文学 / Irving Babbitt近代フランス批評の巨匠たち

文学 / Irving Babbitt

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追加日: 2026-07-23 / 更新日: 2026-07-23
原著: The Masters of Modern French Criticism
出典元ライセンス: 2026年時点で財産権保護期間満了と判断
翻訳文ライセンス: 未設定(オープンライセンス未付与)
翻訳者: ポロミン

出典・著作権・利用条件

原著:Irving Babbitt, The Masters of Modern French Criticism(Houghton Mifflin Company, 1912)
原著の権利:2026年時点で財産権保護期間満了と判断
翻訳・編集:ポロミン(@cacazu_right
翻訳文の利用条件:未設定(オープンライセンス未付与)
注記:第三者著作物に別個の権利がある場合は、その条件に従うこと
免責:非公式訳。重要な用途では原文を確認すること

目次


前付

原書標題紙

THE MASTERS OF MODERN FRENCH CRITICISM

IRVING BABBITT

ハーバード大学フランス文学教授

ボストンおよびニューヨーク

ホートン・ミフリン社

リヴァーサイド・プレス、ケンブリッジ

1912年


アーヴィング・バビット著作

『近代フランス批評の巨匠たち』
『新ラオコーン――諸芸術の混同について』
『文学とアメリカの大学――人文学擁護論集』

ホートン・ミフリン社

ボストンおよびニューヨーク


著作権 1912年、アーヴィング・バビット

無断転載を禁ず

1912年12月刊行


「普遍的批評こそ、十九世紀の繊細で、移ろいやすく、捉えがたい思想に与えうる唯一の性格規定である。」
――ルナン

目次

序文 vii
第I章 スタール夫人 1
第II章 ジュベール 34
第III章 シャトーブリアン 60
第IV章 サント=ブーヴへの移行(クーザン、ヴィルマン、ニザール) 79
第V章 サント=ブーヴ(一八四八年以前) 97
第VI章 サント=ブーヴ(一八四八年以後) 129
第VII章 シェレール 189
第VIII章 テーヌ 218
第IX章 ルナン 257
第X章 ブリュンティエール 298
第XI章 結論 338
批評家一覧 393
索引 421

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序文

本書で私が試みたのは、批評そのものを批評することではない。それはせいぜい、いささか気の抜けた仕事である。そうではなく、批評家を批評することである。こちらのほうが、はるかに正当な仕事になりうる。まして本書で扱う批評家たちは、いずれもその時代における最も生気に富み、最も重要な人物たちなのである。マシュー・アーノルドは、あるソネットでフランスについて、「あらゆる偉大な芸術で名高いが、いずれにおいても至高ではない」と述べている。ところが別の箇所では、批評の技芸におけるサント=ブーヴの優越を、詩におけるホメロスの優越と同じ種類のものとして認めている。アーノルドがこの種の優越を決して軽く見積もる人物ではなかったことは、ホメロス翻訳論のよく知られた一節からもわかる。「フランスとドイツの文学においても、またヨーロッパの知性一般においても、すでに長年にわたって、その主要な営みは批評的な営みであった。」

したがって、サント=ブーヴと十九世紀フランスの主要な批評家たちを研究することは、この世紀の知的中心にきわめて近づくことを意味する。そうすることで、私たちはこの時代を貫く思想の主要な運動を追うと同時に、今日の思想を正しく理解するために必要な背景を築くことができる。今日の思想が先行する思想を継承している場合にも、それに反発している場合にも、この背景は必要である。

とりわけ、今日いわゆる反主知主義運動と呼ばれているものは、こうした背景との関係においてのみ理解できる。それは十九世紀後半に頂点へ達した教条的自然主義への反動であり、科学的実証主義と、現実を公式のなかへ閉じ込めようとするその企てに、世界が倦み始めた徴候である。この特殊な「精神の牢獄」の壁は、明らかに崩れつつある。近ごろでは、その建物の一部が劇的といってよいほど突然に崩落している。新しい傾向の最有力な代弁者ともいうべきベルクソン氏は、科学的形態を含むあらゆる形態の形而上学的幻想から脱し、それによって哲学を生きたものにしなければならない、と説く。哲学が単なる主知主義から脱しようとするこの試みは、それ自体としては大いに称賛に値する。旧来型の形而上学者に対して、普通の人間は自分と共通するものをほとんど感じられなかった。せいぜいウェルギリウスの問いを投げかけることしかできなかったのである。

「何を築いているのか。どんな望みがあって、凍てつく雲のなかにしがみついているのか。」

しかし近年、哲学者たちは抽象という冷たい雲から降りてきつつある。彼らは文学的になってきた。実際、あまりにも文学的になってきたので、今度は文学者の側が礼を返し、できる限り哲学的になるべき時が来たように思われる。

とりわけ文学批評家は、哲学者との中間点まで進んで会う用意がなければならない。本書で私が示そうとしたように、批評家と哲学者の双方が、現在同じ中心問題に直面しているのだとすれば、なおさらである。批評家は判断を下しうるのか、下しうるならばどのような基準によってなのか、と問うことは、哲学者が単なる流動と相対性に対抗しうる何らかの統一原理を発見できるのか、という、より一般的な問いの一形態にすぎない。

新しい学派によれば、知性によって生を統一し、そこへ価値の尺度を課そうとするあらゆる試みは人工的であり、この人工的な統一に対して、変化と、事物が無限に別様であることへの生き生きした直観を対置しなければならない。私たちがこの主張全体をどれほど受け入れないとしても、ベルクソン氏とジェイムズ――私には、ベルクソン氏以上にジェイムズがそうしたように思われる――が、プラトンなら「一と多」の問題と呼んだであろうものへ哲学の注意を向けることで、哲学に実質的な貢献をしたことは認めなければならない。ジェイムズ自身も認めているように、大多数の人はこの問題のために眠れなくなることなどない。しかし、ほかのあらゆる哲学問題はこの問題と比べれば取るに足りない、と考えた点で彼は正しい。哲学がひとたびこの地盤へしっかり根を下ろせば、ソクラテスとソフィストたちの論争以来ほとんど持ちえなかった現実性を取り戻すかもしれない。主知主義者たちが哲学をしばしば、刃先を潰した細剣による込み入った立合いにしてしまったのに代わって、私たちは再び、抜き身の剣がひらめくのを見ることになるかもしれない。

「一と多」の問題を扱うにあたり、ベルクソン氏もジェイムズも、十分明白に思われることだが、ソクラテス側ではなくソフィスト側の議論を採用した。以下の諸章で私は、現在必要なのは科学的実証主義への反動だけではなく――その反動はすでに起きている――自然主義そのものへの反動である、という自分の確信を述べた。つまり、ベルクソン派やプラグマティストのように知性より下へ沈み込むことで主知主義から逃れるのではなく、知性より上へ昇ることで逃れなければならないのであり、そのためにはソクラテス的・プラトン的な定義の方法を用いる必要がある。

ベルクソン氏のように知性を純粋に実用的な役割へ縮小するのではなく、私たちは知性を用いて鋭い区別を数多く立て、その区別を人格と意志に奉仕させなければならない。現実に達するためには知性を捨てて直観へ向かわなければならない、と言われたなら、明白な答えは、直観の哲学に適切な基礎を据えることができるのは知性によってのみである、ということだ。要するに、「直観」という語そのものが、ソクラテス的な吟味を大いに必要としている。現代思想においてこの語の周囲へ急速に堆積しつつある危険な詭弁を、たとえわずかでも払いのけることに本書が寄与できたなら、私は満足である。

私は、とりわけジュベール論とテーヌ論において、「直観」という語は単純ではなく複合的なものであり、直観には異なる階層があることを示そうとした。ジョンソン博士によれば、良識そのものが直観的である。そして現在の危機において、私たちはまさにこの種類の直観性を特に必要としている。「危機」という語は、流動の哲学がこれほど自信たっぷりに唱えられ、これほどの喝采をもって迎えられている時代を表すのに、決して強すぎる言葉ではない。思い起こせば、同じ自然主義的な眩暈が、古代ギリシア社会の達成が最高潮に達したそのときに社会を捉え、深淵へ向かう最初の下り坂を印したのであった。昨日書かれたとしても不思議ではない言葉で、プラトンはこう述べている。「現代の哲学者のあまりにも多くが、事物の本性を探究するうちに、絶えずぐるぐる回りつづけて目を回している。そして彼らは……安定したものも永続するものもなく、ただ流動と運動のみがあり、世界はあらゆる種類の運動と変化に満ちている、と考えるようになる。」

私は先ほど、十九世紀フランスの主要な批評家たちを研究することは、この時代の知的中心にきわめて近づくことだと述べた。実際の論述によってどれほど裏づけられたかはともかく、私は、現代思想のほかの主要な諸相が最終的にすべて収斂する「一と多」の問題は、これらの批評家との関連において研究すると、とりわけよく理解できると考えている。ただし私は、各批評家の仕事をそれ自体として評価することを目指し、それを単に一つの知的発展の一部として研究することは避けた。そのため私は、サント=ブーヴが定めた次の原則に従い、きわめて多くの引用を用いた。

Avec des citations bien prises on trouverait dans chaque auteur son propre jugement.
「適切に選ばれた引用を用いれば、どの作家のなかにも、その作家自身による判定を見いだすことができる。」

この方法をとれば、こちらは一歩退き、作家たち自身に語らせることができる。

マサチューセッツ州ケンブリッジ

1912年11月1日


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第I章 スタール夫人

十九世紀最初の年は、スタール夫人の『社会制度との関係から考察した文学』の刊行によって、まことにふさわしく画された。文学と社会とのこの関係は、新しい世紀がそれ以前のどの世紀にもまして強調することになるものだが、新世紀は過去からあまりに突然切り離されたため、否応なくこの関係へ注意を向けさせられたのである。のちにスタンダールはこう述べることになる。「モスクワからの退却に加わった男が、フォントノワでイギリス軍の縦隊に向かって帽子を取り、『諸君、まず撃ちたまえ』と言った人々のために書かれた文学を、どうして気にかけられるだろうか。」スタール夫人は『ドイツ論』でこう書いている。「生において静止してよいものは何一つない。芸術も、変化しなくなれば石と化す。二十年にわたる革命は、クレビヨンの小説が当時の恋愛と社交界を描いていたころとは異なる要求を、想像力に与えた。」

ほかの多くの点ではスタール夫人と意見を異にしたシャトーブリアンも、革命によって人間の性格が根本から変えられた以上、文学はその変化を反映すべきだという点では彼女と一致していた。

ただし、十九世紀初頭の一般大衆が、変化した社会を表現するために芸術と文学も変わる必要を感じていた、と考えるなら誤りである。帝政時代は全体として、人工性と形式主義の時代であった。政治について何一つ学ばず、何一つ忘れなかった人々だけが、文学における旧体制の維持に熱心だったのなら、それほど奇妙ではないだろう。実際にはその逆で、ほかの領域では最も無謀な革新を行った人々が、文学ではひときわ保守的であることがしばしばあった。祭壇を倒し、国王の首を刎ねた人々が、「趣味」という小さな神殿では迷信深くひざまずく用意をしていたのである。ゲーテによれば、人間の法にも神の法にも何の敬意も払わなかったバイロンさえ、三一致の法則だけは尊重した。

自分の内側で新しい精神がかすかに動くのを感じ、独創的になろうとした作家も、結局は風変わりになっただけである。たとえばネポミュセーヌ・ルメルシエ――「奇人ネポミュセーヌ」と呼ばれた――は、戯曲『クリストフ・コロン』で三一致の法則と言葉遣いの品位を大胆に破り、流血を伴う騒動を引き起こした。ところがのちに『文学講義』では、悲劇が悲劇でありつづけるためには、正確に二十六の規則ないし条件を満たさなければならない、と断言したのである。

帝政期の社会は、成り上がり者と、革命によって教育を突然中断された人々から大部分が成っていたため、ほとんど無邪気なほど、教師に教え導かれることを望んでいた。良い趣味だけでなく、洗練された身のこなしにも必要と考えられた人文的教養を、できるだけ手軽に身につけたがっていたのである。十九世紀最初の二、三十年間、旧体制最後の有力な批評的権威であるラ・アルプの『リセ』が人気を博した理由も、おそらくそこにある。文学的伝統について最初の一般的な手ほどきを与えるには、彼以上に適した人物はいなかった。

サント=ブーヴは、帝政期の批評家たちを「ボワローの小銭」と呼んでいる。ここでいうボワローとは、もちろん後期新古典主義の流儀で、パルナソスの警察官、文学的正統性を見張る警戒怠りない番人として理解されたボワローである。サント=ブーヴが指摘するように、彼らは旧来型の批評家の限界だけでなく、その長所も備えていた。すなわち、何よりも審判を下す批評家だったのである。また彼らは、革命の混沌と無秩序に倦みきった世論が自分たちの判断を支えていると感じていた。したがって、彼ら自身よりも、むしろこの世論の代弁者として重要なのである。

この時期を代表する批評家ジョフロワは、それまでの経歴からして教師役を演じるのに適していた。革命前にはパリで「雄弁術」の教授を務め、恐怖政治のあいだは身を隠した村で学校を教えていた。とはいえジョフロワを、政治と文学の両面における単なる反動家として片づけることはできない。ある意味では確かにその両方だったが、彼は歴史的方法をしばしば用い、実際の判断においては形式上の要件よりも、力強い良識にいっそう導かれていた。

五十八歳のとき、彼は演劇時評という新しいジャンルを創始し、その後十二年間、鉄の杖をもって当時の劇作家と俳優たちを支配した。比較されることのあるジェフリーと同じく、方法の面では旧い批評秩序に部分的に属するにすぎないが、気質の面では完全にそこへ属していた。その気質は苛烈で、傲然としており、罵倒を好んだ。ある警句によれば、彼はうっかり自分のペン先を吸ったために死んだという。

彼の激しさは、反対者たちの激しさと同様、同じころのイギリスにも見られた、政治が文学へ毒々しく侵入した結果である。買収されている、大食漢である、といった非難をほとんど毎日撃退しなければならない人間が、長いあいだに喧嘩腰になるのも無理はない。だが政治とは別に、ジョフロワは la critique amère、すなわち「辛辣な批評」の効用を信じていた。実際、批評における強壮剤のような苦味には、擁護できるところもある。

不幸にも彼は、教鞭をあまりにも露骨に振り回しただけでなく、時代の深い潮流にも逆らっていた。規律をほとんど顧みず、知識と共感を広大に押し広げることを志した、根本的には拡張的な時代にあって、彼が代表できたのは、せいぜい小規模な集中への運動にすぎない。この底流にあった拡張的傾向を真に代表する人物こそ、スタール夫人である。

スタール夫人の役割は理解し、他人にも理解させることであり、シャトーブリアンの役割は感じ、他人にも感じさせることであった、と言われてきた。これは、シャトーブリアンのほうがスタール夫人よりロマン主義と深く結びついている、と言い換えただけのことである。シラーがスタール夫人について不満を漏らした、あの「不自然なほど過剰な理解力」は、彼女をロマン主義者たちからはっきり区別し、十八世紀へ結びつけている。

彼女の文体も十八世紀のものである。ただし、ルソー以前の十八世紀に見られた警句的な端正さを欠いている。また、後期十八世紀が最悪のルソーから受け継いだ感傷性と大仰な雄弁から、常に自由だったわけでもない。それでいて、最良のルソーに見られる想像力のみずみずしさや、色彩の温かさも欠いている。思想を伝える媒体として独自の長所はあるが、旧い芸術にも新しい詩にも不足している。

スタール夫人は、自然や孤独より社交界を好んだ点でも、同じくらい明白に旧体制へ属している。ナポレオンは彼女との十年にわたる決闘のなかで、ただパリから遠ざけておくだけで十分な苦痛を与えられることを見いだした。首都から強制的に離された代償として、コペの前に広がるアルプスの眺望があるではないか、と言われることに、彼女はとりわけ苛立った。指摘されているように、彼女はこの眺望を何年も目にしながら、そこから一つの比喩さえ得なかった。しかし、才人に会うためなら五百リューでも旅するが、ナポリ湾を見るために窓を開けることはしない、という有名な言葉は、彼女の自然への無関心をいくらか誇張して伝えている。

理解力が過剰であり、サロンを愛し、自然に対して比較的冷淡だったにもかかわらず、スタール夫人はそれでもルソーの弟子である。ただし、その弟子関係を慎重に定義しなければならない。ルソーとはやや異なる意味においてだが、彼女も「自分の心と頭は同じ一人の人間に属していないように思われる」と言えたかもしれない。

ルナンと同じく、彼女は自分のうちに自覚していた対立を、混合した血統のせいにすることを好んだ。「フランス人の趣味と習慣を持ちながら、異国的な性格、北方の思想と感情を持つフランス女性として生まれることは、人生を破壊するほどの矛盾である」と彼女は述べている。

『ドイツ論』でスタール夫人は、ルソーがフランス文学へ異質な要素、すなわち北方的・ゲルマン的な要素を導入したと述べている。彼女がルソーと自分に共通し、同時にドイツ人を特徴づけると考えた要素は、とりわけ「熱狂」の力として現れる。したがって彼女は、生来の気質として熱狂的だっただけではない。ルソーから直接受けた影響によっても、ドイツから受け取ったルソー主義によっても、熱狂の人だったのである。

十九世紀初頭の文学革命を詳しく研究すればするほど、すべてが「熱狂」という語を軸としていることが明らかになる。近代的段階のロマン主義運動は、「驚異」の復興以上に「熱狂」の復興であり、むしろ驚異そのものが新しい熱狂の一側面にすぎない。

十八世紀のあいだに「熱狂」という語の意味が悪いものから良いものへ変わり、熱狂者と独創的天才が、機知ある人と社交人に取って代わった。この過程は文学史上きわめて重要であり、いくら注意深く追っても追いすぎることはない。

新しい熱狂の性質と、スタール夫人とルソーとの関係を同時に照らし出す文章は、彼女が非常に若いころに書いた『ジャン=ジャック・ルソーの著作と性格についての書簡』に見いだされる。その序文で彼女は叫ぶ。「私たちがルソーに、最も深い感謝を負うのは青春期ではないだろうか。彼は徳を情熱にすることに成功し、熱狂によって人を納得させようとし、若者の長所ばかりか、その欠点まで利用して、若者を自分のものにした人物である。」

別の箇所で彼女は、ルソーは「何一つ発明しなかったが、あらゆるものに火をつけた」と述べる。 どうやら徳にまで火をつけたのである。こうして徳は、自発的な衝動、「高貴な熱狂」、「血のなかへ入り込み、最も抗しがたい情念と同じく、人を抵抗できぬまま連れ去る運動」となる。

言い換えれば、スタール夫人にとってもルソーにとっても、徳とは感情が拡張していく一過程にすぎず、理性より上にある洞察の領域ではなく、理性より下にある衝動の領域と結びついている。ジュベールが言うように、ルソーとその追随者たちは、徳を手綱ではなく拍車として考えることによって、道徳の全域へ混乱を持ち込んだ。

ジュベールは特にスタール夫人について、生来の倫理的才能を持っていたが、その才能は彼女の熱狂観によって腐敗した、と述べている。「彼女は魂の発熱を魂の資質と取り違え、陶酔を力と取り違え、私たちの逸脱を進歩と取り違えた。情念は彼女の目に、一種の尊厳と栄光として映った。」

とはいえ、スタール夫人の道徳観をルソー的陶酔にすぎないと見るなら、彼女に対してまったく公平とはいえない。彼女の生涯を支配した二つの情念は、ナポレオンへの憎悪と父への愛であった。年齢を重ねるにつれて、彼女はますます、単にネッケルの娘であるだけでなく、その弟子でもあることを示した。彼女の合理主義も感情主義も、スイスのプロテスタントが持つ伝統的な道徳観と宗教観によって和らげられていた。

政治思想においても、自分自身の立場からも父の追随者としても、彼女は自由を最も重視することによってルソーから離れた。ルソーは何一つ発明しなかったが、あらゆるものに火をつけた、と述べたまさにその箇所で、彼女は続けてこう言っている。「自由への愛よりはるかに多くの嵐を生み、まったく異なる種類の問題を引き起こす平等の感情――その偉大さにおいても、その卑小さにおいても――は、ルソーの著作の一行一行に現れている。」この点では、ルソーのほうがスタール夫人よりフランス人に近かった。革命の原動力を自由への愛と考えた彼女は、フランス人の性格について、ナポレオン以上に幻想を抱いていたのである。

ナポレオンは、フランス人のより深い欲求が平等にあること、たとえ専制君主の下での平等であっても、それを求めていることを知っていた。

結局のところ、ルソー的熱狂はスタール夫人の天才の本質的な側面でありつづける。ただし彼女は、ジャン=ジャックの多くの後継者とは違い、感情的にだけでなく知的にも拡張的だった。拡張だけを望み、内的抑制も外的抑制も拒んだかぎり、彼女は均衡を欠いていた。そして、あらゆる不均衡、とりわけ感情の不均衡を追うネメシスから逃れられなかった。

しかし彼女を擁護して言えば、彼女が強調した半面の真理は、まさにその時代が聞く必要のあった半面の真理だった。また彼女が度を越したのは、同時代人から男まさりだと非難されたにもかかわらず、 女性的な長所の過剰においてであった。彼女は、自らの理論が要求する広い視野と寛大さを実際に備えており、何よりも、じつに壮大な歓待の精神を持っていた。ヨーロッパ各地から訪れた人々をコペで迎え入れた彼女の歓待は、その知的歓待の広さを見事に象徴している。

彼女は受け入れた影響においてだけでなく、自ら放った影響においてもコスモポリタンだった。ナポレオンが不平を言ったように、彼女は、彼女がいなければ考えることなど思いつきもしなかった人々に、考えることを教えたのである。

II

スタール夫人のように生を拡張的に捉える者は、必然的に形式より表現へ強い関心を持つようになる。形式を重んじる者は、その形式感覚が生きた直観に基づく場合であれ、一定の伝統的基準の受容に基づく場合であれ、好みが厳しく、排他的である。ところがスタール夫人には、形式についての生きた直観がほとんど完全に欠けており、伝統的基準も拒否していた。

表現への関心から、彼女は文学における可変的要素を高く評価し、文学を絶対的ではなく相対的に見るようになった。とりわけ、すでに見たように、文学を社会の表現とみなし、社会とともに変化するものと考えたのである。サン=テヴルモンは、ルイ十四世時代の人々が自分たちの基準を固定的で最終的なものと過信したのに対して、歴史的相対性への鋭い感覚を対置した。しかしスタール夫人が『文学論』を書いた時点で、仮に彼女に歴史感覚があったと言えるとしても、それをサン=テヴルモンから得たのではない。それはむしろ、ルソーのなかにすでに萌芽としてあったものの発展である。

ルソーは多くの点で非歴史的だったが、文学形式の一つである演劇を、相対主義的かつ表現主義的な観点から扱った。『ダランベールへの手紙』で彼は、可能な演劇は問題劇だけであると主張する。しかも劇作家は問題を自由に選べるのではなく、その国と時代の趣味によって問題を課されるという。 したがって、

『オイディプス王』が成功したのは、絶対的で普遍的な人間性へ訴えたからではなく、紀元前五世紀のアテナイの観客の趣味を表現したからである。今日上演すれば、必ず失敗するだろう――これがルソーの見方である。奇妙なことに、サン=テヴルモンもまったく同じ例を同じ目的で用いた。しかし近年、『オイディプス王』が舞台作品として成功裏に再演されたことによって、サン=テヴルモンもルソーも誤りを証明されたように見える。

『文学論』における歴史的方法の使用は、まったく非歴史的な「完成可能性」の観念によって大きく曇らされている。これは、人類が機械的に一直線に前進するという信仰であり、自分は進化論者だと思い込んでいる多くの人々が、今なお無邪気に抱いている信仰である。スタール夫人は、ローマ哲学がギリシア哲学より後に現れたというだけの理由で、前者の優越を当然視している。しかし少なくともこの考え方によって、ラ・アルプが単なる「混沌と闇」として片づけた中世にも、何か価値あるものがあるのではないかと気づくようになった。

『文学論』には、のちの『ドイツ論』を少なくともかすかに先取りする多くの文章と並んで、北方文学と南方文学という有名な二分法の最初の形が見られる。ただしこの時点では、北方文学へまだ「ロマン的」という形容を用いていない。南方すなわちギリシア=ローマの伝統を究極的にホメロスから導いたあと、北方諸文学の源流をオシアンに求めたところには、彼女の趣味と歴史感覚の限界がともに現れている。このオシアン愛は、彼女とナポレオンに共通する数少ないものの一つだった。

スタール夫人の記述によれば、ボナパルトがイタリアから帰還した際、タレーランは彼を総裁政府へ紹介し、ボナパルト将軍は「贅沢と虚飾という、平凡な精神の卑しい野心を嫌い、オシアンの詩を愛している。とりわけ、それが人を地上から引き離すからである」と保証した。彼女は、地上の側も、彼が地上から離れてくれること以上に望むものはなかっただろう、と付け加えている。

では、スタール夫人の見解がより成熟した形で表されたものへ進もう。『ドイツ論』には、『文学論』刊行後の十年間に彼女がイタリア、オーストリア、ドイツを旅した経験だけでなく、重要な個人的影響の痕跡も刻まれている。女性の思想を説明する際に従うべき適切な規則は Cherchez l’homme――「男を探せ」――だと言われる。近代女性のなかで最も知的だったスタール夫人の場合でさえ、この規則を完全に無視することはできない。

ハイネは、『ドイツ論』全体を通じて、アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルの裏声が不快なほどはっきり聞こえる、と不平を述べた。そのような案内人を持った彼女が、一部のドイツ・ロマン派作家を過大に扱っただけでなく、ドイツ一般をロマン化する傾向を持ったのも不思議ではない。

サヴァリことロヴィゴ公が、『ドイツ論』の没収と彼女の追放を告げた書簡のなかで、「あなたの最新作はフランス的ではない」と書いたことに、彼女はとりわけ憤慨した。しかしある意味では、サヴァリは正しかった。彼女が描くドイツは、

タキトゥスの『ゲルマニア』にもどこか似た、一種のアルカディアとなっており、それと対照されることでフランスの腐敗はいっそう鮮明に浮かび上がる。

この本を読んだハイネの脳裏には、次のような光景が浮かんだ。「情熱的な女が、私たちの静かなドイツを旋風のようにぐるぐる駆け回り、いたるところで喜びに満ちて叫んでいる。『ここで吸う空気は、なんと甘美な平和に満ちていることでしょう!』彼女はフランスで熱くなりすぎ、私たちのところへ身体を冷やしに来たのだ。私たちの詩人の貞淑な息吹は、煮えたぎる彼女の心にとても心地よかった。彼女は私たちの哲学者たちを、さまざまな種類の氷菓のように見ていた。カントをバニラ・シャーベットのようにすすり、フィヒテをピスタチオ・クリームのように味わった。『あなたがたの森には、なんという心地よい涼しさが満ちているのでしょう!』と彼女は絶えず叫んだ。『なんと魅惑的なスミレの香り! 小さなドイツの巣のなかで、カナリアたちがなんと穏やかにさえずっていることでしょう! あなたがたは善良で有徳です。フランスのバック通りに広がる道徳的堕落など、まだまったくご存じないのです!』」

感傷的な夢想家と、宇宙より小さなものには関心を示そうとしない哲学者たちの国――牧歌的ドイツというこの伝説は、フランスである程度、一八七〇年の荒々しい覚醒まで生き残った。スタール夫人は、この高貴な熱狂者の国を、乾燥した分析に終始するフランス人へ対置した。これは根本的には、コールリッジとカーライルがイギリスで詳しく展開したのと同じ対比である。

ドイツ人はフランス人のように、霊感を欠く悟性(Verstand)へ閉じ込められているのではなく、想像的で総合的な理性(Vernunft)の領域に住んでいる。この対立を精巧な形而上学的区別へ仕立てる心理的要素は、

すでに、熱狂者ルソーと、嘲笑する分析家ヴォルテールとの争いに現れている。私たちは単に、ルソーがヴォルテールに国際的勝利を収める場面を目撃しているのである。

『ドイツ論』の結末で、スタール夫人は熱狂をドイツ人特有の徳として称揚し、同時に冷たい推論と計算の精神へ陥らぬようフランス人へ警告する。彼女自身が述べるように、この結末は全著作の総括である。 また、実際の彼女の会話がどのようなものだったかを最もよく伝える文章でもあるという。

スタール夫人は実のところ、自分自身の幸福にとって、すでに見たように、その最も洗練された形が必要だった社会秩序に反対して論じている。フランス社会の人工性と慣習性、嘲笑の濫用を攻撃し、模倣の精神が自発性と熱狂を殺したと非難する際、彼女はしばしばルソーほど鮮烈ではない形で、ルソーの議論を繰り返しているだけである。

ルソーはフランス人についてこう述べている。「彼らが礼儀作法の規則と呼ぶものにおいて、あらゆることがどれほど硬直し、正確で、計算ずくになっているかは信じがたい。……この模倣者の民が独創的人物で満ちていたとしても、その事実を発見することは不可能だろう。誰一人として自分自身である勇気を持たないからだ。他人がするようにしなければならない。それがこの国の知恵の第一原則である。彼らはまるで、同じ板に打ちつけられた操り人形、あるいは同じ糸で引かれる人形のようだ。……」

スタール夫人もまた、「良い形式と優雅さを備えた貴族的権力が、力、深さ、感情、機知そのものに勝利した」と訴えている。 それは「力強く個性的なものすべてを追放した。表面上は些細に見えながら、根底では専制的なこの作法が、人生全体を支配する。作法はしだいに、愛、熱狂、宗教を掘り崩してきた。残ったのは利己心だけである。利己心は非難には身をさらしても、嘲笑にはさらされないため、皮肉もそこへ手を触れられない。」

ルソーの言い方を借りれば、「人間の心のために作られたのではない、ある種の作りものの威厳」、すなわち一定の品位観念が、自然らしさをいつも妨げていた。スタール夫人はこう述べる。「ルイ十四世が、あるときはユピテル、あるときはヘラクレスとして描かれている絵画や浅浮彫では、王は裸、あるいは獅子の皮一枚をまとった姿で表されている。しかし頭にはいつも、大きなかつらを載せている。」

ルソーがすでに指摘していたように、この品位の観念は、とりわけ演劇における自然らしさにとって致命的だった――「近代の舞台は、退屈な威厳をもはや手放さない」。スタール夫人も同様に言う。「私たちは、古代の風俗にも近代の風俗にも、犯罪にも徳にも、殺人にも恋の駆け引きにも、同じ色彩を与えてしまう、ある種の慣習的自然から、めったに逃れられない。」

この青白い慣習性から脱出する道は、歴史をいっそう徹底して研究することである。「時代の自然な傾向は歴史悲劇へ向かっている。」彼女が「歴史的メロドラマ」と言っていたなら、ほとんど預言者になっていただろう。

社会が、品位と良い趣味についての自らの観念から逸脱する者を罰する武器は、嘲笑である。スタール夫人は言う。「フランスでは、社交上の作法の記憶が、才能をその最も内密な感情のなかまで追いかける。嘲笑への恐怖は、想像力のどのような祝祭も忘れさせることのできないダモクレスの剣である。」

誤りのすべては、文学上の意味での趣味と、社交上の意味での趣味とを混同するところから生じる。そこでスタール夫人は、「良い趣味」と、それが単に否定的・制限的なものとなる傾向へ主要な攻撃を向ける。文学的意味での趣味は、規則と形式的要件に基づくこまかな欠点探しを越え、寛大で、広く理解し、価値を認めるものにならなければならない。詩における趣味は自然から生まれるのであり、自然と同じく創造的でなければならない。 したがって、この趣味の原理は、社交関係に依存する趣味の原理とはまったく異なる。

彼女は、ウィーンでA・W・シュレーゲルの公開講義に出席し、「雄弁家のように雄弁でありながら、嫉妬深い凡庸さの永遠の餌である欠点を攻撃するどころか、ただ創造的天才を再び生き返らせようとする批評家」を聞いて、呆然としたと記している。「天才に次いで、天才に最も似ているものは、天才を見分け、讃嘆する力である。」

これこそ、十九世紀初頭、フランス、イギリス、ドイツの主要なロマン派批評家たちが、何らかの形で言葉にすることに成功したメッセージである。

スタール夫人は言う。「規則とは、子どもが落ちないように設けた柵にすぎない。」この柵は取り払われ、批評家にも創作者にも新たな制限原理は課されない。そもそも両者の役割は、かなり混同されている。天才は純粋に自己を流出させればよく、批評家は天才を抑制するのではなく、その流出へ共感的かつ全面的に入り込むだけでよいというのである。

趣味と天才についてのこのような拡張的見解は、純粋な印象批評に至るほかないように思われる。創造的作家が自らの独創性を展開することにも、批評家がその独創性へ理解と共感をもって入り込むことにも、境界を定める規範がない以上、趣味は完全に流動化せざるをえない。実際ドイツは、フランス的意味での趣味が存在せず、各人が自分自身の印象に従う自由を持つ国として称賛されている。

批評が判断を下さないとしても、少なくとも個人を明らかにすることはできる。この点でスタール夫人はサント=ブーヴを先取りしている。彼女は言う。「繊細に観察する術を知る者にとって、一つ一つの性格はほとんど新しい世界である。人間の心についての学問において、個々の事例へ完全に適用できる一般観念を、私は一つも知らない。」 サント=ブーヴの側もスタール夫人をことのほか好んだため、彼女は『月曜閑談』のヒロインと呼ばれている。

III

スタール夫人は同一性より相違に関心を持つが、結局のところ彼女が最も関心を寄せる相違は、個人と個人の相違より、国民と国民の相違である。良い趣味を独占しているというフランス人と古典主義者の主張に対して、彼女が実際に対置するのは、国民的趣味の権利である。彼女は言う。「演劇について決定できるのは国民的趣味だけである。外国人が演劇芸術を私たちとは異なる仕方で考えるとしても、それは無知や野蛮によるのではなく、考慮に値する深い省察によるのだと認めなければならない。」

国民心理の問題に、彼女ほど心を奪われた人物はほとんどいない。たとえば『コリンヌ』で描かれるのは、異なる性格の対立と相互作用だけではなく、異なる文明の対立と相互作用でもある。そしていつものように、ほかの国民との対照においてフランス人は有利に描かれない。スタール夫人が、愛想はよいが救いがたいほど浅薄なデルフイユ伯爵を典型的なフランス人として描いたことを攻撃する『モニトゥール』紙の記事は、ナポレオン自身が書いたとも言われている。

諸国民相互の関係についての彼女の考えは、個人相互の適切な関係についてのルソー的観念を、より大きな尺度で再現したものにすぎない。それぞれの国民は自発的で、独創的で、自己を主張しなければならない。それと同時に、ほかの国民の独創性に対して限りなく開かれ、歓待的でなければならない。要するに、国民主義はコスモポリタニズムによって和らげられなければならず、

その両方はルソー的熱狂の異なる二つの側面にすぎない。個人の場合と同じく国民にとっても、第一の法則は模倣することではなく、自分自身であることだ。したがってスタール夫人は、ヴィーラントの作品がドイツ固有の産物というよりフランス趣味の反映に見えるため、それに関心を示さない――「国民的独創性のほうが優れている」のである。

ただし、自国固有の独創性を確保したなら、各国民は外国から借りることによって自らを完成させなければならない。たとえば、「フランスとドイツの優れた人々が最高度の完成へ達するためには、フランス人は宗教的になり、ドイツ人は多少世俗的にならなければならない。敬虔さは、フランス国民の欠点であると同時に魅力でもある精神の散漫に対抗する。人間と社交界についての知識は、ドイツ人が文学において欠いている趣味と巧みさを与えるだろう。」

「諸国民は互いの案内人とならなければならない。……一つの民族と別の民族との相違には、きわめて不思議なものがある。気候、自然の外観、言語、統治、そして最後に、なかでも歴史上の出来事――ほかのすべてよりさらに異常な力――が、これらの多様性を作り出す。いかに優れた人であっても、別の土地に住み、別の空気を吸う人の精神に自然に育つものを推測することはできない。したがって、どの国でも外国の思想を歓迎するのがよい。この種の歓待は、それを行う者へ幸運をもたらすからである。」

このようにスタール夫人は、今日私たちが理解している比較文学研究を、おそらく誰よりも前進させた人物として、理想的なコスモポリタンの姿を示している。しかし、この構想全体にはユートピア的なところがないだろうか。独創性と自己表現という遠心的要素へ過度な重みが置かれているのに対して、それを釣り合わせる十分な力があるだろうか。個人差や国民差が一定の点を越えて押し広げられれば、働き始めるのは共感ではなく反感である。

スタール夫人自身、自らのコスモポリタニズムが少数者のためのものにすぎないことを認めている。たとえば普通のフランス人とドイツ人との関係を見ると、コウノトリは平皿から食べられず、キツネは細長い首の瓶から食べられない、というラ・フォンテーヌの寓話を思い出すという。少数の人々でさえ、個人的・国民的特異性が築く目に見えない障壁を越えるだけの理解と共感を持てるかどうかは確かでない。

コペに集まった国際的な精鋭たちのあいだでは、反感が表面のすぐ下で震えており、それを抑えるためにスタール夫人の機転が必要だったと伝えられている。たとえばシュレーゲルとシスモンディのあいだには、サント=ブーヴのいう une haine de race――「民族的憎悪」――が存在した。

この理論をさらによく試す事例は、ワイマールにおけるスタール夫人とゲーテ、シラーの会見である。これは、理想的なコスモポリタン同士の接触として記録に残る、おそらく最良の例だ。当時ワイマールにいたクラブ・ロビンソンが、スタール夫人はゲーテの詩を理解していないのではないかとほのめかすと、彼女の黒い目が光り、「理解するに値するものは、私はすべて理解します」と答えた。

一方、彼女の滞在中にゲーテとシラーが交わした書簡は、読んでいて必ずしも快いものではない。シラーは、彼女にはドイツ人が「詩」と呼ぶものへの感覚がまったくないと断じ、彼女の話し方に合わせて一語でも語ることは聖霊に対する罪だと述べ、その多弁に圧倒された。そして彼女がついに去ったときには、重い病気からようやく回復しつつあるように感じた。

ゲーテは、彼女には義務という観念がなく、人が自分自身と神とのあいだで良心の深みにおいてのみ論ずべき問題を、五分間の会話で決着させようとする、と不平を述べた。二人とも、彼女の出発が少しも早すぎなかったという点で一致している。

のちに『ドイツ論』が刊行され、その意義を理解したゲーテは、この会見が持った重要性を詳しく論じた。当時は個人的・国民的反感が表面で戯れているにすぎないように思われた、と彼自身認めている。「そのような社交的会話から生まれたドイツについての著作は、フランスと私たちを隔てていた時代遅れの偏見という万里の長城へ、広い突破口を開ける強力な道具と見なさなければならない。その結果、ライン川の向こう、さらには海峡の向こうにいる隣人たちも、ついに私たちをより詳しく知るようになった。そして今や、遠い西方世界全体が私たちの影響へ開かれている。」

IV

おそらく『ドイツ論』で最も重要な章は、

スタール夫人が南方文学と北方文学の区別を再び取り上げ、二つの伝統を明確に「古典的」と「ロマン的」と呼んだ章である。これによって彼女は、シュレーゲル兄弟が二つの異なる文学流派へ用いたこの形容に、国際的な流通力を与えた。

「古典的なもの」は、それまで常に完成の規範とされてきた。しかしスタール夫人は、古典的趣味とロマン的趣味のどちらが優れているかを論じることを拒む。一時的に決定論者となった彼女は言う。「この趣味の多様性が、偶然的原因だけでなく、想像力と思考の原初的な源からも生じていることを示せば十分である。」

ここで彼女は、ヘルダーをはじめとするドイツの原始主義者たちの弟子として現れる。彼ら自身も、ルソーの原始主義を国民的規模へ展開したにすぎない。まさにルソー的な仕方で、私たちは後ろを振り返ることによって前進し、起源へ戻ることによって進歩しなければならない。そうして初めて、人工性と模倣から逃れ、自発性と独創性を回復できるというのである。

私たちが選ぶべきなのは、古典詩かロマン詩かではなく、「一方の模倣か、他方の霊感か」である。「古代人の文学は、近代人のあいだでは移植された文学である。ロマン的ないし騎士道的な文学は、私たちのあいだに自生し、私たちの宗教と制度によって生み出された。」古代人を模倣する作家は厳格な規則へ従わなければならない。古代の傑作を生んだ宗教的・政治的事情がすべて変化したため、自分自身の性質と記憶に相談することができないからである。「古代を模倣した詩は、現在では国民的な何ものとも結びついていないため、民衆に受け入れられることがまれである。」

詩の試金石を人気に置く以上、その価値を見積もるとき、私たちは過去へ遡るだけでなく、下方へも目を向けることになる。「フランス詩は近代詩のうち最も古典的であるため、民衆のあいだへ広まっていない唯一の詩である。これに対し、タッソの詩節はヴェネツィアのゴンドラ漕ぎに歌われ、スペインとポルトガルではあらゆる階級の人々がカルデロンとカモンイスの詩を暗唱している」などと彼女は述べる。

この種の文章に含まれる真理は、もちろん原始主義者に特有の詭弁と入り混じっている。この観点に含まれるルソー主義の最も有害な毒は、趣味の基準から貴族的・選択的な要素を排除し、詩の適切な審判者は無教養な人々だと想定する点にある。

エマソンは、人は下へ降りることによって出会う、と言っている。午後のお茶会で起こるような、ある種の出会いについてなら、これは疑いなく正しいし、エマソンもそれ以上のことを意味しなかったのだろう。しかしこの句には、明らかにもう一つの、ヒューマニズムの観点から見ればはるかに不吉な意味がありうる。人は、日常的な自己より上に置かれた何らかの完成の形式へ向けて自分を鍛える代わりに、こうすれば人間的共感が広がるのだという理由で、知的水準から本能的水準へ沈み込む。

実際、芸術論がルソー主義の reductio ad absurdum――帰謬法的な極限――であるトルストイは、ロシアの農民へ即時的な感情的訴えかけをしないという理由で、ソフォクレスとシェイクスピアを退けている。

しかもスタール夫人は、選んだ例を見るかぎり、民衆詩の本質についていくらか混乱しているようである。彼女が古典的人工性の極端な典型として攻撃するボワローより、タッソのほうが「民衆的」だとは明らかでない。ボワロー自身、自分の詩句の多くは生まれた瞬間に諺となったと述べている。それらは今でも諺として残っているが、タッソの詩句はもはやヴェネツィアのゴンドラ漕ぎに歌われていない。

一般に、少なくとも現状のもとで、ゴンドラ漕ぎなどのあいだに詩を求めることは、アルカディアの夢を追うことに等しい。私たちの文明の一方が原始的なものを感傷的に美化しているまさにそのとき、同じ文明のもう一方は確実にそれを殺しているからである。このまま進めば、ルソー的な意味で自発的な「民衆の詩」は、まもなく世界中で黄色新聞か、それに相当するものへ取って代わられるだろう。

ドイツ・ロマン派が作り上げ、スタール夫人が広めた特殊な中世主義――ヨーロッパの各国民が古典的伝統と縁を切り、それぞれ自国の幼年期へ戻るべきだとする中世主義――は、形式主義への反抗として独自の価値を持っていた。しかしそれは形式主義と一緒に、形式そのものまで捨て去る傾向を持っていた。

近年の研究は、東洋であれ西洋であれ、フランス人が le grand art、すなわち単なる装飾を越え、人間性そのもののより本質的な諸相を表現する偉大な芸術と呼ぶものが見いだされるところでは、ギリシアの偉大な形式伝統の何らかの残存が働いていることを、ますます明確に示している。この伝統の傑作から背を向けて、『ニーベルンゲンの歌』、『ローランの歌』、あるいは

アイルランドのサガを研究する者は、国民的熱狂に目を曇らされていない場合でさえ、自分の形式感覚を損なう危険を冒している。

さらに中世主義は、形式だけでなく思想の喪失を伴いやすい。中世の人々は私たちと同じ血と宗教を持つ、とどれほど語っても、近代精神の主要な運動が中世的観点から離れる方向へ進んできたという本質的事実は変わらない。現在から逃れて閉じこもる象牙の塔ではなく、私たちと似た問題を抱えた人々を探すなら、そうした人々は古典古代の特定の時代に見いだされる。今日のフランス人の人生観は、『ローランの歌』の作者よりホラティウスに近い。

最近、政治学の教師が私に、自分の分野で最も現代的な本はアリストテレスの『政治学』だと語った。これは、私たちが再び異教徒になりつつあることを示すのかもしれない。しかしロマン的な夢想によって、その事実を変えることはできない。

確かに、中世原始主義者たちは、思想家として輝くことはめったになかったが、多くの場合、単なるロマン的夢想家ではなく、精密な研究者でもあった。この点で彼らは近代精神の一面と結びついた。私はかつて、若いアメリカ人中世研究者に、彼が選んだ時代は本人にとって実際に何を意味するのかと尋ねたことがある。彼の目に恍惚とした表情が浮かび、「私にとって中世は、すべてが美しい夢なのです」と答えた。しかし彼が実際に発表したものから判断すれば、中世はむしろ、異常なほど乾燥した文献学上の事実だったように見える。しかもこれは、中世に対して不公平である。

ロマン的中世研究者は、民衆的・原始的なものを掘り進めることによって近代思想から大きく切り離されたが、同じ程度、あるいはそれ以上に、中世そのものの思想からも切り離されたからである。中世思想が見いだされる著作――主としてラテン語で書かれた著作――は、スタール夫人の意味で、民衆的でも原始的でも国民的でもない。それらはギリシア、ローマ、ユダヤから、多様な経路を通じて派生している。

中世の精神を表したこの文学は、最高度にコスモポリタンだった。ただし、古い意味での、そして結局は唯一真正な意味かもしれないコスモポリタンである。つまり、それは第一に共通の共感ではなく、共通の規律に基づいていた。

フランスとドイツの理想的関係について、おそらくスタール夫人のフランス人追随者のうち最も卓越しているルナンは、学者たちの国際的な友愛を夢見た。それは「純粋観念の至高天、ギリシア人も異邦人も、ドイツ人もラテン人もない天」である。ルナンがここで言い換えている聖パウロの一節では、こうした区別やそれに類する区別は、「キリストにおいて一つ」となった者のあいだで消滅する。

ところで聖パウロにとってキリストとは、日常的自己より上に置かれた法の生きた直観であることは明らかである。人々はこの法のくびきを負うことによって、共通の中心へ引かれる。科学的知識の拡張へ協力しさえすれば、人間は、

聖パウロによれば精神的な集中によってのみ達成される結合へ到達できる、というルナンの考えは、ユートピア的であることが判明するかもしれない。そしてユートピア主義者の運命は、突然の激しい幻滅に苦しむことである。

ルナンは一八七〇年に幻滅を味わった。ある人の言い方では、彼は新しいキリストがドイツから来ると期待していたが、実際に来たのはビスマルクだった。何よりもまず科学的国際主義者だと彼が考えていた学者たちのなかで、ドイツの国民感情がどれほど激しく燃え上がったか、彼らがフランスの没落をどれほど無慈悲に喜んだかを見て、彼は苦痛を覚えた。

他方、シュリ・プリュドムのように人道主義的感情を盛んに流出させていた多くのフランス人も、一八七〇年に夢から目覚めたように、自分の人類愛が祖国への愛に比べれば無に等しいことを発見した。 「国民的自愛のこの不健全な噴出を抑えよう」とルナンは叫ぶ。しかし、どのような原理の名によって抑えるのか。危機においては、他の個人や他国民へ向かう利他的衝動は、個人的・国民的な力の発揮に比べ、大多数の人には青白く実体のないものに見えやすい。

近代のコスモポリタンが非難されるべきなのは、拡張の徳を壮大な規模で発展させたことではなく、その徳を集中の徳の代用品にしたことである。彼は、各人がそれぞれ自分の接線方向へ飛び去りながら、その後、ロマン主義心理学だけが知る何らかの神秘的な方法によって、ほかのすべての人の兄弟になれると信じさせようとする。そして同じ過程が国民的規模でも繰り返せるというのである。

人間が互いに結びつくには、共通の規律というくびきを負う必要がある、という伝統的観念にも、結局何らかの真理があるのかもしれない。しかしルソー主義者の手続きは、法や規律を人工的・慣習的だという理由で必ず取り除き、その代わりに何らかの熱狂や共感を据えることにある。

スタール夫人とロマン主義者たちは、形式主義への攻撃では強かった。だが、形式主義が内部へ取り込んでいた慣習を捨てる際に、法という観念そのものまで捨てた点では、ほとんど信じがたいほど弱かった。それと少なくとも同じくらい弱かったのが、さまざまな感傷的詭弁や疑似神秘的な仕掛けである。彼らはそれによって、菓子を手元に残したまま食べることができる、言い換えれば、中心から飛び去るその過程そのものにおいて、中心性の徳を持てるのだと、自分にも他人にも証明しようとした。

すでに述べたように、真のコスモポリタニズムは、国民的独創性を国際的な理解と共感によって補い、完成させるだけで成立しうる、というスタール夫人の考えには、このロマン主義的詭弁がいくらか含まれている。この段階で止まることは、問題のより難しい半分を避けることにほかならない。国際的に広く理解し、共感することはすばらしい。しかしそれは、

国際的に選択するための準備としてのみ、すばらしいのである。

一国にとって最も危険な瞬間の一つは、狭い伝統的規律から脱し、コスモポリタンになる瞬間である。何らかの新しい規律が介入して拡張を和らげないなら、コスモポリタニズムは道徳的解体の別名にすぎなくなるかもしれない。歴史があまりにも明白に語るように、個人だけでなく国民も、下へ降りることによって出会いうる。その接触は、スタール夫人が夢見た徳の理想的な交換ではなく、悪徳の交換をもたらすかもしれない。

あるフランス人旅行者は、インドの人里離れた丘の町へ入ったとき、土地のクラブにあるヨーロッパ人用の唯一の部屋の暖炉棚で、「輸出向けフランス書の一揃い、外国人が私たちを判断する根拠となる、あの恐ろしい文学のすべて」を見つけたと記している。ほぼ同じ原理によって、ムーラン・ルージュの演目表が最近、五か国語でパリの街頭に貼り出された。ある人の言い方では、一抹の淫蕩が、全世界を親類にするのである。

人はバルザックに登場する若いグランデのようにコスモポリタンになることもある。彼はあまりに多く旅し、国ごとに異なるあまりに多くの道徳基準を見たため、最後には自分自身の基準をすべて失い、放蕩者になった。

スタール夫人自身、視野を限りなく広げることの危険をよく承知していた。彼女は言う。「あらゆるものを見、あらゆるものを理解することは、不確実さの大きな原因である。」 また、「観念の広大さそのものが、性格の決断力を損なう」とも述べている。

判断力を犠牲にして獲得され、人格による十分な釣り合いを欠く広さに、どのような価値があるだろうか。真のコスモポリタニズムは、価値あるほとんどすべてのものと同様、両極端の媒介であるように思われる。

現在のような普遍的接触があり、科学者の国際的連盟があり、ルソーの言葉で「その善意によって全人類を抱擁」する用意のある人々が大勢いたとしても、私たちは真のコスモポリタンには届かないかもしれない。個人と国民の自己主張の力に打ち勝つことのできる唯一のもの、すなわち求心力と共通基準への忠誠が、なお欠けているからである。グリルパルツァーは言う。「近代文化の道は、人間性から国民性を経て、獣性へ至る。」この最終段階へ到達するずっと前に、ルソー主義者の半面の真理に対する激しい反動が起こりうる。

スタール夫人の思考の単位は、人種ではなく国民であることに注意すべきである。この点について彼女は特に明晰でも一貫してもいないが、彼女の考える国民とは、単なる環境の産物というより、一種の精神的実体である。すなわち、共通の記憶と達成によって結ばれ、共通の目的へ向かう人々の集合体である。

人種という観念は明らかに、はるかに自然主義的であり、多くの著者の手にかかると、ほとんど動物学的になった。もちろん人種的要因の重要性を否定する者はいないだろう。しかしそれを正確に定式化しようとした試みは、奇妙なほど満足のいかないものだった。過去一世紀にわたって人種について続けられてきた果てしない理論化は、

振り返ってみれば、疑似科学者にとって格好の狩猟場だったといえる。そしてこの疑似科学は、しばしば一種の感情的陶酔を生み出すために用いられる。それは自分の優越への歓喜という形を取ることもあれば、劣等と想定された血統への軽蔑という形を取ることもある。

自分がケルト人、テウトン人、あるいはアングロ=サクソン人として生まれる労をとったというだけで、一定の徳を授けられていると思うのは、人へ実に快い拡張感を与える。たとえばフィヒテが、ドイツ語には「性格」を意味する特別な語がない、なぜならドイツ人であることと性格を持つことは同義だからだ、と語ったとき、聴衆はどれほど高揚したことだろう。

ドイツ人は Urvolk、すなわち「原初民族」であり、神ではなく自然に選ばれた民であった。したがって性格は、苦労して身につけなければならないものではなく、存在の原初的深みから湧き出すものとなった。

フィヒテは原始主義者として語っており、原始主義と近代の決定論とのあいだには明確なつながりがある。スタール夫人も原始主義者であり、とりわけ気候と歴史的な「瞬間」の影響に基づく決定論的議論の力を感じていたと思われるが、 それを受け入れることには尻込みした。彼女は、「出生、国、時代などについて与えられた原初的条件は、誰にも変えられない」と認めている。 それでも、「状況が私たちを現在の私たちに作り上げる」ことを認めるのには消極的である。

「外的な事物が、私たちの魂で起こるすべての原因であるなら、どのような独立した思考が、私たちをその影響から解放できるだろうか。天から降りてきた宿命は魂を聖なる恐れで満たしたが、私たちを地上へ縛りつける宿命は、私たちを卑しめるだけである。」

この二種類の宿命、たとえばカルヴァンの宿命とテーヌの宿命がもたらす心理的効果の違いは、十九世紀後半のフランスその他で現れた自然主義小説や、ほかの諸展開によって裏づけられているように思われる。

国内外におけるスタール夫人の影響は、それだけで一つの研究を必要とする。その影響が及んだところでは、たとえばイタリアにおいて、 一方で国民感情を刺激し、他方で疑似古典主義的形式主義、とりわけ演劇における形式主義を掘り崩した。

フランス・ロマン派の思想の蓄えはかなり乏しかったが、持っていた思想についてはスタール夫人から多くを引き出した。ユゴーは『クロムウェル序文』で彼女に言及していないが、『ドイツ論』と、このロマン主義宣言との関係は容易に立証できる。

フランスとイタリアにおけるスタール夫人の影響は、別の批評家の影響とも結びついている。その人物は、ある点で彼女の弟子でありながら、逆に彼女へも影響を与えた。

それが、マンゾーニの友人であり讃美者でもあったクロード・フォリエルである。十九世紀初頭、フランスに新しい学問を確立するうえで、フォリエル以上に貢献した人物はおそらくいない。サント=ブーヴは彼を、文学的方法と批評における「当時の著名な精神の大部分を、ひそかに導き入れた人物」と呼んでいる。(フォリエルがサント=ブーヴ自身へ与えた影響については、別の箇所で論じる。)

フォリエルが扱った領域は、今日なら少なくとも二十人ほどの専門家に分けられるだろう。サンスクリット、プロヴァンス語、初期イタリア語、バスク語、ケルト諸方言などである。彼は原始的なものへ真にルソー的な情熱を抱いていた。植物のなかでは苔を好んだと伝えられている。

意識的に作られたどのような芸術よりも、本能が無意識に達成する幸福な成果のほうが彼を惹きつけた。この意味で、サント=ブーヴとともに、彼は「生来、フランスにかつて現れた最も反アカデミー的な精神だった」と言うことができる。

実際、彼は一種のフランス版ヘルダーであった。ヘルダーほど熱狂的でも一般観念へ夢中でもなかったが、学問的精密さでは勝っていた。しかしサント=ブーヴの評価によれば、彼は時代に二十年先んじ、近代に特有の研究形式の大部分を始めていたにもかかわらず、どの時点でも過去と突然断絶することはなかった。彼は十八世紀の観点から十九世紀の観点への、漸進的な移行を示している。


原注

De l’Allemagne, 2e Partie, c. xv.

G. Merlet, Tableau de la Littérature française, 1800-1815, III, 21を参照。

Cours analytique de littérature générale(1817), I, 179。喜劇は二十二の規則、叙事詩は二十三の規則を守らなければならない。

Causeries du Lundi, I, 371以下の論文全体を参照。

「われらは今、ジョフロワを失った。/――死んだのか。――今夜埋葬される。/――何の病で。――知らない。――いや、私にはわかる。/あの不注意な男は、うっかり自分のペンを吸ったのだろう。」原文:Nous venons de perdre Geoffroy. / — Il est mort ? — Ce soir, on l’inhume. / — De quel mal ? — Je ne sais. — Je le devine, moi ; / L’imprudent, par mégarde, aura sucé sa plume.

フリーデリケ・ブルン宛書簡、1806年7月15日。

De la Littérature, 1re Partie, c. xx.

Discours préliminaire de la Littérature.

Pensées, 387(ポール・ド・レナル版、1866年)。

スタール夫人は、デルフィーヌという人物に自分を描き、同時にヴェルノン夫人という人物にタレーランを風刺したと考えられていた。そこでタレーランは、彼女が小説を書き、そのなかで自分と彼女の双方が女に変装して登場していると聞いた、と述べた。

「ロンドンでは、フランス人を憎ませることで劇が関心を引くだろう。チュニスでは、海賊行為が美しい情熱となるだろう。メッシーナでは、十分に味わい尽くされた復讐が、ゴアでは、ユダヤ人を焼く名誉が題材となるだろう。」原文:À Londres, un drame intéresse en faisant haïr les Français ; à Tunis la belle passion serait la piraterie ; à Messine, une vengeance bien savoureuse ; à Goa, l’honneur de brûler les Juifs.

Considérations sur la Révolution française, c. xxvi.

De l’Allemagne, 1re Partie, c. xviii.

De l’Allemagne, 4e Partie, c. xi.

Sainte-Beuve, Chateaubriand, II, 188.

Nouvelle Héloïse, 2e Partie, lettre xvii.

De l’Allemagne, 1re Partie, c. xi.

同、1re Partie, c. ix.

同、2e Partie, c. xxxi.

同、2e Partie, c. xv.

De l’Allemagne, 2e Partie, c. ix.

同、2e Partie, c. xiv.

同、2e Partie, c. xxxi.

De l’Allemagne, 2e Partie, c. I.

同、4e Partie, c. VI.

De l’Allemagne, 2e Partie, c. xv.

De l’Allemagne, 2e Partie, c. IV.

同、2e Partie, c. I.

同、2e Partie, c. xxxi.

Annals, 1804。カーライルは、スタール夫人のワイマール訪問に関するゲーテとシラーの文章を、自らの批評論集第2巻の付録に集めている。

De l’Allemagne, 2e Partie, c. xi.

De l’Allemagne, 2e Partie, c. xi.

この意味でルナンは、「国民性の感情は百年にも満たない」と述べている。原文:Le sentiment des nationalités n’a pas cent ans.Réforme intellectuelle, 194)

「『わが同胞、それは人間だ!』/かつて私はこうして/このフランス人の心を全宇宙へ散らしていた。/今では私はそれを節約する。/この愛情を、私は/祖国へ固く連れ戻す。/人類への愛によって/私が裏切った人々の上へ。」など。原文:« Mon compatriote, c’est l’homme ! / Naguère ainsi je dispersais / Sur l’univers ce cœur français : / J’en suis maintenant économe. / Ces tendresses, je les ramène / Étroitement sur mon pays, / Sur les hommes que j’ai trahis / Par l’amour de l’espèce humaine », etc.Repentir

De l’Allemagne, 1re Partie, c. II.

同、4e Partie, c. X。原文:L’étendue même des conceptions nuit à la décision du caractère.

「性格を持つこととドイツ人であることとは、疑いなく同義である。この事柄が私たちの言語で特別な名を持たないのは、それが私たちの知識や熟慮をまったく介さず、私たちの存在から直接生じるはずのものだからである。」原文:Charakter haben und deutsch sein ist ohne Zweifel gleichbedeutend, und die Sache hat in unsrer Sprache keinen besonderen Namen, weil sie eben ohne alles unser Wissen und Besinnung aus unserm Sein unmittelbar hervorgehen soll.Reden an die deutsche Nation, XII)

原書19頁を参照。

De l’Allemagne, 4e Partie, c. V.

De l’Allemagne, 3e Partie, c. I.

ただし、テクストがイタリアへの影響を次のように述べるとき、それを過大評価している可能性がある。「彼女はそのとき、独立の使徒コンファロニエリと会い、『ビブリオテカ・イタリアーナ』に大きな反響を呼ぶ論文を書き、それがイタリア・ロマン主義運動を引き起こした。」原文:Elle rencontra alors Confalonieri, apôtre de l’indépendance, et écrivit dans la Biblioteca italiana un article retentissant qui suscita le mouvement romantique italien.(Julleville, Histoire de la Littérature française, VII, 709-710)

Portraits contemporains, IV, 127.

同、232。

同、178。

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第II章 ジュベール

十九世紀初頭におけるルソー的熱狂者の最良の典型がスタール夫人であるなら、ジュベールは、それとはまったく異なる種類の熱狂、すなわちルソーよりもプラトンに結びつけるべき熱狂を代表している。プラトン主義者とルソー主義者との対照がどれほど鋭いかは、すでに引用したスタール夫人に対するジュベールのきわめて厳しい評価から推し量ることができる(原書8頁)。彼はある書簡で、彼女に会うことを「千度も避け、宿命的で有害な存在と見なしていた」と書いている。 ところが彼女が死に、その騒々しい生涯とは奇妙な対照をなして、死の知らせが世間一般の沈黙と無関心のうちに迎えられたとき、最も深く心を動かされた者の一人がジュベールだった。「これほどの名声に陰りが差すのを見て、私は本当に悲しんだ」と彼は書いている。「誰もこの気の毒な女性のことを考えようとしないのを見て、私は一人で彼女のことを考えはじめ、あれほどの知性、活力、善良さを彼女が誤用したことを、慰めようのない苦さとともに惜しむようになった。」

一般大衆に関するかぎり、ジュベール自身は完全な無名のうちに生きた。彼自身の言葉によれば、「名声より完成に心を奪われて」いたのである。だが、生前に享受した友情においても、死後に得た名声の質においても、彼は並外れて幸運だった。彼の『パンセ』は、シャトーブリアンとサント=ブーヴによってフランスの読者へ紹介され、英語で書かれた批評論文のうち最良のものの一つにおいて、マシュー・アーノルドによって英語圏の読者へ紹介された。 文学に関する『パンセ』は、批評的洞察の質があまりに優れているため、スペンサーが「詩人たちの詩人」と呼ばれたように、ジュベールは「批評家たちの批評家」と見なされるようになった。

彼には、彼自身が文体の最高の美と断言した、装飾的な簡潔さの才能がある。しかし彼が磨くのは、言い回しではなく観念だという。「必要な一滴の光が形をなし、私のペンから落ちるまで、私は待つ。」 彼の野心は、精妙なものを一般に流通できるような形で表現することだった。とはいえ、精妙なものだけで成り立つ連続的な論述を想像するのは容易ではない。だからジュベールが自分は連続的な論述に向いていないと述べても、驚くにはあたらない。「私には中間の観念が欠けている。」 賢者は体系的著作を構成しない、という彼の言葉は、エマソンが自作の論文の文章を「互いに無限に反発する粒子」と評したことを思い起こさせる。

精妙なものだけを、あるいは彼自身の言葉でいう「表現しがたいものを表現すること」だけを目指しながら、中間の観念を欠く批評家には、気取りと晦渋に陥る危険がある。

そしてジュベールも、過度の精妙さがもたらすこの二つの報いを、完全には免れていない。「光の領域へ達するには、雲のなかを通らなければならない」と彼は言う。 不幸にもジュベールは、常に雲から抜け出しているわけではない。しかし私は、より簡潔で自然だからという理由で、『パンセ』より『書簡集』を好む批評家たちには同意しない。とはいえ『書簡集』が、『パンセ』よりはるかに完全な形で、ジュベールの本質的な一面を明らかにしていることは確かである。そこには繊細で気まぐれなユーモア、常に何かを戯れとして扱う態度が満ちており、サント=ブーヴはそこからチャールズ・ラムとの比較を思いついた。

真剣に扱うべきごく少数の事柄を見分け、そのうえで、それ以外のすべてを遊び心をもって扱うことは、ジュベールにとって知恵の重要な一部だった。En tout il me faut quelque jeu――「何事にも、私にはいくらかの遊びが必要だ。」 彼は、「きわめて空疎な教説を持つ、真面目で陰気な精神」の対極にいる。この句を読めば、現代の多くの改革家を思い浮かべずにはいられない。

ジュベールにおける一種の超越的な気取りの危険は、おそらく宗教についてのいくつかの思考に最も明瞭に現れている。彼は物質の存在を、いわば礼儀上だけ認める。もし創造主が世界からその息を引き上げれば、世界は「時間以前の姿、すなわち押しつぶされた金属の一粒、空虚のなかの一原子、それ以下、ただの無へ戻る」と彼は言う。 ジュベールをしばしば思わせるもう一人の賢者は、物質をそれほど軽々しく片づけられるとは感じていない。

「私はあらゆるものを理屈で打ち倒し、否定できる」とエマソンは言う。「だが、この絶えず餌を求め、必ず餌を得ようとする〈腹〉だけは例外で、これを立派なものにはできない。」文字どおりにも比喩的にも、ジュベールには肉体が欠けていた、と言いたくなる。彼自身、シャトネ夫人の次の評言が正しいことを認めていた。すなわち彼は、偶然ある肉体につまずき、それをできるかぎりうまく利用しようとした純粋精神のように見える、というのである。

ジュベールには、病弱な人間が人生の荒々しい揉み合いから身を引くようなところがいくらか認められる。しかし、彼の精神性が真の精神性であって、ルソー的な模造品ではないことは、いくら強調してもしすぎることはない。ほとんど臨終の手で書きつけた言葉は、彼の全生涯の努力を実によく要約している。「1824年3月22日。真なるもの、美なるもの、正しきもの、聖なるもの!」

彼は、現実の義務から退いて、阿片とドイツ形而上学の雲のなかへ逃れたコールリッジのような人物とは、はるかに隔たっている。コールリッジの思索と日常の実践との対照は、ジュベールの次の思想を思い出させる。「宗教は神学でも神智学でもない。それはそれらすべて以上のもの、すなわち規律、法、軛、解くことのできない契約である。」 ジュベールは最も虚弱な病人の一人だったが、人生の要求に応えることを決して怠らなかった。「多くの人間の強さの背後には弱さがあるが、私の弱さの背後には強さがある。弱いのは道具のほうだ」と自分について述べたのも、正当だった。 彼が生まれた小さな町モンティニャックの住民は、彼を治安判事に選び、その有能さを長く記憶したと伝えられている。

サント=ブーヴが、次のように述べるとき、その称賛は私には完全に的を射ているようには思えない。「ジュベールのように、詩人の divinae particulam aurae――『神的な息吹の一片』という句の生きた定義と思われる神々しい精神の一人を、ひとたび知った者は、上品で、繊細で、快く、香気と純粋な精髄であるもの以外のすべてに、永久に嫌悪を覚えるようになる。それは確実に、自分のために多くの苛立ちと不幸を用意することでもある。」 この文章では、ジュベールが人間の日々の糧にはあまりに高尚すぎたかのように示唆されている。しかし実際の彼は、きわめて抜け目がなく、実際的な人物の一人だった。

彼は純粋な思弁に対する嫌悪を行きすぎるほど押し進め、マキアヴェリの『君主論』一頁からは、モンテスキューの『法の精神』全体からよりも、統治術について多くを学べるとさえ述べた。

ジュベールが公然と「恐ろしい現実」――l’affreuse réalité――を嫌ったことの危険は、ロマン主義的に象牙の塔へ退くことよりも、むしろ高貴な文体や壮大な流儀についてのある種の観念へ過度に共感する点にある。コルネイユを擁護して、地上の瑣末さから上へ昇るには、たとえ竹馬に乗らなければならなくても、そうすべきだと彼は言う。 それとは反対の芸術流派に対する彼の態度は、ルサージュの小説が「劇場を出たばかりのドミノ遊びの客が、喫茶店で書いたように見える」と評した言葉によく現れている。

ジュベールが「恐ろしい現実」から身を引いたことは、彼が恐怖政治を生き抜いた事実とも関係している。「革命は、現実の世界をあまりに恐ろしいものにしたため、私の精神をそこから追い払った」と彼は言う。 「革命とは、貧しい者が自分の正直さを、富める者が自分の財産を、無実の者が自分の生命を、確信できない時代である。」

若いころジュベールはディドロと接触し、そのような接触が意味する新しい批評精神への手ほどきを受けた。しかし革命がなかったとしても、ジュベールが徹底した近代人になったことはなかっただろう。古代人は、近代人のように未来の魔力ではなく、過去の魔力へ惹かれていたと彼は言う。 そしてこの点で、彼は真の古代人だった。

フランス人は反動主義者を、たいていの場合は正当に、「新しいものを憎む者」――misoneistes――と呼ぶ。しかしジュベールにふさわしい呼び名は、もっと優美なギリシア語、「古いものを愛する者」――philarchaios――である。「新刊書の大きな欠点は、古い本を読む妨げになることだ」と彼は言う。

ジュベールによれば、十八世紀が求めたのは宗教的自由ではなく、反宗教的自由だった。 十八世紀は、理性にも感情にもただちに理解できないものを、すべて単なる偏見として捨てようとした。「私の発見――誰にも自分なりの発見がある――は、私を偏見へ連れ戻した」と彼は言う。

「われわれの改革者は、経験に向かって『おまえは老いぼれだ』と言い、過去に向かって『おまえは子供だ』と言った。」 ジュベール自身が傾いた反対の極端は、過去を現在へあまりに専制的に押しつけることである。

彼はおそらくほかのどのフランス反動家よりも、洞察によって伝統を生きたものにしている。それでも、あまりに断固として伝統主義的である。 過去百年の革命的圧力はあまりに強かったため、最も精妙に調律された精神でさえ、その均衡を乱されずにはほとんどいられなかった。エマソンが解放の利益だけを見ようとするのに対し、ジュベールは秩序の利益だけを見ようとする傾向がある。

彼が秩序だと考えるものの名において、社会をイエズス会へ引き渡し、一種の祭司的な不動状態へ固定する用意さえ、彼にはありすぎた。エマソンが近代最大の獲得と見なすものに、彼は近代最大の不幸を見ている。「不幸な時代だ」と彼は叫ぶ。「あらゆる人が、あらゆるものを自分自身の重さで量り、聖書が言うように、自分自身の灯の光を頼りに歩く時代だ。」 かつて天とのあいだに存在した広い交通路が断たれ、一人ひとりが自分専用の梯子を架けなければならない時代である。 実際、「経験に値する者は少なく、大多数は経験に身を任せて堕落してしまう」という彼の主張が正しいなら、導きの紐は多いほどよいことになる。

もちろんジュベールは、十八世紀思想の二大指導者、ヴォルテールとルソーを厳しく扱う点でも一貫している。確かに彼は、改心したルソーなら善をもたらすこともありうると想像できたが、ヴォルテールが役に立つような状況は一つも思い描けなかった。 「ヴォルテールは、反宗教的な小さな冗談を一つ見つけるためなら、三十巻でも四十巻でも、二つ折り判の大冊を辛抱強く読んだだろう。それが彼の情熱であり、野心であり、狂気だった。」 しかし最後の分析では、ヴォルテールの反宗教性より、ルソーの偽宗教のほうが陰険な危険である。「私は、優しく、熱烈で、高邁な精神、すなわち宗教の特徴のいずれかを生まれながら備えた精神に語りかける。そしてこう言う。あなたを宗教から引き離せるのはジャン=ジャック・ルソーだけであり、ジャン=ジャック・ルソーからあなたを治せるのは宗教だけだ。」

政治と宗教においてジュベールが反動の側へ傾きすぎているとしても、文学上の意見では概して驚くべき均衡を保っている。彼は、一方には理性そのものの信用を失わせるような仕方で合理的だった時代、他方には想像力そのものの信用を失わせるような仕方で想像的になろうとする時代、その中間に立っていた。彼は過去の行きすぎに抗議し、これから来る行きすぎへ警告を発する。だが、ジュベールの仕事を主として警告や抗議と見なし、その役割を否定的・制限的なものだけと考えるほど、誤った理解はない。

フランス人にとって彼は単に『パンセ』の著者ではなく、フォンターヌとともにシャトーブリアンの文学上の導き手でもあった。

サント=ブーヴがシャトーブリアンの「二人の守護天使」と呼んだこの二人のうち、鼓舞し励ましたのがジュベールであり、警戒を促して引き止める傾向が強かったのがフォンターヌだった。形式主義への攻撃において、また精神と感情の歓待性を求める訴えにおいて、ジュベールは未来へ顔を向けていた。Ayons le cœur et l’esprit hospitaliers――「心と精神を歓待的なものにしよう」。この一言には、新しい批評のうち正当なものがほぼすべて要約されている。

十八世紀は、一つには機械的な模倣を押しつけ、一つには合理主義を濫用することによって、詩へ害を与えた。ジュベールは、形式主義者と合理主義者の双方に対して、絶えず想像力の権利を擁護する。「人を恍惚とさせないものは詩ではない。竪琴はいわば翼を持つ楽器である。」 想像力による全体性を欠く人生観は健全ではない。「何を考えるにせよ、魂と身体を含む自己の全体で考えなければならない。」 そして何より一面性を避けるべきである。「人間はいわば巨大な存在であり、部分的に存在することもできるが、その存在が満ち、完全になるほど、その生は快いものになる。」 人文主義者の観点から、これ以上満足すべき言葉を見つけるのは容易ではない。

とりわけジュベールは、一面的な知性主義者に厳しい。ここにも十八世紀への敵意が現れている。哲学者は「精神的なものと抽象的なものを混同する」ことによって、非現実へ陥る。 哲学書に現れる、「一般に流通するようになっておらず、特殊な方言を作ることにしか役立たない」言葉を信用してはならない、と彼は警告する。

「深遠に見せるために抽象的になる人が、どれほど多いことか! 抽象語の大部分は、空虚を覆う影である。」 「哲学にもミューズがいなければならず、単なる推論工房であってはならない。」

なおジュベール自身は、哲学を広く読んだ人物だった。彼はカントを徹底的に研究した最初期のフランス人の一人であり、ラテン語訳で読んだ。「ドイツ人のラテン語で、石ころのように硬い」とボーモン夫人へ書いている。カントの観念へ到達するのは、自分の頭で駝鳥の卵を割るようなもので、しかも割ってみると、たいてい中には何もない。「身体だけでなく、精神も捻挫することがある」とジュベールは述べるが、 彼自身、カントのラテン語訳を読んで、一種の知的捻挫をしたようである。カントに対する最終判断は、本来直観的であるべきところで知性的だったため、「あらゆるものの真の尺度を見失った」というものだった。

シャトーブリアンによれば、ジュベールは自分の哲学が、同時に絵画であり詩であることを望んでいた。哲学的思想は十分に熟すと、いわば抽象的な生硬さを失い、雰囲気、形、音、光、色を帯びる、とジュベールは考えた。抽象化が明らかに必要な場合でさえ、抽象的に語ろうとしなかったことが、『パンセ』の一部ですでに指摘した、やや過剰に繁茂する比喩、すなわち気取りの印象を生んだのかもしれない。

十八世紀の流儀のように、言葉を単なる代数記号として扱い、その暗示の光輪を奪ってはならない、というジュベールの主張は、きわめて近代的に見える。彼は、ロマン主義運動で大きな役割を果たすことになる諸芸術間の微妙な感情的交錯と融合を感じ取り、促した。この問題についての多くの言葉の一つを引用すれば、「美しい詩句は、音や香りのように発散する」。 ヴェルレーヌの追随者にも、これは良い教説と思えるだろう。「対象を描くべきではなく、対象についてのわれわれの感情を描くべきである」という、さらに先進的な言葉もある。 これならポスト印象派さえ満足するはずである。

しかしジュベールは、自分自身の規則、すなわち一つの真理を述べるときには、必ずその補完的真理を同時に示すという規則を、注意深く守った。 多くの近代人のように、暗示の力に熱狂して理性を失うことはなかった。nous qui chantons avec des pensées et peignons avec des paroles――「思想で歌い、言葉で描くわれわれ」について語り、 また「一つの言葉を完全に理解すると、その言葉はいわば透明になり、その色と形が見え、重さが感じられる」などと述べたあとでも、言葉の主要なものは色や音楽ではなく意味であること、意味を最も明瞭に表すよう言葉を選び配列すれば、それは同時に最も調和的に響くはずであることを認めている。

「必要なのは、イメージの詩だけでなく、観念の詩である」と彼は言う。

「イメージが対象を覆い隠し、影を身体として扱うとき、表現そのものがあまりに快いため、その先へ進んで意味へ到達しようとしなくなるとき、つまり比喩が注意のすべてを吸収するとき、あなたは道の途中で足止めされる。悪い案内人に導かれ、道を目的地と取り違えているからである。」 これはフランス・ロマン派の多く、確実にゴーティエ、そして私はためらわずユゴーも加えるが、彼らを厳しく突く言葉である。

不幸にもフランス・ロマン派は、詩の目的についてジュベールとほとんど同意できなかった。彼らの熱狂は、彼のようにプラトン的ではなく、ルソー的だったからである。つまり彼らは、通常の知的水準を超えて上昇することによってではなく、その下へ沈むことによって抽象性から逃れようとした。こうしてロマン主義運動は、ジュベールが望んだ想像力の正当な復興ではなく、抑制されない自発性の賛美へと、概して向かった。

ジュベールが実際に「熱狂」という語をどう用いているかは、興味深い研究の主題になりうる。しばしば熱狂と呼ばれているものに、彼は別の語――情念、活気、はらわた、その他――を用いる。彼の意味での真の熱狂は、スタール夫人の場合のように熱や運動と結びつかず、光と静けさと結びついている。サント=ブーヴによれば、それは「高められた平和」と定義するのが最もよい。 だからジュベールは、この語を大詩人、聖人、賢者のために取っておく。たとえば彼は、ウェルギリウスの熱狂について語っている。

プラトン主義者とルソー主義者という二種類の熱狂者の違いは、想像力による幻影をどう用いるかに、最も明瞭に現れるのかもしれない。

人生と芸術における幻影の役割についての考えほど、ジュベールが独創的な箇所はない。ここにおいてこそ彼は、自分はプラトン以上にプラトン的である――Platone platonior――という自負を正当化している。彼は芸術と文学をプラトンから擁護するが、その論拠自体が高度にプラトン的なのである。

芸術家は感覚対象を模写するだけで満足してはならない。そうすれば作品は、現実から二段階隔たったもの、単なる「影の世界の影」にすぎないというプラトンの非難を受けるからである。それとは反対に、芸術家は感覚対象を用いて、より高い現実を暗示しなければならない。いわば天上的な原型の鋳型、空洞の鋳型を作らなければならない。 この高い現実の暗示は、想像力による幻影を媒介とすることでしか達成できない。

想像力による幻影を通じて、感覚の現実と精神の現実とのあいだに交通を築くことができる。「われわれは身体を手段として、魂を想像させられる。」 「天は、われわれが本性上知ることのできない真理が数多くありながら、それを知らないことがわれわれの利益にならないのを見て、われわれを憐れみ、それらを想像する能力を授けた。」

この意味で真理は、幻影のヴェールを通してのみ知覚できる。そして、このように覆われていることが真理の優美さなのである。

幻影と知恵との親密な融合こそ、人生と芸術の魅力である。 「神は絶えずわれわれを欺き、われわれが欺かれることを望んでいる。神がわれわれを欺くと言うとき、私は詐欺ではなく幻影によって欺くという意味で言っている。」 このように理解された幻影は現実の不可欠な一部となり、何ものも裸のまま見ようとしてはならない。Il ne faut rien voir tout nu――「何ものもまったく裸のまま見てはならない。」

明らかに二つの極端がある。一方には、たとえばスウィフトのように、人間性からあらゆるヴェールを引き剝がし、幻影なしにそれを見ようとする者がいる。他方には、ルソーのように、幻影だけを取り、現実を捨てようとする者がいる――少なくともジュベールが「現実」という語を理解した仕方ではそうなる。どちらの場合も結末は人間嫌いだった。両極端は一致するという格言を奇妙な仕方で示すため、スウィフトとルソーを比較することさえできるだろう。

ジュベールには、想像力による幻影の正しい用い方だけでなく、ルソー主義者による誤用、すなわち頽廃の偽の幻影と呼びうるものについても、並外れて鋭い言葉がある。ルソーは幻影を精神の現実へ結びつけなかったとしても、ある仕方で感覚の現実へは結びつけた。地上的な衝動、とりわけ性という支配的衝動の上へ、一種の魅惑を投げかけるために幻影を用いたのである。 この支配的衝動への態度において、ジュベールはルソーから離れているだけでなく、フランス人のなかでも最もガリア的でない人物の一人である。

「純潔によって」と彼は言う、

「魂は最も腐敗した場所でも清浄な空気を吸う。節制によって、身体がどのような状態にあろうと魂は強い。感覚を支配することによって王者となり、その光と平和によって美しくなる。」 ジュベールによれば、通常の徳には理性で足りるかもしれないが、人を純潔にできるのは宗教だけである。

ベルナルダン・ド・サン=ピエールは、ルソーの流儀で情念を称揚しただけでなく、自然全体へ偽理想主義的な魅惑を投げかけた、とジュベールは言う。その結果は、一種の「恍惚的な快楽主義、厳粛なアナクレオン風道徳」である。 「ベルナルダン・ド・サン=ピエールの文体には、目を疲れさせるプリズムがある。彼を長く読んだあと田園へ出ると、緑や木々が彼の文章ほど強く色づいていないのを見て、ほっとする。彼の『調和』は、彼が世界から追放しながら、現実では一歩ごとに出会う不協和を、われわれに愛させる。確かに自然には音楽がある。しかし幸いにも、それは稀である。もし現実が、あの紳士たちがいたるところに見つける旋律を差し出していたなら、人は恍惚とした倦怠のなかで暮らし、気絶して死ぬだろう。」

ここで少々微妙な問題が生じる。ジュベールはシャトーブリアンのルソー主義をどう扱ったのか。「友人に片目しかないとき、私は横顔からその人を見る」とジュベールは言う。 しかし友人の場合にも、批評が権利を失わなかったことは明らかである。「シャトーブリアンは、情念が本来持たない無垢さ、あるいは一度しか持ちえない無垢さを、情念へ与えた。『アタラ』では、情念は長い白いヴェールに覆われている。」

モレへ宛ててシャトーブリアンの性格を論じた書簡は、心理分析の傑作である。 この書簡でジュベールは、サント=ブーヴの最も厳しい判断のいくつかを先取りしながら、同時に好意的で、しかも愛情深くさえ見えるように書くことに成功している。

ジュベールは、ロマン主義的な意味での「美しい魂」ではなく、この語が暗示する軟弱さをまったく持たない。今日では、拒めば狭量で共感に欠けると思われるという理由で、ほとんど何でも受け入れることを要求される。「私は愛する絵が少なく、オペラも、彫像も、詩も少ない。それでも私は芸術を深く愛している」とジュベールは答える。

言い換えれば、共感は選択と理想的に結びつかなければならない。実践上の意味では、拡張は集中によって和らげられ、生命的衝動は生命的統御へ服さなければならない。文学には多くの情念が必要だと言われたとき、ジュベールは「その通り、多くの抑制された情念が必要だ」と答えた。 すでに引用したように、ルソーは良心そのものを情念に変え、手綱ではなく拍車にすることによって道徳を破壊した、と彼は非難する。そして「趣味は魂の文学的良心である」と加える。

趣味は、ほかの望ましい事柄の大部分と同じく、本性上二元的であり、両極端の媒介である。しかしジュベールが強調する趣味の選択的・制限的側面は、それ自体最も重要であるだけでなく、ルソーからクローチェ氏に至る近代人が最もしつこく無視し、否定してきた側面でもある。

スタール夫人は、天才を趣味と同一視し、両者を純粋に拡張的なものにする傾向があった。ジュベールはむしろ集中の極へ傾く。「もし、一冊の本全体を一頁に、一頁全体を一つの句に、その句を一語に詰め込もうという、呪われた野心に苦しむ者がいるなら、それは私である。」 古代の批評家は、Plus offendit nimium quam parum――「少なすぎるより多すぎるほうが、いっそう人を損なう」と言った。「われわれは、あらゆる豊富さを称賛することで、この格言をほとんど逆転させた。」

ジュベールは、それと密接に関係するもう一つの自然主義的悪徳、すなわち単なる力やエネルギーの崇拝、サント=ブーヴがバルザックに認めた文学的ナポレオン主義を、繰り返し攻撃する。「繊細さがなければ文学は存在しない」とジュベールは言う。 「よく書くためには、生まれつきの容易さと、後天的に獲得した困難さを持たなければならない。」 われわれにはむしろ、その正反対の人物、すなわち生来の容易さはほとんどないが、少なくとも新聞記者の不毛な多産さを身につけることには成功した人物のほうが、なじみ深いかもしれない。

ジュベールには、近代的な誇大妄想の痕跡がまったくない。「精妙なものは広大なものより優れている。商人は大きな本を崇めるが、読者は小さな本を愛する」などと彼は言う。 Heureux est l’écrivain qui peut faire un beau petit livre――「美しい小さな本を作れる作家は幸福である。」

ジュベールは高度に判断的で選択的だったが、その判断と選択の基準は形式的ではなく、直観的だった。形式主義者への軽蔑を表して、彼はこう言う。「職業批評家は、原石のダイヤモンドも、延べ棒の金も見分け、評価することができない。彼らは商人であって、文学では流通している貨幣しか知らない。彼らの批評には天秤と秤はあるが、坩堝も試金石もない。」 ラ・アルプの難点もそこにあった。彼は規則を知っていたが、規則の規則であり、その限界と範囲を同時に定める理性を知らなかった。批評の商売は知っていたが、批評の技術は知らなかったのである。

ジュベールは自分のいう批評の試金石を備えていた。しかし私は、彼自身を無謬の人物として立てようとしているのではない。それはわれわれ共通の人間性をはるかに超える特権を与えることになる。ふだん最も本領を発揮する詩の領域でさえ、形式主義への警戒が足りなくなることがあった。その証拠がミルトンとドリール師との比較であり、これは悪いだけでなく、悪さにおいて記念碑的とさえ言える。 この盲点は、おそらく、ジュベール自身が最初期に適切な定義を与えた「時代精神」の力を示す一例である。

それでも、彼の批評的直観は、概して時代精神に対してさえ警戒させている。実際、形式主義者との対照で言うなら、ジュベールは「直観的批評家」と定義するのが最も適切かもしれない。ただしその場合、「直観」という語をかなり慎重に定義しなければならない。

アリストテレスがはるか昔に指摘したように、知性は、自分より下にあるものについての知識でも、自分より上にあるものについての知識でも、直観に依存している。したがって、すでに定義した二つの主要な熱狂の型にほぼ対応する、二つの主要な直観の秩序を区別できる。一方には感覚的ないし美的直観、他方には精神的直観、あるいは時に知的直観と呼ばれるものがある。これらを〈多〉の直観と〈一〉の直観と呼んでもよい。すでに用いた対照を繰り返せば、それぞれ生命的衝動と生命的統御として働く。

たとえばエマソンの直観について語ることができる。同じ語を、チャールズ・ラムの美的感受性、精妙な文学的知覚にも適用できる。ルメートル氏は、ジュベールを une singulière et délicieuse créature――「風変わりで魅力的な存在」と呼ぶが、なぜ彼が「風変わり」で「魅力的」だったのかを、特にはっきり説明していない。私が見るところ、その理由は、彼がここで定義した二つの主要な意味の双方において直観的だったことにある。

エマソンと同じく彼は、「見る才能、精神の眼、物事の内へ入り込む本能、迅速な識別、要するに精神的なものをすべて発見する生来の明敏さ」を備えていた。 ハズリットは、ラムが美食家がオリーヴを味わうように古い作家を舌で試した、と言う。ジュベールも同じだった。彼の文学的知覚力の実例をさらに挙げる必要は、ほとんどないだろう。

さらに彼は、多くの単なる唯美主義者のように、異なる直観の秩序に対応する存在の諸平面を混同することが決してなかった。人間はつねに、人間性の合理的側面と直観的側面との対照を意識してきた。この対照は、「頭」と「心」との対照として、世界文学全体に行き渡っている。しかし「心」という語は、明らかに「直観」という語そのものと同じ曖昧さを持つ。

たとえばパスカルが「心には、理性の知らない理由がある」と言うとき、明らかに超感覚的ないし精神的な直観を指している。他方、ラ・ロシュフコーが「頭はつねに心に欺かれる」と言うとき、明らかに、人間性の理性以下の領域から雲のように知性の周囲へ立ちのぼる欲望と衝動を指している。ルソーとパスカルを比較研究すれば、二人ともすべてを「心」にかけながら、異なる直観の秩序を表すためにその語を用いたため、まったく異なる意味を与えていることを示せるだろう。

このような区別は、とりわけ現在必要に思われる。今日、世間の注目を集めている思想家、ジェームズ、ベルクソン氏、クローチェ氏のような思想家は、少なくとも知性から直観へ訴える点では一致しているからである。ジュベールが彼らとほとんど共通点を持たないのは、明らかに彼らがルソー的な意味でのみ直観的であり、ジュベールのように同時にプラトン的な意味でも直観的ではないためである。ジェームズとベルクソン氏は、ジュベールのように〈一〉を生きた直観と見なさず、不活性な知的概念と見なす。

そして、この知性主義から逃れるには流動へ飛び込み、言い換えれば〈多〉の直観を養うしかない、とわれわれに信じさせようとする。ジュベールは、近代哲学のこの形について、彼自身の時代に現れた変化の哲学について述べたのと同じことを言ったのではないかと思われる。「古代の賢者たちと同じく、私はこれらの恐ろしい格言を憎む。」

彼は、以前の哲学へ光を投げるどころか、ただそれを否定する哲学を疑いの目で見た。 この観点からすれば、ベルクソン氏には特別な疑念を抱いただろう。ベルクソン氏の現実観が正しいなら、プラトンとアリストテレスをはじめとする過去の大哲学者の大部分は、単に誤った現実観を持ったのではなく、完全に逆転した現実観を持っていたことになるからである。

ジュベールが精神的に直観的だったと言うことは、彼を賢者の階級へ置くことになる。この階級の代表者は、時間と空間の無限に多様な偶然を越えて、本質的な事柄について一致することにより見分けられる。たとえばジュベールとエマソンから、並行する文章を容易にいくつも集めることができる。「一国に偉大な思想を生み出せる人間が生まれるとき、それを理解し称賛できる別の人間も生まれる」とジュベールは言う。ここには、「語る舌の近くには、つねに聞く耳が見つかる」というエマソン好みの教説がある。

次の思想も、エマソンに同等のものを見つけられるだろうが、とりわけ「ブッダ」という名そのものが「目覚めた者」を意味することを思えば、仏教的と呼ぶのが正当である。

「食べ、飲み、結婚し、売買し、建築し、契約を結び、財産に気を配り、友と敵を持ち、快楽と苦痛を経験し、生まれ、成長し、生き、死ぬ者が、どれほど多いことか――しかも眠ったままで!」

人々は〈一〉の直観を持つ度合いに応じて互いへ近づく。言い換えれば、人類を真に統一する原理は、その賢者たちの洞察に見いだされる。われわれは上昇することによって出会う。

ジュベールと賢者たちの直観性と、ベルクソン氏の直観性との対照は、時間に対する態度を比較すれば、最も明瞭になるかもしれない。ベルクソン氏によれば、現実は流動と変化の純粋な過程であり、この変化は時間のなかで生じる。したがって「時間こそ、われわれの生が作られている素材そのものである」。 われわれは物事を sub specie aeternitatis――永遠の相のもとで見るのではなく、sub specie durationis――持続の相のもとで見るよう努めるべきだという。

その正反対の主張は、時間と空間のどれほど多様な条件のもとで、どれほど多くの形を取って見つかることだろう。「賢者は時間から解放されている」とブッダは言う。 「時間がもはや流れない魂は幸福である!」とミケランジェロは言う。「時間は」とジュベールは言う。「絶えず変わり更新される存在の連続によって、この地上では測られ、見られ、感じられ、数えられ、存在している。だがより高いところには、変化も連続も、新しいものも古いものも、昨日も明日もない。」

別の箇所でジュベールは、永遠のなかにも時間はあるが、それは物体の運動と連続によって数えられる地上的な時間ではない、と付け加えている。

エマソンも、「神の深淵の核」について、いくらか似た仕方で断言している。

そこでは過去・現在・未来が、
一つの根から三重の花を咲かせる。

このようにして、ベルクソン氏のように時間のなかではなく、時間を超越することに最高の現実を見いだした人々の一覧を、際限なく延ばすことができるだろう。

精神的に直観的であることによってのみ人が賢者になるとしても、芸術と文学の批評家あるいは創作者になろうとするなら、ベルクソン氏が勧める意味でも直観的であることが、きわめて望ましく、実際必要である。おそらく最も賢い人間とは、二つの秩序の直観をともに持ち、そのあいだを媒介する者、すなわち統一の感覚に、局所的、個別的、一時的なものへの精妙な知覚を結びつける者である。

批評家としてのジュベールの質は、基準を持ちながら、それを流動的に保ったことに、とりわけ示されている。固定したもの、永続するものへの彼の強調は、ほとんど常に変化と不安定への感覚によって和らげられている。「人は」と彼は、きわめて比喩的な流儀で言う。「錨と底荷、すなわち固定し不変の意見を備えなければならない。そのうえで旗は自由にはためかせ、帆は膨らませるべきである。揺らいではならないのは帆柱だけだ。」

さらに彼は言う。「文体における真実は、欠くことのできない徳であり、それだけでも作家を推奨するに足る。あらゆる主題について、今日もルイ十四世の時代の人々が書いたように書こうとすれば、われわれの文体には真実がなくなるだろう。われわれはもはや、同じ気質、同じ意見、同じ習俗を持っていないからである。」

「あなたが書くジャンルが、あなた自身の性格や時代の習俗に深く関係するほど、その文体は、作品のなかで自分の時代の習俗や自分自身の性格を巧みに表現したためにのみ模範となった作家たちの文体から、いっそう離れるべきである。この場合、良い趣味そのものが、最良の趣味から離れることを許す。趣味は習俗とともに変化し、良い趣味さえ変化するからである。」

ただしジュベールは、変化しないジャンルもあると付け加える。ここには反動的な調子がいくらか現れているのかもしれない。「聖壇の雄弁家は、つねにボシュエが考え書いたように考え書くのがよいと、私は思う。」

別の箇所で彼はこう書く。「書物の流行は時代ごとの趣味に依存する。古いものさえ、流行の変化を免れない。コルネイユとラシーヌ、ウェルギリウスとルカヌス、セネカとキケロ、タキトゥスとリウィウス、アリストテレスとプラトンは、交互にしか首位を得なかった。さらに同じ一生のうちでも年齢によって、同じ一年でも季節によって、ときには同じ一日でも時刻によって、われわれはある本を別の本より、ある文体を別の文体より、ある知性を別の知性より好む。」

アナトール・フランスを先取りするような言葉で、ジュベールは言う。「文学と、作家について確立した判断のなかには、真実より慣習的意見のほうが多い。すでに名声を得ている書物のうち、もしもう一度その名声を勝ち取らなければならないとしたら、どれほど多くが失敗することだろう!」

このようにジュベールは、相対性の要素へ多くを譲る用意がある。しかし文学を単に社会の表現と見るところまでは行かない。「作品を、いわゆる社会状態へ適合させるより、人間精神の本性へ適合させるほうが百倍よい。人間には変わらない何かがある。だから芸術と芸術作品には、不変の規則、つねに人を喜ばせる美、あるいは短いあいだしか人を喜ばせない表現法がある。」

Il y a quelque chose d’immuable dans l’homme!――「人間には変わらない何かがある!」ジュベールのように、人間のうちにあるこの永続的な何かを本当に知覚し、それへ向けて書いた作家こそ、自らも永続する可能性が高い。「天国は、それについて考える者のためにある」と彼は言う。それに対して、スタール夫人の仕事が本質的価値よりも相対的・歴史的価値を持つのも適切である。彼女の主な関心は、文学のこの本質的側面ではなく、社会の表現としての文学、すなわち変化する状況の反映としての文学にあったからである。

ジュベールは、真に創造的だった者、確定的な記念碑を残した者、彼自身の言葉で言えば、観念だけでなく、それを住まわせる家も持った者より下に位置づけなければならない。 彼は自分の記念碑を思い描き、そこへ入れる材料を確かめることにあまりに多くの時間を費やした。そのため、ついに求めていたものを見つけたと確信したときには、彼自身が語るように、遅すぎた。死ぬ時が来ていたのである。

それでも彼自身の言葉によれば、「偉大な精神を輝かせるには、記憶に残る言葉がいくつかあれば十分である。一冊の本全体の精髄を含む思想がある。」 彼自身の名声も、おそらくこの種の多くの思想と言葉によって、確固として支えられるだろう。私が定義しようとしてきた意味での直観の才能が、過去より未来の批評家に広く見られるようにならないかぎり、世界はジュベールを忘れる余裕を持たない。


原注

Correspondance(以下 Cor.), 237。本章の参照は、ポール・ド・レナル編二巻本(第4版、1866年)による。『パンセ』を収めた巻の冒頭章「著者、自らを描く」には番号がない。それに続く思想は主題別の番号付き章に配列されているため、以下ではそれを「標題(Titres)」と呼ぶ。

同上。

読者がマシュー・アーノルドのこの論文を知っているものと想定し、原則として、そこで訳されたものと同じ『パンセ』は訳出を避けた、とバビットは述べている。

Pensées, p. 10.

同上、p. 8。

Cor., 20。

Tit. I, XC。

Cor., 119。

Tit. X, XIII。

Tit. I, LXII。

Pensées, p. 8。

Sainte-Beuve, Chateaubriand, II, 138。

ジュベールの勇気と良識の例として、当時大学総長だったフォンターヌへ、教師と教授の低賃金へ抗議した書簡を参照(Cor., 217)。

Tit. XXIV, V, VII。

Tit. XXXII。

Pensées, p. 4。

Tit. XVI, LIX。

Tit. XVII, I。

Tit. XVIII, LVII。

Tit. XVIII, XIII。

Pensées, p. 4。

Tit. XVIII, XX。

「ギリシア人、とりわけアテナイ人には文学的・市民的な美を、ローマ人には道徳的・政治的な美を、ユダヤ人には宗教的・家庭的な美を、その他の民族にはこの三者の模倣を。」原文:Aux Grecs, et surtout aux Athéniens, le beau littéraire et civil; aux Romains, le beau moral et politique; aux Juifs, le beau religieux et domestique; aux autres peuples, l’imitation de ces trois-là.Tit. XVII, XIII)

Tit. XVIII, V。

同上、XIV。

同上、XVI, XIII。

Tit. XXIV, XXXVIII。

同上、XXV。

同上、L。

Tit. XXI, IX。

Tit. V, LVII。

Tit. IX, LII。

Tit. XII, VI。

Tit. XII, XXV。

同上、XXXII。

Cor., 62。

Cor., 62。

さらにジュベールは、「あらゆるものの尺度は、動くものに対する不動のもの、限られたものに対する無限のもの、変化するものに対する同一のもの、過ぎ去るものに対する永遠のもの」である、などと続ける(Cor., p. 61)。カントについての見解は Pensées, Tit. XXIV, XVII-XIXも参照。

Tit. XXI, XXV。

Tit. XXIII, LXXVII。

Tit. XI, XVIII。

Tit. XXII, LXXIV。

同上、XXIX。

Tit. XXI, XXIII。

Tit. XXII, CX。

Tit. XXIII, CVIII。

Tit. XXI, II。

Tit. XX, XLV。ジュベールは、能動的・創造的な能力で、知性と精神との唯一の仲介者であり、天賦の才ある個人だけが高度に持つ l’imagination と、理性以下の受動的能力で、子供や臆病な人々などに強く現れうる l’imaginative とを鋭く区別する。Tit. III, XLVI-LIIを参照。

Cor., 85。

Tit. XI, XXXVI。

Tit. IX, V。Tit. XX, Xおよび Tit. XXIII, CXVも参照。

Cor., 125。

Tit. XI, XXXIX。

Tit. XXI, XXI。バビットはこの問題を The New Laokoon 第V章でさらに詳しく扱っている。

Tit. V, CX。

同上、CXII。

Tit. XXIV, LXVI。

同上、LXVII。

Pensées, p. 2。

Pensées, p. 393。

Cor., 106以下。サント=ブーヴはこの書簡について「シャトーブリアンの心理が余すところなく鋳込まれている」と述べる(Chateaubriand, II, 396)。Nouveaux Lundis, III, 11も参照。

Tit. XXIII, CXXXI。

同上、CXLVII。

Pensées, p. 8。

Tit. XVIII, LXXXVIII。

Tit. XXIII, XXIV。

同上、XLV。

同上、CCXX。

同上、CCXXII。

Tit. XXIII, CXLV。

Tit. XXIV, LIV。

Cor., 251。公平のため付け加えるなら、ジュベールは英語を読めなかった。

Tit. XVI, L。

Tit. III, XLIV。

シャトーブリアンは、より野心的な表現で、ジュベールを「ラ・フォンテーヌの心を持つプラトン」と呼んだ。なおラ・フォンテーヌには「ほかのフランス作家のどこにも見られない詩の充溢がある」と最初に指摘したのもジュベールであり(Tit. XXIV, section V, XX)、この見解はのちにサント=ブーヴ、アミエル、マシュー・アーノルドに受け継がれた。

Cor., 257。

Tit. XII, LIV。

Tit. VII, LXIII。

L’Évolution créatrice

「アカッピヨ」。Sutta-Nipāta, IV, 10を参照。

Tit. XIII, IV。

Tit. VI。

Tit. IX, XLII。

Tit. XXII, LXXIII。

Tit. XXIII, CLXXXVII。

Tit. XXIII, CLXXXIV。

Tit. XXIII, CCV。

Mes idées! c’est la maison pour les loger qui me coûte à bâtir.Pensées, p. 10)

Tit. VII, LXXXIX。

Tit. XXIII, CCXVII。


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第III章 シャトーブリアン

シャトーブリアンが最もよく比較されるイギリス作家、実際に彼自身が自分を比較した作家は、バイロンである。しかしイギリスにおけるバイロンの影響は、大陸における影響に比べれば小さかった。他方、シャトーブリアンの影響はフランス国外では無視できるほどだったが、近代フランス文学全体を支配している。「シャトーブリアンは」とファゲ氏は以前書いた。「プレイヤード以来、フランス文学史における最大の日付である。彼はほぼ三世紀にわたる文学的発展を終わらせ、彼から始まった新たな発展は今も続いており、今後も長く続くだろう。……彼はフランス人の想像力を刷新した人物である。」 今日のわれわれはおそらく、ファゲ氏が述べる発展の起点をルソーに置き、シャトーブリアン自身を単にジャン=ジャックの長男と見る傾向が強いだろう。

ルソーとの関係は、シャトーブリアンとバイロンを結ぶ共通の絆である。二人はともに、平民ではなく貴族の出身であることに大きく由来する、ルソーとの差異を示している。また両者は互いにも異なっている。シャトーブリアンが中世、王政、カトリックを擁護したのに対し、バイロンは権威と伝統へ戦いを挑んだからである。

それでも両者相互の類似と、共通の文学的祖先への類似は、自然との孤独な交感と、二人とも「心の悪魔」に取り憑かれている仕方に明白に現れている。両者には、野性味と人間嫌いを少し加えたルソー主義がある。二人ともルソーと同じく、思想と感情との和解されない二律背反――「私の心と頭は同じ一人の人間に属していないように思われる」――に苦しんでおり、この対立は両者の場合とも、文学上の意見に著しく現れている。

「シャトーブリアンの趣味は」とメルレ氏は言う。「その才能とは別の流派に属していた。彼は教説によって伝統を擁護しながら、実例によって伝統を腐敗させ、あるいは刷新した。」 ほぼ同じ仕方で、バイロンは理論上ポープを称揚しながら、実作によってポープの流派を覆していた。ボウルズ宛書簡で「私は今をイギリス詩の衰退期と見なしている」と述べ、自分自身が新しいバベルの建設者の一人だったことを恥じる、と続ける。彼と仲間のロマン主義者たちは、見事に帆走していたのかもしれないが、針路を誤っていたのである。

このように意識的な批評家となったバイロンに対して、次のような文章に現れるシャトーブリアンを比較できる。「さらに私は、ルソーのような未開人の熱狂者ではない。この哲学者が社会に満足する理由を持ったのと同じくらい、私にも社会へ不満を持つ理由があるかもしれないが、純粋な自然が世界で最も美しいものだとは思わない。実際に見る機会を得た場所では、私はいつもそれを非常に醜いと思った。」

「考える人間は堕落した動物だという意見からはほど遠く、 私は思想こそ人間を人間にするものだと信じる。この『自然』という語によって、普遍的な荒廃が引き起こされた。自然を描こう。しかし選び抜かれた自然――la belle nature――を描こう。芸術は怪物の模倣へ関わるべきではない。」シャトーブリアンは、原始的なものへの情熱を一頁ごとに裏切り、しかも la belle nature の名において怪物を避けるどころか、サント=ブーヴが指摘するように、鰐へ特別な偏愛を示す作品『アタラ』の序文で、平然とこれを書いている。

最も新しい批評家ルメートル氏によれば、シャトーブリアン自身の趣味には奇妙な欠落があり、想像力へ真剣な抑制を加えなかった。それでも彼は、趣味、天才、古典時代について、ヴォルテールも連署したであろう思想を持っていた。「天才が生み出すなら、保存するのは趣味である。趣味のない天才は崇高な狂気にすぎない。この繊細な鑑識眼が創造の才能よりさらに稀だとは、何と奇妙なことだろう! 知性と天才は各世紀へかなり均等に分布している。しかし、その世紀のなかでも、趣味が純粋な姿で現れるのは特定の国だけであり、その国のなかでも特定の瞬間だけである。その前にも後にも、すべては不足か過剰によって人を不快にする。」

彼は明確に区別された類型を支持した――「ジャンルの区別は自然そのものから生まれた」――。それにもかかわらず、自分自身の文体によって、最も根本的な混同の一つ、散文と詩との混同を促していた。

彼は誰よりも地方色を普及させることに貢献しながら、同時にその空しさを指摘した。「ラシーヌの天才は衣服の裁断から何も借りていない。……人々が肘掛け椅子とビロードを模倣するのは、そのビロードの上、その肘掛け椅子に座っている人間の性格を、もはや描けなくなったときである。」

ルネはルネの病を嘲笑する。「バイロン卿は嘆かわしい流派を創始した」と彼は言う。「彼が生み出したチャイルド・ハロルドたちに、私が自分を夢見るルネたちへ苦しめられているのと同じほど苦しめられたのだろう、と私は思う。もし『ルネ』が存在しなかったなら、私は二度と書かないだろう。破壊できるものなら破壊したい。韻文のルネと散文のルネが群れをなして湧き出した。聞こえるのは、ばらばらの嘆きの句ばかりになった。語られるのは風と嵐、雲と夜へ投げかけられる意味不明の言葉ばかりだった。学校を出たばかりの物書きで、自分を世で最も不幸な人間だと夢想しなかった者はなく、人生を使い果たし、自分の天才に責め苛まれていると思わなかった十六歳の若者はなく、自分の思想の深淵で、漠然と何かを求める情念へ身を委ねなかった者はない」などと続く。

シャトーブリアンは、自分がロマン派の追随者たちの「粗野さ」を避けられたのは、フォンターヌの古典的影響によると述べている。

しかし一方でルソーを、他方でロマン主義者を軽んじたシャトーブリアンの態度の多くは、それ自体がロマン主義的特徴である。彼は自分の唯一無二性の感覚にあまりに満たされていたため、師も弟子も認めようとしなかった。

理論と実践との矛盾は、バイロンよりシャトーブリアンのほうがさらに露骨である。バイロンが旧い文学秩序を称揚したことには、実際の創作にも対応するものがあった。彼は、精神が山々と海へ流れ出すときだけでなく、『審判の幻』のような詩でも創造的である。要するに、バイロンはシャトーブリアンよりはるかにロマン主義的人物ではない。社会を風刺するときでさえ、フランス人より社会から隔絶していない。

シャトーブリアンが徹底して創造的になるのは、自分自身の郷愁とニンフに憑かれたような憧れを語るとき、あるいは外的自然の様相を暗示的に描くときだけである。この二つの気分はもちろん、しばしば融合する。ジュベールの言葉では、彼の指には「護符」が貼りついていた。そして彼はこの魅惑の才能を知的目的のためではなく、感覚生活を豊かにし、深くするために用いた。

「彼こそ」とルメートル氏は言う。「フランス語へ最も多くの音楽、最も多くのイメージ、最も多くの香り、いわば最も多くの柔らかな接触と歓喜を導入し、官能と死について最も陶酔的な文章を書いた人物である。」 創作の側面ではバイロンより知的幅がはるかに狭いが、批評家としては彼よりはるかに優れている。

ゲーテによれば、バイロンは思索しはじめたとたん子供になった。しかも彼には、フォンターヌとジュベールのような「守護天使」が傍らにいなかった。『ボウルズへの書簡』の観点は、全体として擬古典主義的である。

シャトーブリアンにも擬古典主義的側面があり、不幸にも、それが本来創造的であるべき文章へあふれ出すことがある。彼はあるロマン主義的な気分のなかで、十二歌からなる『アンリアード』全体より一行の価値があるブルターニュ民謡を知っていた、と述べている。しかし自作『殉教者』の大部分は、少なくとも『アンリアード』と同じほど人工的で、しかもまさに同じ流儀において人工的である。実際彼は、文学的異教を文学的キリスト教へ置き換えた。その仕方は、宗教的秘儀を空虚な文学的装飾として用いることへのボワローの警告を正当化するものだった。

彼はル・ボシュ神父と同じほど、詩的「機構」を暗黙に信頼している。しかも、この「機械仕掛け」を動かす滑車の軋みが、『殉教者』ほど苦痛なまでに聞こえる擬叙事詩はほとんどない。

しかしこの擬古典主義と並んで、シャトーブリアンには真正の古典的側面、言い換えれば形式への真正の知覚があった。バイロンのようにポープをギリシア神殿へ比較することはできなかっただろう。彼は折に触れて「古代的均整」について見事に語ることができる。 十八世紀の感傷性に対する彼の抗議は、壮大な流儀への本能を示す例として、しばしば引用されてきた。

「最も多く涙を引き出す作品が最良の想像力の作品だと考えるのは危険な誤りであり、多くの危険な誤りと同じく、ヴォルテールによって公認された。誰も自分が書いたとは認めたくないようなメロドラマでありながら、『アエネーイス』よりはるかに激しく感情をかき乱す作品を、いくつも挙げることができる。真の涙とは、詩の美によって呼び起こされる涙である。その涙には、悲しみと同じほど想像力が含まれていなければならない。それは、プリアモスがアキレウスへ、『私は、地上の誰一人耐えたことのないことに耐えた。わが子を殺した男の手を、唇へ運んだのだ』と言うとき、あるいはヨセフが、『私は、あなたがたがエジプトへ売った、あなたがたの兄弟ヨセフである』と叫ぶとき、われわれの眼へ浮かぶ涙である。」

このようにシャトーブリアンには、古典的、擬古典的、ロマン主義的要素の、いささか捉えにくい相互作用がある。批評における影響という観点からさえ、実際に重要なのはロマン主義的要素だけである。人々が彼から受け取ったのは、ある種の想像的・感情的刺激、新しい情念、新しい夢想、新しい暗示性への手ほどきだった。

人々が耳を傾けたのは、選択や「良い趣味」を求める彼の訴えではなく、共感と熱狂を求める訴えだった。「欠点をつつく批評を、美を見いだす偉大で実り豊かな批評へ置き換える時が来た」という彼の言葉は、 スタール夫人を反響しただけだったが、ユゴーによって取り上げられ、ロマン主義者が好んだ critique admirative――称賛的批評、すなわち判断的というより美的な批評の愛用句になった。

シャトーブリアン自身が『キリスト教精髄』で美的観点を適用したことは、何よりも十八世紀への反動である。あるいはもっと正確に言えば、ルソーの十八世紀と、フィロゾーフおよびヴォルテールの十八世紀との争いを継続したものである。ルソー自身は、最も広い意味、すなわち「感じる」を意味するギリシア語から導かれる意味で、「偉大な唯美主義者」と定義するのが、おそらく最も適切である。

サヴォワの助任司祭は、ポー川流域の上へ昇る朝日の栄光を生徒へ見せることで、神の存在を証明する。この美的理神論から美的カトリックへ移るのは、明らかに容易である。シャトーブリアンの場合、昇る太陽の光は壮麗な風景を照らすだけでなく、まさにその瞬間にオーブリ神父が空中へ掲げていた聖別された聖体をも照らす。そこで語り手は叫ぶ。「宗教の魅惑よ! キリスト教礼拝の壮麗よ!」

指摘されているように、『キリスト教精髄』にふさわしい題名は『キリスト教の美』だっただろう。シャトーブリアンは、地獄さえ美的に見ようとする。「ダンテとミルトンは、ホメロスやウェルギリウスの地獄と同じほど詩的な地獄を、われわれが持ちうることを示した。」

シャトーブリアンは、この作品によって十八世紀の信用を決定的に失わせたと自負した。「なぜこの世紀は十七世紀よりこれほど劣っているのか」と彼は問う。「もはや事実を取り繕う時ではない。われわれの時代の作家は、概して高く評価されすぎてきた。」のちにサント=ブーヴは、この文章をシャトーブリアン論の標語として掲げることになる。「ルソーとヴォルテールの作品に、これほど多くの非難すべきものがあるなら、レナルとディドロの作品については何と言えばよいのか。」

この劣等の説明は、もちろん、十八世紀が反宗教的であり、反宗教的だったのは想像力に欠け、想像力に欠けたのは分析的すぎたからだ、というものである。「ルイ十四世の時代に続いた世代へ眼を向けよ。静かで威厳ある顔、気高い服装と身のこなし、抑制された言葉を持つあの人々は、どこへ行ったのか。……彼らを探しても、もはや見つからない。別の時代の記念建造物の高い列柱の下を、暗く小さな人々が小人のように動き回っている。その硬い顔には、利己心と神への軽蔑が刻まれている。彼らは服装の気高さも、言葉の純潔も失った。」

「彼らを、先行した偉大な種族の息子ではなく、道化と見誤るだろう。新しい流派の弟子たちは、真の真実ではない、何とも名づけがたい真実によって、想像力を萎えさせる。……近代の作家は、あらゆるものを分割し、さらに細分し、感情を正確に測り、魂を計算へ服させ、神と宇宙を無の一時的変様へ還元する、狭い哲学を用いる。」 「推論の精神は想像力を破壊することによって、美術の基礎を掘り崩す。」 科学はつねに反宗教の時代を招き、その直後には破壊の時代が続く。

これらは、十九世紀初頭のフランス、ドイツ、イギリスのロマン主義者によって、千もの形で展開された同種の主題である。不幸にも、ある人物が分析へ抗議し、知性と分析から「想像力」「心」「魂」へ、あるいはスタール夫人のように「熱狂」へ訴えるという事実だけでは、その人の究極の立場について知りたいことのすべてはわからない。

ジュベールも同じように、「あまりに解剖学的になったため、人間であることをやめ、最も高貴で感動的な歩き方にさえ筋肉の動きしか見ない人間――ちょうどオルガン製作者が最も美しい音楽に、鍵盤の小さな音しか聞かないような人間」へ抗議した。 しかしジュベールがこの分析的過剰へ対置する「魂」は、ロマン主義者が対置する「魂」と同じなのか。

それが決定的な問題である。「魂」という語には、前章で論じた「心」や「直観」という語と同じ曖昧さがつきまとう。シャトーブリアンの「魂」は明らかにルソー的な魂であり、ジュベールのようなプラトン的「魂」ではない。この種の定式は、もちろん、生きた精神の神秘的統一、とりわけシャトーブリアンのような天才の精神へ適用するとき、細心の注意を要する。私自身は、いかなる意味においても彼の魂の偉大さを否定しない。

それでも概して彼は、〈一〉より〈多〉を直観する人物である。したがって彼が提供するものは知恵ではなく、美的知覚力である。

美的知覚力は、それ自体で貴重なものだ。しかし美的知覚力があるから宗教的でもある、と主張するのは、根底的なロマン主義の誤りへ陥ることである。この誤りは、知性より下にあるものを、知性より上にあるものの代用にしようとする試みと定義できる。「不信仰は趣味と天才の頽廃の主要原因である」とシャトーブリアンは言う。 ここにはラスキンの中心的命題が見える。

芸術と宗教を共通の源泉へ結びつけるだけでも、すでに危険な混同である。人は少しも芸術的でなくても真に宗教的でありうるし、その逆もありうる。ただし芸術と宗教は、千もの仕方で相互作用しうるし、通常そうしている、と付け加えるべきである。芸術と宗教の共通基盤を単なる唯美主義に置くとき、この混同は明確に有害となる。

ルソー、ラスキン、シャトーブリアンのようなロマン主義的唯美主義者が宗教的教師を自任するとき、分別ある人々は特有の苛立ちを覚える。誤りの性質を明瞭に突き止められなくても、何かがおかしいと本能的に感じるのである。シャトーブリアンのように真の内面性を欠きながら、同時に宗教の擁護者になることは、現実の代わりに身振りを置くことにすぎない。

すでに触れたシャトーブリアン論の書簡で、ジュベールは言う。「彼は決して自分を問いたださない。問いただすとしても、それは魂の外側の部分、すなわち趣味と想像力が満足しているか、思想が調和的に丸みを帯び、文章が音楽的か、イメージが鮮明か、などを知るためだけである。すべてがそれ自体で善いかどうかは、ほとんど気にかけない。それこそ彼の最小の関心事である。」 したがってサント=ブーヴとともに、1800年は偉大な文学時代の曙ではなく、頽廃の最も華麗な時期の一つの曙にすぎない、と言える。

キリスト教の真理より美的魅力を重視したシャトーブリアンの態度は、批評上の常識となっている。彼は真理より美を好んだと非難されてきたが、美は結局、単なる唯美主義以上のものなのだから、現実より幻影を好んだと言うほうが誤解が少ないかもしれない。彼自身が語るように、目的は知性を納得させることより、想像力を魅了することにある。

『キリスト教精髄』がほとんど関心を失った理由は、疑いなく、美的訴求に比べて知的訴求が乏しいことにある。ロマン主義の文章を読むとき、われわれはしばしば「これほど耐えがたいほど大量の酒に、パンは半ペニー分しかないのか!」と叫びたくなる。

彼は蛇の移動方法に原罪の証明を見つけ、三美神を三位一体を支持する論拠へ用い、蜂の処女性によって司祭の独身制を裏づける。彼はこう指摘する。「自然は不信仰者ほど繊細ではなかった。……自然は花の一科全体へ十字架の形を与えた。」 牛は九日間続けて働けないという事実から、安息日の必要性を証明する。「七日目には、その哀しげな鳴き声が、創造主の定めた休息を求める。」

シャトーブリアンの影響を追えば、最初に美的・中世的キリスト教徒が現れ、次に美的中世主義者、最後に中世主義者でもキリスト教徒でもない唯美主義者へ至る。最初から本質的要素だったのは唯美主義である。フランス作家を一つの階級としてカトリックへ、たとえ美的カトリックへさえ改宗させることには失敗したが、彼らを象牙の塔へ誘い込むことには成功した。彼は感覚能力を磨き、知性を顧みないよう彼らを促した。こうして世紀の心と頭は互いに対立させられた。

ファゲ氏が近代フランス作家の研究を、想像力の人々を一系列に、思想家たちを別系列に置いて書けたのは、部分的にはシャトーブリアンによる。ドイツ人にとっては、主要な近代作家が、偉大な想像的・感情的力であるだけでなく、偉大な知的力でもあったことは、並外れた幸運である。この点でゲーテとシャトーブリアンの対照は著しく、ゲーテとユゴーの対照はさらに著しい。

シャトーブリアンがキリスト教そのものではなく、芸術・文学との関係を扱うとき、はるかによい姿を見せる。この関係を論じる『キリスト教精髄』第二部と第三部には、すでに指摘した古典的、擬古典的、ロマン主義的要素の、やや捉えにくい相互作用が現れている。そのためこの部分は、全体として作品の他の部分より好意的に評価されながらも、評価がいくらか分かれてきたのだろう。

サント=ブーヴは、とりわけ古典的調子を感じ取っているように見える。 彼はシャトーブリアンに、人文学的記憶によって強化され豊かになった、文学的卓越性への生来の本能を見いだす。したがって全体的命題へ厳しい留保を加えながらも、細部を心から称賛する。

「著者が古代と近代の自然な人物像を比較する部分」――たとえばミルトンのアダムとイヴにおける夫婦と、ホメロスのオデュッセウスとペネロペとの比較――は、「繊細な美と精妙な陰影に満ちている。それは壮大な流儀による文学批評である」とサント=ブーヴは言う。さらに「古典的フランス批評の最良の実質は、このような頁に求められるべきだ」と続ける。

これに対してシェレールは、シャトーブリアンが読書から受けた印象を、ときにある種の雄弁さをもって表現したことは認めるが、サント=ブーヴが特に称賛した比較そのものに、型にはまった形式的なもの、要するに擬古典的なものを感じ取っている。

そこには、近代的な人物描写の鋭さがまだ欠けている。もちろん自分の功績を過小評価する最後の人物だったシャトーブリアン自身は、『墓の彼方からの回想』でこう述べる。「宗教がわれわれの物の見方と描き方へ与えた影響を論じた段落、……古代劇の人物へ導入された新しい感情を調べるために捧げた章には、新しい批評の萌芽が含まれている。」

彼のいう比較では、古典的趣味とロマン主義的本能の双方が彼を助けている。気分が主にロマン主義的か古典的かに応じ、異教古代へ対置するものを、中世にすることも、古典的であると同時にキリスト教的だったフランス十七世紀にすることもできる。ジュベールを含むほかのフランス反動家と同じく、彼はボシュエを称揚する。ボシュエは、「『時間』『死』という、永遠の静かな深みで反響するあの偉大な言葉を、唇から落とすことを好む」。

『殉教者』の著者が、キリスト教叙事詩の二大代表、タッソーとミルトンへ特別な偏愛を示すのは当然である。彼の命題は、キリスト教徒であると同時に中世人でもあるタッソーの人物たちが、ホメロスの人物より詩的であることを証明するという、やや困難な課題を課した。ミルトンにおいて壮大な流儀とキリスト教的主題が結びついていることは、シャトーブリアンへ特別に訴えた。

さらに忘れてならないのは、彼が青年期の最も形成的な数年間をイギリスで過ごし、イギリスの影響が彼にきわめて明瞭に見えることである。

この影響の主要な成果は、ミルトンの翻訳と、それに添えるため書いた、いささか散漫で表面的なイギリス文学研究だった。この研究へロマン主義的自我の調子が侵入するとき――たとえば「今やわれわれ二国で王政が終わりへ傾いている以上、ミルトンと私とのあいだにもはや政治的争いはない」と述べる箇所――、 そこには、かすかではあるが、ユゴーのシェイクスピアについての並外れた狂詩が先取りされている。

シャトーブリアンは、自分の批評における新しさの要素を特に強調した点で、シェレールやサント=ブーヴと異なっていた。たとえば彼は、「それまでまったく理解されていなかったこと」、すなわち同じ名と、いくらか似た外形のもとでも、ラシーヌとエウリピデスの人物たちは、まったく異なる感情を表すことを示した。「ラシーヌのフェードルは、もはや異教徒ではなく、道を誤ったキリスト教徒の妻である」などと彼は言う。

ここでシャトーブリアンは、批評家としての真の影響をたどる手掛かりを与えていると思う。新しい批評が心に留めた教訓とは、芸術作品の単なる形式を越えて、その魂へ到達すべきだ、というものだった。

しかしここでも、「魂」という語自体が曖昧であることを忘れてはならない。芸術作品の単なる外的形式の背後には、二つの「魂」がありうる。どちらも直観によってのみ捉えられる。一つは作品へ一般的・代表的価値を与える魂であり、もう一つは作品を唯一無二にする魂である。

完全に美しい芸術作品では、この二種類の魂が生命的に融合している。一方は均整と静けさ、いわば内的形式として感じられ、他方は個別的生命と表現として感じられる。プラトン的に言えば、完全な芸術作品は、想像力を媒介として、〈多〉のなかに〈一〉が存在することを暗示する。

シャトーブリアンが本能的に捉え、表現する魂は、形式と均整を生み出す魂ではなく、表現を生み出す魂である。ただし、たとえばラスキンほど一面的に表現へ傾いてはいない。

さらに彼は、眼前の対象へ美的に反応し、その唯一性を描くだけではない。ロマン主義的郷愁と起源において密接に結びついた、時間と空間を想像力で旅し、時間的あるいは空間的に遠いものを鮮明に伝える才能も備えている。

たとえば『殉教者』で扱った時代のキリスト教について、彼は適切な観念を与えていない。それには彼が持っていた以上に、人間性の永続的要素への洞察が必要だっただろう。実際彼は、その時代の異教のほうに親しんでいる。美的カトリックという外観の背後で、彼自身がキリスト教的水準より異教的水準に生きていたからである。

彼が最良のときに行うのは、その時代に固有だったもの、その個別的表現、ほかのすべての時代と区別する正確で絵画的な細部を、われわれの内なる眼の前へ呼び出すことである。この地方色の技術は、明らかに文学批評家と同じほど歴史家に関係する。シャトーブリアンは、新しい歴史精神の重要な先駆者の一人に数えられる。

人間性の永続的側面から、局所的・一時的側面へ重点が全面的に移ったことは、オーギュスタン・ティエリがシャトーブリアンの影響を語った記述に、あまりによく現れている。そのため、よく知られた文章ではあるが引用しなければならない。ティエリは、ミシュレとフランス・ロマン主義歴史学派全体への道を準備したが、本人は新しい絵画性を用いる際に、ほとんどアッティカ的な節度を示したことを覚えておくべきである。

ティエリは、1810年、同級生たちが散歩へ出ているあいだ、ブロワ中学校の丸天井の教室で『殉教者』を読んだ、と語る。とりわけ彼を動かしたのは、ユードールの物語、「衰退期の帝国の生きた歴史」だった。彼はその文体を教科書の文体と対比した。「キルデリク王の子クローヴィスは484年に王位へ上り、勝利によってフランス王政の基礎を強化した」などという文体である。

「シャトーブリアン氏のあの恐ろしいフランク人、熊、海豹、水牛、野猪の毛皮をまとったフランク人について、私に何かの観念を与えたものは、それまで何一つなかった。皮張りの舟と、大きな牛に引かれる車を備えたあの防備陣地、槍の森のなかに野獣の毛皮と半裸の身体しか見分けられない、三角形に布陣したあの軍隊についても同じだった。……フランク人の戦歌が私に与えた印象には、電撃のようなものがあった。私は座っていた場所を離れ、教室を行き来し、敷石へ足音を響かせながら、大声で繰り返した。」

「『ファラモン! ファラモン! われわれは剣をもって戦った!』などと。……この熱狂の瞬間は、おそらく私の将来の天職を決定した。……これが、新しい文学時代を切り開き、支配する天才作家に対して私が負うものだ。この時代の道を異なる方向へ進むすべての者は、研究の源泉、最初の霊感の場所で、同じように彼と出会った。ダンテがウェルギリウスへ言ったように、彼へふさわしく『あなたはわが導き手、わが主、わが師』と言えない者は一人もいない。」

こうして歴史は抽象的で無色なものであることをやめ、具体的で表現的になる。古い人工的統一を捨て、その代わりに人間性の可変的なものへの感覚を育てる。しかしこの感覚は、新しい生命的な統一の知覚によって和らげられてはいない。

ティエリは、自分や他の人々へ与えたシャトーブリアンの影響を、いくらか誇張しているのかもしれない。しかしシャトーブリアンが旧秩序と、それが含意する固定基準の擁護者を装っていたにもかかわらず、実際の実例の力によって、歴史と文学批評の双方における世紀の主要運動、すなわち絶対から相対への運動を、重要な程度まで促進したことは明らかである。


原注

Émile Faguet, XIXe Siècle, 71。

G. Merlet, Tableau de la littérature française (1800-1815), III, 157。

この理性への教化的な信仰告白と、次の文章を対照せよ。「ハイデルベルクでは、途方もなく大きな酒樽が見せられる。コロッセウムは酒飲みたちによって破壊されたが、少なくともラインのウェスパシアヌスたちのこの円形闘技場で、キリスト教徒は一人も生命を失っていない。ただ理性が失われた。だが大した損失ではない。」原文:On montre à Heidelberg un tonneau démesuré, Colisée en ruine des ivrognes; du moins aucun chrétien n’a perdu la vie dans cet amphithéâtre des Vespasiens du Rhin; la raison, oui: ce n’est pas grande perte.Mémoires d’Outre-Tombe, 4 juin 1833)

Essai sur la littérature anglaise

Essai sur la littérature anglaise

Mémoires d’Outre-Tombe

Essai sur la littérature anglaise。エミール・デシャンの詩句も参照。「純粋で輝く灯として見守ったフォンターヌ、/シャトーブリアンの傍らにいる、もう一人のボワローのように。」原文:Fontanes qui veillait, flambeau pur et brillant, / Comme un autre Boileau, près de Chateaubriand.

Jules Lemaître, Chateaubriand, 342。

たとえば次の文章。「近代人は一般に、古代人より博識で、繊細で、柔和で、しばしば作品においてさらに興味深い。しかし古代人は近代人より単純で、荘厳で、悲劇的で、豊かで、とりわけ真実である。古代人の趣味はいっそう確かで、想像力はいっそう高貴である。彼らは全体を作ることしか知らず、装飾を顧みない。嘆く牧人、物語る老人、戦う英雄――彼らにとってはこれが一篇の詩全体である。何もないその詩が、事件と人物で一杯のわれわれの小説より、なぜかいっそう満ちている。文章術は絵画術に従ったように見える。近代詩人のパレットは無限に多様な色調と陰影で覆われるが、古代詩人はポリュグノトスの三色で絵を構成する。」原文:Les modernes sont en général plus savants, plus délicats, plus déliés, souvent même plus intéressants dans leurs compositions que les anciens; mais ceux-ci sont plus simples, plus augustes, plus tragiques, plus abondants et surtout plus vrais que les modernes. Ils ont un goût plus sûr, une imagination plus noble: ils ne savent travailler que l’ensemble, et négligent les ornements; un berger qui se plaint, un vieillard qui raconte, un héros qui combat: voilà pour eux tout un poème, et l’on ne sait comment il arrive que ce poème, où il n’y a rien, est cependant mieux rempli que nos romans chargés d’incidents et de personnages. L’art d’écrire semble avoir suivi l’art de la peinture; la palette du poète moderne se couvre d’une variété infinie de teintes et de nuances; le poète antique compose ses tableaux avec les trois couleurs du Polygnote.Génie du Christianisme, 2e Partie, livre II, c. II)

『アタラ』序文。Matthew Arnold, Essays in Criticism, I, 277も参照。コールリッジも十八世紀の演劇的な涙もろさへ同様の抗議をした。Lectures on Shakespeare(Bohn版), 124を参照。

この言葉は『クロムウェル序文』では本文の形で現れる。シャトーブリアンの表現は少し異なる。1819年2月のデュソー『文学年報』についての彼の論文を参照。

Génie du Christianisme, 2e Partie, livre IV, c. XIII。

Génie du Christianisme, 3e Partie, livre IV, c. V。

Génie du Christianisme, 3e Partie, livre IV, c. V。

同上、3e Partie, livre I, c. VII。

同上、livre II, c. I et II。

Tit. XXIII, CLXXXVI。

Génie du Christianisme, 3e Partie, livre IV, c. V。

Correspondance de Joubert, 108-109。

Génie du Christianisme, 4e Partie, livre I, c. II。

同上、c. IV。

Sainte-Beuve, Chateaubriand et son groupe littéraire, I, 318以下。

Essai sur la littérature anglaise 最終段落。

Augustin Thierry, Récits des temps mérovingiens 序文。


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第IV章 サント=ブーヴへの移行――ヴィルマン、クーザン、ニザール

十九世紀前半を通じたフランス批評は、ほとんど全面的にロマン主義運動との関係から研究できる。厳格な伝統主義者からなる極端な「右」が、文学的急進主義者からなる極端な「左」へ対立し、そのあいだに、より穏健な革新を歓迎する「中道」と「中道左派」などがある。ロマン主義への賛否によるこの批評上の配置は、十九世紀後半には多少とも見えにくくなったが、今日では再び現れている。ただし極端な「右」と極端な「左」とのあいだに、意見の中間的な色合いが以前より少なくなっているかもしれない。

今日、文学上の保守主義者は、少なくとも表面的には、宗教的・政治的にも保守主義者であるという一貫性を示している。ところが以前の時代には、この点で奇妙な混乱があった。帝政期の批評家について述べた際、すでに触れたとおりである。政治的急進主義者が文学では最も「古典的」であることがしばしばあり、ロマン主義的革新者は、シャトーブリアンの後に続いて、「王座と祭壇」の擁護者を装うのを常とした。この型の王党派・キリスト教徒として出発したユゴーが、ロマン主義とは結局「文学における自由主義」にすぎないと発見するには、数年を要した。

対立する文学党派の戦いは、パンフレット、序文、新聞・雑誌の記事を通じて行われた。フランスにおける文学ジャーナリズムが、王政復古期と七月王政初期ほど繁栄した時期はない。『ラ・ミューズ・フランセーズ』(1823年7月―1824年7月)は、初期ロマン主義者の典型的機関誌だった。政治的にはきわめて反動的で、『殉教者』を称賛し、何よりも欠点の批評へ美の批評を対置した。

反対の極には、政治的に自由主義の『コンスティテュショネル』があった。この新聞では「ロマン主義者」は、外国人、反動家、ときには狂人と同義だった。「ロマン主義は」とそこには書かれている。「嘲笑の対象ではない。夢遊病や癲癇と同じ病気である。」ロマン主義者とは、正気を失いはじめた人間である。「憐れみ、理性をもって語りかけ、徐々に正気へ戻さなければならない。しかし彼を喜劇の題材にはできず、せいぜい医学論文の題材にできるだけだ。」

この時代の文学雑誌で、疑いなく最も優れていたのは『グローブ』(1824―1831年)だった。ゲーテはこれを称賛し、とりわけ若きサント=ブーヴによるユゴー論へ注目した。『グローブ』は、スタール夫人と結びつけてきた新しいコスモポリタニズムを推進するため、当時のどの雑誌にも劣らぬ働きをし、とりわけシェイクスピアを擁護した。

この時代の厳格な伝統主義者には、外国からの普遍的侵入によって、フランス語の純粋さと、その統一性そのものが脅かされているように思われた。

1814年という早い時期の風刺紙に、「ロマン主義連合」の記事が見られる。この連合では、イギリスとドイツをスタール夫人とバンジャマン・コンスタンが代表し、プロイセン、ロシア、オーストリアなどを「シュレーゲルなる人物」が代表し、イタリアとスペインをシスモンディとその『南欧文学』が代表する。「この連合の目的は、一方で北方諸語の晦渋を、他方で南方の奇想と誇張をフランス語へ持ち込み、フランス人が互いを理解できなくなるまでこの作業を続けることにある。」

この時期、外国文学の知識を開くための巨大な仕組みが組織された。しかしロマン主義運動は、実際以上にコスモポリタンに見える。『グローブ』とその編集者たちがゲーテに抱かせた希望は実現しなかった。この時代の有望な若者のあまりに多くが、七月革命後、政治へ徴用された。ロマン主義の指導者たちは、階級として見れば、外国の影響――実際、いかなる種類の深い知的教養――にも、かなり無縁だった。ルソーとそのフランスの追随者の影響を、純粋なフランス伝統への外国的侵入と見なすなら別である。

当時、全能に見えた二つの外国的影響、バイロンとスコットの影響でさえ、ルソーとシャトーブリアンから下ってくる大きな主流の表面的な現れへ作用したにすぎない。バイロンは、文学的権威を含むあらゆる権威への反乱を促した。スコットはシャトーブリアンと強力に協働し、時間と空間を想像力で旅する新しい技術を教えた。

スコットが流行させた地方色と歴史小説の流行は、さらに深い何か、すなわち人生と文学を絶対的ではなく、相対的・歴史的に見る傾向を証明するかぎりでのみ重要である。

I

この時期、より歴史的でコスモポリタンな観点への前進をもたらしたのは、外国文学の知識の普及や『グローブ』のような雑誌だけではなく、三人の卓越した教授の影響でもあった。政治的に退屈だった王政復古期で、おそらく最も胸を躍らせる出来事は、ヴィルマン、クーザン、ギゾーの公開講義だった。1828年から1830年にかけてのクーザンの講義には、二千人の熱心な聴講者が集まったと伝えられる。

クーザン、ヴィルマン、ギゾーの独創性は、それぞれ哲学、文学批評、歴史そのものの領域へ、新しい歴史的方法の何かを注入したことにある。三人とも、多少なりとも関係を持ち、クーザンとヴィルマンの講義が掲載された『グローブ』と同じく「中道左派」であり、スタール夫人を継承した。

ギゾーは、統合的・有機的発展という観念を歴史へ持ち込んだ。政治史を孤立させず、特定の国と時代における生と活動のほかの現れへ関連づけた。

しかしギゾーは、純粋な相対主義者からはほど遠い。彼は「教条派」の指導者だった。イギリスの光景がスタール夫人に抱かせた議会制自由主義への称賛は、ギゾーとほかの教条派において政治的信条へ硬化する傾向があった。彼はこの信条の規律を、過去と現在の双方へ押しつけようとしすぎた。言い換えれば、彼には歴史哲学があった。歴史哲学の危険は、事実の無限で生きた複雑さを、いささか恣意的な知的鋳型へ押し込むことに常にある。

構成力では、クーザンは明らかにギゾーより劣る。彼が作り上げた「折衷哲学」あるいは「精神主義」は、宗教と合理主義とのいささか不明確な混合物であり、超自然主義者にも純粋な自然哲学者にも満足できないものだった。しかし彼は長年、それをフランス高等教育を支配するきわめて効果的な道具にした。

クーザンの真の独創性は、哲学を哲学史へ変えたことにある。彼はドイツを訪れ、ドイツの思想家、とりわけヘーゲルをフランスの公衆へ解説することで、スタール夫人が模範を示した先駆的事業を継続した。実際彼には、探検家と知的冒険者の本能が数多くあった。この気質は、のちに哲学から文学、とりわけフランス十七世紀前半の文学へ転じたとき、さらに明瞭になった。彼は無限の熱意をもってこの新領域を占領し、征服者のようにそこへ居を定めた。

彼はその時代の人物、とりわけフロンドの乱の女主人公たちへ想像力で同化する仕方に、俳優の才能をいくらか示した。十七世紀の風味を持つ彼の文体そのものが、ある程度は演技的な人物化であり、いずれにせよ本人そのものとはほとんど言えない。

クーザン自身は性急で極端であり、外からのいかなる抑制にも耐えられず、自分へ抑制を課そうともしなかった。この点で十七世紀からはるかに遠い。女主人公の魅力を喜々として詳述したため、さまざまな冗談の的になった。「彼は」とサント=ブーヴは言った。「偉大な哲学体系を創立するため出発し、ロングヴィル夫人に恋をした。」

彼は恋する者の肩入れ、すなわち愛する対象のいかなる欠点も認めたがらない態度だけでなく、恋する者の嫉妬も示した。サント=ブーヴは、クーザンの縄張りへ入り込もうとしたとき、いかに乱暴に「肘で押しのけられた」かを語っている。のちにクーザンの嫉妬は薄れた。本人の説明によれば、「ほかのところを愛している」からだった。

一つの領域へ立てこもり、その領域への理解と共感によって、判断と釣り合いの感覚を圧倒させる傾向は、近代の専門家と結びつけられる特徴である。実際クーザンには、熱狂と新しく未発見の事実への固執、要するにロマンスと科学との混合が見いだされる。それは文献学的研究者に、われわれがよく知る混合である。この観点から、クーザンによるパスカル『パンセ』原文の発見と、1843年のアカデミーへの発表は、一時代を画する。

発見そのものには大きな価値があった。しかしそれがフランスの学問と批評へ与えた方向は、人文主義的な観察者に多少の不安を抱かせた。クーザン以後の批評家は、判断、観念、趣味によって輝くより、十七世紀あるいはほかの時代の文書庫から、未刊の事実や文書を持ち出すことによって輝こうとした。

コンラール文書は名声の鉱山になった、とサント=ブーヴは嘆き、コンラールの筆跡はきわめて読みやすい、と付け加えた。要するにクーザンは、後にブリュンティエールが攻撃することになる「狂乱の研究時代」、すなわち fureur de l’inédit――未刊資料への熱狂を、フランスで開始することに、同時代の誰にも劣らぬほど貢献した。結局この熱狂は、ほかのいくつかの国々ほどには、フランスの文学的基準へ破壊的でなかった。

II

ヴィルマンには、独創的研究者の欠点がなかったが、その美点もある程度欠いていた。彼の本能は、物事をそれ自体として考察するより、雄弁上の効果を考えて扱うことに向かっていた。その文体には、古代修辞学の花飾りを思わせるものが多すぎる。まず美しい句を考え、そのあと何を中へ入れるか考えた、とさえ非難された。

彼はクーザンほど逆説的ではなく、伝統的な意味でいっそう確かな趣味を持っていた。実際彼の大きな功績は、ヴォルテールとラ・アルプが理解した意味での趣味と、歴史的相対性の感覚とを結びつけたことである。

ヴィルマンの最も効果的な講義は十八世紀文学についてのものであり、新しいコスモポリタン精神をこの時代へ適用したものだった。彼は、この時代にフランス、イギリス、イタリアの文明が相互に関係し、自分の言葉で言えば「互いへ十字砲火を浴びせた」仕方を示そうとする。それと同時に、このように全体として研究された十八世紀の生活が、特定の文学形式に対応物を見いだす仕方も示そうとした。

『アンリアード』について彼は言う。「ヴォルテールが関心を持つべきだったのは、叙事詩へ課された規則ではなく、叙事詩の成立を可能にする社会条件だった。」 文学は個人の選択よりさらに社会条件の所産であるから、非難の鋭さは鈍る。「ルサージュは、散文的な精神習慣を持つとして厳しく批判されてきた。この精神習慣にわれわれが特に見るのは、摂政時代の最初の年月へ完璧に溶け込む、ルイ十四世治世末年の刻印である。」

ヴィルマンは、『マノン・レスコー』の冒険にプレヴォー自身の生涯の出来事の反映を見るときのように、作品を著者へも関連づける。

作品と著者、あるいは作品と時代のあいだにヴィルマンが築いた関係は、後世の歴史的方法の達人と比較すれば、いささか緩い。歴史的要素と批評的要素は、ときに並んで置かれているだけで、サント=ブーヴの場合のように相互浸透していないように見える。

ヴィルマン、ギゾー、クーザンの三人は、革新を強く保守的・伝統的な要素と結びつけている。すでに述べたように、彼らは「中道左派」である。この時代の極端な「右」、すなわち文学的保守主義の最も優れた代表者は、疑いなくデジレ・ニザールである。

十九世紀前半にニザールが演じた役割は、今日ブリュンティエールが演じる役割にいくらか似ている。二人の違いは、ニザールには「歴史があまりに少ない。つまり年代、事実、伝記があまりに少ない」とブリュンティエールが不満を述べたことに現れている。 要するにニザールは、ブリュンティエールより歴史感覚が少なく、論理的力が弱く、科学も少ない――疑似科学も少ない。しかし生来の趣味の精妙さは、より多く持っている。

ニザールの反動精神は、第一に、彼がスタール夫人の意味での国民主義者でもコスモポリタンでもない事実に現れる。彼は「純粋に国民的な文学という幻想」へ抗議する。 他方で、「外国文学をうまく模倣できる国民はない。フランスではこの模倣は作家にとって致命的である」と言う。

文学において貴重なものは、純粋に国民的ではなく、普遍的・人間的でなければならない。しかし国民的限界から逃れる道は、単なる理解と共感ではなく、偉大な人文的・宗教的伝統、ニザールが「古典とキリスト教という二重の古代」と呼ぶもののなかで、明確な規律を受けることである。

彼は、理解と共感による新しいコスモポリタニズムを、フランス文学の最も優れた特質の一部への脅威と見た。すでに見たように、ゲーテによれば、スタール夫人はドイツとフランスを隔てていた万里の長城を壊した。ニザールなら、この城壁を再建することに賛成しただろう。

第一の必要は知識ではなく規律である。規律を得るには強力な中央権威を持ち、規範からのあらゆる逸脱を疑いの眼で見なければならない。ニザールが立てる権威は、フランス精神についてのある観念である。その高い現れにおいては人間精神そのものと一致する、と彼は信じさせようとする。このように理解されたフランス精神、あるいは人間精神からの逸脱は、しぶしぶしか認められない。

ニザールはブリュンティエールと同じく、sens propre――個人的感覚を、伝統に表れた sens commun――共通感覚へ犠牲にする点で、少しもひるまない。他国は、「危険と逸脱に満ちた自由へ、規律より好意的である。……これに対しフランス精神は、自由より規律へ傾いている。……フランスにおける天才とは、誰もが知っていることを言う者である。」

ニザールは、伝統に表れた共通感覚が誤りうることを認めない。彼は、過去の判決を絶えず逆転させ、伝統的に黒いものを白く洗い、伝統的に白いものを黒く塗る近代学者の対極にいる。たとえばロンサールについて、彼は言う。「ボワローが判決を下した。残るのは、この判断を支持する理由を示すことだけである。」

フランス精神が完全に成熟した時代、すなわち人間精神と最も完全に一致した時代が、ルイ十四世の時代であることは言うまでもない。

実際ニザールは、それ以前にもそれ以後にも、すべてが不足か過剰によって誤る「古典時代」の理論を、いささか極端な形で採用している。フランス精神そのものは、特定の時期に生まれたとはほとんど言えない。それは時間と空間の外、自分だけのスコラ的天国に存在し、その高みから、その輪郭のいくらかを捉えた個人へ微笑みかけているように見える。ニザールの言葉では、フランス精神がその個人のなかに「自分自身を認めた」のである。

さて、まだ幼年期にあった中世の人々のなかに、フランス精神は自分を認めることができなかった。したがってニザールはブリュンティエールと同じく、中世を軽蔑した。実際、十七世紀の入口近くまで来なければ、フランス精神の光を断続的にしか見いださない。十七世紀へ到達すると、安堵の溜息をつき、自分の主題の中心へ入るように、そこへ居を定める。四巻からなる『歴史』のうち二巻が、この時代へ捧げられている。

十七世紀そのものでも、彼は最も権威的で規律的なものを偏愛する。異なる作家へ割いた実際の頁数は、その好みを照らす。モンテーニュは32頁、モリエールは44頁、ラ・フォンテーヌは37頁である。他方、ボワローには120頁、ボシュエには130頁、ルイ十四世本人には100頁が割かれている!

フランス文学のすべてを一つの点、一つの中心へ収束させることによって、ニザールは一種の文学的損益勘定を設けることになる。

フランス精神が自分自身を認めるすべての作品は利益へ計上される。他方、フランス精神の純粋な輪郭が曇り、十七世紀の光り輝く頂からの下降を準備する作品は、損失に数えられる。

彼は言う。「もし十七世紀におけるフランス精神の完成が、異教とキリスト教という二つの古代の内的結合にあったことが真実なら、この結合が壊れる日はフランス精神の衰退を見ることになり、完全な作品の時代は過ぎ去ったことになる。何ということだ! すでに頽廃なのか。望むならこの語を避けよう。しかし事実に眼を閉じてはならない。……十八世紀のフランス文学に生じた変化を、別の名で呼ぼう。ただし進歩という名では呼ばないこと、利益によって損失へ眼を曇らされないことが条件である。」

ニザールは、後代の反動家に先立ち、ルソーを fons et origo malorum――悪の源泉であり起源――として攻撃する。ルソーこそ、フランス精神の完全性を誰よりも腐敗させ、伝統に体現された共通感覚に対する個人的感覚の勝利を準備した人物である。ルソーは特異であることへの愛をあまりに押し進め、「ほかの人々と共有していた善より、自分だけの悪をいっそう満足して眺めた」と彼は言う。

しかし自分以前の全員が誤っていたという原則で進むこの革新者も、無意識に全員と一致し、高慢な夢想から経験と日常的実践の言葉へ降りてくるときほど、よく書くことはない。

ニザールはルソーを空想的改革者の典型、すなわち自分を改めることより世界を改めることへ関心を持つ人物として扱う。この種の人々は今日ほど多かったことがないから、空想的改革者に関するニザールの心理分析は、少しも辛辣さを失っていない。

『告白』について彼は言う。ルソーはすでにここで、後代の作家たち、すなわち「自分の高慢を、同じ時代に生まれる罪を犯したすべての人間を犠牲に捧げる、カルタゴの偶像の一つにした」作家たちへ模範を示している。 ここで彼がユゴーを横目に見ていることは疑いない。

後代のロマン主義者に対するニザールの態度を知るには、『歴史』から雑論、とりわけ『ロマン派についての論集』へ移らなければならない。彼自身の語るところでは、七月革命の二、三年前、彼にもロマン主義的迷走の時期があり、『ジュルナル・デ・デバ』へユゴーを称賛する記事を寄稿した。「しかし」と彼は付け加える。「古典的良識が私へ戻ってきた。そのとき私は、気取りと精妙さによって文体を十分に腐敗させ、数人のドイツ作家から励まされ、さらには楽しまれるほどになっていた。」

彼は古典的良識への帰還を、特にロマン主義の劣った形態へ向けた『安易な文学に反対する宣言』の刊行によって祝った。続いて『ルヴュ・ド・パリ』で、彼とジュール・ジャナンとの活発な敵対の応酬が起きた。

『頽廃期のラテン詩人』にも、強い論争的意図がある。白銀期ラテン文学の華麗な研究になりえたものの価値は、頽廃期ローマの詩人と同時代の詩人との並行関係を展開しようとする露骨な欲望によって損なわれている。

「1836年のヴィクトル・ユゴー」という論文で、ユゴーには「理性、趣味、批評感覚」が欠け、「その文学的死は差し迫り、避けられない」と宣告する。韻文より散文のほうが優れているとほのめかす。ユゴーは成熟しない天才の典型である。彼には進歩なき豊富さがあり、「太りつつある身体のなかに、痩せつつある知性」がある。 この論文に対するユゴーの怒りは、その後の生涯を通じ、折に触れてあふれ出した。三十年後、彼は「ニザール氏に似た驢馬が鳴いている」と書いた。

ユゴーその他の想像力の無抑制を攻撃したことによって、ニザール自身がこの点で抑制されているのは、抑制すべきものをあまり多く持たなかったからだ、という疑いを招いた。彼の理想的規範は、ときに本人の気質の限界をあまりにはっきり反映する。人間精神がフランス精神と同一視されるだけでなく、フランス精神もしばしばニザール精神の投影に見える。

彼はフランス文学の複雑な現実を、自分の論理的定義というプロクルステスの寝台へ、切断の危険を冒してでも押し込む用意がありすぎる。このように理解された古典精神には、何かスコラ的なものがある。それはテーヌによる、古典精神と抽象的推論精神との不合理な同一視を、あまりに正当化してしまうものでもある。

ニザールがデカルトの抽象的推論を古典精神へ関連づける仕方も、同じ誤りを助長する。 サント=ブーヴが「批評家よ、なぜ型を一つしか持たないのか」と抗議するとき、 彼のほうが古典的良識に近い。ニザールが立てる、いささか荘重なフランス精神の像へ、ヴォルテールの「われわれフランス人はヨーロッパの泡立てクリームである」という言葉を対置し、 ボシュエに劣らずヴォルテール自身にも代表的フランス人を見るときも同じである。

ニザールは、狭量・排他的にならず選択的であること、収縮に見えない集中を達成することという、難しい問題を解決したとはほとんど言えない。この問題は、彼が生きたような大拡張の時代には、とりわけ難しい。過度に否定的に見えず、自分の時代を否定するのは難しい。また多くのフランス反動家のように、過去への愛より現在への憎悪によって動かされているように見えずにそうするのも難しい。

「批評は」とニザールは言う。「十九世紀の一般的で支配的な能力である。……それはあらゆる作品の魂であり、あらゆるジャンルへ混ざり込んでいる。」 しかし十九世紀を支配する批評は、多くの点でニザールがこの語によって理解したものの正反対である。それは第一に包括的・共感的・歴史的であり、ニザール自身の批評のように第一に判断的ではない。

ユゴーが天才への唯一正しい態度は「獣のように称賛する」ことだと断言し、誰もが共感の原理を称揚していた時代に、ニザールは、作家については称賛者より敵のほうが正しい可能性が高いと主張した。

何かについて正しい意見へ到達するための最悪の状態は、「愛の迷信的な眼」でそれを見ることだ、とも主張した。 こうしてニザールは、ときにブリュンティエールと同じく、保守主義へ逆説の香辛料を加え、伝統的な共通感覚を擁護するあまり、同時代人の共通感覚へ逆らうことに成功する。

ニザールの趣味と判断の生来の精妙さは、体系とは別に、作品の多くの頁へ積極的価値を与えている。さらにその作品は、欠点がもたらす長所を高度に持つ。体系には欠陥があるが、一貫して適用することによって、『歴史』全体へ堂々として堅固な、記念碑的性格を与えている。

この観点からサント=ブーヴは、ニザールの業績と、本人がはるかに共感した同時代人、自然科学者の息子ジャン=ジャック・アンペールの業績とを、やや悲しげに比較せずにはいられない。アンペールは、新しい歴史的・コスモポリタンな美徳をことごとく高度に身につけていた。知的な受容力はあらゆるものへ開かれていた。ある国とことばから別の国とことばへ素早く移り、思想と感情の突然の対照、サント=ブーヴの言葉では「知的トルコ風呂」を楽しむのを好んだ。

彼はスタール夫人の命令――il faut avoir l’esprit européen、「ヨーロッパ的精神を持たなければならない」――に従っただけでなく、その地平をヨーロッパの外へまで広げた。サント=ブーヴは、彼が耽った「精神の高邁なディレッタンティズム」の一例として、あるときエフェソスの廃墟のなかで中国の書物を読んだことを挙げている。

アンペールが構想したフランス文学史は、ニザールのものに対してあらゆる種類の長所を持ったはずである。しかし一つの重要な点で劣った。ついに書かれなかったのである。彼は過剰に豊富な材料を調整し、そこへ総合を課すことに成功しなかった。ゲーテによれば、巨匠を最初に明らかにする力であり、いずれにせよ「精神の高邁なディレッタンティズム」を越えて記念碑を達成するため必要な、自己を一つにまとめる力に欠けていた。

近代批評は、一方で得たものと同じほど他方で失ったのではないか、知識と共感を広げたことが判断の衰退によって相殺されたのではないか、と尋ねたくなることがある。近代の批評家は、ある主題について、その周囲について見事に語るが、「これは良い、これは悪い」と明言するところまでは自分を賭けない、とサント=ブーヴは嘆く。

たとえばヴィルマンには、本能的な良い趣味を支持し通す勇気が欠けていた。身をかわし、逃げることができすぎた。とりわけ同時代人に対しては、すべて追従と迎合であり、ユゴーのような強力な性格に支配され、魅了された。 クーザンはサント=ブーヴへ、ヴィルマンのなかには利害と虚栄との永続的な争いがある、と述べた。「その通り」とサント=ブーヴは返した。「そして通常、天秤を傾けるのは恐怖だ。」

クーザン本人について、サント=ブーヴは、偉大で雄弁な精神と凡庸な性格を持っていた、と言う。 凡庸な性格が高い知的才能と共存した例は、十九世紀以前にも知られている。それでも、自分の地平を無限に広げることと、確固たる信念とのあいだの二律背反を強調したサント=ブーヴは正しい。この二律背反は、すでにスタール夫人にも見えはじめていた。

批評に対する近代的なあらゆる豊かさも、ジョンソンの権威と確かな良識の代わりにはならない、とサント=ブーヴは嘆く。 しかしサント=ブーヴ自身も、権威を押しつける力において、あまりジョンソン的ではなかった、と考えずにはいられない。シャトーブリアンの生前、彼に対して迎合的すぎたと非難されたとき、当時彼について書く自分は「獅子の口のなかで鳴くことを強いられた蟋蟀」のように感じていた、と答えた。 ジョンソン博士は作家たちとの交渉で、自分ではなく相手のほうが獅子の口のなかにいると感じさせるやり方を持っていた。

しかし理解と共感の一方と、判断の他方との関係という問題全体は、サント=ブーヴ自身の仕事において最もよく研究できる。本章では、彼が形成期を過ごした環境について、いくらかの知識を得た。彼は『グローブ』に最も熱心に寄稿した一人であり、ギゾー、クーザン、ヴィルマンの講義を聴いたのである。


原注

Petit de Julleville, Histoire de la langue et de la littérature française, VII, 690から引用。

Nain jaune, 20 Dec. 1814。Maigron, Le Roman historique à l’époque romantique, 155から引用。

Causeries du Lundi, VI, 166。

Littérature au XVIIIe siècle, I, 164。

同上、I, 251。

Brunetière, L’Évolution de la critique, 212。

Nisard, Histoire, I, 239。

同上、358。

Histoire, I, 14。

Histoire, I, 362。

Histoire, IV, 1。

Histoire, IV, 454。

Histoire, IV, 457。

Essais sur l’École romantique, 166。

Essais sur l’École romantique, 280。

ただし、ボワローについてニザールが述べた次の言葉も参照。「ボワローにおける理性は幾何学者の理性ではない」など(Histoire, II, 297)。

Causeries du Lundi, XV, 211。

同上、XI, 465。

Histoire, IV, 541。

Histoire, I, 370およびII, 26などを参照。

Nouveaux Lundis, XIII, 241。

Causeries du Lundi, I, 382。

Causeries du Lundi, VIII, 491。

同上、XI, 191。

Causeries du Lundi, XI, 472。

Causeries du Lundi, XI, 490。

Sainte-Beuve, Chateaubriand, I, 18。

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第V章 サント=ブーヴ(一八四八年以前)

サント=ブーヴの仕事は、広大さと豊かさ、多様さとを結びつけた点で、ほとんど比類がない。五十巻を超える著作を残しながら、これほど反復が少なく、晩年に至ってさえ、自身の最高水準を下回ることがこれほど稀だった作家は、おそらくほかにいない。ヴォルテールの巻数はさらに多いが、反復に満ち、しかもしばしば老衰した反復である。サント=ブーヴが自己反復を避けた方法の一つは、自分を更新し続けたことだった。彼は、自分が従事した文学上の「戦役と遠征」を十もの時期に区別し、それらはすべて「それぞれ独立した異なる全体として判断されなければならない」と付け加えている。

観点のより根本的な変化だけを問題にするなら、この十の戦役、すなわち文学活動の時期は、彼自身が別の箇所で行ったように、三つへ縮約できる。第一は、『グローブ』誌での修業時代と、闘争的ロマン主義者としての活動期(一八二四~一八三一年)である。 第二は、『両世界評論』その他の定期刊行物へ寄稿した十七年間で、判断よりも包括と共感を重んじる、いくぶん中立的な批評の時代(一八三一~一八四八年)である。第三は、『シャトーブリアンとその文学集団』に始まり、より簡素な文体と、より判断的な態度を特徴とする、批評家としての完全な成熟期(一八四八~一八六九年)である。

二十年以上を費やした六巻本の『ポール=ロワイヤル』は、第二の作風で書き始められ、第三の作風で完成された。

I

サント=ブーヴの批評的発展におけるこれらの段階は、いくつかの大きな運動との関係から研究するのが最もよいだろう。十九世紀の主要な知的潮流が相互に作用し、衝突するさまは、おそらくほかのどこよりも、彼の仕事のなかで興味深く追跡できる。実際、サント=ブーヴを論じた人々は、しばしば狭い伝記的観点から彼を扱い、その批評上の意見を、個人的で、時にはひどく些細な個人的事情によって説明しようとしてきた。彼自身の「アカデミー風の胸像を避けよ」という忠告をきわめて真剣に受け止め、織物の表だけでなく裏側も見ようとしたのである。この意味では、彼は自分自身の方法の犠牲になったと言える。

しかし、極端な伝記主義の学派にとって格好の珍味となってきた、ユゴー夫人との関係でさえ、彼とロマン主義運動全体との関係という、より大きな問題へ従属させて考えるほうが有益である。

そこで、より知的であり、また私の考えではより公正でもある接近法を採るなら、第一に考察すべきものは、サント=ブーヴの著作へ反映された十九世紀最大の闘争である。すなわち、一方の伝統と、他方の自然主義という名のもとへ総括できる諸力との闘争である。ところで伝統には、少なくとも二つの面がある。

この語は、ニザールの言う「二重の古代」、すなわち宗教的・キリスト教的伝統と、古典的・人文主義的規律との両方を含む。後者はしばしばキリスト教と一致するが、ときにはそれと争うこともある。一方、自然主義にも、感情的側面だけでなく、知的・分析的側面がある。十九世紀において、この運動の二つの主要な側面は、実質的には科学とルソー的ロマン主義へ集約される。

ただし、サント=ブーヴは、伝統に対する自然主義的反乱の古い形、すなわち十八世紀の感傷主義と合理主義との双方を、書物だけでなく、その生き残った代表者との接触によっても知っていたことを付け加えなければならない。たとえば彼は、同郷人ドーヌーと親しかった。ドーヌーは、熟達した古典主義者であると同時に、徹底した観念学派でもあった。テーヌはこの二つを混同するが、サント=ブーヴは慎重に区別している。

サント=ブーヴ自身が語るところによれば、彼はドーヌーのなかに、古いフランス文学伝統の生きた具現を見いだした。 それと同時にドーヌーから、「最も進んだ十八世紀」へ、実際にはきわめて徹底した哲学的唯物論へ導き入れられた。さらに彼はフォーリエルとも接触した。すでに見たように、フォーリエルには十八世紀的観点が十九世紀的観点へ移行する過程をたどることができる。起源に対するフォーリエルの情熱は、サント=ブーヴでは、個人の起源または青春への関心という形を採った。彼の言葉によれば、「あらゆるものがそこから始まる、あの言い表しがたい瞬間」への関心である。

サント=ブーヴは、古い文学伝統だけでなく、古い社交的伝統へも導き入れられた。人生最後の二十年間の彼を、やや隠遁的な人物として考えがちだが、一八四八年以前には、当時最上の社交界へ出入りしていた。そこには、慣習的な意味だけでなく、真の意味でも貴族的だった男女がいた。この社交界に属していたオーソンヴィル伯爵は、サント=ブーヴ自身は「紳士」ではなかった、とほのめかしている。

もちろん、出自と風貌においても、多くの本能においても、サント=ブーヴがきわめて強くブルジョワ的だったことは事実である。彼の生涯の大きな冒険がすべて一本の傘と結びつけられる伝説は、おそらくこの意味を示している。たとえば、デュボワ氏と雨中でピストル決闘をした際、彼は最初から最後まで傘を差し続けたと伝えられる。殺される覚悟はできているが、風邪をひく覚悟はない、というのがその理由だった。

それでも彼は、レカミエ夫人の客間その他で、貴族社会の優雅さと快適さ、その洗練、機転、節度に対する感覚を身につけた。そこには、民主主義との粗暴な接触をほとんど生き延びられなかった、旧世界の魅力がすべてあった。実際、中期の全期間を通じて、サント=ブーヴはこのきわめて洗練された社交界の女性たちを、理想の読者として意識しすぎた。その避けがたい結果として、彼は気取った精妙さへ傾いた。この時期、自分はいささか技巧へ流れ、「思想を愛撫し、磨きすぎる」習慣に陥った、と彼自身認めている。

彼は、より広い公衆へ語ることを強いられ、「万人の言葉で万人へ語る」よう迫られたことについて、「至高の瞬間には、口のきけない者を語らせ、どもる者を明瞭に発音させる、あの偉大なミューズたる必要」に感謝している。

サント=ブーヴは、文学的・社交的伝統との生きた接触から得られる知識へ、研究によって得られる知識も加えた。学生時代から優れたラテン語学徒であり、生涯を通じてギリシア語の知識を深め続けた。仕事が最も込み合った晩年でさえ、ギリシア人のパンタシデス氏から教えを受け、彼とともに『イリアス』と『オデュッセイア』を何度も通読する時間を作った。

彼は叫ぶ。「ローマの、そしてとりわけギリシアの不滅の精神たちよ。人間のあらゆる花、素朴な優雅さ、自然な偉大さを、あたかも最初の収穫であるかのように摘み取った、幸福な天才たちよ。近代文明とわれわれの複雑な生活に疲れた思想が、あなたがたのなかで再び青春と力、健康と新鮮さ、壮年の男らしさと英雄的青春との、手を加えられていないあらゆる宝を見いだす。われわれにとって神々のようでありながら、近づき、見つめる者があまりに少ない偉人たちよ。祝祭の日にあなたがたを迎えるこの研究を、軽んじないでほしい。ほかの人々は、疑いなく、あなたがたをもっと完全に所有し、もっと価値ある仕方で解釈している。あなたがたはほかの場所で、よりよく知られている。しかし、これほど深く愛されている場所はない。」

II

キリスト教的伝統、また宗教一般に対するサント=ブーヴの関係は、微妙で重要な問題である。

ここでも彼は、カトリックとプロテスタントの双方の形で、キリスト教の生きた具現である人々と接触する利点を持っていた。プロテスタント精神、そしてある程度までジャンセニスム精神へ導き入れられたことについて、彼はアレクサンドル・ヴィネの著作と人格へ深い恩義を負っていた。

しかし、キリスト教に対するサント=ブーヴの態度、あるいはそもそも何らかの確定的信仰を持つ能力について、さらに論じる前に、青年期に通過した諸段階について、晩年に本人が書いた説明を引用するのが最もよい。

「私ほど柔軟で、あらゆる変身の形へ徹底して馴らされた精神はない。私は率直に、粗削りに、最も進んだ十八世紀から始めた。トラシー、ドーヌー、ラマルク、そして生理学からである。これが私の真の基質だ。そこから私は、『グローブ』の教条派的・心理学的学派を通過した。ただし留保を置き、追随者にはならなかった。そこから詩的ロマン主義へ、ヴィクトル・ユゴーの社交圏へ移り、そこへ溶け込んだように見えた。その後、サン=シモン主義を通過した、というより、その縁をかすめた。ほとんどすぐに、まだきわめてカトリック的だったラムネの社交圏を通った。一八三七年、ローザンヌでは、カルヴァン主義とメソジズムの縁をかすめ、この共同体の関心を引こうとしなければならなかった。

「精神のこれらすべての旅において、私は、ユゴーの社交圏で、ある種の魔法にかかった一瞬を除けば、自分の意志と判断を放棄しなかった。私は一度も信仰を誓約しなかった。しかし物事と人々をあまりに完全に理解したため、私を改宗させようとする真の信者たちへ最大の期待を抱かせ、彼らはすでに私を仲間の一人だと思った。私の好奇心、あらゆるものを見たい、間近から眺めたいという欲望、あらゆるものの相対的真理を見いだすことに覚えた極度の喜びが、私をこの一連の実験へ引き込んだ。それらは私にとって、道徳的生理学の長い課程にすぎなかった。」

サント=ブーヴは、比較的早い時期に「すべての外にあり、外にとどまること」が自分の運命だと感じるようになったが、 この一節から推測されるほど、人生に中心がないことへ平然と甘んじていたとは、私は考えない。この点の証拠は、長年にわたりウスタシュ・バルブ神父へ送った手紙から集められる。バルブは聖職へ入る前、ブーローニュのブレリオ学院で彼とともに学んだ仲間だった。

二人の青年は海岸を長く散歩するのを常とし、その会話は、サント=ブーヴが語るところでは、たいてい最も深刻な主題と永遠の問題をめぐっていた。書簡も、ほぼ同じ調子で続いている。彼はバルブへ書く。「私は信仰がないことに苦しんでいる。確固たる目的も、進路を定める極もない。そうしたものへの感覚はある。しかし、ものそのものが欠けている。」

後にはこう付け加える。「私の人生は、あまりに偶然に支配されている。洪水が私を押し流し、私の船には錨がない。」 さらに後には、研究へ首まで浸ることによってのみ「自分の心を食い尽くさずに」いられる、とバルブへ告げる。「私はあなたへ、自分の状態の真の秘密を明かしている。」 バルブへ送った最後期の手紙の一つでは、「仕事は私の大きな重荷であると同時に、大きな支えでもある」と書いている。

プロテスタントのヴィネへ行った告白も、カトリックのバルブへ行った告白とほとんど一致する。「私は純粋な批評的知性の状態へ移ってしまった」と彼はヴィネへ書く。「そして自分の心が死んでゆくのを、悲しい眼で見ている。」同じ手紙の後の箇所では、自分の知性を、「心の墓地を冷たい光で浸す死んだ月」へたとえている。 独立した断想の一つでは、アーノルドの「ドーヴァー海岸」を思わせる比喩で、自分の魂を、信仰の海がとうに退いた砂浜の荒野へたとえている。

以上が、サント=ブーヴにおける真剣なキリスト教である。彼には信仰も生活の規律もなかったが、忘れてはならないことに、そうしたものへの感覚はあった、と付け加えている。言い換えれば、彼は真に宗教的だったことはないが、一時期、ロマン主義的な宗教感情を経験した。

一八三〇年、彼はバルブへ書く。「宗教へ戻るにあたって、私は神学の道、さらには哲学の道よりも、芸術と詩の道に従った。」このかぎりで、サント=ブーヴは明らかにシャトーブリアンの追随者である。しかしシャトーブリアンのように、キリスト教の外面的詩情、すなわち儀礼や典礼の美的・想像的魅力によって動かされたのではなく、その内面生活の詩情によって動かされた。

彼はシャトーブリアンを、カトリック的想像力を持つエピクロス主義者と定義した。同様に、少なくとも数年間の自分自身を、ジャンセニスム的感受性を持つエピクロス主義者と定義できただろう。彼はベランジェからの非難、すなわち「われわれの時代の狂気であり、私の考えでは宗教とは正反対である宗教熱へ、あまりに傾いている」という非難を退けている。

しかしある意味では、ベランジェが正しかった。サント=ブーヴが『ポール=ロワイヤル』前半を書いたのはこの気分のなかであり、その気分が消え去ると、本人が語るように主題を冷淡な距離から眺めるようになった。ある秘書の証言によれば、積極的な嫌悪をもって眺めるようになったのである。

サント=ブーヴには、さらに疑わしい形の宗教感情も現れる。彼は、「天上の六か月」、すなわちユゴー夫人との関係が続いた六か月について語っている。この期間に、宗教詩集『慰め』を書いた。ほぼ同時期に書かれた小説『官能』については、「私の想像力は、つねに感受性へ奉仕してきた。小説を書くことは、私にとって恋をし、それを告白する一つの方法にすぎない」と言う。

不幸なことに、彼は宗教詩についても、まったく同じことを同じだけの真実をもって言えただろう。それは愛と宗教との分かちがたい混合物であり、宗教は地上的情熱の上へ魅惑の光を投げかけるため用いられている。これは、私が別の場所で「擬似プラトニズム」と呼んだものであり、 この場合には同じくらい適切に「擬似キリスト教」と呼べるだろう。

この時期、サント=ブーヴへ魔法をかけ、意志を放棄させ、活動的で闘争的なロマン主義者にしたものは、ユゴー夫人だけではなかった。とりわけ当初は、ユゴー本人の魔力でもあった。サント=ブーヴは、自分の中心を自分の内部へ持つ、峻厳で男性的な人物ではなかった。彼に対して最も理解の乏しい批評家に数えられるゴンクール兄弟の日記から言葉を借りるなら、彼は「優越した雄」ではなかった。

彼が生まれつき最も豊かに持っていたのは、理解と共感という女性的美徳だった。そのため、自分自身のなかで見いだせない方向感覚を与えてくれる何らかの大義または人格へ、本能的に自分を結びつけようとした。彼は「つねに自分のエリヤを探しているエリシャ」だった。それゆえ一時期ユゴーへ自分を結びつけ、少し後には、ラムネその他へ結びつこうとした。

当時は、新しい人道主義的宗教など、知的に警戒心のない者を誘う餌が数多く仕掛けられていた。しかしサント=ブーヴ自身がこれらの新運動について用いた比喩によれば、彼はしばしばチーズをかじったが、罠へ捕らえられることはなかった。それでも、すでに述べたように、後年の説明から見えるよりも、彼はもっと真の熱情をもって、もっと冷血な実験ではない仕方で探求を続けた。彼の標語は「熱狂と悔悟」だったかもしれない。

また、自分の位置を定められなかったことの全責任を、彼自身の不安定さへ帰すこともできない。理想を求めるなかで彼が次々と幻滅したのは、大部分、擬似理想主義の時代に生き、あまりに多くの擬似理想主義者と出会ったためだった。

「近年の私の読者が、私のなかに不信の感情と習慣的懐疑を認めたとしても」と彼は言う。「私が最初、自分の誠実さと精神の優しさのすべてを政治的・文学的関係へ持ち込んだため、密かにどれだけ苦しまなければならなかったか、彼らが知ることは決してないだろう。」

彼がいたるところで見たものは、美しい感情のばら色の雲で自分を覆い隠す利己心だった。

真・善・美の使徒クーザンは、それにもかかわらず、自らの支配本能へ真剣な抑制をほとんど加えなかった。ヴィルマンは、あれほど大きな才能と洗練された機知を持ち、つねに寛大で自由主義的、人道的、キリスト教的な感情を公言しながら、「最も卑しい魂、現存する最も意地悪な猿」だった。 ユゴーのなかに見いだしたのは、「自分自身しか知らない存在の、巨大な傲慢と無限の自我主義」だった。 バルザックについては、「あらゆる毛穴から自己陶酔を噴き出している」のを見た。 シャトーブリアンは、一日の一部では『キリスト教精髄』の著者として構え、残りの時間を老いたドン・ジュアンとして過ごした。

サント=ブーヴが、自分の方法の本質的な一面として「アカデミー風の胸像を避ける」ことを掲げ、同時代人がまとった最も美しい外観と衣の下にも、何か空虚なものがあるのではないかと疑ったのも不思議ではない。

少なくとも一時、ラムネの半ば弟子だった後、彼はこの指導者さえ擬似理想主義者にすぎない、生活の規律を持つ人間ではなく、衝動の被造物だと感じるようになった。ラムネは、ある極端な観点から別の極端な観点へ突然移り、サント=ブーヴの表現によれば、穏健な友人たちの頭上を「馬跳び」した。

彼はラムネへ言う。そこには、悲しげで個人的な調子を容易に聞き取れる。「知ってほしい。魂へ信じるよう勧めておきながら、何の予告もなく立ち去り、彼らを見捨てることほど悪いことはない。それほど彼らを懐疑へ傾けるものはない。あなたはいまも懐疑を忌み嫌っているが、もはやそれへ対置する確定的なものを何一つ持っていない。すでに希望を学びかけていた、どれほど多くの魂が、あなたに捕らえられ、あなたの巡礼者の袋へ入れられて運ばれていたことか。いま袋が投げ捨てられたため、彼らは溝の縁へ倒れ伏したまま残されている。」

著名な同時代人一般について、サント=ブーヴは、自分の熱狂を保つには「彼らの大半を知りすぎた」と言った。「ほとんど全員へ、称賛と賞賛の観点から近づいた後、私はすぐ底まで達してしまい、不幸なことに、彼らの密かな虚栄心についてすべてを知っている。」

「ユゴーの家へ入ったとき、自分は半神の洞窟にいると思った。しかし、気がつけばキュクロプスの巣穴にいた。」 この家で彼自身が演じた役割は、本人の言葉では、友人の妻を誘惑する目的で「エピクロス主義へ薄絹をかける」ことだった。言い換えれば、擬似理想主義の時代に、彼自身もまた擬似理想主義者だった。

厳格なポール=ロワイヤル派の研究は、自分自身の自愛を超越することを、ついに教えてくれなかった、と彼は語る。 この自愛は、とりわけ詩における創作的試み、なかでも一八三七年の『八月の思索』が比較的失敗したことによって、残酷に傷つけられていた。

こうして彼は、青年期に同じく深刻な幻滅を経験した作家、ラ・ロシュフコーの観点へ、徐々に近づいてゆく。ラ・ロシュフコーと同じく、彼は人生の最ももっともらしい様相にさえ、自愛の原理の普遍的勝利を見る傾向を強めた。

ロマン主義的な希望と願望を積んだ船が難破した後、彼は批評という筏へ避難することで甘んじ、 ラ・ロシュフコーと同じように、幻滅のなかに見いだせるかぎりの知恵を完成させた。過去とのこの断絶は、一八四〇年のラ・ロシュフコー論の刊行によって示される。ただしロマン主義的な魅惑は、その二、三年前までに、すでにほぼ完全に消え去っていた。

人生最後の年、彼は書いている。「このラ・ロシュフコー論は、事実へ注意を向けることを許してもらえるなら、私の知的生活における重要な瞬間、決定的な日付を示している。物事を考え始めた時から、私の青年期前半は、全面的に哲学へ、そして生理学と医学の研究に一致する実証主義的哲学へ捧げられていた。しかし一八二九年頃、深刻な感情上の動揺、感受性の大きな混乱が介入し、私の思想へ真の逸脱を生み出した。詩集『慰め』と、それに続くほかの著作、とりわけ『官能』と『ポール=ロワイヤル』初期の巻は、かなりの神秘主義を伴った、この不安で過度に昂ぶった気分を十分に証言している。……ラ・ロシュフコーの研究は、この危機の終わりと、より健全な見解への復帰を示す。年月と省察は、私をその見解のなかで強くしただけである。」

後にさらに明瞭に見ることになるが、無数の仮装をまとった人間の自愛を追跡することは、実際、サント=ブーヴの方法の本質的な一部である。ラ・ロシュフコーについての最後の論文(一八六三年)で、サント=ブーヴは、一見したところ最も崇高で非個人的な発言や観点にさえ、しばしば見いだされる「精妙化され、精髄化された自我」について語っている。自愛の永遠の囚人である人間は、「出会うすべてのものを、自分自身の型に合わせて切り刻み、彫り上げる」。

彼は続ける。「そして、まず私自身がそうである。これを書いている私が、自分ではないもの、さらには自分とは反対のものを、無理に愛そうとするなら、それは自我から離脱したためではない。おそらく私は、何ものでもないことを誇りにし、ほかのどの形よりも、この砕け、逃げ去り、多様である形の自分を、見たところいっそう好んでいるのだ。いや、いや、正直な人々よ。正しく理解されたラ・ロシュフコーは、あなたがたの思うほど容易に反駁できない。」

ラ・ロシュフコー崇拝と密接に結びついているのが、ラ・ブリュイエール崇拝である。ラ・ブリュイエールの人生観は、多くの点でラ・ロシュフコーと一致するうえ、人物の文学的肖像画、いわば文学的細密画における完成された技巧によって、サント=ブーヴへ訴えかけた。

アルバニー伯爵夫人が余白へ書き込みを入れたラ・ブリュイエール本について、彼は述べる。「その本を目の前へ置き、詳しく研究できたら、どれほどよいだろう。誠実な心と誠実な知性は、それぞれ自分の道徳的生活のすべてを、自分のラ・ブリュイエールの余白へこのように書き込めるだろう。彼が本文を与えた。あなたは異文を付け加えるだけでよい。」

別の箇所では、寝台脇の机へラ・ブリュイエールを一冊置くよう勧めている。一度に少量を、たびたび服用すれば、精神の健康がこの処方から利益を受ける、と約束する。

ラ・ロシュフコーとラ・ブリュイエールの人間性観は、キリスト教の人間性観ときわめてよく似ているが、キリスト教的希望をほとんど持たない、と指摘されてきた。パスカルなら、彼らは恩寵を欠いた人間の悲惨さを正しく捉えているが、恩寵の助けによって人間が到達できる偉大さについての感覚が足りない、と言っただろう。この点で、サント=ブーヴはラ・ロシュフコー、ラ・ブリュイエールと完全に一致している。

少なくとも彼は、人間性のありふれた事実を容赦なく扱ったことについて、ジャンセニストを賞賛できる。彼らについてこう言う。「この悲しみに満ちた信者たちが提案する治療法を受け入れられない人々も、少なくとも彼らを尊重し、同じ人間として憐れむがよい。彼らはある日、人間性の虚無と悲惨、すなわち悪徳と苦痛の海、そのざわめき、その荒れ狂い、その永遠の嘆きを、あれほど深く感じたのである。」

サント=ブーヴは最後まで、「自分の疑いそのものにも確信を持てない、憂鬱な懐疑家」であり続けた。しかし初めから、気質的には超自然主義者より自然主義者の側にあり、その自然主義的気質は年とともに強まった。それが採る形態によって、十七世紀に「自由思想家」として知られた人々の階級全体を、しばしば思い起こさせる。サント=ブーヴには、ラ・ロシュフコー以外にも、これらの自由思想家の何人かとの直接的な関係を見いだせる。

パスカルは、自然の名におけるキリスト教からのこの離脱を見抜き、近代人が書いたもののなかでも最も洞察に富む数頁で、この自然主義を古典古代の自然主義と結びつけている。信仰という内的な調速輪を持たず、純粋に自然に従って生きようとする近代人は、古代のすべての自然主義者と同じく、必然的にストア的傲慢という極端か、エピクロス的弛緩という極端のどちらかへ陥る、と彼は言う。

彼はモンテーニュを、エピクロス的懐疑家の典型、この意味で最大の自由思想家とみなす。サント=ブーヴは、『ポール=ロワイヤル』の最も精彩ある章のいくつかで、このモンテーニュ観を実質的に受け入れている。ただし、それらが最も健全な章であるとは限らない。それらは、彼がまだジャンセニスム的感受性を育てていた時期に書かれた。

これらの章には、彼が人生の終わり頃に述べた次の言葉を関連づけるべきである。「私はベール、ホラティウス、モンテーニュという師たちと同じ年齢へ達した。もう死んでもよい。」 サント=ブーヴを正しく理解するには、この三人に対する彼の関係を定めることが本質的である。まずモンテーニュから始めよう。

III

モンテーニュを扱うにあたり、サント=ブーヴは、過去一世紀のあいだにかなり広まった誤り、すなわち存在の諸平面を混同する誤りを、完全には避けていないと私は考える。その平面は三つに区別できる。宗教的平面、人文主義的平面、自然主義的平面である。もちろんそのあいだには、数多くの中間段階、いわば人間が自己の存在の一つの水準から別の水準へ上り下りする梯子の段がある。モンテーニュは、これらのどの平面に生きているのか。

モンテーニュが宗教的水準に安住していないことは、ただちにサント=ブーヴへ認めなければならない。彼の人生観は最高度に英雄的ではなく、まして聖者的ではない。サント=ブーヴ自身と同じく、モンテーニュは青春を理想化する。気質の方向は二十歳ですでに見えており、恩寵または回心の奇跡によって、その気質的傾向を乗り越え、人間へ新しい進路を与えられるとは、モンテーニュは容易に信じない。

サント=ブーヴは言う。モンテーニュには、「外面の衰えとは逆方向に進む道徳的・精神的完成、外側の包みが萎れてゆく下での内的存在の成長と成熟、天国へ向けた永続的教育、第二の誕生と不滅の青春、……白髪の老人を、永遠の春へ向けてようやく最初の花を開いたばかりのように見せるもの」についての観念がない。「おそらく幻想であり、最後のユートピアではあるが、フランクリン自身も抱いた種類のもの」である。

モンテーニュが人間性の宗教的水準に安住していないとしても、自然主義的水準にはきわめてよく安住していることも、サント=ブーヴへ認めなければならない。彼には自然主義者の拡張性、広範囲へ及ぶ知的・感情的好奇心がある。何より、流動と不安定に対する自然主義的感覚、波打ち、逃れ去るすべてのものへの感覚、そして一見同一に見える物事のなかにさえ無限の差異の濃淡を見る、それと密接に結びついた感覚がある。

「区別する」という語は、「私の論理のなかで最も普遍的な項である」と彼は宣言する。これらの点でも、ほかの多くの点でも、彼はエピクロス的自然主義者であり、サント=ブーヴも同じく明白にその弟子である。

しかし、モンテーニュにおける中間的な、すなわち人文主義的水準についてはどうか。キケロによれば、人間をほかの生物から区別する秩序、節度、ふさわしさの法則へ気づき、この法則の規律を通常の自己、すなわち動物的自己へ課すほど、人は人文主義的になる。言い換えれば、自分の特異な性質を表現するだけでなく、規範的な人間であることを目指すほど、人文主義的になる。

さて、この人間的関心は、モンテーニュの仕事に欠けていないどころか、そのまさに核心にあると私は考える。サント=ブーヴは、モンテーニュは純粋な自然だと言う。しかし、少なくとも彼の野心は、純粋な人間性になることだった。放浪性と自我主義は、多少とも表面的である。その表面の下に見いだされるのは、ギリシア古典、とりわけラテン古典へ基づく、真の人間はいかなるものであるべきかについての、かなり確固たる信念である。

この人間像は、後に「何事にも専門家であることを誇らない教養ある紳士」という、いくぶん慣習化された形を採った。つまり、全面的であるため、一つのことをあまりに深く知るのを恐れる紳士であり学者である。この人間像は、新古典主義時代全体を支配することになる。

エマソンは、モンテーニュが情熱へ高まるのはソクラテスを語る時だけだと述べたとき、われわれを正しい道へ置いている。また彼は、パリのペール=ラシェーズ墓地で、一八三〇年に死んだオーギュスト・コリニョンの墓へ行き当たったことを語る。その碑銘によれば、コリニョンは「正しく行うために生き、モンテーニュの随想によって自分を徳へ形成した」。

モンテーニュは、多くの人と違い、自分が感じている以上の確信ではなく、それ以下の確信を装うため、誤解を招きやすい。

彼の懐疑そのものも、一部では人文主義的動機へ従っている。それは、神学の時代を支配し、まだ彼自身の時代を苦しめていた「確実性への恐ろしい狂気」に対する、健全な抗議である。

モンテーニュを純粋な自然主義者にしたことで、サント=ブーヴは、パスカルとジャンセニストの戦術へあまりに従いすぎた。彼らは、人間が自然主義的水準から上昇するための、純粋に人間的な努力と徳の中間段階を、ことごとく消し去ろうとする。要するに、剥き出しの自然主義へ剥き出しの超自然主義を対置し、人間には彼らの神学上のデウス・エクス・マキナ――機械仕掛けの神――以外に、いかなる頼みも残さないようにする。この点をついでに言えば、ジャンセニスムが実行不可能な人生観であるのはそのためである。

サント=ブーヴは、モンテーニュをルソーの直接的祖先にする。「彼の随想の美しい葉むらは」と言う。「後には、濃く暗く毒を持つ森になる。その影で眠り込むウェルテルその他の夢想家には致命的な森となり、……自殺者たちの曲がりくねった住み家となる、など。」

モンテーニュの主要な方向について言うなら、これは真実でないばかりか、真実の正反対である。モンテーニュは人間性の中心へ向かっている。これに対し、純粋な自然主義者は、感傷的であれ科学的であれ、その中心から遠ざかっている。その反対だと自分とわれわれを納得させるため、どれほど擬似神秘的な装置を用いようと、変わらない。

モンテーニュの避けがたい帰結は何か、とサント=ブーヴは問う。「『歩幅を測りながら歩く小柄なユダヤ人』 が、われわれへこう告げようとしている。……巨大で暗い天、果てしなく回転する宇宙、沈黙し、測りがたく、ときどき、ある場所で生命が姿を現す宇宙がある。」

「そこでは人間が生じ、この沼に浮かぶ草の小島の上で、時を同じくする無数の虫とともにきらめき、死んでゆく、など。モンテーニュにおいて眼を楽しませ、心を浮き立たせるすべてのものは、深淵を覆う幕にすぎない。あるいは、彼自身の言葉を用いれば、墓へ芝を張るものにすぎない。」

これは、究極的問題を扱ううえで、純粋な自然主義が持つ絶望と無力についての雄弁な主張である。しかし、モンテーニュとの関連性について言えば、修辞以上のものではほとんどない。『ポール=ロワイヤル』のこの部分を書いていた時期、サント=ブーヴがジャンセニスム的感受性を育てることに、どれほど成功していたかを証明するだけである。

人文主義者が聖者に及ばないことは確かである。しかし、人間性と現象的自然とを一つの共通法則へ還元しようとする者、すなわちストア的であれエピクロス的であれ、純粋な自然主義者より優れていることも、同じく確かである。

IV

同じ点は、サント=ブーヴを、自分の三人の師の一人として挙げたもう一人、ホラティウスと比較すれば、さらに明瞭になるだろう。

ホラティウスには、サント=ブーヴのどの部分よりも明白で粗野なエピクロス主義の側面がある。しかしサント=ブーヴは、作品のごく一部分を除けば、この点では、カトゥルス、マルティアリスその他の詩人が以前に誇ったように、自分のミューズは「陽気」でも、生活は貞潔だった、と誇ったヘリックのような作家と正反対の極にいる。

それでも最終的分析では、ホラティウスのほうがサント=ブーヴより人文主義的である。彼は少年時代から、行為の問題と、父から受けた具体的な道徳教育へ、より深く心を向けていた。ストア的・エピクロス的教説をさまざまに試す全過程を通じて、上昇する努力、徐々に熟し、円熟してゆく過程をたどることができる。そして最後には、最も愛すべき非教条的な仕方で、鋭い良識を働かせるだけで、人間的自己とその節度の法則が、通常の自己へ課す規律を主張するようになる。

「賢くあれと敢えて決意せよ」が、彼の教えの要約である。「正しい始まりは、全体の半分以上である。快楽を軽蔑し、精神へ手綱と鎖をかけよ。自分が精神を支配しなければ、精神が自分を支配する。」

最後期の詩の一つでは、ラテン詩の韻律と尺度から離れ、真の生の律と尺度へますます関心を向けている、と述べる。何よりも彼が心を向けるのは、年月が進むにつれて、自分がより温和で、より善くなっているかという問題である。

Lenior et melior fis accedente senecta?
年老いるにつれて、君はより穏やかに、より善くなっているか。

宗教はこれより高いところへ行く。最上の詩でさえ、これより高いところへ行く。それでも、自分を完成させる個人の力に対するホラティウスの確信は明白である。

これと対照するため、サント=ブーヴの一文を引こう。「成熟せよ、成熟せよ! 人は年老いると、ある場所では腐り、別の場所では硬くなる。しかし成熟はしない。」

サント=ブーヴの人文主義は、ホラティウスの人文主義のような規律でも生活の法則でもない。活動的で、毅然として、闘争的なものではなく、知性と意志から感受性へ退却しており、そのため多少とも受動的享受の問題となっている。それは、本物の人文主義に対し、シャトーブリアンの美的信仰が本物のキリスト教に対するのと、ほぼ同じ関係にある。

それでも、この限定された意味において人文主義者であること、すなわち文学的エピクロス主義者のなかでも最も洗練された一人であることは、なお稀な卓越である。結局、後代の作家、たとえばウォルター・ペイターに見たものと比べれば、サント=ブーヴのエピクロス主義が備える人文主義的な表構えは、相当に堅固である。サント=ブーヴを美的人文主義者と定義するなら、ペイターは、よくても人文主義的唯美主義者と定義しなければならない。

宗教的または人文主義的水準から、自然主義的存在水準へ落ちることは、ほとんど文字どおりの意味で頽廃的である。ルソー的ロマン主義者は通常、この下降を擬似理想主義の幕で覆い隠す。サント=ブーヴの詩と『官能』に、この頽廃の偽りの幻想が存在することについては、すでにいくらか述べた。

サント=ブーヴ自身は、ワーズワースとクラッブを模倣し、より謙虚で家庭的な調子をフランス詩へ導入しようとした、と主張した。しかし、卑しい題材を選んだことを除けば正反対の極にいる二詩人と、彼はほとんど共通点を持たない。それでも、サント=ブーヴの詩、とりわけ『ジョゼフ・ドロルム』は、時代病の歴史のなかに一つの位置を持つ。シャトーブリアンから派生し、単に卑しい題材だけでなく、嫌悪を催す題材の選択において、ボードレールへの道を指し示しているからである。

彼自身の言葉では、そのミューズは、胸をあらわにして踊る華麗なオダリスクではなく、老いて盲目となり、狂気に陥った父の看護へ身を捧げる、哀れな肺病の女である。父の錯乱した恐怖を鎮めるため、ときに歌うことがあっても、歌の途中で激しい咳に遮られる。

この肺病のミューズは、ワーズワースには恐怖を抱かせただろうが、きわめて適切に『悪の華』を庇護した。サント=ブーヴはボードレールへ書く。「私の詩があなたの詩と多くを共有していた、とあなたが言うのは正しい。私は同じ苦い果実を味わった。最後には灰で満たされる果実を。」

サント=ブーヴには、頽廃の偽りの幻想だけでなく、それより現在の目的にとってはるかに重要な、偽りの幻滅も見いだされる。サント=ブーヴにとって知恵は、自己支配のための闘争が最後に与える肯定的洞察ではなく、冷たく否定的な何かである。

この知恵の観念を明らかにするため、サント=ブーヴの生涯のうち、あまりにしばしば噂話の観点から扱われてきた側面を、観念の観点から扱う必要がある。あるいはむしろ、彼自身の方法を彼へ適用し、この件について本人に語らせるべきである。できるかぎり、彼の言い方に従い、彼を判断する材料を「彼自身のインク壺から汲み出す」べきなのである。

彼は『官能』の主人公アモーリの口を借りて言う。「青年期、私の哲学は、とりわけ官能、快楽の行使を通じて私へ来た。」大半の哲学者は、生命が満ち、幻想が頂点にある時に思索する、と彼は続ける。

これに対し自分は、「快楽の後へ続く翌朝の蒼白い光のなかで、ルクレティウスが語る、物事の底を露わにするあの倦怠のなかで」思索した。「私はつねに、あらゆるものの裏側と終わりを見た。すでに感じていた虚無と、その予感である。そこには憂鬱な悦びがないわけではない。」観察していた時の彼の精神は、「いささか氷のように澄み、幻想が最小になった状態」にあった。

人生について最も真実な視覚は「翌朝の冷たい灰色の夜明け」に得られる、という奇妙な教説を、サント=ブーヴは自分自身の名においても、一度ならず主張した。「私にも弱さがあった」と、彼は壮麗に書く。「ソロモン王に、あらゆるものへの嫌悪と人生への倦怠を吹き込んだ弱さである。」

別の場所では言う。「ソロモンとエピクロスのように、私は快楽を通って哲学へ入った。ヘーゲルやスピノザのように論理を通って到達するより、こちらのほうがよい。」

この方法によって哲学へ到達するなら、それは信念一般の欠如と一致しなければならない。というのも、別の場所でサント=ブーヴが述べるように、官能は内的生活を溶かす強力な溶剤だからである。「われわれの内部にある確実性の原理は、長い目で見れば、官能によって掘り崩される。」

実際のところ、サント=ブーヴの感情生活は、知的生活と同じく、ほとんど完全に抑制を受けず、拡張的だった。このように自由に拡張する人生の支配的動機は好奇心である。サント=ブーヴの好奇心は、知的にも感情的にも、並外れて巨大だった。

大半の人間のなかには、若くして死ぬ詩人がいる、と彼は言う。 この詩人は、サント=ブーヴのなかでは完全には死なず、最後まで、きわめて比喩的で、ときには華麗でさえある文体となって現れる。

他方、最もロマン主義的だった青年期でさえ、詩人と並んで、飽くことを知らない好奇心に満ちた批評家が、彼の内部に存在していたことを感じる。彼が批評のなかで詩人であること以上に、詩のなかで批評家であることのほうが、さらに真実かもしれない。

ある詩で彼は問う。「コンラッドはジュイよりラテン語をよく知っていたか。スュアールより少ないペンを使い潰したか。ギ・パタン博士は一万冊を超える蔵書を持っていたか。」

この一節に現れる特有の好奇心は、彼が自分の師として挙げた三人のうち、年代的に最後の人物、ベールとサント=ブーヴとの親近性を示している。ファゲ氏は言う。「サント=ブーヴのなかに、ベールがどれほど多く存在するかは信じがたい。」 実際、ベールとの類縁は、ホラティウスやモンテーニュとの類縁よりもさらに明白である。

ベールは青年期にプロテスタントからカトリックへ改宗し、その後ふたたびプロテスタントへ戻った。こうした信仰の変更のなかで、彼は信仰の火をすべて失った。最後には libertin となったが、それは十七世紀的な「自由思想家」の意味においてだけであり、サント=ブーヴのように十九世紀的な「放蕩者」の意味をも兼ねてはいなかった。

ただし、その感情的好奇心については、ジュリュー夫人を口説いたという噂は措くとしても、『辞典』の読者すべてによく知られた、ある種の逸話へのいささか病的な偏愛を指摘しておくべきである。ともかく、ベールの知的好奇心には限界がない。

サント=ブーヴは言う。「精神には、知るためだけに知ることを使命とするものがある。ファウストの情熱に憑かれ、自分が獲得したものと努力とを、それらを正す力を持つ至高で完全な目的へ結び戻さない精神である。」

サント=ブーヴもベールと同じく、些細なことにさえ飽くことなく好奇心を向けた。「コンラッドはスュアールより少ないペンを使い潰したか。」ファゲは、ベールが夕食時、家政婦と噂話をしたに違いないと言う。しかし、ベールの書物はサント=ブーヴの書物と同じく、しばしば使用人食堂、さらには少々食料庫の匂いがする、と付け加えるとき、彼はいささか行きすぎている。

ベールと同じく、サント=ブーヴも、本文より注で噂話めいた親しげな調子へ陥りやすい。本人が言うように、二階の大広間より一階のほうが気楽なのである。またベールと同じく、最も大胆な発言のいくつかを注へ忍び込ませるやり方を持ち、とりわけ一八四八年以前には、方法が猫のようにしなやかで、背信的になることもあった。彼は表面上は賞賛しながら、微妙な間接表現によって対象を掘り崩す。

マニーの晩餐会で、ゴンクール兄弟の一人は彼へ言った。「あなたに褒められることから、神が私を救ってくださいますように。」

しかし、ここまで論じてきたのは、二人の類似のうち小さな側面である。思想史においてベールが代表するものは寛容の理念であり、結局のところ、サント=ブーヴとの重要な関係を探すべきなのもこの側面である。

十九世紀のフランス人で、先入観や党派精神から生じる精神の狭小化を、サント=ブーヴほど恐れた者はいない。「どんな木で作られていようと、すべての偶像など悪魔へくれてやれ」と彼は言った。この点でサント=ブーヴはベールの真の弟子であり、十八世紀以来の多くの追随者のように、寛容を説くこと自体において狂信的になったのではない。

サント=ブーヴは、コレージュ・ド・フランスのフランク氏が、ある日、寛容について講演していた出来事を語る。聴衆の一人が異論を示そうとすると、隣席の人物に平手打ちされ、最後には、寛容に熱狂していた聴衆によって会場から放り出された。

サント=ブーヴは、さらに、不寛容こそフランス人に最も固有の欠点だと付け加える。これはもちろん、フランス人が論理性という美徳を極端まで押し進め、その後で感情を論理へ奉仕させる傾向を持つためである。サント=ブーヴは、この点で自分の精神の働き方が大半のフランス人と異なることを、鋭く自覚していた。

彼は人生と文学を、最大限の良識と、単なる論理的排他性の最小限とをもって扱う。これは当然、イギリスとアメリカの読者へ強く訴える特徴である。遺伝を研究する者なら、彼にイギリス人の血が流れていた事実を多少重く見るかもしれない。

ただし、サント=ブーヴとベールが示した寛容の特有の型を定義する際には、慎重でなければならない。サント=ブーヴ自身が言うように、最高の寛容とは、あらゆるものへの軽蔑ではなく、何かに対する深い信仰と結びついた寛容である。

サント=ブーヴとベールの寛容は、この後者の型だとはほとんど言えず、むしろ今日の世界へ広く行き渡っている、懐疑的でエピクロス的な種類の寛容である。彼らは、包括的共感の見事な広さをもって、あらゆる存在様式の内部へ入ってゆく。しかし結論を引き出す段になると、純粋なピュロン主義者になる。

「絶対的真理の名において決定を下すなど、私は何者なのか」とサント=ブーヴは言う。 彼は自分自身のあらゆる選好を脇へ置き、どちらにも傾かず両極を確立し、それによって思想へ完全で自由な活動を与えようとするだけである。 別の場所でも、自分にふさわしい唯一の役割は、「理解しがたい現実の、多様で変化する諸相を、互いに釣り合わせること」だと言う。

サント=ブーヴが批評について、このいくぶん中立的な見解を採ったのは、とりわけ私が中期と呼んだ時代である。この観点から見ると、一八三五年に書いた「ベールと批評精神」は、ほとんど自伝的である。

この時期、批評家の役割を単なる理解と共感へまで縮小していた程度は、次のような断想にも現れている。

「批評精神は、本性上、柔軟で、浸透的で、流動的で、包括的である。それは巨大で澄んだ川であり、詩の作品と記念物、すなわちその岸に並ぶ岩、城塞、葡萄に覆われた丘、葉の茂る谷をめぐって、曲がりくねり、身を折りながら流れる。これらの対象がそれぞれ風景のなかへ固定され、ほかの対象をほとんど顧みないあいだ、封建的な塔が谷を軽蔑し、谷が丘陵を何も知らないあいだ、川は一つから別のものへ移り、暴力を加えずにそれらを浸し、生きた水のなかへ抱き、理解し、映し出す。そして旅人がこれら多様な場所を知り、訪ねたいと望むとき、川は旅人を舟へ乗せ、滑らかに運び、その流路の変化に富む光景を次々と彼へ開いて見せる。」

ルメートル氏は、この一節を印象主義的な『同時代人』の標語として採った。しかしこれは、印象主義者よりディレッタントへいっそうよく当てはまるかもしれない。 印象主義者は、確固たる原理の代わりに、少なくとも気質上の鋭い排除を持つ。これに対し、この時期のサント=ブーヴが定義する批評家は、排除も結論も行わない。

批評家は知的世界の一種のジプシー、または放浪者であり、自分自身の定住地、すなわち中心的で支配的な観点を持たない。あるいは、サント=ブーヴの別の比較を用いれば、毎晩新しい役を引き受ける俳優のようなものなのである。

この批評家の観念が、サント=ブーヴを永続的に満足させることはありえなかった。また、ベールと自分との類似だけでなく、相違も感じずにはいられなかった。

ベールの好奇心は、何でも食べるだけでなく、無差別である。指摘されてきたように、『辞典』ではダンテよりダスーシへ十倍多い紙幅を与える。ファゲ氏の言い方では、アリストテレスでもペキンズでも、彼には同じである。同時代文学への態度は、本質的に新聞記者的だった。「最後に見た本が、ほかのすべてより好ましい本である」と彼は書く。たとえばラシーヌの『フェードル』と、プラドンの『フェードル』へ、同じように関心を持つ。

これに対し、サント=ブーヴは骨の髄まで文学的人間だった。またロマン主義運動特有の雰囲気から離れるにつれて、ますます古典的になった。実際、年齢を重ねるにつれ、キリスト教的伝統への把握は弱まり、人文主義的伝統への把握は強まったと言える。

さらに、成熟して自信を増すにつれ、批評家には包括と共感だけでは足りず、判断もしなければならないと感じた。「私は弁護人の役を十分長く演じた」と彼は叫ぶ。「いまは裁判官の役を演じさせてほしい。」

このように、より判断的である必要を感じると同時に、気質においてより古典的になった結果、彼はボワローを尊ぶようになった。ボワローは、伝統的な線に沿い、最高度に判断的だった批評家であり、批評においてはベールとほとんど正反対の極へ立っていた。

サント=ブーヴ自身が語るところでは、想像のなかでボワローとつねにともに生きてきたが、その態度はいくつかの段階を通過した。第一に、一八二九年の活発なロマン主義的攻撃がある。 次に、一八四三年の部分的な撤回があり、 最後に、一八五二年の論文で、全面的な敬意と称賛を捧げる。

サント=ブーヴには、ゲーテとの興味深い関係もたどれる。初期の言及のいくつかは、きわめて表面的である。たとえばパスカルの精神的高みを、ゲーテとタレーランにおけるその欠如へ対置している。 後には十分に償いをする。ゲーテを最も偉大な批評家と宣言し、 フランスの同時代人に見いだした過度の党派性へ対置すべき、高い批評的公平を探すとき、ベール以上にゲーテを思い浮かべる。

「巨大な湖よ、ゲーテという広大で静かな鏡よ、どこにいるのか」と彼は叫ぶ。 この点で、サント=ブーヴ自身はフランス人のなかで最もゲーテ的だった。

しかし、ある賞賛者が彼をゲーテへ比較すると、こう答えた。「彼は自然に山頂で暮らした。これに対し、私は谷の住人だった。」 実際の相違は、さらに根本的である。サント=ブーヴから最後に受け取る印象は、内的敗北を喫した人間の印象である。ゲーテから受け取るのは、闘い、勝利した人間の印象である。

それでも後期のサント=ブーヴは、人文主義者であると同時に自然主義者であろうとし、近代運動への最も包括的な共感と、文学伝統の崇拝とを結合しようとした点で、ゲーテときわめてよく一致していた。

サント=ブーヴの最後の二十年間の批評活動を理解する最良の方法は、おそらく彼のなかにある自然主義と人文主義との相互作用、ときには両者の衝突を研究することである。

本章では、自然主義者としての彼を、十七世紀の「自由思想家」およびあらゆる時代のエピクロス主義者へ関連づけようとしてきた。しかし彼の批評的方法を把握するには、これまでよりさらに詳しく、特に十九世紀へ属するいくつかの自然主義の形態へ立ち入る必要がある。


原注

Portraits littéraires, II, 526。

闘争的ロマン主義者としての活動期を、一八三四年頃まで延長する見方もある。

Portraits contemporains, IV所収のドーヌー論を参照。

Nouveaux Lundis, III, 25。

サント=ブーヴが行った行為のうち、おそらく最も紳士らしくなかったのは、一八四三年に『愛の書』を私家版として刊行したことである。

Portraits littéraires, III, 550。

Portraits contemporains, V, 467。

Portraits littéraires, III, 545。

ルリニエ宛書簡、一八三三年四月七日。

Nouvelle Correspondance, 41(一八三六年)。

同上、93(一八四四年)。

同上、110(一八四六年)。

同上、182(一八六三年)。

Correspondance, I, 130。

Portraits littéraires, III, 540。

Port-Royal, I, 550。

Jules Levallois, Sainte-Beuve, 177。

The New Laokoon, 第V章。

Portraits contemporains, III, 49。

Correspondance, I, 316。

Port-Royal, I, 552。

Nouvelle Correspondance, 34。

Causeries du Lundi, II, 158。

Nouvelle Correspondance, 42。

L. Séché, Sainte-Beuve, II, 65。

Port-Royal, VI, 245。

Portraits contemporains, II, 486。

Portraits de Femmes, 321。

Nouveaux Lundis, V, 391。

同上、V, 427。

Causeries du Lundi, II, 66。

Port-Royal, II, 115。

Causeries du Lundi, XVI, 45。

Port-Royal, II, 430。

Port-Royal, II, 405。

Un petit Juif marchant à pas comptés. スピノザについてのヴォルテールの表現。

Port-Royal, II, 442。

Horace, Epistles, I, 2, 40–62。

同上、II, 2, 211。

Portraits contemporains, V, 461。

Correspondance, I, 360(一八六五年)。

Causeries du Lundi, XVI, 43。

「彼は、生の源泉を濫用した者に特有の、万物に対する癒やしがたい嫌悪を感じていた」も参照(Portraits contemporains, V, 464)。

Portraits littéraires, III, 543。

Proudhon, 102。

Portraits littéraires, I, 415。

詩「私の書物」全篇(『ジョゼフ・ドロルム』)を参照。「韻へ」は、おそらく彼の詩のなかで最も優れており、少なくとも半ば批評的である。彼の最も巧みな批評的表現のいくつかは詩中に見いだされる。たとえば「無知なラマルティーヌ、自分の魂しか知らない者」、また「より密やかなヴィニーは、象牙の塔のなかにいるかのように、正午前には家へ戻った」などである。いずれも「ヴィルマン氏へ」と題する韻文書簡から。

Politiques et moralistes, III, 208。

Port-Royal, II, 160。

Le XVIIIe Siècle, 23。

Nouveaux Lundis, IX, 197。

同上、IX, 199。

Port-Royal, III, 409。

同上、II, 155。

同上、III, 423。

『ジョゼフ・ドロルム』「断想」第XVII。Portraits contemporains, II, 612も参照。

この語の定義については、本書ルナンの章、原書279頁を参照。

Portraits littéraires, I, 382。

同上、III, 550。

Portraits littéraires, I, 3以下。

同上、23以下。

Causeries du Lundi, VI, 494以下。

Port-Royal, III, 356。

Causeries du Lundi, XI, 505。

同上、XV, 368。

Correspondance, II, 3。

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第VI章 サント=ブーヴ(一八四八年以後)

ロマン主義的幻想を失った点で、サント=ブーヴは世紀そのものの歩みに、わずか数年先んじただけだった。政治的ロマン主義は一八四八年革命で頂点へ達したが、その直後、突然の激しい幻滅が訪れた。最も美しい千年王国の幻は、現実へ初めて触れた瞬間に崩壊した。「理想主義者」たちは雲の上から真っ逆さまに落ち、傷だらけになって地面へ横たわった。自然主義的人生観と実際に結びつくのは帝国主義である。理想主義者を自任しながら、同時に自然主義的水準で生きる者は、自分が説いている大義と反対の大義の勝利を早めるだけである。こうして一八四八年の人々は「福音的」共和国を宣言したが、その後に続いた醜悪な無政府状態の発作は、一八五一年のクーデターと、ローマ帝国衰亡以来、世界が見たことのないほど濃密な唯物論の到来への道を準備した。これこそ真のロマン主義的皮肉であり、通常その名で呼ばれるものより、はるかに痛切である。

サント=ブーヴは、ナポレオンの実例が十九世紀を大いに腐敗させ、文学においてさえ、剥き出しの力の崇拝を助長したと言う。しかしナポレオン自身は、フランス革命のユートピアに対して「事物の本性」が返した皮肉な回答にすぎない。サント=ブーヴ自身が帝国主義的気質の痕跡、すなわち時に勝ちを占めた党派へ過度に肩入れする傾向を示したのは、ナポレオンのせいとはほとんど言えない。

フランスの諺が言うように、何かが一掃されているときには、箒の柄の側にいるのがよい。サント=ブーヴが第二帝政をあれほど早く受け入れたことには、もっと名誉ある動機もあったと私は信じる。それでも、論文「悔恨(Les Regrets)」で、敗者を侮辱し、その挫折を喜んでいるようにさえ見える書き方をしたのは不幸だった。

I

ロマン主義的理想主義の破産から、十九世紀半ばの人々の大半は、あらゆる理想主義は空しいという結論を引き出した。彼らの考えでは、夢を見るのをやめ、事実へ直面すべき時が来たのである。人間そのものも一つの事実として、ほかの現象と同じ法則に従うものとして扱おうとした。大地一面に散らばるロマン主義的希望の残骸とは著しい対照をなして、科学者たちは、事実へ忍耐強く従うことによって、堅固な成果の建造物を徐々に築き上げていた。科学のなかで、人間は、たったいま深刻に揺さぶられた自己への信頼の一部を取り戻せるかもしれなかった。

この方向へ進んだ時代は、ある意味で、サント=ブーヴ自身の発展の線をたどっていた。彼もまた、独自の仕方で実証主義者になっていた。彼は英語の「Truth」という語を印章へ刻んだが、もちろんそれによって意味したのは、相対的で、状況に依存する真理、すなわち事実の確定だった。「私に標語があるとすれば」と彼は言った。「それは真実、真実だけだろう。善と美については、できるだけ自力で何とかしてもらえばよい。」

真実性への情熱、欺かれることへのほとんど病的な恐れのため、彼は真実へ達しようとしただけでなく、フランス人の言う「真の真実」へ達しようとした。それは、ただの真実とは時として大きく異なる。文学に対する彼の態度は第一義的に科学的ではないが、事実に関する周到さでは、最も厳格な科学的基準を満たしていた。彼の論文では、上部構造の優雅さに、基礎の堅固さが匹敵している。「サント=ブーヴを知っていなければ」とシェレールは言う。「固有名詞の綴り、一片の情報、一つの日付を、彼がどれほどほとんど病的に重視したかは分からないだろう。彼はあらゆるものを自分の眼で見て、あらゆるものを検証しようとした。」

したがって、純粋に自然主義的な面では、サント=ブーヴは新しい時代にきわめて居心地よく身を置いた。テーヌとルナンを先頭に若い世代が台頭するのを見たが、彼らは多くの点で彼自身の弟子であり、逆に彼も彼らから影響を受けた。ラマルティーヌその他のように、肌の合わない時代へ取り残された寂しい生存者には見えず、むしろ刺激を受けて、最良の仕事の一部を成し遂げた。

しかしここでも、重要な区別をいくつか行わなければならない。サント=ブーヴを書く際には、区別をしすぎることは難しい。彼は最後まで懐疑家であり、「いかなる信条の形式にも属さず、すべてを眺め」ていた。ベールとともに、唯一の希望は節度ある理性的な人間性にあると確信しながら、同時に、人間性は決して節度ある理性的なものにはなれないとも確信していた。そして何よりラ・ロシュフコーとともに、人間性が無私になることは決してないと確信していた。

しかし人間は、どうやら救いがたいほど宗教的な動物である。ほかの崇拝対象を奪われれば、自分自身を崇拝し始める。そして十八世紀にベールの影響を受けた者たちは、実際にそうした。人類とその未来の進歩を偶像化する態度は、現代の自然主義者のほとんど全体に共通し、私がサント=ブーヴと比較してきた十七世紀の「自由思想家」から、彼らを隔てている。

では、進歩という観念に対するサント=ブーヴ自身の態度、さらに一般的に言えば、今日われわれ全員がその像の前に敬虔にひれ伏している、偉大な女神「人類」への態度は、どのようなものだったのか。ここでも区別が必要である。二つの型の混合や、それぞれの下位種を別とすれば、人道主義者には明らかに二つの主要な部類がある。

第一に、何らかの仕方で、進化によるにせよ革命によるにせよ、友愛または社会的同情の原理が自愛へ勝利することによって、人類全体が再生されると信じる人道主義者がいる。第二に、科学を通じて人類が再生されると信じる人道主義者がいる。個人の救済に対する宗教的希望を感じられなかったラ・ロシュフコーの弟子が、人類の救済に対する感傷的人道主義者の希望へ同調するとは考えにくい。

だからといって、サント=ブーヴを冷酷だと非難するつもりはない。すでに見たように、彼は自分の心の「死」を語っており、宗教的直観に関するかぎり、これは真実だったと私は考える。

しかしサント=ブーヴは、最も怒りっぽい人間の一人であると同時に、最も親切な人間の一人でもあり、おそらく自分と同じ階級の人々より、貧しい者や身分の低い者へ強く共感できた。『詩集』の前に置かれた「生涯」には、こう書かれている。「ジョゼフ・ドロルムの心は、苦しむ人類への限りない愛と、この世の権力者への容赦ない憎悪とに二分されていた。」要するにジョゼフ・ドロルムは、ルソー主義者の反逆と社会的同情の両方を自分のなかに体現し、ドロルムの何かは最後までサント=ブーヴのなかに生き残った。人道主義の信条へ同意できなかったとはいえ、扇動家プルードンへ捧げた一巻から分かるように、人道主義的気質はかなり持っていた。

しかしサント=ブーヴのように、人間性の表面すれすれのところで野蛮がつねに震えているのを見た者は、科学的人道主義にとっても、感傷的人道主義にとっても、せいぜい疑わしい新兵にすぎない。彼は言う。「勇敢な兵士の軍隊が完全に潰走するのを見たことがなく、または、自分では分別があると思っていた政治集会が、情熱的な演説一つによって狂乱へ投げ込まれるのを見たことがない者は、人間が根底では動物と子供にすぎないということが、どこまで真実であり続けるかを知らない。人間の心の永遠の幼年時代よ!」

「神の大いなる不在(la grande absence de Dieu)」によって空いた聖所に、人間が自分自身の像を据えて崇拝しようとする試みを、彼が疑いの眼で見たのも当然である。モリエール――十七世紀のすべての「自由思想家」のうち最大の人物――へこれまで捧げられた最高の賛辞の一つで、サント=ブーヴはこう書いている。

「モリエールを愛することは、自らを偶像化し、自分がどんな材料でできているかを忘れ、どれほど努力しても、つねに取るに足りない人間性にすぎないことを忘れる人類に対する独善的で際限のない称賛へ陥らずに済むことを確実にする。」

自利心を見抜く技術について、サント=ブーヴほど熟練するのは、あまり望ましくないかもしれない。彼は、マルクス・アウレリウスの最も幻滅した思想の一つについて、次のように論評する。「こうしてマルクス・アウレリウスも杯を飲んだ。しかし彼は黙って飲んだ。あの冷笑的な革命家のように、『人間にはうんざりした(Je suis soûl des hommes)』と叫びはしなかったが、そう考えていた。キケロもまた、自分なりの仕方でそう言った。人間に対するこの吐き気の感覚は、しばしば彼を襲い、一時は死以外のすべてが嫌悪すべきものに見えた。カエサルは晩年、自分の命を守ろうとする手間さえかけなくなった。『欲しければ、持ってゆけばよい』と言っているようだった。われわれは、あらゆる道を通って、これと同じ嫌悪の感情へ達する。長く生き、人類という種とあまりに密接に関わってきただけで十分である。」

このように感じるに至った者は、ジョン・モーリーの助言に従い、過去・現在・未来の人類と交わることによって宗教的感覚を満たすことはできないだろう。

それでも結局、サント=ブーヴが明確な信念へ最も近づいたものは、科学的進歩への信念である。「現在の文学における束の間のつまらないもの、舞台前面を塞ぎ、視界を妨げているものを越えて見るなら」と彼は言う。「この時代には、あらゆる方向、あらゆる科学において、偉大で力強い運動がある。」

「十八世紀と対照をなすわれわれの十九世紀は、教条的ではない。意見を述べるのを避け、結論を急がないように見える。反対することを恐れるため、好意を示しているように見える、表面的な小反動さえある。しかし待つがよい。いたるところで人々は、物理学、化学、動物学、植物学、博物学のあらゆる分野、歴史批評と哲学批評、東洋学、考古学において働いている。あらゆるものが徐々に変容しており、この世紀がわざわざ結論を引き出す日には、出発点から百里、千里も離れていることが分かるだろう。船は外洋に出ている。測程索の結び目は数えられないまま繰り出されている。人々が位置を測る日には、自分たちが進んだ距離に驚くだろう。」

これは勇気づけるように聞こえる。ただし、われわれがどこへ向かっているかは告げず、ただ航行中だと述べるだけである。サント=ブーヴは、「人間の発明は時代から時代へ増大するが、世界の善と悪は概して同じままである」というパスカルの言葉を賛同して引用し、われわれの壮大な進歩理論すべての題辞として、この言葉が使われるのを見たいと付け加える。

サント=ブーヴ後期の著作における、人文主義的要素と自然主義的要素との相互作用と衝突については、すでに述べた。これはおそらく、われわれの近代を深く貫く思想と感情との対立が、彼に現れた主要な形である。というのも、彼の人文主義は大部分、感情の問題だからである。

もちろん、サント=ブーヴの最も賞賛すべき特質の一つ、すなわち、事実を何らかの時期尚早な体系へ還元しようとせず、公平に観察してすべて記録しようとする姿勢を、性急に矛盾とみなしてはならない。

それでも矛盾は存在する。科学的自然主義者として、先ほど見た重大な留保を置きつつ進歩を信じたとすれば、人文主義者としては衰退を信じていた。それこそ、『シャトーブリアン』の意味である。この書物で彼は初めて、意識的に裁判官として批評しようとした。

彼はシャトーブリアンを人文主義的観点から概観し、フランス散文の首都をローマからビザンティウムへ移した、退廃期最初の大作家だと結論する。ヴォルテールやニザールと同じく、古典時代の理論を受け入れ、自分の時代はすでに下降曲線にあると断言する。「きわめて残念ながら」と彼は言う。「文学は腐敗への大街道にいると、私は信じている。この信念には、できるかぎり長く抵抗したのだが。」

この立場は当然、自分自身の文学的過去と、そこでの仲間の多くとの公然たる決裂を意味した。ロマン主義者、とりわけユゴー、ラマルティーヌ、ヴィニーなどのロマン派詩人に対する態度では、創作に失敗した者が、創作に成功した者へ抱く嫉妬に影響されたと、サント=ブーヴは考えられてきた。しかし、最も個人的に見える彼の確執と敵意にも、より大きな側面がある。彼は怨恨を抱く能力があまりに強かったが、逆に、他人の怨恨によって大半の人より多く苦しんでもきた。その理由を、彼自身がきわめて明瞭に述べている。

「党派と宗派は、そのなかを通過しながら、自分を永久に縛りつけることを拒んだ者へ、死ぬほどの恨みを抱く。私は誰にも、『彼はわれわれの一人だ』と言う権利を与えなかった。確かに私には悪徳も弱点もあった。しかし生涯にこれほど多くの人を苛立たせ、これほど大きな怒りを引き起こしたのは、私のなかの善いもの、すなわち誠実と真実への愛、判断の独立のためだった。」

こうしてロマン主義者とその支持者は、サント=ブーヴへ死ぬほどの恨みを抱き、真剣な判断を含む意見を、個人的理由によって説明しようとしてきた。ゲーテと同じく、サント=ブーヴは年を取るにつれ、ティタンに対抗するオリュンポスの神々の側へ、ますます立つようになった。ユゴーのロマン主義の暴力と過剰、バルザックの自然主義の暴力と過剰へ抗議するのは、人文主義者としてである。後には、友人であり崇拝者でもあったテーヌへ浴びせる賛辞の下にも、過度の自然主義が持つ非人間化の傾向への、同じ抗議の調子を聞き取ることができる。

バルザックを低く評価する理由について、彼はある書簡の相手へこう書いている。「何があろうと、私は古典派、ホラティウスと『ウィンザーの森』の歌い手の学派にとどまった。」 しかしバルザックが『パリ評論』で彼へ向けて無法な攻撃を書いた一八四〇年から、わずか数年後に発表されたサント=ブーヴの一八五〇年の論文ほど、バルザックについて健全で公正な文章はほかにない。

同時代人についての判断の確かさでは、サント=ブーヴはボワローと肩を並べることは決してないだろうと私は考える。

それでも、独特の雰囲気を持った十九世紀が遠くへ退くにつれ、これらの判断はますます受け入れられるようになるだろう。実際、フランス人は、ロマン主義運動と自然主義運動に反動し始めたいま、すでに彼の判断へ近づきつつある。

最も激しい反対を呼び、調子に疑いようのない苦味を帯びている『シャトーブリアン』は、サント=ブーヴの最も興味深い著作の一つであるだけでなく、最も思慮に富む著作の一つでもあることが、やがて明らかになるかもしれない。同じ主題を扱った近年の著書で、ルメートル氏は、サント=ブーヴを再確認する以上のことをほとんどしていない。唯一の相違は、シャトーブリアンのなかにロマン主義的自我主義の深層を次々に暴いてゆきながら、「欠点をすべて含めても、なおわれわれは彼を愛する」と繰り返す点である。

II

サント=ブーヴが生きたのは、芸術における現実と理想の要求を調整することが、とりわけ困難な時代だった。理想を名乗るにせよ自然主義を名乗るにせよ、極端で一面的なものすべてに対して警戒するうえで、彼の完全な機転、節度、良識はつねに頼りにできる。

理想主義者を自称しながら、実際にはロマン主義的夢想家にすぎない者にも、理想主義者を自称しながら、実際には擬古典主義的形式主義者にすぎない者にも、彼はいらだちを感じた。後者を特に念頭に置き、彼はこう書く。「おお、理想の友人たちよ。私はあなたがたと争おうとは思わない。理想があることは認めよう。しかし真の理想と偽の理想とがあることも認めてもらいたい。」

「いつか理想、または理想と称するものに出会い、それが高貴な外観の下で冷たく、単調で、悲しげで、無色であり、ぼんやりし、硬直し、味気なく、大理石のように光彩と変化に富むのではなく、石膏のように白く、ギリシアの隆盛期に半神と英雄の血管を紫色の温かな血の奔流が脈打っていたような温もりと力に満ちず、青白く、血がなく、四旬節のように禁欲的で、実り豊かな霊感の源を自ら拒み、純粋な抽象によって生き、頭から足までリウマチを患い、倦怠に濡れ、飽和しているなら――ああ、間違えてはならない。それこそ長いあいだフランスのミューズを冷え込ませ、再び冷え込ませる力を持つ理想、避けるべき理想なのだ。」

一般に彼は、美を何らか一つの型へ閉じ込め、その型の、ますます青白い複製を作ろうとする者を攻撃する。 もちろん作家が、「なお血と膿を滴らせている」解剖刀の切っ先を見せびらかすことを、彼は望まない。しかし同時に、「あなたがたの襞と衣装の下で、徹底した解剖学と生理学が無視され、欠けることがあってはならない。絹とレースの下にも、本物の肉と血を意識させてもらいたい」と言う。

サント=ブーヴ自身の目的は、本人が語るところでは、批評へ一定の魅力を導入し、それとともに、それまで批評へ持ち込まれていた以上の現実を導入すること、ひと言で言えば、詩と一定量の生理学を導入することだった。 実際、彼の批評文のなかには、ロマン派詩人の散らばった肢体を容易に見分けられる。とりわけ彼には、探針を差し込み、解剖していることを、比喩の花々の下へ隠す奇妙な技量がある。

しかし自然主義的過剰へ陥らなかった理由は、ロマン主義の名残である詩情よりも、人文主義的な機転へ帰すべきである。暴力的で、狭量で、党派的なものすべてから、彼は本能的に身を引いた。第二帝政下の人々が奉じた自然主義は、しばしばこの三つをすべて備えていた。

これらの人々の多くが友人であり、一部は弟子でもあったため、彼は多少微妙な立場へ置かれた。しかし動機を誤解される危険を冒しても、発言した。ゴンクール兄弟の悪意ある噂話は、一部には、マニーの晩餐会でテーヌ、ルナン、サント=ブーヴその他が交わした思想を、兄弟がまったく理解できなかったことから生じ、一部には、自分たち特有の自然主義についてサント=ブーヴが留保を付けたことへの憤りから生じている。

彼は同じ精神で、フローベールの『サランボー』を批評する。「文学において、この小説で『汚れた物を食らう者』と呼ばれる人々の仲間には、決してならないようにしよう」と彼は言う。趣味のこの過度の洗練と倒錯は、彼には一つの文学流派の終末を示すものに見えた。この流派へ属することは不可能だった。「私はあなたがたを個人として愛そう」と、フローベールその他の、極端な自然主義に立つ友人たちへ言う。「しかしあなたがたの宗派へ入ることは決してない。」

彼は特に、宗派的自然主義者が、攻撃的な不快さと呼ばれてきたものを好むことへ反発した。「同時代人の多く、しかも私にきわめて親しい何人かのあいだで、なお私に残っているかもしれない信用を失う危険を冒しても」と彼は書く。「趣味の問題では、私は大きな弱点を告白する。」

「私は快いものが好きなのだ。」 ゾラへの手紙で、彼の小説には「のたうち回る(vautrer)」という動詞があまりに頻繁に出てくると、ただ一言述べたことは、並の批評を何頁も重ねるより価値がある。

サント=ブーヴはまた、科学的自然主義の危険と過剰に対して、人文主義的抗議を行った。科学が第一に関心を持つのは、伝統の富を同化し、調和して発達し、自分自身のうちに知恵を備えた人間ではなく、進歩という偉大な大義へ明確に貢献できる人間である。実際には、それは専門家、すなわち、自分の視野を狭める危険を顧みず、熱意と執念をもって特定の一領域へ固着した人間を意味する。

自然主義運動のロマン主義的側面と科学的側面は、どちらも独創性という観念へ集約する。すでに見たように、この近代的な独創性概念の危険は、クーザンとその学派のうちにサント=ブーヴにも見えていた。「あらゆる勤勉な調査を奨励しよう」と彼は言う。「しかしあらゆるものにおいて、才能、沈思、判断、理性、趣味を第一位へ置こう。」

ブリュンティエールと、その言う「未刊行物狂(Fureur de l’Inédit)」を先取りするように、彼は不満を述べる。「すでに刊行された古書を編集し直すこと、または取るに足りない一片を初めて印刷することのほうが、文体と思想を持つことより、今日ではいっそう重大な尊敬の根拠になるように見える。」

サント=ブーヴの眼には、調査の熱狂を人文主義的伝統の知識によって抑制する必要が、ほかの誰よりも大きかったのは、中世研究者だった。この点でも、ブリュンティエールを先取りしている。サント=ブーヴとゲーテとの類似は明白である。

「真に比類ない美は」とサント=ブーヴは言う。「その完全な典型において、太陽の下に一度、あるいは二度しか輝き出たことがない。確かに、種類と程度を異にする美はある。人間の生と人間精神の現れは無限である。それらすべてを歓迎しよう。しかし真の美を見た者、または垣間見た者は、決してそれを忘れないようにしよう。その高く繊細な像を、われわれの内部へ忠実に保存しよう。そうすれば少なくとも、機会あるごとにその名を浪費し、永遠に冒瀆することはない。ところが、中世の文書を大量に漁り(qui ont beaucoup paperassé sur le Moyen Âge)、ほかの何も知らない立派な研究者たちが、それを行っているのを私は見る。」

特にポーラン・パリを念頭に置き、彼はさらに言う。「これら中世研究者の多くは、自分自身の内部に、必要な比較項をすべて持っていない。」 彼らは、「ソフォクレスを原文で読んだ者なら誰にも不可能な」趣味上の逸脱へ陥る。

ある時は人文主義者として、別の時は自然主義者として語るからといって、サント=ブーヴは、繰り返しておくが、必ずしも首尾一貫していないのではない。しかし彼の本性の二面、科学的探究者と美的な人文主義者との対立は、時に疑いようがない。たとえば、次の一節で、頭と心との争いを感じない者がいるだろうか。

「あなた自身が著者であり専門家であっても、これほど多くの複雑さなしに一冊の本を読めた時代は、どこへ行ったのか。盛夏のホラティウスのように寝台へ横たわり、あるいはグレイのように長椅子へ身を伸ばし、自分には天国やオリュンポスの歓喜より優れたものがあると思いながら、古代人と近代人を読めた時代は。」

「立派なオランダ人のように、木陰を歩きながら読めた時代は。その人は、五十歳になったこの地上で、書物を手に美しい田園をゆっくり歩き、欲望も情熱もなく、時折その書物を閉じ、瞑想へ沈むこと以上の幸福を想像できないと言った。日曜の午後、忍冬の影が落ちる開いた窓のそば、孤独な部屋で、メソニエの『読者』のように、ただ一冊の愛しい本を読めた時代は。幸福なこの時代はどうなったのか。

「今日では、読みながらつねに針の上へ座っているようで、絶えず警戒し、たえず自分を尋問しなければならない。これは正しい本文か、どこかに本文の腐敗がないか、自分が楽しんでいる著者は、ほかのどこかからこれを取っていないか、現実を写したのか、それとも発明したのか、本当に独創的なのか、どのように独創的なのか、自分の本性や人種などへ忠実だったのか、と問い続ける。そしてほかにも千もの問いが、喜びを損ない、疑いを生み、額を掻かせ、書棚の最上段まで上らせ、すべての本を引っかき回し、調べ、抜き書きを作らせ、最後には再び労働者、職人にしてしまう。物事の精神を呼吸し、自分の快楽と歓びに必要なものだけを受け取っていた、享楽家で繊細な愛好家ではいられない。」

「趣味のエピクロス主義よ、永遠に失われたもの――少なくとも、あらゆる批評家にとって、今後は不可能になったもの。ほかの宗教を持たなかった者にとってさえ最後の宗教であり、ハミルトンとペトロニウスの最後の名誉、最後の徳だったものよ。あなたに反対し、あなたを棄てるまさにその行為のなかで、私はどれほどあなたを理解し、惜しむことか!」

この一節に現れる文学的感受性の豊かさと深さを含め、批評家としてのさまざまな美徳は、サント=ブーヴのなかであまりに幸福に混じり合っているので、彼が別の人間であればよかったと望む者はいないだろう。しかしこの一節は、彼が人文主義者としてではなく自然主義者として影響力を持った理由も明らかにする。自然主義において時代の主流へ乗ったという事実とは別にしても、そうである。

世界へ働きかけようとする人文主義は、ホラティウスやグレイとともに横たわっている余裕はない。人格と意志を捉えなければならず、単にエピクロス的であってはならない。人文主義が趣味のエピクロス主義にすぎないなら、確実に失われるだけでなく、その喪失が完全に取り返しのつかないものになるとも限らない。

サント=ブーヴは、古代人と近代人の争いを非常に気にかけていた。最終的な結果についての彼の信念は、次の言葉から推測できる。「遅かれ早かれ、ホメロスを先頭にした古代人は、戦いに敗れる、少なくとも戦いの半分に敗れるのではないかと、私は恐れている。退却戦を守るわれわれは、旗の名誉のために、その時ができるだけ遅く来るよう努めよう。そして文学における革新、部分的にはきわめて正当な革新が、それでも伝統を完全に敗走させないようにしよう。」

III

この華々しい軍事的比喩にもかかわらず、ここにサント=ブーヴの闘争的側面を探してはならない。彼は一人前の男の努力を払ったが、それは自然主義へ仕える努力だった。「私には一つの喜びしか残っていない」と彼は書く。「私は分析し、植物採集する。精神の自然主義者なのだ。私が確立したいのは、文学の博物誌である。」

ここでサント=ブーヴが概略を示す方法は、人文主義的でないどころか、多くの点で人文主義へ敵対している。このことを明らかにするには、彼の方法をある程度詳しく研究する必要がある。特に、『新月曜閑談』第三巻のシャトーブリアン論第二篇で示された形を研究しなければならない。

彼がこの論文を書いた理由の一つは、そもそも彼に方法があるのかという疑問が提起されたことだった。彼は、自分の論文が多少まとまりを欠いて見えるのは、将来の総合者のため、健全な個別研究を準備しているだけだからだと弁明した。彼の手にある批評の科学は、ジュシュー以前の植物学、またはキュヴィエ以前の比較解剖学と同じ状態にある。しかし、この詳細な観察すべてを基礎として、いつか、精神の諸家族に対応する大きな自然的区分を発見できるかもしれない。

「精神のこれら真の自然的家族は、それほど数多くない。……植物についての植物学、動物種についての動物学と同じである。注意深く観察した一個体は、これまで概略しか知らなかった種へ、すぐに帰属させられ、その種へ光を投げかける。」

この地点で、サント=ブーヴ自身へサント=ブーヴの方法を適用し、原初のサント=ブーヴ、少なくとも、真剣に受け取ってもらおうとする者なら誰でも「科学」と和解しなければならなくなった世紀の一時点より以前のサント=ブーヴは、この問題全体へどのような態度を取っていたか、と問わずにはいられない。

先ほど引用した「注意深く観察した一個体」という句が、答えへの正しい道筋を示す。サント=ブーヴが何よりも関心を持つのは、生きた個人である。生きた個人を捉え、表現する驚くべき心理的繊細さ――これこそ彼の原初的な天分だったと私は考える。

書物の背後に人間を見、人間そのもののなかに、最も生き生きしたもの、個人的なもの、特徴的なもの、ひと言で言えば表現的なものを見る。彼はその人の究極的な特異性を包囲しようとする。比類ない文学的肖像画家であり、細い筆致が無限に積み重なることを考えれば、文学的細密画家と呼ぶほうが正しいかもしれない。

「作家を判断し、その内部へ入り込む最良の方法は、長く注意深く彼らへ耳を傾けることだ。ただ急がせず、自由に自分を展開させるがよい。彼らは自分について、あなたへすべてを語り、あなたの精神へやって来て、自分の像を描くだろう。」 この一節は、サント=ブーヴが世俗の告解聴聞者と呼ばれてきた理由も明らかにする。

作家がこのように、ある時間あなたの前で姿勢を取っていると、サント=ブーヴは言う。最初の一瞥が捉えた、曖昧で抽象的で一般的な型へ、個人の現実が少しずつ混じってゆく。そしてついには、いつもの癖、秘密を漏らす微笑、

言葉で定義できない皺、すでに薄くなった髪の下へ無駄に隠された、苦痛の秘密の線を捉える。その瞬間、分析は創造のなかへ消え、肖像は語り、生き始める。あなたはその人を発見したのである。」

この文章を書いたとき、サント=ブーヴはまだ二十七歳だった。実際、初期の文体に見られるいくらかの歪みは、最終段階の表現性を、ほとんど必死に追求したためだと考えられる。「真の似姿を得ようとし、あらゆる顔つきのさらに細かな陰影まで表そうとする努力のなかで」と彼は告白する。「時として、凝りすぎ、繊細になりすぎたかもしれない。」

このように表現性を目標へ据えることで、ある意味では不可能な探求へ乗り出したことを、彼は理解していた。「魂を知ったと自惚れることが、そもそもできるのか。」別の箇所で彼が呼ぶ「表現できない単子」である。何か最終的なものへ達したように見えると、それはさらに遠い何かを表現していると判明する。人間性は、偽の底が果てしなく続く箱である。

この表現的なものへの努力において、サント=ブーヴは十九世紀のまさに中心にいる。形式の美は古代人の特権だと、彼には思われた。関心、好奇心、眼前で起こるすべてを、理想へ先入観を持たず、忠実かつ多様に表現することは、むしろ近代人へ属すると考えた。

しかし彼が第一に関心を持つのは、より大きな尺度における表現性、たとえば社会の表現としての文学ではない。つねに、できるかぎり個人の近くへとどまる。テーヌと異なり、一般化するより特殊化し、人間を「地帯または層」として扱うより一人ずつ扱い、生へ論理的公式を押しつけるより、無限の複雑さのなかで生を感じることを好む。

彼は、自分は「特に個人を研究するよう、生まれつき習慣づけられ、傾いている」と言う。 十七世紀のジャンセニストのように、この距離から見ると灰色の一様さへ溶け込んでいる集団を取り上げ、細かな陰影と繊細な区別を重ねて、集団の各人物がはっきり浮き出るまで描く。

「ニコルを個別化することこそ、彼へなしうる最大の奉仕である」と言う。 この意味で、サント=ブーヴ以上の個別化の名手は存在しなかった。ド・サシについて描き終えたとき、彼へあまりに近づいたため、話す声がほとんど聞こえるようだ、と述べても正当である。 デュ・ゲも、「サングラン氏、ド・サシ氏から彼を区別する独自の陰影を持つ」。 「これらの細部すべてを読んでいると」と彼は言う。「自分自身がこの社会へ属していたように感じる。」

こうして過去を再び生かすには、事実についての莫大な知識、驚くべき心理的繊細さ、さらに一種の透視力が必要である。十九世紀が誇った歴史的な第二の眼がどこかに勝利しているとすれば、サント=ブーヴのうちである。

過去と現在との仲介術で、サント=ブーヴは、自分が生きた「時機」に助けられた。彼が生きた時代には、まだ伝統への生きた入門を受けること、すなわち過去を、過去が自分自身を見ていたように見ることが可能だった。実際にはそれは、絶対的価値の世界で生きることを意味する。他方、すでに過去から自分を切り離し、それを相対的・現象的に見ることも可能だった。

過去と現在との仲介術は、今日のわれわれにとって、さらに困難になりつつある。われわれは過去を相対的にしか見ない傾向があり、この相対主義へ、さらに「進歩」の教義が重なる。この教義が人間精神へこれほど巧みに目隠しをするのは、単に教義であるからだけでなく、流転の上に立つ教義だからである。

たとえば近年のある本の著者は、ヴェルサイユ宮殿を急いで通り抜け、これほど欠陥のある給排水・衛生設備しか持たなかった人々には、大した価値があったはずがない、と結論する。この著者には明らかに、自分とは異なる給排水設備のもとで、さらに言えば、給排水設備がまったくなくても、人間が到達しうる偉大さへの感覚がなかった。

繰り返せば、伝統と、それに伴う統一の感覚に対するサント=ブーヴ自身の把握は、主に美的なものであり、したがって比較的力が弱かった。彼には統一への直観がなく、事実へ単なる論理的統一を押しつける試みを正当に疑っていた。そのため、「多」を知覚する力への十分な釣り合いを欠いたまま残された。

文学的名声を含むあらゆるものが、同じ不安定さへ服するように見えた。『同時代人の肖像』の標語として、セナック・ド・メイランの「われわれは変わりやすく、変わりやすい存在を裁く」という言葉を選んだ。

「私は毎日変わる」と彼は書く。「年月は年月に続く。以前の季節に持っていた趣味は、もはや今日の趣味ではない。友情そのものも萎れ、再び生まれる。」

「私の名を担う変わりやすい存在が最後の死を迎える前に、私の内部では、すでにどれほど多くの人間が死んだことか。読者よ、私が個人的な自分について語っていると思うだろう。しかし一瞬考え、同じことがあなたにも当てはまらないか、見てほしい。」

彼は、あらゆるものがほかのあらゆるものから徐々に成長するのを見、その成長が一段階から次の段階へ移るのを示す、ほとんど知覚できない差異へ注意する。エマソンによれば、人間は根の束であり、関係の結び目である。これらの関係が持つ最も細い糸を追う点で、サント=ブーヴを超えた者はいない。

人文主義者としては力が弱かったとしても、相対主義者としては巨大な影響を及ぼした。実際、その影響において、相対性の偉大な博士と正しく定義されてきた。たとえばアナトール・フランスはルメートルについて、「彼は、われわれ全員がそこから出たサント=ブーヴ以上にさえ、相対的なものへの感覚を持つ」と書いている。

以上から、どのような意味でサント=ブーヴが、初めから本能的に「精神の自然主義者(naturaliste des esprits)」だったかが分かるはずである。時代精神へ従い、この本能的自然主義を明確な方法へ組織しようとした後年の努力は、彼を擬科学の瀬戸際まで導いた。しかしここでも、生きた個人、とりわけ優れた個人を、現象の連鎖の一環にすぎないとみなす最後の一歩を踏み出す直前に、生来の機転と慎重さが、通常は彼を救っている。『ポール=ロワイヤル』でも、宗教の究極的陶酔へ自然主義的解剖を適用するのを、ある地点で立ち止まり、拒んでいる。

「疑いなく」と彼は言う。「人間に対して、動物や植物に対するのとまったく同じように進めることは、決してできないだろう。……人間には、自由と呼ばれるものがある。」 彼の発言のいくつかについては、それ自体は擬科学的でないとしても、他人を擬科学へ励ますものだと言いたくなる。

IV

しかしこの点をさらに論じる前に、サント=ブーヴの方法のいくつかの特徴を詳しく取り上げ、可能なかぎり、理論を実際の実践から例証しよう。

彼が相対性の網のなかで最初に確立する結びつきは、作品とその著者との結びつきである。次に著者と家族、人種、時代とのあいだ、さらにその時代と一つ前の時代とのあいだへと、円は広がってゆく。

このように文学作品を自然的原因によって説明しようとする際、すでに述べたように、彼はできるかぎり個別的で直接的なものの近くへとどまり、テーヌがあれほど重視する人種、気候などの一般的原因には比較的関心を持たない。

人種的要因の重要性を否定しないが、この深い根は通常、隠れていると言う。遅かれ早かれ、気候と環境の理論が自らを押しつけてくることは認める。「舞台がそうであるように、俳優もそうである。古代人はこの関係を広く一般的に知覚していた。正確で詳細な証明を作るのは近代人の役割である。」 しかし土地と住民とのこの絆は、断ち切れる寸前まで無理に引き延ばされ、誇張されている、と彼は抗議する。

彼がさらに得意とするのは、一つの時代が前の時代へどのように関係し、そこから必然的に生じるかを追跡することである。この関係はより文学的であり、個人を通して研究しやすいからである。

たとえばデュ・ゲの繊細で才気がありながら、いくらか技巧に流れた文体の転回に、すでに十八世紀を思わせる何かを見いだす。 彼は言う。「われわれは、ルイ十四世治世初期の文体が、治世中期の平均的文体とどこで異なり、治世末期の文体が、どこですでに十八世紀へ接する技巧を帯びているかを区別することを学んだ。パスカル、レッツ、ラ・ロシュフコーは、ラ・ブリュイエールのようには書かない。マントノン夫人が老年期にメーヌ公へ教えた、あの絶妙で正確な言葉を、同時代の言語におけるほかのどの陰影とも混同してはならない。」

同じ歴史感覚によって、ルイ十四世の時代そのものが、前の時代からどのように発展したかを知覚するようになる。ルイ十四世の時代は偶然ではなく――私のある知人がかつて言ったようなものではなく――継続的な教養と発展の結果、自然な果実だったと感じるようになる。

同じく、大作家も偉大な時代と同様、偶然ではないと感じるようになる。「サン=シラン、ル・メートル、サシのような人々の後にパスカルへ来ると、比例をさらに明瞭に見られるようになる。……天才の栄光ある面を測り、その栄光に必要以上のものを与えずに済む。」

「ひと言で言えば、われわれは十分に、正しく準備されている。」

このように相対的に、すなわち別の何かから生じたものとして研究すると、ほとんどどの主題も、あらゆる方向へ枝分かれしてゆく。「ある主題のなかで少しのあいだ暮らせば」と彼は言う。「いわば友人に満ちた町へいるようになる。大通りを一歩進むごとに、たちまち左右から声をかけられ、家へ入るよう招かれる。」

こうして『ポール=ロワイヤル』は、単にジャンセニスムの歴史ではなく、少なくとも同じ程度に、十七世紀フランスの文学と社会の歴史となった。サント=ブーヴ自身の表現では、それは単に「時代を横断する」ための方法である。

サント=ブーヴは、一つの時代が別の時代へ移り変わる過程、彼の言葉なら「精神の気候(le climat des esprits)」が変化する過程を、個々の実例によって追うことを好む。しかし個人とその時代との関係を研究するとき、伝記へさらに近づき、したがって、いっそう自分の本領へ入る。

古い批評は、この点で特に弱かったと彼は言う。たとえばラ・アルプの歴史感覚の欠陥は、コルネイユの創造的天才を、状況から独立したものとして表そうとする点に現れる。

これに対しサント=ブーヴは、コルネイユが『ポリュークト』を創造できたのは、「彼の周囲に、本人が知っていたかどうかにかかわらず、同じ奇跡に等しく、それを再現する何か」があったからだと主張する。 同じくラシーヌは、その時代の上流社会が受け入れられる、厳密な意味での詩のすべてを、作品へ注ぎ込んだ。

バルザックについては、統一と精神的なものへの感覚によって、リシュリューの同時代人であることを示したと言う。 「確固たる魂を持つエピクロス主義者」サン=テヴルモンは、フロンドの乱での自分自身の経験によって、歴史上の偉大な人物への洞察を身につけた。

アルノーについてはこう言う。「この力強い精神は、当時を支配していた一般的偏見と幻想の地帯へ、半身以上を浸したままだった。彼の地平は、あらゆる方向で限られていた。」

シャトーブリアンほど偉大な革新者の仕事でさえ、同じように条件づけられている。サント=ブーヴは、アタラの死と、カノーヴァによる大理石の群像との類似を指摘する。

しかし、純粋に伝記的と呼べる関係へ来て、サント=ブーヴの方法の核心へ達する。第一に、書物とその著者との結びつきがある。ギゾー氏が、人生の問題に対する一般的解決、一つの哲学と神学として差し出すもののなかに、彼は、気質と過去によって決定された、明確で特殊な人間の型を見る。

作品がこのように人間を表現する以上、重要なのは人間を知ることである。そして人間、すなわち純粋精神以外の何かを知るためなら、異なる方法をいくら用いても多すぎることはない。

第一に遺伝の観点から近づかなければならない。祖先と両親、とりわけ母親から何を受け継いだかを発見するよう努めなければならない。偉大な人物には、ほとんどつねに優れた母親がいる。また姉妹へどのように似ているかも調べなければならない。偉人の姉妹は、時として偉人本人より優れた品格を持つ。最後に、兄弟と子供のうちに彼を研究しなければならない。

自然がしばしば、われわれの代わりに分析を行う。優れた人物本人のなかで混じり合っている特徴は、兄弟姉妹や子供のなかへ別々に現れると、しばしば、いっそう捉えやすい。

こうしてサント=ブーヴが、個人の周囲へ新しい宿命の網目を織るのを追うことができる。ペイターが述べるように、必然は「近代人にとって、もはやわれわれの外部にいる、戦いを挑める神話的人物ではなくなった。それは、われわれを縦横に織り込む魔法の網である。近代科学が語る磁気系のように、最も細い神経よりさらに繊細な網でわれわれを貫きながら、その内部へ世界の中心的な力を宿している」。

人間の作品が気質を反映するだけではない。この気質的自己も絶えず変化する。青春から老年までに個人が経る、相次ぐ必然的変容と、それらの変容が作品へ持つ関係とを見ることを学ばなければならない。そのためには、もう一つの陰影の世界が必要になる。

サント=ブーヴが青春の最初の輝きを好んだこと、それが彼における原始的なものの崇拝の形であることは、すでに指摘した。人間が能力を最も完全に所有するのは、三十五歳である。その後さらに宿命の曲線を追うと、衰退の瞬間へ至る。長所そのものの過剰が欠点になり、ある作家は硬直し、乾き、萎れ、別の作家は自分を放任する。

さらに別の作家は頑固になり、鈍重になり、ある者は酸っぱくなり、微笑が皺へ変わる。

画家オラース・ヴェルネは、高貴な生涯の全段階を通過したため、サント=ブーヴの称賛を得る。「あらゆる完全な有機体と同じく、彼は各季節の果実を順々に実らせた。最大の功績の瞬間は成熟の時と一致し、老年も真剣な思想を欠かなかった。」

「われわれの内部と周囲のすべてが暗くなる、避けがたい時が来る。この瞬間が訪れるずっと前、最後の陽光のただなかで、突然の予感が時としてそれを告げ、最も陽気で、最も笑いやすい者も、物思いへ沈む自分を見いだす。」

老年にも能力と活力を最良の水準へ保とうとする試みが成功すれば、サント=ブーヴには、女神ナトゥーラへの一種の侮辱に見えたに違いない。

しかし、さらに親密で個人的な仕方で、人間を扱わなければならない。一見したところ、その著作の性質から最も遠く見える問いを、自分へ投げかけなければならない。たとえば、「彼の宗教上の見解は何だったか。自然の光景から、どのような影響を受けたか。女性について、どのように振る舞ったか。金銭についてはどうか。富んでいたか、貧しかったか。健康管理と日々の生活様式は、どのようなものだったか。最後に、彼の悪徳または弱点は何だったか。人間には誰にも一つある。」

本質的な悪徳というこの理論を、サント=ブーヴはおそらくラ・ロシュフコーから受け取った、とついでに指摘しておこう。

「若い時分の最初の傾向のうちに、身体と精神がどこから衰えるかを示さない人は、ほとんどいない。」

弟子のなかで誇張された欠点を研究することによって、師の欠点へ達するのも、サント=ブーヴの方法の重要な一部だった。彼の言う「才能の内密な精査」を、祭壇の足もとまで、さらにその先まで持ち込む用意がある。

彼は言う。「女性を扱う場合には、聖者の模範のような女性でさえ、二つか三つの避けがたい問いが現れる。美しかったか。恋をしたことがあったか。回心を決定した動機は何だったか。」

ここまで押し進められた「真の真実(la vérité vraie)」の追求が持つ危険は明白である。サント=ブーヴが調査を進める名目とする「大いなる好奇心(la grande curiosité)」は、きわめて容易に、些細なもの、さらには好色なものへの好奇心へ堕落する。

アディソンは皮肉に、「読者は著者が黒髪か金髪かを知るまで、一冊の本を楽しんで読むことがほとんどないのを、私は観察した」などと言う。この普遍的な人間の本能は、十九世紀にかつてないほど繁茂した。抑制を加えられるどころか、一種の科学的承認を受けたからである。

「われわれの世紀は」とサント=ブーヴは言う。「これら内密な細部を愛する。どれほど得ても、得すぎることはない。」 しかし人間が逸話の老耄へ陥れば、すべてが終わると言われてきた。同じことは批評にも当てはまるかもしれない。

ここでサント=ブーヴ自身の方法へ従い、弟子のなかで誇張された師の欠点を研究できる。彼ほど慎重でなく、機転もない批評家たちは、伝記的・自伝的な無遠慮の、まさに饗宴へ耽ってきた。

著者の作品を説明するという口実のもとで、私生活の礼節はことごとく侵された。ピーコックの表現では、「噂話を求める読書大衆の食欲を満たすため、香り高いオムレツのように盛りつけられた」のである。

サント=ブーヴは、より低俗な好奇心の形を、ふさわしい軽蔑をもって語った。しかし彼自身が、それらから完全に自由だったとは言えない。たとえばシャルル・マニャンの文章を判断する際、毎晩九時頃、祖母が無事に寝るのを見届けていたという事実を知ることが、われわれの助けになるだろうか。

ニコルが何度髭を剃ったか、また鬘がしばしば曲がっていたことを知れば、彼の精神的性質へ多くの光が投げかけられるだろうか。 ニコルなら、フォリオット博士とともに、「私の鼻と鬘が、公衆に何の関係があるのか」と叫ぶ権利があるだろう。

サント=ブーヴは、ミショーの指の爪について論評することさえ辞さない。「爪はきわめて黒かった(il les avait fort noirs, les ongles)」という。 またヴェロン博士の料理人を、ときおり夕食へ招き、第二帝政の大人物たちについて、その女性から噂話を聞いたとも伝えられる。

サント=ブーヴなら、この種の細部へ入らなければ、現実の人物として、オリュンポス的な幻像をつかまされることになる、と言うだろう。シャンフォールによれば、あらゆる技術のうち最大のもの、すなわち欺かれない技術を、完全に身につけるよう求めるのである。

たとえば十七世紀の、いくらかイエズス会的な礼節の滑らかな表面の下では、奇妙なことが起きていた。

この偽の高貴さへ警告し、荘重で慣習的な姿勢の下に、現実の人間を見せるサン=シモンがいなかったなら、われわれはどうなっていただろう。

とりわけ虚偽を暴くこの本能において、サント=ブーヴはしばしばサッカレーを思わせる。サッカレーは言う。「アン女王は、ただの熱っぽい赤ら顔の女であり、セント・ポール大聖堂へ石の背中を向ける、あの女王像には少しも似ていなかった」など。さらにルイ十四世は、「好むなら本のなかでは英雄、真鍮像または彩色された天井では、ローマ風の姿をした神だった。しかしマントノン夫人、彼の髭を剃った理髪師、または外科医ファゴン氏にとって、彼は人間以上の何だったか。」

現実の人間へ達するには、理髪師、外科医、あるいは料理人の眼を通して見る必要があるらしい。ヴォルテールと同じくサント=ブーヴについても、あらゆる台座へ恨みを持っていたと言われてきた。彼は自分の時代について、サン=シモンが自分の時代へ行ったことを行い、後世へ警戒を促そうとした。

彼は、幻滅させる逸話と呼べるものに優れている。たとえばある日、レカミエ夫人の家でシャトーブリアンと一緒にいたとき、ラマルティーヌが入ってきた話をする。『ジョスラン』が刊行されたばかりで、レカミエ夫人はラマルティーヌへ熱心に本を褒め始めた。ラマルティーヌは素朴な自惚れから、この自己称賛へ加わった。

しかしレカミエ夫人から自分も証言するよう求められたシャトーブリアンは、一言も発しなかった。話さないと決めたときの習慣どおり、襟巻きを取り、歯のあいだへ挟んだだけだった。

ところがラマルティーヌが部屋を出るやいなや、シャトーブリアンは突然、そこに自分一人しかいないかのように爆発し、「大まぬけめ!(Le grand dadais !)」と叫んだ。「私はそこにいて、それを聞いた」とサント=ブーヴは付け加える。 この種の逸話を二、三聞けば、シャトーブリアンもラマルティーヌも、台座の上へ見る危険はなくなる。

V

いかなる理想化の過程も、サント=ブーヴにはそれ自体が非現実的に見えただけでなく、すでに述べたように、彼が同時代と共有して何より求めていた美点――表現性――を妨げるものに見えた。古代的な均整には遠く及ばなかったとしても、少なくとも生命をその無限の多様性のまま描き出すことはでき、しかも彼はそれを並外れた成功をもって成し遂げた。彼ほど生命感に富む作家はいない。批評家のなかで、彼ほど博識でありながら、書物臭さのない者もいない。過去の実在した人々が、必ずしも生前の日常的な姿そのままではないにせよ、より肝要な意味で、それぞれの内面的・心理的真実において、われわれの前へ立ち現れる。サント=ブーヴを読むことは、文学についてだけでなく、人生についての知識を広げることである。実際、いささか逆説的ではあるが、彼の批評は十分に文学的ではない、と非難することさえできる。たしかに彼は、自分を文学への信仰を持つ者の一人だと言っている。そして実際その信仰を持ってはいたが、それは彼自身の言葉を借りれば、ハミルトンやペトロニウスが持っていたという程度の意味においてだった。文学への信仰、さらには文学的伝統の健全な擁護でさえ、長い目で見れば、サント=ブーヴの人生哲学とは両立しないと私は考える。

彼自身の仕事が比類のないものであることは、繰り返し認めなければならない。しかしわれわれには、それ自体だけでなく、その傾向と影響、そのジャンルの法則との関係においても、それを判断する権利がある。このように考えると、サント=ブーヴにおける批評は、明らかに自らの中心から別の何かへ移動している。文学的であることをやめ、歴史的・伝記的・科学的なものになりつつある。それは十九世紀が、純粋な型、明確に境界づけられたジャンル(genre tranché)から離れ、諸ジャンルの全般的な混合と混乱へ向かった動きを、独自の仕方で鮮やかに示している。とりわけ『新月曜閑談(Nouveaux Lundis)』後期の巻で、サント=ブーヴが作家から将軍や政治家へ移るとき、われわれはほとんど変化を意識しない。

しかし歴史、伝記、科学は、よくても文学批評の準備にすぎない。もちろんつねに関係はあるが、批評される人物が卓越しているほど、その関係は直接的には薄くなりがちである。たとえば人物が偉大であればあるほど、遺伝を研究する者には説明しにくくなる。人間的卓越のより高い形は、めったに遺伝へ従わないとダンテは言う。そして神がそう望むのは、それらが神のみから来ることをわれわれに知らせるためである。ダンテがこのように神学的に述べた真理は、少なくとも過去に関するかぎり、観察上の事実だと私は考える。未来については、われわれの優生学的な企てが神を出し抜くことになるか、まだ明らかではない。キーツの天才とはまさに、彼がロンドンの貸馬車厩の管理人の息子だったという事実では説明できない部分である。この意味でわれわれは、エマソンとともに――

「偉大な天才ほど伝記が短い」と言ってよい。エマソンはさらにこう言う。「いかなる伝記が、『夏の夜の夢』によって私が入る場所へ光を投げかけられるだろうか。シェイクスピアはストラトフォードの公証人、教区記録係、聖具係、あるいは代理官の誰かに、あの繊細な創造物の生成を打ち明けただろうか。アーデンの森、スクーン城の軽やかな空気、ポーシャの別荘の月光、オセローの虜囚生活における『広大な洞窟と荒れ果てた荒野』――それら超越的な秘密について一語でも保存した三従兄弟、又甥、法官の会計簿、私信がどこにあるだろうか。要するに、この劇においても、あらゆる偉大な芸術作品においても……創造の時代が天へ上り、新しい時代へ席を譲るとき、天才は自分の後から梯子を引き上げる。新しい時代は作品を見て、むなしくその歴史を求めるのである。」

もちろんサント=ブーヴは、天才を単なる産物とし、遺伝と環境だけで処理できると主張するほど愚かではなかった。「きわめて偉大な個人は」と彼は言う。「一つの集団を必要としない(Les très grands individus se passent de groupe)。」 彼ら自身が中心となり、人々がその周囲へ集まるのである。ゲーテに従って彼が言うには、普通の才能は自分の時代に閉じ込められている。時代から受け取ったものを時代へ返し終えると、彼らは貧しくなる。しかし真の天才は借り物の水へ頼らず、絶えず湧き出る泉である。

サント=ブーヴは、テーヌが自然主義的方法を最後の極端まで押し進めたときの弱点を、見事な正確さで指摘した。いずれにせよ彼には、人間という単子の唯一性と表現不可能性への感覚が、きわめて強く備わっていた。趣味の問題には等価物はない、と彼は強調する。仮に一つの偉大な才能が欠けたとしよう。仮に一人の真の詩人の魔法の鏡が、誕生の揺籃で砕かれたとしよう。それとまったく同じもの、またはその代わりとなるものは、二度と現れない。 ある人の言い方を借りれば、シェイクスピアとセルバンテスが同じ時期に麻疹へ罹る可能性があったと考えると、身震いせずにはいられない。

それでもサント=ブーヴには独自の自然主義的方法があり、作家と作品があまり唯一的でなく、そのため説明しやすい場合には、ある種の満足を覚えずにいられない。「実を言えば」と彼は言う。「クールマン氏は、その『回想録』にまったく独創性がないという、まさにそのことによって私を喜ばせる。彼は、自分が暮らす環境を、立派に、しかもたやすく表現している。あまりに個性的な性格が混じったり抵抗したりすることなく、その環境の温度をかなり正確に記録してくれるのである。」 ここでわれわれは、サント=ブーヴ自身は疑似科学的でなかったにもかかわらず、疑似科学への道をどのように指し示したかを見始める。この文章は、疑似科学的な「正常人」理論の最初の素描のようなものである。「通常」とサント=ブーヴは言う。「十五年で一つの文学的生涯をなす。」 彼自身の生涯はそのちょうど三倍に及び、しかも始めたときより良い状態で終えた。また、初期には陰鬱だったのに対し、晩年には比較的朗らかでもあった。彼が一般にはあれほど魅惑的だと感じた青春の最初の開花は、自分の場合には悪の花(fleur du mal)だった。

テニソンが七十歳を越えてから最良の抒情詩のいくつか――たとえば「砂州を越えて(Crossing the Bar)」――を書き、ティツィアーノが八十歳を越えてから最良の絵のいくつかを描き、ソフォクレスが九十歳を越えてから最良の戯曲の一つ『コロノスのオイディプス』を書いたという事実を、サント=ブーヴの方法ではどう説明するのか。なるほど、こうした人々は例外だ、と言われる。しかし明白な答えは、人は例外的であることによってのみ文学上の地位を持ち、高い地位を得るには最高度に例外的でなければならない、ということである。

すると、人間精神が自分の手から逃げるのを見た疑似科学者は、サント=ブーヴ自身は踏み出さなかった一歩を踏み出し、例外的なものを病的・病理的なものと同一視する。彼の理解する意味で正常でない者、すなわち入念なほど平凡でなく、何より想像力を欠いていない者を、彼は著名な退化者として分類する。後世から振り返ったとき、十九世紀後半の疑似科学が天才を扱った仕方ほど、嫌悪を催させるものはほとんどないだろう。人間精神には、科学的知性が自分を公式へ閉じ込めようとする試み、低い要素が高い要素へ独断的に君臨しようとする試みを、見下ろして嘲るものがある。しかしここでもほかの場合と同じく、近代運動の感情的側面が科学的側面と協力し、ルソー以後、一連の奇矯で病的な天才を長く生み出して、この命題を裏づけてきたことは認めなければならない。

天才の本性をめぐる混乱全体は、プラトンが示した二種類の狂気――「一方は人間の弱さによって生じ、他方は人間の通常の道から神的に解き放たれることによって生じる」――という単純な区別を無視したことから起きた。プラトン的な意味で作家の「狂気」を感じるとは、その純粋な高さを感じることである。人間は超自然的なものによってのみ偉大である、とエマソンは言う。そしてこれはロンギノスが崇高へ与えた定義と一致する。 付け加えるまでもないが、両者が「超自然的」と言うとき、奇跡的なものではなく、通常の知性を越えるものを意味している。

ところがサント=ブーヴには、ロンギノス的またはエマソン的な崇高の感覚が比較的乏しかった。彼は、この欠如が多少なりとも民族的特質だと主張した。批評においても詩においても、彼自身の表現を借りれば、丘を半分まで登ったところで止まることを選んだのである。さらに言えば、彼の考える批評とは一種の半創造であり、役を創造する俳優の仕事に似ている。そしてさまざまな俳優と同じく、著者の創造力によって自分の創造力が圧倒されすぎないような役を好んだ、と非難されてきた。

原因が何であれ、彼が明らかに関心を向けたのは、高さを定めることより、許されるなら「水平性」と呼びたいものへ到達することだった。彼の文章ではすべての人が六フィートの身長になる、という評には一面の真理がある。彼は心理的伝記についての比類ない才能を、一流作家に対すると少なくとも同じ満足をもって、二流作家にも振るう。彼は時に、「小者を軽んずるな(ne despicias minores)」という戒めへ従いすぎる。ある天使は栄光において別の天使と異なる、と言われる。

彼の努力は時として、ある小作家が別の小作家と、いかに取るに足りなさの点で異なるかを示すことに向けられているように見える。どれほど小さな作家にも、その人固有の独創性の色合いを発見する彼の才能については、すでに述べた。現代のプラグマティストのように、彼は「一者」への直観によって知性主義者の公式を脱するプラトン主義者ではなく、「多者」への生き生きした直観によってその公式から逃れる。したがって、人が何によって偉大であるかを示すことより、何によって個性的であるかを示すことに優れている。

もっとも彼は、文学の至高の人物の台座を倒そうとはしなかった――シャトーブリアンという、きわめて疑わしい例外は別として――が、時としてそうした人物の脇を通り過ぎる傾向がある。アイスキュロスより『ギリシア詞華集』のほうが居心地よかった、と言われてきた。彼の自然主義的気質と、人間は超自然的なものによってのみ偉大であるというロンギノスまたはエマソンの教説とのあいだには、明白な対立がある。彼自身の表現によれば、彼の方法の全般的な結果は、むしろ天才を「脱超自然化する(désurnaturaliser)」ことだった。

VI

ここでは、サント=ブーヴの方法のうち、天才を最も明瞭に脱超自然化する傾向を持ちながら、同時に、その自然主義が極端な適用においてさえ、人文主義によって幸いにも和らげられていたことを示す側面を、より詳しく論じるために取っておいた。私が指すのは、サント=ブーヴについて語る際にこれほど断定的な語を使ってよいなら、「支配的能力」の教説であり、それと密接に結びつく、生得的な共感と反感、ならびに「精神の自然的な一族」の理論である。

精神の自然的な一族についての、より一般的な仮説は、サント=ブーヴ自身がわずかしか用いていないという理由から、ごく簡単に退けてよい。これを厳密に展開すれば、ほとんど必然的に疑似科学へ陥るだろう。たとえばリシュリューやボナパルトのような偉大な支配者という、歴史上繰り返し現れる一定の型を認めるとして、彼らに共通する支配欲を、身体組織が同じ仕方で、言ってみれば動物学的に構成されていたことへ帰すべきなのか。サント=ブーヴはある箇所で、「神秘家の自然的な一族」についてさえ語っている。 この種の分類において、彼は近代思想をあれほど広く浸している「自然」および「自然的」という語を危険に弄ぶことから、完全には逃れられなかったように思われる。

ここには明らかに、人間の自然に固有の力、すなわち遠い過去をさえ意識的に模倣する本能が介入している。サント=ブーヴが挙げる神秘家の一人が南海の島に暮らし、聖アウグスティヌスにもキリスト教一般にも一度も接したことがなかったなら、何らかの内的器官または能力が宿命的に展開することによって、やはり神秘家になっただろうか。

人が一定の傾向を生まれながらに持ち、自分と似た傾向の者へ引き寄せられ、あまりに異なる傾向の者には反感を抱くことは、それ自体として疑似科学的な理論ではなく、事実である。それほど明白な事実なので、昔の人もこれを観察し、独自の説明を考案した。この過去の理論を多少知ることは、その理論の近代的な諸形態を理解する助けとなる。サント=ブーヴ自身、ポープと、支配的情念についてのその発言をたびたび引いている。そこで一瞬、ポープよりさらに前へ戻るのも有益だろう。

古い説明は通常、古典古代から伝わる体液説と結びついている。人間の気質は、四元素がその人のなかで混じり合う比率から生じると考えられた。

「熱、冷、湿、乾、四人の猛き闘士が、
ここで覇権を争う。」

ほかの要素を制して優勢となった要素が、その人の体液的気質を定める。同じ体液の者は自然に引き合い、反対の体質の者は自然に反発した。ベン・ジョンソンによる有名な「気質(humour)」の定義は、支配的情念の定義としても見事である。

「何か一つの固有な性質が
人をかくも占め、その情動、精気、力のすべてを引き寄せ、
合流するすべてを一方向へ走らせるなら、
これを真に一つの気質と呼ぶことができる。」

体液が互いに引き合い反発することは、占星術的にも説明された。人々は異なる星の配置のもとに生まれた。支配する惑星に応じて、性向は木星的(陽気)、水星的(移り気)、土星的(陰鬱)などになった。

十七世紀から十八世紀初頭にかけて、体液説は支配的情念の理論へ移行する。その過程には、宗教的人生観または人文主義的人生観が、次第に自然主義的人生観へ譲歩する様子をたどることができる。この点から見ると、ポープの「コバムへの書簡(Epistle to Cobham)」は一時代を画する。

サント=ブーヴがポープを頻繁に引くのは、極端な形では人文主義と宗教の両方を転覆する考え方に、人文主義的権威を見いだした満足も一因だったのかもしれない。対立する二つの人生観がポープ自身の精神で混乱していることは明らかである。ある時には支配的情念を「精神の病」と言い、別の時にはルソーの弟子のように、こう宣言する。

「かくて最も確かな美徳は情念から芽吹き、
野生の自然の活力が根元で働く。」

少なくともジョンソン博士は、宗教的人生観を擁護するにあたり、一貫性を欠いたとの非難を受けない。おそらく同時代の誰よりも、支配的情念の理論が含意するものを余すところなく見抜き、それを受け入れたポープを攻撃する機会を一度も逃さなかった。「この教説は」と彼は言う。「偽であるばかりか、それ自体有害である。」「真の天才とは、広範で一般的な諸能力を持ち、偶然によって特定の方向へ定められた精神である。」「私は、アイザック・ニュートン卿が詩へ専念していたなら、きわめて優れた叙事詩を書いただろうと確信している。私自身も、悲劇詩へと同じくらい容易に法律へ専念できただろう。」この最後の主張には、われわれも微笑みながら同意する。精神を機械的なものにしようとする者への憤りから、ジョンソンは明らかに勢い余り、日常的観察の事実へ逆らった。

ジョンソンの支配的情念に対する運動にさらに致命的だったのは、それが時代の主要潮流に逆らっていたことである。自発性についてのロマン主義理論が現れると、人は自分本来の天才、言い換えれば支配的衝動に従うだけでよいという考えは、途方もない勢いを得た。

イギリスの代表的なロマン主義批評家を二人だけ挙げれば、ラムとハズリットは、宿命的な気質的傾向と、それが伴う共感・反感を、まさに享楽している。「ぐずぐずする人間は」とハズリットは言う。「決して時間厳守にはならない。決意など役に立たない。……人を議論によってその気質から抜け出させることができるか。……病は血のなかにある」などと。彼は個人の気質だけでなく、国民的気質の宿命性も信じる。「誰がフランス人を立派にできるのか」と彼は問う。「またイギリス人を愛想よくできるのか。」

ラムはむしろ、避けがたい引力と斥力について語りたがる。自分は「共感、無関心、反感に最も完全に隷属する者」だと断言する。生涯を通じてスコットランド人を好きになろうと努めてきたが、絶望して実験を断念せざるを得なかった。彼の精神は、その構造からして本質的に反カレドニア的だった。生まれて初めて会った二人が、たちまち殴り合ったという話も信じられるという。ヘイウッドの『天使の位階(Hierarchie of Angels)』から、スペイン王フェルディナンドを暗殺しようとしたスペイン人の話を、賛意を込めて引く。その男は拷問台にかけられても、王を初めて見たときから抱いた根深い反感以外に、犯行の理由を何一つ述べられなかった。

「彼をその行為へ駆り立てた原因は、
初めて見た時から、王を愛さなかったことだった。」

サッカレーがこの教説を採る形は、さらにサント=ブーヴに近い。「われわれが互いを好き、または嫌いになるのは」とサッカレーは言う。「ある花の香り、ある料理や――

ワインの味、ある本を、人が好きまたは嫌いになるのと同じである。なぜかは説明できない。しかし概して、世界中のあらゆる理由を並べても、われわれにフェル博士を愛させることはできない。そして彼を嫌うのと同じくらい確かに、彼もわれわれを嫌っていると考えてよい。」サッカレーは、この種の反感がフィールディングとリチャードソンのあいだに存在したと信じさせようとする。「フィールディングには、ほかのことなどできなかった」と彼は言う。「あの貧弱なロンドン町人の本屋が、感傷的なたわごとの果てしない巻々を吐き出すのを笑い、軟弱者、意気地なしとして嘲笑せずにはいられなかった。彼の天才は紅茶ではなく、酒入り卵乳で育てられていた。彼のミューズが最も高く歌ったのは酒場の合唱であり、空になった何千もの大鉢の上へ朝日が差し込むのを見て、夜警の肩に担がれて部屋へよろめき帰った。リチャードソンの女神には老嬢と貴婦人の寡婦たちが侍り、マフィンとボヒー茶を食べていた。『軟弱者め!』とハリー・フィールディングは、臆病に閉じられた店の鎧戸をがたがた鳴らしながら吠える。『悪党! 怪物! モホックのならず者め!』と『パミラ』の感傷的な著者は金切り声を上げ、その宮廷の婦人たちは皆、怯えた合唱をがあがあと響かせる。」

こうして体液説と、そこから生じる避けがたい引力・斥力の考えは、自然主義的遺産の一部としてサント=ブーヴへ伝わった。まず引力と斥力について言えば、ここでもほかの場合と同じく、サント=ブーヴとゲーテのあいだに類似が認められる。ただしゲーテは決定論者ではない。「過去の歴史を見渡すなら」とゲーテは言う。「いたるところで、ある人々とは意見が合い、別の人々とはほどなく口論してしまうに違いないような人物に出会うだろう。」

隣人を自分自身のように愛せよ、とわれわれは教えられる。だがその隣人が別の自然的な一族に属するなら、愛するどころか憎まざるを得ない、とサント=ブーヴは答える。どうしようもないではないか(Que voulez-vous?)。それはわれわれの血と気質のなかにあるのだ。しかし彼はいつものように、この理論を個人へ限定する。ほかの自然主義的理論家のように、頭蓋の測定値における、ほとんど知覚できない差異の結果として、種々の人種と国民全体が、一種の動物学的必然によって互いを殺戮するよう駆り立てられる、という恐るべき幻を呼び起こすことはない。

しかし個人へ適用する場合、これほど頻繁に彼が用いる理論も少ない。たとえば、ボワローにキノーを楽しむよう強いることが、どうしてできるだろう。 フォントネルにボワローを高く評価させることが、あるいはジョゼフ・ド・メーストルにヴォルテールを愛させることが、どうしてできるだろう。モンテーニュとマルブランシュは異なる自然的な一族に属し、互いに反感を抱いていた。 ニザールとアンペール、 シュレーゲルとシスモンディ、 モレとアルフレッド・ド・ヴィニー、 コレとジャン=ジャック・ルソー、 ボワローとペローなども同じである。

エマソンはポーを「ちりんちりん男(the jingle man)」と呼んだ。それは、ポーとエマソンが自然的な反感関係にあったことを示すだけだ、とサント=ブーヴなら言っただろう。エマソン自身の言い回しを借りれば、「神が引き離したものを、人が結び合わせてはならない。」いかに多くの出会いについて、ワーズワースと、几帳面で計算高く非詩的なシモン氏との出会いを評したド・クインシーのように、「二人は会い、見つめ、互いに軽蔑した(They met, they saw, they interdespised)」と言えることだろう。

「よく知られているように」とサント=ブーヴは言う。「図書館員同士の憎悪ほど、それなりに辛辣なものはない。つまり毎日顔を合わせ、ほとんど向かい合って座り、机から机へ互いを嫌悪し、反対の流体を蓄積することに生涯を費やす人々の憎悪である。」

こうして図書館員は、ライデン瓶と同じ水準へ置かれる。しかしサント=ブーヴは、しばしば過程全体を本能的なものにしすぎてはいないだろうか。利害の一致または衝突が、こうした気質的な宿命に逆らい、それを凌駕することもある。現在、イギリス人とドイツ人が海峡を挟んで互いを険悪に見つめているとすれば、それは生得的に反感を抱くからというより、利害と野心が衝突するからである。一世紀前、利害と野心が一致していたときには、彼らは自然的な反感を抑えた――そのような反感が存在すると仮定しての話だが。

また信念の変化や転換は、以前は反発していた多くの人物へ人を引き寄せる。たとえば若い頃のルナンは、ベランジェとその快楽主義的哲学を攻撃した。サント=ブーヴはベランジェとルナンを自然的な反感関係と断定したが、ルナン自身が年齢とともに快楽主義的になると、以前ベランジェについて非難したまさにその特質を称賛するようになった。

VII

しかし今度は、サント=ブーヴの支配的能力そのものについての考えへ移ろう。共感と反感の理論は、結局その一側面にすぎない。ラ・ロシュフコーの弟子として、サント=ブーヴは、人間は最終的にはつねに自愛によって支配されると信じていた。ところで人間の自己の最も内奥にあるのは、自然によって植えつけられた支配的衝動である。したがって自愛の主要な一形態は、自己表現への情念、この支配的衝動を拘束なく働かせようとする情念である。これこそ、ほかのすべてを説明する秘密の主動力である。

人は副次的な衝動ならある程度抑えられるかもしれないが、支配的衝動は抑えられない。第一の能力の働き(le jeu de la faculté première)は、その人の統御を越えている。サント=ブーヴは、ロマン主義運動の疑似理想主義者と関わった自身の経験から、ある程度一般化した。「私は意志の自由を信じない」と彼はクーザンへ書いた。「なぜなら、あなたの主要な欲求へ歯止めをかけることが、あなたの力のうちにあるとは信じないからである。」

この意味で理解された気質は、エマソンが言うように、「宗教の炎のなかでさえ焼き尽くせない」ものであり、「あらゆる神性を敗走させる」。サント=ブーヴは、宗教的回心の後でさえ、自我がその本質的衝動において生き残ることを示すのに、ほとんど意地の悪い喜びを覚える。回心者は私の友ではない、とゲーテは言った。サント=ブーヴも同じことを言えただろう。回心は「自然の転覆」であり、気質の法則を否定するものだからである。

「どれほど聖者になっても、人には自分なりの小さな自尊心がある(On a beau être saint, on a son petit amour-propre)。」 「自然的な天職の印は、十字架の下にもなお残る。」 ポール=ロワイヤルの人々は、一人ひとりが回心後も、気質と生来の性質の明確な特徴を保っている。パスカルは回心後でさえ、幾何学への情念を保っていた――自分ではそれを軽蔑していると思っていたが。ラシーヌは悔悛の夜にも、ある情熱的な悲劇、涙するモニームの姿につきまとわれた。そして罪深い幻を沈黙させる前に、旋律的な詩句、おそらくは場面全体を、自分だけに聞こえるように作った。

しかしラシーヌのような稀有で特殊な才能は、それ自体が宗教的説明を受け入れうる。才能は、その起源において無償の賜物、功績によらない一種の予定、要するにジャンセニスムおよびアウグスティヌス的な厳密な意味での恩寵であり、人間の意志と行為とはまったく別のものだと、サント=ブーヴも認める。こうして「才能ある個人の深奥には、心理的観察だけでも、別の言葉を用いながら神学と同じ問題へ、どこまで行き当たるかを示す、あの種の神秘の一つ」が見いだされる。

それでも、こうした問題を宗教的な気質で扱うか、自然主義的な気質で扱うかには違いがある。「このように神の恩寵の教説が何の覆いもなく提示されるたび、つまずきを覚える人々には事欠かない」と彼は言う。「しかしその同じ人々は、誕生と幼年期からすでに、われわれへ深く明確な刻印を押す、あの奇妙な宿命について考えたことがあるだろうか。彼らが宗教的であるか、そうでないかのどちらかである。宗教的でないなら、人種、気質などの生理学的説明へ戻ることは、私にも完全に理解できる。反対に、自分を宗教的だと考えるなら、神の恩寵の教説へ入らない、どのような教説へ頼るのだろうか。」

ここでサント=ブーヴが第三の仮説、東洋の業(カルマ)の教説に体現される仮説を見落としていることを、ついでに指摘してよい。「しかし結局、大多数の精神は、宗教的でも、その反対でもない。中間の空間に漂い、帰結を恐れる。あらゆることについて途中の宿に留まるのである。

これが常識と呼ばれるもの、すなわち平均的な錯覚の度合いである。」

こうして彼の言葉を借りれば、キリスト教的道徳家と自然主義的道徳家のあいだに始まる戦いにおいて、彼が明らかに後者へ傾いている。マルブランシュについて、彼はこう言う。「厳粛な哲学者がまだ残っていれば眉をひそめ、しかしモンテーニュなら微笑むような比較を、許してもらえることを願う。マルブランシュがデカルトの『人間論』を読んで、ある日、形而上学への才能を発見したのは、歌手ガラがまだ子供だった頃、グルックの『アルミード』の上演から出てきて、ある日、自分の声を発見したのと同じである。

後者の歌手は、一日以上姿を消した。家族は彼を捜し、心配した父親は、市内の通りをあらゆる方向へ捜索させた。兄弟の一人が庭の奥へ行くと、普段は閉じられている古い物置が開いていた。なかへ入り、大いに驚いて、若いガラを見つける。『どうしたんだ。ここで何をしている。』『静かに』と少年は言った。『座って聞いて。』そして彼は、習ったこともないのに暗記しており、ナイチンゲールのように二十四時間ずっと繰り返していたオペラ『アルミード』を、兄弟へ歌い始めた。

神のような歌手よ、そしてほとんど神のような形而上学者よ、あなた方の主題と音楽は異なるが、二人とも自然から発している。」

詩人は韻律で片言を言った、なぜなら韻律が自然に訪れたからだ、とわれわれは聞いてきた。サント=ブーヴは一般に、この天職が最初に目覚める瞬間を研究することを非常に好む。 たとえばル・トゥルヌー氏は、生まれながらの説教者だった。ルーアンでまだ子供だった頃、人々は教会から帰ると彼を肘掛椅子の上へ立たせ、いま聞いたばかりの説教をもう一度説かせて楽しんだ。

サント=ブーヴがしばしば考える支配的能力は、明らかに身体器官に根ざしている。たとえばオラース・ヴェルネについて、彼はこう言う。「父方でも母方でも、あらゆるものが、彼を筆の人、意志にかかわらず抗しがたく画家となる人へ作るのに寄与していた。繊細で、ほっそりと長く、優美なその手は、アラブ馬の脚が走るために生まれるように、絵を描くための特殊な適性をすべて備え、すでに形づくられ整えられて生まれていた。」

ここでもサッカレーを思い出す。「『私の息子、エズモンド侯爵の孫が、楽師になるなど、私は決して望めません』とウォリントン夫人は言う。『楽師だろうが、棒切れだろうが、どうでもよいではないか』と老大佐は答える。『ジョージが音楽を愛しているとしよう。……薔薇へ香るなと命じたり、鳥へ歌うなと命じたりできないのと同じく、彼を止めることはできない。』『鳥ですって! 鳥が歌うのは生まれつきです。ジョージは手にヴァイオリンを持ってこの世へ出てきたのではありません』とウォリントン夫人は頭をつんと振って言う。」この対話では、私の共感がウォリントン夫人の側にあることを告白する。

別の時には、支配的能力は初期の現れにおいて、意識的な自己からほとんど独立し、それを抗しがたく乗り回す、一種の悪霊的な力としてサント=ブーヴに見える。モリエールについて彼は言う。「天職が彼を支配するようになり、悪霊がその内で荒れ狂い、二度と止むことはない。……劇場には彼が必要であり、彼にも劇場が必要だった。」

ラシーヌもまた、自分の情念の前へ立ちはだかるなら、聖なる師であるポール=ロワイヤルの人々さえ攻撃する用意があった。「出口を見つけようと急ぐ支配的情念の道を、誰であれ横切ってしまった者は災いである。彼らの判断は誤っている。後にこの詩的情念が満たされ、ほぼ使い尽くされると、ラシーヌは彼らのもとへ戻り、立派に償うだろう。それは彼にとって容易である。寵愛された情念、若く、貪欲で、飢え、苛立った情念が、もはや彼と師たちとのあいだにいないからだ。」

サント=ブーヴは、人間一人ひとりの秘密の主動力が、理性の目覚め以前からすでに働いていることを示すのを好む。それと同じく、まったくポープ流に、それが理性より長く生き延び、臨終の言葉にまで印を押すことを示すのも好む。「守銭奴は最後の瞬間まで『私は与える』と言うのを拒む。死に瀕した幾何学者の耳へ『十二の二乗は何か』とささやけば、機械のばねを押されたように『百四十四』と答える。詩人は不死の名声へ心を奪われ、自分の詩句を考える。英雄は譫妄のなかで、軍功の記念品と、雲間にいる戦友をもう一度見る。作家は校正刷りを直しながら死ぬ。……

パイエは、弁護士の法服を死装束にしてほしいと頼んだ。競走で落馬し、半死半生で馬場を転がった騎手は、それでも指を動かし、『鞭を』とつぶやいた。バルザックの作品では、老いぼれたユロ男爵が料理女を誘惑しようとして、『アガート、お前を男爵夫人にしてやる』と言い、その約束を果たすまで生き延びる。人はそれぞれ、自分の性分のなかで死ぬ。」

ピロンの最後の言葉は、ヴォルテールへの激しい攻撃だったに違いない、とサント=ブーヴは言う。実際、サント=ブーヴによるピロンの扱いは、支配的能力を最も極端な形で捉えた例であり、少し立ち止まって見る価値がある。ピロンの支配的衝動は、警句を作ることだった。サント=ブーヴによれば、彼は気の利いた言葉と警句を放つため、自然によって組み立てられた見事な自動人形である。

「相手が全能の神であれ、友人であれ、親族であれ、実際には誰であれ、機知に富む言葉が舌先まで来れば、彼は引っ込めなかった。ある人は言った。ラ・フォンテーヌは寓話を生やし、タルマンは逸話を産み、ペトラルカはソネットを蒸留し、ピロンは警句をくしゃみした。『くしゃみ』はピロン自身の言葉だった。なるほど、くしゃみを抑えることはできない。」

ピロンは生涯にわたって警句を作っただけでなく、死後も作り続けるよう手配した。「私が生きているあいだ、ヴォルテールはほとんど私を攻撃しようとしなかった」と彼は書いた。「しかし私は彼を知っている。あの悪党は、私の高名な同郷人クレビヨンへしたように、私がいなくなってから侮辱するほど卑怯である。その親切な意図は予見してある。私の原稿のなかには、彼を称える百五十の警句を収めた小箱がある。

私の死後、彼が私に反対する言葉をほんの一言でも吐いたなら、文学上の相続人に、毎週その警句を一つずつフェルネーへ送るよう命じる。このように倹約して蓄えた小さな備蓄は、あの地方に住む尊敬すべき老紳士の孤独を三年間慰めるだろう。」

われわれは、対句を作る支配的情念を持ったヴィクトル・ユゴーを思い出す。彼は生涯、対句を作り続けた。臨終の言葉も対句だった――「これは昼と夜との戦いである(c’est le combat du jour et de la nuit)」――し、葬儀も対句的になるよう手配した。ほとんど前例のない華麗な儀式のただ中で葬られたが、本人の指示に従い、貧民用の霊柩車へ載せられたのである。

ユゴーには、支配的能力の実践だけでなく理論も見いだされる。天才とは自己を統御できない者だ、と彼は信じさせようとする。霊感に関するかぎり、偉大な詩人は、草原を疾走する駿馬の背へ縛りつけられ、なすすべもないマゼッパに似ている。 とりわけシェイクスピアについて、ユゴーは、神がわざと手綱を十分にかけなかったため、無限のなかを翼いっぱい自由に舞い上がれた、と言う。これはテーヌのシェイクスピア観でもある、と考えずにはいられない。もちろんテーヌは、ロマン主義的な無拘束を神の直接の保護のもとへ置きはしないが。

真の人間的自発性は、衝動へ従うことではなく、衝動へ抵抗することに現れる。反対の型の自発性――意識的・理性的な自己に対する無意識的・本能的なものの勝利――を高く掲げることによって、ルソー主義者は決定論者へ直接手を貸す。これもまた、この形のロマン主義につきまとう絶えざる皮肉の一例である。

テーヌは、ルソー主義的な意味で最も自発的な作家の一人ミシュレを根拠に、「人間精神は時計と同じく数学的に組み立てられている」と断言する。実際おそらく、支配的能力というこの主題ほど、科学とルソー主義的ロマン主義が前世紀を通じて協力し、人間から人間性を奪ってきた仕方を明瞭に示すものはない。

VIII

テーヌは支配的能力の理論について、バルザックから大きな影響を受けた。バルザックはおそらく、同世紀のほかのどの偉大な創作家よりも決定論的な見方を採っている。バルザックの作品では、人物がきわめて複雑な環境の産物として現れるだけでなく、主要人物の一人ひとりが、一つの支配的情念を論理的に展開したものとなる傾向がある。サント=ブーヴ自身も、支配的能力の裏づけとして、バルザックの登場人物の一人を引いていたことは、すでに見た。

しかしまさにこの点で、彼はバルザックおよび同じように理論を最後まで貫こうとする者たちから、鋭く分かれる。理論上、サント=ブーヴは、支配的能力に対して表面的でない態度を取ろうとすれば、純粋に自然主義的になるか、純粋に神学的になるか、二者択一しかないとする。

しかし実際には、自分が設けたジレンマの二本の角に突き刺されることを拒む。「常識と呼ばれる平均的な錯覚の度合い」に留まることを選ぶのである。より正確に言えば、自然主義的であれ何であれ、極端を嫌う人文主義的感覚が、彼のなかで勝利する。自然主義者としては支配的能力を信じながら、人文主義者としては、均衡の取れた能力、その反対物によって抑制され和らげられた能力を要求する。

彼がまさにこの点でバルザックとその弟子を攻撃する。 ピロンが警句を作るだけの機械だったと認める用意は十分あるが、世界の偉大な作家が、崇高な自動人形、天才的な偏執狂以上の何ものでもなかったとは認めない。彼は自然主義者として、個人が自己へ歯止めをかける力を疑いながら、同時に芸術は抑制を必要とすると信じていた。

ここに、晩年の彼がボワローのような批評家を高く評価した秘密の一端がある。ボワローは目に見える権威の原理であり、同時代の作家が自分の内側には見いだせなかったかもしれない轡を与えた。ボワローについてのサント=ブーヴの判断は、この観点からも、また近代フランス最大の批評家が旧派批評の主要な代表者へ捧げた敬意としても、引用する価値がある。

「今日、偉大な世紀の高貴で力強い調和へ敬礼し、それを認めよう。ボワローがおらず、ボワローをパルナソスの総監督として認めたルイ十四世もいなかったなら、何が起きていただろうか。最も才能ある者たちでさえ、自分たちの栄光の最も確かな遺産を、同じ程度に生み出しただろうか。恐らくラシーヌは『ベレニス』のような戯曲をもっと多く書き、ラ・フォンテーヌは『寓話』を少なく、『小話』を多く書いただろう。モリエール自身も『スカパン』の類へ走り、『人間嫌い』の厳しい高みには達しなかったかもしれない。

要するに、この美しい天才たちは一人ひとり、生来の欠点を際限なく伸ばしただろう。ボワロー、すなわち詩人批評家の常識が、偉大な王の常識によって認可され確認されることで、彼らを強制し、その存在への敬意によって、より優れた、より重い仕事へ彼らを留めた。

そして今日、初めは生来の能力にあれほど強く、約束と幸福な霊感にあれほど満ちていた詩人たちに、何が欠けていたか分かるだろうか。彼らにはボワローと、啓明された君主が欠けていた。二人が互いを支え、権威づけることが欠けていたのである。そのため、才能あるこれらの人々は、自分たちが無政府状態で規律のない時代にいるのを見て、それにふさわしく振る舞うことをためらわなかった。率直に言えば、高められた天才のようにも、人間のようにさえも振る舞わず、学校を抜け出した悪童のように振る舞った。われわれはその結果を見た。」

真の偉大さには諸徳の均衡が必要だと主張するとき、サント=ブーヴは最も優れている。彼の穏やかで人間味のあるシェイクスピアと、解き放たれた自然力、「言語を破る者のうち最も節度を欠く者」であるテーヌのシェイクスピアとの対照は鮮やかである。以下は、サント=ブーヴの講演「文学における伝統」から取った一節で、彼が人文主義者として最も幸福な調子を示している。

「しかし古典的伝統のまったく外側にも、偉大な文学者は現れた、と皆さんは言うだろう。その名を挙げていただきたい。私が知るのは、真にきわめて偉大な者が一人、シェイクスピアだけである。しかし彼が完全に伝統の外側にいたと、本当に確信しているだろうか。

彼はプルタルコスとモンテーニュを読んでいなかっただろうか。あれほど多くの蜜が蓄えられた、古代の豊かな集成、むしろ予備の蜂の巣を。驚嘆すべき詩人であり、あれほど異なる仕方ではあっても、ホメロス以来、おそらく最も自然な詩人である。……

ああ、この徹底して人間的な人物が、野蛮人でも、精神を乱した者でもなかったことを、皆さんへ私が言う必要はない。彼が時に過度に力強く、また過度に微妙だったからといって、その時代の粗野さ、または洗練の行きすぎへ陥ったからといって、彼を、自己に満ち、自分の本性と作品に酔い、自分の酒に酔った、奇人や狂人と混同してはならない。

彼が突然現れ、自らここへ入ってくるのを見るなら、私はその姿を高貴で人間味のあるものとして思い描く。雄牛、猪、さらには獅子のようなところさえ何もなく、モリエールと同じく、人類という種の最も高貴な特徴、精神と魂へ最も直接語りかける特徴を顔に帯びている。彼は節度があり、話し方に分別があり、多くの場合には――憐れみまたは寛容から――微笑み、穏やかだったと想像する。彼もまた、うっとりするほど純粋で穏やかな存在を創造し、人間性のまさに中心に住んでいるからである。

穏やかさそのものを表す最も的確な言葉――『人間的親切の乳(the milk of human kindness)』――を探すべきなのは、彼のなかではないだろうか。この性質を私は、精力的な才能が苛酷さや野蛮な攻撃性へ陥らないよう、その強さへ混ぜることをつねに要求する。

それと同じく、穏やかさへ傾きすぎる才能には、プリニウスとルキアノスが『苦味』と呼んだもの、強さの塩と調味料を少し混ぜるよう要求する。こうして才能は完全なものになるからである。シェイクスピアは、その時代の欠点を別とすれば、彼なりの仕方で完全だった。

皆さん、安心してよい。あらゆる種類の偉人、とりわけ知性の領域で偉大な者は、決して狂人でも野蛮人でもない。ある作家が、その行動と人格全体において、粗暴で、理性を欠き、常識と最も自然な礼節を傷つける者に見えるなら、才能は持っているかもしれない――才能、それも偉大な才能は、多くの欠点と両立する――が、第一級の作家、人間性における第一の刻印を持つ作家ではないと確信してよい。

ホメロスは時に居眠りする。コルネイユは会話では重苦しく、居眠りする。ラ・フォンテーヌも居眠りする。彼らには物忘れや上の空になる発作がある。しかし最も偉大な者は、決して常軌を逸し、滑稽で、奇怪で、気取り、ほらを吹き、冷笑的で、絶えず礼節を犯す者ではない。

私は、人間性の個人的な多様性と特異性をどれほど認めるとしても、人類が誇る五、六人の偉大な文学者、創造的天才からなる尊い合唱隊――結局、世界で第一の紳士であるほかない五、六人――を、我を失った者の一団や群れ、それぞれが獲物へ向かって無我夢中に突進する偏執狂として思い描くことは、決してないだろう。否、伝統はわれわれへそうではないと告げる。

そしてわれわれ自身の文明化された本性の意識は、さらに明瞭にそう告げる。想像力に寵愛され選ばれた者たちのあいだでさえ、理性がつねに統轄しなければならず、最終的には実際に統轄している。」

こうしてサント=ブーヴは、支配的能力という主題について、真理とそれに対する反対の真理の両方を語ることに成功するが、整合性をいくらか犠牲にしている。この点で彼はエマソンに似ている。エマソンは、「人間には適応性も普遍的な適用可能性もなく、一人ひとりが特殊な才能を持つ。……われわれは、しなければならないことを行い、それを可能なかぎり最善の名で呼ぶ」と言いながら、別の箇所では「人間の差異は器官的なものではない」と宣言する。

しかしエマソンの不整合は、人間の自由に対する真の信仰と観察された事実を結びつける際の、ある種の緩さと精神的把握力の不足から来る。事実に対して途方もない把握力を持っていたサント=ブーヴの不整合は、むしろ最終的に明確な確信を欠いていたことから来る。ただし、すでに見たように、唯物論的な側へ強く傾いてはいた。意志の自由について自然主義的・神学的な諸信念を検討した後、彼は次のように結論する。

「何という多くの対照と対立だろう。この人間的意見の海を前に、大洋の岸辺に立つように、私はその満ち引きを驚嘆して眺める。そのすべての法則を、誰が私へ告げるだろうか。」

彼の懐疑は、現実を知性だけ、または感情だけで統一しようとする、同時代のさまざまな試みより深いところまで達している、と私は考える。文学と宗教の伝統的基準が弱まることの意味をすべて見抜き、「大いなる混乱」の接近を見た。それと同時に、過去の規律に代わるものとして提示された新宗教へ、本気で熱を上げるにはあまりに明察的だった。

これら十九世紀の宗教への試み――「情念の宗教」であれ、「美の宗教」であれ、「科学の宗教」であれ、「人類の宗教」であれ――のすべてで、根底にある方法はつねに同じである。人間性のうち、きわめて重要ではあっても、なお副次的な一要素を取り、それを至高で中心的な位置へ高めようとするのである。

サント=ブーヴの内面生活の最後の荒涼たる深み(jusqu’au fond désolé du gouffre intérieur)まで達するには、新旧あらゆる形の信仰から彼が完全に離脱していたことを理解しなければならない。「私が望む唯一の統一は」と彼は書く。「あらゆるものを理解するという統一である。」 しかし単なる理解は、それ自体では統一の原理ではまったくなく、むしろ分散の原理である。理解を越えて何も目指さなかったため、サント=ブーヴは、ある人が呼んだように、知的世界の「さまよえるユダヤ人」となる運命にあった。「定まった極と中心の不在」に苦しみ、「胸を内側から掘り崩す空虚」から、絶え間ない労働へ逃れようとしたのも不自然ではない。

ラテン語の諺が言うように、世界は欺かれることを望む(Vult mundus decipi)。したがって否定的な面での批評家の役割は、欺かれようとする自然な性向にもかかわらず、可能なかぎり人類が山師に食い物にされるのを防ぐことである。

サント=ブーヴは、この務めを果たすために必要な幻滅の知恵を、卓越した度合いで持っていた。欺かれない技術を、これほど成功して実践した者はほとんどいない。しかも彼自身が指摘するように、偽の宗教、すなわち人生の偽の統一がはびこり、それゆえ山師がはびこる時代においてである。 「批評についての私のルクレティウス的な見方は」と彼は言う。「陽気ではないが、偶像崇拝よりはましである。」

しかし彼は、同時代の幻想から比較的自由だった一方、その美点を最も豊かに備えていた。フランス氏の表現を借りれば、彼はますます、普遍的な博士、十九世紀の聖トマス・アクィナスと見なされるようになるだろう。それは同世紀最大の人物としてではなく、おそらく最も代表的な人物としてである。水平性を目指す同世紀の願望、知識と共感を壮大に水平方向へ広げたこと、そして付け加える者もいるだろうが、十分な中心的目的を欠いたことを、最も完全に体現した人物だった。

サント=ブーヴほど明敏な観察者が、この世紀特有の諸運動のなかに、精神を確固としてつなぎ留める場所を見いだせなかったことは、長い目で見れば彼の不名誉ではなく、世紀の不名誉だと分かるかもしれない。十九世紀の人生観全体では、何かが省かれており、その何かこそアーチの要石だったことが明らかになるかもしれない。


原注

Causeries du Lundi, I, 397以下。

Correspondance, II, 41。

Études, IV, 107。

Portraits littéraires, III, 549。

Nouveaux Lundis, V, 278。

ダントン。

Portraits littéraires, III, 549。

Port-Royal, II, 261。

Chateaubriand, I, 102。

Causeries du Lundi, XVI, 44。

Nouvelle Correspondance, 235。

Causeries du Lundi, II, 413以下。

Nouveaux Lundis, I, 13。

同上、14。

同上、V, 37。

Portraits littéraires, III, 546。

Nouveaux Lundis, IV, 91。

Nouveaux Lundis, X, 403。

Correspondance, II, 315。

Nouveaux Lundis, V, 372。

Nouveaux Lundis, III, 378。

同上、384。

同上、396。

Nouveaux Lundis, IX, 86–87。

同上、V, 323。

Portraits littéraires, III, 546。

Port-Royal, I, 65。

Chateaubriand, I, 161。

Portraits littéraires, I, 239。

Portraits contemporains, I, 274。

Nouveaux Lundis, III, 409。

Nouveaux Lundis, IX, 180。

Port-Royal, IV, 411。

同上。

Port-Royal, V, 132。

同上、512。

Portraits littéraires, III, 544。

La Vie littéraire, I, 9。

Nouveaux Lundis, III, 17。

同上、IX, 323。

同上、XIII, 218。

Port-Royal, VI, 21。

Causeries du Lundi, V, 173。

Nouveaux Lundis, VI, 364。

Port-Royal, II, 376。

同上、I, 412。

同上、I, 146。

同上、I, 119。

同上、I, 115。

同上、VI, 128。

Port-Royal, I, 115。

Nouveaux Lundis, III, 227。サン=テヴルモンも、サント=ブーヴが内的な親近感を抱いた十七世紀の「自由思想家」の一人である。

Port-Royal, V, 313。

Chateaubriand, I, 257。

Nouveaux Lundis, IX, 109。

Nouveaux Lundis, III, 18以下。

Nouveaux Lundis, III, 26–27。

同上、V, 62。

同上、122。

同上、III, 28。

原文:Il n’y a guère de personnes qui dans le premier penchant de l’âge ne fassent connaître par où leur corps et leur esprit doivent défaillir.

Nouveaux Lundis, VI, 419。

同上、I, 213。

同上、XII, 215。

Nouveaux Lundis, V, 456。

Port-Royal, IV, 698。

Causeries du Lundi, XI, 486。

Nouvelle Correspondance, 226を参照。

Nouveaux Lundis, X, 268。

Chateaubriand, II, 389–390。

サント=ブーヴが用いる「集団(groupe)」とは、ほぼ同時期に生まれ、多少なりとも互いに接触した人々を指す。時と場所を遠く隔てた者を含みうる「精神の自然的な一族」と混同してはならない。

Nouveaux Lundis, III, 23。

Nouveaux Lundis, VIII, 86。

同上、IX, 141。

同上、III, 27。

ロンギノス『崇高について』第36章。

Port-Royal, IV, 322。

Nouveaux Lundis, I, 300。

Port-Royal, V, 391。

Nouveaux Lundis, XIII, 236。

同上、VI, 45。

Nouveaux Lundis, VI, 438。

同上、VII, 376。

同上、I, 300。

Nouveaux Lundis, V, 452。

本書288頁を参照。

Correspondance, I, 118。

Port-Royal, I, 401。

同上、II, 284。

同上、IV, 335。

Port-Royal, III, 315。

同上、I, 116。

Port-Royal, III, 491。

同上、VI, 107。

Port-Royal, IV, 8。

同上、V, 210。

Nouveaux Lundis, V, 43。

Nouveaux Lundis, V, 270。

同上、VI, 98。

Nouveaux Lundis, VIII, 128。

同上、VII, 463。

同上、400。

Nouveaux Lundis, VII, 463。

ヴィクトル・ユゴー『東方詩集(Les Orientales)』。原文:

Ainsi, lorsqu’un mortel, sur qui son dieu s’étale,
S’est vu lier vivant sur ta croupe fatale,
Génie, ardent coursier,
En vain il lutte, hélas ! tu bondis, tu l’emportes,
Hors du monde réel, dont tu brises les portes
Avec tes pieds d’acier !
かくて神がその上へ広がる一人の人間が、
生きたまま、お前の宿命の背へ縛られたなら、
天才よ、燃え立つ駿馬よ、
ああ、争いはむなしい。お前は跳び、彼を運び去る。
鋼の脚で門を打ち砕き、
現実の世界の外へ。

Nouveaux Lundis, X, 262。

Causeries du Lundi, XV, 356以下。

Causeries du Lundi, XV, 366以下。

Port-Royal, I, 409。

Portraits littéraires, III, 550。

Port-Royal, III, 589。

原文:Ce dix-neuvième siècle, qui sera réputé en grande partie le siècle du charlatanisme littéraire, humanitaire, éclectique, néocatholique, etc.(「この十九世紀は、大部分、文学的、人道主義的、折衷主義的、新カトリック的な山師行為の世紀と見なされるだろう」など)。Nouveaux Lundis, V, 263。

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第VII章 シェレール

シェレールについてまず目を引くのは、批評家として確かな力量を備えていながら、生前も死後もフランスでほとんど人気を得なかったという対照である。彼の批評論集は、どの巻も再版されず、すでに絶版になった巻さえある。当時の重要作家のほとんど誰よりもアカデミーの目的へ共感していたにもかかわらず、彼自身はアカデミー会員にさえならなかった。そこから自然に推測されるのは、彼がいくつかの点で、自分の時代と環境に同調していなかったということである。

シェレール自身は、パリのイタリアン大通りに生まれたことを喜んで思い起こした。しかし彼は、典型的なパリ人どころか、典型的なフランス人からも遠かった。第一に、祖先によってフランス的な見方へあらかじめ方向づけられてはいなかった。父はドイツ系スイス人の出身であり、母方の祖父はイギリス人、祖母はオランダ人だった。若い頃にしばらくイギリスで暮らし、英語を完全に身につけるとともに、遺伝的ともいえるイギリスへの傾斜を発達させた。この傾斜は、平等を熱愛するフランス人とは対照的に、彼が自由を愛したことへ、おそらく最も明瞭に現れている。その後はストラスブールに数年間住み、ドイツ文学とドイツの学問、とりわけ聖書の「高等批評」に深く通じた。イタリア語にも精通していた。要するに彼は、当時おそらく最も教養ある国際人であり、広く正確な知識と一般的観念を結びつける能力において、見事な人物だった。

しかしイギリスとドイツでは少なくとも半ばその国の人間だったとすれば、パリでは半ば外国人だった。彼の見方とフランス人の見方との相違は、はっきり感じられるものだが、遺伝以上に宗教の問題だったのかもしれない。ルナンについて、カトリック司祭となる教育を受けたことを忘れてはならないのと同様、シェレールについては、聖職者の身分から離れた人物だったことを忘れてはならない。彼へ深い影響を与えたアレクサンドル・ヴィネについての言葉は、一部、シェレール自身にも当てはめられる。

「フランス語は、フランス国民やフランス文学と同じく、カトリック的である。したがってプロテスタントは、どのような環境へ置かれようとも、その思想と文章から、出自の刻印を完全に失うことがあるのか、と問うことができる。」

サント=ブーヴがヴィネの文体について述べたのと同じく、シェレールの文体にも、ある種の神学的な冷気を感じることができる。四十五歳まで職業的な神学者だった人物が、神学を捨てた後も、厳しい道徳的な慎みを保ったのは当然である。文学界のパリが、彼をある程度よそ者と見なしたのも、同じく避けがたかった。ゴンクール兄弟が、マニーの晩餐会で彼が周囲から距離を置いていた様子を記した文章には、ある種の象徴的な意味がある――「シェレールは怯えたように、鼻眼鏡越しに食卓を見下ろしている」。

ゴンクール兄弟によれば、ある晩、客たちが帰り支度をしていると、ゴーティエが一座で最も寡黙だったシェレールへ近づき、こう言った。

「さあ、次の機会には、ぜひ君も自分の評判を危うくしてくれたまえ。われわれは皆、自分を危うくしているのだから、君だけ冷静な観察者としてわれわれの間に留まっているのは公平ではない。」

シェレールには、単にプロテスタントとしてだけでなく、ピューリタンとしての本能があった。たとえば彼は「文学上の異端(Une hérésie littéraire)」と題するモリエール論で、自ら異端者を名乗った。彼が定説へ抗議した理由は、モリエールの言葉遣いが純粋さにおいてあまりに不十分だということだった。

シェレールは、同時代のフランス語の純粋さを損なっている者たちへ抗議する。その熱気は、モリエール自身ならアルセストを思い出したに違いないほどである。

「語の正しい用法に対する感覚を失った浅薄な教養と、どんな代価を払っても新機軸を打ち出そうとする過度な洗練への欲求――この二つこそ、三世紀にわたる大作家たちが比類ない完成へ導いた、この壮麗な言語を腐敗させる主要な作用者である。……先日、ある新聞で『前代未聞の残虐な条件のもとで犯罪が遂行された(un crime venait de s’accomplir dans des conditions d’atrocité inouïe)』という文章を読んだ。親愛なる友よ、このような文章を書ける人間が、どんな精神状態にあるのか想像できるだろうか。ここまで来るには、神々からも人間からも、ほとんど完全に見捨てられていなければならないのではないか。そして誰もがヴォルテールの言葉を借りて、このような悪党どもに対しては、フランスには嘲弄も、道化帽も、晒し台も足りない、と叫ぶ権利があるのではないか。」

ところが、狭い環境の代表者には見えなくする、まさにその特質のいくつかが、より大きな意味ではシェレールを代表的な人物にしている。グレアール氏は言う。「シェレールは、十九世紀に人間思想が通過した危機を、後世の前で証言することになる少数の人々に属する。」 シェレールの生涯がこの意味で典型的なのは、科学と信仰との、同世紀の中心的な衝突が、彼のうちでとりわけ鋭く現れているからである。

彼は初め、新しい批評精神へ何一つ譲らず、聖書が文字どおり神の霊感を受けていると信じていたが、最後には新しい精神へすべてを譲った。絶対的なものとして抱いていた信条は、歴史的方法を受け入れるにつれて、純粋に相対的なものと見えるようになった。外的実在を持つと思っていたものは、精神が生み出したものにすぎず、要するに客観的ではなく主観的だと見えるようになった。シェレールが、客観と主観とのこの区別を、アメリカの発見より世界にとって重要だったと考えたのも不思議ではない。

この区別や類似の区別をシェレールが用いることは、彼がドイツ思想へ負っていたものを示している。実際、彼は十九世紀後半、ドイツ思想のある側面をフランスへ知らせるため、最も大きく貢献した人物の一人だった。批評家としての登場を告げた、一八六一年の『両世界評論』掲載のヘーゲル論は、おそらく彼が書いたうちで最も影響力の大きい論文だった。

ヘーゲルその他のドイツ人から彼が取り入れた本質的観念は、発展という観念だった。最初の文学論集の序文で、彼はこう言う。

「宇宙は事物の永遠の流動にほかならない。そして真・善・美についても、ほかのすべてと同じことが言える。それらは存在するのではなく、作られる。人類が向かう目的または目標であるというより、あらゆる人間とあらゆる世紀の努力が生む、変動し続ける合成結果なのである。」

一八六一年の論文では、こう書いた。

「ヘーゲルは、事実を尊重し、理解することをわれわれへ教えた。彼によってわれわれは、存在するものには、存在する権利があることを知った。……ここから、研究と批評の強力な方法が生じる。……われわれはもはや、世界を自分の姿へ作り直さない。反対に、世界によって自らが修正され、形づくられることを認める。……近代の学者の眼には、すべてが真であり、すべてがそれぞれの場所で正しい。各々の真理が占める場所こそ、その真理を成り立たせる。旧世界の構造は、絶対的なものへの信仰の上に立っていた。宗教、倫理、文学――すべてがこの観念の刻印を帯びていた。人々が知っていた原因は、神と悪魔の二つだけだった。人間の陣営は善人と悪人の二つ、永遠における場所は、裁き手の右と左の二つだけだった。誤謬はすべて一方にあり、真理はすべて他方にあった。今日、われわれにとって、もはや真理または誤謬であるものは何もない。われわれが知るのは宗教ではなく諸宗教、道徳ではなく諸習俗、原理ではなく事実である。その結果、われわれは過去を何と見事に理解できるようになったことか。過去はわれわれの眼前で再び生きる。諸民族の系譜、諸文明の前進、異なる時代の性格、諸言語の精神、神話の意味、国民詩の霊感、諸宗教の本質――これらはすべて、近代科学がもたらした啓示である。
「……われわれの美学は、われわれの科学と同じである。それは裁くより、観照し研究することを好む。……ある美を別の美へ対立させ、選好し、排除するという不毛な方法を捨てた。それはすべてを受け入れる。世界のように広大で、自然のように寛容である。……一つの真理は、その反対物を取り入れるかぎりにおいてのみ完全である。一つの主張は反対の主張より真であるわけではなく、つねに矛盾へ行き着き、その後、より高い調和へ上昇する。現在の事実が持つのは、束の間の実在性だけである。その実在性は、現れることと同じく消えることにもあり、肯定されるや否定されるために生み出される。したがって、すべては相対的である、と言うだけでは足りない。すべては関係にすぎない、と付け加えなければならない。真なるものは、それ自体で真なのではない。最終的な真理は存在しない。……諸体系について下すことのできる唯一公正で有益な判断は、それらが変形することによって、自らへ下す判断である」などと。

要するに、シェレールほど徹底した相対主義者を想像するのは難しい。彼にとって真理と実在は、全面的に流動へ巻き込まれている。真理と実在は事実に先立つのではなく、事実から徐々に生じる結果である。この極端に多元主義的な真理観は、彼を同時代のある型の科学的実証主義者へ結びつけ、今日ならプラグマティストへ結びつけるだろう。

もし中世に生きていたなら、彼は厳格な唯名論者だっただろう。人生は論理的ではなく、知性によって人生を統一しようとするあらゆる試みは空しい、と証明するため、彼ほど鋭い論理を捧げた者はいない。この意味での絶対は、形而上学的幻想である。精神が自分自身についての理論を立てようとする試みも、同じく幻想である。それはまるで、一人の男が、通りを歩いてゆく自分の姿を見るため、窓から外を覗くようなものだった。

彼の眼に形而上学的幻想の一形態と映ったものに、ある種の言葉を一種の絶対へ祭り上げ、それへ神秘的な崇敬を捧げる傾向があった。彼はこの幻想を、過去の形態においてだけでなく、同時代に取りつつあった形態においても攻撃した――そしてここには、彼が不人気だったもう一つの理由がある。「文学的遺言」と呼ばれることもある『論集』第八巻の序文で、彼は「人類」という語をこのように攻撃している。この語のうちに見いだすのは、「神秘主義への癒やしがたい欲求を満たす、あの抽象概念の一つ」にすぎない。

われわれには家族、都市、友人、親族がいる。しかしそれでは足りない。すでに実体を欠いた関係をさらに広げ、人類という種全体を抱き、その後、それを人格化する。感動なしには語らず、その栄誉をたたえる賛歌を歌う。

「われわれはこの人格化されたものの祭壇へ、インクを流し、ときには血さえ流す。……信仰が大難破したとき、われわれは信じ愛そうとする欲求のすべてを、この観念へ持ち越した。それどころか、人類を崇拝対象へ仕立てようとしたのは、実証主義の創始者コント自身だった。われわれは世界から神学と形而上学を取り除きながら、なお一つの言葉に弄ばれている。」

世界の諸人種を見渡したシェレールは、女神「人類」がしばしば猿と奇妙に似てはいないか、と不敬にも問うに至る。

「私がこのようにできているのは、ひょっとすると大いに間違ったことかもしれない。私は根本的に唯名論者である。人類という語は、私には何の意味もない。この人類をどこで見るのか。どこで見つけるのか。私が会う男女のなかでさえ、これ以上親しく知る必要をまったく感じない者が、どれほど多いことか。醜い者、愚かな者、俗悪な者を忘れ、邪悪な者、卑劣な者、残忍な者を勘定へ入れず、同情をあふれさせる人々の抽象能力には、驚かずにいられない。この男とは握手しないだろう。それでも彼は兄弟なのだ。この男を監獄へ送り、首を切る。それでも兄弟なのだ!」

シェレールは、言葉がわれわれを閉じ込める幻想の網から逃れようとした。あらゆる幻想を取り除き、裸の真理を見つめようとした。「文学的遺言」で彼は言う。「自分の生涯を振り返ると、私はただ、事物の奥底を見ること(voir les choses dans leur fond)へ、ある情熱を抱いてきただけのように思える。」

しかし、この意味で事物の奥底へ達しようとする試み、すなわち幻想の覆いをすべて剥いだ姿で事物を見ようとする試み自体が、知性主義者の誤謬なのかもしれない。ジュベールが深く洞察したように、幻想は実在を構成する不可欠な一部である。幻想を除外すれば、事実または「法則」を、全体との神秘的な連関から切り離された、硬く孤立したものとして見ることになる。

こうして人は、外界だけでなく自分自身のうちにも、現象と現象間の関係しか見ない退廃者の、偽りの幻滅へ達する。「多」への知覚と釣り合う、「一」への直観を持たないのである。シェレールによれば、最高の知恵とは、自分が幻想であることを知る幻想であり、あらゆるものが最終的には空しいと認識することには、奇妙で恐ろしい喜びがあるという。 しかしグレアールの証言によれば、シェレールが最も悲しげに見えたのは、幻滅の喜びをたたえているときだった。

ここでシェレールが、ほとんど必然的にアミエルを思い起こさせるのも当然である。そして彼は一貫して、幻想と幻滅、マーヤーと大いなる輪についてのアミエルの思索――アーノルドが実に鋭く病的なものと判定した『内面の日記』のあの部分全体――に、深い知恵と崇高な詩情があると宣言する。

しかし、このような思索が実生活では実を結ばないという点で、シェレールはアーノルドと一致していた。人間が解決不能な問題をあまり固定して見つめないようにする本能を、彼はきわめて有益なものと考えた。

「人生とあまり近距離で格闘してはならない。人生は薄い地殻であり、強く踏みつけずに、その上を歩かなければならない。踵を打ち込めば穴があき、そのなかへ消える。真の哲学は、あらゆる問題を探査することにあったのではなく、しばしば反対に、それらを避けることにあった。われわれは深淵の縁を歩いている。目眩に気をつけよ。」

シェレールは、アーノルドがアミエルについて、そうしなかったことを惜しんだ行動を、本能的に取った。すなわち文学批評家になることによって、深淵の目眩を逃れたのである。

II

実際、シェレールはアミエルとアーノルドとの中間項と見なすことができる。 三人とも、かなり似た仕方で宗教問題へ心を奪われていた。三人とも、時代の病の最も高貴な形、すなわち信仰を失った後に生じる空虚感、一方の世界が死に、もう一方の世界がまだ生まれる力を持たない、その二世界の間へ宙づりになった者の荒涼を経験していた。

シェレールはアミエルのように、この二重の忠誠によって意志を麻痺させられはしなかったが、別の形で、少なくとも同じほど深くその荒廃を示している。本人が語るところでは、二十歳のときに回心し、「純粋で聖なる生の理想、一度現れると存在の全能力を占有する理想」を垣間見た。その後、あらゆるものを博物学へ還元する科学的な観念が到来した。「宗教が抗議しようとも、宗教はほかのすべてと同じく、自然についての知識のうちに含まれる。これが四十歳のとき、私の達した地点だった。」

アーノルドは二十歳のとき、シェレールほど信仰へ譲らず、四十歳のとき、科学へはるかに少なくしか譲らなかった。彼はシェレールのように、科学的真理の基準へ従わないものを、すべて一まとめに主観的だとはしなかっただろう。たとえば「山上の垂訓」が、ラマルティーヌの詩と同じ意味で主観的だとは認めなかっただろう。

宗教も「ほかのすべてと同じく自然についての知識へ帰属する」というシェレールの主張に、アーノルドならこう答えただろう。

「人は自然が持つすべてを持つ、しかしそれ以上を持つ。
そして、その『それ以上』に、人が善へ寄せる希望のすべてがある。」

要するにアーノルドの人生観は、全面的にストア主義的なのではなく、少なくとも一部は人文主義的だった。論理の力と知識の広さではシェレールに劣ったが、本能的な良識では優れていた。そのうえアーノルドは、シェレールとは違い、ミューズの来訪によって慰められた。本人の言葉を借りれば、不死の空気を呼吸する瞬間があった。ただしテニソンのように、時おり純粋に宗教的な直観へ上昇することはなかった。

ジュベールなら、シェレールは「道徳的世界では自由に動いたが、その上にあるもう一つの世界では動かなかった」と言っただろう。したがって彼の初期の信仰は、神学とロマン主義的な宗教感情との混合だったのではないか、と推測される。実際、シェレールについてラマルティーヌとの関係を研究することは、アーノルドについてセナンクールとの関係を研究することと同じほど重要である。

シェレールはラマルティーヌを真の理想主義者と見なす。これは実際には、宗教とロマン主義的な憧憬とを混同しているということである。彼はこの理想主義を、同時代人の鈍重で散文的な精神へ対置しながら、結局は同時代人のほうが正しいと結論する。見えないものと無限なものへの信仰は、無知と幻想を伴いながら、同時に勝ち誇る魅力を持った、世界のロマン主義的青春期の一事件にすぎなかった。

しかし世界は成熟し、青春の夢へ別れを告げた。その壮年期の努力がもたらす最終的な結果は、快適さが増大すると同時に、俗悪さも増大することだろう。

このように、ロマン主義的幻滅は、シェレールが科学的実証主義へ転じるうえで、途方もなく大きな役割を果たした。宗教的信仰を危ういロマン主義的基礎へ据えようとしたサント=ブーヴの試みも、かなり似た幻滅へ終わったことは、すでに見た。したがってシェレールが神学的過去と決定的に決別したとき、サント=ブーヴを師に選び、またサント=ブーヴが最初にシェレールの知的卓越を公に認めたことは、ふさわしい成り行きだった。

シェレールはサント=ブーヴを心から崇拝しただけでなく――仕事机にはつねにその胸像を置いた――、同じようにサント=ブーヴを崇拝したテーヌその他の人々以上に、いくつかの点で真の弟子だった。サント=ブーヴと同じく、最良の研究者を思わせる徹底性と正確さを持っていたが、サント=ブーヴと同じく、また多くの近代学者とは異なり、文学を単なる研究用の実験材料としてではなく、それ自体のために愛した。彼にとってサント=ブーヴは消えつつある型、最後の人文主義者の一人だった――サント=ブーヴ自身の言葉を借りれば、「われわれは繊細な人々の最後の者であろう(soyons les derniers des délicats)」。

サント=ブーヴの死の直後、シェレールはこう書いた。

「いま、われわれは彼へ別れを告げなければならない。この明晰な知性、この驚嘆すべき文筆家、この魅力的な話し手、この寛大な友へ、別れを告げなければならない。……このような瞬間に自然と生じる憂鬱な予感が、現実にならなければ幸いである。われわれの文学でこれほど大きな場所を占めた一人の死が、一つの文学時代の終わりでもなければ幸いである。今日、最後の代表者を失った繊細さと趣味が、彼とともに消える運命になければ、文学の王権が、ほかの王権と同じく、全般的な凡庸と暴力的な手段へ席を譲る運命になければ幸いである。私はしばしば、晩年のサント=ブーヴ自身が、新しい傾向のただ中で、自分を異邦人のように感じているとの印象を受けた。そして彼ほどの人物を失うとき、実際にはすべてが変容しているだけなのに、すべてが終わったと想像するのは、おそらく避けがたい。」

ある意味でシェレールの文学批評は、強い道徳的・哲学的色合いを帯びながらも、サント=ブーヴの批評より、批評という型に忠実である。サント=ブーヴの批評のように、ほとんど気づかれないまま伝記、歴史、科学へ溶けてゆくことがない。またシェレールは、個別的なものより一般的なものへ関心を持つ点で、サント=ブーヴよりアーノルドに似ていた。

もちろん、サント=ブーヴとシェレールの気質の差は著しい。アーノルドはシェレールについて言う。

「批評家として彼に欠けているのは、サント=ブーヴの弾力性と朗らかさである。自分が生まれつき担うべき職務を、喜びをもって果たしている人間のような、あの快活さ、あの輝きが彼にはない。それこそ『月曜閑談』において、サント=ブーヴの筆触をあれほど的確にし、その文をあれほど引き締め、その効果をあれほど魅力的にしているものなのだ。」

シェレールは、ときに軽薄な快活さを非難されることさえあったアーノルド自身より、批評家として重々しい。その理由はおそらく、アーノルドがロマン主義的幻滅の出口を、詩のうちに見いだしていたからである。

サント=ブーヴも、自作の詩によって時代の病を同じように浄化しただけでなく、新しい秩序への適応がシェレールほど苦痛でなかった理由が、ほかにもあった。サント=ブーヴは人文主義者、また「教養ある紳士(honnête homme)」として、近代のいくつかの展開に苦しめられた。しかしロマン主義的宗教感情を失った後も、過度な道徳的厳格さを保つことはなかった――むしろ正反対だった。

さらに彼のうちには強い庶民的要素があり、人間性を根本から疑いながらも、ときには人道主義的希望へ傾いた。シェレールは厳格な道徳家だっただけでなく、気質的に貴族主義者でもあった。そして知性の上では民主的な俗悪化を受け入れながらも、それが拡大するのを前に、誇り高い貴族の身振りで――「汚されるより、むしろ死を(potius mori quam foedari)」――身を引いた。

III

シェレールにこれほど頻繁に、これほど痛切に現れる頭脳と心情との衝突こそ、グレアール氏の言う代表的価値を、その生涯へ与えている。あるときシェレールは相対性の教説を喜び、別のときにはこう叫ぶ。

「いや、私は、われわれの時代のような全面的変革の時代に向くようにはできていない。私の共感は過去にある。それでも人間の事柄には、一度下れば再び上れない、ある傾斜があることを感じる。こうして私は、知的確信によって、自分に何の関心も信頼も起こさせない未来へ運び去られてゆく自分を見る。」

知性のうえでは近代人中の近代人として立ちながら、同時に、近代に固有なあらゆるものから軽蔑して顔を背けるシェレールを見て、人々が困惑したのは当然である。大多数の人々が新秩序へ忠誠を捧げたのは、冷静な推論の過程によってではなく、一つの信仰行為によってだった。ところがシェレールは、古い信仰を扱ったときと同じ「魂の悲しい明晰さ」をもって、新しい信仰を扱った。

「人類」という語を彼がどのように処理したかは、すでに見た。「進歩」という語の周囲へ集まった幻想を暴くときも、彼は同じほど容赦しない。進歩を宗教へ仕立てるどころか、世界が「はるか彼方の神的な出来事」へ向かっていると信じるどころか、すでに見たように、大衆の物質的快適さが増す一方で、世界は全般的凡庸へ向かっていると信じる。

産業上・科学上の進歩は可能だと、彼も認める。新しい発明や発見は、それぞれ、さらなる征服の出発点になるからである。誤りは、実用的・実証的な秩序について真であることを、道徳的価値の世界へ移すときに始まる。すなわち、必然的な進化と自動的な発展によって、社会が誠実、公正、節度、慎み、感情の繊細さを増してゆくと考えるときである。

そしてこの誤りは、さらに別の誤り、快適さを幸福と混同することから生じる。快適さは、せいぜい幸福の条件の一つにすぎない。幸福は何より魂の状態であり、したがって享楽が少なくても幸福になれ、贅沢のただ中でも不幸になりうる。

したがって正しく理解するなら、進歩は誰一人の幸福も保証できず、まして人類の幸福を約束できない。進歩は幸福と逆に働くことさえありうる。幸福は知恵の産物であり、知恵はさらに、あらゆる見込みからして、民主主義の平準化の過程とは両立しない、より洗練された知的教養を前提とするからである。

もちろんシェレールが「民主主義」という語で意味したのは、秩序だった自由への愛ではなく、近代フランスで実際に意味してきたもの、すなわち平等への情熱である。すでに指摘したように、自由と平等の相対的価値についての彼自身の評価には、遺伝の働きを見られるかもしれない。

彼は、フランス型民主主義を実現するため費やされた努力と、その結果生じた、変化のない凡庸な平面との間に、皮肉な対照を見た。

「よろしい。この調子なら、世界はいつかサン=ドニ平原のようになるだろう。そして考えてみるがよい。この理想を実現するために、どれほどの叫びと文章、どれほどのインクと血、熱狂と犠牲が費やされたことか!」

彼の推測によれば、人類の未来は、蜂の巣または蟻塚のようなものになる。規則正しさ、均一性、凡庸な幸福――人生を生きる価値あるものにするすべてを取り除いた人生である。

ヨーロッパ社会は、狭く表面的な論理の道を進み続ける運命にあると、彼には見えた。やがてこの論理は、事物の本性そのものへ衝突し、砕ける。すなわち、人間を区別する力と価値の不平等、私有財産を生む本能と必要、そして社会が生きるため自らを組織し、そのため必要な従属関係を受け入れなければならないという必然へ、衝突するのである。

平等を夢見る共和制フランスは、自分で思うよりカトリック的である。なお絶対的なものを追い求めているからである。かつて宗教のうちに表現された理想主義の全能力を、一つの幻影へ集中した。

「われわれの世代は、砂漠の蜃気楼よりさらに空しい蜃気楼、絶対的平等と普遍的幸福を追っている。」
「大衆が理想主義的であることを忘れてはならない。最も確立された事実でさえ、自分たちがその犠牲者であるとき、大衆は認めようとしない。政治的無知の素朴さのうちで、制度はあらゆるものを治療でき、人間性はあらゆる実験へ適応できると考えることに慣れている。こうして少しずつ、きわめて危機的な社会状況が成長した。」

大衆が必然的に理想主義的だとすれば、唯一の希望は、偽理想主義者の幻影へ真の理想主義を対置することにあるように見える。しかしシェレール自身が、それらの幻影へ対置できるものは、冷たい幻滅だけである。

IV

このような民主主義観を持つシェレールが、進歩を信じるどころか、その反対の信念へ傾いたのは明らかである。とりわけ晩年には、衰退という観念につきまとわれた。増大する俗悪さのただ中で、繊細さと慎みをなお示す作家には、たとえそれらの性質が十分な力を伴っていなくても、ほとんど誇張された賞賛を与える傾向があった。たとえばドゥーダン、フロマンタン、モンテギュ、ヴァイスのような作家である。

ゾラの途方もない逸脱を、文学的基準へ大衆が及ぼす影響の一例として挙げ、すでに見たように、今日「フランス語の危機(la crise du français)」と呼ばれるものにも、同じ症状を見いだした。

「これらすべての汚染は、平等へ向かう傾向、すなわち精神の繊細さと作法の洗練を一時的に水没させただけの平準化過程が生んだ、通過的な効果にすぎない可能性もある。」
「しかしそうでないなら、民主主義が、かつて教養ある紳士(honnête homme)と呼ばれたものを本当に廃絶することを意味するなら、品位のない芸術と羞恥心のない社会から、何が生じうるのかと問う理由がある。滅びた過去の諸文学は、一部、蛮族の衝撃へ屈した。それがわれわれを待つ運命なのか。民主主義が蛮族の役割を演じるのか。」

フランス文学が、このような極端な放縦と愚鈍のなかで、長く自らを維持できるのかと、彼は疑問を表明する。

シェレールは、この文学の価値低下と低俗化に、人文主義者として抗議する。しかし彼の人文主義は、サント=ブーヴの人文主義、また自らの哲学が自然主義的水準を越えない者の人文主義と同じく、基準と鍛錬の問題であるより、趣味の問題でありすぎる。

「趣味とは、姿を隠す労苦である。ところがわれわれは、これ見よがしな技巧だけを称賛する。趣味とは繊細さである。ところがわれわれは力を崇拝する。趣味とは節度である。ところがわれわれは、節度を欠くものすべての前へひれ伏す。以前は鉛筆がどれほど軽くても軽すぎることはなかったが、今日では紙へ穴を穿つ。表現はもはや精神へではなく、感覚へ向けられる。最も偉大な作家とは、最も広く大胆な語彙を意のままにできる者である。ゾラ氏は、公衆が自分の側にいると確信した者のように語る。それどころか、自分が新しい芸術を開始していると確信した者のように語る。不幸にも、私もそう考えるところから遠くない。サント=ブーヴが死んだとき、彼とともに何かが終わると、私は考えた。その何かとは、古い意味での文学、高貴で高尚なもの、精妙で繊細なものへの配慮、思想における真理と表現における節度の追求、要するに、これまで文学的趣味および文章の技術と呼ばれてきたものだった。これらすべてが深く危うくなっているように私には見えた。そしてそれ以後に起きたことは、私の意見を変えさせるのに役立たなかったと告白する。
「文学は、いわば消滅しつつある。あるいは、そう言いたくなければ、変容しつつある。言語は目に見えて変化している。書物と新聞には、植字工が綴りを入れるため、なお正書法がある。しかしもはや文法はない。題材の選択について言えば、人々は暴力的な題材を好み、望んだものを手に入れる。大衆の粗雑な感覚、過度に洗練された者の疲れた味覚、すべての人の知的無気力を目覚めさせるには、香辛料を利かせた料理が必要であり、必要な刺激物を供給する作家は数多く見つかる。これらすべてが進歩、未来の文学だと宣言される。未来だということなら、そうかもしれない。私には分からない。しかし進歩だというのか。まさにそれこそ、争われている問題なのだ。」

シェレールは最悪の懸念を、「われわれはアメリカ主義へ向かっている!(Nous allons à l’américanisme !)」という一句へ要約する。 しかし彼が激しく攻撃する倒錯の一部は、民主主義的な俗悪さや、アメリカ化という有害な過程とは、明らかにほとんど関係がない。

ある型の民主主義と正当に結びつけられる無特色と、過度な洗練から生じる倒錯とは、どちらも教養ある紳士の基準の崩壊を前提にするとはいえ、明らかに異なる。過度な洗練の倒錯は、むしろ十九世紀文学の全般的な発展、とりわけロマン主義運動へ結びつけるべきである。

ロマン主義運動に対するシェレールの態度は、やや慎重に定義する必要がある。すでに示そうとしたように、彼自身、この運動の一側面、たとえばラマルティーヌの詩へ現れる哀歌的・感情的な側面と、密接に結びついている。しかし運動にはもう一つ、第一義的に哀歌的・感情的なのではなく、絵画的・描写的な側面があり、シェレールによれば、前者とまったく異なる。二つの側面が別物であることは認めてもよいが、根本的に切り離されていることまでは認められない。

いずれにせよロマン主義作家へのシェレールの共感は、彼らが宗教と結びつけられた心の無限の憧れを表現しなくなり、絵画的になるのと正確に比例して減少した。言語を知的内容から空にする危険を冒してまで、言語に自然な境界を越えさせようとする、より進んだロマン主義的な言葉の絵画について、彼が持つのは不賛成だけである。

ユゴーでは描写が思想を圧倒しているように彼には見え、よくても義務的な賞賛しか与えない。描写の曲芸へさらに近づくゴーティエに対しては、隠そうともしない軽蔑を抱く。これまで生きたあらゆる作家のうち、ゴーティエは「芸術についての高い観念にも、筆の雄々しい使用にも、最も縁遠い」人物だった。

現代文学で描写が占めるようになった場所に、どうして驚かずにいられるだろうか、とシェレールは言う。

「ある本の一頁が賞賛されるのを聞くとき、または新人に才能があると聞かされるとき、意味されているのはこの種の曲芸だと、あらかじめ確信してよい。明白な理由は、作家が頭脳をまったく欠きながら、形を見る眼と、それを再現する手を授かることはありうる、ということにある。」

しかしシェレールが最高の軽蔑を取っておくのは、文学を感覚の追求へ還元するだけでなく、病的感覚の追求へ還元する作家たちのためである。古いロマン主義と、いわゆるデカダン運動を結ぶ、この種の作家のうち、おそらく中心人物はボードレールである。ボードレールとボードレール崇拝は、衰退へ向かう時代のあらゆるものを、シェレールの眼には要約しているように見える。この主題へ触れるたび、彼の言葉は劇薬のようになる。

「ボードレールは、私へ衰退の感覚を与え、その本質を明らかにした。私はそれまで、衰退とは、老人が自分の習慣に合わない作品を非難するために使う、空虚な言葉だと思っていた。あらゆるものは相対的であり、各時代にはそれぞれの言語と文学があり、その言語と文学は、社会生活のある瞬間における人間の思想を表現するという事実そのものによって、善いのだと考えていた。
「しかし違う。人間精神には、青春と同じく老年がある。壮年の後には老衰があり、知性が弱まり、言葉がもつれ、形が歪む瞬間がある。美しく、しなやかで、強い代わりに、醜く、よだれを垂らし、無力になる時がある。この事実を疑うには、美と醜との区別を廃止することから始めなければならない。もっとも、まさにそれこそ、ボードレール一派が忙しく行っていることではあるが。」

さらに彼は言う。

「芸術でひとたび感覚を追い始めれば、どんな代価を払っても感覚を求めるようになる。美の後には醜、形の整ったものの後には奇形が来る。われわれがあなたを魅了できないなら、震え上がらせることはできる。……それは、鈍った味覚を刺激するため、生の蒸留酒を飲み込む酔漢と同じであり、快楽へ残虐を薬味として加えたサド侯爵と同じである。そして、これらすべてが終わる理由はない。恐怖を使い尽くした後には、嫌悪すべきものへ達する。汚物を描き、その上へ長く留まり、そのなかを転げ回る。しかし腐敗そのものが、さらに腐敗する。この分解が、もっと悪臭のする分解を生み、最後には、どの言語にも名を持たない、名状しがたい何かだけが残る。それがボードレールである。」

そして彼は、「ボードレールは文学の衰退を示すだけでなく、知性全般の低下を示している」と結論する。

「実際に重大なのは、一人の男が彼のような四冊の本を書くのが見つかったことではない。そのような男が名声と崇拝者、それどころか弟子まで持つこと、われわれが彼を真剣に扱うこと、私自身が彼について論文を書くのに忙しくしていることなのである。」

このような文章の後で、文学的好みについて論争する者、好き嫌いによって批評する者を理解できないとシェレールが言うとき、微笑みたくなる。 もっとも、批評的基準の問題で、彼が流動の哲学から、ときには常識へ、ときには伝統へ訴えていることは事実である。

彼は、「美学的絶対も、あらゆる判断者が等しく判断能力を持つことも」認めようとしない。

「それほど高くも、それほど低くもない。プラトンの諸理想でも、個人的感情の無政府状態でもない。絶対がわれわれから逃れたからといって、あらゆるものが恣意的になったと考えるべきではない。優れた判断者たちは、あらゆる時代に一定の傑作を賞賛してきた。そして、いかなる社会も文学も、それを受け入れれば自らであることをやめるほかない、ある種の腐敗が存在する。」

シェレールがサント=ブーヴほど柔軟で包括的でなく、しばしば偏見と不公平を示すと非難されるとしても、その欠点は哲学と論理の過剰というより、しばしばアルセストを思わせる道徳的厳格さにある。言い換えれば、本人の否認にもかかわらず、彼は多かれ少なかれ、気質的な好みと嫌悪に従っている。人文主義者としても相対主義者としても、彼は極端と宗派性に警戒し、どの見解も絶対的に抱かないよう警戒している。

彼は、フランス精神がつねに陥りがちであり、自分の時代にはとりわけ広まっているように見えた、論理的排他性と不寛容へ繰り返し抗議する。「普遍的狂信のこの時代に、孤立した役割」を担うことを嘆き、こう書く。

「今日、文学全体は諸宗派へ分かれ、それぞれが旗へ『われわれの隊列の外に救いなし』と記している。ロマン主義者は写実主義者と同じほど排他的であり、パルナス派はロマン主義者と同じほど狭量である。ラ・ロシュフコーによれば、何ものをも自慢しない、十七世紀的な意味での教養ある紳士は、いったいどうなったのかと、ときどき私は考える。」

今日いたるところで出会う、確信という恐るべき狂気と無縁な者は、まだ半ダースほど残っているかもしれない、と彼は見積もる。好悪がそれほど猛烈でなく、力へ敏感でありながら完成へはさらに敏感であり、シェイクスピアを賞賛するためラシーヌを軽蔑しなければならず、ラシーヌに魅了されるためシェイクスピアを軽蔑しなければならない、とは感じない者たちである。

「ゾラ氏が、こういう人間に偶然出会ったなら、何という軽蔑を感じることだろう。それでも思い違いをしてはならない。結局、彼を裁くことになるのは、この種の人間なのである。」

V

シェレールの生来の厳格さは、ゾラやボードレールへの態度だけでなく、最も名高い人物の扱いにも現れる。気の抜けたような、何でも賞賛する態度から、これほど遠い批評家はいない。単なる慣習的崇拝から自由で、生来厳格な人物の吟味を受けた後、偉大な名声のうち何が生き残るのかを見るため、われわれは好奇心をもって彼の論文を読む。

アーノルドは、この種の論文を二つ、ミルトン論とゲーテ論を、英語読者へよく知られたものにした。ゲーテ論は、モリエール論と同じく、シェレールのうちのプロテスタント的側面、すなわち定説であるというだけで、どのような定説にも黙って従えない性質から生まれた。

ドイツにおけるゲーテ崇拝のうちに彼が見たのは、人間は自分の判断を委ねてよい権威なしには済ませられない、という主張の証明だった。

「ドイツ人は、父なる神と子なる神に対し、ずっと以前に批評の鋭さを使い尽くした。教会の無謬性については、何一つ立ったまま残さなかった。」

しかしその代償を、ゲーテを盲目的に崇拝することによって取り戻した、と彼は続ける。

「伝記作家たちは彼のあらゆる足跡をたどり、会話をすべて集め、恋愛をすべて記録し、彼と何らかの関係を持ったすべての人物の生涯を書いた。そして偉人が生涯の一瞬ごとに何をしていたかを確定するまで、やめようとしない。もちろんゲーテの作品については、完全を期すため、さらに大きな労力が費やされる。最も取るに足りない四行詩、最も取るに足りない覚書まで探し出される。薬屋の請求書が印刷され、爪の削り屑と髭の毛が収集される。」

ゲーテの真の功績は、「彼以前には文学を持たず、彼以後にもあまり持たなかった国民」の迷信的崇拝によって、誇張されたのである。

このような一文がドイツ人読者をことのほか苛立たせたに違いなく、シェレールも、それをまったく残念には思わなかったのかもしれない。この論文には、ときとして普仏戦争の痛みが感じられる。それでも彼は最後に、ゲーテを近代の代表的人間として高く掲げる。ゲーテの国際的重要性を宣言するだけでなく、その正しい理由も示している。

シェレールの知的鋭敏さと道徳的厳格さとの混合は、近代のもう一人の大人物、ナポレオンについて述べるところにも、同じく明瞭に現れる。ナポレオンが、第二次的な美徳をすべて備えていたことは認める。

「彼は軍人として劣らず、組織者としても賞賛すべき人物だった。倹約家で、勤勉で、きわめて多様な能力を持っていた。人間を見抜き、利用する技術を持っていた。交渉者として、彼を越えた者はいない。成功を利用する術、威圧し、偽装し、出し抜く術を知っていた。要するに、純粋に知的な能力を、これほど遠くまで押し進めた者はいない。
「しかしこの驚異的な知性は、ナポレオンに真の創造的天才が欠けていたことを、いっそう感じさせるだけだった。結局、彼が何を望み、何を行い、何を後へ残したのか説明しようとすれば、何も見つからない。彼には全体を導く観念がなく、目的なしに行動し、行き当たりばったりに生きた。空虚のなかで熱狂的に動き回った。フランスを救ったが、それは以前より低いところへ落とすためでしかなかった。……戦争のための戦争という、野蛮で狂気じみたものへ乗り出した。古代東方の専制君主にならって、征服へ乗り出した。カール大帝の帝国を、おそらくアレクサンドロスの帝国を夢見た。
「外交の秘密を見抜き、戦役のあらゆる動きを超人的な明察によって予見した、あの鋭い眼は、外務省の最下級の書記でさえ教えられたはずのこと――自分が深淵へ向かっていること――を見なかった。ナポレオンは、自分の帝国が続くと大胆にも信じた。それを息子へ伝えられると得意になった。いや、むしろ何も信じず、何も考えなかった。勝利から勝利へ、征服から征服へ、行き当たりばったりに進んだ。骰子を振るたび賭け金を倍にする賭博師のように、陣営の興奮なしには済ませられなくなり、その崇高で狂気じみた気晴らしのなかで、人々の生命、諸国民の名誉、祖国の安全が賭けられていることを忘れた。ナポレオンは、偉大さと卑小さという二つの極端を、あらゆる人間のうちで最も明瞭に示す人物である。彼は狂気へ奉仕する天才である。」

ナポレオンに対するシェレールの反発が、主として道徳的な反発だったことへ注意すべきである。彼は言う。

「彼は、道徳的人間が単純に欠けている、あの南方的な性質の一つである。だからこそ彼は、同時にこれほど偉大で、これほど卑小であり、これほど驚くべきで、これほど俗悪なのだ。」

「批評とは」とシェレールは問う。「何より理解することにあるのではないか。」 いや、理解することではなく、裁くことにある、と答えることもできよう。しかしここまで来れば、シェレールほど、批評家の司法的機能を思い出させる必要のない人物はいなかったこと、反対に彼は、判断の大胆さと厳格さによって際立っていることが、明らかなはずである。

彼が「国中へ断罪を配って回る」用意を見せることに、神学的過去の残存を見いだす者もいるかもしれない。ここで本能と理論との不一致は露骨である。彼の言うように、義務が現象的であり、道徳がほかのすべてと同じく相対的なら、本人が否認する気質的な嫌悪と好み以外の、どのような基礎の上で、その厳格さを正当化できるのか。

さらに彼は、流動の哲学者にふさわしい以上に、衰退という問題全体へ心を奪われている。おそらくルナンのほうが、「衰退とは、歴史哲学から決定的に追放しなければならない言葉である」と言うとき、より真正な相対主義者である。

シェレールの存在に内在する矛盾は、初期にヘーゲルを扱ったときと同じく、ダーウィンについて述べるところにも現れる。

「ひとたび科学的な思考法を身につければ、宇宙がなぜこのようであるのかと問うことは、もはや思い浮かばない。事実はその主権のうちに受け入れられる。……実在するもの以外に実在はなく、ダーウィンはその預言者である。それこそ、人間理性が現在滑り落ちている傾斜であり、その途中で、自らの力と喜びを成してきた多くのものを置き去りにする危険がある。」

固定した基準をシェレールほど切望した人物でさえ、心の反乱にもかかわらず自然主義の軛へ首を差し出し、唯一の実在は変化だと認めた。この事実は、十九世紀における自然主義の力を、雄弁に証言している。

ここまで押し進められた自然主義は、つねに存在の諸平面を何らかの仕方で混同し、人間の高いものを低いものへ従属させ、理論面では、彼があれほど警戒した形而上学的幻想を、ある程度伴う。

しかし彼の自然主義は、同じストア主義者であるテーヌの自然主義より、はるかに宗派的でない。科学への過度な熱意によって、彼の文学批評が損なわれていないことは、長い目で見れば、その長所として数えられるべきである。その批評には、ストア主義的な荒涼があまりに多く、剥き出しの幻滅があまりに多いため、シェレールの生前に得られなかった人気を、今後得ることは決してないだろう。

しかし真剣な研究者は、十九世紀のある種の精神的危機へ光を投げかけるという理由だけでなく、正確で国際的な知識と、厳格な誠実さ、観念を力強く扱う能力、司法的勇気、そして「事物の奥底へ達しようとする情熱」とを、稀有な仕方で結びつけているという理由から、今後もその著作を参照し続けるだろう。


原注

Études, I, 281。同上、279も参照。

Journal des Goncourt, 1863年6月22日。

同上、1863年7月20日。

ブリュンティエールの反論「モリエールの言語(La langue de Molière)」を参照。Études critiques, VIII, 85以下。

Études, V, 379。

Edmond Scherer, 4。

Études, VIII, xii。

Études, VII, 36。

Edmond Scherer, 155。

本書では後に、アーノルドがシェレールへ捧げた賛辞を扱う。シェレールもまた、次のような文章を読めば満足したに違いない。「近隣国の文学が、まったく不当に誇っている大げさな技巧家たちの本を読んだ後では、アーノルド氏の本を開くことが安息となる。意識的で、意図的で、計算された隠語を使うカーライル。深遠さを装い、苦労して表現を探し、研究し尽くされた身振りを重ねるラスキン――そうした山師的な態度が、ときには真の功績と結びついているのを見るのは残念であり、真の真剣さと偉大な趣味に対する罪を成している。」原文:C’est un repos d’ouvrir les livres (de M. Arnold) lorsqu’on vient de lire ceux des grands maniéristes dont s’enorgueillit si à tort la littérature de nos voisins : Carlyle au jargon conscient, voulu, calculé ; Ruskin et ses affectations de profondeur, sa laborieuse recherche d’expression, toutes ces poses étudiées d’un charlatanisme qu’on regrette de voir allié parfois à un mérite réel, et qui constituent un péché contre le vrai sérieux et le grand goût.Études, VII, 5)

Études, IX, 221。

Études, IX, 287。

Études, IV, 111。

Études, VIII, viii–ix。

Études, V, 317。

Études, X, 240。

同上、19。

同上、55。

同上、274。

Études, X, 330。

Études, IX, 347。

Études, VII, 194–195。

同上、IV, 22。

Études, VIII, xxi–xxii。

同上、xix–xx。

Études, IV, 284。

Études, IV, 289。

同上、X, 334、V, 66など。

同上、X, 329。

Études, VII, 171。

同上、172。

Études, VIII, 52。

同上、53。

Études, VI, 350。

Études, I, 141–142。

Études, I, 322。

Études, X, 126。

Études, VI, 209。

ルナン『科学の未来(L’Avenir de la science)』、73。

Études, VI, 124。

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第VIII章 テーヌ

テーヌはシェレールをはっきり嫌っていたが、サント=ブーヴへ心から敬意を捧げる点では、シェレールと一致していた。しかしテーヌのサント=ブーヴ論から判断するなら、彼が同じ主題について計画していた本は、もし生きて書き上げていたとしても、この師の姿をいくらか歪めて描いたであろう。この論文を読むと、サント=ブーヴの文学的名声についての理論が思い出される。それは結局、彼が好んだ自尊心(amour-propre)の理論を別の形で適用したものにすぎない。サント=ブーヴによれば、ある人物が他人の記憶のなかに生き残るとき、人々はその人物を実際の姿のまま見て称賛するのではなく、その人物のなかに自分自身を見て、自分自身を称賛するのである。

テーヌ独自の角度から眺めると、サント=ブーヴは何よりもテーヌの先駆者として現れる。テーヌが自分の功績として主張するのは、『月曜閑談』の随所に潜在している科学的方法を、整理し体系化したことだけである。サント=ブーヴを何より自然主義者として見たテーヌは、彼を十九世紀における人間精神の五、六人の主要な奉仕者の一人と断定した。自分をサント=ブーヴの継承者として通そうとするテーヌの熱心さは、両者が分かれる点を明確にしようとしたサント=ブーヴ自身の慎重さと、奇妙な対照をなしている。

I

実際、二人の相違は類似よりもはるかに目立つ。すでに述べたように、サント=ブーヴは何よりも個別化する人である。

彼には、知的に慎重すぎる、もっと大胆かつ直接に断言して正面へ出るべきところで、しばしばそうしない、という批判が成り立つ。それに対しテーヌは、一般化への情熱を無謀の域まで押し進める。本人が語るように、考えることを愛しただけでなく、「速く考える」ことを愛した。多くの主題についてあまりにも速く考え、その後、最初の結論へあまりにも執拗に固執したのではないかと懸念される。思考がもっと散策的で、論理的でなかったなら、あれほど頑固ではなかったかもしれない。しかし彼は、数学的才能と密接に関係し、パスカルが「幾何学的精神(l’esprit de géométrie)」と呼んだ、抽象的推論の能力を最高度に備えていた。

サント=ブーヴとテーヌを比較するとき、パスカルによる「幾何学的精神」と「繊細の精神(l’esprit de finesse)」との有名な区別が、絶えず思い浮かぶ。あらかじめ体系を設けず、人生をその無限の複雑さのまま描き出す技術、すなわち彼自身の表現を借りれば「それほど多くの方法を用いずに(sans tant de méthode)」描く技術において、サント=ブーヴを超えた批評家はいない。書物は葡萄と同じであり、あまり強く圧搾すると、そこから得られる最も繊細な風味を失ってしまう。 これに対しテーヌは、いったん批評の搾り機へ入ったものから、自分が一般的真理だと考えるものを最後の一滴まで絞り出そうとする。

隠遁者となる以前、サント=ブーヴは世界と多面的に接触していた。「私はといえば」と、彼は初期の書簡の一つで書いている。「社交界へ出て、観察する。」 テーヌは、サント=ブーヴが最後に行き着いた地点から出発しすぎた。

サント=ブーヴ自身、テーヌが属した世代の青年たちに、均衡の喪失を感じ取っていた。この世代の多くの青年は、ルナンとともに、自分たちは一種の脳炎にかかっている、と言えたかもしれない。実際、世紀半ばのこの代表的な青年たちを襲った病は、狂熱的知性主義と定義できる。人格のあらゆる力が脳へ鬱血していることは、テーヌの場合、きわめて文字どおりの意味でも明らかだった。まだ少年だった頃、総合試験の時期に頭へ蛭を当てられた。後年にも知的な高圧状態が絶えず続き、完全に消耗して倒れる時期があり、その一度は二年間も続いた。

これほど純粋に知性の角度から人生を見ることは、極端で一面的な見方を持つことである。しかしテーヌは、極端で一面的なものから本能的に退かなかった。ある人物が調停者なのか極端論者なのかという問い以上に、心理学的に重要な問いはない。この点で、テーヌとサント=ブーヴとの対照はとりわけ顕著である。人文主義的な釣り合いを何一つ持たない「支配的能力」へのテーヌの崇拝において、われわれはすでにこの対照を見た。彼は奔放な自然主義へ歓喜して飛び込む。サント=ブーヴをひどく反発させたバルザックの暴力と過剰が、テーヌには積極的な魅惑を及ぼした。『バルザック論』は、ロマン主義の宣言としての「『クロムウェル』序文」以上に、自然主義の宣言として影響力を持ったかもしれない。

テーヌによれば、バルザックは、途方もなく膨張する人格の「典型」であり、あまりに生命力があふれ、強烈であるため、自制できない人物だった。同じあふれ出る力が、彼の創造した人物たちにも見いだされる。

現実の生活でそのような人物に出会いたいとは思わないだろうが、文学のなかでは見事である。田舎道を歩いているなら、獅子より子羊に出会いたいだろう。しかし獅子が檻の向こう側にいるなら、子羊より興味深い。芸術は、この檻に相当する。したがって芸術家は、日常的散文の平凡さからわれわれを救うものとして、野獣を見せるべきである。バルザックはこれを完璧に行う。

われわれは、彼の男女へ人間として関心を持つのではない。「彼らは、自分たちを支配する情念という彫像を載せる台座にすぎない。」 この情念が、彼らの人間性を食い尽くしている。ユロは人間ではなく、一つの気質である。フィリップ・ブリドーのうちで支配的衝動は発達し、ついには「その本性に人間的なものが何一つ残らず」、残るのは「青銅の彫像が放つ、非人間的で不吉な光」だけとなる。 グランデが印象的なのは、情念が「彼のなかで人間性と憐れみの根そのものを断ち切る」ところまで達しているからである。 シェイクスピアと同じく、バルザックはあらゆる種類の偏執狂を描く。テーヌは、ある短編に七人もの偏執狂が登場することを満足げに指摘する。

ロンドンの『スペクテイター』誌のある筆者は最近、バーナード・ショーには人間的なものへの感覚が欠けている、と述べた。引用してきた文章から明らかなように、テーヌも同じ欠如に苦しんでいた。『英文学史』で彼は、ベッキー・シャープよりマルヌフ夫人を上位に置く――マルヌフ夫人は、まさにサント=ブーヴへ特別な嫌悪を抱かせた人物である。おそらくその理由は、ベッキー・シャープが、きわめて邪悪ではあっても、なお一人の人間であり続けるからである。

これに対しマルヌフ夫人は、環境と気質が生み出した不可避の結果であり、そのため通常の人間的・道徳的基準には従わない。「彼女はその種類において完全である。人が同時に称賛し、恐れる、危険で見事な馬のようなものだ。」

人間的なものへの感覚の欠如は、テーヌを何度か誤らせた。とりわけルネサンスの扱いにおいて、そうであったように見える。ルネサンスは自然主義的な力が大きく拡張した時代だったが、重要な点では人文主義の時代でもあった。ところがテーヌがこの時代に見るのは、「自然の全面的かつ暴力的な膨張」だけである。 当時の芸術と文学は、異例なほど動物の豊富な見世物小屋である。飼い慣らされた家畜が気持ちよいほど不在で、野獣が数多くいる。「劇を通して、また時代の歴史を通して、野蛮な唸り声が聞こえる。十六世紀は獅子の巣窟のようなものだ。」

『バルザック論』で始めたシェイクスピアの非人間化を、テーヌは『英文学史』で完成する。シェイクスピアと同時代の劇作家たちに現れる、人間性の測り知れない無抑制を描写するため、彼はどれほど多くの形容語を重ねても足りない。これらすべての劇作家に見えるのは、「逆上して燃え上がる、真正で原始的な人間であり、動物的衝動の奴隷、夢に弄ばれる者であり、現在の瞬間へ全面的に身を委ね、欲望と矛盾と愚行を一つに詰め込まれ、爆発と震え、官能と苦悶の叫びとともに、自分の絶壁の急斜面と鋭い突端を、意識し意図しながら転げ落ちてゆく人間」である。

シェイクスピアが心理学を書いていたなら、人間とは「気質に支配された神経機械であり、幻覚に陥りやすく、抑えのきかない情念に運ばれ、本質的に非合理で、動物と詩人との混合物であり、感情を美徳とし、想像力を原動力と案内者とし、高度に規定され複雑に絡み合う状況によって、苦痛、犯罪、狂気、死へ無作為に導かれる存在だ」と述べただろう。

狂気や犯罪として現れる場合にさえ、力を崇拝するテーヌのいくらか退廃的な傾向には、ほかのさまざまな点と同じく、スタンダールの影響をたどることができる。実際、テーヌとサント=ブーヴとの隔たりの大きさは、両者を直接比較するだけでなく、それぞれに働いた影響を研究することによっても明らかにできる。テーヌへ大きな影響を与えた人物の大半は、サント=ブーヴにはまったく影響しなかったか、積極的な反感を抱かせた。

形成期のテーヌが好んだのは、知的または感情的に純粋な自然主義へ向かう作家たちだった。バルザックとスタンダールをとりわけ好んだ理由は、二人がこの運動の知的側面と感情的側面をともに備えていたからだろう。二人はルソー的な意味における純粋な自発性を崇拝すると同時に、それを科学的かつ決定論的に説明した。またアルフレッド・ド・ミュッセ、とりわけ情熱詩と、ミシュレへのテーヌの偏愛にも注目すべきである。この二人は、最も激しく自らを解放したロマン主義作家だった可能性がある。

『英文学史』の結末で、より強い自発性を持つという理由からテーヌがアルフレッド・ド・ミュッセをテニソンより上位に置く箇所は、あまりにも有名なので詳しく触れる必要もない。

科学的側面において、テーヌの自然主義はフランスだけでなく、イギリスとドイツにも多くを負っている。彼はスチュアート・ミル――ミル自身、ある程度コントの影響を反映している――から重要な影響を受け、さらに、事実と事実相互の関係へ研究を限定しようとする、細密な実験主義・功利主義的なイギリス人の学派全般にも負っていた。「慎重に選ばれ、重要で、意味があり、周囲の事情を豊富に伴い、細部まで記録された小さな事実――今日、あらゆる知識の実質をなすのはこれである」と、テーヌは有名な一文で宣言する。

しかし結局、彼はもっと包括的な理論を求めた。イギリス的思考では不可能だった、「偶然的なものから必然的なものへ、相対的なものから絶対的なものへ、外観から真理へ」進むことを望んだ。 そしてこの知的絶対を求めて、ドイツへ向かった。ヘーゲルの『論理学』を読んだことは、青年期の重大事件の一つだった。彼はこれを、「ヌヴェールで六か月かけて消化した怪物」と表現している。

このイギリス的要素とドイツ的要素が彼の思考のなかでどのように結びついたかは、テーヌ自身に語らせよう。「実験と抽象は、この二つで人間精神のあらゆる資源を構成する」と述べた後、こう続ける。「一方は実践を導き、他方は思弁を導く。前者は自然を事実の集合として見させ、後者は法則の体系として見させる。前者を単独で用いればイギリス的となり、後者を単独で用いればドイツ的となる。」

さらに彼は、二つの学派を仲介する仕事をフランスが有益に担えると述べる。「十八世紀には、われわれはイギリスの思想を拡張した。十九世紀には、ドイツの思想へ精密さを与えることができる。われわれの仕事は、二つの精神を互いによって和らげ、修正し、補完し、一つへ融合し、誰にでも理解できる文体で表現して、普遍的に流通させることである。」

テーヌがヘーゲルとドイツ人から得たのは、発展という観念、とりわけ大きな人間集団が固定法則に従って発展するという観念、言い換えれば歴史哲学だった。たとえばギゾーのような作家に現れる、過去の諸事実へ知的秩序を押しつけようとする試みを、サント=ブーヴはほとんど好まなかった。成立しうるどのような歴史哲学へ対しても、深く切り込めば切り込むほどよい、と彼は言う。体系的な一般的見解、彼が「諸事実を調整し、たちまち整列させ、旗の下にあるかのように秩序正しく行進させる、あのラッパの響き」と呼ぶものを信用しない。

ところがテーヌは、サント=ブーヴがこれほど疑わしいと感じた、まさにギゾーの側面へ引きつけられた。彼の歴史哲学はギゾーのものと同じではないが、歴史哲学そのものは信じており、実際、芸術と文学それ自体より、それらが歴史哲学を築く助けとなることへ関心を持っていた。さらに、結果へ到達する方法において、ドイツ人よりギゾーと近いことを示している。テーヌ自身の方法に従うなら、彼とギゾーの精神に見いだされる特殊な論理性を、人種的傾向として説明しようとしても正当化されるだろう。

Chateaubriand, I, 234。

Correspondance inédite, 224。

Essais de critique, etc., 147。

同上、138。

同上、144。

Littérature anglaise, V, 122。

同上、II, 1。

Littérature anglaise, II, 48。

同上、II, 259。

De l’Intelligence, I, 4。

Littérature anglaise, V, 410。

Vie et correspondance, II, 30。

Littérature anglaise, V, 416。

Nouveaux Lundis, VI, 79。

II

実際、テーヌの方法が本人に当てはまるほど、すべての人へもよく当てはまるなら、われわれはもっと容易にそれを受け入れられるかもしれない。大半の人物以上に、彼は人種、環境、そして何より歴史的時点の産物として研究できる。そしてこれらの要因がどのように結合し、彼の支配的能力の性質と働きを決定したかを、大半の人物の場合より明瞭に見ることができる。

高等師範学校でテーヌを教えたセッセ氏は、学生テーヌについて大いに称賛する所見を書いたが、「主な欠点は、抽象を過度に好むことである」と付け加えた。その一年前、もう一人の教師ヴァシュロ氏も、同じような所見のなかでこう書いていた。「彼は公式を好みすぎ、あまりにも頻繁に現実を公式の犠牲にする。もちろん本人はそのことに気づいていない。彼は完全に誠実だからである。」

ここで見事に特徴づけられているテーヌの支配的特質は、ほかの諸国民と比べた場合のフランス人の支配的特質でもある。この純粋な論理性への情熱は、スコラ哲学にも現れ、スコラ哲学を攻撃したデカルトにも現れ、十八世紀の政治的デカルト主義者たちにおける「推論する理性(raison raisonnante)」の過剰を攻撃したテーヌにも現れる。テーヌは、ロッキー山脈で熊を、南アフリカで象を狩る若いイギリス人のなかに、古代スカンディナヴィアの海賊の残存を見た。

それなら、彼自身の公式愛のなかに、原初的な人種的衝動の残存を見る根拠も、少なくとも同じほどある。

テーヌの仕事におけるほかの二つの主要要素は、小さな事実への愛と、地方色への愛と定義できるが、いずれも公式への愛に従属している。彼にはゴーティエに値する言葉の絵画が何頁もある。しかしその言葉の絵画が、ゴーティエの場合のようにそれ自体を目的とするのではなく、論証へ奉仕していることを、突然われわれは発見する。また彼は膨大な数の小さな事実を集積するが、それらの選択を支配するのは公式である。

ただしヴァシュロ氏とともに、この選択が無意識だったことを付け加えるべきである。何といっても、テーヌは見事に誠実な精神の持ち主だった。この留保を置くなら、アリストテレスがピュタゴラス派について述べたことを、テーヌについても言える。論理と事実の間に「わずかな不適合があれば、事実を体系へ一致させるため、穏やかな圧力が加えられた」のである。あるいは、ジョンソン博士がハードについて、もっとも妥当性には欠けるが語った言葉を、テーヌへ当てはめられる。「彼は何事も体系的に説明する一群の人々の一人である。たとえば緋色の半ズボンを穿くことが流行したなら、この人々は、原因と結果からして、当時ほかの服装は選ばれようがなかった、と説明するだろう。」

ほぼこのような仕方でテーヌは、中世のある時期のような禁欲的時代には、いかなる個人も陽気な人生観を持つこと、ましてそれを表現することは、原因と結果からして不可能だった、と証明しようとする。

このように、人種、時代、個人のいずれについても、テーヌが支配的特質を絶えず追求することは、実際には支配的公式を追求することである。

「研究における私の困難は」と彼は書く。「すべてを幾何学的に演繹できるような、特徴的で支配的な特質を見つけること、ひと言でいえば、対象の公式を得ることである。リウィウスの公式は、歴史家となった雄弁家、であるように私には思える。」こうしてテーヌはリウィウスについて一冊の本を書き、ローマの歴史家とその仕事を、あらゆる複雑さもろともこの論理的鋳型へ押し込む。

テーヌにとって支配的情念は、サント=ブーヴにとってのように、ほかのある程度独立した諸情念に並ぶ一つの情念ではない。それは「アロンの杖がほかの杖を呑み込んだように」残りを呑み込み、あるいはむしろ、数学的・機械的な必然性によって残りを支配する。テーヌは、この諸能力の相互依存を、「相互依存の法則」という名のもとで科学へ帰属させる。

「動物では、本能、歯、四肢、骨格、筋肉組織が、一つの部分の変化がほかの各部分に対応する変化を生じさせるように結びついており、熟練した博物学者は、少数の断片から推論によって身体のほぼ全体を再構成できる。」 同じように、一つの文明の一部分を知る歴史家は、ほかの部分を半ば予測できる。したがってヴェルサイユの花壇、マルブランシュの哲学的・神学的推論、ボワローの作詩法の規則、コルベールの抵当権に関する法律、マルリーでの廷臣の挨拶、神の全能についてのボシュエの一文といった、一見まったく異なる諸現象に共通する公式を発見できる。

それらは、その時代の「理想的で一般的な人間」が、自らの支配的能力を表現した、異なる方法にすぎない。

テーヌが支配的能力を強調するのは、支配的公式を愛したからだけではない。バルザックとの関係について述べたときにすでに指摘したように、抑制されない自発性を愛したからでもある。ルソー的な自発性への愛が取った諸形態を研究すれば、もう一度テーヌ自身の方法を彼へ適用し、環境、とりわけ幼少期の環境が及ぼした影響をたどることができる。

「私はアルデンヌの森で生まれ、その森を愛している」と彼は言う。「とはいえ、そこについて持っているのは幼年期の記憶だけである。しかし最初の散歩で見た川、牧草地、森は、魂の奥底に、後の生涯が完成させこそすれ乱すことのない印象を残す。その後に想像するものはすべて、そこから生まれる。あらゆるものがそこにあり、盛りの一日も夜明けにはかなわない、とさえ思える。」

生涯を通して、テーヌの想像力には森がつきまとった。パリではしばしば森への、また外的自然の諸形態全般への、真正の郷愁に苦しんだ。彼は詩人=論理家と呼ばれてきた。しかし外的自然の形を鮮明に描く才能だけでは、詩人となるには足りないのかもしれない。それでも彼の文体は、論理と地方色を異例なほど結合している。それは分析的であると同時に絵画的、抽象的であると同時に印象主義的であり、ほとんど逆説的な程度まで二つの性質を備えている。

遺稿のなかから見つかった奇妙な自己分析で、彼は、自分の文体におけるこの二要素の密かな戦いが、執筆時に感じる疲労の原因ではなかったか、と問うている。 おそらく彼の精神では最終的に分析が優勢だったため、描写文において最高度の言葉の画家が達する効果には及ばなかった。彼が与えるのは、完全な視覚像というより、強烈に切り取られた視覚像である。

分析の優位はまた、豊富な比喩にもかかわらず、テーヌの文体が全体として想像力の自由を感じさせない理由でもある。ジョンソンの表現を借りれば、彼が精神を機械的なものにしようとしたのは、自分自身の精神がいくらか機械的だったためではないかと疑われる。その文体には、内側の遊びと弾力性が欠けている。それは優雅さと節度より、むき出しの力を印象づける点で、物質主義的時代を反映している。

シェレールは、テーヌを読むたびに、「反復して騒々しい打撃を加える、あの巨大な蒸気ハンマー」を思い出す、と言う。「絶え間ない衝撃の下で鋼鉄が曲げられ、形づくられる。すべてが力を感じさせる。しかし、あれほどの騒音に茫然とさせられること、そして結局、金属の堅牢さと光沢を持つこの文体が、ときにはその重さと硬さまで持つことも、付け加えなければならない。」

テーヌが実現できなかった計画の一つに、『知性論』と対をなす『意志論』を書くことがあった。しかし彼が意志をエネルギーと同一視したであろうことは確かである。ミシュレ論で彼は言う。「われわれの精神は、時計と同じく数学的に組み立てられている。主ぜんまい、すなわち支配的能力が機構の各部分へ伝える運動は、われわれの意志の支配を逃れる。なぜなら、それがわれわれの意志そのものだからである。」

言い換えれば彼は、生命の飛躍を抑え、人間的な目的へ導きうる内的抑制という、もう一つの自発性を信じない。彼はベルクソン氏と同じほど生命的衝動を崇拝するが、それを機械的法則へ厳密に従属させようとする点で、もちろんベルクソン氏と異なる。人間の諸能力がどれほど必然的に展開し、個人の選択や意志がいかにわずかしか関与しないかを示す比較を、彼は際限なく用いる。

あるときは人間を下等動物へ比べる。歴史家としての唯一の目的は、道徳的動物学の研究者となることだ、と言うのである。 またこうも言う。「人間を、蚕が繭を、蜜蜂が巣房を作るのとほぼ同じように、哲学と詩を作る高等種の動物と見なしてよい。」 フランス革命によるフランスの変形を、彼は「昆虫の変態」を研究するように研究しようとする。

しかし通常、彼は昆虫以上に不可避で本能的な自発性、すなわち植物の自発性へ傾く。サント=ブーヴは自然主義的な気分にあるとき、自分を人間精神の植物学者と表現していた。 テーヌはこの比喩を取り上げ、サント=ブーヴなら思いもよらなかったほど執拗かつ文字どおりに適用する。科学的自然主義者としても、アルデンヌの森の記憶につきまとわれた感傷的自然主義者としても、人間を樹木や植物へ果てしなく比較することに、彼は満足を見いだした。

おそらく彼が最も好んだ語は、樹液(sève)である。彼を最も喜ばせるのは、人間という植物のなかを樹液が力強く上昇することである。スタンダールと同じくイタリアを称賛するのは、そこでは人間という植物が最も豊かに成長するからである。彼の頁では、シェイクスピアの全天才が「花のように目の前で開く」ことになる。

シェイクスピアを植物へ比べることで、その価値を下げているとは感じていない。われわれも樹木のようになれるなら、これ以上のものを望めない。「これらの大木はあなたを大きくする。それらは幸福で穏やかな英雄である。見ているうちに、感染するようにあなたもそうなる。こう叫びたくなる。お前たちは美しく力強い樫だ。お前たちは強く、自分の力と豊かな葉を楽しんでいる、と。」

この植物的ともいえる幸福への憧れは、徹底してルソー的である。ここまでくれば、テーヌの一側面全体がロマン主義とどれほど密接に関係しているかは、明白でなければならない。この関係を理解するには、「時点」の影響を研究し、彼自身の方法の彼への適用を完成させる必要がある。サント=ブーヴの初期の仕事を一八三〇年の偽理想主義との関係で解釈しなければならないのと同じく、テーヌの仕事は、第二帝政の公然たる物質主義との関係で解釈しなければならない。すでに指摘したように、この偽理想主義は一八四八年に完全な敗北を喫した。

少なくとも現実世界が、それをまったく受け入れないことは明らかになった。そこでテーヌは現実世界を文字どおりの事実の支配へ委ね、この土台の上へ新しい科学崇拝を建てようとした。しかし彼は科学的実証主義者であると同時に、幻滅したロマン主義者でもある。その全仕事には、この幻滅の苦い味、心の欲求と現実との皮肉な矛盾の感覚が浸透している。

テーヌとその時代の人々にとって、自然はもはやワーズワースやラマルティーヌにとっての優しい母――「自然はそこにいて、あなたを招き、あなたを愛している(la nature est là qui t’invite et qui t’aime)」――ではなく、容赦ない法則の集合だった。テーヌによる最も明確な自然の擬人化は、確かに彼の最も冷笑的な著作『トマ・グランドルジュの生涯と意見』から取られたものだが、次の一節である。

「晩年のルイ十一世は、貴族、市民、司祭の服を着せた子豚を集めていた。子豚たちは殴られて服従を覚え、その姿で王の前を踊った。自然と呼ばれる正体不明の婦人も、同じことをする。おそらく彼女は滑稽を好むのだろう。ただし激しく鞭打ち、われわれにそれぞれの役を果たさせ、われわれのしかめ面を十分に笑った後、豚肉屋と塩漬け桶へ送り込む。」

ロマン主義者たちは自然の善性だけでなく、社会によってふつう堕落させられてはいるものの、人間の自然な善性を信じた。これに対しテーヌは言う。「人間は犬や狐と同じく犬歯を持ち、犬や狐と同じく、初めはそれを仲間の肉へ突き立てた。その子孫は、生魚の一片をめぐって石のナイフで互いを殺した。」

それに相当することは、現代の慣習の表面下でもなお続いている。 ルネサンスのある時期について、人生がこれほど醜悪だったことはない、と彼は言う。そしてこの醜悪さこそ真実なのである。

こうしてテーヌの頭脳は、心には忌まわしい秩序のなかへ、自らの真理と現実を見いだす。心の本能は、そのような現実から「幻想の国(pays des chimères)」へ逃れようとする。これを彼は、自分のために「不在証明(alibi)」を作ることと呼ぶ。すでに見たように、そのような不在証明の一つは、外的自然の形を美的に観照するなかへ自己を失うことである。もう一つは、歴史を研究することである。

「この門を通って夢想へ入る。阿片はすべて不健全である。少量を、ときどき服用するだけにするのが賢明である。『ウェルテル』と『ルネ』以来、われわれはそれを飲みすぎ、日々さらに重い量を服用している。そのため時代の病は悪化し、音楽、絵画、政治において、理性、想像力、感受性、神経の混乱が増大していることを示す数々の症状が現れている。望むときに人為的な不在と忘却を与えるあらゆる薬物のなかで、歴史は最も危険が少ないと私は考える。」

不在証明を作る第三の方法は音楽である。「ベートーヴェンを弾きたまえ(Jouez du Beethoven)。」この人生観全体は、ロマン主義的夢想によって緩和された実証主義、と定義できる。

Vie et correspondance, I, 123。

とりわけ Essais de critique et d’histoire の序文を参照。

Littérature anglaise, 序論、I, vi。

Essais de critique et d’histoire, xiv–xv。

Derniers Essais, etc., 43。

Vie et correspondance, II, 261。

Études, VI, 135。

Origines, La Révolution, III, 序文。

La Fontaine, 序文。

Origines, L’Ancien Régime, 序文。

本書145頁を参照。

Thomas Graindorge, 253。

Thomas Graindorge, ix–x。

Thomas Graindorge, 267。

Derniers Essais, etc., 226。

III

テーヌは、自分と同時代人が、前世代から受け継いだ時代の病から、半分以上回復することは望めないと認識していた。「われわれは真理へは到達するだろう」と彼は言う。「しかし平静へは到達しない。今この時点で治療できるのは知性だけである。感情を支配する手段は持っていない。」 しかし彼は、子孫の世代ではこの頭と心の戦いが終わり、人々が良心の痛みも後悔もなく科学的実証主義へ身を委ねるようになることを望んだ。

実際、テーヌが自分の世代と次の世代の人々へ巨大な影響を及ぼしたのは、科学的実証主義者としてだった。したがって、自然と人間性に対する彼の態度の研究をさらに進める前に、この実証主義のいくつかの側面を、より注意深く検討する必要がある。テーヌ自身、ある論文でそれを定義し、どの点で古い理想主義と敵対するかを示すことへ努めた。

「真理を探究する際の第一の規則は、外から与えられる権威をすべて拒み、直接の証拠だけに従い、触れ、見ることを欲し、証言は検討、討議、検証の後にのみ信じることである。その最大の嫌悪は、証明のない断言――それを偏見と呼ぶ――と、疑問を差し挟まない信仰――それを軽信と呼ぶ――へ向けられる。」

実証主義は信仰へ理性を、啓示へ自然を、先験的公式へ実験と帰納を対置する。ルネサンス以来続いてきた、この二つの競合する人生観の戦いが、科学と宗教との戦争と呼ばれてきた。

自然科学を近代精神と完全に一致させた名誉は、ベーコンよりデカルトへ帰する。デカルトは現象世界を空間と運動だけの問題へ還元し、性質についての議論を量と数学的測定へ置き換え、スコラ哲学を煩わせてきた実体、本質、隠れた性質、目的因についての思弁を科学から追放した。

しかしデカルトは心理学においては、なお大部分、中世的なままだった。魂を身体からまったく離れて生き、松果腺を居所とするものと考えた。それは近年のある筆者の比喩を借りれば、「ヤドカリが借り物の殻に住む」のとほぼ同じだった。デカルト以後の一貫した傾向は、被造物の残りに対するこの本質的優越を人間へ認めず、身体と魂の双方において、人間を下等動物へますます同化することだった。

モリエールは『女学者』で、才女たちがデカルトに根拠を求めた、魂と身体の機械的な分離へ抗議した最初期の人物の一人である。

「そう、私の身体は私自身なのです(Oui, mon corps est moi-même)」

また、

「私の魂と身体は連れ立って歩く(Mon âme et mon corps marchent de compagnie)」

などと。

テーヌが最後の一歩を踏み出し、魂は自然の産物であり、したがってほかの自然現象と同じ方法で扱うべきだと断言する。心理学でもほかの科学と同じく、性質と絶対的価値についての考察をすべて控え、観察と正確な測定へ限定しなければならない。

「ついに科学が近づき、人間へ近づく。それは、人々が軽蔑して科学を閉じ込めていた、星、植物、石の目に見え触れられる世界を通り過ぎ、魂をつかもうとしている。三百年にわたる実験が、その精密さを証明し、適用範囲を測定してきた、鋭く正確な道具のすべてを自由に用いるのである。」

科学的方法を魂へ適用するという、この一つの思想がテーヌの全著作を貫き、異例な統一性を与えている。この主命題の例証を求め、彼は古代史、近代史、文学、芸術の全域を歩き回った。書物や絵画が彼の興味を引くのは、主として過去の人間精神の一局面を証言する「徴候」または「資料」としてである。

芸術作品に見える一般的性格は、芸術家の自由な選択によるのではなく、芸術家が「支配的能力」の衝動のもとで行動したことによる。そしてこの「支配的能力」の性質は、さらに、芸術家の「人種」と遺伝、その人種を現在のものへ作った気候と「環境」、そしてその人物の生涯が位置することになった、人種の歴史的発展における「時点」によって決定される。このように外的影響を重ねれば、個人の自由な作用は完全に消える傾向を持つ。個人の意志が一度でも介入し、自然的原因の鎖を切り、分析者のあらゆる予測を裏切るなら、「悪徳と美徳は、砂糖や硫酸塩と同じ産物である」ことを証明できないからである。

この決定論または科学的宿命論は、テーヌがどこでも明示的に定式化してはいないが、その教説から必然的に導かれる帰結である。

またテーヌは自分の方法に論理的に導かれ、現象の流動の背後にある恒久的自我という意味での魂の存在を否定する。この意味で理解された魂は、実証主義者が科学から除こうとしている中世的「実体」の、最後で最も厄介なものにすぎない。テーヌの眼に、自我は結果にすぎない。ある自然力が集まる一点であり、それらの力、または彼のいう「その出来事の連鎖(la file de ses événements)」を離れて、独自の実在を持たない。

この観点から見れば、「物質的な存在であれ精神的な存在であれ」、存在者は「無数の花火」に似ている。「それらは虚空の暗黒のなかを、永遠に、絶え間なく上昇し、落下する。」 こうして自然に対するあらゆる優越原理を奪われた人間は、自然力の巨大な満ち引きに、無力なまま投げ回される。

「われら、無より生まれた哀れな孤児、孤独な岸にただひとり、
自ら何を生んだかも知らぬ、知性なき自然から生まれた!」

有名な比喩で、テーヌは、盲目的で無関心な自然の諸力のただ中にある人類の位置を、象の群れに踏みつけられる野鼠の一群へ比べる。 そして「われわれの科学が結ぶ最良の果実は、精神を鎮め準備することで、苦しみを身体的苦痛だけへ縮減する、冷たい諦念である」と結論する。

ブールジェは、テーヌのこの哲学と、前世代のフランスへ広く蔓延した悲観と落胆との関係をたどっている。 人間のより高貴な願望と、行為についてのあらゆる観念は、古来の魂の概念、すなわち高い自己と低い自己との戦いという概念の周囲へ集まっていた。

伝統的信仰の弱体化に続いて、固定した基準がこれほど揺らぎ、知的・道徳的混沌がこれほど生じたため、近代人は、人生についての科学的知識で得たものに相当する以上のものを、意志と人格の力において失ったのではないか、と問いたくなる。近代精神の大祭司であるゲーテ自身にも、中世理想主義の最後の偉大な代表者の一人であるパスカルに見いだされるような、ある高潔さと純粋さが欠けてはいないだろうか。自然主義の勝利に続き、少なくとも当面は、人間のより純粋に精神的な活動に重大な衰退が起きた。

テーヌは、ブールジェの『弟子』に登場する哲学者シクスト氏――その決定論的教説がロベール・グレルーを犯罪へ駆り立てた人物――に自分の姿が描かれていることを認めなかった。 ゾラのような作家が自分の弟子を名乗ることには、さらに強い憤りを感じた。しかしテーヌの教説と、ゾラその他、「残酷な文学(la littérature brutale)」と呼ばれたものを推進した人々の教説との間には、現実の関係がある。この文学は動物的情念の力を高く掲げ、気質の専制を宣言し、行為を決定する要因を血と神経のなかへ求める。

テーヌ自身、『英文学史』で、自然的原因が人間へ加える抗しがたい圧力を描く形容語を重ねている。

「われわれが自然と呼ぶものは、内部で震え、苛立つ秘密の衝動の群れである。しばしば有害で、通常は俗悪で、つねに盲目であり、われわれがそれを隠そうとする品位と理性の外套では、十分に覆えない。われわれは自分がそれらを導いていると考えるが、それらがわれわれを導く。行為は自分のものだと考えるが、それらのものなのである。」

この本能の宿命性に比べれば、ロマン主義的な情熱の宿命性さえ立派に見える。

テーヌが人生についてこれほど残酷な見解を取ったのは、本人が残酷だったからではない。むしろ彼は最も温和な人物の一人だった。行動から離れて立ち、きわめて感受性が強く知的になりながら、たとえばパスカルのように、人間のうちに自然の怪物的で盲目的な力より優越する原理の感覚を発達させなかった人物には、人生がとりわけ凶暴に見えやすい。

テーヌは、自分が悲観主義者だとも、あるいは楽観主義者だとも認めなかった。どちらの人生態度も非科学的だと考えたからである。同じ理由から、自分の思考が実生活へもたらす結果について、道徳的責任を負うことも否認した。とりわけ初期には、科学のための科学という教説を主張した。 また芸術のための芸術という教説も、進んで肯定した。年を重ねるほど、芸術と科学を、道徳的にでないにしても、少なくとも社会的に正当化しようと強く望むようになった。

パスカルの偉大な一般化によれば、純粋な自然主義者はストア派にもエピクロス派にもなりうる。テーヌは近代における純粋なストア主義の最良の例の一人である。彼へ働いた主要な影響を列挙したとき、最も愛読した著者がマルクス・アウレリウスだったことを挙げなかった。

「われわれの実証科学は」と彼は言う。「世界を支配する諸法則の細部へ、さらに深く入り込んだ。しかし言語の違いを除けば、それはこの全体的な見解へ到達する」――すなわち、マルクス・アウレリウスの見解へ到達する。 また晩年の書簡にはこう書く。「マルクス・アウレリウスは、哲学と諸科学を通過してきたわれわれにとっての福音書である。イエスが一般の人々へ語ることを、彼はわれわれほどの教養を持つ人々へ語る。」 これはストア派的な誇りのよい例だと私は考える。いくつかの点では、エピクロス派的な弛緩以上に真の知恵から遠い。

いずれにせよ、テーヌは師にふさわしい弟子だった。彼を長く研究すれば、その哲学への敬意を保留するとしても、本人を人格的に尊敬せずにいることは難しい。マルクス・アウレリウスは近代の人道主義者と同じほど奉仕の熱意に満ち、この点でテーヌはますます師へ似ていった。

彼は初め、科学的批評家は非難も称賛もせず、ただ認識し説明する、と述べていた。そして彼がどのような人間動物相へ美的承認を与えたかも、すでに見た。「批評は」と彼は言う。「植物学と同じように、あるときは橙の木を、別のときは松を、あるときは月桂樹を、別のときは樺を、等しい関心をもって研究する。それ自体が一種の植物学であり、植物へではなく、人間の作品へ適用された植物学である。」

しかし『芸術哲学』(一八六五~六九年)では、認識し説明するだけでなく、価値を定め分類しようと努める。これらの巻で判断基準へ到達しようとした努力について、長く論じる必要はない。第一に、その努力が比較的影響を持たなかったからであり、第二に、結局、自然主義、言い換えれば現象的で相対的なものを超えることに成功していないからである。

おそらく彼が示した主要な論点は、芸術作品をその有益性の程度、すなわち社会的効用によって判断できるということだった。ある書物と芸術作品は有害な雑草であり、別のものは結ぶ果実によって評価すべきだと言える。この基準は全体として、初期のロマン主義的賞賛に不利に働く。そのためジョルジュ・サンド論、エドゥアール・ベルタン論をはじめ、ロマン主義者への厳格さが増してゆくことを認められる。

もし『現代フランスの起源』最終巻を書くまで生きていたなら、残された覚書から判断して、一八三〇年派――アルフレッド・ド・ミュッセを含む――への扱いは痛烈なものになっただろう。 テーヌは、この見解の発展を、彼が「現代の文化全体を大きく促進した人物」と呼ぶゲーテの庇護下へ置く。しかしゲーテは偉大な自然主義者だっただけでなく、人文主義者でもあった。人間のうちで動物や植物とは異なる水準にある側面を、直観的に感じ取った。直観に関する限り、テーヌは植物学的または動物学的な水準を超えたことがなかったように私には思える。

Littérature anglaise, IV, 423。

Littérature anglaise, IV, 423。

Littérature anglaise, I, xv。

「その出来事の連鎖(La file de ses événements)」。De l’Intelligence 序文、9。

同上、II。

Vie et opinions de Thomas Graindorge, 265。

Vie et opinions de Thomas Graindorge, 266。

Essais de psychologie contemporaine, 233以下。

Vie et correspondance, IV, 287以下。

Littérature anglaise, III, 130。

Philosophes classiques, 36–37。

Nouveaux Essais, etc., 316。

Vie et correspondance, IV, 274。

Vie et correspondance, III, 309以下。

IV

いま『現代フランスの起源』に触れた。一八七〇年の戦争とコミューンの衝撃は、ルナンの真剣さをひどく弱めたが、テーヌには正反対の作用を及ぼした。彼は以前にも増して禁欲的なまでに真剣になり、この大規模な歴史研究へ着手するにあたり、祖国へ奉仕し、自分の眼には祖国が急速に近づいているように見えた深淵について警告したいという、情熱的な願いに動かされていた。

彼の文体を震わせる憤りは、革命を「昆虫の変態」を観察する自然主義者の冷静さで研究するという約束、さらに一般には、悪徳と美徳を硫酸塩や砂糖と同じ産物として見る決定論者の態度と、奇妙な対照をなしている。情熱が論理へ生命を与え、論理が逆に、膨大に集積した小さな事実の選択と配置を彼へ強いる。小さな事実を巧みに選択し、恐怖政治にさえ、さらに陰鬱さを加える。

革命についてはテーヌと大きく異なる見解を持つこともできる。しかし「革命の伝説」と呼びうるものが、彼の攻撃の陰鬱で凝縮した力から、二度と回復する可能性は低い。未来のユゴーやミシュレが、「九三年の巨人たち」を狂喜して讃えることは容易ではないだろう。この全著作は、ジャコバンの心理分析へ収束している、と言える。テーヌの暴力的な論理が最も効果を発揮するのは、同じく暴力的に論理的な人々を攻撃するときである。

彼の論証の最も弱い部分は、ジャコバンを非難する根拠となった抽象的推論の過剰が、古典精神の直接の産物であることを示そうとする試みである。

たとえばロベスピエールに見られる擬古典主義の上塗りが、古典主義の実体と何らかの関係を持つと仮定したため、彼は異例なほど誤った方向へ導かれた。テーヌによれば、ボワローはロベスピエールの祖先だった。 しかしボワローの真正な祖先はホラティウスである。したがってホラティウスが、間接的に恐怖政治の責任を負わされることになる。

テーヌは、「人間は推論する動物ではあるが、道理をわきまえた動物ではない」というジョン・アダムズの言葉に含まれる、単純な区別を見失った。この言葉はジャコバンには明らかに当てはまるが、真の古典主義者へ適用するなら、正反対にしなければならない。理性は、ホラティウスの場合よりボワローの場合にいくらか抽象的になっているとはいえ、なお、幻想的で極端なものすべて――論理の極端を含む――へ反対する、直観的な良識を意味する。この意味でボワロー自身は見事に直観的だったが、論理においては、特にフランス人としてはいくらか弱かった。

したがって、テーヌがジャコバン主義を古典精神と同一視したことは、ファゲ氏のいうように、文献解釈においても文学史においても、これまで犯された最も完全な誤りに近い。

人間には、人間固有の直観的良識が存在し、暴力と過剰へ警告を発するということを、テーヌは単純に否定した。人間のなかにそのような釣り合いを取る車輪をまったく意識しなかった、と言うことは、彼には人間的なものへの感覚が欠けていたという私の主張を、別の形で繰り返すだけである。『英文学史』で彼は書いていた。

「厳密にいえば、人間は、身体が本来病んでいるのと同じく、本来狂っている。理性も健康も、われわれのうちでは一時的な成功、幸運な偶然にすぎない。」

革命の研究は、人間についてのこの暗黒の自然主義的見解を、さらに強めた。人間性はスカートを穿いた女神ではなく、拘束衣を着せられた悪魔だ、というコールリッジの感覚へ近づいた。それなら拘束衣の体制へ戻るべきではないか。人間が内的抑制を持てないなら、外的抑制、すなわち宗教的・政治的な伝統的拘束を回復しようとすべきではないか。しかし同じような推論をたどったほかの人々のように、テーヌは科学の誇りを放棄して反動主義者になることはなかった。

反対に、『現代フランスの起源』第一巻――いくつかの点では彼の最高傑作――は旧体制への攻撃であり、真の反動主義者を遠ざけた。王政の濫用が必然的に革命の濫用を生み、革命の濫用が帝政の濫用を生んだことを示そうとした。そのため王党派、急進派、ナポレオン派の全党派を、順番に怒らせた。

この全面的な不評へ直面しただけでなく、彼が大切にした友情の一つ、マチルド公妃との友情まで傷ついた。公妃はナポレオンの肖像が刊行されると、突然彼と絶交した。テーヌが最後に与える印象は、道徳的孤独が深まり続けた人物の印象である。

これほど多くの人間的共感から自らを切り離しながら、二十年の労苦を捧げた巨大な仕事の効用を信じる慰めさえ持てなかった。

晩年に彼は書く。「二十年前、この一連の研究へ着手したのは、おそらく誤りだった。研究が老年を暗くしている。そして実際的観点からは役に立たないだろうと、ますます感じる。巨大で速い流れがわれわれを運び去っている。その深さと速さについて覚書を書くことに、何の意味があるのか。」

歴史のなかに個人の行為ではなく、個人にはほとんど抗しようのない集合的原因の働きを見るよう、あまりに徹底して自分を訓練していた。彼の哲学では、外的なものが内的なものへ働く仕方については絶えず聞かされるが、内的なものが外的なものへ働く仕方については、ほとんど聞かされない。

このように人格を、外的影響が集まり戯れる場所にすぎないものとしたことで、人格の神秘を十分に尊重しなかったことは明らかである。すでに見たように、サント=ブーヴは「精神の博物誌(l’histoire naturelle des esprits)」を書こうと強く望みながらも、「人間を植物や動物とまったく同じように扱うことは、おそらく決してできないだろう」と告白した点で、もっと慎重だった。

反対の仮定は、実験心理学のある学派にふさわしい表現を見いだした。エマソンは、科学的物質主義へ向かうこの流れを見抜き、警告の叫びを上げた。

「ひとたび、いわゆる諸科学のこの罠へ捕らえられたなら、物理的必然性の鎖から人間が逃れる道を、私は見いだせない。そのような胚が与えられれば、そのような履歴が必ず続く。この土台に立つ者は、感覚主義の豚小屋に住み、ほどなく自殺へ至るだろう。しかし創造力が自らを排除することなど不可能である。あらゆる知性には決して閉じられない扉があり、そこを創造者が通る。絶対的真理を探す知性、または絶対的善を愛する心が、われわれを救うため介入する。そしてこの高い力の一声で、われわれは悪夢との無益な格闘から目を覚ます。われわれは悪夢をその固有の地獄へ投げ込み、再びこれほど卑しい状態へ自らを縮小することはできない。」

最もありふれた人格のなかにさえ、どれほど微小であろうとも、分析のあらゆる試みから逃れる一部分がある、と付け加えてよい。この定義不能な部分、時間と空間の言葉では表現できない、純粋で抽象的な自由の残余は、その人物の独創性へ厳密に比例して増大する。

個人について真であることは、人種や歴史的時代にも等しく当てはまる。オーストラリアのブッシュマンは、ペリクレス時代のギリシア人より容易にテーヌの範疇へ収まる。この時代の最良の仕事には、変化する時と場所のあらゆる事情を超え、なおわれわれのうちの同質な要素へ訴える何かがある。しかしテーヌが関心を寄せるのは、同一性より相違である。

この点で彼は、スタール夫人の方法を極端へ押し進めた。『イギリス紀行』のような著作では、『コリンヌ』や『ドイツ論』における彼女の方法とよく似た仕方で、イギリスの国民的類型を、ほかの国民的類型との差異の最終地点において定義しようとする。また『ラ・フォンテーヌ論』では、この詩人を、普遍的な人間への訴えとして見るより、フランス人種のある特質と十七世紀フランス社会の表現として見る傾向がある。

このように作家を扱うなら、その人物へ文学上の地位と重要性を与えるものを見失う危険がある。作家が高い文学的地位を得るには、第一義的には人種と時代の表現ではない、二つのものを自らのうちで結合しなければならない。第一に、その人物は唯一無二でなければならない。第二に、その唯一性とわれわれ共通の人間性とが、神秘的に織り合わされていることを感じさせなければならない。

したがって偉大な作家は、自分を環境へ閉じ込めることを拒む。影響を受ける以上に、自ら影響を放射する。この意味で、天才とは臣民を自ら創造する君主であり、そのため未来と同時代の人物なのだ、と言われてきた。

テーヌが自分の方法をシェイクスピアの至高の独創性へ適用しようとした『英文学史』で、最も目立って失敗したことは当然である。シェイクスピアを化学気体のように公式へ閉じ込めようとする試みには、異議を唱えられる。もっともマシュー・アーノルドのように、シェイクスピアを知識より高くそびえる者、すなわち、

「天の天を住まいとしながら、
その麓の雲の縁だけを、
打ち負かされた人間の探究へ残す」

山のような存在だと見る必要まではない。

実際、偉大な作家へ適用されたテーヌの方法について何より目立つのは、その驚くほどの無関係さである。双子の兄弟を想像してよい。一人は優れた文学的才能を持ち、もう一人は凡庸である。二人には人種、環境、時点の同じ影響が働いた。理論によれば、同じ支配的能力を持つはずである。

集合的で一般的な原因と、最高度に個人的な支配的能力という原因との間には、明らかに橋を架けられない隔たりがある。偉大なコルネイユへ適用した場合、テーヌの方法が説明するのは、彼が弟トマと共有していたもの、すなわち説明されないままでも大きな損失のなかったものすべてだ、と言われてきた。

この歴史的舞台設定と背景全体は、もともと文学批評に対し、額縁が絵画へ持つ関係を持つはずだった。しかし指摘されてきたように、テーヌとその学派では、額縁が絵画の代わりとなる傾向がある。シェレールはいつもの厳格さで、『ギリシア芸術哲学』においてテーヌが、ギリシアとギリシア人の生活について、優雅で巧妙な描写を二百頁にわたって与えているが、「冒頭から六行を取り去れば、テーヌ氏の一巻には芸術についての一語も、哲学についての一語も含まれないことが分かる」と述べている。

芸術と文学を社会または時代を説明する「徴候」や「資料」としてだけ用い、その社会の歴史を芸術と文学の理解を助けるため用いないことは、それ自体、ジャンルの根本的な混同である。たとえば『英文学史』を『文学に反映されたイギリス社会』のような題にしていたなら、この困難は少なくとも一部、解消されただろう。

個々の作家へつねに正当な評価を与えるわけではないにせよ、時代の主要な特質を示し、傾向の大きな流れをたどり、相互作用と相互依存を指摘することには、しばしば見事に成功するからである。

ここでは彼の論理と知的活力が長所として現れるだけでなく、われわれ自身にこれらの美徳が欠けていることを矯正するものとして、貴重である。『英文学史』の擬似科学的偏向から過度な影響を受けた読者一人に対し、おそらく百人のイギリス人・アメリカ人読者が、それから健全な刺激を受けた。

さらに、テーヌを公平に判断するには、もう一つ非常に重要な留保を置かなければならない。純粋に文学的な観点からすれば、その方法がこれまで考案された最悪のものの一つであることは確かである。しかし彼がしばしば偉大な批評家なのは、その方法のためではなく、その方法にもかかわらず、であることも同じく確かである。

彼は自分を何より心理学者と見なした。これが、人間の魂へ科学を適用するという意味なら、あまりにも頻繁に擬似心理学的である。逃れ去る価値へ「幾何学的精神」を苛酷に適用しているだけである。しかし非常にしばしば彼は自分の体系を忘れ、サント=ブーヴと同じ意味で心理学的になる。すなわち、フランス人が何世紀も育て、異例な完成へ達した、心理的肖像を描く才能を示す。

ただし、このまったく正当な意味で心理学的になっているときでさえ、ときおり不意に引き戻され、自分たちが一つの体系へ繋がれていることを、不快な形で思い出させられる。

Vie et correspondance, III, 268。

Littérature anglaise, II, 158。

Vie et correspondance, IV, 338。

Nouveaux Lundis, III, 16。

「経験(Experience)」論。

Études, IV, 267。

V

テーヌが主要な代表者である科学的実証主義の時代は、現在、終わりへ近づいているように見える。それが自らを具体化した諸形態は、科学者自身にとっても、あまりに独断的に見え始めている。

青年テーヌは、「絶対的で、連鎖し、幾何学的な科学が存在すると私は信じる」と書いた。 中世に生きていたなら、絶対的で幾何学的な宗教が存在すると、疑いなく信じただろう。神学者も独断的科学者も、ともに形而上学的幻想の犠牲者である。

テーヌは、自然と人間性を一つの共通法則のもとへ置けると信じただけでなく、最終的には一つの共通公式のもとへ置けると信じた。一般化のピラミッドの頂点で彼が垣間見る、唯一の巨大な科学的公式は、彼の著作において、神学者による神の幻視に最も近いものだった。

「この創造的公式は……時間と空間を満たしながら、時間と空間を超えて存続する。それは両者のうちに含まれず、両者がそこから生じる。あらゆる生命はその一瞬であり、あらゆる存在はその一形態である。そして事物の系列は、破壊不能な必然性に従ってそこから下降し、その黄金の鎖が持つ神聖な環によって互いに結びつく。無関心なもの、不動のもの、永遠のもの、全能のもの――どの名もそれを言い尽くせない。その穏やかで崇高な顔が覆いを取られるとき、称賛と恐怖に打たれ、頭を垂れない人間精神はない。同時にわれわれの精神は高められる。自分の死すべき性質と卑小さを忘れ、共感によって思考の無限性を享受し、その偉大さへ参与する。」

精神においてこれは、マルクス・アウレリウスその他、最良の状態にあるストア派に値する。しかし内容においては、形而上学的幻想の極端な例である。公式は自然法則と人間的法則の双方を扱ううえで有用かつ必要だが、どちらの法則も無限へ及ぶため、つねに暫定的でなければならない。

それゆえエマソンのいうように、真理は「瓶にも樽にも詰められない商品」なのである。したがって公式の不足は、直観によって補わなければならない。自然的秩序を扱うなら「多」への直観、人間固有の領域を扱うなら「一」への直観である。すでに述べたように、人文主義者の知恵は、いずれかの直観秩序だけを過度に強調することにではなく、二つの秩序、生命的衝動(élan vital)と生命的抑制(frein vital)との間を仲介することにある。

それぞれの直観秩序には、それぞれの型の自発性が対応する。自然と人間性をともに公式へ閉じ込めようとするテーヌと決定論者の試みは、二つの自発性をともに否定する。引用したエマソンの一節に現れるように、われわれは「一」への直観へ訴えることで、この知性主義の悪夢から逃れられる。

しかし人々は、自らの精神活動が「機械学の問題」へ、歯車の噛み合いと滑車の軋みへ縮減されることを認めるくらいなら、知性主義から「多」への直観へ訴える者に従う用意がある。 もっとも、この訴えそれ自体は、退廃的自然主義しか生み出せない。この型の自発性を高く掲げたことから、ルソーからベルクソン氏まで続く、長い哲学者の系列が流行した。

ベルクソンの場合、人間はもはやテーヌの場合のような「生きた幾何学」ではない。その公式を数学的に計算でき、現在から未来を予測し、時間を実効的要因から排除できるようなものではない。

これはベルクソン氏によれば、有機体へ機械論を、生命的秩序へ幾何学的秩序を押しつけることである。 有機的なものにとっては、「時間こそ実在の素材そのもの」であり、そこには知性の足場から予測できない「新しいものの絶え間ない湧出」が伴うからである。

実際、ベルクソン氏は、頭と心とのルソー的な争いへ新しい形を与え、身体の向きを変えて創造的流動を「直観する」ことによってのみ、実在を垣間見られる、と言う。 プラトンのように、知的区別を「一」への直観へ導く梯子の段として用いるよう勧める代わりに、知性へ背を向け、進化過程の巨大で渦巻く深みを覗き込ませようとする。

彼は人間のうちに、流動へ抵抗し、人間的目的を流動へ課す自発性の可能性を認めない。テーヌと同時代人の狂熱的知性主義から逃れる道を、ベルクソン氏は同じほど狂熱的なロマン主義にしか見いださない。そしてこの点では、もちろんジェイムズおよびプラグマティストと一致する。

ついでに指摘すれば、ジェイムズはロマン主義的態度を直接擁護するだけでなく、テーヌによる古典主義の誤解を採用し、「古典的」という語を、スコラ的で乾いた合理主義と同義にすることで、この語の信用を落とそうとする。 実際には、テーヌとジェイムズがこの語を誤解している意味での古典主義に近いのは、たとえばホラティウスやボワローの直観的良識ではなく、テーヌの知性主義のほうである。

Vie et correspondance, I, 47。

Philosophes classiques, 370–376。

Littérature anglaise, I, xxxii。

L’Évolution créatrice, 247。

同上、4。

同上、175。

ジェイムズ「古典的」という語の扱いについては、ニューヨークの The Nation、1910年3月31日号掲載論文を参照。

VI

テーヌとその弟子たちの誇張された決定論へ感じる苛立ちは、それが反対方向の同じほど大きな誇張に対する、必要な反動にすぎなかった可能性を考えることで、和らげるべきである。

中世の宗教は、人間を自然および同胞から完全に切り離し、時間と空間の上へ高め、神の恩寵と自らの自由意志だけに全面的に依存するものと見なす傾向を持った。聖者は自然的本能をすべて抑圧することで、完全へ達しようと努めた。セルバンテスが風刺した騎士道物語の途方もない誇張も、現実のあらゆる制限を無視する英雄的人格崇拝の、別の表現にすぎない。

これに対しテーヌは、個人の意志が自然法則によって制限され、条件づけられる多様な仕方を示し、「あらゆる生物が必然の鉄の手につかまれている」ことを立証するため、並外れた分析能力を捧げた。

さらに彼は、人間が個人性においてだけでなく制度においても、この自然的必然性によって境界づけられていることを証明しようとする。制度も歴史的産物であり、大部分、その周囲の環境と関係し、変更できるとしても、緩慢な進化過程によってしか変更できない。

したがって彼がフランス革命を攻撃するのは、完全に論理的である。革命精神は根底において、古い理想主義が変形し、政治へ誤って適用されたものにすぎないからである。

ジャコバンは中世の博士と同じく、生き、呼吸する人間を理想的実体へ置き換え、公式が自分と現実との直接の接触を遮ることを許す。そして人間の制度について、中世の先人が個人について信じたのと同じく、意志による単なる命令だけで、抽象的な模型に従って作り直せると信じる。

このように自然主義は、歴史的共感と科学的分析という二重の道具によって、思想のあらゆる部門に広範な変革をもたらした。たとえば文学批評では、サント=ブーヴとテーヌ以後、古い型の批評家の観点へ戻ること、すなわち書物を「隕石のように空から落ちてきた」ものとして扱い、 中世の信条のように先験的な根拠から組み立てられた美的規範と比較して裁くことは、ほとんど不可能だろう。

一般に自然主義者たちの仕事の結果として、人々がかつてのように、変化と相対性という要素を無視することは容易でなくなる。中世を特徴づけた粗雑な二元論、魂と身体との機械的対立、自然への禁欲的な不信へ戻る可能性は低い。

要するに、ルネサンスの最初の思想家たちからテーヌまで延びる自然主義の大運動は、振り返ってみれば、過去の理想主義の過剰へ対する必要な反動であり、未来のより健全な理想主義に必要な準備だったことが分かるだろう。

テーヌの仕事は、この運動の歴史において、つねに大きな意味を持つ。それが最高潮へ達したと思われる「時点」を、きわめて強く表現しているからである。

ヴォルテールの区別を借りれば、彼は「自分自身の時代の精神」を最も完全に備えていた。しかし、それとともに「最も遠い後世へ伝わる精神」を備えていたかどうかは、それほど確かではない。いずれにせよ、彼の批評がサント=ブーヴの批評ほど長く古びずに残ることはないだろうと、すでに明らかになっている。

Littérature anglaise, V, 411。

フローベール、Correspondance, III, 196。

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第IX章 ルナン

ルナンは、『幼年時代と青年時代の思い出』における自分の目的は、青年期の出来事を物語ることよりも、知的な起源をたどり、「自分の世界観を他者へ伝える」ことにあると述べている。 彼がこのように記録した知的生活は、それ自体きわめて豊かであるうえ、その時代を大幅に代表しているため、いっそう興味深い。彼はある論文で、「十九世紀の繊細で、逃れやすく、捉えがたい思想(la pensée délicate, fuyante, insaisissable du XIXe siècle)」について語っている。 まさにこの形容こそ、彼自身の思想を最もよく言い表している。彼はプロテウスであり、いまだ誰も彼を縛り上げることに成功していない。サント=ブーヴによれば、ルナンを正当に扱うにはプラトン風の対話篇しかない。しかし、そんなものを書ける人間がどこにいるだろう、と彼は付け加える。

ルナンがこれほど精妙で多面的なのは、近代批評の精神をこれ以上なく完全に体現しているからである。彼を理解する第一歩は、この新しい批評の理想と古い理想との違いを明確に念頭へ置くことだ。かつて考えられていた批評家の仕事は、一定の基準に照らして判断し、そのうえで自らの人格的な重みと権威によって判決を徹底させることだった。

この考え方への反動の性質は、カーライルの一句に要約されている。「監督する(oversee)前に、まず見なければならない(see)。」知性の柔軟さと共感の広さが、批評家の主要な美徳として、権威と判断にますます取って代わる。「単なる判断、すなわち、これを責め、あれを褒めることは」とルナンは言う。「狭い方法のしるしである。」

古い批評の弱点が狭量さと独断にあったとすれば、新しい批評の危険は、普遍的な共感によって世界全体を抱こうと努めるあまり、判断する仕事そのものを忘れてしまうことにある。ルナンは、自らの批評を「あらゆる排他性の排除」のうえに、すなわち現実の相矛盾するあらゆる側面を収容できるほど広大な知的歓待の精神のうえに置こうとする。 「昔は」と彼は言う。「人はみな一つの体系を持ち、それによって生き、それによって死んだ。今やわれわれは、あらゆる体系を順々に通過する。いや、さらによいのは、それらすべてを同時に理解することである。」

真理が真理となるには、その反対物によって補完される必要がある、というヘーゲル論理学の教えを、これほど深く身につけた人はいない。一見したところ彼は、すべてを疑う代わりにすべてを肯定する、新しい種類の懐疑論者に見えるだろう。もちろんそれは、あらゆるものの絶対的真理を否定する間接的な方法にすぎない。しかしルナンを真の懐疑論者だと考えることほど重大な誤りはない。「少なくとも一日に一度は自己矛盾しない者に災いあれ」と彼は叫ぶ。 だが、後年の著作で皮肉や逆説にどれほど覆われようとも、彼が一度も自己矛盾しなかった点がいくつかある。

こうした本質的な断言へ最も容易に近づくには、青年期の注目すべき著作『科学の未来』へ目を向ければよい。この本は一八四八年に書かれたが、一八九〇年まで刊行されず、その序文でルナンは、その間にも根本では変わっていないと明言している。科学へ捧げられた崇拝の独特な熱烈さによって、この本はルナンの生涯だけでなく、世紀そのものの一時点を画している。彼が科学について語る酒神賛歌のような調子を聞くだけで、彼が幼年時代の信仰から離れ、別の祭壇の司祭となったことが分かる。

「それでは科学は宗教である。未来において信条を作るのは科学だけである。人間の本性がどうしても解決を求めずにはいられない永遠の問題を解決できるのも、科学だけである。」

人類が科学的に組織された後には、科学は「神を組織する」ことに取りかかる。

ルナンがカトリック教の精神的習慣をことごとく科学へ持ち越したことは明らかである。サント=ブーヴが述べたように、「フランスでは、キリスト教徒でなくなった後も、長くカトリックであり続けるだろう。」 実際、ルナンは、カトリック的想像力を備えた科学主義者・実証主義者と定義するのが最もよい。たとえば彼は、科学的教義、 不謬の科学的教皇権、 科学的な地獄と異端審問、 科学による復活と不死、科学の殉教者という観念へ到達する。

科学的進歩が問題となるとき、彼は、目的は手段を正当化するというイエズス会的教説へ訴える用意さえある。「少しばかりの策略や、通常は腐敗と呼ばれるものを用いた人々に対しても、その人々が真に人類のより大きな善を目的としていたなら、厳しくならないことを学ぼう。」 彼を見習えば、彼自身と同じく科学によって聖化される希望を持てる、と約束している。

「すべての人が私ほど教養を持っていたなら、すべての人は私と同じく、幸福にも悪事をなしえない者となるだろう。そのときこそ、『あなたがたは神々であり、いと高き者の子らである』と言うのが真実となる。」

このようにルナンには、科学を宗教的感情の雰囲気で包む特別な才能がある。昔のルクレティウスと同じく、分析そのものには備わっていない想像力の輝きを、分析へ与える。そのため、硬く乾いた実証主義なら反発したであろう多くの人々を引きつける。彼らはルナンを読むことで、宗教を科学に置き換えても、結局は重大な犠牲を何一つ払っていないという心地よい錯覚を持てる。

「神、摂理、魂」とルナンは言う。「少々不器用ではあるが、表現力があり、敬意に値する古きよき言葉である。科学はこれらをますます洗練された意味に解釈するだろうが、これらに代わる有利な語を見いだすことは決してないだろう。」 つまり、古い理想主義の用語はすべて保持されるが、巧妙な両義性の体系によって、新しい意味を与えられるのである。こうして「魂」については大いに語られるが、

ルナンが用いるとき、それは一種の脳機能となっている。「かの世界の空気を一度でも吸い、理想の甘露を味わった者なら、私を理解するだろう。」 この言葉が現れる一節全体と合わせて読むと、「理想の甘露を味わう」とは、一定数のドイツ語の専門研究書を読むことより、さほど多くを意味しないと分かる。

人間は不死である、と彼は語る。つまり「その仕事のうちに」、あるいは「その人を愛した者の記憶のうちに」、あるいは「神の記憶のうちに」不死なのである。 別の箇所では、神とは単に「理想という範疇」を意味すると教えられる。さらに希薄化されると、理想は、現象世界より上位にある精神的秩序の直接的・人格的な知覚ではなくなる。この意味での理想主義なら、エマソンの一文には、ルナンの何十頁にも見いだせないほど多くのものがある。

ルナンの理想とは、単に科学的進歩への信仰であり、すでに見たように、彼自身の場合には、異例に深く豊かな宗教的感受性によって強化されたものである。彼自身が定式化した信条は、「理想の崇拝、超自然の否定、真理の実験的探究」である。 この信条の第一条にもかかわらず、ルナンはほかの実証主義者と同じく、個人の、助けを借りない洞察や直観へ極端な不信を抱く。彼がカトリック教への反抗を、理性や良心の証言ではなく、外的事実のうえに置くよう、どれほど注意しているかに注目すべきである。

かつて、抽象的推論によって真理へ到達できると信じられていた。そしてフランスでは、この信念が他国より確固としていた。マルブランシュの対話篇で、テオドールとアリストは、内なる神託へいっそう有効に相談するため、カーテンを閉めた部屋へこもり、次の光り輝く命題から出発する。「無には何の性質もない(Le néant n’a point de propriétés)。」

これに対しルナンは、先験論と形而上学的仮定が完全に覆されなければ満足しない。「科学的研究のほんのわずかな一片」のほうが、「五十年間の形而上学的瞑想」より目的にかなうと考える。 もちろん、すべての人には自分の哲学を持つ権利がある。しかしその哲学は、無限についてのその人個人の夢にすぎず、たまたま含まれている科学的資料を除けば、客観的価値を持たない。

ルナンを表面的に読む者は、彼が自分の行った仕事のなかで最も満足していたのが、全著作中でも最も乾燥した博識の産物であり、通常の基準から見れば最も自己を込めなかった『セム語碑文集成』だったと知って、当惑する。 だがルナンなら、こう答えるかもしれない。どれほど芸術的に表現された無限の夢であろうと、科学が築き上げ、形而上学者たちの空中楼閣に取って代わる運命にある実証的知識の建物へ、たった一個の煉瓦でも加える名誉と比べれば、何だというのか。

したがってルナンは、人間研究を内省のうえではなく、歴史と言語の実証的証拠のうえに置くよう注意する。

「個人の魂の科学というものは存在しない。」 この一句には、古い宗教と心理学の否定が含まれている。しかし彼は、この伝統的な人間性の観念に代えて、過去に現れたままの人類の明確な像を提示しようとする。「絶えず発展し続ける存在についての唯一の科学は、その歴史である。」 したがって歴史は、人間が自分自身の本性について必要な真理へ到達する手段として、一挙に巨大な重要性を帯びる。

本章の大部分は、D. C. Heath & Co. の許可を得て、著者編『幼年時代と青年時代の思い出』の序論から再録されている。

Souvenirs, p. iii。

Dialogues philosophiques, 299。

Nouvelle correspondance, 175。

Avenir de la science, 199。

Avenir de la science, 66。

Dialogues philosophiques, p. ix。

Étude sur l’Ecclésiaste, 24。ルナンはこの感情をヘブライの著者へ帰しているが、それを自分自身のものとするような仕方で述べている。

Avenir de la science, 108。

同上、37。

Nouvelle correspondance, 123。

Avenir de la science, 344および442。

Dialogues philosophiques, 112。

Dialogues philosophiques, 113および120。

Avenir de la science, 351。

同上、476。

Avenir de la science, 476、および Études d’histoire religieuse, 419。

Dialogues philosophiques, 134–135。

同上、129。

Avenir de la science, 56。

Dialogues philosophiques, 139。

Dialogues philosophiques, 1。

Souvenirs, 250および297頁以下を参照。

Avenir de la science, 163。

Dialogues philosophiques, 240ほか。

ルナンの死後、机の中で見つかった紙片には、「私がしたすべての仕事のうち、最も愛しているのは『集成』である(De tout ce que j’ai fait, c’est le Corpus que j’aime le mieux)」と記されていた。

Dialogues philosophiques, 265。

Avenir de la science, 132。

II

ルナン自身は歴史研究に見事なほど適した資質を持っていたため、歴史をこのように高く掲げた際、自分に固有の能力の角度から人生をあまりに排他的に見ていたのではないかと疑われても仕方がない。モリエールの舞踏教師は言う。「人間のあらゆる不幸、世界の年代記を満たす致命的な失敗、政治家の過誤、名将たちの欠点は、踊り方を知らないことから生じる。」

しかし、前世紀初頭に歴史の理解の仕方へ起きた革命の重要性は、容易に過大評価できるものではない。ルナンは、この新しい歴史感覚のうちに、十九世紀最大の獲得物と独自性を最初に見抜いた者の一人だった。 「歴史は」とサント=ブーヴは言う。「われわれの時代に一般的な趣味であり能力であって、実際、人間文化のほかのあらゆる部門を相続する。」 エマソンのように直接的な洞察を信じる少数の者は、これへ抗議した。

「われわれの時代は回顧的である。父祖の墓を建てる。伝記、歴史、批評を書く。」

だが、この問題におけるエマソンの声は、荒野で叫ぶ者の声だった。彼のいう「色あせた過去の衣装を着て仮装すること」の魅惑はますます強まり、歴史小説のような形では、最も俗物的な人間にまで訴えるようになった。

過去を想像力と共感によって理解すること自体は、多少の一面性という代価を払ってでも獲得する価値があった。旧式の歴史家は、人間性に含まれる可変的要素について、まったく不十分な観念しか持たなかった。書く際には、抽象的人間の一種の像を目の前へ置き、それが「中国からペルーまで」のあらゆる個人に当てはまると思っていた。ルイ十四世とメロヴィング朝の王を語るときにも、きわめて似通った言葉を使い、おおむね同じ基準で二人を裁いた。

これに対しルナンのような歴史家は、時間と空間によって人間を隔てる相違を浮かび上がらせるため、自らの技術をことごとく用いる。一般的人間についてはほとんど語らないが、アントニヌス朝時代のアテナイ人がペリクレス時代のアテナイ人と似なくなっていた仕方、ギリシア人の精神的態度がユダヤ人のそれと異なる仕方、ローマの住民がアンティオキアの住民と相違する点を、われわれに感じさせる。「批評の本質は」と彼は教える。「われわれ自身とは異なる生活様式のうちへ入り込む能力にある。」

この定義でも彼はまた、自分自身の才能をひいきしている。その才能が最も優れているのは、思考と感情の最も微細な色合いを捉えて表現し、最も精妙な区別を設けることだからである。彼は、自ら「過去の感情と情念についての直接的直観」と呼ぶものを、高度に備えていた。

この歴史的な洞察力には、正確な学識に加えて、ゲーテが『ファウスト』第二部の末尾で讃えた、理解と共感という女性的能力が完全に混ざり合う必要がある。ルナン自身、自分の本性のこの女性的側面を好んで強調する。「私は女性と司祭によって育てられた。この事実のうちに、私の美徳と欠点の双方の説明がある。……感じ方において、私は四分の三まで女性である。」 別の箇所では、女性的特質のこの優勢をケルト民族全体、とりわけ自分の属する支族へ帰している。

微細な変化を見分ける生来の適性を持ったルナンは、新しい進化論を受け入れるのに特に適していた。彼がフランスへ広く紹介するうえで大きく貢献したドイツの学問と思弁には、漸進的な成長と発展という観念が浸透している。古い心理学は、静的な観点から人間を研究していた。ルナンの哲学では、神さえ進化する。彼にとって近代の偉大な達成は、

「存在という範疇に代えて生成という範疇を、絶対という観念に代えて相対という観念を、不動に代えて運動を置いた」ことにある。

ルナンのように、歴史的方法によってどれほど多くを説明できるかを発見した者は、それによってすべてを説明したくなる。たとえば芸術作品が、ある特定の型の人間や文明を映す鏡だからではなく、普遍的な人間的真理によって価値を持ちうることを、彼は奇妙なほど認めたがらない。「美しいのはホメロスではなく、ホメロス的生活、すなわちホメロスが描いた人類の生存段階である」と彼は言う。「マクファーソンのオシアン詩が真正なものなら、ホメロスと並べなければならない。それが十八世紀の詩人によるものと証明された瞬間、価値はきわめてわずかなものとなる。」

ここでルナンの歴史的な繊細さは、ジョンソン博士の力強い良識と比べて見劣りする。ジョンソンはオシアンについて、彼らしい調子でこう述べた。「いや、精神をそこへ放り出してさえおけば、人はこんな代物を永遠に書き続けられるだろう。」

文学に対するルナンの態度が、第一には文学的なものではなく、歴史的または文献学的なものであることを示す文章は、いくらでも挙げられる。彼は、自分へ大きな影響を与えたサント=ブーヴを喜ばせるためだけに、しばらく文学を重んじていたと告白している。 文学愛好家の観点から見て、「文学史は、人間精神の作品そのものを直接読むことの大部分に取って代わる運命にある」と述べたとき以上にひどい異端は、かつて口にされたことがない。 また彼は、

「リウィウスの美しい散文のすべてを、彼が歴史を書く際に目の前へ置いていた文書のいくつかと交換したい」と宣言した。

Essais de morale et de critique, 104。

Nouveaux Lundis, I, 103。

Souvenirs, 87。

Essais de morale et de critique, 110。

Feuilles détachées, pp. m–mi。Souvenirs, 113頁以下も参照。

Essais de morale et de critique, 385。

Averroès, p. ii。

同上、190頁以下。

Souvenirs, 354。

Avenir de la science, 226。

Essais de morale et de critique, 36。

III

しかしルナンの野心は、単なる歴史家・文献学者を超えた何者かになることだった。彼の信条の第二条が、超自然の否定であったことを忘れてはならない。超自然とは、別の箇所で彼が「文明の恥辱にも、人類からいまだ消えていない奇妙な病」と表現したものである。

初期教育のすべてが、彼を宗教研究へ向かわせていた。カトリック教から科学へ改宗した後には、新しい信仰を応用し、歴史と文献学の実証的方法が、従来それらの完全な領域外にあると考えられてきたものを説明するのに十分であると証明したい欲望が加わった。宗教は、通常の理性が立ち入れない神秘の領域が存在すると想定する。この宗教の中心的仮定を攻撃し、信用を失わせるまでは、合理主義者に真の勝利はない。

こうした考えをすべて念頭に置いて、まだ非常に若かったルナンは書いた。「十九世紀で最も重要な本は、『キリスト教起源批判史』という題名を持つべきである。」 ルナンは、この大事業を成し遂げるため、自らの生涯の三十年以上を捧げた。その成果は、全七巻の『キリスト教起源史』と、それを補完する全五巻の『イスラエル民族史』に結実している。これらの著作は、

十九世紀で最も重要だったとは言えないかもしれないが、いずれにせよ、フランスで一、二世代のあいだに現れた最も大規模な仕事である。

キリスト教史家が必然的に直面する重大な諸問題を、ルナンがどう扱ったかを詳細に論じることは、本書の範囲を完全に超えている。その扱い方がドイツから借りられたことは明らかである。彼はフランス人の表現能力をドイツの研究へ奉仕させ、それ以前には少数の専門家の所有物だった諸観念を一般の流通へ投じた。

しかしドイツの学者たちは、聖書解釈に、少なくとも特別な特権らしいものを残していた。ルナンの仕事が重要なのは、聖なる学問と世俗の学問との区別を大胆にも廃止し、旧約・新約の物語をリウィウスやヘロドトスの物語とまったく同じ足場へ置いた点にある。聖書は、絶対的な霊感を受けた一枚岩の書物ではなく、純粋に人間的・歴史的なものとなり、時間と場所の変化するあらゆる事情の刻印を帯びる。『コヘレトの言葉』はかつて神の言葉と考えられた。ルナンがそこに見るのは、「幻滅した老独身者の哲学」だけである。

ルナンのこの歴史的方法は、推論だけに基づき、攻撃した教義と同じほど不寛容な気質をしばしば持った十八世紀の反宗教思想と、通常は対照される。その気質をよく示すのが、超自然に対するヴォルテールの戦争、とりわけカトリック教に対する彼の十字軍の有名な標語、

「忌まわしいものを打ち砕け(Écrasez l’infâme)」である。昔の戦闘的無神論は、よく指摘されてきたように、一種の逆立ちした信仰だった。「神は存在しない。そしてハリエット・マーティノーはその預言者である。」

ルナンとこの型の不信仰者との対照は認めてもよい。ただし、ルナンの哲学にも相当量の独断的合理主義が伴い、さらに少なくともフランスでは合理主義にほとんど必ず伴う、嘲笑的な不敬もいくらか含まれていたことを忘れてはならない。この要素は、彼が年を取るにつれて、ますます表面へ現れる。敵が彼へ与えた「敬虔ぶったヴォルテール」という形容がふさわしい瞬間さえある。宗教問題をこのような軽薄さで扱うことは、それ自体では十分に面白いことも多い。しかしルナンほどの人物には、古代の賢者の忠告に従い、「心軽く、最高の事柄について思弁しない」でほしかった。

ルナンほど複雑な本性に含まれる異なる要素は、きわめて慎重に区別しなければならない。彼はヴォルテールといくつかの共通点を持ち、ドイツの批評家たちとはさらに多くを共有する。その一方、キリスト教に対する感傷的崇拝によって、シャトーブリアンのようなカトリック擁護者にも似ている。自分の世代へ大きな影響を与えられたのは、この最後の特質によるところが大きい。

宗教は、理性と人格への実効的な支配力をすべて失った後にも、なお感受性のうちへ長く残る。真理として訴えなくなった後も、美として訴え続ける。ルナンが表現するように、「われわれはカトリック教の教義に腹を立て、その古い教会堂には喜ばされる。」

中世建築、キリスト教の儀式と典礼の詩情、香の匂い、あるいはルナン自身のように聖母への聖歌によって、われわれは感動に震える。 この気分は宗教趣味(religiosity)と呼べるが、真の宗教と混同してはならない。両者の間には必然的な結びつきがない。

このようにルナンは、人々が過去への感傷的な憧れと、新しい秩序を知的に受け入れることとの間で、最も深く分裂したまさにその時期に現れた。心が頭の結論を受け入れようとしなかった。この頭と心との争いは、世紀半ばにはとりわけ一般的であり、サント=ブーヴによれば、一つの流行のポーズとなっていたほどである。

反抗する私の理性は、
信じようと空しく努め、私の心は疑おうと空しく努める。

シャトーブリアンと相当数の同時代人の場合、宗教的感情はなお、抵抗する理性を引きずってゆけるほど強かった。しかし五十年後には、均衡は近代精神の側へ傾き、多くの人々が過去の宗教形式へ、優しく名残惜しい別れを告げる準備をしていた。ルナンは彼らを代表して、こう言う。「かつて持った信仰は、決して束縛となってはならない。死んだ神々が眠る紫の経帷子に、その信仰を丁寧に包んだとき、われわれはそれに対する負債を支払い終えたのである。」

そこで彼は『キリスト教起源史』において、キリスト教の経帷子を織り、超自然への信仰を意味する限りでのキリスト教へ、共感と敬意を込めた埋葬を施そうとする。この事業へ彼を特に適したものにした能力については、すでに述べた。実証主義を宗教趣味で金色に飾り、科学的知性の働きの周囲へ、無限のかすかな香りを漂わせることにかけて、彼以上の者はいなかった。

彼は同時代の人々へ、彼らが欲しているもの、すなわち無限の匂いがする菓子を与える。

このように感受性へ避難した宗教は、大部分、文学的・芸術的享楽の問題となる。シャトーブリアンの場合にそうであることは明らかであり、ルナンにも同じ快楽主義的な風味を見いだすのは難しくない。彼は、キリスト教創始者の人格に「強い味わい」を感じると語る。 別の箇所では、「宗教的感情の歓びを味わう」ことについて述べる。

『イエス伝』を真剣に読む者を最も不快にするのは、おそらく、イエスへ与えられる最高の賛辞は美的感覚を満足させることだ、とルナンが想定している点である。イエスについて語るとき、彼は doux(優しい)、beau(美しい)、exquis(精妙な)、charmant(魅力的な)、ravissant(うっとりさせる)、délicieux(甘美な)といった形容詞を重ねる。

しかし、どれほどわれわれの好みに合わないとしても、この宗教趣味は、同時代の大きな読者層の趣味にまさしく適合していた。『イエス伝』に異例の成功をもたらしたのは、内在的な長所以上に、その時宜性だった。

そしてシェレールが述べたように、その刊行を「世紀の事件の一つ」とした。 最初の五か月間に六万部が求められ、やがて多くの言語へ翻訳された。

プロテスタント、カトリック双方の正統派は、外面的な敬意の形に包まれてはいても、それまで宗教が受けたうちで最も陰険で致命的な攻撃を、この本のうちに見た。刊行から一年か二年以内に、何百冊もの書物、小冊子、雑誌論文が反論として大量に現れた。 マルセイユ司教は反キリスト者ルナンに対し、毎日午後三時に教会の鐘を鳴らさせた。教皇ピウス九世は、彼を「ヨーロッパの冒瀆者」と呼んだ。場合によっては、論争へ中傷が加えられた。裕福なユダヤ人ロスチャイルド氏が、キリスト教への攻撃を書かせるため、ルナンへ百万フランの賄賂を支払ったという噂まで流れた。

神学論争というこの危険な領域へ踏み込まずとも、現在の距離から見て、ルナンが『イエス伝』で最良の状態にないことは分かる。さらに進んで、フルーリーの言葉どおり、「福音書の物語を改善できると考える者は、その物語を理解していない」と言う者もいるだろう。

ルナンが最も優れているのは、繊細な陰影の技術によって、過去の記録に含まれる相対性の要素を表現することである。ところがアーノルドの表現では、イエスは「近代哲学の隠語でいえば、絶対者である。われわれは彼を説明できず、その背後や上へ回り込み、彼を支配することができない。」歴史的方法は、『ヨハネの黙示録』のような作品や、ネロの迫害のような事件へ適用するとき、最も有用である。しかしイエスの純粋な精神的高みを感じさせるために必要なものではない。テーヌが『英文学史』でシェイクスピアという卓越した人格へ適用したときと同じく、ここでも歴史的方法は著しく失敗する。イエスもシェイクスピアも、いかなる環境論によっても、いくつの「影響」が収束した結果によっても、説明されるものではないように思われる。

ルナンの時代は、個人が社会へ負うものについての感覚では異例なほど強く、個人が自分自身へ負うものについての感覚では異例なほど弱いという点で、われわれの時代に似ていた。そこで時代精神へ従い、ルナンはイエスの使命を、可能な限り感傷的・人道主義的な感情の噴出へ還元する。意志による男性的宗教は、彼の叙述では、心による女性的宗教へほとんど完全に犠牲にされている。

しかしサント=ブーヴが指摘するように、キリスト教徒には最初から二つの大きな家族を区別できる。一方には「柔和で優しい者たち」が、他方には「断固として強い者たち」がいる。 信徒たちのうちで分離したこれらの特質は、創始者のうちでは一つに結ばれていた。ルナンがこの事実を認めなかった結果、彼の描くイエス像には真の不整合がある。ガリラヤの「繊細で愛すべき道徳家」が、どのようにして「最後の日々の陰鬱な巨人」となるのか、明らかにされていない。

ルナンは聖パウロへの嫌悪をほとんど隠せない。パウロの関心は明らかに個人の精神生活へ集中しており、どのような歴史的解釈の技巧を用いても、人道主義者へ作り変えることができないからである。ルナンはパウロをキリスト教第二の創始者と呼ぶが、パウロ的宗教に固有の特徴、すなわち付きまとう罪の感覚、低い自己と高い自己との争い、肉の法と霊の法との争いへ置く強調には、ほとんど共感を持たない。

「私は何と惨めな人間だろう。誰がこの死の身体から私を救ってくれるのか。」

と聖パウロは叫ぶ。これに対しルナンは、正統派の教父たちに反して人間性の自然な善を説いたブルターニュ人ペラギウスと自分が同郷であることを、好んで思い出させる。キリスト教徒――この語の旧式な意味における――なら、こうしたすべてのうちに、ルナンが内的生活の本質的要素のいくつかを欠いていた証拠を見るだろう。いずれにせよ、あらゆるものを文献学という狭い角度から見る彼の決意を示す、奇妙な例である。

「告白するが」と彼は言う。「原罪の教義は、私が最も味わいを感じない教義である。これほど針の先に載っている教義はほかにない。アダムの罪の物語は、『創世記』を構成する二つの交互に現れる記述の一方にしかない。エロヒム資料だけがわれわれへ伝わっていたなら、原罪は存在しなかっただろう。堕落についてのヤハウェ資料の物語は……古代イスラエル人から一度も注目されなかった。パウロが初めて、そこから、何世紀にもわたり人類を陰鬱と恐怖で満たした恐ろしい教義を引き出したのである。」

Essais de morale et de critique, 48。

Avenir de la science, 279。

Dialogues philosophiques, 27。

Dialogues philosophiques, 328。

Souvenirs, 65。

Nouveaux Lundis, V, 14。

アルフレッド・ド・ミュッセ「神への希望(L’Espoir en Dieu)」。同じ気分については、ミュッセの『ロラ』の一部も参照。

Souvenirs, 72。

ドゥーダン、Lettres, IV, 143。ルナンとその時代についての一節全体が読むに値する。

Souvenirs, 312。

Avenir de la science, 248。

Études sur la littérature contemporaine, VIII, 108。

一部の一覧については、Milsand, Bibliographie des publications relatives au livre de M. Renan, Vie de Jésus(1864)を参照。

Feuilles détachées, p. xxii。

Port-Royal, I, 217。

Feuilles détachées, 375–376。

ルナンの実証主義は、奇跡に対する態度にもよく表れている。何が「自然的」で何が「超自然的」かを自信満々に決定し、ベルトロ氏の実験室で適切に検査できないものをただちに拒絶するときほど、彼が独断的になる箇所はない。まるで、われわれの経験が無限に小さな断片にすぎないのに、「通常の」法則がときとして、より高い「法則」によって取って代わられ、停止させられる可能性があるかどうかを、本当に知っているかのようである。

『イエス伝』で彼は、ときおり敬虔な詐欺という説へ訴える。ラザロは、奇跡を行う者としてのキリストの名声を高めるため、自分が生き返る場面を意図的に計画し、演じたと彼が示唆したことは、大きな憤激を引き起こした。別の箇所では、奇跡的なものを、何らかの自然的事件が歪められたものと見るほうへ傾く。たとえば聖霊降臨と炎の舌の物語は、おそらく激しい雷雨の稲妻から生じた。 パウロは暑さと疲労に負け、眼炎の発作を伴う脳鬱血に苦しみ、そのためダマスコへの道でイエスに会ったと想像した。 復活の教義――ルナンが言うように、キリスト教の未来全体がそこへ懸かっていた教義――は、マグダラのマリアの幻覚から生じた、などとされる。

このあらゆる点で実証主義者でありながら、ルナンの思想には、文体から注意深く追放したロマン主義の痕跡がなお多く残る。そのため、ときおり客観性を欠き、自分自身から離れられず、称賛する歴史上の人物へ自分の特質を与える傾向がある。彼は、イエスとマルクス・アウレリウスの肖像へ、自分自身の特質を数多く盛り込んだ。

ルナン自身はますます皮肉な超然へ傾いたため、イエスも同じ優越性を与えられなかったとは考えたがらない。

「イエスは、われわれが傑出した人物の本質的美徳と考えるものを、最高度に備えていた。すなわち、自分自身の仕事へ微笑みかけ、仕事の上へ立ち、それに取り憑かれない能力である。」

ルナンは外的事情を通して自分のロマン主義的な夢を追い、ときには外的事情をその夢へ従属させる。一八六九年の選挙運動に失敗した際、普仏戦争のわずか一年前でありながら、軍備縮小を提唱した。真の政治家なら、平和について人道主義的な幻を持っていたとしても、注意深い観察者にはすでに明らかだった現実の戦争の危険へ、それを犠牲にしただろう。

ルナンによれば、ケルト民族にはつねに「夢を現実と思い込む」傾向がある。「ケルト人の詩的生活における本質的要素は冒険である。すなわち未知のものの追求、絶えず逃れ続ける欲望の対象を、終わりなく探し求めることである。」 ルナン自身、こうした民族的特質と、自分自身のロマン主義および知的冒険への愛との関係を見いだしている。

宗教研究で彼が到達する確実な結論はわずかだが、実証的情報の空白を、驚くべき仮説の豊かさで補う。彼が観念や事件を扱うその自由さには、人を刺激するものがある。別の言い方をすれば、知的慎重さと節度の欠如に刺激があるのである。

知的に慎重な者なら、ルナンとテーヌが仏教のような主題――広大で、曖昧で、専門家にさえなお不完全にしか知られていない主題――へ大胆に乗り出し、もっともらしくはあってもしばしば誤った数個の一般化へ、すべてを還元するさまに驚嘆するほかない。

「自然は」とエマソンは言う。「一般化を嫌い、毎瞬、百万の新しい個別的事実によって哲学者を侮辱する。」民族心理、とりわけセム人の心理について非常に多くの観念を普及させたルナンは、とりわけ「砂漠は一神教的である」と断言した。しかし、この主張を反証する傾向を持つ「個別的事実」は、彼自身の生前に収集され、彼自身が創始した『集成』へ収められた。

ルナンの方法を、サント=ブーヴのような真の懐疑論者の方法と比較するのは有益である。サント=ブーヴは未知の場所へ跳躍する必要のない主題を慎重に選び、その後、道の一歩一歩を探りながら、打ち勝ちがたい用心深さで進む。ルナンが聖パウロについて語るのを聞けば、まるで本人と個人的に知り合いだったかのようである。この「醜い小柄なユダヤ人」は、「背が低く、ずんぐりし、背を曲げていた」とルナンは教える。「小さな禿げ頭が、重い肩のうえへ不格好に載っていた。青白い顔は濃い髭にほとんど覆われ、鷲鼻で、鋭い目を持ち、黒い眉は額の上でつながっていた。」

サント=ブーヴは、レカミエ夫人の客間で何年もシャトーブリアンを見ていた。それでも『シャトーブリアン論』へ特別な付録を設け、彼の目の色を論じた末、シャトーブリアンの目についても、メアリー・ステュアートの髪の色その他多くの事柄と同じく、悲しくもこう言うほかない、という結論にしか到達しない。「私に何が分かるのか(Que sais-je?)。」

しかし、ルナンの天才におけるこうした疑わしい側面へ長く留まり、その真に卓越した点を忘れてはならない。未来のキリスト教史家は、その記録中、通常の人間経験を超越する事件について、ルナンとはまったく異なる結論へ到達するかもしれない。彼のロマン主義と推測の濫用から生じる欠点を避けるかもしれない。だが、歴史的発展の感覚を持たない聖書研究者が、今後真剣に受け止められることはないと確信できる。そして、すでに見たように、この歴史感覚を与える点で、ルナンは比類のない巨匠である。

IV

ルナンは進化をあまりに熱烈に信じたのだから、彼自身の方法を彼へ適用し、本人がどのように進化したかを問うのが公平である。自伝で彼は、自分を「矛盾の束」と表現している。 彼が念頭へ置いていたかもしれない矛盾の一つは、生涯の終わりと始まりとの間にある矛盾である。この変化の性格については、すでにいくつか触れてきた。

ルナンには、豊かで機略に富む本性のしるしである快活さが、つねに十分に備わっていた。しかしこの快活さは、晩年の皮肉な陽気さとはまったく別物であり、後者は『科学の未来』のような青年期の著作に見られる真剣で、ほとんど厳粛な調子と著しい対照をなす。

初期のある論文で彼は、ベランジェが「善良な人々の神(Dieu des bonnes gens)」、すなわちガリア的人間性の失敗へ寛大な微笑を向ける、鷹揚な神を崇拝したことを憤然と攻撃している。 同じ頃、陽気さを「人間の運命についての、あの奇妙な忘却」と呼んでいた。 したがって、その二十年ほど後に、「古代ガリアのこの陽気さこそ、おそらく最も深い哲学である」と告げられると、われわれは驚く。

公の演説で彼は、聴衆へこう勧める。

「あらゆる国民へ、フランス語で笑うことを教えよう。それは世界で最も健全で、最も哲学的なことである。フランスの滑稽歌もよい。私はかつて『善良な人々の神』について手厳しいことを言った。いやはや、何という間違いだったことか。……神はある種の清教徒宗派の牧師たちの祈りより、フランス兵の悪態を喜ばれる、と誰かが言わなかっただろうか。陽気さによって、われわれは摂理についての最も深い見解へ入るのである。」

この変化についてのルナン自身の説明はきわめて単純である。自分は混血であり、本性のなかで、軽妙で嘲笑的なガスコーニュ人が、真面目なブルターニュ人に勝ったのだという。

しかし、この説明をあまり真剣に受け取るなら、ルナンの生涯が持つ意味の多くを見失うかもしれない。むしろルナンとは、その全存在を知性が最高権力者として支配した人物だったことを思い出し、その知性の優越に伴う哲学とは何かを問うべきである。

「私が報告する最初の危険な症状は」とエマソンは言う。「知性の軽薄さである。まるで多くを知ることが、真剣さにとって致命的であるかのようだ。知識とは、われわれが知りえないことを知ることである。……どの演壇においても真剣さは何と立派に見えることか。しかし知性はそれを殺す。」

ルナンは、知性を宗教的な真剣さで見て、あらゆる確実性の源泉とすることから出発する。ところが自らの前提を論理的に展開することによって、ゆっくりではあるが確実に、エマソンが描いた態度へ追い込まれる。一八九〇年にも、一八四八年と同じく、科学がわれわれの唯一の真剣な関心事だと考えている。しかし科学へ期待するものは、何と低下したことか。もはや科学が宗教に取って代われるとは主張せず、「科学は真理を与えるというより、われわれを誤謬から守る」と認める。

最晩年には、エマソンの反響のように聞こえる言葉でこう述べる。「われわれは知らない。それが有限を超えるものについて確実に言えるすべてである。何も否定せず、何も肯定せず、希望しよう。」 「待つことを知ろう。最後には何もないかもしれない。あるいは、真理が悲しいものではないと誰に分かるだろう。あまり急いで発見しようとするのはやめよう。」 「あらゆるものが可能である。神さえも。」

Les Apôtres, 62。

同上、180頁以下。

同上、8頁以下。

L’Antéchrist, 102。

Essais de morale et de critique, 386。

ルナンの仏教論は Nouvelles études d’histoire religieuse に、テーヌの仏教論は Nouveaux essais de critique et d’histoire に収録されている。

Souvenirs, 66、および Les Apôtres, 170。

Chateaubriand et son groupe littéraire, II, 404。

Souvenirs, 73。

Questions contemporaines, 461頁以下を参照。

Essais de morale et de critique, 383。

Feuilles détachées, 263–264。

Souvenirs, 141。

Avenir de la science, p. xix。

Feuilles détachées, p. xvii。

Feuilles détachées, p. x。

同上、416。

したがって、ルナンのこの後期の展開は、彼が当初から知性を過度に重視し、人格と意志にのみ属する地位へ知性を高めようとしたことの自然な帰結である。知識をどれほど重要視しようとも、最後にはテニソンの言葉を借りて、知識へこう言わなければならない。

「自分の場所を心得させよ。
それは第二であって、第一ではない。」

ルナンの知識崇拝は、一面では、外的権威を求めるカトリック的欲求の残存である。教会の権威に代えて、彼は科学的事実の権威を置く。彼は理想を保ちたいが、現象的自然より上位にある人間内の原理を大胆に肯定することの上へ、それを置こうとはしない。そこで、自らの哲学によって内面に求めることを禁じられた整合性と秩序ある連続を、外的事実のなかに見いださざるをえなくなる。別の言い方をすれば、懐疑に抗する彼の唯一の手段は、歴史哲学である。

サント=ブーヴのような懐疑論者には混沌として相互に無関係に見える、過去の多様な出来事という外的事実のすべてが、ルナンによれば、内側では「遠くに定められた一つの目標」へ向かって動いている。その目標は、もちろん「科学的理性」の勝利である。原始的・本能的な時代は、いまや意識的反省と分析の時代に取って代わられた。そしてルナンは、これより高い状態を想像できない。

彼は、本能の自発性と知性の分析活動を越えたところに、魂のより高い自発性がありうることを認めない。自らの論理がもたらすあらゆる帰結を勇敢に受け入れ、芸術や詩、さらには通常の意味での道徳のような「自発的なもの」の諸形態が消滅し、科学がすべてとなる時代を予見する。 結局のところ宗教という「自発的な」創造物を、分析という高い壇上から眺めているため、宗教について語るとき、彼はときとして恩着せがましい調子を避けがたい。

だが、事実はどこまでこのような理論へ従わせられるだろうか。歴史を、個人の正しさと、その個人的行為が共同の福祉へ及ぼす反作用という観点から厳密に研究するなら、歴史には歴史なりの峻厳な道徳があるのかもしれない。このように歴史を研究する者は、イギリス人の成功から、現実世界では利己心だけが報われるとルナンとともに結論する必要はない。 また、一八四八年革命の失敗を、理想と現実が両立しない証拠と見る必要もない。

しかしルナンの経験から判断するなら、過去について親密な知識を持ちながら、その知識を人類全体の進歩的再生についての何らかの計画へ適合させることは容易でない。しかも、ルナンの生涯に起きた事実は、意地悪なほど彼の理論へ逆らうことを楽しんでいるように見えた。彼は、一八五一年と一八七〇年の出来事が自分へ吹き込んだ悲観主義から、ついに立ち直れなかったと告白している。 最後には、現実のうちへ理想を読み込もうとする試みを完全に放棄する。

歴史の不道徳性を覆い隠す代わりに、彼はそれを誇張する。『ネミの祭司』の終わり近くで、貴族メティウスはこう言う。

「物事は正常な状態へ戻りつつある。世界は、犯罪という本来の寝床へ横たわろうとしている。暴力なしにやっていける、理性によって統治できる、民衆を理性的存在として扱える、と思い込む、あの差し出がましい狂信者たちの何と馬鹿げた幻想であることか。世界は、成功した犯罪によって生きている。」

しかし、ルナンのように外的事実から逃れる場所を持たず、自らの哲学を内的感覚の有効性の上へ築かない者にとって、これほど重大な告白があるだろうか。道徳生活を以前支えていた宗教を、ルナンは分析によって解体した。新しい支えを見いだそうと期待した外的事実も、今度は彼を裏切る。こうして道徳感覚は、空虚のなかへ宙づりにされる。

セアイユ氏は言う。

「覚悟しなければならない。事実はわれわれに代わって決定してはくれない。自らの観念について主導権を取り、責任を負うことから、何ものもわれわれを解放してはくれない。ルナンの知的生活は、すべての人の利益のために行われた実験である。それは、真理を最後まで追究しようと決意しながら、事実の証言だけに真理を求める誠実な精神を、論理がどこへ導くかを教えている。」

それでも自分が有徳であるのは、信仰そのものが消えた後にも、信仰によって人生へ与えられた方向が存続しているからだ、とルナンは語る。

「われわれは、生理学者によって脳を取り除かれながら、習慣の力だけで一定の機能を続ける動物に似ている。しかし、この本能的運動は、やがて弱くなるだろう。」
「われわれは影の影によって生きている。われわれの後の人々は、何によって生きるのだろうか。」

このように、ルナンの知性のなかでは、あらゆるものが鋭い対立の形を取りがちである。理性と感情、 古典的なものとロマン的なもの、 現実と理想、 科学と道徳である。彼は、より高い洞察の光によって、これら相反する項を融合し、和解させることができない。互いに正反対でありながら同じほどもっともらしい結論の一方を選ぶ代わりに、「自分の脳の異なる葉どうしに、それらについて対話させる」。

この状態が長引けば、意志の麻痺へ至るだろう。

「死んだ惑星とは、おそらく批評が自然の策略へ勝利した惑星である。もし誰もがわれわれの哲学へ到達したなら、世界は停止するだろう、と私はときどき想像する。」

もっとも、これをすべて文字どおりに取るべきではない。ルナンにはなお、長年にわたる峻厳な労働と義務への献身を支えるに足る、科学的進歩への信仰があった。ただし、その信仰は、彼自身が語るところでは、もはや純粋に個人的な好み以上のものではなくなっていた。事実は、これと反対の仮説にもほぼ同じほど容易に適合する。われわれの知りえないところで、「神」と自然が何らかの欺瞞を働いているのかもしれない。実際、世界は「陽気なデミウルゴス」が作った巨大な茶番にすぎないかもしれない。

それでも徳を堅持しよう。ただし同時に、快活さと皮肉な超然によって、自然がわれわれを真剣に扱わないのと同様、われわれも自然を真剣に扱わないことを示そう。

このようにすれば、たとえ人生に何の意味もないと最後に判明しても、われわれは完全に間違っていたことにはならない。

ルナンは『科学の未来』で、もし科学を信じなくなることがあれば、「自殺するか、快楽主義者になるか、どちらかだ」と宣言している。 科学への信仰は消えはしなかったが、動揺していた。そこで、相反するものを結び合わせることを好む彼は、科学的ストア主義者であると同時に、快楽主義者でもあろうとする。

彼は以前から、エピクロスの道徳だけが大衆に適していると認めていた。「理想」に参与するのは科学の大義を前進させる者だけであり、それは明らかに知的エリートに留保された特権である。一般民衆には、ワーズワースのいう「愛と酒という第一義的な幸福」を残す。下層階級から酩酊という正当な満足を奪おうとする禁酒団体に、彼は反対する。ただ、その酩酊が「穏やかで、愛想よく、道徳的感情を伴うもの(!)」であることだけを求める。

この種の快楽主義的な慰めが、科学的賢者にとってさえ役立つことがある。ルナンが『哲学劇』を書いたのも、そのような気分のときだった。『ジュアールの女子修道院長』のように、貞潔とは正反対の観念を、最も慎み深い言葉で表した作品を読むと、われわれは「最も清らかな不純(Purissima impuritas)!」と叫びたくなる。この種の趣味上の過失の多くは、ルナンが姉アンリエットの助言と導きを受け続けていたなら、おそらく避けられただろう。

この歴史哲学の要素の一部はヘーゲルから、ほかの要素、とりわけ原始的なものについての理論はヘルダーから借りられている。

Dialogues philosophiques, 83頁以下。

Souvenirs, 124。

同上、122。

同上、124、および Dialogues philosophiques, p. xviii(注)。

Gabriel Séailles, Ernest Renan, 341。

Souvenirs, 12。

Dialogues philosophiques, p. xix。Souvenirs, 343も参照。

Souvenirs, 57頁以下(「アクロポリスでの祈り」)。

同上。

同上、122。

Dialogues philosophiques, p. viii。

Dialogues philosophiques, 43頁以下。

Drames philosophiques, 359。

以上の議論は Feuilles détachées, 394頁以下を要約したものである。

Avenir de la science, 411。

Feuilles détachées, 384。

しかし、まさにこの種の過失が大きな理由となって、彼は晩年、フランスで最も人気のある人物の一人となった。流行の客間にしばしば姿を見せ、公開講演、晩餐会、歓迎会へ絶えず招かれた。「フランスは」と彼は言う。「人が彼女にお世辞を言い、彼女の欠点を分かち合うことを好む。」

V

ルナンのこの快楽主義的側面を論じると、彼の名としばしば結びつけられる「ディレッタンティズム」についても、自然に語ることになる。ここでも、知識とは絶対的で自己充足した善であり、それ自身より高い何ものかへ奉仕させる必要はない、という彼の最初の前提から生じる帰結を追えばよい。

ルナンは知性を科学へ奉仕させることによって聖別し、「あらゆるものについて神聖な好奇心を持つ」者として出発する。 彼が多くの点でなおカトリック的だったとしても、この好奇心を人間本性の最高の力へ高めたことほど、彼がキリスト教徒であることをやめていた事実を決定的に示すものはない。彼自身、「科学はつねに、われわれの本性における最高の欲望、すなわち好奇心を満足させるものとして残る」と語っている。 また、「イエスとその弟子たちは、知識を欲する人間精神の部分を完全に無視していた」と言う。

これに対してキリスト教的傾向は、反対の極端へ走り、「好奇心」という語へ全面的に悪い意味を与え、あらゆる知的活動を、人間を襲う三つの欲望の一つである「知識欲(libido sciendi)」の一形態とみなしてきた。

ポール=ロワイヤルの教師たちは、あまりに強い知的熱意を示した少年を学校から追放した、と伝えられている。 穏健なキリスト教的見解を示すウィルソン主教は、こう述べる。

「知識を求める熱烈な欲望は、統御され、抑制されなければならない。それは、明らかに感覚的な欲望と認められているものを含め、ほかのあらゆる過度の欲望と同じほど危険で、罪深いからである。」

一方ルナンは、好奇心の快楽にも利益にも、いかなる限界も想像できない。天国でさえ、その大部分が信心深い老婦人から成るといわれる以上、退屈な場所に違いないと彼は考える。ただし、惑星から惑星へ観察旅行をすることで活気づけられるなら、話は別である。

アミエルが科学的好奇心の喜びへ身を委ねる代わりに、病的な思い悩みと内省に満ちた一万六千枚の手稿から成る内面日記を書くことを選んだのを、ルナンが不思議がるとき、われわれは彼へ共感せずにはいられない。

「私の友人ベルテロ氏には、自分自身について一度も書かずとも、何百回もの連続した生涯を忙しく過ごすだけの仕事があるだろう。私は、自分が計画したとおりにセム学研究を完成させるには五百年必要だと見積もっている。もしそれへの関心が薄れたなら、中国語を学ぶだろう。」

実際、好奇心はそれほど満足を与えるため、科学的千年王国をもたらすとされるその働きが幻想だと判明しても、それ自体で十分な報酬となる。

「宇宙と人間生活についてどの体系を採用しようとも、それらがわれわれの好奇心へ強く訴えることは否定できない。……世界をどれほど罵っても、世界が最も奇妙で、最も人を夢中にさせる見世物であることを妨げることはできない。」

さらに彼は言う。

「哲学的好奇心は、このように思考の最も高貴で確実な使い道となる。ほかのすべてが空しいとしても、好奇心だけは空しくないように思われる。さらに、それさえ空しいとしても、いずれにせよ、それは自分の存在を過ごす最も楽しい方法だったことになる。」

このような発言には、ディレッタンティズムの萌芽がある。語の本来のイタリア語の意味へ戻れば、ディレッタントとは、何か別の目的のためではなく、自分自身の楽しみ(diletto)だけのために物事を追究する者である。この場合の「楽しみ」とは、好奇心をそれ自体のために働かせ、世界を純粋に見世物として受け取ることにある。要するに、ディレッタントは知的な享楽者であり、精神を繊細な快楽の手段として使う者である。

あらゆる制約から解放された知性は、自らの遍在性を喜び、否定から肯定へ素早く移り、あらゆる観点がもっともらしく、どの観点も確実ではないことを証明する。ブールジェの定義によれば、

「ディレッタンティズムとは、知的であると同時に享楽的な精神の性向であり、われわれを次々に異なる生活形態へ傾け、それらのいずれにも自分を与えず、すべてへ身を貸すよう導くものである。」

ただし、軽薄なパリの大衆と同じ誤りへ陥り、ルナンを快楽主義者・ディレッタントとしてしか見てはならない。あらゆる不確実さのただなかでも、彼は科学への最初の信仰の多くを最後まで保った。この点だけでも、彼と大部分の弟子との間には大きな隔たりがある。

彼はなお、科学者と文献学者を特権的な人物とみなし、その研究はほかのあらゆる営みより重大だと考えた。これに対してアナトール・フランス氏は、老学者シルヴェストル・ボナール氏の仕事が、マッチ箱収集家トレポフ氏の仕事と、真の重大さにおいて何ら異ならないと感じさせることに努める。

ルナンは、千人の勤勉な研究者が、たとえば「さまよえるユダヤ人」という一つの伝説の地方的形態を追究することへ生涯を費やしても、その価値はあると考える。 しかし文学と博識を、洗練された快楽の形態にすぎないと見る者なら、それらをほかの自己耽溺と同列へ置くのが論理的である。アナトール・フランス氏は言う。

「非常に多くの本を読む者は、ハシシを食べる者に似ている。本は西洋の阿片である。……いつか、われわれがみな図書館員となる日が来る。そしてそれが終わりとなる。……新聞を数えなくても、パリだけで一日に五十冊の本が出版される。それは途方もない乱痴気騒ぎである。われわれはそこから狂人となって出てくるだろう。人間の運命とは、相反する極端へ次々に陥ることである。中世には、無知が恐怖を生んだ。当時には、われわれが今では知らない精神病があった。現在、われわれは研究によって全身麻痺へ急いでいる。」

ルナンのこうした弟子たちについて、長く論じる必要はない。科学への信仰は師においてさえ減退していたが、追随者たちにおいてはさらに希薄になる。アナトール・フランス氏は言う。

「完全に明らかなのは、かつてあれほど強かった科学への信頼が、今や半分以上失われたことである。……科学を誰よりも信じ、科学へ希望をかけたわれわれの師、エルネスト・ルナン氏でさえ、近代社会を全面的に合理主義と実験の上へ築けると考えたことには、いくらか幻想があったと認めている。」

しかし科学的進歩へのこの信仰が失われると、懐疑に抗する最後の防壁も消えがちとなり、世界は意味のない現象の流動へ解体する。フランス氏もルナンと同じく、現象から離れた哲学とは、無限についての個人的な夢、個人の感受性が作る単なる物語にすぎないと考える。

こうして人間は、自らの内にも外にも、確実性の基準を一切持たなくなる。救いのない主観性を運命づけられ、自分の人格という牢獄の壁を越えようとする試みを、諦めたほうがよいことになる。 「存在」は完全に「生成」へ呑み込まれる。この近代の「万物流転」哲学の熟達者たちは、会話から「ある」という動詞のあらゆる使用を追放した古代のソフィストに似るようになった。

「休息も、平静も、停止もない。
善も悪も、光も影もない。
本質も、永遠の法則もない。
なぜなら、何ものも存在せず、すべては生成するからである。」

科学や、それ以外の何かより高いものへの奉仕へ捧げられなくなった知性と感受性は、純粋に快楽主義的な用途へ供される。その結果、少し前にはモーリス・バレス氏と「自我の哲学者たち(moïstes)」が現れ、「自我を熱烈に培養し」、それを洗練された感覚のモザイクへ変えた。

こうして「ルナン主義」は、世界がこれまで知ったうちでも最も精妙な知的腐敗のいくつかと同義になった。だが、ディレッタンティズムのこの危険について、これ以上長く論じてもほとんど利益はない。ルナンの欠点は、われわれ自身の民族が陥りそうな欠点のうち、最も縁遠いものだからである。行動と比べて思考を過度に重視する彼の誤りなら、われわれは確実に避けられる。

アングロ=サクソンの自然な衝動は、むしろ何のために行動しているかについて十分な観念を持たず行動へ飛び込み、その後で、自分は精力的な人生を送っていると自賛することにある。ルナンの行きすぎそのものが、われわれ自身に対応して欠けているものを矯正する役に立つかもしれない。

著者についてのわれわれの通常の評価は、ゲーテが教え、自らの生涯で見事に実例を示した、理想的コスモポリタニズムの基準によって補われる必要がある。外国文学へこれほど多くの時間を費やしながら、それを用いて、自国文化の狭さを広げ、不十分さを補わないなら、ほとんど意味がない。

ルナン自身がフランスとドイツの不和にこれほど絶望したのは、フランス思想とドイツ思想は別々には有利に働けず、互いが互いを矯正するために必要だと信じていたからである。

知的な感受性と批評的な繊細さ、観念が自由に働くことへの喜び、ルナンやサント=ブーヴのような人物を特徴づける精神の広い寛容さは、現在の様子から判断するかぎり、われわれが過度に発達させる危険のある特質ではない。絶対的な序列の問題をひとまず別にすれば、ルナンとサント=ブーヴは、十九世紀のフランス作家すべてのうち、イギリスとアメリカの読者に最も大きな価値を持つ可能性が高い二人だ、と言ってもほとんど言いすぎではないだろう。

Questions contemporaines, 66。Souvenirs, 352–353も参照。

Avenir de la science, 157。

「科学はつねに、われわれの本性における最高の欲望、好奇心を満足させるものとして残る」など。Avenir de la science, p. xix。

L’Église chrétienne, 142。

パスカル『パンセ』第II篇第6節「好奇心は虚栄にすぎない」などを参照。またテルトゥリアヌス『異端者への抗弁』第7章「イエス・キリストの後には、われわれに好奇心は必要なく、福音の後には探究も必要ない」を参照。

サント=ブーヴ『ポール=ロワイヤル』第III巻、495を参照。

Feuilles détachées, p. xvi。

同上、359。

Essais de morale et de critique, 330。

同上、330頁以下。

Paul Bourget, Essais de psychologie contemporaine, 59。

Avenir de la science, 224。

Anatole France, La Vie littéraire, I, pp. viii–ix。

同上、IV, 43。

同上、I, p. iv。

ゴルギアスの弟子リュコプロン。

バレス氏のより後期の、これとは大きく異なる見解については、本書368頁を参照。

La Réforme intellectuelle et morale, 124を参照。

VI

ルナンがわれわれの教師となりうる道が、もう一つある。芸術家としての偉大さを正当に扱わないルナン研究は、著しく不完全である。近代文学における彼の卓越した地位は、思想家としての重要性以上に、文学的な仕上げの完璧さに負っているのかもしれない。それはフランス散文でもまれであり、英語散文ではさらにまれな、形式の完成である。

ファゲ氏は言う。

「今世紀のほかのどの作家よりも、彼には魅力がある。われわれを包み込み、最後にはわれわれを捉える、定義できない何かがある。『幼年時代の思い出』のある頁――たとえば『アクロポリスでの祈り』――は、フランス語で書かれた最も美しいものに数えられる。」

この魅力の質が高いことは、それがあらゆる分析を逃れるという事実そのものによって証明される。最高の芸術は、捉えて模倣できるような技巧や癖を持たず、このように自由であるべきだ。ジュベールが述べるように、

「われわれは芸術において、自分の印象がどこから生じるかを見ることを好まない。水の精は壺を隠し、ナイル川は水源を隠すべきである。」

要するにルナンは、文体家にならずに文体を持つという、まれな偉業を成し遂げた。彼は、自分は「つねに人間のうち最も文学的でない者だった」と語る。 この発言には、文献学者が想像力の人へ向ける不当な軽蔑がいくらか含まれる。だがそれ以上に、同時代人の多くに見いだした、文学的効果を意識的に無理に求める姿勢への抗議として語られている。

人間である前に文学者である者、表現すべきものがあるかを確かめる前に表現手段へ忙しく取り組む唯美主義者に対して、彼は苛立ちを隠せない。数年前にパリを騒がせていた象徴派その他の文学流派について、『フィガロ』紙の記者から意見を求められると、彼はこう答えた。

「親指をしゃぶっている子供たちですよ(Ce sont des enfants qui se sucent le pouce)。」

実際ルナンは、人生に対するこの過度に文学的な態度のなかに、時代の大病を見ようとした。

「文学病(Morbus litterarius)! この病の特徴は、物そのものより、それが生み出す文学的効果のために物を愛することにある。われわれは一種の演劇的幻覚を通して世界を見るようになる。」
「舞台の脚光が、日の光を味わえない者へわれわれを変える。」

文学には、低い形ではフランス人が「カボタン気質(cabotinage)」と呼ぶ、気取りと舞台効果への本能が侵入したように、彼には思われた。とりわけルソーとロマン主義者以後のフランス人の性格において、この要素を誇張するのは容易でない。「この国民は俳優である(Natio comœda est)。」シャトーブリアンについて、舞台の上に隠者の庵を構えたがる人物だ、と誰かが言った。

近年フランスでは、決闘さえ新聞記者と素人写真家の立会いのもとで行われるところまで事態が進んだ。芸術と文学の名のもとに周囲で栄えていた奇妙な病は、ルナンが『反キリスト者』で描いたネロ――帝国のカボタン――と、頽廃期ローマ社会の肖像へ、多くのヒントを与えた。

ルナンによれば、ネロは「良心的なロマン主義者」であり、芸術と文学だけが人生で真剣に扱うべきものだと最初に発見した者であり、したがって「芸術のための芸術」派の真正な祖先だった。

ルナンは唯美主義のこの誤りを避けようとするあまり、修辞と作文の体系的な教育を全面的に禁じることさえ望んだ。表現には表現される内容から独立した価値がある、という危険な異端を、若者へ吹き込むおそれがあるからである。 彼は早くから、

「形式上のロマン主義は誤りである」ことを発見した、と語る。 そのため、フランス散文の古典的伝統へ忠実であり続けた。つまり、静かで目立たない文体を、静かで目立たない服装に近い美徳とみなした、文学的な古きよき礼節の流派である。

テオフィル・ゴーティエの伝説的な赤い胴衣と、ゴーティエの文体との間には、厳密な類似がある。ルナンは絵画的表現のこの行きすぎへ陥ることを非常に恐れたため、『イエス伝』の文体を「穏やかにする」ことへ丸一年を費やした、と自ら語っている。

ロマン主義の反乱のただなかで、フランス散文の伝統的基準へ示したこの敬意は、一面では彼自身の生来の趣味の良さに、そしておそらくそれ以上に姉アンリエットの影響に負っている。

「古典作家の単純で正確な文体によって、あらゆることを言いうること、そして新しい表現や激しい比喩は、つねに気取りか、われわれの本当の富を知らないことから生まれることを、私へ納得させたのは彼女だった。」

別の箇所で彼は付け加える。

「ああ、何も成し遂げなかったなどと言ってはならない。言葉を裁き、音節を量ることへ生涯を費やした、十七世紀の無名の才人たちは。彼らは一つの傑作――フランス語――を作り上げた。辞書を作り、言語にとって致命的な、限界の定まらない自由からわれわれを守ることによって、人間精神へ計り知れない奉仕をした。……」
「どれほど繊細で、新しく、洗練された思想であろうとも、アカデミー辞典にはあらゆる思想を表現するために必要なすべてが含まれていると理解して初めて、人は精神の完全な成熟へ到達したのである。」

ルナンが母語へ取った、この保守的で、臆病とさえいえる態度の完全な意味を理解するには、それをヴィクトル・ユゴーのような文学的サン=キュロットの態度と比べればよい。ユゴーは、フランス語の語彙をロベスピエールのように扱い、「古い辞書へ赤い自由帽をかぶせた」と誇る。

ユゴーと同時代の大部分の文学者が示した教えと実例にもかかわらず、ルナンは最後まで、節度と抑制、伝統的な良識への配慮は文学上の美徳だと考え続けた。その結果、彼の文体は一様に完成されており、彼の性格と哲学の欠点を映す場合を除けば、ほとんど不足へ陥らない。

彼の性格では男性的要素が優勢でないため、その文体にはパスカルの散文に見いだすような雄々しい響きがない。彼の哲学には彼自身を越えて高めるものが十分にないため、その頁には、生きた確信からだけ生じうる、他者へ伝わる熱があまりない。

しかし、このような厳しい基準で彼の作品を試す代わりに、フランスその他の国における近代の成果と比較するなら、そのまれな品格を認めないことは難しい。ルナンについての総合的判断は、こう要約できる。彼は偉大な知性であるが、偉大な哲学者の特質はほとんど持たない。しかし偉大な歴史家の特質を多く持ち、偉大な芸術家の特質をほぼすべて持っている。

彼は、散文全般の卓越性において、ほかのあらゆる近代文学を容易に凌ぐ言語における、散文文体の比類なき巨匠である。

Émile Faguet, Histoire de la littérature française, II, 401。

Souvenirs, 354。

Jules Huret, Enquête sur l’évolution littéraire, 422。

Feuilles détachées, 232。

ルナンがこの誤りを避けたのは、著作の形式においてであって、内容においてではないことを思い出すべきである。彼の道徳的唯美主義については、すでに触れた。また、徳より美を優先すべきだと主張する Souvenirs, 115のような箇所も参照。

Souvenirs, 253頁以下。220も参照。

Souvenirs, 89。

同上、355。

Ma Sœur Henriette, 35頁以下。ルナンの文体へ好ましい影響を与えたほかの人物として、オーギュスタン・ティエリ(Souvenirs, 371参照)と、『ジュルナル・デ・デバ』のド・サシー氏(Feuilles détachées, 135参照)がいる。

Essais de morale et de critique, 341頁以下。

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第X章 ブリュンティエール

五十七年の生涯に、ブリュンティエールほど激しい活動を詰め込んだ者はほとんどいない。また、不屈の意志に支えられた虚弱な身体が何を成し遂げうるかを、これほど鮮やかに示す例も少ない。

青年時代には高等師範学校への学生としての入学を拒否されたが、最後には教師として、フランス高等教育のこの内郭へ入った。一八九三年にアカデミー会員となり、ほぼ同じ時期に、長年下位の職に勤めた後、『両世界評論』の編集長となった。一八九七年初めのアメリカ旅行は、演説家・講演者として行った数多くの活動の一つにすぎない。

批評家として活動した三十年以上の間、平均して少なくとも毎年一冊の本を刊行した。しかし、自らの記念碑となるはずだった『フランス古典主義史』を完成させずに死んだ――「未完の作品は宙にかかる(Pendent opera interrupta)」。この著作の完成部分からは、彼の文体にいっそうの円熟が、少なくとも論理的な鋭さの緩和が生じていたことがうかがえる。

最後期に書いたものの一つであるモンテーニュ論も、彼の最良の仕事の一つである。衰弱性疾患の最終段階にあった人物の仕事として、注目すべき成果である。「繊細の精神(esprit de finesse)」を顕著に体現したモンテーニュが、

「幾何学的精神(esprit de géométrie)」を体現したブリュンティエールほど適切に評された例は、ほとんど、あるいはまったくない。もっとも、ヴォギュエ氏が『両世界評論』の追悼論文で主張するように、パスカルが定義したこの二要素が、ブリュンティエールの精神に完全な均衡を保っていたとは認めがたい。

十六世紀における彼の真の同類はモンテーニュではなく、論理の巨匠ジャン・カルヴァンである。繊細さ、親しみやすさ、魅力を同じく欠いている。ただしカルヴァンの文体についてブリュンティエール自身が述べたように、「その厳格さには、結局それ独自の高貴さがあり、その角張りと緊張そのものにも、それ独自の威厳がある」と、彼の文体についても付け加えるべきである。

I

カルヴァンは、フランス散文における「幾何学的精神」の最初の傑出した例である。しかし、弁証法への同じ傾向は、ラテン語で書いたそれ以前のスコラ学者にも見られる。テーヌと同じく、ブリュンティエールは、スコラ哲学が、その発祥の地になおどれほど残っているかを感じさせる。

両者とも帰納科学の方法を適用しようとしたが、幾何学的な均整を持つ巨大な一般観念の構造へ情熱を注ぐ点で、なおスコラ的だった。その構造は、観察された事実より、精神の論理的要求を基準に構想される。弁証法の使用と濫用においても、推論を理性と取り違えがちな点においても、彼らはスコラ的である。

論理的一貫性へのこの情熱は、当初からフランス精神の最大の長所だった。ただし、事実と常識を犠牲にしてそれへ耽るときには、最大の欠点ともなった。

フランス人が、ときとして明白な証拠へ推論を対置しようとする姿勢は、ジュルダン氏と、「論証的理由によって(par raison démonstrative)」人を殺せるほどの彼の剣術を思い起こさせる。ブリュンティエールの場合、おそらく最も苛立たしい例は、ドレフュス事件で取った態度である。

しかし一般的にいえば、ブリュンティエールの論理は、テーヌの論理より事実を尊重する。テーヌの精神へ入る事実は、アイスランド石の小片を通過する光線に似ている。それらは彼の理論の線に沿って屈折し、偏光する。

ブリュンティエールには、テーヌより真の科学が少ないが、疑似科学も少ない。少なくとも疑似科学は、文学の扱いへそれほど密接に織り込まれていない。テーヌの決定論のように、非文学的であるばかりか、積極的に反文学的な方法を彼へ強制するものではない。後に触れる文学的ダーウィニズムの試みにもかかわらず、ブリュンティエールは科学者ではない。鮮やかな弁論の才能と鋭い歴史的発展の感覚を備えた論理家である。

歴史的発展の感覚が、ブリュンティエールとサント=ブーヴを結びつける主要な接点である。そしてこの接点は、両者の相違をかえって強調する。すでに述べたように「繊細の精神」を最高度に備えていたサント=ブーヴは、ブリュンティエールが一般的なものへ抱いたのとほぼ同じほど強い情熱を、個別的なものへ抱いていた。

彼の目的は、自ら言うように、あらゆるものを個別化することである。一般化するとしても、抗議しながら仕方なく行っているように見える。普遍的なもののなかへ潜む欺瞞に対して、これほど警戒した者はいなかった。しかし、エマソンの言葉を借りれば、「自然が一般化を嫌う」としても、

人間性における最高の部分は、一般化の欠如を嫌う。事実の多様性と、統一を求める欲求との間に、妥協を要求することは正当である。

ブリュンティエールの『抒情詩の進化』の題辞は、明らかにサント=ブーヴの方法へ向けられていた。

「複雑な現象の意味へ到達しようとするとき、細部へあまりに細かく立ち入ることは、無益であるばかりか危険でもある。」

死の少し前にブリュンティエールが書いたバルザック論には、バルザックの生涯についての細部がほとんどない。これもまた、批評という重大な仕事を、伝記的な世間話へ置き換えようとする近代流派の傾向に対する抗議である。

ブリュンティエールは、その論理が事実についての十分な知識によって和らげられているとき、観念の歴史家として見事である。十六世紀後半から現代までのフランス文学のほぼ全域が、これに当たる。 この領域全体について、彼の博識は莫大であり、驚異的な記憶力がそれを助けている。

彼の長所が最も発揮されるのは、たとえば「進歩という観念の形成」のような論文で、観念の主要な潮流をたどるときである。この種の執筆はそれ自体まったく価値があり、英語圏にはあまりに少ない。

しかしブリュンティエールは、ギリシアについて一次資料からは実質的に何も知らず、中世についてはごくわずかしか知らず、フランス以外の近代文学についても知識が不足していた。

彼は、レッシングがドイツからギリシア語とラテン語を追放しようとした、と述べることができた。 バーンズとシェリーは、社会的尺度の上でバイロンと正反対の極にいた、とも述べた。 さらに、プラトンは「ソフィストのように論じ、子供のように考える」と述べた。

プラトンについてこのような判断を下す人物は、想像力のより高い働きについて、信頼できる証人ではないのではないかと疑われる。自ら想像力を欠く批評家は、チャップマンの表現を借りれば、「詩によって詩を開くのにふさわしい鍵」を欠くからである。

ブリュンティエールは、感覚のためにも想像力のためにも生きず、ただ観念のためだけに生きた。ゴーティエの有名な言葉を逆転させれば、彼は目に見える世界が存在しなかった人物だった、と言える。

ヴォギュエ氏は言う。

「彼はおそらく、ルソーが存在せず、ルソーの長男シャトーブリアンも存在せず、二人の甘美な毒の一滴さえ血に含まなかった、十九世紀唯一の偉大な文学者だった。」

少なくともブリュンティエールの気質についてではなく、文体についてなら、この主張の真実を認めてもよいだろう。この点で彼は、ルメートル氏によれば「激しく肉体的な想像力」を持ち、いずれにせよ絵画的細部をほとんど過剰なほど用いたテーヌと、奇妙な対照をなす。

テーヌが論理へ地方色を混ぜるのに対し、ブリュンティエールの論理は戦闘的で、弁論的である。晩年の数冊につけられた『闘争演説』という題は、彼の全集にも同じほどふさわしいだろう。彼は、十七世紀フランスの偉大な作家について、

彼らは「話される文体」を持っていた、彼らは自分が書く姿を「見た」のではなく、自分が語る声を「聞いた」のだ、と好んで言う。この言葉は彼自身の文体にも当てはまる。その文体にはつねに話し言葉の動きがあるが、会話の気楽さはまったくない。

議論は論理的な接続語によって締め金で留められ、ほぞで組み合わされ、盾を互いに重ねて前進するローマ軍団兵を思わせる仕方で、威圧的な隊列を組んで押し進められる。彼は戦闘的批評の発明者と呼ばれてきた。論理学の父についての古い言葉を思い起こさせる。「アリストテレスは争いを求める(Quaerit Aristoteles pugnam)。」

キリスト教を擁護するなかで、ブリュンティエールはこう述べる。

「敵対者を持たなければ、人は自分が生きていると感じないだろう。」

現実の敵対者がいなければ、しばしば想像上の敵へ語りかける。粗野で尊大な気質は、新古典主義時代の峻厳な批評家、ボワローやジョンソン博士の癇癪にたとえられた。しかし彼らには、ブリュンティエールと違い、根底に人間的な陽気さがあった。そのため最も厳しいときにも、憂鬱で不機嫌な人物には見えなかった。

すでに見たように、サント=ブーヴは、近代の批評家にはあらゆる批評的美徳が豊かに備わるが、権威と判断という本質的美徳だけがない、と述べた。輝かしさと多才さにおいて得たものと引き換えに、重みと威厳を失ったように見えることが多い、と。

ブリュンティエールの功績は、サント=ブーヴのこの非難を免れ、「批評家」という語へ、以前の意味をいくらか取り戻したことにある。彼は確信を持ち、

少なくとも教養階級の間で確信がほとんど完全に流行遅れとなった時代に、その確信を基準として判断することを主張した。確信を持つ者に通常備わる、確信を持たない者へ自らを押しつける力を、彼はいくらか備えていた。

本は第一に観念を表現するために存在する、という、やや時代遅れの考えを守り続けた。これに対し、今日の大部分の人々は、本へ観念を求めるのではなく、娯楽を、よくても優雅な美的感覚を求める。

芸術が病的な主観性のあらゆる形へ委ねられていた時代に、彼は古典的伝統の擁護者となり、理性の優位を宣言した。安易な自己耽溺の時代に、峻厳で禁欲的だった。文学が大幅に女性の影響下へ入った時代に、きわめて男性的な性質を帯びた作品を生み出した。マラルメのソネットとゴンクール兄弟の日記が刊行された時代に、自らの文体を可能なかぎりボシュエの統語法と語彙へ限定した。

ルナンは、心を波立たせず、「惑星の運命が成就するに任せよ。われわれの叫びは役に立たず、不機嫌になるなどまったく場違いである」と勧める。 この心地よい哲学は、ブリュンティエールの哲学と正反対である。

彼は、人類は生者より死者によって多く構成されている、というコントの言葉を好んで引用した。この死者の多数派の意見を擁護したため、同時代のほぼすべての主要傾向と衝突した。現代のブラバントのシゲルのように、彼は、

同国人の大部分にとって歓迎しがたい真理を、三段論法によって論証する役目を自ら引き受けた。人類の一般的良識を擁護する仕方によって、同時代人から自分を孤立させた。

彼は言う。

「無関心または敵対的な社会のただなかで、そこに生き、そこへ属しながら、その社会を裁き、距離を置いて立つことは、人間にとって一種の喜びである。」

この峻厳な喜びを、ブリュンティエールは十分に味わったに違いない。とりわけ友人たちの言うように、避けがたい報復へまったく動じない人物ではなかったのなら、なおさらである。

アルフレッド・ド・ヴィニーへ共感したのは、共通の悲観主義だけでなく、ヴィニーと同じく、外面的な冷静さと抑制の下へ強い感受性を隠していたからかもしれない。いささか神経衰弱的な時代に生まれたストア主義者として、ブリュンティエールは、快楽主義的弛緩のあらゆる形を攻撃することを、自らの特別な使命とみなした。

そのため、フランス人のなかで最もガリア的でない彼と、彼が「頽廃期の快楽主義者」と呼んだ同時代人との間には、ほとんど必然的な対立があった。彼と、文学的享楽者以上の者ではないと見なしたアナトール・フランス氏との間に。そして彼と、知性そのものを洗練された快楽の手段へ変えようとしているように見えたルナンとの間に。

批評家としてのブリュンティエールの仕事の歴史は、大部分、その論争の歴史である。とりわけ三つの論争が注目に値する。『両世界評論』で文筆活動を始めた当初、彼はゾラと自然主義者を攻撃対象に選び、その後十二年にわたって、絶え間ない砲火のように論文を発表し続けた。

後には、近代科学は「破産」し、約束を果たせなかったと宣言した。 そのためベルトロをはじめ、純粋に実験的方法を支持する人々との間で、パンフレット合戦へ巻き込まれた。さらに最後には、数年間にわたり、ジュール・ルメートル氏、アナトール・フランス氏、そして印象主義的批評の支持者を攻撃する機会を、決して逃さなかった。

II

ブリュンティエールが最初の批評運動の初期論文を集めた『自然主義小説』(Le Roman naturaliste, 1883)は、『ボヴァリー夫人』とテーヌのバルザック論以来、ほとんど異議なく支配してきた自然主義の教説に対する、最初の本格的な抗議だった。

彼はゾラとその追随者の科学的な看板、とりわけ「人間文書」の崇拝を打ち壊すことへ力を注いだ。過ぎゆく人生の光景について、メモと微細な観察を集積しても、ゲーテが好んだ区別を新たに用いるなら、得られるのはせいぜい「現に起きたもの」であって、芸術が表現しようとする「真の実在」ではない、と彼は言う。

この方法は、過去へ適用しても同じく無益である。エドモン・ド・ゴンクールは、十八世紀についての著書を準備するため、自らの説明では「三万冊のパンフレットと二千紙の新聞」を読んだが、そこから真の歴史を取り出すことには成功しなかった。

自然主義から疑似科学の上塗り、すなわち文字どおり観察された生活についての記録の山を取り除けば、それはロマン主義への反動であるどころか、多くの点でその論理的継続である。ゾラの気質は、より低い水準でユゴーの気質を再現している。ロマン主義の夢が、ただ悪夢へ変わったのである。

ブリュンティエールによれば、「ゾラ氏は自然を作り直し、自分自身の幻覚の要求に合わせて調整する」。 彼は現実の代わりに、「過熱した想像力が生む猥褻またはグロテスクな幻影」を大胆に置く。

ブリュンティエールは、フローベールとシャトーブリアンとの関係を指摘する。ゴンクール兄弟の「印象主義」も、彼の定義では、絵画の技法と文章の技法とを体系的に混同するものであり、 明らかにロマン主義に由来する。

実際、自然主義はすでにルソーの『告白』のうちに萌芽として存在する。それゆえブリュンティエールが、ルソーから生まれた文学全体へ明確に敵対的な態度を取ったのは、一貫している。

偉大なロマン主義作家たちの、彼が「本質的に抒情的」と呼ぶ性質を最初に指摘した者の一人も、彼だった。この言葉によって意味したのは、彼らが完全に自己へ没入し、自分自身の感情以外を扱おうとせず、観念を受けつけないことだった。

ほぼ一世紀を隔てて見ると、近代思想の流れを食い止め、宗教の名によって中世へ反動しようとしたシャトーブリアンの試みは、文学にキリスト教的理想を維持することではなく、文学を人生から孤立させる結果になったとわかる。

芸術的想像力と近代科学との和解を実現することは、アンドレ・シェニエの抱負だった。しかしシャトーブリアンの先導に従った作家たちは、同時代の知的・科学的志向について無知であることを、ある種の誇りとした。その代償として、観念を扱う能力を次第に失った。

シャトーブリアン自身、自分の文章が持つ映像と音楽的な律動のほうへ、その知的内容以上に関心を向けた。考えようとする微かな意欲さえ自分のなかで断固として沈黙させ、ブルジョワへ挑戦したゴーティエは、稀少で洗練された美的感覚の追求だけへ身を委ねた。

時代が進むにつれ、さまざまな流派が美的能力を刺激するために用いる手段は、ますます複雑となり、門外漢には理解不能となった。象徴主義運動が最高潮にあった頃、ルメートル氏はこう書いた。

「文学は、ますますマンダリンたちの神秘的な娯楽になろうとしている。」

知的性質を欠く文学の運命がこのようなものだったとすれば、想像力の助けを失った科学も、あまりにしばしば乾燥した分析へ陥った。

しかし見かけ上は対立するこの二つの階級、唯美主義者と分析家には、一つの重要な共通点があった。芸術家は美的感覚を、科学者は分析を、それぞれ機械的に、それ自体を目的として追求し、人生全体と接触させるような目的を顧みなかった。彼らが求めたのは、それぞれ芸術のための芸術と、科学のための科学だった。

両者とも、感覚と分析のどちらからも独立している自らの本性の領域を認めることを拒み、そのため、意志の自由を信じることを初めて可能にする直観から、自分を切り離した。

こうして、純粋な感覚の文学を極端に代表するゾラが、極端な科学的主知主義者テーヌと、徳も悪徳も砂糖や硫酸と同じく生産物である、という主張で一致できた。

ブリュンティエールはゾラについて言う。

「ある精妙な心理学の全体が、彼には完全に見えていない。すなわち、感覚の衝撃に対して善き戦いを続け、欲望の襲撃へ抵抗する知性と意志の諸力についての心理学である。身体からある意味で切り離され、身体を支配し、肉体的欲求の満足より高い目的を身体へ課す自由について、彼に語ってはならない。彼には理解できないだろう。」

したがってブリュンティエールが美的自然主義者を攻撃したのは、最も真に人間的な諸性質を顧みず、人間を動物的本能の水準へ還元しようとしたからである。

同じく、人間的自己と、それが課す規律を擁護するため、科学的自然主義者の「恥知らずな知ったかぶり」を攻撃した。たとえばベルトロは、あらゆる問いへの答えは実験室で求めるべきであり、「もはや神秘はない」と宣言していた。

ブリュンティエールは、人間は自然以上のものだと主張する。

「道徳においても、科学と芸術においても、今世紀の大きな誤りは、人間と自然とを混ぜ合わせ、混同したことである。芸術においても、科学と道徳においても、人間が人間であるのは、自然から自分を区別し、自然のなかで自らを例外とするかぎりにおいてであるということを、考えようともしなかった。」

ルソーの最も有害な教説の一つは、同時に最も広く流布したものでもある。すなわち、人間は本来善であるという教説である。 実際には、人間が善くなるのは「自然」へ従うことによってではなく、自然へ抵抗することによってである。

したがってブリュンティエールの仕事は、その主要な一側面において、十九世紀自然主義への反動、すなわち人間を自然へ吸収することへの抗議と定義できる。

トマス・ブラウン卿は言う。

「確かにわれわれのうちには、神性の一片がある。諸元素より前から存在し、太陽にいかなる臣従も負わない何ものかがある。」

ブリュンティエールがトマス・ブラウン卿と異なるのは、この超感覚的自己の観念へ、直接の直観よりも論理によって到達したらしく見える点である。彼の理想主義は、直観ではなく推論へ依拠するため、本質的に否定的なものに留まり、慰めをもたらせなかった。

ブリュンティエールは、キリスト教と仏教を二つの偉大な悲観主義的宗教と呼び、その教説をショーペンハウアーの教説と同一視することを好んだ。ある論文では、実際、ショーペンハウアーの体系をキリスト教と仏教の上へ置いているようにさえ見える。

一方ではショーペンハウアー哲学の本質的に否定的な性質を感じ取れず、他方では、キリスト教と仏教の双方を救っている、喜びと光明の積極的原理を理解できなかった。

「それなら、何一つ自分のものと呼ばなくとも、幸福に生きよう。そうすればわれわれは、幸福を糧とする光り輝く神々のようになるだろう。」

この一節の響きには、仏教の気質とショーペンハウアーの刺々しい幻滅との相違を、一度で決定的に示す何かがある。仏教について真であることは、少なくとも同じほどキリスト教についても真である。

III

しかしブリュンティエールと宗教との関係をさらに詳しく検討する前に、第三の、そして最も重要な論争――印象主義的批評の擁護者との論争――を取り上げよう。

ここでも彼は、自分が理解する意味での理想を擁護した。ルメートル氏とフランス氏に対し、感覚と印象から成る表面的な自己に加えて、各人には、ほかの人々と共有する真の自己が存在すると主張した。

彼は、祖国の祭壇と炉辺のための戦い(pro aris et focis)であり、批評の生命そのものを賭けた争いだと見えたこの対立へ、特別な熱意をもって身を投じた。

フランスで数世紀にわたり文学批評が発達したことは、批評そのものの可能性を否定する批評家を生み出すという、いささか逆説的な結果をもたらした。

フランス氏は批評研究第四巻の序文で言う。

「私自身について言えば、私は少しも批評家ではない。巧妙な人々が文学の収穫を入れ、穀粒を籾殻から分ける脱穀機を操作する才能を、私は持っていない。」

別の箇所で彼は、自分が最大限努めているのは、傑作のただなかで自らの魂が経験する「冒険」を、楽しく語ることだと付け加える。

ちなみにフランス氏は、実際には神経と感受性を意味しているときに、自分の「魂」について語ることを好む。ルメートル氏とフランス氏は、どちらも des féminins、すなわち女性的な型の人物である。

とりわけフランス氏の人格には、所有者を他人にとって、そしてしばしば本人自身にとってさえ、解きがたい問題にする、捉えどころのない魅力がまとわりついている。彼とブリュンティエールとの論争は、ときに男性原理と女性原理との戦争の様相を呈した。力が魅力と対峙し、理性が感受性に対して陣を敷いたのである。

哲学的な見解は、つねにある程度、その提唱者の気質を反映する。印象主義者は、それ以外の何ものも反映しえないと主張する。不幸なことに、ルメートル氏とフランス氏は実践によってこの主張をあまりに正当化し、ブリュンティエールは自らの実践によってそれを十分には反証しなかった。

三人のいずれについても、気質上の諸性質が、ただ一人の人物のなかへ結合されていないために互いに争っている、という感を受ける。ゲーテが自作のタッソーとアントニオについて言うようにである。しかし、これらの性質を一人のうちへ結合したとしても、最良の批評に必要なものがすべて得られるわけではない。近代フランスのどの批評家より、おそらくジュベールが完全に備えていた種類の直観が、なお欠けるだろう。

ルメートル氏とフランス氏は、実際、一八九〇年代初めのブリュンティエールとの論争以後、かなり異なる道を歩んできた。当時においてさえ、ブリュンティエールが考えたほど互いに近くなかったのかもしれない。

確かに両者とも、ブリュンティエール以上の美的感受力、すなわち英語で gusto と呼べるものを備えている。これは趣味の必要な基礎ではあるが、趣味の全体ではない。

ルメートル氏は gusto においてブリュンティエールより優れているだけでなく、彼との論争当時、ブリュンティエールがほとんど禁欲的な不信をもって退いた同時代文学へ、特別な愛好を示した。

ルメートル氏によれば、十九世紀後半の文学――「これほど知的で、これほど不安で、これほど狂気じみ、これほど陰鬱で、病的で、精妙な」文学――への愛は、時に彼を「喜びに震わせ、骨髄まで快楽で浸す」ほどだった。

文学的感受性において、ルメートル氏はサント=ブーヴを思わせる。近年のフランス批評家のうち、サント=ブーヴが最も進んで署名したであろう頁を、彼は書いている。

生気、軽快さ、きらめく機知、そして同時に、軽々しい無責任さを装いながら深く鋭い思索を忍び込ませる力――これらをはじめ、文学的な美点がルメートル氏には豊富にある。

しかし、彼の第一期と呼びうる作品全体から浮かび上がる印象は、一種の精神的な迷いである。限りなく動きやすい知性と感受性に対する釣り合いを、自分のうちに明らかに見いだしていない。

彼は、どのような見解も「もっともらしく」見せる役を引き受ける、パスカルのイエズス会士を思わせる。

「この博学な決疑論者が、同じ問題の賛否へ入り込み、どこにでも良い理由を発見する様子を見るのは楽しい。彼の精妙さと才智は、それほどのものなのである。」

ルメートル氏は、一つの問題を二つ、四つ、六つの観点から論じる用意がある。奇数は結論の匂いが強すぎるとして避けるのである。

それでも、彼が最も印象主義的だった時期についてさえ、その精神的な迷いと基準の欠如を誇張しないよう注意しなければならない。超近代的なものの訴えへ、心の最も深い繊維まで震わせて応じたとしても、ゾラ、ユイスマンス、ヴェルレーヌのような超近代作家が、彼の判決を特に喜ぶ理由はなかった。

この種の作家へ反応する仕方は、彼が単に gusto だけでなく、趣味を持つことを示す。ブリュンティエールにあふれる論理の代わりに、彼には本能的な良識がある。これはきわめて古典的な徳である。

象徴主義者の詩について、彼は言う。

「いや、彼らについては語らない。理解できず、退屈するからである。私のせいではない。トゥーレーヌの素朴な生まれで、分別と節度と嘲笑を備えた民族の子であり、二十年の古典的習慣の刻印を押された私は、彼らの福音を理解する準備がほとんどできていない。」

要するにルメートル氏は、当初から文学的伝統を把握しており、それが同時代文学への鋭い愛好と釣り合っていた。内的基準は欠いていたが、その欠如に明らかに苦しんでおり、フランス氏のように、嘲笑的な超然だけを楽しんではいなかった。

批評家としてのルメートル氏へ最初に注目を集めたルナン攻撃は、後には本人にも多少素朴に見えたであろう。また彼自身、皮肉、とりわけ真にガリア的な悪意と不敬に満ちている。それでも、この攻撃は意味深い。

彼は、いささか修辞的な反対者がルナンについて次のように言う場面を想像する。

「この男は、魂が経験しうる最も恐ろしい道徳的危機を通過した。二十歳のとき、しかも選択をとりわけ苦痛で劇的なものにする事情のもとで、信仰と科学のどちらかを選ばなければならなかった。……それなのに彼は陽気である。もっと表面的な亀裂のために――おそらく彼は修辞家にすぎなかったのだが――ラムネーは最後の絶望のうちに死んだ。それよりはるかに小さな理由で、ジュフロワは癒しがたい悲しみに沈んだ。さらに小さな理由で、ただ自分が疑うかもしれないと恐れただけで、パスカルは狂気に陥った。 それなのにルナン氏は陽気である! いや、いや。ルナン氏には陽気である権利がない。最も大胆な矛盾によってのみ、陽気でありうる。マクベスが眠りを殺したように、ルナン氏はそのすべての著書で、二十回、百回と、喜びを殺し、行為を殺し、精神の平安と道徳生活の静けさを殺してきた。」

それゆえドレフュス事件の緊張のもとで、ルメートル氏が、自分に欠けていた内的基準の代わりに伝統的基準へ退き、言い換えれば、ブリュンティエールほど徹底的ではないにせよ、反動派と同盟したのは驚くべきことではない。

しかし今日のルメートルと、ブリュンティエールが印象主義者として攻撃したルメートルとの隔たりは、想像されるほど大きくない。

ラシーヌについての著書では、彼は一種の印象主義的な震えを伴いながら、古典的観点を擁護している。その結果は刺激的で、いくつかの点では味わい深い。

『ルソー』では、印象主義者が印象主義の父を攻撃しており、これもまた一種の面白さを持つ。しかしここでは、方法の長所より欠点のほうを強く感じる。とりわけ、個々の頁にどれほど才気があっても埋め合わせられない、大きな知的構造の欠如を感じる。

フランスの反動派を読む際にほとんどつねに感じる視野の収縮は、この場合、ルソーがフランス国内だけでなく国外へ及ぼした総体的影響について、ルメートル氏の知識が不十分であることによって、いっそう強められている。

また反動期のルメートル氏が、攻撃する場合にも擁護する場合にも、自分と同じく、きわめて発達した、場合によっては支配的な感受性を持つ作家――ラシーヌ、フェヌロン、ルソー、シャトーブリアン――へ引き寄せられていることにも注意すべきである。

彼は今なお、批評家は自らの移ろう感受性に支配されるのであり、したがって批評は「幻影」であると信じている。

IV

フランス氏は、固定した基準の可能性をルメートル氏よりはるかに徹底して否定するところから出発し、その否定を貫いてきた。

彼のうちには、彼が批評そのものと同一視する、批評精神の一つの主要形態が、極限まで発展している。彼によれば、この形態を創始したのはモンテーニュ、サン=テヴルモン、ベールであり、文学形式のうち最も後に現れ、やがてほかのすべてを吸収する運命にあるのかもしれない。

知的自由が絶対となり、好奇心が最高の徳となった現代では、この形式が神学の地位を占め、サント=ブーヴをそのトマス・アクィナスとして得た。

実際、フランス氏は、師であるサント=ブーヴとルナンのうちにあった相対主義の萌芽を、その最終段階まで発展させただけである。

絶対という観念を相対という観念へ置き換えること――これは、文学批評だけでなく、思想の全部門における十九世紀の特徴的成果だったように見える。

ヘーゲルからダーウィンまで、「生成」、成長、発展という観念は、百通りの形で近代人の思考習慣へ浸透し、それを変形してきた。そのため、何かを固定的で最終的なものとして見ることは、近代人にとってますます困難となった。

一八六〇年、エドモン・シェレールは「絶対者は死んだ!」と叫んだ。しかし、すでに見たように、心は頭が下したこの判決を承認しなかった。

古い人間と新しい人間を自分のなかで和解させようとしたルナンの試みは、まだ存在しないが「生成」の過程にある神という理論へ至った。

これらの弱い良心の躊躇を脱し、「絶対的相対」と呼びうる教説へ到達することは、アナトール・フランス氏へ残された。

自分は自らの人格のうちへ絶対的に閉じ込められており、自分の意見も他人の意見も照らし合わせられる基準は存在しない、というフランス氏の主張は、普遍的な幻影の教説を必然的に伴う。

彼が公言する広大な寛容は、一部には共感する力から生じるが、それ以上に、

このように幻影の操り人形にすぎないものとして見られた人間性への、静かな軽蔑から生じている。

健康と病気は空虚な存在物であり、 正気と狂気も同様である。 フランス氏が属する新しい「流動する哲学者」の一派は、古代の「流動する」哲学者の人生観と密接に対応する見解へ到達した。

あらゆる思想、あらゆる信条、あらゆる夢は真実、
荒々しく奇怪な幻もすべて真実。
人は自らにとって、あらゆる真理の尺度であり、
あらゆる真理は変化である。

こうして東洋の幻影の教説が西洋思想へ現れた。ただしヒンドゥーの精神において伴っていた、「一なるもの」への直観は伴わない。

ルコント・ド・リールは、この近代的な幻影の教説を歌う詩人である。彼は、空間と時間のうちに現れては消える最も束の間の外観を、異例な強度で捉え、表現することに秀でている。しかし人間のうちにも、自然の外観の背後にも、精神的実在をまったく感じていない。

空無から現象が立ち上がり、最も深い黒を背景に一瞬だけ際立ち、再び虚無へ消える、その意味なき流れを凝視することから生じる恐怖と眩暈が、彼の詩へ入り込んでいる。

Éclair, rêve sinistre, éternité qui ment,
La Vie antique est faite inépuisablement
Du tourbillon sans fin des apparences vaines.
閃光、凶い夢、偽りを語る永遠よ、
古き生命は尽きることなく作られる、
空しい外観の果てなき渦から。

普遍的な幻影という感覚は、フランス氏の場合、形而上学的な苦悩よりも、

ルナン後期の作品に満ちるロマン主義的アイロニーの極端な形として現れる。すなわち、あらゆる見解の上を漂い、どの見解も必然的に相対的で一時的であるため、いずれにも拘束されることを拒む人間のアイロニーである。

もっともフランス氏も、ドレフュス事件のように、過去への逆戻りと、精神を一定の型へ閉じ込めようとする不寛容な試みによって、アイロニストの自由が脅かされたときには、超然をやめ、十分に戦闘的になりえた。

しかしこの場合でさえ、共に戦う者たちが何らかの明確で建設的な綱領を持つかぎり、彼のアイロニーは彼らを容赦しなかった。根底の気分はつねに、最も重大な関心事においてさえ、移ろう外観に欺かれる存在への、軽蔑を含んだ憐れみである。

Les petites marionnettes
Font, font, font
Trois petits tours,
Et puis s'en vont.
小さな操り人形たちは、
くるくる、くるくる、
三度ほど回って、
それから去ってゆく。

しかしフランス氏の見る小さな操り人形たちは、徹底して邪悪で堕落しており、飢えと生殖本能の玩具である。根底において、彼の人生観は少なくともゾラと同じほど、容赦なく自然主義的である。

彼は断言する。

「人間性の実質は変わらない。そしてその実質は、苛酷で、利己的で、嫉妬深く、官能的で、獰猛である。」

彼自身の言葉を借り、彼自身の作品を念頭に置けば、現代思想には奇妙に刺々しい何かがあり、われわれの文学はもはや事物の善性を信じていない、と言える。

『シルヴェストル・ボナールの罪』では最も穏やかだった彼のアイロニーも、 『ペンギンの島』のような後期作品では、積極的に腐食性を帯びる。

それゆえ、数年前には批評文に通常見られる鑑賞的態度と奇妙な対照をなす苦々しさでゾラを語っていたにもかかわらず、フランス氏がゾラの墓前で弔辞を読んだのは、不適切ではなかった。

彼はかつてゾラについて、こう述べていた。

「彼の作品は悪い。彼は、生まれなかったほうがよかったと言える不幸な人間の一人である。」

この矛盾の説明はかなり単純である。フランス氏は、自然主義的人生観においてゾラと異ならない――全体としてゾラより悲観的でさえある――が、形式と形式の役割についての考えでは、限りなく異なる。

「ギリシア人のようであれ」というのが、フランス氏の伝言の総体である。すべては幻影で、真理は逃れるのだから、美を追求しよう、というのである。 正確には、ある種のギリシア人、とりわけある種のギリシアのソフィストのようであれ、と言うべきだった。

彼のアイロニーがほぼ唯一免除し、進んで擁護さえする過去の遺産は、古代古典と、それに基づく教育である。

彼自身の文体は過去を豊かに想起させ、伝統的要素の融合はコリントスの合金にたとえられてきた。真に古典的な力強さには遠く及ばないとしても、アレクサンドリア的な優美さをすべて備えている。

ルメートル氏は、それをラテン精神の極点に咲く花だと言う。さらに、それはロマン主義的唯美主義の極点に咲く花でもある、と付け加えてよい。

ただしフランス氏は、大部分の近代唯美主義者よりも、表現に関係する美より、均整に関係する美の側面を重視する。

たとえばルメートル氏は、書き言葉と話し言葉との隔たりを過度に狭める危険を冒しても、生気と表現力を追求する。これに対しフランス氏は、芸術でも言語でも、線の純粋さへいっそう魅了されている。

彼は同時代人の多くより形式を直観的に感じるだけでなく、自然主義時代の多くの作家と批評家に、これほど目立って欠けていた「人間的なもの」への感覚を、ある程度備えている。

彼はユゴーについて言う。

「その巨大な作品のなか、あれほど多くの怪物のただなかで、一つの人間の姿にも出会わないことに、あなたは悲しみ、同時に恐怖する。」

フランス氏は、おそらく「人文主義的唯美主義者」と定義するのが最もよい。これは、すでにウォルター・ペイターへ用いた定義である。実際、英米の読者が彼とほとんど必然的に比較する作家は、ペイターである。

しかしペイターの散文は、フランス氏の散文ほど輪郭が純粋ではない。また私の考えでは、ペイターはユゴーへこれほど人文主義的に反応することもできなかっただろう。

ペイターもフランス氏と同じほど美的な観点を取るが、公平に言えば、官能的享楽への耽溺はそれほど深くなかった。

私はかつて、フランス氏の人文主義的側面を高く評価していた著名なアメリカ人学者が、それにもかかわらず、その著書から一連の頁を丸ごと引き裂いたのを見たことがある。それはジュベールが、自分の蔵書にある

十八世紀作家の本へ、惜しみなく施したのと同じ処置だった。

ロマン主義的な宗教感情へ浸った感受性と、ますます不敬になる知性との対照も、ペイターではフランス氏ほど鋭くない。フランス氏の心は聖フランチェスコへ歓喜する一方、頭はヴォルテールを要求する。

しかしペイターとフランス氏のどちらにも、大きな柔和さと結びついたエピクロス的弛緩を同じく感じる。ペイター自身の句を借りれば、両者においてわれわれは、「洗練され、姿よく整った頽廃に属する、精妙で繊細な甘美さ」を「余すところなく」感じる。

ペイターはイギリスで疑わしい影響を及ぼした。フランス氏の影響については、彼をアカデミーへ迎える際、グレアールが面と向かって、「病的な夢想と、溶解的なディレッタンティズム(les songeries malsaines et les dilettantismes dissolvants)」を奨励したと非難した。

人格と意志を捨て、感受性へ逃げ込んだ人文主義の危険は、確かに明らかである。

フランス氏のいくつかの発言は、無政府主義者ローラン・タイヤードの気取った格言に体現される、美的液状化の最終段階へ、ほとんど達している。

「身振りが美しいなら、行為が何であるかに何の意味があるのか。」

十分に芸術的に表現されさえすれば、フランス氏はどのような腐敗にも尻込みしないのではないか、と感じさせる。

他方、俗悪で平凡なものを扱う際には、一種の趣味のパリサイ主義へ近づくことさえある。彼はゾラについて言う。

「彼には趣味がない。そして私はついに、これこそ聖書が語る神秘的な罪、最大の罪、赦されることのない唯一の罪だと信じるようになった。」

趣味のパリサイ主義へ向かう彼の傾向を最もよく示すのは、おそらくジョルジュ・オネへの攻撃である。

ルメートル氏も、同じ対象についての記事の冒頭で、自分は普段、読者へ文学的主題を御馳走しているが、今日はジョルジュ・オネ氏の小説を語るので、どうか許してほしい、と述べた。そのほうが少なくとも同じほど効果的だった。

このように、ときおり激しい反感を表現する点で、フランス氏は、ほとんど決して鑑賞の調子を離れないペイターと異なる。

しかし一般には、批評家としての役割を、「事物の美への穏やかな驚異」を表現することへ縮小しようとする。本人が言うように、彼は夢想家であり、事物そのものより、事物が自分へ示唆するものに関心を持つ。

「どの本も、最も見事な本でさえ、そこに含まれるものより、読者がそこへ入れるもののために、はるかに貴重なのだと私には思える。」

モナ・リザとその微笑がペイターへ示唆した驚異の夢は、傑作を前にした批評家が自らの魂の冒険を物語る、英語におけるおそらく最良の例である。

この方法が最悪の形で現れるのは、ブリュンティエールをひどく憤慨させたフランス氏の一節である。そこで彼はルナンの『イスラエル民族史』を批評しようとして出発しながら、代わりに、子供の頃に遊んだノアの箱舟について夢想へ耽る。

この手続全体には、ジャンルのある種の混同、すなわち批評と創作とを区別しようとしない態度が含まれている。

ルメートル氏も創作者としての野心を持ったが、創作的態度と批評的態度を、はるかに明確に区別している。フランス氏が批評という独立した営みの正当性を、もっと鋭く感じていたなら、批評においてさらに多くを成し遂げたかもしれない。現状では、作家としての全活動のなかで、少なくとも狭義の文学批評は、挿話的なものにすぎない。

V

いずれにせよブリュンティエールは、批評へ分裂した忠誠を捧げることはなく、同世代の誰よりも、批評を明確に区別された一つのジャンルとして育てた。

批評における判断、さらには批評というジャンルそのものをフランス氏が軽視したのは、これまで示そうとしたように、彼の極端な相対性の感覚から生じた。そしてその相対性の感覚は、自然主義の産物である。

この自然主義運動の力は、それと多方面で戦ったブリュンティエール自身が、美的側面ではなくとも、科学的側面においては、その奉仕へ加わろうとした事実に示される。彼はジャンルの完全性を守るため戦いながら、そのジャンルが流動のうちに巻き込まれていることを認めた。

近代批評家のなかでほとんど唯一、サント=ブーヴは、批評を科学としても芸術としても実践することに成功した。本人の表現では、詩と生理学を結合したのである。

テーヌは批評を純粋科学にしようとし、ルメートル氏のような者は、ほぼ全面的に芸術として育てた。ブリュンティエールもまた、批評を科学と芸術の双方にしようとした。しかし彼の芸術がサント=ブーヴの芸術とは異なることは、一見して明らかである。

教条的な気質のため、彼は、スカリジェがラテン語で始め、マレルブとボワローからニザールまで続く一連の批評家がフランス語で継承した伝統を、生かし続けるのに適しているように見えた。

ただし歴史感覚のため、当初からこれらの人々より相対主義者に近かった。

一八八九年、高等師範学校で行った講義において、歴史的であるだけでなく科学的になり、テーヌがキュヴィエとジョフロワ・サン=ティレールの教説から得ようとしたのと同じ助けを、ヘッケルとダーウィンの教説から得るつもりだと宣言した。

ブリュンティエールのこの文学的ダーウィニズムは、概して、さまざまな文学ジャンルが動物種とほぼ同じ仕方で進化することを示そうとする試みである。

彼は、文学ジャンルが「いかなる時と場所の事情によって生まれるか、生物のようにどのように成長し、発達を助けるものを適応または同化するか、どのように死に、その分解した要素が新しいジャンルの形成へ入るか」を示そうとする。

たとえば中世の武勲詩(Chansons de Geste)は、散文年代記と円卓物語へ枝分かれし、円卓物語は進化の過程で近代小説へ移行した。

このように一般的な形で述べるなら、ブリュンティエールの進化理論は擁護できる。しかし体系を具体的に展開するとき、科学よりスコラ学がしばしば優位に立ち、論理的均整への愛によって道を誤ったと感じられる。

たとえばダーウィンは、同じ環境の影響を受けながらも、説明されない何らかの理由によって、一部の動物が同種のほかの個体から分岐し、異なるものになる傾向を持つ、と仮定して、種の起源を説明しようとした。

同じようにブリュンティエールは、文学の進路を変え、新しい文学ジャンルを創始する力を持つ個人が、ときどき現れると語る。

こうして彼は、ダーウィンの教説のなかでもそれ自体仮説的なものとの疑わしい類比を用いて、芸術におけるただ一つの最高に重要な出来事、すなわち創造者の出現を説明する。

ブリュンティエールの対応関係が正確なら、文学に革新をもたらす個人は、自らの意志による熟慮された行為ではなく、盲目的な宇宙的衝動へ従って革新することになる。

ルメートル氏が指摘するように、ジャンルは彼の手にかかると、純粋にスコラ的な実体、植物のような抽象物となる。自分自身の生命によって進化し、それが通過する作家たちの頭脳とは、ほとんど関係を持たない。

ブリュンティエールの進化理論に含まれる価値ある真理の萌芽は、すでにアリストテレス『詩学』の簡単な一句に含まれている。

「悲劇はさまざまな変化を経た後、ついに本来の性質へ達し、そこで停止した。」

文学ジャンルを扱う際、生物学的類比を押し進めすぎる危険は、ブリュンティエール自身の言葉によって最もよく述べられる。

「結局は単なる比喩であるものを、批評の最高法則へ変えないよう、とりわけ注意すべきである。この野心的な一般化のただなかでは、個人への感覚が失われる。過去の人間と作品を、自分たちの理論へ役立てられるかぎりにおいてだけ評価することへ慣れ、人生はその多様性と豊かな複雑さのため、
われわれから逃れ、それを閉じ込めようとする硬直した公式をすり抜ける。」

彼が進化論的な計画を最後まで遂行できなかったのは、少なくとも細部において、それを疑似科学へ陥らず実行することは不可能だと、本人がある程度悟ったためかもしれない。

しかし、昔の批評家が固定し不変だと考えたほとんどすべてを、このように進化、すなわち相対的なものの領域へ委ねた後で、ブリュンティエールはどのように教条的批評の基礎を見いだすのか。

流動と変化の領域より上に、作品を良い、または悪いと位置づけるために参照できる、どのような基準があるのか。

文学的判断において、自分の気質が投げかける幻影の網と、自分が生きる社会の気まぐれや一時的流行から、どのように逃れられるのか。最後に、アナトール・フランス氏の「印象」から、どのように救出されるのか。

これらの問いに対するブリュンティエールの直接の答えは、感覚と感情を理性へ従属させなければならない、というものだった。

さらに深く思想へ入ると、絶対者を探すなかで、彼が「絶対的人間」への信仰と呼びうるもの、プラトン的またはスコラ的な「人類」の観念へ導かれたことがわかる。

作品がこの普遍的で本質的な人間性を表現する程度によって、その価値を測ろうとした。すなわち、高度な美的快楽を与える力と、真に人間的な思想と感情を示唆する力とを、どれほど結びつけるかによってである。

絶対的人間の教説は、それ自体では形而上学的な抽象にすぎない。

ブリュンティエールは批評を直接そこへ置くことを拒んだ。人間精神の思弁的な統一へ基づく絶対の代わりに、実践では、人間精神が歴史において示してきた統一へ基づく絶対を置いた。

特定の個人の好みと印象に対し、伝統へ具体化された全人類の証言と経験を対置する。

世代を超えて最も多くの人々へ訴えた作家こそ、最も真に人間的であり、したがって最も称賛に値する。意見は、古く普遍的であるほど、ブリュンティエールにとって重みを持つ。

人間性一般のいっそう大きな栄光と利益のため、個人が独立して創作する権利を制限したのと同じく、個人が独立して判断する権利を制限することをためらわなかった。

ブリュンティエールと印象主義者との間で争われる問題はあまりに根本的なので、その十分な検討は最終章へ留保した。

VI

ブリュンティエールの人生における大問題が、自分の時代の普遍的な弛緩と自己放縦、彼の言う「自我の病的で怪物的な発達」へ対置できる基準を見いだすことだったことは、すでに十分明らかである。

またこの問題への彼の解決が、当初からきわめて保守的だったことも明らかである。

晩年十年間の反動的傾向は、初期の前提からかなり自然に生じる。とりわけ、人間性には抑制の原理(un principe refrénant)が必要であり、その原理は個人自身によって発達させられず、

個人に対して「外部にあり、先行し、優越する」ものでなければならない、という前提からである。

伝統的基準を失った結果、近代社会は、印象主義の底なしの沼へ突入しているように彼には見えた。

もちろん近代流派は、ブリュンティエールが必要とした抑制原理の代わりに、友愛の原理を提示することで、困難を回避する。それぞれの人間が自分の本能と「独創性」へ手綱を緩め、それから他人の個人的衝動が同じく自由に働くことへ共感して、この利己主義の爆発を和らげるというのである。

これはルソーに、またアメリカにおける同類ウォルト・ホイットマンに見いだされる、友愛的無政府状態の理論である。

しかしブリュンティエールによれば、近代フランスはルソーへ従うことで、狂人を案内役に選んだ。

個人主義のさまざまな種類について精密な区別を設けることはできるが、実践ではすべて利己主義の同義語であり、「われわれの印象の移ろいやすさ、個人的感覚の無規律、思考の放浪」へ過度な余地を与える、と彼は考える。

言い換えれば、ブリュンティエールは十九世紀思想の悪しき二者択一から逃れられない。この思想は、個人を社会へ犠牲にするか、社会を個人へ犠牲にするかであり、無政府的な自己主張と、個人の自発性を押し潰す集団主義との中間点を見いだせない。

少なくとも、人生を統一してきた伝統的な方法をすべて捨て、個人的衝動へ対置する新しい統一を作り出さなくてもやっていけると考える社会は、奇妙なほど欺かれていることになるかもしれない、という点では彼に同意できる。

この問題に対するブリュンティエールとフランス氏の対立した態度には、少なくとも、現代フランス思想の主要な断層線を忠実に反映する長所がある。

実際、フランスで尊敬、権威、規律の必要を語れば、ただちに反動派と決めつけられずにはいられないほどである。

フランスがこの段階を越えず、それにもかかわらず大規模に繁栄するなら、人間性についての見解において、過去の賢者はすべて誤りだったと証明される。このこと自体、相当に興味深い結果であろう。

ブリュンティエールをカトリック教会へ導いた理由は、今や明らかなはずである。個人から社会を守ることのできる規律と明確な基準を与えるのは、教会だけだと彼には見えた。

本人が言うように、改宗の動機は「社会的」だった。教会の儀式が持つ美的魅力に引かれて入る者の動機からは、これ以上ないほど遠い。

この形のエピクロス主義について、彼は「官能は宗教ではない」と軽蔑的に述べる。

カトリックへ向かったのは、より秩序立った社会的進歩、より徹底して規律づけられた集団主義の希望を、それが示すように見えたからにすぎない。

しばしば言われるように、ブリュンティエールが「十七世紀の魂」を持っていたと語ること、またヴォギュエ氏のように、彼をボシュエやパスカルと比較することは、誤解を招く。

ブリュンティエールがつねに心を占められていた人道主義的問題、

すなわち社会の未来と、人間相互の関係は、ボシュエよりオーギュスト・コントの趣を帯びる。

内面的な気分においても、パスカルよりショーペンハウアーと共通するものが多い。ブリュンティエールの「社会的理由」を、パスカルの上着へ縫い込まれていた羊皮紙の断片――そこに彼は一六五四年十一月二十三日夜の改宗の細部を記した――と比較するだけで十分である。

パスカルは、この突然の啓示を、しばしば繰り返される「喜び、確信、平安」という語に要約した。

ブリュンティエールが自分の時代の真の子だったのは、瞑想ではなく仕事へ救済を求めた点である。より正確には、ストア主義者ブリュンティエールにとっても、エピクロス主義者サント=ブーヴにとっても、本人たちの告白によれば、仕事は形而上学的絶望の深淵から逃れる手段だった。

ブリュンティエールは、自分の時代と接触を失っていると非難された。反対に、彼の仕事が時を経て価値を保てないとすれば、その時代とあまりに密接に接触していたためかもしれない。

時代精神から抜け出し、諸時代を貫く精神へ達することを可能にする直観を、彼は欠いていた。ジュベールが「光のうちに安らうこと」と定義する知恵を、ほとんど経験しなかった。

美的感受力においても、サント=ブーヴ、さらにルメートル氏にさえ、大きく劣る。この二つの主要な種類の直観が乏しいため、感情的にも知的にも、示唆する力が弱い。

彼はつねに明晰だが、輝きを放つことは稀である。ルメートル氏は言う。

「彼は精確さをあまりに重視するので、厳密な正確さをもって表現できないものは、彼にとって存在しない。」

これは、チャールズ・ラムがスコットランド人に見いだし、自分の精神は本質的に反カレドニア的な構成を持つ、と述べるに至った性質だったことを思い出すべきである。

ブリュンティエールの直観性の欠如は、宗教的伝統の擁護だけでなく、文学的伝統の擁護も損なう。

宗教においても文学においても、個人の完成へ直接働き、社会の完成へは間接的に働く貴族的要素を、十分に考慮しなかった。

サント=ブーヴが人文学の衰退において嘆いたのは、単に規律が弱まることではなく、繊細さと卓越性が世界から消えることだった。

この点は、二人のバルザックへの態度を比較すれば明らかになる。バルザックとユゴーはいずれも批評家にとって真正の試金石である。二人は巨大な力を持つ作家だが、その力は人間的というより、ティタン的、キュクロプス的だからである。

ブリュンティエールは、サント=ブーヴがバルザックへ敵意を抱いたのは、個人的な腹立ちと嫉妬のためだとする。個人的な腹立ちは確かにあった。しかし別の箇所で示そうとしたように、敵意の根底にはサント=ブーヴの人文主義があった。本人の言葉では、彼は「何があってもなお古典派へ属している」のである。

サント=ブーヴは、バルザックのあふれる創造力を称賛しながら、その暴力と節度の欠如には反発した。この点で、ブリュンティエールより優れた人文主義者である。

ブリュンティエールのバルザック論を読んだ多くの人は、

テーヌからゾラまでのフランス自然主義運動全体を促進することに巨大な影響を及ぼし、自らも解き放たれた自然力だった作家を、 彼がこれほど熱烈に称賛することへ、疑問を抱いたに違いない。

ブリュンティエールは、自然主義小説への攻撃によって批評家としての活動を始めたのではなかったか。またわれわれの「血のうちに今なおある自然主義」へ反動し、「理想主義者」になれ、とつねに勧めているのではないか。

バルザックとブリュンティエールが、かなり似た理由から、どちらもカトリックとなったことを思い出せば、この困難は少なくとも部分的に解ける。

バルザックは、個人の生活のうちに、自己自身へ対抗する資源を見いだせなかった。個人の生活を、高い本性と低い本性との闘争としてではなく、無限に複雑な環境の圧力によって決定される、一つの支配的衝動の展開として描いた。

個人が自分自身の利己主義と主観性から逃れる、内的な道筋を考えることができなかった。そして個人主義に対抗するため、究極の認可を教会から受ける社会的連帯へ向かった。

ブリュンティエールと同じく、個人に対して社会の側へ立つ。過去の規律へ戻るにあたり、ブリュンティエールとバルザックは、どちらも自然主義的悲観主義から出発した。

ブリュンティエールの場合、ほかに証拠が何もなかったとしても、ショーペンハウアーへ共感的に行った研究だけで十分だろう。

ブリュンティエールの「自然主義」と「理想主義」とのこの困難な関係を扱うと、避けがたい問いが生じる。歴史的相対性への鋭い感覚と、論理が要求する外的絶対者の必要を、どのように和解させたのか。

思想家としての最も明白な野心は、安定したものへ過去が抱いた信仰と、近代の発展観とを結合することだった。

教義そのものも発展する、と彼は主張する。この部分の思想には、ニューマン枢機卿の影響を容易にたどれる。

近代民主主義のいくつかの志向と調和して発展するカトリックを求めた彼の主張は、レオ十三世には好意的に受け入れられたが、現在の教皇にははるかに受け入れがたいものだった。

ブリュンティエールは個人主義から逃れるため教会へ入り、晩年には異端者として扱われた。テーヌをはじめ、前世紀の多くの傑出した人格と同じく、最後に残る印象は、巨大な精神的孤独である。

伝統を擁護するためブリュンティエールが持ち出す議論には、確かに驚くべきものがある。

実際、人類一般の良識そのものを攻撃するのではなく、それを擁護する手段によって、激しい逆説愛を満足させているのではないかと疑わせる。

コントの『実証哲学』と『種の起源』をカトリック正統信仰へ奉仕させることは、危険であると同時に新奇な企てだと、本人も認めている。

科学的な遺伝の教説と原罪の教義を同一視し、アメリカ合衆国憲法とローマ教会との類比を引き、ダーウィンをレランの聖ウィンケンティウスの助けへ呼ぶ。

これらの奇怪な結びつきへ従うことは拒んでもよい。しかし彼がその間ずっと、現代思想の中心問題、すなわち「存在」と「生成」の相争う要求をどのように調整するか、

自然主義の成果を保持しながら、現象的自然より上にある人間の部分の完全性を、どのように主張するかという問題と、力強く格闘していることは認めなければならない。

実際ブリュンティエールは、正しい解決を逃すときでさえ、大きく生きた問題を捉える本能を、ほとんど誤らないほど備えている。

個人主義の行き過ぎへの治療は、より健全な個人主義でなければならず、アキレウスの槍だけが自ら作った傷を癒せる、ということを認め損なった点においてさえ、彼の誤りは教訓的である。

彼を反駁するつもりで全著作を読み通すこと以上に、印象主義へ効く解毒剤はほとんどない。

エピクロス的な怠惰と、考えようとしない態度に苦しむ者には、矯正手段として彼を勧められる。

現代の通俗哲学が、ハーヴァード大学の学生が中国の宗教を問われて「混乱主義」と答えたもののように見える時代に、ブリュンティエールのように、論理的な秩序世界へだけでも到達したことは、一つの卓越である。

彼の作品を包む雰囲気には、ストア主義的な荒涼がある。それでも明晰で一貫した推論の徳へ抱く信仰そのものによって、彼は人を引き締める。

ブリュンティエールは言う。

「われわれのうち、弱点を持たない者がいるだろうか。私の弱点――少なくともその一つ――は、つねに教説家を愛することだった。私がどれほど寛大か見てほしい。私は彼らが教説を持ち、それを堅固に擁護したことだけでなく、教説を変えたことさえ赦す。変えるために良い理由、つまり良い教説上の理由を示した場合には。」

彼は「観念が世界を支配する」と確信している。

この点で彼は、真に傑出した思想家でありながら、思想が実践的効力を持つことを信じないファゲ氏と異なる。そしてそれこそ、疑いなく輝かしいファゲ氏の仕事の多くが、後まで鋭さを残さない理由かもしれない。

ブリュンティエールは書く。

「十八世紀史からルソーを取り除けば、革命をおそらく二十年ないし二十五年遅らせる。彼の著作から『社会契約論』を取り除けば、ジャコバン派の綱領を不可能にする。『社会契約論』そのものから第四編第六章と第七章だけを取り除けば、ロベスピエールを消滅させる。」

幸い、論理と人生との結びつきは、つねにこれほど密接ではない。

ブリュンティエールは、学識を観念から切り離そうとする者、また観念を持ちながら、それを何らかの真剣な目的へ従属させない者を軽蔑した。

文学を、知性または感受性が快く放浪する機会としか見ないディレッタントと印象主義者を軽蔑した。同様に、過度に細密な調査のうちへ自分を失う者を軽蔑した。

たとえば、モリエールがリシュリュー街三十四番地ではなく四十番地で死んだことを証明するため、五百頁の一巻を費やした者。またニノン・ド・ランクロの正確な誕生日を決定するため、パリの諸教会の記録、八十冊の写本を調べた者である。

最も力強い論文の一つ「未刊資料熱(La Fureur de l'Inédit)」において、近代学問の主要な偶像かもしれない「独創的研究」を攻撃する。

彼は叫ぶ。

「科学と良心的態度。選択と構成の技法、趣味の繊細さ、機転、文体への感覚、表現の幸福、技または優美、雄弁または力強さ――かつて才能、さらには天才という名のもとに含まれていたもの。それらの性質は、文書を解読する者、未刊資料を編集する者の眼に、本当に何かとして数えられるのか。
そして彼らがすでに半ば以上腐敗させた世論は、まもなく彼らの側へ立ちそうである。」

ブリュンティエールは、学問がアレクサンドリア主義へ向かうこの傾向、ベーコンが綴字改革について「利益なき精妙さ」と呼んだものへ、絶えず戦いを挑んだ。

同世代の誰も、文学と思想との関係、さらに思想そのものと人生との関係を、これほど強調しなかった。

Le vrai Dieu, le Dieu fort, est le Dieu des idées.
真の神、力ある神は、観念の神である。

この点で示した、まさに必要な模範が、思想の反動的傾向によって損なわれたことは惜しまれる。観念の学識においても、事実の学識においてさえ、彼より劣る者たちが、それでも彼を攻撃するとき、少なくとも近代精神の擁護者であるように見えるという有利さを持ったのである。

Histoire de la littérature française classique, Ire Partie, 218。

フランス十六世紀初頭、とりわけイタリアとの関係についてのブリュンティエールの不完全な知識は、Henri Hauvette氏の論文、Revue critique, 8 juillet 1905, 14頁以下を参照。

Études critiques, VI, 225。

同上、234。

Discours de combat, 90。

Discours de combat, 2e série, 166。

Souvenirs, p. xx。

「科学の破産(faillite de la science)」という句は、ヴァチカンから帰還した後に書かれた『両世界評論』一八九五年一月一日号の論文に現れる。ベルトロ氏は『パリ評論』一八九五年二月一日号で反論した。

Le Roman naturaliste, 296。

Le Roman naturaliste, 350。

同上、348。

同上、94。

Le Roman naturaliste, 207。

Nouvelles questions de critique, 343。

同上、345、370。

Dhammapada

La Vie littéraire, I, p. iii。

Contemporains, I, 239。

Contemporains, IV, 66。

このパスカル像は、現在では信用を失っている。

Contemporains, I, 203。

Chateaubriand, 223。

La Vie littéraire, I, p. v。

La Vie littéraire, II, p. viii。

同上、I, 183。

La Vie littéraire, I, 68を参照。

同上、IV, 48。

La Vie littéraire, IV, 14。

同上、I, 236。

同上、I, 343。

La Vie littéraire, I, 116。

たとえば La Vie littéraire, II, p. iiiを参照。

La Vie littéraire, I, 233。

La Vie littéraire, II, 56頁以下。

La Vie littéraire, II, p. xi。

L'Évolution de la poésie lyrique, I, 6。

Questions de critique, 214。

Discours de combat, 2e série, 151。

Contemporains, I, 225。

Le Roman naturaliste, 165。

Nouveaux essais de littérature contemporaine, 314。

Discours de combat, 2e série, 172。

Nouvelles questions de critique, 28。

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第XI章 結論

ルイ十四世がかつて、自作のソネットをボワローの判断へ委ねた、と伝えられている。読み終えたボワローは言った。

「陛下に不可能なことはございません。悪い詩を書こうとなさり、見事に成功なさいました。」

近代の読者にとって、この逸話の要点は、批評家の勇気より、国王の従順さにある。

民主主義が進むにつれ、文学における一人の意見は、ほかの誰の意見とも同じ価値を持つようになった――アイルランド人なら、さらにずっと優れている、と付け加えるだろう――そして「敬意」や「謙虚」という語は、時代遅れになりつつある。

かつて人々が、自分の個人的印象を、外から与えられた一群の規定の前で、どれほど恐れ入らせ、抑制したかを、われわれはほとんど想像できない。

わずか一世紀前、『エディンバラ評論』の批評家はこう書くことができた。

「詩は少なくともこの点で宗教と共通する。その基準は、権威をもはや疑うことが許されない、霊感を受けた何人かの作家によって、はるか昔に定められた。」

ラシーヌによれば、自作の喜劇『訴訟狂』が初演されたとき、観客は規則どおりに笑わなかったため、不安になったという。

ついに、この「規則」の専制への反乱が起きた。ロマン主義の批評家は、新古典主義の狭さに対して、より広い知識と、より広い共感を求めた。

監督し始める前に、まず見ることを望み、教条的であるより歴史的であろうとした。排除も結論もせず、何より説明しようとした。鑑賞的であり、欠点を論じる不毛な批評に代えて、美点を論じる実りある批評を置こうとした。

この流派全体の弱点は、知識と共感が、結局のところ批評家の女性的徳にすぎないことを、忘れがちだった点にある。

そこから、多くの近代批評に男性的な調子が欠けること、判断が共感と理解へ完全に飲み込まれる傾向が生じた。「すべてを理解することは、すべてを赦すことである(tout comprendre, c'est tout pardonner)。」

より広い知識と共感という理想を、ほとんど完全に体現したルナンは、誰かを紹介されると、その人の観点へ入り込み、相手自身の観念をあらかじめ料理して差し出そうとした、と言う。

ほとんど反射的にジョンソン博士を思い起こす。人々が反対すると、博士は「怒鳴って黙らせた」。レノルズ、ギボン、バークのような人々さえ、恐るべき厳格な批評家が、まず誰へ怒りを浴びせればよいか知らないようにするため、連名の回状(Round Robin)という形でしか抗議を提出できなかった。

もちろん、批評家が女性的徳を育てることは望ましく、実際に不可欠である。ただしテニソンの表現を借りれば、女性的徳を備えた男(man-woman)であって、男性的な外形を取る女(woman-man)でないという条件がつく。

この真理を怠ったため、過去一世紀の発展において、批評はまず歴史の一形態となり、次いで伝記の一形態となり、最後には世間話の一形態となる傾向を示した。

歴史と伝記が批評的判断へ徐々に侵入した様子は、メロヴィング朝時代の宮宰を思わせる。

彼らは奉仕するふりをして忍び込み、ついには主人の地位を奪った。もっとも、判断が最初から「無為王(roi fainéant)」であることを示さなかったなら、このように追放されることもなかっただろう。

I

すでに見たように、サント=ブーヴ自身、後半生には初期の方法を修正するため――より公平には、完成させるため――努力し、判断の優位を再び主張した。

一八三〇年の戦闘的ロマン主義者が、最後にはマレルブ、ボワロー、ジョンソン博士を批評家の真の型として称揚する保守主義者へ変わる過程は、興味深い。

彼はこれらの人物にならい、自らの判断を大部分、古典主義者の伝統的基準へ置いた。しかし、その基準が滅びる運命にあることを、サント=ブーヴ以上に知る者はいなかった。

「大混乱が来る前に、われわれをこの種の最後の者としよう。」

サント=ブーヴが予見した「大混乱」は、今やわれわれの上にある。

後継者へ及ぼした影響において、彼は基準と判断の擁護者ではなく、相対性の偉大な博士と定義するのが正しい、と私はすでに指摘した。

今日の批評は、世間話や雑談の一形態以上のものであるかぎり、ほぼ印象主義的批評か科学的批評かのいずれかに分類できる。そして印象主義的批評家と科学的批評家は、相対性の教説において一致する。

印象主義者が書物へ関心を持つのは、それが自分の感受性と関係するかぎりにおいてだけである。自分へ訴えるものを称賛するとき、それは「示唆的だ」と言う。

科学的批評家は、書物が一つの現象として、ほかの現象とどのように関係するかにだけ関心を持つ。その書物が、多数の関係の頂点または出発点であるとき、ゲーテが好んだ語を用いて、それは「意義深い」と言う。

印象主義者に、自分の感受性を越え、より非個人的な基準によって判断するよう求めると、芸術にはそのような非個人的要素はなく、「示唆性」だけがあると答える。そして近年のフランス作家にならい、芸術を「弱められた催眠」と定義しかねない。

一方、科学的批評家に、現象の背後へ入り、絶対的価値の尺度によって書物を評価するよう迫ると、「不可知なもの」の理論のうちへ逃亡する。

科学としての批評を作ろうとした者のうち、容易に最も傑出したテーヌの有名な一節によって、これを例示できる。

彼は『イギリス文学史』で言う。

「近代詩の美しく光沢ある頁の下に、われわれは何を見るか。学び、旅行した近代の詩人、アルフレッド・ド・ミュッセ、ヴィクトル・ユゴー、ラマルティーヌ、ハイネのような男である。黒い上着と手袋を身につけ、婦人たちに歓迎され、毎晩、社交界で五十回のお辞儀と二十ほどの機知ある言葉を披露する。朝には新聞を読み、普通は二階に住む。あまり陽気ではない。神経を持つためであり、とりわけ、この互いに息を詰まらせる密集した民主社会では、公的な威信が失われたことが彼の自負を誇張し、同時に重要性を増したからである。また一般に、感情の鋭さのため、自分を神だと考えがちだからである。」

まず第一に、詩から詩人の生活と人格を推論しようとするこの試みの結果は、奇妙なほど不確実である。

近年刊行されたジョン・リチャード・グリーンの書簡によれば、テーヌが『イギリス文学史』最終巻の資料を得るためイギリスに滞在したとき、桂冠詩人テニソンの親しい友人パルグレイヴと、テニソンについて話し始めた。

テーヌは尋ねた。

「若い頃の彼は裕福で、贅沢を好み、快楽好きで、放縦だったのではありませんか。初期の詩にすべて見える。騒々しい生活、肉体的美の崇拝、宝石への喜び、快楽と酒へ全面的に身を委ねること……」

我慢できなくなったパルグレイヴは遮った。

「待ってください、待ってください。若い頃のテニソンは貧しかった。年収は百ポンドをわずかに越える程度でした。習慣は、今もそうですが、簡素で控えめでした。当時も今も、会話と煙草以上のものをほとんど求めません。あなたの意味する贅沢を経験したことは一度もありません。」

テーヌは情報に礼を述べた。しかし本が出ると、テニソンはなお、批評家の想像した若い享楽者として描かれていた。

テーヌの推論を正しく引き出せると仮定しても、詩の性質のうち、まさに最も詩的でないものへ注意を固定させる。

彼が探すきわめて散文的な事実は、第一級の作品と同じ程度、凡庸な作家の文章にも見えるだろう。

実際、テーヌがミルトンのような天才詩人をこの仕方で扱い、『失楽園』を単なる「徴候」へ還元しようとするとき、方法全体の滑稽なほどの不十分さが明らかになる。

テーヌはミルトン批評で言う。

「アダムは、投票権を持ち、国会議員で、オックスフォード出身の、真正の家父長である。」

最初の男女アダムとイヴの会話を聞いても、彼に聞こえるのは、

「一つのイギリス家庭、当時の二人の理屈屋――ハッチンソン大佐とその妻である。何ということだ! すぐに服を着せよ。」

そして数頁にわたり、この調子で続ける。

しかし印象主義者を代表してブルジェ氏は言う。テーヌが「意義深さ」の観点だけから扱おうとする詩集へ近づく、もう一つの方法がある。

ブルジェ氏は、この詩集の「示唆性」を印象主義者の感受性へ伝えるため、紙幅が足りず引用できないほど豪奢な形容語を用いる。

曇った冬の午後、私室に一人でいる若い女性を想像するよう求める。長椅子へゆったり横たわる彼女を、漠然とした憂鬱が襲う。言い表せない憧れに全身を震わせ、愛する詩人へ手を伸ばす。

愛する本の繊細に色づけられた頁の背後に、テーヌにはこれほどよく見える環境の散文的事実、才能の不明瞭な動物的起源があるとは、彼女は思いもしない。

彼女が感じ取るのは、詩人の夢、すなわち、

「詩人が自作の詩の周囲へ、光輪のように投げかけることに成功した、言い表せず神秘的な彼方」である。

テーヌにとって詩節は結果である。しかし「その詩によって心をこれほど甘美に酔わせる」若い女性にとって、それは原因である。

「魔法の霊薬を蒸留した蒸留器など、彼女にはどうでもよい。魔法が働きさえすればよく、読書が精妙で震えるような高揚へ達し、甘い、または悲しい、しかしつねに陶酔を生む夢を、彼女へ示唆しさえすればよい。」

詩集へ近づく二つの仕方には、まったく異なる芸術理論が含まれていることを、誰が見逃すだろうか、とブルジェ氏は結論する。

二つの理論は確かに異なる。しかし、テーヌにとっての詩集の「意義深さ」も、ブルジェ氏にとっての「示唆性」も、相対性の流砂を脱し、判断の確固たる地盤へ至る真の手段を与えないという点では、両者は同じである。

長椅子の若い女性には、ソフォクレスの戯曲よりも、同時代の三流の感傷的作品のほうが、より多くの言い表せない夢を「示唆する」に違いない。

さらに一般的に言えば、かつては限りなく示唆的であり、文学史上はいまなお最高度に意義深いが、作品そのものの価値は今日ではきわめて低いと認められる書物が、どれほど多いことか。

これは、とりわけルソーのある種の著作に当てはまる。印象主義者に見られる sens propre、すなわち個人的感覚の特異な誇張は、究極的にはその多くをルソーへ遡ることができる。

印象主義が示す特殊な感受性のあり方がルソーへ遡るとすれば、その哲学理論は、「人間は万物の尺度である」という古代の格言が、近代思想のうちへ再び現れたものと見るのが最もよい。

この有名な命題は、ギリシア生活の決定的な時期に流布し始めた。そして実際、伝統的基準を脱ぎ捨てたあらゆる時代の観点を、ほとんど必然的に要約しているように見える。

決定的に重要なのは、この格言をソフィストの精神で解するか、ソクラテスの精神で解するかである。

印象主義者とソフィストによる理解の類似は疑いようがない。万物の尺度とされるのは、個人であるだけでなく、その個人の現在の感覚と印象なのである。

アナトール・フランス氏は言う。

「われわれは皆、自分自身の尺度で万物を判断する。判断するとは比較することであり、われわれには自分自身というただ一つの尺度しかなく、しかもこの尺度は絶えず変化しているのだから、ほかにどうしようがあるだろう。われわれは皆、移ろう外観にもてあそばれる玩具である。」

この格言を用いるにあたり、近年の作家のなかでエマソンほどソクラテス的精神を示した者は、おそらくいない。

彼は言う。

「真の人間はいかなる時代にも場所にも属さず、万物の中心である。彼がいるところに自然がある。彼はあなたを、すべての人間を、すべての出来事を測る。」

エマソンはこのように格言を肯定するが、そのためにフランス氏のように、相対性の教説と、それに伴う普遍的幻影の感覚へ屈したのではない。それどころか彼は、伝統ではなく洞察に基づく、人間本性の統一についての新しい感覚へ達した。

彼はどこかで、世界の最良の書物には、思想と感情の双方にこれほどの同一性があるため、それらが「すべてを見、すべてを聞く一人の紳士」の作品であるかのように思われる、と言っている。

エマソンにとって万物の尺度であるのは、明らかに、このすべてを見、すべてを聞く一人の紳士である。個人が万物の尺度であるのは、この本質的な人間本性を自分のうちに実現したかぎりにおいてのみである。

もっとも、二種類の個人主義者の境界を、実際に引くことはしばしば難しい。古代アテナイにも、たとえば『雲』のアリストパネスのように、ソクラテスを普通のソフィストとして扱った者がいた。

同様に今日でも、エマソンと普通の印象主義者との違いを見抜けない者がいる。サンタヤーナ教授は言う。

「エマソンの力の源は、教説ではなく気質にあった。」

実際、エマソンの言葉は、しばしば印象主義者の言葉と区別できない。

「私は戸口の上枠へ『気まぐれ』と書くだろう。」
「夢はわれわれを次の夢へ引き渡し、幻影に終わりはない。」
「人生は気分の流転である。」

しかし彼は、次の言葉を付け加えることを忘れない。

「われわれのうちには、変化せず、あらゆる感覚と精神状態へ順位を与えるものがある。」

印象主義者は、この絶対的判断の要素を否定する。したがって、自らの気質をエピクロス的な怠惰のうちに甘やかし、同時に、「移ろう外観にもてあそばれる玩具」にふさわしい、他人への軽蔑を含んだ寛容を示す自由を得る。

フランス氏は、自分は「人間を優しく軽蔑する」と言う。これに対しては、バークの言葉で答えるべきだろう。

「軽蔑から生じる種類の善意は、真の慈愛ではない。」

印象主義によって、文学的なディレッタントと享楽家が奇妙なほど増えた。彼らは「趣味については争えない(de gustibus non est disputandum)」という格言を、その作者さえ驚いたであろうところまで発展させた。

趣味の誠実な自由を求めるホラティウス的な弁護には、スペインの諺がひどく率直に述べる真理を、必要な歯止めとして加えなければならない。

「棍棒に値する趣味もある。」

サント=ブーヴはかつて、ニコラルドの発言があまりにひどく良識に反していたため、抑えがたい衝動に駆られ、彼を部屋から蹴り出したと伝えられている。

ダンテは、ある論敵へ返答する際、真のイタリア人らしい本能を示し、このような「獣性」には言葉ではなく、短刀で答えたい、と言っている。

かつて理解されていた意味での「良い趣味」は、二つの異なる要素から成っていたことを忘れてはならない。

第一は個人の感受性であり、第二は、その感受性を鍛え、抑制する外的規則の体系である。

この規則の遵守は、教養ある人々の共同体にとって一種の noblesse oblige、すなわち身分に伴う義務となった。この意味での趣味を、リヴァロールが人間の「文学的名誉」と定義したのは正しい。

外的規則が廃止されたからといって、趣味が漂流する感受性の気まぐれへ引き渡されたわけではない。

趣味は、感受性が内的に把握された基準に照らして正されるときにのみ得られる。この意味で、趣味は人間の「文学的良心」と定義できる。要するにそれは、低い自己と高い自己との闘争の一側面にほかならない。

もっとも、趣味はこのように意志の努力で獲得できるものではなく、生得的で他人へ伝えられない感覚、神秘的な選び、予定された少数者へミューズが自由に与える贈物であり、文学においても「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」と主張する者もいるだろう。

ヴォルテールは『哲学辞典』の「趣味」の項で、趣味の領域における選ばれた者の少なさを論じる。しかし、ほとんどその次の「恩寵」の項では、宗教において同じ教説を唱える者へ、あらゆる嘲笑の力を向ける。

かつては、個人だけでなく民族全体が、ミューズから見放されていると考えられた。ヴォルテールが悲しげに言うように、

Presque tout l’univers est barbare.
宇宙のほとんどすべては野蛮である。

今日でさえ、ドイツ人に機知がありうるのか、というブウール神父の有名な問いを、正当と考える者がいるかもしれない。

無限の勤勉と善意だけでは、趣味の獲得にほど遠いことを示す例は、ドイツにもほかの場所にもあまりに多い。

神学ではどうであれ、ゴーティエが述べるとおり、文学では、恩寵を欠く業は何の役にも立たないということが、なお真実である。

しかし趣味の問題に予定の要素を認めても、そのために、気質は宿命であり最終的なものだという印象主義者の説教へ同意する必要はない。

確かに誰もが、出発点となる気質的な趣味を持つ。しかし、この趣味をわれわれの本性のより高い要求へ従属させることにより、どこまで変えられるかは、容易には決められない。

ジョンソン博士は、自分に義務がなく、未来への配慮もないなら、美しい女性と郵便馬車で軽快に走り回って一生を過ごすだろう、と言っている。

これがジョンソン博士の気質的な趣味である。彼がフランス氏の弟子であったなら、これを最終的なものとして受け入れたかもしれない。

ボズウェルは、まさにこの問題についてジョンソンが激しく語った言葉を記録している。

「あなた、印象を信頼する習慣を身につけてはならない。印象を信頼していると、人は少しずつそれへ譲歩し、ついにはその支配下へ入り、自由な行為者ではなくなる。実際には同じことだが、自分は自由な行為者ではないと思い込むようになる。そのような状態にある人間は、生かしておくべきではない。……虎を信用できないのと同じく、彼を信用することはできない。」

ジョンソンは明らかに、自分の気質へ怠惰に安住することを、あらゆる大罪のなかでも最大のものと見る仏教徒に同意しただろう。

フランス氏の衰弱させる詭弁のあとでは、このような雷撃的発言は空気を清めるのに役立つ。

しかし、ジョンソンの観点は、個人が自分自身の印象を持つ権利を不当に否定しており、そのため、ある程度は時代遅れになったとも感じる。

結局のところ、われわれが新鮮で、生き生きとし、個人的な印象を持つのはよいことである。要するに感覚を目覚めさせるのはよい。しかしそれは、ただよりよく楽しむためではなく、「よりよく判断するために感覚を目覚めさせる」のでなければならない。

たとえばウォルター・ペイターは、感覚を目覚めさせる必要を絶えず強調する。しかし「洗練された感覚の奔流のなかで生きる」と語り、「見て触れるための一度の必死な努力」へ自分自身を集中するよう促す言葉には、誰にも見逃せない快楽主義の風味がある。

他方で、印象そのものの価値を禁欲的に否定すべきでもない。

知的な快楽主義を疑った別の批評家へ、ブリュンティエールはこう言ったと伝えられる。

「あなたはいつも、自分を喜ばせるものを褒める。私は決してそうしない。」

これは、規則に従って笑おうとしたラシーヌの喜劇の観客にふさわしい、趣味の禁欲主義である。

このためブリュンティエールは、自然に反動的な態度へ導かれた。個人主義の悪い可能性だけを見たため、近代人に、万物の尺度であるという主張を捨て、再び外的権威へ服従するよう求めたのである。

十七世紀のある種の批評家は、完全に個人の外にある基準を確立しようとした。印象主義者は反対の極端へ走り、完全に個人の内にある基準を立てた。

問題は、プロクルステスとプロテウスとの中間を見いだすことである。この正しい中道は、個人のうちにありながら、その個人的自己を超越し、ほかの人々と共有する本性の部分を捉えるものとして本人に感じられる基準にあるように思われる。

印象主義者は、移ろう印象から訴えることのできる、このような判断原理を個人へ認めないだけではない。さらに進んで、人類全体にも、普遍的幻影と相対性から脱するいかなる道も認めない。

要するに彼は、古い教会の格言、

Securus judicat orbis terrarum.
全世界の一致した判断は確かである。

に表された教説を否定する。この教説がどれほど根本的なものかは、リンカーンの言葉とされる形で、民主主義の礎石になったことからもわかる。

「すべての人を、いつまでも欺くことはできない。」

アナトール・フランス氏は、先のサント=ブーヴと同じく、人類全体には、自らを正し、自らの誤りと幻影へ打ち勝つような力は備わっていない、と好んで主張する。

名声の虚しさについてのサント=ブーヴの文章だけでも、一章を作れるだろう。

フランス氏も言う。

「後世は、古代の作品の四分の三を滅びるままにした。残りも恐ろしく損なわれるままにした。……保存されたわずかな作品のなかには、忌まわしい本でありながら不滅となったものがある。ウァリウスはウェルギリウスに匹敵したと言われるが、滅びた。アイリアノスは愚か者だったが、生き残っている。後世とはこのようなものだ。」

ここでも、二種類の個人主義者の対照は絶対的である。

エマソンは言う。

「文学的名声に偶然はない。各書物について最後の評決を作る者は、その時々の偏った騒がしい公衆ではなく、天使の法廷のようなもの、買収されず、哀願にも屈せず、威圧もされない公衆であり、各人に名声への資格があるかを決定する。残るに値する書物だけが伝わる。ブラックモア、コッツェブー、ポロックは一夜をしのぐかもしれない。しかしモーセとホメロスは永遠に立つ。あらゆる書物の永続性を決めるのは、友好的または敵対的な努力ではなく、その固有の比重、すなわち、その内容が人間の不変の精神にとって持つ内在的重要性である。」

したがって、われわれの批評基準を完全に定義するには、現在の少数の慧眼な者の判断が、後世の評決によって承認されなければならない、と付け加えるべきである。

II

以上が、われわれの批評基準の概略である。次には、それがフランスその他における同時代生活の主要な傾向と、どのように関係するかを、さらに詳しく考察しなければならない。

現状のもとでは、定義の第一部分――「少数の慧眼な者」――を、いくら強調しても強調しすぎることはほとんどない。

文学において、すべての公衆をいつまでも欺くことが不可能だとしても、ある時期にはすべて、またはほとんどすべての公衆を欺き、いつでも公衆の一部を欺くことは、あまりに容易である。

その反対の見解を促しているのは、現在世界で最も活発な力、すなわちルソー的民主主義と定義できる力である。

ルソー主義者――私はためらわず、これを疑似民主主義者と呼ぶ。近代の活動を説明するのに、これほど多くの「疑似」という語を必要とするのは残念だが――は、規範から人文主義的または貴族主義的要素を取り除こうとする。

彼は、書物を少数の慧眼な者への訴えによってではなく、平均人へ直ちに及ぼす効果によって評価しようとする。

周知のように、トルストイは『芸術とは何か』で、この誤謬――人道主義的誤謬と呼んでよい――の極端な形を擁護し、十九世紀文学の傑作は『アンクル・トムの小屋』であると結論した。

ここまで案内役としてきたエマソンは、この点ではほとんど助けにならない。彼自身にも、同世代全体と共有した人道主義的な幻想があった。

人間は万物の尺度であるという好みの教説を、新しい形で述べて、エマソンは言う。

「われわれこそ光度計であり、精妙な元素の蓄積を測る、敏感な金箔と錫箔である。真の火が百万の仮装のいずれを取っても、われわれはその真正な効果を知る。」

当然ながら、ここで言う「われわれ」とは誰か、と問いたくなる。

人間が光度計、すなわち光の尺度であることを認めても、エマソンが時に危うく主張しかねないように、この理想的な尺度が、普通の、鍛えられていない個人のうちに損なわれず存在すると付け加えるのは不合理である。

別の箇所でエマソンは、ゲーテについて言う。

「彼は、軽く扱われることも、千年にわたり人々の信仰を占領してきた老婆の昔話を繰り返すことも嫌う。『私はこれらのものの尺度となり、裁判官となるためにここにいる。なぜ信頼だけで受け入れなければならないのか』と、彼は言っただろう。」

これはゲーテならよいかもしれない。しかし街頭の普通人が、同じように万物の尺度を自称すると、その結果は、俗悪な思い上がりと区別しにくいことが多い。

人道主義的誤謬だけなら比較的無害だっただろう。しかしそれは、平均人の趣味へ迎合することに利益を見いだす商業主義、そして伝統の抑制的感覚を失い、純粋に同時代的なものへ精神を浸し、飽和させるよう促す印象主義と、完全に符合する。

そのため、これらの要素は結合し、高く厳しい趣味の基準すべてを脅かすものとなった。

描写する事態と同じく不快な語を用いるなら、文学は俗悪化され、商品化され、新聞化される危険にさらされている。

自分自身の凡庸さと読者の凡庸さとの関係だけで、相当な名声を築いた批評家もいる。

サント=ブーヴは、文章を書くとき、ときおり額を高峰へ上げ、尊敬する不滅の人々の一団へ目を据え、こう問うべきだと言う。

「彼らはわれわれを何と言うだろうか。」

この助言を、アメリカの雑誌編集者についての有名な逸話と対照できる。彼は若い寄稿者へ、オシュコシュに一人の老婦人がおり、つねに彼女を念頭に置き、その老婦人に理解できないことは何も書かないよう注意しなければならない、と言った。

巨匠たちが理想的に臨席するなかで書くか、オシュコシュの老婦人が臨席するなかで書くかでは、明らかに違いが生じる。

人道主義的誤謬は、われわれの批評基準を完全に覆す恐れがある。なぜなら、この基準は、現在の少数の慧眼な者の判断を、伝統という黄金の鎖に体現された過去の少数の慧眼な者の判断によって支えるものだからである。

さらにわれわれは、個人における選択の必要を、近年のどの作家よりも幸福に強調したかもしれないエマソン――たとえば詩「日々」において――が、伝統に体現された選択の知恵も強調しながら、それにもかかわらず、普通人、すなわち鍛えられず、選択せず、伝統を持たない人間へ、過度の励ましを与えたという事実にも向き合わなければならない。

彼の影響が、重要な点で疑わしいものであったことは否定できない。

ブラウネル氏は言う。

「知り合いの、こましゃくれて元気のよい人々は、ほとんど全員エマソン主義者である。」

誤解を避けるには、この「こましゃくれた元気」の性質を注意深く調べ、なぜエマソンを――少なくともエマソンの一面を――愛しながら、同時にエマソン主義者を極度に疑うことが可能なのかを示す必要がある。

以前の章で私は、ジュベールとエマソンのさまざまな類似を強調し、同じ章でジュベールとスタール夫人を、それぞれプラトン的熱狂者とルソー的熱狂者の明確な型として対照した。

そこで問題となるのは、エマソンの熱狂が、ジュベールのように純粋にプラトン的であるかどうかである。

彼の崇拝者の多くは、ためらわず肯定するだろう。実際、近年には、エマソンがほとんど全面的にプラトンへ由来することを証明しようとする一冊の本さえ書かれた。

他方、別の作家は、エマソンをルソーが持った最も立派な弟子だと断言する。

実際、エマソンの言葉の多くにジュベールの対応物があるとしても、おそらくそれ以上の言葉が、ルソーと並行する。

われわれの公式をあまり衒学的にエマソンへ押しつけずに言えば、ジュベールとルソー――またルソーの弟子スタール夫人――には別々に存在する心理的特徴が、彼のうちには共存している。その混合はあまりに奇妙であり、エマソンを文学史上、最も位置づけにくい人物の一人としている。

エマソンとルソーとの明白な接点は、自恃の教説である。この教説は『エミール』の多くの箇所で説かれ、一般にエマソンの中心教説と認められている。

しかし、エマソンの自恃における「自己」とは何か。

彼自身の言葉で言えば、

「普遍的な信頼を置くことのできる、根源的な自己とは何か。」

彼は続けて答える。

「それは、天才、徳、生命の本質であると同時に、その源でもあり、われわれが自発性または本能と呼ぶものである。われわれはこの第一の知恵を直観と呼ぶ。」

この自発性の理論が、さまざまなドイツおよびニューイングランドの経路を通じてルソーから来たことは、十分に明らかである。

しかしエマソンは、ルソーのように「自発性」その他の類似語を、純粋な膨張の過程、すなわち衝動が外的障壁と拘束へ勝利することを意味するために用いるのか。

何よりも彼は、「直観」という語をルソー的に用いるのか、それともプラトン的に用いるのか。

ここに、すでに述べた彼の天才における諸要素の奇妙な混合が現れる。

彼は明らかに、統一についてのプラトン的知覚と、それに伴う高揚と平静を持つ。同時に、人格の純粋に遠心的な力を称揚し、それを同じ水準へ置く。

彼は、神を「内的抑制」とする東洋の定義――ルソーには決して思いつかなかっただろう定義――を賛同して引用しながら、ほとんど同じ息で「神的な膨張」について語る。

本能は直観と同等に尊ばれ、しばしば同一視される。

膨張する本能がこれほど神聖な人間本性に、なぜ内的抑制が必要なのか、このように定義された神は、なぜエピクロスの神々の役割へ安全に縮小できないのか、と疑いたくなることがある。

人間の心には、信頼できる自己とまったく異なる方向へ導く邪悪な原理があり、それを鍛え、征服することこそ、この自己の仕事なのではないか。

エマソンは答える。

「堕落という命題を心に抱くことは、放蕩と冒瀆の最後の形である。」

このようにエマソンは、人間本性に内在する悪を否定する点で、ルソーと一致する。

私には、ここに彼の主要な弱点があり、ほかのすべての弱点がそこから派生しているように思われる。ワーズワースその他、多くのルソー主義者と同じく、彼はこのように「人間の運命の半分から目を背ける」。

邪悪の問題に対するこの態度は、確認された事実へあまりに反し、厳密で明晰で誠実な思考すべてへあまりに対立するため、それを取った者すべての評判を、長期的には深刻に傷つけるかもしれない。

ここで奇妙な考えが浮かぶ。

エマソン以前にアメリカが生んだ最も独創的な思想家と思われるジョナサン・エドワーズの評判は、邪悪の問題を扱う際の、まさに反対方向の過剰によって、深く傷つけられてきた。

歴史的に見れば、エマソンによる邪悪の否定は、『怒れる神の御手のうちにある罪人』というエンフィールド説教からの、極端な反動を示すにすぎない。

エドワーズは邪悪を利用して、精神的な恐怖政治を確立し、それによって崩れかけた神学を支え、補強しようとした。

しかし、罪とその実在を扱うエドワーズは、事実を誇張しているにすぎない――ほとんど狂気じみた執拗さで誇張していることは認めなければならない――のに対し、エマソンとルソー主義者は事実そのものを拒絶している。

おそらくそれが、エドワーズの恐るべき論理的把握力と、エマソンの弁証法的な弱さとの対照を生む一つの理由である。

実際、エマソンほど弁証法の弱い者を、そもそもプラトン主義者と呼べるかは疑わしい。

プラトンの対話篇にソクラテスとエマソンが登場したなら、ソクラテスは彼を追及し、鋭く識別的な定義を要求し、エマソンが曖昧に用いている「自然」「本能」といった語について、次々と区別を設けただろう。

彼には、より表面的な思考技術が欠けるだけではない。この欠陥のため、専門哲学者の多くは、彼をまったく承認しようとしなかった。

それ以上に、彼には、作品の二つの主要側面を結び合わせる、本質的な一貫性が欠けている。

一方には、彼が自分の世紀と共有した、唯一的なもの、個別的なものへの強調がある。他方には、彼があらゆる世紀の予見者と共有した、精神的集中と統一の知覚がある。

ジュベールによれば、真剣な思想家は、一つの真理を述べるとき、それを正し、条件づける反対の真理も同時に述べなければならない。さもなければ真理は健全さを失い、酔わせるものとなる。

通常、エマソンは真理と、それに対する反対の真理の双方を与える。しかし同じ水準の思想家なら生命ある弁証法によって両者を結びつけるところ、彼にはその結合がない。そのため弟子たちは、酔わせるものだけを取り、矯正物を残すことができた。

規律も義務も伴わない「理想」など、藁一本の価値もないと思われる。しかしエマソンからは、理想主義と称しながら、まったく規律的でなく、ただ漠然と楽観的に高揚させるものを抽出できた。

自然と人間本性の法則を確かめ、それへ自分を適合させようと努力する代わりに、エマソンの影響のもと、彼自身の表現で「大きさを限定されない甘美な感覚」に満たされ、「火薬の気体のように弾力的」となる。

要するに、罪と苦しみという厳しい現実を、一種の感情的陶酔によって消し去れると信じるよう促されるのである。

エマソンのこの面は、明らかに一方でルソーと関係し、他方で、アメリカの国民的気質のうち最も疑わしい側面、クリスチャン・サイエンスに極端な表現を見いだす側面と関係する。

ルソーの教義を要約すれば、

「人間は善く、自然は美しい。」

近年のクリスチャン・サイエンティストの信条は、

「私は愛らしく、世界もまた愛らしい。」

である。

エマソンのこのルソー的側面は、個人のうちにある善と悪との闘争を曖昧にするだけではない。文化の必要、個人が自分の問題を解く際に、社会から、さらに一般には現在および過去の他者の経験から得られる助けの必要も、曖昧にする。

エマソンが断言するように、時代がみすぼらしい凡庸さに苦しんでいるなら、その原因は、個人がこの凡庸さへ自らの無謬の直観を対置する自信を、十分に示さないことにあるはずだ。

エマソンは、同調の恐ろしさを強調して飽きることがない。

たとえばイングランド国教会に現れた同調は、

「目をガラスのようにし、肉体を膨れさせ、声へ喘鳴する響きを与える。」

しかし、ある種のエマソン主義者は、むしろ非同調の恐ろしさを思わせる。

内なる神託だけを頼り、自分は霊感を受けたと考えながら、実際にはただ奇矯だった者の例は、あまりに多い。

最後には、人は自分自身の光によって歩まなければならない。しかし、その光が闇ではないことを最初に確かめるのが、どれほど恐ろしく困難かを、エマソンから知ることはできない。

「引用と独創性」の論文で、エマソンは、結局のところ個人がどれほど小さなものであり、その最善は引用し模倣することだと、詳しく論じる。

個人は謙虚になり、バークの表現なら、自分の私的な才知の資本だけで取引する危険を自覚し始める。

しかしそのあと、エマソンは付け加える。

「過去が優勢だというあらゆる議論には、『天才』という単純な一語が十分な返答となる。……天才は、歴史のあらゆる証言に逆らい、自分の最もかすかな予感を信じる。」

この心強い言葉を聞けば、個人は芽生えかけた謙虚さを失い、再び火薬の気体のように弾力的になりそうである。

これほど頼もしい内なる神託があるなら、伝統を吸収して基準を築く厳しい努力を、なぜ経なければならないのか。

パスカルなら、エマソンの人間の偉大さについての感覚は、人間の悲惨についての感覚によって十分に和らげられていない、と言っただろう。

エマソンによれば、

「個人は、自らの本能の上へ不屈に立たなければならない。」

近年、シカゴのある医師は、平均人には「殺人の本能」があると断言した。そして統計を信じるなら、ますます多くのアメリカ人が、その上へきわめて不屈に立っている。

もっとも私は、エマソン主義と殺人との関係を確立しようとしているのではない。

自分自身の本能の上へ不屈に立つ者に起こりそうな最悪のことは、自分自身の粗野さの上へ不屈に立つことである。

エマソンは断言する。

「近年の哲学の肯定的原理は、個人が私的に自給する力への信頼である。」

エマソンが言う独創的天才の哲学の始まりを見、その犠牲になりかけたゲーテは、こう述べる。

「まるで人間が、自分自身から、自分の不器用さと愚かさ以外の何かを得るかのようである。」

したがってエマソンは、知恵の第一の徴である謙虚さへ、しばしば逆らって働く影響を持つ賢者であり、人間本性への追従者に数えなければならない真の賢者である。

すでに述べたように、彼はルソー主義と洞察との、いささか人を惑わせる混合である。

ある時には、神学者の表現なら恩寵の状態に生きる、真に宗教的な精神という印象を与える。しかし別の時には、宗教的精神をルソー的に戯画化した「美しい魂」を、あまりに強く思わせる。

しかしアーノルドが述べるように、光は稀少であり、見いだしたところではどこでも大切にしなければならない。

したがって、エマソンの光が不可能な楽観主義としばしば結びついているとしても、それを大切にしなければならない。同様に、ジョナサン・エドワーズの光が不可能な神学と結びついていても、それを大切にしなければならない。

エマソンが最良の瞬間に知覚する「大霊」は、真の大霊であって、ルソー主義者が代用品として立てる「下位の魂」ではない。

したがって、彼はわれわれの批評基準を形作る助けとなる要素を与えうる。

しかし、その要素を誤解を招かず利用するには、彼自身がこれほど惜しんだ鋭い区別によって、周囲を固めなければならないことを、私は明らかにしようとしてきた。

III

われわれが求めるのは、過去に基づいて規律と選択を行いながら、単なる伝統主義者ではない批評家である。

その者が伝統を保持することは、絶えず厳密で明晰な思考を行うこと、言い換えれば、過去の経験を現在の変化する必要へ絶えず適応させることを意味する。

過去をこのように正しく批評的に解釈するため、誰を模範とすべきか。

十九世紀は最も歴史的な世紀だと一般に考えられているにもかかわらず、その模範を見いだすのは奇妙なほど難しい。

この時代には、過去への二つの主要な態度が支配した。それぞれ、科学的態度とロマン主義的態度と定義できる。

科学的態度を持つ者は、主として過去の事実を調査し、確定することへ関心を持つ。

一方ロマン主義者は、事実の単なる絵画的趣向を楽しむか、現在から過去へ避難し、テーヌの表現なら、自分のための「不在証明」を作るために過去を使う。

しかし過去は、第一に研究の実験室としてでも、夢の木陰としてでもなく、経験の学校として見るべきである。

それでは、伝統へ十分に参入しながら、それを現在へ作用させる方法も知る者はどこにいるか。

サント=ブーヴでさえ、この点では完全にわれわれを満足させない。

彼は、過去五十年以上、人間精神の上へ疫病のように広がった自然主義的宿命論の犠牲者の一人だった。

彼は言う。

「人間は自由という幻影を持つ。」

その知識から利益を得る自由がないなら、過去を知ることに何の意味があるのか。

これに対して、ゲーテ――サント=ブーヴ自身が批評家の王と呼ぶ者――と、ゲーテの全作品を研究することから得られる主要な利益は「ある種の内的自由」である、という言葉を思い起こす。

実際ゲーテは、われわれが求めるものへ、ほかのどの近代人より近づいている。

ただし、ロマン主義的または科学的なゲーテではなく、エッカーマンその他との対話、および晩年の批評的発言に現れる、人文主義的なゲーテである。

批評という技芸の実際の実践者としては、彼はフランスの最良の批評家より劣るように思われる。

しかし、批評的精神の習慣へ導く者としては、比類がない。

サント=ブーヴの表現によれば、彼は単に伝統ではなく、あらゆる伝統を吸収し、それでいて近代人中の近代人であることをやめなかった。

彼は水平線に現れる新しい帆をすべて見張るが、それをスニオン岬の高みから行う。

より広い背景と遠近を用いて、個人的洞察を完全にし、支え、現在を本来あるべきものにしようとする。すなわち、過去の奴隷的模倣でも、その空虚な否定でもなく、創造的継続とするのである。

彼は言う。

「その時々の誤りと逸脱に対して、普遍的歴史の大群を対置しなければならない。」

絶対者について理論を作るのをやめ、その実際の現れのうちに絶対者を認めることを学ぶよう求める。

多のうちに一を見る人文主義的な技芸の、この特殊な形は、ギリシア・ローマ古代その他の時代と異なり、膨大な量の検証された人間経験を利用できるわれわれの時代に、とりわけ適しているように思われる。

私は、われわれの目的に重要なのは、ルソー的ゲーテではなく、人文主義的ゲーテだと述べた。

しかし、自発性または独創的天才というルソー的理論の、当初はドイツにおける主要な唱道者だった彼が、ルソー的態度から人文主義的態度へ移る過程は、その最終結果とほとんど同じほど教訓的である、と付け加えるべきである。

すでに引用した一文からも、その反動がどれほど完全だったかを推測できる。

彼はエマソンのように、「大きさを限定されない甘美な感覚」を培い続け、火薬の気体のような弾力性を感じ続けることはなかった。

要するに、ロマン主義的な誇大妄想へ永久に満足しなかった。

彼は、ルソー主義者が信じさせようとするように、制限を脱ぎ捨てることによってではなく、制限を引き受けることによって、人間は進歩するのだと発見した。

『ヴィルヘルム・マイスター』と、その後期作品の多くが教えるのは、個人は自分の気質と衝動を、それより高いものへ服従させなければならない、言い換えれば、断念しなければならないということである。

ゲーテが宣言する、自分自身へ絶えず死ぬ過程――stirb und werde、「死して成れ」――は、もちろん宗教における最も深いものの多くと一致する。

しかしゲーテの断念は、まったく禁欲的でないことに注意すべきである。それは、この生の経験から自然に成長したものに見え、宗教にしばしばあるような、生への暴力的な否定ではない。

ゲーテ自身が断念したのは、ルソー的な夢想の世界だった。

彼はますます、夢見ることから行うことへ向かった。

ライプニッツの用語とアリストテレスの用語を組み合わせ、彼は、人間は絶えざる努力によって、単なるモナドからエンテレケイアへ自分を高めなければならない、と言う。

この方法によってのみ、この世の幸福と、次の世での存続を望むことができる。

ゲーテの中心思想を最もよく要約するものとして、『ファウスト』第二部の末尾で、天使たちが業による救済を宣言する詩行を挙げてもよい。

Wer immer strebend sich bemüht,
Den können wir erlösen.
つねに努め励む者を、
われらは救うことができる。

しかしゲーテについて最初の疑いが生じるのは、まさにこの業の教説、とりわけ『ファウスト』第二部に具体化された教説に関してである。

私はエマソンへ反対するため、ゲーテを引用した。公平を期すなら、今度はゲーテの限界について、エマソンを引用しなければならない。

エマソンは「代表的人物」でゲーテを心から称賛したあと、結局、彼は最高の統一を崇拝しなかった、と述べる。

この判断が、文化への疑いと分析への嫌悪という、エマソンのルソー的側面を反映するだけなら、無視してよい。

しかしエマソンは、ルソー主義者であるだけでなく、予見者でもあった。そしてゲーテは最高の統一を崇拝しなかったという命題には、私には、彼のルソー主義と同じく、洞察も現れているように思われる。

ゲーテが最高の統一を崇拝しなかったと言うのは、彼に宗教的高揚が欠けていたと言うことにほかならない。

いずれにせよ、存在の諸平面を混同したという非難を、前世紀の大多数の人間より受けにくい。

彼は、科学その他の教条主義によって視野を塞がず、宗教的平面にさえ開いていた。

彼は、ルソー主義者の疑似精神性、すなわち外的現実から後ずさりしながら、「心」の底なしの穴を目眩するほど凝視する態度から、きわめて完全に自分を洗い清めた。彼の『タッソー』は、これに対して警告する。

要するに、彼はわれわれの内にあるロマン主義的な夢想の世界から脱した。

しかし、天国もまた内にあるという、かなり高い権威による言葉がある。

内的生活そのものにも、進む方向の選択、道の分岐があるように思われる。

ゲーテなら、自分はロマン主義的な病だけでなく、キリスト教的な病からも脱しようとしたのだと、ためらわず答えただろう。

すでに引用したサント=ブーヴの言葉では、ゲーテは単に伝統ではなく、あらゆる伝統を吸収していた。

それでは、ユダヤへ遡る伝統についてはどうか。

答えは決して単純でない。

死のわずか数週間前に、キリスト教へ捧げた印象的な賛辞を思い起こす。

しかし同時に彼は、パスカルが宗教へ与えた害は、十八世紀のすべての理神論者と無神論者を合わせたものより大きいという、若い頃の確信を保持していた。

パスカルが描く人間の運命は、ジョナサン・エドワーズのそれと、いくらか色彩が薄いだけで同じである。

一方には、絶対的で恣意的な主権を持つ神がいる。他方には、罪のうちに無力にのたうつ人間がいる。両者の隔たりを越えるものは、「雷鳴と、目に見える恩寵の転覆」だけである。

この、いささかメロドラマ的なキリスト教の形、聖アウグスティヌスの巨大な精神的ロマン主義は、疑いなくゲーテの好みに合わなかった。

禁欲的含意を持つこの種の内面性に対し、ゲーテは肉と霊との和解を求めた。彼を非難する者の言い方なら、異教徒になろうとした。

少なくともアウグスティヌス的キリスト教への態度において、彼は近代精神の主要な流れと一致するという利点を持っていた。

世界が苦労して得た肉と霊との和解を放棄し、再び粗布をまとい灰をかぶるには、ほとんど想像を絶する災厄が必要だろう。

しかしゲーテは、恩寵の真理を全面的に否定したり、より高い力の手のうちにある人間の無力さを感じなかったりするには、あまりに偉大だった。

彼はこの力の前に精神的に頭を垂れることができ、人間が単なる巨人族に留まらないためには、その業がこの力の祝福を受けなければならないことを知っていた。

それでも彼は、根底において解けない神秘ではなく、業と、業を行いうることへ人間の注意を向けようとした。

知恵の少なからぬ部分は、これにある。すなわち、それ自体が無益な問題、または精神の把握をまったく越える問題に、精神を留めないことである。

現在、私は自分の主題からかなり離れ、したがって無益な領域へ迷い込んでいるように見えるかもしれない。

これに対する私の答えは、批評の主要問題、すなわち個人的気まぐれへ対置する基準の探求が、同時代思想一般の主要問題でもあり、第一原理まで遡らない解決は無価値だということである。

さらに、フランス批評についての書物で、私がエマソンとゲーテへこれほど多くの紙幅を割くのは、規律と基準の問題が、現代フランス思想家の一学派全体が信じたがるように、フランス生活だけの言葉で解決されるものではなく、国際的な問題だという信念を、この方法で強調するためである。

最後に、恩寵と善行についての私の議論が、ある者に古風な響きを持つように見えるなら、単純な心理分析も一定の地点まで進めば、別の用語で神学と同じ問題へ出会う、というサント=ブーヴの言葉で答えよう。

人間の生得的な才能にも、その才能を何らかの適切な目的へ用いることにも、恩寵の要素がある。

サント=ブーヴは、この神秘について試みられたさまざまな説明を列挙する際、すでに指摘したように、東洋の業(カルマ)の教説に体現された、きわめて興味深い説明を省いた。

業の教説によれば、人間の生活のうち、明らかに本人の意志と現在の行為から独立している大部分は、以前の行為の結果にすぎない。

この教説は、神の自由な気まぐれによる、いささかメロドラマ的な介入に代えて、厳密な因果の連鎖を置くため、信奉者へ及ぼす作用は、アウグスティヌス的キリスト教とは大きく異なるに違いない。

しかしこれは、困難を数歩後方へ移すだけである。この教説そのものも、それが含意する再生の信仰も、普通の知性の立場からは、恩寵の教説と同じく思考不能である。

業の主要な提唱者であるブッダ自身が、この点について証言している。彼はこれを、四つの「思考不能なもの」の一覧へ入れる。

この法則の働きを直接把握しようとする者には、苦しく厄介な精神的習慣が生じ、それが狂気に終わることさえある、と彼は言う。

業への信仰は、いわば意識の背景へ溶けたまま留まり、そこからわれわれの行為を照らすべきである。

実際の注意は、いま目の前にある「道」の一歩へ固定すべきである。

アウグスティヌス的キリスト教徒、すなわち業から背を向け、恩寵の神秘を永遠に思い悩むよう人間へ求める者を、ブッダがどう考えただろうかは推測できる。

一貫したカルヴァン主義者にとって、唯一まともな行為は狂うことだ、というホームズの言葉に、ブッダも同意しただろう。

さてゲーテへ戻れば、恩寵から業へ背を向けたことには、彼の最高の良識と、健全な精神衛生への本能が示されているのかもしれない。

彼は自分自身の「思考不能なもの」の一覧を定めた。それは、考えられるほどブッダの一覧と異なっていない。

たとえば両者とも、個人的不死についての思索を無益として退けた。

専門哲学者が好んで論じる問題のうち、それ自体解けないか、ブッダの表現なら「向上に資する」ものではないため、有益に退けられる問題が、ほかにもどれほど多いことか。

ゲーテが強調したように、人間が失敗するのは、究極問題についての光が欠けるためよりも、直ちに目の前にある、ごく明白で、しばしばきわめて卑近な義務を怠るためである。彼の表現では、「その日の要求(die Forderung des Tages)」を満たさないためである。

このように直接の実践へ目を向ける点で、ゲーテは、行為への天才を示してきた民族の適切な代表者、ジョンソン博士と一致する。

あらゆる理論は意志の自由へ反対し、あらゆる経験はそれを支持する、とジョンソンは言う。これは、この問題について私が知る最も幸福な表現である。

ゲーテと同じくジョンソンも、教条的な超自然主義者と教条的な自然主義者の、形而上学的迷路へ入ることを、最初から拒んだ。

テーヌのような教条的自然主義者が問題へ近づく方法も、教条的超自然主義者の方法と同じく、思考不能なものを思考しようとする試みを含む。ブッダもその点を指摘した。

一と多、および人間と両者との関係は、最終的な定式化を永遠に逃れるに違いない。

それでは、ゲーテの業の教説について、なぜ疑いを感じるべきなのか。

答えは、ロマン主義的な病、および彼にはキリスト教的な病と思われたものへ反動する際、彼が業を、個人の内的生活から外界へ移しすぎたということである。

この点は、ある面で彼の師である偉大な古代人、アリストテレスと比較すれば明らかになる。

ゲーテの一般的気質が、プラトン的というより、はるかにアリストテレス的であることを、誰も否定しないだろう。

プラトンは思考の一面で、たとえば徳は「自然によるものでも、獲得されるものでもなく、有徳者へ神の贈物として訪れる」と『メノン』で言うとき、恩寵の教説を先取りする。

これに対しアリストテレスは、徳は獲得できるという前提を一貫して取り、したがって徹底的な業の支持者である。

しかし、彼が行うよう求める業は、第一に功利的なものではない。

彼は、ファウストのように海から沼沢地を干拓するのではなく、悪い習慣から自分自身の低い自己を救うために働くよう求める。

さらに、低い自己へ課され、それを鍛える目的は、一連の中間的目的を介して、最高で完全な目的そのものへ結びついている。

言い換えれば、それは究極的に、エマソンが最高の統一と呼ぶものへの直観に基づく。

実際アリストテレスは、プラトンほど習慣的にこの統一を意識しない。

厳格なキリスト教徒には、プラトンでさえ恐ろしく「シオンで安逸をむさぼる」ように見える。しかし彼には、無限の前における人間の無力さへの感覚、要するに、業へ注意を向けすぎる者が絶えず失う危険にある謙虚さが、アリストテレスより多くある。

アリストテレスはプラトンほど最高の統一へ心を占められていない。しかし私は、ゲーテよりはそれへ心を占められていると思う。

ゲーテは、すでに示そうとしたように、単なる自然主義者をはるかに越える。それでも最終的には、アリストテレスより自然主義的に、すなわちより膨張的に人生を捉えている。

彼は巨大な膨張の時代に生まれ、その主要な流れへ引き込まれた。

『ファウスト』第一部で彼は、この時代を支配する二つの主要な力へ、最も幸福な定式を与えた。

一つは科学的実証主義――Im Anfang war die Tat、「初めに行為ありき」――であり、もう一つはルソー的ロマン主義――Gefühl ist alles、「感情こそすべて」――である。

アリストテレス的立場からは、行為と感情だけでは足りず、行為を導き、感情を鍛える適切な目的が介在しなければならない、と反論するだろう。

そしてゲーテ自身も、年齢を重ねるにつれ、この点でますますアリストテレス的になった。

それでもなお、『ファウスト』第二部の末尾では、行為と感情の双方を、膨張の言葉で捉えすぎている。

すでに私は、行為についての彼の考えを、アリストテレス的観点から批判した。次には同じ観点から、感情についての考えを少し検討しよう。

周知のように、ゲーテは「われわれを上へ引く」「永遠に女性的なるもの」を、感情の最も崇高な形として称賛する。

ここで、最高の統一を崇拝しなかったとは到底非難できない詩人ダンテと、「地獄の城壁を築いた原初の愛」についての宣言を思い起こす。

ダンテの構想は、われわれを震え上がらせるほどの選択性を含む。

しかしゲーテのように最高の愛を捉えることは、反対の極端へ走り、そこから判断と選択の要素を完全に除くことではないか。

永遠に女性的なるものがわれわれを上へ引くとしても、上に留めておけるのは永遠に男性的なるものだけだ、ということを忘れるのではないか。

最高の愛は、もっぱら判断的でも、共感的でもなく、判断と共感との生命ある媒介、すなわち選択する愛であると推測できる。

それは、ゲーテの表現で、言い表せないものが成就する超理性的平面に属する。

これで、エマソンが、ゲーテは最高の統一を崇拝しなかったと言ったとき、どのような意味で正しかったかが見え始める。

『ファウスト』第二部における人生観は、過去一世紀にあまりに馴染み深かった二つの極端へ、明らかに分裂する傾向を持つ。

一方には、第一に功利的精神で捉えられた業の観念があり、他方には、拡散的で選択しない共感がある。

最高の統一が加われば、業は外界から個人の胸のうちへ戻され、共感は選択的になっただろう。

そうなれば、より人文主義的で、より人道主義的でない観点を得られたはずである。

もっとも、『ファウスト』第一部の単なるロマン主義的冒険者――「目的も休息もない非人間(der Unmensch ohne Zweck und Ruh)」――を、善い人文主義者、さらには善い人道主義者へ変えることは、ゲーテにとって容易な仕事ではなかった。

したがって、人文主義者としてのゲーテを十分に正当に評価するには、『ファウスト』だけへ厳密に限定すべきではない。

真の人文主義者、すなわち共感しながら選択する者は、生きた、柔軟な、直観的基準を自分のうちに持つ。

アリストテレスは、このような人間を、趣味と行為に関するあらゆる問題の裁定者とする。それらは、彼なら決定するように決定されるべきである。

人が少数の慧眼な者に属するのは、単にそのように生まれたためでありうると、アリストテレスは認める。

この事実の背後へ進めば解けない神秘へ陥るだけなら、それを試みなかったことはアリストテレスの良識を示す。

ギリシアの詩人が言うように、人間には三種類がある。

第一は、自ら洞察を持つ者。第二は、自ら洞察を欠いても、他者の洞察を認める知恵を持つ者。第三は、洞察も、それを認める知恵も持たない者である。そして詩人は、最後の者こそ本当に役に立たない人々だと付け加える。

人生の不快な事実は、あまりに多くの者が第三の部類に属し、ジュベールの風変わりな表現なら、頭に天窓を持たない者があまりに多いことである。

ほかの点で非常に卓越した人間でも、天窓を欠くことがある。私にはテーヌがそれを欠いていたように思われる。

またベルクソン氏のように、精神的直観ではなく、美的直観を主として強調しても、困難から逃れられない。

普通人は、どれほど努力しても、たとえばキーツのような美的知覚力を持てない。それは、エマソンのような精神的知覚力を持てないのと同じである。

いずれの場合も、その試みは、自分の身長へ一キュビトを加えようとするのと同じ種類に属する。

批評のため完全に装備されるには、ある程度、双方の知覚力を持たなければならない。

しかし、ヴォルテールが趣味について行うように、恩寵と予定の明白な要素をあまり強調すべきではない。そうすれば業の真理を無視することになる。

まして、街頭の普通人を万物の尺度と見てはならない。そうすれば恩寵と業の双方の真理を無視することになる。

何よりもトルストイのように、文学的・芸術的規範を、教育を受けていない農民に求めてはならない。それは一種の逆立ちした恩寵を立て、精神病院的妄想へ陥る差し迫った危険を冒すことである。

恩寵その他の教説を正しく用いるなら、それはわれわれを謙虚にするのであって、病的または落胆させるものではない。

自分自身へ適度な不信を持つべきである。その不信は、伝統によって自らの洞察を強めようとする姿勢に現れる。

また、われわれの業が虚しいものとならないためには、内から、上から照らされ、導かれなければならないことを、完全に認めなければならない。

それでもなお、文学においてもほかの領域と同じく、主要な強調は業へ置かなければならない。

私が定義しようとした意味で業を行うこと、すなわち自分の行うすべてにおいて最高の統一の支配を感じることは、実際には選択することを意味する。

世界のあらゆる知識と共感も、最高の、特に人間的な選択行為を準備することしかできない。

したがって、外的対象は、エピクテトスの表現なら、選択の原材料にすぎず、選択は可能である、と感じるよう自分を鍛えなければならない。

たとえば大図書館は、ゾラからプラトンまで広がる、選択の無限の可能性である。

図書館への態度においても、ほかの関心事と同じく、怠惰な自己放任の気分から、精励する努力の気分へ、酔ったフィリッポスから醒めたフィリッポスへ訴えなければならない。

読書は、最終的に存在の尺度におけるわれわれの位を決める、選択の総和の一要素となる。

ここでもほかと同じく、「仮面をかぶった『日々』」が果てしなく一列に過ぎながら運んでくる機会を怠れば、われわれは「あまりに遅く、その厳粛な頭帯の下に軽蔑を見る」ことになる。

酸っぱくも禁欲的にもならず、絶えず断固として選択しなければならない。

ロマン主義者は一世紀以上、選択することは狭量で、おそらく悪意あることだ、という考えを、われわれの頭へ吹き込み続けてきた。

選択してはならず、ただ称賛しなければならない――ユゴーなら、獣のように称賛せよ、と付け加えるだろう。

ゴーティエは、ユゴーの詩の一行でも悪いと思ったなら、真夜中に暗い地下室で、蝋燭も持たず、一人でいても、その事実を自分へ告白しないだろう、と断言した。彼は師の理想をほぼ実現したに違いない。

多くの作家は疑いなく、あるロマン主義的ディレッタントが近年定義したように、批評を「称賛の技芸」へ縮小したいだろう。

しかし諺によれば、猫はクリームでも殺せる。そして鑑賞的気質の過剰によって、批評も殺せることが、あまりに明白になった。

ゲーテによれば、野蛮の真の徴は、卓越したものを識別する器官を持たないことである。

この器官を欠くことは、過度に非難することと同じく、過度に称賛することによっても示される。

たとえば今日のアメリカで見られるのは、悪い、または凡庸な書物の果てしない行列であり、それぞれが忘却へ向かう途中、傑作だけに値する形容語で迎えられている。

実際、近頃あまりに多くの傑作を持ったため、われわれはほとんど文学そのものを持たなくなった。

批評家は誰もと同じく、人間的親切の乳であふれ、自分が「美しい魂」であることを示したがる。

しかも、十分に愛らしく感じさえすれば、万事は幸運な結果になるという信仰を持つ国では、美しい魂を持つことは商業的にも利益となる。

実際、クリスチャン・サイエンティストは、愛らしく感じる技芸を、配当を生む事業にしたと言える。

反対に、あまりに多くを排除し、否認する者は、楽観主義者でないという疑いを受ける。そしてアメリカの多くの地域では、楽観主義者として通用しないことは、信用を失うことである。

もちろん、単に消化不良の批評家であるより、胃の調子がよい批評家であるほうがよい。

この観点から見れば、近年のニュージーランド作家の言葉を信じるなら、われわれはニュージーランドより恵まれている。

彼はアメリカの批評家を、

「次々と生まれる比類なき文学的赤ん坊を、やさしく囁き、やかましく褒める産褥看護婦の共同体」

にたとえたあと、ニュージーランドの批評家から連想されるのは、

「穴から次々と出る鼠や兎を待ち伏せる、矯正不能なテリアの群れ」

だと言う。

しかし問題は、消化良好か消化不良かではなく、基準を持ち、それを適用する勇気を持つかどうかである。

ジュベールについて示そうとしたように、完全に温和で善良でありながら、同時にきわめて厳格で選択的であることは可能である。

共感的・鑑賞的気質の過剰は、もちろんアメリカ固有のものではない。

実際、マックス・ノルダウは、自分が「最上級病」と呼ぶ病気、すなわちヒステリー寸前まで押し進められた形容語の安易な氾濫の、最悪の例として、あるドイツ批評家たちを挙げている。

近代批評は、形式主義を除き、包括的で共感的になることによって、課題の半分、それも比較的容易な半分だけを果たした。

いまこそ課題の後半、すなわち判断と選択の新しい原理を見いだす仕事へ取りかかるべき時期に見える。

ルナンは、

「ゲーテは、愛の広大な肯定のうちに宇宙を抱擁した」

と言う。これは、ゲーテが膨張の偉大な時代を立派に代表する者だということを、いささか誇張して述べたものである。

しかしゲーテが今日生きていたなら、宇宙を愛の広大な肯定のうちに抱擁することより、選択しない民主主義の悪夢に対して基準を維持することへ、より強い関心を持ったかもしれない。

また、ゲーテの場合と同じく、サント=ブーヴの批評の総体的な強調が、今日われわれに必要なものと完全に一致しないと認めても、サント=ブーヴを称賛する気持ちを弱める必要はない。

示そうとしたように、彼の手のうちで批評というジャンルは、その中心から外へ膨張している。

今日望ましいのは、知識と共感という批評の周辺から、判断という心臓と核心へ向かって内へ働く運動であるように思われる。

十九世紀の批評がどれほど周辺的になったかは、たとえばルナンが「批評」という語を、その語源とは反対の意味で用いることから推測できる。

いま最も必要なのは、ルナンやサント=ブーヴのような相対性の偉大な博士ではない。

必要なのは、少しも硬直的または反動的でなく、それでも個人の気まぐれと現象の流転を越えて置かれた基準への感覚を、仕事へ持ち込める批評家である。

要するに、プラグマティストの疑似人文主義へ、真の人文主義を対置できる批評家である。

この種の批評家は、ベルクソン氏のような生命的衝動の哲学ではなく、生命的統一と生命的抑制の哲学を宣言するだろう。

ここで抑制は、死んだ機械的な外的規則ではなく、内に生きる法則として感じられる。

現時点の批評は、もう一人のサント=ブーヴより、第二のボワローから多くの利益を得るだろう、という逆説をあえて述べてもよい。

すなわち十七世紀にボワローが行ったのと同じほど効果的に、今日に必要な正しい種類の集中のために働く者である。

分別ある者なら誰も、ボワローの範囲の狭さを否定せず、理論にしばしば現れる形式主義を擁護しないだろう。

しかしサント=ブーヴ自身が指摘するように、彼の偉大さは別のところにある。すなわち、批評的判断に示した生得的な感覚と、ほとんど誤ることのない直観である。

サント=ブーヴは続けて、ボワローの役割は拒否と制限だけではなかったが、制限的要素が優勢だった、と言う。

近代のボワローが効果を持つには、前世紀の偉大な膨張の主要成果を、自分のうちへ取り込まなければならない。

しかし第一の関心は、愛の広大な肯定のうちに宇宙を抱擁することではなく、功績と欠点のさまざまな程度を、鋭く明確に識別することになるだろう。

また彼は、ボワローが十五歳から自分へ吹き込まれていたと言う、あの憎しみ――愚かな本への憎しみ――を、自分の仕方で感じるだろう。そして、それを働かせる材料に不足しない。

言い換えれば、この時代には風刺の余地がある。

ただし、それは建設的な風刺、基準を含意する風刺でなければならず、ボワローが自分の風刺について言うように、

「良識の一条の光によって浄められた」

ものでなければならない。

悪い作家たちが、オデュッセウスの矢の前の求婚者たちのように、警句の前で倒れたボワロー初期の風刺詩に相当する、二十世紀の作品ほど、人を奮い立たせるものはないだろう。

IV

私が定義しようとしてきた種類の、選択的で人文主義的な批評が、同時代フランスに出現する可能性は、どれほどあるか。

この問いへの答えは、もちろん暫定的でなければならない。

狭義の批評における近年の最も興味深い発展は、おそらくラセールの著書に顕著な表現を見いだした、反ロマン主義運動である。

この運動には、ブリュンティエールへ加えた批判の一部が当てはまる。実際、そこにはブリュンティエールの影響がきわめて明瞭に見える。

自然主義への反動は、アリストテレスや最良のゲーテのように、自然主義の正当なものすべてを、自分のうちへ取り込まなければならない。

伝統から生命ある滋養を得ながら、過去への不可能な復帰を夢見てはならない。

要するに、フランス語の意味で反動的であってはならない。

一部には論理的な厳密さのため、フランス人は文学問題を宗教問題へ結びつけ、さらに宗教問題を政治問題へ流し込む傾向がある。

だからこそ繰り返して言えば、私はこの章で文学問題を、エマソンとゲーテの言葉によって論じてきた。

これをあるフランス人、たとえばジュベールの言葉だけで論じたなら、ある種の誤解を避けることはほとんどできなかっただろう。

普通のフランス人が、ある者がジャコバン主義者ではないからといって、その者がイエズス会士でなければならないとは限らず、反教権主義者にならずに教権主義者でなくなることもできる、と気づく日は、疑いなく訪れる。大いに望まれる日である。

しかしその日はまだ来ていない。ただし、近づいている徴候はある。

フランスが文明における高い地位を維持するには、イエズス会的な病毒とジャコバン的な病毒の双方を、血液から追い出さなければならないことが、明らかになるかもしれない。

批評基準の問題へ直接関係する、今日のもう一つの重要なフランスの運動は、哲学におけるものである。

ベルクソン氏はもちろん、この運動の多数の代表者のうち、国際的に最も著名である。

この運動の主要な方向が、科学的教条主義を崩すことにあるとしても、その廃墟の上へ何を建てるかについては、いまだ大きな混乱がある。

ベルクソン氏の哲学は、スコラ的科学への攻撃としてどのような長所を持つとしても、その建設的側面では人文主義的でなく、せいぜい疑似人文主義的であるという私自身の信念を、本書で十分明らかにした。

それはロマン主義の晩生の子であり、サンディカリスムから「未来派」絵画まで、同時代生活の暴力的で極端なものすべてと結びつく。

とりわけベルクソン氏の「直観」への訴えは、世界中のロマン主義的ディレッタントに歓喜して迎えられた。

それは、偶然に浮かぶ印象を合理的に正当化する必要はなく、退廃的唯美主義のうちで、いつまでも贅沢に暮らしてよいという既存の信念を、彼らのうちで確認した。

『両世界評論』は、ベルクソン氏が新しいソクラテスかもしれないと示唆する。

しかし、彼が新しいプロタゴラスであることのほうが、はるかに明白である。

彼の影響は、今日に判断の基準を確立することへ逆らって働いている。それは、プロタゴラスその他のソフィストの影響が、古代ギリシアでソクラテスと、合理的基準を維持しようとするその努力へ逆らって働いたのと同じである。

流転の上へ判断を基礎づけようとする試みは、海の波の上へ堅固な建物を築こうとする仕事と同じほど、見込みがない。

最後に、本書の主題の観点からフランスの状況を理解するには、同時代の教育へ一瞥を向けなければならない。

ここで最も明白なのは、数年来――とりわけ一九〇二年の中等教育「改革」以後――人文主義に対する人道主義的反動が進んでいることである。

このフランスの人道主義的運動は、同種のあらゆる運動と同じく、分析すれば二つの主要側面へ分かれる。

第一は、事実の主権の崇拝――Im Anfang war die Tat、「初めに行為ありき」――であり、教育へ功利的目的以外のものを課すことの拒否である。

第二は、拡散的で選択しない共感の崇拝である。

リセでは、人文学を科学的・功利的科目のために弱体化することが進み、それと手を携えて、ソルボンヌでは文学研究を越える文献学的研究の称揚が進んだ。

古いフランス教育は、空虚な修辞をあまりに助長した、と主張される。この主張に一面の真理があることは認めなければならない。

しかしフランス人が反動している人文主義は、人文主義が本来ありうる姿ではない。

それは革命後、ナポレオンの庇護のもと、リセへ確立された人文主義であり、さらにその多くを、イエズス会士が作り上げた、いささか形式主義的な教育構想から引き継いでいる。

ソルボンヌにおける新運動の指導者は、おそらくギュスターヴ・ランソン氏である。

彼の『フランス文学史』の優れた性質によって、彼が人文主義者というより人道主義者であるという事実を、見失ってはならない。

とりわけ、文学と科学との正しい関係という、限りなく微妙で重要な問題への彼の解答は、私には不健全に思われる。

彼はいま、当初以上に必死に事実へしがみつき、人間的目的を事実へ課すことは、反動主義者になるか、漠然とした主観性のうちへ迷うかのいずれかだと、さらに強く確信している。

サント=ブーヴの方法をランソン氏へ適用し、弟子たちのうちに彼を研究してもよい。

彼がソルボンヌへ設けた研究室から出る学位論文を見ると、途方もなく誠実で徹底しているが、過去の最良のフランス学問を特徴づけた、選択と構成の繊細な性質を欠いている。

文学研究における、この選択しない事実崇拝を、フランス人は la fichomanie、すなわちカード索引狂と呼ぶ。

その一方で、一九〇二年の「改革」と、新ソルボンヌにおける過度の文献学化の双方へ向けられた、活発な対抗運動が姿を現し始めている。

ランソン氏が文学研究を非人間化したと非難する者に対し、彼はかなり辛辣に、彼らは文芸を弄ぶ素人にすぎないと答えた。

アメリカにも、文献学者と人文主義者――または自分を人文主義者と思っている者――との論争があったが、辛辣さはこれほど強くなかった。

その一因は、われわれがフランス人ほど観念を真剣に受け取らないことにある――この点でわれわれは彼らより劣る――。また一因は、彼らのようにこの問題を宗教と政治へ混ぜ込まないことにある――この点でわれわれは彼らより優る――。

この国では、イエズス会士または君主制の支持者ではないかと疑われず、人文主義者を名乗ることができる。

さらに、新教育への理論的な反対のほかに、近頃、それへの一種の良識の反乱が見えることを付け加えたい。

この後者の運動の指導者は、宗教と政治から明確に分離しておこうとする、称賛すべき努力を行っている。

それは、アメリカのいわゆる「アマースト構想」が広まり、全国的な意義を持つようになった場合に似ている。

良識の反乱は、その及ぶ範囲ではよいことである。しかし、それだけで十分なものになるとは思わない。

人文学の効果的な復興は、健全な哲学的基礎へ依拠しなければならない。そして、その基礎は現在存在しない。

新ソルボンヌと反対者との争点は、きわめて複雑であり、一方を文学的、他方を科学的または文献学的と呼ぶだけでは処理できない。

ある者の最終的立場を知る際、その者が「文学的」であると言われても、ほとんど助けにならない。

古代のソフィストもまた「文学的」だった。実際、彼らはソクラテスよりはるかに強く文学を支持した。

ある者について知るべき重要なことは、その者が自分を文学的と考えるかどうかではなく、その観点がソクラテス的か、ソフィスト的かである。

文学を公然と擁護する者が、創造的流転を「直観する」ことによって実在を見るよう求める、ベルクソン的唯美主義者にすぎないこともある。

ランソン氏が、多くの反対者の立場と比べれば自分の立場は立派である、と考えるのは完全に正しい。

これらの反対者は、自分自身を鍛えておらず、伝統の吸収から生まれる規律も欠く。

それに対し、ランソン氏が与えるものは、人間性を奪う規律かもしれないが、それでも規律ではある。

フランスでもほかの場所でも、純文学と文学研究の双方の信用を失わせているのは、その代表者を名乗る者の大多数の、耐えがたい弛緩である。

自然主義的時代は、最初に何を目指していても、最後には帝国主義的になる。

文学の領域でさえ科学的研究者が勝利することは、帝国主義的観念の一表現にすぎない。

ほかのいかなる規律にも服さない者が、少なくとも事実の規律へ服させられるのは正しい。

教職へ入るため文献学の軛の下へ首を差し出すことを強いられるロマン主義的ディレッタントは、必要であり当然でもあるものを得ているにすぎない。

それでも、事実、科学的方法、歴史的方法における規律は、真の人文主義的規律の代わりにはならない。

とりわけフランスは、新教育によって偉大な人文主義的過去との結びつきが緩み、または断ち切られるなら、取り返しのつかない損失を受けるだろう。

すでに述べたように、この過去または過去一般への文字どおりの復帰は問題にならない。

われわれは基準を持ち、選択しなければならない。ただし、異なる原理によって選択しなければならない。

たとえば、実際には意志の自由の問題を意味する選択の問題を、ダンテほど深く扱った詩人はいない。

しかしダンテは、二つの外的基準から完全に独立した選択を、ほとんど想像できなかっただろう。すなわち、精神的事項における教皇と、世俗的事項における皇帝である。

今日、基準を持つなら、それは内的基準でなければならない。

したがって、すでに述べたように、われわれの問題は、ソクラテスとソフィストに現れた問題と、より多くを共有する。

ソクラテスの偉大な努力は、新しい知的精神の濫用によって不可能にされつつあった、人間生活の確固たる基礎を回復することだった、と言われている。

今日では、ソフィストの過度の知的柔軟性へ、過度の感情的柔軟性がしばしば加わっている。

何らかの治療法が見いだされなければ、近代世界は古代ギリシア世界と同じく、ソフィストの餌食になるだろう。

われわれの人道主義者が信じさせようとするように、「遠くにある何らかの神的出来事」へ進歩するのではなく、退廃的帝国主義へ進むだろう。

この知的・感情的膨張のすべてへ、どのような原理が限界を定めうるか。

ニューマン枢機卿の言葉では、

「情熱の猛烈な力と、知性のあらゆるものを腐食し、溶解する力へ抵抗し、打ち破るため、正面から対する敵は何でなければならないか。」

彼が別の箇所で、

「人間の荒々しく生きた知性」

と呼ぶものへ対する敵である。

答えは、この正面から対する敵が、もし見いだされるなら、多くの近代人にとって不可能になった権威の一形態ではなく、少なくとも知性と同じほど生命ある何ものかへの直観のうちに見いだされる、ということだろう。

その何ものかは、知覚される正確な程度に応じて、知性だけでなく人間の全存在へ、支配的目的を課す。

世界はしばらく前から、まったく異なる種類の直観へ向かって動いており、ベルクソン氏のような哲学では、その速度が猛烈になった。

したがって私は、批評基準を論じる際、権威について徹底的に近代的な見解を持ち、すでに示そうとしたように、いくつかの点では近代的すぎる見解を持ちながら、それでも多ではなく一を直観する、エマソンのような思想家を、かなり強調した。

エマソンが死去した時のまま残るコンコードの書斎へ入ると、右手でほとんど最初に目へ入るものが、サント=ブーヴの肖像である。

エマソンは、この肖像を特別な宝物と考えていたと言われる。

エマソンの著作にはサント=ブーヴへの言及がほとんど一つもない。それでも、相対性の偉大な博士と、大霊の哲学者という、これほど異なる二人を、表面的にでも結びつけられるのは興味深い。

『月曜閑談』と『代表的人物』のような本は、十九世紀批評の両極にある。

しかしまさにそのため、人道主義的幻想にもかかわらず、また芸術の形式的側面に対する感覚が奇妙なほど欠けているにもかかわらず、エマソンはサント=ブーヴに必要な矯正物となる。

サント=ブーヴには、無限の広さと柔軟性があるが、高揚が欠けている。

この高揚の欠如は、偶然の欠点ではなく、示そうとしたように、その自然主義的方法と直接関係する。

自然主義の不十分さは、近年の批評でさらに明白になった。

サント=ブーヴ自身は、伝統的基準への尊重と、より広い共感と知識への志向との間に、ある均衡を保っていた。

しかし後継者は、この均衡を保存しなかった。

判断の原理へ従属せず、それ自体を目的として追求された知識は、専門家の狭さ、またはディレッタント主義へ堕落した。

共感の広さと鋭さを過度に強調することは、印象主義者の過剰へ至った。

サント=ブーヴが、第一帝政期の批評家を、ボワローの「小銭」と描写した言葉を、私は引用した。

今日の批評家が、サント=ブーヴ――より正確には、サント=ブーヴの一面――の小銭以上のものになるには、歴史的方法と伝記的方法を用いることへの釣り合いとして、絶対的価値への感覚を育てなければならない。

要するに、サント=ブーヴを、エマソンのような作家の最良のものによって補わなければならない。

この点は、それぞれに印象的な二つの文章によって例示できる。

最初の文章は、『ポール=ロワイヤル』の末尾から取られている。そこでサント=ブーヴは、真理へ達しようとした自分自身の努力について述べる。

「結局のところ、われわれにできることは、何と少ないのだろう。われわれの視線は何と限られているのだろう。それは、巨大な夜のただなかで、一瞬だけ灯される青白い松明に、どれほど似ていることか。
そして自分の対象を知ることを最も心にかけ、それを捉えることを最も愛する野心とし、それを描くことを最大の誇りとした者でさえ、どれほど無力に感じることか。
その仕事がほとんど終わり、結果が得られ、力への陶酔が消え、最後の消耗と避けがたい嫌悪が彼を襲う日に、彼はどれほど自分の仕事より劣ると感じることか。
そしてついには、自分も無限の幻影の懐にある、最も束の間の幻影の一つにすぎないと認めるのである。」

この普遍的流転と相対性の感覚は、それだけでは、私が別の箇所で偽りの幻滅、すなわち退廃の幻滅と呼んだものしか生まない。

しかし、もう一つの型の幻滅がある。統一の知覚があまりに強烈となり、それと比較すればほかのすべてが非実在に見える場合である。

これを例示するため、エマソンへ向かおう。

彼は言う。

「宇宙には偶然も無秩序もない。すべては体系であり、階層である。あらゆる神は、自分の領域へ座している。若い死すべき者は天空の広間へ入る。そこでは彼は神々とただ一人で向き合い、神々も彼とただ一人で向き合う。神々は彼へ祝福と贈物を注ぎ、その玉座へ上るよう招く。
しかし直ちに、絶え間なく、幻影の吹雪が降る。彼は自分が、この方向、あの方向へ揺れ、その運動と行為へ従わなければならない巨大な群衆のなかにいると思い込む。……」
「新しい変化と、新しい欺きの驟雨が、一瞬ごとに降り、彼を惑わせ、散らす。そしてやがて一瞬、空気が澄み、雲がわずかに上がると、神々はなお、その玉座へ座り、彼を囲んでいる。神々は彼とただ一人で向き合い、彼も神々とただ一人で向き合う。」

このような文章でエマソンは、絶対的価値への感覚を失わず、またアミエルがそうであり、絶えざる労働のうちに一種の忘却を見いださなければサント=ブーヴもそうなったであろうように、幻影の感覚に食い尽くされず、相対性の教説を受け入れることが、どのように可能かについて、ある示唆を与える。

エマソンはこのことを行うかぎり、批評が、失った外的基準に代わる内的基準を探すことを助け、現在の無秩序のうちに、より高い秩序の可能性を見ることを助ける。

必要なのは「弾性鋼で織られた上着」、すなわち、教条的な狭さを伴わず、男性的判断の権利を回復する批評的規準だと、彼は言う。

このような規準があれば、批評は、価値ある女性的徳をなお育てることができる。

すなわち、無脊椎でゼラチン質になることなく、包括的で共感的でありうる。

したがって、われわれの理想的批評家は、サント=ブーヴの広さ、融通性、差異への感覚と、エマソンの高揚、洞察、統一への感覚を、結合する必要がある。

この批評家については、とりわけ、エマソンが人間一般について述べたように、「黄金の不可能」であると付け加えておくのが賢明かもしれない。

しかし、われわれの基準を完全に達成することが不可能だと判明しても、同時代の文学と生活へ遍在する印象主義を、判断によって和らげる方向へ、少なくともいくらか進むことはできるだろう。

サウジーについての論文、『エディンバラ評論』一八〇二年十月号。

Portraits littéraires, III, 550。

Letters of John Richard Green, 372。グリーンの逸話は、最終的に刊行されたテーヌのテニソン論に対して、完全に公平ではないかもしれない。

Essais de Psychologie contemporaine のテーヌ論を要約したもの。

「ここについにジャン=ジャックがいる。十九世紀の先駆者であり、個人のうち、すなわち情動的・情熱的な自我のうちに、万物の唯一の尺度を見る者である。」ペリシエ、Études de Littérature contemporaine。ブリュンティエール、Nouvelles questions de critique, 214も参照。

Vie littéraire, I, 318。

Poetry and Religion, 218。

原文スペイン語:Hay gustos que merecen palos.

これはパーリ語 pamāda の完全な意味である。反対の性質である appamāda、すなわち精励、活動的意志の絶え間ない行使は、仏教の主要な徳である。ただし、この東洋的精励は、西洋のそれのように外界の征服へではなく、自己征服へ向けられていることを、急いで付け加えなければならない。

ルメートル、Contemporains, VI, p. xi。ブリュンティエール、L’Évolution de la poésie lyrique, 25も参照。

Vie littéraire, I, 111。

多数者の判断に対して少数の慧眼な者の判断へ訴える考えは、アリストテレスに見られる。彼はつねに理想的読者を想定し、これをさまざまに ho spoudaiosho phronimosho euphyēs と呼ぶ。文学へ適用された普遍的同意の原理を、最初に明確に述べたのはロンギノスである(Peri hypsous, 第7章)。

J. S. Harrison, The Teachers of Emerson を参照。

Thomas Davidson, Rousseau, 231を参照。

エマソンのこの中心的弱点とその帰結は、デュガール夫人の研究書、およびP. E. More, Shelburne Essays, I, 71以下で指摘されている。

「われわれの周囲には、運命が掘った深淵がいくつもある。だが最も深いものは、この心のうちにあり、そこへ身を投げることには誘惑がある。」

一八三二年三月十一日のエッカーマンとの対話。ゲーテの宗教的見解に関する主要な文章については、Otto Harnack, Goethe in der Epoche seiner Vollendung, 50–90を参照。

「汝ら巨人族は壮大に始める。だが、永遠の善、永遠の美へ導くのは、神々の業である。神々に任せよ。」

いわゆる国民主義者――ポール・ブルジェ、モーリス・バレス、シャルル・モーラスなど。

Aṅguttara Nikāya, Part II, section 77を参照。

パーリ語は kammavipāko

聖アウグスティヌスが業を重視しなかったという意味ではない。ただ、彼の影響を最も明確に示すキリスト教の一面が、恩寵をさらに強調したという意味である。

この問題についてのゲーテの優れた発言は、エッカーマンとの対話、一八二四年二月二十四日を参照。

すでに引用した箇所。物質世界を知的に把握しようとする試みを示すパーリ語は lokacintā であり、ブッダはこれを不可能とみなす。

『神曲』「地獄篇」第3歌第6行。

「言い表せないものが、ここに成就する(Das Unbeschreibliche, hier ist es getan)。」

有徳者(spoudaios)は、いわば規準であり尺度である。『ニコマコス倫理学』第3巻第4章、原書表記1133a33。

彼は生まれつき恵まれた者(euphyēs)である。『ニコマコス倫理学』第3巻第5章、1114b6参照。

L’Avenir de la science, 448。

サント=ブーヴは、Nouveaux Lundis, I, 300–302でボワローの限界を列挙している。

批評家の性質と役割についての重要な箇所は、Chateaubriand, II, 114以下を参照。

とりわけ第九風刺詩。それは「悪い書物と悪い作家の殉教者名簿」と呼ばれ、ランソン氏は「評判の恐ろしくも見事な虐殺」と呼んでいる。

Le Romantisme français, 1907。

印象主義の最も有毒な形の一部は、同時代のある社会学者たちに見いだされる。科学的または疑似科学的な用語の下に、単なる衝動も百万人、千万人へ増幅されれば荘厳なものとなる、という原初のジャコバン的前提を容易に見抜ける。たとえば著名なフランス社会学者の一人は、当時の「社会的良心」に支えられていたため、アテナイの陪審がソクラテスを死刑にしたことは正当だったと主張する。

新しいソルボンヌへの近年の攻撃のうち、最も華やかなものは、アガトン名義の L’Esprit de la Nouvelle Sorbonne(第3版、1911年。もとは1910年に L’Opinion 誌へ掲載)である。この本は多少注意して用いなければならない。「アガトン」は二人の非常に若い人物の筆名であり、私の理解では、彼らの反感には個人的理由もある。P. Legnay, La Sorbonne(第2版、1910年)も参照。

たとえば Revue du Mois, 1911年4月号におけるシャルル・サロモン氏への返答を参照。

「フランス文化連盟(Ligue pour la Culture Française)」は一九一一年に組織され、会員には、アカデミーを含む学士院の各部門の過半数が含まれる。この運動の進展についての興味深い情報は、同連盟の Bulletin 第1号(一九一一年十二月)に見いだされる。

とりわけダンテの De Monarchia を参照。

アーノルドの Mixed Essays 所収「イートン校講演」を参照。

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批評家一覧

原注 本一覧は、収録した人名についても、各人の項目に掲げた資料についても、完全であることを主張するものではない。ただし、主として文学批評家として重要な著者については、その著作をある程度詳しく記録するよう努めた。一方、一覧に挙げた著者についての研究書・論文の参照は、どの場合にも控えめにとどめた。さらに詳しい情報を求める読者は、多くの不正確さがあるとはいえ、H. P. Thieme, Guide Bibliographique de la Littérature française de 1800 à 1906 を有益に利用できる。十九世紀を扱うG. Lanson, Manuel bibliographique de la littérature française moderne 第4巻も、近く刊行されると聞いている。またC. H. C. Wright, History of French Literature(1912), 883頁以下にも、優れた書誌資料がある。

書名は検索・照合のため原綴りを保持し、巻数と刊行年も原書どおりに残した。

Albert (Paul), 1827–1880

著作Les poètes et la religion en Grèce(1863);La poésie(1868);La prose(1869);Histoire de la littérature romaine, 2 vols.(1871);La littérature française des origines au XVIIe siècle(1872);La littérature française au XVIIe siècle(1873);La littérature française au XVIIIe siècle(1874);Variétés morales et littéraires(1879);Poètes et poésies(1881);Histoire de la littérature française au XIXe siècle, 2 vols.(息子Maurice Albertが遺稿から編集、1882・1885)。

参照:Sainte-Beuve, Nouveaux Lundis, XII(1869)。

Amiel (Henri-Frédéric), 1821–1881

著作Caractéristique générale de Rousseau, in J.-J. Rousseau jugé par les Genevois d’aujourd’hui(1879);Fragments d’un journal intime, précédés d’une étude par Edmond Scherer, 2 vols.(1883。Mrs. Humphry Wardによる序論付き英訳、2 vols., 1885)。

参照:Bourget, Nouveaux essais de psychologie contemporaine(1885);Berthe Vadier, H. F. Amiel(1885);Renan, Feuilles détachées(1887);Matthew Arnold, Essays in Criticism, Second Series(1888);Scherer, Études critiques(1889)。

Ampère (Jean-Jacques), 1800–1864

歴史家など。ドイツ、ノルウェーほかを旅行し、『グローブ』紙に寄稿した。1833年からコレージュ・ド・フランスの歴史・フランス文学教授。1848年にアカデミー会員となった。

著作De l’histoire de la poésie(1830);Littérature et voyages(1833);Histoire littéraire de la France avant le XIIe siècle(1840);Histoire littéraire de la France sous Charlemagne et durant les Xe–XIe siècles(1841);Histoire de la littérature française au moyen âge, comparée aux littératures étrangères(1841);Ballanche, 3 vols.(1848);La Grèce, Rome et Dante(1848);Littérature, voyages et poésies, 2 vols.(1850);Promenade en Amérique : États-Unis, Cuba, Mexique, 2 vols.(1855);L’Histoire romaine à Rome, 4 vols.(1865);La science et les lettres en Orient(1865);Mélanges d’histoire littéraire et de littérature, 2 vols.(1867)ほか。

参照:Sainte-Beuve, Portraits littéraires, II(1844);Portraits contemporains, III(1846);Nouveaux Lundis, XIII(1868)。

Angellier (Auguste), 1847–1911

詩人・批評家。

著作Robert Burns, 2 vols.(1893)ほか。

Aubertin (Charles), 1825–1908

著作L’esprit public au XVIIIe siècle (1715–1789)(1873);Les origines de la langue et de la poésie françaises(1874);Histoire de la littérature et de la langue françaises(1876–1878);L’Éloquence politique et parlementaire en France avant 1789(1882);Origines et formation de la langue et de la métrique françaises(1882);Les chroniqueurs français au moyen âge(1896);La versification française et ses nouveaux théoriciens(1898)ほか。

Balzac (Honoré de), 1799–1850

文学批評家としてのバルザックの主要な試みは、1840年の La Revue parisienne に掲載された。

著作Lettre aux écrivains français du XIXe siècle(1834);Études critiques publiées dans la Chronique de Paris(1836);Code littéraire(1856);Fragments inédits de la Revue parisienne(1870)。

参照:A. Séché and Jules Bertaut, “Balzac critique littéraire,” in Au temps du romantisme(1909)。

Barante (Prosper-Brugière de), 1782–1866

政治家・歴史家など。1821年にシラーを翻訳した。

著作Tableau de la littérature française au XVIIIe siècle(1809);Mélanges historiques et littéraires, 3 vols.(1835);Études de littérature et d’histoire(1868);Souvenirs du baron de Barante, 8 vols.(1890–1901)ほか。

参照:A. Michiels, Histoire des idées littéraires(1842);Sainte-Beuve, Portraits contemporains, IV(1843);Brandes, The Emigrant Literature(1882);A. France, La Vie littéraire, IV(1892)。

Barbey d’Aurevilly (Jules-Amédée), 1808–1889

詩人・小説家など。十九世紀後半まで生き残ったバイロン風ダンディの一典型であり、華麗な逆説の名手だった。同時代の主要傾向へ猛然と反抗するその調子は、読みすぎないかぎり、きわめて愉快である。

著作Les Misérables de V. Hugo(1862);Les Quarante Médaillons de l’Académie(1863);Goethe et Diderot(1880);Le théâtre contemporain, 3 vols.(1887–1892);Pensées détachées(1888);Polémiques d’hier(1889)。批評記事の大部分は総題 Les Œuvres et les Hommes du XIXe siècle のもと、3系列・17 vols.(1861–1899、第9巻欠)に収録。Critiques diverses(1910)ほか。

参照:Bourget, Études et portraits(1889);Tissot, Évolutions de la critique(1890);France, La Vie littéraire, III(1891);Lemaître, Les Contemporains, IV(1893);L. Gautier, Portraits du XIXe siècle(1894);Levallois, Mémoires d’un critique(1896);Doumic, Hommes et idées(1903);E. Grélée, J. B. d’Aurevilly : sa vie et son œuvre(1904);E. Seillière, Barbey d’Aurevilly(1910)。

Bardoux (Agénor), 1829–1897

著作Notice sur la vie et les ouvrages d’Andrieux(1868);Études sur la fin du XVIIIe siècle : Comtesse de Beaumont(1884);Études sociales et littéraires : Madame de Custine(1888);Études d’un autre temps(1889);Chateaubriand(1893);Guizot(1894)ほか。

Barine (Arvède), Mme. Vincens, 1840–1908

著作Portraits de femmes(1887);Essais et fantaisies(1888);Princesses et grandes dames(1890);Bernardin de Saint-Pierre(1891);Alfred de Musset(1893);Bourgeois et gens de peu(1894);Névroses(1898);Louis XIV et la Grande Mademoiselle(1905)ほか。

Baudelaire (Charles), 1821–1867

ボードレールの批評文の大部分は、Lemerre版全集7巻(1870)の第2巻 Curiosités esthétiques と第3巻 L’Art romantique に収められている。

Beaunier (André), 1869–

小説家・ジャーナリスト・批評家。

著作La poésie nouvelle(1902);Éloges(1909)ほか。

Bédier (Joseph), 1864–

コレージュ・ド・フランス教授。

著作Le Roman de Tristan et d’Yseult, traduit et restauré par J. Bédier(1900);Études critiques(1903);Les Légendes épiques, 2 vols.(1908。ほか中世研究多数)。

Bersot (Ernest), 1816–1880

哲学者・道徳家。

著作La philosophie de Voltaire(1848);Études sur la philosophie du XVIIIe siècle(1852);Études sur le XVIIIe siècle, 2 vols.(1855);Littérature et morale(1861);Questions actuelles(1862)。

Blaze de Bury (Henri), 1813–1888

文学・音楽批評家、歴史家など。ゲーテの『ファウスト』その他の翻訳者。

著作Les écrivains et poètes modernes de l’Allemagne, 2 vols.(1846);Les écrivains modernes de l’Allemagne(1868);Tableaux romantiques de littérature et d’art(1878);A. Dumas, sa vie, son temps, son œuvre(1885);Mes études et mes souvenirs(1885);Goethe et Beethoven(1892)ほか。

Biré (Edmond), 1829–1907

反動的な批評家で、いささか悪意ある正確さをもってユゴーの生涯の細部を調査した。

著作V. Hugo et la Restauration(1869);V. Hugo avant 1830(1883);V. de Laprade, sa vie et ses œuvres(1886);Portraits littéraires(1888);Causeries littéraires(1889);V. Hugo après 1830, 2 vols.(1891);Portraits historiques et littéraires(1892);V. Hugo après 1852 : L’exil, les dernières années et la mort du poète(1894);Histoire et littérature(1895);Honoré de Balzac(1897);Causeries historiques(1897);Nouvelles causeries littéraires(1897);Dernières causeries littéraires et historiques(1898);Études d’histoire et de littérature(1900);La presse royaliste de 1830 à 1852(1901);Les dernières années de Chateaubriand(1902);Biographies contemporaines(1905);Chateaubriand, V. Hugo, H. de Balzac(1907);Écrivains et soldats, 2 vols.(1907);Mes souvenirs(1908);Romans et romanciers contemporains(1908)ほか。

Boissier (Gaston), 1823–1908

コレージュ・ド・フランスのラテン文学教授。1876年からアカデミー会員。十九世紀のラテン文学研究者のなかで、おそらく最も天分に恵まれた文学批評家である。

著作Le poète Attius(1857);Étude sur la vie et les ouvrages de M. T. Varron(1861);Recherches sur la manière dont furent recueillies les lettres de Cicéron(1863);Cicéron et ses amis(1865);La religion romaine d’Auguste aux Antonins, 2 vols.(1874);L’opposition sous les Césars(1875);Discours de réception(1877);Promenades archéologiques : Rome et Pompéi(1880);Le musée de Saint-Germain(1882);Nouvelles promenades archéologiques : Horace et Virgile(1886);Mme de Sévigné(1887);La fin du paganisme, 2 vols.(1891);Saint-Simon(1892);L’Afrique romaine(1893);Tacite(1903);L’Académie française sous l’ancien régime(1909)ほか。

Bordeaux (Henry), 1870–

小説家・批評家。

著作Villiers de l’Isle-Adam(1891);Édouard Rod(1893);Teodor de Wyzewa(1894);La vie et l’art : Âmes modernes(1894);La vie et l’art : Sentiments et idées de ce temps(1897);Les écrivains et les mœurs (1897–1900)(1900);Portraits de femmes et d’enfants(1900);Les écrivains et les mœurs (1900–1902)(1902);Pèlerinages littéraires(1906)ほか。

Bourget (Paul), 1852–

小説家としてと同程度、少なくとも批評家として優れている。とりわけ Essais de psychologie contemporaine は、十九世紀後半の精神的疾患を、その大半を自ら患った人物が記録した注目すべき記録である。

著作Ernest Renan(1883);Essais de psychologie contemporaine(1883);Profils perdus(1884);Nouveaux essais de psychologie contemporaine(1885);Études et portraits, 2 vols.(1888)、3e vol.(1906);Discours de réception(1895);Pages de critique et de doctrine(1912)。

Brisson (Adolphe), 1863–

『レ・ザナル』編集者。

著作Portraits intimes, 5 vols.(1894–1901);La comédie littéraire(1895);Pointes sèches(1898);Nos humoristes(1900);L’envers de la gloire(1905)ほか。

Broglie (le duc Albert de), 1821–1901

著作Études morales et littéraires(1853);Nouvelles études de littérature et de morale(1868);Malherbe(1897);Voltaire avant et pendant la guerre de Sept Ans(1898)ほか。

Brunetière (Ferdinand), 1849–1906

1870年、高等師範学校の入学試験に不合格。パンシオン・ルラルジュで教えた。1875年に『両世界評論』への寄稿を開始。1886年、高等師範学校講師。1891年にはオデオン座ほかで講演した。1893年にアカデミー会員となり、同年『両世界評論』編集長。1894年にヴァチカンを訪問。1897年にアメリカで講演した。ドレフュス事件での態度によって「知識人」たちの怒りを買い、1900年にカトリックへの改宗を公表した。高等師範学校での地位を失い、コレージュ・ド・フランスではデシャネルの後任に選ばれなかった。

著作Études critiques sur l’histoire de la littérature française, 8 vols.(1880–1907);Le roman naturaliste(1883);Histoire et littérature, 3 vols.(1884–1886);Questions de critique(1889);L’évolution des genres dans l’histoire de la littérature, I: Évolution de la critique depuis la Renaissance jusqu’à nos jours(1890);Nouvelles questions de critique(1890);Les époques du théâtre français (1636–1850)(1892);Essais sur la littérature contemporaine(1892);Discours de réception(1894);L’évolution de la poésie lyrique en France au XIXe siècle, 2 vols.(1894);Éducation et instruction(1895);La science et la religion(1895);Nouveaux essais sur la littérature contemporaine(1895);L’idée de patrie(1896);La moralité de la doctrine évolutive(1896);La Renaissance de l’idéalisme(1896);Manuel de l’histoire de la littérature française(1897);Après le procès. Réponse à quelques « Intellectuels »(1898);L’art et la morale(1898);Les ennemis de l’âme française(1899);Le génie latin(1899);La nation et l’armée(1899);Discours de combat, 3 vols.(1900–1907);La liberté de l’enseignement(1900);Discours académiques(1901);Les raisons actuelles de croire(1901);Les motifs d’espérer(1902);V. Hugo. Leçons(ブリュンティエール監修、高等師範学校学生による、1902);Cinq lettres sur E. Renan(1903);L’action sociale du Christianisme(1904);Sur les chemins de la croyance(1904);Histoire de la littérature française classique (1515–1830), vol. I(XVIe siècle, 1905)、vol. II(XVIIe siècle, 1912);Variétés littéraires(1905);H. de Balzac(1906);Saint Vincent de Lérins(1906);Questions actuelles(1907);Études sur le XVIIIe siècle(1911);Lettres de combat(1912)。

参照:J. Lemaître, Les Contemporains, I(1885), VI(1896);Faguet, Notes sur le théâtre contemporain, II(1889), Propos littéraires, II(1904);Doumic, Écrivains d’aujourd’hui(1894);E. Dowden, New Studies in Literature(1895);A. Brisson, Portraits intimes, II(1896);Albalat, L’art d’écrire(1896);A. Darlu, M. Brunetière et l’individualisme(1898);Pellissier, Études de littérature et de morale(1905);V. Giraud, F. Brunetière(1907);G. Fonsegrive, Ferdinand Brunetière(1908);Faguet, Ferdinand Brunetière(1911)。

Caro (Edme-Marie), 1826–1887

哲学者など。社交界で流行したことが、かえって評判を損ねた。パイユロンの Le Monde où l’on s’ennuie に登場するBellacのモデルである。それでも、実際にはきわめて優れた批評家である。

著作La philosophie de Goethe(1866);Le pessimisme au XIXe siècle(1878);La fin du XVIIIe siècle, 2 vols.(1880);George Sand(1888);Mélanges et portraits, 2 vols.(1888);Poètes et romanciers(1888);Variétés littéraires(1889)ほか。

参照:Brunetière, Questions de critique(1888)。

Cestre (Charles), 1871–

ボルドー大学教授。

著作La Révolution française et les poètes anglais(1906);Bernard Shaw(1912)ほか。

Chasles (V.-E.-Philarète), 1798–1873

青年時代に七年間イギリスで暮らした。『ジュルナル・デ・デバ』編集者の一人。1847年からコレージュ・ド・フランス教授。

著作Caractères et paysages(1833);Le XVIIIe siècle en Angleterre(1846);Études sur l’Espagne et sur les influences de la littérature espagnole en France et en Italie(1847);Études sur le XVIe siècle en France(1848);Études sur les hommes et les mœurs au XIXe siècle(1850);Études sur la littérature et les mœurs en Angleterre au XIXe siècle(1850);Études sur la littérature et les mœurs des Anglo-Américains au XIXe siècle(1851);Études sur W. Shakespeare(1852);Étude sur l’Allemagne ancienne et moderne(1854);Voyages d’un critique à travers la vie et les livres, 2 séries(1865–1868);Études contemporaines(1866);Portraits contemporains(1867);Questions du temps et problèmes d’autrefois(1867);De l’Académie française, de ses destinées et de son passé(1868);Encore sur les contemporains, leurs œuvres et leurs mœurs(1869);L’Arétin, vie et écrits(1873);L’antiquité(1875);La psychologie sociale des nouveaux peuples(1875);Le moyen âge(1876);Mémoires, 2 vols.(1876–1877);La France, l’Espagne et l’Italie au XVIIe siècle(1877);L’Angleterre au XVIe siècle(1879)ほか。

Chateaubriand (François-René, vicomte de), 1768–1848

文学上の意見は、Génie du Christianisme(1802。初めの副題は Les Beautés de la religion chrétienne)、Itinéraire(1811)、論文 Sur la littérature anglaise(1836)、Mémoires d’outre-tombe(1849–1850)、全集中の Mélanges littéraires、さらに刊行中の書簡集(vol. I, 1912)に散在している。

参照:Sainte-Beuve, Chateaubriand et son groupe littéraire, 2 vols.(1860);Scherer, Études, I(1863);Brandes, The Emigrant Literature(1882);Faguet, Études sur le XIXe siècle;Brunetière, L’évolution de la critique(1890);Vogüé, Heures d’histoire(1893);Biré, Études et portraits(1894);Doumic, Études sur la littérature française, II(1898)。

Chénier (Marie-Joseph), 1764–1811

著作Présentation à S. M. l’Empereur et roi du rapport historique sur l’état et les progrès de la littérature(1808);Tableau historique de l’état et des progrès de la littérature depuis 1789(1816);Fragments du cours de littérature fait à l’Athénée de Paris en 1806–1807(1818)。

参照:A. Michiels, Histoire des idées littéraires(1842)。

Cherbuliez (Victor), 1829–1899

小説家・批評家。

著作À propos d’un cheval, ou Un cheval de Phidias(1860);Études de littérature et d’art(1873);Hommes et choses d’Allemagne(1877);Hommes et choses du temps présent(1883);Discours de réception(1888);Profils étrangers(1889);L’art et la nature(1892);L’idéal romanesque en France de 1610 à 1816(1912)ほか。

参照:Brunetière, Discours académiques(1901);Faguet, Propos littéraires, I(1902)。

Chuquet (Arthur), 1853–

コレージュ・ド・フランス教授、『Revue critique』編集者など。

著作J.-J. Rousseau(1893);Études de littérature allemande, 2 vols.(1900–1902);Stendhal-Beyle(1902);Littérature allemande(1909)ほか。

Cousin (Victor), 1792–1867

哲学者・歴史家。ソルボンヌ教授。1820年に政府が講義を中止させたが、1828年に再開して大成功を収めた。七月王政期には政治に関与し、1840年に公教育大臣となった。

著作Des pensées de Pascal(1842。改訂増補第6版は Études sur Pascal, 1857);Fragments littéraires(1843);Jacqueline Pascal(1844);Mme de Longueville pendant la FrondeLa Jeunesse de Mme de Longueville, 2 vols.(1853);Mme de Sablé(1854);Mme de HautefortLa duchesse de Chevreuse, 2 vols.(1856);Fragments et souvenirs littéraires(1857);La société française pendant le XVIIe siècle, 2 vols.(1858)ほか。

参照:Sainte-Beuve, Portraits littéraires, III(1844);Cuvillier-Fleury, Études historiques et littéraires, II(1854);Taine, Les philosophes français au XIXe siècle(1857);Renan, Essais de morale et de critique(1859);Charles Secrétan, La philosophie de V. Cousin(1868);Scherer, Études critiques sur la littérature contemporaine, IV(1873);Janet, V. Cousin et son œuvre(1885);Caro, Philosophie et philosophes(1888);Barthélemy Saint-Hilaire, M. V. Cousin et sa correspondance, 3 vols.(1895);Faguet, Politiques et moralistes au XIXe siècle, II(1898)。

Croiset (Alfred), 1845–

ソルボンヌのギリシア語教授。

著作Xénophon, son caractère et son talent(1873);La Poésie de Pindare et les lois du lyrisme grec(1880);Histoire de la littérature grecque(弟Maurice Croisetとの共著), 5 vols.(1887–1899);Aristophane et les partis à Athènes(1907)ほか。

Cuvillier-Fleury (Alfred-Auguste), 1802–1887

1834年から『ジュルナル・デ・デバ』の文学批評家。1866年からアカデミー会員。保守的な趣味の批評家であり、ロマン主義者に反対した理由を「文体の唯物論(le matérialisme du style)」と表現した。

著作Mélanges de critique et d’histoire, 11 vols.(1852–1865);Études historiques et littéraires, 2 vols.(1854);Nouvelles études historiques et littéraires(1855);Dernières études historiques et littéraires, 2 vols.(1859);Historiens, poètes et romanciers, 2 vols.(1863);Études et portraits, 2 vols.(1865–1868);Posthumes et revenants(1878);Journal intime(1900)。

参照:Merlet, Portraits d’hier et d’aujourd’hui(1865);A. France, La Vie littéraire, I(1888)。

Daunou (Pierre-Claude-François), 1761–1840

歴史家など。

著作De l’influence de Boileau sur la littérature française(1787);Discours sur l’état des lettres au XIIIe siècle(1814)。また Histoire littéraire de la France を継続し、十二・十三世紀の作家について多数の記事を寄稿した。

Deschamps (Gaston), 1861–

著作La vie et les livres, 6 vols.(1894–1904);Marivaux(1897)ほか。

Deschanel (Émile), 1819–1904

「古典作家のロマン主義」という逆説を数巻にわたって唱えたが、文学批評にとって大きな意味を持つようには思われない。

著作Physiologie des écrivains et des artistes, ou essai de critique naturelle(1864);Études sur Aristophane(1867);À bâtons rompus, variétés morales et littéraires(1868);Almanach des conférences et de la littérature(1870);Benjamin Franklin(1882);Le romantisme des classiques, 5 vols.(1882–1886);Lamartine, 2 vols.(1893);Les déformations de la langue française(1898)ほか。

参照:Sainte-Beuve, Nouveaux Lundis, IX(1864);Lemaître, Les Contemporains, VII(1899);G. Deschamps, La vie et les livres, V(1900)。

Desjardins (Paul), 1859–

著作La méthode des classiques français(1904)。

Doudan (Ximénès), 1800–1872

スタール夫人が再婚によってもうけた息子Louis-Alphonse de Roccaの家庭教師を務め、その後PaulおよびAlbert de Broglieの家庭教師となった。ブロイ公のもとで官職に就き、その家で残りの生涯を送った。友人たちへ宛てた書簡と、『Revue française』に寄稿した少数の記事は、M. d’Haussonville、Silvestre de Sacy、Cuvillier-Fleuryの序文を付して、Mélanges et Lettres, 4 vols.(1876–1877)として刊行された。病弱で洗練された人物の一典型であり、多くの文学判断にジュベールを思わせる繊細さと洞察を示す。

Doumic (René), 1860–

『両世界評論』の常任寄稿者。1909年からアカデミー会員。観点は非常に保守的であり、その独特の調子は、いささか辛辣な良識と呼ぶのが最も適切だろう。

著作Éléments d’histoire littéraire(1888);Portraits d’écrivains(1892);Notice sur les écrivains maritimes et militaires(1892);De Scribe à Ibsen(1893);Études littéraires sur les auteurs français présentés pour l’examen du brevet supérieur(1893);Écrivains d’aujourd’hui(1894);La vie et les mœurs au jour le jour(1895);Les jeunes(1895);Essais sur le théâtre contemporain(1896);Études sur la littérature française, 6 vols.(1896–1909);Histoire de la littérature française(1900);Hommes et idées du XIXe siècle(1903);Lettres d’Elvire à Lamartine(1905);Le théâtre nouveau(1908);George Sand(1909);Lamartine(1912)ほか。

Du Camp (Maxime), 1822–1894

小説家、旅行家、兵士(ガリバルディの「千人隊」の一人)など。フローベールの親友。1880年からアカデミー会員。

著作Souvenirs littéraires, 2 vols.(1882–1883);Théophile Gautier(1890)ほか。

Dumas fils (Alexandre), 1824–1895

著作Discours de réception(1875);Les préfaces(1877);Réponse à M. Leconte de Lisle, successeur de V. Hugo(1887)。

Dupuy (Ernest), 1849–

著作Les grands maîtres de la littérature russe au XIXe siècle(1885);Victor Hugo(1886);Victor Hugo, son œuvre poétique(1887);Bernard Palissy(1894);Paradoxe sur le comédien de Diderot(1902)ほか。

Ernest-Charles (Jean), 1875–

編集者、文学・演劇批評家。

著作La littérature française d’aujourd’hui(1902);Les Samedis littéraires, 5 vols.(1903–1907);La carrière de Maurice Barrès(1907)ほか。

Faguet (Émile), 1847–

1897年からソルボンヌのフランス詩教授。1900年からアカデミー会員。存命中のフランス人のなかで最も著名な思想批評家である。文学批評家としては、私にはルメートル氏よりはるかに劣るように思われる。最良で最も特徴的な仕事は、おそらく Politiques et moralistes に見いだされる。ここでもほかでも、彼はきらめく才気と知的な遍在性を示すが、それを統御する強力な総合が十分ではない。近年は、ある種の知的な自制欠如を思わせる速度で著作を量産している。

著作La tragédie française au XVIe siècle(1883);Les grands maîtres au XVIIe siècle(1885);Notices littéraires sur les auteurs français(1885);La Fontaine(1885);Corneille(1885);Recueil de textes des auteurs français(1885);Études littéraires au XIXe siècle(1887);Notes sur le théâtre contemporain, 7 vols.(1889–1895);Études littéraires du XVIIe siècle(1890);Études littéraires du XVIe siècle(1893);Politiques et moralistes du XIXe siècle, 3 vols.(1891–1899);Voltaire(1894);Cours de poésie française à l’Université de Paris(1897);Drame ancien, drame moderne(1898);Flaubert(1899);Question politique(1899);Histoire de la littérature française, 2 vols.(1900);Problèmes politiques du temps présent(1901);André Chénier(1902);Le libéralisme(1902);La politique comparée de Montesquieu, Rousseau et Voltaire(1902);Propos littéraires, I(1902), II(1904), III(1905), IV(1908), V(1909);Propos de théâtre, I(1903), II(1905), III–IV(1906), V(1910);Zola(1903);En lisant Nietzsche(1904);Simplification simple de l’orthographe(1905);Amours de gens de lettres(1906);L’anticléricalisme(1906);Le socialisme en 1907(1907);Le pacifisme(1908);Discussions politiques(1909);Les dix commandements, I: De l’amour, II: De l’amitié, 2 vols.(1909);La démission de la morale(1910);Madame de Sévigné(1910);Le culte de l’incompétence, 2 vols.(1910);Vie de Rousseau(1911);Ferdinand Brunetière(1911);En lisant les beaux vieux livres(1911);Les dix commandements : de la profession(1911);Les dix commandements : de Dieu(1911);Et l’horreur des responsabilitésLe Culte de l’incompétenceの続編、1911);Les préjugés nécessaires(1911);Les amies de Rousseau(1912);Rousseau contre Molière(1912);Ce que disent les livres(1912)。

参照:M. Duval, É. Faguet, le critique, le moraliste, le sociologue(1911)。

Fauriel (Claude-Charles), 1772–1844

1802年まで、ナポレオンの警察官僚フーシェの私設秘書。1830年からソルボンヌ教授。1836年から碑文・文芸アカデミー会員。

著作La Parthénéide, poème de J. Baggesen traduit de l’allemand par C. F.(重要な序論付き、1810);Le comte de Carmagnola et Adelghis, tragédies d’Alexandre Manzoni, traduites de l’italien par C. F.; suivies d’un article de Goethe et de divers morceaux sur la théorie de l’art dramatique(1823);Chants populaires de la Grèce moderne, 2 vols.(1824–1825);Histoire de la Gaule méridionale sous la domination des conquérants germains, 4 vols.(1836);Histoire de la croisade contre les hérétiques albigeois(プロヴァンス語からの翻訳、1837);Histoire de la poésie provençale, 3 vols.(1847);Dante et les origines de la langue et de la littérature italienne, 2 vols.(1854。前著とともにJ. Mohlの講義筆記から刊行);Les derniers jours du Consulat(1885);Correspondance de Fauriel et Mary Clarke(1911)。

参照:Sainte-Beuve, Portraits contemporains, IV(1845);A. Ozanam, Mélanges, II(1859);J. B. Galley, Claude Fauriel(1909。Faurielの刊行物および研究の詳細な一覧は488頁以下)。

Féletz (Charles-Marie Dorimond, abbé de), 1767–1850

1801年から『ジュルナル・デ・デバ』編集者、1827年からアカデミー会員など。批評において鋭敏であると同時に温厚だった。

著作Mélanges de philosophie, d’histoire et de littérature, 4 vols.(1828);Jugements historiques et littéraires sur quelques écrivains et sur quelques écrits du temps(1840)。

参照:Sainte-Beuve, Causeries du lundi, I(1850);Villemain, Souvenirs contemporains d’histoire et de littérature, I(1853)。

Filon (Augustin), 1841–

著作Guy Patin, sa vie, sa correspondance(1862);Études sur les lettres portugaises (1669)(1863);Histoire de la littérature anglaise(1883);Profils anglais(1893);Mérimée et ses amis(1894);Le théâtre anglais. Hier, aujourd’hui, demain(1896);De Dumas à Rostand(1898);Mérimée(1898);La caricature en Angleterre(1902)ほか。

Flat (Paul), 1865–

小説家・美術批評家など。『Revue Bleue』編集者。

著作Essais sur Balzac(1893);Seconds essais sur Balzac(1894);Nos femmes de lettres(1908)ほか。

Fontanes (le comte Louis de), 1759–1821

詩人・批評家。シャトーブリアンとともにロンドンへ亡命していた時期に知り合った。1808年から大学総長。

著作Extraits critiques du Génie du Christianisme(1802);Œuvres, 2 vols., avec notices de Chateaubriand et de Sainte-Beuve(1839)。

参照:Sainte-Beuve, Chateaubriand et son groupe littéraire(1860)。

France (Anatole), 1844–

フランス氏の批評がしばしば創作者の批評であるとすれば、反対に、小説その他の創作も批評精神に深く浸透されている。

著作Alfred de Vigny(1868);B. de Saint-Pierre et Marie Miesnik(1875);Lucile de Chateaubriand(1879);La Vie littéraire, 4 vols.(1888–1894);L’Elvire de Lamartine(1893);Discours de réception(1897);Discours prononcé à l’inauguration de la statue d’E. Renan à Tréguier(1903);Funérailles d’É. Zola(1903)ほか。

ブリュンティエールとの論争La Vie littéraire 全4巻の序文、およびBrunetière, Essais sur la littérature contemporaine 所収「La Critique impressionniste」(1891)ほかを参照。

Gautier (Théophile), 1811–1872

批評文の多くは、さまざまな新聞のための職業的な書き仕事として書かれた。本人の言葉では「文芸欄の水車を回した」のであり、とりわけ1845年以後は『Moniteur』と『Journal Officiel』に寄稿した。批評は極端なまでの鑑賞力を特徴とする。ある種の新ロマン主義者がいう意味では「創造的」批評家である。古典主義者なら、彼はジャンルを混同していると言うだろう。

著作Les Jeune-France(1833);Préface de Mademoiselle de Maupin(1835);Les Grotesques, 2 vols.(1844);Zigzags(1845);Le Salon de 1847(1847);L’art moderne(1852);Caprices et Zigzags(1852);Histoire de l’art dramatique en France depuis vingt-cinq ans, 6 vols.(1858–1859);H. de Balzac(1859);Trésors d’art de la Russie ancienne et moderne(1861–1863);Les dieux et les demi-dieux de la peinture(1863);Histoire du romantisme(1874);Portraits contemporains(1874);Portraits et souvenirs(1875);Fusains et eaux-fortes(1880);Souvenirs de théâtre, d’art et de critique(1883)。

参照:Sainte-Beuve, Portraits contemporains, II(1838), Premiers Lundis, II(1838);Baudelaire, Théophile Gautier : Notice littéraire précédée d’une lettre de V. Hugo(1859);Brandes, The Romantic School in France(1882);Montégut, Nos morts contemporains, II(1884);Faguet, Études sur le XIXe siècle(1887)。

Gazier (Augustin), 1844–

歴史家・批評家。主としてポール=ロワイヤルを研究した。

著作Petite histoire de la littérature française depuis la Renaissance(1891);Mélanges de littérature et d’histoire(1904);Port-Royal-des-Champs(1905);Une suite à l’histoire de Port-Royal(1906);Abrégé de l’histoire de Port-Royal(1909);Port-Royal au XVIIe siècle(1909)ほか。

Gebhart (Émile), 1839–1908

ソルボンヌ外国文学教授、アカデミー会員など。

著作Histoire du sentiment poétique de la nature dans l’antiquité grecque et romaine(1860);Praxitèle, essai sur l’histoire de l’art et du génie grecs(1864);De l’Italie : essais de critique et d’histoire(1876);Rabelais, la Renaissance et la Réforme(1877);Les origines de la Renaissance en Italie(1879);Introduction à l’histoire du sentiment religieux en Italie depuis la fin du XIIe siècle au Concile de Trente(1884);Études méridionales : la Renaissance italienne et la philosophie de l’histoire(1887);L’Italie mystique(1890);Autour d’une tiare (1075–1085)(1893);Le baccalauréat et les études classiques(1899);Conteurs florentins du moyen âge(1901);Rabelais(1905);Sandro Botticelli(1907);Michel-Ange(1908)ほか。

Geoffroy (Julien-Louis), 1743–1814

イエズス会の教育を受け、コレージュ・ルイ=ル=グラン教授。フレロンとともに Année littéraire に協力した。革命期には潜伏。1800年から1814年まで『Journal des Débats』の演劇批評家を務め、文学的フイユトンを創始した。

著作Discours sur la critique(1779);Cours de littérature dramatique, 6 vols.(1819–1820);Manuel dramatique(1822)ほか。

参照:Sainte-Beuve, Causeries du lundi, I(1850);Lemaître, “Geoffroy,” in Livre du centenaire du Journal des Débats(1889);Des Granges, Geoffroy et la littérature dramatique sous le Consulat et l’Empire(1897)。

Géruzez (Eugène-Nicolas), 1799–1865

著作Histoire de l’éloquence politique et religieuse, 2 vols.(1837–1838);Essais de littérature française, 2 vols.(1839);Essais d’histoire littéraire(1839);Cours de littérature conforme au plan d’études des lycées(1841);Nouveaux essais d’histoire littéraire(1845);Études littéraires sur les ouvrages français présentés pour les examens des baccalauréats ès lettres et ès sciences(1849);Histoire de la littérature française du moyen âge aux temps modernes(1852);Histoire de la littérature française pendant la Révolution (1789–1800)(1859);Histoire de la littérature française, 2 vols.(1861);Histoire abrégée de la littérature française(1862);Mélanges et pensées(1866)。

Gidel (Antoine-Charles), 1827–1899

著作Étude sur la littérature grecque moderne(1866);Les Français au XVIIe siècle(1873);Histoire de la littérature française, 4 vols.(1874–1888);L’art d’écrire(1878);Dictionnaire-Manuel illustré des écrivains et des littératures(F. Loliéeとの共著、1897)。

Giraud (Victor), 1868–

著作Pascal, l’homme, l’œuvre, l’influence(1898);Taine et le pessimisme(1898);La philosophie de Taine(1899);Essai sur Taine(1900);Taine : bibliographie(1902);Histoire des variations d’une page de Chateaubriand(1903);La philosophie religieuse de Pascal et la pensée contemporaine(1903);Chateaubriand. Études littéraires(1904);Anticléricalisme et catholicisme(1906);Livres et questions d’aujourd’hui(1906);Ferdinand Brunetière(1907);Les idées morales d’Horace(1907);Les Maîtres de l’heure(1911);Nouvelles études sur Chateaubriand(1912)ほか。

Les frères de Goncourt

Jules, 1830–1870。Edmond, 1822–1896。小説家など。

著作Histoire de la société française pendant le Directoire(1855);L’art au XVIIIe siècle, 3 vols.(1856–1865);Portraits intimes du XVIIIe siècle, 2 vols.(1857–1858);Le Journal des Goncourt, 7 vols.(1887–1895);Préfaces et manifestes littéraires(1888)。

参照:Sainte-Beuve, Nouveaux Lundis, IV(1862), X(1866);Bourget, Nouveaux essais de psychologie contemporaine(1885);Lemaître, Les Contemporains, III(1888);France, La Vie littéraire, I(1888);Doumic, Portraits d’écrivains(1892), Études sur la littérature française, II(1898)。

Gourmont (Remy de), 1860–

『Mercure de France』編集者。観点は極端な唯美主義に傾く。

著作Le Latin mystique(1892);La Poésie populaire(1896);Esthétique de la langue française(1899);La culture des idées(1900);Le Problème du style(1902);Promenades littéraires, 3 vols.(1905–1909);Dante, Béatrice et la poésie amoureuse(1908)ほか。

Gréard (Octave), 1828–1904

著作と行政活動の双方によって近代フランス教育へ重要な影響を及ぼした。1886年からアカデミー会員。

著作Précis de littérature(1875);Discours de réception(1888);Edmond Scherer(1890);Prévost-Paradol(1894)ほか。

Guizot (François-Pierre-Guillaume), 1787–1874

歴史家・政治家など。1812年にソルボンヌで講義を開始。1822年に政府が講義を停止したが、1828年、クーザン、ヴィルマンと同時に再開。1830年にルイ=フィリップから内務大臣に任命された。1836年からアカデミー会員。1840年から1848年まで事実上の首相だった。

著作Shakespeare et son temps(1852);Discours académiques(1861);Mélanges biographiques et littéraires(1868)ほか。

参照:Sainte-Beuve, Causeries du lundi, I(1850), Nouveaux Lundis, I(1861), IX(1864);Taine, Essais de critique et d’histoire(1858);Scherer, Études critiques sur la littérature contemporaine, I(1863), IV(1873);Faguet, Politiques et moralistes au XIXe siècle(1891)。

Haussonville (le vicomte Othenin d’), 1843–

1888年からアカデミー会員。

著作C.-A. Sainte-Beuve, sa vie et ses œuvres(1875);Études biographiques et littéraires(1879);Le salon de Mme Necker, 2 vols.(1882);Prosper Mérimée(1888);Mme Ackermann, d’après des lettres et papiers inédits(1892);Lacordaire(1895);Souvenirs sur Mme de Maintenon, 3 vols.(1902–1905);À l’Académie française et autour de l’Académie(1907)ほか。

Hauvette (Henri), 1865–

ソルボンヌのイタリア文学教授。

著作Luigi Alamanni(1903);Littérature italienne(1906);Ghirlandaio(1908);Dante(1911)ほか。

Hennequin (Émile), 1859–1888

セーヌ川で水泳中に溺死した。数年前に大きな注目を集めた科学的理論は、すでに疑似科学的に見え始めている。鋭い洞察の言葉とともに、次のような記述も見いだされる。「ヴィクトル・ユゴーの脳組織では、第三前頭回が優勢であった可能性が高い。」

著作La critique scientifique(1888);Études de critique scientifique : Écrivains français(1889);Études de critique scientifique : Quelques écrivains français(1890)。

参照:Brunetière, Questions de critique(1888);Tissot, Les évolutions de la critique française(1890);Rod, Nouvelles études sur le XIXe siècle(1898)。

Hugo (Victor), 1802–1885

人生全般への見方は非批評的、むしろ反批評的だった。文学上の意見は、Odes et Ballades の各序文(1822, 1824, 1826, 1828, 1853)と、ほかの詩集の序文――Feuilles d’automne(1834)、Chants du Crépuscule(1835)、Les Voix intérieures(1837)、Les Rayons et les Ombres(1840)、Les Contemplations(1856)ほか――に見いだされる。最重要の宣言は Préface de Cromwell(1827。M. Souriauによる詳細な序論付き版、1897)。ほかの戯曲の序文――Hernani(1829)、Marion de Lorme(1830)、Le Roi s’amuse(1832)、Lucrèce Borgia(1833)、Marie Tudor(1833)、Angelo(1835)、Ruy Blas(1836)、Les Burgraves(1843)――も参照。

著作Littérature et philosophie mêlées, 2 vols.(1834);William Shakespeare(1864);Discours pour Voltaire(1878)ほか。

Janin (Jules), 1804–1874

1830年から『Journal des Débats』の演劇批評家。同時代には「批評家の王子」と呼ばれた。大仰で表面的な、一種のブルジョワ印象主義者である。フイユトンを「その日の見世物がわれわれから引き出す小さな歓声」と定義した。

著作Histoire de la littérature dramatique, 6 vols.(1853–1858);Critiques, portraits et caractères contemporains(1859);Variétés littéraires(1859);Béranger et son temps, 2 vols.(1866);Œuvres diverses, 12 vols.(1876–1878);Œuvres de jeunesse, 5 vols.(1881–1883)ほか。

参照:F. Pyat, M. J. Chénier et le prince des critiques (J. Janin)(1844);Planche, Portraits littéraires(1853);Sainte-Beuve, Causeries du lundi, II(1850), V(1851);Barbey d’Aurevilly, Les Œuvres et les Hommes, IV(1865);Gautier, Portraits contemporains(1874)。

Joubert (Joseph), 1754–1824

1754年モンティニャック生まれ、1824年パリ没。トゥールーズの Collège des Pères de la Doctrine Chrétienne で学び、同校教師となった。1778年にパリへ出て、ディドロ、ラ・アルプらと知り合い、フォンターヌと親交を結んだ。1790年にモンティニャック治安判事。1793年に結婚し、ヴィルヌーヴ=シュル=ヨンヌに定住。1809年に大学視学官・参事官となった。

シャトーブリアンが1838年に Pensées 抄を刊行。甥Paul de Raynalが増補版 Pensées, Essais, Maximes et Correspondance, 2 vols.(1842、第4増補版1864)を刊行。Pensées de Joubert : reproduction de l’édition originale. Introduction et notes par V. Giraud, 4e éd.(1911)。

参照:Sainte-Beuve, Portraits littéraires, II(1838), Causeries du lundi, I(1849);Sacy, Variétés littéraires, I(1858);Matthew Arnold, Essays in Criticism(1865);P. de Raynal, Les correspondants de Joubert (1785–1822)(1883);Lemaître, Les Contemporains, VI(1896);Pailhès, Du nouveau sur Joubert(1900)。

Jusserand (Jules), 1855–

1902年から駐米フランス大使。

著作Les Anglais au moyen âge : L’Épopée mystique de William Langland(1893);Histoire littéraire du peuple anglais, I: Des origines à la Renaissance(1894), II: De la Renaissance à la guerre civile(1904);Histoire abrégée de la littérature anglaise(1895);Shakespeare en France sous l’ancien régime(1898)ほか。

Lamartine (Alphonse), 1790–1869

文学批評の大部分は、晩年、金銭的困窮のもとで書かれた。

著作Des Destinées de la poésie(1834);Cours familier de littérature, 28 vols.(1856–1869);Bossuet(1864);Cicéron(1864);Shakespeare et son œuvre(1864);Balzac et son œuvre(1865);Trois poètes italiens : Dante, Pétrarque, Le TasseCours de littérature 抄、1892);Philosophie et littérature(1894)ほか。

Laprade (Victor de), 1812–1883

詩人・批評家。リヨン大学教授。1858年、ミュッセの後任としてアカデミー会員となった。

著作Le génie littéraire de la France(1848);Du sentiment de la nature dans la poésie d’Homère(1848);Le sentiment de la nature avant le christianisme(1866);Le sentiment de la nature chez les modernes(1867);Essais de critique idéaliste(1882);Histoire du sentiment de la nature(1883)。

Larroumet (Gustave), 1852–1904

著作Marivaux, sa vie et ses œuvres(1883);La Comédie de Molière : l’auteur et le milieu(1886);Salon de 1892(1892);Notice sur le prince Napoléon Bonaparte(1892);Études d’histoire et de critique dramatique(1892);Études de littérature et d’art, 4 vols.(1893–1896);Meissonier(1893);L’art et l’État en France(1895);La maison de V. Hugo. Impressions de Guernesey(1895);Petits portraits et notes d’art(1897);La France en Orient(1898);Racine(1898);Vers Athènes et Jérusalem. Journal de voyage en Grèce et en Syrie(1898);Nouvelles études d’histoire et de critique dramatique(1899);Derniers portraits(1904)。

Lasserre (Pierre), 1867–

著作La crise chrétienne(1891);Charles Maurras et la renaissance classique(1902);La morale de Nietzsche(1902);Les idées de Nietzsche sur la musique(1907);Le romantisme français(1907);M. Croiset historien de la démocratie athénienne(1909);La Doctrine officielle de l’Université(1912)ほか。

Lanson (Gustave), 1857–

ソルボンヌのフランス文学教授。

著作Principes de composition et de style(1887);Nivelle de La Chaussée et la comédie larmoyante(1888);Bossuet(1890);Choix de lettres du XVIIe siècle(1890);Conseils sur l’art d’écrire(1890);Études pratiques de composition française(1891);Boileau(1892);Histoire de la littérature française(1894);Hommes et livres(1895);Corneille(1895);L’Université et la société moderne(1901);Voltaire(1906);L’Art de la prose(1908);Manuel bibliographique de la littérature française, I(XVIe siècle, 1909)、II(XVIIe siècle, 1910)、III(XVIIIe siècle, 1911);Trois mois d’enseignement aux États-Unis(1912)ほか。

Leconte de Lisle, 1820–1894

批評上の最も重要な宣言は、Poèmes antiques(1852)の序文である。

Lefranc (Abel), 1863–

コレージュ・ド・フランス教授。

著作Les dernières poésies de Marguerite de Navarre(1898。ほか十六世紀に関する研究多数);La langue et la littérature françaises au Collège de France(1904);Défense de Pascal(1907);Leçons sur Molière(1904–1909);Études sur Maurice de Guérin(1908)ほか。

Legouis (Émile), 1861–

ソルボンヌの英文学教授。

著作Le général Michel Beaupuy(Georges Bussièreとの共著、1891);La jeunesse de William Wordsworth(1896);Geoffrey Chaucer(1911);Défense de la poésie française à l’usage des lecteurs anglais(1912)ほか。

Lemaître (Jules), 1853–

著作La comédie après Molière et le théâtre de Dancourt(1882);Quomodo Cornelius noster Aristotelis poeticam sit interpretatus(1882);Les Contemporains, 7 vols.(1885–1899);Impressions de théâtre, 10 vols.(1888–1898);Corneille et la poétique d’Aristote(1888);Quatre discours(1900);Opinions à répandre(1902);Théories et impressions(1903);En marge des vieux livres(1905)、2e série(1908);Rousseau(1907);Racine(1908);Fénelon(1910);Chateaubriand(1912)ほか。

参照:A. France, La Vie littéraire, I(1888), II(1890);Pellissier, Nouveaux essais de littérature contemporaine(1894), Études de littérature contemporaine, II(1900);Doumic, Écrivains d’aujourd’hui(1895)。

Lemercier (Népomucène), 1771–1840

劇作家など。

著作Cours analytique de littérature générale, 4 vols.(1817)。

参照:G. Vauthier, Essai sur la vie et les œuvres de N. Lemercier(1886);M. Souriau, N. Lemercier et ses correspondants(1908)。

Lenient (Charles), 1826–1906

著作Étude sur Bayle(1855);La satire en France au moyen âge(1859);La satire en France ou la littérature militante au XVIe siècle(1866);Conférences sur les œuvres poétiques de M. Pierre Lebrun(1866);La comédie en France au XVIIIe siècle(1888);La poésie patriotique en France au moyen âge(1891);La poésie patriotique en France, 2 vols.(1894);La comédie en France au XIXe siècle, 2 vols.(1898)ほか。

Levallois (Jules), 1829–1903

長年にわたりサント=ブーヴの秘書を務めた。

著作Critique militante(1862);Sainte-Beuve(1872);Corneille inconnu(1876);Un précurseur : Senancour(1897)ほか。

Lintilhac (Eugène), 1854–

著作Beaumarchais et ses œuvres(1887);Précis historique et critique de la littérature française depuis les origines à nos jours, 2 vols.(1891–1894);Supplément aux Études littéraires sur les classiques des classes supérieures et du baccalauréat ès lettres(1892);Lesage(1893);Les félibres(1894);Le miracle grec d’Homère à Aristote(1896);Conférences dramatiques(1898);Michelet(1898);Le problème de l’enseignement secondaire(1898);Histoire du théâtre en France, I(1904)、II(1906)、III(1908)、IV(1909)、V(1911)。

Livet (Charles-Louis), 1828–1898

著作La grammaire française et les grammairiens au XVIIe siècle(1859);Précieux et précieuses(1859);Portraits du grand siècle(1885);Lexique de la langue de Molière, 3 vols.(1896–1897)。

Loménie (Louis de), 1818–1878

著作Galerie des contemporains illustres, 10 vols.(1840–1847);Beaumarchais et son temps, 2 vols.(1855);Les Mirabeau, 5 vols.(1878–1891);Esquisses historiques et littéraires(1879)。

Magnin (Charles), 1793–1862

ロマン主義寄りの批評家。『グローブ』、のちに『ナシオナル』の演劇批評家。国立図書館司書。ソルボンヌではフォーリエルの代理を務めた、など。

著作Origines du théâtre en Europe(1838);Causeries et Méditations(1842);Théâtre de Hroswitha(1845);Histoire des marionnettes en Europe(1852)ほか。

参照:Sainte-Beuve, Portraits contemporains, III(1843);Nouveaux Lundis, V(1863)。

Martha (Constant), 1820–1895

1869年からソルボンヌのラテン文学教授。

著作De la morale pratique dans les lettres de Sénèque(1854);Les moralistes sous l’Empire romain(1864);Le poème de Lucrèce(1869);Études morales sur l’antiquité(1883);La délicatesse dans l’art(1884);Mélanges de littérature ancienne(1896)。

Maurras (Charles-Marie-Photius), 1868–

近代の放縦と趣味の腐敗に対抗して古典主義を積極的に擁護してきた。ただしその擁護は、古典芸術とロマン主義芸術をめぐる問題全体を政治と混同する仕方で行われた。各種新聞・雑誌、とりわけ『アクシオン・フランセーズ』への多数の寄稿、社会・政治問題に関する著作のほか、次を刊行した。

著作Jean Moréas(1891);Trois idées politiques : Chateaubriand, Michelet, Sainte-Beuve(1898);Les amants de Venise : George Sand et Musset(1902);L’Avenir de l’intelligence(1905)ほか。

Mérimée (Prosper), 1803–1870

小説家・考古学者など。

著作Mélanges historiques et littéraires(1855);Portraits historiques et littéraires(1875)ほか。

Merlet (Gustave), 1828–1891

リセ・シャルルマーニュおよびリセ・ルイ=ル=グランの修辞学教授として、多くの生徒へ重要な影響を及ぼした。

著作Le réalisme et la fantaisie dans la littérature(1861);Portraits d’hier(1863);Causeries sur les femmes et les livres(1865);Hommes et livres(1869);Saint-Évremond, étude historique, morale et littéraire(1870);Études littéraires sur les classiques français(1875);Études littéraires sur les classiques français (XVIIe–XVIIIe siècles)(1876);Tableau de la littérature française (1800–1815), 3 vols.(1877–1880);Études littéraires sur la Chanson de Roland(1882);Études littéraires sur les grands classiques latins(1884);Études littéraires sur les grands classiques grecs(1885);Anthologie classique des poètes du XIXe siècle(1890)。

Mézières (Alfred), 1826–

1863年からソルボンヌ教授。1874年からアカデミー会員。

著作Shakespeare, ses œuvres et ses critiques(1861);Les contemporains de Shakespeare(1863);Prédécesseurs et contemporains de Shakespeare(1863);Contemporains et successeurs de Shakespeare(1864);Dante et l’Italie(1865);Pétrarque(1867);La société française : Le paysan, etc.(1869);Goethe. Les œuvres expliquées par la vie, 2 vols.(1872–1873);Discours de réception(1875);En France : XVIIIe et XIXe siècles(1883);Réponse de M. Mézières au discours de Pierre Loti(1892);Morts et vivants(1897);Au temps passé(1906);Hommes et femmes d’hier et d’avant-hier(1909);De tout un peu(1909)ほか。

Michiels (Alfred-Joseph-Xavier), 1813–1892

美術批評家・歴史家など。サント=ブーヴの敵対者。

著作Études sur l’Allemagne, 2 vols.(1839);Histoire des idées littéraires en France au XIXe siècle, 2 vols.(1842);Souvenirs d’Angleterre(1844);Le monde du comique et du rire(1887)ほか。

Monod (Gabriel), 1844–

歴史家。コレージュ・ド・フランス教授など。

著作Jules Michelet(1875);Les maîtres de l’histoire : Renan, Taine, Michelet(1894);Portraits et souvenirs(1897);Gaston Paris(1903)ほか。

Montégut (Émile), 1826–1895

歴史家・道徳家・批評家。『両世界評論』でギュスターヴ・プランシュの後任となった。最初の記事はエマソンについてのものだった。十九世紀後半、外国文学、とりわけ英文学をフランスの読者へ紹介した主要な解説者の一人であり、繊細さと品位を備えた批評家だった。

著作Du génie français(1857);Essai sur l’époque actuelle(1858);Poètes et artistes de l’Italie(1881);Types littéraires et fantaisies esthétiques(1882);Essais sur la littérature anglaise(1883);Nos morts contemporains, 2 vols.(1883–1884);Écrivains modernes de l’Angleterre, 3 vols.(1885);Lettres et âmes du pays d’Orient(1885);Choses du Nord et du Midi(1886);Mélanges critiques(1887);Dramaturges et romanciers(1890);Heures de lecture d’un critique(1891);Esquisses littéraires(1893)ほか。

Morice (Charles), 1861–

著作Paul Verlaine(1887);Demain. Questions d’esthétique(1888);La littérature de tout à l’heure(1889);Opinions(1895);Du sens religieux de la poésie. Sur le mot poésie. Le principe social de la beauté(1898);Les textes de Rabelais et la critique contemporaine(1905)ほか。

Musset (Alfred de), 1810–1857

折に触れて仲間のロマン主義者を風刺した。とりわけ Lettres de Dupuis et Cotonet にそれが見られる。

Nettement (Alfred-François), 1805–1869

見解のうえで強い反動主義者だった。

著作Histoire de la littérature française sous la Restauration, 2 vols.(1853);Histoire de la littérature française sous le gouvernement de Juillet, 2 vols.(1855);Poètes et artistes contemporains(1862);Le roman contemporain(1864)ほか。

Nisard (Désiré), 1806–1888

『ジュルナル・デ・デバ』ほかの定期刊行物へ寄稿した。教育総監、ソルボンヌ教授、高等師範学校校長、アカデミー会員などを歴任。

著作Études de mœurs et de critique sur les poètes latins de la décadence, 2 vols.(1834);Mélanges(1838);Histoire de la littérature française, 4 vols.(1844–1861);Études sur la Renaissance(1855);Souvenirs de voyages(1855);Études de critique littéraire(1858);Études d’histoire et de littérature(1859);Nouvelles études d’histoire et de littérature(1864);Mélanges d’histoire et de littérature(1868);Les quatre grands historiens latins(1874);Portraits et études d’histoire littéraire(1874);Renaissance et Réforme, 2 vols.(1877);Discours académiques et universitaires(1884);Nouveaux mélanges d’histoire et de littérature(1886);Considérations sur la Révolution française et Napoléon Ier(1887);Souvenirs et notes biographiques, 2 vols.(1888);Égéries(1889);Essais sur l’école romantique(1891)。

参照:Sainte-Beuve, Portraits contemporains, III(1836);Causeries du lundi, XV(1864);Scherer, Études sur la littérature contemporaine, I(1863);Dowden, New Studies in Literature(1895);Mézières, Pensées choisies de D. Nisard (centenaire)(1906)。

Ozanam (Alphonse-Frédéric), 1813–1853

1845年、フォーリエルの後任としてソルボンヌ教授となり、その影響を顕著に受けた。ダンテ研究の卓越した学者で、十九世紀フランス・カトリシズムの重要人物。

著作Essai sur la philosophie de Dante(1838);Dante et la philosophie catholique au XIIIe siècle(1839);Études germaniques, 2 vols.(1847–1849);Documents inédits pour servir à l’histoire littéraire de l’Italie du VIIIe au XIIIe siècle(1850);Œuvres complètes, préface par M. Ampère, 11 vols.(1862–1865);Les poètes franciscains en Italie au XIIIe siècle(1872)。

参照:Veuillot, Mélanges religieux, IV(1847–1850);Lacordaire, Frédéric Ozanam(1857);Ampère, Mélanges d’histoire littéraire et de littérature, II(1867);A. Ozanam, Vie de F. Ozanam(1879);B. Faulquier, F. Ozanam(1903)。

Parigot (Hippolyte), 1861–

著作Émile Augier(1890);Le théâtre d’hier(1893);Génie et métier(1894);Le drame d’Alexandre Dumas(1899);Alexandre Dumas père(1900);Renan(1909)ほか。

Paris (Gaston), 1839–1903

おそらくフランス中世文献学者の第一人者であり、同時に卓越した文学批評家でもあった。1872年からコレージュ・ド・フランス教授、1896年からアカデミー会員。

著作La poésie du moyen âge, 2 vols.(1885–1895);Les origines de la poésie lyrique en France au moyen âge(1892);François Villon(1901);Esquisse historique de la littérature française du moyen âge(1907)ほか。

Patin (Henri-Joseph-Guillaume), 1793–1876

1833年からソルボンヌのラテン文学教授。1843年からアカデミー会員。

著作Mélanges de littérature ancienne et moderne(1840);Études sur les tragiques grecs, 3 vols.(1841–1843);Études sur la poésie latine, 2 vols.(1869);Discours et Mélanges littéraires(1876)。

Pellissier (Georges), 1852–

著作Traité théorique et historique de versification française(1882);Les écrivains politiques en France avant la Révolution(1882);De sexti decimi saeculi in Francia artibus poeticis(1883);La vie et les œuvres de Du Bartas(1883);Le mouvement littéraire au XIXe siècle(1889);Essais de littérature contemporaine(1893);Nouveaux essais de littérature contemporaine(1895);Morceaux choisis des poètes du XVIe siècle(1896);Études de littérature contemporaine(1898);Le mouvement littéraire contemporain(1901);Précis d’histoire de la littérature française(1902);Études de littérature et de morale contemporaines(1905);Voltaire philosophe(1908);Le Réalisme du romantisme(1912)ほか。

Petit de Julleville (Louis), 1841–1900

ソルボンヌ教授。

著作Le discours français et la dissertation française(1868);L’École d’Athènes au IVe siècle après Jésus-Christ(1868);Histoire du théâtre en France : les mystères(1880);Histoire littéraire, 2 vols.(1884);Histoire du théâtre en France : les comédiens en France au moyen âge(1885);Histoire du théâtre en France : La comédie et les mœurs en France au moyen âge(1886);Histoire du théâtre en France : Répertoire du théâtre comique en France au moyen âge(1886);Le théâtre en France. Histoire de la littérature dramatique depuis les origines à nos jours(1889)。Histoire de la littérature et de la langue françaises, 8 vols.(1896–1899)の総編集者。Histoire de la littérature française des origines à nos jours(1899)。

Pichot (Amédée), 1796–1877

歴史家・小説家・詩人。バイロンその他のイギリス作家の翻訳者としても活動した。

著作Notice sur Walter Scott et ses écrits(1821);Essai sur le génie et le caractère de Lord Byron(1824);Voyage historique et littéraire en Angleterre et en Écosse, 3 vols.(1825)ほか。

Planche (Gustave), 1808–1857

1831年から『両世界評論』へ寄稿。同時代の芸術家・作家――その多くと個人的に親しかった――へ下した判断の厳しさで注目された。マシュー・アーノルドによれば「第一級の批評家」。一般的なフランス側の見方では、プランシュは批評界のアルセストのような人物であり、その厳格さは公平な判断というより気質に由来する面が強かった。

著作Salon de 1831(1831);Portraits littéraires, 2 vols.(1836);Nouveaux portraits littéraires, 2 vols.(1854);Études sur les arts(1855);Études sur l’école française (1831–1852). Peinture et sculpture, 2 vols.(1855)ほか。

参照:Michiels, Histoire des idées littéraires, II(1842);Montégut, Esquisses littéraires(1893)。

Pontmartin (Armand de), 1811–1890

反動的な批評家で、サント=ブーヴと活発な論争を幾度か交わした。Les Jeudis de Madame Charbonneau の文学風刺は、いわゆる「スキャンダルによる成功」を収めた。

著作Causeries littéraires(1854);Nouvelles causeries littéraires(1855);Dernières causeries littéraires(1856);Causeries du samedi(1857);Nouvelles causeries du samedi(1859);Dernières causeries du samedi(1860);Les semaines littéraires(1861);Les jeudis de Mme Charbonneau(1862);Les nouvelles semaines littéraires(1863);Les dernières semaines littéraires(1864);Nouveaux samedis, 20 vols.(1865–1881);Souvenirs d’un vieux critique, 10 vols.(1881–1890);Mes mémoires : enfance et jeunesse(1885);Mes mémoires : seconde jeunesse(1886);Épisodes littéraires(1890);Derniers samedis, 3 vols.(1891–1892)。

参照:Veuillot, Mélanges religieux, II(1859);Sainte-Beuve, Nouveaux Lundis, II–III(1862);Biré, Études et portraits(1894)。

Prévost-Paradol (Lucien-Anatole), 1829–1870

高等師範学校でテーヌの同窓。第二帝政期で最も才気ある時評家の一人だった。長年帝政へ反対した後にこれを支持し、駐米公使として派遣されたが、対独戦争勃発時、ワシントンで自殺した。

著作Jonathan Swift(1856);Essais de politique et de littérature, 3 vols.(1859–1863);Étude sur Étienne de La Boétie(1864);Études sur les moralistes français(1865)。

参照:Sainte-Beuve, Nouveaux Lundis, I(1861);Scherer, Études sur la littérature contemporaine, I(1863), III(1866), IV(1873);Gréard, Prévost-Paradol(1894);Lettres de Prévost-Paradol(1894)ほか。

Rémusat (Charles de), 1797–1875

哲学者など。1824年から『グローブ』へ寄稿。1846年にアカデミー会員。1871~1873年、外務大臣。

著作Abélard, 2 vols.(1845);De la philosophie allemande(1845);Critiques et études littéraires, 2 vols.(1847);Passé et présent. Mélanges, 2 vols.(1847);L’Angleterre au XVIIIe siècle, 2 vols.(1856);Bacon(1857);Channing(1857);Lord Herbert de Cherbury(1874)ほか。

参照:Sainte-Beuve, Portraits littéraires, III(1847);Albert, La littérature française au XIXe siècle, II(1885)ほか。

Renan (Ernest), 1823–1892

ルナンの生涯で最も重要な点は、本人が Souvenirs に記した事柄である。ブルターニュのトレギエに生まれ、トレギエのコレージュ、パリのサン=ニコラ=デュ=シャルドネで学び、イシー神学校とサン=シュルピス神学校で聖職への準備をした。歴史・文献学研究によって懐疑を深め、1846年10月、サン=シュルピスおよびカトリック教会と最終的に決別した。

その後三年半、パンシオン・クルーゼで教師を務め、そこでベルテロと知り合った。政府から学術調査を命じられ、1849年に八か月間イタリアを旅行した。1848年の民主主義的幻想が消え、芸術の世界が開かれた。十年間離れていた姉アンリエットと1850年に再会し、その後十年間、絶えず姉の同伴と助言を得た(Ma Sœur Henriette, p. 32 ff.参照)。1851~1860年、国立図書館東洋写本部に勤務。1856年、碑文・文芸アカデミー会員となり、同年、画家アリ・シェフェールの姪Mlle Schefferと結婚した。

1860年、姉を伴って古代フェニキアの学術調査へ赴いた。二人はシリアで熱病に倒れ、アンリエットは1861年に死去した。東方旅行中に Vie de Jésus を執筆。1862年、コレージュ・ド・フランスのヘブライ語教授となったが、非正統的な姿勢を理由に政府は講義を停止し、二年後には教授職を剥奪した。1869年、モー選挙区で代議士に立候補したが落選。1870年、ナポレオン公とスカンディナヴィアを旅行。帝政崩壊後、コレージュ・ド・フランス教授へ復職した。1878年アカデミー会員、1882年アジア協会会長、1884年コレージュ・ド・フランス総長。長い病を大きな不屈さで耐え、1892年10月2日、コレージュ・ド・フランスの居室で死去した。

著作L’Avenir de la science(1848年執筆、1890年刊);Averroès et l’Averroïsme および De philosophia peripatetica apud Syros(1852);Histoire générale et système comparé des langues sémitiques(1855);Études d’histoire religieuse(1857);De l’origine du langage(1858);Essais de morale et de critique(1859)。翻訳:Le livre de Job(1859)、Le Cantique des cantiques(1860)。Ma Sœur Henriette(1862年私刊、1895年公刊);Vie de Jésus(1863);Histoire littéraire de la France, vols. XXIV–XXXIへの各種寄稿(とくにvol. XXIV所収 Discours sur l’état des beaux-arts en France au XIVe siècle);Mission de Phénicie(1864);Les Apôtres(1866);Questions contemporaines(1868);Saint-Paul(1869);La réforme intellectuelle et morale(1871);L’Antéchrist(1873);Dialogues et fragments philosophiques(1876);Les Évangiles(1877);Mélanges d’histoire et de voyages(1878);L’Église chrétienne(1879);Conférences d’Angleterre(1880);Marc-Aurèle(1882);翻訳 L’Ecclésiaste(1882);Souvenirs d’enfance et de jeunesse(1883);Nouvelles études d’histoire religieuse(1884);Discours et conférences(1887);Histoire du peuple d’Israël, 5 vols.(1887–1894);Drames philosophiques(1888);Feuilles détachées(1892);Lettres intimes(1896);Correspondance(ルナンとベルテロの往復書簡、1898);Cahiers de jeunesse(1906);Nouveaux cahiers de jeunesse(1907)。

参照:Scherer, Mélanges de critique religieuse(1860);Études sur la littérature contemporaine, IV, VII, VIII, IX, X(1863–1895);Mélanges d’histoire religieuse(1864)。Sainte-Beuve, Nouveaux Lundis, II(1862), VI(1863)。Bourget, Essais de psychologie contemporaine(1883);Lemaître, Les Contemporains, I(1884), IV(1889);Impressions de théâtre, I(1889);A. France, La Vie littéraire, I(1889), II(1894);E.-M. de Vogüé, Heures d’histoire(1893);Pellissier, Le Mouvement littéraire au XIXe siècle, p. 314 ff.(1894);G. Monod, Renan, Taine et Michelet(1894);Séailles, Ernest Renan(1895);F. Espinasse, Life of Renan(1895);Brunetière, Nouveaux essais sur la littérature contemporaine(1895);Library of the World’s Best Literature, XXI(1897)。

Renard (Georges), 1847–

著作Vie de Voltaire(1883);Études sur la France contemporaine(1888);Les principes de la jeune critique(1890);Critique de combat, 3 vols.(1894–1897);La méthode scientifique de l’histoire littéraire(1900)ほか。

Rigault (Hippolyte), 1821–1858

著作La querelle des Anciens et des Modernes(1856);Œuvres complètes, 4 vols.(1859)。

Rod (Édouard), 1857–1910

小説家など。

著作De la littérature comparée(1886);Études sur le XIXe siècle(1888);Les idées morales du temps présent(1891);Dante(1891);Stendhal(1891);Essai sur Goethe(1898);Nouvelles études sur le XIXe siècle(1898);L’Affaire J.-J. Rousseau(1906);La Pensée d’Édouard Rod(1911)ほか。

Sacy (Samuel-Ustazade-Silvestre de), 1801–1879

1828年から『ジュルナル・デ・デバ』へ文学・政治記事を寄稿。1854年からアカデミー会員。人文主義者と愛書家を魅力的に兼ね備えた人物。

著作Variétés littéraires, morales et historiques, 2 vols.(1858);Rapport sur le progrès des lettres, par de Sacy, Féletz, Gautier et Ed. Thierry(1868)。

参照:Sainte-Beuve, Causeries du lundi, XIV(1858);Renan, Essais de morale et de critique(1859);Prévost-Paradol, Essais de politique et de littérature, III(1863);Taine, Nouveaux essais de critique et d’histoire(1865), Derniers essais de critique et d’histoire(1894);Scherer, Études critiques sur la littérature contemporaine, VII(1882)。

Sainte-Beuve (Charles-Augustin), 1804–1869

ブーローニュ=シュル=メールに生まれた。父は官吏で、五十二歳のとき四十歳の女性――母方にイギリス系の血を引く――と結婚したが、サント=ブーヴ誕生の二か月前に死去していた。ブーローニュのブレリオ学院で学び、1818年にパリのパンシオン・ランドリへ入った。1823~1827年に医学を学ぶ。かつての教師M. Duboisが1824年に創刊した『グローブ』へ寄稿を開始。1827年1月、『グローブ』で Odes et Ballades を論評したことからユゴーと知り合った。ロマン主義擁護運動の一環として、ロンサールとプレイヤード派を復権させた。

『ルヴュ・ド・パリ』へ寄稿を開始し、1830~1831年にはサン=シモン派と密接に関係した。『ナシオナル』、新創刊の『両世界評論』へ執筆。スイスへ赴き、ヴィネと出会い、1837~1838年にはローザンヌでポール=ロワイヤルについて講義した。1840年、クーザンによってマザラン図書館の職へ任命。1844年アカデミー会員。1848年革命後パリを離れ、ベルギーのリエージュで一年間フランス文学教授を務めた(事情は Chateaubriand 序文参照)。1849年9月パリへ戻り、『コンスティテュシオネル』で「月曜閑談」を開始した。

1853年『モニトゥール』へ移籍。1854年、コレージュ・ド・フランスのラテン詩教授となったが、政治的態度に憤った学生の妨害により、講義は二回しか行えなかった。1858~1861年、高等師範学校で講義。1861年『コンスティテュシオネル』へ戻り、「新月曜閑談」を開始。1865年、元老院議員に任命された。

著作Tableau historique et critique de la poésie française et du théâtre français au XVIe siècle(1828、決定版1876);Œuvres choisies de Pierre de Ronsard avec notices, notes et commentaires(1828);Vie, poésie et pensées de Joseph Delorme(1829);Les Consolations(1830);Volupté, 2 vols.(1834);Pensées d’août(1837);Port-Royal, 5 vols.(1840–1859。第3版7 vols., 1869–1871);Livre d’amour(1843);Causeries du lundi, 16 vols.(1851–1862。第3改訂版、1857–1872);Étude sur Virgile(1857、改訂版1870);Chateaubriand et son groupe littéraire sous l’Empire, 2 vols.(1860、改訂版1873);Portraits littéraires, 3 vols.(1862–1864);Nouveaux Lundis, 13 vols.(1863–1870。第2改訂版1864–1878);Portraits contemporains, 5 vols.(1869–1871);Portraits de femmes(1870);P.-J. Proudhon, sa vie et sa correspondance(1872);Lettres à la princesse(1873);Premiers Lundis, 3 vols.(1874–1875);Cahiers de Sainte-Beuve(1876);Chroniques parisiennes(1876);Correspondance de Sainte-Beuve, 2 vols.(1877–1878);Nouvelle Correspondance(1880);Lettres inédites de Sainte-Beuve à Collombet(1903);Correspondance inédite de Sainte-Beuve avec M. et Mme Juste Olivier(1904);Lettres de Sainte-Beuve à Victor Hugo et à Mme Victor Hugo, Revue de Paris(1904年12月、1905年1・2月);Lettres inédites à Charles Labitte(1912)。

参照:Scherer, Études sur la littérature contemporaine, I(1863), IV(1873), VII(1882);Haussonville, Sainte-Beuve, sa vie et ses œuvres(1875);Levallois, Sainte-Beuve(1872);Troubat, Souvenirs et indiscrétions du dernier secrétaire de Sainte-Beuve(1872), Vie de Sainte-Beuve(1876), Souvenirs du dernier secrétaire de Sainte-Beuve(1890);M. Arnold, in Encyclopædia Britannica;Brunetière, L’évolution des genres(1890);Taine, Derniers essais de critique et d’histoire(1894);Faguet, Politiques et moralistes du XIXe siècle, 3e série(1899);Spoelberch de Lovenjoul, Sainte-Beuve inconnu(1901);Giraud, Table alphabétique et analytique des Premiers Lundis, etc., avec une étude sur Sainte-Beuve et son œuvre critique(1903);Michaut, Sainte-Beuve avant les Lundis(1903), Le Livre d’Amour de Sainte-Beuve(1905), Études sur Sainte-Beuve(1905);Séché, Études d’histoire romantique : Sainte-Beuve, 2 vols.(1904);G. M. Harper, Sainte-Beuve(1909);P. E. More, Shelburne Essays, 3rd series(1906);F. Voizard, Sainte-Beuve : l’homme et l’œuvre(1912)。

Saint-Marc Girardin, 1801–1873

1834年からソルボンヌのフランス詩教授として広い影響を及ぼした。1844年からアカデミー会員。ロマン主義の過度に対する鋭く機知に富む反対者であり、文学批評家である以上に道徳家だった。ややブルジョワ的な精神習慣を備え、生来の文章家――フランス人のいう écrivain de race――というより、才気ある即興家だったとも批判されている。

著作Éloge de Lesage(1822);Éloge de Bossuet(1827);Tableau de la littérature française au XVIe siècle(1828);Notices littéraires et politiques sur l’Allemagne(1834);Cours de littérature dramatique, 4 vols.(1843);Essais de littérature et de morale, 2 vols.(1845);Souvenirs de voyages et d’études, 2 vols.(1852–1853);La Fontaine et les fabulistes, 2 vols.(1867);J.-J. Rousseau, sa vie et ses ouvrages, 2 vols.(1870)。

参照:Vinet, Études sur la littérature française, III(1851);Nisard, Études de critique littéraire(1858), Portraits et études d’histoire littéraire(1874), Souvenirs et notes biographiques(1888)。

Saint-Victor (le comte Paul de), 1827–1881

ロマン主義者。その文体は色彩の温かさゆえにテーヌらから賞賛されたが、その長所も知的内容の欠如を補うものではない。

著作Hommes et dieux(1867);Les femmes de Goethe(1869);Lamartine(1869);Victor Hugo(1885);Anciens et modernes(1886);Le théâtre contemporain(1889)。

参照:Sainte-Beuve, Nouveaux Lundis, X(1867);Scherer, Études critiques sur la littérature contemporaine, IV(1873), VII(1882);Taine, Derniers essais de critique et d’histoire(1894)。

Sand (George), 1804–1876

批評上の見解については、Souvenirs et impressions littéraires(1862)、Impressions et Souvenirs(1873)、Questions d’art et de littérature(1878)、Correspondance, 6 vols.(1882–1884。とくにフローベール宛書簡)などを参照。

Sarcey (Francisque), 1828–1899

当時最も影響力のある演劇批評家。1867年から新聞『ル・タン』へ執筆した。技巧を重んじ、ブルジョワ的良識を擁護した。

著作Comédiens et comédiennes(1878);Souvenirs de jeunesse(1884);Souvenirs d’âge mûr(1892);Quarante ans de théâtre, 8 vols.(1900–1902)ほか。

参照:Lemaître, Les Contemporains, II(1889);Faguet, Propos de théâtre(1903)。

Sayous (André), 1808–1870

著作Étude littéraire sur Calvin(1839);Études littéraires sur les écrivains français de la Réformation, 2 vols.(1842);Histoire de la littérature française à l’étranger, 2 vols.(1853);Le XVIIIe siècle à l’étranger, 2 vols.(1861)。

参照:Vinet, Études sur la littérature française, III(1851);S. de Sacy, Variétés littéraires, I–II(1858);Sainte-Beuve, Causeries du lundi, XV(1861)。

Scherer (Edmond), 1815–1889

パリ生まれ。スイス、オランダ、イギリス系の祖先をもつ。1831年8月10日からイングランドのモンマスで福音派聖職者の寄宿生となり、1833年パリへ戻った。1836~1839年、ストラスブールで神学を学んだ。ジュネーヴ自由神学校で教え、1849年12月に辞職。1850~1859年、ジュネーヴで独立の神学講座を開いた。1860年パリへ移り、新聞『ル・タン』に加わった。同紙への寄稿は約3500本に及ぶと推定される。1871年国民議会議員、1875年元老院議員。

著作Dogmatique de l’école réformée(1843);De l’état actuel de l’Église réformée en France(1844);Esquisse d’une théorie de l’Église chrétienne(1845);La critique et la foi(1850);Alex. Vinet(1853);Lettres à mon curé(1853);Mélanges de critique religieuse(1860);Études critiques sur la littérature contemporaine, 10 vols.(1863–1896);Mélanges d’histoire religieuse(1864);Diderot(1880);La révision de la constitution(1881);La démocratie et la France(1883);Melchior Grimm(1887);Études sur la littérature au XVIIIe siècle(1891)。

参照:Sainte-Beuve, Causeries du lundi, XV(1860);Gréard, Ed. Scherer(1890);Tissot, Les évolutions de la critique(1890);Dowden, New Studies in Literature(1895);Boutmy, Taine, Scherer, Laboulaye(1901)。

Séché (Léon), 1848–

見方が極端に伝記中心である。

著作Port-Royal des Champs(1899);Volney (1757–1820)(1899);Sainte-Beuve, 2 vols.(1904–1905);A. de Musset(1907);Le Cénacle de la « Muse française »(1908);Hortense Allart de Méritens(1908);Le Roman de Lamartine(1909);Madame d’Arbouville(1909);Muses romantiques(1910);La Jeunesse dorée sous Louis-Philippe(1911);Le Cénacle de Joseph Delorme, 2 vols.(1912)ほか。

Seillière (Ernest), 1866–

人生に対する拡張的・ロマン主義的態度と帝国主義との関係を、La Philosophie de l’impérialisme の名のもとに展開しつつある。

著作Études sur Ferdinand Lassalle(1897);Littérature et morale dans le parti socialiste allemand(1898);Le comte de Gobineau et l’aryanisme historique(1903);Apollon ou Dionysos ?(1905);L’impérialisme démocratique(1907);Le mal romantique. Essai sur l’impérialisme irrationnel(1908);Une tragédie d’amour au temps du romantisme(1909);Introduction à la philosophie de l’impérialisme(1910);Barbey d’Aurevilly(1910);Les mystiques du néo-romantisme(1911);Schopenhauer(1911)ほか。

Simonde de Sismondi (Jean-Charles-Léonard), 1773–1842

歴史家など。スタール夫人の親しい友人。その De la littérature du Midi de l’Europe, 4 vols.(1813)は、ロマン主義運動に伏在する影響の一つである。スタール夫人と同様、形式感覚には乏しい。

参照:Sainte-Beuve, Nouveaux Lundis, VI(1863);Scherer, Études critiques sur la littérature contemporaine, II(1865)。

Staël, Mme de (née Germaine Necker), 1766–1817

富裕なスイス人銀行家でルイ十六世の大臣などを務めたネッケルの一人娘。母のサロンでラ・アルプ、ビュフォンらと知り合った。1786年、駐仏スウェーデン大使スタール男爵と結婚。革命期にはタレーランらの友人とイギリスで合流。1794年9月、バンジャマン・コンスタンと出会った。1795年5月パリでサロンを開くが、同年コペへ戻る。1797年4月、再びサロンを開いた。ナポレオンへの反対に転じ、1802年スタール男爵死去。1803年10月、パリから四十リュー以上離れているよう命じられた。

ドイツへ向かい、1803年12月から1804年2月までワイマールに滞在。1804年、A. W. シュレーゲルを息子の家庭教師に任命。父の死を知りドイツから急ぎ帰国し、同年11月イタリアへ出発した。1807~1808年の冬をミュンヘンとウィーンで過ごした。1810年、De l’Allemagne フランス版は没収された(ロンドン版1813、ライプツィヒ版1814)。1811年、二十三歳のジュネーヴ人将校ド・ロッカと結婚。ナポレオンの迫害を受け、1812年5月22日コペから逃亡し、ウィーン、ワルシャワを経てロシアへ到着した。スウェーデンを訪れ、のち1813年6月にイギリスへ渡った。1817年2月、舞踏会で麻痺の発作に襲われ、同年7月14日死去。

著作Lettres sur le caractère et les écrits de J.-J. Rousseau(1788);Essai sur les fictions(1795);De l’influence des passions sur le bonheur des individus et des nations(1796);De la littérature considérée dans ses rapports avec les institutions sociales, 2 vols.(1800);Delphine, 4 vols.(1802);Corinne, 3 vols.(1807);De l’Allemagne, 3 vols.(1810);Réflexions sur le suicide(1813);Considérations sur la Révolution française, 3 vols.(1818);Dix années d’exil(1821)。

参照:Sainte-Beuve, Portraits de femmes(1835);Brandes, Emigrant Literature(1882);Lady Blennerhassett, Frau von Staël(仏訳・英訳、1887);Pellissier, Le mouvement littéraire au XIXe siècle(1889);Brunetière, Études critiques sur la littérature française, IV(1890), L’évolution des genres(1890), L’évolution de la poésie lyrique(1895);Dejob, Mme de Staël et l’Italie(1890);Sorel, Mme de Staël(1890);Faguet, Politiques et moralistes du XIXe siècle, I(1891);Doumic, Hommes et idées du XIXe siècle(1903)。

Stapfer (Paul), 1840–

著作Petite comédie de la critique littéraire, ou Molière selon les trois écoles philosophiques(1865);Laurence Sterne(1870);Les artistes juges et parties(1872);Shakespeare et l’antiquité, 2 vols.(1879);Études sur la littérature française moderne et contemporaine(1880);Molière et Shakespeare(1880);Goethe et ses deux chefs-d’œuvre classiques(1881);Variétés littéraires et morales(1881);Racine et V. Hugo(1886);Rabelais(1889);Les réputations littéraires(1893);Montaigne(1894);La famille et les amis de Montaigne(1895);La grande prédication chrétienne en France(1898);Paradoxes et truismes d’un ancien doyen(1904);Humour et humoristes(1911)ほか。

Stendhal (Henri Beyle), 1783–1842

文学上の個別の見解そのものより、テーヌやブールジェのような作家への基底的影響として重要である。Racine et Shakespeare におけるロマン主義の定義は成立しない。その定義に従えば、ファゲが指摘するように、最も非ロマン主義的な作家こそ1830年のロマン主義者となってしまう。同書の三一致の法則への反論は、サミュエル・ジョンソン博士の Preface to Shakespeare と一致する。

著作Racine et Shakespeare(1823);Mélanges d’art et de littérature(1867)ほか。

参照:A. Paupe, Histoire des œuvres de Stendhal(1904);J. Mélia, Les Idées de Stendhal(1910)。

Taillandier (René-Gaspard-Ernest), known as Saint-René Taillandier, 1817–1879

長年『両世界評論』へ、主として外国文学についての記事を寄稿した。

著作Novalis(1847);Histoire de la jeune Allemagne. Études littéraires(1849);Poète du Caucase : Michel Lermontoff(1856);Littérature étrangère(1861);Lettres inédites de J.-C.-S. de Sismondi(1863);Corneille et ses contemporains(1864);Drames et romans de la vie littéraire(1870);Introduction aux fables de La Fontaine(1873);Les destinées de la nouvelle poésie provençale(1876);Études littéraires(1881)ほか。

参照:Sainte-Beuve, Nouveaux Lundis, V(1863);Montégut, Nos morts contemporains(1889)。

Taine (Hippolyte-Adolphe), 1828–1893

1841~1851年、コレージュ・ブルボンと高等師範学校で学んだ。決定論的な学説によって政府の不興を買い、1852年、ポワティエのリセ教師職を辞めざるを得なかった。1853年、博士号取得。1857年、Philosophes français au XIXe siècle でクーザンの公認哲学を攻撃し、名を知られた。1864年エコール・デ・ボザール教授。1868年結婚。1871年オックスフォードで講義。1878年アカデミー会員。

著作:博士論文 De Personis platonicis および Essai sur les fables de La Fontaine(1853。後者は改作され La Fontaine et ses fables, 1860として刊行);Voyage aux Pyrénées(1855);Essai sur Tite-Live(1856);Philosophes français au XIXe siècle(1857。改訂版は Les philosophes classiques au XIXe siècle en France, 1868);Essais de critique et d’histoire(1858);Histoire de la littérature anglaise, 5 vols.(1863–1867);Nouveaux essais de critique et d’histoire(1865);Voyage en Italie, 2 vols.(1866);Philosophie de l’art(1865);Philosophie de l’art en Italie(1866);L’Idéal dans l’art(1867);Philosophie de l’art dans les Pays-Bas(1868);Philosophie de l’art en Grèce(1869。以上五巻は総題 Philosophie de l’art のもと二巻に統合、1880);Vie et opinions de Thomas Graindorge(1868);De l’intelligence, 2 vols.(1870);Du Suffrage universel(1871);Notes sur l’Angleterre(1872);Un séjour en France, 1792–1795(1872);Origines de la France contemporaine, 6 vols.(1876–1893);Derniers essais de critique et d’histoire(1894);Carnet de voyage(1896);Vie et correspondance, 4 vols.(1903–1907)。

参照:Sainte-Beuve, Causeries du lundi, XIII(1857), Nouveaux Lundis, VIII(1864);Scherer, Mélanges de critique religieuse(1858), Études, IV(1866), VI–VII(1878), VIII(1884);Montégut, Essais sur la littérature anglaise(1863);Caro, L’Idée de Dieu et ses nouveaux critiques(1864);Bourget, Essais de psychologie contemporaine(1883);Hennequin, La critique scientifique(1888);Brunetière, L’évolution de la critique(1890);Monod, Renan, Taine et Michelet(1894);A. de Margerie, H. Taine(1894);G. Barzellotti, Ippolito Taine(1895。Dietrichによる仏訳1901);Pellissier, Nouveaux essais de littérature contemporaine(1895);Giraud, Essai sur Taine(1901), Bibliographie des œuvres de Taine(1902);Aulard, Taine historien de la Révolution(1907)。

Texte (Joseph), 1865–1900

著作J.-J. Rousseau et les origines du cosmopolitisme littéraire(1895);Études de littérature européenne(1898)。

Veuillot (Louis), 1813–1883

並外れた表現力――とりわけ風刺と罵倒に現れた――を、きわめてウルトラモンタニズム的なカトリシズムへ奉仕させた作家。その機関紙は『リュニヴェール』で、1860~1867年には発行停止となった。

著作Mélanges religieux, historiques, politiques et littéraires, 18 vols.(1856–1875);Les odeurs de Paris(1866);Molière et Bourdaloue(1877);Études sur V. Hugo(1885)ほか。

参照:Sainte-Beuve, Nouveaux Lundis, I(1861);Scherer, Études, I(1863), IV(1874);Lemaître, Les Contemporains, 6e série(1896)。

Villemain (Abel-François), 1790–1870

1810年、高等師範学校講師。1816年からソルボンヌ教授。1821年、フォンターヌの後任としてアカデミー会員。政治活動へ入り、ヴィレール内閣は1821年にソルボンヌでの講義を停止した。七月王政期には政界で活躍し、1839~1844年、公教育大臣。

著作Éloge de Montaigne(1812);Choix d’oraisons funèbres(1813);Discours sur les avantages et les inconvénients de la critique(1814);Éloge de Montesquieu(1816);Essai sur les romanciers grecs(1822);Discours et mélanges littéraires(1823);Nouveaux mélanges historiques et littéraires(1827);Cours de littérature française, 6 vols.(1828);Considérations sur la langue française(1835);Œuvres, 10 vols.(1840–1849);Cours de littérature française : Le tableau de la littérature française au XVIIIe siècle et du moyen âge en France, en Italie, en Espagne et en Angleterre, 6 vols.(1840–1846);Études de littérature ancienne et étrangère(1846);Discours et mélanges littéraires(1846);Tableau de l’éloquence chrétienne au IVe siècle(1849);Souvenirs contemporains d’histoire et de littérature, 2 vols.(1853–1855);Choix d’études sur la littérature contemporaine(1857);La tribune moderne(1858);Essai sur le génie de Pindare et sur la poésie lyrique(1859)ほか。

参照:Sainte-Beuve, Portraits contemporains, II(1836), Causeries du lundi, I(1849), VI(1852);Nisard, Études d’histoire et de littérature(1859);Renan, Discours et conférences(1887);Brunetière, L’évolution de la critique(1890)。

Vinet (Alexandre-Rodolphe), 1797–1847

1817~1837年バーゼルのフランス文学教授、1837~1845年ローザンヌの神学教授。まれな洞察と高潔さを備えた道徳家・批評家。マシュー・アーノルド、サント=ブーヴ、シェレール、ブリュンティエールなど、きわめて異なる人物へ顕著な影響を与えた。作品の形式は内容に劣り、その欠点が後世への存続を妨げるかもしれない。「結局のところ、文体はこの世の王国を保持する黄金の笏である」とサント=ブーヴはいう。

著作Chrestomathie française, 3 vols.(1829);Études sur Pascal(1847);Études sur la littérature française au XIXe siècle, 3 vols.(1849。より完全な新版vol. I, 1912);Histoire littéraire française au XVIIIe siècle, 2 vols.(1853);Moralistes des XVIe–XVIIe siècles(1859);Esprit d’Alexandre Vinet, 2 vols.(1861);Poètes du siècle de Louis XIV(1862);Mélanges(1869)。

参照:Sainte-Beuve, Portraits contemporains, III(1837), Portraits littéraires, III(1847);Scherer, A. Vinet. Notice sur sa vie et ses écrits(1853), Études, I(1863);Rambert, A. Vinet, sa vie et son œuvre(1875);Brunetière, Essais sur la littérature contemporaine(1892)。

Vitet (Ludovic), 1802–1873

1824年から『グローブ』の文学批評家。のち美術批評家としても名を成した。

著作Essais historiques et littéraires(1862);Études philosophiques et littéraires(1874)ほか。

参照:Sainte-Beuve, Portraits littéraires, III(1846)。

Weiss (J.-J.), 1827–1891

体系的ではないが、根本的な傾向は保守的な批評家。警句の才に恵まれていた。1858年に『ルヴュ・コンタンポレーヌ』へ掲載した論文 La Littérature brutale の題は、批評界へ一つの決まり文句を与えた。

著作Essai sur Hermann et Dorothée(1856);Essai sur l’histoire de la littérature française(1865);Au pays du Rhin(1886);Le théâtre et les mœurs(1889);Autour de la Comédie-Française(1892);Sur Goethe(1892);Le drame historique et le drame passionnel(1894);Trois années de théâtre (1883–1885), 4 vols.(1892–1896)。

参照:Lemaître, Impressions de théâtre, VII(1891);de Vogüé, Regards historiques et littéraires(1891);Doumic, Portraits d’écrivains(1892);France, La Vie littéraire, IV(1892);Pellissier, Essais sur la littérature contemporaine(1893);E. Lovinesco, J.-J. Weiss(1909);G. Stirbey, J.-J. Weiss(1911)。

Wyzewa (T. de), 1862–

長年にわたり『両世界評論』へ外国文学と美術についての記事を寄稿した。

著作Nos maîtres(1895);Écrivains étrangers, 3 vols.(1896–1899)ほか。

Zola (Émile), 1840–1903

批評文では、おおむね自身の小説観――ジャンルの根本的混同を含む観念――を擁護した。

著作Mes haines(1866);Le roman expérimental(1880);Le naturalisme au théâtre(1881);Nos auteurs dramatiques(1881);Les romanciers naturalistes(1881);Documents littéraires(1881)。

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人名索引

 頁数は1912年版原書の頁を示す。n. は原注を表す。人名は検索・照合のため原書の欧文表記を基本として、明白なOCR誤認だけを原本画像により訂正した。
Adams, John, 244.
Addison, 157.
Ælian, 351.
Æschylus, 166.
Agathon, 385 n.
Albany, Countess of, 110.
Alexander, 215.
Amiel, 52 n., 197, 198, 287, 391.
Ampère, J.-J., 94, 95, 172.
Anne, Queen, 159.
Aquinas, Saint Thomas, 188, 317.
Aristophanes, 346.
Aristotle, 25, 52, 54, 57, 126, 227, 303, 326, 352 n., 365, 371, 372, 373, 381.
Arnauld, 154.
Arnold, Matthew, vii, 35, 52 n., 66 n., 104, 197, 198, 199, 213, 248, 272, 362, 387 n.
Augustine, Saint, 167, 367, 370 n.
Bacon, 236, 337.
Balzac, Guez de, 154.
Balzac, Honoré de, 29, 50, 107, 137, 179, 181, 182, 220, 221, 223, 229, 301, 306, 332, 333.
Barbe, Abbé Eustache, 103, 104.
Barrès, Maurice, 291, 368 n.
Baudelaire, 119, 209, 210, 212.
Bayle, Pierre, 112, 121, 122, 123, 124, 125, 126, 127, 131, 132, 316.
Beaumont, Mme. de, 43.
Beethoven, 234.
Béranger, 104, 105, 173, 279.
Bergson, Henri, vii, viii, ix, x, 53, 54, 55, 56, 231, 252, 253, 375.
Berthelot, Marcellin, 275, 287, 306, 309.
Bertin, Édouard, 242.
Bismarck, 27.
Blackmore, 352.
Boileau, 3, 24, 63 n., 65, 88, 93 n., 126, 127, 137, 172, 182, 183, 229, 244, 254, 303, 325, 338, 340, 380, 381, 389.
Bossuet, 57, 74, 89, 93, 229, 330, 331.
Boswell, 349.
Bouhours, Father, 348.
Bourget, Paul, 239, 288, 343, 344, 368 n.
Bowles, Samuel, 61, 65.
Browne, Sir Thomas, 310.
Brownell, W. C., 355.
Brunetière, 85, 87, 88, 89, 94, 141, 191 n., 298–337, 345 n., 350, 381.
Buddha, 55, 369, 370, 371.
Burke, 339, 347, 360.
Burns, 302.
Byron, 2, 60, 61, 63, 64, 65, 81, 82, 302.
Cæsar, 134.
Calderon, 23.
Calvin, 32, 299.
Camoens, 23.
Canova, 154.
Carlyle, 13, 21 n., 198 n., 258.
Catullus, 116.
Cervantes, 163, 254.
Chamfort, 158.
Chapman, 302.
Charlemagne, 215.
Chateaubriand, 1, 5, 35, 41, 42, 43, 48, 49, 52 n., 60–78, 79, 82, 96, 104, 107, 118, 136, 138, 145, 154, 159, 160, 166, 269, 270, 271, 278, 294, 302, 307, 308, 316.
Châtenay, Mme. de, 37.
Chénier, André, 308.
Childeric, 77.
Christ, 26, 27 (Jesus), 241, 271, 272, 273, 275, 276, 286.
Cicero, 57, 114, 134.
Clovis, 77.
Colbert, 229.
Coleridge, 13, 37, 66 n., 245.
Collé, 172.
Collignon, A., 114.
Comte, Auguste, 195, 224, 304, 331, 334.
Confalonieri, 32 n.
Conrad, 121, 122.
Conrart, 85.
Constant, Benjamin, 81.
Corneille, Pierre, 38, 57, 153, 185, 249.
Corneille, Thomas, 249.
Coulmann, 163.
Cousin, 82, 83, 84, 85, 87, 95, 96, 107, 141, 174.
Crabbe, 118.
Crébillon, 1, 179.
Croce, Benedetto, 50, 53.
Cuvier, 145, 325.
Dante, 68, 78, 126, 161, 347, 373, 387.
Danton, 134 n.
Darwin, 216, 317, 325, 326, 334.
D'Assoucy, 126.
Daunou, 99, 102.
Davidson, Thomas, 355 n.
Delille, Abbé, 51.
De Quincey, 172.
Descartes, 93, 176, 226, 236.
Deschamps, Émile, 63 n.
Diderot, 39, 68.
Doudan, 206, 271 n.
Dreyfus, 300, 315, 319.
Dubois, 100.
Dugard, Mme., 357 n.
Du Guet, 148, 152.
Dussault, 67 n.
Eckermann, 363, 367 n., 370 n.
Edwards, Jonathan, 357, 358, 362, 367.
Emerson, 23, 35, 37, 40, 52, 54, 56, 114, 150, 161, 165, 172, 174, 186, 246, 252, 261, 263, 264, 277, 280, 300, 345, 346, 351, 353, 354, 355, 356, 357, 358, 359, 360, 361, 362, 364, 366, 368, 372, 374, 375, 381, 388, 389, 390, 391, 392.
Epictetus, 376.
Epicurus, 120, 357.
Euripides, 75.
Fagon, 159.
Faguet, Émile, 60, 72, 121, 122, 126, 244, 292, 336.
Fauriel, 33, 99.
Fénelon, 316.
Fichte, 13, 31.
Fielding, 171.
Flaubert, 140, 255 n., 307.
Fleury, 272.
Fontanes, 38 n., 41, 42, 63, 65.
Fontenelle, 172.
France, Anatole, 57, 150, 188, 289, 290, 305, 306, 311, 312, 314, 316-324, 326, 330, 345, 347, 349, 351.
Francis, Saint, 322.
Franck, 123.
Franklin, Benjamin, 113.
Fromentin, 206.
Garat, 176.
Gautier, 45, 191, 209, 227, 295, 302, 308, 348, 377.
Geoffroy, 3, 4.
Gibbon, 339.
Gluck, 176.
Goethe, 2, 20, 21, 65, 72, 73, 80, 81, 88, 95, 127, 137, 142, 162, 171, 174, 213, 214, 239, 242, 265, 291, 306, 312, 341, 353, 361, 363, 364, 365, 366, 367, 368, 370, 371, 372, 373, 374, 377, 378, 379, 381.
Goncourt, the brothers, 105, 123, 140, 190, 191, (Edmond) 306, 307.
Gorgias, 290.
Gray, 143, 144.
Gréard, 192, 197, 202, 322.
Green, John Richard, 342.
Grillparzer, 30.
Guizot, 82, 83, 87, 96, 154, 225, 226.
Haeckel, 325.
Hamilton, 144, 160.
Harnack, Otto, 367 n.
Harrison, J. S., 355 n.
Haussonville, Comte d’, 100.
Hauvette, Henri, 301 n.
Haywood, 170.
Hazlitt, 52, 170.
Hegel, 83, 120, 192, 193, 216, 224, 225, 281 n., 317.
Heine, 12, 13, 341.
Herder, 22, 33, 281 n.
Herodotus, 268.
Herrick, 116.
Holmes, O. W., 370.
Homer, vii, 11, 68, 73, 74, 144, 184, 185, 266, 352.
Horace, 25, 112, 116, 117, 121, 137, 143, 144, 244, 254.
Hugo, 32, 45, 67, 73, 75, 79, 80, 91, 92, 93, 95, 98, 102, 105, 106, 107, 108, 136, 137, 180, 209, 243, 295, 307, 321, 332, 341, 377.
Hugo, Mme., 105.
Hurd, Bishop, 227.
Huret, Jules, 293 n.
Hutchinson, Colonel, 343.
Huysmans, 314.
James, William, ix, 53, 253, 264.
Janin, Jules, 91.
Jeffrey, 4.
Johnson, Dr. Samuel, x, 96, 169, 227, 230, 266, 303, 339, 340, 349, 370, 371.
Jonson, Ben, 168.
Joubert, x, 8, 34-59, 64, 65, 69, 70, 71, 74, 196, 199, 293, 312, 321, 331, 355, 356, 375, 378, 381.
Jouffroy, 315.
Jouy, 121.
Jurieu, Mme., 122.
Jussieu, 145.
Kant, 13, 43.
Keats, 161, 375.
Kotzebue, 352.
La Bruyère, 110, 111, 152.
La Fontaine, 20, 52 n., 179, 183, 185.
La Harpe, 3, 11, 51, 85, 153.
Lamarck, 102.
Lamartine, 131, 136, 159, 160, 199, 208, 233, 341.
Lamb, Charles, 36, 52, 170, 332.
Lamennais, 102, 106, 107, 315.
Lanson, Gustave, 380 n., 384, 385, 386.
La Rochefoucauld, 53, 109, 110, 111, 132, 152, 156, 173, 212.
Lasserre, Pierre, 381.
Lazarus, 275.
Le Bossu, 65.
Leconte de Lisle, 318.
Leguay, Pierre, 385 n.
Leibnitz, 365.
Lemaître, Jules, 52, 62, 64, 125 n., 138, 150, 302, 306, 311–316, 320, 321, 323, 324, 326, 331, 350 n.
Le Maitre, 152.
Lemercier, 2.
Lenclos, Ninon de, 336.
Leo XIII, 334.
Lerminier, 103 n.
Lérins, Saint Vincent de, 334.
Lesage, 39, 86.
Lessing, 302.
Le Tourneux, 177.
Levallois, J., 105 n.
Lincoln, Abraham, 351.
Livy, 57, 228, 267, 268.
Longinus, 165, 352 n.
Longueville, Mme. de, 84.
Louis XI, 233.
Louis XIV, 10, 15, 57, 68, 86, 89, 152, 159, 182, 264, 338.
Lucan, 57.
Lucian, 185.
Lucretius, 120, 260.
Lycophron, 290.
Machiavelli, 38.
Macpherson, 266.
Magnin, 158.
Magny, 123, 140, 190.
Maigron, 81 n.
Maine, duc du, 152.
Maintenon, Mme. de, 152, 159.
Maistre, J. de, 172.
Malherbe, 325, 340.
Malebranche, 172, 176, 228, 262.
Mallarmé, 304.
Manzoni, 33.
Marcus Aurelius, 134, 241, 251, 276.
Martial, 116.
Martineau, Harriet, 269.
Mary Magdalene, 275.
Mary Stuart, 278.
Mathilde, Princesse, 245.
Maurras, Charles, 368 n.
Meilhan, Sénac de, 149.
Merlet, G., 2 n., 61.
Meissonier, 143.
Michael Angelo, 55.
Michaud, 158.
Michelet, 77, 181, 223, 231, 243.
Mill, John Stuart, 224.
Milsand, 272 n.
Milton, 51, 68, 73, 74, 75, 213, 343.
Molé, 49, 172.
Molière, 89, 133, 134, 178, 183, 184, 191, 213, 236, 263, 336.
Montaigne, 89, 112, 113, 114, 115, 116, 121, 172, 176, 184, 298, 316.
Montégut, 206.
Montesquieu, 38.
More, Paul E., 357 n.
Morley, John, 134.
Musset, Alfred de, 223, 224, 242, 270 n., 341.
Napoleon, 5, 8, 9, 12, 18, 129, (Bonaparte) 167, 214, 215, 245, 384.
Necker, 8.
Nero, 273, 294.
Newman, Cardinal, 334, 388.
Newton, Sir Isaac, 169.
Nicolardot, 347.
Nicole, 148, 158.
Nisard, 87-95, 99, 136, 172, 325.
Nordau, Max, 378.
Ohnet, G., 323.
Ossian, 11, 12, 266.
Paillet, 179.
Palgrave, 342.
Pantasides, 101.
Paris, Paulin, 142.
Patin, Guy, 121.
Pascal, 63, 85, 111, 112, 115, 127, 135, 152, 174, 219, 239, 240, 241, 287 n., 296, 299, 313, 315, 330, 331, 361, 367.
Pater, Walter, 118, 155, 321, 322, 323, 350.
Paul, Saint, 26, 27, 274, 275, 277.
Peacock, 158.
Peckins, 126.
Pelagius, 274.
Pellissier, 345 n.
Pericles, 247, 264.
Perrault, 172.
Petit de Julleville, 32 n., 80 n.
Petrarch, 179.
Petronius, 144, 160.
Piron, 179, 182.
Pius IX, 272.
Plato, ix, x, 34, 46, 52 n., 54, 57, 211, 253, 302, 355, 358, 371, 372, 376.
Pliny, 185.
Plutarch, 184.
Poe, 172.
Pollock, 352.
Pope, 61, 65, 168, 169, 178.
Pradon, 126.
Prévost, Abbé, 86.
Protagoras, 382, 383.
Proudhon, 133.
Prudhomme, Sully, 27.
Quinault, 172.
Racine, 57, 63, 75, 126, 153, 175, 178, 183, 212, 316, 338, 350.
Raynal, Paul de, 8 n., 34 n.
Raynal, Abbé, 68.
Récamier, Mme., 100, 159, 278.
Renan, 6, 26, 27, 125 n., 131, 140, 173, 190, 216, 220, 243, 257–297, 304, 305, 314, 315, 317, 319, 323, 339, 378, 379.
Renan, Henriette, 286, 295.
Retz, Cardinal de, 152.
Reynolds, Sir Joshua, 339.
Richardson, 171.
Richelieu, Cardinal de, 154, 167.
Rivarol, 347.
Robespierre, 244, 296, 336.
Robinson, Crabb, 20.
Ronsard, 88.
Rothschild, 272.
Rousseau, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 14, 15, 22, 30, 34, 41, 47, 48, 49, 50, 53, 60, 61, 64, 67, 68, 71, 81, 90, 91, 115, 164, 169, 172, 252, 294, 302, 307, 310, 316, 329, 336, 344, 345, 355, 356, 357, 359.
Ruskin, 70, 71, 76, 198 n.
Saci, Lemaître de, 148, 152.
Sacy, Sylvestre de, 295 n.
Sade, Marquis de, 210.
Sainte-Beuve, vii, xi, 3, 14 n., 17, 20, 33, 35, 36, 38, 41, 45, 49, 50, 52 n., 62, 68, 71, 73, 75, 80, 84, 86, 93, 94, 95, 96, 97–188, 190, 200, 201, 202, 218, 219, 220, 221, 223, 225, 228, 231, 232, 246, 250, 255, 256, 257, 259, 263, 266, 270, 273, 277, 278, 281, 287 n., 292, 300, 301, 303, 313, 317, 324, 331, 332, 340, 347, 351, 354, 363, 364, 367, 369, 379, 380, 384, 389, 390, 391, 392.
Saint-Cyran, 152.
Saint-Évremond, 10, 11, 154, 316.
Saint-Hilaire, Geoffrey, 325.
Saint-Pierre, B. de, 48.
Saint-Simon, 159.
Saisset, 226.
Salomon, Ch., 385 n.
Sand, G., 242.
Santayana, G., 346.
Savary, 12.
Scaliger, 325.
Scherer, 73, 75, 131, 189–217, 218, 230, 249, 272, 317.
Schiller, 5, 20, 21.
Schlegel, A. W., 12, 16, 20, 22, 81, 172.
Schopenhauer, 310, 311, 331, 333.
Scott, 81, 82.
Séailles, 283.
Séché, L., 108 n.
Senancour, 199.
Seneca, 57.
Shakespeare, 23, 75, 80, 162, 163, 180, 183, 184, 185, 212, 221, 222, 232, 248, 273.
Shaw, Bernard, 221.
Shelley, 302.
Siger of Brabant, 304.
Simon, 172.
Singlin, 148.
Sismondi, 20, 81, 172.
Socrates, 114, 345, 346, 358, 382, 383, 386, 387.
Solomon, 120.
Sophocles, 23, 142, 164, 344.
Southey, 338 n.
Spenser, 35.
Spinoza, 115 n., 120.
Staël, Mme. de, 1–32, 45, 50, 58, 67, 69, 80, 82, 83, 87, 88, 94, 96, 247, 355, 356.
Stendhal, 1, 223, 232.
Suard, 12, 13.
Swift, 47.
Tacitus, 13, 57.
Tailhade, Laurent, 322.
Taine, x, 32, 92, 131, 137, 140, 147, 151, 163, 180, 181, 183, 200, 217, 218–256, 277, 299, 300, 302, 306, 325, 333, 334, 341, 342, 343, 344, 363, 371, 375.
Tallemant, 179.
Talleyrand, 9 n., 12, 127.
Tasso, 23, 24, 74, 312.
Tennyson, 164, 199, 281, 339, 342.
Tertullian, 287 n.
Texte, 32 n.
Thackeray, 159, 170, 171, 177.
Thierry, Augustin, 77, 78, 295 n.
Titian, 164.
Tolstoy, 23, 353, 375.
Tracy, 102.
Vacherot, 226, 227.
Varius, 351.
Verlaine, 44, 314.
Vernet, Horace, 156, 177.
Véron, Dr., 158.
Vigny, Alfred de, 136, 172, 305.
Villemain, 82, 85–87, 95, 96, 107, 121 n.
Vinet, Alexandre, 102, 104, 190.
Virgil, 45, 57, 68, 78, 351.
Vogüé, de, 299, 302, 330.
Voltaire, 14, 41, 62, 66, 67, 68, 85, 86, 93, 97, 115 n., 136, 159, 172, 179, 191, 256, 268, 269, 322, 348, 375.
Weiss, 206.
Whitman, Walt, 329.
Wieland, 19.
Wilson, Bishop, 287.
Wordsworth, 118, 172, 233, 285, 357.
Zola, 141, 206, 207, 212, 259, 305, 306, 307, 309, 314, 319, 320, 333, 376.

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