日本思想 / 黒上正一郎聖徳太子の信仰思想と日本文化創業
日本思想 / 黒上正一郎
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聖徳太子の信仰思想と日本文化創業
現代日本語訳
黒上正一郎 著
1935年(昭和10年)刊/読書用整形版
底本について
利用できる原本では、本文24頁の次が35頁となっており、原本25〜34頁が欠落しています。欠落部分は推測で補わず、該当位置に明示しました。
目次
序
一
慌ただしい生活の中では、過ぎていく日々の出来事は忘却の中に沈んでいく。しかし、故・黒上正一郎兄の姿は忘れがたい。
この世に真に存在するものは、動かない物ではなく、動く心である。存在するものの真実の姿は、固定して凝り固まったものではなく、波動しながら連なっていくものである。個々の生命が連なりながら無限に展開していく世界では、生と死によって区切られる過去・現在・未来の三世は、仮の区分にすぎない。天地が存在する限り国を守ろうとする民の生活に映し出されるものは、祖国の永遠の生命であり、その上に輝いているものは、口にすることさえ畏れ多いが、「あまてらす神の御光」である。
二
「ひとたび国家に危急の事態が起これば、正義と勇気をもって公のために尽くし、天地とともに永遠に続く皇室の命運を支えなければならない」と仰せになった勅語を謹んで受け、「戦場に立つ者も、立たない者も」、皆がひたすら国を思いながらこの生涯を終えること以外に、私たち臣民の進むべき道などあり得ないのである。
この道をまっすぐに進んだのが、故・黒上正一郎兄であった。黒上兄は、この道を進むための道標として、明治天皇の御言葉と聖徳太子の御言葉を仰ぎ、そこに密接に従った。そして、信仰によって養われた心情を、真理を求める苦しい修行と結びつけ、危険を恐れず激しく前進し、ついに戦いの中で倒れた。黒上正一郎兄のその運命は、祖国の尽きることのない生命と対照されることで、いっそう強く浮かび上がった。それによって、部分は全体との関係の中で生まれ、現実に存在するのだということが、明確に証明されたのである。
三
黒上兄の研究、たとえば、その中心をなす『三経義疏』の研究は、聖徳太子の御言葉に直接触れ、言葉の道において神と人とを通わせ、三宝を深く敬う儀礼を実際に行うものであった。その研究は、総合的かつ批判的な文献学であり、文献を通じた文化史研究であり、同時に、日本の歌の道を実践することでもあった。
黒上兄が日本の歌の道を通じて営んだ精神生活は、彼の指導を受けていた昭信会員との手紙のやり取りや贈答、また、心情を述べ、感慨を詠んだ和歌という形になった。そして、芸術の不滅の生命を、その歌の調べに託したのである。歌の調べとは、生命どうしを通わせる音律である。
黒上兄の形見である昭信会の会員たちの間に、「大和言葉の高い調べ」が準備されつつある兆しを確認し、そのことを黒上兄の霊に申し上げるのである。
四
この事実を報告し、そこから生まれる希望と祈りを、誓いの心を込めて伝える。黒上兄よ、君の友人の一人である私は、君を道標として仰ぐ若い友人たちとともに、ここに君の霊へ申し上げるのである。
すなわち、この遺著はすでに、明治・大正・昭和という三代の御代を総合的・芸術的に表現する劇詩創作の一部分として、世に出るのである。
行為や事実と言葉とは一致しなければならないという原則に従い、また、社会は個人に先立って存在するという事実に基づくならば、ここでいう劇詩は、一人の個人だけによって創作されるべきものではない。しかし黒上兄よ、君はその主要な創作者の一人であり、また主要な演出者の一人でもある。つまり黒上兄よ、君は今も、私たちとともに、ありありと存在しているのである。
私はそのように感じ、考え、意志するままにこれを書いた。尽きることのない思い出と、尽きることのない思いを込めて、ここで筆を置く。
五
1935年(昭和10年)5月2日
三井甲之
附記
研究には、研究対象を定め、研究方法を確立することが必要である。しかし、とりわけ精神科学の研究においては、研究者の人生観を客観的に支える根拠となる人生体験と芸術的表現によって、研究活動を支え、そこに生命を与えなければならない。
精神科学に正しい研究方法を示したヴントの、研究方法論としての論理学を根底で支えていたものは、彼の宗教的情操と政治的関心であった。
1912年8月発行の『ドイチェ・ルントシャウ』に、ヴントの80歳の誕生日を記念する論文を寄せたモイマンは、次のように嘆いている。君主、政治家、芸術家、実業家などの80歳の誕生日が近づけば、すべての新聞がその記事を掲載せざるを得ない。ところが科学研究者の場合、その経歴が科学界を越えて社会全般の注意を引くことはまれであり、科学界の人々に対する世間の関心は、前世紀よりも薄れていったというのである。
このような時代に、ヴントは通常の大学講師・教授という道を歩んだ。しかし、その学問は、医学・自然科学の研究から哲学研究へ、さらに最後には政治的な時事評論へと進んだ。外見は質素で平淡であったにもかかわらず、その内側には、重大な個人的転回と、危機にさらされた国家の運命とが含まれていたのである。ヴントは、人生における宗教と国家の興亡に対して忠実な研究者であった。しかし同時に、忠臣として仕えるべき祖国と君主を見いだせない近代ヨーロッパに生まれた予言者でもあった。
そこでは、金融資本、政党、新聞をはじめとする、数量によって組織されたあらゆるものを、一つの調和した体系へ統合する優越的な要素が欠けていた。そのため、到来するものは崩壊であった。そして、その崩壊から再び芽を出す生命の抗しがたい力こそ、ヴントの精神が質素ではあるが正確に代表していたイデアリスムス、すなわち観念論であった。その実質は、忠義の情操というより、コレクティヴィスムス、すなわち集団主義の理論であり、全体主義であった。それは、部分を全体の中で結びつけ、関係づけるために、宗教的礼拝よりも道徳的訓練を要求する「民主的独裁政治」を準備しつつあったのである。
第一次世界大戦の終結とともに、文部省留学生として早い時期にドイツへ渡った大津康兄は、第一高等学校の教授であった。彼は、老ヴントに日本の宗教について語るという重大な使命を果たすための準備を完成しないうちに、病気のため帰国しなければならなかった。その第一高等学校において、梅木紹男兄の親友であった黒上正一郎兄は、ヴントの研究方法を聖徳太子の研究に応用し、昭信会の学問的基礎を築いたのである。
ヨーロッパで発達した物理学の進歩とその応用は、現代生活における海・陸・空の交通と通信を加速させた。その一方で、東洋において伝統を受け継ぐ宗教心理学の悠久の生命は、「静寂の調べ」を、対照強化の法則に従って現実のものとして現さなければならなかったのである。
聖徳太子は摂政に任じられ、国政全般を統轄なさりながら、『勝鬘経』を講じる際には「その姿は僧のようであった」というお姿を示された。また、大臣や多くの官人を率いて神々を祭り、国内では十七条憲法を初めて制定し、国外には「東の天皇、敬んで西の皇帝に申し上げる」という書を送った。こうして国体を明らかにし、国威を広く示されたことは、政治生活を宗教生活と結びつけたものなのである。
人が感覚し、心に像を描き、思考することは、初めから意志の過程として生まれてくる。この意志は、個人の意志と、その個人が一部分をなす全体の意志とが結びつくという、生命本来の性質によって、人生の法則に信頼して従い、宇宙の原理へと帰一するのである。
聖徳太子の生涯における悲劇的な運命と、文化創業の絢爛たる光彩との対照を、太子は政治的統治の力として発揮し、また宗教的な礼拝儀式の中に、行動の規律として示されたのである。この神秘的で霊妙な生涯を永遠に伝えるものが『三経義疏』である。それは、日本の国体の中に体系を明らかに示しながら生成・発展する日本精神の表現である。したがって、そのことは、日本精神を正しく表現する「敷島の道」の神であられる明治天皇が、御製の中で明らかに示されたところでもある。そして『三経義疏』は、御製を謹んで唱える準備として行う御製研究に用いるべき研究方法を適用してこそ、正しく研究できる。そのことを実際に示したものが、黒上正一郎兄の『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』なのである。
天皇の詔を畏み、それに従って生き、また死ぬ日本臣民の「臣道」の規律のもとで、精神科学的な研究方法と、文献文化史的な研究対象とを、騒音と狂乱の世界のただ中に高く掲げるものが、聖徳太子の事業についての文化史研究である。それは忠義を扱う心理学・論理学であり、国家生活を扱う物理学・心理学である。物理学が生活の形態を加速し、交通の範囲を拡大することで政治学に影響するという事実は、部分である物質が全体である精神に影響し、時代の変化が歴史の方向を定めるということである。しかし、部分を全体と置き換えることはできない。唯物論と個人主義は、物理学が政治学に影響するという事実は知っていても、政治学が物理学を指導すべきことを知らない。自然科学そのものは自然現象ではなく、人間精神の働きなのである。
日本は世界の一部分であり、宇宙の一部分でもある。しかし日本は、部分でありながら全体と結びつく「調べ」において、地上の現実国家であると同時に、天照大神が統治なさる高天原の理想国家でもあり、「日の本つ国」、すなわち日本なのである。そこで、宇宙の原理について地上で得られる局部的な概念認識を、直ちに、しかも正しく、直観的な関連の調べへと導く宇宙意志が、天皇の詔である。個々の人間の感情から「歌の調べ」が生まれることは、意識が統一されていく過程であり、国家が統一されていく過程でもある。そこにおいて個我は全体に従い、臣民は、畏れ多くも天皇に帰依し、臣下として服従するのである。
「天には神があり、地には天皇がある」と奏上した儀礼を、そのまま今日の日本が担う世界文化上の使命として実現しながら、非常時への覚悟を「国体を明らかにする」という決議へ結びつける。そして、国民が謹んで唱える経典として『明治天皇御集』を捧げ持ち、目に見えない神の心を、大御歌の尊い調べの中に現前するものとして仰ぐことを、宣言し、実行し、広めようとする。このことを知的教養の世界と教育機関に提言しようとするとき、『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』は、世界を舞台とし、宇宙を背景として創作・上演されつつある、世界文化を総合する劇曲の重要な一部分である。したがって本書は、総合文化の尽きることのない生命の表現であり、真の芸術であり、正義と勇気をもって公に尽くす道徳である。「義は山岳よりも重く、死は鴻毛よりも軽いと覚悟して」戦いに倒れ、すでにこの世を去った黒上正一郎兄の霊は、この著書の中で呼吸し、脈打ちながら、読み、歌い、また語り続けているのである。
1935年(昭和10年)6月19日
三井甲之
はしがき
私の研究は長年にわたり、「人生と表現」社の先輩である三井甲之、松本彦次郎、蓑田胸喜の三先生から指導を受けてきた。また、『三経義疏』の研究については、井上右近先生に研究の道を開いていただいた。井上先生が、国民としての信念に照らして聖徳太子御撰の義疏を読み、それを私たちに伝えられたことは、御製疏研究のための深く重要な機縁を与えるものであった。ここに井上先生の恩を思う。
なお、藤原猶雪先生からも、その専門的な立場から日頃より教えを受けている。
また、本論文で引用した片岡山の御歌については、志田義秀先生の論文「聖徳太子の御歌について」から多くを学んだ。その歌が作られた年代や、その他の事柄についての考証は、先生の論文の中で十分に尽くされているため、ここで余計な説明を付け加える必要はない。
私の研究は実に未熟なものである。そのため、聖徳太子に対しても、また師や友人から受けた恩に対しても、深く恥じ入るほかない。ここに諸先輩の名を記すことが適切かとも思うが、今後たびたび研究の過程を発表することもあるため、ここで一言述べておくことにした。
1930年(昭和5年)2月
著者
序説
東洋文化の伝統と理想を、現実の中で正しく保持しているものは、日本である。大乗仏教や儒教など、東アジア大陸を代表する文化は、その本国ではすでに衰退しているにもかかわらず、現に日本へ集まり帰着し、国民生活の体験の中へ溶け込み、その生命を持続させながら発展している。
日本文化とは、まさに東洋文化を総合したものである。それは西洋文化と対照され、互いに補い合うべき世界文化の重要な要素である。この文化を保持する日本国民は、さらに東洋と西洋の文化を融合させるという世界的使命を負っている。
日本が過去に、このような文化史上の偉業を成し遂げたことは、国民生活全体が生み出した成果であることは言うまでもない。しかし、国民文化が歴史の中で発展した背後には、優れた人物や天才による努力と指導があったことも顧みなければならない。
ここでいう優れた人物や天才とは、単なる英雄や著名人を意味するのではない。苦しみと混乱に満ちた人生の現実を深く見通し、すべての民がともに進むべき大道を身につけ、それを現実生活の複雑な関係と絶え間ない変化の中で実現した、総合的な指導精神の体現者をいうのである。
日本の国民生活は、外来文化との接触によって、前後二度の重大な転機を迎えた。最初は東洋文化を受け入れた推古朝であり、後には西洋文化を導入した明治時代である。この二つが、まさに国民生活の二大転機であった。そして国民は、この重大な時期に、そのような指導的人格を国民生活の中心である皇室に仰いだのである。
近代では、明治天皇の威光のもと、日本民族が、国内ではすべて等しく皇室の教化を受け、国外では世界文化の中に有力な地位を確立した。このことは、国民が等しく仰いでいるところである。その心をさらに過去へたどれば、推古朝に大陸文化を批判的に検討して総合し、日本国民を慈しみながら教え導いた聖徳太子を思うことになる。
聖徳太子は、日本の国民生活がかつて経験したことのない転換期に現れ、当時の大陸の思想と学術を広く学び、総合した。国民を教化する理想については大乗仏教を日本の生活へ融合し、現実国家の統治については儒家と法家の思想をも選び取った。しかし、それらを一つにまとめ、生きたものにしたのは、太子が日本の皇子として生まれ、国民を統治したことから得た信念と体験であった。
そのため、聖徳太子が『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の三経に自ら注釈を加えて残した上宮御製疏は、日本最初の個人的著作であるという外面的な観点だけから見るべき文献ではない。十七条憲法とともに、太子一代の信念によって大陸の宗教と学術を批判的に総合し、国民を永遠に教化する原理を明らかにした聖典なのである。
聖徳太子が行った内政改革や、日本の国際的地位の確立は、いずれも、これらの著作に示された大陸文化の批判的総合という内面的な事業を基調としていた。
山鹿素行は『中朝事実』礼儀章で、聖徳太子が隋の煬帝に送った「東の天皇が、謹んで西の皇帝に申し上げる」という国書について、「これはまさに太子の雄大な筆によるものである。その志と気概は広大で重厚であり、日本が中華、すなわち文明の中心である理由をよく理解しておられた」と論じている。
つまり山鹿素行は、聖徳太子が当時の中国と対等な外交を開始し、日本の威勢を海外へ示した事実を、太子が日本という国の本質をよく理解していた国民的信念に結びつけて考えたのである。太子一代の外面的な功績についても、それを生み出した内面的な自覚にまでさかのぼって意味を見定めた、この歴史的洞察は、今日、太子を思う者が深く顧みるべきものである。
聖徳太子は、皇室による教化を国民全体へ広く行き渡らせようとする御心のもと、「和を最も尊いものとする」という同胞協力の信念を具体化した。そして、「臣下たちが互いに信頼し合うなら、成し遂げられないことがあるだろうか。臣下たちに信頼がなければ、あらゆる事柄がことごとく失敗する」と述べた。
曇りのない真心によって国民が一致し、融合するとき、国家生活の生命はあらゆる波乱を乗り越えて発展できる。太子がそう示したことから、この国民的信念の内容を知ることができる。
さらに『三経義疏』の随所で、苦しみに耐えながら広く人々を救済すべきだという、大いなる慈悲に基づく教化の精神を説いた。平和と協力の信念によって、すべての人々を教え、成長させようとする広大な願いを示したのである。
聖徳太子は、政治制度を整えることによって国家生活の発展を確保しただけではない。それを支える精神的事業において、世界を指導する国民的信念を明らかにし、日本の永続的な基礎を確立した。太子は偉大な政治家であると同時に、すべての人々を永遠に導く教育的人格でもあった。千三百年にわたる日本文化発展の歴史は、この偉大な精神によって、その根本的な基礎を築かれたのである。
聖徳太子による三宝の興隆は、この国民的信念のもとで行われた、人々を教え導く大事業であった。そのため、日本の教化の歴史において、国民はしばしば太子を、真諦と俗諦の相互依存を体現した理想的な宗教者としてたたえてきた。
伝教大師は、大乗の真実の教えである天台法華宗を日本に盛んにしようとし、『維摩経』の「真理の世界と世俗の世界は別のものではない」という思想から聖徳太子を振り返り、大乗仏教による教化活動を典型的に実現した人物として仰いだ。
また親鸞は、「日本の教主である聖徳皇」として帰依し、日本宗教の開祖として太子を思った。その門流も長く、「王法によって仏法を広め、宗教的真理によって世俗の秩序を守る。真諦と俗諦の二つは、ともに成立する」といった言葉によって太子をたたえている。
これらはいずれも、日本の祖先が聖徳太子へ抱いた尊崇の心を表現するものである。ここでいう真諦と俗諦の相互依存について、真諦は宗教的真理を、俗諦は政治・経済生活を意味すると考えてよい。
つまり仏教は、聖徳太子によって、専門僧侶による特殊な教団生活だけのものではなくなった。政治活動の体験の中で生かされ、信仰思想と現実生活との一致と融合が実現された。祖先たちは、そのことをたたえたのである。
東アジアの諸国には、三宝の興隆に貢献した帝王が少なからず存在する。彼らは伝統的な教義を誠実に受け入れ、仏教教団を熱心に保護したであろう。しかし、その信仰と教理を自ら国家生活の体験へ融合し、その精神が長く一国の教化の方向を照らした例は、ほとんど見いだせない。教化と政治を真に一体化する精神原理は、彼らによっては示されなかったのである。
聖徳太子は日本文明の源流に立ち、自ら真諦と俗諦が支え合う模範を示した。大乗仏教を国民的信念へ統合し、政治的・道徳的活動を内容とする「人生宗教」を広く行き渡らせた。その大いなる御心は、国民が永く仰ぐべきものである。
こうして外来の宗教教義は、国民文化を発展させる要素として融合された。同時に、大陸仏教の理想そのものも、日本の現実の国土における道徳的活動の中に、生きて働くための故郷を見いだした。
東アジアの無数の人々の宗教心を代表する仏教が、その本国では衰退したにもかかわらず、日本で生命を発展させ、世界文化の中で長く意義を保ち続けている。それは、聖徳太子の偉大な精神によって仏教が統合され、太子の遺した教えが永く国民教化の方向を支配したためである。太子の信仰思想の中には、すでに日本が人類と世界に対して担う使命が現れていたのである。
私たちは、そのような精神の表現を、『三経義疏』の内容の中にはっきりと仰ぎ見る。『三経義疏』に示された思想と信仰は、すべて「すべての人々と苦しみや喜びをともにする」という言葉に表された、平等と大いなる慈悲に基づく教育精神へ帰着するのである。
国家生活が、制度や政策という外面的な形式だけへ向かうとき、それを支える内面的な生命の源を枯らすことになる。
聖徳太子は、一代の政治的事業の根底に、常に教化という大事業を伴わせた。国民を等しく永遠の生命の大道へ融合させ、信頼に基づく同胞の協力を実現しようと力を尽くした。その御心が、あらゆる政治的建設に生命を与えたのである。
儒家や法家の文献に表された中国民族の政治・道徳思想も、この精神によって批判され、統御された。そこに、何を選び、何を取り入れるかという内面的な規範が明らかにされた。
しかし聖徳太子は、この偉大な精神を実際に用いるにあたり、常に国家と時代の現状を見通していた。空虚な理想によって急激な改革を行うことはなかった。一方、内政と外交に残る古い弊害については、絶えず改革する原理を、大陸文化の批判と統一を成し遂げる国民的信念に求め、それを国家統治の現実の中で具体化した。
この現実的な政治制度に、国民の永遠の大道を貫かせた御心によって、その後の国民文化が発展するための土台が作られたのである。
とりわけ、国内外に多くの問題を抱えた生涯の中で、自ら『三経義疏』の執筆に心を尽くし、永遠に続く国民生活を思い、永遠の信仰に基づく教化の大願と、世界の中で日本が進むべき大道を示した。そして教育と教化によって国家と国民を長く守ろうとした。この事実は、改めて限りない御心を仰ぎ、思わせるものである。
聖徳太子は『三経義疏』のいずれにおいても、釈尊が経典の「流通分」を説き、聖なる教えを後世の人々へ伝えようとした精神を論じている。
『勝鬘経義疏』の序説では、次のように述べている。
大いなる聖者が慈悲を垂れ、法を説くのは、その当時の人々だけに利益を得させるためではない。遠く後世にまで及ぼし、すべての人に等しく福を得させるためである。そのため、最後に流通を説き、人々へ実践を勧めるのである。
また、『法華義疏』巻三の信解品では、釈尊が大乗の教えを理解できなくなった人々に対しても、なお大乗の法によって教え導いた理由について、次のように解釈している。
聖人が法を説くのは、その当時だけに利益を与えるためではない。遠い後世にも利益をもたらすためである。
これらの言葉はいずれも、聖徳太子のこの精神を表現していると考えることができる。
太子は国家事業の現実に力を尽くしながら、一時的な外面的功績だけにとどまることはなかった。国民生活が永遠に続くために、人々を教化し救済する内面的な建設へ力を尽くした。これこそが、『三経義疏』を著した内面的な動機であると仰ぐのである。
日本文化を創始する大任を成し遂げた聖徳太子の御心を、限りない後世へ伝える『三経義疏』の文章は、建国の神典である『古事記』とともに、国民文化の源を示す貴重な典籍として、今日とりわけ読誦し、研究されるべきである。
したがって、聖徳太子についての研究は、太子一代の功績や事実を調べるだけにとどまってはならない。その功績を生み出した信仰思想の内容へ深く入り、大陸の文明を選択し、日本の生活へ融合し、国民文化の基礎を確立した内面的な偉業の真相を究めなければならない。
それは、日本文明が世界の中で持つ意義を明らかにするとともに、東西文化が交流する中心にある現在の国民精神に、指導の光を与える重要な研究であると著者は考える。
すでに述べたとおり、『三経義疏』は、聖徳太子が国家統治の根本精神を明らかにした十七条憲法と表裏一体をなす。世界へ進み出る日本の国民生活を指導した精神を、永遠の後世へ残した聖典であり、仏教の教義だけを説明するための書物ではない。
したがって、その研究において、一般的な仏教の概念形式だけを基準として批判し、解釈することは、太子の御心を明らかにする方法ではない。表面的な概念だけを見れば、大陸仏教や儒教と同じように見える箇所があったとしても、その具体的な内容を表す言葉の繊細なつながりには、常に聖徳太子自身の痛切な体験が示されている。
そのため、聖徳太子の著作を研究する際には、語句の意味の分析や、論理だけを扱う研究に閉じこもってはならない。著述を行った内面的な動機を常に思い、国民として太子をたたえる心に基づいて、その言葉の心理的な内容を深く理解しなければならない。分析的研究と、外面的な功績の記述は、この観点によって統御されて初めて、意味と価値を持つのである。
精神科学の研究は、人生そのものを対象とする。そのため、冷静な学術研究も、研究者自身の体験によって統一されて初めて生命を得る。とりわけ、永く続く国民生活を照らす御心の表現を研究する場合には、研究そのものも、現実生活の中で太子を思う信仰を実現することを目的としなければならない。
その研究は、同じ信仰を持つ師や友の協力によって限りなく継承されるべきである。同時に、太子の御心によって導かれ、目を開かれた研究者自身による、信念の告白を内容とするべきであると著者は考える。
ただし、聖徳太子の出現は、日本の歴史的伝統と、民族固有の精神生活を基礎として考察しなければならない。太子が大陸思想を批判的に総合した精神を究めようとすることは、結局、『古事記』『日本書紀』『万葉集』の精神と表裏をなしながら現れる、民族的生命の発展を探究することになる。
『古事記』『日本書紀』の歌謡や神話に表現された民族精神が、世界文化と接触し、それを統御した歴史は、聖徳太子の信仰思想において、その輝かしい内容の源を見いだす。
したがって、上宮御製疏と十七条憲法の研究は、日本精神を総合的に表現した人物としての聖徳太子の精神を究めることになる。太子一代の著作内容は、常に『古事記』『日本書紀』『万葉集』の内容と、つながり照応するものとして考えるべきである。
序説附一 上宮王御撰の義疏の内容概観
一、『法華義疏』
聖徳太子が『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の三経に注釈を加え、生涯を通じた教化の精神を表現した『三経義疏』は、全体が一つに統一された著作である。『上宮聖徳法王帝説』では、これを「上宮御製疏七巻」と呼んでいる。
ここでは、それぞれの義疏の内容を概観して、互いのつながりを明らかにする。それとともに、聖徳太子が参考にした大陸の経典注釈書を示し、太子の信仰思想を述べるための材料とする。
『法華義疏』において、聖徳太子は『法華経』が説く「一乗の因果という大原理」、すなわち「あらゆる善は同じ一つの帰着点へ至ること」と、「仏の寿命は無限であること」という教義を取り入れた。
『法華経』以前の経典は、人々の性質や能力の違いに応じ、仮にさまざまな教えを説いていた。『法華経』は、それらを人々を導くための仮の教えであり、究極の教えではないとする。そして「法華一乗」において、仏がこの世に現れた本来の目的を明らかにする。
『法華経』に至って、すべての人は個性や知力に違いを持ちながらも、内心には真実の仏性を備えていることが示された。すべての人が、偉大な聖者である釈尊が体現したものと同じ、完全な悟りの心徳を成就できると明らかにし、あらゆる人が仏となる理想を説くのである。
したがって、人々が最終的に進むべき道は、身分の上下、貴賤、世俗の生活と出世間の修行など、あらゆる違いにかかわらず、同じ一つの仏道へ融合するほかにない。そこに「一乗」の大きな意味が明らかにされる。
「乗」には、人を運び出すという意味がある。人々を涅槃と悟りへの道へ運ぶものが教えであるため、それを「乗」と呼ぶ。しかし、人を真に仏の完全な悟りの境地へ到達させるものは、ただ一つの「仏乗」しかない。そのため、これを「一乗」というのである。
聖徳太子によれば、この一乗を実現するためには、人々が一つの心であらゆる善を実践することを根本としなければならない。人々の能力や地位に違いがあっても、その善はすべて、最高の徳を備えた仏の心へ通じる。太子はこれを「万善同帰」とした。
聖徳太子は『勝鬘経義疏』で、一乗の本体について、知的な理解と善のどちらを根本とし、どちらを枝葉とするべきかを論じている。当時の大陸の学説の多くが、知的理解を根本としたことを批判し、善を根本とすべきだと、次のように示した。
知的理解を「乗」とするならば、「乗」という名が及ぶ範囲は広くならない。これに対して善には、たとえ一度「南無」と唱えるだけの行いであっても、善ではないものはない。したがって、「乗」という名の及ぶ範囲は広くなる。
聖徳太子が、この広い道を取るべきだと示したことは、「万善同帰」の教義を受け入れた内面的な根拠を明らかにするものである。
知的理解とは、宗教的な大道を知性によって理解することである。その能力を持つ者だけが行えるものであり、人間が人格全体で道を身につける過程の一面にすぎない。
したがって、真実の大道が知的理解を根本的な内容とするならば、それは一部分に限られた狭い道となり、すべての人がともに進める広い道とはならない。聖徳太子は、そのことを示したのである。
これに対して、善、すなわち真実の信仰に基づく実践は、「南無仏」と一度唱えるところにも存在する。名もない普通の人の信仰と善行であっても、それが真実であれば、必ず最高の徳を備えた仏の心にかなう。私たちの日常生活も、そこで真実の善を実践するとき、そのまま永遠の仏の意志を具体化したものになると、太子は述べている。
仏の心を体現するただ一つの大道は、善を根本的な内容とすることで初めて、人生のあらゆる体験の中で生きて働く、真実の意味を持つのである。
聖徳太子が「万善同帰」の思想をこのような精神によって日本の生活へ融合したことは、国民生活に知力、財産、地位などの限りない違いが存在していても、人々は内面において同じ宗教的生命を共有しているということを示すものである。
人々は同じく、永遠の信仰に基づく道徳的実践の生活へ深く入り、ともに融合し協力しなければならない。太子は、そのための広大な道を照らし、平等な教化の原理を見通したのである。
『法華経』の前半は、『法華経』以前に、人々の性質や能力に応じて、声聞・縁覚・菩薩という三つの乗り物をそれぞれ別のものとして説き、修行方法も得られる悟りも別であるとした教えを、方便であると明らかにする。
そして、それらすべてが一つの仏乗へ入ることを示すのを主旨とし、そのことを、さまざまな方法や比喩によって説明している。
経典では、仏は人々の性質や能力に上・中・下の違いがあることに応じて、教えを直接説く方法、比喩を用いる方法、因縁を説明する方法など、それぞれ異なる教化方法を用い、同じ一仏乗への信念を人々の中に開かせる。
聖徳太子は、この点について繊細で体験的な解釈を加えた。また、仏があらゆる生きものを教え導く父となって、教化のために苦労したことを伝える譬喩品などについても、人間心理への深い洞察に基づく解釈を与え、そこに自らの教育精神を反映させている。
『法華経』の後半では、この一乗の道を完全に体現した釈尊の「寿命が無限であること」を明らかにする。同時に、すべての人も、この一乗を実践することを原因として、仏が到達した永遠の生命、すなわち唯一の仏果へ入ることができると説く。
さらに最後には、この一乗の優れた教えによって人々を救うため、大いなる慈悲を持ち、苦難に耐えながら教化活動を行う多くの菩薩を挙げ、人々を救済する模範を示すのである。
ここで「仏の寿命は無限である」ということは、現実に教えを説いた釈尊を、80歳で沙羅双樹のもとに入滅した、無常で有限な一人の人間だけとは見ないということである。
釈尊を、あらゆる徳の源である永遠の生命、すなわち常住する法身が現れたものとして仰ぐ。人々が実践するあらゆる善も、すべてこの仏果へ通じる。そのため、諸仏も人々も同じ一つの宗教的生命へ融合し、無常と混乱に満ちた世界に、永遠で最高の徳を備えた仏の心を現すに至ると説明するのである。
最後には、妙音菩薩、薬王菩薩、観世音菩薩などが、一乗の教えを後世へ伝えるため、苦労に耐えて人々を教化することが説かれている。こうした大道に基づく教化の模範について、聖徳太子は各章に切実で優れた解釈を加えている。
そこには、太子自身が国民生活の責任を負い、常に人々を平等に救うことを願いながら、教化の苦労にその身を尽くした信念と体験が、暗に示されている。
このように『法華義疏』は、国民教化を内側から支える普遍的な人生観と信仰を明らかにし、その立場から、人々の平等な協力を実現するための教育と教化の実践法則を示したのである。
聖徳太子の草稿本と伝えられる御物『法華義疏』の題名の下には、次のように記されている。
これは大倭国の上宮王が自ら編んだものであり、海の彼方から来た本ではない。
その内容から考えても、『法華義疏』は日本の皇太子自身の著作であり、海外から渡来した本ではない、独創的な価値を持つ作品であると著者は考える。
二、『勝鬘経義疏』
収録範囲:本文18〜24頁
本文25〜28頁は、利用中の1935年版画像およびOCRで原葉が欠落しているため、推測で補わず未収録とした。
『勝鬘経義疏』において、聖徳太子は、この経典の中心的内容である「正しい教えを受け入れ、守ること」「一体三宝」「如来蔵」などの教説を中心として、大乗仏教の根本哲理と信仰上の教義を取り入れた。
この経典は、インドのアヨーディヤー国王・友称の妃である勝鬘夫人が、父母である波斯匿王と末利夫人から、大乗の道へ入るよう勧める手紙を受けたことから始まる。勝鬘夫人は喜んでその教えを受け入れ、偈によって感激を使者に告白した。すると仏が空中に姿を現し、あまねく清らかな光を放った。勝鬘夫人と一族は、ともに仏の足に頭をつけて礼拝し、夫人が仏の真実の功徳をたたえる偈を説き始める。
その偈の中で、勝鬘夫人はひたすら、永遠に存在する真実の仏身をたたえる。聖徳太子はこの箇所について、釈尊への信仰とは、小乗の仏教徒のように、過去に存在した宗教的人格を敬い、その外面的な姿をまねようとすることではないと示した。
釈尊を、永遠に存在する法身が現れた教祖として仰がなければならない。釈尊を心に思うことによって、永遠で真実の生命へ帰依し、その生命を自分の内心に現すべきである。聖徳太子は、このような大乗仏教の信仰が持つ内面的な意味を明らかにしたのである。
聖徳太子は、真実の道徳生活は、この大乗的な信仰によって実現されるべきだと述べ、「善を行うことの根本的な意味は、帰依にある」と語っている。
一つ一つの善行も、真実の大道に基づく内心の信仰によって統一されて初めて、生命のある道徳的活動となるのである。このことは、『法華義疏』における「万善同帰」の思想を根底から支える信仰を示すものと考えてよい。
経典では、勝鬘夫人が仏の真実の功徳をたたえ終えると、さらに大乗の修行者が守る戒律である「十大受」を受けることが説かれる。聖徳太子は、これについて次のように述べる。
仏の真実をたたえ、永遠に存在するものへ帰ろうと願うのは、もともと善を実践するためである。また、帰依のあり方が以前とは異なるなら、戒律も以前のものから改めなければならない。したがって、今ここで大いなる戒を受けることは、以前の小乗の五戒とは異なるのである。
聖徳太子は、すでに大乗的な信仰を身につけたならば、自分個人の解脱を理想とする小乗の消極的道徳とは異なり、自ら実践すると同時に他者を救済する、大乗の道徳の実践規範を求めなければならないと説明する。そのために、この十の大戒が説かれるというのである。
聖徳太子は、この十の大戒を三種類に分ける。
初めに「摂律儀戒」があり、自分自身の実践を明らかにする。次に「摂衆生戒」があり、他者を教え導くことを明らかにする。さらに「摂善法戒」があり、他者を教化することは、単に悪を行わないという消極的な態度だけで終わってはならず、積極的に福と善を実践しなければならないことを明らかにする。
自ら実践することと、他者を教化することとの関係について、太子は次のように述べる。
他者を教化しようとするなら、必ず最初に自分自身を正しくしなければならない。そのため、まず自らの実践を受けるのである。〔これは摂律儀戒を指す。〕菩薩が自分自身を正しくするのは、人々を教化するためである。したがって、摂衆生戒がある。
自分の生命が常に他者との関係の中にあることを自覚し、自らを正すことによって他者の救済を成し遂げるところに、自ら実践することの意味がある。聖徳太子が、自行と化他に関する戒律が表裏一体となる理由をこのように明らかにしたところに、大乗の道徳思想を真に体験として生かした、太子一代の精神を仰ぎ見るのである。
経典では、勝鬘夫人が十大受を受け終えた後、さらに大きな願いを起こし、次の三大願を誓う。
この善の根をもって、あらゆる生において正法を知る智慧を得たい。
正法を知る智慧を得た後は、決して倦むことのない心で、人々のために説きたい。
私は正しい教えを受け入れ守るために、身体、生命、財産を捨ててでも正法を守りたい。
この三大願によって、自ら実践し、他者を教化するという理想を成し遂げようとするのである。さらに仏の許しを得て、この理想を実現する内面的原理である「摂受正法」の意味を説き、ここから経典の中心的内容へ入る。
聖徳太子によれば、「摂受正法」とは次のようなものである。
菩薩の第八地以上において、一つの心の中であらゆる修行を行う心を「摂受」という。その修行が理にかなっており、邪ではないため「正」といい、人々の規範となるため「法」という。
菩薩が一つの心の中にあらゆる善を収めるということは、すべての徳の源である「永遠に存在する法身」を、人格全体を統一する信念として体現することを意味する。
この内面的な基礎から、あらゆる徳のある行いが自然に現れる。その実践はすべて道理にかない、人々の生活を導く法則となる。
人々を真実の大道へ進ませる「正法」は、単なる形式上の真理ではない。人格全体を貫く信念として生きる内面的規範であり、あらゆる道徳的活動の源となるのである。
人々の精神を育てる教化の大事業は、あらゆる徳を一つの心に収めた、総合的な生命の体現者によって初めて可能になる。
聖徳太子は、この菩薩が「あらゆる人々を広く抱くことは、大海が限りなくすべてを受け入れるようなものである」と述べたと説明する。一つの心の中で人生全体の感情と意志を照らし、広く行き渡る慈悲によって人々を救済する。太子は、心と行動が一致した宗教的体験に、人生の内面的な進路を見いだしたのである。
義疏では、正しい教えを受け入れ守る菩薩を、菩薩の五十二の修行段階の中で、すでに等覚に近い第八地以上の位にある者とする。第七地以下の者は、まだこの境地へ達していないと見る。
この内面的な違いについて、太子は次のように述べる。
初地以上、第七地までの修行も、真に煩悩に汚されないものであるため、「正」と呼ぶべきであり、人々の規範となるため「法」と呼ぶべきである。しかし、一つの心の中にあらゆる修行を完全に備えて行うことはできず、また、それらを同時に観察することもまだできない。そのため、「摂受」という名を得ないのである。
第七地以下の修行であっても、すでに菩薩の地へ上れば、真に煩悩を離れ、その実践は正法にかなっている。しかし、一つの心の中にあらゆる修行を収め、信念と知的理解、自らの実践と他者の教化とを、人格全体で一つに融合して実現することは、まさに第八地以上において可能になるというのである。
したがって、菩薩の修行の中心である布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧、すなわち六波羅蜜も、一つの心にあらゆる徳を備える境地において初めて、互いに表裏一体となり、完全に実現される。
ここで「勝鬘は、現れた姿としては第七地にある」とされる。勝鬘夫人は、現実にはまだ第七地以前にあって、第八地以上の境地へ達してはいない。しかし、第八地以上の一つの心を念じて修行することにより、十大受や三大願に表された大乗の菩薩の実践と誓願を、実現すべき理想へ進めることができると明示するのである。
菩薩の心の中に、一つの心としてあらゆる徳が備わっているのは、真実の法身と、その具体的な人格とが一体であり、二つではない状態を実現したためである。義疏では次のように示される。
第八地以上の菩薩は、すでに法身そのものである。そのため、あらゆる実践と正法を心とし、心をあらゆる実践と正法とする。心と法とは一体であり、もはや二つの姿を持たない。したがって、あらゆる実践と正法は、そのまま心であり、心はそのまま、あらゆる実践と正法なのである。
この言葉は、以上の意味を支える内面的根拠を明らかにするものである。すなわち、永遠で真実の法身と、具体的な人格の内心との一致と相即を完全に実現した者が、第八地以上の菩薩なのである。
あらゆる徳の本体である「法身」を人格全体で体得し、人々の教化を成し遂げる「摂受正法」の心境は、すべての者が理想とすべきものである。
第七地以下にある、ガンジス川の砂ほど無数の願いも、すべて第八地以上の一つの心における願いの中へ収まる。同時に、三乗であるか五乗であるかを問わず、世俗の生活であるか出世間の修行であるかを問わず、そこで実践される善行は、すべて、この受け入れられた正法から現れ出る。なぜなら、法身の外に、さらに別の正法が存在するわけではないからである。
この摂受正法は、大乗仏教の究極である。三乗や五乗の教えには、ここへ帰入すること以外に別の道があるのではない。これは、すべての人が最終的に進むべき唯一の大道である。そのため、大乗は、最終的には一乗へ到達する。
経典の「摂受正法章」から「一乗章」へ至る文章の流れは、この意味を明らかにするものである。
この一乗を得ることは、法身を得ることである。法身を得ることは、最高の涅槃を悟ることである。
ここで帰依の対象となる「仏」も、単なる偉大な宗教者として信仰されるのではない。すべての人がともに帰着すべき、永遠に存在する法身を体現した人格であるため、すべての者を養い育てる父として敬い、帰依するのである。「法」もまた、この――
底本欠落――『勝鬘経義疏』後半
原本25〜28頁が欠落しているため、直前の文章は途中で切れています。
三、『維摩経義疏』
底本欠落――『維摩経義疏』
この節に当たる原本29〜33頁は、利用できる底本に収録されていません。
四、聖徳太子御撰の義疏が参照した書物について
底本欠落――本節冒頭
原本34頁が欠落しているため、以下は35頁の文章途中から始まります。
〔前頁からの続きであり、誰が亡くなったのかを示す主語は欠けている。〕……が亡くなった梁の武帝・大通6年は、聖徳太子の誕生から46年後であったとされる。
梁代の三大法師たちは、論書については『成実論』によって大乗仏教の奥深い意味を明らかにするものとして研究し、詳しく説明した。経典については、いわゆる五時の経典分類によって、大乗の『涅槃経』に重点を置いた。
しかし、とりわけ光宅寺法雲は、『法華経』が一乗の因果という大原理を明らかにする内容に、仏教最高の聖典としての意義を見いだした。その『法華義記』八巻は、その後、中国大陸における『法華経』を中心とする教学理論の発展に、非常に大きな影響を与えた。
『維摩経義疏』については、特に「本義」と呼ばれる基本注釈書は示されていない。しかし、中国における『維摩経』研究の源流となった僧肇の『注維摩詰経』を参考にした箇所は少なくない。
僧肇は、聖徳太子の誕生より約180年前の時代に生き、鳩摩羅什の門下における優れた人物として、三論の思想に通じた学者であった。
初めは老子・荘子の学問を最も重要なものと考え、深く傾倒していた。しかし、次のように考えた。
それは確かに美しい。しかし、精神を安住させ、暗い迷いの束縛を消し去る方法としては、まだ完全ではない。
そこで、旧訳の『維摩経』を読んで、自分が最終的に進むべき道を得て、それをきっかけに出家するに至った。
僧肇が深く精妙な思想によって『維摩経』を解釈し、その奥深い趣旨を明らかにした内容は、このような本人の体験の過程と切り離せない関係を持っているのである。
現存する『注維摩詰経』は、鳩摩羅什、道生、僧肇の三人の注釈を内容としている。しかし聖徳太子が、この三種の注釈をすべて参考にしたかどうかは、必ずしも明らかではない。
むしろ聖徳太子の義疏に現れる内容を見ると、主に僧肇の注釈を中心としていたように思われる。
ただし、太子の義疏より以前に書かれ、現存している慧遠の『維摩義記』や、太子と同時代における中国三論学の大家である吉蔵の『維摩経義疏』と比較すると、それらに現れた学説と同じ問題を、太子も研究したと思われる箇所が非常に多い。
これは『勝鬘経義疏』についても同様である。吉蔵は、『勝鬘経宝窟』の著述について、次のように述べている。
私はこの経典を繰り返し深く味わい、長年にわたって研究を重ねた。古今の説を拾い集め、さまざまな経典と論書を調べ、その奥深い文章と意味を選び、三巻にまとめた。
『勝鬘経義疏』には、「本義にはこのようにいう」として挙げられた学説がある。凝然は、それが光宅寺法雲の解釈を指すと見ているが、もちろん確実な証拠があるわけではない。
当時の中国大陸でも、法華・勝鬘・維摩の三経についての研究と注釈は非常に盛んであった。
聖徳太子の義疏にも、「ある人はこのように解釈している」「解釈には多くの種類がある」「新しい説ではこのようにいう」「古い説ではこのようにいう」、また「中公はこのように解釈している」「法空法師の解釈を述べよう」などの表現がある。
このことから、聖徳太子が当時の多くの学説を広く学び、総合した痕跡を十分に読み取ることができる。
聖徳太子は、大乗仏教を代表する経典を中心として、その根本的な哲理と、それについて当時の中国大陸で説かれていた学説・理論とを統合した。
したがって、大陸の経典注釈書と太子の義疏とを比較研究することによって、それらに向けられた太子の批判的精神を知ることができる。同じ学説であっても、太子がそれを選び取り、受け入れた際の精神的内容がどのように異なっていたのかも、明確にすることができる。
また、聖徳太子より少し後の時代に作られた中国大陸の経典注釈書は、直接の比較対象とするには必ずしも適切ではない。しかし、たとえば天台大師の『維摩経略疏』のような書物であっても、比較することで聖徳太子の思想の特質を知る上で意味を持つ場合が少なくない。
上宮御製疏は、聖徳太子が摂政である皇子として国民生活の運命を担った信念と体験に基づき、国民教化の根本精神を明らかにしたものである。
外来の学問と教義は、そこで批判され、統御され、新しい内面的生命を表現するための材料となった。
義疏では、大陸の注釈書の説について、しばしば次のような言葉を用いて、批判し、取捨選択している。
今はこの説を用いる必要がない。
私の解釈は少し異なる。
私の考えでは納得できないためである。
愚かな私の心では理解が及ばないためである。
それだけではない。義疏全体の表現には、中国大陸のさまざまな経典注釈書では見いだしにくい思想上の特質がある。
これは、日本文化を創始するという大任を成し遂げた聖徳太子の、偉大な精神の威厳を示すものである。
日本精神が外来文化に対して、それを統一する力を初めて輝かしく示したものこそ、まさに聖徳太子の『三経義疏』の内容なのである。
序説附二 聖徳太子の体験過程
聖徳太子は、日本文化が夜明けを迎えようとする時代に誕生した。国家を取り巻く状況から見ても、個人的な家庭環境から見ても、動乱と苦痛に満ちた時代に育ったのである。
太子が幼少の日々を送った橘の宮は、前方に飛鳥川の流れを隔てて香具山と耳成山を望み、近くには建国創業の旧地である畝傍山を眺める、大和盆地の中心にあった。
太子はこの宮で、朝夕、神々と祖先にまつわる古い物語を聞き、同時に、目前に迫る時代の変化を痛感したのであろう。日本文化を新しく創始するという自覚は、自然にその心の中へ芽生えたのだと考えられる。
『上宮聖徳法王帝説』は、太子が上宮王と呼ばれた理由を、次のように記している。
池辺天皇、すなわち用明天皇は、その皇子である聖徳王を非常に愛し、宮の南にある上大殿へ住まわせた。そのため、上宮王と呼ばれた。
この記録からも、太子が父・用明天皇から深い愛情を受けて育った幼少期を思うことができる。
しかし、太子を取り巻く境遇は決して幸福なものではなかった。太子は15歳で父帝の死に遭ったのである。
用明天皇は重い病の床で、炊屋姫皇后、後の推古天皇と、聖徳太子に対して、次のように述べたとされる。
私は、この重い病が平癒することを願う。そのため、寺を造り、薬師如来像を造ってお仕えしたい。
また、渡来人であった司馬達等の子・多須奈も、次のように誓った。
私は天皇のために出家して仏道を修め、さらに丈六の仏像と寺を造りたい。
用明天皇は、その申し出を聞いて深く感動したという。このように、用明天皇は厳粛で悲痛な宗教的雰囲気の中で亡くなったのである。
『日本書紀』は用明天皇について、「仏法を信じ、神道を尊んだ」と伝えている。太子が父から受け継いだ、生まれつきの宗教心は、家庭から受けた感化と、父の死をはじめとする悲痛な出来事によって、さらに深められたものと考えられる。
太子は早くから、日本固有の神道と仏教信仰の双方を身につけた。文化が急速に進む時代に育ち、大陸から伝来した思想と学問に触れ、人生が無常で苦痛に満ちることへ目覚めた。その心は、あらゆるものを広く総合する内面的な過程を進んだのである。
しかし、時代の変化はその間にも止まらなかった。
欽明天皇の朝廷へ、百済の聖明王が仏像と経典を献上したのは、太子の誕生より20年ほど前であった。それから用明天皇の死までの間にも、たびたび流行した疫病が仏像礼拝と関連づけて論じられた。そこには、当時の人々の心の動揺が表れている。
当時、仏教を受け入れるかどうかは、国民の精神生活が今後どの方向へ進むかに関わる重大問題であった。
欽明天皇が群臣に意見を尋ねたところ、物部大連と中臣連鎌子は、次のように奏上した。
わが国で代々天下を治めてきた者は、常に天地・国家の神々、数多くの神々を、春夏秋冬に祭ることを務めとしてきました。今、それを改めて外国の神を拝むならば、わが国の神々の怒りを招くのではないかと恐れます。
一方、蘇我大臣稲目宿禰は、次のように答えた。
西方の諸国では、すべてが仏を礼拝しています。豊かな日本だけが、どうしてこれに背くことができるでしょうか。
このように、賛成と反対のどちらにも決まらなかったと『日本書紀』は伝える。
物部氏の一派は、日本固有の神道信仰を守り、外国の宗教を入れるべきではないと主張した。それに対して蘇我氏の一派は、仏教が当時の世界的な信仰である以上、日本も受け入れるべきだと主張したのである。
百済が仏像と経典を献上した際の文書では、仏法の功徳が次のようにたたえられていた。
この教えは、あらゆる教えの中で最も優れている。理解することも、そこへ入ることも難しい。周公や孔子でさえ知ることができなかった。この教えは限りない福徳と善い報いを生み、ついには最高の悟りを完成させることができる。
それは、願うままに宝を取り出せる宝珠を持つ人が、必要に応じて望むものを得るようなものである。この優れた教えの宝も同じであり、願いに応じて不足するものはない。
遠くインドから朝鮮三国に至るまで、この教えを受け入れ、敬わない者はいない。そのため百済王・聖明は、謹んで家臣を遣わし、日本の帝国へ伝え、畿内に広めようとする。これは仏が説いた、「わが教えは東へ流れる」という言葉を実現するものである。
この文書は、仏法を周公や孔子にも理解できなかった深遠な教えとし、政治や道徳の技術を超えた宗教的真理を明らかにするものだと述べている。また、インドから朝鮮半島に至るまで受け入れられている、世界的信仰であることを強調している。
仏教は、当時の世界宗教として、人類に普遍的な問題である、生と死の苦しみからの解放を内容としていた。また、その信仰対象には仏を中心として、多くの外国の神聖な存在が含まれていた。
当時の人々が、その教義の内容を十分に理解していなかったとしても、日本の神々と外国の神々、民族固有の信仰と世界宗教、日本人が歴史の中で経験してきた生活と、複雑な哲学的教義とを、どのように関係づけるかは、将来の国民精神の進路に大きな影響を与える問題であった。日本は、仏教をどのような態度で受け入れるかを決めなければならない時期を迎えていたのである。
用明天皇の死に際しては、すでに豊国法師が宮中へ招かれていた。仏教は宮廷を中心として、日本で教えを広める基礎を得ようとしていた。
物部氏と蘇我氏の争いで蘇我氏が勝利すると、日本最初の官立寺院とされる法興寺の建設が始まり、大陸文化伝来の夜明けが大和盆地に形を現そうとしていた。
聖徳太子は、この時代に皇室へ生まれた。仏教を中心とする大陸文化のさまざまな要素を統御し、国民が永遠に進むべき方向を照らす使命を負いながら、波乱の多い環境で育ったのである。
しかし、宗教や思想の問題と表裏一体となって、時代の動乱の中心にあったのは、政治における大氏族間の対立であった。
当時の日本の社会組織の基礎が、氏族制度であったことは言うまでもない。皇室を中心として、官職や家業を代々受け継ぎ、土地と人民を所有する各氏族が、互いに支え合って国家を形づくっていた。
氏族はもともと血縁を基礎として成立した。皇室を本家として仰ぎ、各氏族の長である「氏の上」が直接朝廷へ仕えることによって、統一された国家生活を営んできた。
ところが人口の増加と文化の発展によって、氏族は多くの分家へ分かれ、氏族同士の関係も複雑になった。
大小の氏族が各地に分立し、有力な大氏族はほかの土地と人民を取り込んだ。そのため、皇室が直接支配する土地は少なくなり、皇室の教化が国土全体へ広がることを妨げる状態が生じた。それは国家の発展に重大な障害を与えたのである。
人々の間には、大氏族の存在は見えても、国家全体が見えない傾向が生まれた。特に大氏族の間では、政治権力を奪い合う争いが起きた。国内政治の混乱は、対外的な力の衰退と表裏一体となり、氏族制度の長年の弊害は極限へ達しようとしていた。
この傾向は、物部氏と蘇我氏の対立として現れ、皇位継承問題と結びついて、具体的な政治闘争となった。
敏達天皇の死後、用明天皇が即位した。しかし、先帝の異母弟である穴穂部皇子は、ひそかに皇位を望んでいた。物部守屋は皇子を支持し、用明天皇元年、先帝の寵臣であった三輪逆の無礼を口実として、軍勢で皇居を包囲した。
用明天皇は在位わずか2年で亡くなった。物部氏の一派は、さらに狩猟を口実として兵を挙げようとした。
そこで蘇我馬子は、敏達天皇の皇后であった炊屋姫、後の推古天皇の命を受け、物部氏を討つ軍を起こした。内戦の惨禍による暗雲が大和の天地を覆ったが、最終的には蘇我氏が勝利し、穴穂部皇子は非業の死を遂げた。
聖徳太子が、炊屋姫皇后側の皇族の一人として軍へ加わり、四天王へ祈願して、勝利すれば寺と塔を建立すると誓ったという伝承は、この戦いに関するものである。
こうして時代は蘇我氏が権力を独占する時期へ移った。その間に崇峻天皇が即位した。
有力氏族の横暴は、おそらく天皇の心にかなわなかったのであろう。小さな事件から蘇我馬子との関係が悪化し、馬子は東漢直駒に天皇を殺害させるという大罪を実行させた。これは古今に例のない惨事であった。
政争が残した弊害、有力氏族の横暴、それを中心とする国内政治の混乱は、ついにここまで達した。
欽明天皇以来の懸案であった任那日本府の再興問題も解決されず、国内には不安、国外には脅威を抱える時代となったのである。
穴穂部皇子と崇峻天皇は、ともに太子の母・間人皇后の兄弟であった。父帝を失った太子の家庭は、相次ぐ惨事のため、暗く苦しい年月を送ったことだろう。
若く聡明な太子が、このような状況の中で国家の情勢を見たとき、その心がどのようなものであったかは、想像するに難くない。
当時の外交問題の中心であった任那日本府の再興は、欽明天皇以来、歴代天皇が遺言として残した課題であった。
任那は朝鮮半島南端に位置し、大伽羅とも呼ばれた。本書の著者は、崇神天皇の時代から日本に属し、神功皇后の三韓征討後に日本府が設置されたと考えている。
任那は朝鮮半島における日本の勢力の中心地帯となり、日本府は新羅を抑えるためにも重要な拠点であった。
ところが継体天皇の時代、百済は任那周辺の四県を与えてほしいと求めた。任那国守の穂積臣押山は、これを認めるべきだと奏上し、大連・大伴金村の賛成によって、最終的に四県が百済へ与えられた。
著者は、任那の土地は本来新羅の一部であり、それを百済へ与えれば、新羅の恨みを招くのは明らかだったと述べる。それにもかかわらず、この政策が行われたのは、大伴金村と穂積臣が百済から賄賂を受け取ったためだと伝えられているという。
この決定を百済の使者へ伝える任務を命じられた物部麁鹿火は、そのような使者になれば、多くの人々から非難を受けるという妻の強い忠告によって、任務を辞退したとされる。この話も当時の政治状況を示すものである。
これ以後、朝廷には新羅を支持する勢力と、百済を支持する勢力が対立するようになった。新羅は任那へ侵攻し、朝廷は対策に苦しみ、回復を試みて何度も困難に直面した。
国内では群臣の一致した協力がなく、朝鮮半島にいた諸将も日本の朝廷の方針に従わなかった。そのため、欽明天皇23年、任那日本府は完全に滅亡した。
欽明天皇は紀男麻呂を大将軍として新羅征討軍を起こしたが、この軍も敗れた。任那再興を最後の遺詔として天皇は亡くなった。
その後、歴代の天皇が回復を願ったが、80年間達成されなかった。崇峻天皇も、巨勢比良夫以下2万人の軍を筑紫へ送り交渉させている最中に暗殺され、問題は聖徳太子が摂政となった時代へ持ち越されたのである。
この頃、中国大陸でも情勢が一変した。隋の文帝が陳を滅ぼし、約400年にわたり分裂していた中国を統一した。
日本は国内外に大きな問題を抱えていた。中国本土との交通は、従来、渡来人を通じて行われていた。外交文書についても、日本政府が十分に理解できず、中国側が日本を属国と見なすような事実もあったと、多くの歴史家が伝えている。
崇峻天皇の死後、険悪な雰囲気の中で炊屋姫が推古天皇として即位した。同時に、聖徳太子は20歳で摂政へ任じられた。その若い身で、国家生活の苦難に満ちた運命を背負い、国民を導いたのである。
この時、四天王寺が摂津国荒陵の地に建立された。
『日本書紀』が伝える、聖徳太子が摂政となってから10年余りの事績の多くは、歴代天皇が深い悲しみの中で遺した任那再興の命令に関係している。
推古天皇3年には、前の時代に筑紫へ派遣されていた2万人余りの軍を、一度都へ呼び戻した。5年には吉士磐金を新羅へ派遣したとの記事があるが、その間の事情は『日本書紀』では明らかでない。
8年、新羅が再び任那を攻撃したため、境部臣を大将軍とし、1万人余りの軍勢で新羅を討たせた。
新羅は多多羅以下の六城を割譲して服従し、新羅と任那の両国は貢ぎ物を献上し、次のように誓ったとされる。
天には神があり、地には天皇がいる。この二つの神聖な存在のほかに、何を恐れる必要があるだろうか。今後は互いに攻撃しない。また、船の舵が乾く間もないほど、毎年必ず朝廷へ参上する。
朝廷は一度、将軍を日本へ帰還させた。
しかし日本軍が引き揚げると、新羅は再び任那へ侵攻した。そこで使者を百済と高句麗へ派遣し、任那を救援するよう命じた。
推古天皇10年、太子の弟である来目皇子を将軍とし、大軍を派遣する計画が進められた。
しかし来目皇子は筑紫で病み、翌11年2月に亡くなった。そこで、来目皇子の兄である当麻皇子が新羅征討将軍へ任じられた。
当麻皇子は難波から出航し、播磨へ到着した。しかし、同行していた妻の舎人姫王が赤石で亡くなり、赤石の檜笠岡へ葬られた。そのため当麻皇子は帰還し、征討は実行されなかった。
これ以後の新羅との関係について、『日本書紀』は明確に伝えていない。
著者は、新羅がこの間に日本の国威を見て服従した可能性があり、その後に新羅・任那・高句麗が朝貢した事実も伝えられていると述べる。日本の国威を朝鮮三国へ示したことは、歴代天皇の遺詔へ応えるものであったというのである。
聖徳太子は、国内外に多くの問題がある中で、国家の事業へ苦労を捧げた。それと同時に、朝鮮半島から来日した高徳の僧を師として、当時の大陸の思想と学問を研究し、国家生活を内側から支える思想と教化の事業へ努力した。
『日本書紀』は、次のように伝える。
太子は、仏教を高句麗僧・慧慈から学び、仏教以外の学問を博士・覚哿から学び、すべてに通じた。
また『上宮聖徳法王帝説』は、太子の学問について次のように記している。
上宮王の師は高句麗の慧慈法師である。王は、涅槃が永遠であることと、五種類の仏性の理を理解した。『法華経』に説かれる三つの車の方便と真実、二種の智慧の意味を明らかにし、『維摩経』の不可思議解脱の教えに通じた。さらに経量部と説一切有部の二派の違いを知り、老子・荘子・易の三玄と、儒教の五経の意味を理解し、天文と地理の道にも通じていた。そこで『法華経』などの注釈七巻を著し、「上宮御製疏」と名づけた。
この記録は、聖徳太子が、当時の大陸で発達していた大乗仏教の哲学と教義を中心に、小乗仏教の教理をも明らかにし、老子・荘子・儒教などの中国思想にも通じ、宗教・道徳・政治・哲学の各分野にわたって、当時の大陸文化のさまざまな要素を研究したことを示している。
聖徳太子による国民文化建設の国家事業は、太子自身が大陸文化を批判的に統合し、日本が世界の中で持つ生命を具体化した内面的な力を基礎としていた。
それを示すものが、『三経義疏』と十七条憲法の著述であることは言うまでもない。
太子は国内では、党派の利益と政治権力へ執着する多くの群臣を統率し、渡来人の悪知恵を制御した。国外では朝鮮三国と中国に対し、日本の対外的地位を確立しようとした。
同時に、外来文化を取り入れることによって国民生活の発展を促進し、波乱と動揺の中で、国と民のためにその身を捧げ尽くしたのである。
新羅征討の計画が終わると、国内文化を充実させる事業はさらに進展した。
推古天皇12年、太子は十七条憲法を制定し、当時の氏族制度が積み重ねてきた弊害に対して、日本本来の国家精神に基づく改革と指導の原理を示した。その立場から、当時の弊害に対する、時宜にかなった厳しい訓戒を下したのである。
憲法第一条に、「和を最も尊いものとし、争わないことを根本とせよ」と示したのは、国家統治の根本精神が、上の者と下の者の融合、国民の協力にあることを述べたものである。
任那日本府滅亡を中心とする、対外的な国威の低下も、長い年月にわたる国内政治の混乱も、氏族や党派が個人や集団の利益へ執着し、国家全体の協力を目指さなかった個人主義的な思想から生じたと著者は考える。
太子は、憲法第十条の「人はみな凡夫である」という深い人生観によって、その心理を見抜いた。そして、人々を同胞として協力させる精神原理を示したものが、十七条憲法における「和」の思想であった。
聖徳太子にとって、上の者と下の者が和睦するという思想は、常に皇室のもとで、すべての民が一体となる国家精神に基づいていた。
憲法第十二条では、次のように述べる。
国司や国造は、人民から勝手に税を取り立ててはならない。国に二人の君主はなく、民に二人の主はない。国土に住むすべての民は、天皇を主とする。任命された官人は、すべて天皇の臣下である。どうして公の税とは別に、人民から税を取り立てることができようか。
この言葉によって、国民はすべて等しく天皇の臣民であることを明らかにし、有力氏族が私有していた土地と人民を朝廷へ帰属させるべきだと示した。
王権による統一の根本精神を明らかにするとともに、後の大化改新が実現される土台を作ったのである。
太子はこの精神に基づいて、当時の氏族制度の弊害を絶えず改革するために苦労した。制度や政策という外面的な仕組みだけにとどまらず、それを統一して生命あるものにする、人間の問題を重視した。
憲法第七条には、次のように示されている。
仕事に大小はない。適切な人を得れば、必ず治まる。時代が緊急であるか平穏であるかにかかわらず、賢い人を得れば、物事は自然に余裕を持って行われる。これによって国家は永続し、国家の基礎が危うくなることはない。昔の聖王は、官職のために人を求めたのであって、特定の人のために官職を作ったのではない。
政治の根本は、人の心を治めることであるというのが、常に太子の精神であった。
憲法第十五条の「私心に背き、公のために進むことが臣下の道である」という言葉も、自己を捨てて公へ仕える真心ある人格によって初めて、真実の統治が行われることを示す。
また、第七条が政治の重要点を、聖人や賢者を得ることに置くのも、同じ精神の表れである。
ここに、政治生活の根底へ国民教化の事業を伴わせた聖徳太子の心を見ることができる。
推古天皇11年には、冠位十二階が制定された。大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の十二階である。
それまでの氏族制度では、国家統治の重い責任を担う官職も世襲されていた。これに対し、朝廷が個人へ直接授ける冠位によって地位を示す制度を作った。
これは人材登用制度の先駆けとなり、政治の刷新と文化の発展を促進しようとするものであった。
この制度へ精神を与えたものが、先に引用した憲法第七条の内容である。
十七条憲法はさらに、上下の秩序と、公私の関係を示した。また、当時の具体的な弊害について、法や政治の不正、人民を労役へ使う問題などを扱い、政治の公平さと民力の発達を目指す多くの訓戒を含んでいた。
その全体を貫く思想は、皇室を中心とする国民協力の精神を国家組織の中へ実現し、社会全体の生活を発展させる基礎を確立することにあった。
太子は自らこの精神を実現し、「菩薩は苦しみに耐えて人々を救う」と述べ、国民救済のためあらゆる苦労に耐え、生涯を捧げたのである。
また、推古天皇10年、百済の僧・観勒が来日して暦の書を献上した。一般には、12年から暦日を用いるようになったといわれる。
しかし著者は、この暦法の制定は、単に暦を使い始めたという意味にとどまらず、上古から推古天皇までの年代を確定する作業にもつながったと考える。
推古天皇28年、太子が蘇我馬子と相談して、天皇記、国記、臣・連・伴造・国造・百八十部と公民などの系譜や記録を編集する、国史編纂の大事業を始めた。その準備ともなったと推定するのである。
また宮廷の礼法を正し、次のように命じた。
宮門を出入りするときは、両手を地につけ、両膝をつく。門の敷居を越えた後に立って歩く。
こうして上下の秩序を正したのも、十七条憲法を制定した年であった。
聖徳太子は、この国民的信念に立って国家組織を統一した。皇室のもとで国民全体を融合し、一致させ、大陸文化を日本の生活へ取り入れ、当時の世界の中で自立する日本を建設しようとしたのである。
推古天皇15年7月、小野妹子を隋へ派遣し、中国大陸の文化を直接取り入れる機会を開いたことも、この精神に基づいていた。
従来、渡来人に依存していた外交の弊害を改め、皇室の系統につながる名家である小野氏から使者を選び、鞍作福利を通訳として同行させた。
『隋書』倭国伝は、日本の使者について次のように記している。
大業3年、倭王・多利思比孤が使者を送って朝貢した。使者は、「海の西にいる菩薩のような天子が、仏法を再び盛んにしていると聞きました。そのため使者を派遣して礼拝させ、あわせて僧侶数十人を送り、仏法を学ばせます」と述べた。
この記録は、使節派遣の動機が仏法の学習にあったと伝える。聖徳太子は、それを機会として当時の大陸文明を導入しようとしたのである。
さらに『隋書』は、次の有名な国書を記録している。
日の昇るところの天子が、日の沈むところの天子へ書を送る。ご無事であるか。
隋の煬帝はこの書を見て喜ばず、「蛮夷からの書に無礼なものがある。今後は報告するな」と命じたという。
著者は、この国書によって、日本が独立国家としての威厳を中国大陸へ明らかにしたと評価する。
翌年4月、小野妹子が帰国すると、隋は裴世清と12人の随員を日本へ派遣した。
著者は、これは日本の国情を調べるとともに、その後の外交関係について、両国の理解を得ようとする動機によるものだと考える。
裴世清らは、日本側の盛大な歓迎を受けて到着し、8月に都へ入り、隋の国書を提出した。
その内容は、次のようなものであった。
皇帝から倭の君主へ申し上げる。使者である長吏・大礼蘇因高らが到着し、詳しく心情を述べた。
私は天命を受け、天下を治めている。徳による教化を広め、あらゆる生きものへ及ぼしたいと考えている。慈しみ育てる心に、遠近の隔てはない。
あなたが海の彼方にあって民を安らかに治め、国内が平穏で、風俗が調和し、深い誠意をもって遠くから朝貢していることを知った。その真心を立派に思う。
次第に暖かくなってきたが、この頃は変わりないだろうか。そのため、鴻臚寺掌客の裴世清らを遣わし、私の意向を伝えさせ、別記のとおり品物を送る。
裴世清が帰国する際、日本は再び小野妹子を大使、吉士雄成を副使とし、鞍作福利を通訳として隋へ派遣した。
さらに学生として、倭漢直福因、奈羅訳語恵明、高向漢人玄理、新漢人大国の4人を同行させた。学問僧としては、新漢人日文、南淵漢人請安、志賀漢人慧隠、新漢人広済の4人を送った。
このとき、隋の皇帝へ渡した日本の国書は、『日本書紀』に次のように記されている。
東の天皇が、謹んで西の皇帝に申し上げる。使者である鴻臚寺掌客・裴世清らが到着し、長く抱いていた思いが、ようやく解けた。秋も深まり、少し寒くなったが、ご様子はいかがであろうか。穏やかにお過ごしのことと思う。こちらは変わりない。今、大礼蘇因高、大礼乎那利らを派遣する。謹んで申し上げる。詳しくは記さない。
著者は、「東の天皇が、謹んで西の皇帝に申し上げる」と、直接対等な言葉で中国へ国書を送ったことは、日本外交史に新しい時代を開き、独立国家の精神を海外へ明らかにしたものだと評価する。
しかし、その背後には、常に十七条憲法に示された国民的信念と、それに基づいて国内文化を充実させるための献身的な苦労が存在したことを考えなければならない。
特に太子は、憲法第九条で次のように述べている。
信頼は正義の根本である。あらゆる事柄に信頼がなければならない。善悪や成功・失敗は、必ず信頼によって決まる。群臣が互いに信頼すれば、成就しないことがあるだろうか。群臣に信頼がなければ、あらゆる事柄が失敗する。
外面的な制度や形式だけには頼れない、果てしなく変化する人生を深く見通し、上の者と下の者、同胞同士が融合する信念によって外界の苦難を制御したとき、国民生活は力を持つことができる。
この内面的な生命の威厳を体現した聖徳太子の心によってこそ、国内の人心の統一と、対外的な力の発揮が実現したと著者は述べる。
太子が派遣した留学生たちは、中国でその制度や文化を深く研究し、太子の死後に帰国して、大化改新の大事業を補佐した。
聖徳太子は、まず留学生たちに中国本土の学問と政治を研究させた。その成果によって、国内では国民教化を充実させ、内政と外交を刷新し、国民としての自覚と政治の現実とを一致させようとした。
その基礎に立ち、留学生が持ち帰る研究成果を選択して日本文化へ取り込み、氏族制度の長年の弊害に対しても、徹底的な改革を実現しようとした。
太子一代の事業の発展を振り返り、さらに十七条憲法と『三経義疏』の内容を考えれば、この内面的な過程を理解することができる。
太子は、一時的で外面的な成果を求めたのではなかった。常に国家の現状と将来を見通し、国民生活が本当に発展するための内面的な建設へ力を尽くした。
その生涯が、苦痛と忍耐の連続であったことが思われる。
『三経義疏』は、菩薩が自分の名誉や利益へ執着せず、ただ人々のために苦労を尽くすことを繰り返し示している。
聖徳太子にとって、それはまさに、自身の生涯の体験を告白したものだったのである。
遣隋使を派遣した推古天皇15年、太子は同時に、祖先と神々を敬うよう命じる詔を発し、群臣を率いて神々を祭った。
外国文化を積極的に取り入れる時代であっても、日本固有の歴史的信仰が、永遠に貫かれなければならないことを明らかにしたのである。
太子が一代の政治において、制度や政策という外形よりも、それらを統御する国民的信念の実現へ基礎を置いた精神は、内政・外交と表裏一体となって、三宝の興隆へ力を尽くすことにも現れた。
常に教育と教化によって、国家と人民を守ろうとしたのである。
十七条憲法第二条で、「三宝を篤く敬え」と述べたのは、単に外国宗教である仏教への帰依を勧めたのではない。
三宝を「すべての生きものが最終的に帰着するもの、あらゆる国にとって最高の教え」とし、国内にも国外にも反しない真実の信念によって、個人の執着による弊害を正そうとした。
その信念によって、人々が調和し協力する現実生活を導き、上は皇室に仕え、下は国民を育てる大道を実現しようとしたのである。
このことが、十七条憲法の第一条、第二条、第三条が互いに関係する内容である。
太子は第二条で、「極端に悪い人は少ない。よく教えれば、その教えに従う」と述べ、日本の国民が持つ精神的可能性を信じ、その内面的な救済を願った。
太子一代の寺院や仏塔の建立、宮中での経典講義も、この精神から切り離して理解するべきではない。
太子が生涯に建立した寺院の数は比較的多くない。また、どの寺を太子の建立とするかには多くの異説があり、すべてを明確にすることはできない。
『上宮聖徳法王帝説』は、「太子は七寺を建立した」として、四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂丘寺、池後寺、葛木寺を挙げている。
寺や塔の建設は、単に外面的な功徳を崇拝するためではなかった。
四天王寺は、対外関係上の必要から、当時の外交の入口であった難波に建設されたともいう。
またその施設には、仏道修行を行う敬田院を中心として、病人を治療する療病院、薬を施す施薬院、貧しい人や孤児を救済する悲田院が置かれた。宗教教化の道場であると同時に、社会救済の事業を行う場所だったのである。
法隆寺は学問寺として、毎年『法華経』などの三経を講義し、仏教を学ぶ子弟を育てた。各寺院へ、それぞれ実質的な意味を持たせたのである。
同時に太子は、寺院と仏塔の建設を中心として、信仰に基づく文化と芸術の振興へ力を尽くした。
法隆寺のように、永遠に国土を荘厳し、人々へ精神的な感化を与える偉大な建築が現れたのは、太子の指導精神に基づくものだと著者は考える。
仏像彫刻でも、鞍作鳥を中心とする仏師の一派をはじめ、優れた作品が残された。
彼らは渡来系の人々であったが、日本の朝廷へ仕え、大和の自然に親しみ、特に太子の指導のもとで芸術制作へ励んだ。
その形式は、朝鮮半島を経て中国南北朝の様式を伝えたものであった。しかし、法隆寺本尊、薬師如来、夢殿観音、中宮寺の弥勒像などに見られる、炎が揺らぐような光背の生きた力と、明るさと悲しみの緊張をたたえた仏像の微笑との対照は、太子を中心とする時代の精神生活を、永く象徴している。
聖徳太子は自ら僧侶と儒学者を指導し、国民教化の先頭へ立った。また天皇の命を受け、宮中で経典を講義し、政治を担う群臣の心を直接教え導いた。
『上宮聖徳法王帝説』は、太子が『勝鬘経』を講義した様子を、次のように述べている。
戊午の年、4月15日、小治田天皇は上宮王へ『勝鬘経』の講義を求めた。その姿は僧侶のようであった。諸王、皇族の女性、臣下や連の人々は、その教えを信じて受け入れ、喜ばない者はいなかった。講義は3日間で終わった。
摂政でありながら、僧侶のような姿で経典を講義したことは、宗教的真理と世俗の政治が互いに支え合う理想を具体化した精神を思わせる。
この戊午の年は、推古天皇6年と考証されている。
また『日本書紀』は、推古天皇14年7月、天皇が皇太子へ『勝鬘経』の講義を求めたと記す。
同じ年、聖徳太子が岡本宮で『法華経』を講義したとも伝えている。
聖徳太子の宗教的教化は、『維摩経義疏』に自ら次のように述べた精神に基づいていた。
自分の身を生死の世界へとどめ、すべての人を平等に教え導くことは、仏の心にかなう。また、これが修行の最も優れたものだと明らかにし、人々へ勧めるのである。
その理想は、国民全体を平等に救済することにあった。
同時に、太子がその事業を皇統が永遠に続くことへの奉仕として捧げたことは、生涯の著作内容だけでなく、最後の言葉とされる記録からも読み取ることができる。
『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』には、OCRの損傷があるものの、おおよそ次の意味の言葉が記録されている。
熊凝村に初めて設けた道場を、過去の歴代天皇と、将来の代々の天皇のために、大寺として造営してほしい。
このような、皇統が永遠に続くという信念のもとで、日本が文化史上の使命を果たすべきだとした精神は、推古天皇15年の神々を崇拝する詔、28年の国史編纂事業と表裏一体として考えられるべきものである。
外国文化を取り入れる中で、日本の歴史的信念を発展させた精神は、十七条憲法の内容とも対応する。
太子は常に、国民全体を包み込む教化活動を願った。
『三経義疏』の中で、人々と苦しみや喜びを共有し、広くすべての人を教え導く精神を表現した。
また、人々の能力や性質に上・中・下などの違いがあっても、すべてを等しく救済しようとする切実な願いを示した。
これは、名もない下層の民の心をも治め導き、平等な教化を求めた、広大な心を表すものである。
太子は、この大願を永遠の国民生活へ及ぼそうとした。
国家統治のため寸暇もない生活の中で『三経義疏』を著し、その教化精神を永遠に残したのである。
太子が推古天皇29年に、国民の哀悼の中で亡くなるまで、国民文化建設の大事業へ力を尽くした歴史は、動乱と苦痛に満ちた、生きるための戦いを内容としている。
したがって、太子が行った事業の外面的な形式だけによって、その内面的な精神を測り、生きた人生の波乱を、整理された形式の模倣へ置き換えることは、太子一代の精神を本当に理解する方法ではない。
聖徳太子の生命は、国家生活がかつて経験したことのない転換期に、国民全体の苦痛を真に背負ったことにある。
その偉大な精神によって大陸文化を批判的に統御し、日本文明の基礎を確立した、切実な信念と体験そのものにあるのである。
第一篇 聖徳太子の人生観と国政全般の統轄
聖徳太子は、日本固有の民族文化と大陸文化とが接触し、交流する時代に現れ、当時の大陸の思想と学問を広く学び、総合した。
しかし太子にとって、それらは知識として集められただけではない。切実に真理を求めた体験の中へ融合され、新たに発展させられたのである。
国家が重大な転換期を迎えたとき、国民生活の運命を担った聖徳太子は、時代の苦痛と混乱を外側から眺めるだけではなかった。まず自分自身を省み、社会全体を正しい方向へ導き、教化することを願って、真理を求める努力を重ねた。
『維摩経義疏』は、『維摩経』の次の言葉について、思想と実践との関係を深く論じている。
自分自身が束縛されている者が、他人の束縛を解くことはできない。自分自身が束縛されていない者であってこそ、他人の束縛を解くことができる。
その解釈の最後で、太子は次のように述べる。
天下に通じる道理から考えるなら、悪を退け、善を選ぶことは、必ず自分自身から始めなければならない。それによって初めて、他人へ善を勧めることができる。自分にできないことを、どうして他人へ勧めることができようか。
聖徳太子は摂政の重い任務を受けて以後、氏族制度が積み重ねてきた弊害による国内政治の混乱を、絶えず改革するために苦闘した。
しかし太子は、現実の政治を改革するには、国民の精神生活を内面から改革することが、常に基礎にならなければならないと理解していた。
太子一代の内政と外交は、三宝を盛んにする教化事業と表裏一体となっていた。
十七条憲法第二条で、
三宝を深く敬いなさい。
と述べ、さらに、
極端に悪い人は少ない。よく教えれば、その教えに従う。三宝へ帰依しないならば、何によって曲がった心を正すことができようか。
と結んだ。
これは日本の国民が持つ精神的な可能性を信じ、教育と教化によって国家生活の内面的な基礎を確立しようとした精神を示している。
ただし、この内面的改革は、まず太子自身の心の中で実現されなければならなかった。
太子が「天下の道理から考えるなら」と述べたのは、その求道の努力が、自分自身だけの解脱を目指したのではなく、国民全体がともに進むべき大道を実現するためであったことを示す。
悪を退け、善を選ぶことは、必ず自分自身から始めなければならない。自分にできないことを、どうして他人へ勧めることができようか。
この強い言葉は、まず自分自身の心を改革しなければ、国民や同胞を本当に救うことはできないと太子が自覚していたことを示す。そこには、自分の内面で行われた、生き方をめぐる深刻な戦いがあったのである。
この人生観は、『維摩経義疏』において、声聞・凡夫・菩薩の内面的な違いを論じた箇所に、特に明確に示されている。
『維摩経』仏国品は、ヴァイシャーリーの園で仏が説法する集会を描き、教えを聞く人々を比丘、菩薩、凡夫の順に挙げる。
聖徳太子は、その順序が持つ内面的な意味を、次のように説明する。
道理の上から考えれば、声聞は生と死を嫌い、涅槃を求める。凡夫は生と死へ執着し、涅槃を恐れる。この二者は、ともに仏の深い意図へ背き、中道を失っている。そのため、前後の両極へ置かれる。
菩薩は人々を利益する心を持つため、生と死を嫌わない。また、あらゆる徳を備えた永遠の悟りを得ようとするため、涅槃を恐れない。声聞などの二乗や凡夫の偏りとは異なり、見事に中道を得ている。
ここでいう声聞とは、小乗仏教の修行者を指す。
人生の苦痛と無常を見つめ、生と死からの解脱を願うこと自体を、否定するべきではない。
しかし、自分一人の世界で解脱だけを求め、他者とともに生きる現実を顧みない思想は、現実の生と死の中での苦闘を嫌い、理想を現実生活の外側へ求めるようになる。
聖徳太子は、このような個人的な超越だけを求める人生観を退けた。
一方、生への欲望、煩悩、罪悪をそのまま愛し、真理を求めようとする決意を持たない凡夫の生活も、真実の道ではない。
太子が常に求めたのは、大乗の菩薩の誓願と実践であった。
常に人々を救う慈悲を抱くため、動乱に満ちた生と死の世界を嫌わない。永遠の生命への信仰を持つため、真理を求める願いを絶やさない。それが聖徳太子の示した道である。
『勝鬘経義疏』には、次のように記されている。
菩薩が志を立てるのは、自分自身だけのためではない。必ず最初に、人々のために行動する。そのため、「人々を安心させ、慰める」と説くのである。
太子は、すべての民とともに生きるため、自分だけの解脱を求めなかった。
永遠で真実な生命への信仰に基づき、国民の教化と救済を自分より先に置いた。この大きな慈しみの中にこそ、天下に通じる道理が実現し、国民文化の基礎が確立されたと著者は考える。
ただし、この教化と救済の精神は、単なる救済思想によって実現されたのではない。
社会全体へ影響を及ぼす偉大な人格が、真理を求めて苦闘することによって表現された。
日本文化を創始する重い任務を担い、国民生活を育てた聖徳太子の願いを示すものが、十七条憲法第十条である。
怒りを絶ち、憤りを捨て、人が自分と異なることへ腹を立ててはならない。
人にはそれぞれ心があり、その心にはそれぞれ執着がある。相手が正しいと思うことを、自分は誤りだと思う。自分が正しいと思うことを、相手は誤りだと思う。
自分が必ず聖人であるわけではなく、相手が必ず愚か者であるわけでもない。ともに凡夫にすぎない。正しいか誤っているかという道理を、誰が完全に決められるだろうか。互いに賢さと愚かさを持つことは、輪に端がないようなものである。
したがって、相手が怒ったとしても、自分の側に誤りがないかを恐れなさい。自分だけが正しい答えを得たと思っても、多くの人の意見に従い、ともに行動しなさい。
この教えは、第一条の、
和を最も尊いものとし、人へ逆らい争うことがないようにしなさい。
という教えと対応している。
第十条は、当時の役人たちへ、怒りと憤りを捨てるよう教える。
人間は誰も完成された存在ではないと自覚し、互いに親しみ、協力して、公のために力を尽くさなければならないというのである。
太子は、
人にはそれぞれ心があり、その心にはそれぞれ執着がある。
と述べる。
人はそれぞれ個性や好みを異にするため、思想や見解にも違いが生じる。
そのため、
相手が正しいと思うことを、自分は誤りだと思う。自分が正しいと思うことを、相手は誤りだと思う。
という矛盾と対立は、人間の生活から避けることができない。
自分自身の欠点や罪悪を省みず、それぞれが個人としての自己だけを中心に置くならば、融合と平和のある生活は、永遠に実現できない。
自分が必ず聖人であるわけではなく、相手が必ず愚か者であるわけでもない。ともに凡夫にすぎない。
自分も他者も同じく不完全な凡夫であることへ目覚め、他者との違いを責めるのではなく、自分が真心を尽くすとき、初めて集団生活における道徳が実現する。
正しいか誤っているかという道理は、欠点のある個人の自己だけを中心として決められるものではない。
自らの誤りを認め、真理を求める真心と、集団で協力する精神によって、明らかにされなければならない。
これは自分に対しては、絶えず真理を求めて努力する、自らを律する真心である。
他者に対しては、人間が内面では平等であるという信頼に基づき、融合と親和を願う、寛容な慈悲の心である。
氏族や党派の利益へ執着し、国家と公共のために行動しない多くの群臣に対して、太子は人間の内面へ届く求道精神を示し、社会全体で協力する信念へ導こうとした。
著者は、ここに内政・外交と国民教化を一体化した、聖徳太子一代の事業を支える人生観を見る。
正邪、凡夫と聖人、賢者と愚者という固定された差別を打ち破る思想は、仏教の空の哲理にも存在する。
『維摩経』弟子品では、空の理解に最も優れていると自負する須菩提へ、維摩が次のように厳しく語る。
欲望、怒り、無知を断つのでもなく、それらとともにあるのでもない。身体を破壊せず、一つの相へ従う。執着を消滅させるのでもなく、そこから解脱を起こす。重大な悪行の相を通じても解脱を得る。
解脱したとも束縛されたともせず、四つの真理を見たとも見ないともせず、悟りを得たとも得ないともせず、凡夫とも凡夫の法を離れたともせず、聖人とも聖人でないともせず、あらゆる教えを実現しながら、あらゆる固定した相を離れるならば、食を受け取ってよい。
ここでは、凡夫と聖人、自分と他者などの相対的な観念を超えて、初めて、あらゆるものに束縛されない真実の解脱が実現すると説かれている。
同じく『維摩経』弟子品では、迦葉が、自分は優れた「福田」となる徳を持つ聖者であると考え、特に貧しい地域を憐れんで托鉢したことを、維摩が批判する。
その慈悲には不平等があると指摘し、凡夫と聖人のどちらへ施しても、施す者が得る福に差はないとして、次のように述べる。
一つの食事をすべての者へ施し、諸仏と多くの賢者・聖者へ供養した後で、初めて自分が食べなさい。
この思想の基礎に、すべてを固定した実体と見ない空の哲理があることは言うまでもない。
しかし、この文章を解釈した中国大陸の学者たちは、主として、正邪を平等に観察することや、差別のない布施という理論によって説明した。
僧肇は、おおよそ次のように説く。
正と邪を平等に見て、一つの食事を平等な心ですべての者へ施し、諸仏と賢者・聖者へ供養できるならば、他人の食事を受けてもよい。
妨げのない布施をする者は、食を得たならば、まずすべての者へ施すことを心に思い、その後に自分が食べる。法身を得たならば、実際にすべての者を満たすことができる。
慧遠も、凡夫の小さな福と、賢者・聖者の大きな福とを計算せず、偏りのない施しを説いた。
吉蔵も、正と邪が二つではないと悟れば平等な観察を得て、初めて人からの施しを受けられると説明する。
形は異なっていても、善悪や正邪、凡夫と聖人、賢者と愚者という形式的な違いを超え、平等な施しを行えば、一つの行いがあらゆる行いへ通じ、妨げのない無限の教えが開かれるとする点で、大陸の諸師は一致している。
しかし聖徳太子は、哲学的な理論だけで説明しなかった。
凡夫と聖人を同じく観察できるならば、両者は区別のない一つの空である。空に二つはない。そのため、一つの食事をあなたへ施すと観察するとき、それはすべての者へ供養することになる。
このように差別を消すことができる者こそ、真に正しい人と呼ぶべきである。
しかし、あなたは凡夫を低くし、聖人を高くして、自分を福田だと考えている。すでに固定した姿へ執着しているのだから、どうして正しい人といえるだろうか。
太子は、聖人と凡夫、正と邪という差別観念の問題を、自分には福田としての価値があると思い込みながら、懺悔と反省を欠く心の問題へ帰着させる。
そこに、内面的な平等への信念が示されている。
聖徳太子は、迦葉を批判した維摩の動機を、さらに次のように解釈する。
維摩が叱責したのは、正と邪の両方への執着を消し、尊い者と卑しい者という区別を持たないならば、真に優れた福田の徳があるといえるからである。
しかし、あなたは尊卑の区別を持ち、自分を高くして他人を嫌い、差別を作っている。どうして優れた福田と呼べるだろうか。
差別することが福田の条件ならば、人は誰でも差別する心を持っているのだから、全員が福田の徳を持つことになる。しかし、あなたが示しているのは、そのようなものではない。
中国大陸の学者の用語でいえば、正邪を消し、尊卑を区別しないことは、「正と邪を平等に観察する」という教義である。
しかし太子は、それを、「自分を高くし、他者を嫌う」という心理の問題へ帰着させた。
自分も他者も凡夫であることへ目覚め、自己と他者の融合を実現して初めて、正邪という外面的な差別を取り除くことができると教える。
人は誰でも、差別する心を持っている。
この言葉は、人間心理への洞察を示す。
人は誰も、個人の自己を中心とする執着へ囚われやすい。自分の欠点と罪悪を省み、同じ執着を持つ人間であるからこそ、懺悔と求道の真心によって、平等で親和的な生活を実現しなければならない。
これを十七条憲法第十条と比較すると、正邪へ束縛されない自由な生命が、政治生活では、公正の原理を具体化し、それを支える同胞の協力を継続するものとして示されている。
『維摩経』文殊問疾品には、
自分の身体に苦しみがあるならば、悪い境遇にある人々を思い、大いなる慈悲の心を起こしなさい。
とある。
鳩摩羅什や吉蔵は、「功徳と智慧を備えた自分の身体でさえ、このように苦しむのだから、悪い境遇にある人々が受ける限りない苦しみは、なおさらである。そのため慈悲を起こす」と説明した。
これに対して、聖徳太子は次のように解釈する。
菩薩は、自分自身の苦しみを忘れ、人々と苦しみを同じくして教化する。この句は、慈悲がよく苦しみを取り除くことを明らかにしている。
大陸の学者の解釈は、功徳と智慧を持つ菩薩が、迷う人々へ慈悲を向けるという、上から下への個人的な教化を説明するにとどまる。
しかし太子は、「自分の苦しみを忘れ、人々と苦しみを同じくして教化する」と述べた。
この短い注釈にも、自己を社会全体へ捧げ、すべての民と苦労を共有する、平等な慈しみが表現されている。
国民全体の感情と意志を治める聖徳太子の心は、個人を中心とする救済思想にとどまるものではなかった。
太子はこの精神によって統治の大任を担い、国家組織と政治の運営の中に、国民全体を同胞と見る感覚を表現した。
氏族制度の弊害から生じた政治的混乱の改革へ力を尽くしたのである。
現実の国民生活では、社会組織と秩序を維持するため、能力や職業の違いによって、外面的な地位の上下を分けることも必要である。
しかし、その外面的形式へ執着し、差別のある社会を内面から融合する、平等な同胞意識を失えば、あらゆる文化制度は分裂し、解体する。
国民の一致と協力に基づかない政治制度は、生命のない形式に終わる。
真の国民文化を建設するには、外面的な違いを社会全体の協力へ融合する教育と教化を実現し、その道徳的基礎に立って、外面的な文化を統一しなければならない。
太子は、
ともに凡夫である。
と自覚し、
人々と苦しみを同じくして教化する。
と示した。
内面的な平等への自覚に立ち、同胞が協力して生きる道へ導いた精神は、一国の文化を内側から支える基礎を育てたのである。
ここで著者は、十七条憲法第一条の「和を尊ぶ」という教えと、『論語』学而篇の次の言葉とを比較する。
礼を実践するときには、調和が最も大切である。昔の優れた王の道も、調和を美しいものとした。大小の事柄は調和によって行われる。
しかし、調和を知って調和だけを求め、礼によって節度を与えないならば、それも実行できない。
これに対し、十七条憲法は次のようにいう。
人にはそれぞれ党派があり、道理を理解している者は少ない。そのため、主君や父へ従わず、近隣の人々と争うことがある。
しかし、上の者が和らぎ、下の者が親しみ、物事を話し合って調和するならば、道理は自然に通じる。成就しないことがあるだろうか。
『論語』が和を尊ぶのは、礼、すなわち道徳的秩序を維持するために、内心の調和を必要とするからである。
そして和そのものも、礼によって節度を与えなければ、十分な意味を持たないとする。
著者によれば、『論語』の和は、道徳生活を実現するための手段として捉えられており、礼と和を一つにする内面的な体験の根拠は、十分には説かれていない。そのため、その思想は形式的に固くなる傾向を持つ。
これに対して、聖徳太子の憲法は、和を尊ぶと述べた直後に、人間には党派心があり、道理を理解する者が少ないという現実を見つめる。
人は自分も凡夫であることを省み、自己への執着を打ち破り、社会全体で協力する精神へ目覚めることによって、上と下が調和し、主君、父、近隣の人々へ誠実に生きるべきだと示す。
この内面的な和睦を基礎とするとき、あらゆる事業は自然に真実の道理と一致し、国家生活はさまざまな波乱と障害を打ち破って発展する。
上の者が和らぎ、下の者が親しみ、物事を話し合って調和するならば、道理は自然に通じる。成就しないことがあるだろうか。
この言葉は、その確信を明らかにするものである。
著者は、『論語』の和には、どこか礼という別の概念との対立が残るのに対し、聖徳太子の和は、人間心理への洞察に基づく、集団協力の根本精神として生きていると評価する。
仏教と儒教の思想は、聖徳太子の精神を通過することによって、現実生活での切実な体験へ融合され、生命あるものとなった。
社会全体が協力して生きることを自らの心へ実現し、国民が互いに和すれば成就しないものはないと述べた確信があったからこそ、国内外の危機の中で、天皇を中心とする政治の統一と、対外的地位の確立が成し遂げられたと著者は考える。
人間が内面では平等であるという自覚を深め、社会全体で協力する信念を実現した聖徳太子の精神は、大乗仏教の教化思想にも、現実に生きて働く生命を与えた。
ここでは、『維摩経』文殊問疾品において、維摩居士が病を持つ菩薩、すなわち、まだ煩悩や迷いを完全には離れていない大乗の修行者へ説いた、次の言葉に対する太子の解釈を中心に考える。
菩薩は、外から入り込んだ塵のような煩悩を取り除き、大いなる慈悲を起こさなければならない。執着を伴う慈悲を持つ者は、生と死の世界に疲れ、嫌気を覚える。これを離れることができれば、疲れ、嫌う心を持つことはない。
この文章の大意は、菩薩に対して、執着を伴う慈悲から離れるよう教えることである。
ここでいう「愛見の慈悲」とは、自分を中心とする執着を伴った、現世的な愛情を指す。この愛情にとどまると、教え導くべき人々を、善い人と悪い人、好きな人と嫌いな人に分けてしまう。そのため、生と死の波乱に満ちた人生の中で、すべての者を平等に救う理想を実現できなくなる。
釈尊は最高の悟りを完成した後も、濁りに満ちた現実世界へ身を置き、人々を救うために生涯を捧げた。
その精神は、大乗仏教徒に、「人々のために真理を求める」という菩薩の誓願と実践を発展させた。また、世間から離れて自分だけが解脱しようとする小乗仏教の人生観を退け、次のような、自己を捨てた慈悲の教化精神を説くに至った。
仏道を得たとしても、涅槃へ入らず、大いなる慈悲によって、人々に代わって苦しみを受ける。
『維摩経』が、愛見の慈悲を取り除き、すべての者を教化するよう説くことも、この思想を背景としている。
しかし、この教化思想は、聖徳太子によって、どのような具体的な表現を与えられたのか。
当時の中国大陸の学者たちの解釈と比較すると、概念上は同じように見える思想にも、内容には重大な違いがある。
国家生活の運命を背負い、同胞を教え導くために身を捧げ尽くした聖徳太子の、内面的な信仰の証拠を、そこにはっきり読み取ることができる。
まず、太子の解釈を示す前に、中国大陸の諸師の注釈を挙げ、比較する。
僧肇は、次のように述べる。
心が外界の条件へ出会うと、煩悩が突然起こる。そのため、外から来た塵のようなものと呼ぶ。菩薩の道では、その塵を除き、大いなる慈悲を起こさなければならない。執着を伴う見方がまだ断たれていなければ、煩悩はますます増える。そのため、それを捨てなければならない。
慧遠は、愛見の慈悲を取り除いて清らかな仏法への愛を起こすことには、二つの利益があるとする。
一つは、常に人々を教えることへ疲れないという利益であり、もう一つは、自分が束縛を離れ、他者の束縛も解くという利益である。
第一の利益について、次のように述べる。
愛見の慈悲を持つ者は、生と死の世界へ疲れ、嫌う心を持つ。これは害を挙げて、反対に利益を示すものである。
執着を持つため、多くの苦しみを生み、それを嫌って消滅を求める。そのため、生と死の世界へ疲れる。
また、執着によって敵と味方、親しい者と疎い者とを区別するため、広く人々を教化できず、疲れる心を持つ。
この執着を離れることができれば、疲れ、嫌う心はなくなる。
吉蔵も、次のように述べる。
愛見の慈悲を持つ者は、生と死の世界へ疲れる。これを離れることができれば、疲れない。どのような生へ生まれても、執着を伴う見方に覆われることはない。
何かを固定して見るなら、必ずそこへ停滞する。何かを愛するなら、必ず何かを憎む。このような限界ある道によって、どうして限界のない働きを実現できようか。
僧肇の解釈は、菩薩の道とは、煩悩を断って慈悲を起こすことだとする。
自分中心の現世的な愛情は、煩悩を増大させるため、捨てなければならないと説明するだけであり、経典の一般的な意味を述べる以上の内容はないと、著者は評価する。
慧遠の解釈は、僧肇と比べれば、教化の立場から、より徹底している。
愛見の慈悲は煩悩の原因となり、迷いの世界におけるさまざまな苦しみを生む。そのため、生と死の動乱に満ちた人生へ疲れ、嫌気を持つ。
さらに、敵と味方、愛する者と憎む者を分けるため、広く人々を教化する働きを妨げるというのである。
吉蔵の説も、中心的な意味では大きく変わらない。
これは大乗仏教で広く説かれた考え方である。
龍樹も『大智度論』で、菩薩は「慈悲」と「空」の二つを同時に実現しなければならないと、次のように述べる。
菩薩には二つの道がある。一つは慈悲であり、もう一つは空である。
慈悲の心は人々を憐れみ、救おうと誓う。しかし、空の心だけが現れると、憐れみの心を消してしまう。
慈悲だけを持ち、智慧がなければ、本当は固定した衆生など存在しないのに、衆生が実在すると思い込む誤りへ沈む。
空だけを持ち、人々を憐れみ、救う心を捨てるならば、すべてが消滅して何もないとする考えへ陥る。
そのため、仏は二つをあわせて用いるよう説いた。あらゆるものが空であると観察しても、人々を見捨てない。人々を憐れんでも、あらゆるものが空であるという智慧を捨てない。
つまり、人々へ利益を与える慈悲の心が、世の中の事象へ執着しない空の心と一つになったとき、初めて私心のない清らかな心によって、人々を救えるというのである。
これに対して聖徳太子は、愛見の慈悲を否定する経典の教えを、菩薩という個人と、救われる人々との外面的な関係だけによって解釈しなかった。
同じ信仰を持つ人々が、互いに協力して生活する感情と意志にまで、解釈を深めた。
太子は次のように述べる。
自ら修行し、他者を教えることを心に思って、心を整えたとしても、自分と他者を二つの別の存在として残したまま修行するならば、その修行は広くならず、人々と苦しみや喜びを共有することはできない。
そのため、執着から離れなければならないと勧めるのである。
さらに愛見の慈悲について、次のようにいう。
執着を伴う慈悲は善ではある。しかし、なお固定した姿への執着を残しており、自分と他者という二つの立場を平等にして、広く人々を教化することはできない。
太子の説明は、概念の形だけを見れば、中国大陸の学者たちと、必ずしも大きく違わないように見える。
しかし、その繊細な表現内容は、概念による理解の領域を超え、切実な信念と体験を示している。
太子も、自分を中心とする執着の弊害を説いている。
しかし、その内容は、大陸の学者のように、個人が他者を救おうとする意志だけではない。
自ら修行し、他者を教化する理想へ進んでも、自分を中心とする観念を残し、自分と他者とが融合する感情を欠くならば、自分を社会全体へ捧げる真実の実践は生まれないと説く。
太子は、「自分と他者という二つの立場を平等にする」と述べ、人々が融合し、親しみ合って生きることを願った。
また、修行をより広いものにし、自分の生活の中へ、同じ心で協力する信念を実現するよう教えた。
「人々と苦しみや喜びをともにする」という言葉には、民衆の苦しみを自分自身の苦しみとして、終わりのない苦闘へ従った太子の体験が示されている。
これは、人々の生活の核心へ届く、広大な慈しみを表現した言葉である。
高い立場の聖者が、下にいる人々へ慈悲を与えるというものではない。
「自分も他者も、ともに凡夫である」という、懺悔と求道の真心から生まれる、内面的に平等な同胞意識なのである。
中国大陸の学者たちも、自分中心の現世的な愛情を超え、真実の仏法への愛に基づく平等な教化を説いている。
しかし、そこに描かれるのは、上に向かって仏道を求め、下に向かって人々を救う大乗菩薩という、一人の優れた人格である。
迷っている人々と、教え導く聖者との距離と対立が残る。
完全な悟りを目指す個人が、同時に高い位置から下り、すべての者へ向かうのである。
そこに想定されているものは、個人を中心とする教化思想であり、上から下へ知識や救いを与える、啓蒙的な教化活動である。
これに対し、聖徳太子が示したのは、同じ人間であることへ目覚め、苦しみや喜びを分かち合う、共同体の信念に基づく教育精神である。
そのような表現を、中国大陸の学者の説に見いだすことはできないと、著者は論じる。
もちろん、中国大陸の学者たちも、すべての者と隔たりのない平等な教化を強く説いている。
しかし、それを、自己を社会全体へ投じて尽くす体験から説くのではない。菩薩個人が持つ、執着のない慈悲と、教化活動との理論的関係を論じるにとどまる。
そのため、すべての民と苦労をともにするような、人々の感情の奥深くへ入って融合する信念は表現されない。
聖徳太子の心を満たしていたものは、常に現実の、具体的な国民共同体の生活であった。
教育と教化は、個人と、その個人同士の協力によって行われる。
しかし、その個人は、社会全体が進むべき真実の道へ深く入り、自分自身を、融合と協力の真心へ捧げ、現実の国民生活を内側から支える指導者でなければならない。
著者によれば、中国大陸の菩薩教化思想は、すべての者のために行動することを目指しながらも、なお、高い位置に立つ指導的人格を想定するため、個人主義的であり、同時に抽象的である。
具体的な国民生活の中で、協力する精神を育てる生命は示されていない。
そのため、大乗の教化思想であっても、理想世界を追求するだけにとどまり、特殊な宗教集団の瞑想と観念の世界で組み立てられた、概念的な理論から抜け出せない。
聖徳太子の精神は、大乗仏教の理想へ現実の生命を与えたのである。
『維摩経』仏国品には、菩薩の教化をたたえて、
さまざまな仏法の宝を集めることは、海で人々を導く案内人のようである。
とある。
僧肇は、次のように解釈する。
人々を導いて大乗の海へ入れ、仏法の宝を採らせ、困難なく必ず獲得させる。海の案内人が商人をよく導き、必ず宝珠を得させるようなものである。
慧遠は、次のように説明する。
さまざまな仏法の宝を集める海の案内人とは、他者を導くための方法を示す。仏法は宝のようであり、その入り口は一つではないため、さまざまな法の宝と呼ぶ。
人々を導き、それを求めさせることを、法の宝を集めるという。海の案内人という比喩によって、これを明らかにする。海の案内人が人を導いて宝を採らせるように、菩薩も人々を導いて仏法を求めさせる。
これに対し、聖徳太子は次のように述べる。
「さまざまな仏法の宝を集めることは、海の案内人のようである」とは、人々を導いて、ともに仏法の海へ入り、善を実践するよう勧め、最後には功徳と智慧の宝を得させることを意味する。
それは、案内人が多くの商人を連れて、ともに大海へ入り、宝を採る正しい方法を教え、多くの利益を得させることと同じである。
僧肇は、菩薩が人々を大乗の海へ導くことを説明するだけである。
慧遠は、人々を教化することで法の宝を得させると説明し、仏道を求めることと、人々を教えることとの関係を哲学的に解釈する。
しかし太子は、「人々を導いて、ともに仏法の海へ入る」、また「多くの商人を連れて、ともに大海へ入る」と、「ともに」という言葉を繰り返す。
聖徳太子が「ともに」という言葉を繰り返したことには、人々とともに入る広大な信仰の海を思う、切実な心が表れている。
中国大陸の学者が描く菩薩は、高い位置から人々を教化する一人の人格である。
これに対して太子の菩薩は、常に民衆とともに生きることを体現し、同じ信仰に立って、共同体の協力生活を導く教育的人格である。
平等な教化の真の精神は、日本の国民生活の運命を背負った聖徳太子の心によって、初めて現実に実現されたと、著者は論じる。
中国大陸の大乗仏教徒が願ってきた、「上に向かって仏道を求め、下に向かって人々を教化する」という理想は、人間生活に普遍的な理想である。
聖徳太子は、この理想を観念のままにせず、現実に生きる精神へ変えた。
著者は、そこに日本が人類に対して担う使命が表現されていると考える。
ここで、以上に引用した太子の言葉を総合し、この思想を改めて考察する。
仏道を求める大願は、自分が罪悪と不実を抱える存在であることを、心の底から認めて初めて、切実な願いとなる。
完成へ到達することのない、絶えず変化し続ける人生において、煩悩と罪の濁りを持つ凡夫こそ、人間の偽りのない姿である。
この真実の姿を深く認めるとき、私たちは同じく、苦しみと混乱に満ちた人生を、ともに生きる凡夫であることへ目覚める。
ここでは、高い立場から人を教え、救うという考えは、現実には実現できず、同時に真実の道でもないと理解されなければならない。
中国大陸の学者が描くような、煩悩と迷いを断ち切り、人々を救うために上から下へ向かう大乗菩薩は、現実の人間から抽象され、仮定された理想的人格である。
その理想へ実際の内容を与えるものは、人生の核心へ深く届く、偉大でまれな精神でなければならない。
聖徳太子は、
自分も他者も、ともに凡夫である。
と述べ、人間社会の濁りと悪を、自分自身の内面の問題として追究した。
また、
世の中は虚しく偽りに満ち、ただ仏だけが真実である。
と述べ、常に真実で大いなる慈悲を持つ仏の心を思った。
そして、曇りのない真心によって民衆の苦労を背負い、
人々と苦しみや喜びをともにしたい。
と告白した。
この広大な慈しみの心によってこそ、抽象的な菩薩の理想は、現実の内容を与えられたのである。
太子の心の中では、すべての生きものが大海のような広がりとして、常に思われていた。
『勝鬘経義疏』摂受正法章は、正しい教えを受け入れる菩薩が、大地の四つの重荷、すなわち大海、山々、草木、人々を支えるように、すべての者を担うと説明する。
太子は大海について、次のように述べる。
大海は菩薩の比喩である。広く人々を抱くことが、大海が限りなくすべてを受け入れることに似ているため、この比喩を用いるのである。
限りなくすべてを受け入れる大海のような心の中に、生きとし生けるものの心が収められ、育てられる。
社会全体の生活を思う太子の心では、自分の誤りを認めて真理を求める心と、人々を教化する大いなる慈悲の心とが、一つの信念として融合する。
上に向かって仏道を求め、下に向かって人々を教えるという願いは、ここでは抽象的に仮定された理想ではない。
自分自身が現実の人生の悲しみへ目覚め、同じ苦しい世界を生きる他者の感情へ深く入り、ともに真実の生命を信じて協力する教化活動となり、現実の体験へ一致するのである。
こうして太子は、中国大陸の大乗仏教徒に見られた、個人中心で高踏的な救済思想を、同じ信仰を持つ共同生活の教育精神へ変えた。
抽象的な理想主義としての教化思想へ現実的な内容を与え、東アジアの無数の人々が持つ宗教的な願いを、生きたものにしたのである。
ここで実現される教化は、一人の優れた人格を中心とする、上から下への啓蒙ではない。
社会全体の精神を個人生活の中へ身につけ、同じ信仰によって協力する生活を広げ、仲間として生きる共同体を発展させることである。
導く者と導かれる者の心は、一つの信仰へ融合する。
こうして、貴賤や賢愚の違いがある現実の人生を、内面的に平等な同胞意識によって統合し、清める教育と教化が実現する。
それは、平和と友情を育てる、あらゆる道徳的活動の源である。
国民生活は、歴史的伝統や能力に基づく生活形式の違いを認めながら、それらを同胞の協力へ一体化する平等への感動を生む。
独立国家としての共同体精神は限りなく発展し、人類に対する世界的使命の実現へ向かう。
著者は、聖徳太子の心が、世界へ進み出る日本民族の生活そのものを表現したと考える。
『勝鬘経義疏』は、大乗と小乗の内面的な違いを、次のように論じる。
大乗と小乗の違いを説明すれば、自分だけが救われることを求めず、人々を救うことを先にし、人々とともに仏の悟りへ向かうものを大乗という。
人々を教化することを負担だと考え、自分だけが救われることを求め、実体のない仮の安息所へ身を隠すものを小乗という。
聖徳太子は、自分だけが世間を超越することを求め、他者を顧みない人生観を小乗として退けた。
他者を救うことを先にし、永遠の生命への信仰を人々と共有することを、大乗として示したのである。
この大乗の宗教は、すべての生きものを大海のような心の中へ収め、人生の悲しみに目覚め、人々と苦しみや喜びをともにすると誓った信念と体験によって、私たちの苦しい人生を照らす「人生宗教」として示された。
同時に、国民の協力を育てる国民教化の原理として示されたのである。
自分と他者との融合を願い、すべての人々と苦しみや喜びを共有しようとする聖徳太子の精神は、『三経義疏』の随所に示される人々の救済思想を支える基礎である。
現実生活では、個人としては家庭、近隣、仲間との親和を実現し、国民としては十七条憲法第十五条の、
私心に背き、公のために進むことが、臣下の道である。
という教えを実現する内面的な根拠となる。
第一条の「和」とは、このような精神を総合的に表現したものなのである。
故・岡田正之博士は、第十五条の「私心に背き、公のために進む」という思想を、法家の思想によるものと考えた。
『韓非子』には、次のような言葉がある。
私的な行動が確立すれば、公共の利益は失われる。
また、
臣下には私心と、公に尽くす正義とがある。身を正して潔白を保ち、公正な行動をし、官職にあって私心を持たないことが、臣下の公義である。行いを汚し、欲望に従い、自分の身と家の利益だけを求めることが、臣下の私心である。
さらに、「私」と「公」の文字について、
蒼頡が文字を作ったとき、自分の周囲を囲むことを「私」と呼び、その私に背くことを「公」と呼んだ。公と私が互いに反対することは、文字を作った時点から知られていた。それを同じ利益だと考えるのは、物事を見抜かない愚かさである。
と説いている。
岡田博士は、聖徳太子の「背私」という言葉の出典をここに求め、公と私の区別に関する太子の教訓は、法家思想によるものだと論じた。
この考え方は、その後の一部の学者にも受け入れられたようである。
しかし聖徳太子は、
私心に背き、公のために進むことが、臣下の道である。
と述べた後、さらに次のように説明している。
人に私心があれば、必ず恨みが生じる。恨みがあれば、必ず人々は一致しない。一致しなければ、私心によって公を妨げる。恨みが起これば、制度へ背き、法を害する。そのため第一条で、上の者と下の者が和らぎ、調和するよう述べたのである。これもまた、同じ人間の心情から生じる問題であろう。
この文章を『三経義疏』の思想とあわせ、『韓非子』と詳しく比較すると、太子が政治を行う者として、また十七条憲法を作る際に法家思想を研究し、そこから何らかの示唆を得た可能性は否定できない。
しかし、二つの思想を支える根拠には、見落としてはならない微妙な違いがある。
『韓非子』の法による統治を絶対視する思想と、聖徳太子の宗教的教化の精神とでは、根本が異なることは言うまでもない。
『韓非子』は、公職にあって私心を持たないことを臣下の正義とし、個人的な欲望を否定する。この点は一般的な道徳を示している。
しかし、文字の由来を述べる文章では、公と私をまったく両立しない二つの概念とし、個人と全体とを内面的に融合する根拠を示していない。著者は、そこに中国的な機械的論理が表れていると見る。
これに対し、聖徳太子は、
私心があれば、必ず恨みが生じる。恨みがあれば、人々は一致しない。
と、人間の内面を問題にする。
個人の自己へ執着することで恨みが生じ、恨みによって人々が融合できなくなり、内面的な融合を欠くことが、やがて私心によって公を妨げる結果になると教える。
そこで、上の者と下の者が和睦し、同胞として協力することを再び強調したのである。
これは、人間の内心を見抜き、導くことによって、皇室のもとで、平等な同胞意識に基づく臣下の道を示す教えである。
太子にとって、公と私は『韓非子』のように、ただ対立する二つのものではない。
個人は社会全体へ自分を捧げ、同胞としての生活を実現するという、人格全体を統一する精神を示したのである。
十七条憲法は、儒家や法家の文献を参考にした箇所が多い。しかし、それらの思想に束縛されたのではない。
資料として取り入れられた思想は、聖徳太子の精神によって生きたものとなり、統合された。そこには、全体を一貫する独自の内容があると著者は論じる。
前に述べたとおり、『論語』における「和」は、人と人との内面的関係さえも、「礼」という外面的秩序を維持する手段として見る傾向を持つ。
内心の問題を外界の秩序の手段とするため、その思想は形式的に固くなりやすい。
これに対して聖徳太子は、「和」を国民生活の根本とした。
道理に通じる者が少ないという内面的事実を見つめ、上の者と下の者が調和すれば、物事の道理は自然に通じるという、現実の生活を実現するよう示した。
これは、内心から外界へ、信念から実践へと進む、柔軟で力のある思想である。
概念と形式を人間の内面へ取り込み、現実生活の中で意味あるものにするところに、日本思想の特質があると著者は考える。
この特質は、『三経義疏』の思想の随所にも表れている。
『維摩経』弟子品には、真の坐禅について、
深い滅尽定から立ち上がることなく、さまざまな立ち居振る舞いを現すことが、真の坐禅である。
と説かれている。
僧肇の『注維摩詰経』は、おおよそ次のように説明する。
小乗の修行者が滅尽定へ入ると、その身体は枯れ木のようになり、現実に働く力を失う。
菩薩が真実の姿を悟る禅定へ入ると、その心の分別は永く静まる。しかし身体の働きは世界全体へ及び、相手の状況に応じて行動し、あらゆる場所へ対応する。動作や立ち居振る舞いを捨てない。これこそ、究極の坐禅である。
つまり、小乗の坐禅は枯れ木のように、現実へ働きかける能力を持たない。
大乗の坐禅は、宇宙と人生の、生まれることも滅びることもない真実を内面で体験し、煩悩を静めながら、同時に現実世界のあらゆる場所へ働き、人々を教化する行動を捨てないとする。
ただし著者は、この哲学的説明からは、その思想が現実の人生で、どのような具体的事実として実現するのかが十分に示されていないと評価する。
吉蔵は、同じ経文を次のように説明する。
何かを現そうとする心を持たないからこそ、現れないものはない。前の文は、活動しながら静寂であることを示し、この文は、静寂でありながら活動することを示す。
これは「動きながら静かであり、静かでありながら動く」という、活動と静寂の一体性による説明である。
しかし著者は、この二つの概念が、どのような人間の体験によって統一されるのか、概念へ生命を与える具体的内容は示されていないとする。
ここで「動」は、聖徳太子の用語では「有」、すなわち差別と形のある現実世界や、人間の具体的行動を意味する。
「寂」は「空」、すなわち平等な理想世界、形のない真理、涅槃を体験することを意味する。
これに対し、聖徳太子は次のように解釈する。
「滅尽定から立ち上がることなく、さまざまな立ち居振る舞いを現すことが、真の坐禅である」という文で、「起」とは禅定から出ることを意味する。
智慧が空と一致していても、現実の存在の中でさまざまな行動を現し、どのような形にも限定されずに人々を教化することを、真の坐禅と呼ぶ。
あなたは自分だけが救われることを考え、人々を利益することを煩わしいと思っている。そのような者が、どうして優れた坐禅を得られるだろうか。
この文は、空と有という二つの領域を平等にできないことを批判するのである。
太子は、内心ではあらゆるものへの執着を離れた「空」を体験しながら、現実生活では、さまざまな行動によって人々を教え導かなければならないと説明した。
空と有、内心の静けさと外面的な活動の一致は、自分だけの解脱を求めず、他者の苦しみや喜びを自分自身のものとし、人々を救う行動によって初めて実現する。
自分と他者を対立するものと見ず、自分の心を他者の生命へ注ぎ、個人を社会全体へ捧げ、同じ心で協力する。
そのとき涅槃は、人間同士が融合し、親しみ合う関係として現れ、差別のある現実世界に、平等の理想を反映する。
こうして、仏教哲学における空と有の一体性は、現実の生命を得る。
滅尽定と立ち居振る舞い、活動と静寂という概念や事実の対照は、人間の体験によって調和し、統一されるのである。
政治では「和」を尊び、地位や職業などの違いがある国民生活へ、内面的な融合による一致と協力を実現する。
この広い意味での「和」は、学問においては、すべての概念と理論を信念と体験へ統一する究極の調和である。
宗教的には、『勝鬘経義疏』の、
善を行うことの根本的な意味は帰依にある。これから、あらゆる実践の道を広く明らかにするため、帰依を最初に置くのである。
という言葉のように、あらゆる道徳の源を、内心のただ一つの帰依体験へ求める、人格全体を統一する信念である。
それが、総合的な生命としての「和」である。
この広い意味での「和」は、十七条憲法と『三経義疏』との関係にも、随所に見ることができる。
十七条憲法第十一条は、賞罰について次のように述べる。
功績と過失を明確に見極め、賞罰を必ず正しく行いなさい。近頃は、功績のある者へ賞が与えられず、罪のある者へ罰が与えられていない。政治を担当する群臣は、賞罰を明確にしなければならない。
これは、当時の混乱した政治を改革する条項として、政治を担当する者へ与えた訓戒である。
岡田正之博士は、この思想も、中国法家の法による統治を採用したものと考えた。
『管子』には、
賞を行う者は誠実さを重んじ、刑罰を行う者は確実さを重んじる。人々が目や耳で確認できる範囲で賞罰が確実に行われるなら、見えない場所においても、人々は自然に教化される。
とある。
『韓非子』には、
功績が、その者へ任せた仕事と一致し、仕事が本人の発言と一致すれば賞を与える。功績が仕事に合わず、仕事が発言に合わなければ罰する。
明君は不当に賞を与えず、罰を免除しない。不当な賞を与えれば、功績ある臣下は仕事を怠り、罰を免除すれば、悪い臣下は不正を行いやすくなる。
本当に功績があれば、疎遠で身分の低い者であっても必ず賞を与える。本当に過失があれば、親しく愛する者であっても必ず罰する。
とある。
岡田博士は、十七条憲法第十一条を、このような法家の「功績には必ず賞を与え、罪には必ず罰を与える」という思想から出たものと推定した。
しかし『三経義疏』を見ると、聖徳太子は宗教的教化において、悪魔や誤った思想を制圧する経典の思想さえ、自分自身の信念によって独自に解釈している。
『維摩経』仏国品には、
悪魔の怨敵を降伏させ、さまざまな外道を制する。
とある。
鳩摩羅什は、外道を制するとは、舎利弗が外道と7日7夜にわたって議論し、勝利したようなことだと説明する。
吉蔵は、威力によって恐れさせることを「降伏」といい、弁論によって屈服させることを「制する」というと説明する。
いずれも、外部の敵を威力や弁論によって屈服させる意味として解釈している。
これに対し、聖徳太子は次のように述べる。
「悪魔の怨敵を降伏させ、外道を制する」とは、菩薩が意図的に威力を示し、相手を屈服させようとすることではない。
悪魔は誤った見方の中心である。しかし菩薩の広大な道を見れば、自然に自分を恥じる。そのため、意味の上で「伏し、制する」という。
悪魔について「降伏」というのは、悪魔が自分の誤りをよく知りながら、悪意を起こし、仏法を破壊しようとするためである。
外道について「制する」というのは、正しい道を求めてはいるが、自分の悟りへの執着があり、根本の教えへ背いているためである。
この文は、人々を教え導くことを明らかにしている。
ここで太子が示す「菩薩の広大な道」とは、狭い自己の道に対する、他者とともに進む道である。
人々と苦しみや喜びを共有し、永遠の信仰を他者とともに実現することである。
太子が『維摩経義疏』で、
自ら修行し、他者を教化することを願って心を整えても、自分と他者を別々のものとして残したまま修行すれば、その実践は広くならず、人々と苦しみや喜びを共有できない。そのため執着から離れるよう勧める。
と述べた、その「広い道」なのである。
自己と他者との対立へ囚われない真実の大慈悲と、悪い者をも慈しむ菩薩の教育精神は、やがて悪魔にさえ自然に自分を恥じさせ、正しい道へ帰らせる。
聖徳太子は、経典の「降伏」という言葉へ、このような新しい内容を与えた。
「降伏」とは、意図的に外面的な威力を示すことではなく、内面的な威厳が自然に現れることである。
外道についても、正しい道を求める内面的な動機は認める。
しかし、自分の理解へ執着し、教えの根本へ背き、すべての人とともに進む広い道になっていないため、その誤りを制しなければならないとする。
こうして、すべてを人々の教化という教育精神へ帰着させるのである。
十七条憲法で「三宝を深く敬いなさい」と勧め、調和ある道徳の基礎として宗教的信念へ深く入るよう国民へ示したことも、この精神に基づく。
さらに、
極端に悪い人は少ない。よく教えれば、その教えに従う。
と述べ、すべての者の精神的可能性を信じ、教育が可能である理由を繊細な言葉で示した。
善悪や賢愚を問わず、平等に教化しなければならないと述べたのである。
「あらゆる人には仏となる性質がある」という大陸仏教の教義は、悪魔さえも感化して変えられるという、太子の広い道への確信によって、生きたものになった。
著者は、これを韓非子の法治思想と対照する。
韓非子は荀子の性悪説を受け継ぎ、人間は利己的欲望を持つため、権力によって制御しなければ統治できないと考えた。
明君が臣下を導き、制御する方法は、二つの権柄だけである。二つとは刑罰と恩賞である。殺すことを刑罰といい、褒賞を与えることを恩徳という。臣下は処罰を恐れ、褒賞を利益とする。そのため君主は、自ら刑罰と恩賞を用いなければならない。
このような、宗教的教化の理想や慈愛と道義への願いを持たず、法による統治だけを万能とする信賞必罰の思想と比べれば、両者の内容には天地ほどの違いがあると著者は論じる。
ただし、濁りと悪を持つ現実の人生は、秩序による支えなしに、宗教的教化だけで治めることはできない。
人間社会に悪があるという事実を見ない徳による統治は、徳治そのものを完成させるものではない。
『勝鬘経義疏』は、次のように述べる。
菩薩は、軽い悪に対しては道徳と教えの力によって受け入れ、正しい方向へ導く。重い悪に対しては、現実の力によって厳しく制圧する。
これは、正しい教えを永く保つためである。
十七条憲法第十一条が賞罰を正しく行うよう示すのも、国家秩序を守るため、正しい法による制裁が必要だからである。
現実生活の事実を無視する徳治とは異なり、法によって人を正しい道へ進ませるのである。
しかし、法の世界の根底には、悪い者さえ慈しむ宗教的教化の精神があり、それによって人々を守り、育てるところに、道徳生活の真の意味が完成する。
法と教化、法治と徳治、厳しい制圧と慈愛は、一つの信仰の中で互いに補い、関係し合う。
十七条憲法の第一条、第二条と、ほかの各条も同じ一つの精神によって結ばれる。
思想、現実生活、信念、学問のあらゆる要素が総合され、統一された生命としての「和」が実現する。
第一条の「和」とは、人生の生命であり、統一であり、信頼であり、融合と協力である。
この和の精神は、聖徳太子の思想の中で、限りなく新しい形を生み続ける。
第十二条は、
国に二人の君主はなく、民に二人の主はない。国土に住むすべての民は、天皇を主とする。
と述べる。
著者は、ここに太子の事業が、皇室のもとで、すべての民が平等であるという大義に基づいて行われた事実を見る。
太子は国司や国造へ、人民から勝手に税を取ってはならないと命じ、
任命された官人は、すべて天皇の臣下である。どうして公の税とは別に、人民から税を取ることができようか。
と戒めた。
有力氏族が私有していた土地と人民を解放し、朝廷へ直接帰属させ、国民全体を皇室の教化へ参加させ、共同生活の真の意味を実現しようとしたと著者は解釈する。
また、農業と養蚕の時期には人民を労役へ使わないようにし、
農業をしなければ、何を食べるのか。養蚕をしなければ、何を着るのか。
と、国民の労苦を心へ受け止めた。
第十七条では、
重要な事柄を一人だけで決定してはならない。必ず多くの者と話し合いなさい。
と述べ、政治運営の基礎を共同体精神へ置いた。
これらはすべて、「和を尊ぶ」という第一条と、「自分と他者を平等にし、人々と苦しみや喜びを共有する」という『維摩経義疏』の精神を、国家組織へ表現したものである。
社会全体で協力する信念を政治の現実へ示し、その絶え間ない実現へ、生涯を通じて苦労を捧げた証拠なのである。
そのため聖徳太子にとって、国家統治は、英雄が一人で成し遂げる事業ではなかった。
十七条憲法第七条は、次のように述べる。
賢く道理に通じた者を官職へ任命すれば、人々の称賛の声が起こる。悪い者が官職を持てば、災いと混乱が多くなる。
生まれながらにすべてを理解する者は少ない。深く思い、努力することによって聖人となる。
仕事に大小はない。適切な人を得れば必ず治まる。時代が緊急であるか平穏であるかにかかわらず、賢者を得れば自然に余裕が生まれる。
これによって国家は永続し、国家の基礎が危うくなることはない。
制度や政策のすべては、それを運用する人間へ帰着する。
その「人」の問題とは、人間の内面的な信念の問題である。
生まれながらにすべてを理解する者は少ない。深く思い、努力することによって聖人となる。
この言葉は、信念と修養によって、曇りのない真心を実現し、政治を担う重い任務へ当たらなければならないことを示す。
第十四条の、
群臣と多くの役人は、嫉妬してはならない。
という教えも、同じ精神を表す。
個人の自己へ執着するために、嫉妬と対立が生じ、賢者が存在しても社会で用いられなければ、国家生活の円満な発展は望めない。
個人的な名誉と利益へ執着し、人生の価値を外面的な境遇の優越によって判断すると、他者へ勝とうとし、嫉妬を起こす。
知恵が自分より優れている者を喜ばず、才能が自分より優れている者を嫉妬する。
という卑しい心が生じる。
その結果、聖人や賢者が存在していても、それにふさわしい役割を与えられず、
500年にして、ようやく一人の賢者へ出会い、1000年にして一人の聖人を待つことさえ難しい。
という悲しむべき状態になる。
こうして、国家の政治は長く適切な人材を得られなくなる。
太子は群臣や役人へ、嫉妬せず、調和し、協力して、公のために尽くすよう訓戒した。
同時に、政治の道に本当に適した人を求め、世に聖人と賢者が現れることを願った。
聖人や賢者を得られないならば、何によって国を治めることができようか。
という結びの言葉は、この精神を明確に示している。
国民全体の運命を左右する政治は、個人の自己を社会全体のために捧げる、誠実な人格によってのみ行われなければならない。
そして太子は、その人格を育てる教育と教化について、
極端に悪い人は少ない。よく教えれば、その教えに従う。三宝へ帰依しないならば、何によって曲がった心を正すことができようか。
と述べたのである。
聖徳太子は、同胞を憐れみ救う願いと一体となって、宗教的教化と政治制度のすべてを自らの精神へ総合し、政治の現実へ示した。
社会全体で協力する信念を制度と政策に表現する政治の理想は、現世での名誉と利益の追求を退け、永遠で真実な大道を思い、個人を社会全体へ捧げ、国家生活のために献身した、まれに見る偉大な精神によってのみ実現された。
『勝鬘経義疏』は、人々のために身体、生命、財産を常に捨てる覚悟を説く。
自分だけが世間を超越することを求めた大陸仏教の理想を退け、外面的な成果を求めず、人々の教化へ献身する内心の信仰を明らかにした。
これは、生と死からの解脱を現実生活で体験した、聖徳太子の思想の内容を示すものである。
国民がこの精神を仰ぐとき、内心の信仰は、生と死の動乱に満ちた現実の苦痛と障害を打ち破る。
真の協力生活が実現し、国家は永続する生命を受け継ぐことができる。
国家統治の原理は、生と死の問題を解決するところまで深められなければならない。
共同の信念と、内面的な平等への感動が、組織と秩序の基礎にならなければならないと、太子は示したのである。
『維摩経義疏』菩薩品では、善徳長者が、財産を施すことを功徳の行いとして実践したのに対し、維摩が批判し、仏法の施しを勧めた理由を説明している。
善徳長者は3年間財産を集め、7日間にわたって大規模な施しを行った。維摩が批判した理由には四つある。
第一に、財産による施しは多くても、いつか尽きる。
第二に、財産は人間の精神そのものを利益しない。
第三に、早く来た者は良いものを得て、後から来た者は粗末なものを得る。
第四に、施すときにも順番があり、すべての者へ同時に平等に与えることができない。
そのため、仏法を施すことを挙げ、財産だけの施しを批判した。
ただし菩薩は、相手の能力や状況に応じて施し、教化するため、行わないものはない。布施は六波羅蜜の最初の実践であり、人々を共同体へ導く四摂法の一つでもある。
財産を施してはならないというのではない。自分の財産による施しだけを究極のものとしたため、維摩は批判したのである。
著者は、ここで財産の施しは政治・経済上の制度を、仏法の施しは宗教的教化を暗示すると解釈する。
聖徳太子が、
菩薩は相手の能力や状況に応じて施し、教化するため、行わないものはない。
と述べたことは、人々の教化は、それぞれの個性と境遇を見極め、現実的な救護と、内面的な信仰の育成とが、互いに補い合うことで完成することを示す。
重要なのは、財産による施しそのものを否定していない点である。
財産を施してはならないというのではない。ただ、自分の財産による施しだけを究極のものとしたため、維摩は批判したのである。
という解釈には、政治・経済上の援助と、精神的教化のどちらか一方だけを絶対視しない、繊細な思想が示されている。
太子はまた、
自分自身で実践できないのに、どうして人々を救うことができようか。
と述べた。
自らの教化への願いを、実際の行動へ体現し、国民へ模範を示し、その内面的な願いを絶えず受け継ぎながら、統治の大事業へ力を尽くした。
内政と外交と、三宝を盛んにする宗教事業とが、常に表裏一体となったのは、この精神に基づく。
聖徳太子は、国民全体を包み込む教化活動を願い、『維摩経義疏』菩薩行品で、
上の者を敬い、下の者を慈しむことは、天の大いなる道理である。
と述べた。
その意味を、
愚かな人が持つ一つの徳であっても、知恵ある者の師となる。
名もない一人の男女であっても、一つの能力では私より優れている。
という言葉によって示した。
これは、名もない下層の民の真心をも治め導き、平等な教化を求めた、広大な精神を表すものである。
太子は、この大きな願いを自分の時代だけでなく、永遠の国民生活へ及ぼそうとした。
国家統治のために休む暇もない生活の中で、自ら『三経義疏』を著し、大陸文化を批判的に総合した内面的表現の中へ、この願いに基づく教化精神を永遠に残した。
国内外に困難を抱える国家生活を背負い、苦痛と動乱の中で、ただ一つの信仰を貫きながら大事業へ尽くした聖徳太子の心には、釈迦牟尼仏への深い思いがあったのである。
第二篇 聖徳太子による大乗仏教の批判的総合と国民教化
世間から離れて、自分だけが人生を超越しようとする人生観を退け、現実の国民生活の苦しみを背負った聖徳太子は、やがて、在家の身で説法する居士として、大乗仏教の理想的人格を体現したと伝えられる維摩詰の生活と思想に、自らの心の琴線と響き合う世界を見いだした。
『維摩経』は、維摩自身が説いた教えという形を取り、在家の居士として行う教化活動に即して、大乗仏教の根本哲理である「真空妙有」の思想を説く経典である。
真空妙有とは、宇宙と人生に存在するすべてのものは、固定された実体ではなく、その真相は空であると観察する一方、その空がそのまま、現実のあらゆる事象として存在し、働いていると見る思想である。
空へ囚われることも、有へ囚われることもない、自由で妨げられない心境を体得し、現実世界において、人々を教え導く自在な働きを現すことを中心とする。
この経典は中国で鳩摩羅什によって翻訳され、その優れた弟子である僧肇の『注維摩詰経』によって奥深い趣旨が明らかにされた。それは長く、中国と日本における『維摩経』研究の基礎となった。
僧肇は『注維摩詰経』で、経典の内容に従いながら、空と有とが互いに切り離せないという教義を、哲学と教化の両面から明らかにした。
また、その思想を、仏の根本的な真実の姿と、現実世界に現れる姿との関係を論じる「本迹思想」と結びつけたのである。
僧肇は、人々を教化するために現れる仏の身体は、あらゆる徳の本体である法身の境地から、現実世界へ姿を現したものだと考えた。
広大で何ものにも妨げられない法身の境地は、固定した姿も、対象を区別して知る知性も持たない。そのため、あらゆる賢者や聖者が、それぞれの姿で現れる根源となる。
法身は、真如・実相としては、空であり形を持たない。しかし、そのために、あらゆる現実の存在を包み込む働きと一体であり、二つに分かれない。
僧肇はこのように「真空妙有」の教義をさらに発展させ、その後の中国仏教の教義へ非常に大きな影響を与えた。
聖徳太子が僧肇の思想を深く参考にしたことは、すでに述べた。
しかし、同じ思想を取り入れたとしても、太子がそれをどのような内容として表現したのかを見ることで、太子の人生観はさらに明確になる。
そこで、僧肇の序文と聖徳太子の序文とを比較する。
僧肇は、次のように述べる。
『維摩詰不思議経』という名は、微細な真理を究め、あらゆる変化の働きを尽くした、絶妙な境地を表す。
その趣旨は深く奥深く、言葉や形によって測ることはできない。その道は三つの空の教えを超え、声聞や縁覚の論議が及ぶものではない。あらゆる分類された存在の外にあり、分別する心の領域を絶している。
果てしなく広大であり、作為を持たないのに、行わないものはない。なぜそうなるのかを知ることができないのに、そのように働くことができるため、「不思議」というのである。
なぜなら、聖者の智慧は、対象を分けて知ることがないのに、あらゆる存在をともに照らす。法身は固定した姿を持たないのに、さまざまな姿として同時に応じる。究極の響きは言葉を持たないのに、奥深い経典が広く行き渡る。深い方便の働きは計画を持たないのに、その行動は現実の事柄へ一致する。
そのため、あらゆる方面の人々を統合して救い、物事の意味を開き、事業を成し遂げることができる。
〔中略〕
この経典が明らかにするところでは、あらゆる実践を統一するには、方便の智慧を中心とする。徳の根本を築くには、六波羅蜜を基礎とする。迷う人々を救うには、慈悲を第一とする。究極の宗旨を語るなら、不二の門を入口とする。
これらの教えはすべて、不思議という根本の道理である。須弥灯王仏のもとから座席を借り、香積仏の国から食事を求め、手で三千大千世界を受け止め、一室の中へ天地を包み込むことなどは、不思議が現実に現れた働きである。
これに対し、聖徳太子は、次のように表現した。
維摩詰は、すでに完全な悟りへ到達した大聖者である。
その根本を論じれば、すでに真如と深く一つになっている。現実に現れた姿を論じれば、あらゆる人々や存在と同じ広がりを持つ。
その徳は、多くの聖者の上に立ち、その道は、分別する心の領域を超えている。作為を持たないことを行いとし、固定した姿を持たないことを姿とする。どうして名前や形によって呼ぶことができようか。
国家や世間の事業を煩わしいものとする。しかし、大いなる慈悲は止むことがなく、その志は人々を利益することにある。
外形は世俗の居士と同じで、ヴァイシャーリーの村に住んでいた。しかし、人々を教化する縁が終わり、まさに奥深い根源へ帰ろうとするとき、自らの身体に病がある姿を示し、仮に寝床へ横たわった。
その病をきっかけとして、人々に見舞いを求めさせ、「不思議」の道理を明らかにしようとしたのである。
そのため文殊は時期を知り、仏の意図を受けて病を見舞った。そして菩薩のさまざまな優れた行いを明らかにし、新たに大乗の道を志す者を励ました。
したがって、この病の本体は必ず、大いなる慈悲を根本とする。この教えが説かれた目的は、小乗を抑え、大乗を明らかにすることにある。
僧肇は、維摩が説く教えの深遠さをたたえ、その解脱の優れた境地を説明するため、
果てしなく広大で、作為がないのに、行わないものはない。
聖者の智慧は、分別して知ることがないのに、あらゆる存在をともに照らす。
という、深く抽象的な思想世界を、精密な言葉によって表現している。
僧肇の、
究極の響きは言葉を持たないのに、奥深い経典は広く行き渡る。
という言葉は、法身による完全な悟りの真実の境地は、言葉や形が入り込むことのできない、芸術の究極に似た境地であるため、かえって限りない言葉による表現を生むと説くものである。
空と有とが一体であることを、繊細な思想の転換によって説明する点には、僧肇の澄み切った思考が示されている。
しかし、聖者の智慧とあらゆる存在、法身とさまざまな現実の姿という概念が、どのような具体的体験によって一体化するのかを表現しなければ、深遠な観念の言葉も具体性を失い、再び瞑想上の観念を形式的に示すだけのものとなる。
僧肇の本迹思想でも、経典が説く真理に「不思議」の根本を見て、維摩が示す神通の働きに「不思議」の現れを見いだし、
根本と現れた姿とは異なるが、不思議という点では一つである。
と論じる。
しかし著者は、これも経典の哲学的な説明を大きく超えるものではないと評価する。
これに対して聖徳太子は、維摩の教えがどれほど深遠かを論じるより先に、維摩を、すでに完全な悟りへ到達した大聖者として捉え、その人格と体験を重視した。
そして、維摩という人格の中で、本と迹とが二つではないという教義を、生きたものとして表現したのである。
太子は、
その根本を論じれば、真如と深く一つになっている。
と、永遠の生命へ一体化した内面的な解脱を示す。
一方、現実に現れた姿については、
あらゆる人々や存在と同じ広がりを持つ。
と述べる。
内面的な解脱が、動乱と無限の違いを持つ現実生活全体を、そのまま清めることを明らかにしたのである。
ここで「本」は内心を、「迹」は現実の実践を指す。太子は両者の内面的な関係を説明し、
その徳は、多くの聖者の上に立つ。
と、道徳的実践の真の意味を完成した維摩の、内心の悟りをたたえた。
その道は、分別する心の領域を超えている。
という言葉も、一人の人格の現実に実現された道を意味し、単なる広大で作為のない観念世界を指すのではない。
維摩という理想的人格を思うことにより、太子は、
作為を持たないことを行いとし、固定した姿を持たないことを姿とする。
という、形への執着を離れた空の教義が、実際に生きて働いている証拠を見た。
そして表現を大きく転じ、
国家や世間の事業を煩わしいものとする。しかし、大いなる慈悲は止むことがなく、その志は人々を利益することにある。
と述べる。
著者は、ここで太子が維摩の現実の姿を語りながら、自分自身の体験を告白したと解釈する。
人生全体と、時代の動乱や罪と苦しみを、自分自身の心の奥まで追究した聖徳太子は、外面的な事業の成果だけに、究極の価値を求めたのではない。
「国家の事業を煩わしいものとする」という言葉は、人生の暗さと悲しみへ目覚め、英雄的な外面的功績だけを求めなかった、厳粛な内面生活を示す。
しかし、罪と苦しみに満ちた人生から離れたいという願いは、自分自身のためだけではなかった。
民衆の罪と苦しみを、自分の苦しみとして受け止め、教化と救済を願う、止むことのない大慈悲があった。
名誉と利益の世界を煩わしいものとする、真実を求める誠実さの中で、太子は国家の事業へその身を捧げ、終わることのない苦闘の人生へ入ったのである。
真如と深く一つになった心境が、そのまま、あらゆる人々や存在と同じ広がりを持つと説かれる背景には、本と迹とが二つではなく、空と有とが互いに切り離せないという教義がある。
しかし、その教義が具体的な生命を持つのは、聖徳太子が現実の世を煩わしいものと感じながらも、自分自身だけの解脱を求めず、真実を求める心を常に人々を教化する大慈悲の心へ変え、動乱と苦痛に満ちた現実生活を清めるという、信念と体験を告白したためである。
内面的な解脱と、外界における実践との一致は、太子の心が常に人々の生活へ注がれた、切実な体験を内容として明らかにされる。
そのことによって、本と迹が一致するという教義が、人間の内面における事実となる。
現実生活そのものを内容とする「体験の宗教」は、聖徳太子によって明らかにされたのである。
概念と理論は具体的な体験を伴い、学問と哲学は、現実に生きる信念へ融合される。
そこに、真の「人生の学問」が示される。
中国大陸の思想は、聖徳太子の心の中で、現実に生きる生命を得るための故郷を見いだしたのである。
日本は古くから、
神々の意志のままにあり、ことさらに理屈を言い立てない国
と『万葉集』に歌われてきた。
これは、すべてを神の心へ従わせ、人間の知恵によって大げさに理屈を立てない国である、という意味である。
この言葉は『万葉集』の歌人が詠んだものだが、古い神の時代から語り継がれ、言い継がれてきた精神を表す言葉でもある。
人生の進路を、煩雑な論理よりも、神を仰ぐ素直な心に求め、観念上の瞑想よりも、直接の体験を重視した日本の祖先の精神生活が、どの方向へ進んだかを示している。
喜び、悲しみ、動乱をそのまま受け止め、地上の生を愛し、静止した観念よりも切迫した現実を重んじてきた祖先の内面的生活は、『古事記』『日本書紀』『万葉集』の神話と歌に、永くその姿を残している。
ただし、それは、あらゆる学問や理論を退け、人生の複雑さを究めようとしない、発展する力を持たない精神ではなかった。
ことさらに理屈を言い立てない国民の感情と意志は、外来のあらゆる言葉と理論を、現実に生きて働くものへ変える力を持っていた。
現実の生を内容とする思想と学問を生み出す、統一する力を持っていたのである。
東洋文化を選択し、統一してきた日本文化の歴史的発展は、そのことを示している。
その先駆的な光は、聖徳太子の精神によって初めて明確に示された。
そして著者は、日本文化を創始するこの偉業が、聖徳太子の、悲しみを背負った大きな願いと体験によって成し遂げられたと考える。
これまで著者は、大乗仏教の「真空妙有」という哲学的教義と、それに基づく僧肇の本迹思想を、聖徳太子が自らの信念と体験によって、生きたものへ変えた姿の一端を論じてきた。
ここからはさらに、仏教の無我思想を、太子がどのように内面的に純化したかを、『三経義疏』と十七条憲法の内容に沿って考察する。
『維摩経』方便品では、維摩居士が病を現し、訪れた求道者へ説法する場面で、地・水・火・風の四大を比喩として、無我を次のように説く。
この身体には主人がいない。大地のようなものである。
この身体には固定された自己がない。火のようなものである。
この身体には永続する寿命がない。風のようなものである。
この身体には固定した人間主体がない。水のようなものである。
この身体は実体ではなく、四大を一時的な住みかとしている。
この経文に対する中国大陸の学者たちの解釈と、聖徳太子の注釈とを比較すると、同じ無我思想を表現しながらも、その内容に繊細な違いがある。
仏教において、無我の教義は、宗教思想の中で重要な位置を占める。
釈尊は、人間の罪と苦しみの根源を、自分の欲望と、自分という存在への執着にあると見た。
この真理を求める精神は、「あらゆるものは変化し、永遠に同じ状態にはとどまらない」という人生観とともに、現実の個人としての自己も変化し、固定した実体を持たないことを明らかにする。
それによって、自己の欲望に縛られた状態を超え、内面的に自由な生命を実現するよう示したのである。
その背景には、宇宙と人生のすべてを、さまざまな原因と条件によって一時的に生じたものと見て、その変化と生滅を説く世界観がある。
したがって、固定した実体を持たないのは、個人としての自己だけではない。あらゆる現象は変化し、それ自体で独立して存在する性質を持たない。
ここから、「自己は空である」という我空と、「あらゆる事物も空である」という法空の教義が発展した。
無我を説明するため、仏教では、人間を構成する精神的・物質的要素を分析し、「五蘊はすべて空である」など、さまざまな教説を展開した。
五蘊皆空とは、身体や人格を、色・受・想・行・識という五つの要素が一時的に組み合わさったものとして見て、固定した実体が存在しないと理解することである。
また、人間の認識活動を基準に説明する場合には、十八界という分類を用いる。
物質的な構成要素を中心に見る場合には、地・水・火・風の四大、あるいは地・水・火・風・空・識の六大が一時的に集まったものとして、身体の空を説く。
『維摩経』が四大の比喩によって無我を説くのも、この教えを表したものである。
大乗仏教では、自己とすべての事物が空であるという道理を体得すれば、個人としての自己にも、心や物質の対象にも束縛されず、自由自在に人々を教化する働きが現れるとする。
そこに、空と現実の存在とは切り離されず、一体であるという「空有相即」の哲理が示される。
しかし、あらゆる事象を、その構成要素へ分解して理解しようとする、自然科学に似た分析的方法には、無我に基づく純粋な道徳生活を実現するための実践的意義がある一方、問題もある。
生きた人間同士の関係が発展する微妙さを捉えるよりも、すべてを機械的に空であると観察し、広大ではあるが、生気に乏しい人生観を生みやすいのである。
人間の身体を、
組み合わせれば柴の庵となり、解き離せば元の野原へ戻る。
と詠んだ歌も、そのような人生観を表している。
もちろん、この問題を論じるには、天台宗の三諦円融・一念三千や、華厳思想の、あらゆる存在が重なり合いながら無限に関係する法界縁起の展開も考慮する必要がある。
しかし、ここでは聖徳太子が無我をどのように考えたかを中心とし、太子が直接参考にした僧肇の注釈と、太子に近い時代の中国大陸で作られた『維摩経』の注釈書を、太子の注釈と比較する。
最初に、天台大師の説明を見る。
天台は、風と水の比喩について、おおよそ次のように述べる。
風は互いに触れ合い、動くことによって生じる。軽く、空虚で、自由に空中を動き、妨げられない。そのような風に、固定した寿命があるだろうか。
『大集経』は、息を吸い、吐くことを寿命と呼ぶ。しかし、息は入っても内部へ蓄積せず、出ても分散した実体を残さない。来るときに通った道はなく、去るときに歩いた跡もない。空中の風のように、探しても得られない。風に寿命がないのだから、呼吸にも固定した寿命はない。
〔中略〕
水は微細な要素によって成立し、固定した性質を持たない。固定した性質がなければ、水という実体もない。身体も三つの事柄によって成立し、固定した性質を持たない。固定した性質がなければ、固定した人間主体もない。
水の中に影を見て、人がいると思っても、水へ入って探せば、その人を得ることはできない。身体を構成する事柄を見て、それを一人の固定した人間だと思うが、深く観察すれば、固定した身体の姿も、人間主体も見いだせない。
この解釈は、風と水には固定した主体がない理由を論じている。
風が軽く、空虚で、自由に動き、実体を持たないことを、人間の寿命が変化し続けることへたとえる。また、水に固定した性質がないことから、身体の空を、水中の影へ比較する。
天台が一念三千を説き、自分の心に宇宙と人間のあらゆる存在が自在に関係し合うことを観察する哲理は深遠である。
しかし著者は、この箇所の解釈は、経典の一般的な意味を説明するにとどまり、人間に固定した自己がないことを、四大が一時的に組み合わさったという分析によって説明していると評価する。
慧遠の『維摩義記』と、吉蔵の『維摩経義疏』も、同じ領域を出ない。
鳩摩羅什と僧肇の注釈のうち、聖徳太子の説明へ比較的近いものは、次のような内容である。
僧肇は風について、
永く存在して変化しないものを寿命という。しかし、外界の風は、気が集まり、吹き動き、動くことも止まることも一定しない。風には固定した寿命がない。外の風に寿命がないなら、身体の内側の息にも、固定した寿命がないことが分かる。
と述べる。
鳩摩羅什は水について、
水は澄み、清らかで、塵や汚れを洗う。曲がった容器にも、まっすぐな容器にも、四角にも円にも、その時々の形へ従う。
しかし、実際に調べれば、そのような働きを行う固定した主体は誰なのか。
身体も同じである。見たり、理解したり、進んだり止まったりし、物事に応じて変化する。さまざまな条件を仮に借りて働き、数多くの要素に従って行動する。その原因を詳しく調べても、固定した人間主体は存在しない。
と説明する。
僧肇の風の解釈には、特に目立ったものはない。
鳩摩羅什の水の解釈は、言葉としては洗練されているが、結論としては、身体が原因と条件の一時的な組み合わせであると説明するだけである。
これに対して、聖徳太子の注釈は、四大の比喩によって、自己に固定した実体がないと説明するだけでは終わらない。
その表現には、この思想を自らの体験として生かした解釈者の、内心の鼓動が伝わっている。
太子は、次のように述べる。
「この身体は実体ではない」以下の文は、四大を通して、ほかの事柄へ関連づけながら、無我を明らかにする。
大地のようだというのは、大地が微細な要素によって一時的に支えられ、固定した主人を持たないからである。この身体も同じく、五蘊が一時的に集まったもので、主人を持たない。
〔中略〕
風のようだというのは、風は連続して保たれ、動き続けるが、主人を持たないからである。一つ一つの思いも連続して保たれるが、主人を持たない。それが風のようだという意味である。
水のようだというのは、水は四角や円など、容器の形へ従い、固定した実体を持たないからである。この身体も、礼に従って曲げ伸ばしされ、固定した主人を持たない。それが水のようだという意味である。
この言葉は短いが、単に経典の語句を説明するものではない。
太子が、経文の意味を自らの心で味わい、受け止めた内容を表現している。
風について、「連続して保たれ、動き続けるが、主人はない」と述べ、人間の生命が限りなく、速く発展していく様子を暗示する。
さらに「一つ一つの思いは連続して保たれるが、主人はない」と重ねる。
「自分」「他人」と呼ばれる個別の存在は、止まることのない現実の人生の展開の中では、一瞬も固定されない。そのことを表現しているのである。
さらに、水が四角や円の形へ従い、固定した実体を持たないという比喩について、
この身体は、礼に従って曲げ伸ばしされ、主人を持たない。
という言葉を重視しなければならない。
水に固定した性質がないことを観察するときにも、聖徳太子は、社会の秩序へ誠実に従い、行動の基準を、個人としての自己だけに求めてはならないという、国民生活の大道を連想したと、著者は考える。
中国大陸の学者は、宇宙と人間を構成する要素の分析によって無我を論じたが、人生全体の具体的な事実を反映する表現は示さなかった。
これに対し、聖徳太子は、自らを現実の動乱の中へ置き、常に国民生活へ心を注ぎ、生命の無限の鼓動に従って苦闘した。
その体験を反映した言葉として、深く読むべきなのである。
このため、『維摩経』菩薩品の、
無我の法によって、忍辱波羅蜜を起こす。
という文に対する解釈にも、違いが現れる。
鳩摩羅什は、次のように述べる。
忍耐の修行を始めたばかりのときは、自分のために福を求めて忍ぶ。修行が深くなると、自己を忘れて忍ぶ。
また、自己がそのまま無我であると理解できれば、苦しみを受ける固定した者は存在しない。苦しみを受ける者がないため、忍べないことは何もない。無我によって忍耐を実践すれば、その福は尽きない。
吉蔵は、
無我によって忍耐を起こす。これは、人間主体が空であることを観察し、身体と心の固定した姿を離れることである。
と述べる。
天台大師は、
「無我の法によって忍辱を起こす」とは、施しを真実の立場から観察し、自己と無我とが二つではないと理解することである。それが真の無我である。真の無我を理解すれば、怒りへ囚われず、無理に忍ぶ必要もない。それが真の忍辱である。このことを人々の教化へ用いる点は、前と同じである。
と説明する。
鳩摩羅什は、自分がそのまま無我であるなら、苦しみを受ける固定した者がいないため、どのようなことも忍べると説く。
吉蔵は、人間主体が空であると観察し、身体と心への執着を離れることで、無我による忍耐が生じるとする。
天台は、中道と実相の理によって真の無我を修め、怒りを清め、人々を教化すると説明する。
いずれも、無我と忍辱との内面的関係を、大乗仏教の立場から解釈している。
特に天台が、中道の観察に基づく無我を論じ、怒りの純化を説く点には、独自の教義上の特色がある。
しかし著者は、これらも抽象的説明であり、個人が自分の内面を観察し、瞑想によって自己を忘れる境地を示すにとどまると見る。
これに対して、聖徳太子は次のように述べる。
「無我の法によって忍辱波羅蜜を起こす」とは、忍耐がなければ、自分と他者という区別を残したまま、平等で穏やかな心を保つことができない。そのため、忍耐を起こすというのである。
太子は、無我とは、自分と他者の間に平等で穏やかな心を実現することだと説明した。
自分と他者との融合にまで無我の教義を深め、忍辱の実践を、共同体精神の修行として、現実の道徳生活を支える融和の感情によって示したのである。
この意味は、前に述べた四大の比喩に対する太子の解釈と対応している。
また、『維摩経』文殊問疾品で、病を持つ菩薩へ心の整え方を説き、執着を離れるよう勧める箇所には、次のようにある。
このように観察しているとき、人々に対して執着を伴う慈悲を起こしたならば、直ちにそれを離れなければならない。
太子は、次のように解釈する。
執着を伴う慈悲は善ではある。しかし、なお固定した姿への執着を残しており、自分と他者という二つの立場を平等にし、広く人々を教化することができない。そのため、それを捨てなければならない。
また、執着を離れなければならない理由を、次のように説明する。
自ら修行し、他者を教化することを考え、心を整えたとしても、自分と他者を別々の存在として残したまま修行するならば、その実践は広くならず、人々と苦しみや喜びを共有することができない。そのため、執着を離れなければならないと勧めるのである。
この二つの言葉をあわせれば、太子の精神はより明確になる。
執着を残し、「愛見の慈悲」へ囚われることは、無我の理解へ徹底していないために生じる。
これは仏教本来の教えであり、『維摩経』の内容も、無我と空の道理を背景としている。
ただし、僧肇、慧遠、吉蔵、天台などは、中道・実相の教義によって説明するものの、そこに聖徳太子とは異なる人間心理の内容を、多くは示していないと著者は論じる。
「自分と他者を平等にする」「自分と他者の立場を同じくする」という表現は異なっていても、太子の心は一つである。
無我を説き、執着を離れるよう勧める仏教思想を、太子は、自分と他者が融合する心理的基礎へ変えた。
そして、人々と苦しみや喜びを共有し、平等に協力する大慈悲の心へ徹底した。
共同体で協力して生きる現実生活への思いが、これらの思想へ生命を与え、理知的で煩雑な哲学理論に付着した汚れを取り除いたのである。
十七条憲法第一条は、
和を最も尊いものとし、人へ逆らい争わないことを根本とする。
と、共同体の協力精神を示す。
続いて、
人にはそれぞれ党派があり、道理を理解した者は少ない。そのため、主君や父へ従わず、近隣の人々と争う。
と、人間の内面を見つめ、自己へ執着する弊害を教える。
第十五条でも、
私心に背き、公のために進むことが臣下の道である。人に私心があれば、必ず恨みが生じる。恨みがあれば、人々は一致しない。一致しなければ、私心によって公を妨げる。恨みが起これば、制度へ背き、法を害する。そのため第一条で、上の者と下の者が調和するよう述べたのである。
と教える。
これらも無我の思想と表裏一体である。
自分自身だけを考えず、国と人々のために力を尽くすところに、公正の真実の内容がある。
それは、個人の自己を社会全体へ捧げる、真実の信仰である。
この内面的基礎によって、法と秩序の世界を支え、共同体生活を円満に発展させようとしたのである。
宗教教義と、政治生活の法則は、こうして人生の体験へ一体化し、無我思想の内面化は、ここで究極へ達する。
中国大陸の学者たちは、哲学的な理論によって空と無我を観察し、修行した。
しかし著者によれば、そこには、現実の人生における道徳活動へ発展する、具体的な体験内容が表現されていない。
彼らの無我思想は、中道・実相の観察を重視するため、単に隠遁的で生気のない思想だと断定することはできない。
それでも、個人の能力に基づく特殊な観察法であり、個人を中心とした無我思想にとどまる。
聖徳太子のように、民衆全体の感情を照らし、同じ人生を生きながら、苦しみと喜びを共有する信仰の表現ではない。
四大の一時的な結合によって無我を説明しながら、それを人生の実践へ十分に展開できないことは、本来は総合的に直観すべき人生を、分析的な機械的論理によって説明しようとする、空虚な形式を示すと著者は批判する。
彼らは、固定した姿のない空を語り、三諦円融を明らかにし、宇宙と人生が自由に関係し合うことを理論では説いた。
しかし、暗闇と光、悲しみと喜びが複雑に交わる現実の人生を深く見通し、融合と協力の生活を実現する、内面的な生命の光を示さなかった。
その教義と言葉は、国を新しく興そうとする民衆の声とはならなかったというのである。
これに対して聖徳太子は、外来の教義を自らの内面へ取り込み、現実の人生を導く法則として示した。
釈尊の求道精神から生まれた無我の観念と、東洋に発展した無我意識に基づく宗教教義は、太子の切実で深い信念と体験によって現実世界で生きるものとなった。
そして著者は、家族的な国家共同体の精神が、統一する力の輝きを示したと論じる。
聖徳太子の信仰思想は、『三経義疏』と十七条憲法から読み取ることができる。
しかし、親しみのある日本語によって、その心を直接に感じさせるものが、『日本書紀』推古天皇紀に伝えられた、片岡山の歌である。
『日本書紀』は、推古天皇21年12月、皇太子が片岡山へ出かけ、道端に飢えた人が倒れているのを見つけ、名前を尋ねても答えなかったため、食べ物と飲み物を与え、自分の衣服を脱いで掛け、「安らかに寝なさい」と語り、次の歌を詠んだと伝える。
片岡山で、食べ物に飢えて倒れている旅人よ。ああ、なんと哀れなことか。
お前には親がいないのか。お前を守る君主もいないのか。
食べ物に飢えて倒れている、その旅人よ。ああ、なんと哀れなことか。
聖徳太子の歌としては、『上宮聖徳法王帝説』が、太子の死の近くに、先に亡くなった妃を悲しんで詠んだ歌を伝えるほか、わずか二首しか残っていない。
しかし、どちらも現実世界の悲しみを詠んだ抒情詩であり、そこに『三経義疏』や十七条憲法へつながる、太子の心の生きた表現を見ることができる。
太子は、片岡山の道端で、飢えて倒れている人を見て、深く憐れんだ。
その歌の形式は素朴だが、言葉の高い調べには、太子の切実な心が、直接私たちの胸へ迫る力がある。
「片岡山に、食べ物に飢えて倒れている旅人よ。ああ、哀れだ」と、目の前で感じた痛みをそのまま述べる。
そして「お前には親がいないのか」と、その人の運命と心理を深く考え、再び「その旅人よ、ああ、哀れだ」と繰り返す。
同じ言葉を前後で大きく繰り返すのは、内心の思いがあまりにも切実で、息をつくこともできず、一首全体が、終わることのないリズムの波へ融合したためだと、著者は読む。
憐れむ太子の心の中で、飢えた人の悲しい運命は、生きた現実となる。
歌は、特定の一人だけの感情へとどまらないほど、人格全体を貫く痛みが、悲しみの奥底まで届く。
自分は他者の中へ入り、他者は自分の中で生きる。
人生の大海へ、限りない慰めの光を与えるのである。
これは、
すべての人々と、その苦しみや喜びをともにする。
という『維摩経義疏』の心が、日本語の歌として現れたものだと著者は考える。
「人生は無常なのだから解脱を求めなければならない」という、知性だけで組み立てられた宗教教義の形式は、この歌には残っていない。
はかない無常の人生に向けられた、切実な慈しみそのものが、永遠で限りない生命を、私たちの心へ注ぐ。
単純な言葉の形に、深い心が込められており、十七条憲法と『三経義疏』の言葉へ直接つながっている。
ここでは、この歌に現れた人生観を『三経義疏』の中にも確認し、日本精神の輝きを、外来文化の上へ現した太子の精神を明らかにする。
『維摩経』文殊問疾品には、
自分自身の病によって、他者の病を憐れむ。
とある。
吉蔵は、この文を次のように説明する。
自分自身の病を他者の病へ重ね、人々を悲しむようにさせる。
智慧を持つ自分の軽い病でさえ、このような苦しみがある。まして、悪い境遇にある人々が受ける限りない苦しみは、どれほどであろうか。
自分自身を基準として他者を憐れむことは、菩薩が自他をともに救おうとする心である。
聖徳太子は、次のように解釈する。
自分自身を基準として、他者の苦しみを考えなさい。自分の軽い苦しみでさえ、このようである。まして、地獄・餓鬼・畜生の世界にある重い苦しみは、どれほどであろうか。
そのため、熱心に教化を行うべきだと説くのである。
儒教の書にも、「身近な自分自身から比べて考えられることが、仁を実践する方法である」とある。
聖徳太子は、ここで特に『論語』の、
自分にとって身近な事柄から、他者へ推し及ぼすことが、仁の実践方法である。
という言葉を引用し、自らの思想を示した。
中国大陸の注釈者が、「自分の苦しみから他者を憐れむのが、菩薩の心である」という一般的な哲学的説明にとどまるのに対して、聖徳太子は、経文を教義として説明するだけで終わらない。
この経文から、人間に普遍的な心理法則を見いだし、自分が直接経験した事実に照らして、他者のことを考えるべきだと述べる。
形式上は小さな違いに見えても、内容には著しい対照がある。
自分の心を他者の心へ注ぎ、他者の心を自分の心の中で見る。
それが人間の慈しみの根拠であると示している。
片岡山で飢えた人を見て、「お前には親がいないのか」と詠んだ、人間の苦しい運命への洞察は、この人生観から生じたものである。
国民の生活を思う限りない心は、大乗仏典を、人間の内面への洞察として生きたものへ変え、すべての人を平等に慈しむ教化の理想へ、具体的な内容を与えた。
無常で動乱する人生を、人々とともに戦いながら生きる生命は、この心によって初めて開かれるのである。
『法華経』安楽行品は、菩薩が近づくべき場所について、最初に、
常に坐禅を好み、静かな場所にあって、その心を修め、整える。
と説く。
光宅寺法雲は、この文を経典の通常の構成に従い、菩薩が近づくべき場所についての説明だと解釈した。
しかし聖徳太子は、むしろ、近づくべきではない状態についての説明だと考え、次のように述べる。
この部分について、基本となる注釈書は、前の散文の文章へ対応させ、同じ内容を偈として繰り返したものだと説明する。
しかし私の考えでは、少し納得できないため、単に偈として読み、前の文章を繰り返したものとは考えない。
「誤った分別」以下の二行の偈は、前の「常に坐禅を好む」という文を説明している。最初の一句は、坐禅を好む理由を述べ、次の一句は、正しく「常に坐禅を好む」という文を説明する。
その意味は、誤った分別の心を持つため、現実生活を捨て、山の中へ行って、常に坐禅だけを好むということである。
そのように暮らしているならば、いつ、この『法華経』を世間へ広めることができるだろうか。
したがって、「常に坐禅を好む」という状態は、なお、菩薩が近づくべきではない境地へ含めるべきだと分かる。
安楽行品には、菩薩が近づくべき場所と、近づくべきではない場所を説明する散文があり、続く偈がその内容を改めて説く。
光宅寺法雲は、偈の各部分を一つ一つ散文へ対応させ、文章全体を形式的に整え、論理的に説明しようとした。
これに対して聖徳太子は、常に仏の教え全体の目的を考え、その真意へ到達すべきだとする。
そのため、
私の考えでは少し納得できない。単に偈として読み、前の文章を繰り返したものとは考えない。
と述べた。
個々の語句の論理的な関係を分析する場合も、仏の教えを貫く全体的精神の中へ統合して理解しなければならないと示したのである。
このような例は、『三経義疏』の随所に見ることができる。
『法華経』五百弟子受記品には、理解力が低いとされた弟子たちが、仏の一乗の教えを理解し、仏の深い恩を思い、衣の中に縫いつけられた宝珠の比喩によって、自らの思いを述べる場面がある。
その経文には、
ある人が親しい友人の家へ行き、酒に酔って眠った。
とある。
聖徳太子は、
親しい友人の家へ行った後に酒へ酔ったというならば、親友が酒を与え、その人を酔わせたことになる。
と指摘する。
この比喩の内面的な意味から考えても、聖人が、人々の煩悩を生じさせる原因になってはならない。
そのため太子は、
この文章は、語順が少し逆になっている。「ある人が酒に酔い、親しい友人の家へ行って眠った」と言うべきである。
と、経文の語順そのものを訂正した。
著者は、この解釈にも、人と人とが互いの心を守る、友情の誠実さが示されていると見る。
また、それと同じように、自ら実践し、他者を教える聖人は、人々の煩悩の原因になってはならないと明らかにしている。
人生が進むべき大道を具体化しようとする聖徳太子の心は、経典の表現方法に対しても、厳粛で精密な内面的批判を行ったのである。
聖徳太子は、大乗経典の思想内容を究める場合にも、経典の外面的な文章形式だけに従わなかった。
個々の語句を分析して理解することを、人格全体を貫く信念の中へ取り込み、一部分だけへ停滞することを退けた。
この、あらゆるものを円満に関係づけ、妨げられない生命は、
大いなる慈悲は止むことがない。
と述べ、国家の組織と秩序へ生命を与え、融合と協力の信仰を体現した、聖徳太子の心と一つのものなのである。
「常に坐禅を好む」という言葉を、菩薩が近づくべき最初の場所へ含める解釈は、吉蔵の『法華義疏』や、天台大師の『法華文句』にも見られる。
それらは経典本来の文章構成に基づくものであり、決して誤った解釈ではない。
しかし聖徳太子は、その中の「常に」という言葉へ、特に注意を向けた。
「常に坐禅を好む」といえば、自分個人の解脱を目指す修行だけに、日常生活のすべてを費やすことを意味する。
そのため太子は、生と死を超越するという理想を、自分一人の世界へ限定する、偏った人生観へ陥ることを戒めた。
太子は、この言葉を、『法華経』の偈にある、
誤った分別によって、さまざまな存在について、ある・ない、真実・真実でない、生じる・生じないと考える。
という文と対応させ、
誤った分別の心を持つため、現実の生活を捨てて山の中へ行き、常に坐禅だけを好むのである。
と説明した。
個人的に世間を超越する人生観は、すべての人がともに進むべき大道ではない。
そのように暮らしているならば、いつ、この経典を世間へ広めることができるだろうか。
という強い言葉には、国民を教え導こうとする、深い願いが示されている。
その言葉の調べは、一瞬も止まることのない、太子の内心の脈動を伝える。
常に民衆の生活を思い、休む暇のない苦闘の生涯を貫いた精神は、これらの言葉へ自然に表れている。
また、経典の注釈における精密な観察と批判も、この内面的な力から生じたのである。
片岡山の歌で、無常の人生の苦しみの中に倒れた民を悲しんだ、強い言葉の調べも、ここで思い合わせるべきである。
この心は、常に現実の国土を愛し、限りない願いと努力によって苦闘した神々と祖先の感情へ通じている。
さらに、日本の心を行動と言葉へ示してきた、多くの国民の真心へ連なっている。
そこで著者は、聖徳太子の表現を、太子の死から近い時代に現れた国民的詩人、柿本人麻呂の歌と比較する。
柿本人麻呂が多くの歌を残した持統・文武天皇の時代には、すでに大化改新と壬申の乱を経ていた。
過渡期の動揺の中で、律令制度の制定と中央集権の確立が進んだ。
推古朝以来、急速に取り入れられた大陸文化の刺激によって、政治、学問、造形芸術など、あらゆる分野で国民文化が発展し、やがて天平文化の盛期を迎えようとする、新しい時代であった。
深い痛みを感じる心と、強い意志を持った詩人が、この時代に仕え、国民の生命を力強く表現する作品を残したことは、自然なことであったと著者は考える。
柿本人麻呂には、人生の無常と悲しみを詠んだ歌が多い。
それは、人生の核心へ深く到達した、詩人の真実の感情を示している。
しかし、人麻呂の無常への嘆きは、世間から退いて静かに悲しむだけの表現ではなかった。
動乱する人生の苦痛に耐えて生きた、強い内面の証拠なのである。
妻の死を知って作った長歌で、人麻呂は、亡き妻がいつも出て見ていた軽の市へ行き、次のように詠む。
私の恋しさの、千分の一でも慰められることがあるだろうかと思い、妻がいつも出て見ていた軽の市へ行った。
そこに立って耳を澄ませても、畝傍山に鳴く鳥の声も聞こえない。道を歩く人にも、一人として妻に似た者はいない。
どうすることもできず、妻の名を呼びながら、袖を振った。
また反歌では、
昨年、妻とともに見た秋の月は、今年も同じように照っている。しかし、ともに見た妻は、年月とともにますます遠ざかっていく。
引手の山へ妻を葬り、山道を帰っていくと、自分が生きているとも思えない。
と歌う。
死んだ妻を思い続ける尽きない感情は、妻がいつも姿を現していた軽の市へ立ち、まだ生きていた日のように、その姿を求めようとする。
畝傍山の鳥の声も聞こえず、妻に似た人が一人も通らない、静まり返った世界で、人麻呂は、生前と同じように妻の名を呼び、袖を振った一瞬の感情を歌った。
澄み切った秋の月を見て、ともに月を見た夜を思う歌も、単なる過去の思い出の説明ではない。
ともに見た妻は、年月とともにますます遠ざかる。
という結びには、永久に解決できない人生の事実への痛みが、限りない悲しみを呼び起こしている。
人麻呂は、知性によって簡単な解決を与えようとせず、無常な人生そのものを経験する中へ、死者を思う切実な感情を託した。
死んだ人を現在へよみがえらせるような感情の力が、時間による隔たりを心の中で溶かそうとするのである。
さらに人麻呂が、仕えていた皇子や皇女の死を悼んだ長歌と短歌は、力強く、現実を直接見つめた、その生命の威厳を感じさせる。
高市皇子の殯宮を悼んだ長歌の終わりで、人麻呂は次のように歌う。
わが大君が、永遠の後世を思って造った香具山の宮は、どうして時とともに消え去るだろうか。
大空を仰ぐように遠く望み、心へ掛けて、いつまでもお慕いしよう。恐れ多いことではあるが。
皇子自身は亡くなっても、皇子が永遠の後世を思い、造った香具山の宮は、幾千年を経ても消えないと歌う。
人麻呂の思いの中で、過去は現在へよみがえり、現在は過去へつながる。
無常な生への痛みの極限にありながら、心の中に滅びない力を感じ、人間の運命の束縛からさえ抜け出そうとする。
こうして、皇子へ仕えた忠誠は、人麻呂の詩的情熱の中で、永遠の歴史的生命を持つ。
著者は、聖徳太子の歌が、無常な人生の苦しみを、すべての民とともに生きる強い生命として表し、『三経義疏』の言葉が、国民生活を背負う終わりのない苦闘の信念を示したことと、人麻呂の歌とを対応させる。
どちらも現実の地上の人生を愛し、動乱と苦痛から逃げず、人間には逆らえない運命に耐えながら戦ってきた、日本精神の力を示すというのである。
『勝鬘経義疏』摂受正法章では、正しい教えを受け入れ、実践する菩薩が、身体、生命、財産という三つを捨てる経文について、聖徳太子が解釈を加えている。
太子によれば、「摂受正法」とは、
あらゆる実践を一つの心へ収めることを「摂受」といい、その実践が道理にかない、誤りでないため「正」といい、人々の規範となるため「法」という。
という意味である。
したがって、摂受正法の菩薩とは、あらゆる徳ある行動の源となる、人格全体を統一する信念を体現した人である。
その実践は真実の道へかない、すべての人々を導く原理となる。
聖徳太子は、身体・生命・財産を捨てることについて、次のように述べる。
「身体を捨てる」以下の文は、身体を捨てることを説明する。「生命を捨てる」以下は、生命を捨てることを説明する。「財産を捨てる」以下は、財産を捨てることを説明する。
古い解釈では、身体を捨てるとは、自分の身体を他者へ投げ出し、奴として仕えることをいい、生命を捨てるとは、他者のために死ぬことだとする。
私の考えでは、生命を捨てることも身体を捨てることも、どちらも死を意味する。ただし、志の立て方が異なる。
飢えた虎へ自分の身体を投げ与える場合は、主として身体を捨てることに意味がある。正しい人が危機にあるのを見て、自分の命を差し出す場合は、生命を捨てることに意味がある。
財産を捨てるとは、身体の外にある物を捨てることである。
「未来の果てと等しく」というのは、未来を意味する。未来には終わりがない。したがって、常に捨て続けるという意味である。
ここで「得る」というのは、人々に得させるという意味である。
「すべての人々から優れた供養を得る」という語順は、少し逆になっている。「優れたすべての人々を供養できる」と言うべきである。
経典は、菩薩が煩悩に支配された身体・生命・財産を捨て、永遠の身体・生命・財産を得ると説く。
それは、生と死から解放され、永遠の生命を体得することを意味する。
聖徳太子は、身体を捨てることと、生命を捨てることは、志の違いはあっても、どちらも真理と人々のために死を覚悟する、求道と教化の精神であると説明した。
また、
未来には終わりがない。したがって、常に捨て続けるという意味である。
と述べ、捨身の真の意味を、一度だけの英雄的な死ではなく、日常生活で献身的な苦労を続けることへ求めた。
経典には、菩薩が、
限りがなく、永遠で、思議を超えた功徳を得て、あらゆる深い仏法へ通じる。
とある。
本来は、菩薩自身が功徳を得るという意味である。
しかし太子は、
「得る」とは、人々に得させることである。
と読み替えた。
吉蔵の『勝鬘経宝窟』にも見られない解釈であり、生と死を超える悟りを、すべての人々とともに得たいと願う、広大な慈悲の精神を示すと、著者は評価する。
さらに経典が、菩薩は「すべての人々から優れた供養を得る」と説くことについても、太子は語順を問題とする。
経典のままでは、身体・生命・財産を捨てながら、最後には自分が人々から供養されるという、個人中心の理想へ帰着する。
そのため太子は、
「すべての人々から優れた供養を得る」という語順は少し逆である。「優れたすべての人々を供養することができる」と言うべきである。
と訂正した。
身体、生命、財産を捨てる真の意味を徹底し、自分が供養されることを求めず、人々へ供養することへ向かったのである。
聖徳太子は、人生の究極的価値を、外面的な成果や報酬に求めなかった。
大乗経典の中にも残る、個人が世間を超越する思想を批判し、永遠の身体・生命・財産を得るという解脱の観念を、個人が簡単に完成へ到達する理想で終わらせなかった。
国と民のためにその身を捧げ、永遠に止むことのない求道の努力を続ける、切実な信念と体験へ変えたのである。
この思想は、十七条憲法第九条の、次の言葉と比較することができる。
信頼は正義の根本である。あらゆる事柄に信頼がなければならない。善悪や成功・失敗は、必ず信頼によって決まる。
群臣が同じ信頼を持てば、成し遂げられないことがあるだろうか。群臣に信頼がなければ、あらゆる事柄が失敗する。
ここで「義」とは、道徳的な法則を意味し、その根本には内心の信頼がある。
信頼とは統一であり、そのため、生命でもある。
あらゆる行動に信頼がなければならないということは、内心の信頼が、一つ一つの現実の実践へ具体化され、初めて統一された生命としての意味を持つということである。
道徳的に正しいか誤っているか、現実の行動が成功するか失敗するかは、すべて内心の信頼によって決まる。
群臣が同じ信頼を持てば、成し遂げられないことがあるだろうか。群臣に信頼がなければ、あらゆる事柄が失敗する。
この言葉は、外面的な制度や形式だけには頼れない、限りなく変化する人生を深く見通したものである。
上の者と下の者、同胞同士が一つになる信念によって、外界の困難を制御できたとき、国民生活は永遠に発展できると示したのである。
これは、『勝鬘経義疏』が説く、身体・生命・財産の三つを捨てる精神と対応している。
太子は国と民のために死を覚悟し、国民生活の運命を背負い、永遠に苦しみに耐える信仰の中で、生と死からの解脱を経験した。
あらゆる苦痛と障害へ立ち向かい、同胞を慈しみ、教え、国家を運営するために力を尽くした、厳粛で悲痛な内面生活を示す。
太子は、内政と外交を、三宝を盛んにする事業と常に表裏一体にした。
平等な大慈悲による教化で国民の精神を育て、その基礎に立って国家を統治し、日本文化の永続的な基礎を確立した。
その生涯の事業は、理想と現実、教化と政治とが、互いに一体となることによって生命を持ったのである。
当時の中国と対等な外交を成立させ、
東の天皇が、謹んで西の皇帝に申し上げる。
また、
日の昇るところの天子が、日の沈むところの天子へ書を送る。ご無事であるか。
という外交文書によって国威を明らかにしたと伝えられることも、同じ精神に基づく。
国内文化を充実させ、大陸文化を批判的に総合した大事業があったからこそ、対外的な威厳も成立したと、著者は考える。
第三篇 聖徳太子の信仰思想と国民精神
聖徳太子は幼い頃、父である用明天皇のもとで、仏・法・僧の三宝へ帰依する感化を受けた。
その後、自ら国民生活の責任を担う中で、大乗仏教の経典を研究し、国民とともに実現すべき永遠の大道を求めた。
太子は常に、次のように述べている。
自分自身で実践することができないのに、どうして人々を救うことができようか。
国家を治め、国民を育てる場合にも、まず自分自身が曇りのない真実を体現し、それによって人々を教え導かなければ、責任を本当に果たすことはできない。
この言葉からも、その精神を直接読み取ることができる。
太子の切実な求道精神は、「自分も他者も、ともに凡夫である」と告白し、まず、自分が不完全な存在であることへ目覚めるところから始まった。
懺悔と反省の真心によって、道を釈尊の教えへ求めたのである。
そのため太子は、大乗仏典を学んでも、教義理論を外側から研究するだけにとどまらなかった。
釈尊が現実世界の罪と苦しみを超えながら、清らかな信仰によって人々を救った、その実際の体験を思い、その精神を自分自身の心へ取り入れた。
人生が罪悪と苦しみに満ちた世界であることは、仏教経典の随所で説かれている。
しかし、それが単なる教義上の概念にとどまれば、最後には生命のない理論となる。
太子が「ともに凡夫である」と述べ、自分自身も欠点と罪悪を持つ、現実の人間であることを悲痛に告白したことは、罪と業を抱えた人生を、生きた事実として痛感していたことを示す。
この切実な内面的自覚によって初めて、人生の悪と苦しみを嫌い、永遠の信仰を求める真心を、絶えず持ち続けることができる。
したがって、太子の宗教的教化は、寺や塔を建てる外面的設備へ生命を預ける、形式的な宗教ではなかった。
学問と理論の外形へ執着し、信念と体験の力を持たない、学問上だけの宗教でもなかった。
菩薩は、自分の身体の苦しみを忘れ、人々と苦しみを共有しながら教化する。
という言葉のように、真実の信仰によって民衆と苦労を共有し、国家と人民をともに守ろうとする「人生宗教」を、実際に体現し、広めるものであった。
人生の悪と苦しみを嫌い、永遠の解脱を求める精神は、人類に普遍的な内面的要求である。
自分の心へ解脱の光を求め、さらにすべての人々の精神を救おうとすることも、人類全体に共通する平等の理想である。
この理想を体現した釈尊の世界宗教は、聖徳太子の体験によって、現実の人生で生きる生命を与えられた。
太子は、自ら解脱の精神を求めながら、国民の苦労を背負い、国家生活の教化と運営へ力を尽くしたのである。
したがって、太子が釈尊を仰いだのは、単に過去の偉大な宗教者としてでも、深遠な教義を説いた人物としてでもない。
ここから著者は、『勝鬘経義疏』に示された、宗教的信仰と道徳生活との内面的関係を表す言葉から始め、世界に通じる国民宗教を開いた太子の精神を明らかにしようとする。
引用される文章は、『勝鬘経』の「仏の真実の功徳をたたえる章」が、なぜ説かれたかを太子が説明したものである。
『勝鬘経』では、アヨーディヤー国の王妃・勝鬘が、もとは小乗の信仰へとどまっていた。
その父母である舎衛国の波斯匿王と末利夫人が手紙を送り、大乗の信仰を勧める。
勝鬘夫人は、これまでにない感動を起こし、空中へ姿を現した仏を仰ぎ、仏の真実の功徳をたたえる偈を説いた。
それが「仏の真実の功徳をたたえる章」である。
聖徳太子は、この経典の解釈をきっかけとして、大乗の道における信仰の意味を、次のように示した。
この章が説かれた理由は、勝鬘夫人が、これまで永遠に存在するものについて聞いたことがなく、今回初めて、父母から送られた手紙によって聞くことができたからである。
そのため、今日、永遠で真実なものをたたえ、それへ帰依することを願った。これは、以前のように無常なものへ帰依することとは異なる。
また、善を実践することの根本的な意味は、帰依にある。これからあらゆる実践の道を広く明らかにするため、帰依を最初に置くのである。
『優婆塞戒経』にも、三宝へ帰依せずに戒を受けたならば、その戒は強固なものにならず、絵具に接着剤が入っていないようなものだと説かれている。
国民生活の責任を背負い、真心を尽くして道を求め続けた太子の心は、常に悪を嫌い、善を願うものであった。
太子は『法華義疏』安楽行品で、四つの安楽行を次のように説明する。
四つの安楽行とは、第一に身体による善い行い、第二に言葉による善い行い、第三に心による善い行い、第四に慈悲の行いである。
これらを安楽行と呼ぶのは、四つの実践が、災いを離れて安らぎを得させ、遠い将来には安楽の結果をもたらすためである。
さまざまな修行はすべて勧められるべきなのに、なぜこの四つだけを特に勧めるのか。
最初の三つは自分自身の実践であり、最後の慈悲は、外へ向かって他者を教える実践である。
菩薩の道では、他者を正そうとするならば、まず自分自身を正しくする。自分を正すためには最初の三つに勝るものはなく、他者を正すためには慈悲を根本とする。
実践は数多くあるが、重要なものは、自分を正すことと、他者を慈しみ教えることとの二つにある。
菩薩がこの四つを実践できれば、上では諸仏からたたえられ、中では神々から守られ、下では人々から敬われる。
そうであれば、たとえ悪い時代であっても、武器による苦難や、悪い霊が身体へ入り込む混乱を心配する必要はない。まして、名誉を求める僧からの中傷や、悪僧による誤った戒律の非難を恐れる必要はない。
そのため仏は、この四つの実践に基づいて勧めるのである。
ただし、これは私自身の解釈である。基礎となる注釈書の説明は少し異なる。
この言葉は、自分自身を正し、他者を慈しみ、ともに教化と救済へ力を尽くすことが、あらゆる道徳的実践の根本であると示す。
そして太子は、
善を実践することの根本的な意味は、帰依にある。
と述べ、徳ある行動を支えるものは、内心の信仰であるとする。
外面的な行動は、それを内側から統一する信仰によって初めて生命を持つ。
『優婆塞戒経』の、
三宝へ帰依せずに戒を受けても、戒が強固にならないことは、絵具に接着剤がないようなものである。
という言葉も、同じ精神を示す。
内心の信仰に基づく道徳的実践だけが、本当の力を持つ。
太子は、道徳的実践を一つに統一する生命として、宗教的信仰を求めたのである。
外面的な道徳行為だけを精神生活の基準にすると、その行動を生み出す内面的動機の実質を見失い、形式を重視するだけの律法主義へ陥る。
外から人間の内面を縛るのではなく、内面から外へ働く信仰の力を身につけなければならない。
したがって、釈尊を英雄のように崇拝し、釈尊が行った外面的形式だけをまねることは、真の信仰ではない。
それは、姿や形へ執着する、小乗的な信仰である。
聖徳太子が、勝鬘夫人が大乗の信仰へ入ったことを、
以前のように無常なものへ帰依することとは異なる。
と述べたのは、この意味である。
無常な肉体を持って現れた釈尊を追憶し、その外形だけを学ぼうとすれば、過去のインド教団の道徳形式へ執着し、あらゆる時代と場所へ発展する教化活動は生まれない。
それは、太子が「すべての生きものが最後に帰る場所、あらゆる国にとって最高の教え」と呼んだ、帰依の対象ではない。
太子は釈尊を仰ぎ、永遠で真実なものへ帰依すると述べたのである。
「常住真実」とは、あらゆる徳の源である、永遠の生命を意味する。
『勝鬘経義疏』は、
真実とは、聖なる本体が完全に備わり、偽りがないことを「真」といい、最高の徳が堅固に存在し、空虚でないことを「実」という。
と説明する。
また、
永遠に存在する法身を、仏という宝とする。
とも述べる。
これは、人間の煩悩や罪悪に妨げられない、真実で大いなる慈悲を持つ仏の心を指す。
釈尊が本当に仏となったのは、この永遠の生命を体現し、すべての人々を救う最高の徳を完成したためである。
聖徳太子は、釈尊を仰いで、永遠で真実な生命へ帰依した。
この大乗の信仰に基づき、人々を教え導くことを願い、現実の国家生活における道徳活動へ、苦労を捧げたのである。
人格を持つ教祖への信仰は、このようにして初めて、真の生命を得る。
『維摩経』仏国品には、宝積長者が仏の限りない徳をたたえる偈がある。
聖徳太子は、その言葉を次のように解釈した。
経典には、「善い行いをする者にも、善くない行いをする者にも、等しく慈悲を向ける」とある。
これは、人々が悪い行いをしたり、善を実践したりする違いがあっても、仏は等しい慈悲を持ち、差別しないことを示す。
「心の働きは平等で、虚空のようである」とは、仏が平等である理由を説明する。平等の道理へ到達し、心を修めることが、何にも妨げられない虚空のようであるため、等しい慈悲を実現できる。
「誰が、人間の宝である仏のことを聞いて、敬い受け入れないだろうか」とは、誰がこの等しい慈悲を聞いて、仏へ帰依し、敬わないだろうか、という意味である。
僧肇は、「天の世界にあっては天の宝であり、人間の世界にあっては人間の宝である。天と人にとっての宝は、天や人の能力で作れるものではない。そのため、あらゆる存在が敬い、受け入れる」と述べている。
仏の真実は、その平等な慈悲に現れる。
太子は、すべての人々を覆い守る仏の最高の徳を思った。
仏は、悪い行いをする者も、善を実践する者も分け隔てずに慈しみ、平等な慈悲によって、すべての者を教え導く。
太子は、その心に永遠の光を見いだした。
これは、仏が自分と他者、善人と悪人という相対的な区別へ囚われず、平等の道理へ到達し、虚空のように、何ものにも妨げられない解脱の境地を体現したためである。
時代が変わり、道徳や習慣が変化しても、罪を犯す人々を真実の心へ戻し、迷う人々へ解脱の光を与えるものは、誰一人として見捨てない、平等な慈悲である。
太子が、
誰が、この等しい慈悲を聞いて、仏へ帰依し、敬わないだろうか。
と結び、僧肇の、
天の世界では天の宝、人間の世界では人間の宝である。
という言葉を引用したことには、その深い思いが表れている。
この慈悲を国民生活へ具体化すれば、
自分と他者という二つの立場を平等にし、人々と苦しみや喜びを共有する。
という、対立へ囚われない共同体協力の願いとなる。
そして、平等な慈悲を、違いのある現実世界へ実現する教育と教化の大事業となる。
この精神は、『法華経』譬喩品で、釈尊が教化のために歩んだ苦労をたたえる、聖徳太子の言葉にも明確に示されている。
『法華経』では、仏が迷うすべての者を救うため、それぞれの性質や能力に応じ、声聞・縁覚・菩薩という三つの道を方便として説いたとする。
しかし、その三つの道は、最後には一つの仏の道へ導くためのものである。
この教化の苦労は、燃える家と、その中で遊んでいる子どもたちの比喩によって説明される。
裕福な父親の家が火事になったが、愚かな子どもたちは家の中で遊び、外へ出ようとしない。
父親は、外には羊・鹿・牛が引く三種類の車があるから、早く出て来て取るようにと勧める。
子どもたちが外へ出ると、父親は羊や鹿の小さな車ではなく、全員へ大きな白牛車を与えた。
これは、仏が人々を、以前に説いた小乗の方便だけへとどめず、最後には大乗の真実の教えを与えようとする願いを表す。
太子は、この比喩に続く経文を、次のように解釈する。
「仏もまた同じであり、すべての世間の父となる」とは、仏があらゆる生きものにとって、常に教え育てる父であることを意味する。それは、長者が国や町の中で、人々の長であることと同じである。
「大いなる慈悲を持ち、常に疲れず、善いことを求め、すべての者を利益する」とは、仏が大慈悲によって決して疲れず、常に善いことを求め、すべての者を利益することをたたえる。財産が豊かで、多くの土地や家を持つ長者が、貧しい人々を救うようなものである。
「古く壊れた、三界という燃える家へ生まれ、人々を生老病死、悲しみ、苦悩、愚かさ、迷い、貪り・怒り・無知の火から救い、最高の悟りを得させる」とは、仏が三界の濁りと苦しみの中へ生まれ、人々を教化し、善を実践させ、悪を滅ぼすことを意味する。長者が燃える古い家にいて、火に迫られる人々と子どもたちを救うようなものである。
光宅寺法雲は、この経文を、仏が現実世界へ姿を現して人々を救い、慈悲によって苦しみを取り除き、安楽を与えることだと、概念的に説明する。
これに対して聖徳太子は、仏の生涯の教化をたどり、
仏は、あらゆる生きもののいる場所で、常に教え育てる父である。
仏は大慈悲によって決して疲れず、常に善いことを求め、すべての者を利益する。
仏は、濁りと苦しみに満ちた世界へ生まれ、人々を教化し、善を実践させ、悪を滅ぼす。
と述べた。
これは単なる教義の説明ではない。
人々を教えるために苦労した仏の生涯へ、聖徳太子自身が深く共感した言葉である。
太子自身が、疲れることのない大慈悲によって国民を慈しみ育て、教化の苦闘を生涯続けた、切実な体験に基づいている。
この信念と体験の中で、すべての者を救うために献身した釈尊の教化精神は、現実世界へ再び生きたものとなったのである。
ここで著者は、『勝鬘経義疏』が、究極の信仰対象である「永遠で真実な法身」と、歴史上の人格としての釈尊との関係を説明した言葉を挙げる。
『勝鬘経』で、勝鬘夫人は次のように仏へ願う。
私を憐れみ、覆い守り、仏法の種を成長させてください。この世でも後の世でも、仏が常に私を受け入れ、守ってくださるよう願います。
太子は、次のように解釈する。
私は仏の真実をたたえ、永遠に存在するものへ帰依した。しかし、仏が私に寄り添い、救ってくださらないならば、その帰依には尊い意味がない。そのため、仏へ、自分を守ってほしいと願うのである。
大乗の信仰とは、仏の真実を仰ぎ、永遠に存在するものへ帰依することである。
過去の偉人を外面的に崇拝するのではなく、あらゆる徳の本体である永遠の生命へ帰依する。
それによって初めて、どの国の、どの人にも、自分への執着を正し、真実の大道へ進む内面的な力が生まれる。
しかし、苦しみと罪に覆われた人々が「永遠で真実なもの」への信仰へ目覚めるには、それを現実の一人の人間として体現し、広い慈悲によって人々の救済へ尽くした、聖者の人格的な感化が必要である。
大道が永遠であるならば、その道を体現し、人々を導いた仏もまた、過去・現在・未来を通じて生きる人格として信仰される。
歴史上の釈尊への真実の思いを欠く信仰は、抽象的な理想の幻影を追うだけになる。
仏の真実をたたえ、永遠に存在するものへ帰依しても、仏が寄り添って救ってくださらないならば、その帰依には尊い意味がない。
という言葉は、そのことを示す。
釈尊の人格を敬うことに基づき、その内面的生命が限りなく発展することを、現実生活の信仰へ実現した証拠なのである。
このようにして初めて、真実の道を体現した歴史上の教祖による教化は、悪と濁りに満ちた世を照らす光として、絶えず変化し続ける現実生活の中で生きる。
このような実現力を持つ信念、すなわち人生の体験を内容とする宗教は、人々の生活の悲しみを照らす、まれに見る偉大な精神によってのみ表現される。
聖徳太子は、現実世界の苦しみと罪を深く見つめ、
国家や世間の事業を煩わしいものとする。
と告白し、英雄的功績へ究極の価値を求めなかった。
これは、釈尊が家と欲望を捨てた精神を、太子が自らの内面へ取り入れたものだと、著者は考える。
しかし、罪に満ちた世を嫌う真実の心は、現実世界を見捨てなかった。
民衆の苦しみを見つめ、
大いなる慈悲は止むことがない。
と述べ、国民生活を教え、運営するため、その身を捧げ尽くした。
これは、釈尊の、人々を救う大願を、現実生活で生きたものへ変えたことである。
太子は、出家修行という外面的形式をまねるのではなく、罪からの解脱と、大慈悲による教化とを一体とした釈尊の実践の意味を取り入れた。
それを現実生活の信念へ発展させ、形式的な仏教を、国民生活の道徳的活動を内容とする、実質的な宗教へ変えたのである。
世間は虚しく偽りに満ち、ただ仏だけが真実である。
これは、聖徳太子自身が語ったと伝えられる言葉である。
妃の橘大郎女は、太子の死後、この言葉によって太子を記念した。
聖徳太子が、日本がかつて経験したことのない転換期に、国民文化の基礎を確立した事業は、雄大な改革と指導の精神なしには達成できなかった。
当時の氏族制度の弊害と比較するだけでも、十七条憲法の教えは、その精神を十分に示している。
しかし太子は、「世間は虚しく偽りに満ちる」として、罪と業を持つ人生を、自分自身の不完全さの問題として追究した。
そして「ただ仏だけが真実である」と思い、人生は永遠に未完成であると知り、国と民のために、限りなく真理を求め続けた。
『維摩経』菩薩行品には、
欲を少なくし、足ることを知りながら、世間の生活を捨てない。
とある。
太子は、次のように解釈する。
自分が正しく実践できたとしても、世間と異なる者として、自分だけを特別な存在と考えてはならない。儒教の書に「言葉は謙虚にし、行動は厳正にする」とあるのは、この意味である。
慧遠や吉蔵も、菩薩は解脱を得ても、世間にとどまり、人々へ利益を与え、世俗の生活へ応じると説明する。
しかし、太子の解釈は、概念上の教義を説明するだけではない。
自分自身が正しく実践できても、常に他者とともに生きることを思い、自分も同じ人間であることへ目覚め、内面的平等への信仰を、自らの行動によって示すよう教える。
現実の世間生活へ従っているように見えても、自分を他者より高い位置へ置く心があれば、それはなお、世間の生活を本当の意味で捨てている。
太子は『論語』の「言葉は謙虚に、行動は厳正に」という言葉を引用する。
内側に深い真心を持つため、外側には簡素で謙虚な姿を示す。
悪と濁りを持つ人間社会を絶えず改革しながらも、他人を責めず、人々と調和する。
外へ向ける改革の願いを、自分自身の懺悔と求道の中へ実現し、行動によって示すべきだというのである。
太子の偉大な改革と指導の精神は、人間が永遠に未完成であることを深く理解し、外面的な業績へ満足せず、悪と濁りに満ちた世を統べる真実の生命を、自ら身につけようとする願いを持ち続けた。
その願いを生涯の実践へ現し、国民生活全体へ広げようとした。
これは、「世間は虚しく偽りに満ちる」という懺悔と求道へ自らを投じ、曇りのない大慈悲という永遠の生命を仰ぎ、すべてを「ただ仏だけが真実である」という信仰へ統合した、厳粛で悲痛な信仰に基づいている。
日本文化を創始する大任は、外面的な功績へ安住せず、目に見えない仏の真実を思い、献身して苦労した精神の威厳によって、さまざまな波乱と障害を打ち破り、達成されたのである。
聖徳太子は、この信仰によって悪と濁りに満ちた人生を照らし、守る、過去・現在・未来にわたる永遠の教主として、釈迦牟尼仏を仰いだ。
世間は虚しく偽りに満ち、ただ仏だけが真実である。
という言葉は、太子が妃へ語ったものとされる。
また家庭生活の中で、王子や王女にも同じ信仰を教えたことが思われる。
第一王子・山背大兄王は、推古天皇の死後、皇位継承問題へ何度も巻き込まれた。
王の即位を阻止した蘇我氏が、ついに軍を率いて襲ったとき、山背大兄王は、
私一人のために、どうして多くの民を苦しませることができようか。
自分の身を捨てて国を安定させることこそ、本当の立派な人物ではないだろうか。
と述べ、一族とともに自ら命を絶ったとされる。
上宮王家が滅亡したこの悲劇は、国民生活を背負い、「ただ仏だけが真実である」という目に見えない真実へ心を捧げた父・聖徳太子の精神を、正しく現したものだと、著者は解釈する。
『勝鬘経義疏』序説では、波斯匿王が娘の勝鬘夫人へ大乗の信仰を勧めるため、
勝鬘は私の娘であり、聡明で能力が鋭く、理解が速く、悟りやすい。
と述べた文を、聖徳太子は次のように説明する。
「私の娘である」というのは、重くたたえる言葉である。子どもの性質を見ることでは父母に勝る者はなく、臣下を知ることでは君主に勝る者はない。
「私の子」という呼び方は、自分と他人を分けるためのものではなく、その子が善い徳を持つことを意味する。
勝鬘は自分の子であるだけでなく、明らかな徳を持ち、優れた道を聞くにふさわしい。そのため、改めて「私の子」と呼ぶのである。
親ほど子どもの心を深く理解する者はなく、君主ほど臣下の心を知る者はない。
波斯匿王が勝鬘夫人の聡明さを見抜き、大乗の道へ導こうとしたのは、娘の心をよく理解していたためである。
しかし太子は、さらに、
「私の子」という呼び方は、自分と他人を分けるものではなく、善い徳に基づく。
と述べる。
真実の信仰を実践する道は、血縁を持つ親子の間だけにとどまってはならない。
自分と他者を分けず、親子のような感情によって、互いに教え、守り合わなければならない。
現実の家庭生活も、肉親への個人的な愛情だけへ安住せず、私心のない真実の大道を実現し、ともに公のためへ仕えるべきだと示したのである。
太子は、「勝鬘は私の娘である」という言葉から、勝鬘が実際に王の娘である親子関係を思いながら、同時に、明らかな徳を持ち、優れた道を聞くにふさわしいから「私の子」と呼ぶのだと説明した。
血縁の親子であると同時に、教えの道における親子であることを考え、家庭生活の真の意味を究めたのである。
吉蔵は『勝鬘経宝窟』で、
子どもを最もよく知るのは父である。父の深い慈愛を示し、仏道によって娘を利益しようとする。また、自分が娘の肉体を生んだように、仏によって智慧の生命を生じさせようとする。
と説明する。
吉蔵が「子どもを知るのは父に勝る者はいない」と述べたのに対し、太子は、
臣下を知ることでは君主に勝る者はいない。
と加え、父子の感情へ、君主と臣下との関係を対応させた。
ここに、この義疏が、摂政である太子の人生観と、国民を導く信念を表した、まれな文献であることが示される。
吉蔵の説明は、父母の慈愛と、娘の智慧の生命を育てる宗教的愛情を語るが、なお一組の父子の問題へとどまる。
これに対して太子は、
「私の子」という呼び方は、自分と他人を分けるものではなく、善い徳に基づく。
と述べる。
自分と他者を分けない共同生活の中で真実の道を実現し、家庭の親子の感情を、国家と公共の生活へ発展させる、総合的な教育精神を示したと、著者は評価する。
中国大陸の注釈書が、主として個人の信仰の領域へとどまるのに対し、太子は常に国家全体の精神を自らの心へ実現し、大陸から伝わった経典へ現実の生命を与えた。
太子の義疏が明らかにするものは、すべて「天下の道理」であり、国民生活全体が内面的に進むべき方向である。
「私の子」という呼び方は、自分と他人を分けるものではなく、善い徳に基づく。
また、
あらゆる悪を行わず、あらゆる善を実践しなさい。
という言葉は、太子が山背大兄王へ残した最後の教えだとされる。
山背大兄王は、それを一族が永く守る戒めとし、自分の身を捨てて国を安定させ、多くの民を慈しむ信仰と行動によって、悪を嫌い、善を願う真実を示した。
太子は、現実の家庭の縁の中へ、曇りのない永遠の生命への信仰を実現し、肉親への愛情の中へも、国家生活を思う真心を貫いた。
それは、世の中が虚しく偽りに満ちることへ目覚め、ただ仏の真実を思いながら、国と民のために生涯の苦労を捧げた、偉大で悲壮な生命の真実の証拠である。
釈尊は、人間の愛欲の束縛を断ち、現世の悪から解脱し、涅槃への道を体現した。
しかし聖徳太子は、その解脱の精神を、家庭と国家という現実の生活の中へ純化した。
愛情と思慕の人生を捨てず、その中へ永遠の信仰と、自分を捨てて公へ仕える真心を実現したのである。
『古事記』『日本書紀』『万葉集』の歌に現れた祖先の人生への愛と、国のために命を捧げる武士道的精神は、ここで「人生宗教」の信仰の中へ総合されたと、著者は考える。
『勝鬘経義疏』摂受正法章は、菩薩について、
頼まれなくても友となる。〔中略〕世の人々にとって、仏法を育てる母となる。
と説く。
太子は、次のように解釈する。
友とは、互いに救うことを意味する。しかし、頼まれてから救う者は、本当の友ではない。そのため「頼まれなくても友となる」という。
菩薩が人々を教えることは、慈悲深い母が幼い子どもへ自ら近づくようなものである。そのため「世の仏法を育てる母となる」という。
太子は、国民を教え導く願いを示し、民のために、頼まれなくても友となり、大慈悲による仏法の母となろうと誓った。
広く行き渡る慈しみによって、同胞が協力して生きる生活を育てた心は、上宮王家の悲劇を思うことで、さらに切実に感じられる。
そこには、仏の真実によって、太子の一族が家庭の感情を国民全体へ注ぎ、国のために命を捧げた、厳粛で悲痛な体験が含まれている。
自分だけの解脱を求めず、永遠に人々の救済へ苦労する大乗菩薩の宗教は、この偉大な人格による献身によって、初めて現実に生きる「人生宗教」として日本に興隆したのである。
太子が仰いだ「常住真実」の仏心は、あらゆる悪に妨げられない最高の徳であり、すべての民を育てる平等な慈悲として現れる。
それは人々を導く法則の源であり、「常住法身」と呼ばれる。
釈尊は、自分自身の解脱へ安住せず、
濁りと苦しみに満ちた世界へ生まれ、
人々を教え育てる父となった。
その実践こそ、永遠に存在する法身が、現実世界へ現れたものである。
したがって、仏という宝へ帰依することは、聖徳太子にとって、
自分の身を生と死の世界へとどめ、すべての者を平等に教化することが、仏の心にかなう。
という実践を意味する。
動乱する人生の中にありながら、自分だけの解脱を求めず、人々を救う大慈悲を体現することである。
これを国家生活についていえば、十七条憲法第十五条の、
私心に背き、公のために進むことが、臣下の道である。
という教えになる。
個人としての自己を社会全体へ捧げ、同じ忠誠の信仰によって、国民としての責任を果たすことなのである。
このようにして「永遠で真実な仏の心」は、すべての者の心を導く法則となり、現実生活へ実現する。
それを「法」と呼び、その内容を表す経典と教えを、三宝の中の「法宝」とする。
国家生活には、能力、賢愚、地位、身分の違いがある。
しかし、すべての人が「常住真実」という同じ生命へ帰依し、同じ人生の道を進むならば、精神的な基礎を共有し、違いのある世界へ、内面的に平等な同胞意識を実現できる。
そして、
上の者が和らぎ、下の者が親しみ、物事を話し合って調和すれば、道理は自然に通じる。成就しないことがあるだろうか。
という、社会全体で協力する理想へ進む。
人々の個性や境遇が違っていても、人を教え導く根本原理が、二つ以上に分かれることはない。
原理が一つだからこそ、すべての人が同じ真実の道へ帰り、社会全体が融合して生きることを経験できる。
この唯一の原理を示す教えを、聖徳太子は「一乗」と呼んだ。
同胞が進むべき道は一筋であり、国民の心は一つの信仰によって通じ合うべきだと示したのである。
太子が『法華経』から、三乗や五乗という能力の違いに応じた以前の教えは方便であり、最後には一乗だけがあること、「あらゆる善は同じところへ帰ること」「すべての者が仏となること」を受け入れたのも、この精神に基づく。
真実の大慈悲を示す仏教の教えは、すべて人を成長させるための教えである。
その究極が一乗にある。
さらに『勝鬘経義疏』一乗章では、一乗と法身との関係を、次のように説明する。
以前にも大乗は説かれていたが、まだ一乗は明確にされていなかった。一乗を法宝として説くのは、この『勝鬘経』である。
一乗の道によって法身を得ると説くが、法身より上に、さらに別の一乗の教えがあるわけではない。
したがって、法宝の究極は法身にある。その意味では、一乗という言葉自体が、法宝の最終的な実体なのではない。
一乗の教えは、永遠で真実な生命である法身から現れ、人々の心を目覚めさせることに、本当の意味がある。
究極の法身を、すべての人が進む一つの道として示すものが、一乗なのである。
法身の外に、別の一乗の教えがあるわけではない。
これは、経典と教義そのものも、人生全体を照らす真実の生命を示すこと以外には意味を持たないということを表す。
外来経典の形式へ執着せず、人間に普遍的な大道に照らし、それを日本の生活へ融合した太子の精神が示される。
この真実の信仰を人々が共有し、永遠の法を実現する。
その共同の信仰生活を「僧」と呼ぶ。
「僧」はサンガ、すなわち和合する共同体を意味する。
現実生活でこの信仰を導く、教育者としての僧も必要になる。
ただし太子は、人々の師となる僧を、出家した専門僧だけに限定しなかった。
『維摩経義疏』弟子品では、心の上で出家することを勧め、
自ら実践し、外へ向かって他者を教化することを十分に備え、大乗の道で出家する者を、本当の出家者と呼ぶ。
と述べる。
自ら実践し、他者を教えることをもって、真実の僧とした。
その模範を、維摩や勝鬘のように、在家生活を送りながら人々を利益した人格へ求めた。
太子自身も、宗教的真理と世俗生活とが支え合う理想を実現し、国民を導いたのである。
太子は最後の著作である『法華義疏』の、教えを後世へ伝える部分で、薬王菩薩、妙音菩薩、観世音菩薩を思い、次のように述べる。
この経典を広く伝えようとする者は、三人の偉大な菩薩と同じ修行をしなければならない。
薬王菩薩の章は、苦しい修行によって教えを伝えることを示す。妙音菩薩と観世音菩薩の章は、さまざまな身体として人々の前へ現れ、教えを伝えることを示す。
ただし三人の菩薩はいずれも、苦しい修行を行い、さまざまな姿を現すことができる。各章では、その一面を代表として挙げたのである。
太子は、人々のために苦しみに耐え、経典の教えを伝える菩薩へ、教化の模範を見いだした。
自らその姿を実現するとともに、国民の中からも同じ人格が現れ、教化の大事業へ従い、国家の永遠の生命を支えることを願ったのである。
仏・法・僧の三宝を、「常住真実」の法身という立場から見れば、教化の中心となる仏も、仏が説いた法も、その法を伝える僧も、別々の実体ではない。
すべては一つの生命が異なる形で現れたものであり、人格全体をもって内心から帰依しなければならない。
一方、実際に道を求め、信仰生活を送る場合には、仰ぐべき仏、学ぶべき経典と教え、師となる僧が必要である。
前者を「一体三宝」、後者を「別体三宝」という。
最終的に帰る場所を見失わないためには一体三宝を重視し、具体的に学び、迷いを断つためには別体三宝を先にしなければならない。
太子は、ここに宗教的信仰の真の意味を明らかにした。
『勝鬘経義疏』一乗章は、次のように述べる。
永遠に存在する法身を仏宝とする。
その法身が、人々の生き方の規範となることを法宝とする。
その法身が、真理と和合することを僧宝とする。
帰依についていえば、教えを学び、理解し、迷いを断つためには、仏・法・僧を個別に仰ぐ別体三宝を先にしなければならない。
しかし、最終的な帰着点を見失わないためには、三宝が一つの法身である一体三宝を、必ず根本としなければならない。
「常住法身」が現れたものとして見れば、三宝は一つである。
仏は、単なる個人的な偉人ではなく、あらゆる徳の源である永遠の生命を体現した人格として、永く人々を照らし、守る帰依の対象となる。
仏が説いた法も、単なる書物ではない。
人々の生活を内側から導く規範を示す教えとして、広く伝えられる。
その法を人々が共同で実現する信仰生活と、それを導く教育者としての僧も、真実の大道に基づく教化活動を受け継ぐ。
具体的な仏・法・僧、すなわち別体三宝は、一体三宝を現実へ表すところに意味を持つ。
三宝へ帰依することは、個人だけの信仰ではない。
永遠で真実な生命へ向ける信仰となり、その信仰に基づく教育と教化は、国民がともに進むべき大道を実現する。
聖徳太子が釈尊を仰ぎ、大乗経典を受け入れ、寺院を荘厳し、僧尼を育てたことも、単に外国から来た仏教のためではない。
国内にも国外にも反することのない大道を、国民とともに実現したいという、広大な精神に基づいていたのである。
ただし、一体三宝だけへ執着し、それを現実生活へ実現する別体三宝への信仰を忘れれば、実行する力を持たない、抽象的で空虚な理想となる。
最終的な帰着点を見失わないためには一体を根本とし、具体的な求道と修行には別体を必要とする。
理想と現実、信仰と知的理解のすべてを統合する宗教的信念が、ここに示される。
真実の大慈悲という永遠の生命を、現実の人生へ具体化するものが、三宝へ帰依する道である。
聖徳太子自身が、その身によって実践した。
十七条憲法第二条は、次のように述べる。
三宝を深く敬いなさい。三宝とは、仏・法・僧である。
それは、すべての生きものが最後に帰る場所であり、あらゆる国にとって最高の教えである。
どの時代の、どのような人が、この教えを尊ばないだろうか。
極端に悪い人は少ない。よく教えれば、その教えに従う。三宝へ帰依しないならば、何によって曲がった心を正すことができようか。
曇りのない真心によって、すべての者を融合し、平等な慈悲によって人々を教え、成長させる三宝の大道は、どの時代の、どの人も、最後に帰るべき場所である。
太子は、
すべての生きものが最後に帰る場所、あらゆる国にとって最高の教え。
という、国内にも国外にも反しない大道を実現することによって、自分への執着の弊害を正し、調和と協力の精神を徹底し、政治生活の公正と国民精神の救済を願った。
『勝鬘経義疏』の、
善を実践することの根本的な意味は、帰依にある。
という言葉は、道徳生活を常に内面的な信仰へ帰着させ、外面的な行動と形式を統一する、人格全体の生命を重視したものである。
太子は三宝への帰依を勧め、日本国民が永遠で真実な信仰を共有し、融合し、親しみ合う生活によって、国家の永遠の生命を受け継ぎ、人類に対する世界的使命を実現するよう説いた。
極端に悪い人は少ない。よく教えれば、その教えに従う。
と、日本人の精神的可能性を信じ、この精神に基づく教育と教化によって、国家生活の内面的な基礎を確立しようと願った。
『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』は、聖徳太子の誓願として、次の趣旨を伝える。
代々の天皇の御代が、太陽と月とともに永く栄えるようにするため、毎年『法華経』『維摩経』『勝鬘経』を講義しながら、仏の教えを万代へ伝え、盛んにしたい。
前のページに引用された法隆寺の誓願は、聖徳太子のこの精神を示すものである。
真実の宗教的教化によって、同胞の道徳生活を育て、政治制度へ生命を与え、天地や太陽・月とともに永続する皇統を守ろうとすることが、太子の生涯を貫く願いであった。
この精神は、『維摩経義疏』が、菩薩の徳をたたえる「法城を守り、正法を受け入れ、獅子のように教えを説き、その名が十方へ聞こえる」という経文を解釈した言葉にも表れる。
鳩摩羅什は、「法城」とは真実の法、またはすべての経典と教えであり、人々へ誤った見方を持たせず、教えを守って広め、破壊されないようにすることだと説明した。
天台大師は、仏法を修行者を守る城へたとえた。また、世界のすべてが空であるという真理は、人間の自己への執着を破るため、涅槃の城と呼ばれると説明した。菩薩は、人々の内面にある涅槃と仏性を守り、欲望や執着を起こさせないというのである。
これに対し、聖徳太子は「世俗の城」には二つの働きがあるとする。
第一は、外からの悪に侵されないこと。第二は、王道が内部へ広く通じることである。
第八地以上の菩薩が悪魔や外道を制することは、城が外敵を防ぐことに対応する。仏法を守り、大乗の教えを広めることは、城の中へ王道が通うことに対応する。
中国の学者は、法城を涅槃や仏法の比喩として説明した。
しかし太子は「城」という言葉から現実の国家を思い、宗教と国土、教化と政治との一体性を考えた。自ら国家を治めた信念と体験を、経典の解釈へ表現したのである。
これは、専門僧侶の教団生活だけからは生まれにくい内容であり、抽象的な概念を超えて、現実生活を導く原理となっている。
また、悪魔や外道を力で屈服させようとするのではない。
菩薩が民衆と苦しみや喜びを共有し、頼まれなくても友となり、絶えず教化へ尽くす。その広い道を見た悪人が、自然に自らの誤りを恥じ、変わっていく。太子は、それこそ本当の教育だと考えた。
信仰と実践を一つにした菩薩が、広い慈悲によって人々を教え導くとき、国家は内面に信念を持つ道徳生活を実現し、外からの悪や敵にも侵されない。
太子は、現実政治の生命を、内面的信念の力へ求めたのである。
著者は、聖徳太子が、この精神によって日本文化創業の大任を成し遂げたとする。
国民が永遠の大道を共有し、悪魔さえ動かす真心と慈しみの中へ融合し、すべての者へ通じる真実の信仰を実現するならば、国家は共同体の協力によって守られ、人類へ向けた使命を果たし、外敵や悪も侵すことができない。
著者は、この精神が、明治天皇の次の歌へ通じると述べる。
敵対する者の心さえ自然に従うほど、国民は真心の道を歩みなさい。
慈しみがすべてへ行き渡るならば、中国の野に伏す虎でさえ、なつかないことがあるだろうか。
どのような時代に出会っても、人はみな真心の道を歩めと教えなさい。
人間の正しい道を、虎が住むという遠い野の果てまでも開きたい。
世の人々の手本となる者が、日本に多く現れてほしい。
太子は、大乗仏教の教えが広く伝わることを、城の内部へ王道が通うことへたとえた。
また、三宝が盛んになることを「王道の流通」と表現した。
著者は、平等な慈悲によってすべての人を救う真実の宗教的教化を、天皇が民を治める心と一つのものとして捉え、大乗仏教を伝える基礎を皇室の教化精神へ置いたと解釈する。
つまり、世界宗教の理想を、日本固有の神道が持つ内面的意味へ融合し、日本の世界的使命を示したというのである。
『日本書紀』は、神武天皇が橿原へ都を開く際、制度は時代に応じて作るべきであり、民の利益となるならば新しい制度を作ることを妨げる理由はないと述べたと伝える。
山林を開き、宮殿を築き、天皇の位へ就いて民を安定させ、上は天から国を授けられた徳へ応え、下は皇孫が民を正しく育てる心を広め、世界を一つの家のように覆う都を作ろう、という内容である。
著者によれば、日本の歴史的精神では、天皇は祖先神の曇りのない心によって民を治め、政治は神を祭る心によって行われる。
「神ながらの道」は、現実政治と国民の内面を統一する大道となり、祭祀と政治が一つである精神は、世界文化の理想を取り入れ、発展させる生命を伝えてきた。
推古天皇15年には神々を祭る詔が出され、太子が多くの臣下を率いて祭祀を行った。
これは、国には二人の君主、民には二人の主人はいないとする十七条憲法第十二条や、太子が皇太子として国政全般を担当したこと、さらに国史編纂を始めたことと、一つの精神によって結ばれるとされる。
太子は建国の古を思い、神代から永く続く国民生活のために身を捧げ、その信念によって外来文化を統合した。
著者は、この精神を、明治天皇の歌によっても説明する。
新しく開くべき道は開きながら、神代からの国の姿を忘れないようにしたい。
神々が固めたこの国を、民とともに守らないことがあるだろうか。
神々が開いた道を、さらに開くのは人間の力である。
偽りのない神の心を、現世に生きるすべての人の心へ映したい。
一つの心となって、すべての民を守る蘆原の国は喜ばしい。
橿原宮の定めに基づき、日本の国を保ちたい。
天の神が定めた国であるため、自分の国でありながら、なお尊い。
世の中がどれほど発展しても、古くからの国の定めを違えないようにしたい。
著者は、外国文明を広く受け入れながら、共通の祖先への信仰を貫き、国民の協力を生み、すべてを一つの信念へ融合する力が、聖徳太子の思想において「世界へ進む日本」の最初の光となったと論じる。
続いて著者は、『維摩経義疏』の「すべての人々が菩薩の仏国土である」という言葉を取り上げ、特定の国民生活と、人類に普遍的な宗教理想との関係を考察する。
仏や菩薩は、あらゆる物事への執着を離れているため、本来、自分が所有する国土を持たない。
しかし、人々がいるところを自らの国土とし、そこへ行って教化しない場所はない。
聖徳太子は、現実の国土には清らかな国と濁った国の違いがあり、それは人々の善悪によって生まれるとする。現実の人間には、それぞれ自分が属する具体的な国がある。
一方、完全な聖者は、智慧が真如と一つになり、名前や形による区別を超え、「こちら」「あちら」、取ることと捨てることを離れ、虚空のように妨げのない生命を持ち、すべてを照らす心を持つ。
そのため、自分だけの国土を所有するという考えはない。
しかし、慈悲は止むことがなく、一人一人の性質と環境に応じ、あらゆる場所で教化する。
「こちらもあちらもない」とは、現実を離れて山へ隠れることでも、現実生活を捨てることでもない。
「取らず、捨てず」とは、宗教的真理を固定した概念として所有せず、同時に、世間生活を虚しいものとして捨てないことを意味する。
現実の生活の中に真実の信仰が生きるとき、現世と彼岸の対立を超え、理想と現実、精神と感覚を統合した自由な生命が開かれる。
「虚空を身体とし、あらゆる法を照らすことを心とする」とは、大空のように妨げられない生命によって、すべての人の心を包み、慈しみ、教える聖者の境地を示す。
この理想は、どの時代、どの国にも通じる人類普遍の光である。
しかし同時に、「全人類」「すべての者」という言葉だけでは抽象的であり、現実の人間には、それぞれ歴史と生活を持つ故郷と国家がある。
太子は、国家と国民という具体的な生活を認め、その歴史と体験の中へ、普遍的な慈悲と宗教理想を生かした。
著者は、そこに、特定の国家生活と普遍宗教とを対立させず、双方を統合する太子の思想を見る。
世界のすべての人を対象とする宗教的教化は、こうして初めて、現実に生きる基礎を得る。
著者は、十七条憲法第三条の「君を天、臣を地とする」という言葉を取り上げる。
天が地を覆い、地が万物を載せることで四季が正しく巡り、あらゆる生命が通じる。同様に、君主と臣下は対立するだけでなく、互いの役割を通して国家全体の生命を作る。
太子は、天皇の命を慎んで受けるよう求めるが、著者はそれを、権力による一方的支配だけとは見ない。
『管子』は、君主は命令・賞罰・生殺の権力を持ち、臣下は服従するものとし、君臣の違いを天と地、白と黒のように明確に分ける。
それに対し太子は、『中庸』の「天が覆い、地が載せる」という表現を用い、上下の違いを、四季が巡り、生命が通じる自然の調和へ帰着させたと著者は評価する。
日本の国家生命は、天地と日月とともに永く続くものとして、古い歌や祝詞へ表現されてきた。
柿本人麻呂や皇子に仕えた人々の挽歌も、天を仰ぐ心を、仕えた皇子への思いへ重ね、現実の奉仕と悲しみの中へ、天地とともに続く生命を感じさせる。
さらに太子は、『維摩経義疏』で、仏と最も貧しい人への施しを平等に考えた。
仏は最も敬うべき存在であり、乞食は最も慈しむべき存在である。身分は違っても、施しによって生まれる福に違いはない。
最も貧しい人を慈しむ心は、仏を敬う心と同じ重さを持ち、仏を敬う心は、貧しい人へ向ける慈悲と同じである。
上を敬うことと、下を慈しむことは一つである。
著者は、この思想を、天と地、君主と臣下、仏と人々、親と友という違いを残しながら、それらを一つの生命へ統合する人生観と見る。
聖徳太子は、天皇へ仕えながら国民の苦しみを背負い、国家の永続を思う中へ、すべての人の心を含めた。
大乗仏教を国民生活の体験へ統合し、世界宗教の理想へ現実的内容を与えたことが、日本の文化史的使命を表すと著者は結論づける。
次の節では、この精神の源を『古事記』の神話と歌謡へ遡り、『万葉集』の歌へ続く国民精神の展開を考察する。
著者は、聖徳太子の心へ通じる国民精神の発展を、『万葉集』の歌へ見ようとする。
日本では、民族に共通する祖先神への信仰が、共同生活を統一する生命として貫かれてきた。
祖先神の正統を受け継ぐ皇室を本家として、同じ血のつながりと言葉を持つ民族が、家族のような国家を形成したと著者は考える。
そのため国家統治は、一人の英雄の能力による支配を原則とせず、国民全体の歴史的生命を体現する皇統を仰ぎ、社会全体を融合する伝統的な力によって行われてきたという。
日本神話の皇祖神は、罪へ報いを与える裁判の神や、天地を一度に創造した宇宙神として描かれるのではない。
多くの神々は、恐怖によって拝まれるだけの存在ではなく、子孫を永く守り、照らし、導く祖先神として、親しく仰がれ、祈られた。
高天原も、現実から切り離された観念上の浄土ではなく、祖先神が住む民族の故郷であり、地上と同じように動乱が起こる。
天照大神が岩戸へ隠れると、高天原も地上も暗くなり、さまざまな災いが起こった。
多くの神々が集まり、知恵と力を合わせ、大神を岩戸から迎え出すと、天上も地上も自然に明るくなった。
これは、神々も宇宙も天照大神の光を受けることで栄えるという、国民的信仰を表す。
ただし著者は、天照大神を単なる太陽の自然神と見るべきではないとする。
太陽のように世界を照らす、祖先神の大きな徳をたたえたものだという。
大神は五穀を、人々が食べて生きるものとして喜び、農業と養蚕の道を開き、神々を集め、その心を一つにして政治を行ったと伝えられる。
神々の集会には、氏族の長が皇室を助けて国家の重要問題を決めた古代の習慣が反映される。
同時に、『古事記』全体では、大神と神々の心が一つになり、政治を行う姿が描かれている。
天孫降臨の神勅では、葦原の瑞穂の国は子孫が治める国であり、皇統は天地とともに永く栄えるとされる。
大神へ仕えた神々の子孫は皇室へ仕え、皇祖神を仰ぐことと、天皇へ仕えることが一つになった。
この統一された信仰を持つ民族は、出雲の人々や、大陸から渡来した異なる人々をも融合し、日本の国家生活を形成したと著者は論じる。
日本神話の神々や英雄は、世間から離れて解脱した聖者ではなく、動乱する人生へ身を投じ、感情を持って生きる人格である。
須佐之男命は、与えられた国を治めず、亡き母のいる根の国へ行きたいと泣き、山を枯らし、海や川を干上がらせるほどの悲劇的な荒神として描かれる。
しかし同時に、八岐大蛇を退治して娘を救い、地上へ家庭を築き、「八雲立つ」の歌に愛と喜びを詠んだ。
神武天皇の久米歌には、仲間への愛と、「討ち果たす」という戦いの叫びがともにある。
兄の五瀬命が敵の矢を受け、敵の手によって死ぬのかと叫んで亡くなった物語にも、動乱する人生の悲しい緊張がある。
倭建命、弟橘比売命、倭建命の死を悲しむ后や子どもたち、琴の音が突然止み、仲哀天皇の死が知られる場面も、生と死を静かに考える余裕さえない、切迫した生命を表現する。
『古事記』に描かれた民族の生活は、外での戦いと、内での親愛が複雑に交わる、明暗の交代である。
聖徳太子が「国家の事業を煩わしいものとする」と現実世界の悲しみを認めながら、「大いなる慈悲は止むことがない」と述べ、民衆を思う終わりのない苦闘へ入った精神は、この神話的生命の流れの中で理解できると著者はいう。
抽象的な教義と理論へ現実の内容を与えたのは、波乱の人生を生きる民族の感情であった。
この精神は、『古事記』『日本書紀』『万葉集』の恋愛歌にも現れる。
中国詩には、自分自身の恋を直接歌わず、君臣や父子の関係へ置き換える知的な作品が多い。
それに対し、日本の祖先は、現実の喜びと悲しみをそのまま歌い、切実な感情を永続するリズムへ変えたと、本居宣長の議論を用いて著者は説明する。
黒日売と仁徳天皇の別れの歌、速総別王と女鳥王が追われながら詠んだ歌、允恭天皇と衣通姫が互いを慕う歌には、現実の別離、危険、愛情が、自然の風景と一つになって表現されている。
そこでは短い現実の愛が、永遠の生命を感じさせる。
日本では、人間の心の奥へ直接入る叙情詩的精神を、特別な詩人だけでなく、国民全体が持っていた。
『古事記』や『万葉集』は、一人の天才だけの作品ではなく、異なる作者の歌が、一つの心理的な流れへつながるところに特色がある。
防人の歌には、出発するときに母の顔を見たいという思い、遠く離れても母を恋う心、故郷の神々へ妻の無事を祈る心、もう一度母と話したいという願い、妻が付けた紐を決して解かないという誓いが歌われる。
彼らは専門の歌人ではなかった。
しかし、悲しみと喜びを持つ現実生活へ深く入り、その感情の力が、素直で雄々しい言葉へ現れた。
山上憶良も、父母は尊く、妻子は愛しい、それが世の道理だと歌う。
天上へ逃れるのではなく、地上には天皇が治める国があり、父母を敬い、妻子を愛して生きることを重んじる。
祖先は、戦いへ向かう強い意志、罪や汚れを祓う能動的精神、祝詞に見られる壮大な表現とともに、悲劇の細かな感情へ届く詩的精神を持っていた。
武と文、明るさと暗さを融合する、現実的で総合的な精神が育ったのである。
この民族精神が世界文化と出会い、どのように発展するかは、民族の永遠の運命に関わる問題であった。
著者は、それを解決したものが聖徳太子の信仰思想と事業だったとする。
太子は大陸の思想を学びながら、空虚な抽象理論と、個人だけの理想を退けた。
仏教の空の哲理を、「自分も他者も凡夫である」という共同生活の信仰へ変え、無我を共同体精神の体験へ変え、大乗菩薩が上から人々を教える構造を、人々と苦しみや喜びを共有する、平等な同胞精神へ純化したのである。
聖徳太子の言葉は、国民生活の苦しみを自ら背負い、外来文化を批判的に総合し、日本において世界文化を統一する基礎を作った、雄大で悲痛な精神を示している。
それは、地上の現実を愛し、波乱する人生を生き抜いた神々と祖先の生命を、新たに開いた精神である。
『維摩経』が、維摩の「心は海のように広い」とたたえる箇所を、中国の学者は心境の広大さとして説明した。
これに対し、聖徳太子は「国政のあらゆる事柄へ通じ、照らさないものがない」と解釈した。
それは、人生の大海へ心を注ぎ、すべての人の感情へ入り、大慈悲の苦労を捧げる生き方を示す。
片岡山で飢えた人を悲しんだ歌や、死の間際に妃を悼んだ歌にも、同じ生命が流れている。
著者は、聖徳太子を、現実の喜びと悲しみを共有し、切実な愛情と思いを歌った『古事記』『日本書紀』『万葉集』の祖先の生命を、総合的に表現した人物と見る。
聖徳太子は、世界へ進む日本民族を表現する存在として、永遠に国民の上へ立つと結論づける。
附録 聖徳太子の思想表現法と『法華義疏』の独創的内容
序説
著者は、日本建国の精神が、聖徳太子の思想と事業において、世界へ進む日本の最初の光として現れたと考える。
聖徳太子の政治は、大陸文化を取り入れながら日本の基礎を確立した。その根底には、『三経義疏』に表現された、大陸思想を批判的に選び、総合する内面的事業があった。
「国家や世間の事業を煩わしいものとする。しかし大いなる慈悲は止まず、その志は人々を利益することにある」という言葉は、太子の事業が、人生の悲しみを深く知る精神によって成し遂げられたことを示す。
太子は、外面的な功績へ究極の価値を求めなかった。
しかし、国民の苦しみを自分の苦しみとして受け止め、慈悲は止まらないと語り、国家の事業へ生涯の苦労を捧げた。
大乗仏教、儒教など、大陸の異なる思想は、国家生活の運命を背負った太子の精神によって選択され、統御された。
日本思想を単純に「現実的・活動的」、インド思想を「観念的」、中国思想を「論理的」と分類するだけでは、思想が歴史の中で生きた姿を理解できない。
現実を動かす国民生活は、人生の核心へ達する、深く偉大な精神によって導かれた。
『三経義疏』と十七条憲法は、その精神を言葉として後世へ残したものである。
太子の姿を直接見ることはできなくても、言葉の高い調べを通して、その心を現在の私たちが受け取ることができる。
『三経義疏』は形式上、仏教経典への漢文注釈である。
しかし内容の特色は、外来の概念や理論にとどまらず、それらへ生命を与えた信念と体験を表現している点にある。
学術研究や宗教的告白であっても、深い人生観を内容とするならば、芸術的表現を伴う。
したがって、太子の著作は、語句の意味や教義を説明するだけでは理解できない。
言葉の細かな流れから心の内容を読み取り、分析的研究を、言葉の生命への芸術的直観へ統合する必要がある。
著者は、これを広い意味での国文学史研究と呼ぶ。
漢語の哲学概念や道徳項目が、太子の体験によって内面的に純化されると、その漢文の中にも、日本語のような繊細なリズムと語勢が生まれるのである。
思想と表現、内容と形式は切り離せない。
そのため『三経義疏』を、広い意味で国文学史の研究対象とすることは自然な要求である。
太子の思想は、日本の歴史的伝統、『古事記』『日本書紀』『万葉集』に表現された古代人の精神と対応させて考えなければならない。
著者は、古い言葉を「心の言葉」として研究する方法と、『三経義疏』の言葉を研究する方法とが、互いに補い、日本精神史の基礎研究になるとする。
特に『法華義疏』は、光宅寺法雲の『法華義記』と形式が似ている。
そのため一部の研究者は、太子の義疏は光宅の説を大きく超えないと考え、違いを個別の教義や語句だけに求めた。
しかし、同じ概念や同じ解釈を用いていても、そこへ込められた心理的・体験的内容が異なる場合がある。
凝然は、光宅の注釈は非常に長いが、太子の義疏は要点をまとめ、意味が明確だと評価した。
著者は、太子の簡潔さを、単なる要約技術とは考えない。
多くの説を選び、余分なものを取り除き、深く純化した結果として、形式が簡素になり、内容が深くなったと見る。
語句や教義の分析は重要だが、それを文献研究の最終目的とすると、文献に込められた精神の光を隠してしまう。
文学的研究は、純文学だけを対象とするものではない。
国家や文化へ重大な影響を与えた思想文献についても、表現の心理的特色を調べ、その人生的価値を明らかにする必要がある。
政治・経済制度の変化を外側から調べるだけでなく、人間の行動を生んだ内面的動機、目的、価値判断を研究しなければ、文化の生きた歴史は理解できない。
書誌学や語義の研究は、そのための資料であり、それ自体が最終目的ではない。
一人の作者は、時代や社会と切り離されていない。
偉大な人物が国境を越えて理解されるのは、自分の民族の精神を深く掘り下げることで、人類に普遍的な心へ到達したためである。
外国の文献を理解するためにも、まず自国語の生命を感じ取らなければならない。
数多くの文献から、国民生活を代表し、人間の進路を示すものを選ぶことは、教育と教化に関わる重大な問題である。
著者は、その文献の言葉を心理的に読み、その内面的価値を明らかにする国文学研究が、国民思想の進路を導く役割を持つと考える。
著者は、この研究の原理を、明治天皇の歌に見る。
そこでは、昔の人が残した本を読むことで、本人の声を聞くように感じること、古い時代の人と言葉を通して出会い、涙を催すこと、真心から生まれた歌は一度聞けば忘れないことが詠まれている。
また、新奇な表現を求めなくても、素直で雄々しい大和言葉が望ましいこと、自然に調べられた言葉の花へ国の姿が香ること、人の真実を歌の調べが永遠へ残すことが示される。
これらの歌は、単なる研究技術の説明ではない。
過去の人の真実を言葉から受け取り、自分の生き方の方向を求めることを教える。
国民の生命を代表する文献を選び、その内面的価値を明らかにする研究も、最後には研究者自身の心の問題へ帰着する。
真実の歌が忘れられないのは、技巧が優れているためだけではなく、目に見えない人間の真心が込められているためである。
自然で簡素な言葉に、国民精神の真実が現れる。
したがって、言葉は、それを生み出した内面的体験から理解しなければならない。
研究者自身が、自分の不完全さへ目覚め、虚偽の技巧や空虚な概念を捨て、真実の生命と言葉へ向かわなければならない。
人の身体と生涯は消えるが、真心は言葉へ残り、後世へ伝わる。
過去の人を直接見なくても、言葉を通して心の声を聞くことができる。
有限な個人の生命が、言葉を通して無限の共同生命へ参加する。
そのため言語表現の研究は、生と死、個人と全体という人生の根本問題へ関わる。
研究者の文章も、概念の説明や技巧の遊びを超え、永遠の生命を感じさせる内容を持たなければならないと、著者は考える。
二 大乗経典の芸術的鑑賞と大陸仏教思想の内面的純化
聖徳太子は大陸の思想を広く学んだが、理論によって人生を外側から規制したのではない。
国民生活の責任を担う信念と体験によって、思想と学問を統御した。
そのため太子の言葉は、教義説明であると同時に、深い人生観を表す芸術的な言葉となる。
『勝鬘経』では、勝鬘夫人が両親から送られた書を読み、「私は仏の声を聞いた」と語る。
中国の注釈者は、両親が書いた仏への賛嘆を、目で読んだことを比喩的に「聞いた」と呼んだのだと説明する。
これに対して聖徳太子は、
声は心の意味を伝え、書物はその声を伝える。
と解釈した。
文字を読むことで、そこに生きる人格の声を聞き、その声を通して心へ触れることができるというのである。
書物を、情報を記した記号ではなく、「心の言葉」として自分の内面へ生かす。
この解釈には、経典の中へ生きた生命を求め、空虚な語句説明を退ける太子の姿勢が現れる。
また『維摩経』の「仏は一つの声によって法を説く」という言葉についても、複雑な理論を際限なく積み上げるのではなく、仮の説明は必要な範囲で用い、実際に説明するならば、あらゆる表現を自在に用いることができると述べる。
著者は、ここに、言葉の論理的迷路へ囚われず、経典を直接の体験へ変える、内面的に自由な生命を見る。
聖徳太子は、複雑な語句説明や、空虚な理論へ囚われず、経典の言葉を直接、自らの体験へ取り入れた。
『法華義疏』では、光宅寺法雲が細かな論理によって文章を説明していても、それを受け入れられない場合には、無理な仮説を作らず、「経文に従って、そのまま意味を受け取る」と述べる。
また、文章をあらかじめ決めた形式へ分ける解釈を、「今は文の流れに従って直接解釈し、形式的な区分を作る必要はない」と批判した。
著者は、この姿勢を、政治制度も形式だけでは生命を持たず、それを運用する人間の信頼と協力が必要だとした、十七条憲法第九条の精神と一つのものと見る。
文字を「心の言葉」として読み、聖者の言葉が、それぞれの人の心と状況へ正しく届く働きを理解する。
教義と理論を内面へ取り込み、現実の国民生活へ生かすため、『三経義疏』の言葉には、通常の注釈書とは異なる、芸術的なリズムが生まれたのである。
『勝鬘経』では、勝鬘夫人が「聡明で理解が速く、仏へ会えばすぐ教えを理解し、疑いを持たない」とたたえられる。
吉蔵は、これを知能が鋭く、学問へ広く通じ、聞けばすぐ理解できるという、能力の説明として解釈した。
これに対して聖徳太子は、「聡」とは耳でよく聞くこと、「慧」とは心で明らかに見抜くことだとする。
「利根」は、単に頭の回転が速いという意味ではない。
よく聞き、深く観察し、人生の奥へ達する、明るく澄んだ心を意味する。
「通」とは、表面の言葉を聞き、その奥にある意味へ達すること。「敏」とは、明らかに照らし、深く理解すること。「悟りやすい」とは、真理へ出会ったとき直ちに理解できることである。
太子は、聞く能力と、理解を実際へ働かせる力とが、互いに支え合うと説明する。
これは、知識の量をたたえるのではなく、生きた教えを信頼し、全人格で受け取る宗教的人格を表す。
「疑いがない」という言葉についても、ただ信じることだとはせず、「精神と感情が開け、明るく、小乗的な疑いと停滞がない」と解釈した。
個人だけが世間を超越しようとする閉じた心を離れ、人々と苦しみや喜びを共有する、広く明るい心である。
著者は、太子の短い言葉の中へ、理論では表しにくい、芸術的な生命と慈しみを見ている。
三 『法華義疏』における思想表現の特質と大陸の注釈書
『法華経』の特色は、哲学的教義を説明するだけでなく、釈尊への深い思いを基礎として、その永遠の生命をすべての人へ開く、教化活動の模範を示す点にある。
釈尊が人々の能力に応じてさまざまな教えを説いたのは、最後には全員を一つの仏道へ導くためである。
聖徳太子は、この教えを、すべての国民を平等に教え、調和と協力の一つの信念へ導く願いの中へ取り入れた。
そこで著者は、光宅寺法雲の『法華義記』と、太子の『法華義疏』の文章を比較する。
光宅の文章は、釈尊が迷う人々を悟らせようとしたが、人々の善根が弱く、煩悩に妨げられていたため、一乗の真理を直ちには説けなかったと説明する。
太子はその前に、『法華経』そのものを、
あらゆる善を一つの原因へまとめる豊かな田であり、釈尊の限られた寿命を永遠へ変える神の薬である。
と表現する。
釈尊がこの世へ現れた目的は、人々へ同じ一つの原因を実践させ、二つとない仏の結果へ到達させることにある。
しかし人々は、過去に積んだ善が少なく、心が暗く、能力が鈍く、煩悩に智慧を覆われているため、突然、一乗の大原理を聞くことができない。
光宅の文章が同じ説明を繰り返すのに対し、太子は、善い行いの不足と、理解力の不足とを対照させ、教化を受ける人間の状態を簡潔に描く。
そして「突然、一乗の因果という大原理を聞くことはできない」と、途切れずに結ぶ。
著者は、その文章の緊張へ、国民を教え導こうとする太子の心を見る。
釈尊が人々の能力へ応じ、段階を追って教えを説いた過程についても、違いがある。
光宅は、やむを得ず鹿野苑へ行き、三つの道を説き、長い年月をかけて人々の能力を育てたと、外側から説明する。
太子は、
如来は、その時にふさわしい方法へ従った。
と述べる。
そこには、人々の状態へ応じて教える釈尊の内面的な慈悲と判断が表れる。
さらに、空の真理を平等に説き、「ともに修行する」よう勧めたと記す。
これは、教える聖者と教えられる者とを離さず、共同で修行する生活への共感を示す。
やがて人々は、年を重ね、月を重ね、教えを受けて修行し、少しずつ理解を増し、王城で初めて一大乗の教えを受け入れるようになった。
その時、釈尊は、
あらゆる徳を備えた荘厳な身体を動かし、黄金のような優れた口を開き、あらゆる善が同じところへ帰る道理を広く明らかにし、二つとない大きな結果を得させた。
と表現される。
光宅が学説の概要を説明するのに対し、太子の文章では、人々が長い時間をかけて変化し、釈尊と心が通じる歴史的瞬間が、生きた出来事として現れる。
「広く、あらゆる善が同じところへ帰る道理を明らかにする」という言葉には、すべての国民を一つの真実の道へ導こうとする、太子の広い心が反映していると著者は読む。
光宅の文章が長く、説明が緩やかに続くのに対し、太子の文章は短く、緊密で、荘重である。
文章が形式上区切れていても、思想と音の流れは途切れず、全体が一つに統一されている。
次に、経典が序説・本論・後世へ伝える部分という三段階を持つ理由を比較する。
光宅は、迷いと欲望に覆われた人々の注意を引くため、最初に普通とは異なる奇瑞を見せるのだと、煩悩の種類を列挙して説明する。
太子は、人々が長く迷い、理解力が鋭くないため、突然深い真理を聞かせれば、実践できないだけでなく、教えを誹謗して悪い世界へ落ちる危険があると述べる。
そのため、最初に特別な姿を現し、仏と教えを仰ぎ求める心を起こさせる。
著者は、ここに、教える側の都合ではなく、教えられる人を誤りへ落とさない、聖者の慈悲を見る。
経典の最後に、教えを後世へ伝える「流通説」が置かれる理由についても、光宅は長い説明を行う。
太子は、
聖人が法を説くのは、その時代の人々だけに利益を与えるためではない。遠い後世の者にも、現在と同じ利益を得させるためである。
と簡潔に述べる。
経典を後世へ伝えることは、教えを終わらせず、まだ生まれていない人々へも同じ救いを届けようとする、聖者の止むことのない慈悲なのである。
「流通説」は、経典の最後で、教えを弟子たちへ託し、後世へ伝える部分である。
光宅寺法雲は、仏が説法を終えようとしても、人を救う心には終わりがないため、教えを千年後までも伝えようとすると、長い文章で説明する。
聖徳太子は、
聖人が法を説くのは、その時代の人だけに利益を与えるためではない。遠い後世の人にも、現在と同じ利益を得させるためである。
と述べる。
ここで重要なのは、単に教えが長い時間残ることではない。
現在の人へ向ける慈しみを、まだ生まれていない後世の人へも同じように届けようとする心である。
短い表現の中へ、過去・現在・未来を通じる慈悲が込められている。
また、経典冒頭の「ある時」という言葉について、光宅は、仏が相手の能力と説法に適した時を正確に見極め、機会を外さなかったことだと説明する。
太子は、
仏と人々の心が感じ合い、互いにふさわしく重なった一時である。
と解釈する。
「ある時」とは、単に暦上の時刻ではない。
教えを説く仏の心と、教えを受け取る人の心が響き合い、理解と信仰が開く瞬間である。
その時に説くため、人々へ本当の利益を与えることができる。
著者は、光宅の説明が説法技術の分析であるのに対し、太子の説明は、仏と人間との全人格的な出会いを表すと考える。
次に、『法華経』五百弟子受記品を比較する。
この章では、理解力が低いとされた弟子たちにも、将来仏となることが保証される。
光宅は、彼らが他の人より理解が遅く、自分が本当に理解したか確信できなかったため、先に悟りを表明しなかったと説明する。
聖徳太子は、
心の中には理解した思いがあった。しかし、あえて口に出して、自分は理解したとは言わなかった。
と述べる。
仏は、その言葉にならない心へ明らかに通じ、本人の表明を待たず、成仏の保証を与えた。
ここには、知識が少なく、自分の心をうまく言葉へできない人の内面をも見抜き、その真実を育てる慈悲がある。
表面上は、両方とも「仏が理解を知り、授記した」と説明している。
しかし、太子の文章には、言葉にならない心へ寄り添う直接的な感情がある。
「あらゆる人に仏となる可能性がある」という教義は、このような心によって、初めて現実の事実となる。
人を知識や身分だけで分けず、見えにくい善意を照らす人格があってこそ、全員を一つの道へ導くことができるのである。
『法華経』勧持品では、菩薩たちが、迫害や中傷、命の危険へ耐えて、教えを後世へ伝えると誓う。
安楽行品は、まだ修行を始めたばかりの菩薩にも、悪い時代に教えを伝える方法があることを示す。
光宅は、新しい菩薩が困難を聞くと、すぐ怖くなり、教えを伝えることを諦めるため、四安楽行によって励ますのだと説明する。
太子は、最初から人間を弱いものと決めつけない。
教えを伝える功徳が深いと聞けば、新しく志した人も、
私たちも、この経を伝えたい。
と思うだろうと考える。
しかし、先輩の菩薩が、武器による暴力、悪霊の妨害、名誉を求める僧の中傷、悪い僧からの非難へ耐え、命も惜しまないと誓うのを聞けば、
これは修行の中でも最も難しい。長く修行してきた菩薩でなければ、誰ができるだろう。
と感じる。
文殊菩薩は、その心を理解し、悪い時代に経典を伝える方法を仏へ尋ねた。
そこで仏は、身体・言葉・心の善い行いと慈悲という四安楽行を示した。
著者は、この説明に、新しい求道者にも真心があることを信じ、恐れや迷いが生まれる心理まで理解する太子の教育精神を見る。
経典に登場する人物を、教義を説明する道具としてではなく、生きた心を持つ人として読むのである。
外来文献は、分析するだけでは死んだ知識になる。
読む者が自分の内面で経験し、生きた言葉によって表現し直す時、新しい生命が生まれる。
『法華経』譬喩品の「燃える家」の比喩では、父親が、火事になった家の中で遊ぶ子どもたちを救おうとする。
父親が火を見て「大いに驚き、恐れた」ことは、仏が苦しむ人々を見て慈悲を起こすことへ対応する。
光宅は、仏が以前教えた人々が再び欲望へ陥り、理解を失い、さらに善を失って長く苦しむことを心配したため、驚き、恐れたと説明する。
太子は、父親が驚くのは自分のためではなく、子どもたちのためだと強調する。
同様に、仏が慈悲を起こすのは、自分のためではなく、苦しむ人々のためである。
「悲しむ」と「恐れる」は異なる感情に見える。
しかし、人の苦しみを悲しみ、さらに深い苦しみへ沈むことを恐れる心は、
どちらも、その人を救いたいという一つの願いから生まれる。
太子は、言葉の違いの奥へ同じ心を見いだす。
これは単なる概念説明ではなく、苦しむ国民と喜びや悲しみを共有しようとした、太子自身の経験が映った解釈である。
仏の慈悲は、歴史上の教義ではなく、現在の人間関係と教育の中へ生き直す。
外見上同じ注釈であっても、そこへ込められた人格と体験によって、意味は大きく変わるのである。
『法華経』の法説では、人々がまだ大乗の教えを受け入れられないため、仏が説法を止め、涅槃へ入ろうとするように語られる。
一方、燃える家の比喩では、子どもが父の言葉へ従わなくても、父は子を火の中へ捨てて去ろうとはしない。
聖徳太子は、この二つが矛盾するのではないと説明する。
仏が説法を止めようとするのは、相手の能力を無視して教えれば、かえって悪を増す恐れがあるためである。
教えないことも、見捨てることではなく、その人を心配する慈悲の一つの形である。
父親が、言うことを聞かない子どもを火の中へ置き去りにできないのと同じく、仏も人々へ背を向けることはない。
説法を止めることと、子を決して見捨てないことは、外見上は異なる。
しかし内面では、人を救いたいという同じ慈悲から生まれている。
聖徳太子は、現実の親子の愛情の中へ、仏の慈悲が映っていることを見た。
また、仏の慈悲を、現実の親子の感情として理解した。
抽象的な教義と人間の愛情とを、一つの生命へ結びつけたのである。
片岡山で飢えて倒れている旅人を見た聖徳太子は、「お前には親がいないのか。守ってくれる君主もいないのか」と歌った。
これは慈悲や孝行についての理論ではない。
名もない一人の人間の孤独と飢えを、自分の心へ直接受け止めた言葉である。
家庭の愛情を知る者だからこそ、家庭に恵まれない人をも思い、家族へ向ける心を国民全体へ広げることができる。
山上憶良の「瓜を食べれば子どもを思い、栗を食べればさらに恋しく思う」という歌も、子どもを思う親の心を、仏がすべての人を思う慈悲へつなげる。
銀、金、宝玉よりも、子どもに勝る宝はない。
古代日本には、孝行を体系化した理論がなくても、親子の心を重んじる真実が、人々の生活の底へ流れていた。
著者は、外来の道徳や宗教へ生命を与えたものが、この現実の家庭感情だったと考える。
『万葉集』の防人歌には、遠い任地へ向かう男たちが、母、父、妻、子ども、故郷を思う心が歌われている。
母に頭を撫でられ、無事でいなさいと言われた言葉を忘れられない。
母が袖で身体を撫でながら泣いた心を忘れられない。
親へ十分な別れの言葉を告げなかったことを後悔し、母を宝玉のように髪へ巻き、いつも一緒にいたいと願う。
船が岸を離れる時、母の姿をもう一度見たいと思う。
彼らは職業的な歌人ではなかった。
それでも、内心の真実が自然に歌となり、千年以上を経ても人の心へ届く。
技巧ではなく、悲しみと愛情そのものが言葉のリズムを作っている。
家族を思う心は、個人的な感傷を超え、人間の苦しみを慰める宗教的な光さえ持つ。
大和歌の生命とは、この現実の生命の鼓動を伝えることである。
家庭生活を貫く真心は、宗教的教化を現実のものにする根本の力でもある。
聖徳太子は死の前日、先に亡くなった膳夫人を悲しみ、斑鳩の富の井の水を詠んだと伝えられる。
この古い歌は難解であり、細かな意味には異説がある。
しかし、愛する人を失った悲しみが、水の動きへ託されていることは感じられる。
聖徳太子の解脱は、家族や愛情を捨てることではなかった。
家庭と国家の現実の中で、自分を超え、人々とともに生きる真実を実現するものであった。
太子の言葉、片岡山の歌、最後の歌は、仏教が抽象的な教義ではなく、悲しみ、愛情、責任を内容とする「人生宗教」へ変えられたことを示す。
『法華義疏』は外形上、中国の注釈書へ似ている。
しかし、その言葉の内面には、日本の歌と同じように、人間の感情と意志が脈打っている。
そのため、
これは大倭国の上宮王が自ら編んだものであり、海の彼方から来た本ではない。
という奥書は、単なる書誌上の記録ではなく、外来文化を自国の生命へ変えたという自覚の証明になる。
外国の学問を受け入れながら、独自の生きた言葉によって表現できる国民は、永く発展する精神を持つ。
著者は、聖徳太子の文章へ、日本が世界文化を統合して進む最初の光を見て、附録を結んでいる。
黒上正一郎君の御霊の御前へ捧げる祝詞
三井甲之
形あるものは、かげろうの光となって、広い天空へ注いでいくように、人間の身体も、隣人へ通う心とつながり、言葉となり、まなざし、笑顔、振る舞いとなって、無限の宇宙へ、移ろい続ける姿を広げながら進んでいくのでしょう。
ああ、亡き友よ。
あなたの笑顔は今も残っています。
あなたが教えた青年たちの心に、あなたと交わった友人たちの心に、消えない印象として残っています。
その心は、彼らの友人へ、その子孫へも響き伝わり、幾重にも押し寄せる波のように、日本の言葉と文化の道が絶えず、天地が存在する限り、永遠に伝わっていくでしょう。
あなたの生命は、同胞の生命へ、特に友人たちの生命へつながっています。
現世を生きる人の生命は、互いにつながることによって、神の心へ通じていくのでしょう。
私とあなたは同じ故郷を持っていました。
あなたが再び東京へ帰る時、私の家の北を流れる寂しい川のほとりで別れました。
私の姿が見えなくなるまで、堤の上に立ち、見送ってくれたあなたの心を、どうして忘れられるでしょうか。
あなたを思う私たちの心は、目には見えなくても空へ響き、空にいるあなたの御霊と響き合うでしょう。
古くからの神祭りの作法を行う時、私たちの生命と心の響き、揺らぎを、天にいるあなたの御霊へ伝えましょう。
あなたを思う私たちの心は一つとなり、日本の道を新しく開いた明治天皇の御心を思い、
私たちは皆、誠実に天皇へお仕えしよう。
と誓います。
思い返せば、生前の日々が懐かしくてなりません。
あなたの周りへ集まった青年たちと、下駄の音を響かせながら東京の道を歩いた日。
本郷の下宿にあるあなたの部屋へ人々が集まり、親しく柔らかく、それでいて厳粛な空気が生まれた日。
あなたがいた日々が懐かしくてなりません。
あなたを慕う若い友人たちは、あなたがいない今、国の状況が平穏ではないことを見ています。
天皇が、荒波へたわまず耐える岩や、降る雪によって心を清め、平和な世を祈る歌を詠んだ現在の国を前にし、寂しさと悲しさを抑え、遠い将来を見つめています。
その時、目には見えなくても、あなたの生命の響きが私たちへ触れます。
別々に生まれ、短く悲しいこの世の務めをともに果たし、私たちの生命をあなたの御霊へ、あなたの御霊の息吹へつなげましょう。
つながることこそ、生命の姿です。
別れることは悲しい。
しかし、生まれることも死ぬことも、生命がつながるための別れであるならば、私たちは皆、古くからの神祭りを行いましょう。
亡き友、黒上正一郎君の御霊の御前へ、私たちはあなたを思い、慕って、ここへ集まりました。
恐れ多くも、天におられる明治天皇の御霊を遠く拝み、生前あなたが敬い読んだ明治天皇の御歌と、聖徳太子の文章を、ともに敬い読みます。
そうすることで、あなたが生きていた時の生活のリズムを、今ここへ再び現し、あなたの御霊を慰めます。
生前、あまりにも多くの務めを果たしたあなたよ。
黒上正一郎君、その御霊よ。
今日一日、私たちの営みを見守り、どうか心を休めてください。
尽きることのない思いを、あなたの御霊が鎮まる御前へ、謹んで告げます。
私の言葉の調べへ、友人たちの心の揺らぎと響きを合わせ、皆で申し上げます。
亡き友、黒上正一郎君の御霊の御前へ。
黒上兄の没後四周年の御霊祭に
三井甲之
黒上さんのことを思うとき、どうしても忘れられないのは、甲府市の私の家を訪ねてくれた時のことです。
当時、私は村を離れ、共産主義へ対抗する活動の拠点を甲府へ移していました。
また、心霊主義を研究する人々が頻繁に訪ねてきた時期でもありました。
ロンドン会議が進む中で、日本の将来を考え、目に見えない神の心を畏れ、古くからの祭祀を行っていました。
心霊主義の物理学、生理学、心理学を、修行体験の分析と結びつけ、日本の言葉と精神の道へつなごうとしていました。
国内外から危険が迫り、人間の知恵には限界があることを感じ、神へ従う信仰を深め、心から祈っていた時期でした。
その時、黒上さんは私の狭い書斎で、夜が更けるまで語り続けました。
道を求めるその情熱は、物事を忘れやすく、心が鈍りがちな私にも、決して忘れられません。
おそらく永久に忘れることはないでしょう。
黒上さんの緻密な質問へ答えるだけの気力を、当時の私は持っていませんでした。
私の答えは、次第に中身のない返事になりました。
質問は、『明治天皇御集』の研究について、さらに、それと『三経義疏』をどのように比較するかについてでした。
しかし、私の知識不足と研究の怠慢によって、返事は空虚な賛成に終わりました。
私は力なく、黒上さんの熱心さへ驚くばかりでした。
私は、仕事と休養を交互に取るべきだと話しました。
しかし当時の私には、その言葉を強い意志と行動へ結びつける力がありませんでした。
話し続けるうち、周囲は静まり、夜が更け、やがて暗い朝を迎えようとしていました。
休むよう促すと、黒上さんは蚊帳を正式に吊らず、「これで十分です」と言い、机へ掛けた蚊帳をかぶり、わずか一、二時間眠っただけだったでしょう。
黒上さんは、道を求める者として苦行を続けながら、心の中を行き来する細かな考えを、静かに私へ話したこともありました。
その働き方は過度なものでした。
それでも、労働を収入へ換算し、経歴によって地位を決める世俗の常識を、まったく無視することはありませんでした。
それは妥協ではなく、周囲へ配慮する謙虚な人柄の表れでした。
内心の確信は揺るぎませんでしたが、周囲を気遣う敏感さが、過労を強めた理由の一つだったのでしょう。
国のために倒れた人々の霊、祖国を守る霊の中で、若くして亡くなった同志たちを導く位置にいる、現実的な人格として、感覚を超えた世界から今も私たちへ働きかける黒上さんの御霊へ、私は若い同志たちとともに語りかけます。
私たちの「敷島の道会」が現在どのような状態にあるかを、一つの出来事によって伝えたいと思います。
ある日、私は一人の友人とともに、天皇の命へ従い、臣下として忠節を尽くそうとしている先輩と話していました。
話題は、人間の愛情の複雑さ、深い悲しみ、そこから起こる反発と怒り、社会を改革し、切り開こうとする希望へ及びました。
そして黒上さん、あなたは知ることがなかったでしょうが、話はあなたのことへも及びました。
その先輩は、あなたの信念と研究成果をよく知っていました。
黒上さん。
名もない人々の生命がつながる場所は、果てがなく、終わりもない生命のつながりです。
それが、敷島の道です。
敷島の道は、明治天皇が今も永遠にお治めになる道だと、私たちは信じています。
黒上さん。
あなたの友人の一人として、私は、あなたの友人たち、死によって隔てられても信仰でつながる友人たちとともに、『明治天皇御集』を敬い読みます。
帰依し、従う信仰と、敬い礼拝する儀礼の中へ、私たちの言葉を整えようとしています。
今も私たちが存在を感じる黒上さんの御霊よ。
天を翔けながら、どうか私たちの営みを見守ってください。
明治天皇の御歌は、次のように詠みます。
岩にせき止められなければ、滝の流れが生む力強い響きも、世の人々へ聞こえることはなかっただろう。
大きな岩を切り通してでも、川の水は、自ら進もうとする場所へ流れていくだろう。
黒上さんの求道と研究もまた、障害によって力強い響きを生み、進むべき場所へ流れ続けるものとして、ここに記憶されています。
後記
黒上正一郎先生が亡くなってから、六年の歳月が過ぎました。
年月があまりにも速く過ぎることを、改めて嘆かずにはいられません。
1930年9月21日、先生の訃報へ接した時、私たちは現世の無常を痛切に感じ、太陽の光さえ暗くなったように思いました。
先生と出会い、直接教えを受けた期間は、二年にも満たない短いものでした。
しかし、私たちは先生によって初めて、明治天皇と聖徳太子の精神へ目覚め、日本の青年として進むべき明確な道を示されました。
まだ若く、進む力さえ失いそうになった私たちの信仰共同体を、細い一本の糸のようにつないだものは、先輩たちの指導とともに、この本へ残された先生の、滅びない生命でした。
私たちはこの本を一緒に読みました。
一人で喜ぶ時には二人であると思い、二人で喜ぶ時には三人であると思いました。
先生へ直接会うことのできなかった多くの友人たちとも、生前と変わらない集まりを持つことができました。
この本の出版は、同じ信仰を持つ人々の生活が発展する、不思議なきっかけになります。
そのため、この本を広く伝えることには重要な意味があります。
先生は私たちを導く一方で、東京帝国大学や東京文理科大学の教室、学術雑誌などへ、研究を次々に発表しました。
その苦闘する生活によって、ついには病床へ伏すことになりました。
それでも先生は病苦へ耐え、自分を励ましながら研究を続け、その精神が青年たちの心へ浸透し、溶け込むことを願いました。
1929年3月、『国語と国文学』へ「聖徳太子の人生宗教と国民精神」を発表し、4月・5月号へ続編を掲載しました。
7月号からは「聖徳太子の三経義疏の国文学的研究、特に法華義疏の独創的内容を論ず」を発表し、8月、10月、12月号へ連続して寄稿しました。
これらは、当時の昭信会例会で行われた講義と、ほぼ同じ内容でした。
先生は、後の研究も加え、一冊の本として完成させることを望んでいましたが、完成を見ることなく亡くなりました。
昭信会で使ってきた謄写版は、先生が病気となり徳島へ帰った翌年、1930年2月、先生の命令を受けて作られた暫定版です。
先生が回復して東京へ戻った後、さらに書き加える予定でした。
しかし病気は、私たちの最後の希望をも絶ち、先生は未完成の原稿を残したまま亡くなりました。
ただし「未完成」とは、先生が計画していた完成形へ至っていないという意味です。
現在の内容や構成の価値を損なうものではありません。
謄写版は1933年に増刷し、誤字も訂正しましたが、体裁は旧版を受け継ぎました。
昨年秋、徳島市の御実家から遺著出版の意向を受け、一日でも早く出版しようと準備しました。
しかし、遅れを重ねて今日へ至ったことは、私たちの力不足です。
先生の御霊へお詫び申し上げます。
この本を生んだものは、現代日本の国民生活です。
また、先生の人生観を支え、著作の直接の動機となったものは、三井甲之先生を先達とする、同じ信仰を持つ仲間たちの生活でした。
先生が研究方法の示唆を求め、自らの研究をその発展的な成果にしたいと考えた本が、三井先生の『明治天皇御集研究』です。
本書の巻頭へ三井先生の序文を掲げ、巻末へ二つの長い祭文を収録したのは、そのためです。
出版にあたり、目次は謄写版に載せられた会員作成のものを全面的に改め、三井甲之先生へ確認をお願いしました。
仏典本文の照合と訓読は藤原猶雪氏へ依頼し、装丁では田代二見氏から書と指導をいただきました。
目次は黒上先生自身の遺稿ではないため、将来さらに訂正する必要があります。
その完成は編集者の責任です。
先生は言葉の調べを重視し、文章表現へ非常に苦心していました。
引用文を別段落へ分けず、緊密な文章のリズムへ埋め込んだ箇所も多くあります。
出版にあたっては、できるだけ原文を変えず、先生の言葉の格調を損なわないよう努めました。
ただし、長い引用は読みづらさを避けるため、別段落へ分けました。
明らかな誤字と思われるものは訂正しましたが、私たちの判断にも不正確な部分があるのではないかと恐れています。
引用の出典は、重要なものについて先生自身が記していました。
さらに文章の妨げにならない範囲で、細かな出典も加えました。
完全に誤りがないとは保証できません。
不備は私たちの力不足であり、今後の改善を待ちます。
『三経義疏』と十七条憲法の引用は、漢文原文を用いました。
『日本書紀』などは、謄写版では書き下し文となっていた箇所も、基本的に原文へ戻しました。
巻頭の「著者はしがき」は、1930年2月、謄写版を作る際に、先生が口頭で話した内容を、私たちが文章へ写したものです。
「著者」と署名したことが、私たちの独断になっていないかを恐れます。
しかし先生の言葉を伝えるという意味を込め、あえて著者と記しました。
今回出版するのは本書だけですが、将来は遺稿集として、ほかの著作、和歌、書簡も出版する予定です。
遺著の刊行がようやく実現しようとする今、以前、一緒に謄写版の校正を行った故・新井兼吉、故・河野稔の両氏を思い出します。
生と死の世界を隔て、今日の喜びを直接分かち合えないことは悲しい。
しかし二人の御霊も、黒上先生の御霊の前で、私たちとともに喜びを捧げていると信じます。
会の設立へ黒上先生と協力しながら、実現を見る前に亡くなった故・梅木紹男氏の名も、出版にあたり記録しなければなりません。
黒上先生によって同じ道へ目覚め、先生の教えのもとで設立された東京高等師範学校信和会は、先生の死後も昭信会と協力し、助け合い、信仰共同体の絶えない生命の中で活動を続けました。
今回の出版でも多くの協力を受けたことを記します。
最後に申し上げます。
この本において、読者は同じ信仰を持つ師であり、友です。
それが本書の内容が持つ力であり、黒上先生の尽きない願いでした。
そのため、本書の出版を、単なる業績の記念に終わらせてはなりません。
聖徳太子の、
教えは、その時代の人だけに利益を与えるのではない。遠い後世の人にも、同じく幸福を与える。
という言葉のように、時と年月を重ねるほど、この本は広く伝わっていくでしょう。
しかし、それには読者が自らの意志で本を伝えることも必要です。
一人の読者の心が、新しい読者を招き、その範囲を広げ、限りなく途切れず、日本が存在する限り、国内外へ伝わることを願います。
さらに、この本を正しいきっかけとして、広く深い信頼と協力が開かれ、私たちの生命が、その共同生活へ託されることを、心から祈ります。
1935年7月
第一高等学校昭信会