演劇 / スタニスラフスキー俳優の役づくりРабота актера над ролью. Материалы к книге

白い台本と舞台上で表現する俳優を描いた、俳優の役づくりの独自装画

演劇 / スタニスラフスキー

書誌情報を表示

原著・底本

原題
Работа актера над ролью. Материалы к книге
著者
スタニスラフスキー
底本
Собрание сочинений в восьми томах. Том 4. М.: Искусство, 1957.
原典の利用条件
パブリックドメイン
収録範囲
標題・刊行情報・底本の目次、および著者の『知恵の悲しみ』『オセロー』『検察官』に関する草稿・補足・付録六篇を収録。1957年版編者の序論・注解・索引本文は含まない。底本の読みが定まらない箇所は訳注に示す。

日本語訳

利用条件
CC0 1.0
翻訳原稿
原稿を見る

表紙

装画
日本人文
利用条件
CC0 1.0

本書のために制作した独自装画。原刊の装丁とは異なります。

追加日: 2026-02-04 / 更新日: 2026-10-08

標題・刊行情報・底本の目次、および著者の『知恵の悲しみ』『オセロー』『検察官』に関する草稿・補足・付録六篇を収録。1957年版編者の序論・注解・索引本文は含まない。底本の読みが定まらない箇所は訳注に示す。旧訳で付けた栞・マークや読書位置は、新訳では位置がずれる場合がある。

前付

K・S・スタニスラフスキー

訳注

底本冒頭の著者略記は「K・K」だが、本文中の表記と著者の正式名に基づき「K・S」とした。

俳優の役づくり

刊行予定の書物のための資料

K・S・スタニスラフスキー

著作集 全八巻

第四巻

俳優の役づくり

刊行予定の書物のための資料

本文の編集、序論、注解:G・V・クリスチ、ヴラジーミル・N・プロコフィエフ

編集委員会

M・N・ケードロフ(編集長)、O・L・クニッペル=チェーホワ、N・A・アバルキン、V・N・プロコフィエフ、E・E・セヴェリン、N・N・チューシキン

モスクワ、イスクーストヴォ社、一九五七年

目次

G・クリスチ、ヴラジーミル・プロコフィエフ

俳優の役づくりについてのK・S・スタニスラフスキーの考え

役づくり〔『知恵の悲しみ』〕

第一期 知る時期

第二期 体験の時期

第三期 具現の時期

役づくり〔『オセロー』〕

一 戯曲と役との最初の出会い

二 〔役の〕人間としての身体の生活を作る

三 戯曲と役を知る過程(分析)

四 〔これまでの確認とまとめ〕

『役づくり』補足〔『オセロー』〕

〔台詞に理由を与える〕

課題・貫く行動・超課題

『オセロー』演出計画から

役づくり〔『検察官』〕

『役づくり』補足〔『検察官』〕

〔役づくりの作業計画〕

〔身体的行動の意味について〕

〔役へ近づく新しい方法〕

〔身体的行動の骨組み〕

付録

ある上演の物語(教育小説)

〔偽りの革新について〕

〔創造における意識と無意識について〕

〔型を押し出す〕

〔行動に理由を与える〕

オペラ・演劇スタジオの課程を劇形式にしたものから

注解

K・S・スタニスラフスキー著作集第二・第三・第四巻の人名・作品名索引

役づくり〔『知恵の悲しみ』〕

〔一九一六〜一九二〇年〕

役づくりは、大きく四つの時期に分かれる。知る時期、体験する時期、具現する時期、そして働きかける時期である。

Ⅰ.知る時期

1

[役との]最初の出会い

知ることは、準備の段階である。

それは役との最初の出会い、初めてその役を読むところから始まる。

この創造の瞬間は、やがて恋に落ち、恋人や夫婦になる二人が、初めて出会うときにたとえられる。

役と初めて出会う瞬間は、とても大切だ。

第一印象には、まだ何にも触れられていない新鮮さがある。

それは、創造の過程で大きな意味を持つ、芸術への夢中な思いや歓喜を呼び起こす、何よりの力になる。

そのまっさらな第一印象は、不意に、ありのままに訪れる。

その後の俳優の仕事全体に、刻印を残すことも少なくない。

まっさらな印象は、あらかじめ用意されたものでも、先入観に左右されたものでもない。

批評というフィルターにせき止められず、俳優の心のいちばん深いところ、生まれ持った自然な働きの奥底まで、自由に入り込む。そして、消えない跡を残すことがある。それが役の土台となり、やがて生まれる人物像の芽となるのだ。

第一印象は、種である。

その後の仕事で、どのような寄り道や変更があっても、俳優はしばしば、自分の中に消えずに残る第一印象の跡を、何よりも愛している。それを表し、さらに育てる機会を奪われると、その印象を恋しく思う。

まっさらな印象には、強さ、深さ、消しがたさがある。だから、戯曲との最初の出会いには、特別な注意を払わなければならない。一方では第一印象を最もよく受け取れる条件を整え、他方では、それを妨げたりゆがめたりする原因を取り除く必要がある。

本の冒頭にあたる今、役との最初の出会いを、どのように始めるべきかまで説明することはできない。

俳優の芸術と技術について話すための言葉を、まだ定めていないからだ。

今できるのは、初めて読むときの助言と注意を、いくつか伝えることだけである。

その一部は、初めて戯曲を聞く俳優に向けたもの、もう一部は、初めてその作品を読み聞かせる人に向けたものだ。

俳優から始めよう。

第一印象を受け取るには、まず、心がよい状態にあり、それにふさわしい気分でいることが必要だと、知っておいてほしい。

心の集中が要る。それなしには創造の過程も、したがって第一印象を受け取る過程も生まれない。

芸術家としての感受性を研ぎ澄まし、まっさらで新鮮な印象を受け取れるよう、心を開く。そのような気分を、自分の中に作れるようにならなければならない。

第一印象に、すっかり身を委ねられること。要するに、創造できる心身の状態が必要なのだ。

それだけではない。初めて戯曲を読むときの、外側の条件も整える必要がある。

最初の出会いにふさわしい、時間と場所を選べなければならない。

心が奮い立つように、読み合わせにいくらか改まった雰囲気を与えること。そして、自分自身も心身ともに生き生きとしていることだ。

第一印象が心へ自由に入り込むのを、何にも妨げられないようにしておきたい。

俳優は知っておくべきだ。まっさらで新鮮な印象を自由に受け取るうえで、最も危険な妨げの一つは、さまざまな先入観である。

瓶の首にはまり込んだ栓のように、それは心をふさいでしまう。

先入観は何より、外から押しつけられた他人の意見によって生まれる。

戯曲や役への自分の向き合い方が、創造の具体的な感覚や考えとして定まるまでは、他人の意見に流されるのは危険だ。まして、その意見が間違っているなら、なおさらである。

他人の意見は、新しい役に対して俳優の心に自然に育つ、受け止め方や近づき方を、ゆがめてしまうことがある。

だから初めのうちは、戯曲に出会う前も、出会っている間も、その後も、外からの影響や、他人の意見による無理強いから、できるだけ自分を守ってほしい。それらは先入観を作り、まっさらな印象、素直な感情、意志、知性、想像力をゆがめるからだ。

自分の役については、他人と話しすぎないほうがよい。

むしろ、ほかの役について話すとよい。登場人物たちが暮らす、その生活の内側と外側の条件や状況を、はっきりさせるためにである。

他人の助けが必要だと感じたら、初めのうちは、自分からした質問にだけ答えてもらうようにしよう。役に対する自分固有の向き合い方を損なわずに、何を他人に尋ねてよいか。それを感じ取れるのは、自分だけなのだから。

自分自身の役への感情、心の材料、思いは、しばらく胸の内にとどめ、蓄えておこう。感情が結晶し、創造のはっきりした具体的な感覚や人物像になるまで、そうしてほしい。

やがて戯曲や役への自分なりの向き合い方が熟し、しっかりしてくれば、芸術家としての自由と独立を損なわずに、他人の助言や意見を、もっと広く活用できるようになる。

覚えておいてほしい。たとえよい意見でも、心を引きつけず、頭をいっぱいにするだけなら、他人の意見より、自分の意見のほうがよい。

初めは、戯曲を、自分におのずと感じられるとおりに感じてほしい。

初めて役を読む際の、ここまでに挙げた注意はすべて、第一印象がまったく自由に、自然に生まれ、形を取れるようにするために必要なのだ。

俳優の言葉で「知る」とは「感じる」ことなのだから、戯曲や役と初めて出会うときには、知性以上に、創造の感覚を自由に働かせてほしい。

最初の出会いから、自分の感情の温かさと、生きた生活の震えによって、戯曲に命を吹き込めるほどよい。乾いた文字だけの本文が、感情、創造への意志、知性、情動記憶を強く揺り動かすほどよい。最初の読みが、目や耳、そのほかの感覚に訴えるイメージ、人物像、光景、情動の記憶を、創造する想像力へ豊かに呼び起こし、俳優の想像力が、見えないパレットの色と、さまざまな模様で、作者の文章を彩り、目に見えるものにするほど、その後の創造の展開と、将来生まれる舞台の作品にはよいのである。

大切なのは、戯曲を見るための視点を、俳優が見つけることだ。作者自身が、その作品を見ているのと同じ視点を。

それが見つかると、俳優は読み聞かせに引き込まれる。

顔の筋肉を抑えきれず、読まれている内容に応じて、顔をゆがめたり、表情を動かしたりする。

動きも抑えきれず、本能的に飛び出してしまう。

じっと座っていられなくなり、読む人のそばへ、どんどん席を寄せていく。

初めて戯曲を読み聞かせる人にも、今のところは、実際に役立つ助言をいくつか述べることしかできない。

まず、人物の姿を演じて示すような読み方は避けてほしい。役や人物像への、自分個人の解釈を押しつけるおそれがあるからだ。

戯曲の中心となる考えと、内面の行動が展開する主要な線を、はっきり伝えることにとどめてほしい。そのための方法は、この本を読み進めるうちに、おのずと明らかになるだろう。

最初の読み合わせでは、戯曲の土台、内なる本質、展開の主要な線、文学的な長所をよく理解したうえで、簡潔に、明瞭に読まなければならない。

読む人は、劇作家の創造がどこから始まったのかを、俳優へ示すべきだ。作者に筆を取らせた考え、感情、あるいは体験を示すのである。

最初の読み合わせから、戯曲の中の「人間の内面の生活」が展開する主要な線へ、俳優を押し出し、導かなければならない。

経験豊かな文学者から、作品の「味わいの核心」、感情の展開する主要な線、そして「人間の内面の生活」そのものの中心的な考えを、すぐにつかむことを学んでほしい。

実際、文学的な創造の基礎と技術を学んだ、経験豊かな文学者は、戯曲の構造、いわば骨組みを、すぐに見抜く。作品の出発点にある種、作者に筆を取らせた感情や考えを、つかむのだ。

名人の手つきで戯曲を解剖し、正しい診断を下す。

この力は俳優にも大いに役立つ。ただし、心の奥を見つめる妨げではなく、助けとしなければならない。

初めて俳優たちに戯曲を読み聞かせる人が、そのほかに知っておくべきことは、この本を通じて、次第に明らかになるだろう。

最初の出会いで、知性も感情も、自分の全存在をかけて、戯曲の全体を一度につかめるなら、それは大きな幸運だ。

そうした幸運な、しかしまれな場合には、あらゆる法則、方法、システムを忘れ、自分に生まれつき備わる創造の力へ、すべてを委ねるのがいちばんよい。

だが、そんな幸運はまれにしかない。そのため、それを前提に規則を作ることはできない。

戯曲や役の土台を形作り、織り成す重要な線や、主要な部分、大切な要素のどれか一つを、最初からつかめる場合も、同じくまれである。

ずっと多いのは、初めて読んだ後、戯曲のところどころだけが心や頭に刻まれ、残りはまだ曖昧で、理解できず、心になじまないという場合だ。

最初の読みから残る印象の断片や、感情の切れ端は、戯曲のあちこちに散らばる、個々の瞬間にしか結びついていない。砂漠の中のオアシスや、暗闇の中の光の点のようなものだ。

ある箇所は感情に温められて、すぐに私たちの中で生き始めるのに、別の箇所は知的な記憶にしか刻まれない。それはなぜだろう?

前者を思い出すと、何かぼんやりした胸の高鳴りや、喜び、優しさ、元気、愛などが湧いてくる。ところが後者を思い出しても、心は動かず、冷えたまま、黙っている。なぜなのか?

すぐに生き始めた役の箇所は、自分の持ち味に近く、感情の記憶にもなじみがある。一方、後者は、俳優の持ち味とは異質だからだ。

その後、戯曲と知り合い、親しむにつれて、初めは全体ではなく、点々と受け取っていた部分が、少しずつ大きく、広くなり、互いにつながって、ついには役の全体を満たす。

暗い部屋へ、閉じた鎧戸の狭い隙間から日光が差すと、初めは明るい光の点が、室内に散らばって見える。

だが、鎧戸を開けるにつれて、その光が広がり、重なり合い、闇を押しのけ、部屋いっぱいを照らす。それと同じだ。

一度読んでも、何度読んでも、戯曲を感情でも知性でも受け取れないこともある。

印象が一方に偏ることもある。感情は引きつけられるのに、知性が創造への衝動をせき止め、反発する。あるいは逆に、知性は受け入れるのに、感情が拒む、といった具合である。

戯曲との出会いは、必ずしも一度の読みで終わるとは限らない。

何度かに分けて出会うことも、少なくない。

内面の核心が深く隠れていて、掘り下げなければたどり着けない戯曲もある。

その本質や考えが複雑で、解き明かさなければ分からない作品もある。

構造や骨組みが入り組み、あるいは捉えにくいため、一度には分からず、戯曲を解剖し、その部分を一つずつ調べて初めて、少しずつ知ることのできる作品もある。

そうした戯曲には、判じ絵を解くように近づくことになる。謎が解けるまでは、退屈に思えるものだ。

そういう戯曲は、一度ではなく、何度も読み返さなければならない。

読むたびに、最初の読みについて述べたことを、手がかりにする必要がある。

こうした作品は複雑なのだから、ただでさえ難しい理解への道を、いっそう難しくしてしまうような踏み違いを、さらに気をつけて避けなければならない。

もっとも、第一印象そのものが、間違っていることもある。

その場合、正しい第一印象が創造を助けるのと同じ強さで、創造を妨げる。

実際、第一印象が正しければ、それは成功の大切な手がかりとなり、その後の創造の仕事にとって、すばらしい出発点になる。

逆に、第一印象が誤っていれば、その後の仕事への害は大きい。その誤った印象が強ければ強いほど、害もまた大きくなる。

これらの事情は、役との最初の出会いがいかに大切かを、いっそうはっきり示している。この重要な瞬間には、ふだん払われているよりも、はるかに多くの注意を向けるべきなのだ。

残念ながら、第一印象の大切さを理解している俳優ばかりではない。

戯曲との最初の出会いを、十分に真剣に受け止めていない人は多い。

この大切な段階にひどく軽い気持ちで臨み、創造の始まりとさえ考えていない。

最初の読み合わせに向けて準備する者が、私たちの中に、どれだけいるだろうか?

たいていは、列車の中、辻馬車の上、公演の幕間など、場所も読み方も構わず、慌ただしく読んでしまう。しかも、作品を知るためというより、自分にとって見栄えのする役を選ぶためにだ。

そんなことでは、創造の重要な瞬間の一つ、戯曲との最初の出会いが失われるのも当然である。

その損失は取り返せない。二度目以降の読みには、創造の直感に欠かせない、思いがけなさがもうないからだ。

失われた処女性を取り戻せないのと同じく、損なわれた第一印象も、元へは戻せない。

では、初めて読んだときに戯曲をまったく受け取れなかった場合、一部分しか受け取れなかった場合、間違って、偽って受け取ってしまった場合には、どうすればよいのか?

いずれの場合も、俳優には、心理の面で非常に複雑な創造の仕事が待っている。その内容は、続く過程を述べる中で、明らかになるだろう。

2

分析

準備にあたる大きな「知る時期」の第二の段階を、私は「分析の過程」と呼ぶことにする。

分析は、役と知り合うことの続きである。

分析もまた、知ることである。

個々の部分を調べることによって、全体を知るのだ。

修復する人のように、分析は、戯曲や役の中で生き始めた個々の部分から、作者の作品の全体像を見いだす。

「分析」という言葉は、ふつう、理性による思考の過程を指す。

文学、哲学、歴史などの研究に用いられるものだ。

しかし芸術では、理性的な分析を、それだけで、それ自体のために行うと、有害である。知的で、数学的で、乾いた性質ゆえに、芸術へ夢中になる衝動や、創造の歓喜を羽ばたかせるどころか、かえって冷ましてしまうことが、少なくないからだ。

私たちの芸術における知性の役割は、補助であり、奉仕でしかない。

俳優に必要なのは、学者や批評家の分析とは、まったく別の分析である。

学問的な分析の結果が「考え」であるのに対し、俳優の分析の結果は「感覚」でなければならない。

芸術で創造するのは、知性ではなく感情である。創造の中心的な役割と主導権は、感情にある。

分析の過程でも、同じである。

分析とは知ることだが、私たちの言葉では、知ることは感じることを意味する。

俳優の分析は、何よりもまず、感情そのものが行う、感情の分析なのだ。

感情によって知ること、つまり分析は、創造の過程でとりわけ大切な役割を持つ。それによってしか、無意識の領域へ入れないからだ。この領域が、人間や役の生活全体の十分の九を占め、しかも最も重要な部分をなすことは、知られている。

したがって、知性の受け持ちは、人間や役の生活の十分の一にすぎない。残る十分の九、役の生活で最も重要な部分を、俳優は、創造の直感、芸術家としての本能、超意識の感受性によって知る。

私たちの創造も、知るための分析の大部分も、直感によるものだ。

最初の読みの後に残る、新鮮でまっさらな印象は、ほかの何よりも、直接的で直感的である。

分析のために、まずそれを活用すべきことは、言うまでもない。

知るための分析が、創造において目指すのは、次のことである。

1 作者の作品を調べること。

2 戯曲と役の中にある、創造に役立つ心の材料や、そのほかの材料を探すこと。

3 俳優自身の中にも、同じような材料を探すこと、すなわち自己分析である。

ここでいう材料は、俳優自身の情動記憶に残る、五感を通して得た生き生きした個人的な生活の記憶、知的な記憶に蓄えられた知識、実生活で得た経験などから成り立つ。

これらの記憶は、必ず戯曲や役の感情に通じ合うものでなければならない。改めて言うまでもないだろう。

4 自分の心の中に、創造の感情が生まれる土壌を整えること。意識的な感情も、そして何より、無意識の感情も生まれるようにする。

5 創造を刺激するものを探すこと。それによって、芸術へ夢中になる思いが次々に燃え上がり、最初の出会いでは生き始めなかった戯曲の箇所に、「人間の内面の生活」の新しい断片が、次々に生まれる。

A・S・プーシキンは、創造する者に「与えられた状況の中での、情念の真実と、感情の真実らしさ」を求めている。

分析の目的も、まさにそこにある。戯曲と役の「与えられた状況」を詳しく調べ、用意しておく。次の創造の段階で、その状況を通して、「情念の真実や、感情の真実らしさ」を、本能的に感じ取れるようにするためだ。

知るための分析は、何を、どのように始めればよいのだろうか?

芸術でも、生活と同じく、知性に割り当てられている十分の一を使おう。その助けで、感情の超意識的な働きを呼び起こすのである。そして感情が自らを表したら、それが何を求めているのかを理解し、感情自身には気づかれないように、創造の正しい道へ導こう。

言い換えれば、意識的な準備によって、無意識の、直感による創造が生まれるようにするのだ。

意識を通して無意識へ。これが、私たちの芸術と、その技術の標語である。

では知性は、創造において割り当てられた十分の一を、どう使うのか?

知性は、こう考える。直感による創造の感情にとって、最初の友であり、最もよい刺激となるのは、芸術の歓喜と、夢中になる思いだ。

だから、それらを、知るための分析の最初の手段にしよう。

その際、芸術の歓喜は、戯曲との最初の出会いで、特に勢いよく外へあふれ出すことを、忘れてはいけない。

芸術の歓喜と夢中になる思いは、視覚にも、聴覚にも、意識にも、芸術への最も鋭い理解にも届かないものを、超意識のうちにつかみ取る。

芸術の歓喜と夢中になる思いを通じて分析することは、戯曲と自分自身の中に、創造を刺激するものを探すための、最もよい手段である。そして、その刺激がまた、俳優の創造を呼び起こす。

夢中になれば知ることができ、知れば、さらに夢中になる。一方がもう一方を呼び起こし、支えるのだ。

分析は知るために必要であり、知ることは芸術へ夢中になる刺激を探すために必要である。夢中になることは直感が生まれるために必要であり、直感は創造の過程を呼び起こすために必要である。

結局、分析は創造のために必要なのだ。

だから、感情による分析を呼び起こすには、まず、役との最初の出会いで自然に生まれた、芸術の歓喜を活用するべきである。

そのためには、創造の歓喜が存分に現れるようにし、同時に、それをとどめておくよう努めなければならない。

役と初めて出会った後、俳優には、自分を夢中にさせ、最初から自然に目を引いたり、胸に響いたりした戯曲や役の箇所を、心ゆくまで味わい、そのよさを確かめてほしい。

才能ある人の作品には、俳優を夢中にさせる、そういう箇所がたくさんあるはずだ。

形の美しさ、文体、言葉の姿、詩の響き、内面の人物像、外見、感情の深さ、思想、表面に現れる筋書きなど、どれにも心を引かれうる。

俳優の生まれ持った性質は、思いを外へあふれさせやすく、繊細で、芸術的に美しいもの、高尚なもの、胸を揺さぶるもの、興味深いもの、楽しいもの、おかしいもの、恐ろしいもの、悲劇的なものなど、あらゆるものに応える。

作者が戯曲の表面にも奥にも散りばめた、才能の輝きの一つ一つに、俳優はたちまち心を奪われる。

これらの箇所は、芸術へ夢中になる思いが燃え上がるとき、どれも爆発物のような力を持っている。

だから、俳優には、戯曲の全体や一部を繰り返し読み、お気に入りの箇所を思い出し、作者の作品の中に新たな宝石や美しさを次々と探してほしい。自分や他人の役、あるいは演出を、自由に思い描いてほしい。

ただし、こうした仕事をし、歓喜に酔っている間も、先入観を生みかねない外からの無理強いに対し、創造の独立と自由を、できるだけ守ることを忘れてはいけない。

生まれてくる創造への熱意は、その一つ一つを十分に羽ばたかせ、底まで味わい尽くすべきである。

言い換えれば、創造の直感を、知るための手段として、余すところなく活用するのだ。

初めて戯曲を読んだとき、自然に生き始めた戯曲や役の箇所については、このようにすればよい。

では、一瞬にして直感が奥まで届き、芸術へ夢中になる思いが燃え上がる、その奇跡の起こらなかった部分は、どうすればよいのか?

戯曲や役の中で、まだ生きていない箇所はすべて分析し、その中にも、創造への熱意や芸術の歓喜に火をつける、爆発物のような材料を探さなければならない。生きた感情を呼び起こし、「人間の内面の生活」を生き返らせられるのは、それらだけだからだ。

したがって、自然に生まれた創造の直感の最初の衝動を、俳優が最後まで味わい尽くしたら、初めて役を読んだ際、すぐには、おのずと生き始めなかった箇所の分析へ進むべきである。

そのために、新しい作品の中でまず探すべきなのは、ロシアの俳優がとかく探したがる欠点ではない。創造への熱意と芸術の歓喜を呼び起こせる、芸術的な長所である。

俳優は何よりも、美しいものを見いだし、理解することを学んでほしい。

これは簡単ではない。まず悪いところや欠点を見つけようとする、私たちの同胞には、あまりなじみのないことでもある。

悪いものを見つけて批判するほうが、美しいものを理解するより、たやすいからだ。

だから、いったん上演すると決めた戯曲については、よいことだけを語る。それを原則にするべきである。

では、まだ生きていない役の箇所を分析し、命を吹き込むという難しい仕事は、どこから始め、どう進めればよいのか?

感情が黙っているのなら、その最も身近な助手であり、相談相手でもある知性に頼るほかない。

知性に、本来の、仕え助ける役割を果たしてもらおう。

偵察者のように、あらゆる方向から戯曲を調べてもらうのだ。先遣隊のように、創造の主力となる直感と感情のために、新しい道を切り開いてもらおう。

感情のほうも、自分を夢中にさせる新たな刺激を探し、直感を呼び起こす。直感は、意識には捉えられない、役と戯曲の中の生きた「人間の内面の生活」を、次々とつかんでいく。

知性による分析が詳しく、多面的で、深いほど、感情を創造へと夢中にさせる刺激や、無意識の創造に役立つ心の材料を、見つけられる見込みも大きくなる。

なくした物を探すときには、あちこちをひっくり返す。そして、いちばん思いもよらなかった場所で見つかることが多い。

創造でも同じだ。

知性の偵察は、あらゆる方向へ向けるべきである。

創造を刺激するものを至るところに探し、そこから何が創造の仕事に最も役立つかを選ぶのは、感情と、その創造の直感に任せよう。

分析では、いわば、戯曲と役の全体を、縦にも横にも、奥へも探っていく。個々の部分、構成する層や重なり、側面を調べ、外側の、比較的目に見えやすいものから始め、心のいちばん奥深いところへ進むのだ。

そのためには、役と戯曲を、いわば解剖しなければならない。

層を一つずつ深く探り、心の核心まで掘り下げる。部分に分け、それぞれを別々に調べる。まだ分析で耕していない箇所を耕し、創造への熱意を呼び起こすものを見つけ、土へ種をまくように、俳優の心へ投げ込む。

これが、分析の次の課題である。

戯曲と役の生活は、さまざまな側面を持つ。

1 まず、事実、出来事、筋書き、戯曲の具体的な成り立ちという、外側の側面。

2 それに接する、日常の暮らしの側面。

そこには、さらに(a)身分・階層、(b)民族、(c)歴史などの層がある。

3 文学の側面。そこには(a)思想、(b)文体などの線がある。

それぞれの線の中にも、(a)哲学、(b)倫理、(c)宗教、(d)神秘、(e)社会といった、さまざまな色合いが潜んでいる。

4 美的な側面。そこには(a)演劇・舞台、(b)演出、(c)戯曲構成、(d)美術・絵画、(e)身体の造形や動き、(f)音楽などの層がある。

5 心の、心理的な側面。そこには(a)創造の欲求、目指すもの、内面の行動、(b)感情の筋道と順序、(c)内面的な個性、(d)心を構成する要素とその組み立て、(e)内面の人物像の性質などがある。

6 身体的な側面。そこには(a)身体の自然な働きの基本法則、(b)身体的な課題と行動、(c)外面的な個性、つまり特徴ある容貌、化粧、身のこなし、習慣、話し方、衣装、そして身体、身振り、歩き方にかかわる、そのほかの法則がある。

7 俳優自身の、創造における個人的な感覚の側面。すなわち、(a)その役を演じるときの心身の状態……。

これらの側面は、すべてが同じ重要さを持つわけではない。

役の生活と心を生み出す土台となるものもあれば、創る人物の心身の生活を特徴づけ、補う、補助的なものもある。

初めから、感情で捉えられる側面ばかりでもない。

多くは、部分ごとに調べなければならない。

これらの側面がすべて、私たちの創造するイメージと感覚の中で溶け合う。そのとき、外側の形だけでなく、役と戯曲全体の、内面の、精神的な姿も現れる。

そこには、意識で捉えられるものだけでなく、捉えられないものも含まれている。

このように、戯曲と役の、意識で捉えられる側面は、土、砂、粘土、石などが地殻を作るように重なり、さらに深くへ、深くへと続いている。

心の奥へ進むほど、それらは無意識のものになっていく。

そして心のいちばん奥では、溶けた溶岩と火が荒れ狂う地球の中心のように、目に見えない人間の本能や情念などが、煮えたぎっている。

そこは超意識の領域であり、生命を与える中心である。俳優という人間の秘められた「私」があり、霊感の隠れた源がある。

それらは意識では捉えられず、ただ自分の全存在で感じ取るしかない。

したがって、知るための分析は、作者の言葉で表され、私たちの意識で捉えられる作品の外形から、主に無意識によってしか捉えられない、内面の精神的な核心へ向かう。作者が作品の中に表し、目に見えない形で埋め込んだ核心へである。つまり、周辺から中心へ、戯曲の言葉による外形から、その心の本質へと進むのだ。

その際、まず作者が与えた状況を知る、すなわち感じる。後で、その生き始めた状況の中で、情念の真実、少なくとも感情の真実らしさを感じる、すなわち知るためである。

他人の作った架空の状況から、自分自身の、生きた本物の感情へ。

私は、外側の状況から分析を始める。まず戯曲の本文に当たり、作者自身が与えた状況を、初めは外側のもの、次には内側のものへと、拾い出していく。

これから役を分析し、そのために本文から事実を抜き出すにあたって、今、私が関心を向けるのは、感情そのものではない。それは捉えにくく、定めにくいものだ。感情を自然に生みうる、作者の与えた外側の状況だけに、目を向けるのである。

戯曲と役の生活を取り巻く外側の状況の中で、最も調べやすく、知りやすいのは、事実の側面である。

だから、分析も、本文からの書き抜きも、そこから始めるべきだ。

戯曲の生活を、細かな状況まで一つ残らず作り上げた作者にとって、一つ一つの事実は重要である。

それぞれが、戯曲の生活をつなぐ果てしない鎖に、欠かせない輪として加わっている。

だが、私たちは、その多くを、必ずしもすぐには理解できない。

本質を直感で、すぐにつかめた事実は、記憶に刻まれる。

一方、すぐには感じ取れず、それを生んだ感情によって意味が明かされず、理由づけられていない事実は、気づかれず、重みを認められず、忘れられてしまう。あるいは、一つ一つが宙に浮いたまま、戯曲を混み合ったものにする。

たとえば私は、若いころ、初めて『知恵の悲しみ』に出会ったときの印象を覚えている。

作品の重要な瞬間や事実の中には、すぐに、消えないほど深く心へ刻まれたものがあった。

特にはっきり残ったのは、チャツキーが追い払われるところと、最後の独白だった。その独白は、早速、そらで言えるように暗記したほどだ。

一方、宙に浮いているように思えた瞬間や事実もあった。余計で、退屈で、戯曲の展開を引き延ばしているように感じた。その箇所を何とか読み、作品と結びつけるには、ひどく苦労した。

そうした箇所の一つが、喜劇の冒頭そのものだった。

私には、理解できなかった。

たとえば、いつ、どこで起きているのかを、うまくつかめなかった。

個々の事実をつなぎ、筋が通るように受け止めるのが難しかった。

ソーフィヤとモルチャーリンの逢瀬と二重奏が、よい例だ。当時の私には、そこで使われる部屋が分からなかった。客を迎える正式な客間なのに、屋敷の中で最も私的な生活の場所、つまり若い娘の部屋の、すぐ隣にあるのだ。

周知のとおり、古い屋敷では、ひと続きの表向きの部屋は一方にあり、住むための部屋は、そこから遠く離れた反対側にある。

子ども部屋や寝室などは、そちらに置かれていた。

ソーフィヤの娘部屋も、そこにあるはずだった。

初めて読んだときには、夜明けの早朝に二重奏をしていることも、ファームソフが来る理由も、音楽を時計の音と聞き違え、逆に時計の音を音楽と聞き違えることも、不意にリーザへ言い寄ることも、戯曲の導入部のすべてが、理解できず、理由のつかないものに思えた。

初めは、どれも作り物めき、芝居がかって見えた。

事実が頭の中で混乱し、そこに生きた生活や真実を見いだせなかった。

そのすべてが、戯曲からの第一印象を受け取り、自分のものにする妨げとなった。

新しい作品と出会うときには、多かれ少なかれ、同じこと、あるいはそれに近いことが繰り返される。

そういうときには、どうすればよいのか?

外側に現れる事実の生活を、どう整理して理解すればよいのか?

このために、ヴラジーミル・イヴァーノヴィチ・ネミローヴィチ=ダンチェンコは、とても簡単で巧みな方法を勧めている。

知るための分析を始めるとき、この方法を使うと、事実そのものを見つけ、整理し、その中で自分の位置をつかめるだけではない。事実をよく見つめ、その内なる意味、相互のつながりや依存関係にまで、入り込める。

その方法とは、戯曲の内容を、自分で語ってみることだ。

ただし、簡単ではない。一つ一つの事実が、閲兵を受ける隊列のように、それぞれ正しい位置に収まり、筋の通った順序で並ぶように、語らなければならないのだ。

全体の光景、作者の与えたあらゆる状況だけでなく、描かれる人物たちの「人間としての内面の生活」まで、一度に明らかになるようにするのは難しい。

戯曲と出会ったばかりのころの説明は、せいぜい、芝居やオペラの案内に載る筋書きと同程度である。

そうしたあらすじの語り直しでは、もちろん、望む結果は得られない。

それでも構わない。

俳優には、もっと上手に、詳しく戯曲を語ることを学んでほしい。

そうすれば、事実の連なりと、その内側のつながりに、深く目を向けざるをえなくなる。

戯曲を読んだ後、記憶だけを頼りに、どんな事実があり、どの順番に並び、どのようにつながっているかを確かめてほしい。つながりは、まず外側の、身体的なものだけでもよい。

こうして戯曲のすべての事実を書き留めれば、いわば事実の目録、ファームソフの屋敷での一日を記す記録が出来上がる。

それが戯曲の現在であり、事実の生活である。

例として、この仕事をしてみよう。

私たちロシア人に、最もよく知られた戯曲を取り上げる。

グリボエードフの『知恵の悲しみ』を分析し、そこから事実を抜き出すとしよう。

次のようになる。

1 ソーフィヤとモルチャーリンの夜の逢瀬が、夜明けまで長引いた。

2 夜明け、早朝。隣の部屋では、フルートとピアノの二重奏が聞こえる。

3 リーザは眠っている。本当は、見張っていなければならない。

4 リーザが目を覚ます。夜が明けたのを見て、恋人たちに別れるよう頼み、せき立てる。

5 リーザは二人を驚かせ、危険に気づかせようと、時計の針を進める。

6 時計の音を聞き、ファームソフが入ってくる。

7 リーザが一人だと見ると、言い寄る。

8 リーザはうまく身をかわし、ファームソフを立ち去らせる。

9 物音を聞いてソーフィヤが入ってくる。夜明けを見て、愛の夜があまりに早く過ぎたことに驚く。

10 二人が別れないうちに、ファームソフに見つかってしまう。

11 驚き、問いただし、ひと騒動。

12 ソーフィヤは、困った危険な状況を、巧みに切り抜ける。

13 父親は娘を行かせ、書類に署名するため、モルチャーリンと立ち去る。

14 リーザはソーフィヤを責める。一方ソーフィヤは、夜の逢瀬の詩情の後に来た、朝の味気なさに沈んでいる。

15 リーザは、どうやらソーフィヤに恋しているらしいチャツキーのことを、思い出させようとする。

16 それがソーフィヤをいら立たせ、ますますモルチャーリンのことを夢見させる。

17 チャツキーが不意に帰ってくる。その喜びと出迎え。ソーフィヤの戸惑い、口づけ。チャツキーは様子が分からず、彼女の冷たさを責める。昔の思い出。チャツキーの機知に富んだ、親しげな話。愛の告白。ソーフィヤのとげのある返事。

18 ファームソフが入ってくる。驚き。チャツキーとの再会。

19 ソーフィヤが立ち去る。父親の目をそらすため、巧みにほのめかしを残す。

20 ファームソフの質問。チャツキーはソーフィヤをどうするつもりなのか、と疑う。

21 ソーフィヤに夢中なチャツキーが、不意に立ち去る。

22 父親の戸惑いと疑い。

これが、第一幕の事実だけを並べた一覧である。

同じように、その後の幕の事実も書き抜けば、戯曲が描くその一日に、ファームソフの屋敷で外から見て何が起きたかという記録が出来上がる。

これらの事実が、戯曲の「現在」を作る。

しかし、過去のない現在はない。

現在は、過去から自然に流れ出してくる。

過去は、現在が育ってきた根なのだ。

現在を正しく判断するには、過去とのつながりを離れて、現在だけを調べても足りない。

自分の現在を、過去なしに想像してみてほしい。根を切られた植物のように、たちまち色あせてしまうだろう。

俳優は、役の過去を、自分の後ろに引きずる衣装の裾のように、絶えず背後に感じていなければならない。

戯曲と役の過去は、まず『知恵の悲しみ』という作品そのものの中に探すべきである。

事実の生活の側面にも、過去がある。それもまた、知らなければ、感じなければならない……。

過去のない現在はないが、未来への見通しのない現在もない。未来への夢、来るべきものへの予想やほのめかしが必要なのだ。

過去と未来を失った現在は、始まりも終わりもない中間であり、本からたまたま一章だけを抜き取って読んだようなものだ。

過去と、未来への夢が、現在を根拠づける。

俳優は、自分の心を揺さぶり、しかも演じる人物の夢と通じ合う、未来への夢を、いつも目の前に持たなければならない。

その夢は、俳優を引きつけなければならない。舞台上のあらゆる行動を、導かなければならない。

戯曲の中から、未来へのほのめかしや夢を、すべて拾い出す必要がある。

事実の生活の側面にも、未来への夢がある。待ち望む出来事、起きてほしい出来事、自分が生み出す出来事への夢である。

ある人は結婚を、別の人は死を、また別の人は出発を、さらに別の人は到着を待っている、といった具合だ。

役の現在が、過去と未来へ直接つながることで、演じる人物の内面の生活は濃く、深くなり、現在には根拠が与えられる。

役の過去と未来を支えにすれば、俳優は、その現在の意味を、いっそう強く受け止められる。

つまり、役の過去と未来は、現在をいっそう豊かに満たすために必要なのだ。

現在は、過去から未来への移り変わりである。

過去と未来に支えられない戯曲の事実は、何の目的もなく、宙に浮いたままになる。

事実そのものが、生活の仕組みや基盤、日々の暮らしから生まれていることも、少なくない。だから、外側の事実から、さらに深い、暮らしの側面へ入ることは難しくない。

その際、暮らしそのものを形作る状況は、『知恵の悲しみ』の本文、つまりグリボエードフ自身の言葉だけに探すのではない。作品の解説、小説類、一八二〇年代についての歴史研究などにも、探す必要がある……。

戯曲の暮らしの側面

戯曲からの書き抜き。

1 モルチャーリンとソーフィヤの逢瀬。

これは、どのような現象か?

どこから来たものか?

フランス式の教育や、小説の影響なのか?

娘の感傷的な心、物憂さ、優しさ、純真さ。そして、それと同時にある、ふしだらさ。

2 リーザがソーフィヤのために見張る。

リーザを脅かす危険を理解すること。

リーザの献身を理解すること。

シベリアへ送られたり、家畜小屋で働かされたりするかもしれないのだから。

3 年を取ったファームソフがリーザへ言い寄り、その一方で、修道士のように清く振る舞う。その時代の偽善の見本。

4 ファームソフは、身分違いの結婚を、どんなものでも恐れている。マリヤ・アレクセーエヴナ公爵夫人がいるからだ。

5 一族の年長者である、マリヤ・アレクセーエヴナの重み。

彼女から非難されることへの恐れ。

よい評判も、威信も、職さえ失うかもしれない。

エリザヴェータ・ミハイロヴナの父親の恐れ。

エリザヴェータ・ミハイロヴナの死。

6 リーザのソーフィヤへの献身。チャツキーとの結婚を勧めること。モルチャーリンと結婚すれば、リーザも笑い者にされてしまう。

7 チャツキーが外国から帰ってくる。

当時、馬を駅ごとに乗り継いで外国から帰るとは、どういうことだったのか……。

ただし、暮らしの様子が必要なのは、それによって「人間の内面の生活」と情念の真実が明らかになる範囲に限ることを、忘れてはいけない。

内面の生活は暮らしのあり方に影響し、暮らしのあり方は内面の生活に影響する。

だから、日々の暮らしを調べるときには、人々が「何を」感じたかだけでなく、「どのように」感じ、「なぜ」ほかの生き方ではなく、そのように生きたのかを、理解しなければならない。

さらに戯曲の生活の深い領域へ進むと、文学の側面へ入る。

もちろん、それを評価できるのは一度にではなく、戯曲の理解が進むにつれてである。

初めは、形式、文体、言葉遣い、詩のよさを、大まかに捉えられる。

戯曲を構成する部分に分けて解剖し、その骨格や構造を理解することができる。部分同士の調和と釣り合い、展開の整い方、段階的な進み方、順序、舞台上の行動としてのよさ、個性、表現力、彩り、着想の面白さを味わえる。導入、事実の組み合わせと選択、行動の展開、人物とその過去の的確な描写、未来へのほのめかしにおける、作者の工夫も見えてくる。

さまざまな行動を引き起こし、内なる本質と「人間の内面の生活」を明らかにするきっかけや原因を、作者がどれほど巧みに作っているかも、見定められる。

外側の形と内なる本質を照らし合わせ、どれほど合っているかを確かめることもできる。

戯曲の中心的な考えを、初めは大まかに捉え、次第に核心へ掘り下げていくこともできる。

さらに、戯曲の社会的、倫理的、宗教的、哲学的な本質について、材料を集めることもできる。

たとえば、ファームソフとは何者か?

上流貴族ではない。

妻が、上流貴族なのだ。

一八一二年の後、上流貴族は皆、パリへ去った。

別の者たちはペテルブルクに住み、モスクワにいたのは、地主貴族だった。

ファームソフは官僚である。

こうした知識はすべて、グリボエードフの作品そのものからも、この戯曲をめぐる数多くの注釈や批評からも、取り出すことができる。

最も取り組みやすいのは、外側から始めることだ。幕、場、情景、さらに小さな個々の部分といった、戯曲の外側の組み立てを理解する。最後には、その表面を織り成す全体の仕組み、骨組みをつかむ。

外に現れる舞台上の行動が、どの線に沿って展開するかを理解する。

個々の部分が、どう組み立てられ、展開するかを見る。

戯曲の思想、その中心となる考えを理解する。今のところは、理性によって。

先ほど調べた、一八二〇年代の暮らし、民族、歴史、倫理、宗教にかかわる生活の線が、戯曲の中にどう通され、どう映されているかを見定める。

それぞれの行動を引き起こす、きっかけや原因の意味をつかむ。

考え、思想、暮らし、倫理が、どのような形に具現されているかを見定める。

文学的な分析。

文体の線。グリボエードフの言葉の美しさ、詩の軽やかさ、韻の鋭さ、言葉の的確さ、工夫の豊かさを味わう。

たとえば、「そのうえなら――スカロズーブ」。

訳注

ここからの引用は、グリボエードフの詩の音の工夫を示す例。最初の例では к тому б と Скалозуб の末尾の響きが対応する。

あるいは、

……おまえは、なぜ
こんなに早く起きたのだ。え?
何の用があって?

または、

ピョートル・イリイチ公爵を待っている……。
……スカロズーブ、セルゲイ・セルゲーイチはどこだ、え?

訳注

原文では Ильича と Сергеич? а? の響きが対応する。

作品全体の文体を味わう。

論理的な道筋、あるいは別の道筋をたどりながら、根本にある考え、すなわち超課題と、その考えを実現する貫く行動へ、少しずつ近づいていく。

何が作者に筆を取らせたのか。創造の出発点はどこにあったのか?

さらに深くへ下りると、美的な側面へ入る。そこには、演劇・舞台、演出、美術、絵画、劇の構成、身体の造形や動き、音楽などの層がある。

これらの側面はすべて、本文の言葉を通して調べられる。ただし、それで分かるのは、大まかなところまでである。

つまり、舞台装置、室内のしつらえ、部屋の配置、建築、照明、人物の集まり方、身振り、行動、身のこなしについて、作者が何を書いているかを読み取り、書き抜くことができる。

その先は、演出家や、この戯曲の舞台装置を描く美術家の話にも、耳を傾けるとよい。

上演のために集められた資料にも、目を通せる。

資料集めに自分も加わり、演出家や美術家と一緒に、博物館、美術館、当時の古い邸宅を訪ねることも役に立つ。さらに、雑誌や版画なども、自分で見てみるとよい。

要するに、絵画的な構成、身体の形と動き、色彩、建築、美術の様式などの面から、戯曲を自分自身で調べるべきなのだ。

美的な側面

絵画的な面から始めよう。

舞台となる場所。室内と風景。

平面の構成、建築的な部分は、俳優の行動にとって最も重要である。

背後にラファエロの描いた装置が掛かっていたとして、それが私に何の関係があるだろう?

私には見えないのだから。

その配置のせいで、前舞台の、プロンプター・ボックスのそばに立たされる。そこは、俳優にとって最も難しい場所だ。(サルヴィーニは七メートル、ドゥーゼは四メートル。)

美術家であり、演出家でもあるシモフは、各場面の気分に合う隅々の場所を、どのように用意したか。

すべてが、すぐに自分の場所を見つけた。

間取りや城の壁が描く、変化に富んだ線、つまり建築的な配置を味わう。あるいは、その時代らしい家具や室内の物の配置、物そのものを味わう。

純粋に、絵画としての側面。

色彩が灰色がかり、乏しいのはよくない。

目を楽しませる祝祭がないからだ。

だが、色彩が鮮やかすぎるのもよくない。目へ与えるものが多すぎて、戯曲が書かれ、上演される、その肝心の目的から、注意をそらしてしまう。

俳優には、目に与えられた印象に打ち勝てない。

とりわけ、色のまとまりが、戯曲の核心と合わない、不適切な位置に置かれている場合はそうだ。

たとえば、クストーディエフの舞台美術で上演した際の、グリブーニンの赤いガウンという色のまとまりだ。

色彩の面では、並外れた強さがあった。

グリブーニンから、どうしても目が離せなくなる。

私たちは彼を椅子の陰や隅へ隠したが、それでも前へせり出して見え、パズーヒン本人も、戯曲の思想も、覆い隠してしまった。

もし革命を扱う戯曲を上演し、その象徴である赤旗が主役となるのなら、クストーディエフの方法は、すばらしいだろう。

書き抜いたものをすべて合わせると、かなりの量の資料になる。

これで、その後の創造の仕事に使えるものが、出来上がった。

ここから、「知る」という大きな時期の、新しい段階へ入る。

3

外側の状況を[創り、]生きたものにする

大きな準備期間の第三の段階を、私は、外側の状況を創り、生きたものにする過程と呼ぶことにする。

知ることの第二の過程、つまり分析では、どんな事実があるかを確かめるだけだった。だが今度は、外側の状況を創り、生きたものにする過程である。事実そのものを生み出した本質、あるいは事実の中に隠れている本質を、知らなければならない。

理性的な分析で得た、戯曲の生活を取り巻く外側の状況についての材料は、かなり豊富だ。だが、乾いていて、生命がない。

今のところは、過去、現在、未来の事実の一覧、台詞の書き抜き、解説にすぎない。要するに、戯曲と役の生活に「与えられた状況」を記録したものだ。

戯曲を、このように理性だけで知った段階では、出来事や事実に、本物の、生きた、現実の意味はまだない。

それらは、生命のない、芝居がかった行動のままである。

それらに対する態度も、軽いものになる。

芝居のための事実、出来事、状況は、当然、芝居のための向き合い方、役者じみた心身の状態、約束事、嘘しか呼び起こさない。情念の真実や感情の真実らしさではなく、プーシキンの求めるものと、まさに正反対のものを生むのだ。

「与えられた状況」を外側から眺めているだけでは、「情念の真実」も「感情の真実らしさ」も知ることができない。

集めた乾いた材料を創造に使えるものにするには、その内面の本質に命を吹き込む必要がある。舞台の事実や状況を、死んだ芝居の材料から、生きて、生命を与えるものへ変えなければならない。それらへの向き合い方を、芝居のためのものから、人間としてのものへ変えなければならない。事実と出来事の乾いた記録へ、息を吹き込むのだ。生きたものだけが、生きたもの、つまり本当に自然な「人間の内面の生活」を生み出せるのだから。

戯曲の本文から取り出した、生命のない材料を生き返らせ、そこから、作者によって「与えられた状況」を、生きたものとして作らなければならない。

知性によって得た乾いた材料に命を吹き込むのは、私たちの芸術で最も重要な創造者の一つ、俳優の想像力である。

この新しい創造の段階から、仕事の場は理性の領域を離れ、想像力の領域、俳優が自由に思い描く世界へ移る。

人は誰も、現実の本当の生活を生きているが、想像の生活を生きることもできる。

俳優は生まれつき、現実の本当の生活より、想像の生活のほうを、はるかに楽しく、面白く感じることが少なくない。

俳優の想像力には、他人の生活を自分へ引き寄せ、自分に重ね、共通する身近なものや、心を揺さぶる性質や特徴を見つける力がある。

自分の好みに従って、架空の生活を作ることができる。だから、その生活はいつも俳優の心に親しく、胸を動かし、美しく、創造する本人にとって内面の内容が豊かで、自分の持ち味と通じ合うものになる。

想像の生活は、俳優自身の選択、意志の努力、創造への集中によって生まれる。材料は、外から偶然取り入れたものではなく、自分の中に蓄えられ、自分の持ち味に近い、親しい心の材料である。

想像の生活を作る事実や状況は、俳優自身が、内なる願いや衝動に従って定める。現実の生活ではよくあるように、運命や偶然の悪意によって、自分の願いに逆らう形で押しつけられるのではない。

そのため、架空の生活は、現実そのものよりも、ずっと俳優にとって愛しい。俳優が自由に思い描く世界に、創造への熱意が、心から熱く応えるのも、不思議ではない。

俳優は、空想することを愛し、その力を身につけなければならない。

それは、創造にとって最も重要な能力の一つである。

想像力なしに、創造はありえない。

想像や空想が差し出す魅力によってこそ、心の最も深い隠れ場所から、生きた創造への欲求、芸術へ向かう生きた衝動を、呼び起こせる。

俳優の想像の世界を通していない役は、心を誘うものにはならない。

俳優は、どんな題材でも空想を働かせられなければならない。

どんな材料を与えられても、そこから想像の中に、生きた生活を作れなければならない。

子どもと同じように、どんなおもちゃでも遊べて、その遊びに喜びを見つけられなければならないのだ。

そのおもちゃである空想を、自分の好みや直感に従って、戯曲のお気に入りの箇所から自分で選んだのなら、なおさら好きになり、創造への意志を引きつけるのが当然だろう。

俳優は、自分の空想を創る際、まったく自由である。

ただし、根本の構想と、創造する題材では、作者から外れないことだ。

では、創造する想像力は何をするのか。俳優の空想は、どのように進むのか?

俳優の空想や、想像の生活には、さまざまな種類がある。

まず、心の目を使って、想像の中に、さまざまな視覚的イメージを見ることができる。生き物、人の顔、容貌、風景、物質的な物の世界、道具、周囲のしつらえなどである。

また、心の耳によって、さまざまな音、旋律、声、抑揚などを聞くこともできる。

自分の感覚の記憶、すなわち情動記憶が呼び起こす、さまざまな感情を感じることもできる。

こうした目や耳、そのほかの感覚に浮かぶイメージを、大切にし、味わうことができる。

何か積極的に行動しようとはせず、いわば外から、受け身のまま、それらを眺めて楽しむこともできる。

要するに、自分自身の空想の観客になれるのだ。

俳優が自分の空想の観客になる、この種の空想を、私は「受動的な空想」と呼ぶことにする。後で述べる「能動的な空想」と区別するためである。

目で感じる俳優と、耳で感じる俳優がいる。

前者は心の目がより鋭く、後者は心の耳が鋭い。

私も属している前者にとって、想像の生活を作る最もやさしい道は、目に浮かぶイメージを通る道である。

後者にとっては、耳に浮かぶイメージを通る道だ。

私は、受動的な空想から始める。

そのために、自分には最も取り組みやすい、受動的な空想を呼び起こす方法、つまり視覚を通る道を選ぶ。

パーヴェル・アファナーシエヴィチ・ファームソフの屋敷、つまり戯曲の舞台となる場所を、心の目で見ようとする。

分析の間に集めた、一八二〇年代の建築や室内のしつらえについての資料が、ここで大いに役に立つ。

観察力と、受け取った印象を覚えておく力のある俳優なら、それがないのでは困るのだが、また、多くを見て、学び、読み、旅してきた俳優なら、それをしていないのでも困るのだが、自分なりに想像できるはずだ。たとえば、ファームソフの暮らした一八二〇年代の家と、そのしつらえを。

私たちロシア人、ましてモスクワの住人なら、そのような家を知っている。全体ではなくても、先人の時代から残った、ばらばらの名残として、その部分を知っている。

たとえば、モスクワのある邸宅では、その時代らしい玄関と、表階段を見た。

別の邸宅では、柱の形を覚えている。

三つ目の家では、面白い中国風の飾り棚を描き留めた。

そこでは、一八二〇年代の室内を描いた版画も、記憶に残った。いつか、どこかで見た椅子も思い出す。パーヴェル・アファナーシエヴィチ・ファームソフが、まさにそこへ座っていそうな椅子だ。

古い、ビーズや絹糸で刺繍した手仕事の品を、手元に持っている人も多い。

それを眺めると、ソーフィヤを思い出し、考える。あの僻地のサラトフで、「嘆き悲しみ、刺繍枠に向かって座り、聖人暦を前にあくびをする」ことになった彼女が、これを縫ったのではないだろうか、と。

分析の間に、また、さまざまな時と場所に蓄えた、本当に生きた生活や、想像して作った生活の記憶が、今、私の呼び声に集まってくるようだ。それぞれの場所へ収まり、想像の中に、一八二〇年代の地主の屋敷を再現していく。

この仕事を何度か行うと、家一軒を、頭の中に建てられるようになる。建てたら、見て回り、その建築を楽しみ、部屋の配置を調べることができる。

想像の品々は、それぞれの場所に収まり、次第に、もっと身近で、なじみ深くなる。同時に、いつの間にかその家に生まれ始める、別の、内側の生活と、ますます溶け合っていく。

作っている生活の中で、何かがしっくりこなかったり、退屈になったりしたら、すぐに新しい家を建て直すことも、古い家を改造することも、ただ修理することもできる……。

想像の生活のよさは、邪魔も、足止めも、不可能もないことだ……。

好きなものは何でも手に入り、望むことは何でも、たちまち実現する。

毎日何度か、外から眺める観客としてファームソフの屋敷を楽しむうちに、俳優はその細部の一つ一つまで知っていく。

私たちの第二の天性である習慣が、残りを仕上げてくれる。

創造の中で、想像した生活をしっかりと定着させるために、習慣はとても大きな意味を持つ。

こうして、ファームソフの家が頭の中に出来上がる。

だが、誰も住んでいない家は退屈だ。人が欲しくなる……。

想像力は、人々も作ろうとする。

まず、家のしつらえそのものが、少しずつ人々を生み出す。

物の世界には、それを作った人々、つまりその家の住人の、心そのものが映っていることが少なくない。

もっとも、初めのうち、想像が見せてくれるのは、人々自身や、その顔形ではなく、衣装や髪形だけだ。

顔のない衣装が、動き、生きている。その姿を、心の目で見る。

顔の代わりには、まだ、はっきりした輪郭のない、ぼんやりした色のまとまりがあるだけだ。

ただ、なぜか給仕の一人だけは、想像の中で、きわめて鮮明に生き始める。

顔も、目も、身のこなしも、心の目にはっきり見える。

これは、ペトルーシカではないだろうか?

おや!

いつかノヴォロシースクから一緒に船に乗った、あの陽気な水兵ではないか……。

どうして、ここ、ファームソフの家へ入り込んだのだろう?

不思議だ!

だが、俳優の想像の生活には、こんなものではない、不思議もある。

ペトルーシカと一緒に見える、まだ姿のはっきりしないほかの人々には、個性も、その人固有の特徴や性質もない。

分かるのは、大まかな社会的立場、生活上の役どころだけである。父、母、女主人、娘、息子、家庭教師、執事、従僕、召使いたち、といったものだ。

それでも、こうした人影は屋敷の光景を補い、全体の気分や空気を作る助けになる。今のところは、全体の絵の中に添えられたものにすぎなくても、そうなのだ。

屋敷の生活をもっと詳しく見るために、部屋の扉を少し開け、その一角へ入り込んでみる。たとえば食堂と、そこにつながる使用人の仕事場へ。廊下、配膳室、台所、階段などへ。

食事どきのこの一角は、騒ぎになった蟻の巣を思わせる。

主人の床を汚さないように靴を脱いだ、裸足の娘たちが、料理や食器を持って、あちらこちらへ走り回るのが見える。

顔のない、生きて動く給仕の衣装が見える。主人たちへ料理を出す前に、台所係の男から大まじめに料理を受け取り、美食家の作法そのままに、味を確かめている。

従僕や台所の男たちの衣装も生きて動き、廊下や階段を、忙しく行き来する。

中には、途中で出会う娘を、色っぽい冗談半分に抱き寄せる男もいる。

食事が済むと、屋敷はひっそりとする。主人が昼寝をしているので、誰もが爪先立ちで歩いている。その主人の豪快ないびきは、廊下じゅうに響き渡っている。

やがて、客や貧しい親戚、洗礼の名付け子たちの、生き動く衣装がやって来る。

彼らはファームソフの書斎へ案内され、恩人である洗礼の代父に挨拶し、その手に口づけする。

子供たちは、この日のために覚えた詩を暗唱する。恩人の代父は菓子や贈り物を配る。

その後はまた、角の部屋か緑色の小部屋に集まって、お茶を飲む。

皆がそれぞれの家へ帰り、屋敷が再び静まると、今度は灯り係の生き動く衣装が、大きな盆にカルセル式のランプを載せて部屋を回る。鍵でぜんまいを巻く、かりかりという音が聞こえる。梯子を運んで来てはよじ登り、シャンデリアや卓上に油のランプを据えていく。

やがて暗くなると、一続きに並んだ長い部屋の先に、小さな光が見える。鬼火のように、あちらへこちらへと移っていく。

ランプに火をともしているのだ。

あちこちの部屋にカルセル式ランプの淡い火がともり、心地よい薄明かりが満ちる。

子供たちは寝る前のひととき、部屋を駆け回って遊んでいる。

とうとう子供部屋へ連れて行かれ、床に就く。

すると、急に静かになる。

遠くの部屋からは、女がクラヴィコードかピアノを弾きながら、感傷たっぷりに歌う声だけが聞こえてくる。

老人たちはトランプをしている。誰かがフランス語の何かを単調に読み上げ、別の誰かはランプのそばで編み物をしている。

やがて夜の静けさが訪れ、廊下をぺたぺたと行く室内履きの音がする。

最後に誰かの姿がちらりと見え、闇の中へ消えると、すべてが静まる。

ただ遠くの通りから、夜警の打ち鳴らす音と、遅く帰る辻馬車のきしみ、それに番人の物悲しく長く引く声が届く。「耳を澄ませ……よく聞けえ……よく見ろお……」

こうして想像の中に、屋敷全体の空気と暮らしの習わしが形を取る。とはいっても、まだ暮らしの大枠にすぎず、住人一人ひとりを特徴づける細部も、その人らしさも、個性もない。

遠い時代の日々の暮らしを描く、この想像上の光景の観客は、私一人だ。私は部外者として傍らから眺めて楽しむだけで、他人の暮らしに自分で加わってはいない。

今のところ、ファームソフ家の生活の状況は、目に見える日常の営みや暮らし方の域を出ていない。

この家の暮らしに内面的な意味を与えるには、人間が必要だ。ところが屋敷じゅうに生身の人間は、たまたま見物している私と、奇跡的に命を得た給仕のペトルーシャしかいない。

この幻の屋敷で、衣装に包まれて動く人々に命を与えようとしても、うまくいかない。そこで私は、歩き回る衣装の一つを選び、顔のあるはずのぼんやりした箇所へ、自分の頭を載せてみる。

これはうまくいく。

もう、その時代の服を着て髪を整えた私自身が、屋敷じゅうを歩いているのが見える。玄関の間に、広間に、客間に、書斎にいる。食卓では、女主人の生き動く衣装の隣に座っている。私は、家の中でこんなにも名誉ある席を占めていることを喜ぶ。ところが反対に、卓の末席でモルチャーリンの生き動く衣装の隣に座る自分を見ると、こんな低い扱いを受けるのかと腹が立つ。

こうして、想像の中で暮らす人々に、心を寄せるようになる。

よい兆しだ。

もちろん、相手に心を寄せることと、その感情を自分で感じることは違う。それでも、その一歩手前までは来ている。

この試みに励まされ、今度はファームソフ、プラトン・ミハイロヴィチ、N氏、D氏などの衣装の肩に、自分の頭を載せてみる。

頭は肩にくっつくが、胴体はそれで生きてはこない。

若いころの自分を思い出し、その若返った頭をチャツキーやモルチャーリンの衣装に載せてみる。これは、ある程度うまくいく。

想像の中でさまざまな化粧を施し、その顔を登場人物たちの肩に載せて、作者が紹介してくれたこの家の住人を見いだそうとする。それも、ある程度はできるが、大して役には立たない。

ただ、スカロズーブの衣装に、化粧した自分の頭を想像の中で載せたときだけは、個性を備えた生きた人物の姿が、かすかに見えてくる。

次には、実際に知っている人々の顔を、次から次へと思い浮かべる。

いろいろな絵画や版画、写真なども見直してみる。

生きた人の顔でも絵や写真の顔でも、同じことを試すが、どれもうまくいかない。例外は、N氏の衣装にぴたりとはまった劇場の会計係の顔と、「本の敵」である「あの肺病持ち」によく合った、一枚の版画の顔だけだった。

他人の頭を貼りつける試みが失敗して、私は、こういう想像の働かせ方は無駄なのだと悟った。

大事なのは、受け身の観客としてファームソフ家の住人の化粧や衣装、外見を見ることではない。彼らをすぐそばに感じ、その存在を感じ取ることなのだ。

そこに自分がいるという感覚を助けるのは、見ることや聞くことではなく、相手がそばにいるという感覚だ。

さらに、この近さは、机に向かって台本を探っていても知ること、感じることはできないと分かった。想像の中でファームソフの家へ入り、その家族に自分で会わなければならない……。

では、どうすれば、そこへ身を移せるのか。

ここでも、想像力と俳優の空想の力を借りる。

ただし今度は、空想も想像力の働かせ方も、別の種類になる。

受動的な空想のほかに、能動的な空想があるのだ。

自分の空想の観客になることもできるが、その登場人物になることもできる。つまり、想像によって作られた状況や条件、暮らしの仕組み、室内のしつらえ、品物などのただ中へ、自分自身を置くのである。そうなれば、部外者のように自分の姿を眺めることはなくなり、自分の周囲にあるものだけが見える。

やがて、この「そこにいる」という感覚が強まれば、周囲の状況の中で、自分が空想を動かす中心人物となり、想像の中で行動し始められる。何かを欲し、何かを目指し、何かを成し遂げるのである。

これが能動的な空想だ。

ここから、「知る時期」という創造の大きな段階の、第四の過程が始まる。

4.内的な状況を作り出し、〔生きたものにする〕

「知る時期」における、この新たな第四の過程を、私は、ファームソフ家の暮らしの内的な状況を作り出し、〔生きたものにする〕過程と呼ぶことにする。その前の過程で俳優が扱っていた、役の生活の外的な状況と対になるものだ。

心の生活の内的な状況を想像の中で作ることは、その生活を感情によって分析し、知り、生きたものにすることでもある。

この段階は、創造の材料を分析し、そこに命を与えるという、一連の過程の続きである。

今、「知る」という過程は深まり、外側の、頭で考える領域から、内面の心の生活へと降りてきた。

そこでは、俳優の創造する感情が積極的に働いて、知ることが進む。

この新しい、感情を通じて材料を知り、生きたものにする方法が難しいのは、今や俳優が、本や言葉、理屈による分析などの意識的な手段を通してではなく、自分自身の感覚、本物の感情、自らの人生経験によって役を知るからだ。

そのためには、ファームソフ家のただ中へ自分を置き、自分自身がそこにいなければならない。以前のように観客として外から自分を眺めていてはいけない。

これは創造の最初の準備段階全体の中でも、難しく、最も重要な心理上の転換点だ。

とりわけ注意深く取り組む必要がある。

この重要な創造の瞬間を、俳優仲間では「私はいる」と呼ぶ。つまり私は、想像の中で戯曲の生活に「いる」こと、「存在する」ことを始める。その真っただ中にいる自分を感じ始める。作者が提示し、俳優が作り出したあらゆる状況と一体になり、その中で生きる権利を得始めるのである。

この権利は一度に得られるものではなく、少しずつ獲得していく。そのために、次のような方法を使う。

私は想像の中で、観察者の席から登場人物の席へ、つまりファームソフ家の一員の席へ移ろうとする。

すぐに成功したとはいえない。それでも、自分自身を眺める対象にすることはやめられた。今は自分の周囲にあるものだけを見ている。

屋敷の部屋や調度、そこに住む幻の人々を、今度は遠くからではなく、すぐ近くに見る。

想像の中で部屋から部屋へ移るうちに、自分が屋敷の中を歩いているように思えてくる。

玄関に入り、階段を上がって、一続きに並ぶ接客用の部屋への扉を開く。客間を通り、大広間の前室へ向かう扉を押す。

誰かが重い肘掛け椅子で扉をふさいでいる。私はそれを脇へどけ、さらに広間へ進む……。

いや、もうよそう!

自分をだましてどうするのだ!

この散歩の間に感じていることは、想像力による創造でもなければ、空想の生きた生活でもない。本当にそこにいるという感覚でもない。

ただ自分をだまし、自分自身と想像力に無理強いしているだけなのだ。

そこにいると感じようと力んでいるだけで、実際には感じていない。

たいていの俳優は、同じ間違いを犯す。

本当に生きているつもりになり、感じようと力むだけで、実際にはそこにいると感じてはいないのだ。

舞台で自分が「そこにいる」と感じているかどうかを見極めるには、この上なく正確で厳しくなければならない。

役の生活を舞台で本当に感じることと、たまたま生じた何かの感覚や、感じたつもりになっていることとの間には、途方もない違いがある。それを忘れてはいけない。

こうした偽りの錯覚に身を任せるのは危険だ。自分への無理強いと、型どおりの演技へつながってしまう。

とはいえ、あの失敗したファームソフ家の散歩にも、一瞬だけ、本当にそこにいると感じ、それを信じられたときがあった。

前室の扉を開け、それから閉め、大きな肘掛け椅子を動かしたときだ。その重さを、かすかに身体で感じたほどだった。

その数秒間、私は真実を感じ、本当に「そこにいた」。だが、椅子を離れ、また輪郭の定まらない品々の間へ、宙に浮くように戻ると、その感覚は消えてしまった。

このとき初めて、創造するときの心身の状態、つまり「そこにいる」という「私はいる」の感覚を生み出すうえで、対象が並外れて重要な役割を果たすことを、実際に知った。

そこで、対象を使った試みを繰り返してみる。ただし、まだ生きていない物だけを扱う。

想像の中で、いろいろな部屋の家具や品物をすっかり配置し直す。物を運び、拭き、よく眺めてみる。

こうした想像上の試みは、どれも、そこにいるという「私はいる」の感覚を強めてくれる。

それに励まされて、もう一歩先へ進んでみる。物ではなく、生きた相手にも、同じような近さを感じてみようというわけだ。

では、誰を相手にするか。

当然、ペトルーシカだ。幻や生き動く衣装ばかりのこの屋敷で、彼だけが生きた人間なのだから。

上の階の女中部屋へ通じる階段のそば、薄暗い廊下で、彼と出会う。

「さては、ここでリーザを待っているのかな」と思い、私は冗談めかして指を振ってみせる。すると彼は、あの気のよい、人を引きつける笑顔を浮かべる。

この瞬間、私は想像で作った状況の中に自分がいると感じただけでなく、周りの物の世界までが、にわかに生き始めたことを、はっきりと感じた。

壁も空気も品物も、生きた光に照らされた。

本物の真実と、それを信じる気持ちが生まれ、続いて「私はいる」という感覚が、いっそう強まった。

同時に、創造する喜びが私を満たした。

生きた相手は、「私はいる」の感覚を生むのに、いっそう役立つことが分かった。

この状態は、それだけでひとりでに、直接生じるものではない。対象を感じることによって、とりわけ生きた相手を感じることによって生じる。そのことが、すっかり明らかになった。

生きた相手を想像の中で作り、出会い、その近さや確かな存在を感じる練習を重ねるほど、新たな重要な条件を確信するようになった。「私はいる」という状態にとって大切なのは、相手の姿、顔、身体、身のこなしといった外面的な姿よりも、その内面の姿、その人の心のあり方を感じ取ることなのだ。

それだけでなく、人と交流するときは、相手の心理を理解すること以上に、自分自身の心理、つまり自分が相手にどう向き合っているかを理解することが大切だとも分かった。

あの水夫のペトルーシカとの出会いがうまくいったのは、そのためだったのだ!

私は彼の心のあり方、内面の姿を感じていた。

ノヴォロシースクからの船旅で、彼を知った。

自分の中に、彼に対する気持ちができていた。

嵐の最中、あのとき長い間彼と話したことは、無駄ではなかった。

危険に直面すると、人は自分をよくさらけ出すものだ。

ペトルーシカにあの水夫を見いだしたのは、顔が似ていたからではない。二人の心のあり方に、何か似たものを感じたからだ。

リーザが「給仕のペトルーシャを好きにならずにいられるものですか!」と言うように、あの水夫のことも、「こんな水夫を好きにならずにいられるものか」と言いたくなる。二人に共通する、人を引きつける魅力によって、私はペトルーシカの中に水夫を見いだしたのだ。

水夫の頭を、生き動くペトルーシカの身体に、あれほど簡単に載せられたのは、そのためだった!

頭を載せると同時に、自分でも気づかぬうちに、よく知っている心を、その身体に入れていたのである。

自分の頭を生き動く衣装へ想像の中で簡単に載せられたのも、その下に自分の心を自然に感じていたからではなかったか。

さらに、ペトルーシカと容易に交流できたのは、そのとき彼の心だけでなく、自分の心、自分が彼に抱く気持ちも、よく感じられたからだと分かった。これも、交流を互いに通じ合うものにするうえで大切なことだ。

この発見のあとには、当然、次の課題が出てくる。ファームソフ家の住人の心のあり方、とりわけ自分が彼らに抱く気持ちを、自らの経験によって知り、感じるには、どうすればよいか。

だが、この課題はひどく複雑に思える。

登場人物全員の心と姿を感じ取ることは、戯曲を丸ごと一つ創造するのと、ほとんど同じではないか。

しかし、私の狙いはそこまで大きくない。

もっとずっと簡単なことだ。

この幻の屋敷で、生きた心と出会うことさえできればよい。

それがグリボエードフの作った心と、そっくりそのまま同じでなくてもかまわない。

正直なところ、ファームソフ家の生きた人々を作り出そうと、これまで取り組んできたことが、私の心や想像力、俳優としての本性全体に、何の影響も残していないとは思えない。

私が作り出す生きた相手には、少なくとも幾らかは、グリボエードフの人物の生きた特徴が映るはずだと信じている。

生きたものになったファームソフ家の外的な状況の中で、生きた相手と出会うことに慣れるため、私は想像の中で、一家の人々や親戚、知人を次々と訪ねることにする。幸い今では、住人一人ひとりの部屋の扉を、想像の中でたたけるのだ。

読んだばかりの戯曲の印象が鮮やかなので、まず会いたくなるのは、最初に台本を読んだとき、作者自身が紹介してくれた住人たちである。

まずは主人のパーヴェル・アファナーシエヴィチ・ファームソフのところへ行きたい。次には若い女主人のソーフィヤ・パーヴロヴナ、それからリーザ、モルチャーリンなどを訪ねたくなる。

私は見覚えのある廊下を進む。暗がりで何かにぶつからないよう気をつけながら、右側の扉を数えて、三つ目まで来る。

ノックし、待ってから、そっと開ける。

練習の成果で、自分のすること、自分がそこにいること、想像の生活の中に自分が存在することを、すぐに信じられるようになった。

ファームソフの部屋へ入ると、どうだろう。部屋の真ん中で、主人がシャツ一枚になって立ち、聖歌隊の指揮者よろしく身振りを交え、大斎期の祈り「わが祈りを御前に届けたまえ」を歌っている。

その前には、懸命に、鈍くさいほど集中するあまり、顔をくしゃくしゃにした少年が立っている。

甲高い子供の声を張り上げ、祈りの歌を聞き取り、覚えようとしている。

目には、泣いたあとの涙がまだ光っている。

私は脇へ座る。

老人は私の前でも半裸を少しも気にせず、歌い続ける。

私は心の耳で聞く。すると、生きた相手がいると感じ始めるように思える。つまり、彼が近くにいることを、身体で感じ始めるのだ。

だが、生きた相手を感じるとは、その身体を感じることだけではない。大切なのは、その心に触れることだ。

もちろん、これは身体で触ってできることではない。

別の道がある。

人は言葉や身振りなどだけで交流するのではない。主には、一人の心からもう一人の心へ発する、意志の見えない光線、流れ、振動によって交流するのである。

感情は感情によって、心から心へと伝わって、知られる。

ほかに道はない。

私は今、相手の心、そのあり方を知り、触れようとする。そして何よりも、それに対して自分がどう向き合っているのかを、見定めようとする。

自分の意志や感情の光線を、つまり自分の一部を、相手へ向けようとする。そして相手から、その心の一部を受け取ろうとする。

言い換えれば、受信と発信の練習をしているのだ。

だが、ファームソフその人がまだ私にとって存在せず、心も宿していないのに、彼から何を受け取り、何を渡せるというのか。

確かに!

彼はまだ存在しない。そのとおりだ。だが、屋敷の主人という彼の暮らしの中での立場は分かる。彼個人ではなくとも、彼と同じ部類の人々、同じ集団の人間なら知っている。

ここで人生経験が助けに来る。外見や身のこなし、癖、子供のような生真面目さ、聖歌への深い信仰と敬意から、見覚えのある型の人間が思い浮かぶ。気はよいが、滑稽で横暴な変わり者。その内側には、農奴の主人の顔と野蛮さが潜んでいる。

これによって、相手の心に触れて理解するところまではいかなくても、自分の中に、彼にふさわしい接し方を見つけられる。

今では、彼の奇行や振る舞いをどう受け止め、どう向き合えばよいのかが分かる。

しばらくは、この観察が面白い。だが、そのうち退屈してくる。

気が散り、また気を取り直して集中するが、すぐにまた散漫になる。結局、想像の中でファームソフのもとを去る。もう、そこで何もすることがないからだ。

それでも私は、この試みは成功だったと思う。励まされて、今度は想像の中でソーフィヤに会いに行く。

彼女とは玄関の間で出くわした。

着飾った彼女は、早く出かけようと、慌ただしく毛皮の外套を羽織っていた。

そのそばでリーザが忙しく立ち働いていた。

外套の留め金を掛けるのを手伝い、お嬢様が持っていく小さな包みを、幾つもこしらえていた。

ソーフィヤ自身は鏡の前で、服を直したり、身なりを整えたりしていた。

父親は役所へ出かけた。娘はクズネツキー橋のフランス人の店へ、「帽子、頭巾、髪留め、ピン」を買いに、「本屋や菓子屋」へ、ことによると「ほかの用事」で急いでいるのだな、と私は考えた。

今度も結果は同じだった。相手がいることで、「私はいる」の状態を生き生きと感じられたが、長くは続かなかった。すぐに気が散り、また集中し直し、結局はすることがなくなって、ソーフィヤのもとを去った。

正直にいえば、ごく短いものではあっても、この訪問や出会いは楽しかった。そこで今度は、モルチャーリンのところへ行った。

私はこれからファームソフ家の親戚や知人を訪ねて回るつもりだったので、その住所を全部書いてくれるよう頼んだ。彼が書いている間は、気分よく過ごせた。

モルチャーリンが役所風の筆跡で一文字ずつ書いていくのが、面白かったのだ。

だが、書き終わるとまた退屈してきたので、訪問に出かけた。

想像の生活では、招待されていなくても誰のところへでも行ける。

誰も気を悪くせず、皆が迎えてくれる。

まず、ひどく遠くの兵営まで、セルゲイ・セルゲーエヴィチ・スカロズーブの原型となる人物に会いに行った。

スカロズーブのところを出て、フリョーストワへ向かう途中、想像の中でトゥゴウホフスキー家にも立ち寄った。

一家がちょうど、晩の祈りに教会へ出かけようと、六人乗りの〔馬車〕に乗り込むところだった。

想像の中でこの巨大なぼろ馬車に体を押し込むと、もうがたがたと揺られている。馬車は道のくぼみからくぼみへ、次々と落ち込む。

昔のモスクワの、大斎期の春のぬかるみが、そこで初めて分かった。

そこで初めて、気の毒なアムフィーサ・ニーロヴナ・フリョーストワを思い出し、「六十五歳にもなって、のろのろ出かけていく」のが、姪を訪ねる彼女にとってどれほどつらいか、自分の経験から分かった。

ひどい目に遭いましたよ!
ポクロフカから、たっぷり一時間。もうへとへと。
この夜道ときたら、まるでこの世の終わり!

公爵、公爵夫人、六人の令嬢、それに私。総勢九人だ!

六人乗りの馬車へ押し込まれた私たちは、樽詰めのニシンも同然だった。

幸い、ほどなくポクロフカへ着いたので、私はアムフィーサ・ニーロヴナの屋敷の前で、六人乗りの馬車から飛び降りた。

この年配の女官は、宮廷の徽章をつけた朝の部屋着姿で、奉公娘たちに囲まれて座っていた。

目の前には黒人の娘が立ち、小犬もそばにいた。

アムフィーサ・ニーロヴナは、小犬にはちんちんを、黒人の娘にはロシアの歌を教えていた。ロシア風のサラファンを着たマトリョーシカやグルーシカ、アクーリンカたちが娘を助け、その猿のように絞り出す、きしんだ声に応じて、甲高い声で歌の繰り返しを歌っていた。

アムフィーサ・ニーロヴナの愉快な冗談と気のよい笑い声が、皆を元気づけていた。

彼女は歌をちょっと止めて、食後には笑うことが欠かせないのだと、私に説明した。

それが食べ物を「落ち着かせ」、消化を助けるというのだ。

ところが突然、その冗談と気のよさが、侮辱的なからかいや、頭をぴしゃりとたたく仕打ちに変わった。

フリョーストワの家にも長居はしなかった。することがなく、すぐに退屈してしまったからだ。

フリョーストワのもとを出ると、ザゴレツキー、レペチーロフ、ゴリチ夫妻、それから、〔チャツキーが「あれは何という男だっけ、〕トルコ人かギリシア人か。あの肌の黒っぽい、鶴みたいな脚の男……」と言う人物のところへも行った。

想像の中で一度家を出てしまうと、俳優としての本性に備わる好奇心は、もう何ものにも抑えられない。

どこへ行っても、生きた相手の存在、その生きた心を感じた。やり取りするものさえあれば、交流できるはずだった。

そのたびに、そこにいるという感覚は強くなった。だが残念ながら、新しい知り合いも、長く私の注意を引きつけてはおけなかった。

なぜだろう。

答えはごく簡単だ。これらの出会いや訪問には、どれも目的がなかったのである。

相手が身体的に近くにいると感じるための、練習として作ったものだった。

感覚そのものを得るために、感覚を生み出していた。しかし身体的な感覚だけでは、長く生き続けたり、興味を保ったりすることはできない。

もしこの訪問に目的があれば、たとえ外面的な目的だけでも、話はまったく違ってくる。

そこで今度は、あらかじめはっきりした目的を用意して、試みを繰り返してみる。

まず簡単なところから、命のない物を使って始める。

もう一度前室へ行き、あの肘掛け椅子のよい置き場所を探す。扉をふさいでいて、対象の大切さをあれほど実感させてくれた椅子だ。

同じ型の椅子と左右対称に置いてみたり、部屋でいちばん目立つ、中心となる場所に一脚だけ置いてみたりする。

今回も、課題に取り組んでいる間は、自分がファームソフの家の真っただ中にいると感じた。対象の近さ、それとのつながりや交流を感じていた。

だが、課題を終えたとたん、また空間の中に溶けてしまうようで、足元の地面を失い、宙に浮いてしまった。

これで得られた結果は、以前の、対象が近くにあるというだけの感覚より、ほんの少しよい程度だった。

そこで、もっと複雑な課題に取り組んでみる。

広間へ行き、自分に言い聞かせる。もうすぐソーフィヤとスカロズーブの結婚式がある。私は百人分の盛大な披露宴の支度を任されたのだ。

卓や食器などを、どう配置すれば都合がよいだろう。

いろいろと考えることが出てくる。例えば、結婚式には連隊長が来る。ことによると、軍の上役が全員来るかもしれない。

階級順に座らせ、誰の機嫌も損ねず、皆をできるだけ上座、つまり新郎新婦の近くへ案内しなければならない。

親戚についても、同じような席次の問題がある。

こちらからも、ずいぶん不満が出そうだ。

敬うべき人々があまりに多くなり、席が足りなくなって、私は気をもんだ。

新郎新婦を真ん中に座らせ、そこから放射状に卓を並べたらどうだろう。

それなら、上座の数をずっと増やせる。

席が増えれば、身分に応じた配置もしやすくなる。

この課題の解決に、長い間夢中になった。もしこれを考え尽くしてしまっても、次の課題はもう用意してある。同じ披露宴の支度でも、スカロズーブではなく、モルチャーリンとソーフィヤの結婚式にするのだ。

そうなれば、すべてが変わる!

住み込みの秘書との結婚は、不釣り合いな縁組だ。結婚式も控えめにして、ごく近しい身内だけを呼ぶことになるだろう。その身内でさえ、全員がわざわざ来てくれるとは限らない。

将軍たちも来ないだろう。モルチャーリンの直属の上司は、ファームソフ本人なのだから。

新しい組み合わせが次々と頭に湧き、私はもう、対象が近くにあることも、「私はいる」の状態も、交流も考えなくなっていた。

私は行動していたのだ。

頭も感情も意志も想像力も、すべてが本当の生活で起きている場合と、まったく同じように働いていた。

この試みに励まされ、同じことを、今度は物や自分の考えではなく、生きた相手に対してやってみようと決めた。

そこで、またファームソフを訪ねる。彼はまだシャツ一枚で指揮をしながら、少年に「第六調」の聖歌を教えている。

私は、この変わり者を怒らせてやろうと決める。

部屋へ入り、少し離れて座る。いわば彼に狙いを定め、何か言い掛かりをつけて老人をからかう機会をうかがう。

「何を歌っているんです?」と尋ねる。

だが、パーヴェル・アファナーシエヴィチは答えてくれない。まだ祈りが終わっていないからかもしれない……。

ようやく終わった。

「とてもいい旋律ですね」と、私は平然と言う。

「旋律じゃない。君、これは神聖な祈りだ」と、彼は言い聞かせるように言う。

「ああ、失礼。うっかりしていました!……それは、いつ歌うものなんです?」と、私はしつこく尋ねる。

「教会へ行っていれば、分かることだ」

老人はもう腹を立てていた。それが私はおかしくて、ますますからかいたくなった。

「行きたいんですけど、長く立っているのが苦手で」と、私はおとなしく言った。「それに、あそこはひどく暑いでしょう!」

「暑い?……」と老人は食いついた。「地獄の業火は暑くないとでもいうのか!」

「あそこはまた別ですよ」と、私はますますおとなしく言い訳する。

「なぜだ?」と、パーヴェル・アファナーシエヴィチは一歩こちらへ踏み出して問い詰める。

「だって、地獄なら、神様が作ったままの裸でいられますから」と、私は間抜けのふりをする。「寝転がってもいいし、蒸し風呂の棚にいるつもりで温まれます。でも教会では、腰も下ろさず立っていろと言われる。それも毛皮の外套を着たままです」

「ええい、君と話していると、こっちまで罪を犯しそうだ」。老人は急いで立ち去った。笑い出して、ひいては「信仰の根本を揺るがす」ことにならないように。

この新しい取り組みは、ひどく大切なことに思えた。そこで私は、生きた相手の心に触れる方法を、しっかり身につけようと決めた。

そのために、また訪問に出かける。今度ははっきりした目的がある。ファームソフの親戚や知人に、ソーフィヤとスカロズーブの結婚を知らせるのだ。

試みはうまくいった。もっとも、交流する相手の生きた心を、いつも同じように鮮明に感じられたわけではない。

それでも、「私はいる」という感覚は、回を重ねるごとに確かなものになった。

取り組みが進むにつれて、最終的な目的も、行動しなければならない状況も、ますます難しく複雑になった。

一まとまりの出来事が生まれてきた。

例えば、想像の中でソーフィヤが、遠い田舎のサラトフへ追いやられる。

では、彼女の秘密の婚約者は、どうすればよいのか。

手立てを探すうちに、叔母のもとへ向かう旅の途中で、ソーフィヤを連れ去るところまで行き着く。

またあるときは、モルチャーリンと一緒にいるところを見つかったソーフィヤが、家族の裁きにかけられ、私は弁護役を引き受けた。

裁くのは、代々のしきたりの守護者、マリヤ・アレクセーエヴナ公爵夫人その人だった。

家の伝統を背負う、この恐ろしい人物と渡り合うのは容易ではない。

三度目には、ソーフィヤとスカロズーブ、あるいはモルチャーリンの婚約が突然発表される場に居合わせた。

この災難を防ぐにはどうすればよいか、私は頭を絞った。

ついにはスカロズーブ本人と決闘することになり……私は彼を撃ち殺してしまった。

これらの即興練習から、「私はいる」の状態には、単純な行動一つでは足りず、ひと続きの出来事が必要なのだと確信した。

そうなれば、想像の生活の中にただいる、存在するだけでなく、ほかの人々、自分が彼らに抱く気持ち、彼らが自分に抱く気持ちも、より鋭く感じ始める。

人は、不幸の中でも幸福の中でも、その姿を知ることができる。

生活のただ中で出会い、刻々と関わり、迫り来る出来事へ共に向かい、その前に立つ。求め、戦い、目的を達し、あるいは出来事に屈する。そうしていると、自分がそこにいることばかりでなく、ほかの人々や、起こった事実そのものに対する自分の気持ちも感じられる。

想像の中で行動し、押し寄せる出来事と戦うことに、すっかり身を委ねられたとき、私は、自分の中で不思議な移り変わりが起こるのを感じた……。

この不思議な移り変わりの瞬間に、内的な状況の本当の価値が分かる。

それは、外面や内面の生活で起こる出来事を自分がどう受け止めるか、また、ほかの人々とどのような関係を結ぶかによって成り立っている。

俳優が、創造するときの心身の状態、「私はいる」の状態、生きた相手を感じること、交流することを技術として身につけ、想像上の人物と出会ったときに本当に行動できれば、人間の内面の生活を取り巻く外的・内的な状況を作り、生きたものにできる。つまり、最初の「知る時期」で学んでいる仕事ができるのである。

事実や人々が変わってもよい。俳優自身の考えた事実や人々の代わりに、新しいものが与えられてもよい。〔想像上の〕生活に命を与える力は、先の仕事でも、俳優の大きな助けとなる。

内面でこの移り変わりが起こる瞬間に、最初の創造の段階である「知る時期」は、ひとまず終わる。

しかし、それは、ここまでにした仕事へ、今後もう戻らなくてよいということではない。

役の分析そのものも、それを助ける個々の取り組みも続いていく。作者が提示し、俳優が補った外的・内的な状況を作り、生きたものにすること。そのために必要な心身の状態、「私はいる」という〔存在の感覚〕を保つこと。そして事実の意味を、何度でも新たに捉え直すこと。これらは、俳優が役に関わり続ける限り、絶えることなく進み、発展し、限りなく深まっていく。

では、最初の「知る時期」は、そのすべての過程を通じて、何をもたらしてくれたのだろうか。

イ.役との最初の出会い。

ロ.役の分析。

ハ.外的な状況を作り、生きたものにすること。

ニ.内的な状況を作り、生きたものにすること。

ここまでの仕事は、どんな実を結んだのか。

「知る時期」は、創造する感情と体験が芽生えるために、俳優の心の土壌を整え、いわば耕したのである。

知るための分析は、作者の与えた状況を生きたものにし、その先で「情念の真実」が自然に生まれるようにした。

〔5.戯曲の事実と出来事の意味を見定める〕

次に来る仕事を、私は「事実の意味を見定めること」と呼ぼう。

本質的には、これは、内面の移り変わりをもたらした、今終えたばかりの仕事の続き、あるいはむしろ繰り返しにすぎない。

違いは、それまでの試みが、戯曲をきっかけに、その周辺で、個々の主題を取り出し、自由に行われていたのに対し、今度は作者の作ったとおりの戯曲そのものを扱うという点だけだ。

私は、戯曲の中で事実が順に展開する、その順序に沿って意味を見定め始める。チャツキー役を演じる私には、自分の役に直接関係する部分だけでなく、ファームソフ家の生活全体を知り、感じることが大切だからだ。

内的な状況と外的な状況には、直接のつながりがある。

実際、今私が作り出している登場人物の心の生活の状況は、その外面の生活の状況に、したがって戯曲の事実の中に、隠れている。

両者を別々に考えることは難しい。

戯曲の外面的な事実や筋書きを通り抜け、その内側の本質へ入り込む。周辺から中心へ、形から内容へと進むうちに、おのずと、戯曲の心の生活を形づくる内的な状況の領域へ入っていく。

だから、もう一度、戯曲の外面的な事実へ戻らなければならない。ただし事実そのもののためではなく、その中に隠された本質、戯曲の心の生活を形づくる内的な状況のために戻るのである。

外面的な事実を新しい視点、新しい光の下で見直す。ファームソフの家に自分がいるという、新しい状態の中で見るのだ。私たちが「私はいる」と名づけた、あの心身の状態である。

こうして再び戯曲の事実へ戻るが、今度はずっとよく準備ができている。ファームソフ家の生活を実際に経験し、そこから学んでいるのだ。

ここで示す試みが込み入りすぎないよう、私は重要な事実だけを取り上げ、小さなものは省く。ただし、これは説明のためだからであって、本当に役を知ろうとする際には、もちろん省いてはいけない。

まず出会うのは、ソーフィヤとモルチャーリンの逢引きと恋愛という事実だ。

この事実を、自分自身の感情で、それに対する自分の生きた気持ちに基づいて見定めるため、私は想像の中で、ソーフィヤ役を任された女優の立場に身を置く。そして彼女として、戯曲の生活の中に、いること、存在することを始める。

この「私はいる」の状態で、自分にこう尋ねる。「もし私が女だったら、人間としての私の内面のどんな状況が、どんな生きた考え、願い、求めるもの、性質、生まれつきの長所や欠点が、ソーフィヤと同じような気持ちでモルチャーリンに接するよう、私を動かすだろうか」

この問いを投げかけると、私の心の中では、次のようなことが起こる。

「恋の端役、出世目当ての男、召使い根性の男!」と、私は考える。

自分のすべてが彼に反発する。彼の何もかもが嫌で、感情が憤る。

どんな状況でも、私が女だったとして、ソーフィヤのような気持ちでモルチャーリンに接することなどできそうにない。

どうやら私が女なら、ソーフィヤ役を体験するための感情も記憶も情動の材料も、自分の中には見つからず、『知恵の悲しみ』への出演を断るほかないらしい。

私がそう考えている間も、想像力は眠っていなかった。

それはいつの間にか、すでによく知るファームソフ家の外的な状況で私を囲み、ソーフィヤの暮らしの条件の中に、私を存在させていた。想像の中で、私を事実の真っただ中へ押し込もうとしていたのだ。そこで、自分自身の意志を働かせ、自分の感情の促しに従い、自分の理解と経験によって、事実の意味や重みを判断させるために。

実際、こうして戯曲の生活の中にいると、作者の与えた事実や出来事を、新しい目で見直さずにはいられなくなる。

新しい視点から見ると、想像力はもう、それらを成り立たせる理由、内側からの説明、心で近づく道を探し始めている。

新しい生活の中で自分を取り巻くすべて、作者の与えた状況へ、いわば照準を合わせているのである。

「もしソーフィヤが」と、想像力は思い描く。「育てられ方やフランスの小説であまりに心をゆがめられ、モルチャーリンのような、小さく取るに足りない心、ああいう召使いじみた愛し方が、まさに気に入っているのだとしたら?」

「なんて嫌な、病的なことだ」と感情は憤る。「そんなものを体験するための霊感を、どこから得ろというのだ?」

「それに対して覚える憤りからでも得ればいい」と、理性は冷たく言う。

「ではチャツキーは?」と感情は反発する。「そんな心のゆがんだソーフィヤを、彼が愛するだろうか。信じたくない。そんなことでは、チャツキーの人物像も、戯曲そのものも損なわれる」

こちらからでは私の心へ近づけないと分かると、想像力はもう、別の動機、別の衝動を生む状況を探している。

「もしモルチャーリンが」と想像力はまた誘いをかける。「本当に並外れた人間で、ソーフィヤが語るとおり、詩情に富み、穏やかで、愛情深く、譲り合う心があり、気づかいができ、何より、一緒にいて心が安まり、気の合う人だったら?」

「それならモルチャーリンではなく、別の、とても感じのよい人間になってしまう」と、感情は駄々をこねる。

「それでもいい」と想像力は応じる。「そんな人なら、愛せるだろうか?」

……? 感情はもう、足場を崩されている。

「それに」と、想像力は感情に立ち直る暇を与えず、畳みかける。「人は誰でも、とりわけ甘やかされた女性は、自分の姿にうっとりしたがることを忘れてはいけない。そのためには、実際にはなれない、こうありたいという自分を演じてみる必要がある」

「一人きりでも自分のためにそんな遊びをするのだから、誰かの前で演じれば、なおさら楽しい。とりわけその相手がモルチャーリンのように、こちらが信じてほしいことを何でも、本気で信じているように見せるなら」

「あるときは優しく、あるときは気高く、あるときは詩情にあふれ、またあるときは皆からいじめられる自分に見せるのは、女性にとってなんと楽しいことだろう!」

「自分を哀れみ、ほかの人の同情や賛美を呼び起こすのは、なんと心地よいことだろう」

「観客がいると、新しい演技、新しい美しい役、新しい自己陶酔へと誘われる。とりわけ、その観客がモルチャーリンのように、こちらをその気にさせる合いの手を入れるのが上手なら」

「だが、そんなソーフィヤの感情の解釈は勝手すぎる。グリボエードフに反するではないか」

「そんなことはない。グリボエードフが求めているのは、まさにソーフィヤのこういう自己欺瞞と、モルチャーリンのこういう厚かましく、しかも本当らしい嘘なのだ」と、理性は結論する。

「国語の先生たちの言うことを信じるな」と、想像力はさらに強く説く。「俳優としての自分の感情を信じるのだ」

今、ソーフィヤがモルチャーリンを愛しているという事実は、私の心の中で意味を見定められ、しかるべき理由を得た。それによって命を持ち、私はそれを受け入れ、感じ取った。

その真実を信じたのだ。

感情による分析は、最初の務めを果たした。戯曲の生活にとっても、私のチャツキー役にとっても、ひどく大切な、生きた内的状況が生まれた。

それだけではない。ソーフィヤがモルチャーリンを心から愛するという事実が生きると、ほかの多くの場面も一度に明るく見えてくる。ソーフィヤが彼を思って夢見るところ、第一幕のリーザとの場面や第三幕のチャツキーとの場面など、各幕で熱心に彼をかばうところである。

この生きた愛の事実は、第二幕で彼が落馬したときのソーフィヤの恐怖や、同じ幕で、彼の不注意を責める気持ちも説明してくれる。

チャツキーへの復讐も、最終幕でモルチャーリンに失望する痛みも、そうだ。

つまり、ソーフィヤとモルチャーリンの恋の筋全体と、その恋を妨げるあらゆる状況が見えてくる。

それだけでもない。生きた生命の流れは、電信のように、この生きた場面と何らかの関わりを持つ、戯曲のほかの部分すべてへ伝わっていく。

さて、そこへ突然ファームソフ本人が入り、逢引きの現場で恋人たちを見つける。

ソーフィヤはさらに苦しい立場になる。想像の中で彼女の身になると、私も動揺を抑えられない。

こんな疑いを招く状況で、厳しい独裁者ファームソフと正面から出くわせば、相手の足元を崩すために、大胆で意表を突く手が必要だと分かる。

こういうときには、自分の対手と、その人ならではの特徴を、よく知っていなければならない。

だが私は、最初に戯曲を読んだあと心に残った、幾つかのかすかな印象を除けば、まだファームソフを知らない。

演出家も役を演じる俳優も、助けにはならない。彼らも私以上には知らないのだ。

この横暴な老人の性格、個人的な特徴、心のあり方を、自分で定めるほかない。

いったい、彼は何者なのか!

「官僚、農奴の主人だ」と、理性は中等学校の文学の授業を思い出して答える。

「よし!」と想像力はもう夢中になって乗り出す。「ということは、ソーフィヤは女傑なのだ!」

「どうして?」と、理性は戸惑う。

「あんなに平然と大胆に暴君を手玉に取れるのは、女傑だけだからだ」と、想像力は熱を上げる。「ここでは古いしきたりと新しいしきたりが衝突している!……自由な恋愛だ! 現代の主題だ!」

理性の冷や水を浴びせる言葉がなければ、想像力は、グリボエードフ本人さえ夢にも見なかった領域へ飛んでいっただろう。

しかし想像力の熱弁は、感情に火をつけなかった。

「私には」と感情は落ち着いて言う。「ソーフィヤは単にファームソフを見て怖じ気づき、今は夢の話をでっち上げて、不器用に切り抜けようとしているように思える」

想像力は、ロマンチックな高まりに対して、こんな散文的な答えが返ってきたので、すっかり失望する。

だが一秒後には、新しい組み合わせを思いつき、それで感情を誘う。

「もしファームソフが怖そうに見せているだけなら? 家のしきたりや一族の伝統を守り、マリヤ・アレクセーエヴナ公爵夫人の気に入るように振る舞っているだけだとしたら?」と、想像力はもう思い描いている。

「ファームソフが、気はよいが横暴で、客好きで、かっとなりやすいが、すぐ機嫌の直る男だったら?」

「娘に手玉に取られるような父親だったら?」

「それなら……それなら話はまったく違う!……この窮地を切り抜ける道は明らかだ。そんな父親なら、扱うのは難しくない。ましてソーフィヤは抜け目がない。『亡くなった妻、あの母親にそっくりだ』というのだから」と、理性は知識を提供する……。

ファームソフをどう扱えばよいかが分かれば、彼の出る場面や彼について語る多くの場面にも、心で近づき、その理由を納得する道を、自分の中に見つけやすくなる。例えば第一幕の夢の話の場面や、ファームソフが去ったあとソーフィヤが不平を漏らす場面などだ。

最初の二つの主要な場面を解く鍵が見つかれば、続く場面も理解しやすい。甘く詩的な夜のあとに訪れた、さんざんな朝の味気なさへの苦々しさが、そこには満ちている。

後に続く場面でも、同じ仕事をしなければならない。

チャツキーの帰還が何を意味するのかを見定めなければならない。幼なじみで、兄も同然、婚約者も同然の存在。かつて愛した、いつも大胆で、激しく、自由で、恋している男の帰還だ。

何年もの不在のあと、外国から戻ることは、当時としては決してありふれた出来事ではなかった。鉄道はなく、重い寝台馬車で旅をし、郵便にも何か月もかかった時代なのだ。

よりによって、チャツキーはひどく間の悪いときに、突然帰ってきた。

それだけに、ソーフィヤの当惑、平静を装って動揺を隠さなければならない気持ち、良心のうずきが、よく分かる。ついには、遠慮なくしゃべり続けるチャツキーに、彼女がとげのある言葉を向けることも理解できる。

チャツキーの身になり、かつてのソーフィヤとの幼い友情を思い出し、昔なじみに対する今の冷たい態度と比べてみれば、その変化と彼の驚きが、重みを持って分かってくる。

一方、詩情に満ちた逢引きと、そのあとに続いた父親との味気ないやり取りを終えたばかりのソーフィヤの身になれば、チャツキーへのいらだちも、理解し許せる。彼の大胆で辛辣な機知が、彼女に悪い印象を与えたことも分かる。それは、口答え一つしないモルチャーリンの穏やかさと、鮮やかな対照をなしているのだ。

ほかの登場人物、ソーフィヤの親戚たちの立場になれば、彼らのことも理解できる。

西欧派のチャツキーの自由な言動を、彼らが受け入れられるだろうか!

農奴制の国で暮らす彼らが、根本を揺さぶる言葉を恐れずにいられるだろうか。

チャツキーのような言動に出られるのは、気のふれた者だけだ、と彼らは思う。

そうした状況で、昔の友人であり婚約者でもあった彼を、社交界全体の目に正気でない人間と映るようにしたソーフィヤの復讐は、いっそう巧妙で容赦のないものになる。

モルチャーリンの侮辱的な欺きが明るみに出たとき、甘やかされてきたソーフィヤの自尊心が、どれほど強い打撃を受けるか。それは彼女の身になって初めて分かる。

想像の中で農奴を所有する女の生活を送り、その習慣や考え方、暮らしぶりを感じなければ、ファームソフの娘の果てしない憤りも、モルチャーリンを召使い同然に辱めて追い出すときの苦しみも、知ること、つまり感じることはできない。

ファームソフ本人の立場になって初めて、彼の怒りの強さ、処罰するときの憎々しさ、そして最後の「ああ、何ということだ! マリヤ・アレクセーエヴナ公爵夫人は何と言うだろう!」という言葉にこもる恐怖が分かる。

こうして十時間から十五時間の間に詰め込まれた個々の事実、外的・内的な状況を、自分自身の経験で一つずつ確かめると、グリボエードフが戯曲のために選んだファームソフ家の一日が、どれほど落ち着かず、思いがけないことに満ちていたかを、知ること、つまり感じることができる。

そこで初めて、この喜劇の重要な特徴が一つ分かる。『知恵の悲しみ』を上演するとき、よく忘れられてしまう特徴だ。

それは、作品を貫く緊張、熱、テンポである。

実際、四幕、つまり数時間の上演にわたり展開する、深い意味を持った数多くの事実を収め、納得できるものにするには、舞台の行動を速やかに進め、俳優が舞台で起こるすべてに、鋭く反応しなければならない。

さらに、ファームソフ家の住人すべての、人間としての内面の生活のテンポと、出演者全員に必要な熱量を、見定めなければならない。

劇場では、これがよく忘れられる。とりわけ、俳優が朗々と理屈を述べる、型どおりのアカデミックな解釈では、そうなりやすい。

俳優が多くを見て、観察し、知っているほど、経験や人生の印象、記憶を豊かに持つほど、繊細に感じ、考えるほど、想像の生活は広く、多彩で、中身の豊かなものになる。事実や出来事の意味を、より十全に深く捉えられ、戯曲と役の生活を取り巻く外的・内的な状況も、よりはっきりと形づくられる。

毎日、同じ主題について、同じ与えられた状況の中で、系統立てて想像力を働かせると、想像の生活に慣れていく。

その習慣は、第二の天性、想像による第二の現実を作り出す。

今、戯曲のすべての事実を、頭だけでなく、何よりも感情で見定めてみると、思いがけないことに気づく。登場人物の生活の内的な状況が、ずいぶん理解でき、身近になっている。以前は芝居じみて見えた事実も、生きた、実際の生活の出来事になっているのだ。

こうして、乾いたむき出しの事実から知るための分析を始めた私は、いつの間にかそれらに命を与え、ファームソフ家の生活を本当に学ぶところまで来ていた。

最初に戯曲を読んだあと、乾いた事実の一覧、いわば記録を作っていたときと、今、事実の意味を見定めることとの間には、実に大きな違いがある。

あのときの事実は、芝居の外面的な事柄、単なる筋書きや作品の組み立てに見えた。今は、途切れることなく心を揺さぶられる一日の、生きた出来事になっている。現実の意味と重みを持つ、生身の人間の、私自身の生活の一こまなのである。

あのときは、ただの乾いたト書きだった。「ファームソフ入る」。今は、その中に、逢引きを不意に見つかった恋人たちへの深刻な危険が潜んでいる。ソーフィヤは「田舎の奥、サラトフへ」、モルチャーリンは〔トヴェリへ〕追いやられ、一生くすぶって暮らすことになりかねない。

あのときは、作者の単なるト書きだった。「チャツキー入る」。今は、放蕩息子が家族のもとへ帰ること、何年も待ちわびた愛する人との再会だ。

今では、乾いたト書きや作者の一語一語の中に、なんと多くの想像と、体験した内的・外的状況、心の生活の生きた断片、俳優自身の生きた願い、感情、思い描いたもの、像、求めるもの、行動が隠されていることだろう!

自らの経験を通して事実の意味を見定めた今、「そこにいる」という状態も、役の外面と内面の生活の事実や状況も、以前のようによそよそしく芝居じみたものではなく、本物に思えてくる。

いつの間にか、それらに対する態度が変わり、現実として受け止め、その中で暮らし始める。

今では、ファームソフ家の生活のあらゆる状況が、生きた本当の意味と、確かな重みを持っている。

それらはばらばらな部分ではなく、切り離せない一つの全体、複雑につながった状況の連鎖として受け取られる。

それに対する、自分だけの個人的な向き合い方が生まれる。

つまり俳優は、この家の生活全体の内面的な意味、一人ひとりの人生の目的と、それを目指す線、さらに、それらの線が幾重にも絡み合って登場人物の関係を形づくる、全体の模様を理解し始める。

このとき、戯曲の事実や筋書きは、その中に込められた豊かな内面の内容と、切り離せなくなる。

俳優は事実と筋書きを伝えながら、おのずと、そこに含まれる心の内容も伝える。外面的な事実の下を、水面下の流れのように流れる、人間の内面の生活そのものを伝えるのである。

舞台で必要なのは、こうした心の内容を備えた事実だけだ。内側の感情が行き着いた結果としての事実、あるいは反対に、その感情を生むきっかけとしての事実である。

事実のためだけの事実、単に面白い挿話としての事実は、舞台には不要で、害にさえなる。人間の内面の生活から、注意をそらすだけだからだ。

事実の意味を見定める過程の秘密は、想像の中で人々をぶつかり合わせ、行動させ、戦わせ、運命やほかの人々に勝たせたり、屈服させたりするところにある。

それによって、彼らの願い、目的、個人的な生活、そして役を生きる有機体である俳優自身と、ほかの登場人物との関係などが明らかになる。つまり、私たちが探している、戯曲の生活の内的な状況が見えてくるのだ。

そもそも、戯曲の事実や出来事の意味を見定めるとは、どういうことか。

その中に隠れた意味、心の本質、その重要さと影響の大きさを見つけることだ。

外面的な事実や出来事の下を掘り進み、その奥深くに、別の、より重要な心の出来事を見つけることだ。それこそが、表面の事実を生み出したのかもしれない。

心の出来事が発展する線をたどり、その働きかけの強さと性質、一人ひとりが目指す方向と線を感じることだ。登場人物たちの多くの内なる線が、それぞれの人生の目的へ向かう大きな流れの中で、ぶつかり、交差し、絡み合い、近づき、離れていく、その模様を知ることだ。

つまり、事実の意味を見定めるとは、人の心の生活の内側の仕組みを知り、感じることである。

事実の意味を見定めるとは、作者の作った、もとは他人のものである事実や出来事、生活全体を、自分自身のものにすることである。

事実の意味を見定めるとは、戯曲の事実や台詞の下に隠された、演じる人物の個人的な心の生活の秘密を解く鍵を見つけることである。

戯曲の事実や出来事の意味を、一度決めたら二度と変わらないものにしてしまうのは、間違いだ。

その後の仕事でも、絶えず新たに見定め直し、いっそう豊かな心の内容を与えていかなければならない。

それだけではない。創造を繰り返すたびに、その都度、新しく事実の意味を捉え直す必要がある。

人間は機械ではない。創造を繰り返すたび、いつも同じように役を感じ、同じ刺激で燃え上がることはできない。

俳優は創造のたびに、役を新しく感じ、変わらない戯曲の事実を、その都度新しく見定めるのである。

だから、昨日の事実の捉え方は、今日のものとまったく同じではない。

事実への近づき方や俳優の心身の状態の、ごくわずかな、ほとんど気づかないほどの違いが、今日の創造を生かす、いちばん大きな刺激となることも少なくない。

その刺激の力は、新しさ、意外さ、みずみずしさにある。

何が俳優の身体と心に働きかけ、創造のたびに事実の意味を新しく捉え直させるのか、すべてを見積もることはできない。

天候、気温、光、食事、内的・外的な状況の組み合わせなどから生じる、数え切れない偶然のまとまりが、多かれ少なかれ俳優の心の状態に影響する。

そして俳優の全体的な状態が、今度は事実への新しい向き合い方、創造のたびの新しい意味づけに影響する。

絶えず変化する偶然の組み合わせを生かすこと。事実の意味を見定めることによって、創造の刺激を新鮮にすること。この能力は、俳優の内面の技術の、とても重要な部分だ。

この能力がなければ、俳優は数回の上演で役への熱を失い、事実を生きた生活の出来事として受け止めなくなり、その内面的な意味や重みも感じられなくなってしまう。

そんなとき、見に来た観客のほうが、今舞台で創造している俳優よりも、戯曲の事実の意味を正しく捉えていたら、困ったことになる。

見る者と創る者の間に、残念な食い違いが生じる。

観客のほうが、創造する俳優本人よりも、戯曲の事実に心を動かされていたら、困るのだ。

俳優が事実を軽く見すぎても、反対に大げさに受け止めすぎてもいけない。それでは真実も、事実が本物だという信頼も、適度という感覚も損なわれる。

(軽く見すぎる例は、チャツキーの帰還。重く見すぎる例は、「発狂」である。)

Ⅱ.体験の時期

創造の第二の大きな段階を、私は「体験の時期」と呼ぶ。

最初の「知る時期」を、若い恋人同士が知り合い、求愛し、縁組をする時期にたとえるなら、第二の「体験の時期」は、結ばれ、受精し、命を宿し、胎児が育つ時期にたとえられる。

ヴラジーミル・イヴァーノヴィチ・ネミローヴィチ=ダンチェンコは、この創造の瞬間を、こうたとえる。実や植物が育つには、種を土に埋めなければならない。

種は必ず腐らなければならず、その腐った種から、やがて実を結ぶ植物の根が出てくる。

同じように、作者の創造の種も俳優の心に植えられ、そこで腐り、根を下ろさなければならない。その根から、俳優自身のものでありながら、精神において作者と血を分けた、新しい創造が育つのである。

「知る時期」が準備の段階だったのに対し、「体験の時期」は、生み出す段階である。

「知る時期」は土壌を耕した。それは「体験の時期」に、役のまだ命の通っていない箇所へ、生きた生活の種をまくためだった。

「知る時期」が「与えられた状況」を準備したとすれば、「体験の時期」は「情念の真実」を作る。役の心、そのあり方、内面の姿、本物の生きた人間の感情、そしてついには、生きた有機体としての役の、人間としての内面の生活そのものを作り出す。

したがって、第二の「体験の時期」こそ、創造の中心となる、根本的な段階なのである……。

体験を生み出す過程は、有機的な過程である。人間の心と身体の自然の法則、感情の本当の真実、自然な美しさに基づいている。

では、この有機的な体験の過程は、どう生まれ、発展し、実を結ぶのか。俳優の創造の仕事とは、何をすることなのか。

ファームソフ家の生活の状況の中に「いる」こと、「存在する」ことを覚える。つまり、想像の中で、この家で人間として自分自身の生活を始める。事実や出来事に向き合い、住人とぶつかり、知り合い、その心に触れ、直接交流する。そうしていると、知らぬ間に何かを欲し始め、自然に目の前に生まれてくる、何らかの目的へ向かい始めるのである。

例えば、朝、ファームソフが聖歌を歌っていたときの訪問を思い出してみる。今は、その部屋で彼と共にいると感じるだけでも、生きた相手の存在をそばに感じ、その心に触れるだけでもない。何かをしたいという気持ちが、目先の何かの目的や課題に向かう思いが、もう生まれ始めている。

今のところ、それらはごく単純だ。

例えば、ファームソフにこちらへ注意を向けてもらいたい。

そのために、ふさわしい言葉や行動を探す。

冗談半分に、この老人を怒らせてみたい。いらだったときの彼は、きっとひどく滑稽だろうと思うからだ。そんな具合である。

自分の中に芽生える創造上の願いや、目指すものは、自然に行動への衝動を呼び起こす。

だが、行動への衝動は、まだ行動そのものではない。

行動したいという衝動と、行動そのものには違いがある。

衝動は内側からの促し、まだ実現されていない願いである。行動そのものは、内面または外面でその願いを実行し、内なる衝動を満たすことだ。

そして衝動は内的な行動、つまり内面の活動を呼び起こし、内的な行動は外的な行動を呼び起こす。

だが、これについて語るのは、まだ早い。

今、ファームソフ家の生活の一場面を想像の中で体験し、創造する願いや目的、行動への衝動が起こると、私は……観察する相手に狙いを定め、目指す目的を実現する手段を探し始める。

例えば、ソーフィヤとモルチャーリンの逢引きをファームソフが邪魔した場面を、もう一度思い浮かべ、その窮地から抜け出す道を探す。

まず、自分を落ち着かせ、平静を装って動揺を隠し、持てる限りの自制心を呼び起こさねばならない。行動の計画を立て、ファームソフの、そのときの状態に合わせ、対応を調整しなければならない。

私は彼に狙いを定める。

彼が声を荒らげ、怒るほど、こちらは落ち着こうと努める。

彼が落ち着くと、今度は、無邪気で穏やかな、しかし責めるような眼差しで、彼を困らせたくなる。

そのとき、心の微妙な対応の仕方、抜け目のない心の策略、感情の複雑さ、思いがけない内側からの促しや行動への衝動が、ひとりでに生まれる。それらを知っているのは自然だけであり、呼び起こせるのは直感だけなのだ。

こうした内なる衝動や促しが分かると、私はもう行動できる。

もっとも、まだ身体ではなく、内面の、想像の中での行動にすぎない。その想像力を、私は再び自由に羽ばたかせる……。

「もしソーフィヤの立場になったら、どうする?」と、想像力が感情に尋ねる。

「天使のような表情を顔に浮かべるよう、命じる」と、感情はよどみなく答える。

「それから?」と、想像力は探りを入れる。

「頑として黙り、もっとおとなしい顔で立っているよう命じる」と感情は続ける。「父親には、きついことや馬鹿なことを、もっと言わせればいい。甘やかされてきた娘には、そのほうが有利なのだから」

「それから老人が怒りをすっかり吐き出し、叫びすぎて声をからし、興奮に疲れ果てるのを待つ。心の底に、生来の気のよさと怠け心、平穏を好む気持ちだけが残り、息切れを鎮めようと楽な肘掛け椅子に腰を下ろして、汗を拭き始めたら、私はいよいよ頑として黙るよう命じる。自分に非がない者だけができる、ますます天使のような顔で」

「それから?」と、想像力はしつこく尋ねる。

「気づかれないように涙を拭うよう命じる。ただし、父親には気づくようにね。そして動かず立ち続ける。老人が落ち着かなくなり、気がとがめたように『なぜ黙っているんだ、ソーフィヤ?』と尋ねるまで」

「それにも何も答えなくていい」

「聞こえないのか?」と老人は問いかけ始める。「どうしたというんだ。話してごらん」

「聞こえています」と娘は答える。あまりにおとなしく、無防備な子供の声なので、相手はすっかり力が抜けてしまう。

「その先は?」と、想像力が尋ねる。

「また黙って、おとなしく立っているよう命じる。父親が再び腹を立てるまで。ただし今度は、モルチャーリンといるところを見つけたからではなく、娘が黙り込んで、自分を気まずく間抜けな立場に置いていることに対してだ」

「これは気をそらすよい方法、一つの話題から別の話題へ注意を移す、よい手だ」

「最後には父親を気の毒に思い、ごく落ち着いた様子で、フルートを指し示すよう命じる。モルチャーリンがおどおどと、不器用に背中へ隠している、あのフルートだ」

「ほら、お父様、ご覧ください」と、私は穏やかな声で言うよう命じる。

「何だ、それは?」と父親が尋ねる。

「フルートです」と私は答える。「アレクセイ・ステパーノヴィチは、これを取りにいらしたんです」

「見えている、見えているとも。裾の陰に隠しているのがな。しかし、なぜここへ、お前の部屋へ来たんだ?」と、老人はまた興奮する。

「ほかのどこへ置くんです? 昨日、二重奏の練習をしたんですもの。お父様もご存じでしょう。今夜の集まりのために、私とアレクセイ・ステパーノヴィチが二重奏を練習していることは」

「うむ……知っている」と老人は慎重にうなずく。娘の落ち着きが、自分に非はないと示しているので、彼はますます戸惑っている。

「確かに昨日は、礼儀にかなう時刻を過ぎるまで練習してしまいました。そのことは、お許しください、お父様」

たぶんここで、私は父の手に口づけするよう命じるだろう。彼は娘の髪に触れ、心の中で「なんて分かりのよい子だ」と思う。

「どうしても二重奏を覚えなくてはならなかったんです。娘が親戚中の前でうまく弾けず、恥をかいたら、お父様だってお嫌でしょう。そうでしょう?」

「うむ……嫌だな」と、老人はほとんど申し訳なさそうに同意する。もう自分が、まんまとやり込められかけていると感じている。

「しかし、なぜこの部屋なんだ?」と、彼は急にかっとなる。窮地から一気に飛び出そうとするかのように。

「ほかのどこへ行けばよかったんです?」と、私は天使のような顔で老人に尋ねるよう命じる。「ピアノのある接客用の部屋へ行くのを、お父様が禁じたんじゃありませんか」

「奥の部屋で若い男性と二人きりになるのは、はしたないとおっしゃったでしょう」

「それに、あちらはとても寒いんです。昨日は暖房を入れていませんでしたから」

「この部屋のクラヴィコードを使うほかに、どこで二重奏を練習すればよかったんです?」

「ほかに楽器はありません」

「もちろん、若い男性と二人きりにならないよう、リーザにはずっとここにいるよう言いつけておきました」

「それなのに、お父様ったら……」

「ええ、私には、かばってくれる母親もいませんもの!」

「相談に乗ってくれる人は、一人もいない」

「私はみなしごです……」

「かわいそうな、かわいそうな私!」

「ああ、神様!」

「いっそ死んでしまえたら!」

運よくこの瞬間、目に涙が浮かべば、結局、新しい帽子を買ってもらって終わるだろう……。

こうして、芽生えた願い、求める気持ち、行動への衝動から、最も大切なもの、内的な行動そのものへ、私は自然に移っていく。

生きるとは行動することだ。だから、生活から生まれた私たちの生きた芸術は、とりわけ能動的で、行動する芸術なのである。

「ドラマ」「演劇芸術」という言葉自体が、ギリシア語のドラオー、すなわち「私は行動する」に由来するのも、偶然ではない。

確かに、ギリシアではこの名は文学や戯曲、作者に関わるもので、俳優やその芸術を指してはいない。それでも、私たちには、なおいっそうよく当てはまる。

そもそも、私たちの芸術も、かつては「俳優の行為」「人物を演じる行為」と呼ばれていたのだ。

劇場ではたいてい、舞台の行動を、外面的なものとして間違って理解している。

人が来たり去ったり、結婚したり別れたり、殺し合ったり救い合ったりする作品だけが、舞台の行動に富んでいると思われがちだ。つまり、面白い外面的な筋が巧みに組まれていれば、行動の豊かな作品と見なされてきた。

だが、これは思い違いである。

舞台の行動とは、舞台上を歩き、動き、身振りをすることなどではない。

問題は手足や身体の動きではなく、内側の、心の動きと、それが何かへ向かうことなのだ。

だから今後、ここで「行動」と言うときは、外側の芝居、俳優が見せる演技ではなく、内的な行動を、身体ではなく心の行動を指すと、はっきり決めておこう。

それは、個々の過程や時期、瞬間などが、絶えず移り変わることで成り立つ。

その一つひとつは、目的を達するために、願いが生まれ、求める気持ちが生まれ、行動への衝動、内側からの促しが生まれることによって成り立っている。

舞台の行動は、心から身体へ、中心から周辺へ、内面から外面へ、体験から具現へと進む動きである。

舞台の行動とは、貫く行動の線に沿って、超課題へ向かうことである。

舞台の外的な行動が、内的な行動によって命を与えられず、理由づけられず、内側から引き起こされてもいなければ、目や耳を楽しませるだけで、心には届かない。人間の内面の生活にとって、意味を持たないのだ。

このように、私たちの創造は、何よりも心の意味で行動的、能動的なものである。

そこでは、行動へ向かう心の内なる衝動や促し、そして内的な行動そのものが、並外れて重要になる。

創造のあらゆる瞬間に、それらを指針としなければならない。

このように内的な行動に基づく創造だけが、舞台で生きる。

だから、劇場で舞台にふさわしいのは、心の意味で行動的、能動的なものだけだと、決めておこう。

反対に、受動的な状態は舞台の行動を殺す。何もせず自分の感情に浸ること、体験のための体験、技術のための技術を生むのだ。

このような受動的な体験は、舞台で生きない。

実際、俳優が役を心から体験し、心が温かくなり、舞台上で楽に、心地よく過ごしていることは珍しくない。

その俳優は、何もしないまま甘くくつろぎ、自分の感情に浸っているようなものだ。

舞台上の気分のよさに惑わされ、そのとき自分は創造し、本当に体験しているのだと思っている。

しかし、その本物ではあっても受動的な体験が、どれほど率直で、自然で、説得力を持っていても、行動を伴わない限り、創造にはならず、観客の心にも届かない。能動的でなく、戯曲の人間の内面の生活を動かしていないからである。

受動的な体験は、俳優の内側にとどまる。役の内的・外的な行動として現れるきっかけを持たないのだ。

だから、舞台で受動的な感情や状態を表す場合でも、それを行動の中に現さなければならない。

言い換えれば、受動的な状態を舞台で生きるものにするには、能動的に伝えなければならない。

では、何もしないことを、どんな行動で伝えればよいのか。

例を挙げよう。

危険に直面したら、行動しなければならない。もともと活力と強さのある人ほど、その行動も力強くなる。

だが、危険なときに、人が力なく、のろのろと行動するところを想像してほしい。

この力のない、のろい行動こそが、その人の何もしないあり方、受動性を、最もよく伝える。

つまり、危険に出会ったとき、活力のある人は強く行動する。一方、受動的で気力の乏しい人は弱く行動する。あるいは反対に、肝心の行動を避けるために、精力的に動く。

完全に何もしないということはありえない。受動的な状態にも、何らかの行動は伴う。〔何かの仕事や出来事への〕積極的な参加を避けること自体が、もう行動なのである。

受動的な状態を特徴づけるのは、怠惰で力のない行動だ……。

このように、体験は何よりも、願い、求める気持ち、創造への衝動が生まれる瞬間から成り立つ。

こうして生まれる願い、求める気持ち、内側からの促し、行動への衝動、そして行動そのものが、やがて途切れず続く体験の新たな芽となり、体験を作り出す。

現実でも舞台でも、生活とは、願い、求める気持ち、行動への内なる衝動が次々と生まれ、それが内的・外的な行動として実現する、絶え間ない連続である……。

外的な行動は、内なる欲求や行動への衝動が、反射的に表れた結果だ。

エンジンの中で一つひとつの爆発が繰り返され、自動車が滑らかに進むように、人間の願いが次々と燃え上がることで、創造する意志の途切れない動きが生まれ、内面の生活の流れ、つまり生きた有機体としての役の体験が作られる。

舞台で創造的な体験を呼び起こすには、役の全体にわたり、俳優の願いが絶えず燃え上がるようにしなければならない。その願いが、それに応じる心の欲求を絶えず呼び起こし、その欲求が、それに応じる行動への内なる衝動を絶えず生み、最後にその衝動が、それに応じる外面的な身体の行動として実現するようにするのである……。

いうまでもなく、舞台上の俳優の願い、求める気持ち、行動は、創造の瞬間に、生きた創り手である俳優本人のものでなければならない。紙に書かれた命のない役のものでも、上演の場にいない作者のものでも、舞台裏にいる演出家のものでもない。

体験できるのは、自分自身の本当の感情だけだと、繰り返す必要があるだろうか。

現実の生活でも舞台でも、俳優という人間の心身と一体になっていない、他人の願いを生きられるだろうか。

役ごとに他人の感情、感覚、心、身体を借りてきて、自分のもののように使えるだろうか。

作者や演出家の願いや指図に従い、機械的に実行することはできる。だが、体験できるのは、俳優が自分の中に生み、自分で練り直した、生きた本当の願いだけだ。他人ではなく、自分の意志から生まれた願いだけなのである。

演出家や作者が、自分の望みを俳優に示すのはよい。しかし、その望みは俳優の自然な働きによって練り直され、完全に俳優自身のものとして引き受けられなければならない。

願いが舞台で生きるためには、それが俳優本人の創造する願いと行動となり、その人の有機的な本性にかなうものでなければならない。

つまり、体験できるのは、自分自身の生きた本当の感情だけなのだ。

では、創造する意志の願い、求める気持ち、行動を、舞台でどう呼び起こせばよいのか。

創造する感情には、命令できない。「望め! 創れ! 行動しろ!」と言うことはできない。創造する感情は命令に従わず、無理強いを受けつけない。

できるのは、心を引きつけることだけだ。

心が引かれると、欲し始める。欲すると、行動しようとする。

〔創造の課題〕

創造の重要な条件の一つは、俳優の課題が、感情、意志、理性にとって、必ず魅力的であることだ。有機的な本性を引きつけなければならない。創造する力を持つのは、その本性だけだからである。

何を使い、どうすれば引きつけられるだろう。

創造する意志を誘い寄せる唯一のものは、心をそそり、引きつける目的、すなわち創造の課題である。

課題は、創造への熱中を呼び起こす手段でなければならない。

課題は磁石のように、引き寄せ、誘い込む力を持たなければならない。

自分のほうへ引きつけ、それによって、求める気持ち、動き、行動を起こすものでなければならない。

課題は、創造を呼び覚まし、動かす原動力である。

課題は、私たちの感情を誘う鳥寄せ笛である。

猟師が鳥寄せ笛で森の奥から鳥を呼び出すように、俳優は魅力的な課題を使って、心の奥から無意識の創造する感情を呼び出すのだ。

課題は、願いをぱっと燃え上がらせ、創造へ向かう衝動や促しを呼び起こす。

課題は内側からの働きかけを生み、それが自然に、筋道を通って、行動として実現する。

課題は一つの区切りの心臓であり、生きた有機体である役の脈を打たせる。

舞台上の生活も現実の生活と同じく、次々と生まれる課題と、その実行の連続である。

課題は、俳優が創造へ向かう道の全体に立てられた道標のように、正しい方向を示してくれる。

課題は音楽の音符のように小節を作り、小節は旋律、つまり悲しみや喜びなどの感情の状態を作る。そして旋律が、オペラや交響曲を〔形づくる〕。それが、俳優の心によって歌われる、役の人間としての内面の生活なのだ。

では、創造する意志とその願いを呼び起こす目的や課題を、どこから得ればよいのか。

こうした心をそそる課題は、意識的に、つまり理性によって示される場合もあれば、無意識に、ひとりでに、直感や感情から生まれる場合もある。後者では、俳優の生きた感情と創造する意志が、それを教えてくれる。

理性から来る創造の課題を、私たちは「理性的な課題」と呼ぶことにする。

感情から来るものは「感情的な課題」、意志によって生まれるものは「意志的な課題」と呼ぶ。

理性的な課題は、当然、意識的なものでしかありえない。

この課題の強みは、明確さ、分かりやすさ、正確さ、論理性、一貫性、思想性などにある。

だが、感情や意志をほとんど働かせずに舞台で実行できる理性的な課題は、乾いていて心を引かず、舞台で生きない。したがって、創造の目的には役立たない。

感情と意志によって温められ、命を与えられていない理性的な課題は、俳優の心にも観客の心にも届かない。だから、「人間の内面の生活」も「情念の真実」も「感情の真実らしさ」も生み出せない。

乾いた理性的な課題では、命のない言葉の概念に、生きた中身を与えられない。

ただ、乾いた考えを記録するにすぎない。

そんな課題を頭だけで実行していては、俳優は生きることも体験することもできない。ただ役について報告することしかできない。

そのため、創り手ではなく、役の報告者になってしまう。

理性的な課題が優れたものとなり、舞台で生きるのは、俳優本人の生きた感情と意志を引きつけ、創造の仕事へ巻き込むときだけだ。

意志から生まれる課題については、感情との結びつきがあまりに深く、感情から切り離して語るのは難しい。

最もよい創造の課題は、俳優の感情を、一瞬で、感情的に、無意識に捉え、直感によって、戯曲の正しい根本の目的へ導くものだ。

こうした無意識の、感情から生まれる課題の強みは、生まれながらの直接性にある。それが創造する意志を引きつけ、抑えきれないほどの欲求を呼び起こすのだ。インドの人々は、このような高次の課題を「超意識的」と呼ぶ。

そのとき理性に残る仕事は、得られた創造の成果を確認し、評価することだけである。

こうした感情的な課題は、才能、超意識、霊感、「腹の底」から来る。

これは、私たちの意のままにはならない領域だ。

私たちにできるのは、一方では、自然の超意識的な創造を妨げないよう学ぶこと。他方では、そのための土壌を整え、たとえ間接的であっても、この感情的で超意識的な課題を確かなものにする、きっかけや手段を探すことだけだ。

感情的な課題は、完全にではなくとも、半ば潜在意識の中に残しておくべき場合が少なくない。

どの課題も、最後まで理屈で理解し、意識できるわけではない。そうしようとして、心を誘う魅力を損なうこともある。

言い尽くされていないからこそ美しい課題がある。

そうした課題は、すべてをさらけ出すと色あせる。

一方、完全に意識された、感情的な課題もある。

感情が見つけた課題は、当然、その感情に親しい。そこへ理性が加わると、私たちの本性は、いっそうその課題に近づく。

この課題は、理性と感情の両側から、同時に意志へ働きかける。

それほど二重に働きかけても、理性的な課題は、超意識の力を持つ感情的な課題には及ばない。

無意識の課題は、俳優本人の感情と意志から生まれる。

直感によって無意識に作られ、後から意識によって見定められ、確かな形を与えられるのだ。

このように、俳優自身の感情、意志、理性は、創造に、とりわけ創造の課題を選ぶことに、大きく関わっている。

俳優の感情、意志、理性が強く創造の仕事へ引き込まれるほど、課題はその人の全存在を、より深く、余すところなく捉える。

だが、この言い方には、ただし書きと説明が必要だ。

俳優の創造を、もっぱら意志の働きだと考える人も、感情だけのものだと考える人も、理性だけのものだと考える人も、多いからである。

実践と観察、そして私自身の実感によれば、私たちの創造と、それを呼び起こす課題は、時や場合によって、そのどれにもなる。

ある瞬間は感情から、別の瞬間は理性から、また別の瞬間は意志から生まれる。

心の生活を動かすそれぞれの力には、創造の仕事全体の中で、その持ち場がある。

感情による創造と並んで、理性による創造も、意志による創造も進む。

だから、心の生活を動かす一つの力について語るとき、ほかの二つを忘れてはならない。

それらは「三つにして一つ」であり、切り離せない。ほとんどすべての行動で、多かれ少なかれ共に働いている。別々に考えることはできず、まとめて学ばなければならない。

したがって、これまでにも、今後にも、ある課題や働きを、心の三頭政治の一員だけに帰することがあっても、忘れないでほしい。ほかの二つの力も、必ず何らかのかたちで、何らかの程度に、さまざまな組み合わせで加わっているのだ。

あるときは感情が先導し、歌い出し、ほかの二つはかすかに唱和する。またあるときは理性が、別のときには意志が、創造を始め、その先頭に立つ……。

理性、意志、感情から生まれる意識的・無意識的な課題のほかに、機械的な、運動の習慣となった課題、願い、欲求、行動への衝動もある。

課題や願いが生まれて実現するまでのこの過程全体も、もとは意識や意志、感情から生まれたものだった。

時をかけて繰り返すうちに、過程全体がしっかり身につき、無意識の機械的な習慣へ変わる。

この心身の自動化された習慣は、あまりにも簡単で自然に思えるため、私たちは気づかず、考えもしない。

ひとりでに実行されるのだ。

実際、歩くとき、扉を開けるとき、食事をするときなど、手足が何をしているか、いちいち考えるだろうか。

しかし幼いころには、大きな苦労と張り詰めた注意を払って、最初の一歩を踏み出すこと、手足、身体、舌などを動かすことを覚えたのである。

私たちは、こうした自動的で機械的な課題や行動を簡単なものと思うことに慣れ、気にも留めなくなる。

例えば、ピアニストは演奏中、指の一つひとつの動きを考えるだろうか。踊り手は、踊りながら手足や全身の動きを、一つひとつ絶えず考えているだろうか。

だが以前、習慣によって動きが自動化されるまでは、ピアニストは難しい音の連なりを何時間も練習し、踊り手は難しいステップに手足や全身を、系統立てて慣らしていた。

基本的な心理上の願い、欲求、行動、課題でも、同じことが起こる。

長く共に暮らして一定の慣れた関係ができた身近な人々に、どう働きかけているかを、私たちはいつも考えているだろうか。

しかし知り合ったばかり、会い始めたばかりのころは、後に機械的で無意識になったその関係を作るため、細心の注意を払い、大いに苦労したはずだ。

こうした機械的な習慣が自動的な動きとして身につけば、驚くほどたやすく、無意識に再現される。

筋肉の機械的で無意識の記憶が、踊りのさまざまな動きやステップの、複雑きわまりない組み合わせを覚えることには、驚かされる。

心の諸要素が、ひどく複雑な状況にも対応し、抜け道を見つける、その機転にも驚かされる。

これらの習慣はすべて、複雑な瞬間や過程が、いくつも連なってできている。

その中には、俳優が習慣によって自動的に向かう課題も、個々の課題が呼び起こす願いも、欲求も、行動への促しも、内的・外的な行動そのものも、含まれている。

俳優の応答としての行動を引き起こす課題を見つけ、作り、その課題へ近づく力を養うことは、内面の技術の主要な仕事の一つだ。

一つの課題にも、多くの近づき方がある。

その中から、俳優と役の心に最も近く、創造する行動を最も強く呼び起こす道を、見つけられなければならない。

それは、どうすればできるのか。

例で説明しよう。

モルチャーリンもスカロズーブも、あなたの相手にはふさわしくないと、ソーフィヤを説得しなければならないとする。

内側の感情によって温められていない説得は、外面的で、言葉だけの、乾いた、説得力のないものになる。

それでは、俳優は身体だけで相手へ近づこうとする。俳優たちの言い方を借りれば、説得するのではなく、外側から身体だけで「他人の心へ押し入る」「相手をじろじろ見る」のである。

説得の過程を外からなぞるだけの行為は、まがいもの、偽造だ。

それでは、自分の感情が本物だという心からの信頼は生まれず、俳優の創造する力も呼び起こせない。

感情が本物だと信じられなければ、体験は成り立たない。本当の体験がなければ、それを信じることもできないのと同じだ。

では、精力的に行動したくなるほど、この課題を本物だと信じさせてくれるものは、何だろう。

可憐で、頼りなく、世間知らずのソーフィヤが、卑小でみじめなモルチャーリンや、粗野なスカロズーブのそばにいる姿だろうか。

だが、その人々はまだ存在しない。少なくとも私には、現実の生活でも想像の生活でも、まだ見えていない。

私はまだ彼らを知らない。

しかし、どんな娘であれ、若く美しい女性が、スカロズーブのような粗野な愚か者や、モルチャーリンのような小さな出世主義者との結婚によって、自分を葬り去ろうとしていると考えるだけで、憐れみ、恐れ、腹立たしさ、美しいものを傷つけられる痛みが起こることなら、自分の経験からよく知っている。

この不自然で美しくない組み合わせは、いつも、世間知らずの娘が誤った一歩を踏み出すのを止めたいという願いを呼び起こす。その願いは、私たち一人ひとりの中に常にある。

その願いのためなら、心の中に内なる促しや衝動を、いつでも容易に生み出せる。それが本当の、生きた願いと欲求、行動そのものを呼び起こすのである。

では、その衝動や促しとは、どんなものか。

滅びようとする若く美しい人生への、腹立たしさ、傷つけられた思い、恐れ、憐れみを、相手の心にも伝えたいという欲求が生まれる。

こうした内的な課題は、いつも心を動かし、目に見えない心の中の、行動への衝動を呼び起こす。

何かに押されるように、ソーフィヤか、彼女のような若い娘のところへ行きたくなる。世の中に目を開かせ、自分を不釣り合いな結婚で破滅させないよう、説得したくなる。その結婚は、先に苦しみをもたらすからだ。

彼女への自分の好意が、本心からのものだと信じてもらう方法を探す。

その好意のために、彼女の最も私的な、心の問題について話す許しを請いたくなる。

だが、人に他人の心の奥を見てもらうことは、たやすくない。それができなければ目的は達せず、その先の試みもすべて無駄になる。

まず私は、ソーフィヤへの自分の好意を納得してもらい、先に信頼を得ようとするだろう。

それから、彼女とスカロズーブの粗野な性質との違い、彼女とモルチャーリンの卑小な心との違いを、できるだけ鮮やかに描いてみせるだろう。

モルチャーリンについて話すには、とりわけ慎重さ、機転、細やかな感受性が要る。ソーフィヤは、何が何でも彼をばら色の眼鏡越しに見たがっているからだ。

世間知らずの彼女を待ち受ける将来を思うと、自分の胸がどれほど締めつけられるかを、もっとはっきり感じてもらわなければならない。

彼女を案じる自分の恐れが伝わり、それが彼女をはっとさせ、考え直すきっかけになってほしい。

説得の一つひとつの手立て、彼女の心へ近づく一つひとつの方法を、優しい感情の発信や、いたわる眼差しなどで和らげる必要がある。

自らを破滅させようとしている世間知らずの娘を救おうと、心を動かされた人の中に、ひとりでに生まれる心身の行動や内なる衝動。そのすべてを、数え上げられるだろうか!

最も能動的な課題を探すとき、俳優が創造の課題へどう近づくかを説明するには、これだけで十分だ。

いずれの場合も、能動的な課題を確かな形にするためには、何らかの名前をつけなければならない。

その際、課題はたいてい名詞で表される。

例えば、俳優に「今、目の前に生まれつつある課題を、何と呼びますか?」と尋ねると、「憤り」「説得」「落ち着き」「喜び」「悲しみ」などと答える……。

超課題でも普通の課題でも、たいてい名詞で示される。例えば、「ソーフィヤとの再会」「挨拶」「当惑」「解明」「疑い」「説得」「落ち着き」といった具合だ。

名詞が呼び起こすのは、ある感情や行動についての、頭の中の、視覚や聴覚などによる表象であって、感情や行動そのものではない。

このように感情を思い描くだけでは、行動や能動性の要素は含まれない。

それは受動的である。

それを自分の中によみがえらせても、俳優にできるのは、目や頭に浮かぶ像を外から表し、まねし、それらしく見せ、感じているふりをすることになりかねない。

その結果、巧みな、あるいは不器用な、いかにも俳優らしい演技が生まれる。

俳優は、再会の喜び、熱烈な挨拶、当惑や疑いのあらゆる兆候を、見せ始める。

説得しようとして、身体だけで他人の心へ押し入ろうとする。

これを避ける実際的な方法の一つは、貫く行動を動詞によって定めること〔にある〕。

動詞は、行動を思い描かせるだけでなく、ある程度、行動そのものも呼び起こす。

名詞でつけた名前を、それに当たる動詞へ変えてみてほしい。自分の内側で、おのずと何かが動くはずだ。感覚の表象はより能動的になり、心に促しや行動への衝動が起こる。課題へ狙いが向き、それを目指す気持ちが少し生まれる。つまり、能動性、行動の兆しや促しが現れる。

この心の活動を呼び起こし、名詞を動詞へ変えるのを助ける、実用的な方法を勧めよう。

簡単なやり方である。

能動的な課題を定めるときは、「私は……したい」という言葉で、自分の意志を向けるのがよい。

この言葉が創造する意志に照準を与え、求める方向を示す。

だから課題を定める際には、「この状況で、私は何をしたいのか」と、自分に問うとよい。

すると、「走りたい」「呼び鈴を鳴らしたい」「扉を開けたい」などの答えが出てくる。

これらはすべて、外面的で身体的な願いと課題だ。

だが、内面の、心に関わる心理的な願いや課題もある。「食い違いを理解したい」「疑問をはっきりさせたい」「落ち着かせたい」「元気づけたい」「怒らせたい」などである……。

〔身体的な課題と、基本的な心理の課題〕

意識的、無意識的、能動的、意志的、感情的、理性的、機械的、あるいは運動の習慣となった課題などは、内面でも外面でも、つまり心でも身体でも実行される。

したがって、これらの課題はすべて、身体的なものにも、心理的なものにもなりうる。

例えば、朝ファームソフを訪ねる、想像で作ったあの場面に戻ると、想像の中で実行しなければならなかった身体的な課題が、いくらでも思い出される。廊下を進み、扉をたたき、取っ手をつかんで押し、扉を開けて中へ入り、主人や居合わせた人に挨拶をしなければならなかった。

真実を損なわずに、身体の一動作だけで、いきなり彼の部屋へ飛び込むわけにはいかない。

こうした必要な身体的課題には、私たちはすっかり慣れているので、習慣的に、機械的に実行してしまう。

心の生活の領域でも、同じことが起こる。

そこにもまた、欠かせない、ごく単純で基本的な心理の課題が、果てしなく連なっている。

例として、想像の中で作ったファームソフ家の別の場面、ソーフィヤとモルチャーリンの逢引きが邪魔される場面を思い出そう。

父親の怒りを和らげ、罰を逃れるため、あのときソーフィヤの身になって、感情を通して実行しなければならなかった基本的な心理の課題は、いくつあったことだろう!

自分の動揺を覆い隠し、落ち着いてみせて父を戸惑わせ、天使のような姿で恥じ入らせ、同情を誘い、おとなしく振る舞って武器を取り上げ、立場を崩さなければならなかった。

真実を裏切らず、生きた生活を殺さずに、たった一度の心の動き、一つの内面的な手、一つの心理的課題だけで、怒る人の心を奇跡のように変えてしまうことはできない……。

身体的な課題と基本的な心理の課題は、その状況に置かれた人なら、誰でも多かれ少なかれ実行しなければならないものだ。

創造の瞬間の俳優にも、俳優が創る登場人物にも、欠かせない。

そうしなければ、身体と心の真実の感覚が損なわれ、自分のしていることを身体と心で信じる力が揺らぎ、あるいはすっかり失われる。代わって型どおりの表現、緊張、心身の自然な働きへの無理強いが生まれる。

無理強いのあるところでは、体験が止まる。そして、俳優の型にはまった不自然な習慣や演じ方が、勝手に動き出す。小細工、マンネリ、筋肉の緊張、心身の力み、型だけの演技などが始まるのだ。

そんな状態は、「人間の内面の生活」「情念の真実」、さらには「感情の真実らしさ」とも、何の関係もない。

反対に、自然で慣れ親しんだ身体的・基本的な心理的課題、願い、欲求、内的・外的行動を、几帳面なほど正確に一つずつ守れば、その勢いと慣れた順序によって、生きた感情や体験が呼び起こされる。

溺れて呼吸も心臓も止まった人に、機械的な手段で空気を吸わせ、吐かせる。

すると、それにつながって、身体のほかの器官も慣れた順に働き始める。心臓が動き、血が再び脈打ち、最後には生命の勢いによって、心もよみがえる。

身体の諸器官の、こうした慣れた相互の結びつきは、生まれながらのものだ。

だから、早く生まれすぎて、まだ呼吸を始めていない子供にも、人為的な機械的手段で一連の動きを起こさせる。それが人間の本性に備わる、順を追った働きを呼び起こし、新生児は生き始める。

私たちの芸術でも、体験の過程を生むときには、このような自然の有機的な習慣、課題、行動、体験の慣れた順序と論理を利用する。

心身の課題と行動が、人間の本性になじんだ順に進むことで、その勢いから生活そのもの、つまり役の体験が呼び起こされるのだ。

このように、身体的な課題と基本的な心理の課題を実行する際は、課題そのものだけでなく、その順序、段階的な進み方、論理も、大きな役割を果たす。

だから、魅力的な創造の課題を探すときは、まず外側の身体的課題と、内側の基本的な心理の課題を正確に実行して、身体と創造する心の、最も基本的な自然の要求を満たさなければならない。

俳優は舞台に出た瞬間、ほかの登場人物と最初に出会い、挨拶するときから、これらの課題に直面する。

身体的な課題と基本的な心理の課題は、すべての人に必要であり、当然、生きた有機体としての役にも必要だ。

人間としての俳優と、人間としての役の双方に、同じ身体的・心理的課題が必要であること。それが、演じ手と演じられる人物を、最初に有機的に近づける。

しかし、それだけでは足りない。課題は創り手本人のものであるだけでなく、登場人物の課題と対応するものでなければならない。

役に対応する願いを知り、見つけるためには、俳優が登場人物の立場に身を置き、自分の経験によってその生活を知らなければならない。現実にできなければ、俳優の想像の中で行う。想像は現実以上に強く、面白くなることもある。

そのためには、役の生活の内的・外的条件を、想像の中で作らなければならない。プーシキンの言葉を借りれば、戯曲と役の、人間としての内面の生活の「与えられた状況」を作るのである。

これらの想像上の状況の中心に自分がいると感じ、その中に身を置くことで、俳優は、自分の生きた感情、自らの経験、想像上の生活の状況に対する本当の向き合い方を通じて、役の人生の目的、求めるもの、感情を知る。やはりプーシキンの巧みな言い方を借りれば、役の人間としての内面の生活を形づくる「情念の真実」を知るのだ。

この習慣は第二の天性であり、自然の重要な助け手である。それによって俳優は、情念や想像上の生活と親しくなり、役に対応する感情が、俳優自身の中に生まれる。

そのとき、俳優は本当に役を体験し始める。

このように、創造の課題を選ぶ際、俳優がまず出会うのは、身体的な課題と基本的な心理の課題だ。

身体的課題も心理的課題も、一定の内的なつながり、順序、段階的な進み方、感情の論理によって、結ばれていなければならない。

人間の感情の論理が、しばしば非論理的でもかまわない。整然としたものの手本である音楽の和声にも、不協和音はある。

舞台上で身体的・心理的課題を選び、実行するときは、一貫した順序と論理を持たなければならない。

家の一階から、一歩で十階へ上がることはできない。

心の一動き、身体の一動作だけで、すべての障害を越えて相手をたちまち説得したり、会いたい人のいる別の家へ、一つの家から飛び移ったりすることはできない。

順を追い、論理的に結ばれた、身体的な課題と基本的な心理の課題の連続が必要だ。

家を出て、辻馬車に乗り、別の家へ入り、幾つかの部屋を通って、知人を見つける、などのことが必要になる。

つまり、人に会うという目的を果たす前に、一連の身体的な課題と行動を実行しなければならない。

説得するときにも、一連の課題を果たす必要がある。相手の注意を自分へ向け、その心に触れ、内面の状態を知り、それに合わせ、考えや感情を伝えるさまざまな手立てを試す。自分の体験を相手にも感じてもらうためである。

つまり、ほかの人に自分の考えを納得してもらい、感情を伝えるには、一連の心理的な課題と内的な行動を実行する必要がある。

こうした、身体的・基本的な心理的課題と行動の、自然になじんだ順序と論理は、本当の生活を思い起こさせる。そして心身の行動に、自然になじんだ勢いを生み、その勢いが、外面からではあるが、本当の生活、舞台での体験を呼び起こす……。

舞台上の身体的な課題と基本的な心理の課題を、すべて正確に、演じる人物の願い、欲求、行動、課題に沿うよう実行するのは、たやすくない。

というのも、俳優は、役の台詞を口にするときだけ、その役の心の生活へ自分を合わせようとしがちだからだ。

黙って別の俳優、つまり相手役へ言葉を譲ったとたん、圧倒的に多くの場合、役の心の糸は途切れる。俳優は自分の個人的な感情で生き始め、自分の台詞の順番が来るのを待って、途切れた役の生活を再開しようとする。

この分裂と中断は、絶えず移り変わる感情の順序と論理を壊し、体験の過程を不可能にしてしまう。

例えばチャツキーの生活の間に、役とは何の関係もない俳優本人の個人的な感情が、ひっきりなしに入り込んだら、生活のごく細かな感覚まで含めて、役全体を生きられるだろうか。

チャツキーの感情が三つ、俳優の感情が六つ。それからまた、チャツキーの感情が七つ、俳優の感情が二つ。

金の輪と鉄の輪をつなげた鎖を、想像してほしい。

金の輪が三つ、鉄の輪が六つ、また金の輪が七つ、鉄の輪が二つ、という具合だ。

身体的・心理的課題の論理的な鎖から、輪を幾つか抜き取って別のものに替えれば、生活、感情の自然な働き、演じる人物と俳優自身の心を、ゆがめ、無理に扱うことになる。

創造の課題と体験で満たされていない役の瞬間は、演技の紋切り型、芝居の決まり文句、機械的な技芸の手口を呼び寄せる、危険な隙になる。

これは俳優がいつも覚えておくべき法則だ。

心身の自然な働きに無理をかけ、感情が混乱し、課題に論理や順序がなければ、本当の有機的な体験は生まれない。

〔役の心の楽譜を作る〕

『知恵の悲しみ』でチャツキー役を演じる俳優の立場に、自分を置いてみる。そして、ファームソフ家と一八二〇年代のモスクワの生活のただ中、その状況の中心に、想像の中で「いる」「存在する」ことを始めたとき、つまり「私はいる」の状態になったとき、どんな身体的・基本的な心理的課題が、自然に自分の中へ生まれるかを考える。

私は今、まだありのままの自分で、チャツキーの感情も体験も持っていない。そのまま外国から、自宅にも寄らず、四頭立ての重い寝台馬車で、わが家も同然の屋敷の門へ乗りつける。

馬車が止まり、御者が門番を呼んで、門を開けさせる。

この瞬間、私は何をしたいのか。

А)長い間夢見てきた、ソーフィヤとの再会を早めたい。

だが、自分ではどうすることもできず、馬車におとなしく座り、門が開くのを待っている。

じれったくて、旅の間に触り飽きた窓の紐を、むやみにいじる。

門番が来た。私だと分かり、慌てて動く。

門の掛け金が鳴り、門が開く。馬車は庭へ入ろうとするが、年寄りの門番が引き止める。

寝台馬車の小窓へ近づき、喜びの涙を浮かべて私を迎える。

а)彼に挨拶し、優しく声を掛け、互いに言葉を交わさなければならない。

子供のころから私を知るこの老人を悲しませないよう、私は辛抱強く、それらを一つずつする。

おなじみの、私自身の幼いころの思い出話を、繰り返し聞かなければならない。

ようやく、大きな馬車がきしみ、雪を踏み鳴らして動き出す。庭へ入り、玄関の前で止まる。

私は寝台馬車から飛び出す。

まず、何をすればよいのか。

а₁)眠り込んでいるフィーリカを、早く起こさなければならない。

呼び鈴の取っ手をつかんで引く。待って、また鳴らす。

なじみの雑種犬ロースカが、甲高い声を上げ、足元へじゃれついてくる。

フィーリカが来るのを待つ間に、

а₂)犬にも挨拶したい。昔なじみのこの友達を、かわいがりたい。

玄関の扉が開き、私は玄関の間へ駆け込む。

懐かしい家の空気が、たちまち私を包む。

ここに残していった感情や思い出が心へ流れ込み、満ちあふれる。

私は胸を打たれて、足を止める。

フィーリカが、馬のいななきのような声で私を迎える。

а₃)彼にも挨拶し、優しく声を掛け、互いに言葉を交わさなければならない。

この課題も、辛抱強く果たす。とにかく、最後にはソーフィヤのところへ行き着くためだ。

正面の階段を上がり、最初の踊り場まで来る。

そこで執事と家政婦頭に出くわす。

二人は思いがけない再会に、ぽかんと立ち尽くす。

а₄)二人にも挨拶し、ソーフィヤのことを尋ねなければならない。どこにいるのか。元気か。もう起きているか。

私は、よく知る一続きの部屋を進む。

執事が先へ駆けていく。

私は廊下で待つ。

リーザが声を上げて飛び出してくる。

私の袖を引く。

この瞬間、私は何をしたいのか。

а₅)早くいちばんの目的を果たしたい。つまり、大切な幼なじみで、妹も同然のソーフィヤに会いたい。

とうとう彼女の姿を見る。

これで最初の課題Аは、小さな、ほとんど身体的な課題の連続によって果たされた。馬車を降り、呼び鈴で門衛を呼び、階段を駆け上がる、といった課題である。

新しい大きな課題が、自然に、ひとりでに目の前へ現れる。

Б)大切な幼なじみで、妹も同然の人に挨拶したい。抱きしめ、募らせてきた思いを交わしたい。

だが、心の一動きだけで、一度にそれをすることはできない。

心の小さな課題がいくつも必要で、それらが一緒になって、中心となる大きな課題を作る。

б)まず、ソーフィヤをじっくり見たい。見覚えのある愛しい顔立ちを見つけ、離れていた間に起きた変化を確かめたい。

十四歳から十七歳までの間に、少女は見違えるほど変わる。

まさに、その素晴らしい変化が、彼女に起きていた。

十七歳の君は、美しく花開いた。
比べるものもないほどに。それは君も知っている……。

少女に会うつもりだったのに、目の前にいるのは、もう大人の娘だ。

私は過去の記憶、自分の経験から、この瞬間、人がどんな途方に暮れた気持ちになるかを知っている。

不意を突かれた気まずさ、恥ずかしさ、戸惑いを思い出す。

だが、なじみのある特徴を一つでも、目の輝き、唇や眉、肩や指の動き、見慣れた笑顔を捉えれば、たちまち、昔の親しいソーフィヤを見いだす!

一瞬のはにかみは、すぐに消える。

兄妹のような関係の、以前の気安さが戻り、新しい課題が、おのずと目の前へ生まれる。

б₁)兄としての口づけに、積もり積もった思いをすべて込めて伝えたい。

私は、友であり妹である彼女を、勢いよく抱きしめる。

腕の中にぎゅっと包み、わざと痛いほどにする。自分の愛情の強さを感じさせるためだ。

だが、まだ足りない。積もった思いを、何か別の方法でも伝えなければならない。

б₂)眼差しと言葉で、ソーフィヤを優しく包まなければならない。

また彼女に狙いを合わせるように、親しい、優しい言葉を探し、温かな感情の光線を彼女へ向ける。

ところが、目に入るのは何だろう。

冷たい顔、当惑、不満の影だ。

これはどうしたことだ?

気のせいだろうか。

それとも、恥ずかしさや突然のことへの驚き、ひょっとすると、ただ愛情のせいなのか。

新しい課題が、ひとりでに自然に生まれる。

В)友達が冷たく迎えた理由を、理解しなければならない。

この新しい課題もまた、独立した小さな課題の連続によって果たされる。

в)ソーフィヤから、本心を聞き出さなければならない。

в₁)あれこれ尋ね、責め、巧みに問いを投げて、彼女の心を動かさなければならない。

в₂)彼女の注意を、自分へ向けなければならない……。などである。

だが、ソーフィヤは巧みだ。

天使のような笑顔で、本心を隠すすべを知っている。

たとえ一時的にせよ、再会を喜んでいると私に信じさせるのは、彼女には難しくないだろうと感じる。

なおさら簡単なのは、私自身がそう信じたがっているからだ。早く次の、大きく面白い課題へ進みたいのだ。

Г)彼女自身、親戚、知人、暮らしのすべてについて、尋ねたい。

この課題も、小さな課題г、г₁、г₂、г₃などによって果たされる。

そこへファームソフ本人が入り、親しい二人きりの会話を邪魔する。

おのずと課題Дが生まれ、小さな課題д、д₁、д₂などを通して実行される。

次には課題Е、Ж、Зなどが生まれ、それぞれを成り立たせる課題е、е₁、е₂など、ж、ж₁、ж₂など、з、з₁、з₂などが続く。こうして戯曲全体を進み、ついに最後の課題へ行き着く。

Э)
モスクワを出よう! 二度とここへは戻らない。
振り返らず逃げ出して、世界のどこかを探しに行こう。
傷ついた心を置ける、片隅を!

この最後の大きな課題を果たすには、次が必要だ。

э)召使いに命じる。
「馬車を! 馬車を出せ!」

そして、э₁)ファームソフ家から、急いで立ち去る。

これらの課題を選び、想像の中で実行しながら、私は、内的・外的な状況が、自然に意志の願いを自分の中へ生み出すのを感じた。

その願いが創造への欲求を呼び起こし、欲求は行動への内なる促しへと至る。行動は具現を、具現は創造の成果を生み出す。

こうした願い、欲求、行動のすべてから、中心となる課題аを備えた、役の生きた生活の、ひとまとまりの創造の瞬間が生まれた。

課題а₁からは、同じように独立した別の瞬間が生まれ、課題а₂からは第三の瞬間が生まれる。以下も同様だ。

さらに、それぞれ独立した課題а、а₁、а₂などから、中心となる課題Аを持つ、役の生きた生活の一つの大きな区切りができた。実際、課題а、а₁、а₂、а₃、а₄、а₅、つまりファームソフ家の庭へ入ってからソーフィヤに会うまでのチャツキーの願いを、その内面的な意味まで考えてみれば、一つの大きな課題А、役の生活の一つの区切りを実行していたことが分かる。それは「ソーフィヤへ向かう」と表せるだろう。

次に、個々の瞬間と小さな課題б、б₁、б₂、б₃から、別の大きな課題、役の生活の区切りБができる。「大切な幼なじみで、妹も同然の人に挨拶し、ソーフィヤを抱きしめ、募らせてきた思いを交わしたい」という課題である。

小さな課題と瞬間в、в₁、в₂、в₃などから、第三の大きな課題、役の生活の区切りВが生まれる。その意味は、「幼なじみの冷たい出迎えの理由を探る」ことだ。

小さな課題と瞬間г、г₁、г₂などから、第四の大きな課題、役の生きた生活の区切りГが生まれる。その目的は、「ソーフィヤ、親戚、知人、この家とモスクワの暮らし全体について尋ねる」ことにある。

д、д₁、д₂などから、大きな課題と区切りДができる。е、е₁、е₂からはЕ、ж、ж₁、ж₂と、з、з₁、з₂からはЖ、Зという大きな課題ができる。そして最後の大きな課題Эへ至る。その課題は、台詞そのものによって示される。
「モスクワを出よう! 二度とここへは戻らない。
振り返らず逃げ出して、世界のどこかを探しに行こう。
傷ついた心を置ける、片隅を!」

さらに、大きな区切りА+Б+В+Гが連なって、役の生活の一つの場面を作る。それは「チャツキーとソーフィヤの最初の再会」と呼べるだろう。

課題と区切りД+Е+Ж+Зの連続が、別の場面、「邪魔された再会」を作る。

課題と区切りИ+К+Л+М、さらにН+О+П+Рなどの連続が、第三、第四の場面を作る。

そして、大きな場面がいくつもつながって、幕を作る。

幕から戯曲全体が、つまり、人間の内面の生活の、大きく重要な部分全体ができあがる。

この大小の課題、区切り、場面、幕の長い連なり全体を、「役の心の楽譜」と呼ぶことにしよう。

今のところ、それは身体的な課題と基本的な心理の課題によってできており、創造する者の心の体験を、確かな形にとどめるものである。

この呼び名は、音楽から借りた。

音楽でも、オペラや交響曲の楽譜は、音符、小節、楽句といった大小の部分から作られる。それらが、作曲家と、その人の創った生きた人物たちの、創造する感情を記している……。

身体的・基本的な心理的課題と区切りからできたチャツキー役の楽譜は、わずかな違いや変更こそあれ、戯曲と同様の状況で暮らす誰にとっても、役を体験する俳優にとっても、欠かせないものである。

実際、旅から帰る人も、帰郷を情動によって体験する人も、現実に、あるいは想像の中で、家へ乗りつけ、馬車を降り、玄関へ入り、挨拶をし、様子をつかむなどのことを、必ずしなければならない。

それは身体的に必要なことだ。

旅の馬車から、いきなりソーフィヤの部屋へ飛び移ったり、一瞬で自宅へ戻って着替えたりするわけにはいかない。

旅から戻る人はまた、人間の性質の論理や順序、自然の法則が求める、一連の基本的な心理の課題も、必ず実行しなければならない。

長い不在のあとに帰ってくれば、気持ちや挨拶を交わし、親しい人々について見聞きすることに関心を寄せる、といった欲求が生まれる。

その際、心に満ちているものをすべて、一度に伝えることはできない。挨拶し、抱きしめ、よく見て、理解することを、一度にはできないのだ。

ここにも順序が必要である。

舞台上の身体的な課題と基本的な心理の課題を実行するときは、創造を繰り返すたび、その都度、とても几帳面に、論理的に取り組まなければならない。

例えば、新しい登場人物が会話へ加われば、その人に必要なだけの注意を向けなければならない。

舞台へ出たときも、演出家の指定した場所へ、覚えたとおりにまっすぐ向かってはいけない。創造するたび、その都度、自分にとって都合のよい、なじみの場所を選び、見つける必要がある。

「俳優は戯曲を知りすぎている。それを忘れるすべを知らなければならない」と、ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリは言う。

激しく笑ったり泣いたりして呼吸が乱れたあとには、息切れやしゃくり上げを、急に止めてはいけない。呼吸を整えるために必要な時間を、与えなければならない。

一見、取るに足りない、自然の細部をそのまま写すようなこうした事柄が、創造ではきわめて大切な意味を持つ。

これらがなければ、舞台でしていることが本物だとは信じられない。信じられなければ、体験も創造も成り立たない。

ここまで楽譜に挙げた課題は、確かに、まだ身体的なものと、基本的な心理のものにすぎない。

深い課題ではないので、働きかけられるのは身体の周辺や、心の生活の外面的な現れだけだ。つまり、心には少し触れる程度である。

それでも、それらは乾いた理屈からではなく、生きた感情から生まれた。

俳優の本能、創造する感受性、人生経験、習慣、俳優自身の生きた本性に備わる人間の性質が、教えてくれたものだ。

これらの課題には、すべて独自の順序、段階的な進み方、論理がある。

自然で、生きた課題と認めてよい。

このような生きた身体的・基本的な心理的課題からできた楽譜が、人間としての俳優を、演じる人物の生きた生活へ近づけることは、間違いない。もっとも、まだ身体の面からではある。

課題が俳優の本性になじみ、演じる人物と一体になるためには、役の課題と対応するものでなければならない。

そのためには、戯曲と役の台詞全体を、大きな区切りに分ける必要がある。その内的な内容の深さや全体を、感情が一度に捉えきれなければ、あるいは、その大きな区切りのすべての瞬間に、楽譜の中で十分な根拠が見つからなければ、さらに小さく分け、一つずつ別に学ばなければならない……。

同じ役の、同じ身体的・基本的な心理的楽譜を、稽古や上演で繰り返し体験するうちに、時と反復によって機械的に身につき、習慣ができる。

俳優は、すべての課題とその順序に慣れきって、楽譜に定められた段階と線をたどる以外には、役を考えたり、近づいたりできなくなる。

この習慣のおかげで、創造を繰り返すたび、その都度、正しく役へ近づける。

習慣は創造で重要な役割を果たす。創造によって得たものを、定着させるのだ。

ヴォルコンスキー公爵の巧みな言葉を借りれば、習慣は、難しいことを慣れたことに、慣れたことを容易なことに、容易なことを美しいことにする。

ここでも習慣は、第二の天性、第二の現実を作り出す。

楽譜は自動的に、身体的・基本的な心理的行動そのものを、あるいは俳優がまだ行動を内に抑えているとしても、そうした身体的行動への衝動や促しを、呼び起こし始める。

〔心の調子〕

さて、身体的な課題と基本的な心理の課題による、役の楽譜ができた。

この楽譜は、俳優の創造する本性が求める、すべての条件を満たしているだろうか。

第一の条件は、楽譜が心を引きつけるものであることだ。

創造への熱中こそが、創造を呼び覚まし、動かす唯一の力である。そして、生きた魅力的な課題だけが、気まぐれな俳優の感情と意志に働きかけられるからだ。

身体的・基本的な心理的課題からできた役の楽譜も、その一つひとつの課題も、俳優を創造に夢中にさせ、繰り返すたびに感情を呼び覚ますための条件を、すべて備えているわけではない。これは疑いない。

正直に言うと、課題を探して選んでいる、その最中でさえ、私はあまり夢中にはならなかった。

不思議なことではない!

選んだ課題は、すべて外面的なものなのだ。

身体の周辺に触れ、演じる人物の感情や生活の表層に関わるだけである。

そうなるほかなかった。創造へ向かう私の線は、外面的な事実や出来事をたどり、役の身体的・基本的な心理的生活の面を進んでいたのであって、心の生活の深い層には、わずかにしか触れていなかったのだから。

こうした楽譜と、その体験には、人間の内面の生活の、最も重要な側面が、まだ映っていない。舞台で創るものの本質、役の生活を特徴づけるもの、内面の個性は、その側面にある。

身体的な課題と基本的な心理の課題による楽譜が示すことは、誰であってもするだろう。

誰にでも当てはまるからこそ、それだけでは役を特徴づけられない。役には、必ずその人ならではの特徴が現れなければならないのだ。

身体的・基本的な心理的〔課題〕は必要だが、俳優と、その創造する直感にとっては、あまり魅力的でない。

こうした楽譜は道を示せても、創造そのものを呼び起こすことはできない。

外面的な楽譜は、外面的な体験を作る。

それでは生活は生まれず、楽譜はすぐに使い古されてしまう。

創造を呼び起こすには、俳優の感情、意志、理性、その全存在を、深く、情熱的に引きつけなければならない。

それは、より深い心の課題と楽譜によって呼び起こせる。

そうした楽譜だけが、命を与えられる。深い生活の課題だけが、長く働きかけ続けられる。

そこに、内面の技術の秘密と本質がある。

だから俳優の次の仕事は、絶えず感情を揺り動かす課題を見つけ、役の身体的な楽譜を、生きたものにすることだ。

その楽譜は、外側の身体的な真実だけでなく、何よりも、内面の美しさ、楽しさ、活気、おかしさ、悲しみ、恐怖、抒情、詩情などによって、俳優を動かすものであってほしい。

創造の課題と役の楽譜が呼び起こすべきなのは、ただの熱中や願い、欲求、行動ではなく、情熱的なそれらであることを忘れてはならない。

だから、ここに挙げた魅力や性質をすべて欠く課題は、その役目を果たしていない。

もちろん、心を動かす課題なら何でもよく、役の創造の楽譜に合うとはいえない。だが、乾いた課題はどれも役に立たないとは、確実に言える。

チャツキーの帰還という事実も、彼の大小の課題も、戯曲の中で興味深いのは、その心の内容、内面的な理由や衝動、心理的な動機によってである。

それらが、彼の心の生活を動かす力となる。

それらなしには、演じる役へ心を委ねられない。

それらがなければ、課題は空っぽで、中身を持たない。

では、チャツキー役の課題と楽譜を、さらに深めてみよう。内側の、いわば水面下の流れへ導こう。心の生活の源、俳優と役の有機的な本性、心の中心、その奥深い「私」へと、近づけてみよう。

そのためには、何をすればよいのだろう。

役の外面的な生活を作っている課題と、身体的・基本的な心理的楽譜の全体を、変える必要があるのだろうか。

だが、楽譜を深めたからといって、誰にも必要な身体的課題などが、消えてしまうのだろうか。

そうではない!

身体的な課題、行動、事実はそのまま残り、そこへ新しいものが加わって、中身が豊かになるだけだ。

違いは、外側の身体的生活ではなく、心の生活にある。課題や役の楽譜全体を実行するときの、全般的な状態、気分が違うのである。

新しい心の状態は、同じ身体的課題を新しい色で染め、より深い別の内容を注ぎ込み、違う理由と心の動機を与える。

役の楽譜を新たに実行するときの、この移り変わる心の状態や気分を、私は「心の調子」と呼ぶことにする。

俳優の言葉では、これを「感情の種」と呼ぶ。

つまり、役の楽譜を深めるときも、事実、課題、楽譜そのものは残る。ただ、心の動機、内なる促し、心理的な働きかけ、心の出発点が変わる。それらが心の調子を作り、楽譜の課題に理由を与えるのである。

音楽でも同じだ。一つひとつの音符から旋律が、旋律から交響曲ができる。

旋律も交響曲も、さまざまな調で、例えばニ長調でもイ長調でも演奏できる。

リズムやテンポも変えられる。アンダンテにも、アレグロにもできる。

そのとき旋律そのものは変わらず、演奏する調子だけが変わる。

長調で元気のよいテンポなら、旋律は華やかで勝ち誇った性格になる。短調でゆっくりしたテンポなら、悲しく抒情的な性格になる。

感情の領域でも、同じ楽譜、同じ課題を、異なる調子で体験できる。

例えば、帰宅に至るすべての過程、それに伴うすべての身体的・基本的な心理的課題は、落ち着いた調子でも、喜びに満ちた調子でも、悲しい、不安な調子でも体験できる。故国へ帰る愛国者の歓喜の調子にも、最後には、〔自分についてこう語る〕恋する人の調子にもできる。

……我を忘れ、魂も抜けたように、
四十五時間、まばたき一つせず、
七百ヴェルスタを越えて駆けてきた。風に、嵐に。
すっかり途方に暮れ、何度倒れたことか……。

次の課題は、身体的・基本的な心理的課題でできた楽譜を取り上げ、それを深めることだ。

私はこう問う。もしチャツキーと同じように、彼の生活の状況の中で外国から帰ってきたとして、今の自分の状態ではなく、故国への強い愛に捉えられていたら、楽譜の何が変わり、何が加わり、何がまったく消えるだろうか。

言い換えれば、同じ役の身体的・基本的な心理的楽譜を、愛国者の調子、恋する人の調子、あるいは自由な人間の調子で、体験してみようということだ。

今度は、恋する人の調子を取り、それで役の身体的・基本的な心理的楽譜を照らしてみよう。

恋の情熱という新しい調子が、人間としての俳優の心の最も深いところから、楽譜を照らす。

新しい調子は、まったく違った色合いと、より豊かな心の本質を、楽譜に与える。

チャツキー役の楽譜で、こうした調子の変化を試してみよう。

そのために、新しい条件、プーシキンの言う新しい「与えられた状況」を加える。

ソーフィヤに強く恋している状態のチャツキーを、考えてみる。

彼が外国から帰ってきたのは、単にソーフィヤの友としてではなく、彼女を熱愛し、狂おしく恋する婚約者としてだったとしよう。

この新しい恋の調子で、楽譜の何が変わり、何が動かずに残るだろうか。

故郷へ戻った人が、どんな情熱を体験していようと、身体的な条件から、門番が門を開けるのを待ち、玄関番を起こすために呼び鈴を鳴らし、住人に挨拶するなどのことを、しなければならない。

つまり帰ってきた人は、楽譜の身体的・基本的な心理的区切りのほとんどを、実行することになる。

恋する人という新しい調子が楽譜にもたらす本質的な違いは、身体的課題そのものよりも、その実行の仕方にある。

帰ってきた人が落ち着いていて、深い心の体験に気を取られていなければ、身体的課題を辛抱強く、注意深く実行するだろう。

だが、心が高ぶり、情熱に身を委ねているなら、身体的課題に対する態度は、まるで変わる。

ある課題は目立たなくなり、溶け合い、一つの大きな内面的な心の課題へ吸収される。別の身体的課題や区切りは、恋する人の神経の高ぶりや焦りによって、より鋭いものになる。

そのとき、身体の区切りと心の区切りの境目は、一致することもあれば、ずれることもある。

人が全存在を情熱に捉えられている場合、身体的課題のことは忘れ、それらは無意識に、機械的な習慣によって実行される。

現実の生活でも、どう歩き、呼び鈴を鳴らし、扉を開け、挨拶しているかを、いつも考えているわけではない。

その大半は、無意識に行われる。

身体は習慣になった自分の生活を自動的に送り、心は、より深い心理的な生活を送る。

こうして別々に見えても、もちろん、心と身体のつながりが切れるわけではない。

注意の中心が、外面の生活から内面の生活へ移ったために、そう見えるのである。

このように、新しい調子のもとで、俳優がすでに習慣として身につけた役の身体的な楽譜は深まり、新たな心理的課題や区切りが加わる。

より繊細で、心の通った、いわば心身一体の楽譜ができる。

では、実際に、そんな楽譜をどう作り始めればよいのか。

この仕事へ直接取りかかることはできない。その前に、助けとなる準備が必要だ。

それは、表そうとしている情念、ここでは愛という情念の、本性を知ることである。

人の中で情念が流れ、発展する線をたどらなければならない。恋の情熱を成り立たせる要素を知り、感じ、その全体の見取り図を作らなければならない。それが刺繍の下地となり、創造する感情そのものが、意識的に、あるいは無意識に、恋の情熱の、計り知れないほど複雑な心の模様を縫い取っていく。

では、恋の情熱の本性をどう知り、感じればよいのか。その簡潔な見取り図を作るとき、何を頼りにすればよいのか。

愛を科学的に定義することは、私の力には余る。

それは心理学の専門家の仕事だ。

芸術は科学と仲よく付き合うが、科学ではない。

俳優として、私は生活や科学から、絶えず創造の材料と知識を汲み取らなければならない。それでも創造の瞬間には、自分の創造する感情、新たに受け取った印象や、以前に体験した印象、直感によって生きることに慣れている……。

創造の生活の大切な瞬間には、いつもそれらの助けを求めてきた。

今回も、俳優としてのこの習慣を曲げず、創造の瞬間に芸術と科学を混同しないでおこう。

そうしたがる人はいくらでもいるが、私はその一人ではない。

それに、今必要なのは、恋の情熱を細かく科学的に研究することではなく、感情による、全体の簡潔な見取り図なのだ。その基礎は、頭ではなく心に探せばよい。

これからチャツキー役の、より繊細で、心の通った、心身一体の楽譜を作るにあたり、この見取り図に導かれ、創造する自分の本性を方向づけてもらおう。

今後の創造の仕事を導く恋の情熱の本性を、私は次のように感じている。

情念には植物のように、それを生む種があり、そこから始まる根があり、茎、葉、そして成長を仕上げる花があると感じる。

「情念が根を下ろした」「情念が育つ」「愛が花開く」などと言うのは、理由のないことではない。

つまり私は、愛にも、ほかのあらゆる情念にも、種がまかれ、命が宿り、育ち、発展し、花開くという、一連の過程を感じている。

情念は、自然そのものが定めた線に沿って発展すると感じる。その過程には、身体的・基本的な心理的生活と同じように、独自の順序、論理、法則があり、それを破れば、必ず代償を払うことになる。

この点で、俳優が自分の本性に無理をさせ、一つの感情を別の感情の場所へ置き、体験の論理、移り変わる時期の順序、感情の段階的な発展を壊し、人間の情念の自然な成り立ちや構造をゆがめれば、その無理強いは、心の奇形を生む。

このゆがみを、何にたとえればよいだろう。

耳の代わりに手が生え、両手の代わりに耳が突き出し、口のある場所に目が押し込まれた人のようなものだろうか。

そんな姿を人間とは呼べないのと同じように、ゆがめられた俳優の感情も、生きた本当の人間の情念とは認められない。

人間の情念の自然な働きに無理をかければ、必ず代償を払う。自然は、厳しく報復するからだ。

今、役の楽譜は、私たちによくなじみのある人間の情念、女性への愛によって照らされている。

情念から生まれる課題は、単なる身体的・基本的な心理的課題よりも強く、魅力的になる。

では、恋する人の課題、願い、求めるもの、行動とは、何なのか。

多くの人は、愛、嫉妬、憎しみなど、人間の情念は、それぞれ一つの独立した感情だと考えている。

そうではない。

どんな情念も、複雑な、組み合わされた体験だ。数限りなく多く、多様な、個々の感情、感覚、状態、性質、瞬間、体験、課題、行動、振る舞いなどが集まってできている。

それらの構成部分は、多くて多様なだけでなく、しばしば互いに正反対でもある。

愛の中には、憎しみも軽蔑も、崇拝も無関心も、恍惚も放心も、恥ずかしさも厚かましさもある。ほかにも、いろいろとある。

絵画でも、最も繊細な芸術的な色調や陰影は、一つの絵具ではなく、多くの色を組み合わせて作られる。

例えば、白とその数限りない色合いは、青、黄、赤という、すべての基本の色が混ざって生まれる。

訳注

この混色の説明は原文どおり。青・黄・赤の絵具を混ぜても白にはならない。

緑とその中間色や色合いは、青と黄の混合から生まれる。橙とその中間色は、〔黄と赤〕の混合から生まれる。以下も同様だ。

この意味で、人間の情念は、ビーズの山にたとえられる。

山全体の色調は、赤、青、白、黒といった、さまざまな色の、数限りない一粒一粒のビーズの組み合わせから生まれる。

それらが集まり、混ざり合って、灰色、青みがかった色、黄色みがかった色など、山全体の色調を作る。

感情もまったく同じだ。多様で、互いに矛盾する、個々の瞬間、体験の時期、感情、状態などの組み合わせが、情念の全体を作る。

次の例を見れば分かる。母親が、ひかれそうになったばかりの、深く愛するわが子を激しくぶっている。

なぜ、ぶっている間、これほど怒り、子供を憎むのか。

まさに、激しく愛し、失うことを恐れるからである。

命を危険にさらすいたずらを二度としないように、母親は子供をぶつ。

一瞬の憎しみが、変わらない愛と同居している。

そして、母親が子供を愛するほど、こういう瞬間には、いっそう強く憎み、ぶつのだ……。

情念そのものばかりでなく、それを構成する独立した部分もまた、互いに正反対の、個々の体験や振る舞いなどからできている。

例えば、モーパッサンのある短編の主人公は、目前に迫った決闘を恐れて、自ら命を絶つ。

自殺という大胆で決定的な行動が、決闘を避けようとする臆病者の、決断できなさから生まれるのである。

以上から、人間の情念を成り立たせる部分が、いかに複雑で多く、多様かが分かる。

どんな大きな情念にも、その誕生と発展から結末まで、根から花までの間に、人間のほとんどすべての感情、感覚、状態などが、居場所を見つけうる。

それらは、独立した短い瞬間として現れることも、長く続く時期や状態として現れることもある。

愛のように大きく複雑な人間の情念の中へ、さまざまなかたちや強さで現れ、居場所を占める、個々の瞬間や状態を、すべて挙げられるだろうか。

どの役も、同じように、独立した構成部分からできている。それらが情念全体を作り、情念全体が、演じる人物の内面的な心の姿を作る。

チャツキー役を例に取ろう。

この役、とりわけソーフィヤへの愛も、恋愛の瞬間だけで成り立っているのではない。多様で、互いに正反対の体験や行動が、いくつも集まり、その全体として愛そのものを作る。

実際、戯曲全体を通じて、チャツキーは何をしているのか。

どんな行動から、彼の役ができているのか。

ソーフィヤへの愛は、何に現れているのか。

まず、帰ってきたチャツキーは、急いでソーフィヤに会おうとする。会うと彼女をよく見て、冷たく迎えられた理由を探る。彼女を責め、それから冗談を言い、親戚や知人をからかう。

ときには彼女をひどく傷つける皮肉を言い、彼女のことをあれこれ考え、推測に苦しみ、立ち聞きし、裏切りの逢引きの現場を押さえ、彼女の話を聞く。そして最後には、愛する人から逃げ去る。

こうした多様な行動や課題の中で、愛の言葉や告白に割かれているのは、わずか数行の台詞にすぎない。

それでも、ここに挙げたすべての瞬間と課題が一緒になって、情念、つまりチャツキーのソーフィヤへの愛を作る。

人間の情念を表す役目を持つ俳優の、心のパレットと楽譜は、とても豊かで、色彩に富み、多様でなければならない。

何かの情念を演じるとき、俳優が考えるべきなのは、情念そのものではなく、それを成り立たせる感情だ。情念を大きく広げたいほど、同じ種類の感情ではなく、反対に、異質で互いに正反対の感情を、より多く探さなければならない。

両極端が、人間の情念の幅と俳優のパレットを広げる。

だから、善良な人を演じるなら、その人の意地悪なところを探せ。反対の場合も同じだ。賢い人を演じるなら、愚かなところを探せ。陽気な人を演じるなら、真面目なところを探せ。

人間の情念の幅を広げる方法の一つが、今〔勧めた〕やり方である。

必要な色や構成する瞬間が、ひとりでに浮かばなければ、探せばよい。

試しに、今思い浮かぶ、さまざまな人間の感情、状態、感覚などを挙げてみよう。

そして、愛を作る長い感情の連鎖の中に、それらの場所、きっかけ、理由を見つけてみよう。

愛という情念を作る長い感情の連鎖には、喜び、悲しみ、至福、苦しみ、平穏、興奮、恍惚、馴れ馴れしさ、はにかみ、衝動的な振る舞い、勇気、臆病、厚かましさ、繊細な心遣い、素直さ、ずるさ、活力、無気力、純潔、放蕩、感傷、怒りっぽさ、落ち着き、信頼、不信といった状態が、たやすく居場所を見つける。わざわざ説明するまでもないだろう。

人生経験を積んだ人なら、人間の情念を形づくる瞬間や時期の長い連鎖の中に、これらすべての体験や感情にふさわしい場所を、見つけられるはずだ。

恋する人が、愛する相手に冷笑的に接することも珍しくない。うまくいき、自信に満ちれば堂々とし、絶望して望みを失えば、何も手につかなくなる。ほかにも、いろいろな状態になる。

人間の情念は、普通、一瞬のうちに生まれ、発展し、結末を迎えるのではない。長い時間をかけ、少しずつ進む。

明るい感情に暗い感情が、暗い感情に明るい感情が、気づかぬうちに少しずつ混じり込む。

例えば、初めのオセローの心は、太陽の光を受けて輝く金属のように、喜ばしく明るい愛の感情の、あらゆる色にきらめいている。

ところが突然、あちらこちらに、ほとんど見えない暗いしみが現れる。

オセローに疑いが芽生える、最初の瞬間だ。

しみは増えていき、愛するオセローの輝く心全体に、悪い感情の瞬間が点在する。

それらが広がり、育ち、ついには、かつて喜びに輝いていた心が、暗く、ほとんど黒くなる。

初めには、ところどころの瞬間が、育ちつつある嫉妬を示していた。今では、ところどころの瞬間だけが、昔の、優しく信じきっていた愛を思い起こさせる。

やがてその瞬間も消え、心全体が完全な闇に沈む。

同じように、陽光の中で輝く白い雪の覆いに、ほとんど目立たない黒いしみが現れる。

早春の前触れだ。

次に二つ目、三つ目のしみが現れ、しばらくすると、輝く雪の面全体に、雪の解けた地面の暗いしみが点々と広がる。

それは少しずつ大きくなり、ついには表面全体を覆う。

まだ解け残った雪だけが、ところどころで日の光に白く輝き、以前のきらめきを思い出させる。

最後にはそれも解け、黒い地面だけが見える。

反対に、同じように少しずつ、邪悪で黒い人の心が、知らぬ間に明るくなり、清らかになることもある。

白い雪が、少しずつ黒い地面を覆うように。

初めは一片一片の雪が、黒い地面をますます白くまだらにする。それから大きな雪の塊ができ、広がり、増えていき、最後には白い覆いとなって、地面全体を包む。

残った暗い隙間や点だけが、黒い地面を思い出させる。

だが最後には、それも消え、すべてが白くなって、太陽の下で輝く。

もっとも、情念が突然、人の全存在をすっかり捉える場合もある。

ロミオは、一瞬でジュリエットへの愛に捉えられた。

だが、もしロミオが長く生きる運命にあったなら、ほかの人と同じように、愛に避けがたく伴う、多くのつらい瞬間や暗い感情を味わわずに済んだだろうか。誰にも分からない。

ところが舞台では、ほとんどの場合、人間の情念の自然なあり方に、真っ向から反することが起こる。

俳優は最初のきっかけが来たとたん、いきなり恋に落ち、いきなり嫉妬する。

その際、多くの俳優は、愛、嫉妬、吝嗇などの情念を、弾薬や爆弾のように、自分の心へ装填するものだと、素朴に考えている。

人間の情念の一つを、それもひどく単純な形で、専門にしている俳優さえいる。

例えば、芝居の二枚目やオペラのテノールを思い浮かべてほしい。きれいな顔をし、女性的で、小さな天使のように髪を巻いている。

その専門は、愛すること、ただ愛することだけだ。つまり、舞台でポーズを取り、物思いや夢にふけってみせ、絶えず手を胸に当て、身をよじって情熱を表し、ヒロインを抱きしめ、口づけし、感傷的な微笑みを浮かべて死に、最後の別れを送る。要するに、決まりきった単純な愛のしるしを、舞台で片端から演じるのだ。

恋人役の中に、愛に直接関係しない箇所があると、この二枚目やテノールは、その普通の人間の生活の瞬間を、まったく演じないか、自分の専門に利用しようとする。つまり、夢見がちで、見栄えやポーズを重んじる、芝居の愛に使ってしまう。

芝居の英雄役の俳優や、オペラのバリトンにも同じことが言える。彼らはしばしば嫉妬を演じる役を与えられる。

すると、嫉妬し、ただ嫉妬するだけになる。

いわゆる理屈を述べる役や、立派な父親役の俳優、オペラのバスも同じだ。舞台で憎むこと、つまり悪人や策士や悪魔を演じたり歌ったりする役を担う。あるいは反対に、立派な父親を演じ、子供を愛する役を担う。

こうした俳優も、悪人や父親の役を演じる間、例外なくすべての瞬間に、絶えず策略を巡らせ、憎み、あるいは子供の世話を焼く。

人間の心理や情念への、この俳優たちの態度は、素朴なほど一面的で、一直線だ。愛はいつも愛で、嫉妬は嫉妬で、憎しみは憎しみで、悲しみは悲しみで、喜びは喜びで表される。

心の色同士の対照も、関わり合いもない。すべてが平板で、一つの調子である。

何もかも、一色で描かれる。

黒は黒の上に黒で、白は白の上に白で表される。

悪人は真っ黒、善人は真っ白だ。

俳優は、それぞれの情念のために専用の色を用意している。愛には愛の色、嫉妬や憎しみにも、それぞれの色がある。

塗装屋が塀を一色で塗るのと同じだ。

子供が絵に色を塗るのとも同じだ。

子供の絵では、空は真っ青、草木は緑一色、地面は真っ黒、木の幹はどこまでも茶色である。

俳優は、気づかないうちに、情念そのものを体験せず、それに対応する課題を果たさず、行動もしなくなる。ただ、知りもしない体験の結果、愛、嫉妬、憎しみ、興奮、喜び、活気だけを演じている。

こうして、舞台にあまりに広く見られる、「漠然とした」演技が生まれる。

実際、俳優は舞台で、「漠然と」愛し、「漠然と」嫉妬し、「漠然と」憎んでいる。

複雑な構成を持つ人間の情念を、大まかで単純な、しかも大半は外面的な表現のしるしで伝えているのだ。

情念そのものではなく、その結果に関心を向ける俳優は、よく仲間にこう尋ねる。

「あの場面、何でやっている?」

「涙で」「笑いで」「喜びで」「不安で……」と相手は答える。それが内的な行動ではなく、その外面的な結果について話しているのだとは、気づきもしない。

その結果を追い求め、俳優はしばしば舞台で、愛そうと力み、嫉妬しようと力み、憎もう、不安になろうと力むことになる。

だが、椅子に座って、ただ漠然と、不安になろう、愛そう、嫉妬しようとしてみてほしい。

生まれるのは、身体の力みやけいれんだけだ。

愛そう、嫉妬しよう、憎もう、軽蔑しよう、と望むことはできない。

多くの願い、課題、状態、行動が集まった結果を、そのまま自分の願いや内的な課題として選ぶことはできない。

別の願いが長く連なり、その全体が愛、嫉妬、軽蔑などを生むのでなければならない。

そのうえ、俳優はせっかちだ。一つどころか、多くの情念、感情、状態、体験の結果を、しばしば一度に、同時に見せようとする。つまり、愛し、嫉妬し、憎み、苦しみ、喜び、興奮し、身をよじることを、同時にしたがるのである……。

すべての課題や願いを一度に果たそうとすると、一つも果たせなくなる。逃げ場を失い、筋肉の力みやけいれんに支配されてしまう。

舞台では、多くの課題を同時に生きることはできない。一つひとつを順番に実行しなければならない。役のある瞬間には愛情に身を委ね、別の瞬間には愛する相手に腹を立てる。強く愛するほど、強く憎む。また別の瞬間には羨み、さらに別の瞬間には、ほとんど無関心になる、といった具合だ。

ここまで挙げた俳優の間違いを繰り返さないためには、情念の本性と、自分が頼りにするその見取り図を、知っていなければならない。

人間の心の心理と自然な働きをよく知り、創造に取り組んでいない時間に、それらを多く学ぶほど、俳優は情念の心の本質へ深く入り込める。その楽譜も、より細やかで、複雑で、多様になる。

情念の本性をいっそうよく感じ、それがどう生まれ、発展し、育ち、結末を迎えるかを知るために、自然の働きを学ばなければならない。

情念を、その誕生から結末まで知らなければならない。

人間の情念が発展し、育つ段階を、その段階の並び、見取り図を、すべて知らなければならない。

自分の人生経験の記憶を手掛かりに、恋の情熱の発展の主な段階を見渡し、私が感じるとおりの見取り図を、例として作ってみよう。

俳優はそれぞれ、自分の感じるとおりに見取り図を作る。

もちろん、その見取り図には、誰にも共通することが多くある。それが、恋の情熱に共通する本質なのである。

愛の始まる根は、少しずつ、あるいは一瞬で恋心を呼び起こす相手へ、まず素朴に注意を向け、やがてその注意が鋭くなることだ。

注意は集中を生み、集中は観察と好奇心を鋭くする。

〔チャツキーの恋の情熱の発展を〕、詳しく見てみたくなる……。

中断していた仕事へ戻ろう。ソーフィヤへの愛という新しい調子で、チャツキーの楽譜を体験する仕事だ。

作った見取り図を使い、故郷へ戻った瞬間のチャツキーがいる段階で、恋の情熱が発展するために必要なすべての段を、見つけてみよう。

恋する人の状態を思い出し、与えられた状況の中心へ、つまりチャツキーの立場へ、自分を置く。

今度は、大きな課題から小さな課題へ進もう。

私は外国から、自宅にも寄らず、ファームソフ家の門へ直接乗りつける。

ソーフィヤに会いたい気持ちはあまりに強く、一文字ではなく二文字で示すべきだろう。そこで最初の大きな課題は、こうなる。

2А)熱愛するソーフィヤに、一刻も早く会いたい。

そのためには、何をしなければならないか。

馬車が止まり、御者が門番を呼んで、門を開けさせる。

私は馬車の中に、じっと座っていられない。

何かをしなければならない。

あふれんばかりの力に満たされて、激しく動かずにはいられない。活力は十倍にもなり、前へ前へと押し出される。

2а)外国で熱く夢見ていた再会の瞬間を、早めたい。

寝台馬車から飛び降り、門へ駆け寄り、鎖でたたく。門番が近づくのを待ちながら、あり余る力で、その場で足踏みする。

門番が来る。私だと分かって、慌てて動く。

門の掛け金が鳴る。

門が少し開き、隙間ができる。

早くそこをすり抜けたいが、門番が道をふさぎ、喜んで挨拶する。

2а₁)彼にも挨拶し、優しく声を掛け、言葉を交わさなければならない。

私も喜んでそうしたい。彼はただの門番ではなく、彼女の家の門番なのだから、なおさらだ。

しかし……内なる力が前へと駆り立てる。挨拶をほとんど機械的に済ませ、終わりきらないうちに走り出す。

こうして、ソーフィヤとの再会を早めたいという欲求が、小さな課題2а₁を覆い尽くす。それは、前の課題2аに溶け込み、機械的な行動になる。

私は広い庭を、玄関へ向かって全速力で走る。

2а₂)眠っている玄関番のフィーリカを、早く起こさなければならない。

呼び鈴の取っ手をつかみ、力いっぱい引く。

待って、また鳴らす。

針金が切れるかもしれないと分かっていても、手を止められない。

なじみの庭犬ロースカが、甲高い声を上げ、足元へじゃれつく。

彼女の犬だ。

2а₃)犬にも挨拶したい。昔なじみの友達を、かわいがりたい。彼女の犬なのだから、なおさらだ。

だが、時間が惜しい。呼び鈴を鳴らさなければ。

この課題も、前の2а₂に覆われる。

ようやく扉が開き、私は玄関の間へ駆け込む。

懐かしい空気が私を包み、酔わせる。

内なる力がますます前へ押し出し、見回す暇も与えてくれない。

そこで、また足止めされる。

フィーリカが、馬のいななきのような声で迎える。

2а₄)彼にも挨拶し、優しく声を掛け、言葉を交わさなければならない。

だが、この課題も、再会を早めるという、より重要な欲求に覆われ、機械的なものになる。

フィーリカに何かを早口でつぶやき、私は前へ飛び出す。

階段を四段飛ばしで上がる。

もう中ほどの踊り場だ。そこで執事と家政婦頭に出くわす。

二人は私の勢いに驚き、突然の再会に立ちすくむ。

2а₅)二人にも挨拶し、ソーフィヤのことを尋ねなければならない。どこにいるのか。元気か。起きているか。

目指す最後の目的に近づくほど、そこへ引かれる力は強くなる。

私は挨拶をほとんど忘れ、代わりに叫ぶ。「お嬢様は起きたか? 入っていいか?……」

答えを待たず、見覚えのある部屋や廊下を駆け抜ける……。

誰かが後ろから呼ぶ。誰かが追いつく。

私は足を止め、ようやく事情を理解する。

「入れない? 着替え中なのか?」

全力を尽くして興奮を抑え、乱れた呼吸を整える。

耐えがたい焦りを鎮めようと、その場で足踏みする。

誰かが甲高い声を上げて駆けてくる。

「ああ、リーザか!」

彼女が袖を引き、私はそのあとについていく。

そのとき、何かが起こった。

自分を失う。分からない。覚えていない!

夢か!

戻ってきた子供時代か!

幻か!

それとも、今の人生か、前の人生で、いつか知っていた喜びなのか。

きっと、あの喜びだ!

だが、それについて何も言えない。

分かるのは、目の前にソーフィヤがいることだけだ。

彼女だ。

いや、彼女よりも素晴らしい!

別の彼女だ!

新しい課題が、自然に、ひとりでに生まれる。

2Б)挨拶したい。この幻のような姿を迎えたい!

だが、どうやって。

美しく花開いたこの娘には、新しい言葉、新しい接し方が必要だ。

それを見つけるには、2б)ソーフィヤをよく見て、なじみのある愛しい特徴を見つけ、離れていた間に起きた変化を確かめなければならない。

私は彼女を食い入るように見つめ、その素晴らしい外見だけでなく、心そのものを見ようとする。

この瞬間、空想の中の心の目には、一八二〇年代の服を着た、可憐な若い娘が見える。

誰だろう。

見覚えのある顔だ!

どこから来たのだろう。

版画からか。

肖像画からか、それとも人生の記憶の中の誰かに、想像で当時の衣装を着せたのか。

想像上のソーフィヤをじっと見つめるうち、この眼差しには真実があると感じる。

チャツキー本人も、きっと同じように、集中した注意を注いでソーフィヤを見ただろう。

そこへ、ひどく覚えのある感情が混じる。戸惑いとも、気まずさともつかないものだ。

これは何の感覚なのか。

何を思い出させるのか。

どこから来たのか。

思い当たった。

ずっと昔のことだ。

私がまだ子供に近かったころ、一人の少女と知り合った。

周りは冗談で、私たちをお似合いの二人、花婿と花嫁だと言った。私は恥ずかしかった。その後、長い間彼女のことを夢見て、手紙を交わしていた。

何年も過ぎた。

私は成長したが、想像の中の彼女は、あの少女のままだった。

ようやく再会すると、二人とも戸惑った。互いがこんなふうになっているとは、思っていなかったのだ。

今の彼女と、どう話せばよいのか分からなかった。

以前とは違う話し方が必要だ。どうすればよいかは分からないが、昔のままではいけない……。

その気まずさ、戸惑い、新しい関わり方を探す気持ちが、今、似たものとして思い出されたのだ。

生きた記憶が、生きた感情で俳優としての私の空想を温める。胸を高鳴らせ、本当の、確かな真実を感じさせる。

自分の内側で何かが狙いを定め、近づく道を探している。初めて会うようで、よそよそしく、それでいて親しい相手との、新しい関係を作っているのを感じる。

この狙いの定め方にも真実が息づいており、感情を温め、想像の中に作った再会の瞬間へ、命を与える。

この一瞬、子供時代の、ある瞬間が繰り返された。

いつか私は、やはり彼女の前に立ち、同じような、得体の知れない歓喜に包まれていた。周りには、おもちゃが乱雑に散らばっていた。

その瞬間について、それ以上は何も分からない。それなのに、これほど深く、重要だ。

私はあのときと同じように、想像の中で彼女の前にひざまずく。なぜなのか、自分でも分からない。芝居じみていると分かっていても、そうするのだ!

すると、子供向けのおとぎ話の本の挿絵を思い出した。

空飛ぶじゅうたんの上に、美しい若者が、今の私のようにひざまずいていた。その前には、彼女によく似た美しい乙女がいた。

この瞬間、私は、2б₁)募らせてきた思いをすべて、兄としての口づけで伝えたくなった。

だが、どうやって。

あの少女なら、つかまえて抱きしめ、抱き上げただろう。

今の彼女には、どうすればよいのか。

私は途方に暮れ、おずおずとソーフィヤへ近づき、何か新しい仕方で、口づけしかける。

2б₂)眼差しと言葉で、ソーフィヤを優しく包まなければならない。

今、命を得た役の生活の瞬間に、生きた真実を知った私は、自分に問う。もしチャツキーと同じように、ソーフィヤの当惑と冷たさに気づき、好意のない眼差しが自分を刺すのを感じたら、どうするだろうか。

問いに答えるかのように、内側ではもう傷ついた痛みがうずき、侮辱された感情の苦みが心へ広がり、失望が力を縛っていた。

私は、この状態から早く抜け出したくなった……。

こうして作り、愛の調子で体験した楽譜が、チャツキーのソーフィヤへの愛を表し、彼自身の楽譜となるには、戯曲の台詞そのものと照らして確かめ、それに合わせなければならない。戯曲の出来事に沿い、そこで恋の情熱が育つ線と並行して楽譜も発展し、台詞のすべての言葉に、ふさわしい根拠が与えられて、初めてそうなる。

今、身体的・基本的な心理的楽譜を作り、確かめたときと同じように、台詞へ戻る必要がある。チャツキーの情念そのものが流れ、発展する論理的な順序に沿って、そこから課題と区切りを選び出すのだ。

それは、次のような仕事であり、次のように進める。

この仕事には、役の台詞を解剖する力が要る。

集まることで人間の情念を作る、一つひとつの区切り、課題、瞬間を、役の台詞から取り出せなければならない。

そうした区切り、課題、瞬間を、先に作った、情念の本性の見取り図と結びつけて考えられなければならない。その見取り図を指針と〔する〕のである。

作者の台詞から取り出したそれらの瞬間に、自分自身の生きた根拠、心の動機を与えられなければならない。

つまり、役の台詞を、その情念の外面的な型ではなく、内側からの発展の見取り図に結びつけ、情念の連鎖の中に、役の一瞬一瞬にふさわしい場所を見つける必要がある……。

ここで、チャツキー役の四つの楽譜を比べてみよう。身体的な課題を、友達の調子、恋する人の調子、愛国者の調子、自由な人間の調子で体験した四つである。

楽譜の中で、何が変わり、何が変わらずに残るのか。

例で説明しよう。

早くソーフィヤに会いたいという願いに捉えられた、恋するチャツキーは、門番、フィーリカ、執事、家政婦頭への挨拶を、通りすがりに急いで、機械的に済ませる。自分がしていることを、半分しか意識していない。

ところが友達の楽譜では、その区切りをすべて、注意深く実行していた。

また、恋する人には、懐かしい部屋を見回す時間がない。

目指す最後の目的へあまりに急ぐので、階段を四段飛ばしで上がる。

反対に友達の楽譜では、フィーリカや執事との再会、見覚えのある部屋を見回すことなどに、ずっと多くの時間と注意を割く。

さらに、愛国者という心の調子は、もっと多くの区切りを包み、一つにまとめ、自分の感情の色で染める。

門番、フィーリカ、執事、家政婦頭との再会、犬をかわいがること、懐かしい部屋を見回すこと、ましてソーフィヤとの再会やチャツキーの糾弾には、ロシアのものすべてを愛するという、一つの根本的で支配的な感情が貫いている。

今度の心の調子は、広くなるだけでなく、深くもなる。それまでの友達と恋する人の調子を、すべて含むからだ。

だが、自由な人間の調子は、さらに広く深く楽譜を包む。この状態は役のすべての瞬間を彩り、それまでの心の調子をすべて含むのである。

このように、調子が深まるほど、心の中心、俳優の有機的な本性へ近づく。強さ、情熱、心へしみ入る力が増す。そして、独立した個々の課題、区切り、時期を、より多く包み込み、溶かし、一つにする。それらは互いに入り込み、内容の豊かな、いわば凝縮された役の部分を作る。

その結果、楽譜の課題や区切りは数が減るが、質と中身は増す。

チャツキー役に取り組んだ例は、同じ身体的・基本的な心理的楽譜が、異なる、ますます深い調子で体験されることで、創造のあらゆる瞬間に、俳優の心へ身近になっていく様子を、はっきり示している。

初めに恋する人の感情、次に愛国者の感情、最後に自由の感覚が、少しずつ私を捉え、楽譜にも役の台詞にも、その中身を満たしていく。

今では役の楽譜は、三重の裏地をつけたように、役のすべての瞬間で、例外なく俳優の心を温める。空いていて温まっていない箇所へ入り込む、型だけの演技の習慣を、寄せつけなくするのだ。

今、役の楽譜は、心の生活を動かす主な力である、感情、意志、理性など、すべての内なる力を捉え、創造の仕事へ引き込む。

時と習慣によって私の心に根を下ろした、これらすべての調子は、創造の瞬間には、私個人の性質や体験となる。同時に、目には見えず自分の中で育ちつつある創造物の、心の主要な要素ともなる。

役という生きた有機体の、これらすべての心の要素が、さまざまな感情、状態、内的・外的な状況と結びつく、その組み合わせは限りなく多様だ。

それは長い体験の音階を作る。俳優の意志とは無関係に、無意識のうちに、感情のあらゆる色合いへ移り変わる。虹が光の基本の色を次々と見せるように。

そのため、楽譜の最も単純な課題さえ、俳優の心にとって、深く重要な意味と、内面的な根拠を持つようになる。

楽譜は、心のごく細かな部分にまで吸い込まれるように入り、捉え、ますます深く浸透していく。

楽譜の調子を少しずつ、さらに深めていけば、ついには心の最も深いところ、私たちが「心の中心」、奥深い「私」と呼んだ感覚まで、たどり着ける。

そこでは人間の感情が、自然で有機的な姿で生きている。情念の炉の中で、小さなこと、偶然のこと、個別のことは焼き尽くされ、俳優の創造する本性の、根本的で有機的な要素だけが残る。

心のまさに中心では、楽譜に残るすべての課題が溶け合い、一つの超課題にまとまる。

それは、心の本質であり、すべてを包む目的であり、すべての課題の課題である。役の楽譜全体、その大小すべての区切りを凝縮したものだ。

超課題は、戯曲の大小それぞれの課題についての表象、概念、内面的な意味を、すべて含んでいる。

この一つの超課題を実行すれば、楽譜のすべての課題、すべての区切り、役の中心となる本質全体を実行することになる。

すべてを包む、この中心の超課題を捉えることは、グリボエードフ本人の心の生活の中にあった、最も大切で、超意識的で、言葉にできないものを捉えることだ。それが作者に筆を取らせ、俳優に役へ取り組ませたのである。

ドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』では、作者自身の「神を探すこと」、つまり人間の心の中に神と悪魔を探すことが、この超課題に当たる。

シェイクスピアの悲劇『ハムレット』では、「存在の秘密を理解し、知ること」が超課題になる。

チェーホフでは、「よりよい生活を求めること」だ。「モスクワへ、モスクワへ」という願いである。

レフ・トルストイなら、「自分を高めること」である。ほかにも例はある。

超課題を隅々まで、全体として理解し、感じ、作品の心の奥へ入り込み、作者と一体になれるのは、天才的な俳優だけだ。

天才の印を与えられていない、もっと控えめな才能の持ち主は、それより少ないところで満足しなければならない。

作品の心の内容を底まで汲み尽くし、役の心の中心、戯曲の超課題まで深く入り込むことはできない。

天才のように、自分と役の、大きな創造する感情の全体を、一つの、すべてを包み尽くす超課題へ収めることはできず、それを中心から離れた、より小さい課題へ分けなければならない。

それでも、それらの大きな課題は、深い内容、心へしみ入る力、生命力を持つ、多くの生きた感情や表象を、一つにまとめている。

このように、俳優の心の中心に置かれた一つの超課題が、自然に、おのずと、役の外側の面に、何千もの小さな課題を生み出し、明らかにする。

俳優と役の生活全体の土台となる超課題と、その土台から必然的に生まれ、それを映す小さな課題のすべてが、舞台上の人間の内面の生活、つまり役の全体を満たすのである。

幻灯で、光源のすぐそばに置かれたガラス板の小さな絵が、無数の線、色の面、影からなる大きな絵として映り、大きなスクリーン全体を満たすのと同じだ。

したがって、すべてを包み、まとめる超課題は、有機的な本性に最も近い課題である。

だが、創造の超課題は、まだ創造そのものではない。

俳優の創造とは、根本の超課題へ、絶えず途切れず向かい、それを行動によって実現することである。

この絶えず続く創造への歩みの中に、創造そのものの本質が現れる。私はこれを、「戯曲と役を貫く行動」と呼ぶ。

作者にとって、貫く行動が自分の超課題を作品に貫き通すことであるなら、俳優にとっては、超課題そのものを行動によって実現することである。

こうして、超課題と貫く行動は、ばらばらに見える役の何千もの課題、区切り、行動をすべて含み、合わせ、一つにまとめる、創造の根本的な目的と行動となる。

超課題と貫く行動は、戯曲の生命の核心であり、動脈、神経、脈拍である。

超課題は、戯曲のいちばんの味わいだ。

貫く行動は、戯曲全体を通る主導的な旋律である。

超課題と貫く行動は、俳優の創造と、そこへ向かう歩みを導く羅針盤だ。

貫く行動は、戯曲の水面下の流れだ。

川の水面下の流れが表面に波を起こすように、目に見えない内なる貫く行動が、外的な具現や行動に現れる。

貫く行動は、役のそれぞれ独立した部分を結ぶ、深い、根本的で有機的なつながりだ。

ばらばらのビーズや真珠を首飾りにする糸のように、独立した一つひとつの区切りを通り抜ける、心の糸である。

超課題と貫く行動は、私たちの本性、奥深い「私」に備わった、生まれながらの人生の目的と、そこへ向かう力である。

どの戯曲にも、どの役にも、その超課題と貫く行動が隠れている。それが、役の生きた生活と作品全体の、中心の本質をなす。

貫く行動の根は、自然な情念、宗教的、社会的、政治的、美的、神秘的な感情などに探す必要がある。生まれつきの性質や欠点、その人の本性で最も発達し、ひそかにその人を導く、善や悪の根本的な力にも探すのである。心の内なる生活で、あるいは周囲の外的な生活で何が起ころうと、すべては、人間の内面の生活の主な意味、生来の欲求、貫く行動との、ひそかな、しばしば無意識のつながりによって、意味を持つ。

例えば、けちな人はどんな出来事にも、金持ちになりたいという自分の願いとの隠れたつながりを探す。野心家は名誉への渇望とのつながりを、信仰者は宗教的な衝動とのつながりを、審美家は芸術上の理想とのつながりを探す。ほかの場合も同じだ。

現実の生活でも舞台でも、貫く行動はしばしば無意識に現れる。

人間の内面の生活の線が明らかになってから初めて、その最終的な目的、つまり超課題も明確になる。それは、ひそかに、無意識に、人間の意志の向かう先を引き寄せているのである。

偉大な俳優の伝記を読むと、若いころ、人生の意味や目指す目的を求め、迷い歩いたことが分かる。

偶然が劇場関係者の誰かと出会わせ、あるいは劇場の公演へ誘い込む。すると、俳優としての生来の使命、人生の超課題と貫く行動が、一度に明らかになるのだ。

本物の俳優は誰でも、役を作るとき、苦しい模索の時期を通る。超課題と貫く行動を予感してはいるが、まだ意識できていない時期だ。

ここでもしばしば、偶然が、戯曲と役の隠れた本質、その超課題と貫く行動を明かしてくれる。

〔貫く行動の線から離れると、道に迷う。

例えば、『どん底』の最終幕だ。

十八年前、この幕は木賃宿の酒盛りを中心に作った。

戯曲の思想や哲学を生き、伝えることができず、偽物の酔った陽気さで、外から活気づけていた。

この間違いと偽りの状態のため、私はこの幕が嫌でたまらなかった。

習慣によって自分の本性が嘘に順応し、すべてが機械的な惰性で進んでいた。

十八年間、私は間違っていた。ところが今日、幕が始まる前、あまりに演じたくなかったので、新しい刺激、新しい近づき方を、何か探し始めた。

そもそも、〔ここで〕酒盛りに、何の意味があるのか。

〔酒盛り〕は、重要ではない外的な状況の一つにすぎない。本質は別にある。

ルカーは、あとに一つの跡を残した。隣人への愛だ。

サーチンは〔それに〕捉えられている。

酔っているのではなく、新しい誇りの感情へ集中しているのだ。

私は、大げさな演技と緊張を、すべて捨ててみた。

筋肉を緩め、集中した。

身体的な課題と思考が、新しい形で表れた。

実によく演じられた。〕

超課題と貫く行動の意味を、もっとよく理解し、その価値を知るために、もしそれらがなかったら、どうなるかを考えてほしい。

その場合、個々の瞬間、区切り、体験の時期は、いつまでも孤立し、ばらばらなままだろう。一本に続き、根からすべてを貫くつながりで、結ばれることがない。

一つひとつの区切りは、たとえ生きていても、それだけでは生活そのものにならない。個々のビーズや真珠が、一本の糸に順に通されなければ、首飾りにならないのと同じだ。

貫く行動が通っていない個々の区切りや独立した課題は、それぞれ別の方向へ向かい、心に混乱を作る。

つながりのない役の区切りを一つずつ受け取る観客は、それぞれの内面的な意味、重み、目指す先を理解し、感じることはできる。だが、その間のつながりを見つけられない。

内側のつながりを欠いたすべての区切りや瞬間は、意味も論理も失い、互いを打ち消し合う。

そんな上演を見て、観客はこう思うだろう。一つひとつの課題は分かるが、合わせてみると、狂人のうわごとにしか思えない。

実際、舞台で俳優、とりわけチャツキー役の俳優が、たいていどんな課題で生きているかを読み解けば、およそこんな楽譜になる。

課題А。美しく駆け込み、片膝をつく。

課題Б。最初の「夜明けにはもう立っていた! そして今は君の足元に」という台詞から、声と情熱を見せつける……。

あるいは、ちょっとこんな楽譜を想像してみてほしい。

課題А。早くソーフィヤに会いたい。

課題Б。自宅へ帰って着替えるために、早く彼女との再会を済ませたい。

課題В。ロースカが目に入ったので、フィーリカを呼ぶ鈴を鳴らしたくない。

〔課題Г。〕なぜか扉が開いたので、フィーリカ、門番、家政婦頭と、昔の細かな出来事をすべて思い出すため、家へ入る。

〔課題Д。〕激しくソーフィヤに会いたい。同時に、家の隅々を眺めたい。

〔課題Е。〕平土間の観客に姿を見せるため、ソーフィヤの部屋へ走る。

〔課題Ж。〕ソーフィヤを見もせず、鏡の前でポーズを取ろうとする。

こんな楽譜で、俳優は真実を感じられるだろうか。

こんな演技の、超課題、貫く行動、内面的な意味を、観客は理解できるだろうか。

つながりがなく、切れ切れで、雑多で、無秩序に散らばった区切りや体験は、人間の内面の生活を作らない。ただ心の寄せ集め、混沌を作るだけだ。

正常な生活も芸術そのものも、感情と体験の発展に、秩序、順序、段階を求める。

超課題と貫く行動が、その秩序を与える。

超課題と貫く行動は、作者、演出家、俳優、そして上演を創るすべての人の創造を、例外なく、すべての瞬間に導く。

超課題と貫く行動から脇へそれるところには、冗長さが生じ、余分な細部が現れる。

「貫く行動」という名そのものが、その行動性、能動性を示している。

戯曲全体を貫くことで、上演のすべての瞬間に、その欲求と行動を呼び起こす。

だから、超課題だけでなく、楽譜の普通の課題もすべて、その課題へ向かいたくなる、引き寄せられる力を、したがって心の活動を呼び起こす力を、備えなければならない。

生きた、能動的な身体的・心理的課題から楽譜を作り、それを一つの、すべてを包む超課題にまとめ、そこへ向かって、それを実行できなければならない。

超課題という願い、貫く行動という目指す力、そしてその実行である行動。このすべてが一緒になって、創造的な体験の過程を作る。

このように、体験の過程は、役の楽譜と超課題を作り、貫く行動を能動的に実行することから成り立つ。

それは、最も深い心の調子で、楽譜を実行することなのである……。

ただし、現実でも舞台でも、何かへ向かうこと、動くこと、行動することが、妨げなしに進むわけではない。

必ず、ほかの人々の対抗する欲求や、生活の出来事、自然の力、その他の障害にぶつかる。

生活は、絶え間ない戦い、克服か敗北である。

だから現実でも舞台でも、戯曲と役を貫く行動と並んで、人々、事実、状況などによる、それに「対抗して貫く行動」が、いくつも存在する。

貫く行動と、それに対抗する貫く行動との衝突や戦いが、悲劇的、劇的、喜劇的な対立などを生む。

楽譜、その課題、貫く行動そのものも、創造を繰り返す中で、十分に注意を払わず使い続けると、内側の本質を失いやすい。機械的な習慣、つまり、その役の紋切り型になってしまう。

課題は使い続けるとすり減り、香りや魅力を失うので、絶えず新鮮にする必要がある。俳優の想像力に、新しい飾り、装い、小さな構成課題を次々と求め、創造のたび、その課題を新しくしなければならない。

課題は、俳優の力に見合うものでなければならない。さもなければ、引きつけるどころか感情をおびえさせ、麻痺させてしまう。感情は心の奥へ逃げ隠れし、代わりに、まるで下働きへ送り出すように、ただの型や技芸を差し向ける。

そんなことが、なんとよく起こることか!

創造の課題が、よく知る情動的な感情の範囲にある間は、俳優は正しく役を体験する。

だが、人間の内面の生活の、あまり知らない別の領域にある、複雑で自分の創造する本性には手に負えない課題を課したとたん、自然な体験は止まる。代わって身体の緊張、力押し、偽りの大仰さ、過剰な演技、俳優だけの感傷、紋切り型、型だけの技芸が現れる。

課題に疑いや迷いが混じり、創造する意志の願いや欲求を弱め、あるいはすっかり消してしまう場合にも、同じことが起こる。

疑いは、創造の敵だ。

体験の進みを妨げ、断ち切り、型だけの演技を呼び出す。

だから、課題を守らなければならない。創造の核心や、その発展の主な線から意志をそらし、意志の向かう力を弱めるものを、すべて取り除く必要がある。

もちろん、だからといって、課題を単線的にしろという意味ではない。

そんな課題では、創造を干からびさせるだけだ。

課題には、豊かな心の内容が必要だ。狭すぎず、かといって、ぼんやり広がりすぎてもいけない。

超意識

創造のための意識的な道や手段を、すべて使い尽くすと、俳優は、人間の意識ではもう先へ進めない境界へ達する。

その向こうには、無意識と直感の領域が始まる。そこへ入れるのは理性ではなく感情、思考ではなく本物の創造的な体験だ。どれほど磨かれていても粗い俳優の技術ではなく、ただ巧みな自然そのものだけが、直接そこへ入れるのである。

意識のごく弱い光、つまり型だけの演技の技術が差し込むだけで、最も繊細な無意識の感情や体験を、殺してしまうことも少なくない。

人は現実でも舞台でも、意識でき、目に見え、耳で聞けるものを、あまりに重く見がちだ。

しかし、人間の生活のうち意識の領域を流れるのは、十分の一にすぎない。人間の内面の生活の、しかも最も高く、重要で、美しい部分である十分の九は、潜在意識と超意識の中を流れている。

エルマー・ゲイツ教授は、「私たちの精神生活の少なくとも九割は、潜在意識のものだ」と言う。

訳注

底本の「Эльмар Гете」は、編者注の生没年と職業、およびスミソニアン協会所蔵資料の人物記録を照合し、エルマー・ゲイツ(Elmer Gates, 1859–1923)とした。

モーズリーは、「意識には、普通それに帰せられている働きの、十分の一もない」と述べている。

訳注

底本本文の「Модели」は、編者注73の「Модсли Генри」に従い、ヘンリー・モーズリーとした。

超意識こそが、人間の心を最も高く引き上げる。だからこそ、私たちの芸術で、最も大切にし、守らなければならない。

そうであるなら、舞台で人間の内面の生活を創る際、十分の一の意識的な生活だけを伝え、最も大切で高い無意識の十分の九を、永遠に舞台から追い出してしまってよいのだろうか。

役の人間としての内面の生活の、いちばんの本質を捨ててはならない。

そんな切り詰められた生活は、ゆがんだものだ。優れた箇所を無知に削り取った芸術作品、「生きるべきか、死ぬべきか」の独白を除いた『ハムレット』のようなものである。

残念ながら、創造で最も大切なこの無意識の領域は、私たちの芸術ではよく忘れられる。俳優はたいてい表面的な体験で済ませ、観客も劇場では外面的な印象だけで満足してしまうからだ。

だが、芸術の本質と創造の主な源は、人間の心の深みに隠れている。心の生活のまさに中心、私たちには計り知れない超意識の領域、生きた生活の泉、私たちの本性の主な中心、奥深い「私」、霊感そのもののあるところに。

そこには、最も重要な心の材料が隠されている。

それはつかみどころがなく、意識の手には負えない。とりわけ慎重に近づかなければならない。

この材料は、俳優の無意識の衝動、本能的な引力、創造の予感、期待、気分、感情の芽、幻、影、香り、激しい情念の閃光、高い恍惚、霊感そのものから作られる。

それらすべての感情、感覚、状態を、言葉で定義し、目で見て、耳で聞き、意識で捉えることはできない。

実際、生きた心の細部をすべて、例えばハムレットほど複雑な心のすべてを、意識で理解できるだろうか。

その多くの色合い、影、幻、感情の兆しを捉えられるのは、無意識の創造する直感だけだ……。

どうすれば、そこに達せられるだろう。

役の、俳優の、観客の心の深みへ、どう入り込めるだろう。

自然そのものの助けによって、できるのである。

創造する超意識の奥を開く鍵は、人間である俳優の有機的な本性に、与えられている。

霊感の秘密と、そこへ至る計り知れない道を知っているのは、自然だけだ。

役の台詞の、死んだ文字を生かすために欠かせない奇跡を起こせるのも、自然だけである。

つまり自然は、生きた、有機的なものを作れる、この世で唯一の創り手なのだ。

感情が繊細で、非現実的、抽象的、印象主義的であるほど、それは超意識的になる。つまり、自然に近く、意識から遠くなる。

芸術における非現実的な表現、印象主義、様式化、キュビスム、未来派、その他の繊細な表現やグロテスクは、自然な、生きた人間の体験と感情が、十分に自然な発展を遂げたところから始まる。自然が理性の保護、慣例や偏見や無理強いの支配を離れ、自分自身の超意識的な主導、つまり直感に委ねられるところだ。極度に自然なものが終わり、抽象が始まるところなのである。

したがって、無意識へ近づく唯一の道は、意識を通る道だ。

超意識的なもの、非現実的なものへ近づく唯一の道は、現実を通り、極度に自然なものを通る道である。つまり、有機的な本性と、その正常で無理強いされていない創造の生活を通るのである。

抽象や様式化、印象主義、その他の、体験と具現の洗練された繊細な形へ、頭から、作り物の外面的で流行の洗練された形式から、あるいは理屈だけの理論から近づこうとすれば、困ったことになる。

生まれるのは、粗い外面的な技術、まがいもの、戯画、俳優の不自然な身振り、全体のゆがみだ。

理性も技術も、超意識を伝えるには粗すぎる。

必要なのは、本当に創造しているときの心身の状態、有機的な本性そのものだ。

自然と競い、自分たちだけの特別な芝居の生活を、もっと優れたものとして作ろうとする人々は、滑稽で哀れだ。時間や空間の外にあり、作り物であるからこそ美しい、という生活を作ろうとするのである。

私は、そんな大胆さで自然と競うつもりはない。自然の創造する主導権にすべて従い、その生み出す仕事を助けること、少なくとも邪魔しないことを学ぶ……。

潜在意識と超意識の領域で驚くべきことを成し遂げるインドのヨーガ行者は、この領域について多くの実践的な助言を与えてくれる。

彼らも、意識的な準備の方法を通って無意識へ近づく。身体から心へ、現実から非現実へ、自然をそのまま捉えることから抽象へと進むのだ。

俳優である私たちも、同じことをしなければならない。

自分自身と役に取り組む準備のすべては、真に生きた、有機的で自然な情念、超意識の領域で眠る霊感そのもののために、土壌を整えることを目指している。

だからこの領域について語れるのは、俳優が技術として自分の超意識を完全に扱えるようになり、自分の〔創造〕のすべてを、アポロンや偶然の「天からの霊感」頼みにするのをやめたときだけだ。ある人々は、俳優が何もしなくても、霊感そのものが、自分に必要な創造の状態を準備してくれるはずだと思っている。

霊感は、甘やかされている。

すべてが整ったところへやって来る。いつもの習慣から少しでもそれると、おびえ、超意識の奥へ隠れてしまう。

超意識的なものは、現実的なもの、より正確には、極度に自然なものが終わるところから始まる。ただし「自然な」という言葉を、人間の本性から考えるのである。

だから、超意識や霊感を考える前に、俳優はまず、舞台での正しい心身の状態を、ほかの状態を知らないほど、しっかり身につけてほしい。すべての技術的方法を、第二の天性となるほど習得してほしい。

それだけでなく、〔役の〕与えられた状況そのものも、自分自身のものにしてほしい。

そうなって初めて、ひどく気難しい霊感は、秘密の扉を開き、自由に外へ出て、創造の主導権をすべて力強く引き受けようとする。

だが、創造する本性をゆがめ、心身をねじり、真実と信じる力を殺し、心の空気と創造の状態を毒する、わずかな無理強い、型どおりの表現、嘘を感じただけで、超意識は奥へ逃げ込み、幾重にも鍵を掛けて閉じこもってしまう。

それはすべて、俳優の型どおりの演技が始まるところで、超意識が終わるからだ。

超意識へ直接、まっすぐ近づき、超意識の直感にしかできない表現の形を、演技の技術でまねようとする人は、反対の極へ落ち込む。霊感の頂ではなく、型だけの技芸の底へ落ちるのだ。

その技芸にも、独自の、職人的な「霊感」はある。

だが、それを超意識と混同してはいけない。

実際、乾いた頭、粗い技芸、外側の模倣から出てきた、いかにも役者風で手製の、印象主義、様式化、その他流行の「主義」や「化」の芝居の形ほど、ひどいものがあるだろうか。

そして、同じ「主義」や、繊細な舞台の感情と具現が、生きた創造の霊感から、ひとりでに超意識的に生まれるときは、なんと美しいことか。

斧で象牙の最も細やかな彫刻を作れないのと同じように、粗い俳優の手段では、創造する本性の、言い表せない繊細さを伝えられない。

超意識の領域について、インドのヨーガ行者が与える実際的な助言は、こうである。「考えをひと束取り、潜在意識の袋へ投げ込め。私には今、これを扱う暇がない。だから、お前、つまり潜在意識がやっておいてくれ、と言うのだ」

それから寝る。起きたら尋ねる。「できたか?」

「まだだ」

また考えをひと束取り、潜在意識の袋へ投げ込む。それから散歩に行き、戻ったら尋ねる。「できたか?」

「まだだ」。そうして続ける。

最後には、潜在意識が「できた」と言い、任されたものを返してくれる。

私たちも、寝床へ入るときや散歩に出るとき、忘れた旋律、考え、名前、住所などを、思い出そうとして思い出せず、「朝は夜より賢い」と言い聞かせることが、なんと多いことか。

実際、朝起きると、目が開かれたように分かり、昨日はどうしてあんなだったのかと驚く。

どんな考えも、頭の中で一晩寝かせなければならないと言うのには、理由がある。

潜在意識と超意識の働きは、身体と本性全体が休む夜にも、日々の忙しさの中で思考と感情がほかのことに向かう昼にも、止まらない。

しかし、それは意識の外にあるので、私たちには見えず、その仕事について何も分からない。

このように、自分の超意識とやり取りするためには、俳優は「考えをひと束取り、潜在意識の袋へ投げ込む」ことができなければならない。

超意識の栄養、創造の材料は、この「考えの束」の中にある。

では、その束とは何で、どこから手に入れるのか。

それは、知識、情報、経験、記憶である。知的記憶、情動記憶、視覚、聴覚、筋肉、その他の記憶に蓄えられた材料だ。

だからこそ、使えば減るこれらの材料を絶えず補い、貯蔵庫に蓄えがなくならないようにすることが、俳優には大切なのだ。

だから俳優は、記憶の倉庫を休まず補充し、学び、読み、観察し、旅をし、今の社会、宗教、政治、その他の生活の動きに通じていなければならない。

この材料から考えの束が作られ、超意識に加工してもらうため、潜在意識の袋へ投げ込まれる。

超意識に仕事を任せたら、急かしてはいけない。辛抱強く待てなければならない。

そうでなければ、ヨーガ行者の言うとおり、愚かな子供と同じことになる。地面へ種をまくと、根を出したかどうか見ようと、三十分おきに掘り返してしまう子供だ。

残念ながら、俳優は辛抱強さを自慢できない。

役を受け取るや、もう演じてみようとし、すぐにうまくいかなければ絶望する。

失敗は才能がないせいにされる。紋切り型の常識に満ちた私たちの芸術では、仕事が速いことを、才能のしるしだと思っているからだ。

この考えを、自分の得のために後押しするのが、興行主と、芸術や俳優の創造の心理について何も分からない、俗悪な観客たちだ。サルヴィーニがオセローを十年かけて準備したことなど、忘れている。

ドゥーゼは生涯、レパートリーに残した十ほどの役だけを練り続けた。オールドリッジとタマーニョは、オセローという一役で、不滅の名声を得た。シチェープキンは、『知恵の悲しみ』も『検察官』も、上演当日の朝、出演者全員で戯曲全体を稽古せずに演じたことは、一度もなかった。

超意識の創造は、理解を越えるほど繊細で、そこから生まれる感情はつかみどころがない。だから、意識的な創造の課題、願い、欲求、内的行動を、はっきり定める普通の言葉では、捉えられない。

超意識の創造をとどめるには、何か別の、もっと繊細な方法が必要だ。

必要なのは、限定され、あまりに物質的な言葉ではなく、象徴である。

それが、私たちの情動記憶の、最も隠れた引き出しを開く鍵になる。

創造の第二の大きな段階、「体験の時期」は、ここで終わる。

この時期に得たものは、何だったのか。

最初の、知るための分析の時期が、創造する願いの生まれる心の土壌を整えたとすれば、第二の体験の時期は、その願いを育て、欲求と、創造的な行動への内なる衝動を呼び起こした。こうして、外面的な身体の行動、つまり役の具現を準備したのである。

また、最初の知る時期が、作者の与えた役の生活の状況を作ったとすれば、第二の体験の時期は、「情念の真実、感情の真実らしさ」を作った。

Ⅲ.具現の時期

創造の第三の段階を、私は「具現の時期」と呼ぶ。

最初の知る時期を、やがて恋人となる二人の出会いに、第二の時期を、結ばれて命を宿すことにたとえるなら、第三の具現の時期は、若い命の誕生と成長にたとえられる。

今、内側に感情が蓄えられ、情動の生活ができたことで、ほかの人々と交わし、交流するための材料が生まれた。

今、願い、課題、欲求ができたので、それを実行に移せる。そのためには、内側の心だけでなく、外側の身体でも行動する必要がある。つまり、言葉や動きで考えや感情を伝えるために話し、行動する。あるいは、歩く、挨拶する、物を動かす、飲む、食べる、書くといった、純粋に身体的で外面的な課題を実行する。いずれも、何らかの目的のためである。

楽譜にとどめられた、生きた人間の内面の生活が、ひとりでに表情、言葉、行動へ現れることも、まれにはある。

だが、それは偶然、例外であって、法則の土台にはできない。

はるかに多くの場合、身体の自然な働きを呼び覚まし、創造する感情が生み出したものを具現できるよう、助けなければならない。

俳優のこうした仕事を、例で説明してみよう。

私がチャツキー役を任されたとする。分析と体験について一連の準備を終え、今日予定されている最初の稽古へ、劇場に向かっている。

これからの稽古に気持ちが高ぶり、その準備をしておきたくなる。

辻馬車の上でやることではない、と言われるかもしれない。

しかし、自然に生まれた創造の仕事への衝動を、生かさない手があるだろうか!

何から始めよう。

自分がアレクサンドル・アンドレーエヴィチ・チャツキーその人なのだと、思い込ませるのか。

無駄な努力だ。

俳優の心身の本性は、そんな見え透いたごまかしには乗らない。

あからさまな嘘は、信じる力を殺し、自然な働きを混乱させ、俳優の熱中を冷ますだけだ。

自分の本性に、実行できない課題を与え、逃げ場のないところへ追い込んではならない。

無理強いに出会うと、創造する本性は仕事を拒み、代わりに紋切り型と、型だけの技芸を送り出す。

このように、自分を別の人間と入れ替えることはできない。

奇跡のような変身は、不可能だ。

舞台で表す生活の状況を変え、新しい超課題を信じ、貫く行動に身を委ねることはできる。体験した自分の感情をさまざまに組み合わせ、その順序や論理を定め、役のために、自分にはなかった習慣や具現の方法を育て、身のこなしや外見などを変えることもできる。

これらすべてによって、観客の目には、俳優が役ごとに別の人間に見える。

では俳優は、いつでも、どんな役でも、自分自身のままなのか。

そうだ。俳優は舞台でいつも自分自身として行動し、気づかぬうちに役へ変わり、その役と親しくなる。

今、辻馬車に乗りながらチャツキーへ変わろうとしている私も、まずは自分自身でいなければならない。

現実から自分を引き離そうとさえしない。ファームソフの家へではなく、劇場の稽古へ向かっているのだと意識することを、恐れないからだ。

どうせ信じられないことで、自分をだまして何になるだろう。

生きた現実を、創造の目的に使うほうが、ずっと理にかなっている。

生きた現実は、もっともらしい架空の設定に命を与える。

役の生活の、架空だがもっともらしい状況を、本当の現実の中へ入れると、それは命を得て、自ら生き始める。

俳優の本性は、生き始めた架空の設定を、なおさら喜んで信じる。それはしばしば、現実そのものより魅力的で、芸術的だからだ。

美しい想像は、現実そのものより、喜んで信じられる。

では、役の生活の架空の状況と、今、辻馬車で進む私を取り巻く、生きた本当の状況や環境を、どう結びつければよいのか。

日常の現実の中で、どう創造を始め、そこに「いる」「存在する」ことができるのか。

現実に、役の生活の状況から、どう理由を与えればよいのか。

まず、「私はいる」と呼んだ状態を、自分の中に作らなければならない。

今度は、想像の中だけでなく、現実にも作る必要がある。想像のファームソフ家ではなく、辻馬車の上で作るのだ。

長い不在を経て、今日、たった今、外国から戻ってきたのだと、自分に思い込ませても無駄だろう。

そんな作り事は信じられない。

自分にも想像力にも無理強いせず、自然に望む状態へ近づけるよう、別の道を探そう。

外国から帰ってきたという事実の意味を、見定めてみよう。

そのために、自分にこう問う。長い不在のあと、異国から故国へ帰るとは、どういうことか、私は理解しているだろうか。創造において理解するとは、感じることである。

答えるには、まず帰還という事実そのものを、新しく、できるだけ深く広く捉え直す必要がある。自分の経験で知る、人生の似た出来事と比べなければならない。

これは難しくない。

私は何度も、長い不在のあと外国からモスクワへ戻り、今と同じように、辻馬車で劇場へ向かったことがある。

仲間との再会、自分の劇場、ロシアの人々、母語、クレムリン、滑稽な辻馬車の御者まで、私たちには「甘く心地よい」とされる「故国の煙」のすべてを、どれほど喜んだか、よく覚えている。

窮屈な燕尾服やエナメル靴のあとに、ゆったりした部屋着と柔らかな室内履きを喜ぶように、外国の慌ただしさのあとには、温かく迎えてくれるモスクワがうれしい。

旅が快適な寝台車ではなく、がたがた揺れる馬車で、馬を乗り継いで行われたと想像すれば、この平穏、休息、自分の家の炉辺の感覚は、さらに強くなる。

そんな旅を覚えている!

駅馬の中継所も覚えている!

その管理人たちも!

通行証、御者、荷物、待ち時間、揺れ、脇腹や背中や腰の痛み、眠れない月夜や暗い夜、美しい日の出、耐えがたい昼の暑さや冬の寒さ。

つまり、馬車の旅に伴う、美しいことも不快なことも、すべてだ!

私のように一週間でもつらかったのなら、チャツキーのように何か月も旅をしたら、どれほどだっただろう!

帰還の喜びは、どれほどだっただろう!

今、辻馬車で劇場へ向かいながら、私はそれを感じている。

すると自然に、チャツキーの言葉が浮かぶ。

……我を忘れ、魂も抜けたように、
四十五時間、まばたき一つせず、
七百ヴェルスタを越えて駆けてきた。風に、嵐に。
すっかり途方に暮れ、何度倒れたことか……。

この瞬間、私はこれらの言葉の、いわば感情の意味を理解した。

グリボエードフがこの行を書いたとき、幾度となく感じていたのと同じものを、私は知り、つまり感じた。

旅を重ね、たびたび故国を離れ、戻ってきた人間の、生きて震える感情が、この言葉の中いっぱいに詰まっているのだと分かった。

だからこそ、この詩句はこれほど温かく、深く、中身が豊かなものになったのだ。

愛国者の温かな感情に温められ、私は別の、もっと難しい問いを投げかけてみる。アレクサンドル・アンドレーエヴィチ・チャツキー本人は、今の私のように、ファームソフとソーフィヤのもとへ向かっているとき、何を感じていただろうか。

しかし、もう居心地の悪さを覚える。つり合いを失うようで、無理強いが怖い。

別の人の感情を、どう言い当てればよいのか。

その人の皮膚の中へ入り、自分を他人の場所へ移すには、どうすればよいのか。

私は急いでこの問いを取り下げ、別のものに替える。今の私のように、何年もの別れのあと、愛する人のもとへ辻馬車で向かう恋人たちは、何をするだろうか。

この形なら怖くはないが、問いが乾いていて、漠然とし、一般的すぎるように思える。そこで、もっと具体的にする。「今のように辻馬車で、ただし劇場ではなく、彼女のところへ向かっていたら、自分自身は何をするだろう」。彼女の名前がソーフィヤでもペルペトゥヤでも、かまわない。

前の問い方との違いを、とくに強調しておこう。

最初の問いでは、別の人が何をするかを尋ねていた。今は、自分自身の状態が問題なのだ。

当然、こちらの問いのほうが心に近く、そのぶん生き生きとして、温かい。

彼女のところへ向かうなら自分は何をするかを決めるには、彼女の魅力に引き寄せられる力を、自分で感じる必要がある。

誰にでも、そういう「彼女」がいる。あるときは金髪で、あるときは黒髪、優しくも、厳しくも、つれなくも見える。だが、いつも美しく、心を誘い、いつでもまた、たやすく恋に落ちることのできる人だ。

私も皆と同じように、自分の理想を思い浮かべる。すると、それに応じる、よく知った心を動かす感情や、内なる心の衝動が、かなり容易に見つかる。

今度はその彼女を、一八二〇年代のモスクワの、ファームソフ家の環境へ移してみよう。

実際、彼女がソーフィヤ・ファームソワ、それもチャツキーの目に映ったとおりのソーフィヤであって、なぜいけないのか。

誰に、それを確かめられるだろう。

それなら、自分の望むとおりでよいではないか。

私はファームソフ家のこと、私の〔愛する人〕を置き、入り込ませるべき、その空気を考え始める。

すると、前の体験の仕事で、長い時間をかけて作り、蓄えてきた膨大な材料が、容易に記憶へよみがえる。

よく知るファームソフ家の生活の、外的・内的な状況が、また順に並び、四方から私を囲む。

私はもう、その真っただ中にいると感じ、その中で「いる」「存在する」ことを始める。

今では、今日一日を時間ごとに思い描き、この馬車での道のりにも、意味と理由を与えられる……。

現実にはファームソフのところへ向かっていなくても、かまわない。

そんな道のりが何を意味するかを、理解できれば十分だ。

理解するとは、感じることなのだから。

だが、この仕事の間ずっと、何か居心地の悪さがあり、取り除きたくなる。

何かが、ファームソフ家にいる彼女を見ること、自分の想像を信じることを、妨げている。

何だろう……。どうしたというのか。

一方には、現代の私、彼女、現代の人々、御者、通りがある。他方には一八二〇年代と、その時代を鮮やかに代表するファームソフ家の人々がある。

しかし、永遠で決して古びない愛の感情にとって、暮らしの風俗や時代が、そこまで大切だろうか!

当時の馬車のばねや車体が今とは違い、舗装が悪く、通行人の服の裁ち方が違い、番小屋の見張りが鉾槍を持っていたことが、人間の内面の生活にとって重要だろうか。

当時の通りの見た目が違い、建物の造りが優れ、未来派もキュビスムもなかったことが、それほど大切だろうか。

そもそも、小さな古い屋敷の並ぶ、今通っている寂しい路地は、当時からあまり変わっていないだろう。同じ物悲しい詩情、同じ人影のなさと静けさ、同じ平穏がある。

恋する人の感情についていえば、その基礎も構成要素も、通りや通行人の服装とは関係なく、どの時代も同じだった。

ファームソフ家の状況の中で暮らす彼女へ会いに行くなら、自分は何をするか。その問いをさらに追ううちに、自分の内側をのぞき、そこで生まれる衝動や促し、動機の中に、答えを探す必要を感じる。

それらは、よく知る恋の胸の高鳴り、恋人の待ちきれなさを思い起こさせる。

この高鳴りと焦りが強まれば、じっと座ってはいられなくなるだろう。そり、あるいは馬車を足で押して、やせ馬がもっと速く走り、御者がもっと早く彼女のところへ運んでくれるよう、助けようとするだろうと感じる。

そのとき私は、本物の力が湧くのを、身体で感じた。

それをどこかへ向け、何かに使いたいという欲求が生まれた。

心の生活を動かす主な力が、今、「どう彼女と再会するか」という問題へ取り組み始めたのを感じる。

再会を特別なものにするため、何を言い、何をすればよいのか。

花束を買うか……。

菓子か!

いや、なんて俗っぽい!

最初の再会に花や菓子を差し出すなんて、彼女は高級娼婦とでもいうのか!

何を考えつけばよいのだ!

外国の土産か。

もっとひどい!

私は商人ではない。再会の最初の瞬間から、囲い者にするように、彼女へ贈り物を山と与えるわけにはいかない。

こんな俗っぽさ、詩情のない動機に、顔が赤くなる。

では、どう会い、どうすれば彼女にふさわしく迎えられるのか。

自分の心を、自分のすべてを、その足元へ捧げることだ。

「夜明けにはもう立っていた! そして今は君の足元に」。チャツキーの言葉が、ひとりでに口を突いて出た。いくら考えても、これ以上の再会の仕方は思いつかなかった。

以前は好きでなかった、チャツキー役のこの最初の言葉が、突然、必要で大切なものになった。舞台でそれに伴う、ひざまずく動作さえ、芝居じみたものではなく、自然に思えた。

この瞬間、グリボエードフがこの行を書くときに導かれていた、感情の意味、心の動機を、私は理解した。

しかし、彼女の美しい足元へ自分を捧げるには、自分が彼女にふさわしいと感じたい。

彼女へ捧げるほど、自分はよい人間だろうか。

自分の愛、忠実さ、自分の理想への変わらぬ崇拝は、清く、彼女にふさわしい。だが、自分自身はどうなのか!……。

私は、美しさも詩情も足りない!

もっとよく、もっと優雅になりたい。

そこで無意識に背を伸ばし、身なりを整え、美しい姿勢を探す。ほかの人より劣ってはいないと思って自分を慰め、それを確かめるため、通行人と比べる。

幸い彼らは、選りすぐったように、見栄えの悪い人ばかりだ。

通行人を見始めると、知らぬ間に最初の観察の目的からそれ、西欧に慣れた人間の目で、見慣れた通りの様子を、注意深く見始める。

門のそばに座っているのは、人間というより毛皮の山だ。

頭では銅の標章が、一つ目の巨人の目のように光っている。

モスクワの門番だ。

まったく、なんという野蛮さだ!

サモエード人ではないか!

どこが違うというのだ。

今度はモスクワの巡査だ!

重すぎる薪の荷車を動かせない、哀れなやせ衰えた馬の脇腹へ、サーベルの鞘の先を、穴を開けるかのように力いっぱい突き込んでいる。

叫び声、罵声、宙をひらめく鞭。

彼は同じように、馬の持ち主である、汚れ、ぼろぼろの服を着た荷馬車引きの背中も、突くだろう。

なんというアジアだ、なんというトルコだ!

そして私たち自身も、なんと俗悪で、粗野で、田舎くさいことか。洗練された西欧の、借り物の外国服を着せられたようではないか!

そのとき、サンクトペテルブルクの、トルベツコイ作のアレクサンドル三世像を思い出した。尾、たてがみ、前髪を英国風に刈り込まれた、がっしりした田舎馬の姿だ。

外国と比べ、あれこれ考えて、私はまた顔を赤らめ、胸が痛んだ。

文明の進んだ西欧から来た外国人は、このすべてを、どんな目で見るだろう!……。

チャツキーのこうした言葉すべてについて、私は、詩句を書いた作者と対応する感情の意味や、心の動機を、自分の中に見つけた。

見慣れすぎて、もう気づかなくなった事柄を注意深く眺め始めると、飽き飽きした古いものが、思いがけない新しいものよりも、強く驚かせるようになる。

今も、そうだった。

眼鏡を見つけて近眼の目に当て、永遠に忘れたかったものを、再び見て理解したようだった。

そして、決して治らない心の傷が、また痛んだ。故国のあり方への悔しさ、よりよく美しい生活への憧れ、ロシア人の本性の頑迷さ、だらしなさ、怠惰への憎しみ。スラヴ民族の力と才能の自覚。生活を損ない、その発展を妨げる者たちへの憎しみである。

つまり、道すがら出会う、よく知っていながら忘れていたものを眺め、外国から戻った人間の目を通して、その印象を新しく受け取り直すほど、私は自分の中に愛国者を感じた。

チャツキーに、私たちの生活を損ない、その発展を妨げる者たちを厳しく責めさせたのは、毒気ではなく心の痛み、ロシアへの大きな愛、その価値と欠点への深い理解なのだと分かった。

すると、隣の屋敷の門から、隙間を押し通るように、大きな馬車がはい出してきた。イヴェルスカヤの聖母の聖像を運ぶ馬車だ。

「おや、トゥゴウホフスキー家の六人乗りだ」と、頭にひらめく。

「立派なアムフィーサ・ニーロヴナも、こんな馬車で、ファームソフ家の舞踏会へ『ポクロフカから、たっぷり一時間』かけて行ったのだ」

彼女にも、きっと同じような先導騎手がいて、御者台には同じような正装の御者がいたのだろう。

落ちないよう、同じように革帯へつかまっていただろう。

ただ、当時の御者は、帽子を脱いだ頭に、女のような布を巻いてはいなかっただろうが。

チャツキーも、こんな大きな馬車で外国から帰ってきたのだ。

馬車は深いくぼみに落ち込み、傾き、きしみ、穴へ潜るかのようだった。

するとまた、駅馬を乗り継いだ自分の旅と、この言葉の感情の意味を思い出した。

……我を忘れ、魂も抜けたように、
四十五時間、まばたき一つせず、
七百ヴェルスタを越えて駆けてきた。風に、嵐に……。

こんな馬車で、七百ヴェルスタをひと息に走るとは、並のことではない!

脇腹の痛みもかまわず、そこまで急ぐには、ソーフィヤをひどく愛し、強く彼女へ向かわなければならない。

そのとき、脇腹の痛みそのものは感じなかったが、何か感覚として思い描けた。内側に座るプロンプターが、教えてくれたようだった。

「ああ、こんにちは」と、私は考えるより早く、機械的に誰かへ声を掛け、お辞儀した。

「誰だったか。ああ、そうだ。有名な飛行家で、自動車乗りだ」

時代錯誤ではないか、とも思える!

それで幻想は、すべて吹き飛んでしまうはずだ。

とんでもない!

繰り返すが、問題は時代や風俗ではなく、恋する人の感情、故国へ帰った愛国者の感覚なのだ。

恋する人に、飛行家の親戚がいてもよいではないか!

故国へ戻った愛国者が、自動車乗りに出会ってもよいではないか!

だが、不思議だ。なぜか、いつもの自分のお辞儀とは違っていた。

何か別の仕方になった。

チャツキー本人は、こんなふうに挨拶するのではないか。

もう一つ、不思議なことがある!

偶然出たこのお辞儀に、なぜ俳優として、何か満足を感じたのだろう!

どうして、こうなったのか。

手がひとりでに、無意識に何かの動き、行動をし、それがどうやらうまくいったのだ。

あるいは、身振りを考える暇がなく、創造する自分の本性が、そのまま直接現れたから、うまくいったのかもしれない。

こんな無意識の動きを思い出し、記憶から固定しようとしても、無駄だろう。

このお辞儀は、もう二度と戻らないか、あるいは、ひとりでに無意識に繰り返される。一度ならず何度も戻り、やがて習慣になって、作りつつある役に、永く根を下ろすかもしれない。

それを助けるには、お辞儀そのものではなく、それが生まれたときの全体的な状態を思い出す必要がある。もしかすると、すでに内側に生まれて外の姿を求めている人物像が、その状態によって、ほんの一瞬、感じられたのかもしれない。

忘れた考えや旋律を思い出すときも、同じことが起こる。

その考え自体を探せば探すほど、それは懸命に隠れてしまう。

だが、その考えが生まれた場所、条件、全体的な状態をよく思い出すと、考えはひとりでに記憶によみがえる。

そこで私は、お辞儀が自然に出たときの状態、つまり、聖像を載せた馬車、道のくぼみ、飛行家のお辞儀、時代錯誤について考えたことを、思い出し始めた。

しかし、お辞儀は戻ってこなかった。

せいぜい、何かの内なる促しが、かすかな兆しを示す程度だった。

そこで内面の仕事は中断した。辻馬車が劇場に着き、楽屋口で止まったからだ。

馬車を降りて劇場へ入る。自分はもう温まり、稽古の準備ができたと感じている。

事実の意味を見定め、「私はいる」を感じ取れたのだ。

さて、もう劇場の稽古部屋で、大きなテーブルに向かって座っている。

読み合わせが始まる。

第一幕を読み終えた。

演出家は顔をしかめ、皆はうつむき、台本から目を離さない。

当惑、気まずさ、途方に暮れる思い、そして完全な失望。

もう読み合わせを続けたくない。

台本が邪魔だ。それを見ながら台詞を読む必要に、生きた理由が見つからない。

感情は別に、それだけで、自分のために生きたがる。言葉は別に、それだけでぶら下がり、あるいは文章ごと吐き出され、邪魔で余分に思える。

読み合わせの前には、役は心の中で十分に育っており、台詞を口にさえすれば、すべてが生きるはずだと確信していたのに。

なんと思いがけない失望だろう!

ただ戸惑っただけではない。自分への信頼も、内側で果たしてきた大きな仕事の正しさへの信頼も、消えてしまった。

今、私たちは打ちひしがれて座り、およそこんなことを考えている。「あれほど長く探し、静かな書斎や眠れぬ夜の中で、あれほど苦労して作ったものは、いったいどこへ行ったのだ?」

例えば私は、演じる人物の目に見えない内面の姿と、その人間としての内面の生活全体を、自分の中で感じ、意識し、心の目で見、心の耳で聞き、心身で予感していたではないか。

あの感覚は、今どこへ消えたのか。

細かな部分に砕け散ってしまったようで、自分の中から探し集めることができない。

なんと歯がゆいことか!

人生で蓄えた心の富をここへ持ってきたのに、突然それを失い、今は身ぐるみはがれた乞食のように、空っぽの心で座っている。

それどころか、蓄えてきた心の創造的な価値に代わって、安っぽい俳優の習慣や手口、使い古しの型、張り詰めた声、手慣れた抑揚が戻ってきたのを感じる。

家で取り組んでいたときに心で感じた、整った秩序と調和の代わりに、筋肉と俳優の習慣が好き勝手に暴れ出し、どうやっても鎮められないのを感じる。

長くかけて作ってきた楽譜を失い、すべてを最初からやり直さなければならないように思う。

あの最初の試し読みのときは名人のつもりだったのに、今は無力な生徒だ。

あのときは、紋切り型を自信たっぷりに使い、型だけの技芸の名手だった。

今は、〔役を〕生き、具現しようと、確信もなく努めている。生徒のように取り組んでいる。

すべては、どこへ行ったのか。

この苦しい問いへの答えは、とても明らかで単純だ。

俳優がどれほど演じてきたとしても、役が生まれるときには、こうした無力な瞬間は、出産のいきみのように避けられない。

いくつの役を作り、何年劇場で働き、どれほど経験を積んでも、今私たちが味わっているような失敗、創造の疑い、苦しみ、当惑から逃れられることはない。

そしてこの状態が何度繰り返されても、俳優がまさにその状態に捉えられている瞬間には、いつも恐ろしく、望みがなく、取り返しがつかないものに思える。

早すぎる読み合わせでのこんな失敗は、避けがたく、正常なのだと、どれほど経験を積んでも、どれほど言い聞かせられても、俳優は納得できない。

体験と具現の創造の仕事は、一度に一息で行うものではなく、何度かの段階を踏んで、少しずつ行うべきだということを、俳優はいつも忘れる。

すでに見たように、まず眠れぬ夜の想像の中で役を体験し、思いの中で具現する。次には静かな書斎で、より意識的に行う。それから内輪の稽古で、次に少数の観客や部外者の前で、さらに何度もの通し稽古で、最後には果てしなく続く上演で行う。

そのたびに、仕事は新たにやり直される。

この長く複雑な仕事の中に、俳優の創造のいきみ、役の誕生、成長、病気、教育、成熟がある。

こうして、家ですでに一度作った役を、内輪の稽古でどう新たに作るかが、次の問題となる。

この仕事は、即興練習から始めるのが最もよい。

実際、演出家は落ち着いて明るく、予想どおり、試しの読み合わせで、私たちはまだグリボエードフの純粋な言葉に届いていないと分かった、と告げた。

役や戯曲の言葉を、不必要に、早すぎるうちから、もみくちゃにし、使い古してはいけない。

〔そこで演出家は、〕読み合わせをやめようと提案する。

戯曲、とりわけ天才の戯曲の言葉は、作者本人と登場人物の、目に見えない感情や考えを、最も明確に、正確に、具体的に表すものである。

実際、天才的な台詞の一語一語の下には、その言葉を生み、その理由となる感情や考えが隠されている。

空っぽの言葉は、中身のない木の実、内容のない概念と同じで、不要であり、有害だ。

役をふさぎ、形を濁す。ごみや余計な荷物として、捨てなければならない。

俳優が台詞の一語一語の下に、その言葉の根拠となる生きた感情を置くまでは、役の言葉は死んだ、余分なもののままである。

天才の作品には、余計な言葉は一つもない。どの〔言葉も〕必要で、重要だ。

戯曲の超課題と貫く行動を伝えるために、ちょうど必要な数だけある。

余計な瞬間も、余計な感情も、したがって余計な言葉も、一つもない。

俳優の作る役の楽譜にも、余計な感情は一つもあってはならない。超課題と貫く行動を実行するのに、必要なものだけがあるべきだ。

俳優がそんな楽譜と内面の人物像を用意できて初めて、グリボエードフの天才的な言葉が、俳優の新しい創造物に、ぴたりと合う。

天才的な台詞の一語一語が必要なものになるためには、余分な感情があってはならない。

天才的な作品は、天才的な楽譜を求める。

それができるまでは、いつも言葉が多すぎるか少なすぎるか、感情が多すぎるか少なすぎるかになる。

『知恵の悲しみ』の台詞の多くが余分に思えたとしても、もちろん、言葉が悪いのではない。役の楽譜がまだ十分に完成しておらず、舞台そのもの、創造する行動そのものの中で、確かめる必要があるというだけだ。

秘密、感情、考えを捉えるだけでは足りない。それを実際に生かせなければならない。

発明者が、天才的に思いついたものを、同じように天才的に実現できないばかりに、どれほど多くの偉大な発見が失われることか!

私たちの芸術でも、同じことが起こる。

自分を表す創造上の主導性が足りないために、どれほど多くの天才的な俳優が、埋もれてしまうことか!

〔だから〕役を体験し、自分の楽譜を作るだけでは足りない。美しい舞台の形で、それを伝えられなければならない。

作者が、そのための言葉の形をすでに用意し、その形が天才的であるなら、それを使うのがいちばんよい。

だが、天才の言葉は凝縮されている。それでも、深く豊かな内容を持つ。

役の楽譜も、同じように凝縮され、深く、内容豊かでなければならない。

具現の形や方法も、同じでなければならない。

だから、楽譜そのものを引き締め、伝える形を凝縮し、鮮やかで、簡潔で、中身の豊かな具現の形を、見つける必要がある。

そうなって初めて、余分なものを取り除いた純粋な台詞、心の本質を伝える的確な言葉、わずかな言葉で人物像全体を形づくる比喩、作者の構想を研ぎ澄ます鋭い韻が、作者の天才的な言葉を、俳優にとって最もよい言葉の形にする。

創造の中で、その天才的な台詞に届くところまで育てば、役の言葉は、ひとりでに口にしたくなり、舌に乗ってくる。

そのとき作者の台詞は、俳優自身の創造する感情と、心の楽譜全体を表すのに、最もよく、必要で、使いやすい、言葉による具現の形になる。

そのとき、他人である作者の言葉が、俳優自身の言葉となり、作者の台詞そのものが、俳優にとって最良の楽譜となる。

そのとき、グリボエードフの並外れた詩句と韻は、耳を楽しませるためだけでなく、感情、体験、俳優の楽譜全体を、鋭く、完成した形で伝えるために、必要になる。

音楽で、澄みきった装飾句やスタッカートが、楽句や旋律全体を完成させるのと同じだ。

これが起こるのは、役の楽譜が作者の天才的な作品に〔対応する〕ときだ。役の生きた人間の内面を作る、すべての感情、課題、創造の促しや動機が、俳優の中で十分に育ち、生きるだけでなく、余分なものをそぎ落とし、結晶のように定まる。それらが糸に通したビーズのように、同じ順序で役の貫く行動につながり、心だけでなく身体も、この感情の論理と順序に慣れたときである。

ほとんどの場合、作者の台詞が俳優に必要になるのは、創造の最後の段階だ。集めた心の材料が、一定の創造の瞬間の連続として結晶し、役の具現が、その役に特有の感情の表し方を生み出したときなのである。

その時は、まだ来ていない。

最初の読み合わせをする今の段階では、作者の純粋な言葉は、まだ邪魔になるだけだ。

俳優は、その価値を十分に、深く捉え、汲み尽くすことができない。

役が具現の形を探している間、楽譜をまだ舞台で確かめていない間は、余分な感情や、それを表す方法や形が、どうしても出てくる。

無駄のない作者の台詞は短すぎるように思え、自分の言葉や、さまざまな差し挟み、「ああ」「まあ」「ほら」などで補ってしまう。

それだけではない。具現の初期には、俳優は、創造する感情を伝えられそうなものを、節度もなく、惜しげもなく使う。言葉も、声も、身振りも、動きも、行動も、表情も使う。

この段階では、内側に生まれ、育った感情を外へ出せさえすれば、どんな手段もいとわない。楽譜の一つの瞬間ごとに、具現の手段や方法が多いほど、選択が豊かになり、具現そのものも立体的で内容豊かになる、と思えるのだ。

だが、具現の手段を無秩序に探すこの時期にも、具現がいつも声や言葉から始まるわけではない。

他人である作者の言葉だけでなく、自分の言葉でさえ、楽譜の生まれたての、ようやく熟した感情を表すには、具体的すぎる。

読み合わせを止めた演出家は、正しかった。

続けることは、大きな無理強いになっただろう。

うまくいかない読み合わせは中止され、自由な主題の即興練習へ移るよう提案される。

それは、役という生きた有機体の感情、考え、行動、姿に対応するものを具現するための、準備の練習だ。

練習は、とても多様で、系統立ったものでなければならない。

それを使い、新しい状況を少しずつ加えながら、一つひとつの感情の本性、つまり構成部分、論理、順序を、手探りしていく。

自由な主題の即興練習では、初めは、取りかかる瞬間に俳優の心へ自然に生まれる、偶然の願いや課題を、そのまま行動に表せばよい。

その願いや課題は、まずは戯曲の架空の事実からではなく、稽古で即興練習をするとき、現実に俳優を囲んでいる本当の現実から生まれるものでよい。

練習に取り組む瞬間、心にひとりでに生まれる内なる動機に、目先の課題も、練習全体の超課題も、教えてもらえばよい。

ただし、その際、戯曲の作者が与え、俳優が体験してきた、役と戯曲、ファームソフ家と一八二〇年代のモスクワの生活の状況を、忘れてはならない。

前の体験の過程で、それらとあまりに親しくなっているので、切り離そうとしても、俳優には難しいだろうと思う。

だから俳優は、自分を取り巻く本当の現実の中に「いる」「存在する」ことを始める。今度は想像の中だけでなく、役の過去、現在、未来の影響を受け、演じる人物に近い内なる心の動機とともに、現実にもそれを感じるのである。

だが、どうすればよいのか。

私を取り巻く現実、つまりモスクワ芸術座のホワイエと、そこでの稽古を、ファームソフ家と一八二〇年代のモスクワの状況へ結びつけなければならない。チャツキーの生活へ、より正確には、主人公の内的な生活の条件、その過去、現在、未来への見通しの中へ置かれた、私自身の生活へ結びつけるのだ。

想像の環境の中で、思いと感情によって生き始めることは、難しくない。

だが、現代の、今日の現実の中で、その生活をどう生きればよいのか。

自分がモスクワ芸術座にいることへ、どう意味を与えるのか。

稽古で今、自分を囲むすべての状況に、どう理由を与えるのか。

チャツキーと対応する生活との緊密なつながりを断たず、この部屋に、ここにいる権利を、どう得ればよいのか。

新しい創造の課題は、まず心の生活を動かす力すべて、意志、理性、感情を働かせる。

新しい課題が、想像力を目覚めさせる。

もう働き始めている。

「スタニスラフスキーが、チャツキーの生活の条件の中にいても、芸術座の俳優に友人がいてよいではないか」と、想像力が思い描く。

「いないほうが不思議だ」と理性はうなずく。「チャツキーのような人間が、芸術に関心を持たないはずがない」

「チャツキー本人も、一八二〇年代から三〇年代に生きていたなら、俳優たちやミハイル・セミョーノヴィチ・シチェープキン本人のいた、スラヴ派や愛国者の集まりへ加わらずにはいられなかっただろう」

「今生きていたなら、きっと劇場へよく通い、俳優に友人を持っているはずだ」

「だが、外国から帰った直後の、まさに今日、今、稽古にいることとは、どう結びつけるのか」と感情は戸惑う。

「今の練習に、それはそんなに大切なのか。外国から帰ったのは今日でなく、昨日でも一昨日でもよいではないか」と、想像力が切り返す。

「では、ソーフィヤはどうしてここにいる?」と、感情は難癖をつける。

「彼女が邪魔か。それなら、いないことにしよう」と、想像力が譲る。

「彼女なしでどうするんだ?」と、感情は言い返す。

「あとから来るのだ」と、想像力がなだめる。

「まあ、それなら……」

「だが、この時代錯誤は、どう受け入れればよいのか」と感情は気をもむ。「ひどいアール・ヌーヴォーの趣味で飾られたこの部屋と、チャツキーをどう結びつけるのか」

「ひどいと思うのか。それなら、なおよい! この馬鹿げた内装を批判し、笑い、皮肉を言えばよい。チャツキー自身も、あらゆる俗悪なものを笑い、皮肉っていたではないか」と、想像力はけしかける。

「なぜ細かなことにいちいちけちをつけ、チャツキーへ近づくのを邪魔し、創造に新しい障害を置くのか」

「俳優は、物分かりがよくなければならない」

「子供のように、どんなおもちゃでも遊べて、現実の差し出すものを何でも使えなければならない」と、理性は結論する。

「むしろ反対に、役へ近づけるものを、何でも探すほうがよくないか」

この教えに、創造する感情は神経の高ぶりを抑え、理性の賢い言葉に反発しない。

「では、この人たちは皆、誰なのか」と、感情はさっきより控えめに尋ねる。

「現実のままだ。芸術座の俳優たちだよ」と、想像力が説明する。

「いや、私には、向かいに座っているあの男は、俳優ではなく、『あの肌の黒っぽい、鶴みたいな脚の男』に見える」と、感情は多少の毒を込めて言う。

「そのほうがよい。本当にそうだ。確かに『肌の黒っぽい男』に似ている」と、感情はうなずく。

この「肌の黒っぽい男」との似たところが見つかって、私は本当にうれしかった。白状すれば、向かいの俳優を好きではないからだ。

チャツキー本人も、その男を、今私が即興練習の相手を見ているのと、まったく同じように見ただろう。

自分をチャツキーへ近づける、生まれたばかりのこの感情をつかみ、私は急いで「肌の黒っぽい男」に挨拶する。外国の社交界で洗練された、優雅なチャツキーならするだろう、というやり方で。

だが、この性急さと辛抱のなさのために、厳しく罰せられる。

芝居特有の優雅さや上品ぶりの、あらゆる型が、閉じ込められたところから飛び出す機会を待っていたかのようだった。

握手すると肘は横へねじれ、腕は弓のように丸くなる。「こんにちは」というズドラーストヴイチェの挨拶は、zやsをひゅうひゅう鳴らし、「ズッズッドルルラーススストヴイチェ」と口をついて出る。気取った無頓着さが歩き方をゆがめ、芝居の俗っぽさが四方から押し寄せ、私の中で動き始めた。

恥ずかしさに凍りつき、私は仲間を憎み、自分を憎み、もう一つも動くまいと決めた。

長い間、身動きせず固まりながら、こう自分をなだめた。「大丈夫。これは正常だ。急げばこうなると、知っておくべきだった」

「創造する願いの、無数の蜘蛛の糸が絡み合って、太く強い綱になるまでは、鍛え込まれた俳優の筋肉には勝てない。自由にすると、筋肉は愚直に勝手なことを始めてしまう」

「蜘蛛の糸では、太い縄に勝てない」

「創造する意志がもっと強くなり、身体全体をその主導に従わせるまで、待つほかない」

そう考えている間も、「肌の黒っぽい」仲間は、すっかり調子に乗って演じ続け、わざとのように、筋肉の無秩序が生む、ひどい結果のすべてを見せつけていた。

私を責めるかのように、あえて楽しみ、自信たっぷりに、華やかで俗っぽい気取りを交え、私と同じことをしている。まるで私自身を映しているようだった。

私たちは突然、ひどい地方劇場の舞台へ来てしまったように思えた。

気まずさ、痛み、いらだち、絶望、恐れで、私は固まった。

目を上げられず、この男の手からどう自分の手を抜けばよいか、自信満々の役者ぶりからどう逃れればよいか、分からなかった。

彼は当てつけのように、ますます楽しそうに不自然な身振りをし、「鶴のような脚」で足を引きずってお辞儀し、架空の片眼鏡を直し、下手な地方役者の社交界の人物役そのままに、気取ってrの音を喉で転がした。

伊達男のように小刻みに跳ね、笑う代わりに甲高い声を出し、犬のような笑顔を浮かべた。優雅に見せようと爪を掃除し、同じつもりで時計の鎖を無造作にいじり、最もありふれた芝居のポーズを、万華鏡のように絶えず変えた。

口にするのは、あまりに俗っぽく、意味のないことばかりだった。言葉を言うため、空っぽの音を出すために言葉が必要なのだと、はっきり分かるほどだった。

「ええ……疑いもなく」と彼はしゃべった。「まったく……ある意味で。ええと! 私が何を考えているか、ご存じですか? そう! 私に言わせれば、人間の人生は……ええ……短いんです。この、これのように……」

彼はポケットを探り始めた。そこに比喩が入っているかのように。そして爪楊枝を取り出した。

「ほら、この爪楊枝のように。ええ……これは確実です、確信です、革新です、いけません……」

訳注

原文では、意味より音につられ、「疑いなく」に似た言葉を連ね、最後は「両立せず」「許されず」へ脱線する。訳も言葉の空回りが伝わるようにした。

進むほど、彼の力んだおしゃべりは、つながりのないうわごとのように、ますます馬鹿げていった。

「肌の黒っぽい男」は、さらに不快になり、私は、彼に対する意地の悪い気持ちを吐き出したくなった。

どうすればよいのか。

言葉でか……。それでは怒らせてしまう。

手や身振り、行動でか。

殴り合うわけにもいかない。

残るのは、目と顔だ。

必要に迫られ、また本能的に、私はその助けを借りた。

目は心の鏡だと言うのには、理由がある。

目は、身体の中で最も敏感に応じる器官だ。

外面と内面の生活の、あらゆる出来事に、真っ先に反応する。

「目の言葉」は、最も雄弁で、繊細で、直接的だ。同時に、最も具体性が少ない。

それに、「目の言葉」は使い勝手がよい。

目なら、言葉よりはるかに多く、強く語れる。

それでいて、相手には文句をつける手掛かりがない。「目の言葉」が伝えるのは、全体的な気分や感情の性格だけで、文句をつけやすい具体的な考えや言葉ではないからだ。

この瞬間、まだ明確で具体的な身体の形を得ていない感情を表すには、目と顔から始めるのが最もよいと感じた。

具現の最初の時期には、体験する感情を、目、顔、表情の助けで伝えるべきなのだ。

創造の初期には、できるだけ行動、動き、言葉を避ける必要があると分かった。生まれたての願いの蜘蛛の糸をすべて引きちぎり、筋肉の無秩序を生む混乱を、起こさないためである。

感情の出口を見つけ、何としてでも具現し、演じなければならないという必要から解放されると、筋肉の緊張はたちまち消えた。すっかり落ち着き、何かを見せる機械ではなく、人間になったと感じた。

周りのすべても、正常で自然になった。

もう落ち着いて座り、顔をしかめ、身振りを大げさにする「肌の黒っぽい男」を観察している。心の中で笑い、自分の感情を隠そうとせず、自由にさせる。

そのとき、始まったばかりの稽古が中断された。職員が一枚の書類を持って入ってきた。

何かの記念祝賀の祝辞だった。

一座の全員が署名しなければならなかった。

紙が手から手へ回る間も、私は「肌の黒っぽい男」の観察をやめなかった。

彼は、署名のために紙を差し出されるのを、もったいぶって座って待っていた。ところが、なぜか先に私へ回ってきた。

意地の悪い気持ちに従い、ふざけ半分に、私はうやうやしく装って、その男へ順番を譲った。

彼は私の親切を当然のように受け、礼も言わず、重々しく祝辞を読み始めた。

署名を終えると、ペンを私に渡さず、放り出した。

その無作法に腹が立ったが、即興練習のことを思い出し、この怒りの閃光を創造に使おうと決めた。

チャツキーなら、こんな男に腹を立てはしないだろう。からかってやるだろう、と私は思った。

急いで署名を済ませ、出口へ向かって離れていく男を追いかけ、チャツキーのように一つ笑ってやろうとした。

ところが途中で、別の仲間に捕まった。馬鹿げた話題を、深遠そうに哲学するのが大好きな男だ。

「あのね」と彼は、低い声で意味ありげに唸るように言った。「思いついたんだが、作者が僕の役をスカロズーブと名づけたのは、訳がないわけじゃない」

「つまり、何かの癖があるはずで……」

「歯をむき出す癖だろう」と、私は先を言った。

訳注

スカロズーブという名を、「歯をむき出す」を意味するロシア語の表現に結びつけた言葉遊び。以下も登場人物の名字を、音の似た言葉と結びつけている。

芸術で頭の回転が鈍い人間に、私は我慢がならない。

俳優にとって危険なこの性質が、どういうわけか才能と同居していると、いらいらする。

この仲間も、才能があり、馬鹿ではなかった。

そんな組み合わせもある。日常では賢く、芸術では愚かなのだ。

とげのある、ほとんどきつい返事が、もう舌の先まで出かかった。だが、また即興練習とチャツキーを思い出し、彼なら、この変わり者に違う態度を取るだろうと思えた。

私は自分を抑えた。

「それは思いつかなかった」と、からかい始めた。

「きっとグリボエードフは、スカロズーブだけでなく、登場人物をみんな、名字で特徴づけているんだろうね」

「例えばフリョーストワは、誰にもぴしゃりと答えるからだ」

「トゥゴウホフスキーは、耳が遠いから」

「ザゴレツキーか! きっと、すぐに火がつく男なんだろう」

「レペチーロフか! 稽古、つまりレペチーツィヤを何度も必要とする役だからじゃないかな」

「演じる人に注意してあげたまえ。怠け者だから」

「ついでに僕のことも忘れずに」

「グリボエードフが、僕の役をなぜチャツキーと名づけたのか、考えてくれたまえ」

私が離れたあと、この頭の回転の鈍い男は、問題を深刻に考え込み始めたように見えた。

チャツキーなら、私よりもっと機知に富んだからかい方をしただろう。だが、彼とこの変わり者の関係そのものは、今私が仲間との間に作った関係と、対応しているように思えた。

しかし、と私は考えた。気づかぬうちに、ほとんどチャツキー本人として話していた。しかも型にはまらず、ごく簡単に話していたのだ。

半時間前には、本物の役の台詞が、必要でなかったのに。

なぜだろう。

秘密は、自分の言葉と他人の言葉の間に、「途方もなく大きな距離」があることだ。

自分の言葉は、自分の感情を直接表す。一方、他人の言葉は、自分のものになるまでは、俳優の中でまだ生きていない、将来の感情のしるしにすぎない。

具現の初期には、自分の言葉が必要だ。内側ですでに生きていても、まだ具現されていない感情を、引き出す助けになるからである。

今のところ、体験と内的な行動は、あまりに内密なので、言葉どころか、身体の動きや行動さえ、ほとんどまだ必要ない。

何が何でも外的な行動を起こそうとすれば、自分に無理を強いることになる。

だが、作者という他人の言葉が、まだ必要ないからといって、その先の仕事で言葉を使ってはいけないわけではない。

反対に、自分の言葉は、ほどなく、とても必要になる。

〔それは〕具現の過程で形を探すとき、表情や動きを助ける。

もっとも、自分の言葉であっても、表すのは、より定まった、すでに具体的な体験、考え、感情である。

役のために体験した感情を具現するには、目、顔、表情の助けを借りるのが、いちばん容易だ。

目で言い尽くせないことを、声、言葉、抑揚、話し方が補い、説明する。

それを強め、明らかにするため、感情や考えを、身振りと動きで、形にして示す。

そして身体的な行動が、創造する意志の目指すものを、最後に仕上げ、実際に実現する。

このように、人間の内面の生活は、まず目と顔に映る。

「目と顔の言葉」はあまりに繊細で、ほとんど気づかれない、かすかな筋肉の動きによって、体験、考え、感情を伝える。

その筋肉は、完全に、直接、感情に従う必要がある。

その際、目や顔の筋肉に無意識の機械的な緊張があれば、それが気恥ずかしさ、興奮、チック、その他の無理から来るものであれ、すべてを台無しにする。

粗い筋肉のけいれんは、繊細で、ほとんど捉えられない「目と顔の言葉」を、すっかりゆがめてしまう。

だから俳優の最初の務めは、最も繊細な表現の道具である目と顔を、意図的にも無意識にも起こる、あらゆる無理強いと筋肉の無秩序から守ることだ。

どうすれば、それができるのか。

系統立てた練習によって、少しずつ自然に身につける、逆の習慣が助けになる。

秘密は、悪い習慣を引き抜くには、その場所へ、もっと正しく自然な何かを置かなければならない、ということだ。

だから、悪い習慣をよい習慣で押し出すのが、最もよい。

例えば、筋肉をけいれんさせたり固めたりする習慣を、筋肉を解放する習慣で追い出す。

目に続いて、運動をつかさどる中枢同士が近く隣り合っていることから、顔とその表情も自然に働き、感情を表し始める。

超意識を語るうえでは、目ほど繊細でも雄弁でもないが、その代わり「表情の言葉」は、もう少し具体的だ。

それでも、無意識と超意識を伝えるには、十分に雄弁である。

顔の表情は、目から発する光線より具体的だ。

表情では筋肉をより多く扱うので、その無秩序はいっそう危険になる。

同じ理由で、表情では紋切り型も、より危険になる。

紋切り型とも緊張とも、もっと真剣に戦わなければならない。

緊張と紋切り型は、伝える感情を、見分けられないほどゆがめる。

表情が内なる感情と直接つながり、その正確で直接的な表現となるためには、表情でも緊張や紋切り型と戦えなければならない。

個々の課題、区切り、楽譜全体が明らかになるにつれ、目と顔に続いて、創造する意志の願いや欲求を実現したいという、自然で抑えがたい欲求が、ひとりでに生まれる。

俳優は、自分でも気づかぬうちに行動し始める。

行動は、当然、全身の動きや歩き方などを呼び起こす。

身体にも、目や顔と同じことが求められる。心の最も繊細で、つかみどころのない感覚にも応じ、それを雄弁に語らなければならない。

言葉や身のこなし、動きの繊細さと表現力を殺す、無意識の無理や筋肉の緊張から、身体も守る必要がある。

身体には、さらに物質的なもの、筋肉が多い。そのぶん、緊張や紋切り型が生まれる余地も大きい。

だから、内面の生活に身体を徹底して従わせるため、身体では、緊張や紋切り型との戦いを、いっそう重視しなければならない。

役を身体で表すことを、仕事の最後まで取っておくべき理由の一つは、ここにある。役の内面の生活が十分に強くなり、表現の道具である目、表情、声ばかりでなく、身体そのものも完全に従わせられる時まで、待つのだ。

そのときは、内なる感情の直接の導きのもとで、心を殺す紋切り型も、害や危険が小さくなる。

もう抑えておけなくなったとき、身体を行動させればよい。目や表情に続いて身体も、体験する感情と、そこから生まれる内的な課題の深い本質を感じる。そして、創造する意志の願いや欲求を、身体的な行動と課題として実行したいという、本能的で自然な欲求が、ひとりでに生まれたときである。

身体が動き、行動し始める。

身体を、感情の一つの意志に従わせられなければ、困ったことになる。

身体が勝手に動き始め、感情の促しを、曖昧に、粗く、大まかにしか受け取れなくなれば、大変だ。

有害な紋切り型がすべて表に出て、繊細で優しく、つかみどころのない感情の促しを、見る影もなくゆがめ、あるいはすっかり殺してしまう。感情は奥へ逃げ込み、創造をやめ、身体の筋肉の粗い力へ支配を譲ってしまう。

身体の紋切り型や緊張と戦うとき、禁止するだけでは何もできないことを、忘れてはならない。

悪いものをよいもので押し出す必要がある。つまり、禁じるのではなく、感情を外側へ美しく芸術的に表す仕事によって、身体を引きつけるのである。

禁止するだけで済ませると、一つの緊張や紋切り型の代わりに、新しいものが十も現れる。

空いた場所には、雑草のように、すぐ紋切り型が生える。これは法則だ。

身振りそのもののための身振りは、内なる感情と、その自然な現れに対する無理強いである。

目や表情によって心の生活を伝える、主だった最も敏感な手段を使い尽くしてから、声、音、言葉、抑揚、話し方の助けを求めればよい。

ここでも、無理強いはいらない。

初めは、〔役の〕楽譜の課題を、自分の言葉で伝えればよい。

そのためには、目、表情、声で役の楽譜の課題を表す、適切な即興練習を重ねる必要がある。

戯曲家に才能があるなら、その作者と台詞は、最後には必ず俳優に必要になる。

意志の楽譜と俳優の内なる体験を表すため、作者が用意した以上の言葉の形は、自分には作れないのだと、俳優は理解するだろう。

だから、作者の示した線に沿って役を体験しているなら、その体験と役の楽譜を表す、最も簡単で便利な方法は、言葉と声を使うことだ。役の台詞を正しく口にすること、つまり、作者と共に作った役の楽譜を、声と抑揚で表すことを、学ばなければならない。

誰もがそれをできるわけではない。

言葉だけで演じ、自分の声や台詞の響きに聞き惚れる俳優もいる。

それは、〔役の〕楽譜の課題を実行することとは、違う。

反対に、台詞と関係なく役を見事に生き、言葉はただ、大まかな感情を表すための、何かの音としてしか必要としない俳優もいる。

その感情は、役の台詞とは別に流れ、発展する。

台詞は邪魔なだけで、必要ない。役の言葉をただ機械的にしゃべり、ビーズのようにぱらぱらこぼしてしまうからだ。

彼らにとって大切なのは、大まかに決めた一連の体験を生きることだ。

それは、言葉なしでもできる。

だが、舞台上の一語一語は、重みを持ち、重要で、必要でなければならない。

金と同じほど、大切に扱われるべきだ。

余計な言葉は空っぽの音であり、ごみや余分な荷物として台詞から捨てるべきものだ。役をふさぎ、体験を妨げるだけだからである。

考えや感情を伝えるために選ばれた、最もふさわしい言葉は、重みと重要さを持ち、俳優が生きている感情によって、鮮やかに彩られなければならない。

そうした言葉を目立たせるには、外からただ力を込め、顎でつつくようにしてはいけない。創造する感情をたっぷり含ませ、自分の感情の汁に浸し、格別の丁寧さと愛情を込めて差し出すのである。

文章からそんな言葉を奪うのは、生きたものから心を抜き取るのと同じだ。

そして、一つひとつの言葉にも心がある。

それは、必要に応じて声が鮮やかに、震えるように響かせる、その母音に現れる。

だが、すべての母音、役のすべての文を、同じように重々しく、鮮やかに、明瞭に、意味ありげに言っては困る。

太鼓の連打のような、騒々しい音になってしまう。

戯曲家が俳優を最も身近な協力者にできなければならないなら、俳優もまた、戯曲家を最も身近な助け手にできなければならない。

この接近は、言葉と台詞の心から生まれる。その心を感じ、音と言葉で伝え、表せなければならない。

表情、目、身振りは、感情をより抽象的に、大まかに表す。

言葉は、それをもっとはっきりと表す。

だから、楽譜が具体的な課題、区切り、欲求へと結晶していくにつれ、言葉の必要が増す。

確かに、言葉の下や言葉の間では、目、表情、心理的な間によって、多くを伝えられる。

しかし、意識的で、明確で、具体的で、個別で、触れられる、物質的なものを伝えるには、言葉が必要になる。

個別で具体的な内容を伝える必要のある、考えや思想には、なおさら言葉が要る。

だが、声や話し方にも、緊張と紋切り型の危険が〔ある〕。

声の緊張は、音、発音、抑揚を損ない、動かず、粗いものにする。また、声や抑揚の紋切り型は、ひどく頑固で粗い。

声も、言葉も、抑揚も、舞台の上でなお完全に内なる感情に従い、その直接的で正確な、忠実なしもべとして表現できるよう、声の緊張や紋切り型と、力を尽くして戦わなければならない。

身体、つまり俳優の身体的な道具全体も、いつも心と創造する意志に切り離せず結びつき、その忠実なしもべでなければならない。

主導権が俳優の身体へ移り、筋肉、俳優の習慣、型どおりの表現が勝手に動き出し、自然な具現の過程を殺してしまえば、大変だ。

鍛え込まれた俳優の身体と筋肉の、機械的な習慣は、とても強く、頑固で、融通が利かない。

敵よりも危険な、お節介な愚か者に似ている。

役を具現する外面的な方法や、その機械的な型は、驚くほど早く身につき、長く記憶に残る。人間、とりわけ俳優の筋肉の記憶は、きわめてよく発達しているからだ。

反対に、情動記憶、つまり感情、感覚、体験の記憶は、ひどく不安定だ。

感情は蜘蛛の糸、筋肉は綱だ。

蜘蛛の糸では綱に勝てない。同じ強さになるには、多くの糸を編み合わせなければならない。

俳優の創造でも、同じことだ。

粗い筋肉を備えた俳優の身体的な道具を、繊細な感情へ従わせるには、まず、役に合わせ、役と対応させた俳優本人の心の感覚、感情、体験から、複雑で強い糸を編まなければならない。

心と身体、感情と言葉、内外の行動や動きの間に、ずれが生じれば、大変だ。

俳優の身体という楽器が調子を外し、音を狂わせ、伝える感情をゆがめてしまえば、困るのだ。

調律の狂った楽器で旋律を奏でるのと、同じことになる。

感情が正しく、その伝わり方が直接的であるほど、不調和や音の狂いは、いっそうもどかしい。

感情や情念の楽譜の具現は、正確なだけでは足りない。美しく、しなやかで、よく響き、色彩に富み、調和していなければならない。

創造的な具現は、芸術的で、心を高め、引きつけ、美しく、気高いものであるべきだ。

高いものを俗っぽく、気高いものを下品に、美しいものを醜く表してはいけない。

だから、体験が繊細なほど、それを伝える楽器も、完全なものでなければならない。

下手な街頭のヴァイオリン弾きに、ストラディヴァリウスはいらない。

普通のヴァイオリンで、その感情は伝えられる。

だがパガニーニには、天才の心の繊細さと複雑さのすべてを伝えるために、ストラディヴァリウスが必要だ。

俳優の内なる創造が豊かであるほど、声は美しく、発音は完全で、表情は豊かで、動きはしなやかで、具現のための身体全体は、いっそう機敏で繊細でなければならない。

舞台の具現も、あらゆる芸術の形と同じく、作品の内側の本質を、正しく、かつ芸術的に表してこそ、優れたものになる。

本質に応じて、形も決まる。

うまくいかなかったなら、形ではなく、それを生んだ創造する感情に問題がある。

何より大切なのは、表情、声、身振り、身体という、自分の具現の道具を、ゆがめないことだ。

そのためには、この道具と内面の生活、つまり願い、意志の促し、役の人間としての内面の生活全体との、直接のつながりを〔断たない〕必要がある。

では、何がそれをゆがめるのか。

型どおりの演技、外面的な見せかけ、不自然な身振り、紋切り型。そして内側から促されず、心の関与なしに外から取ってきたものすべてだ。

だから私は、六脚韻による訓練に反対する。

声も発音も発達させるとしても、かまわない。その訓練では言葉を、内面的な意味のためではなく、外側の声の上げ下げのために言うことになるのだ。

声を直す方法は、ほかにもある。

これは、代償が大きすぎる方法だ。

ベヒシュタインのピアノは上等な箱だが、だからといって、中へ燕麦を詰めてよいわけではない。

身体、動き、表情、声、そして最も繊細な内なる体験を伝えるすべての手段は、十分に鍛え、発達させなければならない。

それらは柔軟で、表現力があり、とても敏感でなければならない。内なる感情の、ほとんど捉えられず、言い表せない色合いを、抑揚、言葉、声の音、動き、身体、表情、眼差しなどで表すためだ。

身体を完全に感情へ従わせておく力を養うことは、具現の外的な技術の仕事の一つである。

それでも、俳優がどれほど完全な身体の道具を持っていても、言い表せない、超意識的で目に見えない、多くの感情や体験は伝えきれない。

それを伝えるには、別の道がある。

体験している感情は、目に見える手段だけでなく、つかみどころのない手段や道によって、心から心へ直接伝わるのだ。

人々は、目に見えない心の流れ、感情の発信、振動、意志の指令によって、互いに交流する。

この心から心への道は、言葉にも身振りにもならない、超意識的で言い表せないものを伝える、最も直接的で、強く、効果があり、舞台で生きる道なのである。

自分が体験することで、交流する相手や、その交流に立ち会うほかの人々をも、生きさせる。

俳優たちの長年の大きな間違いは、広い劇場で、公衆の前で創造する、気の散る環境の中、大勢の耳や目に届くものだけが、舞台で生きると考えることだ。

しかし、劇場は目や耳を楽しませるためだけに、あるのだろうか。

私たちの心が生きているすべてを、言葉、音、身振り、動きだけで伝えられるだろうか。

人と人が交流する道は、視覚と聴覚しかないのだろうか。

人間の意志と感情の、見えない発信による直接の交流には、抗しがたい魅力、伝染する力、大きな強さがある。

それによって人を催眠にかけ、獣や怒り狂う群衆を鎮め、行者は人を死なせ、再び生き返らせる。俳優は、感情の見えない光線と流れで客席の建物全体を満たし、大勢を魅了するのだ。

公衆の前で創造する条件は、それを妨げると考える人もいる。逆に、その条件は交流を助ける。舞台から流れてくる心の流れや光線を受け取ろうと、自ら心を開く群衆の神経の高ぶりが、公演の空気を濃く満たす。その空気が、俳優の目に見えない心の創造を、最もよく伝える媒体になるからだ。

群衆の集団的な感情は、劇場の空気をさらに帯電させ、濃くする。つまり、心の流れを、いっそう伝わりやすくする。

だから俳優は、心の光線や織物を通じ、できる限り広く、劇場へ感情の流れを注いでほしい。沈黙し、静止していても、闇の中でも光の中でも、意識的にも無意識にも、注いでほしい。

作者の作品の、最も大切な、超意識的で、目に見えず、言葉にならない心の本質を伝えるには、これらの道が、最も有効で繊細で強く、人に伝わり、抗しがたく、深く届くのだと、俳優には信じてほしい。

感情の発信によるこの交流の道を、私たちの流派は、とりわけ大切にしている。多くの創造と交流の道の中で、目に見えない人間の内面の生活を伝えるには、最も抗しがたく、力強く、したがって最も舞台で生きる道だと、考えるからである。

ここまでは、役の心の本質そのものを含む、人物の内なる楽譜を伝え、具現することについて語ってきた。

だが、役という生きた有機体には、外側の姿、身体もある。それは化粧、役特有の声、話し方や抑揚、つまり発話、特有の歩き方、身のこなし、動き、身振り、行動によって、具現しなければならない。

いちばんよいのは、内面の人物像が、ひとりでに外面の姿を教え、それが感情に導かれて自然に具現されることだ。

役の外面的な姿は、意識的にも、無意識的にも、直感の道によっても、手探りされ、伝えられる。

人物像を意識的に具現する方法は、まず、想像力、心の目や耳などを使って、思いの中で外面の姿を作ることにある。

俳優は、演じる人物の外見、衣装、歩き方、動きなどを、心の目で見ようとする。

視覚その他の記憶の中に、手本を探す。

人生で知った人々の姿を思い出す。

ある人からは身体の特徴の一部分を、別の人からは別の部分を借りる。

それらを組み合わせ、積み重ね、思い浮かぶ外見を作っていく。

しかし、必要な材料が自分自身や記憶の中に、いつも見つかるわけではない。

そのときは、自分の外に探すほかない。

画家のように、創造の手本として、生きた本物のモデルを探さなければならない。

俳優は、通りや劇場、家で出会う人々を、注意深く探る。あるいは、軍人、官吏、商人、貴族、農民などが、それぞれの階級や身分ごとに集まる場所へ、探しに行く。

探している材料が偶然見つかる幸運は、そうたびたびはない。

その幸運に恵まれなければ、どうすればよいのか。

俳優は誰でも、演じる人物の外面的な姿、つまり化粧、体つき、振る舞いなどを作るとき、想像力を豊かにする材料を集めておくべきだ。

そのために、さまざまな写真、版画、絵画、化粧のスケッチ、特徴的な顔、人物の外見を描いたものや、文学の中の外見の描写を、集めなければならない。

この材料は、想像力が乏しくなったとき、創造の促しや手掛かりを与える。かつてよく知っていたのに忘れてしまったことを思い出させ、情動記憶を呼び覚ます。

この材料でも役に立たなければ、眠った想像力に必要な刺激を与える、新しい方法を探さなければならない。

探している顔や姿を、簡単な線で描いてみよう。顔立ち、口、眉、しわ、身体の線、服の形などだ。

線だけで描いたその絵は、戯画のように線を組み合わせ、人物の外見の、いちばん特徴的なものを生み出す。

その略図が見つかったら、特徴的な線をすべて、自分自身の顔と身体へ移す必要がある。

俳優はしばしば、人物像の材料を自分自身の中に探す。

自分の髪でさまざまな髪形を試し、眉の形を変え、顔や身体のあちこちの筋肉を縮めてみる。見る、歩く、身振りをする、お辞儀する、挨拶する、行動する、そのさまざまな方法を試す。

これらの試みは、偶然に、あるいは意識的に、やがて生まれる役の外面の姿への手掛かりを与える。

試しに化粧をすると、手掛かりはもっとはっきりする。

いろいろなかつらをかぶり、さまざまな色や形のあごひげ、口ひげ、付け物をつけ、顔の色、しわの線、影、明るい面を探すうちに、求めていたものへぶつかる。ときには、まったく予想もしなかったものに出会う。

生き始めた内面の人物像は、自分の身体、外見、歩き方、振る舞いを、それと認める。

衣装を探すときにも、同じ仕事が必要だ。

まず情動や視覚の記憶を探り、次に素描、写真、絵画を探る。それから生活そのものを探し、略図を描き、さまざまな裁ち方の服を着てみる。ピンで留め、形を変え、意識的に、あるいは偶然、求めるものや、まったく予想しなかったものに出会うまで試す。

歩き方、動き、外面的な癖も、生活や自分の想像を観察したり、自分自身の中に探したりする。

それも、視覚その他の記憶をたどって意識的に行う場合もあれば、反対に、偶然に、あるいは直感的、無意識的に行う場合もある……。

役づくり
〔『オセロー』〕
〔一九三〇〜一九三三年〕

一九……年……月……日

トルツォフの導入の話

「私たちは二年目を始める。前の学年で得た、かなりの蓄えを携えてだ」

「君たちは、技術そのものはまだだとしても、俳優の創造する内面と外面の道具をどう扱えばよいかについて、かなりの知識を持っている」

「これは大きなことだ」

「舞台での、全体としての、仕事のできる心身の状態とは何かを、君たちは知っている」

「それを土台に、次の〔段階〕、『役に取り組む』という課程へ進める」

「そのためには、私たち全員で取り組む役が必要だ」

「同じ目的に使える戯曲を一つ選び、一人ひとりにふさわしい仕事を見つけられれば、さらによい」

「戯曲を選ぶことから始めよう」

「何を演じるか、より正確には、一年目に身につけたことを、どの作品で実際に使うかを決めよう」

その日の授業はすべて、これから取り組む役、抜粋、戯曲全体を選ぶことに使われた。

こういう決定に付きものの、長い議論や相談、あれこれの思案は、書かないでおこう。

似た場面なら、素人の演劇サークルや公演で、私たちはよく知っている。

それより、トルツォフ自身が、これからの授業にこの作品を選んだ理由を書き留めよう。それは、私たちの力には余り、若い初心者には難しすぎて危険だと、彼自身が考えていた、まさにあの戯曲だった。

私が大喜びしたことに、選ばれたのは、ほかでもない『オセロー』だった。

その理由は、こうである。

「必要なのは、君たち全員を夢中にさせ、全員、少なくともほとんど全員に、ふさわしい役のある戯曲だ」

「『オセロー』は皆を引きつけるし、配役もうまく収まる。ブラバンショーはプーシチン、オセローはナズヴァーノフ、イアーゴーは〔ゴヴォルコフ〕、デズデモーナはマロレトコワ、ロドリーゴはヴュンツォフ、カッシオは〔シューストフ〕、エミーリアは……、ヴェネツィア公はウムノヴィフだ」

訳注

エミーリア役の配役は、底本では記入されていない。

「ドィムコワには役が残らないが、デズデモーナかエミーリアの、好きなほうの女性役を、もう一人の配役として担当すればよい」

「『オセロー』がよいのは、端役が多く、群衆の場面もあることだ」

「それは、劇場で働く協力者のグループへ割り振ろう。彼らとも、去年に続いて今年も、『システム』の仕事をしなければならない」

「何度も言ったとおり、シェイクスピアの悲劇は、学び始めた者には難しすぎる」

「それだけでなく、舞台で上演するにも、複雑すぎる」

「その難しさがあるから、この戯曲や役で、まだ強くなっていない自分の力を損なうような、手軽な小仕事の舞台へ出ようとはしなくなるだろう」

「だが、私は君たちに、悲劇を上演させるつもりなどない」

「必要なのは、学ぶ材料としてだけだ」

「そのためなら、これ以上の戯曲を探しても無駄だろう」

「第一級の作品で、芸術的に優れていることに、疑いはない」

「それに、この悲劇は、形や構成、個々の区切り、感情の悲劇が高まる順序と論理、貫く行動と超課題が、どれもとても明確だ」

「もう一つ、実際的な理由もある」

「初心者の君たちは、何よりまず悲劇に引かれる」

「たいていは、この種の舞台作品が何なのか、その課題と要求が何なのかを、まだ理解していないからだ」

「だから、早いうちに、間近で知っておきなさい。今後むやみに、考えもなく、危険な誘惑へ乗らないためにこそ、まず学ぶのだ」

―――――

「役への取り組み方や、その仕事の進め方は、演出家ごとに違う」

「これについて、一度決めたら変わらない規則を作ることはできない」

「だが、私たちの本性そのものから得られた、この仕事の主要な段階や心身の方法は、正確に守らなければならない」

「君たちはそれを知る必要がある。私は実際に示し、君たち自身に経験させ、自分で確かめてもらわなければならない」

「それは、いわば『役に取り組む』過程全体の、基本となる模範だ」

「だが、それだけでなく、同じ仕事のさまざまな変化形も、知り、理解し、扱えるようになる必要がある。演出家は、必要や仕事の進み具合、条件、演じ手の個性に合わせて、進め方を変えるからだ」

「その変化形も、私は見せなければならない」

「だから『オセロー』の数多くの場面を、それぞれ違う方法で進める。最初の場面では基本の模範的な計画をたどり、その後の場面ごとに、新しい方法、進める順序の計画、その組み合わせの変化を加えていく」

「何かを加えるときは、その都度、君たちに説明しよう」

Ⅰ.戯曲と役との最初の出会い

一九……年……月……日

「『オセロー』を読もう!」と、授業の初めにアルカージー・ニコラーエヴィチが提案した。

「知っています!」「読みました!」と、声が上がった。

「それなら、なおよい! では、〔全員の台本を預かって、私が言うまで返さないでください。君たちは、別の本を探したり、のぞいたりしないと約束しなさい。作品を知っているのなら、〕内容を話してほしい」

皆、黙っていた。

「複雑な心理劇の内容を話すのは難しい。だから、まずは外側の筋書き、出来事の流れを伝えるだけでよい」

だが、この提案にも、誰も応じなかった。

「君から始めなさい」と、アルカージー・ニコラーエヴィチはゴヴォルコフを促した。

「それにはですね、戯曲をよく知っていなければ!」と、彼は逃げた。

「知っているのだろう」

「失礼ですが、オセロー本人の役は全部、暗記しています。ご承知のとおり、私の役柄ですから。しかし、ほかの役は、ざっと目を通しただけです」と、わが悲劇役者は白状した。

「そんな形で、初めて『オセロー』に出会ったのか!」と、トルツォフは声を上げた。

「実に残念だ! では、君なら内容を話せるかな」と、隣のヴュンツォフに向き直った。

「無理です。とても。読みましたけど、全部じゃないんです。抜けているページが多くて」

「君は?」と、トルツォフはシューストフに尋ねた。

「戯曲全体は覚えていません。外国の巡演俳優が演じるのを見たので。ご存じのとおり、彼らは余計なところ、つまり自分の役に関係のないところは、全部切ってしまいますから」と、パーシャは弁解した。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、ただ首を振った。

ウムノヴィフはアルマヴィルで見たが、あまりにひどい上演で、見ないほうがよかったくらいだった。

ヴェセロフスキーは列車で読んだので、記憶の中ですべてが混ざってしまっていた。

最も主要な場面だけは覚えている。

プーシチンは、ゲルヴィヌスをはじめ、『オセロー』の批評書をすべて知っていた。だが、戯曲の出来事を順序立てて語ることはできなかった。

「作者の作品に初めて出会うという、あれほど大切な過程が、列車や辻馬車、市電の中など、どこでも、どうでもよい形で行われるのは、実によくない」

「さらに悪いのは、作品と出会うためではなく、自分に映える役を見つけて気に入るために、それをすることが多い点だ」

「俳優たちは、やがて自分が具現することになる、最上の古典作品へ、こんなふうに初めて出会っているのか!」

「遅かれ早かれ一体になり、第二の『私』を見つけなければならない役へ、こんなふうに近づいているのか!」

「役との出会いの瞬間は、やがて恋人や夫婦となる二人の、最初の出会いにたとえられる」

「忘れられないものなのだ」

「私は最初の印象を、ほとんど決定的なものとして重く見ている」

「少なくとも私の経験では、いつもそうだった。初めに感じたことは、よくても悪くても、最後には必ず創造に現れる。どれほど最初の印象から離れるよう導かれても、その印象が勝つ」

「消すことはできない。磨いたり、和らげたりすることはできる」

「だから、よい印象も悪い印象も、俳優の記憶へ深く刻まれ、将来の体験の芽となる」

「それだけでなく、戯曲や役との最初の出会いは、その後の仕事全体に跡を残すことが少なくない」

「最初に読んだ印象を正しく受け取れれば、それは先の成功に向けた大きな支えになる」

「この大切な瞬間を失えば、取り返しがつかない。二度目以降の読書には、直感による創造の領域であれほど強い力を持つ、不意に出会う驚きが、もうないからだ」

「損なった印象を直すのは、初めから正しい印象を作るより難しい」

「創造の最初の段階である、役との最初の出会いには、細心の注意を払わなければならない」

「作者の作品へ間違って近づき、この瞬間を損なうのは危険だ。戯曲と役について誤った像、あるいはさらに悪い、先入観を生むからである」

「それと戦うのは、難しく、長くかかる」

生徒たちが質問したので、アルカージー・ニコラーエヴィチは、「先入観」で何を意味するのか、詳しく説明することになった。

「種類はいろいろある。まず、よい方向にも悪い方向にも向きうる」と、彼は言った。

「例えば、ゴヴォルコフとヴュンツォフの場合だ」

「二人とも『オセロー』を、部分的に知った」

「一人は主人公の役だけを知り、もう一人は、古い不完全な本のために、どこを知らずにいるか、自分でも分かっていない」

〔「例えば、ゴヴォルコフが知っているのは戯曲ではなく、一つの役だ」

「その役は素晴らしい」

「彼は大喜びし、その役を頼りに、戯曲全体もよいはずだと判断する」

「『オセロー』のような天才的な作品なら、それでもよい」

「だが、よい役があるのに戯曲自体はひどい作品も、多くある。『キーン』『ルイ十一世』『インゴマール』『ドン・セザール・ド・バザン』などだ」

「ヴュンツォフは、本から抜け落ちたページの代わりに、自分の好きなことを何でも入れられる」

「その想像を信じれば、それが、シェイクスピアの構想に合わない先入観になるかもしれない」

「プーシチンは、批評や注釈を読み込んでいる」

「だが、批評家は間違わないのか?」

「才能のない、くだらないことを言う者も多い。それを信じれば、戯曲へまっすぐ近づくのを妨げる先入観になる」

「列車で読んだヴェセロフスキーは、列車の印象と作品の印象を、記憶の中で混ぜてしまった」

「両者が、互いに合うはずがない」

「これもまた、先入観の土台だ」

「ウムノヴィフが、アルマヴィルの『オセロー』を思い出すのを怖がるのには、理由がある」

「その印象から、作品に対して否定的な先入観ができたとしても、私は驚かない」〕

「絵から、見事に描かれた人物を一人だけ、はさみで切り抜いたとしよう。あるいは、大きな絵画の切れ端を幾つか見せられたとしよう」

「それで、絵全体を知り、判断できるだろうか?」

「どんな間違いが起こりうることか!」

「幸い『オセロー』は、どの部分も完全な作品だ」

「だが、そうでなく、作者が主人公だけはうまく作り、ほかには見るべきものがなかったなら、一役だけで全体を判断する俳優は、戯曲全体をよく見る方向へ、誤った印象を持ってしまうだろう」

「いわば、よい方向の先入観だ」

「反対に、作者が主人公以外はすべてうまく作ったなら、誤った印象や先入観は、その役を悪く見る方向へ働き、役に対する悪い先入観となる」

「次に、こんな話をしよう」

「知り合いの女優は、若いころ『知恵の悲しみ』も『検察官』も舞台で見たことがなく、文学の授業でしか知らなかった」

「記憶に残っていたのは、作品そのものではなく、教わった、あまり才能のない教師の解釈と批評だった」

「学校の授業は、二つの古典喜劇は優れているが……退屈だ、という印象を残した」

「この誤った見方も、今話している先入観の、多くの種類の一つだ」

「幸い、その女優は、両方の作品に自分で出演することになった。何年も役を演じ、深くなじんでから、ようやく偏見のとげを心から抜き、他人ではなく、自分の目で天才たちの作品を見られるようになった」

「今では、この二つの古典喜劇に、彼女以上に熱烈な支持者はいない」

「そして、あの才能のない教師を、どれほど手厳しく責めることか!」

「君たちも『オセロー』へ間違って近づいて、同じことにならないよう、気をつけなさい!」

「学校ではこの戯曲を読まされていませんし、通り一遍の解釈も教え込まれていません」と、私たちは弁解した。

「先入観は学校だけでなく、ほかの場所でも作られる」

「例えば、初めて戯曲を読む前に、正しくも間違ってもいる、よくも悪くもある、さまざまな評判を聞き込み、読みもしないうちに作品を批評し始めたとしよう」

「私たちロシア人は、批評するだけでなく、もっと悪い、細かなあら探しへ傾きがちだ」

「作品や芸術そのものを理解し、評価するとは、欠点を見つけることだと、本気で信じている者が多い」

「実際には、美しいものへ目を向け、見いだすこと、つまり作品のよさを発見することのほうが、比べものにならないほど大切で、難しい」

「自分自身の、心を引かれる自由な作品への向き合い方と見解で身を守っていなければ、古典作品について、伝統が正しいものとして定めた世間の見方に、抗えなくなる」

「それに従わされ、『世論』の解釈するとおりに『オセロー』を理解するよう、強いられてしまう」

「新しい戯曲の朗読は、よく、声が大きく発音が明瞭だというだけで、たまたまそこにいた人へ任される」

「原稿を渡すのは、読み始める数分前だ」

「その即席の朗読者が、内側の本質も理解せず、行き当たりばったりに戯曲を読み上げても、不思議はない」

「私は、こんな例を知っている。ある朗読者が、主人公を老人の声で読んだ。だが『老人』というあだ名のその人物は、まだ若い男で、早くも人生に失望し、その呼び名を得ただけだった。そのことを朗読者は知らなかったのだ」

「こうした間違いは戯曲を損ない、誤った印象と先入観を生む」

「だが、困ったことがある!」

「模範的で、あまりにうまい、才能ある朗読もまた、朗読者独自の解釈を鮮やかに形にして伝えることで、別の種類の先入観を生みうるのだ」

「例えば、作者と朗読者の理解が、食い違っていたとしよう」

「だが、朗読者の間違いが、あまりに才能に富み、魅力的なので、俳優は作者の意図を損なってまで、それに夢中になる」

「この場合も、よい方向の先入観は避けられず、それとの戦いは苦しい」

「朗読者に夢中にさせられたものを、手放すのは難しい」

「こういうとき、俳優には逃げ道がない。一方では、朗読者の解釈で好きになったものを捨てられず、他方では、その解釈が戯曲にどうしても合わず、収まらない」

「もう一つ、例を挙げよう」

「戯曲家の多くは、自作を実にうまく読み、その朗読によって、作品に大きな成功をもたらすことがある」

「拍手喝采のあと、原稿は晴れがましく劇場へ渡され、興奮した一座は、面白い仕事を夢中で思い描く」

「ところが二度目に読むと、ごまかしに気づく。そのときの俳優たちの失望は、どれほどだろう!」

「皆を夢中にした、最も才能ある部分は朗読者のもので、本人が持って帰ってしまった。出来の悪い部分は作者のもので、原稿に残っていたのだ」

「才能に富み、心を引いたものを、どう捨てればよいのか。気をめいらせ、失望させる、出来の悪い、才能の乏しいものを、どう受け入れればよいのか」

「ここでも、素晴らしい朗読の作った、戯曲をよく見せる〔特別な〕先入観が生まれ、それと戦わなければならなくなる」

「今挙げた場合、先入観がいっそう強く、抗しがたいのは、準備のできていない聴き手の前に、戯曲家が完全武装で現れるからだ」

「この状況では、朗読者は聴き手より、比べものにならないほど強い」

「一方は創造を終え、他方はまだ始めてもいない」

「前者が後者に勝ち、後者が、強い者の影響へ、検証もせず身を委ねてしまうのは、不思議ではない。たとえ強い側が間違っていても、そうなる」

「こういう場合も、美しくはあっても先入観の支配に陥らないよう、注意しなければならない」

「だが、自分の部屋で一人で読むときにも、新しい作品へ正しく近づき、新たな先入観を作らないようにする必要がある」

「一人でいて、どう先入観ができるのか。どこから来るのか」

「例えば、個人的な嫌な印象や、読んでいる戯曲と何の関係もない不愉快な出来事から来る。何もかも悪く見える不機嫌、怠惰で無気力な、反応しない気分、その他の個人的な事情から来るのだ」

「戯曲には、内側の内容が捉えにくく、複雑で、入り組んでいるため、長く読み込み、その中で生きてみる必要のあるものも少なくない」

「イプセン、メーテルリンク、その他、リアリズムを離れ、一般化、様式化、総合、グロテスク、現代芸術にあふれるさまざまな約束事へ向かう作者の戯曲が、そうだ」

「これらの作品は、読み解かなければならない」

「最初に読むと、退屈に思える」

「絵解きの謎に向かうように、頭を懸命に働かせて近づくことになる」

「だからこそ、最初の出会いで余計な理屈を重ね、戯曲を覆ってしまわないことが大切だ。それは、退屈だという方向の危険な先入観を、たやすく作る」

「こうした作品へ、頭を使いすぎてわけが分からなくなるような、難解な推論を通して近づくことを、警戒しなさい」

「その推論は、あらゆる先入観の中でも、最悪のものになりやすい」

「理屈が絡み合うほど、創造的な体験から離れ、頭だけの演技や、過剰な演技へ導かれる」

「象徴や様式化を持つ戯曲との最初の出会いには、とくに慎重さが必要だ」

「難しいのは、直感と潜在意識に大きな役割が与えられているからだ。それらは、とりわけ初めのうち、細心の注意をもって扱わなければならない」

「象徴、様式化、グロテスクを、外から演じて見せてはいけない」

「それらは、作品の本質への内側からの近づき方、感じ方、理解と、その芸術的な形づけの結果として、生まれるべきだ」

「この仕事で理性に与えられる場所は最も小さく、俳優の直感に与えられる場所が最も大きい。その直感がひどくおびえやすいことは、君たちも知っている」

「先入観で、おびえさせてはいけない」

「でも」と、私は気になって尋ねた。「本によく書かれるように、俳優が一度に、細部の隅々まで役全体を捉え、最初に出会った瞬間に役へ引き込まれる場合も、ありますね」

「舞台の創造で、そんな霊感の閃光に、私はいちばん引かれるんです。そこには天才が、あれほど鮮やかに、魅力的に現れますから!」

「もちろん! 『小説』では、そういうことを書きたがるものだ」と、トルツォフは皮肉を言った。

「では、嘘なんですか?」

「いや、反対に、まったく本当だ。ただ、決して普通のことではない」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは説明した。

「芸術でも恋と同じように、熱中は一瞬で燃え上がることがある」

「それどころか、創造を一瞬で生むだけでなく、完成させてしまうこともある」

「『芸術におけるわが生涯』には、新しい戯曲の主役を演じる予定の二人の俳優が、最初の朗読の部屋を出るとき、これから作るはずの人物の歩き方をしていた、という例がある」

「二人は即座に役を感じただけでなく、身体にも映していたのだ」

「どうやら人生そのものが、数々の偶然の重なりによって、役に必要な創造の材料を、二人の中で育てていたらしい」

「まるで自然が、あの役を演じさせるために、わざわざ二人を作ったようだった」

「俳優と役が、未知の道を通ってすぐ一体になるのは、大きな幸運だ」

「これは、先入観の入り込む場所がない、役への直接的で直感的な近づき方の例である」

「こういう場合は、しばらく技術を忘れ、自分の創造する本性に、すべてを任せるのがよい」

「残念ながら、このような創造は、きわめてまれだ。俳優の生涯に一度あるかどうかだ」

「だから、それを規則の土台にしてはいけない」

「偶然は、私たちの創造で、とても大きな役割を果たす」

「例えば、ある戯曲や役に、すべての素質からして、そのために生まれたような俳優が、嫌悪を覚え、まったく演じられないことがある。その理由を、誰が言えるだろう」

「反対に、あらゆる点で俳優の素質に合わないはずの役に、その人が恋し、見事に成功することを、どう説明すればよいのか」

「こうした場合には、恵みとも害ともなる、偶然の潜在意識的な先入観が、隠れているのだろう。それが俳優の心で、理解できない素晴らしいものも、失敗も生むのだ」

「次は、作品への悪い先入観があっても、その内側の本質を潜在意識で感じ、舞台に表せるという例だ」

トルツォフは、また『芸術におけるわが生涯』を挙げた。新しい傾向の戯曲を理解せず、好きでもなかった演出家が、見事な舞台上の配置と動きの計画を書いた、という話である。

そこには、演出家の芸術的な本性そのものが、無意識に現れていた。

内なる創造の促しによって目覚め、語り始めたのだ。

意識とは裏腹に、新しい流れは、すでにその演出家の中で生き、劇場の空気を満たしていた。

新しい芸術の流れに、すでに染まっていた潜在意識が、意識と深く植えつけられた偏見がまだ否定するものを、演出家へ教えたのである。

「私の挙げたすべての例が示すのは、役との最初の出会いの過程には、普通に払われるより、はるかに多くの注意を向けるべきだということだ」

「残念ながら、君たちを含め、この単純な真実を自覚していない俳優は多い」

「君たちも、ひどく不利な条件で『オセロー』に初めて出会った。この悲劇について、誤った像を持ち、それが先入観になっている可能性は高い」

「お話を伺うと、つまり」と、ゴヴォルコフが口を挟んだ。「俳優は、最初の出会いを損なわないために、古典でも何でも、戯曲を読んではいけないことになりますね。ご承知のとおり、読んだ作品の役を、遅かれ早かれ任されるかもしれないのですから」

「それに俳優は、優れたものもある批評や注釈を、読んではいけない。間違った先入観に染まるかもしれないから」

「でも失礼ですが、他人の見方から身を守りきるなんて無理でしょう。新旧の戯曲の話になるたび、耳をふさぐわけにもいかない。誰が、どの作品を、いつか演じるかなんて、前もって分からないじゃありませんか!」

「まったく同感だ」と、トルツォフは落ち着いて答えた。「だからこそ、先入観を避けるのがあれほど難しいからこそ、早く学ばなければならない。一方では、できるだけ避けることを。他方では、何かの圧力を受けたとき、先入観から自分を守ることを」

「どうすれば、できるんですか?」と、私は早く理解しようと尋ねた。

「何をすればよいんですか。戯曲や役と、初めにどう出会えばよいんです?」と、生徒たちはせがんだ。

「こうするのだ」と、トルツォフは説明し始めた。「まず、何でも読み、何でも聞きなさい。戯曲も批評も注釈も、他人の意見も、できるだけ多く」

「それらは、創造の材料を与え、補ってくれる」

「ただし、自分の独立性を守り、先入観を防ぐことを、同時に身につけなければならない」

「自分の見解を作り、むやみに他人の意見に屈しないようになりなさい」

「自由でいることを、学ばなければならない」

「これは難しい技術だ。知識と経験によって、分かってくるだろう」

「その経験は、たった一つの法則では身につかない。さまざまな理論の知識、芸術の技術の実践、何よりも自分自身で深く考えること、物事の本質へ入り込むこと、長年の実践、それら全体によって身につく」

「学校にいる時間を使い、学問的な知識を増やし、覚えた理論を、戯曲や役と向き合う実際の場で使うことも学びなさい」

「そうすれば少しずつ分かってくる。新しい戯曲から受けた印象をどう整理し、誤りや余分なもの、重要でないものをどう捨て、根本をどう見つけるか。他人と自分の声をどう聞き、先入観を避け、他人のどんな意見の中でも自分自身を見失わずにいるか、ということが」

「その点では、世界の文学と、文学についての学びが、大きな助けになる」

「確かめたければ、文学の教養が豊かな人々が、新しい作品をどれほど容易につかむか、自分で見てごらん」

「すぐに戯曲の構造を捉え、中心の思想を見つけ、その展開をたやすく理解する」

「どの戯曲にも、生きた有機体のように骨格があり、手足、頭、心臓、脳がある」

「骨や椎骨の一つひとつの構造と形を学んだ解剖学者のように、文学に通じた人は、見えない骨格を見抜き、その構成部分を知る」

「すぐに見当をつけ、運動や神経の中心を見つける」

「作品をすばやく解剖し、社会的、文学的な意味を評価し、主題が正しく発展するうえでの誤り、停滞、脱線を見つける」

「文学の教養を持つ人は、戯曲への新しい独自の近づき方、内外の特徴づけ、絡み合うすべての線、登場人物や事実、出来事、筋書きの関係を、すばやく見つける」

「形式、文体、新しさや古さについて、その長所と短所を、すぐに見極める」

「こうした知識、能力、経験はすべて、作品を評価するときの指針として、とても大切だ」

「これを覚えて、学校の言語、言葉、文学の授業を、できるだけ熱心に、深く、十分に生かしなさい」

「この仕事では、前の学年で身につけた多くのことも役に立つ。とりわけ、作品の超課題と貫く行動について学んだことだ」

「ただし、文学の専門家が、私たち俳優や演出家、舞台に特有の要求を、いつも理解できるとは限らない」

「どんなに優れた文学作品でも、すべてが舞台に向くわけではない」

「舞台の求めるものは、実践では学ばれてきたが、学問として法則化されてはいない」

「私たちには、舞台の文法がないのだ」

「新しい作品の、こうした評価は、学問の協力者に頼らず、学校で教わる実践的方法だけに基づいて、自分ですることになる」

「この領域については、君たちは前の学年ですでに準備を受けている」

「君たちがすでに知っていること、あるいは近いうちに知ることへ、今日、私に何を加えられるだろう」

「話せるのは、新しい戯曲と初めて出会うとき、誤った見解や先入観を作らないために、どのように読むべきだと私が考えているか、それだけだ」

一九……年……月……日

「君たちと『オセロー』の最初の出会いが、どんなにまずかったとしても、それを考慮し、生かす必要がある。これからの仕事へ、多かれ少なかれ影響するからだ」

「最初に読んだときの記憶に、何が残っているのか、よく確かめてみなさい」

「役を組み立てるときは、最初から深く心に入り込んだものに、合わせる必要がある」

「その感覚の中に、将来の役の心の要素、本物の生活の種が隠れているかもしれない」

「戯曲や役について、何を覚えているか話してほしい。何がいちばん記憶に刻まれ、最も強い印象を与えたか。心の目で最もはっきり見え、心の耳で最もよく聞こえるのは、何か」

「悲劇の始まりは」と、私は記憶を探った。「忘れてしまいました……」

「でも今、あそこには面白い空気があったように思えました。誘拐、支度、追跡です」

「いや、違います!」

「感情よりも頭で、そう分かっているんです」

「予感はしますが、心の目で見えてはいません」

「その部分のオセロー本人も、ぼんやりしています」

「登場するところ、元老院から迎えが来るところ、出発、元老院そのものも、みな霧に包まれています」

「最初にはっきりしている瞬間は、オセローの演説です。その後は、また曖昧です」

「キプロスへの到着、そのあとの酒宴やカッシオとの争いは、すっかり忘れました」

「その先の、カッシオの頼み、将軍の帰還、デズデモーナとの愛の場面も、覚えていません」

「そのあとには、また鮮やかな光の点があります。というより、幾つもの点が、広がりながら続いています」

「さらにその先は、結末まで、また抜け落ちています」

「悲しい柳の歌だけが聞こえ、デズデモーナとオセローの死の瞬間を感じます」

「私の中に残っているのは、たぶん、それだけです」

「それだけでも、ありがたい」と、トルツォフは言った。

「個々の瞬間を感じているのなら、それを生かし、確かなものにしなければならない」

「確かなものにする、とはどういうことですか?」と、私は分からずに尋ねた。

「では、よく聞きなさい」と、トルツォフは説明し始めた。

「作品との出会いのあと、命を得た感覚のかすかな光が蓄えられている、君の心の一隅。それは私には、窓を閉めた暗い部屋のように見える」

「鎧戸に小さな隙間や穴や割れ目がなければ、その心の隅は、完全な闇に包まれているだろう」

「だが、幅の広い光、細い光、明るい光、弱い光が闇を切り裂き、あちこちに、さまざまな形の光の面を作る」

「その光と反射が、暗さを和らげる」

「置かれた物は見えなくても、輪郭のかすかな手掛かりから、察することができる」

「ここは大きな戸棚らしい。その近くにはシャンデリアが下がっていそうだ。あちらには、何か分からない影がある」

「鎧戸の穴を広げれば、光の面はますます大きくなり、それとともに照らされる部分も増え、反射も強くなるだろう」

「最後には、光が空間全体を満たし、闇を追い出す」

「隅や奥まったところにだけ、影が潜む」

「最初に戯曲を読み、その後さらに知っていく俳優の内面の状態は、私にはこんなふうに見えるのだ」

「君の中でも、初めて『オセロー』に出会って、同じことが起きている」

「戯曲のあちこちにある個々の瞬間だけが、心や記憶へ入り込んだ。残りは闇の中で、まだ心によそよそしい」

「ただ、あちらこちらに、何かの兆しがかすかに見え、それが何なのか見分けようとしても、うまくいかない」

「そんな印象や感情の断片が、闇の中の光の面、砂漠のオアシスのように、戯曲全体へ散らばっている」

「その後、戯曲と役を知り、近づくにつれ、感じられた瞬間は育ち、広がり、互いにつながって、最後には戯曲と役全体を満たすだろう」

「個々の光の点や、感じられた瞬間から役が生まれ始めるのと同じ創造の過程は、文学など、ほかの芸術にもある」

「『芸術におけるわが生涯』には、アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフの、そんな例が書かれている」

「初めに、誰かが釣りをし、そのそばの水浴小屋で誰かが泳いでいる姿が見えた。それから、ビリヤード好きの、片腕のない地主が現れた」

「次には、大きく開いた窓から、花の咲いた桜の枝が部屋へ入り込む姿が浮かんだ」

「そこから『桜の園』全体が育ってきた。初めの『ヴィーシネヴィ・サート』という響きは、すぐに『ヴィシニョーヴィ・サート』へ変わった。柔らかなヨーの音に強勢を置くほうが、当時のロシアの生活から消えつつあった、美しく、しかし役に立たない贅沢を、チェーホフにはっきり語ったからだ」

「片腕のないビリヤード好き、桜の花の枝、そしてロシアに迫る革命。その間の論理、つながり、共通点は、どこにあるのか」

「まったく、創造の道は計り知れない」

〔私のあと、ヴュンツォフが戯曲やその場面を思い出し、ページの抜けた本で初めて読むことが、いかに危険かを、はっきり示した。

彼の記憶には、存在しない、オセローとカッシオの決闘の場面が残っているらしかった。

巡演公演で作品を知るパーシャは、巡演俳優の演技の、最も派手で役者らしい見せ場を、目で覚えている。オセローが、まずイアーゴーを、次にデズデモーナを、それぞれまったく違うやり方で絞めるところ。彼女が巻いたハンカチを引き剥がすところ。ほとんど嫌悪して、愛する人から飛びのくところである。

主要な場面で嫉妬が育ち、最後には発作を起こして床を転げ回り、戯曲の終わりには自分を刺して死ぬ。その姿勢一つひとつ、身振り一つひとつを、順番に覚えている。

それらすべての瞬間が、何らかの内側への反響を伴って、視覚的に刻まれてはいるが、互いの必要なつながり、出来事と役の体験の、途切れない発展の線がない、という印象を私は受けた。

結局、シューストフがよく知っていたのは、巡演俳優のオセローの演技であって、戯曲そのものではないと分かった。

幸い、これから演じるカッシオ役には、何の記憶もなかった。巡演では、いつも三流の俳優が、ひどい演技をする役だった。

そんな演技は、カッシオが出来の悪い、影の薄い役だという誤った先入観以外、何も残さない。〕

ほかの生徒にも、印象に残る場面が同じように尋ねられた。すると、元老院でのオセローの演説、イアーゴーとの場面、死など、多くの場面が、ほとんど全員に、とりわけ強く記憶されていると分かった。

この発見から、質問が相次いだ。なぜ戯曲のある箇所は生きるのに、それと論理的に、順を追って結ばれたほかの箇所は、薄れるのか。

また、なぜある箇所は、感情の中、つまり感情記憶の中で、すぐ鮮やかに生きるのに、別の箇所は、意識や知的記憶の中で、冷たくしか生きないのか。

トルツォフは、感情や考えとの、生まれながらの親しさによると説明した。ある体験は自然に自分に近く、別の体験は遠いのである。

ただしすぐに、創造は、作品の心の本質と〔一見〕何の関係もない、偶然の、理解できない、知られざる理由からも生まれる、と付け加えた。

〔「真の作者は、才能の真珠を戯曲全体へ惜しみなく散りばめる」

「それが熱中の最良の糧であり、俳優の霊感をぱっと燃え上がらせる、燃料や火薬になる」

「本物の天才の作品の美しさは、至るところに隠れている。外側の形にも、戯曲の秘密の深みにもある」

「形の美しさ、文章や詩の文体、役の内面や外面の姿、思想の壮大さ、戯曲の社会的な意味、感情の深さなど、何にでも心を引かれうる」

「俳優の本性は、外へ開かれ、敏感で、よく応じる。芸術的に美しく、高く、心を揺さぶり、面白く、楽しく、おかしく、恐ろしく、悲劇的なもの、要するに、役の中に隠れた、生きた自然なものすべて、想像力と才能を引きつけるものすべてに応じるのだ」

「創造への熱中を呼び起こすものを、作者が戯曲の外面にしか散りばめていなければ、作品も俳優の熱中も感覚も、表面的になる。反対に、心の鉱脈が深く埋まり、潜在意識の領域に隠れていれば、戯曲も創造への熱中も体験そのものも、深くなる。深いほど、演じる人物と俳優自身の有機的な本性へ近づく」

「戯曲との出会いで心を引かれること。それが、俳優と役の個々の箇所が、内面で近づく最初の瞬間だ」

「この接近がとりわけ貴重なのは、直接的に、直感的に、有機的に生まれるからである」

「戯曲のある瞬間が、なぜ鋭く、一生消えずに、俳優の感情記憶やほかの記憶へ刻まれるのか、誰に言えるだろう!」

「偶然や一致によるのかもしれない。あるいは、俳優の本性と戯曲のある箇所の間に、自然な親しさ、有機的なつながりがあるためかもしれない」〕

一九……年……月……日

「最初の『オセロー』との出会いは、君たちの感情記憶やほかの記憶に、わずかな印象、光の点しか残さなかった」

「それを広げ、増やすために、いろいろと手を打つ必要がある……」

「まず、戯曲全体を注意深く読まなければならない」

「ただし、最初の出会いで犯した間違いは、すべて避けよう」

「作品と出会うたび守るべきことをすべて守って、二度目の読書をしよう」

「二度目を、最初の読書にするのだ」

「もちろん、多くのもの、印象の直接性や、まだ何にも触れていない新鮮さは、すでに失われ、戻らない」

「だが、心の中で何かの感覚が動き始めるかもしれない。誰にも分からないからね」

「ただし今度こそ、守るべきことをすべて守って読まなければならない」

「それは何ですか?」と、私はトルツォフに尋ねた。

「まず、どこで、いつ読むかを決める必要がある」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは説明した。

「どこで、どうすれば印象を最もよく受け取れるかは、各自が経験から知っている」

「静かな自分の部屋で戯曲を読むのを好む人もいれば、反対に、一座の皆と一緒に、人の朗読を聞くのを好む人もいる」

「どこで作品と改めて出会うにしても、大切なのは、感受性を鋭くし、芸術の印象を喜んで受け取れるよう、心を開かせる空気を周りに作ることだ」

「読書に、ある晴れがましさを持たせるとよい。日常から離れ、読んでいるものへ注意をすべて集める助けになる」

「心も身体も、元気でなければならない」

「直感と感情の生活を、何ものにも邪魔させてはいけない。それらは、知ってのとおり、とても敏感で、おびえやすいのだから」

「初めて読むときのいちばん正しいやり方は、鮮やかな人物描写で見せるのではなく、根本の本質、内面の発展の主な線、文学的な長所をよく理解したうえで、簡単に、分かりやすく伝えることだ」

「朗読者は、戯曲家の創造が始まった出発点、作者に筆を取らせた考え、感情、体験を、俳優に示す必要がある」

「最初に読むときから、朗読者は俳優たちを、戯曲家の創造の目指す主な線、役と戯曲全体という生きた有機体の、人間としての内面の生活が発展する主な線へ、導かなければならない」

「俳優が役の心の中に、自分自身、自分の心の一片を、すぐ見つけられるよう助けるのだ」

「それを教えることは、私たちの芸術を理解し、感じることを教えることだ」

「この本全体が、その試みをしている」

「では、戯曲と部分的にしか一体になれない場合や、俳優と役の間に、心の共通の接点がまったくない場合は、どうすればよいのか」

「最初の出会いのあと、役にすっかり捉えられ、一体になることが自然に起きなければ、いつでも大きな仕事が必要になる。創造に欠かせない、俳優の熱中を準備し、生み出す仕事だ」

「俳優の熱中は、創造の原動力である」

「熱中に伴う歓喜は、敏感な批評家であり、深く見通す探究者であり、意識には届かない心の深みへの、最もよい案内人だ」

「だから、初めて戯曲や役に出会ったあとは、俳優としての歓喜を、長く、たっぷり自由にさせてほしい。互いにそれをうつし合い、戯曲に夢中になり、全体でも部分でも読み返すとよい。好きになった箇所を思い出し、新しい真珠や美しさを次々と教え合えばよい。議論し、叫び、興奮し、自分や他人の役、上演を夢見ればよい」

「歓喜と熱中は、戯曲や役へ近づき、知り、親しむための、最もよい手段だ」

「芸術への歓喜と熱中で目覚めた俳優の創造する感情は、無意識に、しかし熱心に、役全体を手探りし、心の深みへ直接通じる道を探す。その道は目に見えず、耳に聞こえず、理性にも気づかれない。ただ、外へ開かれた俳優の感情が、無意識に察するのだ」

「自分の感情、意志、理性を引きつけられることは、俳優の才能の一つの性質であり、内面の技術の主要な課題の一つだ」

トルツォフの話をすべて聞いたあと、一つの疑問が生じた。誰もが知る悲劇『オセロー』は、役との最初の出会いの過程を学ぶのに、ふさわしいのだろうか。

出会いが最初のものであるためには、戯曲は広く知られていてはいけない。

広く知られていれば、出会いも読書も、最初ではなく、二度目、十度目、二十度目になる。

これを根拠に、ゴヴォルコフを先頭に生徒たちは、『オセロー』はこれからの仕事には向かないと結論した。私はひどくがっかりした。

だが、アルカージー・ニコラーエヴィチは、別の見方をした。

すでに損なわれた印象を新しくする仕事は、もっと複雑になり、そのぶん技術の役割も、複雑で繊細になるというのだ。

だから、知らない新作ではなく、皆が知る『オセロー』という、より難しい材料で過程の技術を学ぶほうが、実際的で役に立つと、トルツォフは考えた。

こうした理由から、トルツォフは学校の「役に取り組む」授業のための作品として、もう一度『オセロー』を選ぶと確認した。

* * *

アルカージー・ニコラーエヴィチは、あらかじめ示した方法と計画で、戯曲を読み始めた。

〔トルツォフの読み方を、何と呼び、どう説明すればよいのだろう。

彼には、芸術的に見せるという課題はなかった。

反対に、できるだけそれを避けていた。自分の個性から何かを聴き手に押しつけ、よくはあっても他人のものである先入観、あるいは悪い先入観を、作らないためだった。

彼の読み方を報告と呼びたくはない。その言葉からは、普通、乾いたものを思い浮かべるからだ。

戯曲の説明だったのかもしれない。

確かに、彼は作品に重要だと思う美しさや線を際立たせるだけでなく、ときには朗読を中断し、それを説明した。

何よりも、アルカージー・ニコラーエヴィチは、戯曲の筋と構造を、できるだけよく伝えようとしているように見えた。

実際、以前は気づかず通り過ぎていた多くの場面や箇所が、今は生き始め、本来の場所と役割を得た。

トルツォフ自身は、読んでいるものを体験してはいなかった。だが、感情の参加を必要とする箇所を、ほのめかし、指し示していた。

文学的な美しさは、丁寧に示した。

そのために読むのを止め、ある文章、表現、比喩、個々の言葉を、繰り返すこともあった。〕

しかし、望んだことをすべて達成したわけではなかった。

例えば、戯曲家の出発点を明かすことはできず、私は、シェイクスピアに何が筆を取らせたのかを、理解できなかった。

トルツォフは、オセロー役の中に自分自身を見つけるところまでは、助けてくれなかった。

それでも、進むべき戯曲の方向、何かの線は、感じられた気がした。

さらに、戯曲の最も大切な段階を、かなり鮮やかに示してくれた。

例えば、以前は冒頭の場面を感じられなかった。だが今は、彼の朗読と、ところどころに添えた説明のおかげで、戯曲の構造の巧みさが分かった。

経験の浅い戯曲家は、執事と女中、あるいはわざとらしく出くわした二人の農民などを前舞台へ出し、会話で素朴に、退屈な状況説明をさせる。シェイクスピアはその代わりに、面白く重要で、行動のある出来事を、一つの場面として作る。

イアーゴーが騒ぎを起こそうとするのに、ロドリーゴが頑固に抵抗するのだ。

説得しなければならず、その説得の理由が、まさに戯曲への導入となる。

こうして一石二鳥となる。退屈を避け、幕が開いた最初の瞬間から、舞台の行動が動き始める。

その先でも、筋そのものが展開すると同時に、戯曲の状況説明が、巧みに補われていく。

元老院へ出発し、到着する場面が、そうなっている。

この場面の終わり、つまりイアーゴーの悪魔的な計画が生まれるところも、明らかになった。

その続きとして、キプロスの酒宴で、カッシオとの会話を通してイアーゴーの計画が展開する、同じような場面も、私には開けてきた。

極限まで広げられた騒ぎは、征服された人々の感情が鋭く高ぶる危険な瞬間に、カッシオの罪を重くした。

トルツォフの朗読には、酔っ払い二人の単なるけんかではなく、はるかに大きなもの、すなわち土地の人々の反乱の兆しが感じられた。

これらすべてが、舞台で起こることの意味を大きくし、場面の規模を広げ、以前は見過ごしていた箇所で、私の心を揺さぶった。

朗読の最も大切な成果は、互いに戦うオセローとイアーゴーの、二つの主な線が見えてきたことだと思う。以前は最初の一本、愛と嫉妬の線しか感じていなかった。

今はイアーゴーの線として明確になった、鮮やかな対抗する力。それがなかった以前の線は、この対抗する力が強まった今ほどの意味を、持っていなかった。

私は、固く結ばれた悲劇の結び目を感じ、恐ろしいものを予感した。

今日の朗読には、もう一つ大切な成果がある。戯曲の中に、大きく勢いよく動くのに十分な、広い空間があると感じさせてくれたのだ。

その動き自体は、まだ感じられない。作者の言葉の下に隠された、すべてを引き寄せる最後の内面的な目的が、まだ見えていないからだろう。

それでも、戯曲の中には内的な行動が煮え立ち、まだ姿の定まらない、大きく重要で、すべての人に関わる目的への動きがあると、分かる。

朗読のあと、自分の中で開けてきたことは、これで全部挙げたと思う。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、朗読の成果に満足していた。

「示した計画が、すべて果たせなくてもかまわない。最初に読んで得たわずかなものに、幾らか加えることはできた」

「光の面が、少し広がったのだ」

「二度目を読み終えた今、君たちに期待することは、ごくわずかだ」

「悲劇の出来事の線全体、いわゆる筋書きを、順番に話してほしい。そして君は」と、私に向き直った。「いつもの記録係として、語る人の言うことを書き留めなさい」

〔「まず、すべてを整理して、戯曲の正しい線を示す必要がある。それは全員に欠かせず、それがなければ戯曲そのものがないという線だ」

「戯曲には骨格がある。それを曲げると、ゆがんだものになる」

「骨格が身体を支えるように、まずこの骨格が君たちを支えなければならない」

「戯曲の骨格は、どう見つければよいのか」

「私は、次の方法を勧める」

「私の問いに答えなさい。『何がなければ、どんな条件、出来事、体験などがなければ、この戯曲は成り立たないか?』」

「オセローとデズデモーナの愛がなければ、成り立ちません」

「ほかには?」

「二つの民族の不和がなければ」

「確かに。だが、それがいちばん大切なことではない」

「イアーゴーの悪意ある企みがなければ」

「ほかには?」

「彼の悪魔的なずるさ、復讐、野心、恨みがなければ」

「ほかには?」

「野蛮人の、人を信じやすい心がなければ……」

「では、君たちの答えを一つずつ見ていこう」

「例えば、何がなければ、オセローとデズデモーナの愛は成り立たないか?」

私は答えられなかった。

アルカージー・ニコラーエヴィチが、代わりに答えた。

「若い美女のロマンチックな陶酔、ムーア人の武勲についての、心を引く、おとぎ話のような物語。不釣り合いな結婚を前に立ちはだかり、高ぶりやすい、反抗的な少女の感情を燃え上がらせる、多くの障害。それらがなければ、成り立たない」

「祖国を救うため、〔ムーア人〕と貴族の娘との結婚を認めざるを得なくする、突然の戦争も必要だ」

「では、何がなければ、二つの民族の不和は成り立たないか?」

「ヴェネツィア人の気取り、貴族の高慢、征服した人々への軽蔑。オセローも、その征服された民族の一つに属している。白い肌と黒い肌が交わるのは侮辱だという、心からの思い込み。それらがなければ、成り立たない……」

「では、イアーゴーの悪意ある企みには、何が欠かせないだろうか……」

「戯曲とその骨組みに欠かせない、これらすべてのものは、演じる一人ひとりにとって、必ず守るべきものだと思うか?」

「そう思います」と、私たちは認めざるを得なかった。

「ならば、君たちにはもう、しっかり定まった一連の条件がある。それを指針としなければならない。それらが、道標のように君たちを導いてくれる」

「作者の与えたこれらの状況は、すべての人に必須であり、何よりも先に、役の楽譜へ入る」

「だから、しっかり覚えておきなさい」〕

Ⅱ.〔役の〕人間としての身体の生活を作る

〔「戯曲と役へ内側から近づく、最も直接的で自然で直感的な道を探し続けると、新しい方法に出会う。今度は、思いがけない、普通とは違う方法だ。君たちに、それを示そう」

「私の方法は、内面と外面の緊密な結びつきに基づいている。私たち人間の身体の生活を作ることで、役を感じることを呼び起こすのだ」

「実際の例で説明しよう。一度には見せられないが、何回かの授業を通して示せる」

「そのために、ゴヴォルコフとヴュンツォフは舞台へ出て、『オセロー』の第一場、ブラバンショーの館の前の、ロドリーゴとイアーゴーの場面を演じなさい」〕

「どうして、いきなり演じられるんです?」と、生徒たちは戸惑った。

「全部は無理でも、幾らかはできる」

「例えば、場面の初めに、ロドリーゴとイアーゴーが出てくる」

「だから、出てきなさい」

「次に二人は、騒ぎを起こす」

「君たちも、そうするのだ」

〔「でも、それは戯曲を演じるとは言いません」

「そう考えるのは間違いだ。それこそ、戯曲に沿って行動することなのだ」

「確かに、まだ上の層だけではある」

「だが、ごく単純な身体的課題を、人間らしく実行するなら、それは難しい。ほとんど最も難しいことなのだ」〕

ゴヴォルコフとヴュンツォフは、心もとない足取りで袖へ入り、すぐに前舞台へ出てくると、その先をどうすればよいか分からず、プロンプターの小屋の前で止まった。

「そんなふうに通りを歩くものかね?」と、トルツォフは批判した。

「それは俳優が舞台を『練り歩く』やり方だ」

「だが、イアーゴーとロドリーゴは俳優ではない」

「観客に『見せる』『楽しませる』ために来たのではない。そもそも、楽しませる相手もいない」

「通りには誰もいない」

「通りは空っぽで、家の中では皆が眠っている」

ゴヴォルコフとヴュンツォフは、同じようにもう一度出てきて、また前舞台で止まった。

「役ごとに、歩くこと、立つこと、座ることを、最初から学び直さなければならないと言ったろう。どれほど正しかったか、分かるね」

「では、学ぼう!」

「舞台上の位置関係は、よく分かっているか?」と、トルツォフは尋ねた。

「ブラバンショーの館は、どこだ?」

「自分たちが思い描く、大まかな配置を作ってごらん」

「館は、ここ……通りは、ここ!」と、ヴュンツォフは椅子で舞台装置を組んだ。

「では、いったん引っ込み、もう一度入りなさい!」と、トルツォフが指示した。

二人は従ったが、熱心になりすぎたせいで、歩き方は最初よりも、さらに不自然になった。

「なぜまた前舞台へ練り歩いてきて、館に背を向け、こちらを向いて立つのか、分からない」と、トルツォフは言った。

「そうしないと、ご覧のとおり、客席に背を向けることになります」と、ゴヴォルコフは説明した。

「それは、絶対だめです!」と、ヴュンツォフも同意した。

「誰が、館を奥へ建てろと言ったのだ!」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは指摘した。

「では、どこへ?」

「右か左、できるだけ前舞台に近いところだ」

「そうすれば館を向いて、私たちには横顔を見せられる。自分たちが少し奥へ下がれば、こちらへ斜めに顔を見せられる」と、トルツォフは説明した。

「舞台の制約を扱い、乗り越える力を持たなければならない」

「舞台の制約によって、俳優は役の大切な瞬間に、できる限り顔が見えるよう立たなければならない」

「この条件は、動かせないものとして受け入れる必要がある」

「俳優ができるだけ客席へ向く必要があり、その位置を変えられないのなら、舞台装置の位置と舞台の配置を、それに応じて変えるほかない」

「それでよい!」と、椅子が客席から見て右側へ移されると、アルカージー・ニコラーエヴィチはうなずいた。

「俳優は一人ひとり、自分自身の演出家でなければならないと、何度も言ったのを覚えているね」

「今が、その言葉を裏づける例だ」

「では、なぜそこに立って、椅子をじろじろ見ているのか?」

「それはブラバンショーの館を表している」

「君たちが、ここへ来た目的である対象だ」

「対象は、じっと見つめるためだけにあるのかね?」

「対象に関心を持ち、課題で結びつき、行動を呼び起こさなければならない」

「そのためには、知ってのとおり、自分へ問えばよい。『もしこの椅子が館の壁で、私たちが騒ぎを起こしに来たのなら、自分は何をするだろう?』」

「まず窓を全部見ます。どこかに明かりが見えないか。見えたら、起きているということです。だから、その窓へ向かって叫びます」

「筋が通っている!」と、アルカージー・ニコラーエヴィチはヴュンツォフを励ました。

「窓が暗かったら、どうする?」

「別の窓を探します。小石を投げたり、音を立てたりして起こします。耳を澄まし、扉をたたきます」

「ほら、することが、ごく単純な身体的課題が、こんなに集まったではないか! それをやってごらん!」

アルカージー・ニコラーエヴィチは、そう励ました。

「では、君たちの役の楽譜を、論理的な順序に沿う身体的課題として、こう整理しよう」と、トルツォフは言った。

「1.まず入ってきて、周囲を見回し、誰にも盗み聞きされたり、のぞかれたりしていないと確かめる」

「2.それから、館の窓を全部見る。明かりはないか。その向こうに住人の姿が見えないか」

「誰かが立っているように思えたら、自分たちへ注意を引きつけようとする」

「そのためには、叫ぶだけでなく、動いたり、手を振ったりする必要がある」

「場所や窓を変えて、同じ観察と確認を繰り返す」

「その行動を、身体で真実を感じ、身体で信じられるほど、生活そのままの簡単さ、自然さへ持っていく」

「何度も試して、誰にも聞こえていないと分かったら、もっと強く、思い切った手段を考える」

「3.小石をたくさん集め、窓へ投げる」

「もちろん、全部が当たるわけではない。当たったら、住人が誰か窓に現れないか、じっと見張る」

「一人でも起こせばよい。その人が、ほかの皆を起こしてくれる」

「この手は、すぐには成功しないだろう。だから、別の窓でも繰り返す必要がある」

「今度も無駄だったら、さらに強い手段、行動を探す」

「4.叫び声を助けるため、物音や、たたく音を強めてみる」

「手を使って拍手し、玄関の石段を足で踏み鳴らす」

「あるいは扉のそばまで行く。そこには、現代の呼び鈴の代わりに、扉をたたく金具が下がっている」

「その金具で鉄の板を打つか、重い取っ手を動かす」

「棒を見つけて、何かをたたいてもよい」

「それでも音は大きくなる」

「5.目も使う。窓の雲母板や鍵穴から、のぞく」

「耳も使う。扉や窓の隙間へ当て、注意深く聞く」

「6.さらに積極的に動くことを求める、もう一つの状況を忘れてはいけない」

「この夜の騒ぎの中心となるべきなのは、ロドリーゴなのだ」

「だが彼はイアーゴーに腹を立て、すねて、何もしない。だからゴヴォルコフは、この頑固者を説得し、企んだ挑発へ最も積極的に参加させなければならない」

「これはもう単なる身体的課題ではなく、基本的な心理の課題だ」

「これら大小の課題と行動すべてに、小さくても大きくても、身体的な真実を探しなさい」

「それを感じれば、身体的な行動が本物であると信じる力も、小さくても大きくても、すぐにひとりでに生まれる」

「私たちの仕事で、信じる力は、感情と、その直感的な体験を動かし、呼び起こし、誘い出す、最もよいものの一つだ。信じれば、課題と行動が、本物で、生きていて、目的にかない、成果を生むものへ変わったと、すぐに感じるだろう」

「そんな課題と行動から、途切れない線ができる」

「だが何より大切なのは、ごく小さくてもよいから、幾つかの課題と行動を、最後まで信じきることだ」

「椅子のそばに立って、ただじろじろ見続けるなら、その無理強いは、必ず最悪の芝居の嘘へ導く」

「袖へ入り、もう一度出てきて、決めた課題と行動の線を、できる限りよく実行しなさい」

「役のこの小さな区切りに、真実と、それを信じる力が芽生えると感じるまで、繰り返し、直していくのだ」

ゴヴォルコフとヴュンツォフは袖へ入り、一分ほどで戻ってきた。椅子の前を、せわしなく行き来し、手のひらを目にかざし、上の階をのぞくつもりで、爪先立ちになった。

すべてがひどくせわしなく、役者くさかった。

アルカージー・ニコラーエヴィチが止めた。

「君たちの行動のどこにも、ごく小さなものさえ、真実が一つもできていない」

「嘘ばかりだから、いつもの芝居の約束事や紋切り型、行動の非論理性や順序のなさへ、すっかり流されたのだ」

「最初の嘘は、落ち着きなく動きすぎることに現れた」

「決めた課題を果たすのではなく、私たちを楽しませようと、懸命になりすぎるからだ」

「実生活では、どんなことも、はるかに落ち着いて、最後まで行う」

「舞台で見せるときのように、課題を雑に済ませ、丸めてしまうことはない」

「現実で速いテンポが現れる仕方は、まったく違う」

「舞台の俳優のように、行動そのものを急かさない」

「行動には、それを果たすのに必要なだけの時間を、きちんとかける」

「その代わり、小さな課題を一つ終えて、次へ移るとき、迷って無駄な一秒を失ったりはしない」

「君たちは、行動の最中も、終わったあとも、せかせかしていた」

「だから、精力的な行動ではなく、役者の慌ただしさになったのだ」

「生活では、活力があるほど、きちんと仕事をする。舞台では逆に、役者らしく活発に『行動』するほど、課題も行動も雑になる」

「なぜ、そうなるのか?」

「見せるだけの俳優には、本当は課題など、一つも必要ないからだ」

「自分の課題は一つだけ。観客に気に入られることだ」

「だが作者と演出家は、役として決まった行動をしろと言った。だから君たちは、ただ『する』ためにする。何が得られるかは、どうでもよいのだ」

「しかし、ロドリーゴとイアーゴーにとって、計画を果たせるかどうかは、決してどうでもよくない」

「反対に、二人の人生が懸かっている」

「だから、窓の明かりを探し、そこへ叫ぶのは、椅子の周りでせわしくするためではない。家の住人との、本当の、生きた、近い交流を見つけるためなのだ」

「たたき、叫ぶのは、観客の私たちや自分たちを興奮させるためではない。プーシチン演じるブラバンショーを起こすためだ」

「狙いは、館の厚い壁の向こうで眠る人々へ定めなければならない」

「その壁へ、自分の意志の発信を浸透させるのだ」

演じる二人がトルツォフの指示どおりに行動できると、観客の私たちは、その行動が本物だと信じた。

だが長くは続かなかった。客席という磁石が、すぐに二人の注意を引き寄せたからだ。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、舞台上の対象へ二人をしっかり結びつけようと、あらゆる方法で助けた。

「二つ目の嘘は、頑張りすぎていることだ」

「舞台では加減を失いやすいと、何度も話した。だから俳優は、出しているものがいつも足りず、大勢の観客には、もっとたくさん与えなければと思い込む」

「それで、力を振り絞って頑張る」

「本当は、まったく逆にするべきなのだ」

「今述べた舞台の性質を知り、舞台では、していることを足したり強めたりするのではなく、反対に、四分の三以上、減らすべきだと、いつも覚えておきなさい」

訳注

底本の分数表記が崩れているため、別の電子化本文と、続く「七五〜九〇パーセント」に基づき「四分の三」と読んだ。

「身振りや行動を一度したら、次からは七五〜九〇パーセントを削るのだ」

「前の学年、筋肉を緩めることを学んだとき、どれほど余計な緊張があるかを見せた。君たちは、その多さに驚いたね」

「三つ目の嘘は、行動に論理と順序がないことだ」

「そこから、最後までやりきることや、落ち着きの欠如も生じる……」

ゴヴォルコフとヴュンツォフは、場面全体を最初から演じ始めた。アルカージー・ニコラーエヴィチは、自分自身を心から信じられる真実へ、身体的な行動を持っていくよう、鋭く見守った。

わずかでも間違った方向へそれると、止めて直した。

「ヴュンツォフ」と、彼は注意した。「君の対象は舞台ではなく、客席にある!」

「ゴヴォルコフ! 対象が自分自身になっている。それはいけない。自分に見惚れてはいけない!」

「急ぎすぎだ」

「それは嘘だ!」

「中で起きていることを、そんなに早く見たり聞いたりできない」

「時間と集中がたっぷり要る」

「歩き方が大げさで、偽りだ!」

「芝居くささに引っ張られる」

「もっと単純に、自由に!」

「今していることのために、歩きなさい」

「プーシチンのためだ。自分のためでも、私のためでもない!」

「筋肉を緩めて!」

「頑張らなくてよい!」

「見せかけの美しさも、ポーズもいらない!」

「紋切り型を、本当の行動と混同してはいけない」

「紋切り型は、成果を生まず、目的にもかなわない」

「すべてを課題のために!」

アルカージー・ニコラーエヴィチは、習慣をつけ、訓練し、彼の言葉でいえば、場面の楽譜の「正しい型」を作ろうとしていた。

私たちが、型を植えつけるのかと驚きを示すと、トルツォフは言った。

「型には、悪いものだけでなく、よいものもある」

「役の正しい線を支える、しっかり身についた習慣が、よい型と呼べるところまで達したなら、それはとても役に立つ」

「例えば、公演のため劇場へ来たら、俳優に必要な練習をすべて行い、役の楽譜の全課題、貫く行動、超課題を見直して、新鮮にする。それが型として身についても、悪いことだとは少しも思わない」

「役の楽譜を、数学のように正確に実行する習慣が型になっても、私は反対しない」

「正しい、本物の体験が型になることにも、反対しない」

大変な仕事を長く続けたあと、冒頭の騒ぎの場面は、整ってきたように思えた。

だがトルツォフは満足せず、役の課題を果たす一つひとつの行動や動きに、はるかに大きな真実と、本物の有機的な単純さ、自然さを求めた。

いちばん手こずったのは、大げさで不自然な、ゴヴォルコフの歩き方だった。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、彼に言った。

「歩くこと、とりわけ舞台へ出てくることは難しい」

「それでも、芝居じみた型どおりの歩き方を受け入れてはいけない。それは嘘だからだ。それが残っている限り、ほかのすべてにも、本当の真実は生まれない」

「自分の行動を、本当に信じることもできない」

「身体の本性は、どんなに小さくても、無理強いを一つも信じない」

「筋肉は命じられたことをするが、それで必要な心身の状態ができるわけではない」

「そのとき、ごく小さな嘘が一つあるだけで、ほかの真実全体を壊し、毒してしまう」

「行動がすべて正しくても、『たった一つのしみが……ふと紛れ込めば、もう大変だ!』。課題と行動の全体が、気づかぬうちに、俳優の嘘や大げさな演技へ変わってしまう」

「『芸術におけるわが生涯』には、こんな例がある」

「有機物の入ったレトルトに、別の有機物を注ぐとする」

「それらは混ざり合う」

「だが、人工的な化学物質を、ほんの一滴落とせば、液体全体が駄目になる」

「濁り、沈殿や浮遊物が現れ、分解の兆しが出る」

「型どおりの作った歩き方は、その一滴と同じで、俳優のほかのすべての行動を損ない、崩してしまう」

「俳優は真実を信じなくなる。信じる力が失われると、全体の心身の状態を作るほかの要素も変わり、型どおりの俳優の状態になってしまう」

アルカージー・ニコラーエヴィチには、ゴヴォルコフの芝居風の歩き方を特徴づける、脚のこわばりを取ることができなかった。

この一つの無理が、ほかの多くの悪い演技の習慣へ押しやり、人間としての自分の行動を心から信じることを、妨げていた。

「しばらくは、歩くことを君からすっかり取り上げるほかない」と、トルツォフは決めた。

「どういうことです!……失礼ですが、ご存じのとおり、一か所に石像みたいに立っているわけにはいきません」と、わが見せる役者は反対した。

「ヴェネツィアの人が、みな石像だというのかね。あちらでは、歩くより、ゴンドラに乗るほうがずっと多い」

「とくに、ロドリーゴのような金持ちはそうだ」

「だから君たちも、舞台を練り歩く代わりに、ゴンドラで運河を進みなさい」

「そうすれば、石像のように立つ暇などない」

この案に、ことさら夢中で飛びついたのは、ヴュンツォフだった。

「もう絶対、歩きません」と繰り返しながら、子供の遊びそのままに、椅子でゴンドラを囲って作った。

椅子で輪郭をはっきり決めたゴンドラの中に入ると、俳優たちは、小さな注意の輪の中にいるように、居心地よく感じた。

さらに、内側には、することや小さな身体的課題が多く見つかり、客席から注意をそらして、舞台へ向けさせた。

ゴヴォルコフは、ゴンドラを漕ぐ者の位置についた。

長い角材を櫂の代わりにして、漕いだ。

ヴュンツォフは、舵を取る位置に座った。

二人は進み、岸へ寄せ、舟を結び、それからまた岸を離れた。

初めのうちは、この行動をするためだけに行動していた。二人が、行動や身体的課題そのものに夢中になったからだ。

だが、ほどなくアルカージー・ニコラーエヴィチの助けで、舟遊びから、戯曲にとってもっと大切な、夜の騒ぎへと、注意を移せた。

トルツォフは、たどった身体的課題の線をしっかり「ならす」ため、何度も繰り返させた。

それから、その稽古中の場面の課題の線を、さらに先へ伸ばし始めた。

だが、想像上の窓にプーシチンが姿を現したとたん、ゴヴォルコフ〔とヴュンツォフ〕は、その先どうすればよいか分からず、黙り込んだ。

「どうした?」と、トルツォフは尋ねた。

「言うことがないんですよ! 台詞がありません」と、ゴヴォルコフが説明した。

「だが、考えと感情はある。自分の言葉で表せるはずだ」

「大切なのはそれであって、言葉そのものではない」

「役の線は、台詞そのものではなく、その下を流れる内なる意味に沿って進む」

訳注

「内なる意味」は、台詞の下にある考え、感情、意図の流れを指す。原語は「подтекст」(サブテキスト)。

「しかし俳優は、その内なる意味の深い層まで掘るのを面倒がる。だから、外側の形式的な言葉の上を滑るほうを好む。内面の本質へ掘り下げる力を使わず、機械的に言えるからだ」

「でも失礼ですが、自分のではない、まだ知らない役で、考えをどんな順に言うかなど、覚えていられません」

「覚えていないとは、どういうことだ! つい先ほど、戯曲全体を読み直して聞かせたではないか」と、トルツォフは声を上げた。

「もう忘れてしまったのか?」

「大筋だけなら、覚えていますよ。イアーゴーが、ムーア人にデズデモーナが連れ去られたと告げ、逃げた二人を追うよう提案します」と、ゴヴォルコフは説明した。

「では、告げなさい。提案しなさい! それ以上は何もいらない!」と、トルツォフは言った。

同じ場面を繰り返すと、ゴヴォルコフとヴュンツォフは、考えをとてもよく覚えていると分かった。

個々の言葉には、戯曲の台詞を記憶から借りたものさえあった。

全体の意味は正しく伝わった。作者の決めた順序とは、多少違ったかもしれないが。

これについて、アルカージー・ニコラーエヴィチは、面白い説明をした。

彼はこう言った。

「君たちは、自分で私の方法の秘密を見つけ、自分の演技で説明したのだ」

「私が台本を取り上げていなければ、君たちは頑張りすぎて、とっくに言葉を丸暗記していただろう。その下の意味へ入り込み、内なる線をたどる前に、意味を考えず、形式的に覚えてしまっただろう」

「その結果、この不自然な過程でいつも起きることが、起きただろう」

「役の言葉は、能動的な、行動としての意味を失い、機械的な体操、覚えた音を舌でしゃべるだけのものになっただろう」

「だが、私は先を見越した。役の行動の線を定めている間は、課題の実行に必要でも、まだ君たちの内から生まれていない、他人の言葉を、使えなくしたのだ」

「それで、体験していない空っぽの台詞を形式的に言う、機械的な習慣がつくのを防いだ」

「作者の素晴らしい言葉を、もっとよく使えるように取っておいたのだ。しゃべるためではなく、行動し、中心の課題を果たすために」

「その課題は、ブラバンショーを説得し、逃げた二人を追わせることだ」

「これからもまだ長い間、自分のものになっていない他人の役の言葉を、暗記することは許さない」

「まず役の主な線に、その内なる意味を、そして成果を生み、目的にかなう行動への欲求を、定着させよう」

「やがて言葉や台詞が、この仕事にとても必要になる。そのとき、その本来の務め、ただ『響く』のではなく、行動するという務めを、果たさせられる」

「私の教えをしっかり覚え、許すまでは、戯曲の本を開かないようにしなさい」

「まず長い習慣によって、役の線にできた内なる意味を、確かなものにするのだ」

「言葉そのものは、行動の道具、役の内面の本質を外へ具現する手段の一つにすればよい」

「ブラバンショーを説得するという課題を、最もよく果たすため、役の言葉が必要になるまで待ちなさい」

「その瞬間、作者の言葉は欠かせないものになり、君たちは喜んで受け取るだろう。アマティのヴァイオリンを手にした奏者のように。それなら、自分の内側、感情の奥で生き、心を揺さぶるものを、最もよく表せるのだ」

「役の本当の課題の線になじむと、やがて分かるだろう。シェイクスピアの書いた天才的な言葉以上に、それを果たすよい手段は、見つからないということが」

「そのとき君たちは、夢中で言葉をつかむ。言葉は新鮮で、使い古されず、役の準備や下稽古によって香りを失うこともなく、手元へ届く」

「だから、二つの大切な理由から、台詞の言葉を守りなさい。一つは使い古さないため。もう一つは、心を失った丸暗記の言葉を機械的にしゃべるだけの演技を、内なる意味の主な線へ押し込まないためだ」

「そんなおしゃべりが役の線へ入り込むと、役の内なる意味を織り上げる、生きた人間の創造の促しを、すべて毒し、殺してしまう」

生まれたばかりの内なる意味の線を、よく「ならし」、前の線と一体にするため、アルカージー・ニコラーエヴィチは二人に、身体的・基本的な心理的課題と行動に沿って、場面全体を何度か演じさせた。

新しくできた役の線には、まだうまくいかないところがあり、アルカージー・ニコラーエヴィチは、その理由を説明した。

「君たちは、説得する過程の本性を、まだ理解していない」

「感情を表すときは、その自然な働きを考慮しなければならない」

「不愉快な知らせなら、人は本能的に、内側の防御の『緩衝材』をすべて前へ出し、迫ってくる不幸から身を守ろうとする」

「ブラバンショーも同じだ。告げられたことを、信じたくない」

「自己保存の感情から、この夜の騒ぎは、酔った遊び人のせいだと考えるほうが、楽なのだ」

「彼は相手を罵り、追い払おうとする」

「それで、説得する側の課題は難しくなる」

「どうすれば信じてもらえ、できてしまった偏見を取り除けるか?」

「どうすれば、娘が連れ去られたことを、気の毒な父親の目に、現実の事実として映せるか?」

「彼には、現実を信じることが恐ろしいのだ」

「人生全体をひっくり返す重い知らせは、一度に受け止められるものではない。劇場の俳優のようにはいかないのだ。何も知らない間は楽しく落ち着いているのに、知りもしないうちから、もう身をもだえ、息苦しさにシャツの襟を引き裂く、というわけにはいかない」

「生活では、この転換は、順序と論理のある一連の瞬間、幾つもの心理的な段階を通って起きる。それらをたどって、起きた恐ろしい不幸を自覚するのだ」

アルカージー・ニコラーエヴィチは、この転落を、互いから順に生まれる課題へ分けた。

「1.初め、ブラバンショーは、心地よい眠りを妨げた酔っ払いに、ただ腹を立て、罵る」

「2.酔っ払いのたわ言が、一家の名誉を汚すことに憤る」

「3.告げられた恐ろしい知らせが、真実に近づくほど、信じることに強く抵抗する」

「4.だが、ある言葉や言い回しが心へ届き、深く傷つけた」

「そのため、迫ってくる不幸を、ますます強く押しのけようとする」

「5.新しい、説得力のある証拠が出る」

「もう押しのけられない。あまりに確かな証拠だ。人は、自分が飛び込まなければならない深淵の縁へ、連れてこられたようになる」

「知らせを信じる前に、最後の、運命を決める戦いが起こる」

「6.彼は信じた」

「深淵の底へ身を投げた」

「新しい状況で、足場を探らなければならない!」

「何を頼りに生きるのか!」

「何につかまればよいのか!」

「何かをしなければ!」

「この状況では、何もしないことが、いちばん恐ろしい」

「7.ついに、することが見つかった」

「走れ、追いつけ、復讐しろ、町じゅうを起こせ!」

「自分の宝を救うのだ!」

プーシチンは、文学の勘を持つ人だ。

内なる意味の正しい線をたどる。ただし、感情そのものではなく、理性の思考の線である。

だから、彼とは言葉のことで争う必要がなかった。

自分の言葉で考えを表すために、言葉は容易に見つかった。場面の内面的な意味を理解していたので、いつも考えの主な線を進んでいた。

トルツォフは、考えの順序と論理については、戯曲の台詞と食い違いがないと認めた。ただ、自分で選ぶ言葉が、いつも的確で巧みだったわけではない。

ゴヴォルコフとヴュンツォフも、プーシチンがはっきり示す、しっかりした文学の線に沿って、ついていきやすくなった。

場面はすぐに、しかもかなりよく、進み始めた。

ただ、ゴヴォルコフが邪魔をした。

ゴンドラから飛び出し、また舞台を歩き始めたのだ。

だが、アルカージー・ニコラーエヴィチが、イアーゴーには姿を見せる理由がないと、思い出させて抑えた。

反対に、誰だと知られないよう、どこかに隠れ、潜んだ場所から叫ぶ必要がある。

では、どこへ隠れるか。

このために、船着き場、館への通路、正面玄関の造りや配置を、長く相談した。

隠れるのに都合のよい角や柱が、欲しかった。

さらに、イアーゴーが気づかれずに去るところも、長く稽古した。ゴヴォルコフが、また役者らしく「練り歩き」始めたからだ。

一九……年……月……日

今日は、群衆の場面の稽古だった。

これまでの授業では後ろに行儀よく座っていた、かなり人数の多い劇場の協力者たちが、今日は最前列へ進んできた。

以前から皆、その規律に驚いていた。今日はそれだけでなく、仕事への態度、働く力、知識にまで驚かされ、心を打たれた。

ただの協力者たちが、未来の俳優である私たちに、手本を示したのだ。

アルカージー・ニコラーエヴィチも、彼らとの仕事を楽しく、容易に感じているのが分かった。

当然だろう。彼らは自分たちで、すべてを理解している。

演出家と教師には、取り除くべき間違いや型を指摘し、定着させるべきよいところを際立たせる仕事だけが残る。

協力者たちは家で取り組み、できたものを教室へ持ってきて、確認と承認を求める。

私たちはといえば、授業ですべてを与えられるのに、受け取ったものを失い、次の授業まで持ち越すことさえできない。

アルカージー・ニコラーエヴィチの授業は、彼が質問し、協力者たちが選んだ一人が答える形で進んだ。

「戯曲は知っているか?」と、トルツォフはまず尋ねた。

「知っています!」と、軍隊のような返事が客席に響いた。

「最初の場面で、何を表し、体験することになる?」

「騒ぎと追跡です」

「その行動と状態の本性は、知っているか?」

「はい!」

「では、確かめよう」

「夜の騒ぎと追跡の場面は、どんな身体的・基本的な心理的課題や行動からできている?」

「寝ぼけながら、何が起きたかを理解します」

「誰もよく知らないことを、はっきりさせます」

「互いに尋ね、反論し、答えに納得できなければ議論します。自分の考えを述べ、同意し、根拠の弱いことを確かめたり、証明したりします」

「外の叫び声を聞くと、何事かを見て理解するため、窓を探します」

「自分の場所は、すぐには見つかりません」

「場所を確保します」

「夜に騒ぐ者たちが何を叫んでいるか、よく見て聞きます」

「誰なのかを確かめます」

「別の人だと思う者もいるので、言い合いになります」

「ロドリーゴだと分かります」

「何を叫んでいるのか、聞いて理解しようとします」

「デズデモーナがそんな無分別なことを決行したなどとは、すぐには信じられません」

「陰謀か、酔っ払いのたわ言だと、ほかの者へ説きます」

「眠らせてくれないと、騒ぐ者たちを罵ります」

「脅して、追い払おうとします」

「少しずつ、彼らが本当のことを言っていると分かってきます」

「そばの者と、最初の印象を交わします」

「起きたことを責めたり、残念がったりします」

「ムーア人を憎み、呪い、脅します」

「何をすべきか、次にどうするかを明らかにします」

「状況を切り抜ける、さまざまな方法を考えます」

「自分の案を主張し、ほかの案を批判したり、認めたりします」

「上の者の意見を知ろうとします」

「騒ぐ者たちと話しているブラバンショーを、援護します」

「復讐をけしかけます」

「追跡の命令を聞きます」

「早く実行しようと、駆け出します」

「その先の課題と行動は、それぞれの役と、館の中での仕事によって変わります」

「ある者は武器を集め、別の者は灯りを整えて部屋を照らします。鎖かたびらや鎧を着て、兜や、手に合う武器を選びます」

「互いに手伝います」

「妻や女たちは、戦争へ送り出すように泣きます」

「船頭たちはゴンドラと櫂、そのほか必要なものを用意します」

「上の者は手勢を班に分け、計画を説明し、逃げた二人を探すため、さまざまな方向へ出します」

「どこへ行き、どこで落ち合うかを説明します」

「各班の長は部下と相談し、敵と戦うよう気を奮い立たせます」

「それぞれ出発します」

「場面を長くする必要があれば、戻る理由を考え、そのために戻った新しい行動を実行します」

「これだけの戦いの場面には人数が少ないので、『周回』と『入り乱れ』を使う必要があります」と、説明役の協力者は付け加えた。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、すぐに、この特別な呼び方の意味を説明してくれた。

前者は、協力者のいろいろな組が、一つの方向へ、途切れず歩いていくことを意味する。

トルツォフは一組に、家から出て、相談し、何らかの部隊を作り、右へ去るよう指示した。

別の組は同じことをして、左へ向かう。

両方の組は袖へ入ると、すぐに同じ行動を繰り返す。ただし今度は、さっき去った人々ではなく、別の新しい部隊を作る人々として出てくる。

入れ替わりをうまく隠すには、袖へ衣装係と小道具係を置くとよい。部隊が入るたび、兜、マント、帽子、鉾槍、剣など、最も目立ち、特徴的な衣装や装備を外し、今外したものとは違うものを、代わりに羽織らせ、つけさせる。

「入り乱れ」については、こう説明した。群衆をすべて同じ方向へ動かすと、一か所へ、はっきりと向かっている印象になる。

それは組織や秩序の印象を与える。しかし二組を別々の方向へ向かわせ、出会い、ぶつかり、言葉を投げ合い、分かれ、次々と去るようにすれば、騒々しさ、混乱、慌ただしさ、無秩序の印象になる。

ブラバンショーの手勢は、組織だった軍隊ではない。

召使いたちから、その場で作られる。

だから軍隊のように統制は取れず、すべてが行き当たりばったりで、要領が悪く、慌ただしく進む。

「入り乱れ」は、その空気を作る助けになる。

「今日の稽古の準備を、誰が指導したのかね?」と、質問を終えて、アルカージー・ニコラーエヴィチは尋ねた。

「協力者のペトルーニンです。イワン・プラトーノヴィチが見てくださいました」

トルツォフは二人に礼を言い、説明役を褒め、修正なしですべてを受け入れた。そして、今述べた計画に沿うすべての課題と行動を、私たち俳優と一緒に実行しようと、協力者たちへ提案した。

彼らは一人のようにすぐ立ち上がり、少しももたつかず、整然と舞台へ向かった。

「僕たちとは違うね!」と、隣のシューストフへささやいた。

「よく覚えておけよ。僕たちへの教訓にしているんだ!」と、パーシャは答えた。

「おお、すごいや! ぴったり揃ってる!」と、ヴュンツォフは感心した。

舞台へ入ると、協力者たちはまず、課題をどうすればいちばんよく果たせるか、時間をかけ、深く集中して調整した。

急がず、集中して、場所を変えていった。館を表す椅子の前だけでなく、その後ろ、つまり家の中でも、そうした。

望む行動が見つからなければ、止まり、考え、何かを直し、うまくいかなかったところを繰り返した。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、自分で言うところの、見えるものを映す鏡の役を果たし、判断を伝えた。

「ベスパーロフ、信じられない! ドンドィシュ、よい! ヴェルン、〔やりすぎだ〕!」と、トルツォフは告げた。

驚いたのは、協力者たちが何の物も持たずに演じているのに、何をして、どんな品を身につけたり、手に取ったりしているのか、分かったことだ。

想像上の物を一つとして、いい加減には扱わなかった。

どれも最後まで、その物として使い切った。

舞台にも客席にも、教会のような、厳粛な空気が生まれた。

演じ手は声を落として話し、客席では皆、息をひそめて動かずにいた。

短い休憩の間に、アルカージー・ニコラーエヴィチは、誰が何の役を演じているのか、説明してほしいと頼んだ。

後ろに並んだ参加者が、一人ずつ順に前舞台へ進み、演じる人物を説明した。

「ブラバンショーの兄弟です」と、若くはない、美しく堂々とした人が説明した。

「追跡を組織する、いわば捜索隊の総指揮官です。活動的で厳しい人間です」

「四人の船頭です」と、美しい若者二人と、もっと普通の風貌の二人が述べた。

「デズデモーナの乳母です」と、太った年配の女性が告げた。

「連れ出しを手伝った女中二人です。逃走を準備したカッシオが、この二人と話をつけました……」

「では、身体的な行動に沿って、第一場全体を見せてほしい」

「どうなるか、見てみよう」

私たちは演じた。

幾つかの間違いを除けば、場面はうまく進んだように思えた。とりわけ協力者たちがよかった。

アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「いつもこの役の線をたどり、自分がする身体的行動の一つひとつを心から信じれば、やがて、私たちが『役の人間としての身体の生活』と呼ぶものを、作れるだろう」

「それについては前の学年で話した。今は自分の経験で、その生活がどう生まれ、形になるか、見ているわけだ」

「主要な、根本となる課題と行動の本質を、一つひとつ、もっと絞り、集中させ、まとめれば、『オセロー』第一場の、この『人間の身体の生活』の骨組みができる」

「その骨組みを作る、主な段階を挙げよう」

「第一の根本的な課題と行動は、ロドリーゴを説得し、イアーゴーを手伝わせること」

「第二は、ブラバンショーの家じゅうを起こすこと。つまり、騒ぎを起こすこと」

「第三は、追跡へ駆り立てること」

「第四は、部隊と追跡そのものを組織することだ」

「これから第一場を演じに舞台へ出るときは、今はほかのことを考えず、この骨組みの主な課題と行動を、できる限りよく実行することだけを考えなさい」

「どれも、身体的・基本的な心理的本性の面から、論理や順序の面から、確認し、分解し、学んである」

「だから今、例えば『ブラバンショーの家じゅうを起こす、騒ぎを起こす』と、骨組みのどの段階の名を私が言っても、実生活ならどうするか、その生きた行動を、どう舞台へ移すかを、君たちは知っている」

「戯曲の主な登場人物と、その中心の目的にとって、できる限り目的にかない、成果を生む行動になることだけを、気にかけなさい」

「今は、それ以上はいらない」

「ただし、始めた仕事をやめず、毎日集まって繰り返すのだ。場面全体でなくても、主な骨組みだけでよい」

「それによって、主な課題と行動を、道の標識のように、ますます強く、明確に定着させなさい」

「細部、それを成り立たせる小さな課題、実行の際の適応については、考え込まなくてよい」

「その都度、即興で行えばよい」

「恐れることはない。実行するための材料は用意してあるし、この先も絶えず、より多く、深く、十分に練っていく。骨組みの課題と行動を、ますます魅力的にするためだ」

「俳優の心を動かし、創造へ駆り立てる課題と行動だけが、よいものなのだから」

「魅力を増すために、骨組みの根本的な課題と行動を、さらに深め、練り始める瞬間から、私たちは役の創造の新しい段階へ、すぐ近くまで来ているのだ」

* * *

「では、出発点へ戻ろう。今回、君たちの役の人間としての身体の生活を作る試みを、何のためにしたのか。戯曲と役へ、内側から、最も自然に、直接的に、直感的に近づく、新しい道と方法を探すためだった」

「今、実践で身につけたことの、理論の面も理解しなさい」

「その根本原理は、分かりやすく、新しいものではない。役が内側からひとりでに生き始めなければ、外側から近づくのだ」

「身体は応じやすく、感情は気まぐれだ……」

一九……年……月……日

「演じる人物の『人間としての身体の生活』を作ることは、仕事全体の半分だ。役にも人間と同じく、身体と心の二つの本性があるからである」

「私たちの芸術の主な目的は外側にはない、何より舞台で伝える作品の『人間の内面の生活』を作ることにある、と言う人もいるだろう」

「そのとおりだ。だからこそ私は、『人間の身体の生活』から仕事を始める」

「この意外な結論の意味を、説明しよう」

「知ってのとおり、役が俳優の内側でひとりでに生き始めなければ、逆の道、外側から内側への道で近づくほかない」

「私は、そうしている」

「君たちは役を直感的に感じなかった。だから、身体の生活から始めたのだ」

「身体は物質的で、感じ取れる。命令、習慣、規律、練習に応じる。つかみどころがなく、不安定で、気まぐれで、散ってしまう感情より、扱いやすい」

「だが、それだけではない」

「私の方法には、もっと大切な条件が隠れている」

「それは、身体の生活が、必ず役の心の生活にも響くということだ。もちろん、俳優が舞台で本当に、目的にかない、成果を生む行動をしていることが条件となる」

「この条件は舞台でとくに大切だ。役では、現実の生活以上に、外面と内面の二つの線が一致し、共に一つの創造の目的へ向かわなければならないからである」

「そのために、私たちの仕事には都合のよい条件がある。身体の生活も心の生活も、戯曲という同じ源から汲み取られるのだ」

「このことが、二つの生活を近づけ、親しいものにする」

「なのに、なぜ舞台では、よく反対の現象を見るのか。身体の線が習慣によって自動的に行動を続ける一方で、役の内なる線はしょっちゅう途切れ、創造から離れて日々の個人的な心配事に気を取られた、俳優自身の線に替わってしまう」

「それは、役や創造に、形式的な、技芸だけの態度で向き合うために起こる」

「身体の生活を作ることで役へ近づく、もう一つの根拠は、それが、創造する感情の、いわば蓄電池になれることだ」

「内なる感情や体験は、電気に似ている」

「空間へ放てば、散って消える」

「しかし、蓄電池に電気を蓄えるように、身体の生活を感情で満たせば、役が呼び起こした感情や体験は、身体の、はっきり感じ取れる行動の中へ定着する」

「その行動は、身体の生活の一瞬一瞬と結びついた感情を取り込み、吸い込み、集める。そうして、不安定で蒸発しやすい俳優の体験や創造する感情を、とどめるのだ」

「この近づき方によって、役の身体の生活の、冷たい、すでにできた形が、内面の内容で満たされる」

「役の二つの本性、身体と心は、こうして一体になることで、親しく結ばれる」

「外的な行動と身体の生活は、内なる体験から、意味と温かさを得る。内なる体験は、身体の生活に、自らの表現、外側の具現を見つける」

「役と俳優自身の、この二つの本性の自然な結びつきを、賢く使わなければならない。つかみどころがなく、不安定な創造の体験を、確かなものにするためだ」

「身体の生活を作ることから役への仕事を始めたのには、実際上、それに劣らず大切な理由が、もう一つある」

「それは、感情を誘い出す最も抗しがたいものの一つが、真実と、それを信じる力の中に隠れていることだ」

「舞台で、行動や全体の状態の中に、ごく小さな有機的な身体の真実を感じさえすれば、自分の身体の行動が本物だと信じる力が生まれ、感情もすぐに生き始める」

「この場合も、有機的な真実と、それを信じる力を舞台で呼び起こすのは、心よりも身体の領域のほうが、はるかに容易だ」

「俳優が自分を信じれば、心はすぐに開き、役の内的な課題や感覚を受け入れる」

「だから俳優は、信じるためにできることを、すべてすればよい。そのとき、感情そのものも来る」

「反対に、感じようと力んでも、決して信じられない。信じることなしに、体験は生まれない」

「この条件を使って、外的な行動を、身体の生活の内側の本質、つまり役の心の生活で満たす必要がある」

「だが、そのためには、ふさわしい材料が要る」

「それは、戯曲と役の中に見つかる」

「だから、戯曲の内側の面を学ぶことへ、注意を向けよう」

「ここから、役に取り組む仕事の、新しい大切な段階へ入る。それについては次の授業で話そう」

Ⅲ.戯曲と役を知る過程(分析)

一九……年……月……日

今日の授業は、いつもと違い、掲示があった。

そこには、こう書かれていた。

戯曲と役を知る過程(分析)

トルツォフは言った。

「もう一度繰り返す。最もよいのは、役全体が自然に、ひとりでに俳優の中へ入ってくることだ」

「そんなときは、『システム』も技術も忘れ、魔法使いである自然へ、すべてを任せるべきだ」

「残念ながら、君たちの誰にも、それは起こらなかった」

「そこで私たちは、使える手段をすべて使い、想像力を促し、感情を引きつけようとした。役全体でなくても、せめて一部分を、自然に、直接的に、直感によって生き始めるためだ」

「この仕事には、幾らか成果があった。戯曲のあちこちで、個々の瞬間が、光の面のように生き始めた」

「だが今では、シェイクスピアの作品へ、直接、直感的に近づく道は、どうやらすべて試し尽くした」

「まだ生きていない箇所に、新しい『闇の中の光』を生み、舞台で演じる人々の内面へ、さらに近づくために、ほかに何ができるだろうか?」

「そのために新しい過程が必要だ。これを『戯曲と役を知る過程』、つまり分析と呼ぶ」

「分析とは何か。その目的は何か?」

「目的は、俳優を夢中にさせるものを探すことだ。熱中なしには、〔役への〕接近も創造もない。役の心の奥へ深く入り込み、その心を作る要素、内外の本性、人間としての内面の生活全体を学ぶことが、分析の目的だ」

「また、役の人間としての内面の生活へ影響する、戯曲の生活の外的な条件や出来事を学ぶことも、目的である」

「最後に、俳優自身の心の中へ、役と共通する、近しい感情、感覚、体験、接近のための要素を探すこと。創造に必要な心の材料や、ほかの材料を選ぶことなども、目的となる」

「分析は、解剖し、開き、見て、学び、評価し、認め、否定し、確かめる。そして、中心となる線と考え、つまり戯曲と役の超課題、貫く行動を見つける」

「この材料が、想像力、感情、思考、意志の栄養になる」

「このとおり、分析には多くの役目がある。だが仕事の初めに、何よりもまずするのは、才能ある、あるいは天才的な作者の作品に含まれる、最良の真珠や創造の刺激を見つけ、理解し、正しく評価することだ。最初の自由で自然な、偶然の近づき方では、気づかれなかったものを探すのである」

「俳優の才能は、美しいものすべてに敏感に応じる。だから、創造の刺激の働きかけにも、間違いなく熱心に応じ、それが自然に創造への熱中を呼び起こす」

「それがさらに、新しい闇の中の光と、短くても本当の感覚を作り出す」

「こうした部分的な命の芽生えが、俳優をますます役へ近づける」

「だから今の目先の課題は、最初に戯曲へ近づいたとき見逃した、俳優を夢中にさせるものを、作者の作品の中へ探すことだ」

「すべては、創造に熱中するための材料を、どう見つけるかに懸かっている」

「まず、知ってのとおり、知性、理性へ助けを求める。気まぐれな感情より、話が通じやすいからだ」

「ただし、そうするのは、多くの人が考えるように、分析が理性だけの過程だからでは、決してない」

「そんな見方は、狭く、間違っている」

「確かに、今のように、役を一度に捉えられないときは、まず理性を働かせる。斥候や先遣隊のように、真珠や創造の刺激を調べさせるためだ」

「理性は、戯曲と役のすべての面、あらゆる方向、構成部分のすべてを調べ始める」

「先遣隊のように、その後、感情が探求するための新しい道を準備する」

「その偵察で用意された道を、創造する感情が進む。感情が探求を終えると、理性が再び現れる。ただし、今度は新しい役目でだ」

「今度は後衛のように、感情の勝利の行進のしんがりを務め、その成果を固めるのである」

「このように、分析の過程は、理性だけの過程ではない」

「俳優の本性に備わる、ほかの多くの要素、能力、性質も参加する」

「それらに、とりわけ感情に、できるだけ広い働く余地と、現れる機会を与えなければならない」

「分析は知るための手段だ。そして私たちの芸術で、『知る』とは感じることである」

「本当の体験を通してこそ、役の人間の本性の、潜在意識の奥へ入れる。そこで、目に見えず人々の心に隠れ、聴覚にも視覚にも、意識にさえ届かないものを、知り、つまり感じられる」

「困るのは、理性が乾いていることだ」

「潜在意識の霊感の直接的な高まりを呼ぶことも少なくないが、それを殺すことも、同じくらい多い」

「理性は、その意識的な性質によって、創造に最も大切な感情の生活を、覆い隠し、抑えつけることがよくある」

「だから分析の過程では、理性を慎重に、巧みに使わなければならない」

「分析で理性が担う役割は、多くの人が思うより限られている」

「これまで、作品への近づき方が、ほとんど偶然で直接的だったのなら、これからは、もっと意識的なものになる」

〔「若いころ、ヴォルガ川沿いの町を、ただ覚えるために丸暗記したとき、私はひどく退屈し、どうしても記憶へ押し込めなかった」

「ところが、もっと成長してから、学校の仲間と舟でヴォルガ川全体を旅したときには、主な町だけでなく、小さな村、船着き場、立ち寄り先まで、すべて学んだ。誰が住み、何を買え、何が作られているかを、一生忘れないほど覚えた」

「望みもしないのに、暮らしのごく私的な面、艶っぽい細部や土地の噂話まで、知ってしまった」

「知ったことは、こちらが努力しなくても、ひとりでに記憶の棚へ収まった」

「知識のためだけに学ぶのと、実際にすることに必要だから学ぶのとでは、大きな違いがある」

「前者では、自分の中に置き場所が見つからない。後者では、あらかじめ場所ができていて、知ったことはすぐそこへ入る。用意された水路や池に、水が流れ込むように」

「これからの、戯曲と役の分析でも同じだ」

「分析それ自体を目的に、分析のための分析をするなら、それを記憶に定着させるのは難しい」

「だが今は、分析で得たすべてが、あらかじめ用意した、主な骨組みの課題と行動へ入っていく。すぐに用意された場所を見つけ、そこを満たすのだ」

「人間の身体の生活は、内面の生活のあらゆる種にとって、よい肥沃な土壌である」

「もし体験のためだけに体験しようとして分析し、集めるなら、分析で得たものに、置き場所や使い道は、なかなか見つからない」

「だが今、分析の材料は、まだ深くない身体の生活を補い、理由を与え、生かすために必要だ。だから、戯曲と役の内側から分析によって新しく得たものは、すぐに重要な使い道と、育つための肥沃な土壌を見つける」〕……。

「人間の身体の生活の骨組みは、〔役に取り組む仕事の〕始まりにすぎない。これから最も大切なことが待っている。その生活を、深く、深く掘り下げ、人間の内面の生活そのものが始まる深みへ達することだ。それを作ることが、私たちの芸術の主な課題の一つなのだから」

「今、その課題には、ずっと多くの準備ができ、実行も大いに容易になっている」

「支えも準備もなく、直接感情へ呼びかけ、手を伸ばせば、その壊れやすい線を、捉えるだけでなく、定着させることも難しい」

「しかし今は、人間の身体の生活という、物質的、身体的にはっきり感じられる線が、とてもしっかりした支えになっている。君たちは宙に浮かず、踏み固めた道を進む。その道が、誤った線へそれるのを防いでくれる」

「身体を知ることは、素晴らしい肥沃な土壌だ」

「そこへ入るものはすべて、私たちの物質の世界に、感じ取れる根拠を見つける」

「その土壌、とくに理由のある行動は、役を最もよく定着させる。この領域では、ほかより容易に、小さくても大きくても真実を見つけられ、それが、舞台でしていることを信じる力も呼び起こすからだ」

「創造の過程で、真実と、それを信じる力が大切であることは、繰り返すまでもない」

「それが感情を呼ぶ強い鳥寄せ笛だと、君たちは知っている」

「むしろ、もう一つ思い出してほしい。役の人間としての身体の生活が大切なのは、感情の線と、慣れ親しんだつながりを持つことでもある。類推によるのか、反射によるのか、そのつながりがあるのだ」

「身体で正しく生き始めれば、感情は、多少なりとも必ず応じる」

「水がくぼみや穴を満たすように、感情は身体的な行動へ流れ込む。そこに、信じられる、生きた有機的な真実を感じれば、そうなる」

「自分で思い出してごらん。身体の人間らしい生活、その身体的行動を、本気で生き始めるとき、感情は何もせずにいるだろうか?」

「この過程へ深く入り、そのとき心で何が起こるかをたどれば、分かるはずだ。舞台の身体的生活を信じるとき、それに近く、論理的につながった感覚を、体験しているということが」

「それなら、役から得た人間の身体の生活が、同じ役の、それに対応する人間の内面の生活を、呼び起こすのは明らかだ」

「結論は、役の人間としての身体の生活が、その内面の生活を作る助けになる、ということだ」

「知ってのとおり、心の生活は身体の生活に映る。同じように、身体の生活も心の生活に映りうる」

「私たちの仕事では、この条件が並外れて重要だと理解しなさい。気まぐれな俳優の内なる創造の道具へ直接働きかけるのは、物質的で、よく感じ取れ、命令にも応じやすい身体の道具に直接働きかけるより、はるかに難しく、つかみにくく、実感しにくいのだ」

「無理強いにも命令にも従わない感情より、身体のほうが扱いやすい」

「だから、役の人間としての内面の生活が、ひとりでに生まれなければ、その身体の生活を作りなさい」

* * *

「すでに話したように、役に対する創造への熱中が自然に来なければ、斥候である理性の助けを求める必要がある」

「では、意識の光を、どこへ向ければよいのか?」

「なくした物を探すときは、どこもかしこも探り、最も思いがけないところで見つかることも多い」

「私たちの技術には、戯曲と役の分析を通して知るための、多くの方法がある」

「内容を語り、作者の与えた事実、出来事、状況を書き出す。区切りに分けて戯曲を解剖し、層に分け、問いを立てて答える。言葉の強調と間を正しく置いて読み、戯曲の過去や未来をのぞく。皆で話し合い、論争し、討論する。生まれ、つながり合う光の面を絶えず確かめ、事実の意味を見定め、理由を与え、区切りと課題の名前を探す。ほかにも、いろいろできる」

「これらはすべて、戯曲と役を分析して知るという、同じ過程の、異なる実践的方法だ」

「今挙げた方法はすべて、実際に見せよう」

「だが、稽古する一つの場面で、一度に全部はできない」

「それでは君たちがすっかり混乱し、頭がいっぱいになって、とても複雑だという印象しか残らない」

「だから、場面ごとに使いながら、分析の技術的な方法を、少しずつ紹介していこう」

〔戯曲からの抜き書き〕

授業の終わりに、アルカージー・ニコラーエヴィチは課題を出した。

イワン・プラトーノヴィチの教室へ集まり、預けていた『オセロー』の本を受け取る。各自、教室から出ずに、作者のト書きを抜き書きするようにと言った。

さらに、登場人物の対話や独白から、その特徴、関係、事実の説明と理由づけ、場面の場所、衣装、内なる体験の説明など、台詞から得られるものをすべて選び、書き出すよう命じた。

抜き書きは全員で協力し、イワン・プラトーノヴィチの編集のもとで、一つの共通の一覧にまとめ、授業の記録へ添える。

写しを生徒へ配り、戯曲の本はまた預かる。

「私は」とトルツォフは言った。「装置と衣装の下絵を描いている美術家に会い、自分も演出家として第一場全体の上演を考えよう。次の授業で、作者の指定に加え、私たちの案も知らせる」

「そうすれば、君たちには必要な情報がすべて揃う」

抜き書きをまとめる集まりは、その場で翌朝十時と決まった。

一九……年……月……日

イワン・プラトーノヴィチが戯曲を読み、私たちは、登場人物の特徴、関係、心理を示す箇所や、環境、舞台の配置と動き、装置などに関わる作者のト書きを見つけると、そのたびに止めた。

こうして、数ページにわたる一覧ができた。

それを、装置、衣装、ト書き、登場人物の特徴、心理、考えなどの項目に分けた。

その結果、新しい一覧ができた。明日、トルツォフへ渡すことになっている。

〔問いを立て、答える〕

「作者が戯曲に書いたものを、さらに、最後まで汲み尽くし、〔補うために〕」と、トルツォフは言った。「また、作者が言い尽くしておらず、俳優が作品を十分に知るためには不足していることを明らかにするため、もう一つの技術的方法を提案しよう。空想の過程でも使った方法だ」

「問いを立て、それに答えるのである」

「例えば、こうだ」

「いつ、出来事は起こるか?」

「ヴェネツィア共和国の繁栄期、……年です」

「季節はいつか。昼か夜か、その何時ごろか?」

「ブラバンショーの館の前の第一場は、海に強い嵐が起きる、秋か冬のころです」

「空には雲が集まり、ひどい嵐の一つが起ころうとしています」

「時は夜遅く、ヴェネツィア全体が眠りに入り始めています」

「観客へ時刻を示す必要があれば、よい間を選んで、塔の時計を十一回鳴らすこともできます」

「ただし、この雰囲気を作る効果は、劇場でずいぶん使われています。慎重に、加減を考えて、つまり、よほど必要でなければ使わないようにすべきです」

「どこで、出来事は起こるか?」

「ヴェネツィアです」

「大運河、カナル・グランデに近い、貴族の地区です。高官たちの館が並んでいます」

「舞台の大部分は運河の水で、小さな部分だけが、水の都らしい、ごく狭い歩道と、館の入口の前の船着き場になっています」

「上と下の窓が、よく見えるとよいでしょう。夜灯や手提げ灯のちらつき、人の走り回る様子によって、窓の向こう、家の中で大きな騒ぎが起こり、皆が目を覚ます印象を与えるためです」

生徒たちは、生きた水と、浮かんで進むゴンドラを、舞台で表せるのか疑った。

だが、アルカージー・ニコラーエヴィチは、劇場にはそれを実現する手段がすべてあると言った。

水面の揺れは、速さを変えて機械的に動くクロモトロープを備えた、特別な投光器で、見事に表せる。幻灯のように、動く光のきらめきを投げ、水面が揺れる印象を、十分に生み出すのだ。

波そのものを表す機械的な方法もある。

例えばバイロイトの『さまよえるオランダ人』の第一場では、二隻の大きな船が現れ、操船され、向きを変え、離れていく。

一隻は船着き場へ着く。

その動きや方向転換の際、生きた波が、さまざまな方向から船べりへせり上がり、本物の海の波のようになめていく。

〔内なる意味を明らかにする〕

「今度は、戯曲のかすかにしか見えない、まったく不明瞭な瞬間へ、望遠鏡を向けよう。それらにも、命を与える過程を施すためだ」

「どうすればよいのか?」

「もう一度耕す必要がある。言い換えれば、読み直すのだ。それも、じっくり考えながら」

「君たちはまた、『読みました、知っています!』と叫ぶかもしれない。だが、多くの例によって、読んではいても、まだ戯曲を知らないことを示そう」

「それどころか、言葉として書かれた台詞を、文法的にさえ読み解けていない箇所がある」

「さらに言えば、大きな明るい光の面と呼んだ箇所でさえ、何が語られているか、君たちには大まかにしか分かっていない」

「例として、その最初の、大きく明るい光の面を取ろう。元老院の前での、オセローの独白だ」

「尊敬すべき、高貴なる方々、
そして、わが情け深き上官たちよ。
この老人の娘を連れ去ったこと、
それは偽りではない。また、
彼女と結婚したことも偽りではない。
だが、私の罪は、それがすべてなのです……」

「この数行に込められた内容を、すべてはっきり理解し、感じているか?」

「はい。何についての話かは、分かると思います。デズデモーナを連れ去ったことです!」と、生徒たちは答えた。

「いや、それでは十分に正しくない」と、トルツォフは止めた。

「元老院に仕える異民族の人間の立場から、高位の官吏の娘を連れ去ったことについて語っているのだ」

「では、オセローはどんな身分で仕えているのか、説明してほしい」

「彼は元老院の人々を『上官』と呼んでいる」

「彼らの関係は、どうなっているのか?」

「彼は将軍、軍人で、あちらは政府の一員です」と、私たちは答えた。

「私たちの昔の言い方なら、彼は陸軍大臣で、あちらは閣議なのか。それとも彼は雇われた兵士にすぎず、あちらは、国のすべてを決める全権を持った支配者なのか?」

「そんなことは考えませんでしたし、今も、俳優がなぜそんな細かなことを知る必要があるのか、分かりません」と、ゴヴォルコフは言った。

「なぜ、だって?」と、トルツォフは驚いた。

「ここで問題なのは、異なる階級だけでなく、異なる民族の衝突なのだ」

「それだけではない。元老院が、自分たちの軽蔑する黒人に依存しているという問題だ」

「ヴェネツィア人にとって、こんな恐ろしい衝突は、それだけで一つの悲劇ではないか!」

「それを知りたくないというのか?」

「登場人物の社会的な立場に、関心がないのか!」

「それでどうして、彼らの関係と、衝突の鋭さのすべてを感じられるのか。この衝突は、悲劇全体に、とりわけ主人公たちの恋物語に、大きな役割を果たすのだ」

「確かに、おっしゃるとおりです」と、私たちは認めた。

「先へ進もう」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは続けた。

「この老人の娘を連れ去ったこと、
それは偽りではない……」

「では、どうやって連れ去ったのか、話してほしい」

「どの程度の罪かを判断するには、細部を知らなければならない。被害を受け、侮辱された側のブラバンショー、公、元老院の人々の立場だけでなく、行為を起こしたオセロー本人と、恋物語のヒロイン、デズデモーナの立場からも、知る必要がある」

これも、考えてみる気さえ起こらなかった問いで、私たちは答えられなかった。

「先へ進もう」と、トルツォフは告げた。

「……彼女と結婚したことも、
偽りではない……」

「誰が、どこで、どの教会で、二人の結婚式を挙げたか、話してほしい」

「カトリックの教会か?」

「それとも、オセローはイスラム教徒の異教徒だから、キリスト教の司祭は誰も、二人の式を挙げようとしなかったのか?」

「もしそうなら、彼が結婚と呼ぶのは何なのか。どんな儀式なのか?」

「あるいは、民事婚なのか?」

「デズデモーナは、儀式もなく彼に身を委ねる決心をしたのだろうか?」

「当時としては、あまりに大胆で、常識に背くことだ!」

この問いにも答えられないのを見て、アルカージー・ニコラーエヴィチは判定を下した。

「つまり」と、彼は結論した。「幾つかの例外を除けば、君たちは、『オセロー』の本に印刷された文字が語る、言葉の中に収まることを、読んで、ほとんど形式的に理解することはできる」

「しかし、それはシェイクスピアが作品を書くときに言おうとしたこととは、ずいぶん違うと分かる」

「作者の意図を理解するには、死んだ文字から、考えだけでなく、見えていた光景、感情、体験を復元しなければならない。つまり、書かれた形式的な台詞の下に隠された、内なる意味の全体を復元するのだ」

「そうなって初めて、ただ読んだだけでなく、戯曲を知っていると言える」

〔戯曲の現在、過去、未来〕

「内容を語るときの、君たち共通の間違いは、昔から誰もがよく知る、作者が書いた内容、つまり戯曲の現在を繰り返すことだ」

「では、過去と、未来への見通しは?」

「誰が、それを話してくれるのか?」

「作者の台詞の下や行間に、君自身が思い描くものを、隠さないでほしい。シェイクスピアが言い尽くしていないこと、君自身がどう見て、聞いて、感じるかという、戯曲の『人間の内面の生活』を語るのだ」

「ただの語り手ではなく、創り手になりなさい」

「〔ゴヴォルコフ〕、君がこの難しい課題を、やってみてくれるかな。見てのとおり、語るのは簡単ではない……」

「失礼ですが」と、ゴヴォルコフは反論した。「私は作者の書いたことを話しています」

「それがお気に召さず、退屈だというのなら、それは作者の責任にしていただきたいですね」

「いや、違う!」と、トルツォフは止めた。

「作者が書いたのは、幕が開いている間に起こることだけだ」

「いわば、戯曲と役の生活の現在だ」

「しかし、過去なしに現在がありうるだろうか?」

「自分の現在から、それ以前のすべてを取り除いてみなさい」

「今、座って俳優の芸術を学んでいるが、過去には、その学びへつながることが、何もなかったと想像してごらん」

「俳優になろうとも夢見ようともせず、演じたことも、劇場へ行ったことさえもない」

「そんな現在は、まったく価値を失い、根のない植物のように枯れ、死ぬ運命になると、感じないか?」

「それだけではない。現在は、過去なしだけでなく、未来なしにも存在できない」

「未来は知ることも予測することもできない、と言うだろう」

「だが、それを望み、見通しを持つことは、できるだけでなく、しなければならない」

「舞台に立ち、この職業へ身を捧げるつもりも夢もないなら、現在、例えば今している俳優の芸術の学びに、何の必要があるのか?」

「今の授業に関心を持つのは、当然、その大部分が、将来実を結ぶからだ」

「生活に、過去と未来なしの現在がないなら、生活を映す舞台でも、同じでなければならない」

「戯曲家は、現在と、過去や未来についての幾つかの手掛かりを与えてくれる」

「小説家は、もっと与えてくれる。過去も現在も未来もだ」

「前書きも後書きも書く」

「当然だろう。本の長さにも時間にも、縛られないのだから」

「だが、戯曲家の立場は違う」

「戯曲という、ひどく狭い枠に従わなければならない」

「劇作品の長さは時間に制限される。それも、ごく短い時間だ」

「最大で四時間か四時間半。一回十五分の休憩を、三回か四回取る時間も含めてだ」

「しかも、一つの幕そのものにも時間の制限がある」

「四十分か四十五分を越えては続けられない」

「今の観客の注意が続くのは、その長さだけだ」

「この短い間に、何が言えるだろうか?」

「だが、言わなければならないことは多い」

「そこで作者は、俳優の助けを待っている」

「過去や未来について、作者が語る暇のなかったことを、俳優に語り足してもらいたいのだ」

「これには、結局、作者の書いた以上の言葉は言えないではないか、と反論されるだろう」

「だが、そうではない」

「言葉だけではない方法で、伝わることもある」

「ドゥーゼが『椿姫』の最終幕で、死の前に、最初の出会いのあとアルマンから届いた手紙を読んだときのことだ。その目、声、抑揚、女優の全存在が、彼女は過去のごく細かなことまですべて知り、見て、もう一度体験しているのだと、説得力をもって語っていた」

「演じている瀕死のヒロインの生きる生活を、ドゥーゼ自身が細部まで知り、想像し尽くしていなければ、そんな結果に達することができただろうか?」

一九……年……月……日

「ここまでの仕事を終えた今、作者の台詞の文字が語ることも、その下の、書かれていない内なる意味に隠された考え、感情、光景、響きも、すべて分かったと言えそうだ」

「確かに、多くを得た」

「だが、それで全部だろうか?」

「私たちは経験から、戯曲家が、俳優に必要な多くのことを、言い尽くしていないと知っている」

「例えば、こうだ」

「舞台にイアーゴーとロドリーゴが現れる」

「二人は、どこから来たのか?」

「出てくる五分前、十分前、四十分前、一日前、一か月前、一年前には、何があったのか?」

「俳優は、それを知らなくてよいのか?」

「ロドリーゴを演じる人にとって、デズデモーナと、どこで、いつ、どう出会い、知り合い、求愛したかを知ることは、余計なのか?」

「その知識と、それに応じる光景なしに、シェイクスピアの与えた言葉を、俳優は語れるだろうか?」

「つまり、私たちがある程度知った役の現在は、過去なしに存在できるだろうか?」

「役の未来も同じだ。過去と現在なしには存在しない」

「ないのなら、作らなければならない」

「では、誰が作るのか?」

「台詞には小さな手掛かりがあり、もちろん、それは考慮する。だが、残りは……。誰が語ってくれるのか?」

「作者を生き返らせることはできず、別の作者も見つからない!」

「頼れるのは、演出家だけだ」

「だが、全員が私たちの道を進むことに賛成するわけではない」

「大多数は私たちを、作り事ばかりする者だと思い、この〔探求〕を笑うだろう」

「それに、演出家の空想は、俳優である私には、よそよそしいかもしれない」

「自分自身を頼るほかない」

「だから、仕事に取りかかろう……」

「作者の書き切らなかったことを、想像し、作り出そう」

「しっかり準備しなさい。長く、難しい仕事だからだ」

「君たちは作者の協力者となり、作者自身のやり残したことを、仕上げなければならない」

「もしかすると、戯曲を丸ごと一つ、書くことになるかもしれない!」

「必要なら書こう。過去と未来がなければ、現在は存在できず、あっても意味がないのだから」

「去年、これについて話したことを、覚えているね……」

〔「……ただ、君たちが戯曲について、互いにあまり話も議論もしないのは、残念だ」

「どうすれば、君たちに火をつけられるだろう?」

「違った見方が生まれ、いくつかの派に分かれれば、よいのだが」

「議論は、関心に火をつけ、本質を掘り出し、行き違いを明らかにする、いちばんの方法だ」

私たちは、授業の外で戯曲の話が出ない理由は、自分たちにも分からないと説明した。

「助けが必要らしいな」と、トルツォフは言い、教室を出ていった。〕

〔戯曲について話し合う〕

一九……年……月……日

今日は、生徒と教師が、悲劇『オセロー』について話し合うことになっていた。

呼ばれた全員が劇場のホワイエの一室に集まり、緑のラシャを掛けた、いかにも会議らしい大きなテーブルを囲んだ。上には紙、鉛筆、ペン、インク壺など、本物の会議に付きものの道具が並んでいた。

トルツォフは議長席に座り、話し合いを始めると告げた。

「戯曲『オセロー』を、自分はこう理解している、と話したい人はいるか?」

だが皆、気まずそうに動かず、口に水でも含んだように黙っていた。

集まりの意味が分からないのかと思い、アルカージー・ニコラーエヴィチは説明した。

こう言ったのである。

「君たちは以前、『オセロー』を、いい加減に、急いで、ついでのように読んだ」

「その記憶が、断片や光の点として残っていた」

「改めて読み直し、その印象へ何かが加わった」

「だが、役の内面の材料は、まだ足りない」

「それを補うため、今日の話し合いを開いたのだ」

「だから、ここにいる一人ひとりに、戯曲について考えていることを、何でも率直に話してほしい」

どうやら、誰も何も考えていないらしかった。話したい者はいなかった。

長く、重苦しい沈黙のあと、イワン・プラトーノヴィチが発言を求めた。

「私はこれまで黙っていた」

「ナズヴァーノフが持ち込んで、私たちの学校へ『オセロー』が来たときもだ。いやはや、まったく!」

「そして先日、アルカージーが、役に取り組む教材として、この戯曲を選んだときもだ」

「あのときも今も、賛成ではないのに、黙っていた」

「そういうことなのだ!」

「では、なぜ賛成できないのか?」

「第一に、生徒向きの戯曲ではないからだ。第二に、そして何より大切なのは、この悲劇そのものが、シェイクスピアの最良の作品とは、ほど遠いことだ」

「最良ではない、と私は言う!」

「本当のところ、悲劇でさえなく、メロドラマだ」

「だから、筋も出来事も現実味が乏しく、信じられない」

「考えてもみたまえ。黒人の将軍だ!」

「当時だけでなく、文化が民族や部族を近づけようとしている今でさえ、私たちは、そんな黒人の将軍をどこにも知らない」

「例えば、黒人の多いアメリカに、そんな黒人の将軍がいるかね?」

「今、この進歩した世紀でさえ、そうなのだ!」

「遠い中世の、あのヴェネツィアなどについては、何をか言わんやだ!」

「そして、その存在もしない黒人の将軍が、誰より美しく、清らかで、無邪気な、おとぎ話の姫のようなデズデモーナを盗み出す」

「まったく、ありえない話ではないか!」

「野蛮人の誰かが、英国か、ほかの国の王の娘を盗み出してみたまえ!」

「やれるものなら、やってみればよい」

「そんなメロドラマのロミオは、ひどい目に遭わされるだろうよ」

皆、前から彼を止めようとしていたが、勇気がなかった。

しかし、アルカージー・ニコラーエヴィチ本人が疑問を示し、友人のために少し恥ずかしがるように止めると、一斉に、作品を守ろうと発言者へ向かっていった。

トルツォフは、ただ両手を広げ、「もう、よしなさい、ワーニャ! 何を言うんだ!」と、何度も繰り返した。

その一言一言が、火に油を注ぎ、議論をさらに燃え上がらせた。

話を導くのは難しく、議長の鈴は鳴りやまなかった。

驚いたことに、イワン・プラトーノヴィチには、ヴュンツォフと、誰が想像しただろう、マロレトコワ本人が、味方についた!

私は衝撃を受け、議論へ飛び込まずにはいられなかった。

ほどなく、ほかの反対者たちの間にも、意見の一致はないと分かった。

それどころか、批判する人が多かった。

私には、作品に反対する人の多く、例えばゴヴォルコフ、ヴェリヤミノワ、ヴェセロフスキーは、戯曲がよいか悪いかではなく、皆に好みの役が回らないから反対しているように思えた。不当に疑っているのかもしれないが!

部屋には、うなり声や叫び声が満ちた。議長がいつの間にか席を離れ、脇から眺めていたので、なおさらだった。

「ひょっとして、この一幕はすべて、二人の先生の仕掛けなのか?」と、私は思った。

そうなら、見事に目的を達したことになる。『オセロー』の議論は燃え上がり、長引き、夜になってもやまなかった。

そのせいで、公演の音響に大きな失敗が出た。持ち場についた生徒たちが、自分の仕事ではなく『オセロー』に夢中だったからだ。

何人かは、失敗を記録に書き留められた。

俳優たちも議論に加わり、イワン・プラトーノヴィチを手厳しく攻撃した。話に夢中で三度目の開演のベルを聞き逃し、休憩が少し延びることさえ起こった。

今、公演から家へ戻り、夜の静けさの中で、議論をまとめ、記憶に残ったことを書こうとしている。

とても難しい。頭の中ではすべてが混ざり、死ぬほど疲れている。

だから、記録はこんなにもまとまりがない。

一九……年……月……日

「さて、新しく耕して種をまいたあとだ。芽生えを調べ、実を集めよう」と、教室へ入ってきたアルカージー・ニコラーエヴィチは告げた。

「話し合いと長い議論のあと、君たちの心に、何か新しいものは生まれたかな?」

「生まれました!」と、私たちは声を揃えた。「混乱しすぎて、何が何だか分かりません!」

「それでも、整理してみよう」と、トルツォフは提案した。

改めて丁寧に尋ねてみると、驚いたことに、新しい鮮やかな光の面は、一つも増えていなかった。だが、その後ろに、さまざまな感覚、兆し、予感、疑問が、数限りなく現れていた。

明るく大きな惑星の向こうに、望遠鏡が、かすかに光る小さな星の群れを見つけるようなものだった。

星だと分かるのも難しいほどで、空が乳白色の薄い覆いに包まれたように見える。

「天文学者なら、これは発見だと考えるだろう!」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは喜んで声を上げた。

「では、明るい光の面を、確かなものにしよう」

「その反射が強くなれば、後ろの薄暗い星も、もっと明るくなるかもしれない」

「最初の明るい箇所、元老院でのオセローの演説から始めよう」

「記憶の中のこの光の面を、どう確かにし、広げればよいか?」

「そのために、この記憶は何なのかを決めよう。聴覚の記憶か、視覚か、感情か?」

「オセローやほかの人の声は聞こえません。でも何かを感じ、かなり強く見ています。はっきりはしませんが」

「それはよい。何が見え、何を感じるのか?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは詳しく尋ねた。

「どうやら、あまり多くありません。思っていたより少ないです!」と、かなり長く自分を調べたあと、私は認めた。

「見えるのは、ありきたりな、オペラ風に美しい姿です。そこに気高さを感じますが、それも芝居の、『漠然とした』気高さです」

「それはよくない。その姿からは、本当の生活を感じられない」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「ところが戯曲のこの箇所では、暮らし、人間、社会、民族、心理、倫理に関わる、鮮やかで生きた動機や情念が、いくつもぶつかっている。心を動かされずにはいられないほどだ」

「外側の筋そのものも、あれほど美しく、意外で、巧みにできているので、おのずと関心を引く」

「与えられた状況が、なんと複雑に絡み合っていることか!」

「突然の戦争。故国を救える唯一の人間、オセローが、切実に必要になる。一方、支配層は侮辱を受けている。当時の封建的な考えでは、オセローは肌の色の違う野蛮人、半ば獣と見なされ、貴族の娘が彼と血を交えることは、支配階級への深刻な侮辱だったのだ」

「これを信じて、高慢なヴェネツィア人の人種の名誉と、本当の愛国者としての故国の救済、そのどちらを選ぶか、考えてごらん」

「実に多様な糸が、この場面で、一つの結び目になる」

「なんと巧みな舞台の方法だろう。面白く、勢いよく進む行動の中で、なんと巧みに状況を示すことか」

「この場面をさらに強くしたければ、その前の二つの場面へ橋を架けなさい」

「その前の〔場面〕が、夜中に雷のように起こり、町じゅうを起こす大騒動を感じさせるように演じられた、と想像してごらん」

「皆が心地よく眠っていると、突然、走る群衆の叫び、武装した男たちを載せたゴンドラの水音がする。総督宮殿の窓は明るく、そのうえ、トルコ軍の襲来の恐ろしい噂、町じゅうの愛する娘デズデモーナを黒人が盗み出したという知らせ、暴風……」

「すべてを混ぜ合わせ、寝起きの頭で受け取ってみなさい」

「自分たちのヴェネツィアは、もう野蛮人の手に落ち、今にも彼らが家へなだれ込むように、思えるだろう」

「見えるだろう。一つの明るい光の面が、別の明るい面へ伸び、合わさって、大きな明るい空間を作る。それが隣の区切りへ、もっと強く光を返し、そこにも命を与える」

「実際、戦争の挿話と、デズデモーナの連れ出しの挿話が、結びついた」

「だが、その連れ出しが、カッシオの昇進をめぐるもつれから、イアーゴーがオセローへ復讐する挿話と、強くつながっていることも、忘れていないね」

「この混乱の全体で、ロドリーゴが大きな役割を果たしていることも、思い出してほしい。オセローに次ぐ、デズデモーナとの結婚を望む男だ」

「そして同時に、ロドリーゴはあらゆる糸で、イアーゴーへ結ばれている。こうして続いていく」

「一人の人物、一つの挿話が、別のものを生かすことを、感じるだろうか。だから星の反射光のたとえは、今、戯曲の構造について学んでいる過程を、表しているのだ」

「元老院でのオセローの場面を確かにし始めたとたん、それは密接につながるほかの挿話を引き寄せた。その挿話がまた、初めの場面につながる、さらに別の場面を照らした」

「何度か読んだあと記憶に残る〔光の面〕を、ざっと見渡してみよう。あるものは、すでに近しいものと溶け合い、別のものは、まだつながらなくても、その方向へ向かっている。さらに別の、多くのものは、生きた光から反射を受けて、前より見えやすくなった。残りの数多くの記憶の瞬間は、まだ星の天の川のように、かすかな兆しとしてしか現れていない」

「だが、これまで新しい光を作り、役と一体になるためにしてきたことは、本当のところ、すぐには直感で自分の中へ入ってこなかった戯曲の、個々の箇所へ熱中するための仕事だった」

「新たに見つかった天才的な瞬間に刺激されて生まれた俳優の熱中は、今度は分析の道具となり、分析の始めた仕事を続けられる」

「熱中は、創造を呼び起こすだけでなく、心の奥への賢い案内人であり、深く鋭く探る人であり、敏感な批評家、評価者でもあるからだ」

内容を語る

「シェイクスピアのような才能ある作者は、面白い魔法の『もしも』や与えられた状況とともに、空想のための魅力的な材料を数限りなく詰め込んだ、天才的な戯曲を与えてくれる」

「他人の主題を創造のために探る仕事では、主に内側の線をたどる必要がある。外側の事実や出来事の線は、すでに作者が定めているのだから、なおさらだ」

「作品に隠されたものを理解し、その価値を見定めるには、想像力が要る」

「試してみよう」

「ヴュンツォフ、『オセロー』の内容を話してごらん」

「黒いムーア人が、白い娘を盗みました」

「父親は裁判へ。すると戦争が起こりました」

「黒人を送らなきゃいけないけど、父親は、絶対だめだと」

「まず、こっちを裁いてくれって言うんです」

「裁いて、その晩に黒人を戦争へ送りました」

「娘は、一緒に行く、何が何でもって言います」

「それで……まあ」

「行って、勝って、宮殿で暮らすんです……」

「どう思う?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは私たちに向き直った。「シェイクスピアの与えた、新しい魅力的な創造の主題を、彼はよく理解し、その価値をつかんだかな?」

皆、答える代わりに笑った。

「シューストフ、君なら助けてくれるかな?」

「オセローが元老院議員ブラバンショーの娘を連れ去ったのは、まさにトルコ軍が、ヴェネツィアの植民地の一つを攻撃し始めた夜でした」と、シューストフは語った。

「遠征を成功させられる唯一の人間は、オセローでした」

「しかし領土の防衛を任せる前に、老人ブラバンショーとの争いを解決しなければなりませんでした。高慢なヴェネツィア人である彼は、自分の軽蔑する黒人の民族の男に一族を辱められたとして、守ってほしいと求めていたのです」

「娘を連れ去ったムーア人は、緊急会議中の元老院へ呼び出されました」

「もう退屈だ!」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「劇場のプログラムの筋書きなら、そんな書き方をする」

「ゴヴォルコフ、君が『オセロー』の内容を話してごらん」

「キプロス、カンディア、モーリタニアという征服された地方はですね、ヴェネツィアの重い足の下に踏みつけられています」と、わが筋金入りの見せる役者は語った。

「高慢な総督、元老院議員、貴族は、征服した人々を人間と見なさず、その血と交わり、親戚になることを許しません」

「しかし失礼ながら、生活はそんなことに構わず、人々に苦しい妥協を強います」

「突然、トルコとの戦争が……」

「すまないが、もう退屈だ」

「歴史の教科書なら、そんな書き方をする」

「心を引くものが少ない。芸術と創造の土台は、想像力や情念を呼び覚ますものなのだ」

「君の話からは、シェイクスピアの与えた材料への熱中が感じられない」

「作品の本質そのものを〔語る〕のは、容易なことではない」

私は何の案もなく、黙っていた。

少し待ってから、トルツォフは自分で語り始めた。いや、正確には、シェイクスピアの主題をもとに、空想を始めた。

「美しいヴェネツィアの娘が見える」と、彼は言った。「贅沢に甘やかされて育ち、わがままで、夢見がちで、空想好きだ。母親がなく、おとぎ話や短編物語で育った若い娘は、そうなるものだ」

「咲き始めたばかりの花、デズデモーナは、家に閉じ込められ、家事と、高慢で重々しい父親の気まぐれに応じることに、退屈している」

「誰も近づけさせてもらえないが、若い心は愛を求める」

「求婚者はいる。高慢な遊び人、人生を浪費する若いヴェネツィア人たちだ」

「だが、彼らには、若い空想家を引きつけることはできない」

「彼女に必要なのは、まだ見たことのない、素晴らしい物語に書かれるようなものだ」

「おとぎ話の王子、領地を持つ君主、王を待っている」

「遠い、美しい国からやって来る人だ」

「英雄で、美しく、勇敢で、無敵でなければならない」

「彼女はその人に身を委ね、美しい船で、どこかのおとぎの国へ行くのだ」

「続きを話してごらん」と、トルツォフは私に向き直った。

だが私は聞き入っていて、準備ができておらず、黙っていた。

待たれて少し間を置いたあと、「できません。動き出す力がないんです」と答えた。

「自分のぜんまいを巻きなさい」と、トルツォフはけしかけた。

「鍵がありません」と、私は認めた。

「今、渡してあげよう」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「話そうとしていることが起こる場所は、心の目で見えているか?」

「はい」と、私は元気づいた。

「なぜか、今のセヴァストーポリにそっくりなヴェネツィアで、起きているように見えるんです。そこには、なぜかニジニ・ノヴゴロドの知事公邸があって、ブラバンショーが住んでいます。南湾の岸辺で、今と同じように、小さな蒸気船が楽しげに行き交っています」

「でも、それを邪魔することなく、昔のゴンドラも、櫂で水をはねながら、あちこちへすいすい進んでいます」

「それでよい」と、トルツォフは言った。

「俳優の想像力の気まぐれを、誰が説明できるものか!」

「歴史も地理も構わず、時代錯誤も恐れないのだ」

「もっとおかしいのは」と、私は空想を続けた。「セヴァストーポリに似た私のヴェネツィアでは、湾岸に、ニジニにそっくりの崖があることです。絵のようなヴォルガの岸辺と、かつて私が愛し、苦しんだ、人目につかない詩情豊かな場所があるんです」

心の目に見えたものを話すと、すぐに、このとんでもない想像の創造を批判したくなった。だが、アルカージー・ニコラーエヴィチは、両手を振って、私を強く止めた。

「とんでもない!」

「どんな記憶を出すか、自分の好きなように注文することは、私たちにはできない」

「ひとりでに心によみがえり、俳優の創造を呼び起こす強い力になるのなら、それでよい」

「ただ、想像したことが、作者の作った主な筋の、内側の本質と台詞に反しなければよいのだ」

さらに私の空想を動かすため、アルカージー・ニコラーエヴィチは、新しい鍵をくれた。

「心の目で見ていることは、いつ起こるのか?」と、新しい問いを出した。

私のぜんまいがまた切れると、次の仕事のために、別の鍵をくれた。

「見えていることは、どう起きたのか?」と尋ね、その問いをすぐに説明した。

「つまり、内的な行動の線が知りたい。その段階的な進み方と、発展を知りたいのだ」

「今分かっているのは、甘やかされたデズデモーナが、ヴェネツィアの、ヴォルガ川の岸の、ニジニ風の館に住み、ヴェネツィアの遊び人と結婚したくない、ということだけだ」

「だから、彼女が何を夢見て、どう暮らし、その先に何があったかを、話してごらん」

新しい力も無駄になり、私は空想へ動き出せなかった。

そこでアルカージー・ニコラーエヴィチは、私の代わりに空想を続けた。ムーア人の人気と噂が、その到着に先立って広める、面白く心をそそる話を、作り出していった。

ムーア人の武勲や、やがてデズデモーナに語る、あらゆる苦難を、おとぎ話のようにロマンチックで、美しく、印象的にしたかったのだ。夢の中で英雄を待つ、若く熱しやすい娘の心を、かき立てるために。

また話が止まると、アルカージー・ニコラーエヴィチは、もう一度私を促そうとした。

やがて夫婦となる二人が、どう知り合い、恋に落ち、結婚したかを、順に語るよう勧めた。

私は黙っていた。アルカージー・ニコラーエヴィチ本人がどう空想するかを知るほうが、はるかに面白く、勉強になったからだ。

彼は続けた。

「オセローは、大きな船で、ヴェネツィアのセヴァストーポリへ着いた」

「将軍の武勲の伝説を聞き、大群衆が船着き場へ集まった」

「オセローの姿と、肌の黒さは、好奇心をかき立てた」

「彼が乗り物や徒歩で通りを行くと、子供たちは群れで追いかけ、通行人はひそひそ話し、指をさした」

「やがて恋人となる二人の最初の出会いは、通りで起こり、若い娘に大きな印象を与えた」

「オセローが彼女を魅了したのは、勇ましい姿だけでなく、何よりも、野育ちの人の子供のような純真さ、慎み、目に輝く優しさによってだった」

「この慎みと、はにかみが、軍人の勇気や恐れ知らずの性質と合わさり、珍しく美しい組み合わせを作っていた」

「別の日、デズデモーナは、兵を率いて演習から戻るオセローを見た」

「馬と一体になって離れないような、自由な乗り方は、彼女にさらに強い印象を与えた」

「そのとき初めて、将軍のあとに続くカッシオも見た」

「空想のために、デズデモーナは夜も眠れなかった」

「ある日、ブラバンショーは、有名なムーア人を食事へ招いたと、家の女主人を務める娘に告げた」

「若い娘は、その知らせに気を失いそうになった」

「どれほど丁寧に着飾り、食事を用意し、自分の英雄との出会いを待ったかは、容易に想像できる」

「彼女の眼差しが、オセローの心に届かないはずはなかった」

「彼は戸惑い、その名が無敵と固く結ばれる英雄に、ひどく似合う、はにかみがいっそう強まった」

「女性の優しさに慣れていないムーア人は、初め、女主人の格別な親切を、どう考えればよいか分からなかった」

「高位のヴェネツィア人の家では、公の立場にある者として迎えられ、その場にいることを許されるのが、常だった」

「しかし、敬意の中にも、いつも自分が奴隷の立場にあると感じていた」

「美しい女性の二つの目が、黒く、自分では醜いと思っている顔を、優しく包んだことなどなかった。ところが突然、今日……!」

「彼も何夜も眠れず、ブラバンショーから、また招かれるのを待ちわびた」

「誘いは、ほどなく来た」

「おそらく恋する娘の強い頼みで、英雄の武勲と、つらい従軍生活の話を聞くため、再び呼ばれたのだろう」

「オセローは何度も訪れた。一晩では、その半生は語り尽くせなかったからだ」

「食後、ワインを飲みながら、ニジニの崖の上からセヴァストーポリ湾を望むテラスで、ムーア人は慎み深く、しかし本当のこととして武勲を語った」。元老院の独白でシェイクスピアが語るとおりに、そして、アルカージー・ニコラーエヴィチが空想で彩った、おとぎ話の英雄の武勲のように。

そんな話なら、ロマンチックな気分の、熱しやすい娘の頭を、夢中にさせずにはいられないと、私は心から信じる。

「デズデモーナは、皆と同じ、平凡な市民の型に合わせて人生を整えるような人間ではなかった」と、〔アルカージー・ニコラーエヴィチは続けた。〕

「彼女には、並外れた、おとぎ話のようなものが必要だった」

「熱狂しやすい彼女の本性には、オセロー以上の英雄は考えられない」

「ムーア人も、ブラバンショーの家で、次第にくつろげるようになった」

「家庭の炉辺を、こんなに間近で見るのは初めてだった」

「目を離しがたい若い美女がいることで、その魅力はいっそう増した。などなど、続いていくわけだ」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは話を打ち切った。

「どうだろう」と、彼は私たちに尋ねた。「こんなふうに語るほうが、事実を乾いた調子で並べるより、面白くないか?」

「もう一度、悲劇の内容を話せと言われたら、外側の形ではなく、内面の本質の線をたどるので、また何かを空想するだろう」

「語らせる回数が増えるほど、作者を補う想像、魔法の『もしも』、作者の材料へ理由を与える『与えられた状況』のための材料は、増えていく」

「だから君たちも、私にならって、演じる予定の戯曲や即興練習の内容を、何度も語りなさい。そのたびに違う側から近づくのだ。自分自身の立場から語ることも、ある登場人物として、その人の視点に立って語ることもできる」

「おっしゃるとおりです。でも……欠かせない条件が一つあります。生まれつきか、すでに育てた、優れた想像力があることです」と、私は悲しくなった。

「まだ芽の段階の想像力を育てる、その仕組みと方法を、私たちは考え、理解する必要があります」

「そのためには、まだ温まっていない想像力を促す方法を、身につける必要がある」と、トルツォフは言った。

「そう、それが必要なんです! 私たちに足りないのは、それです」と、私はその言葉に食いついた。

〔事実の意味を見定め、理由を与える〕

「層を追って、上から奥へ、分析を始めよう。意識で捉えやすい戯曲の層から、捉えにくい層へ進むのだ」

「最も上の層は、筋書き、事実、戯曲の出来事だ」

「前の仕事でも、それには触れた。しかし、そのときは舞台で表すために、列挙するだけだった」

「今度は、事実と筋書きを学ぶ仕事を続けよう」

「私たちの言葉で『学ぶ』とは、あることを確認し、眺め、理解するだけではない。出来事の一つひとつの価値と意味を、見定めることでもある」

「戯曲を分析し、知るための新しい方法が、いわゆる『事実の意味を見定める過程』だ」

「出来の悪い喜劇、メロドラマ、ヴォードヴィル、レビュー、笑劇などには、外側の筋書きそのものが、上演の主な売りになる作品がある」

「そこでは、殺人、死、結婚という事実そのものや、登場人物の頭へ粉や水をかけること、ズボンの紛失、間違って他人の部屋へ入り、平和な客が強盗に間違えられることなどが、中心となる」

「そんな事実について、改めて意味を見定めるのは余計だろう」

「誰もが、すぐに分かり、受け入れるからだ」

「だが、ほかの作品では、筋書きや事実そのものには、あまり意味がないことも多い」

「それだけでは、観客が息を詰めて追う、上演の主な線にならない」

「そんな戯曲では、事実そのものではなく、それに対する登場人物の向き合い方が、中心、本質となり、観客は胸を高鳴らせて追う」

「そこでは事実は、内面の内容で満たすための、きっかけと場所を与える限りで、必要なのだ」

「例えば、チェーホフの戯曲がそうだ」

「最もよいのは、形と内容が、直接対応している場合だ」

「そんな作品では、役の人間としての内面の生活は、事実と筋書きから切り離せない」

「『オセロー』を含め、シェイクスピアの戯曲の多くでは、外側の事実の線と内側の線が、完全に対応し、互いに働きかけている」

「そうした作品では、事実の意味を見定める過程が、大きな意味を持つ」

「外側の出来事を調べるにつれ、その事実を生んだ、戯曲の与えられた状況へ行き当たる」

「それを学ぶと、関係する内面の理由が分かる」

「こうして、役の人間としての内面の生活の、ますます深いところへ降りていく。内なる意味へ近づき、戯曲の水面下の流れへ入る。それが私たちを運び、表面に行動の波を起こす内側の原因を、理解させてくれる。その波から、しばしば事実が生まれるのだ……」

「事実の意味を見定める技術は、初めは簡単だ」

「まず、調べる事実を想像の中で消してみる。それから、役の人間としての内面の生活に、どんな影響が出るかを考える」

「君たちの役で、確かめよう」と、トルツォフはヴュンツォフとゴヴォルコフに向き直った。

「戯曲の中で最初に出会う事実は、ブラバンショーの館へ着くことだ」

「これがなければ、第一場全体がなくなることは、説明するまでもない。悲劇の始まりに、舞台で行動し、心を動かす代わりに、楽屋へ落ち着いて座っていることになる」

「だから、ブラバンショーの家へ来ることは欠かせず、君たちはそれを信じ、したがって体験する必要があると分かる」

「君たちが第一場で記した第二の事実は、ロドリーゴとの争い、そしてイアーゴーが、自分に非はないこと、騒ぎを起こし、ムーア人を追う必要があることを、説得することだ」

「この事実を、戯曲から取り除いてみなさい」

「どうなるだろう?」

「登場人物はゴンドラで舞台へ入り、すぐに騒ぎを起こし始めるだろう」

「それでは観客は、導入の事情を知らないままだ。ロドリーゴとデズデモーナ、オセローとイアーゴーの関係、イアーゴーのオセローへの憎しみ、そして悲劇そのものを生む、連隊内の地位をめぐるもつれを、知らずに終わる」

「それは、騒ぎの場面の演技にも影響する」

「来て、眠っている人を起こすために叫び、音を立てることと、逃げた花嫁を失いつつあるロドリーゴのように、去りゆく幸福を救うために同じことをするのとは、違う」

「楽しむために叫んだり騒いだりすることと、イアーゴーのように、憎むオセローへ復讐することとは、違う」

「どんな行動も、外側の理由ではなく、内側の動機から行えば、比べものにならないほど強く、深く根づき、そのぶん、演じ手自身の心を動かすものになる」

「事実の意味を見定める過程は、先へ進むと、さらに大切な別の分析、知る過程と切り離せなくなる。事実に理由を与えることだ」

「それが必要なのは、理由のない事実は、宙に浮いているようなものだからだ」

「戯曲と役の、人間としての内面の生活に、足場を持たない」

「そんな、体験されず、役の内なる生活の線へ入らず、そこに響きもしない事実は、役には不要で、正しい内面の発展を妨げるだけだ」

「理由のない事実は、役の線にできた穴、断裂である」

「生きた身体の異常な肉の盛り上がりであり、平らな道の深い穴だ。内なる感情の自由な動きと勢いを妨げる」

「穴を埋めるか、橋を架けなければならない」

「そのために、事実へ理由を与える過程が必要なのだ」

「理由が与えられれば、その事実は役の内なる線、内なる意味へ入り、内面の生活が自由に発展するのを、妨げるどころか助ける」

「理由のある事実は、体験の論理と順序を助ける。それらが私たちの仕事でどれほど大切か、君たちは知っているね……」

「君たちは今、第一場の事実を知っている」

「それだけでなく、舞台でかなり正しく実行してもいる」

「だが、その完全な真実には、まだ達していない。新しい、自分自身の与えられた状況によって、事実に理由を与えるまでは、達しないだろう。それによって、戯曲の出来事を、役者としてではなく人間として、まねる者、写す者ではなく、行動を始め、作る者として見るようになるのだ」

「だから、もしロドリーゴ〔とイアーゴー〕の立場になったら、という、人間としての自分自身の視点から、第一場で起こるすべてを、正しく見定めたか確かめよう」

「外側の行動については、私は君たちを信じる」

「二人も君たちと同じように、船着き場へ近づき、舟を着けただろう」

「君たちも二人と同じく、ただ舟を着けるために着けるのではなく、騒ぎを起こすという、はっきりした目的のためにする」

「そして、その騒ぎも、別の、やはりはっきりした目的のために起こす。ムーア人を追い、捕らえ、デズデモーナを救うためだ」

「だが、まだ知らない、つまり感じていないことがある。なぜこの行動が、君たち二人にとって、それほど切実に必要なのか、ということだ」

「知っています! ものすごく、よく知っています!」と、ヴュンツォフは吠えるように言った。

「では、なぜか話してごらん」と、トルツォフは促した。

「デズデモーナに恋しているからです」

「では、彼女を知っているのだね! それはよい。どんな人なのか、教えてほしい」

「マロレトゥーシカのこと? ほら、ここに!」と、ヴュンツォフは口を滑らせた。

訳注

マロレトゥーシカは、デズデモーナ役のマロレトコワを親しみを込めて呼ぶ形。ヴュンツォフは、役の相手ではなく、実際の共演者への思いを口にしてしまう。

かわいそうなわがデズデモーナは、両手を振り、弾丸のように平土間から飛び出した。残った者たちは、アルカージー・ニコラーエヴィチまで、こらえきれず吹き出した。

「なるほど、確かに、事実を芝居ではなく、生活そのものとして見定め、理由を与えている!」と、トルツォフは認めた。

「だが、それなら、なぜ恋を救うために騒ぎを起こしたくないのか?」

「必要だと納得させるのが、なぜあれほど難しいのか?」

「彼は、すねているんです!」と、ヴュンツォフは混乱した。

「すねるにも、何か理由が要る。なければ、君も、見る側も信じられない」

「劇場では、ただ何となく、何のためでもなく、何かが起きてはならない」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは指摘した。

「イアーゴーとけんかしたんです!」と、ヴュンツォフは答えを絞り出した。

「『彼』とは誰だ?」

「ロドリーゴ、いや、私です」

「自分のことなら、なぜけんかになったか、誰よりよく知っているはずだ」

「話してごらん」

「だまされたからです。結婚させてやると約束したのに、させてくれなかった」

「どうやって、何で、君をだましたのか?」

ヴュンツォフは黙り、何も思いつけなかった。

「分からないのか。イアーゴーは君を丸め込み、大金を巻き上げながら、同時に、ムーア人との駆け落ちを仕組んでいたのだ」

「じゃあ、駆け落ちを仕組んだのは、あいつなんですか? なんて野郎だ!」と、ヴュンツォフは心底腹を立てて叫んだ。

「あいつの面を殴ってやる!」

「なのに、なんで彼は、いや、私は、騒ぎを起こしたくないんでしょう?」と、ヴュンツォフは両手を広げ、理由を見つけられず、また黙った。

「ほら、役にとって、こんなに重要な事実の意味が、まったく捉えられていない!」

「大きな空白だ」

「ありきたりの言い逃れで、理由をつけてはいけない」

「ここで必要なのは、ただの作用ではなく、魔法のような働きかけだ。本気で君を怒らせ、面白い行動へ押し出すものが要る」

「乾いた形式的な言い逃れは、役を損なう」

ヴュンツォフは黙っていた。

「どうして覚えていないのか。デズデモーナはイアーゴーを通して、君との結婚を承諾した。そして彼は君に、高価な結婚祝いを買わせ、部屋を用意させた。内装の手配や買い物も彼自身がし、その部屋は今、新婚の二人のために、途方もなく贅沢に飾られている」

「友人で仲介人の彼は、そこでどれほどもうけたことか!」

「連れ出す日は決まり、教会も司祭も、内々の、しかし豪華な結婚式の準備をしている。金は、気前のよい君の手から払われた」

「君は興奮と期待、待ちきれなさで、食べられず、眠れない。すると突然……」

「デズデモーナは、黒人の野蛮人と逃げてしまった」

「それを仕組んだのは、悪党イアーゴーだ」

「君は確信している。二人は、君のために準備した、まさにあの教会で結婚式を挙げ、君が用意した婚礼の品々の大半も、オセローへ渡ったのだと」

「これは嘲りであり、強奪だ!」

「では、もしすべてがこうだったら、君ならどうする?」

「悪党を殴ります!」と、ヴュンツォフは決め、怒りで少し顔を赤くさえした。

「イアーゴーのほうが、君にもっとひどいことをしなければよいが」

「彼は兵士で、とても強いからね」

「じゃあ、あんな悪魔に、どうしろっていうんです! 黙って横を向くしかない!」と、ヴュンツォフは途方に暮れた。

「それなら、なぜ彼の頼みを聞き、自分のゴンドラで、ブラバンショーの館へ来たのか?」

「その行動の意味を見定めてごらん」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは、戯曲の新しい事実をヴュンツォフに差し出した。

だが、わが情熱的な若者には、謎が解けなかった。

「ここにも、意味の見定まらない事実がある。最後まで調べなければならない」

「そうしなければ、戯曲の大切な二人の登場人物の関係を、理解できないだろう」

「ゴヴォルコフ、君はブラバンショーの館へ来ることについて、どう考える?」

「どうやって、そうさせたのか?」と、トルツォフは問い詰めた。

「首根っこをつかんでですね、ゴンドラへ放り込み、必要なところへ連れてきました」と、ゴヴォルコフは答えた。

「そんな乱暴な無理強いが、君の創造への熱中を燃え上がらせると思うか?」

「そうなら、それでよい。だが、うまくいくかは疑問だ」

「分析も、事実の意味を見定めることも、理由を与えることも、私たちには、信じる力と、俳優の熱中を生むために必要なのだ」

「私が君の役を演じるなら、君の提案する、粗く単純な手段では、それは得られない」

「下士官のように振る舞うのは、退屈で不快だろう。イアーゴーの悪魔的な知性にふさわしく、もっと巧妙な道で目的を果たしたくなるだろう」

「では、どうなさるんですか?」と、生徒たちは、トルツォフにまた空想させようと、せがんだ。

「私はたちまち、卑劣きわまりない噂で中傷された、罪のない、おとなしい子羊に変わるだろう」

「目を伏せて座り、ロドリーゴ、つまり〔ヴュンツォフ、〕君が、悪口も怒りも憎しみも、すべて吐き出すまで、動かずにいる」

「ひどいこと、不当なことをたくさん言ってくれるほど、私には有利だ」

「だから、君を遮る必要はない」

「怒りも勢いも吐き尽くし、胸を軽くし、力を使い切ったあと、そのあとで、ようやく動き始めればよい」

「私の行動は、無言だろう」

「議論もせず、反論や新しい非難、興奮の材料になる返事も、与えない」

「君の足元の地面を崩し、宙ぶらりんの、困った立場へ置く必要がある」

「支えを失えば、君はこちらのものだ。好きなように扱える」

「そのために、私はこうする」

「動かず黙ったまま、長く、ひどく苦痛で気まずい間を、引き延ばす」

「それから窓へ行き、君に背を向け、二度目の、もっと居心地の悪い間を、差し出す」

「君が激しく非難して、こんな気まずさと食い違いを望んだとは、思えない」

「きっと、イアーゴーも君のように懸命に言い立て、君以上に絶望して胸をたたくのを、待っていたのだろう」

「ところが突然……そんな熱の代わりに、沈黙、静止、謎めいて悲しい顔と眼差し、気まずさ、行き違いがある」

「それは不発に終わった印象を与え、失望、気恥ずかしさ、戸惑いを生む」

「それらは、熱を冷まし、おとなしくさせるのに、とてもよく効く」

「そのあと私は、君の座るテーブルへ近づき、そのとき身につけている金や宝石を、すべて出し始めるだろう」

「それらは皆、かつて友情が最もよかったころ、君がくれたものだ。今、友情が終わったので、返される」

「ここが、君の心の状態を変える、最初の瞬間だ」

「次に私は、君の前へ立つ。もうこの家の客でも友人でもないと思っているから、立ったままだ。そして、かつての友情の最良の瞬間を、さりげなく思い出させながら、過去に温かく、心から礼を言う」

「それから、しんみりと別れを告げる。君の手には触れない。もう触れる資格がないからだ。去り際に、さりげなく、それでもはっきりと、一言落とすだろう。『君にとって私が何だったか、未来が明らかにするだろう。永遠に、さようなら!』」

「正直に言ってごらん。君がロドリーゴの立場で、デズデモーナも、最良の友人も、将来への希望も、一度にすべて失ったとして、私を帰すだろうか?」

「一人きりで、皆に見捨てられ、無力だと感じないだろうか?」

「目の前に開ける未来が、恐ろしくならないだろうか?……」

* * *

「事実の意味を見定めるのは、大きく複雑な仕事だ」

「頭だけでなく、主に感情と創造する意志の助けで行う」

「その仕事も、想像の領域で進む」

「感情によって事実を見定める仕事とは、こういうことだ」

「自分自身の生きた向き合い方を土台に、自分の感情で事実の意味を見定めるため、俳優は内側でこう問い、この課題を解く。『人間としての私の内面の、どんな状況が、どんな私自身の生きた考え、願い、欲求、性質、生まれつきの長所や欠点が、戯曲の人々や出来事へ、演じる登場人物と同じように向き合うよう、俳優である私を動かすだろうか?』……」

〔「例えば、シェイクスピアは『オセロー』で、一連の事実と出来事を与えている」

「その意味を見定めなければならない」

「ヴェネツィア人の高慢さ、うぬぼれ、支配欲は、誰もが知っている」

「足下に置かれた植民地、モーリタニア、キプロス、カンディアは、隷属させられている」

「そこに住む、ヴェネツィアに服属する民族は、人間とさえ見なされない」

「ところが突然、その一人が、ヴェネツィアのいちばんの花、美しいデズデモーナを、あえて盗み出した。最も家柄がよく、影響力のある貴族の一人の娘を、だ」〕

「この大騒動、罪、恥、高慢な支配者の家族、一族全体への侮辱を、見定めてごらん!」

「もう一つ、事実がある」

「突然、青天の霹靂のように知らせが届いた。トルコの大艦隊が、かつての領土で、いつも取り戻したいと夢見ていたキプロス島へ、向かっているというのだ」

「この事実をもっと深く見定めるため、比較してみよう」

「目覚めると日本との戦争がもう始まっていた、あの恐ろしい日を思い出してほしい」

「それどころか、わが艦隊の大部分が、すでに沈められていたと知った日だ」

「その運命の夜、ヴェネツィアと住人すべては、同じような、それ以上の不安に包まれた」

「戦争が始まった」

「夜中、恐ろしい嵐と雷の中、急いで遠征の支度をする」

「誰を送るのか。誰を総司令官にするのか?」

「名高い、無敵のムーア人以外に、誰がいる!」

「彼が元老院へ呼ばれる」

「考え、この事実の意味を見定めれば、英雄、救い手の到着を、元老院がどれほど待ちわびているか、感じられるだろう」

「だが、この運命の夜、出来事の上へ、新しい出来事が積み重なる」

「危機をいっそう深める、新しい事実が現れた。侮辱されたブラバンショーが、裁きと保護を求め、自分の一族だけでなく、支配階級全体の威信から、汚名をそそぐよう要求するのだ」

「政府の立場をよく考え、この出来事の結び目を、自分で解いてみなさい」

「娘と、傷ひとつない一族の名誉を、同時に失った父親の苦しみを、見定めてごらん」

「事態に押されて高慢さを抑え、妥協せざるを得ない元老院議員たちの立場も、見定めなさい」

「主人公たち、オセロー、デズデモーナ、イアーゴー、カッシオの視点からも、起きたことすべてを見定めるのだ」

「事実から事実へ、出来事から出来事へ、行動から行動へと進み、戯曲全体を見渡して初めて、その筋を知ったと言え、語れるようになる」

……。

「作者の創造、つまり戯曲の線に沿って知るための分析を終えたら、演出家、美術家、その他の上演を創る人々が提案する『状況』についても、同じ仕事を繰り返す必要がある」

「舞台に表す生活へ、彼らがどう向き合い、どう近づくかは、私たちにとって、関心を持たずにはいられないことだ」

「だが、いちばん大切な『状況』は、舞台で役として生きる自分の状態を生かすため、私たち自身が役へ補うものだ」

「その際、共演者たちの『状況』も考慮しなければならない。私たち自身が、大きくそれに左右されるからだ」

「仕事を始めるには、やはり外側の事実や『状況』がいちばん容易だ。知ってのとおりの理由から、心の材料を得るこの仕事でも、外側の事実から離れることはない」

〔暮らしの層〕

「では理論から実践へ移り、戯曲の層を、上から下へとたどろう」

「第一場の役から始める」

「いちばん上の層、事実と筋書きは、十分に調べた」

「もっと下へ降りよう」

「そこには、暮らしの層がある」

「それについて、どう考える?」

誰も考えていなかったので、生徒たちは黙っていた。

アルカージー・ニコラーエヴィチの助けが必要だった。

促し、教え、ほのめかして、私たちから幾らかを絞り出したが、大部分はもちろん、自分で考えた。

「ロドリーゴとイアーゴーは、何者なのか。社会的な立場はどうなっている?」と、彼は尋ねた。

「イアーゴーは将校、ロドリーゴは貴族です」と、生徒たちは答えた。

「二人を持ち上げすぎではないかね」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは異を唱えた。

「イアーゴーは将校にしては粗野すぎ、ロドリーゴは貴族にしては俗っぽすぎる」

「地位を少し下げたほうがよくはないか。前者は、一兵卒から武勲で将校へ上がろうとする下士官、後者のロドリーゴは、ただの金持ちの商人にしてみるのだ」

舞台では「高貴な人物」しか演じないのを「主義」とするゴヴォルコフは、激しく反対した。

主人公の心理は、庶民にしては「知識人らしく洗練されている」(!)と言い、ただの兵士とは見たくないのである。

私たちは議論し、生活で観察した例を出した。フィガロ、モリエールのスカパンやスガナレル、イタリア喜劇の召使いたちを挙げた。巧みで、ずる賢く、抜け目のない、その繊細な心理には、「知識人」でもかなわない。

イアーゴーには、生まれつき悪魔的なものがある。悪魔は、自分の領分では、身分や育ちに関係なく、とても巧妙なのだ。

ゴヴォルコフと合意できたのは、イアーゴーは粗野だが「高貴な」将校だ、というところまでだった。

私はそのとき、わが見せる役者が考えている「高貴さ」の型を、思い浮かべた。

間違った思い込みへはまった頑固者を動かすため、トルツォフは連隊の日常を描いた。兵士は手段を選ばず将校になりたがり、将校は副官に、副官はさらに上の階級へ、将軍にまで上がりたがる、そんな暮らしである。

その描く光景には、生活の匂いがした。

真実によってゴヴォルコフを気取った高みから降ろし、生きた生活へ近づけようとしていたのだ。

トルツォフは言った。

「イアーゴーの出発点は、ただの兵士だ」

「見たところ、少し粗野で、気がよく、忠実で、正直だ」

「本当に勇敢な、斬り込みの猛者である」

「どの戦いでも、オセローのそばにいた」

「何度も、その命を救った」

「頭がよく、ずる賢く、オセローが軍事の才能と直感で作る戦術を、よく理解していた」

「オセローは戦いの前も最中も、いつも彼に相談し、イアーゴーは何度も、賢く役立つ助言をした」

「彼の中には二人の人間がいた。人に見せる自分と、本当の自分だ」

「一方は感じがよく、少し素朴で、善良。もう一方は、邪悪で、忌まわしい」

「その仮面は、あまりにうまく人をだますので、皆が、ある程度は妻さえも、イアーゴーは誰より忠実で、悪意のない人間だと確信している」

「もしデズデモーナに肌の黒い息子が生まれたら、乳母の代わりにあやすのは、この大きく、粗野だが、とても気のよいイアーゴーだろう。子供が育てば、世話役として、善人の仮面をかぶったこの悪党が、きっとつけられるだろう」

「オセローは戦場のイアーゴーを見て、その勇敢さや残酷さを知っているが、彼への見方は皆と同じだ」

「戦いでは人が獣になることを、知っている。自分もそうだからだ」

「だがそれは、日常で柔らかく、優しく、ほとんどはにかむほどであることを、妨げない」

「それにオセローは、戦争で何度もよい助言を与えてくれた、イアーゴーの知恵とずる賢さを、高く買っていた」

「従軍生活では、イアーゴーは相談相手だけでなく、友でもあった」

「オセローは、悲しみ、疑い、望みを打ち明けた」

「イアーゴーは、いつも同じ天幕で寝た」

「偉大な将軍は眠れぬ夜、彼と心を開いて語り合った」

「イアーゴーは召使いであり、女中であり、必要なら医者でもあった」

「誰よりもうまく傷に包帯を巻き、必要なら元気づけ、楽しませ、下品だがおかしい歌を歌い、同じような小話をした」

「気のよさのおかげで、そんなことも許された」

「イアーゴーの歌や、きわどい話が、大きな助けになったことは、何度あっただろう」

「例えば、軍が疲れ、兵士が不満を漏らす。そこへイアーゴーが来て、兵士さえ驚き、夢中になるほど下品な歌を歌うと、空気が変わる」

「別の場面では、怒った兵士たちの気を、何とか晴らす必要がある。そんなとき、イアーゴーはためらわず、捕虜の異民族の男へ、残酷で恥知らずな拷問や処刑を考えつく。興奮した兵士を落ち着かせ、しばらく満足させるものを、だ」

「もちろん、オセローには隠れて行う。気高いムーア人は、残虐な行為を許さないからだ」

「必要なら、一振りで、苦しめずに首を落とす」

「イアーゴーは正直だ」

「公金や軍の物資は盗まない」

「そんな危険を冒すには、頭がよすぎる」

「だが、愚か者から巻き上げられるなら、機会を逃さない。ロドリーゴのほかにも、この世にはいくらでもいる」

「金、贈り物、ごちそう、女、馬、子犬など、何でも受け取る」

「この副収入で、酒宴と楽しい暮らしの費用を賄う」

「エミーリアは知らない。察しているかもしれないが」

「イアーゴーがオセローと親しく、一兵卒から中尉に取り立てられ、同じ天幕で眠り、右腕となっていることなどは、当然、将校たちの嫉妬と、兵士たちの好意を呼ぶ」

「だが皆、イアーゴーを恐れ、敬う。本物の、理想的な兵士、戦う人間であり、何度も連隊を窮地や危機から救ったからだ」

「戦場の生活は、彼になじんでいる」

「しかしヴェネツィアでは、華やかさ、堅苦しさ、高慢さに満ちた公式の宴席や、オセローが付き合う高官たちの間で、イアーゴーは場違いだ」

「それに、将軍自身も学問には弱い……」

「教育の足りないところを補ってくれる人間が、そばに必要だ。総督や元老院議員へも、安心して使いに出せる、副官が要る」

「手紙を書き、軍事学で自分の知らないことを説明してくれる人が、必要なのである」

「そんな役目に、戦場育ちのイアーゴーを任命できるだろうか?」

「もちろん、学識あるカッシオのほうが、はるかにふさわしい」

「彼はフィレンツェ人だ。当時のフィレンツェ人は、今のパリの人のように、社交性と優雅さの手本だった」

「ブラバンショーと付き合い、デズデモーナとの秘密の逢引きを準備するのに、イアーゴーが向いているだろうか?」

「カッシオ以上の適任者は、見つからない」

「オセローが彼を中尉、いわば自分付きの副官に選んでも、何の不思議があるだろう!」

「それどころか、イアーゴーを候補にすることなど、ムーア人には一度も浮かばなかった」

「イアーゴーに、なぜその役目が必要なのか?」

「彼はすでに近しく、身内で、家族同然の友人だ」

「その役割のままでいればよい」

「無学で、洗練されず、粗野な副官として、皆に笑われる、間抜けな立場へ置く必要など、どこにあるのか!」

「オセローは、おそらくそう考えただろう」

「だが、イアーゴーは違った」

「これまでのすべての功績、勇気、何度も将軍の命を救ったこと、友情、忠実さのために、自分以外の誰が、将軍の副官になれるというのかと、考えていた」

「抜きん出た人物や、共に戦った将校を代わりに選ぶなら、まだよい。だが、たまたま出会った、戦いや戦争が何かも知らない、顔のよい若造の将校を選ぶとは!」

「本を読み、若い娘としゃれた話をし、権力者の前で巧みにお辞儀できるからと、ほとんど子供のような男をそばへ置く。そんな将軍の理屈は、イアーゴーには理解できなかった。だからカッシオの任命は、許しようのない打撃、侮辱、屈辱、唾を吐きかけられる仕打ち、恩知らずな行為となった」

「いちばん悔しいのは、その任命で、自分の名前が話題にさえならず、誰の頭にも浮かばなかったことだ」

「だが、イアーゴーを徹底的に打ちのめしたのは、最も私的な心の問題、デズデモーナへの愛と連れ出しが、自分には隠され、若造カッシオへ任されたことだった」

「カッシオが副官に任じられたあと、近ごろのイアーゴーが、憂さ晴らしに飲み、遊ぶようになったとしても、不思議はない」

「そんな酒宴で、ロドリーゴと出会い、親しくなったのかもしれない」

「新しい友人と心を開いて語るとき、いちばん好んだ話題は、一方では、イアーゴーが手伝うデズデモーナとの駆け落ちを、ロドリーゴが夢見ること。もう一方では、将軍の不当な扱いについて、イアーゴーが愚痴を言うことだった」

「怒りを晴らし、さらに養うため、あらゆることを考え、思い出した。イアーゴーの以前の功績も、これまで気にしていなかったのに、〔今は〕罪に思える、オセローの昔の恩知らずも、すべて持ち出した」

「エミーリアについての連隊の噂も、思い出された」

「イアーゴーがオセローと親しかったころ、彼を妬む者は多かった」

「彼らは気を晴らすため、イアーゴーと将軍の親しさを説明する、さまざまな理由を取り沙汰し、作り上げた」

「オセローとエミーリアの間に何かがあった、あるいは今もある、という噂も流れた」

「もちろん、イアーゴーの耳へ届くように流された。だが当時、彼は大して気に留めなかった。第一に、エミーリアをそれほど大切にせず、自分も浮気をしていた。第二に、彼女へ特別な感情を持っていなかったからだ」

「彼女のふくよかさが気に入っていた。よい主婦で、歌もリュートもでき、陽気だ。幾らか財産もあり、よい商家の出で、当時としてはよい教育も受けていたのかもしれない」

「当時、彼女と将軍の間に何かあっても、それほど悲しまなかっただろう。実際には何もないと、彼は知っていたのだが」

「しかし今、ひどい侮辱のあとで、エミーリアの噂を思い出した」

「将軍と妻に関係があってほしかった。あることが必要だった」

「それなら、もっと憎み、もっと強く復讐する権利を得られる」

「今のイアーゴーは、現実には嘘だと知りながら、その噂を信じたがっている」

「エミーリアは、オセローに好意的だ」

「彼は感じがよく、優しく、孤独で、家のことができない。住まいには女性の手がない。だから、家事のできる彼女は、独身の将軍の家へ立ち寄り、片づける」

「イアーゴーは、それを知っている」

「オセローの家で彼女に何度も会い、何とも思わなかった。だが今は、それもオセローの罪にする」

「つまりイアーゴーは、自分に暗示をかけるあまり、なかったことを信じたのだ」

「それが、この悪党に、さらに怒り、無実のオセローを責め、罪に問う口実を与え、内側の憎しみや毒気を、いっそう燃え上がらせた」

「そんな状態のとき、イアーゴーは、デズデモーナが連れ去られたという、信じがたく、思いがけず、理解できない事実を知った」

「将軍の住まいへ行き、絵のように美しい娘が、黒い醜男、悪魔に、今にも抱きつきそうなのを見て、目を疑った。今の彼には、ムーア人はそう見えたのだ」

「打撃はあまりに大きく、しばらく意識が働かなくなった」

「やがて、カッシオの指揮のもとで、恋人たちが、近しい自分まで巧みにだまし、煙に巻いていたと説明され、からかう楽しげな声を聞くと、彼は逃げ出した。激しく煮え立つ怒りを、見せないために」

「デズデモーナの連れ出しは、彼を侮辱しただけでなく、ロドリーゴに対して、ひどく間抜けな立場にも置いた」

「悪党は彼から金を巻き上げる間ずっと、美しい娘との結婚を取り持ち、父親が承知しなければ、家から盗み出してやると誓っていたのだ」

「それが突然、こんな面目丸つぶれの事態になった」

「お人よしのロドリーゴにも、イアーゴーにだまされていたと分かった」

「この中尉は、本当に将軍と親しいのかさえ疑い、彼の友情も信じなくなった」

「つまり、関係は一気に悪くなった」

「ロドリーゴは怒った。頑固で、聞き分けがなく、子供じみた、愚かな怒り方だった」

「かつて、酔った遊び人たちに殴られていたところを、イアーゴーが助けたことも、一時は忘れてしまった」

「オセローによる連れ出しと結婚は、美しく、そのため申し分なく成功した」

「すべては、とても簡単に、巧みに進んだ」

「ずっと前から、カッシオはブラバンショー家の女中の一人と、恋の関係を作っていた」

「何度も逢引きに誘い出し、裏口からゴンドラで連れ去り、それから送り届けていた」

「この恋の冒険のため、カッシオはブラバンショーの召使いたちへ、よい金を払っていた」

「今夜もいつもの逢引きが決まっていたが、女中の代わりにデズデモーナが出てきて、そのまま姿を消した」

「以前にも、デズデモーナをオセローとの逢引きへ連れ出す必要があるとき、同じ手を使っていた」

「デズデモーナは、普通の舞台で演じられるような人物とは、まったく違うことを忘れてはいけない」

「舞台では、臆病で、おびえたオフィーリアのようにしてしまう」

「だが、デズデモーナはオフィーリアではない」

「決断力があり、大胆だ」

「家父長的なしきたりどおりの、ありふれた結婚など望まない」

「おとぎ話の王子が必要なのだ」

「もっとも、彼女については、いずれ話そう」

「今は、これだけ話せば、彼女がどうして大胆で危険な連れ出しに身を任せたか、分かるだろう」

「イアーゴーは事態を知り、引き下がるまいと決めた」

「まだすべてが失われたわけではないと信じていた。町じゅうを巻き込む騒ぎを起こせば、オセローはただでは済まない。ことによると、上からの命令で結婚そのものも解消されるかもしれない」

「たぶん、その考えは正しかった」

「結婚と戦争が重ならなければ、おそらくそうなっただろう」

「だが、オセローは国家にとって、あまりに必要だった。こんな危機に、結婚の解消などで騒いでいるわけにはいかなかった……」

「時間を失わないことが大切だった」

「行動しなければならない瞬間、イアーゴーには悪魔的な活力が現れる」

「あらゆるところへ、間に合わせる」

「落ち着くと、イアーゴーは新婚の二人のもとへ戻り、祝い、一緒に笑い、自分を馬鹿だと罵った。連れ出しと結婚の知らせを聞いた最初の瞬間、あんな愚かな振る舞いをしたのは、敬愛する将軍を取られる嫉妬からだと、デズデモーナにまで信じさせた」

「そのあと、イアーゴーはロドリーゴのもとへ飛んでいった……」

ヴュンツォフ〔演じるロドリーゴ〕は、ゴヴォルコフより、話が通じやすかった。

すぐに、しかも多少楽しそうに、主人公をただの商人へ格下げした。高い身分の出だと示す特徴を一つも、トルツォフへ挙げられなかったので、なおさらだった。

貴族なら、どれほど愚かでも、自分の生きる、甘やかされ洗練された社会の跡が、何かしら現れるだろう。

だが、ロドリーゴについて戯曲から引き出せるのは、酒宴、けんか、通りの騒動くらいだ。

ヴュンツォフは、トルツォフの示した線を進むだけでなく、このお人よしの日常を空想するのを、自分でもうまく助けた。

二人の空想の中で、その生活は、およそ次のような姿になった。

「ロドリーゴとは何者か?」と、〔トルツォフは言う。〕「私には、とても金持ちの両親の息子だと思える」

「両親は地主で、自分の田舎の産物を、ヴェネツィアへ運ぶ」

「そこで、ビロードやほかの贅沢品に替える」

「船はその品を外国へ運ぶ。ロシアへも運び、そこで大金で売る」

「だが、ロドリーゴの両親は亡くなった」

「彼に、こんな大きな事業を切り盛りできるものか!」

「できるのは、父の富を使うことだけだ」

「その富のおかげで、父も彼自身も、貴族の仲間へ入ることを許されていた」

「単純で、いつも遊び歩くロドリーゴは、同じように軽薄な暮らしをする若いヴェネツィア人たちへ、しょっちゅう金を渡していた。もちろん、返ってこない」

「では、その金はどこから出るのか?」

「今のところ、よく整えられた仕組みと、以前からの忠実な使用人や管理人のおかげで、事業は惰性で回っている」

「しかし、そんなことが長く続くはずはない」

「運悪く、ある朝、酒宴のあと運河を進んでいたロドリーゴは、夢か幻のようなものを見た。若く美しいデズデモーナが、父の家からゴンドラへ乗り、乳母か、ブラバンショー家の家事を切り盛りする年配の女性と、教会へ行くところだった」

「彼は息をのみ、ゴンドラを止め、飲み疲れてむくんだ顔で、美しい娘を長く見つめた」

「それが、乳母の注意を引いた」

「乳母はすぐに、デズデモーナの顔へヴェールを掛けた」

「ロドリーゴは彼女のゴンドラを長く追い、あとについて教会へ入った」

「胸の高鳴りで、酔いはさめた」

「ただ、歩き方には、まだかなりの危なっかしさが残っていた」

「ロドリーゴは祈らず、ずっとデズデモーナを見ていた」

「乳母は何とか、その姿を遮ろうとした」

「だが娘自身は、この出来事を楽しんでいた」

「ロドリーゴが好みだったからではない。ただ、家や教会でじっとしているのは退屈で、いたずらしたかったのだ」

「礼拝の途中に、ブラバンショー本人も来た」

「娘たちを見つけ、一緒に座った」

「乳母がロドリーゴを指し、何か耳打ちした」

「ブラバンショーは、厳しい目をそちらへ向けた」

「だが、厚かましいロドリーゴは、少しも動じなかった」

「ゴンドラへ乗ると、デズデモーナは、底いっぱいに花が散らばっているのを見つけた」

「そのため船頭は、ひどく叱られた。舟を見張らず、別の船頭としゃべっていたのだ」

「ブラバンショーは、花を全部水へ捨てるよう命じ、それから目の前で娘を乗せ、乳母と一緒に帰した」

「だが、最初の曲がり角の先には、もうロドリーゴが待ち構えていた」

「彼は先を進み、道すがら、絶えず花を水へ投げた。いわば、美女の通る道へ花を敷いたのだ。ミサの間に教会の周りへ集まった花売りの女たちから、すべて買い上げた花だった」

「こんなふうにちやほやされることも、ロドリーゴの気前よさも、若い美女は気に入った」

「なぜか?」

「楽しく、自尊心をくすぐり、乳母を怒らせるからだ」

「この最初の出会いから、ロドリーゴは夢中になった」

「デズデモーナのことしか考えなかった」

「彼女の窓の下で、セレナーデを奏でさせた」

「夜に舟を寄せ、顔を出してくれるのを期待して、窓の下のゴンドラで、一晩じゅう座り続けた」

「一度か二度は、そのとおりになった」

「彼女は、退屈しのぎに、いたずらか、ちょっと気を引こうとして、ほほえみかけた」

「彼は単純なので、それを勝利と思い込み、お礼に何をしようか、迷うほどだった」

「詩を作り始め、韻を踏んだ愛の告白を美女へ届けてもらおうと、使用人を買収した」

「大金を取られたが、手紙が本人へ届いたかどうか、誰にも分からなかった」

「ついにブラバンショーの命令で、その兄弟本人が、しつこい求愛者の前へ出た。デズデモーナにつきまとうのをやめなければ、手を打つと警告した」

「つきまといは、やまなかった」

「別の手段を取る必要があった」

「招かれない求愛者を追い払うため、召使いたちが出された」

「彼らは遠慮せず、オレンジの皮、台所のくず、あらゆるごみを投げつけた」

「ロドリーゴは、この仕打ちにも辛抱強く耐えた」

「だがある日、暗い運河でデズデモーナを待ち伏せし、そのゴンドラへ追いつくと、通り過ぎざま、大きな花束と、自作の恋の詩を投げ込んだ」

「ところが、何ということだ!」

「デズデモーナは彼を見もせず、自分の手で花束も詩も水へ捨てた。怒った様子で横を向き、自分で顔にヴェールを掛けた」

「ロドリーゴは打ちのめされた」

「何をすればよいか分からなかった」

「冷たい美女への仕返しに、一週間ぶっ通しで飲み遊ぶ以上のことを、思いつけなかった」

「それから復讐のため、自分のゴンドラを高価な布、花、灯りで飾り、身持ちの悪い美女たちを花束のように乗せ、陽気に歌い、笑いながら、ブラバンショーの家の前や、デズデモーナが毎日通る大運河の道を、行き来した」

「我に返ると、またふさぎ込み、悲しげに、自分の美女の家の前のゴンドラで、何時間も座った。追い払う召使いが出されるまで、そうしていた」

「オセローが現れるまで、そんなことが続いた」

「デズデモーナが初めて通りでオセローに会ったとき、ロドリーゴも群衆の中にいた」

「オセローが勝利を収めてヴェネツィアへ帰ると、軍人がもてはやされた」

「トルコ人に勝った彼らは、今度は女性の心も征服する者となった」

「ロドリーゴ自身も、軍人になりたいと夢見た」

「夜の酒宴では、軍人が高級娼婦たちのお気に入りの相手となった」

「そんな夜の乱痴気騒ぎの費用は、すべてロドリーゴが払った」

「それで将校たちと親しくなり、イアーゴーとも出会った。ある酒宴で、酔った将校たちがロドリーゴを殴りかけたが、イアーゴーが熱心にかばった。ロドリーゴは大いに感謝し、気前よく報いようとした。しかしイアーゴーは、ただ友情と好意のためにしたのだと、信じ込ませた」

「ここから、二人の友情が始まった」

「そのころ、オセローとデズデモーナの恋は、ますます深まっていた」

「二人の恋の仲介役だったカッシオは、ロドリーゴの恋心を知っていた」

「彼も夜の酒宴で、ロドリーゴと知り合ったのだ」

「カッシオは、その単純さをよく分かっていた」

「オセローとデズデモーナの関係を知っていたので、愛し返されるというロドリーゴの望みが、おかしかった。だから、いつもこのお人よしをからかい、いろいろな冗談を仕掛けた。デズデモーナがどこそこで散歩する、ある場所で会いたいと言っている、と請け合った。ロドリーゴは何時間も、美しい娘の姿を見ようと、無駄に待ち続けた」

「辱められ、傷つくと、彼はイアーゴーへ駆け込んだ。イアーゴーはかばい、復讐してやる、最後には結婚をまとめてやると誓った。黒い悪魔との恋など信じない、と言ったのだ」

「それでロドリーゴは、ますますイアーゴーにすがり、大金を注ぎ込んだ」

……。

「〔オセローとデズデモーナの結婚〕を知ると、気の毒なお人よしは、初め、子供のように泣いた。それから、あらゆる汚い言葉で友人を罵り、縁を切ると決めた」

「哀れなイアーゴーには、彼を説得するのが大変だった。町じゅうを巻き込む騒動を起こし、〔その結果〕離婚か、結婚の不承認を勝ち取るのを、手伝わせなければならなかった」

「私たちが二人を見るのは、イアーゴーがロドリーゴを、ほとんど無理にゴンドラへ乗せ、ブラバンショーの家へ運んでいるところだ。ゴンドラは、金持ちにふさわしく、高価な布で飾った豪華なものだ……」

Ⅳ.〔これまでの確認とまとめ〕

「出来事はどこで起こる?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは尋ねた。

「ヴェネツィアです」

「いつだ?」と、彼は尋ねた。

「十六世紀です。年はまだ決まっていません。美術家との相談が済んでいないので」と、答えを任された協力者は言った。

「季節は?」

「晩秋です」

「なぜ、その時期を選んだのか?」

「寒い夜に起き、舟で出かけるのを、もっと嫌にするためです」

「一日のうち、いつだ?」

「夜です」

「何時ごろか?」

「夜中の十二時ごろです」

「そのとき、何をしていた?」

「寝ていました」

「誰が起こした?」

「ペトルーシンです」と、協力者の一人を指した。

「なぜ、彼なのか?」

「イワン・プラトーノヴィチが、彼に門番の役を与えたからです」

「目を覚まして、はっきりしたとき、何を考えた?」

「悪いことが起きて、どこかへ行かなければならないと思いました。私は船頭ですから」

「それから、どうした?」

「急いで服を着始めました」

「何を身につけた?」

「タイツ、短いズボン、胴衣、帯、ベレー帽、厚い靴です。手提げ灯を整え、マントを取り、櫂を出しました」

「櫂はどこにある?」

「玄関広間の奥、廊下の壁につけた受け金具に載せてあります」

「君自身は、どこに住んでいる?」

「地下の、水面より低いところです」

「湿っているのか?」

「はい。湿って、寒いです」

「どうやらブラバンショーは、君を粗末に扱っているらしいね?」

「何を望めるでしょう。私はただの船頭です」

「では、仕事は何か?」

「ゴンドラと、それに必要なすべての道具を、きちんとしておくことです」

「たくさんあります」

「座ったり横になったりする、豪華なクッション。晴れの日用、少し改まった日用、日常用と、いろいろです」

「金糸で刺繍した、豪華な天蓋もあります」

「象嵌を施した、晴れの日用の櫂や舟鉤もあります」

「普通に出かけるための灯りと、盛大なセレナーデのための、たくさんの小さな灯りもあります」

「それから、どうした?」

「家の中の混乱に驚きました」

「火事だという者も、敵が来るという者もいました」

「玄関広間では、人々が集まり、外で何が起きているか、耳を澄ませていました」

「誰かが必死に叫んでいました」

「下の階の窓を開ける勇気がなく、私たちは上の応接間へ走りました」

「そこでは、もう窓が開き、入れる者は首を突き出していました」

「そこで、娘が連れ去られたと知りました」

「どう受け止めた?」

「ひどく腹が立ちました」

「私は、主人のお嬢様に恋していますから」

「散歩や教会へお連れするのが、とても誇らしいんです。皆がこちらを見て、その美しさに見惚れるからです」

「彼女のおかげで、私までヴェネツィアで知られています!」

「いつも、偶然を装って花を置き忘れます。見つけて持っていてくださると、幸せです」

「触れただけで舟に残されたら、拾って口づけし、記念に取っておきます」

「粗野な船頭が、そんなに繊細で、感傷的なのかね?」

「デズデモーナにだけです。私たちの誇りで、愛する人ですから」

「この動機は私にとても大切で、彼女の名誉を救う追跡のために、力を燃やしてくれます」

「その先は、何をした?」

「下へ駆け出しました」

「扉はもう開き、武器が運び込まれていました。玄関広間や廊下の至るところで、人々が急いで鎖かたびらや鎧を着ていました」

「私も、戦うことになるかもしれないので、何かの鎧を身につけました」

「それから全部を揃え、ゴンドラの持ち場で、次の指示を待ちました」

「誰と役の準備をした?」

「プロスクーロフです。イワン・プラトーノヴィチが確かめてくださいました」

「よい。よくやった。すべて、修正なしで受け入れよう」

これが、ただの協力者なのか、と私は思った。では、私たちは!……。まだ、どれほど取り組まなければならないのだろう!

協力者たちの準備したことを、すべて最後まで聞くと、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「すべて筋が通り、順序もよい」

「今のところ、その準備を受け入れよう。君たちがしたいことも、分かる」。そう言って私たちを呼び、一緒に舞台の協力者たちのところへ行った。自分がよしとした第一場全体の、舞台上の配置と動きを、皆に示すためだった。

私たちと彼らが最初の即興練習をしている間ずっと、トルツォフは、騒ぎ、追跡、その場面に必要な空気が、最もよく表れたところや、自然に見え始めた人物像を、記していたのだという。

今、それらすべてを戯曲へ生かして、自分の舞台上の配置と動きの計画を示した。

その際、提案する配置や移動、立ち位置は、私たち自身と協力者たちから生まれたもので、私たちの本性に近く、親しいものだと話した。

私は、その舞台上の配置と動きを書き留めた。

次のとおりである。

「イアーゴーとロドリーゴは、ゴンドラで進んでいる」

「舳先に船頭がいる……」

「場面は、客席から見て左側に、二人の声を抑えた激しい言い争いと、櫂の水音が聞こえるところから始まる。まだ役の台詞ではない」

「船頭が左から現れる」

「最初の八行の詩句は、ゴンドラがブラバンショーの家の船着き場へ進む間、ひどく熱く、神経の張り詰めた調子で交わされる」

「イアーゴーの『そんなことを夢にでも見たものか』という言葉のあとに、間」

「イアーゴーが、しっと制する」

「間」

「舟を寄せる」

「船頭が降り、鎖を鳴らす」

「イアーゴーが止める」

「この間を、最後まで演じる」

「見回す。窓から見ている者はいない」

「すぐ、間の前のような、熱く神経の張り詰めた会話へ戻る。声は抑える」

「イアーゴーは、大声にならないよう気を配る」

「窓からあまり見られないよう、できるだけ隠れる」

「イアーゴーが〔『君も私を軽蔑して背を向けるがよい……』〕と言うのは、いつもの芝居のように、憎しみや激しい気質を見せつけるためではない」

「彼が熱くなり、腹を立て、オセローへの憎しみをできるだけ鮮やかに描こうとするのは、目先の単純な課題を果たすためだ。ロドリーゴに叫ばせ、騒ぎを起こさせるためなのである……」

「ロドリーゴは少し気が和らぎ……、もう半ばイアーゴーへ顔を向けている。イアーゴーは思い切って立ち、ロドリーゴの腕を引いて立たせる」

「櫂を渡し、それでゴンドラをたたかせる」

「イアーゴー自身は、急いで館のアーチの下へ隠れる……」

「ロドリーゴの『ブラバンショー! ブラバンショー! 旦那様!』から、騒ぎの場面が始まる」

「慌てず、十分に演じる。眠る家じゅうを起こしたことに理由を与え、自分でも信じるためだ」

「それは、簡単ではない」

「台詞を何度か繰り返すのを、恐れないこと」

「場面を長くするため、言葉の間に、たたく間を挟む。ロドリーゴは櫂でゴンドラをたたき、船尾の鎖も使う」

「船頭も、イアーゴーの命令で、鎖で同じように音を立てる。イアーゴーは列柱の下で、昔、呼び鈴の代わりに使った金具で、扉をたたく……」

「家が目覚める場面。а)遠く、舞台の外から声。二階の窓が少し開く。б)窓の雲母板へ、召使いの顔が寄り、見分けようとする。в)別の窓には、女の顔。デズデモーナの乳母で、やはり寝ぼけ顔の寝間着姿だ。г)三つ目の窓を、ブラバンショーが開ける」

「こうした登場の合間に、舞台裏では、家が目を覚ます物音が、強くなっていく……」

「この場面が進む間に、窓は少しずつ、どれも人でいっぱいになる」

「皆、寝ぼけていて、身支度も半ばだ」

「夜の騒ぎの場面」

「群衆の身体的課題は、用心しながら、騒音の原因を見て理解すること」

「ロドリーゴ、イアーゴー、船頭の身体的課題は、できるだけ音を立て、驚かせ、注意をこちらへ向けさせることだ……」

「このように、最初の、台詞の間を担う群衆の場面は、ブラバンショーの登場前にあった」

「二度目は、〔次の言葉のあとだ。〕
ブラバンショー『いや、いったい誰だ?』
ロドリーゴ『ロドリーゴです』」

「間」

「群衆の場面。全員が憤る」

「ロドリーゴがデズデモーナにつきまとっていたこと、この男を、オレンジの皮やさまざまなごみで追い払っていたことを知れば、皆の憤りは分かる」

「実際、道楽者が酔ったからというだけで、夜中に家じゅうを起こすとは、なんという厚かましさだろう」

「誰もが、『この無礼者、ろくでなしめ! どうしてくれよう?』と言っているようだ」

「ブラバンショーは彼に食ってかかる。ほかの人々は、騒ぎの理由はくだらないことだと分かる」

「もう多くが窓を離れ、人が減り、幾つかの窓は閉まる」

「寝に戻るのだ」

「これでロドリーゴとイアーゴーは、ますます焦る……」

「窓に残った召使いたちは、ロドリーゴを罵る」

「全員が同時に話す」

「今にも、皆が姿を消しそうだ」

「ロドリーゴは身を引き裂かれる思いだ。ブラバンショーは、去ろうとして、もう窓を半分閉めている」

「だが完全に閉める前に、『よく覚えておくがよい、私の力は……』で始まる台詞を言う」

「ブラバンショーを何としても引き止めようとする、ロドリーゴとイアーゴーの神経の高ぶり、演技のリズムとテンポが、想像できるだろう」

「イアーゴーの台詞。〔『畜生、旦那様!』など。〕」

「イアーゴーは、この行き違いを終わらせるため、何か突飛な適応を見つけなければならない」

「誰だと知られないよう、念入りに帽子を目深にかぶる」

「窓から見ている全員と、戻ってきた協力者二、三人が、列柱の下の見知らぬ男を見分けようと、大きく身を乗り出す……」

「『そして、旦那様、あなたは元老院議員だ』のあと、群衆による短い間」

「皮肉の無礼さに怒り、ブラバンショーをかばうが、本人がすぐ、自分の台詞で彼らの声を覆う」

「ロドリーゴは〔『すべて私が責任を持ちます』の言葉で〕、並外れて神経を張り詰め、明瞭に、この夜起こったことを語る」

「観客に筋書きをよく理解させるためではない。ブラバンショーにとって、できる限り恐ろしく、恥ずべき形で連れ出しの光景を伝え、父親を力強い行動へ押し出すためだ」

「結婚を、盗人による誘拐のように見せようとし、強調できるところでは色を濃くし、あるところでは皮肉を言う。つまり、自分に課した課題、町じゅうを起こし、手遅れになる前にデズデモーナをムーア人から引き離すことを、最も鮮やかなやり方で果たそうとする……」

「『そのときは、私を裁きに渡してください』のあと、当惑の間がある」

「この間は、心理的に必要だ」

「人々の心では、巨大な内面の仕事が進んでいる」

「ブラバンショー、乳母、家の者すべてにとって、デズデモーナは、まだ子供でしかない」

「家族が、少女が大人の娘へ変わる瞬間を見逃すのは、よく知られたことだ」

「デズデモーナを一人の女として、ヴェネツィアの貴人ではなく、汚らしい黒人のムーア人の妻として思い描き、体験するには、時間が要る。失うことと、家が空になる恐ろしさを理解し、その重みを感じ、父と乳母にとって最も大切なものが去ったことに慣れるには、時間が要る。心へ押し寄せた新しい恐怖のすべてを落ち着かせ、これからの暮らし方を見つけるには、時間が要るのだ」

「ブラバンショー、乳母、親しい召使いの役の俳優が、劇的な場面へ急いで、この瞬間を飛び越えては困る」

「この間は、俳優を劇的な場面へ導く、移行、階段である。順を追い、論理的に、内側で体験すれば、そこへ導いてくれる。つまり心の目で、悪魔の腕に抱かれたデズデモーナ、空になった娘の部屋、町じゅうの騒動、一族へ降りかかった恥を見る。〔ブラバンショーが〕総督や元老院議員全員の前で面目を失う自分や、人間であり父である者の心を揺らす、さまざまな光景を見るのである……」

「乳母にとっては、追放の罰や、ことによると裁判さえ、待っているかもしれない」

「俳優の課題は、もし戯曲の出来事が、まだ死んだ骨組み、人間の抽象的な案にすぎない役ではなく、生きた人間である自分自身に起きたなら、こんな瞬間に、落ち着きを取り戻し、生き続けるため、何をする必要があるかを思い出し、理解し、定めることだ」

「言い換えれば、俳優は、とりわけ劇的な場面で、いつも役からではなく、自分自身から生きる必要があると、忘れてはならない。役から借りるのは、与えられた状況だけなのだ」

「したがって課題は、こうなる。作者、演出家、美術家、俳優自身の想像、照明技師などが作った与えられた状況の中で、自分が身体で何をするのか、どう行動するのか、正直に答えてほしい。どう体験するかでは、決してない。この段階で感情を考えるなど、とんでもない」

「身体的な行動がはっきり定まれば、あとはそれを、実際に身体で行うだけだ」

「注意してほしい。体験せよではなく、身体で実行せよと言っている。正しい身体的行動があれば、体験はひとりでに生まれるからだ」

「反対の道を行き、感情を考え、自分から絞り出そうとすれば、無理強いですぐにずれが生じる。体験は役者じみたものになり、行動は大げさな見せかけへ変わってしまう」

……。

「この大切な間に、もう一度立ち止まり、その瞬間、人が何をするかを、少し促し、ほのめかしておこう。1)恐ろしい知らせを語る者から、得られることをすべて引き出し、理解しようとする。2)語り手が最も恐ろしいところへ近づくと、急いで止めようとする。迫る不幸を押しのけるため、防御の緩衝材をすべて出すように。3)ほかの人々へ助けを求める。目でその心を探り、知らせをどう受け止め、認め、信じているかを知ろうとする。あるいは、そんな知らせは馬鹿げていて根拠がないと言ってほしい、とすがるような目で見る。4)それからデズデモーナの部屋のほうへ振り向き、空になったところを想像する。稲妻の速さで家じゅうをたどり、これからの生活を思い描き、意味と新しい目的を探す。さらに思いはどこかの部屋へ飛ぶ。そこは汚いあばら家のようで、無垢な娘が、あの黒く汚らしい悪魔に辱められているのを見る。その瞬間の想像では、彼は人間ではなく、獣や猿に見える」

「これらすべてを受け入れられない。だから、ただ一つの出口は、急いで、何としても、どんな代償を払っても、救うことだ!」

「こうしてすべてを論理的に体験したあとなら、ブラバンショーの『灯りを、蝋燭を、召使いを呼べ!』などの叫びは、ひとりでに飛び出すはずだ」

「『灯りを、灯りをと言っている!』のあと、騒ぎの間が始まる」

「騒ぎは家の中で起こり、音がこもっていることを忘れない。そのため、その音を背景に、イアーゴーが話せる」

「イアーゴーは〔『さようなら。私は引き揚げなければ』〕という独白を、とても急いで語る」

「ここにいるのを見つかれば、まずい。企みが明らかになってしまう」

「慌ただしい中で最後の指示をするとき、人は何をするのか?」

「並外れて鮮やかに、明確に、具体的に、急がず、光景を描く」

「大切なのは、内側のすべてが震え、早く動きたがっていても、言うことを雑に丸めず、比較的ゆっくり行うことだ」

「神経の高ぶりを抑え、できるだけ落ち着き、分かりやすくしようとする」

「なぜか?」

「説明を繰り返す時間がないと、分かっているからだ」

「ここでも、俳優には注意しておく。自分自身として行動し、ごく基本的な人間の課題を果たすのだ。はっきり説明し、次の行動について明確に打ち合わせる、という課題である」

「出発の支度。群衆が担う、台詞の間の場面」

「イアーゴーの最後の言葉に入り、状況の説明が観客へはっきり届くころ、館の雲母の窓の向こうを、夜灯や手提げ灯の光が、せわしなく走り始める」

「よく稽古すれば、このせわしない光のちらつきが、大きな騒ぎを作る」

「同時に下では、正面の扉の鉄の掛け金が、がちゃりと開く。錠が鳴り、扉が開くと、金属の蝶番がきしむ」

「灯りを持った門番が出てきて、いろいろな召使いが姿を現す」

「列柱の下へ飛び出し、動きながら短いズボン、長いズボン、上着を身につけ、急いで留める。右へ走る者、左へ走る者がいて、戻っては、何やら分からないことを説明し合い、また散る」

「ただし実際には、この協力者たちは、もう一度家へ入る。そこで兜、場合によっては鎧やマントをつけ、姿を変えて同じ扉から再登場する。観客には同じ人と気づかれない」

「これは、協力者の人数を節約するために行う」

「その間も、扉からは着替えながらの人々が、次々に現れる」

「鉾槍、剣、武器を運び出し、家に結んだゴンドラへ乗り込み、持ってきたものを積む。ロドリーゴのゴンドラではない。また走り去り、荷を持って戻る。できるときには、動きながら身支度や装備を整え続ける」

「第三の組は、上に見える」

「窓を開け、ズボンや上着を着るのが見える。それをしながら下へ何かを叫び、尋ね、指図する。全体の騒音で互いが聞こえず、聞き返し、叫び、怒り、慌て、罵る」

「列柱の下へ、乳母が飛び出す。大声で泣き叫び、取り乱して走り回る」

「同じ状態の女が一人、そばにいる。どうやら女中らしい」

「上の窓でも、女が一人、下で起こることを見ながら、すすり泣いている」

「出かける男の妻かもしれない。戦いになるのだから、夫が戻るかどうか、分からないのだ……」

「〔『不幸な娘だ! ムーア人とだと言うのか?』の言葉のあと、〕ブラバンショーが剣を帯びて出てくる」

「自分を迎えに舟を岸へ寄せるロドリーゴへ、てきぱきと質問し、出発を指図する……」

「『一組はこちらへ、ほかはあちらへ』のあとに、間」

「ブラバンショーが指示する。『一組はこちらへ』。客席から見て左の袖へ、ゴンドラが進む運河を指す」

「『ほかはあちらへ』。館の背後を左へ伸びる通りを指す」

「ゴンドラの鎖を解き、じゃらじゃら鳴らす」

「『急いで頼れる警備の者を呼べ。そして、私についてこい』のあと、ブラバンショーは、ゴンドラにいる召使いの一人へ急いで近づき、何かを言う」

「その男はすばやく飛び出し、ブラバンショーの家沿いに、右へ伸びる通りを走り去る」

「『さあ、乗せていけ、早く』という言葉で、ブラバンショーはロドリーゴのゴンドラへ乗る。『案内しろ』を『乗せていけ』に変える……」

「〔『武器を取れ』という言葉で、〕ゴンドラの兵士が武器を取り分け、槍や鉾槍を持ち上げる」

「『見回りの役人たちを急いで呼べ』という言葉で、乳母のそばの女中が、右の通りへ駆け出す」

「すべての台詞の最後、『この働きには、礼をしよう』という言葉で、ブラバンショーを乗せたロドリーゴのゴンドラが岸を離れる。兵士でいっぱいのゴンドラも、〔岸から〕押し出し始める」

一九……年……月……日

「『オセロー』の第一場は、もう何度も演じるべきところまで準備できた。確かめた、役の人間としての心身の生活へ、ますます深くなじむためだ」

「繰り返すことで、君たちは、自分の人間としての本性から得た、生きた生活を、役へますます注ぎ込むだろう」

「だが、私たちが関心を持つのは、演技そのものではない」

「『オセロー』を選んだのは、役に取り組む方法と技術を学ぶためだった」

「だから今、第一場の試みを終えて、『騒ぎと追跡』の場面を作った、その方法と原理そのものを、意識して理解しよう」

「言い換えれば、理論へ移り、実際にしたことに、理論上の根拠を与えよう」

「思い出してほしい。初めに私は、時が来るまで本を開かないという約束とともに、君たちから台本を預かった」

「ところが驚いたことに、本がなければ、『オセロー』の内容を思い出し、分かるように話すこともできなかった」

「それでも、最初の出会いがまずかったにせよ、戯曲の何かは、君たちの中に残っていたはずだ」

「実際、砂漠のオアシスのように、多少なりとも鮮やかに刻まれた『オセロー』の箇所の記憶が、光の面として散らばって〔いた〕。私はそれを確かめ、さらに強く定着させようとした」

「そのあと、印象を新鮮にするため、戯曲全体を読んで聞かせた」

「その朗読は、新しい記憶の光を作りはしなかったが、悲劇全体の線を明らかにした」

「君たちは事実を、続いて行動を、論理的な順序で思い出した」

「それを書き留めてから、『オセロー』の内容をかなりよく話し、次には、事実と身体的行動に沿って、第一場を演じた」

「だが演技に真実はなく、それを作ることが、それまでの仕事で最も難しかった」

「とくに注意と苦労を要したのは、『歩く、見る、聞く』など、生活では最もよく知る、ごく簡単な行動だった」

「君たちは舞台で、どんな職業俳優よりも、うまくそれを見せた。だが、人間として実行することはできなかった」

「現実の生活では、あれほどよく知ることを、学び直さなければならなかった」

「なんと難しい仕事だったことか!」

「それでも最後には、身につけ、本当の真実へ持っていけた。初めは場面のあちこちに、やがて線全体に、真実が生まれた」

「大きな真実がすぐに得られなければ、小さな真実が顔を出し、それらが集まって、もっと大きなものになった」

「真実とともに、いつも連れ添う、信じる力も来た。実行する身体的行動と、役の人間としての身体の生活全体が、本物だと信じる力だ」

「こうして、演じる登場人物の、人間としての二つの本性の一つができた」

「『人間の身体の生活』は、繰り返すうちに強くなった。『難しいことは慣れたことに、慣れたことは容易なことになった』」

「最後には、役の外側の身体的な面を身につけた。作者と演出家の指示した、他人の身体的な行動が、自分自身のものになったのだ」

「だから、君たちはあれほど楽しんで繰り返し、その中に浸っている……」

「ほどなく言葉と発話が必要になり、作者の台詞がないので、自分自身の言葉に頼ったのも、不思議ではない」

「それは、外的な課題を果たす身体的行動を助けるためだけではなかった。考えを表し、内側に芽生えた体験を伝えるためにも、必要だった」

「その必要から、また戯曲の本へ戻り、役の考えを、知らぬ間にそれに伴う感情も、抜き書きすることになった」

「私は、助言し、繰り返し、場面の線をならすことで、その論理的な順序を、君たちが気づかぬうちに身につけさせた。難しく、よそよそしいものを、慣れた、容易な、自分のものへ変えた。ついには、稽古中の場面全体が、君たちのものになった」

「今は、作者の決めた他人の行動と、その心の生活そのものが、自分のものとなり、君たちは喜んで浸っている」

「しかし、役の『身体の生活』とともに、それに対応する内面の『心の生活』の線が育っていなければ、こんな結果が得られただろうか?」

「ここで自然に、疑問が生まれる。一方が他方なしに存在できるのか。その逆はどうなのか?」

「それだけではない。どちらの生活も、『オセロー』という同じ源から得ているのだから、その本性が互いによそよそしいはずはない」

「反対に、親しさと対応が、必然となる」

「この法則を、とくに丁寧に指摘しておいた。今学んだばかりの心理技法の土台は、ここにあるからだ」

「この法則には、大きな実用上の価値がある。役の生活が直感によって自然に生まれなければ、心理技法の道で作らなければならないからだ」

「この道に、手が届き、仕事へ使える実際的な方法があるのは、大きな幸運である」

「必要なら、より容易な身体の生活を通し、反射的に(?)、役の心の生活を呼び起こせる」

「これは、創造の心理技法にとって、貴重な貢献だ」

「私たちは、ほかの俳優とはまったく逆に、その技法を使う。ほかの俳優は、まず役を体験すれば、残りはすべてひとりでに現れるはずだと、頑なに望む」

「だが、それは、まれにしか起こらない」

「役が自然に体験されないとき、体験しようとするのは難しい」

「だから、そうした俳優には、感情へ直接働きかけるほかなくなる」

「だが、それではたやすく無理強いになる。何を招くかは、知っているね」

「私の方法のよさは、まだそれだけではない」

「役の考え、言葉、発話に関わる、もっと大切な利点がある」

「覚えているだろう。役の仕事の初めに、私はまず台本を取り上げ、長い間、戯曲の中と同じ論理的な順序で、役の考えを、自分の言葉で話させた」

「そのために、その考えの順番が来ると、折よく思い出させ、言い添えて助けた」

「君たちは、私の助言を、ますます喜んで受け取った。シェイクスピア本人が戯曲に定めた、考えの順序と論理が、繰り返しによって、ますますなじんだからだ」

「最後には、その思考の順序がすっかり身につき、私に助けられず、自分の意識でたどるようになった。だから、私は助言をやめられた」

「言葉と役についても、まったく同じ過程が進んだ」

「初めは、現実の生活と同じように、頭や口に自然に浮かび、自分の決めた課題を果たすのに、最も役立つ言葉を選んでいた」

「この場合、役としての発話は、正常な条件のもとで進み、能動的で、行動するものだった」

「私は長いあいだ、君たちをこの条件のもとに置いた。役全体とその楽譜ができあがり、課題、行動、思考の正しい流れがすっかり身につくまでだ」

「そうして準備を整えてから、ようやく、印刷された戯曲と役の台詞を晴れて君たちに返した」

「台詞を丸暗記する必要はほとんどなかったはずだ。それよりずっと前から、君たちが言葉によってある課題を果たそうとして、必要な言葉を探し、選んでいるときに、私がシェイクスピアの言葉を差し出し、そっと教えておいたからだ」

「君たちはそれをむさぼるようにつかんだ。作者の台詞のほうが、自分の言葉よりもよく考えを表し、しようとしている行動を果たしてくれたからだ」

「シェイクスピアの言葉を覚えたのは、その言葉を好きになり、自分にとって必要になったからだ」

「その結果、何が起こったか。他人の言葉が、自分自身の言葉になった」

「無理強いによらず、自然な道筋で君たちに根づいた。だからこそ、言葉の最も大切な性質、つまり行動する力を失わずにすんだ」

「今の君たちは、役の台詞をただしゃべっているのではない。その言葉によって行動し、戯曲の基本的な課題を果たそうとしている」

「作者の台詞が私たちに与えられるのは、まさにそのためなのだ」

「さて、よく考え、十分に意味をくみ取ったうえで答えてほしい。世界中の劇場でたいてい行われているように、台詞の丸暗記から役づくりを始めていたら、私の方法で得られたのと同じ成果にたどり着けただろうか」

「先に答えを言おう。いいや、求めている結果、必要な結果には、決してたどり着かなかっただろう」

「君たちは舌の機械的な記憶に、発声器官の筋肉に、台詞の単語や文の音を無理やり詰め込んだことだろう」

「その音の中に役の思考は溶けて消え、台詞は課題や行動から切り離されてしまっただろう」

「では、私たちの方法と、普通の劇場で行われていることを比べてみよう」

「そこでは戯曲を読み、役を配り、三回目なり十回目なりの稽古までに、全員が台詞を暗記するよう言い渡す」

「読み合わせが始まり、その後は全員が舞台へ行って、台本を読みながら演じる」

「演出家が舞台上の配置と動きを示し、俳優たちはそれを覚える」

「指定された稽古日になると台本を手放し、最後まで丸暗記できるまで、プロンプターに助けられながら台詞を言う」

「すべてが形になると、役が『稽古でくたびれる』『しゃべりすぎで擦り切れる』のを恐れて、急いで最初の舞台総稽古の日を決め、ポスターを出す」

「それから上演……『成功』、そして劇評」

「その後は作品への関心が薄れ、職人的な手順で同じ舞台を繰り返すことになる」

『役づくり』補足
〔『オセロー』〕
〔台詞に理由を与える〕

一九……年……月……日

「これで、私たちの創造のいちばん大切な秘密はわかった。では、舞台へ行って『オセロー』の一節を演じてごらん」今日、アルカージー・ニコラーエヴィチは私たちにそう言った。

私とシューストフは舞台へ行き、演じ始めた。

この場面の出だしを、トルツォフがじきじきに直してくれたのは、ついこのあいだではないか。その指導は、何かしら自分に残っていると思っていた。ところが、そうではなかった。

役の台詞を口にしたとたん、すべてが昔どおりになってしまった。

なぜ、こんなことになったのか。

実は、演じているあいだ、私は自分でも気づかないうちに、昔の、ずっと以前に偶然できた課題を目指していた。それは結局、人物の姿そのものを演じてみせるだけの課題だった。

私はその作り芝居に、与えられた状況と行動を持ち出して、理由をつけようとしていたのである。

言葉と思考のほうは、機械的に、無自覚に口から出ていた。舟を引く労働を少しでも楽にしようとして歌を歌うのと同じだ。

これで戯曲の作者の意図と一致するはずがあるだろうか。食い違いが生じないはずがあるだろうか。

台詞は一つのことを求め、私の課題は別のことを求めていた。

言葉は行動を妨げ、行動は言葉を妨げていた。

一分もすると、アルカージー・ニコラーエヴィチは私を止めた。

「君は生きていない。大げさな身ぶりをしているだけだ」と彼は言った。

「わかっています! でも、どうすればいいんです!」私は声を荒らげた。

「何だって!」とトルツォフは叫んだ。「どうすればいいか、と聞くのか。私たちの創造のいちばん大切な秘密を教えられた、そのあとで!」

私は自分自身に腹を立て、意地を張って黙っていた。

「答えなさい」とアルカージー・ニコラーエヴィチは問いただし始めた。「今、君の感情はどこにあった? 今日の創造への呼びかけに、直感的に、すぐ応じただろうか」

「いいえ」と私は認めた。

「応じなかったのなら、どうしなければならない?」トルツォフは試問を続けた。

私はまた、ひねくれて黙っていた。

「感情が自分から、直感的に創造に応じてくれないときは、そっとしておくことだ。感情は無理強いに耐えないからね」アルカージー・ニコラーエヴィチは私に代わって答えた。

「そういうときは、心を動かす三者のうち、ほかのものに助けを求めなければならない」

「その中でいちばん話の通じるのが、知性だ。そこから始めなさい」

私は黙ったまま、動かなかった。

「戯曲を知るには、何から始めるのかね」トルツォフは辛抱強く私を諭した。「台詞を注意深く読むことからだ」

「そこには、白い紙に黒い文字で、確かな形を与えられた言葉がある。そして、たとえば今回のように、それ自体で完結した天才の芸術作品が収められている」

「悲劇『オセロー』は、俳優の創造にとってすばらしい題材だ」

「そんな題材を活用しない手があるだろうか。夢中にならずにいられるだろうか」

「君自身には、シェイクスピアが作ったものより優れた題材は考えつかないはずだ」

「彼は、そう悪い作家ではない。君より下手ではないよ。それなのに、どうして彼を退けるんだね!」

「天才の作品の台詞から、自分の創造へ近づくほうが、簡単で自然ではないか」

「その言葉は、正しい創造の道筋と、必要な課題や行動を、明確に美しく示している。与えられた状況を作るときにも、確かな手がかりを与えてくれる」

「何よりも、その言葉の芯には、戯曲と役の心の本質が含まれている」

「だから台詞から始め、知性を使って、その意味を十分に深く考えなさい」

「感情もすぐそこに加わり、君たちをさらに深く、作品の内なる意味へ導くだろう。作者が筆を執った目的、その目に見えないものが、そこに隠れているのだ」

「台詞から内なる意味が生まれる。そして、その内なる意味が、同じ台詞をもう一度生み出すのだ」

この説明を受けて、私とシューストフは演技をやめ、言葉を言い始めた。

もちろん、まだ奥の内なる意味に入り込めず、言っているのは表面の台詞だけだった。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、すぐに私たちを止めた。

「知性と思考の助けを借りて、そこから感情と内なる意味へたどり着きなさい、と勧めたのだよ」と彼は言った。

「だが、今の君たちのやり方の、どこに知性がある? どこに思考がある?」

「役の言葉を豆のようにばらばらとこぼすだけなら、そんなものは要らない」

「必要なのは、声と唇と舌だけだ」

「こんな愚かな職人仕事に、知性と思考の出番はない」

この叱責を受けて、私たちは、口にする言葉の意味をなんとかつかもうと、自分に強いて考え始めた。

知性は感情ほど繊細ではなく、多少の無理強いには耐えられる。

「将軍!」シューストフは、一語ずつ区切るように切り出した。

「何だ、イアーゴー?」私は深く考え込むように答えた。

「お聞きしたいのですが、
まだ奥様に求婚しておられたころ、
カッシオは、あなたのその恋心を
知っていましたか?」
シューストフは、難解な絵解きなぞを解くように、私に尋ねた。

「知っていた。初めから終わりまで」
私は外国語を訳しているかのように、区切り、つかえながら答えた。

ここでトルツォフは、また私たちの骨の折れる作業を中断させた。

「信じられない。君も、君もだ」

「君はデズデモーナに求婚などしていない。自分たちの過去について何も知らない」と彼は私に言った。「そして君は」とシューストフのほうを向き、「自分が尋ねていることに、ほとんど関心がない」

「君には、その答えが何の役にも立たないのだ」

「質問はするが、オセローの答えを聞いていない」

私たちは、ごく単純な真理を思いついていなかったのだ。口にする言葉にも、架空の設定によって理由を与える必要があり、与えられた状況と、魔法の『もしも』が必要なのである。

課題と行動については、この作業を何度もしてきた。だが、他人の言葉、作者の台詞に理由を与えるのは、初めてだった。

それも無理はない。以前の即興練習では、その場で浮かんだ思考や言葉を使っていたのだから。

演じていて言葉が必要になると、課題と行動そのものから、考えが自然に頭に浮かび、言葉が舌にのぼった。

しかし……自分の言葉と思考と、他人の言葉と思考とは、まるで違う。他人の言葉は、青銅で鋳られたように、堅固で明確な形に、一度きり、変更できないものとして定められている。

それは白い紙に黒い文字で印刷されている。変えることはできない。

初めのうちは、他人のもので、自分になじまず、遠く、しばしば意味さえわからない。

しかし、その言葉を生まれ変わらせなければならない。自分にとって必要で、なくてはならず、自分自身のものとしてなじみ、使いやすく、愛おしい言葉にするのだ。自分の中から生まれた言葉とさえ、取り替えたくないほどの言葉に。

他人の言葉を自分に近づけていく、そうした過程が、今初めて私たちの前に現れた。

実際、私とシューストフが『オセロー』でしていたような、空っぽの死んだ音をしゃべる素人芝居を、シェイクスピアの天才的な内なる意味の表現と呼ぶわけにはいかない。

生きた言葉を作るという、仕事の新しい段階の重要さが、私にもわかった。

その根は心の中へ伸び、生きた感情の養分を吸い上げなければならない。一方で茎は意識へ向かって伸び、そこで美しい言葉の形という見事な花を咲かせる。その花は、心が生きるうえで感じていることを、奥底から伝えるのである。

この局面の大切さに、私は心を揺さぶられ、戸惑っていた。

こんな状態では、注意と思考をまとめ、想像力を温めるのは難しい。作者の思考一つひとつ、文句一つひとつ、言葉全体に理由を与え、命を吹き込む、長くつながった状況の流れを作らなければならないというのに。

今のように途方に暮れた状態では、出された課題を果たす力が自分にはない、と感じた。

そこで私たちはアルカージー・ニコラーエヴィチに、次の授業まで作業を延ばしてほしいと頼んだ。家で考え、準備する時間と機会がほしかった。つまり、まだ自分たちにとって死んだままの役の言葉に、理由と命を与えるのに必要な架空の設定や状況を、想像しておきたかったのだ。

トルツォフは同意し、始めた作業を次の授業まで延ばしてくれた。

一九……年……月……日

今晩、シューストフが来た。二人で、『オセロー』のそれぞれの役の台詞に理由を与える状況を考えた。

アルカージー・ニコラーエヴィチの処方どおり、まず戯曲を全部読み、それから、自分たちの場面の思考と言葉を注意深く調べた。

こうして、教えられたとおり、心を動かす三者のうちでいちばん話の通じる知性を、最初に仕事に引き入れた。

「将軍!」
「何だ、イアーゴー?」
「……まだ奥様に求婚しておられたころ、
カッシオは、あなたのその恋心を
知っていましたか?」
私たちはこう読み進めた。

ムーア人に思い出せる過去を与えるには、どれほど多くのことを想像しなければならないだろう。

デズデモーナとの出会い、恋、連れ去りの時期の彼の生活は、冒頭の幕や、元老院でのオセローの独白から、ある程度はわかる。

だが、劇の始まる前、場面と場面、幕と幕のあいだ、あるいは舞台の出来事と同時に舞台裏で起こっていたことには、作者の語っていないことが、まだどれほど多いことか。

私たちは、シェイクスピアが語らなかったその部分を埋め始めた。

カッシオとデズデモーナ自身の助けによって、恋人たちの密会がどう取り計らわれたか。二人で考えたさまざまな組み合わせや想像を、今ここにすべて書く時間も、根気もない。

思い描いたものの多くは、私たち自身の心を動かし、本当に詩的で美しいものに思えた。

恋を渇望する若者の私たちには、この種の空想は、何度、どんな形で繰り返しても、いつも胸の高鳴るものなのだ。

私たちはさらに、黒人奴隷である自分の愛も、口づけも、密かな抱擁も嫌がらない女性に対して、オセローが何を感じたか、長いこと話し合った。

そのとき私は、ニジニで見た、猿を連れたあのペルシア人を思い出した。

もし美しい令嬢が彼を愛し、口づけしてくれたら、彼はどんな気持ちになるだろう!

夜中の一時を過ぎていたので、今日の空想はそこで切り上げた。

頭は疲れ、まぶたがくっつきそうだった。

私は満足してシューストフと別れた。場面の始まりには、いわば、与えられた状況というしっかりした裏打ちができた、と感じていた。

一九……年……月……日

トルツォフの授業を明日に控え、今日もシューストフと集まり、『オセロー』の場面の状況を作る作業を続けた。

相手は、自分の役をやってほしいと要求した。このままでは、明日トルツォフの前に持っていけるものが何もない、というのだ。

私のためには、すでにいくらか想像したものがある。

確かに、いくらかはある。だが、全部にはほど遠い。私は自分の場面全体に、状況の裏打ちをつけておきたかった。

それがあると、舞台上で心が温まるからだ。

しかし仕方がない。イアーゴーの役に取りかかることになった。

またしても、心を動かす三者のうちでいちばん話の通じるもの、知性――トルツォフの好む呼び方では「知的能力」――を、最初に作業へ引き入れた。

言い換えれば、役の台詞全体に目を通して分析し、シェイクスピアの典型的な悪人の過去をのぞこうとしたのだ。

この点について、戯曲にはあまり書かれていない。

悪いことばかりではない! それなら、自分の想像力を存分に羽ばたかせられる。

私の役に直接関係しないことまで、書き留めるつもりはない。そんな必要はないからだ。

しかし、何らかの形で私の演じる人物に影響することは、もちろん日記に記しておかなければならない。

私にとっては、イアーゴーが表向きは魅力的で、嫌悪を催させる人物ではないことが、とても大切だ。

そうでなければ、役のうえで彼に寄せなければならない信頼に、理由がつかない。

オセローもほかの人々も、この卑劣な男を好人物だと思っている。つまり、本当の姿とは正反対に見ているのである。

そのためには、イアーゴーを信頼し、この明らかな悪党を善良だと思える、目に見える根拠が必要なのだ。

もし彼が、劇場でよく演じられるような、オペラの悪役めいた顔、蛇のような目つきや身ぶりで私の前に現れたら、私は自分が愚か者に思えないよう、わざと彼から顔を背けなければならなくなる。

困ったことに、シューストフは生来、何にでも弁解を見つけ、許してしまうたちなのだ。

今回も、この悪人を弁護しようとしている。

そのために、妻エミーリアがオセローと関係を持っていたことにして、イアーゴーに嫉妬させる。

確かに、台詞にはそういうほのめかしがある。

それを足がかりにすれば、イアーゴーの心に満ちた怒りや憎しみ、復讐心、ほかの悪徳にも、ある程度は理由をつけられる。

しかし、それによってオセローに暗い影が差すのは、私には都合が悪い。

私の創造の計画に合わないのだ。

私のおとぎ話の英雄は、鳩のように清らかだ。

女性を知らない人でなければならない。

イアーゴーの疑いは、間違っていなければならない。根拠のない疑いなのだ。

だから、シューストフに必要なら、嫉妬するイアーゴーの心に憎しみを煮えたぎらせてもかまわない。ただし私は、その悪党の心に巣くう悪意を知らせかねない外見上のしるしを、執拗に、巧みに、私から隠してほしいと演じ手に要求する。

それだけでも、まだ足りない。

私はイアーゴーを卑劣な男と思わないだけでなく、彼がこのうえなくすばらしい好人物で、子供のように開かれた美しい心を持ち、私に最も忠実に尽くす従者だと、信じたいのだ。

イアーゴー役の巧みさと、悪党を好人物に変身させる技術は、そこまで届かなければならない。

さらに私は、イアーゴーが非常に頭の切れる男でありながら、少し間の抜けた人に見えてほしい。

そうでなければ、彼の一見たわいのない疑いを、どうして笑って取り合わずにいられよう。

私の目に映るイアーゴーは、大柄で不器用で、粗野で無邪気な、忠実な兵士であってほしい。その慕う気持ちゆえに、何でも許してしまうような人だ。

デズデモーナに、混血の美しい娘が生まれたら、幸せな母親は乳母の代わりにイアーゴーを雇うだろう。

最初の子が、浅黒い肌と黒い髪の男の子なら、イアーゴーがその子の世話役になる。

粗野だが気のいい、単純な兵士という仮面の下なら、悪人を隠すのは容易だし、私には見破りにくい。

この方向で、シューストフから多少の成果を引き出せたと思う。

得られたものを早く定着させようと、私は自分の選んだ方向に沿って、イアーゴーの役のための想像を、急いでさらに膨らませた。

* * *

今、寝る前に服を脱いでいると、ふと、こんな疑問が頭に浮かんだ。

これまで、言葉を使わない即興練習では、与えられた状況から始めて身体的な課題にたどり着くか、逆に、課題から状況にたどり着くかしていた。

今日はまったく別の道、つまり作者の台詞から出発したのに、最後はやはり、与えられた状況へ行き着いた。

ということは、すべての道はローマに通じるのか。

それなら、どちらの端から始めても同じではないか。課題からでも、台詞からでも! 知性からでも、意志、つまり欲求からでも!

一九……年……月……日

今日のトルツォフの授業へ向かう足取りは、弾まなかった。準備が足りないと感じていたからだ。

アルカージー・ニコラーエヴィチは私たちを最初に呼んだが、急がせなかった。十分に準備し、想像してきた状況の連なりを思い出し、心の中でたどり直す時間をくれたのだ。

そのためには、教えられたとおり、心を動かす三者のうちでいちばん話の通じるもの、知性、つまり知的能力を、まず働かせなければならなかった。

知性は、シューストフとの二度の集まりで準備した、事実、言葉に含まれる思考、オセローの生活の状況を思い出させてくれた。

それらのおかげで、すぐに軌道に乗り、理由のついた台詞の流れに沿って進めた。

そこからは、内なる意味へ、まっすぐ自然に入っていける。

私は楽になり、心地よくなった。そして舞台に立ち、展開していく状況の連なりと言葉そのものから自然に生まれることを、言い、行う権利があると感じた。

以前、『オセロー』や即興練習を演じたとき、この権利を感じられるのは、たまに、偶然だけだった。

今は、それをもっと十分に、もっと長く感じられた。

何より大切なのは、舞台にいてよいというこの感覚が、以前は偶然に、ひとりでに、無自覚に生じていたことだ。

今は、内面の技術と系統立った取り組みのおかげで、意識的に得られたのである。

これが成果でなくて何だろう!

この感覚の魅力を見きわめ、どんな道を通ってそこへたどり着いたのか、理解してみよう。

まず、イアーゴーを演じるシューストフが、かなり巧みに単純な男の仮面をかぶった。

少なくとも私は、その変身を信じた。

イアーゴーは言った。
「……まだ奥様に求婚しておられたころ、
カッシオは、あなたのその恋心を
知っていましたか?」

その問いの意味をたどると、ヴェネツィア、セヴァストーポリ、ニジニ・ノヴゴロドを重ね合わせた、ヴォルガの岸辺にある自分の家、美しいデズデモーナとの出会い、愛らしい恋のいたずら、カッシオの助けで実現したすばらしい密会が、おのずと思い出された。カッシオは、私たちの甘い秘密を「初めから終わりまで」知っていたのだ。

こうした思考や内面の映像があると、イアーゴーの問いに答えたくなった。彼に話せることがあったからだ。彼がさらに、またさらに尋ねてくれるのが、うれしかった。

内側から自然に浮かんでくる笑みを、こらえるのが難しかった。

実際に生きたオセローが感じたであろうことを、そのまま体験できたわけではない。それでも、彼の考えや感覚がどんなものかは理解し、感じ取り、信じられた。

舞台で自分の思考と感情を信じられることは、何と大きなことだろう。

太鼓の中のように空っぽの台詞ではなく、内側に映画のフィルムのような絶え間ない映像の連なりを秘めた、ひとまとまりの言葉と思考を語れるのは、大きな喜びだ。

それを相手に伝えるには、人に備わるあらゆる交流の手段を、まず何よりも言葉を、使わなければならない。

その中でいちばん適切で、表現力に富むのは、シェイクスピアの書いた言葉だろう。

第一に、それが最も天才的な言葉だから。第二に、今、自分が語りたくなったことは、ほかならぬその作者の言葉から取り出したものだからだ。

その言葉の内なる本質を、言葉それ自体よりもよく伝えられるものが、あるだろうか。

こうした条件のもとでは、他人の書いた役の言葉が、必要で、親しく、身内のような、自分自身のものとなる。

自然に、ひとりでに、外へ出たがるのだ。

それまで空っぽだった台詞に、芸術的な想像のおかげで、私の信じられる内容と映像が満ちた。

要するに、私は作品の精神的な本質を感じ取った。それが私を作品と結びつけ、今度は自分を表すために、再び作品の形を求めたのである。

何とすばらしい過程だろう! 自然そのものの創造の働きに、何と生き生きと近いことか!

本当に、熟した果実から種を取り出すと、そこから、それを生んだ果実にそっくりの新しい果実が育ったようなものだ。

今回も同じだ。詩人の言葉からその本質を取り出すと、その本質は、同じ詩人の言葉によって再び表された。ただし今や、その言葉は私自身のものになっていた。

その言葉が必要になったのは、今度は本質へ入り込むためではなく、逆に、その本質を言葉の形にするためだった。

台詞から内なる意味が生まれ、内なる意味が台詞をよみがえらせる。

最初にシューストフが私の部屋へ来たとき、十分に準備し、想像を膨らませた場面の冒頭では、そうなった。

では、その先はどうなるだろう。まだ十分な状況で満たし、理由を与えることのできていない部分では。

私は注意を集中させ、イアーゴーの応答をもっと深く受け取ろうとした。毒を含んだ問いの狡猾さが、はっきり伝わってきた。

その恐ろしい力と、破局へまっしぐらに導いていく論理と順序の抗いがたさが、わかった。つまり、感じられた。

中傷と陰謀は、それにかけての名手の手にかかるとどうなるか、身にしみた。

巧みに仕組んだ問いと、論理に沿って選び抜いた一連の思考によって、悪人が気づかれぬまま相手の足元から確かな地面を奪い、健全な空気を毒し、犠牲者をまず困惑へ、次に狼狽、疑念へと導き、やがて疑惑、恐怖、悲しみ、嫉妬、憎悪、呪い、そして最後には復讐へと駆り立てる。その過程を、初めてたどり、理解し、つまり感じ取ることができた。

この恐ろしいオセローの心の変貌が、わずか十ページほどの印刷された文章に収まっている。

シェイクスピアの傑作を貫く内面の流れ、その天才的な力に、私は初めて心を奪われた。

うまく演じたのか、まずかったのかはわからない。だが今回は初めて、台詞に沿って進み、それを間近に見つめ、その内なる意味をのぞけたことは、疑いない。

そこへ入り込んだのは感情そのものではなく、注意だけだったかもしれない。経験した創造の状態も、まだ体験ではなく、その予感にすぎなかったかもしれない。

それでも今回は、作者の台詞が私をつかみ、論理的に順を追って奥へ、心そのものへと下りていく階段を、力強く引っ張っていった。それは確かだ。

今日、私とシューストフは間違いなく、しかもかなり大きな成果を得た。

トルツォフとラススードフだけでなく、生徒たちも褒めてくれた。

だが最も確かな証拠は、ゴヴォルコフが黙っていて、悪口も、あら探しも言わなかったことだ。

どんな褒め言葉より、これが大きい。

私は幸せだ。

この成功は、本当に作者の台詞のおかげなのだろうか。

「そうだよ」とラフマーノフが、通りすがりに言った。「今日、君たちはシェイクスピアを信じた。以前は彼の言葉を隠していたが、今日は恐れずに味わっていた。シェイクスピアが自分自身の力を示したんだ。間違いないよ!」

* * *

成功に興奮した私たちは、ゴーゴリの記念像のそばに長いこと座り、今日の授業で起こったことを、一歩ずつ、詳しく思い返した。

「じゃあ、初めから考えよう」と彼は言った。「オセローがイアーゴーをからかうところ、つまり僕の応答の、
『なるほど、
何か考えているな。見ればわかる』というところから」

「それか、
『こいつは、こだまのように俺の言葉を繰り返す。
まるで頭の中に、見せるのも危険な
怪物を隠しているようだ』
というところだね」と私は場所を確かめた。

「そう、そこだ」とシューストフはうなずいた。

「そのとき、君自身が愉快で、楽しそうに見えたんだ」と彼は続けた。

「うん、そのとおりだ」と私はその見立てに乗った。「どうしてだかわかる? 君のおかげさ。僕がイアーゴーに見たかった、あの気のいい兵士を、ふいに感じたんだ。君を信じた。するとすぐに、『舞台にいる権利』というものを感じたんだよ」

「それから、
『急に眉を寄せたな。まるで頭の中に、
ひどく恐ろしい考えを閉じ込めようとするように』
という言葉のところでは、すっかり楽しくなって、冗談を言いたくなった。君も自分も笑わせるような、何かもっとおかしなことをしてみたくなったんだ」と私は打ち明けた。

「もう一つ聞かせて」とシューストフは興味を示した。「どの言葉で僕は目的を果たせた? つまり、君に冗談をやめさせ、本気にさせられたんだろう」

「君の言葉に耳を澄ませ始めたのは、いや、シェイクスピアの考えを深く受け取ろうとしたのは」と私は思い返した。「君が、
『人はいつも、見かけどおりの人間で
あるべきです。そうなれないのなら、
そう見せかけるべきではありません』
と言ったところだ」

「それに続いて、君が謎めかして、
『だからこそ、あなたの副官は
誠実な人だと思うのです』
と言ったところもだ」

「あるいは、気高い人間を装い、答えを避けたそうなふりをして、
『ああ、将軍、お許しください。
あなたに仕え、従う義務はあります。
しかし、奴隷にさえ許される自由は、
私にもあると思うのです』
などと言ったところも」

「そのとき僕は、シェイクスピアの言葉に、悪魔の毒を仕込んだほのめかしを感じた。そして、イアーゴーとは何という毒蛇だろうと思った!」

「いっそう信じ込ませるために、傷ついたふりをするんだから!」

「それに、その応答は、説明を求めずにはすませられない。ところが、確かめ始めれば、ますます挑発の沼にはまるのだとわかった」

「そこで、またシェイクスピアの天才に感嘆したんだ」

「それじゃ、体験するよりも、理屈を考えて作品を評価していたように思えるけど」とシューストフは疑いを差し挟んだ。

「両方だったと思う」と私は認めた。「でも、それで何が悪いんだろう。君を問い詰めているとき、僕はいい感じだったんだから」

「僕も、君の質問をかわし、君を戸惑わせているとき、いい感じだったよ」とシューストフは安心した。「それが僕の課題だったんだもの」

「課題!」私は考え込んだ。

「わかった!」私は不意に叫んだ。「よく聞いてくれ! 今、僕たちの内面の仕事では、こんなことが起こったんだ」私は苦しいほど頭を絞り、自分の中にありながら、まだ十分に明らかにならず、形にもなっていない感覚と思考をつかもうとした。

「以前、暖炉に火をたいたり、狂犬に対処したりした即興練習では、課題から直接始めた。すると考えと言葉が、その場でひとりでに生まれた。つまり、その課題を果たすのに必要な、その場かぎりの台詞が生まれたんだ」

「今日は作者の台詞から始めて、課題にたどり着いた」

「待って、どういう道筋だったのか、考えさせて」

「おととい、僕の部屋でやったときは、台詞から、与えられた状況に近づいた。そうだろう?」私は考えを巡らせた。

「ところが今日は、自分でも気づかないうちに、台詞と状況を通って、創造の課題にたどり着いたんだ! どうしてそうなったのか、確かめよう」

私たちは場面を演じていたとき、何をしたくて動いていたのか、思い返し始めた。

シューストフは最初、ただ私の注意を自分に向けようとしていたことがわかった。

その次に、私が彼の中に見たがっていた、あの気のいい兵士だと感じさせようとした。

そのために、できるかぎり本当らしく、その人物らしく見せようとした。

それに成功すると、カッシオとデズデモーナに疑いを抱かせる考えを、一つ、また一つと、私の頭に植えつけ始めた。

そのとき彼は、内なる意味を強く意識していた。

一方、私の課題は、おそらくこうだった。

初めはただおどけていた。つまり、自分とイアーゴーを笑わせていた。その後、彼に誘いをかけられ、話の舵が深刻な方向へ切られると、彼の言葉、正確にはシェイクスピアの台詞の意味をもっと深く理解し、悪人の狡猾な思考の曲がりくねりを追いたくなった。

さらに私は、オセローの目の前に開けた、完全な孤独と、何の喜びも見込めない将来の情景を、自分の想像の中に描こうとした覚えがある。

そして、それがある程度できたとき、だまされたムーア人は、目の前に浮かんだ情景におびえ、自分を毒する悪人イアーゴーを、急いで追い払い、遠ざけようとしたのだと理解した。

これらはすべて、作者の台詞から生まれた課題だった。

台詞から出発し、戯曲の言葉の流れに沿って進むうちに、私たちは別の、より深い流れ、すなわち状況と課題の流れに入っていた。それは作者の台詞と内なる意味から、ひとりでに、自然に、必然的に生まれるものだった。

この入り方なら、台詞と内なる意味が困った食い違いを起こすことはない。私が『オセロー』に取り組み始めたころ、あのお披露目の上演で起こした、まさにあの食い違いだ。

こうして今日、私たちは次のように結論した。正しい、いわば古典的で正統な創造の道筋は、台詞から知性へ、知性から与えられた状況へ、状況から内なる意味へ、内なる意味から感情へ、感情から課題と欲求、つまり意志へ、そして欲求から行動へと進む。その行動が、言葉やほかの手段によって、戯曲と役の内なる意味を具現するのである。

一九……年……月……日

昨日、私たちは、仕事の〔この〕段階は非常に重要なので、最後まで調べる必要がある、と話し合った。

そのためには、取りかかった『オセロー』の場面を仕上げなければならない。

その場面を通じて、心の生活を動かす力が、創造の中でどう働くか、たどれるかもしれない。

そこで今日も、シューストフと私の部屋で集まった。想像してきた状況を最後まで作り、それから生まれる課題を、場面全体にわたって定めるためだ。

今日は多くのことができたが、すべてではなかった。

話し合ったことを書き留めるのは、あまりに複雑で時間もかかる。それに疲れた。もう眠りたい。

一九……年……月……日

明日はトルツォフの授業だ。

そこで今日も、私の部屋でシューストフと、『オセロー』の場面の状況と課題に取り組んだ。

最後まで進めただけでなく、これまでやったことも全部繰り返すことができた。

その結果、状況と課題の流れには、内面の内容が十分に満ちた。

大仕事だった!

ぜひアルカージー・ニコラーエヴィチに見てもらわなければならない。

明日の授業で確かめてもらえるよう、何とか頼み込めないものだろうか。

せっかくの努力が無駄になり、ようやく身につきかけていることを、最後まで明らかにできなかったら、残念でならない!

一九……年……月……日

トルツォフには、頼み込むまでもなかった。

彼のほうから『オセロー』の場面をもう一度やるよう言われ、私たちは再び演じた。

ところが、まったく意外なことに、今回はうまくいかなかった。演じているあいだは、すばらしく調子がよかったというのに。

落胆していることを打ち明けると、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。「気にすることはないよ」

「そうなったのは、台詞に重荷を載せすぎたからだ」

「あの『オセロー』のお披露目のあと、私は、君たちが台詞を要らない殻のように吐き捨てている、と叱った」

「ところが今日は反対に、複雑で細かすぎる内なる意味を詰め込み、台詞を重くしすぎた」

「言葉に内容があり、内側が満ちていると、言葉は重みを増し、ゆっくり口にされるようになる」

「俳優が台詞を大切にし始め、できるかぎり多くの内面の感覚、感情、思考、視覚的な映像、要するに内側に作り上げた内なる意味のすべてを、その言葉を通して送り出そうとすると、そうなるのだ」

「空っぽの言葉は、ふるいから豆がこぼれるように出てくる。内容の満ちた言葉は、水銀を詰めた球のように、ゆっくり動く」

「だが、繰り返すが、気に病むことはない。むしろ喜びなさい」と彼は、すぐに私たちを励ました。

「この仕事で最も難しいのは、内容のある内なる意味を作ることだ」

「君たちは、それを必要以上に作ることができた」

「だから重くなりすぎたのだ。だが時間がたち、そこに生き慣れてくれば、台詞の内なる本質は沈み、締まり、結晶し、もっとまとまってくる。そうなれば、充実を失わず、余計に停滞することもなく、軽やかに伝えられるようになる」

一九……年……月……日

思いがけない出会い!

今日、たまたまフィリッポフの喫茶店に入ると、シューストフとアレクサンドル・パーヴロヴィチ・スネジンスキーがいた。

小さなテーブルについて、夢中で何か話していた。

ついこのあいだまで、縁なし帽をかぶったこの愛すべき変わり者を店から追い出していた女給や給仕長までが、今はせっせと世話をし、心のこもった気遣いで彼を包んでいた。

アレクサンドル・パーヴロヴィチがしらふだったからだ。しらふの彼を、好きにならずにはいられない。限りなく魅力的なのだ。

私はそのテーブルに加わり、彼の話に耳を傾けた。

「『ときどき』と言ったね。どうして、ときどきなのかね?」アレクサンドル・パーヴロヴィチはシューストフに尋ねていた。

「これまではいつも、暖炉に火をたく、お金を燃やすといった、言葉のない即興練習をしていたからです」と彼は答えた。

「そこでは、言葉を話す必要があるとき、その必要が自然に生まれたときだけ、ときどき言葉の助けを借りました」

「それ以外は、課題から、つまり欲求と意志から始めました。それらも直感的に、ほとんど、あるいはまったく無意識に生まれるか、さもなければトルツォフがそのまま指定してくれたのです」

「ところが今日は、初めて、すでに書かれている台詞を扱いました」

「もちろん『オセロー』のお披露目は数に入れていません。あれは素人仕事で、まともに論じられるものではありませんから」

「そのうえ今日は、アルカージー・ニコラーエヴィチに、前のように欲求や意志からではなく、知性による台詞の分析から始めるよう求められました」

「知性はまず、記録のように文字になった詩人の思考を読み解き、感情を伴う思考、つまり作品の内なる意味をつかまなければなりません」

「なるほど、そういうことか!」スネジンスキーは、もっと率直に話したくなるような魅力的な笑みを浮かべ、相づちを打った。

「でも……困るのは、僕たちが他人の言葉に慣れていなくて、意味もなくしゃべってしまうことです」とシューストフは正直に反省を口にした。

「アルカージー・ニコラーエヴィチは、ごく簡単な考えの内面的な意味まで、僕たちに説明しなければならなくなります」

「舞台に出ると、どうしてあんなに頭が悪くなるのか、自分でもわかりません!」

「テーブルとはテーブルのこと、天井とは天井のこと、二二が四だということさえ、わからなくなってしまうんです」

「それを説明され始めると、恥ずかしくなります」

「どうして自分でわからないのでしょう!」

「うん、そうだろう、そうだろう……」スネジンスキーは愛らしい笑みを浮かべて相づちを打った。

「興味があるね。そんな簡単な言葉の意味を、彼はどう説明するのかね?」アレクサンドル・パーヴロヴィチは、さらに尋ねた。

「もちろん文字どおり、テーブルはテーブル、天井は天井だ、と説明するわけではありません」とシューストフは補足した。

「その言葉を何のために使うのか、僕たちに感じさせようとするんです」

「どうやって、そうさせるのかね?」アレクサンドル・パーヴロヴィチは問いを重ねた。

「いつものように、与えられた状況と、魔法の『もしも』を使います。それによって、死んだ言葉、ただ記録された思考に命を与え、感情を伴う思考に変えるのです」

「ああ、そういうことか!」スネジンスキーはうなずいた。「そのためにはもちろん、創造の状態に入ることが必要になるね」

「そして創造の状態には、注意の輪、真実の感覚、情動記憶、対象、交流、そのほかいろいろなものが必要になりました」

「そうして、ついに内なる意味ができたんです」と私は説明した。

「その内なる意味から、欲求と課題がおのずと生まれました。つまり知性に続いて、意志も働き始めたのです。感情を伴う課題が現れたわけです」とシューストフが私の言葉を引き取った。

「うん、もちろん……」とスネジンスキーは相づちを打った。

「そして、その感情を伴う課題が、今度は自然に行動そのものを呼び起こしたのだね」とアレクサンドル・パーヴロヴィチは結んだ。

「つまり、感情を伴う知性が、感情を伴う意志を、創造の仕事に引き入れるのです!」とシューストフはまとめた。

「三者が働きだし、体験が生まれました」と私は付け加えた。

「そして舞台が、居心地よく、楽しく、楽な場所になったんです」とシューストフは確かめた。

「『システム』と内面の技術の、それぞれの部分がこんなにつながり合っているなんて、驚きです。一つはほかのものなしには、生きることも、存在することもできないんですね!」私は驚嘆した。

「もちろん! そのとおりだ!」スネジンスキーは、俳優の自然な資質の知恵に感嘆し、うれしそうにうなずいた。

「三者が働くには、創造の状態が必要です。そして三者は逆に、創造の状態を支えます」私は、関心のあるこの過程を、最後まで噛み砕こうとした。

「そして、その両方が、それぞれの要素を働かせるんです」とシューストフが助けてくれた。

「注意は対象を引き寄せ、対象は課題と欲求を、欲求は情動記憶、感情の発信、行動、言葉、知性などを、次々に引き寄せます」

訳注

底本の語形は崩れているが、別の電子化本文と前後の列挙から「注意」と読んだ。

「まるで、おじいさんがカブを引っ張り、おばあさんがおじいさんを引っ張り……という具合だね」アレクサンドル・パーヴロヴィチは冗談を言い、私たちが調べている過程を例えてみせた。

課題・貫く行動・超課題

一九……年……月……日

今日、アルカージー・ニコラーエヴィチは、中断していた即興練習に戻ることにした……。

これまでの練習を、ひととおり全部見せることになった。

何人かの生徒が、身分証や何かの名簿の件で事務室へ呼ばれていたので、『オセロー』から始めなければならなかった。

初め私は、準備もなしにすぐ演じるのは断った。だが一分後には、自分でもやりたくなって、承知した。

私はひどく興奮して我を忘れ、止めることもできずに、猛烈な勢いで先へ突き進んだ。

アルカージー・ニコラーエヴィチは私に言った。「ペトロフスキー公園の道路を疾走して、『誰か止めてくれ、でないとぶつかってしまう!』と叫んでいたオートバイ乗りを思い出したよ」

「興奮すると、のみ込まれてしまって、自分を抑えられなくなるんです」と私は言い訳した。

「それは創造の目的がないからだ。君は、ただ漠然と悲劇を演じている。芸術では、どんなことも『漠然と』は危険なのだよ」とトルツォフは説いた。

「正直に言いなさい。今日は何のために演じたのかね?」と彼は問いただした……。

* * *

「役全体を、たった一つの超課題にまとめられれば、それが最善だ。その超課題の中に、最大のものから最小のものまで、すべての区切りと課題が含まれているのであればね」

「だが、そんなことができるのは、おそらく天才だけだろう」

「一つの超課題の中に、戯曲全体の複雑な精神的本質を感じ取るのは、容易ではない!」

「私たち普通の人間の力には余る」

「各幕の課題を五つ、全体で二十か二十五に絞り、それらを合わせると戯曲全体の本質がすべて収まるようにできれば、それが私たちに得られる最善の成果だ」

* * *

「私たちの創造の道は、鉄道のように、大、中、小の駅や停車場、つまり課題に区切られている」

「主要な拠点であるハリコフ、キーウ、オデーサもあれば、それほど大きくない節目のクルスク、ムツェンスク、ロゾヴァヤもある。ムィチシ、プーシキノ、ペルロフカ、クンツェヴォなど、小さな駅や、ごく小さな停車場もある。それぞれに必要な注意の程度も、停車時間の長さも違う」

「そうした駅のそばを、急行、郵便列車、旅客列車、貨物列車、それぞれの速さで走ることができる」

「すべての駅に止まってもよいし、最も重要な駅だけを選んで止まってもよい。短く停車することも、長く停車することもできる」

「今日の君は、途中の課題という駅を一つ残らず通過し、どこにも止まらず急行で駆け抜けた」

「課題は電信柱のように、次々と目の前を飛び去った」

「気づく暇も、その意味を受け止める暇もなかった。そもそも課題に関心がなかったのだ。自分がどこへ向かっているのか、君自身わかっていなかったからね」

「わからなかったのは、先生がそのことを何も教えてくださらなかったからです」と私は弁解した。

「教えなかったのは、まだ時期ではなかったからだ」

「今日は言った。もう知ってよい時期になったからだ」

「まず、定めた目的や課題が、明確で、正しく、具体的であるようにしなければならない」

「しっかりと定めておくことだ」

「何より先にそれを考え、意志の欲求とあらゆる志向を、そこへ向けなさい」

「それがなければ道に迷う。今日の君のようにね」

「それだけではない。目的や課題は、はっきりしているだけでなく、心を引きつけ、揺さぶるものでなければならない」

「課題は生き餌だ。創造する意志は、カワカマスのように、それを追いかける」

「餌はうまそうでなければならず、課題は中身があって魅力的でなければならない」

「そうでなければ、君の注意を引きつけられない」

「意志は、熱烈な欲求に駆り立てられるまでは、無力だ」

「その欲求を呼び覚ますのが、魅力的な課題なのだ」

「課題は創造する意志を力強く動かし、強く誘い出す鳥寄せ笛となる」

「さらに、課題が正しいことも、きわめて大切だ」

「正しい課題は正しい欲求を生み、正しい欲求は正しい志向を生み、その志向が最後に正しい行動へと結びつく」

「逆に、誤った課題は、誤った欲求、志向、行動を生む」

「シチェープキンは言った。『うまく演じるか、下手に演じるかは、重要ではない。大切なのは、正しく演じることだ』」

「正しく演じるには、草原で道を示す標識のように、正しい課題をたどっていかなければならない」

「では、まずこの間違いを直して、もう一度、場面を演じよう」

「そのために、前もって、場面を適切な大、中、小の区切りと課題に分けよう……」

「細部へ入り込まないように、この場面を、いちばん大きな区切りや課題に分けてみよう」

「オセローの場合は何か。イアーゴーの場合はどうか」

「イアーゴーは、ムーア人の嫉妬を起こさせます」とシューストフが言った。

「そのために何をするのかね?」トルツォフは尋ねた。

「策を巡らし、中傷し、相手の平静を乱します」とシューストフは答えた。

「もちろん、オセローが信じるようにね」とアルカージー・ニコラーエヴィチは付け加えた。

「では、その目的をできるだけうまく果たしなさい。まだここにはいないオセローではなく、君の前に座っている、生きたナズヴァーノフ本人を納得させるのだ」

「それができれば、もうほかには何も要らない」とアルカージー・ニコラーエヴィチは決めた。

「君の課題は?」彼は私に向き直った。

「オセローは彼を信じません」と私は言った。

「第一に、オセローはまだいない。君はまだ彼を作っていない。今いるのはナズヴァーノフだけだ」とトルツォフは訂正した。

「第二に、イアーゴーの中傷を信じないのなら、悲劇など起こらない。すべて無事に終わってしまう」

「もう少し戯曲に近いことを考えられないかね?」

「イアーゴーを信じまいと努めます」

「第一に、それは課題ではない。第二に、努める必要もない」

「ムーア人はデズデモーナを固く信頼している。妻を信じるのが、ごく普通の状態なのだ」

「だからイアーゴーには、その信頼を崩すのが難しい」とアルカージー・ニコラーエヴィチは説明した。

「悪人の言うことを理解するだけでも、君には難しい」

「もしその恐ろしい知らせを、最も誠実で忠実だと君の信じているイアーゴーではなく、ほかの誰かから聞いたら、笑い飛ばすか、策士を追い出すかして、それで終わりだろう」

「それなら、ムーア人の課題は、イアーゴーが何を言っているのか、理解しようとすることでしょうか」私は新しい課題を提案した。

「もちろんだ」とトルツォフはうなずいた。

「信じる前にまず、この人を信じやすいムーア人は、妻について聞かされる信じがたい話を、理解しようとしなければならない」

「中傷について考え込んで初めて、非難が嘘であること、デズデモーナの心が清らかであること、〔イアーゴーの〕見方が間違っていることなどを、証明したいと思うようになる」

「だから、初めはただ、イアーゴーが何を、何のために言っているのか、理解しようとしなさい」

「つまり」とトルツォフはまとめた。「シューストフは君を動揺させようとし、君は自分に言われていることを理解しようとするのだ」

「二人がこの二つの課題だけを果たせれば、私はそれで満足だ」

* * *

「それぞれの補助的な小さな課題を取り上げ、一つの共通した、いわば貫く行動で、すべてをつなぎなさい。その端には留め金のように、すべてが目指していく超課題を据えるのだ」

「そうして初めて、練習にまとまりと美しさ、意味と力が生まれる」

この説明のあと、私たちはもう一度演じるよう言われた。アルカージー・ニコラーエヴィチの言葉では、「課題に沿って、貫く行動に沿って、超課題のために」演じるのだ。

演じ終えると、批評と説明があった。

トルツォフは言った。「確かに、君たちは課題に沿って演じ、ずっと貫く行動と超課題を考えていた」

「だが……考えることは、まだ根本の目的のために行動することではない」

「超課題へ向かうのは、知性だけの、頭の中の運動ではいけない」

「超課題は、全身全霊を投じること、熱烈に目指すこと、力を出し尽くす行動を求める」

「一つひとつの区切り、一つひとつの課題は、それを実際に果たすため、作品の根本の目的、つまり超課題へ近づくために必要なのだ」

「そのためには、脇へ気を散らさず、揺るがず、まっすぐ、絶えず目的へ進まなければならない」

「創造するとは、情熱的に、勢いよく、力を込めて、実りある形で、目的にかない、理由のある道筋を通って、超課題へ進むことなのだ」

「その様子を目で確かめたければ、今この町で客演している、天才的な指揮者Xの演奏会に行くとよい」

「私は先日、彼の演奏を聴いた」

「彼が見せてくれたのは、こんなことだ」

「Xが登場した最初の瞬間、私はがっかりした」とアルカージー・ニコラーエヴィチは語った。「小柄で、ぱっとしない……」

「だが、指揮棒を手にしたとたん、目の前で変貌が起こった」

「この人には、舞台の額縁の向こうの黒い穴も、平土間の観客も、存在しないのだ」

「Xはオーケストラに食い入り、オーケストラも彼に食い入った」

「いや、オーケストラだけではない。平土間に座る私たち全員もだ」

「彼は自分を整えながら、私たちにも同じことをさせた」

「創造へ向けて集中するとは、このことだ」

「それからXは、一人ひとりの奏者から指揮棒へ見えない形でつながる手綱を、一つずつ手に収め始めた」

「それらをしっかり握りしめたかのようだった」

「指揮棒が舞い上がると、Xは大きくなった。いや、上へ浮かび上がったように見えた」

「そのとき私は、彼が皆の注意だけでなく、無数の状況を、自分の内へ集めていると感じた。長いこと取り組んできた超課題を集めているのだ。それが今日、内側から情念の真実、あるいは感情の真実らしさを、彼に教えるのである」

「すべてが彼を満たし、別人にしていた」

「最初の音が鳴る前に、指揮者の顔を見ただけで、オーケストラが重要で、意味深く、神秘的で、永遠な何かを歌おうとしているのがわかった」

「Xは急がず、明確に、鮮やかに指揮し、音が語るものの内面的な意味を、すべて指揮棒で描き出した」

「私たちはすでに、この短いが大切な楽句を理解した」

「ところが、まだだ。その楽句は、最後までは語られていなかったのだ」

「Xは急がない。ファゴットが、始めた楽句を最後の一音まで語り終えるまで、次の区切り、次の課題へは進まない」

「もっと、もっと……まだだ、まだ……。ファゴットが語り終え、句点を打ったかのようになった」

「そこで初めて、指揮棒がわずかに下がった」

「一秒、二秒。その間に指揮者は反対側の第一ヴァイオリンへ向き直る。オーボエとファゴットが見事に始め、締めくくった音楽の思考を、今度は彼らが、論理に沿って順を追い、さらに展開する」

「今、Xはヴァイオリンを、いっそう強くつかんだ」

「彼らの助けで、彼らに表せることをすべて語り尽くした」

「だが、それでも足りない。音楽の思考は膨らみ、さらに先へ進んでいった」

「ヴァイオリンだけでは不十分になり、チェロの一群がそっくり必要になった。だが、やがてチェロからも、それ以上は何も引き出せなくなった」

「そこでXは、木管楽器に毅然と呼びかけた。しかし音楽の思考は、ますます高く育っていく。指揮棒は金管楽器に訴えかけた」

「だがXは、金管に咆哮させなかった」

「トロンボーンの金属の口からほとばしろうとする、巨大な力を抑えていた」

「Xは目と手で、どうか手加減してくれ、と懇願していた」

「だが、楽器の金属の胸の中では、すでに金属がかすれた声を上げ、もう抑えがきかなくなっていた」

「恐ろしい朝顔形の口が、上へ向けられた。自由にしてくれと懇願するかのようだった」

「だが、指揮者は譲らない」

「彼には抑えきる力があった」

「金管の激しすぎる情熱によって、育ち続ける音楽の思考、作品の中心的な意味を担うものが、最後まではっきり語れなくなることを恐れていたのだ」

「だが、もう抑えてはいられない。Xは翼を広げたかのように上へ飛び上がった。そのあとを咆哮と旋風が追った。それに揺さぶられ、彼自身も震え、四方へ身を投げ、オーケストラ全体の上へ覆いかぶさった」

「弓の棹が高く振り上げられ、振り下ろされた」

「チェロとコントラバスは、情熱のあまり、自分自身をのこぎりで切っているかのようだった」

「女性の手が、ハープの弦をかすめながら、ひらひらと飛び回った」

「フルートは助けを求める悲鳴のように、鋭く鳴った」

「トロンボーン奏者の唇と頬は血で赤くなり、目は眼窩から飛び出しそうだった」

「オーケストラ全体が、海のように荒れ狂い、波打っていた」

「すると、トロンボーンをはじめ金管奏者全員が立ち上がった。最後の楽句を終え、課題を締めくくろうとしていた」

「語り終えた。だが、どうやら最後までは終わっていない。Xは指揮棒を下ろさず、むしろ威嚇するように振っていたからだ。最後の最後まで、すべてを言い切れ、そうしなければ承知しない、と警告しているようだった」

「もっと、もっと、まだだ!」

「行かせないぞ、許さないぞ!」

「さあ、今こそ、すべて最後まで語られた。これでよい」

「Xは、すべての区切りと課題を果たした」

「もう一つ、気づいたことがある。Xは、すべての区切りや課題を、一様に磨き上げて前面に出すわけではない」

「あるものは、丹念に目立たなくしている」

「別のものは際立たせ、はっきり聞こえるように気を配る。だが奏者が夢中になりすぎて強く刻むと、すぐに指揮棒と手で、味つけを濃くしすぎるな、といら立たしげに合図する」

「その動きが語るのは、『違う、違う、要らない、要らない、やめなさい』ということだ」

「小さな区切りの多くは、わざと目立たないように通過する。私には、そこを速めに演奏しているようにさえ思えた」

「その部分の総譜のページも、立ち止まるべきでない重要でない箇所として、さっとめくっていく」

「そのかわり、別のところではXはまったく変わる。ひどく鋭敏になり、区切りや課題だけでなく、一音一音にまで貪欲になる」

「また、ある区切りには、しがみつくように取りつき、最後の最後まで、徹底的に仕上げる」

「最後の締めくくりの音で、奏者の魂を丸ごと引き出すかのようなことも、しばしばある」

「釣り人が、針から外れはしまいかと案じながら、かかった魚を竿で水から引き上げるのに似ている」

「標題交響曲全体の形の中で重要だと考える別の区切りを、いかに丸く整え、明るく、色鮮やかに、あるいは鋭くしようとすることか!」

「全身でそれを前へ誘い出し、手の動きで招き、表情で呼び寄せ、重いものを引くように体全体を後ろへ倒す」

「Xはよく、オーケストラの中へ両手を突っ込み、必要な音や和音をそこから引きずり出しているかのように見えた」

「こうしてXは、超課題を表していたのだ」

「彼はおそらく、いや、きっと、この呼び名も、貫く行動というものがあることさえ知らないだろう」

「だが音楽の区切りは正確に知っている。そしてその論理、順序、相互のつながりを、誰にもまして、無意識に感じ取っている……」

「あとは、ひとりでに、直感的にできてしまうのだ」

「この天才的な指揮者の振る舞い全体に、君たち自身も感じないだろうか。一つひとつの課題をそれ自体のために表すのではなく、あらゆる課題が仕える超課題と貫く行動を、できるかぎり豊かに、立体的に、鮮やかに表そうとする、唯一の熱烈な志向を」

「私たちの芸術でも、俳優は同じことをしなければならない」

「持てる気質と情熱のすべてをもって、超課題を目指すことだ。その超課題は、心から俳優を揺さぶり、引きつけるものでなければならない」

「粘り強く、揺るがず、貫く行動の流れに沿って進み、自分の創造の道筋を、できるだけくっきりと、鮮やかに表すことだ」

「補助的な課題も、もちろん正確に、最後まで果たさなければならない。ただし、超課題と貫く行動にとって必要で、役に立つかぎりにおいてだ。今日の君たちのように、一つひとつの課題を切り離し、それ自体のために、『それだけで、それ自身のために』果たすのでは、決していけない」

「この道筋を、よく理解し、身につけなさい。超課題から、欲求へ、志向へ、貫く行動へ、そして超課題へと進むのだ」

「どういうことですか! 超課題から出発して、結局、同じ超課題へ戻るのですか?」私たちは戸惑った。

「そう、そのとおりだ」とアルカージー・ニコラーエヴィチは説明した。

「超課題、つまり根本の、最も大切な本質は、俳優の中に創造の欲求と志向と行動を起こさなければならない。それによって最後に、創造の過程そのものを呼び起こした、あの超課題をつかむためなのだ」

『オセロー』演出計画から

行動の流れについて

役を演じるとき、とりわけ悲劇の役を演じるときは、悲劇についてはできるだけ考えず、ごく単純な身体的な課題について、いちばん多く考えるべきだ。

したがって、役全体の骨組みは、おおよそ次のように作る。五つから十の身体的行動で、一つの場面の骨組みができる。

全五幕では、三十から五十の大きな身体的行動になる。

俳優は舞台へ出るとき、一つの課題や一つの区切り全体を果たす、すぐ次の身体的行動、あるいはその先のいくつかの行動を考えなければならない。

あとの行動は、論理に沿って、順に自然と現れる。

その際、内なる意味はひとりでに生まれることを忘れないでほしい。身体的行動を考えれば、長い稽古の過程で作った、魔法の『もしも』や、与えられた状況のすべてが、意図しなくても思い出されるのだ。

ここで、この方法に隠れた仕掛けの秘密を明かそう。

もちろん、肝心なのはそれらの状況だ。それがいちばん有力な鳥寄せ笛なのである。

身体的行動は、はっきり定めておけるので、骨組みを作るのに都合がよい。そして俳優が意識するまでもなく、その中にはすでに、すべての状況と魔法の『もしも』が秘められている。

それらこそが、身体的行動の内なる意味なのだ。

だから身体的行動をたどる俳優は、同時に、意図せずとも状況をたどっている。

稽古でも、まさにこの道を進むことを忘れないでほしい。

稽古では、この流れ、身体的行動の流れこそを、作り、踏み固め、定着させるのである。

そうして初めて、俳優は役の技術を自分のものにできる。

俳優には、筋の流れ、心理と感情の流れ、純粋に舞台上の行動の流れなど、さまざまな流れがある。

だが、よく忘れられる流れもある。それらは俳優を正しい道に導くため、技術のうえで必要なものだ。

身体的行動、真実、信じることの流れは、いわゆる「一日の流れ」を織りなすもののうち、最も重要なものの一つである。

そして一日の流れとは、外面的、身体的な貫く行動のことである。

身体的行動の流れとは、身体的な課題と区切りの流れなのだ。

気質の高まりが簡単に燃え上がることに甘やかされた、直感と霊感の俳優たち――『オセロー』を演じるのは、まさにそういう俳優だ――は、直感と感情をあてにしている。

舞台へ来ると、まず、この頼もしい同行者、案内役を探す。しかし、その頼もしい同行者である直感と霊感こそ、最も気まぐれで、あてにならないことを忘れている。

それらは命令しても来ない。自らその気になって、いや、心を引かれて、やって来るのだ。

私の考えでは、感情を最も強く引きつけるのは、自分の内面と外面の行動を信じることである。

信じることは真実があるときに生まれ、舞台上の真実は内面と外面の行動から生まれる。行動は課題から、課題は区切りから生まれる。

今日は調子がよく、霊感が訪れたのなら、技術を忘れ、感情に身を任せなさい。

だが、霊感が訪れるのは祝祭日だけだ、ということを忘れてはならない。

だからこそ、もっと手近で踏み固められた、俳優自身が使いこなせる道が必要なのだ。感情の道のように、俳優のほうが支配される道ではなく。

最も使いこなしやすく、定着させておけるのが、身体的行動の流れである。

例として、水盤のそばの場面を取り上げよう。

この場面で、俳優は何によって生きるべきか。

舞台へ出るとき、それだけを考え、たどるべき流れは、どこにあるのか。

それは何だろう。愛や情熱の流れ、つまり感情の流れか。人物像の流れか。文学的な流れか。舞台上の筋の流れか。それとも別のものか。

いや、行動の流れであり、行動の真実と、それを心から信じることの流れだ。

その、純粋に身体的な行動の流れとは、こうである。
1)できるだけ早くデズデモーナを見つけ、抱きしめようとする。
2)彼女はオセローとふざけ、気を引こうとする。俳優も彼女とふざけ、愛らしいいたずらを考える。
3)途中でイアーゴーに出会う。オセローは愉快な気分から、彼ともふざける。
4)デズデモーナが戻り、オセローを長椅子へ連れていこうとする。彼はまたふざけながら彼女についていく。
5)寝かされたら、横になっている。愛撫してもらい、自分もできるところで応える。

このように、俳優は五つのごく単純な身体的課題によって生きる。

それを果たすために、まず必要になるのは言葉と思考、つまり作者の台詞だ。これは非常に重要なのに、俳優がいつも忘れることである。

俳優はまず、言葉によって行動しなければならない。

舞台で大切なのは、行動する言葉だけだ。

言い換えれば、言葉と行動を使い、ごく単純な身体的課題を果たしながら、その中に真実を感じ、その単純な身体的真実を心から信じられれば、俳優は安心してよい。それが正しい感情のよい土壌を作り、今日、自分に可能なかぎり、その課題を体験できるからだ。

それ以上は、自分にはできない。あとは神に委ねるほかない。

シチェープキンは言った。「うまく演じるか、下手に演じるかは、重要ではない。大切なのは、正しく演じることだ」

その正しい流れを作るのが、単純な身体的行動なのである。

たいていの俳優は、別のやり方をする。

職人的な俳優は行動を気にかけるが、それは生活に根ざした人間の行動ではない。俳優じみた、芝居がかった行動、端的に言えば作り芝居だ。

直感と感情の俳優は、行動や台詞ではなく、必ず内なる意味を気にかける。

それが自然に来なければ、自分から絞り出そうとする。そして、この無理強いのために、いつものように作り芝居と職人仕事へ陥る。

だから俳優は、行動と、行動する台詞を作り、内なる意味のことは気にしないようにしよう。

身体的行動の真実を信じれば、内なる意味はおのずと生まれてくる。

この助言は、神経の繊細な俳優に、とりわけ大切である。

内なる意味を気にせず、身体的行動のうえに役を築いてほしい。

身体的行動

飛行機がどう離陸するか、思い出してほしい。しばらく地面を走り、勢いをつける。

その間に生じる空気の流れが翼を持ち上げ、機体を空へ運ぶ。

俳優も、身体的行動に沿って進み、いわば助走し、勢いを得る。

その間に、与えられた状況と魔法の『もしも』の助けで、信じることの見えない翼を広げる。その翼が俳優を高く、自分の心から信じた想像の領域へ運ぶ。

だが、踏み固められた地面、助走できる飛行場がなければ、飛行機は空へ上がれるだろうか。

もちろん、上がれない。

だから私たちの最初の仕事は、その飛行場を作り、踏み固めることだ。真実ゆえに堅固な身体的行動で、いわば舗装するのである。

身体的行動の骨組み
(「水盤」)

悲劇の中心部分に、力を残した状態で取りかかるには、開幕から、与えられた状況のもと、身体的な流れに沿って定めた行動を、明確に、落ち着いて果たせるよう、役を組み立てておく必要がある。

俳優は課題を持って舞台へ出て、真実に、誠実に行動を果たさなければならない。それ以外は何も要らない。

一つの行動を果たし、そこに真実を見つけ、それを信じたら、次の課題へ進む。そうして続けていく。

何らかの理由で、今日は行動全体を信じられないなら、少なくともその一部分を信じればよい。

たとえば、先ほどの「水盤」の場面で、俳優が新婚の浮き立つ気分を、十分には信じられないとしよう。

自分の感情を探り回り、無理に動かすかわりに、与えられた状況のもとで身体的行動の流れをたどり、そこに真実と、それを信じることを探すべきだ。

だが今日は、身体的行動の全体を信じられない。それなら、それでもよい! 一部分だけでも信じなさい。

デズデモーナ役の女優に、熱烈に口づけすることはできるか。

ただ身体的に、熱烈な口づけをすることは。

そのとき、ほんの一瞬思い出し、自分に尋ねればよい。もし自分が新婚の夫だったら、どう口づけするだろう。

今はそれだけでよい。

頼むから、それ以上は何もするな!

すぐ二つ目の瞬間へ進みなさい。

イアーゴーが立って、隙間からのぞいている。

今日は、どうすればおかしな具合に驚かせられるだろう。

くすぐろうか。それとも何か冗談を考えようか。

その冗談が気が利いているかどうか、うまくいくかどうかは、重要ではない。

大切なのは一つだけ。この小さな身体的行動を信じることだ。

そのとき、またほんの一瞬思い出す。そうだ、自分は新婚なのだ!

それだけでよい。頼むから、ほかは何もしないでくれ。

次の行動へ進みなさい。

扉が開き、イアーゴーが、立ち去るカッシオを彼に指し示した。

もしカッシオが、舞台装置の扉越しに見える小道具室にいて、そこから外の庭へ出ていくとしたら、あなたは、その人物を見て、誰なのか確かめるために、どうするだろう。

早くやりなさい。でないと姿を消してしまう。

ただし後ろ姿しか見えなかったのだから、見間違いではなかったか、イアーゴーに確かめなさい。

それだけでよい。頼むから、それ以上は何もするな!

次の課題へ進みなさい。

デズデモーナがあなたを引っ張り、寝かせる……という具合に、続けていく。

そうした課題をすべて果たしながら、自分に一言添える。そうだ、自分は新婚なのだ!

この役の身体的な骨組みは、きっかり五分で演じられる。入る、口づけする――信じた、あるいは一部分だけ信じた。イアーゴーとふざける――もっと信じられた。カッシオを見かける――ある一つの動きだけは作り芝居になったが、ほかは信じられた。

デズデモーナに引っ張られ、彼女とふざける――信じられた。こうして続ける。

信じてもらえないかもしれないが、私は、この骨組みだけを稽古すればよい、と言いたい。その真実と、実際にする行動への信頼を、しっかり定着させるために。

役が楽譜として十分に分析され、一つひとつの区切りに、想像による設定、魔法の『もしも』、与えられた状況が十分に詰まっているなら、何も心配することはない。感情は、今日の自分に可能なだけ、反射的に応じてくれる。

それ以上をしようとすれば、すべて無理強いと作り芝居になる。

調子が悪ければ、今日は前回より下手になるかもしれない。だが、それはかまわない。「うまく演じるか、下手に演じるかは、重要ではない。大切なのは、正しく演じること」だからだ。

与えられた状況のもとで身体的行動をたどり、言い換えれば骨組みに沿って進み、それを信じているなら、正しく演じていると思ってよい。

十か二十ほどの身体的な課題と行動。これから検討する場面までは、それだけを頼りに役を進めるべきである。

役を、とりわけ膨大な力とその節約を求められるオセローの役を、どう準備するか。これが私の助言だ。

一日の流れ

「塔」の前の幕間

デズデモーナが現れ、ハンカチで頭を巻こうとする場面のあと、オセローはキプロスの人々との食事へ向かう。

公式の会食だ。

将軍の様子はおかしく、上の空である。

頭が痛い、体調が悪いのだと言い訳する。

デズデモーナは心配する。

貴族の女性らしい如才なさで、主だった客が食後に長居しないようにする。夫は疲れているのだ。遠征から帰ったのは、まだ昨日のことなのだから。

妻は、結婚二日目だからこそできる仕方で夫をいたわる。夫が病気になったのは、これが初めてなのだ。

愛らしい言葉を、あれこれかける。

だが、オセローの反応はよくない。

夫の気を紛らわせようと、デズデモーナは話題を変え、何も疑わず、ふとカッシオの話に触れる。

ここでは、女性としての自尊心が少し傷ついている。夫婦生活の初日から、自分にはごく些細に思える願い一つ、かなえてもらえないのだろうか。

ところが、オセローに長いこと頼み続け、カッシオの話題に長くとどまらなければならなくなる。

すでに注意を誤った方向へ向けられている将軍に、それがどう響くかは、明らかだ。

また、これまでの出来事を経たオセローが、デズデモーナの執拗な頼みを、自分なりに解釈するのも無理はない。

彼の考えでは、カッシオを気遣う理由は、彼女自身の気づかない恋心にある。

若い女性が同じく若い男性に無自覚に心を寄せるのは、理解できる。デズデモーナは悪くない。本人も気づいていないのだから、なおさらだ。そう結論する。

そこから、また悲しい結論が次々と生まれる。自分は年を取っている。結婚したのは間違いではなかったか。彼女の人生を台無しにはできない。

「好きなところへ飛んでいけばよい!」こんなことを考えていて、愉快になれるはずがない。

絶えず考え続けるうちに、その考えはいつしかなじみ深くなり、なじみ深くなればなるほど、いっそう本当らしくなる。

その日の五時か六時ごろには、デズデモーナがカッシオに恋しているという確信が、オセローの頭と感情に、さらに固く根を下ろしている。彼女と、若く美しく学識のある副官との関係を、記憶の細部まで一通りたどり終えたから、なおさらだ。

以前は何も気に留めず、疑いもしなかったことが、今、過去を振り返ると、まるで違って見える。

疑わしい細部が、いくつも集まった。
1.デズデモーナとオセローの逢瀬を取り計らうための、カッシオの熱心すぎる働き。その用事で、カッシオはブラバンショーの家と、あまりに頻繁に連絡を取っていた。これは怪しい。

2.カッシオはしばしば、屋根つきのゴンドラでデズデモーナを逢瀬へ連れてきた。確かに侍女もいたが、金を渡せば言いつけられたことは何でもする女だ。

3.カッシオの結婚式への尽力まで、疑わしく見え始めた。なぜ、そんなに熱心だったのか。二人を結婚させて彼女の近くにいられるようにし、その後いつか、あるいはすでに今、結婚直後から、言い寄り、計画を着々と実行するためではないか。

4.二人のふざけた会話はどうだ。親しげな口調、目配せ、彼のあまりに丁重で気の利いた振る舞いは。カッシオ自身、デズデモーナに会うと顔つきが変わるのに気づいていない。

オセローは今になって初めて、以前も見ていながら、人を信じる性質のため気にかけなかったことの意味を理解する。

ここ数時間に、そうしたことがすべて思い出され、疑いを強めていた。

それでも彼の目に、デズデモーナの清らかさが曇ることはなかった。彼女は自分の内で起きていることを知らないのだから。むしろ、思い出が彼女を自分から遠ざけるほど、彼女はいっそう大切で、すばらしく、手の届かない存在になった。

もう一時間考え続けると、若い彼女が、同じく若い男に引かれていることは、彼にとって明白になる。

年を取った自分が若い娘と結婚した間違いは、いっそう明確で、疑いようのないものになった。

彼女を責められることが一つだけある。なぜ、はっきり言ってくれなかったのか。

だがすぐに、こう思い直す。デズデモーナ自身、自分にはこれほどよくわかることに、まだ気づいていないのだ。

「仕方がない。もう妻はいない」と彼は繰り返し胸の内で言う。「だが、じきに日が沈み、夜になる。そうすれば、昨日と同じように、また彼女の寝室へ行かなければならない」

昨日はおとぎ話、夢と思えたことが、今日は考えただけで身を震わせる。

今日は彼女に会うのが怖い。

彼女から逃げて、まず庭へ、それから奥の部屋へと、どんどん遠ざかる。

どこかの扉を抜け、階段を上へ上へと上り、ついに塔の頂に出る。

「あちらはどうしているだろう。下では自分を探している。逃げた、死んだとでも思うだろうか! 探させておけばよい。まず落ち着こう。そのあとで、どうするか考えればよい」

これで皆から逃れた。だが、自分自身とイアーゴーからだけは逃れられない。この二人の敵は、影のようについてくる。

本物の探偵であり挑発者でもあるイアーゴーは、絶えずオセローに狙いを定めている。

オセローが経験している状態の性質を、考えてみよう。

彼はデズデモーナと、信じられないほど幸せだった。

その蜜月は夢であり、恋の情熱の頂点だった。

オセローの演技では、この頂点が、どういうわけか十分に表されない。

作者自身も、そこにあまり注意と紙幅を割いていない。だが、オセローが何を失い、「塔」の場面で何に別れを告げるのかを示すには、それが重要なのである。

すでに味わい、その中で生き慣れた至福に、いきなり別れを告げられるだろうか。

失ったことを悟るのは、簡単だろうか。

生きる支えを引き抜かれた人は、まず打ちのめされ、均衡を失う。それから苦しみながら、その均衡を探し始める。

それまでは至福があった。これから、それなしにどう生きればよいのか。

危機を経験する人は、苦しみと眠れぬ夜の中で、自分の人生をすべてたどり直す。

失ったものを嘆き、その価値をいっそう大きく、高く見積もる。そして同時に、これから待ち受ける、想像力の描き出す未来と比べる。

この膨大な内面の仕事をするには、何が必要か。

過去を見渡し、未来を見るため、自分の内へ退く必要がある。

深く深く、自分の内へ沈み込む時なのだ。

だから、このような状態の人が周囲の出来事に気づかず、上の空になり、様子がおかしくなるのは、少しも不思議ではない。そして空想から現実へ戻ると、ますます恐ろしく、心が乱れ、内へ沈んでいるあいだにたまった苦さと痛みを吐き出す口実を探す。

この場面のオセローの状態は、おおよそそういうものだと思う。

舞台装置そのものも、そこから生まれた。

だからオセローは、この場面のように塔の頂へ逃げ上がったり、武器と雑多な家財のしまわれた地下室へ駆け下りたりするのだ。人から身を隠し、自分の状態を見せないために。

だから私には、この場面の流れが、おおよそ次のように思える。

彼が塔へ上ったのは、「この俺をだますとは! この俺を!」という言葉を体験するためだ。(「ははあ、この俺をだますとは! この俺を!」の「ははあ」には、まったく賛成できない。すでに何か脅しが響くからだ。だが、オセローのこの状態には、脅しはない。)

この文句と、「この俺を!」という繰り返しの、内なる意味は何か。

それは、こういうことだ。あれほどの愛があり、私はすべてを彼女に捧げ、どんな犠牲も払うつもりだった。彼女がただ一言、カッシオを愛している、と言ってくれれば、その望みをかなえるため、何でもしただろう。私は去るか、そばに残って彼女を守るかしただろう。それなのに、この献身、この全面的な自己犠牲に対して、こっそり裏切り、だますことなど、許されるだろうか。

私の考えでは、オセローは決して嫉妬深い男ではない。

普通の舞台でオセローとして描かれるような、狭量な嫉妬男は、むしろイアーゴー本人だ。今ようやく見えてきたが、実際イアーゴーは、エミーリアに対して狭量で卑俗な嫉妬を抱いている。

オセローは、並外れて高潔な心の持ち主なのだ。

身体的行動と、ごく基本的な心理的行動の骨組み

あなたの役は、もうできあがり、うまくいっている。

心理や役の流れを、私が説明する必要はない。説明すれば、かえって混乱させてしまう。

私の仕事は、すでにできたものを定着させる手助けをすることだ。簡単に身につけ、そのとおりに進めば、創造の気分を損なう別の流れへそれずにすむ、単純な楽譜を提案したい。

あなたの進むべき、その楽譜、その流れは、単純でなければならない。

それだけではない。その単純さに、あなた自身が驚くほどでなければならない。

細かな機微や微妙な色合いをすべて含んだ、複雑な心理の流れでは、あなたを混乱させるだけだ。

私の手元には、身体的な、そしてごく基本的な心理的課題と行動からなる、きわめて単純な流れがある。

感情をおびえさせないよう、これを「身体的な課題と行動の骨組み」と呼び、演じるときもそういうものとして扱おう。ただし、その前に一度だけ、はっきり約束しておこう。隠れた本質は、もちろん身体的な課題ではない。十のうち九までが潜在意識の感覚から成る、きわめて繊細な心理なのだ。

人間の感覚が入った潜在意識の袋に、財布に手を突っ込むようにして、探りを入れてはいけない。潜在意識には、別の接し方が必要だ。猟師が森の茂みから獲物を誘い出すように。

この鳥は、探しても見つからない。鳥のほうから飛んでくる、狩猟用の鳥寄せ笛が要る。

私があなたに渡したいのは、身体的な、そしてごく基本的な心理的課題と行動という形をした、その鳥寄せ笛なのだ。

身体的な課題と区切り、ごく基本的な心理的課題と区切りの骨組み。

区切り「А」(I)

「ははあ、この俺をだますとは! この俺を!」この区切りの課題は、デズデモーナがなぜ自分をだますのか、答えを出すことである。

したがって、この課題と区切りの名前は、「なぜ?」あるいは「何のために?」となる。

説明。

ここで言うのは、次のような、ごく基本的な課題だ。

この場面の幕が上がる前に、私があなたに、こんな問題を解いてほしいと頼んだとしよう。

ある国、あるところに、美しい娘がいた……。その娘は、醜い男を愛した。

それから、デズデモーナとオセローに起こったことを、すべて語る。彼女が求婚者をすべて退け、彼らとともに高い身分も捨て、家と縁を切り、嵐の中を夫について戦地へ行き、忘れられない詩的な一昼夜を彼と過ごしたことを。

それをすべて、彼をだますためにしたのか。

私の頼みは、なぜ、何の目的で、まともな娘がそんなことをするのか、説明してほしい、ということだ。

なぜ彼女に、それが必要なのか。

これが場面の初めにオセローの取り組む、ごく基本的な心理的課題であり、俳優が上演のたびに解かなければならない問題である。

それ以上は何も要らない。

俳優にとって難しいのは、演じているあいだ、この課題に踏みとどまり、見せるための俳優じみた課題へ滑り落ちないことだ。

それでは冷たい、とあなたは言うだろう。

そうだとしよう。

冷たくてもよいから、正しくあってほしい。

正しいものからなら、本物へたどり着ける。

熱くても、間違っていて、偽りであるほうが、よいだろうか。

偽りからは、どうしても本物にはたどり着けない。

俳優は何年もかけて役と戯曲を準備し、一つひとつの瞬間をめぐって、詩を幾編も作るほど想像を膨らませてきた。目の前には装置と照明の作る幻があり、身には化粧と衣装を感じる。同じ世界に生きるほかの俳優と交流し、舞台上に共通の空気を作り、それが観客の存在によって高い熱を帯びる。そんな俳優に、劇中の自分の立場と似た課題を与えたとき、これらをすべて忘れてしまうなどと、考えられるだろうか。それでも冷たいままでいられるだろうか!

もちろん、すべては自然に思い出される。この課題は、俳優の気づかないところで心に生き、すでに準備され、蓄えられているものを呼び覚ます、鳥寄せ笛になるだけだ。

だが、この方法の秘密、仕掛けはここにある。

役のために用意したものを、直接描き出そうとすれば、十中八九、感情を演じてみせる流れに入ってしまう。

そうではなく、ただ行動し、毎回の上演で、与えられた課題をそのつど新たに解こうとすれば、正しい流れを進める。感情もおびえずに、ついてくる。

区切り「Б」(II)

イアーゴーの「将軍、もうその話はよしましょう」で始まり、二行後のオセローの「……少しだけ知るくらいなら」で終わる。

区切りと課題の名前は、「イアーゴーから離れ、声も聞かず、姿も見ずにすむようにする」。

説明。

外科医が、たった今、耐えがたいほど痛い手術をしたとしよう。その五分後に、今度は痛む傷の中へ差し込もうと、探り針を持って近づいてくる。

あとは、おのずとわかるはずだ。

それ以上は何も要らない。

上演のたびに、今日はどうやって医者の拷問から逃れるか、考えなさい。

区切り「В」(III)

イアーゴーの「どういうことです、将軍?」から、オセローの「オセローの道は終わった」まで。

区切りの名前は、「理解しろ、感じろ。お前が俺にしたのは、こういうことだ!」。

課題。

上演中、その場で、意識的に、あるいは無意識に思い浮かぶ、あらゆるやり方、あらゆる適応を使って、証明しなさい……いや、それだけでは足りない! 無感覚なイアーゴーに、自分のしたことのすべて、オセローの味わう苦痛のすべてを、内面の目で見せ、感じさせるのだ。

それを彼に鮮明に伝えれば伝えるほど、課題はよく果たされる。

この区切りには、軍隊への別れのくだりが入る。あなたを、あれほど大仰な調子へ引っ張る部分だ。

その大仰さをなくすには、行動することだ。

行動のために高揚した調子が必要なら、それは自然に現れる。ただしそれは、下手な、見せるだけの俳優が、心の空虚を埋めようとして使う大仰さとは、まったく違う。

では、ここでの行動は何か。

想像を働かせ、いくつかの可能性を考えてみよう。

第一に、イアーゴーを納得させたいという欲求から生まれるかもしれない。

第二に、オセローは一時イアーゴーを忘れ、自分の未来と、そこに待ち受けるものを、自分自身ではっきりさせたいのかもしれない。

注意。この課題は、すでに難しい。大仰な調子へ駆り立てやすいからだ。

だから私は、まず第一の課題を通ってからでなければ、これには近づかないだろう。

第一の課題を音叉にすれば、第二の課題の正しい調子もつかみやすい。

第三に、オセローは心の目で、自分の全軍を見たのかもしれない。あたかも塔の下の広場に、整列しているかのように。

あるいは、その目はもっと遠く、心の中に見える戦場へ飛んだのかもしれない。彼はそこへ向かって、叫ばんばかりに、本当に彼らへ別れを告げる。

注意。これは大仰さにさらに近い。だから、最初の二つの課題を通ってからでなければ、直接この課題へは進めない。より正確に言えば、演じるうちに調子が出てくれば、ここまでたどり着ける、ということだ。

そして、こうしたすべての課題の底で、オセローはこう言っているようなものだ。わかってくれ、お前が俺に何をしたのか。お前が俺から奪ったのは、これなのだ。

ここでオセローは、深い悲しみに至る。

それを強めるためなら、この独白のあとに、客演スターがよく取るような長い間を置くことにも、私は反対しない。

注意。それまでの流れが正しくできており、俳優が絶望という感情の性質を十分に調べ、その瞬間に人が身体的に何をし、どう行動するかをよく理解しているなら、そして型にはまらず、その正しい行動をきちんと果たせば、たとえあまり感情が伴わなくても、この長い間によって観客を信じ込ませ、印象を強め、自分を疲れさせずにすむ。これはとても大切だ。

この長い間は、次への移行になるので、役に立つ。

軍人生活の光景に心を引かれ、揺さぶられるのが難しければ、何か似たものを探すとよい。

私なら、こんな置き換えが役立つだろう。たとえば、永久に劇場と別れなければならず、もう開幕前のベルも、舞台裏の落ち着かない空気も、楽屋の胸の高鳴りや期待も、二度と味わえないとしたら。そして心の中で、それらすべてに別れを告げるとしたら、どんな感情と体験なのかがわかる。

その色合いさえわかれば、自分の感情を描くのは容易だろう。

あなたが何かの間の中で動きを止め、周囲の何も目に入らず、軍事の真の芸術家にとって、限りなく大切な光景をすべて心の目で見ているとき、私はとりわけ熱烈な拍手を送るだろう。

立ったまま、頬を大粒に流れる涙を拭き、泣き崩れないようこらえ、最も大切で秘めたことを話すように、かすかな声で語りなさい。

この独白には、長い間がいくつも挟まるかもしれない。その間、オセローは我を忘れて立ち尽くし、黙ったまま、失おうとしているものの情景を、最後まで見届けている。

別の間には、石にもたれ、長いこと声もなくすすり泣き、体を震わせ、別れを告げるように、どこか力なく頭を揺らすかもしれない。

これは勇ましい歓喜の高揚ではなく、死を前にした別れの泣き声である。

区切り「Г」(IV)

「そんなことが、ありえましょうか?」で始まり、「もう、あなたにはお仕えしません」で終わる。

区切りと課題の名前は、「イアーゴーに思い知らせる。気をつけろ。こんなふざけたまねをして、ただではすまないぞ」。

演じ手は、あらゆる方法と手段、適応、工夫を使わなければならない。説得し、懇願し、警告し、おびやかし、最後には単純な身体の力と恐ろしい姿を使って、何が待ち受けるのか、イアーゴーに納得させるのだ。

前の区切りで、自分の失うものを描いて心を傷つけた彼には、誰かに苦しみをぶつけることが必要になっている。

ここで、イアーゴーに痛みをぶつけ始める。

この区切りの最後、イアーゴーの「ああ、お慈悲を! 天よ、お救いください!」という言葉のところで、オセローはただ激して、脅しを今すぐ実行に移そうとする。

だが、イアーゴーの叫びが、彼を我に返らせる。

オセローは一瞬止まり、自分のしたことを理解する。

嫌悪がこみ上げ、胸がむかつき、彼は逃げ出す。

どこへ。

ここでこそ、場面冒頭の説明で述べた、あの足場が必要になる。

区切り「Д」(V)

「もう、あなたにはお仕えしません」で始まり、「……それが侮辱を生むというのなら」で終わる。

区切りの名前は、「何ということをしてしまったのか!」。

課題は、「身を隠し、自分も他人も見ずにすむようにする」。

説明。

オセローは、ひどい嫌悪と恥に襲われ、胸がむかついて、人から離れ、誰の顔も見ずにいなければならなくなる。

そこで奥へ逃げ、横になる。

イアーゴーは、それに対抗する課題を進める。

巧みな俳優であり挑発者でもある彼は、迫った死に本当におびえ、もみ合いで息を切らしている。その自分の状態を利用して、新しい挑発を仕掛ける。

オセローを懲らしめなければならない。一人で置き去りにされるという恐怖を与え、その教訓が長く記憶に残るようにするのだ。

この場面を熱を込めて演じるため、偶然高ぶった自分の神経を利用する。

オセローは、絶望して身動きもせず横たわる。ここで、いつも演じられるように泣く必要はない。彼の状態は、涙よりも強く、大きい。

区切り「Е」(VI)

「いや、待て!」で始まり、「……あいつの現場を押さえろと?」で終わる。

区切りの名前は、「誰か! 助けてくれ! もう力がない!」。

課題は、「イアーゴーの同情を誘い、助けてもらう」。

区切り「В」で、自分に何をしたのかイアーゴーにわからせようとしたオセローは、この区切りでは、同情を引き出そうとする。自分の味わう地獄のすべてを、外に、身体で、見てわかるように示すのである。

これは一種の芝居だ。人は互いに交流するとき、自分に起こっていることを、もっとよく、具体的に見せるために、こうした芝居を使う。

オセローは、あらゆる適応、声や動きのあらゆる色合いを総動員する。俳優の感じていることを、耳にというより、目に訴えて伝えるのである。

オセローの状態と、自分が彼にとって必要なのだということを理解すると、イアーゴーは、それまでより少し権威ある態度になる。

区切り「Ж」(VII)

「死と呪いを!」で始まり、「……一つでは、俺の復讐には足りない!」で終わる。

区切りの名前は、「取り調べる者」。

課題は、「事情を明らかにし、理解したい」。

オセローは、イアーゴーに語らせるため、できることをすべてする。

この区切りのオセローは、台詞だけを見れば、もう憤り、荒れ狂い始めてもよい。しかし、徐々に高めることと、表現の色合いを配分することを考えれば、それはよくない。

だから「死と呪いを!」「何とむごい! 何とむごい!」「あいつを八つ裂きにしてやる!」という叫びは、こう理解するべきだ。すでに起きた事実への恐怖から叫ぶのではない。ありうると考えた可能性への恐怖から、叫ぶのだ。

こうした叫びも、イアーゴーに先を語る気を起こさせる。

オセローの主な演技は、この叫びの中ではなく、イアーゴーが台詞を言うあいだにある。彼はむさぼるように聞き、その聞き方によって、自然に相手を先へと駆り立てるのだ。

「何とむごい! 何とむごい!」という言葉のとき、オセローは初めて一瞬、その出来事がありうると信じ、立ちすくむ。

続く「そうだ、夢だ。だが、その夢は、現実にあったことを暴いている」……という応答も、同じ調子で進む。

彼はまだ呆然とし、知らされたことを消化している。

「あいつを八つ裂きにしてやる!」という言葉は、虎の咆哮のように、本能的に噴き出したものだ。

続く「そのようなハンカチは、俺があいつに贈った」という言葉で、彼は痛みを伴いながら、イアーゴーの言い分が正しいと証明している。

これらはすべて、あとの最終決断へ向かう階段、そこへ近づくための段階だ。ただし忘れないでほしい。あくまで近づく段階にすぎない。その内面的な根拠は、この区切りの基本の課題、「理解したい」にある。

最後の三行、「ああ、なぜあの奴隷には、四万もの命がないのだ!」以下は、激怒ではなく、恐ろしいほどの痛みで、力強さではなく、悲しみで語る。まさに、徐々に高め、表現の色合いを配分するためだ。

この区切りは、客演スターが取るような、非常に長い間で終わる。その間に俳優は、この場面で蓄積した感情を最後まで生き、新たな決断をする。

では、この区切りのイアーゴーの流れを、どう定めるか。

それまでの「А」「Б」「В」「Г」の区切りでは、イアーゴーは自分に注意を向けさせようとしていただけだ。

オセローに突き落とされそうになったことも、結局は役に立った。オセローに反動を起こし、助けを懇願させたからである。

この瞬間から、イアーゴーは自分の筋道を進め始めた。

いつものように、直接ではなく、好人物の仮面をかぶって進める。

ここでは、オセローを救うためには真実を話さなければならない、という口実で身を包む。

オセローは何としても答えを求め、証明できないことを、イアーゴーに証明させようとする。

イアーゴーは不本意ながら、事情を明らかにする事実を探す。それによってオセローが、自分を苦しめる曖昧な状態から抜け出すのを、助けようとするのである。

要するに、何とかしなければならないが、難しい、友人を売らなければならないが、そうはしたくない、ということを演じるのだ。

俳優は、オセローだけでなく観客自身もだませるほど、好人物の仮面を心からのものとして見せなければならない。

間のあと、オセローが立ち上がり、〔新しい区切り〕が始まる。

区切り「З」(VIII)

〔「今や、すべて、すべてを信じる!」から〕、「……荒々しい復讐にのみ尽くされるまで」で終わる。

区切り「В」ではイアーゴーが自分に何をしたかを示し、「Е」では自分の味わう苦痛を示したオセローは、この「З」では、自分に起こった変化、しかも、もはや取り返しのつかない変化を示す。

これが区切りの課題であり、区切りそのものには、「今の俺は、こうなった」と名づけたい。

この区切りでも、前の区切りと同様、俳優が無理な高ぶりへ移らないようにする技術上の手段を探している。そうしないと、情熱を絞り出し、ずたずたに引き裂き始めるからだ。

訳注

原文の「ヴォルタージュ」は電圧を意味する語。ここでは、力んで興奮を高めようとする演技を指す。

その無理な高ぶりに陥ったら、俳優は立ち行かなくなる。

その道へ進ませないために、身体的な、あるいはごく基本的な心理的課題が必要だ。

それをしっかりつかんでいてほしい。とりわけ、この箇所では。

実りのある、目的にかなった行動をしてほしい。

区切り「И」(IX)

「今、この澄んだ空の下で誓う」で始まり、「今すぐ、その力を借りよう」で終わる。

区切りの名前は、「誓い」。

課題は、「退路をすべて断つ」。自分の決意をできるかぎり強固にし、後戻りする可能性を自分から奪う。

区切り「К」(X)

「三日以内に、お前は俺に報告しなければならない……」で始まり、「永遠に、あなたのものです」で終わる。

区切りの名前は、「判決」。

課題は、「自分自身にさえ認めるのが難しい、最も恐ろしい秘密を伝える」。

説明。

決断は下された。しかし、あまりに恐ろしく、大声では言えない。むしろ目で語りたくなる。

この最も重大で恐ろしい秘密を、天と地のあいだで、一人の人間が、もう一人へひそかに伝える。

主に目で語る。

つまり、この場面で俳優が生きる骨組みは、次のとおりである。

А(I)――与えられた問題を解く。「なぜ、何のために?」

Б(II)――イアーゴーから離れる。

В(III)――自分に何をしたのか、イアーゴーに感じさせる。

Г(IV)――イアーゴーに警告する。「気をつけろ。こんなふざけたまねをして、ただではすまないぞ」。

Д(V)――「何ということをしてしまったのか! ああ、何て嫌なことを!」課題は、身を隠し、自分も他人も見ずにすむようにすること。

Е(VI)――「誰か! 助けてくれ! もう力がない!」課題は、イアーゴーの同情を誘い、助けてもらうこと。

Ж(VII)――取り調べる者。課題は、細部まで事情を明らかにし、理解したいということ。

З(VIII)――「今の俺は、こうなった」。課題は、起こった変化を示すこと。

И(IX)――誓い。課題は、退路をすべて断つこと。

К(X)――判決。課題は、自分自身にさえ認めるのが難しい、恐ろしく、最も深く秘められた秘密を伝えること。

この骨組みは、五分で演じられる。

大切なのは、こうした気分をすべて呼び起こせるようになることだ。

いったん生まれれば、それを長く保つことは難しくない。

骨組みは、ある気分、体験、感情を生み出し、その中へ導いてくれる。

役について十分に想像し、準備してあれば、骨組みの助けで、大きな区切りの一つひとつを感じ取れる。感情がある領域、ある空気の中へ入ってしまえば、さまざまな適応を使って課題を果たしながら、それを長く保つのは、もう難しくない。

全体の骨組みを五分で演じられるようになったら、場面はできあがったと考えてよいし、道を外れないことも保証できる。ただし、寝起きでもできるほど、その骨組みを覚え込んでおくことだ。

これは俳優がしっかりつかまるべき救命浮輪だ。だから、あらゆる方法で骨組みを確かにし、磨き上げなければならない。

体験の技術とは、まさにここにある。

役づくり
〔『検察官』〕
戯曲と役の生活を、現実のものとして感じる
〔一九三六〜一九三七年〕

一九……年……月……日

「多くの劇場では、新しい戯曲との最初の出会い、そこへの入り方は、次のようになっている」

「劇団員全員が集まって、戯曲の朗読を聞く」

「作者自身か、その新作をよく知る人が読んでくれればよい」

「朗読は下手かもしれないが、作品の内面の流れを理解し、正しく差し出し、適切に照らしてくれるからだ」

「残念ながら、作品をよく知らない人が読むことも珍しくない」

「その場合、これから演じる人々の前に、戯曲はゆがんだ姿で現れる」

「これはよくない。最初の印象は、敏感な芸術家の心に深く刻まれるからだ」

「新しい舞台を作る人々が、初めに誤って受け取ったものを、あとから引き抜くのは難しい」

「最初の朗読を聞いただけでは、たいてい、新しい戯曲についての像は、まだ十分にはっきりしない」

「それを明らかにするために、いわゆる『話し合い』が設けられる。全員が集まり、聞いた戯曲について、一人ずつ意見を述べるのだ」

「意見が何か明確な一点で一致することは、めったにない」

「たいていは、さまざまな、正反対の、思いがけない方向へ分かれていく」

「演じ手になる人々の頭の中は、ごちゃごちゃになる」

「新作への自分なりの向き合い方を、すでにつかんだように思えた人まで、それを失ってしまう」

「自分の意見をなくすのは、よくないことだ」

「こうした話し合いのあと、俳優たちはしばしば、新しい役を前にして途方に暮れる。何としてでも早く解かなければならない、なぞに向き合っているかのように」

「その無力な姿を見るのは、気の毒でもあり、滑稽でもある」

「私たちの心理技法が力を持たないことが、腹立たしく、情けない」

「理解できない役の心へ入り込もうとして、俳優は何の方針もなく、あちこちを突き回す」

「唯一の望みは、入り口を見つける助けとなる偶然だ」

「唯一の手がかりは、自分でも意味のわからない『直感』『潜在意識』という言葉だ」

「運よく偶然が助けてくれれば、それを神秘的な奇跡、『摂理』、アポロンの贈り物と思う」

「そうならなければ、開いた本の前に何時間も座り込み、精神だけでなく身体まで使って、戯曲へ無理やり入り込もうと力む」

「緊張し、力んで顔を赤くしながら、他人の、自分になじまない台詞をささやき、作品の中へ身を伸ばす」

「内側から統御されない顔のけいれんは、自然な表情のかわりに、醜いしかめ面を作る」

「何をしてもうまくいかないと、衣装を着て化粧をし、外の姿から役へ近づこうとする」

「寸法の合わない他人の皮をかぶるのは、難しい!」

「入り込める隙間は、どこにあるのか」

「結局は、有害な力みだけが残る」

「最初の朗読のあと、内側で生き始め、心を動かした、わずかな生きた瞬間さえ、無理強いによって息を止める。俳優は、魂のない人形を前にしたように役に向き合い、その中へ自分を押し込めない。『青い鳥』で砂糖の精が自分の包みへ、水の精が自分の蛇口へ、戻れないのと同じだ」

「何という、創造に有害な無理強いだろう!」

「この窮状を救おうと、演出家は出演者全員を集め、何か月もテーブルを囲んで、それぞれの役と戯曲そのものを詳しく研究する」

「また戯曲や自分の役について、思いつくことを何でも述べる」

「意見に反論が出て、論争になり、さまざまな問題の専門家を招き、報告や講義を聞く」

「そのついでに、今度の舞台装置の図面や模型、衣装のデザイン画も見せる」

「やがて各俳優が舞台に出て役を生き始めるとき、何をし、何を感じるべきかを、細部まで明らかにしていく」

「ついには俳優の頭と心に、役についての必要な情報も不要な情報も、隅々まで詰め込まれる。太らせる雄鶏の胃に、木の実をぎゅうぎゅうに詰めるように」

「頭と心に無理に詰め込まれたものを消化できず、俳優は、役の中に自分の一部を見いだせた、あのわずかな瞬間さえ失ってしまう」

「そのうえで言われるのだ。『舞台へ行って、役を演じなさい。この数か月、テーブルで学んだことを使いなさい』と」

「膨れ上がった頭と空っぽの心で舞台に出た俳優は、何も演じられない」

「余計なものを捨て、必要なものを選んで自分のものにし、新しい役の中に、たとえ部分的にでも自分を見いだすには、さらに長い月日が必要になる」

「そこで聞きたい。新しい役への第一歩から、こんな無理強いをしてよいのだろうか。役の新鮮さこそ、大切に守るべきなのに」

「創造する俳優の、まだ開いていない心へ、役についての他人の考え、見方、態度、感覚を、こうも無遠慮に押し込んでよいのだろうか」

「もちろん、このやり方でも、大切な何かが心に残り、創造に役立つことはあるだろう」

「だが、それ以上に、不要で余計な情報、思考、感覚が入り込む。それらは初めのうち、頭と心を塞ぎ、俳優をおびえさせ、自由な創造を妨げるだけだ」

「他人の、自分になじまないものを消化するのは、頭と心に親しい、自分自身のものを作るより難しい」

「何より悪いのは、こうした他人の解説がすべて、準備されず、耕されてもいない、乾いた土壌へ落ちることだ」

「作者の作品の中に自分を少しでも見いださなければ、戯曲や役、そこに込められた感情について、判断することはできない」

「もし俳優が、内面の力と外面の具現の器官をすべて整え、他人の考えや感情を受け取る準備ができていたら、もし足元に少しでも確かな地面を感じていたら、求めた助言者や求めもしない助言者が役のために差し出すものの中から、何を取り、何を捨てればよいかが、わかるはずだ」

「したがって私が反対するのは、話し合いやテーブルでの作業そのものではなく、その時期を誤ることなのだ」

「何事にも、ふさわしい時がある」

しばらく間を置いて、アルカージー・ニコラーエヴィチは続けた。

「私の新しい役への入り方は、まったく違う。こうするのだ。新しい戯曲を読むことも、それについて話し合うこともせず、俳優をいきなり最初の稽古に呼ぶ」

「どういうことですか?」生徒たちにはわからなかった。

「それだけではない。まだ書かれていない戯曲だって演じられる」

「……?!」
この言葉には、返す言葉も見つからなかった。

「信じられないかね?」

「では、試してみよう」

「私には戯曲の構想がある。筋を挿話ごとに話すから、君たちはそれを演じてごらん」

「即興で何を言い、何をするかを見て、特によいものを書き留めよう」

「そうして力を合わせれば、まだ書かれていない作品を書き上げ、同時に演じられる」

「著作権料は均等に分けよう」

生徒たちはいっそう驚き、何も理解できなかった。

〔「君たちは、私たちの言う『舞台上の内面の状態』を、自分自身の感覚としてよく知っている」

「それはあらゆる要素を一つに集め、感度を高め、創造の仕事へ向ける」

「そんな状態が心にできれば、もう戯曲と役に近づき、詳しく研究してよさそうに思える」

「だが私は、それだけでは足りない、と言いたい。作者の作品の本質を探り、知り、それについて判断するには、創造する者の内なる力すべてを刺激し、仕事へ駆り立てる、もう一つの何かが足りないのだ」

「それがなければ、戯曲と役の分析は、理屈だけのものになる」

「知性は話が通じる」

「いつでも仕事に取りかかれる」

「だが、知性だけでは不十分だ」

「感情、欲求、そして舞台上の内面の状態を成すほかのすべての要素が、直接、熱く加わることが必要だ」

「その助けで、自分の内に、役の生活の現実的な実感を作らなければならない」

「そうなれば、戯曲と役の分析は、知性からではなく、創造する人間の心身全体から行われるようになる」

「失礼ですが、どういうことでしょう?」

「役の生活を感じるには、作者の作品を知る必要があります。つまり、ですね、研究しなければなりません」

「ところが先生は、先に作品そのものを感じ取らなければ、研究してはいけないとおっしゃる」

「そうだ」とトルツォフは答えた。

「戯曲は知る必要がある。だが、冷えた心で近づくことは、決していけない」

「準備した舞台上の内面の状態へ、まず、役の生活の現実的な実感を注ぎ込まなければならない。心だけでなく、身体の実感もだ」

「酵母が発酵を起こすように、役の生活の実感は、俳優の心に内側からの熱と沸騰を起こす。それが、創造によって知っていく過程には必要なのだ」

「俳優がこの創造の状態に入って初めて、戯曲と役への接近を論じられる」

「では、その、役の生活を心と身体で現実に感じる感覚は、どこから得るのですか?」驚いた生徒たちは尋ねた。

「今日の授業は、まさにその問題のためにある」

「ナズヴァーノフ! ゴーゴリの『検察官』は覚えているかね?」アルカージー・ニコラーエヴィチは、不意に私へ話を向けた。

「覚えていますが、あまりよくは。大筋だけです」

「そのほうがよい」

「舞台へ行って、第二幕に登場するところから、フレスタコフを演じてごらん」〕

「何をすればいいのかわからないのに、どうして演じられるんですか?」私は驚いて、断ろうとした。

「すべては知らないが、いくらかは知っている」

「その、わずかに知っていることを演じればよい」

「言い換えれば、役の生活にある身体的行動のうち、どんな小さなことでもよいから、自分自身として、心から、真実にできることをしなさい」

「何もできません。何も知らないのですから!」

「何だって?」アルカージー・ニコラーエヴィチは私を問い詰めた。

「戯曲には、『フレスタコフ、入る』とある」

「ホテルの部屋への入り方を、知らないのかね?」

「知っています」

「それなら入ればよい」

「次にフレスタコフは、『またベッドでごろごろしていたな』とオシップを叱る」

「叱り方を知らないのかね?」

「知っています」

「そのあとフレスタコフは、オシップに食事の交渉へ行かせようとする」

「人に頼みにくいお願いをするとき、どう話しかけるか、知らないのかね?」

「それも知っています」

「では、最初の今、自分にできることだけを演じなさい。真実を感じ、心から信じられることだけを」

「新しい役で、最初の僕たちにできるのは、何なのでしょう?」私ははっきりさせようとした。

「多くはない」

「表面に現れる筋を、その挿話や、ごく単純な身体的行動とともに伝えることだ」

「初めのうちは、それだけなら、自分自身として、自分の責任で、心から、真実にできる」

「それ以上を与えようとすれば、力に余る課題にぶつかる。すると調子を狂わせ、偽りに支配される危険がある。その偽りが、作り芝居と、自然な資質への無理強いへと押しやるのだ」

「初めから難しすぎる課題には、警戒しなさい。新しい役の心の奥へ入る準備は、まだできていない」

「だから、指定された身体的行動の狭い領域を、厳密に守るのだ。そこに論理と順序を探しなさい。それがなければ、真実も信じることも、したがって、私たちの言う『私はいる』の状態も、見つからない」

「筋と、ごく単純な身体的行動を伝えなさい、とおっしゃいますが」と私は反論した。

「筋は、戯曲が展開すれば、おのずと伝わるのではありませんか」

「すでに作者が作っているのですから」

「そう、作者が作った。だが君はまだだ」

「作者の筋は、そのままでよい」

「だが、それに対する君自身の向き合い方が必要なのだ」

「作者の定めた行動も、そのとおりにしてよい。しかし、それを他人のもののままにせず、自分自身のものにしなければならない」

「自分のものでない行動では、心から生きられない。役に対応する、自分の行動を作らなければならない。自分の意識、欲求、感情、論理、順序、真実、信じることが示してくれる行動を」

「試してみなさい。舞台へ行き、フレスタコフの登場から始めよう」

「プーシチンがオシップを、ヴュンツォフが宿の下男を演じてくれ」

「喜んで!」

「でも台詞を知りません。何も言うことがありません」と私は頑固に言い張った。

「台詞は知らなくても、会話のおおよその意味は覚えているだろう?」

「はい、大体は」

「それなら、自分の言葉で伝えなさい」

「対話の考えの順番は、私が教えよう」

「君自身も、じきにその順序と論理に慣れるはずだ」

「でも、表すべき人物像がわかりません!」

「そのかわり、大切な法則は知っている」

「それは、『どんな役を演じるときも、俳優は常に自分自身から、自分の責任と良心にかけて行動しなければならない』という法則だ」

「役の中に自分を見つけられないか、見失えば、演じる人物を殺してしまう。その人物は、生きた感情を失うからだ」

「作り出す人物にその感情を与えられるのは、俳優自身であり、ほかには誰もいない」

「だから、どんな役も、作者から与えられた状況のもとで、自分自身として演じなさい」

「そうすれば、まず役の中の自分を、手探りで確かめられる」

「それさえできれば、役全体を自分の中で育てるのは、もう難しくない」

「生きた、本物の人間の感情が、そのためのよい土壌になる」

アルカージー・ニコラーエヴィチは、マロレトコワの部屋のセットを区切って、ホテルの一室にする方法を指示した。

プーシチンはソファに横になり、私は舞台袖へ引っ込んだ。そして、お定まりの、腹をすかせた若旦那を演じる準備をした。ゆっくり舞台へ入り、想像上のステッキとシルクハットをオシップに渡した。要するに、古典の人物を演じるときの決まりきった型を、一通り繰り返したのだ。

「君が誰なのか、わからないね」演じ終えると、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「僕は、僕自身です」

「そうは見えない」

「ふだんの君は別人だ。今、舞台にいたような人ではない」

「ふだんは、そんなふうではなく、何か別の入り方で部屋に入るだろう」

「どんなふうにでしょう?」

「何か気にかかることや目的、好奇心を内に持って入る。今、舞台にいたように、空っぽではない」

「〔生活の中では〕、交流という自然な働きの、すべての瞬間と段階を踏んでいる」

「君がしたのは、俳優が舞台に登場することだった。私がほしいのは、人間が部屋に入ることだ」

「生活の中では、行動の動機が違う」

「舞台でも、それを見つけなさい」

「何かのために入るか、逆にフレスタコフのように、何もすることがなく、何の目的もなしに入るか。そうした行動が、対応する内面の状態を呼び起こす助けになる」

「お定まりの芝居がかった登場は、逆にそれを妨げ、まったく別の、外面的で、人に見せる俳優の状態を生んでしまう」

「今の登場は芝居がかっていて、漠然としていた。行動に論理も順序もなかった」

「必要な瞬間を、いくつも飛ばしてしまった」

「たとえば生活の中では、どこへ行っても、まず状況をつかみ、そこに何が起きていて、自分はどう振る舞えばよいかを理解する必要がある」

「だが今の君は、入ってきて、ベッドもオシップも見ないうちに、もう『またベッドでごろごろしていたな』と言った。次に」

「君は、劇場の布張りの装置を扱うように、扉を閉めた」

「物の重さを思い出しもせず、表しもしなかった」

「取っ手は魔法で勝手に動いたようだった」

「こうした小さな行動にも、それぞれ注意と時間が必要なのだ」

「それがなければ、人は真実を思い出せず、感じられず、見分けられず、自分のしていることが本物だと信じられない」

「ほとんど一年も真剣に、実物を使わない行動を練習してきたのだから、こうした間違いを重ねたことを、今の君は深く恥じるべきだ」

「どこから来たのかわからなかったので、そうなったんです」と私は、きまり悪そうに弁解した。

「何ということだ! 舞台で、自分がどこからどこへ来たのか、知らずにすませられるものか!」

「それは隅々まで知っていなければならない」

「『どことも知れない空間』からの登場は、劇場では決してうまくいかない」

「では、どこから来たのでしょう?」

「それはいい! 私にわかるわけがないだろう! 君の仕事だ!」

「それにフレスタコフ自身、どこにいたか言っている」

「だが君が覚えていないのなら、そのほうがよい」

「どうして『そのほうがよい』のですか?」

「そうすれば、作者のト書きや、染みついた約束事、決まりきった型からではなく、自分自身と生活から役へ近づけるからだ」

「人物を見る君自身の目を、持てるからだ」

「本の指示だけを頼りにすれば、私の求める課題は果たせない。作者に盲目的に全面的に従い、頼りきって、台詞を形だけ繰り返し、自分になじまない人物像や行動を、ただまねてみせることになる。作者の人物に対応する、自分の人物像を創造するかわりにね」

「同じ理由で、初めのうちは俳優に戯曲も役の台本も渡さず、家でも使わないよう、強く頼んでいる。私の意図を台無しにしないためだ」

「では、戯曲の状況を自分の周囲に整えて、正直に答えなさい。君自身なら――フレスタコフという、まだ君の知らない存在ではなく――この行き詰まった状況から抜け出すために、何をするだろう?」

「そうですね!」私はため息をついた。「作者にただついていくのではなく、自分で抜け出さなければならないとなると、よほどよく考えなければなりませんね」

「今のはいい言葉だ!」とアルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「僕は今初めて、ゴーゴリが人物たちを置いた立場と状況を、自分に置き換えて感じたんです」

「観客には滑稽でも、フレスタコフとオシップを演じる当人には、逃げ場のない状況です」

「今日、初めてそれを感じました。『検察官』は何度も読み、舞台でも何度も見てきたというのに!」

「正しい入り方をしたからだ」

「ゴーゴリの与えた状況のもとで、登場人物の立場を自分に移し、感じ取ったのだ」

「それが大切なのだ! すばらしい!」

「決して無理やり役へ自分を押し込んではいけない。強制されるように、役の研究を始めてはいけない」

「演じる生活の中から、最初の自分にもできる、ごく小さなことでもよいから、自分で選び、実行しなければならない」

「今日は、そうしなさい」

「その結果、役の中にいる自分を、少し感じられるだろう」

「それを足がかりに先へ進めば、やがては自分の中に役そのものを感じるところへ近づける」

「では言ってごらん。現実の生活で、ここで、今日、今、君なら何をするか。ゴーゴリに置かれたこの状況から、どう抜け出すか」

「こんな辺鄙な場所に迷い込んだからといって、飢え死にするわけにはいかないだろう?」

私は混乱して、黙っていた。

「一日をどう過ごすか、考えてごらん」トルツォフは促した。

「遅く起きるでしょう」

「まずオシップに、主人のところへ行って、お茶を出してもらうよう頼み込ませます」

「それから、顔を洗い、服をきれいにし、着替え、身なりを整え、お茶を飲む。時間をかけて一通りします」

「そのあと……通りを散歩するでしょう」

「息苦しい部屋に、ずっと座っているわけにもいきませんから」

「歩いているうちに、都会風の僕の姿が、田舎の人たちの目を引くと思います」

「とりわけ、田舎の女性たちの目をね」とトルツォフはからかった。

「そのほうがいいです」

「誰かと知り合って、昼食に押しかけようとするでしょう」

「それから、商店街や市場へ行くでしょう」

こう言ったとたん、私はふいに、自分にはフレスタコフと似たところがあると感じた。

「商店街でも市場でも、屋台においしそうなものが並んでいたら、我慢できず、できるだけ味見すると思います」

「でも、それでは空腹は満たされず、かえって食欲をいっそう刺激されるでしょう」

「それから……郵便局へ行って、送金の便りが届いていないか聞きます」

「届いていない!」トルツォフは不吉な声で、私を追い立てた。

「もうへとへとです。胃が空っぽだから、なおさらです」

「帰って、オシップを通じて、もう一度ホテルの食事を何とかしてもらうほかありません」

「第二幕の初め、君はそういうものを抱えて舞台へ来るのだ」とアルカージー・ニコラーエヴィチは私の話を止めた。

「つまり、俳優としてではなく、人間として舞台へ入る、それだけのために、自分は誰か、何が起こったのか、ここでどんな条件で暮らし、一日をどう過ごし、どこから来たのかを、知る必要があった。そのほかにも、行動に影響する、まだ作っていない多くの状況をね」

「言い換えれば、正しく舞台に登場するだけでも、戯曲の生活と、それに対する自分の関わりを知る必要があるのだ」

一九……年……月……日

アルカージー・ニコラーエヴィチは、私とのフレスタコフの作業を続けた。

「これで、何を抱えて舞台へ出るのか、わかったね」と彼は言った。

「交流の自然な過程を正しく整えなさい。観客を面白がらせるためではなく、相手の心に向けて行動するためだ。そのうえで、身体的行動へ進むのだ」

「町を歩き回って何の成果も得られず、ホテルの自分の部屋へ戻るとはどういうことか、自分に尋ねなさい」

「次に問うのだ。フレスタコフの立場なら、ここで、今日、今、帰ってきたあと、自分は何をするだろう」

「オシップが『またベッドでごろごろしていた』とわかったら、彼にどう接するか」

「主人のところへ食事を頼みに行くよう、どうやって彼に頼み込むか」

「どう結果を待ち、そのあいだ何をするか」

「食べ物が運ばれてきたら、どう迎えるか」

「そうして、一つずつ考える」

「要するに、この幕の挿話を一つひとつ思い出し、それぞれがどんな行動から成り立っているのか、理解しなさい」

「それらすべての行動の、論理と順序をたどるのだ」

「このように戯曲全体を通れば、自然に、挿話と身体的行動によって筋を演じることになる」

「まず、一つひとつの身体的行動の性質と、その論理と順序を、明らかにするところから始めなさい」

この作業には、訓練と反復練習の授業で、数えきれないほど取り組んでいる。よく知っていることだ。

私は、かなり楽に、早くやり遂げられた。

こうして今日は、前の授業の失敗から、私自身、そして何よりイワン・プラトーノヴィチの名誉を回復できた。

今回は、補助的な、ごく小さな瞬間も一つとして飛ばさず、決められた身体的行動のそれぞれの性質を、理解していると証明できた。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、一年前、実物を使わない行動を初めて試したときのことを思い出した。忘れられないあの授業、「お金を燃やす」の練習で、初めて、本当のお金のかわりに何もないものを数えさせられたときだ。

「あのとき、同じような作業にどれだけ時間をかけたことか」と彼は言った。「それが今日は、似た課題を、何と早くこなしただろう」

少し休んでから、彼は続けた。

「今、論理と順序を理解し、身体的行動の真実を感じ、舞台で行われることを信じられた。同じ行動の流れを、戯曲が与え、君の想像力が考え、補うさまざまな状況のもとで繰り返すことは、もう難しくない」

「では、今、今日、ここ、この想定したホテルの部屋で、もし町を歩き回って何も得られず戻ってきたら、君は何をするだろう?」

「始めなさい。ただし演じるのではなく、何をするか、正直に考えて、言えばよい」

「そうすれば、内側から行動への衝動が生まれる」

「どうして演じてはいけないのですか? そのほうが楽なのですが」

「もちろんだ」

「型に頼って作り芝居をするほうが、正しく行動するより、いつでも楽だからね」

「型のことを言っているのではありません」

「だが、今の君が言えるのは、まだ型のことだけだ」

「型はいつでも用意されている。だが、内側から生まれる、本物の、実りある、目的にかなった行動は、まず育てなければならない。それを得ようと努めるのだ」

プーシチンはソファに横になった。

ヴュンツォフは、宿の下男として登場する準備を始めた。

そのあいだ、アルカージー・ニコラーエヴィチは私を舞台に立たせ、声に出して自分と話させた。

「役の状況を、過去と現在を思い出そう」と私は自分に言った。

「未来については、役ではなく、演じ手の自分に属する」

「フレスタコフは自分の未来を知ることができないが、私は知っていなければならない」

「役の最初の場面から、その未来を準備するのが、俳優としての自分の仕事だ」

「このひどいホテルの部屋で、状況が行き詰まっていればいるほど、市長の家への引っ越し、恋の駆け引き、求婚は、思いがけず、異常で、信じがたいものになる」

「この幕全体を、挿話ごとに思い出そう」

私は場面を一つずつ挙げ、自分の考えた状況で、手早く根拠を与えていった。

その作業を終えると、集中して、舞台袖へ引っ込んだ。

袖へ入って、自分に尋ねた。
「もし自分の部屋へ戻る途中、後ろから宿の主人の声が聞こえたら、どうするだろう?」

この『もしも』を定めたとたん、何かに背中を突き押されたようになった。

私は飛び出した。どうしたのか自分でも覚えていないが、気づくと舞台の、想像上のホテルの部屋にいた。

「独創的だね!」アルカージー・ニコラーエヴィチは大笑いした……。

「何か新しい状況のもとで、同じ行動を繰り返しなさい」とトルツォフは言った。

私はゆっくり袖へ戻り、少し間を置いて準備してから、扉を開けた。部屋へ入るか、下の食堂へ行くか迷って、立ち止まった。

しかし結局入り、部屋の中にも、扉の隙間から見える舞台裏にも、目をやって何かを探した。

考え、状況に自分を合わせてから、私はまた舞台を出た。

しばらくして再び入った。今度は気まぐれで、不満げで、甘やかされた様子で、長いこと落ち着きなく辺りを見回し、考え、何かに自分を合わせようとした。

さらにさまざまな登場を何度も試し、とうとう〔私は〕自分に言った。

「これで、自分がフレスタコフの立場なら、どんな入り方をし、何を抱えて入るか、わかった気がする」

「今していたことは、何と呼べるかね?」〔トルツォフは私に〕尋ねた。

「フレスタコフの状況のもとにいる、自分自身、〔ナズヴァーノフ〕を分析し、研究していました」

「これで、自分自身として役に近づき判断するのと、他人の立場からするのとの違いが、わかっただろう。自分の目で役を見るのと、作者、演出家、批評家の目で見るのとの違いが」

「自分自身からなら、役を体験する。他人の立場からなら、役をまねてみせ、似せようとすることになる」

「自分自身からなら、知性、感情、欲求、心のあらゆる要素で役を知る。他人の立場からでは、たいてい知性だけになってしまう」

「私たちは、理屈だけで役を分析し、理解し、創造することを求めてはいない」

「心と身体、自分の存在全体で、演じる人物を捉えなければならない」

「私が認める入り方は、それだけだ」

「そのために君たちを準備しているのだ。役の仕事を始められる、唯一の正しく充実した状態を、作ることによってね」

一九……年……月……日

「どうしたものだろう?」今日、教室へ入ってきたアルカージー・ニコラーエヴィチは、ひとりごとのように考えた。

「口で説明するだけでは、退屈で、乾いていて、実際の仕事には説得力が足りない」

「いちばんよいのは、私の説明しなければならないことを、君たち自身にやってもらい、身をもって感じてもらうことだ」

「だが残念ながら、君たちはまだ、私の求めることをしてもらえるほど、実物を使わない行動を身につけていない」

「私自身が舞台へ行って、見せるしかない。単純な課題と行動から、どう人間の身体の生活を作り、身体の生活から、人間としての内面の生活を作るのか。その二つを通じて、戯曲と役の生活の現実的な実感が、どう内側に生まれるのか。そしてその実感が、君たちの呼び起こせるようになった、舞台上の内面の状態へ、どう自然に流れ込むのかを」

アルカージー・ニコラーエヴィチは舞台へ行き、袖に入った……。

長い間があった。その間、プーシチンの低い声が響いていた。

田舎とペテルブルクのどちらで暮らすほうがよいか、小声で考えている。

突然、アルカージー・ニコラーエヴィチが舞台へ駆け込んできた。

あまりに不意で、風変わりなフレスタコフの登場に、私はびくりとした。

トルツォフは後ろ手に扉を閉め、隙間から長いこと廊下をうかがっていた。

どうやら想像の中で、宿の主人から逃げてきたらしい。

この新しい工夫に感激したとは言えないが、その登場の行動は、並外れて心からのものだった。

アルカージー・ニコラーエヴィチ自身も、自分のしたことを考え込んだ。

「作りすぎた!」と自分で認めた。

「もっと単純にしなければ」

「それに、これはフレスタコフとして正しいのか?」

「彼はあの時代のペテルブルク人なのだから、田舎では、自分を誰より上だと思っているはずだ」

「何が私を、あんな登場へ駆り立てたのだろう?」

「どんな記憶だ?」

「よくわからない」

「この、ほら吹きと臆病な少年の混ざり合ったところに、フレスタコフの内面的な個性があるのだろうか?」

「自分の感じているこの感覚は、どこから来たのか?」

少し考えてから、アルカージー・ニコラーエヴィチは私たちに向かって尋ねた。

「私は今、何をしていたかね?」

「偶然に感じたこと、偶然にできたことを、分析していたのだ」

「役の状況のもとで、自分の身体的行動を分析していた。ただし冷たい知性だけによってではない」

「あらゆる要素が助けてくれた」

「心と身体で分析していたのだ」

「私が認める分析は、これだけだ」

「そのために、二回の授業を使って説明している。舞台上の内面の状態へ注ぎ込むべき、戯曲の生活の現実的な実感とは、何なのかを」

「作業を続けよう。分析と記憶の教えてくれたものを、発展させるのだ」

「論理からすれば、フレスタコフがほら吹きで臆病者なら、内心では宿の主人に会うのを恐れながら、外では強がり、落ち着いていようとするはずだ」

「背中に敵の視線を感じ、ぞくぞくしていても、むしろ平然としていることを、わざと見せつけさえするだろう」

アルカージー・ニコラーエヴィチは再び袖へ戻り、準備してから、考えたことを見事に実行した。

どうやって、あんなことができるのだろう。

身体的行動の真実を感じ、本物だと信じるだけで、ほかのすべて、つまり感情までが、すぐに生まれるのだろうか。

もしそうなら、この方法は奇跡的と言うべきだ。

アルカージー・ニコラーエヴィチは長いこと立って考え、それから言った。

「見てわかっただろう。私は知的な分析だけをしたのではない。役の生活条件の中で、自分を研究したのだ。人間の内面的な要素がすべて直接加わり、身体的行動への自然な衝動を通して、研究していた」

「型にはまるのを恐れて、行動を最後まで実行はしなかった」

「だが肝心なのは、行動そのものではなく、それへの衝動が自然に生まれることなのだ」

「私は人間としての生活経験から、正しい身体的な課題と行動を探す」

「その真実を信じるには、役の状況の中で、内面的な根拠と理由を与える必要がある」

「そうした内面の理由を見つけ、感じ取れば、私の心は、ある程度、役の心となじみ合う」

アルカージー・ニコラーエヴィチは、ほかのすべての区切りでも、まったく同じ作業をした。食事の交渉に行くようオシップに頼み込むところ、彼が出ていったあとの独白、宿の下男との場面、そして食事の場面で。

それを終えると、彼は自分の内へ意識を向け、したことを心の中でたどり直してから、言った。

「役の生活条件と状況のもとで、身体的行動への衝動が、うっすらと一つの流れを作り始めているのを感じる……」

「今演じた場面の身体的行動を探り当てたから、紙に書き留めなければならない。悲劇的な無行動の間に取り組んだときと、まったく同じように」

「覚えているだろう。あのときは、すべてを身体の働きにまで落とし込んだ」

「フレスタコフの場面でも、同じことをしよう」

アルカージー・ニコラーエヴィチが、自分の中で衝動を感じた行動を、一つ残らず思い出し、私がそれを書き留めた。

ゴヴォルコフは、ここでも書き留められた行動の一つに、難癖をつける機会を見つけた。

「失礼ですが、それはですね、純粋に心理的な行動であって、身体的な行動ではないでしょう!」

「言葉に難癖をつけないことは、もう約束したはずだよ」

「それに、どんな心理的行動にも身体的なものが多く含まれ、身体的行動にも心理的なものが含まれる、と確かめたはずだ」

「今、私は外面的な行動を通って役を進めている。だから、それだけに関心を向けている」

「そこから何が生まれるかは、じきにわかる」

「さて……」トルツォフは、中断した記録へ戻った。

作業が終わると、アルカージー・ニコラーエヴィチは説明した。

「戯曲の本からでも、同じように身体的課題を抜き書きすることはできた」

「二つの一覧を比べれば、一致するところもあるだろう。役と演じ手が自然に一つになったところだ。一方、食い違うところもある。間違いのあったところや、創造する人の個性が強く現れたところだ。その個性は、役に合う場合もあれば、役から外れる場合もある」

「一致したところを強め、食い違ったところを近づけていくのが、俳優自身と演出家の、その後の仕事だ」

「それについては〔あとで〕詳しく話す」

「今、私に重要なのは、一致した瞬間だけだ。最初に俳優と人物を結びつけてくれるからだ」

「生き始めた部分が、戯曲の中へ引き入れてくれる。そうなると、その生活の中でよそ者ではなくなり、役のところどころを、自分の心に近いものと感じられる」

「一覧を見直しながら」とアルカージー・ニコラーエヴィチは説明した。「課題を、いわば共通の分母にそろえ、自分に尋ねる。『これらの行動をすべて、何のためにしたのか?』と」

「したことをすべて分析し、まとめると、基本の課題と行動は、『食べる、空腹を満たす』ことだった、という結論になる」

「そのためにここへ来た。そのためにオシップにおべっかを使い、宿の下男の機嫌を取り、そのあと彼と言い争った」

「これからは、この一連の場面の行動をすべて、『食べる』という基本の課題一つに捧げよう」

〔「では、この記録に沿って、定めた行動をすべて繰り返そう」とトルツォフは決めた。

「型を身につけないように、私は一つの正しい課題と行動から、別の課題と行動へ、自分を導くだけにする。身体では実行しない。今の私には、まだ本物の、実りある、目的にかなった行動が生まれていないからだ」

「今は、行動への内なる衝動を起こすだけにとどめ、繰り返すことで、それを強めていく」

「本物の、実りある、目的にかなった行動そのものは」と彼は繰り返した。「おのずと生まれてくるだろう」

「自然のすばらしい働きが、それを引き受けてくれる」〕

そのあと彼は、身体的行動を何度も繰り返した。正確には、行動に必要な内側の衝動を、何度も自分の内に起こした。

なるべく体を動かさず、目と表情と指先だけで、内に感じることを伝えていた。

彼はまた、内側の衝動が確かになれば、行動は自然に現れ、抑えておけなくなる、と言った。

「自分が、殻の中で育ちきったひよこになったと感じる瞬間が来る」

「殻が窮屈になり、自由に動くため、殻を割らずにはいられなくなるのだ」

アルカージー・ニコラーエヴィチは再び集中し、状況の助けを借りて、記録した順番どおり、一つずつ身体的行動への衝動を起こし始めた。

私は一覧を追い、抜けたところを知らせた。

「感じるよ」と彼は、作業を続けながら言った。「ばらばらだった一つひとつの行動が、大きなまとまりになり、そのまとまりから、論理的で順序のある、途切れない行動の流れができてくる」

「それらは前へ向かう。向かう力が動きを生み、動きが本物の内面の生活を生む」

「この感覚の中に、私は真実を見いだす。真実は信じることを生む」

「場面を繰り返すほど、この流れは強まり、勢いも、生活も、その真実も、信じることも強まる」

「覚えておきなさい。この、途切れない身体的行動の流れを、私たちの言葉では、『人間の身体の生活の流れ』と呼ぶ」

「これは些細なことではない。最も大切な半分ではないにせよ、役の生活全体の、半分を丸ごと占めている」

「考えてもごらん。役の、人間の身体の生活だ!」

「これは大きなことだ!」

かなり長く考える間を置いてから、アルカージー・ニコラーエヴィチは続けた。

「役の、人間の身体の生活ができたら、もっと大切なもの、役の、人間としての内面の生活を考えなければならない」

「ところが、それはすでに、私の意志や意識とは関わりなく、自然に私の内で生き始めているのだ」

「その証拠に、君たちも言ったように、今の身体的行動は、乾いて、形ばかりで、死んだ、俳優じみたものではなかった。内側から命と理由を与えられていた」

「どうしてそうなったのか?」

「まったく自然なことだ。身体と心の結びつきは、切り離せない」

「一方の生活が、もう一方の生活を生む。逆も同じだ」

「ただ機械的なのではなく、内側から命を与えられた身体的行動には、どれにも内面的な行動、体験が秘められている」

「こうして、役の生活に、内面と外面という二つの面ができる」

「二つは互いにつながっている」

「共通の目的が二つを近づけ、切り離せない結びつきを強める」

「たとえば『狂人』の即興練習では、自分を救おうとする内側の全体的な志向と、身を守る外側の実際の行動とは、切り離せず、並行して進む」

「だが、二つの面が別の結びつき方をしていると、想像してみよう」

「一方では、すべてが自分を救う方向へ向かっているのに、同時にもう一方では、危険を増す方向へ、つまり暴れる狂人を妨げず部屋へ入れる方向へ向かっている」

「互いを打ち消すような内面の志向と外面の行動を、結びつけられるだろうか?」

「それは不可能だ、心と身体のつながりは切り離せない、と証明する必要があるだろうか?」

「自分で確かめてみよう。『検察官』の場面を、機械的にでも、形だけでもなく、役の、人間の身体の生活の流れに沿って、十分な理由を伴わせて繰り返すのだ」

アルカージー・ニコラーエヴィチは演じながら、自分の感覚を説明し始めた。

「演じながら自分の内に耳を澄ますと、途切れない身体的行動の流れと並んで、もう一つの流れ、心の生活の流れが、内側で生き始め、伸びていくのを感じる」

「それは身体的な流れから生まれ、それと調和している」

「ただ、今のところ、その感覚はおぼろげで、強く心を引くものではない」

「まだ、はっきりつかんだり、興味を持ったりするのは難しい」

「だが、かまわない」

「役の、人間としての内面の生活が芽生えかけている、その気配を内に感じられるだけでもよい」と彼は結論した。

「フレスタコフを演じ、人間の身体の生活を繰り返し体験するほど、役の、人間としての内面の生活も、私の中ではっきりし、定着していくだろう」

「身体と心、二つの生活の融合を感じることが多いほど、その状態の心理と身体の真実を信じ、役の二つの面を、いっそう強く感じられるだろう」

「人間の身体の生活は、役の、人間としての内面の生活を育てる種にとって、よい土壌なのだ」

「だから、そうした種をもっとたくさん蒔きなさい」

「どうやって蒔くのですか?」私にはわからなかった。

「魔法の『もしも』、与えられた状況、想像による設定を作るのだ」

「それらはすぐに生き始め、身体の生活と一つになり、身体的行動に理由を与え、呼び起こす」

「生きた行動の論理と順序は、舞台でしていることの真実を、確かなものにする」

「それらはまた、舞台上の出来事を信じる助けにもなる」

「そして信じることが、今度は体験そのものを呼び起こす」

アルカージー・ニコラーエヴィチは、一覧に定めた身体的行動を、何度も繰り返した。

行動の順序、正しい並びをもう覚えていたので、私が直したり、教えたりする必要はなかった。

二度か三度繰り返すと、こんなことまで言った。

「している行動の論理と順序、その背後の真実が、よく感じられるようになってきた」

「それがどんなに心地よく、大切なことか、君たちにもわかってほしい!」

トルツォフは、役の、人間の身体の生活の流れを確かにする、同じ作業を続けていた。そしてどうやら、本物の、実りある、目的にかなった行動が、身体的にも心理的にも、意図せず内側に生まれ、表情、目、体、声の抑揚、指先の表現豊かな動きを通して外へ現れていることに、自分では気づいていなかった。

繰り返すたびに、真実、したがって自分の行動への信頼が、いっそう確かになっていた。

そのため、行動と演技はますます説得力を増した。

驚いたのは、彼の目だった。

同じ目なのに、同じではない。

どこか愚かで、気まぐれで、無邪気で、必要以上にぱちぱちする。近視のように、自分の鼻先を少し越えたところまでしか見ない目だ。

何より不思議なのは、自分のしていることに、本人が気づいていないことだった。

表情によって、心の中で起こっていることを、見事にわかりやすく伝えていた。

身ぶりはしなかった。

ただ指だけが、意図せず、とても表情豊かに動いていた。

言葉も話さなかったが、ときどきおかしな声の抑揚が漏れ、それもまた、とても表現豊かだった。

いわゆる身体的行動の流れ、正確には行動への内なる衝動を繰り返すほど、意図しない動きが、ますます頻繁に現れた。

歩き、座り、ネクタイを直し、靴や自分の手をうっとり眺め、爪をきれいにするようになっていた。

そのことに気づくと、すぐに、その自然に出た行動を小さくするか、すっかりやめてしまった。明らかに、型にはまるのを恐れていた。

十回目には、その演技は完成し、十分に体験され、動きが少ないために、とても節度あるものに見えた。

本物の、実りある、目的にかなった行動を伴う生活が生まれていた。

この結果に感激し、私はこらえきれず、拍手した。

生徒たちも拍手に加わった。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、本当に驚いた。

演技をやめ、立ち止まって尋ねた。「どうしたのかね? 何があったんだ?」

「先生はフレスタコフを演じたことも、稽古したこともないのに、舞台へ出て、演じ、役を体験なさったんです」と私は説明した。

「それは違う」

「私はフレスタコフを体験したのでも、演じたのでもない。これからも演じられない。私の資質に合う役ではないからだ」

「だが、役の、作者の、そして自分の考えた状況のもとで、行動への内なる衝動と、本物の、実りある、目的にかなった行動そのものを、正しく実現することはできる」

「そのわずかなことだけでも、君たちは舞台に本物の生活を感じられるのだ」

「そのためには、身体的行動、そしてそれに続く心理的行動の、論理、順序、本物らしさに真実を感じ、信じられれば十分だった」

「単純な身体的行動から役へ近づく私の方法に、どれほどの力があるか、自分で判断してごらん。実物を使わない行動の技術を磨き、自在な名人芸の域まで高めなさいと、私が言い続けるのには、理由があるのだ」

「そうなれば君たちも、私と同じことができる。役を受け取ったら、次の稽古には、身体的行動の流れに沿って、演出家の前で演じられる」

「劇団全体にその準備ができていれば、二度目か三度目の稽古から、役の本当の分析と研究に取りかかれるだろう」

「それは、言葉と動きの一つひとつを理屈で噛み砕き、役を揉みくちゃにし、擦り切れさせ、殺してしまう作業ではない。心だけでなく身体でも感じる、戯曲の生活の現実的な実感を、ますます豊かにする分析なのだ」

「どうすれば、そうなれるのですか?」興味を引かれた生徒たちは尋ねた。

「実物を使わない行動を、絶えず、系統的に、そして必ず正しく練習することだ」

「たとえば私は、もう長いこと舞台に立っている。それでも今日を含めて毎日、十、二十分は、この練習をする。多種多様な状況のもとで、いつも自分自身として、自分の責任と良心にかけて行う」

「それをしていなかったら、今日、フレスタコフの場面の身体的行動を一つひとつ、その性質や構成する部分まで理解するのに、どれだけ時間がかかっただろう!」

「この仕事を絶えず練習していれば、ほぼあらゆる人間の行動について、その構成部分、順序、論理を知るようになる」

「これは歌手の発声練習や、踊り手の基礎練習のように、毎日、絶えず続けるべき仕事だ」

「身体的行動を系統的に練習しているおかげで、私はどんな役でも、この流れに沿ってなら、稽古なしで演じられる」

「今日の実演から、これが俳優にとって非常に大切だと、わかってほしい」

「この練習に特別な注意を向けてほしいと言い続けるのには、理由があるのだ」

「私が長い仕事の中で育てたのと同じ技術、あらゆる領域での揺るがない注意、論理と順序、真実の感覚と信じる力を身につければ、君たちも同じことをするようになる」

「そうすれば君たちの内にも、意識を超えて、内面の創造の生活がおのずと現れる。心と身体で、潜在意識、直感、人生経験、舞台上で人間らしい性質を発揮する習慣が働き始め、君たちに代わって創造し始めるだろう」

「そのとき舞台の演技は、いつも新鮮で、更新されるものになる。型は最小限に、誠実さ、真実、信じること、人間の感情、欲求、生きた思考は最大限になる」

「この作業をすべて、俳優じみた、形だけの職人仕事としてではなく、人間として、本物の行為として舞台上で行い、考えと行動を論理的に、順序立てて進め、役の生活のあらゆる状況を考慮すれば、どう振る舞うべきか、きっとわかる。私は少しも疑わない」

「自分の決めたことを戯曲で行われることと比べれば、多くの点で、あるいはわずかな点だけでも、役と親しく重なるものを感じるだろう」

「そうした個々の瞬間や、場面全体で、戯曲の空気の中、役の中に自分を感じ、人物の体験の何かが、自分に近いものとなる」

「その状況、その人物の見方や社会的立場なら、自分も彼と同じように行動するはずだ、とわかるだろう」

「このように役へ近づくことを、私たちは『役の中に自分を感じ、自分の中に役を感じる』と呼んでいる」

「同じように、戯曲全体、そのすべての状況、場面、区切り、最初の自分にも取り組める課題を、調べなさい」

「自分の中に対応する行動を見つけ、劇の初めから終わりまで、役の論理的な順序に従って行うことに慣れたとしよう」

「そうすると、外面的な行動の生活、役の、人間の身体の生活ができる」

「さて、その行動は誰のものだろう? 君のものか、役のものか?」

「僕のです!」

「身体は君のもの、動きもそうだ。だが課題、その内面の意図、論理と順序、状況は、借りてきたものだ」

「では、どこまでが君で、どこからが役なのかね?」

「さっぱりわかりません!」ヴュンツォフは混乱した。

「ただ、見つけた行動は、単なる外面的なものではないことを忘れないでほしい。君の感情が内側から理由を与え、信じる力が支え、『私はいる』の状態が命を与えている。そして身体的行動の流れと並行して、君の内側には、感情の瞬間が同じように途切れなくつながる流れが、自然にでき、すでに伸びている。それはたびたび潜在意識の領域へ入り込む」

「これこそ、本物の体験の流れだ」

「この流れと、役を生きる俳優の行動の流れは、完全に対応している」

「心から、直接に、役と同じように行動しながら、まったく別のことを感じるわけにはいかない。君たちも知っているはずだ」

「では、その感情は誰のものだろう? 君のものか、役のものか?」

ヴュンツォフは、もうお手上げだとばかりに、手を振った。

「ほら、頭がぐるぐるしてきたね」

「それでよい。役の中のものと君の心の中のものが、それほど混ざり合った証拠だからだ。どこからが俳優で、どこまでが演じる人物なのか、簡単にはわからなくなったのだ」

「この状態では、役にいっそう近づき、自分の中に役を、役の中に自分を感じるだろう」

「役全体をこうして作業すれば、その生活を捉えられるようになる。形だけ、理屈だけではなく、身体的にも心理的にも現実のものとして。一方なしには他方も生きられないからだ」

「まだ表面的で、深くも豊かでもない生活かもしれない。それでも、生きた血と肉があり、人間として役を生きる俳優の、震える生きた心も、少しはある」

「演じる人物とこのような関係にあれば、その生活を、第三者としてではなく、自分自身のこととして語れる」

「これは、その後の詳しく系統的な戯曲の作業にとって、非常に大きく、大切なことだ」

「そうなれば、新しく得るものはすべて、すぐにふさわしい場所、棚、掛ける場所を持てる。字面ばかり追う俳優のように、頭の中に置き場もなく無意味に転がったり、脳の倉庫へ運び込まれ、いっぱいに詰め込まれたりはしない」

「要するに、新しい役を、抽象的な他人としてではなく、具体的に、自分自身、自分の生活として受け止められるところまで、自分を導かなければならない」

「役の中の自分、自分の中の役という実感が、すでに作った、潜在意識の領域に接する正しい舞台上の状態へ、自然に流れ込んだら、ためらわずに戯曲の研究と超課題の探索に取りかかりなさい」

「心理技法を自在に扱えるようになれば、私たちの稽古は、とても楽に、計画的に、速く進むだろう」

「内面、外面、全体の状態についての問題は、解決しているはずだ」

「君たちは、いつでもそれらを自分のものとして使えるようになる」

「戯曲の作業に入る前に、戯曲の現実の、身体的な生活の感覚を、君たちに注ぎ込む必要がある」

「そのために私は戯曲を朗読せず、筋と行動、そしてそれらが行われる状況を、正確に話して聞かせる」

「そして指定した日までに、自分の言葉を使い、状況を補いながら、戯曲の身体的行動をすべて行うよう課題を出す。言い換えれば、役の、人間の身体の生活の流れを、下書きとして通すのだ」

「君たちは家で作業して見せてくれる。私が直す。そうして進める」

「そうして人間の身体の生活の流れができ、それと並行して、人間としての内面の生活の流れもできる」

「そのあとなら、舞台上の状態の準備ができたと言える。これは、小さな創造の状態だ」

「私の目的は、君たちに、自分自身から一人の生きた人間を、新たに作り出してもらうことだ」

「その心の材料は、外からではなく、自分自身から取らなければならない。現実に経験した自分の感情やほかの記憶、自分の欲求、内面の『要素』の中で、演じる人物の感情、欲求、『要素』に対応するものから取るのだ」

「ここでも私たちは、自然そのものに助けを求める。潜在意識、直感、習慣、経験、身についた技能、無意識に働く仕組み――要するに、意識しなくても身体的行動を起こしてくれる、すべてのものに」

「その本能的な、身体的な、あるいはほかの行動への衝動を、どう内側に起こすか?」

「『悲劇的な無行動』の間に取り組んだとき、もう学んだはずだ。『生活の中で、戯曲と同じような状況に置かれたら、自分は何をするだろう……?』と尋ねるのだ。この作業では、内側の衝動、身についた習慣、外と内の結びつき、人間の必要、人生経験に身を委ねる。要するに、自分の自然な資質を信頼するのだ」

「感情の論理と順序、信じずにはいられない生きた真実を、それは誰よりもよく知っている」

「あとは、それに従えばよい」

「もちろんわかるだろう。この方法で肝心なのは、身体的行動そのもの〔というより〕、それを起こす内面のものなのだ」

「こうして、本能的に、自然に、論理と順序のある身体的行動の流れができる」

「それを調べれば、ある行動のまとまりは一つの内面的な志向、欲求、課題から生まれ、別のまとまりは、また別の内面的な理由に動かされていることがわかる」

「外面的な行動を起こす、その内側の衝動をすべて順に並べれば、論理と順序のある感覚、志向、欲求、衝動などの、内面の流れができる」

「場面、幕、戯曲、そして役の内面の生活を作るとき、私たちはその流れを頼りにする」

「感情の論理と順序を作る科学的な道筋は、まだ確立されていない。私たちは今のところ、それに代わる、こうした『自家製の方法』を使っているのだ」

「感情の論理と順序という、複雑で、私たちの力に余る問題を、実際にはこうして解いている……」

「現実の生活で、演じる人物の立場、条件、状況に置かれたら、自分は一人の人間として何をするか。それを明らかにし、とりわけ、感じ取ることが必要だ」

「その作業では、自分の人間としての感情と、個人的な人生経験が案内役になる」

「それらが、人間としての感覚によって、気づかぬうちに正しい身体的行動を教えてくれる」

「もし演じる人物の立場になったら、自分自身がするであろう身体的行動の一覧を書きなさい」

「その外面的な行動が、自分自身の人間としての感情を教えてくれる」

「役そのものについても、作者の台詞から同じ作業をしなさい。つまり、演じる人物が戯曲の中でする行動を、一覧にするのだ」

「それから二つを比べる。あるいは、写し紙を別の絵に重ねて一致を探すように、一方をもう一方に重ねるのだ」

「作者の作品が優れ、本物の人間の資質、感情、体験から生まれ、君の行動の一覧も、自分の自然な人間性と生きた感覚から生まれたものなら、多くのところ、とりわけ主要な、根本的な節目で、一致が見つかるだろう」

「それが、人間として役に近づく瞬間、感情の通じ合う瞬間だ」

「たとえ一部分でも、役の中に自分を見つけ、自分の中に役を見つける。それは大きな成果ではないか!」

「融合の始まり、体験の始まりなのだから」

「まだ自分を感じられない役のほかの瞬間にも、必ず、生きた人間が現れるだろう。優れた役は私たち自身と同じく人間的であり、人間は人間を感じ取れるからだ」

一九……年……月……日

アルカージー・ニコラーエヴィチはまた、役の、人間の身体の生活を通じて、人間としての内面の生活を作る心理技法について話した。

いつものように、目に浮かぶ例を使って考えを説明した。

「旅をしたことはあるかね?」

「あるなら、旅のあいだに、旅する人の心と、その周囲で起こる変化を、よく知っているはずだ」

「走り抜ける土地によって、列車そのものさえ、内も外も変わっていくのに気づいただろうか」

「出発のとき、車両は凍てつく寒さの中で新品のように見え、光っている」

「屋根は、清潔なテーブルクロスのような白い雪に覆われている」

「だが中は、冬の光のせいで薄暗い。凍った窓からは、光がやっと差し込むだけだからだ」

「別れや見送りが、心に響く」

「悲しい考えが頭へ入り込む」

「あとに残した人々を思う」

「揺れと車輪の音が、眠りを誘う」

「夕闇が迫る」

「眠くなってくる」

「一昼夜が過ぎる」

「南へ進んでいる」

「外は何もかも変わる」

「もう雪は解けた」

「窓の外の景色も違う」

「雨が降りしきる」

「だが車内は息苦しい。まだ冬のように暖房をたいているからだ」

「乗客の顔ぶれも変わった。言葉の響きも、話題も、服装も違う」

「変わらないのは、線路だけだ」

「同じ線路が果てしなく続き、電信柱、里程標、信号機が、同じように次々と現れる」

「さらに一昼夜たつと、また新しい変化が起こる」

「車両は砂地を走る」

「屋根も壁も窓も、こびりついた白っぽい砂ぼこりに覆われている。周囲は、春のように暖かな太陽に照らされ、すべてが輝いている」

「芽が緑を帯び、草原の匂いがして、心が弾む」

「遠い地平には、丘や山の輪郭が見える」

「小川は春の奔流となり、激しく流れている」

「雷雨が通り過ぎた」

「ほこりが鎮まった」

「自然は洗い清められた!」

「すばらしい空気、よい香り」

「この先には、夏、暖かさ、海、休暇が待っている」

「それでも線路は、同じように続いている」

「それでよい」

「肝心なのは線路だろうか?」

「線路が必要なのは、それに沿って前へ進めるからだ」

「旅人が興味を持つのは、線路ではなく、その周囲や車内にあるものだ」

「鉄道を進めば、次々に新しい土地へ入り、新しい印象を得る」

「それを体験する。印象は人を有頂天にしたり、悲しくさせたり、心を揺さぶり、刻々と旅人の気分を変え、その人自身を変えていく」

「舞台でも、同じことが起こる」

「舞台では、何が線路の代わりになるのか?」

「何で作ればよいのか?」

「どうすれば、それに沿って戯曲全体を進めるのか?」

「一見すると、本物の生きた感情を使うのが、いちばんよさそうだ」

「感情に導いてもらおう、と」

「だが、心の材料は安定しない」

「うまく固定できない」

「それでは丈夫な『線路』は作れない」

「もっと『物質的』な材料が必要だ」

「最も適しているのが、身体的な課題である」

「それは身体が実行する。身体は、感情よりはるかに安定している」

「線路ができたら、乗り込んで、新しい土地、つまり戯曲の生活を探りに行けばよい」

「じっとしたまま頭で考えるのではなく、動いていくのだ」

「行動するのだ」

「そうしてこそ、戯曲の生活を正しく判断し、深く理解できる」

「すべては、それぞれ掛けるべき場所に掛かり、収まるべき棚に収まる」

「線路のように途切れず続き、明確で確かな課題が、ボルトや枕木のようにつなぎ留める身体的行動の流れ。それは旅人に鉄道が必要なのと同じように、私たちに必要なのだ」

「旅人が線路に沿ってさまざまな土地を通るように、俳優は身体的行動に沿って、戯曲全体を、その状況、『もしも』、想像によるほかの設定を通って進む」

「その際、旅人のように、私たちは道中でさまざまな外的条件に出会い、そこからさまざまな気分が生まれる」

「戯曲の生活の中で、舞台上で、俳優は新しい人々、登場人物である相手役たちに出会う」

「彼らと共通の生活を送り、それにふさわしい体験が生まれる」

「だが、その体験を固定しておくことはできない!」

「だから創造の初期には、戯曲の複雑に曲がりくねる道で迷わないよう、確かで明瞭な身体的行動の流れを守らなければならない」

「その流れは、それ自体が目的なのではない。戯曲の生活の中を、線路のように確実に進める、安定した道として必要なのだ」

「旅人が関心を持つのは、走る線路そのものではなく、その通る国や土地だ。同じように、創造へ向かう俳優が関心を持つのも、身体的行動そのものではなく、役の外面的な生活に理由を与える内面の条件や状況である」

「私たちに必要なのは、人物の生活に命を与える美しい想像、つまり、創造する人間である俳優の心に生まれる感覚だ。戯曲全体を進むうちに、目の前に現れる、役の魅力的な課題だ」

「だが、多くの誤った道の中から、この唯一の正しい道を、どう見つけるか?」

「俳優の前には、大きな鉄道の分岐駅のように、さまざまな道が広がっている。体験、再現、職人的な作り芝居、俳優の小細工、内容の報告、自分を見せびらかすことなどの道だ」

「正しい道を行けば目的に着く。誤った道を行けば、芸術のかわりに、作り芝居と大げさな身ぶりの泥沼へ落ちる」

「分岐駅で違う車両に乗り込み、モスクワへ行くつもりがツァリョヴォコクシャイスクへ着くようなものだ」

「分岐駅の線路を見分けるのは容易ではない。だが、自分の内に、役ごとに、本物の創造と芸術へ導く正しい道を探り当てるのは、さらに難しい」

「それらも分岐駅の線路のように、並び、分かれ、合流し、交差し、横切っている」

「気づかぬうちに、正しい道から誤った道へ入ってしまう」

「そうならないために、明確な身体的課題の道を進みなさい」

「そして、二つ以上の道が合わさるところには、経験豊かで、注意深く、よく訓練された『転轍手』を置くのを忘れないでほしい」

「私たちの仕事では、この大切な役は、真実の感覚に任せるべきだ」

「常に俳優の仕事を、正しい道へ導いてもらうのだ……」

「……舞台で悲劇を体験する瞬間には、悲劇や感情についてはできるだけ考えず、状況によって理由を与えられた、最も単純な身体的行動を、何よりも考えることだ」

アルカージー・ニコラーエヴィチは黙った。

間があった。

突然、静けさの中から、ゴヴォルコフのぼやく声が聞こえた。

「おめでたいことです。とうとう、芸術の交通機関の話にまでなりましたよ」ほとんど聞こえない声で、ぶつぶつ言っていた。

「何と言ったのかね?」トルツォフは尋ねた。

「つまりですね、本物の俳優は、地上を車両で走るのではなく、いいですか、飛行機で雲の上を舞うのです」ゴヴォルコフは熱と大仰さを込めて、ほとんど朗誦するように言った。

「その例えは気に入ったよ」アルカージー・ニコラーエヴィチは、かすかに微笑んだ。

「次の授業で、詳しく話そう!」

一九……年……月……日

「さて、悲劇俳優に必要なのは、地上を走る車両ではなく、雲の上を舞う飛行機なのだったね!」今日、教室へ入ると、アルカージー・ニコラーエヴィチはゴヴォルコフに話しかけた。

「そうです、飛行機ですとも!」私たちの『悲劇俳優』は言い切った。

「ただ残念ながら、空へ上がる前には、しばらく飛行場の固い地面を走らなければならない」とアルカージー・ニコラーエヴィチは指摘した。

「だから、空を舞うにも、地面なしではすまないのだよ」

「操縦士に地面が必要なのは、俳優がいつしか崇高な領域へ移るとき、身体的行動の流れが必要なのと同じだ」

「それとも君は、地上の助走なしで、垂直に雲の下へ飛び上がれるだろうか?」

「機械の技術は、もうそこまで来たという。だが、私たち俳優の技術には、潜在意識の領域へ直接入る手段は、まだない」

「霊感の旋風が吹きつければ、『創造の飛行機』を、地上の助走なしに、垂直に雲の下へ運んでくれるかもしれない」

「ただ、そうした飛翔は私たちの思いどおりにはならず、それを規則の土台にもできないのが難点だ」

「私たちにできるのは、地面を整え、線路を敷くことだけだ。つまり、真実と信じる力でつなぎ留められた身体的行動を作ることだ」

「ご覧のとおり、私たちの分野でも、高く舞い上がるには『地面』が欠かせない」

「飛行機の飛翔は機体が地面を離れる瞬間に始まる。私たちの場合、崇高なものは、現実的なもの、さらには徹底して自然なものの、その先で始まる」

「今、何とおっしゃいましたか?」書き留めようと、私は聞き返した。

「言いたいのは」とアルカージー・ニコラーエヴィチは説明した。「『徹底して自然』という言葉で指しているのは、心と身体の自然な働きが、まったく自然で正常だと私たちに思え、心から、全身で信じられる状態だ、ということだ」

「その状態で初めて、心の最も深い奥底が大きく開く。そこから、ほとんど捉えられない気配や影、香りが外へ出てくる。本物の、生きた創造の感情の気配だ。それはおびえやすく、このうえなく繊細なものなのだ」

「では、その感情が生まれるのは、身体と心の自然な働きが正常で正しいと、俳優が心から信じているときだけなのですか?」私は確かめた。

「そうだ!」

「心の深い奥底が大きく開くのは、俳優の内面と外面の体験が、それぞれに定まった法則に従って進み、無理強いがまったくなく、正常からの逸脱もなく、型も、約束事も、そうしたものがないときだけなのだ」

「要するに、何もかもが真実で、どこまでも、徹底のさらに徹底というほど自然なときにだ」

「だが、自然な資質の正常な生活を、ごくわずかでも乱せば、それだけで、潜在意識の体験の、捉えがたい繊細さがすべて死んでしまう」

「だから、心の技術をよく磨いた経験豊かな俳優は、舞台上で感情が少し狂ったり偽ったりすることだけでなく、身体的行動の外面的な偽りも恐れる」

「感情をおびえさせないよう、内面的な体験を考えず、自分の人間の身体の生活へ注意を移す」

「それを通して、意識的なものも潜在意識のものも、人間としての内面の生活がおのずと、自然に作られる」

「ここまでの話で明らかだろう」とトルツォフはまとめた。「身体的行動の真実と、それを信じることが必要なのは、写実主義や自然主義のためではない。役の心の体験を、自分の内に自然に、反射的に呼び起こすためだ。感情をおびえさせず、無理強いせず、その初々しさ、直接性、清らかさを守り、演じる人物の、生きた人間の心の本質を、舞台で伝えるためなのだ」

「だから、高く飛ぶときにも地面を忘れず、潜在意識の領域へ飛ぶときにも身体的行動を忘れないよう勧めるのだよ」アルカージー・ニコラーエヴィチはゴヴォルコフとの議論を、こう結んだ。

「だが、高く飛ぶだけでは足りない。そこでも方向を見定められなければならない」とトルツォフは続けた。

「潜在意識の領域には、高い空と同じように、道も線路も転轍手もない」

「そこでは道に迷い、進路を誤りやすい」

「この未知の領域で、どう方向を見定めるか?」

「意識が届かないところで、感覚をどう導くか?」

「航空では、手の届かない領域へ電波を送り、それを使って、上空を飛ぶ無人の飛行機を地上から操作する」

「私たちの芸術でも、それに似たことをする」

「感情が意識の届かない領域へ飛び込んだら、刺激となるもの、鳥寄せ笛を使って、間接的に働きかけるのだ」

「それらには、いわば『電波』が秘められている。直感に働きかけ、感情の応答を呼び起こすものだ」

「それについては、時期が来たら話そう」

授業の終わりは記録しない。イワン・プラトーノヴィチがいないので、ゴヴォルコフが調子に乗りすぎ、無用の議論で台無しにしたからだ。

一九……年……月……日

今日の授業は、アルカージー・ニコラーエヴィチの、フレスタコフの役での試みを検討することに充てられた。

トルツォフは説明した。

「人間の身体の生活の流れの意味を理解しない人は、ごく単純で現実的な身体的行動の連なりが、役の、人間としての崇高な内面の生活を生み、作るきっかけになると聞くと、笑う」

「この方法が自然主義的に見えることが、気になるのだ」

「だが、その言葉を『自然』から来たものと考えれば、何も不名誉なところはない」

「それに、すでに話したように、肝心なのは小さな現実の行動そのものではない。身体的行動の刺激によって現れる、創造する心身のさまざまな性質なのだ」

「役の、人間の身体の生活の流れを作る、この方法の意味をいっそう大きくする性質を、今日は挙げておきたい」

「そのために、前の授業で私がフレスタコフの役を使って行った試みを取り上げる」

「まず、この、役の身体の生活を作る方法の土台となる、私たちの心身の性質から始めよう」

「それらはすでに知っていることだから、今は思い出してもらうだけだ」

「私たちは身体的行動を対象、材料として、その上に、内面の感情、欲求、論理、順序、真実の感覚、信じること、ほかの『状態の要素』、そして『私はいる』を現す」

「それらはすべて身体的行動の上で育ち、その行動から、人間の身体の生活の流れができる」

「……君たちも見ただろう。私もナズヴァーノフも、単純な身体的行動に、想像によるさまざまな設定、状況、『もしも』などで前もって理由を与えなければ、俳優としてではなく、人間として舞台へ出ることはできなかった」

「ほかの単純な身体的行動や、それ以外の行動にも、想像だけでなく、場面を区切りと課題に分けることが必要だった。行動と感覚の論理と順序、その中の真実の探索、信じること、『私はいる』などが必要だったことも、見たはずだ」

「だが、それを自分の中から得るために、私たちは机に座って本に顔を埋めたり、鉛筆を持って戯曲の文章を区切ったりはしなかった。舞台にとどまり、行動し、自分たちの人間としての自然な生活そのものの中で、行動を助けるものを実際に探した」

「言い換えれば、冷たく理屈や理論だけで行動を分析したのではない。実践、生活、人間の経験、習慣、芸術家としての感覚やほかの感覚、直感、潜在意識などから、近づいたのだ」

「身体的な行動やほかの行動を果たすのに必要なものを、自分で探した。自然な資質そのものが助けに来て、導いてくれた」

「この過程をよく考えれば、それが、役の生活条件の中にいる一人の人間としての自分自身を、内と外の両面から分析することだった、とわかるだろう」

「この過程は、創造のごく初期に俳優が普通に行う、冷たい、理屈だけの役の研究とは違う」

「私の言う過程では、自然な資質に備わる知的、感情的、精神的、身体的な力が、すべて同時に働く。理論的な探索ではなく、舞台上で身体的行動によって達する、現実の目的を果たすための、実際の探索なのだ」

「目前の身体的行動に取り組む私たちは、自分の内で自然に、ひそかに行われる複雑な分析の過程を、考えもしなければ、知りもしない」

「つまり、この方法の新たな秘密、新たな性質は、ごく単純な身体的行動を舞台上で現実に具現すると、俳優が自分自身の衝動から、さまざまな想像の設定、状況、『もしも』を作るようになることだ」

「一つの、ごく単純な身体的行動にも、これほど大きな想像の仕事が必要なら、役の、人間の身体の生活の流れを丸ごと作るには、自分自身と戯曲全体についての、長く途切れない設定と状況の連なりが必要になる」

「それを理解し、得られるのは、創造する自然な資質の、心の力をすべて使って、詳しく分析するときだけだ」

「私の方法は、その分析を、自然に、おのずと呼び起こす」

「この、自然で意図せぬ自己分析という、新しいありがたい性質を、挙げておきたいのだ」

アルカージー・ニコラーエヴィチは、フレスタコフの役での試みの検討を終えられず、次の授業で続けると約束した。

一九……年……月……日

教室へ入ると、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「役の、人間の身体の生活を作る私の方法の検討を続けよう」

「さて、『フレスタコフの立場になったら、自分は何をするか?』という単純な問いに答えるため、私は、演じる人物の生活に関わるすべての『もしも』、状況、その他の想像の設定を、内側の目で見て、理解し、感じなければならなかった」

「そのためには、感情、意識、欲求、想像力、真実の感覚、信じることなど、ほとんどすべての要素の助けが必要だった」

「さらに、芸術家としての感覚、直感、人間の経験、生活の習慣、潜在意識など、要するに、俳優の心と身体の自然な資質全体が必要だった」

「それが、戯曲全体を一度にとはいかなくても、その全体の調子、その空気を、理解するだけでなく、感じる助けとなる」

「では、どんな道筋で、創造する自然な資質を仕事へ引き入れるのか……?」

「そのためには、それと、その創造の潜在意識に、完全な活動の自由を与える必要があることを、君たちは知っている」

「この点でも、私の方法は役立つ」

「身体的行動に夢中になると、自然な資質の、内にある潜在意識の力の生活から、注意がそれる」

「そうして、その力に活動の自由を与え、創造の仕事へ誘い込めるのだ」

「言い換えれば、『人間の身体の生活』を作ることへ、注意をすべて向けなさい」

「それによって自然な資質は完全な自由を得る。そして君たちの意識しないところで、身体的行動を起こし、命と理由を与えて、助けてくれる」

「自然とその潜在意識の働きは、あまりに繊細で深いため、創造する本人も気づかない」

「フレスタコフを試したとき、私も、『人間の身体の生活』を作る身体的行動に没頭し、自分の内で起こっていることを意識していなかった」

「無邪気にも、自分が身体的行動を作り、操っていると思っていた」

「だが実際には、その行動は、意識しないところで、自然の潜在意識の力が内側で営んでいた生活、創造の仕事の、外面的で反射的な表れにすぎなかったのだ」

「この隠れた仕事を、意識的に果たすのは、人間の力には及ばない。だから私たちの手に余る部分を、自然そのものが代わって仕上げてくれる」

「では、自然を仕事へ引き入れる助けになるのは何か?」

「『人間の身体の生活』を作る、私の方法だ」

「それは、計り知れないほど繊細な、自然の創造の力を、正常で自然な道筋によって仕事へ引き入れる」

「私の方法の、この新たな性質を挙げておきたい」

私を含め、生徒たちはトルツォフの説明を理解した。だが、どうすれば身体的行動、役の身体の生活を作ることへ、すっかり没頭できるのかは、わからなかった。

そのための、もっと具体的な技術上の方法を教えてほしいと頼んだ。

それに対して、アルカージー・ニコラーエヴィチはこう答えた。

「創造の瞬間に舞台に立ち、身体的行動をし、戯曲の中の相手に働きかけを合わせるときは、自分の伝えたいことを、より鮮明に、より正しく、目に浮かぶように表すことだけを考えなさい」

「相手に、自分とまったく同じように考え、感じてもらうことを、しっかり目標にするのだ。話しているものを、君の目で見て、君の耳で聞いてもらうのだ」

「その課題に成功するかどうかは、別の問題だ」

「大切なのは、自分が心からそう望み、それを目指し、実現できると信じることだ」

「そうすれば注意はすべて、目指す身体的行動へ向かう」

「そのあいだ、干渉から自由になった自然が、意識的な俳優の心理技法には手の届かないことを果たしてくれる」

「身体的行動を、しっかりつかんでいなさい」

「それは天才的な芸術家、創造する自然に自由を与え、感情を無理強いから守ってくれる」

「私の方法の新たな性質は、創造する人間である俳優の心から、役に対応する、その人自身の、生きた内面の材料を取り出す助けになることだ」

「人物の生きた心を作るのに適した材料は、それしかない」

「この過程は、自然な資質によって、まったく正常に、自然に、そして大部分は潜在意識のうちに行われる」

「この方法のもう一つのありがたい性質は、『人間の身体の生活』を通じて役の『人間としての内面の生活』を呼び起こすことで、演じる人物の感覚に対応する感覚を、俳優に体験させることだ」

「それによって、創造する者は、自分の感覚を通じて役の心理を知る」

「私たちの言葉で『知る』が『感じる』を意味するのには、理由があるのだ」

「この成果は、知性の冷たい分析ではなく、内面にある自然の創造の力すべての働きによって得られる」

「これも私の方法の好ましい特徴なので、挙げておく」

「次に、私の方法の土台となるのは、役への最初の接近で、身体的な課題が手の届くものだ、ということだ」

「その課題は、俳優の創造の能力を無理に働かせたり、越えたりしてはならない。逆に、人間の自然な法則に従って、容易に、自然に果たせるものでなければならない」

「だから私は、フレスタコフの役へ最初に近づくとき、すぐに新しい人物像を作ろうと、自分に無理強いしなかった。それは不可能だからだ」

「ただ、誠実に、一人の人間として、問いに答えたかっただけだ。演じる人物、つまりフレスタコフと似た立場に置かれたら、自分自身は何をするか、と」

「すぐには感じ取れない役には、内から外へではなく、外から内へ近づくことができる」

「初めのうちは、その道のほうが手の届きやすいものだ」

「その道で扱うのは、目に見え、触れられる身体である。捉えにくく、不安定で、気まぐれな感情や、舞台上の内面の状態を成すほかの要素ではない」

「身体と心の生活の切り離せない結びつき、その相互作用を土台にして、『人間の身体』の流れを作る。それを通じて、役の『人間の内面』の流れを、自然に呼び起こすためだ」

「考えてもごらん。単純で手の届く、役の身体の生活を、論理的に、順序立てて作っていく。その結果、ふと自分の内に、役の心の生活を感じるのだ」

「作者が現実の生活や、ほかの人々の自然な資質から取り出して役を作ったのと同じ、人間の材料を、自分の中に見つけるのだ!」

「まるで手品ではないか!」

「この成果は、とりわけ大切だ。私たちの創造が求めるのは、約束事としての俳優の材料ではなく、生きた人間の材料だからだ」

「役のためのその材料は、創造する俳優自身の心の中にしか見つからない」

「気づいただろうか。舞台でフレスタコフの行動への内なる衝動を探っているとき、私には、内面にも外面にも、誰からの無理強いもなかった。誰も指図しなかった」

「それどころか私自身、この古典的な役の伝統的な演技から、前に身についてしまった型を取り除こうとしていた」

「さらに言えば」

「一時的には作者の影響からさえ自分を守り、わざと戯曲の本を開かなかった」

「すべては、自由で独立しているためだった。自分の創造する自然な資質、その潜在意識、直感、人生経験などの教える、自分自身の道を通って役へ向かうためだ」

「誰も助けてはくれなかった。だが、どうしても必要なら、私のほうから喜んで人の助けを求めただろう。作者も演出家も稽古にいたなら、彼らにもね」

「自分で立てた問いを解き、自分で定めた行動を果たすのに、実際に役立つ助言や情報なら、すべて感謝して受け取り、その場で使っただろう」

「だが、その助言が自分の心になじまないものなら、自分の自然な資質を無理に曲げないよう、退けただろう」

「初めのうちは、どれほど面白くても、戯曲全般についての議論さえ避ける」

「俳優はまず、最も基本的で、誰にでもできる正しい身体的行動に、足場を固める必要がある」

「私はそこから、より正確には、それへの内なる衝動から始める」

「やがて役が深まれば、私のほうから、戯曲についての多種多様な情報を、たくさん、それこそ非常にたくさん、求めるようになるだろう」

「だが、役へ近づく初めのうち、まだしっかり立てる足場ができていないときには、混乱を招き、早すぎる段階で仕事を複雑にする余計なものを、私は恐れる」

「この大切さを理解してほしい。初めのうちから、俳優自身が、自分の欲求、必要、衝動に従って、人の助けや指示を求める。無理に与えられるのではない、ということだ」

「前者なら自主性を保てるが、後者では失ってしまう」

「他人から受け取り、自分の心で体験していない、心の創造の材料は、冷たく、理屈にとどまり、自然な一体性を持たない」

「それに対して、自分自身の材料は、すぐに適切な場所へ収まり、使い始められる」

「自分の自然な資質、自分の人生経験から取り出したもの、心が応えたものは、人間である俳優にとって、よそよそしいものにはなりえない」

「自分のものは近しく、なじんでいる。新たに育てる必要がない」

「すでにそこにあり、おのずとよみがえり、身体的行動の中に現れたがる」

「こうした『自分の』感情は、必ず役の感情に対応していなければならない、とは繰り返さない」

「人間の感覚の組み合わせは、音楽の七つの音の組み合わせと同じく、尽きることがない、という説明も繰り返さない」

「生きた人間の材料が足りなくなる心配は、要らない」

「私の勧めることを、よりよく評価するため、新しい役へのこの入り方と、世界中の劇場の多くの俳優がしていることを、比べてごらん」

「そこでは演出家が書斎で新作を研究し、完成した計画を持って最初の稽古に来る」

「もっとも、その多くは何も研究せず、経験を頼りにしている」

「こうした『経験豊かな』演出家が、慣れと身についた習慣だけから、いきなり、一息に、形だけで役の流れを決めてしまうことを、私たちはよく知っている」

「別の、もっと真剣で文学寄りの演出家は、静かな書斎で長く細かな作業をしたあと、理屈から導いた役の流れを、決まりとして押し出す」

「それは正しい。だが心を引かない。だから創造する者には必要ない」

「さらに、並外れた才能を持ち、役をどう演じるか、俳優に実演してみせる演出家もいる」

「実演が天才的であるほど、見る者の印象は強く、演出家への隷属も深まる」

「天才的な役の解釈を知れば、創造する者は、まさにその見せられたとおりに演じたくなる」

「その印象からはいつまでも離れられず、不器用に手本をまねるほかなくなる。だが、その手本を再現することは、決してできない」

「それは生まれ持った力を越える課題なのだ」

「そんな実演のあとでは、俳優は自由と、役への自分の意見を失う」

「天才的な演出家には、自分より才能の小さい人を誘惑しないでほしい。俳優のところまで下り、相手に合わせてほしい」

「挙げたすべての場合に、演出家から俳優への無理強いは避けられない。俳優は意に反して、自分の心や能力になじまない指示を使わざるをえないからだ」

「確かに、才能ある俳優は、ときにはこうした障害も乗り越える。だが、それを論じてはいない。例外は規則にはならないからだ」

「だから、創造する一人ひとりは、自分にできるものだけを差し出し、創造の力を越えるものを追いかけないことだ」

「優れた手本の惨めな複製より、平凡な人物像でも、よくできた独自のもののほうがよい」

「演出家には、俳優へ何も押しつけず、手に余るもので誘惑しないよう勧めたい。むしろ興味を起こさせ、単純な身体的行動を果たすのに必要なものを、俳優自身から演出家に、尋ね求めさせるのだ」

「俳優の中に、役への食欲を起こせなければならない」

「こうした危険をすべて避けるため、私は俳優に、役の、人間の身体の生活という救いの流れを、粘り強く守るよう勧める」

「この安定した流れは、調子を狂わせないよう守り、必ず役の、人間としての内面の生活へ導いてくれる」

「さて、一方には多くの劇場で行われていること、もう一方には、俳優の創造の自由を守る私の方法の特徴と秘密を説明した」

「比べて、選びなさい」

* * *

「この方法について、調べてきたことをまとめよう」

「成果を見るべきところは、役の、人間の身体と心の生活の流れを作ったあと、創造する本人に生まれる状態だ」

「君たちの多くは、偶然に、あるいは心理技法の助けで、舞台上の正しい内面の状態を、何度か作れたことがあるはずだ」

「だが前にも言ったように、それだけでは、すべての『要素』に命を与え、理屈だけでなく自分の存在全体で、戯曲と役の研究や分析へ近づくには、足りない」

「その状態へ、戯曲の状況のもとにある、役の生活の現実的な実感を注ぎ込む必要がある」

「それが、創造する俳優の心に、驚くべき変容、変貌を起こす」

「実践で知ることになるだろう。今は、この状態について、例を通じて、ほのめかすことしかできない」

「聞いてごらん」

「若いころ、私は古代の生活に夢中だった。本を読み、詳しい人と話し、本や版画、絵、写真、絵はがきを集めた。その時代を、理解するだけでなく、感じてもいるつもりだった」

「ところが……ポンペイへ行き、古代の人が歩いたのと同じ地面を、自分の足で踏んだ。自分の目で町の細い通りを見、残った家々に入り、英雄たちも休んだ大理石の板に座った。かつて彼らも触れた物に、自分の手で触れた。一週間ずっと、心と身体で、過去の生活を感じたのだ」

「すると、本などから得たばらばらの知識が、すべて適切な場所に収まり、一つの共通の生活の中で、新たに生き始めた」

「そこで初めて、実物と絵はがきのあいだに、生活を感情で感じることと、本から理屈で理解することのあいだに、頭の中の像と身体の実感のあいだに、研究する時代への冷たく死んだ接近と、生きて温かな接近のあいだに、どれほど大きな違いがあるか、わかった」

「私たちの分野でも、役へ最初に近づくとき、ほとんど同じことが起こる」

「表面だけを知っても、感情の面で得られるものは乏しい。本だけで、現地を知らずに時代を研究する以上の成果はない」

「作者の作品との最初の出会いのあと、印象は、一つひとつの斑点や瞬間として、私たちの内に生きる。しばしばとても鮮明で、消しがたく、その後の創造全体の調子を決める」

「だが、共通の内面的なつながりがなく、筋という外側の流れだけで結ばれた、ばらばらの瞬間では、まだ戯曲全体の実感は得られない」

「その生活全体を、心だけでなく身体でも感じるまでは、作品を知ることはできない」

「だが、頭の中に思い描くだけでなく、役に対応する行動を、役と同じような状況のもとで、自分の行動として身体で実行すれば、初めて、人物の本物の生活を、理屈だけでなく、人間としての心身全体の生きた感覚で、理解し、感じられるようになる」

「さらに、役全体を通して身体の生活の流れを引き、それによって心の生活の流れを自分の内に感じれば、ばらばらだった感覚はすべて適切な場所に収まり、新しい現実の意味を持つ」

「この状態は、創造する者の確かな足場だ」

「そこでは、演出家やほかの人から外的に得る情報は、満杯の倉庫の余剰在庫のように、頭や心の中に転がらない。すぐに定まった場所へ収まるか、逆に退けられ、外へ捨てられる」

「この仕事は、理屈だけで行われるのではない。戯曲の生活の現実的な実感を加えた、舞台上の状態のすべての要素、すべての創造の力によって行われる」

「私は君たちに、心だけでなく身体も含めて、役の生活の現実的な実感を、自分の内に作る方法を教えた」

「今ではわかるように、それは最も単純で、手の届く手段で実現できる」

「得られた実感は、前に作った舞台上の内面の状態へ、おのずと流れ込み、一つになる。その二つが合わさって、いわゆる『小さな創造の状態』、『仕事のための状態』を形作るのだ」

「この状態で初めて、冷たい心で、理屈だけで役を分析し研究するのでなく、舞台上の内面の状態を成すすべての要素と、心と身体の創造の器官に備わるすべての力の、積極的な助けを得て取り組める」

「最初の一歩で、新しい作品を、知性よりも感情で探ることを、私は重視している。人間である俳優の潜在意識と直感が、まだ新鮮で自由なうちに」

「俳優の生きた心の一片一片、人間としての欲求、考え、志向から、役の心が組み上がる」

「このように創造すれば、俳優が作る舞台の人物は、どれも舞台上で生き、それぞれ固有の、独特な色合いを持つ」

「この役の解釈ができるのは、その役を自分で作る演じ手だけだ」

「私もフレスタコフを実演したとき、時折、心の中で自分自身がフレスタコフだと感じた」

「それと交互に、ふと自分の中に役の心の一片を見つける、別の感覚も現れた」

「屋台から食べ物を何か盗みかねない自分を、不意に感じたときが、そうだった」

「それは役と部分的に一つになった瞬間だった」

「つまり、私の中にもフレスタコフの本能が隠れている」

「その一つを自分の中に見つけ、役のために使えたのだ」

「さらに役を探るにつれ、人物と同じ外面と内面の生活条件のもとで、新しい接点を見つけた」

「近づく瞬間はますます増え、ついには、人間の心と身体の生活の、途切れない流れになった」

「創造のごく初めの時期を経た今なら、こう言える。もし私がフレスタコフの条件と状況に置かれたら、現実の生活でも、自分の作った役の身体の生活と、まったく同じように振る舞うだろう」

〔「『私はいる』に非常に近い、この状態なら、何も怖くない」

「安定した確かな足場に立っていれば、混乱したり足元を失ったりする危険なしに、身体と心の自然な資質を、容易に扱える」

「もし調子を狂わせても、簡単に『私はいる』へ戻り、再び正しい状態へ自分を導ける」

「確かな足場に立ち、『私はいる』を感じながらなら、習慣と訓練の助けで、舞台上でどんな外面的な個性にも入っていける」

「与えられた状況と感情の論理を助けとして、得られた内面の材料を組み合わせれば、どんな内面的な個性でも作れる」

「内面と外面の個性が、どちらも真実に基づいていれば、必ず一つに溶け合い、おのずと生きた人物像を作るだろう」

「さまざまな有機物が蒸留器の中で結びつき、新しい第三の物質、やはり有機的な由来を持つ物質を生むように」

「他人の意見で混乱したり、自分の独立した見方を狂わされたりはしない」〕

* * *

「『人間の身体の生活』を作る私の方法について、さまざまな性質と可能性を明かした。この方法は、自然に戯曲を分析する。身体的行動を教えてくれる、内側の大切な創造の力を持った自然な資質を、おのずと創造へ誘い込む。創造のための生きた人間の材料を、内側から自然に呼び起こす。そして最初の段階から、戯曲全体の空気や調子を感じ取る助けになる」

「こうした新しい、とても大切な創造の可能性が、この方法の実践的な価値を、さらに高めているのだ」

* * *

今日、俳優用の談話室で、アルカージー・ニコラーエヴィチの新しい方法、身体的行動を通じて役へ近づく方法について、俳優たちとの面白い会話があった。

劇団の全員が、この新しい試みを受け入れているわけではないとわかった。芸術上のほかの多くの新しい試みと、同じだ。

古いものに固くしがみつき、新しいものを寄せつけない守旧派が、たくさんいる。

「皆さんはすでに俳優としてできあがっているので、終わりから始まりへさかのぼって話すほうが、わかりやすい」とアルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「作り上げ、完成した役を創造するときの俳優の感覚を、皆さんはよく知っている」

「生徒たちは、その感覚を知らない」

「自分の内へ入り、よく考え、よく感じ、何度も演じて自分の中にしっかり落ち着いた役を、一つ思い出して、答えてほしい。よく知った役を演じるため、楽屋から舞台へ向かうとき、何に心を向け、何を準備し、先に何が見えているか。どんな課題や行動が、皆さんを引きつけるか」

「単なる職人の『手品』や『小細工』で楽譜を作る俳優のことを言っているのではない」

「真剣な芸術家、創造者のことを話している」

「舞台へ向かうとき、私は最初の、すぐ次にある課題を考えます」と一人の俳優が言った。

「それを果たすと、自然に二つ目が生まれる。二つ目を演じたら、三つ目、四つ目を考える。そうして続けます」

「私は貫く行動から始める」

「果てしない街道のように目の前に広がり、そのいちばん先で、超課題の丸屋根が輝いているのです」と、別の年配の俳優が言った。

「では、その終点をどう目指し、近づいていくのですか?」トルツォフは尋ねた。

「論理に従って、一つずつ課題を果たしていきます」

「行動し、その行動が、最後の目的へ、ますます近づけてくれるのですね?」アルカージー・ニコラーエヴィチは確かめた。

「もちろんです。どの楽譜でも、そうでしょう」

「十分に体験した役では、その行動は、どのように思えますか? 難しく、複雑で、捉えがたいものですか?」トルツォフは答えを導いた。

「かつてはそうでした。ですが最後には、十ほどの、非常に明確で、現実的で、理解しやすく、手の届く行動にたどり着きました。あなたが戯曲や役の骨組み、あるいは航路と呼ぶものです」

「それは、繊細な心理的行動ですか?」

「もちろん、そうです」

「ただ、何度も体験し、役全体の生活と切り離せなくなると、心理には、かなり肉体が伴うようになります。その身体を通って、感情の内なる本質へ届くのです」

「それはどうしてでしょう?」トルツォフは問い重ねた。

「私には、自然なことに思えます」

「身体のほうが感じ取りやすく、手が届きやすい」

「何かを論理的に、順序に沿ってしさえすれば、感情は行動のあとから、自然についてくるのです」

「そこです」とトルツォフは、その言葉を捉えた。「皆さんが最後にたどり着くもの、つまり単純な身体的行動から、私たちは始めるのです」

「外面的な行動、身体の生活のほうが手に取りやすいと、今、ご自分でおっしゃった」

「それなら、役の創造も、その手の届きやすいものから、つまり身体的行動から、その途切れない流れ全体から、『人間の身体の生活』全体から、始めるほうがよくありませんか?」

「完成した、よくできた役では、感情が行動についてくるとおっしゃる」

「しかし初めの、まだできていない役でも、感情は、論理的な行動の流れについてくるのです」

「ならば、最初の一歩から、すぐに誘い出しなさい」

「なぜ、感情を苦しめ、揉みくちゃにするのですか?」

「なぜ何か月もテーブルに座り、自分の中に眠る感情を絞り出そうとするのですか?」

「なぜ行動を抜きにして、生き始めるよう求めるのですか?」

「それより舞台へ行って、すぐ行動しなさい。つまり、今の自分にできることをするのです」

「そうすれば、身体との切り離せない結びつきによって、今の感情にできることも、行動に続き、おのずと自然に、内側へ現れます」

それからアルカージー・ニコラーエヴィチは、自分の方法の理論を説明し始めた。今では私たちによく知られた理論であり、行動の論理と順序、実物を使わない行動の技術を身につけたあとには、実にはっきりと、よくわかるものだった。

生徒の私には、不思議だった。こんなに単純で、正常で、自然な、アルカージー・ニコラーエヴィチの説く真理が、なぜ年配の俳優たちには理解しづらく、身につきにくいのだろう。

「私たち生徒が、もう丸三年も学んでいるこの真理が、どうして今になってやっと、劇団や大俳優たちに届いたのだろう?」私はそう考えた。

「仕事の速さ、演出と初日の締め切り、演目、稽古、上演、控え役、代役、演奏会、片手間の仕事が、俳優の生活をすっかり覆うんだ。煙幕のようになって、芸術で何が起きているか、見えなくなる。君たちは幸運だ。その芸術の中に、今、学校でどっぷり浸かっていられるんだから!」劇場の演目に引っ張りだこの、若い悲観論者が私に言った。

その彼を、私たち生徒は羨んでいるのだ!

『役づくり』補足
〔『検察官』〕
〔役づくりの作業計画〕

1.戯曲の筋を語る。大まかに、詳しすぎないように。

2.身体的行動によって、外側に現れる筋を演じる。

〔たとえば〕部屋へ入る。

どこから、どこへ、何のために来たかを知らなければ、入れない。

だから生徒は、〔自分の行動に〕理由を与える、筋の外面的で大まかな事実を尋ねる。

大まかな身体的行動に、与えられた状況によって理由を与える。まずは最も外面的で、大まかな状況を。

行動は戯曲から選び、足りないものは作品の精神に沿って考える。もし、今、今日、ここで、〔役と同じような状況にいた〕なら、自分は何をするだろう。

3.過去と未来についての即興練習。現在は舞台上そのものにある。どこから来たか、どこへ去るか、登場と登場のあいだに何があったか。

4.身体的行動と戯曲の筋を、さらに詳しく語る。

より繊細で、詳しく、深い状況と『もしも』を。

5.大体の、大まかな、下書きの超課題を、仮に定める。
(レニングラードではなく、トヴェリ、あるいは途中の小さな停車場でもよい。)

6.得られた材料に基づいて、大体の、大まかな、下書きの貫く行動を通す。

絶えず問いかける。もし……なら、自分は何をするだろう。

7.そのために、最も大きな身体的な区切りに分ける。
(どの大きな身体的行動がなければ、この戯曲は成り立たないか。)

8.「もし……なら、自分は何をするだろう」という問いをもとに、この大まかな身体的行動を、実行する、演じる。

9.大きな区切りを捉えきれなければ、一時的に中くらいの区切りへ、必要なら小さな、さらにごく小さな区切りへ分ける。

身体的行動の性質を研究する。

大きな区切りと、それを成す部分の論理と順序を厳密に守り、実物を使わない、大きなひとまとまりの行動へと結びつける。

10.自然な身体的行動の、論理的で順序のある流れを作る。

その流れを書き留め、実践で確かなものにする。何度もその流れを通り、演じ、しっかり定着させる。余計なものはすべて取り除く。九五%は捨てる! 真実と信じることへ到達させる。

身体的行動の論理と順序が、真実と信じることへ導く。

それらを確かにするのは、論理と順序によってだ。真実それ自体を目的にしてはならない。

11.論理、順序、真実、信じることは、「ここで、今日、今」という状態に包まれると、さらに根拠を得て、確かなものになる。

12.それらが合わさり、「私はいる」という状態を作る。

13.「私はいる」があるところには、生きた自然な資質と、その潜在意識がある。

14.ここまでは、自分の言葉で演じてきた。
初めて作者の台詞を読む。

生徒や俳優は、作者の台詞の中から、自分に必要で、心を打った単語や言い回しに飛びつく。

それを書き留め、役の台詞として使っている、偶然その場で生まれた自分の言葉の中へ加える。

しばらくして二度目、三度目と読み、そのつど新しく書き留めたものを、自分の、その場で自然に生まれた役の言葉に加えていく。

こうして役は、初めは点々としたオアシスのように、やがて長いまとまりごと、作者の言葉で満たされる。

空白は残るが、それもじきに、文体、言葉遣い、言い回しの感覚に導かれ、戯曲の台詞で埋まる。

15.台詞を覚え、定着させる。ただし、大声では口にしない。機械的なしゃべり方や、言葉の小細工の流れを作らないためだ。

舞台上の配置と動きも、まだ固定しない。〔覚え込んだ〕配置と動きの流れが、機械的に言葉をしゃべる流れと結びつくのを防ぐためだ。

論理的で順序のある行動、真実、信じること、「私はいる」、自然な資質、潜在意識の流れを、長く演じ、しっかり確かなものにする。

それらの行動すべてに理由を与えるうちに、より繊細な新しい状況と、より深く、広く、全体をまとめる貫く行動が、おのずと生まれる。

その作業をしながら、戯曲の内容を、さらに詳しく語り続ける。

いつの間にか、いっそう繊細な心理的状況、貫く行動、超課題によって、身体的行動の流れに理由を与えていく。

16.定めた流れに沿って、戯曲を演じ続ける。

言葉は頭の中で考え、演じるときは、「タタタ」で置き換える。

訳注

「タタタ」で台詞を置き換え、言葉に頼らず思考や意図を伝える稽古。原文は「タタティロヴァニエ」。

17.身体的な流れや、ほかの流れに理由を与える過程で、正しい内面の流れが姿を現している。

それをさらに強く定着させ、台詞がその流れに従い、勝手に、機械的にしゃべられないようにする。

戯曲を「タタタ」で演じ続けながら、同時に、内なる意味の流れを確かにする作業を続ける。

自分の言葉で語る。
1)思考の流れについて。
2)内面の映像の流れについて。
3)交流と内面的行動の流れを作るため、この二つの流れを、劇中の相手役に説明する。

これらが、役の内なる意味の基本の流れである。

できるだけしっかり定着させ、絶えず保つこと。

18.テーブルでその流れが確かになったら、手を尻の下に敷いて座り、作者の言葉で戯曲を読む。作り上げたすべての流れ、行動、細部、楽譜全体を、できるかぎり正確に相手役へ伝える。

19.同じことをテーブルで行う。ただし手と身体を自由にし、多少の移動や、その場で生まれる配置と動きを加える。

20.同じことを舞台で、その場で生まれる配置と動きによって行う。

21.舞台装置の配置を考え、定める。四方の壁を備えた空間として。

(一人ひとりに、どこで、どんな環境で、そこにいて演じたいかを尋ねる。

それぞれ、自分の配置案を出す。

俳優たちの出した案すべてから、舞台装置の配置を作る。)

22.舞台上の配置と動きを考え、大まかに定める。

〔決めた配置どおりに舞台を整え、俳優をそこへ連れてくる。

愛を告白するなら、相手を説得するなら、心を打ち明けて話すなら、どこでするか、と尋ねる。

気恥ずかしさを隠すには、どこへ移れば具合がよいか。

移動しながら、戯曲に必要な身体的行動をすべて行ってもらう。書棚から本を探す、窓を開ける、暖炉に火をたく、といったことを。〕

23.どれかの壁を任意に開けながら、装置の配置と、俳優の配置・動きの流れを確かめる。

24.テーブルにつき、文学的、政治的、芸術的、そのほかの観点から、一連の話し合いを行う。

〔25.〕人物の個性。

ここまでに行ったすべてが、内面的な個性を作っている。

それに伴い、外面的な個性は、自然に現れるはずだ。

だが、外面的な個性が現れなかったら、どうするか。

これまでしたことをすべて行ってもらう。ただし、足を引きずる、舌が短い、あるいは長い、足や腕や胴体を特定の構えに置く、ある習慣や身のこなしを外から身につける、といった条件をつけて。

外面的な個性がおのずと生まれなければ、外から接ぎ木する。

グレープフルーツにレモンの枝を接ぐように、〔それを〕根づかせるのだ。

〔身体的行動の意味について〕

肝心なのは身体的行動そのものではなく、それを起こす条件、状況、感覚だということを、あなたたちは知っている。

大切なのは、悲劇の主人公が自ら命を絶つことではない。その死の内面的な理由である。

その理由がなかったり、興味を引かなかったりすれば、死そのものも印象を与えない。

舞台上の行動と、それを生んだ理由には、切り離せない結びつきがある。

言い換えれば、「人間の身体の生活」と「人間としての内面の生活」は、完全に一つになっている。

私たちが心理技法で、常にこの結びつきを使うことは、知っているだろう。

今も、同じことをしている。

自然な資質、その潜在意識、本能、直感、習慣などの助けで、互いにつながる一連の身体的行動を起こす。

その行動を通して、それを生んだ内面的な理由、体験の個々の瞬間、役の生活条件のもとでの感覚の論理と順序を、知ろうとする。

この流れを知れば、身体的行動の内面的な意味もわかる。

これは理屈ではなく、感情から生まれる認識だ。その点がとても重要である。自分自身の感覚によって、役の心理の一片を知るからだ。

だが、役の心理そのものや、感情の論理と順序そのものを、演じることはできない。

だから私たちは、もっと安定し、手の届きやすい身体的行動の流れを、その論理と順序を厳密に守って進む。

この流れは、もう一方の、感情の内面的な流れと切り離せず結ばれているので、行動を通して感情を呼び起こせる。

論理的で順序のある身体的行動の流れが、役の楽譜へ組み込まれるのである。

今ではおそらく、身体的行動と、それを起こす内面的な理由、衝動、志向との結びつきを、自分自身の感覚として知っただろう。

これが、外から内へ向かう道である。

この結びつきを確かなものにし、役の身体の生活の流れを、何度も繰り返しなさい。

それによって、身体的行動そのものだけでなく、それへの内なる衝動も定着する。

その一部は、やがて意識できるものになるかもしれない。

そうすれば、それを自分の意のままに使い、自然に結びついた行動を、自由に呼び起こせるようになる。

しかし、内なる衝動の多くは、恐らく最も価値あるものほど、最後まで知り尽くすことはできない。

それを残念に思わなくてよい。

意識が、潜在意識の内なる衝動を殺してしまうこともある。

だが、どの衝動には触れてよく、どれには触れてはいけないのか、どう見分ければよいのだろう。

その問題にも、触れなくてよい。

自然な資質に任せなさい。

意識の届かないこの過程を見分けられるのは、それだけだ。

あなた自身は、今回も、私の示した方法に助けを求めればよい。

創造の瞬間には、感情の衝動の内面的な流れをたどろうとしないことだ。それらは自分で、どう働けばよいかを、あなたよりよく知っている。役の、人間の身体の生活の流れを進みなさい。

〔役へ近づく新しい方法〕

「全員、舞台へ行き、準備し、自分の内に舞台上の内面の状態を作りなさい。それから交流の過程を整えるのだ」

「自分の自然な資質のあらゆる法則に従い、論理と順序にかなう瞬間を、一つも飛ばさずに行いなさい」

「目の触手で、舞台にいる一人ひとりの心へ入り込み、どんな気分なのか、どう働きかければよいかを理解するのを忘れずに」

「状況を見定め、つながりを作ること、必要なら、しっかり相手をつかむことも忘れないように」

私たちはかなり早く、舞台上の内面の状態を作れた。その後、アルカージー・ニコラーエヴィチとイワン・プラトーノヴィチの助けを得て、自然な資質、論理、順序の法則にすべて従い、交流の過程も整えた。

だが、課題と行動がなければ、その状態は保てない。

アルカージー・ニコラーエヴィチはそれを察し、足りないものを急いで与えてくれた。

彼は言った。

「悲劇の主人公が初めて現れる、『ハムレット』の場面を演じると想像してごらん」

「その役はナズヴァーノフ、王と王妃はプーシチンとヴェリヤミノワ、マーセラスはシューストフ……」

「ヴュンツォフはポローニアスだ」

「おお、喜んで!」

「主人公の役の流れに沿って進めよう」とアルカージー・ニコラーエヴィチは続けた。

「選んだ場面の内容を思い出しなさい」

「ハムレットは、かなり長く不在にしたあと、戻ってきたところだ」

「出発したとき、父と母は、とてもよい、親しい関係にあった」

「だが帰ってみると、決定的な変化が起きていたと知る」

「愛する父は死に、敬愛する母はもう、自分の憎む悪人クローディアス、新しい王と結婚している」

「二人は楽しげで、ハムレットにはつらい喪失を、すでに忘れている。高潔だった先王、夫、兄、そして父のことを」

「この場面を演じてごらん。新しい相手役とのつながりと、正しい交流の過程を、もう一度整えるのだ。ただし、自分自身の、そして悲劇の主人公ハムレットに対応する課題を、念頭に置いて」

「それはどんな課題ですか?」

「ハムレットの立場に置かれた息子が、何を望むはずか、明らかではないかね?」

「そんな立場の人なら誰でも、まず何が起こったのかを理解し、意味をつかみ、その重みを見定める必要がある」

「もちろんです」

「それが交流の、ごく目前にある、とても重要な瞬間です」

「そのためには、何をすればよいのでしょう?」

「まず状況を見定め、全体の気分を感じ取ろうとする。見えない触手で、そこにいる一人ひとりの心へ入り込む。そのために相手の目を探し、遠ざけるのでなく近づけ、つながりと交流を生むよう、働きかけを合わせるのだ」

「だが、この状況では、宮殿の部屋にいる誰もが、本当の状態を隠している。とりわけ、ハムレットの探るような目からね」

「彼の驚きと非難は、目から放たれ、声に響き、表情に現れ、相手の良心をかき乱す」

「嫌悪すべき現在から、美しかった過去を思い出すたび、そうなるのだ」

「その場の皆はそれを感じ、大切な感情を傷つけられた若い息子の、探る視線をかわそうと、巧みな適応で、自分の心と内面の全体的な状態を覆い隠す」

「同じように、自然な交流の過程に沿って、ハムレットの役全体を通しなさい」

「すると、舞台上の内面の状態を成すこの要素だけでなく、その状態に必要なほかのすべての要素も、君たちの内に生まれる」

「へえ! どうしてです?」

「こういうことだ」

「交流の流れができれば、必ずそれに伴って、適応の流れも自然に生まれる」

「だが、適応し、交流するには、対象と注意の流れが必要だ」

「互いに伝え合う、感情の記憶とその体験の流れも必要になる」

「それらは一度に全部ではなく、部分ごと、区切りや課題ごとに伝えられる」

「そのすべての瞬間に根拠が必要であり、そのためには想像による設定が必要だ」

「真実と信じることがなければ、それらも、ほかの要素の働きと同じく、力を持たない」

「交流には、内面的な行動も外面的な行動も必要だ」

「それらも、要素のほかのすべての働きと同じく、真実と信じることがなければ無力だ」

「そして、真実と信じることのあるところには『私はいる』があり、『私はいる』のあるところには、生きた自然な資質とその潜在意識がある」

「今挙げたすべての行動が、舞台の対象、戯曲の生きた人物に向けて行われることを、感じるだろう」

「その行動が大切なのは、舞台に表される生活に関わるからだ」

「観客は、その生活を知るために劇場へ来るのだから……」

「では、その行動はどこに探すのですか?」

「戯曲の中です。そうでしょう!」ヴュンツォフが口を出した。

「戯曲の中の行動は、作者と、まだ生き始めていない役に属している。私たちに必要なのは、役を演じる人間、俳優本人の生きた行動だ。人物の行動に対応する行動がね」

「それを自分の内に、どう起こすか?」

「勝手に出てこないものを、どうやって起こすんです! どうにも起こせませんよ……」ヴュンツォフは嘆いた。

「それは違う」

「第一に、役を受け取った〔瞬間〕から、君にとって、他人としての登場人物は存在しないことを忘れないでほしい」

「いるのは一人だけだ。これから作る人物の状況の中にいる、君自身だ」

「人間と自分自身との話なら、簡単だ」

「『もし戯曲の状況に置かれたら、自分は何をするだろう』と自分に言い、その問いへ正直に答えればよい」

「すばらしい! 目を見ればわかる。もう君たちは引っかかった。私の仕掛けは成功した!」トルツォフは喜んだ。

「どんな仕掛けですか?」私にはわからなかった。

「質問によって、君たちの注意を、自分自身の感情の記憶やほかの記憶へ向けたことだ」

「それまでは、何に向いていたのですか?」私はまだわからなかった。

「まだ知らない人物の、他人の、自分になじまず、したがって死んだ感情へだ……」

「その役、その人物が生きるのは、君自身の感情を、その心へ注ぎ込んでからだ」

「言い換えれば、役の中に自分を、自分の中に役を感じてからなのだ」

「今、私たちはまさにそれを、系統的に、少しずつ、順を追って得ようとしている」

「〔課題は〕、俳優が新しい役に初めて近づく、私の方法を理解することだ。あらゆる無理強いと、自然な資質の創造の法則を乱すことから、俳優を守る方法を」

「もう一つの目的は、劇作家の仕事を、君たち自身が身をもって知り、感じることだ。少しでも劇作家の生活を生き、その創造の道を歩いてほしい」

「そうすれば、作家の仕事を、もっと理解し、大切にするようになる」

「一つひとつの細部を生み出す苦しみ、舞台の俳優がこれほど軽く扱ってしまう、必要な言葉を探す苦しみを、自分で味わえる」

「新しい戯曲を、挿話ごとに話して聞かせることで、これから作る作品の筋全体を、徐々に君たちへ伝えよう」

「私の話に沿って、君たちは、その挿話を作る身体的行動を探すのだ」

「今や『訓練と反復練習』の、実物を使わない練習で、身体的行動の論理と順序を身につけた。だから、私の出す課題を理解し、実行するのは難しくないはずだ……」

* * *

「俳優は戯曲の本を受け取ると、自分の前に置き、頭がぼうっとするまで役の台詞を読み始める。言葉がすべて擦り切れ、くたびれ、自分にとって意味を失うまでだ」

「どうしてそんなことをするのでしょう?」と誰かが尋ねた。

「ほかにどう役に近づき、その中へ入ればよいか、知らないからにすぎない」

「この苦行者は台詞を読みながら、すさまじい無理をして、自分を本の中へ押し込もうとする」

「身体ごと戯曲へ向かって伸び、全身を緊張させ、拳と歯を固くし、顔をゆがめ、目をむき、力みのあまり声をかすれさせる」

「系統的な入り方や技術を持たない別の俳優は、頭の中に何かの人物像を思い描く。あるいは、その役を演じるのを見たことのある、誰かの俳優を思い浮かべる」

「この俳優も、初めの俳優と同じように、苦しみながら、その人物像へ入り、自分によって命を与えようと力む」

「その人の味わうことを理解し、感じるには、目の前に麻くずを詰めた人形があり、その中へ自分を押し込もうとしていると想像してごらん。四方を縫い閉じてあり、自分の体に合わず、小さすぎるか、逆に大きすぎる人形の中へだ」

「実りのない苦しみに絶望すると、俳優はテーブルを囲む共同作業に助けを求める」

「そこで何か月も、自分の役についてのあらゆる情報を、頭へ押し込まれる」

「雄鶏のくちばしを無理に開き、木の実を詰めて太らせるようなものだ」

「今度は、無理強いのない、別の役への入り方を考えてごらん」

「その方法では、自分をどこかへ押し込むことも、誰かに何かを無理に詰め込まれることもない。戯曲に自分の役について書かれたことのうち、最初の自分にできることだけを、自分自身として実現する」

「いちばん簡単な、身体的行動から始めるのだ」

「たとえば、幕が上がると、君の演じる人物はトランクに荷物を詰めている、と役に書かれている」

「どこへ、何のために出かけるかも、戯曲からわかる」

「今では実物を使わない身体的行動ができるのだから、作者の指示を実行し、戯曲や自分の想像から取った、それにふさわしい状況で動機を与えるのは、難しくないはずだ」

「次に、人物が友人へ、出発する理由を説明することが、戯曲からわかる」

「そのとき、こういう考えを伝え、それに対して、こういう反論を受ける」

「その考えと反論を書き留め、記した順に、相手役とやり取りする。今は、自分の言葉でよい」

「対話の論理と順序も、身体的行動の論理と順序と同じように、すぐに覚えられる」

「こうして戯曲全体を、行動と思考に沿って進む。その中から今の自分にできることをすべて選び、自分自身として実行するのだ」

「身体的行動と思考、つまり心理的行動という、二つの途切れない流れができることを、感じるだろうか?」

「この二つの流れを何度も通して、よくなじませなさい」

「じきに、舞台上ですること、語ることの論理と順序の中に、生活で知っている人間の真実を感じ、信じられるようになる」

「それは大きな勝利だ」

「その瞬間から、もう足元に地面を感じられる」

〔身体的行動の骨組み〕

一九……年……月……日

今日はいつもの授業のかわりに、劇場の稽古へ連れていかれ、イワン・プラトーノヴィチの監督のもと、平土間の客席に座った。

規律を学ぶなら、ここだ。仕事に向かう気分の作り方を心得ているのも、ここだ!

演出家の机にアルカージー・ニコラーエヴィチが座り、稽古を進めていた。

彼自身は、学校にいるときといつも同じだった。だが、その周囲にはまったく違う空気があった。師の大きな権威への敬意と、自発的に従う姿勢に満ちていた。

そのため稽古全体の調子も、私たちの授業とは違っていた。

大俳優たちがこんなふうにトルツォフへ接するのなら、私たちはどうするべきなのだろう!

どうやら私たちは、まだあまりに愚かで、何もわかっていないため、アルカージー・ニコラーエヴィチから与えられるものの価値さえ、測れないらしい!

いつも異議ばかり唱えるゴヴォルコフが、何と俗っぽく見えたことか。

トルツォフの前で生徒がだらしなく振る舞うことに苦しむイワン・プラトーノヴィチに、今日からどれほど共感することだろう!

今なら、私たちに対する彼の厳しさが、よくわかるし、正しいと思える。

以前は、行きすぎで、余計な厳しさだと思っていた。だが今日からは、足りないとさえ思う。

それなのに、なぜアルカージー・ニコラーエヴィチは私たちの振る舞いを許し、イワン・プラトーノヴィチの厳しさにも、いつも賛成するわけではないのだろう。

形だけではなく、自覚的な規律と接し方を望んでいるからではないか。厳しさによってではなく、自分の高い権威への心からの敬意によって、私たちに〔働きかけたい〕からではないか!

もしそうなら、今日、彼は目的を果たした。

私やほかの〔生徒〕だけでなく、ゴヴォルコフ自身も、その顔を見るかぎり、同じことを感じ、理解していた。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、何と賢明な教師だろう!

今日は自分と仲間たちが、何と恥ずかしいことか!

今日の稽古は、私にとって、何と大きな教育上の意味を持ったことか!

準備中の戯曲は、まだ全体がまとまっていなかった。全員が台詞を覚えていたわけでもなく、十分な力で演じていたわけでもない。たびたび中断もあった。それでも、戯曲の稽古と、輪郭を見せ始めた役の演技は、私に強い印象を与えた。

演技を中断する停止、試み、議論は、むしろ、俳優たちが作る身体的行動の流れを、より深く理解する助けになった。

ただ、状況や戯曲の超課題については、同じことは言えない。私には、まだはっきりしなかった。

その不足は、稽古後、この作品の演出家の説明と、アルカージー・ニコラーエヴィチのいくつかの的確な指摘で、かなり埋められた。状況、個々の課題、貫く行動、考えられている上演〔計画〕が、よく見えるものだった。

私たち生徒は、かなりの刺激を受け、多くのものを内に蓄えて、稽古場を出た。

いつものように、ただ戯曲の台詞を読んで聞かせてもらうだけでは、到底こうはならなかっただろう。

一九……年……月……日

うれしいことに、生徒たち全体の振る舞いと、アルカージー・ニコラーエヴィチ、さらにはイワン・プラトーノヴィチへの接し方まで、大きくよい方向へ変わった。

今日はいつもの授業のかわりに、前の稽古で見たことを、皆で話し合った。

群衆場面の俳優や補助出演者の演技を検討した。誰の何がうまくいき、何がうまくいかないか。アルカージー・ニコラーエヴィチ自身が、この舞台で何を求めるか。戯曲の長所と短所、作者が与えたものと、その助けのため演出家や俳優が補うべきもの。上演全体の構想など、さまざまなことを話した。

最後にアルカージー・ニコラーエヴィチが話し合いをまとめると、私たちは、与えられた状況と、目指す貫く行動について、必要なことを大まかに、とても多く明らかにしていたとわかった。

超課題への手がかりと、戯曲全体の印象、全体の調子を、いくらか得られた。

一九……年……月……日

今日は、私たちが群衆として参加する場面を、さらに詳しく検討した。そして、作者、上演の演出家、俳優たちの示す状況と、私たち自身の感情記憶、視覚記憶、そのほかの記憶、役に似た自分の生活の瞬間から得た印象を、すべて考慮して、果たすべき身体的課題を定めた。

一九……年……月……日

今日は、身体的課題をすべてもう一度見直し、それぞれの役の、人間の身体の生活の流れを大まかに定めた。

一九……年……月……日

今日の授業では、人間の身体の生活の流れに沿って、身体的課題を実行した。

この作業だけで、かなりの回数の稽古になりそうだ。

私を含む多くの生徒が、見学した稽古で補助出演者たちの演じていた群衆場面を、そのまま写すほうへ流れてしまう。

だが、複製は創造ではない。

自分のものを探す前に、他人のものから抜け出さなければならない。

こうして、あの稽古の見学は、大きな益だけでなく、害ももたらした。

一九……年……月……日

思ったとおりだった。

今日は、人間の身体の生活を作る稽古の、もう十回目だ。それでも、その流れの身体的な骨組みは、まだ定まっていない。

何と難しく、大切な仕事をしているのだろう。

一九……年……月……日

皆、与えられた状況のもとで単純な身体的行動をするのでなく、何かを演じてみせるほうへ引かれてしまう。

皆、誰かを描き出したがる。自分自身として、自分の責任と良心にかけて、ただ行動することをしようとしない。

この後者こそが、最も難しく、大きな注意と努力を要する。

一九……年……月……日

今日、初めて、人間の身体の生活の、身体的行動の骨組みを演じた。

新しい課題の一つひとつへ、自然に、論理と順序を踏んで「入る」には、大きな注意が必要だ。

いったん入ると、今度は、始めたことを最後まで演じきらずに、止まるのが難しい。

さらに難しいのは、自分の作り芝居に気づくことだ。自分の感覚では本物の体験と思えても、そこには捨てなければならない九五%の作り芝居が混ざっている、と理解することなのである。

一九……年……月……日

今日は、アルカージー・ニコラーエヴィチの言葉で言えば、身体の生活の流れに沿って、役の骨組みを何度も通し、なじませた。

たとえば私は、形だけにならないよう、できるかぎり誠実に、その流れを十一回行った。

十一回の稽古と同じだけのことだ。

その過程で、ずっと本質を捉えて行動するのは難しい。

ともすると、内側から理由を与えられていない、単なる外面的で、形だけの機械的行動へ移ってしまう。

私たちには、心の生活の流れも芽生え始めただろうか。

私にはそう思えたので、それを追い始めた。ところが、アルカージー・ニコラーエヴィチはそれを知ると、私を止め、次のように説明した。

「行動や動きを伴う、人間の身体の生活の身体的な流れは、比較的粗い、具現の身体的な器官に支えられている」

「一方、人間としての内面の生活を作るのは、捉えにくく、気まぐれで、不安定な感情だ。生まれ始めのころには、かすかにしか感じ取れない」

「動きや行動を生む身体の粗い筋肉に比べれば、感情はクモの細い糸のようなものだ」

「粗い筋肉の力に対抗するには、どれほど多くの糸を束ねなければならないことか!」

「役の内面の流れが、筋肉と身体の流れをすっかり従わせられるほど強くなるには、俳優は体験の過程を、どれほど重ねなければならないことか!」

「だから、身体の生活を導くために使う前に、役の心の生活の流れが、もっと強くなるのを待ちなさい」

「今得た数本のクモの糸では、まだ綱を引っ張れない。だが何千本も束になれば、普通の最も太い綱とも、力を競える」

「だから今は、心の流れのことは忘れていなさい」

「それは君の望みとは関わりなく、少しずつ、目に見えないところで、おのずと作られ、強くなる」

「やがて突然、どんな筋肉の綱も抗えない力で、君をぐいぐい引っ張るときが来る」

「だから、自然が内側でする見えない仕事を妨げないよう、今も上演のときも、人間の身体の生活の流れの骨組みをたどり、さらに繰り返してなじませなさい」

「その流れを深めるためにできるのは、身体の生活を取り巻く状況を、鋭く、濃く、複雑にすることだ。あるいは、創造の根本の目的、超課題と、役の貫く行動を通じてそれに達する最善の方法を、考えることだ」

「身体的行動が行われる空気を濃く、鋭くし、目的を複雑にすると、身体の生活の流れそのものも深くなる。そして内側で自然に育つ、役の心の生活の流れへ、ますます近づき、一つになっていく」

一九……年……月……日

今日は、教室で作り、繰り返してなじませた身体的行動の骨組みと、人間の身体の生活の流れを、舞台へ移してみた。

そのために、大きな舞台を稽古用に使わせてもらった。

仮組みの装置、家具、小道具が、俳優たちの稽古のときと、まったく同じように準備されていた。

本人たちはいなかったが、同じ役の控え役が、代わりに来てくれた。

慣れない、気の散る環境のため、最初の数分は、教室でかなり確かに身につけたはずの、身体の生活の流れと骨組みそのものを、見失いかけた。

生徒たちは戸惑い、動揺した。だが、アルカージー・ニコラーエヴィチは、こう言って落ち着かせた。

「新しい環境に慣れる時間を、自分に与えなさい。無理をせず、落ち着いて、少しずつ、役として関心を持つべきことへ注意を向けるのだ」

「要するに、身体的行動を、できるだけよく、実りある形で、目的にかなうように果たしなさい」

だが、それを達成するどころか、ただ、本当ではなく「そうするつもり」ででも、行動を始められるところへ達するまでに、かなり時間がかかった。

慣らした流れを、外側から機械的に思い出して初めて、私の注意は、まず身体的行動そのものへ、それから、それをする目的である肝心なことへと移った。

初めは、配置も移動も指示されなかった。

課題、創造の欲求、行動に応じて、まず自分たちの判断に任された。

果たすべきことに合わせ、そのために最も都合のよい場所、移動、配置を、自分で選ばなければならなかった。

これは容易ではなく、多くの時間がかかった。

私は、そうした場所や移動をたくさん見つけた。見つけすぎて、かえって混乱し、どれにも決められなかった。

「今は、そのままにしておきなさい」とアルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「見つけたものを、自分の中で一晩寝かせるのだ」

「そうすれば、何が大切で、何がおのずと消えるか、もっとはっきりする」

一九……年……月……日

アルカージー・ニコラーエヴィチの言うとおり、自分の中で「一晩寝かせた」ものの多くは、確かに消えた。だが、多くは定着した。

彼は、私やほかの生徒が見つけたものを、ほかの演じ手の演技、戯曲、全体の構想、上演と結びつける手助けをしてくれた。

まだ定まらない部分は、課題、身体的行動の流れ、身体の生活、そして何より超課題を根拠に、自分で探すよう勧められた。

新しく見つけたものも、今日は決定せず、また「一晩寝かせる」まで、固定しないでおいた。

今日、アルカージー・ニコラーエヴィチは、私たちの身体的行動が目的にかない、実りあるものか、その論理と順序はどうかを検討し、褒めたり批判したりした。

新たに加わった、あるいは忘れていた状況のいくつかによって、身体的行動の流れと、役の身体の生活を変える必要が生じた。

変更を楽譜に組み込み、新しい課題と区切りへ正しく入ること、稽古中の場面全体の身体的行動の骨組みを使うことによって、また繰り返してなじませた。

身体の生活の流れがなじみ、確かになると、それを繰り返すのが、ますます楽しく、容易になった。

だが同時に、私を含め多くの者に、自分自身として、自分の責任と良心にかけてではなく、描いてみたくなった別の誰かの名を借りて、行動し始めたいという欲が起きた。

それに気づくと、アルカージー・ニコラーエヴィチはひどく心配し、そんな間違いをせず、役の中で自分を見失わないよう、熱心に説いた。自分を失うことは、創造と体験そのものをやめ、作り芝居に置き換えることだからだ。それまでの仕事をすべて壊し、役を職人仕事と型へ変えてしまいかねない。

「本物の、生きた個性は、君たち自身が何も知らないうちに、自然に現れる」

「外から見ている私たちが、やがて、君たちと役の融合から何が生まれたか、知らせるだろう」

「自分では、いつも自分自身として、自分の責任と良心にかけて、行動し続けなさい」

「人物像そのものを考え始めたとたん、それを作って見せる、再現するほうへ行かずにはいられなくなる」

「だから、十分に気をつけなさい」

一九……年……月……日

今日も舞台稽古だった。

いつもの時間ではなく、昼の授業と夜の上演のあいだに行った。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、まず、今はもう、要素、条件、材料、助言が私たちに与えられており、舞台上の正しい全体の状態、仕事のための状態を作る練習をするのに、何の妨げもない、と言った。

確かにそれは、身体的な課題と行動の流れを、正しく、本当に果たせば、おのずと生まれる。

それでも、その状態を、構成する要素ごとに確かめるのは、役に立つ。

「もっとはっきりわかるように、今、自分でこの作業を示してみよう……」

付録

ある上演の物語
(教育小説)

私たちの劇場の俳優用談話室に、次の仕事として、A・S・グリボエードフの『知恵の悲しみ』を上演すると、掲示が出た。主任演出家トヴォルツォフ自身が、新たに劇団へ招かれた演出家レメスロフと組んで、演出するという。

後者の名は、地方での活動によってかなり知られていたので、多くの俳優は新しい劇団員を歓迎した。

反対に、レメスロフを信用せず、私たちの仕事の方法をまったく知らない新人に、試しもせず、いきなり『知恵の悲しみ』という重要な舞台を任せることに、驚く者もいた。

この間違いについて、主任演出家に話をした。だが説得も忠告も通じなかった。トヴォルツォフは新しい期待に夢中になり、長く待ち望んだ精力的な助手を、運命がレメスロフとして送り届けてくれた、と信じていたのだ。

それから間もないある上演日、衣装姿の俳優でいっぱいの談話室へ、楽しげで活気に満ちたトヴォルツォフが、ある紳士を連れて現れた。

皆、すぐにレメスロフだとわかった。

彼の身なりは、隅々までぴかぴかだった。

立派な俳優の衣装箪笥にあるべきものは、すべてそろっていた。

見事な真珠のピンは、おそらく記念公演で贈られたものだ。ボタン穴には金の飾りがつき、そこからモーニングコートのポケットへ鎖が垂れ、さまざまな飾り物が束になっている。これも観客の贈り物だろう。

革の腕輪についた時計、細い金鎖のついた片眼鏡と金の鼻眼鏡、たくさんの指輪も、おそらく観客からの贈り物。色とりどりの縞のビロード風のチョッキ、流行のモーニングコート、燕尾服に合わせるようなエナメル靴。左手には厚い赤茶色の手袋と山高帽を持っていた。

太って締まりがなく、背は平均より低い。顔も頬も肉づきがよく、唇は厚く、脚はふっくらしている。とても明るい金髪を流行どおりになでつけ、赤みがかった口ひげは短く刈り、上を剃っていた。

目上には必要以上に愛想がよく、目下には必要以上に堅苦しく、よそよそしい。

全身に、地方の上流気取りの悪趣味が刻まれていた。

晴れがましい様子だったので、私たちは挨拶の演説を始めるかと思った。だが、気取らない舞台裏の空気には、それは場違いだっただろう。

レメスロフもそれを察したのだと思う。準備した演説を短い言葉に分け、尊敬される人々に一人ずつ挨拶する際、いわば卸売りではなく、小売りにして使った。

愛想や賛辞を振りまく中で、主演俳優にこう言うのを聞いた。

「約束の地の静かな港へたどり着いた旅人のような心地です」

別の俳優には、本物の芸術の灯台へたどり着いた、と言った。

三人目と話すときには、私たち劇場の俳優を「自由な芸術の自由な子供たち」と呼んだ。

トヴォルツォフ自身のことは、「ロシア演劇を照らす美しい太陽」と呼んだ。

こうした文人気取りの言葉は、どれも暗記した演説の匂いがした。

総じて、レメスロフの趣味の悪さは、私たちに悪い印象を与えた。

あれほど繊細で感覚の鋭いトヴォルツォフが、どうしてその悪趣味に気づかないのか、不思議だった。

やがて私たちは、レメスロフの悪い面だけでなく、よい面も知った。

彼は精力的な働き手で、優れた運営者だった。

おかげで、着任から最初の三日で、『知恵の悲しみ』上演の件はすっかりまとまり、私たちはもう、最初の集まりに劇場へ呼ばれた。

中等学校のころから暗記している戯曲を、改めて朗読する意味はなかった。

『知恵の悲しみ』は、長年の親しい知り合い、身内のような作品だ。

だから最初から、劇場の友人である客や著名人を招き、戯曲についての最初の話し合いを開くことになった。

箔をつけるための、いわば「結婚式の将軍」として招かれたのは、グリボエードフの研究で名高いA教授だった。

劇場が総出で集まった。俳優だけでなく、職員、各部門の責任者、現場の働き手、衣装係、技術者などもいた。

皆が活気づき、顔には喜びが浮かんでいた……。

新しい演出家兼運営者の熟練は、あらゆるところに現れていた。会場に選んだ談話室の整え方、家具の配置、会議用の大きな机の飾りつけ、話し合い全体の段取りと進行にまで。

俳優たちはすぐにその手慣れた仕事を感じ取り、レメスロフに従った。

ベルが鳴ると、すばやく集まり、整然と席についた。

主任演出家トヴォルツォフが議長席に座り、その周囲を運営部の人々が占め、厳かな静けさが訪れた。

やがてトヴォルツォフが立ち、集まった人々へ開会の言葉を述べた。

「今日は、私たちの大きな祝祭の日です」と彼は言った。

「私たち芸術家の心にとって、最も大切なお客様の一人、私たちのアレクサンドル・セルゲーエヴィチ・グリボエードフが、お越しになりました」

大好きな作家を迎えて、雷のような拍手が起きた。

「親友のアレクサンドル・アンドレーイチ・チャツキーも、ご一緒です」
(拍手。)
「いたずら娘のリーザも」
(拍手。)

「パーヴェル・アファナーシエヴィチ・ファームソフご本人も、娘さん、秘書、ご親類一同とともに。アムフィーサ・ニーロヴナ・フリョーストワ、トゥゴウホフスキー一家、貧しい親戚の皆さん、お知り合いのレペチーロフ、ザゴレツキー、『鶴の脚をした』トルコ人かギリシア人も……」

『知恵の悲しみ』の人物が一人ずつ現れるたびに、拍手と歓迎の声が上がり、そのあとの名前は聞き取れなかった。

まるで全員が旅の馬車から降りてきて、出迎える人々の喜びの中、俳優たちに挨拶しているかのようだった。

「では、大切なお客様をお迎えください」と、ざわめきが静まると彼は続けた。「贈り物をたくさん差し上げましょう。皆さんの、芸術の創造の花々を」

「一人ひとりが、大切なお客様を一人ずつ引き受け、心を尽くして世話をしましょう!」

「その人が、私たちの創造の行列で先頭に立つか、最後尾になるかは重要ではありません。復活祭の夜の十字架行列では、いちばん大きな旗を持つか、小さな蝋燭を持つかは、どちらでもよいでしょう。皆で祝祭に加われればよいのです」

「私たちの間に、大役も小役も、主演も群衆役もあってはなりません」

「私たち全員の中に、グリボエードフの古いモスクワに住む、人間の心だけが生きますように」

「作者が誰かに言葉を十分与えていないなら、自分で考えなさい。そして群衆の場面で、いちばん奥で、舞台裏で、その言葉によって生きなさい」

「言葉がなければ、黙って、感情だけで生きなさい。視線で、創造する意志の放射で交流しなさい。どちらでもよいのです。芸術的な人物を作り、私たち皆とともに、グリボエードフの『百万の苦悩』と、『知恵の悲しみ』がもたらす幸福を生きられれば」

耳をつんざく拍手が、演説の最後の言葉を覆った。

招かれた教授に発言が求められ、トヴォルツォフが歓迎の言葉を述べた。

教授を迎えた拍手は、騒々しくはなかったが、敬意に満ちていた。その場の俳優は全員立ち上がった。

「劇場と俳優の皆さんに、感謝します」と教授は始めた。「新しい仕事と、今日の祝祭に参加させていただけることは、私にとって名誉であり、喜びです」

「この偉大な詩人の研究に長年を捧げてきた者として、皆さんの熱意を見、創造の火を感じ、これから見せてくださるすばらしい舞台の創造を思い描けるのは、格別の喜びです」

教授は約二時間、非常に興味深く、美しく語った。

グリボエードフの生涯から始め、『知恵の悲しみ』の成立史へ、残された原稿の詳しい検討へと進んだ。

次に、戯曲の最終的な本文を検討し、刊本に入らなかった多くの詩句を暗唱して、その価値を論じた……。

さらに、主要な注釈者や批評家を取り上げ、彼らの見解にある矛盾を検討した。

最後に、過去の上演についての批評文を題名ごとに列挙して読み上げ、主任演出家に渡した。各論文をどの刊行物、博物館、図書館で見つけ、読めるかまで、注記された一覧だった。

今後も劇場のために力を尽くすとの、丁重で優雅な言葉で、講義を締めくくった。

長く熱い拍手が送られた。

俳優たちは教授を取り囲み、手を握り、感謝し、互いの言葉を遮るように話した。

「ありがとうございます! ありがとうございます! 本当に多くのことを教えてくださいました。感謝します!」

「大切なことを、あれほどたくさん話してくださいました!」と別の人々が言った。

「とても、とても助けていただきました!」さらに別の人々が口を挟んだ。

「この資料を全部集めるには、何年も博物館に通い、本を探しては読み返し、何千ページもの中から、私たちに大切な二、三行を探さなければならなかったでしょう!」別の人々が礼を述べた。

「それでも、全部は見つからず、集めきれないでしょう!」また別の人々が叫んだ。

「わずか二時間ほどで、グリボエードフについての文献をすべて説明し、あらゆる図書館、あらゆる本を尽くしてくださいました……」

教授に誰よりも熱心に礼を述べていたのは、俳優のラススードフだった。あらゆる稽古、上演、話し合いについて、何やら秘密めいた日記をいつも書いているため、「年代記係」と呼ばれていた。

彼はすでに文献一覧を手に入れ、薦められた論文を、自分の年代記帳へ書き写し始めていた。

場が落ち着き、俳優たちが席に戻ると、主任演出家が再び立って、教授へ短く語りかけた。

新しい試みに与えてくれた貴重な学問的援助に感謝し、内容の重要さと文学的な形の美しさを備えた講義が、皆に与えた美的な喜びにも礼を述べた。

それからトヴォルツォフは、俳優全員へ結びの言葉を述べた。

「最初の石は据えられました」

「出発の刺激も与えられました」

「私たちは皆、ただ興奮しているのではなく、芸術家として心を揺さぶられています」

「この高まった創造の状態のまま、今日はお帰りいただきます」

「今日の集まりの目的は果たされました」

「教授の見事な講義のあとで、私たちが今何か話すよりも、動かされた皆さん自身の感情のほうが、多くを語ってくれるでしょう」

「この出発をお祝いします。では、また次の話し合いでお会いしましょう」

私たちが立ち上がり、若手が元気を発散させようとした、その瞬間を、レメスロフは巧みに捉えた。確かな、落ち着いた、きわめて威厳ある声で、ちょうどよいところで私たちを止めた。

「次の話し合いは」と、大きく歯切れよく言った。「明日の十二時、この同じ劇場の談話室です」

「劇団員全員を呼びます。全員、出席は必須です」

「個別の通知は出しません」

「帳面に署名するまでは、部屋を出ないでください」

「経験豊かな演出家だ」と私は思った。「俳優への話し方を心得ている」

椅子が音を立て、声が響き、足音がどっと起きた。

教授を見送る者、稽古帳に早く署名しようと使いの周りに集まる者、うまくいった最初の話し合いの印象を、楽しげに交わす者がいた。

皆が活気づく中で、劇団でも最も才能豊かな俳優の一人、チュフストヴォフの、考え込み、ほとんど陰鬱な姿が目立った。

その様子が意外で、私は近づいた。

「どうしたんだ?」と尋ねた。

「怖くなった」と彼は答えた。

「誰が? 何が?」

「教授が」彼は同じ真剣な、おびえた調子で答えた。

「何を言われて、そんなに怖くなったんだ?」私は尋ねた。

「あれだけしゃべられたら、もう役も喜べやしない」

私は笑った。

「いや、笑うなよ! 本気なんだ」

「二時間であれほど話したことを、その一部だけでも果たすには、どれほどの才能が要るんだ!」

「ただでさえ難しく、仕事に取りかかるのが怖いのに、そこへ、さあどうぞ、と来る!」

「背中に何十キロもの知識を積み上げて、『神のご加護を! よい旅を!』と言うんだ。冗談だと思うな。本当にひどく怖くなったんだ」

「だが」とラススードフは反論した。「私たちはそれを全部知り、仕事の指針にする必要があるだろう」

「わからない。たぶん、あるんだろう」

「僕は学者じゃないからね」

「だが、最初の一歩の今、言わなくてもいい。あんなに一度にたくさん言わなくてもいい。少しでも足元に地面を探り当ててから、あとで、少しずつ話してくれればいい」

「初めには、別の何かを言ってほしい。たった一言、一つの文句、その文学の知恵を全部凝縮したものを」

「来て、立って、肝心の一言を言ってくれればいい。つまりこうだ、『タラタタ、タラタタタタ!』と。そして帰ってくれ」

「そうすれば僕は、感激して叫ぶよ。ありがたくて手に口づけするよ」

「それから一、二週間仕事をしたら、また来て、今度は賢い言葉を十ほど言い、帰ってくれればいい」

「一週間後には二十、そのまた一週間後には四十ほど言ってくれ」

「そして役をすっかりものにしたら、毎日講義してくれればいい」

「全部、役に立つよ」

「だが今の僕は、教授の知性、学識、知識に驚き、圧倒され、押し潰された。頭はいっぱいで、心は空っぽだ」

「何を望んでいるんだ! 肝心の一言だって? そんなものがすぐに浮かぶか? わかるまでには、苦しまなければならないんだよ」と仲間の一人が反論した。

「そうかもしれない」とチュフストヴォフは認めた。「だが俳優を苦しめるにも、やり方というものがある」

「そんなことが考えられるか」と同じ俳優が反論を続けた。「演出家が、存在する戯曲すべての、魔法の言葉を知っているなんて。演出家だって人間だ」

「自分たちも私たちと一緒に、探し、苦しんで、大事な言葉へたどり着くんだ」

「探せばいい。苦しめばいい。たどり着けばいい。だが僕たちとではなく、学者と、その書斎でやってくれ」

「僕たちは新鮮なままにしておいてほしい」

「つまり、演出家が僕たちの代わりに創造し、創造の苦しみを味わって、俳優の僕たちは、できたものだけもらいたい、ということか! そうなのか?」と、チュフストヴォフに問いかけた。

「創造の苦しみ! 僕たちの分だって十分にあるさ。ほかのものはともかく、創造の苦しみなら、あり余るほどある!」とチュフストヴォフは言った。

「僕たちを混乱させ、早すぎるうちから頭に詰め込むのが、創造なのか?」

「助けたいのか?」

「なら、役に立つように助けてくれ。それこそ演出家の仕事だ。劇場に大学を開いて、俳優の頭を学問でいっぱいにすることじゃない」

議論が長引くのを見て、私はチュフストヴォフに、今夜、彼の出る上演があることを思い出させた。

一分後、私たち三人組は、もう劇場の門を出て、それぞれの家へ向かっていた。私とチュフストヴォフとラススードフは、同じ方向に住み、いつも一緒に帰っていた。

チュフストヴォフは興奮していた。

おそらく教授の投げ込んだ考えが、その才能ある頭の中で発酵し、探究心の強い芸術家の感覚を、落ち着かせなかったのだろう。

「ちくしょう、どういうことだ!」彼は自分の感覚を、声に出して調べていた。

「心に何か錆がついたみたいだ!」

「中が全部、ごちゃごちゃになった」

「話し合いの前は、戯曲への道は開け、明るく、自由に通れるように思えた。それが今は、掘り返され、さまざまな知恵の山で塞がれたようだ」

「これじゃ頭がすっかりおかしくなりかねない」

「僕の心へ、薬局にでも来るようにやって来て、処方を書き、古い伝統や劇評に従って新しい注文を出して、帰っていった」

「冗談じゃない。僕は薬剤師なんかになりたくない!」

「俳優でありたい。自分自身でありたい。誰かには下手でも、別の誰かには、いい俳優かもしれない自分で」

「注文は要らない。自分を怖がらせたくない」

「大変だ、神様どうか、シュイスキー、サマーリン、レンスキーより下手になりませんように。ベリンスキーやピクサーノフの望みと違いませんように、なんてさ」

「あとは美術家が、化粧の処方まで出しに来れば完璧だ。口はこう、鼻はこう、目はあの絵のように、ってね」

「俳優の心にはまだ何も蒔いていないのに、もう刈り取りたがる」

「鎌を持って僕の心に付きまとい、時期も来ないうちに刈り取るなよ!」

「結果のことを言うな!」

「僕の自然な資質に命令するな!」

「では何が必要なんだ?」ラススードフは歩道の真ん中に立ち止まって尋ねた。いつも使い古した書類鞄と年代記帳とともに持ち歩く、ほどけそうな本の束を、結び直していた。

「僕に必要なのは、ちょっとした逸話、面白い話、その時代と人々の生活から取った、特徴のある想像だ。戯曲の社会的、哲学的な調子を理解したい。誰かと一緒に、グリボエードフの詩句、文体、リズム、人物、戯曲、才能、個々の箇所、作品全体を、愛で、感嘆したいんだ」

「家の造り、衣装、肖像画、身のこなし、習慣、つまり一八二〇年代の暮らしの形にも興味がある。その生活の空気で僕を包み、心を引きつけてほしい。教え込まないでほしい」

「僕自身と僕の心には手を出さず、僕が望み、できる仕方で、環境と空気を想像する、その手助けだけをしてくれ」

「そうすれば、僕は自然にその中で生き始める。生き始めずにはいられない」

「下手でもいい。だが、僕自身のものになる」

「最初の一歩から、他人の創造の結果、他人の意見や感情、君の注文を押しつけるな」

「それでは、まだ身ごもってもいない女性に、必ず男の子を産め、きれいな子で、黒髪に青い目、背は高く、注文主そっくりに、と頼むようなものだ」

「まあ、注文するのは勝手だ。だが、いざ生まれたら男の子ではなく女の子で、黒髪ではなく赤毛、目は青くなく灰色、しかも背は高くなく小柄かもしれない」

「自然に命令などできるだろうか?」

「自然は命令を聞くだろうか?」

「僕の感情に命令してみるがいい。演出家、教授、いやグリボエードフ本人の望むとおりに、こう生きろ、ああ生きろ、と。何も起こらないよ」

「自分の中で育ててもいない他人の感情を、しつこく求められたら、いいさ、だましてやる。感じているように見せる。本当は感じず、大げさに振る舞い、不幸でも、幸福でも、苦悩でも、感じているふりをするさ……」

「どうだい?」

「それで、何になる?」

「君はだませるとしよう。君の目はだませても、観客の心はだませない!」

「心ってものはね……ふふん! あれは、ごまかせないよ」

「それは……繊細で、君より、僕より、僕たち皆より、ずっと賢い」

「気の毒でも涙が出ない。おかしくても笑えない」

「僕が、それらしく身ぶりをし、まねられれば、まだいい」

「だが、たいていは少しも似ていない。芝居の学校で教えるとおりだ。苦しいなら眉を上げ、首を伸ばし、右へ左へ回し、白目をむく。左手では心臓が裂けるように強く胸を押さえ、右手では髪をつかみ、悲しみで脳がはち切れそうに頭を締めつける。力を入れ、精いっぱい張りつめ、興奮する。理由もなく、ただ『漠然と』興奮する。それだけだ。自分を引っかき回し、落ち着かなくさせる。それ以上は何もない」

「そんなことでいいのか?」

「だから、だまされたくないなら、しつこく求めず、邪魔せずにいてくれ。自分で見つけるから」

「条件はこうだ。僕の心には、できるだけ繊細に接してほしい。無理強いせず、想像力をほんの少しくすぐり、考えを投げかけてくれ。僕が受け入れなければ、放っておいてほしい。自分自身で育てた、もっと魅力的な自分のものが、内側で育っているということだから」

「こういう感情や情熱は、借り物ではすまない。どうしても、自分の中から自分で取り出さなければならない」

「自分以外の誰に、それができる? 誰がそれを感じられる?」

「自分で君に見せるよ。そのときに、判断してくれ」

この熱い反論のあと、チュフストヴォフは急に黙り、残りの道中、一言も発しなかった。

私たちも、それぞれ自分の仕事を考え、黙って歩いた。

ゴーゴリの記念像のそばで別れ、それぞれ家へ帰った。

* * *

翌日には、二度目の話し合いが予定されていた。

始まる前に、若い美術家が、装置と衣装のスケッチを見せたいと頼んでいる、という話になった。

「十五分以上、足止めされないのであれば、よいでしょう」主任演出家が不在なので判断を引き受けたレメスロフは、寛大な調子で言った。

談話室へ入ると、若い美術家が、スケッチや大小の厚紙、素描、アルバム、ただの紙切れを整理していた。

その若い美術家は、もう若い盛りを過ぎていた。

痩せて青白く、背が高い。襟の大きな夏のシャツを着て首元を開け、チョッキのかわりに緑の幅広い帯を締め、何やら女性ものの上着を羽織っていた。

膝小僧のようにつるつるに剃った頭さえなければ、いわゆる最前衛の流派の、ごくありふれた美術家に見えただろう。その頭のため、とても奇妙で、見慣れない姿になっていた。祭服姿なのに頭を剃った司祭、胸元の開いた舞踏会のドレスを着て頭を剃った女性も、同じくらい奇妙で見慣れなく思えただろう。

この美術家にも、髪のないことが、全体の姿としっくり合っていなかった。

身ぶりも歩き方も話し方も、あらゆる調子が、ありきたりの巻き毛を持つ人向けにできているかのようで、巻き毛のない頭には合わなかったから、なおさらだ。

それでも彼は、巻き毛があるかのように振る舞っていた。

「皆さんは私をご存じない!」

「私自身、つい最近、自分を知り、理解し、価値を認めたのです……」

「私はグリボエードフを一新する!……」

「私はグリボエードフを創造する!……」

「私には、私の色彩劇がある!……」

「私の俳優は、色彩の俳優!……」

「白い喜び!」

「黒い悪臭!……」

「私の悲劇は、暗く明るい!」

「私の人間は幻影だ。光のチャツキー、淫欲ソーフィヤ、牧神ファームソフ、岩のスカロズーブ!……」

訳注

美術家は人物名に「光」「淫欲」や牧神などを結びつけた造語を並べる。「岩のスカロズーブ」も、名前を崩して岩や樫を連想させる言葉遊び。

「始まる! 笛のひと吹き、時計のチェト=ゾヴォン!」

訳注

「チェト=ゾヴォン」は原文の独特な複合語。後半は鐘の音を表すが、前半の意味は確定できない。舞台美術家が造語を並べ立てる口調を残した。

「私は知っている。断言する!……」

「これだ!」

彼は、大きな厚紙を高く掲げた。黒い絵の具が塗りつけられ、くすんだ色の、輪郭の曖昧な斑点が、かすかに散っていた。

俳優たちは静まり、スケッチへ身を乗り出した。その下には、「罪深い舞踏。グリボエードフの風刺劇『知恵の悲しみ』への、私の序幕!」と書かれていた。

「これは何です?」一人の俳優が、形のわからない斑点を指して、美術家に尋ねた。

「肉欲です!」彼はよどみなく答えた。

「そうは見えないな」私の後ろで、誰かが、かすかにささやいた。

「では、これは?」別の俳優が、別の斑点を指した。

「尊大さです」美術家は即答した。

「そっくりだ」同じ声がささやいた。

「これは?」

「愚鈍さ」

「写真みたいだ!」また、その声がした。

「では、これは?」

「大食とへつらい」

「ひと目でわかった!」と声がささやいた。

スケッチがしまわれ、皆が席についた。

「ばかげているが、才能はある」私のそばを通りながら、チュフストヴォフがつぶやいた。

「淫欲ソーフィヤの、這い出しです」二枚目の厚紙を掲げ、美術家は宣言した。

これもほとんど一面が暗い色だ。真ん中に細長い隙間、半開きの扉があり、その向こうには、「淫欲ソーフィヤ」の部屋が、霞んだ、沼のような、緑がかった、ぬめる色で見える……。

隙間から、男女二つの頭が突き出している。髪は乱れ、顔は青白く、我を忘れ、酔ったような狂おしい目をし、細く長い首が伸びている……。

「もう明るい、悲しいわ。夜は何と短いこと!」美術家は、嫌になるほど素人じみた大仰さで歌うように言った……。

レメスロフはそわそわし始め、ほかのスケッチへ手を伸ばしかけた。明らかに、中身を検閲しようとしていた。

「秘密です!」美術家は絵の上へ手を置き、落ち着いて言った。

「牧神ファームソフの、淫欲の情熱!」新しい厚紙を取り出し、厳かに宣言した。

「さあ、お帰りなさい……」チュフストヴォフは、若い女子生徒たちにおどけた調子で言った。「罪深い私たちは、残るとしましょう」

「どうして帰るのかわかりません」「ちっとも面白くないわ!」「冒瀆だわ!」去っていく金髪の娘たちは、ぶつぶつ言った。

「おや、お母さんは帰らないのですか?」チュフストヴォフは、年配の尊敬される女優に話しかけた。

「私に何があるというの。もっとすごいものも見てきたわ!」老女は紙巻き煙草の煙を吐き、平然と言った。

「続けましょう……」

美術家は新しいスケッチを取り出して見せた。ソファにいるリーザとファームソフの場面、そしてほかにも一連の絵があった。才能のある絵ではあったが、愚かしいほど一面的で、露骨で、下品だった……。

暗いスケッチの数々とは対照的に、チャツキーの到着は、このうえなく明るい色で描かれていた。

鋭い色彩感覚に満ちた、この奇妙なスケッチは、全員の注意を引き、俳優たちも真剣になった。

舞踏会とチャツキーの狂気のスケッチも、非常に力強かったが、やはり粗雑で一面的だった。

踊る半獣たちの中に、白い衣装の「光のチャツキー」本人が立つ。壊れた竪琴と、つぶれた花冠を持ち、上から一筋の光を浴びていた。

拳に鞭を握った右手を、周囲の群衆へ振りかざしていた。キリストが神殿から商人を追い払ったように、あらゆる「暗黒の淫欲者」を追い払おうとするかのように。

最後のほうの一枚、第四幕のリーザとモルチャーリンの場面には、皆から不満と抗議が上がった。あの立派なお母さんまで、我慢できず出ていった。ほかの俳優も去り始め、私も出た。

その後どうなったかは知らない。

ただ、美術家が劇場を出るとき、「聖人たちとともに安らぎを」と「永遠の記憶」を歌っていた、とは聞いた。

どうやら、その葬送の歌は、新しい芸術には古びてしまった、劇場全体と私たち俳優に向けられていたらしい。

* * *

再び、劇場の隅々でベルが鳴った。

皆が談話室に集まり、話し合いを始めた。

レメスロフが、重々しく議長席についた。トヴォルツォフから電話で、俳優大会の議長に選ばれたため、数日は稽古に出られない、と連絡があったからだ。

最初の話し合いでは、劇場の習慣として、希望する誰にでも発言が許される。

たいてい、その日に話すのは、上演では黙っていなければならない人々、つまり台詞のない補助出演者だ。

その中でも最も自信過剰で、とても愚かな、集会じみた大げさな言葉を好む男が、最初に立った。

彼は、チャツキーの口を通じて、前世紀からほとんど変わらない社会の古い土台を、厳しく鞭打とうと呼びかけた。そして、グリボエードフの天才的な風刺を使い、人類の刷新を阻む最大の敵、社交界の人々と官僚たちを、もっと痛烈に嘲笑してほしいと俳優に訴えた。

彼には、先進的な劇場で『知恵の悲しみ』を上演する理由も、社会的な意義も、この高潔な課題にしか見いだせなかった……。

彼の考えるチャツキーは、丈夫な喉、よく通る声、獰猛な顔を持つ、集会の演説家のようなものだった。

チャツキーの台詞を引用しながら、彼は低い声を響かせ、空中で拳を盛んに振り回した。

次の弁士は、ほとんどチャアダーエフのことばかり話した。

その演説は、戯曲にもチャツキーにもグリボエードフにも、上演にも、何の関係もなかった。

唯一の意味は、話し手が博識をひけらかせたことだった。

三人目には、いわゆる「劇場の友人」の一人、若い私講師が、実に退屈で、持って回った話をした。さまざまなクラブや同好会での発表で、知られた男だった。

レメスロフは議長の権限を使い、順番を飛ばして発言した。

「私は初めて、この劇場の話し合いに参加しました。率直に申し上げて、私たち演劇界にとって貴重な時間を、ここでは何と惜しげもなく使うのかと、驚いています」

「地方なら……興行主に、どんな目に遭わされることか!……」

「A教授のような権威ある方が、昨日、あれほど見事に、あらゆる点を尽くして講義されたあとでは、もう何も話すことはないように思えます」

「すべての問題について、すでにすべてが語られました」

「それなのに、今日も話し合いを続けています」

「何についてです?」

「ファームソフは官僚、チャツキーは糾弾者、リーザはフランス風の小間使い役、戯曲全体は古いフランスの伝統の影響で書かれている、ということですか……」

「そんなことを、知らない人がいますか?」

「繰り返す必要のない自明のことです」

「時間を無駄にしています」

「だから、討論を打ち切り、本当の仕事に取りかかることを提案します」

「仕事だ、仕事だ!」チュフストヴォフが叫んだ。

「レメスロフ氏の意見に賛成します」と、私たちの主演俳優イグラーロフが、きっぱりと自信を持って言った。

「私も夫を支持します!」劇団の女優である妻が言った。

「私も……」隅に座り、誰にも気づかれていなかった、小柄でかわいらしい金髪の女性が言った。

「あれは誰だ?」俳優たち、とりわけ女優たちが、互いに尋ね始めた。

レメスロフの妻で、補助出演者の候補として、採用されたばかりだとわかった。

「へえ!」と誰かが声を上げた。

私たちは顔を見合わせた。

「おっしゃる、本当の仕事とは何なのか、伺ってもよろしいでしょうか?」ラススードフは、わざと丁重すぎる態度でレメスロフに尋ねた。

「よろしいでしょう」とレメスロフは、やや見下ろすような調子で答えた。

「まず役の台詞を、原本と照合します」

「次に、私が前回キーウで上演したとき、私の指示で美術家が作った、装置、衣装、化粧のスケッチを見せます」

「そのあと何度か読み合わせをし、上演について指示し、私の役の解釈を説明します」

「それから、私の配置と動きを示すので、皆さんは覚えてください」

「次に台本を持って何度か稽古し、そのあと数日、暗記の時間を取ります。そして全幕の通し稽古を始めます。初めは装置なし、つまり仮に区切った空間で、その後は装置を入れて。装置が遅れないことは、私が保証します」

「皆さんのいないところで装置の組み立ての稽古をし、その後に一度、多くても二度の舞台総稽古を入れます」

「新作を稽古で擦り切れさせるのは、好きではありません」

「そして上演し、観客の前へ出て、その裁きを受けます」

レメスロフの計画は、沈黙で迎えられた……。

「主任演出家は『知恵の悲しみ』の演出をお辞めになったのですか?」長い間のあと、ラススードフが尋ねた。

「いいえ」レメスロフは驚いて答えた。

「では」とラススードフは問い続けた。「これまで従ってきた芸術上の原則を、お捨てになったのですか?」

「それも違います」レメスロフは、ますます驚いた。

「何を根拠に、そう考えるのです?」

「あなたの提案された作業計画からです」とラススードフは説明した。

「それは、トヴォルツォフ自身がふだん話し、実行していることと、正反対です」

「仕事を速めるため、わずかな変更を加えるだけですよ」とレメスロフは弁解した。

「残念ながら、その変更は、私たちの創造の根本を、すべて壊すことになります」とラススードフは反論した。

「怖がらせますね」レメスロフは冗談にしてかわそうとした。

「まことに残念ですが、私たちも皆、あなたの提案におびえています」

「それなら、何がそれほど皆さんを怖がらせたのか、説明していただけませんか?」

「喜んで」とラススードフは丁重に答えた。「ただ、その説明は、今日の話し合いの主題である『知恵の悲しみ』から、私たちを遠ざけてしまいそうですが」

これ以上作業を続ける前に、誤解を解こうということになった。

主任演出家であり指導者でもあるトヴォルツォフの創造の基本的方法を、誰よりよく話せるラススードフに、発言が任された。

ラススードフが年代記の帳面を手放さず、稽古、授業、芸術についての会話で、トヴォルツォフが惜しげもなく語る考え、助言、警句を、しょっちゅう書き留めてきたのは、無駄ではなかった。

ラススードフは、困ったという身ぶりから始めた。肩を上げ、途方に暮れたように両手を広げ、苦い顔をして、こもった声で言った。

「ここで何年も教えられ、それでもまだ身につかないことを、どうして十五分で説明できるでしょう?」

「この問題で言うべきことの、ごく一部、千分の一ほどなら話せます……」

「だが、それで互いに理解できるようになるかは、疑わしい……」

「さて、どこから始めよう?」彼は拳で額をこすり、自分に言った……。

「どこから、どこから?」

「主題はあまりに広く、尽きることがない!……」演説の組み立てを頭で考えながら、ささやき続けた。

「こういうことです」と、決然とレメスロフへ向き直った。「毎回、創造を繰り返すたびに、役を体験することができます」

「これが、体験の芸術です」

「一方、自宅で一度か何度か役を体験し、感情が身体に表れる形を観察して、そのあと、その形を記憶によって、感情を伴わず、機械的に再現することもできます」

「これが、再現の芸術です」

「知っています。サルヴィーニが手紙に、コクランが著作に、すでに書いていますね」と、レメスロフはすかさず学識を誇った。

「どれも新しい話ではありません」

「芸術では、新しいことしか話してはいけないのでしょうか?」ラススードフは尋ねた。

「美しい、人間としての内面の生活を創造する私たちの芸術には、いつでも新しいことが見つかると思います。それほど、私たちの関心の領域は無限なのです」

「同時に、古いものも常にあるでしょう。創造の分野での経験や技術も、また豊かなのですから」

「ですが、話の主題から外れないようにしましょう」

「役を体験したり再現したりするだけでなく、一度決めた演技の手法を使って、ただ内容を報告することもできます」

「これが職人仕事です。残念ながら、劇場で最も広く行われています」

「私たちの芸術の三つの方向、体験、再現、職人仕事のうち、私たちが認めるのは一つ、体験の芸術だけです」

「私も、それしか認めません。でなければ、ここにはいませんよ!」レメスロフは大げさな熱を込めて叫んだ。

「本物の俳優は、必ず体験しなければならない」

「先ほどまでのお話のあとで、その言葉を伺うのは不思議です」とラススードフは驚いた。

「何が不思議なのです!」レメスロフは気を悪くした。

「だって、そうでしょう」とラススードフは説明した。「つい先ほど、まだ自分のために命を与え、自分のものにしていない他人の台詞を、機械的に叩き込むよう提案されました」

「そのあと、やはり私たちの感情になじまない、あなたの配置と動きを暗記するように、と」

「さらに、舞台上をあなたの指図どおりに歩かせようとなさる。役、その性格、心理、解釈も、私たちの感じ方ではなく、あなたの望みどおりに理解するよう求めておられます」

「化粧も衣装も、こうしてお知り合いになるよりずっと前、何年も前にキーウで用意され、今、モスクワの私たちに指定されています。しかも、ついでに言えば、役の配役さえまだ決まらないうちにです」

「つまり、感情をおびえさせ、体験を殺す、俳優の自然な資質への無理強いの道を、私たちに提案されているのです」

「そのうえ最後には、ご自分はこの芸術の使徒であり、まさにその無理強いへ反対するトヴォルツォフの信奉者だと、おっしゃる」

「世界中の劇場の演出家がしていることを、提案しているだけです」とレメスロフは弁解した。

「ただし……私たちの劇場は除きます」と、ラススードフはきっぱり言った。

「では、この劇場での演出家の役割とは何なのか、伺ってもよろしいですか?」レメスロフは、皮肉を交えて尋ねた。

「産科医、助産婦の役割です。新しい生きた存在、つまり役が、自然に、正常に生まれる、その場に立ち会う人です」とラススードフは断言した。

「そんな役を、どうもありがとうございます」レメスロフは、おどけてうやうやしく礼をした。

「私は自分で創造するほうが好きですね」

「助産婦の役を、見下して断るのは間違いです。とても難しく、尊い役割です」とラススードフは説いた。

「創造する自然そのものの協力者になるのは、容易ではありません」

「その驚くべき創造の仕事を助けるのも、容易ではありません」

「ああ、自然な資質の、正常で自然な、生きた創造の法則を理解する、つまり感じ取るのに、どれほどのことが必要か!」

「私たちの仕事では、理解するとは、感じることなのです」

「俳優の自然な資質を、その法則を壊さず、賢明に生かすことを、演出家が学ぶには、どれほどのことが要るでしょう。他人、つまり俳優に創造を起こさせ、その自然な創造の仕事を、定めた正しい流れへ導くことを学ぶには」

「もう理解してよいはずです。私たちの芸術で創造するのは、俳優の自然な資質、その直感、超意識であって、人間本人ではありません。私でも、あなたでも、演出家でも俳優でもない。弱く、取るに足らない、無力な舞台技術でも、操り人形のような職人仕事でもないのです」

「私たちが、どうして自然と張り合えるでしょう!」

「『芸術、創造は、遊戯でも、人為的なものでも、技術の妙技でもない。心と身体の自然な資質による、ごく自然な創造の過程である』」ラススードフは、年代記に記したトヴォルツォフの言葉を読んだ。

「『私たちの創造を、自然のほかのどんな生命の創造とも比べてみるとよい。これらの生成の過程が、互いに似ていることに驚くだろう』」

「『たとえば俳優の創造には、ほかの創造の過程と同じく、種を蒔くこと、受精、受胎、内外の姿や形の形成、意志、意識、心の要素、性質、習慣の形成、そして最後に〔生きた存在の〕誕生に対応する瞬間が見られる』」

「『俳優が役を生んだ、と言うのには理由があるのだ』」

「では、その受精、受胎、出産のすべてで、誰がお父さん、誰がお母さんになるのです?」レメスロフが下品な冗談を言った。

もちろん、このありふれた冗談は受けた。似た調子の言葉が次々と飛び交い、作家、俳優、演出家に親の役目を割り振る、大討論になった。

結局、父親は作家と決まった。俳優に種を蒔くからだ。母親は俳優。作家の種によって受精し、その内に新しい生きた存在が宿り、育ち、そこから生まれるからだ。

哀れな演出家は、レメスロフには不満ながら、また助産婦、仲人、取り持ち女の役を与えられた。作家と俳優を近づけ、結びつけるからだ。

ラススードフが、役の創造と自然の生成の仕事との類似をさらに示し、余計なおしゃべりを急いで止めなければ、議論はどれほど際どい細部へ進んだことだろう。

「出産と同じような創造の苦しみもあれば、役が形になる、さまざまな時期もあります」と彼は論を続けた。

「役の生まれる瞬間もあり、初めて脚光の世界へ現れたあとの発達段階、役の乳児期、少年期、成熟期もあります」

「役に栄養を与え、育てる方法も、成長に避けられない病気もあります」

「要するに」と、ラススードフはまた原稿を読んだ。「『舞台上の創造物には、それぞれの生活、歴史、自然な性質があり、心と身体の、生きた、いわば有機的な要素が備わっている』」

「『舞台上の創造物は、人間の姿にかたどって作られた、生きた存在だ。死んだ、擦り切れた芝居の型に似せたものではない』」

「『舞台上の創造物には説得力が必要だ。その存在を信じさせなければならない。自然の中にあり、存在し、私たちの内に、私たちとともに生きるべきであって、存在しているように見え、何かを思わせ、存在するふりをするのではない』」

「つまり」と、調子に乗ったレメスロフは、受けを期待する目で皆を見回し、また冗談を言った。「ある日、俳優は一人で稽古に来て、夕方には、生まれたばかりの小さなハムレットやオセローの手を引いて、帰宅するわけですね」

「そして引退するころには、自分と同じ老人たちに囲まれて歩く」

「それは皆、一緒に年を取った自分の創造物、というわけだ」

レメスロフは人のよさそうな笑い声を上げた。だが今度は誰も加わらず、一人で笑いきった。

「そうです。そのとおりです!」ラススードフは、ほとんど厳しい調子で認めた。

「俳優は一人で生き、歩くのではなく、自分のすべての役とともにいるのです」

「役の生活の領域では、俳優は自分自身ではなくなり、自分を失って、何か特別な存在になります」

「トヴォルツォフは、それをこう言っています」

「『俳優の創造の仕事の結果は、生きた創造物である』」ラススードフはまた原稿を読んだ。

「『それは、作家が生んだとおりの役の複製ではない。私たちが現実に知る、そのままの俳優本人でもない』」

「『新しい創造物は、自分を宿し、生んだ俳優と、その俳優に種を与えた役との、両方の特徴を受け継ぐ、生きた存在だ』」

「『新しい創造物は、作家と俳優の、心からの心、肉からの肉である』」

「『それは役という人間と、俳優という人間の、心と身体の生きた要素が融合することで、自然そのものの計り知れない法則に従って生まれうる、唯一の生きた存在なのだ』」

「『私たちの間に生き始めたその存在を、好きになることも、嫌うこともできる。だが、それはあり、存在しており、別のものにはなれない』」

「どういうことです? もし、その創造物が、演出家や作家の求めるものに合わなかったら?」レメスロフは戸惑った。

「その場合、俳優から自然に生まれた創造物を、部分ごとに修正することはできません。自分の好みに合わせて作り変えてはいけないのです」とラススードフは説明した。

「『結婚』のアガーフィヤ・チーホノヴナが〔望むように〕、〔ニカノール・イワーノヴィチの唇を、イワン・クジミーチの鼻につける〕わけにはいきません。新しい創造物を作るのです。俳優と役の心に、新たな生きた要素を探し、それを組み合わせ、新しい心のあり方、新しい有機的な結びつきを作らなければならない。それが、作家や演出家により近い、新しい創造物を生むのです」

「それでは劇場ではなく、産院ではありませんか!」レメスロフは叫んだ。

「一つの戯曲を上演するのに九か月もかかるのも、昨日や今日のように、アメリカ式の能率とは程遠い稽古をするのも、道理でというわけですね」

「仕方がありません」とラススードフは説明した。

「生きた有機的な存在、つまり役を宿し、育て、生み、作るには、創造する自然そのものが定めた、一定の時間が必要です」

「種を蒔いて実を育てるにも、子を宿して産むにも、自然の定めた一定の期間が必要なのと、まったく同じです」

「四日でも十日でも四十日でも、稽古日数を決めて、役とその心を作れるものではありません。一か月で子を宿して産めず、数時間で種を蒔き、育て、実を収穫できないのと同じです」

「自然そのものの定める、十分な時間があって初めて、本当に役を体験できます」

「体験がなければ、創造も芸術もありません」

* * *

〔「つまり、あらかじめ決めた計画なしで作業しよう、というのですか?」レメスロフは反論した。〕

「こういうことです」とラススードフは説明した。「あなたの計画は、ごく普通の、舞台を演出してまとめる仕事に合わせてあります」

「それを芸術にしたいのですか?」

「よいでしょう!」

「演出による舞台づくりの芸術と呼びましょう。だが、その隣で、純粋に俳優の芸術が花開くことは、難しいでしょう」

「なぜです?」レメスロフは戸惑った。

「あなたが創造するか、私たちが創造するかだからです」とラススードフは説明した。

「あなたが創造の主体で、私たちはその手の中のただの材料、単なる職人なのか。逆に、私たちが創造し、あなたは助けるだけなのか、どちらかです」

「そうでなければ、どうなるでしょう?」

「あなたは一方、つまり芝居の外面的な見せ物へ引っ張り、私たちは心理と心の深化へ引っ張る」

「それでは、互いに打ち消し合うだけです」

「私たち俳優の芸術を職人仕事に変え、あなたが芸術を創造する」

「その組み合わせなら、可能です」

「理解してください。あなたの考える演出による舞台づくりは、俳優の芸術、とりわけ、絶えず体験し続けることを求める私たちの方向とは、何の共通点もないのです」

「あなたの舞台づくりの芸術と、私たち俳優の芸術は、必然的に互いを打ち消します」

「あなたが芸術の領域で創造すれば、私たちは職人仕事の領域へ移り、自らの創意を忘れなければなりません」

「そして、私たち俳優が自分で創造したくなったら、あなたは困るでしょう」

「あなたの演出、配置と動き、装置、衣装は、何も残らなくなります」

「私たちは、自分の感情の望む、別のものを求め、あなたは譲らなければなりません。もちろん、私たちに火をつけ、導いていける場合は別ですが」

「なぜです? どうして一緒に仕事ができないのです?」レメスロフは戸惑った。

「あなたの計画には、芸術家の高揚を呼び起こす余地も、自然な創造の過程そのものの余地も、ないからです」

「私の計画には、何が足りないのですか?」

「まず、私たちの心に自然に生まれるものを知ろうとする、演出家としての姿勢です。その自然の創造を、私たちとともに理解し、愛そうとする意志です。そして理解したうえで、私たち俳優の創造の仕事を、あなたの演出の手段によって、観客に明確で美しい芸術的な形として示す、その手助けです」

「あるいは逆に、あなたの仕事を見せてください。それに浸り、夢中になり、愛し、なじみ、その中で生き始める時間を、私たちにください」

「そうすれば、それは自然に、おのずと観客の心へ届くでしょう」

* * *

「なぜ一緒に進み、助け合おうとしないのです?」レメスロフは戸惑った。

「いいえ。あなたとは進みません」とラススードフは断定した。

「あなたとは、行く道が違います」

「別々に進むことになります」

「あなたは、私たちの友人でも助手でもありません」

「敵です。俳優の自然な資質を無理に曲げ、押し潰し、傷つけるからです」

「自分の成功のために、私たちを利用しているのです」

「あなたは私たちを搾取する人、奴隷の主人です。私たちの創造する心を、決して渡しはしません」

「ちょっと待ってください。なぜ私を罵るのです? 私だって、しまいには怒りますよ!」レメスロフは身を守った。

「あなた個人ではありません」とラススードフは詫びた。「あなたの舞台づくりの芸術のことです」

「私たちから絞り出せるのは、せいぜい服従です」

「経験、職人的な演技技術、舞台慣れならお使いください。だが、創造や体験は求めないでください」

「代わりに得られるのは、職業俳優としての興奮だけです」

「私たちは、それを機械的に呼び起こします」

「誰でも、自分の動物的な気質を使えば、いつでも理由なく興奮できるのです」

「注文どおりに赤くなり、青ざめ、笑い転げ、涙を流せます」

「もっとも、その笑いはあまりおかしくなく、涙もあまり塩辛くありません」

「私たちは哀れに見えません。自分でも涙を信じていないのに、どうして観客に同情を求められましょう?」

「それでも、泣く愚かな人はいますが」

「笑うときも注文どおり、何かがおかしいのでなく、ただ漠然と笑います」

「笑うための笑いです……」

「職人的な俳優は、舞台で何も本質から行わず、ただ漠然とするのですから」

「私たちに、ここに立て、この言葉で腕を上げろ、この場所で興奮し、別の場所では赤くなり、泣き、叫び、あるいは死ね、と命じてください」

「ご安心を。給料さえ払ってくだされば、すべて正確にします」

「もちろん、自分のではなく、あなたの危険負担と責任と良心のもとで」

「大げさに振る舞う手法も、俳優としての感情も、職人的な型や習慣も、十分にあります。観客に我に返る暇も、退屈する暇も与えません」

「何でも言うことを聞きます」

「職人的な俳優は、演出家の手の中の駒になるのが大好きです。この役はこう『演じる』のだと、見せてもらいたがります」

「ただし、体験だけは求めないでください」

「彼らはそれが好きではありませんし、あなたの作業条件では、不可能なのです」

「なぜ?」レメスロフは戸惑った。

「あなたの作業計画には、体験のための場所も、材料も、時間もないからです」

「根拠のない決めつけです。証明してください」とレメスロフは抗議した。

「よろしいでしょう」

「役の心を形作る精神的な材料は、俳優ではなく、あなたが用意している。彼の心ではなく、あなたの心から取ったものです」

「ご自分で集めた材料が、あなたにとって生きて、震えているのは、当然です」

「だが私には、他人のもので、死んでいます」

「しかも、それを自分のものにする時間、非常に多くの時間さえ、あなたは与えてくれない」

「自分自身で新たな材料を集めることも、許してくれない」

「あなたには、役に対応する自分の感情によって生き始めるのは、容易でしょう」

「だが私が、あなたの注文どおり、しかもいきなり、準備なしで、あなたの感情によって生きられますか?」

「役の解釈、配置と動き、化粧や衣装も、同じです」

「すべては他人のもので、私のものではない。私は駒、あなたの美しい衣装を掛けるハンガーのままです」

「あなたの条件は、まったく違います」

「誰にも急かされない。演出家として、集中し、役と自分の内へ入り、役に必要なものを自分の心に見つけ、他人である作家の構想を自分のものにする、十分な時間があった」

「静かな書斎で、美術家、文学者、教授、俳優、本、スケッチなどの助けを借り、何年も上演を準備し、完成した、おそらくすばらしい仕事を持ってくるのを、誰が妨げましたか?」

「それはあなたの創造です。その創造者を名乗る権利はあります」

「だから、そのすばらしい演出の仕事を、ご自分で示し、何年もかけて作ったものを、どう体験し、具現するか見せるときには、確かに本物の芸術、生きた体験とその具現を、私たちに見せてくださるでしょう」

「私たち俳優も、心から拍手するでしょう」

「だが観客は、あなたの創造の、そのすばらしい瞬間を見られません」

「稽古には入れてもらえないからです」

「観客が見るのは、別のものです。あなたの創造を自分のものにする暇のなかった私たちが、上演で外側だけをまね、とても真面目に、しかし冷たく、あなたの配置と動き、自分たちになじまない演出の構想を示すところです」

「戯曲と役の台詞を、明確に、はっきり観客へ報告し、自分のではなく、あなたの解釈を説明します」

「確かに、あなたの創造の仕事は面白い。独裁者としての役割は、大きく、広範囲にわたります」

「あなた一人が戯曲全体を創造する。では私たちは? 私たちには何が残るのです?」

「本当の創造の仕事はすべてご自分で取り、私たちには補助的な職人仕事を与える」

「あなたと観客との仲介者、取次商の役割を与えるのです」

「そんな役を、まことにありがとうございます!」

「私たちは御免です!」

* * *

「トヴォルツォフも演出家で、非常に自主的で、鮮明な個性の持ち主です。それでも、彼とは一緒に仕事ができるとお考えなのですね?」レメスロフは戸惑った。

「トヴォルツォフは、まったく別です」

「私たちは彼と手を取り合い、歩調を合わせて進みます」

「彼は、教師であり、心理学者であり、哲学者であり、生理学者である演出家です」

「俳優の心と身体の自然な資質を、誰よりよく知っている。自然そのものの創造を助ける産科医、助産婦の、尊く難しい役割を理解し、その奉仕に身を捧げているのです」

「必要なら、自分を隠し、表に出さないことができます」

「そして同時に、才能、経験、知識のすべてで、いつも私たち俳優に尽くし、芸術のために自分を犠牲にします」

「トヴォルツォフ自身が優れた俳優です。劇場の第一の存在は、昔もこれからも俳優だと、理解している」

「俳優の成功を通してこそ、何千もの観客の心へ入り、作家の作品の種、その肝心な核を植えつけられると知っているのです。俳優が、演出家や作家とともに、情熱を燃やすその核を」

「見せ物、豪華な演出、豊かな配置と動き、絵、踊り、群衆の場面が、目と耳を楽しませることを、彼は理解しています」

「それらも心を動かしますが、俳優の体験ほど深くは届きません」

「私たちの芸術のすべては、体験にあるのです」

「体験は、俳優の感情、意志、思考の、目に見えない放射で劇場と舞台を満たします。それが不思議な道を通って、観客の心へ伝わるのです」

「演出家の舞台づくりではなく、それが俳優と観客の心の奥を開き、互いに一つになる道を作ります」

「しかし、この超意識の驚くべき仕事ができるのは、魔法使いである自然だけです。私たちの人形芝居のような演技技術でも、あなたの舞台づくりの芸術でもありません」

「『自然に道を開け、自然に任せよう!』とトヴォルツォフはいつも言います」

「もう一つ、好んで繰り返す言葉にも理由があります。『斧では象牙に繊細な彫刻を施せない。それと同じく、粗い俳優の手段では、創造する自然の驚くべき仕事を、代わって果たすことはできない』」

「劇場で最も大切なのは、自然そのものの創造の奇跡です」

「だからこそトヴォルツォフは、舞台の見せ方を作る演出家を好まず、産科医や助産婦という名誉ある呼び名を、誇りにしているのです」

「彼は私たち俳優の側の人で、あなたのように、舞台を演出し、組み立てる側の人ではありません」

「だから私たちは彼を愛し、芸術家としての心を、すべて捧げるのです」

「トヴォルツォフに学び、一緒に働いてください。そうすれば、私たちもあなたを愛し、ともに進みましょう」

「恐ろしい……!」レメスロフは、かすかにささやき、そっと顔を背けた。おそらく、その表情を隠すために。

「恐ろしいのなら、迷わず職人仕事へ進んでください」レメスロフの正直な言葉に心を動かされたらしく、ラススードフはずっと柔らかな調子で続けた。

「職人的な俳優を皆、手中に収め、その中で唯一の創造する演出家になればよい」

「彼らには、堂々と自分の計画を実行してください。それなら正しいのです」

「あまり話をさせないことです」

「職人や凡才が舞台で知恵をひけらかし始めたら、よいことは期待できません」

「独裁的でも才能のある創造者、演出家が、彼らを従わせればよい」

「凡才や職人は、自分で創造せず、才能ある人の創造を映せばよい」

「そのほうが、型どおりの才能のないなぐり描きより、はるかにましです」

「そんな、自称『認められない天才』たちを、身のほどに合う場所へ戻せば、役に立つ仕事をしたことになります」

* * *

この議論が明確な結論に至らないことは、明らかだった。レメスロフは新しいことを何も言えず、こうした場合に持ち出される、ありきたりの言葉を繰り返すだけだった。

ラススードフもまた、私たちがトヴォルツォフ本人から何度も聞いたことを繰り返していた。

議論は長引き、私は夜の上演に出なければならなかった。

そこで家へ帰った。

そのとき、トヴォルツォフがよく話し合いを締めくくる、お気に入りの言葉を思い出した。「君たちは耳を傾けたが、聞き取ってはいない! 美しいものに耳を傾けて聞き取り、目を向けて見いだすのは、難しいことだ!」

私は急いで帰宅し、食事をして、上演に間に合うよう、余裕を持って劇場へ戻った。

楽屋に入ると、家との往復で疲れ、長椅子へ倒れ込んだ。

だが眠れなかった。隣の俳優用談話室で、話し声が大きすぎたからだ。

誰かが小話をしていて、眠りの邪魔になった。

反対側、ラススードフの楽屋では、彼とレメスロフが議論していた。

「まさか、話し合いのあと、ずっと別れずにいたのか?」と私は思った。

だが実際には、ラススードフは家へ帰り、レメスロフが送っていって、そこで食事をし、その後一緒に劇場へ戻ってきたのだという。

「なるほど」と私は思った。「レメスロフの学問的な引用が『年代記係』の心をつかみ、二人を親しくしたんだ」

「午後一時から六時まで、同じ話題で議論している!」

「記録ものだ!」

右側の談話室から上がった喝采と拍手が、また私の注意を引いた。

そこでは、『天才的な』ヌィーロフが称えられていた。彼も仲間の俳優で、手軽な稼ぎ目当ての上演を企画することを専門にしていた。

その演劇事業がどれほど儲かるか、説明していた。

どうやら新しい計画を話しているらしいが、聞き取れず残念だった。

「だから、あなたには説明しきれないんです!」ラススードフが吠えた。

「まず、そんな他人行儀な言い方はよしてくれよ」とレメスロフが直した。

訳注

ロシア語の丁寧な二人称「ヴイ」から、親しい二人称「トゥイ」へ言い換えさせている。

「もう、親しい『君』の間柄か!」私は驚いた。

「たった十分ほどで、トヴォルツォフに教わったすべてを、君へ説明できるものか」

「何が十分だ」と私は思った。「一時から六時までじゃないか!」

「いいか、聞いてくれ!」ラススードフは長広舌の構えに入った。

「ありがたい!」私は思った。「ラススードフの講義なら、不眠によく効くだろう」

「果実や植物を育てるには、何が必要だ?」ラススードフは始めた。

「土を耕し、種を見つけ、地面に埋め、水をやらなければならない」

「私たちの仕事も同じだ」

「俳優の思考と心を耕さなければならない」

「それから、戯曲と役の種を見つけ、俳優の心へ蒔き、乾かないよう水をやるのだ」

「わかる」とレメスロフは聞き入った。

「役が育つ種、作家の作品を生む種とは、作家を執筆へ向かわせ、俳優に戯曲を愛させ、役へ夢中にさせた、出発点の考え、感情、大切な夢だ」

「その、戯曲と役の肝心な核を、まず俳優の心へ投げ込まなければならない。トヴォルツォフが超課題と呼ぶものだ。いわば俳優に、それを宿させるために」

「ヴラジーミル・イヴァーノヴィチ・ネミローヴィチ=ダンチェンコは、この創造の過程を、福音書の言葉で表している」

ラススードフがまた『年代記』のページをめくる音がした。そして読んだ。「ヨハネによる福音書、第十二章二十四節。『まことに、まことに言う。麦の種は、地に落ちて死ななければ、一粒のままだ。だが、死ねば多くの実を結ぶ』」

「この言葉について、ネミローヴィチ=ダンチェンコはこう言う」と、ラススードフは書き留めた考えを読んだ。「『劇作家の作品の種を、俳優の心へ蒔かなければならない。植物の種が地中で朽ちるように、その種も、俳優の心の中で必ず朽ちなければならない』」

「『朽ちた種は根を伸ばす。そこから自然の中では新しい植物が、芸術では新しい創造物が育つ』」

その先、ラススードフの話は何も聞かなかった。

* * *

ラススードフの講義という麻酔が、効き始めた。

長椅子に横たわったまま、目の前の物から、後ろへ傾き、後ずさりしていくようだった。

いや、逆に、物のほうが私から離れていくのかもしれない。

わからない!

ラススードフも、ヌィーロフも、もう存在しなかった。

ただ、ときどき、ラススードフの楽屋から、何かの文句や単語が頭へ飛び込んできた。

「『意識を通して無意識へ!』これこそ、私たちの芸術の標語、信条、旗に記す言葉だ」

私は「無意識」とは何か、理解しようとして、うまくいかなかった。すぐに忘れてしまった。右側の談話室から、別の文句が耳へ飛び込んできたからだ。

「観客はネズミだ」

「騒ぎが激しいほど、ネズミは音につられて集まってくる」

「観客も同じだ」

「人だかりが大きいほど、芝居に入りたい人も増える」

「劇場は、希望者全員を収めてはいけない」

「必ず、観客の需要より小さくなくちゃいけないんだ」

「本当だよ、誓ってもいい!」

「四千ルーブルさえあれば、俺は……」

無意識が、小さな光の反射を混ぜた灰色のほこりになって、どこかへ押し入ろうとしていた……。

毛皮の帽子をかぶった、背の高い痩せた人々が、果てしない群れとなって、同じ方へ歩いていく……細い隙間へ、おそらくヌィーロフの劇場へ……。

押し合いが起こり、私は拍手とヌィーロフの愚かな笑い声で、目を覚ました。

誰かが、私たちの創造の十分の九は無意識で、意識的なのは十分の一だけだ、と主張していた。

別の声、どうやらレメスロフが、ある学者の言葉を引用した。「私たちの精神生活の十分の九は、無意識の中で行われる」

私はその言葉がとても気に入り、覚えておこうとした。

起きて書き留めようとさえ決めたが、起きずに寝返りを打った。

また、「意識を通して無意識へ」……「旗に記す」……「信条」という言葉……。

意識を通して無意識へ――一瞬目が覚め、突然、その意味がはっきり感じられた。

何と単純で、何とすばらしいことだろう!

「君たちの俳優の仕事は、何を土台にしているのか?」と聞かれるだろう。

「無意識、芸術家の霊感です」と私たちは、よどみなく答える。

「何、霊感だって! 注文どおりに作ろうというのか! あれはアポロンから授けられ、天才の頭上へ、上から降りてくるものではないか……」

「霊感そのものを作るのではありません。霊感に適した土壌、最も霊感の訪れやすい心の状態を、準備するだけです」

「その仕事、つまり霊感によい土壌を整えることは、十分に意識で扱え、私たちの力の内にあります」

「だから、『意識を通して無意識へ』と言うのです」

「俳優に適した状態を意識的に作れば、無意識の、あるいは潜在意識の霊感が、いっそうたびたび、上から照らしてくれるでしょう」

これが、トヴォルツォフの説くことなのだ。

何と単純なことか!

よくわかる!

だが、芝居通を気取る誰かに聞いてみるがよい。「あなたのお考えでは、トヴォルツォフと、私たちその不肖の弟子は、直感と霊感の俳優に属しますか。それとも職人的な技術の俳優ですか?」「もちろん技術だ」と通人は叫ぶだろう。「トヴォルツォフは役を細部まで作り込む。だから技術の人だ」

「では、霊感の俳優とは誰です?」

「二回から五回の稽古で、すぐ役を作る人ですか?」

「やっつけ仕事の人ですか?」

「アポロンが、たちまち上から照らすのは、そんな人たちですか!」

「彼らが見通し、一度に戯曲全体を創造するというのですか?」

「それこそ、ひどい職人仕事だと、わかってください!」

「よしたまえ!」通人は重々しく反論するだろう。「彼らは本当に赤くなり、青ざめ、泣き、笑うではないか」

「だが、それは俳優の涙です! 塩味のない、真水の涙です」

「とんでもない! 彼らは霊感を受け、心から夢中になっている」と通人は、自信を持って反論する。

「水汲みだって、薪割りだって、夢中でできますよ」

それでも、この鈍感な連中に何を説明しようと、小新聞の無能な批評家に一度吹き込まれたことを、いつまでも繰り返す。「トヴォルツォフは技術の俳優、抑えの利かない動物的な気質を持つ、やっつけ仕事の職人こそ、腹の底から演じる霊感の俳優だ」と。

ふん!

何という鈍さだ!

「何だって!」隣の楽屋でラススードフが、まるで私に加勢するように叫んだ。

「シェイクスピア、グリボエードフ、画家イワーノフ、トンマーゾ・サルヴィーニには、それぞれの作品について、本物の創造の過程を完成させるのに、何年も、何十年も必要だった。それなのに、君の地方の天才マカーロフ=ゼムリャンスキーには、同じ過程に十回の稽古で十分だというのか!」

「どちらかだ。マカーロフ=ゼムリャンスキーはサルヴィーニ以上の天才か。それとも、その創造の過程の性質は、サルヴィーニの行う過程と、何の共通点もないか」

「マカーロフ=ゼムリャンスキーとサルヴィーニを比べているのではない。ただ、地方にも、首都に劣らず、素早く創造する天才的な俳優がいる、と言っているだけだ」

「『ああ、この早熟な創造の出来損ないたち!』主任演出家トヴォルツォフは、そんな職人仕事を見ると、よく叫ぶ。『こんな流産児、未熟児のような作品を、誰が欲しがるのか!』と」

反対側、楽屋のもう一方の壁の向こうから、激しい笑い声が起こり、議論をかき消した。

ヌィーロフが、自分の興行の冒険談を語っていた。同じ一座を使い、同じ晩に、二つの町で上演したというのだ。

一座の一部が、ある町で上演を始め、その芝居を持って別の町へ移る。

同時に、もう一方の町からは、そこで自分たちの芝居を演じ終えた、一座の残り半分がやって来る。

ポスターには、こう書かれていた。「シェイクスピア上演。一夜に『ハムレット』と『ロミオ』。モスクワの名優二人の競演客演。イグラーロフのハムレット、ユンツォフのロミオ」

もちろん、どちらの戯曲も、数場面にまで縮めてあった。

「ユンツォフ!」私は驚いた。

「劇場附属学校の二年生で、試験でさえ、重要な役を任されたことがないのに!」

「もう客演のロミオか!」

「主演のイグラーロフは、恥ずかしくないのか!」

「面白いのはな」とヌィーロフは自慢した。「どれほど工夫しても、両方の町で一度ずつ、とても長い幕間を作らなきゃならなかったことだ」

「困ったよ!」

「列車の時刻表がそうなっていて、ほかに回しようがなかったんだ……」

「時間を埋めるしかなかった」

「俺は片方の町、つまりKにいて、ハムレットの父の亡霊を演じたサーシカは、もう片方のSに残った。わかるだろ、Kへは行かず、そっちの幕間で働いたんだ……歌を歌い、持ち芸を見せてな……」

「待てよ」と誰かが首をかしげた。「父の亡霊はSに残り、『ハムレット』の芝居全体はKへ来た、と言うのか?」

「そうだよ」とヌィーロフは答えた。

「サーシカがSに残ったのなら、Kで父の亡霊を演じたのは誰だ?」問いかける声は、まだ納得していなかった。

ヌィーロフの、長く愚かな笑い声が聞こえた。

「誰かって?」彼は笑いで息を詰まらせた。

「隣町の輔祭さ」

「その低音ときたら、君! 地の底から、あの世から響くようだった!」

「どこでそんな人を見つけたんだ?」ヌィーロフは尋ねられた。

「列車で会った」

「二十五ルーブルで、助けてくれたよ」

ヌィーロフはまた、長々と愚かしく笑った。

「いやあ、すごい音を出したんだ。まるで『幾年も……』と祝祷を歌うときみたいにな」

「『さらば、さらば、私を覚えておれえええ……』。その『私を』のところを、首席輔祭よろしく、大声で響かせたんだ」

「『私をおおお……』」ヌィーロフはもう一度まねをし、輔祭が長寿を祝う祈りで出す高い音を、かすれた声で叫んだ。

「だが、そこで困ったことになった」

「声はまだ響いているのに、亡霊はもう舞台を去ってしまった。わかるか?」

「音は残ったのに、俳優は出ていったんだ」

「どの俳優?」皆が首をかしげた。

「輔祭は、舞台の小さな装置の後ろに隠してあったのさ」とヌィーロフは説明した。「足が不自由で、太っていたから、そのまま出すわけにはいかなかったんだ」

「では、代わりに舞台へ出たのは誰だ?」皆が尋ねた。

「教えるもんか!……」ヌィーロフは笑いでむせた。

「消防士さ!」

「閲兵式みたいに行進した!」

「しかも帽子のひさしに手をやって、ハムレットに敬礼したんだ」

「本当だ、神に誓って!」

「いくらやめてくれと頼んでも、我慢できなかったんだよ」

皆の騒ぎで、その先は聞こえなかった。

やがて大笑いが収まると、静けさの中に、ラススードフとレメスロフの声がはっきり浮かび上がった。

* * *

二人はプーシキンについて議論していた。

プーシキンが芸術に求めるのは真実ではなく約束事だ、という自説の証拠として、レメスロフは、こうした議論でいつも持ち出される詩句を挙げていた。

卑小な真実の群れよりも、私たちには尊い、
私たちを高めてくれる偽りが!

そして、これも。

作りごとの上に、私は涙を流す……。

ラススードフは逆に、プーシキンが求めるのは真実だと論じていた。ただし、本人が「卑小な真実の群れ」と呼ぶ、小さな真実ではない。別の、大きな真実、私たち俳優の中にあり、芸術によって清められた感情の真実なのだ。

その根拠として、同じプーシキンの別の言葉を引いた。こうした議論では、なぜか、いつも忘れられる言葉だ。

「与えられた状況における、情念の真実、感情の真実らしさ。それこそが、私たちの知性が劇作家に求めるものだ」

「これが私たちの芸術すべての基礎だ」とラススードフは論じた。「俳優の仕事の計画が、すでに示されている。まず意識的に『与えられた状況』を作る。すると、おのずと超意識によって『情念の真実』が現れるのだ」

「それはすごい、それはいい! さすがプーシキンだ!」誰かの声が、感激で息を詰まらせた。

チュフストヴォフだった。いつの間にか、ラススードフの楽屋に来ていた。

「あなたたちの言う『感情の真実らしさ』と『情念の真実』とは、何です?」レメスロフは尋ねた。

「どうしてわからないんです!」チュフストヴォフは熱くなった。

「『情念の真実』が、役を全面的に、心から、直接に感じ、体験することを指すなら、『感情の真実らしさ』は、その本物の感情と体験そのものではなく、それに近い、似た感情、もっと正確には、その生きた記憶です」

「トヴォルツォフは、感情に耳打ちしてもらいながら行う、よい演技、再現まで、真実らしさとして認めてもよいと考えている」とラススードフが説明した。

「いや、いや、賛成できない!」チュフストヴォフは熱くなったが、考えてから付け加えた。「いや……まあ……本当に役を生き、体験し、『情念の真実』を示せないのなら、仕方がない、『感情の真実らしさ』を再現してもいい。だが、ばかげた、出たとこ勝負ではなく、筋道を立て、正しく、真実らしく、自分の生きた感情の導きと指示に従い、常に生きた真実を目指してだ」

「そうすれば、その真実に似た何か、いわば真実の似姿、真実らしさになる」

「まったく、たまらないね!」チュフストヴォフは感嘆を続けた。

「僕たちは探し、頭を悩ませているのに、アレクサンドル・セルゲーエヴィチは百年前にもう、今僕たちが何をすべきか、何から仕事を始めるべきか、答えを出していたんだ」

「何からです?」レメスロフは尋ねた。

「何からって! 与えられた状況からだよ。それなら理解できる。心で感じられる。状況を知らなければ、情念の真実は来ない」とチュフストヴォフは説明した。

「だから、まず役と戯曲の生活条件に関わることを、すべて知るんだ」

「どうぞ、歓迎します、受け入れます。話してください」

「では、与えられた状況とは何です?」レメスロフは食い下がった。

「どうしてわからないんですか」とチュフストヴォフはいら立った。

「それでも、お聞かせください」とレメスロフは譲らなかった。

「与えられた状況とは、戯曲の物語全体、役の生活条件が長く連なったものです」とラススードフが説明した。「つまり部屋、家、暮らし、社会的立場、時代、習慣、外的な生活条件です!」

「戯曲と役の、ですね? そういうことですか?」レメスロフは確かめた。

「そんなものは、まだ小さなことだ」

「もっと大切な、内面的な状況がある」

「ああ、それは繊細な状況だ!」チュフストヴォフは、美食家のように、再びプーシキンの言葉を味わった。

「自分の心の生活もある。他人の心と生活の実感もある。妻、子供、兄弟姉妹、召使い、客、上司、部下、社会全体、世界全体の生活がある!」

「自分と他人の心の流れ、生活の糸、理想、志向が、織り合わさり、ぶつかり、出会い、分かれ、絡まり、争い、和解する。その目に見えない糸から、網が、心のこのうえなく繊細なレースが、心の生活の状況が織られ、俳優を包むのだ」

「つまり、目に見えない、無意識の糸なのですね。それなら、その心の網を、どう意識的に織れるのですか?」レメスロフは戸惑った。どうやら、チュフストヴォフの芸術家としての高揚に、火をつけられていた。

「どうって!」チュフストヴォフは晴れやかに叫んだ。「意識を通して無意識へ、だよ! 忘れたのか!」

「だから意識的なものから始めればいい。グリボエードフの与えた外的な状況を、できるだけ面白く、美しく話してもらうんだ」

「僕は注意深く聞き、意味を考え、話に夢中になる」

「戯曲と役の生活の状況を、自分の人生で知る状況や、実際に見て観察した他人の状況と比べる」

「そうすると、他人の状況がますます近しく、なじみ深くなり、ついには互いに溶け合って、自分自身の状況になる」

「作家の示した状況を消化し、その中で生き慣れたら、演出家が、作家を補う自分の状況を明かしてくれればよい」

「それは、演出家の考えた上演計画から生まれたものだ」

「僕は俳優として、自分の現実の生活や想像の生活から取った、自分にはもっと面白く、美しい状況で、それを補う」

「美術家も連れてきてくれ。スケッチ、装置、衣装も。照明も、舞台づくりも、小道具も持ってきてくれ」

「全部、自分に合わせ、自分のものにし、生き慣れ、なじみ、消化する」

「その状況がすべて溶け合い、なじみ合ったとき、プーシキンの言う『与えられた状況』ができるのだ」

「それらから、役の生活条件を自分のために作る。そして作り、信じたら、その真ん中に自分を置くんだ」

「外と内の状況の、いちばん濃いところに、風呂へ浸かるように自分を感じたとき、超意識の創造、情念の真実が始まる」

「どういうふうにです?」レメスロフは再び興味を示した。

「俳優が作った状況を信じた、その瞬間に、どこからか『情念の真実』が、ひとりでに飛び出してくる」

「まばたきする暇もないうちに、もう目の前にいる」

「『こんにちは、私ってこんなものよ!』と言うだろう。『こんにちは、いとしい、待ち望んだ、限りない喜びよ!』と、こちらは答えるんだ」

「それが、私の必要とする『情念の真実』と違ったら、演出家の私はどうすればいいのです?」レメスロフは譲らなかった。

「そのときは叫べばいい。『違う、違う! 生きた本物が来たが、求めたものではない! 必要な情念の真実とは違う』と」

「そう言う権利はある。外から見るあなたのほうが、よくわかる」

「『ああ、困った!』」

「つまり、俳優がどこかで間違えたのだ」

「何かの状況を誤り、つかみ損ね、見落とし、計算を間違えた!」

「初めからやり直せばいい」

「すべて変える」

「新しく組み合わせる」

「新しい条件を作る。それが、おのずと自然に、新しい『情念の真実』や『感情の真実らしさ』を呼び起こすように」

「難しい仕事だから、皆に、できることを助けてもらえばよい」

「演出家も一緒に間違いを探し、わかったら、もっと正しい別の方向へ、僕を引き、心を誘ってほしい」

「どうやってです?」レメスロフは関心を示した。

「どうやって? ただし講義だけは御免だ」とチュフストヴォフは説明した。

「僕みたいな間抜けを、博物館か、どこかの屋敷へ連れていってくれればいい。その空気を吸い、自分自身の鼻で、演出家の求めるものを嗅げるように」

「あるいは、絵、写真、本を持ってきてくれ。逸話や事実、物語を丸ごと、でっち上げてもいい。実際にはなかったが、ありえたことで、言いたいことを的確に描くものなら」

「いいですか」とレメスロフははっきり言った。「ボブルイスクあたりの地方の悲劇俳優が、その話を聞いたら、私たち哀れな演出家は、もうやっていけませんよ」

「やっていけない、そのとおり!」チュフストヴォフは、むしろうれしそうだった。「まったく正しいことをおっしゃる」

「その悲劇俳優が聞いたら、大変だ」

「自分のどんな咆哮も、しかめ面も、けいれんも、調子の狂いも、『情念の真実』『感情の真実らしさ』だと思うだろうからね」

「しかも、彼は正しいのです!」レメスロフは付け加えた。

「ボブルイスクの悲劇俳優には、芝居がかった大げさな振る舞いは、調子の狂いでなく、自然な状態です」

「だから、それを『情念の真実』と呼ぶのは、彼なりには正しい」

「作り芝居の中で、本人は心からやっているのだね」

「トヴォルツォフのお気に入りの例を、覚えているか?」ラススードフはチュフストヴォフに尋ねた。

「どの例だ?」

相手は興味を示した。

「死にかけた俳優の話だよ」とラススードフは説明した。

「そうだった……トヴォルツォフの知り合いの俳優が、どこかの片隅で、貧しさの中、死を迎えようとしていた」

「トヴォルツォフが見舞いに行くと、彼はもう臨終の苦しみの中にいた」

「すると、どうだ……死にゆく人が、死を前に、俳優じみた悲劇の身ぶりをするのは、見ていてつらいものだった。時代物の衣装を着る役の決まりのように、指を美しく広げて、手を胸へ押しつける……」

「目も芝居がかって上へ向ける……」

「熱で燃える額を、手の甲で拭く。かつてコミッサルジェフスカヤがしていたように」

「悲劇俳優が最終幕で死ぬ前に、終演後の喝采を増そうとして出すような、うめき声を上げる」

「だが、死にかけているのは、立派で、信心深い人だった」

「臨終に、わざと芝居をするはずはない」

「ところが、いつも大げさな演技をしていたため、筋肉がそれに慣れ、変わりきって、不自然な俳優の身ぶりが、彼にはすっかり自然なものになっていた。死の苦しみの中でも、それが離れなかったのだ」

* * *

開演前の最初のベルが鳴った。十五分後には舞台へ出なければならないのに、私は化粧を始めたばかりで、顎ひげも口ひげもつけず、かつらも衣装も着けていない。上演の準備ができていなかった!

猛烈な慌て方が始まった。こういうときにはいつもそうだが、物は手から落ち、化粧の色はのらず、ひげ用の接着剤の瓶はこぼれ、整えておいた物をむやみに散らかす。必要なときには、ネクタイも手袋も靴も見つからない。

高熱でうなされるとき、開演に遅れそうな俳優の、こんな無力な状態は悪夢になる。

だが現実に味わったのは、初めてだった。私は時間を守ることで知られていたからだ。

それが今回は、上演を丸十分も遅らせた。

幕が上がっても、興奮と慌ただしさで頭はまだぐるぐるしていた。集中できず、動悸も鎮まらず、台詞も間違えた。

しかし、ついには興奮を抑えた。習慣が働いたのだ。役でおなじみの状態が整い、舌は、とうに心から忘れ去られ、意味も失った言葉を機械的にしゃべり始めた。手も足も体全体も、意識や意志と関係なく、慣れたとおりに動いた。

私は落ち着き、もう別のことを考え始めていた。

演じ慣れすぎた役では、台詞の下に隠れた心の本質より、無関係なことを考えるほうが、ずっと楽なのだ。

その本質は、長い上演の繰り返しで、飽きが来て、退屈になり、鋭さを失い、擦り切れていた。

創造を繰り返すたび、毎回、それを新鮮にする力が必要だ。

そのためには心の注意が必要で、それは難しい。

それに、遠い昔の、俳優としての幸福な青春の日々には、演技技術とは、舞台の演技を機械的な習慣にまで高めることだ、と思っていた。演じながら意識が二つに分かれるのは、経験の証拠であり、台詞、感情、思考、行動、作者のト書きに、頼りなくしがみつく素人と、職業俳優を分けるものだと考えていた。

そのとき演じていた場面は、別の考えにふけるのに向いていた。

短い応答をする箇所がいくつもあり、それ以外は黙っていた。

主な演技は、その間にあった。だが私は、その間を役のためでなく、自分のため、幕間や次の出番までにすることを考えるために使っていた。

覚えている。その上演では、三流新聞の劇評家と何かの用件で会う約束があり、さらに、私のファンで、貴族気取りのしつこい老婦人を待っていた。

どちらの面会も退屈で、どうすれば早く切り上げられるか、頭を悩ませていた。

「あのしつこい老女が手紙に書いた『大事な用』なんて、どうせ些細なことだ」と私は思った。そして、彼女が来てどっかり座り、何枚もの暖かいショールを脱ぎ、長い前置きを始め、ついには、俳優は純粋な芸術を神聖に愛するべきだ、という当たり前のことを言う様子を、もう思い浮かべていた。

「『私も芸術を愛しております』と付け加えるだろう」

「『夫があれほど高い地位にいなければ、私もきっと女優になっていましたわ……それも、とてもよい女優に』と、自分を褒めるのだ」

最後には、次の舞台総稽古の招待券をねだるだろう。

この無用なおしゃべりを見越して、彼女には出番のあいだの、最も短い休みを指定しておいた。

「長居はできまい」と、心の中で自分を励ました。

「劇評家のほうは、もっと切り上げにくいだろう」と考えた。

「どうも、取材に来る気がする」

「『共同体としての創造について、どうお考えですか?』などと聞くのだろう」

何という俗っぽさだ!

突然、私は止まった。役の言葉が尽きたかのように、機械的な記憶のテープが切れ、すべてを一度に忘れてしまった。何をするべきかも、習慣で無意識に何を話していたかも、演じている戯曲、幕、役そのものさえも。

記憶に巨大な白い空白ができ、すべてがそこへ消え、溶け込んでしまった。

一瞬、恐怖に駆られ、取り乱した。

どこにいて、何をするべきかをつかむため、長い間を持たせなければならなかった。急いで周囲を見回し、どの戯曲のどの場面を演じているか思い出し、それから、私を我に返そうと力いっぱい声を押し出す、プロンプターの救いの声に耳を澄ませた。

一語をつかみ、慣れた身ぶりを一つすると、すべてが元に戻った。そしてまた、機械的に覚え込んだ演技が、線路の上を行くように、自動的に転がり始めた。

次の最初の間に、今起こったことを考えた。そして、あの停止は偶然ではなく、この物忘れが、いつしか自分には普通になっていたことに気づいた。

そればかりではない。その停止も、これからの私事や家の用事を考える習慣も、恐慌の一瞬さえも、とっくに、いわば役そのものに『稽古で組み込まれていた』と感じた。

この思いがけない発見に動揺し、私は舞台を出てから考え込んだ。

「自分のどこに、『情念の真実』『感情の真実らしさ』がある?」

「プーシキン自身が言う『与えられた状況』は、どこにある?」その瞬間、俳優の芸術における、この単純な言葉の深さと重要さを、私は感じ取った。

プーシキン自身が、その言葉によって自分を告発している、とわかった。

胸は、よくないことを感じていた。

「劇評家と老婦人には、次の出番のあいだまで待ってもらおう」と私は考えた。

「待ちくたびれて、自分から帰るかもしれない」

私は舞台上にある、舞台監督助手用の、小さなガラス張りの部屋へ入った。

もちろん、上演を進行している人には、隠れ場所を前もって知らせた。

記憶が新しいうちに、自分を確かめてみよう。

たった今演じた場面で、自分はどんな状況を生きていたのか。

たとえば戯曲の、いちばん初め。

自分は、ふりをし、顔を作っていたではないか!

気にかけていたのは、声に震える悲しみの響きをつけ、観客の関心を引き、独白の考えを注意深く追わせることだけだった。

別の瞬間もある。演じる人物の亡き妻を思い出すところだ。

そこでも、私は大げさに振る舞い、顔を作っていた。

そのときも、気にかけていたのは、一点をできるだけじっと見つめながら、亡き妻の好きだったという歌の、同じ数小節を悲しげに口ずさむことだけだった。

歌を急にやめ、丁寧に辺りを見回し、自分がどこにいるかわからないふりをした。

その際、間を長く取りすぎる癖について、以前注意されたことは、しっかり覚えていた。

次に、話す速さを上げ、理由もなく自分を興奮させた。単に動物的な気質と筋肉から来る、嫌な、外面的で機械的な、俳優の興奮だ。

だが、かつてはこの場面を鋭く感じ、作者の与えた生きた状況をすべて、心から体験していたのだ。

ところが時がたち、俳優の職人仕事と経験は、芸術と何の関係もない、まったく別の『状況』を作ってしまった。

つまり状況には、生きた人間のものだけでなく、職人的な、俳優の都合のものもある。

「このことは話しておかなければ」と私は思った。

だが何より悪いのは、演じながら、劇評家と老婦人のことを考えられてしまうことだ、と私は心の中で考えた。

「いや、職業俳優の節度、自信、落ち着きとは、役からすっかり離れることではない」

どうして間のあいだ、無関係なことを考えたのだろう!

間があると、役の内面的な流れや発展は途切れるのか。

いや、そうではない。自分の用事を考えていたのは、間のあいだだけではない。台詞を口にしている、その最中にも考えていた。

役を作っていたころには、尽きることのない生きた瞬間の流れがあった。だが今は……。

かつて私を夢中にし、名声をもたらした最高の役で、『情念の真実』を見つける助けになった、あの生きた、美しい、心を揺さぶる状況は、どこへ消えたのか。

その瞬間、非常にはっきりわかった。役を作るときに体験していた、あの『生きた状況』が、『情念の真実』、本物の感情を生んでいたのだ。

今の俳優の都合による状況が呼び起こすのは、意味のない機械的な癖だけだ。

私は化粧の下で赤くなった。最高の役で生きていた自分の『状況』は、まったく特殊なもので、上演する戯曲の作者とも、描き出す人物の生きた生活とも、自分が汚している芸術そのものとも、何の関係もないとわかったからだ。

自分自身を疑った。

自分は、こんな俳優だったのか!

客席からは、こう見えているのか!

私は自分を、まったく別の、独創的で、大胆で、誠実な俳優だと思っていたのに。

ということは、この戯曲もほかの戯曲も、何百回もの上演で、何年も、毎日毎日、今日と同じ姿を舞台にさらしてきたのか!

しかも同時に、偉そうに、優越感を持って、同じ演技をする他人を非難していたのか!

愚かな女性ファンたちの賛辞を、当然の貢ぎ物のように、何と尊大に受け取っていたことか。

彼女たちの写真やアルバムに、どんな言葉を書きつけていたことか!

その上演の数日前、楽屋で起こった場面を思い出した。

若い女性が駆け込んできた。美しくもなく、品もなかった。

興奮で震えながら何か言おうとして、言えなかった……突然、思いがけず私の手をつかみ、口づけすると、狂ったように部屋を飛び出していった。

我に返ったとき、彼女の姿はもうなく、私は満足の笑みを抑えられなかった。そのとき、自分の偉大さを感じていたからだ!

今、そのときの笑みが、何と恥ずかしく思えたことか。

そこで、私の自信と下手な演技を、いつも責めていた批評家や敵を、敬意とともに思い出した。あの忘れられない上演で、ようやく自分にもはっきり見えた、その演技を。

舞台監督助手が、私の座る小部屋のガラスを、控えめに引っかいた。

私は舞台へ行き、いつもよりよくも悪くもなく演じた。

そもそも、いつも演じ慣れたとおりより、よくも悪くもできなかっただろう。演技を何も変えられなかったはずだ。それほど機械的な習慣が深く根づき、『稽古で組み込まれて』いたのだ。

それでも、場面のあいだの短い休みに考えたことの影響で、自分の演技を見張り、発音、抑揚、動き、行動を批評し始めた。

そのあいだも舌は慣れた台詞をしゃべり、体と筋肉は覚えた身ぶりを繰り返していた。

「イリーナと穴が、長いこと掘られていた」

これはどういう意味だ?

何の「穴が掘られていた」のだ? 私は頭の中で自分を問い詰めた。

意味の通らないことを言っている。

「イリーナと私、私たちは長いことごそごそやっていた」と言うべきなのに、「イリーナと穴が、長いこと掘られていた」と言っている。

訳注

原文では「私、私たちは」に当たる「ヤー、ムイ」を続けて発音すると、「穴」を意味する「ヤームイ」のように聞こえる。

言葉を正しくまとめることさえできない。論理的な間を守らず、強調するところを間違えている。ロシア語を話しているのでなく、外国人のようだ。

そう考えているあいだに、また文法の崩れた文句が飛び出した。「ヴォトン、祭り、平和と愛の」。

訳注

原文の「ヴォト・オン」(さあ、これこそ)を一語の名のようにつなげ、文全体の区切りも崩している。

「ヴォトン、祭り」とは、何のことだ?

「ヴォトン」が、どう関係する?

なぜあれほど長く止まり、そのあと、ほとんど聞こえない「平和と愛の」が来るのか。

どうやら、その文法に合わない間に、まったく馬鹿げた、機械的な小細工が入り込んでいた。

「いや、偶然ではない」と私は思った。

「今日だけでなく、いつもこの文句を、同じ抑揚で、同じように文法を無視して言っていた。これも役に、稽古で組み込まれていたのだ」

「今の身ぶりはどうだ!」

「何を意味している?」

「わかっている!」

「嫌な、俳優の媚びだ!」

「観客に色目を使っている!」

「演じる人物の心に深い劇が起こっている、その瞬間に、私はこんなことをしているのだ」

「また、また、同じような、意味のない媚びた身ぶりだ! 数えきれない!」

「では、この紙切れを使う芝居はどうだ。ありもしない動揺と無力さのふりをして、指で折り、くしゃくしゃにする!」

「かつては自然に、偶然に出て、よかった」

「だが今は?」

「何に成り果てたのだ!」

「何と俗っぽく、趣味の悪い俳優の小細工だろう!」

「それを、何と愛情を込めて磨き、前面に押し出し、見せびらかしていることか!」

「感情は?」

「かつて、この紙の芝居を生んだ感情は、どこへ行ったのか?」

「以前の本物の創造の感情は、痕跡さえ自分の中に見つからなかった」

「また、また、俳優の小細工だ!」

「一つから次へと渡っている」

「これが役を進める流れなのだ!」

「これが、私の貫く行動、トヴォルツォフの言う超課題なのだ」

「もう、たくさんだ! こんな小細工は全部、追い払え! 役の本質そのものを生きよう!」私は、いつものハンカチを使う芝居を飛ばし、代わりに感情へ集中しようとした。だが感情は見つからず、台詞まで危うくわからなくなりかけた。

役を新鮮にしようと、その場で配置と動きを変えてみた。だが始めたとたん、台詞がぐらつくのを感じた。

つまり、そのころの私は、身についた俳優の癖と、役の主軸になった小細工の流れから、無事に外れることさえ、もうできなかったのだ。

以前の正しい流れをたどることは、なおさらできなかった。

それは失われ、跡形もなかった。

失ったものをよみがえらせるには、感情による、新しい創造の仕事が必要だった。

今は一つの小細工から次の小細工へしがみつき、それを頼りに役を進めるほかなかった。

その小細工に、もう少しも気乗りせず、以前のような自信たっぷりの態度ではできなくなったことが、事態を悪くした。

足元から地面が逃げ、私は何の支えもなく、宙に浮いていた。

舞台の足場を失うと、自分の内に、客席へ引かれる力を感じた。

まるで、フットライトの向こう、客席にある新しい軸へ、自分が付け替えられたかのようだった。

実際、以前は、役に関係する感情、思考、習慣、たとえ俳優の小細工であっても、その中を回っていた。注意の輪は舞台上にあり、その縁が客席に触れるだけだった。

今、その輪の中心が客席へ移った。

私は観客を眺めるか、観客と一緒に、客席から自分自身を見ているようになった。

戯曲と役は、どこか、その輪の外に残され、その生活について、私はもう何も知らなかった。

機械的に役を演じながら自分を観察し、一歩一歩を批評することで、当然、自然な直接性を殺していた。同時に、演技の機械的な無意識を分析することで、それを意識的なものへ変えていた。

言い換えれば、自分の座る枝を切り、役を支える土台を揺さぶっていた。俳優としての大きな態度と自信が消え、色合いは薄れ、小細工は鮮明さを失った。

全体が灰色の、曖昧なものになった。失敗したあとのように、ひっそり、目立たず舞台を出たと感じた。

待っていた老婦人と劇評家は来なかった。私は、上演中に今のことを考え込みすぎないよう、次の出番までは楽屋で一人にならず、人の中で過ごそうと決めた。

声の聞こえるラススードフの楽屋へ行った。

小さな部屋は俳優でいっぱいだった。窓台、暖房の管、互いの膝に座る者、戸口に立つ者、鏡つきの戸棚へ背をもたせる者がいた。

ラススードフ本人は、いつものように自分の肘掛け椅子に鎮座していた。

チュフストヴォフは、その肘掛けに座っていた。

その前に、被告のように一人離れてレメスロフが座り、緊張から、数秒おきに金鎖のついた鼻眼鏡を直していた。

* * *

「私だって、舞台には人間としての内面の生活が必要だと言っています」とレメスロフは〔弁解していた〕。

「それなら、またご自分と矛盾しています」とラススードフは〔迫った〕。

「なぜです?」レメスロフは戸惑った。

「心の生活は」とラススードフは説明した。「それを生きた人間として感じること、つまり本物の感情と体験によって作られるからです」

「だが、あなたは、何千もの人々の前で、公開の創造という、心を乱し注意を散らす条件のもとでは、生きた人間の感情は生まれないと考えている」

「自分で不可能だと言い、その体験を、きっぱり放棄しました」

「その放棄は、本物の生きた感情を退け、舞台上では、外面的な俳優の身体の行動、再現を認めることです」

「そう、再現です。だが、それによって役の感情を表すのです」とレメスロフは〔主張した〕。

「アレクセイ・マルコヴィチだって、役の人物像と情念を再現すると言っていますよ」

「イグラーロフは、自宅の書斎で体験することを否定していません」とラススードフは〔反論した〕。「あなたはそれさえ否定しています」

「扱っているのは内面の感情ではなく、その外側の結果だけ、心の体験ではなく、その身体的な描写だけ、内なる本質ではなく、外観だけなのです」

「存在しない架空の体験の、外側の結果をまねているだけです」

「俳優は皆、そうしているのです」とレメスロフは〔言い張った〕。「認めたくないだけで、体験するのは、ときどきの天才だけです」

「仮にそうだとしましょう。賛成はしませんが」とラススードフは〔続けた〕。「しかし、感情を自然に具現せず、まねるのなら、まず実際に、自分自身か他人の中で、その自然な具現の形を観察しなければなりません」

「複製するその手本、原型、実物は、どこから得るのでしょう?」

「創造するたび、役のためのすべての見本、すべての材料を、現実の生活の中で見られるとは、あてにできないでしょう?」

「残る手段は一つ、自分で役の感情を体験し、自然に具現することです」

「ところが、あなたは体験を、きっぱり放棄した」

「体験してもいない、架空の感情の外的な身体の形を、どう知るのです?」

「存在しない体験の結果を、どう見いだすのです?」

「そのために、非常に簡単な抜け道が見つけられています」

「どんなものです?」レメスロフは〔興味を示した〕。

「あなたのおっしゃる俳優たちは」とラススードフは〔答えた〕。「舞台で出会いうる、あらゆる感情と情念、あらゆる場合、あらゆる役を表す、決まった、変えることのない演技の手法を作り上げたのです」

「その芝居の約束事による表現手法が、存在しない体験の外側の結果を語ります」

「どんな手法のことです?」

「どこから来たものです?」

「正直に言って、何もわかりません」とレメスロフは熱くなった。

「その手法には」とラススードフは落ち着いて説明した。「先人から伝統として受け継いだもの、才能のある同時代人から、できあがった形で借りたもの、俳優が自分のために作ったものがあります」

「劇場には、そうした手法に何世紀も親しんだ習慣があるので、俳優はすぐに覚え、機械的な演技の習慣ができます」

「舌は役の言葉をしゃべることを覚え、手足や体全体は、決まった配置や動き、演出家の指示に従って動くことを覚える。身についた舞台の状況は、それに対応する、いつもの行動を起こす、という具合です」

「これらの機械的な演技手法は、訓練された俳優の筋肉に定着し、第二の天性になります。そして舞台上だけでなく、実際の生活でも、本来の人間の天性を押しのけるのです」

「困るのは、こうして固定された感情の仮面が、舞台ですぐに擦り切れ、風化し、かつてそれを生んだかもしれない内面の生活の気配を失うことです。そして単なる機械的体操、単なる俳優の型となり、人間の感情や、生きた心の生活とは、何の関係もなくなる」

「そうした型が連なると、俳優の表現の儀式、一種の演技の儀礼ができ、役の内容を約束事で報告するのに、付き添うようになります」

「型と演技の儀礼は、俳優の仕事を大いに簡単にします」

「実生活でも、才能に恵まれない人の暮らしを簡単にする、手法や形式ができています」

「たとえば、信じる力のない人には儀式が、威厳を示せない人には礼法が、身なりを整えられない人には流行が、創造できない人には約束事と型が、用意されています」

「だから政治家は式典を、聖職者は儀式を、俗人は慣習を、しゃれ者は流行を、俳優は舞台の約束事、型、演技の儀礼一式を好むのです」

「オペラ、バレエ、とりわけ偽古典主義の悲劇には、それが満ちています。そこでは、英雄の複雑で崇高な体験を、一度覚えた固定した演技の型で伝えようとし、むなしく終わるのです」

* * *

切迫したベルが、私を忘我から引き戻した。

遅れている出演者を、急いで舞台へ呼ぶベルだった。

私は行かなければならなかった。嫌になった職人仕事を続けるために。

「笑え、道化師よ」だ。

ああ、空っぽのまま舞台へ出るのは、何と恥ずかしいことか!

もう信じられないことをするのは、何と屈辱的だろう。

舞台の入り口で、舞台監督助手が待っていた。

「もうすぐ出番です」と厳しく言ったが、すぐに柔らかく、ほとんど優しく付け加えた。「ベルを鳴らしてすみません。人をやれず、自分も離れられなかったものですから」

「気の毒がられている」と私は思った。「ということは、そうされる理由があるのだ」

「世話を焼かれている!」

「この人の世話を焼いていたのは、ついこのあいだまで、自分だったのに!」

「舞台の働き手も、小道具係も、どうやら私を気の毒がっている。なぜ、あんなにじっと見るのか?」

苦い感情が、全身へ広がった。

だが、傷ついた自尊心ではなかった。

揺らいだ、自分への信頼だった。

私たち俳優は、病的に自尊心が強いと思うのは、間違いだ。

もちろん、そういう人もいる。

だが大半は、おびえやすく、自信が乏しい。

傷ついたからではなく、ただ怖いから、警戒するのだ。

求められることを果たせないのではないか、と恐れる。

自分を信じられなくなることを恐れる。信頼なしに、何千人もの前へ出るのは、怖いからだ。

冷たい水には一気に飛び込むしかないように、そのときの私も、考えず、一気に出るしかなかった。

室内装置の扉を素早く開け、再び舞台へ飛び出した。目の前に、大怪獣の口のように開く、舞台の額縁の向こうの黒い穴に、ぶつかった。

人間の体で満ちた、その恐ろしい穴の大きさと深さを、初めて感じた気がした。

底なしの深みへ引っ張られ、見ずにはいられなかった。視力が鋭くなり、遠くまで見えるようになった。

自分でも驚くほど、遠くが見えた。

後ろの列であっても、誰かが動き、身をかがめ、ハンカチを出し、番付を見、舞台から顔をそらすと、その理由を知ろうとして、すぐ目で追っていた。

当然、舞台上の出来事から注意が離れ、落ち着かなくなった。自分の居場所にいるのではなく、見せ物としてさらされ、何としても成功しなければならない、と感じた。

新しく演じようとした。状況を作り、感情が本物だと信じ、偽りを真実に変えようとした。だが、ああ、理論では簡単なことも、実際には難しい。

自分の内には、何も見つからなかった。

そこで、理屈も考察もやめ、ただ機械的に、体の動くまま、長年の習慣と小細工を頼りに、以前の演技へ戻ろうとした。

だが、それさえもうできなかった。自分を観察し、無意識だったことを意識し始めると、機械的な動きは失われるからだ。

私はそのとき、舞台へ出て、何千もの人々を引きつけ続けるのが、どれほど恐ろしく、難しいことかを知った。

舞台を去るのが、どれほど快いか、初めて感じたかもしれない。以前は、出ていくほうが、ずっと好きだったのに。

今回も、自分一人ではいられなかった。恐慌が起こり始める気配を感じていたからだ。

人の中にいなければならないという思いに押され、またラススードフの楽屋へ行った……。

* * *

幕が終わりかけていた。

ラススードフは、たった一つの出番を終え、もう楽屋で着替えていた。

化粧を落としてくたびれた顔に粉をはたき、パフと粉を手にしたまま、近眼の目でレメスロフを見つめ、その話を注意深く聞いていた。

「あなたは」とレメスロフは反論した。「私たちの芸術の目的は、舞台に人間としての内面の生活を作り、それを芸術的な形で映すことだ、と言う」

「どうして心の生活だけで、身体の生活ではないのです?」

「身体は心の生活を表すものだからです」とラススードフは説明し、パフを振った。周囲のすべてに粉をまき散らしていることには、気づかなかった。

「創造の本質は身体にはありません。身体は、その本質を表すために働くものです」

「身体には、身体の生活がある。しかも、とても面白いものです」とレメスロフは言い返した。

「それは否定しません」

「身体が自分のマモンだけに仕えるのは、勝手です。だが芸術では、まれな例外を除けば、身体が必要なのは、人間としての心の生活を、美しく映すかぎりにおいてです」

訳注

マモンは富や物質的欲望の象徴。ここでは身体がそれ自体の欲求だけに仕えることを皮肉っている。

「それには同意できないこともあります」とレメスロフは争った。

「そうなら、これ以上話すことはありません」とラススードフは言った。

「内なる心の生活に理由を与えられない、外側の美しさに、自分と芸術を捧げたい人は、そうすればよい」

「身体のために、舞台に美しい外観の、効果的な見せ物を作ればよい。私たちも喜んで見にいきます」

「しかし、〔トヴォルツォフ〕も、その弟子の私も、そんな外面的な慰みに、人生の一分たりとも捧げたくはありません」

「だから私たちと話すときは、舞台では人間の心の生活を第一とする、という基本を、〔トヴォルツォフの〕理論の不可欠な条件としていただかなければなりません」

「ああ! それなら、黙りましょう」とレメスロフは譲った。

「だが、キーウの有名な批評家イワーノフは……」

「知っています!」ラススードフは遮った。

「見栄えのする引用なら、いくらでも浴びせられるでしょう」

「ワイルドにも、とりわけ最近の演劇人にも、無数にあります」

「芸術は、ほかの抽象的な領域と同じく、しゃれた警句、大胆な理論、気の利いた比喩、自然そのものへの不敵な嘲笑、意外な結論、深遠そうな言葉に、実に都合がよい。それは芸術そのものではなく、話す本人に必要なものなのです」

「見栄えのする引用は自尊心をくすぐり、うぬぼれを強め、〔相手〕に取り入り、話し手自身を持ち上げ、その並外れた知性や洗練を示します」

「芸術についての華麗な理論の引用が、素人に大きな印象を与えるのは、よく知られています。それを口にする人は、何の危険も負いません」

「誰が実際に確かめるというのです?」

「残念なことです」

「芸術について語られ、書かれたことを、すべて舞台へ移してみたら、すっかり失望するでしょうに」

「その言葉には、実際に役立つ意味より、美しい言い回しのほうが多いのです」

「頭にごみを詰め、芸術の発展を妨げ、俳優を混乱させます」

「『芸術は自然の中ではなく、人間自身の中にある』と、自然より上だと思い込む、洗練された審美家は言います」

「では、人間そのものは何ですか、と私は尋ねましょう」

「人間も自然なのです」

「人間、その心と身体の創造の器官、天才、創造の霊感などは、自然の創造力の、最高の、計り知れない現れであり、表現者です」

「人間は、その揺るがない法則に従っています」

「意識の届かない領域、とりわけ創造の直感、つまり芸術家の超意識の仕事では、その支配はいっそう強い」

「洗練された審美家に、この領域で何ができますか?」

「多くはありません」

「創造するのではなく、自然の作るものを評価し、使うだけです」

「同じ自然から授かった才能によって、自分の自然な資質がすでに作るものを、選ぶことはできます」

「だから、私たち不肖の者にも、自信過剰な審美家にも、〔トヴォルツォフ〕の言うとおり、『まず、自然、自分自身、他人、役の中の美しいものへ目を向け、見いだすことを学ぶ』必要がある。〔シチェープキン〕の教えに従えば、『生活から手本を取ることを学ぶ』のです」

「審美家に、ほかに何ができるでしょう?」

「自分の創造する自然な資質へ、面白い主題と材料を与えることです。現実の生活と、やはり自然、自分自身と周囲の自然から選んで……」

「私たちにできるのは、自然が人間の内面の生活を作るのを、邪魔せず、ある程度助けることを学ぶだけです」

「自然を理解し、美しいものを見つめ、見いだし、法則を調べ、要素へ分けることを学べます。そして美しいものを自然から取り、漬物にした姿ではなく、生きたまま舞台へ移すことを」

「これは非常に難しい。私たちの演技技術が、その仕事に足りることを祈るばかりです」

「自然そのものより洗練された、独自の美を作るなど、どうしてできましょう。自然と張り合うなど!」

「自然なもの、あるがままのものから、嫌悪して顔を背ける必要もありません」

「〔トヴォルツォフ〕が偉大なのは、まさに、自然の万能と自分の小ささを、十分に理解するところまで育ったからです」

「だから、自然と競う考えをすべて捨て、俳優のために、内面的、精神的な技術と、外面的、身体的な技術を作ろうとしています。それ自体が創造するのではなく、自然の計り知れない創造の仕事を助ける技術を」

「この領域で意識が捉えられる、わずかなことを、〔トヴォルツォフ〕は大きな探究心で研究しています」

「意識の届かない、それ以外のすべては、自然へ全面的に委ねています」

「『自然に任せよう』と彼は言うのです」

「この単純な真理をわからない人々を、〔トヴォルツォフ〕は滑稽だと思っています」

「彼に滑稽だと思われたくないので、反論はしません。言えることは、山ほどありますが」と〔レメスロフは言った〕。

「こうした俳優の演技では、舞台上の創造の生活の十分の一だけが意識的で、十分の九は無意識、あるいは超意識なのです」

「何ですって?」レメスロフは戸惑った。「外側の姿も、おのずと、無意識に生まれるのですか?」

「そうです。しばしば内側から教えられます。そのときには、歩き方、動き、身のこなし、習慣、衣装、化粧、全体の姿が、自然に現れます……」

「舞台の創造物は、人間の姿にかたどって作られた、生きた有機的な存在です。死んだ、擦り切れた芝居の型に似せたものではありません」

それまで椅子の中でもぞもぞし、いら立って顔をしかめていたイグラーロフが、とうとう我慢できず、議論に加わった。

「本気で信じているのですか」と、少し芝居がかった熱を込めて言った。「その評判の、本物の、生きた有機的な存在が、舞台上にできるなどということを!」

「自己欺瞞、おとぎ話、想像の遊びではありませんか!」

「知っていますよ。あなたたちの有機的な体験は見ました。俳優が舞台の真ん中に立ち、目を自分の腹の中へ向け、身動きもせず固まり、自分を締めつけて、話すことも動くこともできない。一分に一語ずつ、二歩離れれば聞こえないほどの声で絞り出し、途方もなく深く体験していると、皆に言い張る」

「愚か者に祈れと言えば、額を割るまで頭を打ちつけるものさ」とチュフストヴォフが差し挟んだ。

「アレクセイ・マルコヴィチに賛成します。署名します……いや、同調します!」レメスロフは、ことさらに大声を上げた。

「何が有機的な体験です!」

「体験などやめて、ただ、うまく演じていただきたい」

「いや、待ってください」イグラーロフは、頼んでもいない助太刀を急いで止めた。

「体験は必要です。本物の、そう、有機的な体験もです。ただ、それが可能な場所、静かな書斎でのことです。何千もの人々の前ではない。そこでは、家でした仕事の成果を持ってきて、見せ、再現しなければなりません」

「創造は家でし、舞台ではその結果を示すのです」

「しかし、仮に一瞬」とイグラーロフは続けた。「本物の体験と自然な具現が、上演の条件の中、舞台で可能だとしてみましょう」

「それでも使うべきではありません。芸術に有害だからです」

「有害?」多くの者が驚いた。

「そう、有害です」とイグラーロフは言い張った。

「本物の体験とその自然な具現は、舞台向きではないのです」

「舞台向きではないとは?」

「繊細すぎて、捉えがたく、広い劇場の空間では、よく見えないからです」

「役の、目に見えない内面的な像や情念の体験を、舞台に適したものにするには、その具現の形をくっきりと明確にし、俳優と観客のあいだの大きな距離を越えて、見えるようにしなければなりません」

「よく見えるようにするため、表現の手法を人為的に強調し、大きくし、説明し、示し、演じてみせる必要があります」

「要するに、ある程度の芝居らしさ、描き足しが必要で、それを与えるのが俳優の芸術です」

「考えてください。扱うのは、単純な外側の筋だけではありません。舞台上に表すべき、人間の心の生活です。単純でわかりやすい筋にさえ、いっそう明瞭にするため、強調した演技が必要なら、目にも耳にも捉えられない、役の心の像や情念を扱う場合には、なおさら必要でしょう」

「目に見える舞台の形によってこそ、本物の感情そのものは無理でも、準備中に体験し、観察した、その身体的な表れを、舞台から伝えられるのです」

「舞台で大切で必要なのは、体験そのものではなく、その目に見える成果です」

「人前で創造するとき、大切なのは、俳優自身がどう体験し、感じるかではなく、見ている観客が何を感じるかなのです……」

「舞台の創造物には説得力が必要です」と〔ラススードフは反論した〕。「その存在を信じさせなければなりません」

「自然の中にあり、存在し、私たちの内に、私たちとともに生きるのでなければならない。ただ存在するように見え、思わせ、存在するふりをするのではなく」

「『存在』ですって! 妙な表現ですね」とレメスロフは難癖をつけた。

「『自然の中に存在する』『存在するように見える』ですか」

「わかりにくい。文章の直し方がよくありませんね」

「そうは思いません」とラススードフは身を守った。

当惑と興奮で、顔に赤い斑が浮いた。

「ゴーゴリが、シュイスキーだったかシチェープキンだったかへの手紙で、うまく言っています」ネヴォーリンが、詫びるように、ほとんどささやいた。

照れたときの彼は、とてもおかしかった。身の置き所がなくなり、五本の指を襟の奥へ深く入れ、襟を直すように、中で指を動かした。

その作業に、大きな力と、張りつめた注意を注いでいた。

ラススードフはネヴォーリンを厳しく見て、焦れたように尋ねた。

「ゴーゴリは何と言ったのです?」

「『人物をまねることは誰にでもできるが、人物になることができるのは、才能のある者だけだ』と」引用を口にすると、ネヴォーリンはたちまち、さらに照れて、すべてを否定し始めた。

「いや、もしかすると、違う話で……見当違いかも」

「でも、何だか……合うような気がして……つながるような……」

「ともかく、すみません……」

彼は混乱して黙った。ラススードフはまた原稿へかがみ、少し不満の響く、低い声で読み始めた。

* * *

誰かが私の肩へ軽く触れた。俳優のネヴォーリンだった。

彼もその晩は出演し、私と一緒に舞台へ出る。

扉のほうへ顎をしゃくり、もう行く時間だ、と知らせた。

胸がどきりとしたが、私は気を取り直した。

「具合が悪いのか?」舞台へ向かいながら、彼は優しく尋ねた。

「ストーブの煙にあたったんだ」と、私は気の進まない嘘をついた。

「この人も気づいたのか!」と私は思った。

舞台へ一歩入ると、また体が木のように固くなり、劇場と舞台の巨大な空間へ、自分が溶け散ったように感じた。

全体の状態に加え、舞台上にあるものの中では、最終幕の装置が作る舞台裏の空気と気分も、私に働きかけ、押し潰してきた。

私たち俳優は、装置の表側だけでなく、裏側、その裏地も見る。

裏側には、裏側の輪郭、配置、構造がある。それはしばしば絵になり、ひどく意外な姿をしている。

舞台裏の照明は、奇妙な隅々へ、あちこち光の斑点を散らし、影をいっそう際立たせる。

それらが合わさり、各幕に固有の、舞台裏の空気を作る。

舞台への登場と結びついて、各幕の舞台裏の気分は、俳優に作用する。

あいにく、そのとき演じていた最終幕の装置の裏側は、私の俳優生活の苦しい瞬間を思い出させた。

この戯曲を作っていたころ、最終幕がうまくできず、ずいぶん苦しんだ。

最も神経をすり減らし、涙まで流したのは、登場前にいた、立派にしつらえられた廊下だった。

そこを見るだけで、苦しい記憶が戻り、俳優としての不安が起きた。

壁や物が、過去について語り始めた。

「あとは台詞を忘れでもすれば、おしまいだ」と思い、その考えに自分でおびえた。

俳優の〔職業〕の、最も基本的な要求さえ満たせなくなるのは、怖いことだ。

その瞬間、台詞を失った俳優の無力さを、思い出し、感じた。

ここ数年、そんな状態とは縁がなくなっていた。

私は急いで確かめようと、これからの場面の台詞を、頭の中で言い始めた。

幸い、言葉は自然に舌へ乗り、私は安心した。

突然、一語が抜け、そのあとの、果てしなく続く言葉の糸が切れた。

抜けた言葉を記憶の中に探したが、残っていたのは、発音のリズムの感覚だけだった。

同じような響きの別の言葉で埋めようとした。だが、そのためには考えの全体を思い出さなければならず、それを忘れていた。台詞を前へ戻り、考えの根からつかもうとしたが、考えそのものも忘れていたのだ。

場面全体の内容を思い出し、そこから考えへたどり着こうとした。

だが集中できなかった。空間に溶け散ったようで、自分を集める力がなかった。

舞台監督助手へ駆け寄り、上演の進行と俳優の送り出しに使う台本を、貸してほしいと頼み込んだ。

彼はいったん渡してくれた。だが私がページを開いたとたん取り返し、ほとんど無理やり舞台へ押し出した。登場が遅れて、舞台が滞っていたのだ。

台詞に穴ができたと知っていることが、私をおびえさせ、注意を張りつめさせた。

自分の舌と発音を熱心に見張り、当然ながら、その邪魔をした。

ふだんなら、染みついた習慣で、一つの文を丸ごと吐き出すように一気に言い、しばしば次の文の一部まで巻き込んでいた。

だが今回は、台詞が心配で、一語ずつ噛み切るように、口にする前に点検した。

何もかも混乱した。機械的な習慣は乱れ、以前の正しい創造の感情の流れは、忘れられていた。

頼れる足場は、何も残っていなかった。

知らない監視者が自分の内へ隠れ、言い間違いの一つひとつを、うるさく見張っているようだった。

口元をじっと見られては、食べられない。

横から口を出されては、ビリヤードはできない。

執拗な思考に絡まれ、内なる声が絶えず「気をつけろ、危ないぞ、今に間違える! ほら、忘れた」とささやけば、覚えた台詞など言えない。

実際、頭にはもう、あの運命的な白い空白が現れ、汗が首と額を濡らしていた。

だが幸い、舌は慣れた勢いで障害を飛び越え、さらに走り続けた。意識と感情を、はるか後ろに置き去りにして。二つは、まだ危険に気づかない勇敢な舌を、遠くから恐る恐る見守っていた。

「気をつけろ、慎重に、危ないぞ、つまずくな!」おびえた思考と感情は、遠くから叫んだ。

だが、ついに、止まった。

すべてが混乱した!

白い空白!

何もない!

恐慌!

私は途方に暮れて立ち、同じ文句を何度も繰り返した。

プロンプターが必死なのは見えたが、声は聞こえなかった。俳優たちの教える言葉も理解できなかった。ささやきは聞こえるが、単語がわからなかった。

どう助かればよいのかわからず、私はなぜか、ランプの傘を外し始めた。

大きな空白の間を埋めるのに、ほかに何も思いつかず、無力さからしたことだった。

新しい登場人物の出を早めてくれた舞台監督助手には、感謝する。

彼らが出ると、戯曲はまた、線路の上を行くように進み始めた。

私は舞台の奥へ下がり、自分を取り戻そうとした。

全身の筋肉が綱のように張り、自分が木でできているように思えた。

注意は劇場のあらゆる方向へ散らばった。

また舞台の額縁の先が、深淵、恐ろしい黒い穴に見えた。

また、その向こうに、千の頭を持つ観客の群れが見えた。

彼らが私を笑い、指さし、互いに身を寄せ、ひそひそ話し、わざと咳をしているような気がした。

一人の観客など、見せつけるように扉を鳴らし、客席を出ていった。

汗だくで舞台を去り、楽屋へ入ったとき、私は大きな疲れを感じた。

扉に鍵をかけ、暗がりを手探りして長椅子を見つけ、重く腰を下ろすと、そのまま偶然取った姿勢で固まった。

何をすればよいのかわからず、長いこと座っていた。難破して無人島へ放り出されたようだった。

一度にすべてを失ったように思えた。貧しく、裸になり、恥ずかしくて思い出せない過去を背負って、人生を初めから作り直さなければならないと感じた。

隣のラススードフの楽屋では、まだ議論が続いていたが、私は考えの中身まで追えなかった。

それでも、レメスロフの芸術は、その姓のとおり、つまり本物の芸術ではなく俳優の職人仕事だと、皆が彼に説いているのはわかった。

訳注

レメスロフの姓は、ロシア語で「職人仕事」を意味する「レメスロー」を連想させる。

「彼だけではない。私も、君たちも、私たち全員が職人だ」と思った。

「舞台には天才と才能ある人だけを残し、それ以外は全員、私を先頭に、舞台から出ていけばいい!」

「事務所へ、店へ、田舎へ、役に立つ仕事へ!」

* * *

私は、あらゆる動揺を経験して疲れ、長椅子へ横になった。

何もかも嫌になり、劇場と関係のないことを考えようと決めた。

「月には影がなく、体の重さも軽いというではないか?」

訳注

「月には影がない」は、語り手の空想に出てくる誤った知識。実際の月面にも、光を遮る物によって影ができる。

「跳び上がれば、一分も宙に浮いていられる……」

「気持ちがよいのだろうか、どうだろう?」

しばらく、いつもの道連れ、影なしで平原を歩く自分を想像した。

心の中で、深い割れ目を跳び越えた。

だが、その遊びもすぐに飽きた。

それでも、月への小旅行は、気をそらし、落ち着かせてくれた。私は何も考えず横になっていた。

それから、隣の楽屋の議論へ耳を傾け始めた。

「ある領域でよいことも、別の領域ではまったく耐えられない」と〔ラススードフの声が聞こえた〕。

「たとえば私たちの劇場では、あの課題、あの上演計画、〔トヴォルツォフ〕が与えられる材料を扱うなら、百回でも二百回でも稽古は足りない」

「稽古が増えるほど、計画そのものも広がる」

「際限なくね」

「ときには、適切なところで止まり、終わりをつけるのが、いちばん難しい」

「では、大きく広い計画を立てられない地方の一座に、何百万もの金を渡し、二百回稽古しろと言ったら、どうなる?」

「上演できなくなる」とレメスロフは誇らしげに言った。

「そのとおりだ」

「五回か十回の稽古のあとで、俳優たちがどうなるか、見てみたいものだ」

「読み合わせは終わり、台詞も覚え、ほとんどプロンプターなしで言える。立ち位置も必要なことも稽古済み、もみあげつきの白髪のかつらも注文した」

「衣装は、何を着るか決まりきっている!」

「あとは観客と高揚が必要で、残りは霊感が何とかしてくれる!」

「それなのに、その先にまだ二百三十回、二百四十回の稽古がある!」

「そこで何をすればいいのだ!」

「絶望して首でもくくりたくなるだろう」

「逃げ出すよ。いくら金を積んでも引き留められない」とレメスロフは、またほとんど誇らしげに言った。

「僕たちはね……二百回目の稽古のあとで、ため息をつくんだ。あと百回あれば、演出家たちの考えたことに届くのに、と」とチュフストヴォフが〔言った〕。

「皆さん、それは異常ですよ! 一つの戯曲に、いくらかかるのです? どうしてそんな事業が成り立つのです!」レメスロフは憤った。

「大丈夫、やっていけている。配当もたいしたもので、そのうち出資口が取引所に上場するくらいだ!」ヌィーロフは火をつけた。「興行主たちも羨んでいる」

「いや、何と言われても、異常です」とレメスロフは興奮した。

「戯曲や役を、そんなに踏み荒らしてはいけない!」

「俳優というものは、ある時点で、満員の客席、高揚、興奮、霊感、オーケストラ、贈り物が必要になるようにできている」

「ウォッカ一瓶もね」と誰かが冗談を言った。

「そうとも、酒も女もだ!」

「上演中にかい、不心得者め!」別の者がふざけた。

「では、キーンはどうです?」

レメスロフはなおも食い下がった……。

「地方の名優というのは、いつもそうですね!」チュフストヴォフは言った。

「まっすぐ答えられなくなると、意味のない決まり文句を、大声で並べ始める」

「酒! 女! 衝動! 霊感!」

「芸術や俳優の話には、その言葉を使う決まりらしい」

「それで、誰かが納得するとでもいうのか!」

「肝心なことに答えてほしい。なぜ僕たちには二百回、三百回の稽古ができて、あなたたちにはできないのか?」

「こちらにできない理由は、わかっていますよ」とレメスロフは皮肉を言い、ますます神経質に、金鎖の鼻眼鏡を頻繁に直した。

「だが、あなたたちがどうしてその回数に耐えられるのか、それがわからない」

「説明しましょう」とラススードフが口を挟んだ。

「秘密は、演出家と俳優自身が、戯曲と役の心をそれほど深く掘り開き、稽古のたびに上演計画を広げるので、思い描くすべてを舞台へ移すには、二百回でも足りないことです」

「一方、戯曲ではなく役だけを演じ慣れた地方の俳優は、役の中に、自分がうまくできること、自分の資質や演技の手法に合うことを探します」

「それはいつも同じです。自分がよく知り、どの役でも自然にくっついてくるものばかりです」

「どの役も、自分自身の色に染めます」

「そんな材料を探し、戯曲にそんな作業をするのに、どれだけ時間が要るでしょう。一、二度、注意深く読めばすみます」

「計画も、どの役でも同じです」

「初めの幕では、理屈を言い、発音、身のこなし、声をひけらかす」

「どこか一、二か所で、神経の高ぶりを見せる」

「第二幕では一場面だけ演じ、あとは技術でこなす」

「第三幕では、最も重要な頂点の場面に、気質も、手管も、型も、魅力も、要するに観客の心をつかむものを、すべて注ぎ込む」

「最終幕には、感傷と数滴の涙を加える」

「そして、最初の場面を舞台手前の左で演じたら――社交界の芝居で例の『ソファ』と、その後ろの『豪華な衝立』を置く場所です――次の場面は『机と椅子』のある右で演じる。その次は、プロンプターの小屋の前に立って演じればよい」

「第四の場面では、もうソファへ戻ってよい。あとは同じです」

「何もかも、誰にとっても決まりきっているのなら、何のために稽古が要るのです?」

「地方では四回で上演すると自慢されるが、私に言わせれば、一回を越えた稽古には、使い道がありません」

「結局、時間を無駄にしているのは私たちではなく、余計な三回の稽古で、いたずらに戯曲を踏み荒らす、あなたたちのほうです」

「地方では、新しい戯曲と上演が二百本も必要でなければ、観客は劇場へ来ないと言います」

「だが私は、二回の稽古ででっち上げた芝居を、地方の観客が一度でも、どうして座って見ていられるのか、本当に不思議です」

「私は一幕も耐えられません」

「地方の観客は、理想的な上演であっても、同じ戯曲を何度も見ないと言います」

「だが、私の知るトゥーラの人々は、この劇場で大成功した同じ芝居を見る、そのためだけに、十回もモスクワへ来ました」

「よく稽古された一座が、同じ小さな地方都市へ、同じ戯曲で五回以上招かれたことも知っています」

「もう一つ、いつもわからないことがあります。なぜ『イル・トロヴァトーレ』や『ラ・トラヴィアータ』は百回も聴けるのに、イプセンの哲学的悲劇『ブラン』は、一回見れば十分なのでしょう」

「『何を言う、音楽だぞ。一度では聴き取れない!』と言うでしょう。私はこう答えます。『何を言う、複雑きわまる思考、深い感情です。一度では捉えきれません!……』」

「もっとも、イワン・ヴァヴィーロヴィチのお気持ちはわかります」とラススードフは〔続けた〕。「地方の忙しい仕事では、芸術より職人仕事のほうが便利です」

「それどころか、可能なのは、それだけです」

「一季に二百本も上演しなければならないところでは、芸術どころではありません」

「私は一季に五十本以上は演出しませんよ」とレメスロフは抗議した。

「聞きましたか?」ラススードフは相手の言葉を際立たせるように、落ち着いて一同へ向き直った。

「冗談ではありません。ただの五十本、ですって!」

「確かに、職人仕事では量が中心になります。だが芸術で評価するのは、質だけです」

「天才となり、永遠の名声を得るには、よい作品を何百も作るのでなく、天才的な作品をたった一つ作ればよい。絵でも、本でも、音楽でも、大理石の彫刻でも、役でも同じです」

「グリボエードフは天才的な戯曲を一つ、画家イワーノフは絵を一枚作った。オールドリッジ、タマーニョ、そしてサルヴィーニを、私たちは彼らを有名にした一つの役、オセローで知りました」

「全員、その創造の仕事には、何年も、あるいは何十年も必要でした」

「だが、それが何だというのでしょう!」

「私たちに大切なのは、できたものの質です」

「こうして私たちは、上演の質を話しているのに、イワン・ヴァヴィーロヴィチは、ずっと量を心配している」

「職人仕事と芸術、私たちは違う領域にいるのです……」

* * *

突然、まだ上演が終わっておらず、今日もう一度、観客の前に出なければならないことを思い出した。

恐怖に襲われた。

「今、何か騒動が起き、何もかも混乱し、上演を中止しなければならなくなったら、どんなによいだろう」と私は思った。

「火事でも!」

「天井が落ちても!」

「そうすれば、この行き場のない状況から、自然な逃げ道ができる」

「何日か上演が止まり、その休みに考えをまとめ、自分の芸術の新しい土台を探れる」

「病気になって、長く働けなくなってもよい!」

「私がそんなに駄目なら、ほかの連中に代わってもらおう」私は、誰にともわからず腹を立てた。

「いや、いちばんよいのは、レフ・ニコラーエヴィチ・トルストイのように、逃げて姿を隠すことだ!」

「そうだ。皆への当てつけに、姿を隠してしまおう」

「私一人でなく、私を転落させた連中全員に、私なしで苦しんでもらおう!」

「走り回り、罵り、どうすればよいかわからず、取り乱せばいい。今の私のように!」

「ちゃんと評価しなかった相手が誰なのか、思い知ればいい」

「何というくだらないことを!」すぐに自分の言葉を捉えた。

「犯人は目の前にいるのに、なぜ探すのだ」

「悪いのは、私一人だ」

「劇場で私は、過小評価されたどころか、過大評価されていた」

「それなのに、最初の失敗で、気難しい老嬢のように気を悪くし、自分を慰めるため、犯人を探している」

「自分が破綻し、恐怖を克服できないからと、惨事を望むところまで来てしまった」

「だが、私はふりをしているのではない!」

「舞台には出ない!」私は決めた。

「罰金でも、解雇でも、好きにすればいい!」

「永久に舞台と別れるのなら、どうでもよい……」

「観客へ払い戻さなければならなくなる!」と思い出した。

「かまわない! 損は自分で負担しよう……」

「だが、私には何もない。劇場を辞めれば、その金を稼ぐことさえできなくなる」

「それにトヴォルツォフは何と言う?」

「仲間は?」

「劇場全体、町全体は?」

「いや、そもそも劇場を去れるのか!」

「劇場なしでは生きられないではないか!……」

「馬鹿な! 十分生きていける。今日の、呪わしい最後の上演を早く終え、新しい人生を始めればいい」

拷問を早く終わらせたいという、病的な焦燥に取りつかれた。

痛みに疲れ果てた人が手術を待ち、良心の呵責に苦しむ人が告白や何らかの決着を待つのは、こういう具合だろう。

待ちきれない苦しみに、もう暗闇で終わりを待っていられず、楽屋を出て舞台へ急いだ。

その敷居を越えると、これまでの登場よりもさらに体が木のように固まり、空間へ溶け散ったように感じた。

見せ物としてさらされた人間の無力さ、気に入られ、成功しなければならないという義務が、いっそう強く私を押し潰した。

舞台へ出る準備をしながら、突然、前の出番で味わったばかりの、台詞を失う無力さを思い出した。

今度は、台詞を確かめようとすることさえ怖かった。

前の上演から読み返していない、だから忘れたかもしれない、ということだけを思い出した。

どうすればいい!

私は、出番を待つあの運命の廊下から舞台裏へ飛び出し、たまたまそばにいた小道具係へ駆け寄って、取り乱した顔でささやいた。

「お願いです! どうか助けてください! すぐプロンプターのところへ行って、一語ずつ、全部教えてほしいと頼んでください。私が具合を悪くした、と。お願いします、助けてください!」

間もなく、私は舞台へ出た。

また、舞台の額縁の向こうの恐ろしい黒い穴にぶつかり、いっそう無力さを感じた。ただプロンプターだけを頼りに、懇願する目を向けた……。

恐ろしい!

プロンプターの小屋に、誰もいなかった!

何ということだ! 愚かな小道具係が、プロンプターを小屋から、私のいる舞台へ呼び出してしまったのだ。さらに愚かなプロンプターは、それを信じて駆けつけ、私がいないので、小屋へ駆け戻った。

だが、もう遅かった!

人生で二度目、何か恐ろしいものが私を襲った。

現実の悪夢だった。今でも、内側で震えずには思い出せない。

この上演全体、とりわけ、そこで起こった悪夢は、私の俳優人生に大きな意味を持った。だから、もう少し詳しく触れ、俳優としての最初のころに私を一生おびえさせた、同じような恐ろしい状態を思い出しておかなければならない。

ずっと昔のことだ。

まだ若者だった私は、モスクワの文学者たちが催した、プーシキン追悼の大きな演奏会に参加した。

当然、開演よりずっと前、一番乗りで劇場へ着いた。

いつものように、開演は一時間以上遅れた。

私の出番は第三部だった。

一晩中、舞台裏でうろうろし、待ちくたびれることになった。

私より一、二演目前に出演する、年配の尊敬される俳優O氏も、同じ目に遭った。

晩の大半を彼と過ごし、その身に降りかかった悲しみを慰めていた。

若いヴォードヴィル女優だった妻を、亡くしたばかりだったのだ。

気の毒な妻は、この演奏会の少し前、悲劇的な死を遂げていた。

窓のカーテンを束ねる紐が首にかかったまま、床に倒れて死んでいるのを見つけられた。

不思議なのは、その紐が張っていなかったことだ。

垂れ下がったままだったのに、彼女は首をくくって死んでいた。

紐が首へ触れた最初の瞬間、恐怖で心臓が破れたのだろうか。

訳注

死因についての語り手の推測であり、医学的に確認された説明ではない。

老俳優は、死の細部を一つひとつ思い出し、泣いていた。

そのとき舞台へ呼ばれた。私は彼の朗読を聞き、自分も出番の準備をするため、あとについていった。

「お疲れで、気持ちも乱れていらっしゃいます」と私は言った。

「本をお持ちになったほうがよいでしょう」

「何を言うんだ」と彼は答えた。

「この詩は千回も読んだ。眠っていても言えるよ」と、私を安心させた。

老俳優は舞台へ出た。

かつての名優にふさわしく、温かく迎えられた。

昔、地方で朗誦したような、俳優らしい大きな高揚をもって読み始めた。

最初の数行を無事に読むと、彼は止まった。

経験ある俳優の冷静さで、落ち着いて間を取り、忘れた言葉を思い出そうとした。だが思い出せなかった。

客席は息をひそめた。

老俳優は動じず、初めから読み直した。

あの言葉で、また止まった。そして……うろたえた。

少し待って、前の文句へ戻った。勢いをつければ、忘れた言葉も自然に出るだろうと期待したのだ。

また同じ言葉で止まった。

読んでいたプーシキンの詩は、学校のころから誰もが知るものだった。客席にも舞台裏にも、助けようとする人が多く、初めは小声で、やがて大声で、抜けた言葉を教えた。

だが、老人にはもう何も聞こえなかった。

私は、その詩の載るページを開いた本を、室内装置の扉から差し出した。

彼はほとんど乱暴に本を奪い、その拍子にページを失った。

静まり返った人々の前で舞台に立ち、老俳優は神経質にページをめくった。

紙の擦れる音が、劇場の隅々まで聞こえた。

探しても見つからないと諦めると、近くの椅子へ本を投げ、堂々とした姿勢を取り、初めから朗誦し始めた。

あの言葉で止まると、客席全体に、ざわめきが走った。

気の毒な老人は黙り、汗を拭き、弱々しい足取りで、装置の反対側の壁の扉へ向かった。

扉は釘で打ちつけてあった。

彼は勢いよく押した。

装置は揺れたが、扉は開かなかった。

観客の中から、こらえた笑いが起きた。

老俳優は舞台口の布へ向かい、舞台裏へ抜けようとした。

だが、隙間が狭すぎて、引っかかった。

観客の大笑いの中、老人は暗い隙間へ身をねじ込み、舞台裏へ押し入っていった。

「何という醜態だ」私のそばで、誰かが憤った。

「尊敬される老俳優ともあろう人が、あんな状態で演奏会に来るとは」

気の毒な人をかばおうとしたが、そのとき、主催者の文学者たちが何人か駆け寄り、何かを祝ってくれた。

レールモントフの、プーシキンの死を悼む詩を、全部読む許可が、たった今下りたのだという。それまで公開の朗読を検閲で禁じられていた、最後の詩行も含めて。

そしてお前たち、傲慢な子孫よ、
名だたる卑劣さで名を成した父祖を持つ者よ……。

「君が初めて検閲の牢獄の扉を開き、天才の囚人を自由にするのだ」主催者の文学者たちは、私のために喜んでいた。

だが私は、その喜びを少しも分かち合えなかった。

むしろ恐怖で冷たくなった。その部分を知らず、暗記もしていなかった。聞き覚えがあるだけだったのだ。

「読めません。準備していません」と私は、中等学校の生徒のように断ろうとした。

だが、自由主義者たちはあまりに強く迫り、それ以上の反論は出なかった。

最後の詩行は、本を見て読もうと決めた。

その後のことは覚えていない。

奇跡的に、まずまず読めたのだという。

だが、そのとき味わったものは、一生、恐ろしい悪夢として残った。

この出来事を思い出させた、あの不幸な上演で、その恐ろしい悪夢が繰り返されたのだ。

恐怖のため、何が起こり、どう演じ、どう上演を終え、どう幕が閉じたのか、覚えていない……。

どうやら何かが起こったらしい。私は汗だくで、皆が横目で見ていた。

出演者が舞台の出口へ集まると、仲間たちは、私に話しかけられるのを恐れているように感じた。

舞台から楽屋へ通じる扉を皆で抜け、上への階段がある広い廊下へ出ると、彼らは急いで散った。

誰も挨拶さえしなかった。

私は一人になった。

「気がふれたと思われているのではないか?」そんな考えが頭をよぎった。

楽屋へ戻り、化粧台の前の椅子へ倒れ込むと、すっかり打ちのめされた気がした。

それなのに、これは自分の役の中で最も楽で、以前は何でもなく演じていた役なのだ、と私は思った。

だが、ともかく苦しみは終わった。「私は休める、休めるのだ!」チェーホフの『ワーニャ伯父さん』を引き、自分を慰めた。

終わったのは、この上演ではなく、私の俳優人生全体だった。

それはもう終わりだ。この転落を味わったあとでは、同じことをもう一度経験するよう自分を強いる意志など、残っていない。そうはっきりわかった。

いや、死ぬほうがましだ。

私はかつら、顎ひげ、口ひげをむしり取り、腹立ちまぎれに机へ投げつけた。

衣装や化粧、役に関わるどんな小さな品も、大切にする習慣のある、この私が。

鏡の前に疲れ果てて座り、貼りつけ用の下化粧で汚れた自分の顔を見た。

顔の下塗りと〔下処理〕は、役ごとに、それだけで独特な化粧になる。

何も表さない場合もあるが、思いがけない表情を顔へ与えることもある。

自分の顔が気に入った。

「こんな資質がありながら舞台を捨てるのか」と思った。

自分がかわいそうになった。

心の感傷の弦が震え始めた。

私たち俳優は、舞台だけでなく、生活の中でも、面白い役を演じるのが好きだ。

そして、働き盛りで舞台に別れを告げる俳優という役は、私には面白く思えた。

「この化粧台に座るのは、最後だ」私は自分を感動させようとした。

「劇場の生活は、もう私なしで進み、私は忘れられる」

「いや、逆だ。いつまでも覚えているだろう。だが私は戻らない」

「一つ、また一つと代役を立て、そのとき初めて、私が劇場にとって何であったか、わかるのだ」

壊れた人生の感傷的な絵を心の中で作っていると、もう目がむずむずしてきた。

それまで丸ごと劇場に費やしていた時間が、果てしない自由な時間として、目の前に広がった。

もちろん、明日の話し合いには、まだ来よう。

トヴォルツォフに会わずに、仕事を捨てるわけにはいかない。

話し合いのあとで話すか、手紙を書こう。

ヴォーリンの病気のおかげで、丸五日も空いているのは、何という幸運だ。

そのあいだに、すべて片づけられる。

だが、代役は間に合うだろうか!

もし、あと何度か舞台へ出て、今日味わったことを繰り返さなければならないとしたら?

いや、それは自分の力に余る!

机から劇団員の一覧を探し出し、誰なら早く私の代わりが務まるか、考え始めた。

誰にも代われないとわかった。

私は、かけがえのない存在なのか!

この発見はうれしく、元気づけられた。

そのまま長いこと楽屋で、考えにふけっていられただろう。

だが、待ちきれない電気係が、私を物思いから引き戻した。

照明が明滅した。劇場の規則に反して長居し、人を待たせ、無駄に明かりを使っている、と知らせていた。

暗闇に取り残されないよう、私は急いだ。

もう夜の劇場を引き受けた夜警が、楽屋の扉を少し開け、何かをぶつぶつ言い、静かに閉めた。それから扉のそばで長いことごそごそし、壁についた鍵を使って、巡回記録用の時計を操作していた。

家へ歩き、服を脱ぎ、床へ入るまで、考え続けた。以前、舞台へ出るたび、いつも伴っていた喜びは、どこへ行ったのだろう。

昔は、舞台や劇場を照らしていたガスの匂いを嗅ぐだけで、胸が高鳴った。

化粧の絵の具と接着剤の、あの独特な匂いは、魔法のように私へ働きかけた。

暗い床の中で、これまでの舞台を思い出した。

五歳のとき、活人画の『四季』に出た。

綿で作った老人のひげをつけ、冬を表した。

姿勢を指示され、そのとおりに保つと、周りは皆、感心した!

ほかの出演者の位置を整えるうちに、私はもう姿勢を忘れ、また直してもらった。

またその姿勢を保ち、また皆が感心した。

最後の瞬間、目の前に、たき火に見立てた蝋燭がともされ、絶対に触るなと厳しく言われた。

だからこそ、幕が上がったその瞬間に触った。

綿に火がつき、叫び声が上がり、私はどこかへ引きずられた。その後長いこと叱られ、ひどく泣いた。

「すでにあのとき、運命は、俳優としての苦い行く末を予告していたのだ」と私は思った。

「今日、その予告が実現した」

二度目の登場も、活人画の『花の中で』だった。

私は、薔薇に口づける蝶を演じた。

幕が上がると、顔を客席へ向け、子供らしいいたずらな目で、そこに座る兄弟、叔母、祖母たちに挨拶した。

これも大受けして、私はうれしかった。

それから、雨の降る秋の日、中等学校の生徒だった私が、モスクワから田舎へ向かい、鉄道駅からの道を、かつら、化粧道具、その他を入れた大きな箱を両腕で抱えて進んだことを、鮮やかに思い出した。

これからの上演に、胸をひどく高鳴らせていた……。

衣装と靴の山で埋まった狭い部屋を思い出した。若い私たちの、その場で作った家庭劇団の男性全員が、そこで化粧していた。

「本当に君なのか! 見分けがつかないよ!」私たちは互いに驚き合った……。

俳優人生の振り返りを終えないうちに、疲れが私を枕へ引き寄せた。

翌朝目が覚め、前日のことを思い出すと、その出来事への受け止め方が変わっていた。

痛みも絶望も、いくらか和らいでいた。

舞台を去る決心は変わらなかったが、心のどこか深いところでは、それは一時の決心で、あまり信じないほうがよい、と感じていた。

もう一度舞台へ出ることも、もはや不可能とは思えなかった。

何か、自信が戻り始めていた。

それでも、怖くなり、恐慌を起こしかけることは、考えないようにした。

両手を頭の後ろへ回し、長いこと床に寝たまま、次の仕事を選んだ。

俳優以外の立場で、劇場に残ったらどうだろう。

俳優にはなれない。それは明らかだ。舞台へは出られない。

観客に直接会わずにすむ仕事なら、どうだろう。

何になろう。

演出家だ、と決めた。

だが、すぐにはなれない。まず助手になり、舞台の働き手、小道具係、事務室、補助出演者、群衆役の世話をしなければならない。

無断で来ない者もいる。

急いで代わりを立て、上演を救い、その場を何とかしなければならない。

「いや、この仕事は自分向きではない」と決めた。

「そんな忍耐も自制もない」

「事務室で働こう」と決めた。

だが一分後には、隣の舞台で『知恵の悲しみ』のような新しく面白い戯曲を稽古しているとき、そろばんを前に座っているのが、どれほどつらいか、感じていた。

それなら、その誘惑がないほうがよい。昼は劇場以外のどこかの事務所で働き、夜は友人、助言者、後援者として劇場へ行こう。

「困るのは」と私は考えた。「数字とは相性が悪いことだ」

「計算を始めると、すべてがうまくまとまり、得になる人もいる」

「私の計算は、いつも損になる」

「間違えるときも、必ず自分に不利なほうだ。いつも自分を勘定で損させる」

「いちばんよいのは田舎だ」と決めた。

「自然の中で暮らし、春を迎え、秋を送り、夏を楽しむのだ」

「そうだ、田舎へ、自然へ!」と決心した。

「田舎暮らしが、楽園に思えた」

「昼は体を使って働き、夜はよい妻と家族と、自分のために暮らす。皆から遠く離れ、世間に知られずに」

一つの〔暮らし方〕から別のものへ、簡単に移れたのは、内心ではもう、大切なわが家のような劇場から、どこへも行かないと、よくわかっていたからだ。

おそらく、そのほとんど無意識の決心に動かされ、『知恵の悲しみ』の話し合いに、間違っても遅れないよう、急いで起きた。

* * *

家から劇場へ歩くあいだ、通行人がいつもより私を見る気がした。すべてを知って、哀れんでいるからだ、あるいは笑っているからだ、と確信した。

私は頭を下げ、急いで歩いた。

そのとき、盛りを過ぎたある美女の話を思い出した。「若いころは、新しい帽子をかぶって歩くと、皆が振り返りました。自分が若く元気に思えて、顔を高く上げ、後ろから鞭で勢いをつけてもらうように、飛ぶように歩いたものです」

「ついこのあいだ、新しい帽子で歩いたら、皆が振り返るのです」

「後ろの留め具が外れたのかしら。通りのいたずらっ子に、紙でも貼られたのかしら!」

「誰かに後ろから鞭で追われるように、全速力で逃げ出しました」

「ただし今度は、顔を上げてではなく、うつむいてね」

私も同じように、通行人の目を避け、うつむいて劇場へ急いだ。

劇場へ入り、仲間に挨拶すると、また昨日のように横目で見られ、哀れまれ、避けられている気がした。

疑いを確かめようと、一人、また一人に近づいた。

残念ながら、疑いは裏づけられた。

仲間の一人など、「今日は具合はどうだい?」と聞いた。

その問いにひどくうろたえ、私は答えた。

「ありがとう。よくなったよ」

この答えで、相手の推測を認めてしまった。

だが、一人の俳優が、親しく挨拶してくれた。

私は駆け寄り、手をつかんで、長いこと振った。皆から見放された私へ、うれしい心遣いをしてくれた感謝のしるしに。

チュフストヴォフにも挨拶した。

昨日のあと、私をどう思っているか、知りたかった。

だが彼は私へ注意を向けなかった。最近、劇場附属学校へ入った生徒ユンツォフとの会話に、気を取られていたのだ。

「どうして配役を発表しないのでしょう?」ユンツォフは気をもんでいた。

「発表したら、話し合いに誰も来なくなるからさ」チュフストヴォフは、もらった飴をしゃぶりながら、落ち着いて説明した。

「なぜです?」新人は興味を示した。

「俳優というのは、そういうものにできているからね」

「どういうふうにです?」

「俳優らしくさ」

「役をもらえば、上演全体も面白く、大切になる。役がなければ、クズネツキー通りをぶらつくだけだ」

「見ていなさい。今は大勢いるが、配役が出たら、残るのは出演者と、出番のない連中のうちでも、少し才能の乏しい少人数だけだよ」

「どうして、才能のない人だけなのですか?」

「そういう人だけが、芸術のために犠牲を払うからさ」

「才能のある人は?」

「自分のために犠牲を払ってもらうのに、慣れている」

「いつ配役を出すのでしょう?」新人は気をもんだ。

「皆で戯曲を話し合い、あとなら一人ずつ説明しなければならないことを全員に聞かせ、これからの仕事のおおよその見通しを、つけてからだ」

「そこで役を決めるのですか?」新人はさらに尋ねた。

「いや、配役はとっくに決めている。言わないだけだ」

「小さな役も、決まっているのですか?」待ちきれないユンツォフは問い続けた。

「小さな役も」

「群衆役も?」

「群衆役も」

「ああ!」生徒は待ち遠しさに、子供のようなため息をついた。

「どうしたんだい?」

「あまりに長くて」

「何が長い?」

「話し合いが全部終わるまでです」とユンツォフは打ち明けた。

「それなら通って、よく聞き、共同の仕事を助け、何か役立つことを言うよう努めなさい」と、年長者の一人が勧めた。

「演出側は、そのことによく耳を傾けている」

「でも、もう役は全部割り振ってあるのでしょう」

「それは決定的ではない」

「最後の瞬間に、主役まで変えることも珍しくない」

「本当ですか!」ユンツォフは耳をそばだてた。

「話し合いで、考えてもいなかった俳優が、思いがけず、いちばん面白い役の解釈をした例もある」

「そのときは演出家の計画が変わり、彼に主役が渡された」

「そうやって決まるのですか!」ユンツォフは驚いた。

「では、行きます」

「失礼します。ありがとうございます」

そして、すでにベルで俳優を集めている談話室へ、駆けていった。

チュフストヴォフから、〔トヴォルツォフ〕はまだ大会の議長を務めており、稽古には来ず、四時より前、つまり話し合いが終わるまでは劇場へ来ない、と聞いた。

私は事務室へ行き、今日中に必ず三十分、緊急で、自分にとって非常に重要な用件のため、時間をいただきたい、と〔トヴォルツォフ〕宛ての手紙を書いた。

劇場の管理係に渡し、非常に、非常に大切な用件なので、〔トヴォルツォフ〕が来たらすぐ渡してほしい、と頼んだ。

それから話し合いへ行き、皆から離れた陰に、ひっそり座った。

私はもう、劇場にとって、ほとんど他人だったのだから。

人は多かったが、前回よりはかなり少なかった。

主演級の俳優が大きな机につかず、後列に座っているのが目についた。前の議長席、つまりレメスロフに近いところには、補助出演者、生徒、二番手の俳優たちがいた。

「レメスロフには、よくない兆しだ!」と私は思った。

昨日の話し合いと、昨晩のラススードフの楽屋での議論のあと、レメスロフは、ずっと控えめになっていた。

「最初の勢いは、そがれたな」と私は思った。

冒頭、レメスロフは、自分の精力的な作業計画が賛同を得られなかったことを、苦々しく認めた。そこで多数の希望に従うが、これからの話し合いに成果が出るかどうかは、責任を持たないと言った。

また、昨日のような不要な話、演説、報告が始まった。

耐えられないほど退屈になった。

俳優たちが、一人ずつ部屋を出始めた。

レメスロフは勝ち誇り、話し手が主題から外れても、わざと止めなかった。

そこへチュフストヴォフが急いで入り、間もなくそのあとから、老演出家ブィヴァーロフが、つま先立ちで入ってきた。俳優らしく大げさに慎重さを演じながら、まず『同僚』、つまりレメスロフに、同席の許可を求め、離れたところに座った。それにも、芝居がかった見栄があった。

私たちは、ブィヴァーロフの小柄で太った姿が好きだった。肉づきのよい顔、大きな禿げ頭、短く刈った口ひげの下からのぞく、甘ったるい笑みも。

退屈な弁士を二、三人やり過ごしてから、老ブィヴァーロフは発言を求めた。

俳優たちは身を引き締め、注意して聞こうとした。

「おお、何ということだ、何ということだ!」ブィヴァーロフは、甘ったるく、少し芝居がかった作り声で始めた。

「『知恵の悲しみ』には、何と多くの思い出が結びついていることか!」

「中等学校の机、金ボタンのついた汚れた燕尾服の教師、黒い石板、手垢のついた教科書が浮かぶ。余白には、象形文字のような、子供の馬鹿げた落書きがあった」

「休日の午前、私たちの大切な、歴史あるマールイ劇場での上演を思い出す」

「愛している、愛しているよ、素朴で美しい昔よ!」

「私のリーザ、青い目をしたいたずら娘、高いかかとの靴を履いた君が好きだ!」

「かわいいフランス娘、小間使い、機転の利くおしゃべり娘よ!」

「君も好きだ、落ち着かぬ放浪者チャツキーよ。巻き毛のオペラの美男子、愛すべき芝居の伊達男。旅の馬車を降りたばかりなのに、燕尾服と舞踏靴のチャイルド・ハロルド!」

「愛すべき素朴さよ!」

「『ユグノー教徒』のラウール・ド・ナンジーのように、ヌヴェール伯爵夫人ヴァランティーヌの前で、ハイCシャープを響かせて膝をつく、君の姿が好きだ!」

俳優たちはぽかんとした顔になり、しだいに、ますます驚いた表情を見せた。

「冗談か? 皮肉か? 演説の手法か? 反対のことを言って証明するのか?」彼らは互いに言い合った。

そのあいだも、老演出家は、命を失った伝統の賛美にふけっていた。真面目に、心から言っているように見えた。

「かわいい、かわいい子供たち、サーシャ・チャツキーとソーニャ・ファームソワよ」と、思い出を歌い上げた。「いつまでも、子供のころの私が知った姿でいておくれ」

「愛しているよ……」

「待て、待て! 一息入れろ……」仲間の俳優の一人が止めた。

「賛成できないことは多いが、歓迎することも多い!」突然、チュフストヴォフが声を張り上げた。

何かの企みだと察していた私まで、最も才能ある俳優の一人の、この発言には、混乱したと認めなければならない。

とてつもない叫びが上がった。「古いものは打ち倒せ! 新しいものをよこせ! ブィヴァーロフを倒せ、レメスロフを倒せ!」俳優たちは席から飛び上がり、二人をぎっしり囲んで、議論し、説得し、抗議した。

私はやっとのことで、二人のそばへたどり着いた。

「どういうことだ。何もわからない、説明してくれ!」チュフストヴォフの耳へ叫んだ。

「揺さぶれ、土台を揺さぶれ!」彼も私の耳元で叫び返した。

「大御所たちを動かせ」と付け加えた。

「わからない!」私は答えた。

「好きな異端を言えばいい!」彼は人混みを抜けて私を脇へ連れ、急いで説明した。

「何のために?」私は戸惑った。

「主演級の連中を動かすんだ。あの人たちが話さないかぎり、仕事は進まない」

「すばらしい!」彼は離れながら叫んだ。

「『抗議する』と叫べ!」一瞬戻ってきて、私にささやいた。

「抗議するうう! ブィヴァーロフを倒せ!」私は大声を上げた。

老演出家は、騒ぐ群衆の中で俳優らしい姿勢を取り、群衆場面の稽古のように、自分の本来の領域にいる気分だった。大勢の芝居の群衆を、ようやく掌握した指導者なのだ。

ブィヴァーロフは、群衆場面のために鍛えた声の調子で、効果的に、大げさな熱を込めて叫んだ。

「子供たち! 発言させてくれ! 言わせてくれ!」

荒れ狂う俳優たちを止めるのに、苦労した。

「どういう意味だ、と君たちは思っているね」

「何だって? ナポレオンの老伍長のように、戦いで白髪になった、この老ブィヴァーロフが! ディオゲネスの灯を掲げ、一生、新しいものを探し続けたブィヴァーロフが! 突然、愛すべき古い時代へ戻れと呼びかけるのか、と!」

「そうだ、かわいい子供たち。呼びかけているのだ!」

「どうしようもない!」

「私はそういう人間だ!」

「つまり老いて、役に立たなくなったのだ!」

「子供たちに追い越された」

「さあ、裁いてくれ、荒々しい宗派の信徒たち、若い発酵の種、騒ぎの火つけ役たちよ……新しい生活の建設者たちよ!」

皆が席へ戻った。

「もう被告席に座らされたぞ!」ブィヴァーロフは冗談めかして嘆いた。

「そう、私は古い伝統を愛していると言うのだ……」

「私はそういう人間だ!」ほとんど女性的な感傷を込め、甘ったるく、大仰に叫びを朗誦しながら続けた。

私たちは皆、もう老演出家の芝居と意図を理解していた。だが、皆のため、仕事をうまく進めるためにやっているとわかっていたので、釣られたふりをした。

「今、私は知恵と経験、良識の声を聞き、元気づけられました」喝采が収まるや、レメスロフが言った。

「尊敬する同僚の、権威あるご支持に、心から感謝します」

「皆さん!」

「学問と芸術の成果を、どうしてそれほど無慈悲に、それほど……失礼ながら……自信過剰で、軽率に扱えるのですか?」

「どうしてです!」

「数々の偉大な学者と批評家が、天才的な作品を研究してきました」

「若いころ、学校にいるころから、その価値と美しさを教えられてきました。シチェープキン、サドフスキー家の人々、ミロスラフスキー、クラモーロフ=クラフツォフのような、首都と地方の最高の才能が、忘れがたい人物像として、永遠に刻んできたのです」

「皆が力を合わせ、偉大な伝統を作りました。そこへ突然、確かに有能ではあっても、まだこの芸術で何も示していない若者たちが来て、何世紀もかけて得られたものを、一振りで払いのける」

「もちろん、この話し合いで大胆な意見を述べ、つい今しがた、古いものを倒せ、新しいものを、と叫んだ人々のことです」

「しかし、悪い新しさは、すばらしい古さより優れているのでしょうか?」

「残念ながら、この劇場を作った、もっと年長で才能ある代表者の発言は、まだ一度も聞いていません」

「私が今話したのは、芸術における長年の伝統の意味を、経験から知る、尊敬すべき同僚の意見を支えるためです」

「経験を信頼してください、皆さん」

「私たちがこの天才の作品を扱うのは、初めてではなく、百回目かもしれないのです」

「それこそが、よくないのさ」と誰かが言った。

「ロシアの舞台の最大の創造物へ、どう取りかかるか、私たちのほうがよく知っています」

レメスロフの熱い訴えを支持したのは、イグラーロフ夫妻だけだった。

その二人も、枕を叩くように、柔らかい手のひらを、軽く打ち合わせただけだった。

レメスロフは、助走でもつけたように素早くブィヴァーロフへ近づき、大げさな感情を込めて握手した。

老演出家は、感傷的で皮肉な微笑みを浮かべ、首を傾け、両手を腹の前で合わせながら、レメスロフの手を握った。その目は、ずるそうに笑いながら、なおも「愛している、愛しているよ、伝統よ」と語っていた。

ラススードフが発言を求めた。

皆が注意して聞く構えになった。

「ブィヴァーロフの言葉には、一言も賛成しません」

「『知恵の悲しみ』は、私のいちばん好きな戯曲です」とラススードフは始めた。

「さまざまな演出、名だたる演じ手の上演を、すべて見てきました」

「年配の人やシチェープキンの同時代人に、昔の上演のことも聞きました。そして、この戯曲はロシアの舞台で、驚くほど不運だったと、断言します」

「教養ある観客の要求を、多少なりとも満たせる上演は、一度もなかったと断言します」

「オストロフスキーやチェーホフの戯曲は、ロシアの舞台で幸運に恵まれたのに、最高の古典作家、ゴーゴリとグリボエードフは、美しさ、深さ、豊かさを、すべて示すことができずにいます」

「一度着せられた制服を、ずっと着せられているのです。しかも肩幅も寸法も合わず、作家の望みとは、まったく別の仕立ての制服を」

「その制服は、とっくに縫い目から裂けています。そこへ閉じ込められた天才の大きな内容を収めるには、狭すぎるからです」

「それでも誰も、グリボエードフとゴーゴリから、その制服を脱がせようとはしません。時と習慣が、それを永遠の決まりとし、伝統と名づけたからです」

「どんな『検察官』の演出が伝統になったのか、思い出しましょう」

「まさに、ゴーゴリが『検察官』上演後の有名な手紙で、断罪したものです。『検察官は上演された。だが、心は暗い』と」

「その手紙でゴーゴリは、演じ手がしてはいけないことを、非常に詳しく述べています。そして、まさにその、してはいけないことが、いつまでも全員の義務になるのです」

「最も滑稽なのは、ゴーゴリに断罪されたこの古い伝統が、今なお、まさに断罪したその手紙を根拠として、正当化されていることです」

「この誤った伝統を変えようとしてごらんなさい。皆が『冒瀆だ!』と叫ぶでしょう。その試みも、どう迎えられたかも、私たちはよく知っています」

「ところが、古い戯曲の再演について、ゴーゴリ本人は、まったく違う考えでした」

「〔A・P・トルストイ〕への手紙には、おおよそ、こういう考えが見つかります」

「『新しい戯曲がなく、上演するものがないと言うのですか!』とゴーゴリは書いています。『古いよい戯曲を、どれでも取り上げ、現代の観客の求めるように、新しく演出しなさい……そうすれば、新しい戯曲になる』」

「ゴーゴリ自身は、伝統を永遠に固定しないよう促しているのに、尊敬する私たちの演出家は、昔の間違いを差し出しているのです」

「それでも、グリボエードフと『知恵の悲しみ』に比べれば、ゴーゴリと『検察官』は、まだ幸運だったことを忘れないでください」

「『検察官』には、個々の天才的な演じ手も、まともな合奏としての演技もありました」

「作者自身が、守ってくれました」

「だがグリボエードフは、全編が上演される前に亡くなりました」

「その死後、親を失った作品を守る人はいませんでした」

「確かに、『知恵の悲しみ』にも、個々の天才的な演じ手はいました。だが、戯曲にふさわしい総合的な演技と演出は、一度もなかったのです」

「祖父母の時代、どう上演していたか、ご存じですか?」

「たとえば第三幕の舞踏会では、芝居が進んでいる最中に、オーケストラの奏者が集まり、挨拶し、硫黄マッチを擦って、譜面台の油灯をともしました」

「それから指揮者が来て、奏者に挨拶し、楽譜を配り、チャツキーの、」

……〔あいにく、その頭に
五つ六つ、まともな考えを持ち、
それを声に出して言う勇気がある者は、〕
見よ……。

「という言葉のあとで、指揮棒を振るのです。すると、ソーフィヤによれば『ピアノに合わせて』踊るはずの舞踏会に、劇場のオーケストラの大きな音が響きました」

「マズルカの先頭は、ソーフィヤとN氏、当時名高かった俳優ニキフォーロフです」

「彼は軍需部門の制服を着て、青い眼鏡をかけていました」

「あとに出演者の何組かが続き、その後ろにはバレエ団が、踊り手特有の身のこなしとステップで続きました」

「彼らは『知恵の悲しみ』の中で、前日にオペラ『皇帝に捧げた命』のクラコヴィアクを踊ったのと、まったく同じように踊るのです」

「こうして、不意に、即席のバレエの余興が、芝居へ割り込んできました」

「当然、誰もがチャツキーも、グリボエードフの『百万の苦悩』も、忘れました」

「アンコールは終わらず、ニキフォーロフは持ち芸を十回も繰り返させられ、老体が疲れ果てるまで踊りました」

「ある箇所で、かかとを鳴らし、片脚を横へ跳ね上げるのが、大人気だったのです」

「古びて命を失った伝統の愛好者たちは、私たちにも同じ即席の余興をしろと言うのでしょうか?」

「後ろを振り返り、命を失った伝統と腕を組んで歩くより、グリボエードフ本人と腕を組むほうが、よいのではありませんか。古い眼鏡を外し、自分の目で、もっと注意深く天才の心をのぞく。そして、あらゆる伝統に逆らってでも、大胆に、作品にある永遠のものを示すのです。まだ一度も見せられず、偽りの伝統という、穴だらけで擦り切れた制服の下に隠されていたものを」

「それこそ、私たちに期待されている、最も思いがけない新しさになるでしょう」

「古い制服を脱がせましょう。天才の囚人を解放し、その人の好みと注文に合わせ、新しい、自由で美しい衣服を縫いましょう」

激しい拍手、叫び、握手が、弁士に報いた。

ブィヴァーロフも立ち、ずるそうに微笑んでラススードフと握手した。だが顔も、腹の前で合わせたふっくらした手も、傾けた頭も、感傷的で申し訳なさそうな微笑みも、また無言で語り続けていた。「さあ、裁いておくれ、かわいい子供たち、荒々しい宗派の信徒たち……」

「私はそういう人間だ」

「愛しているよ……」という具合に。

劇場の友人で、助言者として稽古に来ている、有名な芸術の後援者へ、発言が移った。

非常に上品で、教養ある審美家だった。文学に通じ、自分でも詩、散文、芸術哲学の論文を書いていた。

昔は社交界の素人芝居によく出ており、かつては刑事事件の弁護で知られた法律家でもあった。

「告白しましょう」と彼は始めた。

「私は救いがたい古い芝居好きで、伝統を愛しています」

「『知恵の悲しみ』の伝統も好きです」

「昔、イタリア・オペラの愛好家は、タンベルリック、スターニョ、ノーダン、マジーニの高い変ハ音を聞くためだけに、最終幕へ駆けつけ、その後イギリス・クラブへ戻って、ピケの続きをしたものです」

訳注

ここは底本の ut bêmol に従い「変ハ音」とした。別版でも bemol の語が確認できるため、推測で別の音名に置き換えていない。

「私も今、ファームソフやチャツキーの、見事に語られる独白を一つか二つ聞くためだけに劇場へ来て、そのまま帰ることができます。それほど、グリボエードフの詩と、その人を、いとおしく思っているのです。もっとも、親友になる栄誉には、まだあずかっていませんが」

「私も、昔からの伝統、美しい約束事、定着した手法、伝統となった抑揚や強調の多くを、弁護しましょう」と〔劇団の主演俳優〕が柔らかなテノールで話し始めた。

「詩は散文のようには語れません。『知恵の悲しみ』も、写実的なドラマではなく、芝居の約束事をすべて備えた演劇作品です。それを隠すのは無駄でしょう」

「資料室へしまえ!」また〔声が〕響いた。

主演俳優の一言が、情熱をいっそう鋭くした。

皆が一斉に話し、論戦へ飛び込んだ。

演出家は、かろうじて秩序を保っていた。

「話させなさい、遮らないで!」近づく突風の中、危険な場所で舵を握るように、ベルを握りしめて叫んだ。

「私は舞台から、グリボエードフの詩の旋律を聞きたい」

「イタリア・オペラのアリアのように、その響きの美しさを楽しみたいのです!」

「グリボエードフとイタリア・オペラだって!」別の大御所が熱くなった。

「チャツキーの『百万の苦悩』は、要らないのか?」

「グリボエードフの思想は大切でない、と言っているのではありません」と主演俳優は落ち着いて反論した。「劇場で私が愛する詩と音楽の話をしているのです」

(主演俳優は、いつも自分の考えとは違うことを言った。相手に反論させ、自分の聞きたいことを話させるためだ。)

「それなら、君の考えでは、グリボエードフが最も大切にしたのは、響きのよい韻だったのか? そのために戯曲を書き始めたというのか?」一人の俳優が問い詰めた。

「何が彼を執筆へ向かわせたか、正確には知りません。だが、韻も大切だったことは知っています」と主演俳優は、驚くほど落ち着いて言った。

「『も』は、『何よりも』『第一に』とは違うだろう?」問い詰める俳優は続けた。

「だが、韻や詩の音楽のほかに、『知恵の悲しみ』の何が好きなんだ?」

「グリボエードフの自由な精神です」と主演俳優は言った。

「すばらしい」

「では、正直に言ってくれ。その自由な精神が、ふさわしい形で舞台に表された上演を、一度でも見たか……?」

「ありますとも。すばらしい演じ手がいました」と主演俳優は言った。

「誰だ? 名前を挙げてくれ」

「サマーリン、シチェープキン、レンスキー、シュイスキー」

「君は見たのか?」

「いいえ」

「私も見ていない。ならば、その人たちは今の話から外そう」

「私のかわいいサーシャ・レンスキーなら、私は見たよ」と、老演出家はまた思い出を歌い始めた。

「見事に演じた! 実に見事だった!」

「そして、グリボエードフが大切にした考え、思想、微妙な意味、何より感情を、すべて本当に伝えていたのか?」問い手は食い下がった。

「何の考え、思想、感情を大切にしていたのか、誰にわかる?」老演出家は、さりげなく議論を本題へ導いた。

「誰にわかる、だって? 行間を読めないのか?」

「読めない」

「なら、私が読もう」

「読んでくれ」

「では、やってみよう。ロシアへの愛だ」

「どのチャツキーもロシアを愛し、その敵を打ちのめしている。しかも盛大にな!」老演出家はからかった。

「愛とは、他人を打ちのめすだけのことなのか?」

「私はそう思う。では、君には何なのかね?」老演出家は、わからないふりをして、無邪気に尋ねた。

「祖国の未開さや、暮らしの整わなさを気遣い、苦しむことだ」と誰かが助け舟を出した。

「なるほど」と老演出家はうなずいた。

「ほかには?」

「進歩を妨げる人を目覚めさせ、間違いをわからせ、よりよくしたいと願うことです」と若い補助出演の女性が補った。

「それもわかるよ、青い目の金髪さん」老演出家は励ました。

「そこが問題なんだ」と、私の好きな俳優が言った。

「どのチャツキーも叫び、地面を噛むほど激し、情熱をずたずたに裂くが、ロシアを愛してはいない」

「叫ばずに、愛してみせろ。そのとき初めて、君がアレクサンドル・グリボエードフ、あるいはアレクサンドル・チャツキーだと信じよう」

「では、私の友サーシャ・チャツキーに、ほかに何を求めるのかね?」演出家は問いかけた。

皆、その演出上の策略を理解していたが、わからないふりをし、ようやく動き始めた話し合いを、正しい軌道へ乗せるのを手伝った。

私は、話し合いが終わる前に出なければならなかった……。

* * *

〔役員室へ呼ばれた。〕

「どのくらいの期間、休暇をお求めですか?」議長のルブリョフが、無表情な顔と眠たげな抑揚で、私に尋ねた。

「ひとまず、今シーズンの終わりまでです」と答えた。

「シーズンの終わりまで……さようですか。なるほど」と彼は繰り返した。

「ああ、同じ名の君よ、君よ! いい男! 思いもしなかった! 私たちはこんなに愛しているのに、君は……」〔同席していた老俳優が叫んだ。〕

「ヴァレーリイ・オーシポヴィチ!」議長は彼を止めた。

「失礼しました」

「シーズンの真っ最中に休暇を求める、その理由は何ですか?」議長は尋ねた。

「理由!……不幸です。破局です!」私は声を震わせて答えた。

「足を折り、舞台の奈落へ落ち、脳震盪を起こしたのです」

「考えられる限りの合併症を伴う、チフスにかかったのです!……」

「さようですか、なるほど。しかし、歩いていらっしゃるし、ありがたいことに、お元気で、力も十分おありのようですが」彼は眠たげに微笑んで言った。

「足では歩いています。だが、心はその場で凍りついています」

「わかってください!……」

「心が、ひどい震盪を受けたのです」

「四十度の熱を出す、心のチフスです!」

「病気や破局が重大なのは、目に見える骨折や身体の苦しみがあるからだけなのでしょうか?」

「心の苦しみ、病気、破局のほうが、百倍も危険で、深刻です。とりわけ、脚ではなく心で舞台を演じる、私たち俳優には」

「脚が折れているだけなら、担架で舞台へ運んでもらえば、話すことはできます」

「だが、病み、打ちのめされた心では、舞台へ出て演じることはできません」

「同じ名の君よ、君よ! 大切な人! 私たちの喜び!」ヴァレーリイ・オーシポヴィチは泣き言を言った。

「リザヴェータ・ニコラーエヴナは、どうなるのです?……」彼は、少し離れて座る演出家ブィヴァーロフを振り返り、叫んだ。彼の手法をまねていたのだ。

「どうか、お控え……」議長は感情なく、口ごもりながら言った。

「失礼、失礼しました」ヴァレーリイ・オーシポヴィチは優雅に一礼し、もったいぶって背もたれへ寄りかかり、目を上へ向けた……。

「わかってください」と私は議長へ、また話し始めた。「演じたくないのではありません」

「逆に、ぜひ演じたいのです」

「今、私が経験していることを経験し、こうしたお願いをするのも、楽ではありません」

「演じたくないのではなく、できないのです。心のうえで、精神的に、できない」

「身体的にできないのなら、話し合いにもならないでしょう」

「『脚を折ったので、六か月は演じられません』という短い手紙を送ればすみます」

「困るのは、内面で、心の中で、目に見えないところで、できないことです。見えないから、説得力がなく、誰も信じてくれない」

「それこそが恐ろしいのです!」

「見えない理由につきましては、私は実務の人間で、あまり詳しくありません」

「専門家に相談するべきでしょう」

「ご意見は?」議長は劇団責任者のM氏へ向き直った。

「俳優ファンターソフの休暇について、どうお考えですか?」暗い顔で座る責任者へ、発言を渡した。

「ヴァレーリイ・ニコラーエヴィチは、私たちの劇場にとって、あまりに大きな存在です」と彼は始めた。「病気になられれば、事業に重大な影響を及ぼさずにはすみません」と、私を持ち上げた。

告白すれば、そのお世辞は、不快ではなかった。

だが、それでも私は、この機会に、昔からの俳優としての不満を、いくらか晴らそうとした。

「だから、イグラーロフが、面白くない役で手を煩わせたくないときには、私を控えに回すのでしょうね」と責めた。

「控え役を決めるのは私ではなく、演出家です」とM氏は身構えた。

「どうか、お控え……」議長は読んでいる紙から目を離さず、静かにもごもご言った。

「それで、ご提案は?」同じ問いを繰り返した。

「ヴァレーリイ・ニコラーエヴィチの全役に、急いで代役を立てるほかありません」

「今、演目全体をその肩に担っていらっしゃるので、大仕事です。さしあたり一週間、代役の稽古をするあいだは、イグラーロフの出る芝居を、すべて急いで再開しなければなりません」

「演じすぎたものばかりで、客は入らないでしょう」と誰かが言った。

「興行収入のためではありません」と劇団責任者は説明した。「劇場を閉めずにすむようにするのです」

「ヴォーリンがいれば、彼の芝居を再開できるのですが」

「まだ休暇から戻っていません。行き詰まった状況です」

* * *

「ご覧のとおり、私の運命は専門家ではなく、実務家のあなたにかかっています」と私は、忍耐を失いながら議長に言った。

「なるほど。では、実務に、私の代わりに答えてもらいましょう」と議長は、もごもご言った。

「会計の状況は?」主任会計係に尋ねた。

「二十八日現在、支出501,270、収入308,274、差し引き192,996の赤字です」

「借り入れ先は私ですか?」議長は尋ねた。

「前貸し分は全額使い切り、すでに超過しています」

「使い切った……さようですか、なるほど……」議長は繰り返した。

「劇場の、ほかの資金源は?」

「ほかの資金源など、どこに?」

「議長、あなたが唯一の資金源です」

「私のことは、当分忘れてください」

「同じ名の君よ、君よ! 最後に言わせてくれ」とヴァレーリイ・オーシポヴィチは興奮した……。

「どうか、お控え……」

「失礼しました!」

* * *

「ハインリヒの役は、イグラーロフへ移すことを提案します」とM氏は考えた。

「ロスターネフの役も、彼へ」

「何ですって?……ロスターネフがイグラーロフ!……あの役の神経は、どこから持ってくるのです? 気質、リズム、気のよさ、子供らしさ、人物像のすべてを!」

「作品を傷つけるくらいなら、演目から外すほうがましです」

「もちろん、外せれば、そのほうがよいのですが」とM氏は心から同意した。「できないのです……」

どうしてだ! イグラーロフ、あの美しく、自分に酔った、冷たい理屈屋、技術家、再現の俳優が!

それが突然、無邪気な子供のような、真実を愛するロスターネフに!

彼が我を忘れ、真実へ猛然と突き進む箇所で、イグラーロフは媚び、格好をつけ、役そのものではなく、役の中の自分を見せるだろう。

だが何よりつらいのは、私の血が流れ、脈が打ち、心が生きる、自分の創造物を好きにされるのを、冷静に見ていなければならないことだった。

母親から子供を奪い、その目の前で、その子を愛する力も、意志も、可能性もない恋敵へ渡すのだ。

この暴力に、私は激怒した。

「もう嫉妬していますね?」前から私を見ていたD氏が、見抜いた。

「いいえ、嫉妬ではありません。劇場の私への扱いに、深く傷ついているのです」

「どんな扱いです?」彼は落ち着いて尋ねた。

「どんな、ですって!」

「私の役を取り上げ、目の前で分け合っているではありませんか」

「ええ、驚くほど進んで、あなたの望みをかなえようと急いでいますね」

「私の?」私は戸惑った。

「では、誰の?」

「シーズンいっぱい休ませてほしいと頼んだのは、あなたでしょう?」

「そのためには、まず全役で、代わりを立てなければなりません」

私は言葉に詰まった。

「最高の演目の一座のまとまりを崩し、主役を急いで交代させる、面倒きわまる仕事を引き受けるのが、楽しいと思いますか?」

「飽き飽きした古い芝居を六本も、もう一度稽古するのです。冗談ではありませんよ」

「何と愚かな!」私は自分に腹を立てた。

「起こったことも、今の自分の動揺も、原因は私一人なのに、何も悪くない人々を責めている」

「控え役がつくと、厄介ですよ!」D氏は、なおも私へ暗示をかけた。

「二人もつけば、なおさらです!」

「小耳に挟みましたが、演出家たちはハインリヒの役へ、一度に二人を入れる必要があると考えているようです」

「二人も!」私は苦しくなって聞き返した。

「ええ」とD氏は認めた。「そうしないと、イグラーロフが毎日出ることになります」

「毎日!」私は劇場への大きな憤りを感じ、聞き返した。

「そう、毎日です」D氏は、落ち着いて追い打ちをかけた。

「劇場へ戻っても、もう自分の役を毎回、毎週は演じられません。二回おき、つまり三週間に一度になります」

「それは嫌なものです。長い間が空くと、自由に夢中で演じるのでなく、用心しながらになる。ブレーキがかかったように、創造へ身を任せきれなくなります」

「ええ、そのとおりです」と私は認めた。

そのとき老演出家ブィヴァーロフが、きっと私に聞かせるため、とても大きな声で叫んだ。

「ファンターソフのフロックコートなら、一着どころか二着、両方の代役の衣装ができる。そのうえ、三人目のチョッキの分まで余るぞ」

彼は大げさに芝居がかって笑い、その場で足踏みし、太い腹が笑いで張り裂けるように、身をよじった。

正直に言って、衣装を仕立て直されるとは、考えていなかった。

では、何時間も鏡の前に立ち、思い描いた役の外見を伝える線や襞を探した、あの苦労はどうなるのか。

肩を引き、背を詰め、裾をたくし、ズボンの片側を下げ、もう片側を上げる。

長いこと思い描いていた線が、ふと現れ、また消える……。

また探す……ピンで留める……。

だが、何でも自分がよく知っていると思う愚かな仕立屋が、こちらの要求を自分の型へ当てはめ、前より悪くしてしまう……。

また鏡の前へ立つか、自分で針を持つ。

そして、探していたものが見つかったら! 何という喜びだろう!

見つけたものを、どれほど大切に守ることか!

それなのに今、あらゆる苦労へのお礼として、目の前で平然と衣を引き裂き、誰の取り分か、くじを引くのだ!

俳優の衣装は、画家の絵と同じではないか。

私たちも線と色を探すのだ!

それを突然、絵を取って、切り刻む!

なぜだ?

額縁に対して、絵が大きすぎるからだ!

何という野蛮、冒瀆だろう!

いや、そんなはずはない。ブィヴァーロフが私をからかっているのだ!

だが、さらに大きな試練が待っていた。

すでにU氏がそばに立っていた。その無感動で悲しげな顔から、私がどんなに激しく出ても、前もって辛抱して受け止めるつもりなのがわかった。

その顔つきは知っていた。よくないことを予感し、すぐに身構えた。

「あなたの収集品を、イグラーロフに使わせていただけますか?」彼は諦めたように無感動に尋ねた。自分でなく、他人の言葉を繰り返す蓄音機のようだった。

「どの品です?」私はほとんど険しく聞き返した。

「美術館にあるような品々です」U氏は、しおれた、感情のない声で説明した。

「たとえば?」私は詰め寄った。

「ハインリヒでお着けになる、古いゲルマンの帯、『シーザー』の剣です」

「何です? アントニーの役までイグラーロフへ渡すのですか? 私への当てつけですか?」

顔全体、首、後頭部まで赤くなるのを、抑えられなかった。

「何年も汚い骨董屋を歩き、がらくたやぼろ布をかき回したのは、イグラーロフ氏を喜ばせるためだったのか!」返事を待たせながら、私は考えた。

「このすばらしい古い品々が、競争相手の手で観客に見慣れられ、ありふれたものになってしまう」

「収集品は、誰にも貸しません。自分でも滅多に使いませんから」私は、刃物で切るように言い切った。

「承知しました。お貸しいただけないなら、それで結構です。そのように伝えます」気の毒なU氏は、ひどく落ち着いて言い、肩をすくめ、静かに、感情を表さず去っていった。

「もう自分を苦しめるのは、およしなさい」D氏は後ろから私を抱き、俳優の嫉妬を愛でるように、優しくささやいた。

「古い役は全部、自分で演じればよい。チャツキーだけは、まあ、諦めることにして」

「どのチャツキーです?」私はD氏に食いついた。

「グリボエードフのですよ!」D氏は平然と答えた。

「私に決まっているのですか?」声を震わせて尋ねた。

「ええ、あなたに決まっています」

この知らせは、あまりに意外で、名誉で、うれしく、劇場と演出家への恨みを、すべて許してしまいそうだった。

長いこと、若い役を演じていない。

そろそろだ。

これまでの成功のあとなら、よい……。

夜明けにはもう立っていた!
そして今は君の足元に。

これは受けるぞ! 私は新しい役を自分に合わせ、心の中で考えた。

「では、さようなら!」D氏は手を差し出した。

「そうなさい……」

「チャツキーはイグラーロフに任せて……」

「女性たちには、一番の人気になるでしょう」

D氏のこの狡猾な一言までは、天秤は釣り合っていた。古い役を演じると決めるのも、それを捨てるのも、同じくらい難しかった。

だが、チャツキーが天から降ってきたような今、片方の皿が、一気に重くなった。

トヴォルツォフに決めてもらおう。

言われたとおりにしよう……。

だが、もうトヴォルツォフは……劇場にもいなかった。

上演が終わり、俳優用玄関で、イグラーロフ、ラススードフ、レメスロフに会った。一緒に夕食へ行こうと、外套を着ていた。

私も誘われた。

私は承知した。

* * *

「本当は、私は隅に立たされ、君は鞭で打たれるべきだ」翌日、書斎兼楽屋へ訪ねると、トヴォルツォフは、ほとんど厳しく、まったく意外なことを言った。

「なぜです?」私は戸惑った。

「昨日のことだよ」とトヴォルツォフは熱くなった。

「自分自身を扱えないで、何が俳優だ?」

「私たちの技術のすべては、八時きっかりに舞台へ出て、ポスターに掲げられた戯曲に夢中になる、そのためにある」

「それなのに君は、海辺に座って、よい天気を待ちたいという」

「運がよければ、霊感のかけらをつかみ、二秒半だけ、モチャーロフやサルヴィーニになる」

「君は、二月二十九日の悲劇俳優だ」

訳注

四年に一度しか来ない閏日になぞらえ、霊感に恵まれたごくまれな日しか演じられない俳優を皮肉っている。

「仕方がありません。そういう人間なのです。霊感が来れば生きる。来なければ空っぽです」

「画家、作家、作曲家なら、そう言ってもよい」

「自宅で、しかも自分の好きなときに創造できるからだ」

「だが私たちは、一、二、三、だ!」

「自分に何かをし、何かを考え、何かを思い出す。すると本物の涙を流し、本物の笑いを笑う。心から、誠実に、偽らずに。しかも、理由もなく、機械的に、ただ泣いたり笑ったりするためではない。役の生活の状況が、意志にかかわらず、泣かせ、笑わせるからだ」

「注文どおりにはできません!」私は頑固に言った。

「できないのは知っている……」

「だから学びなさい」

「学べることではありません」

「何だって?」トヴォルツォフは、たちまち険しくなった。

「もう一度言ったら、挨拶もしなくなるぞ」

「君は素人だ。芸術家ではない」

「自分の芸術を、そんなに貶めて、恥ずかしくないのか!」

「どこが貶めることなのです?」

「技術も、技能も、仕事も、すべて取り上げるのが、芸術にとって名誉だと思うのか?」

「熟練も、練習も、技術もない芸術など、存在しない」

「才能が大きいほど、ますます必要なのだ」

「君たち素人が技術を否定するのは、考え抜いた信念ではなく、怠け心と、規律のなさからだ」

「芸術とは何よりも、秩序、調和、心と身体の規律だ」

「子供や生徒、ただの兵士さえ、規律の意味を知っているのに、俳優の君が、どうして知らないのだ?」

「生徒や兵士と、俳優とは……」

「では俳優は、一日中、シルクハットと子ヤギ革の手袋で、商店街をぶらつけばいいのか?」

「あるいは喫茶店で娘と過ごし、夜には天才ハムレットの崇高な感情を生きるのか。そのハムレットを、さらに天才のシェイクスピアが、十年、昼も夜もかけて作ったというのに」

「ところがファンターソフは、二人を合わせたより天才らしい」

「十年も要らず、働く必要も、考える必要も、役の準備さえ要らない」

「菓子店で娘と座り、パイをたっぷり食べればよい……」

「それで霊感のできあがりだ!」

「理解できない!」

「学校で何年も過ごし、劇場で同じくらい働いて、それでも、系統的な仕事と、芸術家としての創造の規律の意味がわからないとは!」

「兵隊に入れてやりたい!」

「そこなら、規律をわからせてもらえる!」

「兵士は、しごかれるためにいるのです」

「違う。戦い、敵を捕らえるためにいる」

「そのために規律が必要なのだ!」

「しかも、どれほど強い規律か!……死の恐怖よりも強いものだ」

「死の恐怖より強い規律と訓練がなければ、死へ向かう決心も、実際に進むことも、恐怖を打ち負かすこともできないからだ」

「規律が、本人の意志を超え、機械的に敵へ向かわせる」

「芸術でも同じだ」

「もし君に、芸術家の規律と訓練があれば……」

「しかも、どれほどのものか!」

「観客への恐怖より比べものにならないほど強く、意識的なだけでなく、潜在意識へ、機械的に身につくまで高められたものなら、第一に、おとといのようなことは、決して起こらなかっただろう。第二に、昨日のように、自分の義務、劇場への道義的な責任、どんな契約より強い俳優としての約束を、放棄しようなど、思いつきもしなかっただろう」

「すべては気の緩み、規律の欠如だ。規律なしでは観客を征服し、何千もの群衆を虜にできない。規律なしでは兵士になれず、敵を捕らえられないのと同じだ」

「霊感を感じているときなら、僕にも規律も技術も、俳優に必要なものは全部あります」

「芸術でいちばん大切なのは、感じることです。そうすれば、すべて自然に来ます」

「何だとおお?」トヴォルツォフは椅子から飛び上がり、背をいっぱいに伸ばして叫んだ。

「つまり、役を体験し、感じることが、すべてだと申し上げたのです。そうすれば……」

「誰かああ!」トヴォルツォフは、建物全体に響くほどの大声で叫んだ。

番人まで扉へ駆けつけ、長いこと立って、中で何が起こるか聞き耳を立てた。

だが、すぐに静かになった。トヴォルツォフは反対側の隅へ行き、肘掛け椅子にどさりと座り、黙って自分を落ち着かせようとしたからだ。

私は、その思いがけない振る舞いに打たれ、驚きで固まり、同じく黙って動かなかった。

ようやく落ち着くと、トヴォルツォフは私の座る机へ来た。私を見ずに手を差し出し、そっけなく言った。

「さようなら」

「もう話すことはない」

「何をしたというのです?」私は戸惑った。

「説明する値打ちもない。どのみち、わからないだろう」とトヴォルツォフは突っぱねた。

「それでも……」私は食い下がった。

「同じ仕事の専門家に向かって、専門家が、芸術の秘密はただ役を感じ、体験することで、そうすれば技術も、何もかも来る、と言うなら……私は黙るしかない。悲しみと困惑に、両手を広げるしかない」

「それなら、『うまく演じるには、うまく演じればよい』『歩くには、歩けばよい』『馬鹿なことを言うには、馬鹿なことを言えばよい』『霊感を得るには、霊感を得ればよい』と言ったほうがましだ!」

「内面の技術は、感情を起こし、体験を呼び、さらに、もしかすると霊感そのものを呼ぶためでなければ、何のためにあるのだ?」

「君のような人は、『感じるには、ただ役を体験すればよい』と言う」

「『大事な本質さえつかめばよい』『生き始めさえすれば、あとはすべて自然に来る』と言う人もいる」

「君たちの考えでは、まず体験、そのあと技術なのだ」

「だが私に言わせれば、正しく生き始めたなら、もう技術は要らない」

「すべて自然に進む」

「僕も、それを言っているのです」と急いで弁解した。

「違う。君はまったく別のことを言っている」

「偶然の体験と霊感を待っているのだ」

「それも起こる。だが、二月二十九日だけだ。それ以外の日には、創造を繰り返すたび、毎回、自然に体験を呼び起こせなければならない」

「そのためにこそ、内面の技術が必要なのだ」

「初めに技術、次に体験だ。君の言うように逆ではない」

「技術は体験のためにある。体験が技術のためにあるのではない」

「役を体験できたら、創造の百分の九十九はすんでいる。体験したものを表すには、百分の一で十分だ」

「だが初め、まだ体験したものがないときには、百分の九十九の技術と、わずか百分の一の体験が必要なのだ」

「それなら、僕は兵士にも俳優にも向きません」

「なおさら辞めなければなりません」

誓って言うが、ここへ来たときは、残り、すべてに同意するつもりだった。古い役だけでなく、チャツキーにも。だが、こんな状態のトヴォルツォフに耐えられないためか、叱られるのが嫌なためか、私の中で何かが固まった。

おそらく頑固さだ。硬化した血管のように、心の中で棒のように突っ立っている。

俳優の自尊心、ひどく甘やかされ、自分に酔った、その名残なのだろうか……。

だがトヴォルツォフも、悪い意味での素人俳優への憎しみでは、頑固だ。

ひとたびそれとの戦いに入ると、容赦なく、執拗で、厳しい。

「鎌が石に当たった」のだ。二人の対面は、よい結果を予感させなかった。

それは感じていた。だが、内側の何かが私を押し、互いの譲らない態度を尖らせていた。

こんな状態では、何か月も後悔することを、互いに言ってしまいかねない。

ただ別れればよいのだ。

だが、別れたくない。

悪い感情を刺激し、もっと毒を吐き出したくなる。そのほうが楽になるのだ。

* * *

〔トヴォルツォフ〕は楽屋の扉を少し開け、番人を呼んで、誰も入れないよう命じた。

それから扉に鍵をかけ、私の後ろへ来て抱きしめ、後頭部へ口づけて言った。

「涙を隠さなくてよい。思う存分、泣きなさい」

そして当然、私は泣いた。

それから強く抱き合った。私の涙で彼の頬が濡れたが、彼は拭かなかった。

なぜそうしたか尋ねられたら、きっと彼は、こう答えただろう。

「これは特別な涙、清らかで、神聖な、芸術家の涙だからだ!」

トヴォルツォフは私を自分の肘掛け椅子へ座らせ、自分は隣の椅子に座り、私が立ち直って話し始めるまで、辛抱強く待った。

私は、いつも成功し、舞台へ出るたび喜んでいた自分が、どう徐々に昨日の悪夢の上演へ至ったかを語った。あれが俳優人生の最後の舞台になる。新たな拷問に耐える力がなく、永久に舞台を去ると決めたのだ、と。

〔トヴォルツォフ〕は、彼にしかできない聞き方で、聞いてくれた。

「よかった。危機が来たのだね。これで、何もかもうまくいく」彼は、私の告白をそう締めくくった。

正直に言って、こんな結果になるとは思ってもみなかった。私は驚いた目で〔トヴォルツォフ〕を見つめた。

「驚いたかね?」彼は優しく私を見て、続けた。

「何を喜んでいるのか、説明しよう」

「こういうことだ。以前、母親や叔母たち、中等学校の生徒、女性たち、そして君自身に好評だったころ、君は芸術を楽しむだけの、ただの素人だった」

「その後、劇場へ入り、この仕事の職業的な難しさに出会うと、巧みに合わせて、仕事を楽にする演技の手法を作った。そして、最小限の創造の力で、最大限の俳優としての成功を得た」

「そのころも、熱に浮かされた女性たちと、自分自身を喜ばせ続けた」

「昨日、ついに芸術が、厳しい教訓を与えたのだ」

「芸術は報復し、許さない」

「今、君はわかった。芸術をもてあそんではいけない。食い物にしてもいけない。ただ祈り、犠牲を捧げるべきなのだ、と」

「これから、その芸術を学び始めるのだ」

「俳優人生の、新しい時期が来る」

「君は、素人としてではなく、真剣な要求を自分へ向ける、本物の芸術家になっていく」

「芸術の中の自分を愛するのではなく、逆に、自分の中の芸術そのものを愛するようになる」

「自分を満足させるのは難しくなるだろう。だが、そのかわり、真剣な観客には、以前より好かれるようになる」

「この変化は、痛みなしには起こらない。これから苦しみが待っている。それどころか、創造の苦しみを愛することを学ばなければならない。甘い実をもたらす苦しみだからだ」

「では、これから何をすればよいのですか?」私は〔トヴォルツォフ〕に尋ねた。

「こうするのだよ、君」と彼は応じた。

「まず、君に休暇をもらえるよう、私が働きかける。ただし休むためではなく、逆に、集中的に働くための休暇だ」

「一方では『知恵の悲しみ』の稽古で、チャツキーを試すことになる」――胸がどきりとした。――「もう一方では、学校で、私が直接指導する」

「ちょうど、全課程を初めから講義し始めたところで、まだ二回しかしていない」

「追いつけるよう、その分はいつか、二人きりで繰り返そう」

「今晩でどうだね?」

もちろん、私は承知した。

「つまり、学校では、自分自身に取り組むのだ」

「そこで、創造の仕事ができる唯一の、正しい舞台上の状態を整える」

「劇場の稽古では、役に取り組む」

「そこで私は、役へどう近づき、内面的な人物像を作る心の材料を、戯曲と自分の中にどう探すかを教えよう。創造の過程の法則と性質を、実際に説明しよう」

「驚くほど早く、自信が戻るだろう。だが今度は、確かで、揺るがず、根拠のある自信だ」

「一か月か一か月半、集中的に働けば、もう自分から舞台へ出たいと言うようになる」

「休暇はもらえるでしょうか?」私は問いかけた。

「それが、私の仕事の中で、いちばん難しい」と〔トヴォルツォフ〕は認めた。

「困るのは、君の休暇が懐に響くことだ」

「君の出る芝居を何本か、一か月、演目から外さなければならない」

「その措置を、何で説明する?」

「今の君の状態か?」

「彼らにはわからない。私がまた甘くなり、いつものように俳優を甘やかしている、と言うだろう」

「君に起きていることは、本物の芸術家にしかわからない。だが、ここに本物の芸術家はどれだけいる? チュフストヴォフ、君、そして多少はラススードフだろうか。彼は、感じるより理解するほうだが」

「つまり、全部、初めから学び直すのですね」と私は、いくらか苦く結論した。

「いや、ただ学び続ければよい」

「では、なぜ前に、道を間違えていると教えてくださらなかったのですか?」

「君が尋ねなかったからだ」と〔トヴォルツォフ〕は落ち着いて言った。

「俳優本人が聞くまでは、話しても仕方のない問題がある」

「昔は、どこへ行っても講義をしていた」

「その結果は?」

「皆、疫病から逃げるように、私から逃げた」

「今は少し賢くなった。俳優が、自分から尋ねる必要を感じるところまで育つまでは、黙っていようと決めたのだ」

「それで? 僕のほかには、まだ誰も聞いていないのですか?」私は食い下がった。

「ラススードフはいつも聞く。だが芸術のためというより、『年代記』のためだからね」

「チュフストヴォフは?」私は興味を持った。

「まだ熟しかけているところだ。だが、私の周りへ来て、耳を傾け始めている」

「まだ候補者だ」

「ほかには?」私は質問を続けた。

「誰もいない」と〔トヴォルツォフ〕は淡々と答えた。

「生徒たちは?」

「尋ねるよ。だが、耳を傾けることはできても、まだ聞き取れない」

「目を向けて見いだし、耳を傾けて聞き取る。それは、とても難しい技術なのだ」

「劇場の外にも弟子はいらっしゃるのですか?」私は問い続けた。

「弟子はいないが、私の探究に関心を持つ人々はいる」

「その人たちには、仕事の進み具合を知らせている」と〔トヴォルツォフ〕は説明した。

「助けてくれるのだ。実験をし、学術書から抜き書きをしてくれる」

「どんな人たちです、俳優ですか?」

「いや、愛好家たちだ」

「どうして、僕がとんでもないことを言ったように、手を振られたのです?」

「君のほうがよく知っているだろう。俳優は不注意で、自分の芸術を、誰よりも愛していない。それについて話さず、考えず、研究しない」

「それどころか、自分には芸術などなく、ただ霊感があるだけだと、誇りにしている」

「それで、自分たちは特別な人間になれるのだ」

「どうしてなのでしょう?」私は、きまり悪く問いかけた。

「俳優は役を覚え、それだけに関心を持つからだ」

「その役をどう演じるか見せれば、そこから千分の一を取り、自分の小細工や手管で、その借り物の材料を薄める」

「それで成功できる役ができる」

「そんな役がいくつか集まれば、使い回せる持ち役になる」

「俳優は芸術に、楽な成功、楽しい暮らし、職人仕事を求め、すぐに見つけ……それで永久に落ち着いてしまう」

そのとき、〔トヴォルツォフ〕に家から食事が届いた。私の件を通そうと考えている運営会議のため、劇場へ残らなければならなかったのだ。

私は、その日のうちに働きかけの結果を知りたかったので、食堂で軽食を取って食事の代わりにし、劇場へ残ることにした……。

〔偽りの革新について〕

「劇場は、一つ屋根の下に、文学、絵画、音楽、身体表現、演劇、声楽、その他の舞台芸術の、多くの創造者を集める」

「その中で、私たち俳優の芸術は、最も遅れており、確かな、練り上げられた基礎を持たない」

「だからしばしば、ほかの共同制作者の後ろ、最後尾に置かれ、その用に供されるのだ」

「舞台を作る人々の大きな合唱では、最も力と才能のある人が、主旋律を担う」

「それが文学者なら、その方向が優勢になる。演出家や美術家なら、彼らが舞台全体の調子を決める。ほかも同じだ」

「文学者、美術家、作曲家、音楽家、指揮者は、しばしば劇場と俳優を見下す」

「私たちのところへ降りては来るが、この芸術には関心も知識もなく、共同の創造ではなく、自分だけを見せるために来る」

「多くの劇作家は、俳優を共同の創造者としてではなく、自作の文章を報告するだけの者として使う」

「一部の美術家には、舞台の額縁は、自分の絵である装置の額縁として必要なのだ」

「劇場には一年中、毎日、多くの観客が来る。その人数は、普通の巡回展、季節の展覧会、臨時の展覧会では得られない。彼らはそれを利用する」

「気の毒な俳優は、その美術家には、見事なデザイン画によるすばらしい衣装を着せるためだけに必要なのだ」

「多くの作曲家と指揮者は、舞台の俳優に、オーケストラの楽器のような、よい声の歌い手を求める」

「多くの演出家さえ、共同の創造や一座の調和のためでなく、自分自身を見せ、発見したという『新しい原則』『新しい創造の法則』、さらには『新しい芸術』丸ごとを、目に見える形で示すために、舞台と俳優を使う」

「そんな『演出家』は、俳優を創造する力としてではなく駒として扱い、あちらからこちらへ置き換える。舞台でさせることに、内面的な理由を求めもしない」

「本当に才能ある画家が、印象主義、キュビスム、未来派、非具象、ネオリアリズムの原則で、以前に描いたり、今描いていたりするのは、無意味にでも、奇抜さや人を驚かせるためでもないと、私は信じている」

「その誇張された鋭い描き方には、長い探究、創造の苦しみ、否定と肯定、失敗と達成、魅了と幻滅を経て、たどり着いたのだ」

「絶えず探り、前へ進む想像力の新しい要求に追い越されると、古いものをいつも変える」

「だが俳優の芸術は、ほかの芸術、とりわけ本物の前衛美術家の芸術と、歩調を合わせられるほど先へは進んでいない」

「舞台では、絵画ではとっくに過ぎ去り忘れられた『移動派』と肩を並べられる、本当の写実主義さえ、まだ見つけていない」

「だが、ほかの共同制作者は、そんなことには構わない」

「美術家も文学者も音楽家も、自分の蓄えをすべて持って劇場へ来る。私たちの芸術が遅れているからといって、後戻りはしたくない」

「その多くは、純粋に俳優の仕事に必要な条件や要望を気にも留めず、自分の作品を作る」

「そして、私たちの舞台芸術にとってでなく、私たちよりはるかに発達した、自分たちの絵画、音楽、文学にとって重要なことを、正確に実行するよう求める」

「俳優はどうすればよいのか?」

「美術家がこちらへ下りてこないなら、俳優は否応なく、力と能力を越えて、上へ手を伸ばし、よじ登らなければならない」

「本物の体験と再現の芸術の領域では、美術家の要求を果たせない。その要求こそが、無理強いによって体験を壊し、芸術を殺すからだ。体験なしに本物の創造はありえない」

「下の職人仕事の領域へ下り、そこで良心の痛みもなく、美術家の与えた外形を、内面的な根拠も気にせず、外側から写し、まね、作って見せるほかなくなる」

「こうして俳優は、創造全体の主要な過程の一つである、舞台上の自分の行動に理由を与えることを、断念させられる」

「この無理な断念が起こるのは、前衛美術家のスケッチにある、約束事で、奇をてらい、不自然な絵画的、文学的、その他の形を、信じ、感じさせる状況や魔法の『もしも』を、私たちが作れず、その技術も持たないからだ」

「先進的な絵画芸術の手に余る要求と、私たちの遅れが、俳優を職人にしてしまう」

「この危機に、私たち、美術家、ほかの共同制作者を助けようと、親切で、順応がうまく、器用な、偽りの前衛の演出家が現れる」

「その前衛性は、本物の俳優と舞台の芸術で、私たちより先へ進んだからではない」

「違う。本物の創造の古く永遠な基礎、体験、自然さ、真実を捨てたのは、それが自分にはできないからにすぎない」

「代わりに、自分にできることを考え出す」

「その考えたものを、いわゆる、最も急進的な前衛の新しい芸術の基礎に据える」

「後ろへ下がりながら、自分は先進的だと宣言する」

「その動きを隠すため、偽りの前衛の演出家は、自分でも常に理解しているわけではない、ひどく複雑な主題について、曖昧な講義を持って回った言葉でいくつも行う」

「流行の標語が助けとなり、鎧や装甲のように、反対者の攻撃から守ってくれる」

「こうした発言によって、偽の革新者は、未熟な若者や失敗者の中から、多くの信奉者を得る。本物の永遠の芸術の基礎を、まだ知らないか、すっかり忘れた人々からだ」

「美術家やほかの共同制作者は、俳優や演出の仕事を何も知らないため、偽の革新者である演出家の美辞麗句や派手な標語を、しばしば本物として受け取る」

「本物の画家や文学者と、偽の革新者である演出家が手を組み、俳優を加工し始める。俳優は、最も苦しみ、責めさいなまれる存在になる」

「少し前には、美術家はスケッチで、私たちに長い手足と首、なで肩、青白く痩せて細くつぶれた顔、現実にはほとんど取れない、様式的な姿勢を描いた」

「偽の革新者の演出家は、綿や厚紙や骨組みを使い、生きた俳優の体をスケッチどおりに作り変え、死んだ、心のない人形にしようとした」

「そのうえ、信じがたい姿勢を取らせた」

「次には『非具象性』のために、戯曲全体を一つの固まった姿勢で動かずに過ごし、作品と作者の言葉をよりよく表すため、自分の身体を忘れるよう教えられた」

「だが、そんな無理強いは体験を助けず、逆に妨げた」

「次には身体へキュビスムの形を与えようとされ、私たちは、四角く見えることだけを考えた」

「しかし、その幾何学も俳優の芸術を助けなかった」

「足場や梯子をよじ登り、橋を走り、高いところから跳ぶよう求められる」

「新しい絵画の描き方に合わせ、顔には何対もの眉を、頬には三角や、さまざまな色の丸い斑点を描かれた」

「なぜそのとき、俳優は抗議しなかったのか。なぜこう言わなかったのか。『まず、二本の眉で、役をうまく演じられるようにしてください』と」

「『内に生まれた心の本質を表すのに、それでは足りなくなったら、三本目の眉について話しましょう』」

「『そのときは、私たち自身から言います。準備はできた。内側がこんなに満ちて、体験したものを伝えるには、二本の眉では足りない。一ダースください! と』」

「『その瞬間には、最前衛の美術家のスケッチも、私たちの自然な資質を無理に曲げず、むしろ役に立つでしょう』」

「『しかし、内面の必要からではなく、美術家と偽の演出家の成功のため、他人の顔に四本の眉を描くのですか……。いいえ、失礼ですが、抗議します!』」

「こうして俳優に加えられた無理強いは、結局、純粋に俳優の芸術が、正しく、正常に、自然に、段階を踏んで発達することを、すっかり止めた」

「そればかりか、時期尚早で強制的な前衛化は、私たちを何年も後退させた」

「少なからぬ若い俳優を傷つけた」

「多くが絶望し、相談に来る」

「だが、変質した身体と、調子を狂わせた心は、直せない」

「これは自然で、理解できることだ。どんな無理強いも型に終わり、強制が強いほど、型は悪く、古く、擦り切れたものとなり、俳優をいっそう狂わせるからだ」

「最新の衣装を着て、祖母たちの時代の、最も古びた手法で演じるようになった」

「舞台へ来る絵画やほかの芸術が左へ、前衛へ進むほど、俳優は不可能なことを果たそうとして、右へ、古いほうへ進んだ」

「ここまでは、ときに上演全体の調子を決める、才能ある美術家について話した」

「だがもっと頻繁に来るのは、引用符つきの『革新者』だ。小さな絵がまったく描けないので、大きな舞台装置の絵を描く人々だ」

「スケッチを描けないので、装置の模型を作る」

「そんな『美術家』の一人に、絵にある、ごく普通の人の顔、二本の眉と一つの鼻のある顔を、描き写してくれと頼んだ」

「彼にはできなかった」

「私のほうが、うまくできた」

「そんな人々が先導すると、今述べたすべてが何倍にもひどくなり、俳優とその芸術への結果は、さらに悪く、危険になる」

「幸い、私たちがまだ届いていない『新しい潮流』は、来るのと同じくらい早く、去っていった」

「当然だ」

「俳優の仕事の、自然な進化ではなかったからだ」

「人為的に接ぎ木された流行にすぎない」

「長続きはしない」

「最近では、自分を先進的と考える多くの劇場に、いわゆる『グロテスク』が定着した」

「この名称を引用符に入れたことに、注意してほしい。流行している現象を、私は偽のグロテスクだと考える。これから話す、本物のグロテスクとは違うのだ」

「趣味の鈍った人々が、偽のグロテスクへ、貪欲に飛びついた」

「それを自分たちの芸術の礎に据えた」

「本物の生活の真実を持つ俳優の演技は、彼らには心を揺さぶりすぎる。舞台で起こることを信じるのを恐れ、役や演じ手の心の奥をのぞかず、劇場で気晴らしをしたがる。しかも本物の体験は、味気なく、簡単に見える」

「どんな料理にも胡椒、刺激、香辛料、ソースを加える、飽食した美食家のように、偽のグロテスクの愛好者は、自然な道で役へ近づくことを、まともな人や『新しい俳優』には許されないことと考える」

「ひねりや歪みが必要なのだ。持って回った講義の言葉や、複雑でわかりにくい学説に、理由づけてもらったものが」

「偽のグロテスクは、多くの劇場を生んだ」

「そこでは、あらゆる戯曲を例外なく、俳優と観客の真実の感覚を狂わせる、誇張した手法で演じる」

「偽のグロテスクに隠れる危険の大きさを理解してもらうため、説明のかわりに、本物のグロテスクとは何かを話そう」

「偽物と比べれば、どんな危険を言っているのか、わかるだろう」

「本物のグロテスクとは、役と俳優の創造にある、大きく、深く、十分に体験された内面の内容を、全面的に、鮮明に、的確に、典型的に、余すところなく、しかも最も単純な外的表現で示すことだ」

「その体験と具現には、余計なものは何もなく、必要なものだけがある」

「グロテスクには、人間の情念を、その構成要素のすべてにわたって感じ、体験するだけでなく、凝縮することも必要だ。その表現を、最も目に見え、抗いがたい表現力を持ち、不敵で大胆なものにし、誇張、ときには戯画の境にまで高めるのだ」

「グロテスクは、疑問符のつく、わかりにくいものであってはならない」

「厚かましいほど、はっきりして、明確なものだ」

「グロテスクを作ったとき、観客に『教えてください。あの四本の眉と、頬の赤い三角は、何を意味するのです?』と聞かれるようでは、いけない」

「そこで『あれは、美術家が鋭い目を表そうとしたのです。対称だと落ち着いてしまうので、ずらしたのです』などと説明しなければならないなら、困ったことだ」

「そこは、あらゆるグロテスクの墓場だ」

「グロテスクは死に、代わりに単なる絵解きなぞが生まれる。絵入り雑誌が読者に出すのと同じ、愚かで素朴ななぞだ」

「俳優に眉や鼻が何本あろうと、私にはどうでもよい!」

「四本の眉、二つの鼻、一ダースの目でもよい。理由があり、内面の内容が大きすぎて、二本の眉、一つの鼻、二つの目では、表しきれないのなら」

「だが、四本の眉が必要から生まれず、理由もないのなら、グロテスクは、膨らませるどころか、ただ小さくしてしまう。『シジュウカラが海に火をつけた』という大騒ぎの、その小さな中身を」

訳注

海を焼くと大言壮語した小鳥の寓話を踏まえた表現。大騒ぎしたわりに、実が伴わないことを指す。

「ないものを膨らませ、空虚を膨らませる! そんな仕事は、シャボン玉作りを思わせる」

「形が中身より大きく強ければ、中身には過大な、その膨れ上がった空間の中で、中身そのものは、必ず見失われる」

「擲弾兵の外套に入れられた、乳児のようなものだ」

「中身のほうが形より大きければ、そのときはグロテスクだ……」

「だが残念ながら、実際にはほとんど存在せず、私たちの芸術では最もまれな例外でしかないものについて、あれこれ心配し、騒ぐ必要があるだろうか?」

「実際、あらゆるものを含み、尽くした内容が、それを表すために、誇張され膨らんだグロテスクの形を強く必要とする、そんな舞台の創造物を、どれほど見たことがあるだろう?」

「ドラマでも、喜劇でも、笑劇でも、どこでもよい」

「偽物ではなく、本物のグロテスクへ届く力と勇気を持つ俳優は、どこにいるのか。夢見ることは、誰にも禁じられていないが」

「生涯で、本物の悲劇的グロテスクを見たことがあるだろうか?」

「私は一つ、人間に可能な最高のものを見た」

「サルヴィーニのオセローだ」

「喜劇的グロテスクも見た。正確には、生まれつき、そう作られた人間を見た」

「故人となった俳優、K・A・ヴァルラーモフだ」

「もう一人の、生まれついてのグロテスク、V・I・ジヴォキーニについても、多くの話を聞いた」

「彼は舞台へ出て、客に『こんにちは、皆さん!』と言った。その俳優としての自由な振る舞いに、すべてを尽くす、限りないおかしみが現れていた」

「その戯画的な表現には、当時のロシア人の気のよさ、あるいは人類に共通する気のよささえ、現れていた」

「だが、本物のグロテスクのかわりに、シャボン玉のように大きく膨れた、外側だけの、考え出された偽物を見ることが、何と多いことか。内側には、シャボン玉と同じく、まったく中身がない」

「それは具のないパイ、酒のない瓶、魂のない身体だ」

「今、私たちのもとへ現れた偽のグロテスクも、そうだ。内側からそれを作る、心の内容がない」

「そんなグロテスクは、ただのしかめ面だ」

「最後に、本物と偽物について、ここまでの説明を補い、言い尽くすため、最近の出来事を話そう」

「私はN氏の学校の、生徒の上演に招かれた。ご存じのとおり、彼はこの芸術で、最も急進的な前衛を代表するつもりでいる」

「その晩は、ほかならぬA・S・プーシキンに捧げられていた」

「短くても内容においてすべてを尽くした場面、『けちな騎士』『モーツァルトとサリエリ』『ペスト流行時の酒宴』が上演された」

「上演前には、N氏本人の、長く、多弁で、中身のない演説があった」

「そこで聞き、見たものは、ここでは述べない」

「それより、上演後、学校長と教師たちだけになったとき、私が話したことを伝えよう」

「『あなたたちは、二十世紀のプーシキンは、まったく違う仕方で、書かれたとおり、すべてを尽くして演じなければならない、とお考えですね』と私は言った」

「『そうしなければ、その人物像は、ただの個人や、日常的な歴史上の人物にまで、小さくなってしまう、と』」

「『さらに、プーシキンは悲劇的な、モリエールは悲喜劇的なグロテスクとしてしか表せない、とおっしゃる』」

「『あなたたちは、その最高の芸術、私が生涯目指してきたもの――きっと、あなたたちやほかの革新者も同じでしょう――その完成された芸術的創造を、グロテスクと呼びたいのですね』」

「『賛成です!』」

「『だが、まったく理解できないことがあります』」

「『どうやらあなたたちは、まだ何も示さず、生まれつき格別なものも持たず、技術はまったくなく、どこからも芸術へ近づけていない生徒に、その本物のグロテスクができると、本気で信じている。人間に普遍的な考えや感情を表せる深みから来る、一語や一文の内なる本質を、感じさせる話し方さえできない生徒に。体の動きを内側から感じられず、踊りや身体表現の授業で、外面的な気楽さだけを身につけた生徒にです』」

「『まだ目も開ききらない、このかわいい子犬たちが、グロテスクを口にするのですか!』」

「『いいえ、それは滑稽な思い違いです!』」

「『初心者に、そんな危険な実験をしてはいけません!』」

「『彼らは実験用のネズミやウサギではないのです!』」

「『無理強いは、偽のグロテスク、職人仕事、型へつながります!』」

「『それより、本物のグロテスクへ、生徒たちを呼びかけなさい』」

「『そこに、進歩する方向の、最前線の拠点があります』」

「『見せかけではなく、本当に先へ進む方向へ、若者を導きなさい』」

「『その道は、非常に難しいけれど、まっすぐで、明確です』」

「『右や左の曲がり角や行き止まりへ、それたり隠れたりはしません』」

「『もし一瞬入り込むとしても、それは偵察のため、選んだ方向が正しいか確かめるためだけです』」

「『もう、左の芸術、右の芸術という言葉を、手玉に取る遊びはやめませんか?』」

「『どちらも芸術の質や道の正しさを示さず、逆に、その道からの誤った逸脱を示す言葉です』」

「『真実は真ん中にあります』」

「『まっすぐ、前へ、前へ進む道にあります……』」

「『多くの人の目隠しになる古い言葉を、もっと正しい言い方に変えましょう。悪い芸術と、よい芸術に』」

「『偽のグロテスクは最も悪い芸術、本物のグロテスクは最もよい芸術です』」

「『生徒たちは、後者へ決して届かないかもしれません。それでも、作品の本質そのものを深く体験し、それを鮮明で単純に、くっきりとすべてを尽くす、誇張の境まで高めた形で表そうとすることは、芸術家として完成へ近づくため、生涯目指せる理想です』」

「『その志向の中に、生徒たちは偽物でなく本物、左でも右でもなく正しく、曲がらず常に前へ進み、流行の一時的なものではなく、永遠に先進的な芸術を見つけるでしょう』」

「『それは非常に難しいので、従う人は少ない。一方、偽のグロテスクを使う偽の前衛には、信奉者が群れをなす。才能の乏しい人にも、とても手が届きやすいからです』」

「『大げさに身をよじり、顔を作ることなら、誰にでもできます』」

「『だから、偽のグロテスクを火事以上に恐れ、あらゆる力を向け、いつも本物のグロテスクを目指してください』」

「『二つを、見分けられるようになりなさい』」

「『なおさら必要なのは、今、多くの人が偽のグロテスクを、役だけでなく、上演全体の様式にも関わる、俳優の個性表現の一種だと考えているからです』」

「『だが、それは危険な思い違い、罠です』」

「『偽のグロテスクは個性表現ではなく、ただの大げさな身ぶりです』」

「『今日の授業で、それを警告するのが、私の務めだと思ったのです』」

「『一方、本物のグロテスクは、単なる個性表現より、はるかに大きなものです』」

「『それは一部分ではなく、創造するものの、すべてを包む内容を、余すところなく具現するまで高めた、芸術全体なのです』」

「『本物のグロテスクは、私たちの舞台の創造の理想です』」

〔創造における意識と無意識について〕

1

創造中の俳優の無意識を助けるには、全体の方向を導くことができる。

俳優の仕事には、意識で照らさずに残すべきことが多い一方、意識の働きが重要で、必要な領域もある。

たとえば、戯曲の主要な道標、基本的な行動の課題は、意識し、確定し、その後は揺るがないものとして保たなければならない……。

役の楽譜を意識的に組み立てる、その課題を探すときには、無意識が、大きく重要な役割を果たしていた。

無意識が直感的に課題を見つけ、直接教えてくれるのが、いちばんよい。

だが、それを意識し、作家や、ほかの共同制作者の意図と照らし合わせたあとは、課題を確定し、道標のように変わらないものとして保つ。

課題は、創造に正しい方向を示す。

一方、定めた課題を「どう」果たすか、主要な道標のあいだで何が起こるか、つまり状況や情動記憶にどう理由を与えるか、欲求や志向のあり方、交流の形、適応などは、毎回変わってよく、無意識に教えてもらってよい……。

「どう」が、一度きりの固定された形になると、繰り返すうちに型、演技の決まりが染みつく危険がある。それは役の内面的な流れから離れ、機械的な運動としての演技、つまり職人仕事へ変わってしまう……。

創造を繰り返すたび、毎回、「どう」を即興と無意識に委ねることが、役を固まらせないよう守ってくれる。

創造を新鮮にし、命と直接性を与える。

だから、役の創造を繰り返すとき、「どう」が無意識であることは、とても望ましい。

役の意識的な道標を、すぐ忘れる俳優は少なくない。

彼らは、その楽譜の流れを進まない。

役の各部分を「どう」実行し、演じるかのほうに、はるかに関心がある。

この「どう」を、名人芸の域まで高め、意識的で、一度決めたら変わらない手管にしてしまう。

私たちの隠語で、そんな俳優を「手管師」と呼ぶのには、理由がある。

その創造の流れを示すのは、手管なのだ。

そんな俳優の無意識が現れるのは、絶えず繰り返す手管の、ちょっとした色合いや細部だけである。

その運命を避けたい人には、正反対の創造の道を勧めるべきだ。創造の瞬間には、基本的な課題、創造の道を示す道標、つまり「何を」だけを考える。

残りの「どう」は、おのずと、無意識にやって来る。その無意識だからこそ、役の楽譜の実行は、いつも鮮明で、豊かで、直接的になる。

「何を」は意識的に、「どう」は無意識に。

これが創造の無意識を守り、助ける、最もよい方法だ。「どう」を考えず、注意をすべて「何を」へ向けることで、無意識の参加が必要な役の領域から、意識をそらすのである。

2

告白する時が来た。

実は、ここまで私は、ほとんど感情と体験だけを話してきた。

すべてを、その二つへ帰着させた。

あらゆる鳥寄せ笛と技術を、その二つを呼び起こすことへ向けた。

では私は、知性や意志のような、ほかの要素、人間の能力が、創造に果たす大きく重要な役割を認めず、その参加と意味を否定しているのだろうか。

否定するどころか、逆に、感情と等しい価値を持ち、同じく重要だと考えている。

それぞれの働きを分けることさえ、私にはできない。

感情とは切り離せないものだ。

ではなぜ、ここまで感情へ肩入れし、協力者であるほかの要素より注意を払い、授業時間のほとんどを、それに捧げてきたのか。

理由は多い。

挙げてみよう。

1.

私たちの貧しい演技技術、とりわけ芝居の約束事の技術や、考え出した舞台創造の原則、方法が、最も偉大な芸術家である自然そのものの、生きた、直接的で、直感的、潜在意識的な創造と、少しでも競えると、心から信じる人がいるとは思えない。利己的な目的や、ほかの個人的な事情からでなく、本気で信じる人が。

自然の創造は、どの国の、どの年齢の観客の心身にも、直接、抗いがたく働きかける。

意識の監督がなければ、潜在意識の創造は正しい道からそれるかもしれず、知性や、ほかのものによる方向づけが必要だ、という反論や懸念はありうる。

それには私も含め、誰も反対しない。

また、生まれつきの才能が乏しく、内面と外面の資質の弱い俳優では、潜在意識の創造も、正しく説得力があっても、薄いものになるのでは、という懸念もあるだろう。

もちろん、それを残念に思うことはできる。

だが、その創造を、約束事としての演技の手法で強めるべきだ、という意見には、私は同意しない。より精巧で洗練されていても、人為的で、約束事に頼り、俳優じみた創造より、弱くても本物で自然な創造を選ぶ。

なぜか。

自然から与えられた自分の鼻、目、耳が、たとえ平凡でも、美しい人工のものよりよく、自分の手足が、たとえよくなくても、見事な機械の義肢よりよいと思うのと、同じ理由だ。

では、俳優に体験する能力や技能がなければ、どうするのか、と問われるだろう。

私はこう答える。その俳優に、劇場でする仕事はない。

「では、再現の芸術は認めないのですか?」と、また聞かれるだろう。

「いいえ、私はあらゆる芸術を認め、再現の芸術も認めます。まさにそれが、体験の過程なしには存在できないからです」

「職人仕事は認めないのですか?」と、さらに聞かれるだろう。

「認めません。優れた職人より、最も平凡でも、自然を土台に働く俳優を選びます」

「職人とは、一緒にすることがありません」

「私たちは違う人間なのです」

2.

知っているとおり、感情は最も気まぐれで、捉えがたい。

直接働きかけるのは難しい。

間接的な道が必要で、その主な道は、知性と、欲求、つまり意志を通る。

感情は扱いにくい。

だから、働きかける方法も十分には、いや、ほとんどまったく探られていない。

そのため私は、まず感情に取り組み、感情に必要な条件を整えるべきだと考える。

これまで、この芸術の技術上の穴は、「腹の底から演じる」「天からの霊感」「本物の才能は創造の勘、直感、悲劇的な高揚を持つ……」といった、何も中身のない、大きくて曖昧な言葉で覆われていた。

実際には、それらの言葉が意味したのは、単なる作り芝居、力み、叫び、偽りの大仰さにすぎなかった。M・N・エルモーロワのような、一部の天才的な俳優や女優は別として。

観客は、何世紀も、それに慣らされてきた。

本物の感情という名のもとに、学校では生徒へ植えつけられ、劇場では必要で、必須のものとされた。

舞台と芸術は、体験の領域にさえ約束事を求める、と言われた。

だが、現実の生活では、芝居の約束事は受け入れられない!

嫌がられ、笑われ、不誠実で、偽りで、悪い意味で『芝居がかった』ものと見なされる。

その結果、生活と舞台で、二つの感情、二つの真実、二つの偽りができた。

しかし、生活からは追い出す偽りを、なぜ劇場では信じなければならないのか。

そのほうが簡単だからではないか。

観客がすでに、偽りと約束事に慣れているからではないか。

これについては、舞台上の偽りを正当化する、複雑な理論がたくさんある。

改めて述べるまでもなく、よく知られている。

それでも観客は、舞台上の、本物で、正しく、真実な、生きた体験に感激し、忘れがたい芸術的印象や、時には衝撃さえ受ける。

何より高く評価し、ほかのあらゆる偽物より、それを好む。

実例を見ると、感情と体験の真実を基礎に働く、若い初心者の一座が、俳優の偽りに基づく、長く名声を得た劇場と、十分に競い、ときには勝ってさえいる。

不思議はない。どんな約束事も哲学も、新しく考え出した主張も、自然な資質の創造にはかなわない。その基礎に従って舞台で創造できる人は、できないため約束事へ逃げる人より、強いのだ。

自然に無理強いをしてはいけない!

自然の示す道を進みなさい。

私は、その道こそを調べている。

そこでは知性、意志、感情が、分けられない三者をなし、創造の過程で、それぞれが同じく重要である。

ある場合には一つが、別の場合には別の一つが、先に立つ。

だが劇場では、一部の例外を除き、この法則が容赦なく破られてきた。

内側から感情に温められず、意志にも支えられない、理屈だけの創造が、たいてい舞台を支配していた。いわば乾いた、冷たい形で、俳優の経験と、約束事の技法だけに支えられて。

これは最も退屈で、悪い舞台芸術のあり方だ。だから私は、注意をすべて、感情と、欲求や課題、つまり意志へ移したのだ。

遅れた三者の仲間を追いつかせ、権利を同じにする必要がある。

まず感情を助け、次に意志を助ける。

これが、創造における知性の役割について、ここまでほとんど黙っていた、第一の理由である。

そう、私は主張する。本物の感情と体験によって、内側から照らされ、理由を与えられていない創造には、価値がなく、芸術には必要ない。

自然そのものが潜在意識で導く、直接的で直感的な体験が最も価値あり、ほかのどんな創造とも比べられない、と主張する。

だが同時に、別の場合には、知性や意志に確かめられず、評価されず、促されず、導かれない体験の感情が、誤ることもある、と主張する。

私たちの芸術に必要で価値があるのは、三者すべてが対等に参加し、交代で先に立つ創造だけである。

どんな工夫であれ、一者を優位にして、別の一者を損なえば、私たちの仕事では、ただではすまない。

芸術は、それへの無理強いに報復する。

だから私は、どれほど巧妙で、深遠そうで、持って回った、華麗な言葉で正当化されようと、考案され、人為的にひねり出された創造の原則を、ひどく警戒し、疑ってかかる。

それらは内面の内容を持たない文句にとどまり、永遠の芸術の正しい道から、一時的に人をそらすことしかできないだろう。

だから今、この本で、意図して感情と体験に重みを置いたことを、告白しているのだ。

だが、理性に夢中のこの時代に、その二つの名誉を回復し、感情の技術を追いつかせられれば、私の行為は正当化されるだろう。

〔型を押し出す〕

「今行った、身体的行動の流れを確かめる過程を、私は草の生えた小道を踏み分けることに例えた。それは役づくりで、たまたま行う作業ではないと、わかるだろうか?」

「創造の過程全体の中で、独立した重要な行為であり、常に行うものとして、はっきり定めておく必要がある」

「生活とは、動き、行動だ」

「その途切れない流れが、役の中に自然に、直感的に生まれなければ、舞台上で作らなければならない」

「この作業は、真実の感覚の助けを借り、絶えず、自分自身の、生きた人間の身体の生活を振り返りながら行う」

「今したばかりだから、どんな作業かは、自分の経験でわかっているはずだ」

「私たち俳優の言葉では、この過程を『型を押し出す』と呼ぶ」

「なぜか?」

「その名はどこから来て、型とどう関係するのか?」

「知っておいてほしい。私たち俳優のほとんどの役は、最も根深く、擦り切れ、染みついた型から始まる」

「これは法則で、外れることは最もまれな例外だ」

「もう一つ知ってほしい。私たちは、しばしば自分でも知らず、ひそかに型を愛し、本能的にそちらへ引かれる」

「便利で、楽で、いつも手近にある。最も抵抗の少ない道へ導く。慣れている。そして、ご存じのとおり、習慣は第二の天性だ」

「間違った仕事と、型の使いすぎで、真実の感覚がすっかり狂い、私たちは自分の作り芝居の偽りに慣れ、喜んで信じるようになる」

「残念ながら、悪い習慣は深く、強く根を張る」

「だから演技の型は、とりわけ役を作り始める段階で、いつも離れない同行者になる」

「なぜ、その時期に型がとりわけ親切なのかは、明らかだ」

「初めには、俳優の歩く小道はまだ踏み固められていない。だから迷って、長い時間と実践で街道のようによく踏まれた、型の誤った道へ入りやすい」

「型の流れに入ると、新しい役の未知で未踏の領域にいるより、ずっと具合よく感じる」

「型は慣れていて、よく知り、親しい」

「だが、その親しさや近さは、血や感情によるのでなく、外側の機械的な習慣によるだけだ」

「よく身についた型に守られていれば、新しい役で舞台にいても、家にいるように感じる」

「何より不思議なのは、この『慣れ』を、私たちが簡単に、喜んで、霊感のおかげとさえ考えることだ」

「だから、新しい役を初めて試して終えたとき、期待した称賛や感激が得られないと、なおさら驚く」

「そのかわり、演出家は、本物の体験とただの作り芝居、霊感と型の単なる『慣れ』の違いを、長く、根気よく説明しなければならなくなる」

「この狂いの最大の問題は、新しい役に居座った型が、創造する俳優の、本物の生きた人間の感情のためにある場所を、すべて埋めてしまうことだ」

「型で埋まった場所を、どう空けるか?」

「型を引き抜くか?」

「だが空いたところには、別の、もしかするとさらに悪い型が座るだろう」

「初期の創造では、役に必要なものを俳優がまだ蓄えていない、そのことだけでも、必ずそうなる」

「本物の生きた感情と行動を育て、その本当の真実と、それを信じる力を作れば、居座った型は内側から自然に押し出される。古い虫歯が、その下に育つ新しい歯に押し出されるように」

「型を押し出す過程は、とりわけ注意を向けるに値する」

「イワン・プラトーノヴィチの図表と実演にさえ値する」とアルカージー・ニコラーエヴィチは冗談を言った。

「だから次の授業は、この大切な過程を、さらに詳しく研究することにしよう」

〔行動に理由を与える〕

「こんな提案をしよう」とアルカージー・ニコラーエヴィチは話し始めた。「ある状態を作るには、何らかの行動、即興練習、訓練が必要だ」

「状態は、何もないまま、ひとりでに、空間の中に、漠然とは生まれない」

「何か現実の、行動を伴うものが必要だ……」

「そのために、戯曲の最も基本的な身体的行動をすべて取り上げ、実行しなさい」

「たとえば、ナズヴァーノフの演じる人物が、シューストフの座っている、マロレトコワの客間へ入るとしよう」

「部屋への入り方はわかるね?」

「もちろんです」

「では、入ってごらん」

私は袖へ行き、しばらくして舞台へ戻り、シューストフに挨拶した。そして、次に何をすればよいかわからなくなった……。

「いや、信じられなかった」とトルツォフは言った。

「君は舞台へ出た。部屋へは、どこか違う入り方をするものだ」

「どんなふうにです?」

「私にはわからない」

「何かを考え、何かに目を向け、そこにいる人の気分を理解しようとする。扉はもっと丁寧に閉め、相手をもっと探るように見る」

「誰に、何のために会いに来たかで、すべてが決まる」

「では、誰に、何のために会いに来たのでしょう?」

「私にわかるわけがない」

「君のことだ」

「僕、ナズヴァーノフ自身が、マロレトコワのような部屋に住む、パーシャ・シューストフに会いに来ました」

「自分自身と、周囲の現実から始めているのは、よいことだ。いつも、そこから始めなければならない」とトルツォフは認めた。

「では、何のためにシューストフに会いに来た?」

「わかりません」

「だから目的も意味もない登場になり、用事のある訪問にならなかったのだ」

「何のために来たのか、決めなさい……」

こうして少しずつ、アルカージー・ニコラーエヴィチに尋ねながら、私の訪問の物語を、丸ごと考え出した。

超課題と貫く行動を定め、大きな行動を構成する部分へ分け、そこに論理と順序を見つけた。

それらは生活と真実を思わせ、信じられる瞬間を生んだ。見つけた身体的行動の流れを何度も繰り返し、よくなじませた。

仕上げとして演じ始めると、私は大きな課題、超課題、貫く行動を考えていた。

ただ、登場やほかの身体的行動を、どうすれば自然にできるか、それだけは考え忘れた。

それは意志にかかわらず、潜在意識によって、自然にできた。

「気づいたかね。私は演出家としての〔意見〕を押しつけず、逆に、君たちに尋ねさせ、自分の問いへ自分で答えさせた」

「身体的行動に必要なものを、自分で探した。見つけたものは、すぐに正しい場所、自分の棚や掛ける場所へ収まった」

「頭には、余計なものは何も残らず、必要なものだけが残った」

「これは、自由で自然な創造のための、大切な条件だ」

「俳優には、役への食欲を起こさせなければならない」

オペラ・演劇スタジオの課程を劇形式にしたものから

ここまで学んだすべてを、戯曲への作業に適用する。

即興練習 第……番
身体的行動の練習

『桜の園』
(行動も言葉も自由に)

I.過去の即興練習。

а)パリへの旅。アーニャとシャルロッタ。

б)パリで母と会う。

в)モスクワへの旅。領地へ近づく。

г)小さな駅での出迎え。

д)到着。部屋を見て回る。

II.現在の即興練習。

第一幕のいくつかの場面。

行動、言葉、配置と動きは自由にする。

暗転。

会議用のような机が現れる。

明かり。

即興練習 第……番

生徒全員が机につく。

教師。

「君たちは『桜の園』第一幕の、理由を与えた状況のもとでの身体的行動を、即興練習として通した」

「役に必要な過去、パリへの旅、そこでの再会、帰路、到着を作った」

「その場で生まれた言葉を使い、身体的行動と、内面の映像、つまり状況の流れに沿って、戯曲の現在、第一幕を演じた」

「今度は、思考の流れを通してごらん」

「そのために次回まで、身体的行動に応じて、すべての考えがどう入れ替わるか、覚えてきなさい」

「その流れを、今から口述しよう」

「最初の場面から始める」

「ロパーヒンが駆け込んでくる」

「寝過ごして、列車の時刻を逃した」

「何をすべきか理解するには、次を知る必要がある。а)今、何時か。б)ということは、寝過ごした。в)なぜ起こさなかったのか。反応は、自分への腹立ちだ」

(思考の流れは、内面の映像の流れと並行する。一方が、もう一方を覚える助けになる。)

「機械的に台詞をしゃべるのを、どう止めるか。台詞と発話を、創造の主目的、つまり戯曲と役の超課題と貫く行動へ従わせる必要がある」

「俳優の舞台上の言葉を、演技の付け足しではなく、行動にしなければならない」

「この単純で自然な課題には、膨大な努力と、心身にわたる長い作業を捧げなければならない」

即興練習 第……番

思考の流れに沿って、机で戯曲を読む。

教師。

「思考の流れを確かにするため、机で『桜の園』第一幕全体を演じなさい」

「自分の両手の上に座り、言葉、声の抑揚、表情、首、胴体など、座ったままで可能なものだけを〔使う〕のだ」

「いや、作者の文章の中に隠れ、君たち自身が言葉の内なる意味から掘り起こし、自分の心から注ぎ込んだものを、伝えられていない」

「理由は、発話と抑揚が自由でなく、約束事に縛られ、締めつけられていたからだ」

「約束事が生まれたのは、自分が何を、どう言っているか、自分の声を聞きすぎたからだ」

「機械的にしゃべると、台詞そのものが筋肉へ定着するだけでなく、抑揚も発声器官に完全に支配され、同じ形で機械的に繰り返される」

「言葉と抑揚の結びつきが、あまりに強く、どれほど技術を尽くしても切り離せなくなる」

「この不自然な支配で、声の音域が五度にまで狭まるのが、よくないのだ」

「『鼻を五度まで下げる』、つまりしょげかえるのもよくないが、話す声の音域を五度にしてしまうのは、もっと悪い」

訳注

原文の「鼻を五度まで下げる」は、しょげかえることをいう慣用表現で、音楽用語の「五度」と掛けている。

「すると言葉は、小さな檻の獣のように、狭い空間を走り回り、望む出口を見つけられない」

「ときどき、一つの音節でだけ、音が狭い音域を飛び出す。檻から差し出され、自由を求める獣の足のように」

「だが一秒後には、また五度の狭い音域へ戻り、言葉は締めつけられた中を走り回り、出口を見つけられない」

「言葉を、まとわりつく抑揚からどう解き放ち、双方に自由を与えるか?」

「ここで助けになるのが、いわゆる『タタタ』で語る方法だ」

「説明するより、実際に見せるほうが簡単だ」

「そこで、ペトロフとシードロワ。『桜の園』第一幕の、ロパーヒンとドゥニャーシャの最初の対話を、『タタタ』でやってごらん」

即興練習 第……番

『桜の園』第一幕を、思考の流れに沿って「タタタ」で語る。

机での読み合わせ。

「台詞を取り上げたら、声の抑揚がどれほど生き生きし、自分の役目だけでなく、言葉の役目まで果たし始めたか、気づいただろうか?」

「どれほど自由になり、音域を広げ、思いがけない繊細ですばらしい細部を、刻々と見つけたことか!」

「役ごとに机につき、思考の流れに沿って、このように何十回も『タタタ』で戯曲を通しなさい。以前の、約束事で、作った、偽りの抑揚を忘れるだろう」

「広い音域をつかんだら、もう狭い音域では我慢できない。思考の繊細で大切な意味合いに合う抑揚を見つけたら、言葉を返されたときにも、それを粗く、狭くしたくはなくなる」

「古い抑揚を忘れ、嫌うようになり、新しい抑揚は、真実と生活の流れへ君たちを引っ張る」

「そのとき、発話と台詞は、ただ口にされるのでなく、行動し始めるのだ」

「このように、役の台詞を、調子を狂わせず自分のものにするのは、創造における重要で難しい課題で、十分な慎重さが必要だ」

「そうでなければ、内面の感情や思考と、その言葉による具現との、自然な結びつきを乱す危険がある」

「言葉が筋肉の器官に支配されるのを、どう避けるか?」

「内なる意味の流れを、どう保つか?」

「創造のあらゆる瞬間に、それを中心の、導く流れにするには、どうすればよいか?」

「今から実際に、思考、映像、言葉による行動の流れが、どう作られるかを示そう」

「そのために、生徒たちが『桜の園』第一幕の小さな場面を演じる」

「念のため言うが、演じ手はまだ戯曲を読んでいない。だから台詞は知らず、引き続き即興で話す」

「また、彼らは第一幕を、身体的行動の流れ、そこで語られる思考の流れ、内面の映像の流れに沿って、すでに通している」

「つまり、今演じる人々には、舞台上の出来事の外側について、映像を伴う、必要な状況の蓄えがすでにある」

「行動そのものが展開する舞台と装置は、演じ手にとって、現実そのものにならなければならない」

「『桜の園』第一幕の部屋が、どんな環境になるか、私は知らない。装置の具体的な配置も、俳優の配置や動きも、わざとまだ定めていないからだ」

「その場で決まる」

「演じ手は、その場で生まれる自分の配置と動きを、現実のものとして受け取らなければならない」

「役の過去と未来は、もう作ってある」

「残るのは、現在を作り上げることだ」

「ここでは、私たちが非常に大切にする即興が、多くなるだろう」

即興練習 第……番

創造で即興を大切にする理由。

述べること。最も恐ろしいのは、外面的な配置と動きの流れ、手管の流れ、型にはまった配置などへ入り、定着してしまうことだ。

その誤った流れを固定すると、正しい流れは自然に去る。映像の流れ――型を内面の映像として見ることはできない。正しい思考の流れ――型の中に思考はない。正しい身体的、言語的行動の流れ――型は行動ではない。

型には、超課題も貫く行動もありえない。

誤った道を避けるには、一方ではその道を断ち、伸びる余地をなくし、もう一方では、正しい道をできるだけ強く、確かにしなければならない。

配置と動きに頼る誤った道を断つため、固定した配置と動きそのものをなくす。

そのために、四方の壁を備えた空間で稽古する。

演じ手は、そのつど舞台へ出るとき、どの壁が客席へ向けられ、開かれるのかを知らない。

これによって、役を配置と動きの流れに立脚させ、それに沿って進む習慣をつけることができなくなる。

毎回、今日の新しい配置と動きを考え、上演のたびに俳優を導く流れを、新たに作らなければならなくなる。

その作業と、作られる流れが、俳優の注意のほとんどを引きつける。

手管の流れも消える。

道を外れず、止まらないことを考えなければならず、手管どころではないからだ。

機械的に言葉をしゃべることも、使えない。

ただのしゃべりには思考がない。だが、すでに言ったように、思考の流れは最も安定したものの一つだ。

それを、さらに安定した身体的行動の流れと同じように、しっかりつかまなければならない。

その二つの上に、毎回の上演を導く流れを築く必要がある。

しかし、役の身体的行動と思考の流れは、状況なしには成り立たず、状況もまた、内面の映像の流れなしでは成り立たない。

映像、思考、身体的行動、言葉による行動の、それぞれの流れが、貫く行動と超課題を通じて結ばれ、『桜の園』の戯曲と役を下稽古として繰り返すことで織り合わされたあと、生徒たちに初めて、作者の台本から本文を読んで聞かせる。

役を生きる俳優の内面の流れを映す言葉を受け取れるよう、内なる意味が準備されている。そのため台詞は、人物を演じる者の心に、親しいものとなる。

最初の朗読で、生徒たちが初めは単語や文句に、やがて思考のまとまりや区切り全体に、どれほど感激し、勢いよく、夢中で飛びつくか、見せたいものだ!

心を打った言葉、自分に必要になった言葉を書き留めたいと、生徒たちは懇願する。

許可される。

次の稽古で、その書き留めた言葉、文句、まとまりが、演じ手の自由な即興の台詞へ組み込まれる。

さらに何度か稽古してから、また朗読する。

新しい言葉、文句、区切りが書き留められ、それもまた、自分の自由な台詞へ組み込まれる。

こうして少しずつ、即興の言葉が押し出され、演じ手の気に入った、よりよい、最も表現力ある言葉へ置き換えられる。

やがて、作者の言葉が大半を占めるようになる。

自分の言葉は、隙間に残るだけとなる。

その隙間も、まだ使っていない作者の言葉で、簡単に埋められる。用意してあった場所へ、自然に収まるのだ。

文句の感覚、作者の言葉の文体への感覚が、それを助ける。