哲学 / 田中義能本居宣長の哲学本居宣長之哲學

『本居宣長之哲學』の原刊標題紙。「文學士田中義能著」と記載。

哲学 / 田中義能

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原著・底本

原題
本居宣長之哲學
著者
田中義能
底本
1912年(明治45年)4月15日発行、日本学術研究会刊
出典・参照
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収録範囲
1912年刊本の標題・口絵・序・凡例・著述目録・印刷目次・全五編二十二章九十六節(本文一〜六一六頁)・刊記。巻末の他書広告と重複撮影は含めない。判読・訳意の留保は訳注に示す。

日本語訳

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表紙

画像
標題紙
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1912年(明治45年)刊本の標題紙。見開き画像から標題紙の領域を抽出。

追加日: 2026-10-23 / 更新日: 2026-10-23

1912年刊本の全五編二十二章九十六節、前付と刊記を収録する。巻末の他書広告と重複撮影は含めない。

一部の人名・歌句・引用に判読や訳意の留保がある。底本の不整合を残した箇所、文脈から推定して補った箇所は、対応する訳注に示す。

本居宣長の哲学

文学士・田中義能 著

本居宣長の筆跡

宣長自身が書いた「しきしまの」の歌。
図版 原典の図版

日本人の心とは何かと人が尋ねるなら、
朝日に照り映える山桜の花だと答えよう。

宣長

『本居宣長全集』による。

本居宣長の肖像。

本居宣長の肖像

原典の図版

本居宣長の哲学

田中義能 著。東京、日本学術研究会。一九一二年。

序

世界の原理には東西の違いがなく、人の道の真理にも、こちらとあちらという区別はないと思う。こうした真理を研究し、原理を考え究める哲学は、当然、普遍的なものでなくてはならない。そう、哲学は普遍的で、国境も時代の隔たりもないはずのものである。しかし、その原理がさまざまな事物の世界に映し出され、その真理が現実の世界に現れるとなると、風俗や習慣の影響を受け、土地や気候の力に支配され、国民固有の性向によって制約される。そのため、東西や国々の間には非常に大きな隔たりが生じ、哲学として現れるものにも、それぞれ独自の特色が残る。これはまったく自然な成り行きである。こうして、わが国には、わが国固有の哲学が生まれる。これを神道哲学という。

ここで神とは、わが国の神聖な祖先のことである。道とは、その神聖な祖先の遺訓であり、事績である。祖先の遺訓と事績は、わが国の歴史に記されている。国の歴史は膨大で、その細部を容易に明らかにすることはできない。そこで、それを取り上げて哲学的に研究し、世界の原理が、わが国のさまざまな事物にどのように映し出され、人の道の真理が、わが国の現実社会にどのように現れてきたかを明らかにする。それによって国民の行動の規範を示すのである。神道哲学を研究する必要は、ここから生じる。

わが本居宣長は、天明・寛政のころ、一介の医者として伊勢湾のほとりに立ち、こうした日本固有の神道哲学を盛んに研究した。広い学識と優れた見識を、熱誠に満ちた不屈の精神で貫き、五十部、百三十余巻の書物を著し、六百人の気鋭の門人を率いて、復古神道の哲学を天下に唱えた。わが国固有の大道は、ここに勢いよく興ったのである。とりわけ、その実践哲学における忠君愛国の説と、人間関係の秩序・道徳を説く教えは、平田篤胤、大国隆正、鈴木重胤、権田直助、丸山作楽らのすぐれた人々を奮い立たせ、彼らが明治維新の大事業の完成に大きな功績をあげる力となった。宣長は、まさしくわが思想史上の一大傑物である。

私は、不才ながらあえて身の程も顧みず、早くからわが国の国民教育の理論と実際に貢献したいと願い、日本固有の哲学を研究して、先に『平田篤胤之哲学』を公にした。それ以来、ひたすら宣長の哲学を研究し、ようやくここに本書を刊行することができた。もとより才能の乏しい者の仕事であり、本書には数々の欠点があるだろう。広く識者の皆様から、ご教示をいただければ幸いである。

印刷の完成を受け、ここに以上を記して序とする。

明治四十五年(一九一二年)三月二十五日、東京にて。著者記す。

山が裂け、海が干上がる世になろうとも、
君に対して、私が二心を抱くことなどあろうか。
源実朝

凡例

一、本書は「哲学」と題する。哲学の意味にはさまざまな説があるが、ここでは最も広い意味でのフィロソフィーに従う。したがって本書は、本居宣長が生涯にわたって説いた、世界と人間の生活に関する学説を、系統立てて組織的に述べることを目的としている。

二、本書の目的は宣長の学説を述べることだが、その学説を明らかにするために、同じ学統に属する学者たちの学説の叙述にも、特に力を注いだ。この点から見れば、本書は『復古神道派の哲学』と題してもよいだろう。

三、歴史研究では、公平な態度を最も重んじる。それゆえ著者は、本書でできるだけ公平な態度をとるよう努めた。

四、真淵、宣長、徂徠、益軒らの学者は、政治の世界における秀吉や家康のように、思想界の偉人である。偉人を尊敬するのは後世の者の本分だから、その名を呼ぶときには、大人、翁、先生などの敬称を添えるのが当然だろう。しかし本書では文体上の必要から、それらをすべて省いた。この点を誤解なくお読みいただければ幸いである。

五、本書を刊行するに当たり、これまで直接・間接にさまざまな指導を賜った先生方のご恩に、謹んで感謝する。特に、恩師である井上教授のご恩に深く感謝申し上げる。

六、本書の参考にした書物はたいへん多いが、その大半は『平田篤胤之哲学』の巻頭に掲げてある。ここに一つ一つ挙げることは省き、ただ、それらの著者に深く感謝の意を表する。

七、本書の校正にはたいへん努めたが、なお文字の取り違えなどの誤りが残っているのではないかと心配している。読者のご容赦を願う。

明治四十五年(一九一二年)三月二十五日。著者、重ねて記す。

田中義能 著述目録

『系統的西洋教育史』、既刊、全一冊。

『最新科学的教育学』、既刊、全一冊。

『平田篤胤之哲学』、既刊、全一冊。

『神道哲学要義』、既刊、全一冊。

『神道哲学変遷史』、既刊、全一冊。

『神道本義』、既刊、全一冊。

『本居宣長之哲学』、新刊、全一冊。

本居宣長の哲学 目次

第一編 総叙(一〜五六頁)

第一章 経歴(一〜二八頁)

第一節 家系(一頁)。はじめに/宣長の遠い祖先/二つの家に分かれる/商人になる/本居家の血筋/系図。

第二節 生誕(七頁)。定利が実子を望む/水分神/定利の死/定治が家を継ぐ/賢母の教育/宣長が養子に入る/定治の死/宣長の家庭の事情/勝子の苦心/小津家が絶える。

第三節 修学(一〇頁)。京都への遊学/堀景山/武川幸順/神道研究の始まり/神道の研究方法/結婚/子どもたち/真淵の著書を読む/真淵との対面/真淵との交流/真淵の死/真淵を祭る。

第四節 学業の完成(一七頁)。著述/旅行/書斎/偉人の嘆き/鈴の屋/英才が集まる/紀伊侯に召される/十年一日のように励む/『古事記伝』の完成/京都行き/後世に残る盛大な祝い。

第五節 最期(二三頁)。老いても元気である/逝去/遺言書/自作の戒名/山室山神社/後継者。

第二章 人柄と行い(二九〜三五頁)

第六節 全体的な傾向(二九頁)。宣長とプラトン/宣長の影響/固い意志/読書。

第七節 信仰(三一頁)。水分神社への参拝/父母を思う/激しく行動する/賊の道/儒教の貢献/極端に走る。

第八節 緻密さ(三五頁)。物事を進める緻密さ/家康と家光。

第三章 学風(三六〜四二頁)

第九節 当時の風潮(三六頁)。古語の研究/枝葉の技芸/宣長の見識/学問の本当の目的。

第十節 美しい文章(三七頁)。美的な文章/二大の学風/文学を退ける傾向。

第十一節 宣長の主張(四〇頁)。極端を戒める/神道以外の研究/歌学の目的/宣長の主張/学問の奥深さ/大平の学風。

第四章 著書(四三〜五六頁)

第十二節 積極的な方面(四三頁)。五十部・百三十余巻/『古事記』を注釈する志/その大きな労苦/学説の根底/古学入門の読本/古学眼。

第十三節 消極的な方面(四八頁)。国内を尊び外国を卑しむ/大神の都。

第十四節 その他の著書(五一頁)。古道・国語・国文に関する著書。

第二編 学統(五七〜一八九頁)

第五章 復古神道の発展(五七〜八七頁)

第十五節 神道の本質(五七頁)。日本の国民的精神/神道の意味/神道の勢力/神道とその変遷。

第十六節 神道の変遷(六〇頁)。外国思想の影響/儒教の影響/仏教の影響/朝廷の態度/国民の苦悩/神仏習合/伝説の習合/仏教的神道/唯一神道/北畠親房/一条兼良。

第十七節 近代の神道(七四頁)。卜部兼倶/吉川流の神道/度会延佳/山崎闇斎/系統を古代へつなぐ。

第十八節 古語学の興隆(八〇頁)。下河辺長流/長流の著書/円珠庵の契沖/『代匠記』/古語の研究/古学が起こる。

第六章 学問の祖・春満(八八〜一二四頁)

第十九節 春満の経歴(八八頁)。改名/学問の大成/春満と契沖/将軍吉宗に認められる/国学校設立の計画/発病/逝去/東丸神社。

第二十節 春満の人柄と行い(九四頁)。生まれつき厳しく毅然としている/書を焼いた理由/名誉や利益への欲が薄い/生涯、恋歌を詠まない/春満の義気/質素。

第二十一節 春満の学風(九九頁)。複雑な経路/稲荷神道/家伝と古道/門人の契約/門戸の開放。

第二十二節 春満の著書(一〇五頁)。羽倉家による整理・保存/多くの著書。

第二十三節 春満の学説(一一三頁)。真の神道と異端/異端の排撃/昔の振る舞い/真心/真心の道の源/生涯の努力/春満の学説の批評。

第二十四節 春満の学派(一一九頁)。荷田在満/在満が家学を唱える/田安侯が在満の意見を求める/在満の見識/荷田蒼生子/荷田御風/御風と老荘/師をしのぐ才能。

第七章 学問の父・真淵(一二五〜一八九頁)

第二十五節 真淵の経歴(一二五頁)。真淵の家系/出家を志す/真淵と春満/真淵と徂徠学/宿屋の主人/真淵の入門/江戸へ出る/田安侯/田安侯の著書/田安侯と真淵/田安侯の厚遇/隠退/晩年。

第二十六節 真淵の学風(一三四頁)。広く読み、よく記憶する/抱負/古語の研究を切り開く/古風な歌と文章/古代の純文学/古文・古語の研究は神代研究への階段/真淵の真意/入門者への戒め/春海が道を論じる/阿津長夫/真の学問に至る人。

第二十七節 真淵の著書(一四五頁)。主な著書/五意考。

第二十八節 真淵の学説(一四九頁)。異端の排斥/古代を知らずに神代を知ることはできない/上代の道/真心/上代の道の内容/桜の詞/真淵の尚武論/上代の事を知るには古歌を知る必要がある/日本の国是/尚武には弊害がない/巧みな議論/武士道/武士道の極致。

第二十九節 真淵の学説(続)(一六〇頁)。上古の質朴な風俗/知恵と技巧の排斥/万物の霊/生き物は虫である/知恵のために世が乱れる/矛盾/天地の父母/知恵を利用しようとして邪悪に陥る/儒教の排斥/心から信じる者はいない/儒教の弊害/固有の道/仁・義・礼・智という語がない/天地の自然に任せるのがよい/日本の道の趣旨ではない/真淵と仏教/因果応報/迷信の打破/天地自然の道/道教との一致/老子に学ぶ/思うままに行動する。

第三十節 真淵の学派(一七九頁)。人材/藤原宇万伎/楫取魚彦/荒木田久老/加藤千蔭/村田春海/四天王/三大家/塙保己一/批評。

第三編 本論(一九〇〜四四五頁)

第八章 世界論(一九〇〜二二一頁)

第三十一節 世界の創始(一九〇頁)。知識の発達における個人と民族との関係/古伝の天地開闢説/宣長と『古事記』/太古の三神/人知の限界/昔からの疑問。

第三十二節 天地の生成(一九六頁)。天地の始まり/二神が万物を造り出す/天ができてから天御中主神が現れる。

第三十三節 高天原(二〇二頁)。漢字の「天」の意味/守部の解釈/天の実体/天皇の都/高天原の形状/篤胤の説との比較/宣長の遺著/重胤の歌論/派生的な用法。

第三十四節 夜見国(二一五頁)。死とは何か/霊魂は夜見国へ行く/霊魂不滅説/夜見と黄泉/夜見国と地獄/篤胤が宣長に反対する/死と生は昔からの疑問である。

第九章 原理論(二二二〜三〇八頁)

第三十五節 神々について(二二二頁)。学説の根本的な方面/「神」の字の意味/神の内容/神の貴賤/神と人は同じ感情を持つという説/宣長自身の神観/広い意味での神の観念。

第三十六節 神々について(続)(二三一頁)。天御中主神/高皇産霊神/神皇産霊神/阿斯訶備比古遅神/天之常立神/別天神/国常立尊/国狭槌尊/七代の神/宣長の七代神説。

第三十七節 神々について(続)(二四〇頁)。伊邪那岐・伊邪那美の二神/島土と主宰神/「別」の意味/天照大神/大神が天の太陽そのものだとする説/大神と太陽の主神/宣長の説の矛盾/月読尊/素盞鳴尊/月読尊と素盞鳴尊を一神とする説/伊豆之御魂/神勅の解釈。

第三十八節 神々について(続)(二五九頁)。大国主神/宮主神/天忍穂耳尊/天穂日命/天若日子/武甕槌神/経津主神/事代主神/大国主神の国譲り/二神の帰還報告/天孫降臨。

第三十九節 神道について(二七五頁)。「道」の字の意味/道という言葉の議論/最上の大道/経典がない/国史に残る事績/神の道の意味/天と天御中主神/足りないところはない。

第四十節 神道について(続)(二八一頁)。無意識の動作/標準/天照大神の大御心/真心。

第四十一節 神道について(続)(二八六頁)。さまざまな欲求/外国風の虚偽/本能主義/思うままに行動する/自己矛盾/社会の存立の本義/神道の真髄/真心論/真心の性質/真心と武心/真心の違い/知恵と技巧。

第四十二節 神道について(続)(二九六頁)。一方に偏る/克己主義の排斥/偽善/異性との関係/自然な性情/都合のよい口実/宣長の戒め。

第四十三節 神道について(続)(三〇一頁)。乱倫は許さない/近親結婚論/畜生島/時代と国による道徳の違い/宣長の主張。

第十章 政治論(三〇九〜三五二頁)

第四十四節 政治と学術(三〇九頁)。神道の根本/宣長の政治論/政治の根本を顧みない/今日の政務から遠い/儒者の気質/真の学問/漢学も必要である。

第四十五節 政治の根本(三一六頁)。日本の朝廷/根本の道理/政治の仕方/臣民の考え方/宣長の態度/宣長の苦心。

第四十六節 政治と祭祀(三二二頁)。諸侯には祭祀を行う責任がある/神社の衰微/政治における宣長の主張/諸国の大社/小社に対する為政者の心得/神は手厚く祭る必要がある。

第四十七節 租税について(三二七頁)。苛酷な取り立て/二重の納税/家康も減税できない/虐政を行う/農民は気の毒である/減税が難しい理由/憐れみ/脱税者・滞納者が多い/目先のことだけに注意する/服従の精神。

第四十八節 刑罰について(三三四頁)。刑則の適用/綱紀の乱れ/法律は保守的なものである/制令が行われない理由/禁止への意見/迅速な判決/刑は軽い方がよい/怒りに任せて罰する。

第四十九節 治める者について(三四二頁)。政治家/ぜいたくを戒める/藩の財政の窮乏/煩雑な礼式/国家の最高の幸福/貧富の格差/貸し借り/社会政策/済生会/分相応/人格。

第十一章 宗教論(三五三〜三七五頁)

第五十節 神道の安心(三五三頁)。宗教の意味/神代の神々/安心を必要としない/神道の安心/死生の説/福音。

第五十一節 災いと幸い(三五七頁)。善を積めば子孫に幸いが残る/すべては神のなさること/禍津日神/天御中主神の政治/天命/孔子と顔回の楽しみ/欲を少なくし、足ることを知る/天命説の行き詰まり/意見の要約/今日の思想。

第五十二節 神を崇めること(三六八頁)。神々への崇拝と尊敬/神社/宗教的な意味/喪事を穢れとする/宣長の嘆き/ひたすら神々を崇拝すべきである。

第五十三節 儀式について(三七二頁)。儀式/設備/単純な儀式。

第十二章 学問論(三七六〜四〇二頁)

第五十四節 学問の名と本分(三七六頁)。学問の必要/国学の起源/学問とは国学である/大和魂。

第五十五節 学問の方針(三七九頁)。国学の分類/学び方の種類/学術の多様さ/学者の指導と助言/宣長の意見/志を立てる必要/道の学問/人倫道徳の道。

第五十六節 教科について(三八四頁)。第一の教科/『古事記』/『日本書紀』/『古語拾遺』/『万葉集』/『六国史』/宣命/さまざまな書物/補助科。

第五十七節 学び方(三九二頁)。読書法/文章の奥まで読み取る/繰り返し読めば意味がおのずと分かる/広く読むことの利害/語釈への意見/歌の言葉を研究する必要/事実の重視/古風な和歌を勧める/古文の模範/研究と著述。

第五十八節 学び方(続)(三九九頁)。自由に探究する精神/師の心/そしる者はそしれ/自分の心。

第十三章 異端論(四〇三〜四四五頁)

第五十九節 邪説を退ける神道論(四〇三頁)。神道の宣揚/両部神道/三大/体大/相大/用大/阿字本不生/新ばり道/太極・無極/神道は日本の大道である/吉田家/神明の直伝/両部と唯一/天と人/神道には理屈がない。

第六十節 道教について(四一七頁)。神道の根本の意味/老子の考えと違わない/宣長の反論/根本的な違い/人の道の自然/教育の必要/本居は神の道を知らない/三家の思想。

第六十一節 儒教について(四二五頁)。大きな対立/儒教の浅薄さ/聖人論/聖人の教えの根底は利己にある/聖人を卑しめる/反論の声/覇道/道は人の本性に根ざす/道を人為とするのは邪説である/作る者を聖という/徂徠の作為論/大人げない/儒教の貢献/楽水の神儒調和説/道の普遍性/偏狭。

第六十二節 仏教について(四四〇頁)。悟道論/習慣の力/宣長が仏に供え僧に施す/神の道/勝子の信心。

第四編 学派(四四六〜五五一頁)

第十四章 本居春庭(四四六〜四五七頁)

第六十三節 春庭の経歴(四四六頁)。六百人の門人/本居春庭/失明/著書。

第六十四節 春庭の学説(四四八頁)。春庭の思想/禅譲論/狂人とされる孟子/畜生国。

第六十五節 春庭の学説(続)(四五二頁)。言語・歌文の方面/作文と作歌/文章を補い直す/補い直す難しさ/晩学論。

第十五章 本居大平(四五八〜五〇〇頁)

第六十六節 大平の経歴(四五八頁)。大平の家業/深い造詣/千余人の門人。

第六十七節 大平の学説(四六〇頁)。紹述先生/古学者の心得/神道の本旨/富の崇拝/人の真心。

第六十八節 大平の学説(続)(四六五頁)。儒教の害/仏教の害/神職の力のなさ/神職の責任/ひとまず楽しむ/儒仏二教の同化/巧みな議論/大平の学説の批評/新しい意見を立てない。

第六十九節 大平の学派(四七五頁)。本居内遠/大平の門に入る/藤子と結婚する/『日本紀伝』/神の理/理の外にある理/神の意味/神の生活の仕方/神代の人/天地万物の起源/動かない大道/大道の内容/儒仏の排斥/理学の排斥/保守に偏る/高天原/学説の根底。

第七十節 大平の学派(続)(四八九頁)。足代弘訓/神職と神典/大天狗/教えの親/かたくなな性格/偏った古学の流れ/内遠の評/自慢/常識を欠く/著書/学業を成就する秘訣/加納諸平/国学所/真の道。

第十六章 服部中庸(五〇一〜五一二頁)

第七十一節 中庸の経歴(五〇一頁)。歌を詠み、文章を書く学問/宣長から託される。

第七十二節 中庸の学説(五〇二頁)。三大とは何か/宣長の跋/中国・インドの創世説を退ける/十の図/大国主神による経営/天と地の往来が止まる/地球を中心とする/中庸の頭脳。

第十七章 斎藤彦麿(五一三〜五一九頁)

第七十三節 彦麿の経歴(五一三頁)。貞丈の門に入る/宣長の門に入る/著書。

第七十四節 彦麿の学説(五一四頁)。神道/大道の内容。

第十八章 学派の大家(五二〇〜五二四頁)

第七十五節 植松父子(五二〇頁)。植松有信/尾張の人/植松茂岳。

第七十六節 渡辺重名(五二一頁)。中津の人/進脩学館の教授。

第七十七節 鈴木朖(五二二頁)。尾張の人/宣長に従う/明倫堂の教授となる。

第七十八節 城戸千楯(五二三頁)。京都の人/書店。

第七十九節 村田春門(五二四頁)。伊勢の人。

第八十節 藤井高尚(五二四頁)。備中の人/著書。

第十九章 没後の門人(五二五〜五五一頁)

第八十一節 平田篤胤(五二五頁)。秋田の人/宣長の著書を読む/名声が天下に響く。

第八十二節 篤胤の学説(五二七頁)。宣長の説に盲従しない/地動説/宣長の学問を受け継ぎ述べる。

第八十三節 伴信友(五三一頁)。若狭の人/隠退/七不可/学友/信友と篤胤。

第八十四節 信友の学説(五三五頁)。先人の説を述べ、新説を作らない/考証学/皇朝の大道/八幡宮のこと/八幡の祭神/稲荷神/仏教と稲荷神/空海と稲荷神/稲荷神と狐/三種の神器/占いの研究/信友の学説/信友の功績。

第八十五節 学派系統表(五四八頁)

第五編 統括(五五二〜六一六頁)

第二十章 宣長学の反動(五五二〜五七四頁)

第八十六節 反動の傾向(五五二頁)。賛成と非難/学者の偏狭さ。

第八十七節 国学者の反動(五五三頁)。村田春海/末流とされる春海/石川雅望/小山田与清/橘守部。

第八十八節 他の学派からの反動(五五八頁)。市川鶴鳴/他山の石/伊勢茂美/垂加翁/藤田東湖/会沢正志/堯舜の道/沼田順義/菅原定理/原田重枝/静斎義雄/無名の学者/大国隆正/鈴木重胤/密成僧敏/学術の進歩。

第二十一章 諸家との比較(五七五〜五八五頁)

第八十九節 同じ学統の諸家との比較(五七五頁)。春満/真淵/篤胤。

第九十節 他派の神道との比較(五七八頁)。両部神道/唯一神道/吉川流神道/伊勢流神道/垂加神道/水戸流神道。

第九十一節 他の宗教哲学との比較(五八二頁)。儒教/仏教/老子/キリスト教/西洋哲学。

第二十二章 批評(五八六〜六一六頁)

第九十二節 学説の評論(五八六頁)。道/哲学上の要求/乱れを正した功績/天地創造説/神の理/不満な点。

第九十三節 学説の評論(続)(五九一頁)。すべての現象の根源/太陽の神/一般の信念/大神を太陽そのものとする説。

第九十四節 学説の評論(続)(五九九頁)。神の観念/現人神/国史に残る事績。

第九十五節 学説の評論(続)(六〇五頁)。神道/神道と政治/神道と宗教/神道と道徳/神道と教育。

第九十六節 結論(六一二頁)。宣長の態度/学者の弱点/結び/宣長の功績。

『本居宣長の哲学』目次終わり。

巻頭題詞

謹んで思うに、上古の神聖な方々は、政治の根本を立て、統治の道統を後世に伝えられた。それによって天地はあるべき位置に定まり、万物は育った。あまねく天下を照らし、この世界を統治されたのも、すべてこの道によるものであった。皇位が永遠に続き、国体が尊厳を保ち、人々が安らかに暮らし、周囲の諸民族が服従したのも、この道によるのである。――『弘道館記』

本居宣長の哲学。文学士・田中義能 著。

第一編 総叙

第一章 経歴

第一節 家系

文禄元年四月、豊臣秀吉は大軍を起こして朝鮮八道を蹂躙した。この戦乱のただ中にあって、徳川家康はすでに藤原惺窩を招いて会見し、ほどなく江戸城にも召して、文治の要点を聞いた。こうして家康は、戦国時代の殺伐とした風習を一変させ、学芸復興の気運を促すことができた。戦争に飽きた国民は、この卓越した政治家の政策に感謝し、学芸の分野に多くの偉人を輩出させた。伊勢の人、本居宣長もその一人である。これから彼の生涯の学説を述べるに当たり、まず経歴と性格・行動から、その学説の由来の一端を示しておこう。

本居宣長は、享保十五年五月七日、西暦一七三〇年六月二十一日に生まれた。権大納言・平頼盛の六代の孫に当たる、本居県判官・平建郷の子孫である。建郷の子の武遠、その子の秀武は、ともに兵部大輔であった。秀武の子の直武が、初めて伊勢の国司・北畠顕能に仕えた。直武の後、武基、武久、武貞、武延、武重、武利、武連と、八代続いて北畠氏に仕えたが、武連の代に北畠氏は滅びた。武連には二人の子があり、長男を延連、次男を武秀といった。二人とも、当時松坂城にいた蒲生氏郷に仕えた。天正十八年、小田原の役が起こると、氏郷に従って出陣した。戦いが終わった後、氏郷は功績によって会津を与えられた。延連は小田原から辞して伊勢に帰り、大阿阪村に住んだ。子孫は代々その土地の地主となったが、後に家運が次第に衰え、六代目でとうとう家が絶えた。武秀は氏郷に従って会津に赴き、五百石の俸禄を受けた。天正十九年、氏郷が秀吉の命を受け、南部の九戸政実を攻めたとき、武秀はこの戦いで討ち死にした。その妻は姓を伝えず、慶歩大姉と号した。彼女は身重の体で伊勢に帰り、一志郡小津村の油屋・源右衛門のもとに身を寄せた。源右衛門と本居家の間に特別な関係があったわけではなく、ただ偶然の成り行きだったようだ。慶歩大姉は源右衛門の家で男の子を産み、七右衛門と名づけた。源右衛門は後に松坂へ移り、小津を姓とした。七右衛門も松坂に移り、その娘を妻に迎え、小津家と姻戚になって小津氏を名乗り、商人となって魚町四丁目に住んだ。七右衛門には四男二女があった。長男の次郎右衛門は江戸に移ったが、後にその家は絶えた。次男の三郎右衛門は、若くして江戸に出て木綿店を開き、巨万の富を築くと、自身は松坂に帰って本町に住んだ。その繁栄ぶりから、まるで嫡流の家のようになった。三郎右衛門には子がなく、弟・喜兵衛の子の定治を養子にして本町の家を継がせ、自分は職人町に隠居して、隠居家と呼ばれた。さらに、小津源右衛門の曾孫に当たる孫右衛門を養子に迎え、隠居家を継がせた。定治には四男五女が生まれたが、男子はみな幼くして亡くなった。そこで、隠居家の孫右衛門の次男、三四右衛門定利を養子にして跡継ぎとした。定利は油屋小津家の血筋で、本居家の血は引いていなかった。定利の妻は養父・定治の次女の喜代子である。喜代子は初め、定利の兄である隠居家の孫右衛門に嫁ぎ、男子を一人産んだ。しかし孫右衛門が享保五年、二十九歳で亡くなったため、一人息子の定治を連れて実家に帰り、定利の妻となった。定利は、この定治が養父の外孫だったので、自分の跡継ぎに迎えた。喜代子は享保十三年、三十六歳で亡くなった。その年、定利は村田豊商の娘・勝子を後妻に迎えた。勝子も油屋小津家の姻戚であった。勝子は二男二女を産み、その長男が宣長である。先妻の喜代子は本居家の血筋であり、その子の定治も本居家の血を引いていた。しかし定利は純粋に小津家の出身で、勝子も本居家と血縁がない。したがって宣長に至って、本居家の血統はすでに絶えていたというべきである。

以上に述べた家系を、ここに図で示そう。

系図

原刊の本居家系図。人名・養子・婚姻の注記と結線を保つ。
本居家の系図(1) 原典の図版

頼盛(権大納言)から五代を省き、建郷(本居県判官)、武遠(兵部大輔)、秀武(兵部大輔)、直武(左馬介、北畠氏に属す)、武基(民部少輔)、武久、武貞、武延と続く。

武重、武利、武連(通称は忠助。北畠氏が滅ぶ)。延連は蒲生氏に属し、後に隠退した。延基、庄右衛門、新兵衛、新右衛門の系統は、代々地主となる。林之右衛門の家は衰え、男子の系統は断絶。女子は長島の小津氏に嫁ぐ。武秀は蒲生氏に属して戦死した。七右衛門は小津氏を称して商人となり、法名は道印。その子の欄に、次郎右衛門(断絶)、三郎右衛門(法名は道休。家運が大いに興る)、喜兵衛、六兵衛、内藤氏に嫁いだ女子がある。

喜兵衛の欄に「定治」と記し、「養子に入って宣長の祖父となる」と添える。子孫の欄には、幼くして亡くなった男子、法名を道閑とする喜兵衛、法名を道清とする喜兵衛がある。定治は喜兵衛の実子で、通称は三四右衛門、法名は唱阿。家運がさらに大いに興った。女子の鶴子は法名を樹清という。

原刊の本居家系図。人名・養子・婚姻の注記と結線を保つ。
本居家の系図(2) 原典の図版

隠居家の孫右衛門は、小津源右衛門の実子で、法名を道智という。次の孫右衛門の法名は元閑。その子の定治は養子に入り、宣長の兄となる。同じ欄に、千代子、養子に入って宣長の父となる定利、元閑の跡継ぎとなる躬充(法名は道有)、江戸に住む永喜、小津喜兵衛に嫁ぐ類子(後に繁子と改名)がある。

躬充の子の欄には、幼くして亡くなった男子、英昌(通称は孫左衛門。家が衰える)、幼くして亡くなった二人の男子、義兵衛、朝子がある。定利は隠居家の道智の実子で、通称は三四右衛門、法名は道樹。喜代子は、初め元閑の妻、後に定利の妻となり、法名は栄珠。定治の子の欄には、二十歳で亡くなった定該、幼くして亡くなった二人の男子と一人の女子、小津治右衛門に嫁いだ林子、道有に嫁いだ喜牟子、幼くして亡くなった男子がある。

定治は隠居家の元閑の実子で、通称は三四右衛門、法名は道喜。次の欄には、宣長(幼名は富之助、通称は春庵。本居氏に復する)、波牟子(出家後の号は智遊)、親次がある。春庭は幼名を健蔵、後に健亭と改め、その先に有郷が続く。春村は於次郎といい、後に栄次郎と改め、小西氏の跡継ぎになる。大平は稲掛棟隆の実子で、通称は三四右衛門、藤垣内と号する。その子の欄には、壮年で亡くなった建正と清島、幼くして亡くなった女子がある。永平は大平の実子で、二十四歳で亡くなる。

原刊の本居家系図。人名・養子・婚姻の注記と結線を保つ。
本居家の系図(3) 原典の図版

村田元固の家に入る。女子の欄には、宮崎氏に嫁ぐ屋津子(後に俊子と改名)、登比子、出家して智順と号した女子、佐渡子、伊喜子があり、幼くして亡くなった男子も記す。次の女子の欄には、深草氏に嫁ぎ、後に高尾氏に嫁ぐ飛弾子、長井氏に嫁ぐ美濃子、安田氏に嫁ぐ能登子がある。

熊子、内遠(通称は弥四郎。浜田孝祖の実子)、内遠の妻となる藤子、幼くして亡くなった女子、安松、内遠の養子となる永平。次の欄には、寛子、豊穎(初名は八千穂。刊行当時の当主)、利蔭(初名は安蔭。黒田氏の跡継ぎとなる)、幼くして亡くなった女子、万夫(通称は樟三郎)を記す。

第二節 誕生

定利は村田氏を妻に迎えた。跡継ぎにはすでに定治がいたが、人情として、やはり実の子が欲しかった。そこで、世間で子守明神と呼ばれ、子を授け、また守ってくださるとされる、大和国吉野の水分神に、子供が生まれるよう祈った。こうして享保十五年五月七日、一人の男の子を得て、富之助と名づけた。富之助が、後の宣長である。元文五年、宣長がまだ十一歳のとき、父の定利は江戸で病気になって亡くなった。

宣長は、こう記している。

「さて、あのときのことである。亡くなられたという知らせが江戸から早便で届いた。その前に重い病気だと知らせた手紙と、亡くなられたと知らせた手紙とが、同じ夜遅くに届き、門をたたいて持ってきた。恵勝大姉〔宣長の母〕がひどく驚き、悲しんで泣かれたこと、私も子供心にたいへん悲しかったことなどを、今もおぼろげに覚えている。思い出すだけでも、夢のように悲しい。あのお顔は、今も確かに覚えている。」――『家の昔物語』

母子が悲しみ嘆いたのも、当然だったろう。定利は亡くなり、宣長はまだ幼い。家は定治が継がなくてはならなかった。まして、養父の切実な遺言があったのである。定治は江戸で商いを営んでいたが、やむなく帰って家を継いだ。しかし、それも結局は形式にとどまった。

「松坂にはとどまらず、江戸にお帰りになった。その後も向こうでは、なお小津宗五郎と名乗り、神田の紺屋町の家にお住まいになった。」――『家の昔物語』

こうして母の勝子は、松坂の家を管理しながら、宣長ら四人の子供の教育に努めた。宣長は、この賢母の教えのもとで、西川三郎兵衛、斎藤松菊、岸江之中らを師とし、習字や素読などを学んだ。十五歳で元服したのは、延享元年のことである。

定治がすでに家を継いでいたため、宣長は養子に出て山田に赴いたが、二年で辞して実家に帰った。宝暦元年、定治は江戸で病死した。宣長自身がその家を継がなくてはならなくなった。時に二十五歳であった。

訳注

「宝暦元年」「二十五歳」は底本の記載による。ここでは年次と年齢の歴史的な整合を確定せず、年齢を改めていない。

当時、宣長の家では、江戸の大伝馬町と堀留町にあった二つの支店がすでに閉じられ、家運が大きく衰えていた。定治は四百両を親戚の小津氏に預け、その利子で宣長の一家を養わせていた。しかし今や、一家の責任を負うべき宣長自身に、経済観念がひどく欠けていたので、母の勝子の悩みは並大抵ではなかった。勝子は、次のように考えた。

「跡を継ぐ弥四郎は、商売のことに疎く、ただ書物を読むことばかり好んでいる。今から商人になろうとしても、うまくはいくまい。家の資金を預けている隠居家(小津氏)の店も衰えたので、先行きが心配だ。もしあの店に何かあったら、私たちは何によって暮らしていけるだろう。前もって考えておかなくてはならない。それなら、弥四郎は京都に上り、学問をして医者になるのがよいだろう。」母は、そう心を決められたのである。――『家の昔物語』

訳注

底本で「隠居家」に添えられた小字は「現岐小津氏」と採録したが、「現岐」の字形は確定できない。訳では、前後から確認できる小津氏の隠居家という関係だけを示した。

原注

宣長は幼名の富之助を弥四郎に改め、後に健蔵、さらに舜庵〔春庵とも書く〕と改名した。

果たして小津家は明和元年に破産し、宣長の家の資金も消え失せた。賢母の決心は、こうして本居家を救ったばかりでなく、宣長を一代の思想家にしたのである。

第三節 修学

宝暦二年三月、宣長は大きな希望を抱いて京都に上り、儒者・堀景山の門に入って、まず儒学を学んだ。儒学は今日の普通教育に相当し、医学を学ぶ者は、最初にこれを修めるのが通例だった。このときまで宣長は小津姓を名乗っていたが、小津はもともと商人としての姓である。今や儒学を学び、学界で名を成そうとしている彼には、小津という姓が、その連想からいって、志望にふさわしくないように思われたのだろう。そこで武士としての旧姓、本居に復した。

原注

景山は通称を禎助、名を正超、字を君燕といい、景山は号である。藤原惺窩門下の四天王の一人、堀杏庵の曾孫に当たり、家は代々、安芸の藩主に仕えて二百石の俸禄を受けた。

宝暦四年五月、侍医の武川幸順について、初めて医学を学んだ。翌年三月、後に不朽の名となる「宣長」を名乗った。当時、熱心に医学を学んでいたが、たまたま契沖の『百人一首改観抄』『古今余材抄』『勢語臆断』などに触れ、国学を研究しようという志を強くかき立てられた。しかし、神道研究への志は、それよりも早い時期からあった。

原注

幸順は南山先生と呼ばれ、家は代々、小児科で名高かった。後桃園天皇がまだ親王だったころから仕え、典薬となった。

宣長は、こう述べている。

「道の学びについては、初めのころから神書と呼ばれる種類のものを、古いものも新しいものも、あれこれ読んでいた。二十歳くらいのころから、特にその志はあったが、取り立てて専心することはなかった。京都に上ってからは、しっかり学ぼうという志が高まった。しかし契沖の歌の書に説かれたことにならって、日本の古代の心を考えてみると、世間で神道者と呼ばれる人々の説は、みな大きく食い違っていることが早くも分かった。師として頼るべき人もなかったので、何とか古代の本当の趣旨を自分で考え出そうという志が深まったのである。」――『玉勝間』

古学・神道を研究する志が、早くから胸の中にあったために、契沖が和歌の解釈に用いた方法も、神道研究の方法を示すものに見えたのである。志はすでにそこに定まっていた。一方では医学を学びながら、他方では着実に古学研究の道を進んでいた。

宝暦七年十月、二十八歳で松坂に帰り、医者を開業した。三年たって、魚町の村田彦太郎の娘を妻に迎えたが、不幸にも夫婦の仲がうまくいかず、離婚する悲しみに遭った。そこで宝暦十二年、改めて阿濃津の医者・草深元道の娘を迎えた。名は富子といい、後に勝子と改めた。二人の間には二男三女が生まれた。

長男の春庭は宝暦十三年に生まれ、幼名を健蔵、後に健亭と改めた。次男の春村は明和四年に生まれ、幼名を泰治郎といった。天明四年、阿濃津の小西太郎兵衛の養子となった。長女の飛驒は明和七年に生まれ、天明六年、叔父の草深玄弘の長男・玄鑑に嫁いだが、事情があって離縁し、改めて四日市の高尾九兵衛の妻となった。次女の美濃子は安永二年に生まれ、寛政三年、湊町の長井尚明の妻となった。和歌に優れ、書も巧みで、兄の春庭が失明した後は、その文書を代筆した。三女の能登子は安永五年に生まれ、宣長の門人である山田の安田広治に嫁いだが、不幸にも二十八歳で亡くなった。

宣長は松坂で医者を開業したが、かつて契沖の著書に触れてかき立てられた古学研究への志は、さらに真淵の『冠辞考』を得て、いよいよ深まった。『冠辞考』を繰り返し味わい熟読するうちに、直接真淵に会いたいという望みが生じた。そこで、次のように記している。

「繰り返し読み、味わうほどに、心はいよいよ深く引かれ、この大人を慕う気持ちが、日ごとに切実になった。」――『玉勝間』

それから間もなく、宣長は真淵に面会を申し込む機会を得た。

彼は、こう記している。

「ある未年、真淵先生は田安の殿のお命じになったことを承り、伊勢から大和、山城などをあちらこちらと訪ね歩かれた。その折、この松坂にも二日、三日と滞在されたが、私はそんなこととは少しも知らず、後で聞いてたいへん悔しく思った。帰りにも、また一夜泊まられるのを待ち受け、たいへんうれしく、急いで宿へ伺って、初めてお目にかかった。こうして、ついに名簿を差し上げ、教えを受けることになったのである。」――『玉勝間』

原注

本居五鈴は次のようにいう。伴信友の『年譜』は真淵と宣長の会見を、宝暦十一年、宣長三十二歳のときとしている。しかし、真淵翁が松坂に一泊されたのを宝暦十一年、三十二歳のときとするのは大きな誤りであり、また、その場で直ちに名簿を差し出して弟子となったように記しているのも誤りである。『日記』の宝暦十三年五月二十五日の条に「岡部衛士が当地の新上屋に一泊し、初めて対面した」とあり、同年十二月二十八日の条には「去る五月、江戸の岡部衛士・賀茂県主真淵が当地に一泊された際に、初めて対面した。その後、書簡で入門を願い、今日、許諾の返事があった」とあるので明らかだ。したがって初めての対面は三十四歳の夏であり、十二月になって門人に加えられたのである。――『年譜附録』

真淵は、一度会っただけで宣長が大器であることを認め、胸襟を開いて道を語り合った。江戸に帰ると門弟を集めて宴を開き、すぐれた人材を得たことを祝ったという。まさに、この師にしてこの弟子があったというべきだろう。

宣長は真淵の門に入ったとはいっても、朝夕そばにいて教えを受けたわけではなかった。それでも、書簡のやり取りによって結ばれた師弟の情は、きわめて深く厚かった。宣長は、その交流を次のように記している。

「そのたびに頂いたお返事の手紙は、たいへん多くたまっていた。一つも散らさず大切にしていたのだが、人から切に請い求められるまま、一つ二つと与えているうちに、今は残り少なくなってしまった。私が『古事記』の注釈をしたいという深い志を申し上げたので、先生は上巻を、ご自身で考えられた古語によって仮名書きにしたものを貸してくださった。また中巻・下巻も、傍らの訓を改め、所々に自ら書き入れなどをした本を貸してくださった。『古事記伝』で師の説として引いているのは、多くがその本にあることなのである。」――『玉勝間』

こうして宣長は、いつも書簡によって真淵の教えを受け、真淵も熱心に指導を続けた。しかし、ついに明和六年十月、真淵は七十三歳で世を去った。前年の一月一日に賢母と死別した宣長は、今また、楫取魚彦から、最も敬愛する師・真淵の訃報を受け取った。彼は声をあげて泣き、深くため息をつき、自ら「県居大人霊位」と書いて掛け軸にした。そして命日には、必ず書斎の床の間に掛けて祀った。その掛け軸は今も残っている。

第四節 学業の完成

真淵の死後、宣長は独力で研究に磨きをかけ、生涯の大事業となる『古事記伝』の編纂に従事した。それと同時に、『直毘霊』『葛花』『馭戎慨言』などを次々と著した。

旅が人の知識を開き、体を丈夫にするうえで有益なことは、今日、誰も否定できないだろう。宣長は京都遊学の後、長く松坂で書斎にこもっていたが、安永元年三月、四十三歳で吉野へ旅した。各地の陵墓や名所旧跡を訪ね、多くの知識を得て、帰ってから二巻の紀行を書いた。『菅笠日記』という。その後も、しばしば名古屋や京都などに旅し、自分の知識を広めるとともに、自らの道を普及させることに努めた。

私はかつて松坂で山室山神社に参拝し、宣長の遺跡も訪ねた。鈴屋遺跡保存会は、宣長の住んだ家を同地の公園に移し、元の形のまま再建していた。魚町にあった当時の家の構造を見ると、門を入って奥深くに庭があるような造りではない。部屋の前がすぐ道路で、車馬が往来し、子供たちが遊び騒ぐ。勉強に適していたとはいえない。そこで宣長は、住まいの左側、道路から数間離れたところに二階を増築し、書斎とした。部屋はわずか九尺四方、いわゆる四畳半の茶室のようなものだった。天明二年十月に工事を始め、十二月に完成した。私はこの部屋に入り、宣長が毎朝毎晩自分で開け閉めした戸や障子、床の間や戸棚、さらに彼の使った行灯などを見た。ほとんど、この偉人にじかに接するような思いがした。ああ、四畳半。天井は低く、立って手を伸ばせば触れられる。階段の頼りなさは、まるで石油箱を積み重ねたようだ。永く名を残すこの偉人は、ここで苦学したのである。大きな屋敷や高楼に住み、夏は扇風機、冬はストーブを備え、いわゆる文明の利器を使う今日の学者は、これをどう感じるだろうか。

宣長の書斎は完成し、「鈴の屋」と名づけられた。宣長はいう。

「鈴の屋とは、三十六個の小鈴を赤い緒に通して垂らし、柱などに掛けておき、気分がふさいだ折々に引き鳴らして、その音を聞くと、心持ちもすがすがしく思われるのである。その鈴を詠んだ歌にいう。

床の間のそばに、私が掛けて昔をしのぶ、
鈴の音が、さやさやと鳴る。」
――『鈴屋集』

訳注

鈴を詠んだ歌は、この底本が引用する短い形に従った。他の伝本から語句を補っていない。

こうして彼は、新しい書斎で古書の研究に目を注ぐ一方、たいへんな熱意をもって後進を教え導いた。鈴の屋の名は天下に鳴り響き、各地のすぐれた人材が、その門に駆け集まった。松坂の人、須賀直見は、宣長を称えて次のようにいう。

「今、明るい御代の教化によって文運が盛んに開け、豪傑の士が次々に立ち上がっている。先に契沖があり、後に県居の翁〔真淵〕があった。一人は浪華で竜のように身を起こし、一人は江戸で虎のように威を振るった。盛んに復古の学を唱え、国内の学問は一新された。しかし、なお古語の解釈に力を尽くすにとどまり、文章の表現にまで手を及ぼす余裕はなかった。ああ、文才と学識を兼ね備え、大成した人を、私はまだ見たことがない。果たして、そのような人はいないのか。わが本居先生は、一世に抜きん出た才能を抱き、学問は精密で広博、さらに歌の妙をも究めている。歌では八代集の時代を自在に飛び巡り、あらゆる美を備えている。学問では、二人の先達の仕事を継いで明らかにし、その成果は二人をも超えている。この方こそ、私のいうその人なのだろうか。」――『字音仮字用格』序

こうして宣長の名声が大いに高まったため、紀伊藩主・徳川治貞も、天明七年十二月、政治と経済について質問した。宣長は、先に著した『玉匣』とともに、藩主のために新たに書いた『秘本玉匣』を献じた。さらに寛政六年には紀伊藩主に召され、さまざまな書物を進講した。信友は、こう記している。

「紀伊の殿に召され、十月十日に出発して和歌山へ参上された。御前で『大祓詞』『古今集序』などを進講し、また『詠歌大概』を教材として歌の道を説かれた。このとき奥医師の列に加えられて俸禄を賜り、さらに紋付きの服や、さまざまな賜物を頂いた。閏十一月二十三日に退出し、帰途に難波を経て京都に赴き、十二月のある日、自宅に帰られた。」――『年譜』

大平も、次のように述べている。

「六十余歳で、わが紀伊の殿に召されてからは、幾度も和歌山を行き来し、殿の御前に仕えて書物を読み上げ、さまざまな厚いお恵みの品を頂いたのであった。」――『藤垣内文集』

家にあっては著述に従事し、門人を教育し、外に出ては身分の高い人々に道を講じた。道のために尽くす姿は、長年、少しも変わらなかった。こうして寛政十年、生涯の大事業だった『古事記伝』が、ついに完成した。時に六十九歳。彼は荒木田久老に手紙を送り、次のように述べた。

「私の『古事記伝』も、今月十三日、全四十四巻を完成し、草稿本を書き上げました。明和四年に書き始め、三十二年かかって終えたのです。命の続く間に仕上がるか、心もとなく思っておりましたが、皇神のお恵みを頂き、ともかくも存命のうちに生涯の願いを成し遂げることができました。喜びの限りに存じます。」

その満足は、想像できるだろう。続いて享和元年三月、人からの求めに応じて京都へ赴き、四条烏丸の東に滞在した。学問に志す人々が各地から集まり、教えを求めた。篤胤は、こう記している。

「享和元年の春、上京して四条に宿泊しておられたときなどは、公家の主だった方々で、学問を公に心がけておられる方々が、翁の宿を訪ねて入門された。世間によく知られた中山大納言殿をはじめ、富小路新三位殿、芝山中納言など、そのほかにも大勢おられた。当時すでに和歌の宗匠でいらした日野一位資枝卿でさえ、深く感心なさるあまり、お孫さんの日野中宮権大進殿という方を遣わして、翁を師としてお頼みになったという。閑院宮様、妙法院宮様までが翁をお召しになり、お慕いになった。昔から、このようなことが、果たしてあっただろうか。」――『古道大意』

これもまた、盛大なことではないか。

第五節 最期

当時、彼はすでに古稀を二歳超えていた。老いてなお、いよいよかくしゃくとしていたことが分かるだろう。養子の大平は、次のように記している。

「生涯の終わりまで、ものを書く手つき、書物を読む声の使い方をはじめ、立ち居の姿も、世の老人のようではなく、若々しく清らかで、どこ一つ老い衰えたとは見えなかった。ただ耳だけは、年とともに聞き取りにくくなっておられたが、それも長生きなさるしるしだろうと、皆が頼もしく思い続けていた。」――『藤垣内文集』

宣長が京都から松坂へ帰ったのは六月だった。しかし、その年の九月、とうとう亡くなってしまった。信友は、こう記している。

「九月十八日から体調を崩され、次第に重くなって、二十九日の明け方〔西暦一八〇一年十一月五日〕に亡くなられた。」

宣長は、前年の寛政十二年、七十一歳の七月に、すでに『遺言書』を作り、二人の息子に残していた。その要点には、次のようにある。

一、私が死んだら、必ずその日を命日と定めること。都合に任せて日付を選んではならない。時刻は、前夜の九つ時を過ぎてから、その日の夜の九つ時までを、その一日と定めること。

一、私が死んでから葬送までの間、念仏を唱える必要はない。ただし法樹院が来て仏前でお勤めをする場合は、別である。

一、湯灌は世間並みでよい。済んだら平日のように月代を剃り、髪を結ぶこと。衣服は、さらし木綿の綿入れを一枚、帯も同じものにする。ただし、袷でも、ひとえでも、帷子でも、その季節に合った服でよい。麻の十徳を着せ、木製の刀を差すこと。脇差だけでよく、ずいぶん粗末な、形ばかりの造り付けでよい。棺の中には、さらし木綿の小さな布団を敷く。綿はごく薄くてよい。衣服はすべて、できるだけ粗末な布や木綿を使うこと、云々。

一、この棺は山室の妙楽寺へ葬ること。夜中、ひそかにその寺へ送ること。太郎兵衛と、門弟のうち一、二人が送ってくれるように。

一、葬送の式は、もちろん樹敬寺で行うこと。樹敬寺の墓は、道休大徳〔宣長の曾祖父〕の墓の右隣に続け、道の方へ張り出して場所を取ること。その地面のうち、道へ二尺五寸ほど張り出す所は、樹敬寺と相談して買い取ること。

一、後にお勝が亡くなったら、この墓地へ葬ること。私の遺体は妙楽寺へ葬りたいが、葬式はもちろん樹敬寺で行う。この点は本人の遺言であると、樹敬寺での葬送の前に、速やかに断っておくこと。これには、何も込み入った事情はない。

ここで彼は墓石の形を定め、自分と妻の戒名を作って、「高岳院石上道啓居士」「円明院清室恵鏡大姉」とし、家の仏壇にも、この戒名を記した位牌を安置するよう定めた。さらに、次のように記している。

一、妙楽寺の墓地は、境内のよい場所を見繕い、七尺四方ほどの地面を買い取って定めること。埋葬の穴は、七尺余りの深さでよい。埋め方は世間並みで、特別なことはない。

一、七尺四方ほどの墓地の中央、少し後ろ寄りに塚を築き、その上に桜の木を植えること。塚の前には石碑を建てること。塚の高さは三、四尺ほどにし、全体に芝を張り、できるだけ固くして崩れないようにすること。後に崩れた所があれば、折々見回って直すように。桜は、なるべく花のよい山桜を吟味して植えること。もちろん、後に枯れたら植え替えること。

一、今後、妙楽寺への墓参りは、年に一度、亡くなった月だけでよい。それも雨や差し支えがあれば、必ずしも命日当日でなくてよい。前後の日を見計らって参ること。命日の月には、毎年、妙楽寺へ斎米一升、銀札一包ずつを納めること。毎月の命日の墓参りは、樹敬寺でよい。

一、忌中のこと、法事、そのほか諸事は、世間並みに勤めること。初盆や年忌なども、同じく世間並みでよい。

一、毎年、命日の月には、一度ずつ、なるべく自宅で歌会を開き、門弟が集まるようにすること、云々。歌会の客の食事は、一汁一菜の精進料理とすること。

一、家の仏壇に安置する位牌は世間並みとし、戒名は先に述べたとおりである。毎月の命日の霊膳なども、これまで先祖に対してしてきたとおりにすること。精進することも、同じである。

一、今後の家の相続のことは、一々言い置くまでもない。親族は十分に仲よくし、家業に励み、家門が絶えないよう、永く相続していくことが肝要である。それにまさる、ご先祖や父母への孝行はない。以上。

宣長の死後、この遺言に従って葬送などが行われた。また遺言により、秋津彦美豆桜根大人と称した。現在は、松坂でその霊を祀り、山室山神社といい、県社となっている。

息子の春庭には才能と見識があったが、体が弱いうえ、壮年で失明し、紀伊藩主に仕えることができなかった。そのため、宣長は亡くなる数年前に、門人の稲懸大平夫妻を迎えて跡継ぎとした。春庭は表向き、本居大平方の厄介という身分になった。こうして宣長が亡くなると、大平が家を継ぎ、文化六年、和歌山に移り住んだ。

古語の学びを受け継いで、
皇神の道を教えられた、鈴屋の先生よ。
本居大平

第二章 性格と行動

第六節 全般的な傾向

復古神道派の哲学における宣長の地位を見ると、私はひとしお、ギリシャのプラトンを思い出す。宣長は若くから学問を好み、書物を読み、儒教・仏教を広く学び、老荘の思想にも出入りした。そして最後に真淵に会い、その正統を受け継いだ。これは、プラトンにとってのソクラテスと同じではないか。門下から博学多才な篤胤が現れ、ついにその学問を大成したのは、プラトンにとってのアリストテレスと同じではないか。私が二人の間に少なからぬ類似を認めるのは、哲学史上の地位だけでなく、性格や行動についてもそうである。その高潔な思想と温厚な人柄、著述に発揮された豊かな想像力、筆先からほとばしる流暢な文章を見てほしい。なんとよく似ていることだろう。さらに、その思想と健筆から生まれた哲学を見よう。高天原とイデアの世界、体系全体を貫く詩的傾向なども、同じではないか。ただし二人の生きた時代と境遇の違いによって、学界に及ぼした影響の広さと大きさには、著しい差が生じた。確かに宣長の影響は、プラトンのように世界的ではなかった。しかし、彼もまた独自の見解を持ち、わが国民の思想を巧みに表現できたという点では、わが国有数の学者である。

そもそも彼が学者としてこれほど成功したのは、信仰が強く、意志が堅固だったからである。意志が堅固だったからこそ、幼いときから老年まで、学んで飽くことなく、教えて倦むこともなかった。ついに数百人の門人を育て、五十部、百三十余巻の書物を著すに至った。彼の詠んだ歌を見てみよう。

本を読めば、寂しいことなどまったくない。
人が訪ねて来なくても、酒を飲まなくても。

また、

酒を飲み、歌ったり舞ったりして遊ぶより、
本を読むことこそ、何より楽しい。

わずか数十字で、読書に対する彼の誠実さが、どれほど余すところなく表されていることだろう。このような習慣を、意志の弱い者が、どうして身につけられるだろうか。

第七節 信仰

また、信仰が強かったからこそ、神を敬い、国を愛し、師を尊び、親に孝行したのである。『菅笠日記』を見れば、その信仰が口先だけにとどまらなかったことが分かる。

「蔵王堂から十八町という所に、水分の神がおいでになる。この御社は、どこよりも心を込め、静かに拝み申し上げる。というのも、昔、父が子供を持てないことを深く嘆き、はるばるこの神に祈願された。その効き目があって、間もなく母が身ごもられたので、まずは願いがかなったと、たいそう喜び、どうせなら男の子を授けてくださいと、ますます深くお祈りなさった。私はこうして生まれてきた身なのである。」

こうして社の前にひれ伏すと、孝心の深い彼の胸には、亡き父母がしのばれ、こみ上げる思いを抑えられなかったのだろう。そこで、こう詠んだ。

父母を思い出す、その神の垣にお供えすると、
幣より先に、涙がこぼれ落ちる。

深い孝心がなくて、誰がこのようであり得るだろう。また、強い信仰がなくて、誰がこのようであり得るだろう。

この強い信仰こそ、彼の生命だった。それゆえ、ひとたびその信仰に反するものがあれば、普段の温和で慎み深い態度は激しい行動力へと変わり、一歩も譲らぬ気迫を示した。

「これほど邪悪な大賊を尊ぶ中国人の心は、どういうことなのか。まったく理解できない。」――『葛花』

これは、中国人が湯王と武王を先王・聖人として尊崇することを攻撃した言葉である。確かに湯王と武王は、わが国の道徳から見れば決して許されない罪人である。しかし中国では、先王・聖人として非常に尊ばれる人々である。それを大賊というのは、いささか穏当さを欠くのではないか。彼はさらに、その道について、

「どうして異民族の賊の道に心を向けようか。」――同上

と絶叫した。儒教は、もともとわが国固有の道ではない。したがって、そのまま日本に移せば数々の害もあるだろう。しかし、ある点では、わが国の道徳教育にたいへん多くの貢献をしている。それを今、「賊の道」と呼ぶ。当然、非難する人が次々に現れた。そこで彼は、こう弁じた。

「昔の代々の天皇の勅語にも、東照神命〔徳川家康〕の御法にも、聖人をそしる者は罪だなどとは、一度もおっしゃっていない。」――『葛花』

これは、一般の庶民の口先だけの言い分と変わらないではないか。しかし、宣長をここに至らせたのは、強大な信仰が、その排外的な思想を極端なところまで押し進めたからにすぎない。深く責めるには及ばないだろう。私はむしろ、これによって、彼の温和で慎み深い態度が、婦女子のような優柔さによるものではなく、内におのずと、凛として犯しがたいものを備えていたのだと思う。大平は、かつて宣長の人柄を評して、次のように述べた。

「心ばえは優雅で正しく、すべてのことに深く行き届き、きっぱりとして雄々しかった。」――『藤垣内文集』

これは決して師父をむやみに称賛したのではなく、事実をよく言い表したものだと、私は確信している。

第八節 緻密さ

以上のように、宣長は堅固な意志と強い信仰を持ち、温和で慎み深かったばかりでなく、物事をするのも、たいへん緻密だったようである。私は、かつて荷田春満の自筆の書を見た。筆跡はきわめて力強いが、勢いが自由奔放で、ほとんど読めないほどだった。ところが宣長の字を見ると、一字一字、細かく注意して筆を下ろしており、まるで印刷された書物のようである。古学の世界におけるこの二人は、一人が戦乱の中で大事業を始めた家康のようであり、もう一人が太平の世で守成を成し遂げた家光のようであった。

要するに、宣長の性格と行動は、意志が堅固で、信仰が強く、そして考え方が緻密だったというべきである。

第三章 学風

第九節 当時の風潮

長流と契沖が古語の研究を始めると、春満や真淵のような国学界の偉人が、相次いで現れた。それぞれが独自の学説を唱え、独自の学風をつくった。しかし、その学問で最も力を注いだのは、なお詩歌や文章の技術であり、言語の解釈であった。末端の技術とはいっても、思想を表すには、もちろん重要である。言葉の解釈も、昔の事実を知るには大切だ。しかし残念なことに、当時の一般の古学者は、その重要さを表面的にしか理解せず、ほとんど自分でも解せないような古語を持ち出し、いわゆる歌を詠み、文を書く学問に、五十年の命をささげる者が後を絶たなかった。これが彼ら一般の学風だった。宣長には、門人や後進にこのように手段と目的を取り違えさせるには、あまりにもすぐれた見識があった。聞くところでは、服部中庸が、生涯を歌や文章にささげたいと望んだとき、宣長は深くため息をつき、多くの門人がこうした望みを抱くことを嘆いた。そして中庸に、必ず古道を研究し、単に純文学だけを仕事にしてはならないと、切に戒めたという。彼は別に、広く後学の者たちにも、この趣旨を次のように示している。

「まず、人として、人の道とはどのようなものかを知らずにいてよいはずはない。学問を志さない者は、この限りではないが、仮にも志のある者なら、同じ力を使うにしても、道のために尽くすべきである。ところが道のことをなおざりにして、ただ末端の事柄ばかりにかかずらっているのは、学問の本意ではない。」――『うひ山ぶみ』

これを見れば、彼が、文字や文章にとらわれていた当時の学風に反対し、神道の研究に専念すべきだと論じたことが分かる。

第十節 華麗な文章

彼の説は、すでに見たとおりである。しかし、『鈴屋集』をひもといてみてほしい。その和歌の優美さ、文章の華麗さは、まったく感嘆せずにはいられない。『鈴屋集』だけではない。五十部、百三十余巻の著書は、すべて美しい文章だといってよい。

彼には、これほど豊かな美的情操があった。末端の技術だと退けてはいても、門人や後進が、その師をまねないはずがない。まして、一方ではそれを奨励していたのである。「およそ人は、雅の趣を知らずにいてはならない。これを知らないのは、もののあわれを知らず、心のない人である」とも述べている。こうして、その門下に二つの大きな学風が生まれた。

一つは、実子の春庭に代表されるもので、もっぱら古語と古文学を研究し、修辞と文法を修め、生涯を純文学にささげる学風である。もう一つは、服部中庸に代表され、神道の宗教的・哲学的な面を発展させ、盛んに儒教や仏教を排斥しようとする学風である。柴田花守の『古道或問』で、質問者が「今、本居氏の学風が大いに行われていますが、この人には、みだりに聖人をそしり、儒教を排斥する偏りがあります。そのため、門下に入る者は、人柄がひどく悪くなるということです」と疑問を出しているのは、まさしく後者の傾向を指摘したものだろう。この傾向は、中庸の学弟を称した平田篤胤によって、ほとんど極端なところまで押し進められた。篤胤自身の言葉を見てみよう。

「詩文のような技芸に巧みだからといって、それが何だというのか。それは世間で流行歌を作ったり、豊後節の文句を作ったりして暮らす者などと同じで、国の役に立つことは何もない。それなのに、どうして道の師とするほどのことがあろう。こんなことは、少し心を向ければ、誰でもできるはずだ。技芸で名があることは、志のある者にとって恥なのである。」――『西籍慨論』

さらに、意気盛んにこう詠んだ。

男のなすべき仕事も知らずにいるのか。
か弱い女でもする、歌詠みなどとは何だ。

こうして彼は、もっぱら歌や文章を排斥し、熱心に儒教や仏教と論争した。

第十一節 宣長の主張

篤胤の学風としては、このような態度にも、もちろん理由はあるだろう。しかし宣長は、このような極論に走ることを、学者が慎むべきことだとした。その説を見よう。

「世間の学問をする人々の様子を見渡すと、主に道を学ぶ者は、先に述べたように、多くが中国流の議論や理屈にばかりかかずらっている。歌などを詠むのは、ただ無益なことのように思い捨て、歌集など開いてみようともしない。古人の雅の心を夢にも知らないために、自分が主としている古代の道をも知ることができない。このようでは、名ばかり神道で、ただ外国の心ばかりだから、実際には道を学んでいるとはいえない。」――『うひ山ぶみ』

これによれば、彼が和歌や文章を奨励したのは、風流のためではなく、ひたすら道を理解し、会得するためだったことが分かる。さらに、こうもいう。

「古代を慕い尊ぶのなら、必ずまず、その根本である道こそ、第一に深く心がけて明らかに知るべきなのに、それを差し置いて末端のことばかりにかかずらうのは、本当に古代を好むとはいわない。それでは、歌を詠むのも、まことに無益なことになってしまう。宣長の教えに従って学ぼうとする者は、こうした趣旨をよく理解し、決して道をなおざりに考えて過ごすことのないように。」――『うひ山ぶみ』

その主張も明らかである。しかし、これは宣長だからこそ可能だった。彼ほど広い学識も、すぐれた思想も持たない者に、どうしてここまで到達できるだろうか。

今、彼の言葉に従ってその学問を見るなら、歌や文章は門と垣であり、古道は建物の奥にある中心の間である。その五百の門人のうち、正門から入って奥の間まで進めたのは、果たして誰だろう。春庭の歌や文章はすぐれていたが、門や垣にとどまっている。篤胤の学識は奥の間に入ったが、脇門から入ったように見える。ただ大平がいる。その器量は、もとより宣長より数段劣っていたものの、宣長の学風の全体を忠実に代表し、千人の門人を育てることができた。宣長が後継ぎを選んだ眼識も、すぐれていたというべきである。

高御座と、天から続く皇位とともに、
日の御子が受け継いでおられる道は、この道である。
天下の民草が、朝夕に、
その守りとして頼みにする道は、この道である。
本居宣長

第四章 著書

第十二節 積極的な方面

宣長は広い学識と卓越した見識を備え、古道の宣揚に熱心だった。そのために必要な著述では、どんな苦労もいとわず、どんな困難も避けず、研究と努力を重ねて取り組んだ。五十部、百三十余巻の著書を見よう。これが偶然だろうか。ここに主なものを挙げる。

『古事記伝』――四十九巻。本文四十四巻、首巻一巻、目録三巻、第十七巻の付録一巻から成る。この著述を始めた事情について、宣長自身は「三十余歳のころ、県居の大人の教えを受け始めたときから、『古事記』の注釈をしようという志があり、そのことを先生にも申し上げていた」と記している〔『玉勝間』〕。明和元年、三十五歳で着手し、完成したのは寛政十年、六十九歳のときだったから、まさに生涯の力を尽くした仕事である。それほどの力を注いだのは、『古事記』を、神道の正統を伝える第一の古典だと信じていたからだろう。そこで説明し、解釈し、誤りを正し、評論を加え、神道の典拠とするために、この書を作った。今日の目から見れば、不十分なところも少なくないが、わずか数巻の原文から数十万言の大著を作り上げたのである。その労苦は大きく、功績も偉大だったというべきだ。

訳注

底本のここには「安政十年」とあるが、前章に「寛政十年」、六十九歳とあることから、「寛政十年」の誤記とみて訳した。

『直毘霊』――明和八年著、一巻。『古事記』と合わせて刊行され、いわゆる古道の学説を述べたものである。ごく簡潔な小冊子だが、宣長の学説の根本がここに収められているため、古学派には最も重要な書である。

『神代正語』――寛政元年著、三巻。『古事記』『日本紀』を中心に、他の古書を参考として編纂した神代史である。神代の事実相互のつながりを知らせ、同時に、その読み方も精密に学ばせようとしたものだろう。古学入門の読本とすることができる。

『玉勝間』――寛政五年著、十五巻。宣長の随筆で、著書の中では『古事記伝』に次いで最も大部である。特定の問題を秩序立てて系統的に論じたのではなく、事物に触れて生じた思いを、そのまま筆にしたものである。しかし、入り交じった記事の中にも、道に関する貴重な文章が多く、学ぶ者の参考に十分役立つ。

『玉匣』――天明六年著、一巻。政治について古道の大要を説いたもので、寛政元年に刊行された。

『秘本玉匣』――天明七年著、二巻。特に紀伊藩主からの質問に応じ、主として政治・経済に関する事項を記したもので、宣長の政治思想の一端を知ることができる。

『臣道』――寛政十二年著、一巻。古代の道によって君主に仕え、国を治める方法はどうあるべきかという、ある人の問いに答えたもの。わずか二千四百字ほどだが、内容には見るべきものが少なくない。

『神代紀髻華山蔭』――寛政十二年著、二巻。宣長は、『日本書紀』を『古事記』に次いで古伝を知るうえで重要と考えた。しかし、その文体がすべて中国の歴史書をまねているため、世間の人は文章にとらわれて、本当の意味が分からないとした。そこでこの書を著し、いわゆる古学の眼によって、『書紀』の重要な箇所に注釈を施したのである。

『続紀歴朝詔詞解』――寛政十二年著、六巻。『続日本紀』の宣命を詳しく解説したもので、古学研究に必要な参考書である。

『大祓詞後釈』――寛政七年著、二巻。真淵の『祝詞考』のうち、大祓の祝詞についての考察を増補・修正したものである。

『出雲国造神寿詞後釈』――寛政五年著、二巻。これも真淵の『祝詞考』にあるものを増補した書である。

『鈴屋答問録』――長年にわたる著述、一巻。古道に関することや、言語・衣服など、さまざまな問題についての質問に、宣長が答えたものを集めた書である。

『国号考』――天明七年著、一巻。わが国の国号の由来を説いたものである。

『玉鉾百首』――天明七年著、一巻。神道に関するさまざまな思想を歌に詠んだものを集めている。

『うひ山ぶみ』――寛政十年著、一巻。宣長の教育についての意見を、この一巻に収めている。

『鈴屋集』――長年にわたる著述、九巻。壮年から老年までに詠んだ歌や書いた文章を集めたものである〔文章は第六・七巻と第九巻後半に収める〕。

第十三節 消極的な方面

前節では、古道の宣揚の積極的な方面に関する著書を挙げた。これからは、その消極的な方面、すなわち他の説への批判に関するものを挙げよう。

『馭戎慨言』――安永七年著、四巻。崇神天皇の時代から、近くは天正・慶長のころまで、朝鮮および中国との交流を述べ、歴史書のさまざまな誤りを正し、日本を尊んで外国を低く見る道理を大いに論じた書である。

『葛花』――安永九年著、二巻。ある人が『まがのひれ』という書を書き、宣長の主張を激しく攻撃した。宣長は、その著者が中国風の考えをほしいままにしていることに怒り、その信奉する儒教を攻撃した。それを記録したのが、この書である。

『天祖都城弁々』――寛政八年著、一巻。『神別本紀』という書〔忌部宿禰浜成の撰とされるが、宣長は後人の作とする〕に、「このとき父母の尊は、子らとともに淡路津那国に住み、天下を治めるのによい場所を選んで、豊中津を得た。そこで天の使いである日神をここに定め、安らかに住まわせた。四方の者は皆、ここを天上と敬った」とあり、豊前の中津を大神の都としていた。ある人がこれを見て『天祖都城弁』を著し、大神の都は大和だとした。宣長は、その説も誤りだと論じ、大神の都は高天原、すなわち天であると主張した。

『鉗狂人』――天明五年著、一巻。藤井貞幹の『衝口発』が神代の歴史的事実にさまざまな憶測を加えたため、宣長は狂人の言葉だとして、激しく反論した書である。

『呵刈葭』――天明七年著、二巻。宣長が『鉗狂人』を著すと、上田秋成がさまざまな批評を加えた。その批評にさらに反論して書いたものである。

『古語拾遺疑斎弁』――寛政十二年著、一巻。日向の日下部勝美という人が『疑斎』という書を著して『古語拾遺』を批評したため、宣長がさらにそれに反論したものである。

『五部書説弁加評』――寛政十二年著、一巻。吉見幸和の『神道五部書説弁』に批評を加えたものである。

『伊勢二宮さき竹の弁』――享和元年著、一巻。伊勢の内宮・外宮の祭神について、世間の誤った説を論じたものである。

第十四節 その他の著書

以上のほかにも、古道・国語・国文など、さまざまな問題に関する著書が、たいへん多い。挙げれば次のとおりである。

『石上私淑言』――宝暦十三年著、二巻。和歌についての、宣長の全般的な研究を述べたものである。

『手枕』――宝暦十三年著、一巻。『源氏物語』に六条御息所の初めの事情を書いた記事がないのを物足りなく思い、その文体を学んで補作したものである。

『紫文要領』――宝暦十三年著、二巻。『源氏物語』全編の要点を述べたものである。

『草庵集玉箒』――明和四年著、六巻。僧・頓阿の家集『草庵集』に注解を施したもの。宣長がこの書を真淵に見せると、真淵は、このような拙いものにこだわるのはよくないと述べ、退けたという。

『国家八論及同斥非評』――明和五年著、一巻。『国家八論』および『国家八論斥非』に批評を加えたものである。

『紐鏡』――明和八年著、折本一巻。「てにをは」の使い方を表によって解説したものである。

『家譜修撰』――明和八年著、一巻。一志郡大阿坂村の本居林之右衛門家に伝わる家譜と、自家に伝わる家譜とに基づき、本居家の系譜を編修したものである。

『菅笠日記』――安永元年著、二巻。吉野旅行の紀行文である。

『字音仮字用格』――安永四年著、一巻。書名のとおり、漢字音を仮名で正しく表す方法を示したものである。

『万葉集玉乃小琴』――安永八年著、一巻。『万葉集』の難しい語を拾い、注解したものである。

『詞の玉の緒』――安永八年著、七巻。『紐鏡』を完成させたもので、今日の文法書というべき書である。

『真暦考』――天明二年著、一巻。わが国の上古の暦法を考究したものである。

『漢字三音考』――天明五年著、一巻。漢字には漢音・呉音・唐音の三つの音がある。その正否や優劣を論じ、日本の音が正しいことを述べたものである。

『新古今集美濃家苞・同折添』――寛政三年著、八巻。宣長自身は、次のようにいう。「大矢重門が学問のため、美濃国から来て滞在し、さまざまなことを尋ねた。その中で、この集の歌々の意味を、とりわけ細かく問い尋ねたので、教え、論じた趣旨を、国に帰るときの家への土産として、書き記して与えてほしいと請われ、その求めに従って書いて渡した。」

『玉霰』――寛政四年著、一巻。歌や文章の、さまざまな言葉遣いの乱れを正したものである。

『結び捨たる枕の草葉』――寛政五年著、一巻。寛政五年、京都や名古屋地方を旅した際の和歌を集めたものである。

『紀見のめぐみ』――寛政六年著、一巻。寛政六年、紀伊藩主の召しによって和歌山へ赴き、京都を経て帰った、その旅行中の和歌を集めたものである。

『源氏物語年紀考』――寛政八年著、一巻。
『源氏物語玉の小櫛』――寛政八年著、九巻。
この二書は、宣長の『源氏物語』研究である。

『古今集遠鏡』――寛政九年著、六巻。『古今集』を、日常の言葉で解釈したものである。

『家の昔物語』――寛政十年著、一巻。『家譜修撰』をもとに、本居家の由来と系統を示したものである。

『吉野百首』――寛政十一年著、一巻。寛政十一年、紀伊国へ赴き、帰りに吉野を訪ねたときの和歌である。『鈴屋集』第五巻に収める。

『遺言書』――寛政十二年著、一巻。没後のことを、健亭と太郎兵衛の二人の息子に宛てて記したものである。

『地名字音転用例』――寛政十二年著、一巻。諸国の地名で、漢字の音がさまざまに転用されている例を挙げて示したものである。

『真暦不審考弁』――寛政十二年著、一巻。宣長の『真暦考』に対し、川辺某という人が『真暦不審考』を著した。宣長はさらにこの書を著し、その誤りを論じた。

『言語活用抄稿』――寛政十二年著、一巻。国語の活用を示したものである。

『後撰集詞の束ね緒』――享和元年著、一巻。『後撰集』の文法上の誤りを修正・改善し、この集を読む人の手引きとしたものである。

以上のほかにも、なお宣長の著書が少なからずあることを、特にここに記しておきたい。

本を読むと、昔の人など、いないのだった。
みな今ここにいる、私の友なのだから。

菅の根のように長い春の日も、短く感じる。
それが、本を読む人の悩みなのであった。

本居宣長

第二編 学統

第五章 復古神道の発展

第十五節 神道の本質

わが国には古来、さまざまな教義や道徳があったが、国民精神を最もよく代表するのは神道である。ここでいう国民精神とは、わが国民が太古から、地理と歴史の関係のもとで、いわゆる惟神的に形づくられ、鍛えられてきたものである。その特色は、秩序と統一を重んじる思想、快活で現世を肯定する感情、そして発展し拡張しようとする性格に富むことにある。もちろん、秩序と統一を重んじる思想は、中国の人々にも著しく認められる。しかし中国では、古代にすでに禅譲や放伐によって、その根本がほとんど破壊されてしまった。快活で現世的な感情はギリシャ人にも大いに見られ、発展し拡張しようとする性格はローマ人にも顕著である。だが、彼らはそれらを偏って備えていたうえ、後の国運の衰退とともに、ほとんど失ってしまった。わが国民だけは、古くから滅亡の災いを超越し、これらの思想・感情・性格をよく維持し、発展させてきた。そこで、それらを一つに合わせたものを、日本固有の国民精神とするのである。

わが国の古来の神聖な方々は、この精神の精髄を体現し、その華を集められたのである。すなわち、この精神の化身とも申し上げるべき方々だった。したがって、その行い、示された事績は、一般の国民に大きな印象を与え、政治・宗教・道徳を問わず、あらゆる国民の行為の規範となった。国民はそれに基づいて言葉を発し、行動するようになった。こうして古来の神聖な方々の事績から生まれ、国民の言動の根本となり、規範となるものを、神道と呼ぶのである。

この神道は、古代にすでに大きな力を持ち、当時の国民の知・情・意にわたる要求に応えていた。現実の生活では、後に道徳の世界へ大きな影響を及ぼした儒教が伝来する以前の、わが国民の道徳だった。また、後に宗教の世界で大きな勢力を持った仏教の伝来以前には、国民に安心立命を与える宗教だった。そして、畏れ多くも今上天皇陛下が、明治三年正月三日に勅を下し、「謹んで思うに、天神・天祖が政治の根本を立て、道統を伝え、歴代の聖帝がこれを受け継ぎ、述べ伝えられた。祭祀と政治は一つであり、万民は心を一つにし、上では政治と教化が明らかに行われ、下では風俗が美しかった」と仰せになったように、上古から祭政一致で、中国の王道・覇道が伝わる以前に、すでに政治の道であった。そのほか、神道は、わが国民の実際生活のあらゆる方面に力を持っていた。

もともと神道の根本は、私たち大和民族が、この体を神である祖先から受け、子々孫々、限りなく伝えるのと同じように、永遠に伝えられるものである。ただ、体を覆う衣服や冠が時代の要求によって変わるように、神道の根本が現実の世界に現れる姿、すなわち神道の形式や色合いは、時代とともにさまざまに変わることを免れない。これから、その変遷について少し述べよう。

第十六節 神道の変遷

上古には国民のすべての要求に応えた神道も、朝鮮や中国などとの交流が次第に盛んになり、文明がますます発達すると、従来の形式や色合いでは、少年が老人の衣服を着ようとするように、国民の要求を十分に満たせなくなった。かといって、わが国には、実際の政治や事業の世界には豊臣秀吉のような偉人が現れたものの、学者にはアリストテレスやカントのような、体系を組み立てる頭脳を備えた偉人が現れなかった。したがって神道の根本に大きな学説を組み立て、国民の要求を余すところなく満たす者がいなかった。そこで、古来、比較的すぐれた人々は、中国・インド・西洋で発達した学説を取り入れ、それを神道の根から伸びる幹や枝として、一つの完全な神道の学説を構成し、国民のすべての要求に応えようとした。

最初に影響を受けたのは、儒教である。儒教は古代の聖帝、堯と舜が始めたものとされる。しかし彼らは、身分の低い者を抜擢して天子の位を継がせても、不思議と思わない。また、古代の聖王、湯王と武王が唱えたものともいうが、彼らは君主を討ち、天子の位を奪っても恥じない。君臣の大義と上下の名分を、根本から誤っている。したがって、儒教の思想は神道の根本に何の貢献もしなかった。ただし、儒教では、大義名分の根底を失っているとはいえ、ひとたび君主となり、上の地位に立った、いわゆる聖人は、万民に大義を守らせ、名分を正させ、自らの地位を維持して、国家と社会の秩序を保とうとした。その結果、忠孝仁義の説に、深遠な理由を説くことができた。わが国でも、人の知恵が発達し、固有の神道の形式や色合いを変える必要が生じたとき、儒教が盛んに伝わり、神道に大きな影響を与えて、その表現の発展を促したことは、争えない事実である。こうして儒教は、初めから神道の発展に少なからぬ貢献をしたが、次いで輸入された仏教は、一時、その発展を妨げるところがあった。

欽明天皇十三年〔この年代には異説がある〕に輸入された仏教は、深遠な哲学的学説に富み、発達しつつあった文明の空気に触れる急進派やハイカラな人々の好みにかなっただけではなかった。伝来に際して百済王は、「この教えは、あらゆる教えの中で最もすぐれている。理解するのも入り込むのも難しく、周公や孔子さえ知ることができなかった。この教えは限りない福徳と果報を生み、ついには最高の悟りをも成就させる。たとえば、願いのままになる宝を持ち、どれほど使っても思いどおりになるようなものだ。この妙法の宝も同じで、祈り願えば思いに従い、不足するところがない」と述べた〔『日本書紀』〕。さらに、インド以東の国々は、みなこれを拝んでいると言い添え、釈迦の仏像や経論などを献じた。先に輸入された儒教の崇拝対象は天だが、その天はきわめて漠然としていて、ほとんど束縛がない。それが神道とよく調和できた理由である。ところが仏教には、拝むべき対象として仏がある。そして、神を祀らなくても、仏によく祈れば、無限の福徳と果報が生じるとする。そこで新しいものを好む人々は、争って仏に帰依し、神道を奉じなくなった。これが、神道の発達が著しく妨げられた理由である。

当時、熱心な仏教信者だった厩戸皇子や蘇我馬子らは、物部氏や中臣氏などの神道家を圧倒し、大いに仏教を興した。しかし皇子は即位せずに亡くなり、蘇我氏も滅びた。朝廷には熱心な仏教家が見られなくなったばかりか、仏教を尊ぶ政治への反動から、神道に心を傾ける政治家も現れた。そのため孝徳天皇の時代には、蘇我石川麿が「まず神々を祭り鎮め、その後に政治を議すべきです」と奏上し、天皇は「公卿百官は清らかな心で神々に仕え、皆で吉祥を受け、天下を栄えさせよ」と詔された。また天武天皇五年には、詔によって各地で大解除を行わせた。大解除は神道の一大儀式である。これらの事実から、当時の朝廷が、どれほど固有の神道を維持し発展させようとしていたかが分かる。

このように朝廷は、固有の神道の維持・発展に大いに努め、また『古事記』『日本書紀』などを編纂し、神道思想の普及を図った。国民の多くも神道を奉じていたが、もともと新しいものや珍しいものを好む人々も少なくない。そうした人々が、無限の福徳と果報を生むという仏を見れば、信じたいと思わずにはいられない。また文明の進歩に伴い、すでに奥深い学説を渇望していた人も少なくなく、そうした人々も、仏教によって慰めを得ようとした。こうしてさまざまな事情から、次第に仏教を信じようとする者が生じた。しかし、きわめて冷静な頭脳の持ち主でなければ、そのまま帰依することはできなかった。多くの人は、神道思想によって鍛えられた精神上の強い権威のために、容易に仏教に入れず、深い悩みに陥ったのである。ここに、神仏習合の試みが現れることになった。

神仏習合とは、日本の神々は、もともとインドの仏たちと異なるものではないとして、神仏の衝突を巧みに避けようとするものである。その始まりは、聖徳太子の言葉にあるといってよいだろう。『大日本史』の皇子列伝には、「敏達天皇十四年、馬子が病気になり、仏に祈りたいと願い出た。天皇はもともと仏を好まず、聖徳太子に『わが国には、もとから神がある。今、馬子が異国の神を祭りたいと願っているが、どうしたものか』と尋ねた。太子は『仏たちの道には、神々も決して背きません』と答えた」とある。そこで天皇は、ついに馬子の願いを許された。その後、行基が現れ、盛んに神仏を習合させ、聖武天皇に勧めて東大寺の大仏を建て、伊勢の大神宮と向かい合うものとした。天皇は、大仏が天照大神と同じ神霊の現れであるという堅い信念を抱かれ、皇后・皇太子・群臣を率いて、大仏に向かって北面し、「三宝のしもべとして仕え奉る天皇である私が、盧舎那像の御前に申し上げる」と仰せになるに至った。孝謙天皇もこれを受けて、深く神仏一致の説を信じ、国民に示された。このように当時の仏教家は、きわめて巧妙な方法を考え、神仏一致を主張し、まず朝廷から信じずにはいられないようにしたうえで、国民に臨んだ。国民もようやく信じ、先の悩みを脱して、盛んに仏教へ帰依するようになった。

神仏一致の説によって多くの国民が仏に帰依したが、なお心の中に安心を得られない者もあった。神仏の一致は、さまざまな託宣によって示されるものの、日本の古伝には、その証拠となる事実が一つもない。そこで、いくらか思慮のある者は、なお疑いを捨てきれなかった。この疑いを解くために、伝説を組み合わせ、本地垂迹を説き、神道の学理を構成する動きが現れた。こうして仏教的神道が生まれたのである。

仏教的神道の中で、最初のものは山王一実神道である。これは僧・最澄が始めたとされる。もちろん、最澄が後世の山王一実神道そのものを説いたというのではなく、ただ、その端緒を開いたというのである。山王神は、もともと中国の天台山の鎮守で、最澄が比叡山にも移して祀ったようだ。その移転については、『本朝神社考』に、次のような説がある。「日吉の神の名について考えると、伝教大師が小比叡の峰で、三つの光を持つ日輪を見た。そこに釈迦・薬師・阿弥陀の姿が現れた。師が名を尋ねると、神は『縦の三画に横の一画を加える。横の三画に縦の一画を添える』と告げた。言い終わると、その光は空へ昇って去った。師が文字について考えると、縦の三画に横の一画を加えれば「山」、横の三画に縦の一画を加えれば「王」となる。高大で動かないものは山であり、天地人の三才を貫いて秩序づけるものは王である。そこで、あがめて山王と呼んだ。」こうした説を作り、山王神の本地を、釈迦・薬師・阿弥陀の三尊としたのである。

比叡山には、『古事記』に「御年神が、また天知迦流美豆比売を妻として生んだ子は、云々、次に大山咋神。またの名を山末之大主神といい、近淡海国の日枝山におられる」とあるように、すでに大山咋神が鎮座していた。そこへ山王神を祀り、釈迦が神として現れた姿を大己貴神、薬師の現れを国常立尊、阿弥陀の現れを八幡菩薩として、合わせて山王権現とした。こうして山王神は、天台の教義に結びつけられた。

『神社考』の記述によれば、山王神が行円に次のように示したとする。「私を山王と名づける。お前はその意味を詳しく知っているか。これは三諦が一つであることを表す。山の字の縦の三画は、空・仮・中であり、横の一画は、三つが一つであることを表す。王の字の横の三画は三諦、縦の一画もまた、その一体性を表す。二字とも、三画を一つの画が貫く形を備えているので、私はこれを名とした。一心三観も、一念三千も、同じである。それゆえ私は、天台の教えを守り、国家を鎮護するのだ。」

こうした伝説に基づき、山王とは、三諦が一つの境地であることの名で、三でありながら一である、これを究極の理とする、つまり一実という意味だと説いた。また、八百万の神々は、すべてこの三諦一実の妙理に基づき、限りない教化を施される、といった神道説を組み立てたのである。

山王神道に次いで起こったものを、両部習合神道、略して両部神道という。空海が始めたとされるが、山王神道と最澄の場合と同じく、本当に空海の創始なのかは、大きな疑問である。空海の作といい、高野山に秘密の書として伝えられたとされた『麗気記』なども、後人の偽作だということで、諸学者の見解は一致している。しかし、この神道も、山王神道と同じく、神仏一致説から当然に生じる結果であり、空海のような仏教家が、少なくともその一端を開いたであろうことは、ほとんど疑えない。そこで私は、この神道も空海が端緒を開き、その後、真言の学者たちが発展させたものと考える。北畠親房が「わが国の神代からの由来は、この宗派の説と符合する」と述べ、全面的に両部神道を信じていたことからも、そのころすでに、長く行われていたことが明らかである。山王神道が天台の教理に基づくのと同じく、これはすべて真言の教理に基づく。すなわち、伊弉諾・伊弉冉の二神を金剛界と胎蔵界に比べたり、内宮を胎蔵界、外宮を金剛界としたりして、神道説を組織したのである。

以上のように、山王神道と両部神道は天下を風靡した。しかし、国民精神の熱烈な者、とりわけ発展し拡張しようとする性格に富む者は、このような神道では、とうてい精神の要求を満たせなかった。唯一神道は、「わが神道は一陰一陽を生む、はかり知れない根元であり、国常立尊から天照大神に至る、玄妙な相伝である。天照大神が天児屋命に教えられ、それ以来、濁った末世の今日まで、一つの気の根源となる水をくみ、一滴も三教の水をなめなかった」と高らかに唱え、日本固有の神道を高尚な哲学思想で飾ろうとして起こった。これは、当時の心の動きをよく示している。しかし、その大きな掛け声にもかかわらず、組み立てられた神道は、三教を取り入れるところが少なくなかった。

まず、その神道の名を見てみよう。「唯一」というではないか。「唯一」は『孝徳天皇紀』にも「帝道唯一」と見えるが、学者たちは一般に、『法華経』の「ただ一乗の法のみがあり、二も三もない」、『宝積経』の「すべての仏は、ただ一仏である。無量の仏を説くのは神変と名づける。すべての仏土は、ただ一つの仏土である。無量の国土を説くのは神変と名づける」といった言葉に基づくと考えている。おそらく事実だろう。これによって、「唯一」という語が仏教に由来することが分かる。

さらに唯一神道の内容を見ると、『名法要集』に「わが神道は万物にあり、一つとして取り残さない。風波・雲霧、動静・進退、昼夜・隠顕、冷寒・温熱、善悪の報い、邪正の違い、すべて神々のなさることでないものはない。それゆえ天地の心は神であり、仏たちの心も神であり、鬼や獣の心も神であり、草木の心も神である。まして人間は、なおさらだ。心によって理を成し、心によって言葉を成し、心によって手足を動かす。すべて心神の働きである。いっさいの生あるものは、神でないものはない。それゆえ、成仏とはいうが成神とはいわない。神霊を内に含まないものはない」とある。だが、これも仏教に基づいているのではないか。

こうして卜部家は、神道の学理だけでなく、儀式までも仏教から取り入れ、神道護摩や神道加持などの法を設けた。『塩尻』の神道護摩の項には、「吉田兼倶の子である僧・九江が、吉田山の下に一寺を建て、神龍院と名づけた。九江法師が、この寺で初めて行った法である。したがって僧こそが修めるべきものなのに、今、神職らが伝授を受けて修めるのは、まことに似つかわしくない、でたらめな作り事である」とある。また神龍院の名は、龍女が神道を弘法大師に伝え、それが吉田家の神道のもとになったというので、善女龍神の名によって名づけたという。どの面から見ても、唯一神道には仏教に基づくところが多いのである。

当時は戦乱の世だったが、別に二人の大神道哲学者が現れた。北畠親房と一条兼良の二卿である。親房は、特に三種の神器を重んじ、『神国要道篇』に次のようにいう。「転輪王の世には七宝が備わる。福徳の力によるものではあるが、子孫へ伝える重要な証しではない。夏・商・周の時代には九鼎を宝とした。この鼎は夏王朝が鋳造したものである。秦・漢以来、伝国の璽があるが、始皇帝が定め、李斯が文字を書いたものである。ところが、わが国の霊器は神聖であり、不可思議である。それを伝えるのは神聖な方々、それを祀るのは天皇の宮廷である。かけても畏れ多い、国を治める尊い御子が、ご自身を貴ばれるべきなのは、この道理による。」さらに、こう述べる。

「鏡は何ものも内に蓄えず、私心なく万象を照らすので、是非・善悪の姿が、現れないことはない。その姿に従って応じることを徳とする。これが正直の根源である。玉は柔和で善に従うことを徳とする。これが慈悲の根源である。剣は鋭く、決断することを徳とする。これが知恵の根源である。この三つの徳を受け取らなければ、天下を治めることは、まことに難しいだろう。」――『神皇正統記』

こうして彼は、神道を神国の最も大切な道とし、大いに神道によって天下を治めようとした。しかし、その神道は、結局、神と仏によって説を組み立てたものだった。

兼良もまた、儒教・仏教・道教の理によって、自らの説を組み立てた。『纂疏』では、「三種の神器は神書の肝要であり、王法のかなめである。王法とは何か。それは儒教と仏教が一致する道理である。これを除いて、別の道があろうか。一致の理も、一つの心から起こる。心の外に法はなく、法の外に心はない。心が神であり、法が道である。一でありながら三、三でありながら一である。それゆえ三器は、一心のしるしである」と述べる。また、「孔子は、仁者は憂えず、知者は惑わず、勇者は恐れないといった。子思は『中庸』で、これを三達徳という。聖人の道は大きく広いが、究めていえば、この三つに尽きる。鏡が美醜を照らすのは知の働き、玉が温かく潤いを持つのは仁の徳、剣が強く鋭いのは勇の意味である」と説く。さらに神器を仏教に比べ、「鏡が照らすのは般若、玉が清らかなのは法身、剣が断つのは解脱である」と説き、これらを一心に帰し、それを根本として神道を構成したのである。

第十七節 近代の神道

一条兼良とほぼ同じ時代、卜部家には兼倶がいて、すでに述べたような唯一神道の学説を盛んに研究し、組織した。また、当時の将軍・足利義政と、その妻・富子から信頼され、神祇の長であることを公認されて、天下の神社を支配する権限を得た。次に足利義尚が立つと、神書を進講した。頼襄は『日本政記』に、「私はかつて、王業が衰えて神道が興るといった。なぜなら、それはもともと皇室の祖先に関することだからである。王政が盛んなとき、誰があえてそれを口に出し、自分の説を立てようか。それを口にし、自分の説を立てることは、卜部兼倶が足利義尚に教えたことに始まる」と述べている。卜部家の神道は、ほとんど兼倶によって隆盛になったといってよいだろう。

兼倶の死後、卜部家には再び彼ほどの器量の人は現れなかったが、ひとり萩原兼従があり、卜部家の正統を受け継いだと称した。そのころ江戸に吉川惟足が現れた。深く神道に志し、直接、萩原兼従について、唯一神道の奥義を伝授されたという。惟足は、従来の唯一神道の説に親房と兼良の説を折衷し、さらに陰陽五行や宋代の儒者の説を取捨して、学説を組み立てた。特に注目すべきは、親房・兼良と同じく、三種の神器を尊重したことである。彼はいう。

「具体的な事物としていえば三種の霊宝であり、理としていえば天子の御心である。三種の霊宝は胸の中に収まり、胸の中のものが、三種の霊宝に現れる。」――『神代巻家伝聞書』

事物としては、天照大神が授けられる以前には存在しなかったが、理としては、すでに存在していたとする。そして、「その理は、伊弉諾・伊弉冉尊が天瓊戈を得られたときから備わっている、天地自然の霊宝である。それを天照大神が受け継がれ、今、三種の神器としてお授けになった。具体的な姿をもってお授けになったことには、深遠で微妙な意味がある。わが国が万国の最上にあることは、この一事で明らかである」と述べる〔同上〕。さらに、「三種は、鼎の三本の足のようなものだ。まことに神道の肝要、王法のかなめであり、代々の御守りとして、国土にあまねく及ぶ光である」と説いた〔同上〕。

惟足と同時代に、度会延佳がいた。『大神宮神道或問』に、「神道とは、上は天皇お一人から下は万民まで、朝夕に行う道である。天神地神から伝わる中極の道を根本にして行うとき、日常生活の中に神道でないものはない。特にこれが神道だと、一々教え示す必要のある道ではない」と述べている。

また、「中極の道を神道というのだから、中道を実践し、正直の教えを信じ、本心に任せること。『正しいことに従うのを清浄とし、悪に従うのを不浄とする』という神の記録を畏れ、起き伏しや行動のすべてに、心の塵を払い、黒い心を持たず、真心によって清く慎むこと。『左の物を右に移さず、右の物を左に移さず、左は左、右は右とせよ』という教えを守ること。天下の主であれば、天下の万民をあわれみ、君主の職分を尽くされるべきであり、臣下はこの教えを守って忠を尽くし、君主に仕えるべきである。一国や一家の上下関係も同じであり、親子・夫婦・兄弟・友人も、この教えを守って、それぞれのなすべき道を尽くす。武士・農民・職人・商人までも、この教えに従って職務を果たす。それを、左を左とし、右を右とするというのである」と説いた〔同上〕。このように、独自の神道を盛んに講じたのである。

延佳の神道を聞き、さらに惟足の説を受け、惟足から垂加霊社の号を授けられて、一派を立てたのが、山崎闇斎である。谷重遠はいう。

「伊勢流の『日本紀』には口伝がなく、ただ字面を論じるだけである。垂加は後に卜部の説を聞き、そのすぐれた部分を挙げて信守に問いただしたが、信守はかえって腹を立て、聞かなかった。また伊勢の明快な説を挙げて吉川惟足にただすと、惟足もきっぱりと拒んだ。各々が自派ばかり大切にして他人の説を聞かない。この弊害は、久しく続いている。垂加社の神道が、諸説に大いに勝るのは、ほかでもない、一方に偏らないからである。忌部流は石手帯刀に聞き、卜部流は視吾に聞き、また土津にただした。伊勢流は信守と大宮司精長に聞き、賀茂の説は梨木祐之に聞いた。こうして諸家の秘伝を集めた。まことに、千金に値する毛皮の衣のようなものである。」――『秦山集』

このように集大成に努めた闇斎の説は、どのようなものだったのか。彼は、「唯一の神道とは、異国の教えを混ぜ合わせないことだけをいうのではない。天と人とが、ただ一つの道であるという名目だ。天地と人とが、まったく一つだということである」と述べた。こうして日本の神道哲学の根本を捉え、実践哲学の面では、日神の道というものを説いた。日神、すなわち天照大神は、最も大きく最も高い徳を持ち、天御中主尊とまったく同じ徳を備えながら、人間の体を持っておられる。だからこそ、人類永遠の模範となられるのだとする。そして、この道は誰もが備えているとし、「道とは、人々の心に備わる天然のものである。人は天下の神物だというのも、このためだ。その道を備えていても、自ら知らなければ、どうにもならない」と述べた〔『天津神籬磐境極秘書』〕。

道は誰もが備えているが、自分で知らなければ何にもならない。そこで教えが必要になる。だからまた、「神道は天と人とが一つであり、道は日神の道、教えは猿田彦が導かれるところである。土と金の教えは、天と人を貫く、敬の極致である」と述べた〔同上〕。こうして彼は、宋代の儒者の説を取り入れて、神道を説いたのである。

以上に述べた唯一神道以下のさまざまな神道説は、いずれも日本固有の神道思想を発揮しようと努めたものだが、みな、仏教をよりどころにしたり、儒教へ結びつけたりして、説を組み立てていた。したがって荷田春満のいうように、陰陽五行家の説か、円頓四教儀の解釈か、唐宋の儒者の残りかすでなければ、胎蔵・金剛両部のしずくだ、という非難を免れない。その中に、道統を直接古代につなぎ、日本固有の神道の正統を継いで起こる者があった。これを、復古神道の一派とするのである。

第十八節 古語学の勃興

復古神道が起こったのは、まさに古語学が盛んになったことによる。古語学の勃興は、近畿の二人の偉大な古語学者、下河辺長流と契沖が、その端緒を開いたのである。

長流は大和の人で、宇多に生まれた。もとの姓は小崎氏だったが、母の姓を名乗って下河辺氏と称した。通称を彦六、名を具平といい、後に長流と改めた。安藤為章は、その伝記を次のように記している。

「もともと妻子はなく、中年から摂津国の難波のほとりに隠居した。静かに本を読み、特に歌学を好み、『万葉集』『古今集』『伊勢物語』などは暗記していた。その学問は自然と評判になり、大坂の裕福な人々が、多く弟子になった。生まれつき世間にへつらわない人柄で、気が向かなければ富豪の招きにも応じず、訪ねて来た人にも口をきかなかった。枕を高くして眠ったり、本を読んだり、思うままに過ごした。西山公もその才能をお聞きになったが、ついに仕官しなかったので、紙と筆を賜り、『万葉集』の注をお求めになった。それにも、気が向いたときに一、二首ずつ注するだけで、また怠りがちだったので、完成しないまま、貞享三年丙寅の六月三日に亡くなった。六十三歳であった。円珠庵の契沖師とは親交が深かったので、師が遺稿を集めて『晩華集』と名づけた。」――『年山打聞』

長流は初め、世に出ようという望みを持っていたが、才能を認める者がいないことを憂い、ついに立身の念を捨て、隠者として生涯を終えたという。隠者に終わったとしても、古語研究に及ぼした功績は、永く埋もれさせてはならない。著書には、『万葉集名寄』四巻、『枕詞燭明抄』三巻、『続歌林良材集』二巻、『萍水和歌集』二十巻、『林葉累塵抄』二十巻、『長嘯歌選』一巻、『自撰晩花集』一巻があり、契沖が没後に集めた『晩花和歌集』一巻や、そのほか数種の書がある。

円珠庵の契沖は浪華の人で、本姓は下川、字は空心である。祖父の又右衛門元宣は、肥後守・加藤清正に仕え、五千石の俸禄を受けた。その末子の元全は、摂津国尼崎城主・青山幸利に仕え、俸禄は二百五十石だった。元全は間氏を妻に迎え、何人かの子を得た。契沖は、その三男で、寛永十七年に生まれた。幼いころから学問を好み、記憶力のよさで父母を驚かせた。早くから出家を志し、父母に願ったが許されなかった。それでも強く願い続けるので、父母もその志を変えられないと見て、ついに許し、摂津国今里の妙法寺に入れ、半定密師を師とさせた。まだ十一歳のときである。以来、熱心に仏教を研究し、大いに学業を成し遂げると、檀家に請われ、摂津国生玉の曼荼羅院に住んだ。寛文二年のことである。しかし、その土地の騒がしさを嫌い、ほどなく去って、住まいも定めず、思うままに各地を巡り、山川を歩いた。後に摂津の池田川のほとりに住まいを定め、『日本紀』以下の国史や古記録を盛んに読み、好んで和歌を作り、広く歌書を読みあさった。曼荼羅院を去ってから、このころまで、前後ほぼ二十年であった。たまたま妙法寺の旧師・半定が亡くなり、遺言で寺を継ぐよう命じた。契沖は、母が今里にいたので、志を曲げて寺に入り、母を養った。『代匠記』が完成したのは、実にこの時期である。

篤胤は、こう記している。

「『万葉集』は奈良時代の古い歌集で、歌ばかりでなく、広く古代を考える助けになる書物である。しかし、そのころまで世間にあった注解は、どれもよくなかったので、古代にかなう注を作ってほしいと頼まれた。契沖は謹んで承り、『万葉集』の『代匠記』という注解書、五十巻を作って差し上げた。これが、わが万葉学の始まりなのである。」――『入学問答』

原注

『行実』によれば、『代匠記』は二十巻で、別に総釈二巻がある。篤胤が五十巻とするのは、おそらく光圀の『釈万葉集』五十巻と取り違えたのであろう。

やがて母が病気で亡くなると、彼は住まいを難波の高津に移した。伴蒿蹊は、こう記している。

「母が亡くなると院を退き、難波の東、高津に住まいを定め、円珠庵と名づけた。世俗の客との付き合いを絶ち、清らかに修行して、心のままに暮らした。」――『近世畸人伝』

こうして元禄十四年、六十二歳で亡くなった。著書には『万葉代匠記』のほか、『和字正濫鈔』五巻、『古今余材鈔』二十巻、『百人一首改観鈔』五巻、『雑記』二巻、『厚顔鈔』三巻などがある。

安藤為章は、元禄九年に契沖が『万葉集』を講じた様子を記録している。

「円珠庵で『万葉集』を講義される。歌の言葉を引きながら、古今の事実を教える。初めから一度も、書物を調べる必要がない。それでいて、言葉は絶え間なく続き、まるで、つながった珠が箱から出てくるようだ。聴く者は皆、昔の人に『歩く秘蔵の書物』と呼ばれた者がいたが、師は『ものをいう書庫』と呼ぶべきだといった。ある人が、暗記している和歌はどのくらいかと尋ねると、三千首以上、数えきれないと答えた。その記憶力は、これほどだった。」――『年山記聞』

この記憶力をもって古語研究に取り組んだのである。古学神道の勃興に及ぼした影響は、偉大といわずにいられるだろうか。宣長は、次のように記した。

「契沖法師は、歌書に限ってではあるが、この道筋を初めて開いた。この人こそ、この学問の最初の祖といってよいだろう。」――『うひ山ぶみ』

また、こうもいう。

「およそ古学の道は、この僧から、ようやく開け始めたのである。まことに、まことに、ありがたい功績であった。」――『古事記伝』

本居大平は、さらに詳しく、次のように論じている。

「軽島の明の宮〔応神天皇〕の御代に、書というものが初めて渡ってきた。磯城島の金刺の宮〔欽明天皇〕の御代には、仏というものが渡ってきた。中国の教えの道を十分によいものと考え、仏を尊ぶことをすばらしいこととして、この二つの道は、天下のいたるところへ、難波の岸辺に葦原が生い茂るようにはびこった。中国の道は下から根を張り、仏の道は上から覆いかぶさって、わが大御国の大御風は、泥の下に埋もれるばかりで、知る人もなくなった。代々を経るうちに、畏れ多くも、神代の書物を解くにも、こざかしい中国の理屈で曲げて説明し、根拠のない仏教の考えへ結びつける世となった。あの磯城島の御代には、仏を祀れば神のお怒りが恐ろしいと、堀江のあたりに捨てさせられ、大同の御代には斎部の某宿禰が、漢字が現れたのは古書を忘れてしまうきっかけだと嘆かれた。それらのことが、今こそ、はっきり思い合わされる。

ところが元禄のころ、難波の契沖大人は、仏の弟子でありながら、その国の文字を学び、中国の書物を広く読み渡して、日本の遠い御代のあり方と言霊の助け幸わう道理を詳しく悟り、言語を尊ぶべき理由を考え知った。そして長い年月乱れていた仮名遣いを正して導き、朝霧のように分かりにくかった歌の意味も、丁寧に説き教えられた。ここから物事が始まり、世の中に古事を学ぶ人々が次々と生まれた。あちらこちらに茂る葦のようなものを、解き明かす心の鎌で刈り除き、かき分け、水底深くを尋ねて、真珠や白玉のように高く尊い遠い御代のあり方や、神代の古事までも、少しずつ光を現す世となった。うれしいことだ。尊いことだ。そもそも、中国の道を初めて行わせたのも難波の高津の宮の御代、仏の道が世に栄え始めたのも難波の四天王寺であった。その同じ難波の高津にいた契沖の功績によって、神道が現れ始めたのである。これは、堀江のように深い由縁のあることだったのだろう。」――『藤垣内文集』

しかし、こうした功績があったにしても、契沖自身は、古語研究によって古学神道を興隆させようなどとは、夢にも思っていなかった。したがって、その仕事は、古学神道そのものから見れば、なお言葉や文章の研究にとどまったといわなくてはならない。荷田春満に至っては、そうではなかったのである。

第六章 学祖・春満

第十九節 春満の経歴

春満の幼名は鶴丸。通称は斎宮、また単に斎ともいった。初めの名は信盛で、後に東丸・東麻呂・東満などの字を使い、ついに春満の字に改めた。自分で、次のように述べている。

「私の名を、母がアヅママロと呼びましたので、東丸の二字をいつも使ってきました。しかし、その由来を知らない人には、風変わりな、作りものの名を用いているように見えるだろうと思い、近ごろ、東丸の二字を春満と書き改めました。それでも、読みは春満でもアヅママロとしています。」――下田幸太夫に宛てた書簡の一節

姓は荷田、氏は羽倉。雄略天皇の皇子・盤城王の子孫で、荷田殷の末裔である。殷が元明天皇の和銅四年に稲荷神社の神職となって以来、代々その職を継いできた。父の羽倉主膳正・荷田信詮には、八男四女があった。長男の信友は家職を継ぎ、正五位上・主膳正となった。次男が春満である。母は深尾氏で、細川三斎の家臣、長兵衛源盛長の娘だった。寛文九年正月三日、春満は東羽倉家に生まれた。幼いころから利発で、早くから国学研究を志した。元禄十年、歌道をもって妙法院宮に仕え、大変厚く遇された。二年後に辞して江戸へ出て、古典・古語を研究し、律令制度を考究すること、前後十四年に及んだ。学問を大いに成就し、盛んに復古の学を唱えた。名声は四方に広がり、学問を志す者たちが争ってやって来て、教えを請うた。平田篤胤は、その学問について、次のように記している。

原注

羽倉家は東西二家に分かれる。東羽倉家は御殿預を、西羽倉家は目代を世襲する。

「さて、その学業の詳しいところは、幼いころから学問を好み、篤く皇道復古の学を志して、国史・律令・古文・古歌から諸家の記録・伝記に至るまで、広く通じていないものはなかった。しかし、師として仰ぐ者はなく、自ら悟り、明らかにしたことが、きわめて多かった。」――『玉襷』

まさにこのとおり、春満には学説を受け継いだ師がなく、自ら悟り、発見したことが多かった。当時、契沖は浪華にいて、古語学によって名を知られていた。年齢は春満よりちょうど三十歳上であった。そこで、春満は契沖について学んだのではないかという説がある。篤胤は、これを否定していう。

「『諸家人物志』という本に、契沖の病床を訪れて国学を受けたと記しているのは、間違いである。江戸に萩原宗固、山岡妙阿などという歌道の国学者が多く現れ、その人々の門流から塙保己一、奈佐勝皐、屋代弘賢などが出たのは、もっぱら東麻呂大人が長く江戸にいて、古学を唱えられたことによる。今の人が、その事情をよく知らずにいるのは、残念なことである。」――『玉襷』

春満と契沖の関係については、春満の養子・在満も次のように述べている。「私の養父・春満は、幼いころから古学を好み、ついには、多くのことを明らかにし、旧説を論破して、人々の見聞を改めた。その説は契沖と、互いに知らないまま一致していた。ただし、互いに長所も短所もある。この二人は、遠い昔については知らないが、中古以来、ほかに並ぶ者がいないといってよい。」――『国歌八論』

この言葉からも、契沖と直接の関係がなかったことが分かる。しかし、間接に影響を受けたことは、争えない。春満は、後に再び江戸へ出て、八代将軍・吉宗に認められた。篤胤は、さらに次のように記している。

「享保年間、江戸へ出て名声を得た。特別に内命があり、近臣の某を通わせて、古書の校訂をさせられた。数年後に病気になり、京都へ帰られた。やがて伏見奉行・北条遠江守に内命を伝えさせ、いくらかの銀を賜った。」――『玉襷』

この古書校訂について、弟の信名が記録したところに、次のようにある。

「兄・東丸の話によると、今年三月、江戸において、将軍の命で有職故実について尋問された。御側御用人・有馬兵庫頭の取り次ぎにより、高家の中条大和守と奥御祐筆の下田幸太夫の二人が、大和守の邸で尋ね、兄は詳しく答えた。その答えは、将軍の耳に達した。その後、将軍の命により、有馬兵庫頭から、大和守・幸太夫と一日おきに会って、和学を伝授するよう命じられた。また、昨年、諸国から差し出された旧記・和書と、文庫にある幕府の蔵書を、残らず真偽・正邪を調べるよう命じられた。すべて拝見したうえで、自分の考えによって正誤を分けた。誤った書物は、林大学頭から返却するよう命じられたという。その後、奥小納戸・大島雲平と話すよう命じられ、故実や書籍の疑問に詳しく答えた。そのため、五月十五日まで滞在して勤め、同十六日に暇を賜った。その際、厚いお言葉を受け、金十両と晒三疋を拝領した。また、大和守の説明を通じ、今回は諸事にすぐ答えたこと、古今に例のない、比類ない手柄であること、今後も、また用事を順次命じるであろうとのお言葉があった。」――『手記』享保八年六月の条

このように、当時の将軍・吉宗の信任は厚く、天下の和書は、春満が一読することによって真偽が決められるかのようであった。そこで春満は、かねての志を実現しようと、京都と伏見の間に国学校を設け、大いに学生を養成したいと上書して願い出た。弟・信名の『手記』の享保十三年九月二十四日の条には、次のようにある。

「在満は東丸の養子である。願い出たいことがあり、和学について申し立てるため、関東へ出立し、幕府の家臣に頼む。」

これは国学校創立の出願のため、在満を江戸へ遣わしたのである。幕府はその案をよいものとして受け入れ、設立を許そうとした。不幸にも、享保十五年正月十四日、春満は病に倒れた。『家記』には、次のようにある。

「中風が初めて起こり、半身に及んだ。言葉が不自由になった。しかし、意識は乱れなかった。その後、治療の効果で、少し回復したという。」

こうして元文元年七月、ついに亡くなった。『家記』は、また次のように記している。

「中風が再発した。薬の力を尽くしたものの、七年来の病根に、ことに酷暑の季節でもあり、治療はかなわなかった。七月二日、未の刻、ついに天に帰った。」

享年六十八。稲荷山の麓の蟻山に葬られ、その霊を祀って厳興霊と呼んだ。春満には一人の娘があり、晩年に一人の息子が生まれた。娘は直子といい、江戸の神職・芝崎好紀に嫁いだ。息子は早世し、養子の在満が家を継いだ。

今上陛下は春満の残した功績を深く追賞され、明治十六年二月、特に正四位を贈られた。

故稲荷神社宮司・近藤芳介らは、山城国紀伊郡深草村の稲荷神社拝殿の南、春満が生まれ、亡くなった邸の東に社を建て、春満の神霊を祀った。東丸神社という。明治三十六年十二月に府社となり、その子孫が奉仕することになった。

第二十節 春満の性行

春満は生まれつき厳格で意志が強く、勇んで進み、決断する人だった。そのため、決まった師がなくても、わが国の古典の奥義を研究し、国学の真意を明らかにして、後進を導き、国家に大きな貢献をした。しかし、惜しいことに、死に臨んで、著書の大部分を焼かせた。私は稲荷山に参り、半ば焼けた春満自筆の原稿が残っているのを見て、改めて深く感じた。なぜ、これを焼いたのか。おそらく、彼の性格から来たことらしい。平田篤胤は、これについていう。

「大人が臨終に草稿をすべて焼かれた意図を考えると、初めて古道の大義を説明しようと努めておられたものの、何百年、何千年もの間、乱れに乱れてきた古道の趣旨を説き明かすのは難しいことであった。そのため、著述はいずれも未完成で、まだ自分の意にかなうほど精密ではなかった。そうした未定の、自分でも満足できない文章を世に伝えれば、後学の人を誤らせることになると考えられたからだろう。これは、たまたま焼け残って伝わる『万葉集』の解釈や、『伊勢物語』の童子問、あるいは『神代紀』の解釈などに、今から見ると、納得できないことが多いのでも分かる。これもまた、この大人が、後世を教え導くに足る大きな器の持ち主であったことを見るべき点である。」――『玉襷』

私の考えでは、一つには春満が名誉や利益を求めなかったことによるのだろうが、篤胤のこの推測も、よく当たっている。私は稲荷山でその遺稿を見た。その中に『神号訓釈伝』という自筆稿があった。奥書には、こうある。

「右の『神号訓釈伝』一冊は、家伝ではあるが、五音の横の通用によって解釈したもので、いずれも正しい解釈ではない。後学の人は、これを信用してはならない。荷田宿禰春満」

彼は、長年研究してきたものの多くに対して、こう考えていたのである。これが、多年の研究の成果を焼かせた理由だったのだろう。このように、彼は厳格で意志が強く、決断したことは決して曲げない気風を持っていたから、和歌についても、自分で高遠な理想を立て、それに向かって進んだらしい。かつて自分で、次のように述べている。

「私の祖父・信次は、後陽成上皇に仕え、ご命令を受けて歌百首を詠んだ。上皇はこれをお褒めになり、すべてに勅点を賜った。当時、破格のこととされた。父はいつも、このことをもって私を戒め、こういった。『いつかお前がその題で歌を詠み、幸いにも勅点を賜ることができたなら、荷田一門の光を再び輝かせるに足るだろう。それが、私の切なる願いであり、お前の励むべきことである。』そのため、私は歌道を好むものの、いまだに、公家が家業として守り続ける歌の家の門には、進んで出入りしていないのである。」――同族・信元に宛てた書簡の一節

こうして彼は、厳格に自分を持していた。荷田信美が、

「男女の間のことを何かに託し、心にもない、いつわりの言葉を作り出すのは、真実を述べるという歌の本来の意義にかなわないといって、恋の題では、まったく歌を詠まなかった。」――『春葉集』序

と述べたように、生涯、恋歌を詠まなかったという。また、春満がきわめて義侠心に富んでいたことは、特に記しておかなくてはならない。『近世三十六家集略伝』には、次のようにある。

「翁は人柄が温厚誠実で、学問だけでなく、人との交わりでも、正義を固く守る鉄の心を持っていた。中年、諸国を巡って、ついに江戸へ出ると、広く学者を訪ねて研究に苦労を重ねた。そのころ、赤穂の遺臣・大高子葉と、いつも文学や風雅を通じて交際していた。子葉は、翁の志と気概が常人に抜きん出ていることを知り、特に厚く交わったので、ついに、その秘密の計画を打ち明けた。そこで翁は、仇の屋敷の中の図を詳しく描いて渡した。」

これは、春満がかつて茶会のために吉良家へ招かれたので、屋敷や部屋の様子をよく観察し、図を描いて渡したのである。義士たちは、これによって大いに助けられたという。彼が義侠心に富んでいたことが分かる。

春満の暮らしが、とりわけ質素だったことも、注意すべき点である。私はかつて彼の原稿を見たが、多くは手紙など、一度使った反故紙の裏に書いてあった。質素な人でなければ、どうして、これほどであっただろう。文字は、走る馬に鞭を当てて急坂を下るような勢いである。宣長が、きれいな紙を選び、一字一字、細心に筆を下ろすのと比べると、この二人の偉人の性格の違いが見て取れる。

第二十一節 春満の学風

偉人・傑物の伝記を見ると、向上の道に向かって努力し、励まなかった者があるだろうか。しかし、その努力の道筋が、春満ほど複雑なものは、まれである。見よ、その学問は、国史・律令・古文・古歌から諸家の記録・伝記にまで及び、しかも儒教・仏教の残りかすから脱して、神皇の教えを興そうとしたではないか。国史家・法制家などとしての彼を、しばらく問題の外に置き、ただ神道家として見ても、彼は一方では、稲荷神社の神職の家に生まれた者として、稲荷神道を広めずにはいられなかったらしい。そこで、次のように伝えられている。

「また、山城国紀伊郡の稲荷大明神の神職、羽倉斎宮という者がいる。この人も職を弟に譲り、江戸に住んで、稲荷神社の神道といって、これを伝えている。伝授の順序は、稲荷三社の伝を初めとし、五社の伝を中とし、七社の伝を極意とする。また、『神代巻』を講じることを、本段の顕の伝という。本段だけを読み、一書は隠曲の伝といって講じない。しかし、深い志のある門弟には、一書も講じて聞かせるという。また『中臣祓』は講釈するというが、神を祀るときに『中臣祓』を唱えない。なぜかというと、この祓は中臣氏の祝詞で、ほかの姓の者が読むべきものではないからだ。そもそも神を祀るには、その神の由来や神徳を挙げて祝詞を作り、読むべきである。どうして、ほかの人の祝詞を自分のものにして読んだからといって、神がお受け取りになるだろうか、といっているという。」――『神道弁草』

彼の著書を見ても、家伝を敷き広めたものが少なくない。その一方では、真心の古道を提唱している。教えを受ける人々も、どこに拠るべきか、ほとんど分からなかったらしい。その門人契約というものからも、さらに確かめてみよう。

神学の正伝を授かるための誓約。大先生から斎戒の契りを受け、謹んで、神祇の道徳の深い意味、神語一字総括伝、古伝の奥義を明らかにする、至上の教えを授かった。暗きを払い、明らかな方へ向かわせるにあたって、弟子となってからの年数にはこだわらず、特に学問への志の深浅を察し、道を信じる心の厚薄を確かめ、一事も漏らさずに授け、師家に統べ伝わる道の真伝を継がせてくださる。私たちは、今から後、神徳を尊び信じ、先生に親しみ従い、志を厚くして学問に励む。

一、神職の者は、怪しく、いつわりの説を唱えて、神社を売り物にしてはならない。

一、仏教の徒には、この伝を授けることを厳禁する。修験法の類、占いを売る者、加持・祈祷・呪術を生業とする男女にも、授けることを固く禁ずる。君主の前、あるいは貴人や役人の長の席で講義するとき、禁じられた者がその場に来ており、避けようがない場合には、講義や説明に必ず注意を払う。粗略な講義はせず、神書を扱ううえで穏当であるようにする。これだけに限らず、そのような講義の意図は、その場に応じて必ず考え定める。

一、財利や評判を目当てにして、奥義を書き写し、みだりに出版することを禁ずる。

一、弟子は、互いに情を厚くして交わり、欺き合い、排斥し合い、侵し合うことを厳禁する。先に悟った者は、後に悟る者を導き、後に契約した者は、先に契約した者に控える。また、後から学んだ者でも、聡明で要点を得、奥義を悟った者は、謙遜して心中に隠しておいてはならない。外に発表し、その明らかにしたことを講義して、同門の皆に行き渡らせる。悟った内容が古伝に反するなら、師伝によって際限なく広まる先々にまで、誤りを及ぼすことになるからである。

一、弟子が伝授を得て、学問が熟し、人を集めて講じたり、各地で講じたりするようになっても、ふさわしくない者に精奥な伝を授けることは厳禁する。また、弟子からさらに伝授を受けた者の名は、必ず師家へ報告する。山海を隔てて住んでいる場合は、封書で先生に知らせる。

一、もし、自分を誇る不心得者が、師説を問い詰め、古道の教えをそしることがあったら、秘められた教えや明らかな証拠を惜しまずに示し、当否を判断して取捨し、その人の妄想と暗さを払い、師の教えに従わせる。

一、授かった精奥な伝を大切にし、忘れないために書き記す。学問を継ぐ子があれば、先生の許しを得て、その子に授ける。後継ぎがいない者は、生前からその旨を伝え、死後、必ずその書を師家に差し出すようにする。子があっても、この学問をしない場合は、同様とする。私有することを禁ずる。

一、誓約の後、事情があって、ほかの師につくときは、必ず師家に知らせる。それができなければ、同門の人に知らせる。

一、師の行いに善くないことがあれば、弟子は、はっきりと申し上げる。外の人の見聞に触れて、そしりや非難を受けるようにしてはならない。とりわけ弟子同士の間では、互いに善くあることを求め、恨みも怒りも抱かず、兄弟のように、手足のように、神明の盛んな徳に調和して、それぞれの徳を成すよう努める。

一、以上の各条を、弟子として、このとおり申し述べる。もし、この誓約を守ることができなければ、上には天帝の責めを受け、下には地の神のとがめに当たり、いつまでも陰の殺気や邪悪な災いに触れ、違反の報いを、この身に集めて受ける。謹んで誓約する。大宗師・荷田宿禰信盛老先生大人閣下。――『荷田東麿翁』

生涯の力を古語に用いることを主張しながら、この契約では漢文を使い、古道の教えを説きながら、天帝の責めを口にしている。いずれも、先に述べたことを示すものではないか。そこで彼は、

「そもそも学問の道は、天下の大道なのだから、自分一人で立てたかのように誇ってはならない。学ぶ人も、師の教えだからといって、むやみに固執してはならない。」――『春葉集』序

と説き、大いに門戸を開き、自由に討究する態度を取らずにはいられなかった。要するに、彼の学風は、教えの権威を絶対とするものではなく、まったく自由に討究するものだった。臨終にあたって、著書の原稿をすべて焼かせたことなどは、この精神を余すところなく示したものといってよい。

第二十二節 春満の著書

すでに述べたように、春満は死に臨んで著書を焼いた。そのため、春満の本として世に出ているものは、ほとんどない。しかし、私が稲荷山を訪れ、羽倉家で整理・保存されているものを見ると、世に出ている『著述目録』には載っていない、多くの著書が残っていることを知った。近ごろ、大貫宮司が編まれた『羽倉春満大人略伝』を参考にし、私自身が見たところによって、春満の著書を列挙しよう。

『荷田大人創学校啓』一巻。有名な、国学校の建設を幕府に提案した文を載せた書。もとは『春葉集』の付録だったものを単行にした。この文について、後人の偽作ではないかという者もいるが、それは根拠のないうわさにすぎない。春満が推敲を重ね、練り上げて作ったものであることは、論ずるまでもなく明らかである。これによって、春満の思想の一端を知ることができる。

『神号訓釈伝』一巻。『神代巻』の神名に片仮名で読みを付け、五音の横の通用によって解釈したもの。たとえば国常立尊を、「伝にいう、四字とも、その字の正訓で読む。一伝にいう、立は借訓で、保君の略語である。ほかは、その字の正訓で読む」と解している。

『神代紀訓釈伝類語』二巻。『神代紀』の文字を五十音で分類し、訓釈したもの。

『神代巻割記』六巻。『神代巻』の講義で、二種からなる。

『東丸神代答記』一巻。神代の事柄に関する門人の質問に答えたもの。

『日本書紀問答抄』残欠、一巻。これも『日本書紀』に関する疑問に答えたもの。

『日本書紀訓点訂正』五巻。『日本書紀』の訓点を訂正し、解釈を加えたもの。

『日本書紀訓釈』残欠、一巻。

『日本書紀仮名本謄写』残欠、二巻。

『続日本紀抜粋』残欠、二巻。

『日本後紀批考』二巻。

『続日本後紀考』残欠、一巻。

『日本三代実録考』残欠、六巻。

『日本三代実録抜萃』残欠、一巻。

『日本三代実録割記』残欠、四巻。春満が文章として書き下したものではなく、その講義を筆記したもの。

『令義解割記』五巻。これも講義を筆記したもの。

『令集解割記』一巻。これも講義を筆記したもの。

『江家次第割記』残欠、一巻。

『偽類聚三代格考』三巻。

『出雲風土記考』一巻。『風土記』の誤りを考証・訂正したもの。

『職原抄書入』二巻。『職原抄』の刊本に、詳しく考証と訓釈を加えたもの。

『職原抄割記』四巻。『職原抄』を講義したもの。

『有職懐中抄』残欠、一巻。春満の講義の草稿。

『名目抄紬繹草稿』残欠、一巻。

『国語類聚』残欠、三巻。漢文・漢字で国語を訓釈したもの。

『国語字類』残欠、二巻。

『国書所見記』残欠、一巻。神祇に関する事柄を説明したもの。

『金言玉葉録』三巻。

『古語雑釈』一巻。

『神国音義』残欠、二巻。

『日本音義』残欠、一巻。古語を列挙し、解釈したもの。

『語釈草稿』六巻。「敢不」と「不敢」の区別を述べ、「敢不というときは、不の字を『ず』とは読まない。『ざらん』と読む場合である。そのため、このときの敢は、豈の字の意味に取る。不敢のときは、不の字を『ず』と読む」といったように、古今の雅語・俗語を詳しく解説したもの。

『荷田宿禰東満古語音義伝』一巻。

『宗源神道根元式』一巻。神道の根元を述べたもの。

『宝鏡開始』一巻。宝鏡の由来を考証したもの。

『問答雑記』一巻。門人のさまざまな質問に答えたもの。

『万葉集童蒙抄』四十二巻。『万葉集』の講義を筆記したもの。

『万葉集問答』残欠、八巻。

『万葉集童子問』残欠、四巻。

『万葉集和仮名訓』残欠、五巻。

『万葉集僻案抄』二巻。

『万葉集訓釈』残欠、一巻。

『万葉集改訓抄』残欠、三巻。

『万葉集講義』残欠、二十六巻。

『万葉抄』残欠、三巻。

『万葉集抜抄』残欠、一巻。

『万葉集注抄』残欠、一巻。

『伊勢物語童子問』八巻。

『古今和歌集割記』残欠、三巻。

『古今和歌六帖考』残欠、三巻。

『百人一首発起伝』四巻。

『歌林類葉』残欠、二巻。

『和歌童蒙抄抜粋』残欠、一巻。

『神詠六首伝授』一巻。

『春葉集』二巻。

このほかにも、春満の遺著は、なお数部ある。そこに、焼いてしまったものを加えれば、研究がいかに多方面に及び、著書が豊富だったかが分かる。ただ惜しいのは、その博学が、かえって彼に災いし、あらゆる分野の著述に取りかからせたため、ついに自分を満足させられるほど完成したものが、ほとんど一部もなくなったことである。もし、一つを完成させてから、ほかへ進んでいたなら、著書の数では、はるかに少なくても、後世に及ぼす利益は、さらに大きかっただろう。

第二十三節 春満の学説

すでに列挙したように、春満の著書は、実に膨大である。これを熟読し、味わい、学説を詳しく論ずることは、容易ではない。ここでは、宣長の学問の系統を明らかにできる程度に、春満の学説を述べるにとどめよう。彼はまず、当時、異端の誤った説が盛んに行われ、神道を語る人が、真の神道を体得できていないことを論じ、こういった。

「今や儒学は、いたるところで起こり、仏教は日ごとに盛んになっている。家々で仁義を論じ、下級の兵士や召し使いさえ、詩を語ることができる。どの家でも経を唱えることに励み、町の子どもや、かまどに向かう女たちさえ、空の説を知っている。民の生業が変わり、わが道は次第に衰える。紀土州は、かつて嘆き、田園を競って捨て、資産をすべて傾け尽くすことを、善相公は深く憂えた。私はひそかに、これもまた、長く太平が続いた姿を見るに足ると思う。ただ、そのために、声を上げて泣き、長くため息をつくべきものがある。わが神皇の教えは、衰えが年々ひどくなり、国家の学問は廃れて、千、百のうちに十、一を残すばかりである。格律の書物は消え失せ、復古の学問を誰が尋ねよう。詠歌の道は損なわれ、雅正な風は、どうして振るうことができよう。今、神道を語る者は、皆、陰陽五行家の説を説いている。歌を講じる者は、おおむね円頓・四教義の解釈によっている。唐・宋の儒者の残りかすでなければ、胎蔵・金剛両部の余りである。根拠もなく、こじつけた妄説でなければ、証拠も考え合わせるものもない私説である。秘伝だ、口訣だというが、古の賢人の真伝は、どこにあるのか。奥義だ、深秘だというが、今の人が偽造したものが多い。」――『創学校啓』

原注

洙・泗は二つの川の名で、魯にある。そのため、儒教の呼び名とする。

原注

瞿曇は仏をいう。瞿曇の教えとは、仏教のことである。

そして、かねての志を、こう述べている。

「私は幼いころから、寝ても覚めても、食事のときも、異端を排撃することを心にかけ、学び、考えてきた。古道を復興しなければ、やめることはない。」――同書

彼のいう古道とは、いったい何か。彼は、こういっている。

「幸い、世を導く才能ある人が現れれば、君王を敬う道が、地に捨てられることはない。玉を磨くに足る器を持つ人が現れれば、柿本氏の教えは、再び国に振るうだろう。」――同書

この言葉から、確かに分かる。彼が道としたものは、すでに、後世、宣長が大いに主張した、『日本書紀』『古事記』『万葉集』などに残る事実を尊ぶ道だったのである。さらに、その言葉によって確かめると、彼はこういう。

「皇御国の書物を読もうとする人は、まず漢籍を読んで物事をわきまえ、時雨の降る奈良の林に分け入るようにして、神代の宮木を引き、長い古道の跡をたどりつつ、ますらお心を育て、遠い昔の世を慕うなら、どうして古のあり方に至れないことがあろうか。」――『春葉集』序

また、こうもいう。

「古は、真心によって思いをそのまま述べたので、おのずから素直であった。題を取って詠むようになってからは、言葉を飾り、心までも巧みに作るため、苦しそうなものが、あちこちに見えるのである。」――同書

これらの言葉と、彼が、

世の中に、神の道といって、別の道があるならば、それは、人間でない人が学ぶのだろう。

と詠んだことから考えると、彼が古道と呼んだものは、私たちの日常の行いを、いつも真心によって行い、特に歌を詠むときなどには、よくそれを体して詠むべきだというものだった。世間で、目新しさばかりを競うのは、真の古道ではないとしたのである。後年、真淵を受けて、宣長が熱心に唱えた真心の道は、実に、ここを源としている。

しかし、このような古道を、本当に体得するには、まず古典を明らかにしなくてはならない。古典を明らかにするには、古語を研究しなくてはならない。春満は、古道を十分に体得できてはいなくても、古語については、そうではないとして、こういった。

「愚かな私に、どうして、それが分かろう。ただ、あえて人に譲らないのは、語釈である。国字に誤りの多いことは、後世にも、なお知る者がいるだろう。書物が残っているからである。古語の解釈が少ないことは、遠い昔から、これに通じた者を聞かない。文献が足りないからである。国学が講じられなくなって、実に六百年になる。言語を解釈した人は、わずかに三、四人だけである。その大家とされる人も、目新しさを競うばかりで、抜きん出たところがない。真髄を得ることなど、どうして望めよう。古語に通じなければ、古義は明らかにならず、古義が明らかでなければ、古学は復興しない。先王の遺風や跡を払い去り、先賢の心を荒らすに近いのは、ひとえに語学が講じられないからである。これが、私の生涯の力を古語に使い尽くす理由である。」――『創学校啓』

これによって見ると、春満の理想は、いわゆる古道を明らかにすることにあったが、そのためには、まず古語を研究しなくてはならないと考え、生涯の力を古語の研究に用いたらしい。これを見ると、遠く西洋の十四世紀ごろ、イタリアで盛んに唱えられた人道主義〔Humanismus〕を思い起こさずにはいられない。人道主義は、まずギリシア・ラテンの古語を研究し、中世キリスト教の、教会の権威を重んじ、現世を離れ、来世を中心とする思想に反抗して、古代の、現世的で快活な、人間を中心とする理想を実現しようとした。

しかし、人道主義は、ついに目的と方法を取り違えた。その学者の多くは、ギリシア・ラテンの古語を研究することに全力を尽くし、それを話し、文章に書き、それで成し遂げたと思うようになった。十六世紀には、人道主義の学者が、自分を人道主義者と呼ぶことを恥じるほどになった。これに対して、わが春満は、古語の研究に力を注ぐと同時に、古道の存在を主張し、自らも、それについて種々の研究を残した。ついに真淵を経て、宣長に至り、大いに古道を明らかにさせた。六十年の奮闘の功績は、偉大といってよい。

要するに、春満の学説は、すでに真淵の学説全体を含んでいたといってよい。したがって、宣長の学説の主要な部分は、すでに春満によって作られたとも見られる。ただ、春満の学説は創業の時期のもので、円熟を欠き、ついに自分でも満足できず、著書を焼かざるをえなくなった。もし神明が、さらに健康な十年を彼に与えていたなら、真淵が成した仕事は、春満がすでに成し遂げ、真淵は、さらに進んで、自ら宣長の学問を成し、宣長も、さらに進んで、いっそう偉大な学問を成し遂げられたであろう。そのため、私は特に、春満の晩年七年の長い病を、残念に思うのである。

第二十四節 春満の学派

荷田在満

在満の字は持之、通称は東之進。宝永三年に生まれた。父は春満の弟・高惟、母は伴氏の信子である。早くから春満の養子となり、その家を継いだ。家学を受け継ぎ、特に律令と職官・服制に通じていた。享保年間、妹の蒼生子とともに江戸へ出て、盛んに家学を唱えた。たまたま田安侯が有職の学を大変好まれたので、在満を登用された。また、幕府の命を受けて、『大嘗会儀式』を記録させられた。意にかなったため、いくらかの金を賜った。

田安侯は、かつて歌道に対する意見を求められた。在満は『国歌八論』を作って献上した。賀茂真淵は、このことを、次のように記している。

「金吾君が、秋の初めごろ、在満に、歌の道のことを書いて差し出すよう命じられた。在満は、『ごく幼いころから春満に養われましたが、有職のことを主としてきたので、歌のことは、十分には論じておりません。わずかに聞いたことも、果たしてどうかと思うことがございます』などと答え申し上げた。それでも、『春満の趣旨は、ひとまず置き、何でも自分で思うところを』といわれたので、断りがたかったのだろう、三日ほどで、『国家八論』を書いて差し出した。」――『国家八論臆説』

この『国家八論』は、侯の意にかなわなかったらしい。侯は、これに対して『八論余言』を書かれた。在満の伝記には、次のようにある。

「田安公は、お考えがあって、その説に従わせようとされた。翁は承知せず、『身分の貴賤は違っていても、それぞれ志すところがあります。自分の見解を捨て、人に従うのは、へつらうことです』といった。ついに俸禄を辞して去り、仲間を集めて教えた。その学問は、いっそう広く行われるようになった。」――『近世三十六家集略伝』

在満は学者としての見識がきわめて高く、どれほどの貴人であっても、学者の学説を曲げることはできないと考えていた。そのため、『国歌八論』を書いたことで田安侯と衝突して、仕官を辞め、『大嘗会便蒙』を書いたことで、禁忌に触れて禁錮されたという。要するに、在満は気高い見識を持つ学者だったが、専門としたのは有職故実の学であり、養父の古学神道の学説については、発展させることがなかった。

在満は、宝暦元年八月四日に亡くなった。四十六歳であった。

荷田蒼生子

在満の妹・蒼生子も、家学を受け継いだ。才気があり、男まさりの性格だった。幼いころから兄・在満に従って江戸へ赴き、成長して嫁いだが、不幸にも夫に先立たれ、兄の家に帰って、再婚しなかった。歌と文章を学び、その奥義に達した。召されて紀伊侯に仕え、その娘の師となった。四十九歳で退職を願い、江戸の浅草に独り住まいした。諸侯の間で、いっそう評判が高くなり、諸侯の夫人や娘が、弟子としての礼を尽くして招くことは、数えきれないほどだった。特に土佐侯・姫路侯・岡侯などは、厚く礼遇した。中でも土佐侯の夫人は、自ら何度も、蒼生子の浅草の庵を訪ねられたという。人々は皆、これを名誉とした。六十五歳で、病により亡くなった。天明六年二月二日のことである。浅草の金龍寺に葬られた。

荷田御風

在満の子に、御風がいる。享保十三年に生まれた。通称は東蔵、字は子玄。生まれつき記憶力がよく、一度目を通せば、生涯忘れなかったという。伝記に、こうある。

「家が貧しく、蔵書を持たなかったが、教えを受ける者は、常に数十人、数百人いた。ある者は律令・国史を学び、ある者は『万葉集』や『源氏物語』について尋ねた。必ず書物を持ってきて問い、問われるままに疑問を解いた。確かな、明らかな根拠があり、根拠が明確でなければ、家伝の説であっても挙げなかった。取り上げるときは、必ず、その是非を明らかにした。そのため、聞く者は、皆、心服した。」――碑文

伝記は、さらに御風の著述と性行について、こういう。

「著述を勧める人があった。そこで、その人に、『家学はすでに国内に広まっています。それを繰り返しても、学ぶ人の役には立ちません。また、どうして、必ず自分の口からいってこそ、よいとしなければならないのでしょう』といった。実際、賀茂真淵らは御風の父祖に学び、著作が大変多い。その説に違いがないわけではないが、要するに、羽倉氏の学問にほかならない。彼の物事にこだわらない姿勢は、このようだった。その達観は、老荘から得たものであろう。そのため、広々と心のままに振る舞い、外見を飾らなかった。酒を好み、飲むと、自由奔放であった。人となりには、晋の時代の人々の風があったので、時には、偏狭な儒者に非難された。それでも、自分をしっかり持って満足し、そしりも称賛も意に介さなかった。」――同碑文

そして、こうもいう。

「仕官を望まず、書物を蓄えず、著述をしなかったことも、この達観に帰するのである。」――同碑文

御風は、天明四年八月十六日、病気で岡侯の屋敷において亡くなった。享年五十七。浅草の金龍寺に葬られた。親戚の藤井茂善の末子・惟得を後継ぎとした。惟得の字は子馨、東之進と称した。和歌にすぐれ、家風を保った。文政十年に、六十三歳で亡くなった。

春満が出てから、荷田門には多くの学者が現れたが、その大半は、律令格式や詠歌に力を注ぎ、春満が理想とした古道の興隆に従事する者はいなかった。ただ賀茂真淵だけは、前後四年、教えを受け、春満の「学問の道は天下の大道なのだから、自分一人で立てたかのように誇ってはならない。学ぶ人も、師の教えだからといって、むやみに固執してはならない」〔『春葉集』序〕との教えをよく守り、師を超える才能によって、大いに古道を明らかに広めた。真淵の門から、宣長が出る。ここで、真淵についても、述べておかなくてはならない。

荷田の大人は、その学問の趣旨を、自らの口で、真淵の大人へ伝え残された。――本居大平

第七章 学父・真淵

第二十五節 真淵の経歴

真淵は、元禄十年、遠江国敷智郡岡部〔今の伊場村〕に生まれた。通称は参四、後に衛士と改めた。真淵は諱で、県居と号した。その先祖は山城に出る。神魂命の孫・武津之身命の子孫で、従五位下・賀茂成助の末裔である。代々、神職の家だった。父は定信、母は竹山氏。定信には三男三女があったが、二男一女は早世した。真淵は末子で、まだ幼かったので、二人の娘に養子を迎え、二つの家を立てた。長女の婿は政盛、次女の婿は政孝といった。政盛が家を継ぎ、真淵は、その養子となった。後に政盛の家を去って僧になろうとしたが、父母が許さず、実現しなかった。

やがて、同族で、神明宮・八面荒神の両社の神主を務める政次の曾孫・政長の養子となり、その娘を妻にした。この妻は享保九年九月に亡くなった。そこで、またこの家を去り、浜松宿の本陣、梅谷甚三郎方良の養子となり、その娘を妻に迎え、一男をもうけた。

真淵は、幼いころ、大宰春台の門人・渡辺蒙闇について、漢籍や詩文を学んだが、後には次第に日本の古学に心を傾け、春満に会って、ますます志を深めた。篤胤は、次のように記している。

「このころ、浜松に二人の友がいた。諏訪社の大祝・杉浦信濃守国顕と、五社の神主・森民部少輔暉昌である。二人とも、東麻呂大人の教え子であり、そのうえ、国顕の妻・マサキは、荷田大人の姪だったので、大人が江戸へ行かれるときには、いつも、この家に泊まられた。そのため、この人々の取り持ちで、荷田翁に初めてお目にかかったという。」――『玉襷』

また、真淵自身は、こう述べている。

「真淵の遠祖・成助という人は、神山の麓にいて、松の絶えないような和歌の言葉を代々伝え、その子孫は宮中にお仕えし、内命婦の末に連なっていた。そのしるしや、古い書物の端々も、今に伝わっているので、遠い昔の世が慕わしく、古い書物に心を引かれた。そこで京都へ上り、東麻呂の古道に入って、その志を受けた。」――『玉襷』

こうして彼は古学に入った。しかし、淡海野公台は、彼が古学へ入ったのは、まったく徂徠学に基づくものとして、

「おそらく真淵も、わが蘐園の復古の教えに触発されたのだろう。」――『読国意考』

と述べている。これに対し、源稲彦は、次のように反論した。

「そもそも、わが古学で第一となるのは『万葉集』である。『万葉集』の古意をよく学んでから、『古事記』や、そのほかの神典・国史へ進む。『万葉集』をよく読むのは、ひたすら聖人流の邪智を離れ、神のままの真意を求めるためである。何千年もの間、心の底に染み込んだ漢意を離れなければ、わが神国の道の奥義には至りにくい。『万葉集』の古意を、後世の注釈によらず、古意によって見ることを、初めて起こした人は、僧・契沖である。契沖は、茂卿〔徂徠〕などより、少し早い。これが、真淵大人の基づいたところなのだから、どうして蘐園から起こったといえるのか。まして、わが道は、蘐園の尊ぶ漢意を、すっかり離れようと求めるものであり、仏教で煩悩を捨て、菩提を求めるようなものである。それなのに、どうして蘐園の力によるというのか。」――『弁読国意考』

もちろん、真淵が受け継いだ古学は、契沖に始まったのであろう。しかし、真淵がその学問に入った動機には、多少、徂徠学の影響があっただろう。真淵の青年時代は、徂徠学の全盛期であり、彼自身、その学派の渡辺蒙闇の教えを受けている。何らかのつながりが、なかったとはいえない。

真淵は、古学を志して春満に会い、その学風を深く慕った。角田簡は、次のように記録している。

「当時、真淵は養家にいて、朝夕、書物に心を潜め、家業を治めなかったので、養父に嫌われた。妻は真淵に、『あなたの才能を見ると、どうして旅宿の主人にとどまる人でしょうか。幸い、私は男の子を一人生みました。育て上げて一人前になれば、家を継ぐことができます。どうか、生涯の方針を決め、名を天下に上げてください』といった。そこで真淵は、家を出た。その後、妻は数十年、固く節を守って家業を治め、真淵も、ついに国学によって名を知られるようになった。」

真淵が浜松を去り、京都へ入って春満に入門したのは、享保十八年のことだった。篤胤も、次のように記している。

「京都へ上り、荷田翁の教え子となられた。これは、三十七歳のときである。しかし、元文元年七月、荷田翁は亡くなられた。このように、大人が荷田翁に仕えたのは、わずか四年だったが、もともと学問の道では非凡で、知恵も深かったので、門人の多い荷田門でも、一人抜きん出て、その正しい趣旨を得られた。荷田門には、大人をおいて、ほかに大人のように師を超えた人がいないことからも、分かるだろう。」――『玉襷』

真淵は元文二年、故郷へ帰り、翌年、江戸へ出て、村田春道〔春海の父〕の家に寄寓した。その後、橘枝直〔千蔭の父〕の家の近くに住み、盛んに古学の開拓に従事した。

真淵が江戸へ出てからの、梅谷家との関係について、篤胤は、こう記している。

「大人は江戸へ出てから、梅谷という姓をやめ、生家の岡部に戻られた。しかし、梅谷家と縁を切ったのではなかったという。」――『玉襷』

また、こうもいう。

「元文三年、妻子は浜松の梅谷家に残し、江戸へ出られた。同五年の秋に、しばらく浜松へ帰られ、寛保三年にも、また帰られた。延享二年にも浜松へ来られた。」――同書

そのほかにも、梅谷家とは、しばしば手紙をやり取りしていたという。

真淵が江戸へ出たころには、すでに徂徠が亡くなり、鳩巣も世を去り、東涯も亡くなったばかりだった。あれほど盛んだった儒学界も、巨星を相次いで失い、いよいよ寂しい様子になっていた。そのとき、真淵は千代田城の下で、高く旗を掲げ、復古の学を唱えた。名声は、たちまち遠近に行き渡り、俊才が競って、その門に集まった。延享三年、田安侯は真淵を召し出し、古学の博士とされた。

真淵の成功の半ばは、この田安侯の援助による。田安侯とは、そもそも、どのような人か。徳川伯爵家の『悠然公略伝』には、こうある。

「公の諱は宗武、幼名は小次郎。松平氏で、将軍・有徳公の次男である。享保元年十月、有徳公が召されるに伴い、紀州家の邸から江戸城の内へ入った。そのとき、わずか二歳だった。十年七月、二の丸に移り、森川俊勝・伏屋為貞が傅役となった。十四年九月、元服し、諱の一字を賜って宗武と改めた。従三位に叙せられ、左近衛権中将兼右衛門督に任じられ、このとき初めて徳川氏を称した。十六年正月、田安門内に邸を賜って移り住んだ。十九年六月、近衛准后・家久公の娘を妻に迎えた。延享二年十一月、参議に転じた。三年九月、有徳公が将軍を退き、世継ぎの家重公が継ぐと、摂津・和泉・播磨・甲斐・武蔵・下総などの田十万石を分け、所領とした。明和五年五月、権中納言に進み、八年六月四日、田安邸で亡くなった。享年五十七。悠然と諡され、東叡山の凌雲院に葬られた。」

また、侯が古学を好み、真淵を召したことについて、『悠然公略伝』は、次のように伝えている。

「かねて日本の古典を研究し、雅楽の音律にも通じていた。著書に『服飾管見』『楽曲考』や、そのほか若干の文章があるが、秘して世に出さなかった。いつも自分で、『浅い見識を、どうして世に伝えるに足るだろうか。その中には、まだ書き終えていないものもあるのだから』といっていた。また和歌を好み、賀茂真淵を召して家臣とし、俸米を給した。歌書を探し求め、日夜、講じ合って論じ、互いに啓発することがあった。真淵は国学にすぐれ、特に『万葉集』をよくした。古風を学ぶ者は、今でも、その第一人者として仰いでいる。それは、本人の篤い志によるとはいえ、公が助けとなったところも、多かったのである。明治六年七月、公から四代目の子孫・慶頼は、祖先の徳をしのび、遺著『服飾管見』『楽曲考』の二書を朝廷に献上した。」

これによって、侯がどのような人だったかが分かる。田安侯は真淵を召して家臣とし、真淵の優れた記憶力と博学は、深く信頼され、大変厚く遇された。篤胤の記録には、次のようにある。

「延享三年、田安の金吾君に召し上げられ、古学の道の博士とされた。ただ、田安殿に召されたのは、先に引いた『春葉集』の序によると、それ以前に仕えていた荷田在満が、辞職するとき、大人を推挙したためである。さて、在満が殿のもとを去ったのは、説が君の意に合わなかったためというが、実際は、あの『大嘗会便蒙』を刊行して世に伝えたことから事が起こり、殿の本意ではなかったものの、退けられたのである。在満は、それを深くかたじけなく思い、大人を推挙したのだと、その家中の人から聞いた。それも、もっともだと思われる事情があるが、今は省いた。このように召し上げられたときには、前に記した、引馬原の合戦で功績のあった政定の次男・政員から代々続き、賀茂の新宮に仕える次郎兵衛定重を養親として出仕されたという。さて、底本のいう「翌る十年」に、老齢を理由として申し出、十一月六日に仕官を退き、養子の二郎左衛門定雄に家を継がせられた。」――『玉襷』

訳注

「翌る十年」は底本の記載による。直前の「延享三年」や後続の勤仕十四年という説明との年次関係は確定できないため、年号・年次を推定して補っていない。

このように、真淵は前後十四年、田安侯に仕えた。邸内では侯に伺候し、外では著述に努め、門人を教え導いた。今や退職し、ひとりの学者としての暮らしに入った。明和元年の秋、浜町へ移り、県居と号した。『賀茂翁家集』の千蔭の序には、次のようにある。

「県居とは、庭を田のある田舎の様子に作り、賀茂氏の姓〔賀茂県主〕にも縁があることから、自ら家の名に付けられたのであった。」

こうして静かな晩年を送っていたが、明和六年十月十三日に亡くなった。七十三歳であった。品川の東海寺に葬られた。

第二十六節 真淵の学風

真淵は、落ち着いて意志が強く、容貌は愚かな人のように見えた。軽々しく言葉を発せず、いったん発すれば、必ず人を心服させるものがあったという。広く書物を読み、記憶にすぐれ、精力は並外れていた。しかも、自分に課すところは非常に高く、抱負は、はなはだ大きかった。伴蒿蹊の記録には、こうある。

「その説によると、『契沖は荒地を開墾したが、まだ十分に植え尽くさないうちに亡くなったのが惜しい。大人〔春満〕は、歌だけでなく、古い、数多くの書物を掘り返し、その労苦の成果は多大だったが、刈り取り終わらないうちに、病に倒れてしまった』などといって、自分が、この仕事を引き継いで成し遂げるというのであった。実に、古を明らかにし、後世を導いた功績は少なくない。」――『近世畸人伝』

原注

真淵は、古にきわめて深く心を寄せた。かつて古い制度を考証して古装束を作り、年初の歌会で、得意になって着たという。――『続近世叢語』

これほど大きな抱負をもって、ひたすら研究し、古を明らかにして、後世を導いたものは、何だったのか。多くの門人は、それを歌道だと考えた。見よ、加藤千蔭は、次のように述べているではないか。

「遠い昔の世のことは、曇った夜のように、手がかりも分からなかった。それが、明け方のようになったのは、わずか百年余りのことである。しかし、なお物事の区別がはっきりしなかったのを、朝日が昇り、あらゆる隅々まで明らかになったようにされたのは、わが県居大人を初めとする。中でも、奈良の宮の古い言葉は、少しずつ分かるようになっても、その心を得、言葉を拾って、歌や文章に倣って用いることはなかった。大人が古言を、そのまま自分のものとし、よいものを取り、悪いものを捨て、歌や文章を作られるようになってから、千年前の言葉を、今の世に倣って身につける人も、現れるようになった。」――『賀茂翁歌集』序

荒木田久老も、次のように記している。

「千年後の今、この学問が盛んに起こり、誰もが古風の歌を詠み、古体の文章を書き、俳諧というものをする、物を知らない、つまらぬ者までもが、古い世の言葉を扱うようになったのは、まことに加茂県主の功績であり、その賜物である。この学問で、千年の師と仰ぐべきは、わが賀茂大人、わが県居大人である。」――『槻の落葉』

このように門人が称賛したとおり、真淵は、古代の純文学を当時に復興することを理想としたのだろうか。ついに純文学のため、七十三年の長い生涯を捧げたのだろうか。どうして、そうであろう。本居大平の記録を見てみよう。

「賀茂大人は、遠江国に生まれ、山城の荷田大人に従い、数々の古書を見きわめた。東の江戸の町へ出て、田安殿に仕えながら、武蔵野の草が一斉に伏すように、皆がわが天皇になびき従った古を尊んだ。そして、葛の葉の表裏のように、裏表のある心で言葉を飾る外国の種々の道がはびこり、人々の心が、それぞれの向きに、こざかしくなった世の、不似合いな習わしを憂え、『ますらおたる者が、むなしく過ごしてよいものか』と、焼太刀のように鋭い心を奮い起こした。身は末の世にあっても、日ごろの心を遠い古へ通わせれば、その世のあり方も、どうして悟り知れないだろう。古を知るには、まず、その時代の歌が、その時代の人の心と言葉なのだから、それを集め記した『万葉集』を、常に、念入りに読んで、自分でも倣って詠む。短歌も長歌も、仲間が習い合うように、朝夕、詠み慣れれば、その心も言葉も、自分の自然なものとなる。そうなってこそ、代々の歴史も、神代の初めまで、澄みきった鏡のように、明らかに知り尽くせるだろうといって、人々を誘い、教えられたのである。」――『藤垣内文集』

もちろん、門人たちが信じたように、彼は古語学者であり、古文学者だった。『万葉集』は、最も得意としたものである。しかし、彼を、ただ古語・古文学の学者、『万葉集』の学者とだけ呼ぶなら、彼は、地下で、自分を理解する人がいないと嘆くだろう。彼が『万葉集』や古文・古語を研究したのは、大平がいうように、それを足がかりにして古代を知り、神代を知り、上古から存在する、わが国固有の大道を知るためであった。彼自身の言葉で確かめよう。本居宣長に宛てた書簡には、こうある。

「天下の人は、大きなことを好むが、大きなことを成し遂げた人はいない。そのため、私は、小さなことを尽くして大きなことへ入ろう、人代を尽くして神代をうかがおうと思って、今まで努めてきた。小さなことを尽くし、人代を尽くそうとするうちに、先師は早く亡くなった。同門に人はいない。羽倉在満は才人だが、令律や官位など、半分のことだけを好むので、相談が合わない。ただ独りで、ここまでやってきたため、今では、すっかり老い、確かなことも、皆、取り違えるようになり、残念である。」

また、別に古道とは何かを説き、古歌・古文を研究する理由を示して、こう述べている。

「この国は、もとより人が素直な国なので、わずかな教えも、よく守る。しかも天地に従って行うため、教えなくてもよいのである。それなのに、中国の道が来て、人の心が悪くなると、中国並みの教えを説いても、そのような教えは、朝聞いて、夕方には忘れてしまう。わが国の古のあり方は、そうではなかった。ただ天地に従い、天皇は太陽と月、臣下は星であった。臣下が星として太陽と月を守れば、今見るとおり、星が月日を倒すことはない。天の日月星が古から伝わるように、天皇という日月も、臣下の星とともに、昔から伝わって変わらず、世の中は穏やかに治まっていた。それなのに、下の者が現れ、天皇が衰えられるにつれ、伝わってきた臣下も衰えた。この心を推し広めて、『神代巻』を論じるべきである。それを修めるには、古の歌によって、古の心と言葉を知ったうえで、先に挙げた書物を読むがよい。」――『国意考』

何のために古歌・古文を研究したのか、この言葉で分かる。そのため、門下に入りたいという人があれば、必ず、古道を志すという入門の誓詞を取った。清水浜臣は、次のように記している。

「県居翁が江戸へ来られてから、門人が多くいたが、入門のとき、『うけひごと』というものを書かせられた。今も世間で行う、入門の誓詞である。その文は、

『賀茂大人が教えてくださる、皇御国の上代の道を、私は強く願います。そこで名簿を差し出し、その道に入ります。今から後は、教えてくださる言葉に従い、許可をいただいた場合を除いて、ほかの人に、勝手な言葉を述べません。また、大人に対して、礼を失したり、よこしまな心を抱いたりしません。この誓いに背くならば、口にするのも畏れ多い、天津神・国津神たちが、お見通しくださいますように。かしこみ、かしこみ申し上げます。年号・月日。通称、姓名、花押。賀茂県主大人へ。』」――『泊洦筆話』

それにもかかわらず、古語・古文の研究を主としたのが、県門一般の学風だった。特に、その大家である村田春海などは、「県居大人は、歌を第一とされた。上代の道などということは、日ごろ、まったく口にされなかった。それなのに、宣長一人が、大人を神代の道を専門に教えた人であるかのようにいうのは、憎らしいことだ」といった。

また、かつて道を論じて、次のように述べた。

「わが国が道とするものは、周公・孔子の道である。その道を捨て、別に道を、わが太古に求めるということは、まだ聞いたことがない。仮名は、もともと、わが国の文字ではなく、漢字を借り、日本語の音に当てたものだ。衣服や冠は、皆、隋・唐の制度である。百官・役人の制度も、唐の制度を学び、少し変えたものだ。律令格式も、唐の制度をまねている。博士には、明経・文章・天文・陰陽・律・算・音の各科を立てたが、和学博士・歌学博士は立てなかった。いわゆる和歌博士とは、大江匡房の職名から出たものである。和学・歌学という名は、古を調べても、存在しない。和学者とは、日本の典故・言葉に通じた儒者であり、歌学者とは、歌を作る儒者である。我々は、平凡で見識が狭いとしても、やはり儒者であり、儒者として歌を作る者である。日本の制度・文物は、すでに、すべて周公・孔子の遺法に従い、仏教を信じる者も多い。日本の習わしは、若いときは儒教、老いてからは仏教というもので、中古以来、すべてそうであった。このように見れば、儒教でなければ仏教である。この二道を捨てて、別に道を立てるとは、まだ聞いたことがない。今の和学者は、わが国に別の道がないのを恥じて、無理にこじつけ、むやみに古史を引き、人を欺き、自分を欺いている。どうして、これを弁じないでいられよう。」春海は、賀茂氏の古言の教えを奉じていても、その道とするところには、むやみに従わない。平生の持論は、このとおりである。――『続近世叢語』

このように県門の学風が、門人に根本を忘れさせ、枝葉へ走らせ、ひどい場合には、春海のように反対の方向へ進ませたのは、なぜか。わが国固有の大道を高め広めようとせず、真淵を、もっぱら『万葉集』や古歌・古文の学者と見なし、自らもその方面だけを受け継いだ者が多いのは、なぜなのか。真淵の門人・河津長夫は、この疑問を書いて、師に尋ねた。

「大人は、上代の道の学問こそ、専心すべき学問だと、お諭しになります。それなのに、その方面を学ぶ人はなく、歌ばかり詠むことに習熟しています。それを大人がお止めにならないのは、なぜでしょうか。」――『玉襷』

この問いに対する真淵の答えは、次のようだった。

「歌を詠むことは、私の本意ではない。それでも、教え子が皆、歌詠みになるのは、たとえば、父母が大切に思う娘に、さまざまな技芸を、恥ずかしくないほど習わせ、年ごろになったら、身分が高く、ふさわしい夫を選んで嫁がせようと用意していたのに、娘は年ごろになると、父母の思いとは違い、身分の高い人は気難しいといって、つまらない、身分の低い男と契ってしまったようなものだ。親の心に背いても、捨てることもできず、許して嫁がせるように、上代の道の尊さを嫌って、低い歌作りになる人が多いのを、どうしようもない。若い者の中には、歌を詠みながら、ついには本当の学問に至る人が出てくるかもしれないと思い、そのままにしているのだ」と、苦笑しながら語られたので、長夫も、ため息をついたという。――『玉襷』

真淵は、また、こういう。

「初めに悪い方へ入ってしまったのは、困ったことである。何事も、よこしまに学べば、それが自分の心となって、もとの大和魂を失ってしまうので、たまたま、よい筋道の話を聞いても、素直で清らかな、遠い古からの道へは、進み立ちにくくなるのである。」――『歌意考』

ここで述べた河津長夫には、真淵も深く期待を寄せていたが、早世したため、その望みはかなわなかった。ただ、宣長や久老らがいて、伊勢で盛んに真淵の学風を高め広めた。真淵も、地下で、心安らかに眠ったであろう。

第二十七節 真淵の著書

真淵の著書も非常に多い。ここでは、古道に関する主なものを列挙しよう。

『万葉考』二十巻。真淵が最も力を尽くしたもの。これに六巻の別記がある。

『続万葉論』二十一巻。

『続万葉秘説』二十一巻。

『源氏物語新釈』。

『冠辞考』十巻。本居宣長を奮い立たせた書物で、国語の冠辞を解釈したもの。真淵が学界に名をとどろかせたのは、主として、この書による。

『賀茂翁家集』十巻。この書には数種の本があり、春海の校訂本が最も整っている。春海は凡例で十巻とするが、巻五以降は、十分に校訂を経ていない。

『歌意考』一巻。「五意考」の一つで、上古の歌は素直で情が厚く、後世の歌は人工に流れると説き、歌は必ず上古に倣うべきだと論じた書。

『国意考』一巻。真淵が道を論じた書。宣長の『直毘霊』と同様、道の学者としての真淵を知ろうとする者は、必ず読まなくてはならない。

『文意考』一巻。

『書意考』一巻。

『語意考』一巻。

これらは、いずれも真淵が常に論じた、古学について説いたものである。

『爾比真奈備』一巻。「物は何でも新しいものがよいというが、学問の道こそ、古いものがよいといって、わが師・賀茂大人が教え諭された書は多いが、その中に『にひまなび』という一冊がある」と、荒木田久老が跋に記したように、歌に関する真淵の古学の見解を述べたもの。

『古今集打聞』二十一巻。

『伊勢物語大意』六巻。

『祝詞考』三巻。この書も、真淵の古道に関する考えを知るに足る。

『百人一首古説』四巻。

『賀茂翁遺草』一巻。儒教を退け、古道を高め広めようとしたもの。

『延喜式祝詞解』五号。

『日本紀訓考』五巻。

『神楽歌考』一巻。

『催馬楽考』一巻。

『古冠考』一巻。

『雑問答考』一巻。

『古器考』一巻。

真淵の著作は、およそ七十部、百数十巻に上る。主なものは、以上のとおりである。

第二十八節 真淵の学説

すでに真淵の学風を論じて、彼が道としたものの一端を推し量ることができた。彼は、古歌・古文を研究し、日本固有の道を明らかにしようとしたのである。そのため、度会・吉川・山崎らの学者が主張する神道を、激しく退けた。こういっている。

「後の世には、『神代巻』のことを論じる人が多い。その話を聞けば、何事にも、深い意味があるように構え、神代のことを、目の前に見てきたかのように語り、しかも、もっぱら人の心の決まりから成ったもののように取りなしている。さて、そのようにいう人は、どうして、そんなに詳しいのか。それほど古いことを、よく知っているのだろうと思い、書いたものなどを見聞きすると、古のことは、一つも知らないのである。それなのに、古の人代を知らず、はるかに遠い神代のことが、分かるものだろうか。これは、中国の書物を少し読み、後の宋という時代に、もともと狭い儒教の道を、さらに狭くし、理屈で言い募ったのを羨み、ひそかに、こちらの神代のことへ移したものなのである。そのため、まったく書物を読まない人は、そうなのだろうと思うが、日本や中国の書物を少しでも知る人は、勝手に付け加えたことと知って、笑うのである。そもそも、あちらでも、最も古い世に、何があったというのか。後から人が作ったことなのだから、こちらでも作ってよいことだと思うのだろうか。人の心で作ったことには、間違いが多いのである。」――『国意考』

このように、世の神道家の説を退け、自らは上古から存在する、日本固有の道を説いて、それを上代の道とした。上代の道とは、どのような道なのか。これも、彼自身の説明によって知る必要がある。彼は、こういう。

「世の中の、生きとし生けるものは、心も声も、すべて、古と今という違いはない。人だけが、習慣や、こざかしさによって違う様子になったのだから、もとに立ち返るのに、何の難しいことがあろう。このようにして、あの二書にある歌をよく読み、よく理解した後、振り返って、歴代の天皇の書物を隅々まで、神代のことまでも、さかのぼって見通せば、自分が、その時代ごとにいて、見聞きしたかのようになるだろう。」――『万葉考』はしがき

こうして古書を究め、古歌を学び、古の正しい心を得て、自ら古代にいるかのようにならなくてはならないとした。そして、自分で悟るべき古の道を、次のように説く。

「上代の天皇は、内には皇神を尊び、外には厳しい大いなる威力を振るい、服従しない国を平らげ、激しい人々を和らげ、天地に合う、広く遠い道を成し、治められた。細かな欠点を見聞きしても、よい方へと受け取られたので、人民も皇神を敬い、心に汚い隠し所を置かず、天皇を畏れ、身に犯した罪もなかった。まして臣下は、『海へ行けば水に漬かる屍、山へ行けば草の生す屍となり、大君のそばでこそ死のう。のんびりしてはいない』と誓い、雄々しい真心をもって仕えた。そうした、わが天皇の治める国を、天とともに永く、地とともに穏やかに統治される由縁をも、詳しく悟ることができるだろう。」――『万葉考』はしがき

さらに、こういう。

「民の心に裏表がなければ、善悪が明らかなので、罪を罰し、治めることも容易であり、大御世はいよいよ栄えられた。これこそ、皇神の広い大御世であり、千五百代も伝わるのは、神である天皇の御霊の恵みによるのである。」――同書

つまり、古歌を研究し、古文を学び、古を明らかにすれば、おのずと上古の状態も明らかになる。その状態を知れば、当時の社会生活の関係に、以上のような一定の道理があったと分かる。それが、上代の道を知ることだと考えたのである。彼が上代の道としたものは、上代の日本の社会生活の関係にあった道理を指すからである。この上代の道を、そのまま神の道と名づけた。したがって、彼にとって、上代の道と神の道とは、同じ意味だった。かつて『桜の詞』を作り、桜にたとえて、この道が世界に比類のないものであることを説いた。その中に、次のようにある。

「おおよそ四方の国を四季にたとえると、日本は日の昇る東の国で、春にあたるため、万物はみずみずしく、人の心はうららかである。中国は、太陽が通る中の国で、夏にあたるため、あらゆることが大げさで、人の心は激しい。西の国は、日の入る国で、秋にたとえられるため、物事は老い、人の心は暗さに及んでいる。北の国が冬にあたることも、同じように考えて分かるだろう。その中で、中国人が愛する梅は、枝ぶりが窮屈で、桃は色が大げさである。日本の桜こそ、近く向かえば、色が淡く、名づける言葉もない。山々や海の先々に満ち咲くときには、身分の高い者も低い者も、愛でない者はいない。これこそ、人々を手なずけたり、無理強いしたりせず、天地のなすがままに治め、和らげられ、天の日継が万代まで治める、皇国の大御世の姿を知るべきものである。さて、中国の人が心で作った政治には、梅のように香り高いところもあるが、細々として窮屈であり、桃のように濃い色もあると見えるが、不快なほど大げさなのにすぎない。そのうえ、ここを曲げ、あちらを切り、無理に直し教えようとするので、民の心は耐えられず、ついに静かな世もなく、人の支配する国となり果てた。こう考えると、春に並ぶ季節もなく、桜に勝る花もなく、日本に比べる国もなく、神の道に及ぶ道もない。天の人々よ、天の心のままに、知らず、覚えず、心をのびやかにし、咲き栄える花のもとで遊び、歌っているのである。」――『賀茂翁家集』

日本を日の昇る国とし、インドを日の沈む国とすることなどは、きわめて根拠に乏しい。しかし、これは、いずれも科学的知識が未熟だったためであり、必ずしも深く責めるには及ばない。ただ、これによって、彼の道に対する思想を読み取ればよい。

わが国の古伝を見ると、天神が初めに伊弉諾・伊弉冉の二神へ、この国を整え固めさせようとされたとき、天瓊矛を授けられた。また、天照大神が皇孫・邇々芸尊に三種の神器を授けられたときにも、その中に剣を加えられた。大八洲国の別名は、細戈千足国といい、武器に由来する。古代に大きな勢力を持っていた大国主神にも、八千矛神という名がある。このように、日本は上古から武を尊んできた。ところが、真淵の持論は、すでに各方面から詳しく述べたように、「皇御国の上代のことを知り尽くすには、古い世の歌を知るより先となるものはない」〔『万葉考』はしがき〕といい、また「歌を得なければ、皇朝の学問は何事も成し遂げられない」〔『爾比真奈備』〕というもので、一見、まったく文を尊ぶ主義に傾いているようだ。それでも、さすがに古代を研究した結果、武を尊ぶ論へ進まざるをえなかった。こういう。

「上代には、天の祖先の神の道のままに、天皇は厳しく雄々しいことを表とされ、臣下は強く素直であることを主として、治め、仕えていた。それなのに、中古から、言葉の騒がしい国の人が作った、細かい政治を多く取り入れ、臣下を文官と武官に分け、文を貴び、武を卑しんだ。そのため、わが皇神の道は衰え、人の心は一筋ではなくなった。それ以来、世のあり方はすべて古から離れ、背に多くの矢を入れた靫を負っていても、雄々しい心を忘れ、顔には長いひげを生やしながら、弱々しい言葉を歌うことになったのは、ふさわしくない行いではないか。」――同書

また、こうもいう。

「そもそも上代の各御代、大和国に都を置かれたときは、表には勇ましい威力を示し、内には広い和を成して天下を治められたため、ますます栄え、民も、ひたすら上を尊び、自らも素直なまま伝わってきた。それが、山城国へ遷られてから、畏れ多い威力が次第に衰え、民も、あれにつき、これにへつらい、心がよこしまになったのは、なぜだと思うか。ますらおの道を用いられず、たおやかな女の姿をよしとする国風になり、さらに中国の国風が行われて、民が上を畏れなくなり、よこしまな心が生まれたからである。」――『爾比真奈備』

このように、古の道を興すには、まず武を奨励すべきだとした。私たちは、もとより武ばかりを偏重する論に賛成するものではない。しかし、日本は、武によって国を建て、発展させ、文によって治め、維持することを、建国以来の方針としてきたのだから、国学者である真淵自身の尚武論には、大いに敬意を表する。

真淵は、このように武を尊ぶ論を唱えた。武を尊び、修練すれば、自然に乱を望む原因となり、治安を妨げるのではないかと論じる者もあろう。真淵は、これに反論していう。

「それは、人の心を知らない者のいうことだ。自分の心を振り返ってみよ。太平に生まれ、格別のこともないと、太平に倦んでしまう。そんなときは、このままでよいのかと思い、昔の先祖のことも考え、時さえあれば、よい身分にもなれるだろうが、今はどうしようもないと、できることをして命を終えるだけである。心中に思うことがあっても、時勢に従って過ごすだけだ。武の道を学ぶ人も、その程度のことであり、世が乱れればよいと思っても、乱れるものではない。一人、二人が、心のままに行おうとしても、世の中に従わなければ、今日を過ごすことも難しいため、どうしようもないと、事を隠している。人の心は、そういうもので、上に強い威力があれば、皆、本心ではなくとも、ひとまず従うのである。それならば、武の道を学び、子孫に伝え、いざというときの用に立てるのも、よいではないか。」――『国意考』

彼は、種々の方向から、武を重んじるべきことを説いた。また、このように武を重んじる人は、「心が強情で悪い」と非難する者もいるだろうか。彼は、さらにいう。

「そうしたことをよく学ぶ人は、強情なものではない。中には一人くらい、そういう者もいるが、武を学ばずに、強情で悪い者が、どれほどいることか。たまたまいる者をもって、全体を決めつけてはならない。もし事が起こったときには、その強情な者にも、ある面では頼もしいところがある。世の中は、いつまでも、このままだとばかり思うのだろうか。先は分からないものだ。目先の風潮に合うことだけをよいと思うのは、そう考える人が愚かなのだ。」――同書

こうして、彼は盛んに武士道を説いた。その説には、こうある。

「そもそも、人は、見返りがなければ、深く心を動かして事に当たるものではない。そのため、仏の道は、これを唱えれば、今生も後生も救われ、富貴になるといって、人を引き入れる。人々は皆、心を引かれて進んでいく。武の道でも、ただ、これは悪い、あれは悪いと教えるだけでは、見返りがないままなので、道理だとは思っても、人の心を引く力によって、教えが行き渡ることはない。そこで、従者が皆、本当にありがたいと思うならば、百人、五百人にすぎなくても、その言葉と思いは天下に聞こえるだろう。そうなれば、出陣するときに、招かなくても人は集まるに違いない。これは、大いに勝つための道である。そのため、ただ勇猛であることを学ぶには及ばない。このようにいえば、戦のときだけのためだと思うかもしれないが、そのように従者と親しめば、気を遣わずとも、家も富み栄えるだろう。実に武の道は、素直であるため、おろそかさも私心もない。手をこまぬいていても、家を治め、天下を治めることができる。」――『国意考』

これは、彼が独自の思想によって武士道を説いたものである。このように武士道を説いた理由は、すでに述べたように、古道を深く研究し、武勇が、わが大道の有力な要素であると感じ取ったためだった。

第二十九節 真淵の学説(続)

真淵は、武を尊んだ。では、知術については、どう考えたのか。彼は常に、日本の上古の風俗は素朴で、自然のままに治まり、作為なしに教化され、上も下も穏やかだったが、後に次第に知術が起こり、純朴さを失い、風俗は軽薄になったと考えていた。

そこで、「遠い上代には、人の心が素直だったため、言葉も少なく、身なりも簡単なものだったらしい」〔『冠辞考』序〕といい、

また、「ああ、上代には、人の心は、ひたすら素直だった」〔『歌意考』〕ともいった。

真心に従って、忠実で素直な生活をすることを、日本固有の風俗とし、生きものに自然な美風として、大変重く見た。知術は、人為的で、決して賞賛すべきものではないとした。世の人は、人類が知術を発達させたため、万物の霊と呼ぶのだというが、それは、はなはだ不合理だとして、盛んに論じた。

「人は鳥獣と違うというのは、人間の側から自分を褒め、ほかを侮るもので、これも中国人の癖である。四方の国を夷狄と卑しめて、その心を理解しないのと同じだ。そもそも天地の間に生きとし生けるものは、皆、虫ではないか。その中で、どうして人だけが尊く、立派なところがあるというのか。中国では、万物の霊といって、人を大変尊んでいるが、私が思うには、人は万物の悪しきものと呼ぶべきである。なぜかといえば、天地日月が変わらないように、鳥も獣も、魚も草木も、古のままでないものはない。それなのに、人は中途半端に知るという働きがあり、それを自分で用いるため、互いの間に、さまざまな悪い心が生まれ、ついには世を乱す。治まった世でも、欺き合う。もし天下に一人、二人だけ物を知る者がいたなら、よいこともあるだろうが、人は皆、知恵を持つので、どんなことも互いに打ち消し合い、ついには役に立たなくなる。鳥獣の目から見れば、人こそ悪いものであり、あのようになってはいけないと、教えることだろう。」――『国意考』

儒教が人を万物の霊とするのを退けようとし、また、感情と意志を重んじ、知を軽んじた結果、人は万物の悪しきものだと放言するに至った。この議論は、はなはだ偏狭であり、自然と、自分の理想に矛盾する結論へ達したといってよい。これが彼の持論だったことを示すため、さらに、その説を挙げよう。

「世の中の生きるもののうち、人だけが尊いと思うのは、愚かなことだ。天地という父母の目からは、人も獣も、鳥も虫も、同じことだろう。」――同書

このような議論は、現代の科学的思想とも、ある程度、一致するだろう。ただ、彼が天地という父母としたものは、いったい何なのか。国学者として、まだ考えの徹底しないところがあるようだ。こう論じたうえで、人に知術があることはよくないと説く。

「その中で、人ほど賢いものはない。その賢さがよいのかと思えば、天下に一人、二人だけ賢い者がいれば、よいこともあるだろうが、人は皆、賢いので、互いに、その賢さを構え合い、折々によこしまなことが起こるのである。それでも、おのずと、事の少ない世には、思いを四方へ走らせず、目の前のことだけで行動するため、賢しらも少ない。そのため、少々の争いはあっても、大きなことはない。たとえば犬は、その里へ、ほかの里の犬が多く来れば防ぎ、仲間同士でも、食べ物や雌をめぐって争うが、ただ、一時の怒りだけで、深く策略を構えないようなものである。」――『国意考』

訳注

底本は「思ひ四もに走せ」とあり、否定の字を確認できない。ここでは、続く「ただまのあたりのみにして」「さとさも少し」という文脈から「思いを四方へ走らせず」と解した。否定を含むこの読みは推定である。

このように、知術を退けた結果、中国で堯・舜を、仏陀のように理想化し、教化の仕組みを設けることは、人を、ますます悪へ陥れると考え、儒教を激しく排斥した。ここで、その儒教批判のあり方を述べよう。真淵は、まず中国人を攻撃し、

「上辺では、美しく飾った教えを述べ、下に汚い心を隠しているのが、中国人である。」――『万葉考』はしがき

といった。中国は、もともと「悪い人」の多い国なので、禅譲や放伐を常とし、尊大に構えて、周辺の国を夷狄と呼んで軽蔑する。しかし、その夷狄と呼ぶ者の中から強い者が現れ、征服されると、頭を下げ、追従することを恥じない。したがって、その国の儒道というものも、人の胸の内から出た、小さな道にすぎないとした。そこで、こういう。

「代々、乱れて、治まることもないのに、儒という道があるといって、天下の道理を説いている。確かに、ちょっと聞くと、異論の余地もないように思えるが、ごく小さく理屈を立てたものなので、人がすぐに理解できるのである。」――『国意考』

このように、儒教は一見、道理があるように思えても、実際は人の狭い胸中から出たものだから、人々は表面上、従っているように見えても、心の内から信じている者はいないとして、さらにいう。

「それなのに、この国へ伝わってから、中国では、この道理によって治まっていたかのように説くのは、皆、そらごとばかりである。まだ心を奪われている人を遣わして、中国を見せたいものだ。浦島の子が故郷に帰ったときのようになるだろう。」――同書

そして、このような儒教が入ってきて、多くの弊害を生んだことを説く。

「この国は、天地の心のままに治められ、そのような小さな理屈めいたことがなかった。それなのに、急に、もっともらしく思われることが渡ってきたので、昔の人は素直だったため、本当だと思って伝え広めた。古から幾代も、次第に栄えてこられたが、儒の教えが渡ってきたころになって、天武天皇のときに大きな乱が起こった。それから奈良の宮中も、衣冠や調度が中国風になり、何事も上辺だけが雅やかになって、よこしまな心が多くなった。そもそも儒は、人の心をこざかしくするので、君主を崇めるように見せて、尊くしすぎ、天下は臣下の思いどおりになった。そこから、ついには、畏れ多くも、天皇を島へ追いやることになった。これは、皆、あの中国のことが渡ってきてから生じたのである。」――『国意考』

さらに、道は自然に各国に固有のものがあり、したがって日本にも固有の道があるのに、中国で起こった中国の道が入ってきて、日本を乱したと考えた。こういう。

「そもそも世の中は、荒山や荒野に、おのずと道ができるように、神代の道がおのずと広がり、国にふさわしい道が栄えれば、天皇は、いよいよ栄えられるはずなのに、返す返すも、儒の道こそ、その国を乱すばかりである。この国さえ、このようにしてしまった。それなのに、物事の本当の意味をよく知らず、上辺だけについて、ただ、あの道だけを貴び、天下が治まる方法だと思うのは、未熟なことである。」――同書

このように、日本には、おのずと固有の道があり、国は自然に治まるとした。それに対し、日本には仁・義・礼・智ということもなく、そのような和語もないといって、日本を卑しめる者がいるだろうか。彼は、こう論じた。

「まず、中国で、この五つのことを立て、それに反することを悪いとしたのだろう。そもそも天下に、この五つが自然にあることは、四季が成るようなものである。天下のどこに、そのような心のない所があるだろう。しかし、四季がめぐるには、春も次第に、のどかな春となり、夏も次第に、暑い夏となる。天地の営みは、丸く、緩やかに、次第に至るのに、中国人のいうとおりなら、立春には、すぐ暖かくなり、立夏には、急に暑くなるはずだ。中国の教えは、天地に背いて、急で、窮屈なのである。そのため、聞いたところでは角張って明確なので、分かりやすく、もっともらしいが、そのとおりには行われない。天地の作る春夏秋冬の、緩やかな移り変わりに背くからである。天地の中の虫である人が、どうして天地の意よりも狭く説く教えを、行うことができよう。そもそも天下のものには、四季の区別があるように、慈しみも、怒りも、道理も、悟りも、自然にあり、四季のある限り絶えない。それを、人が別に仁・義・礼・智などと名づけるため、受け取り方が狭くなるのである。ただ、そのような名もなく、天地の心のままであるのがよい。そのため、この国が長く治まっていることを、知らないのか。」――『国意考』

訳注

この引用では「この五つ」と繰り返すが、直前に挙げるのは仁・義・礼・智の四語である。底本の不一致を残し、第五の語を補っていない。

このように論じてきた彼は、今は儒教のため、上も下も、はなはだしく乱れているが、もし、

「天地のなすがまま、古から行ってきたように、板の屋根、土の垣、樹皮の繊維や麻の衣、黒葛巻の太刀といった姿で、天皇ご自身が、弓矢を携えて狩りをされるくらいであれば、どうして、このように変わってしまおうか。」――同書

と論じた。しかし、そもそも文化の発達も、人の世の自然な要求に基づくものであり、日本にも、おのずと起こるものである。真淵のこの論は、あまりに古に固執するものといわなくてはならない。特に、ひたすら儒教を退けようと急ぐあまり、人を天地の中の虫といい、天地の心といい、その言葉が、日本固有の思想から、非常に遠ざかるに至った。源稲彦は宣長の門人で、真淵を厚く尊んでいたが、真淵のこの言葉は、はばかることなく退けた。その議論を見てみよう。

「そもそも、わが賀茂大人は、千年に一人の人であり、末の世に、千古の学問を復興された功績は、きわめて大きい。誰が、それに言葉を加えられよう。しかし、今から見れば、まだ何事も未完成で、行き届かないところが、非常に多い。特に、わが神皇祖の大道を論じる点では、まだ漢意をすっかり離れず、その真意を得られていないことが少なくない。『考』の中で、天地の心といい、人を虫という類は、皆、わが道の意ではない。」――『弁読国意考』

儒教を退けることは、宣長・篤胤らにも共通するが、真淵の説は、とりわけ生硬であった。特に、社家神道や垂加神道が、仏教を退け、儒教によって神道を説いたのと同じように、真淵の説には、儒教・仏教を退け、道教によって自説を立てようとする傾向があった。そして、真淵は、

「仏教については、大きな災いはありません。」――『国意考』

といい、宣長と同じく、攻撃の力を、主として儒教へ向けた。しかし、日本固有の道があるとした以上、決して仏教をたたえていたのではない。実際、その鋭い批判は、容赦なく仏教にも向けられた。

「仏の道というものが渡ってきてから、人を悪くしたことのひどさは、いうまでもない。本当の仏心は、そんなものではないだろう。それを行う者が、自分の欲に引かれ、仏を借りて、際限もない、そらごとをいうのである。また、人だけに罪があるという。生きとし生けるものは、同じものなのに、どのような仏が、鳥獣に教えたことがあるのか。」――同書

これは、人を天地の中の虫としたことから、おのずと出る結論だろう。彼は、さらに因果応報というものは無意味だと説く。

「さて、報いというものを、多くの人は、そのとおりだと思っている。古い世からの証拠を挙げるのも煩わしく、人の耳にも、なお疑わしく思われるだろう。今の御代でたとえるなら、まず、人を殺すことほど大きな罪はないはずだ。それなのに、今より前の世は、大きく乱れ、長い年月、皆、戦って人を殺した。そのとき、一人も殺さなかったのが、今の普通の人々である。少し殺した者は、今の旗本侍と呼ばれ、もう少し多く殺した者は、大名になった。そのうえ、さらに多く殺した者は、一国の主となり、限りなく殺した者は、至って尊い御方となって、代々、栄えておられる。ここに、どのような報いがあるというのか。」――『国意考』

この説には、あまりに理屈へ走った嫌いがある。もちろん、戦争では人を殺すが、必ずしも、多く殺した者が成功するわけではない。肝心なのは、真淵が蛇蝎のように嫌った知術に、すぐれていることである。知術にすぐれた者は、殺すことが少なくても成功できる。特に真淵が、さらに進んで、「人を殺すのも、虫を殺すのも、同じことと知るべきだ」と叫ぶのを見ると、その大胆な断言に驚かずにはいられない。議論の勢いに押され、あえて、そのように断言した、一時的なものにすぎなかったとしても、人の師となるべき者が、そのような言葉を口にする以上、世の教え導きのため、その結果を憂えずにはいられない。

彼は、さらに論を進めていう。

「すべて、報いだといい、怪しいことをいうのは、狐や狸の仕業である。そもそも天下のものには、それぞれ得意とすることがあるが、皆、目に見えることであるのに、狐や狸だけは、人をたぶらかす技を得ている。もし、昔、人を多く殺したので、子孫に報いがあるのではないかと思う人があれば、狸は、すぐにそれを知り、報いの姿を現して面白がるだろう。人を多く殺したのは、ただ誉れなのである。もし、この先も、そのような世になれば、私は、なお多く殺して富を増し、名を上げようと思っていれば、狸も近寄れない。ところが、このように治まった世では、そういうこともなく、蠅や蚊を殺すことさえ、余計なことだというようになって、僧にも狸にも、だまされるのである。」――同書

因果応報は、もともと、人を導くための方便の説であろう。しかし、当時は知識がまだ発達せず、人々の多くが、これを信じた。僧自身は、方便の説であることを十分知っていたはずだが、人々の弱みにつけ込み、盛んに迷信を広め、自分の生活上の利益を図ったのが、当時の一般的な悪習だった。真淵のこの論も、迷信を打破するうえでは、少なからず貢献したといえる。ただ、彼が狐や狸の変化を信じたことは、これも、やむをえなかったというべきだろう。

すでに述べたように、真淵は道を、天地自然の道とした。そのため、常に、こういった。

「わが皇御国の古の道は、天地のままに、丸く、平らかであり、人の心や言葉では、いい尽くしにくいので、後の人には理解しにくい。そのため、古の道は、すべて絶えてしまったのではないかといわれるかもしれないが、天地が絶えない限り、絶えることはない。」――『国意考』

これは、老子の思想と、非常によく似ている。似ているだけでなく、真淵自身も、その一致を説いている。次の説を見よう。

「老子という人が、天地のままにといわれたことこそ、天下の道にかなっているようだ。それを見ると、あちらも、古は、ただ素直だったのである。こちらも素直だったことは、先に述べた歌の心のようである。古は言葉も少なく、事も少なかった。事が少なく、心が素直なときには、難しい教えは用がない。教えなくても素直なので、物事が運ぶ。その中でも人の心はさまざまで、悪いこともあるが、悪い行いも、素直な心からすれば隠れない。隠れなければ、大きなことには至らず、ただ、その日一日の乱れで終わる。そのため、古にも、よい人の教えがなかったのではないが、軽く、少し教えるだけで足りた。ただ、中国は心の悪い国なので、深く教えても、表面はよいように見せて、最後には大きな悪事を働き、世を乱した。この国は、もとより人が素直な国なので、わずかな教えも、よく守る。しかも、天地のままに行うので、教えなくてもよいのである。」――同書

これによって、彼が道とするものには、老子から学んだところが多いと分かる。そこで、淡海野公台は、次のように論じた。

「わが国上古の、素朴で先例に従う政治を見て、あの老聃の、無為自然の道と似ていると考え、国は違っても理は同じで、国を治める道は、これ以上によいものはないとする。皇統が長く続き、万国に勝るのも、この道によるだけだとする。そこで儒道をそしり、小さいといい、偽りだといい、聖人たちを次々と非難し、はばかるところがない。真淵は、ともすれば、素直だ、素直だという。その素直とは、感情のままに、思いどおり行動するという意味であり、すなわち夷狄の道である。聖人の道を知らないことは、この点からも分かる。」――『読国意考』

真淵自身、日本固有の道は老子と同じだとし、公台も、それを指摘して批判した。これは、すでに述べたように、唯一神道が仏教と習合し、社家神道が『周易』と習合し、垂加神道が朱子学と習合したのと同様、真淵の神道は、老子との習合というべきである。本居宣長は、真淵の忠実な門弟だったが、老子との習合には否定的な見解を持ち、この道は老子とは違うと、盛んに主張した。

「彼らの道は、もともと、こざかしさを嫌い、自然の道を無理に立てようとするものだから、その自然は、本当の自然ではない。もし自然に任せるというなら、こざかしい世は、そのこざかしさのままであることこそ、本当の自然であるはずだ。それなのに、こざかしさを嫌い、憎むのは、かえって自然に背く、強いた行いである。」

さらに、神道と老荘の異なる理由を説いて、

「神の道は、こざかしさを嫌い、自然を立てようとする道ではない。もとより神の道のままである道だ。どうして、あの老荘と同じであろうか。」――『葛花』

と論じた。しかし、この宣長の論も、度会延佳が、極力、仏教を排斥しながら、自らは、仏教の影響の濃い『五部書』を重要な典拠としたのと、似たところがあるように見える。

真淵が老子を読み、「あちらも、古は、ただ素直だった」といい、常に素直さを尊んだのを、公台が「感情のままに行動する、夷狄の道だ」と評したことに対しては、源稲彦が、次のように弁護した。

「わが道で、真意、真直などというのは、夷狄についていう素直さとは、大変違う。日本には、何事にも皇神が定め置かれた掟があり、その掟に従い、私の知恵を振るわず、天下を治められる。これが、わが遠い祖先の天皇の道である。これを、かんながらの道という。また、天下の士も庶民も、天皇の御心に違わず、背かないよう、従う。『万葉集』に、『天地の初めの時から、多くの臣下は、大君に従うものと定まっている』と詠まれた意味が、これである。これが真意、正直ということである。それなのに、聖人の流儀では、下の身で、上のことをさまざまに論じ、ついには君主をないがしろにして、その位を奪うに至る。そのような賢しらのない、素直な国風なので、『万葉集』には、神のままに言挙げしない国と詠まれたのである。それを、聖人でさえ卑しめる夷狄の道と同じというのは、甚だしい妄言である。」――『弁読国意考』

おそらく、これが真淵のいおうとしたことだったのだろう。

第三十節 真淵の学派

すでに学風のところで述べたように、真淵の門下では、師の意を受けて、道の研究に従事する者は少なかったが、人材が乏しかったわけではない。主な者を挙げれば、藤原宇万伎・楫取魚彦・本居宣長・荒木田久老・加藤千蔭・村田春海らである。これらの学者について、少し述べよう。

藤原宇万伎

宇万伎は江戸の人で、後に京都へ住んだ。姓は藤原氏、通称は大助。静の舎と号した。早くから真淵に入門して古学を研究し、特に和歌にすぐれていた。当時、江戸では千蔭・春海・魚彦と名を並べ、県門の四天王と呼ばれた。著書には、『土佐日記注』一巻、『古事記解』三巻、『静舎歌集』一巻、『静舎雑著』一巻などがある。上田秋成は、その門から出た。

楫取魚彦

魚彦は下総の人で、伊能氏とも称した。通称は茂左衛門。初めの名は景良、後に魚彦と改めた。青藍、また茅生庵と号した。先祖は、豊後の尾形三郎維義に出る。維義から四代目の孫・景能が、初めて下総国香取郡大須賀荘の地頭となり、伊能村に住んだ。その子孫は武士の身をやめ、同郡の香取に住んだ。魚彦の父は景栄といった。魚彦が、わずか六歳のとき、父が亡くなり、それ以来、母に育てられて成長した。

明和二年、家を息子・景序に譲り、自ら江戸へ出て、浜町に住まいを定めた。真淵に名簿を捧げ、熱心に古学を研究し、和歌の奥義を極めた。学業を成してからも、浜町に住み、門人を教え、著述に従事した。名は上野の法親王にも届き、たびたび召されて、厚く遇された。天明二年、六十歳で亡くなった。遺骸は故郷の観満寺に葬られ、門人の千賀真恒らは、別に橋場の宗禅寺へ碑を建て、茅生塚と名づけた。著書には、『古言梯』一巻、『万葉集千歌』一巻、『続冠辞考』一巻などがある。

荒木田久老

久老は伊勢の人で、外宮の神主・度会正身の四男である。通称は弥三郎、後に主税と改めた。五十槻園と号した。早くから、神道は自分の職務であるため、深く通じたいと願い、もっぱら『神代巻』を研究した。後に真淵の門へ入り、熱心に研鑽して、大いに学業を成し、門下の大家となった。当時、宣長の説に賛成しない者は、多くが久老の門へ向かったという。このことから、その学識の深さの一端が分かる。

伝えられるところでは、生まれつき豪放で束縛を嫌い、酒を好み、酒宴の席で、先人がまだ述べていない見解を立てるのを誇りとしたという。実際、その説も古人を踏襲せず、自ら一家を成していた。ただし、神道哲学の説として、記録して伝えるべきものは、ほとんど見当たらない。文化元年に、五十九歳で亡くなった。

著書には、『万葉考槻乃落葉』八巻、『日本紀歌解』三巻、『続日本紀歌解』一巻、『祝詞考追考』一巻、『古言清濁弁論』一巻、『古事記歌解』二巻などがある。息子の久守は、よく家学を継ぎ、さまざまな著述を残し、嘉永六年、七十五歳で亡くなった。

加藤千蔭

千蔭は江戸の人。幼名は要女、後に又左衛門と改めた。字は常世まろ、うけら園と号し、そのほか、芳宜園・耳梨山人・逸楽窩・江翁などの号があった。千蔭は諱である。『続近世叢語』は、その家系を次のように記している。

訳注

千蔭の字と号の漢字表記には判読しきれない字があるため、訳では確認できる読みを用い、「常世まろ」「うけら園」とした。漢字表記を推定して確定したものではない。

「家系は、肥後守・永愷に出る。永愷は晩年、髪を落として仏門に入り、能因と名を改め、詩歌で名高かった。まだ仏門に入らないころ、判官・景貞をもうけた。景貞は加藤氏を称し、伊勢国に住んだ。千蔭は、その子孫だという。父の枝直は又左衛門といい、享保五年、初めて幕府に仕え、与力に加わり、町奉行の越前守・大岡忠相の配下となった。人柄は方正で、和歌を大変好んだ。」

千蔭は幼いころから学問を好み、書にすぐれ、和歌に巧みだった。真淵の門へ入り、古学を研究するとともに和歌を修め、その奥義に達した。後に父の職を継いで与力となったが、役所の務めがどれほど忙しくても、文学の営みをやめなかった。天明八年、五十五歳のとき、病気のため辞職し、好きなことに力を尽くし、ほかのことを捨て、古学と詠歌に専念した。こうして年老いるほど、ますます学業が進み、名声は四方に広がった。有力者や貴族から、神職・僧・女性に至るまで、争って入門し、教えを請うた。文化五年に亡くなった。七十四歳で、回向院に葬られた。

著書には、『万葉集略解』三十巻、『香取日記』一巻、『ゆきかひぶり』三巻、『うけらが花』八巻などがある。特に『万葉集略解』は、契沖・春満・真淵らの説を参考にし、宣長・春海らの考証も調べ、自分の見解に基づいて取捨・採録したものである。簡潔で要点を得ており、公平かつ正確で、よく学界の求めに応えた。そのため、本人の著作ではあるまいと評されたほど、非常な成功を収めた。

村田春海

春海も江戸の人である。通称は平四郎、字は士観。琴後翁、また錦織斎と号した。春海は名で、姓は平氏。父の春道には二人の息子があり、兄は春郷、弟が春海である。春海は、早くから服部仲英について漢学を修め、後に鵜殿士寧を師とし、さらに京都へ出て、皆川淇園に学んだ。その後、兄の春郷とともに県門へ入り、古学を研究し、和歌を修めた。天性の俊才に、修練の功を積み、大いに学業を成したが、生来、財産を管理する才がなく、家産を失った。

『琴後集』のはしがきには、こうある。

「翁は若いころ、生計の道に疎く、ついに家を傾け、多くの財産を失い、しまいには、物の足りない年月を送られた。しかし、老いてからは、言葉に富み、学問に富まれた。さて、多くの財産は、ほんの短い、生きている間の富である。言葉と学問は、いつまでも、亡くなった後にまで残る富である。翁は財産には貧しかったが、言葉と学問には富まれた。本当に、天下の宝の玉とは、翁をこそいうべきだ。誰が羨ましく思わないだろう。誰が慕わないだろう。」

春海は、文化八年、六十六歳で亡くなった。著書には、『歌苑古題類抄』二十巻、『作文通弊』一巻、『五十音弁誤』一巻、『与稲掛大平書』一巻、『重与稲掛大平書』一巻、『不問語』一巻、『琴後集』十五巻などがある。

春海は真淵門下の四天王の一人と呼ばれたが、もっぱら和歌を研究し、古学の神道的な方面を退けた。これは、崎門学派の佐藤直方・浅見絅斎らが、朱子学を専門とし、その垂加流神道を非難したのと似ている。春海の道についての思想は、すでに述べたように、周公・孔子の道を根本とするものだった。そのため、「わが国の道とするものは、周公・孔子の道である。それを捨て、別に道を、わが太古に求めるということは、まだ聞いたことがない」といった。しかし、周公・孔子の学者としては、平凡の域を出ることができなかった。十分に古道の分野で一家を成さなかったことを、残念に思う。

春海の門からは多くの人材が出たが、清水浜臣と小山田与清が、最も名高い。浜臣は泊洦舎と号し、『泊洦筆話』二巻、『泊洦舎家集』六巻などの著者として一家を成した。与清も、宣長が亡くなった年に春海へ入門し、松屋と号し、特に類書の学問にすぐれた。平田篤胤・伴信友と並べ、三大家と称されたことから、その造詣の深さを察することができる。

塙保己一

塙保己一は、明和六年に賀茂真淵へ入門した。半年で真淵は亡くなったが、大きな影響を受けたという。

今、真淵の学説を述べ終え、宣長の学説へ入ろうとするにあたり、一言、真淵の学説を批評しておこう。真淵は、かつて自ら、こう述べた。

「私は古を好む性分だったが、田舎に生まれ、導きを得られなかった。そのため、ごく若いころから、後世風の歌を詠んだが、心を開いてくれる師がいなかった。三十歳を過ぎて、折々、京都へ行き、荷田大人に学んでも、もとから力がなかったので、大きく開けることはなかった。それ以前にも、漢籍の端々から、歌などのことを、時々聞いたが、十分には果たせなかった。ついに東の都へ下り、天下の人々と交わり、自分でも努め、また貴人に仕えるなどして、貴人の広い心も見、さまざまな苦労を経て、今、七十歳になって、あらゆることを得たように思う。」――『賀茂翁遺草』

実に、精力は並外れ、よく努めて、学界に功績を残した。反対派の人でさえ、これを認めずにはいられない。見よ、盛んに彼の説を攻撃した公台も、次のように述べているではないか。

「真淵は、もとより古歌を学び、古言に通じ、心を研ぎ、思いを深め、老いても衰えなかった。古言を研究するにあたって、千年伝わらなかった意味を明らかにし、注釈を編述して、学ぶ人々に教えた。日本の書物に及ぼした功績は、決して少なくない。」――『読国意考』

確かに、その博学と識見は、誰もが認める。しかし、独自の見解を立てることを急ぎ、しばしば詭弁を使った跡があるのは、惜しいことである。特に、同族婚を弁護して、兄弟の結婚も不可ではないと主張したこと、また、文字について、中国の象形文字を攻撃し、数万もあって煩雑なので、国も煩わしくなり、世が治まらないとしたことなどが、そうである。

「それなのに、インドでは、五十字で、五千余巻の仏の言葉を書き伝えた。ただ五十の字さえ知れば、古今の限りない言葉も知ることができ、伝えることができるのである。」――『国意考』

と論じたことなどは、議論が、はなはだ幼稚だったといわざるをえない。宣長は、真淵を、次のように評した。

「わが県居大人は、世の学者の漢意が悪いことをよく悟り、丁寧に諭し教え、盛んに古学を唱えられた。しかし、力を主として『万葉集』に用い、道のことには、詳しく及ばれなかった。折に触れて、そのことを述べられてはいるが、力を、もっぱら、そこへ注がれたのではなかった。」――『うひ山ぶみ』

まさに宣長の、この言葉のとおり、真淵の復古神道における功績は大きかったが、要するに、言葉の解釈にとどまり、創業にとどまった。それを大成したのは、実に、その学派の大家、本居宣長、その人だったのである。

飛騨の匠が、ほめて残した真木柱のように、立てた心は、動くことがあるまい。――賀茂真淵

県居の大人の学問を受け継ぎ、身につけたのは、わが鈴屋の大人だったのである。――本居大平

第三編 本論

第八章 世界論

第三十一節 創世説

個人の知識の発達は、民族の知識の発達と並行するという説は、どの場合にも当てはまるとはいえないが、しばしば似たところがあることは、否定できない。子どもの知識の発達は、初めは自分以外のものを認識するだけで、次第に自分への意識が生まれる。それと同じように、太古の人間の探究心も、まず外の現象へ注がれたのは、おそらく事実だろう。そのため、古代人の思想は、太陽や月、山や川といった、外の現象へ向かい、おのずと、日月はどのように起こったのか、山川はどのようにできたのかなどの問題を立て、その解決を求めるようになった。古来、東洋・西洋を問わず、上古のさまざまな開闢説が伝わるのは、このためにほかならない。

日本の古伝の冒頭にも、一種の開闢説と見るべきものが伝わる。『古事記』に「天地が初めて開けたとき」といい、「国がまだ幼い」といい、『日本書紀』に「開闢の初め」といい、その一書に「天地が初めて分かれた」と伝えることなどは、皆、その証拠である。そのため、古伝を説く者は、こうした言葉を解釈するうえで、おのずと開闢についての独自の見解を持たなくてはならない。宣長は、この点で、さらに一歩を進め、独自の創世説を唱えた。それを、少し紹介しよう。

宣長は、かつて、「確かな書物の中でも、この『古事記』と『日本書紀』と『万葉集』は、特に確かであり、その中でも、この『古事記』は、さらに特に確かだ」といって、熱心に『古事記』を尊重し、古典の第一とした。その解釈においても、「大御国の古書は、そのように、人への教訓を書き表したり、物の道理などを論じたりすることは、ほんの少しもない。ただ古を記した言葉以外に、隠れた意味も、道理も、込めたものではない」〔『古事記伝』〕と考えていた。したがって、創世を説く際にも、平田篤胤のように、必ずしも諸子百家の学説へ広く出入りしたのでも、西洋の哲学・科学を参照したのでもなく、もっぱら『古事記』の真意を明らかにすることに努めた。しかし、彼が『古事記』の真意として主張したものには、おのずと独自の見解が含まれ、彼自身の学説を成していた。

まず『古事記』によって、世界の始まりを、次のように考えた。昔、まだ天地が存在せず、万物も生まれていないとき、空漠とした大いなる虚空の中に、天御中主神が自然にお生まれになった。高皇産霊神・神皇産霊神の二神も、それに続いてお生まれになった。そして、こういう。

「さて、世間に存在する、あらゆることは、この天地を初め、すべての物も、営みも、ことごとく、皆、この二柱の産巣日大御神の産霊によって、生まれ出るのである。」――『古事記伝』

つまり、宇宙の万物は、皆、この二神が生成したものだとした。二神が万物を生成したということは、ひとまず認めるとしても、無から有が生まれることはない。天御中主神と、ほかの二神は、どのようにお生まれになったのか。これは、必然的に起こる疑問である。平田篤胤は、天御中主神を、「匂いも声もない大神が、始まりのない昔から、おいでになる」といい、北極の上におられる、始めも終わりもない神とした。しかし、宣長はいう。

「『天之御中主神』などを星に当てて説く説もあるが、それは、例の漢意にへつらった私説であり、まったく根拠のない誤りである。」――『くずばな』

始まりがないわけではなく、実体があるとするなら、その由来を詳しく説かなくてはならない。しかし、宣長は、こういう。

「三柱の神は、どのような道理があり、何の産霊によってお生まれになったのか、その伝えがないので、知ることは難しい。そうであるのは、非常に、不思議で、霊妙な道理によってお生まれになったのだろう。それは、まったく心も言葉も及ぶことではないので、もともと伝えのないのが、もっともなのである。ただ、虚空の中にお生まれになったのだろう。」――『古事記伝』

このように、天地の根源を、人には知ることのできないものとし、狭い人間の知恵で、それを知ろうとする愚かさを説いた。

「人の知恵には限りがあり、真実の道理を、推し量って知ることはできない。それなのに、天地の初めなどを、このような道理であるはずだと、どうして推して知ることができよう。その種の推測による説は、近いことについてさえ、大きく間違うものが多い。道理によって見れば、天地の始めも終わりも、知られないことはないと思うのは、身の程を越えたことであり、人の知恵には限りがあって、真実の道理は測り知りがたいと悟らない、誤った心得である。そもそも、道理に合っているように思えるからといって、物事を信じるのは間違いだ。合うか、合わないかも、実際は、普通の人に知ることはできない。説を立てる人も凡人、信じる人も凡心なのだから、どうして、本当に善し悪しを見きわめられよう。」――『古事記伝』

つまり、天地の根源である神の誕生などは、到底、人の知恵では分からないとした。これは、まだ天御中主神を最高の原因とし、自らが自らの原因となる、といった思想を持たなかったため、さらに上の原因を求めても得られず、人の知恵の狭さという囲いの中へ退いたのである。中国では、古来、哲学が大いに発達し、天地の根源や宇宙の始まりについて、さまざまな説を立てた。『列子』には、次のようにある。

「形のあるものは、形のないものから生まれる。したがって、太易があり、太初があり、太始があり、太素があるという。太易とは、まだ気が現れない段階である。太初は気の始まり、太始は形の始まり、太素は質の始まりである。気・形・質が備わって、まだ互いに離れていないので、渾淪という。渾淪とは、万物が一つに混じり合い、まだ離れていないことをいう。」――『列子』天瑞篇

老子は、さらに簡単に、

「道は一を生み、一は二を生み、二は三を生み、三は万物を生む。」

と説き、『淮南子』には、

「道は一から始まるが、一のままでは生まない。そのため、分かれて陰陽となる。陰陽が和合して、万物が生まれる。」

とある。このように、中国には、始まりについて、さまざまな説があるが、要するに、『易』の太極説と、大きな違いは見られない。そのため、孔穎達はいう。

原注

孔穎達は唐代の学者。太宗のとき、国子司業となった。

「老子は、道が一を生むといった。一とは、『易』の太極、『礼』の太一と、意味に違いはない。いずれも、気と形の始まりである。」――『礼記』月令正義

このように、太極・陰陽の説は、中国で最も広く行われた創世論であった。後世、宋の儒者が理と気の説を立てると、理を太極とし、太極が動いて、初めて陰陽が生じるとした。しかし、太極は理であって形がなく、陰陽は気であって形があるとするなら、両者は、どのような関係にあるのか。『列子』の「形あるものは、形ないものから生まれる」というような、独断的な論法を取らない限り、ここには、詳しい説明を与えなくてはならない。周子の『太極図』の説明も、あるいは、そのために加えられたものと見るべきだろうか。こういう。

「無極でありながら太極である。太極が動いて陽を生み、動が極まれば静となる。静によって陰を生み、静が極まれば、再び動く。一動一静が、互いに、その根となる。」

朱子は、さらに敷き広めて、「太極は、もとからある妙なるもの、動静は、それが乗る働きである。太極は形而上の道であり、陰陽は形而下の器である」といった。この形而上と形而下の関係、あるいは理と気の先後の問題などは、宋の諸先生の頭を悩ませ、ついに、誰もが納得する解決には至らなかった。これこそ、千古の疑問というべきである。そこで宣長は、太極・陰陽の説を、無益な説として退けた。

「陰陽とは、では、どのような道理で陰陽なのかといっても、その道理は分からない。太極・無極などということもあるが、それも、どのような道理で太極・無極なのかといえば、結局、根本の道理は分からないということになる。したがって、実際には、陰陽も太極・無極も、何の益もない、いたずらな説であり、わずかに、人の知恵で推し量れる範囲の、小さな道理へ、さまざまな名を付けたにすぎないのである。」――『古事記伝』

このように、あの三神の由来などは、人の知恵の及ぶ範囲ではないとしたのである。

第三十二節 天地の生成

始まりの三神は、すでにお生まれになった。複雑な世界は、ここに端を発した。しかし、まだ天地があるわけではなく、四方も上下も、ただ空漠としていた。このとき、漂い流れる、浮いた脂のようなものが、産巣日神の神霊によって成った。これを天地の始まりとする。宣長の説は、このようだった。そのため、「天地が初めて開けたとき」というのは、大まかな言い方であり、「天地がまだ生まれないとき」というのが、少し詳しいとして、天地の起源を、こう説く。

「そもそも、あの浮いた脂のような物は、天と地がまだ分かれず、まず一つの塊として成ったものである。その中で、天となるべきものが、今、芽生え昇って天となり、地となるべきものは、残りとどまって、後に地となったのだから、これは、まさしく天地が分かれたのである。」――『古事記伝』

このように、浮いた脂のようなものが地となり、天は、その中から発展したものとした。したがって、『日本書紀』に「天が先に成り、地が後に定まった」と記すことなどは、「非常に賢しらめいて、煩わしい」といって退けた。さらに、天地万物は、産霊の二神によって創造されたと、明確に述べている。

「浮いた脂のような物が生まれ始めたのも、それが分かれて天地となったのも、また、この次々の神々がお生まれになるのも、ことごとく、皆、二柱の産霊の大神の産霊によらないということはない。」――『古事記伝』

篤胤も、この宣長の説を受け継ぎ、熱心に述べ広めた。しかし、『古事記』に「天地が初めて開けたとき」と記し、『日本書紀』の一書に「天地が初めて分かれた」〔第四の一書〕と記すことや、安麻呂が「乾坤が初めて分かれ、三神が造化の始まりとなった」ということから考えれば、古代の思想では、天地がすでに分かれた後、三神がお現れになったとしていたようだ。これを明確に論じたのは、宣長の孫弟子にあたる、尾張の小林茂岳である。彼は、こういう。

「天地が初めて開けたときというので、このとき、天も初めて成ったものと聞こえる。しかし、それが何であったのか、姿などは伝えがなく、まったく知ることができない。ただ、古くから、天地が分かれたときなどという言葉があるので、もとは、天と地とが分かれたものだったのだろう。天之御中主神がお生まれになる前に、天はすでに成っていたのである。さて、天だけでなく、地も、国土がまだ固まらなかったときからの伝えであって、大地が初めて成ったことは、伝わらない。あの葦の芽のようなものは、天地が成って、しばらく後に出てきたものである。そのため、確かな伝えに、『天地の中に一物が生まれ、その姿は葦の芽のようであった』とある。そもそも、空中などというのも、天と地との間のことである。それを、天地が成る前は、虚空の中だったというのは、天地の外を、今、目の前にある空のようなものだと考えているのだろう。それは、まったく、ありそうもない想像である。それなら、天地の外は、どのようなものかといっても、まったく、たとえていうこともできない。今、目の前で大空と指す所は、天地の中のことであり、限りのある物なのである。よく考えるべきだ。」――『天説弁』

それでもなお、三神は天地の前に成り、天地は、産霊二神の産霊によって成ったとするなら、典拠が必要である。そこで宣長は、『顕宗天皇紀』の託宣を示した。

「三年春二月、阿閉臣事代が、使いとして任那へ行った。月神が人にかかって、『わが祖・高皇産霊は、天地を造ることに携わった功績がある。民の土地を、わが月神に奉るべきである。願いのとおりに献上するなら、私は福を与えよう』と告げた。」

また、

「夏四月、日神が人にかかり、阿閉臣事代へ、『磐余の田を、わが祖・高皇産霊に献上せよ』と告げた。」

これが、宣長の、二神が天地を造ったという説の根拠である。私たちは、これを、伊勢貞丈の「総じて昔話の夢想というものは、皆、偽りだろう。自分の考えだといっては人が信じないので、夢想と名づけ、仏神にかこつけたのである。託宣なども同じだ」〔『貞丈雑記』〕というように、一言で退けるわけではない。また、佐々木祐肇は、この託宣には、おそらく事実と違うところがあるだろう、そうでなければ、なぜ、このような重大なことを、外征の途中で事代に告げるのかと考え、宣長の、天地を鋳造したという説は、ひたすらキリスト教に基づくこじつけだとしたが、それにも、ただちに賛成するものではない。しかし、神道そのものの立場から、天地の鋳造を説かなくてはならない必要があるのか、疑問を抱かずにはいられない。もし必要があるとしても、学者は、さらに考え直さなくてはならない。宣長の説は、論拠がきわめて弱く、学説としても、まだ非常に幼い域を出ていないと思う。

第三十三節 高天原

あの浮いた脂のようなものから、天地が成ったという。では、天とは何か。中国でいう天には、さまざまな意味がある。『中庸』には、

「今、この天は、わずかに明るく見えるところから成るが、その無限の広がりでは、日月星辰がかかり、万物が覆われている。」

とあり、『易』には、「飛ぶ龍が天にある」とある。

これらは、平田篤胤が「この青々として、上下四方が、すべて丸くなっているように見える所の境を、あめという」と解したのと同じく、いずれも、青い空を指したものである。

しかし、『論語』には、「天が私に徳を生んだ」〔述而〕といい、「天に罪を得れば、祈る所はない」〔八佾〕といい、また「天は何を語るだろうか。四季はめぐり、万物は生まれる。天は何を語るだろうか」〔陽貨〕とある。

これらや、『尚書』の「天が秩序立てた、常の道がある」〔皐陶謨〕、「天が順序立てた、礼がある」〔同上〕というのは、いずれも天帝、または上帝の意味で使われたものである。宋の程子が現れると、天についての、この二つの考えを調和させ、こう述べた。

原注

典とは、常の道であり、五典をいう。五典は、『左伝』では父・母・兄・弟・子をいい、『孟子』では父子・君臣・夫婦・長幼・朋友をいう。

「天を総体としていえば、道である。『天さえも違わない』というのが、これである。分けていえば、形体から天といい、主宰するものとして帝という。」――同上

宣長のいう天は、いったい、このどれを意味するのか。彼は、まず「あめという名の意味は、まだ考えつかない」といい、無理にこじつける説を立ててはならないと論じたが、後には、さらに説を立て、こういった。

「あめという名は、『葦萌(あしもえ)』を縮め、『し』を省いたものではないだろうか。」――『古事記伝』

この天の語源には、学者の間で、さまざまな説がある。橘守部の説を見ると、「あめは、空目を縮めたものだ」といい、さらに「空目とは、虚空は青々と見えても、天の境は、見ても見えないことをいう」〔『稜威道別』〕と述べている。

ここで、天の語源を深く研究しようというわけではない。ただ、その内容を明快に説明してほしいのである。宣長は、この要求に応じていう。

「天と虚空とは別であり、細かく分けていうこともあるが、ともに上の方にあるので、この国土からは、天を空とも、虚空を天とも、通わせていうのが普通であり、天つ空などともいう。」

このように、大いなる虚空のほかに、別に天というものがあると示し、さらに、

「天は虚空の上にあって、天の神々がおられる御国である。」――『古事記伝』

といった。天は虚空ではなく、天帝・上帝の意味でもない。天についての彼の説は、古来、中国で行われた諸説と、大きく異なるところがある。彼自身も、その理由を、明確に述べた。

「そもそも外国には、正しい古伝説がないため、天の本当のあり方を知らず、ただ、推測による空論ばかりをいうのである。」――『古事記伝』

また、こうもいう。

「中国人が、何かにつけて天、天というのは、神があることを知らないための間違いである。天は、ただ神のおられる国なのである。」――『玉勝間』

こうして、天によって、日本の古伝にある高天原を説明しようとした。

「天は、すなわち高天原なので、実際の形を持つことは、いうまでもない。仰いで見えないのは、ただ遠いため、目が届かないだけである。」――『古事記伝』

天が高天原であるなら、以上の天の説明から、高天原についての考えも、いくらかうかがえる。しかし、さらに一歩進め、彼が高天原について抱いた考えを調べなくてはならない。伊勢貞丈は、かつて高天原を、次のように解した。

「高天原は、もともと天を指していい、また、どこの国であれ、わが国の君主のおられる都を、天になぞらえて高天原というのである。」――『神道独語』

このほかにも、そのような説を唱える者は、少なくない。宣長は、それに反対していう。

「天皇の都をいうなどという説は、古の伝えに、はなはだしく背く私説である。そもそも世の物知りは皆、漢籍の考えにとらわれ、溺れて、神の不思議で霊妙なあり方を疑い、虚空の上に高天原があることを信じない。これは、大変愚かなことだ。」――『古事記伝』

また、『日本書紀』の一書に、「天照大神は、高天原を治めることができる。素盞嗚尊は、天下を治めることができる」とあるのに基づいて、こういう。

「もし高天原が、この国土の中にあるなら、素盞嗚尊が天下を治め、天照大御神は、一国の国造に任じられたようなものになる。実に、おかしなことだ。」――『古事記伝』

このように、種々の方面から、高天原が虚空の上にあることを説いた。そして、高天原を天と同一とし、あの浮いた脂のようなものから成ったとして、根本から、具体的なものと考えていた。そうであるなら、形やありさまは、どうなのか。彼は、こういう。

「天は、まず天の神々がおられる御国なので、山川や木草の類、宮殿、そのほか、あらゆる物も営みも、すべて、皇孫の治める、この国土のようであり、なお、すぐれた所である。したがって、大体のありさまも、神々の、あらゆることも、この国土にあることのようなのである。」――『古事記伝』

この宣長の説を、門人・篤胤の説と比べると、篤胤は宣長に反対し、まず高天原を、大いなる虚空の上方、いわゆる北極の上空、紫微垣の内とした。

「この紫微宮のあたりは、最も高い所の極みであり、天の中心となる所なので、こここそ、高天原というべき所だからである。」――『古史伝』

原注

中国の天文学では、紫微星というものが、天の紫微宮の中にあるという。これが、中国の天帝であり、そばに三台星があって、守っているという。

そして、浮いた脂のようなものから成ったのは、天ではあるが、その天は、すなわち太陽であり、その太陽の中を、高天原になぞらえ、天の神々が、天と名づけられたのだとした。こう述べている。

「その中におられる天の神々が、この天地に住む人が、大虚空の境を見渡すように、天つ御国の境を見回して、そのまま、あめと指していわれ、その内の、空いて広い所を指して、天の原といわれたのだろう。」――『古史伝』

この点で、宣長と篤胤の説には、大きな違いが生じた。篤胤が、このような説を唱えたのは、宣長の説の矛盾を避けるためだったのだろう。宣長の主張は、すでに述べたように、造化の三神が現れ、その後に創世の営みが行われたというものだった。しかし、古伝は明確に、「天地が初めて開けたとき、高天原にお生まれになった神」と伝え、三神の誕生前に、すでに高天原が存在していたことを示している。そこで宣長は、

「『高天原に成った』といっているのは、後に天地が成ると、お生まれになった所が高天原となり、その後も高天原におられる神だからである。もともと高天原があって、そこにお生まれになったというのではない。」――『古事記伝』

といい、何とか、その矛盾を免れようとした。しかし、その言葉に、こじつけの感じがあることは、覆い隠せない。そこで篤胤は、

「後に成ったものを、まだなかった以前にまで及ぼしていうことも、ないわけではないが、ここは、決してそうではないはずだ。」――『古史伝』

といって、『春秋元命包』などに基づき、高天原を北極とし、宣長と同じく創世説を説きながら、宣長より巧みに、その矛盾を逃れようと努めた。しかし、篤胤の説にも、さまざまな弱点がある。たとえば、高天原を北極としながら、それに対する夜見国を南極としなかったことや、高天原は後に太陽となったとするのに、古伝には、高天原を、あるときは北極、あるときは太陽とする区別が認められないことなどである。私は、宣長の創世説は別問題として、高天原を、虚空の上にある御国と解したことは、古伝の真意を、よく得ていると考える。

『釈日本紀』が高天原を解し、「私記にいう。師説では、上天をいう。考えるに、虚空というべきである」と述べ、一条兼良が、「高天原は上天を指す。高とは、天の形が、きわめて高いからである。原とは、『説文』で、高く平らな所を原という。天上は、広く厚く、平らで正しい。そのため、原という」〔『日本書紀纂疏』〕と述べたことなどは、比較的、よく古伝を表した説といえるだろう。

真淵も、「高天原とは、天が高く、広く平らなのでいう。大海原・国原などというのと同じである。秘事があるかのようにいうのは、論じるに足りない」と述べ、吉川惟足が「一念も起こらない心を、高天原と心得るのだ」〔『神道大意講義』〕などと説くことや、垂加流神道が、繰り返し秘伝があるとすることを退けた。

宣長が虚空の上の御国とし、『釈紀』が上天とし、そのほか真淵の言葉なども、古意を得ているのだろう。しかし、後世の、宣長のいう漢籍意に陥った人には、満足できない。そのため、宣長らの説を不合理とし、自ら合理的に説明しようとした。鈴木重胤は、その一人である。彼は、「故大人たちの説は、あまり詳しくない」といい、自ら説を立てて、こういう。

「高天原は、現身の目で見れば、はるかで、何もないようなものだが、姿の見えない神々が鎮まり、主として治めておられる神域であり、天地万物の出た源である。」――『真代真言』

また、こうもいう。

「天の境の内は、このうえなく空虚なように見えても、もとの気に、精と神をはらみ、水がくぼみにたまるように、少しの隙間もなく、大きく満ち広がっている。これを、高天原という。」――『日本書紀伝』

つまり、世界がまだ起こらない上下四方を、古伝の最初にある高天原と解したのである。橘守部の解釈は、これとも、いくらか違っている。

「高天原というからといって、必ず青空の上の、とても高い所と思うのは、こだわりすぎるものである。」――『稜威道別』

さらに、高天原は天であるとし、次のように説いた。

「天とは、この世の人の目に見えない領域をいい、黄泉と境を分けている。要するに、天も黄泉も、幽冥の中の、それぞれの名であって、この世の外へは出ない。近くいえば、上下左右に身体を包み、ただ手に触れないだけである。遠くいえば、いわゆる六合の間に充満し、ただ目に見えないだけである。その目の届かない間に、天・黄泉・幽の三界があることは、皆、本文に出ていて確かである。違いは、神については天といい、鬼については黄泉といい、この二つを合わせて幽というのである。」――『稜威道別』

このように、高天原は、古くから神道研究者を悩ませた大問題で、さまざまな説が出た。しかし、私は古伝の冒頭にある高天原は、宣長の説どおり、虚空の上の国と考える。少し後の時代には、伊勢貞丈のいうように、帝都を高天原と呼び、また谷重遠が「高天原は皇居である」〔『秦山集』〕といい、現在でも宮中を雲の上というように、本来の意味から転じて派生的に使う場合もあっただろう。あるいは、久米氏のいう宗教的なたとえを用いたり、詩的な思いで光景を抽象したりする場合もあるだろう。こうしたものは、純粋な歴史家には、解釈しにくいに違いない。しかし、天地が初めて開けたときの高天原を、現代の一部の古代史家のように、大陸の、ある土地、ある国だと論じるのは、乱暴といわざるをえない。人は天地より後に生まれ、天地の始まりを知るといっても、それは哲学の問題であり、どうして歴史的に知ることができよう。そのときのことを論じるのは、歴史家の範囲を逸脱している。重胤らの説には、発展した神道説として、耳を傾けるのを惜しまない。ただ、古伝の真相を明らかにしようとする者は、虚空の上の御国と解した宣長の説に従うべきである。

第三十四節 夜見国

宣長は、古典に基づき、高天原に対して夜見国を置き、人が死んで、その魂が帰る所とした。死んで魂が向かう所という。そもそも、死とは何か。まず、この問題について、宣長の説を聞かなくてはならない。彼はいう。

「仏教の書に説かれた、生死のあり方や心の本性についての説は、たいそう詳しいようだが、すべて人が考え出した作り事なので、十分に悟って明らかにしたとしても、結局、何の役にも立たない、無駄な営みである。ただ、儒者の説に、死んで肉体が滅びれば、心も精神も、ともに消えて残らないというのは、よく考えると、確かにそうであるはずの道理に聞こえる。しかし、これもまた、頼みにはできない。」――『玉勝間』

こうして、まず儒教と仏教の思想を退け、宇宙の現象は、多くの場合、人の知恵では計り知れないものだと論じ、さらにいう。

「だから、人が死んだ後のありさまも、人の知恵によって、ひととおりの道理から推し量れるものではない。思いがけないものであるはずだ。このことを考えても、皇国の神代の神から伝わる説に、夜見国へ行くというのは、まことに尊い。」――『玉勝間』

こうして彼は、生死は理解できないとしても、古典に照らせば、人が死ぬとき、その肉体はこの世に残り、魂は夜見へ帰ると知り得る、とした。彼はいう。

「この肉体は亡骸となり、はっきりと、この目に見える国に留まっているのだから、夜見国には、魂が行くのであろう。」――『古事記伝』

魂が夜見国へ向かうとするなら、彼は、魂の不滅を、自明のこととしているようである。しかし、ひとたび純粋理性の立場に立つと、「肉体が朽ち滅びれば、精神もまた散り去る」〔『小学』〕といった結論に至ろうとする傾向がある。少しでも、こうした説を唱える者があれば、宣長は直ちに激しく反論し、夜見国についての、あらゆる古伝を否定する、漢意・漢習の最も甚だしいものだとして、熱心に古伝を擁護し、こういう。

「およそ神代の伝説は、すべて実際にあったことであり、そのようにある道理は、人の知恵で知ることのできる範囲にないのだから、そのような、さかしらな心で考えてはならない。」――『古事記伝』

要するに、彼は魂の不滅を前提とし、夜見国を、その帰着する所としたのである。このため、その思想には、中国でいう黄泉に似たところが多い。しかし彼は、外国の思想を借りて夜見国を論じることを退け、次のようにいう。

「外国のさまざまな教えの書がなかった、上代の心に立ち帰り、ただ、死者が行って住む国と理解すべきである。」――『古事記伝』

こうして、人が死ねば夜見国へ帰ることは、神代の古伝に基づき、最も明らかだとした。ある人が、その説は、仏教の説くところに似ていると非難すれば、彼は大いに弁じ、こういう。

「人が死ねば、善人も悪人も、黄泉国へ行くほかない。それなのに、仏道の地獄の説に似ていると疑うのは、どういうことか。たとえ地獄と、まったく同じあり方であっても、差し支えはない。神代の古伝が、どうして、後世の仏道に遠慮しよう。そのうえ、仏道の考えは、悪人は地獄へ、善人は天上や浄土へ生まれるというもので、わが道とは、大きく異なる。あちらは方便としての作り事なので、善悪についての、当然の道理に合うように仕立ててあるのだ。」――『答問録』

宣長は、終始このように、善人も悪人も、ひとたび死ねば、すべて夜見国へ帰るものとした。ところが篤胤は、この宣長の説に大いに反対し、こういう。

「この地上と黄泉との間は、大国主神が行って帰られて以後、神々が現身のままで、というのは、いうまでもなく、その御霊さえ往来したという事実も伝承も、まったく見られない。これは、伊邪那岐大神が、あの国をひどく憎まれるお気持ちから、あの国と、この国との往来を禁じられたことによると見え、まことに畏れ多い定めである。それなのに、昔も今も、人が死ねば、その魂は、すべて夜見国へ帰るという説があるのは、恐れ多くも、伊邪那岐大神が、厳しく定められた御心を考えず、また、大国主神が幽冥を司り治められる、深遠な約束の妙なる意味も、順序立てて考えない、たいそう忌まわしい誤説であり、嘆かわしいかぎりである。」――『霊能真柱』

さらに、こういう。

「わが師が、人は死ぬと、その魂は、善い者も悪い者も、すべて黄泉国へ行くといわれた説は、どうして誤説でないことがあろうか。」――同上

そして篤胤は、この誤解の原因を説き、こういう。

「そもそも、この誤説が現れた原因を、つらつら考えると、夜見という語に、黄泉の字を当てたことから起こった説なのである。」――同上

篤胤が、魂は夜見国へ帰るということを否定したのは、夜見国を月とし、別に、冥府というものの説を立てたためである。しかし、夜見国を月とするのは、必ずしも、古典の正しい意味を捉えたものとはいえない。これを「亡骸を仮に納め、葬る所」と解するのは、あるいは古意に近いだろうが、平凡である。そこで宣長は、「下の方にある国である」と解し、人が「死者に会おうとして、夜見国へ行くには、その亡骸を納めた所から行くのであろう」とした。しかし、このような説を、一般の常識で判断すれば、最も幼稚な見解のように見える。宣長も、もとより、それを知っている。だから、こういう。

「こうしたことは、世の、さかしらな人々には、たいそう愚かなことと思われるだろう。しかし、そのように愚かに聞こえることに、かえって、底知れない深い道理がある。その道理を、どうして人が知り得ようか。」――『古事記伝』

『古事記』『日本書紀』を、文字どおり解釈しようとすれば、議論が結局ここに至るのは、やむを得ないのであろう。それでも私たちは、この問題についても、より合理的な解釈を得て、知的な欲求を満たしたいと願う。篤胤は、この満足を与えるために、生死と、目に見える世界・見えない世界の説を立てたが、かえって人を、ますます岐路に立たせる嫌いがある。生死は、依然として、永遠の疑問である。

外国の仏や聖人を、あがめ奉りながら、
わが家の父母を知らない、世の人よ。
――本居宣長

第九章 原理論

第三十五節 神祇論

私たちは、すでに、世界についての宣長の思想を述べた。次には、彼の学説の根本となる方面を述べなくてはならない。その根本は、彼のいう「神の道」にある。だから、ここでは、まず「神」というものについて、彼の抱いていた観念を明らかにしなくてはならない。

漢字の「神」について、『説文』は「神の字は、示と申とに従う」と解し、徐広は「申は、すなわち引である」といった。神の字は、陰陽の二気が、万物を引き出す姿に名づけたものであろう。

『論語』に「神を祭るときは、神が、そこにおられるようにする」〔八佾〕といい、孔安国も、神の字を解して、「天の精を神という」などといったことからすると、もちろん、この字は、霊的な対象という観念を示したものと認められる。しかし中国では、『易』に「陰陽の、測り知れないはたらきを神という」とあるように、形容詞として使う場合も少なくない。ところが、わが国で「かみ」という語は、その意味も内容も、これと大きく異なるところがあるようだ。

まず、その語義について、忌部正通は「かむかみ」〔鑑〕の略とし、契沖も「かがみ」の略といい、谷川士清は「明見」の略と解した。益軒や貞丈は、「上」と同じだと主張し、篤胤は「加備〔牙〕」を語源として、「加夫」も「加牟」も同じものとした。そのほか、「加洛では干といい、卓淳では旱岐といい、新羅では居西干といい、匈奴では可汗といい、日本では神という。すべて酋長、または王の意味であり、もともと同じ語源から出たものに違いない」〔『古代の研究』〕などともいう。このように、日本の「かみ」の語義には、古来さまざまな説がある。宣長は、この問題について、「昔の諸説は、すべて当たらない」といって、古来の説を退けた。それなのに、自らは「かみという名の意味は、考えつかない」といい、独自の見解を立てなかった。

神の語義の問題については、拙著『平田篤胤之哲学』で、私なりの解答を述べたので、読者には、そちらを参照いただきたい。ここでは、先へ進み、「神」の内容についての、宣長の説を述べよう。彼はいう。

「およそ、かみとは、古い典籍に見える、天地のさまざまな神々をはじめ、それを祭る社におられる御霊をもいい、また、人はいうまでもなく、鳥獣・草木の類、海や山など、そのほか、どのようなものであれ、並々でなく、すぐれた徳があり、畏るべきものをいうのである。」――『古事記伝』

これによって分かるように、彼が神とするものは、必ずしも「かむかみ」の意味でも、目上の者という意味でもない。ただ、並み外れた徳を持ち、畏るべき力を備えたものなのである。彼は、さらに、そのすぐれた徳の意味を解し、こういう。

「すぐれているとは、尊いこと、善いこと、功績があることなどに、すぐれているものだけをいうのではない。悪いものや、不思議なものなどでも、世に抜きんでて、畏るべきものは、神というのである。」――同上

こうして彼は、狐や狼、稲妻や雷から、川・海・山岳に至るまで、すべて神とした。彼はいう。

「虎や狼を神といったことが、『日本書紀』『万葉集』などに見える。……また、海や山などを神ということも多い。それは、その御霊としての神をいうのではなく、直接、その海や山そのものを指していっている。これらも、たいそう畏るべきものだからである。」――同上

彼は、鳥獣や草木に至るまで、鳥獣や草木そのものを神とした。したがって、彼のいう「すぐれた徳」は、決して、私たちのいう、人間を超えたものという意味ではない。だから彼は、神にも貴賤・強弱・善悪があると論じ、こういう。

「貴い、賤しいということにも、多くの段階があり、最も賤しい神の中には、徳が少なく、普通の人にも劣るものさえある。」――同上

さらに彼は、神の行為について論じ、こういう。

「正しい善神であっても、何かに触れて怒られるときには、世の人を苦しめられることもある。邪悪な神であっても、まれには、善いはたらきもあるだろう。」――『答問録』

また、こうもいう。

「善い神だからといって、その程度に応じては、正しい道理のままでばかりも、いられないことがあるだろう。何かに触れて怒るときなどは、荒ぶられることもある。悪い神も、喜べば心が和らぎ、物事を幸いにすることが、まったくないわけではないだろう。」――『古事記伝』

これは、いわゆる神人同情説〔Anthropopathismus〕であり、古代ギリシアに見られたように、神も人間と同じ感情を持つ、とする説である。しかし、いやしくも神が、このように人にも劣り、感情の奴隷となり、卑劣な行いさえ、あえてするのだとすれば、私たちは、それを神として尊敬することを、ためらわざるを得ない。

しかし、古代に「青人草」と呼ばれた、多くの国民にあっては、知識が、まだ発達していなかったため、日や月の満ち欠け、潮の満ち引き、電気の引き合いと反発、空気の振動など、不思議でないことはなく、奇異でないものはなかった。そこで、その素朴な精神は、こうした不思議な現象を捉え、そのまま神と名づけたのである。したがって古伝にも、こうした意味を伝えるところは少なくない。宣長は、これを詳しく理解したというべきである。

しかし、古代であっても、当時の文明を導く立場におられた、いわゆる神々が持っておられた「神」の観念は、このように幼稚なものではなく、今日の日本国民のものと、隔たりがなかったようである。宣長は、古伝を余さず、漏らさず伝えようとして、このような解釈をした。それでも、彼の心に浮かび、信仰の対象となっていた神が、人間を超えた属性を持っていたことは、疑いない。少し、これを論じてみよう。

宣長は、常に、神には善悪があるとし、それによって、世の吉凶や禍福を説明しようとした。彼はいう。

「天地の間のことは、すべて神の御業であり、御国も外国も違いはないのだから、どこの国の神であっても、悪いはたらきをするのは、すべて禍津日神の御心による。」――『答問録』

この論法は、自然な成り行きとして、次の説へ進む。

「およそ、仏道にさまざまな不思議があるのも、すべて神の御業なので、疑うには及ばない。」――同上

こう説いて、ついには、「釈迦も神である」「聖人も神である」「空海のような者も神である」というに至る。すでに神である。「善い神も、悪い神も、たいそう尊く、すぐれた神々の御身の上に至っては、まことに妙で、霊しく、不思議であらせられる」として、神の行為は、人の認識の範囲を超えるという議論は、そのまま儒教や仏教にも、適用しなくてはならない。

ところが彼は、聖人を「たいそう悪い人である」とし、その道を、人の作った道と呼び、仏法も、人が「みだりに作ったもので、道に反することは、いうまでもない」〔『葛花』〕という。人も家畜も鳥獣も、すべて神だというなら、こうした議論が生じても、もとよりよい。しかし、彼が胸中に抱く神の観念が、少しでも人間を超えたものだったならば、彼は直ちに、矛盾を免れない。そして実際、彼は、この矛盾に陥った。そのため、人に、この弱点を突かれると、弁明しなくてはならない。そこで、こういう。

「聖人も神である。だから、その道も、神の始めた道である。それなのに、人の作った道だというのは、顕露事と幽事との区別を知れば、よく分かることである。」――『答問録』

さらに、こういう。

「その顕露事というのは、今日の人間の事柄である。だから、中国で、聖人という神が現れ、その道を作ったのは、人間の事柄なので、人の作った道だというのである。聖人のようなものは、神であっても人である。したがって、その作ったものは、人の作ったものである。」――同上

この議論は、はなはだ明快さを欠くのではないか。こうして彼は、神を広い意味に解し、こういう。

「神というのは、たいそう広い名であり、その中には、さまざまな神がある。あの聖人のようなものは、神という中でも、ひととおりの正しい神ではない。人である神である。」――『答問録』

そして彼は、これを、人間を超えた禍津日神に帰し、こういう。

「あの聖人の作った道も、もとをいえば、禍津日神の心から出たのである。」――同上

また、こうもいう。

「空海のような神が世に現れ、不思議な業を行い、人が尊ぶのも、すべて禍津日神のはたらきではないか。」――同上

要するに、彼は、古典の一般的な解釈としては、山川草木、人や家畜、虫や魚まで、少しでも異常な現象を示すものは、すべて神とした。しかし、彼自身の信仰の対象となる神は、まったく、人間を超えたものであった。とりわけ、彼の主張する「神の道」の「神」は、決して、こうした種類のものではない。実に、私たちのいう、秩序的で統一的な思想、現世的で快活な感情、発展し、広がろうとする性格の精髄を体現し、その精華を集め、並々ならぬ力を持ち、まったく人を超えておられる、わが皇祖神にほかならない。だから彼は、「皇国の神道は、皇祖神が始められ、保たれる道」〔『直毘霊』〕だという。これによって、彼の神の観念が分かる。

第三十六節 神祇論(続)

私たちは、すでに、宣長の信仰の対象となる、神の観念を明らかにした。ここからは、彼が皇祖神とする、主な神々の意味を明らかにしよう。

彼は、まず天御中主神について、「この神は、天の真ん中におられ、世の中の主である神という意味の御名であろう」といった。

そして、高御産巣日神・神産巣日神を解して、「高は美称であろう」「御も美称である」とした。神産巣日は神御産巣日であり、御が省かれたものである。「神御は、高御と並ぶ称え言葉である。産巣日は、字はすべて当て字であり、産巣は、生むことである」「日は、『日本書紀』で産霊と書かれた、霊の字が、よく当たっている。およそ、物の霊妙なはたらきを、ひという」「さて、世の中の、ありとあらゆることは、この天地をはじめ、すべての物も、営みも、ことごとく、この二柱の産巣日大神の、むすびの力によって生じるのである」という。

この神の解釈は、彼の創世説の基礎であり、その大要は、すでに述べたので、ここでは繰り返さない。

次に宣長は、宇麻志阿斯阿備比古遅神の意味を説いた。「うまし」は、美しいものを称える言葉であり、心にも、目にも、耳にも、口にも、美しいものを褒めていう。「あしかび」は、葦が、わずかに生え始めたことをいい、「ひこ」は男子の美称、「ぢ」は尊称だとした。天地となるべき、葦の芽のようなものから成った神なので、このように名づけられた、としたのである。

この神の後に成った、天之常立神について、彼は、「あめのとこたち」は「あめのそこつち」の意味だとした。「およそ、底とは、上でも、下でも、横でも、行き着いた、どん詰まりの所を、どちらの方向でもいう。『万葉集』巻十五に、『あめつちの、そこひのうらに』とあることから、天にもいえると知るべきである」といい、「つちの、つは、いつもの助辞であり、ちは、久久能智などの智と同じで、尊ぶ名でもあるだろう」と解した。そして、この神は、天となるべきものが、次第に上昇し、昇りきった所に成った神だとした。

宣長は、『古事記』に従い、以上の五神を、別天神とした。「『日本書紀』の諸伝に、多く、国之常立神を最初の神として、この五柱の天神を挙げないのは、ただ、この国土の方に成り生まれる神だけを伝え、天上に成られる神は、別の神として省いたのである」という。

彼は、さらに国常立尊について、この名を「くにとこたち」と読むのは誤りであり、『古事記』のように、国之常立神とするのを正しいとした。その意味は、天之常立に準じて知るべきだとする。そして、「この神を、天之御中主神と同じ神だ、などというのは、いつもの、こじつけの中でも、特に甚だしい」といった。

『日本書紀』は、国常立尊の次に、国狭槌尊という神を挙げている。宣長は、これを、『古事記』の「大山津見神と野槌神の二神が、山と野を分け持って生んだ、次の神は、天之狭土神、その次は国之狭土神」とある、その国之狭土神の異伝とした。篤胤も、この説を主張した。

しかし私は、『日本書紀』の冒頭にある国狭槌尊を、国常立尊の別名と考える。長らく、この見解を持ち、宣長と篤胤の説を退けてきたが、後に、鈴木重胤の説を見ると、私の見解と同じであり、ますます確信を強めた。すなわち私は、国常立尊は、国之常立尊とも、国狭槌尊とも、国狭立尊とも称した神だと考える。

『神代系紀』という書がある。必ずしも、根拠とすべきものではないが、その書には、「国常立尊。また、国狭立尊ともいい、国狭槌尊ともいう」とある。私の説の、傍証とすることができる。

こうして、国常立尊に次いで成り出でられた神は、豊雲野神である。これを受け、宇比地邇・須比智邇、角杙・活杙、意富斗能地・大斗乃弁、淤母陀琉・阿夜訶志古泥、伊弉諾・伊弉冉の諸神が生まれられた。これが、いわゆる神世七代である。この七代の神については、古来、さまざまな学説がある。北畠親房は、国常立尊は、すなわち天御中主神であり、五行の徳を持たれるとし、国常立尊と、伊弉諾・伊弉冉の二神との間の五代を、五行に当て、次のようにいう。

「これらの諸神は、実際には、国常立の一神であられるのであろう。五行の徳が、それぞれ神として現れられる。これを六代とも数える。二世、三世という順序を立てるべきではないのだろう。」――『神皇正統記』

こう解すれば、国常立尊から、直接、伊弉諾・伊弉冉の二神に至るのである。玉木葦斎はいう。

「古伝には、七代が一代であり、一代が七代であるという意味がある。この七代の神は、もともと、国常立尊の、大いなる気と根源の霊から化生され、国土が成り定まり、伊弉諾・伊弉冉の二尊が、気から化生されたので、さかのぼって説けば、国常立尊の御一代に集約され、下へ向かって説けば、伊弉諾・伊弉冉の二尊の御一代に集約される。」――『神代巻藻塩草』

すなわち彼は、陰陽五行の精髄が、妙に結び合い、伊弉諾・伊弉冉の二尊として化生されたのだから、七代というのは、その過程を神格化したに過ぎないとして、七代は一代だと結論づけた。親房と葦斎の説は、要するに、陰陽五行にこじつけて、七代の神を、二代または一代に帰そうとしたものである。

度会延佳は、これとは趣を異にし、人の体になぞらえて、こういう。

「天地と人との始まりは、形が違っても、その道理が違うはずはない。」――『神宮秘伝問答』

そこで、国常立尊から惶根尊までの九神を、人の、九か月間の妊娠になぞらえ、十か月になると、男か女か、その体が現れ、男なら伊弉諾、女なら伊弉冉というのであろう、とした。国常立尊から惶根尊までは、まだ姿を現さない神、すなわち、胎内にある神であり、伊弉諾・伊弉冉の二神は、男女の体が現れたもので、明らかに、胎内から生まれ出られたものであろう、というのである。

平田篤胤も、延佳と、ほぼ同じ見解を持ち、伊弉諾・伊弉冉の二神の御体が、次第に成り整ってゆくありさまから、この二神に先立つ、四代の神の名が生じた、とした。篤胤の門人で、下総の高岡康則は、西洋の創世説を大いに参照し、これらの諸神について説を立て、こういった。

「康則が、恐れ多くも考えるに、国土の初めと、神の初めとの形に当てて、御名をお付けしたものではないだろう。これは、皇産霊大神が、伊邪那岐・伊邪那美の二神を造り出そうとして、あの、国土となるはずの物が、初めは泥や砂であっただろう、その中から、清らかな泥土を取り、少しずつ、その御姿を造り始められたことをいうのであろう。また、この時には、泥土も、まだなかったのを、それをも造り出されたのであろうか。」――『古史伝附考』

こうして、これらの諸神は、天神が泥土で、伊弉諾・伊弉冉の二神を造られるとき、次第に神の体が成ってゆく様子に、付け奉った御名だとした。そして篤胤は、これを評していう。

「これは、たいそう詳しい考えであり、そのとおりの説と聞こえる。従うべきである。」――『古史伝』

以上のように、七代の神についての諸説は、こじつけの嫌いを免れず、諸家の見解も、さまざまで一致しない。本居宣長は、これを解釈して、こういった。

「豊雲野神から、訶志古泥神までの九柱の御名は、国土の初めと、神の初めのありさまを、順々に割り当て、お付けしたものである。豊雲野、宇比地邇・須比智邇、意富斗能地・大斗乃弁というのは、国土の始まりのありさまであり、角杙・活杙、淤母陀琉・阿夜訶志古泥というのは、神の始まりのありさまである。

(ただし、国土も神も、その神が生まれられた時のありさまが、それぞれ、御名のとおりだったのではない。必ずしも、その時の姿とは関わらず、ただ、おおよその様子を、順々に御名に割り当てたのである。だから、これらの御名を、その時々の姿に当てて見てはならない。この点を、よく区別しなければ、疑問が生じるだろう。実際には、神は、初めの天之御中主から、どの神も、すでに体は整っておられた。面足神に至って、初めて整われたのではない。また、国土は、伊邪那岐・伊邪那美神の時でさえ、まだ、浮いた脂のように漂うばかりだったことから、理解すべきである。)

そうであれば、須比地邇の次に意富斗能地が続き、活杙の次に淤母陀琉が続くはずなのに、そうではなく、国土の初めと神の初めとで、御名の順序が入り交じっているのは、なぜかというと、まだ国土が成らない前に、国之常立神から、順々に神々が生まれられた。このため、意富斗能地神より前の神を、角杙・活杙と名づけ奉った。そして、顔が整ったのを見て、畏れを抱くのは、すでに国土も成り、人々も生まれた後のことなので、大斗乃弁神の次の神を、淤母陀琉・阿夜訶志古泥と名づけ奉ったのであろう。」――『古事記伝』

この宣長の説は、おそらく、古意を捉えたものであろう。すなわち、古代の国民が、この国土の発展に応じ、その時代ごとに、主宰する神として成り出でられた神々に、当時の国土の状態や、その神々の状態によって、御名を付けたのである。

第三十七節 神祇論(続)

神世七代の最後は、伊弉諾・伊弉冉の二神である。宣長は、この神名を解していう。

「『日本書紀』の『口訣』に、伊弉は、誘う言葉だといい、わが師も、いざなひぎみ・いざなひめぎみ、ということだといわれた。〔なひの、ひを省いたのである。〕確かに、この二柱の神が、結び合って国土を生み成そうとして、互いに誘い、促される意味は、そのとおりであろう。〔君を、ぎとだけいう例は、明宮の皇后の御言葉に、さざき、あぎ、とあり、また忍熊王の歌に、あぎ、とあるようなもので、どちらも、わが君の意味である。〕また、めぎみを縮めると、みとなる。」――『古事記伝』

この伊弉諾・伊弉冉の二神について、古来、学者が、神道の研究で最も困難を感じるのは、国土を生む、という問題である。

『古事記』によれば、伊弉諾・伊弉冉の二神が生まれられると、天神は、二神を高天原へ召し、「この漂う国を、修め、固め、成せ」と命じ、天の瓊矛を授け、この国へ下された。この神勅は、神道で重要な神勅の一つだが、『日本書紀』は、これを伝えていない。宣長は、これを解し、こういう。

「前の段でも、天神を省かれたのと同じことで、ここも編者の考えで省かれたように見え、どうかと思う。」――『うすの山蔭』

そして、古伝の文字どおり、この二神が、大八島と、そのほかの島々をお生みになったとした。この国土を生むことを疑う者があれば、宣長はいう。

「これを疑うのは、いつもの、生半可に利口ぶる漢意であり、神の御業が、不思議で霊妙であり、計り難いことを知らないのだから、論じるまでもない。

ただ、あの天神の大命については、論じることがある。まず、夜見の段で、男神の御言葉に、『愛しい、わが妹よ。私と、お前とが作った国は、まだ作り終えていない』とあるのは、すでに生んではおられるが、まだ、整えて経営し終えてはいない、と仰せられたのである。また、初めの天神の大命は、漂う潮を固め、まず国土を生むための基礎を作ることから始め、国土を生んで、立派に経営し、成り固めるまでを含めて、仰せられたのである。つくるという意味は広く、生むことも、その中に含まれる。男神の御言葉の、作った国というのが、生んだ国というのと同じことから、知るべきである。二柱の大神が、国土を経営して完成されたことは見えないのだから、この作るは、まさしく、国土を生むことなのである。」――『古事記伝』

こうして宣長は、徹頭徹尾、二神は、島の土地そのものをお生みになった、とした。私は、この点では、宣長と見解を異にする。二神は、そのような御子の神々をお生みになり、大八島や、そのほかの小島の主宰神とし、国土を経営する御業を助けさせられた、と考える。その御名を見てほしい。伊予の二名島は、篤胤が「いや、ふたならびのしま」と解したように、島の地形によって、その主宰神に名を付けたのである。これは、豊雲野神以下の諸神が、御名を得られたのと同じである。さらに、その別名を詳しく見ると、ひこ、ひめ、という。すべて、神の名ではないか。とりわけ、大倭豊秋津島を、天御虚空豊秋津根別というように、別と称する名は少なくない。そして、別は、宣長自身が解して、わが君兄の意味とし、「わけは、国造や稲置などの類で、諸国の各地にいて、上に立ち、その地を治める人をいう」と述べた。また、「代々の皇子たちの名や、そうではない人の名にも、なにがしわけというものが多い。その名の意味も、わが君兄である」といった。こうした考証は、かえって、私の説の有力な証拠となるではないか。

宣長は、『日本書紀』に、海を生み、川を生み、山を生む、などの言葉があるのを解して、「海神・水戸神・山神をお生みになったのであろう」〔『うすの山蔭』〕といっている。私は、さらに一歩進め、さまざまな島をお生みになったとあるのも、そのように解するのが妥当だと考える。したがって、むしろ『通釈』の説が、正しいことに近いと認める。試みに、これを挙げよう。そこには、こうある。

「『古事記伝』には、二柱の神がお生みになる島々の別名を、その国の御魂神の名というのは間違いであり、これは、ただ、その島国を指す名である、とあり、その名に、女と男とがある理由は、まだ分からないといわれたが、これは誤りである。その島国を指していうはずはない。その島国を修められるに当たり、それを、目に見えない所から助けて造られる神をお生みになったのである。その神々は、もとより島国を本体とされるので、その島国と一つとして数え奉るのである。」

伊弉諾・伊弉冉の二神は、このように、大八洲や、そのほかの国土の主宰神をお生みになり、続いて山川草木の主宰神をもお生みになり、着々と国土の経営を進められたが、まだ、十分に、その功を成し遂げられなかった。そこで二神は、この責任を果たす、天下の主宰神を生もうとされた。こうして、天照大神、月読尊、素盞鳴尊が生まれられた。

天照大神については、古来、さまざまな説がある。宣長は一貫して、天は、すなわち高天原であり、大いなる虚空の上にあるとした。天照大神は、そこを都とし、そこに君臨される。そして、大神は、すなわち太陽である、とした。

そもそも、天照大神は、日神とも、大日孁貴尊とも、天照大日孁尊とも称する。御名によって、その意味を推し量ると、天照大神は、すなわち天の太陽であるかのようだ。

原注

宣長は、「『日本書紀』の訓注に、『おほひるめのむち』とあるのは、もとは、おほひるむちだったのを、後人が、さかしらに、めの、の二字を加えたのであろうか」といい、さらに、「そうであれば、おほひるむち、と申せば、むちは、めに当たるのである」といった。帆足は、「聖徳太子は、天照皇を婦人とした。また、ひるめの名により、めという字の和訓が女と同じであることを根拠とする。これは、その場の都合に合わせ、自分の私意を通すための言葉である。二つの書は、ともに、その誤りを受け継ぎ、正すことがなかった。その道を証明するには足りない」〔『入学新論』〕といった。こうして彼は、天照大神を男神としたが、古伝に明確な証拠がないことを、どうするのか。

訳注

帆足の引用のうち「亦據」の後から「孁之名」の前までの数文字は判読を留保する。「ひるめの名により」という訳は、続く「孁字和詁與女同」などの読める箇所を手掛かりにした解釈であり、不鮮明な字句を確定したものではない。

だから垂加派でも、すでに、次のようにいっている。

「この御子は、天の太陽と徳が合うので、こう称え奉るのだという者は、回りくどく、正しい意味ではない。そのまま、天の太陽と一体として拝み奉るのである。」――『神代巻藻塩草』

宣長は、さらに進み、力を尽くして、天照大神は、すなわち太陽だと主張した。彼はいう。

「天照大御神は、まことに畏れ多い、天皇の大いなる皇祖神であらせられ、すなわち高天原を治め、永遠に、今も世を照らされる、天の太陽の大神であらせられる。」――『伊勢二宮さき竹の弁』

もし世に、この説へ反対する者があれば、彼は、さらに鋭く論じ、こういう。

「日神と申す御名を、どうするのか。それでも、仮に、そう名づけただけだと、ねじ曲げて説こうとするのか。『日本書紀』の一書に、『天地を照らさせた』ともあるのを、どうするのか。中国やインドなどの天地は、皇国の天地とは別なのか。また一書に、『日月が、すでに生まれ、次に蛭児が生まれた』という。これは、どうか。日神・月神とあるのを、なお、日月ではないと、強いて言い紛らわすとしても、ただ、日月とあるのを、どうするのか。こうした例は、まだ多い。『神代紀』を、よく見よ。ただし、中国やインドの日月は、皇国の日月とは別だとするのだろうか。疑わしいことである。ただ、わずかな漢意の雲さえ晴れれば、神典の意味は、たいそう明らかなのに、この一点の黒雲に遮られ、大いなる光を見ることができないのは、まことに、あわれむべきことである。

また、『古事記』に、『葦原中国が、すべて暗くなった』とあるため、あの六合は、世界のすべての国の意味ではない、と非難する。しかし、およそ、こうしたことは、主になる所をいい、残りは、おのずと含まれるという例が、いつも多い。」――『呵刈葭』

さらに、こういう。

「石戸に隠れられたことは、太陽であるという、明らかな証拠である。もし太陽でなければ、隠れられても、どうして暗くなろう。すでに太陽であるからには、中国やインドの太陽も、別にあるわけではないので、それらの国々も暗かったことを、どうして疑おう。」――同上

宣長が、このように、盛んに、大神は太陽であると主張したので、その学説を信じる者も、熱心に、これを受け継ぎ述べた。源厳稲は、論じていう。

「大御神は、すなわち太陽であらせられるので、高天原を治めよ、と委ねられたのである。そもそも天照大御神は、伊弉諾尊が、その御目を洗われたときに成られた大御神であるから、伊弉諾尊が、天地の果てまでを見聞きされ、天地のすべてを治める大君主であられる、その御霊であらせられるのである。」――『神代紀伝』

さらに、本居大平の門人、堀内広城は、論じていう。

「この大神は、まさに今、目の前で世を照らしておられる、天の太陽であらせられる。だから、月と太陽は、今、この禊によって、初めて成り出でられたのである。これ以前には、月も太陽もなかった。それなのに、世の識者が、月と太陽は、天地の初めから、自然にあるものとし、天照大御神・月読命を、別のものとして説を立てるのは、どの書に見えることか。ただ、中国の書の理屈に溺れた、自分の私意であり、ひどく古伝に背いている。もし、月と太陽が、もとからおられたなら、今ここで成り出でられたのは、何の神とするのか。日神とあるのを、なお太陽とは別だと、ねじ曲げて説くとしても、『日本書紀』に、『日月が、すでに生まれた』などともあるのを、どうするのか。」――『神代真玉光』

このように宣長と、その一派は、天照大神は、すなわち太陽だと主張し、反対説を、極力、攻撃した。「天照大御神をも、ただ、日本の大祖で、この土地におられた神人のように説き、天の太陽ではないようにいう類は、すべて、外国風の理屈にへつらい、強いて、その趣旨に合わせようとする私意である」〔『玉くしげ』〕といった。しかし、昔の太陽や月が、今日の太陽や月だとすれば、このような議論では、世の人を、すべて納得させることはできないようだ。

そこで篤胤は、伊弉諾尊は、天照大神の徳が高大で、御体が明るく輝いておられることを、高天原、すなわち天の磐座にある、太陽の清らかで明るい御国に、ふさわしいと思われ、その君主と定められたのであろう、という〔『古史伝』〕。こうして天照大神を、太陽ではなく、太陽を治める神とした。しかし、この説は、決して篤胤の独創ではない。早くから、服部中庸が主張していた。その言葉を見よう。彼はいう。

「わが古典に、天といい、高天原というものは、虚空でもなければ、虚空の上に、別にあるものでもない。〔師、宣長の説に反する。〕太陽こそが、高天原なのである。だから、太陽は、天照大御神ではない。大神が治められる御国であり、大御神は、太陽の中におられる神なのである。」――『三大考』

さらに、中庸は、これを説明していう。

「その理由は、『古事記』の神武天皇の段に、『私は日神の御子なので、太陽に向かって戦うのは、よくない』とあることから、太陽と日神とは別であると、知るべきである。日神とは、太陽を治める神という意味であり、高天原を治める神というのと同じである。」――『三大考』

これによって、篤胤の説が、どこから来たか分かる。そして、本居宣長は、中庸の『三大考』を称賛し、「こうしてこそ、高天原も、夜之食国も、疑わしい所なく、明らかになった」〔『古事記伝』〕といい、その説を大いに認めた。もし宣長が、このように中庸の説を認めるなら、彼が『古事記伝』『玉くしげ』『葛花』『呵刈葭』をはじめ、多くの著書で主張した、幾百、幾千もの言葉は、根本から覆される、ともいえる。このような矛盾は、かえって私たちに、なお多くの説を立てる余地があると、示すものといえよう。

この点については、むしろ、市川鶴鳴の見解が、正しいように見える。彼はいう。

「天照という御名の類も、後に付けた、おくり名であり、天の太陽になぞらえて奉った意味であろう。」――『末賀能比連』

今井脩も、こういう。

「そもそも、天照大神は、天下に君臨される。その徳は、広大で、民は名づけようもない。たとえれば、天の太陽が、天下を照らすようなものである。だから、日神と称し、また、天照大神というのである。」――『正説神典』

この説なら、あるいは、よいであろう。要するに私は、天照大神は、わが国の皇祖神であらせられ、伊弉諾・伊弉冉の二神の間に生まれられた、人格を持つ神であられた、と考える。この点については、後の章でも、さらに論じることがあるだろう。

次に、月読尊について、彼はいう。

「御名の意味は、わが師の説に、わたつみ・やまつみなどと同じく、みは、持つことであり、月夜を持つという意味だとある。夜之食国を治める大御神であられるので、そのとおりであろう。」――『古事記伝』

そして月読尊は、「今、天におられる月であらせられる」と主張した。この主張に対しても、私は、日神についての説によって論じなくてはならない。宣長は、この月読尊と素盞鳴尊とは、同じ神なのではないかと疑い、「つらつら考えると、もともと、月夜見命と須佐之男命とは、一つの神かと思われることが多い」といった。これは、古典研究上の大きな問題である。

宣長は、素盞鳴の御名を解して、「わが師の説に、勢いづくことを、すさびという。また、それを縮めて、さびともいう。この神が、誓いに勝ち、御心の勢いづくままに荒ぶられるのを、かつさびといい、勢いづき、荒ぶる意味である、とある」〔『古事記伝』〕と述べ、すさのをという御名も、この意味だとした。そして、古書には、この神と月読尊とを、一つの神とする伝承はないとした。彼はいう。

「さまざまな古書に、これを一つの神とする伝承はなく、すべて別の神としているのは、まったく一つの神のようでいて、なお別の神であられる、深い理由があるのであろう。今、たやすく、いえることではない。」――『古事記伝』

ところが、その門人、中庸は、たやすく、この二神が一つの神だと論じた。彼はいう。

「須佐之男命というのは、月読命の別名だったのが、紛れて、別の神のように伝わったため、治めることを委ねられた話も、何も、あちらと、こちらの二つになったのである。『日本書紀』に、『月神は、日神と並んで治めることができるので、また天へ送った』などとあるのは、月と太陽が巡る世となった後、その見えるところによって述べた伝承であろう。」――『三大考』

篤胤に至ると、この問題は、絶対的に肯定された。彼は、どのような根拠に立って肯定したのか。その大要を挙げてみよう。

一 篤胤は、『日本書紀』に「日月が、すでに生まれた」などとあるのは、海を生み、川を生む、とあるのと同じく、決して、太陽や月そのものではなく、その主宰神をいうのだとして、まず月読命を、人格を持つ神とした。

二 篤胤は、服部中庸が、この二神を一神とした説を、優れた見解だとし、熱心に敷衍した。したがって、彼の論拠には、中庸の説に基づくものが多い。「月読命というのは、須佐之男命が、後に夜見国へ行かれ、その国を治められたことから申した御名が紛れ、二神のように伝えられたのである」〔『古史徴』〕などと説くのは、まったく、中庸の説に基づくものにほかならない。

三 篤胤は、伊弉諾尊の勅命として、滄海原を治めよとも、天の下とも、宇宙ともいわれるのを、すべて同じことだとし、これによって、月読命と須佐之男命とが、同じ神であることを、とりわけ明確に知る理由がある、といった。そして、「青海原とは、この国土を、全体としていう古い言葉であり、天照大御神は高天原、須佐之男命は青海原と、対にして、天と地を分けて委ねられたのである。それが、次第に、この古意を失い、海と青海原とを混同していうようになり、誰も今まで、そのようには思わなかったのだ」〔『古史徴』〕という。

さらに、「海原とあるのを、後世に、海をいう海原と見ては、あれこれと一致せず、理解し難いことが多い。しかし、この古い意味を得て見れば、その疑わしい隅々までも、春の氷のように解けるだろう」〔同上〕という。こうして彼は、古い意味では、海原と海とは別で、海原は、漢文の宇宙や天下と、まったく同じであり、「四海を統べ治める」という言葉は、「海原の、幾重もの潮を治める」という言葉によく似ている、とした。四海を治めるというときの四海が、海そのものではないことから、海原を治めるという語義を解し、この二神は一つの神であると知るべきだ、としたのである。

四 篤胤は、『御鎮座伝記』の、多賀宮の条に、「伊弉諾尊が、筑紫の日向の、小戸の橘の檍原へ至り、禊をされたとき、……また鼻を洗われ、それによって神が生まれた。速佐須良比売神と号する。土蔵霊貴であられる。素盞鳴尊と、力を合わせておられる」とあるのを、証拠とした。「この伝承は、よく真実に合い、決して後人が言い出せそうにない説であり、『日本書紀』『古事記』の誤りまで、正し、明らかにできる、最も妙なる伝承だからである」〔『古史伝』〕といって、『御鎮座伝記』を根拠とし、『日本書紀』『古事記』を誤りとした。そして、さらに論じていう。

「このように、二つの典籍は、ともに、天照大御神が生まれられた後、御鼻を洗われるときに、速須佐之男命が生まれられたと伝えるが、これは、真実に合わない、誤った伝承である。鼻は、すべての汚れが、まず入る所、汚れの出る所であるのに、御鼻から受けられた汚れを、まだ取り去られない前に、大御神が生まれられたとするのは、御自身が、撞賢木伊豆之御魂と名乗られたことに合わない。だから、『日本書紀』『古事記』が、御鼻を洗われるときに、速須佐之男命が生まれられたと伝えるのは、速佐須良比売神が生まれられたという伝承を、誤ったのである。『御鎮座伝記』に、この伝承が残っているのは、たいそう尊く、喜ばしいことであり、このうえない賜物なのである。」――『古史伝』

原注

篤胤は、「つきさかきは、斎賢木であり、いづを導く言葉である。神を祭る榊は、忌み清めるものなので、付く。いづいづしい、という意味である」といった。なお、撞賢木伊豆之御魂というのは、大御神が、御自身で名乗られた御名だとする。また、「伊豆之御魂とは、清まりきっておられることによる御名である」という。

篤胤の議論は、このとおりだが、私は、これに賛成できない。もとより、日月が生まれたなどとあるからといって、そのまま日神・月神を、太陽や月そのものとするのではない。しかし、天照大神を太陽の主宰神とする説を採らないのと同じく、月読命を、月の主宰神とする説も採らない。また篤胤が、月読命は、須佐之男命が、夜見国へ行かれて以後の名だとするのは、夜見国を月とした誤りに基づくに過ぎない。滄海原と、天下または宇宙とについては、この点に関して、『日本書紀』『古事記』の伝承に、誤りがあることは争えない。しかし、月読命については、『藻塩草』の説を見るべきである。そこには、こうある。

「人の体を持ちながらも、日神の命令を奉じ、そのまま下へ施し行われる徳によって、おられるのである。『日と並んで治めることができるので、また天へ送った』とは、天地の生成で、日月が並んでおられることと、変わりはなく、日神に並んで、天地を治める、補佐の臣として、天へ送られたということである。これが、臣下の始まりである。」

要するに、伊弉諾尊の神勅には、さまざまな伝えがあるが、私は、天照大神は高天原を、月読尊は天照大神の補佐として、高天原の政治を助け、素盞鳴尊は、この国土を治めるように命じられた、と考える。そして、素盞鳴尊が、夜見国へ向かわれたのは、この国を統治する大権を、自ら天照大神へ移されたものと見るべきである。篤胤が、日向の小戸での禊の際、鼻を洗われたときに生まれた神を、速佐須良比売命とした点については、私も賛成する。しかし、それは、篤胤のように、月読尊と素盞鳴尊を一神とする論拠にするためではない。いわゆる三貴子が生まれられたのを、伊弉冉尊が亡くなられる前とする、論拠にするためである。

そもそも、宣長以下の学者が、月読尊について、ひどく迷ったのは、アストンの説のように、月読尊について残る古伝が、たいそう乏しいためであろう。これは、『古事記』『日本書紀』が作られた当時に、すでに、月読尊に関する話が、口伝から消えていたためにほかならない。深く不思議がるには及ばない。『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』などは、すべて、天照大神・月読尊・素盞鳴尊が、相次いで成られたと伝える。ところが、宣長に至って、月読尊の存在を疑い、中庸や篤胤に至って、まったく素盞鳴尊と一神にしたことは、以上に述べてきたとおりである。古伝の真相を得ようとする者が、必ず、目を向けなくてはならない問題である。

第三十八節 神祇論(続)

宣長のいう、上古の神の道には、なお一柱、主な神がおられる。大国主神である。『日本書紀』の正伝には、「素盞鳴尊は、……そこで、互いに結ばれ、御子の大己貴神を生んだ」という。これによって私は、大国主神は素盞鳴尊の御子であり、天孫降臨のときには、すでに、有力な出雲朝廷の君主であられた、と解する。ところが本居宣長は、もっぱら『古事記』を根拠として、大国主神は、素盞鳴尊の六代の孫だと主張した。そのため、『日本書紀』の本文の伝えを評していう。

「この神は、素盞鳴尊の六代の孫であるのに、ここに、このように記されたのは、昔は、末々まで、子孫をすべて子といったため、紛れたのである。六代の孫であることは、『古事記』に、その間の代々の神の名も記され、確かなことである。『日本書紀』の一書の説も、六代に当たる。また、一書に、生んだ御子の、六代の孫とあるのは、一代の違いがある。ただし、古書で代数をいうときは、本人から、その本人までを数えたものもあるので、御子の六代の孫というのも、同じことかもしれない。」――『うすの山蔭』

もちろん、『日本書紀』の一書の諸伝に、そのような伝えがあるのは事実である。しかし私は、この点でも、宣長の見解に賛成できない。見てほしい。大国主神は、素盞鳴尊の娘、須世利比売命を、正妻とされるではないか。もとより神代のことは、人間の事柄によって、簡単に推し量るべきではないが、六代も前の祖先の姉妹と結婚されたとするのは、決して古伝を忠実に解したものではない。まして、大国主神の活動が、皇御孫命の活動より、はるかに先立つことからも、そうである。

平田篤胤は、須佐之男命の御子、八島士奴美神と、淤美豆奴神とを同じ神とし、大国主神は、須佐之男命の曾孫だと断じた。私の見解とは異なるが、六代説を作るために、『古事記』へ、でたらめな神々を入れたと説く点は、私の説の傍証とするに足るだろう。そこで、試みに、これを挙げよう。篤胤はいう。

「淤美豆奴神を、八島士奴美神の別名と定めた理由は、まず、布波能母遅久奴須奴神・深淵之水夜礼花神という名の意味は、『古事記伝』にも説かれているが、ほかの神々の名のあり方とは、たいそう違い、まったく理解し難いことである。本当に存在した神であれば、『出雲風土記』に、少しでも事跡があるはずなのに、まったく見えない。また、淤美豆奴神・冬衣神という名は、須佐之男命が、しばらく斎き置かれた、叢雲の剣の意味によって付けられた名であるのに、布波能母遅久奴須奴・深淵之水夜礼花という名には、そうした理由もない。木花知流比売という名も、こうした名は例がなく、ふさわしくない名である。また、淤迦美神の娘、云々ということも、師の説はあるが、信じ難く、天之都度閇知泥・布怒豆怒・布帝耳などという名も、すべて疑わしい。したがって、布波能母遅久奴須奴神・深淵之水夜礼花神という二代は、大国主神を、須佐之男命の六代の孫とする伝承もあり、それが広まった後、その代数を合わせようとして作った、中古のでたらめであろうと思われる。だから、その伝承には従わず、『神祇譜』に、『大己貴神。この神は、素盞鳴尊の子孫であり、天之冬衣神の子である』とあることに基づいて、冬衣神が、須佐之男命の孫だと知り、その父は淤美豆奴神なのだから、これこそ、八島士奴美神だと知って、このように定めたのである。」――『古史徴』

原注

『古事記伝』で、宣長は解していう。「布波は地名か。母遅久奴は、国主であろう。須奴は理解し難い。深淵は、『和名抄』に、土佐国香美郡の深淵がある。水夜礼花の意味は、まったく、まだ考えつかない。」

原注

淤迦美神の娘は、布波能母遅久奴須奴神の妃である。宣長は、淤迦美神は、現身の男子となり、婦人と結ばれて、その娘を生んだ、とした。

原注

『日本書紀』の一書、また『姓氏録』に、六代の孫とある。

原注

篤胤は、『神祇譜』についていう。「私は、まだ、その全書を見ていないが、あちこちに引用されたところを見ると、いわゆる両部神道を始めようとして作った書のように見える。その中に、ときどき珍しい古伝を、拾い集めて記しているのは、このうえない賜物であり、両部神道にこじつけた罪も、償えるように思う。だから、どのような古書でも、よく心を留めて見るべきものである。およそ七、八百年前の書であることは、疑いない。」――『古史伝』

篤胤の、この議論は、『古事記』に六代の神を伝えるのが、でたらめだという証拠にすべきである。それでも、その説の論拠は、あまりに弱い。宣長や篤胤ほどの、当代を代表する学者が、なぜ、『古事記』の伝承だけを固守し、『日本書紀』の正伝を退け、この誤りを伝えようとするのか。とりわけ篤胤は、『神祇譜』というものを根拠とするが、『神祇譜』と『日本書紀』の正伝と、どちらが、有力な根拠であろう。私は、篤胤のために、これを惜しむ。私の説を確かめるため、さらに『古語拾遺』の伝えを、ここに挙げよう。そこには、こうある。

「素盞鳴尊は、国つ神の娘を娶り、大己貴神を生み、ついに根国へ向かわれた。」

これは、『日本書紀』の正伝と一致するではないか。北畠親房は、素盞鳴尊についていう。

「後に、出雲の簸の地へ至り、宮を建て、稲田姫と住まわれた。大己貴神を生み、素盞鳴尊は、ついに根国へ向かわれた。」――『神皇正統記』

これらの言葉と、これらの事実は、私の主張を証明して、余りあるといえるだろう。

大国主神は、すでに、素盞鳴尊の御子である。したがって、素盞鳴尊が去り、根国を治めようとされたとき、出雲の朝廷を、すべて大国主神へ譲り、外祖父母の脚摩乳・手摩乳を、稲田宮主神とし、守らせられた。大国主神が成長されても、多くの異母兄弟は従わず、天下は大いに乱れた。母神〔奇稲田姫であろうか〕は、須佐之男命の、根の堅洲国へ行き、国を治め、安定させる方法を求めるべきだ、と告げた。そこで、直ちに根国へ参り、素盞鳴尊の娘、須勢理毘売を正妻とし、生大刀・生弓矢を持ち、この国へ帰られた。

これによって形勢は一変し、大国主神の勢力は、勢いよく盛んになった。ついに天下の悪い神々を征服し、高皇産霊神の御子、少彦名尊と力を合わせ、天下の経営に従われた。

高天原の朝廷では、すでに、素盞鳴尊を、無道で、天下の君にふさわしくないとして追放したので、豊葦原瑞穂国を経営し、統治する任務は、おのずと宗主国である、高天原の朝廷へ帰したものとし、天忍穂耳尊を下された。天忍穂耳尊は、天の浮橋から、この国土の様子を観察された。

当時は、各地で、なお「村に長がおらず、町に首領もいない。人々は、それぞれ領土を貪り、互いに盗み合う。山には邪神がおり、郊外には、よこしまな鬼がいる」というような状態を、脱していなかった。その中で、大国主神は出雲の朝廷に拠り、着々と邪神を征服し、国土の経営を進め、その勢力は、たいそう大きかった。天忍穂耳尊が、これを高天原へ報告すると、高天原の朝廷で大会議が開かれ、天穂日命が、いわゆる全権大臣となり、高天原の統一に応じるよう、平和的に要求するため、出雲へ派遣されることとなった。天穂日命は、天忍穂耳尊の弟であり、大国主神とは、近い姻戚で、宗主国の使節である。しかし、二つの朝廷の間に絡み合う事情は、簡単に決着のつくものではない。まして問題は、国譲りという大事なのである。

『古事記』は、これを、「天菩比神を遣わすと、大国主神に取り入り、三年たっても返事を申し上げなかった」と伝える。『日本書紀』も、へつらい、媚びる、という字で伝える。しかし、これは、事実の真相を捉えていないようだ。『出雲国造神賀詞』には、「天穂比命を、国のありさまを見るため遣わしたとき、天の幾重もの雲を押し分け、天を翔け、国を翔け、天下を見回り、返事を申し上げられた。……」とあり、天穂日命と、その御子の天夷鳥命との功を称えている。

宣長は、この天穂日命について、こういった。

「まず初めに、この神を天から下し、遣わしたのは、次の天若日子のような征伐の使いではなく、ただ、あの『神賀詞』にいうように、この国のありさまを見て、その状態に応じ、適切な形で交渉をさせるためだったのであろう。その理由は、天若日子を遣わしたときには、弓矢などを賜ったのに、この神には、そうしたこともなかったからである。そして、復命されたのは、三年もたった後だったので、この『古事記』などでは、その間、ひどく長らく帰られなかったことをいっている。〔三年に至るまで待たれても、帰って来られないので、結局、返事を申さずに終わったかのように思われたのである。

『神賀詞』には、返事を申す以前に、大国主神に取り入ったとは見えないが、三年たっても、この国におられたので、早くから、その間にも、取り入って、少しずつ、和親されたのであろう。だから、この『古事記』などで、取り入ったとはいうのである。まだ復命していない間は、その意図が分からないので、ただ、不忠のように聞こえたのであろう。『日本書紀』の、天若日子のことをいう所に、『この神もまた、不忠誠である』とある、また、という字は、先の穂日命を、不忠誠としていったのである。〕そのまま、次の天若日子の話へ移るので、その後、この穂日命が復命されたことは、紛れて、伝え落としたのであろう。後に、雉の鳴女を遣わしたとき、ただ天若日子のことを問わせるだけで、この穂日命が、なお長らく帰らない理由を問わせることは見えない。このことを考えれば、それ以前に、すでに復命されていたと分かる。」――『古事記伝』

高天原の朝廷は、平和的に時局を解決しようと、特に天穂日命を遣わしたが、長い年月が過ぎ、三年たっても報告がないため、ついに、戦によって決着をつけようとした。勇猛な天若日子に、弓矢を授け、征討使として天から下された。天若日子は、国つ神に大いに歓迎され、ついに大国主神の娘、下照姫を妻とし、高天原の朝廷の使命をも、念頭に置かなくなった。

そこで、高天原の朝廷は、多くの神々の中で、最も勇敢な武甕槌神と経津主神を選び、天夷鳥命を道案内として、さらに、この国へ下された。古い記録は、この点でも、さまざまである。宣長は、『古事記』に、建御雷之男神の別名は建布都神、またの名は豊布都神とあることから、武甕槌神と経津主神とは、同じ神だと断じた。その証拠として、宣長の示したものを挙げると、次のとおりである。

一 『神武天皇紀』の、高倉下の夢に、「天照大神が、武甕雷神に告げられた。……このとき、武甕雷神が、高倉下に告げ、『わが剣の名は、ふつのみたまという』」とあるが、もし二神なら、ここにも、経津主神の名が、なくてはならない。

二 『出雲国造神賀詞』にも、布津怒志命の名はあるが、武甕雷神の名はない。これは、一つの神だからであろう。

三 『古語拾遺』が、経津主神を香取の神とし、武甕槌神を鹿島の神とするのは、『日本書紀』に、斎主神は、今、東国の香取の地におられる、とあるためであろうが、斎主という神は、二神のうち、必ずしも、どちらとも定まらない。

四 『日本書紀』によれば、経津主は大将軍、武甕槌は副将軍のようなのに、宝亀八年、鹿島に正三位、香取に正四位上を授けられたのは、いったい、どうしたことか。

このように研究し、宣長は、この二神を、同じ神とした。しかし私は、第一の点については、二神だからといって、必ず、ここに、その名がなくてはならない理由はない、と考える。第二の点については、『古事記』に布津怒志神を挙げないのと同じく、著者個人の考慮、または個人の伝聞から、ただ一神を挙げたのであろう、とする。第三の点については、『古語拾遺』の根拠が、どこにあろうとも、二神とするのを、正しい伝承とする。第四の点については、『日本書紀』の伝えに、事跡の混入があり、一書に、「天照大神は、武甕槌神と経津主神を遣わし、まず行って、逆らう者を取り除かせた。二神は、出雲へ下り着き、大己貴神へ、『お前は、この国を、天神へ奉るか、どうか』と問われた」とあるのを、正しい伝承とする。すなわち私は、武甕槌神が大将軍、経津主神が副将軍のようであった、と考える。そのため、歴代の朝廷でも、この二神を祭るときは、常に武甕槌神を重んじられたのである。『古事記』に布都主神を挙げないのは、あるいは、大将軍を挙げ、副将軍を省いたためかもしれない。

要するに私は、この二神が、歴史上に存在されたと主張する。

最も勇猛な二神は、このように、高天原の使命を帯び、出雲の朝廷へ参り、大いに武威を示して、国譲りを迫られた。大国主神は、すでに年を重ねられたとはいえ、もとより勇猛な英主であり、この唐突な要求を、すぐには承知されなかった。そこで、まず、御子の事代主神へ相談するといわれた。武甕槌神は、直ちに事代主神を呼び、これに問われた。事代主神は、一言の異議も唱えられなかった。武甕槌神は、さらに大国主神へ、なお問うべき神がいるかと聞かれた。大国主神は、建御名方神がおり、そのほかにはいない、と答えられた。建御名方神は、初め抵抗されたが、武甕槌神の武威に圧倒され、まったく降伏された。武甕槌神は、さらに大国主神へ問われた。大国主神は、ついに、従うことと逆らうこととの行く末を察し、潔く国譲りを決意された。そして、自らは退き、御子の事代主神に、一族の百八十神を率いさせ、高天原の朝廷へ、忠勤に励ませられた。

宣長は、大国主神について、こういう。

「そもそも、この神は、須佐之男大神の御子孫であられ、途中で一度、その大神がおられる黄泉国へ行かれたことで、大いなる功を立て、天下を経営された。それは、前のさまざまな所に見えるとおりである。今、この国を、天神の御子へ譲り奉り、最後には、また、その黄泉国へ隠れられることには、深い道理があるのだなあ。」――『古事記伝』

さらに、大国主神が「お仕え申し上げよう」と告げられた言葉を解し、こういう。

「今、この神が、このように申し上げられるのは、遠い黄泉国へ隠れながらも、なお、天神の御子の御前に控える心で、遠くから、お守り申し上げようという意味である。」――同上

こうして宣長は、大国主神が、この社会の、あらゆる目に見えない事柄を、すべて司られることになった、と解した。この点は、私も、まったく賛成する。出雲大社が、厳然として存在することは、これを証明して、余りあるからである。

武甕槌神と経津主神は、さらに天夷鳥命を道案内とし、各地を巡って平定し、逆らう者を討ち、全国を平らげ、天へ上って復命された。このとき、天照大神は、「それならば、まさに、わが子を下すべきである」と命じられ、天忍穂耳尊を、さらに、この国へ下そうとされた。天忍穂耳尊は、すでに皇孫の瓊々杵尊が生まれているので、この皇孫を、代わりに下らせるよう奏上された。そこで天照大神は、瓊々杵尊に、三種の神器を授け、五部の神を付き添わせ、天地とともに尽きないという神勅を賜り、ついに、この国へ下された。こうして、瓊々杵尊が、この国へ下り、その経営と統治に当たられてから、皇位の栄えは、実に、天地とともに尽きることがなくなったのである。

第三十九節 神道論

以上、宣長が主張する、古代の神道について、その古代の主な神々を述べた。さらに進み、その道というものを述べなくてはならない。彼は、まず、道という言葉を解していう。

「みちは、御路であり、ちというのが、もとの言葉である。今も、山路、野路、舟路、通い路などは、ちとだけいうことから、知るべきである。それに、みを添えて、みちという。『古事記』に、うましみち、『日本書紀』に、うましみち、とあるのは、神代の古い言葉である。だから、ちというのも、みちというのも同じことで、ともに、通る道の意味だけであり、そのほかの意味は、上古には、まったくなかったのである。」――『私淑言』

確かに、宣長のいうように、わが国の上古には、すべての事象について、一般的な理論の研究をする風がなかった。このため、みちという語にも、具体的な通路という意味のほかに、抽象的な道義という観念はなかったのである。だから宣長も、こういう。

「古代の大御世には、道ということを、ことさらに言い立てることも、まったくなかった。」――『直毘霊』

しかし、宣長が、このように、道ということを言い立てることもなかった、といったからといって、上古に、道というものの存在を認めなかったとするなら、それは、宣長を、いつわって伝えることになる。沼田楽水は、この宣長の言葉を評して、こういった。

原注

沼田順義。字は道意、号は楽水。上野の人。早くから儒学を学び、さらに医学を修めた。壮年に視力を失い、検校となった。盛んに宣長の説を反駁した。嘉永二年十二月十七日、五十八歳で没した。

「これは、汚らわしい、中国の書というものの中でも、とりわけ愚かな男どもが言い出した、『老子』という書の言葉に似ており、民を、生まれたままにしておこうとする妄説である。そもそも、物があって、その後に、名というものもあるのだ。たとえ神代に、道ということを言い立てなかったとしても、道という事実が、なかったわけではないではないか。」――『級長戸風』

このように彼は、宣長が、道ということを言い立てることもなかった、といった点を、ひどく非難した。しかし、結論は同じところへ帰着するのだから、非難の的を外したのではないか。楽水が、物があって、その後に名があるとしたのは、私も、その道理を認める。それでも、宣長の論拠を動かすには、決して足りない。宣長が、上古に、道ということを言い立てることもなかったとしたのは、楽水が理解したように、道がなかったとしたのではないからである。彼自身の言葉によって、これを確かめよう。彼はいう。

「皇国の昔には、そのような、口やかましい教えも、何もなかったが、下々に至るまで乱れることなく、天下は穏やかに治まり、天皇の位は、代々、いよいよ長く伝わってきた。だから、あの外国の名にならっていえば、これこそ、このうえなく優れた、大いなる道である。本当の道なので、道という言葉も、道という事立てもないけれど、道はあったのである。」――『直毘霊』

こうして彼は、わが国の上古には、大道が厳然と行われたが、あえて、それを道と呼ばなかった、とした。後に、外国の文物が入り、道という字の使われる場合を知って、初めて、わが大道を、神の道と名づけた、とする〔『私淑言』〕。では、中国やインドの思想を混ぜない、日本固有の大道とは、そもそも、どのようなものか。これこそ、宣長が、全力を挙げて主張した、大いなる道である。彼はいう。

「この道は、『古事記』『日本書紀』の二つの典籍に記された、神代・上代の、さまざまな事跡に備わっている。」――『初山踏』

さらに、こういう。

「道は、この二つの典籍に記された、神代のさまざまな事跡に備わっている。しかし、儒教や仏教などの書のように、その道のありさまを、このようなものだと、指して教えることはない。そのため、あの儒教や仏教の見方を、そのまま当てはめて見ると、道が、どのようなものか分からず、捉えどころがないように見える。だから、昔から、代々の学者も、これを捉えられず、悟れず、仏道の考えや、儒道の考えに頼って、これを説いた。そのうち、昔の説は、多く仏道によったが、この百五十〜百六十年ほどは、あの仏道による説が誤りだと悟り、その考えは、よく取り除いた。それでも、その人々の説は、また、すべて儒道の考えに陥り、近世の神学者は、皆そうである。その中にも流派があり、少しずつ違いはあるが、大体は、同じようなもので、『神代紀』をはじめ、さまざまな神典の扱いは、ただ陰陽・八卦・五行など、すべて中国めいた説ばかりであり、少しも古意に合わない。説くところは、すべて儒道であり、ただ名だけが神道なのであった。だから、世の儒者などが、こうした神道家の説を聞き、神道というものは、近ごろ作ったものだと、蔑み、笑うのは、実に、もっともである。」――『初山踏』

こうして宣長は、固有の大道は、世に、いわゆる神道というものとは、まったく異なり、もっぱら『古事記』『日本書紀』の二つの典籍に記された、事跡に備わるとした。そして、こう説く。

「そもそも、この道は、どのような道かと尋ねると、天地に、おのずからある道でも、人の作った道でもない。この道は、畏れ多いことに、高御産巣日神の御霊によって、神祖の伊邪那岐大神と伊邪那美大神が始められ、天照大御神が受け継ぎ、保ち、伝えられる道である。だから、神の道と申すのである。」――『直毘霊』

楽水は、この点も攻撃して、こういう。

「道が、天の道理のままのものであるなら、そのまま、天御中主尊の御心である。だから、天御中主尊の御霊によって成ったといえば、差し支えないのに、高御産巣日神の御霊から成ったというのは、はなはだしい、いつわりである。高皇産霊尊は、現身の神であらせられるのである。」――『級長戸風』

これは、儒教的な天の見解によって、宣長の説を反駁したものであり、結局、いわゆる水掛け論に終わるだけであろう。儒教では、多く、天を、天帝または上帝と解し、万物の主宰者とする。この天を、日本の天御中主神に当てることは、絶対に不可能とは、いいきれないようである。しかし、宣長は、そのようには解さない。すでに述べたように、天御中主神を、単に「天の真ん中におられ、世の中の主である神」〔『古事記伝』〕と解し、ただ、宇宙の大綱を執り、その秩序を保たれる神とだけ理解した。したがって、森羅万象が生まれ、発展するのは、産霊の二神の御霊によるとした。これが、神道の由来を、この二神へ帰す理由である。だから、さらに、こういう。

「本当の道のありさまを、あらまし申すには、まず第一に、この世の、全体の道理を、よく理解しておくべきである。その道理とは、この天地も、神々も、万物も、すべて、その根本は、高皇産霊神・神皇産霊神という二神の、むすびの御霊というものによって成り出てきたのであり、代々に人類が生まれ、あらゆる物事が生じるのも、この御霊によらないものは、何一つない。だから、神代の初めに、伊邪那岐・伊邪那美の二柱の大神が、国土・万物・さまざまな神々を生み成されたのも、根本では、すべて、あの二神の、むすびの御霊によるのである。」――『玉匣』

以上に述べてきたように、宣長は、道の起源は、高皇産霊神・神皇産霊神の二神にあり、この二神の御霊によって、伊弉諾・伊弉冉の二神が、さまざまに発展させ、天照大神が、その根本を示し、そのほかの神々も、さまざまな方面を示された、とした。したがって、道は、神代の事跡に、すべて備わり、不足するところはない、としたのである。

第四十節 神道論(続)

マシュー・アーノルドは、かつて、人の行為について論じ、「行為は、人生の四分の三を含む。ほかの四分の一は、知的生活と美的生活であり、後者は、道徳の範囲に属さない」といった。

もちろん、無意識の動作は、道徳の範囲に属さない。私たちの動作には、これに属するものが多い。また、知的・美的な興味に没頭し、あらゆる人間関係から離れているときには、その動作が意識的でも、道徳の範囲には属さないだろう。そこでアーノルドは、こうした動作を、人生の四分の一と計算したのであろう。しかし私は、ある方面から、人生を活動と解する。この活動は、どうして、わずか四分の三だけであろうか。ほとんど大部分は、ある種の人間関係を持つ行為から成るとする。いやしくも行為という以上、道徳的判断の対象となることを免れない。いわゆる道徳的判断は、すなわち善悪の判断である。私たちは、日常生活で、忠・孝・仁・義は善であり、不忠・不孝・不仁・不義は悪だという。そのほか、この行為は善だ、あの行為は悪だ、などという。しかし、なぜ善なのか、なぜ悪なのかと問い返されると、簡単には答えられない。これは、もともと、単純な一つの行動の善悪を判断するのは容易でも、人生のさまざまな行為を貫く基準を得て、判断するには、私たちの行為が、あまりに複雑だからである。それでも、基準を得て、絡み合ったものを、一刀のもとに断ち切るように判断したい、というのが私たちの願いである。このため、西洋では、直覚説、克己説、快楽説、自己実現説など、さまざまな学説が起こり、東洋でも、儒教・仏教をはじめ、いわゆる諸子百家の教えが生まれたのである。

しかし宣長は、このような学者の提唱する学説を、まったく退け、このようなものは、決して正しい規範ではないと論じ、こういった。

「皇国の朝廷は、天地の果てまで、永遠に照らしておられる、天照大御神の皇統であり、すなわち、その大御神の神勅によって定められたのである。だから、幾万代の後の世であっても、日月が天におられるかぎり、天地が変わらないかぎり、どこまでも、これを大君主と戴き、尊び、敬わなくては、天照大御神の御心に合うことができない。この大御神の御心に背いては、一日、片時も、立つことができないからである。ところが、中ごろ、この道に背き、朝廷を軽んじ奉った者が、しばらく、子孫にまで栄え、おごったことがあったのは、ただ、あの禍津日神の災いだったのである。どうして、これを、正しい規範とすべきであろうか。」――『玉匣』

私たちは、ひとまず、宣長の、この説に従い、彼が規範とするものを取って、実際の場面に臨もうとする。いったい、どうすればよいのか。私たちは、彼が道とするものを守らなくてはならない。では、彼が道とするものは何か。彼の考えでは、道、すなわち、いわゆる神の道は、天皇が、天照大神の御心に従い、「天下を治められる、公正で、広く公共に通じる道」〔『初山踏』〕にほかならない。そこで、古来、天皇が道を行われたありさまを説き、こういう。

「天皇が、天下を治められた、その行い方は、古い言葉でも、神ながら、天下を治められる、といい、ただ、天照大御神の御心を、わが御心として、すべてのことを、神代に定まった跡のままに行われた。その中に、御自身の心では定め難いことがあるときは、占いによって、神の御心を尋ね、うかがって行われた。総じて、何事についても、大体は、御自身が賢しらに考えた判断を、お使いにならなかった。これが、まことの道の、正しい行い方である。」――『玉匣』

これによって見ると、宣長は、天皇が、天祖の御心を、御自身の心とされ、少しも、自分の思慮を用いず、常に真心によって、神ながらに、天下の政治を行われること、それを道としたのである。そうであるなら、もちろん、このような道には、世にいう神道や、そのほかの仏道などに見られる、秘密の修行や秘伝といったものが、存在するはずはない。彼はいう。

「そもそも、道というものは、上に立つ方が行われ、下々へは、上から広く施されるものである。下の者が、勝手に定めて行うものではない。」――『初山踏』

だから彼の説によれば、私たちは、あえて、物欲を退けたり、戒律を守ったり、学舎で学んだり、山野で独り暮らしたりし、朝には身を苦しめ、夕べには心を疲れさせて、道を求めるべきではない。ただ、忠良な臣民として暮らすだけである。これが、すなわち神の道なのである。だから、またいう。

「そもそも道とは、君主が行われ、天下へ広く施される営みである。今の行いが、道に合わないからといって、下の者が改めて行うのは、私意であり、かえって道の心ではない。下の者は、ただ、善くても悪くても、上の方針に従っているべきものである。古の道を考え、理解したからといって、勝手に定めて行うべきものではない。」――『玉勝間』

これによって、彼の意図するところが分かる。

第四十一節 神道論(続)

宣長は、さらに、こう考えた。私たちは、生まれつき、さまざまな方面へ欲求を向け、活動的な生活をする。この欲求、この活動は、実に、産霊神から授かった、真心のはたらきなので、強いて抑えつけるべきものではない。また私たちは、根本から、これを抑えたり、消し去ったりできるものでもない。

したがって、「すべて、喜ぶべきことも、それほど喜ばず、悲しむべきことも、それほど悲しまず、驚くべきことにも驚かず、とかく物事に動じないことを、よいこととして尊ぶのは、すべて外国風の、いつわりである」〔『玉匣』〕と説いた。こうして、内には、さまざまな感情の動きがありながら、外には、まったくないように装うことを退けた。彼は、一例を示していう。

「国土や万物を成り立たせ、世の中の道を始められた、伊邪那岐大御神でさえ、あの女神が亡くなられたときは、ひたすら子どものように泣き、悲しみ、恋い慕われ、あの夜見国まで、慕って行かれたではないか。これこそ、本当の感情であり、世の人も、必ず、そのようでなくてはならない道理である。」――『玉匣』

この説は、どうして、本能主義の言い方に近いのだろう。本能主義を唱える者は、私たちは、もともと本能を持つ、とする。本能は、経験から得るものではなく、天性として自然に持つ性情なので、これを抑えるのは、自然に反するというのである。このような説が帰着するところは、ついに、極端な個人主義となり、あるいは、いわゆる自然主義となる。自分の本能を満たすことを、人生の最終目的とし、何事も許されるというに至る。もちろん、この学説は、一面の真理を持ち、極端な克己主義の弊害を救ううえで、多くの利点があるだろう。しかし、到底、健全な思想とはいえない。宣長の思想も、果たして、このようなものなのだろうか。

子游は、「感情のまま、率直に行動する者がある。それは、戎狄の道である」といった。このように儒教では、一般に、人の行為に、飾りを加えず、粗野であることを、野蛮な行いとし、いわゆる本能主義を退けた。ところが宣長は、わが国では、直情径行が、そのまま道に合う、としていう。

「皇大御国は、天照大御神の御国であり、産霊神の御霊も格別なので、国も、あらゆる国に優れ、人の心も、優れて生まれついている。だから、感情のまま、率直に行えば、そのまま、偏りのない正しさを得て、道は、おのずと備わっているのである。」――『葛花』

事実は、そのとおりだろうか。思うに、人は、アリストテレスがいったように、社会的な生き物であり、決して、社会を離れて暮らせるものではない。したがって、有機的につながる社会の一員として、生きなくてはならない。そして、もし、各人が、自分と同じように、それぞれの本能を満たそうとすれば、ここに、「力のある者が、これを取れ。保てる者が、これを保て」というような状態が現れ、ついに本能主義は、自己矛盾に陥らざるを得ない。これは、実に、人間生活に自然に生じる現象である。

宣長は、外国では、この矛盾を避けるため、さまざまな「教えを設けたが、すべて、さかしらな無理強いなので、効き目はなく、ただ、無駄に、表面の飾りだけが美しくなった。かえって、人の心も行いも、もとの直情径行より、はるかに劣り、ますます悪くなり、ますます治まり難くなり、最後には、あの、蔑んでいた戎狄のために、国も、ことごとく奪い取られたのは、まことに、あさましいことではないか」〔『葛花』〕と説いた。

ところが、日本では、感情のままに率直に活動しても、その活動は、おのずと、社会が成り立つ本来の道理に合い、別に教えを立てる必要はない、とした。彼はいう。

「人は、皆、産霊巣日神の御霊によって、生まれたままに、身に行うべきかぎりのことは、自然に知り、よく行うものなので、古の大御代には、下々に至るまで、ただ天皇の御心を、わが心とし、ひたすら大命を畏れ、敬い従い、大いなる慈しみの御蔭に守られ、それぞれ祖神を斎き祭りながら、身分に応じ、すべきかぎりのことをして、穏やかに楽しく暮らすほかなかった。だから今、道というものを、別に教わり、行うべきことが、あるだろうか。」――『直毘霊』

こうして彼は、正しい、天真自然な、直情径行の活動を道とした。すなわち、天皇は上におられ、真心によって天下を治められ、臣民は真心によって、「君主によく仕え、父母を大切にし、先祖を祭り、妻子や使用人を慈しみ、人とも、よく交わることや、また、それぞれの家業に励むことなど」〔『玉くしげ』〕をする。これは、日本人の自然な性情であり、それを道と名づける、としたのである。このため彼は、明らかに、こういいきった。

「道は、必ずしも、学問をして知ることではない。生まれながらの真心こそが、道なのである。」――『玉勝間』

そして、次のようにいっている。

「真心とは、産霊神の御霊によって、備え持って生まれた、そのままの心をいう。」――『葛花』

すでに、生まれたままの心という。しかし、人類が生まれて、自然に持つという説ではなく、産霊神から与えられたものとする。したがって、その性質は善である。この真心は、社会の道徳も顧みず、本能を満たそうとするものではない。彼の真心の学説は、いわゆる本能主義、いわゆる自然主義のように見えても、そうではないのである。

私は、むしろ、宣長が道とし、私たちが行為の規範とする、その真心というものについては、倫理学者の良心の説を、連想せずにはいられない。

そもそも良心には、古来、さまざまな説がある。学者によっては、知性に属するものとし、自分の行為を判断するはたらきとした。カドワース、カンバーランドなどが、これである。これに対して、シャフツベリーなどは、自己判断に伴う感情とし、カントなどは、意志とした。しかし、現今、やや広く行われるのは、知識・感情・意志の全体、すなわち、私たちが道徳的な活動をするときの、意識の状態そのものとする説である。

もちろん、良心に知識がなければ、そのはたらきは盲目的で、決して秩序を持てない。感情がなければ、たとえ正邪・善悪を判断できても、善も、必ずしも快くはなく、悪も、必ずしも苦しくはならず、したがって、良心は、それほど力を持てない。意志がなければ、心の内で正邪・善悪を判断しても、行為となり、外の世界へ実現できない。また、私たちは、精神の活動で、知識・感情・意志を、完全に分けることはできない。ただ、その活動の傾向が強いところに従い、知識、感情、意志と呼ぶだけである。したがって、良心を、単に知識だ、感情だ、意志だとするのは、よくない。知識・感情・意志の全体と、いわなくてはならない。

それでも私は、良心を、自分の行為に対する判断から生じる感情とする説が、多くの場合に適切だと認める。すなわち、知識や意志から、比較的に独立し、自分の行為に対して起こる、直覚的な感情とするのが適切だと認めるのである。

これを、実際に確かめよう。何かの行為をしようとするとき、それが善であれば、一種の快さが生じ、満足の気持ちが起こり、その行為へ励まされ、促される。そして、その行為に成功した結果、ますます、これらの感情が、興奮して湧き起こるのを見るだろう。反対に、その行為が不善であれば、一種の不快さが生じ、不満足な気持ちが起こり、その行為をためらう。そして、その行為を成し遂げた結果、ますます、不快感や不満足を覚え、後悔や苦悩に責められるのを見るだろう。こうしたことは、実に、良心の、最も著しい特色である。この特色を取って、良心と呼ぶことも、必ずしも、いけなくはない。これが、私が良心を感情とするのが適切だと、認める理由である。

今、これを移して、宣長の真心の説を見ると、彼が真心を、私たちのいう感情として理解しようとしたことは、すでに述べたところから明らかである。私が、彼の真心の説について、良心の説を連想するのは、このためである。こうして彼は、道徳的行為の根本を、感情に置いた。この見解の極端へ走り、師の真淵と同じく、ついに、知識を、中国風の私知として、退け、捨てるに至った。

彼は、すでに知識を退け、熱心に、真心は生まれつき授かったものだと主張する。真心が、すでに生得のものであるなら、私たちは、経験によって、それを増やしたり、減らしたりできない。経験で変えられないなら、当然、真心は、万人に同じものでなくてはならない。しかし事実は、そうではないことを示す。宣長は、これを、どのように説明したのか。彼は、きわめて簡単に、きわめて無造作に、それは、先天的に万人へ同じではない、とした。彼はいう。

「真心には、賢いものも、愚かなものもあり、巧みなものも、不器用なものもあり、善いものも、悪いものもあり、さまざまである。天下の人が、すべて同じものではないのだから、神代の神々も、善いことでも、悪いことでも、それぞれ、その真心によって行われたのである。」――『葛花』

こうして宣長は、真心の賢愚や、優れていること、劣っていることを、すべて先天的とし、まったく固定したものとする。もし、本当に、私たちの行為の根本となる真心が、このようなものであれば、私たちの行為は、常に保守的で、固定したものとなる。主観的には、もちろん、道徳に合うことができても、日進月歩の、今日の社会で、客観的に、よく道徳に合い、何の誤りもなく、確実に活動することは、容易に期待できないだろう。やはり彼も、知識と経験を、まったく退けることはできなかった。彼はいう。

「知恵や工夫をはたらかせることなどは、真心の行いではない、と理解するのは誤りである。」――『葛花』

知恵や工夫も、すでに真心の行いであるなら、私たちは、大いに、これを発達させ、社会の役に立て、国家へ貢献しなくてはならない。宣長は、このため、教育について、さまざまな意見を発表した。私は、これを、本書の第十二章で述べる。

要するに宣長は、良心、すなわち彼の真心の賢愚と、純粋な知識の優劣とは、必ずしも一致させなかった。人にとって、最も重要で、急いでなすべきことは、常に真心によって世に処し、事に当たり、どのような場合でも、自分を欺き、人を欺くような行為に出ないことを目指す点にある、としたのである。

第四十二節 神道論(続)

世間では、「人は感情の動物だ」といい、学者は、「人が人であるのは、理性を持つからだ」ということがある。二つには、もとより、それぞれ一理がある。そのため、世に倫理を説く者は、感情に偏ったり、理性に偏ったりする。感情に偏って極端へ走れば、快楽説となり、理性への偏りが止まらなければ、克己説となる。わが国には、古来、儒教にも仏教にも、理性を偏重し、克己を謳歌する風があった。宣長は、すでに儒教・仏教に反対して、独自の説を立てた。そのため、神道の根本には、感情を取らざるを得ない。そして、わが国民の精神の特質が、快活で、現世に向かう感情に富むことは、宣長の鋭い目が、早くから見抜いたところである。だから彼は、学説の根本に、直覚的な感情である真心を置いた。これは、すでに述べたとおりである。彼は、すでに根本を感情に置き、力を尽くして、克己主義を退けた。そこで、克己主義を主張する者の誤りを説き、こういう。

「そのようにいう人も、皆、心の奥は、同じ、はかないものであり、逃れ難い人情なので、普段こそ、賢そうに物をいい、立派に振る舞っているようでも、深く悲しいことに遭えば、必ず、女々しく、みっともない感情が生じ、思いを鎮められず、心が迷うときも多いものだ。これが、本当の人情なので、もとより、誰もが、そうなるはずのことである。」――『私淑言』

ところが世の人は、この感情のはたらきを抑え、自分には、ないかのように装い、それで立派だとする。宣長は、これを非難し、さらに、自ら、宇宙の真理を悟り、そうしたことを超越したように見せる、その誤りを説いていう。

「天地の外までも、隅々まで悟り尽くした顔をして、世に、おごり高ぶることよ。それを見る人も、また、立派なことと思うのは、すべて、自分も他人も、いつわった、うわべだけを喜び、まことの心を忘れたのではないか。悲しいことも悲しくなく、つらいことも、つらくないのは、岩や木の類で、はかない鳥や虫にも劣ることなのに、立派なことと思い、うらやみ、まねる人の心は、どういうことか。」――『私淑言』

さらに進んで、こういう。

「これは、すべて、取り繕い、飾った、うわべのことであり、人の心の、本当の姿ではない。」――同上

もちろん、克己は、ある程度まで、人生に、たいそう必要である。しかし、その極端へ走り、また、その極端を称賛するに至っては、目的と手段を取り違えている。私は、宣長の説に、賛成せざるを得ない。

宣長は、すでに感情を尊重する。その議論は、勢い、異性の関係へも及ばざるを得ない。そもそも、私たち人類が、今日あるのは、もちろん、社会生活の結果である。私たちに、この社会生活を営ませるものは、さまざまだが、愛を第一とする。愛を詳しく分ければ、親子の愛、異性の愛、友人の愛、博愛、愛国、郷土愛など、いろいろあるが、異性への愛は、一種の、根源的な性質を持つ。もちろん、人類では、この愛は、たいそう複雑なものとなり、多くの知的要素を含んでいる。それでも、生物としては、もともと、本能的なものである。すでに本能的である以上、何者も、これを免れることはできない。宣長は、この道理を説いていう。

「色恋を思うのも、もとは欲から出るが、とりわけ情の深く関わる思いであり、生きとし生けるものが、免れないところである。まして人は、すぐれて、物のあわれを知るものなのだから、特に、深く心に染み、しみじみとした思いに堪えられないのは、この思いなのである。」――『私淑言』

こうして彼は、さらに進んで、こう説いた。

「人は、皆、聖人ではないので、この思いだけでなく、普段の行いも、思う心も、善いことばかりというのは、難しいものである。とかく、悪いことばかりが多い中でも、恋というものは、いくら深く思い直しても、なお鎮め難く、自分の心にも従わないことがある。だから、よくないこととは知りながらも、なお、こらえられない例が、世に多い。まして、人に知られない心の内では、誰が、思いをかけずにいられよう。たとえ、表面は利口ぶって、他人まで厳しく戒める人々も、心の底を探って見れば、この思いが、ないはずはない。」――『私淑言』

このように彼は、異性が愛し合うのは、生物の自然な性情であり、どのような人も、どのようなものも、生きている以上、決して免れない、とした。

これは、すでに自然な性情、本能的な性情である。人は、生まれながらに、この方面へ、強い傾向を持つ。そして、今の世に道徳を説く者が、宣長のような説を唱えると、世の多くの青年男女へ、都合のよい口実を与えることになり、ついには、その感情の表し方が度を失い、規範を超え、きわめて激しくなり、まったく自制できない状態へ陥らせるおそれがある。ただ、一人の身を誤らせるだけでなく、ひいては、風紀を損なうことにも、なりかねない。宣長も、もとより、これを知る。だから、常に、人が、この極端へ走ることを戒めた。彼はいう。

「すべて、よくないことを諫め、止めるのは、国を治め、人を教える道の務めなので、道に外れた恋などは、もとより、深く戒めるべきことである。」――『私淑言』

また、仏教の、こうした戒律が厳しいことについても、こういう。

「だから、仏の戒めが重いのも、人が皆、免れ難く、迷いやすいからなのである。」――同上

宣長は、決して、極端な本能主義を唱える者ではない。

第四十三節 神道論(続)

宣長は、すでに、自然な感情を主張するが、その間にも、侵してはならない道があり、決して、乱倫を許さないのが、神道の本旨だとした。しかし、市川鶴鳴は、論じていう。

原注

市川鶴鳴は、通称、藤兵衛。江戸の人。漢学者として、当時に名を知られ、宣長の説に反対した。寛政七年七月八日、五十六歳で没した。

訳注

市川の名の後字は、この原注と本文の各出現箇所で一意に判読できない。訳では確認できる号「市川鶴鳴」を用い、名の漢字を推定して統一していない。通称と没日は底本の読める記載による。

「大昔の世には、人の世界と、畜生の世界との区別が、正しくなかった。中でも、親子や兄弟姉妹の婚姻は、畜生の世界の行いであり、とりわけ重い恥なので、外国では、聖人が早くから禁じられた。御国では、後まで長く禁じなかったのは、聖人ほどの徳を持つ人が、おられなかったためであろう。おばは、母の並びにあって母と同じであり、めいは、子の並びにあって子と同じなのに、倭建命が、おばを妻とし、用明天皇が、妹を妃とされた類は、大昔の行いの、名残である。」――『万我能比礼』

こうしたことは、太宰春台の『弁道書』をはじめ、多くの儒書が、常に論じるところである。宣長は、これに対して、どのような説を持ったのか。彼は、説いていう。

「御国に、親子の婚姻を許したことは見えない。大祓の詞から見れば、上代から、忌み嫌ったことは明らかである。さて、おばは、母の並びにあって母と同じだと、批判する者はいうが、おばは、母に近くても、同じではない。どうして、その区別がないことがあろう。めいも、子に近くても、どうして同じだといえよう。だから、皇神の道では、婚姻することを忌まない。また、同母の兄弟姉妹の婚姻は忌み、異母の兄弟姉妹は忌まないのも、皇神の道である。これは、もとより、皇祖神が定め置かれたことなのだから、後世の凡人の、小さな知恵によって、あれこれ論じるべきことではない。それなのに、これらを、畜生の世界の行いというのは、皇祖神をも、はばからず、何を根拠にいう、みだりな言葉か。まったく根拠がないのだから、ただ、外国の聖人の、私的な決まりによっていうのであろう。」――『葛花』

こうして彼は、わが国の上古には、おばや、めいと結婚し、異母の姉妹と結婚することは忌まず、ただ、貴い者と賤しい者とが婚姻することは、決してなかったとした。これこそ、神祖が定められた、正しい、まことの道であるとし、さらにいう。

「後世には、あの中国の定めを、少しばかり守るようになり、異母でも兄弟姉妹といって、婚姻しないことに決まった。だから、今の世で、それを犯すことこそ悪いのである。昔は、昔の決まりだったのだから、外国の制度を基準にして、論じるべきではない。」――『直毘霊』

こうして宣長は、次のようにいう。

「『神代巻』の下巻に、『磐裂・根裂神の子、磐筒男と磐筒女とが生んだ子、経津主神』とある。磐筒男神と磐筒女神とが、兄弟姉妹であることは、上巻にも見える。」――『葛花』

そして、兄弟姉妹の婚姻は、神代から、実際に行われたことだとした。沼田楽水は、そこで大いに、宣長の、このような説を反駁し、こういう。

「同母の兄弟姉妹は忌んでも、異母の兄弟姉妹が婚姻するのは、天子をはじめ奉り、おおむね普通のことだった、これは神祖が定められた、正しい道だ、というのは、昔をいつわり、今を欺き、神の道をおとしめ、人の倫を乱し、天下の人々を、畜生というものに等しくしようとする、曲がった言葉である。論じずにいられようか。さあ、よく聞け。大人に、異母の妹がいるとして、それを大人の妻に定めようと、仲立ちすれば、承知するのか。それとも断るのか。もし承知するなら、畜生の行いである。断るなら、自分が喜ばないことを、人に施すのである。異母の兄弟姉妹は、兄弟姉妹に等しい。何の区別があるのか。もし、そうでないというなら、養父母は父母ではないのか。継ぎの兄弟姉妹は、兄弟姉妹ではないのか。もし、そうだというなら、名を乱すことになる。異母の兄弟姉妹の婚姻を、神祖が定められた、正しい道というが、それは神代にはなかったことである。いったい、何の根拠があるのか。」――『級長戸風』

こうして、宣長が例とした、磐筒男・磐筒女などは、その説によれば、兄弟姉妹であって、異母の兄弟姉妹ではない。もし、これを証拠にするなら、兄弟姉妹の婚姻さえ、皇祖の認められたところだと、いえてしまう、と論じ、さらに、こういう。

「実に、天下の人々を、畜生というものに等しくしようとするのは、大人の言葉である。たとえ、磐筒男・磐筒女が婚姻されたことがあるといっても、それは淫らな行為だったというだけである。どうして、神祖が許されたことだといえようか。」――『級長戸風』

こうして彼は、『旧事記』『古語拾遺』などにより、磐筒男・磐筒女の二神は、御名は似ていても、決して兄弟姉妹ではなく、夫婦でもないと考証した。異母の兄弟姉妹の婚姻が、神代から行われ、皇祖神の定められた道だというのを、昔をいつわり、今を欺き、人倫を乱す言葉だと断じた。そして、さまざまな方面から、上代には近親結婚がなかったと説き、近親結婚は、決して神の道ではないとした。すなわち、上代に、もし近親結婚があったとする者があれば、それは、上代を禽獣と等しくすることだとし、宣長を矛盾に陥らせようとしたのである。宣長は、もとより、こうした言論に、黙っている者ではない。しかし、その論拠には、やや弱い感じがある。試みに、これを挙げよう。彼はいう。

「もし、禽獣の行いに似ていることを嫌うというなら、夜に寝て、朝、早く起きるのも、禽獣と同じだといい、朝寝をよいとするのか。また、子を慈しむのも、禽獣の行いだといって、慈しまないでよいのか。中国には、貴賤の区別がなく、定まった君主もなく、ただ、その時々に強い者が君主となる。賤しい身分の人の娘を、王の妻にしたり、王の娘を、賤しい男に嫁がせたりする類は、すべて、上下の区別がない。こうしたことこそ、特に、畜生の世界のありさまともいうべきなのに、その悪い風俗はいわず、ただ、同姓の者が婚姻することだけをいうのは、たいそう偏っているではないか。ことわざに、人の一寸は見えても、自分の一尺は見えないというのは、この儒者のことである。」――『葛花』

もちろん、兄弟姉妹や、おじと、めいとが結婚することも、それを否定することも、要するに、道徳上の基準の問題なので、どちらが正しく、どちらが誤りかを、絶対的に決めるのは、非常に難しいことであろう。かつて、南洋諸島の人々には、父母が老いると、山中へ置き去りにしたり、生きたまま食べたりする者がある、と聞いた。それでも彼らには、相応の理由があり、彼らの道徳説では、これを認めるのである。

宣長は、近親結婚を非礼とする説に対し、非礼とする根拠がないことを説き、こういう。

「古の正しい書に、これを非礼といったことは見えない。何を根拠にいうのか。もし、中国の決まりによっていうのなら、それは、はなはだしい間違いである。外国の決まりにこだわり、どうして、皇朝の現つ神の御業を、論じ奉るべきであろうか。」――『古事記伝』

その道理は、実に明瞭である。しかし、今日から見れば、近親結婚が、生理のうえで、よくないことは、世の学者が、等しく認めるところである。そのため、わが国の法令も、これを認めない。だから、私たちは、神道の立場から論じても、たとえ上古に、このような事跡があったとしても、異常な現象として、否定するよう努めなくてはならない。まして、磐筒男・磐筒女の二神は、近親結婚の証拠とするには、その事実に、なお、多くの疑問がある。また、宣長の主張を、前後を通じて見ると、彼も、古典の解釈として、古代には、これを忌まなかったと説くだけであり、今日、神道の立場に立つ者が、実行してよいとしたようなことは、決してなかったと知ることができる。

第十章 政治論

第四十四節 政治と学術

宣長は、かつて、神道の根本を示して、こういった。

「天照大御神は、皇孫命に、葦原中国を治めよ、といい、天上から、この地へ下された。そのとき、大御神の勅命に、『皇位の栄えは、まさに天地とともに尽きることがないであろう』とあった。この勅命こそ、道の根本である。」――『玉くしげ』

まさに、宣長のいうように、この勅命は、道の根本である。朝廷では、歴代、常に、この勅命を体現し、国を立てるうえでの肝要とされ、国民も、この勅命を奉じ、国運の進歩と発展を図る。これが、宣長のいう神の道である。したがって宣長は、神の道とするものの中でも、とりわけ政治の方面を重視した。これが、彼の学説が、政治論で多くの光彩を放つ理由にほかならない。彼は、第一に、政治家に学問が重要であることを説き、こういう。

「およそ、天下を治め、一国・一郡を治める政治の、大小の事柄について、その善悪や利害を考えるとき、まず、学問をしない人の判断は、多く、ただ、今日、目の前にある、手近な事柄の、うわべばかりに工夫を巡らし、根本のところへは、心がつかないことが多い。たとえ根本へ気づいても、その工夫が届かないことが多い。」――『秘本玉くしげ』

こうして、学問のない政治家が、表面的な観察と、浅い思慮によって、政治の根本を誤ると説いた。特に、近世の凡庸な役人が政治を執り、目前の利益だけに追われ、政治の根本を顧みないことを論じていう。

「近ごろの世の風潮は、ただ目前の損得だけを計り、根本を考えていう意見は、今日の役に立たない、回りくどいこととして、取り合わない習いになっている。これは、大きな間違いである。今日、目前の利益を思うなら、まず、根本から正さなくてはならない。根本を正さなければ、いかに工夫を巡らし、よい考えを立てても、ことわざにいう、飯の上の蠅を追う政治となり、終わりを全うすることなく、すべて無駄となり、ついには、大きな害を引き起こすこともある。」――同上

そして、少し学問をした者は、その学問が乏しいために、多くの害を生むとしても、学問のない凡庸な役人より、はるかに優れることを説き、こういう。

「少しばかり学問に携わる人の考えは、多く、ただ四書五経など、経書の趣旨を、今日の政治へ施そうとする。これは、根本へは近いが、経書の趣旨だけでは、時代のありさま、土地の風習、古今の変化などに疎いので、今日の政務には、実に回り遠く、かえって、世俗の判断にも劣ることがある。しかし、全体としては、あの、目先の利益だけへ走る役人の判断より、はるかに優れているであろう。」――同上

さらに、深く儒学を学ぶ者の弊害を論じ、こういう。

「また、さらに一段、深く学問へ身を入れ、経書だけでなく、歴史や諸子なども扱い、その意味を考え、古今に広く通じ、何事も、よく弁え、経世済民の筋も、よく理解した人の考えは、根本も末も、よく照らして考えるので、実に立派に聞こえ、普通の人の及び難いことが多い。世に知られたほどの学者で、経世済民に心がける者は、ますます学問も厚く広いので、さらに、よいところが多い。しかし、どれほど学問ができ、経世済民の筋にも熟練し、当世の事情に通じても、とかく儒者には、儒者気質という、一種の考え方がある。議論の上の理屈は、まことに、もっともに聞こえても、実際に政治へ用いると、思いのほか、よくないことも多く、かえって害となることもある。総じて、何事も、実際に移すと、その議論や理屈のようには、いかないものだ。また、儒者は、あの聖人の考えを根本とするので、国政の根本は、もちろん、十分に知っていると思っていても、実際には、なお知らないところがある。だから、これこそ、国政の究極の根本だと思う趣旨も、食い違い、本当の道には合わないことがある。だからこそ、あれほど賢く議論し、取り行う中国の代々に、長く、平和な治世が続いたことはない。あの国は、よく学問をし、賢い知者が代々現れ、それぞれ、さまざまな、よい考えを立てても、昔から今に至るまで、結局、治め方が適切で、その政治が長く行われたことはない。」――『秘本玉匣』

こうして、儒学は、日本に適切でないと説き、さらに、こういう。

「このようにいえば、儒者は、かえって、おかしいと思い、中国でも日本でも、道が二つあるわけではなく、治め方の根本に変わりはない、と、いうであろう。とりわけ中国は聖人の国なので、その道をおいて、ほかに、身を修め、国を治める道はなく、聖人の道をおいて、別に道をいう者は、すべて異端であり、正道ではない、と、儒者は、いうであろう。しかし、これは、ひととおり、誰もがいうことで、珍しくはない。その先を、もう一段高く考え、あの聖人の道にも、なお、根本に違いがあり、本当の道には合わないところがあることを、探り求めるべきである。うわべの議論の美しさに惑い、その道へ、こだわるべきではない。とりわけ日本には、外国とは、格別のあり方があるので、国政を行うには、特に、道の根本を知らなくてはならない。」――『秘本玉匣』

そして、本当の学問の性質を説き、こういう。

「すべてのことは、本当の道理に背いていては、どれほど、もっともに聞こえても、実際に行うと、思ったとおりにはいかず、かえって害があることもある。また、当面は利益があるようでも、必ず、長くは続かないものがある。一方、根本の道理によって行うと、回り遠いようでいて、思いのほか速く効果があり、よく行われることもある。当面は効き目が見えなくても、ついには効果が現れて、長く行われたり、目に見える効き目はないようでも、見えないところに、大きな利益があったりもする。だから、聞いた感じが、回り遠いからといって採らないのは、賢いようで、かえって愚かなことである。繰り返すが、道の根本を土台とし、末々の細事まで、これに背かないようにすることを第一として、何事も行うべきである。」――同上

要するに彼は、当時、学問と呼ばれた儒学は、当時の政治に、必ずしも無用ではないが、政治の根本を明らかにしなければ、かえって害をもたらす、とした。だから、いやしくも政治家である者は、本当の学問、すなわち皇国の学問をし、政治の根本を明らかにした後に、儒学も学び、政治の道を研究すべきだとした。そこで、こういう。

「日本でも、中古以来、多くは中国風の政治となり、風俗や人心も、全体に中国風になった世の中なので、今は、末々の事柄には、あの国の道も交えて行わなければ、済まないようなこともある。だから、国君はいうまでもなく、その政治を執る人々も、十分に漢学を学び、その道の、よいところは、事に応じて採り入れるべきである。また、あの国々の、代々の治め方が、実際には、よくなかったことも考え知り、その根本には、大きな違いがあると、よく理解し、決して、その道へ偏り、惑ってはならない。繰り返すが、この根本が大切なのである。世に、漢学をする者は、大体、その道へ偏り、惑い、ほかにあることを知らず、この根本の違いを悟れないため、かえって、国政を誤ることが多い。この点さえ、よく理解し、心へ深く刻んで動かなければ、どれほど漢籍を読み、朝夕、慣れ親しんでも、害はないであろう。」――『秘本玉匣』

原注

私は、この日、宣長の学説を書き述べ、ここまで来た。夜は、すでに明け方だったので、眠りに就いた。その夜、突然、胃腸の病を起こし、妻も、また病んだ。二人とも、単なる胃腸の病であったが、妻は、もとから病弱で、一度は癒えても、やがて、それが原因で、不治の病を引き起こし、ほどなく亡くなった。ああ、妻よ。私が研究に従事する間、常に家のことを処理し、その貢献は少なくなかった。とりわけ、私が軽井沢へ赴き、本書を書き始めていたときなどは、そうであった。しかし、今は、もういない。そこで、ここに、一言を挟む。

こうして宣長は、政治家となる者には、まず、皇国の学問をし、道の根底と、政治の根本を体得した後、儒学も学び、枝葉の点に至るまで、よく明らかにすべきだとしたのである。

第四十五節 政治の大本

以上のように、宣長が、政治家に、その体得を求める、政治の根本とは、どのようなものか。その詳しい内容を、明らかにしなくてはならない。彼はいう。

「皇国の朝廷は、天地の果てまで、永遠に照らしておられる、天照大御神の皇統であり、その大御神の神勅によって定められたのである。だから、幾万代の後の世であっても、日月が天におられるかぎり、天地が変わらないかぎり、どこまでも、これを大君主と戴き、尊び、敬わなくては、天照大御神の御心に合うことができない。この大御神の御心に背いては、一日、片時も立つことができないからである。ところが、中ごろ、この道に背き、朝廷を軽んじ奉った者が、しばらく、子孫にまで栄え、おごったことがあったのは、ただ、あの禍津日神の災いだったのである。どうして、これを正しい規範とすべきであろうか。それなのに世の人は、この根本の道理、本当の道の趣旨を知らず、儒者などが、小さな知恵を振り回し、みだりに、代々の得失を論じ、すべて、ただ外国の悪い風俗の道を基準として、あの逆臣であった北条の政治などを、正道であるかのように論じる。これは、皆、根本が違うので、どれほど正論のように聞こえても、結局、本当の道には合わないのである。下々の者は、たとえ、この根本を取り違えても、その身一つの過ちだが、いやしくも、一国・一郡でも領する君主や、その国政を執る人などは、道の根本を、よく心得なくてはならない。」――『玉くしげ』

こうして宣長は、実際に、上古、天皇が天下の政治を行われた、その法則を示し、こういう。

「上古、天皇が天下を治められた行い方は、古い言葉にも、神ながら天下を治められる、といい、ただ、天照大御神の御心を、わが御心として、すべて、神代に定まった跡のままに行われた。その中に、御自身の心で定め難いことがあるときは、占いによって、神の御心を尋ね、うかがって行われた。総じて、何事にも、大体は、御自身の、さかしらな考えを用いられなかった。これが、本当の道の、正しい行い方である。」――同上

さらに、こういう。

「その時代には、臣下も、下々の民も、一様に、心が素直で、正しかったので、皆、天皇の御心を、わが心とし、ただ、ひたすら朝廷を畏れ、慎み、上の定めのままに従い、守り、少しも、それぞれが賢しらな考えを立てなかった。そのため、上と下とは、よく和合し、天下は、めでたく治まったのである。」――同上

しかし、宣長の時代には、政権は、まったく徳川氏へ帰し、徳川氏は、表向き、皇室を尊ぶ風が、ないわけではなかったものの、実際には、ほとんど無視して、思いのままに、幕府の政治を行った。したがって、当時の役人たちに、宣長の主張のように、古伝説を重んじ、天照大御神の御心をうかがい、朝廷を貴び、皇室を敬い、政治を行おうとした者は、ほとんどいなかった。すなわち実際には、宣長の主張する政治の根本は、失われていたようである。そして彼は、この政治論を、徳川御三家の一つである、自分の藩主、紀伊侯に説こうとする。どのような態度に出たのか。彼はいう。

「今の御代とは、まず、天照大御神のお計らい、朝廷からの委任によって、東照神御祖命から代々、将軍家が、天下の政治を広く行われる時代であり、その政治を、さらに、一国・一郡に分け、大名たちが、それぞれ預かり、行われるのである。だから、その領内の民も、まったく、私有の民ではなく、国も、私有の国ではない。天下の民は、皆、今、東照神御祖命から代々の将軍家へ、天照大御神が預けられた御民なのである。国も、また、天照大御神が預けられた御国である。そうであれば、あの神御祖命の定めや、代々の将軍家の掟は、そのまま、天照大御神の定められた掟なので、特に大切に思い、この定めに背かず、崩さないよう、よく守られるべきである。また、その国々の政治は、天照大御神から、順々に預かられた国政なので、十分に大切に執り行われるべきである。民は、天照大御神から預かり奉った御民だということを忘れず、これも、本当に大切に思い、育み、慈しまれることが、大名の肝要である。下々の実務を行う人々にも、この趣旨を、よく示しておき、心得違いがないよう、常に心を配られるべきである。」――『玉匣』

さらに、こういう。

「今の世の人は、ただ、今の世の、上の掟を、よく慎み守り、自分だけの、さかしらな、変わった行いをせず、今の世で行うべきほどのことを行うほかは、あるべきでない。これこそ、神代からの、本当の道のあり方なのである。恐れ多いことである。」――同上

身は、幕府政治の治下にあり、幕府に近い一門へ、大道を説こうとする。また、難しいことではないか。宣長の苦心を、察するべきである。

第四十六節 政治と祭祀

宣長が、政治の根本とするところは、以上に述べてきたとおりである。したがって彼は、政治で、祭祀をおろそかにしてはならないと説いた。彼はいう。

「天下の神社は、昔は、その格式に応じ、朝廷から祭られ、諸国の小社まで、国守が承って祭った。今は、天下のことを、将軍家が執り行われる時代であり、諸国の神社には、朝廷からは、力が及ばないので、その国々を治める方々が、懇ろに祭られるべきである。ところが、中ごろの長い戦乱によって、天下の神社は大いに荒廃し、祭典も廃れ、社の跡もなく絶えたり、残っていても、それと分からなくなったりして、全体に、神社は、ひどく衰えた。平和な時代へ戻り、再興されたものもあるが、まだ、広くは手が及ばないのだろうか。今まで、廃れたままのものが多いのは、まことに嘆かわしい。今、大名が、領内の神を祭られるありさまは、ただ、戦国のころのままで、おろそかである。今の世の、国家の繁昌と、大名たちの盛大な勢いに応じるなら、神社は、どれほど盛んに立て直されても、よいはずなのに、神国の実にも似ず、神社が衰えていることは、繰り返し、嘆かわしい。そもそも、神を敬い祭ることは、誰も、よく知っているが、本当の道の根本の、詳しい道理を知らないので、世の人の思うところは、まだ、たいそうおろそかである。」――『秘本玉匣』

彼が、本当の道の根本とするものは、たとえ将軍家の掟であっても、それは、天照大御神の定められた掟であり、世の中のことは、すべて、善悪二神の御業だとすることである。そして、「究極のところは、人力の及ぶことではなく、神のお計らいのとおりでなくては、物事は進まない。この根本を、よく心得、たとえ、少しばかり国に悪いことであっても、昔からあって改め難いことは、急に取り除き、改めようとしてはならない。改め難いものを、強いて急に直そうとすれば、神の御業に逆らい、かえって、やり損なうこともあるのだ」と主張した。このため、大名や武士が、厚く、神を敬う気持ちを表し、祭祀に従事することを、最も重大なこととしたのである。だから、こういう。

「今、このように、めでたい平和な御代が、長く続いているのだから、大名方は、ますます領内の神社を興し立て、厚く祭られ、とりわけ式内社などへは、御自身も、折々、参詣されるべきである。特に、尾張の熱田大神、紀伊国の日前・国懸の両大神、出雲の杵築の大国主大神など、そのほか、このように格別の由緒がある大社は、なおさら、領主が大切に、厚く敬い祭られるべきである。」――『秘本玉匣』

さらに、こういう。

「武運が長く続くためにも、国内が安全であるためにも、五穀が豊かに実るためにも、必ず、神を厚く祭られる政治であってほしいものである。」――同上

彼は、さらに、村の社のような、各地の小社についても、国君は、注意を払わなくてはならないと説き、こういう。

「領内の村々の産土神や、城下の町々の神社など、領主が祭られるほどの神社でなくても、命令を出し、それぞれの神社を、十分に大切にし、神事を、おろそかにしてはならないことを、常々、懇ろに示されるべきである。ところが、今は、神社や神事についての、上の取り扱いは、全体に、たいそうおろそかである。村々・町々の神事などを、仮の、無駄なことのように考え、抑え、軽くするように言いつけ、下々でも、神事に金がかかるのは、無益な出費だと考える者があるのは、すべて、はなはだしい間違いである。何事も、神の恵みや守りがなくては、世によいことはない。困窮して苦しいなら、ますます、神を厚く祭るべきである。」――同上

ところが、世の人が、ともすれば神事をおろそかにすることを責め、こういう。

「世に倹約というと、まず第一に、この神事や先祖の祭りから省こうとするのは、どういうことか。今、世間全体が、次第に華美になり、贅沢が増しているので、それに合わせ、神事も、次第に華美に、丁寧にするのが当然である。わが身だけ、贅沢を増し、神を祭ることは増やさないのは、どうか。たとえ、わが身のことは、昔へ戻し、すべてを省いても、神事だけは、次第に増してゆくことこそ、本来の趣旨であろう。」――『秘本玉匣』

こうして彼は、神事の際の注意にも及んだ。彼はいう。

「神事で、風流の催しや芝居などを行い、酒を飲み、楽しく遊ぶのを、無益なことと思うのも、大きな間違いである。神に供物をして祭るだけでなく、人も、同じく飲み食いし、面白く、にぎやかに、楽しみ、遊ぶのを、神は喜ばれるのである。この詳しい道理は、普通の学者も、神道者なども、夢にも知らず、世間が、そろって、大いに心得違いをしていることである。総じて、世の人が、よい考えだと思うのは、すべて中国風の理屈なので、その中には、本当の道理に合わないことも多い。領主と役人たちも、国のためと思い、災害が起こらず、不吉なこともなく、上も下も安全に栄え、長く続くよう願われるなら、この根本への心がけが、大切なのである。」――同上

これによって分かる。宣長の主張は、蘇我石川麿が、神々を祭り鎮めた後に、政治を論じるべきだとした、その意見のようなところにあるのである。

第四十七節 租税論

私は、土地の古老から聞く。徳川氏が天下を治めたころは、租税の取り立てが厳しく、土地を持つ者などは、それを持つために苦しんだ、という。おそらく事実であろう。宣長も、これについて、こういう。

「近ごろ、百姓には、とりわけ、ひどく困窮した者ばかりが多い。これには、二つの原因がある。一つは、地頭へ納める年貢が、たいそう多いためである。二つには、世間全体の贅沢につれ、百姓にも、自然に、身の暮らしに贅沢が付いたためである。まず、地頭へ納める年貢が、たいそう多いということについては、中国の上古では、十分の一を、ほどよい程度としたが、後には、だんだん多くなった。それでも、こちらの今ほど、多くはなかった。」――『秘本玉匣』

宣長は、いつも、中国の事物を貶し、捨てるのに、今、租税について、これを証拠に引くのは、奇異な感じがしないでもない。やはり彼は、別に、日本の古代を証拠として引き、自分の時代の苛酷な税を示そうとした。彼はいう。

「大宝のころの、律令の定めを考えると、二十分の一ほどに当たり、たとえば、米二十俵を取る所で、年貢は、わずか一俵ほどで済んだのである。ただし、これには少し疑問があり、別に、私の考えもあるが、たとえ、その考えのとおりとしても、十分の一は超えない。そのほか、調や庸などというものはあったが、それも、大したことではない。大宝のころが、このようなのだから、それ以前の上古は、なお、はるかに少なかったであろうと、思いやるべきである。」――同上

ところが、源平の争乱の後、鎌倉幕府が、諸国へ守護・地頭を置くと、人民は、領主と地頭の両方へ納税しなくてはならなくなり、重税を見るに至った。後に、領主は力を失い、守護・地頭の勢いが増した。ついに、足利氏の中ごろになると、天下の大小の大名は、争って、自分の勢力を増そうとし、多くの人を扶養して、兵力を強めようとしたため、取り立ては、ますます厳しくなった、とした。彼はいう。

「大体、この戦国のときのありさまは、田畑の収穫のうち、わずかに農民が命をつなぎ、飢えないほどを、百姓の手に残し、そのほかは、すべて年貢に取ったくらいであり、はなはだしいことではないか。」――同上

やがて豊臣秀吉が天下を統一すると、法制が定まり、みだりに税を取ることはなくなったが、租税の量は、戦国時代と変わらず、依然として、苛酷な取り立てを免れなかった。続いて、徳川氏の世となっても、平時に、なお軍備を要したので、徴税は減らなかった。彼はいう。

「東照神御祖命のときも、同じである。このとき、世の中は平和へ戻り、戦は止んでも、あの戦国のありさまが、長年を経て、習いになっていた。急に、天下の武士を減らすわけにもいかないので、たとえ、どれほどの御志があっても、年貢も急には減らせないのが、自然の勢いであり、その量のまま、今に至ったのである。」――『秘本玉匣』

したがって、当時の租税は、戦国時代のままなので、農民の負担は、たいそう大きかった。

「それなのに、今の武士は、昔の定めの分量も考えず、次第に多くなった事情も思わず、ただ、もとから、今のように納めるべきものだと考えている。勝手に百姓を虐げ、苦しめる国も、よそにはあると聞くが、どういうことか。」――同上

よそにはあると聞く、とは、どのような言い回しか。藩主は、これを読んで、果たして、どう感じたのであろうか。こうして彼は、庶民の苦しみを述べ、こういう。

「今の世は、年貢が多いため、昔、一反、二反の田を作って得たほどの米は、一町、二町も作らなくては、自分の物になり難い。そのため、体を労し、心を労することが、ひどいうえに、さらに、純粋の米は、多くを上へ納め、自分は、ただ米でない、粗末な物ばかり食べて暮らす。これを思えば、今の世の百姓というものは、まことに、あわれで、気の毒なものである。」――同上

このように庶民は、あわれむべき状態にあるが、長い慣習のため、簡単には減税できないと論じ、こういう。

「今の世は、どの国であっても、仁徳の深い領主がおられ、右の事情を、よく考え、弁えられ、百姓を気の毒に思い、年貢を半分にでも改めたいとの御志があっても、これは、決して実現し難いことである。その理由は、戦国以来、大名たちが、大勢の武士を扶養することが、自然に決まりとなり、長い年月を経てきたためである。その武士を、大幅に減らしては、幕府の軍役も勤まり難く、多くの武士が、急に困難に陥る。これを減らせないので、年貢も、今さら急に減らすことは、到底できないのである。」――同上

そして庶民も、すでに、長く重税の下にいたので、必ずしも、ひどく取り立てられているとは感じないだろう。しかし、天下の諸侯は、常に、庶民が、あわれむべき境遇にあることを思い、いやしくも、定額の租税を増すようなことをしてはならない。役人も、君主の、この趣旨を体し、忠節を思い、庶民をあわれむべきである。このように、上から、常に、あわれみの気持ちで下へ臨めば、たとえ租税は重くても、脱税を企てる者も、滞納する者も出ないだろう。反対であれば、さまざまな、好ましくない人々を生むに至る、とした。彼はいう。

「今の世は、百姓の側にも、年貢について、不正直な仕組みを考え、免れようとする者があるが、それも結局、上からのいたわりがなく、扱いが悪いので、下からも、そのようなことをするのである。上の恵みさえ行き届けば、下は、すぐに感じ入るものだ。それなのに、他国の様子を伺うと、上の者も下の役人も、百姓を扱うのに、露ほども、恵み、いたわる心がなく、年貢は、もとから、今の定めどおりに出すべきものだと考える。その定めの年貢のほかにも、なお、さまざまなことを考え出し、ただ、ひたすら取り上げることを務めとし、飽きることがない。たまたま主君に仁心があり、緩めようと思われても、下の役人が許さず、下の役人に仁心があっても、上が許さず、ただ、百姓を苦しめ尽くす所もある、と伺う。」――同上

こうして取り立てが厳しいので、百姓は日々に疲弊し、脱税する者、滞納する者などが現れる。もとより、百姓の疲弊は、そのまま国家の疲弊である。担当する者は、長い先を見通す目によって、税の行政に当たらなくてはならない、とした。彼はいう。

「今の世は、ただ、その場のことだけを計り、全体の成り行きを考えない習いなので、さしあたり、その年の上納さえ整えばよいとして、百姓が苦しむことを顧みない。百姓が苦しめば、ゆくゆく、上の大きな損失となることも思わず、農民が次第に衰えてゆくのは、繰り返し、嘆かわしいことの極みである。」――『秘本玉匣』

もともと、わが国民は、忠実で勇武であり、秩序と統一を重んじるため、上に従う精神に富む。しかし、当時は封建の世で、各藩が、それぞれ独自の政治を行い、税制も一様ではなかった。藩によっては、庶民へ、非常な倹素を強い、重税を課し、藩の財政を満たし、非常時に備えようとしたものもある。これは、まだよい。甚だしいものは、藩政が乱れ、上も下も贅沢に流れ、国民の、服従に富む精神を悪用し、取り立てばかりを務めとした。ついには、いわゆる一揆を引き起こし、たいそう苦しい状況へ陥ったものもある。これが、実に、宣長が紀伊侯に説くに当たり、税制を重んじ、庶民の負担を軽くすべきだとした理由なのである。

第四十八節 刑罰論

刑罰の適用について、宣長は、どのような見解を持ったのか。彼の政治論を述べるには、この問題についても、意見を紹介しなくてはならない。彼は、まず、近ごろ、法の網を巧みに逃れる者が多いことを説き、こういう。

「何事でも、昔からの法を守るというのは、天下、一国にとって、実によいことである。しかし近ごろ、守るというのは、ただ名だけで、実際は、大いに崩れ、法の本来の趣旨にも背くことばかり多い。また、法は法として立てておき、その法を避け、触れないよう、すべてのことをする者が、たいそう多いのに、ただ、法さえ立っていれば、どれほど悪事をする者があっても、とがめないことがある。たとえば、関所を越えてはならない者も、抜け道を通れば、とがめることなく、その関所さえ越えなければ、見逃すようなことがある。」――『秘本玉匣』

もともと法律は、保守的なものである。日進月歩の社会に伴い、その進歩を望むのは、もちろんだが、朝令暮改は、法律で、はなはだ忌むところでもある。だから、たとえ法律に不備があり、改めなくてはならないものがあっても、適法に改められるまでは、私たちは従わなくてはならない。こうした場合に、不備につけ込み、私意を、ほしいままにしないのは、もとより、多くの日本国民が持つ、美しい風習である。宣長は、この点についていう。

「昔、定まった法も、長い年月が過ぎ、世のありさまが変わると、今では、その法のとおりでなくても害のないことや、その法を守り難いことなどがある。そうしたものを、大目に見て許しながらも、ひたすら、先代の法を廃することは、はばかり、その法は、そのまま法として立て、背かないようにするのは、おのずと、日本の、厚みある古意に合って、よいことである。だから、その事柄の筋にもよるべきである。」――『秘本玉匣』

宣長は、さらに、当時、上からの命令が下に行われないのは、賞罰の方法が適切でないためだとして、こういう。

「近ごろは、上から命令があっても、下では、おろそかに考え、守らないことが多い。また、しばらく守っても、ほどなく崩れる。これは、たいそう、あってはならないことである。一度、命じられたことは、長く、堅く守るようでなければ、政治は成り立たない。それなのに、このように、命令や法度が成り立たない理由は、上から命令が出ても、ただ、ひととおり触れ渡すだけで、守るか、守らないかを調べず、犯す者があっても、とがめないからである。そのため、破れやすく、引き締まらない。また、先にも述べたように、固く約束したことも、すぐに変わり、重職の役人の証文さえ、反故になって、役に立たない。総じて、このように、下に対し、上が信義を欠くことが多いと、庶民も、上の言いつけを慎まず、おのずと軽んじる心が生まれ、命令を守らなくなるのである。」――同上

こうして、賞罰が正しく行われなければ、上の命令は、下に行われないと説いた。宣長は、命令のほか、禁止についても、優れた説を述べた。試みに見よう。彼はいう。

「天下のため、国のために、害となることは、世に多い。その中には、実際には、大きな害があるのに、害と見えないこともある。また、ここには利益があっても、あちらには害があることもあり、当面は利益があるようでも、後に大害となることもある。これらは、すべて、人の惑うところである。国政を執る人は、常に心を配られるべきである。また、目の前に大害と分かりながら、止め難く、国君の勢いでも、幕府の威光でも、急には禁じ難いことも多い。そうしたものを、急に、強いて禁じようとすると、かえって、また害が生じ、どうしようもないこともある。だから、害があっても、急には禁じ難いことは、常々、気を配り、十分に、はびこらないよう図り、いつとはなく、少しずつ抑え、自然に止む時機を待つほかはない。すべてのことには、日々に増長しても、思いのほか、いつとなく衰える時機もあるのだから、必ず、事を急ぎ、やり損なってはならない。」――『秘本玉匣』

もともと、命令や禁止は、多くの場合、それを受ける者の意志に反する。そのため、それを行う側の威信と処置は、実行されるか、されないかに、重大な関係を持つ。為政者の下した命令や禁止が行われなければ、その政治は、失敗したといわなくてはならない。だから、為政者は、一度出した命令や禁止は、どのような刑罰を用いても、実行を強いなくてはならない。そこで、宣長の説のように、出す前に十分に考究し、出して、やり損なわないようにしなくてはならない。宣長は、さらに、訴訟は迅速に判決しなくてはならないことを論じ、こういう。

「訴訟や、願い出る事柄、とがめられる筋のことなどで、早く済ませてもよいことは、できるだけ、早く済ませるべきである。おろそかにして、一日も、放っておくべきではない。下々では、総じて、上に関わることは、わずかな事でも、解決しなければ、ひどく心を労する。特に、貧しい者などは、家業にも差し障り、たいそう困るのである。それなのに、上には、差し障りがないからといって、おろそかに、放っておき、長引かせるのは、実に思いやりのないことである。」――『秘本玉匣』

もともと法律は、西洋の古人が蜘蛛の巣にたとえ、強者は、これを破って、何事もなく、弱者は、これに縛られる、といったように、多くは権勢ある家に利し、弱者を苦しめるものである。宣長は、これを戒め、こういう。

「訴訟に限らず、すべてのことで、権勢ある家に関わる筋は、扱う役人が、たいそう困るものであり、これが、国政の大きな妨げとなることがある。だから、何事でも、権門の威を借りて押し通すことや、下々まで、主人の権威を振るい、無理非道な振る舞いをしてはならないことを、常に厳しく禁じられるべきである。また、役人たちが、少しでも権門をはばかり、不正な判断などをしてはならないことも、命じられるべきである。」――同上

宣長は、さらに議論を進め、刑の適用について、こういう。

「刑は、できるだけ緩く、軽いのがよい。ただし、生かしておけば、絶えず世に害をなすような者は、殺してもよい。とはいえ、一人でも、人を殺すことは、たいそう重いことであり、たいていの事柄では、死刑にできない決まりなのは、実に、ありがたいことである。それなのに、近ごろは、決して殺してはならない者でも、取り調べの難しい筋などがあると、毒薬などを用いて病死とし、その取り調べを済ませることも、世にはあると伺う。まことに、あってはならないことである。また、盗賊や放火などを調べるとき、身に覚えのない者も、拷問され、ひどい苦痛に堪えられず、偽って、私がやったと白状することがある。それを、白状さえすれば、真偽を、十分に確かめず、その者を犯人とし、その刑へ処するような例もあるという。これも、たいそう、あってはならないことである。刑法の定めはよくても、その法を守るとして、かえって、軽々しく人を殺すことがある。よくよく、慎むべきである。たとえ、少し法から外れることがあっても、とにかく実情を、よく考え、軽くする方は、差し支えないだろう。また、外国では、怒りに任せて、みだりに死刑にし、貴人でも、容赦なく厳刑に処する習いであるのに、日本では、身分の重い人は、それだけ刑も緩く当てられるのは、これも、ありがたいことである。」――『秘本玉匣』

確かに、宣長のいうように、刑の適用は、人間社会の、きわめて難しいことの一つである。担当する者は、深く注意しなくてはならない。

第四十九節 治者論

以上、宣長の政治に関する意見の大要を述べた。最後に、彼が、一般に政治家、すなわち治者について述べた意見を挙げ、この章を終える。

宣長は、人が世に処するには、それぞれ分があるので、それを守り、超えないことが必要だ、とした。しかし、その分は、どのくらいが相応か、たいそう定め難い。ただ、これを古今に通じて考えると、当時の大名・武士・町人などは、一般に、贅沢へ傾いているようだと説き、大いに、当時の治者である、大名や武士の贅沢を戒め、こういう。

「普通の人の贅沢は、その身一つのことだけなら、害が他へ及ぶことはないが、上に立つ人の贅沢は、その害が領内へ及ぶのである。総じて、平和な治世が長く続くと、いつの間にか、世の物事が華美になり、人の暮らしも、だんだん大げさになる。それを、折々に抑えず、放っておくと、年々、月々に増して、限りがなく、次第に世間が困窮し、ついには、よくないことが起こる。すでに近ごろ、大名の家々で、費用が足りず、多くは財政が、たいそう逼迫しているのは、まったく、このためである。昔は、大名の誰もが、毎年、大きな軍役などを勤めたときでさえ、今のように逼迫せず、豊かだった。今の世は、ついに軍役などを勤められることもなく、領地の収穫は、新田などもできて増えこそすれ、昔より減ったことはない。それなのに、かえって、財政が、ひどく逼迫するのは、どういうことか。まったく、世の中が次第に華美になり、いつの間にか、自然に、御身の暮らしが、あまりに大げさになり、何につけても、昔より格別に出費が増えたためである。とはいっても、目に見えるところでは、先例と、格別に変わったこともないだろうが、ただ、目に見えない事柄で、大きく変わってきたことが、多いのであろう。」――『秘本玉匣』

このように、当時の治者である大名や武士が贅沢に流れたため、おのずと、煩雑な形式や儀礼に陥り、無駄な費用を要するに至ったとした。その議論は、今日の政治家も、耳を傾けるに足る。彼はいう。

「すべてのことを、ひどく大げさに扱うため、軍備や国政のほかに、御身の暮らしに関わるような役人などが多い。一人でも済むことにも、上役、下役と、段々にいて、多くの人が関わり、大したことでもないのに、多くの人手や手間がかかる。次第に、事も増え、費用も増え、一つ一つの取り扱いで、何一つ、出費のないことはない。また、さまざまな役人が多ければ、横道へ抜けてゆく出費も、多いであろう。全体に、上のことを、下々で扱うのが、あまりに大げさなので、下の煩わしさになることは、いうまでもなく、無益な出費が、たいそう多い。その細かなことまで、上では、気づき難いのであろう。」――同上

彼は、さらに、大いに、煩雑な形式と儀礼の弊害を論じた。その論じるところを見よう。彼はいう。

「直接、御前へ届けてもよいことも、こちらの役人の手を経て、あちらの役所へ伺いを立てるなど、あれこれするので、無益な人手と手間がかかり、紙や筆の費用ばかりあって、急ぎの御用を済ませることは滞り、何の利益もない。すべてのことは、これに準じて知るべきである。……たとえば、甲・乙・丙・丁と、上下、段々の役人がいて、事を行うのに、昔は、甲が自ら扱ったことも、今は、乙へ命じて扱わせ、先年は、乙が勤めた務めも、近ごろは、丙へさせるようになった。去年までは、丙が手ずから勤めたことも、いつの間にか、今年は丁に勤めさせ、丙は手を下さなくなる。このように、下々まで、武士の身の構えが次第に大げさになると、国内の政治にとっても、よくないことが多いのである。」――同上

今では、煩雑な形式や儀礼の弊害は、大いに減らされたが、まったくないとはいえない。職務に当たる者が、宣長の、この言葉を、心に受け止めるなら、実に、国家の大きな幸いであろう。

宣長は、このように、治者の贅沢は、自然に一般社会の贅沢を引き起こし、大名や武士は、ますます形式と儀礼の弊害に陥り、おのずと、不義なことまで行うようになり、困窮すると、肝心の軍備さえ欠くに至る、とした。町人の間では、世間全体の逼迫をもたらし、逼迫は困窮をもたらし、ここに貧富の隔たりが生じ、ついには平和な治世を乱すに至る、としたのである。彼はいう。

「世間が困窮すると、富む者は、ますます富を重ね、世の金銀や財宝の大部分が、富裕な商人の手へ集まる。富む者は、商売上の工面がよいことは、いうまでもなく、金銀が豊かなので、何事につけても、やりやすく、利益を得るばかりである。そのため、嫌でも、金銀は次第に増える。貧しい者は、何事も、すべて、その反対なので、ますます貧しくなる道理である。」――『秘本玉匣』

さらに、貧富の隔たりについて、こういう。

「世間が困窮すると、金銀を借りる者が多いので、豊かな者は、これを貸して利益を得ることが多く、貧しい者は、借りて利息を払い、ますます苦しむ。もちろん、借りて返さない者も多いが、それについても、貸す者は、いろいろと考え、確実な方法を工夫し、賢く立ち回るので、損をする方は、まず少ない。総じて、今の世は、大体、利益を得るのは難しく、損はしやすい時節なので、富裕な商人は、できるだけ金銀を減らさない分別を第一とし、確実な方へ付く。そのため、まず減ることは少なく、とかく、増える方が多い。しかし、それも、回りの悪い方へ向くと、すべてが、右と反対になるので、莫大な金銀も、春の雪のように、消えやすいことがある。それでも、その金銀は、貧民を潤さず、それもまた、すべて富裕な商人の手へ入る。また、富む者は、一度、大きく損をしても、土台が丈夫なので、取り返すのも容易だが、貧しい者は、損をすると、再び取り返す元手がないので、長く、その損を埋められない。何につけても、貧しい者との隔たりは、たいそう大きく、貧しい者は、富む者のために貧しさを増し、富む者は、貧しい者によって富を重ねるのである。

右は、商人だけでなく、百姓などについても同じであり、富む者は、百姓でありながら、広く商売も行い、金銀のやりくりで利益を得る点も、商人と変わらない。また、農作でも、富む者は、利益を得ることが多い。肥料も十分に入れ、人手も十分にかけて作るので、実りも格別によく、米などを売りに出すにも、利益の多いときを待って売るから、金銀を得ることが多い。貧しい百姓は、少しの米を売るにも、待てないので、急いで売れば、見す見す、利益を得ることは難しく、すべて商人の場合と変わらない。」――『秘本玉匣』

このように、貧富の隔たりが生じるのは、自然な成り行きでも、治者は、ここへ心を向け、その弊害が、はなはだしくならないよう努めなくてはならない、とした。そして、治者が、当時の状況で取るべき、一つの政策を示した。その策にいう。

「今の世は、とりわけ、貧しい者は、ますます貧しく、富む者は、ますます富むことが、はなはだしい。だから、上に立って治める方のお計らいによって、何とかして、たいそう富む者の手へ集まる金銀を、ほどよく分散させ、ひたすら貧民を救われるようであってほしいものである。」――同上

これは、実に、一つの社会政策である。近ごろ、桂公爵は、恩賜金を基礎として、恩賜財団済生会を組織した。世に、これへ、さまざまな批評を下す者はあるが、やはり、近来の、一つの美事である。このような事業の経営に当たる者も、宣長の言葉から、学ぶところが、なくてはならない。宣長は、さらに言葉を進め、こういう。

「その分散のさせ方は、その者が納得し、心から出すようでなくては、よくない。どれほど多く蓄えていても、それは、すべて上から賜ったものでも、人の物を盗んだものでもない。すべて、それぞれの先祖や、自分の働きで得た金銀なので、一銭でも、強いて取る道理はない。金銀は、どれほど多く持っていても、人は皆、まだ増やそうと思うのであり、少しでも、理由なく出すことを、たいそう嫌がる。しかし、心から納得さえすれば、つまらない仏寺などのために、多くの金銀を出して惜しまないのだから、まして、領主が貧民を救われる仁政のためであれば、そのやり方によっては、十分に、心から感服して働き、役に立つはずである。これには、よい方法があるはずだ。とにかく、強いて取り上げるのは、よくない。また、その金銀を、ほかのことへ使うのも、よくない。ひたすら、貧民を救いたいものである。上から、民を救われる仁政が盛んに行われ、貧しい民が、その恵みを、ありがたく思う様子を見れば、命じられなくても、自然に、富む人には、救う志が生じるだろう。そして、もし、志を持ち、貧しい人を救う者があれば、その程度に応じ、厚く褒め称えられれば、ますます励み、救う者が多くなるだろう。」――『秘本玉匣』

社会政策としては、まことに、このようでなくてはならないだろう。以上、宣長は、治者の贅沢が、ひいては一般社会の贅沢を誘い、ついには、著しい貧富の隔たりをもたらし、さまざまな弊害を生むとした。彼は、このように治者の贅沢を戒めると同時に、けちへ陥るのも、たいそう、よくないとした。その説にいう。

「人は、何事も、その身の分に応じてするのがよい。分限を超え、贅沢するのが悪いことは、いうまでもないが、あまりに引き下げ、軽くするのも、正道ではない。大名は、大名にふさわしく、身を持たれるのがよい。質素がよいからといって、下々の武士のように、身を持たれるべきでもない。次に、その下に立つ武士も、それぞれに、ふさわしいのがよい。……すべて、事を軽くするのがよくても、あまりに身の構えが軽々しいと、それに応じ、おのずと心も、すべての行いも、賤しく、軽々しくなる。上に立つ人などには、特に、よくないことが多い。また、倹約を心がけると、自然に、けちな方へ流れやすく、必ず、すべきことも、やめてせず、人へ与えるべきものも、惜しんで与えない。甚だしい者は、人の物まで奪いたいと思うような心にも、なりやすい。」――『秘本玉匣』

こうして彼は、質素でありながら、けちに流れないようにするのは、たいそう難しい、とした。したがって、いわゆる質素というものも、実は、よくないとし、ただ、望ましいのは、分相応であるとした。しかし、この相応というものの基準も、たいそう不確かである。そして、贅沢には流れやすく、質素には傾き難いので、平和な治世が長く続く世では、相応だと思いながら、ひどく贅沢へ流れる、とした。そこで、当時、徳川氏の実現した平和な治世は、大きな贅沢をもたらしたとし、これを分相応にするには、狂人かと笑われるほど落とさなければ、それぞれ、分相応のところへは当たり難い、としたのである。

要するに、宣長の政治論は、思想として、必ずしも斬新とはいえないが、これを実行するという点では、斬新なものが少なくない。政治家は、よく味わい、考えるところがあってよいのである。

第十一章 宗教論

第五十節 神道の安心

そもそも、宗教というものには、さまざまな見解があるが、私は、広い意味に解し、人類が理想を崇め、敬い、それによって、心の安らぎを得、従い、その生存を全うするものとする。したがって、儒教が入る前、仏教が伝わる前に、唯一の道であった神道も、当時の国民へ、安らぎを与え、従うよりどころとなり、生存を全うさせた、理想というべきものを持っていたのである。これが、私が常に、神道には、宗教的な部分が含まれると主張する理由にほかならない。しかし、本居宣長は、神道の中でも、とりわけ、政治と道徳の方面を明らかにしようと努めた。そのため、彼の学説は、宗教的な部分では、たいそう物足りなく見える。それでも、すでに神道を論究する以上、多少は、ここへ触れざるを得ない。この章では、少し、この点について述べよう。

宣長は、日本の古伝を尊重し、それに基づいて、太古には神代があり、そこに、威力は高大で、霊妙な徳は、はっきりした神々が存在され、天地の生成も、国家の成立も、実に、これらの神々によって成されたと説いた。これは、すでに述べてきたところである。だから宣長は、古代の人々は、このような神々を崇め、敬い、従い、行動し、十分に安らぎ、宗教的な本能を満たすことができた、と考えた。したがって、私たちも、このようにすれば、心の安らぎを得られる、としたのである。

彼は、まず、こう考えた。世の儒教・仏教の教えは、天地の道を説き、生死の道理を論じ、心を安らがせる説を立てる。その説は、よく人情に合い、真理を明らかにするように見える。しかし、立ち返って考えれば、すべて人の推測から出たもので、決して、本当の道ではない。世の人は、これを考えず、ただ、その説の巧みさに心酔し、皆、走って、そこへ帰する。世の神道を説く者も、そこで、神道の安心の説を設け、一般の要求へ応えようとする。しかし、その説は、儒教によったり、仏教に基づいたりし、一つとして、古代神道の正しい意味を得ていない。こうして彼は、世の俗な神道家が説く、安心の説を退け、自ら、こう説く。

「下にある者は、上から定められる制度や法のままを受け取り、そのとおりに守り、人として、すべきかぎりのことをして、世を渡るほかはありませんので、別に、安心というものは、いらないのでございます。」――『答問録』

そうである。安心のいらないところこそ、自然に、大きな安心のあるところなのである。彼は、この境地へ至りたい者は、少しも、儒教・仏教などの考えを心へ交えず、その染みついた癖を、よく取り去り、清らかな精神によって、『古事記』『日本書紀』の古典を研究すべきだ、とした。この境地へ至れば、世にいう安心が、すべて無益な空論であると、自然に認識するようになる、と説き、こういう。

「これが、本当の神道の安心です。しかし、この境地へ至らない間は、どれほど説き聞かせても、安心はない、といっては、人々が承知しないことです。これは、あの儒教・仏教などの癖があるためです。」――同上

そして彼は、人々が、とりわけ承知しないのは、生死の説だとして、その説明をした。その説によれば、およそ、人の生死などは、人の知恵で知れるところではない。ただ、古伝は、人が死ねば、善人も悪人も、すべて夜見国へ向かうとするので、そのように認め、自ら悲しむほかない。これこそ、人の世に、死より悲しいものはない理由である。儒教や仏教は、強いて理屈を設け、この悲しみを、悲しくないようにしようとする。本当の道ではないことは、明らかではないか、というのである。

要するに彼は、人の世の、あらゆる問題を、古伝のままに解釈し、あえて私知を加えず、神を尊び、祭り、自分の分を守って、世に処し、事を行う、このほかに、安心というものはないとした。これが、彼の福音である。そう、日本の古代の国民の信仰を提唱し、儒教や仏教の弊害を救おうとする、彼の福音である。そして、私が広く意味するところに従えば、これは、彼の宗教なのである。

彼は、私たちが受ける禍福も、宗教的に神へ帰し、その説を立てた。節を改め、これを述べよう。

第五十一節 禍福論

世を導く者は、皆、「善行を積む家には、子孫まで及ぶ幸いがあり、悪行を積む家には、子孫まで及ぶ災いがある」と教える。あるいは、「善い原因は善い結果をもたらし、悪い原因は悪い結果を結ぶ。因果は明らかである。人は、必ず善いことをしなければならない」という。しかし、立ち返って実際を確かめると、盗跖が富み、顔回が早く死んだように、これらの教えと矛盾する事実は、世にたいそう多い。これは、宗教や道徳を説く者が、最も説明に苦しむところである。このため、仏教では六道輪廻を説いた。カントが神の存在と霊魂の不滅を肯定したのも、要するに、この問題を解釈するためだったといえるだろう。この宗教・道徳上の大きな問題を、宣長はどう解釈したのか。

彼は、もともと、「およそ、この世の中のことは、春と秋が移り変わり、雨が降り、風が吹くことも、また、国の上、人の上の吉凶も、あらゆることが、すべて神のお働きである」と説いていた。――『直毘霊』

したがって彼は、天地の活動も、私たちの行為も、皆、神に帰し、これによって、世の吉凶禍福を説明しようとした。つまり、神によって、世の善行が必ずしも福とならず、悪行が必ずしも禍とならない理由を、解決しようとしたのである。そこで彼はいう。

「この天地の間にある、あらゆることは、すべて神のお心による。その中でも、禍津日神のお心が荒れることは、どうするすべもなく、たいそう悲しいことなのである。」――『直毘霊』

こうして彼は、世の邪悪や災いを、すべて禍津日神に帰した。『万我の比礼』も、この点では、宣長の説に賛成している。こういう。

「吉凶、あらゆることは、皆、神のお働きである。神には善い神も、悪い神もあり、吉事は善い神から賜るもの、凶事は悪い神から賜るものだ。これは、日本の古い伝えであり、まことに、そのとおりなのである。」

しかし、その著者は、宣長のように、人の行為が、そのまま神の行為だとしたのではない。私たちの行為は、まさに私たちの行為であり、その正邪善悪に対して、神は私たちへ、吉凶禍福という結果を下される、とした。すなわち、こういう。

「神は、人の行いをご覧になって、吉凶、あらゆることを負わせられるのだから、人の行いは、片時も恐れ慎まずにいてよいものだろうか。中国で、天道は善へ福を与え、悪へ禍を与えるというのも、つまり、この意味なのである。」――『万我能比礼』

さらにいう。

「善人は必ず福を得、悪人は必ず禍を受けることに、少しも違いはない。これを疑うのは、『史記』伯夷伝に基づくのだろうか。あの伝は、わざと面白く言い回し、文章の巧みさを示したもので、本当に天命を疑ったのではない。およそ悪人でも、禍を受ければ、恐れ慎み、過ちを直す心も起ころう。ところが、たまたま幸いを得ると、自分の過ちを知らず、ついに大きな禍を招くのが、普通の例である。だから、悪人が幸いを得るのは、かえって、天が罪を増やさせられるわけである。盗跖のような盗賊が幸いを得るのは、たとえば、魚の骨を得て喜ぶ犬のようなもので、誰が、これをうらやもう。人に褒められることがないのは、つまり、直毘神がお許しにならない証拠であり、伯夷や顔淵が千年の後まで褒められるのは、つまり、直毘神がお助けになるしるしである。」――同上

こうして彼は、徹頭徹尾、善へ福を、悪へ禍を与える、という説を主張した。沼田楽水も、このような考えに基づき、人は、天、つまり天御中主神の政治によって、天地の気から生じるが、すでに人となった以上、人は人であって、神と異ならざるを得ない。したがって、その行為の正邪善悪は、神のお心のままではあり得ない、としていう。

「これは、自分の子の善し悪しも、自分の心のままにはならないのと同じである。天下の人々は、皆、善くあれ、とお思いになるようだが、天と人には隔たりがあるから、あらわに教えることは、おできにならないだろう。そこで、善い者には吉事を負わせ、悪い者には凶事を負わせ、善はめでたく、悪は不祥だという道理をお示しになるようだ。これは、親が善いことを褒め、悪いことを懲らしめられるのも、すべて、子のためを思うのと同じである。」――『級長戸の風』

さらに彼は、世の吉凶禍福が、目前では、正しく当てはまらないことを説明していう。

「そもそも、善人は必ず栄え、悪人は必ず悪くなるのは、天の政治の定めだから、必ず、そうなるはずの道理である。それなのに、かえって、善人も凶となり、悪人もめでたくなる例があるのは、その先祖の行いによるのである。善を積む家には必ず余慶があり、不善を積む家には必ず余殃があるといい、人知れず徳を積めば必ず、あらわに報いがあるなどという言葉を、よく理解し、中国と日本の歴史を読めば、天命が明らかであることも、わかるだろう。」――『級長戸の風』

しかし、孔子や顔回の不幸、盗跖の幸福といった矛盾は、楽水のこのような、ありふれた議論で、決して解決できるものではない。しかも、『万我能比礼』の、禍福をいっそう大きくするという説にも、彼は賛成できなかった。そこで、ほかに論拠を求めなければならない。彼は、『四十二章経』の、足ることを知れば貧しくても富み、足ることを知らなければ富んでも貧しい、という言葉を引き、こう説く。

「孔子・顔回は、足ることをご存じだったので、何事にも満ち足り、富んでいるようである。道を楽しんで貧しさをお忘れになるので、不足することもなく、内に省みて、やましくないので、気がとがめるつらさもない。どれほど、心安らかにお思いになっただろう。それゆえこそ、楽しみをもって憂いを忘れる、とおっしゃったのである。これを、孔子・顔回の楽しむところという。」――『級長戸の風』

このようにいい、この孔子・顔回の幸福には、富において天下を持ち、貴さにおいて王侯や宰相の位にあっても、どうして勝れようか、としていう。

「数々の宝を積み、何事にも満ち足りて、めでたければ、晋や楚の富など、何ほどでもないと思われる。しかし、足ることを知らないなら、常に不足し、利益に満足しないようなので、朝に夕に心を苦しめ、あれこれとしていて、心が安らぐ暇もない。孔子・顔回の楽しさと比べ、どうだろうか。それでも、なお、孔子・顔回も貧しかったのだから、天命はないのだ、といおうとするのか。」――同上

先には、積善には余慶があり、積不善には余殃がある、という説で説明しようとし、今は、欲を少なくし、足ることを知るという説で、善を積んでも災いがあるという矛盾を解決しようとする。楽水もまた、行き詰まったというべきだ。このような弱い論拠では、世の教えに関する、この大きな矛盾は、決して明快には解決できない。そこで宣長は、これを神に帰し、この難しい問題を、最も平易に解決しようとした。これは、すでに述べたところである。宣長の意見は、このようであった。それゆえ、市川鶴鳴の『万我の比礼』などの説を、盛んに反駁していう。

「天道は善へ福を与え、悪へ禍を与える、という、この意味は、一文字も知らない子どもでも、わきまえ知っていることであり、まことに、そうあるべき道理である。しかし、この言葉は、道理にはよく当たるが、実際の出来事についていうと、当たらない。世には悪神があるため、かえって、善人へ禍を与え、悪人へ福を与えることは、昔も今も、数え切れない。だから、天道・天命の説は、ここへ至って行き詰まる。ところが、中国の人は、この悪神の働きがあることを知らないので、なお、強いて、あの天道・天命の説を押し通そうとして、善悪禍福が、道理のままにならないことも、さまざまに言いくるめ、紛らしている。しかし、ついに明快な説明はなく、皆、無理なこじつけなのである。儒者仲間では、しぶしぶでも承知しておくのだろうが、私は承知できない。」――『葛花』

なお、進んで、このように天命説を退ける理由を説く。

「天命の説は、聖人が、賢しらな心で、道理によって、こちらから作り設けたものだから、道理は、よく当たって聞こえるが、世の中のことは、その説のままにはならない。だから私は、天命の説が、聖人の作り事だと知り、これを信じない。……そもそも、聖人は、まことに知恵が深いが、なお、限りがあり、世に悪神の働きがあることまでは悟れなかった。そのため、ただ道理に任せて天命の説を作ったので、合わないことが多いのである。聖人が、もし、よく悪神の働きがあることを知り、そのあり方に従って作った天命の説なら、世の中のことに合わないことは、あるまいから、たとえ作り事でも、異国の説でも、私が、どうして退けて信じずにいよう。私が信じないのは、異国の書だからではない。でたらめな作り事で、世の中のことに合わないからである。」――同上

すなわち彼は、終始、これを因果応報や天道・天命に帰する説を退け、神に帰する説を主張した。ここで、彼のこの見解について、最も明確な言葉を掲げよう。

「世の中のあらゆることは、善神・悪神があって、そのお働きなのであり、少しも疑いはない。善人は福を得、悪人は禍を受けるのは、善神のお働きである。また、悪人も福を得、善人も禍を受けることがあるのは、悪神の働きである。このように、日本の伝えでは、善神と悪神がある。だから、世の人の禍福が、道理のままにはならないことも、そのわけは、たいそう明らかなのである。」――同上

さらに彼は、自分の意見を要約していう。

「世の中にある、大小さまざまなことは、天地の間に自然にあることも、人のする行いも、すべて、神の御霊による、神のお計らいである。そもそも、神には、尊い神、卑しい神、善い神、悪い神、邪な神、正しい神と、さまざまあるので、世の中のことも、吉事や善事ばかりではない。悪事や凶事も交じり、国の乱れなども、ときどき起こり、世のため、人のために悪いことなども行われる。また、人の禍福が、正しく道理に当たらないことも多い。これらは、皆、悪い神の働きである。悪い神というのは、あの伊邪那岐大御神の禊のとき、黄泉国の穢れから生まれた、禍津日神という神の御霊によって、さまざまな邪なこと、悪いことをする神々である。そのような神が荒ぶられるときには、皇神たちがお守りくださるお力も及ばないことがある。これは、神代からのあり方なのである。」――『玉くしげ』

これらの議論から考えると、その意見は、ときに、前後の一貫性を欠くように感じられなくもない。しかし、大きく見れば、彼の主張する吉凶禍福の説は、たいそう明瞭である。すなわち、人は善を行い、悪を去らなければならない。直毘神が、厳しくご覧になっているからである。人は、善を行っても禍を受け、悪を行っても福を受けることが、ないわけではない。禍津日神のお心が荒れるのは、どうするすべもないからである。こうして彼は、世の教えの上の矛盾を、解くことができたとしたのである。

さて、この解釈を、今日の思想から見るなら、もちろん、述べるべきことがある。今日の思想では、善悪というものは、もともと理想との関係によって定まるものだから、理想の実現に価値があるものは、善である。私たちは、これを行わなければならない。理想の実現に価値がないものは、不善である。私たちは、これを退けなければならない。こうして、自分の全力を尽くして善を行い、不善を退け、できるかぎり十分に人格を完成させ、理想を実現する。身が貧しくても、楽しくなくてはならない。位が低くても、幸福でなくてはならない。事が、これに反すれば、その結果は、外では世の人の非難を受け、内では自分の苦痛となり、ついには、永久の禍を受けるに至る。これは、道理として当然である。このような学説は、神道と調和できるものだろうか。それとも、神道では、どこまでも宣長のような説を守り通さなければならないのだろうか。これもまた、大きな問題である。後の宣長となる者は、必ず、これへ解決を与えなければならない。

第五十二節 崇神論

宣長は、すでに、世の吉凶禍福は、皆、神の働きだとしたので、人は、まごころを尽くして、神々を崇め、敬わなければならない、とした。しかし、世の人が、そうしないことは、嘆かわしいとしていう。

「世の人が、神をおろそかに思い申し上げるのは、返す返すも、つらいことである。それぞれの程度で、尊び申し上げないわけではないようだが、ただ、世の習いとして、人並みに、うわべだけ尊ぶことはあっても、本当に心に深く留め、尊び申し上げるべきことを、わきまえず、ただ、おろそかに思っているようだ。」――『玉勝間』

こうして彼は、世の人は、厚く神々を崇め、神社へ参拝すべきだとした。

もともと、日本の神社は、世間で、ともすれば「神社仏閣」と唱え、「社寺」といい、寺院と同じように見られる。しかし、寺院とは、その性質が大いに異なる。すなわち、神社に祭るのは、日本の国家の建設、維持、発展へ、偉大な貢献をされた祖先の神であり、また、永く国家を守り、目に見えないところで、国民の安寧と幸福を増進してくださるものである。だから、国民は、上下、一致して神社へ参拝し、神々を祭り、根本へ報い、始まりへ立ち返る、まごころを尽くし、敬い、崇める念を捧げなければならない。朝廷が、天下の由緒ある神社へ幣帛を捧げ、祭祀を行われ、一般の国民が、各地の氏神や産土神へ、日を定めて祭典を行ってきたのも、皆、祖先の残した習わしである。この祭祀や崇拝は、もちろん、広い意味に解すれば、十分に宗教的な意義を持つ。しかし、キリスト教で、天国に唯一神が存在すると信じ、その神へ、死後の幸福を祈るため教会へ集まり、現世を軽んじ、天国の、いわゆる永久の幸福を夢見ること、また、仏教寺院で、人の世を夢・幻・泡・影と見て、さまざまな理想上の仏を信じ、現世を軽視し、後生の安楽を祈ることなどとは、同じには論じられない。神道で、神々を尊び、崇め、祭ることを重んじるのは、決して、世の一般の宗教に見られるような、未来の観念から出るのではなく、まったく、現世的・国家的な観念から出るのである。だから、今日、仏教などで、最も重要な職務とされる、一般の死者を葬ることも、神社では穢れとして、行うことを許されない。これについて、宣長はいう。

「『周礼』という中国の書を見ると、大祝・小祝という官は、さまざまな神々の祭祀を掌り、また、喪事も掌るという。生きた者と死んだ者、清いことと穢れたことの区別がなく、日本の心から見ると、たいそう穢らわしい国の習わしであった。」――『玉勝間』

要するに、神々を敬い、祭り、崇めるのは、以上に述べたように、仏教の仏を拝み、キリスト教のゴッドへ祈るのとは、そのあり方が異なる。しかし、古来、日本人の宗教心を満たしてきたものであり、また、日本の国家にとって、最も重大な事柄で、国民である以上、決して、おろそかにしてはならないものである。ところが、宣長の当時は、仏教が国教のような様子を示し、儒教が官学のような状態で、神を敬い、祭る習わしは、日に日に薄らぎ、諸国の神社には、荒廃するままに置かれるものが少なくなかった。宣長は、これを見て、大いに嘆いていう。

「何よりも悲しいのは、神の社と神事の衰えである。これほど、めでたい御代でありながら、さまざまな古い神のお社が、ひどく衰えているのを、立て直し申し上げようという志のある人が、世に出ないのは、たいそう残念である。そもそも宣長が、このようなことを、繰り返し言い出すのを、人は、うるさくも思うだろう。しかし、この事の嘆かわしさが、明け暮れ、心から忘れられる間もなく感じられるので、筆を取れば、書き出したくなるのである。

治まっている御代のしるしを、千木を高く掲げる神の社に、見たいものである。」――『玉勝間』

今、日本の国威は日ごとに高まり、国の光は月ごとに輝く。日本の国民である以上、必ず立ち返って、国家が、そのようである理由を考え、神社に祭る祖先の神々を厚く崇め、敬い、祭り、一つには、根本へ報い、始まりへ立ち返る、まごころを尽くし、一つには、ますます国運が発展することを祈らなければならない。

第五十三節 儀式論

すでに述べたように、日本では、古来、朝廷が、全国の主な神社へ幣帛を捧げ、祭典を行われ、永く変わることがない。一般の国民も、氏神・産土神を祭り、春秋に祭典を行い、ほかにも、事あるごとに祭る。これは、日本の祖先が残した習わしであり、国民の宗教心は、これによって満たされるのである。

このように、宗教心を満たすために行う祭典には、自然に、さまざまな儀式が生じる。この宗教的な儀式は、国民固有の精神と、密接な関係を持つ。そして、日本人固有の精神は、すでに述べたように、秩序と統一を重んじる思想、現世的で快活な感情、発展し、広がろうとする性格に富むところにある。この傾向は、内では、神を敬い、祖先を崇める国の習わしを養い、外では、神楽や、祓いの儀式を現してきた。

しかし、このような儀式は、後世、儒教・仏教の儀式から、非常に大きな影響を受け、たいそう煩雑で形式的なものとなり、昔の様子を留めないようになった。これは、宣長が、深く嘆いたところである。こういう。

「罪があるときにも、穢れがあるときにも、その重さ、軽さに従って、同じく祓いをするのが、上代の法である。ところが、中国の制度ばかりを、もっぱら習い、用いられる世となって、上代の習わしは、何事も変わり、この祓いの法も、廃れていったのである。」――『古事記伝』

また、「近ごろ、神道者という者のすることを見ると、僧侶が仏を祭る行いを、うらやみ、まねて行うことばかり多い」――『大祓詞後釈』――と喝破し、さらにいう。

「何々の祓い、何々の祓いといって読む文が、世にあれこれあるが、すべて、祓いということのあり方を、わきまえない、後世の人が作ったもので、ただ、例の中国風なことばかりをいい、古代の心や言葉ではない。祓いには、とりわけ、関係のないことばかりである。」――同上

これによって、彼が、儒教・仏教から影響を受けた、煩雑で形式的な儀式を退け、古代の精神を持つ、簡素な儀式を主張したことが、わかる。彼はいう。

「だから、祭るにも、その心を持ち、どこまでも、その神がお喜びになる行いを、すべきである。それは、まず、何事も斎み、清まり、穢れや悪いことをなくす。できるかぎり、美しく、よい物を多く捧げ、あるいは、琴を弾き、笛を吹き、歌い、舞うなど、面白い行いをして祭る。これは、皆、神代の例であり、古代の道である。」――『直毘霊』

これによって、その意図するところを知るべきである。

世の中では、何事につけても神を思い、神の恵みを、決して忘れるな。――本居宣長

黄泉の国を思うなら、どうして、つらいからといって、惜しい、この世を嫌って、捨てるべきだろう。――本居宣長

第十二章 学問論

第五十四節 学問の名分

宣長は、すでに、日本固有の大道を説き、その意義を明らかにした。しかし、その大道を行うのは、人である。人が、それを知り、好み、行おうとしなければ、大道は、ついに行われない。ここに、学問の必要が生じる。なぜなら、私たちは、学問によって、初めて、よく大道を身に受け止め、深く、これを行うことを好み、強固な意志で、自ら実行しようという念も生じるからである。だから宣長も、学問について、説くところがなくてはならない。果たして彼は、この方面についても、たいそう親切に説いている。彼は、まず、自分の主張する意味での、国学の起源を説いていう。

「昔は、日本の学問といって、特にすることはなく、ただ、中国の学問ばかりしていたので、世代を経るにつれ、古代のことは、だんだん疎遠になるばかりで、中国のことは、だんだん親しくなっていった。ついに、その心は、すっかり中国風へ移りきり、上代のことは、物事の意味はいうまでもなく、言葉さえ、聞き知らない異国のさえずりを聞くように、なじみのないものになった。その後、日本の学問を専門にすることも始まったが、漢意が、久しく染みついた人の心なので、ただ、名だけは日本の学問でも、いうこと、思うことは、なお、皆、中国風であるのに、自分では、そうと気づかないようだ。だから、近ごろ、学問の道が開け、何事も賢くなったにつけても、かえって、その漢意ばかりが、深く盛んになり、古代の心は、ますます遠くなった。ところが、最近になって、そこへ気づく人が出始め、世は皆、中国風であることを悟り、人も私も、古代の心を尋ねる思いが、明らかになり始めた。そうはいいながらも、神直毘・大直毘の神がおいでになる世は、なお、行く先が、たいそう頼もしい。」――『玉勝間』

なお宣長は、学問といえば、国学でなくてはならないと説いていう。

「そもそも昔から、ただ学問といえば、漢学のことなので、その学問と分けるため、日本のことの学問を、和学、あるいは国学などと呼ぶ習いである。しかし、それは、たいそう悪い言い方である。自分の国のことなのだから、日本の学問こそ、ただ学問といい、漢学こそ、区別して漢学と呼ぶべきである。それでも、もし、漢学のことと交ぜていい、紛らわしくなるところでは、皇朝学などといってもよいが、普通に、いつも和学・国学などというのは、日本を外に置いた言い方である。中国・朝鮮・オランダなどの異国からこそ、そういうべきで、自分で、自分の国のことを、そう呼ぶ理由はない。およそ、中国は外国で、あの国のことは、何事も、皆、外国のことなのだから、その心をもって、漢何々、唐何々と呼ぶべきである。日本のことは、内のことなので、区別して、国の名をいうべきではない。ところが、昔から、世の中が、一様に漢学を主とする習いであるため、何事をいうにも、ただ、あの中国を、自分の国のように内に置き、日本を、かえって外に置くのは、物事の意味を違えた、はなはだしい誤りである。これは、やまとだましいを固める一端だから、まず、いうのである。」――『初山踏』

このように彼は、まず、自分の主義に基づき、学問そのものの名分を正し、進んで、学ぶ方針を定めるべきことを説いた。

第五十五節 学問の方針

彼は、前節で述べたように、学問といえば、日本の学、つまり国学でなくてはならない、とした。しかし、その国学にも、さまざまな種類があるとしていう。

「まず、『神代紀』を中心に立て、道を、もっぱら学ぶ者がある。これを神学といい、その人を神道者という。また、官職・儀式・律令などを中心に学ぶ者がある。また、さまざまな故実・装束・調度などのことを中心に学ぶ者がある。これらを、有職の学という。また、古くは、六国史や、そのほかの古書から、後世の書まで、どの分野によるともなく学ぶ者もある。この分野の中にも、なお、分けていえば、さまざまあるだろう。また、歌の学問がある。それにも、歌を詠むことと、古い歌集や物語の書などを解き明かすこととの、二通りがある。おおよそ、これらの種類がある。」――『初山踏』

このように、学ぶ対象に、さまざまな種類があると同時に、学ぶ方法にも、さまざまな種類がある。だから、初学者は、学問へ入るにあたり、深く考え、研究しなければならない、としていう。

「学問を志し、入り始める人には、初めから、自分で思い寄る分野があり、その学び方も、自分で考える者がある。一方、そうして、特に、これと思い寄る分野もなく、学び方も、自分で考えのある方面がなければ、物知りの人について、どの分野へ入るのがよいだろうか、また、学び始める者の学び方は、どの書から先に見るべきか、などと尋ねる。これは、普通のことで、まことに、そうあるべきことである。その学問の種類を正し、学び方の法も正して、先で、邪な、悪い方へ落ちないよう、また、その学業が早く成るよう、およそ、成果が多く得られるように、初めから、よく整えて入りたいものである。同じく精力を用いても、その分野や学び方によって、得失があるはずである。」――同上

これは、まことに、宣長のいうとおりである。特に、現在のように、言語・歴史・地理・政治・法律・宗教・哲学・医学・工芸・美術・自然科学など、学術が多くの方面へ分かれ、また、研究すべき書籍が膨大なときには、初学者は、どの方面で、どの方法を取り、研究へ入るべきかについて、ほとんど、分かれ道の多さに、行き先を見失う嘆きを発せざるを得ない。この場合に、いわゆる物知りの人について、指導や助言を仰ぐことは、必要と思われる。しかし宣長は、その指導や助言へ、絶対に服従すべきものとするのは、いけないとした。つまり、ただ、参考にすれば十分だとしていう。

「まず、あの学問の種類は、ほかの人から、強いて、それをせよとはいいにくい。おおよそは、自分で思い寄る方面に任せるべきである。どれほど初心者でも、学問を志すほどの者は、まったく幼児の心のようではないので、それぞれに、自分で思い寄る分野は、必ずあるものである。また、人それぞれ、好む方面と、好まない方面がある。また、生まれつき得意なことと、不得意なこともある。好まないこと、不得意なことをしては、同じように努めても、成果を得ることは少ない。また、どの種類でも、学び方の順序は、一通りの道理によって、こうして、よい、と指し示して教えるのは、たやすい。しかし、その指し示したとおりにして、果たしてよいのか、それとも、思いのほか、それでは悪いのか、実際には、わかりにくいことなので、これも、強いて定めにくいことで、実は、ただ、その人の心に任せるのがよいのである。」――同上

このように彼は、学問の方針も、研究の方法も、要するに、学ぶ人自身の好むところへ向けて取るべきものとした。ただ、努めるべきなのは、長い年月、飽きず、怠らず、励み続けることで、これが大切だとしたのである。

しかし、こういって放任すると、初学者には、あるいは「取りつくところがなく、自然に、飽き、怠るきっかけともなるので、今、宣長が、こうでもあるべきかと思うことを、一通りいうことにしよう」といい、学問には、主とする方針がなくてはならないとしていう。

「さまざまな学問の分野は、どれも、どれも、重要な分野であり、明らかに知っていなくてはならないことなので、すべて残さず学びたい。しかし、一人の生涯の力では、ことごとく、その奥まで究めにくい仕事だから、その中で、主としてよるところを定め、必ず、その奥を究め尽くそうと、初めから、志を高く、大きく立て、努めて学ぶべきである。」――同上

こうして、その学問で、主とすべきものを説く。

「さて、その主としてよるべき分野は、どれかといえば、道の学問である。そもそも、この道は、天照大御神の道であり、天皇が天下をお治めになる道、世界のあらゆる国へ、行き渡っている、まことの道である。」――同上

そう説き、なお、こういう。

「道を学ぶことについては、天地の間にわたり、とりわけ優れた、この道の伝わる日本へ、生まれてきたのは、幸いの中の幸いだから、どこまでも、この尊い日本の道を学ぶべきことは、いうまでもない。」――『初山踏』

私が考えるに、今日のように、学問が多くの方面へ分かれ、それぞれが深く、精密になったときには、人は、必ず、そのどれかを専門として研究しなければ、ほとんど、学界に立つことができない。したがって、宣長の説のように、世の人が皆、宣長自身のように、道の研究を専門にすることはできない。しかし、どの地位の人も、どの職業の人も、人倫道徳の道は、一日も離れられないものだから、人は、深く力を尽くし、これを研究しなければならない。宣長の意図も、おそらく、同じだったのだろう。

第五十六節 教科論

宣長は、すでに、学問の方針を示した。この方針を立て、学問に従事するには、まず第一に、どのような教科を修めるべきなのか。こういう。

「初学者は、宣長の著した『神代正語』を数十回読み、その古語のあり方を、口に慣らし、知る。また、『直日の霊』『玉矛百首』『玉くしげ』『葛花』などのものを、学び始めから、あの二つの古典と交ぜて読むべきである。そうすれば、二典の事跡に、道が備わっていることも、道のあらましも、おおよそ理解できるだろう。また、これらの書をよく読めば、大和魂が、よく堅固になり、漢意へ陥らない守りにも、よいだろう。道を学ぼうと志す者は、第一に、漢意・儒意を清く洗い去り、やまとだましいを固めることを、大切にすべきである。」――『初山踏』

この研究は、宣長が、古学へ入る階段としたもので、初学者が、まず研究すべき教科である。これを、おおよそ終えた者は、進んで、大いに『古事記』を研究すべきだとした。その理由を説いていう。

「まず、神典は、『旧事記』『古事記』『日本紀』を、昔から、三部の本書という。その中で、世の学者が学ぶのは、『日本紀』を主とし、次に、『旧事紀』は、聖徳太子のお撰びになったものとして用い、『古事記』は、さほど尊ばず、深く心を用いる人もいなかった。ところが、近ごろになり、ようやく、『旧事紀』は本当の書ではなく、後の人が編んだものだと知り始め、今は、ほとんど、これを用いる人がいないようになり、『古事記』の尊いことを知る人が多くなった。これは、まったく、私の師である大人の教えによって、学問の道が、大いに開けたからである。」――『初山踏』

こうして彼は、『書紀』に比べ、『古事記』が重要なことを説いていう。

「まず、上代には、書籍というものはなく、ただ、人の口で語り伝えていたことは、必ず、『書紀』の文のようではなく、この『記』の言葉のようであっただろう。あちらは、もっぱら中国へ似せることを主とし、文章を飾ったが、こちらは、中国へ関わらず、ただ、古代の言葉を失わないことを主とした。そもそも、心と事実と言葉は、皆、釣り合うもので、上代は、心も事実も言葉も上代、後代は、心も事実も言葉も後代、中国は、心も事実も言葉も中国である。ところが、『書紀』は、後代の心で、上代の事を記し、中国の言葉で、日本の心を記したので、合わないことが多い。この『記』は、少しも賢しらを加えず、古くから語り伝えたままに記されているので、その心も事実も言葉も釣り合い、すべて、上代の真実である。これは、もっぱら、古代の言葉を主としたからなのである。およそ、心も事実も、言葉によって伝えるのだから、書は、そこに記された言葉こそが主なのである。また、『書紀』は、漢文の文章を考えられたため、日本の古語の文章は、失われたものが多いが、この『記』は、古語のままなので、上代の言葉の文章も、たいそう美しい。だから、たとえ、あの異伝の一つで、重い、公の書ではなくても、尊び、用いるべきである。まして、これは、浄御原宮で天下を治められた天皇の、厚い大御心から始まり、再び、平城の御代の詔命によって編み記されたのだから、まったく、軽い私的な書に比べられない。あれこれを思うと、いよいよ、ますます尊び、仰ぐべきなのは、この『記』なのである。」――『古事記伝』

彼は、なおいう。

「まことに『古事記』は、漢文の飾りを交えることなどなく、ただ、古くからの伝説のままで、記し方が、たいそう、たいそう素晴らしく、上代の様子を知るには、これに及ぶものがない。その上、神代のことも、『書紀』より、詳しく、多く記されているので、道を知る第一の古典であり、古学をする者が、最も尊び、学ぶべきなのは、この書である。それゆえ、私は壮年から、数十年の間、心力を尽くして、この『記』の注釈、四十四巻を著し、古代を学ぶ道しるべとした。」――『初山踏』

『古事記』に次いで、彼は、『日本書紀』を、尊び、研究すべき書とした。これについていう。

「『書紀』は、朝廷の正史と立てられ、代々の御世で、あらゆることが、これによられ、世々の学者も、これを主として学ぶ。まことに『古事記』は、記し方が、たいそう素晴らしく、尊い。しかし、神武天皇より後の、代々の御世のことを記した部分は、たいそう粗く、少なく、広くも詳しくもない。それに対し、この『紀』は、広く、詳しく記されており、比類なく、たいそう尊い書である。この書がなくては、上古のことを広く知るすべがない。しかし、全体に漢文の潤色が多いので、これを読むには、初めから、その心得がなくてはならない。ところが、世間の神学者は、この区別をせず、ただ、文章のままに理解し、かえって、漢文の潤色の部分を喜び、尊び、特に心を用いるので、すべての解釈は、ことごとく中国風の理屈となり、はなはだしく、古代の心と違っている。」――同上

なお彼は、『日本書紀』に次いで、研究すべき書目を挙げていう。

「次に、『古語拾遺』。やや後のものだが、二典の助けとなる事柄が多い。早く読むべきである。次に、『万葉集』。これは、歌の集ではあるが、道を知るのに、たいそう重要な書である。特によく学ぶべきである。」――同上

こうして彼は、『記』『紀』の二典に次いでは、『万葉集』を、特に重要なものとし、学ぶ者は、これによって、古代の細かな心や、風雅の趣を、知らなければならないとした。彼は、なお、六国史を推薦していう。

「まず、道を知るための学問は、おおよそ、以上の書々である。しかし、『書紀』より後の、次々の御代のことも、知らずにはいられない。その書々は、『続日本紀』、次に『日本後紀』、次に『続日本後紀』、次に『文徳実録』、次に『三代実録』である。『書紀』から、ここまでを合わせて、『六国史』という。皆、朝廷の正史である。次々と、必ず読むべきである。また、これらの史書の中で、代々の御世の宣命には、古い心と言葉が残っているので、特に心を留めて見るべきである。」――『初山踏』

このほかにも、彼は、なお、さまざまな書を掲げた。すなわち、

「次に、『延喜式』『姓氏録』『和名抄』『貞観儀式』『出雲国風土記』『釈日本紀』『令』『西宮記』『北山抄』、それに、私の『古事記伝』など、おおよそ、これらは、古学をする者が、よく見ておかなければならない書々である。しかし、初学の間に、これらの書を、すみやかに読み渡すことも、たやすくないので、巻数の多い大部の書は、しばらく後へ回し、短い書から、先に見てもよいだろう。その中で、『延喜式』の『祝詞の巻』、また、『神名帳』などは、早く見なくてはならないものである。」――同上

以上は、宣長が、そのいう道の研究には、必ず研究しなければならないとした古書であり、これによって、彼が、その学問で教科としたものが、わかる。

彼は、さらに、補助科として、漢籍を研究しなければならないことを説いた。その説ではいう。

「古書は、皆、漢字・漢文を借りて記され、特に、孝徳天皇・天智天皇の御世のころから後は、あらゆることに、中国の制度によられたものが多い。だから、史書を読むにも、中国の書のあり方を、おおよそ知っていなくては、理解が届きにくいことが多いからである。ただし、中国の書を見るには、特に、大和魂を、よく固めておいて見なければ、その書の、言葉の巧みさに惑わされる。この心得が、肝要である。」――『初山踏』

こうして宣長は、学ぶ者は、以上の教科を修め、同時に、特に『万葉集』へ力を用い、歌文の研究に従事すべきことを説いた。

第五十七節 学修法

以上のように、書目を挙げ、教科を示した宣長は、ここに、学問を修める方法を示した。

「およそ、これらの書は、必ずしも、順序を定めて読むには及ばない。ただ、都合に任せ、順序に関わらず、これも、あれも見るべきである。また、どの書を読むにしても、初心の間は、端から文章の意味を解こうとしてはならない。まず、おおよそ、さらさらと見て、ほかの書へ移り、あれこれ読んでは、また、先に読んだ書へ立ち返り、何度も読むうちに、初めには理解できなかったことも、少しずつ、わかるようになっていくものである。」――『初山踏』

藤田東湖は、かつて、「読書は、広く読むことを貴びますが、うわすべりしては、いくら万巻を読んでも、役に立たないでしょう。古人のいう、眼光が紙の裏まで通る、というように読みたいものです」といい、宣長の、この説とは、主張を異にしている。東湖の説は、いわゆる、眼光が紙背に通るというもので、多くの人が主張するところである。宣長の説は、自分の経験に基づくもので、百回読めば、意味は自然に通じる、という見解である。宣長は、なおいう。

「これらの書を、数回読む間には、そのほかに読むべき書のことも、学び方の法なども、だんだん、自分の考えができるものなので、その先のことは、一々、諭し教えるには及ばない。心に任せ、力の及ぶかぎり、古い書も、後の書も、広く見てもよいし、また、簡略にして、さほど広く渡らなくてもよい。」――同上

なおいう。

「博識などといって、ずいぶん広く見るのも、よいことだが、そうすると、重要な書を見ることが、自然に、おろそかになるものなので、むやみに、広いことばかりを、よしとしてはならない。その同じ力を、重要な書へ用いるのもよいだろう。また、あれこれへ、広く心を分けるのは、互いに助けることもあり、互いに害となることもある。これらの事情を、よく考えるべきである。」――『初山踏』

ここでは、宣長も、東湖のような見解を説いているといえる。彼は、学ぶ者の立場を、さまざまな方面から見て、漏れのないことを期したようである。これが、学びの方針も方法も、物知りの人から、一定のものを与えることはできない、とした理由なのである。

古典研究の一つの方法として、当時、一般に行われていた語釈については、彼は、その重要性を認めなかった。こういう。

「語釈とは、さまざまな言葉について、そういう、もとの意味を考え、解釈を述べることである。たとえば、天というのは、どのようなこと、地というのは、どのようなこと、と解く類である。これは、学ぶ者なら誰もが、まず知りたがることだが、これへ、それほど深く心を用いるべきではない。これは、おおよそ、よい考えができにくいもので、まず、どういうことかも、わかりにくい仕事だが、強いて知らなくても、困ることはなく、知っても、さほど益はない。だから、さまざまな言葉は、そういう、もとの意味を考えるよりも、古人が用いたところを、よく考え、この言葉は、この意味に用いた、ということを、よく明らかに知るのを、要とすべきである。言葉を用いた意味を知らなければ、その箇所の文意は理解しにくく、また、自分で物を書くにも、言葉の用い方を違えることがある。ところが、今の世の、古学をする者は、ひたすら、そういう、もとの意味を知ることばかり心がけ、用いる意味を、おろそかにするので、書も読み誤り、自分の歌文も、言葉の意味や用い方を違え、思いもよらない誤りが多いのである。」――同上

宣長は、このように、語釈を退けたが、歌の言葉の研究は、たいそう必要なこととした。

彼の考えでは、もともと、人の「思う心、いう言葉、する事」は、多くの場合、互いに対応するものである。だから、上代の心のあり方を知るには、上代の言葉も、事実も、詳しくしなければならない。そして、上代の言葉は、歌に伝わり、事実は、歴史に伝わる。その歴史も、また、言葉によって記したのだから、言葉の外ではない。心のあり方も、歌で知ることができる。言葉と事実と心とは、そのあり方が、互いに合うものなので、後世の人が、古代の人の思った心、行った事を知り、その世の様子を正しく知るすべは、古語・古歌にある。さて、古代の道は、二典に記された、上代の事跡の上に備わっているので、古語・古歌を、よく会得して、これを見るとき、その道の意味は、自然に明らかになる、という。こうして彼は、古語・古歌の研究を、古道研究にとって、きわめて重要なものとした。これは、おそらく、彼が、神の道は理論へ走らず、事実に存在するとしたためだろう。すなわち、

「およそ、神の道は、儒教や仏教などの道が、善悪是非を、仰々しく定めるような理屈は、少しもなく、ただ、豊かで、おおらかで、雅やかなもので、歌の趣こそ、よく、これに合うのである。」――『初山踏』

という言葉に基づくのである。このようなことは、すでに、彼の学風を論じるとき、少し触れたところである。彼は、この立場から、学ぶ者は、他人の歌文の研究に留まらず、自分でも、大いに歌文を作るべきことを、必要とした。こういう。

「自分でも、古風の歌を学んで詠むべきである。およそ、あらゆることは、他人のこととして思うのと、自分のこととして思うのとでは、深さが異なる。他人のことは、どれほど深く思うようでも、自分のことほど、深くは染みないものである。歌も同じで、古歌を、どれほど深く考えても、他人のことなので、なお、深く至らないところがある。しかし、自分で詠むようになると、自分のことなので、心の用い方が格別で、深い意味を知るのである。それゆえこそ、師も、自分で古風の歌を詠み、古風の文を作れ、と教えられたのである。文については、古文は、『延喜式』巻八にある、さまざまな祝詞や、『続紀』の、代々の御世の宣命などが、古語のままに残る文章である。二典の中にも、ときどき、古語のままの文がある。そのほかの古書にも、ときどき、古文が交じることがある。これらを取って、手本とすべきである。」――『初山踏』

なお、宣長が、読書の方法として示したものには、大いに、私の考えに合うものがある。こういう。

「書を読むのに、ただ、何となく読むときは、どれほど詳しく見ようとしても、限りがある。しかし、自分で、何かの注釈もしようと心がけて見るときは、どの書でも、格別に心が留まり、見方が詳しくなるもので、それにつれて、ほかにも得ることが多い。だから、その志した仕事は、たとえ完成しなくても、およそ学問に、大いに益がある。これは、注釈だけに限らず、何事でも、著述を心がけるべきである。」――同上

思うに、人が学問を修めるには、常に、このような注意が要る。この注意があって、初めて、見聞きするものの印象が深まり、多大な効果を得られるのである。

第五十八節 学修法(続)

宣長の学問論として、最後に、彼が、自由に討究する精神を、大いに鼓吹したことを、示さなければならない。当時、一般に秘伝を唱え、師を重んじた時代にあって、この精神を鼓吹するのは、非常な見識がなければ、できなかったからである。見よ。その言葉は、こうである。

「私が古典を説くのに、師の説と違うことが多く、師の説に、よくないところがあると、弁じていうことも多いのを、たいそう、あってはならないことと思う人が、多いようだ。しかし、これは、つまり、私の師の心なのである。常に教えられたのは、後で、よい考えができたときには、師の説と違うといって、必ずしも遠慮するな、ということだった。これは、たいそう尊い教えであり、わが師が、世に優れておいでだったことの、一つである。およそ、古代を考えることは、まったく、一人、二人の力で、ことごとく明らかにし尽くすことはできない。また、優れた人の説だからといって、多くの中に、誤りが、どうしてなかろう。必ず、よくないことも、交じらずにはいられない。自分の心では、今は、古代の心が、すべて明らかで、これを除いては、あり得ない、と確信したことも、思いのほか、また、人から、別のよい考えが出てくるのである。多くの手を経るにつれ、さまざまな考えを、なお、よく考え、究めることによって、次々と詳しくなっていくのだから、師の説だからといって、必ず守るべきではない。ひたすら、古いものを守るのは、学問の道では、どうしようもないことである。」――『玉勝間』

これによって、いたずらに、古人の残りかすをなめ、先人のしずくをすすることの誤りを論じた。ちょうど、アリストテレスが、「私は、師プラトンを尊敬する。しかし、真理は、さらに尊敬する」といい、プラトンの説の誤りを挙げ、自分の説を主張したような見解を述べていう。

「自分の師などの、よくないところを、言い表すのは、たいそう恐れ多い。しかし、それも、いわなければ、世の学者は、その説に惑い、長く、よい説を知ることがない。師の説として、よくないと知りながら、いわずに包み隠し、よさそうに取り繕っているのは、ただ、師だけを尊び、道を思わないのである。宣長は、道を尊び、古代を思い、一心に、道が明らかになることを思い、古代の心が明らかになることを、主として思う。だから、個人的に、師を尊ぶ道理が欠けることは、どうしても顧みられないことがある。それを、なお悪いと、そしる人は、そしるがよい。それは、仕方がない。私は、人にそしられまい、よい人になろう、といって、道を曲げ、古代の心を曲げ、そうしていることは、できない。これは、つまり、わが師の心なので、かえって、師を尊ぶことにもなるだろうか。それは、どうであってもよい。」――『玉勝間』

つまり、世の悪評や好評、褒め言葉やけなし言葉に、あえて関わらず、真理のために努力すべきことを説いた。こうして彼は、自分の弟子へ、この主義を示していう。

「およそ、私が人を教えるのは、道を明らかにしようとするためだから、何としても、道を明らかにしようとすることこそ、私の教えを用いることなのである。道を思わず、むやみに私を尊ぶのは、私の心ではないのである。」――『玉勝間』

したがって、宣長の弟子で、その学説に、新しく明らかにしたことがあれば、宣長の説を退け、自分の発見したものを、天下に唱えるべきで、決して、師の説へ、こだわってはならない、とした。このような、自由に討究する精神があって、学術の発達を期することができるからである。宣長の学徒で、ともすれば、師からの伝承を論じ、学ぶ者の研究を拘束しようとする者があった。不肖の弟子というべきである。

余命は少ない。何度も読み返しても飽きない書は、こんなにも多いのに。――本居宣長

命が長くあってほしい。世の中にある、あらゆる書を、読み尽くすまで。――本居宣長

第十三章 異端論

第五十九節 伐邪神道論

宣長の当時、神道として、盛んに世に行われていたのは、両部神道、唯一神道、垂加神道である。宣長は、これらの間に立ち、自分の神道を広めようとする。勢い、あの日蓮が、諸宗派の盛んな中で、一派を起こそうとするとき、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」のような言葉を、絶叫したのと同じく、異説を打ち、自分の立場を切り開かなければならない。そこでいう。

「天地は一つであり、道も、本当の道は、天地の間に、ただ一筋だけで、そのほかの道は、皆、正しい道ではない。」――『答問録』

こういい、盛んに、神道の異端を攻撃した。まず、その両部神道論から、ここに述べよう。

そもそも、両部とは、世に、神と仏を混合したからだと解する者もあるが、もともとは、真言の教理の、金剛界・胎蔵界の両部に基づくことは、争えない。真言の教理では、体・相・用の三大を立て、あらゆる現象を説明しようとした。その三大の第一は、体大であり、地・水・火・風・空・識の六大とする。この六大を、あらゆる現象の実体とし、前の五大を胎蔵界、識大を金剛界とした。あるいは、前の五大を色法として、あらゆる物質的現象を統べ、識大を心法として、あらゆる精神的現象を統べる。あるいは、前者を原因とし、後者を結果とする。あるいは、前者を理へ配し、顕教が真如を理とするのに反し、事物の姿を、そのまま理とし、後者を智へ配して、理と智は二つでない、とした。要するに、六大は、互いに妨げることなく、金剛界と胎蔵界は一致し、物質と心は、もともと二つではない、と説き、これを、大日法身如来の本体とした。

そして、この一つの根源が、区別のある世界へ現れ、さまざまな現象となるのは、四曼の形式によるものとし、これを相大とした。これが、第二の大である。いわゆる四曼とは、一つには、大曼荼羅で、事物が、その姿を備えていることを示す。二つには、三摩耶曼荼羅で、観音の蓮華、不動の剣のような、印契や法器、そのほか、一般に、内面の悟りを示すものをいう。三つには、法曼荼羅で、植物の種子のようなもの、つづられて文字となる字母のようなもの、これによって、事物が生じてくる、よりどころをいう。四つには、羯磨曼荼羅で、すべての活動をいう。真言の教理では、上は法身如来から、下は六道の凡夫に至るまで、広く、三種の世間へわたる、あらゆる区別の相は、この四曼相大の外へ出ない、としたのである。

六大が、その区別の相を現すのは、この相大により、その活動を行うのは、身・口・意の三密による、とする。これを用大とする。つまり、三大の最後に位置するものである。身・口・意というのは、大日の法身についてである。もともと、あらゆる現象は、大日の相大によって現れたものなので、すべて、この三密を持つ。見よ。すべての事物が持つ本体は、身密ではないか。それらが声を持つのは、口密ではないか。それらの本体や声が、活動の傾向を持つのは、意密ではないか。このように、あらゆる現象の、作用の方面を、三密と名づけたのである。真言の教理の、三大の説は、おおよそ、このようである。この三大は、要するに、一つの体大へ帰することは、道理として、おのずから明らかである。華厳の凝然が、最も簡潔に、これを言い尽くした。こういう。

「六大を立て、総じて仏の本体を明らかにする。四種の曼荼羅は、この上に現れる姿である。三密が相応することは、その作用である。六大のうち、前の五大は理、第六の識大は智である。理・智の上に、それぞれ、相と用がある。これが、四曼・三密を立てる理由である。智は金剛界、理は胎蔵界である。これを、両界・両部の大日と名づける。したがって、六大が、そのまま大日如来であることが成り立つ。あらゆるものは、六大を離れない。六大の本性は、あらゆるものへ行き渡る。だから、あらゆるものは、大日でないものがなく、大日如来は、法界のすべてへ行き渡る。」――『八宗綱要』

なおいう。

「知るべきである。両部は、大日如来の、理と智の徳である。云々。両部が二つでないことを、理智冥合という。」――同上

そして、この、両部が二つでなく、理と智が深く一つとなることを示すのに、阿字真如を用いる。両部神道は、実に、この教理に基づいて構成されたものである。そこでいう。

「阿字が、本来、生じることなく、始めも終わりもない、という道理を究め、真如実相という、大きな一事の因縁を尽くし、形のある姿を離れ、真実の姿に住し、今日、この肉体を変えず、仏果へ至り、高天原の空理へ留まり、賢愚や得失の世界には居ない。永く、生死から離れる。病難にある、凡愚の人々も、仏を念じ、五倫を正し、あらゆる悪を行わず、あらゆる善を実行するときには、上へ転じ、神霊・仏陀の境地へ変わる。生死を離れず、高天原へ留まらない人は、災害を避け、五倫を正し、国家を治め、天地の至上の道理を尽くしても、夢の中で、高い位へ昇り、数多くの宝珠を得るようなものである。」――『両部神道立派口決鈔』

こうして彼らは、空海が、この道理に基づき、神道の奥義を究め、今日、この座を去らず、高天原へ留まり、阿字の本来の都、本覚の如来の地へ帰らせようとして、両部神道を盛んにした、としたのである。

本居宣長は、この両部神道が、はなはだしく、日本固有の神道を害したことを嘆き、そもそも、両部神道は神道ではないとしていう。

「両部神道というものは、ただ、自分の心を主人とし、神と聖人を奴僕として、心に任せ、借り使ったものである。神の古典も、仏の説も、儒者の言葉も、自分の心のとおりに説きにくいところは、すべて、方便だ、仮の説だ、表面のことだ、などと言いなし、ひたすら、思いのままに説いたのは、仏の道でもなく、儒者の道でもない。まして、神の道でないことは、いうまでもない。ただ、自分勝手な、目新しい道なのに、神道と名づけたのは、なぜかといえば、儒者の道、仏の道は、よその国から渡ってきた道で、神の道こそ、日本にもとからある道だからである。後世であっても、世の人が、なお、他国の道によるよりは、同じことなら自分の国の道を、と思うので、その名を借りたもので、この仲間の祖とする、昔の僧侶なども、そうだったのである。当時、各地の民は、ひたすら神を尊び、仰いでいたので、まず、その神を引き込み、自分の道の中のものとし、恐れ多くも、仏の奴隷のように説きなし、人の心を移らせたのである。」――『玉勝間』

こうして彼は、両部神道というものが、自ら神道と称するのも、このような理由があるためだとした。宣長は、さらに攻撃していう。

「儒者の道では、あらゆることを、陰陽の道理で説き、その上に、また、太極・無極というものを説いた。しかし、その太極・無極は、どのような道理、どのような理由で、太極・無極なのかといえば、答えるすべがない。そこで、あの両部神道では、仏の道の、密教の意味によって、もう一段、上を説き、これを、阿字真如海の、自由な変動の働きなどといい、さまざまな道に勝れるように誇る。しかし、その阿字真如は、また、どのような道理、どのような因縁で、変動自在なのかといえば、どう答えようとするのか。およそ、物事の道理は、次々と、その根本を究めていくと、どのような理由とも、どのような道理とも、知ることはできず、ついには、すべて不可思議なものへ落ち着くのである。だから、陰陽も、太極・無極も、阿字真如も、すべて、仮の言いぐさで、本当には、その道理があるわけではなく、役に立たない、むだ事なのである。」――『玉勝間』

さらに、阿字真如は、もとの不覚によるため、突然、無明を生じる、という説を攻撃していう。

「真如であるなら、無明は生じないはずなのに、どうして生じるのか。その道理こそ、聞きたいものである。不覚によるため、突然、無明を生じるというが、それなら、その不覚は、また、何の因縁、どのような道理で不覚なのかといえば、どうなのか。」――同上

要するに宣長は、両部神道は、自分の心を主として説を立て、神典も、仏説も、儒書も、すべて、自分の意見によって解釈し、説明しにくくなると、方便だ、仮の説だ、とするものであり、決して、儒教でも仏教でもなく、まして神道ではない、とした。ただ、僧侶が、仏教を広めるための、一つの方便として作ったものだから、世の人は、これへ惑わされないことが必要だとしたのである。

このように宣長は、両部神道を攻撃し、さらに、唯一神道と垂加神道を攻撃した。

唯一神道は、吉田家の神道であり、藤中渓は、その伝統についていう。

「神道とは、日本の大道であり、天下のどこでも、道でないところはない。太古、異国の教えが渡ってくる前は、この道が、自然に、民間の風俗となり、物事に対処するのも、すべて、神の教えのままに、尊び、敬い、君臣・父子・夫婦の道は、いうに及ばず、日々の行動や静止も、神道でないものはなかった。云々。これが、唯一宗源神道の教えであり、一家の私的な言葉ではない。舎人親王が『日本書紀』をお撰びになったときも、諸家の伝記が数多かったのだから、神道の秘訣や口伝を、一家だけに私する道理はないと、知るべきである。しかし、その深い意義や口訣の奥義は、たやすく諸家へ伝え、広く人に知られるところではない。古伝の証明が正しいものを、尋ね求めるべきである。その大道を掌る家を、神祇道の長と称する。これは、天下の公の論である。神伝を受け継ぐ家は、昔は、ほかにもあっただろう。太玉の神の子孫も絶え果てたので、道を伝え、神祇道の長といわれるのは、吉田家に限られると思われる。これは、天児屋命の神の血筋で、神道の正統、古伝を受け継ぐ家の嫡流である。日本の大道、神の教えの深い意義を、正しく受け継いできた家なので、古代へ志のある人は、敬い、思うべきである。」――『神道正統記』

そして、仏教の経典の中から得たといわれる、「唯一」という文字を解釈し、

「第一には、ただ一つの法だけがあり、二つの法はない。第二には、ただ一つの流れだけを受け、二つの流れはない。第三には、ただ一つ、天上に証明がある。」――『名法要集』

こういい、唯一神道は、天児屋根命から、嫡流として代々受け継ぎ、別に、儒教・仏教・道教などへ求めるものはない、という。こう説く。

「唯一は、神明から直接に伝えられた、一気開闢の一法である。大織冠の仰せに、『私たちの唯一神道は、天地を書籍とし、日月を証明とする』という。これは、純一で、ほかを交えない深意である。だから、儒・釈・道の三教を、必要としてはならないのである。」――『名法要集』

ところが、吉田家の唯一神道は、儒・釈・道、特に仏教によって、その説のすべてを構成したもの、といえる。

山崎闇斎は、吉川惟足を経て、この神道の説を受け継いだが、吉田家の説が、あまりに仏教によることを嫌い、新しく一派を起こし、これも、唯一神道と呼んだ。しかし、これは、儒教に基づき、天と人が一つだという教えを立てただけである。宣長は、このような、儒教や仏教による神道を、等しく、すべて攻撃した。天人唯一への攻撃ではいう。

「唯一というのは、両部神道というものがあるので、その両部を交えない、という意味である。だから、神の道が唯一なのは、もとからのことだが、その名は、両部神道があった後のものである。ところが、この名を、両部に対したのではなく、天人唯一の意味だとするのは、はなはだしい誤りである。天と人が一つとは、どのような道理なのか。それは、ただ、天を、この上なく、たいそう優れたものとする漢意から、言いなしたことで、深く、古代の心に背いている。そもそも天は、天つ神たちがおいでになる国なのである。人が、どうして、それと一つになる道理があろう。世の物知りの人は、皆、古代の心を悟れず、ひたすら漢意に惑うため、何につけても、道理の深そうなことを説こうとして、強いて、このようなことも、いうのである。」――『玉勝間』

なおいう。

「垂加の仲間のような者は、神道を借り、儒道を説いたものである。どうして、それが神道であろうか。云々。五行を物へ配するのも、むちゃな議論と、こじつけであり、土や金などに至っては、もともと、でたらめな説である。これは、後世の物好きな者が、偽って古人へ仮託していったもので、決して、古人の言葉ではない。よく古書を読む者なら、弁じる必要もなく、自然に明らかである。中国人は、陰陽五行をいい、その説が精密なので、日本の人も、これをうらやみ、強いて、神典を飾り立てる。」――谷川士清への書簡

また、論じていう。

「あの、仏道によって説いたものを、誤りと知りながら、また、自分が儒道によっているのも、同じく誤りであることを悟れないのは、おかしいものである。」――『初山踏』

このように、罵って退けた。もし彼らが、神道と儒道は、行き着くところが同じなので、儒道によって神道を説くだけで、あの仏教へ、こじつけるものとは、同じに論じられない、といったなら、宣長は、さらに反駁するだろう。

「そう思うのは、この道の意味を悟れないからである。もし、そのようにいうなら、あの仏道によって説く仲間も、また、神道といっても、仏の道の外にあるのではなく、一致する、とこそ、いうべきだろう。」――『初山踏』

こういうに至るだろうとした。このようなことは、すべて、その道へ惑った結果だとし、本当の神道は、儒教や仏教などと一致するものではないことを論じた。そして、さらに筆を整え、世の儒教的・仏教的な神道を攻めていう。

「およそ、近世の神学者は、以上のようなので、あの漢学者の中の、宋学というものに似て、少しも、ほかへ目を向けず、ただ、一筋に、道のことばかり心がけているようだ。しかし、ひたすら、中国風の理屈にばかり絡め取られ、古代の心は、尋ねようとさえ思わず、心を用いるところが、皆、儒意なので、深く入るほど、ますます、道の意味からは遠い。また、あの仏の道によって説く仲間は、その行法も、おおよそ、仏家の行法をまねて作ったもので、まったく、日本の古代の行いではない。」――『初山踏』

こうして、「神の道は、儒教や仏教などの道が、善悪是非を、仰々しく定めるような理屈は、少しもない」といい、世の葬儀や祭祀などで、俗習と異なる、さまざまな宗教的儀式を行うのも、すべて、儒意・仏意によるもので、決して、純粋な神道ではないとしたのである。

第六十節 道教論

神の道は、宣長の説に従えば、儒教や仏教のような理屈は、少しもない。したがって、言動は、知恵や技巧、巧みなへつらいへ走らない。ただ、産霊神から受けた性質を規準とし、これへ適い、あえて背かないことを、根本の意味とする。これは、宣長が、真淵の説を受け、継いで述べたところであり、また、道教と、その説が、たいそう似ているところである。

その説に、たいそう似たところがあるので、市川鶴鳴は、評して、「老荘が説いた、自然というものを、よいと思ったのだろうか」――『まがのひれ』――といった。沼田楽水なども、またいう。

「道という言葉はなく、道という事柄もないが、道はあった、といったのは、『老子』という書の、大道が廃れて仁義がある、という言葉に基づき、言葉を加えて、言い出したものである。道があるとは、大道があることをいい、道という事柄とは、仁義を指し、道という事柄もないとは、仁義の名もなかったことを、いうようだ。そうであれば、老聃の心と、何の違いがあろう。誰が、大人は老子をまねたのではない、といおう。」――『級長戸の風』

宣長の時代に、すでに、このような議論をする者は、世に少なくなかった。宣長自身、これへ弁論し、反駁し、似た点があるからといって、必ず、それに基づいたものだ、といえる道理はないことを説き、こういう。

「およそ、他国に似た説があるからといって、必ず、それを取ったと思うのは、たいそう、かたくなで、見識が狭い。なぜなら、山川草木の類、また、人や、鳥獣などの類は、皆、自然に、日本も、中国も、インドも、どこでも、おおよそ同じだが、これらも、すべて、他国のものをまねて作った、とするのか。およそ、人の作るものは、その国々によって変わることが多いが、もとから自然に生じるものは、どの国でも、多くは変わらない。こうして、インドや中国などの道が、多く、神の道に似ないのは、人の賢しらで作った道だからである。しかし、また、たまたま、似たこともないわけではない。これもまた、自然なことである。さて、あの老荘は、自然に、神の道へ似たところが多い。それは、あの賢しらを嫌い、自然を尊ぶからである。自然のものは、ここも、あそこも、おおよそ同じだということを、思い合わせるべきである。」――『葛花』

またいう。

「およそ、あらゆることは、自然に、あれとも、これとも、通い、似たところが、必ず交じるものである。この道も、儒者の説く趣と通うところが交じり、仏の道とも、似たところが交じるのだから、自然に、あの老子とも、一部分、似たところ、通うところが、どうして交じらずにいよう。」――『玉勝間』

こうして、老子のいう自然には、日本の神道と、少なからず似たところがある、とした。しかし彼は、この二つの間には、根本的な違いがあると主張した。その根本的な違いとは、何か。こういう。

「彼らの道は、もともと賢しらを嫌うため、自然の道を、強いて立てようとするものなので、その自然は、本当の自然ではない。もし、自然に任せるなら、賢しらな世は、その賢しらのままにあることこそ、本当の自然であるはずなのに、その賢しらを嫌い、憎むのは、かえって自然に背く、無理強いである。」――『玉勝間』

そして、これに対して、神の道を説いていう。

「神の道は、賢しらを嫌って、自然を立てようとする道ではない。もとから、神の道のままである道である。これが、どうして、あの老荘と同じだろう。」――同上

同じではないが、似ているという理由について、彼は、なおいう。

「人の作ったものではなく、神代から、自然にある道である。これは、皆、神がお始めになったもので、実は、自然ではないが、人為と比べれば、また、自然のようなのである。」――同上

ここで彼は、特に注意を促していう。

「これをよく区別し、あの、中国の老荘などの見解と、一つに思い違えするな。」――『直毘霊』

こうして彼は、自分の神道は、老荘と根本的に異なるところがあるとし、その主張に、力を尽くしたようである。沼田楽水は、さらに、これを攻撃していう。

「ある人が、大人を、老荘の仲間だといって、そしるとしたら、それは、ただ、常に聖人をおとしめ、むやみに教えをけなし、民を、生まれたままにしておこうとするからである。道が自然にあることと、神の霊によって成ることとに、関わることだろうか。たとえ、道は神の霊によって成ったといっても、生まれたままを頼り、教えないなら、それこそ、老荘の見解である。誰が、大人を、老荘と異なるといおう。」――『級長戸の風』

会沢正志は、さらに激しく、これを評していう。

「その説が老荘から出たことを隠そうとして、このような逃げ口上を述べたが、紙の上で異なるというだけで、実際へ施せば、少しの違いもない。」――『読直日霊』

こうして彼は、宣長が、どれほど強弁しても、その説は老荘と異ならないことを論じ、さらに、自分の立場である儒教と比べ、盛んに論じていう。

「老荘の自然は、人の営みの自然を知って、人の道が自然であることを知らない。天地があれば人があり、人があれば五倫があり、五倫があれば、その間の、親愛・正義・区別・秩序・信義の、人の道が、自然に備わる。人として生まれては、この五つの教えがあることこそ、自然な、人の道である。老荘は、行住坐臥が自然であることを知って、五つの教えが自然であることを知らない。雑草も、よい穀物も、天地の気を受け、自然に茂る。しかし、雑草は卑しいので、耕し、草を取る力を待たずに茂る。よい穀物は、貴く、人を養うものなので、人力を尽くして耕し、草を取らなければ、茂らない。これこそ、耕作も、自然の道なのである。鳥獣は卑しいので、教育を待たない。人は貴いので、必ず教育があることが、自然の道である。老荘は、これを知らず、人の道を鳥獣と同じにする。天地の自然ではなく、私見の自然である。本居も、老荘の見解で、人の道を知らないため、老荘を、神の道に似ていると思い、神の道は、君臣・父子の大倫が正しいことにあると、知らないのである。」――『読直日霊』

この議論には、もちろん道理がある。しかし宣長は、決して、君臣・父子の大倫を、度外視したのではない。ただ、天から受けた性質に従い、少しも賢しらを用いなければ、言葉も行動も、自然に節度へ適い、君臣・父子の大倫も、期せずして正しさへ適う、としたのである。この点で、彼の説が老子へ通い、それを発展させるのに、老子へ負うものが多いことも、自然の勢いといえるだろう。しかし宣長は、そうではないと弁じるのに、力を尽くした。それなのに、自ら、彼の門人と称した平田篤胤が、これと正反対の態度に出たのは、むしろ奇妙といわなければならない。篤胤は、宣長が、老子の自然は、本当の自然ではなく、実は儒教より、さらに、はなはだしく偽ったものだ、などといったことを、一言、「当たらない議論だ」と退け、こういった。

「実は、老子が伝えた、奥深い道の根本は、日本の皇神たちが、早く、あちらへ授けられた道である。そのいう自然は、日本の神典に、『惟神とは、神の道に従うことをいい、また、おのずから神の道があることをいう』とあるのと異ならない。そのいう道の、精妙で真実なところは、何もしないが、神のままである徳として、なさないことがない。天地・人は、その神のはたらきから出て、惟神の道へ従う、という意味である。これは、あちらの古書を読まない古学者や、日本の神典を知らない、外国の学問をする者などには、知り得ないところである。」――『赤県太古伝』

あるいは、「誰が、老子を、道の異端だというのか」といい、老子の五千余言は、日本の神典を学ぶ趣旨と異ならず、「なんと、かぐわしい教えではないか」と称賛した。真淵は、かなうものとし、宣長は退け、篤胤は、これを丸ごと取り込もうとする。私たちは、この三人の思想の間で、従うべきところを求めるべきである。

第六十一節 儒教論

すでに、老荘とは少し近かった、宣長の神道は、儒教とは、非常に大きな葛藤を生じ、まったく、氷と炭のように、相容れない様子を示した。宣長が、これほど儒教に厳しかったのには、もちろん、理由がある。その説を確かめよう。こういう。

「その説も、その教えも、うわべは、ことごとく道理に当たるように聞こえるので、古来、人は皆、その説を信じ、どれほど賢い人も、これへ、すがらないということがない。近代には、神道者の中に、まれに、これを非難した人もあるが、なお、その根底まで尽くすことはできず、そのいうところも、ついには皆、あちらの考えへ落ちた。儒道は、おおよそ、このようなので、古来、本当に、その誤りをよく知った人はいない。また、うわべは害がないようだが、道のため、天下のためには、その害が深く、大きいことは、仏道にも勝るのである。」――『葛花』

訳注

底本は「道の爲、下には」と記す。「天下」の「天」が欠けた可能性を考え、訳では文脈によって「道のため、天下のためには」と補った。この補いは訳者の推定である。

こうして彼は、儒教の攻撃へ、全力を尽くした。まず、儒教は浅薄で、取るに足りないことを論じていう。

「中国の説は、皆、でたらめだが、もともと、人の知恵が届くかぎりで、推し量り、設けたものなので、聞く人の心が、推し量り、思うところへ、親しく、近く、入りやすく、信じやすいのである。ところが、中国の人は、聖人の知恵は、天地のあらゆるものの道理を、すべて知り尽くしたものと心得ているので、その賢しらを手本に、自分の限りある、小さな知恵によって、知りにくいことも、強いて推し量り、知ろうとする。そのため、道理を推し量りにくいことは、これを信じず、強いて、その道理はない、と決めるのは、賢そうに聞こえるが、かえって、自分の知恵の小ささを現すものである。」――『葛花』

このように、儒教の立場を攻撃した彼は、さらに、その鋭い矛先を、聖人の上へ向けた。こういう。

「中国の代々の人は、皆、聖人に欺かれたもので、本当に尊いから、そうなのではない。もし、世の人に仰がれることで、本当に優れているとするなら、今の世で、一向宗の人々が、その祖師、親鸞を仰ぎ、尊ぶことなどは、儒者が聖人を尊ぶより、なお、はるかに勝るから、親鸞の徳は、聖人より勝るとするのか。」――同上

さらに、極言していう。

「そもそも、聖人が、人に勝るところは、ただ、知恵や技巧だけで、実は、皆、にせものなのである。」――同上

宣長の聖人論は、すでに、このようである。それゆえ彼は、聖人が道を説き、教えを立てるのは、すべて、その根底に、自分の利益を求める心があるとした。こういう。

「中国の聖人の行いは、君主を殺し、その国を奪った大罪を覆い隠し、世の人に信じられるため、自分の行いを、ひどく飾り、作った、無理なことで、人が、あるべき限度を越えた行いである。その教えも、また、自分の子孫が、人に国を奪われることを恐れ、また、人が、これを奪おうとすることを恐れるため、人の、あるべき限度を越え、はなはだしく設けた、無理強いである。それなのに、天下、後世の人々が、その知恵の術を悟れず、皆、これに欺かれているのは、愚かなことである。」――『葛花』

要するに、彼の説では、世の人は、聖人を神のように尊敬するが、聖人は、そのような徳を持つものではない。したがって、その聖人の道も、ただ、人の国を奪い、すでに奪ったものを維持するために、設けただけである。聖人は、すでに、この野心で世へ臨むので、常に、自分の心身を苦しめ、善行をして、世の同情を集める。また、その作った道も、事々に周到で、たいそう尊ぶべきように見える。しかし、実際には、聖人自身が、すでに、その道へ背き、君主を殺し、国を奪うなどの行いをしたのだから、聖人といっても、本当は凶悪な人で、その道も、実は、人を欺く道である。したがって、その道が日本へ伝わっても、何の貢献もない、としていう。

「日本から見れば、あの、中国の聖人の教えは、無用な、余り物である。この道が入ってきてから、かえって天下の治まりも、上代に及ばず、人の心も、しだいに悪くなったことを見れば、その教えは、害こそ多いが、益は、まったくない。」――『葛花』

こうして、聖人の教えは、有害で、益のないものとし、このような聖人を尊び、このような道を信じるのは、愚の極みだとした。この議論には、一理がないわけではない。しかし、人物を理由に、その言葉を退けることには、少し、穏当さを欠くように感じられざるを得ない。宣長のいうとおり、聖人は、儒者が最も尊び、崇めるものである。だから、その信奉者が、これを褒める言葉は、まことに、至れり尽くせりである。試みに、徂徠の言葉を挙げよう。こういう。

「古代の天子は、聡明で、深く物事を知る徳があり、天地の道へ通じ、人や物の性質を究め尽くす。制度を作り、その功績は、神明に匹敵する。物の用を活かし、人の生を豊かにする道が、ここに立つ。そして、後世まで、その徳を受けないものはない。いわゆる、伏羲・神農・黄帝は、皆、聖人である。しかし、そのときは、徳を正す道は、まだ立たず、礼楽は、まだ起こらず、後世の人が、受け継いで述べるものがない。堯・舜へ至り、礼楽を作り、徳を正す道が、初めて成る。君子は、これによって徳を成し、庶民は、これによって習俗を成す。刑罰は置かれても、用いられず、天下は、大いに治まる。王道は、ここから始まる。これは、人の道の極みで、造化のはたらきを助け、天地の道を整えて成し、天地のよろしさを助け、立って、後世までの規準とするものがある。孔子が『書』を編むのに、区切って、唐・虞から始めたのは、このためである。三代の聖人も、皆、堯・舜の道へ従い、礼楽を作り、その代の規準を立てる。歳月は戻らず、人は亡び、世は移り、風俗は、日ごとに濁り、汚れ、衰える。これを、滔々と流れる川を、引き戻せないことへ、たとえる。三代の聖人は、そのあり方を知り、前代の礼楽に基づき、加減を加え、数百年の風俗を保ち、すぐに衰えへ向かわないようにした。その意義は、ここにある。堯・舜・禹・湯・文王・武王・周公の徳は、高大で、深遠で、備わらないところがない。どうして、名づけ、言い表せよう。ただ、その事業の大きさ、その神妙な教化が、極みに至ること、制度の制作において、それ以上のものがないので、これを名づけ、聖人と呼ぶのである。」――『弁名』

儒教の信奉者が、聖人を尊ぶさまは、このようである。それなのに宣長は、あえて、これを凶悪な人とする。儒教の信奉者が、どうして黙っていられよう。反駁の声は、当然、起こらざるを得ない。ここで、また、楽水の言葉を挙げよう。こういう。

「聖とは、通明である、と注釈される。よく天の道理へ通じ、人が、人としてあるべき道を明らかにし、自分で行い、人を教え、家にいれば、家の作法が正しく、国にいれば、国の風俗が改まり、この上なく、めでたい人をこそ、聖人というのである。だから、その教えは、威力を借りなくても行われ、その政治は、厳しくなくても治まり、天地の神も荒ぶられず、吹く風も、ほどよくそよげば、国中の人々が、なびき従わないということはない。どうして、力をお用いになろう。力によって人を服従させるのは、斉の桓公、晋の文公の類であろう。それは、覇道といって、儒者たちが、ひどく卑しめるところである。その区別もわきまえず、威力があって、人を手なずけ、しばらく国を治め、後世の法ともなったものを聖人というのだ、といったのは、愚かなことではないか。また、道は、聖人たちが、人の国を奪うためと、自分の国を奪われない備えとして作った、といったのは、品のない言い方である。」――『級長戸の風』

こうして楽水が論じたのは、道は聖人が作ったものといっても、もともと人は、仁義・礼智・孝悌・忠信の道を、生まれながらに行うのであって、聖人は、これへ秩序を立て、名をつけ、教えるだけだ、ということである。そこで彼は、さらにいう。

「だから、道は、自分のものなのに、それを悟れず、聖人の作ったものだと思われるのは、自分の庭の花を、名づけた人のものだ、というようである。賢いというべきか、愚かというべきか。」――『級長戸の風』

会沢正志も、この点を反駁していう。

「道を作るというのは、荀子の性悪説で、もともと道を知らない者の、邪な言葉である。道は、自然に備わり、日々、常に行うもので、人である以上、行住坐臥、片時も離れられない。しかし、人には、知恵のある者、愚かな者、賢い者、そうでない者があり、過不足を免れない。だから、聖人が教えを立て、人が、その中正を得て、性に従うようにするのを、道という。もともと正しい人に、正しい道を行わせるのである。」――『読直日霊』

このように、宣長へ反対する者は、皆、道は聖人が作ったものではなく、人の天性が持つものだとし、宣長に、攻撃の根拠を失わせようとした。しかし、宣長が、聖人は道を作った、といったことにも、動かせない根底がある。『楽記』に、「作る者を聖という」とあるのが、それである。当時、日本で行われていた儒教には、道の起源に関する説が、明らかに、二つの大きな流れを持っていた。一つは宋学派の説、他は徂徠派の説である。宋学派は、その根底を、子思・孟子に持つ。子思・孟子は、仁義が性に根ざすものとし、性に従うことを道とした。だから、日本の並河天民などは、四端を、そのまま仁義礼智とし、これを、人が生来持つものとした。これに対し、徂徠は、その説を荀子から取り、道は、人の先天的な性ではなく、聖人を待って、初めて存在するものとした。これは、彼が明確に、言い尽くしたところである。その説ではいう。

「先王の道は、先王が造ったもので、天地自然の道ではない。先王は、聡明で深い知恵の徳によって、天命を受け、天下の王となる。その心は、一つに、天下を安らかにすることを務めとする。そこで、心力を尽くし、知恵と技巧を極め、この道を作り、天下、後世の人々に、これに基づいて実行させる。どうして、天地自然に、これがあろうか。」――『弁道』

宣長の攻撃は、道を制作するという点では、まさしく、この徂徠の議論に命中している。しかし、徂徠が道とするものは、宣長が攻撃したような、宋学派のいう仁義の道ではなく、詩・書・礼・楽の四術である。だから彼は、「そもそも先王の道は、皆、術である」――『弁名』――といい、また、「神妙であることよ、四術の教えを尽くすことは」――『弁道』――という。宣長は、これを明らかにせず、一括して、儒教として攻撃し、反対者も、これを詳しくせず、一括して、儒教として答える。ここに、議論が入り乱れ、多くの弁論を費やし、ついには、同じ結論を得る、奇妙な光景を呈するに至る。これは、やむを得ないのである。

楽水は、さらに、宣長が、聖人の人格は尊ぶに足りないので、その道も、取るに足りない、と論じたことを反駁していう。

「聖人という者は、たいそう多いのに、後ろめたいことがあるのは、湯王・武王だけである。そのほかは、自ら、その徳を明らかにし、天下をお治めになったので、道に背くことがあろうか。」――『級長戸の風』

こうして、聖人の中に、一人、二人、よくない者があるからといって、「そのほかも、そのように言い立て、聖人の道をおとしめるのは、大人げない」とし、進んで、聖人の道の、効果の大きさを説いていう。

「応神天皇以来、貴い、宮中の人々から、卑しい、国の隅々へ満ちる民に至るまで、学ばないということはない。その道が、年を経るにつれ広がり、学ばない民も、ほのかに知るようになっていったので、このように、めでたい風俗となったのである。聖人の道の功績は、このように明らかである。それでもなお、聖人の道は、国の助けにならない、といおうとするのか。あるいは、聖人の道を努め守った者は、一人もいなかった、といおうとするのか。」――『級長戸の風』

そもそも、日本が、今日の文化を成した理由は、日本固有の思想が発展した結果にほかならない。しかし、固有の思想を、これほど発展させるうえで、儒教の貢献が、少なくなかったことは、認めざるを得ない。楽水の、この議論を、必ずしも、自分へ都合よくいうものと、するべきではない。彼は、この議論を、行き着くところまで進め、ついに、神道と儒教の調和説を持ち出した。その説ではいう。

「道は、天の道理のままのもので、つまり、天からの賜りものなのだから、雲が行き、雨が降る、この地上へ生まれてくる人々は、誰も皆、生まれつき持っている。日本では、大御神が、早く、これを知り、教えられた。これが、神の道である。中国では、太古の聖人が、早く、これを知り、教えられた。これが、聖人の道である。難波の葦は、伊勢の浜荻。名こそ変わるが、そのものは同じなのに、異なるように思うのは、神の道を悟っていないか、聖人の道を学んでいないか、この二つを越えないようだ。日本で、昔から、お生まれになった神々の事跡も、聖人の道にかなうのは、正しい神である。背くのは、昔から、悪い神と語り伝えた。中国の太古においでだった、聖人の行いも、ことごとく、皆、神の道にかなう。これによって、その道が同じだと、知るべきである。」――『級長戸の風』

神道と儒教を調和させようとすれば、勢い、このように、道の普遍性を説かなければならない。それゆえ、伊勢茂美も、同じ説を唱えた。こういう。

「道には、異国の道、自国の道といって、二つの道はなく、今日、人の頭上へ戴く、天の道であり、宇宙のどこまでも、一つの道である。」――『非万花』

頼山陽も、この見解を持っていた。こういう。

「道は、一つだけである。道が天下にあるのは、日月のようなものである。日月は、天下の日月である。一国が私有するものではない。道もまた、同じである。」――『日本政記』

道が、果たして、このように普遍的だとするなら、宣長の議論は、たいそう偏見に陥らざるを得ない。そして、道とする以上、その本来の性質として、普遍的でなくてはならない。宣長も、もちろん、これを知っている。そこで、これを説いていう。

「道は、高御産巣日・神産巣日という、御祖神の産霊によって、伊邪那岐・伊邪那美の二柱の神がお始めになり、天照大御神が受け継ぎ、行われる道なので、必ず、あらゆる国々、天地の間へ、広く行き渡るべき道である。」――『玉勝間』

またいう。

「本当の道は、天地の間にわたり、どの国までも、同じく、ただ一筋である。」――『玉匣』

もし、この議論を進めるなら、「異国の道、自国の道」といって、二つの道があるわけではなくなり、儒教も、仏教も、皆、日本の道と同じでなくてはならない。しかし宣長は、

「この道は、ひとり日本だけに、正しく伝わり、外国では、皆、上古から、すでに、その伝来を失っている。」――『玉匣』

という。すでに、その伝来を失ったため、さまざまな聖賢という者が出て、道を立てる。儒教・仏教・老荘であり、これは、すべて異端であり、邪説だとしたのである。

私が考えるに、道は、もともと、宣長のいう、産霊神から与えられた、人間の本性に由来するものなのだから、この本性に従って成る道は、必ず、普遍的でなくてはならない。ただ、本性に従って成る道でも、国の成り立ち、風俗の習いの違いや、土地・気候の影響が、この普遍的で根源的な道の上へ、さまざまな作用を加え、ここで、日本では神道となり、中国では儒教となり、諸子百家となり、インドではバラモン教となり、仏教となる。したがって、これらの道は、神道のように、日本人の間で、練り上げられ、養われたものではないのだから、これを、日本人の間へ取り、そのまま施せば、もちろん、多くの害は免れないだろう。しかし、道の普遍性を認めながら、これらの道を、絶対に排斥しようとするのは、単に、論理上、整合しないだけでなく、また、偏狭のそしりを免れないのである。

とはいえ、儒教・仏教・老子・荘子の、四家の教えが日本へ入って以来、国民は、多く、これを信じ、学び、ほとんど極端へ走り、神社は、おおむね仏寺へ帰し、神道は、すっかり儒教・仏教の間へ埋もれた。孔子や孟子が攻めてきたら、どうするか、という問いに、ためらい、日本を、夷人の国と称しても怪しまない。度会常彰が憤って、

「学者は、日本の地に生まれ、日本の泉を飲み、日本の粟を食べながら、内と外をわきまえず、親しいものと疎いものを分けない。この国をいえば、美点を覆い、悪いところをさらし、ともすれば、東夷と呼ぶ。あちらの国をいえば、悪を隠し、善を掲げ、中華と称し、中国といい、中土という。これは、共通の病である。どうして、自分の親を敬わず、他人を敬うのか。冠と履物が、その置き場所を失ったというべきであろう。」――『神道明弁』

といったような時代は、まことに、宣長が、嘆き憤って立ち、奮然として論じざるを得なかったのである。ともすれば、説は偏狭に陥り、論は極端へ走り、しばしば、論理上の不整合を生じる。それは、自然なことにすぎない。どうして、深く怪しむ必要があろうか。

第六十二節 仏教論

これまで述べてきたように、宣長は、儒教・仏教・老子・荘子を、異端とし、邪説とした。すでに邪説、異端とし、自分の道とするものへ害があると信じるだけでなく、世の人が、これへ深く溺れるのを見れば、黙っていられないのは、人の普通の感情である。宣長には、特に、この感情が切実であったことを見る。ところが、彼が仏教へ、どのような態度を取ったかについては、まだ、多く述べていないので、これから、少し、これについて述べよう。彼は、まず、仏教が世の益とならないことを説いていう。

「仏道は、ただ、悟りと迷いを区別し、その悟りを得るだけで、そのほかのことは、すべて枝葉にすぎない。そして、その悟りというものも、また、無用の議論で、少しも、世に益はない。それなのに、世の人が、その枝葉の方便に惑うのは、どれほど、愚かな心なのか。」――『玉勝間』

こうして彼は、「おおよそ、天下の人は、上・中・下、賢い者も、愚かな者も、すべて、奥山の山人に至るまで、仏を信じない者は、一人もいない」といい、仏教が盛んに行われ、また、本当の神道へ注意を払う者がいないことを嘆いた。そして、憤り、嘆いて、「この道は、天下を治め、国を治める、先にすべき、大切な道だと知る人を、私は、まだ、夢にも見聞きしない。たいそう、たいそう悲しいことではないか」――『玉勝間』――といった。このようにして、人の知恵が発達した今日、無益な空論を事とする仏教が、世に盛んに行われるのは、その道が高尚だからでも、深遠だからでもなく、ただ、習慣の勢力だ、と断言した。そこでいう。

「およそ、何事でも、世に広く行われ、人が皆することへは、誰でも、何となく、心が寄りやすいものである。」――『玉勝間』

このため、宣長自身も、あえて、この習慣へ背かなかった。「私の家の、すべての先祖の祭りや、仏へ供え、僧へ施す行いなども、ただ、親の代からしてきたままで、世の習俗と異なることはなく、ただ、これを、おろそかにしないようにするだけである」――『初山踏』――といい、世の習慣に従い、礼拝や供養を行う、とした。

彼は、常に、儒教・仏教・老子・荘子を、異端とし、邪説とする。そして、儒教や老荘を退けるのに、どれほど苦心したかは、すでに論じた。ひとり、仏教については、五十部、百三十余巻もの著述がありながら、論じるところが、たいそう少ないのは、なぜか。しかも、仏を信じることの愚かさを悟ったなら、意志の強い宣長ともあろう者が、なぜ、その、形ばかりの儀式をやめるのを、ためらい、いたずらに、こまごまと、仏へ供え、僧へ施すことが、行き届かないのを恐れるのか。人が、この疑問を提起したなら、彼は弁じるだろう。およそ、仏へ供え、僧へ施すように、世の風俗へ背かないことこそ、神の道である、と。こういう。

「およそ、下にある者は、よくても悪くても、その時々の、上の定めのままに従い、行うことこそ、古代の道の心なのである。」――『初山踏』

またいう。

「人の今日の行いは、ただ、その時々の公の定めを守り、世間の風習へ従うことこそ、神道なのでございます。」――『葛花』

しかし、仏教そのものについて、深く反駁を加えないことには、彼に、別の意見がある。こういう。

「仏法は、むやみに作ったもので、道へ違うことは、もちろんだが、その害は、あらわで、よく見えるうえ、中国でも、儒者が、すでに、これを弁じ、また、日本でも、近代の神道者は、皆、よく知り、弁じておいたことなので、今さら、わずらわしく、同じことをいうべきではない。」――『葛花』

もちろん、同じことを繰り返すのは、よくない。しかし、古学神道の立場から見れば、また、特有の攻撃点が、ないわけではない。それなのに、宣長が、あえて、これを試みないのには、別の理由がないだろうか。聞くところでは、彼は、母、勝子刀自が、仏前で勤行するとき、常に、慎んで、これへ従ったという。また、勝子刀自は、信州の善光寺へ参詣し、尼となって帰宅したという。孝心の深い宣長は、あるいは、この点で、仏教を破る議論を差し控えたのだろうか。いずれにしても、宣長の学説で、特に、周到でないと感じるのは、実に、この点である。しかし、これは、やがて、平田篤胤に、その大きな仕事を成させた、一つの理由となったのである。

「述懐」という題で――本居宣長

「昨日は、今日の昔となり、はかなく、過ぎに過ぎていく世の中を、つくづくと思えば、ああ、私の一生も、どれほどなのだろうか。指を折って数えると、早くも三十歳を越えてしまった。長生きして、七十、八十まで生きるとしても、すでに半ばは過ぎたのだ、と思うと、まだ若く、先も長いように思われる身も、行く先が短い心地がして、心細く感じる。

このように、ただ、はかなく、心を持たない、木や草、鳥獣と同じ列で、何をするともなく、日を明かし、暮らし、生きるかぎりの世を尽くし、むなしく、苔の下へ朽ち果てるのは、たいそう残念で、どうしようもないことだと思う。しかし、何事にも行き届かず、拙い身なので、何を成して、世の人にも数えられ、自分のいなくなった、後の世へ、せめて、朽ちない名を留めようか、と、いよいよ、人に似ない愚かさまで加わり、悲しく、つらいのである。

そうはいっても、また、この身を、役に立たないものとして、捨て去るべきでもない。このように、ただ、拙く、愚かな心ではあるが、どのような仕事でも、怠らず、ことさら心を入れて努めたなら、ついには、一つのよりどころを得て、人並みに、成し遂げるところも、どうして、ないだろうか、と、あてのない望みを、頼りにしているのである。」――『鈴屋集』

第四編 学派

第十四章 本居春庭

第六十三節 春庭の経歴

宣長の門人は、およそ六百人といわれる。もちろん、ただ、わずかに名を連ねただけの者も、あっただろう。また、常に親しく接し、教えを受けながら、平凡な資質で、ほとんど数えるに足りない者も、少なくなかっただろう。これから、彼の学派として、最も名を挙げた、幾人かについて述べよう。これを述べるにあたり、まず、宣長の愛児、春庭から始め、次に、最も愛した弟子で、ついに本居家を継いだ、大平を述べ、そして、ほかの門人へ及ぼそう。

春庭は、通称を建蔵といい、後に建亭と改めた。後鈴屋と号する。宣長の長男である。宝暦十三年二月三日に生まれた。幼いころから、父の志を受け止め、古学を研究し、特に和歌へ力を尽くし、その絶妙さは、父にも勝るといわれた。春庭は、生まれつき体が弱く、加えて、常に父へ仕え、図書の書き写しにあたり、小字を書くことを好んだので、そのためか、ついに眼病を患った。たびたび、尾張の馬島へ行き、ときには数か月も滞在したが、ついに治らなかった。こうして、まったく視力を失ってから、寛政七年に京都へ上り、鍼術を修め、同九年に京都から帰り、鍼医を職業とした。視力を失ってから、生来の記憶力が、ますます強くなり、いっそう、学問に努めた。しかし、失明の結果、紀伊侯へ仕えられないため、享和二年、父の遺志を受け、家督を、門人の稲懸大平夫妻へ譲った。大平が、家族を挙げて和歌山へ移住した後も、一人、松坂へ留まり、後鈴屋社を組織し、講学に従事した。文政十一年十一月七日に没し、六十六歳であった。

春庭は、視力を失っても、妹の美濃、妻の壱岐の助けにより、さまざまな有益な著述をした。『詞の通路』三巻、『詞の八衢』二巻、『後鈴屋集』六巻、『道の佐喜艸』一巻などが、それである。教えを受けた門人は、おおよそ四百人で、その中に、鬼島広蔭がいた。広蔭の門には、堀秀成・落合直澄がいた。皆、国学界の、優れた人物と呼ぶに足りる人々であった。

第六十四節 春庭の学説

春庭の思想は、まったく、父の思想を受け継ぎ、述べたところにある。彼は、大道を説いていう。

「大日本の王道と申し上げるものは、外国の王道というものを借り、用いられなくても、おのずから、よい道がある。そのよい道というのは、言葉にかけるのも恐れ多い、天照大御神がお生まれになった、もとの国で、その大御神のお命じになったとおり、天地とともに、永くおいでになり、その子孫が治める道である。あの、五伴緒の子孫が、連綿と続き、今も、同じ殿においでになり、天下の政治をお執りになるので、神代から今に至るまで、卑しい山人を選び、左右の大臣へ召し上げた例もない。だから、下には、身分を越える望みもなく、上も、奪われるのをお恐れにならず、自然に、上下が和合し、よく治まった国である。それゆえ、下々の万民に至るまで、厚く慈しみ、お育てになるので、憂え、悲しむ心もなく、あらゆる国に勝る、愛すべき国なのである。」――『道の佐喜艸』

彼が、堯・舜の禅譲を論じたところは、多く、従来の学者がいわなかったことを、言い尽くしている。一種の、新しい見解というべきだろう。まず、

「堯が位を譲ったことは、後世に、分を越える望みを生じ、王位を争い、人民を苦しめる、その根本を作ったのである。」――同上

こう論じ、さらにいう。

「舜が禅譲を受けたというのにも、疑わしいところがある。舜が、海辺へ住まいを構えると、都のように人が集まり、山中へ家居すると、人が多く寄ってきた、と書いてあるのを見ると、堯は、兄の摯を廃し、位へ即いたのだから、また、舜に奪われることを恐れ、譲ったのかもしれない。後々の王たちも、その君主を殺し、天下を奪って王位へ即きながら、禅譲を受けたと書くのを見ると、舜も、実は、奪ったものだろうか。また、舜が禹へ譲ったことにも、一つ疑いがある。禹の父は、鯀という人だが、羽山という、東の果ての、海中の島で殺された人である。あの、偽り飾る国へ生まれ、王位へも昇るほどの人が、父を殺されて、快いはずもないのに、何心ないふりをし、よく水を治め、国中の民を手なずけ、あの虞舜が、住めば三年で都を造ったことをまね、王位を奪い、父の恨みへ報いたのだろう。もし、そうでなく、王位へ昇ったなら、貪りである。どうして、非難の余地がないといえよう。」――『道の佐喜草』

こうして、堯・舜・禹の禅譲は、上下の名分を失い、後世の乱れの根本を開いたものだと極論した。進んで、周の武王を論じたところは、議論が、特に痛快である。こういう。

「国を三分し、その二つを保ちながら、なお殷へ仕え、恐れたのは、国中の人民が、殷を尊び、周を卑しんだからである。『史記』などにも、西伯と呂尚が、諸侯を傾けようと謀った趣がある。また、孟津へ、三分の二の諸侯を集め、紂を討つことを謀った。本当に、文章のとおり、夏・殷の世が憎まれていたなら、計略をめぐらすにも及ばず、諸侯と会い、すぐに出馬し、一戦で勝ち、国を奪えたはずなのに、三分の二を持ちながら、その一つを恐れたことで、わかるのである。ところが、孟子という狂人が出て、『一人の男である紂を誅したとは聞いたが、君主を殺したとは聞いていない』という。これは、何という、でたらめな言葉か。紂は王で、君主である。武王は諸侯で、臣下である。それを、君主ではないというなら、どれを君主、どれを臣下とするか、その境もなく、これは、まことに、畜生の国である。孟子は、湯王・武王の悪を覆い、諸国の諸侯へ、謀反を勧め歩いた狂人である。それなのに、儒学を学ぶ者は、君主を殺し、子を捨て、国を奪って治めた、湯王・武王の偽りに目がくらみ、先王の道、先王の道と、仰々しくいい回る。しかし、湯王・武王は、主君を殺した名を逃れられないのに、なお助け、桀・紂が殺されたのは天命で、湯王・武王は天の子だといい、罪を天へ負わせ、逃れる。本当に、聖人の言葉のとおり、天に性質があるものなら、このような無道の者へ、天下を与え、王位へ即けたのは、どうしたことか。」――『道の佐喜草』

伝には、「春庭の人柄は、温順で、情が厚く、人と争わず、恭しく、謙遜して、よくへりくだった」とある。しかし、その議論は、このようである。まことに、温厚な者も、また、よく、この言葉をいい、この論をなす。私たちにも、実に、心強く感じさせるところがある、といわなければならない。

第六十五節 春庭の学説(続)

春庭には、このような議論もあるが、生涯、力を尽くしたのは、言語・歌文の方面である。だから、その言葉ではいう。

「日本の言葉が、たいそう不思議で、霊妙で、素晴らしいことは、いうまでもないが、また、その用い方なども、自然に定まりがあり、たいそう正しく、少しも違わないことも、たいそう不思議なことなのである。」――『詞の通路』

そして、結論して、

「そうであるから、学問をしようとする者は、古代の事跡を、よく考え、知るべきである。」――同上

という。果たして、彼の学問は、西洋の、十六世紀ころの人文主義の学者が陥った弊害へ陥った。つまり、古典を研究するのは、言語を正確に用いるためとなった。古語を学ぶのは、歌文を巧みに詠み、作るためとなったのである。私は、もちろん、この研究を不要とするのではない。しかし、宣長の学、つまり古道の学では、目的ではなく、要するに、方法に留まるからである。とはいえ、語学者・歌学者としては、師父以上とも思われた春庭の学説には、教育上、聞くべき言葉が、たいそう多い。試みに、その概要を示そう。

現在、国語教育では、作文を教えることが、最も難しいものの一つとされる。彼の作歌についての言葉は、そのまま、作文へ移せる。こういう。

「歌学者と呼ぶべき様子で、古歌のことを明らかにし、言葉や、てにをはなど、この道のことばかり学び、常には歌を詠まず、たまに、折に触れて詠むことなどがある人は、その歌が拙いものである。これは、歌を詠むことを、学ばないためである。知識を学ぶことと、歌を詠むことは、一つのことのようだが、別のもので、どれほど古歌をよく明らかにし、てにをは、言葉などをわきまえていても、詠むことを学び、心得なければ、よい歌などは、出てくるものではない。しかし、おおよそ、歌を詠むことを覚えたなら、一通り、知識も学ぶべきである。知識がなくては、不自由なことも多いだろう。また、おおよそ、よく詠むといわれるほどになれば、てにをはも、自然に整い、言葉の活用なども、ほとんど違わないようだが、なお、整っているか、違っているかなどを、確かにわきまえ知らないのは、残念なことではないか。」――『詞の通路』

これを作文へ移すなら、彼の意見は、文章は、主として文法を研究し、物事の道理を究めても、巧みになれるものではなく、要は、多く作ることにある、ということだ。しかし、一通り文章を作れるようになれば、語句の使い方を確実に理解するため、さまざまな研究も、必要になるとしたのである。

なおいう。

「歌を解し、言葉の用い方、てにをはの使い方などを、詳しくわきまえ、心得ることを専門とする学者よりは、かえって、歌詠みのほうが勝るだろう。なぜなら、歌は、たいそう不思議で、霊妙で、素晴らしいもので、その意味や、言葉の用い方、てにをはなどは、実のところ、言葉でもいいにくく、筆でも書き尽くしにくい。だから、知識のある学者のほうは、自ら歌を詠まなければ、その会得するところも、ただ、注釈するまでの意味なのに対し、歌詠みのほうは、常に、絶えず詠み、その意味や用い方などに慣れているので、自然に、その本当の意味を、よくわきまえ、心得ているはずだからである。歌の意味が、言葉にいいにくいことは、歌をよく詠む人なら、自然に、よく知るはずなのである。」――同上

これによって、彼の主張するところが、わかるだろう。

次に、彼が、作歌の添削について述べたところは、また、作文の添削にも移せる。こういう。

「常に、歌の草稿を多く添削するのに、ただ、悪いところは削り、整わないところは直すなど、思いのまま、どのようにでもなると思う人もあるだろう。しかし、添削するのは、たいそう難しく、思うようには直しにくく、何かと手間がかかり、たいそうわずらわしく、心にかなわないことが多い。その理由を、少しいえば、少し直せばよいものも、そのあり方によって、一句、二句も直し、また、下の句など、少し直すべきところを直すと、その箇所はよいが、その直しによって、また、上の句に直さなくてはならないところが出てくる。また、一句の中を直そうとすると、文字数が足りず、あるいは余るなどして直しにくい。また、上の句と下の句の取り合わせがよくないなど、上の句を直すほうがよいか、下の句を直すほうがよいか、思い比べ、直しの少ないほうにするのである。およそ、詠んだ人も、直しが少ないほうが、快いはずだからである。」――『詞の通路』

これは、作歌の添削だけでなく、作文の添削でも、心得るべきことだとする。そのほか、春庭の学説には、言語・歌文について注意すべきことが少なくない。しかし、本書の目的から、少し逸れるように思われるので、詳しい紹介は省こう。ただ、晩学についての説は、たいそう、私の考えに合う。これを付記しないわけにはいかない。こういう。

「晩学というと、誰もが、らちの明かないことと思うが、それほどでもない。精を出し、怠らず努めさえすれば、そのかいがあり、さらに、できることがある。私の教え子にも、この例は、あれこれある。だから、晩学だからといって、それほど、気落ちしているべきではない。とにかく、たゆまず、怠らず、努め学ぶことに勝るものはないのである。」――同上

そうである。世の中で、わずかに徴兵義務を終えた程度の年齢で、ともすれば、私は学問をしたいが、すでに年を取り、もう、どうにもできない、などと称する者は、深く反省すべきである。

天照大神の宮居と、ひときわ高く仰ぎ、参ってくる、四方の国の人々。――本居春庭

訳注

「神の宮居」に続く一字は「と」「さ」のいずれかを確定できず、「ひきたかく」までの句切りと意味にも留保がある。「宮居と、ひときわ高く仰ぎ」は暫定の解釈である。

第十五章 本居大平

第六十六節 大平の経歴

大平は、幼名を常松といい、後に、三四右衛門と称した。藤垣内と号する。早くから、父、稲掛棟隆に従い、鈴屋の門へ入り、熱心に古学を研究し、その理解は、たいそう深かった。藤井高尚は、伝えていう。「大平は、豆腐屋を職業とし、歌や文章はよいが、神道はない。この人が風流なのは、明け方から起き、昼まで家業に働き、昼から夜にかけて読書したことにある。本居の門人では、指折りの中である。私は、大平と約束し、互いに精を出し、東西に古学を起こそうと誓った」と。自ら、神道はないと評しながら、東西に古学を起こそうと誓うというのは、たいそう矛盾するようである。しかし、同時代の、この高尚の言葉の中からも、すでに、大平の学問が凡庸でなかったことがわかる。だから、出雲の人、出雲俊信は、彼を評していう。

「わが友、稲懸大平は、大人のお住まいの近くに家居し、朝夕に親しくお仕えして、たいそう尊い教えを、すべて学び得た。大人の弟子は、それぞれ立派だが、その中でも、物事に誠実で、古代を尊ぶ心が深く、書籍を理解することも、歌を詠むことも、人より優れているのであった。」――『玉鉾百首解』序

大平は、このように、古学への理解が深く、その性質は、温厚で、誠実であった。師、宣長の教えを奉じ、厚く、その説を信じた。そこで宣長は、ついに養子として、跡継ぎとした。宣長が亡くなると、本居家を相続した。享和二年、紀伊侯の命により、和歌山へ移住した。それ以来、しばしば、侯の前へ召され、たいそう厚く遇された。天保四年九月十一日、病没した。七十八歳であった。

大平は、門人を教えるのに、きわめて忠実だったので、教えを請うため、その門へ入った者は、実に千余人へ及んだという。その中から、養嗣子の内遠、加納諸平、足代弘訓、中島広足、保田光則などの人物が出た。著述も少なくない。主なものは、『古学要』一巻、『玉鉾百首解』二巻、『倭心三百首』一巻、『馬名合解』一巻、『己未紀行』一巻、『おかげまうでの日記』一巻、『有馬日記』一巻、『神楽歌新釈』五巻、『百人一首あづさ弓』一巻、『稲葉集』二巻、『藤垣内文集』一巻、『藤垣内答問録』二巻などである。

第六十七節 大平の学説

大平の学説は、どこまでも、師父、宣長の説を受け継ぎ、述べたところにあり、ちょうど、伊藤家の紹述先生と同じようである。このため、ここでは、ただ、その学説の大要を紹介するに留めよう。彼は、まず、古学をする者の心得を説いていう。

「古いことを学ぼうと志し、主として努めるべきなのは、古い書の言葉の意味を、解き明かすことで、これこそ、学びの中心なのである。そもそも、古い書とは、『古事記』『日本紀』をはじめ、『続紀』以下の正史をいう。それらは、皆、古代にあったことを、後世へ伝えるため、編み記されたものなので、広く伝え、永く明らかにさせることを、大切にすべきだからである。その古書の文意というものも、千余年を経て、後世の人の心で考えると、その意味を取り違えやすいことばかり多く、たやすく明らかにできない。その文意の真実を考えるには、よく古代の心を悟り、知るのでなければ、本当の文意を明らかにわきまえることは難しい。その古代の心を知るには、漢意の理屈を離れ、ただ、ひたすら、日本の古代の心を明らかにし、よくわきまえるべきである。」――『古学要』

これは、まことに、宣長の思想を受け継ぎ、述べたものである。彼は、さらに、宣長の思想に基づき、神を解していう。

「神とは、世に優れて、不思議なお働きか、勢いか、お心か、とにかく、普通のものより秀で、霊妙なものをいうのである。」――『答問録』

こうして彼は、『倭心三百首』を著し、神道の本旨を、さまざまな歌に詠み出した。すなわち、神の恵みの大きさを詠んで、

天地の底の、その裏まで行き通り、満ちないところのない、神の恵み。

といい、また、

見ようとすれば見え、行こうとすれば行ける、目も足も、神の恵みの外であろうか。

と詠んだ。この広大な神の恵みの根本は、高皇産霊神・神皇産霊神の二神にあるとして、

天地の神の恵みの、その根本は、産霊の神の御霊によるのである。

と詠んだ。こうして、君主の恩の大きさを詠み、

私を頼る妻子や、使用人も、このように養えるのは、君主のおかげである。

といい、あるいは、父母の恩の大きさを詠み、

身分の高い人も、低い人も、朝に夕に、親を思うことを忘れるな。

といい、夫婦の和合については、

神代から、このようであったのだろう。慈しみ、恵み、言葉を交わす、夫婦の間は。

と詠んだ。そのほか、子を愛し、書を読み、歌を詠むことも、皆、神道であるとし、進んで、命を惜しむべきことを詠んでは、

千万の黄金も、玉も、何になろう。命だけこそが、宝なのであった。

また、詠むには、

生きるかいもない病人も、老人も、最期の命を、惜しまずにいられようか。

といい、なお、

この現世に、このように、いつまでも、ありたいと思うのが、命なのであった。

と詠んだ。大平は、さらに、富を崇め、

子孫の、その末々まで考えるには、富ませることこそ、まず、願わしい。

という。こうして彼は、長命を求め、幸福を願い、名誉を喜ぶことは、皆、神道であると考えた。そして、この神道の根本は、人の真心にあるとした。そこで彼は、宣長の思想を受け、その真心を説明していう。

「真心とは、うわべを取り繕い、飾らないことをいう。盗みの心が起こり、物を盗むのは、真心の行いである。盗みの心が起こっても、起こらない顔をするのは、うわべの繕いである。盗みの心が起こっても、罰せられることを恐れ、慎むのも、また、真心である。あるいは、盗人が捕らえられても、自分は物を盗んでいないと弁じるのも、また、真心である。学問をしない者でも、およそ中程度の人以上には、真心を失った者が多い。ごく卑しいあたりの人には、おおよそ、真心である者が、多いのであった。」――『藤垣内答問録』

これは、もちろん、宣長の思想を受け継ぎ、述べたものである。しかし私は、伊藤東涯が、父であり師である仁斎の説を、黙々と改善したのと同じく、大平にも、宣長の説を改善することを期待した。それなのに彼は、神道の根底である真心に、この解釈を施す。私は、そのよさを認めない。私が思うには、この真心は、文武天皇の詔勅で、「明るく、清く、直く、誠の心」という文字が用いられ、そのほか、多くの詔勅で、「清白の心」「明浄の心」などの文字によって示されたものでなくてはならない。真心をもって、命を惜しみ、長命を望み、富を求め、幸福を願い、名誉を喜ぶのは、必ずしも、いけないわけではない。しかし、真心で、盗みの心が起こり、物を盗む、というに至っては、私の賛成するところではない。これは、いわゆる物欲によって、真心の、本当の活動が妨げられたものだからである。私は、大平のために、これを惜しむ。

第六十八節 大平の学説(続)

ここでは、少し、大平の学説の、否定的な方面、つまり、儒教・仏教へ対する学説の一端を述べよう。彼は、儒教の害を列挙していう。

「一、中国の政治をまね、各地の国造・県主などという治め方も変え、京都から国司を下し、順に交代させることが始まってから、各地の古代のあり方は、大いに失われた。

二、中国の風俗が、上・中・下の人の心へ移り、中国の習わしへ似て、中ごろ、天皇を軽く思い申し上げる人々が現れ、臣下の権威が、天皇のお心のままにもならない状態になった。そもそも、中国では、天子という者の行いが悪く、道へかなわなければ、民の害となる、といって、位を去らせることがある。それも、その王の親族を、代わりに立てるのであれば、そういうこともあるだろう。しかし、もともと、君主と臣下の身分の区別が、はっきりしない習わしで、臣下である者も、王と変わらないという習わしなのである。中でも、賢く、才のある者は、自分の行いを、よく努め、身を正しくし、世の人に、よい人だと思わせ、それから、君主の行いが悪いところを見計らい、位を下ろし、あるいは討ち滅ぼし、自分が王となって、主君の天下を奪い取る。そして、これは、天命を受け、悪い王を滅ぼし、民の苦しみを救ったのだといい、自分は聖人だと人にいわせ、世によい人のように振る舞い、栄えている者たちがある。このような習わしなのに、その漢籍を常に見習い、中国の道ということを、常に聞き、習い、学ぶにつれ、いつとなく、それを見慣れ、聞き慣れ、その悪い習わしを、悪い習わしとも思わなくなった。ついに、日本でも、それに似たように、天皇の御位を、軽々しく、心任せに論じ、計らい、また、恐れ多くも、遠い場所へお移し申し上げるなどの、逆らうことがあったのは、皆、そのもとは、中国の道を学び、悪い習わしが移ったのである。

三、宣命(神へ申し上げる詞)や詔詞(臣民へ告げられる勅命)などの文を書くのは、代々の博士の職務である。しかし、その博士や儒生たちが、常に学問として学ぶのは、皆、漢籍ばかりで、明け暮れ、中国のことばかり目に触れ、心へ保ち、日本の古代の道や言葉には疎いので、その作る言葉も、自然に中国風へ移り、文章の心も、すっかり古代の心ではなくなった。これもまた、漢学の害である。」――『古学要』

こうして、儒教の害を説いた大平は、仏教の害の大きさも説いた。彼は、まず、仏教は、そらごとの教えだとしていう。

「観音・薬師などという神は、もともと、釈迦が、仏道という道を立てようとして、作り構えた、寓話の神なのだろう。実際には、そのような神は存在しないはずだから、釈迦の口から出たものは、ことごとく、そらごとである。」――『藤垣内答問録』

こうして彼は、この、そらごとの仏教が、日本へ伝わってから、さまざまな害を生じたとして、それを列挙した。こういう。

「一、仏道の罪は、仏というものを、この上なく貴いものだといい、その道を信じさせようとするため、あのインドでは、神というものも、仏より下へ立つものとし、あるいは、神というものは、仏道を崇め、その道を守護するものとしたことである。これによって、日本の神も、それと同じように言いなし、さらに、日本の神よりも、仏は尊いといい、上下の人に信仰させるので、しだいに神を尊ぶことが、おろそかになり、世の人が、これを思わない者が多くなるにつれ、世の害となったことは、幾千万とも、数えにくい。

二、古くから名高い大寺の、本尊の脇立ちに、日本の尊い神を置いたことは、大和国などに多い。これは、古代には、仏というものを、人が、それほど心へ留めないことも多かったので、日本の尊い神を、そのように脇へ立て、その神よりも尊い仏であると、思わせたのである。たいそう、禍々しいことである。

三、仏を、この上なく尊いものとし、その道も、この上なく尊い道とし、その道を行うことも尊いとして、上一人から、下の下に至るまで、以上のように、ひたすら信じ、敬うようになった。それによって、神を軽んじるだけでなく、天皇をも、軽んじ申し上げる始まりとなったのである。それに伴い、世のわずらいとなったこと、その罪は、挙げていい尽くせない。

四、世の上下が、仏道の悟りを、よいことと心得ると、死んで、また、よい場所へ行き、この世へも帰る道筋があるように心得、物事の悲しみを薄くするのも、日本の古代の道へ背き、ひどく嘆くべきことである。

五、人が死に、葬儀を行うにも、自ら軽くすることを、悟りの方面と心得、軽く扱うようになったこと。

六、仏の教えを学ぶため、身を軽く、命を軽く思う心へ移り、ついには、神の恵みを軽く思う始まりとなったのは、たいそう、たいそう悲しむべきことである。」――『古学要』

このように彼は、仏教の害を数え、この仏教が、日ごとに盛んになる一方、神職が、学問も勢力もないことを嘆いていう。

「仏道は、権勢ある大家から、山中や浦々の下々に至るまで、財物を惜しまず信仰する習いになったので、僧尼の暮らしは豊かで、僧をうらやまない者はなく、出家得度を志す人は多く、繁昌は、日々盛んである。それに対し、神職は、月々、日々に衰え、あるいは、僧家の奴隷のような者もある。世の変化や盛衰につれ、朝廷の神祇官の政治は廃れ、諸国の、いわゆる式内・式外の社は、年々、月々に衰えられる。これへ奉仕する神主や祝部の人も、世襲の領地や収益がなく、わずかに、村民の捧げ物や援助を、暮らしの頼りとし、宮守というだけで、大切な神徳も、あらわし申し上げずに暮らす者が多い。そのため、神職というだけで、神典の趣を、うかがい知ることもなく、神主が僧侶に劣ることは、たとえようもない。」――『古学要』

今日では、少し気概のある者に、僧家をうらやむ者は、ほとんどいないだろう。しかし、なお、僧家は、財物を集めることに長じ、よく富み、したがって、高等教育を受けられる者も少なくない。神職は、大平の当時に比べ、地位が進んでも、財産の乏しさから、高等教育を受けられる者が少なく、この大平の議論が、ある点までは適切なのは、嘆くべきことである。もともと、神職の職責は、日本の国体と密接な関係を持つので、その学識や品性は、常に、多くの国民が仰ぐものでなくてはならない。ところが、大平が、なお論じたように、

「僧侶は豊かなので、学問をするが、神主は貧窮しているので、学問ができない。あわれむべきことである。僧は、寺格や法のためにも、相応に、経論を学ぶが、神職の人は、ただ、神務と家計に追い立てられ、書物などというものを、のぞいて見るほどのこともできない。まず、今日のことに使われ、なかなか、神典や古い習わしを学ぶ力はない。神職の人は、書を得る費用も乏しく、一生、学問どころではなく、神道の尊い由来も知らず、今日を過ごすだけの者が多い。」――『古学要』

という傾向が、いくらか、なお存在するのを見る。憤り、嘆かざるを得ないのである。

以上のように、大平は、さまざまな方面から、儒教・仏教の害を説いたが、絶対に、儒教・仏教を退けようとしたのではない。そこで彼はいう。

「また、よく思えば、神のお働きは、恐れ多く、争いにくいもので、そもそも、この儒道・仏道が、日本へ伝わってきたことも、神のお心から、そうなったのだから、しかるべき理由があるのだろう。ただ、ひたすら、悪い道だからといって、根を断ち、葉を枯らし、なくすべきものでは、ないはずである。」――同上

大平の、この説の理由は、儒教・仏教の二教には、害があると同時に、また、日本の国家へ貢献するところも、あるからである。特に、二教の害は、その原始的な形で、はなはだしく、今日の二教は、本当の道へ合うようになり、ほとんど、害の存在を見ないとした。こういう。

「儒教・仏教の道は、世の害になる、というのは、二つの道の、根源の道によっていうのである。今日の儒者や仏者は、今の世では、それほど、世の害悪になるものではない。この二つの仕事も、日本の、もとからの世のあり方によって変えられ、今の世では、ただ、世渡りの職業の一つとなり、この仕事で暮らすことを事とするからである。日本の、もとからの世のあり方に変えられたというのは、今の世の仏者というものは、経論に見える、仏道の本来の意味へ背き、ただ、今日の世渡りの仕事となった、ということである。その様子は、高貴な人にへつらい、富商におもねり、金銭を楽しみ、身が安らかなことを願い、美しい衣服や、よい食べ物を求め、東西へ走るさまが、武士や商人の暮らしと、異なることがない。儒者も同じである。これは、実は、本当の道である。誰が、生きとし生ける人で、これを思わずにいよう。僧侶も儒生も、これは、もとからの世の道へ変えられ、武士や商人と異ならなくなったので、世の害ともならないのである。」――『古学要』

この見地から彼は、宣長が儒教へ対したように、篤胤が仏教へ対したように、猛烈な態度で、この二教を攻撃しなかったのである。

要するに、宣長の学徒では、服部中庸・平田篤胤などは、宣長の学説を越え、新学説を立てた。しかし、先に述べたように、大平は、もっぱら、宣長の説を受け継ぎ、述べることに努め、あえて、新学説を唱え、導くことを志さなかった。だから、大平の嗣子、内遠はいう。

「父翁は、何事も、鈴屋の説を守り、主張することだけを、生涯の務めとし、ほとんど、別の説を立てなかった。祖父の説にないことは、すべて、おおよそ、知らないと、いい放たれた。」――『和歌の浦鶴』

大平も、自ら、その理由を説明した。こういう。

「大平が、師の説を信じ、受け入れ、守るのは、古代の心や、古い伝説を尊び、神の道、本当の道を、自ら尊び、人にも、解き聞かせるだけなのである。古書の言葉を、正しく心得、その言葉や事柄の意味を、うまく説き聞かせるべきである。私的な知恵の、新しい考えは、思い寄ってはならない。ただ、よく、漢意と仏意を清く離れ、古語にいう、『神のままに、言挙げしない国』ともあるのだから、やまとごころを固め、古典の意味を知るべきだ、と確信しているのである。」――『古学要』

こうして彼は、中庸・篤胤などの、いわゆる新説を退け、宣長の説を受け継ぎ、述べることを、自分の任務とした。これが、結果として、大平の学説で、特に紹介すべきものが、たいそう少ない理由なのである。

第六十九節 大平の学派

大平の学派で、最も優れた者は、その養嗣子、内遠である。

内遠は、幼名を鎌次郎といい、通称は安次郎、また、弥四郎と称した。榛園と号する。内遠は、その名である。寛政四年、名古屋に生まれた。父は濱田久八郎、母は兼子という。幼いころから学問を好み、二十歳ほどで、すでに著述に従事した。文政三年、二十九歳で、初めて大平の門へ入り、深く古学を研究した。

内遠は、大平の門へ入ったが、大平が、師父、宣長の説を守り通したのに対し、さまざまな新しい見解も立てようとした。そこで、自らいう。

「私は、若いときから、探り求める癖があり、『古事記伝』にいい残したような点や、そのほか、ここはどうなのかと、疑問のことが多かったので、かねて、亡父に会うときには、と、初めて会ったときから、さまざまに尋ねた。しかし、前にいったように、一つも別の説がなかったので、初めは、なんとも、いいがいのない、残念な先生だ、とさえ思っていた。」――『和歌の浦鶴』

しかし、長く経つうち、大平の人格に感化されたようである。大平も、その才能を愛し、ついに、自分の娘、藤子と結婚させた。こうして、本居家を継ぐと、上には紀伊侯へ仕え、下には多くの門人を育て、そして、自分の研究に従事し、たいそう多忙な生活を送った。彼は、その一端を漏らしていう。

「何とも、何とも、その場その場のことへ追われ、暇がなく、仕事をしきれないのを、どうしようもない。これをしようとすれば、ほかの事を、それだけ捨てなければ、できにくい。四年前の秋から、この春まで、公用で、毎日、役所へ出勤し、その間に遅れた、自国や他国の歌の草稿、質問の書面などの往復が、机の周りへ満ち、どれもこれも、気の毒なまま、片づかない。」――同上

この多忙の中で、彼は、多くの有益な著書を作った。すなわち、『古学本教大意』一巻、『和歌の浦鶴』十巻、『本宮神社考定』一巻、『熊野神社神号神位』一巻、『伊太祁曽三神考』一巻、『天野告門考』一巻、『賤者考』一巻、『冠帽革制考』一巻などである。さらに彼は、宣長の『古事記伝』にならい、『日本紀伝』を著そうとした。すなわちいう。

「かねて、私は、生涯の仕事として、『日本紀伝』を著したく、先年から心がけている。しかし、大きな仕事で、すべて整うのは、老年へ至るため、心もとないけれども、説のついた所々は、草稿も書くつもりなので、せめて、標注という程度にでも、と考えている。」――『和歌の浦鶴』

ついに彼は、これを終えずに亡くなった。安政二年で、六十四歳であった。内遠は、すでに、大平のように、純粋に受け継ぎ、述べることには、満足していなかった。

「私などは、それほど守ってばかりはいられず、思い寄ったことは、よくても悪くても、次々の人の考えの種にも、と思い、志のある人の問いには、包み隠せず、不十分な説までも、試みにいうのである。」――同上

このような見解を持っていた。したがって、多くの新見解を発表した。ここで、少し、それを紹介しよう。彼は、まず、神の道理は、人が、容易に理解できるものではないことを説いていう。

「神の道理は、人の道理と変わらないが、人は、目に見える事だけを知るので、同じ続きであっても、その境を越え、云々、幽玄で形のないところへ至ると、悟りにくい。しかし、それも、愚かな人は、よく知られたことでも、その事を目前に見なければ信じない。少し書を読み、物の道理を知ると、たとえを通じ、あれこれを通わせても知るのは、やや深く入ったのである。これにも限りがあり、儒者流のように、道理ばかりを先とし、名称へこだわり、実際に疎いのは、かいがない。古学者の中にも、その癖を逃れない人はあるが、まずは、実際に基づき、空理をいわないので、少し勝る。しかし、なお、幽玄の妙には遠い。私は、ここへ苦しみ、何とか、神妙なはたらきの一端だけでも、見たいと思い、多年の労を積んだことは、以前、神理についてお尋ねがあったとき、いったとおりである。そのように、知りたいことなのだが、あれこれを見渡して参考にし、心を静め、うかがえば、少しは、一端を得られるものである。その一端を得て、世にいう、道理の外の道理、などという境を、少し知り、さかのぼって、神の御霊を乞い、祈り、人の及びにくいところを、少し知れば、神理へ近づく。云々。」――『和歌の浦鶴』

こうして彼は、さまざまに、神理の研究を企てた。

彼は、まず、神の意味を説き、「加美」の「加」は、「気」で、「物の気」などというのと同じだとしていう。

「気が凝って、すさのをが泣き叫び、根の国へ、自然に、お心が引かれられたこと。また、同じ神が、泣き荒れられる気によって、青山を枯らし、海山を干上がらせ、人民まで、早死にしたこと。高天原へ昇られるときにも、気によって、鳴り響かせたこと。天沼矛の神気によって、自然に凝り、島となったこと。女の言葉が先立った気によって、生まれた御子が、ふさわしくなかったこと。云々。穢れ、けしきばみ、気疎い、気配、云々、人気がない、何気なく、さりげなく、という類は、皆、そのあり方をいう意味がある。」――『和歌の浦鶴』

こういい、この「気」は、きざし、霧、きわまる、消ゆる、などの「き」と通じ、さらに、香り、彼の、辛し、通う、堅し、幽か、霞、かすり、粕、風、などの「か」とも同じだとした。そしていう。

「かが、気の意味である。みは、物が集まり、集って、足りないところがない、という意味で、身・満・深山(みやま)のみや、敬称の御、宮などの、みである。簑も、長い毛を集めて作る意味で、のは、箆などと同じである。不思議な気の集まりによって成ったものを、だから、かみというのであった。」――同上

訳注

底本の引用冒頭は「神が氣の意なり」と見えるが、直前の「加美」の「加」と後続の「ミ」の説明に従い、「かが、気の意味」と解した。また「のは箆など」の「箆」の字形も確定できない。「か」と「箆」の訳にはこの留保がある。

こうして、もともと、カ・キ・ク・ケ・コには、すべて、凝り固まる意味があり、マ・ミ・ム・メ・モには、円満に、満ち足りる意味があるとして、神という語の意味を、気が満ちることだとした。こうして彼は、神の生活の仕方を説いていう。

「もともと、空中の気によって、神となられたので、次々と、純粋な気を加え、ますます盛んになる。神は、気を食物とされることを、知るべきである。これを入れるところは、口と鼻である。呼吸によって、出し入れすることは、神も人も同じである。体を養い、不要となった気のかすは、下部の二つの穴と、体中の毛髪の間から払い除き、また、新しい気の精妙なものを、引き入れられるのは、人の食事と、同じである。だから、神は、穀物がなくても、生活されるのである。」――『和歌の浦鶴』

この生活をされる神にも、優劣があるとしていう。

「愚鈍でも、碁や将棋に巧みな者がある。悪知恵に富み、よい知恵には鈍い者がある。笛を吹き、琴は弾けない。茶を好み、酒は飲めない。このような類から、神の徳も、また、なぞらえて知るべきである。一つの道でも、幽玄の境へ至ったものは、神である。狐・虎・狼・天狗・木霊の類にも、神であるものがあり、いくつもの道を会得した、尊い神から下へ、末に至っては、わずかな一つの道を会得した、卑しい神もある。これと、ただ、ほんのわずかの違いで、一つも、幽玄の事を会得せず、目に見える事だけを会得したものは、神代でも、人である。」――同上

神についての、彼の思想は、およそ、このようである。こうして彼は、これらの神の中で、最も勝れた天御中主神が、最初に現れ、天地のあらゆるものが起こった、とした。篤胤は、天御中主神を、始めも終わりもない神としたが、内遠は、現れ、生じたとした。その言葉を見よ。こういう。

「天御中主神が、大空の中へ現れ、たいそう霊妙な御霊を二つへ分かち、産霊の神、二柱とされたことから始まり、ウマシアシカヒの神、天常立、国常立、豊雲野を現され、天地の二つへ分かれたのが、そもそもの初めである。皆、お身を隠されたとあるのは、天つ神は、天の中へこもり、地の神は、地中へこもり、見えられないのである。物と呼ぶものの始まりは、この、地中へこもられた神である。幽事というのも、こもって見えないところから、恵まれるお働きをいう。さて、その後、二柱ずつの神が現れ、神世七代の間に、後に国となる、きざしの根本となる、一つの塊、水へ交じった気の満ちたものが、できた。これは、七代の神の恵みによるものである。これが、すなわち、くらげのように漂うもので、こおろこおろと探り当てられたものも、これである。国が、まだ、でき固まる前なので、ここを区切りとして、神世七代といったのも、普通にいう神代の中で、また、一つの神代の始まりをいう名なのである。」――『和歌の浦鶴』

このように、神世七代の神が現れ、天地は、ますます発展し、ここで、伊弉諾・伊弉冉の二神が、国土を営むことも、見られるようになったとした。すなわち内遠は、二神が国をお生みになったのは、その国を主宰する神をお生みになったことだ、と解した。こういう。

「たとえ、国という名がなくても、漂う物があれば、それが、国である。さて、お生みになったのは、国御霊の神で、その神の恵みによって、漂う物の中から、固め、あらわし、人も神も住めるように、作り出されたのである。」――同上

伊弉諾・伊弉冉の二神は、国土を主宰する神を生み、ついに、三貴子をお生みになり、あらゆるものが、ことごとく備わり、ここに、動かない大道が、ますます行われ、今日へ及んだとした。そこで彼は、この大道を説明していう。

「天地が開けた初め、天つ神から、次第にお伝えになり、全世界の始めから、神々が、お定めになった大道なので、日本をはじめ、すべての国々へわたり、妨げのない、動かない正しい道の定めでございます。万物、万事の始めに、貴賤・尊卑の区別を立て、天照大御神の皇孫、邇々芸尊が、天降られてから、その子孫が連綿と続き、代々の天皇の御世に、天下をお治めになる、その政治こそが、その道でございます。」――『古学本教大意』

なお、進んで、この神の道、すなわち、彼のいう、本教大道の内容を、詳しく説明していう。

「天地を開き、発展させることに功績のあった神々は、天皇をはじめ、臣民に至るまで、皆、その神の子孫なので、一統して、遠い祖先の神を敬い、宮や社へ祭り、穢れを禁じ、神威を受け、何事も、神代の事跡に基づき、執り行われることが、天下の政務であり、神の道と、人の道との二つは、ございません。そのように、臣民も、代々の天皇の政治へ従い、尊い者も卑しい者も、上も下も、一致して和し、貴い人は、代々、尊く、臣下は、それぞれの職を代々伝え、貴賤の混乱がなく、系統を重んじ、ほかから、うかがい、妨げることがなく、信義を守り、武威を大切とし、ときに背く者があれば征する。たいそう簡単で、行いやすく、万代に変わらない法制でございます。」――『古学本教大意』

内遠は、このように、宣長の説を奉じ、惟神の道を主張したので、宣長と同じく、儒教・仏教を退けた。特に、内遠の当時、西洋の学術が、盛んに輸入されてきたが、彼は、これにも大いに反対した。こういう。

「近ごろ流布する、西洋風の理学は、実用にあたり、精妙で、漢や唐の、名称や外見の飾りに偏る空理より、大いに勝っている。しかし、道理を究めるため、人体を解剖し、糞尿や汚物も嫌わず、水や火へ分離する術などは、これも、日本の、穢れを忌む神の教えへ反し、よろしくない。そのうえ、国の風俗が、すべて利益へ走り、王や臣下をはじめ、国の制度も、交易を専門とし、商人の心と同じで、たいそう卑しい。人心が変わりやすく、利益によって変じ、信義・忠孝の心に乏しい。今は、まだ、医学、薬学、理学、機械の技術という、一部のことだけへ、日本の人心を寄せているので、大きな害を現していない。しかし、その国の風俗へ染まれば、義に厚い、日本の国風も、だんだん、軽薄に、利益や便利へ移り、政治制度の禍害となることが、必ず起こるだろう。その時期になっては、急に禁じにくいので、あらかじめ、心得るべきことである。」――同上

もちろん、中国文明や、インド文明に害があるのと同じく、西洋文明にも、多くの害があることは、誰もが認めるところである。しかし、その害を憎み、絶対に、その輸入を禁じるべきだと主張するのは、ちょうど、石油が、ともすれば失火の原因となるのを見て、これを恐れ、薄暗い菜種油の光で、満足しようとするのと異ならない。私が、うなずけないところである。

要するに、内遠の祖父、宣長は、まったく、儒教・仏教を排斥し、その説を立てようとし、大平は、これを受け、もっぱら、その学説を受け継ぎ、述べた。ところが内遠は、すでに述べたように、さまざまな新しい見解を立て、父祖の学問を改善することへ努力した。ここで、その一つの証拠を掲げ、彼の学説の叙述を終えよう。こういう。

「空の中央に、天は、留まっている。これは、今、目に見える天日であり、すなわち高天原である。天というのは、ただ、虚空をいうのではなく、太陽をいうことを、本来とする。このことは、篤胤もいった。祖父の『記伝』の趣旨は、少し違うが、それも、後には、このように心得られた。初めは、太陽は大御神で、高天原は、その国であり、ある人の説へ答え、大御神の太陽が見えるのは、光があるためで、高天原が別に見えないのは、たいそう遠いためだといわれたのは、まだ十分にご存じないままでの説だったのである。太陽を測ると、地球の数十倍あることが確かなのだから、それほど、大御神が大きいはずもない。では、ほかの天つ神をはじめ、八百万の神は、どれほど大きく、どこにおいでだ、といおうか。これは、古伝の文のままに、無理なことをしないように、と、そういわれたのだが、今、こうして測量が、確かに明らかとなったときには、それほどいい張っているのは、かえって、人の嘲りを求めることなので、潔く、後の説へ改めるべきである。」――『和歌の浦鶴』

今、このように測量が明らかになったので、その説を改める、というようなのは、その学説の根底が、たいそう弱いと感じる。私は、この点では、篤胤が、どこまでも、自分の学説を、自分の学説として主張する勇気を、愛するのである。もともと、神道は、篤胤のいう、事実の道であり、事実は、事実として、常に進み、発展し続けるものである。この事実の上へ、学説を構成する。どうして、それほど窮屈なものになろうか。私は、内遠が、今日へ現れ、思う存分、西洋文明を研究し、その、道理を究める頭脳を、さらに開き、一貫して、宣長の学問を発展させることができなかったのを、残念に思う。

内遠には、子があり、よく家の学問を伝えた。今の東宮侍講、従三位、勲二等、文学博士、本居豊穎翁が、その人である。門人の、久米幹文、小中村清矩も、学界で、その名を知られている。

第七十節 大平の学派(続)

大平の学派で、内遠に次いで、最も名を成した者は、足代弘訓である。

弘訓は、通称を権太夫といい、寛居と号する。伊勢の人である。もともと、日本の上古の制度として、伊勢神宮は、修造・遷宮を、二十年ごととする。後世、戦乱が相次ぎ、これを行わないこと、百三十年に及んだ。足代家の祖、弘興は、深く、これを悲しみ、奮い立って官へ請い、費用を諸国へ募り、造営へ従事し、ついに完成させた。朝廷は、その功績を賞し、抜擢して権禰宜とし、従五位下へ叙した。それ以来、代々、神官となり、弘訓へ至る。弘訓は、早くから、神官は、神典を明らかにしなければならない、と考えた。そこで、荒木田久老について、『万葉集』を研究した。二十三歳のとき、久老が亡くなると、本居春庭について、国語を研究し、また、大平の門へ入り、古道を学んだ。長く、学問を磨いて、彼の学は、大いに成り、その名は、遠くまで知られた。大平は、これへ歌を贈っていう。

「神の御郷の事を執られる、大河内の主が、その里で、学問を深く志し、常に人々へ、書を説き聞かせるなどして、教えておられる四人、何某、何某を選び出し、このたび、その功を褒め、ねぎらい、なお、機会があれば、わが小林の館へも招き出し、講説などを聞きたいと思う、などと、たいそう、懇ろに告げられたという。私の教え子、度会弘訓神主が、このように明るい御代へ生き、この仰せを受けた、うれしさを歌へ詠み、見せに送ってこられたので、同じ心で喜び、返しに詠んで贈った。

伊勢の海の渚の、真珠を磨いておいた、その光は、これほど、あらわれたのであろう。」――『藤垣内文集』

しかし弘訓は、この名誉に、安んじる者ではなかった。彼は、かつていう。

「二十、三十のころは、大天狗で、大先生になるつもりでございました。しかし、しだいに、さまざまな名家と交わるにつれ、以前の誤りを悔い、四十歳になって、江戸へ出て、幕府の学風も、少し、うかがい、五十歳になって、京都へ参り、朝廷の学風の一端もうかがい、それから、大いに、思い上がりが下がりました。今年、六十八歳になりますが、今では、白髪の書生で、これまで、覚悟のできていなかったことを、黄泉への土産に、悟っておきたいと思い、若い人々を学友とし、学びながら、教えております。」――『足代弘訓翁家集』付録

こうして、日ごろ、学問に努めたので、ついに、よく神道を究め、和歌に長じ、律令へ詳しくなるに至った。昇進を重ね、正四位上へ至った。安政三年十一月五日、病没した。七十三歳であった。弘訓へ学問を授けた荒木田久老は、弘訓へ、寛居の号を与えていう。

訳注

底本は「弘訓の業を授かりたる荒木田久老」と記し、授受の関係が前後と整わない。直前の師事の記事と続く「師久老」に基づき、訳では久老が弘訓に学問を授けたと解した。これは文脈による解釈である。

「大御神へ、お仕え申し上げる、まごころの格別な家の子孫なので、大御神の大きな恵みも格別であり、神主の大和魂は雄々しく、ひたすら、日本の古代を尊び、友人の騒がしさにも紛れず、貧しさも貧しいとせず、おおらかに、静かに、朝夕、古い事柄の書を見て、明らかにし、心の底、豊かに学問をするのは、その名のとおり、世へ広く、教えの親ともなるだろう。行く先が思われ、めでたく、うれしく思うのに、このたび、その学びの屋の名を、私へ請われたので、そのまま、寛居と名づけたのは、神主の性質に、かなうだろうか、かなわないだろうか。」

師、久老の、この言葉によって、その性格や行いの一端を、推し量れるだろうか。斎藤拙堂は、彼を評していう。

「人柄は、潔癖で、自分の守るところがある。しかし、その学問は、門戸を立てない。常に、『今の学者は、皆、識見を誇る。私は、ひとり、識見のないことを、識見とする』という。そのため、考証へ努め、伝え述べ、新しく作らない。」――墓碑銘

そして弘訓も、かつて、ある人へ書簡を送り、こういった。

「亡父が存命のとき、『私たちは、神の地に生まれ、数代、神恩に浴し、妻子も養い、家来も助け、なお、当家では、永禄の遷宮の由緒で、爵位を授かることもできたのだから、一部の著述を世へ残し、神恩の万分の一にも報いなさい』と、常日ごろ、いい聞かせられたので、草稿は、ずいぶん書きました。初めは、偏固な古学流でしたが、そのようでは、公のことに差し障ることもあるとのことで、竹屋三位様や、そのほか、江戸の方々などの教諭を受け、さらに、偏った学問はよろしくない、と、塙検校、狩谷掖斎なども、繰り返し、いい聞かせられたため、その後は、諸家の長所を取り、一家の説へ、こだわらないようにしております。」――『足代弘訓翁家集』付録

諸家の長所を取り、一家へこだわらないという。いけないわけではないが、学者としては、いわゆる、玉の杯に底がないような心地こそする、といわなければならない。本居内遠は、詳しく、その言行を評していう。

「この人の著述は、近世の学者が、一家を成そうとして、誤りを多くすることを嫌い、著述といっては、行わない。ただ、考証として、確かなことをいう心構えで、これは、まず、たいそうよいことで、非難すべきところはない。しかし、そのほか、いったり、語ったりする様子を見ると、そのように立てたのも、人に非難されまいという、もとの考えから出たのである。これも悪くないことだが、広く、どの方面とも交わろうという、少し、世間的な心があり、儒者にも非難されず、広く交わろうという、内心があるように見える。そのため、広く渡ることを事とし、古学者の一家へも、こだわらない、という趣旨が、ときどき見える。これは、一つのことではあるが、儒者に憎まれまいとすれば、無理な主張も捨てにくい。古学へこだわらないのはよいが、こだわることを、強いて憎むのは、また、こだわらないことを名目とし、かえって、すべてを捨てる内心となる。これは、悪いことである。さて、漢学者と付き合えば、その方面が広がり、よいこともあるが、また、無用な話へ、暇を費やすこともある。また、面談のときは、それほど、面と向かって反駁しにくいので、先方のいうことが悪くても、おおよそ、聞き流し、また、大家や尊い身分の人に至っては、やむを得ず、それを受け、へつらうこともある。先方は、自分が、こういったら、足代も、こういって承知した、などと褒めるほどで、おおよそ、これらは害があって、益はない。この人が、先年、江戸へ行ったとき、高貴な大家と交わった話や、先方の書簡などを、見せたり、写して送ったりした。これは、すべて、俗にいう、ひけらかす自慢へ出る、無益なことなので、こちらからは、適当にあしらっていたため、後には、やめられた。しかし、会ったときは、この類の話が、ともすれば出る。居合わせた門人などへ聞かせるように、ふと、関係のないことを言い出し、語ることがある。これは、実は、こちらへ聞かせたいのだが、きっかけもないのに、ふとはいい出しにくいので、そうするのだ、と見える様子がある。また、話でも文通でも、こちらからいったことへは、まったく返事もせず、別のことをいうようなことが多く、少し変わったところのある人である。自分のいうべきこととなると、人へ構わず、長々と続けていう類が多い。これらを、まず心得ておき、そのつもりで、見るべきことがあるだろう。また、神職には似合わず、神代を嫌うほうで、まったく、その方面を語らない。ただ、口で尊ぶだけのことである。これは、中世以下のようには、考証ができにくいためだ、と見える。」――『和歌の浦鶴』

すでに、一家の見解を立てず、特に、神代の研究を避ける。こうして彼は、千余部の著書を成したが、努めたところは考証で、神道哲学の上で、私たちが見るべきものは、たいそう少ない。ただ、教育については、注意すべき学説がある。こういう。

「稽古には、素人の稽古と、玄人の稽古がございます。玄人の稽古は、階段を一段ずつ昇るようなもので、昇りやすく、けがなどをする危なげもありません。素人の稽古は、階段を二段ずつ、三段ずつ昇るようなものです。たいそう昇りにくく、多くは昇り損ね、けがをするものです。素人の癖として、芸のできないうちから、気ばかり高くなり、無理なことをするため、一生、本当によいことはできません。一足ずつ行く者は、一日に十里の道を歩み、急いで走る者は、四、五町で疲れるようなものです。およそ、学問の道は、心をゆったりさせ、無理に急いではなりません。」――同上

実に、これは、学業を成す秘訣といえるだろう。大工・左官の道でも、一朝一夕に習得できるものではない。まして、神聖な学問の道では、なおさらである。世の、学問を志す者は、よく考えるべきだ。弘訓は、またいう。

「およそ、何事も、人間がするほどのことは、できないということはありません。稽古の仕方が悪いことと、熱心でないことで、できないのです。田舎の稽古、素人の稽古、金持ちの稽古、慰みの稽古では、どの芸でも、できにくい。早く、天狗になっては、どの芸も、できにくい。一日も休まず、骨を折らなくては、どの芸も、できにくい。」――同上

またいう。

「人のすることを、うらやむのは、たいそう拙いことである。自分は、自分で立てた方針を定め、人の仕事を、うらやんではならない。」――同上

これらの言葉は、皆、学ぶ者の参考とすべきである。特に彼は、自警七条を作り、自ら戒めた。こういう。

人を欺くために、学問をしてはならない。

人と争うために、学問をしてはならない。

人をそしるために、学問をしてはならない。

人の邪魔をするために、してはならない。

自分が自慢するために、してはならない。

名を得るために、学問をしてはならない。

利益を貪るために、学問をしてはならない。

これもまた、私たちが、心へ刻むべき言葉ではないか。今の佐々木信綱の父、弘綱をはじめ、弘訓の門人は、少なくなかった。

大平の門人として、なお、特記しなければならないのは、加納諸平である。諸平は、通称を小太郎といい、柿園と号した。諸平は、その名である。本姓は夏目氏。遠江の人で、文政二年、十四歳で和歌山へ至り、大平の門へ入った。十八歳で、和歌山の医師、加納伊竹の養子となった。しかし、大平の門へ通い、ますます古学を研究した。学業が成り、国学によって藩へ仕えた。安政三年、上書し、国学所を置くことを請うた。藩議は、これを受け入れ、諸平を教授へ選んだ。翌年、急に病没した。五十二歳であった。

彼は、かつていう。

「霊妙な恵みのある神代から、今に至るまで、世の中にある、あらゆることには、人の力では、推し量りにくいものが、たいそう多い。その中でも、神のことには、特に数多いので、賢そうに、あれこれ定め、理屈をいうなどするのは、はなはだしい誤りである。ただ、ありのままに、いい伝え、書き伝えることにこそ、本当の道はあるようである。」――『おかげもうでの日記』序

これによって、その思想は、大平の考えを受け継ぎ、あえて、その枠の外へ出なかったことが、わかるだろう。

神道――藤田東湖
君が神道と唱えられるのは、世にいう神道者たちが、陰陽五行などへ、こじつけ、あるいは、ひそかに、儒教・仏教の意味を取り、設けた神道ではない。天地の始めから、明宮、つまり応神天皇の御代まで、異国の教えが、まだ渡ってこなかったときのあり方こそ、まったく、日本の道であるはずなので、その代々の御世のあり方を、神道と見られるのである。異国の道さえ渡ってこなければ、神道と名づけるまでもないことだが、中国・インドの道が渡ってきて、紛らわしいので、やむを得ず、神道という名が起こったのだろう。だから、神道というだけにも、限るべきではない。あるいは皇朝の道、あるいは大和の道、また、皇道、大道などというのも、もっともなことであろう。

第十六章 服部中庸

第七十一節 中庸の経歴

中庸は、通称を義内といい、水月と号した。宝暦六年に生まれた。伊勢の人である。早くから宣長の門へ入り、古学を研究した。享和元年、宣長が京都から帰るとき、中庸は、これへ付き従った。このとき、宣長は、特に中庸へ、心を古学へ専念させるよう、諭したという。篤胤は、こう記している。

「さて、お帰りの道は、服部中庸が、お供をした。道すがら、中庸が、『今までは、殿へ仕えるのが忙しく、怠っておりましたが、この秋から、暇のある身になりましたので、歌を詠み、文章を書く学びへ、励みましょう』と申し上げた。大人は、これを聞かれ、『弟子たちには、そのことを好む人ばかりが多く、主として立てている、古代を学ぶ者がいないのは、嘆いても、嘆かわしい。だから、おまえは、以前からもいったように、神世の道を明らかにすることへ努め、そのような方面へ、心を留めるな。神世の学問へ、深く心を留める者がいないため、特に、おまえへ託すのだ』と、おっしゃったという。」――『玉襷』

こうして彼は、宣長の思想を受け継ぎ、大いに古学を伝え述べようとしたが、果たせず、むなしく老年へ至った。そこへ、平田篤胤が現れ、中庸の著書『三大考』の趣旨を受け継ぎ、『霊能真柱』を著し、大いに古学神道を唱えた。中庸は、これを深く喜び、自ら、宣長から伝わったものを、すべて篤胤へ伝え、翌年、ついに亡くなった。文政七年二月二十三日であった。六十九歳であった。

第七十二節 中庸の学説

中庸の学説は、その著書『三大考』によって、見ることができる。三大とは、何か。天・地・泉である。天・地・泉とは、今日でいう、太陽・地球・月のことである。彼の、これらに対する思想は、もちろん、現今の科学的知識から見れば、幼稚な域を出ていない。しかし、宣長の説と比べれば、大いに、当時の新知識を採用したところがあるのは、争えない。そこで宣長は、自ら筆を取り、跋を書いて、こういった。

「服部中庸の、この、天・地・黄泉についての考えは、悟りが深く、物をよく考える、西の国々の人々も、昔から、まだ考え出せなかったことを、珍しくも、考え出したことよ。霊妙にも、考え出したことよ。こうしてこそ、高天原も、夜之食国も、疑わしい陰がなく、明らかになった。これによっても、古代の伝えは、いよいよ、ますます尊いものであった。皇国の由来は、いよいよ、ますます尊いものであった。」

宣長から、このような称賛を受けた、中庸の説とは、そもそも、どのようなものか。ここに、その概要を述べよう。彼はいう。

「天地・国土のあり方や、それらが成り立った、初めの様子などについて、外国の説は、いわゆる仏であれ、聖人であれ、皆、自分の心によって、知恵の及ぶだけ、考え、推し量り、必ず、このようであるはずの道理だ、と、当て推量で定め、作っていったものである。その中で、インドの説などは、ただ、世の女性や子どもを、欺くような妄説なので、論じるにも足りない。また、中国の説などは、どれも、少し、物の理屈を深く考えて、作ったものなので、ちょっと聞くと、なるほどと、信じられるようではある。しかし、よく考えれば、太極・無極・陰陽・八卦・五行などという理は、もともと、ないことなのに、こちらから、その名を作り設け、何事へも、これを当て、天地・万物が、皆、これらの理によって成り立ったかのように、これらの理を離れることはないかのように、いいなしたもので、これもまた、皆、妄説である。」――『三大考』

こうして彼は、中国・インドの創世説のようなものは、狭い人間の知恵によって作ったもので、到底、信じるには足りない、とした。もともと、人間の知恵は、わずかに、目の及ぶ限り、心の及ぶ限り、測量・計算の及ぶ限りを、推し量れるものである。それらの及ばないところへ至っては、どれほど考えても、知ることはできない。したがって、この天地の始めのようなものは、八百万、千万年の後に生まれた人間が、知り得るものではない、とした。こういう。

「ここに、わが皇大御国は、特に、伊那那岐・伊那那美の二柱の大神が、生み成された国であり、天照大御神が、生まれ、いらっしゃる国であり、皇御孫尊が、天地とともに、遠く、長く、お治めになる国である。万国よりも、抜きん出て、優れ、四海の宗国であるため、人の心も、素直で正しく、外国のように、細工をして、偽ることがなかったためだろうか。天地の始めのことなども、正しい、真実の説があり、少しも、私的な、こざかしい考えを加えず、ありのままに、神代から伝わってきた。これこそ、偽りのない、真実の説なのである。」――同上

しかし後世には、この日本の古い伝説を、中国・インドの説などによって解釈し、しだいに、その真実を失いそうになるに至った、とし、こういう。

「ここに、わが本居大人は、早くから、その誤りを悟り、少しも、外国の考えを交えず、ひたすら、皇国の古い伝えによって、その趣旨を、詳しく考え抜き、『古事記伝』を著された。これによってこそ、神代からの伝えの意味は、再び、世へ明らかになったのである。」――同上

彼は、このように述べ、師、宣長の『古事記伝』によって、古い伝えを明らかにした。さらに、自ら考究し、十個の図を作って、天・地・泉の理を、明らかにしようとしたのである。以下に、その十個の図を掲げよう。

第一図は、以下のとおりで、天地が初めて発したときを示している。当時は、まだ、天も地もなく、すべて、虚空であった、とする。

虚空の三神と、一物の発生。
第一・第二図 原典の図版

第一図。高御産霊神、天之御中主神、神産霊神。この輪の内は、大虚空である。輪は、仮に描いているだけで、実際に、このような物があるのではない。以下の図も、すべて同じ。

第二図の中の一物は、産霊神の産霊によって、しだいに発展し、第十図のようになるに至った、とする。

第二図。一物。

第三図は、一物から、宇麻志葦牙比古遅神、および、天之常立神が、お成りになった状態を示す。

一物から神々が成り、天・地・泉の形ができる。
第三・第四図 原典の図版

第三図。一物。宇麻志葦牙比古遅神、天之常立神。

第四図では、別天神と、七代の神々が、すべて、お成りになったことを示す。

第四図。天・地・泉。天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、宇麻志葦牙比古遅神、天之常立神。以上、五柱は、別天神。地には、国之常立神、豊雲野神、宇比地邇神・須比智邇神、角杙神・活杙神、意富斗能地神・大斗乃弁神、淤母陀琉神・阿夜訶志古泥神、伊邪那岐神・伊邪那美神。伊邪那美神は、黄泉神。これ以降の図は、すべて、外側の輪を省いた。紙の地を、虚空と見ること。地へお成りになる、十二柱の神々の位置は、ただ、『古事記』の文の順序のまま、記した。必ずしも、その位置へ、こだわる必要はない。黒白に分けたうち、黒いのは、身を隠された、とある神々である。

第五図は、伊弉諾・伊弉冉の二神が、国土をお生みになり、また、外国なども、すべて成り立ったことを示す。

国土の誕生と、伊邪那美命の黄泉行き。
第五・第六図 原典の図版

第五図。天・地・泉。地の中に、皇国・外国。天浮橋は、天と地との間を往来する道である。これ以降の図では、天へお成りになる神、地へお成りになる神々は、その図に関係する神々だけを挙げ、ほかは省いた。

第六図は、伊弉冉尊が、神避られた、当時の状態を示す。

第六図。天・地・泉。皇国。伊邪那美命。ここは出雲国の伊賦夜坂。これは、伊邪那岐命が、黄泉国へ、往き帰りされた道である。この道は、地の中にあり、出雲国の伊賦夜坂から通じる。

第七図は、伊弉諾尊が、禊によって、三貴子をお生みになり、それぞれが、お治めになる国を、お定めになった当時を示す。

三貴子の国の分担と、大国主神の国土経営。
第七・第八図 原典の図版

第七図。天・地・泉。天には、天照大御神、高御産巣日神、伊邪那岐命と、日之少宮。泉には、月読命と、伊邪那美命。天とは、すなわち、日である。その中にある国を、高天原という。泉とは、すなわち、月である。その中にある国を、夜之食国という。

第八図は、大国主神が、国土を経営された当時を描いたものである。

第八図。天・地・泉。天照大御神、高御産巣日神、天忍穂耳命、皇御孫命、伊邪那岐命、大国主神、少名毘古那神、月読命、伊邪那美命。天之八衢、天之浮橋。泉への往還路は、第六図に示した。

第九図は、皇孫、邇邇芸尊が、降臨された当時を示す。中庸は、この、皇孫降臨までは、天と地とは、まだ、つながっていたが、降臨後には、二つが断ち切れ、永く、天と地との間の往来が、なくなった、とした。

皇孫降臨後に天と地が分かれ、日・地球・月となる。
第九・第十図 原典の図版

第九図。天・地・泉。天照大御神、皇御孫命、月読命、大国主神。

第十図では、天・地・泉が、まったく、今日のような状態になったことを示す。

第十図。日、天、天照大御神。地、皇御孫命、外国。月、泉、月読命。上・下、南・前、北・後。これは、天・地・泉を、つないでいた帯が切れ、離れて、天も泉も、回るようになった様子の図である。このように描いたのは、仮に、十五日ごろの、正午に、西の方から見た、おおよその様子である。天と、地と、泉との、大きい、小さいなどは、必ずしも、図へこだわる必要はない。また、それぞれが、互いに離れる距離が、遠い、近いということには、特に、こだわる必要はない。これは、たいそう縮めて描いた。

このように描いて、中庸はいう。

「初めは、天・地・泉の三つが、珠を貫いたように、帯でつながり、天は、いつも、地の頂上にあり、泉は、いつも、地の下方にあって、ともに、動き、回ることはなかった。皇御孫命が、すでに、天から降られ、天下をお治めになるときに至り、その、つながっていた帯が、断ち切れ、離れ、正しく、三つになった。これ以後、天も泉も、地を真ん中に置き、常に、互いに回ることは、今、現実にあるとおりである。」――同上

つまり彼は、地球を中心に、太陽も月も回るものと考えたのである。しかし、また、西洋では、地球も回転するというので、あるいは、そうであるかもしれないが、そのように、地球も回転するとしても、自説へは、妨げにならない、とした。

要するに、中庸の説を、今日から見れば、極めて、幼稚に思われるとはいえ、当時、このような学説を唱えたのである。確かに、宣長門下の、高才というに足りる。篤胤の『霊能真柱』の説のようなものは、まったく、この、中庸の説を、押し広げたにすぎない、といっても、偽りではない。そして『霊能真柱』は、実に、篤胤を偉大にしたものである。中庸の功績も、大きいというべきだ。ただ、私は、中庸が、宣長の門下にあり、著しく、推理的な頭脳を持っていたにもかかわらず、深く、この方面の研究へ、従事しなかったことを、惜しむのである。

学規の大綱――吉見幸和

一、神道は、わが国の天皇の道であり、尊敬しなければならない。開闢以来の、神聖な方々による、国を治める功労によって、君臣の道が厳かになり、祭祀・政治の法が正しいことを、国史・官の記録によって、事実として考えるのが、国学の、もっぱらの務めである。俗学の者が、真偽を見分けず、偽書や、みだりに作った説を信じ、偽作の神託、自作の古語、こじつけの、でたらめな説を交えて説くものは、用いてはならない。

一、国史を解釈するのに、あるいは、儒教へ寄り、あるいは、仏説へ習合し、理論によって、高遠なことへと説き上げ、仏語を使い、実のない話へ走り、奥秘の口伝と称して、証拠の文がないものは、信じてはならない。古い事実の記録によって、調べ究めるべきである。

一、国学のことは、誰でも、学ぶべきであるとはいえ、神を祭ることについて、斎戒もせず、さまざまな行法を執り行い、巫女・巫者のように、分に過ぎた願いを祈り、神明を煩わせる類は、無礼の極みである。厳しく禁じるべきである。

第十七章 斎藤彦麿

第七十三節 彦麿の経歴

彦麿は、本姓を藤原氏といい、父は、狄野彦兵衛信邦という。明和五年正月五日、三河国、矢作郷に生まれた。幼名は庄九郎。後に、斎藤家を相続すると、名を彦六郎と改め、字を可怜といい、宮川舎、莘仮庵、などと号した。そして、通称を、彦麿といった。石見国、浜田の城主、松平康任へ仕え、早く、江戸へ出て、浜町の藩邸へ住んだ。

天明二年、十五歳のとき、初めて、伊勢貞丈の門へ入り、その教えを受けたが、わずか二年で、貞丈は亡くなった。寛政四年、彦麿、二十五歳のとき、名簿を捧げ、宣長の門へ入った。それ以来、宣長が亡くなるまで、前後十年間、常に、その教えを受けた。

天保年間、藩主は、ある事情によって、領地を奥州、棚倉へ移された。彦麿も、付き従い、奥州へ赴いた。後に、幕府が藩主を召し、老中とし、武州、川越へ封じると、彦麿も、ここへ移った。彦麿は、道へ志すことが篤く、常に、門人を教え導き、著書へ従事した。安政元年三月十二日、亡くなった。八十七歳であった。彼について学んだ門人は、五百二十九人いた。

著書には、『勢語図抄』五巻、『かはほり』一巻、『かたびさし』六巻、『竹箒』一巻、『嵯峨の山踏』三巻、『神道問答』二巻、その他、たいそう多くある。

第七十四節 彦麿の学説

彦麿の学説は、主として、宣長の学説を、伝え述べるところにあった。彦麿は、まず、後世には、儒教・仏教の二教が、盛んに行われ、神道は、顧みられない傾向があるが、それでも、神道は、皇国の大道であり、国民が深く尊重しなければならない理由を説いていう。

「神道という名称は、古代には、なかったものである。そのわけは、神祭りをはじめ、年中の儀式、臨時の御掟、天下の政治、すべての、士農工商の仕事、もろもろの人々の職業、儒教・仏教の道までも、日本の大神道の枝葉だからである。ただ、仏道は、けがれへ触れる仕事なので、清浄な神祭りへ、交えることは難しい。それは、一家の中にも、台所と、便所があり、同じ一家の枝葉であっても、清浄な台所と、けがれのある便所とを、混ぜてはならないのと、同じである。これは、仏道を便所へたとえたのではなく、ただ、清浄と、けがれとの違いをいったのである。

それなのに、儒教・仏教の、小さな道を、それぞれ、大道のように、いい習わしてきた。そのため、その二つの、小さな道へ対して、神祭りだけを分け、神道と名づけて、たいそう、小さくしたことから、三教などという名まで、いい出したのである。ところが、神職は、子孫が相続するため、無理に学ばなくても、その職へ就くので、自分の職へ詳しくない。儒教・仏教は、一代限りのものなので、名声・利益・欲のため、深く学ぶから、本末を乱すことが、はなはだしい。

ただ、本末を乱すとは、皇朝を末とし、外国を本とし、呉の太伯のことなどを、作り出した類、また、極楽・地獄の様子を作り、龍樹菩薩が、鉄塔を開いた類は、皆、本末を乱したのである。それを論破するほどの神職は、一人もいない。だからこそ、儒教・仏教の、二つの小道へ、圧倒されてしまったのである。大神道と、儒教・仏教の二つの小道とは、その尊卑・広狭が、はるかに異なる。そのわけは、皇朝で、お立てになったところによって、明らかである。

神祇官を百官第一、太政官を第二とし、儒者・法師に関わる官を下位へ置いた図。
神祇官と諸官の序列 原典の図版

百官第一、神祇官――伯、大副、少副、大祐、少祐、大史、少史。神職など。
百官第二、太政官――摂政、関白、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、大納言、中納言、参議、少納言、左右の大中少弁など。
八省第二、式部省――卿、大輔、少輔、大丞、少丞、大録、少録。その下に、大学寮――頭、助、允、属、文章助授、直講、音書・明法・算などの博士。儒者など。
八省第三、治部省――卿、大輔、少輔、大丞、少丞、大録、少録。その下に、玄蕃寮――頭、助、允、属。法師など。

おおよそ、このようである。『令』では、神祇官を上とし、『貞観儀式』でも、祭儀を第一とし、『延喜式』でも、神祇官を筆頭とし、『職原抄』でも、神祇官を上とし、『神祇官を諸官の上へ置くのは、神国の風儀である。天神地祇を重んじるためである、云々。神国であるため、神祇官を、太政官の上へ置くのだろうか』とある。『仁和御記』でも、『毎朝、四方の、大中小の天神地祇を敬い拝し、一日も怠るな』、また、『禁秘御抄』でも、『およそ、禁中の作法は、神事を先にし、他事を後にする。朝夕、神を敬う、天皇のお考えに、怠りはない。わけもなく、神宮と内侍所の方へ、御足を向けられない、云々』、また、『朝野群載』でも、『国中の政治は、神事を先とする、云々』とあるほどのことなので、たとえ、聖人や仏などの教えへ従っても、皇朝の御掟へ背く者は、たいそうな罪人である。」――『神道問答』

このように彼は、神道は、皇国の大道であり、国民が、日常、守らなければならない理由を説き、そして、その、大道の内容を示していう。

「恐れ多くも、天照大御神、高御産霊神の、二柱が、命じ、定められた大道を、代々の天皇が、固く守り、執り行われるため、天地がある限り、正統は、連綿と続き、官人以下、万民へ至るまで、子孫が繁栄するのは、万国世界へ、比べるもののない、大道があるからである。『神代紀』に、『天照大神は、皇孫へ、命じられた。葦原の、千五百秋の瑞穂国は、わが子孫が、王となるべき地である。おまえ、皇孫は、行って、これを治めなさい。行きなさい。天皇の位の栄えは、まさに、天地とともに、窮まりないであろう』とある。これが、まことの道の、大本・根元なのである。

また、同じ『日本書紀』に、『高皇産霊尊は、大己貴神へ、命じられた。おまえが治める、目に見える世の事柄は、わが孫に、治めさせなさい。おまえは、神事を治めなさい、云々。ここで、大己貴神は、答えていわれた。私が治める、目に見える世の事柄は、皇孫が治められるべきです。私は、退き、幽事を治めましょう、云々』とある。このため、大己貴神は、出雲国、杵築大社へ鎮座し、神幽の事を、お治めになるのである。神幽の事とは、神の恵みを得て、あるいは、昇進し、あるいは、富貴へ至り、思いがけない幸いを得る類、また、神の罰を受け、あるいは、落ちぶれ、あるいは、貧賤へ至り、あるいは、思いがけない災いを得る類で、すべて、大社の神が、お治めになるところであり、国々の鎮守の神々、家々の氏神などへも、分けて、お預けになっている。また、顕露の事とは、今、目の前の、恩賞・褒美、死罪・流刑の類であり、皇孫の天皇が、代々、都へいらっしゃって、お治めになるところである。また、天皇からは、公方へ、お任せになり、公方からは、国々の城主・領主へ、分けて、お預けになっている。

この、神幽・顕露の二つは、どちらも、皇祖の二柱の大御神の、大御心から出た大道であり、外国には、まったく、ないことである。『風雅集』に、『天の神、国の社を、お祭りしてこそ、わが、葦原の国は、治まる』と、後宇多天皇が、お詠みになったのは、後世とはいえ、道へ、かなっていらっしゃる御製である。このような大道は、神国だけのものであり、外国には、まったく、ないことなので、釈迦も孔子も、夢にも、知らないのである。

『荘子』に、『目に見える、明らかなところで、悪事をする者は、人間が、これを罰する。目に見えない、暗いところで、悪事をする者は、鬼神が、これを罰する』とあるのは、こざかしい考えの多い、異国であっても、さすがに、荘子なので、ここまでは、よくも、思いついたものである。しかし、外国には、太古の伝説がないため、神を明らかにし、君主を明らかにすることが、できないので、やはり、私的な推量なのである。」――『神道問答』

記述の中には、彼独自の見解に属するものも、ないわけではない。しかし、おおむね、その説は、宣長の説を、伝え述べるにとどまっていることが、わかるだろう。

第十八章 門派の巨擘

第七十五節 植松父子

以上のほかにも、宣長の門下で、大家と呼ぶべき者は、少なくない。これから、その主な人々について述べよう。そして、最初に述べるべき者は、植松有信である。

有信は、通称を、彦兵衛、また、忠兵衛といった。有信は、その名である。早くから、宣長の門へ入り、古学を研究した。『鈴屋集』には、こうある。

「尾張の、名古屋に、植松有信の家へ、幾日か、泊まっていたが、帰るとき、主人へ詠んで贈った。時は、三月二十日過ぎのことであった。

花でなく、人の情けの、色が深いので、春よりも惜しい、春の別れ路。」

この一句は、宣長との関係を示して、余りあるといえるだろう。植松有信は、ただ、宣長の一門人にすぎなかったが、その養子に、植松茂岳がいた。神道学者として、平田篤胤と争い、名を知られている。

茂岳は、通称を庄右衛門といい、名古屋の藩士、小林和六の次男であったが、養われ、有信の子となり、宣長の学問を、養父から受けた。やがて、松坂へ至り、大平の門へ入り、国学を修めること、長年に及んだ。ついに、召されて、名古屋藩の士籍へ列し、明倫堂の教授となった。常に、勤王論を唱え、そのため、安政五年、幕府によって、幽閉された。五年を経て、許された。明治九年三月二十日、亡くなった。八十四歳であった。

著書には、『天説弁』一巻がある。篤胤の思想へ反し、一種の天説を立てたものである。いわゆる、天説とは、神道における、創世説という意味である。篤胤は、さらに、『天説弁弁』を著して、これを論駁した。私は、茂岳の説には、捨てられないところが、多くあると認める。

第七十六節 渡辺重名

重名は、豊前、中津の人である。天明二年、伊勢へ入り、荒木田久老の門へ入って、古学を研究した。同七年、転じて、宣長の門へ入った。寛政二年、中津藩の進修学館が、できると、その、国学教授となった。時に、三十二歳であった。それ以来、君侯へ仕え、重ねて、寵愛を受けた。天保元年、亡くなった。七十二歳であった。著書は、数種類ある。

第七十七節 鈴木朖

朖は、通称を常助、字を叙清といい、離屋と号した。尾張の人である。わずか十歳にして、すでに、よく、文を暗唱し、ついに、儒学へ通じた。当時、紀平洲は、明倫堂の学問を監督し、自分へ従う者を、推薦して登用することが多かった。朖は、ひとり、意志を堅く守り、彼へ従うことを、望まなかった。そのため、不遇に苦しむこと、長年に及んだ。後に、本居宣長が、古学を唱えたとき、世間は、まだ、深く信じなかったが、朖は、ひとり、これを喜び、心をむなしくして、その教えを学んだ。こうして、学業は、大いに成り、ついに、抜擢され、明倫堂の教授となった。堂に、国学の教科があるのは、朖に始まるという。天保八年六月六日、亡くなった。七十四歳であった。

著書には、『離屋文集』一巻、『言語四種論』二巻、『雅語音声考』一巻など、数十種類ある。朖の講席は、すでに述べた、植松茂岳によって受け継がれ、明倫堂の国学は、ここに、大いに盛んになった。

第七十八節 城戸千楯

千楯は、通称を、万治郎、また、蛭子屋市右衛門といい、紙魚室と号した。京都の人で、錦小路室町へ住み、書店を営んだ。早く、宣長の門へ入り、造詣は、たいそう深かった。弘化二年、亡くなった。六十八歳であった。著書には、『万那備能広道』がある。

その中で、「古学者の、身の行いが、人と異なることをせず、今の世の風習へ、違わず、背かないように、と心得ることこそ、すなわち、古代の精神へ、かなうのであろう」といい、家業を怠らず、親へ孝養を尽くし、妻子を養い、世の風習へ従うことを、神道とした。したがって、儒教・仏教のようなものも、必ずしも、排斥する必要はない、とした。

第七十九節 村田春門

春門は、通称を九二兵衛といい、田鶴廼舎と号した。伊勢の人である。早くから、宣長の教えを受け、古学へ通じ、和歌をよくした。後に、江戸へ出て、さらに、大坂へ移った。天保七年、亡くなった。七十二歳であった。著書には、『客話小録』四巻、『独話小録』六巻などがある。

第八十節 藤井高尚

高尚は、通称を、忠之丞、また、小膳といい、松屋と号した。備中の人で、吉備津宮の宮司であった。寛政の初めのころ、江戸へ向かう途中、松坂へ立ち寄り、宣長と神道を語り、深く、その説へ感服し、ついに、門人となった。天保十一年、亡くなった。七十七歳であった。著書には、『松の落葉』四巻、『松屋文集』二巻、『松屋文後集』三巻、『大祓詞後々釈』一巻、『伊勢物語新釈』六巻などがある。

第十九章 没後の門人

第八十一節 平田篤胤

宣長の没後に、門人となり、国学界へ、抜きん出た者が、二人いる。平田篤胤と、伴信友である。本章では、この二人について、少し述べよう。

篤胤は、秋田の人である。安永五年八月二十四日に生まれた。父は大和田祚胤、母は那珂氏で、篤胤は、その第四子である。幼名は正吉、大壑と号し、伊吹の屋と称した。わずか八歳で、儒学を、藩儒、中山青義から学んだ。やがて、生母、那珂氏が亡くなり、継母、小野氏が入った。二十歳のとき、故郷を脱し、大きな志を抱いて、江戸へ来た。苦学は、前後五年に及んだ。たまたま、松山の、板倉侯の家臣、平田篤穏に認められ、その養嗣子となり、それ以後は、学業へ専念することができた。

享和元年、篤胤、二十六歳のとき、初めて、宣長の著書へ接した。これを見て、深く、その学問へ感服し、すぐに、名簿を松坂へ送り、門人となることを求めた。折しも、宣長が亡くなったため、ここで、いわゆる、没後の門人となった。これ以後、全身を、国学へ委ね、長年、研鑽し、ついに、堂々と、一家を成した。まず、『呵妄書』を著し、太宰春台を罵倒し、『鬼神新論』を著し、儒者を叱り、退けた。そして後に、『古史徴』『古史成文』『霊能真柱』などを公にし、進んで、積極的に、復古神道を、天下へ唱えた。全国から、学問を志す者が集まり、その門へ入った。文政六年、著書、数部を携え、京都へ入り、禁裏と、仙洞へ献じた。ここに、その著書は、「天覧叡感」の四文字を冠し、一層の光を放つに至った。

こうして、当時、有力であった吉田家は、篤胤を招き、神官の教授とし、神祇伯、白川資敬王は、篤胤を抜擢し、学師の重職へ任じた。ここに至り、篤胤の名声は、輝かしく、天下へ鳴り響いた。秋田藩は、これを見て、大いに喜び、帰藩を求めた。これ以後、秋田藩士となった。しかし、篤胤の、熱心に、神を敬い、天皇を尊ぶ説は、ともすれば、幕府成立の基礎を、危うくしそうな恐れがあった。家康の業を失うことを、びくびくと恐れる、当局の役人は、ついに、黙っていられなくなった。篤胤を、江戸から追い、国へ帰らせ、さらに、今後、著述することを禁じた。天保十四年、閏九月十一日、篤胤は、ついに、秋田で亡くなった。六十八歳であった。束脩を納めた門人は、五百五十余人、没後の門人は、千三百余人へ及んだという。

著書は、先に挙げたもののほか、『古史伝』三十二巻、『古道大意』二巻、『大道或問』一巻、『気吹颫』二巻、『俗神道大意』四巻、『印度蔵志』二十五巻、『出定笑語』六巻、『赤県太古伝』三巻、『西籍概論』四巻など、百余部がある。

第八十二節 篤胤の学説

篤胤は、宣長の没後の門人となり、深く、宣長を尊崇したが、その学説は、純粋に、宣長の説を伝え述べたものではない。今、その主な点を述べると、神道の創世説では、高皇産霊・神皇産霊の二神が、天地を造られた、という宣長の説を、尊び従った。しかし、宣長が、高天原を、虚空の上の国としたことへは反対し、これを、北極の上空とし、また、太陽である、と主張した。次に、宣長は、夜見国を、中国の黄泉と同一視し、死後、霊魂の赴くところと解釈した。ところが、篤胤は、人の霊魂の赴くところは、幽冥であり、古い伝えの夜見国は、月である、とした。こうして篤胤は、太陽は、高天原であり、天照大神が、これを治め、地球は、皇孫命が治められる国であり、月は、夜見国であり、素盞嗚尊が治められるところである、とした。彼は、宣長が、まだ、手を付けなかった、西洋の天文学説を取り入れ、ここに、地動説も唱えた。こういう。

「天の日は、高い上方へ、位置を定め、動いたり、回ったりすることはない。地は、もとからのまま、漂い、回り、月、つまり泉は、地の底へ成り、もともと、地とともに、漂い、回ったものなのであろうか。断ち切れ、離れた後も、そのように、地へ属して回ることは、今、現実に見るとおりである。これらのことは、すべて、神の、産霊の、霊妙な理によって、そうであるため、まったく、人の小さな知恵で、あれこれ、推し量って知れる範囲ではない。」――『霊能真柱』

こうして彼は、当時、一部の学者の間で、しだいに、盛んに行われてきた、西洋の学理を応用し、その学説を構成し、そして、これらは、すべて、日本の、真実の古い伝えである、とした。

篤胤は、その神道説においては、ほとんど、忠実に、宣長の学問を信奉した。こういう。

「この天地を、お造りになった天つ神、高皇産霊神・神皇産霊神をはじめ、伊邪那岐・伊邪那美神が、お受け継ぎになり、世にある、あらゆる事物のもとを、お始めになった。また、その事物を、すべて、分担して、お治めになる神々を、お生みになり、その功徳を、天照大御神へ、お伝えになった。さて、皇御孫、邇邇杵尊が、天から、お降りになるとき、天御祖産霊の御神と、天照大御神から、皇御孫命が、代々、天下をお治めになる、政治のあり方を、お伝えになった。さて、代々の天皇は、その、お委ねになったとおり、自分の、こざかしい知恵を加えず、天地とともに、御世を、お治めになるのである。この道を指して、神道と申す、云々。」――『俗神道大意』

と説き、さらに、自らの神道を、古道といって、

「そもそも、古道と申すのは、何のこともなく、古代の道ということである。それは、天皇の祖神が、この天地を、お造りになったことをはじめ、上代の事実の上に備わった、真実の道を、少しも、外国風の説を交えず、純粋な、古代の精神と、古代の言葉とによって、素直に説明し、その事実の上で、天皇が、天下をお治めになる、政治のもとをも、人道のもとをも知る学問なので、古学といい、その道を指して、古道というのである。」――『入学問答』

と説いた。これらの言葉が示すように、彼の神道説は、徹頭徹尾、宣長の神道説を、伝え述べ、押し広げたものである。

要するに、篤胤の学説は、高天原と、夜見国を説く点で、幽冥を説き、未来を論じ、復古神道へ、大いに、宗教的な色彩を与えた点で、深く、仏教を研究し、盛んに、仏教を破る論を唱えた点で、熱心に、諸子百家を研究し、特に、玄道を取り入れ、自説を組み立てるために役立てた点で、その他、さまざまな点で、宣長の学問の範囲を超え、一家の見解を立てたことは、深く、注意しなければならない。そして、これらは、すでに、拙著『平田篤胤之哲学』へ、詳しく論じたので、読者に、その参照をお願いし、ここで、繰り返し述べることはしない。

第八十三節 伴信友

信友も、篤胤と同じく、宣長の没後の門人である。幼名は鋭、後に、州五郎と改めた。事負と号した。安永二年二月二十五日、若狭国、小浜へ生まれた。父は山岸次郎太夫惟智、母は片岡氏で、信友は、その第四子である。天明六年、わずか十四歳で、小浜藩の御勘定頭、伴信頭の養嗣子となり、翌年、江戸へ来て住んだ。天明八年、初めて、藩へ出仕し、それ以来、よく勤め、たびたび、褒美を賜った。公務の余暇には、心を国学へ傾け、長年、研鑽した。

たまたま、宣長の『古事記伝』『詞の玉の緒』などの書を得て、深く、その卓見へ感服し、敬慕してやまなかった。ついに、その門へ入ろうとしたが、紹介を頼む人がいなかった。ある人が、村田春門は、宣長の門人である、と告げた。そこで、春門を介し、入門することを求めた。春門は、快く承諾し、松坂へ手紙を書き、信友の名簿を送り、その志を告げた。時は享和元年で、ちょうど、宣長が亡くなった後であった。嗣子、大平は、信友の志へ感じ入り、名簿を霊前へ供え、門人へ列した。当時、信友は、二十九歳で、すでに、著述へ着手し、以後、ほとんど、毎年、二、三種類の原稿を、完成させない年はなかった。

文政四年に至り、病気のため、仕官を辞した。これ以後は、すっかり、学者の生活へ入り、日夜、書斎へ、閉じこもり、社交を断ち、書籍の積み重なった間へ端座し、夜が更けても、筆を置かなかった。もっぱら、著述と、学問の研究へ従事し、厳寒・酷暑であっても、一日も、これを休まなかった。私は、こうした点から、はるか、イギリスのスペンサーを連想する。特に、信友が、養生の道を重んじたことは、まったく、スペンサーと一致する。信友は、かつて、杉田玄伯へ、養生の道を尋ねた。玄伯は、「七不可」を書き、答えた。七不可とは、何か。いう。

昨日の誤りを、悔やみ、恨んではならない。

明日のことを、思い煩ってはならない。

飲食は、度を過ごしてはならない。

正しくない物を、むやみに食べてはならない。

何事もないとき、薬を服用してはならない。

丈夫であることを頼み、房事を過ごしてはならない。

よく体を動かし、安楽を好んではならない。

信友は、これを得て、深く喜び、よく守ったという。

信友は、生まれつき、謙虚で、控えめであり、名声や利益を求めなかった。全国から、学問を志す人が、その名を聞き、来て、門人となることを請う者は、たいそう多かったが、皆、断り、「私の学問は、人の師となるには、足りない」といった。強く請われれば、学友とした。本居大平の門人、加納諸平へ与えた手紙は、その考えを示している。こういう。

「生涯、博士ぶった心を、お持ちにならず、人へも、書物へも、尋ねることを、お忘れになりませんように。自ら、師となろう、と思う一念があれば、すぐ、学問の妨げになります。師と称するのは、人から、敬っていう呼び名です。弟子と称するのも、教えを受ける者の呼び名です。師というのも、弟子というのも、自らの口から、いうべき言葉ではありません。特に、わが国の学問は、漢学などとは、様子が異なるため、師弟の区別は、ないという趣旨です。講習・討論の上座、あるいは、長座というべきものでしょうか。ただし、これは、私の個人的な意見です。お考えください、云々。」

これによって、その人柄を、見ることができる。平田篤胤は、初め、信友との交際が、最も深かった。しかし、二人の性格や行いは、まったく相反していた。したがって、ついに、絶交する、やむを得ないところへ至った。ただ、そのきっかけは、篤胤が、その著書『古史徴』を刊行するとき、信友の考説を、無断で掲載したことにあったという。私は、もとより、篤胤がしたことを、認めることはできないが、また、断然、交際を断った、信友の態度には、少し、疑いを持たざるを得ない。

信友は、すでに、世間への望みを断ち、一意専心、学問だけへ努めた。その成果は、たいそう大きく、名は、遠く、広く、知れ渡った。特に、公卿や、貴紳の間で、厚く優遇された。弘化三年十月十四日、病気のため、京都で亡くなった。七十四歳であった。若狭国、遠敷郡、伏原村の、発心寺へ葬られた。

著書には、『神社私考』六巻、『仮字本末』四巻、『鎮魂伝』一巻、『蕃神考』一巻、『若狭旧事考』一巻、『中臣祓詞要解』一巻、『神璽三弁』一巻、『八幡考』一巻、『瀬見小河』一巻、『験の杉』一巻、『信友随筆』三巻、『正卜考』三巻など、百余部があり、『日本紀』『続日本紀』など、校訂したものも、五十余部に達した。

第八十四節 信友の学説

信友は、いつも、書斎の床の間へ、孔子の「伝え述べて、創作せず、信じて、古代を好む」という書軸を掲げ、自分の意にかなう、としていた。それゆえ、その学風も、篤胤のようなものとは、まったく相反し、終始、考証へ努めた。したがって、勢いよく、奮い立つ学説を、信友へ期待してはならない。彼は、実に、正確な考証の大家であった。ここに、その、神道哲学へ関わる事柄について、彼の考証学の一端を示そう。

彼は、天神地祇についていう。

「『神祇令』に、『およそ、天神地祇は、神祇官が、すべて、常の定めによって祭る』、また、『およそ、天皇の即位には、天神地祇を、すべて祭る』とある。天神とは、天上へいらっしゃる神、また、天から、この国土へ、お降りになった神をいうのである。その、天地の神々が、八百万も、群がっていらっしゃる中で、特に、ゆかりのある神々を、国々へ、社を定めて、お祭りになることは、大御政の根本であり、太古からの、皇朝の大道である。」――『神社私考』

彼は、このように、諸国へ神社を建て、天神地祇を祭ることは、皇朝の大道である、とし、これらの神々について、さまざまな研究を行った。ここに、八幡大神について述べたところを、少し挙げよう。こういう。

「八幡の本宮は、『神名帳』へ、豊前国、宇佐郡の三座、八幡大菩薩宇佐宮、大社、名神、比売神社、大社、名神、大帯姫神社、大社、名神と、並べて載せられている。この三社が、同じ所へ鎮座することを、まとめて、八幡神とも、八幡宮とも、また、八幡三所の神とも、申し伝えてきた。この神が、古く、歴史へ、お見えになるのは、『続日本紀』、聖武天皇の御世に、『天平九年四月乙巳、伊勢神宮、大神社、筑紫の、住吉・八幡の二社、および、香椎宮へ、使いを遣わし、幣を奉り、新羅の無礼なありさまを告げた』とある。また、菩薩の号を、お唱えになることが、書へ見えるのは、大同三年七月丙申の、太政官符に、『国司に、八幡大菩薩宮の、雑物を出納させるべきこと。右、太宰府の解文を得たところ、太政官が、去る延暦十八年十一月五日の符へ、こう命じている。府の解文は、こう述べている。太政官が、去る年、十二月二十一日の符へ、こう命じている。大菩薩ならびに、比咩神の封戸、云々』とある。『類聚国史』へ、『天長六年五月丁酉、僧十人に、八幡大菩薩宮寺で、一切経を転読させた』とあることなどを、はじめとし、この後、もっぱら、菩薩の号を、お唱えになった。」――『八幡考』

そして、こういう。

「どれほど、仏道をお好みになるからといって、尊い大神を、菩薩と、お唱えになるとは、どうしたことであろう。そもそも、この大神は、特に、早くから、あれこれ、仏教風に、お扱いになるままで、鎮まっていらっしゃる。また、各国に、漏れなく、たいそう多くの場所へ、同じように祭られ、さらに、乱世の武士たちから、軍神として崇められるのも、たいそう不思議なことである。」――同上

こうして彼は、『神名帳』の頭注に、「八幡三所とは、一は八幡、二は比女神、三は大帯姫命である」とあることにより、八幡大神の祭神は、第一殿には、誉田天皇、つまり、応神天皇、第二殿には、比売神であり、田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命、つまり、いわゆる、宗像の三柱の神を祭るのである、とした。そして、第三殿には、大帯姫命、つまり、神功皇后を祭るのである、とした。

次に、信友による、稲荷神の考証を見ると、彼は、稲荷神は、もともと、一座であったものを、和銅以後、さらに、二座の神を、同じ山へ祭り、もとの神と合わせ、稲荷神社三座と称した、とした。天安元年のころから、朝廷へ認められ、久安年間のころから、五社となった、という。その祭神については、『神祇拾遺』に、

「本殿は、宇賀御魂。父は、地主、素盞嗚。母は、大山祇の娘、大市姫。また、豊宇気であるとの伝えもある。第二殿は、素盞嗚尊。第三殿は、大市姫。以上は、秘中の秘の、たいそう深い事柄である。田中社は、大己貴神。四大神は、五十猛命・大屋姫・抓津姫・事八十神。以上の二神を加え、五座と称する。――以上の二神とは、田中社、四大神を指して、申し上げるのである。――弘長三年に、告げがあり、文永丙寅正月十六日に、合わせて祭った。上・中・下の三社は、和銅四年二月戊午の日、三つの峰へ、出現されたのである」

といっているが、祭神については、まったく、信じがたい説であり、古い伝えへ、その証拠があることもなく、また、出現といった月日は、妄説である、と説いた。さらに彼は、仏教者が、布教のため、この稲荷神を利用したことを説いていう。

「昔、最澄・空海などの一派は、自分たちの仏道を、人へ信じさせ、世へ広めようとする計画によって、神へ、本地垂迹ということを立て、皇国の神々を、仏教風へ交え、引き入れようと構えた。その神々の故事、あるいは、お名前の縁語、また、その文字などへも、すがりつき、さまざまな、偽りの、こじつけの説を作り出し、世の人々を欺き、その神々の社司まで、欺いて引き込み、その説へ陥れた。そして、その偽りを覆い隠すため、神秘と称し、奥深く、奇妙らしくすることを、逃げどころとしていた。世の人々は、皆、その偽りの説を信じ、時代を経るほど、ますます、その類の妄説が、世へ、はびこったのである。」――『験の杉』

といい、さまざまな方面から、この稲荷神へ、こじつけの説を作り、仏教を広める手段へ役立てたことを、考証し、論破した。そして彼は、こういう。

「今、その諸説を合わせ、推し考え、まとめていうと、弘仁十四年、空海が、東寺を賜ったことによって、比叡山の延暦寺が、日吉神を鎮守としているのへ、ならい、早くから、三つの峰へ祭っていた伊奈利神を、自分の寺の鎮守にしよう、と企てた。そして、稲を担い、杉の葉を持った、老人が、老婆と、子を連れてきたところへ出会い、云々、と約束したのが、伊奈利神である、といった。そこで、三つの峰の、ふもとへ近い、藤尾の神社の地について、朝廷を、私的に説きつけ、峰の上の三社を、その地へ移し、その、老夫・老婆、また、その子を、三座へ割り当てた。社号を、伊奈利と称するのに、その老人が、稲を担っていた、と説いたことへ、こじつけ、強いて、「稲荷」の字を当てて書いたものが、公にも、用いられるようになってきたのであろう。こうして、その稲荷神の三座を、東寺の鎮守ということにし、毎年の祭りのとき、神輿を東寺へ迎え、いわゆる、中門の供御を奉る式も、定めたのである、と理解される。」――『験の杉』

といい、そして、稲荷神と狐との関係については、こういう。

「ある人は、空海が、幻術を行ったと聞こえることを論じ、狐使いという者のすることへ似ている、稲荷神へ、こじつけ、吒吉尼とかいう法によって、もっぱら、狐神を使ったのであろう、といった。空海は、釈迦が、教えを広めた、昔の知恵を、十分に悟っていたというから、そのような術も、行ったのであろう。そこで、なお、よく推し量ると、守覚法親王の『拾葉抄』に、『東寺の夜叉神の事。大師の御入定後、西御堂で、檜尾僧都、つまり、空海の弟子へ、お授けになった、数々の事がある。摩多羅神は、その一つである。大師はいう。この寺に、不思議な神がいる。名は、夜叉神。摩多羅神が、これである。これを持つ者へ、吉凶を告げる神である。その姿は、三面六臂。〈中略〉その三面とは、三天である。中の面は金色、左の面は白色、右の面は赤色である。中は聖天、左は吒吉尼、右は弁財天である。『天長御記』――淳和天皇の御記であろう――には、東寺に、守護天がある。稲荷明神の使者である。名は、大菩提心使者神である、とある』と、お記しになった。

空海が、入定後に授けた、というのは、信じがたい説であるが、そのような趣旨へ、いいなすことは、その一派の、いつもの話なので、責めるにも足りない。空海が、そのような神を設けておいたことは、実説であり、『天長御記』にも、そのように、お記しになったのであろう。また、『古今著聞集』に、『知足院殿は、望まれることがあり、大権坊という僧に、吒祇尼の法を行わせられたところ、狐が来て、供物を食べた。また、夢で、美女を引き留めようと、お取りつきになった髪が、切れたと、ご覧になり、目を覚まされたところ、お手元に、狐の尾があった、という、しるしがあって、翌日、望みが、かなえられた。やがて、その法を習い、ご自身で行われ、護法殿という所に、その狐の尾と、本尊もあったが、冷泉東洞院へ移られたとき、祠を構え、福天神と称して、お祭りになった。その社は、今もある、云々』とある。

また、京都のことを記した書へ、『福天神社は、今、一条北、堀川西に、福大明神としてある。稲荷の末社である。白狐社とも称する。白狐と書き、とうかと唱える』とある。このことも、合わせて考えるべきである。さて、その、真言宗の徒の密書といわれるものへ、『吒祇尼天の別号を、白晨狐王菩薩とも称し、稲荷の神体が、これである』とある。

先に、空海の事へ、かこつけて論じた、稲荷のことへ照らし合わせ、その、隠された言葉を、読み味わうと、彼が、稲荷と称して勧請したのも、もっぱら、狐神を設けた趣旨であろう。このことを、真の伊奈利神社へも、及ぼしたものと、理解される。そのわけは、稲荷の、もとの神のことを記した書物を考えると、『神名帳』の頭注に、『本社は、倉稲魂神である、云々。百穀をまく神である。そのため、稲荷と名づける』とある。また、『二十二社注式』にも、そのように記し、『一名は、豊宇気姫命。大和国の、広瀬大明神や、伊勢の外宮と、同体である。下社は命婦』といい、『色葉字類抄』には、中宮は命婦、とある。

また、建永元年の『明月記』には、『八月十六日、稲荷へ御幸。鳥居の内で、御禊。その後、入られ、奉幣。続いて、命婦へ御幣を奉った』と記されている。この命婦は、別の社のように、聞こえる。この御幸をされたのは、後鳥羽上皇でいらっしゃる。今、上社の右に、命婦社がある。白狐社ともいう。『豊葦原卜定記』という書に、『辰巳の方に当たって、倉稲魂の垂迹がある、云々』と記すのは、稲荷神社を指していっているのである。また、『神祇拾遺』に、『上は宇賀御魂、中は伊弉諾尊、下は伊弉冉尊。専女・三狐の由来によって、木の狐を、安置するのである』とある。また、『源氏物語河海抄』に、『伊賀・伊勢では、白狐を、専女御前という。稲荷の神前へ、白狐を置くのは、この、いわれである』とも見える。

こうして、また、稲荷神社の後ろの丘に、御倉神の社がある。この神は、伊勢太神宮の摂社にあり、『倭姫命世紀』の、内宮の条へ、『御倉神は、専女である。倭倉神が、これである』といい、『神名秘書』に、『御倉神は、宇賀之御魂神である。一名、専女、また、白狐と号する』とある。また、『倭姫命世紀』の、外宮の条へ、『調御倉神は、三狐神である。斎王の専女が、この、ゆかりである』といい、『神名秘書』にも、『倭姫命の御世に、また、号は、斎内親王専女神。この、ゆかりである』と見える。『鎮座伝記』にも、『御倉神は、宇賀美多麻神、名は、専女三狐神』などとある。また、大神宮禰宜の『類聚大補任』へ、『文永六年九月二十五日、云々、摂社は四宮。上宮、三狐神社、云々』と見える。

さらに、外宮禰宜、度会家章神主の本の『二所皇太神宮古老口実伝』へ、『多気の、神服機殿のほとりに、狐を祭る社がある。たびたび、出て、村里の人へ、あやしいわざをした。その村里の者は、このことを知り、その狐を打ち殺した、云々。村民は、敬い拝んだ。今の三狐神社が、これである』と見え、『類聚神祇本源』にも、『専女三狐神』などと見える。

これらの神名の説を、合わせて考えると、もとは、延暦の、豊受皇太神宮の『儀式帳』に見える、天照大御神が、豊受大神を、わが御饌津神、とおっしゃったこと、『日本書紀』の、神武巻で、諸神を、お祭りになる、厳瓮の根本の名を、厳稲魂女としたこと、また、『延喜式』の、大殿祭の祝詞へ、屋船豊宇気姫とあり、注に、これは稲の霊であり、俗に、宇賀能美多麻という、などと見える、古い事柄によったのである。倉稲魂神という神が、保食神の別名のように、通じていらっしゃることも取り合わせ、さらに、倉稲魂の、倉の字を取り、稲の倉という意味とし、その、伊呂具公が、稲や粟を積んだ、といった故事へ響かせた。また、御饌津というほうの神名へ合わせ、三狐神とも称し、狐を専女と呼ぶことによって、専女神とも称し、それによって、また、命婦とも称し、また、「宇賀之御魂神、一名、専女、また、白狐と号する」とまで、あからさまに、呼び変えることにも、なったのである。

そのもとは、伊奈利神が、お現れになったとき、稲が生じた、という故事を、根拠にして、空海が、稲を担い、杉を持った老人へ出会った、云々、といいなし、それを、伊奈利神として、字を「稲荷」と作り、その神は、すなわち、稲の霊、倉稲魂神である、と解釈し、東寺の鎮守と定めて祭り、その説を、もとの伊奈利神社へも、及ぼしたものである。最澄・空海などの一派が、神について付け加えた偽説は、すべて、このような趣旨であり、その説が、通りにくいところは、神秘である、とし、また、本地垂迹の説を作り、仏を、神の本地へ当てたのである。」――『験の杉』

このようなものが、信友の考証学の一端である。これによって、その考証が、どれほど、精密なところへ入るかを、見ることができる。信友は、古来、神道で重要視される、三種の神器について、古くからの疑問である、その順序へ、断定を与え、

「今ここで、大御神が、お授けになるときによっていえば、鏡が第一であることは、いうまでもない。次は剣、その次は玉であるべきだ。」――『神璽三弁』

といい、そして、知・仁・勇などへ、比べた説に対しては、

「この三種には、なお、さまざまな理屈を、大げさに説いた説が多いが、すべて、古代の精神ではない。」――同上

といった。信友の学説で、特に、注意しなければならないのは、卜占の研究である。彼は、こういう。

「卜占とは、この、現実の世の人が、あれこれ、心で決めにくいこと、また、吉凶の、あらゆることについて、目に見えない事柄が、何によるのか、誰のわざなのか、明らかには、わからないことがあるとき、すべて、自分の、こざかしい知恵を用いず、神へ祈り、ふとまにによって占い、その教えを受け、行うわざである。だから、実に、神事の大もとであり、たいそう、厳かで、尊い道なのである。神へ、お仕えすることについては、いうまでもない。上代には、天下をお治めになる、さまざまな政治へも、主として用い、世の人々も、それぞれの立場で用いたのである。したがって、身分の高い者も、低い者も、世の人々は、皆、神の道を受け、行おうとする者として、これへ頼らずには、いられない、わざなのである。」――『正卜考』

こうして彼は、大占を、神事の大もと、神道の肝要とし、『正卜考』三巻を著し、これを、考証・研究した。

以上、述べてきたところに、見られるように、信友の学説は、全体を通じ、考証的な色彩を帯び、一家の神道哲学を構成しようとすることは、彼の志ではなく、また、彼へ期待できることでもない。彼の、一生の研究は、要するに、材料を集めることに、すぎなかった。それでも、この点で、一代の学者という資格を、失わなかったのである。

第八十五節 学派系統表

以上、述べてきた、宣長の学派を、表へ示そう。

荷田春満から賀茂真淵を経た学派の系統。
学派系統表(1) 原典の図版

荷田春満。荷田在満、荷田御風、荷田惟得。荷田蒼生子、荷田直子、平胤満、藤原暉昌、芝崎好紀、賀茂真淵。加藤枝直、加藤千蔭、藤原宇万伎、上田秋成。村田春道、村田春卿、清水浜臣、前田夏蔭。川津長夫、小林歌城。村田春海、小山田与清。

本居宣長とその門派の系統。
学派系統表(2) 原典の図版

楫取魚彦、荒木田久老、荒木田久守、本居宣長、塙保己一。本居春庭、鬼島広蔭、堀秀成。稲掛棟隆、須賀直見、本居大平。加納諸平、落合直澄。足代弘訓、佐々木弘綱、佐々木信綱、東久世通禧。中島広足、保田光則、本居内遠、本居豊穎。久米幹文、小中村清矩、千家尊澄。三井高蔭、服部中庸、植松有信、植松茂岳、藤井高尚、殿村安守、殿村常久。

宣長の門派の続きと平田篤胤の学派。
学派系統表(3) 原典の図版

城戸千楯、橋本稲彦、渡辺重名、上田百樹、和泉真国、斎藤彦麿、鈴木朖、村田春門、千家俊信、伴信友、平田篤胤。大国隆正、鈴木重胤、福羽美静。佐藤信淵、六人部是香、平田鉄胤、平田延胤、平田盛胤。生田国秀、権田直助、飯田武卿、丸山作楽、角田忠行、井上頼国、渡辺重石丸、神田息胤。

この表の中には、なお、列記すべき学者が、少なくない。今は、ただ、本居宣長の学派の、おおよそを示しただけである。

本居大人が、お亡くなりになったと聞いて――伴信友

風の便りのように、遠くから聞き、鈴の屋の大人を、鳥が鳴く、東の、この大江戸から、お慕い申し上げ、あらたまの、月日を経たけれども、幾重もの山が重なる道は、はるか遠く、離れているので、心だけが、空へ通い、曇った夜のように、さまよっていた。玉梓の、便りへ託し、むらきもの、赤いまごころを、言い寄せ、大人の教えを受ける、学びの集いの、一人へ加えられたので、口へかけるのも、たいそう、恐れ多い、天皇の、大きな御国へ、生まれ出た、かいもあることよ、と、無礼にも、恐れ多いながら、大船のように、思い頼ろうと、そればかり、考えていた。九月、時雨の秋の、もみじ葉のように、お亡くなりになった、と、風の便りのように、遠くから聞き、いうすべも、するすべも、わからず、解く衣のように、思いが乱れ、悲しいことである。

訳注

歌の二箇所で「風の音の」に続く語は「とほさ」と採読したが、初字が不鮮明で確定できない。「遠くから聞き」という訳も暫定の解釈である。

反歌

鈴の屋の、さく鈴の緒を、振り捨てて、亡くなられた君は、慕わしいことよ。

第五編 統括

第二十章 宣長学の反動

第八十六節 反動の傾向

すでに述べたように、宣長は、春満・真淵の後を受け継ぎ、一家の学風を盛り立てた。そこで、これへ賛成し、崇拝する者もいれば、これへ反対し、誹謗する者もいた。崇拝する者は、競って、その学問を奉じ、あるいは、言葉で、あるいは、著書によって、その学説を伝え述べた。これは、すでに、学派の編で述べたとおりである。誹謗した者も、また、書を著したり、言葉によったりして、彼の学説や態度を攻撃した。

もともと宣長は、力の限り、儒教をののしり、聖人を賊とし、その道を、異民族の道とした。また、仏教を嘲り、道教を排斥した。したがって、これらの信徒から反抗されたことは、もとより、不思議ではない。しかし、同じく、国学者と呼ばれる者からまで、反抗されたとなると、私は、その理由を、不思議に思わざるを得ない。これは、学者の偏狭によるものなのか、そうではないのか。宣長の学説を明らかにするため、こうした、彼の学説への反動について、少し述べなければならない。

第八十七節 国学者の反動

いわゆる国学者の中で、宣長の学説へ反対した者については、まず、村田春海を挙げなければならない。春海は、すでに述べたように、真淵門下の俊才で、宣長と同門であった。しかし、もともと、真淵の古道の教えへ反対していたので、おのずと、宣長の古道説へも反対した。第二十六節および第三十節を参照されたい。すなわち彼は、「鈴の屋の翁は、これほど優れた人であるのに、また、たいそう偏ったことも多いのは、惜しむべきことである」といい、さらに、こういう。

「わが国の古代の道である、などと、いかめしく、言い続けることがあるのも、たいそう、理解しにくいことです。そのようなことをいうにつけて、聖人の道も、仏の法も、口悪く、けなすなどするのは、たいそう、あってはならないことと思われます。」――『琴後集』

こうして彼は、「日本には、もとから、道というものはない。本居が、道、道というのは、すべて杜撰であり、『直毘霊』などという書物は、特に、妄説のはなはだしいものである」と論じた。春海は、すでに、師、真淵の説を信じなかった。したがって、彼が、宣長の学説を罵倒したのは、必ずしも、不思議ではない。ただ、私は、春海が、このような思想を持ちながら、宣長へは、「まことに、千古の盛事であり、末流の春海などまでも、おかげで、光栄を得た心持ちで、愉快に思います」などと、表面上、宣長へ敬服した、その心を、不思議に思うだけである。

次に、宣長の学説へ反対したのは、平田篤胤の『霊能真柱』をののしり、「撃つ音に驚く、人の愚かさよ、空鉄砲の、玉の真柱」と詠んだ、石川雅望である。雅望は、江戸、小伝馬町の人で、通称を五郎兵衛、字を子明といい、五郎斎・逆旅主人・六樹園などと号した。父は、糠屋七兵衛といい、旅人宿を営んだ。伝には、こうある。

「落書風の狂歌を好まれ、初め、小島温之へ従い、後に、太田南畝、つまり、蜀山人について、互いに問いただした。また、古屋昔陽を師とし、学問へ励み、最も、『源氏物語』を好まれ、著書の『源注余滴』『雅言集覧』などを、得意の著述とした。特に、和文をよく書かれ、一句でも、出典のないものは、まったく、採られなかったという。」――『古学小伝』

雅望は、こうして、国学者の一人と見なされるが、その主とするところは、純文学にあった。宣長が亡くなった年から、二十九年後の、文政十三年、七十八歳で亡くなった。

雅望は、宣長が、災いは、禍津日神に基づくとしたことを、舎人親王も、安万侶も、知らないことである、として嘆き、また、宣長が、儒教を排斥し、孔子を攻撃したことを、激しく非難した。このように、見解が違っていたので、雅望は、その著書『寝覚のすさび』で、

「『真暦考』『玉くしげ』『玉勝間』などという書物には、読むに堪えない、偏った説が多い。私の子孫となる者たちは、決して、このような説へ惑わされてはならない。」

とまでいった。晩年には、やや、その態度を改めたようであるが、要するに彼は、宣長の古道説へ、満足しなかったのである。

著名な国学者で、なお、宣長へ反抗した者がいる。小山田与清のような人が、それである。与清は、武蔵の人で、通称を寅吉、また、寅之助・庄次郎・六郎右衛門などと称した。字を文儒、号を、薬山堂・玉河亭・松屋といい、別号を、報国恩舎・知非斎ともいった。父は本孝、母は平戸氏である。宣長が亡くなった、享和元年に、村田春海の門へ入った。第三十節を参照されたい。時に、十九歳であった。それ以来、長年、研鑽し、堂々たる、一人の大家となった。弘化四年、亡くなった。六十五歳であった。与清の反対は、要するに、師、春海の意見を、伝え述べたにすぎない。したがって彼は、

「古くから、神道という名があり、『古語拾遺』『儀式帳』『神祇式』などは、神のことを、主として記したが、ただ、祭り敬う礼だけであり、儒教・仏教のような、風化・風教の道ではない。今の、古学神道の者は、宣長を尊び信じ、偏屈で、強情であり、大いに、風俗を妨げることがある。」――『松屋筆記』

といい、国学者の中へ、その名を列するものの、春海と同じく、道は、聖人の道と、釈迦の教えであり、わが国に固有の道というものはない、とした。

宣長へ反対した国学者として、なお、注意すべきなのは、橘守部である。守部は、通称を元輔といい、池庵と号した。伊勢の人で、早く、江戸へ出て、盛んに、国学を唱えた。当時の人々は、伴信友・平田篤胤・香川景樹と合わせ、天保の四大家と称した。嘉永二年、亡くなった。六十九歳であった。守部の、宣長と異なる学説の一端は、すでに、本書の本論で述べたので、ここでは、ただ、『古学小伝』が記すところを挙げよう。こういう。

「もとから、見解が異なり、鈴屋翁の説くことと、矛盾して、一家を成した。大意は、幽冥の説を主張し、災いも幸いも、すべて、天照大御神が、与え、奪われるものとした。鈴屋翁が、産霊の二神は、造化の主である、といった説を採らず、造化の主は、素盞男尊である、とし、また、外宮の祭神は、豊受姫神である、という説に対し、『倭姫世紀』などの古記を助けとして、国常立尊であるとした類など、すべて、宣長と相反した。」

これによって、宣長と、その説が、どれほど異なるかを、見ることができる。

第八十八節 異学者の反動

国学者で、すでに、宣長へ反対する者がいたことは、以上のとおりである。他の学派の者たちに、反対する者がいたことは、もとより、不思議ではない。宣長が亡くなる、六年前に、すでに亡くなった、市川鶴鳴のような人は、時代の上で、その先駆者といえるだろうか。鶴鳴は、儒者として、当時、名があった。『万我能比礼』という書を著し、激しく、真淵・宣長の説へ反対した。当時、宣長は健在で、盛んに、著述していたときだったので、すぐに、『葛花』を著し、これを反駁した。こういう。

訳注

市川の名の後字は本書の各出現箇所で判読を留保している。ここでも確認できる号「鶴鳴」を用い、名の漢字を推定して補っていない。

「ある人が、『まがのひれ』という書を作り、私が著した、道の論へ、難じた。その書の大意を考えると、この人は、少しは、皇朝の学問を好むようには見えるが、儒者として、長年、ただ、中国の聖人の道ばかりを、尊いものと、思い慣れてきた。そのため、皇国の古代も、ただ、その、中国の考え方で、決めようとする心へ、私がいった趣旨が、ひどく異なり、その、聖人の悪いことを論じたりしたのを見て、大いに怒った心から、書き出したものである。そもそも、天下の学者は、千余年、その、漢籍という毒酒を飲み、その文辞の、口に甘美なことへ、ふけり、誰も、皆、酔い乱れたことを、自分では、気づいていない。たまたま、直毘神の御霊によって、覚めた人がいて、これを諭しても、なお、自分は酔っていない、とばかりいい、ますます、狂った言葉を放ち、少し、覚めようとする人へも、なお、その毒酒を強い、飲ませ、ますます、酔い乱れさせる、悲しさよ。見るに堪えないので、かつて、覚めよと、摘んで持ってきたのが、この『葛花』である。」――『葛花』

鶴鳴の反対説が、どのようなものであったかは、本書の本論で、あちこちに述べたので、ここでは、述べることを省こう。ただ、一言でいえば、宣長らの主張は、老子・荘子の説である、とし、儒教の立場へ拠り、これを攻撃したのである。その説には、偏見が少なくないとはいえ、国学者にとっても、他山の石として、自らを磨くべきところが、ないわけではない。しかし、宣長は、徹底して、これを排斥し、さらに、力の限り、儒教を攻撃した。『葛花』ができたのは、鶴鳴が亡くなる、十五年前であるが、鶴鳴は、特に、これへ、さらに反駁することは、なかったようである。

後年、阿波の人、伊勢茂美は、『非葛花』を著し、水戸の人、会沢正志は、『読葛花』を選述し、どちらも、これへ反対した。『非葛花』には、こうある。

「そもそも、神道は、本邦の道として、代々の神道者が、『日本紀』の神代巻を、根本とすることは、古くから、そうであった。近ごろ、伊勢国へ、本居宣長という者がいて、新奇な説を起こし、神代巻は、舎人親王が、漢学の力によって、撰述された書物なので、文章も言葉も、中国風の飾りを加えられたものである、として、間違いとし、採らない。太安万侶の『古事記』を根本に、一派の神道とする。異国を、特に忌み嫌い、聖人を、仇敵のように憎む。この人は、悪知恵や、へつらいの弁が、人より優れ、もっぱら、力を国学へ注ぎ、筆の回るまま、よくも、巧みに、書き曲げた。しかし、信義へ乏しく、正しいことを誤りとし、誤りを正しいとする説が少なくなく、虚偽の説が多い。私は、もとより、狭く、浅い才能で、また、筆も回らないが、大いに書き曲げた、虚偽の説を見て、黙っていられない。国史へ見える、実際の事柄へ照らし合わせ、明らかに、その、でたらめな証拠を挙げ、その説を信じる惑いを諭し、子孫や近親が、異なる道へ陥ることを恐れ、家訓として残したいので、その大きなもの、一、二を論じる。残りは、論じるまでもなく、これへ準じて、知るべきである。」

その論旨は、宣長らが、「古くから、わが国には、固有の神道があり、異国の道を必要としない」とし、大いに、儒教を排斥するが、もともと、

「異国の道と考えることが、根本の誤りである。道には、異国の道、わが国の道と、二つの道はない。今日、人々が、頭上へいただく、天の道であり、宇宙の間、どこまでも、一つの道である。そのため、垂加翁は、『宇宙は、ただ、一つの理である』と、おっしゃった。」――『非葛花』

というところにあり、要するに、山崎闇斎の思想を受け継ぎ、神儒一致の説を奉じ、それによって、宣長の説を反駁したのである。しかし、この論のようなものは、道の一面を見て、もう一方の面を見られないものである。その他の論も、ほとんど、注目に値するものはない。

水戸の人、藤田東湖は、諱を彪といった。藩祖、光圀の主義を守り、父、幽谷の遺教を奉じ、水戸流の神道を、広く明らかにすることへ努め、また、宣長の学説へ反対した。こういう。

「近世、古学を唱える者は、古い言葉を、入り組ませ、古い事柄を、広く集め、考証の力へ努めた、といえる。しかし、その道を論じるとなると、天下の、吉凶・禍福を、すべて、直毘・禍津日の二神へ託し、清浄・自然を、人道の極致とする。その言葉は、ずいぶん、弁に富むが、要するに、すべて、老子・荘子の、残りかすである。その徒も、また、自分たちの説が、老子・荘子へ似ることを嫌い、『老子・荘子のいう自然は、なお、聖人の道へ、おぼれることを免れない。私たちのいう自然は、すべて、神意へ基づく』という。ただ、その弊害が、必ず、自分の思いのままに、私的な知恵を、たくましくし、かたくなで、身勝手になり、自分を喜ぶに至ることを、知らないだけである。」――『弘道館記述義』

このように、宣長らの努めるところは、私的な知恵で、神代を推し量るものとし、その学問を排斥した。

会沢正志に至っては、特に、書を著し、堂々と、宣長の説へ反駁し、論じた。正志は、東湖と並び、水戸派の、優れた学者であるが、世間は、東湖ほど、彼を知らない。正志は、名を安、字を伯民、通称を恒蔵といい、正志斎と号した。宣長が亡くなった当時、ちょうど、成人へ達していた。生まれつき、学問を好み、東湖の父、幽谷の門へ入り、その優れた弟子であった。彰考館の写字生から身を起こし、ついに、彰考館総裁となり、後、さまざまな職を歴任した。常に、東湖らと、国事へ奔走し、文久三年、亡くなった。八十二歳であった。著書には、『孝経考』一巻、『読直毘霊』一巻、『読葛花』一巻、『新論』二巻、『正志斎雑録』一巻などがある。

彼は、いつも、水戸流の神道を信奉した。その説に、こういう。

「そもそも、天地が分かれ、初めて、人々が生じて以来、天の血統が、四海へ君臨し、一つの姓が、代々、明らかに続き、まだ、一人も、あえて、天皇の位を、うかがう者がなく、今日へ至ったことは、どうして、偶然であろうか。君臣の義は、天地の大義であり、父子の親しみは、天下の、至上の恩である。義の大きいものと、恩の深いものとが、天地の間へ並び立ち、しだいに、浸透し、積み重なり、人心へ染み込み、久しく変わらない。これは、帝王が、天地を治め、億万の民を、統べるための、大きなよりどころである。昔、天祖は、初めて、大きな基をお建てになった。位は、天の位、徳は、天の徳であり、それによって、天の業を治められた。大小の事、一つとして、天でないものはない。徳を玉へ比べ、明を鏡へ比べ、威を剣へ比べ、天の仁を体し、天の明へ、のっとり、天の威を奮い、それによって、万国へ、光をもって臨まれた。」――『新論』

そして、こういう。

「神聖な方々は、すでに、神道によって、教えを設けられた。民の心を、集め、収めるためのものは、もっぱら、一つの根源から出る。もとから、定まった規則があり、天へ仕え、祖先を祭る心を、後世へ伝える。民は、根本へ報い、始めへ返る道理を知る。」――同上

こうして彼は、堯・舜・周公・孔子の道は、天祖の、変わらない教えと、大いに同じである、と説いた。そのためか、彼は、仏教をののしり、「神明の国を変え、インドの国とし、中原の民を追い立て、西の異民族へ属する者とする」といった。また、儒仏的な神道を嘲り、「儒教・仏教を盗み取り、その言葉を飾り、それによって、口を養う、手だてとする」といい、そして、わが宣長を攻撃しては、こういう。

「本居翁は、数千年後へ生まれ、開闢以来、一人も、いったことのない、根拠のない妄説を作り出し、数千年、知る者がなく、これを知ったのは、自分一人だけであった、と思うのか。それなら、開闢以来、天地は、暗夜であり、本居へ至り、初めて、明らかになった、というのか。数千年、本居の道がなくても、世の道や、人心に、一つも、欠けたことはなかったのに、今、新たに、一つの道を作り出し、何の役へ立てようというのか。上古から、人々が、離れられなかったものは、天下の公道である。古くから、知る者がなく、これを離れていても、害がなかったものを、ひとり、知恵で作り出し、数千年の公道へ相反するのは、一個人の、私的な言葉である。」――『読直日霊』

宣長は、力の限り、儒教を排斥した者であり、正志は、神儒一致を説き、大いに、堯・舜・周公・孔子を尊敬し、伝え述べた者である。その説が一致しないのは、もとより、当然である。

宣長へ反対した者の中で、特に著しいのは、上野の人、沼田順義である。順義は、『国意考弁妄』を著し、激しく、真淵へ反対した。金子祐倫は、その書へ序し、こういった。

「近世、一種の国学者がおり、儒教をそしり、聖人をののしり、仏を欺く。特に、神道を、偏って解釈し、兄弟や、叔父と姪との、乱れた婚姻を、皇国の道とするに至る。偽りで、妄りで、狂い乱れていることを、誰が、知らないであろうか。賀茂真淵は、実に、その、悪の首領である。次いで、本居宣長は、才を頼み、古い言葉へ通じると称し、虚名は、一時、騒がれたが、真淵の、古い習わしの穴蔵を、抜け出せない。ただ、その尾へ付き、しゃべっているだけである。」

これによって、その内容を、察することができる。順義は、さらに、『級長戸の風』三巻を著し、宣長へ反対し、同時に、市川鶴鳴へも反対した。刑山魚澄璞も、また、これへ序し、こういった。

「上野の、沼田楽水子は、医術によって、知られる。その、起死回生の術については、もとより、論じるまでもない。広く学び、よく記憶し、日本と中国の書を読み、古今を網羅する。かつて、宣長の書を読み、その、道を欺き、聖人を、はなはだしく、そしることへ、深く憤り、腕を握り、歯を食いしばり、袖をまくって立ち、その妄りを論じ、その邪を正し、その蒙昧を啓き、その頑迷を砕く。激しく、痛快である、云々。宣長の徒は、誰が、恐れ服さずにいられようか。」

『級長戸の風』の学説については、すでに、本書の本論で、たびたび、引用したので、ここで、重ねて述べることはしない。しかし、要するに、その説は、儒教の立場へ拠り、宣長の学説を攻撃したものにすぎない。そして、その攻撃は、しばしば、論理の整合性を失い、また、極端へ走る弊害がある。

これに対し、菅原定理という者がいて、『花能志賀良美』を著し、さらに、反駁を加えた。こういう。

「おおよそ、人の身が、穏やかでないのは、病気へ侵されるだけではない。学問の道を、邪な方向へ誘われることも、多くは、身を誤らせ、その邪気を、また、他人へも及ぼすようである。この書の一名を、『妙ふり出し』ともいうのは、『級長戸風』という書の風気を、受けさせないために、作った書だからである。そもそも、伊勢国の、山室山へ鎮座する、桜根大人は、千余年以来、仏教と漢学とが、はびこり、その弊害が、しきりに生じてきたことを、嘆かれ、国のため、人のため、あらゆる古い事柄の、隠れたものを明らかにし、曲がったものを正された。

次に、世の人々が、長く、惑い、おぼれてきた、あの、外国の、道々しい言葉を、あれこれ論じられた。その、外国の道へ、たいそう、惑っている者たちが、新しく聞き、憤る者もある中で、市川鶴鳴という人は、『万我乃比礼』という書を作り、桜根大人の『直毘霊』を誹謗した。その言葉は、大人へ対して、無礼なだけでなく、たいそう、かたくなで、不敬である。大人は、憎みも、憐れみもなさる心から、『葛花』という書を、お作りになった。その、市川氏の言葉の、無礼さへ対して、荒々しく、いい示されたところもあるのを、また、ほかの儒者などが見て、自分たちの仏のように、尊んでいる、聖人という者を、強く、けなされる、と、心得違いをしたのであろうか。その徒と、同じ類の、沼田順義という人が、『級長戸風』という書を、このごろ作り出し、その『万我乃比礼』の、やり方へ、ならい、桜根大人の説を、打ち消し申し上げようとする。

原注

ここで、不敬とは、桜木大人へ、不敬を働いたことを、いうのではない。神と君主とへ対して、不敬であることを、いうのである。

また、その『級長戸風』が、まだ、吹き出す前にも、西の異民族の風の邪気へ侵され、寒熱の往来へ心を乱し、さまざまな、たわごとを、言い散らした人も、多かったが、今も、なお、たいそう、のぼせ上がった、難症の人がいるなら、大平大人、篤胤大人などのような、良医の加減によらなければ、治りにくいであろう。

原注

この類として、荻生氏、太宰氏、村田春海などを指す。

その『級長戸風』のようなものは、たいしたことでもないので、そのままでも、よいのであろうが、それもまた、悪い病の類で、少し触れた人でも、余病が加わり、あるいは、持病となり、ときどき起こり、あるいは、慢性の病となり、治りにくくなることも、あるだろう。だから、まだ、根深くならないうちに、まず、手に入れやすい、この、『花のしがらみ』の、妙ふり出しを、一度服し、速やかに、『級長戸風』の邪気を、払うべきである。時は、天保九年という年の、四月の初めごろ。」――『花能志賀羅美』

こうして、「沼田は、皇国を軽んじ、外国と同じものとし、神の道を疑い、聖人の道へ準じさせるのは、恐ろしい妄説ではないか」といい、また、「沼田の説は、前後のそろわない、偽りである」といい、激しく、その説を反駁した。豊前の人、原田重枝も、『伽倍者逆風』を著し、順義の説を論駁した。こういう。

「そもそも、沼田氏は、魯の孔丘の学問によって、逆らう企てをし、皇国の道を、偽っている。孔丘は、聖人である。皇国へいながら、皇国をそしることを、どうして、孔丘が教えようか。これは、ただ、沼田氏の徒の風にすぎない。」

このような論駁に対し、楽水の一派も、黙っていなかった。静斎義雄が、立ち上がり、『伽倍志廼風弁妄』一部を著し、これへ応戦した。その中に、こういう。

「宣長も、重枝殿も、皇国へは、道もなく、教えもない、という邪説を、偽って、いい張り、異腹の兄弟、叔父と姪との婚姻も、差し支えない、というのは、自ら、皇国を、おとしめたのである。これに勝る、不忠があろうか。」

その論調は、要するに、このようなものであり、ここへ、さらに述べる必要はない。儒学系の反対者には、なお、一人、無名の学者がいた。『駁本居翁書』というものを著し、また、宣長の学説へ反対した。その中に、こういう。

「そもそも、宣長は、ただ、国史・記録・古歌などを、雑多に、覚え込んだだけである。その人柄は、実に、一人の、愚かで、鈍い男であり、その、高慢で不遜なこと、聖人をそしり、法を侮る罪は、さらに、真淵を超えている。その『古事記伝』数十巻を、半生の力を尽くして選んだことも、わずかに、古い言葉の読みを、くどくどと説き、神社や地名の所在を、大げさに考え、古歌・古記などを、煩わしく引用しただけで、その章の大意は、まったく、一箇所も、明らかにした見解がない。先人から伝わった古い注へ、少しでも、道理や意義へ関わる説があれば、すべて、中国風の考えが、汚く、うるさい、などと、ことごとく、ののしる。結局、その理屈は、すべて、神のおわざであり、たいそう、霊妙で、不思議なものなので、凡人の、限りある知恵では、推し量り、知れる範囲ではない、というほかにない。ときどき、知ったような顔で、長々と論じたことも、また、愚か者が、夢を説く類であり、すべて、無益な、余計な言葉ばかりである。」

これに対しては、大国隆正がいた。『憐駁者』を著し、激しく、これを攻撃した。隆正のことは、『平田篤胤之哲学』へ載せてある。彼はいう。

「ある儒生が、外国の聖賢を、むなしく褒め上げるあまり、『駁本居翁書』と題する書を書き、日本の神代の、古い伝説を軽んじた。門人、鈴木重胤は、これへ憤り、論じることを請うた。世には、このように、惑った人が多いように思われるので、そうした人々へも、見せたいと思い、重胤の願いへ任せたのが、この『憐駁者』である。」

このように、隆正は、この書で、儒教を排斥し、反駁者を論難した。他の学派の者による反対について、最後に記すべきなのは、沙門、密成僧敏である。彼はいう。

「今、宣長を、全体として評すると、たとえば、宋の王安石が、政治の権力を握ると、ほかの賢者を用いず、もっぱら、私的な知恵を、たくましくし、新法を行い、これによって、国は衰え、帝位は傾き、民は逃れた、というようなものである。これは、神道の、純粋な真意を失い、妄説の端が多いため、学者は、ただ、残りかすが存在することを、知るだけなのである。」――『神道異説弁』

といい、宣長の、仏教を排斥することをののしり、ついには、こういった。

「実に、神道は、その趣旨が、奥深く、はかりがたい。宣長の、平凡な知恵が、どうして、ここへ及ぼうか。」――同上

と、声を張り上げた。

以上、述べてきたように、宣長が、ひとたび立ち、大いに、日本固有の神道を唱えると、その説は、時に、極端へ走り、反対者へ、つけ入るすきを与えた。ここに、学界へ、竜が躍り、虎がうなり、天を驚かせ、地を動かすほどの活劇を、生じさせた。そして、宣長の説は、宣長を崇拝する者がいうように、すべて正しいわけではない。反対者の説も、宣長を崇拝する者がいうように、すべて誤りではない。要するに、このような葛藤の間で、学術は、おのずと進歩し、日本固有の大道も、大きく進歩できた、といえる。私は、ここで、ますます、宣長の偉大さを見る。反対者の、悪口雑言のようなものに至っては、その人の品性の下劣さを、示すだけであり、君子が、くみするところではない。

本居大平。素直な大和心で、学ぶならば、神の、まことの道を、得られるであろう。

第二十一章 諸家との比較

第八十九節 学統諸家との比較

ここでは、宣長の学説と、その学祖、春満、学父、真淵、学派の篤胤らの学説との、共通点と相違点を、比較し、対照しよう。

春満の学説との比較

春満

春満は、多くの力を、言葉の解釈へ用いる。

宣長

宣長は、多くの力を、神道の発揚へ用いる。

春満

道において、まごころを尊ぶ。

宣長

宣長も、これを尊重する。

春満

儒教・仏教を異端とし、排斥へ努める。

宣長

宣長も、これへ努める。

春満

著書の多くは、未定稿で終わる。

宣長

宣長は、多くを完成させた。

真淵の学説との比較

真淵

真淵は、天地創造説を立てない。

宣長

宣長は、大いに、天地創造説を説いた。

真淵

神道を、最も優れた道とする。

宣長

宣長も、そのようにする。

真淵

武を尊ぶ論を主張する。

宣長

宣長は、むしろ、文芸を重んじる。

真淵

道において、まごころを尊ぶ。

宣長

宣長も、これを尊重する。

真淵

大いに、儒教・仏教を排斥する。

宣長

宣長も、これらを排斥する。

真淵

その説は、玄道へ依拠したところがある。

宣長

宣長も、これによって、自説を立てたところが多い。

真淵

明らかに、玄道と通じる、と宣言する。

宣長

宣長は、玄道とは異なる、と主張する。

真淵

日常の言動が、古風であるように努める。

宣長

宣長は、必ずしも、そうではない。

篤胤の学説との比較

篤胤

篤胤は、神による天地創造を説く。

宣長

宣長は、それ以前に、すでに、これを説いた。

篤胤

高天原を、北極の上空、または、太陽とする。

宣長

宣長は、これを、虚空の上の国とする。

篤胤

夜見国を、月とする。

宣長

宣長は、これを、黄泉と同一視する。

篤胤

霊魂の、未来の生活を説く。

宣長

宣長は、ほとんど、これを説くに至らない。

篤胤

惟神を、道の根底とする。

宣長

宣長は、それ以前に、すでに、これを主張した。

篤胤

まごころを、行為の標準とする。

宣長

宣長は、それ以前に、すでに、これを標準とした。

篤胤

理を究めることを重んじた。

宣長

宣長は、これを、まったく排斥する。

篤胤

神代文字の存在を主張する。

宣長

宣長は、その存在説を採らない。

篤胤

文芸を軽視した。

宣長

宣長は、これを重要視する。

篤胤

儒仏による神道と、儒教・仏教を、深く研究した。

宣長

宣長は、儒教以外には、深く、他の学問を考究しない。

篤胤

儒仏による神道を排斥した。

宣長

宣長も、これを排斥した。

篤胤

力の限り、仏教を排斥する。

宣長

宣長は、その排斥へ、力を用いない。

篤胤

儒教を排斥する。

宣長

宣長は、大いに、その排斥へ努める。

篤胤

自説は、玄道と一致する、と説く。

宣長

宣長は、これも、排斥した。

第九十節 異派神道との比較

次に、神道諸派との、共通点と相違点を比較しよう。

両部神道との比較

両部神道

仏を本地とし、神を垂迹とする。

宣長

宣長は、神を根本とする。

両部神道

阿字真如を、最高の原理とする。

宣長

宣長は、これを、無用な、むなしい事柄とする。

両部神道

奥深く、はかりがたい哲理を説く。

宣長

宣長は、実践道徳を主とする。

両部神道

宗教的な信仰を、盛んに説く。

宣長

宣長は、必ずしも、そうではない。

両部神道

伝説を、多く、仏教へ、こじつける。

宣長

宣長は、努めて、これを、古い伝えのままに解釈する。

唯一神道との比較

唯一神道

『旧事記』を尊重する。

宣長

宣長は、これを偽書として、採らない。

唯一神道

仏教を採り、自説を立てる。

宣長

宣長は、これを、まったく採らない。

唯一神道

加持・護摩などの儀式を行う。

宣長

宣長は、このような儀式を採らない。

唯一神道

説くところは、両部神道へ近く、宗教的である。

宣長

宣長の説くところは、終始、学者としてのものである。

吉川流神道との比較

吉川流神道

陰陽五行によって、その説を立てる。

宣長

宣長は、これを、妄論、こじつけとする。

吉川流神道

一心が清浄であれば、私は、そのまま、神である、と説く。

宣長

宣長は、神を、実在するものとする。

吉川流神道

天御中主神を、先天的な、自分の性の神とする。

宣長

宣長は、性を、まごころとし、神とはしない。

吉川流神道

高天原は、胸中にあるとする。

宣長

宣長は、これを、天上の国とする。

伊勢流神道との比較

伊勢流神道

主として、儒教、特に、『易』へ依拠する。

宣長

宣長は、力の限り、儒教を退ける。

伊勢流神道

五部書を、典拠とする。

宣長

宣長は、五部書を、偽書とする。

伊勢流神道

盛んに、神の奇跡を説く。

宣長

宣長は、あまり、後世の奇跡を語らない。

伊勢流神道

中極の道を、神道とする。

宣長

宣長は、まごころを、神道の根底とする。

伊勢流神道

三種の神器を、三徳へ比べる。

宣長

宣長は、あまり、これを語らない。

伊勢流神道

仏教を排斥する。

宣長

宣長も、これを排斥する。

伊勢流神道

幾重もの、秘伝・奥義があるとする。

宣長

宣長は、何の秘伝もない、とする。

垂加神道との比較

垂加神道

天と人とは、ただ一つの理である、と説く。

宣長

宣長は、天は、天の国であり、人と同一ではない、とする。

垂加神道

土金の教えを、主要なものとする。

宣長

宣長は、これを、妄説とする。

垂加神道

儒教と神道とは、一致するとする。

宣長

宣長は、儒教を、臆説・空理とする。

垂加神道

神典を説き、和歌を顧みない。

宣長

宣長は、神典と歌学とは、密接で、離せないものとする。

垂加神道

神道へ、秘伝があるとする。

宣長

宣長は、自由に討究する傾向を取る。

水戸流神道との比較

水戸流神道

大義名分を正すことを、主とする。

宣長

宣長も、この点へ、心を用いる。

水戸流神道

万国を、神州の枝葉とする。

宣長

宣長は、日本を、万国の宗とする。

水戸流神道

歴史的な見地へ立つ。

宣長

宣長は、神秘的な見地へ立つ。

水戸流神道

儒教を採り、神を敬い、儒教を尊び、偏りはない、とする。

宣長

宣長は、力の限り、儒教を排斥する。

水戸流神道

仏教を、異民族の道として、排斥する。

宣長

宣長も、これを排斥する。

水戸流神道

キリスト教を排斥する。

宣長

宣長も、これを排斥する。

水戸流神道

俗神道を、儒教・仏教を盗み取り、それによって言葉を飾り、口を養うものとして、排斥する。

宣長

宣長も、これを排斥する。

第九十一節 他の宗教哲学との比較

儒教との比較

儒教

太古のことは、省くのを常とする。

宣長

宣長は、太古のことを主とする。

儒教

堯・舜・禹・湯・文王・武王を、先王・聖人とする。

宣長

宣長は、これらを賊とする。

儒教

多くは、放伐の行為を語らない。

宣長

宣長は、たびたび、これを非難する。

儒教

鬼神は存在しない、と主張する者が多い。

宣長

宣長は、鬼神は存在する、と信じる。

儒教

孝を、すべての行いの根本とする。

宣長

宣長は、忠を根本とする。

儒教

政治と道徳とを、同一視する。

宣長

宣長も、この点では、そうする。

儒教

天命を説く。

宣長

宣長は、天命説を排斥する。

儒教

祖先を祭るべきことを説く。

宣長

宣長も、厚く、祖先を祭ることを主張する。

儒教

朱子学者は、理を究める傾向へ走る。

宣長

宣長は、努めて、これを排斥する。

儒教

古学は、事実を重んじる。

宣長

宣長も、これを重んじる。

仏教との比較

仏教

仏陀を尊ぶ。

宣長

宣長は、これを退け、神を尊ぶ。

仏教

その教義を、宇宙の真理とする。

宣長

宣長は、これを、人の、妄りな創作とする。

仏教

迷いを転じ、悟りを開くことを、肝要とする。

宣長

宣長は、これを、無用な空論とする。

仏教

真如を体得することへ努める。

宣長

宣長は、これを、むなしい事柄とする。

仏教

しきりに、未来について語る。

宣長

宣長は、現在を重んじ、あまり、未来を語らない。

老子との比較

老子

哲理を説く。

宣長

宣長は、実践的な、政治・道徳を説く。

老子

聖を断ち、知恵を捨てることを、よしとする。

宣長

宣長も、聖人を退け、知恵を排する。

老子

清浄・自然を喜び、虚無を旨とする。

宣長

宣長も、惟神を説くが、その学説は、大いに、積極的な色彩を持つ。

キリスト教との比較

キリスト教

唯一神を説く。

宣長

宣長は、多神を説く。

キリスト教

天地を、この、唯一神の創造とする。

宣長

宣長は、産霊の二神が、造られたものとする。

キリスト教

個人の霊魂が、不滅であることを認める。

宣長

宣長も、これを認める。

キリスト教

天国・地獄の説を立てる。

宣長

宣長は、人は、死後、夜見へ行くものとする。

キリスト教

現世を軽んじ、天国を重んじる。

宣長

宣長は、現世を重んじ、あまり、未来を語らない。

西洋哲学との比較

西洋哲学

論理学・認識論を、その基礎とする。

宣長

宣長は、これらへ依拠しない。

西洋哲学

科学的な知識を利用する。

宣長

宣長は、ほとんど、これを用いない。

西洋哲学

哲学と神学とを分ける。

宣長

宣長の学説では、これらを混ぜる。

西洋哲学

理論へ偏る。

宣長

宣長は、実践を主とする。

西洋哲学

形而上学の問題へ入る。

宣長

宣長は、ほとんど、これへ入らない。

楠正成の像に寄せて――本居宣長

うまこりの、たいそう、霊妙な、楠の木の、主の命が、天地に満ちた功績は、一度は、立ったものを、この世の、災いによって、二度目は立たず、ついに、湊川の、浮かぶ水の泡のように、むなしく散った。しかし、仕えまつる武士の、手本となり、天地の、果ての果てまで、天地に満ちた功績は、満月のように、照り輝いて、立ったことである。

訳注

長歌冒頭の「うまこりの」は底本の表記に従った。この枕詞の語釈は確定できないため、訳にも原語を残した。

第二十二章 批評

第九十二節 学説評論

私は、これまで、宣長と、その学派の学説を述べてきた。今、この叙述を終えようとするに当たり、その学説の全体を、少し、総括して述べよう。

仰いで天の現象を観察し、うつむいて地のあり方を調べると、一定の法則が、厳然と、動かせないものとして存在することを知る。そのため、自然現象には、おのずと、現れる理由となる法則がある、というのである。私たち人類も、すでに、自然現象の一部分である。私たちの活動にも、一定の法則が、存在せざるを得ない。これを、道と名づける。道は、もとから、普遍的な性質を持つとはいえ、人類が、その生活上の、地理的・歴史的な関係によって、ここに、各民族に固有の道を生じさせる。これも、自然の法則である。

中国へ儒教が起こり、インドへ仏教が起こり、ユダヤへキリスト教が起こり、ペルシアへペルシア教が起こったことで、確かめられるだろう。これらの道は、すべて、孔子・釈迦・イエス・ゾロアスターなどの偉人が、それぞれの国民の、地理的・歴史的な関係に基づき、心を尽くして、組み立てたものである。

ただ、わが国では、古くから、数多くの神聖な人々が現れたとはいえ、宣長が、「神ながら、言挙げしない国と伝える」と繰り返したように、実行を尊び、理論を顧みなかった。したがって、古くからの神聖な人々が、行い、示された事績は、一つ一つ、国民へ、偉大な印象を与え、政治であれ、宗教であれ、道徳であれ、あらゆる、国民の行動の規範となった。国民は、これによって語り、これによって行動することになった。こうして、古来の神聖な人々の事績から由来し、国民の言動の根底となり、規範となったものが、すなわち、私たちのいう、神道である。

すでに、神道は、事実の道である。したがって、上古の国民は、その、哲学的な要求を満たすことも、事実によって求めたのである。もちろん、今日から見れば、その哲学的な要求は、実に、幼稚な域を出ていなかった。それでも、その、幼稚なりに、神聖な人々の言動を観察し、世界観も作り、人生観も得て、知識・感情・意志の、どの方面の要求も、満たすことができた。これが、私たちのいう、神道哲学の源である。

神道哲学の源は、すでに、このとおりである。したがって、その骨髄・根本は、私たち大和民族が、この身体を、祖先から受け継ぎ、子々孫々、限りなく伝えるように、また、限りなく伝えるものである。ただ、身体を覆う衣服や冠が、時代の要求に応じ、変わるように、神道哲学の根本が、表現されるもの、つまり、神道哲学の形式や色彩は、時代とともに、さまざまに変わることを、免れない。

そのためか、すでに、徳川の幕政が行われ、文芸が、しだいに復興してきたとき、さまざまに変わってきた神道は、さらに、数々の変化を重ね、ほとんど、帰着するところが、ないようになった。このとき、これまで述べてきたように、荷田春満が起こり、賀茂真淵が現れ、そして、わが本居宣長が、伊勢湾のほとりへ立ち、初めて、乱れを正す功績を収めるに至った。これから、以上に述べてきた、宣長の学説を、少し、批評しよう。

宣長の学説で、彼が、最も重きを置いたものの一つは、おそらく、天地創造説である。この天地の創造、あるいは、開闢については、『古事記』の上巻、『日本紀』の神代巻を説こうとする者が、必ず、出会わなければならない問題である。しかし、真淵は、全力を『万葉集』へ注ぎ、深く、神代の研究へ手を付ける余裕を持たなかった。一方、春満は、その遺著によって見ると、神代巻の研究へ、多くの心力を費やしたことが、わかる。しかし、宣長は、直接、十分に、春満の遺著を研究しなかったようである。すなわち、彼の創世説は、まったく、彼独自の見解と見るべきである。そして、また、実際、創世説は、彼の得意としたところであろう。

しかし、日本の古典には、宣長が主張したような、キリスト教の創世説に似たものは、ないのである。そこで彼は、一物が成った、などという記述によって、その創世説を立てようとした。しかし、私は、『古事記』の冒頭と、『日本紀』の本文とを、宣長の主張のように、中国風の考えや習慣を加えず、古い伝えのままに解釈するなら、宣長の説を認めることはできない。なぜなら、その古い伝えは、明らかに、天地があった後に、三神が現れたことを、伝えるからである。さすがに、篤胤は、この矛盾を免れるため、『古史成文』で、『古事記』の文章を改め、「天地が、まだ、生じないとき」とし、「成った神」を、「存在する神」とした。こうすれば、問題は、おのずと、別の問題へ入る。しかし、宣長のように、徹底して、『古事記』を、かたくなに守ろうと努めるなら、この問題は、到底、人を納得させにくいであろう。私は、この点では、篤胤へ賛成せざるを得ない。つまり、発展した神道哲学として、これを説かなければならない、とせざるを得ないのである。

特に、宣長が、『顕宗天皇紀』の託宣を、自らの天地創造説の、唯一の証拠としたようなことは、識者が、賛成しないところであろう。もちろん、世の人が、本居内遠の、「人が考えることと、神がお考えになることとは、たいそう違い、思いがけないことも、多いであろう」――『和歌の浦鶴』――というように、神の理は、実に、はかりがたい、と信じる者であれば、必ずしも、差し支えはないだろう。

しかし、世の人には、伊勢貞丈の、「おおよそ、昔話の、夢想というものは、すべて、偽りであろう。自分の思想である、といっては、人が信じないので、夢想と名づけ、仏や神へ、かこつけたのである。託宣なども、また、同じである」――『貞丈雑記』――というように、信じる者が多い。また、実際に、太神宮が、仏舎利の献納を喜ばれたといい、宇佐八幡宮が、奈良の大仏へ、参拝したいと託宣されたといい、あるいは、道鏡を、天皇の位へ登らせるべきだ、というような、数々の古い伝えがある。そのため、貞丈のように信じることも、やむを得ないのである。

そして、信仰を強いてはならない。貞丈のような人へ向かい、このような託宣を、宗教的な権威によって、信じさせようとしても、それは、不可能であろう。これが、私が、宣長の証拠へ、不満を示す理由である。私は、篤胤の説にも、このような欠点を見いだせる。しかし、篤胤が、『日本書紀』の、一書の記述へ依拠し、『古事記』の、この点の文を、誤伝として退け、自説を合理的にしようと努めた、その態度を、ほめるのである。つまり、私は、この点で、態度は、篤胤のようでなければならない、と主張するのである。

第九十三節 学説評論(続)

さらに進み、宣長の、神の観念について、研究しよう。

上古、日本で、神と称したものは、たいそう多かった。宣長は、これを解釈し、すでに述べたように、神とは、天地の、もろもろの神々をはじめ、人は、いうまでもなく、山川・鳥獣・草木など、すべて、尊い点でも、悪い点でも、世へ優れたものをいう、とした。したがって、神には、貴いものも、賤しいものも、強いものも、弱いものも、善いものも、悪いものもある、と解釈した。もちろん、古典を探究すれば、神の観念は、さまざまで、複雑であろう。しかし、いやしくも、神道でいう神は、祖先の神祇でなければならない。つまり、海の神というのは、海上の主宰神、山の神というのは、山林の主宰神、島というのは、島の主宰神、国というのは、国の主宰神であり、皆、私たち民族の、祖先の神祇の一つ、と理解しなければならない。したがって、宣長が、これを、島そのもの、国そのもののように解釈するのは、あまりに、こだわったものと、いわなければならない。

次に、宣長が、神道の主な神祇へ下した解釈を見ると、彼は、天御中主神を、天の真ん中へ鎮座し、世の中の主である神、と解釈した。しかし、その、お生まれになったことを、認めた点については、彼の創世説へ対し、篤胤が、「この大神は、始まりもなく、いらっしゃるので、最も第一の神でいらっしゃることは、いうまでもなく、その御功徳が、広く、大きいことは、称え申し上げる言葉もない、と知るべきである」――『古史伝』――といい、世界の根本、すべての現象の本源でいらっしゃる、という意味へ解釈したことのほうが、はるかに勝っていると、わかる。

しかし、渡辺重春が、天御中主神を、「幽中の幽神であり、少しも、御事績が見えず、無為・寂然として、天の真ん中であるところへ、いらっしゃる」――『古史伝拾遺』――というように、天御中主神は、無為・寂然とした神であり、世界の、あらゆる現象を、お現しになることは、産霊の二神による。おそらく、産霊の二神は、天御中主神の神徳の、二方面が現れ、神となられたものなのである。これを、水によって説明すると、水そのものは、すなわち、天御中主神の神体である。水蒸気となり、雨となり、波となり、さまざまな形へ現れ、活動することは、高皇産霊神の神徳へ、比べるべきである。この水となり、静止した状態を保つことは、神皇産霊神の神徳へ、比べるべきである。宣長は、このような説明を加えなかったが、彼が、天御中主神を置き、万物の生成・発展を、産霊の二神へ帰したことの意味は、おそらく、このようでなければならない。

右の三神は、世界的な神であり、世界の根本の神とするのは、神道の、当然の解釈である。それ以後、産霊神の御徳によって、数多くの神聖な存在がお生まれになり、そして、伊弉諾・伊弉冉の二神が、お生まれになった。この二神は、宣長の説によれば、まさに、大八洲を、お生みになった、とする。しかし彼は、天地は、すでに、産霊の二神の御徳によって、成り立った、とする。どうして、さらに、伊弉諾・伊弉冉の二神が、これを、お生みになる必要があろうか。私は、古い伝えの文字どおりに解釈し、二神は、この国土を、修め、固め、成らしめたものとする。つまり、この二神を、国土経営の祖神とするのである。

次に、神道哲学における、一つの問題は、古い伝えへ、日神とあることを、どう解釈すべきかにある。もちろん、日神、つまり、天照大神が、月神、つまり、月読尊とともに、伊弉諾・伊弉冉の二神の御子であることは、すでに述べたとおりである。ただ、日神と申すのは、どのような神でいらっしゃったのかを、問題とする。宣長は、「天照大御神と申し上げるのは、ありがたくも、つまり、今、この世を照らされる、天の日のことである」――『玉くしげ』――などといい、すでに述べたように、天照大神を、太陽そのものと解釈した。中庸や、篤胤のような者は、これを不合理と考え、太陽の中へいらっしゃる、その主宰神とした。私は、これも、なお、不合理と考えざるを得ない。本居内遠が、「祖父の『古事記伝』の説は、少し、違っている」――『和歌の浦鶴』――といい、たいそう、人の嘲りを招くことなので、改めるべきである、といったように、その説を改めなければならない、とする。

しかし、内遠が、そのように改め、篤胤の説へ従ったことは、内遠のために、惜しむのである。

思うに、宇宙の、あらゆる現象は、すべて、精神を備え、生命を持ち、人間と同じく活動し、あるいは、人間以上の能力や、霊威を持つ、としたことは、古代人が持っていた、一般的な信念である。ギリシア人が、星々を、人間と同じ、生きたものと見たようなことは、今日も、ともすれば、未開の民族の間へ見られる事実である。そして、ルソーが、私たちの目へ、最も強く触れる物体は、太陽である、といったように、自然現象の中で、太陽は、最も強く、私たちの注意を呼び起こすものである。その、太陽の偉大な勢力は、古代人へ、最も偉大な神霊である、との観念を生じさせ、ついに、いわゆる、太陽神話を組み立てるに至った。これは、自然な成り行きであろう。

日本の古代、伊弉諾・伊弉冉の二神が、この国土へ降臨し、盛んに、その経営へ従事されたとき、伊弉冉尊が、お亡くなりになった当時には、わが国の人々は、すでに、著しく増加していたようである。これは、伊弉冉尊が、一日に千人を殺す、とおっしゃったのに対し、伊弉諾尊が、千五百人の産屋を立てよう、とおっしゃったことから、確かめられる。この、多くの人民が、蒙昧で、暗愚な境遇にあったことは、知るべきである。そのような、蒙昧で、暗愚な人々が、まず、注意を向け、大きな勢力を持つ太陽を観察し、ついに、これを神格化することは、不思議ではない。

このとき、大日孁尊は、明るく輝く身で、高天原へ君臨された。天下の民は、皆、その、知恵・徳・行いが優れることを仰ぎ、この尊へ、並々ならない尊敬を捧げてきた。そして、沼田楽水が、「その徳は、広く及び、あまねく、行き渡り、至らない、すみもないことは、たとえば、天の日の光が、天下を覆い、あらゆる方向へ、照り通るようである。そのため、上の上から、下の下まで、すべての者は、皆、この方こそ、日の神でいらっしゃる、と、思われた。だから、誰が、名づけ申し上げるともなく、日の神と、あがめ申し上げる風習となったのである」――『級長戸の風』――というように、大日孁尊を、天照大神とし、日神とし、国民の、熱烈な崇拝の対象としたのである。

この崇拝と、別に行われてきた、太陽そのものの崇拝とは、後世、習合の徒が、大日如来と天照大神とを、習合させたように、互いに結びつけられ、一つにされた。長年の因習によって、ついに、天照大神は、そのまま、太陽である、との観念を、強固にしたようである。したがって、宣長のような者でさえ、ついには、これを信じるようにさせたのである。

しかし、私たちが、神話的な色彩と、物語としての誤りを除き、純粋な神道の立場へ立って論じるなら、天照大神は、伊弉諾・伊弉冉の二神の間へ生まれ、知恵・徳・行いが、たいそう優れた神である、としなければならない。『神代巻』の、一書へ、伊弉諾尊が、左手で白銅の鏡を持たれたとき、大日孁尊が、お生まれになったといい、また、別の一書へ、左目を洗われ、それによって生まれた神を、天照大神という、と伝えるようなことは、ともに、鏡や、目をいう。おそらく、すべて、太陽神話と結びつけられた後に生じた、伝説であろう。

要するに、宣長は、この、天照大神が、太陽神話と一つになった事情へ、思いを及ぼさず、天照大神を崇拝させる点で、ただ、古代の庶民の間へ行われた、太陽への神話的な崇拝を、今日へ強いるような説へ出た。これは、私が、彼のために、採らないところである。

第九十四節 学説評論(続)

これまで、宣長の神道で、最も重要とされる神祇へ関わる、宣長の学説に、少し、評論を加えた。ここに、なお、少し、論じなければならないことがある。つまり、彼の、神の観念に対してである。彼は、神は、上古、神代へ現れたものであり、私たちが、これへ、ならえば、人生の、あらゆる言動で、一つとして、よくないものはない、とした。しかし、私から見ると、神道の神は、その、知恵・徳・行いが優れ、実に、国民の手本となる存在なのである。つまり、神道の神は、私たちの、国民的な精神の精華を、体現される存在なのである。日本の古代を、神代と名づけるのは、このような神祇が、比較的、多く輩出されたためであり、神代には、人類がなく、すべて神祇だけであった、という意味ではない。

古い伝えで、伊弉諾尊が、八雷神の率いる黄泉の軍勢から、追撃されたとき、桃の実が、よく、尊を助け、これを撃退すると、尊は、桃の実へ、意富加牟豆美命の号を授け、命じて、「おまえは、私を助けたように、葦原中国の、あらゆる、現実の人々が、苦しい境遇へ落ち、憂い、悩むとき、助けなさい」――『古事記』――と、おっしゃった。

ここで、青人草といわれ、その他、すでに述べたように、伊弉冉尊の言葉へ対し、伊弉諾尊が、千五百の産屋を立てよう、と、おっしゃったこと、また、天照大神も、保食神が、素盞嗚尊へ殺され、その神体から、五穀が生じたとき、「顕見蒼生(現世の人々)」という語を、お使いになったことなどは、すべて、神代へ、多くの人民が存在したことを、証明するものである。すなわち、知るべきである。神代には、神祇だけがいたのではなく、神祇は、当時の、日本の、国民的な精神の精華を、体現され、実に、国民の手本となられた存在なのである。

そして、少し、後世へ及ぶと、人民は、ますます増え、ますます多くなり、神祇となるべき者は、比較的、乏しくなってきた。そこで、人代という呼び名が起こるに至ったのである。人代に至っても、神祇が、ここで、絶えたのではなく、ただ、多くの人民と比べ、少ない、というだけである。見よ、代々の天皇は、天照大神の直系であり、現人神として、天地とともに、限りなく、君臨されるではないか。その他、柿本人麿・和気清麿・菅原道真・楠正成・徳川家康などの偉大な人物は、神代の、天児屋根命・太玉命・大国主神・武甕槌神・経津主神のように、国民の間へ現れた神祇なのである。したがって、国民は、これらの人々を、神祇として崇拝し、手本として尊敬し続けるのである。

つまり、国民は、東照宮へ参詣すると、人としての徳川家康を思わず、神としての、徳川家康公を念じ、「人の一生は、重い荷を背負い、遠い道を行くようなものである」と、教えを垂れられたことを思い起こし、そのようでありたい、と思う。もちろん、この遺訓は、世間では、偽作であるとの説もあるが、徳川家康は、自ら、これを実践した人物である。このような実行は、そのまま、私たち国民の、手本となるに、余りあるものである。

国民は、湊川神社へ参詣すると、人としての楠正成を思わず、神としての、楠正成公を念じ、その一生を通じ、古今を貫くほどの、忠烈の精神を思う。死に当たっては、七たび生まれ、君主と国へ報いよう、と誓われた事績へ照らし、国民である私たちも、また、そのようでなければならない、と思う。

国民は、天満宮へ参詣すると、人としての菅原道真を思わず、神としての、菅原道真公を念じる。その一生の行為は、どのような場合にも、恨みを人へ向けず、誠忠そのものが、人格となった存在であってこそ、初めてできるようなものであったことを、追い慕う。また、その遺訓へ、和魂漢才を示し、忠孝一致の道を説いたことは、すべて、国民の手本とするに足りる、と思う。もちろん、和魂漢才の語は、後世の人が、言い表したものであろう。しかし、公の一生は、このような主義をもって、終始したところであり、国民が、皆、仰ぎ見るところである。

国民は、護王神社へ参詣すると、人としての和気清麿を思わず、神としての、和気清麿公を思う。彼が、その勢いが、天皇さえしのいだ、悪僧、道鏡の威嚇を恐れず、宇佐八幡宮の神託を伝え、「わが国は、開闢以来、君臣の区別が定まり、まだ、臣下を、君主としたことがない。天皇の後継者は、必ず、皇統を立てなさい。もし、天皇の位を、うかがう者がいれば、速やかに、これを除き、厳罰によって処しなさい」と、率直に述べたことを思う。実に、この行いは、君主と国のため、一身を投げ出す行動へ出たものであり、国民的な精神の精華が、生き生きと、躍動するのを見る。これは、国民の、万世の手本となるものではないか。

国民は、人丸神社へ参詣すると、人としての柿本人麿を思わず、歌の神としての、柿本人麿公を念じ、その歌を思う。実に、公のような人は、日本固有の和歌によって、国民的な精神の発達を促した者である。そのため、荷田春満は、「もし、玉を磨く器を、送り出せば、柿本氏の教えは、再び、国へ奮い立つであろう」――『創学校啓』――といったのである。国民は、その、国民的な精神の、文芸の方面で、公から、大きな感化を受けている。

訳注

「琢玉の器」は比喩の係り先を確定できないため、「玉を磨く器」と仮に訳した。器を人物とする解釈を本文で補わず、厳密な語釈は留保する。

おおよそ、このような例は、数え挙げる暇もない。これらは、すべて、人代へ、現れた神なのである。そして、神道は、平田篤胤が、「そもそも、本当の道というものは、事実の上へ備わっているものでございます」――『古道大意』――といったように、事実の道である。また、その範囲は、篤胤が、「どの学問が、一番大きいかというと、少し、自分勝手のようですが、御国の学問ほど、大きなものはございません」――同上――といったように、広大な道である。だから、もちろん、道の源は、神代へ起こったとはいえ、その発展は、後世、次々へ現れた、以上に述べたような神祇によって、なされたのである。つまり、これら、多くの神祇が行った事実、いわゆる、国史へ残る事績は、すべて、神道なのである。このようにして、神道が、進歩的であり、その価値が、たいそう大きいことが、わかる。

わが本居宣長は、吉川惟足・山崎闇斎一流の、儒教的な神道や、真言宗の徒の両部神道、吉田家の唯一神道などの、仏教的な神道を、あまりに憎んだ結果、この理を、念頭へ浮かべなかった。ついに、神道は、すべて、古代に完成し、後の神祇が、関わるものではないかのような説を唱え、そのため、その説は、ひどく、保守的で、退嬰的なものへ流れた。これが、私が、宣長の、神祇の観念について、特に、遺憾とするところである。

第九十五節 学説評論(続)

神道は、平田篤胤がいったように、最も雄大な道であり、広くは、宇宙へ、ずらりと並ぶ現象を貫き、身近には、人生の、あらゆる行為へ及ぶ。宣長の神道説のうち、宇宙へ関わるもの、神祇へ関わるものは、すでに、少し評した。ここでは、人生の大道へ関わる説について、少し評そう。

宣長が、「この道は、恐れ多くも、高御産巣日神の御霊によって、神祖、伊邪那岐大神・伊邪那美大神が、お始めになり、天照大御神が、お受けになり、お保ちになり、お伝えになる道である」――『直日霊』――と解釈したことは、私も、うなずくところである。そして彼が、おおよそ、世の中の、あらゆる道理、人の道で、この神道から、漏れたものはない、と考えたことも、私が認めるところである。

これは、私は、古くからの神祇の、秩序と統一を重んじる思想が現れると、ここに、世界で比類のない国体となり、天下の政治の大道となり、その、快活で、現世的な感情が現れると、ここに、生命の生成と、現世を重んじる、偉大な宗教となり、その、発展し、膨張する性格が現れると、ここに、剛健で、素朴な道徳となり、そして、これらを、維持し、発展させる道が現れ、日本固有の教育となった、と信じるからである。

試みに、少し、これを説かせてもらおう。およそ、政治の根本は、秩序と統一とを、正すことにある。天照大神が、神鏡を、天忍穂耳尊へ授けられるとき、同じ床、同じ殿へ祭れ、との勅を授けられ、高皇産霊神は、また、神籬・磐境についての勅を、天児屋根命・太玉命へ下された。そして、神武天皇は、東征の功を終え、天下平定の業が成ったとき、まず、皇天の二祖の詔へ従い、神籬を建て、続いて、命じて、鳥見山中へ、霊畤という祭壇を立て、皇祖の天神を祭られた。これらの事実は、すべて、神祇を敬い、祖先を崇拝することの重要さを示されたものであり、おのずと、秩序と統一とを、もたらすものなのである。

そして、天照大神は、皇孫、邇邇芸命を、この国へ、お降しになるとき、「葦原の、千五百秋の瑞穂国は、わが子孫が、王となるべき地である。おまえ、皇孫は、赴いて、治めなさい。お行きなさい。天皇の位が栄えることは、天地とともに、窮まりないであろう」――『日本書紀』――と、おっしゃったではないか。

これは、実に、古来の神祇が行われた、すべてのものの理想を、言葉で、お示しになったものである。どの国が、古代に、このような、雄大で、立派な理想の表明を、見ることができただろうか。ああ、神勅は、厳然と、このように下る。建国の本義、政治の大本は、確かに、ここに定まり、秩序と統一とは、永く、強固となり、再び、動かすことができない。

これを、儒教で、「堯はいわれた。ああ、なんじ、舜よ。天の定めた歴数は、なんじの身へある。まことに、その中正を守れ。四海が困窮すれば、天から授かる位は、永く終わるであろう」――『論語』――といい、あるいは、「天下に、生まれながらに貴い者はいない」――『礼記』――といい、あるいは、「大きな徳は、天命を受ける」――『中庸』――といい、あるいは、放伐を行っては、「夏は罪が多い。天が命じ、これを罰させる」――『尚書』――といい、あるいは、「夏氏は罪があり、私は、上帝を恐れる。あえて、正さずにはいられない」――同上――といい、あるいは、「商の罪は、満ちている。天が命じ、これを誅させる。私が、天へ従わなければ、その罪も、同じである」――同上――といったことへ比べてみる。中国の、秩序と統一の根本が、常に動揺し、わが帝国の、秩序と統一の根本が確かであり、万世一系の皇統が、天地とともに、窮まりない理由は、おのずと明らかである。こうして、わが帝国の政治は、古くから、神道によって行われてきたのである。

宗教については、古くから、学者の解釈が、まちまちで、一つではない。しかし、私は、理想を崇敬し、それによって、心を安らげ、それへ依り従い、そして、よく生きるためのもの、とすることは、すでに、本書の第十一章へ述べたとおりである。人をして、理想を崇敬し、心を安らげ、依り従い、それによって、生きさせるものは、いわゆる、信仰である。信仰は、信仰の対象、つまり、理想を持つ。神道では、このものは、すなわち、すでに述べてきた神祇である。

教育勅語で、皇祖皇宗と称され、戊申詔書で、神聖な祖宗と、おっしゃったのは、すべて、これらの神祇である。すでに述べたように、国民は、このような神祇が、語り、行動された事実へ従い、語り、行動する。つまり、教育勅語や、戊申詔書などで示された、祖先の神々の遺訓へ従い、語り、行動する。こうして、国民は、祖先の神々を理想とし、これを崇敬し、心を安らげ、依り従い、それによって、生活してきた。禊・祓い・神楽、その他、さまざまな、いわゆる、礼典・祭式のようなものは、すべて、このような信念の表れなのである。

このようなことは、国民が固有する、現世的で、快活な感情の、自然な結果である。したがって、国民は、仏教やキリスト教のようなものを、別に、必要としない。もちろん、歴史を見ると、熱烈な仏教信徒や、キリスト教信徒が、いないわけではない。しかし、これは、一時の現象であり、永久に続くものではない。だから、キリスト教のようなものは、ヨーロッパへ入って、ほどなく、在来の異なる宗教を、すべて圧倒できたが、日本では、そうできなかった。その伝来は、すでに、数百年前であるとはいえ、日本の神道を、どうすることもできない。だから、たとえ、仏教徒となり、これを信じる者も、キリスト教徒となり、これを奉じる者も、いやしくも、日本の国民である者は、神道によって、生活せざるを得ない。また、そのように生活すべきである。つまり、阿弥陀仏の教徒であっても、太神宮へ参詣し、産土神へ参拝する。キリスト教徒も、また、そうせざるを得ない。この意味で、帝国憲法は、信教の自由を許したのである。もともと、神道は、篤胤の言葉へ見えるように、たいそう、広大な道であり、包括的である。したがって、仏教も寛容し、キリスト教も寛容する。仏教・キリスト教のような宗派心は、神道には、ほとんど見られない。

仏教・キリスト教の信徒のような者で、太神宮へ参詣し、産土神へ参拝し、日本の神道を奉じることによって、信教の自由を束縛される、と考える者がいれば、いったん退き、祖先の遺訓と、国史へ残る事績とを研究し、そして、自分の信じる仏教、あるいは、キリスト教の、本当の意味を悟るべきである。おそらく、思い当たるところは、大きいであろう。まだ、それらの教義の入り口へ、さまよい、しかも、祖先の遺訓と、国史へ残る事績とについて、無知な者のようなものは、ともに語るに足りない。

さらに、道徳について見ると、私たちは、産霊神の霊徳を受け、この世へ生まれる。宣長は、これを、まごころと呼んだ。「まごころとは、産霊神の御霊によって、備え持ち、生まれたままの心をいう」――『葛花』――という。私たちは、国史へ残る事績を学び、祖先の遺訓を守ることによって、ついに、自分たちの、まごころを大成する。そして、よく、自分に対して、社会に対して、国家に対して、その務めを全うし、理想を実現できるであろう。これが、神道の道徳である。

以上、述べてきたものは、すべて、それぞれ、神道の一系統を成すものである。これら、神道の三大系統は、私たちが、祖先から受け継いできた、文明上の財産である。この財産を、すべて、後継者へ譲り渡す行為が、すなわち、教育である。その、教育の方法も、祖先によって、事実で示されている。この事業も、極めて重要である。そのため、私は、これを、神道の、一大系統とする。神道の実践的な方面は、この四大系統が備わって、初めて、完全となるのである。つまり、神道の実践哲学は、この四大系統を道とし、これによって、国民の、すべての者へ、天地とともに、限りなく、国運が発展する、という、大きな理想を、実現させようとするのである。

神道の性質は、すでに、このとおりである。今、この見地へ立ち、宣長の説を見ると、彼が、神道で、創世説を説いたことは、必ずしも、私の賛嘆できるところではない。しかし、神道哲学の発展の上で、一つの貢献をしたことは、疑わない。また、彼が、天地とともに、窮まりない、という神勅を掲げ、道の根源・大本とし、神道を、天下の政治の道と解釈したことは、私が敬服するところである。彼が、まごころの説を掲げ、儒教の道徳説を排斥し、一種の、直覚による道徳説を主張し、盛んに、神道の、道徳的な方面を開拓したことも、また、私が敬服するところである。教育に関する説にも、注目すべきものは、少なくない。ただ、宗教的な方面へ至ると、その研究には、特に、注意すべきものがない。これは、彼の学説の、一大欠陥であることを、免れないのである。

第九十六節 結論

最後に、宣長の態度を見ると、彼が、大道を盛り立てることへ、熱心すぎた結果、排外的な思想が、ほとんど極端ともいうべき程度へ及んだことを、私は、よいとは思わない。栗田栗里は、かつて、論じていった。「後世の学者は、狭い見解を抱き、同じものを合わせても、異なるものを、併せ受け入れられない。努めて、あちらと、こちらとを立て、垣根を設け、自分の学ぶものへ、おぼれる。このため、洋学を主とする者は、天祖の遺訓を軽んじ、代々の天皇の、深いお心へ従わない。古学へ従事する者は、あるいは、孔子の教えをそしり、神聖な大道へ合わない、として、これを抑え、採らず、異端とする。そのようなことは、すべて、偏った心で、自らを小さくする類であり、大道の罪人である」――『天朝正学』――と。その言葉は、実に、そのとおり、というべきである。

しかし、もちろん、栗里その人も、欧米人を呼んで、「赤いひげと、緑の目の、人の仲間でない者」といった。学者が、その学ぶものへ偏ることについて、ひとり、宣長だけを責めるべきではない。ただ、後の世の、宣長となろうとする者は、深く、この、学者に共通する弱点を、反省し、その学術の偉大さで、国家へ貢献すると同時に、その品性の偉大さで、社会へ寄与することを、目指さなければならない。

私は、以上、宣長の一代の学説を述べ、数々の欠点を指摘した。しかし、全体を通じて振り返ると、彼は、もとから、学問が広く、識見が抜きん出ており、熱心で、くじけない精神をもって、日本の神道を盛り立てることへ従事すること、前後、四十余年。その説くところは、雄大であり、広くは、天地創造の説となり、緻密であり、身近には、人倫・道徳の教えとなった。日本固有の大道は、ここに、輝かしく、その光を増し、敬神・尊王・忠君・愛国の精神は、ここに、大いに盛り上がった。徳川氏、三百年の栄華は、たちまち亡び、急転直下、王政復古の大業が成った。もとより、時の流れが、そうさせたのであろうが、この時の流れを生み出す上で、宣長が、復古神道を唱えた功績は、大きく関わったのである。もっともなことである、今上陛下が、はるかに、その功績を、追って賞され、特に、従三位の栄位を、お贈りになったことは。ああ、宣長の、七十二年の努力は、立派であり、また、大きいというべきである。

いやしくも、日本の国民である者は、深く、彼の努力へ、感謝しなければならない。

本居宣長。ともかくも、その時代の法へ背かないことこそ、神の、まことの道であった。

さまざまな御法も、神が、その時々に、お命じになる言葉であるのだから、どうして、背こうか。

今の世では、今の法を、かしこみ敬い、よくない行いを、決して、してはならない。

荷田春満。踏み分けて進め。大和のものではない、中国の、跡を見てばかりいるのが、人の道であろうか。

本居宣長の哲学 終

刊記

本居宣長の哲学。定価、二円十銭。明治四十五年(一九一二年)四月十日印刷、同年四月十五日発行。

著作権所有。複製を許さず。

著者兼発行者、田中義能。東京府、豊多摩郡、千駄ヶ谷町、四九八番地。

印刷者、中村弥三郎。東京市、麹町区、内幸町一丁目、四番地。

印刷所、三生舎。東京市、麹町区、内幸町一丁目、四番地。

発行所、日本学術研究会。東京市、神田区、錦町一丁目、十九番地。振替貯金口座、東京一〇五六六番。

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図版と出典

図版(本文の図版)

図版(本文の図版)

本居家の系図(1)(本文の図版)

本居家の系図(2)(本文の図版)

本居家の系図(3)(本文の図版)

第一・第二図(本文の図版)

第三・第四図(本文の図版)

第五・第六図(本文の図版)

第七・第八図(本文の図版)

第九・第十図(本文の図版)

神祇官と諸官の序列(本文の図版)

学派系統表(1)(本文の図版)

学派系統表(2)(本文の図版)

学派系統表(3)(本文の図版)