哲学 / 田中義能神道哲学精義神道哲學精義
哲学 / 田中義能
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大正11年(1922年)修正六版の標題・序・著者著述目録・凡例・印刷目次・全十二章(本文一〜二五〇頁)・刊記。巻末の他書広告は含めない。
神道哲学精義
文学博士・田中義能 著
序
明治維新からまだそれほど年月がたっていなかったころ、ある中学校に漢文の教師がいた。「英吉利」を「エイキツリ」と読むので、一人の生徒が「イギリスと読むのではありませんか」と尋ねた。教師は声を荒らげ、「こら、物の道理の分からぬやつめ。私は亡くなった先生から、まさしくそう教わったのだ」と言った。近世、吉川惟足、度会延佳、山崎闇斎らの先生方が盛んに秘伝というものを唱えて以来、神道の研究には伝統の説をかたくなに守る風潮が生まれた。その後、荷田・賀茂・本居・平田の四大人が相次いで現れ、熱心に神道の哲学的研究を行って伝統に伴う弊害を取り除いたとはいえ、教説の権威を絶対視する態度は、かえって著しくなったと思わせるところがあった。
私は不才ながら、あえて身の程も顧みず、早くから西洋で発達した思想と教育を研究して、それを骨肉とし、日本固有の思想と教育を研究して、それを精神として、一つの学問体系を組み立て、わが国の国民教育に貢献したいと考えてきた。日本固有の思想の研究が、私を神道の研究へ導いた。学生時代から教育学と神道の両方を研究してきたのは、このためである。ここでは二つと言ったが、私の考えでは、もともと二つではなく一つなのである。教育学が帝国憲法や教育勅語など、神道の根底をなすものに基づかなければ、その教育研究はわが国では空論になるのを免れない。また神道も、教育学の立場から研究されなければ、社会に徹底した指導を与えることができず、やはり空論に終わるだけだ。私が神道と教育学の研究に従事してきたのは、偶然ではない。
神道の研究を始めて、まず感じたのは、従来の多くの学者が、伝来の説を守り、教説の権威を絶対視する態度で研究していたことだった。仮に神道が、仏教やキリスト教のような、一つの宗教にすぎないのであれば、それでも必ずしも悪くはないだろう。しかし私のように、神道を学問の根底に据え、さらに現代文明の中に生きる青年を指導しようとするには、決してそれでよいとは思えない。そこで私は、不才ながら、神道研究に少し新しい試みを企てた。それを神道哲学と名づける。神道を、できるだけ科学的に研究しようとするものである。
本書は、もとよりささやかな小冊子である。原稿の大部分はすでに十数年前にできており、かつて国学院大学で講義したこともあった。近ごろ、その刊行を求める声が、関心を寄せる世間の方々からしばしば届くようになったので、箱の底から取り出し、修正と補足を加え、思い切って印刷することにした。
今、ヨーロッパとロシアの情勢はいよいよ切迫し、東洋もまた、ますます多事多難になろうとしている。この時に当たり、本書を世に送る。わが国固有の思想の発展をいくらかでも助け、国民の向上を願う信念に貢献できるところがあれば、私にとって光栄である。
大正七年(一九一八年)三月十九日、東京にて。著者記す。
凡例
一、社家神道、復古神道、古神道など、世間で神道と呼ばれるものはたいへん多い。著者が主張するのは純神道である。純粋な、わが国固有の大道である。すでに純粋なのだから、特に形容する言葉を冠しない。
一、本書は小冊子で、著者の研究の一部を収めるにとどまったのは残念である。しかし全巻を通じ、神道に対する著者の信念を、できるだけ徹底して述べたものと信じている。
一、著者の以前の著書『神道本義』も同じ立場にあるが、そちらは神道の実際的な面を主とし、本書は理論の面を主としている。
一、本書は理論の面を主としているが、文章はできるだけ平易で、一般にも分かりやすく、しかも簡潔になるよう努めた。
一、文章を簡潔にするため、敬語は多くを省略した。ただし、叙述の態度は終始一貫して敬虔であるよう心がけたことは、いうまでもない。
一、本書の校正には十分努めたが、それでも文字の取り違えなどの誤りが、ときおり残っているのではないかと心配している。読者のご容赦を願ってやまない。
大正七年(一九一八年)三月十九日。著者、重ねて記す。
目次
第一章 緒論 1~33頁
第一節 神道哲学研究の必要 1頁
第二節 哲学とは何か 9頁
第三節 常識と科学 13頁
第四節 太古の哲学 16頁
第五節 宗教・科学と哲学 18頁
第六節 日本哲学 25頁
第七節 日本哲学における神道哲学の位置 29頁
第八節 神道哲学と伝説の研究 31頁
第二章 神の意味 34~54頁
第一節 伝説と「神」の字義 34頁
第二節 「神」の観念 38頁
第三節 「神」の観念の主観的な起源 43頁
第四節 「神」の観念の客観的な起源 45頁
第五節 古代の「神」の観念 48頁
第六節 神道と「神」の観念 51頁
第七節 「神」についての私たちの主張 52頁
第三章 天御中主神 55~71頁
第一節 世界の起源 55頁
第二節 世界の創造説 57頁
第三節 伝説の本質 60頁
第四節 造化の三神 63頁
第五節 天御中主神と絶対 68頁
第四章 産霊神 72~97頁
第一節 産霊神の時代の研究 72頁
第二節 産霊神についての学説 75頁
第三節 中国の学説との比較 79頁
第四節 産霊神の真の意味 81頁
第五節 託宣 84頁
第六節 古伝の神話的解釈 88頁
第七節 神道の進歩性 93頁
第五章 元霊神 98~107頁
第一節 葦牙神 98頁
第二節 天之常立神と高天原 102頁
第三節 国常立神 106頁
第六章 七代神 108~125頁
第一節 七代神の順序 108頁
第二節 七代神をめぐる学説 114頁
第三節 伊弉諾・伊弉冊神 118頁
第四節 国土の主神 121頁
第七章 三貴子 126~161頁
第一節 三貴子の誕生をめぐる問題 126頁
第二節 三貴子と二貴子 129頁
第三節 天照大神と太陽崇拝 131頁
第四節 国民的精神と天照大神 134頁
第五節 神道の根本 141頁
第六節 三種の神器 143頁
第七節 天照大神の至徳 153頁
第八節 八百万神 159頁
第八章 神道の内容 162~181頁
第一節 道という観念 162頁
第二節 神道という文字の起源 167頁
第三節 神道の根本の意味 172頁
第四節 神道の特色 178頁
第九章 神道と政治の系統 182~199頁
第一節 神道の政治と敬虔な態度 182頁
第二節 神道の政治と慈愛 184頁
第三節 神道の経典 188頁
第四節 臣下の道 191頁
第五節 神道の政治と新領土の国民 194頁
第六節 神道の政治と民本主義 197頁
第十章 神道と宗教の系統 200~226頁
第一節 神道と宗教との関係 200頁
第二節 歴史的宗教と神道 200頁
第三節 宗教の本義と神道 210頁
第四節 神道の儀式 216頁
第十一章 神道と道徳の系統 227~237頁
第一節 道徳の意味 227頁
第二節 神道道徳の本義 229頁
第三節 忠孝一本主義 231頁
第四節 「家」の観念 235頁
第十二章 結論 238~250頁
第一節 神道の性質 238頁
第二節 神道と敬神崇祖 241頁
第三節 神道と教育 247頁
第四節 神道の将来 248頁
第一章 緒論
第一節 神道哲学研究の必要
人生には、さまざまな矛盾や衝突がある。たとえば科学と宗教、経済と美術のようなものは、いろいろな点で矛盾し、いろいろな場合に衝突している。そのほか、自由と強制、保守と進歩など、矛盾や衝突は一つ一つ挙げきれないほどある。しかし私たちは、その間にあって調和と統一を求め、人生そのものの問題を解決し、いわゆる人生観を立て、さらに世界観をも定めようとする。これは昔も今も変わらず見られる、人生一般の傾向である。こうした方面を研究して人生観・世界観を立てることを哲学的研究といい、その成果を哲学という。
ジェームズは、人は生まれながらに哲学者であると言っている。それを哲学として意識しているかどうかは別として、誰もが何らかの哲学を持ち、それによって行動を律し、世の中で暮らしているというのだ。まったくそのとおりで、私たちの日々の行動は、一から十まで、身につけている哲学上の考えに支配されている。したがって、その時代に力を持つ哲学説は、おのずと時代の思想の流れを左右し、国家や社会に大きな影響を及ぼす。啓蒙学派の哲学はフランスの思想界に深い影響を与え、ついに、あの惨憺たる大革命を生み出すに至った。また、フィヒテやヘーゲルらの哲学が近代ドイツの国家観に影響し、ヨーロッパ近代史の一大景観をなすドイツ帝国の興隆に、大きな力となったことは否定できない。さらに最近、ロシア帝国とドイツ帝国が相次いで崩壊したのも、マルクスらの唯物論哲学による深い影響のためと見て、さほど差し支えないと思われる。ひるがえってわが国を見ても、国家にとって前例のない大改革だった維新の大事業が完成するに当たって、江戸時代の中ごろから急速に発展してきた神道哲学の著しい影響があったことは、日本の歴史の実情に少しでも触れた者なら、誰もが認めるところである。
今、時代の思想が揺れ動いているのは、世界共通の事実である。近ごろ著しく地位を高め、世界の表舞台に乗り出したわが帝国は、政治・経済から風俗・習慣に至るまで、どうしても世界の影響を免れられなくなってきた。それゆえ、わが国の思想界も欧米の思想の動揺に伴う弊害を受け、国家や社会に対する国民の信念は、ともすれば混乱に陥りかねない。そこで私は、この機会に神道哲学を大いに研究して思想の根を育て、次々に台頭する、いわゆる新思想に国民が向き合う際、判断を誤らないようにすることが、今の切実な急務であると信じる。しかし世間の人は、ともすれば神道という名を聞いただけで、やれ頑迷だ、やれ偏狭な愛国心をあおるものだと言う。だが、それは自分が浅薄で表面的な批評をする者だと告白しているにすぎない。もちろん、多くの神道家の中には、一世紀前のような頭で偏狭な議論をする人がいないとも限らない。しかし神道家といっても、明治・大正の教育を受けた人々である。東洋の新しい文明国という環境に生きる人々である。例外はともかく、その全体が頑迷で偏狭であるはずだという理由が、いったいどこにあるだろうか。
あるいは、こう言う人もいるだろう。「神道そのものが古代のもので、現代とはかけ離れている。それを現代に広めようとするのは時代錯誤だ。西洋哲学が天下に広く行き渡る今日、陳腐な神道説など聞くに堪えない」と。このような浅薄な議論をする人がいるからこそ、私たちは、いっそう神道の哲学的研究を行い、彼ら自身に気づかせる必要を認めるのである。今日、彼らがほめたたえる西洋哲学も、果たしてどれも斬新なのだろうか。二千年前のプラトンやアリストテレスの学説が、たびたび繰り返されるのはどうしたことか。それに対して、わが神道がきわめて進歩的であることを知らないのではないか。もともと神道とは、文字どおり神の道である。神は、もちろん古代にも現れたが、同じように現代にも現れ、将来にもまた現れるものである。したがって、その道は日ごとに新しく、日々新しくなる性質を持つ。つまり、創造の後に創造が続き、絶えず創造が行われる道である。神道は、陳腐になろうとしても、なれない道なのである。
神道の外にいる人は、またこう非難することがある。「欧米の学説はきわめて奥深いが、神道の学説は表面的で浅い。浅薄な学説では現代を導くことはできない」と。もちろん、難解な文字を並べ立てたものを見て驚き、それを奥深い学説と言うのであれば、神道は奥深くも深遠でもない。しかし、そのような意味での奥深さや深遠さは、一種の言葉遊びと見て差し支えない。言葉遊びは言葉遊びであり、真理とは関係がない。
そもそも、わが国が世界に比べるもののない国家を組織し、独自の文化を持っていることは、否定できない事実である。そのような事実がある以上、それに十分な理由や根拠がなくてはならない。この理由、あるいは根拠こそが神道であることは、日本人か外国人かを問わず、わが国を少しでも徹底して研究した者なら、たやすく認めるところである。まして、近ごろ欧米、ことにアメリカで盛んに唱えられているプラグマティズム(実用主義)を見れば、なおさらである。これは「真理は、必ず実際の効果を持つものでなくてはならない」と説き、いたずらに難解な文字を並べることを避け、実際の応用を重んじて、思想の上の遊戯を退けているではないか。
実際、ある面から見れば、神道はプラグマティズムである。ギリシャのアリストテレスやドイツのヘーゲルのように、いわゆる難解な文字を使って深遠な学説を説くことを好まない点は、プラグマティズムに通じる。今、シラーの説を見ると、人間の知と行について、四つの見方がある。第一は、知を先に置き、行はそれに従うとする。つまり、行うには、まず知ることが必要だとするソクラテスの見方である。第二は、知と行を別のものとし、知は人間を超えた純粋なものへと進み、ついには神となる、人間の実用的な知識などは劣ったものだとする、アリストテレスの見方である。第三も、知と行を別のものとし、異なる精神作用から生じるとする。ただし、行、すなわち意志の働きを貴いとする。これがカントの説である。第四は、第一の説と反対で、行を先に、知を後に置く。すべて実行から実際的な知識が発達し、理論的な知識はそれに従って発達してくるというのだ。これがプラグマティズムの見方である。神道もまた事実を重んじ、実行を尊ぶ。要は実行にある。どれほど多くの知識があっても、実行に価値をもたらさないものは無用とする。この点からは、神道哲学をプラグマティズムの哲学と言ってもよい。
しかし、プラグマティズムの哲学は、実際にはまだ知に偏っているように思われる。この点で、神道哲学とは十分に一致しない。神道哲学は、こうした見方からいえば、主知説(インテレクチュアリズム)や主理説(ラショナリズム)のように理性や認識を重んじるだけでなく、感情も意志も重んじる。つまり、人間そのものを足場とするヒューマニズム(人本主義)だと言ったほうがよいかと思う。
とはいえ、私たちは、神道哲学がプラグマティズムやヒューマニズムそのものだと言っているのではない。東洋哲学には東洋哲学の特色があり、日本哲学には日本哲学の特色があるのだから、神道哲学をそのままプラグマティズムやヒューマニズムと呼ぶことはできない。ただ、西洋哲学に似たものを求めれば、そう言えるというにとどまる。
要するに、難解な文字を並べ立てることは、一部の人の好みには合うかもしれないが、真理とは関係がない。そのことは、こうした西洋哲学を見ても理解できると思う。
あるいは、宗教的感情の厚い人の中には、「人は信念によって動く。信念は感情に基づく。神道を十分に理解させるには人の感情に訴えてこそ実現できるので、神道を哲学的に研究することなど無益だ」と主張する人もいる。もちろん、人は感情の動物とさえいわれるほど、感情によって動くことが多い。しかし、人間の活動の源となる信念は、感情だけからできるのではない。その人が持つ観念や概念も大きく関係している。そこで私たちは神道を哲学的に研究し、人間の精神のあらゆる面から、日本哲学の真髄を明らかにしようと努めるのである。
近ごろのわが学界を思うと、思想の研究は盛んに行われ、文化運動がしきりに唱えられ、まことに前例のない壮観を見せている。しかし、その実情を深く観察すると、残念ながら、西洋文化の翻訳、西洋思想の模倣と言わなくてはならない。もちろん、陸海軍の制度や産業振興の仕組み、そのほか文学・科学などの学術や技芸を模倣し、翻訳することは、決して悪くないばかりか、大いに奨励してもよい。ただし、わが国の成立の根本にある思想に至っては、断じて、わが国固有の独自のものに基づかなくてはならない。この根本思想までも模倣するようでは、国民は永久に欧米を師とし、永久に欧米の後を追わなくてはならなくなる。大和魂を持つわが国民に、そのようなことが耐えられるだろうか。
以上の点から、私たちは神道哲学を大いに研究して、その真髄を自らの精神とし、西洋文化を日本化して、その肉体とするような、わが国民独自の人生観・世界観を切り開く必要があるのである。
第二節 哲学とは何か
神道哲学というと、まず第一に起こる問題は、「哲学とは何か」ということである。ホッブズはこの問題を説明して、「哲学は、原因によって物体を説明する学問だ」と言っている。ユーベルヴェークは「哲学は諸原理の科学である」と言い、スペンサーは「哲学は完全に組織された知識である」と言う。先年わが国を訪れたアメリカのラッドという学者は、さらに詳しく、「哲学は、究極の実在に関して、さまざまな科学が仮定したり設定したりした、もろもろの原理を、発展的・合理的に体系づけたものである」と説明している。学問は多いが、哲学ほど、多くの学者によってさまざまに解釈される学問は、それほどないと思われる。そこで私は、哲学の起源から説き、その意味を明らかにしようと思う。
天では、太陽・月・星が、はるかな昔から姿を変え、東西南北に現れたり沈んだりして、尽きることがない。地には川や海、山々があり、あるものは激しく流れ、あるものは高く低く連なっている。人はその間に生まれ、社会をつくり、国家をつくる。万物のありようは、実に複雑である。そうした中で、君臣や親子の関係が生まれるのはなぜか、夫婦や兄弟の関係が生まれるのはなぜか、また、鳥や獣はなぜ活動し、魚や亀はなぜ泳ぐのか。朝から晩まで、そうしたものと関わって暮らしていても、少しも注意を向けなければ、不思議も驚きも感じない。しかし一度それらに思いを向け、立ち止まって深く考えてみると、いったいどういうわけでこうなるのかと、さまざまな疑問が湧いてくる。ひとつ、その説明を試みようと思うのが、哲学なのである。哲学は、人が思うほど深遠で高尚なものではない。ごく当たり前のことを考察するものであって、誰もが一種の哲学的な考えを持っているのである。
また別の面から見れば、私たちには、生まれつき物事を知りたいという思いがある。物事を究めてみたいと思う。分からないことがあると、奥歯に物が挟まったような気持ちになるものだ。たとえば新聞に分からないことがあれば、辞書を引いたり人に尋ねたりする。「ねえ君、この間、新聞にこういうことが出ていたが、あれは何だい」と、すぐに聞いてみる。子どもが「お父さん、あれは何、これは何」と次々に尋ねる。これはどれも、物を知りたいからである。中国の朱熹という人は、四歳のとき、空を指して父に「これは何」と尋ねた。父が「天だ」と答えると、「天の上には何があるの」と聞いた。それで父は「不思議なことを尋ねる子だ」と言ったという。一般に人は、先ほど述べた山川草木が存在する根源や、鳥獣・虫・魚が存在する理由、その原因を知りたがるものである。私たちは親に孝行し、君主に忠節を尽くさなければならない。これは当たり前だとされるが、なぜ親に孝行し、君主に忠節を尽くさなければならないのかを究めたがる。このように天地の万物に驚きを覚え、そうなる理由を知りたいと思って、初めて研究してみる気になる。それはこういうわけだ、ああいうわけだと、自分で説明できるか、あるいは説明してくれる人がいて、初めて満足する。こうして私たちは哲学に入っていくのである。だからアリストテレスは、「古今を通じて、人は驚きによって哲学を志すものだ」と言っているのである。
さらに、「哲学」という言葉に目を向けてみよう。もともと哲学は、フィロソフィー(Philosophy)の訳語である。そしてフィロソフィーは、もとはギリシャ語のフィロソフィアから来ている。フィロソフィアは、知を愛すること(love of wisdom)を意味する。すでに述べたように、人間が知識に対する自然な欲求を持つことは否定できない。したがって、古代ギリシャで哲学という言葉が成立するまでに、さまざまな歴史があったにせよ、その根本に知識を愛する思いがあったことは明らかである。物を求め、それに心を寄せるのが愛であり、物事の真実の姿を知るのが知識である。だから哲学は、何も難しいものではない。私たちが日々接する物事の本当の姿を知ろうとする学問、それが哲学である。哲学は難しい特別なものではなく、ごく普通のもので、誰にも分かるものなのである。
第三節 常識と科学
前節で述べたように、私たちは、さまざまなことを知りたいという強い欲求を持っている。そこで、すぐに常識に頼って説明を求める。さて、常識や哲学という言葉は、新聞など、どこにでも出てくるから、よく分かっているように思えるが、実際には案外分からないものである。哲学・常識・理想・連想などという言葉は、普通の人もいつも使っているが、その意味となると、ちょっと分からない。「理想」や「連想」といった題が、中等教員の国語漢文の検定試験などに出ることがあるが、いろいろな答案が出るそうだ。「連想の『連』は連絡の連、『想』は思想の想、だから、こちらの思いを向こうへつなぐことだ」といった説明をする。国語の学者は、『古事記』や『土佐日記』のような古いものだけでなく、今の国語も知らなくてはならない。国語の学者に限らず、現代の人は、もちろん現代の言葉をよく知る必要がある。ただ、今は国語の話をしているのではないので、この話は脇へ置こう。常識とは、英語のコモンセンスを訳したもので、コモンが「常」、センスが「識」に当たる。普通の意識、つまり私たちの普通の心の働きである。「普通」とは、一般の人が皆持っているということだ。たとえば「あの人が亡くなった、どこそこの太郎兵衛が亡くなった」と聞いて、「それはお気の毒だ」と言う。それが普通の意識の働き、常識の働きである。ところが「あいつが死んだって、それはよかった」などと言う人もいるが、これは一般の場合には、普通の意識の働きではない。よく「常識で判断したまえ」と言うが、それは、普通の人が持っている心の働きで判断せよ、ということである。たとえば月を見る。月の中に黒いものがある。「あれは何だろう」「うさぎが餅をついているのだ」「そうか、大きなうさぎだな」と言う。幼稚な説明ではあるが、やはり常識であり、ただ常識の程度が低いだけなのである。「ねえ君、この小刀は、なぜこんなにさびたのだろう」「床の下に落ちていたから腐ったのだ」と説明する。鉄の小刀が腐ったと言うのも、同じような常識による説明である。漁師が、明日は風だ、雨だとよく言い当てるのは、必要に迫られて天候を見るからである。これらは皆、常識で見ているのだが、その常識は科学や哲学とどう違うのか。漁師の天候の判断は、たいてい間違わない。しかし、その漁師を山国へ連れてきて、明日の天気はどうかと尋ねても、なかなか当たらない。当たらないのは当然である。漁師は、自分が住む海辺の地形に即して、風がどうだ、あの山の雲がどうだと、土地の様子について長年経験を積んだから、よく当たるようになったのである。山国へ来れば、四方八方が山ばかりで、目安にしていた山もないから、当てられない。ところが東京の天文台の先生を連れてくると、どんな山国でもたいてい当たる。西洋でも中国でも、たいてい間違わない。常識には、ときおり間違いがある。天文台の先生は常識ではなく科学で判断するので、間違いが少ない。間違いがないとは言わないが、まず少ない。同じ天気を見るにも、漁師と天文台の先生では違うように、常識で見ることと科学で研究することは違うのである。そもそも、私たちは常識による判断だけでは満足できない。月の中でうさぎが餅をついている、鉄の小刀が腐敗する、というだけでは満足できない。それを研究してみるのが科学である。科学とは、この宇宙の事物の現象に関する知識であり、いわば哲学の初歩である。さらに一歩進んだものが哲学である。科学は哲学へ入る門で、哲学は科学の奥の間である。だからといって、哲学が深遠だというのではない。身近な門から入れば、身近な奥の間へ上がれる、ということである。
原刊十五頁の天文台の説明には「間違が少くない」とあるが、直後に「無いとは言はぬが先づ少ない」と続く。前後の文意から、ここでは「間違いが少ない」と訳した。
第四節 太古の哲学
このように、科学は、普通の常識では満足できず、一つ一つを究めて、どこででも応用できる研究をしたいと考え、その研究から生まれる。ところが太古には、科学も、そこから入っていく哲学も、きわめて単純で、それがいわゆる伝説として現れている。もともと、この伝説というものは、当時の民族の文化の精華を集めたものである。もちろん、その哲学や科学が、現代のそれらと同じだとは言えない。つまり、伝説には、当時の文明の精華がことごとく集まっているのである。言い換えれば、伝説には当時の哲学・科学・歴史・道徳・宗教といった、あらゆるものが含まれている。
伝説は当時の哲学だといっても、昔の伝説と現代の哲学を比べれば、大いに違う。違う点を述べれば、次のようになる。含まれる知識の程度に著しい違いがあることは、ことさらに言うまでもないが、それ以外にも、伝説には想像がかなり入り込んでいる。現代の哲学は、理論や理屈を追究している。伝説は太古にできたものなので、誰が作ったかがはっきりしない。つまり、その民族全体で作ったものと理解される。哲学も、もとより、その民族が経験してきた時代の精神を土台にするが、外から見ると、一個人の産物のようである。そのため、哲学には誰それという名がついている。西洋ならアリストテレス、カント、スペンサーの哲学、日本なら伊藤仁斎、荻生徂徠、本居宣長、平田篤胤の哲学というように、皆その人の名がつく。伝説には、誰の伝説ということはない。おおよその区別は、まずこのようなものである。そして伝説が発達すると、さまざまなものになってくる。すなわち、
伝説
知の方面へ発達する → 哲学・科学
感情と意志の方面へ発達する → 宗教・道徳
このような形になるようである。伝説が発達して、知の方面、つまり、さまざまな事物を知りたい、研究したいという方面が発達すると、哲学や科学となる。感情と意志の方面、つまり、安心して生きるよりどころを求め、良心の満足を求める方面が発達すると、宗教や道徳となるのである。
第五節 宗教・科学と哲学
哲学と宗教にはどのような違いがあって、それぞれの名がついているのだろうか。宗教とは、結局、私たちを超えるもの、すなわち人間以上のものを認め、それに従い、安心して暮らしていくあり方をいう。それと哲学をどう区別するかといえば、どちらも、もとは同じ伝説から出たものだから、厳密には区別できない。しかし今日の学者は、次のように区別している。まず、成立させた主体が違うという。宗教を築いた者と、哲学を築いた者が違い、宗教は民族的にできたのに対し、哲学は一人の人が唱えたものだというのである。宗教ではヨーロッパのキリスト教、ユダヤのユダヤ教、インドの仏教などと言うのに対し、哲学では誰それの哲学と言う、という区別である。しかし、これもあまり当たらない。仏教は釈迦、キリスト教はキリスト、ペルシャの宗教はゾロアスター、イスラム教はムハンマドというように、やはり一人の人が始めている。哲学で誰それというのと同じことである。また、宗教には神秘的な傾きがあり、想像的で、詩的でもあるのに対し、哲学は方法を備え、体系的で、全体を統括するものだ、というのも学者の立てる区別である。これは大まかな区別であり、もともと両方とも伝説から来ているのだから、はっきり分けることはできない。ヘーゲルの哲学とキリスト教のような宗教なら、このように区別できるが、仏教などには当てはまらない。仏教には神秘的な面もあれば、哲学的な面もある。もともと、宗教も哲学も、ともに世界観・人生観を立て、人間の精神的欲求を満たそうとする点では、少しも違わない。ただ、知の方面へ傾く人は哲学に満足を求め、感情や意志の傾向が強い人は、宗教に帰依して慰めを得ようとするのである。こういうわけで、動物と植物を根本から区別できないのと同じように、宗教と哲学も、根本からは区別できない。そこで今は、ただ、その傾きによって区別するだけなのである。
科学については先にも触れたが、もう少し述べてみよう。今日、「科学」という言葉は非常によく使われ、科学万能とさえいわれるほどである。少し学問をすると、すぐ科学と言う。口ではよく言うが、科学とは何かを説明せよと言われると、すぐには答えられない人も少なくない。では科学とは何か。私たちは、さまざまなありさまを見て、それを知りたいと思うが、常識では満足できない。そこで常識から一歩進み、研究しようとする。それが科学である。先に述べたように、海辺の漁師は常識で判断するが、天文台の先生は天文学によって判断する。これが科学である。電車が縦横に走る。電車を作るのは、電気工学という科学である。常識でいい加減に作ったのでは、いつまでたっても動かない。トンネルを掘るのは土木工学である。常識で適当にやれと言って掘ったら、間違って、両方から掘り進んだ穴が行き違ってしまう。少しも食い違わないのは、科学を応用するからである。こういう科学は何かといえば、それほど難しいものではない。私たちの普通の知識を整理したものにすぎない。ここに事実というものがある。雨が降る、水が流れる、腹が減る、頭が痛む、眠くなる、子どもが生まれる、鳥が鳴く。これらは、すべて事実である。たくさんの事実の中から、同じ種類の事実をできるだけ多く集め、実験し、観察し、統計によって調べ、そこから得た知識に秩序を与えて、統一的に組み立てたもの、それが科学である。たとえば、人が怒る、泣く、注意を向ける、同情する。これらは、すべて人の心に関する事実である。これをたくさん集め、その状態や法則を研究して生まれるのが、心理学という科学である。雨が降る、雷が鳴る、水が凍る、火が燃えるといった物理的事実がある。それらを集め、その状態や法則を研究したものが、物理学という科学である。水は冷たくなると凍り、熱すると蒸発する。これは事実である。水は凍るというが、ひとつ実験してみようと、零度にしてみると、なるほど凍る。熱してみると、やはり蒸発する。これが実験である。しかし、実験できないものもある。地球が動くというが、これを一度止めて、それから回してみるということはできない。日食を人工的に作ってみることもできない。こうしたことは、観察によるほかない。観察とは、あるものに注意を向けることだ。たとえば、時計の打つ音を聞いていても、意識していなければ分からないが、注意して数えれば何時か分かる。これは耳で聞く場合だが、見る場合でも聞く場合でも、よく注意を向ければ、やはり観察である。このように、同じ種類の事実について実験や観察をし、さらに統計を取る。こうして確かな知識を得るのであるが、それがばらばらではいけない。観察・実験・統計の結果を一つ一つ分類し、体系的に、秩序よく総合しなければならない。これが科学である。科学というとたいへん難しそうだが、それほど難しいものではない。では、その科学と哲学はどう違うのか。心理学・物理学・医学があり、医学の中にも解剖学・内科学・外科学など、数えきれないほどの区別がある。しかし要するに、それらは私たちの目が届き、耳で聞けるところにしか及ばない。たとえば、水が凍る、湯が沸くといった事実について述べるだけで、人間とは何なのか、そうしたものが実際に存在するのか、それとも空想ではないか、といったことには、一切関わらない。それを科学よりさらにさかのぼり、水が水である理由、人が人である理由を研究する。それが哲学である。同じ事柄を見ても、哲学は一歩進んでいる。西洋には、哲学を「科学の科学」と呼ぶ人もいる。あらゆる現象を、一歩さかのぼって研究するのである。常識では満足できない私たちは、研究する人そのもの、研究されるものそのもの、その因果関係や時間・空間などを、すべて存在すると仮定して研究する科学だけでも、満足できない。ここで、哲学へ踏み込むのである。
そこで哲学とは、科学が研究したもろもろの原理・原則を材料に、世界と人生の根本原理を究めようとするものである。ヴントは、「哲学は、個々の科学から与えられた一般的な知識を、少しも矛盾しないように一つの体系へ組み立てた科学であり、いつの時代、どこの場所に当てはめても食い違わないものだ」と言っている。シジウィックも、同じようなことを言う。すなわち、「哲学とは、さまざまな科学や、秩序立ったさまざまな思想の原理・方法・重要な結論を、互いに比較し、考究することで、できるだけ高度な統一の体系を得ようとする研究である」という。要するに一言で言えば、哲学は宇宙や人生の根本原理の研究にほかならない。
以上のように、哲学は、あらゆる事物の根本原理を研究するものである。あらゆる事物というのだから、その研究範囲がどれほど広いか想像できるだろう。したがって、研究するには、まず正確に分類し、どのように研究すべきかを定めなくてはならない。ギリシャの哲学者プラトンの哲学は、弁証法・物理学・倫理学に分かれ、弁証法では論理学と形而上学を、物理学では精神界や物質界などを、倫理学では人生を研究した。近世の学者ベーコンも哲学を三つに分け、自然哲学・人生哲学・神学とした。自然哲学には自然科学や形而上学を、人生哲学には倫理学や政治学を含め、神学は自然神学と啓示神学に分けた。ところが近ごろの学者になると、哲学の分類はいよいよ複雑になってきた。しかし私は、これを認識哲学・自然哲学・人生哲学の三つに分けるのが最もよいと思う。そして、自然哲学で世界観を定め、人生哲学で人生観を研究するのである。
第六節 日本哲学
そこで私たちは、わが国の哲学の研究に取り組もうと思う。こうして、わが国の哲学と言うと、次のように論じる人がいる。今日、文化はきわめて栄え、学術も大いに振興した。その結果、哲学も盛んになったが、日本固有の哲学だとか、わが国の神道哲学などと言うのは、たいへんおかしなことである。日本には、もともと哲学というものが存在しない。仮に哲学のようなものがあっても、それはすべて中国やインドから輸入したものであり、日本固有のものではない。日本の哲学はインド思想や中国思想の系統に属し、日本独自の思想の系統はない、と主張するのである。しかし、よく考えてみれば、哲学は先にも述べたように、人間が自然に受ける外界からの刺激と、その知的欲求から生まれたものである。人間は哲学によって宇宙の真理を発見し、精神の求めを満たそうとする。こうして哲学は文明の根底となり、文化の発展の源となる。したがって、古くから国民として発達し、独自の文化を進めてきた民族なら、何らかの形で哲学が発達していないことはない。古来、東洋に国を立て、早くから文化を発達させてきたわが帝国に、固有の哲学がないなどと言うのは、あまりに考えの足りない話だと思う。もちろん、論理学・認識論・自然科学などを基礎に立てたものでなければ、断じて哲学ではないと言うのであれば、「日本に哲学はない」と言ってもよいだろう。しかし、その立場を貫けば、西洋の哲学でも、古代や中世のものは、ほとんど哲学としての価値を持たなくなる。ところが、ただ万物の根本は水だと主張したタレスを西洋哲学の始祖とし、宇宙の本体は無極だと唱えたアナクシマンドロスを、その開祖の一人とする。そして、そこに論理学・認識論・自然科学が含まれているかどうかは問わない。それなのに「古来、日本に哲学はない」などと言うのは、はなはだしい矛盾ではないか。試みに、昔からわが国に現れた学者や思想家の学説を、詳しく調べてみるがよい。西洋でいう唯物論・唯心論・神秘論・唯理論・楽天主義・厭世主義などに当たるものを、どれも指摘できるではないか。仮に一歩譲って、わが国の哲学思想が中国やインドの思想の影響を受けて成立したとしても、ギリシャ哲学もエジプトやフェニキア、そのほか西アジアの思想の影響を受け、近世ドイツ哲学もイギリスやインドの思想の影響を少なからず受けているではないか。だから、日本の哲学が中国やインドの思想に負うところがあっても、日本の哲学であることには、何の差し支えもない。もともと、世界の原理には東西の別がなく、人生の真理には自他の違いがないはずである。それを普遍的で、永遠に一つだと呼ぶことができる。このように真理に国境はなく、原理に時代の違いはないが、その真理が、区別のある個々の世界に映し出され、その原理が現実の世界に現れるときには、風俗や習慣の影響を受け、土地や気候に左右され、国民固有の性向に制約される。そのため東西や国々の間に著しい違いが生じ、学問として現れるとき、一つの特色を帯びるのは、まことに自然な成り行きである。そして、わが国民は古くから、日本人として一種の特色を持つ、いわゆる日本固有の哲学、すなわち神道哲学を生み出してきた。この日本固有の哲学思想が、国民一般の思想の基礎となり、精神の根底となってきたのである。西洋哲学がいくら整理され、発達していても、そのまま輸入して、国民の求めを十分に満たすことはできない。ただし、中国の哲学でもよく、インドの哲学でもよく、西洋の哲学も、もとより悪くはない。いずれも、この固有の思想を基礎に据え、この思想を根底にして組み立てられてこそ、初めてわが国家・社会の求めを満たすことができる。それは、そのものが日本の哲学となるからである。こうして、昔から中国の哲学も日本に入って日本の哲学となり、インドの哲学も日本に入って日本の哲学となって、わが国の文明の進歩と国運の発展に貢献し、今日に至ったのである。今や、発達した西洋哲学が、波のように勢いよくわが国へ入ってきている。私たちは、数千年にわたり練り上げてきた固有の思想を研究し、それを基礎に西洋哲学を日本化し、これを用いて、新たに大きな哲学体系を組み立てなくてはならない。これこそ国民の大きな任務である。ただ、彼らの飲み残しをすすり、かすをなめるようなあり方は、私たちが取るべきものではない。
第七節 日本哲学における神道哲学の位置
そもそも日本の哲学には、すでに述べたように、中国の思想が入って日本の思想となったものもあれば、インドの思想が入って日本の思想となったものもある。また、その間に立って、わが国固有の思想が発展したものも大いにある。したがって、日本哲学は、たいへん複雑なものとなっている。しかし、イギリス哲学がいかにさまざまに変化しても、経験論がその思想を貫き、大陸の哲学がいかに多くの変動を経ても、常に合理論へ傾いて特色を示すように、日本哲学も、動かしがたい固有の思想を持っている。あらゆる外国の思想を日本へ取り入れ、同化させる場合にも、いつもその特色を発揮しているのである。そして、その特色が最も純粋に発達して、大きな体系をなすのが神道哲学である。それに次ぐものとして、武士道哲学、心学哲学がある。また、外国から思想を取り入れ、日本で同化した哲学には、もちろん儒教哲学・仏教哲学・道教哲学などがある。これを図にすると、次のとおりである。

日本哲学は、次の二系統に分かれる。
日本固有の思想が発展したもの――神道哲学・武士道哲学・心学哲学。神道哲学は、惟神神道哲学・仏教的神道哲学・儒教的神道哲学に分かれる。
外国の思想が日本化したもの――儒教哲学・仏教哲学・道教哲学。
この図で分かるように、日本の哲学の中で、わが国固有の思想を最もよく代表するのは、まさに神道哲学である。そこで私たちは、日本固有の思想を研究するため、それを代表する神道哲学を研究しようとしている。神道哲学は日本の哲学であり、もちろん日本固有の思想の上に成立している。日本固有の思想は、太古には、すでに述べた事情から、主として伝説として表されていた。その伝説が神道の根底になっているのだから、神道哲学の研究では、何よりもまず、伝説に基づかなくてはならない。
第八節 神道哲学と伝説の研究
わが国の伝説は、さまざまな方面から研究できる。神道の方面、武士道の方面、心学の方面、神話学の方面、純粋な歴史研究の方面、まずはこのくらいである。神道の方面では、伝説を神道として研究し、人間の知的な求め、感情の求め、意志の求めに応じようとする。しかし、この方面にも、多少の偏りがあることは免れない。そのため、惟神神道としての研究、仏教神道としての研究、儒教神道としての研究に分かれてくる。また、武士道の研究法では、従来の武士階級に最も適するように研究されており、心学の方面では、商業に従事する人々にとって、特にその行動の規範となるように研究されている。しかし、この武士道と心学の研究は、どちらも人間の意志の求めを満たそうとするもので、とりわけ一方に偏っている。次に、伝説を世界各国の神話と同じものと見て、科学的に研究しようとする立場がある。これが神話学による研究である。また、純粋な歴史研究として伝説に向き合おうとする立場もある。しかし、この二つは、どちらも主として人間の知的な求めを満たそうとするもので、やはり十分とは言えない。これを図にすれば、次のようになる。

日本固有の思想=伝説。
人間の求め――理性・感情・意志の三つ。
研究法――純粋な歴史研究、神話学による研究、神道としての研究、武士道としての研究、心学としての研究。
原図は、この三つの求めと五つの研究法の関係を、実線と破線で結んでいる。
同じ日本人といっても、理性に傾く人もいれば、感情に傾く人も、意志に傾く人もいる。そのため、日本固有の伝説の研究にも、武士道的、心学的、純粋に歴史的、神話学的というような、さまざまな区別が生まれる。しかし私たちは、神道としての研究、なかでも惟神神道としての研究が、知・感情・意志に関わる私たちの求めに最もよく応じると認めて、神道の方面から研究を進めたい。そして、それを、神道哲学の完全で体系的な組織の根底に据えたいのである。
第二章 神の意味
第一節 伝説と「神」の字義
わが国固有の伝説は、神という観念から始まっている。ある意味では、その伝説は今も生きて働き、限りない生命を持って発展している。その内容は、すべて神々の活動の歴史だとも言える。したがって、伝説を根底として研究する神道哲学は、まず神とは何かを明らかにするところから始めなくてはならない。そこで、「神」という言葉はどのような意味を持つのかが問題となるが、昔から学者の間にはさまざまな解釈がある。たとえば、「神」は「鏡」や「鑑」という言葉が縮まったものだと解釈する学者がいる。忌部正通は、「カミ」は「カムガミ」の略であり、「カガミ」も、結局この「カンガミ」から出たものだとする。その意味は、神の心は明鏡が万物を映すように、何一つ見落とさず、わずかな塵も受けない、というように説明している。また僧の契沖は、「カミ」は「カガミ」の略で、「ガ」が省かれたものだと主張する。谷川士清は「明見(アカミ)」の「ア」が省かれたものと解釈し、神が明らかに照らして見守ることから、この名が生じたという意味に理解している。国語の学者が、このような解釈をする一方で、中国風の解釈を試みる者もいる。中国風というのは、中国では「徳は得なり」「仁は人なり」「義は宜なり」「天は顛なり」というように、音の近い言葉によって意味を説明するからである。この方法を取り入れて、「神」という言葉を解釈しようとするのが儒学者の説である。一、二の例を挙げると、貝原益軒は「神は上なり」と言っている。「カガミ」の「ガ」を略したという説が誤りであることは、『直指抄』にも見えるという。鏡がまだできないころから、すでに神の名はあった。「上」という字の正しい訓を取らず、鏡に結びつけてこじつけるのは、すべて間違いだというのが益軒の説である。伊勢貞丈もこの解釈を取り、「神をカミと言うのは、上という意味だ。尊ぶべきものだから、上にいらっしゃるという名で、カミと呼ぶ」と説明している。新井白石も、同じ種類の見方をする。白石の説では、神とは人である。日本の習慣では、およそ尊ぶべき人を神と呼ぶ。古今の言葉は同じだから、この「神」は尊称の意味に取れる。後に漢字を借りて書くようになったので、神と記したり、上と記したりする違いが生じたが、昔は、どちらもただカミと言ったのである。これらの学者の説は、いずれも神を「上」の意味で解釈しようとするものだ。では、神道の学者はどう解釈していたのか。本居宣長は、神という言葉には昔からさまざまな説があるが、納得できるものはどうもない、しかし自分にも、まだまったく考えがつかないと言って、特に説を立てていない。その門人の平田篤胤は、まだ若いころ、『霊能真柱』という神道の書を書いた。その中で、「神」は「カビモエ」という言葉が音を変え、省略されたものではないかとする。なぜかといえば、可美葦牙彦舅神という神は、物事が成り始めたときに現れた神だから、「神」といえば、この可美葦牙彦舅神をもとに言ったように見える、というのである。このように、可美葦牙彦舅神という神から「カビモエ」という解釈を取り出し、それが音を変え、縮まって、「カミ」ができたと説明した。ただし、このときはまだ疑いが強く、「ではなかろうか」といった言い方をしていた。ところが後に、生涯の心血を注いで『古史伝』を著すに当たっては、この言葉こそ、あらゆる言葉の中で最初に理解しておかなくてはならないと述べる。そして「神」のもとは、『日本書紀』の冒頭にある「天地がまだ分かれず、陰陽も分かれず、鶏卵のように混沌とし、ほの暗い中に芽を含んでいた」という、その「牙(芽)」だとする。昔はこれを「アシカビ」と読んだが、それは誤りであり、「キザシ」と読むのも十分には当たらない。「カビ」と読まなくてはならない、というのである。この「カビ」の「カ」は、「彼」の意味で、物をそれと指して言う言葉である。「ビ」は転じて「ブ」となり、「加夫」となり、さらに「加牟」にもなる。そして「ビ」の意味は、まことに霊妙なものをいう。このような解釈である。そのほか、平田の学説を受け継いだ美甘政和は、「カ」は「カスミ・カゼ・カヲル・カスカ・カクル」などの「カ」であり、「ビ」は「奇霊(クシビ)」の「ビ」で、霊妙という意味だとする。鈴木重胤は「ミ」のほうを、精霊というような意味に解釈している。
第二節 「神」の観念
以上の「神」という言葉の解釈をまとめると、神には、おおよそ三つの見方があると分かる。政治の立場から見れば、益軒や貞丈のように、「上」という字で解釈し、上にいらっしゃる人だと説明する。宗教の立場から見れば、やはり平田流の、霊妙なものという意味になる。道徳の立場から見れば、忌部正通の一派のように、神は鏡のように万物を照らし、私たちの心の善いことも悪いことも、すぐ神に映るのだとする。神がそのように照らして見守っているのだから、いつも善いことをし、悪いことをしてはならない、という解釈がついてくる。しかし神道は、政治・宗教・道徳というような、一つの方面だけに限られた道ではない。だから、ある一面を中心として「神」を解釈しようとすると、非常に難しくなる。近ごろは、モンゴル語などを研究し、「カミ」の語源をそこに求める人もいる。しかし神という観念は、西洋の学者が、人間に先天的にある、つまり生まれつき備わっていると言うほどのもので、世界のどこに住み、どの人種に属していても、その存在が認められる。もちろん、非常に発達したものと、きわめて幼いものとの違いはあるが、何らかの神のような観念を持たない人種は、まずないと言ってよいだろう。こうして「神」に当たる言葉は、さまざまな人種に共通してあり、生まれつきのものともいわれるほど古い言葉である。そのため、今日の国語研究者がいろいろな方面から研究しても、「神」という言葉を正しく説明するのは、なかなか困難だと思われる。十分に納得できる解釈を得るのは難しいだろう。ただ、「神は上である」という説は採用すべきものに思える。この「神」と「上」は同じだという解釈は、語源の研究というわけではない。語源ならば、「カミ」がどんな根本から出たかまで、さかのぼらなくてはならない。しかし、ひとまず「神」は「上」と同じだとする説が、最も穏当だと思う。つまり、上にいらっしゃるものを神と呼ぶのである。今日でも朝廷を「オカミ」といい、長官を「カミ」という。昔も伊予守・武蔵守などと言った。「頭」「長」「守」は皆同じ意味で、ただ漢字を当てたために違う字を書くが、「カミ」ということでは同じだろう。これに反対して、「神」と「上」には音の高低、いわゆるアクセントの違いがあるから、同じではないと言う人もいる。なるほど、日本語では垣・柿・牡蠣はどれもカキだが、アクセントが違う。「カキを食べました」と牡蠣のアクセントで言えば、柿を食べたと思う人はいない。逆に柿のアクセントで言えば、牡蠣だと思う人はいない。よく挙げられる橋・端・箸も、どれもハシだが、音の高低で意味が変わる。「神」と「上」にも、鎌と釜のような違いがあるというのである。確かに鎌と釜は違い、神と紙も違う。しかし「神」と「上」には区別がないように思う。そこで私は、まず、わが国の神の意味は「上」から来ていると解釈したい。そして、先に挙げた忌部正通流や平田篤胤流の説も、この意味に含めて、上にいらっしゃる方は、おのずと霊妙な徳を備え、おのずと下にいる者を照らし見守る、と説明すればよいと思う。今日の事実を見ても、長官などは、やはり部下より優れている。もちろん、長官にも凡人がいる場合はあるが、それは例外で、一般には、長官になる人には学問の素養が豊かにあり、徳も高い。だから部下が、このくらいのことをしても長官には分からないだろうと、ごまかそうとしても、長官はよく見抜く。これが、照らして見守るということである。部下から見ると、まるで神のように思える。優れた人と比べると、知恵が足りないだけで、これほど違うものかと思うほど、愚かな人は同じことをするにも遠回りし、たいへんな時間・労力・費用をかける。ところが賢い人は、すぐにやってしまう。数学などでもよく分かる。大きな川の向こうに、大きな木が一本あるとしよう。その木の高さは何尺あるか、こちらから測ってみよと言われても、普通の人にはできない。できても、いろいろな苦労がいる。しかし数学に優れた人は、平気でやってしまう。何丈何尺あると答え、疑って実際に測ると、確かにそのとおりである。数学を知らない人には、まるで神のように思える。このように、あらゆる方面で優れた人が神になるのである。これは知識の面で見たが、道徳の面でも、たとえば、朝早く起き、堅い忍耐をもって働き、慈愛の心に富む人などは、普通の人からは神のように見える。普通の人には及ばない。乃木大将などが、その一例である。学問という点では、乃木大将の学問は、それほどではないと思われる。軍人ではあるが、軍略や戦略となると、若い中佐や大佐で、海外で大いに研究して帰ってきた人に比べれば、大将のものは古く、比較にならないかもしれない。それでも乃木大将が、大きな価値を持ち、一般の人々から尊崇されるのは、結局、その人格が優れているからである。人格は誰にも、等しく備わっているが、その人格には、はなはだしい優劣がある。優れた人格は神と同じ、いや、神そのものである。乃木大将は、生きているうちから、国民に神として尊ばれていた。要するに、どの面から見ても、上に位置するものが神であり、上に位置する者は徳が優れている。その徳が優れたものこそ神なのである。わが国の伝説には、狐も狸も狼も、皆、神となっている。しかし、こうしたものは、当時の下層の人々が、その力には人間が到底及ばないところがあると見て、神としたのである。当時すでに神であった方々までが、そのようなものを神としたわけではない。神道で神というのは、結局、上にいらっしゃるものを神というのである。
第三節 「神」の観念の主観的な起源
こうした神の観念は、先に述べたように、西洋で先天的と言うような形で、私たちの内に自然に起こってくるものである。日々忙しく暮らし、心がいつも外の物事へと次々に向いているときは、私たちは平気でいる。しかし、たとえば真っ暗な晩に学校などの広い建物へ行くと、何となくある種の存在があって、神秘的に、こちらへ何かの力を加えてくるように感じる。そのような感情が人間にはある。肝試しなども、こうしたところから行われるのである。この感情は、実際、多くの人が経験している。過去の経験を思い返してみると、ばたばたと日々の暮らしに追われているときは何でもないのに、病気で一室に閉じこもって寝ていたり、暗い夜に知らない道をたどっていたりすると、目には見えず、耳にも聞こえない大きな力があって、それが私たちに働きかけているように感じることがある。これを西洋では「実在の感情」と呼んでいる。実際に存在するものの存在を感じるのである。家がある、山がある、川があると思っても、瞑想に入れば、家も川も見えない。すべてのものが見えなくなる。ここに立派な金銀財宝があると思っても、瞑想している間には、その存在を認めることはできない。しかし、それらとは別に、確かに実在する何ものかがあって、私たちに力を及ぼしているという感情、そのような感情が私たちにはある。
第四節 「神」の観念の客観的な起源
主観の側では、このような感情が私たちの内にあるが、客観の側を見ると、天地のあらゆるものが、このように秩序正しくできている。春夏秋冬は時を違えずに巡る。私たちの体を見ても、不要なものは次第に取り除かれ、役立つものは、いっそう発達していく。たとえば、人間も昔は尾を持っていたというが、今はない。なぜないかといえば、結局、私たちには必要がないからである。犬や猫には、いろいろな点で尾が必要だ。犬などは尾を動かして感情を表す。喜べば尾を振り、恐れていれば下げる。そのように必要なのである。馬の尾も、ハエなどを追い払うための道具として必要であり、外見を飾る道具にもなっている。それらの動物には、こうした必要があるが、人間は服を着るので、尾は要らない。ハエが止まっても、尾で追う必要はないし、尾を使って表情を示す必要もない。どの面から見ても、尾は不要となる。そこで、世界のむだを省く仕組みによって、次第に尾がなくなってきた。しかし、今、尾がないからといって、人間には昔から尾がなく、祖先以来なかったものだなどと言えば、大いに恥をかく。比較解剖学によって調べれば、確かな証拠が出てくるからである。腰の周りには、ある筋肉がある。今は不要な筋肉である。何のためにあるのか、専門家が調べると、まぎれもなく、昔、尾があったときに、それを動かした筋肉なのである。それが幸か不幸か残っている。これが証拠なのだから、どうしようもない。また、耳を動かす筋肉もある。昔は耳を動かした。しかし今の人間は、どの方角へでも首や体を回せるから、あえて耳を動かす必要はない。馬などは体が大きく、自由に後ろを向くことができないので、耳を動かす。人間にはその必要がないため、筋肉は残っていても、耳を動かさない。時には動かせる人もいるが、それは例外である。そのほか、皮膚を動かす筋肉も残っているという。どうも困ったものだ。昔の人間は、ハエなどが止まると、馬のように皮膚をぴくぴく動かして追ったものだ。しかし今は服を着ており、ハエが止まっても苦痛を感じないので、皮膚を動かす必要がなく、その筋肉は次第に衰えていく。それに対し、脳や手足などは、巧みに発達してくる。このように、必要なものはいっそう発達し、不要なものはいっそう衰える。結局、自然の中で、一種の節約、むだを省く働きが行われているのである。また、別の面から見れば、宇宙には多くの星があって、絶えず巡っている。これほど限りなく星々が巡れば、衝突もしそうなものである。いつだったか、西洋で、翌年のある月日に地球がある星と衝突して砕け、地上のあらゆるものも滅びてしまう、という話があった。財産を残しておいても仕方がない、すべて使ってぜいたくをしておかなくては、せっかく蓄えた金が無益になると言って、さんざんぜいたくをして、その日を待ったという。しかし、その日になっても地球は少しも衝突せず、金は使い果たしてしまったので、たいへん困った、ということがあった。そのようなわけで、地球が衝突するなどと言っても、いっこうに衝突せず、きちんと巡っていく。あらゆる力が、互いに衝突せずに働いている。これを見ると、ここにも何か人間を超えるものがあって、このようにしているのではないか、という考えが、誰の心にも起こらずにはいない。そこに、神という人間を超える存在があるのである。一方では、主観的に自分の心にある種の実在の感情を持ち、また他方では、客観的に万物を見て、どうも人間を超えるものがあって、このようにしているのではないかという感情が生まれる。こうした感情は、とりわけ、今日ほど学問の発達していない古代には強かった。それゆえ古代には、この観念が、たいへん広く行き渡っていたのである。
第五節 古代の「神」の観念
わが国の古代にも、すでに神という観念があった。そのころ、わが国には、すでにさまざまな神々が現れていた。イザナギ・イザナミの二神や、天照大神などの神々が、古代にいらっしゃったのである。同時に、この時代には、無知で道理に暗い下層の人々も、かなり大勢いた。『古事記』や『神代紀』を見ると、昔の人は皆、神のように見え、神代には神ばかりいたように思われる。学者の中にも、そう考える人がいるようだ。神武天皇が東征に出たとき、釣りをしている漁師に出会い、その者が「私は国つ神の何々です」と言う。釣りをしている者も神である。このように、神代のものは何でも皆、神だと考える人もいる。しかし、どうもそうではないらしい。いわゆる神代にも、普通の人々は大勢いた。その証拠に、イザナギ・イザナミの話では、イザナギ尊が、一日に千人を殺すと言い、イザナミ尊は千五百人を産むと言っている。そうすると、差し引き五百人ずつ増えていく計算である。そのほか、天照大神の言葉にも、「青人草」という語がいろいろと出てくる。たとえば、保食神がスサノオ尊に殺されたとき、その体から五穀が出た。天照大神はそれを見て、「これは青人草が食べて生きるべきものだ」と言い、たいへん喜んだ。また、イザナミ尊が黄泉の軍勢を率いてイザナギ尊を攻めたとき、イザナギ尊は桃の実に助けられた。そこでイザナギ尊は大いに感心し、桃の実に、「おまえは、よく私を助けてくれた。この葦原の中つ国の青人草が、苦難に陥って悩むときには、私を助けたように助けてくれ」と言った。このような記述から、そのとき青人草と呼ばれる者が大勢いたと分かる。青人草とは、神代の、いわゆる神ではない人々のことであり、当時は大勢いたのである。その人々から見れば、イザナギ・イザナミ尊や天照大神は、まことに、かけ離れて尊く、優れ、偉大な方々だった。この偉大で優れ、尊い方々を、当時の人々が広く敬い、「お上」として従ったのは当然であり、神とするに至ったのも、自然な順序である。同時に、当時の神々自身も、その権威・崇高さ・偉大さによって、人々の頭となり、長となり、つかさとなり、支配者・統治者となり、さらに主権者となって、ついには自ら神と名乗ったのだと思われる。神の起源は、このようなものであるが、さらに進むと、天地や山川にも霊的な存在を認め、それを主宰する神とするに至った。要するに、神道の神とは、人々の中で優れ、偉大で、尊く、上に位置する方々、また、人々がそのように考えている方々をいう。その結果、神は本来、形のある存在であるはずだが、そう考えられた神には、形のない神も存在しうる。だから、過去に存在した神も、やはり神として尊び、現在の人についても神と言うのである。そして先に述べたように、伝説では、古代の人々は知識も徳も、すべての点で劣っていたので、たとえば狼や虎、狐のようなものでも、ある場合に、自分ではどうにもできないと見れば、すぐ神としたのである。
この節では、底本の神名と配役を保って訳した。底本は、一日に千人を殺すのがイザナギ尊、千五百人を産むのがイザナミ尊と記し、保食神を殺す神をスサノオ尊としている。これらは、原画像にも同じ記述がある。
第六節 神道と「神」の観念
しかし、今日の神道では、古代の人々が信じていたようなものを、そのまま神とするのではない。神道で神とするのは、もっと理にかなった神である。もし『古事記』や『日本書紀』で、そのような動物などが神となっているなら、それは、ある神の霊を象徴するものだと解釈すればよいと思う。神霊を象徴するというのは、たとえば西洋で、死を鎌で表し、希望を錨で、勇気を獅子で、ずる賢さを狐で、謙遜を鳩で、魂を蝶で、罪悪を蛇で表すようなことである。それと同じように解釈すれば、差し支えないだろう。たとえば、稲荷神社には必ず狐が伴うが、狐そのものが稲荷の神なのではなく、稲荷神社の使いなのである。別の理由もあるが、あるいは、その神に愛される獣である。このように解釈していけばよいと思う。これは、伝説をどう解釈するかということである。
第七節 「神」についての私たちの主張
ともかく、神道の神とは、皇室の祖先や歴代天皇、そして、その方々が神としたもの、また、国民が広く神と認めるものである。本居宣長や平田篤胤は、神を神代に限り、神の道も、神代の神の道であるかのように説明している。賀茂真淵も、上代の道、あるいは神代の道として、神道を古代の神が行った道と解釈する。宣長はさらに、私たちが行うべきことは、神代の神々の事績に何もかも含まれ、足りないことはないと言っている。これらの学者は皆、神道の神を神代にだけ求めているが、私は、それはよくないと思う。神代以後の人でも、優れた人、偉大な人、尊い人は、すべて神だと見る。結局、私たちがそのように考えるものが、神道の神なのである。だから、ある意味では、国民はすべて神だとも言える。いずれにせよ、わが国の伝説は限りない生命を持ち、神も、神代と人の世の区別なく、限りなく現れるものだと解釈するのである。そうすれば、神道は、本居・平田の二人の考えより、はるかに広いものとなる。和気清麻呂公も、菅原道真公も、楠木正成公も、皆、神である。和気清麻呂公の言葉は神の言葉であり、その行いは神の行いである。菅原道真公の言葉も神の言葉であり、その行いも神の行いである、ということになる。これは、それらの偉大な人物が、皆、人の上に立ち、国民のために偉大な事業を成し遂げて残し、ついには神として祭られていることから明らかである。ところが、多くの学者は、ここまで考えず、神をただ古代に限定しようとする。それは、生き生きと発展する神道を、古い考えに固執するものにしてしまおうとすることである。はなはだしい誤りと言わなくてはならない。私が長年、声を大にして、その誤りを訴え、以上のような神についての見解を主張してきたのは、このためである。いや、私は、これこそ神道の神を正確に理解したものだと固く信じている。これで、ひとまず、神道の神とは何かを、おおよそ説明できたと思う。
第三章 天御中主神
第一節 世界の起源
以上、「神」の意味を述べたので、進んで、わが国の伝説の最初に現れる造化の三神について述べようと思う。神道哲学の立場から、この三神をどのように解釈すればよいか、という問題である。前にも述べたように、この世界はどのようにできたのだろうかと問い、考えてみると、どうしても、誰かによって造られたに違いない、と考える人が出てくる。中国には、次のような話が伝わっている。「昔、天地はまだ分かれず、鶏卵のように混沌としていた。その中に盤古という者が生まれ、一万八千年を経て天地が開けた。日は甲子、年は甲寅で、清らかで軽いものは昇って天となり、濁って重いものは下って地となった。盤古はその中にいた」というのである。そのほか、盤古の夫婦が陰陽の始まりであるとも伝え、盤古の後に天皇氏・地皇氏・人皇氏の三皇があり、これが天・地・人の始まりだとも伝えている。また、ユダヤの古い伝承にも、神が七日間で世界を造ったという話がある。ギリシャでは、哲学によって、世界は水からできていると説く。このように、どの国民も世界の始まりについて何らかの考えを得て、その知識欲を満たそうと努めている。では、わが国民はどうか。伝説を見ると、『古事記』は冒頭に、「天地が初めて開けたとき、高天原に現れた神の名は、天之御中主神」と伝えている。こうして造化の三神が現れ、国土がまだ若く、クラゲのようであったとき、葦の芽が伸び上がるようなものから、一柱の神が現れた。それが宇麻志阿斯訶備比古遅神だと記されている。また『日本書紀』には、「天地が開けた初め、国土は、魚が水の上に遊び浮かぶように漂っていた。そのとき天地の間に一つのものが生まれた。形は葦の芽のようであった。それが神と化し、国常立尊と呼ばれた」といったことがある。さらに、別の伝えには、「天地が初めて分かれたとき、一つのものが空の中にあった。その姿は言い表せない。その中に自然と神が現れ、国常立尊と呼ばれた」とある。このように、天地は初め、どうやってできたのかという問題が、人々の頭を悩ませ、そこからさまざまな伝説が起こるのである。わが国の古い伝承では、以上のように、『日本書紀』は国常立尊を最初とするように記し、『古事記』は天御中主神を最初とする。中世の『日本書紀』が広く読まれた時代には、天御中主神と国常立尊は同一の神だと理解されていた。しかし本居宣長による『古事記』研究の後は、別の神だとする見方が一般になってきたのである。
第二節 世界の創造説
私たちが日ごろ目にする机、本、時計など、どんな道具でも、それができるのは人間が造るからである。ひとりでにできるということは、どうもないようだ。ひとりでにできると言えなくもないものもあるかもしれないが、家屋や衣服、日常の調度品など、多くの必需品は、すべて誰かが造る。こう考えていくと、この天地も、やはり誰かが造ったのではないか、造ったに違いない、ということになる。そこでキリスト教では、神が七日間で天地を造ったという説を伝える。神道でも、学者の中に同じような考えが起こり、『古事記』や『日本書紀』を、その見方で解釈しようとする人が現れる。本居・平田の二人などが、それである。本居宣長は、この世界は高皇産霊神・神皇産霊神が造ったもので、天地をはじめ、あらゆる万物は皆、この二神が造ったのだと言っている。しかし、古い伝承を調べると、イザナギ尊・イザナミ尊が国を生み、島を生み、山や川、日の神、月の神を生んだということは、すべて記されているが、高皇産霊神・神皇産霊神が天地や万物を造ったという記述は一つもない。まったくないのである。それでも、この二神が天地を造ったと唱えるには、何か証拠がなくてはならない。そこで宣長や篤胤は、その証拠として、日の神と月の神の託宣を挙げている。篤胤は、こう述べている。「この神が天地を造ったことは、何によって分かるのかといえば、日の神と月の神の託宣によって知られる。『日本書紀』の顕宗天皇の巻には、三年二月、阿閉臣事代が任那へ遣わされたとき、月の神が人に乗り移り、『わが祖先の高皇産霊神には、天地を造った功績がある。民の土地を献上せよ。私は月の神である。願いどおりに献上すれば、福を与えよう』と告げたとある。事代は都へ戻り、詳しく報告した。そこで歌の荒樔田を献上し、壱岐県主の先祖の押見宿禰に祭らせた。また四月には、日の神が人に乗り移って事代に告げ、『磐余の田を、わが祖先の高皇産霊神へ献上せよ』と言った。日の神の託宣に、産霊神が天地を造った功績を述べていないのは、月の神の教えに譲って省いたのである。事代がこう報告すると、神の望みどおり田四十町を献上し、対馬の下県直に祭らせた、とあることから分かる。また、この二柱の神名の意味と、神代の事実の上にも明らかである」というのである。しかし、この証拠は、天地を造ったという大事件の証拠としては、はなはだ弱い。ほかに証拠があるならともかく、どうもないので、この点では宣長も篤胤も、非常に困ったように思われる。そもそも、天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神について、本居・平田、そのほかの神道学者の見解は、たいへん不明瞭である。薄い紙越しに見るようで、細かいところがどうしてもはっきりしない。間に何かを置いて、その向こうを見るようなものだ。そこで明確な答えを得ようとすると、古い伝えがないから分からないと言われる。伝えがないので知られない、「伝えがなければ知ることはできない」と、伝説の中へ隠れてしまう。まことに残念なことだと思う。
第三節 伝説の本質
私が考えるには、まず、伝説とは何かを調べなくてはならない。神道では伝説を重んじるが、その伝説とは、そもそもどのようなものなのか。宣長も篤胤も、盛んに古伝、古伝と言う。古伝は大切である。しかし、その意味を十分に調べなくてはならない。本居・平田の二人のように、神道を神代に限ると主張する学者から見れば、古伝は特に大切である。しかし私たちの考えでは、神道の神は決して神代だけに限られない。神代の神と同じ形と内容を持つ神が、その後にも存在する。たとえば、神代の武甕槌神や経津主神は、武神として尊い神であるが、それと同じように、楠木正成公や乃木大将も、武神として尊い。武甕槌神・経津主神が、その当時の朝廷に献身的に働いたなら、楠木正成公も乃木将軍も、献身的に働いた。私たちは香取や鹿島に社を建てて、それらの神々を祭ると同時に、楠木正成公にも湊川に社を建てて祭る。乃木将軍も、東京や各地で社を建てて祭られている。このように神道の神を広く捉えれば、古代の伝説は、本居・平田が言うように、絶対的な重みを持つものではなくなる。古伝説がすべてで、一にも古伝、二にも古伝というように、古伝だけを特別に尊ぶわけにはいかない。古伝説より後の伝説、つまり国の歴史そのものも、同じように大切になる。明治天皇は戊申詔書で、国史に残る実績は、太陽や星のように明らかであると述べているが、その歴史上の実績が、たいへん重大となる。国史も、神道にとって重要な権威であり、欠かせない根拠になる。古伝説と同じように尊ぶべきものである。いわゆる古伝説、すなわち『古事記』や『神代紀』に記されたものの大部分は、私の考えでは、イザナギ尊・イザナミ尊・天照大神の時代にできたのだと思う。本居・平田の説では、古伝は神々からの伝えであり、天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神から伝えられたものだと言う。そして篤胤は、天御中主神を、老子のいう道と同じ、あるいは『易』の太極と同じだと解釈し、始めも終わりもない神だとする。それでは、老子の道のような神が、私たちのように人格を持ち、古い伝えを伝えた、ということになってしまう。これは確かに問題だと思う。そこで私は、古伝は、結局、イザナギ尊・イザナミ尊・天照大神のころにでき、それ以前については、その時代の神々が、こうした神々がいたのだと考え、伝えたものだと解釈する。そうしなければ、どうも説明がつかない。ことに、歴史の立場だけから考える人は、天御中主神はどうだった、高皇産霊神はどうだったと言うが、これは歴史的には、とても考えの及ぶはずのものではない。「人は天地の後に生まれて、天地の初めを知る」と言うが、それは哲学の事柄であって、決して歴史によって知れるものではない。歴史で知れるのは、いわゆる有史以来のことだと言われる。もちろん、化石などから有史以前も多少は研究できるが、有史以後に比べればわずかであり、厳密には、それを歴史とは呼べない。結局、わが国の古伝のうち、太古に関するものは、イザナギ尊・イザナミ尊・天照大神のころにできたものと見るのがよいようである。
第四節 造化の三神
このように古伝を解釈すると、それ以前の天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神を、どう理解するのが最も合理的か、という問題が生まれる。当時、イザナギ尊・イザナミ尊・天照大神以下の神々が、どのように考えていたのかを、今日、究めてみなくてはならない。
ところが、天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神については、ほとんど名が伝わるばかりで、そのほかに事績といえるものは、ほぼ伝わっていない。だから、この神々の性質や行いは、こうだっただろうという研究によって定めるほかない。その中でも、最も合理的だと信じられる説に基づくより、仕方がないのである。
では、天御中主神はどのような神なのか。すでに述べたように、篤胤は老子の道などと同じだといい、中世の学者には、国常立尊と同一視して、いわゆる実在そのものを指すと解釈する人も多い。しかし、まず篤胤と同じように、始まりも終わりもない神だとしなければ、説明がつかない。篤胤は、そのような神とするため、『古事記』の「天地が初めて開けたとき、高天原に現れた神の名は天御中主神、次に高皇産霊神、次に神皇産霊神。皆、独り神として現れ、身を隠した」という文を、自分の古伝研究の書『古史成文』では、「天地がまだ生まれていなかったとき、高天原に神がいた」と書き改めている。「天地が初めて開けたとき」を、『日本書紀』の別の伝えに基づき、「天地がまだ生まれていなかったとき」とし、「高天原に現れた神」を「高天原に神がいた」とするのである。「有神焉」、つまり、そこに神がいたという表現は、そのまま始まりも終わりもないことを意味する。しかし、「独り神として現れ、身を隠した」の部分には、手をつけなかった。そこが奇妙なのである。「独り神として現れ、身を隠した」と言う場合、「現れ」という語は、前の「現れた神の名は」と対応している。独りで現れ、そして身を隠したというのは、結局、亡くなり、肉体を離れた神霊として生きるようになった、と解釈すべきである。もちろん「身を隠した」の句は、「隠れた身でいらっしゃった」とも読めるが、いずれにしても問題がある。ともかく、「独り神として現れ」は「現れた神の名は」と対応するのだから、後者から「現れた」を削って「高天原に神がいた」とするなら、今度は前者の「現れ」も削らなくてはならない。そして、ただ「天地がまだ生まれていなかったとき、高天原に神がいた。天御中主神、次に高皇産霊神、次に神皇産霊神」と言い切っておかなくてはならない。
古伝は、すでに述べたように神代にできたが、その後、さまざまに伝えられるうち、誤りを含み、多くの間違いが生じてきた。これは否定できない事実で、どの学者も認める。たとえば、七代の神についても、七代だったり五代だったり三代だったりと、まちまちである。また、『日本書紀』では、国常立尊の次に国狭槌尊が現れるが、『古事記』には国狭槌尊は出てこない。先に述べた食物の神を殺した神についても、『日本書紀』と『古事記』とでは、一方をスサノオ尊、他方をツクヨミ命としている。それを根拠に、篤胤などは月読尊とスサノオ尊を同一の神だと主張している。このような例は、いくらでも挙げられる。だから、古伝が最初から最後まで、一字一句違わずに伝わったとは言えない。伝えられるうち、多くの誤りが入り込んだ。当時は印刷術も起こらず、文字もなかったからである。文字については、いろいろ議論があるが、ここでは、ひとまず、なかったと断定しておく。したがって、正確に伝えることは、とてもできない。語り部がいたと言うが、それも口から耳へ伝えるのだから、どうしても正確には伝えられない。そのため、多くの誤りが含まれており、それを取捨選択しなくてはならない。今の『古事記』の最初にある「独り神として現れ、身を隠した」という句は、『日本書紀』の、いわゆる造化の三神の伝えにはまったくないのだから、これを誤りと見て、「天地がまだ生まれていなかったとき、高天原に神がいた。天御中主神、次に高皇産霊神、神皇産霊神」と解釈していけば、初めて天御中主神を、始まりも終わりもない神として理解できる。篤胤の見解も、結局はそこに至らなくてはならない。篤胤の前後の説を総合すると、そうならなくてはならず、そうでなければ論理に合わないのである。
そこで、天御中主神をどう解釈するかが、いよいよ本題となる。
第五節 天御中主神と絶対
すでに述べたように、篤胤は天御中主神を、老子の道、『易』の太極、『礼記』の太一などと同じもので、始まりも終わりもない神だとしている。要するに、天御中主神を絶対そのもの、すなわち宇宙の本体と解釈する点では、多くの神道学者が一致する。絶対そのものと解釈する以上、この神は生まれることも滅びることもなく、生滅ということがない。その本質も、増えも減りもしない。常にあって変わらず、あらゆるところに及ぶ。尽きることも限りもなく、何かの原因や条件によってできたものでも、変えられるものでもない。また、いかなる制約も受けない。したがって、宇宙のすべてを含み、すべての原因となり、すべての条件となるものである。これが、天御中主神を説明する言葉である。「天御中主」という名は、宣長の解釈では、「天の御中にいて、主、すなわち大人である神」という意味である。ここで「天」とは、通常いう宇宙、果てしない大宇宙を指す。後世にはさまざまな意味が付けられたようだが、当時の天は宇宙そのものであり、したがって無限である。この神は、その無限そのものを体として存在する。それゆえ、宇宙の至るところにいるのである。宇宙は無限だから、そのどこもが「御中」となる。中とは、もともと中心ということであり、どの方向へも距離が等しいということである。ところが宇宙は無限なので、どの点から見ても、上下左右へ同じ距離となり、そこがそのまま中心になる。限りがあれば両端の中間を中心としなくてはならないが、限りがないので、どんな点も、そのまま中心になる。その中心が、天御中主神の無限の体の中心となるのである。私たちの体で考えてみても、指先をけがすれば、そこがひどく痛み、その痛むところに、私たちの精神全体が集まる。しかし、体の別の部分に、もっと大きな出来事が起これば、精神はすべてそちらへ向かい、指先のけがは意識に残らない。それでも余裕ができれば、すぐ指先へ戻る。このように、精神が体の一部から他の部分へ移るには、ほとんど時間を要せず、まったく間を置かないように見える。私たちの精神や身体は不完全で欠点も多く、天御中主神と比べられるものではない。しかし、もともと天御中主神の一部分として生きるものだから、その性質が、それほど違うわけではない。そこで、宇宙における天御中主神のあり方も、おおよそ私たちの精神と身体の関係から類推すべきであり、その精神全体が宇宙のあらゆるところにあると言うのである。このように解釈するのだから、宣長のように、この神を世界の外に存在する一柱の神、西洋でいう「ゴッド」のようには理解しない。篤胤の説も、あるところでは老子の道と同じように説明するが、別のところでは宣長流の説に従い、この神を世界の外に置き、宇宙を創造した神と見て、宇宙創造説を組み立てようとする構想があった。しかし、神道の意味から見て、そのような解釈はいかがなものかと思う。少なくとも、私は賛成しない。宣長も篤胤も、この道の先輩、大家として心から尊敬するが、その説に一から十まで、すべて盲目的に従うことはできない。今の点も、その一例である。そこで私は、まず天御中主神を絶対そのものと解釈し、さらに高皇産霊神・神皇産霊神の二神へと進んで、天御中主神の徳を、いっそう明らかにしようと思う。
第四章 産霊神
第一節 産霊神の時代の研究
天御中主神を絶対そのものと解釈するのは、多くの学者が取っている立場なので、その説き方を除けば、格別新しい説ではない。しかし、高皇産霊神・神皇産霊神の二神について、私が十数年前から講義している解釈は、従来見られないものである。少なくとも、私がこれまで神道を研究してきた限りでは、ほかの学者が唱えたのを見たことのない説だ。もちろん、今日ではかなり賛同者もいるようだが、要するに、私が初めて考えた説だと信じている。それは、高皇産霊神・神皇産霊神は天御中主神と同一の神であり、この二神は天御中主神の現れである、という説である。これに関しては、鈴木重胤という学者が、「この二柱の神は、天御中主尊の荒魂と和魂でいらっしゃるものと推し量られる」と述べている。荒魂・和魂で解釈するのである。私の説に似たものを求めれば、まずこの説だろうと思う。しかし、私の説は、これとも違うのである。
もともと、高皇産霊神・神皇産霊神の解釈には、神道の学者は昔からたいへん困っている。なぜかといえば、すでに挙げたように、『古事記』の冒頭には、「天地が初めて開けたとき、高天原に現れた神の名は天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神」と記されている。その後、多くの神々を経て、イザナギ尊・イザナミ尊に至り、その子として天照大神がいる。そして天照大神が高天原にいて、豊葦原の中つ国の統治に当たった際、高皇産霊神という神がいて、働いている。当時の活動を見ると、まことに功績も威勢も輝かしく、伝承には「天照大御神・高皇産霊神の命によって」とあり、別の箇所では「高皇産霊神・天照大御神の命によって」とある。つまり、天照大神と、ほとんど肩を並べるほど力の強い神だった。当時は、八百万の神を天の安河原へ集めて会議し、皆の意見で重大な事柄を決めている。その様子を見ると、高皇産霊神は、ちょうど今の議長のような役割を果たし、いろいろなことを取り仕切っている。古い伝えによれば、ニニギ尊の母方の親族である。後世の藤原道長や平清盛が、天皇の母方の親族として政治の大権に関わったのと同じように、高皇産霊神も、当時の政治に非常に大きな力を持っていた。それは古伝から、ありありと分かる。そして当時の高皇産霊神は、別名を高木神と伝えられている。そこで、宣長や篤胤が高皇産霊神による天地の創造を説くと、それを聞く人々の中には、神代のごく初めの高皇産霊神が、イザナギ尊・イザナミ尊まで多くの神々を経て、さらに天照大神の時代にも、これほど活躍しているのは、たいへん不思議ではないか、と質問する者があった。すると二人は、神代のことだから少しも不思議ではない、このようなことを疑うのは、結局、中国流の考えや習慣にとらわれているからだ、と言う。このように世間の疑問をすべて抑え込み、高皇産霊神・神皇産霊神が天地を造ったのだと説くのである。
第二節 産霊神についての学説
また篤胤は、古伝では高皇産霊神・神皇産霊神を二神と伝えるのに、宣長が、二神のようだが実は一神ではないかと疑ったことを批判する。そして自らは、高皇産霊神は男神、神皇産霊神は女神であり、前者は産霊の外の働きを、後者は内の働きをつかさどる、と解釈する。この男女二柱の大神が多くの神々を生んだのは、男女それぞれの産霊の力が互いに芽生え合う、不思議な徳によるのであって、決して夫婦の営みによるのではない。それが産霊の大きな徳であり、この二神の徳によって、神々ばかりでなく、あらゆる物体、さらには天地までも造り出した、と言うのである。そして、産霊神が天地を造ったことについて、外国の学問を学び損なった学者や、学問もないのに生意気な人々は、自分がこの世に生まれたことさえ産霊神によると知らず、天地万物を生み造ったという話を、日本だけの昔話として聞き流す者が多い、と言う。しかし、これは日本だけの説ではなく、どの国にも伝えがある。中国では元始天尊、インドでは大梵天王と呼び、その趣旨は、わが国の古伝と少しも違わない。したがって、釈迦も達磨も、猫もイタチも、すべてこの大神の産霊によってできたものなのは、論じるまでもない。決して、中国やインドの末流の学問に惑わされ、この大神をおろそかにしてはならない、と篤胤は説く。さらに篤胤は、インドより、はるか西にも多くの国があり、それぞれ、天の神が天地をはじめ、あらゆるものを造ったという伝えを持つと言って、わが国の古伝の産霊神を、天帝・梵天・造物主と同じものだと解釈した。しかし高皇産霊神が、高木神として天孫降臨の際に活動した神と同一だとすれば、そこがどうも奇妙に聞こえてくる。
そもそも、高皇産霊神についての古伝は、かなりまちまちである。たとえば『旧事紀』という書は、一般には後世の偽作として信用されないと言われるが、その内容が、ともかく古い伝承であることは、多くの学者が認めている。その書には、高皇産霊神は天御中主神の男の子だと伝え、天御中主神には三人の男子がいたとしている。また『古語拾遺』にも、天御中主神には三人の男子がいて、長男が高皇産霊神、三男が神皇産霊神だという伝えがある。高皇産霊神が天照大神と同時代の神であり、しかも天御中主神の長男だったということになると、古伝の解釈は、たいへん難しい。どう解釈してよいか、まったく分からなくなってしまう。このようなところでは、先に述べたように、古伝に多くの誤りが入り込んでいると認めなくてはならない。古伝は、どうも数学のように、きちんとはできていないのである。
そこで私は、次の説を主張しようと思う。すなわち、古伝のいちばん初めに現れる高皇産霊神と、その後に現れる、別名を高木神という高皇産霊神とは、まったく別の神だと見るのである。天照大神の時代に働いた高皇産霊神は、実際に人の身体を持ち、多くの子である神々を持った、当時の大政治家だった。その勢力が非常に大きかったため、天照大神の徳が広大だったことから、後世、日の神とし、太陽そのもののように解釈するようになったのと同じように、高皇産霊神も、その徳が広大だったため、その名をそのまま宇宙の根本の神に捧げたのである。つまり、天御中主神の徳を二つに分け、一方の徳に高皇産霊神の名を、他方には、それと対になる神皇産霊神の名を捧げたと解釈する。古伝に高皇産霊神が二通りに現れるが、前と後では、まったく別の神だというのだ。こうして私は、高皇産霊神・神皇産霊神は、天御中主神と一体の神であると主張したいのである。
こう言うと、キリスト教などでいう三位一体説に似ているではないか、という議論が起こるかもしれない。しかし、キリスト教の三位一体は、神と神の子と聖霊が同一だと言うことで、かろうじて多神教であることを免れた説なので、私の主張とは大いに違う。では、どういう意味で三神は一体なのか。その説は、中国の学説と比べてみると、分かりやすいようである。
第三節 中国の学説との比較
中国では、「易には太極があり、そこから両儀が生まれる」と言う。太極が分かれて陰と陽になるのである。また『老子』には、「一が二を生み、二が三を生み、三が万物を生む」とある。一というものから陰陽が生まれ、そこから天・地・人が始まる、と解釈している。また『易』には、「偉大なるかな乾の根源、万物はこれによって始まる。偉大なるかな坤の根源、万物はこれによって生まれる」という言葉がある。「始まる」と「生まれる」という違いには、かなりの意味があるようだ。乾と坤、あるいは陰と陽によって万物ができてくる、と見るのである。陰は消極的、陽は積極的で、ともに太極の属性と言うべきものである。中国の周茂叔は、「太極は動いて陽を生む。動きが極まると静まり、静まって陰を生む。静まりが極まると、また動きに戻る。一つの動き、一つの静まりは、互いに根となる」と言う。太極が動けば陽となり、動きが極まると静まって陰が生まれる。静まりが極まれば、また動き出す。動と静、静と動が、絶えず巡る。このように動静が循環し、万物が生まれるというのだ。もとは一つの太極が、あるときは陰、あるときは陽となり、こうして万物ができてくる、と解釈するのである。ところが朱子は、理気の説を立てた。理が太極で、気が陰陽であり、理は形而上、気は形而下だとする。こうすると二元、つまり二つの根本を認めることになる。理と気を別々に見ているのである。そうなれば、理と気のどちらが先かという議論が起こる。理が最初にあったのか、気が最初にあったのか、ということになる。このような議論になると、どうも朱子の考えは、あまりよいとは思えない。やはり、陰陽を太極の二つの属性と解釈するほうがよいと思う。
第四節 産霊神の真の意味
これをわが国の古伝に当てはめると、天御中主神はいわゆる太極であり、絶対である。その絶対の属性が、高皇産霊神と神皇産霊神なのだと解釈される。しかし、私はもう少し違う解釈を立てている。高皇産霊神という神の働きは、絶えず活動することである。一方、神皇産霊神という神は、その活動をするもの自体なのである。たとえば風というものを考えてみよう。風は動くものだが、風そのものは何かといえば、空気である。空気の振動が風になる。だから、空気を神皇産霊神とすれば、その動きが高皇産霊神であり、全体が天御中主神なのである。動くところがなければ、空気の存在はなかなか認められない。しかし、動かなくても空気は存在している。たとえでは本当の意味を十分に表すことは到底できないが、まずはこのように見ればよい。また、水にたとえると、いっそう適切である。海に波が立つというが、その波になっているのは海の水である。水を離れて、波だけを見ることはできない。その意味で、波というものは、水と波という二つの側面からできている。波は絶えず活動するもので、それが高皇産霊神、その水自体が神皇産霊神である。そして天御中主神とは、その波、その水自体をいうのである。波から水を離すことも、水から波を離すことも、ともにできない。つまり、同一のものだと見るのである。目の前に万物が現れているのは、高皇産霊神と神皇産霊神による。この二神によって、万物は次々に生まれ、変化していく。万物が生まれ変化していく、その神徳を、高皇産霊神とも、神皇産霊神ともいう。しかし、その根本は天御中主神である。だから、天御中主神を一つの別個のものとして切り離すことも、高皇産霊神・神皇産霊神を別個のものとして切り離すこともできない。天御中主神といえば、同時に高皇産霊神・神皇産霊神もその中に含まれてくる。こういう関係なのである。
さらに、この点について西洋の説を少し考えてみよう。西洋のライプニッツは、ギリシャのデモクリトスの原子論、つまり宇宙は小さな原子からできているという説に基づいて、ごく神秘的な単子の説を唱えた。ライプニッツの説によれば、単子はきわめて霊的なもので、永遠に活動している。つまり、始まりも終わりもない活動をする、と見るのである。この説に照らせば、単子そのものを神皇産霊神と見て、その単子の始まりも終わりもない活動自体を、高皇産霊神と見ることになる。このように見れば、やはりその説とも似てくる。つまり、私の主張も、宣長・篤胤の両翁の説と同じく、万物ができてくるのは高皇産霊神・神皇産霊神の徳によるとするのだが、その意味が違っている。宣長・篤胤の両翁などは、この二神が万物を造った、万物を鋳造した、あるいは生んだと言われる。しかし古伝を見ると、伊弉諾尊・伊弉冊尊がさまざまな神々を生んだとは書いてあるが、高皇産霊神・神皇産霊神がさまざまな神々を生み、また、さまざまなものを造ったということは、一つも現れていない。だから、このような説は両翁の独自の解釈、一家の説と見てよいのである。宣長・篤胤の両翁は、前にも述べたように、この二神が次第に万物を造ったと言う。その証拠は、先に挙げた『日本書紀』顕宗天皇紀の、阿閉臣事代が受けた託宣である。しかし、もし天地を鋳造した証拠になるような託宣ならば、阿閉臣事代という、さほど身分も高くない官吏に下されず、もっと立派な方に下されるはずだと思う。また、それほど大事な託宣ならば、任那の国に出かけていくときなどに下されず、朝廷に仕えている間に下されたらよかっただろうと思う。
第五節 託宣
そもそも託宣は、当時、さまざまなことに利用された。もちろん、信じるべき託宣も少なくなかったのだろうが、信用できないものも多い。たとえば、行基が奈良に東大寺を建てるとき、日本にこのような大仏を建てることを神々はどうお考えになるだろうかと、聖武天皇もたいそう心配された。そこで天平十三年、行基は自ら勅使となって伊勢大神宮に参り、仏舎利一粒を捧げ、七日間参籠した。すると満願の日の夜、天照大神が扉を開き、行基に託宣を下された。その託宣はこういうものである。「実相真如の日輪は、生死の長い夜を照らし払い、本来変わることのない月輪は、煩悩の迷いの雲を払い破る。私は今、めったに出会えない大願に出会い、渡し場で船を得たようである。また、得がたい宝珠を受け取った。暗闇で炎を得たようである。師よ、その舎利を持って、飯高の郷に埋め納めなさい」。こう言われたという伝えだが、天照大神が行基を「師」と呼び、先生として仰がれるのもおかしいし、仏教の言葉で託宣を下されたというのも、たいへんおかしい。それから、いよいよ東大寺が建立され、大仏ができると、今度は宇佐八幡宮の八幡大神が、天平勝宝元年十一月、東大寺へ参拝したいと託宣を下された。そこで朝廷は、迎神使として特に参議の石川年足と侍従の藤原魚名を任命し、宇佐八幡大神を迎えた。天皇・太上天皇・太后も百官を率い、大神にお供をして行幸され、僧五千人を招き、仏を礼拝し、経を読ませるという大騒ぎになったことがある。これなども、ずいぶん妙な託宣だと思われる。考えてみれば、奈良は当時の東京、つまり首府である。そこに大仏ができたという大評判があるので、きっと宇佐八幡宮に仕える巫女や神職などが、一度この大仏に参拝し、奈良見物もしたいということで、何かうまい方法はないだろうかと相談した結果ではなかったかと思われる。そのほか、誰でも知っている弓削道鏡に対する託宣など、この種の託宣は非常に多い。それゆえ、弘仁三年九月の官符について、一条兼良卿は『樵談治要』に、次のように記している。「怪異のことを聖人は語らず、妖言の罪は法制上、軽いものではない。神の託宣は、明らかにそのしるしが現れたことでなければ、国司が言上してはならないと定められている。これは、巫女や神職などが行うことだからである」。これを見ても、当時、託宣がどれほど濫用されていたかが分かる。
託宣とはそういうものだから、本居・平田の両翁が、このような託宣だけを証拠として、高皇産霊神・神皇産霊神が天地万物を造ったと主張されても、その証拠はあまりに弱いと思う。そういうわけで、私たちは、両翁のようにこの二神が天地万物を造ったと考えず、その神徳が現れたものが世界の万物であると、森羅万象を解釈するのである。もともと古伝では、天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神が存在したということが主な点で、この三神には何の事業も伝わっていない。もちろん、その高皇産霊神を、天照大神の時代の高皇産霊神と同じ神だとすれば、その神には多くの事業が伝わっている。しかし、私たちの目からすれば、古伝の解釈上、どうしても別の神としなければならない。別の神とする以上、古伝には何の事業も伝わっていないのである。伝わっていない以上、高皇産霊神・神皇産霊神が天地を造り、万物を生んだという解釈は、本居・平田両翁の一家の説なのである。それと同じように、私たちもまた、自分たちのように解釈することができる。ただ、どちらが最もよく神道の本旨を明らかにするかが問題である。神道の本旨にかなっていれば、その説は採用すべき学説だと思う。
第六節 古伝の神話的解釈
古伝を素朴で、きわめて幼稚なものとして解釈していけば、本居宣長のような解釈もできる。そもそも宣長の解釈には、全体を通じて、今日いうところの神話的な解釈が多い。この神話的な解釈をすることが、神道にとって最も有益なのかどうかは、大いに考えるべき問題だと思う。この点について私は、神話的な解釈はどこまでも、神道で採るべき解釈ではないと思う。もちろん、すでに述べたとおり、私は宣長の学説を非常に尊敬している。その学説に啓発されたことも多い。宣長を神道界の大学者として大いに尊敬し、その説から多くの教えを受けたことを、私は公言してはばからない。しかし、その説を初めから終わりまで、すべてよいものとして守り通すことは、学問に忠実な者のすべきことではないと思う。宣長の説であれ、篤胤の説であれ、よくないところは大いに改めるべきであろう。また、それを改めることが、先輩の学者たちに対して忠実な、学者の態度なのだと思われる。両翁の言葉を見ても、そうせよと書いてある。「後世、自分などの説によくないところを認めたなら、よい新たな説を唱えよ」とある。私たちが新説を唱えるのは、決して先輩に礼を欠くことではなく、大いに礼を厚くすることなのだと思う。さて、宣長の説を見ると、すべてを神話的に解釈しようとする傾向がある。例を挙げると、天照大神・月読尊・素盞鳴尊について、まず、その誕生を、宣長は『古事記』の伝えに従って説明している。伊弉諾尊が筑紫の阿波岐原で禊をされたとき、左の目から天照大神、右の目から月読尊、鼻から素盞鳴尊が生まれたという説を採っておられる。しかし、これはどうも不合理な説である。また、天照大神は太陽そのもの、天津日そのものである、というのが翁の解釈である。それに反対すると、たいへん畏れ多くもわが皇室の祖先であられる天照大御神が天津日であることをわきまえず、そのような議論をするのは、やはり漢意・漢習だ、というふうに言われる。しかし、これは非常に間違っている。そこで篤胤は、天照大神を天津日そのものとする解釈はよくないとして、天津日を主宰する神である、と改めた。ところが、その篤胤の説は、実は宣長の門人、服部中庸の説であり、中庸の『三大考』という本に書かれている。そして、その『三大考』は『古事記伝』第十七巻の付録となっている。宣長は『三大考』の末尾に跋を書き、これはよい説であり、この説によって初めて天・地・泉の解釈もすっかり明らかになった、と言っている。その『三大考』の説は、天照大神は天津日の主宰神であるという説である。ところが宣長は、天津日そのものだと言う。そうすると、『三大考』の末尾に跋を書かれる以上、宣長が『古事記伝』や『葛花』、『玉くしげ』、そのほかさまざまな本で、天津日が天照大神であるとしている説は、根本から崩れてくる。つまり宣長は、この場合、いわゆる論理的な自殺をすることになる。これを見ても、この点に関する宣長の説が、まだたいへん不十分であることの証拠になる。このように宣長は、まず天照大神が伊弉諾尊の目から生まれたという説を採り、日の神、月の神という言葉から、すぐに天照大神を日そのものと考えている。古伝はそう解釈しなければ、ほかに解釈の方法がないのなら、やむをえない。しかし、私たちは『日本書紀』によって、よりよく解釈できる。『日本書紀』を見ると、伊弉諾尊と伊弉冊尊がともに相談し、天下の主となる者を生もうとして、天照大神・月読尊・素盞鳴尊を生んだと、その正伝に書いてある。その説によれば、天照大神が目から生まれたという説を採らなくてもよいではないか。そして『古事記』より『日本書紀』のほうが朝廷の正史とされているのだから、古伝としては両書に軽重がないにしても、『書紀』によるほうが、むしろ自然だと思う。『日本書紀』に従い、伊弉諾尊と伊弉冊尊がともにおられたとき、天照大神を生んだという説を採れば、伊弉諾尊がお一人でおられたとき、その目から生まれたという、難しい解釈を採らなくてもよいのである。どうも宣長の説には、そのような傾向がある。そして、今の天津日という呼び方も、天照大神が光り輝き、その徳が非常に高く大きいので、私たちは大神を何と申し上げればよいか、言い表せない。そこで天津日と申し、太陽が四海を照らすように、その徳が高大であるとして、日の神とも、天照大神とも、天照大御神ともいうのである。こう考えれば、少しも難しいことはない。中国でも、孔子の門人が、孔子の徳がきわめて高大であるのをたたえ、「先生は日月である」と言っている。孔子が日月そのものだというのではなく、日月にたとえて言ったのである。このように解釈すれば、その点に何の困難もない。それを、日の神、月の神とあるからといって、すぐに結び付け、太陽がわが万世一系の皇統の、最初の祖先神であると説く。そして、それにあれこれ言うのは皇室に対して失礼だと言うのは、宣長のためにも、私たちはまったく採らない説である。
底本九十頁には「篤胤は太陽が天津日であると云ふ解釋は」とある。前後では天照大神を太陽そのものとする説が問題となっているため、訳文ではその文脈に従って補った。
第七節 神道の進歩性
このように、宣長の説であれ、篤胤の説であれ、それを初めから終わりまで守り通すことは、神道の趣旨に反する。神道はどこまでも進歩するものであって、そのように保守的なものではない。キリスト教などにはバイブルがあり、その中から一歩も外へ出ることができないという。後世になると、さらに細かな規定や条項を作り、それに異説を唱えれば、すぐに異教徒として破門されてしまう。また仏教は、それぞれの宗派で、祖師が説いた教義から外へ出ることができない。もし外れれば、異安心、異端として破門されてしまう。このように、歴史的宗教は一般に、旧来の説を守るものである。神道はこれらとは違う。神道はきわめて進歩的なものである。だから、宣長・篤胤両翁の説も、一つ一つすべてを信じるわけにはいかない。私たちは、両翁がそれぞれの説を立てたのと同じように、今、こうした説を立てていくのである。世間には、神道を非常に素朴なものとして、幼稚な意味に解釈しても、それでよいではないかと言う人がある。神道は日本のもの、昔のものだから、どうせ今日の考えと一致するはずはない。それはそれとして置いておいて、差し支えないではないか、と言う人がある。しかし、古伝の初めのほうは、ただ神の名だけが伝わっており、その神名の中に、限りなく深い意味が含まれている。その意味は、それぞれの時代の最も進歩した知識によって、ようやく解釈できるのである。これが、進歩的な神道の一つの特色である。また、一部の人々が信じるように、天照大神の当時の社会は、それほど野蛮で未開だったわけではない。世間には、神代といえば、きわめて野蛮で未開の時代のように思う人があって困る。ちょうど都会の者が地方を田舎田舎と呼び、都会に比べてひどく未開だと思っても、事実は想像と大いに違い、地方、とりわけその中心地の文明は、さほど都会に劣らないのと同じである。古代の文明も、さまざまな事実について考えてみれば、意外に開けている。もちろん、物質面は今日とずいぶん異なるが、それさえも、大正の現代と維新前との差のほうが、維新前と古代との差より大きいのではないかと思われる。とりわけ精神的な文明となれば、その差はたいへん小さくなる。また、単に時代から考えても、わが国の神代は、ギリシャでいえば、すでに文明がかなり発達した時期に相当するし、中国でいえば周の時代、つまり文明がずいぶん開けた時代に当たっている。その時代に日本だけが、たとえ交通が十分でなかったとしても、それほど野蛮で未開の状態にいたはずはない。そのような時代に、なお野蛮で未開の状態にとどまるような劣等な人種なら、今日でもやはり、南洋の土人のような状態、アメリカ先住民やアイヌ民族のような状態に残っていなければならない。ところが今日は、中国以上に進み、世界の多くの強国と肩を並べるほど、文明の域に達している。このような文明は、五百年や千年でできるものではない。人は、維新以来、長足の進歩を遂げたと言う。確かに、長足の進歩を遂げた。世界の一つの奇跡というべきほどの進歩を遂げたのである。しかし、その維新以来の進歩も、素養がなくてできるものではない。その素養があるからこそ、この進歩ができている。少しも不思議ではない。日本の歴史を十分に調べれば、この進歩はむしろ当然なのである。だから、神代という時代は、それほど野蛮で未開の時代ではなかった。当時の神々が作った、いわゆる古伝には、もちろん、ごく素朴な思想も含まれているだろうが、また高尚な思想も含まれている、と私たちは推察する。したがって、高皇産霊神・神皇産霊神をこのように解釈するのである。当時の名だけしか伝わっていないのだから、当時の古伝の真意がどこにあったかを、私たちが正確に断定することは難しい。しかし、おおよそこのような思想だったのだろうと思うのである。
要するに、産霊神は天御中主神の現れであり、あらゆる現象は、ことごとくその徳の現れである。とりわけ人類は、二神の徳によって、自発的にその神徳を発揮する能力を持つため、ほかの生物より優れた地位を得て、いわゆる万物の霊長となることができる。そして人類の中でも、わが国民は、地理と歴史の関係から、この神徳を神ながらのあり方で、よく発揮してきた。私たちは、ますますこれを発展させ、国民すべてを神としなければならない。教育勅語で「皆、その徳を一つにすることを願う」と仰せになったのも、また、このような御心だと思われる。こうなれば、上も下も皆が神となり、神国・神道という名と実体がともに備わる。世界の人々は、何の威嚇も加えられず、赤子が慈母を慕うように、何の圧力も与えられず、青草が春風になびくように、わが陛下の大きな恩恵を慕って来る。そしてわが皇室の大いなる威光になびき、国威の伸張、国運の発展は、理想の境地に達するのである。
第五章 元霊神
第一節 葦牙神
まず、古伝の初めに伝えられている三神は、以上のように解釈するのである。さて、天地の最初に当たり、古伝は、姿が葦の芽に似た一つのものができたと伝えている。このものによって成り出た神が、可美葦牙彦舅神であるという。この神をどう解釈するかが、ここでまず提起される問題である。宣長などの説では、天地の初めに、葦の芽のようなものができてきて、その葦の芽のようなものを可美葦牙彦舅神と申し上げた、と解釈する。つまり、高皇産霊神・神皇産霊神が可美葦牙彦舅神という神を生み、そこから天地ができてきたという意味に取っている。しかし私は、前に述べたように、高皇産霊神・神皇産霊神によって宇宙が成り立っているが、もともと宇宙は一種の星雲のようなものだと考える。そもそも星雲説は、ドイツのカントとフランスのラプラスが、それぞれ別に考え出した説である。それで、カント・ラプラスの説と呼ばれて伝わっている。この説を参考に、宇宙の本質をよく考えてみると、宇宙はまったく星雲のようなもので、絶えず運動している。その中に、ある太陽系ができてくる。そのとき、ほかの太陽系はすでにできあがっているし、また、すでに滅亡しつつあるものもある。つまり宇宙には無数の太陽系があり、それらが絶えず生まれたり滅びたり、現れたり消えたりしている、と説明されるのである。
このように、天体は生滅し、現れたり消えたりしている。つまり、活動しているのである。高皇産霊神の徳によって、宇宙のすべてのものは、常に活動している。人間が生まれると、そこに一つのものができ、死ぬと、そこにあったものが滅したように見えるが、別の面から見れば、また現れたのである。消えたといえば、なくなったようだが、それがまた生まれたことになる。そのように、生まれたり死んだりしている。これは個人について見た場合だが、範囲を広げて民族全体について見ると、その民族全体もまた、生滅し、現れたり消えたりしている。あらゆる物事が、みなそうしているのである。たとえば机のようなものは、いつまでも存在しているように見えるが、やはり生滅している。このようにできあがった机も、永久に存在するように見えながら、いつの間にか腐ったり壊れたりして、ついには消えてしまう。消えたかと思うと、また別のところに現れてくる。こうしたものが、すべてまったくなくなってしまうことはない。天御中主神の徳は、増すことも減ることもないのだから、まったくなくなることはないのである。全宇宙には、東西南北も上下左右も、どこまでも限りがない。無限である。無限の活動によって、無限に生滅し、現れたり消えたりしている。そこが、天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神の徳であり、その本性なのだと見るのである。
このように、天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神の徳によって、ここに葦の芽のようなものができてきた。その葦の芽のようなものに、可美葦牙彦舅神という名を捧げたのである。その葦の芽ができたのは、私たちが住む、いわゆる世界が、そこに初めてできたということである。それが次第に発展して、今日、私たちがいう太陽系になる。だから、太陽系の最初に成り出た神を、可美葦牙彦舅神と申し上げた。このように解釈するのである。
第二節 天之常立神と高天原
太陽系と呼ばれるこの世界ができれば、当然、私たちが住むこの国土と、それ以外の世界とを区別できる。そこで、一元的な可美葦牙彦舅神に続き、天之常立神・国之常立神が現れることになった。国之常立尊は、「之」を省いて国常立尊ともいう。この場合、天は国と対立する関係になっている。したがって、私たちはここで、天の意味を明らかにしなければならない。
すでに述べたとおり、天御中主神の「天」は、この国土も世界も何もかも含んでいるが、「国」に対する「天」は、範囲が限られている。
本居宣長は、天は高天原であると解釈し、さらに高天原を解いて、こう説いている。「高とは、これも天をいう呼び名で、ただ高いという意味に用いたものとは、少し違う。日の枕詞である高光も、天照と同じ意味であり、高御座も天の御座という意味なので、空を高と呼んだのである。原とは、広く平らなところをいう。海原・野原・河原・葦原などと同じである。そこで天を天原といい、それに高という言葉を添えた高天原は、この国土から見ていう呼び名である」。さらに、「天は空の上にあり、天神たちのおられる御国である」といい、また、「天は高天原なのだから、実際の形があることは言うまでもない。仰いでも見えないのは、ただ遠くて目が届かないからである」と説いている。
一心に古伝をありのまま解釈しようと努めた宣長の説としては、そうなるのも当然だが、そのために宣長は、論理的な自殺に陥ったのである。古伝のままに解釈しようとすると、その冒頭の「天地が初めて開けたとき、高天原に成り出た神」とある、その高天原が解釈できない。宣長は高天原を天だと言う。天は地とともに、葦の芽のようなものからできたという。それでは、天がないときに、天が存在したと説かなければならない。宣長が行き詰まった理由はここにある。だから、この点では、宣長の学問を尊んでいた飯田武郷や岡吉胤のような先生でさえ、「かなわない」などと言って、宣長に従わなかった。それほどなのだから、平田篤胤はなおさら従わない。篤胤は、まず宣長の説を退け、自分の説を立てたのである。「この説は信じがたい」とは、宣長の説に対する篤胤の言葉である。そして高天原は、「大空の上方、いわゆる北極の上空、紫微垣の内を言ったのだろう」と述べた。緯書である『春秋元命包』の、「中宮の天極星、その一つの明るい星は、太一が常にいるところである。……ゆえに北辰とし、また紫微宮とする」といった語句に基づき、高天原を北極としたのである。こうして、宣長と同じく天地鋳造説を主張する篤胤は、自己矛盾を免れようとした。そして後には、篤胤は高天原を太陽そのものとしている。「天津日こそ、いわゆる高天原であり、天照大御神が治められ、皇産霊大神や、ほかの天神たちも行き集われる御国である」と言うのである。太陽と紫微垣には、何のつながりもない。そして、経験上の事実から見ても、あまりに突飛な説である。
そこで鈴木重胤は、「亡くなった先生方の説は、あまり詳しくない」と言い、自身は『神代真言』で、「高天原は、生身の目で見ると、ぼんやりと何もないもののようだが、姿の見えない神々が鎮まり、治めておられる神域であり、天地万物の生まれ出るところである」と説いている。橘守部も、高天原というからといって、必ず青空の上の、はるかに高いところだと思うのは、言葉にとらわれた考えだと断じ、面白い見解を述べている。つまり、「天とは、この世の人の目に見えないところをいい、黄泉とは境を分けている。要するに天も黄泉も、幽冥の中のそれぞれの名であり、この世の外に出るものではない。近くでは、上下左右から身体を包み、ただ手に触れないだけである。遠くでは、いわゆる天地四方の間に満ちて、ただ目に触れないだけである。その目の届かないところに、天・黄泉・幽の別があり、神については天といい、死者の霊については黄泉といい、この二つを合わせて幽というのである」。そして、「天といっても、高天原といっても、結局この国の外ではないと知るべきである」と結論している。
伊勢貞丈は、例の『神道独語』の中で、貞丈らしい独自の説を立て、「わが君のおられる都を、天になぞらえて高天原というのである」と言っている。谷重遠は、もっと痛烈に、「高天原は皇居である。高天原に神として鎮まるとは、天子が宮殿におられるということである。入り乱れた多くの説は、すべて誤りである」と主張した。
高天原については、このほか、インドだとか南洋だとか朝鮮だとか、さまざまな説がある。しかし、著者の見るところでは、もちろん古伝が高天原と天を同じ意味に使っていることは事実である。問題は、その天の意味である。言葉というものは、場所からいえば、同じ物事でも国ごとに言い方が違う。また、時代からいえば、同じ言葉でも、時代によって内容が異なる。したがって、現代の意味で古代の言葉を解釈すると、しばしば失敗する。そこで著者は、天について、まず天御中主神のところでは、宇宙と解釈すべきだとした。ここで天之常立尊と国之常立尊が並び立つ場合の天は、この国土、今日いう地球以外の世界を指したのである。そして、これ以後、しばしば出てくる天や高天原は、神々が常におられるところをいう、と解釈する。したがって、徳川時代の学者が、私たちの胸の中を高天原と解釈したのも、差し支えない。私たちが産霊神から授かった神霊の宿るところと見るからである。要するに、全体を通じて、天または高天原は、神明が鎮まっておられるところと解釈すべきだと思われる。
新井白石のように、徹底してこれを純粋な歴史として解釈しようとすれば、どうしても無理なこじつけに陥ることを免れない。
さて、天之常立神は、この国土以外の世界の元霊である神なのである。わが神道は、天御中主神の大道、天地の公道として、宇宙全般に行われるものだが、この国土以外の世界とは直接の関係が少ないため、天之常立神の系統についての伝説は、まったくないのである。
第三節 国常立神
ところが、その次に現れた、この国土の元霊である国常立神については、古伝はかなり繰り返し伝えている。
中古には、一般に『日本書紀』が広く読まれていたので、その巻頭に伝えられる国常立神は、中古の学者が研究する第一の対象となった。多くの学者は、これを天御中主神と同じものと見て、実在そのものだと解釈しようとした。それで、卜部兼直という人が作ったという『神道大意』では、「国常立尊は、形のない形、名のない名であり、これを虚無大元尊と名付ける」と言い、この虚無大元から一大千界が成り、草木や瓦石、鳥獣や魚や亀まで、あらゆるものが、ことごとくできてきたと解釈している。これを神道家の吉川惟足は、次のように解釈する。「国とは世界の本体である。常とは、万古に変わらないものの呼び名である。立とは、不変の理を立てて、万物を成り立たせるあり方である。尊とは、尊び重んじる心をいう。たとえば『御事』というような意味である。この国常立尊は、普通の神ではない。天地に先立って天地を定め、陰陽に起こって陰陽となる、その全体を仮に名付けて神と申し上げたのである。その神の名を表すなら、国常立尊と申し上げるのである」。こう説明している。結局、この説明は、儒教や仏教などによってできたものである。そして、これを天御中主神と同じものと見ようとするのだが、私は、この神は要するに、この国土の主神であり、国土を維持し発展させる元霊に、この名を申し上げたものと認めなければならない、と主張するのである。
第六章 七代神
第一節 七代神の順序
今述べた国常立神は、この国土の元霊であり、その後、六代にわたって続いて現れた神々とともに、神世七代とされる。「神世」は「神代」と書いても同じである。神代とは、世間では神武天皇以前をいうが、普通は、大己貴命が幽世と顕世を分けたことから、それ以前を神代、それ以後を人代とする。ここでは、さらにさかのぼり、伊弉諾・伊弉冊の二神より前を神代としたのである。
七代神の第二は、豊雲野神である。前にも少し述べたが、『日本書紀』によると、国常立神と豊雲野神の間に、国狭槌神という神がある。ところが篤胤は、『古事記』に、「大山津見神と野槌神が、山と野によって分かれて生んだ神の名は、天之狭土神、次に国之狭土神である」と伝えられていることから、『日本書紀』の国狭槌尊と、『古事記』の国之狭土神は同じ神だ、という説を主張している。ともかく、この国狭槌尊については、古伝にどうしても誤りがあるようである。著者は篤胤の説によらず、むしろ国常立尊の別の名であるとする。そもそも古代の神々には、「またの名は何々」といって、一柱の神にいくつもの名がある例が多い。著者はそのように考えていたので、篤胤の説に賛成しなかった。ところが後年、鈴木重胤の説を見ると、やはり同じように説かれていた。それで、著者の考えのほうが、ますますよいように思った。要するに、国常立神は国之常立尊とも、国狭槌尊とも、国狭立尊ともいうのだと思われる。『旧事紀』の「神代系紀」には、「国常立尊は、また国狭立尊といい、また国狭槌尊という」と書いてある。『旧事紀』は必ずしも正確な古典とはいえないが、そのような本にこう書いてあるところを見ると、やはり昔、そのような古伝もあったように思われる。どうも、そう解釈するほうが正しいと思うのである。さて、豊雲野神のときには、この国土が次第に発達してきたと見える。豊雲野神についての宣長の解釈を見ると、「くも」は「くむ・くみ・くひこり」などに通じ、物が集まり凝り固まる意味と、物が生まれ始める意味を兼ねるという。そして、この二つの意味も、おのずから通じ合うとしている。つまり、豊雲野神は、物が凝り集まることと、芽生えることとの二つの意味を兼ねている。そう見ると、豊雲野という名には、たいへん面白い意味がある。「くも」とは、今述べた星雲のようなものが凝り集まり、固まってくることである。それに加えて、芽生える、でき始めるという意味がある。だから「くも」とは、星雲のようなものが群れ集まり、国土になるものが初めて芽生えたという意味で言い、「野」はそのものを指したのである。国土が次第に凝固して固まってきて、このような形にできあがった、その時代の元霊を、豊雲野神と申し上げた。宣長の解釈によって、このような説が成り立つ。この点では、まさにこうであろうと思われる。
次に、第三に現れたのは、宇比地邇神と須比智邇神の二神である。この神々が現れたとき、国土はますます発展してきたと思われる。「宇」は浮く意味、「須」は沈む意味である。「比地」は泥をいう、というのが真淵の説だが、まったくそのとおりだと思う。この混沌としたものが次第に進化し、重いものは沈み、軽いものは浮く。そして沈んだ「比智」、つまり泥土が固まり、次第に国土となってきた。その時代の神を、宇比地邇神・須比智邇神と申し上げたのである。
今度は第四代の、角杙神と活杙神が現れた。この二神の名については、物がわずかにでき始め、たとえば尾や頭、手や足といった区別がまだできないものを「つの」といい、「くひ」は、物が初めて芽生えるという意味である。だから、「つのぐひ」は、神の姿が初めて生じたという意味で申し上げた名である。「いくぐひ」は、その生まれ始めた姿が、生きて動き始めるありさまから申し上げた。まだどんな形か分からないが、動いておられる場合の名だ、というのが宣長の解釈である。篤胤もまた、「角具比・活具比とは、あの初めの泥土が、少しずつ固まる芽を含むほどになったという意味から、その時代のありさまと、神として成り出る身体の状態とを兼ねて捧げた名だろう」と述べている。つまり一言でいえば、角杙・活杙という神は、先に述べた宇比地・須比智が次第に固まってきて、一柱の神として成り出る身体の状態に即して申し上げた名なのである。このように解釈するのである。
このように国土は次第に発達し、その主神も発展していく。すると、第五代の意富斗能地神・大斗乃辨神の二神が現れた。この意富斗能地・大斗乃辨の「おほ」は、たたえる言葉、美称である。そして、この二神の名は、国となるものが次第に凝り固まって、国土が成り立ったところに、男女の尊称を付けただけである。このように国土は次第に発展し、国土を経営し統御する神も、大いに発展してきた。そのときに現れた神が、第六代の神である。
第六代は、淤母陀琉神と阿夜訶志古泥神という二柱の神である。これを宣長の考証によって解釈すると、次のようになる。「おもだる」は、『日本書紀』では「面足」と記されている。「面」は顔を意味する。顔が次第に整い、不足するところがないように備わってくる。顔が整ったことを挙げて、そのほかの手足なども、みな十分に整ってきたことを示す名である。「あやかしこね」というのは、淤母陀琉神の顔が十分に整ってきたのを仰ぎ見ると、畏れ敬う気持ちが起こる、その畏れ敬う意味から、阿夜訶志古泥神と申し上げたのである。
豊雲野神以下の七柱は、みな、この国土の発展につれて、その主神が発展するたびに現れた神に、当時の状態から名を捧げたものである。国土についていえば、このように凝結してきて、神についていえば、このように具体的になってきた。その時代を受け、さらに現れたのが、七代神の最後の神、伊弉諾・伊弉冊の二神である。この二神は、すでに完全に人の身体を持っておられた神であり、人としての神なのである。
この第七代の伊弉諾尊・伊弉冊尊に至って、国土もすでに十分に完成していた。しかし、なお整え固める必要があり、二神の経営を待つのは、もちろんのことである。そこで二神は、天津神の命に従い、この国土を整え固めたということになるのである。
第二節 七代神をめぐる学説
七代の神については、おおよそ以上のような次第である。しかし、この神々に対する神道学者の説は、古来さまざまである。北畠親房は、国常立尊は天御中主神であり、五行の徳を持っておられる神だと述べ、国常立尊と伊弉諾・伊弉冊二尊の間の五代の神を、木・火・土・金・水の五行に割り当てた。そして、「これらの神々は、実際には国常立尊の一身である。この五代の神とは、国常立尊の一身なのである。五行の徳が、それぞれ神として現れられた。これを六代とも数えられるが、二世、三世という順序を立てるべきではない」と解釈している。この解釈に従えば、結局、国常立尊から、ただちに伊弉諾尊・伊弉冊尊へと至るのである。
次に、山崎闇斎派の神道家に、玉木葦斎という人がいる。この人は、古伝の「七代一代、一代七代」という言葉を取り上げ、こう解釈している。「この七代の神は、もと国常立尊の大気元霊から生まれ、国土ができて定まり、伊弉諾・伊弉冊の二尊が気の働きから生まれたのだから、上へさかのぼって説けば、国常立尊の一代にまとめられ、下へ説き進めれば、伊弉諾・伊弉冊二尊にまとめられる」。葦斎の説によれば、陰陽五行の精髄が妙に合わさって、ここに二尊が生まれたのであるから、七代とは、この二尊が現れるまでの道筋を神格化したにすぎない。だから、七代は一代なのだ、という解釈である。親房や葦斎のような学者は、陰陽五行に結び付け、これを二代、あるいは一代にまとめてしまおうとしたのである。
ところが、伊勢の神主である度会延佳は、これとは少し趣を異にし、「天地人が始まるとき、その形は違うが、その理は違わない」という説から、天地のできることを、人のできることと同じように解釈しようとする。天地ができることと、人ができることは、形は違っても、道理は違わないとして、人ができる道理によって、天地ができることを解釈しようとするのである。そこで、国常立尊から阿夜訶志古泥尊までの九柱の神を、人の身体が九か月間、胎内に宿ることになぞらえる。十か月目に男か女か、その身体が現れるから、男なら伊弉諾尊、女なら伊弉冊尊であるという。国常立尊から阿夜訶志古泥尊までは、まだ姿を現していない神、つまり胎内にいる神である。そして伊弉諾・伊弉冊二尊は、男女の姿が現れ、明らかに生まれ出たものと認めるべきだ、と解釈している。平田篤胤も、度会延佳と同じような考えから、伊弉諾・伊弉冊二尊の身体が次第に整うありさまによって、この二神より前の四代の神々の名ができた、と言っている。
ところが、篤胤の門人に、下総国の高岡康則という人がいた。この人は、西洋の創造説を参考にして、この神々について、「康則、畏れながらよく考えるに、国土の初めと神々の初めの形に当てて捧げた名ではない」と言っている。著者は、国土と神々の初めの形に当てて捧げた名だと言うのだが、康則はそうではないと言う。「産霊大神が、伊弉諾・伊弉冊の二柱の神を造り出そうとして、国土となるものの初め、つまり初めの泥ができている、その泥のごく精妙なものを取り、二尊の姿を造り始められたことをいうのである。産霊神が二尊を造り、その身体ができるにつれて名を申し上げたのが、七代の神の名なのである」。このように述べている。篤胤は、この高岡康則の説を、詳しく考えられたもので、いかにもそのとおりに聞こえ、この説に従うべきだと言って、是認している。これはまさしく、西洋の神がアダムとイブを造り、息を吹き込んだというような説に基づいて、立てたものと思われる。
しかし、私たちが七代神について考えると、古伝の七代神は、決して陰陽五行に配して解釈すべきものでも、人間の身体にたとえて解釈すべきものでもない。また、西洋のアダムとイブの説に結び付けて解釈すべきものでもない。七代神は、やはり古伝にあるように、それ以前の神々と同じく、世界の最初、つまり今日いう地球の大初から、古代に人の身体を持つ伊弉諾・伊弉冊の二尊が現れるまでの、長い長い間の、それぞれの時期に立てられた神なのである。当時の古伝が思い描いていた各段階に、このような神を立てて申し上げたのだ。こうした神々が次第に現れ、この国土の最初の国常立尊から、ずっと二尊まで続いてきた。つまり、伊弉諾・伊弉冊尊に至るまでの系図なのである。その系図では、これだけの神々を経て、二尊に至った。二尊が、この国土の主神として現れたのである。国土の主神として現れるまでには、国常立尊から、このような代々を経て二尊に至った、ということを、神道では伝えている。このように解釈するのである。
第三節 伊弉諾・伊弉冊神
いよいよ七代を経て、第七代に伊弉諾・伊弉冊の二尊が現れた。二尊は天津神の詔を受け、この国土を整え固めることになっているとは、すでに述べた。しかし、それもまた問題であり、その天津神とはどういう神かが、まず最初に起こる疑問である。これに対して、二尊より前に現れた神だと言うのだが、今述べてきたように、それらが観念上の神々だとすれば、二尊にどうやって、この国土を整え固めるよう勅命を下したのかが疑問になる。そして、天瓊矛を授けたというが、これはやはり、二尊が神秘的な詔を受け、矛も授かったと解釈するほかないと思う。二尊は天瓊矛を持ってこの国に来られ、天浮橋に立ち、ゆっくりとその矛で探ったと伝えられている。その天浮橋についても、さまざまな説がある。『釈紀』所引の私記では、「天浮橋とは、天地開闢のとき、島々がまだできず、浮いた脂がつながるところもないような状態であった。それで、浮橋の上に立つと申し上げたのである」と、きわめて漠然とした解釈を与えている。ところが平田篤胤は、こう解釈している。「浮橋といっても、今の橋のように、こちらから向こう岸に架けるという意味で、天と地の間に架かっている橋をいうのではない。また、天と地をつなぐ帯のようなものでもない。そのように考える人もいるが、ただ神の考えによって造り出され、事あるときにはそれに乗って空を飛行されたもので、今日のものでいえば、船のようなものである」。そして、これを浮かべて乗り、往来するものだから、浮橋といったのだと解釈している。これに反し、近代の学者、敷田年治は、「空に浮かんで架かる橋である。そのような橋があったことは、『丹後風土記』や『播磨風土記』などに見える」と言っている。しかし、どうも船のようなものだと思われる。橋といっても、決して一方から一方に架けた橋という意味ではないと思う。
その天浮橋に立って矛で探ると、矛の先から滴が落ちて固まり、一つの島になった。それを自凝島という、と古伝には伝えられている。自凝島とは、『釈紀』にもあるとおり、自ら凝り固まった島という意味なのだから、別に二神が生んだわけではない。自然に、そこに島ができていたのである。つまり、もやや霧が立ち込める中から、そこに島があるのを発見されたことを、そのように伝えたのだと思われる。そこで二神は自凝島に下り、いよいよこの国を整え固める事業を始めた。古伝によれば、二尊はまず、淡道之穂之狭別島を生み、次に伊予之二名島、隠伎之三子島、筑紫島、伊伎島、津島、佐渡島、大倭豊秋津島という大八島と、そのほか多くの小島を生んだことになっている。
第四節 国土の主神
底本百二十一頁の本文見出しは「第三節」となっているが、直前に第三節「諾冊神」があり、同頁以後の柱には「第四節」とあるため、第四節として示した。
この島々を生んだということが、後世の神道学者の非常に迷っているところである。本居・平田両翁などは、徹頭徹尾、島そのものを生んだのだとしている。しかし著者は、決して島を生んだのではないと見る。この「生んだ」ということも、必ずしも後世の人が子供を生むように、二神が生んだのではないと思われる。なぜなら、このように都合よく、一つ一つ生むということも、たいへん疑わしいからである。もちろん、神のことは神秘的だと言えば、それまでだが、十分に研究の目で見ると、「生んだ」ということも、必ずしも後世と同じではないと思う。この島々とは、私は、それぞれの島を主宰する神々だとする。伊弉諾・伊弉冊二尊が天津神の詔を受け、この国を整え経営するに当たり、当時の多くの島々を、ことごとく一つ一つ自ら整え経営することは、到底できない。そこで、各島を主宰する神を、まず定められたと解釈できる。それが主宰の神であるという理由として、まず伊予之二名島について、篤胤は「いよいよ二つ並んだ島」という意味だと解釈している。そうした、二つに並んだ島なのである。現に四国は、そのような形をしている。その形に基づいて、主宰神の名を捧げたと思われる。また、伊予之二名島にも隠伎之三子島にも、みな「またの名」がある。その別名を見ると、「ひこ」や「ひめ」と呼ばれるものがある。また「わけ」という呼び名もある。たとえば、大倭豊秋津島の別名は、天御虚空豊秋津根別という。「わけ」は、宣長の解釈では「わが君、兄」という意味で、国造や稲置などの類、国々の各地にいて、その地方を治める人をいったものである。つまり、地方の長官を「わけ」という。そうすると、四国の長官を何々の別といい、九州の長官を何々の別というのである。このように「わけ」という名があることからも、大倭豊秋津島を天御虚空豊秋津根別というのは、その名の長官が、この島を治めたのだと見ればよい。また、「わけ」は、代々の皇子の名にも多い。孝霊天皇の皇子には日子刺肩別、開化天皇の皇子には建豊波豆羅和気という方がいる。垂仁天皇の皇子には、「わけ」の付く方が六人、景行天皇の皇子には二十三人いる。これによれば、伊弉諾・伊弉冊尊が定めた地方の長官に、比古・比売・和気と呼ばれる神々があるのは、不思議ではない。このような次第で、やはり主宰神を申し上げたものと思われる。そうすると今度は、神の名に島や国というのは、ずいぶんおかしい、隠岐島の別名を天之忍許呂別、筑紫国の別名を白日別と呼ぶのはおかしい、と聞こえるかもしれない。しかし後世にも、丹波守や丹後守などという例を見れば、あながちおかしくはない。著者の祖先には、田中淡路や田中丹波という者がいる。そのほか、松平伊予、浅野芸州など、国の名が名前になっている者は多い。また古伝を見ても、『古語拾遺』には、「生島は大八洲の御霊であり、今の生島の巫が祭っているものである」とあり、『旧事紀』にも同じ伝えがある。『神名式』にも、「神祇官の西院に鎮座する、生島の巫が祭る神、二座」とある。そして貞観元年正月、生島神と足島神に、ともに従四位上を授け、続く二月には正四位下を授けたという。これを見ても、神の名を島や国と申し上げても、不思議ではないことが分かる。だから、島々を生んだというのは、これらの島々を経営するに当たって、まず、その主宰神を定めたことをいったのであると考える。
このようにして、伊弉諾・伊弉冊二神は、国土の各地方に主宰神を定め、さらに河海山川にも、それぞれ主宰神を定めて、着々と国土経営の事業を進めていった。しかし、この国土を完全に経営するために、二神がいつまでも現世にとどまって事業を行うわけには、到底いかない。そこで二神は、自分たちに続いて天下の主神となる神、跡を継いで天下を治める神を定めようと相談し、ここに三貴子を生んだのである。三貴子が生まれると、伊弉諾・伊弉冊二尊の時代は終わり、今度は三貴子が活動する時代に入っていくのである。
第七章 三貴子
第一節 三貴子の誕生をめぐる問題
三貴子については、古伝は実にさまざまである。しかし、要するに三貴子が生まれると、伊弉諾・伊弉冊二尊は、国土経営のすべてを三貴子に託し、伊弉冊尊は黄泉国へ帰り、伊弉諾尊は日之少宮へ退かれた。そもそも三貴子とは、天照大神・月読命・素盞鳴尊の三神をいう。『古事記』によると、伊弉諾尊が筑紫の阿波岐原で禊をされたとき、目を洗われた。左の目を洗ったときに天照大神、右の目を洗ったときに月読命、鼻を洗ったときに素盞鳴尊を生んだ、ということになっている。しかし、このことについては、前に少し述べたように、神道の立場から、この古伝を採用するのは、たいへん疑問だと私たちは思うのである。
この禊のときに成り出た神について、『神道五部書』という本がある。伊勢の外宮に伝わったというものだが、いずれにせよ、後世の偽書とされている。この五部書の中に『御鎮坐次第記』というものがあり、次のような文句がある。「伊弉諾尊が左の目を洗われ、それによって生まれた神の名は、天照荒魂と申す。またの名は、瀬織津比咩神である」。さらに、その次には、「伊弉諾尊が右の目を洗われ、それによって生まれた神の名は、気吹戸主神、すなわち大神の分神である。ゆえに、またの名を大神の荒魂と申す」とある。この本は信用できないが、ある古伝にこのような伝えがあったものが、『古事記』に入り、三貴子の伝えができたのではないかと思われる。それで平田篤胤は、五部書は偽書といっても、一概に退けるべきものではないとする。とりわけ『御鎮座伝記』に伝えるようなことは、よく真実の趣旨に合い、決して後世の人が言い出せるような説ではなく、『日本書紀』や『古事記』の誤りさえ正し明らかにできる、たいへん優れた伝えだとして、次のように述べている。「『日本書紀』『古事記』に、鼻を洗われたとき速須佐之男尊が生まれたとある伝えは、速佐須良比売神が生まれた伝えを誤ったものである。『御鎮坐伝記』にこの伝えが残っているのは、たいへん喜ばしく、この上ない賜物である」。鼻を洗ったときに素盞鳴尊が生まれたと伝えてあるが、それは速佐須良比売神なのだというのである。そう見ると、伊弉諾尊が左の目を洗ったときに生まれた神は瀬織津比売神、右の目を洗ったときに生まれた神は気吹戸主神、鼻を洗ったときに生まれた神は速佐須良比売神ということになる。そうすると、決して三貴子がこのときに生まれたことにはならない。『御鎮坐伝記』だけを証拠として言うわけにはいかないが、それでも、この三貴子という神々が、伊弉諾・伊弉冊二尊がそろっておられる時代に誕生せず、伊弉諾尊お一人のときに誕生したという古伝は、どちらから見ても、正しい古伝とは考えられないのである。
こういうわけで著者は、『日本書紀』の初めに伝えられるとおり、伊弉諾・伊弉冊の二尊が三貴子、つまり天照大神・月読尊・素盞鳴尊を生んだ、と主張するのである。『日本書紀』の正伝にこう伝わっているものを、わざわざ退け、伊弉諾尊お一人で生んだという説を採らなければならない理由は、少しもない。
第二節 三貴子と二貴子
『日本書紀』のある一書には、伊弉諾尊が「月読尊は、広い海原の、幾重にも重なる潮を治めよ」と命じたとあり、別の一書には、「素盞鳴尊は海原を治めよ」と命じたとある。『古事記』にも、建速須佐之男命に、「汝は海原を治めよ」と命じたとあり、どれも同じところを治めよと伝えているようである。また、保食神、つまり大気津比売を殺した神を、『日本書紀』は月夜見尊とし、『古事記』は須佐之男命としている。そのほか、月夜見の「夜見」は黄泉であり、黄泉は須佐之男命が向かったところだと伝えている。このようなことから、本居宣長は、この二神は一柱の神ではないかと疑った。その門人、服部中庸は、師の説をさらに一歩進め、「須佐之男命というのは月読命の別名だが、それが紛れて別の神のように言われたため、二つになった。しかし、もとは一柱の神である」と、著書『三大考』に説いている。平田篤胤は、さらに強い言い方で、これを一柱の神としている。篤胤は、『日本書紀』に「日月がすでに生まれた」などとあることから、日の神・月の神と考え、天照大神を太陽の主宰神、素盞鳴尊を月の主宰神と主張した。そのため、当然の結論として、二貴神説に行き着いたのである。
もちろん、三貴子をめぐるこのあたりの伝えに、多少の誤りが含まれていることは、誰もが認めざるをえない。しかし、月読尊を抹消しようとする説には、著者は賛成しない。月読尊にも、ほかの二貴子と同じように、多くの伝説があったのだろうが、『古事記』『日本書紀』ができたときには、すでに古伝から脱落していたのではないかと思うのである。つまり、三貴子の説を主張するのである。
さて、伊弉諾尊の命により、天照大神は当時の宗主国である高天原を治め、月読尊は天照大神の補佐として高天原におられ、素盞鳴尊は天下を治めることになったと伝えられている。伊弉諾尊が、ここで天下と仰せになったのは、わが豊葦原中津国を指したのである。だから、その神意に従えば、当然、素盞鳴尊が伊弉諾尊の跡を継ぎ、豊葦原中津国の主宰神となり、その子の大国主神がこれを治め、その子孫がずっと豊葦原中津国の君主となっていなければならないことになる。ところが、このとき素盞鳴尊は、天下を治めることを承知されなかった。それで、伊弉諾尊によって、この国から追放されてしまった。そこで当然、この国は天照大神が治めることになったのである。
このような次第で、この国にとっても神道にとっても、最も大事な神は天照大神ということになる。天照大神は、わが国家の淵源であり、また神道の淵源なのである。
第三節 天照大神と太陽崇拝
三貴子の第一は、天照大神である。日の神とも、大日霊貴尊、天照大日霊尊とも申し上げる。この神は昔から女神とされているが、日出の帆足という人は、男神だと言っている。その説では、「聖徳太子が天照皇を女性としたのであり、それは高霏爾霊、たかひるめ、という名によったのである。霊の字の和訓は、女の『め』に通じるからである。これは、一時の都合による言葉で、ただ自分の私情を遂げたにすぎない。ところが『古事記』や『日本紀』などは、みな、その誤りを伝えて、少しも正さない。だから両書は、古伝の典拠とされてはいても、まだその道を確かめるには足りない」と言って、天照皇を男神とする。しかし、この説は一種風変わりな説であり、どの説を見ても、どの古伝に照らしても、天照大神が女神であることは争えないのである。
天照大神には、今述べたように、さまざまな名がある。それらがみな太陽と関係するため、前にも述べたとおり、本居宣長をはじめ、多くの学者が、天照大神は太陽であると考えている。しかし、天照大神は、決して太陽ではない。平田篤胤は、大神を太陽そのものとする説は不合理だとして、太陽の主宰神が天照大神だと主張しているが、これも当たらない。そもそも宇宙の万物が、すべて精神と生命を持ち、人間と同じように活動し、また人間以上の能力を持つという考えは、昔の人に一般に見られたものである。だから、ギリシャ人などは星を人間と同じように見て、生きているものとしている。このような考えは、今日でも、なお未開の民族に見ることができる。星も、そのほかの動物も植物も、また風や雨や地震なども、みな生きたものと見る。その中でも、最も激しく、最も人類に影響を与え、最も注意を引くものは太陽である。太陽は、日照りが何日も続けば、草木を枯らし、家畜を焼き殺すほどの勢いを持っている。また、春の暖かな日光は、私たちの健康に大きな効果をもたらし、その力で穀物が実り、万物も育ってくる。このような偉大な勢力を持つ太陽を見て、神として崇拝するようになるのは、自然に起こることだと思われる。フランスのルソーは、こう述べている。「地球は人類の小さな島であり、私たちが日々、最も強く目にするものは太陽である。私たちが外へ目を向けると、太陽は自然に、まず目に触れる対象となる。だから、すべての野蛮人の哲学は、地球を空想によって区分することと、太陽の神性を説くことにほかならない」。このように太陽は、すべての人の注意を引き、その崇拝の対象となることができる。わが国にも昔、青人草と呼ばれる多くの人民がいたのだから、その人々の間で太陽崇拝が行われていたのは、事実だろうと思う。そのときに、天照大神が現れたのである。その徳は広大で限りなく、ほかに比べるものもない。そこで、それまで太陽を崇拝していた下層の人々は、すぐに天照大神を太陽と同じものと見るようになったと思われる。だから古伝のある部分で、天照大神がまるで太陽であるかのように伝えられているのは、少しも不思議ではないのである。
第四節 国民的精神と天照大神
さて、今日のわが国民について、よく研究してみると、第一章ですでに述べたように、わが国の歴史と地理の関係から、昔から培ってきた国民的精神というものがある。それを分けて見ると、秩序と統一を重んじる思想に富み、快活で現世的な感情に富み、発展し膨張する性格に富んでいる。秩序と統一を重んじる思想とは、私たちがこの世で生きる上で、すべてに秩序を重んじ、統一を尊ぶ精神である。どの国民も秩序や統一を尊ぶが、わが国民は特に、この点に重きを置いている。たとえば中国を見ても、その国民も秩序を重んじ、統一を尊んでいる。しかし、わが国のようには尊んでいないので、秩序の根本となるものが成り立っていない。わが国では、一軒の家に家長がいて、その家を引き締めていく。しかし、ほかの国では、わが国の「家」のようなものは、あまり見られない。わが国の家は家長が治め、その家長を継ぐことを、家督の相続という。この家督相続も、わが国ではきわめて大事なこととされているが、外国では、それほど大事ではない。とりわけ西洋では、今日、家督の相続は見られない。まったくないのである。家はいわゆる男女同権で、夫と妻が対等に立っている。子供も、成人すれば、やはり親と対等に立つようになる。ところが、わが国では、同じ血族の者が、同じ家長の下で温かく団結している。だから、わが国では家を尊ぶのである。その家の観念が大きくなれば、国家になる。したがって国家の主権者、すなわち天皇陛下は、一軒の家でいえば家長と同じように、国民の中心となり、崇敬の対象となっておられる。中国などでも忠や孝を説くが、君主に対して簒奪や弑逆を行う。秩序の根本を失っているから、そうなるのである。西洋も、秩序と統一を重んじてはいるが、徹底していない。こう言うと、次のように言う人がいるかもしれない。今日、わが議会で、政府と議会が激しく争論するのはなぜか、それでも秩序と統一を重んじているのか、と。しかし、昔の政府でも、内大臣・左大臣・右大臣・太政大臣などが政治を行い、左大臣や右大臣の間で、権力の衝突などは絶えずあった。今日は立法・司法・行政に分かれ、行政部・立法部・司法部となっている。立法部と行政部が衝突し、争論するのは、どちらも国政を十分に行い、秩序と統一を十分にしようとする努力にすぎない。天皇陛下に対しては、等しく忠実に働いている。だから、いったん敵国による外患が生じれば、すぐ議会でも全会一致、国内でも挙国一致となるのである。また、御大礼や御大喪のときには、どれほど争論していても、すぐに一致する。これこそ、わが国民が、今日も秩序と統一の精神を十分に発揮している証拠である。要するに、わが国では、秩序と統一の根本に、神聖な天皇陛下をいただいている。西洋などでは、神を主とし、上に立つものとし、皇帝も人民も、等しく神の支配を受けるべきものとする。つまり、神に対しては同輩である。この世の父より天の父を、この世の主より天の主を大事にする考えでは、とても、わが国のような秩序と統一はできない。また、中国やアメリカのように、国民がてんでに民を主とし、民を根本としては、徹底した統一はできない。もちろん、わが国でも歴代の陛下は民を愛し、民の心を自分の心とされているが、外国のように人民自身が民主主義を主張してはだめである。人民は多い。多くの人民が主では、どのような方法を採っても、理想的な統一は到底できないのである。
次に、快活で現世的な感情についていえば、インドの国民などは、どうも厭世的で、快活ではない。山の中に引きこもって暮らすような者が多い。以前来朝したタゴールなどは、最も新しい実例である。汽車や電車、そのほか、いわゆる文明をのろい、市街のにぎわいを嫌うことなどは、祭りを愛し、縁日に参ることを好むわが国民とは、同じには論じられない。また西洋でも、ギリシャの国民などは、ずいぶん現世的だったが、中世には多くの厭世的な人々が現れ、財産を教会に寄付して隠遁する風が、大いに行われた。現在でも、フランスの国民などには、そのように暮らす者が多い。もっとも、日本国民にも、厭世観を抱く者がいないわけではない。しかし、それは仏教の影響を受けたか、個人の境遇などが、そうさせたのであって、大多数は快活である。厭世的で憂鬱な生活を、日本国民はあまりしない。厭世的な傾向に富む仏教でも、日本化すると、日蓮の一派のように、大いに快活になる。念仏宗などには、かなり厭世的な傾向があると見なければならないが、肉を食べ、妻を持つことなどは、とてもインド仏教とは見られない現象である。これも、日本化した結果と見てよい。また、現世的でもある。未来の天国や極楽を、あまり念頭に置かない。もちろん、年を取った者や身体の弱い者、何かきっかけのある者の中には、かなりそのような考えを持つ者もいる。精神や身体が病的な者には、天帝や阿弥陀如来などにひどく頼り、未来の幸福の保証を得たいという思いが強い者もいるが、健全な日本国民には、そうした者は少ない。たとえ仏教徒となって仏を拝み、寺院に布施する者でも、またキリスト教徒となって神の福音を喜び、教会に参る者でも、日本国民として健全である以上、現世的であることを失わない。要するに、日本国民の大多数はみな現世的であり、現世で活発に活動することが、日本国民の特色なのである。
さらに日本国民は、どこまでも発展し、膨張していく性格を備えている。歴史を見れば、これは最も明白である。国運が日々発展し、膨張してやまないのも、まったくこの性格による。もちろん、外国人にもそのような性格はある。特に、昔のローマ人や、今のドイツ人などは、それを著しく持っている。だから人はよく、世界を統一するのは日本人かドイツ人だと言う。しかし、ローマ人もドイツ人も、秩序と統一を重んじる思想が、いかにも乏しい。ローマは王政を行って、ついには国王を追い出し、共和政を行って、国内の争いが絶えなかった。日本国民のように、秩序と統一を重んじる思想、快活で現世的な感情を持ち、その上で、発展し膨張する性格を持つ国民は、ほとんど見られない。わが国民は、このような思想と感情を持ち、しかも発展的、膨張的である。これは、わが国家が発展し膨張してきた道筋を見ても分かる。昔、わが国の勢力は、近畿から東海・中国・九州方面にしか及んでいなかった。それが次第に遠くへ及び、ついに北海道、樺太、西は朝鮮、南満州、南は琉球、台湾、遠く南洋にまで及ぶというように、徐々に発展し膨張してきた。また、思想の面でも、新年の祝いの儀式などには、この性格が十分に現れている。そのほか、日本人のなすこと、することは、常に発展的、膨張的であり、その性格が表に現れたものである。これが、日本国民の国民的精神なのである。そして、わが国の神々は、その国民的精神の精髄を体現し、精華を集めておられる。だから、神々は八百万というほど、実に多くおられるが、ギリシャの多くの神のように、雑然として統一がないのではない。みな、厳然とした系統上の地位を持っておられる。また、インドの十六羅漢や五百羅漢、そのほか多くの仏菩薩のように、厭世的、保守的ではなく、実に快活で発展的なのである。このように、わが国の神々は、国民的精神の精髄を体現し、精華を集めておられるが、その中でも、とりわけ偉大な神が、天照大神なのである。
第五節 神道の根本
天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神の徳は、広大で限りなく、言葉では表せないほどである。それだけでなく、人の身体を持っておられないため、私たちは仰ぎ拝んで、その教えを十分に受けることができない。ところが、天照大神は人の身体を持ち、三神の広大無限の徳を、人格として備えておられる。つまり、わが国の秩序と統一を重んじる思想、現世的で快活な感情、発展し膨張する性格の精華の、さらに精華というべきものを持っておられる。もちろん、天照大神について古伝はさまざまにあるが、それらは当時のきわめて未熟な文学によって伝えられているため、古伝から大神の偉大な徳を十分にうかがうことはできない。しかし、伝わっているものを見ても、おおよそ、その一端を知ることはできる。『日本書紀』には、「その光り輝く美しさは、天地四方の内を照らし尽くす」と伝わっている。これを見ても、大神の身体がどれほど麗しく美しく、その徳が偉大であったかを想像できる。さらに大神は、皇孫の瓊々杵尊をこの国に下すとき、こう神勅を下された。「葦原千五百秋の瑞穂の国は、わが子孫が王となるべき地である。皇孫よ、そこへ行って治めなさい。さあ、行きなさい。皇位の栄えは、天地とともに、きわまりなく続くであろう」。この神勅でも、瑞穂国は自分の子孫が王となるべき地だと断定し、皇位の栄えは天地とともに、きわまりないはずだと仰せになっている。これを中国と比べれば、堯帝が舜に位を伝えるとき、「ああ、舜よ。天の定めた帝位の順序は、お前の身にある。誠実に、その中正の道を守りなさい。天下の民が困窮すれば、天から授かった禄は、永く終わるであろう」と言った。堯はこれを舜に伝え、舜はこれを禹に伝えたというが、そこには「天下が困窮する」「天禄が永く終わる」とある。ところが、わが国の神勅には「皇位の栄え」とあり、「天地とともに、きわまりない」とある。この時代に、天照大神の雄大な構想がいかに遠大で、ほかに比べるものがなかったかが分かる。そして、ここが神道の根本なのである。
第六節 三種の神器
この神勅と同時に、三種の神器を伝えられた。この三種の神器は、神勅とともに、天照大神が後世に残された手本を示している。そもそも、わが国民は大神の神勅に従い、遠大な思想をもって秩序と統一を保ち、快活で現世的に、どこまでも発展し膨張して、天地とともに、きわまりないようにあるべきである。そのために必要なものとして、三種の神器が伝えられている。だから三種の神器は、わが国で最も重要なものとなっている。これについては、まず、その順序が昔からかなり問題となっている。天孫降臨の伝えでは、『日本書紀』にも『古事記』にも、八坂瓊の曲玉、八咫鏡、草薙剣という順で伝わっている。しかし、『古語拾遺』は鏡・剣の順であり、『日本書紀』の継体天皇のところも、『神祇令』も、鏡・剣の順に記されている。そのため、鏡が第一だという説もあるが、これは疑問だと思う。もともと三種の神器には、どれが重いかといった区別を付ける理由はないはずである。ただ、今挙げたように鏡・剣という伝えがあるのは、璽は常に陛下の身辺に置かれ、即位の御大礼の場合なども、すでに新しい陛下のそばに置かれており、忌部などが奉るときには、鏡と剣を特に捧げたからである。それで、その中から璽を省き、鏡と剣を並べて書くようになったと思われる。もっとも、鏡については、天照大神が別の神勅で、「この鏡を私の御魂とし、私の前で拝むように、祭りなさい」と仰せになったことからすれば、鏡が最も重いように思われる。しかし、三種の神器として授けられた場合には、決して優劣を付けて授けられたのではないと思う。また、『古語拾遺』などには二種の神宝とあり、「大殿祭の祝詞」にも「天津璽乃剣鏡」といった言葉があり、そのほか、先に挙げた二、三の例にも鏡・剣と書いてあるので、人によっては三種の神器は二種なのだと考える。しかし、これは大きな間違いである。前にも言ったように、曲玉は常に陛下のそばに置かれることになっているため、そのような記事には二種だけを書いたのである。神器が三種であることは、『日本書紀』にも『古事記』にも厳然と記されているのだから、ここに少しも疑いを挟む余地はないのである。
次に、天照大神が三種の神器を瓊々杵命に授けたことについて、北畠親房卿は『神皇正統記』に、こう述べている。「三種の神器が世に伝わることは、日・月・星が天にあるのと同じである。鏡は日の本体、玉は月の精、剣は星の気である。深い伝授があるのだろうか。……鏡は何一つ自らの内に蓄えず、私心なく万物を映すので、是非善悪の姿が現れないことはない。その姿に応じて映すことを徳とする。これは正直の本源である。玉は柔らかく穏やかで、よく従うことを徳とし、慈悲の本源である。剣は鋭く決断することを徳とし、知恵の本源である。この三つの徳を受け入れなければ、天下を治めることは、まことに難しいだろう」。このように三種の神器を大いに尊び、さらに「この国は、三種の本体を眼目とし、福を生む田とする」と述べ、国民が行うべき大道の根本としている。続いて一条兼良卿も、三種の神器を大いに尊び、著書『日本書紀纂疏』に、「三種の神器は、神書の最も大切なところであり、王法のかなめである」と言う。また、「鏡が美醜を映すのは知の働きであり、玉が温かく潤うのは仁の徳であり、剣が鋭いのは勇の意味である」と述べ、三種の神器が知・仁・勇の根本を示すとし、鏡は実に三器を代表するものとする。その説では、「三器には優劣がないが、その生まれた順をたどれば、鏡は第二の時にある。また、真榊の中の枝に掛けるのは、神明の中道を根本とするからである」と言い、鏡を挙げるときは、剣と璽もおのずから、その中に含まれるとしている。このように中古の学者は、三種の神器に、正直・慈悲・知恵、あるいは知・仁・勇という意味があると説いたため、徳川時代にも、多くの学者がさまざまな方面から同じように説いている。たとえば山鹿素行は、『中朝事実』で盛んに三種の神器の教訓を説き、こう述べる。「玉は温かな仁の徳、鏡は物事を究める知、剣は決断の勇を表すものである。そのかたどるところ、表すところは、みな天神の至誠である。このときには、まだ三徳という名はなかったが、おのずからその名の意味は存在し、それに当たる神器も備わっていた。神器が備わっているだけでなく、それによって成し遂げる働きがあるのである。最も畏れるべきことである。ひそかに考えると、三器は天神の働きを成す器であり、三徳を完全に備えている。聖なる君主がこれを用い、内には自分の心を照らし、外には政治と教化を治めるのは、神代からの遺命である」。神道の学者は、とりわけ盛んにこうした説を主張している。たとえば、度会延佳は『陽復記』に、「この三種の神宝は、知・仁・勇の三徳を表したという古い伝えがあるので、孔子の道は、わが国の神道と等しい道と思われる」と説く。吉川惟足も、『神代之巻惟足抄』に、「事柄としていえば三種の神宝、理としていえば天子の御心である。三種の神宝は胸の内に収まり、胸の内は三種の神宝に現れる」と述べ、三種は儒道の知・仁・勇に当たるとする。さらに、「三種は鼎の三本の足のようなもので、まことに神道の最も大切なところ、王法のかなめであり、代々のお守りとして、国土を広く照らす光である」と説く。玉木葦斎も『藻塩草』に、「三種の宝物は、もとより国を伝える重宝、徳の手本、道の道具であり、神々が受け継ぎ、歴代の天皇が伝え、心の持ち方のかなめや修身の方法から、民を養い天下を治める道までを、物に表して示されたものである。神国の大本、神道の秘要である。天地の理、人倫の道は、すべてこの三種の外に出ることがなく、実に日月とともに掛かり、天地とともに朽ちない、万代に変わらぬ道の器なのである」と説いている。果たして三種の神器が、これらの学者のいうように、知・仁・勇の三つの普遍的な徳の教えを含むかどうかは、もちろん問題である。知・仁・勇の教えなどは、天照大神のころ、もとよりわが国にはなかったのだから、ここへ持ち込むのは、こじつけだとの批判を免れないだろう。しかし、こう考えることも、まったく根拠がないとはいえない。
『日本書紀』によると、景行天皇が熊襲征伐のため周防へ来られたとき、その地方の首長、神夏磯媛は、磯津山の榊を抜き、上の枝に八握の剣、中の枝に八咫の鏡、下の枝に八坂瓊を掛け、白旗を船の舳先に立てて参上したという。また仲哀天皇の熊襲征伐のとき、岡の県主の祖先、熊鰐は、天皇がおいでになると聞き、五百枝の榊を抜いて、九尋の船の舳先に立て、上の枝に白銅の鏡、中の枝に十握の剣、下の枝に八坂瓊を掛け、周防で迎えたという。さらに、そのとき筑紫の伊覩県主の祖先、五十迹手も、天皇のおいでを聞き、五百枝の榊を抜いて船に立て、上の枝に八坂瓊、中の枝に白銅の鏡、下の枝に十握の剣を掛け、長門の引島で迎えて献上した。そのとき五十迹手は、「私があえて、これらの物を献上する理由は、天皇が八坂瓊の曲がるように、巧みに天下を治め、白銅の鏡のように、明らかに山川海原を御覧になり、この十握の剣を取り下げて、天下を平らかにしていただきたいからです」と申し上げた。すると、天皇は大いにこれを褒められたという。この言葉は、あまり信用できないとされる『神皇実録』や『天口事書』のような本にも載っているので、どうも五十迹手が考え出した言葉でもなさそうに思われる。おそらく、このような言葉が、古くからあったのではないか。ともかく、こうした思想が古くから存在したと思われる。そう見れば、天照大神の心にも、これに似た考えがあったのではないかと推察するのも、無理ではないと思う。頼山陽は、大神の徳の偉大さを推し量るのは容易ではないが、神器に即して見れば、何か言えるように思われる、と言う。天地とともにきわまりないという神勅が、後世、輝かしい事実として現れているのを見ても、その初めに、大神が神器に託して徳を表されたのではないかと想像される、というのだが、たいへん穏当な考えだと思われる。久保季茲は『三種神宝論』に、「もとより、大御神がその心に、そんな小賢しい理屈をもって授けられたのではないが、自然にその理にかなっているようだ」と言っている。当時、中国では盛んに知・仁・勇などの説が唱えられ、西洋にも、すでに真・善・美という考えがあった。そう考えれば、世界に比べるもののないわが国体の淵源を立て、雄大な神勅を下した天照大神の心に、おのずからこのような考えが生まれたのではないかと思われる。当時、貴い器物は、ほかにも多くあったに違いない。その多くの器物の中から、特にこの三種を選び出されたことには、相当に深い意味がなければならない。儒者が説くような意味は別としても、この三種を最も貴重な器物として授けられ、それがわが国の神器として、いつまでも伝えられているのは、実にありがたいことである。インドでは、転輪王の世に七宝が備わっていたという。その福徳の力に感応したものだったのだろうが、わが国の神器のように伝えられたものではない。また中国では、九鼎を宝とし、夏・殷・周がみな受け継いだが、その鼎は夏の禹王が鋳造したとされ、後世には伝わっていない。秦以来の伝国の璽は、始皇帝が作り、李斯が文字を書いたといい、漢では斬蛇剣を伝国の宝としたというが、これらも、わが国の神器と比べれば、同じには論じられない。ドイツなどにも十種の神宝というものがあるというが、もちろん、わが国の神宝とは、到底比べものにならない。ひとり、わが国にだけ、このような神器が伝わり、その光が天の日と等しいことを、実に私たち国民の光栄としなければならない。
そして、天照大神が三種の神器によって政治の要点を示されたとするかどうかは別としても、ともかく、以上のように神聖で貴重な三種の神器が、天地とともに、きわまりなく伝えられることに、私たちは深遠な意味を見いだせる。いわゆる生存競争は、動かせない現象である。だから今日、世界の競争の場で優れた地位を占めるには、まず国家社会の一員として、さまざまな方面の知識を十分に発達させなければならない。しかし、その知識は、単に競争が上手になり、競争で得た結果は、その競争を続けられるだけにすぎない、というような、物質的な知識だけではいけない。それと同時に、いわゆる理性的な真の知を開かなければならない。神鏡が厳然と存在することは、まさにこの意味を含むと信じられる。真の知は貴重だが、この方面にだけ偏ると、温かな思いやりの心が乏しくなる恐れがある。そこで、情操を発達させることが、きわめて必要となる。宝器に神璽が備わっているのは、決して偶然ではない。真の知も情操も、要するに静かなものであり、天地とともにきわまりない国運を発展させようとする、大きな活動を起こす活力にはならない。そこで、さらに固い意志が必要となる。意志は心の活力であり、強く勇ましい身体を得て、初めて固い意志となる。もし固い意志を器物で示そうとするなら、鋭い剣よりも、よく示せるものがあるだろうか。私たちは、神器の中に宝剣があることを、ますます、至れり尽くせりと感じずにはいられない。
要するに、私たちは三種の神器から、次のように示されていると解釈できる。知を磨いても、表面的な知にとどまらず、さらに真の知を磨くために神鏡を理想とする。温かく穏やかな情操を養うために、神璽を理想とする。入り組んだ難題に出会っても、少しも立ち止まらないために、神剣を理想とする。そして、あわただしいときも、つまずき倒れるときも、ひたすら修養に努め、自分の人格を高め、天地とともにきわまりない国運の発展という、わが国民の大理想を実現することに従事すべきなのである。
第七節 天照大神の至徳
このようなわけで、天照大神の徳は、まず天地とともにきわまりないという神勅や、三種の神器を授けたという古伝から、うかがうことができる。天照大神には、釈迦牟尼のように六年間山に入って苦行し、五千余巻の経文を説いたという事績は、少しもない。また、イエス・キリストのように、あちこちをさまよう生活を送り、悲惨な最期を遂げたという事績もない。孔子のように、政治家となったり教師となったりして、門人を集めて教えを説いたという事実もない。またソクラテスのように、人家の軒下に立ち、一世の堕落した風俗を改めようとして、ついにその犠牲となり、毒を飲んで死ななければならなかったという事績もない。それでも天照大神は、わが国民にとって、これら外国に現れた偉大な人物より、さらに、さらに偉大なのである。なぜ、それほど偉大なのか。そもそも人間は、ある道に志す者なら、その道の達人を、非常に偉い人と見る。これは、古今東西に見られる現象である。たとえば碁を打つ者は、六段や七段の人を、実に偉い人だと思う。剣術をする者は、二級にもなった人を、非凡で偉い人だと思う。相撲取りは、大関や横綱を、非常に偉いと思っている。音楽をする者は、音楽の大家を見て、非常に偉いと思う。このように、それぞれの道の達人を、神のように尊敬するのである。たとえば普通の力士なら、横綱の下駄をそろえたり、風呂で背中を流したりするのは、何でもない。場合によっては、その人が入った湯さえ飲むというほどである。その道の人は、達人を非常に偉いと思うが、道の外にいる者から見れば、あまり偉いとも感じない。碁を打たない者なら、本因坊だ、八段だ、七段だといっても、「何だ、本因坊が何だ、八段が何だ」と言うだろう。剣術をしない者は、「二級だからどうした、三級だからどうした」と思い、格別偉いとも思わない。「竹の先をカチカチ打ち合って、名人も何もあるものか」と言う。相撲に興味がない者は、「横綱を張るのに一万円を出すなんて、ばかばかしい。その金で、何かもうかる商売でも始めればよいではないか。この寒いのに裸になり、十貫目もある綱を巻いて得意になっている。気が狂ったようなものだ」と言う。何でも、そのとおりである。その道にいない者から見れば、ほとんど何の価値もない。だから、インド人種、あるいはそれに似た思想を持つ者、より適切にいえば、仏教の思想や信仰を持つ人には、仏教が偉大な教えに思われる。それで、仏はすばらしい偉人に思われる。ユダヤ人、あるいはユダヤ的な思想を持つ者、より適切にいえば、キリスト教の思想や信仰を持つ人には、キリスト教が偉大な教えに思われ、キリストがたいへんな偉人に思われる。しかし、仏教やキリスト教に、興味も信仰も持たない者から見れば、「釈迦が何だ。親の命を聞かず、国が滅ぶのも顧みず、気違いじみたことをして平気でいる。イエスが何だ。むやみに天国を空想し、社会党的な世界主義によって、人々を邪道へ導こうとする」などと言うだろう。それと同じように、熱心な仏教徒やキリスト教徒、また西洋哲学に心酔する者から見れば、わが天照大神は、きわめて平凡で、何の価値もない人のように見えるかもしれない。しかし、私たち日本国民には、今述べたような、日本の国民的精神がある。もちろん、その精神が大きい者も小さい者もいる。碁にたとえれば、まったくのざる碁の者もいれば、初段を相手に井目、つまり九子を置く者も、八子、七子、三子を置く者もいるだろう。それと同じく、国民的精神にも深浅や厚薄はあるが、日本国民である以上、ほぼ誰もが、ある程度はこの精神を持つ。その精神を持つ者の目から見ると、この精神を、ほかに比べるものがないほど偉大に備えた天照大神を、実に偉大な方だと感じずにはいられない。そこで天照大神は、私たちが最も重んじる神となっておられる。その徳を何と呼べばよいか、名付ける言葉もないほどである。昔、中国の孔子の門人は、孔子を「先生は日月のようだ」と呼んだという。わが国民も、天照大神をどう申し上げればよいか分からず、その徳の広大さを仮に天の日にたとえて、天照大御神、大日霊貴尊、あるいは日の神と申し上げたと思われる。インド的、ユダヤ的、あるいは欧米的な思想を持つ人には、きわめて平凡に見える天照大神が、わが国では、永遠の手本として仰がれ、神道の淵源をなした神なのである。同時に、わが皇室の祖先でもある。神道の人生観は、この天照大神によって示されている。大神は、すべてにおいて私たちの手本となる神であり、その行いは、私たちの日常の行為の規範となる。神道の淵源は、実に、この天照大神にあるのである。もちろん、当時は文学がなく、その事績は十分に伝わっていない。しかし、伝わっているものの中には、珠玉のものがある。すでに述べた、天地とともにきわまりないという神勅は、世界に比べるもののない国体の淵源となり、神道の骨髄、根本となっている。また、三種の神器は、その道徳的な意味をひとまず措いても、皇統が一系であることの由来となる、深遠な意味を持つ。特に、宝鏡を天忍穂耳尊に授けるとき、「わが子よ、この宝鏡を見ることを、私を見るのと同じようにし、寝所を同じくし、御殿をともにして、祭る鏡としなさい」と仰せになっている。この神勅は、現代の国民道徳と神道の重要な部分である、祖先崇敬の淵源である。また、この命と同時に、大神は高天原で治める斎庭の稲穂を授けた。これは新嘗祭のためのものであるとともに、わが国民が一日も欠くことのできないものであり、保食神に関する伝えとともに、祭祀と仁政の淵源である。そのほか大神は、穀物の栽培、養蚕、織物などの手本を示している。また、素盞鳴尊が天に上ったときには、大いに武備を整え、身には十握の剣、九握の剣、八握の剣を帯び、背に矢入れを負い、手に弓矢を握り、自ら防いだと伝えられる。これは、大神が武備にも細かな注意を払ったことを明らかにするものである。このような古伝は、まだ多くあるが、今述べたような一種の偏見を持つ人は、ほとんど何の価値も認めないかもしれない。しかし、正統な日本人の血が血管に流れるわが国民であれば、釈迦・キリスト・ソクラテスほどの聖人にも、なお説きえなかった尊厳な大道を示した天照大神の徳を仰ぎ、人類永遠の手本として尊び慕わない者はいない。こうして、伊勢大神宮の威光は、天地とともに、きわまりないことを知るべきである。
第八節 八百万神
天照大神に続き、三貴子として月読尊・素盞鳴尊という重要な神々がおられたことは、すでに述べたとおりである。月読尊については、古伝があまり伝わっていないが、要するに、天照大神を補佐したと思われる。素盞鳴尊については、さまざまな古伝がある。また、その子の大国主神は、天下経営の事業に従事し、神道の各方面に大きな影響を残した。大国魂神として、また大神神、おおみわのかみ、として、神道の重要な神である。さらに、天津神の系統の神として、瓊々杵尊・武甕槌神・経津主神・天児屋命・天太玉命・天鈿女命など、多くの重要な神々がおられる。こうした神々を総称して、八百万神と申し上げる。そして天照大神の正統の神は、神日本磐余彦尊、すなわち神武天皇に至り、それ以後は、現人神として歴代の天皇に及ぶのである。これら神道の神々の中でも、特に重要な神々について詳しく講じるのは、きわめて必要なことだが、このような小冊子では、それはできない。
要するに、天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神の、至って広く、大きく、高く、遠く、真であり、善であり、美である徳を受け、この国に現れた神々は、おのずから歴史と地理の関係の下で、偉大な国民的精神を得た。そして、国民の手本となり、神として国民を導き、その力を開かせたのである。天照大神の直系にあたる歴代の天皇は、現人神として秩序と統一の根本、崇敬と渇仰の中心、発展と膨張の源流となっておられる。このように永遠に続く天皇を中心に、ちょうど太陽を中心として多くの天体が活動するように、歴代の多くの忠良な国民は、三神から受けた神徳を発揮し、自らも神として盛んに活動する。そして神道を興し、発展させ、限りない未来へ及んでいくのである。
第八章 神道の内容
第一節 道という観念
神道は、神の道である。その神々について大要を述べたので、今度は神々の道について述べなければならない。そのためには、そもそも「道」という観念が何を意味するかを、まず明らかにする必要がある。道という言葉について、本居宣長の説では、「ち」がもとの言葉であり、今でも山路・野路・船路・通路など、みな「ち」とだけ言っている。それに「み」という褒める言葉を添え、「みち」という言葉ができたのだという。いずれにせよ、昔の「みち」は、私たちが日々通る道路以外の意味には使われていなかった。ところが、後世、漢字が入ってくると、「道」の字を日本語に訳す際に、「みち」を当てた。そこで「みち」という言葉の中に、「道」の字の意味が入り、それまで持たなかった、中国の「道」の意味を含むようになった。では、中国の「道」はどんな意味か。『説文』に、「道とは、行くところの道である」と説明されているように、昔はただ道路の意味に使われていたと見える。その後、中国の聖人や君子たちは、日月の運行や四季の巡りという自然現象、つまり天然のありさまを見て、ちょうど人間が外を歩くとき、一定の道を通っていくように、定まって現れていると考えたのだと思われる。人間が外を歩くとき、道を外れれば、よその家の台所へ飛び込んだり、溝に落ち込んだりする。道を歩いていれば安全である。道を歩かなければ、人に小言を言われたり、さまざまな障害に出会ったりして、目的地へ行くことができない。それと同じく、自然現象も、人が道路を歩くように、きちんと進んでいくものだと考えたのだろう。そこで、「陰となり、陽となる、これを道という」などと述べ、陰陽が交代していくことを道だと言った。また、「満ちてあふれ出すのは、天の道である」という言葉もある。物は一杯になれば、あふれる。一杯になるまではあふれないが、一杯になればあふれる。茶碗に水を入れれば、何度やっても、一杯になればあふれる。人間が外を歩くのと同じく、きちんと定まっている。このように見て、「満ちれば、必ず損なわれる。これが天の道である」などと言ったのである。こうして自然現象が起こっていくには、必ず一定の道筋があると見て、それを天の道と呼んだ。その天の道が、このように行われているのと同じく、さらに人間にまで及ぼしてみると、人間の日々の行いも、一定の道筋をたどっている。日常、人と接する間にも、一定の道筋があると見たのである。そこで、「父は慈しみ、子は敬う。兄は弟に親しみ、弟は兄を敬う。天がわが民に与えた常の道である」と言い、これを自然の道だと見た。また、「忠実で信義を守り、誠実で敬い深いことは、天の道である」と言い、君主に忠義を尽くし、友に信義を守り、人に厚く接し、敬うことを、天の道とした。このように、次第に意味を広げてきたのだと思われる。だから中国の董仲舒は、「道の大きな根源は、天から出る」と言っている。道は、結局、天から出ている。「満ちてあふれ出すのは、天の道である」、または「満ちれば必ず損なわれる。天の道である」というように、人間の道も天に基づき、天の道と同じように行われる。自然現象が本性に従って活動するように、人間も本性に従って行う。それは人間が自然に、先天的に得たものなのだと見たのである。そこで中国では、「本性に従うことを、道という」という言葉が生まれた。先天的な人の本性に従っていくことが、道なのである。中国の「道」の字には、このような意味が含まれている。人間が日常生活を送る上で、必ず守っていかなければならないものを、道と呼ぶ。道は身近にあり、ほんのひとときも離れられないもの、離れることのできるものなら、道ではないというのである。
それでは、わが国の「みち」という言葉には、中国の「道」の字が入ってくるまで、このような観念がなかったとすれば、儒学者が言ってきたように、わが国の上古の人々は鳥や獣と同じで、人の道をまったく理解しなかったのかどうかが問題になる。本居宣長は、「昔の大御代には、道という言葉を、わざわざ言い立てることさえなかった」と言っている。では、上古には道というものが一切なかったのかといえば、宣長は「まったくそうではない」とする。「皇国の昔には、道という議論はなかったが、道という事実はあった」というのが、翁の主張である。まったくそのとおりで、わが国の古代には、こうした意味での「道」という言葉はなかった。今日、西洋でいう本務や義務という言葉も、もちろん、なかった。しかし、私たちが実際に行う道という事実、本務に当たる事実は、十分に存在していた。ただ、その事実に「道」という名を付けるようになったのは、「道」の字が入ってきた後なのである。その言葉がなかったからといって、一派の学者がいうように、上古の人々が鳥や獣のようだったことは、決してなかったのである。
第二節 神道という文字の起源
では、その道を何と呼ぶかといえば、惟神の道というのである。「随神の道」とも書く。この、わが国の昔の道を、神道、または神の道と呼ぶようになったのは、いつごろか。『日本書紀』には、用明天皇のときに、「天皇は仏法を信じ、神道を尊ぶ」と記されている。しかし、この文字は、『塩尻』に「神道の字を、わが国の帝紀で考えると、仏法に対していっただけであり、後世のように大げさな秘訣としたのではない」とあるとおり、決して、神道本来の意味で使われたのではない。篤胤も、『日本書紀』のこの文字を解釈して、次のように言っている。「神を祭ったり、祈ったり、祓をしたりする類の、神にお仕えすることを広くいったもので、いわゆる神事のことです。もちろん、この神事も、たどっていけば神道に関することですが、事と道は、幹と枝葉のような違いがあります。先に申し上げた神ながらの道とは、もとより大きな違いがあるのです。仏法と対にして神道とあるからといって、後世の神学者などのように、教えのことだと受け取るのは誤りです。ここでいう神道は、用明天皇が仏法をお信じになっても、神事をおろそかにはなさらなかった、という意味に軽く見ればよいのです」。このときの神道は、結局、儀式の方面を名付けたもので、根本的な内容の意味には使われていないようである。そのような儀式の方面は、知識の幼い国民の感情的な要求を満たせるが、知識が次第に発達すると、ただ神の前へ行き、祭りや祓をするだけでは、十分な満足は得られなくなる。仏教を見ても、一方では金色に輝く仏像を作り、豊富な供物を供え、金襴や緞子の袈裟や衣を着て、ものものしく、自分でも理解できないような経を読み、さまざまな儀式を行う。しかし仏教がそれだけのものなら、今日まで命脈を保ち、今日のように広がることは、到底できない。仏教は、ほかの面で、多くの人を感心させるさまざまな教理を持つ。それによって今日まで命脈を保ち、世界各地へ、あれほど広がることができたのである。神道も、祭りや祓や禊という程度の外面的なことだけでは、後世の国民を十分に満足させられない。そこで、仏教や儒教と同じように、わが国固有の大道を、理論の面から説明してほしい、ということになる。仏教の何千巻という経文も、要するに、その骨髄、根本となる真如や涅槃の説明にすぎず、あるいは、それを体現する方法を示したものだといえる。神道でも、その骨髄、根本、つまり私がこれまで説いてきたようなものを、理論の面から十分に説明することが求められる。この流れに乗り、比叡山を開いた伝教大師最澄の門下は、山王一実神道を起こした。これは、多少、神道の学理的な方面に触れている。しかし、もともと仏教の教理を基礎とするもので、決して、固有の大道を十分に示すことはできない。今日から見れば、やはり篤胤のいう神事の意味から、あまり出ていない。最澄の一派と、ほぼ同時に、弘法大師空海の一派が盛んになった。そもそも弘法大師は、今日、多くの大師がいるにもかかわらず、ただ大師といえば、すぐ弘法大師を指すほど、広い学識と大きな才能を持ち、物事の奥深い理に通じた、当時の大人物であった。それゆえ、布教のために神道を用いることが、いかに便利かを悟ったのだと思われる。最澄以上に、この点に考えを巡らすことが多かったらしい。そして門下には、多くの優れた人材がおり、彼らが集まって、いわゆる両部習合神道を作り上げた。しかし、これも林羅山が評して、「仏法を神道に合わせ、胎蔵・金剛の両界を陰陽に合わせ、ついには神仏が本来一体だとする」と述べたように、その根本は仏教から成っている。その後、卜部の一派、特に兼倶などは、このような仏教的な神道に満足せず、新たに唯一神道を立てたが、やはり仏教的な神道であることを免れない。いつまでも、神道は仏教の教義から離れられなかった。世間の人々も、あえてこれを怪しまなかった。卜部兼右の編という『神道根源』などにも、「神道は仏法以前からあった。しかし、仏法が渡来して比べてみると、おのずから同じものだったので、照らし合わせて納得した」というような次第であった。
しかし、仏教的な神道を嫌う風潮は次第に強まり、ついに伊勢の度会延佳のような人が現れ、盛んに神道から仏教を追い出そうとした。ただ、自身の思想はきわめて乏しく、もっぱら儒教によって説を立てようと努めた。このように、神道という文字が、適切な内容を得なかった時期は長い。それで、林羅山や太宰春台のような学者でさえ、なお神道は中国の古代にすでにあったものだと信じていた。林羅山は、徳川義直に代わって『神祇宝典』に序を書き、その結びに、「聖人は神道によって教えを設け、天下が服する」という『易』の言葉を用いている。太宰春台も、「今の人が、神道をわが国の道と思い、儒教や仏教と並べて一つの道と考えるのは、大きな誤りです。神道は、もと聖人の道の中にあるのです」と言っている。しかし、『易』の神道と、わが国固有の大道とは、決して同じものではない。伊勢貞丈が『神道独語』で、「物事は、名は同じでも、実体が異なることがある」と言い切ったとおりである。平田篤胤は、さらに鋭く、これを論じている。少し挙げると、次のようになる。「『易』の文に『天の神道』というのは、『四季が違わない』とあるように、春夏秋冬の季節を違えず、風が吹き、雨が降り、万物が生じることを、自然の神道という意味でいったのです。同じ『易』に、『陰陽の、測り知れない働きを神という』とある、その神の字の意味です。わが国でいう神のように、はっきり実在する神を指して、その神の営みをいう意味ではありません。だから、天の字と神の字の間に、『これ』と読む『之』の字を置いて、『天之神道』と書き、自然の神道という意味で申したのです」。まったくそのとおりで、神道が中国にあったというのは、適切ではない。徳川時代の輝かしい文芸復興とともに、神道も大いに興った。伊勢の度会延佳と同じころ、江戸に吉川惟足、京都に山崎闇斎が現れ、盛んに神道を提唱した。しかし、みな儒教か仏教に基づくもので、固有の大道を十分に示したものではなかった。固有の大道を十分に示し、神道という文字が、その内容を十分に持つに至ったのは、荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤という、いわゆる四大人が現れた後だったのである。それ以後、神道は、真の内容を持って、世に行われるようになったのである。
第三節 神道の根本の意味
ギリシャのアリストテレスの言葉どおり、「人は社会的な生き物」であり、生まれながらに、社会を作って暮らす傾向を持っている。ハイドという人なども、こう言っている。「人間は、生来、社会的な生き物であり、社会を離れれば、もはや人間ではない。自ら好んで独りでいる者があるとすれば、それは猛獣か、そうでなければ神である。人間から、他人との関係によってできるすべてを取り去れば、同情や愛、信仰、感謝、勇気などを、すべて取り去ることになり、人間は、まさしく鳥や獣の中へ入っていく」。これは西洋人の見解だが、まったく正しい。人は、どうしても共同生活を離れては暮らせない。共同生活によって初めて、この世に生まれ、育ち、生きることができる。共同生活をする以上、個人のわがまま勝手な行動は許されない。朝、起きるときには起き、夜、寝るときには寝、食事のときには食べ、礼服を着るときには着なければならない。共同生活をする各人が、それぞれ別々に暮らすことは許されない。共同生活で、わがまま放題が許されないのは、そこに何か、人がよりどころとすべきものがあるからである。共同生活には、私たちの行いを律するものが生まれる。それは、一つの家でいえば家風、村でいえば郷風、学校でいえば校風、国家でいえば国風というものになる。だから、養子や嫁として他家へ入り、その家風に従わなければ、その家にはいられなくなる。ほかの村へ行き、その土地の風習に従わなければ、そこで暮らすことはできない。郷に入れば郷に従わなければならない。一つの学校に入れば、その校風に従う必要があり、反抗すれば、すぐ退学させられてしまう。一国の国民となれば、その国の国風に従わなければならず、反抗すれば、その国家の一員として生きることはできない。国風はどの国にもあり、どの国も、その奨励と発達に努めている。もし、その国家固有の国風が衰えれば、その国家は存在理由を失う。手短にいえば、滅亡するのである。歴史を見ても、昔、ギリシャにはスパルタという、非常に強い国があった。かつては、侵入するペルシャの百万の軍隊を、わずか三千の兵で迎え撃つほど強かった。これは、国風がきわめて堅実で、勇壮だったからである。しかし、ひとたびその国風が衰え、国民がみな自分の利益だけを求めるようになると、ローマのわずかな軍隊の馬蹄の下に踏みにじられた。そのローマも、固有の剛健で質実な国風を保っている間は、たいへん栄え、ローマ人は「ローマの滅亡は、世界の滅亡である」と誇った。しかし、その後、植民地から多くの金銀財宝を集め、国民がぜいたくに流れ、昔からの勤倹で質実な国風を失うと、すぐ北方の異民族に踏みにじられた。このように、国風は国家と非常に密接な関係を持つ。そこで、ドイツが世界の大戦乱を起こし、世界の列強を相手に、長く屈しなかったのは、ドイツ国民が十八世紀ごろから国風の養成に努め、国史を奨励して愛国心を養い、身体の鍛錬に努め、国家的な教育を興し、ドイツの国風を作ったからである。世界の強国を相手に、頑強に戦ったのは、決して彼らがキリスト教徒だったからではなく、その国風、すなわち国民的精神を持っていたからである。しかし、それは、あまりに粗く作られたものだった。そのためにドイツも、ついに、あのような始末となった。わが国の国風は、ドイツが十八世紀から作り出したようなもの、ローマにかつてあって、ほどなく失われたもの、スパルタが持ち、しばらくして失ったもののような、きわめて弱く浅い国風ではない。わが国では、建国以前から、この国風、すなわち一般にいう国体が存在し、それによって建国され、国家が維持され、発展してきた。その国風、国体とは何かといえば、神道、神の道の現れである。この神道は、国民的精神の精髄を体現し、その精華を集めた神々の、言動や行動の跡によって養われ、発展していくものである。そして、この国風、国体の根底を最も深く築いたのは、すでに述べたとおり、天照大神である。大神が、天地とともにきわまりないという神勅とともに、三種の神器を下したことも、前に述べた。神器を授けた趣旨は、私たちには分からない。しかし、頼山陽の説のように、その事績について考えると、そこには深遠な意味が備わっていると思われる。このことも、前に述べた。さらに一歩進めて論じれば、国風の要素、すなわち国民的精神を、前に三つに分けて述べたが、秩序と統一を重んじる思想が発達した極致は神鏡で、現世的で快活な感情が発達した極致は神璽で、発展し膨張する性格が発達した極致は神剣で、それぞれ示されているように思われる。その極致は、ついには一つに帰着する。その一つになったものこそ、大極致というべきものである。その大極致は、神勅に示された天照大神の精神である。大神の精神とは何かといえば、天地とともにきわまりない、国運の発展である。どこまでも発展し、無限に発展し、天地とともに、きわまりなく発展する。発展の上に、さらに発展することが、大神の大いなる精神なのである。だから歴代の天皇は、天祖天照大神が始め、行い、示した大きな手本に従って政治を行い、歴代の臣民は、八百万の神々が天祖の教えに従って言動し行動してきた事績に従って、この大極致、大理想へ向かって進んでいる。ここに、神道が神道である理由があるのである。
第四節 神道の特色
世間の学者には、ともすれば、神道は皇祖の勅命のままに天下を治める道であり、だから、その道を行うのは君主となる人の務めで、学問をする者の仕事ではない、と主張する者がいる。これは本居宣長などの主張でもあるが、そうした考えは、神道を狭い意味に解釈し、上に立つ者が下の者に臨む、さまざまな方法が、神の道なのだと捉えたものと思われる。そのように、神道を政治の道と見る人がいる。しかし、ある人は、神道は立派な宗教、偉大な宗教、すべての宗教を統一する大宗教だと主張する。また別の人は、神道を宗教などというのは、とんでもないことであり、神道は、わが国の国民道徳、一種の道徳にすぎない、と言う。道徳は、もともと人と人の関係を律するものであり、神道の神は、要するに人なのであって、キリスト教などでいう神とは意味が違う。だから神社へ行って神を拝んだからといって、それをもって神道を宗教と呼ぶのは、大きな誤解だと説き、神道を宗教とすることに強く反対する人もいる。こうした考えは、どれも一面の理を含んでいる。しかし、それだけで十分で、完全だというわけにはいかない。よく考えれば、上古の神聖たちが持っていた偉大な国民的精神のうち、秩序と統一を重んじる思想が現れて、ここに宇宙に比べるもののない国家ができ、政治の大道が発達したのである。また、その現世的で快活な感情が現れると、ここに生々主義、現世主義の偉大な宗教、つまり今日の歴史的宗教を超える偉大な宗教が生まれる。そして、発展し膨張する性格が現れると、剛健で質実な道徳が成り立つ。あの神器が、わが国に厳然と存在することは、結局、この政治・宗教・道徳の各方面を示したものと見てよいのである。この三つは、人間社会のあらゆる活動を含んでいる。私たちの活動は千差万別だが、詳しく見れば、政治の系統、宗教の系統、あるいは道徳の系統に属している。もちろん、そのほかに法律や経済もあるが、それらは政治の中に含められる。また、さまざまな生業を営み、一家を治め、家族を養うことも、政治の中に含められる。一家の政治、家政である。しかし、別の面から見れば、それは宗教や道徳にも関係している。このように、政治・宗教・道徳は、人生のあらゆる活動を含むことができる。さらに、教育の系統を加えることもできる。政治・宗教・道徳にわたる、さまざまな活動を行えるよう、後継の民族を育てる活動を、一つ分けて、この三つの外に置くこともできよう。しかし、これはむしろ、三大系統そのものを維持し発展させる、大きな方法と見ればよい。教育がなければ、三大系統は存在を失うのだから、やはり三大系統そのものと見ておく。要するに、神道は、この三大系統を含んでいる。だから実に広大であり、無限である。国民の言動や行動の規範となり、根底となるものは、すべて神道の中に含まれる。そこで、神道の内容を、さらに十分に明らかにするためには、この三大系統を、一つずつ述べていく必要があるのである。
第九章 神道と政治の系統
第一節 神道の政治と敬虔な態度
まず第一は、政治の系統である。神道における政治は、祭事である。政治の重要な事柄が、神々を祭ることにあったため、「祭」と「政」が同じ意味になったのだと思われる。本居宣長は、「まつりごと」の語源を「奉仕事」だと解釈している。百官有司が天皇の命を受け、それぞれの職に仕えることが天下の政治なのだから、奉仕事と呼んだのであり、「まつる」は服従という意味だとする。要するに、神道の政治は祭政一致であり、その根本は敬虔にある。敬虔とは、神を敬い祭る思いを持つ、私たちの心の態度である。古伝を見ると、前にも少し述べたとおり、天照大神が神鏡を天忍穂耳尊に授けるとき、「寝所を同じくし、御殿をともにして、この鏡を見ることを、私を見るのと同じようにしなさい」と神勅を下した。また高皇産霊神は、神籬と磐境を設けて神を祭るよう、天児屋根命と太玉命に仰せになった。神籬は今の神祠、磐境は今の神社の境内という意味である。これは、神を敬い祭ることを第一とすべきだと示したものと思われる。そのほか、神武天皇の東征のとき、弟猾は、「天つ社、国つ社の神を祭り、その後で敵を撃てば、除くことも容易でしょう」と申し上げた。東征が終わり、天下平定の事業が成ると、神武天皇は皇祖の詔に従って神籬を立て、神を祭り、続いて四年には、鳥見山の中に祭場を設け、皇祖天神を祭ったという。また物部尾輿らは、当時の天皇に、「わが国家が天下に君臨するのは、常に天地社稷と百八十の神を、春夏秋冬に祭ることを務めとしているからである」と申し上げた。さらに推古天皇は、「わが皇祖たる天皇たちが世を治められたときには、天を畏れ、地を敬い、厚く神々を祭り、広く山川を祭って、目に見えないところで天地に通じていた。それゆえ陰陽は開けて和らぎ、万物を生む働きも、ともに整った。今、私の世に、神々を祭ることを怠ってよいはずがあろうか。だから、群臣は心を尽くし、神々を拝むべきである」と命じられた。また孝徳天皇のときには、蘇我石川麻呂が、「まず神々を祭り鎮め、その後に政治を議論すべきである」と申し上げた。そのほか、祈年祭の祝詞などには、「神漏岐命・神漏美命をもって、天つ社・国つ社に、たたえの言葉を奉る」というような言葉がある。後世にも、順徳天皇の『禁秘鈔』では、「宮中の作法は、すべて神事を先に、ほかのことを後にする」とされ、『貞永式目』には、「神社を修理し、祭祀を専らにすべきこと」が定められている。こうした、ほとんど数え尽くせないほど多くの事実から、わが国の政治の根本として、上位に立つ者も下にいる者も、誰もが、神を敬い祭ることをおろそかにせず、重大なものとして考えなければならないと分かる。つまり、どこまでも、敬虔な態度を政治の根本としなければならないのである。
第二節 神道の政治と慈愛
また、特に上に立つ者は、慈愛をもって下の者に臨まなければならないということが、神道の一つの要点となっている。伊弉諾尊が黄泉の軍に攻められたとき、桃の実がよく尊を助け、黄泉の軍を退けた。そのとき尊は、桃の実に意富加牟豆美命という名を与え、「お前が私を助けたように、葦原中国の、あらゆる現世の青人草が、苦境に落ちて苦しむとき、助けておくれ」と命じた。常に民を慈しみ愛そうという思いを抱いておられるから、このような言葉が出るのである。また天照大神は、保食神が素盞鳴命に殺されたとき、その身体から五穀が生じたと聞いて大いに喜び、「これらは、いとしい青人草が食べて生きるためのものである」と仰せになった。これには、大神が民を大いに愛し、いたわった、その一端が現れている。故井上毅氏の説のとおり、大国主命が国土を治めたことは、古伝に「ウシハケル葦原の中つ国」とあり、天孫については「わが御子のシラサン国」とある。「ウシハク」は占領の意味であり、「シラス」は、愛し、いたわって治める意味である。建国の初めから、こうであったため、古代の神聖たちの言動や行動を手本として君臨する歴代の天皇も、厚く神々を尊ぶとともに、深く万民を慈しむことを常とされた。文武天皇は、詔勅の中で、「この、私の治める天下を整え、平らかにし、天下の民を恵み、いたわろうと、神ながらに思う」と仰せになっている。また、後鳥羽天皇の御製には、「夜が寒く、寝所の布団さえ冷えるにつけ、藁屋を吹き抜ける風に、思いを寄せずにはいられない」とあり、伏見天皇の御製には、「苦しむ民の心を思えば、何事もなく、安らかにいるわが身が恥ずかしい」とある。神道の政治の大切な道は、上に立つ者が、深い慈愛の心をもって下に臨むことなのである。これは、近くは明治天皇の御製にも現れている。たとえば、「昔の書物を見るたびに思う。自分が治める国は、どうであろうかと」。「晴れるにつけ、曇るにつけ、わが民草の暮らしはどうであろうかと思う」。このような御製の心は、歴代の天皇が常に表してきたものであり、そのような事績も、決して少なくない。神道の政治では、上に立つ者が慈愛をもって下に臨むことが大切だと示されている。ただ、ここで一言、述べておかなければならない。上に立つ者は、このように民を慈しみ、仁慈を重んじるが、ひとたび秩序と統一の思想、そのほか国民的精神に反抗する者があれば、誰であっても、ただちに罰するのである。伊弉諾尊が、三貴子の一柱である素盞鳴尊を追放したこと、高皇産霊神が天若彦を誅したことなどが、その事績である。このように、わが神道の慈悲や愛は、盲目的な愛ではない。キリスト教でいう愛や、中国などでいう兼愛とは、大いに異なる。何でも盲目的に愛するのではない。キリスト教などには、「汝の敵を愛せよ」という教えがある。敵を愛するのなら、戦争はできないことになる。しかし、今日のキリスト教徒の行いを見ると、敵を少しも愛していない。愛さないどころか、ずいぶん残虐に扱っている。神道では、慈悲と仁愛を尊び、上に立つ者には、必ずそれがなければならないとするが、国民的精神に反抗する者があれば、ただちに処罰することをためらわない。それが上位に立つ者の行う道であり、そのように政治は行われてきたのである。
第三節 神道の経典
しかし、明治天皇の時代に至って、初めて憲法というものが発布された。その憲法に基づいて、さまざまな法律も作られるようになった。この憲法を、一種の法律と見て、法律と同じように考えている者は、世間に多い。しかし、その実質をいえば、憲法は神道のきわめて重要な一つの典籍なのである。もし神道にバイブルがあるとすれば、経典があるとすれば、憲法は、その最も重要なバイブル、最も主要な経典である。なぜかというと、憲法発布にあたり、明治天皇は皇祖皇宗に告文を述べられた。その告文には、次のように書かれている。
「私、天皇は、謹んで畏れつつ、皇祖皇宗の神霊に申し上げる。私は、天地とともに尽きることのない大きな計画に従い、神ながらの皇位を継承し、古来の国のあり方を守って、決して失わせることがなかった。思うに、世の中の進歩に応じ、人文の発達に従って、皇祖皇宗の遺訓を明らかにし、国の基本となる法を定め、その条文を明示すべきである。内に向かっては、子孫が従う手本とし、外に向かっては、臣民が国を助け支える道を広め、永遠に守り行わせ、ますます国家の大きな基礎を固め、日本の民の幸福を増進すべきである。ここに皇室典範と憲法を制定する。思うに、これはすべて、皇祖皇宗が後の子孫に残された統治の大きな規範を受け継ぎ、述べることにほかならない。そして、私の代になって、時勢に応じ、これを実行できるのは、まことに皇祖皇宗と、わが父帝の威霊に頼ることによるものである。私は、皇祖皇宗と父帝を仰ぎ、その加護を祈るとともに、現在および将来の臣民に率先して、この憲章を誤りなく実行することを誓う」。
このように仰せになっている。つまり、この憲法は、皇祖皇宗が後の子孫に残された統治の大きな規範、法則にほかならない。明治天皇が憲法を制定されたのであるが、新しく作られたのではない。すべて皇祖皇宗の遺訓であり、それを明らかにされたにすぎない。皇祖皇宗とは、私たちのいう神々である。つまり、神の遺訓であり、神の規範であり、神の道なのである。だから、憲法は神道の最も重要な経典といえる。もちろん、皇祖皇宗の遺訓はすべて神道の経典と呼ぶべきもので、教育勅語も皇祖皇宗の遺訓であり、その重要な経典といわれるが、憲法はその中でも最も重要な経典といえる。そして、この大典を発布されたことには、やはり明治天皇が神道に従って臣民を慈しむ、その精神が発揮されている。それは、当時の発布の勅語に、次のようにある。
「私は、国家の繁栄と臣民の幸福を、心からの喜び、誉れとし、祖宗から受け継いだ大権により、現在および将来の臣民に対し、この永遠に変わることのない大典を公布する。思うに、わが祖宗は、臣民の祖先の協力と補佐によって、わが帝国を建て、永遠に続くものとした。これは、わが神聖な祖宗の威徳と、臣民の忠実さと勇武、国を愛し、公のために命を捧げたことによって、この輝かしい国の歴史の実績を残したのである。私は、わが臣民が、祖宗に仕えた忠実で善良な臣民の子孫であることを思う。臣民が私の意を受けとめ、わが事業を助け進め、ともに心を合わせて協力し、ますます帝国の栄光を国内外に広め、祖宗の遺業を永久に揺るがぬものにする、その願いをともにし、この責任を分かち合えることを疑わない」。
このように仰せになっている。国家の繁栄と臣民の幸福を、心からの喜び、誉れとする、と仰せになっているのである。つまり、神道によってこの大典を発布され、この大典が皇祖皇宗の遺訓であり、神道の趣旨であることは、明らかなのである。
第四節 臣下の道
このように、上に立つ者は、大きな仁慈をもって下に臨み、このような憲法までも定められる。では、下にいる者は、どうすべきか。そう考えると、神代には、思兼神のような優れた神が現れ、常に天祖に仕えて策をめぐらしたという事績もある。また、大国主神という有力な神は、八百万の神を率い、長く皇孫のために仕えた。また天照大神は、天児屋根命と天太玉命に、「お前たち二柱も、ともに宮中に仕えて、よくお守りしなさい」と命じた。そこで、天児屋根命と天太玉命を、多くの神々と皇孫尊に付き添わせて地上へ下されたのである。二柱は皇居の中に仕えて、よく守られた。また、武甕槌神と経津主神という神が現れ、この二柱は、天祖に従い、わが国家と皇室のために勇敢に戦われた。そのため、後世にはこの神々を武神として祭るのである。このように、神々はみな忠誠をもって、この国家と皇室に仕えておられる。後世、儒教などが入ってきて、「堯・舜は天下を公のものとした」といい、「天下に、生まれながら尊い者はいない」といい、あるいは「天下は天下の人々のもので、一人の天下ではない」などと教えている。また「大徳のある者は天命を受ける」といい、徳の大きな者が天命を受けて天子になる、誰でも徳さえあれば天命を受けて天子になるといっている。そして、中国の湯王や武王が、その君主を追放し、討ち滅ぼしたことを弁解し、「夏には罪が多い。天が命じて、これを殺させる」といい、また「夏王朝には罪がある。私は上帝を畏れる。あえて正さずにはいられない」といい、あるいは「商の罪は、いっぱいに満ちた。天が命じて、これを討たせる。私が天に従わなければ、私の罪も同じになる」といっている。こうした弁解は、昔から中国でいわれているのである。そのため、孟子のような賢人でさえ、「臣下がその君主を殺してよいのか」と問い詰められると、「仁を損なう者を賊といい、義を損なう者を残という。残賊の人は、ただの一人の男という。私は、一人の男である紂を討ったとは聞くが、君主を殺したとは聞かない」といっている。もちろん、これに対して、後漢の王充は『刺孟』を、宋の司馬光は『疑孟』を書いて孟子を非難した。しかし、中国人の大多数は孟子のような考えを持ち、「君主が臣下を土や芥のように扱うときは、臣下は君主を敵として見る」と考えている。近年、中国人が、清の皇室である愛親覚羅氏に対して取った態度が、それを事実で証明している。だから中国の歴史を見ると、伏羲以来、王朝の姓を変えたものが三十、君主殺しとして記される者が二百といわれている。このように、中国では多くの君主殺しも、簒奪も行われた。中国の儒教には、そのような危険思想が含まれているのである。しかし、その危険思想を持つ儒教がわが国に入ってきても、わが国民は少しも感化を受けず、びくともしない。そして、わが国民の秩序と統一の思想は、それに対抗する形で、ますます発展してきた。大伴氏に伝わったという「海へ行けば水に漬かる屍、山へ行けば草むす屍となろうとも、大君のおそばでこそ死のう。安らかには死ぬまい」という精神は、永久にわが臣民の心を離れない。どのような危険思想が入ってきても、抵抗できるのである。「君のため、世のために、何を惜しもう。捨ててこそ価値のある命ならば」という歌に現れるように、誰もが、この秩序と統一の精神を表し、容易にほかの外来思想に妨げられず、どこまでも君主と国家のために、一身を犠牲にして顧みない。このような精神が、昔から、わが国民の間に力を持っているのである。
第五節 神道の政治と新領土の国民
そういうと、わが国の古くからの血筋を引く国民、つまり大和民族については、確かにそうだろうが、今日のように、朝鮮を併合し、台湾を領土とし、樺太を支配する時代に、日本の天皇の教化を受けていない朝鮮人や台湾人、とりわけ当時「生蕃」と呼ばれた先住民を、どうして神道によって治められるのか、と批判する者があるだろう。しかし、わが神道には、偉大な同化力がある。だから、古代に、すでに朝鮮人や中国人は、多数わが国に帰化してきた。その帰化した人々は、どうなったかというと、多くは大和民族にすっかり同化し、それぞれの地位や身分も得て、君主と国家のために忠勤に励み、神道を実践した。その一例として、『日本書紀』の垂仁天皇の条には、次のような事実が挙げられている。「九十年の春二月、天皇は田道間守に命じ、常世国に遣わして、非時の香菓、今いう橘を求めさせた」と書かれている。この田道間守は、新羅王の子、天日槍の玄孫である。天日槍は帰化人である。その帰化人の天日槍の玄孫が、田道間守なのである。その田道間守が、天皇の命を受けて常世国に行った。常世国は、おそらく朝鮮か中国のあたりで、彼がよく知っていた所だろうと思う。そこで、非時の香菓があることもよく承知しており、それを天皇に申し上げたのだと思われる。それで、天皇から、そのようなものを取ってくるようにという勅命が下ったのであろう。ところが天皇は、即位九十九年の七月、ついに崩御された。その翌年の春三月、田道間守は常世国から帰り、非時の香菓を天皇に奉ろうとした。しかし天皇が崩御されたと聞き、大いに悲しみ嘆いた。「私は天皇の命を受け、遠く異国へ行きました。万里の波を越え、はるかに弱水を渡って行ったのです。常世国は、神仙の住む秘境で、普通の人が行ける所ではありません。そのため、往復に、いつしか十年を費やしました。あのとき、私が再び無事に波を越え、本土に帰れるなどと、どうして予想できたでしょう。幸い、聖帝の神霊に頼って、ようやく帰ることができました。それなのに、天皇はすでに崩御され、今は、復命することもできません。生きていても、私に何の役に立つことがありましょう」。そう嘆いて、天皇の御陵に向かって泣き、自ら命を絶った。群臣は、これを聞いて涙を流した。田道間守は、三宅連の始祖である。このように伝えられている。田道間守は新羅人の子孫だが、その天皇への忠誠は、ほとんど乃木将軍に似ている。このような事実は、わが大和民族には固有の大道があり、その道には非常な同化力があって、その感化を受ければ、おのずと、この道に帰することを証明しているのである。ただ、田道間守は新羅王の子、天日槍の玄孫とされるが、歴史家には、天日槍はもともと日本人ではなかったか、という人もある。その点は疑問ではあるが、確かに新羅王の子、天日槍と書かれているから、朝鮮人と見て差し支えないと思う。しかし、このような疑問のない、純粋な朝鮮人でも、同じなのである。薩摩国に伊集院村という村があり、その中に一つの集落がある。島津侯は、朝鮮征伐のとき、朝鮮の陶工を少人数連れてきて、伊集院村に住まわせた。その子孫が次第に増え、今日では数百戸に上るという。その中から、日清・日露の戦争に多数が従軍し、金鵄勲章などを受けた者も少なくないという。この人々は純粋な朝鮮人であるが、わが国に住み、天皇の教化を受け、わが国の大道の感化を受けて、わが国民的精神をこのように体得できたのである。同じように、朝鮮の国民も、台湾の先住民も、将来は次第に、わが大道の感化を受け、その道を奉じられるようになるのである。
第六節 神道の政治と民本主義
神道の政治の要点は、「天を主とし、民を本とする。民が嫌うものは、天が必ず廃し、民が帰服するものは、天が必ず助ける」というような、中国流の民本主義でもなければ、西洋流の、自由民権を掲げる民主主義でもない。まして、ヨーロッパの専制政治のように、土地と人民を帝王の私有物とするものでもない。もちろん、すでに述べたとおり、わが神道の政治に民を本とする思想があるのは事実だが、これは、恐れ多くも皇祖皇宗の統治の大きな規範であって、臣民が口にすべきことではない。たとえば父母が、「銀も金も玉も、何になろう。これらより優れた宝である子に、どうして及ぼうか」といい、子は宝だといって、慈しみ育てる。そのとき、子のほうから父母に、「私は父母の宝ではないか。もっと私に権利を与え、おいしいものを食べさせ、美しい服を着せてくれ」などと要求してよいだろうか。どうだろう。臣民が自ら民本主義を唱えるのは、理屈からいえば、まさにこれと同じなのである。
民を本とするか、君主を本とするか、民主か、君主かというのは、外国の事柄である。わが国の君主と民、上と下の関係は、公の関係では君民というが、情の上では、父子の親愛で結ばれているのである。「世が治まり、民が安らかであるよう祈ることこそ、わが身に尽きることのない思いである」、「いつまでも民が安らかであるようにと祈る。伊勢の大神よ、わが世をお守りください」と詠まれ、また、「山が裂け、海が干上がる世になろうとも、君に二心を抱くことなどあろうか」、「君の御代を思う、その一筋の心で、自分の身があることさえ思わなかった」と詠まれる。君民の関係が、生き生きと、言葉の外にまであふれ出ている。君主の心は、曇りのない鏡である。民の心を映し、少しも滞りなく、臣民に臨まれる。臣民の心もまた、曇りのない鏡である。わずかな曇りもとどめず、陛下の心を受けとめて仕える。明鏡と明鏡とが向かい合う。神が神を治めるのである。神が神によって治められるのである。治める者と、治められる者。父子の親愛。君民の調和。神道の政治の要点は、これで十分に尽くされている。まことに、わが国体の精華であり、理想的なものである。これにふさわしい名を付けることもできない。何という誤った考えであろう。この間に、あえて民本主義や民主主義のような、非国民的な言葉を持ち込もうとするとは。わが健全な国民は、まず、この根本的な誤りを打ち破り、神道の政治を発揮しなければならない。
第十章 神道と宗教の系統
第一節 神道と宗教との関係
神道は宗教と見るべきものか、どうか。この問題は、以前からの大問題である。これに対して私は、すでに長年、著書や雑誌、講演で、自分では動かしようのない解決と信じる答えを示してきた。しかし、今日なお疑う人もあるようなので、ここで少し述べることにする。もともと、この問題を明確にするには、まず宗教の意味を定めなければならない。ところが世間では、多くの場合、宗教という言葉の意味も決めずにあれこれいうため、確実な結論にならない。その上、神道についても明確な概念を持たないのだから、二人がそれぞれ鯨尺と曲尺を持ち、伸び縮みして長さの定まらないゴムひもを測ろうとするようなものである。各自、勝手なことをいうにすぎない。だから、まず神道というものを定めてかからなければならない。仮に、神道というひもの長さが一定していても、宗教という尺度が決まっていなければ、鯨尺を持つ者は、このひもは八寸だといい、曲尺を持つ者は、いや一尺だという。測れば確かに八寸しかない、そんなはずはない、測れば確かに一尺あるではないか、いや八寸だ、いや一尺だと争う。同じ長さのひもでも、標準が違えば、このようなことになる。いつまで議論しても解決しない。神道を誰もが同じように理解していても、宗教についての考えを先に定めず、それぞれ違う考えを持ったまま、神道は宗教だ、いや宗教ではないと争うのは、鯨尺と曲尺で測りながら議論するようなものである。いつまでたっても解決しない。だから、神道は以上に述べてきたものとした上で、ここではさらに、宗教というものの概念を定める必要がある。
第二節 歴史的宗教と神道
いま、宗教というものを、世に成立している宗教、つまり仏教やキリスト教のようなものを標準として考えてみる。そうすれば、まず、仏教とキリスト教が共通して持つ特色を調べなければならない。調べてみると、これらには、まず信仰の対象がある。キリスト教では神、仏教では仏と呼ぶが、仏と神という名は、日本語でそのように区別しているのであり、また、それぞれの国の言葉が違うため、ゴッド、ブッダという。これは、英語とインドの言語という言葉の違いで、どちらも英語でいえばゴッドであり、日本語に訳せば神である。ただ通常は、ゴッドを神と訳し、ブッダは訳さず、原語のまま、仏、またはホトケといい、訳せば「覚」、あるいは「覚者」となる、というだけなのである。さて、その対象である神は、どのようなものか。ともかく人格的なものであり、しかも主なものは、歴史上の存在ではなく、想像上のものである。キリスト教のゴッドは、この世に現れ、生活していたものではない。また、仏教の仏にも、釈迦のように浄梵王の太子だったというものもあるが、わが国の仏教徒の多くが信じる阿弥陀は、一種の想像上の存在である。そのほか、薬師や観世音などは、みな想像上のものと思われる。釈迦以前には過去七仏があったといわれるが、それも想像にすぎないように思われる。そのように、想像上の神を描き、その神が来世を支配すると考えることが、共通の特徴である。キリスト教の神は天国にあって天国を支配し、仏教の阿弥陀は十万億土のかなたにあって極楽の主である、と考える。この現世を、きわめて劣ったものと見て、来世を理想の世界とするのである。だから、この現世を表すには、穢れた世、汚い世など、さまざまな嫌な言葉を使い、厭世的な観念を鼓吹する。そして、来世の天国を、光栄ある世界、理想の世界と説く。したがって、この世で多くの子を産み、多くの財産を作り、世俗の中で盛んに活動することを、大いに排斥するのである。キリスト教では、富める者が天国に生まれるのは、ラクダが針の穴を通るより難しいという。また仏教でも、金銀財宝をどれほど多く積み上げても、臨終のときに何の役に立つのかという。つまり、この汚れた世を早く捨て、彼岸に至ることを理想とする。そのために教会で祈り、寺院に参詣する。そうしたことは、みな、いわゆる後生を大事にするという観念から生じる。その結果、キリスト教などでは、この世の父の命には従わなくても、天の父の命に従えばよい、この世の君主の命には従わなくても、天の主に従えばよい、と教える。また仏教でも、この世の父の命に背いても差し支えない。十分に悟りを得れば、それが大きな孝行だという。だから仏教の始祖、釈迦は、父の浄梵王が、どれほど出家を思いとどまるよう命じても、その命令に従わなかった。ひどいことには、浄梵王が、山の中では、さぞ食べ物に不自由しているだろうと、食べ物や衣服をたくさん持たせてやると、釈迦は、すぐに父のもとへ突き返した。平田篤胤は、これを突き返したのは、あまりにひどい、たとえ自分が食べないとしても、川に捨ててもよいから、親の思いを受けて、「頂戴しました」と伝えればよいではないか、といっている。このように仏教では、家を捨て、妻を捨て、親を捨て、子を捨て、あらゆるものを捨て、山の中へ入っていくのを、最も優れた修行のようにしている。こう見てくると、仏教もキリスト教も、国境というものを、ほとんど認めないのである。したがって、国家というものも、ほとんど認めない。そこが、これらの世界宗教たるゆえんであり、また世界のどの国でも布教できるゆえんである。つまり、世界の人々を基礎に立てた教えであり、ある一国の教えとして作られたのではない。そこで、教えが起こった本国のインドが滅びても、ユダヤが滅びても、少しも構わない。私たちから見れば、何とも情けなく、気の毒に思われる。わが神道では、本国が滅びるのを見るなどということは、夢にも我慢できない。世間では、宗教の実例を求めると、すぐ仏教やキリスト教を挙げる。宗教が、いま述べたような特色を持つ仏教やキリスト教に限られるなら、神道は決して宗教ではない。神道は、来世にそのような想像上の神が存在するとは説かないのである。もちろん例外はある。神道でも多少は来世を説くものがあるが、反対に仏教やキリスト教にも、必ずしも来世を説かず、現世を主として教えを立てるものがある。今日のキリスト教には、神は決してそのような想像上の神ではなく、宇宙の根本原理を神といい、神は道理である、などというものもある。また仏教にも、仏教は世間から離れたものではなく、この現実の社会で、時々刻々に活用できる宗教であり、現実の社会から離れない、と説くものもある。しかし、これらは、いずれも例外と見るべきである。仏教とキリスト教は、一般にいえば、来世を重んじているように思われる。神道は来世をいわず、どこまでも現世を主とする。また仏教には、きわめて陰鬱な気分が漂っている。もちろん宗派が多いから、すべてがそうとはいえないが、全体として見れば、どうも陰鬱な気分があり、厭世的な傾向がある。キリスト教もそうである。もちろん今日のキリスト教を、全面的に厭世的とはいえないが、もともとのキリスト教には、そのような傾向がある。そのためローマ時代には、財産をすべて手放し、山中で隠遁生活をした者が多かった。フランスあたりの学校では、寄宿舎を設け、この世との交わりを絶つようなことをしていたのである。それに対して、神道は生命を生み続ける主義であり、どこまでも多くの子を産み、社会で活発に活動する主義である。仏教やキリスト教でも結婚はするが、教え全体からいえば、結婚すべきではない、結婚してはならない、という立て方である。いわゆる聖僧は結婚せず、優れたキリスト教徒も結婚しない。結婚しないことが、非常に優れているとされる。彼らの理想は、すべての人を優れたものにすることでなければならない。仏教とキリスト教の道は、人々を優れた仏教徒、優れたキリスト教徒にすることを理想とするのだと思う。ところが、そうなれば子供がいなくなる。もっとも、モルモン主義には多くの子供があるが、モルモン主義は、多くのキリスト教徒から認められていない。このように、優れた仏教徒、キリスト教徒は結婚せず、子孫もないのだから、社会の人がみな、そうした信徒になれば、子孫は絶えてしまう。そして国は滅びる。それは神道では、大いに禁じるところである。神道は生命を生み続ける主義である。だから正しく結婚し、正しく子孫の繁栄を図り、家を振興し、さらに国家を振興するのが、神道の主義である。ただし、そのために品性を卑しくすることは、大いに戒めている。また、キリスト教も仏教も、きわめて排他的である。キリスト教は、ほかの者を異端として排斥する。仏教も同じで、たとえば日蓮宗は、真言は国を滅ぼし、律は国の賊、念仏は無間地獄に落ち、禅は天魔の教えである、などといって、激しくほかを排斥する。しかし、神道はそのようなことをしない。もちろん神道の中にも、排他的な傾向を持つものは多少あるが、神道はもともと包括的である。仏教でもキリスト教でも何でもよい。それが神道と調和し、神道に反対しなければ、神道の中に取り入れていく。すると、世間の人は、それこそ神道に定まったものがない証拠だという。しかし、それは定まったものがない証拠ではなく、神道が非常に大きな道であることを示す証拠である。もちろん神道にも、仏教やキリスト教を攻撃するものはある。しかし、誤っている点を攻撃するのであって、決してこれらを受け入れないのではない。欠点を改めてくれば、神道はすぐ受け入れる。いわゆる信教の自由は、神道の聖典ともいうべき憲法で認められている。仏教はわが国に入ってきたが、原始仏教は、わが神道と大いに矛盾し、衝突した。神道は、その改革を促したのである。仏教は、それに促されて改め、その結果、原始仏教は、ほとんど跡を絶った。今日の仏教の多くは、日本的な仏教である。まず、妻を持ち、肉を食べる浄土真宗のようなものは、ほかでは、ほとんど見られない。ほかの仏教から見れば、おかしなものである。それは神道化したのであって、その結果、日本にこのように受け入れられている。かつて神棚のことなどで問題になったが、あれは当時の本願寺の当局者が狭量だったのである。本願寺は代々、皇室と密接な血縁があり、比較的よく神道の本旨を奉じている。そのため、日本で命脈を保てている。神道化してくれば、仏教も、神道はどんどん受け入れる。だから、キリスト教も神道化してくれば、どんどん受け入れられる。つまり神道は、仏教やキリスト教のように、極端に排他的ではない。また、キリスト教は反政府的であり、政治に反抗する傾向を持つ。世間ではよく、キリスト教に「侵略教」という言葉を当てている。ヨーロッパでは、ルター派の新教などは、当局に激しく反抗し、国家に大きな争乱を起こし、宗教戦争という悲惨な戦争をした。そもそも宗教戦争というものは、言葉からして、はなはだ矛盾している。宗教は敵を愛せよというのに、戦争をするのは、はなはだ矛盾している。ところが、至る所で国家に反抗する。これらには反政治的な傾向がある。しかし神道には、そのようなことはない。神道は、わが国家の政治そのものである。政治すなわち神道というのである。このような違いが、神道とほかの宗教にはある。さまざまな面で異なるのだから、もし宗教を、今日成立している宗教に限り、仏教とキリスト教を代表とするならば、神道は断じて宗教ではない、という結論になるのである。
第三節 宗教の本義と神道
しかし、私たちが考えるに、宗教は、仏教やキリスト教に限られない。では、宗教とはどのようなものか。セネカは、「宗教とは、神を知り、それに倣うものである」といい、カントは、「宗教とは、私たちの義務のすべてが、神の意志から出たものと認めることである」といい、ハクスリーは、「宗教とは、倫理的な理想を尊び、その理想を人生で実現しようと努める願いである」といっている。このように、宗教とは何かについて、学者の間には、さまざまな学説があって定まらない。そこで、おおよそのところをいえば、宗教とは、私たちが、自分たちより上のものと信じるものを対象とし、それを敬い、それに従って、日々の行動を営むものだと解釈できる。したがって、私たちより上のものを対象として敬い、心の安らぎを得、それに従って行動することが、いわゆる信仰なのである。信仰には、その対象を構成し、認識する知的な要素と、それによって心の安らぎを得る感情の要素と、それに従って行動する意志の要素が含まれている。その信仰の対象を作る部分を宗教的知識といい、後の部分を宗教的感情、意志といい、その全体を宗教的意識という。この宗教的意識は、どの国民も必ず持つものである。もちろん、文明が非常に進歩した国民では、その意識も進歩し、文明の進んでいない国民では、その意識も幼い。また、この意識は、各国民の特性によって色づけられて現れるから、国ごとにさまざまな違いを帯びる。しかし、どの国民も必ず宗教的意識を持つことは、さまざまな方面の事実から証明できる。この宗教的意識が作り出す宗教は、そのため、それぞれの国民や民族に適したものになる。したがって、その意識から作られる信仰の対象も、民族によって違う。ユダヤ人が信じるヤハウェは、やはり当時のユダヤ人の宗教的意識によって作られ、それに一致したものである。また、アラビア人の信じるアッラーという神は、アラビア人の宗教的意識に一致したものである。同じように、わが日本国民にも、その精神に最も適した宗教が、おのずと起こらざるをえない。そこで、古代の人々は、当時のきわめて偉大な方々であり、いわゆる国民的精神の精髄を体現し、その華を集めた方々である伊弉諾尊、伊弉冊尊、天照大神、大国主神などの神々を、当時の人々より上のものと認めた。これらを神とし、その神々に従い、神々の恵みによって、日々の行動を営んだのである。ところが、天照大神などの神々もまた、自分たちより上のものを認められた。それが、天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神などの神々である。これらは、天照大神など、当時の神々が、より上の神々とされたものである。こうした多くの神々に対して、わが国民の宗教的感情と意志は満足を得ていた。儒教や仏教が入る前には、このような純粋な宗教が、もっぱら国民の上から下まで行われていた。したがって、この神々の崇拝は、天照大神が神鏡を授けられたときの言葉や、皇孫を地上に下されたときに高皇産霊神が述べられた、神籬・磐境についての言葉によって、盛んに行われるようになった。そして、このような宗教的意識は、ますます養われてきた。
また、神武天皇が即位四年に、皇祖の神霊を祭られた事績などによって、神々を敬うべきことが、ますます徹底していった。その後、代々、神々を敬い、祖先を崇拝することは、皇室で奨励され、私たちの祖先も行ってきた。世間では、神道は単なる道徳であり、神道の神も、キリスト教の神などとは違って、道徳的な神、つまり人である、と説き、神道で神々を崇拝するのは、ただ、根本に報い、始めを顧みることにすぎないという。しかし、私たちが祖先を敬うのは、決して、単なる倫理的な尊敬ではないと思う。一例を挙げると、二重橋の外に、楠正成公の銅像がある。あの銅像は、歴史家が研究して作ったものだから、顔かたちはもちろん、生前の服装、道具、馬の様子など、すべて当時のものに基づいている。いわば、正成公の生き写しであり、人としての正成公を、そのまま写している。しかし、その銅像の前に立つときと、湊川神社に参拝し、社前で手を打ち、頭を下げるときとで、私たちの心の状態はどうだろう。同じとは見られない。銅像の前では、正成公を偉人として仰ぎ、生前の功績を思い起こすことができる。しかし、湊川神社の前では、神として崇拝するのである。その神社の神霊は、神秘的に、また直覚的に、私たちの心の奥深くに強い印象を与える。「どのような方がおいでになるのかは知らないけれど、ありがたさに涙がこぼれる」という思いにならずにはいられない。この心の状態を、銅像の前で起こそうとするのは無理である。銅像に対しては、まさしく人としての楠公を思い浮かべる。公は偉人であり、このような人だった、比較的背が低かった、力もそれほどなさそうだが、私たちの祖先の中の大偉人だ、というように、偉人としての正成公を見るのである。ところが湊川神社に参拝するときには、正成公の背が低かったか高かったか、顔が優しかったか恐ろしかったかなどという考えは、少しも起こらない。正成公の神霊を崇拝し、ここに深い霊感を感じるのである。そこに、神道が偉大な宗教としての性質を持つ点がある。神道には、そのような宗教的な性質があるのである。
第四節 神道の儀式
こうして、神道では、宗教的な性質を持つ儀式が行われる。このような儀式は、宗教的意識の表現である。したがって、国民によって、それぞれの特性を持つ。ギリシャ国民の儀式は、非常に快活で、喜びを楽しむものである。インドあたりの儀式は、はなはだ憂鬱で、静かに落ち着いたものである。これに対して、私たちは、わが国民の精神を、秩序と統一を重んじる思想、快活で現世を重んじる感情、発展し膨張する性格とした。このような特性は、おのずと、わが国の儀式にも現れる。そもそも神道の儀式には、祓と禊がある。祓について、賀茂真淵は、「祓とは、『古事記』で、伊弉諾尊が黄泉に行かれ、穢れたのを清めようと、筑紫の橘の小門で、身体に着けたものを、ことごとく脱ぎ捨てられたことをいう。穢れたものを払い除ける意味である」と解釈している。つまり、祓の起源は、伊弉諾尊が筑紫の阿波岐原で行われたことにある。これは、わが国民が秩序を尊び、物事がきちんと進むのを好む一例である。祓は、穢れたものを払い、遠ざけてしまう意味を持つ。また、直接、身体を洗い清めることを、禊という。禊は「身滌」、身体を清めることである。身体を清めることは、やがて精神を清め、その穢れを払うこととも考えられていた。清潔を好んで身体を洗い、また精神を洗う。これは、古代のわが国の、秩序を重んじる立派な精神の現れである。しかし中古には、それが極端になり、召使いなどが病気になると、道路に捨てることもあった。なぜかというと、死が穢れになるため、その穢れに触れないよう、病気のうちに捨ててしまうことがあり、弘仁四年六月一日には、太政官符によって、こうしたことが禁じられたという。これは、清潔を尊び、穢れを忌むことが極端に走ったのである。しかし、このような宗教的意識も、やはり国民的精神の現れを示す。
また、毎年六月と十二月に行われる大祓も、半年の間に生じた、私たちの心と身体のあらゆる罪悪を洗い清め、新たに秩序ある生活を営もうとすることの結果にほかならない。すでに述べたように、わが国民は来世を考えず、祓によって常に罪や穢れを払い、新しい活動を、発展的に営もうと努めている。キリスト教などでは、罪を免れて天国に生まれようとすることを理想としている。しかし神道で罪と穢れを払うのは、現世で、ますます発展し、活動しようというのである。どこまでも現世に一つの区切りを付け、さらに新鮮な活動をしようとするのである。西洋では、日本のようには正月を祝わない。もちろんアメリカでも、大晦日には街も活気づいてにぎわい、元日になると、工場が一斉に汽笛を鳴らす。ちょうど日本で百八つの鐘をつくようにする。しかし元日になったからといって、門松が立つわけでも、年始の客が新しい着物で行き来するわけでもない。ドイツでも、正月の零時一分には、みな「プロージット、プロージット」と、日本でいえば「おめでとう」のような言葉を盛んにいうが、改まった儀式などはしない。もちろん西洋では、クリスマスを非常に重んじる。このキリスト教の祭日には、さまざまに熱狂的な騒ぎをする。しかし正月には、何もない。ところが、わが国では、元日に宮中で最も厳かな儀式が行われ、全国がこれを大祭日とし、津々浦々まで、しめ縄を張り、飾りをし、いわゆる正月着を着るなどして、正月を祝わない者はいない。正月と大晦日は、時間の上では格別の違いはない。しかし、心の状態には、大きな区別が生じる。ここで万事を新たにし、新しい生活に入って暮らそうというのである。それが正月の元日であるのは、秩序と統一を重んじる精神の現れといわなければならない。一月一日を大きな祭日として、ここに精神の新しい時代を画することは、わが国で初めて見られる。もちろん中国などにも正月はあるが、とても、わが国のようにはいかないのである。
さて、祓は、後世になるとさまざまに変わり、たいへん煩雑で、形式的なものになった。本居宣長は、これを嘆き、「罪があっても、穢れがあっても、その重さ、軽さに応じ、同じように祓うのが古代の法である。ところが、中国の制度ばかりをもっぱら学び用いる世になると、古代の習わしは何もかも変わり、この祓の法も、すたれていった」と述べ、さらに、近年の神道家という者たちの行いを見ると、仏教徒が仏を祭るやり方をうらやんでまねることばかり多くなった、と憤慨する。そして、「何の祓、それの祓といって読む文章が、世にあれこれあるが、みな、祓ということのあり方をわきまえない、後世の人の作ったものである。ただ、いつもの中国風のことばかり述べ、古い時代の趣旨と言葉ではない。祓においては、とりわけ無用なことばかりである」といっている。
祓と禊が、秩序と統一の精神から生まれたように、快活で現世を重んじる精神を著しく表す儀式は、神楽である。『大日本史』には、「音楽の起こりは、おそらく伊弉諾尊が伊弉冊尊と『あなにえや』と歌を交わされたことに始まり、天鈿女命に至って、歌と舞が初めて整い、祭祀に音楽を用いることは、ここに起こったのである」と書かれている。斎藤彦麿という人が、神楽について書いたものを見ると、「天照大神が天の石屋の戸を閉め、こもられたとき、天宇受売命が日陰のかずらをたすきとし、手に笹の葉を持ち、乳房をあらわにして、滑稽な演技をしたことが、『古事記』『日本書紀』にある。これが始まりで、朝廷には内侍所の御神楽がある。これは身分の低い者には、のぞいて見ることもできないから、詳しくは知らない。その趣は、そこで歌われる歌が世に伝わっているものの、節回しは身分の低い者には分からない。いま、諸神社で行う神楽は、猿楽の狂言のようであり、壬生寺の踊りに等しい」と書いてある。『神道名目類聚抄』には、この内侍所の御神楽について、「御神楽は、十二月の吉日を選び、内侍所で奏される。一条院の御代から行われ、隔年だったものを、長保年間から毎年行われるようになった。また、内侍所の修理などで、神を移した後には、三夜の御神楽がある」と書かれている。このように、神楽は昔から、わが国で行われてきた。それは、快活で現世を重んじる感情を、最もよく表すものと思われる。そのほか、『持統天皇紀』には、「公卿と百官が並び、順々に拝んで、手を打つ」とある。神前で手を打つことを儀式とするのも、ほかの国では、あまり聞かないことであり、わが国の、現世を重んじる快活な感情が、こうした点にも現れたものと思われる。また、祈年祭は、古来、毎年二月四日に、大神宮をはじめ三千百三十二座の神霊を祭り、豊年を祈る祭りである。その精神に至っては、まったく、わが国民の発展し膨張する性格を表すものと思われる。それは、祈年祭の祝詞に明白に書かれている。どこまでも発展し、どこまでも膨張するというのである。そのほか、神道では祈祷をし、いわゆる祭りをする。祭りは、中国の言葉で祭祀という。祀は祭と同じ意味で、祭はすなわち「際」、神と人が接する意味だという。わが国の「まつり」は、すでに述べたとおり、服従の意味であり、一説には、待つという意味ともいう。要するに、祭りは、私たちの胸にある、神々への敬虔な態度を表すことにほかならない。ただ、この祭祀には、祈り、感謝、あるいは根本に報い、始めを顧みるという意味が含まれている。天の石屋の戸の祭りは、祈りである。今上陛下が先年行われた即位の大礼でも、その中に大嘗祭がある。大嘗祭は、つまり新嘗祭の一種で、天皇陛下が在位中に一度行われる、最も大きな新嘗祭である。新嘗祭は、神への感謝の意味を持つ。そのほか、どの祭祀にも、神に祈り、神に感謝する意味がある。これは、やはり私たちのいう宗教的なものである。しかし、決して仏教やキリスト教のような宗教的なものではない。仏教やキリスト教でも祈るが、その根本の趣旨は、死後、天国に生まれることを祈るのである。それ以外のことは、彼らの教理の立て方から見れば、その祈りにおいては無意味になる。現世を穢土とし、富める者は天国に生まれられないといっておきながら、商売繁盛を祈れば、矛盾といわなければならない。戦勝も同じである。戦勝などは、明らかに修羅道に落ちる罪であり、「汝の敵を愛せよ」という教義に反するといわなければならない。それだけでなく、ヨーロッパの大戦争では、イギリスの国王は、天帝に戦争の勝利を祈られただろうが、ドイツの皇帝もまた、ドイツの勝利を祈られただろう。キリスト教では神は唯一神だというから、一つの神が、イギリスからはイギリスが勝つように、ドイツからはドイツが勝つようにと祈られるのである。神は、どちらを勝たせればよいのかということになり、たいへん迷惑するだろうと思われる。ところが、神道で祈るときには、そのような不都合は起こらない。神道の神は、わが国民を守ってくださる神々、私たちの祖宗の神々である。その祖宗の神々に祈ること、戦勝を祈ることは、当然なのである。キリスト教徒などは、何かとあれこれいうが、その議論は、まったく当たっていない。また世間では、日本は信教の自由を認めているのに、朝廷が官幣社、国幣社といって神社を祭るのは、少し矛盾するではないか、といいがちである。しかし、これは、神道を彼らと同じような宗教と見るから、そのような間違いが生じる。もちろん神道にも、いわゆる神道十三派といって、宗教と見られる教派はある。しかし、国家も、それは宗教局で扱い、その教師を国家の官吏とせず、その教院がどれほど大きくても官国幣社とはせず、神社局で扱うものとは、まったく区別している。二つを混同してはならない。純神道は、決して、仏教やキリスト教などの仲間に入るものではない。キリスト教徒などが、疑いの目で見る必要はないのである。神道は、キリスト教や仏教のような宗教の立場から見れば、宗教以上である。「以上」というと語弊があるかもしれないが、「大きい」といえば適切だろう。これらの宗教より、さらに大きな道なのである。これらの宗教は、前にも述べたように、非常に疑い深い性質を持つ。ユダヤの神は、「お前は、私の目の前で、私のほかに何者も神としてはならない」といっている。そうならば、陰で拝むのはよいかもしれないが、目の前で、ほかの何者も神としてはならないという、非常に嫉妬深い神である。仏教やキリスト教は、すべて疑い深いため、仏教でも、ほかの宗派を激しく排撃し、いわゆる不倶戴天の敵として見る。仏教は同じ釈迦の教えなのだから、十三宗五十八派に分かれず、ともに一つになって、これを仏陀宗とすればよいと思う。仏教は和合を説き、慈悲を説き、来世の極楽を説いて教えるのだから、この世の事柄は、思いやりをもって仲よく進めてよさそうなものである。ところが、非常に排他的である。神道はそうではない。仏教でもキリスト教でも、あえてとがめない。わが国の仏教徒が、肉を食べ、酒を飲み、家族生活を営むのは、インド仏教の本旨からいえば、戒律を破る放埒な行いともいえるだろう。しかし、これは、仏教がわが国に入り、わが国民性に同化した結果であり、それによって、よく今日まで命脈を保てたのである。このように神道は、これらが自分に同化してくれば、とがめない。とがめないどころではない。同化した仏教は神道といえ、同化したキリスト教は神道といえる。つまり神道化したものなのである。要するに神道は、仏教やキリスト教以上のものである。対等なら、互いに排斥もしようが、それ以上のものだから、仏教とキリスト教が互いを敵視するようなことはない。
以上のようなわけで、神道では、祈りもし、根本に報い、始めを顧みる思いも捧げて、祭祀を盛んにすることが大切である。「お祭り騒ぎ」とよくいうが、お祭りは、にぎやかであることを意味する。このにぎやかさが、わが国民の特色である。神々を祭るのに、悲しげな儀式はしない。にぎやかにして、現世を重んじる快活な感情の満足を得ているのである。これが神道の宗教的な面の特色である。要するに、人間には、知識、感情、意志という三方面の精神活動が備わっている。知的な要求には、すでに述べたように、政治、法律、経済といったさまざまな現象が生じて、私たちの要求を満たす。感情の面では、神道は宗教となって、国民の宗教的意識に満足を与える。そして、神道はさらに道徳となって現れ、国民の意志の要求に満足を与えるのである。
第十一章 神道と道徳の系統
第一節 道徳の意味
「道徳」は、今日では一般に一つの言葉となっている。しかし、研究するには、「道」と「徳」に分けてみたほうがよい。道については前に詳しく述べたから、ここでは、まず徳について少し述べよう。「徳」の字は、もともと「悳」と書いた。『説文』には、「悳とは、外では人に得、内では自分に得ることである。直と心とに従う字である」とある。その意味を考えると、自分がまず行って得るところがあり、その後で、それを人に及ぼすことをいうのである。行って、自分の内に得るものがあるためには、もとより心が清く正直でなければならない。そこで、この字は、「直」と「心」の意味を合わせて作られた。そして『礼記』などには、「徳とは、得ることである」と解釈される。音が通じ合い、意味も非常に近い字による解釈だが、きわめて適切で、よく当たっている。「得」の字は、『説文』には、「行って、取るところがあること」と解釈されている。この字で徳を解釈するのであるから、『礼記』も、徳について「徳とは、身に得ることである」とする。ところが、わが国の学者、伊藤仁斎は、『語孟字義』に「徳は、仁・義・礼・智の総称」と書いている。したがって仁斎は、『礼記』の「徳とは得ることである」という解釈について、音の近い字を借りて意味を表したのであり、本来の正しい読み方ではない、と断言する。しかし、徳は「得」で解釈するのがよいようである。荻生徂徠も、やはり、これを支持している。『弁名』に、「徳とは得であり、人がそれぞれ、道において得るところがあることをいう」と書いている。要するに、徳の意味は、徂徠の説のように、人々が道を行い、その上で、自ら得るものをいうのである。したがって、精神か身体かは、必ずしも問わない。西洋でも、徳を、多くは意志の習慣と解釈するが、これも適切である。つまり、徳とは得であり、私たちが常に道を行って得たもの、すなわち習慣なのである。徳が備われば、その後は、道を行おうという考えがなくても、おのずと道を行えるようになる。それを有徳の人という。神道でも同じで、神の道を日々、時々刻々に行っていけば、その習慣が身につき、品性を得られる。それを有徳の人というのである。有徳の人は、あえて道を行おうと苦心せずとも、その言動がおのずと道にかなう。このような人は、真の神なのである。
第二節 神道道徳の本義
では、その道とは何かといえば、これまで述べてきたとおりである。しかし、これを道徳の立場から見ると、私たちの日々の行いの標準は、真心にある。本居宣長は、こういっている。「道は、必ずしも学問によって知るものではない。生まれながらの真心こそが、道なのである」。では、その真心とは何か。宣長はさらに、「真心とは、産霊神の御霊によって、生まれながらに備わった、そのままの心をいう」と述べる。つまり、私たちは、産霊神、すなわち天御中主神から真心を受けて生まれている。真心は先天的なもので、神の分霊であり、あるいは神そのものであるから、それに従って行えば、それがそのまま神道になるのである。君臣、父子、夫婦、兄弟、友人の道も、みな真心から生まれる。それに従って行えば、臣下が君主に対しては忠となり、子が親に対しては孝となり、妻が夫に対しては貞となり、弟や妹が兄や姉に対しては悌となり、友人の間では信となる。たとえ忠や孝を尽くし、夫婦が仲よくし、兄弟が友愛を守っても、真心がなければ形式に流れ、徹底しない。表面的で、上滑りになる。それでは、神道の道徳ではない。中国の道徳には、形式が多くて困る。たとえば、君臣には義があり、夫婦には区別があるという。だから、ついには「君主が君主らしくなければ、臣下も臣下らしくしない」という言葉が出てくる。「三度いさめて聞き入れられなければ、去る」ということも起こる。夫婦には区別があるなどというから、夫婦が十分に仲よくできず、おのずと疎遠になる傾向がある。しかし、わが国では、真心をもって相手に向き合うので、君臣の間でも、「君主が君主らしくなければ、臣下も臣下らしくしない」などとはいわない。「君主が君主らしくなくても、臣下は臣下としてある」。つまり、臣下は、どこまでも臣下としての道を踏んでいかなければならない。「大君のおそばでこそ死のう。安らかには死ぬまい」。命を捧げて大君のために尽くすのが、神道の道徳である。また、夫は妻を愛し、貞節を重んじるべきであるが、妻もまた、どこまでも貞節を尊ぶことを、神道は重んじる。これは、大国主神が旅立たれるとき、須勢理毘売命の述べられた言葉に伝わっている。これを見ても、古来、妻である者が、いかに貞操を重んじたかが分かる。このように神道では、真心をもって君主に仕え、親に仕え、夫に仕える。どこまでも真心を貫くのである。
第三節 忠孝一本主義
神道道徳の実践の面を、もう少し述べてみよう。中国では、孝を根本とし、孝は、あらゆる行いの根本だという。また、「父子には親愛、君臣には義、夫婦には区別、年長者と年少者の間には順序がある」と、まず父子、次に君臣を挙げる。中国は孝を根本とする主義である。しかし、わが国は忠孝一本主義であり、君臣の道を最も大切にする。これはどういうことか。わが国では親子の関係が最も親密であり、親を尊ぶことが、非常によく行われている。そのため、親に孝行しようということになる。では、どうすれば親孝行になるか。親においしいものを食べさせ、立派な着物を着せるのも、孝行の一つである。立派な家を建ててやるのも孝行だが、それより大切なのは、親の志を継ぎ、親の精神に背かないことである。その親の志はどこにあるかというと、そのまた親、つまり祖父母の志にある。祖父母の志は曾祖父母の志である。そのように、ずっとたどっていくと、私たちの祖先の志となる。祖先の志はどうか。私たちの祖先は神々、あるいは皇族である。今日、わが国民には、藤原家の子孫が非常に多い。いわゆる五摂家はわずかだが、藤原家の流れを探せば、日本に何千、何万、何十万あるか分からない。その源をたどれば、天児屋根命に帰する。また、現在、源の姓を名乗る者、姓は源、氏は何々というように、さまざまな氏はあるが、姓は源という者が、どれほどいるか分からない。平の姓も、どれほどあるか分からない。しかし、源をたどれば、源姓の者は清和天皇、または宇多天皇に帰し、平家なら桓武天皇に帰する。神をたどれば、天児屋根命、あるいは太玉命に帰するということになる。このような祖先の神々が、皇室に忠節を尽くされたのは、いうまでもない。天児屋根命は、天孫降臨の際、最も重要な神として地上に下り、厚く忠節を尽くされた神である。その志を、今日の藤原家の系統の者は受け継がなければならない。つまり皇室に忠節を尽くし、「大君のおそばでこそ死のう。安らかには死ぬまい」という精神になる。そうして大君のおそばで死ぬなら、それが親に対する、最も大きな孝行であり、国家にとっても、大きな忠節である。すなわち、忠と孝は一本なのである。また別の面からいえば、わが国は家族主義であり、皇室と国民は、本家と分家の関係である。だから、本家のために尽くすことは、その家のために尽くすことになる。この点から見ても、忠孝一本となる。そこで、国家にひとたび非常事態が起きたとき、親が重い病気だと仮定しよう。自分が出征すれば、ほかに看病する者がいない。その場合、出征すれば親は死ぬかもしれない。出征せず親を看病するのが孝行か、出征して親を見捨てるのが孝行か。このような場合、わが国民は、親を置いてでも、国家の危急に駆けつけるべきである。これは、親への情が薄いからでも、親しみがないからでもない。親の志も、やはり、そこにある。これに似た実例は、歴史に多い。親が健康で、軍籍にあったなら、親自らが、国家の危急に駆けつける。不幸にして今は病気で行けないが、せめて自分の子を行かせよう、というのが親の精神である。その精神に背けば、かえって大変な親不孝になる。この点から見れば、国家に忠を尽くすことは、親孝行になる。つまり忠孝一本である。外国では、それができない。中国では、前にも述べたように、「ただの一人の男である紂を討ったとは聞くが、君主を殺したとは聞かない」、あるいは「天が命じて、これを討たせる」という。臣下が君主を殺すのを天命とし、天命には背けないといって、君主を殺す。したがって、忠と孝は一致できない。朱舜水という人が、水戸に来て仕えた。朱舜水の子は中国にいた。朱舜水自身は明の遺臣であり、清によって明が倒されたため、日本の力を借り、明を回復しようとした。それが国家に忠節を尽くす志であり、朱舜水は、まことに忠臣である。ところが、その子は清の俸禄を受けた。その子が親孝行をしようと思えば、どうしても、清の俸禄を受けることはできない。父と同じように、明の回復に努めなければならない。しかし、その子は親の意志に反し、明を捨て、清に仕えた。清から見れば、これは忠臣である。朱舜水は反逆者だが、その子は忠臣である。つまり、その子は清には忠臣で、親には不孝な子である。忠と孝が一致せず、一本にならない。忠孝一本は、わが国において、万世一系の皇統のもとに、初めて見られる。これが、わが神道道徳の特色なのである。
第四節 「家」の観念
こうして、忠と孝を最も重んじるため、「家」という観念が、非常に強くなる。その家は、ただの一個の家ではなく、祖先の家であり、祖先から受け継ぎ、子孫に伝える家であるという観念が強い。いわゆる家族主義が、神道に行われるのである。西洋にも昔はあったが、今日では、もはや影もとどめない。西洋の人々は、スイートホームといって、楽しい家庭を作ることを望む。しかし、わが国のような意味での家族を作ることは考えない。そのため、西洋の家庭には家長がなく、家を後世に伝えない。財産は相続しても、家督は相続しないのである。これに対して、わが国では家を非常に重んじ、遠く祖先から受け継ぎ、長く子孫へ伝えるべきものとする。この道徳を実践の面から述べれば、さまざまな現象となって、わが国固有の道徳を形作るが、その最も大切な点は、皇室を中心とすることである。あらゆる道徳が、皇室を無視しては道徳にならない。ここが大切である。他国では、皇室を無視して道徳になる場合がある。たとえば中国で、清を倒すときには、清に反抗しながら、自分は国家のために働くといい、愛国者だと叫んでいる。また西洋では、たとえばフランスのルイ十六世は、フランスの議会で罪状を審議され、ついに死刑を宣告された。議員たちは、国王に死刑を宣告しながら、やはり国家に忠節を尽くしていると考える。つまり外国では、皇室を離れて道徳が成り立つ。しかし、わが国では、皇室を離れれば、道徳はまったく成り立たない。皇室を中心に道徳が成立し、皇室を無視した行動に出れば、あらゆる道徳が、みな不道徳になる。これが、わが国の道徳の特色である。皇室を中心とし、忠実で善良な臣民となり、天祖の神勅に従って、天地とともに尽きることのない皇運を助け支えていくことが、わが国の道徳の極致である。この極致を十分に発揮するために、神剣が輝いている。国家に危害を与えようとする者があれば、私たちは、神剣の神威を受けて抵抗しなければならない。もちろん一方では、神鏡の示すところに従い、知識を磨き、決して無謀で乱暴なことをしてはならない。また一方では、神璽の趣旨に従って、慈愛の精神を発揮しなければならない。実際、中国人が、東方の君子の国といったように、私たちは仁愛の精神に富んでいる。しかし、天地とともに尽きることのない皇運を助け支えるため、ひとたび非常事態となれば、あらゆる悪魔を討ち、国家を泰山のように安定させ、その無限の発展を図る。これが、わが神道道徳の極致なのである。
第十二章 結論
第一節 神道の性質
以上に述べたことから、世間で、神道を、宗教だ、道徳だと扱うことの間違いは明らかになったと思う。もともと、世間のいう宗教、すなわち仏教やキリスト教は、すでに述べたとおり、神道とは根本的な性質が異なる。神道は、それらと同じ種類のものという枠を超えているのである。
神道は、偉大な政治の道である。まことに、世界に類のない国体を根底とする、偉大な政治の道である。仏教やキリスト教が、どれほどあせっても、そのような政治の道にはなれない。もともと仏教の立て方では、家を出なければならない。在家の信徒も、もちろんいるが、理想の仏教者となり、真に仏教を信奉する者は、ぜひとも出家しなければならない。妻を持ってはならず、魚や肉を食べてはならず、金銭に執着してはならない。そうしては、家族を根本とし、市町村、府県や郡を根本とする政治とは、一致できない。真の仏教は、世界的であり、個人的であり、国家を基礎としない。キリスト教も同じである。旧教などでは、やはり出家の生活を理想とし、世界的であり、国境を認めない。国家主義の政治とは、本来の性質が異なる。もちろん、今日の仏教とキリスト教は、本来の性質を離れ、多少は国家主義になっているが、理想をいえば、そうはいかないのである。これに対して神道は、本質的に国家に根ざす。わが国民とともに発展する大道なのである。
神道は、偉大な道徳である。もちろん、仏教もキリスト教も、倫理的な要素を含み、道徳として多くの価値を持つが、神道には及ばない。もともと道徳は、人と人との関係、君臣、父子、夫婦、兄弟、友人などの関係を律するものである。ところが、天の父を重んじ、君臣や父子の関係を軽んじ、あるいは妻子への愛情を断たなければならない、または阿弥陀如来の前では、神棚やしめ縄も認めない、という主義になると、その道徳も徹底しない。少なくとも国民の道徳としては、徹底しない。そこで、国家が運命をかけて戦争をしているときに、非戦論を唱えるなど、とんでもないことをしだす。社会主義的な思想も、そうした考えの中で養われがちである。また、道徳は、どこまでも実行を尊ぶ。どれほど優れた議論や説でも、実行されなければ何の価値もなく、まさに机上の空論である。神道は、どこまでも国家主義、家族本位、忠孝一本主義で進むため、道徳としても、生き生きと徹底していく。道徳としても、まことに偉大なのである。
つまり、ほかの仏教やキリスト教は、まず宗教として価値を持つが、神道は、天地に通じる公の道である。それが国家の大道として、政治の道、道徳、そして宗教として価値を持つ。人の世のあらゆる行いを導く大道として価値を持つのである。この点で、仏教やキリスト教と比べられるものではない。このような宗教と同類ではない、というのは、そのためである。
それでも、あえて比較するなら、身近なたとえで、その関係を少し示せるかもしれない。神道は飯であり、仏教やキリスト教は、酒やたばこのようなものである。飯は、国民にとって、一日も欠かせない。飯を食べるほかに、酒を飲み、たばこを吸っても、あえて妨げはしない。しかし、必ず飲み、吸わなければならないわけではない。神道は、わが国の大道であり、いやしくも、わが国民である以上、飯を食べなければならないのと同じように、片時も離れられない大道なのである。
第二節 神道と敬神崇祖
神道は、神を敬い、祖先を崇める道である。皇祖皇宗の遺訓を守る道である。天御中主神や産霊神を敬うのも、つまり、私たちの大いなる祖先、世界の大いなる祖先としてのことであり、宇宙の本体、生命を生み、発展させる根源の神としてのことである。要するに、神道は、神を敬い、祖先を崇める道である。したがって、わが国の教育、とくに初等教育では、その考えを十分に行き渡らせなければならない。そのため、生徒を引率して神社に参拝させることも、きわめて必要である。こうした敬神崇祖の教育に、あれこれ異論を唱えても、何の価値もない議論なのである。
考えてみるがよい。わが国の普通教育の本旨は、どこにあるか。もちろん、さまざまな面から、次代の国民を育てることにあるのは、いうまでもない。しかし、その根底が、道徳教育と国民教育にあることは、法令が明らかに示している。では、道徳教育は何をよりどころに行うべきか。儒教か、違う。仏教か、違う。キリスト教か、違う。まことに、教育に関する勅語である。また国民教育は、何を標準として行うべきか。これも、帝国憲法であることは、説明を待たず明白である。帝国憲法については、すでに述べたように、明治天皇が発布の際、「皇祖皇宗の遺訓を明らかにし、基本の法を定め、その条文を明示する」という意を述べられたことから、皇祖皇宗の遺訓であることは、きわめて明らかである。また教育勅語が、皇祖皇宗の遺訓であり、祖先の遺風であることは、その本文に述べられている。そうであるなら、この憲法、この勅語を常に心にとどめて守らせ、道徳教育と国民教育を十分に行うには、まず、皇祖皇宗と祖先を敬わせなければならない。父母の教訓を十分に守る孝行な子は、必ず、その父母を敬う者でなければならない。主人の命令に忠実に従う召使いは、決して、その主人を侮る者の中には見られない。理屈は、これと同じである。皇祖皇宗を敬わず、その遺訓だけを守り尊ぶといっても、誰が信じるだろう。祖先を敬わず、その遺風だけをたたえるといっても、誰が信じるだろう。だから、いやしくも、わが国民である以上、十分な真心をもって、皇祖皇宗と祖先を敬わなければならない。そのように敬うには、わが国固有の神社を敬い、祭るべきである。神社こそ、古来、わが国民が、十分な真心をもって、皇祖皇宗と祖先を敬い祭るために造ったものなのである。だから、わが国の普通教育を徹底し、道徳教育と国民教育の十分な効果を上げるには、ぜひとも、神を敬い、祖先を崇める考えを普及させなければならない。
ところが、キリスト教徒の側から、何かと敬神崇祖に反対する議論が出るのは、今さら珍しくないが、自ら熱烈な忠君愛国者と任じる人々に、妙な考えから祖先を敬うことに反対し、わが国固有の家族主義の国体に疑いを挟む者があるのは、私には、はなはだ遺憾なのである。
こうした人々は、わが国が発展し、朝鮮を領土とし、台湾の住民も国民となる時代には、大和民族、同じ血族という考えで祖先を祭ることは、通じなくなる、という。つまり、天孫の人種、大和民族などという思想は、前世紀までの話で、今日の時勢には不適切だとする。天照大神は、わが国の建国者として崇拝すべきであり、万世一系の皇統は神聖で、臣民が夢にも、それをうかがい望むことは許さない。ただ、むやみに祖先を敬うというのは、右の理由からよくない。発展する日本国民は、皇室の尊厳をますます維持すると同時に、祖先崇拝のようなものを退け、あらゆる民族を受け入れ、世界的な大国家の実現に努めなければならない、と主張するのである。
この主張には、確かに一理あるようで、軽く考えると、なるほどと感心しそうになる。しかし、いったん退いて深く考えると、その根底に、一つの誤った見方が潜んでいると分かる。もともと、こうした人々から見ると、わが国の歴史には、多くの帰化人がいて、重要な役割を果たし、その多くが私たちの祖先となっている。だから、同じ民族、同じ血族などというのは、おもしろくない、ということが、その考えの出発点らしく思われる。もちろん、すでに述べた新羅人の子孫、田道間守は三宅連の祖となり、中国人の阿知使臣は、履仲天皇に仕えて蔵人となり、その子孫の坂上田村麿は征夷大将軍となって、功績が当代第一となったのは、有名な事実である。しかし、このような人々も、大和民族であることに差し支えはない。個人の家でも養子を迎えるが、わが国の系図では、養子は実子と、ほとんど区別がない。大和民族という大きな家族が、帰化人を養子にしたのである。大和民族に同化させ、その骨となり、肉となるようにしたのである。骨肉の親族は、同じ血族である。決して帰化人を、よそから来た客として扱ったのではない。アメリカのドイツ系の人々が、いつまでもドイツ系として、アメリカ人になりながらドイツ語を学び、ひとたびドイツに非常事態があれば、あらゆる手段でドイツのために尽くすのとは、同じには論じられない。わが民族は、帰化人を骨肉の一部にするまでやまないのである。同じように、新領土の朝鮮人も台湾人も、もちろん急にはできないが、長い年月のうちには、大和民族に受け入れ、すっかり同化させ、同じ血族にしてしまわなければならない。将来、わが帝国が、どれほど発展しても、この建国以来の国是は、変えるべきではない。インドを征服されたイギリス王は、インド皇帝となり、インド国民を、インド国民のまま統治されているようである。しかし、わが大和民族は、熊襲を受け入れ、蝦夷を受け入れ、しかも今日では、その痕跡を、ほとんど残していない。ロシアやオーストリア=ハンガリーのように、ほとんど永久に人種の争いが絶えないことは、わが民族の選ぶところではない。大和民族は、どこまでも、その勢力の下に入る者を同化し、大和民族である栄誉に浴させ、神道の治める国民とするまでやまないのである。イギリスがインドに臨むような態度で、わが勢力の下に入る者に臨めば、たとえ急速に国力が発展しても、いつかは、アレクサンドロス大王の国家やローマ帝国のような運命に出会うことは、明らかな道理である。そして、それは断じて、わが帝国の建国以来の国是ではない。だから私は、今日の時勢、とくにロシアの失敗の歴史などを目の前に見せつけられる時勢において、祖先を敬う考えを、ますます徹底させる必要を痛感するのである。
さらに、論者は、万世一系の皇統を尊重し、皇室の尊厳を、ますます維持することに努めるべきだと主張する。しかし、祖先を敬うことを無視し、あるいは少なくとも、あまり重く見ずに、その主張が実現できると思うのか。万世一系の皇統を守ろうとする国体の精華と、祖先を敬うこととは、互いに原因となり、結果となる、切り離せない密接な関係にある。この点について、私は、深い反省を求めてやまないのである。
第三節 神道と教育
神道は、教育の根底である。わが国の教育は何に基づいて行われるかといえば、いうまでもなく教育勅語であることは、子供でも知っている。そして、すでに述べたとおり、教育勅語に示されているのは、皇祖皇宗の遺訓であり、祖先の遺風を明らかにし、たたえるべき方法である。皇祖皇宗は神であるから、その遺訓は神の遺訓、神の道である。祖先もまた、神として、私たち国民が祭るものである。その遺風は、神の遺風、神の道である。このため、神道は、教育の根底なのである。
このように、教育勅語は、皇祖皇宗の遺訓である帝国憲法と同じく、神道であり、神の道を示されたものである。この教育勅語を新領土の民に説くには、多くの不便を感じるという者がある。とくに、「祖先の遺風」や「よく忠に、よく孝に」という言葉の解釈が難しいという者がある。しかし、これも、私がすでに論じたように、新領土の民を、わが民族の養子と見なし、いや、わが国民として、同化させなければならない。決して、劣った人種のように扱うべきではない。わが帝国の臣民である以上、新しく従った民だからといって、夢にも侮蔑的な区別を付けてはならない。これが、帝国の古来の国是であり、祖先の遺風である。したがって、どこまでも新領土の民に、皇祖皇宗の遺訓、つまり神の遺訓を体得させなければならない。そうして、十分に教育勅語を心にとどめ、守らせ、ついに理想を実現させなければならないのである。
第四節 神道の将来
維新以来、西洋文明が、勢いよくわが国に流れ込んだ。そのため、すでに述べたように、西洋文明という酒やたばこに酔い、冒頭で述べた、頭を探し回る人々のようになった者が、かなり増えたように思われる。わが国固有の大道を忘れ、いたずらに、遠くに道を求める人が、かなりいるように思われる。
アメリカや南洋の先住民、あるいはインド人などは、みな西洋文明を取り入れ、その文明に、のみ込まれてしまった。わが国民は、どうか。歴史を見ると、昔からインドの思想が入ってきても、中国の思想が入ってきても、みな神道において同化してきた。そうして、いま入ってきた西洋の思想も十分に同化し、いわゆる第三の日本を築き上げつつある。神道は、仏教やキリスト教のような一つの宗教ではないのだから、それらのように互いを排斥し、ついには兄弟が内輪で争うような戦争を起こす、という不都合はしない。神道は包括的で、そのようなものを、みな同化していく。そして、神道は、まことに進歩的である。神道は、現世を超越し、現世から隔てられた来世を求めるのではない。そのような来世を求める教えは、保守的に流れがちである。しかし神道は、もちろん、ある意味での未来を求めるが、その未来は、現世と一体になった未来、発展した現世である。もともと神道には、一切経のような経文がなく、キリスト教のような聖書もない。そのような経典や聖書があれば、その外に出ることができない。しかし神道は、事実の道である。天御中主神や天照大神の徳を受けた神々が行動するところは、すべて神道となるのだから、神道は、時代に最も適した道なのである。キリスト教などは、ともすれば、先に述べたように、信教の自由を持ち出し、国家が神道を保護するといって不満を抱く。しかし国家は、憲法第二十八条で、安寧秩序を妨げず、臣民の義務に背かない限りで、信教の自由を認めている。この固有の大道である神道に背き、その排他的な性質をもって神道を排撃しようとすれば、天に向かって唾を吐くようなもので、自分を国外に追放してくれということになる。神道は、皇祖皇宗の遺訓であり、祖先の遺風である。要するに、わが国の大道である。わが国民である以上、一日も離れられない大道であり、国民を、天地とともに尽きることのない発展へ導く大道である。このような大道の存在を忘れ、いたずらに西洋に道を求めるのは、あの、頭を失った者と同じである。私たちは、この大道を十分に学理的に研究し、国民に深く体得させ、大いに発展させていかなければならない。
『神道哲学精義』刊記
大正七年(1918年)三月二十三日印刷。
大正七年(1918年)三月二十六日発行。
大正七年(1918年)四月二十日、再版発行。
大正七年(1918年)四月三十日、三版発行。
大正七年(1918年)七月十日、四版発行。
大正八年(1919年)二月十五日、五版発行。
大正十年(1921年)九月三日、修正六版印刷。
大正十一年(1922年)九月七日、修正六版発行。
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