不意に行い、感情の強い作用から生じる自然な動作のうちに、自分の描く動作の生気を求めるべきである。それらを小さな手帳に短く記録し、後で自分の目的に用いよ。その際には、人に同じ動作をさせ、その動作に用いられる四肢の性質と見え方を確かめるのである。

絵画の教訓

もの、あるいはその形は、眼に近いほど、境界がはっきり明瞭に見える。だから画家よ、熟練を名目に、近距離から見た頭部を、区切りの明確な筆触と荒々しく硬い線描で表すなら、自分が誤っていると知れ。人物をどんな距離にあるものと想定しても、それはつねにその位置に応じた段階で仕上がっているからである。遠くでは境界の識別が失われても、そのために仕上がりが見えなくなるのではなく、煙のようにぼやけた仕上がりが見え、明確で硬い境界や輪郭が見えるのではない。したがって、観者の眼を近づけられる作品については、絵のすべての部分を、それぞれの段階に応じて最高の注意で仕上げるべきだと結論される。さらに手前のものは、背景から明瞭に識別できる境界で区切り、遠いものはよく仕上げながらも、より煙のような、つまりぼやけて識別しにくい境界にする。さらに遠いものへも順次、上述を守れ。まず境界、次に四肢、最後には全体が、形も色も識別しにくくなるようにするのである。

最初の絵画はどのようなものだったか

最初の絵画はただ一本の線であり、太陽が壁に作った人間の影を取り囲むものであった。

絵画はただ一つの窓から見られるべきこと

絵画はただ一つの窓から見られるべきである。それは、このような物体、0、によって明らかになる。高い場所に丸い球を作りたいなら、この形のように長く作り、短縮によって丸く見えるだけ後ろへ下がらねばならない。

注 原文中の図形を示す 0 をそのまま残した。

絵画を分ける最初の八部分について

闇、光、物体、形、色、位置、遠隔、近接。これにさらに二つ、すなわち運動と静止を加えられる。絵画に描かれるものの動きにおいて、これらを表す必要があるからである。

絵画が五つの部分に分かれること

絵画の部分は五つある。すなわち、表面、形、色、陰と光、近接と遠隔である。あるいは増大と減少といってもよい。それらは二つの遠近法であり、たとえば量の減少、遠距離で見られる事物の識別の減少、色の減退、同じ距離でどの色が先に減退し、どの色がもっともよく保たれるかを扱う。

絵画を分ける二つの主要部分について

絵画は二つの主要部分に分かれる。第一は、描かれた物体の形を取り囲む輪郭線であり、これらの線は素描と呼ばれる。第二は陰と呼ばれる。しかしこの素描はきわめて優れており、自然の作品だけでなく、自然が作るものより無限に多くのものを探究する。素描は彫刻家に、学をもって像を仕上げるよう命じ、無限にあるとしてもあらゆる手の技芸に、その完全な到達点を教える。したがって、それは単なる学でなく、神性と呼ばれるべきものだと結論しよう。その神性は、至高の神が作った目に見える作品をすべて再現するのである。

線による絵画について

あらゆる物体の境界と、それが蛇行する仕方を、最高の注意で考察せよ。その蛇行の曲がりが、円形の曲率をもつのか、角ばった凹みをもつのかを判断せよ。

絵画、すなわち陰について

見分けにくく、境界も認識できず、不確かな判断によって受け取り作品に移すような陰を、明確に仕上げたり区切ったりしてはならない。そうすれば作品は木のように硬いものになるからである。

絵画の部分と性質について

絵画の第一の部分は、描かれた物体が隆起して見え、その周囲の背景が距離を伴って、絵の作られた壁の内部へ入り込むように見えることである。これは三つの遠近法、すなわち物体の形の減少、大きさの減少、色の減退による。この三つの遠近法の第一は眼から生じ、ほかの二つは、眼とその眼に見られる対象の間の空気から生じる。絵画の第二の部分は、体格に応じて適切に変化する動作であり、人々が兄弟のように見えないようにすることである。

美しい顔の選択について

人物によい顔つきを与える画家には、少なからぬ優美さがあると私は思う。生来その優美さをもたない者も、次のような後天的な学習によって得られる。多くの美しい顔からよい部分を取るようにせよ。その美しい部分は、自分の判断より世間の評判に合うものを選べ。自分の顔に似たものを取って誤るかもしれないからである。われわれはしばしばそのような類似を好むので、自分が醜ければ美しくない顔を選び、醜い顔を作ることになる。多くの画家の人物が、しばしば作者に似るとおりである。だから私のいうとおり、美を選び取り、心に収めよ。

顔に優美さを与える空気の選択について

亜麻布の天幕で好きなときに覆える中庭があれば、その光はよい。あるいは誰かを写したいときは、天気の悪い日の夕暮れに、モデルの背をその中庭の壁の一つへ寄せて写せ。悪天候の夕暮れ、通りにいる男女の顔に注意せよ。そこにはなんと多くの優美さと柔らかさが見えることか。ゆえに画家よ、黒く塗った壁と、その上に少し張り出す屋根のある中庭を用意せよ。幅十ブラッチャ、長さ二十、高さ十とする。天幕で覆わないときは、曇りか霧の日の夕暮れに作品を写せ。これが完全な空気である。

美と醜について

美と醜はともに置かれると、互いによっていっそう強く見える。

美について

異なる人々の顔の美は、同じ優秀さをもつことができるが、形は決して同じにならない。むしろ、その美をもつ人の数だけの多様性がある。

異なる身体にある同等に優れた多様な美の判定者について

異なる身体に、優美さの等しい異なる美があっても、同じ知性をもつ異なる判定者たちは、自分たちの選ぶもの同士の間に、大きな違いがあると判断するだろう。

幼子をどのように描くべきか

小さい子供は、座っているときは素早く、体をねじった動作で、立っているときは臆病でおびえた様子で描くべきである。

老人をどのように描くべきか

老人は、鈍く遅い動きで作るべきである。静止しているときは膝を曲げ、両足を平行にして離す。下へ傾き、頭を前にかがめ、腕を伸ばしすぎないようにせよ。

女性をどのように描くべきか

女性は慎み深い動作で、両脚をそろえて閉じ、両腕を引き寄せ、頭を低くして横へ傾けて描くべきである。

老女をどのように描くべきか

老女は、地獄の復讐女神のように、激怒した動きで大胆かつ敏捷に描くべきである。脚より腕と頭の動きが、いっそう敏捷に見えるようにせよ。

夜をどのように描くべきか

光を完全に欠くものは、すべて闇である。夜も同じ状態なので、そのなかに物語を描きたければ、大きな火があるとし、その火に近いものほど、火の色に強く染まるようにせよ。対象に近いものほど、その性質を多く分かちもつからである。火を赤みがかった色にするなら、それに照らされるものもすべて赤くせよ。火から遠いものほど、夜の黒い色に強く染める。火の手前の人物は、火の明るさを背景に暗く見えるようにせよ。見えている側は火の明るさでなく、夜の暗さに染まっているからである。両側にいる者は半分暗く、半分赤くする。炎の境界の向こうに見える者は、黒い背景の上で、すべて赤い光に照らされる。動作については、近くの人物が過度の熱を避けて手や外套を盾とし、顔を逆へ向けて逃れようとしているようにせよ。遠くの人物の多くは、過度の輝きに傷つけられる眼を、手で覆うようにせよ。

嵐をどのように描くべきか

嵐をうまく描きたければ、風が海や地の表面を吹き、全体の塊に固定されていないものを動かし、運び去るときの作用を、よく考えて置け。嵐をよく描くため、まず裂けて砕けた雲を風の進む方向へ向かわせ、海岸から舞い上がる砂塵を伴わせよ。激しい風の力で持ち上がった枝や葉が、ほかの多くの軽いものとともに空中へ散る。木々と草は地へ曲がり、風の進路を追いたがるかのようにし、枝は自然の伸び方からねじれ、葉は乱れて裏返る。そこにいる人々の一部は倒れ、衣服と埃に巻かれ、ほとんど誰か分からない。立っている者は、風に引きずられないよう木の後ろでその木を抱く。ほかの者は埃を避けて手を眼に当て、地へ身をかがめ、衣服と髪は風の方向へなびく。荒れて嵐となった海は、高まる波の間に逆巻く泡を満たし、風は荒れる空気へ細かな泡を舞い上げ、濃く絡み合う霧のようにする。そこにいる船のいくつかは帆が破れ、その切れ端が切れた索とともに空中ではためく。折れた帆柱は、嵐の波の間で横倒しになり壊れた船とともに倒れ、人々は叫びながら船の残骸にしがみつく。激しい風に追われた雲が山の高い峰へ打ちつけられ、その間で巻き込み、岩に砕ける波のように逆巻くようにせよ。空気は、埃、霧、濃い雲が空中に作る暗い闇によって、恐ろしいものとなる。

戦闘をどのように描くべきか

まず大砲の煙が、戦士たちの馬の動きで巻き上がる埃とともに、空気に混じるようにせよ。その混合は次のように扱う。埃は地に属する重いものなので、細かさのため容易に舞い上がって空気に混じるとしても、進んで下へ戻る。そのもっとも高いところまで上がるのは、もっとも細かな部分である。したがってそれはもっとも見えにくく、ほぼ空気の色に見える。埃を含む空気に混じる煙は、ある高さまで上がるほど暗い雲に見え、上部では埃よりも煙がはっきり見える。煙は幾分青みを帯び、埃はそれ自身の色へ傾く。光の来る側では、この空気、煙、埃の混合は、反対側よりずっと明るく見える。戦士たちはこの混乱のなかに深く入るほど見えにくく、明るい部分と陰の差も少なくなる。火縄銃兵の顔、身体、その近くの空気と周囲の者たちを赤くせよ。その赤みは原因から離れるほど失われるようにする。君と光の間にある人物が遠ければ、明るい背景の上で暗く見える。その脚は地面に近づくほど見えにくくなる。そこでは埃がより粗く濃いからである。群れから走り出す馬を描くなら、馬の跳躍の間隔に等しい距離ごとに、小さな埃の雲を作れ。馬から遠い雲ほど見えにくく、むしろ高く散って薄くし、もっとも近い雲はもっとも明瞭で、小さく濃くせよ。空中にはさまざまな種類の飛び道具を満たし、上がるもの、下がるもの、水平に飛ぶものを描け。銃兵の弾には、その軌道の後ろへ幾分の煙を伴わせよ。手前の人物の髪、眉、その他埃を載せうる平らなところには、埃をかぶらせよ。勝者は走り、髪やほかの軽いものを風に散らし、眉を下げ、対角の四肢を前へ突き出すようにせよ。すなわち右足を前へ出すなら、左腕も前へ出す。倒れた者を描くなら、血まみれの泥となった埃の上に、滑った跡を作れ。ほどよくぬかるんだ地面には、そこを通った人間と馬の足跡を見せよ。何頭かの馬には死んだ主人を引きずらせ、その後ろの埃と泥に、身体の引きずられた跡を残せ。敗れ打ちのめされた者は青白くし、眉は付け根で高く、その上の肉には苦しみの皺を多く作れ。鼻の両側には、鼻孔から弧をなして眼頭へ達する幾つかの皺を置く。鼻孔は上がってこれらの襞を生み、唇は弧をなして上の歯を見せる。歯は嘆き叫ぶように開く。一方の手は手のひらを敵へ向け、おびえた眼の盾となり、他方は地面に置いて持ち上がった胴を支える。ほかの者は口を大きく開けて叫びながら逃げるようにせよ。戦う者たちの足もとには、壊れた盾、槍、折れた剣など、多くの種類の武器を置け。死んだ人々の一部は半分、ほかは全部を埃に覆わせよ。流れ出た血に混じる埃は赤い泥へ変わり、血は自分自身の色で、身体から埃へ曲がりながら流れるようにせよ。ほかの者は死に際に歯を食いしばり、眼をむき、拳を体へ引きつけ、脚をねじる。武器を奪われ敵に打ち倒された者が、敵へ向き直り、噛みつき引っ掻いて、残忍で激しい復讐をするのが見えてもよい。身軽な馬がたてがみを風に散らし、敵の間を走って脚で大きな害を加えるのもよい。負傷した者が地に倒れ、盾で身を覆い、敵がかがみ込んで殺そうと力を尽くすのもよい。死んだ馬の上へ、多くの者がひとかたまりに倒れているのもよい。何人かの勝者は戦うのをやめ、群れから出て、埃のために流れる涙でできた泥に覆われた眼と頬を、手でぬぐう。援軍の隊列は希望と不安に満ち、眉を険しくし、手でその上を陰にして、隊長の命令に注意しようと、濃く混乱した靄のなかを見つめる。隊長は杖を上げ、援軍へ走り、必要な方向を示す姿にしてよい。また川を置き、その中を馬が走り、周囲の水を波、泡、空中や馬の脚と身体の間へ跳ねる乱れた水で満たせ。そして平らな場所には、血で満ちた足跡のないところを一つも作るな。

遠くのものを絵画で扱う方法について

平らな地面に接する空気がほかより濃く、上がるほど薄く透明になることは明らかに見られる。遠くにある高く大きなものの下部は、あまり見えない。連続する濃い空気を通る線でそれを見るからである。その高さの頂上は、眼の側では濃い空気から始まるとしても、見るものの最上部に終わるため、その下部を見る線よりずっと薄い空気に終わる線によって見られる。このため、その線は君から一点ずつ遠ざかるほど、つねにより薄い空気へと性質を変える。したがって画家よ、山々を描くときは、丘から丘へ、つねに下部を上部より明るくせよ。互いを遠くするほど下部を明るくし、高く上がるほど、真の形と色をよく示すようにせよ。

空気を低く終わらせるほど明るくすべきこと

空気は地面に近いほど濃く、上がるほど薄くなるので、太陽が東にあるとき、南と北にまたがる西の方を眺めれば、濃い空気のほうが薄い空気より太陽の光を多く受けるのが見える。光線がより大きな抵抗に出会うからである。君の視界で空が低い平野に接して終わるなら、空のその末端は、より濃く白い空気を通して見られる。その空気は、それを通して見られる色の真実を損ない、そこでは頭上より空が白く見える。頭上への視線は、濃い湿気に損なわれた空気を、より少ない量だけ通るからである。東へ目を向ければ、空気は低いほど暗く見える。その低い空気には光線があまり通らないからである。

人物を背景から浮き立たせるために

どんな物体の形も、その背景が明色または暗色で、人物の境界にできるだけ大きな違いをもつとき、背景からいっそう隆起し、浮き立って見える。これはしかるべき場所で示す。またその色において、白の明るさの減少と、暗い色の暗さの減少を守るべきである。

描かれるものの大きさを表すことについて

原刊で第149章に隣接する挿図(1890年版・印刷65頁)
原刊で第149章に隣接する挿図(1890年版・印刷65頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

眼前のものが自然にもつ大きさを表すとき、手前の像は、細密画家の作品のように小さくても、大きな絵を描く画家の作品と同じように仕上げるべきである。ただし細密画家の小さい像は近くから、画家の大きい像は遠くから見るべきである。そうすれば両者は、等しい大きさで眼に届く。これは、等しい大きさの角度をもって届くからである。証明しよう。対象を bc、眼を a とし、de を bc の像が通過するガラス板とする。眼 a を固定すれば、bc の模倣として作る絵の大きさは、ガラス de が眼 a に近いほど小さくあるべきで、仕上げは等しくすべきである。しかしその像 bc をガラス de に描くなら、君の像は bc より仕上げを少なくし、ガラス fg 上に作った像 mn よりは仕上げを多くすべきである。像 po が実物 bc と同じように仕上がっていれば、op の遠近法は誤る。形の縮小に関しては、bc が po に縮小されるので正しいが、仕上げは距離と合わないからである。実物 bc の仕上げの完全さを求めるなら、bc は op の近さにあるように見える。しかし op の縮小を求めれば、op は bc の距離にあるように見え、仕上げを減らすことにおいてはガラス fg にあるように見える。

注 寸法、仕上げ、図記号に関する原文の移行と一見相反する指示を、推定訂正せず保存した。

明確に仕上がったものと、ぼやけたものについて

仕上げの明瞭なものは近くに作り、ぼやけたもの、すなわち境界のぼやけたものは遠方にあるように描くべきである。

離れた人物がつながって見えないようにすること

人物に着せる色は、互いに優美さを与えるものとせよ。一つの色が別の色の背景となるときは、同じ種類の色であっても、結びついて貼りついたように見えないものとせよ。間に入る距離と空気の濃さに応じて、明るさを異ならせるべきである。同じ規則を境界の識別にも適用し、近接または遠隔に応じて、多少明瞭に、あるいはぼやけさせよ。

人物への光は正面と側面のどちらから取るべきか、またどちらが優美さを与えるか

暗い側壁の間にある顔へ正面から入る光は、とりわけ上から来るとき、顔に大きな立体感を与える。この立体感は、顔の前面がその前方の空気の全般的な光で照らされ、照らされた部分にはほとんど知覚できない陰しかないことから生じる。その前面に続く側面は、上述の室内の側壁によって暗くなる。顔の各部分が壁の間へ入るほど、壁はいっそう顔を暗くする。さらに上から下りる光は、顔の隆起が遮るすべての部分から失われる。たとえば眉は眼窩から、鼻は口の大部分から、顎は喉から光を奪う。ほかの隆起も同じである。

反射について

反射は、平らで半ば緻密な表面をもち、明るい性質の物体によって生じる。それらは光に打たれると、球の跳ね返りのように、その光を最初の対象へ打ち返す。

光の反射がありえない場所

すべての不透明な物体は、表面にさまざまな性質の光と陰をまとう。光には二つの性質があり、一つを本源的、もう一つを派生的と呼ぶ。本源的というのは火炎、太陽の光、空気から来るものであり、派生的な光は反射光である。さて予告した定義へ戻ると、陰の物体に向いた側には、光の反射はないという。たとえば暗い場所、さまざまな高さの草のある草地、緑または枯れた森などである。各枝のうち本源的な光に向く部分は、その光の性質をまとうとしても、各枝自身の作る陰と、一つの枝が別の枝に作る陰が非常に多いため、全体として暗さが生じ、光は無に等しくなる。したがってそのような対象は、向かい合う物体へいかなる反射光も与えられない。

反射光について

反射光が生じる物の表面が、それを生む物より滑らかである程度に応じて、反射光は、それを生む物よりも、それが生じる物の性質を、いっそう多く、または少なく分かちもつ。

陰を取り巻く光の反射について

照らされた部分から向かい側の陰へ跳ね返る反射光は、照らされた部分が近いか遠いか、明るさが多いか少ないかに応じて、その暗さを大小さまざまに和らげる。この考えを実践する者は多く、避ける者も多い。そして互いを笑う。しかし君は双方の非難を避けるため、どちらも必要なところに用い、その原因を明らかにせよ。すなわち反射光とその色の原因を明白にし、同じく反射しないものの原因も明白にする。そうすれば、異なる判定者から全面的に非難されたり、称賛されたりすることはない。もっとも、彼らが完全に無知でなければ、どちらの派も、君を全面的に称賛せざるをえないだろう。

光の反射がより明るく、または暗くなる場所

光の反射は、背景の暗さが大きいか小さいかに応じて、明瞭さが大小に変わる。背景が反射光より暗ければ、両者の色の差が大きいため、反射光は非常に明瞭になる。しかし反射光が自分より明るい背景に見られれば、接する白さに比べて暗く見え、こうしてその反射光は知覚しにくくなる。

反射光のどの部分がより明るいか

原刊で第158章に隣接する挿図(1890年版・印刷68頁)
原刊で第158章に隣接する挿図(1890年版・印刷68頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

反射光のうち、光源から、より等しい角の間で光を受ける部分が、入射の場合と同じく、もっともよく照らされる。証明しよう。n を光源、ab を物体の照らされた部分とし、それが反対側の陰になった凹面全体へ光を跳ね返すとする。e へ反射する光が等しい角の間に当たるとしても、等しい角をなす底辺から反射するのではない。図のとおり、角 eab は角 eba より鈍いからである。しかし角 afb は、角 e より角の等しさが少ないとしても、その底辺 ab が作る角は、角 e の場合より等しい。したがって f は e より明るい。また照らすものにより近いので、いっそう明るい。これは第六命題、すなわち陰の物体の部分は光源に近いほど強く照らされる、という命題による。

肌の反射色について

ほかの肌から光を受ける肌の反射光は、人間のほかのどの肌の部分より赤く、すぐれた肌色をもつ。これは第二書第三命題、すなわち、あらゆる不透明な物体の表面は、それに向き合う対象の色を分かちもつ、という命題による。そして対象が近いほど多く、遠いほど、また大きいほど少なく分かちもつ。対象が大きければ、しばしばさまざまな色をもつ周囲の対象の像を遮るからである。物体が小さいとき、それらの像は最初の近い像を損なう。しかし近い小さな色のほうが、遠い大きな色よりも反射光を強く染めることに変わりはない。遠近法の第六命題、すなわち大きいものも非常に遠くにあれば、近い小さいものよりはるかに小さく見えうる、という命題による。

注 対象の大きさと反射の強さに関する原文の叙述を、論理的な不整合も含めて保存した。

反射光がもっとも知覚されやすい場所

より暗い背景の上に見える反射光ほど、明瞭にはっきり見え、より明るい背景に見えるものほど知覚しにくい。これは、暗さの異なるものを対置すると、暗さの少ないものが、より暗いものを真っ暗に見せ、白さの異なるものを対置すると、より白いものが、ほかのものを実際より白くなく見せるからである。

二重および三重の反射光について

原刊で第161章に隣接する挿図(1890年版・印刷69頁)
原刊で第161章に隣接する挿図(1890年版・印刷69頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

二重の反射光は単一の反射光より強く、入射光とその反射光の間にある陰はあまり暗くない。a を光源、an と as を直射光とし、sn を物体の照らされた部分、ob を反射光によって照らされた部分とする。反射 ane は単一の反射であり、ano、aso は二重の反射である。照らされた一つの物体にだけ面するものを単一の反射と呼び、二つの照らされた物体に面するものを二重の反射と呼ぶ。単一の e は照らされた bd によって作られ、二重の o は照らされた bd と dr によって構成される。その陰は、入射光 n と反射光 no、so の間にあり、暗さが少ない。

反射色は決して単純でなく、ほかの色の像と混じること

原刊で第162章に隣接する挿図(1890年版・印刷69頁)
原刊で第162章に隣接する挿図(1890年版・印刷69頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版
原刊で第162章に隣接する挿図(1890年版・印刷69頁)
原刊で第162章に隣接する挿図(1890年版・印刷69頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

ほかの物体の表面へ反射するどの色も、その表面を自分自身の色だけで染めることはない。同じ場所へ跳ね返るほかの反射色の集まりと混じるからである。たとえば黄色 a が球体 coe の一部に反射し、同じ場所へ青色 b も反射する。この黄と青が混じった反射によって、両者の集まるところへの入射が球体を染めるという。球体が本来白ければ、緑になる。黄と青を混ぜると、きわめて美しい緑を作ることは証明されているからである。

反射光が、それの集まる物体と同色になることはきわめてまれであること

反射光が、それの集まる物体と同じ色になることは、きわめてまれである。球体 dfge を黄色とし、そこへ自分の色を反射する対象 bc を青色とする。bc が空気または太陽に照らされていれば、その反射に打たれる球体の部分は、緑色に染まるという。

反射光がもっともよく見える場所

同じ形、大きさ、強さの反射光のうち、より暗い、または暗さの少ない背景に接する部分は、それに応じて、より強く、または弱く見える。

反射光について

第一。物体の表面は、より等しい角の間で自分の似姿をそこへ反射する対象の色を、より多く分かちもつ。

第二。向かい合う物体の表面へ、等しい角の間で似姿を反射する対象の色のうち、反射光線の長さがより短いものほど強い。

第三。向かい合う物体の表面へ、等しい角、等しい距離で反射する対象の色のうち、より明るい色のものほど強い。

第四。自分の周囲に同じ種類の色しかもたない対象は、向かい合う物体へ、自分の色をより強く反射する。

反射

さまざまな対象の色から生じる反射光ほど、色が混濁する。

反射光に近い色ほど、その反射光を自分の色に強く染め、逆も同様である。

したがって画家よ、人物の姿の反射光には、肌の部分のもっとも近くにある衣服の部分の色を働かせよ。ただし必要がなければ、あまりに強く表して分離させるな。

反射光の色について

すべての反射色は直射光より輝度が低い。入射光と反射光との関係は、それらの原因の輝度同士の関係に等しい。

背景における反射光の境界について

反射光より明るい背景における反射光の境界は、その反射光が自分より暗い背景で終わる原因となる。そのとき反射光は知覚され、背景が暗いほどいっそう明瞭になる。逆も同様である。

注 冒頭は論理のつながりが不明瞭だが、提示された原文を補修せず訳した。

物語のなかで人物をよく組み合わせることを学ぶ方法

原刊で第169章に隣接する挿図(1890年版・印刷71頁)
原刊で第169章に隣接する挿図(1890年版・印刷71頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

そのために、遠近法をよく学び、事物のすべての四肢と身体を記憶したら、散歩の際にはしばしば、人々が話し、論争し、笑い、争うときの位置と動作を、喜んで見て考察せよ。彼らにはどんな動作があり、周囲の人、仲裁者、見物人はどんな動作をするかを、このように短い印で小さな手帳へ記せ。その手帳はつねに持ち歩き、色をつけた紙にして、消すのでなく古いものから新しいものへ取り替えよ。これらは消すべきものでなく、最高の注意で保存すべきものだからである。事物の形と動作はあまりに多く、記憶では保持しきれない。だからこれらを、自分の助け手、師として保存するのである。

物語の最初の人物を置くことについて

原刊で第170章に隣接する挿図(1890年版・印刷71頁)
原刊で第170章に隣接する挿図(1890年版・印刷71頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

物語の最初の人物は、最初の線から何ブラッチャ離れていると描くかに応じて、それだけ実物より小さくせよ。それからほかの人物も、上述の規則により、それとの比較でさらに小さくせよ。

人物を配置することについて

裸体の da の部分が体重を支える姿勢によって縮む分だけ、反対側の部分は伸びる。すなわち da が本来の寸法から減るだけ、反対側は本来の寸法を越えて増す。臍、あるいは男性器は、決してその高さから外れない。この下降は、人物が片足へ体重をかけると、その足が上にある重さの中心になるために生じる。そうなると肩の中央はその上へ向かい、身体の表面の中央を通る元の鉛直線から外れる。この線は上端で、体重を支える足の上へ曲がる。等しい角を保つよう制約された横の線は、abc に見られるとおり、体重を支える側でその端が低くなる。

物語を構成する方法

物語を構成する人物のうち、眼にもっとも近くあるものとして描かれた人物が、もっとも大きな立体感を示す。これは第三書第二命題、すなわち、色はそれと判断する眼の間の空気の量が少ないほど完全に見える、という命題による。したがって、不透明な物体を隆起して見せる陰も、遠くより近くで暗く見える。遠くでは、眼と陰の間の空気によって陰が損なわれるからである。このことは眼に近い陰には起こらず、陰の暗さが大きいほど、物体の立体感を大きく示すのである。

物語を構成することについて

画家よ、一体だけの人物を作るときは、部分も全体も短縮を避けることを忘れるな。この技を知らない人々の無知と闘わねばならなくなるからである。しかし物語では、必要に応じてあらゆる仕方の短縮を作れ。とりわけ戦闘では、この不和、あるいはこの上なく獣的な狂気を構成する者たちに、必然として無限の短縮と屈曲が起こる。

物語における人間の多様性

物語には、体質、年齢、肌色、姿勢、太り方、痩せ方の異なる人々がいるべきである。太い者、細い者、大きい者、小さい者、肥えた者、痩せた者、荒々しい者、礼儀ある者、老人、若者、強く筋肉質の者、弱く筋肉の少ない者、快活な者、憂鬱な者、髪が巻いた者、まっすぐな者、短い者、長い者、動きが速い者、けだるい者を置け。同様に衣装、色、その物語に必要なあらゆるものを多様にせよ。顔を互いに似せるのは画家の最大の過ちであり、同じ動作の繰り返しも大きな欠点である。

人間の動きを学ぶことについて

人間の動きは、四肢と関節のあらゆる動きについて、部分と全体を知ったあとに学ぶべきである。それから、人々のさまざまな状態における動作を、観察されていると気づかれずに見て、わずかな印で短く記録せよ。気づかれれば、彼らの心は君に占められ、先ほどまで専念していた自分の動作の激しさを捨てるからである。たとえば二人の怒った者が争い、それぞれ自分が正しいと思うとき、彼らは眉、腕、その他の四肢を、意図と言葉にふさわしい動作で激しく動かす。その怒り、あるいは笑い、涙、苦痛、驚き、恐怖など別の情動を演じさせようとしても、同じことはできない。だから石膏下地を施した紙の小さな手帳を進んで持ち歩き、銀筆でその動きを短く記せ。同様に周囲の者の動作と配置も記せ。これが物語の構成を教えるだろう。手帳がいっぱいになったら、手元から分けて自分の用のために保存し、別のものを取り、同じことをせよ。これは構成の仕方にきわめて有用である。それについて私は独立の書を作り、人物と四肢の個々の知識、および関節の多様性のあとに続けよう。

よい画家は人間とその心の二つを描かねばならないこと

よい画家は、主要な二つのもの、すなわち人間と、その心に抱かれた考えを描かねばならない。第一は容易で、第二は難しい。身振りと四肢の動きで表さねばならないからである。これは、ほかのどんな人々よりもうまくそれを行う、口のきけない人々から学ぶべきである。

最初の下描きで物語を構成することについて

物語を構成する者の学習は、人物を大まかに、すなわち下描きとして置くことにあるべきである。まず、四肢のあらゆる方向、曲げ方、伸ばし方をうまく作れるようにせよ。次に勇敢に戦い合う二人の描写を取り上げ、その創案をさまざまな動作と方向から検討せよ。次いで勇敢な者と、臆病でおびえた者との戦いへ進め。これらの行為と、ほかの多くの心の状態を、十分な検討と学習をもって考察すべきである。

物語の人物に装飾を与えすぎないこと

物語のなかの人物やほかの物体へ、その人物の形と姿勢、またほかの物体の本質を妨げるほど多くの装飾を、決して与えるな。

物語の多様性について

画家は物語の構成において、豊かさと多様性を楽しみ、そのなかにすでに作った部分を繰り返すのを避けよ。新しさと豊かさが観者の眼を引きつけ、楽しませるためである。物語では、しかるべき場所と場合に、異なる姿、年齢、衣服の男たちを混ぜ、女、子供、犬、馬、建物、田野、丘とともに組み合わせることが求められるという。

物語について

物語に示す君主や賢者の威厳と適切さを守り、群衆の騒ぎから切り離し、完全に遠ざけておけ。

物語の諸部分の適合性

憂鬱で涙を流し泣く者を、陽気で笑う者と混ぜるな。自然は泣く者とともに涙を流し、笑う者とともに喜ぶようにさせるからである。ゆえに、その笑いと涙を分けよ。

物語において顔つきを多様にすること

イタリアの画家に共通する欠点は、その描いた多くの人物によって、作者の顔つきと姿が分かることである。この誤りを避けるため、物語のなかの一つの顔が別の顔に見えるように、人物の全体も一部も決して作り、繰り返してはならない。

物語において身体の強健さ、年齢、体質を変えること

また物語では、正反対のものを近くに混ぜるべきだという。互いに大きな比較を与え、近いほどそれが強くなるからである。すなわち醜い者を美しい者のそばへ、大きい者を小さい者へ、老人を若者へ、強い者を弱い者へ近づけよ。このように、できるだけ多様に、しかも近くに置くのである。

物語の構成について

描かれた物語の構成は、それを見る者、観照する者に、物語を描いた目的と同じ効果を起こさせるべきである。すなわち恐怖、おびえ、逃走、あるいは苦痛、涙、嘆き、楽しみ、喜び、笑いなどを表すなら、見る者の心がその四肢を動かし、自分も描かれた物語の表す同じ出来事に加わっているかのような動作をさせるべきである。そうならないなら、作者の知力は空しい。

物語を構成する教訓

物語を構成する者よ、その人物の四肢を、明確な輪郭線で作りこむな。そうすれば、木炭のどんな小さな線も有効なままにしておきたがる、多くの画家に起こるのと同じことが起こるだろう。そのような者たちは富を得られても、技の称賛は得られない。描いた生物の四肢の動きが心の動きにふさわしくないことは多いが、美しく快い四肢をよく仕上げたあとでは、それを上へ、下へ、前へ、あるいは後ろへ移すことが、侮辱のように思われるからである。そのような者は学におけるいかなる称賛にも値しない。詩人が詩句を構成するのを、君は見たことがないか。彼らは字を美しく書くことを気にせず、詩句のいくつかを消して、よりよく作り直すことをいとわない。だから画家よ、人物の四肢は粗く構成し、その美しさやよさより先に、物語を構成する生物の心の状態に適した動きへ注意せよ。理解すべきなのは、粗い構成でも意図に適合すれば、後で各部分にふさわしい完成によって飾ったとき、なおいっそう満足させるということである。私は雲や壁の染みを見て、さまざまなものの美しい創案へ目覚めたことがある。その染みはどの部分の完成もまったく欠いていたが、その動きやほかの行為の完成を欠いてはいなかった。

互いに優美さを与えるよう色を組み合わせること

ある色の近さが、それに接する別の色へ優美さを与えるようにしたければ、太陽光線が天の弓、別名イリスすなわち虹を作るときに見られる規則を用いよ。それらの色は雨の動きのなかで生じる。各水滴は下降するあいだに、その虹の各色へ変わるからである。これはしかるべき場所で証明する。さて、すぐれた暗さを作りたければ、比較のためにすぐれた白さを与えよ。同様にすぐれた白さは、最大の暗さによって作れ。淡い色は赤を、それが紫との比較で単独に見えるよりも、燃えるように赤く見せる。この規則はしかるべき場所で、さらに明確にする。第二の規則が残る。それは色自体を自然以上に至高の美とするのでなく、その組み合わせによって互いへ優美さを与えるものである。緑が赤に、赤が緑に、また緑が青に対してするようにである。さらに、不調和な組み合わせを作る規則もある。たとえば青と白っぽい黄、または青と白などであり、しかるべき場所で述べる。

絵の色を生き生きと美しくすること

美しくしたい色には、つねにまず、真っ白な下地を用意せよ。これは透明な色についていうのである。不透明な色には明るい下地は役立たない。その例は色ガラスが教える。眼と明るい空気の間に置かれると、きわめて美しく見えるが、背後が暗い空気やほかの闇であれば、そうはならない。

あらゆる色の陰の色について

どんな色の陰の色も、つねにそれに向き合う対象の色を分かちもつ。その程度は、対象が陰へ近いか遠いか、また明るさが多いか少ないかに応じる。

遠いものと近いものの色が示す変化について

空気より暗いもののうち、遠いものほど暗さが少なく見える。空気より明るいもののうち、眼から遠いものほど白さが少なく見える。空気より明るいものと暗いものは、遠距離で色を交換する。明るいものは暗さを得、暗いものは明るさを得るからである。

どれほどの距離で事物の色は完全に失われるか

事物の色が完全に失われる距離は、眼と見られるものの高さが高いか低いかによって、長くも短くもなる。これは本書の第七命題、すなわち空気は地に近いほど濃く、遠いほど薄い、という命題によって証明される。したがって眼と見られるものが地面に近ければ、両者の間の空気は濃く、その眼に見られるものの色を大いに妨げる。しかし眼と見られるものがともに地面から離れていれば、その空気は対象の色をほとんど遮らない。

眼の対象の色はどれほどの距離で失われるか

対象の色が失われる距離の多様さは、一日の時刻の多様さ、および対象の色の像が眼へ通り抜ける空気の濃淡の多様さに等しい。このことについて、いまはほかの規則を与えない。

白の陰の色

太陽と空気に面する白いものの陰は、青みを帯びる。白はそれ自体では色をもたず、どんな色も受け入れるからである。また本書の第四命題、すなわちすべての物体の表面は向かい合う対象の色を分かちもつ、という命題により、白い表面のその部分は、対象である空気の色を分かちもつ必要がある。

どの色がもっとも黒い陰を作るか

もっとも白い表面に生じる陰が、もっとも多く黒を分かちもち、その明暗差の比はほかのどの表面よりも大きい。白は色のうちに数えられず、あらゆる色を受け入れるからである。その表面は、どんな色のほかの表面よりも、向かい合う対象の色を強く分かちもつ。とりわけ正反対の黒やほかの暗色を強く受ける。白は本性上それからもっとも遠いからである。このため、白の主要な陰と主要な光の間には大きな違いが見え、実際にも存在する。

異なる濃さの空気のなかで変化を示さない色について

原刊で第194章に隣接する挿図(1890年版・印刷77頁)
原刊で第194章に隣接する挿図(1890年版・印刷77頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

同じ色が異なる距離でも変化しないことは可能である。空気の濃さの比と、色が眼からもつ距離の比とが、逆向きに等しいときに起こる。証明しよう。a を眼とし、h を任意の色とする。それは眼から一段階の距離にあり、濃さ四段階の空気に置かれている。しかし上の第二の層 amnl は半分だけ薄いので、同じ色をそこへ運べば、その色は眼から以前の倍だけ遠くにある必要がある。ゆえに眼から二段階 af、fg 離して、色 g を置こう。次にそれを、第二の manl より倍だけ薄い層、すなわち ompn へ上げるなら、高さ e に置かねばならない。眼からの距離は線 ae 全体となり、その空気の濃さによる値は距離 ag と等しいことが証明される。こう証明する。同じ空気のなかで眼と色の間にある距離 ag が二段階半を占めるなら、この距離は、g の色を e へ上げても強さが変わらないために十分である。段階 ac と段階 af は、同じ濃さの空気にあり、相似かつ等しいからである。段階 cd は、長さでは fg に等しくても、空気の濃さでは同じでない。その半分は、上の空気の倍の濃さの空気のなかにあるからである。その半段階の距離は、その下に接する空気より倍だけ薄い上の空気の一段階全体と同じだけ、色を遮る。したがって、まず空気の濃さ、次いで距離を計算すれば、位置を変えた色が美しさを変えないと分かるだろう。空気の濃さの計算について、こういおう。色 h は濃さ四段階の空気にあり、色 g は濃さ二段階、色 e は濃さ一段階の空気にある。さて、距離が逆向きに等しい比であるかを調べよう。色 e は眼 a から二段階半の距離にあり、g は二段階、h は一段階にある。この距離は濃さの比と合わない。そこで第三の計算が必要になる。上述のとおり、段階 ac は段階 af と相似かつ等しく、半段階 cd は段階 ac と相似だが等しくない、といわねばならない。それは長さでは半段階だが、上の空気の一段階全体に相当するからである。したがって得られた計算は目的を満たす。ac は上の空気の濃さ二段階分に相当し、半段階 cd はその上の空気の一段階全体に相当するので、上の濃さに換算して三段階を得る。さらにその上の空気の内部に一段階、すなわち be があり、これが第四である。続けると、ah は空気の濃さ四段階をもち、ag も四段階をもつ。af に二つ、fg にさらに二つあり、合計四つだからである。ae にも四つある。ac に二つ、ac の半分で同じ空気にある cd に一つ、そして上方の薄い空気に完全な一つがあり、四つとなる。したがって ae の距離は ag の二倍でも ah の四倍でもないが、濃い空気の半段階 cd が、その上のより薄い空気の一段階全体に相当することによって補われる。こうして、色 hge は異なる距離によって変化しない、というわれわれの命題が結論される。

注 図記号 amnl/manl、距離 ag の記述など、原文の不整合を含めて保存した。

色の遠近法について

原刊で第195章に隣接する挿図(1890年版・印刷78頁)
原刊で第195章に隣接する挿図(1890年版・印刷78頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

同じ色を異なる距離、等しい高さに置いたとき、その明るくなる比は、各色が見る眼からもつ距離の比に等しい。証明しよう。ebcd を同じ色とし、最初の e を眼 a から二段階の距離、第二の b を四段階、第三の c を六段階、第四の d を八段階に置く。線 ar の上に見られるように、線を横切る円の区切りがそれを示す。次に arsp を薄い空気の一層、sp と t をより濃い空気の一層とする。すると最初の色 e は、濃い空気の一段階 es と、それより薄い空気の一段階 sa を通って眼へ達する。色 b は濃い空気の二段階と薄い空気の二段階を通じて、眼 a へ似姿を送り、c は濃い空気の三段階と薄い空気の三段階を、d は濃い空気の四段階と薄い空気の四段階を通じて送る。こうして色の減退、あるいは喪失の比は、見る眼からの距離の比に等しいと証明した。これは等しい高さにある色にだけ起こる。高さが異なるものでは、異なる濃さの空気にあり、その空気が色を異なる程度に遮るため、同じ規則は守られない。

異なる濃さの空気のなかで変わらない色について

異なる濃さの空気に置かれた色は、一方が他方よりそれに応じて眼から遠ければ変化しない。こう証明する。最初の低い空気の濃さが四段階で、色が眼から一段階の距離にあるとする。第二の高い空気の濃さが三段階、すなわち一段階を失っているなら、色の距離を一段階増せ。さらに高い空気が濃さを二段階失い、色が距離を二段階増せば、第一の色と第三の色は等しくなる。短くいえば、色が高く上がり、濃さを三段階失った空気へ入り、距離も三段階増したなら、高く遠い色は、低く近い色と同じだけ色を失ったと確信できる。高い空気が低い空気の濃さの四分の三を失うなら、色は上昇によって、眼からの全距離の四分の三を増したからである。こうしてわれわれの意図したことは証明された。

異なる色は同じ陰によって一様な暗さに見えうるか

同じ陰にあるすべての異なる色が、その陰の色に変わって見えることは可能である。これは曇った夜の闇に明らかであり、そのなかでは物体の形も色もまったく分からない。闇とは、物体のあらゆる形と色を認識させる、入射光または反射光の欠如にほかならない。したがって光の原因を完全に除けば、その結果と、物体の色や形の認識が失われるのは必然である。

存在しないのにあるように見える闇によって、物体の色と形が失われる原因について

それ自体は照らされて明るいのに、真っ暗で、内部の事物の色と形のあらゆる違いを完全に欠くように見える場所は多い。これは見られるものと眼の間にある、照らされた空気の光によって起こる。眼から遠い窓の内部に見られるとおりであり、そこには非常に暗い一様な闇しか認められない。しかしその家へ入れば、内部は非常によく照らされていると分かり、その窓の内側にあるどんなもののごく小さな部分も、はっきり認識できる。この見え方は眼の不足から生じる。空気の過度の光に圧倒され、瞳孔を大きく縮め、そのため能力を大いに失うからである。暗い場所では瞳孔が広がり、大きさを増すだけ力も増す。これは私の遠近法第二書で証明されている。

同じ色の別のものから光を受けなければ、何ものも真の色を示さないこと

照らす光が完全にその色でないかぎり、何ものも自分固有の色を決して示さない。ここで述べたことは布の色に明らかである。照らされた襞が向かい合う襞へ光を反射し、与えると、その襞に真の色を示させる。金箔も互いに光を与えると同じことをし、ほかの色から光を受けると反対のことをする。

背景との比較によって本来と違って見える色について

一様な色のどの境界も、それと似た色の背景に接していなければ、一様には見えない。これは黒が白に、白が黒に接するときに明らかであり、各色は中央よりも、反対の色との境界でいっそう優れて見える。

異なる色の上に置き、または混ぜる透明色が、その異なる関係によって変化すること

透明な色をそれとは異なる色の上に置けば、それを構成するどの単色とも違う混合色ができる。これは煙突から出る煙に見られる。煙突の黒さを背景にすると青くなり、上がって空気の青さを背景にすると、灰色または赤みがかって見える。同じく紫を青の上へ置けば菫色になり、青を黄の上へ置けば緑になる。サフラン色を白の上へ置けば黄色になり、明るいものを暗さの上へ置けば青になる。その青は、明と暗がすぐれているほど美しい。

同じ色のどの部分が絵画でもっとも美しく見えるか

ここでは、同じ色のうちどの部分が絵画でもっとも美しいかに注意すべきである。光沢のある部分か、照らされた部分か、中間の陰か、暗い陰か、あるいは透ける部分か。ここではどの色を問題にするかを理解する必要がある。異なる色は、それぞれ異なる部分に美しさをもつからである。それを示すのは、陰に美しさをもつ黒、光にもつ白、中間の陰にもつ青、緑、黄褐色、光にもつ黄と赤、反射光にもつ金、中間の陰にもつレーキである。

光沢のない色は、陰の部分より明るい部分で美しいこと

どの色も、陰の部分より照らされた部分で美しい。光は色を生き生きさせ、その性質を真に知らせるが、陰は同じ美を弱め、暗くし、その色の認識を妨げるからである。これに反して黒は光より陰で美しいというなら、黒は色でなく、白もまた色ではないと答える。

色の明瞭さについて

より明るいものほど遠くからよく見え、より暗いものはその反対である。

道理上、色のどの部分がもっとも美しいはずか

原刊で第205章に隣接する挿図(1890年版・印刷81頁)
原刊で第205章に隣接する挿図(1890年版・印刷81頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

a を光とすれば、b はその光から直線で照らされる部分となる。c はその光を見られず、照らされた部分だけに面する。その部分を赤としよう。そうならば、そこから生じる光は原因に似て、面 c を赤く染める。c も赤ならば、b よりはるかに美しくなるのが分かるだろう。c が黄色ならば、黄と赤の間に変化する色が生じるのが見えるだろう。

色の美は明るい部分にあるべきこと

色の性質が光によって知られるのを見るなら、光の多いところほど、照らされた色の真の性質がよく見え、闇の多いところほど、その色は闇の色に染まると判断すべきである。だから画家よ、照らされた部分に色の真実を示すことを忘れるな。

銅の錆から作る緑色について

銅から作る緑は、油で用いても、ただちにワニスをかけなければ、その美しさが煙のように消える。消えるだけでなく、普通の水だけで湿らせた海綿で洗えば、描いた板から取れてしまう。とりわけ湿った天気ではそうなる。これは緑青が塩の力で作られ、その塩が雨の時期に容易に溶け、とりわけ上述の海綿で濡らして洗うと溶けるからである。

緑青の美しさを増すこと

緑青にカメッリーノ・アロエを混ぜれば、緑青は大いに美しさを増す。サフランなら、色が消えてしまわなければ、さらに増すだろう。このカメッリーノ・アロエの良さは、温めた蒸留酒に溶かすと分かる。冷たいものよりよく溶かすからである。緑だけで作品を仕上げ、そのあと水に溶いたアロエで薄く覆えば、作品はきわめて美しい色になる。またこのアロエは、単独でも、緑青と一緒でも、好みのほかのどんな色と一緒でも、油で練ることができる。

無限へ広がる、色と色の混合について

色同士の混合は無限へ広がるが、そのために少し論じることをやめはしない。まずいくつかの単色を置き、それぞれへほかの各色を一つずつ混ぜ、次に二つずつ、三つずつと、すべての色の数に至るまで続けよう。それから最初の二色に対して、二つと二つ、三つと二つ、次いで四つというように、最後まで混ぜることを再開する。そのあと三色を置き、その三色に別の三色、次いで六色を合わせ、あらゆる比例でこの混合を続けよう。単色とは、混成されておらず、ほかの色の混合でも作れないものをいう。黒と白は、一方が闇、他方が光、すなわち一方が欠如、他方が生成するものであるため、色のうちに置かれない。それでも私は除外しない。絵画では主要なものだからである。絵画は陰と光、すなわち明と暗からできている。黒と白のあとには青と黄、次に緑と獅子色、すなわち黄褐色、あるいは黄土色が続き、そのあと暗紫色と赤が来る。これらが八色であり、自然にはこれ以上ない。これらの混合を始めよう。まず黒と白、次に黒と黄、黒と赤、次に黄と黒、黄と赤とする。ここで紙が足りなくなったので、この区分を詳しく述べることは、私の本に譲る。それは大いに有用であり、むしろ不可欠である。この記述は、絵画の理論と実践の間へ挟まれることになる。

あらゆる陰をもつ物体の表面について

あらゆる陰をもつ物体の表面は、それに向き合う対象の色を分かちもつ。これは陰をもつ物体が確かに示す。物体と光源の間の媒質が照らされなければ、そのような物体はどれも形や色を示さないからである。そこで不透明な物体を黄色、光源を青色としよう。照らされた部分は緑になるという。その緑は黄と青から成る。

どの表面がもっともよく色を受け入れるか

白は、鏡でないどんな物体のどんな表面よりも、あらゆる色をよく受け入れる。これは、空の物体は、空でない物体が受け入れられないものを受け入れられるということによって証明される。そこで白は空であり、あるいはあらゆる色を欠くという。それがどんな光源の色によって照らされても、黒より多くその光源の性質を分かちもつ。黒は壊れた器のようで、どんなものも受け入れる能力を欠いている。

物体のどの部分が対象の色にもっとも強く染まるか

あらゆる物体の表面は、もっとも近い対象の色をもっとも強く分かちもつ。これは近い対象が、表面へ来ればその対象の表面の色を損なうはずの、より多くの多様な像を遮るからである。その色が遠ければ、そうはしない。この像を遮ることで、その色は不透明な物体において、自分の性質をより完全に示すのである。

物体の表面のどの部分がもっとも美しい色を示すか

自分と似た色の対象を近くにもつ不透明体の表面が、もっとも完全な色を示す。

顔の肌色について

物体の色のうち、面積の大きいものほど遠距離でもよく保たれる。この命題は、顔が距離によって暗くなることを示す。顔は陰の部分がもっとも多く、明るい部分はごく小さいため、短い距離で失われるからである。光沢はさらに小さい。これが、暗い部分だけが残り、顔が暗くなり、または暗く見える原因である。その顔の身体や頭に白いものがあるほど、いっそう黒みがかって見える。

立体を写す方法と、そのための紙の準備

画家が立体を写すには、紙の表面を中程度の暗さに染め、それからより暗い陰を加え、最後に小さな部分へ主要な光を置くべきである。その光こそ、わずかな距離で最初に眼から失われるものである。

眼から異なる距離にある同じ色の変化について

同じ性質の色のうち、眼から遠ざかることの少ないものほど、変化が少ない。これは、眼と見られるものの間の空気が、そのものを幾分遮るからである。間に入る空気が大量なら、見られるものはその空気の色に強く染まり、空気の量が少なければ、対象はほとんど妨げられない。

野外に見える緑について

野外の同じ性質の緑のうち、木々の緑はより暗く見え、草地の緑はより明るく見える。

どの緑がもっとも多く青を分かちもつように見えるか

陰がもっとも暗い緑ほど、多くの青を分かちもつように見える。これは第七命題、すなわち遠距離では明と暗から青が構成される、という命題によって証明される。

どの表面がほかより真の色を示さないか

より磨かれて滑らかな表面ほど、真の色を示すことが少ない。これは草地の草や木の葉に見られる。それらは滑らかで光沢ある表面をもつため、それを照らす太陽や空気を映す光沢を受ける。したがってその光沢の部分では、本来の色を失う。

どの物体が真の色をもっともよく示すか

表面があまり滑らかでも平らでもない物体ほど、真の色をよく示す。これは亜麻布や、毛のある草木の葉に見られ、そこには幾分の光沢が生じうる。したがって対象を映せないため、必然として、自分自身の真の自然な色だけを眼へ返す。ただし反対の色で照らす物体によって、その色が損なわれない場合である。たとえば沈む太陽の赤みが、雲を自分の色に染めるような場合を除く。

注 原文の alcun lustro si può generare(幾分の光沢が生じうる)は、前後との不整合があるがそのまま訳した。

風景の明るさについて

描かれた風景の色、生気、明るさは、その絵自体が太陽で照らされないかぎり、太陽に照らされた自然の風景と決して一致しない。

一般的な遠近法、および遠距離における色の減退について

原刊で第222章に隣接する挿図(1890年版・印刷86頁)
原刊で第222章に隣接する挿図(1890年版・印刷86頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

空気は地平線に近いほど青色を分かちもつことが少なく、地平線から遠いほど暗い。これは第九書第三命題、すなわち物体は性質が希薄であるほど太陽に照らされることが少ない、という命題によって証明される。したがって空気を覆う元素である火は、空気より希薄で薄いため、その上にある闇を、空気ほどにはわれわれから遮らない。それゆえ火ほど希薄でない物体である空気は、そこへ入り込む太陽光線によって、いっそう照らされる。光線はそのなかに広がる無限の微粒子を照らし、空気をわれわれの眼に明るく見せる。上述の闇の像がこの空気を通り抜けるため、必然として空気の白さは青く見える。これは第十書第三命題で証明される。闇と眼の間の空気の厚みが大きいほど、青は明るく見える。たとえば観察者の眼を p とし、真上の空気の厚み pr を見てから、少し眼を下げて線 ps を通して空気を見ると、そちらは明るく見える。線 ps の空気の厚みが線 pr より大きいからである。眼を地平線へ向ければ、空気はほとんど完全に青を失って見える。視線が斜めの ps より直線 pd に沿って、はるかに多くの空気を通るからである。こうしてわれわれの意図したことは明らかにされた。

風景の水に映るものについて、まず空気について

原刊で第223章に隣接する挿図(1890年版・印刷86頁)
原刊で第223章に隣接する挿図(1890年版・印刷86頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

水面から眼へ、等しい角の間で反射する空気だけが、水面に自分の像を与える。すなわち入射角が反射角に等しい場合である。

色と眼の間にある媒質による色の減退

見えるものは、それと眼の間の媒質が厚いほど、本来の色を示すことが少なくなる。

陰と光にふさわしい背景について

どんな色でも、その照らされた境界または陰の境界にふさわしい背景は、互いの違いが大きいほど、よく分離させる。すなわち暗い色は別の暗い色に接して終わるべきでなく、大いに異なる色、つまり白か白を含む色に接するべきである。同じく白い色は、決して白い背景に終わらせず、できるだけ暗い、または暗さに傾く背景に置け。

白が白に、暗色が暗色に接するときの対処

白い物体の色が白い背景に接して終わる場合、その白さは等しいか等しくないかのいずれかである。等しければ、近いほうを、その白い背景に接する境界で少し暗くせよ。背景がその上に浮かぶ色より白さに劣るなら、その物体は暗い境界の助けなしに、異なる背景から自ずと浮き立つ。

白が浮かび上がる背景の色の性質について

白いものは、背景が暗いほど白く見え、背景が白いほど暗く見える。これは降る雪が教える。空気を背景に見れば雪は暗く見え、開いた窓を背景にし、その窓から家の内部の暗い陰が見えるなら、雪はこの上なく白く見える。また近い雪は速く、遠い雪は遅く見える。近い雪は白い縄のように連続した量に見え、遠い雪は途切れて見える。

人物の背景について

明るさの等しいもののうち、より白い背景に見られるものほど明るさが少なく見え、暗い場所を背景に浮かぶものほど白く見える。肌色は赤い背景で青白く見え、青白い色は黄色い背景に見られると赤みがかって見える。同じように、色はそれを囲む背景によって、本来と違うものと判断される。

描かれたものの背景について

原刊で第229章に隣接する挿図(1890年版・印刷87頁)
原刊で第229章に隣接する挿図(1890年版・印刷87頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

陰と光をまとう不透明な物体が浮かび上がる背景の考察は、きわめて重要である。余白に部分的に示したように、照らされた部分は暗い背景に、暗い部分は明るい背景にあるのがふさわしいからである。

野外で、遠いものほど暗くなるように描く者について

開けた野外で、眼から遠い人物ほど暗く描く者は多い。しかし実際は反対である。ただし模倣するものが白い場合を除く。その場合には、以下に述べることが起こる。

眼から遠いものの色について

空気は、自分が眼から隔てる対象を、自分の厚みが大きいほど自分の色に強く染める。したがって暗い対象を二マイルの厚みで隔てる空気は、一マイルの厚みの空気より強くそれを染める。ここで反対者は、風景のなかでは同種の木が、近くより遠くで暗く見える、と答える。木々が等しく、間隔を置いて離れているなら、それは真実でない。しかし手前の木々がまばらで、その間の草地の明るさが見え、奥の木々が、川岸や川の近くで起こるように密集しているなら、真実である。そのときは明るい草地の隙間が見えず、すべてが結びつき、互いに陰を落とすからである。また木の陰の部分は明るい部分よりはるかに大きく、木が眼へ送る像は遠距離で混じり合う。量の多い暗色は、暗さの少ない部分よりも自分の像をよく保ち、その混合は、より強い部分を、より遠い距離まで運ぶのである。

絵画の段階

美しいものが、つねによいとは限らない。これは、色の美しさをあまりに愛し、立体感を顧みず、非常に弱くほとんど知覚できない陰を与えるにも大いに良心を痛める画家についていうのである。何の中身もない美辞麗句を語る者も、この誤りにある。

異なる方向から見た海水の映りと色について

波立つ海には、一様な色がない。陸から見る者には暗い色に見え、地平線に近いほど暗い。また幾分の明るさ、すなわち光沢が、群れのなかの白い羊のように、ゆっくり動くのが見える。沖にいて海を見る者には、海は青く見える。陸から暗く見えるのは、波のなかに陸の暗さが映っているのを見るからである。沖から青く見えるのは、波が映す青い空気を、波のなかに見るからである。

比較の性質について

黒い衣服は、人間像の肌を実際より白く見せ、白い衣服は肌を暗く見せる。黄色い衣服は肌を色づいて見せ、赤い衣服は青白く見せる。

あらゆる物体の陰の色について

どんな物体の陰の色も、それに陰を与える対象が、陰にされる物体と同じ色でなければ、真の固有の陰にはならない。たとえば緑の壁の部屋があるとしよう。その場所で青いものが見られ、それが青い空気の明るさによって照らされるなら、照らされた壁はきわめて美しい青になるが、陰は醜く、その美しい青の真の陰ではなくなる。そこへ反射する緑によって損なわれるからである。壁が黄褐色なら、さらに悪くなるだろう。

暗い場所における色の遠近法について

明るさが一様な仕方で異なり、闇へ至る場所では、その眼から遠い色ほど暗くなる。

色の遠近法

手前の色は単純であるべきで、その減退の段階は距離の段階と一致しなければならない。すなわち、ものの大きさは、点に近づくほど点の性質を多く分かちもつ。同じく色は、地平線に近いほど、その地平線の色を多く分かちもつべきである。

色について

陰をもつ物体の、陰の部分と照らされた部分の間にある色は、完全に照らされた色より美しさが少ない。したがって色の第一の美は、主要な光のなかにある。

空気の青さは何から生じるか

空気の青さは、上方の闇と地面の間に置かれた、照らされた空気の厚みから生じる。空気はそれ自体では匂い、味、色の性質をもたず、後ろに置かれたものの似姿を自らのうちに受け取る。空気の範囲が大きすぎず、湿気の濃さも過度でなければ、背後の闇が大きいほど、美しい青になる。山々でも、陰の多いものほど遠距離で美しい青になるのが見られる。また照らされるところほど、山と眼の間の空気によって付け加えられた青よりも、山自身の色を多く示す。

色について

青でない色のうち、黒に近いものほど、遠距離で多くの青を分かちもつ。逆に黒ともっとも異なるものほど、長い距離で本来の色を保つ。したがって野の緑は黄や白よりも青へ変わりやすく、逆に黄と白は緑と赤より変化が少ない。

色について

陰に置かれた色は、その暗さが大きいか小さいかに応じて、本来の美しさを多く、あるいは少なく分かちもつ。しかし明るい場所に置かれた色は、光源の輝きが大きいほど美しさを増す。反対者はいう。陰の色の種類は、陰になったものの色の種類と同じだけある。答える。陰に置かれた色同士の違いは、そこにある陰が暗いほど小さくなる。その証人は、広場から暗い聖堂の扉の内部を見る人々である。そこでは、さまざまな色をまとった絵が、すべて闇をまとって見える。

描かれた物体の形の背景について

描かれたどんなものの形でも、それを囲む背景は、その形の照らされた部分より暗く、陰の部分より明るいべきである。

なぜ白は色ではないか

白は色ではなく、あらゆる色を受け入れる能力である。高い野外にあるとき、その陰はすべて青くなる。これは第四命題、すなわちあらゆる不透明な物体の表面は向かい合う対象の色を分かちもつ、という命題から生じる。したがって太陽と白いものの間に対象が挟まれ、白が太陽光を奪われると、太陽と空気に面する白は太陽と空気の色を分かちもつ一方、太陽から見られない部分は陰となり、空気の色を分かちもつ。その白いものが、地平線まで続く野の緑にも、地平線の白さにも面していなければ、疑いなく、空気が示すのと同じ単純な色に見えるだろう。

色について

火の光はすべてを黄色に染める。しかしこれは、空気に照らされたものと比較しなければ、真実とは見えない。その比較は一日の終わり近く、あるいは夜明け後に見られる。また暗い部屋で、空気からの光の隙間と、蝋燭の光の隙間の両方が対象へ当たる場所でも、両者の違いが明瞭にはっきり見える。そのような比較なしには、違いは決して分からない。ただし似通った色では、白と淡い黄、緑と青のように、違いが認められる。青を照らす光が浮かぶ〔原文どおり〕と、青と黄を混ぜるのと同じになり、両者は美しい緑を作るからである。そしてさらに黄を緑へ混ぜれば、いっそう美しくなる。

注 原文 galleggiando(浮かぶ)は、文脈上 gialleggiando(黄みを帯びる)の可能性があるが、無断で訂正せず注記した。

入射光と反射光の色について

二つの光がその間に陰をもつ物体を挟む場合、違いは二通りしかない。光同士についていえば、強さが等しいか等しくないかである。等しければ、対象上の輝きをさらに二通りに変えられる。等しい輝きか、等しくない輝きかである。距離が等しければ等しく、距離が等しくなければ等しくない。等しい距離では、さらに二通りに変化する。すなわち、輝きの等しい光によって対象はより少なく照らされ、距離において、光は強さも、向かい合う対象からの距離も等しい。色と輝きの等しい二つの光の間に、等しい距離で置かれた対象は、その光に二通りに照らされうる。あらゆる側で等しく照らされるか、等しくなく照らされるかである。二つの光の周囲の空間が同じ色と暗さ、あるいは明るさなら、対象は等しく照らされる。二つの光の周囲の空間の暗さが異なれば、等しくなく照らされる。

注 中ほどの In eguale distanza… の一文は原文の構文と論理が不完全なため、不確かな内容を補わず訳した。

陰の色について

原刊で第246章に隣接する挿図(1890年版・印刷91頁)
原刊で第246章に隣接する挿図(1890年版・印刷91頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

陰をもつ物体では、陰の色と明るい部分の色が調和しないことが多い。物体は均一な色でも、陰が緑がかり、明るい部分が赤みを帯びることがある。これは光が東から対象へ来て、その輝きの色で照らし、西には同じ光で照らされた別の対象があり、その対象が最初のものと異なる色をもつために起こる。第二の対象は反射光線を東へ跳ね返し、最初の対象の自分に向いた部分を打つ。その光線はそこで切られ、色と輝きとともにとどまる。私は白い対象に、赤い光と青みがかった陰を何度も見た。これは雪山において、太陽が沈み、地平線が燃えるように見えるときに起こる。

明るい背景に置かれたものと、その使い方が絵画に有用な理由

原刊で第247章に隣接する挿図(1890年版・印刷92頁)
原刊で第247章に隣接する挿図(1890年版・印刷92頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

陰をもつ物体が、明るく照らされた色の背景に接して終わるとき、それは必然として背景から浮き出し、離れて見える。これは曲面をもつ物体が、光線に打たれない反対側では必然として陰になるからである。その場所は光線を欠くので、背景とは大きく異なる。また物体の照らされた部分は、もっとも強い明るさのままで、照らされた背景に接して終わることはない。背景と物体の主要な光の間には、背景またはその物体の光より暗い、物体の境界が挟まるのである。

背景について

人物の背景について。明るいものを暗いところに、暗いものを明るい背景に置くこと、白と黒、あるいは黒と白を合わせることでは、それぞれが他方によってより強く見える。このように反対のものは、つねに互いによっていっそう強く現れる。

色について

互いに調和する色は、緑と赤、または紫、またはビッファの紫がかった色、そして黄と青である。

ほかの色の混合から生じ、第二種と呼ばれる色について

単色は六つあり、その第一は白である。哲学者のなかには、白も黒も色の数に入れない者がいる。一方は色の原因、他方は色の欠如だからである。しかし画家には両方が不可欠なので、われわれはほかの色とともに数えよう。そしてこの順序では、単色の第一を白、第二を黄、第三を緑、第四を青、第五を赤、第六を黒とする。白は光に対応させる。光がなければ、どんな色も見られないからである。黄を地に、緑を水に、青を空気に、赤を火に、黒を火の元素の上にある闇に対応させる。そこには太陽光線が打ち当たり、その結果照らすことのできる物質や密度がないからである。すべての混合色の種類を手短に見たければ、色ガラスを取り、それを通して、その後ろに見える風景のすべての色を見よ。するとガラスの後ろに見えるものの色は、すべてそのガラスの色と混じって見える。どの色がその混合によってよくなり、悪くなるかも分かる。たとえばガラスを黄色とする。その色を通って眼に達する対象の像は、悪くもよくもなりうるという。その色ガラスでは、青、黒、白がほかのどの色よりも悪くなり、黄と緑がほかのどの色よりもよくなる。このように眼で無限の色の混合をたどり、新たな混色や合成色の創案を選び取るのである。異なる色の二枚のガラスを眼前に置いても同じことができ、こうして君自身で続けられる。

色について

青と緑は、それ自体として単色ではない。青は空気の青のように、光と闇、すなわち完全な黒と純白から成るからである。緑は単色と合成色から成る。すなわち青と黄からできている。

異なる色の光沢あるものに映る色について

映されたものはつねに、それを映す物体の色を分かちもつ。鏡は映す色に幾分染まり、互いが他方を分かちもつ程度は、映されるものが鏡の色より強いか弱いかに応じる。鏡のなかでいっそう強い色に見えるのは、その鏡の色をより多く分かちもつものである。

物体の色について

物体の色のうち、もっとも輝く白さをもつものが、もっとも遠くで見られる。したがって、もっとも暗いものは、より短い距離でしか見られない。

白さと眼からの距離が等しい物体のうち、より大きな暗さに囲まれたものが、より純白に見える。逆に暗さは、より純白なもののなかに見られるほど、いっそう真っ暗に見える。

色について

同じ完全さをもつ色のうち、正反対の色と一緒に見られるものが、もっともすぐれて見える。正反対とは、淡い色と赤、黒と白をいう。ただし黒も白も色ではない。また青と黄金のような黄、緑と赤である。どの色も、似た色のなかより、反対の色のなかでよく認識される。明のなかの暗、暗のなかの明のようにである。白が暗色に接すると、その境界では暗色がより黒く、白がより純白に見える。

白いものが暗く濁った空気のなかに見られるとき、その形は実際より大きく見える。これは上述のとおり、先に述べた理由によって、明るいものが暗い背景で大きくなるからである。

眼と見られるものの間の媒質は、そのものを自分の色へ変える。たとえば青い空気は遠い山を青くし、赤いガラスはその向こうに眼が見るすべてを赤く見せる。星がその周囲に作る光は、眼と星の輝きの間にある夜の暗さによって遮られる。

真の色について

あらゆる物体の真の色は、どんな種類の陰にも覆われず、また滑らかな物体なら光沢にも覆われない部分に現れる。

山の色について

眼から遠い山は、それ自体が暗いほど、美しい青を示す。高く、森の多い山ほど暗い。その森は非常に高いところにあるので、木々の下側を見せ、その下側は空に面していないため暗いからである。また森の野生の樹木は、栽培された樹木より本来暗い。樫、ブナ、モミ、糸杉、松は、オリーブやほかの果樹よりずっと暗い。眼と黒さの間にある明るさが、山の高い頂でより薄ければ、その黒さをより美しい青にし、逆も同様である。自分に似た色の背景に接する植物ほど、背景から分かれにくく見え、逆も同様である。白のうち黒の境界に近い部分ほど純白に見え、暗色から遠い部分ほど白くなく見える。黒のうち白に近い部分ほど暗く見え、白から遠い部分ほど暗さが少なく見える。

画家はいかに色の遠近法を実践すべきか

色の固有の本質が変化し、失われ、あるいは減退するこの遠近法を実践したければ、野外に百ブラッチャごとに置かれた木、家、人、場所などを取り上げよ。最初の木については、ガラスをしっかり固定し、自分の眼も固定する。そのガラスへ、木の形に重ねて木を描け。それから、実物の木が描いた木へほとんど接するまで、ガラスを横へずらせ。次に素描へ彩色し、色と形で両者が対応し、あるいは片眼を閉じると両方とも絵に見えるようにせよ。ガラスは同じ距離に保つ。百ブラッチャずつ先の第二、第三の木にも、同じ規則を順次用いよ。これらはつねに君の助け手、師となり、作品の適切なところで用いれば、作品をよく奥へ退かせる。しかし私は規則として、第二のものが第一から二十ブラッチャ離れているなら、第一より五分の四減退することを見いだす。

空気遠近法について

原刊で第258章に隣接する挿図(1890年版・印刷95頁)
原刊で第258章に隣接する挿図(1890年版・印刷95頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版
原刊で第258章に隣接する挿図(1890年版・印刷95頁)
原刊で第258章に隣接する挿図(1890年版・印刷95頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

もう一つの遠近法があり、私はそれを空気遠近法と呼ぶ。空気の違いによって、建ち上がる部分が一本の線で区切られた、さまざまな建物の異なる距離を知ることができるからである。たとえば壁の向こうに多くの建物が見え、すべてが壁の上端から同じ大きさで現れ、その一つを別のものより遠く見せたい場合、少し濃い空気を描くべきである。そのような空気のなかで、もっとも遠くに見える山々などは、眼と山の間に大量の空気があるため、太陽が東にあるときにはほとんど空気と同じ青色に見えることを、君は知っている。したがって壁の上の最初の建物は本来の色で描き、遠いものほど輪郭を弱め、青くせよ。さらに同じだけ遠くしたいものは、同じだけ青さを増し、五倍遠くしたいものは五倍青くせよ。この規則によって、一本の線の上にある建物は同じ大きさに見えながら、どれが遠く、どれがほかより大きいかが、明らかに知られるのである。

第三部 人間のさまざまな状態と運動、および身体各部の比例について

第3部の前付挿図(1890年版・印刷97頁)
第3部の前付挿図(1890年版・印刷97頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版
第3部の前付挿図(1890年版・印刷97頁)
第3部の前付挿図(1890年版・印刷97頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

四肢の運動と見る方向の違いによる人体寸法の変化について

人体の各部分の寸法は、その部分を多くまたは少なく曲げることや、見る方向の違いによって変化する。一方の側で長さが増したり減ったりするのに応じて、反対の側ではそれだけ減ったり増したりする。

出生から成長の終わりまでの人体寸法の変化について

人はごく幼いとき、肩幅が顔の長さに等しく、腕を伸ばしたときの肩から肘までの距離にも等しい。またそれは、肘を曲げたときの手の親指からその肘までの距離に等しく、陰茎の付け根から膝の中央までの距離に等しく、さらに膝関節から足の関節までの距離にも等しい。しかし身長が最終的な高さに達すると、上述の距離はいずれも長さが二倍になる。ただし顔の長さだけは例外で、頭全体の大きさとともに、ほとんど変化しない。そのため成長を終えた、よく釣り合いの取れた人の身長は、顔の長さの十倍となり、肩幅は顔の長さの二倍となる。上述のほかの長さも、同じく顔の長さの二倍である。残りについては、人体の一般的寸法を扱うところで述べる。

幼児の関節の太さが成人とは逆になっていることについて

幼い子供は皆、関節が細く、関節と関節の間の部分が太い。これは関節の上には皮膚だけがあり、そのほかには骨を取り巻いて結び合わせる筋すじの性質をもつ肉しかないのに対して、湿潤な肉の部分は、関節と関節の間で皮膚と骨のあいだに収まっているからである。しかし骨は関節間より関節部で太いため、人が成長すると、皮膚と骨のあいだにあった余分な肉が失われ、皮膚は骨により近づき、手足は細くなる。一方、関節の上には軟骨質・筋すじ質の皮膚しかないので、そこは乾いて痩せることができず、乾いて痩せなければ小さくならない。こうした理由から、幼児は関節では細く、関節と関節の間では太い。実際、指、腕、肩の関節は細く、くぼみがなだらかにつながっている。それに対して成人は、指、腕、脚のどの関節も太く、幼児ではくぼんでいるところが隆起している。

注 『筋すじの性質をもつ肉』『軟骨質・筋すじ質の皮膚』などは原文の歴史的な解剖観に従った。末尾の con cavi fusi は、くぼみが連続的になだらかに移るという意味に解した。

子供と成人の寸法の違いについて

成人と幼児では、ある関節から次の関節までの長さに大きな違いがある。成人では、肩の関節から肘まで、肘から親指の先まで、また一方の肩の上腕骨から他方までが、それぞれ頭二つ分あるのに対して、幼児では頭一つ分だからである。自然は、生命の精気の住まいより先に、知性の住まいの大きさを整えるのである。

注 知性の住まいは頭部、生命の精気の住まいは胴体を指す歴史的な比喩。

指の関節について

手の指は曲げると、どの方向から見ても関節が太くなる。曲げるほど太くなり、反対に指を伸ばすほど細くなる。足の指にも同じことが起こり、肉付きのよい指ほど変化が大きい。

肩関節と、その増大・縮小について

肩の関節や、ほかの曲げられる身体部分については、『解剖論』のしかるべき箇所で述べる。そこでは人体を構成するすべての部分の運動の原因が示される。

肩について

肩関節の屈曲によって生じる主要な単純運動とは、そこに付いている腕を上、下、前、後ろへ動かすことである。しかし、これらの運動は無限であるともいえる。肩を壁に向け、腕で円形を描けば、肩にできる運動をすべて行ったことになるからである。というのも、連続量はすべて無限に分割でき、この円は腕の運動によって作られた連続量であり、その運動も、連続して導かれなければ連続量を生じないからである。したがって、その腕の運動は円のあらゆる部分を通ったことになる。そして円は無限に分割できるので、肩の変化も無限にあったのである。

身体の一般的寸法について

私のいう身体の一般的寸法は、人物の長さについて守るべきものであって、太さについてではない。自然の働きに現れる称賛すべき驚異の一つは、どの種を取っても、その一個体が別の個体と厳密に同じ姿になることはないということである。したがって自然を模倣する君は、輪郭の多様さをよく見て心に留めなさい。脚が長すぎる、胴が短すぎる、胸が狭すぎる、腕が長すぎるといった異形を避けるのはよいことである。そこで関節間の寸法と太さを捉え、自然がどのようにそれらを変えているかに応じて、君も変化させなさい。もしそれでも同じ寸法に従って人物を作ろうとするなら、それらが互いに見分けられなくなると知るべきである。自然にはそのようなことは見られない。

人体の寸法と四肢の屈曲について

原刊で第267章に隣接する挿図(1890年版・印刷100頁)
原刊で第267章に隣接する挿図(1890年版・印刷100頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

画家には、身体を支える骨と、その上に載る肉の骨組み、そして曲げることで大きさを増減させる関節についての知識が不可欠である。そのため、伸ばした腕の寸法は、曲げた腕 c の寸法とは一致しない。腕は最大限に伸ばした状態と曲げた状態のあいだで、その長さの八分の一だけ伸び縮みする。腕が長くなったり短くなったりするのは、腕の関節から外へ突き出す骨による。図 ab に見るように、肘の角度が直角より小さいとき、この骨は肩から肘までを長くする。その角度が小さくなるほど長さは増し、角度が大きくなるほど長さは減る。肩から肘までの距離は、肘の曲がる角度が直角より小さくなるほど増し、直角より大きくなるほど減る。

身体各部の比例について

どの動物でも、すべての部分は全体に対応していなければならない。すなわち、丈が短く太いものは各部分も短く太く、丈が長く細いものは各部分も長く細く、中間のものは各部分も同じく中間であるべきである。これは植物についても同じ意味で述べている。ただし、人や風によって姿を損なわれていない植物に限る。そうした損傷を受けた植物では、老いた部分の上に若い部分が再び生じ、その自然な比例が壊されるからである。

手と腕の関節について

腕と手の関節は、手を握ると細くなり、手を開くと太くなる。肘と手のあいだの腕は、どの方向から見てもそれと反対になる。これは手を開くと、内側の筋肉が伸びて、肘と手のあいだの腕を細くするからである。手を握ると、内側と外側の筋肉が縮んで太くなるが、骨から離れるのは外側の筋肉だけである。それは手を曲げることによって引かれるためである。

注 domestici/silvestri はレオナルドの用語で、ここでは身体に対する内側/外側の筋肉として訳した。現代の筋分類と厳密に同一ではない。

足の関節と、その増大・縮小について

原刊で第270章に隣接する挿図(1890年版・印刷100頁)
原刊で第270章に隣接する挿図(1890年版・印刷100頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

足の関節が小さくなったり大きくなったりするのは、外側の部分 d e f の見え方においてだけである。この部分は関節の角度が鋭くなると大きくなり、鈍くなるほど小さくなる。すなわち、前側の関節 a c b について述べている。

注 silvestre は原文の身体方向の用語。d e f、a c b は図中の符号。

曲げると小さくなり、伸ばすと大きくなる身体部分について

曲げられる関節をもつ身体部分のうち、曲げると太さが減り、伸ばすと太くなるのは膝だけである。

曲げたとき関節が太くなる身体部分について

人体のすべての部分は、関節を曲げると太くなる。ただし脚の関節は例外である。

裸体の人の身体各部について

さまざまな動作で力を使っている裸体の人では、その動作で最も大きな負担を担っている部分だけに筋肉を明瞭に現しなさい。ほかの部分の筋肉も、そこで使われる力の大小に応じて、強く、あるいは弱く際立たせるべきである。

人体各部の力強い運動について

原刊で第274章に隣接する挿図(1890年版・印刷101頁)
原刊で第274章に隣接する挿図(1890年版・印刷101頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

腕が自然な位置から動いたあと、向かおうとする位置へ引き戻すために、ほかの身体部分からより強い助けを受けるなら、その腕の運動は一層強く、一層大きくなる。たとえば人物 a は腕を軌道 c に沿って動かし、全身を b のように動かすことで、腕を反対の位置へ運ぶ。

人体の運動について

原刊で第275章に隣接する挿図(1890年版・印刷101頁)
原刊で第275章に隣接する挿図(1890年版・印刷101頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

芸術の最も高く主要な部分は、どのような対象についても構成を考案することである。第二は動作にふさわしい運動であり、それは、怠惰な動きであれ敏速な動きであれ、動作する者の程度に応じた的確さをもって行われるべきである。そして猛々しい動作の勢いは、それを行う者に求められる最高の程度に達していなければならない。たとえば投げ槍、石、そのほか同様の物を投げようとする者なら、その人物に、その動作に向けた最大限の構えを示させなさい。ここに、運動を実行する姿と力を備える姿の二つの人物像がある。力を備えた第一の姿が a、第二が運動中の b である。しかし a のほうが b よりも遠くへ物を投げられる。両者とも同じ方向へ重い物を投げようとしているが、a は両足をその方向へ向けているので、体をひねって逆の方向へ離れ、力を蓄える構えを作ってから、重い物を手から放す位置へ、速く容易に戻れるからである。これに対して b は、足先を投げたい方向と反対に向けているため、目指す方向へ非常に無理をして体をひねらねばならず、その結果、働きは弱くなる。運動はその原因の性質を受け継ぐのである。どの運動でも、力を準備するには強くひねり、強く曲げることが必要であり、戻るときは楽に容易に戻るべきである。そうしてこそ動作はよい結果を生む。強い張力を備えていない弩では、そこから放たれる物体の運動は短いか、まったく生じない。強制された状態の解消がないところには運動がなく、強制された状態そのものがなければ、それを解消することもできないからである。そのため弓は、張力を得なければ物を動かせず、張力を得ている最中にはそれを放出しない。同じように、体をひねりも曲げもしない人は、力を蓄えていない。したがって、その人が投げ槍を投げ終わると、投げた方向に体がねじれて弱い状態になり、そこで得た力は、反対方向へ戻るためにしか役立たない。

注 原文の violenza はここでは、弓を引く場合などの強制された変形・緊張を含む力学的な用語として訳した。valetudine はこの文脈では力を備えた状態と解した。

身体各部の姿勢と運動について

同じ人物の身体各部、手、指に、同じ動きを繰り返してはならない。また一つの物語画で同じ姿勢を繰り返してもならない。兵士の戦いや殺し合いのように、物語画が非常に大きい場合を考えよう。打撃には突き、逆手の斬撃、振り下ろす斬撃の三つの型しかない。この場合、振り下ろす斬撃をすべて違った方向から見せる工夫が必要である。ある者は背を向け、ある者は横を向き、ある者は正面を向くようにする。この三つの運動をほかの角度から見たものも、これら三つの単純な動きに関与することになる。そのため、ほかのすべての動きも、このいずれかに属するものと呼ぼう。しかし戦闘場面では、複合した動きこそ、非常に巧妙で、生き生きした運動を生む。複合した動きとは、一人の人物が脚を正面から見せると同時に、肩の一部を横から見せるようなものである。こうした複合した姿については別のところで述べる。

身体各部の関節について

身体の関節とそのさまざまな曲がり方については、一方の側で肉が増し、他方の側で減る様子を考察しなければならない。このことは動物の首で調べるとよい。首の運動には三種類あり、二つは単純で、一つは両方の単純運動に関与する複合運動だからである。単純運動の一つは、首を左右いずれかの肩へ曲げるとき、またはその上に載る頭を上げ下げするときの運動である。第二は、首を曲げずに右や左へねじるときの運動で、首はまっすぐのまま、顔だけが片方の肩へ向く。第三の、複合運動と呼ばれるものは、曲げる動きにねじる動きが加わるときである。たとえば耳を片方の肩へ傾けながら顔も同じ側へ向ける場合や、反対の肩へ傾けて顔を空へ向ける場合がそれに当たる。

人体の各部の構成について

自分自身の身体各部の比例を測り、どこかに不調和な部分を見つけたら記録しなさい。そして自分が作る人物像にそれを用いないよう、十分に注意しなさい。自分に似たものを作るのは、画家に共通する欠点だからである。

身体各部について

身体のすべての部分には、それぞれ与えられた働きをさせなさい。死者や眠る者では、どの部分も生きていたり目覚めていたりするように見せてはならない。人の重みを受ける足は押しつぶされたようになり、足指を遊ばせていてはならない。ただし踵だけで立っている場合は別である。

動物の身体各部の構成について

動物の身体各部は、その性質にふさわしく作りなさい。華奢な者の脚や腕、そのほかの部分を写して、それを胸や首の太い者に取り付けてはならない、ということである。また若い者の部分と老人の部分を混ぜてはならず、強健で筋肉質な部分と、繊細で弱々しい部分を混ぜてはならず、雄の部分と雌の部分を混ぜてもならない。

顔の各部分の動きについて

心の状態によって生じる顔の各部分の動きは数多い。その主なものは、笑う、泣く、叫ぶ、さまざまな高い声や低い声で歌うこと、驚き、怒り、喜び、憂い、恐れ、苦痛にさいなまれる痛みなどであり、これらについて述べよう。まず笑いと泣くことから始める。両者は口、頬、目の閉じ方が非常によく似ていて、異なるのは眉とその間隔だけである。こうしたことはすべて、しかるべき箇所で述べる。すなわち、それぞれの心の状態によって、顔、手、全身がどのような変化を示すかということである。画家である君には、その知識が必要であり、さもなければ君の芸術は、身体を実際に二重に死んだものとして示してしまうだろう。また注意しておくが、動きをあまりに激しく、騒々しくしてはならない。平和な場面が、戦闘や酔った者のモレスカ踊りに見えてしまうからである。とりわけ、その物語画の主題となる出来事を取り巻く人々は、それに注意を向け、その出来事に応じて、驚き、敬意、悲しみ、疑い、恐れ、喜びを示す仕草をしていなければならない。人物たちの集まりや集合は、その出来事のために構成されているのである。また同じ壁に、異なる地平線をもつ物語画を上下に並べ、四角く仕切った小箱を置く小間物屋のように見せてはならない。

人の顔の動きについて

心の状態は人の顔をさまざまに動かす。笑う者、泣く者、喜ぶ者、悲しむ者、怒りを示す者、憐れみを示す者、驚く者、おびえる者、ぼんやりした様子の者、考え込み思索する者がいる。こうした心の状態においては、手も顔に伴い、全身も同じように伴わなければならない。

顔つきの性質について

多くの画家が行っているように、顔をみな同じ顔つきにしてはならない。年齢、体質、また邪悪な性格か善良な性格かに応じて、さまざまな顔つきを作りなさい。

身体の部分と容貌の描写について

原刊で第284章に隣接する挿図(1890年版・印刷104頁)
原刊で第284章に隣接する挿図(1890年版・印刷104頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

鼻の隆起を間に挟む上下の部分には、八通りの変化がある。第一は、両方が等しくまっすぐ、等しくくぼむ、または等しく膨らむ場合。第二は、まっすぐさ、くぼみ、膨らみの程度が上下で異なる場合。第三は、上がまっすぐで下がくぼむ場合。第四は、上がまっすぐで下が膨らむ場合。第五は、上がくぼみ下がまっすぐな場合。第六は、上がくぼみ下が膨らむ場合。第七は、上が膨らみ下がまっすぐな場合。第八は、上が膨らみ下がくぼむ場合である。

鼻が眉につながるところには二種類あり、くぼんでいる場合と、まっすぐな場合である。

額には、平ら、くぼむ、膨らむという三つの変化がある。平らなものは二つの部分に分けられる。すなわち上部が膨らむもの、下部が膨らむもの、あるいは上下とも膨らむもの、または上下とも平らなものである。

注 額の分類は原文で『二つの部分』と述べた後に四つの場合を列挙している。その不整合を修正せず訳した。

一度見ただけで人の横顔を描くことについて

原刊で第285章に隣接する挿図(1890年版・印刷105頁)
原刊で第285章に隣接する挿図(1890年版・印刷105頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版
原刊で第285章に隣接する挿図(1890年版・印刷105頁)
原刊で第285章に隣接する挿図(1890年版・印刷105頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

この場合、横顔の四つの異なる部分、すなわち鼻、口、顎、額の変化を記憶しておく必要がある。まず鼻について述べよう。鼻には、まっすぐなもの、くぼんだもの、膨らんだものの三種類がある。まっすぐな鼻には四つの変化しかない。長いもの、短いもの、鼻先の高いもの、低いものである。くぼんだ鼻には三種類あり、上部がくぼむもの、中央がくぼむもの、下部がくぼむものである。膨らんだ鼻にも三つの変化があり、隆起が上部にあるもの、中央にあるもの、下部にあるものである。その隆起を間に挟む突出部にも三通りあり、まっすぐなもの、くぼんだもの、膨らんだものである。

顔の形を記憶する方法

顔つきを容易に記憶できるようになりたいなら、まず多くの頭、目、鼻、口、顎、喉、首、肩を記憶しなさい。たとえば鼻には十種類ある。まっすぐな鼻、こぶのある鼻、くぼんだ鼻、隆起が中央より上にある鼻と下にある鼻、鷲鼻、均一な鼻、反り上がった鼻、丸い鼻、尖った鼻である。これは横顔について役立つ分類である。正面から見ると、鼻には十一種類ある。幅が均一なもの、中央が太いもの、中央が細いもの、鼻先が太く付け根が細いもの、鼻先が細く付け根が太いもの、鼻孔が広いものと狭いもの、高いものと低いもの、鼻孔が見えるものと鼻先に隠れるもの、である。ほかの細部にも同じように違いが見つかる。それらを実物から写し、記憶しておかなければならない。あるいは、記憶に基づいて顔を描くときには、そのような形を記した小さな帳面を携え、描きたい人物の顔を一目見たあと、どの鼻や口がその人に似ているかを、あとで人目を離れて帳面で調べなさい。そして小さな印を付け、帰宅してから見分け、組み合わせるのである。異様な顔については述べない。それらは苦もなく記憶できるからである。

顔の美しさについて

筋肉を硬い輪郭で区切ってはならない。柔らかな明るみを、感じ取れないほどなだらかに、心地よい美しい陰の中へ消え入らせなさい。そこから優雅さと美しさが生まれる。

人相術と手相術について

誤った人相術や手相術については詳しく述べない。そこに真実はないからである。こうした空想には科学的な基礎がなく、そのことは明らかである。もっとも、顔に現れるしるしが、人の性質、欠点、体質をある程度示すのは確かである。陽気でよく笑う人では、頬と唇、小鼻、眼窩を区切る顔の線が明瞭であり、それらの線がほとんどない者は、思考を仕事とする人である。顔の各部の起伏が非常に大きい者は、獣のようで怒りっぽく、理性に乏しい。眉間の線が強く現れる者は怒りっぽく、額の横皺が深い者は、人知れずにも人前でも嘆くことの多い人である。多くの部分について同じように述べられる。しかし手についていえば、同じ時刻に刃によって殺された大軍の中でも、手のしるしは一人として同じではなかったことが分かるだろう。難船の場合も同じである。

注 顔立ちから性格を推測する記述は当時の著者の見解を訳したもので、科学的に確立した判断基準ではない。

身体各部の表し方について

力を使っている部分は筋肉質にし、使っていない部分は筋肉を際立たせず、柔らかく描きなさい。

人物の身振りについて

人物が心の中に何を抱いているかを十分に示せるような身振りで、その人物を描きなさい。そうしなければ、君の芸術は称賛に値しない。

姿勢について

喉のくぼみから垂線を下ろすと、足の上に落ちる。片腕を前へ突き出すと、喉のくぼみの垂線はその足から外れる。脚を後ろへ出すと、喉のくぼみは前へ移る。このように、姿勢が変わるたびに位置も変わる。

人物を描くとき、その身体各部の動きをふさわしいものにすることについて

人物の心にあると想定された状態に、その動きが伴っていないなら、その姿は、手足が人物自身の判断に従っていないこと、そして制作者の判断力が乏しいことを示している。

描かれた人物のすべての動きは、働きを示すように作られなければならない

人物の心の状態にふさわしいと想定された動きは、非常に的確に作られ、その人物に強い感情と熱意を示さなければならない。そうしなければ、その人物は二度死んでいるといわれるだろう。一度は描かれたものだから死んでおり、もう一度は、心にも身体にも動きを示さないために死んでいるのである。

動作する者の心の動きを示す、ふさわしい動きについて

人物の動きや姿勢は、その動きを行う者の固有の心の状態を、それ以外の何をも意味しえないように示さなければならない。

さまざまな年齢の人にふさわしい動きについて

ふさわしい動きの敏捷さと威厳は、その動作を行う者の年齢、健壮さ、身分に応じて増減する。すなわち老人や子供の動きは、成長した青年ほど敏捷ではない。また王やほかの高い地位にある者の動きは、荷運び人や身分の低い者の動きよりも、重々しく、敬意を抱かせるものでなければならない。

人とほかの動物の運動について

同じ出来事に際する人の動きは、それ自体に無限の変化をもつ。次のように証明される。ある人が何かを打つとしよう。この打撃には二つの状態がある。打撃を生じさせるために振り下ろす物を持ち上げているか、あるいはそれを下へ動かしているかである。どちらの場合でも、運動が空間の中で行われ、その空間が連続量であり、すべての連続量が無限に分割できることは否定できない。したがって、下降する物のどの運動にも、無限の変化があるという結論になる。

さまざまな位置から見た同じ動作について

同じ姿勢でも、無限に異なるものとして現れる。それは無限に多くの場所から見られ、それらの場所が連続量をなし、連続量は無限に分割できるからである。したがって、人のどの動作も、無限に多様な位置から、それ自体を異なるものとして示すのである。

裸体の身体構成とその動作について

裸体の身体各部では、その部分が使う力の大小に応じて、筋肉の現れ方を強く、あるいは弱くしなければならない。

動物の姿勢に応じて各部の筋肉を現し、また隠すことについて

画家である君に注意しておく。人物が行っていると想定する動きでは、その人物の運動と動作に使われている筋肉だけを現しなさい。その場合に最もよく使われる筋肉を最も明瞭にし、あまり使われないものはあまり際立たせず、まったく使われないものは緩く柔らかく、ほとんど目立たないままにしなさい。そのため、筋肉、腱、骨の解剖を理解するよう勧める。この知識がなければ、できることは少ない。また実物を写すとしても、選んだモデルには、君がさせたい動作に適した筋肉が欠けているかもしれない。いつも優れた裸体モデルを使えるわけではなく、いつも写生できるわけでもない。このような変化を実践的に習得し、記憶しておくほうが、君にはよく、また有益である。

人とほかの動物の運動について

動物の運動には二種類ある。場所を移る運動と、動作の運動である。場所を移る運動とは動物がある場所から別の場所へ移ることであり、動作の運動とは場所を変えずに自分自身の中で行う運動である。場所を移る運動には三種類あり、上る、下る、平地を進むことである。この三つに、遅いものと速いものの二つ、まっすぐなものと曲がりくねったものの二つ、さらに跳ぶことが加わる。一方、動作の運動は無限であり、人がしばしば自分を損ないながら求める無限の仕事とともにある。運動には三種類ある。場所の移動、単純な動作、そして第三に、動作と場所の移動を組み合わせた運動である。遅さと速さは、場所の移動そのものの種類に数えるべきではなく、その運動の付随的な性質に数えるべきである。複合運動は無限にある。踊る、剣を使う、曲芸をする、種をまく、耕す、櫂を漕ぐなどがそこに含まれる。しかし櫂を漕ぐことは単純な動作に属する。漕ぐ人の動作が場所の移動と結びつくのは、人の運動によってではなく、舟の運動によってだからである。

注 原文では途中で分類が言い直され、漕ぐ運動についても訂正が加わる。その論述順を保持した。

人とほかの動物の移動と走行について

人やほかの動物が速く、または遅く動くとき、身体を支えている脚の上にある側は、必ず反対側より低くなる。

動作中の人の左右の肩の高さの差が大きくなる場合

人やほかの動物の肩、あるいは身体の左右は、全体の運動が遅いほど、高さの差が大きくなる。逆も成り立ち、全体の運動が速いほど、それらの部分の高さの差は小さくなる。これは場所の運動についての第九命題によって証明される。そこでは、すべての重い物はその運動の線に沿って重みを及ぼす、と述べている。したがって全体がある場所へ動くとき、それに結びつく部分は、全体の運動の最短の線に従い、全体の左右の部分に自らの重みを加えないのである。

反論への答え

原刊で第303章に隣接する挿図(1890年版・印刷109頁)
原刊で第303章に隣接する挿図(1890年版・印刷109頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

反対者は上の第一の点について、立ち止まっている人やゆっくり歩く人が、全体の重さを支える重心の上に、つねに上述のように身体各部を釣り合わせる必要はないという。人はしばしばその規則を用いず、守りもせず、むしろまったく反対のことをするからである。すなわち片足で立ちながら体を横へ傾けることもあれば、二つの図 b、c に示すように、まっすぐでない脚、つまり膝を曲げた脚に、重さの一部を預けることもある。これに対して答える。図 c で肩が行っていないことは、腰が行っているのである。これはしかるべきところで示す。

曲げた腕を伸ばすと、人の全体の釣り合いが元の状態から変わることについて

曲げていた腕を伸ばすと、全体を支える足の上で、人の全身の釣り合いが変化する。このことは、棒を使わず、両腕を広げて綱を渡る者に見られる。

ゆっくり動く人やほかの動物では、重心が支持部の中心からあまり離れないことについて

動物は動きが遅いほど、身体を支える脚の中心が、重心から下ろした垂線に近くなる。逆に、運動が速いほど、支持部の中心は重心の垂線から遠ざかる。

肩に荷を担ぐ人について

原刊で第306章に隣接する挿図(1890年版・印刷110頁)
原刊で第306章に隣接する挿図(1890年版・印刷110頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

荷を支えている肩は、つねに荷のない肩より高い。このことは欄外の図に示されている。人と、その人が運ぶ荷の全重量の中心線が、この図を通っている。もしこの合成された重量が、地面に着く脚の中心の上で左右等しく分配されていなければ、全体は必然的に倒れてしまう。しかし必然性は、反対側に加わった外来の荷重と同じだけ、人自身の自然な重さを一方の側へ移すようにする。このことは、人が軽い側へ身を曲げて下げ、担ぐ荷の重みに関与するほど十分に傾かなければできない。またそれは、荷のある肩を上げ、軽い肩を下げなければできない。この動作において、巧みな必然性が見つけた手段がこれなのである。

両足の上での人体の釣り合いについて

片脚だけで立つ人の重さは、つねに、それを支える重心の上で、反対側同士に等しい部分として分配される。

動いている人について

動いている人の重心は、地面に着いている脚の中心の上にある。

脚で静止している動物の重さの釣り合いについて

原刊で第309章に隣接する挿図(1890年版・印刷110頁)
原刊で第309章に隣接する挿図(1890年版・印刷110頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

足で立つ動物が動かないのは、足の上で支えられる、互いに反対側の重さのあいだに、不均衡がないためである。

人の屈曲と回転について

人が片側へ曲がるとき、その側が短くなるだけ、反対側は長くなる。そして限界まで曲げると、曲がった側は伸びた側の半分になる。このことについては、特に別の論考を設ける。

屈曲について

原刊で第311章に隣接する挿図(1890年版・印刷111頁)
原刊で第311章に隣接する挿図(1890年版・印刷111頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

曲げられる身体部分では、一方の側が長くなる分だけ、反対側が短くなる。曲げられる部分であっても、曲がらない側の外面の中央線は、長さを増減することがない。

重量の釣り合いについて

身体の外、しかもその大きさの中心線から外れたところで重さを支える人物は、つねに自然の重さ、あるいは外から加わる重さを反対側へ十分に移し、中心線のまわりで重量を釣り合わせなければならない。この中心線は、地面に着く足の部分の中心から始まり、その足の部分の上に載る重量全体を通る。片腕で荷を取る者が、当然のように反対の腕を身体から外へ出すのが見られる。それだけで釣り合わなければ、体を曲げて自分自身の重さをさらにその側へ差し出し、加わった荷重に抵抗するのに十分な量にする。また左右いずれかへ倒れようとする者が、つねに反対側へ腕を突き出すことも見られる。

人体の運動について

人が重い物を動かしている姿を描くときには、運動がさまざまな線に沿って行われることを考慮しなさい。下へ、あるいは上へ向かう単純な運動もある。たとえば、身をかがめて荷を取り、体を起こして持ち上げようとする者の動きである。また物を後ろへ引きずろうとする場合、前へ押そうとする場合、滑車を通した綱で下へ引こうとする場合もある。ここで覚えておくべきなのは、人自身の重さによる引く力は、その重心が支持部の中心から外れるほど増す、ということである。さらに、曲げた脚と背を起こすときの力が加わる。

しかし、下るときも上るときも、またどの方向へ歩くときも、後ろの足の踵を上げずに進むことはない。

釣り合いの破れによって生じる運動について

運動は釣り合いが破れること、すなわち不均衡によって生じる。何ものも、自らの釣り合いを外れずには、自ら動くことがないからである。そしてその釣り合いから遠く離れるほど、運動は速くなる。

人物の釣り合いについて

原刊で第315章に隣接する挿図(1890年版・印刷112頁)
原刊で第315章に隣接する挿図(1890年版・印刷112頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

人物が片足で立つ場合、体を支えている側の肩はつねに反対側より低くなり、喉のくぼみは支えている脚の中央の上に来る。その人物をどの方向から見ても同じである。ただし、腕を身体から大きく突き出さず、背、手、肩に荷を負わず、体を支えていない脚を前後へ突き出していない場合である。

注 腕についての原文 senza braccia sportanti non molto fuori della figura は否定の重なりが不自然なため、前後の条件に合わせて、腕を大きく突き出していない姿勢と解した。

身体各部の優雅さについて

手足と胴体は、その人物に行わせたい動作にかなうよう、優雅に配置されなければならない。優美さを示す人物を描きたいなら、手足を繊細で伸びやかにし、筋肉をあまり多く現してはならない。目的に応じて現す少数の筋肉も、柔らかく、つまりあまり目立たないものにし、陰を濃くしすぎないこと。また身体各部、とりわけ腕は、関節でしなやかに曲げなさい。つまり一つの部分が、それに続く部分と一直線にならないようにするのである。人の支点となる腰が、立ち方のために右側のほうが左側より高くなっているなら、その上の肩関節からの垂線が、腰の最も張り出したところに落ちるようにし、右肩を左肩より低くする。そして喉のくぼみは、つねに体を支える足の上側の関節の中央の上にあるようにし、支えていない脚の膝は、もう一方の膝より低く、もう一方の脚の近くに置く。

頭と腕の姿勢は無限にあるので、それらについて規則を詳しく述べることはしない。ただし、さまざまなひねりを加えながら、無理なく心地よいものにし、与えられた関節を頭の中でつなぎ合わせ、木片のように見えないようにしなさい、とだけ述べておく。

注 第二段落の di unire con le menti は文意が不鮮明で、関節どうしの連結を意識して構成することと解した。

身体各部の無理のない動きについて

身体各部の無理のない動きについては、ある出来事のために後ろや横を振り向く人を描くとき、頭の向く方向へ足も手足もすべて動かしてしまわないように注意しなさい。むしろその回転を、足、膝、腰、首という四つの関節に分けて行わせるのである。右脚で立つなら、左の膝を後ろへ曲げ、左足を少し外側へ持ち上げ、左肩を右肩より少し低くし、うなじは左足の外くるぶしと同じ方向を向くようにする。また左肩は、垂直線上で右足の先の上に来るようにする。人物が頭を向ける方向へ、胸まで向けることは、つねに避けなさい。自然は、目がさまざまな場所へ向こうとするとき、容易に違う方向に応じられるよう、私たちの便宜のために首を作ったのであり、ほかの関節もある程度これに従うからである。また座っている人が、横にある何かを扱うために腕を使う姿を描くなら、腰の関節の上で胸を回転させなさい。

物語画に属さない、単独の人物について

一人だけでいると想定した人物でも、身体の各部に同じ動きを繰り返させてはならない。たとえば単独で走っている人物なら、両手を前へ出さず、一方を前、他方を後ろにしなさい。そうでなければ走れないからである。右足が前なら、右腕は後ろ、左腕は前にする。この配置でなければ、うまく走れない。また鋸を使っている人物を描くなら、片脚をやや前へ出させ、もう一方は頭の下に戻し、上側の腕はそれと逆に動いて前へ進むようにしなさい。これらについては『運動の書』で詳しく述べる。

人物を描くうえで主要な重要事項は何か

動物を描くうえで求められる主要な重要事項には、頭を肩の上に、胴を腰の上に、腰と肩を足の上に、適切に据えることがある。

身体の重心のまわりで重量を釣り合わせることについて

足で体を支え、動かずにいる人物は、支持部の中心のまわりで、互いに反対側へ等しい重さを配分する。すなわち、人物が足で立って動かず、片腕を胸の前へ突き出すなら、自分自身の重さと外から加わる重さを前へ出した分だけ、自分自身の重さを後ろへ移さなければならない。通常よりも身体全体から外へ突き出す、どの部分についても同じことがいえる。

重い物を扱い、また運ぶ人物について

人が荷を持ち上げたり運んだりするときは、持ち上げようとする荷よりも大きい重さを自分の身体から移し、荷を上げる側とは反対の側へ持っていかなければならない。

人の姿勢について

人の姿勢と身体各部は、それらによって心の意図が示されるように配置しなさい。

姿勢の多様さ

人の身振りは年齢と身分に応じて表し、また種類、すなわち男性と女性の違いに応じて変化させなさい。

人物の姿勢について

画家は、人に何かが起こった直後に生じる姿勢や動きを観察し、記録するか記憶しなければならない。本当に泣く大きな理由もない者に試しに泣く仕草をさせ、それを写すようなことをしてはならない。真実の出来事から生まれない仕草は、的確でも自然でもないからである。ただし、先に実際の出来事から観察しておき、そのあとで人に同じ姿勢を取らせ、目的にかなう部分を調べたり写したりするのは、非常によいことである。

注目すべき出来事への、周囲の人々の注意について

記すに値する出来事を取り巻く人々は、司法が犯罪者を罰するときのように、さまざまな驚きの身振りで、その出来事を見つめる。出来事が信仰に関わるものであれば、ミサの奉献で聖体を掲げるときなどのように、周囲の者は皆、さまざまな信心の身振りを取り、その出来事へ目を向けるべきである。笑いや涙を誘う出来事であれば、周囲の者全員がそこへ目を向ける必要はない。さまざまに動き、その多くが共に喜んだり悲しんだりするようにする。恐ろしい出来事であれば、逃げる者たちのおびえた顔に、恐怖と逃走をさまざまな動きによって強く示させなさい。これについては『運動』第四巻で述べる。

裸体の性質について

細身の人物に、あまりに大きく盛り上がった筋肉を付けてはならない。細身の人は骨の上に肉が多く付いておらず、肉が乏しいから細いのである。肉の少ないところでは、筋肉が太くなることもできない。

筋肉が短く太くなることについて

筋肉質の者は骨が太く、体が太く背が低く、脂肪が乏しい。筋肉の肉質部分が成長するにつれて互いに密集し、通常その間に入る脂肪の場所がなくなるからである。このような脂肪の少ない人の筋肉は、互いに密接に接して広がれないので、厚みを増す。そして両端から最も離れた部分、すなわち幅と長さの中央に向かうほど、厚みが増すのである。

肥満した人の筋肉が太くないことについて

肥満した人は、前に述べた筋肉質の人と同じく背が低く体が太いことがあっても、筋肉は細い。その皮膚は、海綿状で空隙が多い、つまり空気に満ちた多量の脂肪を包んでいるのである。そのため肥満した人は、皮膚の内部が充実していて空気の量が少ない筋肉質の人より、水面に浮かびやすい。

注 脂肪が空気を含むという説明は、原文の歴史的な説をそのまま訳した。

人のさまざまな動きによって見えなくなる筋肉はどれか

腕を上げ下げすると、胸の膨らみが消えたり、いっそう盛り上がったりする。腰の隆起も、腰を外や内へ曲げるときに同じように変わる。肩、腰、首は、ほかのどの関節よりも多くの変化を示す。それらの運動が最も多様だからである。このことについては、特に一冊の書を設ける。

筋肉について

若者の身体各部には、筋肉を強く際立たせてはならない。それは年齢を重ねた力のしるしであり、若い者には、その年齢も成熟した力もまだないからである。身体各部の起伏は、それが使う力の大小に応じて、明瞭に、あるいは控えめに表しなさい。より大きな負担を担う部分の筋肉ほど、つねに明瞭になる。負担の小さい部分の筋肉は、彫りが浅くなる。曲げられた身体部分の内側の中央線は、決して自然な長さのままではない。強い者には、太く広い筋肉を与え、その身体各部もそのような構成にふさわしくしなさい。

大きな力を使っていない人物に、すべての筋肉を現してはならないこと

人物のすべての筋肉を明瞭に描こうとしてはならない。筋肉が所定の場所にあっても、それがある身体部分に強い力や負担がかかっていなければ、大きく際立つことはないからである。使われていない部分には筋肉を現してはならない。そうしなければ、君が模倣したものは人の姿というより、胡桃の詰まった袋になるだろう。

動物の筋肉について

原刊で第332章に隣接する挿図(1890年版・印刷116頁)
原刊で第332章に隣接する挿図(1890年版・印刷116頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

筋肉のあいだのくぼみを、接して置かれた二本の棒を皮膚が覆っているように描いてはならない。また二本の棒が少し離れ、皮膚が f のように長く湾曲して、空中に垂れているように描いてもならない。そうではなく i のように、角のあいだにある海綿状の脂肪の上に皮膚が載るようにする。たとえば角 m n o は、筋肉どうしの接触が終わるところに生じる角である。皮膚はその角の奥まで入り込めないため、自然はそこを少量の海綿状の脂肪で満たしている。あるいは、空気で満ちた細かな小胞をもつ、胞状の脂肪といってもよい。この空気は、筋肉の実質が増したり疎になったりするのに応じて、それ自体が圧縮されたり膨張したりする。

注 脂肪の内部の空気については、原文の歴史的な組織観を保持した。

すべての筋肉を強く際立たせた裸体は、動かないものになること

すべての筋肉を強く際立たせて描いた裸体は、動かないものになる。反対側の筋肉が引くときに、一部の筋肉が緩まなければ、身体は動けないからである。緩んだ筋肉は目立たなくなり、引いている筋肉は強く現れ、明瞭になる。

裸体像の筋肉をすべて細かく描き尽くしてはならないこと

裸体像では、すべての筋肉を一つ残らず細かく描き尽くしてはならない。そうすると硬く、優雅さを失うからである。人体のすべての筋肉を理解したうえで、人がその部分に力を使っていないところでは、控えめに表さなければならない。最も力を使っている部分が、最もはっきりと筋肉を示すことになる。その部分が動作へ向かう側では、同じ側の筋肉がいっそう頻繁に際立つ。筋肉そのものも、動作によってその細部をしばしば現し、それらは動作がなかったときには見えていなかったものである。

脂肪の付く人は、最初の青年期を過ぎると大いに力を増すこと

脂肪の付く人は、最初の青年期を過ぎると大いに力を増す。皮膚がつねに筋肉の上で張っているからである。ただし、その人々の動作はあまり巧みでも敏捷でもない。こうして皮膚が張っているので、全身の各部に行き渡る大きな力をもつのである。このことから、そうした皮膚の状態を備えない者は、手足に衣服をきつく着けたり、さまざまな帯で締めたりして補う。筋肉が収縮するときに、押し当てて支えにするものを得るためである。しかし肥満した人が痩せると、力は大きく弱まる。しぼんだ皮膚がたるんで皺になり、筋肉が支えを見いだせなくなるので、収縮して硬くなることができず、力が小さくなるからである。病気によって一度もしぼんだことのない適度な脂肪は、筋肉の上で皮膚を張らせ、そのような身体の表面には起伏がほとんど現れない。

注 皮膚の張りと筋力の関係は著者の歴史的な説明を訳したものである。

自然は、身体各部の必要が許すかぎり動物の骨を隠そうとすること

自然は、身体各部の必要が許すかぎり、動物の骨を隠そうとする。そして身体によって、その働きの程度は異なる。妨げられる身体よりも、妨げられない身体において、いっそうよくそれを行う。したがって、太く肥大するはずでない身体がその身長に達する青春の盛りには、皮膚はできるかぎり張り、伸びている。その後、身体各部の動作によって、関節の曲がるところの皮膚が伸びるので、手足を伸ばしたときには、関節の上で増えた皮膚に皺が寄る。さらに年を重ねると筋肉が細くなり、それを覆う皮膚は余って皺で満たされ、筋肉と皮膚のあいだに入る体液のため、垂れ下がって筋肉から離れる。皮膚を筋肉と結び、感覚を与える神経の枝も、それを包んでいた筋肉部分を失い、筋肉の代わりに悪い体液に取り巻かれる。そのため栄養が悪く、不十分になる。こうして、その結びつきは、皮膚の絶え間ない重さと大量の体液によって引き延ばされ、皮膚を筋肉や骨から遠ざけ、ひだと皺で満ちたさまざまな袋を作るのである。

注 老化を体液などで説明する当時の考えを保持した。inabbondantemente は文脈上『不十分に』と解した。

画家に解剖の知識が必要であること

画家が裸体に可能な姿勢や身振りを、身体各部を適切に構成して描くためには、筋すじ、骨、筋肉、筋束の解剖を知る必要がある。さまざまな動きや力の働きにおいて、どの筋すじや筋肉がその運動の原因となるのかを知り、それらだけを明瞭にし、太く表すためである。ほかの筋肉まで至るところに際立たせてはならない。多くの者は優れた素描家に見せかけようとして、裸体を木のように硬く、優雅さのないものにする。その結果、人の身体の表面より胡桃の袋に、あるいは筋肉質の裸体より大根の束に見えるのである。

筋肉の伸長と短縮について

太腿の後ろの筋肉は、人体のどの筋肉よりも、伸びたり縮んだりするときの変化が大きい。第二は臀部を作る筋肉、第三は背の筋肉、第四は喉の筋肉、第五は肩の筋肉、第六は腹の筋肉である。この最後のものは『ザクロ』と呼ぶ部分の下に始まり、恥部で終わる。それぞれについて述べることにする。

注 pomo granato は著者の解剖学的呼称を直訳して保持した。本文は腹直筋に相当する領域を述べるが、この呼称の指す部位は本訳では断定しない。

人体で筋肉を伴わない腱がある場所について

腕が手のひらに接するところから約四指幅の位置に、人体で最も大きな腱がある。これは筋肉を伴わず、前腕の一方の骨の中央に始まり、他方の骨の中央に終わる。形は四角く、幅は約三指幅、厚さは半指幅である。その役目は、この二本の前腕骨を互いにしっかり結びつけ、開かないようにすることだけである。

注 corda は原文の用語に従い『腱』としたが、記述する構造を現代解剖学の特定組織に断定していない。fucili は前腕の二骨。

人体のさまざまな関節で腱の中に生じる八つの小骨について

人体の関節には、いくつかの関節を結ぶ腱の中央に固定された小さな骨が生じる。膝の皿や、肩、足の部分にあるもので、全部で八つである。肩ごとに一つ、膝ごとに一つ、また各足の親指の第一関節の下、踵寄りに二つずつある。これらは人が老いるにつれて非常に硬くなる。

注 小骨の個数と分布は原文の記述をそのまま保持した。

『ザクロ』と恥部のあいだにある筋肉について

『ザクロ』と呼ぶ部分の近くに始まり、恥部に終わる筋肉がある。この筋肉は三つの力をもつ。長さに沿って三つの腱で区切られているからである。まず上の筋肉があり、次にその筋肉と同じ幅の腱があり、その下に第二の筋肉が続き、それに第二の腱がつながる。最後に第三の筋肉と第三の腱が続き、その腱が恥骨につながる。三つの筋肉と三つの腱という、この三段の繰り返しを自然が作ったのは、人がこの筋肉によって身を曲げ伸ばしするとき、大きく動くからである。もし一続きであれば、身体の屈伸に際して、筋肉が伸びたり縮んだりする変化が大きくなりすぎる。動作中、この筋肉の変化が小さいほうが、人体はより美しくなる。もし筋肉が九指幅伸び、そのあと同じだけ縮まなければならないとしても、筋肉が三つあれば、それぞれ三指幅ずつで済み、形の変化は小さく、身体の美しさをあまり損なわないのである。

注 pomo granato は原文の呼称を直訳した。第338章の注を参照。

人が後ろを見るときにできる最大のひねりについて

原刊で第342章に隣接する挿図(1890年版・印刷119頁)
原刊で第342章に隣接する挿図(1890年版・印刷119頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

人が最大限に体をひねると、踵と顔とを、ともに正面から見せることになる。しかし、脚を曲げ、うなじが向く側の肩を下げなければ、これは容易にはできない。このひねりの原因と、どの筋肉が最初に、どの筋肉が最後に動くかは、解剖についての論考で示す。

背中で両腕をどこまで近づけられるか

原刊で第343章に隣接する挿図(1890年版・印刷119頁)
原刊で第343章に隣接する挿図(1890年版・印刷119頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

両腕を背中へ回した場合、最も長い指が反対の腕の肘を越えるほどまで、肘どうしを近づけることはできない。すなわち、腰の後ろで両肘が最も近づいたときの間隔は、肘から手の最も長い指の先までの長さに等しい。この両腕は完全な正方形を作る。

胸の上で両腕をどこまで交差させ、肘を胸の中央へ寄せられるか

原刊で第344章に隣接する挿図(1890年版・印刷119頁)
原刊で第344章に隣接する挿図(1890年版・印刷119頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

これらの肘は、肩および腕とともに、正三角形を作る。

強い打撃を与えようとする人の、力の準備について

原刊で第345章に隣接する挿図(1890年版・印刷119頁)
原刊で第345章に隣接する挿図(1890年版・印刷119頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

人が力によって運動を生じさせようとするとき、打撃を与えようとする方向と逆へ、できるだけ身を曲げ、ねじる。そこで可能なかぎりの力を準備し、そのあとそれを合わせ、動きを解き放って、打つ物の上へ加えるのである。

注 moto decomposto は、準備された力を解き放つ動きとして訳した。

人の複合された力について。まず腕を述べる

原刊で第346章に隣接する挿図(1890年版・印刷120頁)
原刊で第346章に隣接する挿図(1890年版・印刷120頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版
原刊で第346章に隣接する挿図(1890年版・印刷120頁)
原刊で第346章に隣接する挿図(1890年版・印刷120頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

腕を伸ばし、引き戻すときに、前腕の太いほうの骨を動かす筋肉は、上腕骨と呼ばれる骨の中央付近に、前後に並んで始まる。後ろに始まるのが腕を伸ばす筋肉、前に始まるのが腕を曲げる筋肉である。

人が押すより引くほうに強いことは、『重量について』の第九命題によって証明される。そこでは、等しい力をもつ重りのうち、天秤の支点から遠いものほど、大きな力を示すと述べている。したがって筋肉 n b と n c の力が等しいなら、前側の筋肉 n c のほうが、後ろ側の筋肉 n b より強い。前側の筋肉は、肘の支点 a を越えたところにある b よりも、その支点から遠い c で腕に固定されているからである。これで所期のことは証明された。しかしこれは単純な力であり、ここで扱おうとしていた複合された力ではない。先にこれを置くべきであった。複合された力とは、腕で何かを行うとき、身体の重さや脚による第二の力が加わるものである。引いたり押したりするときには、腕の力に加えて、身体の重さと、伸びようとする背や脚の力が加わる。たとえば一本の柱に二人がかかり、一人が押し、他方が引く場合のようなものである。

注 adiutorio は上腕骨、fucili は前腕の骨を指す歴史的な呼称。

人では、引く力と押す力のどちらが大きいか

人は押すよりも引くほうにはるかに大きな力をもつ。引くときには、引くためだけに作られ、押すためには作られていない腕の筋肉の力が加わるからである。腕がまっすぐなとき、肘を動かす筋肉は、押すことにおいて、人が動かしたい物に肩を当てる場合以上の働きをもたない。その場合に働くのは、曲がった背を伸ばす筋すじと、曲げた脚を伸ばす筋すじだけであり、後者は太腿の下側と、脚の後ろのふくらはぎにある。したがって引く場合には、腕の力、背と脚を力強く伸ばす働き、それに体の傾きに応じた身体の重さが加わるという結論になる。押す場合にも同じものが働くが、腕の力が欠ける。動かないまっすぐな腕で押すのは、肩と押す物のあいだに木片を挟むのと同じだからである。

曲がる身体部分と、曲げるときにそれを覆う肉が果たす働きについて

骨の関節とその近くの部分を覆う肉は、その部分を曲げたり伸ばしたりするのに応じて、厚さを増減する。すなわち、身体部分を曲げることで生じる角の内側では厚くなり、外側の角の外面では薄く伸びる。凸の角と凹の角の中間にある部分も、この増大と縮小に関与するが、その程度は、曲げた関節の角に近いか遠いかによって増減する。

太腿を回さずに下腿を回すことについて

太腿を同じだけ回さずに、膝から下だけを回すことはできない。膝の関節では、太腿の骨の接触部が下腿の骨にはまり込んで組み合わされているからである。この関節は、歩行や膝をつく動作に必要なように、前後にしか動かせない。膝関節を構成する接触面が許さないので、そこから横へ動かすことは決してできない。もしこの関節が、肩にはまる上腕骨や、腰にはまる大腿骨のように曲げたり回したりできたなら、人の脚は前後と同じように横へも曲がり、つねにねじれてしまうだろう。またこの関節は、脚のまっすぐな位置を越えて動くことができず、前へは曲がるが後ろへは曲がらない。もし後ろへ曲がるなら、人は膝をついた状態から立ち上がれなくなる。膝をついた姿勢から立つときは、まず二つの膝のうち一方に胴体の重さをかけ、他方から重さを除く。そのとき他方の脚は自分自身の重さしか受けないので、容易に膝を地面から上げ、足裏全体を地面へ着けられる。次に、着いた足へ全重量を移し、その膝に手をつき、同時に腕を伸ばして胸と頭を持ち上げる。このように胸とともに太腿を伸ばして起こし、地面に着いた足の上にまっすぐ立ち、もう一方の脚も持ち上げるのである。

注 膝の屈曲方向を『前/後ろ』とする記述、および回旋できないという主張は原文を保持した。現代の運動学に合わせて置き換えてはいない。

肉のひだについて

曲げられた肉は、つねに引き伸ばされた側とは反対の側で皺になる。

人の単純運動について

人の単純運動とは、ただ前、後ろ、あるいは横へ身を曲げる動きをいう。

人が行う複合運動について

人の複合運動とは、何らかの作業のために、下へ曲がると同時に横へも曲がることを必要とする動きをいう。したがって画家である君は、複合運動を、その構成要素が十分にそろったものとして描きなさい。ある人が動作上の必要から複合した動きを行うなら、それに反して単純な動きをさせてはならない。そのような動きは、その動作から外れてしまうからである。

人の働きに適した運動について

君の人物の動きは、それぞれの動作に用いるのにふさわしい力の程度を示さなければならない。すなわち、小さな棒を持ち上げる者に、梁を持ち上げるのにふさわしいのと同じ力を示させてはならない。したがって、扱う重さの性質に応じて、力の表し方を変えなさい。

人物の動きについて

頭を肩の上にまっすぐ載せてはならず、上、下、正面のいずれを見ていても、右か左へ斜めに向けなさい。眠ったようでなく、目覚めた生気を示す動きを与える必要があるからである。また全身の前側や後ろ側の中心部を、その上や下にあるほかの中心部と一直線に並べてはならない。それでもそうした姿勢を使いたいなら、老人に使いなさい。腕や脚の動きを、同じ人物の中だけでなく、周囲や近くの人物にも繰り返してはならない。ただし、描こうとする出来事の必要に迫られる場合は別である。

こうした絵画の教えでは、弁論家が言葉の性質によって説得するように、運動の性質によって説得する方法が求められる。言葉は感嘆のとき以外、繰り返してはならないと教えられる。しかし絵画には、その例外も当てはまらない。感嘆の言葉は異なる時点で発せられるが、身振りの反復は同時に見られるからである。

運動について

人物の動きを、その人物の心の状態にふさわしいものにしなさい。すなわち怒っていると想定するなら、顔がそれに反する様子を示さず、そこに怒り以外の何も認められないものにする。喜び、憂い、笑い、泣くことなどについても同じである。

心の状態の強弱について

さらに、弱い、あるいはごく小さい心の変化に大きな動きを与えず、大きな心の変化に小さな動きを与えてはならない。

年齢の違う人に同じ心の状態が生じることについて

同じ程度の心の動揺であっても、老人が激しい行為をするときの身体の動きは、若者と同じように表すべきではない。また若者の激しい行為も、老人と同じように描くべきではない。

何かを指し示す身振りについて

時間的、または場所的に近いものを、感情を込めて指し示す身振りでは、手を示す者自身からあまり遠ざけてはならない。指し示すものが遠ければ、その人の手も遠くへ伸ばし、顔を示す対象のほうへ向けなければならない。

人の十八の動作について

静止する、動く、走る、直立する、寄りかかる、座る、かがむ、膝をつく、横たわる、ぶら下がる、運ぶ、運ばれる、押す、引く、打つ、打たれる、重くする、軽くする。

人物に応じた身体各部の配置について

働いている身体部分では、その負担に応じて筋肉を太くし、働いていない部分は単純な形のままにしなさい。

年齢に応じた身体各部の性質について

若者では筋肉や筋束を細かく描かず、単純な曲がり方と、丸みを帯びた身体各部をもつ、柔らかな肉付きとしなさい。

顔の多様さについて

顔つきは、その人が力を使う、休む、泣く、笑う、叫ぶ、おびえるなどの状態に応じて変えなさい。また身体各部と姿勢全体も、その変化した表情に対応しなければならない。

動物の身体構成について

どの動物も、すべての部分が全体の年齢に対応していなければならない。すなわち若者の手足に、筋肉、腱、静脈を際立たせ、細かく描き込んではならない。巧みで優れた素描を見せようとしてそうする者もいるが、不釣り合いな部分を与えることで全体を損なっているのである。素描の力が足りず、老人に若者の手足を与える者も、同じことをしている。

心の感情を示さない人物は、称賛に値しないこと

人物は、できるかぎりその身振りによって心の感情を表さなければ、称賛に値しない。

手と腕は、あらゆる動作で、それを動かす者の意図をできるかぎり示さなければならないこと

手と腕は、どの動作でも、それを動かす者の意図をできるかぎり示さなければならない。感情を伴う判断をもつ者は、すべての動きにおいて、手や腕を心の意図に伴わせるからである。優れた弁論家はつねに、聴衆に何かを説得しようとするとき、言葉に手や腕の動きを添える。もっとも愚かな者の中には、この修飾を気にかけず、演壇に置かれた木像のように見える者もいる。その口から、演壇の中に隠れた人の声が管を通って出ているかのようなのである。この習慣は生きた人にも大きな欠点であり、描かれた人物ではなおさらである。創造者が、その人物にあると想定する意図にふさわしい的確な身振りを与えて助けなければ、その人物は二度死んでいると見なされる。すなわち、生きていないために死んでおり、その動作においても死んでいるのである。本題に戻ろう。以下ではさまざまな状態を描いて述べる。怒る者の動き、苦痛、恐れ、突然の驚愕、泣くこと、逃走、欲望、命令、怠惰、敏速さなどである。

動く者の心にふさわしい動きについて

心の動きには、身体の動きを伴わないものと、伴うものがある。身体の動きを伴わない心の動きでは、腕、手、そのほか生気を示すあらゆる部分が垂れ下がる。一方、身体の動きを伴う心の動きでは、身体とその各部が、心の動きにふさわしい運動をする。このことについては多くを述べることになる。さらに、両者に関与する第三の動きと、どちらでもない第四の動きがある。最後のものは、分別のない者、あるいは分別を失った者の動きであり、狂気、またはモレスカ踊りをする道化の章に収めることにする。

心の働きが、最も容易で無理のない仕方で身体を動かすこと

心の動きは、身体をあちらこちらへ動かすのではなく、単純で容易な身振りによって動かす。その対象は心の中にあり、心は自分自身に没頭しているとき、感覚を動かさないからである。

対象を介して心から生じる運動について

人の動きが対象によって引き起こされる場合、その対象が突然現れる場合と、そうでない場合がある。突然現れるなら、動く者はまず、最も必要な感覚器である目を対象のほうへ向け、足は元の場所に残し、太腿を腰や膝とともに、目の向く側へ動かすだけである。こうした場合については、詳しく論じることにする。

一般的な運動について

人の動きは、その心を通るさまざまな状態の数だけ多様である。そして同じ状態でも、人の力の大小や年齢に応じて、その人を強く、または弱く動かす。同じ出来事に対しても、若者と老人とでは違う動きをするからである。

動物の運動について

二本足の動物はみな、動くとき、持ち上げる足の上にある側を、地面に着く足の上にある側より低くする。そして最も上にある部分は、その逆になる。このことは歩く人の腰と肩に見られ、鳥でも頭と尻に同じことが見られる。

各部分がそれぞれ身体全体に釣り合っているべきこと

全体の各部分を、その全体に比例させなさい。たとえば、太く背の低い人物であれば、各部分も同じ性質にする。腕は短く太く、手は広く厚く短くし、指とその関節も上述のようにし、ほかの部分も同じにするのである。これはあらゆる動物や植物について、太さの割合を減らす場合にも増やす場合にも、同じ意味で述べている。

心を表さない人物像は二度死んでいること

人物が、身体各部によって心にある考えを表す的確な身振りをしなければ、その人物は二度死んでいる。まず絵画そのものは生きておらず、生命なしに生き物を表すものなので、その意味で死んでいる。さらに動作の生気を加えなければ、二度目にも死んだままである。したがって、話す者の手の動きを熱心に観察することを楽しみ、近づいて話を聞けるなら、どのような理由でその動きをするのかを調べなさい。個々の身振りの細部は、絵を描けない、話すことのできない人々のところで、とりわけよく観察できる。ただし、絵を描いて表す助けを借りない人は少ない。そこで、話す者の心の考えを示す手足の動きを、話せない人々から学びなさい。笑う者、泣く者を観察し、怒って叫ぶ者を見つめ、同じように私たちの心のすべての状態を調べなさい。ふさわしさを守ること。主人と召使いを、場所においても身振りにおいても同じに扱ってはならない。幼児を青年と同じにしてはならず、むしろ自分を十分に支えられない老人に近づけるべきである。田舎者に、高貴で礼儀を身につけた者の身振りを与えてはならず、強い者を弱い者と同じにしてはならない。娼婦の身振りを品行のよい女性と同じにしてはならず、男性を女性と同じにしてはならない。

注 身分・性別・職業に関する規範は原文の時代的な見解として訳した。

ふさわしさを守ることについて

ふさわしさを守りなさい。すなわち、描こうとするものの尊さや卑しさに応じて、身振り、衣服、場所、周囲の様子を適切なものにするのである。王なら、髭、顔つき、服装を重々しくし、場所を飾り、周囲の人々は敬意と驚嘆を示し、王宮の荘重さにふさわしい立派な衣服を着けているようにする。一方、卑しい者は飾り気がなく、偽りに満ち、みすぼらしくし、その周囲の者も同様に、卑しく思い上がった身振りをするようにする。身体のすべての部分を、その構成に対応させなさい。また老人の動作を若者の動作に似せてはならず、女性の動作を男性の動作に、成人の動作を子供の動作に似せてもならない。

注 原文の身分観に基づく造形上の指示を、その歴史的性格を保持して訳した。

人物の年齢について

多くの子供を同数の老人と混ぜたり、青年を幼児と、女性を男性と混ぜたりしてはならない。ただし、描こうとする出来事が、それらを混じり合わせて結びつける場合は別である。

物語画の構成における人物の種類について

普通の物語画の構成では、原則として老人は少なくし、若者から離して描きなさい。老人は少なく、その習慣は若者の習慣と合わないからである。習慣の一致がないところには友情が生まれず、友情がないところには隔たりが生じる。また荘重さと熟慮を示す物語画を構成するときは、若者を少なくしなさい。若者は助言や会議、そのほか高尚なことを進んで避けるからである。

多くの人の中で話す者を描くことについて

多くの人の中で話す者を描きたいなら、その人を、これから扱う事柄を考えている姿勢にし、その内容にふさわしい身振りを与えなさい。説得する話なら、身振りもそれにかなうものにする。さまざまな理由を説明する話なら、話す者に、左手の小さい二本の指を曲げさせ、右手の二本の指で左手の一本の指をつかませる。そして生気のある顔を人々へ向け、口を少し開き、話しているように見せる。座っているなら、少し身を起こして頭を前へ出そうとしているようにし、立っているなら、胸と頭を人々のほうへ少しかがめさせる。人々は静かに注意を払い、驚嘆の身振りで話者の顔を見ているように描きなさい。ある老人は、聞いた言葉への驚きから口を閉じ、その下がった口角のところでは頬に多くのひだが後方へ引かれ、眉は付け根で上がり、額に多くの皺が生じるようにする。座った者の中には、両手の指を組み、その中に疲れた膝を抱く者もいる。また片膝を他方の膝に重ね、その上に手を置き、その手で反対の肘を受け、その肘に続く手で、前かがみになった老人の髭のある顎を支えている者もいる。

怒った人物をどのように描くべきか

怒った人物には、相手の髪をつかんで頭をねじり地面へ押しつけ、一方の膝をその脇腹に載せ、右腕の拳を高く振り上げさせなさい。その髪は逆立ち、眉は低く寄り、歯を食いしばり、両方の口角は弓形に曲がり、首は太く、敵へかがむためにその前面は皺で満ちるようにする。

絶望した人を描く方法

絶望した者には、自らを刃物で傷つけ、手で衣服を引き裂いた姿を与え、一方の手でその傷を引き裂いているようにする。そして足を離し、脚を少し曲げ、体も同じように地面へかがめ、髪をかきむしって乱れ散らせた姿に描きなさい。

身体各部の適合について

さらに注意しておく。人物に身体各部を与えるときは、それが身体の大きさに調和するだけでなく、年齢にも同様に合うよう、十分に注意しなさい。若者なら、手足の筋肉を控えめにし、静脈の表れを繊細にし、丸みのある、心地よい色の手足にする。成人男性では、筋張って筋肉が充実したものにする。老人では、表面を粗い皺に覆わせ、静脈を浮き立たせ、筋すじを非常に明瞭にする。

笑うこと、泣くことと、その違いについて

笑う者と泣く者では、目、口、頬は変わらず、違うのは眉のこわばりだけである。泣く者にはそれが加わり、笑う者からは取り去られる。また泣く者には、手で衣服や髪を引き裂き、爪で顔の皮膚を傷つける動作が加わるが、笑う者にはそれは起こらない。泣く者の顔を、笑う者と同じ動きで描いてはならない。両者はしばしば似てしまうが、正しい方法は、泣くという状態が笑うという状態と異なるように、描き分けることだからである。泣く場合、眉と口は泣く原因によって変化する。怒りで泣く者、恐れで泣く者、愛情や喜びで泣く者、疑念で泣く者、苦痛や責め苦で泣く者、親族や友を失った哀れみと悲しみで泣く者がいる。泣く者の中にも、絶望を示す者、控えめな者、叫ぶ者、顔を空へ向けて手を下げ、指を組む者、恐れて肩を耳まで上げる者などがいる。このように、姿は上述の原因に従う。涙を流す者は眉を付け根で上げ、互いに寄せ、その上に皺を作り、口角は下へ向かう。一方、笑う者は口角が上がり、眉は開いて間隔が広い。

幼児の姿勢について

幼児と老人には、脚による敏捷な動作を与えてはならない。

女性と少年の姿勢について

女性と少年には、脚を大きく広げたり、開きすぎたりする姿勢を与えてはならない。それは大胆さ、あるいはまったく羞恥心を欠くことを示すからである。脚を閉じた姿勢は、恥を恐れることを示す。

注 性別・年齢と姿勢の規範は、原文の時代的な見解として訳した。

平らな場所に座った人が立ち上がることについて

床に座っている人が立ち上がるとき、まず足を自分のほうへ引き寄せ、立ち上がろうとする側の地面に手をつく。そして体を、その支えている腕の上へ移し、立ち上がろうとする側の膝を地面につける。

跳躍と、跳躍を大きくするものについて

自然は、跳ぶ者が何も考えなくても、教え、働く。跳ぼうとするとき、人は腕と肩を勢いよく上げる。それらはその勢いに従い、身体の大部分とともに動き、その勢いが尽きるまで上へ持ち上がる。この勢いには、背、股関節、膝、足の関節で曲げていた身体を、急に伸ばす動きが伴う。その伸長は斜め、すなわち前方かつ上方へ行われる。このように、前へ進むための運動は跳ぶ身体を前へ運び、上へ進む運動は身体を持ち上げ、大きな弧を描かせ、跳躍を大きくする。

押したり引いたりする人物の運動について

押すことと引くことは、同じ種類の動作である。押すのは手足を伸ばすことであり、引くのは手足を引き縮めることだからである。どちらの力にも、押されたり引かれたりする物に対して、動かす者の重さが加わる。違いは、一方が押し、他方が引くということだけである。立って押す者は、押す物を自分の前に置き、引く者は自分の後ろに置く。押すことと引くことは、動かす者の力の中心のまわりで、さまざまな線に沿って行える。腕について、その中心は、肩の上腕の筋すじ、胸の筋すじ、胸の反対側にある肩甲部の筋すじが、肩の上部の骨につながる場所にある。

注 nervo、patella などの歴史的解剖語を文脈に沿って訳したが、現代解剖学の特定構造と厳密に対応づけてはいない。

物を自分から強い勢いで投げ出そうとする人について

原刊で第386章に隣接する挿図(1890年版・印刷130頁)
原刊で第386章に隣接する挿図(1890年版・印刷130頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

投げ槍、石、そのほかの物を激しい動きで投げようとする人は、主に二つの仕方で描ける。運動を生じさせる準備をしている姿か、運動を終えた姿である。運動を生じさせようとするところを描くなら、足の内側は胸と同じ線に沿わせるが、その足の上には反対側の肩が来るようにする。つまり、右足に人の重さがかかっているなら、左肩はその右足の先の上に来る。

鉄の道具を地面に投げ刺そうとする者が、反対の脚を曲げて持ち上げる理由

投げることによって鉄の棒を地面へ刺し込もうとする者は、投げる腕と反対側の脚を上げ、膝で曲げる。これは地面に着く足の上で釣り合いを取るためであり、脚を曲げたりひねったりしなければ、その釣り合いは取れない。またその脚を伸ばさなければ投げることもできない。

注 calmone は地面に投げ刺す鉄の棒・道具として訳した。具体的な器具の同定は断定しない。

動かない身体の釣り合い

原刊で第388章に隣接する挿図(1890年版・印刷130頁)
原刊で第388章に隣接する挿図(1890年版・印刷130頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

人の重量の釣り合い、すなわち均衡には、単純なものと複合されたものの二種類がある。単純な釣り合いは、人が動かさない足の上で作るものである。身体の中心からさまざまな距離に腕を広げたり、片足または両足で立ちながら身をかがめたりしても、重心はつねに、地面に着く足の中心の真上にある。両足に等しく重みをかける場合には、その人の重量の中心から下ろした垂線は、両足の中心のあいだの距離を測る線の中点に落ちる。

複合された釣り合いとは、さまざまな動きによって自分の上に荷重を支える人が作る釣り合いをいう。たとえばヘラクレスがアンタイオスを締め潰す姿を描く場合である。アンタイオスを胸と両腕のあいだに抱えて地面から浮かせるなら、その重心がヘラクレスの足より前へ出る分だけ、ヘラクレスの身体を両足の中心線より後ろに置かなければならない。

両足で立ちながら、一方に他方より多くの重さをかける人について

長く立っていて、体を支える脚が疲れると、人は重さの一部をもう一方の脚へ移す。しかしこの立ち方は、非常な老年、幼年、あるいは疲れた人に用いるべきである。それは疲労、または手足の力の乏しさを示すからである。そのため、健康でたくましい若者は、つねに片方の脚で体を支えるのが見られる。もう一方の脚にもいくらか重みをかけるのは、運動を始めるために必要なきっかけを作るときである。それがなければ運動は生じない。運動は不均衡から生じるからである。

人物の立ち姿について

立つ人物には、つねに身体各部の姿を変化させなければならない。片腕が前へ出るなら、他方は静止するか後ろへ行くようにする。片脚で立つなら、その脚の上の肩は反対側より低くする。これは感覚の正常な人々が行うことであり、彼らは倒れないよう、自然に自分を足の上で釣り合わせようとする。片足で立っているとき、反対の脚は曲がっていて身体を支えず、それ自体は死んでいるかのようだからである。したがって、脚より上の部分の重量の重心を、それを支える脚の関節の上へ移すことが必要となる。

足で立ち止まる人の釣り合いについて

足で立ち止まる人は、左右の足に等しく重さをかけるか、異なる重さをかけるかである。等しくかける場合、その重さは身体自身の自然な重さと外から加わる重さとの混合であるか、単に自然な重さだけである。自然な重さと外から加わる重さが混じっている場合、左右反対側の身体部分の末端は、足の関節の支点から等しい距離にはならない。しかし自然な重さだけなら、それらの末端は足の関節から等しい距離になる。こうした釣り合いについては、特に一冊の書を設ける。

速い、または遅い場所の移動について

人やほかの動物の場所を移る運動は、その重心が、体を支える足の中心から遠いほど速く、近いほど遅くなる。

四足の動物と、その動き方について

原刊で第393章に隣接する挿図(1890年版・印刷132頁)
原刊で第393章に隣接する挿図(1890年版・印刷132頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

四足の動物の最も高いところの高さは、静止しているときより、歩いているときに大きく変化する。そして動物が大きいほどその変化は大きく、小さいほど小さい。これは地面に着く脚の傾きによって生じる。脚が傾きをなくし、地面に対して垂直に置かれると、動物の身体を持ち上げるからである。

人体の一方の半分と他方の半分の対応について

人体の太さと幅の一方の半分が他方と等しくなるのは、それぞれにつながる手足が、等しく同じような動きをしている場合だけである。

人が上へ跳ぶときには三つの運動があること

人が上へ跳ぶとき、足先が地面を離れる前には、頭は踵の三倍、腰の二倍の速さで動く。これは三つの角が同時に伸びるためである。最も上の角は、胴と太腿が前側でつながるところにあり、第二は太腿と下腿が後ろ側でつながるところにあり、第三は下腿の前側が足の骨とつながるところにある。

身体各部のすべての見え方と変化を、記憶にとどめることは不可能であること

原刊で第396章に隣接する挿図(1890年版・印刷132頁)
原刊で第396章に隣接する挿図(1890年版・印刷132頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版
原刊で第396章に隣接する挿図(1890年版・印刷133頁)
原刊で第396章に隣接する挿図(1890年版・印刷133頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

どの動物のどの部分についても、そのすべての見え方や変化を記憶にとどめることは不可能である。これを手の図によって例示しよう。すべての連続量は無限に分割できる。したがって、手を見る目が a から b へ動くとき、その目は空間 a b を通るが、この空間も連続量であり、無限に分割できる。そしてその運動の各地点で、目に見える手の様相と形は変化する。円の全周を動いても同様である。また手のほうが持ち上がる場合も同じであり、その手は量をもつ空間を通過するのである。

人物像に必要な最初の四つの要素について

姿勢は、人物像の第一の、最も高貴な要素である。美しく描かれた人物が悪い姿勢によって優雅さを失うだけではない。生身の人でも、最高の美しさを備えていても、その身振りが果たすべき役割に合わなければ、評価を失う。間違いなく、姿勢には、描かれた人物そのものの美しさよりも深い考察が必要である。人物そのものの美しさは生身の人の模倣によって作れるが、その人物の動きは、知性の大きな判断力から生まれなければならないからである。第二の高貴な要素は浮き上がる立体感、第三はよい素描、第四は美しい彩色である。

実作についての論考

画家である君は、作品が見る者を引き寄せ、大きな驚きと喜びのうちに足を止めさせるよう努めなさい。引き寄せたあとで追い払ってはならない。夜、曇っているか晴れているかを確かめようと裸で寝床を飛び出した者が、冷気に追い返され、すぐに元の寝床へ戻るようであってはならないのである。むしろ君の作品を、暑いときに人々を寝床から誘い出し、夏の涼しさを楽しませながら、その場にとどめる空気のようにしなさい。学ぶより先に実作家になろうとしてはならず、この芸術によって当然得られる栄誉を、金銭欲に負けさせてはならない。人の美しさのうち、道行く者の足を止めるのは、美しい顔であって豪華な装飾ではないことが分からないのか。これは、金やほかの高価な飾りで人物を装う君に向かって述べている。青春の輝く美しさが、過剰で手の込みすぎた装飾によって、その優れたところを減らすのが見えないのか。粗末で貧しい衣服に包まれた山の女たちが、着飾った女たちより美しく見えるのを見たことはないか。頭髪には、気取った結い方や髪形を使ってはならない。愚かな者の中には、髪の一本が片側へ少し偏っただけで、自分に大きな不名誉が降りかかると思う者がいる。周囲の者が、それまで考えていたことをすべて捨て、その髪のことだけを話し、非難すると思い込むのである。こうした者は鏡と櫛をつねに相談相手にし、きれいに整えた髪を乱す風を最大の敵とする。したがって君は、描いた風とともに髪を若い顔のまわりで戯れさせ、さまざまに巻き返す髪で優雅に飾りなさい。髪を糊で塗り固め、顔まで釉薬をかけたように見せる者たちを真似てはならない。人の愚行は増すばかりであり、風に髪並みを乱されないようにするためのアラビアゴムは、船乗りが東方から運んでも足りない。しかも彼らは、さらに別の方法まで探し続けているのである。

画家が熱心に求める実作の熟練について

大いなる熟練を望む画家である君は、自然の事物についてのよい基礎の上にそれを築かなければ、多くの作品を作っても名誉は少なく、利益はさらに少ないことを理解しなさい。よい熟練を身につければ、君の作品は数多く、しかも優れたものとなり、大きな名誉と多くの利益をもたらすだろう。

画家が自作と他人の作品を判断することについて

作品と判断力が同じ水準にあるなら、その判断力にとって悪いしるしである。作品が判断力を上回るなら、最悪である。自分がこんなにもよく作れたと驚く者が、その例である。判断力が作品を上回るなら、それは申し分のないしるしである。そのような状態にある若者は、疑いなく優れた制作者になるだろう。ただし作品の数は少なく、その作品は、人々を足止めし、驚嘆しながらその完成を見つめさせるほどの質をもつことになる。

画家が自分の絵を判断することについて

私たちは、自作より他人の作品のほうが誤りを見つけやすく、他人の小さな誤りを非難しながら、自分の大きな誤りを見落とすことが多いと知っている。そのような無知を避けるには、まず遠近法に熟達し、次に人やほかの動物の寸法について十分な知識をもち、さらに建築にも通じなければならない。すなわち建物や、地上にある無限に多様な形のものについて知るのである。知るものが多いほど、君の仕事は称賛される。経験のないものは、実物から写すことをためらってはならない。さて、先の約束に戻ると、絵を描くときには平らな鏡を置き、自分の作品をたびたびそこに映して見るべきである。鏡の中では左右が逆になり、別の師の手になるもののように見えるので、自分の誤りをよりよく判断できる。また、たびたび席を立って気晴らしをするのもよい。戻ってきたとき、判断がよくなるからである。作品に張りついていると、大いに欺かれる。離れて見るのもよい。作品が小さく見え、一目でより多くを把握でき、近くで見るより、不調和で不釣り合いな身体各部や、物の色がよく分かるからである。

鏡が画家の師であること

自分の絵全体が、実物から写した対象に合っているか確かめたいなら、鏡を用意し、生きた対象をそこに映して、鏡像と絵を比較し、二つの表現の対象が互いに一致しているかをよく考えなさい。何よりも鏡を師とすべきである。ここでいうのは平面鏡である。その表面にある物の姿は、多くの点で絵画に似ているからである。平面上に作られた絵は、浮き上がっているように見える物を示すが、鏡も平面の上で同じことをする。絵は一つの表面であり、鏡も同じである。絵に触れられないというのは、丸く浮き出て見える物を手で取り囲むことができないという意味であり、鏡も同様である。鏡も絵も、陰と光によって囲まれた物の姿を示し、その姿はどちらも表面のはるか向こうにあるように見える。鏡が輪郭、陰、光によって物を浮き上がって見せることを理解し、しかも君の絵具には鏡のものより強い暗さと明るさがあるなら、それらをうまく組み合わせさえすれば、君の絵も、大きな鏡に映る自然の物のように見えるはずである。

よい絵を見分ける方法と、よい絵に必要な性質について

よい絵を見分けるために、まず判断すべきなのは、その動きが動作する者の心にふさわしいかどうかである。第二は、陰を帯びた物の立体感の強弱が、距離に応じて調整されているか。第三は、身体各部の比例が全体の比例に対応しているか。第四は、場所のふさわしさが動作のふさわしさに対応しているか。第五は、身体の構成が描かれる者の性質に適合しているかである。すなわち、華奢な者には華奢な手足、太い者には太い手足、肥えた者には同じく肥えた手足を与えるのである。

真の絵画は平面鏡の表面にあること

平らな表面をもつ鏡は、その表面に真の絵画を含んでいる。どのような平らな材料の表面に描かれたものでも、完全な絵画は鏡の表面に似ている。画家たちよ、平面鏡の表面の中に君たちの師を見いだしなさい。それはどんな対象の明暗も短縮も教えてくれる。君たちの絵具には、その対象の像の明るい部分より明るいものがあり、同様に、対象のどの暗い部分より暗いものもある。したがって画家である君は、片目で見たときの鏡像に、自分の絵を似せることができる。二つの目では、目より小さい対象を取り囲むように見るからである。

注 末尾の『目より小さい対象』という比較は原文のまま保持した。両眼視に関する説明だが、比較対象を独自に補正していない。

どの絵がより称賛に値するか

模倣する対象とよりよく一致する絵ほど、称賛に値する。私は、自然のものを修正しようとする画家たちを戒めるために、このことを述べる。たとえば一歳の子供を描く者が、その頭は身長に五回収まるのに、八回収まるようにしてしまう。肩幅は頭の大きさに等しいのに、その二倍にしてしまう。こうして一歳の幼児を、三十歳の成人の比例へ変えてしまうのである。そしてこの誤りを何度も行い、他人が行うのも見てきたため、それを習慣に変えてしまった。その習慣は、彼らの腐った判断の中へ深く入り込んで定着しているので、自分たちと同じようにしない自然や、自然を模倣する者のほうが、大きな誤りを犯しているのだと、自分自身に信じ込ませるのである。

画家の第一の目標は何か

画家の第一の目標は、平らな表面を、そこから盛り上がり、浮き出た物体のように見せることである。この技術で他の者をより大きく上回る者ほど、多くの称賛に値する。この探究、むしろこの学の冠ともいうべきものは、陰と光、すなわち明と暗から生まれる。したがって陰を避ける者は、高貴な知性の持ち主たちから得られる芸術の栄光を避け、無知な大衆のあいだで栄光を得る。大衆は色の美しさ以上のものを望まず、平らなものを立体的に見せる美しさと驚異を、すっかり忘れているのである。

絵画では陰と輪郭のどちらが重要か

絵画における陰は、輪郭よりもはるかに多くの探究と考察を必要とする。その証拠に、輪郭は、目と写そうとする物のあいだに薄布や平らなガラスを置けば、なぞり取ることができる。しかし陰にはこの方法が当てはまらない。陰の境界は感じ取れないほど微妙で、多くの場合、不明瞭だからである。これは『陰と光の書』に示される。

人物に光を与える方法

光は、その人物がいると想定した場所で、自然に与えられるとおりに用いなければならない。太陽の下にいるとするなら、陰を暗くし、明るい面を大きく取り、周囲のすべての物体の影を地面に落としなさい。天気の悪い中にいる人物なら、明部と暗部の差を小さくし、足元に影を作らない。人物が屋内にいるなら、明暗の差を大きくし、床に影を作る。窓が布で覆われ、部屋が白いとするなら、明暗の差を小さくする。火に照らされているなら、明部を赤みのある強いものにし、陰を暗くし、壁や床に落ちる影の縁をはっきりさせる。また影は物体から遠ざかるほど広く大きくする。その人物が一部は火、一部は外の明かりに照らされているなら、外の明かりによる光を強くし、火によるものは火に似た、ほとんど赤いものにしなさい。とりわけ、描く人物には大きな光を上方から与えること。つまり、君が写す生身のモデルをそう照らすのである。道で見る人々は、皆、上から光を受けているからである。どれほどよく知る人でも、下から照らせば、見分けるのに苦労すると知っておきなさい。

絵画を見る者はどこに立つべきか

原刊で第409章に隣接する挿図(1890年版・印刷137頁)
原刊で第409章に隣接する挿図(1890年版・印刷137頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

abを見られる絵画、dを光としよう。私はいう。cとeとの間に立つなら、絵画はよく見分けられない。とりわけ油彩、あるいはニスを施した絵ではそうである。光沢を帯び、ほとんど鏡の性質をもつからである。このためc点に近づくほど見えにくくなる。窓から絵画へ送られた光線が、そこへ反射するからである。eとdとの間に立つなら、視覚はよく働き、とくにd点に近づくほどよい。その場所には、前述の反射光線の衝突が及ぶことが少ないからである。

視点をどの高さに置くべきか

視点は普通の人の目の高さに置くべきであり、空と接する平地の最遠の地平線は、平らな大地と空とのその境の高さに描くべきである。ただし山々はこの制約を受けない。

小さな人物像を細部まで仕上げるべきでない理由

私はいう。物が小さな姿に見えるなら、それは目から遠く離れているためである。そうであれば、目と物との間には多量の空気があるはずであり、その多量の空気は対象の形の明瞭さを妨げるので、物体の微細な部分は識別も認知もできなくなる。したがって画家よ、小さな人物像はただ略示し、細部まで仕上げてはならない。そうしなければ、師である自然の働きに反することになる。物が小さくなるのは、目と物との距離が大きいためである。大きな距離には多量の空気が含まれ、その多量の空気は厚い層となって、対象の細かな部分を目から遮り奪い去る。

画家は作品にどのような背景を用いるべきか

経験によって、あらゆる物体は陰と光に取り巻かれていることが分かる。そこで画家よ、照らされた部分は暗いものに接して終わり、同様に物体の陰の部分は明るいものに接して終わるよう配置してほしい。この規則は人物像を浮き立たせる大きな助けとなる。

絵画の心得

陰が明部と接するところでは、どこがより明るく、あるいは暗いか、また光へ向かってどこで強く、あるいは弱くぼけるかに注意せよ。とりわけ若者には、石のようにくっきり区切られた陰を描かないよう念を押しておく。肉には幾分か透明性がある。目と太陽との間に手をかざして見れば、赤みを帯び、光を透かして明るく見えるとおりである。描く肉にどのような陰が必要か知りたければ、指でその上に影を落とせ。陰を明るくしたいか暗くしたいかに応じて指を絵に近づけたり遠ざけたりし、その影を写せ。

野生の土地を描くことについて

細い枝にいっそう多く分かれる樹木や草には、陰の暗さを少なくするべきであり、より大きな葉をもつ樹木や草は、より大きな陰を生じさせる。

架空の動物を自然らしく見せる方法

いかなる動物を作るにも、四肢その他の部分を備えずにはできず、その各部分は、他の何らかの動物のものに似ると知っているだろう。したがって架空の動物を自然らしく見せたければ、たとえばそれを蛇としよう。頭にはマスティフか猟犬の頭を取り、猫の目、ヤマアラシの耳、グレイハウンドの鼻、獅子の眉、老いた雄鶏のこめかみ、水亀の首を付けよ。

優美な立体感のあるものを描くために選ぶべき場所

原刊で第416章に隣接する挿図(1890年版・印刷139頁)
原刊で第416章に隣接する挿図(1890年版・印刷139頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

太陽が南中しているとき、西へ向いた街路では、日を受ける壁が陰の物体に反射光を投げかけないほど、両側の壁が高くなければならない。空は強い輝きがないほうがよい。そうすれば、顔の側面はそれに向かい合う壁の暗さを受け、鼻の側面も同様となり、街路の口に向いた顔面全体が照らされる。したがって、そのような街路の口の中央にある目には、その顔のうちこちらを向くあらゆる面が照らされ、壁へ向く側面は陰になって見える。これに、明瞭な境界をまったくもたず、心地よく消え入る陰の美しさが加わる。それは、家々の屋根の間を通り、壁の間へ入り、街路の舗道に達する光が長く広がり、その反射によって顔の陰の場所へ跳ね返り、そこを幾分明るくするためである。屋根の縁によって形づくられた前述の空の光は長く、その前面が街路の口の上にあり、顔の突出部の下にある陰の起こりの近くまで照らす。そして順々に明るさを変えながら、顎の上で、どちらへ向かっても気づかれぬほど徐々に暗くなって終わる。たとえばその光をaeとすれば、光の線feが鼻の下まで照らし、線cfは唇の下までしか照らさず、線ahは顎の下まで伸びるのを見るがよい。ここで鼻は光abcdeの全体に面しているため、強く明るいままである。

人物像を背景から分け、際立たせることについて

暗い人物像は明るい背景の中に置かなければならない。明るい像なら暗い背景に置き、明暗をともに備えるなら、暗い部分を明るい背景に、明るい部分を暗い背景に置け。

異なる場所に置かれた人物像の陰と光の違いについて

小さな光源は不透明な物体の上に大きく、境界の明瞭な陰をつくる。大きな光源は不透明な物体の上に小さく、境界のぼけた陰をつくる。空気の中の太陽のように、小さく強い光源が大きく弱い光源に含まれるとき、弱い光は、それに照らされる物体の上では陰の位置を占める。

周囲の事物の不釣り合いを避けることについて

多くの画家には非常に大きな欠点が見られる。すなわち人の住居やその他の周囲の事物を描くとき、都市の門が住民の膝にも届かないようにしてしまう。しかもその門は、そこへ入ろうとしている人物よりも鑑賞者の目に近いのである。われわれは、人々が大勢いる柱廊を、その支柱が、そこに寄りかかる人物の握り拳に細い杖のように収まるほどの太さに描かれているのを見てきた。このような事柄は大いに避けるべきである。

物体は大きさにおいても役割においても、扱われる事柄に対応させよ

この命題は提示に先立ってすでに定義してある。したがって前の箇所を読まれたい。

線描、あるいは輪郭と呼ばれる物体の境界について

物体の境界はきわめてわずかな明瞭さしかもたないため、物と目との間に少しでも隔たりがあれば、目は友人や親族の顔立ちを捉えられず、衣服によってしかその人を認められない。そして全体を通じて、部分とともに全体を知るのである。

距離によって最初に失われる表面上の様相について

不透明な物体から遠ざかると最初に失われるものは、その輪郭である。第二に、さらに距離が増すと、互いに接する身体の部分を分ける陰が失われる。第三に足に近い脚の太さが失われ、こうして順々に細かな部分が失われるので、遠距離では、形のぼんやりした卵形の塊しか残らなくなる。

不透明な物体から遠ざかると最初に失われる表面上の様相について

色のうち距離によって最初に失われるのは光沢であり、それは色の最小の部分、明部の中の明部である。第二は明部である。陰よりも小さいからである。第三は主要な陰であり、最後には中程度のぼんやりした暗さが残る。

他の物体を背景とする物体の境界の性質について

原刊で第424章に隣接する挿図(1890年版・印刷140頁)
原刊で第424章に隣接する挿図(1890年版・印刷140頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

凸面をもつ物体が同じ色の別の物体に接して見えるとき、その凸面の境界は、それに接する背景の物体よりも暗く見える。同じように置かれた棒の縁は、白い背景では非常に暗く見え、暗い背景では棒の他の部分よりも明るく見える。それは、棒の上に降り注ぐ光が棒の上で等しい明るさをもっていてもそうである。

風に向かって進む人物像について

原刊で第425章に隣接する挿図(1890年版・印刷141頁)
原刊で第425章に隣接する挿図(1890年版・印刷141頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

風の中をどの方向へ進む人物も、その重心を支持の中心の真上に正しく位置させてはいない。

人物を写す部屋の窓について

画家の部屋の窓は桟で区切らない布張りとし、その縁に向かって黒で段階的に暗く覆い、光の境界が窓の境界と一致しないようにせよ。

顔を測り、その寸法で描くと実物より大きく見える理由

原刊で第427章に隣接する挿図(1890年版・印刷141頁)
原刊で第427章に隣接する挿図(1890年版・印刷141頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

abはその場所の幅であり、頬のある紙面cfの距離に置かれている。それはacの全距離だけ後ろになければならず、そのときこめかみは線afとbf上の距離orへ移されるので、coとrdだけの差が生じる。結論として、線cfとdfはより短いため、全高の描かれている紙、すなわち真の位置にある線afとbfに行き着かねばならず、述べたとおりcoとrdの差が生じる。

注 図中の記号と幾何学的説明は原文どおり保持した。「その場所の幅」など指示対象が明瞭でない箇所がある。

すべての不透明な物体の表面は向かい合う物の色を帯びるか

原刊で第428章に隣接する挿図(1890年版・印刷142頁)
原刊で第428章に隣接する挿図(1890年版・印刷142頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

次のことを理解しなければならない。一方が白く他方が黒い二枚の壁の間に白い物体を置けば、その物体の陰の部分と明るい部分との比は、前述の二枚の壁の比と同じになる。物体が青色でも同様である。したがって絵を描くときは次のようにせよ。青い物体に陰をつけるには、その物体へ反射すると想定した壁の黒、あるいは陰に似た黒を取れ。確実で真実の知識に基づいて行いたければ、次の方法を用いよ。何色の壁を描く場合でも、耳かき用のものより少し大きな小匙を取り、この操作を行う作品の大小に応じて、匙の大きさも加減せよ。匙の縁の高さは等しくしておき、これで混色に用いる絵具の量の段階を測る。たとえば、前述の壁の最初の陰を暗さ三に対して明るさ一で作ったとする。それは穀物を量るときのようにすり切りの匙を用い、純粋な黒を三杯、鉛白を一杯とすることであり、こうすれば疑いのない一定の性質の混合物が得られる。さて白い壁と暗い壁を作り、その間に青い物体を置き、その青にふさわしい真実の陰と光を与えたいとする。そこで、陰をつけずに残したい青を一方に、黒を傍らに置け。それから黒を三杯取り、明るい青一杯と混ぜ、それで最も暗い陰を置け。これをしたら、物体が球形か、円柱形か、四角いか、あるいはどのような形かを見よ。球形なら、暗い壁の両端からその球体の中心へ線を引き、その線が物体の表面と交わる場所の間に、等しい角度で最大の陰が限られる。次に、たとえばnoで、上方の壁adから影響を受ける分だけ暗さを残しつつ、明るくしはじめよ。その色を、同じ区分に従ってabの最初の陰と混ぜるのである。

動物の動きと疾走について

前へ倒れかかる度合いの大きな姿ほど、速く走っているように見える。

自ら速く、あるいは遅く動く物体について

自ら動く物体は、その重心が支持の中心から遠いほど速くなる。これは鳥の運動について述べたものである。鳥は翼を打たず、風の助けも借りず、自ら動く。それは重心が支持の中心の外、すなわち翼の抵抗の中央の外にあるとき起こる。翼の中央が、鳥全体の重量の中央、すなわち重心より後ろにあれば、その鳥は前方かつ下方へ動くからである。ただし下方へ進むのに比べて前方へ進む程度は、前述の重心が翼の中央から遠いか近いかに応じて大小が異なる。すなわち重心が翼の中央から遠ければ鳥の下降は非常に斜めとなり、翼の中央に近ければ、その鳥の下降は傾きの少ないものとなる。

二十ブラッチャの空間に、各部の釣り合った直立姿で四十ブラッチャの高さに見える人物像を描く方法

原刊で第431章に隣接する挿図(1890年版・印刷143頁)
原刊で第431章に隣接する挿図(1890年版・印刷143頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

この場合にも、その他いかなる場合にも、画家は描く壁面がどのように位置しているかを気にする必要はない。とりわけ、その絵を見る目が窓その他の開口部から見る場合にはそうである。目が考慮すべきなのは、その壁面の平らさや曲がりではなく、ただ壁の向こうに、描かれた風景のさまざまな場所に見せようとする事物だからである。ただし、その人物像は湾曲面frgに描くほうがよい。そこには角がないからである。

十二ブラッチャの壁に、二十四ブラッチャの高さに見える人物像を描く方法

原刊で第432章に隣接する挿図(1890年版・印刷143頁)
原刊で第432章に隣接する挿図(1890年版・印刷143頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

二十四ブラッチャの高さに見える人物像その他のものを描きたければ、次のようにせよ。まず壁mnに、描こうとする人物の半分を描き、そのあと残り半分を丸天井mrに描く。しかし丸天井に人物像を描く前に、広間の床の上に、描く壁と丸天井と同じ形の壁面を作れ。その背後に、望む大きさの人物の横姿を描き、そのすべての線を点tへ引け。それらが壁面rnと交わるとおりに、その壁面と同形の実際の壁に描けば、人物像のあらゆる高さと突出が得られる。垂直な壁mnにある幅、すなわち厚みは、本来の形のまま描け。壁が遠ざかるにつれて、像はおのずと小さくなるからである。丸天井に入る像は、それが直立しているときのように縮小する必要があり、この縮小はよく平らな広間の床の上で行わねばならない。そこに、壁面nrから写し取った像が正しい太さで置かれる。そして立てた壁面の上でそれを再び縮小するのがよい方法である。

絵画、その部分への区分と構成要素

光、闇、色、物体、形、位置、遠さ、近さ、運動、静止。目の働きのこの十の部分のうち、絵画は七つをもつ。それはまず光、闇、色、形、位置、遠さ、近さである。私は物体、運動、静止を除く。すなわち残るのは、陰と光、あるいは明と暗を意味する光と闇、そして色などである。物体を含めないのは、絵画そのものが表面上のものであり、幾何学で定義されるとおり、表面は体積をもたないからである。より正確にいえば、見えるものはすべて絵画の学に数え入れられる。したがって上述した目の十の範疇は、当然ながら、私が絵画論を分ける十の書となる。ただし光と闇は、光と陰を扱う一書とする。同じ書にまとめるのは、陰は光に取り巻かれ、あるいは光に接するからである。光と陰についても同様であり、境ではつねに光と陰が混ざり合う。

また派生する影は、不透明な物体から遠いほど、光と強く混ざり合う。しかし純粋な色が見えることは決してない。これは第九の命題によって証明される。すなわち、あらゆる物体の表面は、向かい合う物の色を帯びる。それが空気や水など、透明な物体の表面であってもそうである。空気は太陽から光を受け、闇はその太陽の欠如から生じるからである。したがって空気は、その空気が目と事物との間に介在するところで、事物と同じほど多様な色に染まる。空気そのものには、水と同じく色がない。ただし、中層より下で空気に混ざる湿気は空気を濃くし、空気が濃くなると、それに当たる太陽光線が空気を照らす。中層より上の空気は暗いままである。そして光と闇は青色をつくるので、これが空気を染める青である。空気に混ざる湿気が少ないほど、その青は暗くなり、多いほど明るくなる。

絵画とその定義

絵画とは光と闇の組合せであり、あらゆる単純色と複合色のさまざまな性質が、それとともに混ざり合ったものである。

全般的な光のもとでの絵画

原刊で第435章に隣接する挿図(1890年版・印刷145頁)
原刊で第435章に隣接する挿図(1890年版・印刷145頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

人や動物の群れでは、その姿あるいは身体の部分を、それが低いほど、また群れの中央に近いほど、つねに暗く描くようにせよ。もともと一様の色であってもそうである。これは必然である。物体を照らす空は、動物の間の低い隙間からは、同じ隙間の上方からよりも少ししか見えないからである。ここに掲げる図によって証明される。abcdを空の弧とし、それに包まれる物体全般を照らすものとする。nmはその間にある空間sfrhを限る物体である。この空間では、場所tが空の部分cdだけに照らされるので、場所eよりも空の少ない部分に照らされることが明らかである。eは空の部分abに面し、それは空cdの三倍ある。したがってeはtの三倍照らされる。

その中に置かれる物体に釣り合う背景について、まず一様な色の平面について

一様な色と光をもつどのような平面も、それと同じ色と光の背景からは離れて見えない。したがって逆に、反対の条件が成り立てば、背景から離れて見える。

絵画、形と物体について

規則的な物体には二種類あり、一つは卵形あるいは球形の曲面に覆われ、他の一つは規則的あるいは不規則な多面の表面に囲まれる。球形あるいは卵形の物体は、その物体が背景と同じ色であっても、つねに背景から離れて見える。多面の物体でも同様である。これは、それらのいずれかの側に陰を生じるようできているからであり、平面ではそうならない。

絵画、物体の小さい部分ほど先に識別できなくなる

目から遠ざかる物体の部分のうち、小さな形のものほど先に識別できなくなる。したがって大きい部分は、最後まで識別が失われない。ゆえに画家よ、目から非常に遠いものの細かな部分を仕上げず、第六で示した規則に従え。

目から遠い都市その他を描く際に、非常に近くにあるかのように建物の境界をきわめて明瞭に描く者がどれほど多いことか。しかしこれは自然において不可能である。どれほど鋭い視力でも、これほど近くでさえ、その境界を真に明瞭に見ることはできない。物体の境界はその表面の境界であり、表面の境界は線だからである。線はその表面の量のいかなる部分でもなく、その表面を覆う空気の部分でもない。したがって何ものの部分でもないものは、幾何学で証明されるように不可視である。画家よ、慣習どおり境界をくっきり明瞭に描けば、どれほど遠い距離を表そうとも、その欠点のためにごく近くに見えてしまう。また、遠い都市に建物の角を描いてはならない。近くでもそれを見ることは不可能だからである。角とは二本の線が一点に集まるところであり、点には部分がなく、したがって不可視だからである。

同じ景観が、ときには実際より大きく、あるいは小さく見える理由

地平線と、それを見る目との間に、通常より濃い、あるいは薄い空気が介在すると、景観はときに実際より大きく、あるいは小さく見える。目から等距離にある地平線のうち、濃い空気を通して見られるものは遠く見え、薄い空気の中で見られるものは近く見える。同じ物を等しい距離から見ると、目と物との間の空気が濃いほど大きく、薄いほど小さく見える。もし百ミッリア先にある物を見て、その百ミッリアが一様で薄い空気で満たされていたとする。そして同じ物を同じ百ミッリア先に見て、その空気が一様で濃く、先の空気の四倍の濃さであったとする。疑いなく、初めに薄い空気の中で見られ、次に濃い空気の中で見られた同じ物は、薄い空気の場合の四倍大きく見える。

大きさの異なる物を同じ距離から見ても、等しく見えることがある。目とその物との間の空気の濃さが異なり、すなわち小さい物との間に濃い空気が介在する場合である。これは色の遠近法によって証明される。それによって、大きな山は見かけの寸法では小さくとも、目の近くにある小さな山より大きく見える。目の近くにある指が遠くの大きな山を覆い隠すことがしばしばあるのと同様である。

絵画

暗さ、大きさ、形、および目からの距離が等しい物のうち、いっそう輝く、あるいは白い背景の上に見られるものほど小さく見える。葉のない木々の背後に見える太陽がこれを教える。太陽の円盤に重なるすべての枝は、それほど細くなって見えなくなる。目と太陽の円盤との間に置かれた棒も同様となる。

直立した、側面が平行の物体は、霧の中に見られると、下部より上部が太く見えるはずである。これは第九の命題、すなわち太陽光線が通り抜ける霧あるいは濃い空気は、低いほど白く見える、という命題によって証明される。

遠くから見る物は釣り合いを失う。これは、明るい部分が、暗い部分よりも強い光線によってその像を目へ送るからである。私は黒い服を着て頭に白い布を載せた女を見たが、その白い布は、黒をまとった肩の幅の二倍にも見えた。

濃い空気の中に見られる都市その他のものについて

原刊で第441章に隣接する挿図(1890年版・印刷147頁)
原刊で第441章に隣接する挿図(1890年版・印刷147頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

霧のときや、炉火の煙その他の蒸気によって空気が濃くなったとき、眼下に見える都市の建物は、低いほど不明瞭であり、逆に高く見えるほどくっきりと明瞭である。これは本書第四の命題、すなわち空気は低いほど濃く、高いほど薄いという命題によって証明される。欄外に置いたその第四の図にこれが示される。塔afは、濃い空気を通して目nから見られるとしよう。その空気は四段階に分けられ、低いほど濃い。

目と見られる物との間の空気の量が少ないほど、その物の色が空気の色を帯びる程度は小さい。したがって目と見られる物との間に空気が多いほど、物は介在する空気の色を強く帯びる。これを示そう。目nに、塔afの五つの部分、すなわちabcdefから五つの像が集まる。私はいう。空気が一様な濃さなら、塔の足元fが帯びる空気の色と、塔の部分bが帯びる空気の色との比は、線fmの長さと線bsとの比と同じである。しかし先に証明したとおり、空気の濃さは一様でなく、低いほど濃い。したがって、空気が塔の部分bとfを染める色の比は、上述の比より大きくなければならない。線mfは線sbより長いだけでなく、濃さが一様な割合で変化する空気の中を通るからである。

雲の隙間を通り抜ける太陽光線について

原刊で第442章に隣接する挿図(1890年版・印刷148頁)
原刊で第442章に隣接する挿図(1890年版・印刷148頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

密度も丸みもさまざまな雲の間の隙間を通り抜ける太陽光線は、交わるすべての場所を照らし、闇をも照らす。そしてその背後にある暗い場所をすべて自らの色に染める。その暗さは、太陽光線の間の隙間に見える。

目の下に、霧や濃い空気に混じって見えるものについて

空気は水や大地に近いほど濃くなる。これは第二書第十九の命題によって証明される。すなわち、重さを多くもつものほど上へ昇らない。したがって軽いものは重いものより高く昇る。それゆえわれわれの主張は証明される。

濃い空気の中に見える建物について

原刊で第444章に隣接する挿図(1890年版・印刷148頁)
原刊で第444章に隣接する挿図(1890年版・印刷148頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

濃い空気の中に見える建物の部分ほど明瞭でなく、逆に薄い空気の中に見える部分ほど明瞭である。したがって目nが塔adを見るとき、低くなる各段階で、その部分はより不明瞭で明るく見え、高くなる各段階で、より明瞭で暗く見える。

遠くから見えるものについて

暗い物は、目から遠いものほど明るく見える。逆に、目の近くにある暗い物ほど暗く見える。したがって濃い空気の中にある物は、その足元が上端より遠く見える。このため、山の近い麓は、実際にはいっそう遠い同じ山の頂よりも遠く見える。

濃い空気の中の都市の眺めについて

濃い空気の中で都市を見下ろす目には、建物の頂部が基部より暗く明瞭に見える。そしてそれらの頂部は、低く濃い空気を背景として見るため、明るい背景の上に見える。これは前述の命題による。

遠い物の下方の境界について

遠い物の下方の境界は上方の境界ほど目立たない。これは山や丘に大いに起こり、その頂は、その後ろにある別の山の斜面を背景とする。これらの山では、上方の境界が基部よりもくっきり見える。上方の境界は、低地にある濃い空気に覆われることが少なく、暗いからである。この空気こそ、丘の基部の境界をぼかすものである。同じことは、空気の中にそびえる樹木や建物その他にも起こる。このため、遠くから見た高い塔は、しばしば上部が太く、足元が細く見える。上部では正面に接する側面の角が見える。薄い空気はそれを隠さないが、濃い空気は足元の角を隠すからである。これは第一書第七の命題による。すなわち濃い空気が目と太陽との間に介在するところでは、下方は上方より明るい。空気が白いところでは、それが青い場合よりも、暗い物をいっそう目から覆い隠す。遠くの城砦の胸壁に、歯状突起の幅と同じ幅の隙間があっても、その隙間のほうが突起よりずっと大きく見えるとおりである。さらに遠くなると、その隙間が突起全体を覆い隠し、その城砦は歯状突起のない、まっすぐな壁だけを示す。

遠くから見えるものについて

より遠い距離から見られる対象ほど、その境界は不明瞭になる。

遠い風景が帯びて見える青について

目から遠い物のうち、それが何色であれ、本来の性質によって、あるいは偶然の条件によって暗いものほど青く見える。本来の暗さとはそれ自体が暗いことであり、偶然の暗さとは、他の物体がつくる影によって暗くなることである。

物体のどの部分が距離によって認識できなくなるか

物体の小さい部分ほど、長い距離によって最初に認識が失われる。これは等距離では、小さい物の像が大きい物よりも小さな角度で目に届き、遠い物の認識は、その物が小さいほど不明瞭になるからである。したがって遠距離で大きい物がきわめて小さな角度で目に届き、ほとんど認識できなくなるとき、小さい物はまったく認識できなくなる。

物が目から遠ざかるほど識別しにくくなる理由

目から遠い物ほど不明瞭になる。これは、最も細かな部分が最初に失われ、次いでそれほど細かくない部分も、より遠くでは失われるからである。このように順々に少しずつ部分が消えるにつれ、遠い物の認識も失われ、ついには全体とともにすべての部分が失われる。また、目と見られる物との間に介在する空気の濃さのため、色も失われる。

側面の平行な塔が霧の中では上部より足元で狭く見える理由

側面の平行な塔は、霧の中に遠く見られると、上部より足元で細く見える。その背景となる霧が、上方より下方で濃く白いからである。そこで本書第三の命題、白い背景に置かれた暗い物は目に見える大きさが減るという命題、およびその逆、暗い背景に置かれた白い物は明るい背景の場合より太く見えるという命題により、次のことが帰結する。暗い塔の下部は、低く濃い霧の白さを背景とするため、その霧が塔の下部の境界にかぶさって広がって見え、それを小さくする。しかし塔の上部の境界では霧は薄いので、これを行えない。

顔が遠くからは暗く見える理由

われわれの前にある、大小あらゆる見える物の像が、目の小さな開口を通って感覚に入ることは明らかである。これほど小さい入口を天地の広大さの像が通るのだから、それほど大きな物の像の中でほとんど無に等しい人の顔は、距離によって縮小され、その開口のごく小さな部分しか占めず、捉えられなくなる。そしてその像は、表面から感覚の受容部へ、暗いように見える中空の神経という暗い媒体を通らねばならない。その像の色は強くないので、通路の暗さに染まり、受容部に達すると暗く見える。他の原因では、このことを十分に説明することはできない。開口の中の点が黒いのは、空気のような透明な液で満たされているからであり、板に開けた穴を眺めると黒く見えるのと同じ働きをする。また明るい空気や暗い空気を通して見られる物は、暗さの中で混じり合う。

注 視覚器官と像の伝達に関する歴史的説明を原文のまま訳した。

ある距離から見た人が誰であるか分からない理由

縮小の遠近法は、物が遠いほど小さくなることを示す。一射程ほど離れた人を見て、目のそばに小さな針の穴を置けば、その穴を通して、多くの人が目へ像を送るのを見ることができ、それらすべては同時にその穴に収まる。したがって一射程離れた人が目へ送る像が、針の穴の小さな一部分しか占めないなら、そのような小さな形の中で、鼻、口、あるいは身体のどの小部分を見分け、見ることができようか。それが見えなければ、人々の姿をそれぞれ異ならせる身体の部分を示さないその人を、見分けることはできない。

目から遠ざかる物体で、最初に識別が失われる部分と、最も長く保たれる部分

目から遠ざかる物体の部分のうち、最も小さい形のものが、その明瞭さを最も保ちにくい。これは球体や円柱体の光沢、および身体の細い部分に起こる。たとえば鹿は、その胴体よりも先に脚や角の像、すなわち似姿を目に送らなくなる。胴体は太いため、その像をより長く保つ。しかし距離によって最初に失われるものは、物体の表面と形を限る輪郭線である。

線遠近法について

線遠近法は視線の働きを扱い、第二の物が第一の物より、第三の物が第二の物よりどれほど小さいかを、見える物の最後に至るまで段階的に、測定によって証明する。経験によれば、第二の物が第一の物から、第一の物とあなたの目との距離と同じだけ離れていると、両者の大きさは等しくても、第二は第一より小さくなる。また第三の物が、その前にある第一、第二と同じ大きさで、第二から第一と第二との隔たりだけ離れていれば、第一の三分の一の大きさとなる。こうして等間隔で順々に、第二は第一に対してつねに比例した縮小を示す。ただしその間隔は二十ブラッチャより内側に入らないものとする。その二十ブラッチャの間に、あなたと同じ人物像は大きさの四分の二を失い、四十では四分の三、六十ブラッチャでは六分の五を失い、このように順次縮小する。その際、画面をあなたから身長の二倍だけ離して置く。身長一つ分にすると、最初のブラッチャと次のブラッチャの間に大きな差が生じるからである。

注 距離の条件と数値の関係には原文上不明瞭なところがあるが、数値を変更せず訳した。

霧の中に見える物体について

霧の中に見える物は、実際の大きさよりはるかに大きく見える。これは目とその対象の間の媒体がつくる遠近の効果において、その色が対象の大きさと一致しないためである。その霧は、晴天のとき目と地平線の間に介在するぼんやりした空気に似ている。このため、目の近くにある物体を、近くの霧の向こうに見ると、地平線の距離にあるように見える。そこでは非常に大きな塔でも、近くにいる前述の人より小さく見えるはずなのである。

霧の中に見える建物の高さについて

近くの建物では、地面から遠い部分ほどぼんやり見える。これは目と建物の頂部との間には、目と基部との間より多くの霧があるからである。霧の中で遠くから見た、側面の平行な塔は、基部に近いほど細く見える。これは先の命題、霧は地面に近いほど白く濃く見える、という命題と、本書第二の命題、暗い物はより強い白さをもつ背景の上に見られるほど小さな形に見える、という命題による。したがって霧は上部より足元で白いので、その塔の暗い姿は、上部より足元で狭く見えるはずである。

夕方あるいは朝、霧の中に見える都市その他の建物について

夕方あるいは朝、霧や濃い空気の中で遠くから見える建物では、地平線のほうにある太陽に照らされた部分の明るさだけが現れる。太陽に面しない建物の部分は、ほとんど霧の中程度の暗さの色のまま残る。

霧の濃さが一様でも、遠くにある高い物が低い物より暗い理由

原刊で第460章に隣接する挿図(1890年版・印刷153頁)
原刊で第460章に隣接する挿図(1890年版・印刷153頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

霧その他の濃い空気の中に置かれた物は、それが蒸気、煙、あるいは距離によるものであれ、高いほど明瞭になる。また高さの等しい物のうち、より深い霧を背景とするものほど暗く見える。これは目hの場合に起こる。互いに同じ高さの塔abcを見ると、第一の塔の頂cは、霧の深さの二段階だけ低いrを背景として見える。一方、中央の塔の頂bは、霧の一段階のみを背景として見える。したがって頂cは、塔の頂bより暗く見える。

遠くから見える物体の陰の斑について

原刊で第461章に隣接する挿図(1890年版・印刷153頁)
原刊で第461章に隣接する挿図(1890年版・印刷153頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

喉や、上に何らかの突出部をもつ垂直な部分は、つねにその突出部の垂直な面より暗い。したがって同じ光のより多くの部分に面する物体ほど、明るく見える。aには空fkのどの部分も光を与えず、bには空ik、cには空hk、dには空gkが光を与え、eには空fk全体が光を与えるのを見よ。したがって胸は額、鼻、顎と同じ明るさとなる。ただし顔について注意してほしいのは、距離によってさまざまな種類の陰が失われ、眼窩その他の主要な斑だけが残り、最後には顔が暗くなることである。顔の明部は中間の陰に比べて小さいので消失する。このため距離が増すと、主要な明部と陰の質と量が失われ、すべての性質が中程度の陰へ混じり合う。これが、樹木その他あらゆる物体が、ある距離では、同じものを目の近くに置いたときよりも、それ自体として暗く見える理由である。その暗さは、目と物との間の空気の中では、物を明るくし青みへ傾かせる。ただし青みは明るい部分より陰に強く現れ、明るい部分には色の真実がより多く現れる。

日暮れに白い壁に生じる物体の影が青い理由

原刊で第462章に隣接する挿図(1890年版・印刷154頁)
原刊で第462章に隣接する挿図(1890年版・印刷154頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

地平線近くの太陽の赤みがつくる物体の影は、つねに青くなる。これは第十一の命題、あらゆる不透明な物体の表面は向かい合う物の色を帯びる、という命題による。したがって、あらゆる色をまったく欠く壁の白さは、向かい合う物の色に染まる。この場合、それは太陽と空である。太陽は夕方に赤みを帯び、空は青を示すからである。影のあるところは太陽に面しない。これは陰影に関する第八の命題、発光体はそれ自身がつくった影を決して見ない、による。その壁の、太陽に面しないところは空に面する。したがって上述の第十一によって、派生する影が白い壁に落ちるところは青くなり、太陽の赤みに面するその影の周囲は赤色を帯びる。

煙はどこで最も明るいか

太陽と目との間に見える煙は、その煙が生じる景観の他のどの部分よりも明るく輝く。塵と霧も同様である。一方、あなたが太陽とそれらの間にいれば、それらは暗く見える。

塵について

動物の走行によって舞い上がる塵が太陽と目の間にあるとき、高く上がるほど明るく、低いほど暗くなる。

煙について

煙は、その丸い塊の中央へ向かうよりも、縁へ向かうほど透明で暗くなる。

煙は、それを動かす風が強いほど、いっそう斜めに動く。

煙には、それを生み出す物の種類と同じほど多様な色がある。

煙は境界の明瞭な影をつくらず、その縁は発生源から遠いほど不明瞭になる。その後ろにある物は煙の塊が濃いほど見えにくくなる。また煙は、発生の始まりに近いほど白く、終わりに向かうほど青くなる。

目と火の間に介在する煙の量が多いほど、火は暗く見える。

煙が遠いところほど、物は煙によって覆い隠されることが少ない。

濃い霧のような煙で覆われた風景を描け。その中のさまざまな場所に煙が見え、その根元の炎が、煙の最も濃い丸い塊を照らすようにせよ。そして霧に見られるように、高い山々はその麓より明瞭にせよ。

絵画

あらゆる不透明な物の表面は向かい合う物の色を帯び、その表面が白さに近づくほど、その度合いは大きくなる。

あらゆる不透明な物の表面は、目とその表面との間の透明な媒体の色を帯びる。その媒体が濃いほど、あるいは目とその表面との間でより大きな距離を占めるほど、その度合いは大きくなる。

不透明な物体の境界は、それを見る目から遠いほど不明瞭になる。

不透明な物体の部分について

不透明な物体の部分は、それを暗くする陰の物体に近いほど陰が深くなり、それを照らす発光体に近いほど明るくなる。

あらゆる不透明な物体の表面は向かい合う物の色を帯びるが、その影響は、向かい合う物が近いか遠いか、またその力が強いか弱いかによって強く、あるいは弱くなる。

光と陰との間に見られる物は、光の中や陰の中にある物より大きな立体感を示す。

絵画の心得

遠距離にある物を明瞭にくっきりと描けば、それらは遠くでなく近くに見える。したがって模写するときは、距離が示すだけの識別の程度を物に与えよ。目の前の物の境界がぼんやりして不確かなら、描く像も同様にせよ。

遠い物の境界がぼんやり不確かに見えるのには、二つの異なる原因がある。一つは、それが非常に小さな角度で目に届き、きわめて小さい物の働きをするほど縮小されることである。たとえば蟻の足指の爪のように、目の近くにあってもどのような形か目が捉えられない物と同じになる。第二は、目と遠い物との間にあまりに多くの空気が介在するので、厚く濃くなることである。その白さによって陰を染め、白さのヴェールで覆い、白と黒の間にある青という色の暗さにする。

遠距離によって多くの物のありさまが認識できなくなっても、太陽に照らされる物はより確かに姿を現し、他の物はぼんやりした霧に包まれて見える。空気は低くなる各段階で濃さを増すため、低い物ほどぼんやり見え、逆も同様である。

太陽が地平線の雲を赤くすると、距離によって青をまとっていた物はその赤みを帯びる。そこで青と赤が混ざり、風景を非常に明るく楽しいものにする。その赤みに照らされる密な物体は、どれも非常に明瞭になり、赤みを帯びる。また空気は透明なので、その全体に赤みが浸透し、ユリの花の色に見える。

日の出や日の入りに、太陽と大地との間にある空気は、つねに他のどの空気の部分よりも、背後にある物を覆い隠す。これはその空気がいっそう白みを帯びるためである。

白い物の境界について

別の物を背景とする物体の境界に輪郭線を引いてはならない。その物体だけでおのずと際立つようにせよ。

白い物の境界が別の白い物に重なり、それが曲面であれば、その性質によって暗い境界が生じ、その明るい部分の中で最も暗い部分となる。暗い場所を背景とすれば、その境界は明るい部分の中で最も明るく見える。

自分と最も異なる背景の上にある物ほど、他の物からいっそう離れ、際立って見える。

遠距離では、同じような色の物体で、一方の境界が他方に重なるものの境界が最初に失われる。たとえば一本の樫が同様の樫に重なる境界である。第二に、より遠くでは、中間色の物体が互いに重なる境界が失われる。たとえば緑、すなわち樹木、耕地、壁、その他山や岩の崩れなどである。最後に失われるのは、明るい物が暗い物に、暗い物が明るい物に接している境界である。

心得

原刊で第470章に隣接する挿図(1890年版・印刷157頁)
原刊で第470章に隣接する挿図(1890年版・印刷157頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版
原刊で第470章に隣接する挿図(1890年版・印刷158頁)
原刊で第470章に隣接する挿図(1890年版・印刷158頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版
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原刊で第470章に隣接する挿図(1890年版・印刷158頁)
原刊で第470章に隣接する挿図(1890年版・印刷158頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

同じ高さで目より上にある物のうち、目から遠い物ほど低く見える。目より下にあるなら、目に近い物ほど低く見える。また平行な側線は一点に集まる。

遠い場所では、川の周囲にある物は、川や沼から離れた物より明瞭でない。

密集の度合いが等しい物のうち、目に近いものほど疎らに見え、遠いものほど密に見える。

瞳孔が大きい目ほど、対象を大きな形として見る。これは紙に針で開けた小さな穴を通して天体を見ると分かる。目の開口のごく一部分しか働けないため、その天体は、それを見る開口の部分が全体に足りない分だけ、大きさを減じるように見える。

目と物との間にある濃い空気は、その物の境界を不確かでぼんやりしたものにし、その対象を実際より大きな形に見せる。これは線遠近法が、像を目へ運ぶ角度を縮めない一方、色の遠近法は物を実際より遠くへ押しやるためである。したがって一方は物を目から遠ざけ、他方はその大きさを保つ。

太陽が西にあるとき、降りてくる霧は空気を濃くし、太陽に面さない物は暗くぼんやりしたままとなる。太陽に照らされる物は、地平線に現れる太陽の色に応じて赤みや黄みを帯びる。また、それに照らされる物は非常に明瞭で、とりわけ都市や村の建物、家々はそうである。その陰が暗いためであり、その確かな姿は、ぼんやり不確かな土台から生じるように見える。太陽に面さない物は、どれも一つの色だからである。

太陽が西にあるとき、それとあなたとの間にある雲は、太陽に面するので下から照らされる。他の、こちら側の雲は暗いが、その暗さは赤みを帯びる。透明な雲には陰が少ない。

太陽に照らされる物は空気にも照らされるので、二つの影が生じる。そのうち中心線が太陽の中心へまっすぐ向かう影ほど暗くなる。一次の光と派生する光の中心線は、つねに一次の陰あるいは派生する影の中心線と一致する。

西にある太陽は美しい眺めをつくる。都市や城の高い建物をすべて照らし、野の高い樹木を照らし、自らの色に染める。その下にある他のすべては立体感が乏しい。空気だけに照らされ、陰と光の違いが小さく、そのためあまり際立たないからである。その中でも高くそびえる物は太陽光線に触れ、すでに述べたとおり、その色に染まる。したがって太陽を描く色を取り、それらの物体を照らすのに使う明るい色のすべてに、その色を加えなければならない。

また、離れた別の雲の影を受けていないのに、一つの雲が暗く見えることがしばしばある。これは目の位置による。近い雲については陰の部分だけを見、他の雲については陰と明るい部分の両方を見るからである。

高さが等しい物のうち、目から遠いものほど低く見える。第一の雲は第二より低いのに、それより高く見えることに注意せよ。これは壁面上で、低い第一の雲の視錐がnoで切られ、高い第二の雲の視錐がonより下のnmで切られることによって示される。これは日の出あるいは日の入りの太陽光線で明るい雲よりも、暗い雲が高く見えるときに生じる。

描かれた物は、それより遠い物と同じ大きさの視角で目に届いても、実際に遠い物ほど遠く見えない理由

原刊で第471章に隣接する挿図(1890年版・印刷158頁)
原刊で第471章に隣接する挿図(1890年版・印刷158頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

壁abに、一ミッリオ離れて見えるはずの物を描き、その隣に、実際に一ミッリオ離れた物を置くとしよう。この二つは、壁面acが両方の視錐を同じ大きさで切るよう配置されている。それでも両眼では、決して同じ距離にあるようには見えない。

絵画

描かれた物の背景は絵画のきわめて重要な部分である。その背景の上では、凸曲面をもつ自然の物体の境界によって、物体の形がつねに識別できる。物体と背景の色が同じでもそうである。これは凸曲面の境界が、同じ光に照らされる背景と同じ仕方で照らされないからであり、その境界はしばしば背景より明るいか暗い。しかしその境界が背景と同じ色なら、その絵の部分では、境界の形の認識が確実に妨げられる。良い画家の才知は、このような絵画上の選択を避けなければならない。画家の意図は物体を背景より手前に見せることだが、上述の場合には、絵画ばかりか立体物でも逆のことが起こるからである。

画家の作品について下すべき判断

まず人物像を見て、その位置と、それを照らす光が求める立体感を備えているか、また場面の端の陰が中央の陰と同じになっていないかを考えよ。陰に囲まれることと、片側だけに陰をもつことは別だからである。場面の中央へ向かう人物は、光との間にある人物によって陰にされるため、陰に囲まれる。光と場面の間に置かれた人物は、片側だけに陰をもつ。光に面しないところは場面に面し、その場面の暗さを映し、場面に面しないところは光の輝きに面し、その明るさを映すからである。

第二に、人物の散らし方、あるいは配置が、その場面で表したい出来事に合っていること。

第三に、人物がそれぞれの行為に生き生きと意識を向けていること。

目から遠い人物像の立体感について

目から遠い不透明な物体ほど、立体感が乏しく見える。これは、目とその物体の間の空気が、物体の陰よりも明るいため、その陰を損ない、明るくし、暗さの力を奪うからである。これによって物体は立体感を失う。

照らされた身体部分の境界について

照らされた身体部分の境界は、より明るい背景に見られるほど暗く見え、より暗い背景に見られるものは明るく見える。その境界が平面に属し、自身の明るさに似た明るい背景に見られるなら、境界は知覚できない。

境界について

第二の物の境界は、決して第一の物ほど明瞭ではない。したがって画家よ、第四の物を第五の物に接して区切るとき、第一を第二に接して区切るのと同じ明瞭さにしてはならない。一つの物が他の物に接する境界は数学的な線の性質をもつが、線そのものではないからである。一つの色の終わりは別の色の始まりであるが、それを線と呼んではならない。他の色の前に置かれた色の境界の間には、その境界自体を除いて何も介在しないからである。しかも境界は近くでも知覚できないものである。したがって画家よ、遠い物にそれを強く表してはならない。

目から遠い肉色と人物像について

画家は目から遠い人物や物に、境界を定めず、ぼんやりした縁をもつ色の斑だけを置くべきである。そのような人物を選んで観察するのは、曇りの日か夕方とせよ。そして何よりも、述べたとおり、輪郭の明瞭な明部と陰を避けよ。それらは遠くから見るとただの色斑に見え、作品は堅苦しく優美さを欠くものになるからである。また、物体が置かれる場所が暗闇でないかぎり、陰の暗さによって、陰が生じる場所の色を失うことが決してないよう記憶せよ。輪郭線を引かず、髪を一本ずつ描き分けず、白い物以外に白いハイライトを置かず、それらのハイライトには、それが置かれる色の本来の美しさを示させよ。

絵画

不透明な物体の各部分の境界と形は、その陰の中や明部の中ではよく識別できない。しかし光と陰との間の部分では、物体の各部分は最も明瞭に認識される。

絵画についての論考

絵画に関わる遠近法は、主要な三部分に分けられる。第一は、異なる距離における物体の大きさの縮小についてである。第二は、その物体の色の減衰を扱う。第三は、さまざまな距離において、物体の形と境界の認識が弱まることについてである。

絵画

空気の青は、光と闇から成る色である。光というのは、空気の中に混じった湿気の微粒子において空気が照らされるためである。闇というのは、原子、すなわち太陽光線が当たる湿気の粒子に分かれていない純粋な空気を指す。この例は、目と暗い山との間の空気に見られる。山は、その上にある多くの樹木の陰によって、あるいは太陽光線の当たらない部分において暗い。その空気は青くなるが、山の明るい部分では青くならず、雪に覆われた部分ではなおさらそうである。

暗さも距離も等しい物のうち、より白い背景に接するものほど暗く見え、逆も同様である。

白と黒で描いたものは、他のどのものよりもよく立体感が現れる。したがって画家よ、できるだけ明るい色で人物を着飾ることを覚えておけ。暗い色にすれば立体感に乏しく、遠くからは不明瞭となる。あらゆる物の陰は暗いからである。暗い衣服を描けば、光と陰の違いは小さく、明るい色ではその差が大きくなる。

等しい大きさの二つの物では、描かれた物が立体物より大きく見える理由

この理由は、他の多くのことと同様、簡単には証明できない。それでも完全にとはいかなくとも、できるかぎり納得させるよう努めよう。縮小の遠近法は、物が目から遠いほど小さくなることを理論によって示し、この理論は経験によってよく確かめられている。そこで対象と目の間にある視線は、絵画の表面まで伸びると、すべて同じ境界で切られる。一方、目と彫刻との間の線は、終点と長さがさまざまである。他の部分より遠い身体部分に伸びる線は長く、それゆえその部分は小さく見える。ほかより長い線が多く存在するのである。そして小さな部分の多くが互いに異なる距離にあり、遠いものほど小さく見えなければならないため、それらの縮小によって対象の総体も小さくなる。絵画にはこれは起こらない。線が同じ距離で終わるので、縮小がないはずだからである。したがって縮小されない部分は対象の総体を小さくしない。このため絵画は彫刻のようには縮小しない。

自然を完全に写したものが、自然そのものと同じ立体感を示さない理由

原刊で第482章に隣接する挿図(1890年版・印刷162頁)
原刊で第482章に隣接する挿図(1890年版・印刷162頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

輪郭、陰、光、色を最高の完全さで模倣した絵画でも、自然そのものと同じ立体感を示すことは不可能である。ただし自然を遠距離から片目で見る場合は別である。証明しよう。両目をabとし、それらの中心線acとbcが対象の点cに集まることによって対象cを見るとする。その中心線の脇の別の線は、対象の背後の空間gdを見る。そして目aは空間fd全体を、目bは空間ge全体を見る。したがって両目は対象cの背後の空間fe全体を見る。それゆえ、その背後に何も隠れないという透明性の定義に従えば、対象cは透明なままである。このことは、一つの目で、その目より大きい対象を見る者には起こりえない。また欄外に示すように、瞳孔よりはるかに小さい対象を見る目にも起こりえない。以上からわれわれの問題を結論づけることができる。描かれた物は、その背後の空間をすべて覆うため、その周囲の線の内側にある背後の背景のいかなる部分も、どのような方法でも見ることはできないからである。

注 「瞳孔よりはるかに小さい対象」に関する文を含め、原文の光学上の論述をそのまま保持した。

目に近い立体物と遠い立体物では、どちらがより浮き出て見えるか

原刊で第483章に隣接する挿図(1890年版・印刷162頁)
原刊で第483章に隣接する挿図(1890年版・印刷162頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

目に近い不透明な物体ほど、大きな立体感を示す。したがって遠い物ほど立体感が乏しく、すなわち背景からの分離が弱く見える。証明しよう。pを対象phの前面とし、それは目aに、対象nmの前面nより近いとする。背景dpは、上述の二つの対象の背後に目aから見えるはずのものである。さて目aは対象phの向こうに背景df全体を見るが、第二の対象nmの背後には背景の部分dgしか見ない。したがって、二つの対象の立体感の現れ方の比は、背景同士の比、すなわち背景dgと背景dfとの比と同じであるということになる。

心得

原刊で第484章に隣接する挿図(1890年版・印刷163頁)
原刊で第484章に隣接する挿図(1890年版・印刷163頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

立体物を近くから片目で見ると、完全な絵画に似て見える。

両目abで点cを見れば、そのcはdfに見える。目gだけで見るなら、hはmに見える。絵画は決してこの二つの違いを自身のうちにもたない。

物を背景、すなわち描かれた壁面から際立たせる方法

原刊で第485章に隣接する挿図(1890年版・印刷163頁)
原刊で第485章に隣接する挿図(1890年版・印刷163頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

物は暗い背景よりも、明るく照らされた背景の上で、はるかに大きな立体感を示す。その理由はこうである。人物像に立体感を与えたければ、光から遠い身体部分ほど、その光を受ける量を少なくする。するとそこは暗くなり、さらに暗い背景に接すれば、境界はぼんやりする。したがって反射光がなければ作品は優美さを失い、遠くからは明るい部分だけが見え、暗い部分は背景そのものに属するように見える。このため物は切り取られたように見え、その暗さに応じて、本来あるべき立体感より乏しくなる。

心得

人物像は、局所的で小さな光よりも、全般的な光の中に置かれるほうが優美である。強くない大きな光は身体の起伏を包み、そのような光のもとで作られた作品は、遠くから優美に見えるからである。小さな光のもとで写されたものは多量の陰を受け、そのような陰を使った作品は、遠くからはつねに単なる色斑にしか見えない。

人物像がしばしば作者に似ることについて

こうなるのは、われわれの判断力が、満足するまでさまざまな向きの人物像の輪郭を作るよう、手を動かすからである。この判断力は魂の能力の一つであり、魂はそれによって、自分が住む身体の形を望むままに組み立てた。したがって手で人の身体を再び作る際には、魂は最初に自らが考案した身体を、好んで作り直すのである。このことから、恋をする者は自分に似たものを好んで愛することも生じる。

世界のさまざまな地方を描くことについて

また次のことにも注意せよ。海辺の地方、あるいはそれに近い南向きの地方では、海から遠い北方の地方に描くのと同じような冬の姿を、樹木や牧草地に描いてはならない。ただし毎年葉を落とす樹木は別である。

一年の四季、あるいはそれに属するものを描くことについて

秋には、その季節の進み具合に従って物を描け。すなわち初めには、樹木の古い枝の葉が青ざめ始める。その度合いは、木がやせた場所か肥えた場所かによって異なる。また最初に実をつけた種類の樹木の葉は、いっそう青ざめ、赤みを帯びる。多くの人がするように、あなたからの距離が等しいからといって、あらゆる種類の樹木を同じ緑にしてはならない。牧草地についても、植物についても、さまざまな地面、岩、上述の木々の根元についても、つねに変化をつけよ。自然は無限に変化するからである。種類の間ばかりか、同じ植物の中にもさまざまな色を見いだす。すなわち若い小枝の葉は、他の枝の葉より美しく大きい。自然は変化に富み、その変化がたいへん喜ばしいので、同じ種類の樹木の間にも、近くで見れば別の一本と似た木は見つからない。木ばかりか、その枝、葉、果実にも、別のものと正確に似たものは一つも見つからない。したがってよく注意し、できるかぎり変化をつけよ。

描かれた風について

風を描くときには、枝を曲げ、風の来るほうへ葉を裏返すほかに、濁った空気に混じる細かな塵の雲を描くべきである。

雨の降り始めについて

雨は空気の中を落ち、それを鉛色に暗く染める。一方の側には太陽の光を受け、反対側には陰を帯びる。霧に見られるとおりである。また、その雨によって太陽の輝きを奪われる大地は暗くなる。雨の向こうに見える物の境界はぼんやりして見分けられず、目に近い物ほど明瞭となる。また陰になった雨の中に見える物は、照らされた雨の中の物より明瞭となる。これは暗い雨の中の物が主要な明部だけを失うのに対し、明るい雨の中の物は光と陰の両方を失うためである。明るい部分は照らされた空気の明るさに混じり、陰の部分も同じ明るい空気によって明るくされるからである。

風雨の嵐の構成について

嵐、あるいは海の暴風雨が近づくと、空気は暗い雲に染まって見える。それは雨と風の混合であり、天空から威嚇する稲妻が曲がりくねった道筋を蛇行する。樹木は地面へ曲げられ、垂れ下がる枝の上で葉を裏返し、恐ろしくすさまじい風の飛翔の打撃におびえ、その場所から逃げようとしているように見える。その風の中へ、海辺の塵や砂の乱れた渦巻く流れが注ぎ込む。空の暗い地平線は煙のような雲の背景となる。反対側の雲の裂け目を通った太陽光線がそれらを打ち、地面にも当たって、その当たるところを照らす。塵を追い立てる風は、塊状の丸い雲となる塵を空中へ跳ね上げ、その灰色に、塵を貫く赤い太陽光線の色が混じる。導き手のない動物たちは、おびえてさまざまな場所をぐるぐる走り回る。丸く盛り上がった雲の中に生じる雷鳴は、荒れ狂う稲妻を放ち、その光は陰になった野を各所で照らす。

橋が下の水面につくる影について

原刊で第493章に隣接する挿図(1890年版・印刷165頁)
原刊で第493章に隣接する挿図(1890年版・印刷165頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

橋の影は、水が濁りによって鏡としての働きを失わないかぎり、その水上には決して見えない。これは次のように証明される。澄んだ水は光沢のある滑らかな表面をもち、目と橋との間で角度の等しくなるすべての場所に橋を映す。また橋の下で、その橋の影があるはずの場所には空を映す。濁った水は鏡として働かないので、これを行えない。しかし埃っぽい道路と同じように、影を受けることはできる。

澄んだ水の表面と底との間にある明暗の場所に重なる、明るい像と暗い像について

原刊で第494章に隣接する挿図(1890年版・印刷166頁)
原刊で第494章に隣接する挿図(1890年版・印刷166頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

暗い、あるいは明るい対象の像が、水底と水面の間にある物体の暗い部分や明るい部分に重なるとき、暗い像に覆われた物体の陰の部分はいっそう暗くなり、その明るい部分も同様となる。しかし明るい像が陰と明部に重なるなら、その物体の照らされた部分はいっそう明るくなり、陰は強い暗さを失う。そしてその物体は、暗い像を受ける物体より立体感が乏しく見える。これは述べたとおり、暗い像が不透明な物体の陰を深めるからである。それらの物体は、水面を通る太陽に照らされ、その陰は明部と大きく異なるが、さらに水の表皮に映る暗い像の暗さによって陰が加わる。こうしてそれらの物体の陰は増し、いっそう暗くなる。暗い像は、水中に沈んだそれらの物体の明部をも染めるが、太陽光線の当たることによって得られる明るさは失われない。その明るさが暗い像によって多少変わっても、害は少ない。陰の部分にもたらす利点がそれほど大きいため、水中の物体は、明るい像によって変えられたものよりはるかに強い立体感をもつからである。明るい像は、明部も陰も明るくするが、陰の変化があまりに明るいため、その場所の水中の物体は立体感が乏しく見える。水域nmtvの澄んだ水の底に、砂利、草、その他の不透明な物体があり、太陽dから来る光線によって照らされるとしよう。そして砂利の一部の上には、その水面に映る像があり、別の部分の上には空の像bcsmがあるとする。私はいう。暗い像に覆われた砂利は、明るい像の輝きに覆われた砂利よりよく見える。その理由は、暗い像を受ける部分が、明るい像を受ける部分より見えやすいことにある。水に映る空によって明るくなった水面の部分は、視力を圧倒し損なうが、暗くなった水面の部分は視力を強めるからである。この場合、目の瞳孔の能力は一様ではない。一方では過剰な光によって損なわれ、他方では暗さによって高められる。

したがって以上に述べたことは、その水やその像から離れた原因によってのみ生じる。すなわちそれは目だけから生じるのであり、目は空の像の輝きに損なわれ、他方では暗い像によって力を増すのである。

澄んだ水では、その底が表面を通して見えることについて

原刊で第495章に隣接する挿図(1890年版・印刷167頁)
原刊で第495章に隣接する挿図(1890年版・印刷167頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

透明で底の見える水では、その動きが遅いほど底がくっきり見える。これは動きの遅い水では表面に波がなく、表面が平らなため、水底の砂利や砂の真の形が見えるからである。流れの速い水では、表面に生じる波のため、このことは起こらない。砂利のさまざまな形の像は波を通らねばならないが、波はそれを目へ運べない。波の側面と前面のさまざまな傾き、曲がり、頂、および谷間が、像をわれわれの直線的な視野の外へ運び、その像の直線をさまざまな向きへ曲げるので、形が混乱して見えるからである。これは曲がりくねった鏡、すなわち直線、凸面、凹面を混ぜた鏡によって示される。

水の泡について

水の泡は、水面から遠いものほど白さが少なく見える。これは本書第四の命題、水中に沈んだ物の自然の色は、その上にある水の量が多いほど水の緑色へ変化する、によって証明される。

絵画の心得

原刊で第497章に隣接する挿図(1890年版・印刷167頁)
原刊で第497章に隣接する挿図(1890年版・印刷167頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

遠近法は絵画の手綱であり舵である。

描かれた人物像の大きさは、それがどの距離から見られているかを示すべきである。

人物像を等身大に見るなら、それは目の近くにあるように見えると知れ。

心得

原刊で第498章に隣接する挿図(1890年版・印刷167頁)
原刊で第498章に隣接する挿図(1890年版・印刷167頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

臍は、つねに臍より上にある重量の中心線上にある。これは人の自然の重さと同様、付加された重さも考慮する。腕を伸ばすとこれが示される。その先の拳は、竿秤の端に置かれた釣合い錘と同じ働きをする。したがって拳によって付加される重さと同じだけの重さを、必然的に臍の反対側へ移さなければならず、その側の踵を上げる必要がある。

すべて絵画に属する目の十の働きについて

絵画は目の十の働きすべてに及ぶ。すなわち闇、光、物体、色、形、位置、遠さ、近さ、運動、静止である。私のこの小著は、それらの働きによって織り上げられる。そして画家に対し、自然の仕事であり世界の装いであるこれらすべてを、自らの技でどのような規則と方法によって模倣すべきかを思い起こさせる。

彫像について

大理石の像を作りたければ、まず粘土の像を作れ。それを仕上げて乾かしたら、箱に入れよ。その箱は、像を取り出したあとに、粘土像に似せた像を彫るための大理石も収められる大きさにしておく。それから箱に粘土像を入れ、箱の穴にちょうど通る棒を用意し、各穴から押し込み、各々の白い棒が像のさまざまな場所に触れるようにせよ。箱の外に残る棒の部分を黒く塗り、棒とその穴に合印を付け、いつでも対応させられるようにする。そして粘土像を箱から取り出し、大理石の塊を入れよ。すべての棒が印まで穴に入るようになるまで、大理石を削れ。これをよりよく行うため、箱全体を上へ持ち上げられるようにし、その底はつねに大理石の下に残るようにせよ。こうすれば工具によって、非常に容易に削り取ることができる。

永続するニスを備えた絵画を作る方法

枠に張ってよく整えた平らな紙の上に絵を描き、次に、よく砕いた瀝青と煉瓦で、しっかりと厚い下地を施せ。それから鉛白とジャッロリーノの下地を施し、彩色し、古く澄んだ濃い油でニスがけし、よく平らなガラスに貼り付けよ。ただし、よく施釉した平らな陶製の板を作り、その釉の上に鉛白とジャッロリーノの下地を置くほうがよい。次に彩色してニスをかけ、澄んだニスで透明なガラスを貼り付ける。しかしまず、彩色を暗い乾燥炉でよく乾かし、それから胡桃油と琥珀、あるいは日光で濃くした胡桃油でニスをかけよ。薄く平らなガラスを作りたければ、磨いた青銅板または大理石板二枚の間でガラス球を吹き、息で破裂するまで膨らませよ。すると平らで、曲げられるほど薄いガラスとなり、それをニスで絵に貼り付ける。このガラスは薄いため、いかなる衝撃でも割れない。また、熱した炉の上で熱した板ガラスを縦横に引き伸ばすこともできる。

注 顔料名ジャッロリーノは歴史的な黄色顔料の名称。材料と耐久性に関する主張は原文の歴史的記述を保持した。

布に彩色する方法

布を枠に張り、薄い膠を塗って乾かし、下描きし、剛毛の筆で肉色を置き、まだ湿っているうちに望むように陰をぼかせ。肉色は鉛白、レーキ、ジャッロリーノとする。陰は黒、マヨリカ、少量のレーキ、あるいは硬いラピスとする。ぼかし終えたら乾かし、そのあとレーキとゴムで乾いた面を加筆せよ。それらはゴム水とともに長く液状にしておいたものがよい。光沢を出さず、その働きをするからである。

さらに陰を暗くするには、上述のゴムを加えたレーキと墨を取れ。この陰色は透明なので、多くの色に陰をつけられる。青やレーキにも陰をつけられるが、私がいうのは陰の側である。明部の側では、媒材を加えていないレーキの上に、単にゴムを加えたレーキで陰をつける。媒材を加えていないものは、媒材で練って乾いた辰砂の上に薄く重ねられるからである。

注 マヨリカ、硬いラピス、および媒材を意味する tempera の具体的な材料や処理は原文のみでは確定できないため、語を保持して訳した。

都市の煙について

太陽が東にあるとき、煙は西側より東側においてよく、くっきり見える。これは二つの原因による。

第一に、太陽がその光線で煙の微粒子を透かして照らし、それらを明るく明瞭にすること。

第二に、その時刻に東側に見える家々の屋根は、その傾きのため太陽に照らされず、陰になっていること。

塵でも同様であり、どちらも濃いほど明るく、中央へ向かうほど濃くなる。

煙と塵について

太陽が東にあるとき、西のほうにある都市の煙は見えない。太陽光線が通り抜けるところを見られず、また暗い背景の上にも見えないからである。家々の屋根は、太陽に向けるのと同じ側を目へ見せ、その明るい背景のため煙はほとんど見えない。

しかし同じ向きでは、塵は煙より暗く見える。塵は、湿った物質である煙よりも密な物質だからである。

絵画における遠近法の心得

空気の中に明るさや暗さの違いを認めないときには、陰の遠近法をあなたの模写から除き、物体の縮小、色の減衰、そして目の前にある物の認識の減衰という遠近法だけを用いなければならない。この操作、すなわち対象の形の認識を失わせることは、同じ物をより遠く見せる。

目は、自らを動かさなければ、線遠近法だけによって、目と別の物の間に介在する対象と、その別の物との距離を決して知りえない。色の遠近法によるのでなければ、それを知ることはできない。

高い位置の目が低い対象を見ることについて

原刊で第506章に隣接する挿図(1890年版・印刷170頁)
原刊で第506章に隣接する挿図(1890年版・印刷170頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

高い場所にある目が山の高い頂をその麓とともに見るとき、山頂の色は麓の色より遠く見える。これは本書第四の命題、同じ性質の色のうち、遠いものほど、それと見る目との間の媒体の色に強く染まる、によって証明される。したがって山の麓は頂より濃い空気を通して見られるので、同じ目に薄い空気を通して見られる頂よりも遠く見える。そこで目を高さaに置き、空気abを隔てて山頂bを見、同じ山の麓dを、abより短い空気adの距離を隔てて見るとする。空気adは空気abより濃いため、山の麓は述べたとおり、頂より遠く見える。

注 冒頭では山頂の色が麓より遠く見えるとするが、以後の説明は麓のほうが遠く見えるとする。原文の不一致を修正せず保持した。

低い位置の目が低い対象と高い対象を見ることについて

原刊で第507章に隣接する挿図(1890年版・印刷170頁)
原刊で第507章に隣接する挿図(1890年版・印刷170頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

しかし低い場所にある目が山の麓と頂を見るとき、その山の色は、前述の場合よりはるかに不明瞭になる。これは、それを見る目の場所が低いほど、山頂と麓が、前述の場合より濃い空気を通して見られるからである。その目をn、山頂と麓をocとしよう。第二図の視線cnは第一図の視線daより低いため、第二の図の麓の色は、第一の図の麓の色よりも、自然の色から多く変わって見えなければならない。山頂についても同じことを述べたものと理解せよ。

目に届くすべての像が一点に集まるとする理由

原刊で第508章に隣接する挿図(1890年版・印刷170頁)
原刊で第508章に隣接する挿図(1890年版・印刷170頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

異なる距離に置かれた同じ大きさの物のうち、遠い物ほど小さな角度で見られる。bdはceと等しいが、ceは点aから遠い分だけbdより小さな角度で目に届く。角caeを角badと比較すれば、そのことが示される。

水に映るものについて

水に映る物のうち、澄んだ水に映るものほど、その映される物に色が似る。

濁った水に映るものについて

濁った水に映る物は、つねにその水を濁らせているものの色を帯びる。

流れる水に映るものについて

流れる水に映る物の像は、流れの速い水に映るものほど長くなり、境界がぼんやりする。

目と対象の間に介在する媒体の性質について

目と対象の間に介在する媒体には二種類ある。すなわち水、結晶ガラス、その他の透明な物のように表面をもつものと、共通の表面をもたないものとである。後者は、自分の中に包む物体の表面に接する空気のようなものであり、この空気には上と下の境を除いて連続した表面がない。

共通の表面に囲まれた媒体の作用

原刊で第513章に隣接する挿図(1890年版・印刷171頁)
原刊で第513章に隣接する挿図(1890年版・印刷171頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

共通の表面に囲まれた媒体は、背後にある対象を、その真の位置で目に示すことが決してない。証明しよう。平行な表面をもつ結晶ガラスorがあり、目aはそのガラスの部分boを通して、背後の対象ngの半分、すなわちnmを見るとし、残りのmgはガラスの下の空気を通して見るとする。第四書第七によって、対象の上部nからの線はガラスに入るとき曲がり、線nbaとなる。また下部mgは、第四書第七によって、その真の位置に見える。ガラスの下の空気を通る線mgaが示すとおりである。したがって対象の一半nmはガラスboの中で大きくなり、他の半分はガラスの下の空気opの中で小さくなる。

対象について

対象のうち、それを照らす発光体に近い部分ほど明るくなる。

物の像と実体は、距離の各段階に応じて力の段階を失う。すなわち物が目から遠いほど、その像が空気を貫く力は弱くなる。

色と物体の縮小について

色の性質の減衰は、その色が付着する物体の縮小とともに守られなければならない。

目と対象の間に介在する透明な物体について

原刊で第516章に隣接する挿図(1890年版・印刷172頁)
原刊で第516章に隣接する挿図(1890年版・印刷172頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

目と対象の間の透明な媒体が多いほど、対象の色は介在する透明な媒体の色へ変わる。

対象が、光の中心と目を結ぶ中心線上で、目と光との間に介在するとき、その対象は完全に光を奪われる。

第四部 布と、人物を優美に着せる方法、および衣服と布の性質について

第4部の前付挿図(1890年版・印刷173頁)
第4部の前付挿図(1890年版・印刷173頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版
第4部の前付挿図(1890年版・印刷173頁)
第4部の前付挿図(1890年版・印刷173頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

人物を覆う衣について

人物を覆う衣は、その中に人物がいることを示さなければならない。簡潔な囲みの線で人物の姿勢と動きを示し、多くのひだによる混乱、とりわけ隆起した部分の混乱を避け、それらが認識できるようにせよ。

人物を覆う衣の、折れたひだと連続したひだについて

人物を覆う衣のひだは、描こうとする布が薄いか厚いか、その性質に応じて、連続的にも折れ曲がったものにもするべきである。物語場面の構成では、さまざまな好みに応えるため、両方の種類を使ってよい。

人物を優美に着飾らせることについて

衣では、人物を包む部分に、その人物の姿勢のありさまを示させよ。人物から離れる部分は、後に述べるように、ひるがえり広がる姿で美しく整えよ。

人物を覆う衣とそのひだについて

人物を覆う衣のひだは、包む身体部分を囲むように整えなければならない。明るい部分に暗い陰のひだを置かず、陰の部分に明るすぎるひだを作らないようにせよ。ひだの線は、それが覆う身体の部分を幾分取り巻くように進め、身体を切断する線や、衣の下の身体の表面よりも深くえぐる陰にしてはならない。要するに、衣の中に誰もいないように見えぬよう整えよ。すなわち、身体から脱いだ布の塊に見えてはならない。多くの者は、さまざまなひだの塊をあまりに好み、人物全体をそれで満たし、衣が作られた目的を忘れる。その目的は、置かれる身体の部分を優美に着せ包むことであり、照らされた身体の隆起を、ふくらみやしぼんだ袋で一面に覆うことではない。美しいひだを作るなというのではない。ただしそれは、身体の部分がそのひだと身体との間に布を集め、まとめる場所に作るべきである。そして何よりも、物語場面では布に変化をつけよ。ある布には面をもつ折れを描く。これは密な布に起こる。またある布には柔らかいひだを与え、その曲がりを角張らせず曲線にせよ。これはサージ、ラシャその他の疎らな布、たとえばリンネル、ヴェールなどに起こる。また厚い布には、大きなひだを少数だけ描け。フェルト、粗い毛織の掛け布、その他の寝具に見られるとおりである。私はこれらの注意を巨匠たちにではなく、教えようとしない者たちに与える。彼らは確かに巨匠ではない。教えない者は収入を奪われることを恐れ、収入を重んじる者は、画家の師である自然の営みに含まれる研究を捨てるからである。そうすれば、すでに学んだことは忘れられ、まだ学んでいないことは、もはや学ばれない。

人物に衣を着せる方法について

人物には身分と年齢に応じて、ふさわしく衣を着せよ。そして何よりも、衣が動き、すなわち身体の各部分を覆い隠さず、その各部分がひだや衣の陰によって切断されないようにせよ。風が衣を身体に押し付けるときに身体の各部分を明らかにする方法では、できるかぎりギリシア人とローマ人を模倣せよ。ひだは少なくせよ。ただし長衣を着た威厳ある老人には多くつけよ。

衣服について

衣服には、その性質に応じて、さまざまな種類のひだによる違いを与えなければならない。すなわち厚く織りの粗い布は、マカロニ状のひだを疎らに作る。中程度の厚さで密な布は、面をもち小さな角をなすひだを作る。そして何よりも、どんな布でも、ある折れから次の折れまでのひだを、中央で太く両側で細くし、そのひだの最も細いところが、丸い折れ角の中央になるよう覚えておけ。

ひるがえる衣と静止した衣について

人物がまとう布は三種類、すなわち薄いもの、厚いもの、中間のものがある。薄い布はより軽快で動きやすい。したがって人物が走るとき、その動きを考えよ。人物は右へ、また左へと身を動かし、右脚を着くと、その側の布は足元で持ち上がり、波の衝撃を跳ね返す。そのとき後ろに残る脚も、その上にかかる布に同じことをする。前側全体は、さまざまなひだを作って胸、腹、腿、脚に沿い、後ろ側は、後方に残る脚を除いてすべて身体から離れる。中間の布は動きが小さく、厚い布は風が助けなければほとんど動かない。

布の端は、折れ具合に応じて上や下に置き、脚が着く、曲がる、ねじれる、あるいは内側からぶつかるのに応じて、足元に近づくようにせよ。また歩行、疾走、跳躍に応じて関節に近づいたり離れたりさせ、あるいは人物が動かず、風だけが布に当たる場合にもそうせよ。そしてひだを、透明か不透明かという布の性質に合わせよ。

布とそのひだの、三種類の働きについて

原刊で第524章に隣接する挿図(1890年版・印刷175頁)
原刊で第524章に隣接する挿図(1890年版・印刷175頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

布の折りひだに、鋭く硬く明瞭な角を好む者が多い。他方、ほとんど感じられない角を好む者も、角をまったく設けず、その代わりに曲がりを作る者もいる。この三種類について、厚い布に少ないひだを求める者、薄い布に多数のひだを求める者、その中間を取る者がいる。あなたはこれら三つの意見に従い、物語場面にそれぞれの種類を取り入れよ。さらに、古く継ぎの当たったような衣、新しく布を豊かに用いた衣、みすぼらしい衣を、着せる者の身分に応じて加えよ。その色についても同じようにせよ。

布のひだの性質について

原刊で第525章に隣接する挿図(1890年版・印刷176頁)
原刊で第525章に隣接する挿図(1890年版・印刷176頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

ひだのうち、拘束された両端から遠い部分ほど、本来の性質へ戻る。自然においてあらゆる物は自らの状態を保とうとする。布は裏も表も密度と厚さが等しいため、平らであろうとする。したがって何らかの折れやひだによって平らでなくなるよう強いられると、最も拘束される部分ではその力の性質に従い、拘束から遠い部分ほど、元の性質、すなわち伸びて広がった状態へ戻ることが分かる。例として、abcを上述の布のひだとし、acを布が折られ拘束される場所とせよ。私は、拘束された両端から遠い部分ほど、本来の性質へ戻ると述べた。したがってcはabから遠いので、ひだはbで他のどの場所よりも広くなる。

注 末尾の図中記号の対応には不明瞭な点があるが、原文のac、c、ab、bを変更せず保持した。

布にどのようにひだをつけるべきか

布に多くのひだによる混乱を与えてはならず、手や腕で押さえられる場所だけにひだを作るべきである。残りは自然に引かれるところへ素直に垂らし、あまりに多くの線やひだの折れで人物を横切ってはならない。

布は実物から写すべきである。すなわち毛織物を描きたければ、それに応じたひだを用いよ。絹、上等な布、農民の布、リンネル、ヴェールであれば、それぞれひだに違いをつけよ。多くの者のように、紙や薄革で覆った模型を使って衣を描いてはならない。大きく誤るからである。

衣の少ないひだについて

外套を着た人物には、外套が素肌に載っているように見えるほど、裸体の形を示してはならない。ただし、実際に素肌の上の外套を表したい場合は別である。外套と肌の間には別の衣服があり、それが外套の上に身体の形が現れるのを妨げると考えなければならないからである。見せる身体の形には厚みを与え、外套の下に他の衣服があると分かるようにせよ。身体のほぼ本来の太さを見せてよいのは、風に押され、押し付けられた薄い衣を着る姿で描かれるニンフや天使だけである。そのような者やそれに類する者には、身体の形をはっきり現してよい。

短縮法で見た衣のひだについて

原刊で第528章に隣接する挿図(1890年版・印刷177頁)
原刊で第528章に隣接する挿図(1890年版・印刷177頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

人物が短縮されて見えるところには、そうでないところより多くのひだを示せ。そして身体の各部分を、その周囲を巡る密なひだで取り囲め。例として、aを目のある場所とする。mnは、いくつかの円の中央を両端よりも目から遠くへ送り、noは正面にあるため、それらをまっすぐに示す。pqはその反対に送る。したがって腕、脚、その他を囲むひだには、この区別を用いよ。

人物に衣を着せる方法とさまざまな服装について

人物の衣服は年齢と品位に合わせよ。すなわち老人には長衣を着せ、若者は、宗教に従事する者を除き、肩の上から首にかけてをあまり覆わない衣で飾れ。そして上述のものに当てはまる場合を除いて、できるかぎり同時代の服装を避けよ。それを用いてよいのは、教会に葬られた人々に似せる必要のある像だけである。それによって後世の人々に、人間の愚かな考案を笑う機会を残し、あるいはその品位と美しさへの驚嘆を残すのである。私が子供だったころ、大人も子供も衣服の縁という縁を、頭、足元、脇に至るまで切り飾りにしていたのを、私は記憶していない。それは当時、あまりに美しい考案と思われたので、その切り飾り自体にさらに切り飾りを施し、頭巾も靴も同様にし、さまざまな色の衣の主要な縫い目から、切り飾りのある鶏冠状の飾りを出していた。その後私は、靴、帽子、財布、攻撃用の武器、衣の襟、上着の裾、衣服の引き裾、実際には美しく見せたい者の口元にまで、長く鋭い尖りが付くのを見た。別の時代には袖を大きくし始め、各々の袖が衣服全体より大きいほどとなった。それから首の周囲の衣を高くし始め、ついには頭全体を覆った。その後は首を露わにし始め、衣が肩の上に載らないため、肩で支えられないほどとなった。それから衣を長くし始め、人々は足で踏まないように、つねに腕いっぱいに布を抱えた。その後は逆の極端に走り、腰と肘までしか衣を着ず、それも非常に窮屈だったので大きな苦痛を受け、多くは下側で裂けた。足もあまりに窮屈で、足指が互いに重なり、胼胝だらけになった。

注 原文の回想の否定表現「non mi ricordo」は後続する具体的な列挙と整合しにくいが、否定をそのまま保持した。「多くは下側で裂けた」の主語・具体的状況も原文では明確でない。

人体を包む衣のひだを見る目について

人体を包む衣のひだの間の陰は、その陰が生まれるくぼみが目に正対するほど暗くなる。これは、目が上述の人物の陰の側と明るい側との間に位置する場合について述べたものである。

衣のひだについて

人物がどのような姿勢を取っていても、衣のひだは、つねにその線によって人物の動作を示し、見る者に真の姿勢について曖昧さや混乱を与えないようにしなければならない。またどのひだも、その深さの陰で身体の部分を切断してはならない。すなわち、ひだの深さが、覆われる身体部分の表面より深く見えてはならない。さらに何枚もの衣を着た人物を描くときは、一番外側の衣が、その人物の骨だけを包んでいるようにしてはならない。骨とともに肉を包み、さらに肉を覆う衣を、重ねた層の数にふさわしい厚みで包んでいるようにせよ。

身体の部分を囲む衣のひだは、囲まれる部分の末端へ向かって、その太さを減じなければならない。

ひだについて

原刊で第532章に隣接する挿図(1890年版・印刷178頁)
原刊で第532章に隣接する挿図(1890年版・印刷178頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

身体部分に密着するひだの長さは、その部分が曲がることによって短くなる側でしわ寄りし、その曲がりの反対側で引き伸ばされなければならない。

第五部 陰と明かり、および遠近法について

第5部の前付挿図(1890年版・印刷179頁)
第5部の前付挿図(1890年版・印刷179頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版
第5部の前付挿図(1890年版・印刷179頁)
第5部の前付挿図(1890年版・印刷179頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

陰とは何か

陰というものをその固有の語によって言い表すならば、物体の表面に当たる光が弱まることと呼ぶべきである。その始まりは光の終わるところにあり、その終わりは暗闇のうちにある。

陰と暗闇とはどのように異なるか

陰と暗闇の違いはこうである。陰は光の減少であり、暗闇はその光が完全に失われることである。

陰は何から生じるか

陰は互いに異なる二つのものから生じる。一方は物体的で、他方は非物体的だからである。物体的なものは光を遮る物体、非物体的なものは光である。したがって光と物体とが陰の原因となる。

陰そのもののあり方について

陰は、すべてその始まりにおいて最も強く、終わりへ向かうにつれて弱まるという、万物に共通の性質をもつ。ここでいう始まりとは、目に見えるものも見えないものも含めた、あらゆる形や性質の始まりである。小さな始まりから時とともに大きく成長するものをいうのではない。たとえば大きな樫の木は、小さな団栗という弱い始まりをもつ。しかしむしろ私は、樫は地面から生え出るところ、すなわち最も太いところで最も強いというだろう。したがって暗闇は陰の最初の段階で、光は最後の段階である。それゆえ画家よ、陰はその原因に近いところほど暗くし、その末端は光に変わるように、つまり終わりがないように見えるものとしなさい。

陰と明かりとは何か、またどちらの力が大きいか

陰は光の欠如であり、光線に対向する不透明な物体がそれを遮ることだけから生じる。陰は暗闇の性質をもち、明かりは光の性質をもつ。一方は隠し、他方は示す。両者は常に物体に結びついて共存する。そして陰の力は明かりよりも大きい。陰は物体から光を遮って完全に奪うが、光は物体、すなわち不透明な物体から陰を完全に追い払うことが決してできないからである。

陰と暗闇とは何か

陰は光が減少することであり、暗闇は光が失われることである。

陰影はいくつの部分に分けられるか

陰影は二つに分けられる。第一は固有の陰、第二は投影と呼ばれる。

陰影とその区分について

物体上の陰は、その物体に向かい合って置かれた暗い対象から生じる。陰影は二つに分けられ、一方は固有の陰、他方は投影と呼ばれる。

二種類の陰影と、それらがいくつに分けられるかについて

陰影の種類は二つに分けられ、一方は単純、他方は複合と呼ばれる。単純な陰影は、一つの光源と一つの物体によって生じる。複合した陰影は、同じ物体に複数の光源が当たることによって、または複数の物体に複数の光源が当たることによって生じる。単純な陰影は二つに分かれ、すなわち固有の陰と投影である。固有の陰は光を遮る物体の表面に付着しているものであり、投影はその物体から離れて空気中を進み、遮るものに出会うと、衝突した場所で自らの底面の形をなしてとどまる陰である。複合した陰影についても同じことがいえる。

固有の陰は常に投影の底面となる。

投影の境界は直線である。

投影の暗さは、固有の陰から遠ざかるほど減少する。

より輝かしい白さに囲まれた陰ほど暗く見える。逆に、より暗い地の上に生じた陰ほど目立たなくなる。

固有の陰と投影とではどちらが暗いか

原刊で第542章に隣接する挿図(1890年版・印刷181頁)
原刊で第542章に隣接する挿図(1890年版・印刷181頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

投影が落ちる地から反射する光が当たって弱められないかぎり、固有の陰は常に投影よりも暗い。bcdeを光を遮る物体とし、aを固有の陰becを生じさせて投影bechiをつくる光源とする。私はこういう。照らされた反射面fheigが、fhによってbeの部分の固有の陰へ、またigによってceの部分の固有の陰へ光を反射し、それを弱めるのでなければ、この固有の陰は投影の落ちる面よりも暗いままである。ただし両方の陰影が生じる表面は、色の暗さ、または明るさが等しいものとする。

陰は光に近いほど暗く見える。すべての陰は同じ色をもち、そのうち明るい地の上にあるものほど暗く見える。

同じ性質の陰のうち、目に近いものほど暗さが少なく見える。

陰と暗闇とはどのように異なるか

陰とは、発光体または照らされたもののどこか一部を見通すことのできるところをいう。暗闇とは、発光体または照らされたもののどこか一部を、入射または反射によって見通すことのできるところである。

注 原文の後半は『può vedere(見ることができる)』となっており、前半との区別が成立しない。『non(ない)』の脱落が疑われるが、本文を黙って訂正せず、底本どおり訳した。

単純な陰と複合した陰とはどのように異なるか

単純な陰は、発光体のどの部分も見通すことのできないところであり、複合した陰は、単純な陰の中へ派生する光の一部が混じるところである。

複合した明かりと複合した陰とはどのように異なるか

複合した陰とは、明るいものよりも暗いものを多く受けている陰であり、複合した明かりとは、暗いものよりも明るいものを多く受けている明かりである。したがって、複合した陰と明かりとは、それがより多く受けているものによって名づけられるといおう。つまり、照らされたものが明かりよりも陰を多く見通すならば、複合した陰をまとっていると呼ばれ、暗いものより明るいものを多くまとっているならば、述べたように複合した明かりと名づけられる。

複合した明かりと複合した陰とは常に接していること

複合した明かりと複合した陰とは常に互いに接している。しかし複合した陰の外側の境界は単純な陰であり、複合した明かりの境界は単純に照らされた部分である。

単純な陰の境界は見分けにくくなること

光を遮る物体が発光体に近いほど、単純な陰の境界は複合した陰の境界よりも見分けにくくなる。これは、複合した陰と明かりのなす角が、より鈍角になるためである。

発光体よりも小さい物体から生じる単純な投影は、常にその底面を遮光体の側に向ける。しかし複合した明かりを伴う陰は、その頂角を発光体の側に向ける。

複合した投影について

原刊で第548章に隣接する挿図(1890年版・印刷182頁)
原刊で第548章に隣接する挿図(1890年版・印刷182頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

複合した投影は、単純な投影から遠ざかるほどその暗さを失う。これは第九命題、すなわち、より大きな量の発光体から見られる陰ほど暗さが少なくなるという命題によって証明される。そこでonを発光体、baを遮光体とし、onfを光の角錐、bakを単純な投影の角錐とする。gはfより四分の一だけ照らされ方が少ないと私はいう。fは光源onのすべてを見るが、gには光源onの四分の一が欠けるからである。gを照らすのは、発光体の四分の三に当たるcnだけである。そしてhでは発光体onの半分dnが見える。したがってhはfの半分の光を受ける。またiでは光源onの四分の一、すなわちenが見える。したがってiはfより四分の三だけ明るさが少ない。kではその光源のどの部分も見えない。したがってそこは光の欠けるところであり、単純な投影の始まりである。このようにして複合した投影を定めた。

固有の陰と投影とはどのようにつながっているか

原刊で第549章に隣接する挿図(1890年版・印刷183頁)
原刊で第549章に隣接する挿図(1890年版・印刷183頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

固有の陰は常に投影とつながっている。この結論はそれ自体によって明らかである。固有の陰が投影の底面となるからである。ただし両者は、固有の陰がその付着している物体を自らの色で染めるのに対して、投影はそれが貫く空気全体へ広がるという点だけで異なる。これを示そう。fを発光体、aobcを遮光体とし、その遮光体に付着した固有の陰を部分abcとする。投影abcdは固有の陰とともに生じる。このような陰は単純と呼ばれ、その中からは発光体のどの部分も見通せない。

単純な陰は複合した陰とどのようにつながるか

単純な陰は常に複合した陰とつながっている。これは、固有の陰は投影の底面となると述べた前の命題によって証明される。そして単純な陰と複合した陰は、同じ物体上に互いに接して生じるので、結果は必然的に原因の性質を受け継がねばならない。また複合した陰は、それ自体としては光の減少にほかならず、発光体の始まるところに始まり、発光体の終わるところとともに終わるので、このような陰は単純な陰と単純な明かりとの中間に生じることになる。これを示そう。abcを発光体、deを遮光体とし、単純な投影をdef、複合した投影をfekとする。単純な投影は発光体のどの部分も見通せないが、複合した投影は常に発光体のある部分を見通す。その部分は、複合した投影の各部分が単純な投影から遠いか近いかによって、大きくも小さくもなる。これを示すには、その陰をefkとする。その厚みfkの半分、すなわちikは、発光体abの半分であるacを見通す。そしてこれが複合した陰の最も明るい部分である。同じ複合した陰のうち、より暗いもう半分fiは、発光体の残りの半分cbを見通す。こうして、複合した投影の二つの部分を定めた。一方は他方より明るく、あるいは暗さが少ない。

単純な固有の陰と複合した固有の陰について

単純な陰と複合した陰の相互の比例関係は、遮光体に付着する固有の陰でも、同じ遮光体から離れた投影でも同じである。これは、単純な投影と複合した投影が、その源である固有の陰と同じように、少しの隔たりもなく互いにつながっていることによって証明される。

複合した陰の限界について

複合した投影の長さは無限である。それは、その頂点から始まる角錐形をなすからである。その証明は、この角錐の長さがどこで切られても、単純な投影の場合のようにその頂角が失われることはないということである。

単純な陰の限界について

単純な投影の延びる距離は、複合した投影に比べて短い。述べたように複合した投影はその頂角から始まるが、単純な投影はその底面から始まるからである。このことは、この角錐がどこで遮光体によって切られても、その切断によって底面が失われることは決してないことから明らかである。

遮光体と等しい光源は、どのような形の陰をつくるか

遮光体が発光体と同じ大きさならば、単純な陰の側面は平行になり、長さは無限となる。しかし複合した陰と明かりは、頂角を発光体へ向けた角錐形になる。

発光体より大きい遮光体はどのような陰をつくるか

遮光体が発光体よりも大きければ、単純な投影の両側面は、発光体の向こう側にある仮想の頂角へ向かって収束する。そして複合した陰と明かりの頂角は、発光体の全体に向かい合う。

陰影には何種類あるか

陰影には三種類ある。第一は、太陽、月、炎のような個別の光源から生じるものである。第二は、空の大部分を見通せる戸口、窓、その他の開口部から生じるものである。第三は、太陽のないときのわれわれの半球の明かりのように、全体に広がる光から生じるものである。

陰影の種別はいくつあるか

原刊で第557章に隣接する挿図(1890年版・印刷184頁)
原刊で第557章に隣接する挿図(1890年版・印刷184頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

陰影の種別には二つあり、一方は固有の陰、他方は投影と呼ばれる。固有の陰は遮光体に付着しているものであり、投影は固有の陰から生じるものである。

固有の陰には何種類あるか

固有の陰はただ一つであり、決して変わらない。その境界は、発光体の境界と、陰が付着している物体の照らされた部分の境界とを見通す。

固有の陰は何通りに変化するか

原刊で第559章に隣接する挿図(1890年版・印刷185頁)
原刊で第559章に隣接する挿図(1890年版・印刷185頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

固有の陰には二通りあり、第一は単純、第二は複合である。単純なものは暗い場所に向かい合うもので、そのためこの陰は暗黒となる。複合したものは、さまざまな色で照らされた場所を見通すもので、この場合、陰には向かい合う対象の色の像が混じる。

投影にはどのような違いがあるか

投影の違いには二通りある。一方は固有の陰に向かい合う空気と混じり合うものであり、他方は投影を遮る対象に落ちるものである。

投影にはいくつの形があるか

原刊で第561章に隣接する挿図(1890年版・印刷185頁)
原刊で第561章に隣接する挿図(1890年版・印刷185頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

投影の形には三つある。第一は角錐形で、発光体より小さい遮光体から生じる。第二は平行なもので、発光体と等しい遮光体から生じる。第三は無限に拡散しうるものである。また柱状のものも無限であり、角錐形のものも無限である。なぜなら、最初の角錐の後で交差が起こり、無限の空間があれば、有限の角錐と向かい合う無限の角錐が生じるからである。この三種類の投影については、十分に論じることとする。

その遮光体よりも速く動く陰について

原刊で第562章に隣接する挿図(1890年版・印刷185頁)
原刊で第562章に隣接する挿図(1890年版・印刷185頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

投影は、その固有の陰よりも何倍も速く動くことがありうる。これを示そう。aを発光体、bを遮光体とし、遮光体が線bdに沿ってbからcへ動くものとする。その同じ時間に、物体bの投影は距離beの全体を動く。この距離は、距離bcを何千倍も含むことができる。

固有の陰よりもはるかに遅い投影について

原刊で第563章に隣接する挿図(1890年版・印刷186頁)
原刊で第563章に隣接する挿図(1890年版・印刷186頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

投影が固有の陰よりはるかに遅いこともまたありうる。これを示すため、遮光体bcが平面ne上で距離ceの全体を動き、その投影が向かい合う壁deにあるものとする。私は、固有の陰bcが距離bdの全体を動いても、投影はdeを離れないという。

固有の陰と等しくなる投影について

投影の運動が固有の陰の運動と等しくなるのは、陰を生じさせる発光体の運動が、遮光体の運動、あるいは固有の陰の運動といってもよいが、それと等しいときである。それ以外には不可能である。なぜなら、朝から夕方まで西へ歩く者の場合、一日の前半には、歩行者の前を進む陰は歩行者自身よりも遅い。そして一日の後半には、陰が後ろへ逃げる速さは、遮光体が前へ進む速さよりもはるかに大きくなるからである。

固有の陰から遠く離れた投影について

原刊で第565章に隣接する挿図(1890年版・印刷186頁)
原刊で第565章に隣接する挿図(1890年版・印刷186頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

投影の境界は、固有の陰から遠いものほど曖昧になる。これを示すため、abを発光体とする。cdはもとの遮光体、edは単純な投影、cgeはこの投影の曖昧な境界である。

陰の性質、または状態

反射を伴わない陰はない。反射は陰を強めるか弱めるかする。陰を強めるのは、その陰よりも暗いものから生じる反射であり、陰を弱めるのは、その陰よりも明るいものから生じる反射である。

強められた陰とは何か

原刊で第567章に隣接する挿図(1890年版・印刷186頁)
原刊で第567章に隣接する挿図(1890年版・印刷186頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

強められた陰は、その投影だけが反射して入る陰である。aを発光体、bcを固有の陰、または起源の陰とし、dgをそこから生じた陰とする。

固有の陰は投影より強いか

原刊で第568章に隣接する挿図(1890年版・印刷187頁)
原刊で第568章に隣接する挿図(1890年版・印刷187頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

固有の陰が単純なものであれば、その暗さは単純な投影と等しくなる。これを示すため、deを単純な固有の陰、fgを単純な投影とする。本篇の第四命題は、暗闇は光の欠如であると述べている。したがって単純な陰とは、照らされたものからの反射を何も受けない陰であり、そのため暗黒のままである。たとえばdeは光源aを見通さず、単純な投影fgもそれを見通さない。それゆえ両者の陰は等しい暗さとなる。一方も他方も、光および明るい反射を欠いているからである。

陰影の運動について

陰影の運動には五つの性質がある。第一は、陰を生じさせる光源が動かないまま、投影がその遮光体とともに動くものである。第二は、遮光体は動かず、陰と光源とが動くものである。第三は、遮光体と発光体とが動くが、発光体が遮光体より遅く動くものである。第四の陰の運動では、遮光体が発光体より速く動く。第五では、遮光体と発光体の運動が互いに等しい。これについては、それぞれの箇所で個別に論じる。

注 第三と第四の記述は原文でも実質的に重複する。修正せずに訳した。

投影が面に落ちることと、その条件

投影が面に落ちた形は、次の条件を満たさないかぎり、固有の陰と相似になることはない。第一に、遮光体に角も、貫通した穴も、切り込みもないこと。第二に、発光体の形が遮光体の形と相似であること。第三に、発光体の大きさが遮光体の大きさと等しいこと。第四に、陰の光線がつくる面の長さが、どの側でも等しいこと。第五に、投影が面に落ちるとき、等しい角をなすこと。第六に、この投影が平らで一様な壁面に落ちること。

投影について、またどこでより大きくなるか

原刊で第571章に隣接する挿図(1890年版・印刷188頁)
原刊で第571章に隣接する挿図(1890年版・印刷188頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

より多くの光から生じる投影ほど大きく、その逆も同じである。これを示そう。小さな光源abは、小さな投影cgeとdfhをつくる。次の図を見なさい。天空全体の光nmは、rtxに大きな投影をつくり、同じく領域osuにも大きな投影をつくる。なぜなら、天空の部分pnが陰rtxをつくり、同じく天空の一部である範囲lmが、その反対側の陰osuをつくるからである。

投影が消えることについて

全体に広がる光に照らされた物体では、投影は完全に消失する。

投影が最も強くなることについて

個別の光源の場合、その光源の見かけの大きさが小さく、明るさが強いほど、投影の力は大きくなる。

第一の暗さをもつ単純な陰について

原刊で第574章に隣接する挿図(1890年版・印刷188頁)
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単純な陰は、どの反射光からも見られず、向かい合う陰によってのみ強められるものである。球体gをくぼみbcefの中に置き、個別の光源をaとする。その光はbに当たり、dへ反射し、第二の反射によって球体gへ跳ね返る。この球体は、入射光も、いかなる次数の反射光も見通さない角eにある単純な陰の一部を集める。したがって球体の陰は、単純な陰eから反射を受け、このため単純な陰と呼ばれる。

投影の三つの異なる形について

原刊で第575章に隣接する挿図(1890年版・印刷188頁)
原刊で第575章に隣接する挿図(1890年版・印刷188頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

投影の形には三つの違いがある。第一は発生するところで幅が広く、その始まりから遠ざかるほど狭くなるものである。第二は、発生するところと同じ長さを保ったまま、無限の長さをもつものである。第三は、発生するところの幅から先へ遠ざかるにつれて、その距離の段階ごとに幅を増すものである。

注 第二の形の『発生するところと同じ長さ』は原文のlunghezzaを保持した。文脈上は柱状投影の幅が一定であることを述べると考えられる。

前述の三つの投影それぞれの変化

それを照らす物体より小さい遮光体から生じる投影は角錐形となり、発光体に近いほど短くなる。しかし平行な投影は、この場合変わらない。これに対して広がる投影は、その発光体に近づくほど幅が増す。

投影には三つの性質があること

原刊で第577章に隣接する挿図(1890年版・印刷189頁)
原刊で第577章に隣接する挿図(1890年版・印刷189頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

投影には三つの性質がある。第一は広がるもの、第二は柱状のもの、第三は両側面が交わる場所へ収束するものである。その両側面は、交わった後には無限の幅、あるいは直線的な延長をもつ。もしこの陰が両側面の合わさる頂角で終わり、その先へ進まないとあなたがいうならば、それは否定される。陰についての第一命題は、あるもののいかなる部分もその境界を越えないとき、そのものは完全に限定されていると証明している。しかしここでは、その陰に反対のことが見られる。この投影が生じるのに伴って、頂角を接する二つの陰の角錐の形が明らかに生じるからである。したがって、反対者のいうように、第一の陰の角錐がその頂角によって投影を終わらせるならば、第二の陰の角錐はどこから生じるのか。反対者は、遮光体からではなく頂角から生じるという。しかしこれは本篇の第二命題によって否定される。そこでは、陰とは、その陰の場所と発光体との間に挟まれた遮光体によって生じる偶有的な現象であると述べている。それゆえ、陰は投影の頂角から生じるのではなく、遮光体からだけ生じることが明らかである。

投影には三つの種別があること

投影には三つの種別がある。すなわち、陰が当たる壁面にできる切り口がその底面より大きい場合、その底面より小さい場合、あるいは等しい場合である。大きければ、遮光体を照らす光源がその物体より小さいしるしであり、小さければ、光源が物体より大きい。等しければ、光源はその物体と等しい。

陰影の性質

光が等しく減少するとき、生じる陰どうしの暗さの比は、その陰が付着する場所の色どうしの暗さの比と同じになる。

陰の運動について

原刊で第580章に隣接する挿図(1890年版・印刷190頁)
原刊で第580章に隣接する挿図(1890年版・印刷190頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版
原刊で第580章に隣接する挿図(1890年版・印刷190頁)
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発光体が動かない場合、陰の運動は常に、それを生じさせる物体の運動より速い。これを示すため、発光体をa、遮光体をb、陰をdとする。遮光体がbからcへ動くのと同じ時間に、陰がdからeへ動くと私はいう。そして同じ時間内の速さどうしの比は、移動距離どうしの比に等しい。したがって、陰がbからcまで動いた距離と、陰がdからeまで動いた距離との比は、前述の運動の速さどうしの比に等しい。しかし発光体が遮光体と同じ速さで動くならば、陰と遮光体の運動は互いに等しくなる。また発光体が遮光体より速ければ、陰の運動は遮光体の運動より遅くなる。反対に、発光体が遮光体より遅ければ、陰は遮光体より速くなる。

注 原文後半はb→cの移動主体をombra(陰)と呼ぶが、前半ではombroso(遮光体)としている。語を黙って統一せず訳した。

角錐形の陰について

原刊で第581章に隣接する挿図(1890年版・印刷190頁)
原刊で第581章に隣接する挿図(1890年版・印刷190頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

平行な側面をもつ物体から生じる角錐形の陰は、その単純な投影が遮光体から遠いところで切られるほど、遮光体に比べて狭くなる。

単純な投影について

単純な投影には三種類ある。長さが有限のものが一つ、無限のものが二つである。有限のものは角錐形であり、無限のものの一つは柱状、他方は広がるものである。三つとも側面は直線である。収束する陰、すなわち角錐形の陰は、発光体より小さい遮光体から生じる。柱状の陰は、発光体と等しい遮光体から生じ、広がる陰は、発光体より大きい遮光体から生じる。

複合した投影について

複合した投影には二種類あり、柱状のものと広がるものとである。

陰は空気中で見えるか

陰は、煙霧や塵を含んだ空気中で見える。このことは、太陽の光が小さな開口部を通って暗い場所へ差し込むときに示される。そのとき、その開口部を通る二本以上の太陽光線の間に挟まれた陰が見えるからである。

投影は場所によって暗さが違うか

投影は、その遮光体に近いほど、あるいはその固有の陰に近いほど暗くなる。これは、投影の境界が、その発生するところでは、そこから遠い部分よりもはっきりしているためである。

どの投影の境界がよりはっきり見えるか

遮光体が発光体から遠く離れている投影ほど、面に落ちたときの境界がはっきり見える。

投影が面に落ちる形は、主に何通りに変わるか

原刊で第587章に隣接する挿図(1890年版・印刷191頁)
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投影が面に落ちる仕方には二つの違いがあり、すなわち垂直の場合と斜めの場合である。垂直の場合は常に斜めの場合より小さい。斜めのものは無限の方向へ延びることができる。

面に落ちた陰の大きさは、固有の陰に対して何通りに変わるか

原刊で第588章に隣接する挿図(1890年版・印刷191頁)
原刊で第588章に隣接する挿図(1890年版・印刷191頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

陰、あるいは面に落ちた陰は、前述の三種類、すなわち収束するもの、拡散するもの、一定に保たれるものに従って、三通りに変わる。拡散するものは、面に落ちた陰が固有の陰より大きい。一定に保たれるものは、面に落ちた陰が常に固有の陰と等しい。収束するものは二通りの陰を面につくる。一方は収束する部分で、他方は拡散する部分である。収束する部分では、面に落ちた陰は常に固有の陰より小さく、その拡散する部分では逆になる。

投影が全体または一部を明るい地に囲まれると、固有の陰より暗くなること

原刊で第589章に隣接する挿図(1890年版・印刷192頁)
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全体または一部を明るい地に囲まれた投影は、平らな面にある固有の陰よりも常に暗くなる。光源をa、固有の陰をとどめる対象をbcとし、壁面deがその部分nmで投影を受け、残りのdnとmeはaに照らされているとする。明るいdnは固有の陰bcへ光を反射し、明るいmeも同じようにする。したがって投影nmは光源aを見通せず、暗いままであるが、固有の陰は投影を囲む明るい地から照らされる。それゆえ投影は固有の陰より暗い。

平面に付着していない固有の陰は、一様な暗さにならないこと

原刊で第590章に隣接する挿図(1890年版・印刷192頁)
原刊で第590章に隣接する挿図(1890年版・印刷192頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

これを示すため、固有の陰が対象bcdに付着し、そこに投影fgが見え、さらにその明るい地efghも見えるものとする。この物体は、中央dよりも端bで強く照らされると私はいう。bでは元の光源aが見え、派生した光efも反射光線によってそこを見通すが、投影fgはそこへ届かないからである。fbdは、fbと曲線bdとによってつくられる接触角である。そしてこの物体の残りの全体は、投影fgによって見通される。その程度は、線fgを底辺とする三角形の頂角が、大きくなるか小さくなるかに従って変わる。

それぞれの陰に向かい合う暗い対象の条件

原刊で第591章に隣接する挿図(1890年版・印刷192頁)
原刊で第591章に隣接する挿図(1890年版・印刷192頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

暗さ、形、大きさが等しい対象のうち、向かい合う陰の暗さをより強めるのは、その陰に近いものである。

どのような地が陰をより暗く見せるか

等しい暗さの陰のうち、より白い地に生じるものほど暗く見える。したがって、より暗い地にあるものほど暗くないように見える。このことは同じ一つの陰によって証明される。その端の部分は、一方では白い地に接してきわめて暗く見えるが、他方で陰そのものに接するところでは、あまり暗く見えないからである。対象bdの陰がdcの上にできているとする。この陰はncでは白い地ceに接しているため、暗い地ncに接するndよりも黒く見える。

投影はどこで最も暗くなるか

投影は、その原因に近いものほど暗くなり、遠く離れたものは明るくなる。

陰は、その発生するところに近いものほど明瞭で輪郭がはっきりし、遠いものほど明瞭でなくなる。

陰は、その中央よりも端のほうが暗く見える。

陰影について

陰は、たとえ球形の物体から生じる場合でも、光源が遮光体と同じ形でなければ、その物体の輪郭と真に相似になることは決してない。

光源が細長い形で、その長さが上方へ延びるならば、それによって照らされた物体の陰は横幅の方向へ延びる。

光源の長さが横方向にあるならば、球体の陰は高さの方向に長くなる。このように、光源の長い方向がどのように置かれていても、陰の長い方向は常にそれと反対になり、光源の長い方向と十字形に交わる。

光源が遮光体より太く短ければ、面に落ちた投影は固有の陰より長く細くなる。

光源が遮光体より細く長ければ、面に落ちた投影は固有の陰より太く短くなる。

発光体の長さと幅が、遮光体の長さと幅に等しければ、面に落ちた投影の境界の形は、固有の陰と同じになる。

面に落ちた投影を取り囲む境界について

単純な投影が面に落ちたとき、その境界は常に、照らされた物の色に囲まれる。その照らされた物は、陰を生じさせる遮光体を照らす発光体と同じ側から、光線を送っている。

どの遮光体も、それを囲む明るい部分の数だけ陰を生じること

遮光体は、その底部のまわりに、それを取り囲んで向かい合う照らされた色の数だけ、多くの種類と色の陰を生じる。しかし向かい合う発光体の輝きが強いほど、ある陰は他の陰より強くなる。このことは、同じ一つの遮光体のまわりに置かれた、さまざまな光源が教えてくれる。

同じ一つの遮光体を取り囲む陰の、さまざまな暗さについて

同じ一つの遮光体を取り囲む陰のうち、より強い発光体によって生じるものほど暗くなる。

等しい二つの光源の間にある物体がつくる陰について

等しい二つの光源の間に置かれた物体は、そこから二つの陰を送り出し、その陰は二つの光源へ向かう直線に沿って延びる。その物体を移して、一方の光源より他方に近づければ、近いほうの光源へ向かう陰は、遠いほうの光源へ向かう陰よりも暗さが少なくなる。

光源に近い物体ほど大きな陰をつくることと、その理由

個別の光源の前に置いた対象が、その光源にごく近ければ、向かい合う壁に非常に大きな陰をつくるのが見える。そして、その対象を光源から遠ざけるほど、陰の形は小さくなる。

その原因より大きい陰では、なぜ比例が崩れるか

その原因より大きい陰の比例が崩れるのは、光源が対象よりも小さいため、対象の各端までの距離が等しくなりえず、近い部分が遠い部分より大きく拡大するからである。それゆえ、より大きくなるのである。

その原因より大きい陰の境界が、なぜ曖昧になるか

光源を取り巻く空気は、明るさと色について、ほぼ光源そのものと同じ性質をもち、遠ざかるほどその似かよい方を失う。そして大きな陰をつくる物は光源に近く、光源と明るい空気との両方によって照らされる。それゆえ、この空気が陰の境界を曖昧にするのである。

物体から離れた陰は、大きさにおいてその原因と等しくなることがないこと

原刊で第602章に隣接する挿図(1890年版・印刷195頁)
原刊で第602章に隣接する挿図(1890年版・印刷195頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

経験が確かめるように、光線がただ一つの点から生じ、その点を中心として円周の方向へ進みながら空気中へ分散して広がるならば、光線は遠ざかるほど広がる。そして光源と壁との間に置かれた物は、常により大きな陰となって映される。その物に触れる光線は、壁に達するときには互いの間隔が広がっているからである。

物体に付着した陰と、物体から離れた陰とはどのように異なるか

付着した陰とは、照らされた物体から決して離れないものである。たとえば光の中にある球は、常にその一部が陰で占められており、球の位置が変わっても、その陰は決して分離しない。これに対し、物体から離れた陰は、その物体によって生じる場合と、生じない場合とがある。球が壁から一ブラッチョ離れ、その反対側に光源があるとしよう。その光源は、壁に向いた球の部分にある陰とちょうど同じ広がりの陰を、壁へ送り出す。離れた陰の見えない場合とは、光源が球の下にあるときである。その陰は空へ向かって進み、途中で遮るものに出会わないので、失われる。

注 ブラッチョは当時の長さの単位。地域・時代によって値が異なるため換算していない。

投影の性質

投影は、その固有の陰の増減に従って、大きくなったり小さくなったりする。

陰の形について

投影は、遮光体の輪郭を光線で取り巻く光源が、その物体と同じ形でないかぎり、それを生じさせる遮光体と完全に相似になることは決してない。

別の投影の中に生じる投影について

原刊で第606章に隣接する挿図(1890年版・印刷196頁)
原刊で第606章に隣接する挿図(1890年版・印刷196頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

太陽から生じる投影は、空気によって生じる投影の上につくられうる。これを示すため、対象mの陰が、空気efによって領域dcbに生じるものとする。また対象nが、太陽gによって陰abcをつくるものとする。そして陰dmの残りについては、この場所は空気efを見通さず、太陽もまた見通さない。したがってこれは二重の陰である。二つの対象、すなわちnmによって生じるからである。

注 原文『e del rimanente dell’ombra dm e che』は構文が不整である。図中符号を保持し、読み取れる範囲を訳した。

投影の境界について

投影の境界は、全体に広がる光のもとでは、個別の光源のもとよりも見分けにくい。

投影の広がりについて

投影の境界は、それを生じさせる光源が大きいほど、遮光体のまわりへ大きく広がる。

投影はどこで最も暗いか

投影のうち、その原因に近い部分ほど暗くなる。その逆も成り立つ。すなわち、投影のうち、その原因から遠い部分ほど暗さが少なくなる。

陰を生じさせる光源の大きさを変えたときの、陰の変化について

位置を変えずに、陰を生じさせる光源を小さくするほど、同じ物体の陰は大きくなる。

陰を生じさせる光源を小さくせずに、陰が変わることについて

同じ物体の陰は、光源と、それ自体が発光体より小さい遮光物との間の距離が増減するのに応じて、増減する。

明かりへ変わる陰について

太陽によって陰になっていた場所は、太陽が去った後には空気によって照らされたままとなる。小さい明かりは常に、大きい明かりに対しては陰だからである。

陰へ変わる明かりについて

空気によって照らされた場所は、太陽光線の当たる場所に囲まれると陰になる。これは、より強い明かりが、光の弱い明かりを暗く見せるためである。

細長い光源が、自らと似た対象に当たって生じる投影について

原刊で第614章に隣接する挿図(1890年版・印刷197頁)
原刊で第614章に隣接する挿図(1890年版・印刷197頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

長く狭い形の開口部を通る光が、それと似た形と配置の遮光物に当たると、陰は遮光物と同じ形になる。これを示すため、暗い場所へ光が入る開口部をabとし、その開口部の形と等しく相似な柱状の対象をcdとし、efをその対象cdの陰の光線が落ちるところとする。光が前述の条件を満たすならば、この陰はいかなる距離でも、開口部より大きくも小さくもなりえないと私はいう。これは本篇の第四命題、すなわち、陰の光線も光の光線もすべて直線であるという命題によって証明される。

陰は常に遮光体の色を帯びねばならないこと

どんなものも、その本来の白さには見えない。それが見られる場所が暗いか明るいかに応じて、目にはより白く、または白さを減じて見えるからである。このことを月が教えてくれる。月は昼には空であまり明るく見えないが、夜には非常に輝き、暗闇を追い払うことによって、太陽と昼の似姿をわれわれに示す。これは二つのことから生じる。第一は比較である。比較には、ものの色が互いに異なるほど、その色の種類において、より完全に見せる性質がある。第二は、すでに証明されたように、瞳孔は昼より夜のほうが大きいことである。そして大きい瞳孔は、小さい瞳孔よりも発光体を大きく、いっそう強く輝くものとして見る。このことは、紙に開けた小さな穴から星を見る者が確かめられる。

目から遠く離れた白いものについて

目から離れた白いものは、遠ざかるほど白さを失い、太陽がそれを照らすほど、いっそう白さを失う。目と白いものとの間にある空気の色と混じった、太陽の色を帯びるからである。太陽が東にある場合、その空気は、中に立ちのぼる蒸気のために、濁って赤みを帯びて見える。しかし目を東へ向けるならば、白いものの陰だけが青色を帯びるのを見るだろう。

遠くのものの陰と、その色について

遠くのものの陰は、それ自体が暗く、また遠いほど、いっそう青色を帯びる。これは、太陽とそれを見る目との間に置かれた遮光体の暗さの前に、空気の明るさが介在するためである。しかし目が太陽と反対の方向へ向くならば、そのような青色は見られない。

陰について、またどの固有の陰が物体上でより暗くなるか

原刊で第618章に隣接する挿図(1890年版・印刷198頁)
原刊で第618章に隣接する挿図(1890年版・印刷198頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

固有の陰は、より緻密な物体の表面に生じるものほど暗くなり、逆に、より疎な物体の表面では明るくなる。このことは明らかである。向かい合う物体を自らの色で染める対象の像は、その物体の表面が緻密で滑らかなほど、強く刻みこまれるからである。これを示すため、緻密な物体rsを、明るい対象nmと暗い対象opとの間に置く。第九篇の第七命題、すなわち、どの物体の表面も、その向かい合う対象の色を帯びるという命題によれば、この物体の部分dcrは照らされているといえる。向かい合う対象nmが明るいからである。同じように、その反対の部分absは陰になっているといえる。向かい合う対象が暗いからである。これでわれわれの論点は結論づけられた。

物体表面のどの部分が、向かい合う対象の色をよりよく受けるか

緻密な物体表面のうち、異なる色をもつ他の対象から見られることの少ない部分ほど、向かい合う対象の色を強く帯びる。そこで、同じ図をわれわれの目的に用いよう。前述の物体の表面crdが、暗いopから見られないならば、その表面はまったく陰を欠く。同じように、表面asbが発光体nmから見られないならば、その表面はまったく光を欠く。

遮光体表面のどの部分で、対象の色が混じり合うか

遮光体表面のうち、複数の対象の色から見られる部分の全体では、それらの色の像が混じり合う。したがって遮光体の部分cdabでは光と陰が混じる。この場所は、光nmからも、暗いopからも見られるからである。

遮光体表面のどの部分が中程度の陰になるか

遮光体表面のうち、明るいものと暗いものから等しく見られる部分は、中程度の明るさと中程度の陰になる。したがって線hkには、単純な固有の陰asbより暗さが少なく、その差が、単純な直接の明かりcrdより明るさが少ない差に等しい陰ができる。

照らされた表面のどの部分が最も明るくなるか

原刊で第622章に隣接する挿図(1890年版・印刷199頁)
原刊で第622章に隣接する挿図(1890年版・印刷199頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

照らされた物体のうち、それを照らす対象に最も近い部分が、最も明るくなる。これを示すため、照らされた物体の部分をopc、それを照らす対象をabとする。点cはその物体のどの他の部分よりも強く照らされると私はいう。そこへ当たる光の角acbは、その表面に生じうるどの他の角よりも大きいからである。

物体表面のどの主要な陰が、明るい部分との差を小さく、または大きくするか

黒い物体の主要な陰は、他のどの色の表面におけるよりも、その主要な明部との差が小さい。

不透明な物体の陰の部分につくられる陰について

不透明な物体の陰の中につくられる陰は、同じ物体の明るい部分につくられる陰ほど明瞭であってはならない。またそれは、直接の光によってではなく、派生した光によって生じるものでなければならない。

どの物体がより多くの陰を受けるか

原刊で第625章に隣接する挿図(1890年版・印刷200頁)
原刊で第625章に隣接する挿図(1890年版・印刷200頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

より小さい発光体によって照らされる物体ほど、より多くの陰をまとう。abcdを遮光体、gを小さい発光体とする。この発光体は遮光体の部分abcだけを照らすので、陰の部分adcは、明るい部分abcよりもずっと大きく残る。

どの物体がより多くの光を受けるか

原刊で第626章に隣接する挿図(1890年版・印刷200頁)
原刊で第626章に隣接する挿図(1890年版・印刷200頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

より大きい光源に照らされる物体ほど、多くの光を受ける。abcdを照らされる物体、efをそれを照らす物体とする。発光体が照らされる物体よりもこれほど大きいので、照らされた部分bcdは、その陰の部分badよりもずっと大きくなると私はいう。これは光線eg、fgが直線であることによって証明される。

どの物体がより暗い陰を受けるか

たとえ同じ色の物体どうしであっても、より緻密な物体ほど暗い陰を受ける。緑色の布の陰は、葉の茂った木の陰よりも暗くなると私はいう。布と木の葉の緑が、まったく同じ性質のものであってもそうである。これは、布は葉のように透けず、また植物の緑のように、各部分の間に明るい空気を挟んで、その陰の部分を曖昧にすることもないからである。

陰の暗さの性質について

原刊で第628章に隣接する挿図(1890年版・印刷200頁)
原刊で第628章に隣接する挿図(1890年版・印刷200頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

投影の暗さは無限に変化し、投影が面に落ちる距離が遠いか近いかに応じて、強くも弱くもなる。これを示すため、太陽aが陰nphiを生じるものとする。この陰には、太陽光線を囲む空気の光、すなわち上側のebrsと下側のfcrsが入り、陰を明るくする。その陰は領域npoで最も暗い。そこからは、太陽も空気も、その両端bcを除いては見通せないからである。

草地の緑の陰について

草地の緑の陰はごく少なく、ほとんど見分けられないほどである。とりわけ草が小さく、葉が細いところではそうである。そのため陰は生じえない。広大な天空の半球が、小さな草の茎を円く取り巻くからである。広い葉の茂みでないかぎり、草の陰はあまり目立たない。

絵画の教え

原刊で第630章に隣接する挿図(1890年版・印刷201頁)
原刊で第630章に隣接する挿図(1890年版・印刷201頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

全体に広がる光のもとでは、陰がその物体の表面に占める場所は少ない。これは、われわれの天空半球の膨大な光が、地平線によって妨げられないかぎり、遮光体の最も低い部分までも取り巻くためであり、とりわけ物体が地面から浮いている場合にそうなる。fを遮光体、eを地面とする。abcdをわれわれの天空半球、adをその地平線とする。地面uxの暗さは、遮光体のうち見通せるだけの部分を暗くするが、同じ部分を見通す地平線が同じ場所を照らし、その地面から来る暗い像を曖昧にする。この地面は、それを妨げられなければ、対象の下側にそのような暗い陰をつくるはずだったのである。

照らされた部分と対応しない陰について

不透明な物体の陰が、その照らされた部分に本当に対応する陰となることは、きわめてまれである。これは第四篇の第七命題、すなわち、どの遮光体の表面も、向かい合う対象の色を帯びるという命題によって証明される。したがって、照らされた顔の色は、黒い色を向かい合う対象としてもつならば、黒い陰を帯びる。黄色、緑色、青色、その他どの色が向かい合っていても、同じことが起こる。これは、どの物体も、その周囲の空気全体へ自らの似姿を送り出すためである。このことは遠近法において証明されており、太陽についての経験によっても見られる。太陽の前にある対象はみなその光を受け、それを他の対象へ反射する。月や他の星々に見られるとおり、それらは太陽から与えられた光をわれわれへ反射するのである。暗闇も同じことを行う。暗闇は、その中に閉じこめられたものを自らの暗さで覆うからである。

遮光体の明部が、照らされた物体本来の色であることはほとんどないことについて

照らされた物体の表面が、その物体の真の色をしているということは、ほとんどいえない。

第四篇の第七命題は、ここで述べたことの原因を示す。また、暗い場所に置いた顔が、一方から空気の光線で、他方から燃える蝋燭の光線で照らされると、確かに二つの色に見えることも示す。空気がその顔を見通す前には、蝋燭の光による色が、その顔本来の色に見えていたのである。空気による場合にも同じことが起こる。

白い細帯を暗い場所へ置き、三つの開口部から、すなわち太陽、火、空気からの光を受けさせるならば、その帯は三つの色になる。

遠距離では陰がどのようになるか

陰は遠距離では失われる。目と見られる物との間にある大量の明るい空気が、その物の陰を、自らの色で染めるからである。

陰と直接の明部の幅について

不透明な物体上での陰の広がりと縮まり、すなわち陰と明部の幅が広いか狭いかは、それらが生じる物体部分の曲がり方が大きいか小さいかのうちに見いだされる。

陰の暗さの強弱について

陰の暗さの強弱は、身体の各部で、より強く曲がった部分に生じる。そして暗さの少ない陰は、より広い部分に見いだされる。

陰の暗さの強弱を判定する判断が、どこで欺かれるか

等しい暗さの陰のうち、弱い明かりに囲まれたものほど暗くないように見える。反射光の間に生じる陰がそうである。それゆえ画家よ、そのような陰に変化をつけて、自らを欺かないように気をつけなさい。

明かりがどこで画家の判断を欺くか

等しい明るさの明部のうち、面積が小さく、より暗い地に囲まれたものほど、強く見える。

物体上の陰について

遮光体上に暗い陰を描くときは、その暗さの原因を必ず描きなさい。反射についても同じようにしなさい。暗い陰は暗い対象から生じ、反射はあまり明るくない対象、すなわち弱まった光から生じるからである。そして物体の照らされた部分と、反射によって明るくされた部分との比は、その物体の明かりの原因と、その反射の原因との比に等しい。

陰と明かりの性質について

強い光のもとに置かれた物体では、その明部と陰との差は、暗い場所に置かれた物体におけるよりも、はるかに大きくなる。

陰と明かりと色について

遮光体のうち、より強い光に照らされた部分ほど明るく見える。

遮光体上で、陰の量が照らされた部分の量より大きくなる程度は、その物体が見通す暗さの量が、それを照らす輝きの量より大きい程度に等しい。

明かりと陰、そしてそれらの色について

どの物体も、その全体が本来の色を示すことは決してない。述べたことは、異なる二つの原因によって起こりうる。第一は、対象と目との間に挟まれた媒質の介在による。第二は、その物体を照らすものが、それ自体にはいかなる色の性質も保っていない場合である。

物体のある部分が本来の色を示すとすれば、それは色のない発光体に照らされ、その照明のもとで、その光源以外の対象を見通さない部分であろう。このことが見られるのは、青い色を、非常に高い山の上で空に向けて平らに置き、その場所から他の対象を見通せず、太陽が沈むときに低い雲に覆われ、しかもその布が空気と同じ色である場合だけである。しかしこの点について、私は自分の言葉を言い直す。桃色も、それを照らす西の太陽が、間に挟まる雲とともに赤くなると、美しさを増すからである。もっとも、この場合にも先のことを真実として認められるだろう。赤みを帯びた光に照らされた桃色が、他の場合よりも美しく見えるならば、それは他の色の光は、赤い光でさえ、その自然の美しさを奪うというしるしだからである。

注 第一段落の『色の性質も保っていない』、末尾の『赤い光でさえ』はいずれも原文どおり。論理上の不整合があるが、推測による訂正はしていない。

対象における陰と明かりについて

どの遮光体の表面も、向かい合う対象の色を帯びる。画家は、明かりの強さや照らされた色がさまざまに異なる対象の間へ、自分の描くものを配置するとき、大いに注意しなければならない。それらに囲まれた物体は、その全体が真の色を示すことが決してないからである。

見分けられない陰の境界について

陰のうち、より少ない量の光と混じる部分ほど暗くなる。

遮光体における明かりと陰の性質について

光の原因へ向いた物体部分では、陰の力は弱いと私はいう。同じように、陰の原因へ向いた陰の中にある陰も弱い。陰の原因と光の原因との間にある陰と明かりは、強い力を示す。

明かりと陰の見え方について

物体の最も明るい部分に近い陰ほど暗く見える。逆に、物体の最も暗い部分に近い陰ほど、暗さが少なく見える。

明かりについて

暗いところに近い明部ほど明るく見え、物体のいっそう明るい部分に近い明部ほど、明るさが少なく見える。

明かりと陰について

陰とは光の減少、または欠如である。遮光体がより少ない光で照らされるほど、その上の陰の量は大きくなる。物体がより多くの光で照らされるほど、その物体上に残る陰の量は小さくなる。aは発光体、bcは遮光体である。bは照らされる物体部分、cは残された光のない部分である。この場合、遮光体は発光体より大きい。fは、それに向かい合う遮光体より大きい発光体であり、feは遮光体、fは照らされた部分、gは陰の部分である。

注 図中符号fは、原文で発光体と照らされた部分の双方に用いられている。符号を変更せず保持した。

田野の表面を自らの色で染める明かりと陰について

田野の陰と明かりは、その原因の色を帯びる。厚い雲によってつくられた暗さは、太陽光線を奪うばかりでなく、それが触れるものを自らの色で染めるからである。しかし雲と陰の外にある周囲の空気は、同じ場所を見通して照らし、そこへ青色を与える。また、太陽光線が貫いている空気が、前述の地面の陰の暗さと、それを見る者の目との間にあると、その空気も同じ場所を青く染める。空気の青色は光と暗闇から生じると証明されるとおりである。一方、太陽に照らされた田野の部分は、空気と太陽の色を帯びるが、とりわけ空気の色を多く帯びる。空気のほうが近くにあって、より大きいものの働きをし、目にとって無数の太陽の広がる地となるからである。そしてこうした田野は、目から遠いほど青色を多く帯びる。また、その青色は地平線へ向かって高くなるほど明るくなるが、これは湿った蒸気から生じる。

ものは明るいところより陰の中で見分けにくい。そして全体に広がる光は遮光体を取り巻き、目が遮光体と光との間にあるとき、その立体感を弱くする。そのような目には陰が見えない。しかしそのとき側方の物体は、こうした田野を見る両眼を通り、一方の地平線から他方の地平線へ延びる直線に近いか遠いかに従って、より多く、またはより少ない量の明部を示す。

派生する光について

派生する光は、二つのもの、すなわち元の光と遮光体とから生じる。

明かりについて

不透明な物体を照らす明かりには四種類ある。第一は、われわれの地平線の内側にある空気の光のように、全体に広がるもの。第二は、太陽や、窓、戸口、その他の開口部の光のような個別のもの。第三は反射光。第四は、布や紙など、光を通すものを透過する光である。ただし、ガラスや水晶その他の物体のような透明なものをいうのではない。それらは、遮光体とそれを照らす光源との間に、何も挟まっていない場合と同じ効果をもつからである。これらについては、われわれの論述の中でそれぞれ詳しく述べる。

照明と光沢について

照明は光を受けることであり、光沢はその光を鏡のように映すことである。

陰と明かりについて

暗闇は光の欠如であり、光は暗闇の欠如である。陰は暗闇と光の混合であり、それに混じる光の力が小さいか大きいかに応じて、暗さが強くも弱くもなる。

陰と明かりについて

原刊で第653章に隣接する挿図(1890年版・印刷206頁)
原刊で第653章に隣接する挿図(1890年版・印刷206頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

連続した広がりをもつ、より大きな暗い対象と明るい対象との間に置かれた物ほど、その陰と明かりの境界は見分けにくくなる。これを示すため、対象oが、暗いnmと明るいrsとの間にあるとする。暗い対象は、その角錐namによって対象のほぼ全体を取り巻き、反対側では明るい対象の角錐rcsが同じことをすると私はいう。そして第五篇の第八命題によって、述べたことが結論される。その命題は、球体の部分は、その前にある暗さをより多く見通すものほど暗くなるというものである。したがってcは、その球体のどの他の部分よりも暗い。第二の図がこれを証明する。bacは暗さegfの全体を見通す。この暗さは、bacの上に等しい強さで刻まれるわけではない。等しい量で刻まれないからである。aは暗さefのすべてを見通すので、その半分egしか見通さないbよりも、はるかに暗い。同じことは、陰gfから見られるcにも起こる。

明かりと陰について

物体のどの部分にも、また少しでも盛り上がりをもつどんな小さな部分にも、陰と明かりの主要なところを与えるよう注意することを、私はあなたに念押ししておく。

陰と明かりについて

物体を取り囲む表面のどの部分も、それに向かい合って置かれたものの色へ、部分的に変わる。

例

球体をさまざまな対象の間に置くとしよう。一方には太陽の光があり、その反対側には、太陽に照らされた緑色または他の色の壁がある。球体を置く面は赤く、横の二方向は暗いものとする。すると、その球体の本来の色が、向かい合うものの色を帯びるのが見えるだろう。最も強いのは光源であり、第二は照らされた壁の色、第三は陰の色である。その後に、両端の色を帯びる部分が残る。

陰と明かりについて

自然のつくるものを写すあなたは、それぞれの筋肉の明部と陰の、量、性質、形をよく見なさい。そしてそれらの形の長さについて、その中心線をまっすぐ延ばすと、どの筋肉へ向かうかを記しなさい。

陰の間にある明部について

物体を写すとき、その照らされた各部分の明るさの強さを比較する際には、目はしばしば欺かれ、実際には明るさの少ない部分を、より明るく感じることを覚えておきなさい。その原因は、それらに接する部分との比較から生じる。明るさの等しくない二つの部分があり、明るさの少ないほうが暗い部分に接し、明るいほうが空やそれに似た明るい部分に接しているとすると、そのとき明るさ、あるいは輝きの少ないほうが、より輝いて見え、明るいほうが、より暗く見えるのである。

明暗について

明暗は、短縮法とともに、絵画の学知の卓越したところである。

明暗について

明と暗、すなわち明かりと陰には中間がある。それは明とも暗とも呼べず、明と暗の両方を等しく受けている。そしてあるときには明と暗から等しく隔たり、あるときには一方に他方よりも近い。

陰と明かりにおいて主に考慮すべき四つのこと

絵画において考慮すべき主要なものは四つあり、性質、量、位置、形である。性質とは、どの陰が、また陰のどの部分が、より暗いか、あるいは暗さが少ないかをいう。量とは、その陰の大きさが、近くにある他の陰に比べてどのくらいかということである。位置とは、どのように配置すべきか、また陰のある身体部分のどこに置くかということである。形とは、その陰がどのような形か、たとえば三角形か、円や四角の性質をもつか、といったことである。

方向もまた、陰の要素として数え入れるべきである。つまり陰に長さがあるならば、その長さの全体がどちらへ向くかを見るのである。眉の陰が耳へ向くか、眼窩の下側の陰が鼻孔へ向くか、そのようにさまざまな方向の対応を照らし合わせながら、陰を配置しなさい。したがって方向は位置に先立たせるべきである。

遮光体を照らす光の性質について

全体に広がる光は、それが見通す遮光体の部分を取り囲んで照らす。そして照らされた各部分が、その全体に広がる光のより多い量、またはより少ない量から見られるのに応じて、その照らし方をより明るく、または暗く変化させる。

滑らかな物体上の、全体に広がる光について

滑らかな物体を取り囲む全体に広がる光は、その物体の表面に全面的な明るさを与える。

滑らかで光沢のある遮光体について

表面が滑らかで光沢のある遮光体のうち、個別の光源を受けるものは、光やそれを見る目の変化の数だけ、陰と光沢の位置をさまざまに変える。

この場合、個別の光源が動かず、目が動いてもよく、逆でもよい。その物体表面の光沢と陰の変化に関しては、同じことだからである。

全体に広がる光に囲まれた物体が、多くの部分に個別の光を生じさせること

遮光体の表面には、その全体が上から太陽のない天空の全般的な光に囲まれていても、個別の光が生じる。暗い雲が太陽を奪い、隠しているときのような場合である。これは、物体に結びついた各肢のために、その表面に凹凸があることから生じる。それらの肢は光と遮光体との間に入り、物体から大量の全般的な光を奪う。したがって、肢と胴体との間へ入り込む光は、個別の光となる。すなわち、身体のそれぞれの肢の外側の部分を包む光全体の、一部分なのである。

自然のものを表すために用いる陰と明かりについて

自分のすべての作品に暗い陰を見たがり、自分と同じようにしない者を非難する人々がいる。このような者には、暗い陰と明るい陰を用いることによって、ある程度応じられる。暗い陰は暗い場所に、明るい陰は全体に広がる光のもとにある田野に用いればよい。

陰について、どの物体では強い暗さをもちえないか、また明かりについても同様であること

強い暗さの陰が生じないところには、強い明るさの明部も生じえない。これは、柳、エニシダ、杜松などの、葉がまばらで細い木に起こり、薄絹やヴェールなどの透ける布、また縮れて散らばった髪にも起こる。その理由は、前述のもののそれぞれの総体が、個々の小部分に光沢をつくらず、たとえあっても見分けられず、その像が生じる場所からほとんど遠くへ届かないことにある。それらの小部分の陰も同じように振る舞い、総体として暗い陰をつくらない。空気がそこを通り、中央近くの部分も外側の部分も照らすからである。差があってもほとんど見分けられない。そして、その総体の照らされた部分も、陰の部分とあまり大きく異なることはできない。述べたように、明るい空気があらゆる小部分に入り込み、照らされた部分が陰になった小部分に非常に近いため、それらが目へ送る像は、ごく小さな明暗の混じった曖昧なものになる。その混合のうちには、霧のような曖昧さ以外に何も見分けられない。同じことはヴェールや蜘蛛の巣状の薄布などにも起こる。

太陽または他の発光体の個別の光について

原刊で第668章に隣接する挿図(1890年版・印刷209頁)
原刊で第668章に隣接する挿図(1890年版・印刷209頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

照らされた物体のうち、光線が互いにより等しい角をなして当たる部分ほど、強い明るさをもつ。また、その光線のなす角が互いに最も異なる部分が、最も弱く照らされる。

太陽へ向いた側の角nは、太陽の光が等しい角をなして当たるので、照らされた物体のどの他の部分よりも強い光線によって照らされる。そして点cは、その太陽光線が広がる平面のどの他の部分よりも、太陽から互いに異なる角で照らされるため、最も弱く照らされる。二つの角のうち、大きいほうをdce、小さいほうをecfとする。また、先に図示すべきだった等しい角をanoとbnrとする。これらはまったく等しいので、nは他のどの部分よりも強く照らされる。

太陽の当たらないところでの、空気の全般的な光について

原刊で第669章に隣接する挿図(1890年版・印刷210頁)
原刊で第669章に隣接する挿図(1890年版・印刷210頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

発光するもののより多い量から見られるものほど、強く照らされて見える。述べたことにより、eはaより強く照らされる。eは、aには見えないrsを見るので、aより多くの空を見るからである。aは空のbcdだけを見る。

太陽または他の光源の個別の光と混じった、全般的な照明について

原刊で第670章に隣接する挿図(1890年版・印刷210頁)
原刊で第670章に隣接する挿図(1890年版・印刷210頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

遮光体のうち、全般的な発光体と個別の発光体の、より少ない量から見られる部分が、より弱く照らされることは疑いない。これを示すため、aを天空namにある太陽とする。遮光体の点oは、点rよりも全般的な光によって強く照らされると私はいう。oは全般的な光の部分namの全体を見、またそれから見られるが、点rは天空の部分meからしか見られないからである。さらにoは、それに向いた太陽の全体から見られるが、rは太陽のどの部分も見通さない。

物体の明部と陰の間にある中間の陰について

物体の照らされた部分と陰の部分との間には、中間の陰が挟まる。その境界は大きく変化する。陰に接するところでは陰となり、照らされた部分に接するところでは、その明部と同じ明るさになるからである。そして元の光源が個別のものならば、光沢が生じる。その光沢は、陰の部分と同じほど、中間の陰に対して明瞭な境界をなす。

大きく弱い光源は、小さく強い光源と同じ働きをするか

小さく強い光源によって生じる陰は、より大きく弱い光源から生じる陰よりも暗い。

主要な明部と陰との間にある中間部について

原刊で第673章に隣接する挿図(1890年版・印刷211頁)
原刊で第673章に隣接する挿図(1890年版・印刷211頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

中間の陰は、それを見る目が、その広がりの中心とより正面から向かい合うほど、大きく見える。中間の陰とは、主要な陰に続いて遮光体の表面を染める陰であり、その中には反射が含まれる。そして主要な陰に近いか遠いかに応じて、より暗く、あるいは明るくなる。mnを最も暗い陰とし、残りは点oに至るまで次第に明るくなるものとする。図の残りは、この命題には関係しないが、次の命題に役立つ。

遮光体のまわりを動くにつれ、より多く、または少なく陰を見る目の位置について

遮光体の陰の部分と明るい部分の量の相互の比は、それを見る目の位置の違いの数だけ変わる。これを示すため、amnoを遮光体、pをそれを包む発光体とする。その光線prとpsによって部分mdnが照らされ、残りのnomは暗いままである。この物体を見る目をqとする。目はその視線によって遮光体を包み、dmoの全体を見る。その視野では、照らされた部分dmが、陰の部分moよりずっと小さく見える。このことは角錐dqoを、その底面から等距離のkhで切り、点cで分けることによって証明される。このように、明暗の量は、それを見る目の位置の違いの数だけ、さまざまに変わるのである。

陰をもつ球体の陰が、決して見えないのはどの位置か

原刊で第675章に隣接する挿図(1890年版・印刷211頁)
原刊で第675章に隣接する挿図(1890年版・印刷211頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

遮光体の照らされた像が反射してつくる角錐の内側に位置する目は、その物体の陰の部分を決して見ない。照らされた像の反射角錐をabc、遮光体の照らされた部分をbcdとし、その角錐の中にある目をeとする。目が発光点aにないかぎり、照らされた像b、c、dのすべてがそこへ集まることはできない。aから見られる陰は、ただちに光によって消される。したがって、照らされた部分odpだけを見るeは、さらに遠くにあるaよりも、陰の境界bcを見ることができないのである。

球体のまわりで、陰が決して見えなくならない位置、または距離はどれか

原刊で第676章に隣接する挿図(1890年版・印刷212頁)
原刊で第676章に隣接する挿図(1890年版・印刷212頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

しかし目が、陰をもつ球体から、それを照らす物体よりも遠くにある場合、その球体の陰の像が完全に見えなくなる位置を見つけることは不可能である。これを示すため、bncを遮光体、aを発光体とし、bncをその陰の部分、bscを照らされた部分とする。oを、光源aよりも遮光体から遠い目とする。この目は陰bdceの全体を見る。この目が同じ距離を保って物体のまわりを円く動いても、前述の陰の全体を完全に見失うことは不可能である。その運動によって一方の側で陰の一部を失っても、他方の側で別の陰を得るからである。

どの光が、物体の陰をその明部から最も異ならせるか

原刊で第677章に隣接する挿図(1890年版・印刷212頁)
原刊で第677章に隣接する挿図(1890年版・印刷212頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

より強く輝く光に照らされた物体ほど、暗い陰をつくる。点aは太陽に照らされ、点bは太陽に照らされた空気によって照らされる。そして照らされたaと照らされたbとの比は、太陽の光と空気の光との比に等しい。

互いに近いさまざまな対象を、遠距離から見ることについて

互いに近く、小さい対象が、形を見分けられなくなるほど遠い距離から見られるとき、それらの像の混合が生じる。その混合は、前述の対象のうち、最も多くの部分がまとっている色を、より多く帯びる。

対象がより暗く見える位置について

目から等しい距離にある対象は、より高い位置に見えるものほど暗く見える。これは、空気が高くなるほど薄くなり、その厚みで対象を覆うことが少なくなるためである。このため、山腹を背景に見える丘の頂は、常にその丘の麓よりも暗く見える。

どこで、またどの色で、陰が陰になった物の自然な色を最も失うか

入射光も、いかなる種類の反射光も見通さない白いものは、白を色と呼べるならば、その陰の中で自らの本来の色を最も早く完全に失うものである。しかし黒は、陰の中でその色を増し、照らされた部分でそれを失う。そして照らされた部分が、より強い光から見られるほど、いっそう色を失う。また緑と青は、中間の陰の中でその色を増し、赤と黄は、照らされた部分で色を増す。白も同じである。混合色は、その混合をつくる色の性質を受け継ぐ。つまり黒と白を混ぜると灰色になるが、それは最も深い陰では純粋な黒ほど美しくなく、明部では純粋な白ほど美しくない。その最高の美しさは、明かりと陰の間にある。

何色の物体が、明部から最も異なる陰、すなわち最も暗い陰をつくるか

白に近い色の物体ほど、その陰の部分の明るさは、照らされた部分の明るさから大きく隔たる。

物体のどの部分が、同じ性質の光からより強く照らされるか

原刊で第682章に隣接する挿図(1890年版・印刷213頁)
原刊で第682章に隣接する挿図(1890年版・印刷213頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版
原刊で第682章に隣接する挿図(1890年版・印刷213頁)
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原刊で第682章に隣接する挿図(1890年版・印刷214頁)
原刊で第682章に隣接する挿図(1890年版・印刷214頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版
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原刊で第682章に隣接する挿図(1890年版・印刷214頁)
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ある性質の光に照らされた物体の部分は、より大きな光の角が当たる部分よりも強い明るさをもつ。これを示すため、天空半球rmcが家klofを照らすものとする。同じ性質の光から生じる、より大きな角が当たる家の部分が、より強く照らされると私はいう。したがって角nfcが当たるfには、角edcが当たるところよりも強い明るさがある。光の比は角の比と同じであり、角の比は、その底辺ncとecとの比と同じである。大きいほうは小さいほうを部分neの全体だけ超える。同じように、この家の屋根の軒下のaでは、角bacの底辺bcが底辺ecより小さい分だけ、dより光が少なくなる。光が同じ性質であるかぎり、常にこのように比例して続く。上で述べたことは、われわれの天空半球に照らされるどんな物体にも確かめられる。ここでは、天空半球kおよびfの下にある球体の部分によって明らかになる。この球体は点bで部分aceの全体から、部分dで天空半球efから、oでgfから、nでmfから、hでsfから照らされる。このようにして、どんな物体でも、第一の明かりと第一の陰がどこにあるかを知ることができる。

遮光体の部分は、より多い量の光に照らされるほど明るい。そこでabcを遮光体、idfnを発光体、すなわち照らされた天空半球とすると、部分cには部分bの二倍の光があり、aに対しては四分の三だけ多い光がある。cは空のdgfeから照らされ、bはdeの半分に当たるdfから照らされ、部分aはdeの四分の一、すなわちgdからしか照らされないからである。

どの不透明な物体の表面も、向かい合う対象の色を帯びる。dを不透明な物体、anを発光体、acを暗い色のもの、cdを天空半球afmnに照らされた平面とする。前述のことによって、rはoより、oはsより、sはtより強く照らされる。暗い物体acへ向いた部分にも同じことが起こり、照らされた場所cdへ向いた部分にも同じことが起こる。ここから明かりと陰と反射光とが生じる。

建物の屋根の張り出しの下に、太陽がつくる陰は、高さの段階ごとに暗さを増す。窓からの高い位置の個別の光に照らされた室内で見えるものは、明部と陰の間に大きな違いを示す。とりわけ部屋が大きいか暗い場合にそうなる。個別の光がその対象を照らし、その対象の反対側に、同じ光で照らされた明るい色のものがあるとき、逆からの光、すなわち反射、あるいは照り返しが生じる。

物体の表面の一部を覆う反射光の部分は、その反射光自体が空気より明るさに劣る分だけ、空気によって照らされた部分よりも暗くなる。

そして物語画を描く画家よ、人物に生じる明かりと陰を、それらを生じさせた対象の違いの数だけ、さまざまに変化させなさい。一律の描き方をしてはならない。

どの物体の表面の部分も、それに向かい合うものの数だけ、さまざまな色を帯びる。

太陽に照らされた田野では、どの物の陰も非常に暗くなる。そして太陽が見る側と反対側から田野を見る者には、田野がきわめて暗く見え、遠いものが近く見える。

しかし太陽がものを見るのと同じ線に沿って見るならば、ものは陰のない姿を示し、近いものは遠く見え、形を見分けられなくなる。

太陽なしに空気によって照らされたものは、空気をあまり見通さない部分ほど暗くなり、暗い場所のより多くの量から見られるほど、いっそう暗くなる。

野外で見られるものは、その陰と明部との差が小さく、陰はほとんど見分けられず、境界もまったくない。むしろ煙のように、明るい部分へ向かって次第に消えていく。そして空気に向かい合うことを奪われたところだけで、より暗くなる。

光の少ない場所や夜の始まるころに見られるものも、明部と陰との差が小さい。完全な夜になれば、人間の目には明部と陰との差がほとんど感じられず、形はまったく失われ、夜行性の動物の鋭い視力にだけ見える。

距離によってものが曖昧で不確かに見えるならば、そのように曖昧に描きなさい。そうしなければ、同じ距離にあるようには見えない。その輪郭を明確な境界で区切ってはならない。境界とは線や角であり、最小のものの極限であるため、遠くからはもちろん、近くからでも見えないからである。

数学的な線や点が見えないものならば、ものの境界もまた線であるため、近くにあっても見えない。したがって画家よ、目から遠く離れたものに輪郭を与えてはならない。その距離では、境界どころか、物体の部分さえ見分けられないからである。

照らされたものはすべて、それを照らすものの色を帯びる。

陰になったものは、それを暗くするものの色を保つ。

照らされたものの光が強いほど、それを背景に浮かぶ遮光体は、より暗く見える。

注 第一段落の冒頭は『より大きな光の角が当たる部分よりも』とあり、直後の説明と逆になる。原文どおりに訳した。第二段落の比較表現は、続く説明ではcが全量、bが半分、aが四分の一の光を受ける関係を示す。

異なる距離にある遮光体と発光体での、陰の等しさ

原刊で第683章に隣接する挿図(1890年版・印刷215頁)
原刊で第683章に隣接する挿図(1890年版・印刷215頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版
原刊で第683章に隣接する挿図(1890年版・印刷215頁)
原刊で第683章に隣接する挿図(1890年版・印刷215頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

同じ遮光体が、大きさの異なる発光体から、等しい陰を受けることは可能である。fogrを遮光体とし、その陰をfgoとする。この陰は、所定の距離にある発光体deが見えないことによって、また遠い距離にある発光体bcによって生じる。これは、線ab、pcが直線であるため、一方の発光体も他方の発光体も、陰の部分fogを見ることを等しく妨げられるからである。一つの遮光体から異なる距離にある二つの発光体、すなわち大きい発光体rsと小さい発光体acが、遮光体nmoqから異なる隔たりにある場合も、同じことがいえる。

遮光球体の半分だけしか見通さないのは、どの発光体か

原刊で第684章に隣接する挿図(1890年版・印刷216頁)
原刊で第684章に隣接する挿図(1890年版・印刷216頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

遮光球体が、それと等しい大きさの発光球体によって照らされるとき、遮光体の陰の部分と明るい部分は互いに等しくなる。abcdを、発光球体efと等しい遮光球体とする。遮光球体の陰の部分abcは、明るい部分abdと等しいと私はいう。証明はこうである。平行線efstは、直径abの両端に接する。これは遮光球体の直径であり、球体の中心を通るので、その直径で分ければ球体は等しい二つに分かれ、一方は全体が陰、他方は全体が明るい部分になる。

発光体が、それより小さい遮光体の半分だけを照らす距離はありうるか

原刊で第685章に隣接する挿図(1890年版・印刷216頁)
原刊で第685章に隣接する挿図(1890年版・印刷216頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

遮光体より大きい発光体が、どのような距離においても、その遮光体のちょうど半分だけを照らすことは不可能である。

述べたことは、互いに等しい距離を保つことによってできる平行線から証明される。そして等距離の線の間に、両側に接して収まる球体は、その間隔を直径とするものだけである。したがって、大きさの異なる二つの球体の両端が、二本の平行線に接することはない。

絵画に表された物体の陰の、さまざまな暗さについて

原刊で第686章に隣接する挿図(1890年版・印刷216頁)
原刊で第686章に隣接する挿図(1890年版・印刷216頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版
原刊で第686章に隣接する挿図(1890年版・印刷217頁)
原刊で第686章に隣接する挿図(1890年版・印刷217頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

どの不透明な物体の表面も、向かい合う対象の色を帯び、その対象が近いか遠いかに応じて、帯びる程度が強くも弱くもなる。

第一の部分を証明しよう。gbcを不透明な物体の表面とし、その表面は白く、対象rsは黒く、対象nmもまた白いものとする。本篇の第九命題は、すべての物体が周囲の空気を、自らの色の像と、色づいた物体の似姿で満たすと証明している。したがって黒い対象rsは、その前方の空気を暗い色で満たし、その色は不透明な物体gbcの部分vgbに達する。その部分は、向かい合う対象rsと同じ色に染まる。また他方の対象nmの白い物体は、不透明な物体の部分gbc全体を白くする。したがって不透明な物体では、gvの全体が単に黒いrsの色を受け、bcは単に白くなり、白い対象と黒い対象の両方から見られるgbは、白と黒の合成色、すなわち混合色の表面となる。

前述の命題の第二の部分によって、gはbよりもはるかに暗くなる。gはbよりも黒い物体rsに近いからである。このことは、図示されるように、幾何学における円の定義から明らかである。さらに角bは、接触角について幾何学で証明されるとおり、存在するうちで最小の角なので、bからは物体rsの端の点rしか見通せない。そのうえ、白い対象nmの明るさがbに加わる。この対象が黒かったとしても、それは、すでに証明されたように、gがrsから離れているよりも、bから遠くにあるので、bがgと同じほど暗くなることは決してない。

黒からより遠く隔たった色ほど、遠い場所から見える。そして等しい距離では、その色と明るさまたは暗さがより異なる地の上に見えるものほど、境界がはっきり見える。

どの色が明部から陰への変化を最も大きくするか

色のうち、白に近いものほど、その陰と明部との差は大きくなる。白は他の色よりも、照らされる明るさが強く、陰の暗さも強いからである。ただし白も黒も、色の数には入らない。

遠くの陰の中では、すべての色が不明となり見分けられないこと

遠くでは、すべての色が陰の中で分からなくなる。主要な光に触れていないものは、より明るい空気を通して、自らの似姿を目へ送る力がないからである。小さい光は大きい光に打ち負かされるのである。

例として、家の中にいるとき、その部屋の窓が開いていれば、壁面にある色はすべて明瞭にはっきり見える。しかし家の外へ出て、少し離れたところから、その窓を通して壁に描かれた絵を見ると、絵の代わりに、一続きの暗さが見える。

不透明な物体の表面を自らの色で染める、対象の像の色について

原刊で第689章に隣接する挿図(1890年版・印刷217頁)
原刊で第689章に隣接する挿図(1890年版・印刷217頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

不透明な物体の表面は、向かい合う対象の色で染まるとき、その対象にはない色を帯びることが多い。これを示すため、cdを不透明な物体、abを向かい合う対象とし、その対象は黄色、不透明な物体は青色とする。それ自体は青いこの不透明な物体の表面dnc全体は、緑色に見えると私はいう。不透明な物体が黄色で対象が青色でも、同じことが起こる。これは異なる色が混じると、両方の性質を受け継ぐ第三の色に変わるからである。それゆえ黄色と青色を混ぜると緑色になる。この緑色は、それを構成するものの合成であることを、思索する画家は明瞭に理解できる。

不透明な物体の陰の、偽りの色について

原刊で第690章に隣接する挿図(1890年版・印刷218頁)
原刊で第690章に隣接する挿図(1890年版・印刷218頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

ある不透明な物体が、異なる二つの発光体に照らされている別の不透明な物体の表面に陰を落とすと、その陰は、その不透明な物体のものではなく、別のものの陰であるように見える。

これを示すため、ndeを不透明な物体とし、それ自体は白く、空気abと火cgによって照らされるものとする。次に火と不透明な物体との間に対象opを置くと、その陰は表面dnで切られる。いまdnを照らすのは、もはや火の赤みではなく、空気の青さである。それゆえdnは青色を帯び、nfでは火が見える。したがって青い陰は、下側では、この不透明な物体上の火の赤みに接し、上側では菫色に接する。すなわちdeでは、空気abの青さと火deの赤みとの混合によって照らされ、ほぼ菫色になるのである。こうして、この陰が偽りであることを証明した。それは白の陰でもなければ、それを囲む赤みの陰でもない。

注 末尾付近の火の符号deは原文どおり。冒頭では火をcgと呼ぶ。

物体の色の、本当の陰とは何か

物体の陰は、それが付着する物体の色以外の色を帯びるべきではない。したがって黒は色の数に入らないので、すべての物体の色の陰は、場所に応じて必要なだけ暗さを強く、または弱くして、黒から得られる。その際、不透明な物体の境界の内側に閉じこめられた暗闇を除いて、その物体の色を完全に失うことは決してない。

それゆえ、写そうとする画家よ、画室の壁を、黒を混ぜた白で少し染めなさい。白と黒は色ではないからである。

どの対象が、不透明な物体の白い表面を、自らの似姿で最も強く染めるか

その性質が白から最も遠く隔たる対象が、白い不透明な物体の表面を、自らの似姿で最も強く染める。ここで白から最も遠いものとして示されるのは黒であり、白い不透明な表面は、他の対象のどんな色よりも、この黒によって強く染まる。

物体表面の付随的な現象について

どの不透明な物体の表面も、向かい合う対象の色を帯びる。その色は、物体の表面が白いほど、またその色が表面に近いほど、表面上でいっそうはっきり認められる。

陰の色と、その暗くなる程度について

すべての色が夜の暗闇の中で染められるように、どんな色の陰も、その暗闇に終わる。したがって画家よ、あなたの最も深い暗部で、互いに接する色を見分けられるようにしようと気を配ってはならない。自然がそれを許さず、あなたは技芸の許すかぎり自然を模倣する者であると称するのだから、自然の誤りを直そうなどと思い込んではならない。誤りは自然にはなく、あなたのうちにあると知りなさい。始まりが一つ与えられれば、それに対応する中間と終わりが続くことは必然だからである。

遮光体を照らす光の色について

原刊で第695章に隣接する挿図(1890年版・印刷219頁)
原刊で第695章に隣接する挿図(1890年版・印刷219頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

暗い場所の近接した壁の間に置かれた遮光体が、一方から蝋燭のごく小さな光で、反対側から空気の光の入るごく小さな開口部で照らされるとする。その物体が白いならば、目が空気の光に照らされた場所にあるとき、物体は一方が黄色、他方が青色に見える。

比較の中で、陰が明かりとともにすること

黒い衣服は、白い衣服よりも人を立体的に見せる。これは第九篇の第三命題、すなわち、どの不透明な物体の表面も向かい合う対象の色を帯びる、ということから生じる。したがって、黒い対象を見、またそれから見られる顔の部分は、その黒を帯びて見える。それゆえ陰は暗くなり、顔の照らされた部分との違いが大きくなる。しかし白い衣服は、顔の陰にその白さを帯びさせるため、顔の部分は立体感が乏しく見える。明と暗の間の明暗の差が小さくなるからである。したがってこの場合、顔の陰は、その肌の本当の陰ではなくなる。

肌に向かい合うどの対象が、陰を明部に対応して見せるか

肌色のガラスを通る光と、同じ肌色に塗られた人の部屋、また同じ色の衣服は、顔をその肌の真の明部と陰とともに見せる。この方法は、肌をきわめて美しく見せるのに有用である。しかしこの教えは、さまざまな色に囲まれた野外へ人物を置く教えとは反する。そのような野外にこの人物を置けば、本書の第九篇の第三命題に反することになるからである。

濡れた道を通るとき、肌の色に対応して見えない顔の陰について

ここで問われることは、顔が赤みを帯びていたり白かったりするのに、その陰が黄色みを帯びることがしばしばある、ということである。これは、濡れた道が乾いた道より黄色みを帯び、その道に向いた顔の部分が、向かい合う道の黄色さと暗さによって染められるために起こる。

陰と明かりに対する空気の性質について

太陽の光や、夜の火の光のような、より強い光から見られる物体ほど、陰と明部の差は大きくなる。これは絵画ではあまり用いるべきでない。作品が硬くなり、優美さを失うからである。

中程度の光のもとにある物体は、明部と陰の差が小さい。これは夕方になるころや曇っているときに起こる。このような作品は柔らかく、どんな種類の顔にも優美さがある。したがって、何事でも極端はよくない。光が強すぎると硬くなり、暗すぎると見えなくなる。中ほどがよいのである。

小さい光源について

小さな窓からできる明かりも、明部と陰の差を大きくする。とりわけ、その窓に照らされる部屋が広い場合にそうなる。これは用いるによいものではない。

どの表面が明と暗の差を最も小さくするか

黒い表面と、その黒さを多く帯びた表面は、他のどんな表面よりも、陰の部分と明るい部分との差が小さい。照らされた部分も黒く見え、陰の部分も黒以外にはなりえないからである。ただしわずかな変化によって、照らされた黒い部分よりも、いくらか暗さを増す。

陰から明部への変化が大きいのは、近いものか遠いものか

目から遠い遮光体ほど、その明部と陰との差は小さくなり、逆に目に近いときは大きくなる。これは明るい空気の明るさによる。その空気は、遮光体が近いときよりも遠いときのほうが、目と物体との間に厚く介在するからである。

色と目からの距離が等しい場合、どの物体が明部と陰の差を小さくするか

より暗い空気の中にある物体ほど、その陰と明部との差が小さく見える。より輝く空気の中にあれば逆になる。暗闇に置かれたものが見分けられず、太陽の輝きの前に置かれたものでは、太陽光線の当たる部分に比べて陰が暗黒に見えることが、それを示している。

表面に包まれ限定された物体の、真の形がなぜ分かるか

陰と明かりは、どんな物体の形も分からせる、最も確かな原因である。明るさまたは暗さが一様な色は、その立体感を示せず、すべての部分がそれを照らす輝きから等しい距離にある平面のように働くからである。

場所と、そこに置かれたものの陰を見分けることについて

太陽が東にあり、あなたが西へ向かって見るならば、照らされたものはすべて、まったく陰を欠いて見える。あなたは太陽の見るものを見ているからである。南または北へ向かって見るならば、すべての物体が陰と明かりに囲まれて見える。あなたは太陽が見るものと見ないものとを見るからである。また太陽の進む方向へ向かって見るならば、すべての物体が陰の側を示す。あなたの見る部分は、太陽からは見られないからである。

どの表面に、真に一様な光が見いだされるか

原刊で第706章に隣接する挿図(1890年版・印刷222頁)
原刊で第706章に隣接する挿図(1890年版・印刷222頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

それを照らす物体から等しい距離にある表面は、一様に照らされる。たとえば表面bcdを照らす光源aから、その表面へ等しい線を引いたとする。そのとき円の定義によって、その表面はどの部分も等しく照らされる。しかし第二の図efghに示すように、その表面が平らならば、表面の両端がそれらの線について等距離にある場合、中央hが光源に最も近い部分となる。そしてその光源eに近い分だけ、両端より強く照らされる。しかし第三の図iklmに示すように、その平面の両端が光源から異なる距離にあるならば、最も近い部分と最も遠い部分の明るさの比は、それらを照らす物体からの距離の比に対応する。

派生する光の明るさについて

原刊で第707章に隣接する挿図(1890年版・印刷222頁)
原刊で第707章に隣接する挿図(1890年版・印刷222頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

派生する光が最も強く明るいのは、発光体の全体と、その右または左の暗い地の半分とを見通すところである。これを示すため、bcを発光体、その左右の暗い地をdcおよびabとし、nmを発光体より小さい遮光体、壁面psを暗い像と明るい像が刻まれる場所とする。したがってこの壁面ps上の点rには、この床のどの他の部分よりも強い明るさがあると私はいう。これは、rから発光体bcの全体と、暗い地adの半分、すなわちcdとが見えることによって明らかになる。陰の角錐cdrと光の角錐bcrの直線的な集まりがそれを示す。したがってrでは、暗い地cdが発光体bcと等しい量だけ見える。しかし点sでは、暗いabが見え、さらに暗いcdも見える。この二つの暗い範囲は、発光体bcの二倍に相当する。しかしsからrへ向かって進むほど、暗さabを失う。したがってsからrへ向かって、床srは常に明るくなる。またrからoへ向かって進むほど、発光体が見える量は少なくなる。このため床roは、oに近づくほど暗くなる。この論証により、rが床osの最も明るい部分であると証明した。

注 同一の受光面を原文はparete(壁)とpavimento(床)の両方で呼ぶため、そのまま訳し分けた。

人が同じ光源から遠ざかり、近づくことと、その陰の変化について

原刊で第708章に隣接する挿図(1890年版・印刷223頁)
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同じ物体上の陰と明かりは、人がその光源の前で近づいたり遠ざかったりする変化の数だけ、形と大きさを変える。これを示すため、bcを人とする。この人はaから光を受け、陰bcfをつくる。その後、人がcからeへ移ると、光源は動かないまま、陰の形と大きさを変える。それが第二の陰degである。

足の位置を変えず、身を曲げ、下げ、上げる身体上の陰を、動かない光源が変えることについて

原刊で第709章に隣接する挿図(1890年版・印刷223頁)
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これを示すため、fを動かない光源、abを足の位置を変えない人とし、その人がcbへ身をかがめるものとする。aからcまでの間で陰は無限に変わると私はいう。運動は空間の中で行われ、空間は連続量であり、したがって無限に分割できるからである。それゆえ陰は、第一の陰aobから第二の陰bcrまで、無限に変わる。こうしてわれわれの論点は結論づけられた。

光源に近づくと陰の部分が増すのは、どの物体か

原刊で第710章に隣接する挿図(1890年版・印刷223頁)
原刊で第710章に隣接する挿図(1890年版・印刷223頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

発光体が、それによって照らされる物体よりも小さい場合、照らされる物体が発光体に近づくほど、その陰は大きくなる。aを遮光体rsglより小さい発光体とする。これは光線anとamの内側にある部分rsgの全体を照らすので、これらの光線による必然として、rlgの全体が陰の部分に残る。次に私は、この遮光体を同じ発光体へ近づける。それはdpeoとなり、直線の光線abとacの内側に入り、点dと点eでそれらの光線に触れる。線deは、照らされた部分dpeと陰の部分doeとを分ける。この陰の部分は、必然的に、より遠くにある物体の陰rlgよりも大きい。これはすべて光線から生じる。光線は直線なので、遮光体が発光体に近いほど、その物体の中央からいっそう遠く離れるからである。

光源に近づくほど陰の部分が減るのは、どの物体か

原刊で第711章に隣接する挿図(1890年版・印刷224頁)
原刊で第711章に隣接する挿図(1890年版・印刷224頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

発光体が、それによって照らされる物体よりも大きい場合、照らされる物体が発光体に近づくほど、その陰は減る。abを遮光体xyrhより大きい発光体とする。この遮光体が発光体に近いfecdへ移ると、その陰は減る。それを照らす物体に近づくと、遠くにあったときよりも、光線が物体の中央を越えて広く包むからである。

照らす物体からどれほど遠ざかり近づいても、陰や明部が増減しないのは、どの遮光体か

原刊で第712章に隣接する挿図(1890年版・印刷224頁)
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遮光体と発光体の大きさが互いに等しい場合、両者の間の距離が遠くても近くても、陰や照らされた部分を増減させる力はない。nmを遮光体とする。これを発光体abに近い位置cdへ移しても、その陰の量は増減しない。これは、それを包む光線が互いに平行だからである。

等しい大きさの物体のうち、大きい光源に照らされたものほど、陰の長さが短くなること

もとの光源に近い物体ほど、その投影は短くなり、遠い物体ほど長くなる。

前述の命題は、実験によって確かめられる。上に示すように、物体mnは物体pqよりも多くの光に包まれるからである。vcabdxを、元の光をつくる空とし、stを、光の像が入る窓とし、mnpqを、その光に向かい合う遮光体とする。mnの投影は小さくなる。その固有の陰が小さく、派生する光が大きいからであり、これは元の光cdも大きいためである。pqの投影は大きくなる。その固有の陰が大きいからである。その派生する光は物体mnのものより小さい。それを照らす天空半球の部分abが、物体mnを照らす部分cdより小さいからである。

一つの窓から照らされる室内に散在する物体は、その窓に正対する程度に応じて、投影が短くも長くもなること

原刊で第714章に隣接する挿図(1890年版・印刷225頁)
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窓の中央により正面から向かう遮光体が、斜めに位置するものより短い陰をつくる理由は、前者が窓を本来の形で見、斜めの物体は短縮された形で見るからである。中央の物体には窓が大きく見え、斜めのものには小さく見える。中央のものは大きな天空半球efを見、側方のものは小さく見る。すなわちqrはabを見、mnはcdを見る。中央の物体は、側方のものより多くの光を受けるので、その中心よりもずっと下まで照らされ、そのため陰が短くなる。そしてabがefに含まれる割合とまったく同じ割合で、角錐g4はeyに含まれる。

投影の中心はすべて、固有の陰の中心、遮光体の中心、派生する光の中心、窓の中央、そして最後に天空半球のなす子午線部分の中央と一直線に並ぶこと

yhは投影の中心、lhは固有の陰の中心である。lを遮光体の中心、lkを派生する光の中心とする。vを窓の中央、eを、遮光体を照らす天空半球の部分がつくる元の光の、最後の中心とする。

元の光源より小さい遮光体から生じる陰はすべて、その起源の色に染まった投影を送り出すこと

原刊で第716章に隣接する挿図(1890年版・印刷226頁)
原刊で第716章に隣接する挿図(1890年版・印刷226頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

陰efの起源をnとすると、その陰はnの色に染まる。heの起源はoであり、同じようにその色に染まる。またvhの色はpの色に染まる。そこから生じるからである。三角形zkyの陰はqの色に染まる。qから派生するからである。fは光の第一段階である。そこは窓adの全体に照らされるからであり、遮光体上のmも同じ明るさをもつ。zkyは、陰の第一段階を含む三角形である。その三角形の中には光adが届かないからである。xhは陰の第二段階である。そこは窓の三分の一、すなわちcdhにしか照らされないからである。そしてそれは陰の第三段階となる。そこでは窓bdの三分の二が見えるからである。またfは陰の最後の段階となる。窓の光の最後の段階が、場所fを照らすからである。

注 原文はcdh付近の区切りと第三段階の主語が不明瞭。図中符号および反復するfを保持し、推測で補っていない。

遮光体のうち、より少ない量の光から見られる部分ほど明るさが少なくなること

物体の部分mは光の第一段階である。線afによって窓adの全体が見えるからである。第二段階はnである。線beによって光bdが見えるからである。oは第三段階である。線cbによって光cdが見えるからである。pは最後から二番目である。線dvによってcdが見えるからである。qは最後の段階である。窓のどの部分も見えないからである。cdがadに含まれる割合に応じて、nrsはmより暗くなり、他の地の全体には陰がない。

遮光体に等しい角をなして当たる光は、最高の明るさをもち、より不等な角で受けるところほど暗くなること、また光と陰は角錐によって作用すること

原刊で第718章に隣接する挿図(1890年版・印刷227頁)
原刊で第718章に隣接する挿図(1890年版・印刷227頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

角cは明るさの第一段階をもつ。そこからは窓abの全体と、天空の地平線mxの全体が見えるからである。角dはcとほとんど違わない。dを挟む角は、下にある他の角ほど比が異ならず、欠けるのは地平線のyx間の部分だけだからである。反対側で同じだけを得るとしても、その線の力は弱い。その角は対になる角より小さいからである。角edには光がさらに少ない。そこからは見えないからである。光msと光vxが欠け、その角は著しく不等である。角kと角fは、それぞれ互いに大きく異なる角に挟まれるため、光が少ない。kでは光ptだけが見え、fではtqしか見えないからである。ogは光の最後の段階となる。そこからは地平線の光のどの部分も見えないからである。それらの線は、角錐cと相似な角錐を再びつくる。その角錐lは陰の第一段階にある。これもまた等しい角の間に位置するからである。そしてこれらの角は、遮光体の中心を通り、光の中央につながる直線に沿って、互いに向かい合う。窓の境界の点abで増殖する光の像は、場所4と6で遮光体のつくる投影を取り囲む明るさを生じる。暗い像はogで増殖し、7と8で終わる。

物体がつくる陰はすべて、その中心線によって、窓の開口と厚みの中央で光線が交わる一点へ向かうこと

原刊で第719章に隣接する挿図(1890年版・印刷227頁)
原刊で第719章に隣接する挿図(1890年版・印刷227頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

上で述べた理は、経験によって明らかになる。北向きの窓のある場所を描き、その窓をsfとすれば、東の地平線から出る線が、窓の二つの角ofに触れてdへ達するのが見える。一方、西の地平線から出る線は、窓の他の二つの角rsに触れてcで終わる。この交点は、窓の開口と厚みのちょうど中央に来る。さらにghの位置に二本の棒を置くと、この理をいっそうよく確かめられる。実際の陰の中央からできる線が、中心mと地平線nfに向かって伸びるのが見えるだろう。

距離によって原因の物体より幅が大きくなる陰は、そのすべての変化を含め、外側の線が光源と遮光体との間で合わさること

原刊で第720章に隣接する挿図(1890年版・印刷228頁)
原刊で第720章に隣接する挿図(1890年版・印刷228頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

この命題は、経験によって明らかになり、確かめられる。abが仕切りのない窓ならば、右のaにある明るい空気は左のdから見られ、左のbにある空気は右の点cを照らす。そしてそれらの線は点mで交わる。

どの遮光体も、暗い角錐と明るい角錐の二つの間にあり、一方は見え他方は見えないこと、またこれは光が窓から入る場合にのみ起こること

原刊で第721章に隣接する挿図(1890年版・印刷228頁)
原刊で第721章に隣接する挿図(1890年版・印刷228頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

abを窓、rを遮光体と考えなさい。右の光3は、遮光体の左側gを通ってpへ行く。左の光kは、物体の右側iを通ってmへ行く。この二本の線はcで交わり、そこで角錐をつくる。次にabは、遮光体のigに触れ、角錐figをつくる。fは暗くなる。そこからは光abigを見ることが決してできないからである。cは常に明るい。そこからは光が見えるからである。

目が遮光球体から光源より遠くにあっても、光源の後ろにいるかぎり、陰が見えないのはどの光源か

原刊で第722章に隣接する挿図(1890年版・印刷228頁)
原刊で第722章に隣接する挿図(1890年版・印刷228頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

発光体が遮光球体と等しいか、それより大きい場合、光源の後ろにある目は、その発光体の大きさの関係のため、遮光体の陰のどの部分も見ることができない。cedfを遮光球体、abをそれと等しい発光体とし、その球体の陰をcfdとする。光源abの後ろにある目lは、どんな距離にあっても、陰のどの部分も見ることができないと私はいう。これは第九篇の第七命題、すなわち、平行線は一点に集まらないということによる。acbdは平行に置かれ、球体のちょうど半分を包む。ところが線nmは点lに集まるので、その点からは、直径cdで分けられた球体の半分を見ることはできない。

発光体が遮光体より小さい場合、遠い距離から遮光体の陰を見ることを妨げられない目について

原刊で第723章に隣接する挿図(1890年版・印刷229頁)
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しかし発光体が遮光体よりも小さい場合には、その遮光体の陰を目が見られる距離が、必ずどこかに見つかる。opefを遮光体とし、光源abはどんな比でもよいが、その遮光体より小さいものとする。光源の後ろにある目nが、遮光球体の陰のどこか一部を見ることを、決して阻むことはできないと私はいう。線の直進性がそれを示すとおりである。

空気中に置かれた不透明な球体の陰について

原刊で第724章に隣接する挿図(1890年版・印刷229頁)
原刊で第724章に隣接する挿図(1890年版・印刷229頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

不透明な球体の部分は、より多くの暗さから見られるものほど陰が濃くなる。暗い対象を平面dc、明るい天空半球をdncとし、天空半球の光と大地の暗さとの間に置かれた球体をbcpoとする。部分oqpは、球体のどの他の部分よりも暗いと私はいう。太陽が、向かい合う大地dcの暗さの各側面の全体を見ており、他のどの側もそれより少なく見るからである。これは幾何学の原論の一命題によって証明される。その命題は、円の中心から接触角へ引いた線は垂直となり、二つの直角の間に落ちるというものである。したがって球の中心xから来る線は、点oで直角をなしてscに終わり、大地dcの暗さの全体を見通す。そしてこのoもまた、その大地から見られる。反対側のpも同じ理由によって同様になり、qと範囲opの間にあるすべての部分も同様である。しかしqは、oやpよりも大地の上の中央にあるため、最も強い暗さをもつ。oとpは大地の暗さの端に近く、天空半球の地平線を見始め、その光と混じり合うからである。

注 『太陽が』は原文il soleを保持した。文脈上はoqpの部分だけが全暗部を見る、という趣旨が疑われるが、黙って訂正していない。

地面に置かれた不透明な球体の陰について

しかし、地面に接して置かれた不透明な球体の陰は、大地を向かい合う対象として見るだけだった前の場合よりも暗くなる。これを示すため、不透明な球体nmsが地面acに点sで接して置かれ、弧abcをわれわれの天空半球とする。この球体が置かれた地面につくる陰は、前述のものよりも暗いと私はいう。第八命題は、どの原因も、その原因を分かちもつようになると述べる。したがって、この陰の原因である地面は、それ自体が暗いほど、暗い陰を与える。ゆえに、陰になったところは照らされたところより暗いので、これで結論される。

注 引用命題の『どの原因も、その原因を』は原文ogni causa…della sua causaの反復を保持した。

いくらか透明な物体の陰について

透明さをいくらかもつ物体は、同じような他の多くの物体の陰の暗さによって陰になっているのでなければ、暗い陰をつくらない。木の葉が互いの上に陰を落とす場合がそうである。

入射光と反射光の間にある主要な陰について

反射光と入射光の間にある主要な陰が、実際にどんな形をしているかを観察しなさい。この陰は、それが付着する身体部分とともにでなければ、途切れも終わりもしない。その両側は中心からさまざまな距離にあり、入射光や反射光との接し方もさまざまである。あるときは境界がはっきり見え、あるときは見分けられない。あるときは直線から曲がり、あるときは直線を保つ。あるときは、両側の境界が主要な陰の中央から不等な距離にある。この論述から一書をつくることになる。

最初に見分けられなくなる物体の境界について

不透明な物体の境界は、ごく短い距離でも見分けられなくなるものである。ここで見分けられなくなると述べるものは、物体の表面、別の言い方では密な物体の限界である。それ自体は物体ではないため、自らを明瞭に知らせず、それを調べる者から遠いほど、いっそう知らせなくなる。

不透明な物体の境界について

原刊で第729章に隣接する挿図(1890年版・印刷231頁)
原刊で第729章に隣接する挿図(1890年版・印刷231頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

不透明な物体の真の境界が、明瞭に認識されることは決してない。これは視覚の力が一点から生じるのではないためである。遠近法の第五篇の第三命題で、視覚の力は目の瞳孔全体に広がると証明されているとおりである。そこで瞳孔abcが、物体nの端mにある境界を見るとき、その境界は壁gh上の範囲def全体を占める。瞳孔の上部aは物体の境界mを点dに見、瞳孔の中央bは、より低い別の境界を、dより高い点eに見、瞳孔の下部cは、さらに低い別の境界を見て、それが壁のさらに高いところへ映されるからである。こうして遮光体の境界が曖昧になる原因が証明された。

同じ瞳孔から見える遮光体の境界が、その物体上の同じ場所にはないこと

原刊で第730章に隣接する挿図(1890年版・印刷231頁)
原刊で第730章に隣接する挿図(1890年版・印刷231頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

同じ瞳孔から見える不透明な物体の境界は、その物体上の同じ場所には決してない。これを示すため、瞳孔abが不透明な物体nの上部を見るものとする。この瞳孔の下部bは、物体の境界を点dに見て、それは壁or上の点eで限られる。一方、瞳孔の上部aは、不透明な物体の境界を点cに見て、それが同じ壁上で終わる。したがってcdは、この不透明な物体の同じ場所にはないので、われわれの意図したことは証明された。

物体が、それを見る目に近いほど、境界が曖昧になること

原刊で第731章に隣接する挿図(1890年版・印刷231頁)
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不透明な物体の境界は、それを見る目に近いほど曖昧になる。この命題は、瞳孔abが、物体eの境界を、互いに大きく離れたcdに見ることによって証明される。そのため、それらは曖昧になる。一方、より遠い物体fの境界は、互いに近いnoに見える。したがって物体eの境界よりも明瞭に見えるのである。

物体のどの部分が、他より明るいか暗いかを知るにはどうすべきか

原刊で第732章に隣接する挿図(1890年版・印刷232頁)
原刊で第732章に隣接する挿図(1890年版・印刷232頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

aを光源、頭をそれに照らされる物体とする。頭のうち、光線が互いにより等しい角をなして当たる部分は、より強く照らされ、より不等な角の間に光線を受ける部分は、明るさが少なくなる。この作用において、光は打撃と同じように働く。等しい角の間に落ちる打撃は、力の第一段階にあり、不等な角の間に落ちる打撃は、その角が異なるほど、第一のものより弱くなるからである。たとえば、両端があなたから等しい距離にある壁に球を投げるならば、打撃は等しい角の間に落ちる。しかし壁の一方の端に立って球を投げれば、球は不等な角の間に当たり、打撃はしっかり加わらない。

入射線がつくる角がより等しいところには光が多く、より不等なところには暗さが多いこと

限られた光源はすべて、一つの点から光を生じさせる、あるいはそう見えることが証明されたので、それに照らされる部分のうち、光線が二つの等しい角の間に落ちる小部分が、最も明るくなる。上の図の線agに示すとおりであり、ahとalでも同じである。そして照らされた部分のうち、入射線が二つの角の間に当たる小部分は、より明るさが少なくなる。bcdに見られるとおりである。この方法によって、mkに見られるような、光を欠く部分も知ることができる。

注 後半の『二つの角』には原文で不等を示す形容詞がない。前後から不等角を意味すると読めるが補わなかった。

陰と明かりを伴う物体の境界は、その表面に接するものの色と明かりによって常に変わること

原刊で第734章に隣接する挿図(1890年版・印刷232頁)
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ある物体の照らされた部分が、暗い地を背景としてそこで終わっているのを見るならば、その明部のうち最も明るく見えるのは、dで暗いところに接する部分である。そしてこの明部が明るい地に接すれば、照らされた物体の境界は以前ほど明るく見えず、最も明るいところは、地の境界mfと陰との間に現れる。陰についても同じことが起こる。陰になった物体の部分が、lで明るい場所を背景にしている場合、その境界は他の部分よりもはるかに暗く見える。しかしこの陰が暗い地に接すれば、陰の境界は以前より明るく見え、最も暗いところは、その境界と明部との間の点oにある。

物体を見る目の移動に従って、向きを変え移る明るさの頂点について

原刊で第735章に隣接する挿図(1890年版・印刷233頁)
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その物体を、この欄外に描いた円いものとし、光源を点a、物体の照らされた部分をbc、目を点dとしよう。光沢は、全体のどこにでも全体として存在し、部分の中にも全体として存在するので、目が点dにあるときには点cに見えると私はいう。そして目がdからaへ移る分だけ、光沢はcからnへ移る。

対象がつくる陰の境界を定める方法

原刊で第736章に隣接する挿図(1890年版・印刷233頁)
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対象をここに描いた山とし、光源を点aとするならば、bからdまで、また同様にcからfまでは、反射光線による以外に光はないと私はいう。光線は直線によってしか作用しないからである。反射する第二の光線も、まったく同じように働く。

球体のどの部分が最も弱く照らされるか

原刊で第737章に隣接する挿図(1890年版・印刷233頁)
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遮光体の部分は、発光体のより少ない部分から見られるものほど、照らされ方が弱くなる。これを示すため、遮光体をasqr、発光体をその天空半球ncefとする。部分aと部分oは、等しい弧acedとcedfから見られるので、等しい量の光から見られ、そのため等しく照らされると私はいう。しかし、より小さい弧odfから見られるrは、受ける光が少ない。そしてedfより小さいdfしか見ないpは、そのためさらに明るさが少なく、地平線の端fしか見ないqは、いっそう明るさが少なくなる。

球体のどの部分が最も強く照らされるか

原刊で第738章に隣接する挿図(1890年版・印刷233頁)
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球体の照らされた部分は、より少ない量の暗い像を伴うものほど、明るさが強くなる。これを示すため、fnoを遮光球体、abcを明るい天空半球、平面acを大地の暗さとする。したがって球の部分fnは、最も強い明るさをもつと私はいう。大地acのどの部分も見通さず、天空半球abcの等しい弧によって照らされるため、それ自体も等しい明るさをもつからである。すなわち弧areは、

弧rbsおよび弧bscに等しい。そして二つのものが第三のものに等しければ、それらは互いにも等しいという公理により、pfnは明るさが等しい。

注 原文の紙面境界に由来する二つの対応単位は、一文として連続する。印刷の柱・折丁表示は除外した。

不透明な球体のどの部分が最も弱く照らされるか

原刊で第739章に隣接する挿図(1890年版・印刷234頁)
原刊で第739章に隣接する挿図(1890年版・印刷234頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版
原刊で第739章に隣接する挿図(1890年版・印刷234頁)
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原刊で第739章に隣接する挿図(1890年版・印刷235頁)
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不透明な球体の部分は、より少ない量の光線から見られるものほど、陰が暗くなる。この命題は先の第一のものによく似ているが、証明の仕方がいくらか異なるので、証明を省くまい。fnoを遮光体、abcを天空半球、線acを大地の暗さとする。まず球体の上部fpnは、天空半球abcの全体から等しく照らされると私はいう。そして与えられた等しい三つの部分、すなわち点fを照らすare、pを照らすrbs、nを照らすgscによってこれを示す。したがって第九篇の第七命題によって、球体の上部fpnは等しい明るさであると結論される。その命題は、物体の各部分が、等しく相似な光源から等距離で照らされるならば、常に必然的に等しい明るさをもつというものである。この条件がfpnに当てはまる。第二の証明に移る。abcを遮光球体、dfeを照らす天空半球、deをここで陰を生じさせる大地とする。前の命題によって、球の部分anbの全体は陰を欠くと私はいう。大地の暗さから見られないからである。一方、球の表面の残りはすべて陰になり、大地の暗さのより多い量またはより少ない量が、天空半球の光のより少ない量またはより多い量と伴うのに応じて、暗さが強くも弱くもなる。したがって、天空半球を最も少なく見、大地を最も多く見る点cは、陰のどの他の部分よりも暗くなる。そこからは天空半球のrdとseしか見えず、大地deの全体が見えるからである。そして最も明るいのはabである。そこからは大地の両端deしか見えないからである。

どんな球体でも、その照らされる部分は、それを見る発光体の部分が小さいほど小さくなる。これを示すため、ahを遮光体、cieをわれわれの天空半球とする。すると遮光体の部分aは、発光体のより小さい部分、すなわちこの天空半球の昼光のより小さい部分から見られるため、照らされ方が弱くなる。二つの部分bcとdeがそれを示す。

したがって、球体の照らされる部分は、発光体のより多くの量によって照らされるほど、大きな形をもつ。これは前の命題の逆によって証明される。われわれの天空半球のごく小さい光bc、deが、球体ahのごく小さい部分を照らすならば、天空半球の最大の光は、その球体の最大の部分を照らす。すなわち次の図のbc、dfが部分nmrだけを照らすならば、天空半球の残りが、その部分bc、dfと合わさって、前述の球体の残りを照らす。なぜならbc、dfはnmrを照らすが、球体の側面の部分knと、反対側の部分lrをも照らすからである。

ここで反対者は、それほど多くの学知は望まず、自然のものを写す実践だけで十分だという。これには、他の理由なしに自分の判断を信じるほど、われわれを欺くものはないと答える。経験が常にそれを証明する。経験は、錬金術師、降霊術師、その他の単純な知性の持ち主の敵なのである。

物体の明部と、その反射光で照らされた部分との比について

原刊で第740章に隣接する挿図(1890年版・印刷235頁)
原刊で第740章に隣接する挿図(1890年版・印刷235頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

入射光に照らされた部分と、反射光に照らされた部分との比は、入射光と反射光との比と同じになる。これを示すため、abを入射光とし、それが球体cdのcndを照らし、その光線が対象efへ進み、そこからcmdへ反射するものとする。光abの強さが二段階で、efの強さが一段階、すなわち二の半分ならば、反射光によるcmdの明るさは、cndの明るさの半分になると私はいう。

球体または柱状体における、陰の最も暗い部分について

球体または柱状体の陰の部分は、その入射光と反射光との間に位置する。

個別の光源がつくる陰は、その終わりが始まりと同様であるため、避けるべきこと

太陽または他の個別の光源がつくる陰は、それを伴う物体に優美さを与えない。物体の部分が、明部から陰へのはっきりした境界によって、まとまりなく残され、陰の強さが、その終わりでも始まりでも同じだからである。

照らされるものに、場所に応じた適切な光を与えることについて

ものを照らす光を適切に配するには、大いに注意しなければならない。一つの物語画の中にも、野外の空気の全般的な光のもとにある部分や、柱廊の中にあって個別の光と全般的な光が混じる部分や、個別の光のもと、すなわち一つの窓だけから光を受ける室内にある部分が生じるからである。この三種類の光のうち、第一では、明部が広い範囲を占める必要がある。第一篇の第四命題は、物体の照らされた部分どうしの大きさの比は、それらを照らす対象どうしの大きさの比と同じであるという。また、これらのうち、全般的な光に照らされた物体の間の狭い場所へ光が入り、一つの物体から他の物体への反射を必要とする場合もある。互いに近い物体の間へ入る光には、家の窓や戸口から入る、われわれが個別の光と呼ぶ光と同じことが起こるからである。これについても、その箇所で必要な注意を記すことにしよう。

人物または多面体に、適切な陰と明かりを置く規則

原刊で第744章に隣接する挿図(1890年版・印刷236頁)
原刊で第744章に隣接する挿図(1890年版・印刷236頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

多面体の各面に当たる陰の暗さ、あるいは光の明るさの強弱は、発光体の中心線が照らされた面の中央に当たるとき、その中心線と面の表面との間にできる角の大きさに応じる。たとえば、照らされる物体が八角柱で、その正面図を欄外に示すものとする。そして中心線raが、発光体rの中心から辺scの中心へ延び、さらに中心線rdが、同じ発光体rの中心から辺cfの中心へ延びるものとする。辺scが発光体から受ける光の性質と、第二の辺cfが同じ発光体から受ける光の性質との比は、角bacの大きさと角edfの大きさとの比と同じになると私はいう。

前述の物体の各面に、真の明るさを置く規則

原刊で第745章に隣接する挿図(1890年版・印刷237頁)
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あなたが模倣したい物体の色に似た色を取り、その物体を照らしたい主要な光の色も取りなさい。次に、前述の大きい角が小さい角の二倍であると分かったら、模倣したい物体の自然な色を一部分取り、それに、受けさせたい光を二部分加えなさい。そうすれば、小さい光の二倍の光を置いたことになる。次に半分の光をつくるには、前述の物体の自然な色を一部分だけ取り、それに前述の光を一部分だけ加えなさい。こうして同じ色の上に、一方が他方の二倍となる光をつくったことになる。一方の一定量の色には同量の光が加えられ、他方の量には二倍量の光が加えられたからである。これらの色の量を正確に測りたければ、欄外に示すような小さな匙を用意し、それで等しい量を取れるようにしなさい。そしてそれで色を取ったら、穀物を売るときに升に対してするように、小さな定規ですり切りなさい。

室内では野外と違い、投影のまわりの照らされた地が、なぜより明るく見えるか

投影を取り囲む明るい地は、陰から遠い部分よりも、陰に近いところで明るい。これは、その地が窓から光を受けるときに起こり、野外では起こらない。どのように生じるかは、陰と明かりの書のしかるべき箇所で明らかにする。

明かりを与えることについて

まず、光を見通さない部分全体を包む陰を一様に置き、その後、中間の陰と主要な陰を、互いに比較しながら加えなさい。同じように、明部全体を中程度の明るさで包み、その後、中間の明部と主要な明部を、同じく比較しながら加えなさい。

工夫した明かりと陰によって、絵画の見かけの立体感を助けることについて

絵画の立体感を増すには、描いた人物と、その陰を受ける目に見える物との間に、明るい光の線を置き、人物を暗くなった対象から分けるようにしなさい。また同じ対象の上に二つの明るい部分をつくり、向かい合う人物が壁につくる陰を、その間に挟みなさい。あなたが胴体から少し離れて見せたい肢、特に腕が胸の前を横切るときには、腕が胸に落とす陰と、腕自身の陰との間に、少しの明かりを残す方法をしばしば用いなさい。それが胸と腕の間の隙間を通るように見えるようにするのである。そして腕を胸からもっと離れて見せたいほど、その明かりを広くしなさい。さらに常に、物体の暗い部分が明るい地に接し、物体の照らされた部分が暗い地に接するよう、地の中へ物体を配置する工夫をしなさい。

さまざまな陰の線で物体を取り囲むことについて

さまざまな対象によって物体の表面に生じる陰は、常にさまざまに曲がりながら波打つようにしなさい。これは、陰をつくる身体部分と、その陰を受けるものとの変化による。

人物に、明かりと物体に対応した陰をつくる方法

人物を描くとき、陰が明かりに対応しており、陰をつけたい色の本性よりも赤すぎたり黄色すぎたりしないかを確かめたければ、次のようにしなさい。指で照らされた部分に陰をつくるのである。あなたが描いてつくった陰が、指によって作品上に自然にできた陰と似ていれば、それでよい。そして指を近づけたり遠ざけたりして、より暗い陰や明るい陰をつくり、それを常にあなたの陰と比較しなさい。

野外で見られるものの、明かりと陰の位置について

目が、太陽から見られる物体の部分をすべて見るならば、すべての物体を陰なしに見ることになる。これは第九命題、すなわち、どの不透明な物体の表面も、向かい合う対象の色を帯びるという命題によって証明される。したがって太陽は、それを見る物体表面のすべての部分に向かい合う対象なので、それらの表面部分は、照らす太陽の明るさを帯びる。目はそれらの物体を見、太陽が見る部分以外を見ることは不可能である。したがって前述のどの物体についても、固有の陰も投影も見ない。

太陽が東にあり、目が北または南にある場合

太陽が東にあり、目が北または南にあるとき、目は東側の物体の固有の陰と、西側の物体の明部とを見て、自らは物体の明部と陰とのちょうど中間に位置する。

太陽と目が東にある場合について

太陽と目が東にあるとき、太陽を見る表面部分はすべて、本篇の第九命題によって、目に照らされたものとして見える。

太陽が東にあり、目が西にある場合について

西にある目が東の太陽を見るとき、東と西との間にある不透明な物体は、目にその陰を示す。したがって風景は半分が明るく、半分が暗いことになる。

画家への覚え書き

原刊で第755章に隣接する挿図(1890年版・印刷239頁)
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したがって画家よ、右または左から光を受ける風景や田野を描くときは、前述の結論に従い、物体がそれを照らす原因に近いか遠いかに応じて、その陰の占める量を大きく、または小さくしなければならないことを覚えておきなさい。

明部に対応する陰の適合について

この点では、描こうとする物体の周囲のものに大いに注意しなければならない。第四篇の第一命題が、どの遮光体の表面も、向かい合う対象の色を帯びると証明しているからである。しかし技芸によって、緑色の物体の陰に向かい合うところへ、草地などの緑のものや、それにふさわしいものを配置するべきである。そうすれば陰がその対象の色を帯びても、変質して、緑以外の物体の陰に見えることはない。それ自体が緑である陰の前に、照らされた赤を置けば、その陰は赤みを帯び、きわめて醜く、緑の真の陰から大きく異なる陰の色になるからである。この色について述べたことは、他のすべての色にも当てはまる。

遮光体のどの部分で、その色が最も美しく見えるか

光沢をもたないあらゆる色の最も優れた美しさは、常に、その遮光体のうち最も強く照らされた部分の、最も明るいところにある。

遮光体の境界が、ときに実際より明るく、または暗く見えるのはなぜか

遮光体の境界は、それに接する地が、その境界をなす物体の色よりも暗いか明るいかに応じて、実際よりも明るく、または暗く見える。

遮光体表面の照らされた部分と、光沢のある部分との違いは何か

遮光体の照らされた部分は、その光沢に近づくほど明るさが少なく見える。これは両者の境界に大きな違いがあるためであり、その違いによって、輝きの少ない部分は境界で暗く見え、光沢の輝く部分は非常に明るく見える。しかし、このような印象を受ける表面は、像のぼやける鏡の性質をもつ。それらは太陽と、その背景となる空の似姿をぼんやりと受ける。同じように、窓の光と、その窓が開いている壁の暗さを受けるのである。

光沢について

遮光体の光沢について

同じ程度に磨かれた物体の光沢のうち、より黒い表面に生じるものほど、その地との差が大きくなる。これは、光沢が、ほぼ鏡の性質をもつ滑らかな表面に生じるためである。そしてすべての鏡は、対象から受けるものを目へ返すので、太陽を対象とするどの鏡も、太陽を同じ色で返す。太陽は、明るい地よりも暗い地の中で、より強く見えるのである。

光沢は、他のどの地よりも黒い地で強く見えること

同じ強さの光沢のうち、より暗い地にあるものほど、優れた明るさを示す。これは前と同じ命題だが、違いがある。前は光沢とその地との差について述べ、ここでは黒い地にある光沢と、他の地に生じる光沢との差について述べている。

白い地に生じる光沢は、力が弱いこと

同じ強さの光沢のうち、より白い表面に生じるものほど、輝きが弱く見える。

磨かれた物体上の光沢の大きさについて

目から等しい距離にある球体上に生じる光沢のうち、より小さい球体上に生じるものほど、形が小さくなる。ほとんど見分けられないほど小さな水銀の粒では、光沢がその粒の大きさと等しいのが見られる。これは、瞳孔の視覚の力がその小粒より大きく、そのため述べたように、それを取り囲むからである。

光沢と明かりとの違いは何か

光沢と明かりとの違いは、光沢が常に明かりより強く、明かりは光沢よりも広い量を占めることである。また光沢は、目とともに、またはその原因とともに、あるいは両方とともに移動する。しかし明かりは、それを生じさせる原因が動かなければ、定まった場所にとどまる。

明かりと光沢について

不透明な物体の磨かれた表面に生じる明部は、物体が動かなければ、見る者の目が動いても動かない。しかし同じ物体上の光沢は、目が移る位置の数だけ、その表面のさまざまな場所に現れる。

明かりはあるが光沢のないのは、どの物体か

表面が緻密で粗い不透明な物体は、照らされた部分のどこにも光沢を生じない。

光沢はあるが明部のないのは、どの物体か

磨かれた表面をもつ緻密で不透明な物体は、照らされた部分のうち、光と目の入射角を受けうる場所の数だけ、完全な光沢をもつ。しかしその表面は、光源の周囲のすべてのものを映すため、照らされた物体のその部分では、照明そのものを見分けられない。

光沢について

光沢は、その光る物体の色よりも、それを照らす光の色をはるかに多く帯びる。これは緻密な表面に起こる。

多くの遮光体の光沢は、照らされた物体の色そのものである。磨いた金、銀、その他の金属や同様の物体の光沢がそうである。

葉、ガラス、宝石の光沢は、それが生じる物体の色をわずかしか帯びず、それを照らす物体の色を多く帯びる。

緻密な透明体の奥に生じる光沢は、ルビー、バラス石、ガラスなどの内部に見られるように、その色の美しさの第一段階にある。これは、目とその光沢との間に、透明体の自然な色の全体が介在するためである。

緻密で光沢のある物体の反射光は、その物体の自然な色よりもはるかに美しい。糸にした金の開いた折り目や、その他の同様な物体に見られるとおりである。一方の面が、向かい合う他方へ照り返し、他方がそこへ照り返し、このように順次、無限に続く。

光沢があり透明な物体は、どんな対象から受けた陰も、その上に示すことができない。川の橋の陰に見られるとおり、それは濁った水の上にしか見えず、澄んだ水には現れない。

光沢は、それを見る場所の違いの数だけ、対象上のさまざまな場所に見いだされる。目と対象が動かなければ、光沢は、それを生じさせる光源とともに対象上を移る。光源と対象が動かなければ、光沢は、それを見る目の運動とともに対象上を移る。

光沢は、あらゆる物体の滑らかな表面に生じる。そのうち、より緻密で滑らかなものほど、多くの光を受ける。

反射について

注 balascioは歴史的な宝石名で、淡赤色のスピネルなどを指す。原語に対応する呼称を用いた。

入射光と反射光の間にある陰について

入射光と反射光の間にある陰は、非常に暗くなり、それに接する入射光との比較のため、実際よりも暗く見える。

反射はどこで最も暗くなるべきか

原刊で第770章に隣接する挿図(1890年版・印刷243頁)
原刊で第770章に隣接する挿図(1890年版・印刷243頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

光源sが物体rpを照らすならば、その固有の陰は、物体が平面に接する下側よりも、光源へ向かう上側で明るくなる。これは本篇の第四命題、すなわち、どの物体の表面も向かい合う対象の色を帯びるということによる。したがって、床の位置mpに映る投影は、遮光体の部分opへ跳ね返り、その陰を取り囲む派生した光、すなわちmnは、orへ跳ね返る。このため、このような遮光体では、その物体と床との接する境界に、明るい反射が生じることは決してない。

全体に広がる光のもとでは、反射がほとんど、またはまったく見えないのはなぜか

原刊で第771章に隣接する挿図(1890年版・印刷243頁)
原刊で第771章に隣接する挿図(1890年版・印刷243頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

遮光体の反射は、全体に広がる光のもとでは、ほとんど、またはまったく見えない。これは、そのような全般的な光が、各物体を大きく取り囲んで包むためである。それらの表面は、すでに証明されたように、向かい合う対象の色を帯びる。たとえば物体aが天空半球gcdに照らされ、大地gfdによって陰になるとする。ここでは物体の表面が、向かい合う空気と大地によって照らされ、陰にされる。そして明るいもの、または暗いものの、より多く、またはより少ない量から見られるのに応じて、明るさや陰の程度が変わる。図のとおり、点kは天空半球の部分hciの全体から見られ、大地の暗さのどの部分からも見られない。したがってkは、天空半球の部分cdだけを見るaよりも強く照らされる。そしてaの照明は、大地rdの暗さによって弱められる。その全体が点aを見、aからも見られるからであり、遠近法で証明されたとおりである。点bについて述べるならば、それは点aよりも照らされ方が弱いと分かる。bは、aが見ていた天空半球の半分を見るからである。すなわちaはcdの全体を見るが、bはcdの半分であるedしか見ない。またaが見た大地の暗さの全体、すなわち大地rdを見、それに加えて、さらに暗い部分rfを見る。この部分には、大地rdには欠けていない天空半球ecの光が欠けるからである。したがってこの理由により、この物体は反射をもつことができない。光の反射は物体の主要な陰の先にあるが、ここでは主要な陰は、物体が地面に接する点にあり、そこは完全に光を欠くからである。

全体に広がる光のもとで、反射がどのように生じるか

原刊で第772章に隣接する挿図(1890年版・印刷244頁)
原刊で第772章に隣接する挿図(1890年版・印刷244頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

全体に広がる光で照らされた物体にも、反射は生じる。それは、照らされた物体の一部が、自らのより強い明かりを、同じ光を少なくしか見通さない場所へ反射するときである。たとえば場所dから空efが見え、kからは同じ空のより広い部分が見えるならば、そのとき派生した光kがdへ反射する。しかしこれについては、定められた箇所で個別に論じる。

どの光が筋肉の形を最も明瞭にはっきりさせるか

筋肉の形を正しく知らせるための光として、全体に広がる光はよくないが、個別の光は完全に適している。そしてその光源の形が小さいほどよい。この観察は、光源をさまざまな方向へ動かして行わねばならない。光源が動かなければ、筋肉をもつ身体の小さな部分しか照らさず、残りは暗いままで、そのため分からないからである。

白い物体をどのように描くべきか

多くの空気に囲まれた白い物体を描くならば、白はそれ自体では色をもたず、向かい合う色によって染まり、部分的にその色へ変わることを考えなさい。野外で白い衣服の女性を見ると、太陽から見られる部分の色は、太陽のように、ある程度目を悩ませるほど明るい。そして、太陽光線が織り込まれ貫いている明るい空気から見られる部分は、空気自体が青いため、その空気から見られる女性の部分も青みを帯びて見える。近くの地面に草地があり、女性が、太陽に照らされた草地と太陽との間にいるならば、衣服のひだのうち草地から見られる部分は、反射光線によってその草地の色に染まるのが見えるだろう。このように、近くの明るい対象や明るくない対象の色へ変わっていく。あなたが形の説明を論じ、書くことができても、画家は、顔の表情を構成する陰と明かりによって、形を生きているようにつくる。筆では届くところに、あなたはペンでは届かない。

明るいところにいて、暗い場所を見る目について

暗い中では、奥にある第二の色は、それ自体が手前の第一の色と同じであっても、第一の色と同じ明るさにはならない。これは本篇の第四命題によって証明される。その命題は、目と物体との間にある透明な媒質が厚いほど、物体の表面はその媒質によって強く染められるというものである。したがって、暗い透明な媒質の中に置かれた第二の色には、同じ目に近い第一の色よりも、自らと目との間に多くの暗さが介在することになる。そしてそれらの色の暗さどうしの比は、それらを自らの色で染める暗い媒質の量どうしの比に等しい。

明るい場所でものを見る目について

照らされた空気の中では、奥にある第二の色は、同じ色の手前のものほど暗くならない。これは前の命題によって証明される。目と第二の色との間には、目と第一の色との間よりも、空気の明るさが厚く介在するからである。したがって、これらの色の変化の比は、目とそれらの色との間にある空気の量の比と同様になる。

都市の陰と明かりについて

原刊で第777章に隣接する挿図(1890年版・印刷245頁)
原刊で第777章に隣接する挿図(1890年版・印刷245頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

太陽が東にあり、目が都市の中央の上方にあるとき、目には都市の南側の屋根が半分は陰、半分は明るく見え、北側も同様に見える。東側はすべて陰となり、西側はすべて明るくなる。

戦闘中の人々のように密集した物体の、最下部の照明について

原刊で第778章に隣接する挿図(1890年版・印刷245頁)
原刊で第778章に隣接する挿図(1890年版・印刷245頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

戦闘で動き回る人や馬の各部分は、それらを支える地面に近いほど暗くなる。これは井戸の壁によって証明される。壁は深くなるほど暗くなるが、それは井戸の最深部が、他のどの部分よりも少ない量の明るい空気を見、またそこから見られるためである。そして前述の人や馬の脚と同じ色をした地面は、等しい角の間で、常にそれらの脚よりも強く照らされる。

個別の光について

個別の光は、全体に広がる光よりも、遮光体に優れた立体感を与える原因となる。太陽に照らされた田野の部分と、雲の陰に入り、空気の全般的な光だけに照らされる部分との比較が、それを示している。

山々の陰の濃さと明るさについて

一般的な遠近法

原刊で第780章に隣接する挿図(1890年版・印刷246頁)
原刊で第780章に隣接する挿図(1890年版・印刷246頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

同じ運動をするもののうち、目から遠いものほど遅く見える。異なる距離で、同じ時間に同じ長さを動くものとし、その動きをaからf、gからk、そしてlからmとする。速さどうし、また移動距離どうしの見かけの比は、動くものとそれを見る目との距離どうしの比に対応すると私はいう。そこで、目oからlmまでの距離が、oからafまでの距離の三倍であるとする。lmの運動は、同じ時間と運動によってなされるaからbへの運動に対し、速さも長さも三倍に見えると私はいう。これを証明する。目oから距離afにおいて見ると、aがfへ動いたとき、lmは範囲cdしか動いていないように見える。そして範囲cdは範囲afに三回含まれる。したがって範囲afは範囲cdの三倍であり、一方の運動も他方の運動も同じ時間で行われるので、運動afは運動cdより三倍速く見える。これが証明すべきことであった。

注 lmの速さを三倍とする中ほどの文は、冒頭および証明末尾と逆になる。またab/afの符号の揺れがある。底本の表現を保持した。

上から下へ見下ろす山頂について

原刊で第781章に隣接する挿図(1890年版・印刷247頁)
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山頂を上から下へ、一つの後ろに次のものが続くように見るとき、それらは互いの距離と同じ比で明るくなるのではなく、それよりはるかに少ししか明るくならない。第四篇の第七命題は、上から下へ地平線まで見下ろす風景の遠い部分は次第に暗くなり、同じ距離でも下から上へ見るものは常に明るくなると述べる。これは第九篇の第三命題、すなわち、下から上へ見た空気の厚みは、上から下へ見たものよりはるかに明るく輝くということによる。上から下へ見た空気には、その下にある大地の暗い像がある程度入り込むため、下から上へ見る空気より目に暗く見える。後者には太陽光線が入り込み、それが強い明るさで目へ来る。したがって、ここで述べた山や風景にも同じことが起こる。それらの像は前述の空気を通過して、空気の暗さや明るさに応じ、明るく、または暗く見えるのである。

山頂よりも山の麓を明るく見せる空気について

原刊で第782章に隣接する挿図(1890年版・印刷247頁)
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山の頂は、常にその麓より暗く見える。これは、山頂が麓よりも薄い空気の中へ入り込むためである。第一篇の第二命題は、水と大地から遠い空気の領域ほど、透明で薄くなると述べる。したがって、この薄い空気に達する山頂は、低い空気に入る部分よりも、本来の暗さを多く示す。低い空気は、すでに証明されたように、はるかに厚いからである。

遠い山々が、麓よりも頂を暗く見せるのはなぜか

原刊で第783章に隣接する挿図(1890年版・印刷247頁)
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すでに上で述べたことを証明する。続けていうと、山々aopqの間隔が互いに等しい比であっても、それらの山頂opqの色は、すべてが同じ高さにある場合のような比では明るくならない。もし同じ高さならば、それぞれの頂は同じ厚さの空気中にあり、そのとき色の距離による変化の比は同じになる。しかしその配置は、目に示すことができない。目がそれらの山頂と同じ高さにあれば、最初の山の向こうにあるすべての山頂も、目と最初の山と同じ高さにあることになる。したがって第二、第三、その他の山は、最初の山や目より高くも低くもならない。それゆえ最初の山頂の面に、それ以後のすべての山頂が重なり、そのため最初の山頂しか見えない。このような図示は、したがって無効である。たとえばaを目、bを最初の山頂、cとdを他の山頂とする。山頂bが他の二つの山頂cdと重なるため、目aには三つの山頂b、c、dが、山bの同じ境界に見える。それらの距離と色は同じ比をもつが、距離も色も見えないのである。

一つが他より高く目に現れる山頂では、距離の比と色の比が一致しないこと

原刊で第784章に隣接する挿図(1890年版・印刷248頁)
原刊で第784章に隣接する挿図(1890年版・印刷248頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

目が、自分より下にある、距離と高さの等しい山頂を見るとき、山頂の色が弱まる比は、その距離の比と同じには見えない。像が異なる厚さの空気を通って目へ来るからである。これを示すため、o、p、qを、それ自体が同じ色で、互いに等しい間隔にある三つの山の頂とする。aを、それらより高いところから見る目とする。これらの山頂の間の距離の関係の比は、山頂の色が弱まる比と同じにはならないと私はいう。その理由は、aoが二、apが四、aqが六という等差の関係であっても、空気noは空気mpの二分の一ではなく三分の一だからである。そして目からの距離aoはapの二分の一であり、距離aoはsqの四分の一となるが、山の距離に従えば三分の一であるはずである。

注 末尾のaoとsqの比較、および空気層と距離の符号の混用は底本のまま。図による再検証を要する。

頂の距離に従って色が弱まらない山々について

原刊で第785章に隣接する挿図(1890年版・印刷248頁)
原刊で第785章に隣接する挿図(1890年版・印刷248頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

山頂が互いに等しい距離にあり、互いの高さの差も等しい場合、それらの高さの差と空気の薄さの差も等しいが、色の弱まり方は等しくない。最も高いものは、本来そうなるべきよりも暗いからである。これを証明する。山頂oはすべて厚い空気の中にあり、その空気によって強く白くなる。pは目aから、raという、より少ない厚い空気と、pr全体のより薄い空気とを通して見られる。そのため、ほぼoと同じように白くなる。qは、厚い空気ia全体と、より薄いkiと、さらに薄いlkを通して見られる。これはoより明るいが、その距離が要求するほどには明るくならない。

田野の木々やその他の物体の大きさについて、画家が陥る誤り

原刊で第786章に隣接する挿図(1890年版・印刷249頁)
原刊で第786章に隣接する挿図(1890年版・印刷249頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

画家よ、あるいは細密画家よ、あなたの絵が目からどれほど離れて見られるべきか、よく判断しなさい。そしてその距離に、一つの開口部、穴、あるいは窓が見えると想定し、その前方にあるものが、そこを通ってあなたの目に届くようにしなさい。そうすれば見えるものが非常に小さく、その各部分どころか、全体さえほとんど描けないと感じるほどであると、確かに判断するだろう。たとえば目をoとし、描いた板と同じ大きさの四分の一ブラッチョの穴をabとして、目から半ブラッチョ離す。そのとき、その開口を通して、百マイルにわたる地平線の中で見られるすべてのものが、極度に縮小され曖昧に見える。形をもつ一部分を描くどころか、十マイル離れたどんな建物よりも大きくならないような、小さな筆の点を置くことさえ、ほとんどできないだろう。

注 ブラッチョとマイルは歴史的な長さの単位をそのまま表記し、現代単位へ換算していない。

遠距離で山が麓より頂を暗く見せるのはなぜか

原刊で第787章に隣接する挿図(1890年版・印刷249頁)
原刊で第787章に隣接する挿図(1890年版・印刷249頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

空気は、低くなる段階ごと、距離が増す段階ごとに厚みを増す。それが、高くそびえる山頂ほど本来の暗さを多く示す原因である。麓より頂のほうが、また遠くより近くのほうが、空気の厚みに妨げられることが少ないからである。これを示そう。op、ds、cr、akは、高くなるほど常に薄くなる空気の段階である。af、fh、hkは横方向の別の段階で、近づくほど空気が薄くなる。したがって山eは、麓より頂のほうが暗い。述べたように空気は上より下で厚いからである。また山eは山gより暗い。ceの間には、dgの間よりも薄い空気しかないからである。そして頂gも、その麓より高いので、山eと同様に、高くなるほど暗くなる。もしygのように等しい距離にあれば、頂eより暗く見えるだろう。薄いため妨げの少ない空気に達するからである。したがって山々の暗さの比が、近さの比に等しいとは限らない。それは山頂が同じ高さならば成り立つが、gはさらに高く上がり、より薄い空気に入り込むので、その比に従わない。

遠距離で、山頂が麓より暗く見えるのはなぜか

原刊で第788章に隣接する挿図(1890年版・印刷250頁)
原刊で第788章に隣接する挿図(1890年版・印刷250頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

空気の厚みは、その各部分の水や大地からの高さの違いの数だけ、薄さを異にする。そして前述の大地から遠いほど、薄く冷たくなる。第一命題によれば、山pは山oより明るく見える。目aと山pとの間には、aと山oとの間よりも多くの空気があるからである。同じように山qは山pより明るくなる。しかしその明るさとpの明るさとの比は、距離の比と同じにはならない。qはpより薄い空気の中にあり、そのため距離の比が要求するより暗く見えるからである。

冬の山を夏ほど青く描くべきではないこと

冬を表す風景では、山を夏に見られるほど青く示してはならない。これは本篇の第四命題、すなわち、遠距離で見る山のうち、それ自体がより暗いものほど青く見える、ということによって証明される。植物は葉を落とすと灰色に見え、葉をつけると緑色になる。したがって緑が灰色より暗い分だけ、本篇の第五命題によって、緑は灰色より青く見える。葉をまとった木の陰が、葉を落とした木の陰より暗い程度は、葉をまとった木が、葉のない木より密である程度に応じる。こうしてわれわれの意図したことを証明した。

空気の青色の定義は、風景が冬より夏に青い理由を判定する。

雲の陰に入った山が青色を帯びること

雲のまわりの空が晴れているとき、雲の陰に入った山は青色を帯びる。これは太陽に照らされた空気が非常に明るく、雲に覆われた山の暗さの似姿が、その明るい空気を通って目へ来るうちに、青色になるためである。第二篇の第五命題で証明されたとおりである。

山々の間に見える空気について

空気は、反対側よりも太陽の方向で、いっそう明るく澄んで見える。

絵画における山々と、その区分について

原刊で第792章に隣接する挿図(1890年版・印刷251頁)
原刊で第792章に隣接する挿図(1890年版・印刷251頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

目と山との間にある空気は、aよりもpで明るく見えると私はいう。これはいくつかの原因によって起こりうる。第一は、目とpとの間にある空気の量が、目とaとの間より多く、そのため明るいことである。第二は、空気が山aよりも谷pで厚いことである。

高山、山、丘を必然に即して形づくることを示す絵画

世界の鎖と呼ばれる山々の形は、川の流れによって生じる。その川は、雨、雪、雹、そして夏の太陽光線で解ける氷から生まれる。この融解は水を生み、その水は、さまざまな方向から大きな流れへ集まる多くの小川によって集められる。川は進むほど大きくなり、ついには大いなる海、オケアノスへ集まる。その間、常に一方の岸から物を奪い、他方へ返しながら、谷の幅を求める。それだけでは満足せず、両側の山の根元を削る。山は川の上へ崩れ落ちて谷をふさぎ、まるで復讐しようとするかのように川の流れを妨げ、湖へ変える。そこで水は、ひどく遅い動きとなって、へりくだったように見える。それは、崩れた山によってできた堰が、前述の水の流れによって再び削り取られるまで続く。

したがって、より狭く短い道を通る水ほど、通過する場所を削ることが少なく、逆に、きわめて幅広く深いところでは、いっそう多く削るといおう。このため、山の最も高い峰は、たいてい雪をまとい、雨に打たれる時間は短い。そしてそこには川がない。乾いた頂に吸収されず残ったわずかな雨粒が、きわめてゆっくり動く微小な枝流をつくり始めるまではそうである。その流れは、小さな草の古い根があるため、自らが動かす土の粒で濁るほどの力もない。それゆえ山の峰は、根元よりも表面を長く保つ。根元では、絶えず集まる水の激流が、運んだ土だけでは満足せず、植物に覆われた丘を、巨大な石とともに移動させる。それらの石を長い距離転がし、細かい砂利とし、最後には微細な泥砂にするのである。

絵画と、山々が成長する仕方について

この前に結論されたことから、山や丘の基部は絶えず狭くなると認めねばならない。そうであれば、谷が広がることを否定できない。そして川の幅は、広くなった谷の幅を占めきれないので、絶えず場所を変え、より多くの物質を堆積させた場所から流路を移す。その物質を、砂利の岸を削り取りながら運び、以前に残した物質をすべて運び去ると、古い川床を取り戻す。そして別の同じような出来事によって、その場所から移されるまでは、そこを離れない。このように、時々降る雨から次の雨へと、それぞれの谷は、物質と重荷を取り除かれていく。

山岳風景の性質と各部分を描く絵画について

草や植物は、それを養う土が痩せ、水分に乏しいほど、色が淡くなる。山を構成する岩の上では、土は乏しく痩せている。そして木は山頂に近づくほど小さく細くなり、土もその山頂に近いほど痩せ、谷のくぼみに近いほど肥沃になる。したがって画家よ、山頂では、それを構成する岩を、土に覆われず大きく露出した姿で示しなさい。そこに生える草は小さく貧弱で、水分が乏しいため、多くが青ざめ、乾いているようにしなさい。そして淡い草の間から、砂の多い痩せた土が透けて見えるようにしなさい。小さな木々は成長を妨げられ、小さいままで老い、短く密な枝分かれをもち、葉は少ない。人や風で傷められた株から出た、錆色で乾いた根を大きく露出させ、錆色の岩の層や割れ目と絡み合わせなさい。また多くの場所で、薄い淡い錆色に覆われた岩が、高山の尾根を越えて突き出るようにしなさい。一部では、天空の雷撃によって露出した岩本来の色を示しなさい。雷の進路はしばしば岩に妨げられるが、岩もその報復を免れないのである。そして山の麓へ下るほど、植物は力強く、枝葉も密になり、その緑には、森を構成する植物の種の数だけ多様さがあるようにしなさい。それらの枝分かれには、さまざまな配列、枝葉の密度、形、高さを与えなさい。あるものは糸杉のように枝が狭くまとまり、他のものは樫や栗などのように枝が広く広がる。あるものは非常に小さい葉をもち、他のものは、杜松やプラタナスなどのように疎らな葉をもつ。いくつかの植物の群れは、さまざまな広さの空間によって分けられ、他のものは草地やその他の空間で隔てられずにつながっているようにしなさい。

山について

原刊で第796章に隣接する挿図(1890年版・印刷253頁)
原刊で第796章に隣接する挿図(1890年版・印刷253頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

さまざまな距離にある丘や山では、その中にあるどんなものよりも、頂がよく見分けられる。これは、目から東へ向かう距離の段階ごとに、見え方の失われる度合いと、空気の明るさ、すなわち白さが増すためである。そしてfからbまでは、fからaまでの二倍明るい。

山について

原刊で第797章に隣接する挿図(1890年版・印刷253頁)
原刊で第797章に隣接する挿図(1890年版・印刷253頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

山や丘の頂は、より暗く見える。そこでは、より多くの木が互いに重なり、斜面で見られるような、木々の間のより明るい地面が見えないからである。これは、田野をその高さの中ほどで暗くするのと同じ理由である。

教え

原刊で第798章に隣接する挿図(1890年版・印刷253頁)
原刊で第798章に隣接する挿図(1890年版・印刷253頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

明かりと陰は、それらがある場所の違いの数だけ多様である。物体の陰の部分が、暗い対象によって強められるとき、その陰は、加わるものが空気より暗い分だけ、以前よりも暗くなる。投影が面に落ちた形は、もとの光源が陰をつくる物体と相似な形でないかぎり、そのもとの固有の陰と同じにはならない。

位置を変えずに回転し、同じ光をさまざまな側から受け、無限に変化する明るい物体について

原刊で第799章に隣接する挿図(1890年版・印刷254頁)
原刊で第799章に隣接する挿図(1890年版・印刷254頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

不規則な物体を、明かりとともに覆う陰は、その物体が回転運動によって示す変化の数だけ、さまざまな暗さと形をもつ。光源を静止させて物体を回すことは、静止した物体のまわりで光源を回すことと同じである。これを示すため、enを動かない物体、bを動く光源とし、光源がbからaへ移るものとする。光源がbにあったとき、球dの陰はdからfまで延びていたが、光源がbからaへ動くと、その陰はfからeへ移ると私はいう。こうして陰は大きさと形を変える。移った場所が、離れた場所と同じ形ではないからである。この形と大きさの変化は無限に変えられる。以前に陰が占めていた場所全体が、いたるところで異なり、連続量であり、すべての連続量は無限に分割できるのだから、陰の量と形は無限に変化しうると結論される。

画家よ、色の遠近法による弱まりを、その色が生じる形の遠近法による縮小よりも強くしてはならない。また線遠近法の縮小を、色の遠近法の弱まりよりも強くしてはならない。第八篇と第七篇の規則に従って、両方の遠近法の減少に従いなさい。

もっとも、自然において色の遠近法は、その法則を決して破らないが、大きさの遠近法は自由である。目の近くには小さい丘があり、遠くには非常に大きい山があることがあり、木や建物も同様だからである。

暗闇の暗さは、光の完全な欠如である。そして光と暗闇との間は、連続量なので、無限に変化しうる。すなわち暗闇と光の間には角錐状の力があり、それを頂点へ向かって常に半分に分けていけば、残る部分は常に、取り去った部分より明るい。

遮光体の陰と明かりについて

目が光と陰の間に見る物体のすべての部分は、陰と明かりによって強く区切られねばならない。一方、光へ向いた部分は、明部の中にほとんど差がないように、ぼかすべきである。陰の部分も、反射がなければ、照らされた部分と同じく、暗さの強いところと弱いところとの差が少なくなる。

太陽なしに空気によって照らされた物体について

太陽なしに空気から見られる人物や他の物体の陰は、第四篇の第五命題に従って描きなさい。その命題は、どの不透明な物体でも、それを照らす物体のより多くの部分から見られるところほど、強く照らされると教える。したがって、あなたはそれを考え、照らす物体から照らされる物体へ、想像上の線を引きなさい。そして、より多くを見るところほど、強く照らされることに注意しなさい。ここでは反射はほとんど目立たない。これは、雲が太陽の光を覆うとき、または太陽が沈んだ直後、空が弱い光を与えるとき、明るい空気の下にあるすべての対象に共通するあり方である。この光のもとでは、どの物体も、遮光体上の陰と明部との境界を、見分けられないほどに示す。

より多い量の光から生じる陰ほど、その境界が見分けにくくなること

反射、あるいは入射光と反射光との間に囲まれた陰は、同じ場所では、量の大きいものほど暗くなる。これは、その量が大きいとき、第九篇の第七命題によって、二つの光、すなわち反射光と入射光が、より遠くにあるため、陰が妨げられることが少なくなるからである。

どの陰が最も暗いか

陰のうち、その起源に近い部分ほど暗い。

明かりについて

同じ原因から生じる明かりならば、曲がり方の小さい物体上に生じるものほど、量が大きい。

太陽なしに空気によって照らされる物体は、見分けられる境界のない陰を生じる。太陽を伴う空気によって照らされる物体は、境界が過度にはっきりした陰をつくる。

教え

異なる色の性質をもつ光に照らされた物体は、表面の照らされた部分の色が、その陰の部分の色と対応しない。

不透明な物体の表面の色が、その照らされた部分の色に対応する適切な陰の色をもつことは、きわめてまれである。

述べたことは、その物体上に陰をつくる対象が、その物体の自然な色でも、それを照らすものと同じ自然な色でもないことから生じる。

教え

それぞれの物体の陰と明かりが真の色をもつのは、その物体のある部屋の壁が、内側に収める物体と同じ色であり、その部屋を照らす布張りの窓の光も、内側の物体と同じ色である場合である。こうして部屋は、その暗い部分によって、内部の物体の上に、その物体に色の釣り合った陰を生じさせる。そして窓の色によって照らされた部分も、照らされた物体の色と、その陰の色とに対応する。

背景による物体の境界について

物体の境界は、背景によって、常にその残りの部分よりも暗く、または明るく変わって見える。これは本篇の第七命題によって起こる。その命題は、白いものの境界が、より暗い境界に接するほど明るく見え、陰になったものの境界が、より白いものに接するほど暗く見えると証明する。主な例は、一部を太陽から見られる白いものに示される。その照らされた部分は、陰と比べていっそう白く見え、陰は明るい部分と比べていっそう暗く見える。このことは壁面や他の平らな物体でよく見られる。

陰についての教え

遠い物体の陰も、同じ光のもとで描かねばならない。もし太陽から見られるものを模倣するため、日なたで色を混ぜ、その後、太陽から見られないものを模倣するため、日陰で物体の陰の色を混ぜ、最後にすべてを日陰へ置くならば、真の似姿は得られない。考えるべきことは、同じ性質の色を日陰に置けば、それが日なたに置いたものの真の陰になるということである。その後、陰として描いた部分にも明部と同じように太陽を当てれば、模倣した陰と明かりが、同じ一つの色でつくられているのを見るだろう。

どんな距離においても色を模倣することについて

原刊で第809章に隣接する挿図(1890年版・印刷257頁)
原刊で第809章に隣接する挿図(1890年版・印刷257頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

色を写そうとするとき、あなたが日陰にいるならば、そこで明るい場所を模倣しようとしないよう注意しなさい。そのような模倣では、自分を欺くからである。この場合、数学的な証明にふさわしく確実に作業するためにすべきことは、模倣するすべての色について、模倣する色と模倣される色とを同じ光のもとで比較し、あなたの色を、自然の色を見る視線に接するように置くことである。

太陽から見られる山の部分を模倣したいとしよう。絵具を日なたへ置き、その光を受けさせて、模倣すべき色を混ぜなさい。そして自分の色を模倣される色と向かい合わせて、同じ太陽光のもとで比較しなさい。たとえば、太陽が南にあり、西の山を写すとする。その山は半分が陰、半分が明るいが、ここで私は明るい部分を模倣したい。そこで、模倣すべき色に似ていると思う色を塗った小さな紙を取り、自然のものとつくったものとの間に隙間が見えないように、模倣されるものへ重ね合わせて置く。そして紙に太陽光線を受けさせ、双方の色が同じになるまで、さまざまな色を加える。このように、陰の色でも明るい色でも、あらゆる種類について行うのである。

反射光について

原刊で第810章に隣接する挿図(1890年版・印刷257頁)
原刊で第810章に隣接する挿図(1890年版・印刷257頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

照らされたものが、それを照らすものより明るさに劣るのと同じだけ、その反射光で照らされた部分は、直接照らされた部分より明るさに劣る。照らすものに近いものほど、強く照らされる。bcがbaに含まれる割合に応じて、adはdcより強く照らされる。より強く照らされた壁ほど、その陰が暗さの少ないものに見える。

遠近法について

原刊で第811章に隣接する挿図(1890年版・印刷257頁)
原刊で第811章に隣接する挿図(1890年版・印刷257頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版
原刊で第811章に隣接する挿図(1890年版・印刷257頁)
原刊で第811章に隣接する挿図(1890年版・印刷257頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

それぞれが両眼の瞳の間隔より小さい、等しい二つの対象を両眼で見るとき、第二の対象は第一の対象より大きく見える。角錐acは第一の対象を包み、角錐dbは第二の対象を包む。したがって対象mは、角錐dbの幅がacより大きい分だけ、nより大きく見える。

第六部 木々と緑について

第6部の前付挿図(1890年版・印刷259頁)
第6部の前付挿図(1890年版・印刷259頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

草の枝分かれにおける花の性質についての論述

原刊で第812章に隣接する挿図(1890年版・印刷259頁)
原刊で第812章に隣接する挿図(1890年版・印刷259頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

草の枝分かれに生じる花のうち、あるものは枝分かれの最上部から先に咲き、他のものは茎の最下部で最初の花を開く。

植物の枝分かれについて

原刊で第813章に隣接する挿図(1890年版・印刷259頁)
原刊で第813章に隣接する挿図(1890年版・印刷259頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版
原刊で第813章に隣接する挿図(1890年版・印刷260頁)
原刊で第813章に隣接する挿図(1890年版・印刷260頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

第一。どんな植物の枝も、自分自身の重さに負けないかぎり、先端を空へ上げるように曲がる。第二。木の枝に生じる小枝は、上側から出るものより下側から出るもののほうが大きい。第三。木の中心へ向かって生じる小枝はすべて、陰が強すぎるため、短い間に衰える。第四。植物の枝分かれは、上方の先端に近いものほど、空気と太陽によって力強く、よく育つ。第五。木の枝分かれの分岐角は、互いに等しい。第六。しかしその角は、両辺をなす枝が年をとるほど鈍くなる。第七。より細い枝からなる角の辺ほど、斜めになる。第八。二股に分かれた枝は、その太さを合わせると、それらにつながる枝の太さを再構成する。すなわちaとbを合わせるとeになり、cとdを合わせるとfになり、fとeを合わせると最初の枝opの太さになる。このopの太さは、a、b、c、dの太さすべてに等しい。これは太い枝の液が、枝々に応じて分かれるためである。第九。主枝の曲がりの数は、互いに向かい合わない枝分かれの発生の数と同じである。第十。枝の曲がりは、その先の枝どうしの太さが近いものほど強い。枝ncとbcを見なさい。両者は等しいので、枝ncdは、先の枝の太さがより異なる上方のaonよりも強く曲がっている。第十一。葉の付け根は、常にその枝の下に痕跡を残し、その痕跡は枝とともに成長して、木が老いて樹皮が裂け、割れるまで続く。

植物の枝分かれについて

原刊で第814章に隣接する挿図(1890年版・印刷260頁)
原刊で第814章に隣接する挿図(1890年版・印刷260頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

葉が枝から出る縁は、常に枝と同じ比で成長し、その枝の樹皮が老化によって裂け、破れるまで、常に見えている。pbcをその枝の太さとし、bcdを、枝の太さの三分の一に当たる範囲boc全体で枝につく葉とする。oは、葉の上で小枝が生じる芽である。したがって、葉の付け根が枝の太さの三分の一を取り巻くならば、枝pbcが太さhgsまで成長しても、gsに示すように、その太さの円の三分の一に痕跡を残すと私はいう。木の枝は、その枝分かれの広がりの中で、より低いところから生じるものほど曲がる。

植物の枝分かれについて

原刊で第815章に隣接する挿図(1890年版・印刷260頁)
原刊で第815章に隣接する挿図(1890年版・印刷260頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

枝々が結びつくところで接合をなす縁は、分岐部で太くなるにつれ、若い時期には大きく盛り上がり、老いた時期にはくぼんだ状態になる。

植物の小さい枝分かれについて

原刊で第816章に隣接する挿図(1890年版・印刷261頁)
原刊で第816章に隣接する挿図(1890年版・印刷261頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

植物の末端の枝分かれを構成する葉は、下側より上側ではっきり見える。これは他の植物より胡桃に多く起こる。その葉は、ここに示す図のように、七つの葉から構成されるからである。それらは自分の重さで下へ垂れ、しばしば互いに重なり、かなり明るい一枚の面をつくる。この面は遠距離でも見えるが、近くからは各葉の上の光沢が見える。そしてその枝分かれの下側では、葉は付け根より下へ斜めに垂れ、それぞれが下にある葉へ陰を落とす。以上から、このような枝分かれでは、上側の葉は他の葉に隠されないので、下側より明瞭であると結論される。下側の葉は上側の葉に隠され、目に全体を捉えられない。また上側の葉は、付け根の上にかぶさるように垂れるため、付け根から上へほとんど離れないが、下側では大きく離れる。このため、その小枝の上側の葉は、下側の端の葉よりも、葉全体の塊から離れることが少ない。これは個別の光のもとで起こる。全体に広がる光では、葉には明かりはあっても光沢がないからである。他の葉から構成される葉をもつ木はすべて、前述の働きをする。またプラタナス、菩提樹、無花果など、広い葉をもつものも同様である。

植物の枝分かれ相互の比例について

原刊で第817章に隣接する挿図(1890年版・印刷261頁)
原刊で第817章に隣接する挿図(1890年版・印刷261頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

それぞれの植物で同じ年に生じた枝分かれの太さと、その元の幹との比は、過去および未来の他のすべての年における、前後の枝分かれの比と同じである。つまり毎年それぞれの植物が得る枝は、成長を終えたとき、その太さを計算して合わせると、それらを生んだ前年の枝と等しくなる。このように先へ続き、未来にも同じことが見いだされる。たとえば植物の末端の枝adとbdは、合わせると、それらを生んだ枝dcと等しくなる。

木の枝分かれについて

木の枝分かれは、実や葉を載せると、冬に占めていた位置から変わる。二股に分かれる枝の太さは、ある枝から次の枝へ、ほとんど見分けられないほどを除けば変わらない。そして主要な枝分かれの間に生じる小枝を戻して加えれば、太さはどこでもぴったり等しくなるだろう。

若い木では樹皮が割れないこと

原刊で第819章に隣接する挿図(1890年版・印刷262頁)
原刊で第819章に隣接する挿図(1890年版・印刷262頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版
原刊で第819章に隣接する挿図(1890年版・印刷262頁)
原刊で第819章に隣接する挿図(1890年版・印刷262頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

植物の枝の配置には二通りある。互いに向かい合う場合と、そうでない場合である。向かい合わなければ、中央の枝は、一方の枝へ、また他方の枝へと交互に曲がる。向かい合えば、中央の幹はまっすぐになる。枝は常に葉の付け根の上に生じ、実も同様である。木の樹皮は常に縦方向に割れる。ただし桜の樹皮だけは輪状に裂ける。主幹が同じ高さで一つまたは複数の主枝へ分かれるとき、それらの枝の接合縁は、互いに向かい合う側で高くなり、木の中心へ向かう側には大きなくぼみが残る。これは、枝どうしの角が、主幹の中心へ向かう角より狭い場合に起こる。たとえば枝a、bと、同じくb、cは、枝a、cより狭い角によって分かれる。したがってそれらの枝は太くなると、bcでより早く、より大きく結びつき、その接合部はacでより高くなる。このため中央の接合部は低く残る。これが必然であることを示そう。三つの円n、m、oは、線nm、mo、onの点で接し、中央では接しない。接するところ以外では結合できないので、それらの接点で結びつき、接していない中央では結びつかない。したがって太くなると、その結合部は、上でycに示すように上がる。この接合部が高くなるところでも、接していない中央は、低くくぼんだまま残る。

植物の枝分かれについて

原刊で第820章に隣接する挿図(1890年版・印刷262頁)
原刊で第820章に隣接する挿図(1890年版・印刷262頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

植物の部分は、その生じた根元に近いほど、古く見え、実際にも古い。その樹皮の割れ目が示すとおりである。胡桃では、古く割れた樹皮の上に、張って滑らかな樹皮が大きく広がることがしばしば見られる。このように木は、その主要な枝分かれの数だけ、さまざまな若さと古さをもつ。人の手で損なわれていない木の年齢は、その主要な枝分かれで数えられる。たとえば輪a、b、c、d、e、fのように、主要な枝分かれが生じるたびに、木の中央に最も近い枝をたどるのである。木は、その主要な枝分かれの数だけ、さまざまな年齢を内にもつ。植物の最も若い部分は、他のどの部分よりも滑らかで磨かれたような樹皮をもつ。

植物の南側は北側より若さと勢いを示す。樹皮の最も古い部分が、常に最初に割れる。木のうち古い部分ほど、粗く厚い樹皮をもつ。切断された木の枝の輪は、その年数と、どの年が湿っていたか乾いていたかを、輪の厚さの大小によって示す。またそれらは、木が世界のどちらの方角へ向いていたかも示す。輪は南側より北側で厚いからである。このため木の中心は、北側の樹皮より南側の樹皮に近い。これは絵画には役立たないが、それでも私は書き留めよう。木について、私の知識の及ぶかぎり、書き残すことを少なくするためである。木の先端は、その木の主枝に近いものほど大きく成長する。最初に生じ、最も遅く落ちる葉は、木の主要な先端に生じるものである。より老いた木は、小さい枝を出す。より長い範囲で太さを保ち、まっすぐ延びる枝は、そのまわりに生じる小枝が少ない。

注 年輪の方位差など、歴史的な自然観察・説明を原文どおり訳した。現代の樹木学上の一般則として補正していない。

植物の枝分かれについて

大きく広がる植物では、枝分かれを分ける角は、その発生位置が低く、すなわち木のより太く古い部分に近いほど、鈍くなる。したがって木の若い部分では、枝分かれの角は鋭くなる。

枝の上に葉が生じることについて

原刊で第822章に隣接する挿図(1890年版・印刷263頁)
原刊で第822章に隣接する挿図(1890年版・印刷263頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

枝の太さは、ある葉から次の葉までの間では、その葉の上にある芽の太さを除いて、減ることがない。その太さだけが、次の葉まで続く枝から欠ける。自然は多くの植物の末端の枝に葉を配置する際、規則が妨げられないかぎり、常に第六の葉が第一の葉の上に来るようにし、これが順々に続くようにした。これは植物にとって二つの利点がある。第一は、翌年、葉の付け根の上に接する芽の二つに分かれた脈から、枝と実が生じるので、枝を濡らす水が下り、葉の付け根のくぼみに滴を留め、その二つの部分を養えることである。第二の利点は、翌年それらの枝が生じるとき、互いを覆わないことである。五本の枝は五つの方向へ向いて生じ、第六の枝は第一の枝から十分離れた上方に生じるからである。

植物の枝分かれとその葉について

原刊で第823章に隣接する挿図(1890年版・印刷264頁)
原刊で第823章に隣接する挿図(1890年版・印刷264頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

植物の枝分かれのうち、楡のようなものは、短縮して見た開いた手のように広く薄い。このような枝分かれは、その広がりを示す。下のものは上側が見え、高いものは下側が見え、中ほどのものは一部が下側、一部が上側に見える。そして上側は、その枝分かれの先端にある。この中ほどの部分は、先端をあなたへ向けた他のどの部分よりも短縮される。また木の高さの中ほどにあるこれらの部分では、最も長いものが木の外縁へ向かう。このような枝分かれは、川岸に生える野生のシダの葉のようにしなさい。他の枝分かれは丸い。それは、第六の葉が第一の葉の上に来るように、小枝と葉を出す木の場合である。また柳などのように、疎らで透けて見えるものもある。植物の枝先は、実の重さに負けなければ、できるかぎり空へ向かう。葉の表は、夜に降りる露の養分を受けるため、空へ向いている。太陽は植物に精気と生命を与え、大地は湿りによって養う。この点について、私は以前、ウリにごく小さな根だけを残し、それを水で養う実験をした。そのウリは、自ら生みうるすべての実を成熟させ、その数は、幅の広い種類のウリで約六十個だった。私はその生のあり方を注意深く観察し、夜の露が、その湿りを大きな葉の付け根から豊かに浸透させて、植物とその子である実とを養うのだと知った。

規則として、その年の末端の枝に生じる葉は、二本の兄弟枝で反対向きになる。すなわち、葉の発生位置は枝を取り巻き、上の第六の葉が下の第六の葉の上に生じるが、その回り方は、一方が相方へ向かって右へ回れば、他方は左へ回る。葉は、翌年に生じる枝や実のための乳首、あるいは乳房である。

注 zuccaは歴史的にウリ類を広く指しうるため、ここでは特定の現代植物種へ限定しない。露による栄養の説明は原文の自然観を保持した。

植物に枝が生じることについて

植物の主枝の上に枝分かれが生じる仕方は、葉が生じる仕方と同じである。葉には、一つが他より高く進む四つの仕方がある。最も一般的な第一の仕方は、上の第六の葉が常に下の第六の葉の上に生じることである。第二は、上の第三の二枚が、下の第三の二枚の上に来ることである。第三の仕方は、上の第三の葉が下の第三の葉の上に来ることである。

注 原文は四つの仕方を予告するが、列挙は第三までで終わる。第四を補作していない。葉序の番号表現も底本を保持した。

材木の木目がしばしばまっすぐでないのはなぜか

原刊で第825章に隣接する挿図(1890年版・印刷265頁)
原刊で第825章に隣接する挿図(1890年版・印刷265頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

第二年に前年の枝の上へ続く枝が、前の枝の真上で同じ太さをもたず、横にずれているとき、下の枝の力は、少し横にあるとしても、上の枝を養うためにねじれる。しかしその枝分かれが等しく成長するならば、幹の木目は、植物のどの高さでもまっすぐで、互いに等距離となる。したがって、こうした規則を知らない画家よ、分かる者からの非難を避けるため、自分の描くすべてを自然から写すことを好み、金儲けをする者のように、学習を惜しんではならない。

木について

谷底と、その谷の枝分かれに向かうほど、木は常に丘の頂へ向かう場合より大きく密になる。山頂は山腹より草が多い。そこには、山腹のように草を洗い流す水の集まりがないからである。

木について

木の枝があなたへ向かって短縮して見えるならば、その葉はほぼ正面から見える。そして枝が本来の形で見えるならば、その葉は本来とは異なる、すなわち短縮された形で見える。木が遠距離のため、葉の真の形も変形した形も、もはや目へ送らなくなると、枝の配置の形が、一定の量と性質をもって残る。距離によって枝の配置の形も失われると、目には明暗の全体だけが残る。さらに遠くから判断しようとすれば、木から得られるのは色の形だけとなり、それが他の異なるものから木を分ける。ほかのものと異ならなければ、それらから見分けられなくなる。

木の枝分かれについて

木の枝分かれはすべて、上の第六の葉が下の第六の葉の上に来るように葉を生じる。ブドウ、アシ、クロイチゴなども同じである。ただしセンニンソウやジャスミンは例外で、葉のつく位置が対になり、上下で交差する。太陽を背後にもつ木はすべて、中央へ向かって暗い。

注 植物名vitalba gelsominoは底本で区切りがなく、ここでは二つの植物の列挙として読んだ。葉序の一般化は原文の記述である。

切った枝の切り口に、一年のうちに再び出る枝分かれについて

切った枝の上に再び出る小枝の量と、その切った枝が同じ年に生むはずだった小枝の量との比は、樹皮と木質の間にある薄皮の量、すなわち枝の切り口にあるその円周線と、その小枝の直径の長さとの比に等しい。これは、その直径を通って、同じ年の枝を養うため上へ進むはずだった養分が、枝を見つけられず、樹皮と薄皮の端に生じる枝を養うためにとどまるからである。しかしこの規則には例外があるように思える。というのは、その養分全体によって同じ年に生じるすべての枝を、その太さで合わせて一つにすると、切った枝と同じ太さを再構成するのだとすれば、切った植物の樹皮と薄皮の切り口全体が、その切断面の縁全体に、木質の全周を包む連続した一枝の、つながった輪を再構成した場合、同じ年に、それが包む枝の太さと等しい量の木質をつくることになるからである。これは、空気や雨や露が助けるとしても、不可能に見える。植物を切らなければその年に生むはずの末端の枝分かれすべての円周を合わせたものは、切られた樹皮の切り口全体に広がる円周よりも、はるかに大きいからである。そのため、より多くの養分を引き寄せる。植物の生命は、その樹皮と薄皮にあるからである。しかしこの議論をここで最後まで扱うことはしない。別の箇所に留めるべきであり、絵画に関わらないからである。

枝の比例と、その養分の比例について

同じ年のすべての枝分かれの太さを合わせたものと、その幹の太さとの比は、その幹の養分と、前述の枝々の養分との比に等しい。すなわち養われるものは、その養分に応じるのである。なぜなら植物の枝を切り、その植物自身の小枝の一つをそこへ接ぎ木すると、その小枝はやがて、それを養う枝よりもはるかに太くなるからである。それは養分、あるいは生命の精気が、傷ついた場所を助けるためである。切った幹のまわりに、多くの植物の芽を盾形に芽接ぎすると、同じ年のうちに、その切った幹の切り口よりも大きな太さの量をつくる。

木の成長と、どの方向へ最も成長するかについて

大きな枝の枝分かれは、その植物の中央へ向かって成長しない。どの枝も自然に空気を求め、陰を避けるためである。また陰は、空へ向かう側よりも、大地を見る枝の下側で強い。そこには、降る雨水と夜に増す露の流れが常に集まり、下側を上側より湿った状態に保つ。そのため枝は、その部分により豊かな養分をもち、それゆえいっそう成長する。

木のどの枝が一年に最も成長するか

最も大きい枝の枝分かれのうち、常に大きいものは地面を向く側から生じ、小さいものはその大枝の上側から生じる。この下側の枝の大きさは、枝の水分が、太陽の熱を受けないとき、常に枝の下側へ落ちることから生じる。そのため水分は、自らがより豊富にあるところを強く養う。それゆえ枝は常に、上側より下側に厚い樹皮をもつ。これが、小枝が上側より下側ではるかに大きくなる最も強い原因である。このため木は下向きに多くの枝を出し、それらが、その下に続く枝が、上にある枝へ向かって大きな小枝を出すのを妨げる。したがって植物は、多くの枝分かれが近くにあっても、入り乱れたり互いの空気を奪ったりしない。互いに場所を譲るからである。そして述べたように、ある枝が下へ大きく成長すれば、それに向かって成長する枝は、上へ少ししか成長しない。

樹皮について

植物の太さの増加は、四月にその木の薄皮と木質との間に生じる樹液によってなされる。その時期に薄皮は樹皮へ変わり、樹皮には、もともとの割れ目の奥に新しい割れ目が生じる。

樹木の北側について

古い木の北側は、常に幹の根元の樹皮を、緑がかった綿毛状のもので覆う。

植物の樹皮について

植物の樹皮は、常に北側より南側で大きく割れている。

木の枝分かれの違いについて

原刊で第836章に隣接する挿図(1890年版・印刷268頁)
原刊で第836章に隣接する挿図(1890年版・印刷268頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

木の枝分かれには三つの仕方がある。一つは、枝を二つの反対方向、たとえば東と西へ出すが、互いに真正面にせず、反対側の間隔の中央へ置くものである。別のものは、枝を二本ずつ互いに向かい合わせて出し、二本が東西ならば、次のものは南北へ出す。第三は、常に第六の枝が第一の枝の上に来るように、順に続くものである。

枝を互いに向かい合わせて出す植物の枝分かれについて

原刊で第837章に隣接する挿図(1890年版・印刷268頁)
原刊で第837章に隣接する挿図(1890年版・印刷268頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

等しい太さの枝を、段ごとに互いに向かい合わせて出すすべての植物は、モミabのように常にまっすぐになる。このまっすぐさは、向かい合う部分の太さが等しく、等しい水分、あるいは養分を引き寄せ、等しい重さの枝をつくるために生じる。等しい原因から等しい結果が生じるのであり、この等しさが、その植物の一様なまっすぐさを保つのである。

前述の植物を曲げる事情について

しかし前述の植物が、太さの等しくない枝分かれを出すと、その植物はまっすぐさを保たず、より太い枝と反対側へ曲げる。これは、植物が等しい重さの中間に位置することを、必然が強いるためである。そうでなければ、太い枝が伸びる線の方向へ吹く小さな風でも、すぐに倒れてしまうだろう。

注 原文の『in eguali』は分離綴りだが、後続の『より太い枝』との対応からineguali(不等な)として読んだ。

植物の枝分かれに現れる性質について

植物の枝分かれに現れる四つの性質は、光沢、明かり、透け、陰である。そして目が枝分かれを上から見るならば、照らされた部分は陰の部分より広く見える。これは、照らされた部分には明かりと光沢と透けが含まれるため、陰の部分よりも大きいからである。透けについてはいまは脇へ置き、照らされた部分の現れ方を述べよう。それは、物体の表面で変化する色の性質の第四の部分として置かれるもの、すなわち中間の性質である。これは主要な明かりではなく、中間の明かりという意味である。次に別の中間の第四の部分が続き、これは主要な陰ではなく、中間の陰を意味する。照らされた中間の性質は、光沢と陰の中間の性質との間にあり、陰の中間の性質は、照らされた中間と主要な陰との間にある。第三の部分である透けは、透明なものにだけ起こり、不透明な物体には起こらない。しかしいま木の葉について語るには、この第二の性質を記述する必要がある。それは植物を描くうえで重要だが、私以前には、知られているかぎり用いられなかった。これは、後に述べるように位置する。

注 四つの性質の列挙と、その後の『第四』『第三』『第二』の呼称は整合していない。原文の番号を変更せず訳した。

葉の透けについて

光が東にあり、目が下から北へ向かって植物を見るとき、木の東側は、他の葉の陰に隠されたものを除き、大部分が透けて見える。木の西側は暗くなる。枝分かれのうち東へ向いた部分の陰を受けるからである。

木の太さの中の中心について

原刊で第841章に隣接する挿図(1890年版・印刷269頁)
原刊で第841章に隣接する挿図(1890年版・印刷269頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

植物の中心は、枝分かれの分岐部では、その枝の太さの中央には決してない。これはまた、木の枝分かれの外側より内側に多くの水分があるためである。たとえば枝acとceの接合部cは、枝の中心bdから内側へ成長する量が、その中心bdから外側の端aeへ成長する量より多い。

森の中で、どの植物が太さを保って最も高く育つか

より低く狭い谷、より密な森、そしてその森の外縁からより遠いところに生じる植物ほど、太さを長く保ち、より高く成長する。

どの植物が太さの不揃いが大きく、低く、硬いか

より高い場所、より疎らな森、そしてその中央からより遠いところに生じる植物ほど、太さの不揃いが大きくなる。

それ自体では決して曲がらない木と、挽いた材木について

切った木のまっすぐさが曲がらないようにしたければ、長さの方向に半分に挽き割り、分けた部分を互いに逆向きにしなさい。すなわち根元だった部分を先端へ、先端だった部分を根元へ向け、その後ふたたび結び合わせなさい。このように組み合わせたものは、決して曲がらない。

最もまっすぐさを保つ棒について

木のうち最も北へ向いた部分でつくった棒は、他のものより曲がることが少なく、本来のまっすぐさをよく保つ。これは、その部分には太陽があまり当たらず、木の水分をあまり動かさないためである。南側ではそうならない。一日中太陽から見られ、太陽がその進路とともに、植物のその部分の水分を東側から西側へ動かすからである。

木材が乾くときの割れ目について

木材が乾くときにつくる割れ目は、森の外縁から遠いところに生じた木ほどまっすぐになり、森の外縁に近いところに生じた木ほど曲がる。

乾いても割れない木材について

木材が乾くときに割れ目をまったくつくらないようにしたければ、普通の水で長く煮るか、川底に長く置き、その自然の力が失われるまでそうしなさい。

異なる距離における木の枝分かれ

最初の、近い木々は、その真の形を目へ示す。植物の末端の小枝に生じた葉の各まとまりについて、明かり、光沢、陰、透けが明瞭に現れる。地平線と目との間に置かれる第二の距離では、前述の小枝の上の葉のまとまりが、点のように現れる。第三の距離では、前述の小枝のまとまりが、より大きい枝分かれのまとまりに散らばる点のように現れる。第四の距離では、その大きい枝分かれも縮小し、木全体の中の曖昧な点の形だけが残る。次に地平線が続き、第五の最後の距離となる。そこでは木全体が縮小され、点の形に残る。このように、目から、平野で終わる真の地平線までの距離を、等しい五つの部分に分けた。

遠距離でも木に見分けられるまま残る部分について

植物がそれを見る目から遠く離れると、主要な陰と明部のまとまりだけが見える。主要でないものは、縮小によって失われる。小さな明部が広い陰の中にあると、それは失われ、陰のどの部分も変えないからである。広く照らされた地の中にある、小さな陰についても同じことが起こる。

前述よりさらに遠い距離について

しかし木々がさらに遠くなると、陰と明部のまとまりは、間にある空気と、その縮小によって混じり合い、すべて同じ一つの色、すなわち青色であるように見える。

葉の茂った植物の枝先について

原刊で第851章に隣接する挿図(1890年版・印刷272頁)
原刊で第851章に隣接する挿図(1890年版・印刷272頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

葉の茂った枝で、第一の葉が第二の葉につくる最初の陰は、その陰になった葉が第三の葉につくる陰ほど暗くない。同じように、陰になった第三の葉が第四の葉につくる陰は、さらに暗い。このため、陰になった第三、第四の葉を背景とする照らされた葉は、最初に陰となった葉を背景とするものよりも、強い立体感を示す。たとえば太陽をe、それに照らされた第一の葉をaとする。この葉は目nから見て第二の葉bを背景にもつ。この葉は、第二の葉を背景とする場合よりも、もう少し外へ突き出して葉cを背景とする場合のほうが、はっきり浮かび上がると私はいう。cは、それと太陽との間により多くの葉が挟まるため、暗いからである。そして第四の葉、すなわちdを背景とすれば、さらに浮かび上がるだろう。

同じ木が遠くより近くで明るく見えるのはなぜか

同じ種類の木が遠くより近くで明るく見えるのには、三つの原因がある。第一は、近くでは陰がより暗く見え、その暗さのため、それに接する照らされた枝分かれが、実際より明るく見えることである。第二は、目から遠ざかると、陰と目との間に、以前より厚い空気が入り、その陰を明るくして、青みを帯びた色にすることである。そのため明るい枝は、以前のような確かな比較の中に現れず、暗くなったように見える。第三は、枝分かれが目へ送る明暗の像が、その端で互いに混ざり、曖昧になることである。陰の部分は常に明るい部分より量が多く、その陰の部分は、遠距離では少ない明部よりもよく認められる。この三つの原因によって、木は近くより遠くで暗く見える。また明るい部分は、照明が強いほど大きくなり、その照明は、目と明部との間にある空気の量が少ないほど、強く見えることも、その理由である。

一定の距離を越えると、木が遠いほど明るくなるのはなぜか

ある距離を越えると、木は目から遠ざかるほど明るく見え、ついには地平線の空気と同じ明るさになる。これは木と目との間にある空気による。その空気は白い性質をもち、介在する量が多いほど、より強い白さで木を覆う。木はそれ自体が暗い色を帯びているので、その間の空気の白さは、照らされた部分よりも暗い部分を、いっそう青くする。

同じ風景、同じ個別の光のもとでの、木の陰の違いについて

太陽が東にあるとき、あなたの東の木は大きな陰をもち、南の木は半分が陰となり、西の木は全体が照らされる。しかしこの三つの向きだけでは十分でなく、次のようにいうほうがよい。東の木は全体が陰となり、南東の木は四分の三が陰となる。南の木の陰は木の半分を占め、南西の木は四分の一が陰となり、西の木はまったく陰を見せない。

木の枝分かれの明かりについて

上で述べたことにより、照らされた木の枝分かれのまとまりでは、一枚一枚の葉が陰の空間で他の葉から隔てられていても、遠距離では、その陰の部分が小さいため失われる。述べたように、距離によって陰ほどには減らない明るい部分に、覆われ圧倒されるからである。このため、同じ枝の葉のまとまりは、ある程度の距離では、ほとんど同じ一つの色に見える。視力がよくて、葉の間にある陰の隙間を多少見分けられるとしても、それらは本来の暗さを示さない。これには二つの原因がある。第一は、目と陰の対象との間に介在する空気の厚みである。第二は、ごく小さい像が、このような遠距離ではその境界でいくらか混じり合い、認識を曖昧にすることである。そして照らされた部分が陰よりもよく認められるため、それによって陰の暗さが少なく見える。

植物が根とつながるところの形について

植物の幹の根元は、枝や根の発生するところに近づくと、その太さの円形を保たない。これは、上方と下方の枝分かれが、植物の養分を得る器官だからである。すなわち上では、夏に葉を通して露や雨によって養われ、下では、冬に大地と根との接触によって養われる。

葉の陰と明かり、およびその大きさについて

植物の枝分かれは、下から、上から、あるいは中ほどから見られる。下から見て、光が全体に広がるものである場合、陰の部分は照らされた部分より大きい。上から見れば、照らされた部分が陰の部分より大きい。中ほどから見れば、照らされた部分と陰の部分は等しくなる。

植物の照明について

原刊で第858章に隣接する挿図(1890年版・印刷274頁)
原刊で第858章に隣接する挿図(1890年版・印刷274頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

植物のうち発光体を見る部分が照らされて見えるような目の位置では、一つの植物が他と同じように照らされて見えることはない。これを示すため、目cが、太陽aに照らされる二つの植物bとdを見るものとする。この目cには、一方の木と他方の木とで、明部と陰の比が同じには見えないと私はいう。太陽に近い木は、目へ来る太陽光線の収束するところに他方より近い分だけ、太陽から遠い木よりも陰が多く見えるからである。図のとおり、木dから目cに見えるのは陰だけであり、同じ目cには木bが半分照らされ、半分陰になって見える。

植物について画家への覚え書き

画家よ、同じ種類の植物でも、陰の暗さは、枝分かれの疎密の違いの数だけ多様であることを覚えておきなさい。

植物を照らす、全体に広がる光について

原刊で第860章に隣接する挿図(1890年版・印刷274頁)
原刊で第860章に隣接する挿図(1890年版・印刷274頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

植物の部分は、地面から遠いほど、暗さの少ない陰をまとって見える。これを示すため、upを植物、nbcを照らされた天空半球とする。木の下部、すなわち部分oは、地面pcを見、天空半球はcdにわずかしか見ない。しかしくぼみaの高い部分は、天空半球のより多い量、すなわちbcから見られる。そのため、大地の暗さを見ないので、より強く照らされたままである。しかし月桂樹、モミ、ツゲのように葉の密な木では、事情が変わる。aが大地を見ないとしても、多くの陰で隔てられた葉の暗さを見るからである。その暗さは、上に重なる葉の裏へ上向きに反射する。このような木では、陰は木の中央に近いほど暗くなる。

木と、その明かりについて

田野、すなわち植物を伴う風景を描く実践上の正しい方法は、空が太陽に覆われた状態を選ぶことである。それによって田野が、全体に広がる光を受け、陰を明瞭に区切って明部から大きく異ならせる、太陽の個別の光を受けないようにするのである。

注 原文は『che il cielo sia occupato dal sole(空が太陽に覆われる)』だが、直後は直射日光のない条件を求める。雲などに関する語の誤記・脱落が疑われるが、本文を黙って訂正しなかった。

緑と山の照らされた部分について

より強い光に照らされた部分ほど、遠距離でも本来の色を多く示す。

暗い葉の明かりについて

色の暗い葉ほど、その明部は、そこに映る空気の色を多く帯びる。これは、照らされた部分の明るさが、その葉自体の暗さと合わさって青色をつくるためである。その明るさは、葉の滑らかな表面に映る空気の青さから生じ、明るさが暗いものとともに通常生じさせる青色を、さらに増すのである。

黄色みを帯びた緑の葉の明かりについて

しかし黄色みを帯びた緑の葉は、空気を映すとき、青みを帯びた光沢をつくらない。鏡に現れるものはすべて、その鏡の色を帯びるからである。したがって葉の黄色に映る空気の青色は、緑に見える。青と黄を混ぜれば、きわめて美しい緑をつくるからである。それゆえ、黄色みを帯びた明るい葉の光沢は、黄緑色になる。

太陽と空気に照らされる木について

太陽と空気に照らされる木が暗い色の葉をもつならば、葉は一方で空気に照らされるので、その照明は青みを帯びる。他方では空気と太陽に照らされ、目が太陽に照らされたものとして見る部分は、光沢をもつ。

植物の葉の光沢について

植物の葉は一般に滑らかな表面をもつため、空気の色を部分的に映す。その空気は、薄く透明な雲と混じるため、白を帯びている。楡の葉のように、本来暗い葉の表面は、埃をかぶっていなければ、その光沢を青みのある色として返す。これは第四篇の第七命題、すなわち、明るいものと暗いものを混ぜると青色をつくる、ということによる。そしてこのような葉の光沢のある枝は、そこに映る空気が澄んで青いほど、いっそう青くなる。しかし五月の枝先のように葉が若ければ、それは黄色みを帯びた緑である。その光沢が、そこに映る青い空気によって生じるならば、光沢は緑になる。同じ第四篇の第三命題が、黄色と青色を混ぜると常に緑色が生じると述べるからである。

緻密な表面をもつすべての葉の光沢は、空気の色を帯びる。そして葉が暗いほど、鏡の性質を強め、そのため光沢も、いっそう青色を帯びる。

注 第一段落の『光沢のある枝』は原文rami lustriを保持した。前後は葉面の光沢を論じており、異読・誤植の可能性がある。

葉の緑について

樹木の葉の緑が最も美しくなるのは、葉がその厚みをもって眼と空気との間に介在するときである。

樹木の暗さについて

樹木のうち、空気を背景として輪郭をなす部分は、森、山、丘を背景として輪郭をなす部分より、はるかに暗い。

樹木について

太陽の方へ向かって樹木を見ると、葉が光を透かすため、末端に近いところは、それまでより美しい緑に見える。中央に近いところはきわめて暗く見える。光を透かさない葉は、こちらに表を向けた葉であり、非常にはっきりした光沢を帯びる。

しかし太陽と反対の方角から樹木を見ると、葉が密であれば、陰は少なく、葉には多くの光沢が見える。

眼より下にある樹木について

原刊で第870章に隣接する挿図(1890年版・印刷277頁)
原刊で第870章に隣接する挿図(1890年版・印刷277頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

眼より下にある樹木は、それ自体の高さ、色、枝の密度が等しくても、距離が増すにつれて暗さを増すことを免れない。これは、最も近い木については、あなたがその上方にいるため、事物を照らす天空に向いた部分を見るからである。したがって、その照らされた部分を見ることになり、実際に明るく見える。より遠い木については、いっそう下から見るため、木はより陰の多い部分をあなたに示し、したがって、いっそう暗くなる。もし眼と第二の木との間に、眼と第一の木との間より多くの空気が介在して、その暗さを明るくするのでなければ、色の遠近法は逆の結果をもたらすであろう。

樹木のまばらな梢について

枝分かれのまばらな疎らな樹木の、散らばった梢には、認めうるほどの陰が生じない。枝が細く、葉も少なく薄いうえ、光を透かさない部分も照らされたままだからである。

野の遠景について

いくらか遠くにある樹木の末端は、ほとんど見分けられず、その背景との差もわずかになるように描くこと。

遠くの樹木が帯びる青について

遠くの樹木が帯びる青は、明るい部分よりも暗い部分に多く生じる。これは眼と陰との間に介在する空気の光によって、空色に染められるためである。樹木の明るい部分は、緑を最後まで失わない。

森を照らす太陽について

太陽が森を照らすと、森の樹木には境界の明瞭な陰と光が現れる。それによって形がいっそうよく認められるため、樹木はこちらへ近づいたように見える。そして、太陽から見えない部分は一様に暗く見える。ただし、太陽とあなたとの間にある薄い部分は別で、それらは光を透かして明るくなる。太陽に照らされた樹木では、天空に照らされた樹木より明るい部分の量が少なくなる。それは、天空が太陽より大きく、この場合、大きな原因が大きな結果を生むからである。

樹木の陰が小さくなるにつれて、樹木はいっそう疎らになったようには見えなくなる。とくに、木々が同じ色をもち、桃、李などのように、もともと枝が疎らで葉が薄い場合がそうである。陰が木の中央へ退くにつれて、木は小さくなったように見え、陰の外に完全に出た枝は、背景と同じ色に見えるからである。

樹木の緑の明るい部分について

樹木の緑の明るい部分は、眼に近いとき、遠くの樹木の明るい部分より明るく見え、陰の部分は遠くの樹木の陰の部分より暗く見える。遠くの樹木では、明るい部分が近くの樹木の明るい部分より暗く見え、陰の部分が近くの樹木の陰の部分より明るく見える。これは、見る眼からの距離が大きいため、樹木の陰と光の視像が集まり、混同され、混ざり合うからである。

眼と光の間にある樹木について

眼と光の間にある樹木では、手前の部分が明るくなる。その明るさには、裏から見られて光を透かす葉の枝々と、表から見られて光沢を帯びる葉とが混じる。その下や背後の背景は、その木の手前の部分に陰を投げかけられるため、暗い緑となる。これは眼より高い樹木に起こる。

樹木の偶有的な色について

樹木の葉むらの偶有的な色は四つ、すなわち陰、光、光沢、透光である。

偶有的な現れの見え方について

樹木の葉に生じる偶有的な諸部分は、遠距離では一つの混合となり、そのうち面積の最も大きな現れの性質を、最も多く帯びる。

遠くの樹木は背景の空気に対してどのような輪郭を示すか

原刊で第879章に隣接する挿図(1890年版・印刷278頁)
原刊で第879章に隣接する挿図(1890年版・印刷278頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版
原刊で第879章に隣接する挿図(1890年版・印刷279頁)
原刊で第879章に隣接する挿図(1890年版・印刷279頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

樹木の枝々が照らされた空気との間になす輪郭は、遠くなるほど球形に近づき、近くなるほど、そのような

球形を示さなくなる。たとえば第一の樹木 a は眼に近いため、その枝分かれの本来の形を示す。この形は b ではほとんど失われ、c では完全に失われる。そこでは枝が見えないばかりか、木全体さえ、かろうじて認められるだけである。

陰をなす物体は、どのような形であっても、遠距離では球形に見える。これは、四角い物体なら、ごくわずかに離れただけで角が見えなくなり、もう少し遠ざかると残った短い辺も見えなくなるからである。このように、部分は全体より小さいため、全体が見えなくなる前に部分が見えなくなる。同様に、そのような距離から見られる人間では、胴体より先に脚、腕、頭が見えなくなる。その後、幅の両端より先に長さの両端が見えなくなり、縦横が等しくなったとき、もし角が残っていれば四角になるはずだが、角は残っていないので丸くなる。

樹木の陰について

風景の中の樹木を覆う陰は、右側の木と左側の木とで同じ位置には現れない。とくに太陽が右か左にある場合がそうである。これは第四命題、すなわち「光と眼の間に介在する不透明な物体は、すべて陰になって見える」によって証明される。また第五命題によれば、「不透明な物体と光の間にある眼には、その物体が全面照らされて見える」。さらに第六命題によれば、「眼と不透明な物体とが暗闇と光との間にあると、その物体は半ば陰、半ば光として見られる」。

葉の陰と透光について

樹木の葉は光を透かすため、自分が陰を投げかける葉に完全な闇を与えず、暗さのわずかな陰を与える。それによって緑の美しさが増す。そして第一の葉の下にある第三の葉は、二枚の葉だけに遮られるため、第二の葉の暗さの二倍の暗さを帯びる。このように第三、さらに第四の葉へと、暗さはつねに増してゆき、無限に続くであろう。ゆえに画家よ、大きな葉の茂った枝のまとまりを描くときは、樹木の中心に向かう部分より明るくし、さらに光に近い枝のまとまりは、いっそう明るくせよ。それらのまとまりを構成する小さなまとまりは、なお明るくし、末端の葉はさらに明るく、光に向いた葉の末端部分は、もっと明るくせよ。眼と太陽の間にある草や樹木の葉は、すべて太陽光に助けられた透光によって見られる。この透光において緑の美しさは最高に達する。それは葉の自然の色によるというより、反対側からそれを照らす太陽光線の力によるものである。

光を透かす葉の陰について

裏から見た透光性の葉にある陰は、その葉の表にある陰そのものである。それは明るい部分とともに裏へ透けて見える。ただし、明るい部分にある光沢は決して透けて見えない。一つの葉むらの背後に別の葉むらがあるとき、葉の光沢と透光は、明るい空気に接する葉のそれらより強く現れる。そして太陽と眼との間に介在する葉を太陽が照らし、眼には太陽が見えないとき、葉の光沢と透光はきわめて強くなる。手前の低い枝々を暗く描き、それらよりいくらか遠い、明るく照らされた緑を背景とさせるのは、非常に効果的である。

下から見た暗い葉むらでは、眼に最も近い部分、すなわち明るい空気から最も遠い部分が、最も暗い。

太陽に透ける葉を決して描かないことについて

太陽に透ける葉を決して描くな。それらは混雑して見えるからである。これは、一枚の葉の透けた明るさの上に、その上方にある別の葉の陰が刻まれるためである。その陰は輪郭が明瞭で暗さも定まっており、ときには陰を受ける葉の半分または三分の一を占める。そのため、そのような枝葉は錯綜して見え、その模写は避けるべきである。樹木の横枝の上側にある小枝は、下側の小枝よりも、その主枝に近づく。光がつくる角が著しく不等になる葉ほど、透光は少ない。胡桃や無花果など、大きな葉と重い実をつける樹木の最も低い枝は、つねに地面の方へ向かう。

葉の陰について

原刊で第884章に隣接する挿図(1890年版・印刷280頁)
原刊で第884章に隣接する挿図(1890年版・印刷280頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

ときには葉に三つの偶有的な現れ、すなわち陰、光沢、透光がある。たとえば葉 s に対して光が n に、眼が m にあれば、その眼には a が照らされ、b が陰になり、c が透けて見える。凹面をもつ葉を、その裏側から下より上へ見たとき、半ば陰、半ば透光として見えることがある。たとえば po を葉、m を光、n を眼としよう。その眼には o が陰になって見える。光がそこへ、表側からも裏側からも、等しい角をなして当たらないからである。そして p は、その裏側に透ける光となる。

透ける葉の前にある暗い葉について

原刊で第885章に隣接する挿図(1890年版・印刷281頁)
原刊で第885章に隣接する挿図(1890年版・印刷281頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

葉が光と眼との間にあるとき、空気を背景としないかぎり、眼に最も近い葉が最も暗く、最も遠い葉が最も明るい。これは樹木の中心より向こう側、すなわち光の側にある葉に起こる。

若い樹木とその葉について

若い樹木は、老木より葉がよく光を透かし、樹皮も滑らかである。とくに胡桃がそうであり、九月より五月のほうが明るい。樹木の陰が黒くなることは決してない。空気の入り込むところには、闇がありえないからである。

葉の色について

光が m から来て、眼が n にあるとすると、その眼には葉 a b の色が、全体として m の色、すなわち空気の色を帯びて見える。また l b c は裏から見られ、光を透かして、黄色を帯びたきわめて美しい緑となる。

m が葉 s を照らす光源なら、その葉の裏を見るあらゆる眼には、葉が光を透かすため、非常に美しい明るい緑として見える。

しばしば葉のまとまりには陰がなく、その裏は光を透かし、その表は光沢を帯びる。

まっすぐな枝を出す樹木について

柳や、それに似て三年または四年ごとに枝を切られる樹木は、非常にまっすぐな枝を出す。その陰は枝の生じる中央寄りにあり、末端の方は葉が小さく、枝も細く疎らなため、わずかな陰しかつくらない。したがって天空へ伸び上がる枝には、陰も立体感も少ない。一方、地平線から下の方へ向く枝は、陰の暗い部分から生じ、末端へ至るまで次第に明るくなる。それらは暗い背景の中で段階的に明るくなるため、よい立体感を示す。枝分かれが疎らで葉も少ない樹木ほど、陰が少ない。

樹木の陰について

太陽が東にあるとき、眼より西にある樹木は、立体感がきわめて乏しく見える。眼と樹木との間の空気がひどく濁っていれば、ほとんど認められないほどになる。本篇の第七命題により、それらには陰がない。枝分かれの各分岐には陰があっても、眼に届く陰と光の像は混同されて混ざり合い、その形が小さいため見分けられないのである。そして主要な明部は樹木の中央にあり、陰は末端の方にある。木の密生した森では、木々の間隙の陰がそれぞれの木を分けるが、疎らな森では輪郭がほとんど見えない。

東にある樹木について

太陽が東にあるとき、その東の方角に見える樹木は、地面に向く側を除いて、陰の周囲を光に取り囲まれる。ただし、その木が前年に枝払いされていた場合は別である。また南および北にある樹木は、半ば陰、半ば光となり、東寄りか西寄りかの程度に応じて、陰や光の量を増減させる。

眼の位置が高いか低いかによって、樹木の陰と光は変化する。高い眼には樹木の陰が少なく見え、低い眼には多く見えるからである。

樹木の緑は、その種類の多様さに応じて多様である。

太陽が東にあるとき、その方角の樹木は中央に向かって暗く、その末端は明るい。

東にある樹木の陰について

東にある樹木の陰は、木の大部分を占め、葉が密生している木ほど暗い。

南にある樹木について

太陽が東にあるとき、南および北にある樹木は、ほぼ同量の光と陰をもつ。しかし西寄りにあるほど光の量が多く、東寄りにあるほど陰の量が多い。

草原について

太陽が東にあるとき、草原やその他の小さな植物の緑は、太陽の光を透かすため、きわめて美しい緑となる。西にある草原には、これは起こらない。また南および北にある草の緑の美しさは、中程度である。

草原の草について

草の間に生える樹木の影を受ける草のうち、その影の手前にあるものは、暗い背景に対して草の茎が明るく照らされる。一方、影を受けた草の茎は、明るい背景、すなわち影の向こう側の地面を背景として、暗く見える。

緑の陰について

緑の陰はつねに青を帯びる。他のあらゆる物の陰も同様であり、眼から遠いほど青を多く帯び、近いほど少なく帯びる。

絵画における風景について

絵画に描かれる風景の樹木と山々は、光が来る方角の側では陰の部分を見せ、陰が来る方角の側では照らされた部分を見せなければならない。そして眼が光と陰を見る位置にあるものには、光と陰を示さなければならない。これは欄外の図によって証明される。

葉の茂った枝の陰が、明るい部分の近くでは、反対側ほど強く見えないのはなぜか

遠距離では、樹木の枝の照らされた部分が、その枝の明るい細部の間にある陰の部分を不明瞭にする。これは遠距離で明るい部分の見かけの形が広がり、陰の部分は、眼で認められなくなるほど縮小するからである。その結果、眼に届く像には、混然とした一つのものしか現れない。そのような陰と光の視像が一緒に混合をつくり、明るい部分のほうがよく保たれるため、この二つの性質の合成は、枝の大部分に見える性質を帯びて現れるのである。

樹木の枝のどの部分が最も暗くなるか

樹木の枝分かれが均等に分布しているなら、枝の末端から最も遠い部分が、最も暗くなる。

樹木の見え方について

道の土手にある樹木の間では、太陽による木々の影を、それを生む葉枝のまとまりと同じように、すべて途切れ途切れに描くこと。

風景について

風景は最初の近いところでは明るい。樹木の梢の間に、草原や、そのほか木々の間の空間や隙間が見えるからである。しかし距離によって、それらの隙間が見えなくなりはじめると、見えるのは樹木の枝々だけになる。それらは草原と同じ色であっても、密集と縮小のため、木の中心に向かって草原よりも多くの陰を帯びる。それによって、このような暗さが生じる。しかし、その暗さも距離が増すとふたたび明るくなり、地平線の色へ変わる。

風景を覆う霧の描写

空気に混じる霧は、低くなるほど濃くなる。そのため、太陽と眼との間にある霧では、太陽光線がいっそう明るく輝く。しかし眼が太陽と霧の間にあると、霧は暗く見える。その暗さは、すでに証明したように、霧が低いほど強くなる。また雲が太陽と霧との間に入ると、いずれの場合の霧も雲のように暗くなる。しかし太陽と眼の間にあり、眼からある程度隔たった霧は、太陽の輝きを大いに帯び、太陽そのものに近いほど、いっそうそうなる。この場合、都市の建物は、より輝かしい霧の中に置かれるほど暗く見える。そのとき、それらは太陽により近くなるからである。そして霧の濃さは規則的に不均一である、すなわち地面に近づくほど濃く、低いほど太陽から大きな輝きを受けると述べた。このため、その中にある平行な側面をもつ建物、すなわち塔や鐘楼は、基部に近いほど細く見える。これは必然である。より明るい空気の中に置かれた暗い物体ほど、小さく見えるからである。その理由は、私の遠近法の第三十二命題に記してある。

風景について

遠くの風景の陰の部分は、照らされた部分よりも青色を多く帯びる。これは、無色の空気が染まる青の定義によって証明される。もし空気の上に闇がなければ、空気は白いままであろう。空気の青は、それ自体として光と闇とから成るからである。

霧の中、あるいは日の出や日没における風景について

原刊で第903章に隣接する挿図(1890年版・印刷285頁)
原刊で第903章に隣接する挿図(1890年版・印刷285頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

ここでいうのは、あなたの眼から東にある風景である。日の出のとき、あるいは太陽と眼との間に霧やその他の濃い蒸気があるとき、風景は太陽の方に向かってはるかに明るくなり、反対側、すなわち西側では輝きが少なくなる。しかし霧や蒸気がなければ、東側、すなわち太陽と眼の間にある部分は、眼に近いほど暗くなる。この現象は、太陽にいっそう近い部分、すなわち太陽の真下に近く見える部分に起こる。そして晴天には、反対側で逆のことが起こり、霧のある天候では晴天時と逆になる。

下から見た樹木について

原刊で第904章に隣接する挿図(1890年版・印刷285頁)
原刊で第904章に隣接する挿図(1890年版・印刷285頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

光に向かって下から見られ、前後に近く並ぶ樹木では、第一の木の末端部分は、その大半が光を透かして明るくなり、第二の木の暗い部分を背景とする。同じ条件で置かれた木々は、すべて順々に同じようになる。s を光、r を眼、cdn を第一の木、abc を第二の木としよう。眼 r には、cf の部分が、反対側からそれを見る光 s によって、大部分透けて明るく見える。そしてそれは暗い背景 bc をもつ。その暗さは樹木 abc の陰だからである。しかし眼を f に置けば、その眼には、明るい背景 ng に対して op が暗く見える。

樹木の光を透かす陰の部分では、あなたに近いものほど暗い。

楡の記述

原刊で第905章に隣接する挿図(1890年版・印刷286頁)
原刊で第905章に隣接する挿図(1890年版・印刷286頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

楡のこの枝分かれでは、主枝がまっすぐであるとき、最も大きな枝は前面にあり、最も小さな枝は第一の枝と最後から二番目の枝である。一枚の葉の付け根から次の葉の付け根までの距離は、葉の最大の長さの半分より、いくらか短い。葉どうしの間隔は、その葉の幅のほぼ三分の一だからである。楡の葉は、枝の根元よりも先端近くに密につき、それらの葉面は、ほぼ同じ方向を向く。葉の茂った樹木を構成する際には、一つの木の同じ色を、別の木の同じ色の上に重ねることを、あまり何度も繰り返さないよう注意せよ。より明るい緑、より暗い緑、あるいはより緑みの強い色を用いて変化をつけよ。

葉はつねに表を天空へ向ける。それは、空気からゆっくり降りてくる露を、その全面でよりよく受けるためである。また葉は、壁を覆う蔦に見られるように、互いの上に入り組みながらも、できるかぎり一枚が他を覆い隠さないように枝の上へ配列される。この入り組み方には二つの役割がある。第一に、空気と太陽が葉の間へ入れるように隙間を残すこと。第二に、第一の葉から落ちる滴が、別の枝の第四、第六の葉の上にも落ちられるようにすることである。

胡桃の葉について

胡桃の葉は、その年に出た小枝の全体に配列される。その小枝の生じる枝が若いほど、葉と葉との間隔は大きく、葉の数も多い。また葉の生じる小枝が古い枝から出ているほど、葉の付け根どうしは近く、数も少ない。実は小枝の末端に生じ、大きな枝は、その生じる枝の下側にある。これは樹液の重みが、上昇するより下降するのに適しているからである。そのため、上側から出て天空へ向かう枝は、小さく細い。小枝が天空へ向かうとき、葉はその先端から、それぞれの先を等間隔に広げる。小枝が地平線へ向かうとき、葉は平らに並ぶ。これは、葉が一般に、その裏を地面へ向けるためである。

風景の様相について

太陽が東にあるとき、樹木の照らされた部分はすべて、きわめて美しい緑となる。これは地平線の半分、すなわち東側の半分において、太陽に照らされた葉が光を透かすからである。一方、西側の半円内では、湿って濁った暗い灰色の空気の中で、緑はくすんだ色になる。東側のようには光を透かさないためである。東側は輝かしく、湿り気が多いほど、いっそう輝く。

樹木そのものの隙間について

樹木の内部に空気が透けて見える隙間も、空気の中に樹木が入り込む細部も、遠距離では眼に現れない。全体をかろうじて見分けられるところでは、部分を認めるのは困難だからである。そこでは混然とした混合ができ、量の多いものの性質をより多く帯びる。樹木の隙間をなすのは、照らされた空気の小部分であり、樹木よりはるかに小さい。そのため、それらは樹木より先に認識できなくなる。しかし、それによって存在しなくなるわけではない。したがって必然的に、空気と陰になった樹木の暗さとが混ざり合い、一緒になって見る眼へ届く。

互いの隙間を塞ぐ樹木について

原刊で第909章に隣接する挿図(1890年版・印刷287頁)
原刊で第909章に隣接する挿図(1890年版・印刷287頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

樹木と空気との間の背後に、ほかの樹木がより多く重なる部分ほど、隙間が少なくなる。たとえば樹木 a では、背後に木がないため隙間が塞がれず、b でも同様である。しかし c では、半分にしか隙間がない。すなわち co は樹木 d によって塞がれ、樹木 e によって塞がれる。そして、もう少し向こうでは、樹木の内部の隙間はすべて見えなくなる。

風の去ってゆく方向を後ろから見る位置の眼には、どの植物の葉も、裏側しか見えない。ただし、風下にあって風の来る方へ向く枝の葉、および月桂樹などのように付着の強い葉は別である。

注 第一段落の co、d、e の関係は原文の構文が不完全なため、参照文字と反復を保持した。

樹木と緑についての教則

樹木や草原は、風の去る方向を後ろから見ると、風の来る方へ向かって見るよりも、はるかに明るく見える。これは、どの葉も裏のほうが表より淡い色をしているからである。風の去る方向を後ろから見る者には葉の裏が見え、風の来る方へ向かって見る者には陰になって見える。葉の末端が曲がり、中央の方へ陰を投げるうえ、表の側から見ることにもなるからである。

柳などのように、枝が細く長い樹木ほど、その上部は風の衝撃で大きく曲がる。

眼が風の来る方向と去る方向との中間にあれば、樹木の枝は、風が去る側より来る側で密に見える。これは、風が自分の方へ向く木々の先端に当たり、それらを、ほかのいっそう強い枝へ押しつけるためである。そこで枝が密集し、透ける隙間が少なくなる。しかし反対側の枝は、樹木の隙間を通り抜ける風に打たれて、木の中心から離れ、疎らになる。

太さと高さの等しい樹木では、横枝の末端が木の中央からあまり離れていないものほど、風で大きく曲がる。これは枝の離れ方が、風の到来や衝撃に対して、木の中央を守る盾とならないためである。

高い樹木ほど、風の流れによって大きく曲げられる。

葉が密に茂る樹木ほど、風の衝撃によって大きく曲げられる。

大きな森や穀物畑や草原では、海や広い水面で見られるのと同じように、風がつくる波が見られる。

月桂樹などのように、葉が密生し厚い樹木ほど、暗い陰をつくる。

葉や実の重みに負けていない枝の直線方向は、すべて、その枝分かれの中心に向かう。

各樹木が年ごとに出す枝の太さを、各年のものごとにひとまとめにすると、最初の幹の太さに等しくなる。

湿って陰の多い場所に生える老木の幹の根元は、つねに緑の綿毛に覆われる。

若い樹木は、老木よりも滑らかな樹皮をもつ。樹木の上方の枝は、下方の枝より葉が豊かである。森の外縁の樹木は、内部の樹木より葉が豊かである。森が密なほど、その地面には草が少ない。

絵画で樹木の色の基礎を組み立てることについて

空気を背景とする樹木の色の基礎を、絵画で組み立てる方法。夜、わずかな明かりのもとで見えるように描け。そうすれば木々は、一様に一つの暗い色で、空気の明るさが隙間から透けて見える。そして、明るい緑や暗い緑のさまざまな色に妨げられず、単純な形が明瞭に見えるであろう。

教則

樹木の枝分かれには、尖ったものも丸いものもある。

樹木の枝分かれのうち最も太い先端は、他のどの枝先よりも、大きな葉、あるいは多数の葉を出す。

枝分かれの先端は、つねに最初に葉で満たされる部分である。

最も太い枝先は、つねに樹木の大枝の主な先端である。逆に、それらの枝の最も細い先端は、そのような主枝から最も遠いところにある。

樹木についての教則

枝、あるいはそれをもつ樹木には、自然によって完全に成長させられるものも、自然の欠陥によって妨げられるものもある。後者は全部または一部がひとりでに枯れる。また人間に切られて、本来の大きさを欠くものもあれば、雷、風、そのほかの嵐によって折れたものもある。

風にさらされる海岸の近くに生える樹木は、すべて風に曲げられ、そのように曲がって成長し、そのままの形を保つ。

草について

草には、陰にあるものと光の中にあるものとがある。眼が陰の側にあれば、陰の草が、照らされた草の明るさを背景として見える。眼が光の側にあれば、照らされた草が、陰の草の暗さを背景として見える。

葉について

葉の明るさには、眼と光との間に置かれて光を透かすことによるもの、空気から単に照らされることによるもの、光沢を受けるものがある。光を透かす葉は、本来の色より美しい色を示す。空気によって照らされた葉は、いっそう真実の色を示す。光沢は、葉の自然の色よりも、その表面の緻密さに映る空気の色を多く帯びる。

表面に毛のある葉は、光沢を受けない。株は、疎らで枝分かれが細いほど、陰が少ない。草の葉では、種子に近いものほど深く切れ込み、付け根に近いものほど切れ込みが少ない。

葉の色を模写するための教則

原刊で第916章に隣接する挿図(1890年版・印刷290頁)
原刊で第916章に隣接する挿図(1890年版・印刷290頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

葉の真実の色を模写する際、自分の判断を全面的に信頼したくない者は、模写しようとする樹木から一枚の葉を取り、その上で絵具を混ぜ合わせるべきである。そして、その混色と葉の色との差が見分けられなくなれば、その色が葉を完全に模倣していることを確信できる。同じようにして、模写したい他の葉にも行うことができる。

第七部 雲について

第7部の前付挿図(1890年版・印刷291頁)
第7部の前付挿図(1890年版・印刷291頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

雲について

原刊で第917章に隣接する挿図(1890年版・印刷291頁)
原刊で第917章に隣接する挿図(1890年版・印刷291頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

雲とは太陽の熱によって高く引き上げられた霧であり、その上昇は、新たに得た重さの力が、それを動かすものの力に等しくなるところまで及ぶ。その得られた重さは凝縮から生じ、凝縮は、雲に注ぎ込まれた熱が、大気の中間領域の冷気に侵された末端から退くことに由来する。湿気は、それを高く運んだ熱が逃げるところへ、どこへでも従う。そして熱は、雲のそれぞれの丸い塊の中央へ逃げるので、これらの塊は凝縮し、密実な山のように明瞭な表面をもち、そこに当たる太陽光線によって陰を生じる。

雲は、ときには太陽光線を受け、密実な山のように照らされて見え、ときには同じ雲が、どの部分にも暗さの変化を見せず、きわめて暗いままでいる。これは、太陽と暗くなった雲との間に入り、太陽光線を遮る、ほかの雲の影による。

注 雲の生成と大気の中間領域に関する説明は、原著の歴史的な自然学上の概念を保持して訳した。

雲の赤みについて

雲を染める赤みは、夕方または朝、太陽が地平線にあるときに、強弱さまざまに生じる。いくらか光を透かす物体には、朝夕に太陽が現れると、その光線がいくらか入り込む。そして雲の丸い塊の末端寄りの部分は、中央よりも厚みが薄いため、太陽光線は、厚い部分よりいっそう輝かしい赤みをもって、そこを透過する。厚い部分は、太陽光線が透過できないため暗いままである。雲はつねに、その丸い塊どうしの接するところで、中央よりも薄い。これは上で証明したとおりである。そのため、雲の赤みには、さまざまな質の赤がある。

眼が雲の丸い塊と太陽の本体との間にあれば、その塊の中央は、ほかのどの部分よりも輝いて見える。しかし眼が横にあり、丸い塊から眼に来る線と、太陽から同じ眼へ来る線とが、直角より小さい角で交わるなら、その雲の丸い塊の最大の明部は、塊の末端にある。

ここで論じる雲の赤みは、太陽が雲の背後にある場合をいう。しかし太陽が同じ雲の前にあるときには、その丸い塊は、塊どうしの間隙よりも強く輝く。すなわち、丸い塊とくぼみの中央で輝くのであり、天空と地面の暗さに向かう側面ではそうではない。

雲の生成について

雲は、空気に含まれた湿気から生じる。その湿気は、さまざまな風によって空気中を運ばれる冷気の作用で集まる。このような雲は、消滅するときと同じく、生成するときにも風を生じる。生成の際に風が生じるのは、散在して蒸気となっていた湿気が、雲をつくるために集まると、その立ち去った場所が、湿気を欠いて空になるからである。自然には真空が存在しないので、湿気の去った場所の周囲の空気が、生じかけた空虚を満たさなければならない。この運動を風という。しかし太陽の熱によって雲が空気に解けるときには、反対の風が生じる。それは、凝集した雲が壊れて蒸発することによって生まれる。そして、述べたように、いずれの現象も風を生じさせる。このような風は、熱や冷気によって変化させられた空気のあらゆる部分に生じる。その運動は直線であって、反論者が主張するような曲線ではない。もし曲線であれば、高い風や低い風を求めて、船の帆を上げ下げする必要はないであろう。むしろ、一つの風を受けた帆は、その風が続くかぎり、絶えずそれに伴われるはずである。しかし経験は、その反対を示す。同じ海のさまざまな部分で、水面が短く小さな、広がってゆく運動に打たれるのが見える。これは風が、さまざまな場所から、異なる傾きの運動をもって、上から下へ降りてくることの明らかな印である。それらの運動は、その起点から異なる方角へ分かれてゆく。また海の表面は球形なので、しばしば波は風なしに進む。高くなった風が波を置き去りにしたあとも、波は最初に与えられた勢いによって動くのである。

雲とその重さおよび軽さについて

雲は、その下にある空気より軽く、その上にある空気より重い。

霧から雲ができるのはなぜか

霧は、さまざまな風の流れに打たれて凝縮し、さまざまな丸い膨らみをもつ雲となる。

一面に曇った空について

一面に曇った空は、太陽と地上の野との間にある雲が薄いか厚いかに応じて、その下の野を明るく、あるいは暗くする。太陽と地面の間にある濃くなった空気の厚みが一様であれば、どの物体についても、照らされた部分と陰になった部分との差はわずかしか見えない。

雲の影について

地面に雲の影を描き、その間には太陽光線の当たる隙間を置くこと。そして、雲の透光性が高いか低いかに応じて、輝きを強く、あるいは弱くすること。雲は地平線に近いほど赤みが強く、地平線から遠いほど赤みが弱い。

雲について

雲が太陽と野の間に介在すると、森の緑に見える陰の暗さはわずかになり、陰と明部との差にも、暗さや明るさの変化がほとんどなくなる。木々が、その上の半球全体からの豊富な光に照らされるため、陰は追い払われ、樹木の中心や、地面に向いた部分へ退くからである。

月の下の雲について

月の下にある雲は、ほかのどの雲よりも暗く、遠く離れた雲ほど明るい。また、その雲の内部や末端の間で光を透かす部分は、遠くの雲の透光部分にある、同じようなどの部分よりも明るく見える。距離が増すにつれて、雲の中央は明るくなり、その明るい部分は、いっそう不透明で、弱められた赤みを帯びるからである。また、暗部の末端が透ける明部へ入り込むところでは、その境界は煙のようにぼやけている。空気に接して終わる明部の末端も同様である。

厚みの少ない雲は全体に光を透かし、末端より中央でいっそう透ける。末端は、くすんだ赤みを帯びた、粗く曖昧な色となる。そして雲が月から離れるほど、その光はいっそう白くなり、雲の陰の周囲へ、とくに月の方へと広がる。薄い部分には黒さがなく、白さもわずかである。空気に現れる夜の暗さが、そこへ入り込むからである。

雲について

原刊で第926章に隣接する挿図(1890年版・印刷294頁)
原刊で第926章に隣接する挿図(1890年版・印刷294頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

雲が地面に影を落とすようにせよ。そして地平線に近い雲ほど、赤みを強くせよ。

第八部 地平線について

第8部の前付挿図(1890年版・印刷295頁)
第8部の前付挿図(1890年版・印刷295頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

地平線の真の位置とは何か

原刊で第927章に隣接する挿図(1890年版・印刷295頁)
原刊で第927章に隣接する挿図(1890年版・印刷295頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版
原刊で第927章に隣接する挿図(1890年版・印刷296頁)
原刊で第927章に隣接する挿図(1890年版・印刷296頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版
原刊で第927章に隣接する挿図(1890年版・印刷296頁)
原刊で第927章に隣接する挿図(1890年版・印刷296頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

地平線と眼との距離はさまざまである。空気の明るさが大地の端とともに終わるところを地平線というが、世界の中心の上に立つ同じ鉛直線上でも、見る眼の高さが異なるたびに、それは異なる位置に見られるからである。静かな海の表面に置かれた眼には、地平線が半マイルほどの近さに見える。人が眼を自分の全身の高さまで上げれば、地平線は七マイル離れて見える。このように、高さが増すたびに、より遠い地平線が見える。したがって、海に近い高山の頂にいる者は、地平線の円を非常に遠くに見る。しかし内陸にいる者には、地平線までの距離が一様ではない。大地の表面は世界の中心から等距離になく、水面のような完全な球形ではないからである。これが眼と地平線との距離の多様さの原因である。

海の端と、水から露出した大地の端との接点に、足の裏を接して立つ者が見るとき、水の球面の地平線が、その足の裏より高くなることは決してない。

空の地平線は、ときには非常に近い。とくに山頂のそばにいる者は、地平線がその頂の輪郭に生じるのを見る。そして振り返って海の地平線を見れば、それはきわめて遠くに見える。

エジプトの海岸に見える地平線は、非常に遠い。ナイルの流れを、その来る方、すなわちエチオピアへ向けて、両側の平野とともに眺めると、地平線はぼやけ、むしろ認められなくなる。そこには三千マイルの平原があり、川の高さとともに絶えず高まってゆくからである。そして眼とエチオピアの地平線との間には、非常に厚い空気が介在するため、あらゆるものが白くなる。このように、その地平線は認識できなくなる。この種の地平線は、絵画ではたいへん美しく見える。ただし、長距離における色の減衰の法則に従って、段階的に色を弱めた山々を、いくらか側方に描くべきである。

しかし、遠近法の視錐が無限の空間を包み込むことを示すため、ab を眼と想定しよう。それは無限の距離の諸段階 dnmop を見渡し、視線によって、それらを壁 cd 上で区切る。それらの視線は、その起点の距離が一段階増すごとに、壁 cd 上で高さを増すが、決して眼の高さには達しない。また壁 cd は連続量であるため無限に分割でき、視線によって満たされることは決してない。たとえ最後の視線の長さが無限であっても同じである。さらに、たとえ空間 bs が無限であっても、平行線によってそこへ到達することは決してない。

ほとんど縮小しない人物像は、眼からあまり遠くにない。したがって必然的に、自然の地平線の端は、つねに描かれた人物の眼の位置に合致する。たとえば人物 at が、自分の近くにいる人物 ru を、視錐 atb の最も端の部分で見る場合である。すなわち ru は at より小さい。しかしこの視錐は、遠近法の求めるものではない。後者は底面から頂点までの空間が無限なので、実際には得られないからである。一方、上記の視錐では、その底面から頂点までが七マイルである。

注 マイル数および地平線・視錐の関係は原文の記述を保持した。現代の測地学的説明に置き換えていない。

地平線について

原刊で第928章に隣接する挿図(1890年版・印刷296頁)
原刊で第928章に隣接する挿図(1890年版・印刷296頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

空の地平線と大地の地平線とは、同じ一本の線で終わる。これを証明しよう。dnm を大地の球、arp を空気の球とし、大地の地平線を見る者の眼を b とする。そして f を、その大地の地平線とし、そこで空気の眺めが終わるものとする。すると空気 a は、大地 f と結びついているように見える。

真の地平線について

原刊で第929章に隣接する挿図(1890年版・印刷297頁)
原刊で第929章に隣接する挿図(1890年版・印刷297頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版
原刊で第929章に隣接する挿図(1890年版・印刷297頁)
原刊で第929章に隣接する挿図(1890年版・印刷297頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

真の地平線は、静止した水の球面の境界でなければならない。その静止によって、世界の中心から等距離の表面が定まるからである。これはしかるべき箇所で証明される。もし空と大地が、一定の間隔を隔てる平らな表面であったなら、疑いなく、遠近法の地平線は、それを見る眼の高さにあるであろう。しかし、それらの平行な空間が、眼に一本の線へ集まり、すなわち接するように見えるためには、無限の距離に及ばなければならない。そして、この接点は観察者の眼の高さにあるであろう。しかし大地の平面の広がりが、空の平面より小さいなら、空の平面の最遠の端が眼の高さまで下がったとき、大地の地平線は同じ観察者の臍の高さまで上がることになる。そのため、両者は同じ眼の位置に集まらない。しかし、この空と大地を隔てる空間は、平行な、つまり等距離の平面によるものではなく、空の側では凸で、大地を覆う側では凹の空間である。そのため、大地の表面のどの部分も地平線となりうる。これは空と大地が平面であれば起こりえない。図の空 ab と大地 fe に示すとおりである。眼を g、壁を cd とすると、平面の空と大地の地平線 a f は、その壁と点 n m で交わる。

地平線について

原刊で第930章に隣接する挿図(1890年版・印刷297頁)
原刊で第930章に隣接する挿図(1890年版・印刷297頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

地平線は、それを見る眼と同じ高さになることは決してない。あなたが動かずに見ているとき、地平線に近い人物像ほど、その足の近くに地平線をもつ。世界の中心から遠いものほど高い。

したがって、水平に置かれた直線は同じ高さにはなく、ゆえに水平ではない。ゆえに、等しい高さにある線というなら、それは曲線以外の何ものとも理解されない。a b を二人の人間とすれば、地平線 n は、彼らの高さと同じになる。

注 「同じ高さではない」「水平ではない」の論法および末文は、原文の見かけ上の不整合を修正せず保持した。

地平線について

原刊で第931章に隣接する挿図(1890年版・印刷297頁)
原刊で第931章に隣接する挿図(1890年版・印刷297頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

大地が球形であるなら、大地の表面より高い眼の高さに、地平線が達することは決してない。眼の高さを nm、判定の線、すなわち壁を br、地平線を a とし、線 grh を大地の曲面としよう。すると地平線は、直線 afk に従って測れば、人の足より mf 全体だけ低く、大地の湾曲に従って測れば、bo 全体だけ低い。

足を海面に置いて海の水平線を見る眼は、その水平線を自分より低く見るか

原刊で第932章に隣接する挿図(1890年版・印刷298頁)
原刊で第932章に隣接する挿図(1890年版・印刷298頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

海水の端に足を置く者の眼には、海の水平線は、その水平線を見る眼から足までの高さと同じだけ、眼より低く見える。これを証明しよう。n を海岸、an を、海の水平線を o に見る人の高さとする。o では、世界の中心からの線 mo が、海面 o で終わる視線 ar に垂直に落ちる。これは円の定義による。中心へ向かう線 am は、中心へ向かう線 om より、an の全長だけ長い。これは人の足から眼までの距離である。

流れる水に映る地平線について

原刊で第933章に隣接する挿図(1890年版・印刷298頁)
原刊で第933章に隣接する挿図(1890年版・印刷298頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

眼と地平線との間を流れる水は、その地平線を眼へ反射しない。眼には、地平線から見える波の側面が見えず、地平線からは、眼に見える波の側面が見えないからである。したがって、本篇の第六命題によって、われわれの主張は結論される。その第六命題は、実物と眼とを同時に見ない場所に、眼が像を見ることは不可能である、と述べている。

cb を波、a を眼、d を地平線としよう。眼 a には波の側面 bg が見えないので、その側面に映る d の像もまた見えない。

波のどこに地平線が映るか

原刊で第934章に隣接する挿図(1890年版・印刷298頁)
原刊で第934章に隣接する挿図(1890年版・印刷298頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

本篇の第六命題によれば、地平線は、地平線からも眼からも見える側面に映る。図では、地平線 f は波の側面 bc から見られ、その側面は眼からも見られている。

ゆえに画家よ、水の氾濫を描くときには、次のことを忘れるな。あなたに見える水の色の明暗は、あなたのいる場所の明暗に、あなたの背後にあるほかの物の色を混ぜたものと、異なるものではない。

地平線近くの濃い空気が赤くなるのはなぜか

原刊で第935章に隣接する挿図(1890年版・印刷299頁)
原刊で第935章に隣接する挿図(1890年版・印刷299頁)1890年刊本の原図/Wikimedia Commons・Wikisource/Public Domain Mark 1.0底本の図版

空気が濃いときには、東の地平線でも西の地平線でも赤くなり、この赤みは眼と太陽との間に生じる。しかし虹の赤みは、眼が雨と太陽の間にあるときに生じる。前者の原因は太陽と空気の湿気であり、虹の赤みの原因は、太陽、雨、およびそれを見る眼である。この赤みは、ほかの色とともに、雨が大きな滴から成るほど、いっそう鮮やかになる。そして滴が細かいほど、それらの色は鈍くなる。雨が霧のような性質であれば、虹は白く、完全に色を失う。ただし、眼は霧と太陽との間になければならない。

図版と出典

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