演劇 / スタニスラフスキー俳優の自己修養Работа актера над собой. Часть 1. Работа над собой в творческом процессе переживания

舞台光の中で内省する俳優を描いた、俳優の自己修養の独自装画

演劇 / スタニスラフスキー

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原著・底本

原題
Работа актера над собой. Часть 1. Работа над собой в творческом процессе переживания
著者
スタニスラフスキー
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収録範囲
第1部の標題・献辞・序文・はじめに・全16章・付録7篇を収録。第2部「具現」は含まない。底本の読みが定まらない箇所は訳注に示す。

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表紙

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日本人文
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本書のために制作した独自装画。原刊の装丁とは異なります。

追加日: 2026-02-05 / 更新日: 2026-10-08

第1部の標題・献辞・序文・はじめに・全16章・付録7篇を収録。第2部「具現」は含まない。底本の読みが定まらない箇所は訳注に示す。旧訳で付けた栞・マークや読書位置は、新訳では位置がずれる場合がある。

前付

K・S・スタニスラフスキー

俳優の自己修養

第1部

役を生きる創造の過程における自己修養

私の最も優れた教え子であり、愛する女優であり、演劇をめぐるあらゆる探求に変わらぬ献身で力を貸してくれたマリヤ・ペトローヴナ・リーリナに、この仕事を捧げる。

序文

1

私は、俳優の技術について、何巻にもわたる大きな著作を構想している。いわゆる「スタニスラフスキー・システム」を扱うものである。

すでに出版された『芸術におけるわが生涯』がその第1巻にあたり、全体の導入となる。

「体験」の創造過程における「自己修養」を扱う本書は、第2巻である。

近いうちに、「具現」の創造過程における「自己修養」を扱う第3巻の執筆に取りかかる。

第4巻は「役づくり」に充てるつもりだ。

本来なら本書と同時に、勧めたい練習を数多く収めた、一種の練習問題集『トレーニングと反復訓練』も補助教材として出すべきだった。

今それをしないのは、この大きな仕事の本筋から離れたくないからである。私には、その本筋のほうが重要で、急を要すると思われる。

「システム」の主要な基礎を伝え終えたら、すぐに補助の練習問題集に取りかかろう。

2

本書も、これに続く巻も、学術的な著作であることを目指してはいない。

目的は、ひたすら実践にある。

俳優、演出家、教師として積んできた長い経験から学んだことを、伝えようとしているのである。

3

本書で使う用語は、私が考案したものではない。生徒や駆け出しの俳優たちが、実際の稽古の中で使っていた言葉である。

彼らは稽古をしながら、自分の内に生まれる創造の感覚に、言葉で名前を付けていった。

その用語のよさは、初めて学ぶ人にも身近で、分かりやすいところにある。

そこに学術的な由来を探そうとしないでほしい。

私たちには、実際の暮らしと仕事の中から生まれた、演劇独自の語彙、俳優仲間の言葉がある。

もちろん「潜在意識」や「直感」といった学術用語も使う。しかし、それは哲学上の意味ではなく、ごく普通の日常的な意味で使っている。

舞台上の創造という領域が学問に顧みられず、十分に研究されないまま、実践に必要な言葉も与えられていないのは、私たちの責任ではない。

だから、いわば手製の道具で、どうにかやっていくしかなかった。

「システム」が目指す主要な課題の一つは、人間に生来備わる心身の働きとその潜在意識から、創造力を自然に呼び起こすことである。

これについては、本書の最後、第16章で述べている。

そこには創造と「システム」全体の核心があるので、特に注意を払って読んでほしい。

5

芸術については、語るときも書くときも、平易で分かりやすくなければならない。

難解な言葉は、生徒をおびえさせる。

頭を刺激しても、心には働きかけない。

そのため、創造の瞬間に知性が芸術的な感情とその潜在意識を押さえつけてしまう。私たちの目指す芸術では、まさにその感情と潜在意識が、大切な役割を担うというのに。

だが、複雑な創造の過程を「平易に」語り、書くことは難しい。

言葉は、捉えがたい潜在意識の感覚を伝えるには、あまりに具体的で、粗い道具なのだ。

そこで私は、印刷された言葉の内容を読者が自分でも感じ取れるよう、本書にふさわしい特別な形を探さなければならなかった。

それを、情景が目に浮かぶ例や、生徒たちが養成所で練習やエチュードに取り組む様子を描くことで、実現しようとした。

この方法がうまくいけば、本の中の文字は、読者自身の感情によって生きたものになるだろう。

そうなれば、創造する仕事の本質と、心理技法の基礎も説明できるようになる。

6

本書に出てくる演劇の養成所も、登場人物たちも、実在するものではない。

いわゆる「スタニスラフスキー・システム」に関する仕事は、ずいぶん前に始めた。

当初の覚え書きは、出版するためではなかった。私たちの芸術と、その心理技法を探る際の手掛かりとして、自分のために書き留めていたのである。

説明のために必要な人物や言い回し、例は、当然ながら、その当時――今では遠い、戦前の時代(一九〇七〜一九一四年)――から取った。

そうして年を重ねるうちに、「システム」に関する資料は、いつの間にか膨大な量になっていた。

本書は、その資料から生まれた。

登場人物を入れ替えるには、長い時間と多くの手間がかかる。

過去から取った例や個々の言い回しを、新しいソビエトの人々の暮らしや気質と結び付けるのは、なおさら難しい。

例そのものを改め、別の言い回しを探さなければならなくなる。

それでは、さらに時間も手間もかかってしまう。

しかし本書で書いているのは、特定の時代や、その時代の人々だけにかかわることではない。あらゆる民族、あらゆる時代に生きる、芸術家の資質を持った人間すべてに生来備わる働きについてなのだ。

重要だと思う考えを何度も繰り返しているのは、意図してのことである。

このくどさは、どうか読者の皆さんにお許しいただきたい。

7

最後に、助言や指摘、資料の提供など、さまざまな形で本書の仕事を助けてくださった方々に、喜んで感謝を述べたい。

『芸術におけるわが生涯』では、私に初めて芸術への向き合い方を教えた恩師たち――G・N・フェドートワ、A・F・フェドートフ、N・M・メドヴェージェワ、F・P・コミサルジェフスキー――が、私の俳優人生で果たした役割について述べた。また、V・I・ネミローヴィチ=ダンチェンコをはじめとするモスクワ芸術座の仲間たちについても書いた。彼らとの共同作業から、私はきわめて大切なことを数多く学んだ。

私はいつも彼らを心からありがたく思ってきたし、本書を送り出す今、その思いはいっそう強い。

次に、いわゆる「システム」を実践に移し、本書を作り、世に出すために力を貸してくれた方々について述べるにあたり、まず思い浮かぶのは、私の舞台活動にいつも付き添い、誠実に助けてくれた仲間たちである。

若いころ、私は彼らとともに俳優の仕事を始めた。そして老いた今も、彼らとともにこの仕事に尽くし続けている。

共和国功労芸術家のZ・S・ソコローワとV・S・アレクセーエフのことである。二人は、いわゆる「システム」を実践に移す際、私を助けてくれた。

亡き友L・I・スレルジツキーへの思い出を、私は深い感謝と愛情をもって大切にしている。

訳注

友人の姓はスレルジツキー。底本の綴り Сулержнцком を、2017年AST版で確認できる Сулержицком に従って読んだ。頭文字 L・I は底本のままとした。

彼は、「システム」に関する最初の試みを誰より早く認めてくれた。初期の発展と実践を助け、私が迷い、力を失いかけたときには励ましてくれた。

「システム」の実践と本書の執筆には、私の名を冠したオペラ劇場の演出家で教師でもあるN・V・デミードフも、大きな力を貸してくれた。

彼は貴重な指摘や資料、例を提供し、本についての意見を述べ、私の誤りを明らかにしてくれた。

今ここで、その助力に心からの感謝を伝えられることを、うれしく思う。

「システム」の実践を助け、本書の原稿を読み、指摘と批評を寄せてくれた、共和国功労芸術家でモスクワ芸術座の俳優M・N・ケードロフにも、心から感謝している。

本書の原稿を点検する際に助言を寄せてくれた、共和国功労芸術家でモスクワ芸術座の俳優N・A・ポドゴールヌイにも、心から感謝を申し上げる。

そして、本書の編集という大仕事を引き受け、豊かな知識と才能をもってその重要な仕事を果たしてくれたE・N・セミノフスカヤに、最も深い感謝を捧げる。

K・スタニスラフスキー

はじめに

一九……年二月……日、私が勤めていたN市で、同じ速記者の同僚とともに、著名な俳優・演出家・教師であるアルカージー・ニコラーエヴィチ・トルツォフの公開講演を記録する仕事に招かれた。

この講演が、その後の私の運命を決めた。舞台への抑えがたい憧れが芽生え、今ではもう劇場の養成所への入学が認められている。まもなく、アルカージー・ニコラーエヴィチ・トルツォフ先生と、その助手イヴァン・プラトーノヴィチ・ラフマーノフ先生の授業が始まる。

これまでの暮らしに区切りをつけ、新しい道へ踏み出せるのが、うれしくてたまらない。

とはいえ、以前の暮らしで身につけたものも、役に立つだろう。

たとえば、速記だ。

授業を欠かさず記録し、できるだけ速記で書き取ってみたらどうだろう。

そうすれば、立派な一冊の教科書になるではないか。

習ったことを復習するのに役立つ!

そして、やがて俳優になったときには、この記録が、仕事で行き詰まった私を導く羅針盤になるはずだ。

決めた。日記の形で記録していこう。

第1章 素人芝居

一九……年……月……日

今日、私たちは胸をどきどきさせながら、トルツォフ先生の最初の授業を待っていた。

ところがアルカージー・ニコラーエヴィチが教室に来たのは、思いもよらない知らせをするためだけだった。各自が好きな戯曲の一場面を選んで演じる、試演会を行うというのだ。

会場は大舞台。観客だけでなく、劇団員や劇場の芸術部門の責任者たちも見に来るという。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、本番と同じ環境で私たちを見たいのだ。舞台装置の中で化粧をし、衣装を着け、フットライトを浴びて立つ姿を。

私たちがどのくらい舞台に向いているかは、そうして実際に演じてみて初めて、はっきり分かるのだという。

生徒たちは当惑して、固まってしまった。

この劇場で演じるだって?

そんなのは冒瀆だ、芸術を汚すことだ!

私は、もっと気負わずに済む別の場所で公演をさせてくださいと頼みたかった。しかし、言い出す間もなく、アルカージー・ニコラーエヴィチは教室を出ていってしまった。

授業は取りやめになり、その時間は、演じる場面を選ぶために使うことになった。

アルカージー・ニコラーエヴィチのこの思いつきについて、活発な議論が始まった。

初めに賛成したのは、ごく少数だった。

特に熱心だったのは、どこかの小劇場で舞台に立ったことがあるという細身の青年ゴヴォルコフ、美しい金髪で背が高くふくよかなヴェリヤミノワ、それに小柄で落ち着きがなく、にぎやかなヴュンツォフだった。

しかし、ほかの者たちも、やがて近いうちに舞台へ立つという考えになじみ始めた。

想像の中で、フットライトが楽しげにきらめき始めた。

たちまち公演は、面白そうで、ためになり、ぜひやるべきことにさえ思えてきた。

それを考えると、心臓が高鳴った。

私とシューストフとプーシチンは、初めのうち、とても控えめだった。

夢に描くのも、ヴォードヴィルか、他愛のない喜劇どまりだった。

自分たちの手に負えるのは、そのくらいだと思ったのだ。

ところが周囲では、まずゴーゴリ、オストロフスキー、チェーホフといったロシアの作家の名が、次には世界的な大作家の名が、次第に頻繁に、自信をもって口にされるようになった。

いつの間にか、私たちも控えめな考えを捨て、ロマンチックなもの、時代衣装を着るもの、詩で書かれたものを演じたくなっていた……。

私はモーツァルトに心を引かれ、プーシチンはサリエリに引かれた。

シューストフはドン・カルロスを考えていた。

やがてシェイクスピアの話になり、ついに私はオセロー役を選んだ。

そう決めたのは、家にプーシキンの本はなく、シェイクスピアならあったからだ。稽古をしたくて、今すぐ取りかかりたくてたまらず、本を探す時間さえ惜しかった。

シューストフがイアーゴー役を引き受けた。その日のうちに、最初の稽古は明日だと知らされた。

家に帰ると、私は自分の部屋に閉じこもり、『オセロー』を取り出した。ソファにゆったりと腰を下ろし、うやうやしく本を開いて読み始めた。

ところが、二ページ目でもう演じたくなってしまった。

そのつもりもないのに、手も足も顔も、ひとりでに動きだした。

声に出して朗々と語らずにはいられなかった。

そこへ、ページを切り開くための大きな骨製のナイフが、手近に見つかった。

私はそれを短剣のように、ズボンの腰に差した。

毛足の長いタオルを頭に巻く布にし、窓のカーテンを束ねる色とりどりの紐を、肩から斜めに掛けた。

シーツと毛布で、シャツと上着らしいものをこしらえた。

傘は曲刀に早変わりした。

盾だけが足りなかった。

だが、隣の食堂の戸棚の後ろに、盾の代わりになる大きな盆があるのを思い出した。

思い切って、取りに出ることにした。

武装してみると、自分が本物の戦士になったように感じた。威厳があり、美しい戦士に。

しかし全体の姿は、今どきの、文明的な人間のままだ。オセローはアフリカの人間なのに。

虎のようなところが、どこかになければならない。

虎らしい身のこなしを見つけようと、いろいろな練習を始めた。滑るような忍び足で部屋を歩き、家具の間の狭い隙間を巧みにすり抜けた。戸棚の陰に身を隠して獲物を待ち、一跳びで飛び出して、大きな枕を敵に見立てて襲いかかった。喉を締め、「虎のように」その上にのしかかった。

そのうち、枕はデズデモーナになった。

私はそれを激しく抱き締め、枕カバーの端を伸ばして彼女の手に見立て、口づけした。次には軽蔑をこめて突き放し、また抱き寄せ、やがて喉を締め、想像の中の亡骸を前に泣いた。

実に見事にできた瞬間が、いくつもあった。

そうして気づかないうちに、五時間近くも稽古を続けていた。

無理にやらされて、こんなことができるものか!

何時間もがほんの数分に思えるのは、俳優として気持ちが高まっているときだけだ。

これこそ、私の味わったものが本当の霊感だった証拠ではないか!

衣装を脱ぐ前に、家のみんながもう寝ているのをいいことに、大きな鏡のある、誰もいない玄関へ忍び込んだ。電灯をつけ、自分の姿を見た。

そこにあったのは、期待していた姿とはまるで違うものだった。

稽古の中で見つけたはずの姿勢や身振りは、思い描いていたものとは違っていた。

それどころか、鏡に映る私の体は、自分でも知らなかったほどぎこちなく、その線はひどく不格好だった。

その落胆で、気力が一度に消え失せた。

一九……年……月……日

いつもよりずっと遅く目が覚めた。大急ぎで着替え、養成所へ駆け出した。

稽古場へ入ると、みんながもう私を待っていた。恥ずかしさのあまり、謝る代わりに、こんな馬鹿げた決まり文句を口にしてしまった。

「少し遅れたみたいですね」

ラフマーノフ先生は、責めるような目でしばらく私を見つめてから、ようやく言った。

「みんな座って待ちくたびれ、いらいらして、腹を立てている。それなのに、君は少し遅れただけだと思っているのか!

みんな、これからの稽古に胸を弾ませて来たんだ。それが君のおかげで、私はもう稽古をする気をなくしてしまった。

創造したいという気持ちを呼び起こすのは難しい。だが、それを殺してしまうのは、実にたやすいことだ。

君に、仲間全員の仕事を止める権利があるのかね?

私は私たちの仕事を大切にしているから、こういう混乱は許せない。だから、共同で仕事をするときには、軍隊のように厳しくする義務があると思っている。

俳優にも兵士と同じように、鉄の規律が必要なのだ。

初めてのことだから、今回は口頭の注意だけにし、稽古日誌には記録しない。

ただし今すぐ、みんなに謝りなさい。そしてこれからは、稽古の開始十五分後ではなく、十五分前に来ることを、自分の決まりにするんだ」

私は急いで謝り、もう遅刻しないと約束した。

だが、ラフマーノフ先生は稽古を始めようとはしなかった。最初の稽古は俳優人生の大切な出来事であり、いつまでも最高の思い出として残さなければならないのだという。

今日の稽古は、私のせいで台無しになってしまった。

それなら、失敗に終わった最初の稽古の代わりに、明日の稽古を私たちにとっての記念すべきものにしよう、ということになった。

そしてラフマーノフ先生は教室を出ていった。

しかし、それで一件落着とはいかなかった。今度はゴヴォルコフを先頭に、仲間たちからもう一度、たっぷりと油を絞られた。

こちらのほうが、さっきよりも手厳しかった。

今日の、実現しなかった稽古を、私はもう忘れることはないだろう。

今夜は早く寝るつもりだった。今日の叱責と昨日の落胆で、役に取りかかるのが怖くなっていたのだ。

ところが、一枚の板チョコが目に入った。

それをバターと一緒に練り合わせてみようと思いついた。

茶色い練り物ができた。

顔に塗ってみると、なかなか具合がよく、私はムーア人に変わった。

褐色の肌との対比で、歯がいっそう白く見えた。

鏡の前に座り、長いことその輝きに見とれながら、歯をむき出しにしたり、白目をむいたりする練習をした。

化粧の出来をもっとよく確かめるには、衣装が必要だった。そして衣装を着ると、演じたくなった。

新しいものは何も見つからず、昨日やったことを繰り返しただけだった。しかも昨日の鮮やかさは、もう失われていた。

その代わり、自分のオセローがどんな外見になるかは分かった。

これは大事なことだ。

一九……年……月……日

今日は最初の稽古だった。私は開始時刻より、ずっと早く着いた。

ラフマーノフ先生は、部屋を整え、家具を配置するのを、私たち自身でやるように言った。

幸いシューストフは外見上のことに関心がなく、私の提案をすべて受け入れてくれた。

私には、自分の部屋にいるように勝手が分かる配置に、家具を並べることがとても大切だった。

そうでなければ、霊感を呼び起こせないのだ。

しかし、望んだ結果にはならなかった。

自分の部屋にいるのだと、懸命に信じ込もうとするばかりで、本当にそう思えるようにはならなかった。ただ演技の邪魔になっただけだ。

シューストフはもう台詞を全部覚えていたが、私は台本を見て読んだり、覚えている部分のおおよその意味を自分の言葉で言ったりしなければならなかった。

意外にも、台詞は助けになるどころか、邪魔だった。なくて済むならそのほうがよかったし、せめて半分にしたかった。

台詞だけでなく、まだ自分にはなじまない作者の考えや、作者が指定した行動までが、家でエチュードをしていたときに楽しんだ自由を縛っていた。

さらに不愉快だったのは、自分の声が自分の声とは思えなかったことだ。

そのうえ、家での稽古で出来上がった立ち位置や動きも、人物像も、シェイクスピアの戯曲に合っていないことが分かった。

たとえば、比較的静かなオセローとイアーゴーの最初の場面に、どうやって、猛々しく歯をむき、目をぎょろつかせ、「虎のように」動く演技を押し込めばいいのか。私が役に入れるのは、その動きのおかげなのに。

だが、この野蛮人を演じるやり方も、自分で作った動きの段取りも、手放せなかった。代わりになるものを、何も持っていなかったからだ。

私は、台詞を読むのは台詞を読む、野蛮人を演じるのは野蛮人を演じるで、両者を結び付けられないまま演じた。

言葉が演技を妨げ、演技が言葉を妨げた。何もかもちぐはぐで、不快だった。

家に帰って稽古しても、また新しいものは見つからなかった。もう満足できない、同じことを繰り返した。

同じ感覚、同じやり方ばかり繰り返している。これはいったい何なのだろう。

それは私のものなのか、それとも野蛮なムーア人のものなのか。

どうして昨日の演技は今日と同じで、今日の演技は明日とも同じなのだろう。

もう想像力が尽きてしまったのか。

それとも、私の記憶には役の材料になるものがないのか。

初めはあんなにはかどった稽古が、どうして同じところで止まってしまったのだろう。

そう考えているうちに、隣の部屋に家主の家族が集まり、夜のお茶を飲み始めた。

気づかれないよう、部屋の別の場所へ移り、できるだけ小声で台詞を言うことにした。

驚いたことに、それだけの小さな変化で気持ちがよみがえった。エチュードにも役そのものにも、どこか新しい向き合い方ができるようになった。

秘密が分かった。

同じところに長くとどまり、やり尽くしたことを延々と繰り返してはいけないのだ。

決めた。

明日の稽古では、立ち位置や動きにも、役の解釈にも、役への取り組み方にも、何にでも即興を入れてみよう。

一九……年……月……日

今日の稽古では、最初の場面から即興を試した。歩く代わりに座り、いつもの野蛮人めいた大げさな身振りを捨てて、手も体も動かさずに演じることにした。

すると、どうなったか。

最初の言葉からつまずいた。台詞も、いつもの抑揚も分からなくなり、止まってしまった。

急いで、元の演じ方と動きの段取りに戻るしかなかった。

どうやら私はもう、身につけてしまった野蛮人の表し方なしには、演じられないらしい。

私がそのやり方を操っているのではない。そのやり方が、私を操っているのだ。

これは何なのだろう。

奴隷になったということか。

一九……年……月……日

稽古中の全体的な調子はよくなっていた。稽古をする部屋にも、そこにいる人たちにも、慣れてきたのだ。

そのうえ、かみ合わなかったものが、かみ合い始めている。

以前は、私の野蛮人の演じ方が、シェイクスピアとどうしても結び付かなかった。

初めの数回の稽古では、自分で考えたアフリカ人らしい身のこなしを役へ押し込むたびに、嘘と無理を感じていた。それが今では、稽古している場面に、いくらかは接ぎ木できたようだ。

少なくとも、作者との食い違いを、前ほど痛切には感じなくなった。

一九……年……月……日

今日は大舞台での稽古だ。

舞台裏の、胸を躍らせる魔法のような雰囲気を、私は当てにしていた。

ところが、どうだったか。

期待していたのは、まばゆいフットライトや、立て込んだ装置や、慌ただしい人の動きだった。それなのに、そこにあったのは薄暗さと静けさだけで、人影もなかった。

広大な舞台は、むき出しで、がらんとしていた。

フットライトのすぐそばに、これから立てる装置の輪郭を示す曲げ木の椅子が数脚あるだけで、右手には電球を三つ灯したスタンドが置かれていた。

舞台へ上がるやいなや、巨大な舞台の開口部が目の前にそびえ、その向こうには、果てしなく続くかと思われる、深く暗い空間が広がった。

幕の開いた舞台から、人のいない空の客席を見たのは初めてだった。

そのどこか、ひどく遠く思える場所に、笠をかぶった電灯が一つともっていた。

机に置かれた白い紙を照らしていて、誰かの手が、こちらの些細な失敗まで一つ残らず書き留めようと構えていた……。

私は、その空間の中に丸ごと溶けてしまうようだった。

誰かが「始めて」と声を掛けた。

曲げ木の椅子で囲まれた、想像上のオセローの部屋へ入り、自分の場所に座るように言われた。

座りはしたが、自分で決めた段取りとは違う椅子に座ってしまった。

部屋を作った当の本人が、その間取りを見失っていたのだ。

どの椅子が何を表しているのか、ほかの人に教えてもらわなければならなかった。

椅子に囲まれた小さな空間の中へ、自分を収めることがなかなかできなかった。身の回りで起きていることにも、いつまでも注意を向けられなかった。

すぐ隣に立つシューストフを見ることさえ、意識してやろうとしてもうまくいかなかった。

注意は客席へ、それから舞台脇の作業場へと引き寄せられた。そちらでは、私たちの稽古にはおかまいなしに、人が行き来し、物を運び、鋸を引き、金槌を打ち、言い争っていた。

それでも私は、機械的に話し、動き続けた。家での長い稽古で、野蛮人を演じる型も台詞も抑揚も体に叩き込んでいなかったら、最初の一言で止まっていただろう。

もっとも、結局は止まってしまったのだが。

原因はプロンプターだった。

この「御仁」が俳優の味方ではなく、とんでもない邪魔者だということを、私は初めて知った。

私の考えでは、よいプロンプターというのは、一晩中黙っていられて、いざというときだけ、俳優がふと忘れた一語を教えてくれる人だ。

ところが、うちのプロンプターは、ひっきりなしにささやき続けるので、ひどく邪魔になる。

この働きすぎの助手は、耳から心の奥へ潜り込んでくるようだ。どこへ逃げたらいいのか、どうしたら振り払えるのか、分からない。

とうとう、私は彼に負けた。

台詞につまずいて止まり、邪魔をしないでくれと頼んだ。

一九……年……月……日

舞台での二度目の稽古になった。

朝早く劇場へ入り、今日は楽屋で一人きりになるのではなく、みんなのいる舞台の上で、稽古の準備をしようと決めた。

舞台では作業が盛んに進んでいた。

私たちの稽古のために、装置や小道具を用意しているところだった。

私は準備を始めた。

この騒然とした中に、家での稽古で慣れ親しんだ居心地のよさを求めても、仕方がなかった。

まずは、自分にとって新しいこの環境になじまなければならなかった。

そこで舞台の前のほうへ行き、舞台の枠の向こうに口を開けた、不気味な黒い穴を見つめた。それに慣れて、客席へ引き寄せられる気持ちから自由になろうと思ったのだ。

だが、その空間を気にしないようにすればするほど、ますます気になり、舞台の枠の向こうの、不気味な暗がりへ引き寄せられてしまった。

そのとき、そばを通りかかった舞台係が、釘をばらまいてしまった。

私は拾うのを手伝った。

すると突然、広い舞台の上が、気楽で、居心地よくさえ感じられた。

だが釘を拾い終え、気さくに話していた舞台係が去ると、また空間に押しつぶされ、そこに溶けてしまいそうになった。

たった今まで、あんなに気分がよかったのに!

いや、待てよ。考えてみれば当たり前だ。釘を拾っている間は、舞台の向こうの黒い穴のことなど考えていなかったのだ。

私は急いで舞台を降り、一階席に座った。

ほかの場面の稽古が始まったが、舞台で何が起きているかは目に入らなかった。自分の番を、びくびくしながら待っていたのだ。

こうして待ちわびる苦しさにも、よい面はある。

追い詰められてくると、恐れていることが、早く始まって、早く終わってくれればいいと思うようになる。

今日、私はその気持ちを味わった。

ようやく自分たちの場面の番が来て舞台へ出ると、そこには、室内装置の壁や袖の装置、置き装置などを寄せ集めた舞台装置が出来ていた。

裏返しに置かれているものもあった。

家具も寄せ集めだった。

それでも、明かりが入ると舞台全体は心地よく見え、私たちのために用意されたオセローの部屋は、居心地がよかった。

懸命に想像力を働かせれば、この中にも、自分の部屋を思い起こさせる何かを見つけられそうだった。

ところが幕が左右に開き、客席が現れた途端、私はすっかりその力に捕らわれてしまった。

しかもそのとき、思いがけない、新しい感覚が生まれた。

装置の壁や天井は、俳優の後ろにある広い奥舞台も、頭上の巨大な暗い空間も、両脇の部屋や舞台装置の保管場所も、見えなくしてくれる。

訳注

「舞台装置の保管場所」は、2017年AST版の склады декораций による。底本は своды декораций(装置のアーチ)となっている。

こうして隔てられること自体は、もちろん心地よい。

だが困ったことに、その囲いが反射板のようになり、俳優の注意をことごとく客席へ投げ返してしまうのだ。

貝殻形の音楽堂が、オーケストラの音を聴衆のほうへ反射させるように。

もう一つ新しいことがあった。怖さから、見ている人たちを楽しませなければと思うようになった。退屈させるなど、とんでもない!

その思いが私をいらだたせ、自分のしていることや言っていることに、深く入り込むのを妨げた。言い慣れた台詞や慣れた動きが、考えや感情を追い越していった。

気がせいて、早口になった。

同じせわしなさが、行動や身振りにも移った。

息が切れるほどの勢いで台詞を飛ばし、速さを変えることができなかった。

好きな箇所さえ、走る列車から見る電信柱のように、次々と飛び去っていった。

少しでもつまずけば、破綻は避けられない。

私は何度も、すがるような目をプロンプターへ向けた。だが彼は何事もない顔で、せっせと時計のねじを巻いていた。

前のことへの仕返しに違いなかった。

一九……年……月……日

総稽古の日、私はいつもよりさらに早く劇場へ来た。化粧と衣装の支度が必要だったからだ。

立派な楽屋を与えられ、『シャイロック』のモロッコ公が着る、博物館にありそうな東方風の上着が用意されていた。

これだけしてもらっては、よい演技をしなければならない。

私は化粧台の前に座った。かつらがいくつか、付け毛、それにありとあらゆる化粧道具が並んでいた。

何から始めればいいのだろう。

一本の筆に茶色の化粧料を取ろうとしたが、固くなっていて、やっとのことで少し削り取れただけだった。肌に付けても、色はまるで付かなかった。

筆をぼかし用の道具に替えたが、結果は同じだった。

指に色を付けて、肌の上をこすってみた。

今度は少しだけ色が付いた。

ほかの色でも同じことを試したが、うまく塗れたのは青だけだった。

しかし、ムーア人の化粧に青は要らない気がした。

頬に接着用の液を塗り、小さな毛の束を貼り付けてみた。

液はひりひりして、毛は突っ立っていた……。

かつらを一つ、二つ、三つとかぶってみた。どちらが前でどちらが後ろか、すぐには分からなかった。

まだろくに化粧もできていない顔に合わせると、三つとも、いかにも「かつら」だった。

私は、あれほど苦労して顔に付けたわずかな化粧を、落としたくなった。

だが、どうやって落とすのか。

そのとき、眼鏡を掛けて白衣を着た、背が高くひどく痩せた男が入ってきた。口ひげがぴんと突き出し、あごには長いひげがあった。

この「ドン・キホーテ」は、体を二つ折りにするようにかがみ、余計なことは言わずに私の顔を「仕上げ」にかかった。

ワセリンで私の塗ったものを手早くすっかり落とすと、あらかじめ筆に油脂を付け、新しく色を塗り始めた。

油分のある肌には、化粧料が滑らかに、むらなくのった。

それから「ドン・キホーテ」は、ムーア人らしく、日焼けした褐色で顔を覆った。

だが私は、チョコレートで作った、前のもっと濃い色が惜しかった。あのほうが、白目や歯がいっそう輝いて見えたのに。

化粧が終わり、衣装を着けて鏡を見ると、私は「ドン・キホーテ」の腕前に心から驚き、自分の姿に見とれた。

上着のひだが体の角張った輪郭を隠し、これまで練習してきた野蛮人の身振りも、その姿によく似合っていた。

シューストフやほかの生徒たちが、楽屋へやって来た。

彼らも私の姿に驚き、少しもねたむ様子なく、口をそろえて褒めてくれた。

それに励まされ、以前の自信が戻ってきた。

舞台へ出ると、見慣れない家具の配置に驚いた。肘掛け椅子の一つが、壁から不自然に離されて、舞台のほぼ中央に置かれていた。机はプロンプター席に近すぎ、舞台前方のいちばん目立つ場所に、見せびらかすように据えられていた。

緊張して舞台を歩き回り、衣装の裾や曲刀を、しょっちゅう家具や装置の角へ引っ掛けた。

それでも、機械的に台詞をしゃべり、休みなく舞台を歩き続けることはできた。

どうにかこうにか、場面の終わりまでたどり着けそうだった。

ところが役の山場に近づくと、突然、「今に止まるぞ」という考えが頭をよぎった。

恐慌に襲われ、私は黙り込んだ。途方に暮れ、目の前には白い空虚な輪が浮かんでいた……。

何が、どうして私をまた機械的な演技へ戻したのか、自分でも分からない。それでも、この自動的な働きが、またしても窮地を救ってくれた。

その後は、もう自分に見切りをつけた。

頭にあったのは一つだけ。早く終えて、化粧を落とし、劇場から逃げ出したい。

そして今、私は家にいる。

一人きりだ。だが、今いちばん一緒にいたくない相手は、この自分自身だった。

たまらなく惨めな気持ちだ。

気晴らしに誰かを訪ねようかと思ったが、やめた。もう誰もが私の醜態を知って、指をさしているように思えたからだ。

幸い、優しくて人のいいプーシチンが来てくれた。私が見ていたのに気づいて、彼の演じたサリエリについて、感想を聞きに来たのだった。

だが、何も言ってやれなかった。彼の演技を舞台袖から見てはいたものの、自分の出番を待つ緊張のせいで、舞台で何が起きていたか、何一つ見えていなかったのだ。

自分の演技については、何も尋ねなかった。

残り少ない自信まで打ち砕かれるような批評を、聞くのが怖かった。

プーシチンは、シェイクスピアの戯曲とオセローの役について、実に見事に語った。

ただ、その役に求めるものは、私にはとても応えられないほど高かった。

デズデモーナの美しい外見の下に、恐ろしい悪徳が潜んでいると信じてしまったとき、ムーア人が味わう苦しみ、驚き、衝撃について、彼はとてもよく語った。

その美しさゆえに、オセローの目には彼女がいっそう恐ろしく映るのだ。

友が帰った後、プーシチンの解釈に沿って、役のいくつかの箇所に取り組んでみた。すると涙が出た。オセローがあまりにも気の毒だったのだ。

一九……年……月……日

今日の昼が、試演会だ。

どうなるかは、初めから分かっている。劇場へ行き、化粧台に座る。「ドン・キホーテ」が現れ、体を二つ折りにしてかがむ。

たとえ化粧をした自分が気に入り、演じたくなっても、結局は何もうまくいかないだろう。

何もかも、どうでもよくなっていた。

だが、そう思えたのは、楽屋へ入るまでだった。

その途端、胸が激しく打ち、息が苦しくなった。

吐き気がして、ひどく力が抜けた。

病気になったのかと思った。

それなら好都合だ。

初舞台で失敗しても、病気のせいにできる。

舞台で何より私を戸惑わせたのは、いつもと違う、厳粛な静けさと整然とした様子だった。

そして舞台袖の暗がりから、フットライトや頭上の照明、投光器の光をいっぱいに浴びる場所へ出た途端、頭がぼうっとして、目がくらんだ。

あまりの明るさに、私と客席の間に、光の幕ができたようだった。

人々から守られている気がして、ほっと息をついた。

しかし、じきに目がフットライトに慣れると、客席の暗闇はいっそう恐ろしくなり、観客へ引き寄せられる気持ちも強くなった。

劇場は観客でいっぱいで、何千もの目とオペラグラスが、私一人に向けられているように思えた。

その視線は、獲物の体を突き通すようだった。

私は、この幾千もの人々の奴隷のように感じた。卑屈になり、信念を失い、どんな妥協でもする気になっていた。

裏の裏まで自分をさらし、へつらい、持っているもの以上、与えられるもの以上を、この人々に差し出したかった。

ところが内面は、かつてないほど空っぽだった。

感情を無理に絞り出そうと力み、不可能なことを果たせない無力さにあがくうちに、全身が緊張した。やがてけいれんするほどになり、顔も手も体もこわばって、動くことも歩くこともままならなくなった。

力はことごとく、この無意味で実りのない緊張に使い果たされていた。

硬直した体と感情を声で助けようとして、私は叫び声を上げるところまでいった!

だが、ここでも過度の緊張が災いした。

喉が締まり、息が詰まり、声は出せる限りの高い音に張り付いて、そこから動かせなくなった。

その結果、声がかれてしまった。

今度は、外側の動きや演技を強めるしかなかった。

もう、手も足も、とめどなく出る言葉も、抑えられなかった。それらが全身の緊張を、ますます強くした。

口にする一語一語、行う一つ一つの身振りが恥ずかしかった。しかも、それをしながら、その場で自分を批判していた。

顔を赤くし、足や手の指を固く縮め、力いっぱい椅子の背へ体を押しつけた。

その無力さと恥ずかしさから、突然、怒りがこみ上げた。

誰に対する怒りか、自分でも分からなかった。自分にか、それとも観客にか。

そのとき、数分間だけ、周囲のあらゆるものから自由になった気がして、抑えようのない大胆さが湧いてきた。

あの有名な「血だ、イアーゴー、血が欲しい!」という台詞が、思わずほとばしり出た。

苦しみに我を失った人間の叫びだった。

どうしてそうなったのかは、自分でも分からない。

その言葉の中に、人を信じやすい男の傷ついた心を感じ、心から哀れんだのかもしれない。

この間プーシチンが語ったオセローの解釈が、記憶の中に鮮やかによみがえり、私の感情を揺り動かした。

客席が一瞬、息を凝らしたように感じた。そして、木々の梢を風が渡るようなかすかなざわめきが、人々の間を走った。

認められたと感じるやいなや、どこへ向けたらいいか分からないほどの力が、内から沸き上がった。

その力に、私は運ばれていった。

場面の最後をどう演じたか、覚えていない。

覚えているのは、フットライトも、舞台の向こうの黒い穴も意識から消え、あらゆる恐怖から解き放たれ、舞台上に、まだ知らなかった新しい、うっとりするほどの生が開けたことだけだ。

舞台で過ごしたあの数分間よりも、大きな喜びを私は知らない。

私の変わりように、パーシャ・シューストフが驚いたのが分かった。

私が彼に火をつけ、彼も生き生きと演じ始めた。

幕が閉まり、客席から拍手が起こった。

心が軽くなり、喜びに満たされた。

自分の才能への信頼が、一気に強まった。

すっかり自信満々になった。

勝ち誇って舞台から楽屋へ戻るとき、誰もが感嘆の目で自分を見ているように思えた。

幕間に、私は客演の名優よろしく身なりと姿勢を整え、もったいぶって客席へ入った。今思い返せば、無関心を装うその様子も、ひどくぎこちなかった。

驚いたことに、客席には晴れがましい雰囲気がなかった。「本当の」公演ならあるはずの照明さえ、全部はついていなかった。

舞台からは何千人もいるように感じたのに、一階席にいたのは、たった二十人ほどだった。

私は、誰のためにあんなに頑張っていたのだろう。

もっとも、すぐに自分を慰めることができた。「今日の観客は少なくても、芸術の分かる人たちだ。トルツォフ先生、ラフマーノフ先生、この劇場の名だたる俳優たち。

この人たちが、私に拍手してくれたんだ!

このまばらな拍手を、何千人もの嵐のような喝采と引き換えになどするものか……」

私は、トルツォフ先生とラフマーノフ先生からよく見える一階席を選んで座った。呼び寄せて、何かうれしい言葉を掛けてくれないかと期待して。

フットライトがついた。

幕が開くと同時に、装置に立て掛けた階段から、生徒のマロレトコワが、飛ぶように転げ落ちてきた。

床に倒れ、身をよじって、「助けて!」と叫んだ。その叫びがあまりに胸を引き裂くようだったので、私はぞっとした。

続いて何か言い始めたが、あまりに早口で、何を言っているのか分からなかった。

すると突然、台詞を忘れ、言いかけたまま止まってしまった。両手で顔を覆い、舞台袖へ駆け込んだ。そこから、励ましたり、なだめたりする、くぐもった声が聞こえてきた。

幕が閉まっても、「助けて!」という彼女の叫びは、まだ耳に残っていた。才能とは、何というものだろう!

それを感じるには、登場と一言だけで足りるのだ。

トルツォフ先生も、強く心を動かされたように見えた。

「私にも、マロレトコワと同じことが起きたではないか」と私は考えた。「『血だ、イアーゴー、血が欲しい!』という、たった一言で、観客は私に引き込まれたのだ」

こうして書いている今、自分の将来を疑ってはいない。

とはいえ、そう信じているからといって、自分が思い込んだほどの大成功は、実際にはなかったのかもしれないと、分からないわけではない。

それでも心のどこか奥底では、自分を信じる気持ちが、勝利のラッパを吹き鳴らしている。

第2章 舞台の芸術と、型にはまった芝居

一九……年……月……日

今日は、試演会の演技について、トルツォフ先生の講評を聞くために集まった。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、こう話した。

「芸術では、何よりもまず、美しいものを見いだし、理解できなければならない。

だから初めに、公演のよかったところを思い起こし、確かめよう。

そういう瞬間は、二つしかなかった。一つはマロレトコワが階段から転げ落ち、『助けて!』と必死に叫んだところ。もう一つはナズワーノフの『血だ、イアーゴー、血が欲しい!』の場面だ。

どちらのときも、演じる君たちと、見ている私たちが、全身全霊で舞台上の出来事に身を委ねた。息をのみ、同じ一つの感動を、ともに生きていた。

この成功した瞬間を、全体から取り出して見るなら、私たちの劇場が育て、この養成所で学ぶ『体験の芸術』と呼ぶことができる」

「体験の芸術とは、どんなものですか?」私は興味を引かれた。

「君は、自分の経験でそれを知ったはずだ。

だから、本当に創造していたあの瞬間が、どんな感じだったか、みんなに話してごらん」

「何も分かりませんし、覚えていません」先生の褒め言葉に酔って、私は答えた。

「ただ、忘れられない瞬間だったことだけは分かります。ああいうふうに演じたい。あのような芸術になら、自分のすべてを捧げたいと思います……」

それ以上話すと涙があふれそうで、黙るしかなかった。

「何だって? 何か恐ろしいものを求めて、心の中で必死にもがいていたことも、覚えていないのかね?

手も、目も、体のすべても、どこかへ飛び出し、何かをつかもうとしていたことは?

唇をかみ、やっと涙をこらえていたことも、覚えていないのか?」アルカージー・ニコラーエヴィチは、重ねて尋ねた。

「今、何があったか話していただいて、ようやくそのときの感覚を思い出しかけています」私は認めた。

「私が言わなければ、分からなかったかね?」

「はい、分からなかったと思います」

「では、潜在意識の働きで行動していたのだね?」

「分かりません。そうかもしれません。

それは、よいことなんですか、悪いことなんですか?」

「潜在意識が正しい道へ導いてくれたなら、とてもよいことだ。道を誤れば、よくない。

だが、あの公演では裏切られなかった。うまくいった数分間に、君が私たちに見せたものは素晴らしかった。望みうる最高のものだった」

「本当ですか?」うれしさに息を詰まらせて、私は聞き返した。

「本当だ!

俳優が芝居にすっかり心を奪われているときが、何よりよいのだから。

そのとき俳優は、自分でも意識しないうちに役の人生を生きる。どんな感情を抱いているかを眺めたり、何をしているかを考えたりせず、すべてがひとりでに、潜在意識の働きで生まれてくる。

しかし残念ながら、私たちは、いつでもその創造を思いどおりに導けるわけではない」

「それでは、どうにもならないじゃありませんか。霊感をもって創造しなければならないのに、それができるのは潜在意識だけで、しかも私たちはそれを操れないという。失礼ですが、いったい出口はどこにあるんです?」ゴヴォルコフは戸惑いながら、少し皮肉を交えて言った。

「幸い、出口はある!」アルカージー・ニコラーエヴィチは、その言葉を遮った。

「意識から潜在意識へ、直接ではなく、間接的に働きかけるのだ。

人間の心には、意識や意志に従う部分がある。

その部分が、自分の意志では動かせない心の過程へ、影響を与えられる。

もっとも、これにはかなり複雑な創造の仕事が必要で、意識が直接働きかけ、制御できるのは、その一部にすぎない。

大部分は、潜在意識の中で、意志によらずに進む。

この仕事をなしうるのは、ただ一人の芸術家だけだ。最も巧みで、最も天才的で、最も繊細で、誰も及ばず、奇跡を起こす芸術家――私たちに生来備わる、自然な心身の働きである。

どれほど洗練された俳優の技術も、これにはかなわない。

だから、その仕事は自然の力に任せればよい!

自分たちに備わる芸術的な本性を、このように見て、このように接するところに、体験の芸術の大きな特徴があるのだ」トルツォフ先生は熱を込めて語った。

「でも、その自然の力が気まぐれを起こしたら?」誰かが尋ねた。

「呼び起こし、導く方法を身につけなければならない。

そのために、特別な心理技法がある。これから君たちが学ぶものだ。

それは、意識的で間接的な方法によって潜在意識を目覚めさせ、創造へ参加させるためのものだ。

私たちの体験の芸術が、主要な基礎の一つとして『俳優の意識的な心理技法を通じて、自然の潜在意識的な創造へ至る』という原則を掲げるのも、そのためである。

つまり、意識できることを通じて意識できないことへ、意志で動かせることを通じて意志では動かせないことへ進むのだ。潜在意識の領域はすべて、魔法使いである自然に任せよう。私たちは、自分にできること――創造への意識的な近づき方と、意識して使える心理技法――に取り組もう。

それらがまず教えてくれるのは、潜在意識が働き始めたら、その邪魔をしないことだ」

「潜在意識に意識が必要だなんて、不思議ですね!」私は驚いた。

「私には、自然なことに思えるがね」とアルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「電気や風や水など、人の意志で生まれるのではない自然の力を役立てるには、知識と知恵のある技術者が必要だろう。

潜在意識の創造力にも、それなりの技術者が要る。それが意識的な心理技法なのだ。

舞台の状況の中で、自分の内面と外面の生活が、人間の自然な法則に沿って、隅々まで無理なく営まれている。そのことを俳優が理解し、実感して初めて、潜在意識の奥深い扉がそっと開く。そして、私たちにもいつも理解できるとは限らない感情が、そこから現れる。

その感情は、ほんの短い間、あるいはもっと長い間、私たちを捉え、内なる何かが命じる方向へ導いていく。

その導く力の正体を、私たちは知らないし、調べ方も分からない。だから俳優の言葉では、単に『自然』と呼んでいる。

しかし、心身の自然で正しい営みを乱し、舞台で真っ当に創造することをやめれば、繊細な潜在意識は、すぐにその無理を恐れて、また奥深くへ隠れてしまう。

それを防ぐには、何よりもまず、正しく創造しなければならない。

だから、俳優の内面の生活には、現実に根差したあり方、それどころか徹底して自然に即したあり方が必要なのだ。それが、潜在意識の働きや霊感のほとばしりを呼び起こす」

「では、私たちの芸術では、絶えず潜在意識によって創造していなければならないのですね」と私は結論を出した。

「いつでも潜在意識と霊感に導かれて創造することなどできない。そんな天才はいないよ」とアルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「だから私たちの芸術が求めるのは、そのような本当の、潜在意識による創造が生まれる土壌を整えることだけだ」

「どうやって整えるのですか?」

「まずは意識して、正しく創造することだ。

それが、潜在意識の働きと霊感が生まれるための、最もよい土壌になる」

「なぜですか?」私には分からなかった。

「意識的で正しい行動が真実を生み、その真実が信じる気持ちを呼び起こすからだ。人の中で起きていることを自然が信じれば、自然は自ら働き始める。

続いて潜在意識が働き出し、霊感そのものも現れるかもしれない」

「役を『正しく』演じるとは、どういうことですか?」私はさらに尋ねた。

「舞台に立ちながら、その役の生活条件の中で、役と同じように、筋道を通し、一貫性を持ち、人間らしく考え、望み、求め、行動することだ。

それができれば、俳優は役へ近づき、役と同じように感じ始める。

私たちの言葉で、これを『役を体験する』と言う。

この過程と、それを表す言葉には、私たちの芸術において、ほかに代えられない、第一の重要性がある。

体験は、舞台芸術の根本的な目的を果たす助けとなる。その目的とは、役の『人間としての内面の生活』を創り、それを芸術的な形にして舞台で伝えることだ。

つまり私たちの主な仕事は、役の生活を外から見える姿で表すことだけではない。何よりも、登場人物と戯曲全体の内的な生を、舞台上に創り出すことなのだ。そのために、自分自身の人間としての感情を他者の生活に適応させ、自分の心が持つ、生きた働きのすべてを役へ差し出す。

よく覚えておきなさい。創造するときも、舞台で生きるときも、あらゆる瞬間に、私たちの芸術のこの根本的な目的を指針にしなければならない。

だから、私たちがまず考えるのは役の内面だ。体験という内的な過程を通して生まれる、心の生活のことである。

これが創造の中心であり、俳優が真っ先に心を配るべきものだ。

役を体験しなければならない。つまり、役と同様の感情を、演じるたびに、そのつど味わわなければならない。

この方向を最もよく代表する老トンマーゾ・サルヴィーニは、こう言っている。『偉大な俳優は誰もが、自分の表すことを感じなければならないし、実際に感じている。

それどころか、役を研究している間に一度か二度その感情を味わえばよいとは、私は思わない。初めて演じるときも、千回目に演じるときも、程度の差はあれ、そのつど味わう義務がある……』」アルカージー・ニコラーエヴィチは、イヴァン・プラトーノヴィチから渡されたサルヴィーニの文章、コクランへの返答を読み上げた。

「私たちの劇場も、俳優の芸術をこのように考えている」

一九……年……月……日

パーシャ・シューストフと長く議論した私は、最初の機会を捉えて、アルカージー・ニコラーエヴィチに言った。

「本人に感情が湧かず、体験もできないのに、どうやって正しく感じ、体験することを教えられるのか、分かりません!」

「では、自分や他人が、役やその中の大切なことに興味を持つように導くことは、できると思うかね?」先生は私に尋ねた。

「簡単ではありませんが、できるとしましょう」と私は答えた。

「役の中に面白くて大切な目標を見つけ、役へのふさわしい近づき方を探し、自分の内に正しい欲求を呼び起こし、それに応じた行動をすることは?」

「できます」私はまた認めた。

「では、その仕事を、冷めた無関心なままでやってみなさい。ただし、心から、誠実に、最後までやり通すんだ。

無関心なままではいられないはずだ。

必ず心が動き、自分がその登場人物の立場にいると感じ始める。自分自身の感情でありながら、その人物と同様の感情を体験するようになる。

役の全体をそのように稽古していけば、舞台で生きる一瞬一瞬が、それにふさわしい体験を呼び起こすようになる。

その瞬間が途切れず続くことで、役を体験する一本の線、役の『人間としての内面の生活』が出来上がる。

内面に本当の真実がある中で、俳優が舞台上でこのように十分意識している状態こそが、感情を最もよく呼び起こす。それは、短くても長くても、潜在意識の働きが息を吹き返し、霊感がほとばしるための、最も豊かな土壌なのだ」

「今のお話から、私たちの芸術を学ぶとは、体験の心理技法を身につけることだと分かりました。

そして体験は、創造の燃えるような目的、役の『人間としての内面の生活』を創るという目的を果たす助けになるのですね」とシューストフがまとめようとした。

訳注

底本の огненную は「火のような、燃えるような」の意。「根本的な」を意味する основную の誤記である可能性もあるが、ここでは底本の読みを残した。

「私たちの芸術の目的は、役の『人間としての内面の生活』を創るだけではない。それを芸術的な形で外へ伝えることも含まれる」とトルツォフ先生は訂正した。「だから俳優は、内面で役を体験するだけでなく、体験したことを外に具現しなければならない。

その際、私たちの目指す芸術では、外への表現が内面の体験にとりわけ強く依存することに、注意してほしい。

繊細で、多くの場合は潜在意識の中で営まれる生を表すには、驚くほど敏感に応じ、十分に鍛えられた声と体が必要だ。

声と体は、かすかでほとんど捉えられない内面の感情を、鋭敏に、自然に、即座に、正確に伝えなければならない。

だから、この方向を目指す俳優は、ほかの流派以上に、体験を生み出す内面の働きだけでなく、外面の身体的な働きにも気を配らなければならない。それは感情の創造的な仕事の成果を正しく伝え、外に具現するためのものなのだ。

この仕事には、潜在意識が大きな影響を与える。

具現の領域でも、どれほど巧みな俳優の技術も、潜在意識にはかなわない。技術のほうは、得意になって自分が上だと言い張るかもしれないがね。

この二回の授業では、私たちの体験の芸術とは何か、ごく大まかに示した」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは話を結んだ。

「私たちは経験から、確かに知り、信じている。俳優という人間の、生きた自然な体験に満ちた舞台芸術だけが、役の内面の微妙な陰影と深さを、余すところなく芸術として伝えられるのだ。

そのような芸術だけが、観客をすっかり引き込み、舞台上の出来事をただ理解させるだけでなく、何よりも体験させ、内面の経験を豊かにして、時がたっても消えない跡を残すことができる。

そのうえ、これもきわめて大切なことだが、私たちの芸術の土台となる創造の基礎と、自然な心身の法則は、俳優が誤った方向へ外れるのを防いでくれる。

これからどんな演出家と、どんな劇場で働くことになるか、誰にも分からない。

どこでも、誰もが、自然そのものの要求に従って創造しているわけではない。

むしろ多くの場合、その要求は手荒く踏みにじられ、それが必ず俳優を誤った方向へ押しやってしまう。

本当の芸術の範囲と、創造する人間に備わる自然な法則を、しっかり知っていれば、道に迷わない。自分の誤りを見分け、直すこともできる。

しかし、俳優の自然な働きに従う体験の芸術が与えてくれる、確かな土台がなければ、道に迷い、混乱し、判断の基準を失うだろう。

だから私は、どの方向を目指す俳優であれ、例外なく、体験の芸術の基礎を学ばなければならないと考えている。

誰もが、そこから俳優の勉強を始めるべきなのだ」

「そうです、それこそ私が心から求めているものです!」励まされて、私は叫んだ。

「公演で、ほんの一部でも、体験の芸術の大切な目的を果たせたのが、うれしくてたまりません」

「喜ぶのは、まだ早いよ」トルツォフ先生は、私の熱を冷ました。

「そうでないと、後でひどく落胆することになる。

本当の体験の芸術と、君が公演の場面全体で見せたものを、混同してはいけない」

「では、私が見せたのは何だったんですか?」判決を待つ罪人のような気持ちで、私は尋ねた。

「もう言ったように、君の演じた長い場面の中で、本当に体験していたのは、幸運な数分間だけだ。その時間だけ、君は私たちの芸術に触れた。

私はそれを例にして、今話しているこの芸術の基礎を、君にもほかの生徒にも示したのだ。

オセローとイアーゴーの場面全体を、体験の芸術と呼ぶことは、とてもできない」

「では、何と呼べるのですか?」

「いわゆる『気質任せの芝居』だ」とアルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「それは、どういうものですか?」足元が崩れる思いで、私は尋ねた。

「そのような演技では」と先生は続けた。「いくつかの瞬間が、ふいに、思いがけず高い芸術性へ達し、観客を揺さぶることがある。

その瞬間、俳優は体験している。あるいは、霊感に導かれて即興で創造している。

だが君には、あの公演の『血だ、イアーゴー、血が欲しい』という短い一場面で偶然得た高揚を保ち、『オセロー』の長大な全五幕を演じ通すだけの、心と体の力があると思うかね?」

「分かりません……」

「私ははっきり分かる。並外れた気質と、強靱な体力を兼ね備えた俳優でも、それだけでは無理だ!」先生は私に代わって答えた。

「自然の力を助けるためには、十分に身につけた心理技法も必要なのだ。

しかし君には、それがまだない。技術を認めようとしない、気質任せの俳優たちと同じだ。

彼らも君も、霊感だけを当てにしている。

その霊感が来なければ、演技の隙間、体験のない空白を埋めるものがない。

だから、役を演じている間に、気力の落ちた時間が長く続き、芸術的にはすっかり無力になり、素人じみた大げさな作り芝居に陥る。

そのようなとき、君の演技も、ほかの気質任せの俳優と同じように、生気を失い、気取って、無理のあるものになっていた。

高揚した瞬間と作り芝居が、足を引きずるように交互に現れたのだ。

そういう舞台での演技を、私たち俳優の言葉では、気質任せの芝居と呼ぶ」

アルカージー・ニコラーエヴィチに欠点を指摘され、私は強い衝撃を受けた。

悲しいだけでなく、怖くもなった。

すっかり打ちのめされ、その後の先生の話は、耳に入らなかった。

一九……年……月……日

今日も、試演会での演技について、アルカージー・ニコラーエヴィチの講評を聞いた。

教室に入ると、先生はパーシャ・シューストフに話しかけた。

「君も、公演で、本当の芸術と言える興味深い瞬間をいくつか見せてくれた。ただし、それは体験の芸術ではなく、不思議なことに、再現の芸術だった」

「再現ですって?」シューストフは、ひどく驚いた。

「それは、どんな芸術ですか?」生徒たちが尋ねた。

「もう一つの芸術のあり方だ。それが何かは、公演のいくつかの成功した瞬間に、それを見せてくれた本人から説明してもらおう。

シューストフ君、イアーゴーの役をどう作ったか、思い出してごらん」先生はパーシャに促した。

「叔父から演技の技術について少し聞いていたので、まず役の内面に取りかかり、時間をかけて考えました」シューストフは弁解するように言った。

「叔父さんが手伝ったのかね?」アルカージー・ニコラーエヴィチは尋ねた。

「少しです。

家では、本当に体験するところまで行けたと思います。

稽古でも、役のいくつかの箇所を感じられることがありました。

だから、再現の芸術とどう関係するのか、分からないのです」パーシャは、なおも弁解するように続けた。

「その芸術でも、家や稽古場で、一度か何度かは役を体験する。

最も大切な過程である体験があるからこそ、このもう一つの方向も、本当の芸術と認められるのだ」

「その方向では、どうやって役を体験するのですか? 私たちのやり方と同じですか?」私は尋ねた。

「まったく同じだ。ただし、目的が違う。

私たちの芸術のように、演じるたびに役を体験することもできる。

だが、一度か何度かだけ体験して、そこに自然に現れた感情の外形を捉え、それを、訓練した筋肉で機械的に繰り返せるようにすることもできる。

これが、役を再現するということだ。

つまり、この方向の芸術では、体験は創造の中心ではなく、その後の俳優の仕事に向けた、準備段階の一つになる。

その仕事とは、内面の内容を目に見える形で伝える、芸術的な外形を、舞台上の創造物に与えることだ。

その形を探すとき、俳優はまず自分自身に向かい、自分が演じる人物の生活を、本当に感じ、体験しようとする。

ただし繰り返すが、それをするのは公演中でも、観客の前で創造している最中でもない。家か稽古場だけなのだ」

「でも、シューストフは、試演会そのものの最中にそれをしたんです!

それなら、体験の芸術だったはずです」私は彼をかばった。

誰かも私に賛成し、パーシャの、全体としては誤った演技の中に、私たちの芸術にふさわしい、本当の体験の瞬間がいくつかあったと言った。

「いや、違う」とアルカージー・ニコラーエヴィチは反論した。

「私たちの体験の芸術では、役を演じる一瞬一瞬を、そのつど新しく体験し、新しく具現しなければならない。

私たちの芸術では、しっかり定めた一つの主題の上で、その多くを即興として創造する。

それが演技に新鮮さと、作為のない生きた反応をもたらす。

ナズワーノフのうまくいった数か所には、それが現れていた。

だがシューストフには、役を感じるうえでの、その新鮮さや即興を認められなかった。

むしろ、いくつかの箇所で私を感心させたのは、明確さと洗練された巧みさだった。

しかし……演技全体には、どこか冷たさがあった。それで、すでに一度定めたきりの演技の形があり、即興の余地をなくし、新鮮さや自然な反応を奪っているのではないかと疑ったのだ。

それでも、その巧みに繰り返される写しの元になったものは、よく、正しく、本当に生きた、役の『人間としての内面の生活』を表していたのだと、私はずっと感じていた。

以前にあった体験の過程の響きが残っていたからこそ、いくつかの瞬間には、その演技、その再現が、本当の芸術になっていたのだ」

「でも、シューストフの実の甥である私が、どうして再現の芸術をやってしまったのでしょう?」

「一緒に考えてみよう。そのために、イアーゴーの稽古をどうしたか、続きを話してくれ」と先生は促した。

「体験したことが、外にどう伝わるか確かめようと、鏡を使いました」パーシャは思い出しながら言った。

「それは危険だが、同時に、再現の芸術によく見られるやり方だ。

鏡は慎重に使わなければならないと、覚えておきなさい。

俳優に、自分の内面ではなく、外側ばかり見る癖を付けるからね」

「でも、鏡のおかげで、自分の感情が外へどう伝わるか、見て理解できたのです」パーシャは弁解した。

「君自身の感情かね。それとも、役の感情をまねて作ったものかね?」

「自分自身の感情です。ただし、イアーゴーにふさわしいものです」

「では鏡の前で気にしていたのは、外見や身のこなしそのものよりも、内面で体験している感情、役の『人間としての内面の生活』が、体にどう現れるかだったのだね?」先生は確かめた。

「そうです、そのとおりです」

「それも、再現の芸術の特徴だ。

それが芸術である以上、役の外見だけでなく、何よりも内面の流れ、つまり『人間としての内面の生活』を表す舞台上の形が必要なのだ」

「自分の感じたことが、正しく映っているのを見て、いくつかの箇所では満足したのを覚えています」パーシャは続けた。

「それで、その感情の表し方を、決まったものとして固定したのかね?」

「何度も繰り返すうちに、ひとりでに固定してしまいました」

「結局、役のうまくいった箇所には、舞台で表すための決まった外形ができ、君はそれを具現する技術を十分に身につけたわけだね?」

「どうやら、そうです」

「そして家でも稽古場でも、創造を繰り返すたびに、いつもその形を使った?」先生は問い重ねた。

「きっと、癖になっていたのです」パーシャは認めた。

「もう一つ聞こう。いったんできたその形は、そのつど内面の体験から自然に生まれたのかね。それとも、一度生まれて固まったものを、感情がまったく加わらないまま、機械的に繰り返していたのかね?」

「毎回、体験していたつもりでした」

「いや、公演では、それが観客に届かなかった。

再現の芸術では、君と同じことをする。役の内面を伝える、人間らしい特徴を自分の中に呼び起こし、捉えようとする。

それぞれに最もよい形を一度作り上げると、観客の前では自分の感情を介さず、その形を機械的に、しかも自然に具現することを学ぶのだ。

そのために、訓練した筋肉、声、抑揚、自在な技術と芸のあらゆる手段を用い、限りなく反復する。

そうした再現の芸術の俳優は、筋肉の記憶を極限まで発達させている。

機械的に役を再生することに慣れれば、神経や心の力を消耗せずに、演技を繰り返せる。

観客の前で創造するとき、その消耗は不要なだけでなく、有害とさえ考えられている。心が揺れ動けば、俳優の自制が乱れ、いったん固定した演技の線や形が変わってしまうからだ。

形が曖昧になったり、それを伝えるのに迷いが出たりすれば、観客に与える印象が損なわれる。

ここまでの話は、君のイアーゴーの、今取り上げている箇所に、多少なりとも当てはまる。

では、その後の稽古で何が起きたか、思い出してごらん」

「ほかの箇所と、イアーゴーの人物像そのものには、満足できませんでした。

それも、鏡で確かめたのです」シューストフは振り返った。

「ふさわしいモデルを記憶の中で探していると、一人の知人を思い出しました。役とは関係のない人でしたが、私には、狡猾さ、悪意、陰険さをよく体現しているように思えました」

「その人を意識して、自分を似せていったのかね?」

「はい」

「その思い出を、どう使った?」

「正直に言えば、知人の外見上の癖を、そのまま写しただけです」パーシャは打ち明けた。

「頭の中で、その人が隣にいるのを見ていました。

彼が歩く、立つ、座る。それを横目で見ながら、何もかも同じようにやったのです」

「それは大きな間違いだった!

その瞬間、君は再現の芸術からも外れ、ただの物まね、写し取り、模倣へ移ってしまった。それらは創造とは、何の関係もない」

「では、外から偶然借りてきた人物像をイアーゴーに生かすには、どうすればよかったのですか?」

「その新しい材料を、まず自分の中に通すべきだった。私たちの体験の芸術で行うように、ふさわしい想像上の事情を与え、生きたものにするのだ。

その材料が生き返り、君になじんで、頭の中で役の人物像が出来たら、次の仕事へ進むべきだった。それについては、再現の芸術の優れた代表者の一人、フランスの名優コクラン兄が、生き生きと述べている。

俳優は想像の中で自分のモデルを作り、次に『画家のように、その一つ一つの特徴を捉えて、カンヴァスではなく自分自身へ移す……』」先生は、イヴァン・プラトーノヴィチから渡されたコクランの小冊子を読んだ。

「『タルチュフがある衣装を着ているのを見れば、それを自分に着せる。歩き方を見ては、それをまね、顔つきに気づいては、それを借りる。

自分の顔をそれに合わせ、いわば自分の皮膚を裁ち、切り、縫い合わせる。第一の自分の中に潜む批評家が満足し、確かにタルチュフに似ていると認めるまで、そうするのだ。

しかし、それだけでは足りない。それでは、人物の外見が似ただけで、その人物の型そのものを捉えたことにはならない。

俳優にはタルチュフの声が聞こえている。その声でタルチュフを話させなければならない。役の全体の流れを定めるには、タルチュフらしく動かし、歩かせ、身振りをさせ、聞かせ、考えさせ、その中にタルチュフの魂を入れなければならない。

そこまで来て、ようやく肖像は完成する。額縁、すなわち舞台に入れることができる。観客は〈あれがタルチュフだ〉と言うだろう……。そうでなければ、俳優の仕事が不十分だったのだ』」

「でも、それは恐ろしく難しく、複雑なことではありませんか!」私は気が急いた。

「そのとおりだ。コクラン自身も認めている。

彼はこう言う。『俳優は生きるのではない、演じるのだ。

演じる対象に対して冷静であり続ける一方、その芸は完全でなければならない』。

実際、再現の芸術が芸術であり続けるためには、完全さが必要なのだ」とトルツォフ先生は付け加えた。

「それなら、自然な創造や本当の体験、その自然の力に任せるほうが簡単ではないですか?」私は問い続けた。

「それに対してコクランは、自信たっぷりにこう答える。『芸術は現実の生活ではなく、その反映でさえない。

芸術は、それ自身が創造者なのだ。

時間や空間の外に、抽象されているからこそ美しい、独自の生を創り出す』。

もちろん、唯一完全で、誰も及ばない芸術家、創造する自然に対する、そのような思い上がった挑戦を、私たちは受け入れられない」

「本当に、自分たちの技術が自然そのものより優れていると信じているのですか?

何という思い違いでしょう!」私は落ち着けなかった。

「彼らは舞台上に、自分たちの、より優れた生を創っていると信じている。

現実に私たちが知っている、人間の実際の生活ではなく、舞台のために手直しされた、別の生をね。

だから再現の俳優は、役を人間らしく正しく体験するのを、初めの準備期間だけにする。舞台で実際に創造するときには、約束事による体験へ移るのだ。

その理由を、彼らはこう説明する。劇場もそこでの上演も約束事で成り立っており、舞台の手段は本当の生活の幻を作るには乏しすぎる。だから演劇は、約束事を避けるどころか、むしろ愛すべきなのだ、と。

そのような創造は、美しいが深くはない。力強さよりも華やかな効果が勝り、中身よりも形に興味を引かれる。心より耳や目に働きかけるから、揺さぶられるというより、感心させられるのだ。

もちろん、この芸術でも強い印象を与えることはできる。

見ている間は引きつけられ、美しい思い出も残る。だが、心を温め、奥深くまで染み込む印象とは違う。

その作用は鮮やかだが、長くは続かない。

信じるというより、驚嘆する。

だから、何でもできるわけではない。

意外性や舞台の美しさで驚かせるもの、絵画のように見事な激情表現を要するものなら、この芸術の手段で表せる。

だが、深い情念を表すには、その手段は華やかすぎるか、表面的すぎる。

人間の感情の繊細さや深さは、技術的な手立てだけでは捉えられない。

それには、自然に体験し、それを具現する瞬間に、自然そのものの直接の助けが要る。

それでも、本当の体験を手掛かりとする役の再現は、創造であり、芸術であると認めなければならない」

一九……年……月……日

今日の授業で、ゴヴォルコフは意気込んで、自分は再現の芸術の俳優だと言い張った。その考え方は自分の心にぴったりで、芸術家としての感覚が求めるものだ、それを尊重しているし、創造とはまさにそういうもので、それ以外には考えられないという。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、その主張に疑問を示した。再現の芸術にも体験が必要だが、ゴヴォルコフがその過程を使いこなせるとは、舞台上はもちろん、家での稽古でも、まだ確信が持てないと指摘した。

それでもゴヴォルコフは反論し、舞台ですることを、いつも強く感じ、体験していると言い張った。

「人間は誰でも、生きている一瞬一瞬に、何かを感じ、何かを体験しているものだ」と先生は言った。

「何も感じなければ、それは死んでいるということになる。

何も感じないのは、死者だけだからね。

大切なのは、舞台で何を体験しているかだ。役の生活と通じ合う自分自身の感情なのか、それとも役とは関係のない、別の何かなのか。

どれほど経験豊かな俳優でも、家で作り、舞台へ持ち出すものが、役や芸術にとって本当に大切なものとは違っていることが、実によくある。

君たちにも、みな同じことが起きていた。

公演で、自分の声や派手な抑揚、演技の技巧を披露した者もいた。元気よく走り回り、バレエのように跳び、大げさな作り芝居で観客を楽しませ、美しい身振りや姿勢で魅了しようとした者もいた。つまり、演じる人物には要らないものを、舞台に持ち込んでいたのだ。

ゴヴォルコフ君、君も役の内面からでも、それを体験することからでも、再現することからでもなく、まったく別のところから入った。それなのに、芸術の何かを創ったつもりでいる。

しかし、演じる人物に通じる、自分自身の生きた感情を感じていないところに、本当の創造はありえない。

だから自分を欺かず、本当の芸術がどこから始まり、どこで終わるのか、もっと深く考え、理解しようとしなさい。

そうすれば、自分の演技がそれとは別のものだと分かるはずだ」

「では、私の演技は何なのですか?」

「型にはまった芝居だ。

もっとも、悪い出来ではない。台詞を披露し、決まった表現で役を説明して見せる技は、かなり身についている」

ゴヴォルコフが始めた長い論争は省き、本当の芸術と型にはまった芝居との境を示した、トルツォフ先生の説明へ移ろう。

「体験のないところに、本当の芸術はない。

だから本当の芸術は、感情が本来の役割を果たし始めるところから始まる」

「型にはまった芝居のほうは?」ゴヴォルコフが尋ねる。

「創造的な体験、あるいはその成果を芸術的に再現することが、途切れるところから始まる。

体験の芸術にも再現の芸術にも、体験の過程は欠かせない。それに対して型芝居では、体験は必要とされず、起きても偶然にすぎない。

この種の俳優は、役を一つずつ、その役固有のものとして創ることができない。

体験することも、体験したものを自然に具現することも、できない。

できるのは、決まった舞台の型を添えながら、役の台詞を述べることだけだ。

そのため、仕事はずっと簡単になる」

「どんなふうに簡単になるのですか?」私は尋ねた。

「私たちが俳優の『紋切り型』と呼んでいる、そのやり方がどこから来て、どう出来上がったかを知れば、よく分かるだろう。

その由来と成り立ちは、こういうことだ。

役の感情を伝えるには、その感情を知る必要がある。知るためには、それと通じ合う体験を、自分自身でしなければならない。

感情そのものをまねることはできない。まねられるのは、その感情が外に現れた結果だけだ。

だが型芝居の俳優は、役を体験できない。だから、その創造の過程が外に何をもたらすかも、知ることがない。

では、どうすればよいのか。

内面の感情が教えてくれないのに、どうやって外側の形を見つけるのか。

存在しない体験の外への現れを、声や動きでどう伝えるのか。

決まりきった作り芝居に頼るほかはない。

それは、自分では体験していないために知りもしない、他人である役の感情を、初歩的な、形ばかりの外見で描くことだ。

ただの物まねにすぎない。

型芝居の俳優が、表情や声、動きによって舞台から観客へ差し出すのは、役の『人間としての内面の生活』を表すはずの、外側の紋切り型だけだ。存在しない感情にかぶせた、生命のない仮面なのである。

そうした外側だけの作り芝居のために、さまざまな表現の型が大量に用意されている。舞台で扱うあらゆる感情を、外側の手段だけで伝えられるというわけだ。

その型の中に、感情そのものはない。あるのは、感情が外に現れたらこうなるはずだという物まね、似姿だけだ。心の中身はなく、それを表すことになっている、外側の技法だけがある。

一度決まると変わらない型の中には、先人から受け継がれた職業上の伝統として残るものもある。たとえば、愛を表すときに手のひらを胸へ押し当て、死を演じるときに襟元を引き裂く、といったものだ。

才能ある同時代の俳優から、そのまま借りてくるものもある。ヴェーラ・フョードロヴナ・コミサルジェフスカヤが、役の悲劇的な場面でしていた、手の甲で額をぬぐう仕草などだ。

また、俳優自身が考え出す型もある。

台詞の述べ方、つまり声、発音、言葉の運びにも、独特の型がある。役の激しい箇所で音の高低を大げさに変え、俳優特有の震え声や、朗誦めいた華やかな節回しを付ける、といった具合だ。

歩き方にも型がある。型芝居の俳優は、舞台の床を普通に歩くのではなく、堂々と練り歩く。動作、行動、体の表現、外に見える演技にも型がある。それらは際立ってはいるが、美しさそのものではなく、美しく見せることを土台にしている。

人間のさまざまな感情や情念を表す型もある。嫉妬するときに、ナズワーノフのように歯をむき、白目をぎょろつかせる。泣く代わりに手で目や顔を覆う。絶望すると髪をつかむ。

社会のさまざまな階層の人物や類型を、丸ごとまねる型もある。農民なら床に唾を吐き、服の裾で鼻をぬぐう。軍人なら拍車を鳴らし、貴族なら柄付き眼鏡をもてあそぶ。時代を表す型もある。中世ならオペラのような身振り、十八世紀なら踊るような足取りだ。戯曲や役に結び付いた型もあり、市長役が客席に向けて体を独特にひねる演技や、傍白を言うときに口へ手を添える仕草などがそうだ。

そうした俳優の癖は、時を経て伝統になった。

こうして、俳優に共通する決まりきった話し方、効果を前もって計算した台詞の語り方、舞台特有の歩き方、絵になる姿勢や身振りが出来上がった。

訓練された筋肉は、出来合いの機械的な演技の型を、たやすく再現する。やがてそれが癖となり、第二の天性になって、舞台上では、人間本来の自然な働きに取って代わってしまう。

固定された感情の仮面は、じきに擦り切れ、わずかに残っていた生の気配さえ失う。そして、ただの機械的な紋切り型、小手先の技、あるいは外側の決まりの記号になる。

役を伝えるために固定した紋切り型を、長々と連ねる。そうして、決まった調子で戯曲の言葉を述べるのに付き従う、演技の儀式、しきたりが出来上がる。

型芝居の俳優は、こうした外側の技法で、生きた本当の内面の体験と創造を、置き換えようとする。

だが、本当の感情にかなうものはない。そして本当の感情は、機械的な型の技法では伝えられない。

紋切り型の中にも、多少の舞台効果を持つものはある。だが大半は悪趣味で不快感を与え、人間の感情を捉える狭さや、単純すぎる扱い、あるいはただの愚かさに、驚かされる。

しかし、長い時間と習慣は、醜いものや無意味なものさえ、身近で親しみのあるものにしてしまう。たとえば、オペレッタの喜劇役や、若作りした滑稽な老女役の決まりきった仕草、客演の名優や主人公の出入りに合わせて、ひとりでに開く室内装置の扉などを、『劇場ではごく当たり前のこと』と考える人もいる。

だから、不自然な紋切り型さえ演技の技法に入り込み、俳優の儀式の一部になってしまった。中には、変質しすぎて、その由来をすぐには見抜けないものもある。

生み出した内面の中身を失った型は、本当の生活とは何の共通点もない、舞台だけの約束事になる。そのため、俳優の人間としての自然な働きをゆがめてしまう。

バレエやオペラ、特に型だけの古典主義悲劇には、そうした紋切り型があふれている。英雄の最も複雑で崇高な体験を、固定された型で伝えようとするのだ。たとえば、見せかけの美しさ、大げさにしなやかな動き、絶望のあまり胸から心臓を『えぐり出す』仕草、復讐に腕を振り、祈りに両手を掲げる仕草などである。

型芝居の俳優に言わせれば、そのような俳優共通の語り方や身体表現は、声、発音、動きを気品ある美しいものにし、舞台効果と表現力を高めるためだという。抒情的な箇所で声を甘ったるくし、叙事詩を退屈な一本調子で語り、憎悪を大声で示し、悲しみを嘘泣きの声で表すのも、そのためなのだそうだ。

しかし残念ながら、気品が正しく理解されているとは限らない。美の捉え方はまちまちで、表現力も、しばしば悪趣味に導かれる。世の中には、よい趣味より悪い趣味のほうが、はるかに多いのだから。

こうして、気品の代わりに大げささが、美の代わりに見せかけの美しさが、表現力の代わりに芝居がかった派手さが生まれた。

実際、決まりきった語り方や発音から、歩き方や身振りに至るまで、すべてが劇場の仰々しい面に奉仕している。芸術と呼ぶには、慎みが足りない。

型にはまった話し方と身体表現は、見せびらかす効果と、気取った気品に行き着き、それが、舞台特有のうわべの美しさを作ったのだ。

約束事の紋切り型は、体験の代わりにはならない。

さらに困るのは、紋切り型はどれも、まとわりついて離れないことだ。

さびのように、俳優の中へ食い込んでくる。

一度入り込む隙間を見つけると、さらに侵入し、増え広がって、役のあらゆる箇所、俳優の表現のあらゆる部分を覆おうとする。

役の中で、生きた感情に満たされていない空白を見つけると、そこを埋め、しっかり居座る。

それどころか、感情が目覚める前に飛び出して、その行く手をふさぐことも多い。だから俳優は、しつこい紋切り型のおせっかいから、油断なく自分を守らなければならない。

ここまでの話は、本当に自然な創造ができる、才能ある俳優にも当てはまる。

型芝居の俳優にいたっては、舞台上の仕事のほとんどが、紋切り型を巧みに選び、組み合わせることに尽きると言ってよい。

その型の中には、見栄えがよく面白いものもあるから、経験の浅い観客は、それが機械的な仕事にすぎないとは気づかないことさえある。

だが、どれほど完璧な紋切り型でも、それだけで観客の心を揺さぶることはできない。

そのためには、何か別の刺激が要る。それが、私たちの言う『俳優的な興奮』を起こす、特別な手立てだ。

俳優的な興奮は、本当の感情でも、舞台上で役を芸術的に体験することでもない。

体の外側を、人為的に刺激することだ。

たとえば、拳を握り、筋肉を強く縮め、けいれんするように息をすれば、体をひどく緊張させられる。客席からは、それがしばしば、激しい情念に突き動かされた、力強い気質の現れに見える。

心は冷めたまま、理由もなく、ただ何となく、外側だけで機械的にもがき、興奮したふりをすることはできる。

そうすると、体が熱く高ぶっているような、かすかな似姿が生まれる。

神経の敏感な俳優は、自分の神経を人為的にかき立てて、この俳優的な興奮を起こす。舞台上の一種のヒステリー、取り乱し、病的な恍惚になるのだが、その内面は、人為的な体の高ぶりと同じくらい、空っぽであることが多い。

どちらの場合も、それは芸術的な演技ではなく、演技の失敗だ。俳優という人間の生きた感情を役に適応させたものではなく、俳優的な興奮にすぎない。

それでも、その興奮はある程度の目的を果たし、生の気配らしきものを与え、いくらかの印象を残す。芸術を見る目がまだ育っていない人は、その印象の質を見分けられず、粗雑なまがい物で満足するからだ。

この種の俳優自身も、本当の芸術に仕えていると確信していることが多い。ただ型芝居をしているだけだとは、気づいていないのだ」

一九……年……月……日

今日も、アルカージー・ニコラーエヴィチは試演会の講評を続けた。

いちばん厳しく言われたのは、気の毒なヴュンツォフだった。

先生は、彼の演技を型芝居とさえ認めなかった。

「では、何だったのですか?」私は話に割って入った。

「まったくひどい、大げさなふざけ芝居だ」

「私には、それはありませんでしたか?」念のため、私は尋ねた。

「あったとも!」

「いつですか?」私はおびえて声を上げた。

「私のは、気質任せの芝居だとおっしゃったではありませんか!」

「そして、その演技は、本当に創造している瞬間と、別の瞬間とが交互に現れるものだと説明したはずだ。その別の瞬間は……」

「型芝居ですか?」思わず口を挟んだ。

「君にはまだ、型芝居の技を身につける余地もなかった。ゴヴォルコフのように、長く稽古して作るものだからね。君には、その時間がなかった。

だからこそ、技術のかけらもない、ひどく素人くさい紋切り型で、野蛮人の物まねをしていたのだ。

技術なしには、芸術だけでなく、型芝居さえ成り立たない」

「初めて舞台に立った私に、どうして紋切り型があるのですか?」

「劇場も公演も、稽古さえ一度も見たことのない少女を、二人知っている。だが二人は、実に古くさい、俗悪な紋切り型で悲劇を演じていたよ」

「では、型芝居でさえなく、ただの素人の大げさな芝居だったのですか?」

「そうだ! 幸い、まだそれだけだ」と先生は答えた。

「なぜ『幸い』なのですか?」

「根深く身についた型芝居よりも、素人の大げさな芝居のほうが、直しやすいからだ。

君のような初心者でも、才能があれば、偶然に、ほんの一瞬、役をよく感じ取れることはある。だが、役の全体を一貫した芸術的な形で伝えることはできない。だからいつも、大げさな作り芝居に頼ってしまう。

初めのうちは、それほど害はない。しかし、大きな危険が潜んでいることを忘れてはいけない。初めからそれと闘い、俳優を損ない、生来の才能をゆがめる癖を育てないようにしなければならない。

型芝居と、ただ大げさな芝居が、それぞれどこから始まり、どこで終わるのか、理解するよう努めなさい」

「どこから始まるのですか?」

「君自身の例で、説明してみよう。

君は賢い人間だ。それなのに、なぜ公演でしたことは、わずかな瞬間を除いて、あれほど馬鹿げていたのか。

かつて文化の高さを誇ったムーア人が、檻の中でもがく獣のようだったと、本当に信じているのかね?

君が演じた野蛮人は、副官と静かに話しているときでさえ、うなり、歯をむき、白目をむいていた。

どうして、そんなふうに役へ近づいたのか。

どのような道をたどって、その馬鹿げた演技に行き着いたのか、説明してごらん。

創造の道で迷った俳優には、どんな馬鹿げたことでも起こりうる、ということではないだろうか?」

私は家での稽古について、日記に書いたことをほとんどすべて、細かく話した。

いくつかは、実際に動いて見せることもできた。

分かりやすくするため、自分の部屋の家具の配置に合わせて、椅子まで並べた。

私の実演のうち、いくつかのところで、アルカージー・ニコラーエヴィチは大いに笑った。

私が終えると、先生は言った。「いちばん悪い型芝居は、こうして生まれるのだ。

何よりも、自分の力に余ること、知らないこと、感じていないことを始めると、こうなる。

公演で君がいちばんしようとしていたのは、観客を驚かせ、圧倒することだったように思う。

何によって?

演じる人物にふさわしい、本当に自然な感情によってかね?

だが、君にはそれがなかった。

せめて外側だけでも写せる、一つのまとまった、生きた人物像もなかった。

では、何ができたか。

記憶の中をたまたまよぎった、最初の特徴に飛びつくことだ。

ほかの人と同じように、君の記憶にも、さまざまな場合に使える特徴が、たくさん蓄えられている。

あらゆる印象は、何らかの形で記憶に残り、必要なときに、姿や形を持って表されるからね。

急ごしらえで、『何となくそれらしく』表すとき、私たちは、それが現実と合っているかどうかを、あまり気にしない。

何か一つの特徴、一つの手掛かりだけで満足してしまう。

そうした像を形にするため、日常の中にさえ、決まりきった型や、外見上の記号が出来上がっている。

誰でもいいから、こう言ってごらん。『今すぐ、準備せずに、何となく野蛮人らしく演じてください』。

大半の人は、君が公演でしたのと同じことをする。これは請け合う。暴れ回り、うなり、歯をむき、白目を光らせることが、長い間に、野蛮な人間についての誤ったイメージと結び付いているからだ。

嫉妬、怒り、興奮、喜び、絶望などを『何となくそれらしく』表す型も、誰の中にでもある。

そして、その人がどう、いつ、どんな状況でその感情を味わうのかにかかわりなく、そうした型を使ってしまう。

そんな『演技』、いや作り芝居は、舞台では笑えるほど幼稚だ。実際にはない感情の強さを伝えようと、声が裂けるほど叫び、顔の表情を大げさにし、動きや行動の表現を誇張し、腕を振り回し、頭を抱える。

そうした演じ方は君の中にもあるが、幸い、数は少ない。

だから、一時間も稽古するうちに使い切ってしまったとしても、不思議ではない。

作り芝居の型は、初めからひとりでに出てきて、すぐ飽きがくる。

それとはまったく逆に、役の内面の生を本当に芸術として伝える方法は、難しく、作るのに時間がかかるが、舞台で飽きることはない。

ひとりでに新しくなり、絶えず豊かさを増し、俳優自身も観客も、いつも引きつける。

だから、自然な演じ方で作った役は育っていくのに、作り芝居や素人の大げさな演技で作った役は、すぐに生命を失い、機械的になってしまう。

これらはいわば『誰もが持つ紋切り型』だ。気を利かせたつもりの愚か者と同じで、敵よりも危険なのだ。

君も、ほかの誰もと同じように、それを内に持っている。型芝居の技術で作り上げた型を持っていなかったので、舞台でその代わりに使ったわけだ。

つまり、大げさな芝居も型芝居も、体験が終わるところから始まる。ただし型芝居は、感情を作り芝居で置き換える仕組みが整っていて、練り上げた型を使う。それに対して大げさな芝居には、その用意もない。舞台向けに磨かれも準備されもしていない、『誰もが持つ』型や『借りてきた』型を、手当たり次第、無差別に使うのだ。

君に起きたことは、初心者としては理解できるし、許せることだ。

しかし、これからは気をつけなさい。

素人の大げさな芝居と『誰もが持つ紋切り型』から、やがて最も悪い型芝居が出来上がる。

それを育ててはいけない。

そのためには、紋切り型と粘り強く闘いながら、同時に、役を体験することを学ぶのだ。『オセロー』のときのように、公演の一瞬だけではない。人物の生活を伝えている間、ずっとだ。

そうすれば、気質任せの芝居から離れ、体験の芸術へ進むことができる」

一九……年……月……日

アルカージー・ニコラーエヴィチの言葉は、私に大きな衝撃を与えた。

養成所をやめたほうがいいのではないかと、思うことさえあった。

だから今日、授業で先生に会うと、また質問を始めた。

これまでの授業で言われたことを、全体としてまとめたかったのだ。

結局、私の演技は、この仕事でいちばんよいもの、つまり霊感の瞬間と、いちばん悪いもの、つまり大げさな作り芝居との混ぜ合わせなのだ、という結論に至った。

「それは、まだ最悪ではないよ」先生は慰めてくれた。「ほかの者がしたことには、もっと悪いものがある。

君の素人くささは直せる。だが、ほかの者の間違いは、本人が意識して選んだ主義になっている。それを変えたり、俳優の中から根こそぎ取り除いたりするのは、いつでもできることではない」

「それは、何ですか?」

「芸術を、自分のために利用することだ」

「どういうことですか?」生徒たちが問いかけた。

「たとえば、ヴェリヤミノワがしていたことだ」

「私が?」思いがけない言葉に、ヴェリヤミノワは席から跳び上がった。

「私が、何をしたのですか?」

「きれいな手や足、そして自分の姿を、私たちに見せていた。舞台からなら、よく見てもらえるからね」と先生は答えた。

「私が?

手や足を?」私たちの美人は、気の毒なほど戸惑っていた。

「そう、まさにその手や足を」

「ひどいわ、怖いわ、変だわ」とヴェリヤミノワは繰り返した。

「自分がしたことなのに、自分では何も分からないなんて」

「染み付いた癖とは、いつもそういうものだ」

「でも、なぜ皆さん、あんなに褒めてくださったのですか?」

「君の手や足が美しいからだ」

「それの、何がいけないのですか?」

「カタリーナを演じず、客席へ愛嬌を振りまいていたことが、いけないのだ。

シェイクスピアは、生徒のヴェリヤミノワが舞台からきれいな足を見せ、崇拝者たちに媚びるために、『じゃじゃ馬ならし』を書いたのではない。彼には別の目的があった。それは君には無縁のままで、私たちにも伝わらなかった。

残念ながら、私たちの芸術は、それとはまったく関係のない目的のために利用されることが、実に多い。

君は美しさを見せるために利用した。ほかには、人気を得るため、表面的な成功や出世のために利用する者もいる。

この仕事ではありふれたことだが、私は、君たちがそうなるのを今のうちに防ぎたい。

これから言うことを、しっかり覚えておきなさい。劇場は、人前で見せるという性質のために、両刃の剣になる。

一方では大切な社会的使命を果たし、他方では、芸術を利用して出世したい者に、好機を与える。

そういう者は、人の無理解やゆがんだ趣味に付け込み、縁故や策略など、創造とは関係のない手段に訴える。

芸術を食い物にする者は、芸術の最も悪質な敵だ。

断固として闘い、それでも駄目なら、舞台から追い出さなければならない。

だから」と先生は、またヴェリヤミノワに向かった。「はっきり決めなさい。君は芸術に仕え、そのために自分を捧げに来たのか、それとも私的な目的のために芸術を利用しに来たのか。

ただし」と、今度は全員へ向き直って続けた。「芸術をこうして分類できるのは、理論の上だけだ。

現実の実践は、分類どおりにはいかない。

あらゆる方向が混ざり合う。

実際、人間としての弱さから型芝居へ落ちる大俳優もいれば、ふとした瞬間に本当の芸術へ高まる型芝居の俳優もいる。

どの公演で、どの役を演じるときにも、同じことが起きる。

本当の体験の隣に、再現や、型どおりの作り芝居や、芸術の私的な利用が混ざっている。

だからこそ俳優は、自分の芸術の範囲を知る必要がある。型芝居の俳優には、そこを越えると芸術が始まる境目を、理解することがなおさら大切なのだ。

こうして私たちの仕事には、体験の芸術と再現の芸術という、二つの主要な流れがある。

よくできたものも、悪くできたものも含め、舞台の型芝居が、その二つの輝く背景をなしている。

付け加えれば、内面が高まるときには、うんざりするような紋切り型や作り芝居を突き破って、本当の創造がきらめくこともある。

また、芸術が私的な目的に使われないよう、守らなければならない。この悪は、気づかぬうちに忍び込むからだ。

素人の取り組みについて言えば、選ぶ道によって、有益にもなれば、同じくらい危険にもなる」

「では、私たちを脅かす危険を、すべて避けるにはどうすればいいのですか?」私は尋ねた。

「もう言ったように、方法は一つしかない。私たちの芸術の根本的な目的を、絶えず果たすことだ。役と戯曲の『人間としての内面の生活』を創り、それを美しい舞台の形に、芸術として具現すること。

この言葉の中に、本当の俳優の理想がある」

トルツォフ先生と話して、私たちが舞台に出るには早すぎたこと、試演会は生徒にとって、ためになるより害が大きかったことが、はっきりした。

だが、そう話すと先生は反対した。「君たちには、ためになったよ。

舞台で決してしてはいけないこと、これから避けるべきことを、その公演が示してくれたのだから」

話の終わりに、トルツォフ先生は別れ際、明日から声と体を育てる授業を始めると告げた。歌、発音、体操、リズム、身体表現、舞踊、フェンシング、アクロバットの授業だ。

授業は毎日ある。人間の筋肉を発達させるには、計画的で根気強い練習を、長く続ける必要があるからだ。

第3章 行動――「もしも」と「与えられた状況」

一九……年……月……日

今日は養成所の劇場に集まった。小さいが、設備は一通りそろっている。

アルカージー・ニコラーエヴィチは入ってくると、一同をじっと見渡して言った。

「マロレトコワ、舞台へ出なさい」

気の毒な彼女を襲った恐怖は、言葉では書き表せない。

その場で慌てふためき、滑りやすい寄せ木の床の上で、若いセッター犬のように足をばたつかせた。

とうとう皆で彼女をつかまえて、先生の前へ連れていった。先生は子供のように大笑いしていた。

彼女は両手で顔を覆い、早口で繰り返した。

「お願い、皆さん、無理です!

ねえ、お願い、怖い、怖いんです!」

「落ち着いて。さあ、芝居をしよう。

どんな芝居かというとね」先生は、もう彼女の取り乱しには構わず、話した。

「幕が開く。君は舞台に座っている。

一人きりで。

座っている。座っている。まだ座っている。

最後に幕が閉まる。

それだけだ。

これ以上簡単なものは、考えようがない。

そうだろう?」

マロレトコワは答えなかった。

そこで先生は彼女の腕を取り、黙って舞台へ連れていった。

生徒たちは大笑いした。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、さっと振り向いた。

「諸君」と先生は言った。「ここは教室だ。

そしてマロレトコワは今、俳優として、とても大切な瞬間を迎えている。

いつ、何を笑ってよいのか、心得なければならない」

マロレトコワと先生は舞台へ上がった。

今度は全員、黙って座り、待っていた。

開演前のように、厳かな空気になった。

やがて幕がゆっくり開いた。

舞台のいちばん手前、その真ん中にマロレトコワが座っていた。

観客を見るのを恐れ、まだ両手で顔を覆っていた。

静けさの中、舞台にいる彼女が、何か特別なことをしてくれるような期待が生まれた。

沈黙が、彼女に何かを求めていた。

おそらくマロレトコワもそれを感じ、何かしなければならないと悟ったのだろう。

おそるおそる片手を顔から離し、次にもう一方の手を離した。だが、深くうつむいていたので、見えたのは分け目のある頭のてっぺんだけだった。

また、息の詰まるような沈黙が続いた。

とうとう皆の期待を感じ取って客席を見たが、まぶしい光に目を射られたように、すぐ顔をそむけた。

身なりを直し、座り直し、妙な姿勢を取り始めた。背を反らし、あちこちに体を傾け、短いスカートをしきりに引っ張り、床の何かを熱心に見つめた。

ついに先生は気の毒に思い、合図を出して、幕を閉めさせた。

私は先生のところへ駆け寄り、自分にも同じ練習をさせてほしいと頼んだ。

舞台の真ん中に座らされた。

正直に言えば、怖くはなかった。

公演ではないのだから。

それでも、自分が二つに分かれ、相反する要求の間にいるようで、気分が悪かった。劇場という環境は私を見せ物にするのに、舞台で求める人間らしい感覚のほうは、一人でいることを求めていた。

自分の中の誰かが、観客を楽しませようとし、別の誰かが、観客を気にするなと命じていた。

足も、手も、頭も、胴も、私の言うことを聞きながら、同時に、頼みもしない余分なものを付け足した。必要以上にもったいぶった、何かを。

手や足をただ置こうとしても、急に妙なひねりが入る。

結局、写真を撮るときのようなポーズになってしまう。

不思議だ!

舞台に出たのは、たった一度きりで、それ以外はずっと自然な人間の生活を送ってきた。それなのに舞台では、人間らしく座るより、俳優らしく、不自然に座るほうが、比べものにならないほど楽なのだ。

舞台の上では、自然な真実より、芝居がかった嘘のほうが身近になっている。

私の顔は、間の抜けた、後ろめたそうな、許しを求めるような顔になっていたそうだ。

何をすればいいのか、どこを見ればいいのか、分からなかった。

それでも先生は、なかなか終わりにしてくれず、私を困らせ続けた。

私の後に、ほかの生徒たちも同じ練習をした。

「では、先へ進もう」とアルカージー・ニコラーエヴィチが言った。

「いずれまたこの練習に戻って、舞台で座ることを学ぼう」

「ただ座ることを、習うんですか?」生徒たちは戸惑った。

「今、座ったではありませんか……」

「いや」と先生はきっぱり言った。「君たちは、ただ座っていたのではない」

「では、どう座ればよかったのですか?」

答える代わりに、先生はすばやく立ち上がり、用事に向かう人の足取りで舞台へ行った。

そして、家にいるように、どさりと椅子へ腰を下ろした。

何もしていなかったし、しようともしていなかった。それなのに、そのただ座っている姿が、私たちの注意を引いた。

見ていたかった。その中で何が起きているのか、知りたかった。先生がほほえむと、私たちもほほえんだ。考え込めば、何を考えているのか知りたくなった。何かをじっと見れば、何に引きつけられたのか、確かめたくなった。

日常なら、トルツォフ先生がただ座っているのを、面白がりはしない。

それが舞台で起きると、なぜか特別な注意を向けて見つめ、その眺めから、ある種の満足まで得られる。

生徒たちが舞台に座ったときは、そうならなかった。見ていたいとも、その心で何が起きているのか知りたいとも、思わなかった。

生徒たちは、途方に暮れ、好かれようとして私たちを笑わせた。先生は私たちをまるで気にしないのに、こちらのほうから引きつけられた。

何が違うのだろう。

アルカージー・ニコラーエヴィチが、その秘密を明かしてくれた。

「舞台ですることには、すべて目的がなければならない。

座るのも、何かのためでなければならない。ただ観客に姿を見せるために、何となく座るのではない。

しかし、それは簡単ではないから、学ぶ必要がある」

「では先生は、今、何のために座ったのですか?」ヴュンツォフが試すように聞いた。

「君たちを相手にするのと、その前の劇場の稽古とで疲れたから、休むためだ。

さあ、こちらへ来て、次の芝居をしよう」と、先生はマロレトコワに言った。

「今度は、私も一緒に演じる」

「先生が?」彼女は声を上げ、舞台へ駆けていった。

また舞台の真ん中の椅子に座らされ、またしきりに身なりを直し始めた。

先生は隣に立ち、手帳の中の何かの記録を、一心に探していた。

その間にマロレトコワは、だんだん落ち着いた。やがて動かなくなり、先生に注意深く目を注いでいた。

邪魔をしないよう気をつけ、次の指示を辛抱強く待っていたのだ。

姿勢が自然になった。

舞台は彼女の女優としてのよさを引き立て、私はその姿に見とれた。

そうして、かなりの時間が過ぎた。

それから幕が閉まった。

二人が客席へ戻ると、先生は彼女に尋ねた。「どんな気持ちだった?」

「私がですか?」彼女は不思議そうだった。

「今のは、芝居だったんですか?」

「もちろん」

「私は、ただ座って、先生が手帳で探して、何をすればいいか教えてくださるのを待っていたつもりでした。

何も演じていませんでした」

「まさに、そこがよかったのだ。目的があって座り、作り芝居をしなかった」先生は、その言葉を捉えた。

そして私たち全員に尋ねた。「どちらがよいと思う? 舞台に座って、ヴェリヤミノワのように脚を見せたり、ゴヴォルコフのように自分の姿を披露したりすることか。それとも、座りながら、どんなに小さくても、何かをすることか。

それは、たいして面白くないかもしれない。だが、舞台に生を創り出す。自分を見せるだけなら、どんな形であれ、芸術の領域から外れてしまう。

舞台では、行動しなければならない。

行動すること、能動的であること。それが演劇という芸術、俳優の芸術の土台なのだ。

『ドラマ』という言葉そのものが、古代ギリシア語では『行われる行動』を意味する。

ラテン語でこれに当たる言葉はアクティオだ。その語根アクトは、ロシア語の『активность(能動性)』『актер(俳優)』『акт(行為、幕)』にも受け継がれている。

つまり舞台上のドラマとは、私たちの目の前で行われる行動であり、舞台に出た俳優は、行動する人になるのだ」

「失礼ですが」と、突然ゴヴォルコフが口を開いた。

「先生は、舞台では行動しなければならないとおっしゃいました。

では、お尋ねしますが、椅子に座っていらしたことが、どうして行動になるのですか?

私には、完全に、まったく何もしていないように思えます」

「先生が行動していたかどうかは分かりませんが」と、私は興奮して言った。「先生の『何もしない』ほうが、あなたの『行動』より、ずっと面白かったです」

「舞台に座る人が動かないからといって、受け身だとは限らない」と先生は説明した。

「じっとしたまま、本当に行動することはできる。外側の体ではなく、内側の心で行動するのだ。

それだけではない。

創造の中でとりわけ大切で興味深い、強い内面の行動があるために、体が動かなくなることも多い。

芸術の価値を決めるのは、その精神的な中身だ。

だから先ほどの言い方を少し改めよう。舞台では、内面でも外面でも、行動しなければならない。

それによって、舞台上の創造と芸術が能動的で、行動を伴うものになる。これは私たちの芸術の、主要な基礎の一つなのだ」

一九……年……月……日

「新しい芝居をしよう」先生はマロレトコワに話しかけた。

「こういう内容だ。君のお母さんが仕事を失い、収入もなくなった。養成所の学費を払うために売れるものさえない。学費を払わなければ、君は明日、退学させられる。

ところが、友達が助けに来てくれた。お金がないので、持っている物の中でたった一つ値打ちのある、宝石付きのピンを持ってきたのだ。

友達の気高い行いに、君は心を揺さぶられ、胸を打たれる。

だが、そんな犠牲をどうして受け取れるだろう。

ためらい、断ろうとする。

そこで友達は、ピンをカーテンへ刺し、廊下へ出る。

君は後を追う。

廊下で、説得したり、断ったり、泣いたり、感謝したりする、長いやり取りがある。

ついに君は厚意を受け入れ、友達は帰り、君はピンを取りに部屋へ戻る。

ところが……。

どこにある?

誰かが入って、持っていったのだろうか?

大勢が住む家なら、それもありうる。

不安に駆られながら、念入りに探し始める。

さあ、舞台へ行きなさい。

私がピンを刺しておくから、幕のひだの中を探すんだ」

マロレトコワは舞台袖へ行った。

先生はピンを刺す素振りもなく、一分ほどして、出てくるように言った。

彼女は舞台袖から押し出されたように飛び出し、舞台の前まで走ると、すぐに取って返した。両手で頭を抱え、恐怖に身をよじった……。

それから反対側へ駆け、幕をつかんで、必死に振り回し、その中へ顔を埋めた。

それが、ピンを探すという表現だった。

見つからないと、両手をけいれんするように胸へ押し当て、また舞台袖へ駆け込んだ。どうやら、事態の悲惨さを表したらしい。

一階席にいた私たちは皆、笑いをこらえるのに苦労した。

まもなくマロレトコワは、勝ち誇った顔で、舞台から客席へ飛び込んできた。

目は輝き、頬は赤く染まっていた。

「どんな気持ちだった?」先生が尋ねた。

「皆さん!

すごくよかったです!

どれほどよかったか、言えないくらい……。

もう駄目、たまりません。

本当に幸せです!」マロレトコワは、座ったかと思うと跳び上がり、頭を両手で抱えて叫んだ。

「ものすごく感じたんです、本当に!」

「それはよかった」先生はうなずいた。

「で、ピンはどこにある?」

「あっ、そうだった!

忘れていました……」

「おかしいね」と先生は言った。

「あれほど探していたのに……忘れたのか」

あっという間に、マロレトコワはまた舞台に立ち、幕のひだを一つ一つ探っていた。

「忘れないで」と先生は念を押した。「見つかれば君は助かって、養成所へ通い続けられる。見つからなければ、もうおしまいだ。退学になる」

たちまちマロレトコワの顔が真剣になった。

幕へ目を凝らし、布のひだをすべて、順序立てて注意深く調べ始めた。

今度の探し方は、先ほどとは違い、比べものにならないほどゆっくりだった。だが私たちには、時間を無駄にしているのではなく、本当に心配し、気にかけているのだと信じられた。

「ねえ、お願い……。

どこなの?

なくなってしまった……」彼女は小声で繰り返した。

「ない!」すべてのひだを調べ終えると、絶望と戸惑いの混じった声を上げた。

顔に不安が浮かんだ。

一点を見つめたまま、呆然と立ち尽くしていた。

私たちは、息をひそめて見守っていた。

「感じやすい子だね」先生は、イヴァン・プラトーノヴィチに小声で言った。

そしてマロレトコワに尋ねた。「今、二度目に探したときは、どんな気持ちだった?」

「どんな気持ちだったか、ですか?」彼女は、気のない調子で聞き返した。

少し考えてから、「分かりません。探していたんです」と答えた。

「そのとおり。今は探していた。

では、最初は何をしていたのかね?」

「ああ!

最初のとき!

胸がいっぱいになって、すごいものを体験していたんです!

もう、たまりません!

たまりません……!」熱を帯びて頬を染め、彼女は誇らしげに、うっとりと思い出していた。

「舞台にいた二つの状態のうち、どちらのほうが心地よかった?

走り回って幕のひだを引き裂きそうにしていたときか、それとも今のように、もっと落ち着いて調べていたときか?」

「もちろん、最初にピンを探したときです!」

「いや、最初もピンを探していたと、私たちを納得させようとしてはいけない」と先生は言った。

「君はピンのことなど考えていなかった。ただ、苦しむために苦しみたかったのだ。

二度目には、本当に探していた。

私たちには、それがはっきり見えたし、分かった。君の戸惑いや途方に暮れた様子には、理由があると信じられた。

だから最初の探し方は駄目だ。ありふれた、俳優の大げさな作り芝居だった。

二度目のほうは、とてもよかった」

この評価に、マロレトコワは呆然とした。

「舞台に、意味もなく走り回ることは要らない」と先生は続けた。

「走るために走り、苦しむために苦しんではいけない。

ただ行動するために『何となく』行動するのではなく、理由があり、目的にかない、何かを生み出す行動をしなければならない」

「しかも、本当に」と私は付け加えた。

「本当の行動とは、理由と目的のある行動のことだ」と先生は言った。

「では、舞台では本当に行動しなければならないのだから、全員、舞台へ上がって……行動してごらん」

私たちは上がったものの、しばらく、何をすればいいか分からなかった。

舞台では印象を与える行動をしなければならない。だが、観客の注意に値する、面白い行動が見つからず、私はまたオセローを始めた。しかし、公演のときと同じ大げさな作り芝居をしているとすぐ気づき、やめた。

プーシチンは将軍を、次には農民を演じた。

シューストフはハムレットめいた姿勢で椅子に座り、悲しみとも幻滅ともつかないものを表していた。

ヴェリヤミノワは色っぽく振る舞い、ゴヴォルコフは、世界中の舞台で行われている伝統どおりに、彼女へ愛を告白した。

ウムノヴィフとドィムコワが引っ込んでいた舞台の奥を見ると、私は思わず声を上げそうになった。二人とも顔が青白く引きつり、目は一点に止まり、体は硬直していた。

イプセンの『ブラン』の「産着の場面」を演じていたのだった。

「では、今見せてくれたものを考えてみよう」と先生は言った。

「まず君からだ。それから君と君も」私に声を掛け、マロレトコワとシューストフを指さした。

「よく見えるように、皆、椅子に座りなさい。そして今、表していたものを感じ始めてごらん。君は嫉妬、君は苦しみ、君は悲しみだ」

言われた感情を呼び起こそうとはしたものの、何も起こらなかった。

舞台を動き回って野蛮人を演じていたときには、内面が空っぽなのに馬鹿げたことをしているとは、気づかなかった。

しかし座らされ、外側の大げさな芝居を取り去られると、その課題がどれほど無意味で、実行できないものか、はっきり分かった。

「椅子に座り、何の理由もなく、嫉妬したい、興奮したい、悲しみたいと思えば、そうできるだろうか?」先生は尋ねた。

「そんな『創造の行為』を、自分に注文できるかね?

今、君たちは試したが、何も起きなかった。感情は生まれず、結局、作り芝居で、存在しない体験を顔に描くしかなかった。

感情を自分から絞り出してはいけない。嫉妬、愛、苦しみそのもののために、嫉妬したり、愛したり、苦しんだりしてはいけない。

感情に無理を強いてはいけない。それは、最も不快な作り芝居に終わるからだ。

だから、行動を選ぶときには、感情をそっとしておきなさい。

感情は、嫉妬や愛や苦しみを引き起こす、それ以前の何かから、ひとりでに生まれてくる。

一生懸命考えるべきなのは、その前にあるものだ。それを自分の周りに創りなさい。

結果のほうは、気にしなくてよい。

ナズワーノフ、マロレトコワ、シューストフのように感情を作って見せること。プーシチンやヴュンツォフのように人物像を作って見せること。ヴェセロフスキーやゴヴォルコフのように機械的に演じること。これらは、私たちの仕事でとてもよくある間違いだ。

舞台で見せかけを作り、俳優らしく取り繕い、大げさに振る舞う癖のある者が、犯しやすい過ちである。

だが本当の俳優は、情念の外への現れをまねたり、人物の外見を写したり、俳優のしきたりどおりに機械的な作り芝居をしたりするのではない。本当に、人間として行動しなければならない。

情念や人物像を演じて見せるのではなく、情念に動かされ、その人物として行動するのだ」

「椅子が数脚あるだけの、何もない舞台の床で、どう行動すればいいのですか?」生徒たちは弁解した。

「本当に、絶対、ちゃんとした装置の中で、家具や暖炉や灰皿や、いろいろなものがあったら……。

見事に行動してみせますよ」ヴュンツォフは請け合った。

「よろしい!」先生はそう言って、教室を出ていった。

一九……年……月……日

今日の授業は養成所の舞台で行うはずだったが、客席への正面の扉には鍵がかかっていた。

しかし時間になると、舞台へ直接通じる別の扉が開けられた。

そこから入った私たちは、皆、戸惑った。玄関の中に立っていたからだ。

その奥には、居心地よく家具を置いた居間があった。

居間には扉が二つあり、一つは小さな食堂と寝室へ通じていた。もう一つを抜けると廊下があり、その左には明るく照らされた広間があった。

この住まい全体は、一部を布で、一部をさまざまな室内用の舞台装置の壁で仕切って、作られていた。

家具や小道具も、上演作品で使うものを持ってきてあった。

幕は閉められ、その前に家具が置かれていたので、フットライトや舞台の枠がどこにあるのか、分かりにくかった。

「ほら、住まいが丸ごと一つできた。行動するどころか、暮らすこともできるぞ」と先生は言った。

舞台にいる気がしなくなり、私たちは家にいるように、普段どおりに振る舞った。

初めは部屋を見て回り、その後、それぞれが居心地のよい場所と気の合う相手を見つけ、話し始めた。

先生は、ここへ集まったのはおしゃべりではなく、授業のためだと注意した。

「何をすればいいのですか?」私たちは尋ねた。

「前の授業と同じことだ」と先生は説明した。

「本当に、理由を持ち、目的にかなう行動をするのだ」

だが私たちは、立ったまま動かなかった。

「どうも、よく分かりません……どうすれば……。

突然、何のきっかけもなく、目的にかなう行動をするなんて」とシューストフが言った。

「きっかけもなく行動するのが難しいなら、何かのために行動すればよい。

これほど生活らしい環境でも、自分の外側の行動に、理由を見つけられないのかね?

たとえばヴュンツォフ君、私が、あの扉を閉めてきてくれと頼んだら、断るかね?」

「扉を閉めるんですか?

喜んで!」いつものようにおどけて、彼は答えた。

あっという間に、扉をばたんと閉めて、元の場所へ戻ってきた。

「それは、扉を閉めるとは言わない」と先生は指摘した。

「厄介払いに、扉をたたきつけたというのだ。

『扉を閉める』という言葉には、まず、今のように風が入らないようにしたいとか、ここで話していることを玄関へ聞こえなくしたいとかいう、内側の望みが含まれている」

「閉まっていてくれないんです!

本当ですよ!

どうやっても!」

言い訳を裏付けるように、扉がひとりでに跳ね返って開くところを見せた。

「それなら、私の頼みを果たすには、なおさら時間と工夫が要るね」

ヴュンツォフは行き、しばらく扉と格闘して、ようやく閉めた。

「それが、本当の行動だ」先生は褒めた。

「私にも何か言いつけてください」私はせがんだ。

「自分では、何も考えつかないのかね?

ほら、暖炉と薪がある。

行って、暖炉をたいてごらん」

私は言われたとおり、暖炉に薪を組んだ。だがマッチが必要になると、自分も持っていないし、暖炉の上にもなかった。

また先生に頼るしかなかった。

「何のためにマッチが要るのだね?」先生は不思議そうに尋ねた。

「何のためって?

薪に火をつけるためです」

「それはご親切に!

その暖炉は厚紙でできた舞台道具だよ。

劇場を燃やすつもりかね?」

「本当にではなく、火をつけたつもりになるためです」と私は説明した。

「『火をつけたつもり』になるなら、『マッチのつもり』で十分だ。

さあ、受け取りなさい」

先生は、何も持っていない手を差し出した。

「問題は、マッチを擦ることではないだろう!

必要なのは、まったく別のことだ。

今は何も持っていないが、もし手の中に本当のマッチがあったなら、今これからするのとまさに同じように扱うはずだ。そのことを信じるのが大切なのだ。

ハムレットを演じ、その複雑な心をたどって、王を殺す瞬間に至ったとしよう。そのとき大事なのは、本物の鋭い剣を持っていることかね?

剣がなかったら、公演を終えられないとでもいうのかね?

だから、剣なしで王を殺してよいし、マッチなしで暖炉をたいてよい。

その代わりに、君の想像力を燃やし、輝かせなさい」

私は暖炉をたきに戻った。先生が皆に仕事を与える声が、耳に入ってきた。

ヴュンツォフとマロレトコワを広間へ送り、いろいろな遊びを始めるように言った。元製図工のウムノヴィフには、歩いて寸法を測り、この家の間取りを描くように命じた。ヴェリヤミノワからは何かの手紙を取り上げ、五つの部屋のどこかにあるから探すように言った。ゴヴォルコフには、その手紙をプーシチンに渡し、うまく隠してもらうことにしたと告げた。そのため、ゴヴォルコフはプーシチンから目を離せなくなった。

要するに先生は、全員を動かし、しばらくの間、本当に行動させたのだ。

一方、私は、まだ暖炉をたくふりを続けていた。

想像上のマッチは、何度か「消えたこと」にした。

その際、手の中のマッチを見て、感じようとした。

だが、うまくいかなかった。

暖炉の火を見て、暖かさを感じようともしたが、それもできなかった。

じきに、火をたくことに飽きてしまった。

新しい行動を探すしかなかった。

家具やほかの物を動かし始めたが、無理にこしらえた課題には何の理由もなかったから、機械的にやっていた。

先生は、そういう理由のない機械的な行動は、舞台上では、意識して理由を持って行う場合より、はるかに早く終わってしまうのだと指摘した。

「当然のことだ」と説明した。

「目的もなく機械的に動いていれば、注意をとどめるところがない。

椅子を数脚動かすだけなら、時間などかからないだろう。

だが、何か考えがあり、目的があって並べるなら、話は違う。たとえば身分の高い客もそうでない客も、部屋や食卓でふさわしい席に着かせようとすれば、同じ椅子を何時間も、あちらからこちらへ動かすことさえある」

しかし私の想像力は、尽きてしまったようだった。何も思いつかず、そこにあった絵入り雑誌へ顔を突っ込み、挿絵を見始めた。

ほかの者たちも静かになったのを見て、先生は私たち全員を居間に集めた。

「恥ずかしくないのかね!

自分の想像力さえ動かせなくて、それでも俳優か?」先生は私たちを諭した。

「子供を十人、ここへ連れてきてごらん。『ここが君たちの新しい家だよ』と言えば、その想像力に驚くはずだ。

いつまでも終わらないような遊びを始めるだろう。

子供のようになりなさい!」

「子供のように、なんて、言うのは簡単です」

シューストフはため息をついた。「子供は生まれつき遊びたくて、遊ばずにはいられない。でも私たちは、無理に自分を動かそうとしているのです」

「もちろん、『やりたくない』なら、それまでだ」と先生は答えた。

「だが、それなら一つ聞きたくなる。君たちは俳優なのかね?」

「失礼ですが!

幕を開けて、観客を入れてください。そうすれば、やりたくなります」とゴヴォルコフが言った。

「いや、俳優なら、それがなくても行動するはずだ。

はっきり言ってごらん。何が邪魔で、芝居に入り込めないのだ?」先生は問いただした。

私は自分の状態を説明し始めた。暖炉をたいたり、家具を並べたりはできる。だが、そういう小さな行動だけでは夢中になれない。

短すぎるのだ。暖炉をたき、扉を閉めれば、もう力を使い切ってしまう。

最初の行動から次の行動が生まれ、そこからさらに三つ目へつながるなら、話は別なのだが。

「つまり」と先生はまとめた。「君たちが欲しいのは、短い、外側だけの、半ば機械的な行動ではなく、遠く広く先まで見渡せる、大きく、深く、複雑な行動なのだね?」

「いいえ、それでは大きすぎて、難しすぎます。

まだそこまでは考えていません。

何か簡単で、面白いものをください」と私は説明した。

「それは私ではなく、君たち次第だ」と先生は言った。

「どんな行動も、自分でつまらなくも面白くもできるし、短くも長くもできる。

問題は外側の目標ではなく、その行動を起こす内面の動機やきっかけ、どんな状況で、何のためにするかではないのかね?

たとえば、ただ扉を開け閉めするという行動を取ってみよう。

それを機械的に繰り返すほど、無意味なことがあるだろうか。

だが、こう想像してごらん。今日マロレトコワの引っ越し祝いをしているこの家には、以前、激しく取り乱す精神の病にかかった男が住んでいた。

その人は、精神科の病院へ連れていかれた……。

もし、その人が病院を抜け出し、今この扉の外に立っているとしたら、君たちはどうする?」

そう問われた途端、行動への向き合い方――後で先生が呼んだところの「内面の狙い」――が一変した。もう芝居をどう長引かせるか、外から見てどんな出来になるかなど考えなかった。与えられた課題に対して、どの振る舞いが役立つのかを、内側から判断していた。

目は空間の距離を測り、扉へ安全に近づく道を探し始めた。

周囲をすっかり見回し、その環境に合わせながら、男が部屋へ飛び込んできたら、どこへ逃げればいいか考えた。

身を守る本能が危険を先読みし、それに対処する手段を教えてくれた。

そのときの私たちの状態は、こんな小さな出来事からも分かる。わざとか本気か、ヴュンツォフが突然扉から飛びのいた。すると私たちは、一人の人間のように同時に、互いを押し合いながら飛びのいたのだ。

女性たちは悲鳴を上げ、隣の部屋へ駆け込んだ。

私はいつの間にか、重い青銅の灰皿を握り、机の下にいた。

扉をしっかり閉めてからも、行動は続いた。

鍵がなかったので、机や椅子で扉をふさいだ。

残るのは病院へ電話し、興奮した患者を確保するため、必要な手立てをすべて取ってもらうことだった。

私はすっかり夢中になり、エチュードが終わるとすぐ、先生へ駆け寄って叫んだ。

「暖炉をたくことにも、夢中にさせてください!

あれは退屈でたまりません。

あのエチュードが生きたものになったら、私は『システム』を誰より熱心に信じます」

先生は少しも考え込まず、話し始めた。今日はマロレトコワの引っ越し祝いで、養成所の仲間や知人を招いている。

客の一人が、モスクヴィン、カチャーロフ、レオニードフと親しく、その誰かを連れてくると約束した。

養成所の生徒たちを喜ばせたかったのだ。

ところが、困ったことに部屋が寒い。

冬用の二重窓はまだ入れておらず、薪の用意もない。折悪しく突然の寒波で、部屋はすっかり冷え切り、大切な客を迎えられる状態ではなくなった。

どうしよう。

隣から薪を借り、居間の暖炉をたいたが、煙が逆流し始めた。

仕方なく水をかけて火を消し、火の係を呼びに走った。

係が手間取っているうちに、外はすっかり暗くなった。

ようやく暖炉を使えるようになったが、今度は薪が湿っていて、燃えない。

客は、もうすぐ来てしまう……。

「さあ答えてごらん。もし私の作ったこの話が本当なら、君たちはどうする?」

すべての条件が互いに結びつき、内側で固い結び目を作っていた。

その結び目をほどき、困った状況から抜け出すには、また私たちの、人間としてのあらゆる力を使わなければならなかった。

何よりも皆を動揺させたのは、この状態でレオニードフ、カチャーロフ、モスクヴィンを迎えるということだった。

彼らに対する恥ずかしさを、特に強く感じた。

「もしも」本当にこんな不手際をしたら、どれほど嫌で落ち着かない時間を過ごすことになるか、よく分かっていた。

私たちは一人一人、事態を何とかしようとした。行動の案を考え、仲間に相談し、実際に試した。

「今度は」と先生は言った。「君たちが本当に、つまり目的にかない、成果につながる行動をしたと、言える。

何が、そこへ導いてくれたのか?

『もしも』という、小さな言葉一つだ」

生徒たちは大喜びした。

芸術の何もかもを可能にする、魔法の言葉を教えられたように思えた。役やエチュードがうまくいかなくても、「もしも」と唱えさえすれば、すべてが順調に運ぶ気がしたのだ。

先生はまとめた。「今日の授業で学んだのは、舞台上の行動には内面の理由があり、筋道が通って、一貫していて、現実にも可能なものでなければならない、ということだ」

一九……年……月……日

皆が「もしも」という言葉を気に入った。機会があるたびに話題にして褒めたたえ、今日の授業も、ほとんどその賛美に費やされた。

先生が入って席に着くか着かないうちに、生徒たちは周りを囲み、興奮して喜びを伝えた。

「君たちはうまくいった経験を通じて、『もしも』から内面と外面の行動が、無理なく、自然に、ひとりでに生まれることを理解し、実感した。

では、その生きた例で、この経験を動かした力や条件が、それぞれどんな働きをしたか、たどってみよう。

まずは『もしも』からだ。

何よりも素晴らしいのは、これがあらゆる創造の始まりになることだ」と先生は説明した。

「『もしも』は、俳優を現実から、創造が起こりうる世界へ移してくれる、てこのようなものだ。

その後の創造が、順を追って、筋道立てて発展するための、最初のきっかけだけを与える『もしも』もある。

たとえば、こうだ」

先生はシューストフへ手を差し出し、何かを待った。

二人は、どうしたものかという顔で見合った。

「このとおり、私たちの間では、何の行動も生まれない」と先生は言った。

「そこで『もしも』を入れる。もし、私が渡そうとしているのが、何もない手ではなく、手紙だったら、君はどうする?」

「受け取って、誰宛てか確かめます。

私宛てなら、お許しを得て、封を切り、読み始めます。

でも私的な内容なので、読んで動揺したら、それが分かってしまうかもしれませんから……」

「それを避けるには、離れるほうが賢明だね」と先生が助け舟を出した。

「……別の部屋へ行って、そこで読みます」

「ほら、『もし』『だから』『それなら』という、いくつもの意識的で順序立った考え、論理の段階、さまざまな行動が、小さな『もしも』という言葉から生まれた。

普通は、このように働く。

だが、ときには、付け足しや助けを必要とせず、『もしも』だけで、一瞬のうちに役割を果たすこともある。

たとえば……」

先生は片手でマロレトコワへ金属の灰皿を渡し、もう片方でヴェリヤミノワへスエードの手袋を渡しながら、言った。

「君には冷たい蛙、君には柔らかいネズミだ」

言い終わるより早く、二人とも気味悪がって身を引いた。

「ドィムコワ、水を飲んでごらん」と先生は言った。

彼女はコップを唇へ運んだ。

「毒だ!」先生が止めた。

ドィムコワは、とっさに動きを止めた。

「見たかね!」先生は得意そうに言った。

「これは、ただの『もしも』ではなく、『魔法のもしも』だ。瞬時に、考えるより先に、行動そのものを呼び起こす。

暴れる男のエチュードでも、これほど鋭く目立つものではないが、やはり強い効果があった。

正常な判断のできない人が外にいるという想定から、すぐに本当の大きな動揺と、きわめて積極的な行動が生まれた。

あの『もしも』も、『魔法のもしも』と呼べるだろう。

『もしも』の性質や特徴をさらに調べるなら、いわば一階建てと、多層構造の『もしも』があることにも、目を向けなければならない。

今の灰皿と手袋の練習で使ったのは、一階建ての『もしも』だ。

もし灰皿が蛙で、手袋がネズミだったら、と言うだけで、すぐ行動に反応が生まれた。

しかし複雑な戯曲では、作者をはじめ、さまざまな『もしも』が数多く絡み合い、登場人物の振る舞いや行動に、理由を与えている。

そこにあるのは一階建てではなく、多層構造の『もしも』だ。たくさんの仮定と、それを補う想像が、巧みに絡み合っている。

作者は戯曲を作るとき、こう考える。『もし、ある時代、ある国、ある場所や家で、出来事が起きたら。もし、ある気質、考え、感情を持つ人々が、そこに暮らしていたら。もし、その人々が、このような状況の下でぶつかり合ったら』というように。

演出家は、作者のもっともらしい創作に、自分の『もしも』を加える。登場人物同士がこのような関係にあり、このような癖を持ち、このような環境で暮らしていたら、その立場に立つ俳優は、これらの条件の下でどう行動するだろうか、と考える。

同じように、舞台となる場所を描く美術家も、明かりを作る照明家も、上演を創るほかの人たちも、芸術的な想像で、戯曲の生活条件を補っていく。

さらに『もしも』という言葉には、あの暴れる男のエチュードで君たちが味わった、ある性質、ある力が隠れていることに注目してほしい。

その性質と力が、君たちの内面を瞬時に組み替え、切り替えたのだ」

「そう、まさに切り替わり、組み替わったんです!」自分の感覚にぴったりの言い方に、私はうなずいた。

先生は続けた。「その力によって、『青い鳥』で魔法のダイヤモンドを回したときのような変化が起きる。目の見方も、耳の聞き方も変わり、周囲の判断も新しくなる。その結果、想像で作ったものから、目標を果たすために必要な、現実の行動が自然に生まれるのだ」

「しかも、気づかないうちに起こるんですね!」私は感激した。

「本来、舞台道具の暖炉など、私にはどうでもいいはずです。

ところが『もしも』に結び付け、名優たちが来るという想定を受け入れて、この言うことを聞かない暖炉のせいで皆が面目を失うのだと分かると、あのとき舞台で生きていた私にとって、大切なものになりました。

厚紙の舞台道具が本当に憎らしくなり、間の悪い寒波をのろいました。活発になった想像力が内側から教えてくれることを、やり切るには時間が足りないほどでした」

「暴れる男のエチュードでも、同じことが起きました」とシューストフが言った。

「最初のきっかけだった扉は、身を守る手段にすぎなくなり、注意を引きつける本当の目標は、自分を守ることになった。

それが自然に、ひとりでに起きたんです……」

「では、なぜだろう?」先生は熱心に遮った。

「危険を思い描けば、私たちの心はいつでも動くからだ。

それは酵母のように、いつでも発酵し始める力を持っている。

扉や暖炉が心を動かすのは、私たちにとってもっと大切な、別の何かと結び付くからにすぎない。

『もしも』の力の秘密は、現実にある事実を言い立てず、『もしも』そうなら起こりうることだけを扱う点にもある。

この言葉は、何も断定しない。

ただ仮定し、解くべき問いを差し出す。

俳優は、それに答えようとするのだ。

だから、無理を強いることも、だますこともなく、内面の切り替えと答えにたどり着ける。

実際、私は扉の外に暴れる男がいると、言い張ったわけではない。

嘘はつかなかった。むしろ『もしも』という言葉によって、これは仮定であり、本当は扉の外に誰もいないと、率直に認めていた。

求めたのはただ、その男の話が現実になったら、自分ならどうするか、誠実に答えてもらうことだった。

幻覚を見るように求めたのでも、自分の感情を押しつけたのでもない。一人一人に自然に、ひとりでに起こる体験を、そのまま自由に味わえるようにしていた。

君たちも、自分に無理を強いて、その男の作り話を現実の事実として受け入れようとはしなかった。仮定として受け止めただけだ。

私は、その出来事が本当だと信じ込ませたのではない。君たち自身が、同じことが現実にも起こりうると、自分から認めたのだ」

「『もしも』が率直で正直で、ごまかしなしに進めてくれるのは、とてもいいですね。

舞台の演技でよく感じる、だまそうとするような後味が消えます!」私は感激して言った。

「もし私が、作り話だと率直に認めず、扉の外には本物の、本当の暴れる男がいると、誓っていたらどうだろう?」

「そんな見え透いた嘘は信じず、動かなかったでしょう」と私は認めた。

「素晴らしい『もしも』が、無理強いをまったく要らなくする。そこがいいのです。

その状態なら、実際には起きていなくても、起こりうることを真剣に考えられます」私は賛美を続けた。

「『もしも』には、もう一つ特徴がある」と先生は思い出した。

「俳優の内面と外面に、能動的な働きを呼び起こす。これも無理強いせず、自然に成し遂げる。

『もしも』という言葉は、内なる創造の働きを、後押しして目覚めさせるものだ。

実際、君たちは『もし、あの暴れる男の話が本当なら、私は何をし、どう振る舞うだろう?』と自分に問うただけで、すぐに活動し始めた。

ただ問いに言葉で答える代わりに、俳優としての性質から、行動したいという衝動が生まれた。

その勢いに動かされ、じっとしていられず、目の前に現れた仕事を始めたのだ。

そのとき、本当の人間の、自分を守ろうとする感覚が、現実の生活とまったく同じように、君たちの行動を導いていた……。

この大切な特徴によって『もしも』は、創造と芸術が能動的で、行動を伴うものであるという、私たちの方向の基礎と結び付いている」

「でも、『もしも』が、いつでも自由に、妨げなく働くわけではないようです」と私は異論を述べた。

「私の場合、切り替わるのは一瞬でしたが、それが定着するには時間がかかりました。

『もしも』が示された最初の瞬間には、すぐにそれを信じ、内面が変わりました。

でも、その状態は長く続きませんでした。

すぐに疑いが湧いてきて、自分に問いかけたんです。何を求めているんだ?

『もしも』はどれも作り話であり遊びであって、本当の生活ではないと、自分で分かっているじゃないか、と。

けれど、もう一つの声が反対しました。

『確かに〈もしも〉は遊びで、作り話だ。でも現実に十分ありうるし、実際に起こりうる話だ。

それに、誰も君を無理やり動かそうとはしていない。

ただ〈もし、その夜マロレトコワの家へ行き、客の立場にいたら、どうするか〉と聞かれているだけだ』と言うのです。

その作り話が現実にありうると感じると、私は真剣になって、暖炉をどうするか、招いた名優たちにどう応対するかを、考えられるようになりました」

一九……年……月……日

「さて、『魔法のもしも』であれ、普通の『もしも』であれ、それが創造の始まりになる。

そこから役を創る過程が発展していく、最初のきっかけを与えるのだ。

その過程がどう進むかは、私の代わりに、アレクサンドル・セルゲーエヴィチ・プーシキンに語ってもらおう!

プーシキンは『民衆劇とM・P・ポゴージンの〈マルファ・ポサードニツァ〉について』という文章で、こう言っている。『情念の真実、想定された状況の中での感情のもっともらしさ――それこそが、私たちの知性が劇作家に求めるものである』。

付け加えれば、私たちの知性が俳優に求めるものも、まったく同じだ。ただし、作家が想定する状況は、私たち俳優にとっては、すでに用意され、与えられている。

そこで実際の仕事では、『与えられた状況』という用語が定着し、使われるようになった」

「与えられた状況……。

へえ……」ヴュンツォフは、気がかりそうだった。

「この見事な言葉を、よく考えてごらん。その後で、私たちの好きな『もしも』が、プーシキンの偉大な教えをどう実現させてくれるか、分かりやすい例で説明しよう」

「情念の真実、想定された状況の中での感情のもっともらしさ」私は書き留めた言葉を、さまざまな抑揚で読んだ。

「その天才的な言葉を、むやみに振り回しても無駄だよ」先生が止めた。

「それでは内側の意味は明らかにならない。

考え全体を一度に捉えられないときは、筋道に沿って部分に分け、一つずつ自分の中へ取り込みなさい」

「まず、『与えられた状況』とは何を指すのか、理解する必要があるのですね?」シューストフが尋ねた。

「戯曲の筋、事実、出来事、時代、時間、場所、生活条件。私たち俳優と演出家の解釈、自分たちが付け加えるもの、立ち位置と動き、演出、美術家の装置と衣装、小道具、照明、物音や音響など、俳優が創造するとき、考慮するように与えられるものすべてだ。

『与えられた状況』も、『もしも』と同じく、仮定であり、想像によって作ったものだ。

生まれは同じで、『与えられた状況』は『もしも』であり、『もしも』は『与えられた状況』でもある。

一方は仮定そのもの、つまり『もしも』であり、もう一方はそれを補う『与えられた状況』だ。

『もしも』が創造を始め、『与えられた状況』が、それを発展させる。

どちらも、もう一方なしには成り立たず、必要な働きかける力を得られない。

ただ、役割は少し違う。『もしも』は眠っている想像力を揺り起こし、『与えられた状況』は、その『もしも』自体に根拠を与える。

両者は一緒にも、それぞれにも、内面の切り替えを助けるのだ」

「『情念の真実』というのは、何ですか?」ヴュンツォフが興味を示した。

「情念の真実とは、文字どおり情念の真実だ。本当の、生きた人間の情念、俳優自身の感情と体験のことだ」

「では、『感情のもっともらしさ』とは?」ヴュンツォフは食い下がった。

「本当の情念や感情や体験そのものではなく、いわばその予感、それに近い、つながりのある状態だ。真実に似ているから、真実らしく思える。

情念を伝えるにしても、直接、自然に、潜在意識の働きで伝えるのではなく、いわば内側の感情に導かれながら伝えることだ。

プーシキンの言葉全体は、順序を入れ替えて、『与えられた状況の中に、情念の真実を』と言ってみると、もっと分かりやすい。

言い換えれば、まず与えられた状況を創り、心からそれを信じなさい。そうすれば、『情念の真実』はひとりでに生まれる」

「あ・た・え・ら・れ・た、じょ・う・きょ・うの中……」ヴュンツォフは、何とか理解しようとした。

先生は、すぐに助け舟を出した。

「実際の仕事では、おおよそこう進める。まず、戯曲そのもの、演出、自分自身の俳優としての想像から得られる『与えられた状況』をすべて、自分なりに思い描く。

その材料全体から、周囲の状況の中で生きる人物の、生活の全体像ができる……。

そういう生活が現実にもありうることを、心から信じなければならない。そして、他人の生活が自分になじむほど、そこに慣れ親しむのだ。

それができれば、君たちの内面に、情念の真実、あるいは感情のもっともらしさが、ひとりでに生まれる」

「もっと具体的で、実際に使える方法を知りたいのですが」と私は頼んだ。

「好きな『もしも』を、集めた『与えられた状況』の一つ一つに付けてみなさい。

自分にこう言うのだ。もし侵入してきた人が激しく取り乱していたら、もし生徒たちがマロレトコワの引っ越し祝いに来ていたら、もし扉が壊れて閉まらなかったら、もし家具でふさがなければならなかったら。そういうとき、自分は何をし、どう振る舞うだろうか、と。

この問いは、すぐ君たちの中に能動的な働きを起こす。

行動で答えなさい。『私なら、こうする!』と言って、そのときしたいと思い、引きつけられることを、行動しながら考え込まずにやってみるのだ。

すると内面で、意識して、あるいは潜在意識の働きで、プーシキンの言う『情念の真実』を、少なくとも『感情のもっともらしさ』を感じるだろう。

この過程の秘訣は、感情に少しも無理を強いず、それ自身に任せ、『情念の真実』を直接考えないことだ。情念は私たちの命令ではなく、ひとりでに現れるものだからね。

命じることも、強いることもできない。

俳優の注意は、すべて『与えられた状況』へ向けなさい。

そこで誠実に生き始めれば、『情念の真実』は、君たちの内に自然に生まれる」

作者、俳優、演出家、美術家、照明家など、上演を創る人々のさまざまな「与えられた状況」と「もしも」が、舞台上に本当の生活に似た空気を作る。先生がそう説明すると、ゴヴォルコフは憤慨し、俳優を「擁護」し始めた。

「失礼ですが、すべてを他人が作ってしまうなら、俳優には何が残るのです?」と彼は抗議した。

「つまらないことだけですか?」

「つまらないことだって?」先生は勢いよく言い返した。

「他人の作った想像を信じ、そこで心から生きることが、つまらないことだと言うのかね?

他人の主題に沿って創造するほうが、自分で話を作るより難しいことも多いと、分かっているかね?

出来の悪い戯曲が、大俳優によって創り直され、世界的に知られるようになった例もある。

シェイクスピアが他人の物語を創り直したことも、私たちは知っている。

私たちも劇作家の作品を創り直す。言葉の下に隠れているものを明らかにし、他人の台詞へ自分の内なる意味を込め、人物とその生活条件に対する、自分の関係を築く。作者と演出家から受け取った材料をすべて自分の中に通し、もう一度そこで作り直し、生きたものにし、自分の想像力で補う。

その材料に親しみ、心でも体でもその中へ生きて入り、自分の中に『情念の真実』を生む。そして創造の結果として、戯曲の奥深い意図と強く結び付いた、本当に成果を生む行動を創る。演じる人物の情念と感情の中で、生きた、その人らしい人物像を創るのだ。

その大きな仕事が、全部『つまらないこと』だというのか!

違う。それは大きな創造であり、本当の芸術だ!」先生はそう締めくくった。

一九……年……月……日

教室へ入ると、先生は今日の授業の内容を告げた。

こう言った。

「『もしも』と『与えられた状況』に続いて、今日は舞台上の、内面と外面の行動を話題にしよう。

能動性を本来の土台とする私たちの芸術にとって、行動がどれほど大切か、分かるだろうか?

その能動性は舞台で行動として現れ、行動を通して役の魂、俳優の体験、戯曲の内面世界が伝わる。観客は、行動や振る舞いから舞台の人物を判断し、どんな人間かを知る。

これが行動の与えてくれるものであり、観客が行動に求めるものだ。

ところが実際には、大半の場合、私たちから何を受け取っているだろう?

まず、せわしない立ち働き、抑えの利かない大量の身振り、神経質で機械的な動きだ。

劇場では、現実の生活より、はるかに気前よくそれを使う。

だが、そのような俳優の動きは、現実の人間の行動とはまるで違う。

例を挙げよう。『ハムレット』の『生きるべきか、死ぬべきか』のような、大切で奥深い、私的な考えや感情を確かめたいとき、人は一人になり、深く自分の中へ入る。そして、考えや感情を、頭の中で言葉にして明らかにしようとする。

舞台の俳優は、違うことをする。

人生の内密な瞬間に、舞台のいちばん前へ出て観客に向き直り、存在しない自分の体験について、大声で、派手に、激情を込めて朗々と語る」

「『存在しない体験について朗々と語る』とは、どういう意味ですか?」

「演技の内面の空白を、外側の派手な作り芝居で埋めようとする、君たちのすることと同じだ。

内面で感じられない役は、外見を華やかにして観客へ差し出し、拍手をもらうほうが都合よい。

だが真剣な俳優なら、自分にとって最も大切な考えや感情、心の奥底を伝えている箇所で、芝居がかった騒ぎを望むだろうか。

そこには、役と通じ合う、俳優自身の感情が込められているのだから。

下品に鳴り響く拍手ではなく、心の通う静けさの中で、親密に伝えたいはずだ。

それを犠牲にし、厳かな瞬間を俗っぽくすることを恐れないなら、その俳優にとって台詞は空っぽだという証拠になる。自分の大切な、秘めたものを、何も込めていないのだ。

空っぽの言葉を、高いものとして大切にすることはできない。

それらはただ、声、発音、話術、〔原文の語句が不明瞭〕、気質を見せるための音として、必要とされるだけだ。

訳注

底本の амурский, животы は、この文脈では意味を確定できない。該当部分を推測で補わず、その前後を訳した。

戯曲がそのために書かれた考えや感情そのものは、この演じ方では、『何となく』悲しく、『何となく』楽しく、『何となく』悲劇的に、絶望的に、としか伝えられない。

そのような伝え方は、生命がなく、形式的な型芝居だ。

外側の行動にも、内面の行動、つまり言葉で起きることと同じことが起きる。

俳優自身が人間として、していることを必要とせず、役と芸術が、本来仕えるはずのものに仕えていないなら、その行動は空っぽで、体験を伴わず、本質的に伝えるものがない。

すると、『何となく』行動するしかなくなる。

苦しむために苦しみ、愛するために愛し、嫉妬するために嫉妬し、許しを求めるために許しを求める。心で体験して役の生が舞台上に生まれたからではなく、戯曲にそう書いてあるからするのなら、俳優は行き場を失い、『何となくそれらしく演じる』ことだけが、出口になる。

『何となく』とは、何と恐ろしい言葉だろう!

どれほどのいい加減さ、混乱、根拠のなさ、無秩序が詰まっていることか。

何となく、何か食べたいかね?

何となく、話したり読んだりしたいかね?

何となく、楽しく過ごしたいかね?

そんな誘いは、何と退屈で、中身がないことだろう。

俳優の演技を評して、『あの人のハムレットは、全体としてはまあ悪くなかった』などと言うなら、そのような大ざっぱな評価は、演じた本人への侮辱だ。

愛や嫉妬や憎しみを、『何となくそれらしく』演じてみせてくれ!

それは、どういうことだろう?

情念やその材料をごちゃ混ぜにした、寄せ集めを演じるということか?

まさにその、情念、感情、考え、行動の筋道、人物像をごちゃ混ぜにしたものを、『何となく』の俳優は舞台で差し出すのだ。

いちばんおかしいのは、本人は本気で興奮し、その『何となく』の芝居を強く感じていることだ。

そこに情念も体験も考えもなく、その寄せ集めしかないと言っても、納得させることはできない。

その俳優は汗をかき、興奮し、芝居に夢中になる。何に心が動き、何に夢中なのかは、分かっていないのに。

これが、先ほど話した『俳優的な興奮』、取り乱しなのだ。

『何となく』の興奮だ。

本当の芸術と、『何となく』の芝居は、両立しない。

一方が、もう一方を壊してしまう。

芸術は秩序と調和を好み、『何となく』は無秩序と混沌を好む。

この宿敵『何となく』から、どうやって君たちを守ればよいのか!

闘うには、その締まりのない演技に、それとは正反対のもの、それを打ち消すものを入れればよい。

『何となく』は表面的で、軽率だ。

だから、舞台ですることに、もっと計画性を持たせ、真剣に向き合いなさい。

それで、表面的な軽薄さは消える。

『何となく』は、混沌として筋が通らない。

役に論理と一貫性を持たせれば、その悪い性質を追い出せる。

『何となく』は何にでも手を付け、何一つやり終えない。

演技の中で、きちんと最後までやり遂げなさい。

私たちは『システム』を学ぶ全課程を通じて、これらを行っていく。最終的に、『何となく』の行動の代わりに、本当の、成果を生み、目的にかなう人間の行動を、舞台で確かに身につけるためだ。

芸術において私が認め、支え、育てるのは、その行動だけだ。

なぜ『何となく』に、これほど厳しいのか?

それは、こういうわけだ。

世界中で毎日、本当の芸術が求めるように、内面の本質に沿って演じられる公演は、どのくらいあるだろう?

数十だ。

では、本質に沿わず、『何となく』の原則で演じられる公演は、どのくらいあるだろう?

何万だ。

だから、世界中で毎日、何十万人もの俳優が、誤った有害な舞台の癖を繰り返し身につけ、内面をゆがめていると言っても、驚かないでほしい。

恐ろしいのは、一方で劇場そのものと創造の条件が、俳優をその危険な癖へ引っ張ることだ。

他方では、俳優自身が楽な道を探し、喜んで型芝居の『何となく』を利用する。

そうして無理解な人々が、あちこちから、少しずつ着実に俳優の芸術を破滅へ導く。『何となく』の、粗末な約束事の外形と引き換えに、創造の本質を失わせてしまうのだ。

このように、私たちは世界全体と、人前で演じる条件と、俳優の育て方と、なかでも舞台上の行動について根づいた誤解と、闘わなければならない。

その困難を乗り越えるには、まず勇気を持って認めることだ。さまざまな理由から、観客の前で創造するために舞台へ立つと、私たちは現実の生活の感覚を、すっかり失ってしまうのだと。

何もかも忘れてしまう。日常でどう歩き、座り、食べ、飲み、眠り、話し、見て、聞くのか。つまり、内面でも外面でも、どう行動しているのかを。

子供が歩き方や話し方、見方や聞き方を学ぶように、私たちは舞台の上で、それらを初めから学び直さなければならない。

授業の間、私はこの意外で大切な結論を、繰り返し思い出させることになるだろう。

今は、舞台で俳優らしく『何となく』動くのではなく、人間として、素直に、自然に、心身の働きに即して、自由に行動する方法を考えよう。劇場の約束事ではなく、生きた自然の法則が求めるようにね」

「要するに、劇場から芝居を追い出す方法を学ぶわけですね」とゴヴォルコフが付け加えた。

「まさにそうだ。大文字で書く『演劇』から、小文字で書く『芝居』を追い出すのだ。

それは一度にはできない。俳優として成長し、心理技法を身につける中で、少しずつできるようになる。

その間、ワーニャ、君に頼みたい」と先生はラフマーノフに向かった。「生徒たちが舞台で、いつも本当に、目的にかない、成果を生む行動をしているか、粘り強く見ていてほしい。行動するふりで済ませてはいけない。

演じて見せるほうへ、まして大げさな作り芝居へ外れたと気づいたら、すぐに止めてくれ。

君の授業が整ったら――私はその準備を急いでいる――生徒がどうしても舞台で行動せずにはいられない、特別な練習を作ってほしい。

毎日、できるだけ何度も、できるだけ長くその練習をし、舞台で本当に、成果を生み、目的にかなって行動することを、少しずつ、計画的に習慣にしてほしい。

人間として能動的に動くことと、観客の前の舞台で創造したり、授業を受けたりするときの感覚が、頭の中で結び付くようにしてくれ。

毎日、人間として舞台で行動するように慣らせば、芸術の中で、マネキンではなく、普通の人間としている、よい習慣が身につくだろう」

「どんな練習でしょう?

練習の内容は、何にします?」

「本番のように気を引き締めさせるために、授業の雰囲気を、もっと真剣で、厳しいものにしてくれ。

それは君の得意なところだ」

「了解です!」ラフマーノフは引き受けた。

「一人ずつ舞台へ呼んで、何か仕事を与える」

「どんな仕事です?」

「たとえば、新聞に目を通して、何が書いてあるか話してもらう」

「集団の授業では、時間がかかります。

全員を見なければなりませんから」

「新聞全部の中身を知ることが目的ではないだろう。

大切なのは、本当の、成果につながる、目的のある行動を引き出すことだ。

それが生まれ、生徒が自分の仕事に入り込み、人前での授業という環境が邪魔にならなくなったら、次の生徒を呼ぶ。初めの生徒は、舞台の奥のどこかへ移してくれ。

そこで練習を続け、舞台で生きた人間として行動する習慣を身につけてもらえばよい。

その習慣を作り、しっかり根づかせるには、本当に、成果を生み、目的にかなう行動をしながら、相当長い時間、舞台で生きる必要がある。

その必要な時間を積めるように、助けてくれ」

授業の終わりに、先生は私たちへ説明した。

「『もしも』『与えられた状況』、内面と外面の行動は、私たちの仕事にとって、とても大切な要素だ。

だが、それだけではない。

ほかにも、想像力、注意、真実の感覚、課題、舞台での資質など、芸術家として創造するための、特別な能力、性質、才能が、数多く必要になる。

話しやすいよう、今はそれらをまとめて『要素』と呼ぶことにしよう」

「何の要素ですか?」誰かが尋ねた。

「今は答えない。

時が来れば、自然に分かるだろう。

これらの要素、とりわけ『もしも』『与えられた状況』、内面と外面の行動を使いこなし、組み合わせ、当てはめ、互いにつなぐには、多くの実践と経験が要る。したがって、時間も要る。

焦らずにいこう。今は、一つ一つの要素を学び、育てることに、力を注ごう。

それが、授業のこの段階で目指す、大きな主目標なのだ」

第4章 想像力

一九……年……月……日

今日は先生の具合が悪く、授業は先生の家で行うことになった。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、書斎で私たちがくつろげるよう、席を用意してくれた。

「もう分かっているように」と先生は話した。「舞台の仕事は、戯曲や役へ、魔法の『もしも』を持ち込むところから始まる。それは俳優を日常の現実から、想像の世界へ移すてこだ。

戯曲も役も、作者が作ったものだ。魔法の『もしも』や、その他の『もしも』、『与えられた状況』が、連なっている。舞台には、本当の出来事、現実そのものはない。現実そのものは芸術ではない。

芸術は、その性質から、芸術的な創作を必要とする。まず作者の作品が、それにあたる。

俳優と、その創造の技術の仕事は、戯曲の虚構を、舞台上の芸術的な真実へ変えることだ。

その過程で、想像力が大きな役割を果たす。

だから少し時間をかけて、創造の中でどう働くのか、よく見てみよう」

先生は、さまざまな舞台装置のスケッチが掛かった壁を指さした。

「これはすべて、私の好きな、もう亡くなった若い画家の作品だ。

たいそう変わった人で、まだ書かれてもいない戯曲の舞台装置を描いていた。

たとえばこれは、チェーホフが亡くなる少し前に考えていた、結局書かれなかった戯曲の最終幕だ。氷に閉じ込められた探検隊。恐ろしく、厳しい北の国。

大きな汽船が、流れる氷の塊に挟まれている。煤けた煙突が、白い背景に不気味な黒さを見せている。

凍てつく寒さ。

氷のような風が、雪の渦を巻き上げる。

渦は上へ伸び、経帷子をまとった女の形になる。

こちらには、夫と、その妻の愛人が、身を寄せ合っている。

二人とも、それまでの生活を離れ、心の悲劇を忘れようと探検へ出たのだ。

モスクワとその近郊から出たことのない人が、これを描いたと、誰が信じるだろう?

彼は、身近な冬の自然を観察したことや、人の話、文学や科学の本、写真から知ったことを使って、この極地の風景を創った。

集めた材料すべてから、一枚の絵が生まれた。

この仕事で、主役を務めたのは想像力だ」

先生は、一連の風景画が掛かった、別の壁へ私たちを連れていった。

正確に言うと、同じ主題、どこかの別荘地を繰り返し描いたものだった。ただし、そのつど画家の想像によって、姿を変えていた。

松林の中に並ぶ、同じ美しい家々が、季節や時刻を変え、強い日差しの中や嵐の中に描かれている。

次には同じ場所で、森が切り開かれ、池が掘られ、さまざまな種類の木が新しく植えられている。

画家は、自然や人の暮らしを、自分なりに作り替えるのを楽しんでいた。

スケッチの中で、家や街を建てては壊し、土地を作り直し、山を削り取っていた。

「見て、何てきれいなんだ!

モスクワのクレムリンが海辺にある!」誰かが声を上げた。

「これも、画家の想像力が創ったものだ。

こちらは『惑星間の生活』を扱う、存在しない戯曲の装置案だ」先生は、別の素描と水彩画の一群へ私たちを案内した。

「ここには、惑星間を行き来する、何かの乗り物の駅が描かれている。

見えるかね。巨大な金属の箱に、大きなバルコニーがあり、美しく奇妙な生き物の姿がある。

これが駅だ。

空間に浮かんでいる。

窓には、人間が見える。地球から来た乗客たちだ……。

同じような駅が、果てしない空間を上へ下へと連なっている。巨大な磁石が互いに引き合う力で、釣り合いを保っているのだ。

地平には、太陽か月がいくつもある。

その光が、地球では見たこともない、不思議な効果を生んでいる。

こんな絵を描くには、ただの想像力ではなく、豊かな空想力が必要だ」

「その二つは、どう違うのですか?」誰かが尋ねた。

「想像力は、存在するもの、起こりうるもの、私たちが知っているものを創る。空想力は、存在しないもの、現実には知らないもの、一度もなく、これからもないものを創る。

いや、これからはあるかもしれない!

誰に分かるだろう?

人々の空想が、物語の空飛ぶ絨毯を生み出したとき、人間が飛行機で空を飛ぶようになるなど、誰が考えただろう。

空想力は何でも知り、何でもできる。

想像力と同じように、空想力も芸術家には必要だ」

「俳優には?」シューストフが尋ねた。

「では君は、何のために俳優に想像力が必要だと思う?」先生が問い返した。

「何のためって?

魔法の『もしも』や、『与えられた状況』を創るためです」とシューストフは答えた。

「それなら、私たちがしなくても、作者がもう創っている。

戯曲そのものが、作者の創作だ」

シューストフは黙った。

「俳優が戯曲について知るべきことを、劇作家はすべて与えてくれるだろうか?」先生は尋ねた。

「百ページで、すべての登場人物の生活を、余さず明らかにできるだろうか?

語られないことが、たくさん残ってはいないか?

たとえば作者は、戯曲が始まる前に何があったかを、いつも十分詳しく語っているだろうか?

終わった後に何が起きるか、舞台の外では何をしているか、人物はどこから来て、どこへ去るのかを、漏れなく語っているだろうか?

劇作家は、その種の説明には言葉を惜しむ。

ただ『前場の人物たちとペトロフ』とか、『ペトロフ退場』とだけ書いてある。

だが私たちは、どこかも分からない場所から来て、どこかも分からない場所へ去るわけにはいかない。その移動の目的を、考えなければならない。

そんな『何となく』の行動は、信じられない。

『立つ』『興奮して歩く』『笑う』『死ぬ』という、ほかのト書きも知っているね。

人物の説明も、『容姿のよい青年。煙草をよく吸う』といった、短いものだ。

それで、その人物の外見全体、身のこなし、歩き方、癖を創るのに十分だろうか?

台本や、役の言葉についてはどうだ?

ただ丸暗記して、そらで言えばよいのか?

作者のト書き、演出家の要求、決められた動きや上演全体については?

覚えておいて、舞台で形どおりに実行すれば、それで十分なのか?

それだけで人物の性格が描け、考え、感情、動機、行いの、あらゆる陰影が定まるだろうか?

いや、それらはすべて、俳優自身が補い、深めなければならない。

そうして初めて、作者や上演を創る人々から与えられたものが生き返り、舞台で創造する人と客席で見る人の、心のさまざまな部分を動かすのだ。

そうして初めて、俳優自身が、演じる人物の内面を豊かに生き、作者、演出家、そして自分自身の生きた感情に導かれて、行動できるようになる。

この仕事のすべてで、いちばん身近な助けとなるのが、魔法の『もしも』と『与えられた状況』を伴う想像力だ。

想像力は、作者や演出家たちが語り切らなかったことを補うだけではない。上演を創るすべての人の仕事に、命を与える。彼らの創造は、何よりも俳優の演技が実を結ぶことで、観客へ届くのだから。

俳優にとって、力強く鮮やかな想像力がどれほど大切か、分かっただろうか。『役を研究するときにも、演じるときにも、芸術的な仕事と舞台での生活の、あらゆる瞬間に必要なのだ』。

創造の過程では、想像力が先頭に立ち、俳優自身を導いていく」

授業は、今モスクワへ客演に来ている、名高い悲劇俳優U……の突然の訪問で中断された。

名優は自分の成功を話し、アルカージー・ニコラーエヴィチがロシア語に通訳した。

興味深い客を見送り、戻ってきた先生は、ほほえんで言った。

「もちろん、あの悲劇俳優は話を多少盛っている。だが見てのとおり、夢中になりやすい人で、自分の作る話を本気で信じているのだ。

私たち俳優は、舞台で、事実に自分の想像の細部を付け足すことに慣れすぎて、その癖を日常にも持ち込んでしまう。

日常では余計なことだが、劇場では必要だ。

聞く人が息をのむような話を作るのが、簡単だと思うかね?

それも、魔法の『もしも』『与えられた状況』、よく育った想像力が生む創造なのだ。

天才を、嘘をついているとは言えないかもしれない。

その人たちは、私たちとは別の目で現実を見ている。

私たち凡人とは違うように、人生が見える。

想像力がその目の前に、薔薇色、青、灰色、黒の眼鏡を差し出すからといって、責められるだろうか?

その人たちが眼鏡を外し、現実も芸術的な創作も、何の覆いもない目で、日常が与えるものしか見ず、冷静に眺めるようになったら、芸術にとってよいことだろうか?

打ち明けると、私も、俳優や演出家として、十分に心を引かれない役や戯曲を扱うときには、よく嘘をつく。

そういう場合、私はしおれ、創造力が動かなくなる。

刺激が要るのだ。

そこで、今の仕事や新しい戯曲に夢中だと、皆に言って回り、褒めたたえ始める。

そのためには、実際には作品にないことまで考え出さなければならない。

その必要が、想像力を後押しする。

一人なら、わざわざそうはしない。だが人前では、いやでも自分の嘘にできるだけ筋を通し、作品のよさを先取りして褒めることになる。

その後、その自分で作った想像を、役や演出の材料として使い、戯曲へ持ち込むこともよくある」

「想像力が俳優にとってそれほど大切なら、持っていない人はどうすればいいのですか?」シューストフがおずおずと尋ねた。

「育てるか、舞台を去るかだ。

そうしなければ、君に足りない想像力を、自分の想像力で置き換える演出家の手に委ねられてしまう。

それは、自分自身の創造を捨て、舞台上の駒になるということだ。

自分の想像力を育てたほうが、よくはないかね?」

「きっと、とても難しいのでしょうね!」私はため息をついた。

「どんな想像力かによる!

自発的に、自分から働く想像力がある。

それなら、大して苦労せずに育ち、目覚めているときも夢の中でも、粘り強く、休まず働き続けるだろう。

自分からは始められなくても、与えられたきっかけをたやすく捉え、その後は独りで発展させる想像力もある。

これも、比較的育てやすい。

捉えはしても、そこから発展させられないなら、仕事は難しくなる。

だが、自分で創れず、与えられたものも捉えられない人がいる。示されたものの外形だけを受け取るなら、それは想像力がないしるしだ。想像力なしには、俳優にはなれない」

自分から動くのか、動かないのか。

捉えて発展させられるのか、それとも捉えられないのか。

この問いが、私を落ち着かなくさせた。

夜のお茶の後、静かになると、自室に閉じこもり、ソファへ楽に座った。周りに枕を置き、目を閉じ、疲れを押して空想を始めた。

ところが、初めから気がそれた。閉じた目の前の暗闇に、光の輪やさまざまな色のきらめきが現れ、ゆっくり動いていたのだ。

電灯のせいだと思い、明かりを消した。

「何を思い描こうか?」私は考えた。

だが、想像力のほうは眠っていなかった。

広い松林の梢を描いてくれた。静かな風に、一定の調子で、滑らかに揺れている。

気持ちがよかった。

新鮮な空気の匂いがするようだった。

どこかから……静けさの中へ……時計の刻む音が忍び込んだ。

…………

私はうとうとした。

「そうか、当然だ!」はっとして思った。

「自発性もなく、空想してはいけないんだ。

飛行機で飛んでみよう!

森の梢の上を。

ほら、飛んでいる。木々の上を、野原、川、町、村の上を……梢の……上を……。

木々が、ゆっくり、ゆっくり揺れている……。

新鮮な空気と、松の匂いがする……。

時計が時を刻んでいる……。

…………

いびきをかいているのは誰だ?

まさか、私か?

眠っていたのか……。

どれくらい……」

食堂で掃除をしていた……家具を動かしていた……。

カーテン越しに、朝の光が差し込んでいた。

時計が八時を打った。

じはつ……せ……い……。

一九……年……月……日

家での空想が失敗したことに、私はひどく困惑していた。こらえ切れず、マロレトコワの居間をしつらえた場所で行われた今日の授業で、先生にすべて話した。

「うまくいかなかったのは、いくつか間違いをしたからだ」と先生は答えた。

「第一に、想像力を引きつける代わりに、無理やり動かそうとした。

第二に、『舵も帆もなく』、偶然に押されるまま、あてどなく空想していた。

何かをするためだけに行動してはいけない、つまり行動そのものを目的にしてはいけないのと同じように、空想するためだけに空想してもいけない。

君の想像力の働きには、創造に必要な意味や、興味を引く課題がなかった。

第三に、その空想には行動がなく、能動的ではなかった。

ところが俳優には、想像上の生活が能動的であることが、格別に大切なのだ。

想像力は俳優を動かし、まず内面の、次に外面の行動を呼び起こさなければならない」

「でも私は、頭の中で森の上をものすごい速さで飛んでいたのですから、行動していたはずです」

「同じくものすごい速さで走る急行列車に、君が横になっていたら、君は行動していることになるかね?」先生は尋ねた。

「働いているのは、機関車と機関士だ。乗客は受け身だ。

列車の中で、夢中になるような仕事の話や議論をしたり、報告書を作ったりしていたなら、別の話だ。その場合には、仕事や行動をしていると言える。

君の飛行機の旅も同じだ。

働いていたのは操縦士で、君は何もしていなかった。

自分で操縦したり、地上の写真を撮ったりしていたなら、能動的だと言えるだろう。

私たちに必要なのは、受け身ではなく、能動的な想像力だ」

「その能動性を、どう呼び起こせばいいのですか?」シューストフが尋ねた。

「六歳の姪が好きな遊びを紹介しよう。

『もしも遊び』と呼んでいて、こんなふうにする。『何をしているの?』と、その子が私に聞く。

『お茶を飲んでいる』と答える。

『それがお茶じゃなくて、ひまし油だったら、どうやって飲む?』。私は、あの薬の味を思い出さなければならない。

うまく思い出して顔をしかめると、子供は部屋じゅうに響く声で笑う。

それから、次の質問が来る。

『どこに座っているの?』『椅子だよ』と答える。

『熱いかまどの上だったら、どうする?』。今度は、想像の中で熱いかまどに座り、やけどをしないよう大騒ぎで逃げなければならない。

それがうまくいくと、少女は私が気の毒になる。

小さな手を振り、『もう遊びたくない!』と叫ぶ。そのまま続ければ、しまいには泣いてしまう。

君たちも練習として、積極的な行動を呼び起こす、そういう遊びを考えてごらん」

「それは、ずいぶん初歩的で、粗い方法に思えます」と私は言った。

「もっと繊細なものを見つけたいのですが」

「急がないことだ!

いずれできる。

今は、簡単で、いちばん初歩的な空想で十分だ。

急いで高いところへ飛んでいかず、ここ、地上で、実際に周りにあるものに囲まれて、私たちと一緒に暮らしてみなさい。

見たり触れたりできる家具や物を、仕事に参加させるのだ。

たとえば、暴れる男のエチュードを思い出してごらん。

あのときは、実際に私たちの周りにあった生活へ、想像の設定を持ち込んだ。

いた部屋も、扉をふさいだ家具も、物の世界はすべて、そのままだった。

加えたのは、実際にはいない、暴れる男の話だけだ。

あとは現実に足をつけていて、宙に浮いたエチュードではなかった。

同じようなことを、試してみよう。

今、私たちは教室で授業をしている。

これは現実だ。

部屋も、その中の物も、授業も、生徒たちも、教師も、すべて今のままにしておく。

その上で『もしも』によって、まだ存在しない想像上の生活へ移る。今は時刻だけを変えて、『今は午後三時ではなく、午前三時だ』と自分に言う。

なぜ授業がこれほど長引いたのか、想像で理由をつけてごらん。

難しくはない。

明日が試験で、まだできていないことがたくさんあるから、劇場に残ったのだとしよう。

そこから、新しい事情や心配が生まれる。電話がなく、遅くなると知らせられなかったので、家族は心配している。

ある生徒は招かれた集まりに行きそびれた。別の生徒は劇場から遠くに住んでいて、電車のない時刻にどう帰ればよいか分からない、といった具合だ。

持ち込んだ想像から、ほかにも多くの考えや感情、気分が生まれる。

それらが全体の状態に作用し、その後に起きることすべての調子を定める。

これが、体験へ向かう準備の一段階だ。

そうして想像によって、エチュードの土台となる、与えられた状況を創る。それを発展させ、『夜の授業』と名付けることもできるだろう。

もう一つ試そう。現実、つまりこの部屋と、今している授業へ、新しい『もしも』を入れる。

時刻は同じ午後三時のままだが、季節を変えよう。氷点下十五度の冬ではなく、空気のすがすがしい、暖かな春だ。

ほら、もう気分が変わった。授業の後に郊外へ散歩に行けると思うだけで、ほほえんでいる!

何をするか決め、そのすべてに想像で理由を与えれば、想像力を育てる新しい練習になる。

さらに別の『もしも』を与えよう。時刻も季節も、この部屋も学校も授業も、そのままだ。ただし全体をモスクワからクリミアへ移す。つまり、この部屋の外にある場所を変えるのだ。

ドミートロフカ通りのあるところが海になり、授業の後には泳げる。

では、どうして私たちは南の土地へ来たのか?

好きな想像を使って、与えられた状況を作り、理由をつけなさい。

たとえば、クリミアへ巡業に来ていても、いつもの養成所の授業は休まず続けているのかもしれない。

加えた『もしも』に沿って、想像上の生活の一つ一つに理由を与えれば、想像力を練習する手掛かりが、またいくつも生まれる。

さらに別の『もしも』を入れ、私も君たちも、一日中明るい季節の北極圏へ移そう。

こんな移動には、どう理由をつければよいか?

たとえば、映画の撮影に来たのだとしよう。

映画では、俳優に十分な生きた自然さと素直さが求められる。少しの嘘でも、画面を台無しにするからだ。

君たち全員が、作り芝居をせずに済ませられるわけではない。だから演出家の私は、授業も行う必要がある。

それぞれの想像を『もしも』によって受け入れ、信じたら、自分に問うのだ。『この条件なら、自分は何をするだろう?』。その問いを解こうとすることが、想像力を働かせる。

では次の練習では、『与えられた状況』をすべて想像で作ろう。

今、周りにある現実から残すのは、この部屋だけだ。それも、想像で大きく変えてしまう。

私たちは皆、学術探検隊の一員で、飛行機で遠くへ向かうとしよう。

人の通れない原野の上を飛んでいると、事故が起きる。エンジンが止まり、山間の谷へ降りなければならなくなる。

機体を修理しなければならない。

そのため、探検隊は長く足止めされる。

幸い食料の蓄えはあるが、あまり多くない。

狩りをして食べ物を手に入れる必要がある。

さらに、何らかの住まいを作り、食事を用意し、現地の人々や獣の襲撃に備えて、見張りも置かなければならない。

こうして、頭の中に、不安と危険に満ちた生活が組み上がる。

その一瞬一瞬に、必要で、目的にかなう行動が求められる。それを、想像の中で筋道立てて、順序よく定めていく。

その行動が必要だと、信じなければならない。

そうでなければ、空想は意味も魅力も失う。

ただし、俳優の創造は、内面で想像することだけではない。創造した想像を、外へ具現することでもある。

その想像を実際の行動にして、探検隊の生活の一場面を演じてごらん」

「どこで?

ここでですか?

マロレトコワの居間で?」私たちは戸惑った。

「ほかのどこでするのかね?

わざわざ専用の装置を注文するわけにはいかないだろう!

それに、こういうときのために、私たちには専属の美術家がいる。

どんな注文でも、一瞬で、無料でかなえてくれる。

居間も廊下も広間も、好きなものへ変えてしまうくらい、何でもない。

その美術家とは、自分たちの想像力だ。

注文してごらん。

この住まいが山間の谷で、机が大岩、笠の付いた電灯が熱帯の植物、ガラス飾りのシャンデリアが実のなった枝、暖炉が捨てられた鍛冶炉だったら。飛行機が降りた後、自分なら何をするか、考えるのだ」

「では、廊下は何になりますか?」ヴュンツォフが興味を示した。

「峡谷だ」

「おお……!」感情豊かな青年は喜んだ。

「食堂は?」

「昔、原始の人々が暮らしていたらしい洞窟だ」

「広間は?」

「遠くまで見渡せて、素晴らしい景色の広がる、開けた場所だ。

見てごらん。部屋の明るい壁で、空が広がっているように感じられる。

後で、そこから飛行機で飛び立てるだろう」

「客席は?」ヴュンツォフは止まらなかった。

「底の見えない深い谷だ。

そこからも、テラスのある海側からも、獣や土地の人々が襲ってくる心配はない。

だから見張りを置くのは、あちら、峡谷に見立てた廊下の入り口だ」

「では、居間そのものは何にするのですか?」

「飛行機の修理場にしよう」

「飛行機はどこですか?」

「ここだ」先生はソファを指した。

「座面が客席で、窓のカーテンが翼だ。

もっと広く広げて。

机がエンジンだ。

まず、エンジンを調べる必要がある。

かなり壊れている。

その間に、ほかの隊員は寝泊まりの支度をしよう。

ここに毛布がある」

「どこに?」

「テーブルクロスだ。

缶詰と、ワインの樽もある」先生は棚の厚い本と、大きな花瓶を指した。

「部屋をもっとよく見れば、新しい暮らしに必要な物が、たくさん見つかるだろう」

作業がにわかに始まり、居心地のよい居間で、山に足止めされた探検隊の厳しい生活が始まった。

私たちは、その生活の見当をつけ、適応していった。

物が本当に変わったと信じたわけではない。ただ、見なくてよいものが、目に入らなくなったのだ。

気にしている暇はなかった。

やるべきことに追われていた。

作り話が嘘であることは、自分たちの感情と身体の行動、そしてそれらを信じる気持ちの真実に、覆い隠された。

与えられた即興を、かなりうまく演じ終えると、先生は言った。

「このエチュードでは、想像の世界が現実へ、さらに深く入り込んだ。山中での事故という想像が、居間の中に収まったのだ。

想像力で物の世界を自分の内側から生まれ変わらせる、無数の方法のうちの一つだ。

物の世界を、退ける必要はない。

むしろ、想像で創る生活の中へ、取り込むべきなのだ。

内輪の稽古では、この過程をいつも使っている。

作者や演出家の思い描くものなら、家でも広場でも船でも森でも、私たちは曲げ木の椅子を並べて作る。

そのとき、椅子が本当に木や岩だと信じているわけではない。もし木や岩だったら、こう接するはずだという、代用品に対する自分の関わり方が本当だと信じるのだ」

一九……年……月……日

授業は、短い前置きから始まった。

先生はこう言った。

「これまでの想像力の練習は、多かれ少なかれ、周囲の物の世界――部屋、暖炉、扉――や、授業という現実の行動に、結び付いていた。

今度は、周囲の物の世界から離れ、想像の領域へ仕事を移そう。

そこでも同じように能動的に行動するが、頭の中だけで行う。

今いる場所や時刻を離れ、よく知っている別の環境へ移り、想像が教えてくれるとおりに行動してみよう。

どこへ移りたいか、決めてごらん」先生は私に言った。

「行動は、どこで、いつ起きる?」

「自分の部屋で、夜にします」と私は答えた。

「いいね」と先生はうなずいた。

「君はどうか分からないが、私なら、想像の中でその家にいると実感するために、まず階段を上がり、玄関の呼び鈴を鳴らす必要があるだろう。つまり、筋道の通った一連の行動を、順にたどるのだ。

押し下げる扉の取っ手を思い浮かべなさい。

どう回り、扉がどう開き、自分がどう部屋へ入るか、思い出すのだ。

目の前に何が見える?」

「正面に戸棚と洗面台が……」

「左には?」

「ソファと机が……」

「部屋を歩いて、そこで少し暮らしてごらん。

なぜ顔をしかめたのかね?」

「机の上に手紙を見つけました。まだ返事をしていなかったのを思い出して、恥ずかしくなったのです」

「よろしい。

今ならもう、『私は自分の部屋にいる』と言えそうだね」

「『私はいる』とは、どういうことですか?」生徒たちが尋ねた。

「私たちの言う『私はいる』とは、想像の状況の中心に自分を置き、その中にいると感じ、想像上の生活や物の世界のただ中に存在し、自分自身として、自分の責任と良心で行動し始めることだ。

では、何をしたいか、話してごらん」

「今、何時かによります」

「筋が通っている。

夜の十一時ということにしよう」

「家の中が静かになる時刻です」と私は言った。

「その静けさの中で、何をしたくなる?」先生は先を促した。

「自分が喜劇役ではなく、悲劇役の俳優だと確かめたいです」

「そんな実りのないことに時間を使いたいとは、残念だね。

どうやって自分を納得させる?」

「何か悲劇の役を、自分だけのために演じます」私は密かな夢を打ち明けた。

「何を演じる?

オセローかね?」

「いいえ、まさか。

自分の部屋では、もうオセローの稽古はできません。

どの隅を見ても、前に何度もしたことを、また繰り返したくなってしまいます」

「では、何を演じる?」

私自身、まだ決めていなかったので、答えられなかった。

「今は何をしている?」

「部屋を見回しています。

何かの品物から、面白い創造の主題を思いつけないかと……。

たとえば今、戸棚の後ろに、暗い隅があるのを思い出しました。

そこ自体が不気味なのではありませんが、夜の明かりでは、そう見えるのです。

衣服掛けの代わりに鉤が出ていて、まるで首を吊るのに使えと言っているようです。

もし本当に自殺したくなったら、今、自分はどうするだろう、と考えています」

「具体的には?」

「まず、紐か帯を探すでしょう。だから棚や引き出しの物を調べています……」

「見つかった?」

「はい……。

でも、鉤の位置が低すぎます。

足が床についてしまいます」

「それでは具合が悪い。

別の鉤を探してごらん」

「ほかにはありません」

「それなら、生きていたほうがよいのではないかね?」

「分かりません。混乱して、想像が続かなくなりました」と私は認めた。

「作った話そのものに、筋が通っていないからだ。

自然の中では、例外を除けば、すべてが順序と筋道を持っている。想像で作るものも、そうでなければならない。

何の論理的な前提もないまま、馬鹿げた結論へ向かう道を、想像力が進めなくなったとしても、不思議ではない。

それでも、今の自殺をめぐる空想の試みは、期待した役割を果たした。新しい想像の仕方を、目に見える形で示してくれたのだから。

この方法では、俳優は周囲の現実、今の場合はこの部屋から離れ、頭の中で想像の場所、つまり君の家へ移る。

その想像の環境は、日々の自分の暮らしから取っているので、何もかも知っている。

そのため、記憶を探るのが容易だった。

では、想像するときに、知らない生活を扱うなら、どうすればよいだろう?

そこから、また別の想像力の仕事が生まれる。

それを理解するために、もう一度、今の現実から離れなさい。自分にはなじみがなく、今ここにはないが、現実にはありうる状況へ、頭の中で移ってみよう。

たとえば、ここにいる誰も、世界一周旅行をしたことはないだろう。

だが、それは現実でも、想像でも可能だ。

その想像を、『適当に』『何となく』『大ざっぱに』してはいけない。芸術では、そのどれも許されない。大きな計画を成り立たせる、一つ一つの細部まで思い描くのだ。

旅では、さまざまな状況、なじみのない国や民族の暮らし、習慣に出会うことになる。

必要な材料がすべて、自分の記憶にあるとは思えない。

だから、本、絵、写真など、知識を与え、他人の経験を伝えてくれる資料から、材料を得なければならない。

その知識を使い、想像の中でどこを訪れ、季節はいつで何月なのか、どこを船で渡り、どの町に立ち寄るのかを、はっきりさせる。

各国や町の状況、習慣についても、そこで知ることができる。

頭の中に世界一周旅行を創るために、まだ足りない部分は、想像力に任せよう。

こうした大切な情報があれば、想像はしっかりした根拠を持つ。『何となく』の空想のように根拠を欠き、俳優を作り芝居や型芝居へ引き込むものにはならない。

この十分な準備が済めば、旅程を立て、出発できる。

ただ、いつも筋道と順序を忘れないことだ。

それによって、揺らぎやすく頼りない空想を、確かな現実へ近づけられる。

次の想像の仕方を考えるにあたり、想像力には、現実そのものより多くの可能性が、生まれつき備わっていることに目を向けよう。

想像力は、現実の生活ではできないことまで描ける。

空想の中なら、別の惑星へ行き、物語の美女をさらうことも、存在しない怪物と戦い、勝つことも、海の底へ降り、水の女王を妻に迎えることもできる。

それらを現実にやってみようとしてごらん。

そうした空想に必要な材料は、出来合いの形では、なかなか見つからない。

科学、文学、絵画、人の話が与えてくれるのは、不可能な世界への心の旅に向かう、手掛かり、刺激、出発点だけだ。

だから、そうした想像では、主な創造の仕事を、空想力が担うことになる。

その場合には、物語の世界を現実へ近づける手段が、なおさら必要だ。

すでに言ったように、この仕事でも、筋道と順序が大きな役割を担う。

それによって、不可能なものを、ありそうなものへ近づけられる。

だから、幻想的な物語を創るときも、筋道と一貫性を保ちなさい。

さて」と、しばらく考えてから先生は続けた。「もう行ったエチュードでも、組み合わせや変化を付けて使えることを説明しよう。

たとえば、こう考える。『アルカージー・ニコラーエヴィチとイヴァン・プラトーノヴィチに率いられた仲間たちが、クリミアや極北で、どんなふうに授業を受けているか、見てみよう。

飛行機での探検を、どう進めているか眺めてみよう』。

君は頭の中で少し離れ、仲間がクリミアの日差しに焼かれたり、北の寒さに震えたりするのを見る。山間の谷で壊れた飛行機を直し、獣の襲撃に備える様子を眺める。

その場合、君は想像力が描くものの、ただの見物人だ。その想像上の生活には、何の役割も持っていない。

だが、今度は自分も、その探検や、クリミア南岸へ移された授業に参加したくなったとしよう。

『そんな状況にいる自分は、どんな姿だろう?』と考え、また外から眺める。クリミアの授業や探検の中で、仲間たちと、その中にいる自分が見える。

それでもまだ、君は受け身の見物人だ。

やがて自分を眺めるのに飽き、行動したくなる。そのために、自分自身を想像の中へ移し、クリミアや北の国で勉強し、飛行機を直し、野営地の見張りを始める。

今度は想像の生活の中で行動する人物だから、自分自身の姿は見えない。周りのものが見え、その生活に本当に参加する者として、周囲の出来事すべてに、内側から応じる。

その能動的な想像の瞬間に、『私はいる』という状態が生まれるのだ」

一九……年……月……日

今日の授業の初め、先生はシューストフに尋ねた。「自分の内側に耳を澄ませて、話してごらん。前の授業のように、クリミアでの授業を考えるとき、君の中では何が起きる?」

「何が起きるか……」パーシャは考え込んだ。

「なぜか、小さな、あまり立派でないホテルの部屋が浮かびます。海に向かって窓が開いていて、狭い部屋に生徒がたくさんいて、誰かが想像力の練習をしています」

「ドィムコワ、君はどうだね。同じ仲間たちが、想像の中で遠い北の国へ移されたと考えると、何が起きる?」

「氷の山、たき火、テントが浮かびます。皆、毛皮の服を着ています……」

「つまり」と先生はまとめた。「私が想像の主題を示すと、君たちは、いわゆる内なる目で、それに応じた映像を見始める。

私たち俳優は、それを『内なる目の映像』と呼ぶ。

自分の感覚から言うなら、想像し、空想し、思い描くとは、何よりも、考えているものを内なる目で見つめ、見ることなのだ。

君の場合、自室の暗い隅で首を吊ろうと想像したとき、内面では何が起きた?」先生は私に尋ねた。

「よく知る部屋を思い浮かべると、一人のときにいつも心の中で考え続けている、なじみの疑いが湧いてきました。

心がうずくような寂しさを感じ、自分をさいなむ疑いから逃れたくて、辛抱できない弱さから、想像の中で自殺へ出口を求めました」と、私は少し動揺しながら説明した。

「つまり、内なる目で見慣れた環境を見て、その空気を感じると、そこに結び付いた、なじみの考えがすぐに生き返ったのだね。

考えから感情や体験が生まれ、続いて行動への内的な衝動が起きた」と先生は整理した。

次に全員へ尋ねた。「暴れる男のエチュードを思い出すと、内なる目に何が見える?」

「マロレトコワの家が見えます。若い人がたくさんいて、広間では踊り、食堂では夕食を取っています。

明るく、暖かく、楽しい!

その一方、階段の、玄関の外には、大きな、やつれた男がいます。ひげはぼさぼさで、病院の履物と上着を着て、寒さと空腹に苦しんでいます」とシューストフが言った。

「見えるのは、エチュードの始まりだけかね?」黙ったシューストフに、先生は尋ねた。

「いいえ、扉をふさぐために運んだ戸棚も浮かびます。

その人が抜け出した病院へ、頭の中で電話したことも覚えています」

「ほかには何が見える?」

「正直に言うと、それだけです」

「それではよくない。

そんな少ない、断片的な映像の材料では、エチュード全体をつなぐ、途切れない映像の流れを作れない。

どうすればよいだろう?」

「足りないところを考え、作り足す必要があります」とパーシャが提案した。

「そう、作り足すのだ!

作者や演出家、上演を創るほかの人々が、俳優の創造に必要なことをすべて語っていないときは、いつもそうする。

第一に、エチュードの生活を包む『与えられた状況』の、途切れない線が要る。第二に、繰り返すが、その状況に結び付いた映像が、途切れず続く必要がある。

要するに、ただの状況ではなく、映像を伴う『与えられた状況』が、連続していなければならない。

よく覚えておきなさい。舞台にいるあらゆる瞬間、戯曲とその行動が、外面でも内面でも進むあらゆる瞬間に、俳優は何かを見ていなければならない。自分の外の舞台上の出来事、つまり演出家や美術家たちが作る外側の状況か、あるいは自分の想像の中の出来事、つまり役の生活の状況を描く映像の、どちらかだ。

その一つ一つが、あるときは外に、あるときは内に現れ、途切れない果てしない映像の連なり、一種の映画フィルムになる。

創造が続く間、そのフィルムは止まらず流れ、内なる目のスクリーンへ、役の『与えられた状況』を映し出す。その中で、役を演じる俳優は、自分の責任と良心に従って舞台で生きるのだ。

映像は、君たちの中に、それにふさわしい気分を生む。

その気分が心へ働きかけ、ふさわしい体験を呼び起こす。

内面の映像のフィルムを見続けることは、一方で君たちを戯曲の生活の中にとどめ、他方で創造を、絶えず正しい方向へ導く。

ところで、この内面の映像についてだが。

自分の中でそれを感じる、と言うのは正しいだろうか?

私たちには、実際には存在せず、頭の中で思い描くだけのものを見る力がある。

この力は、簡単に確かめられる。

ここにシャンデリアがある。

私の外側にある。

物の世界に、現に存在している。

私はそれを見て、いわば『目の触手』を伸ばしているように感じる。

次に目をそらして閉じ、頭の中で、記憶を頼りに、もう一度見ようとする。

そのためには、いわば『目の触手』を自分の中へ引き戻し、それから内側から、現物ではなく、想像上の何かのスクリーンへ向ける必要がある。私たちの言う『内なる目のスクリーン』だ。

そのスクリーンは、どこにあるのだろう。正確には、私はそれをどこに感じるのだろう。自分の中か、外か?

私の感覚では、外にある。目の前の、何もない空間のどこかに。

フィルム自体は、自分の中を通っているようだが、映ったものは外に見える。

十分に理解してもらえるよう、同じことを別の形、別の言葉で説明しよう。

映像は、私たちの内面、想像や記憶の中に生まれる。その後、見られるように、頭の中で自分の外へ移されるようなものだ。

だが、その想像上の対象を見るのは、内側からであり、いわば外の目ではなく、内なる目、内なる視覚で見る。

耳でも同じことが起きる。想像の音は、外の耳ではなく、内なる聴覚で聞く。けれど音の発生源は、多くの場合、自分の中ではなく、外に感じる。

逆から言えば、想像の対象や像は、自分の外にあるように見えても、まず自分の中の、想像と記憶から生まれているのだ。

例で確かめよう。

ナズワーノフ君」と、先生は私に声を掛けた。

「あの町での、私の講演を覚えているかね?

二人で座った演壇が、今見えるだろうか?

その映像を今、自分の中に感じるか、それとも外に感じるか?」

「外です。あのとき現実に見たのと同じように」と、私はすぐ答えた。

「では、その想像の演壇を、今は内側の目と外側の目の、どちらで見ている?」

「内側の目です」

「『内なる視覚』という言葉は、このように条件を付け、説明して初めて使えるのだ」

「長い戯曲の、あらゆる瞬間の映像を作るなんて。

恐ろしく複雑で、難しいことです!」私は怖じ気づいた。

「『複雑で難しい』だって?

そう言った罰として、覚えている最初の時から、今までの人生を全部話してごらん」先生は、思いがけないことを言った。

私は話し始めた。

「父はよく言っていました。『子供時代は十年をひとまとめに、青春は一年ずつ、壮年期は月ごとに、老年期は週ごとに思い出すものだ』と。

私も、自分の過去をそんなふうに感じます。

心に残ったことの多くは、細部まではっきり見えます。たとえば、人生の記憶のいちばん初めにある、庭のぶらんこ。

私はそれが怖かった。

子供部屋、母の部屋、乳母の部屋、庭、通りでのいろいろな出来事も、同じようにはっきり見えます。

次の時期、少年時代は、入学と重なっているので、とりわけ鮮やかに残っています。

そこから先の映像は、一つ一つがもっと短く、その代わり数が多くなります。

そうして大きな区切りと個々の出来事が、今から過去へと、長く長く連なっていくのです」

「それが見えるのだね?」

「何が、ですか?」

「君の過去全体を貫く、人生の区切りと出来事からなる連なりだ」

「ところどころ途切れますが、見えます」と私は認めた。

「聞いたかね!」先生は、してやったりという顔で叫んだ。

「ナズワーノフは、数分で自分の一生のフィルムを作った。それなのに、舞台で役を演じるのに必要な、たった三時間ほどの生活では、同じことができないと言うのだ」

「でも、一生全部を思い出したわけではありません。

いくつかの瞬間だけです!」

「君は一生を生きてきて、そこから最も大切な瞬間の記憶が残った。

役の一生も生きてみればよい。そこからも、最も大切な節目となる瞬間を残すのだ。

なぜ、それをそんなに難しいと思うのかね?」

「本当の生活では、映像のフィルムが自然にできます。でも役の想像上の生活では、俳優自身が作らなければならないからです。それが難しく、複雑なのです」

「実際には、それほど複雑でないことが、じきに自分で分かるだろう。

内なる目の映像ではなく、自分の心の感情や体験で、途切れない線を作れと言ったら、それは『複雑』『難しい』どころか、不可能だろうがね」

「なぜですか?」生徒たちは分からなかった。

「感情や体験は、捉えがたく、気まぐれで、変わりやすい。定着させること、私たち俳優の言う『固定』ができないからだ。

視覚のほうが、扱いやすい。

その像は、視覚の記憶に、もっと容易に、しっかり刻まれ、再び思い浮かべられる。

それに、想像の映像は、幻のようでも、感情記憶がおぼろげに教えてくれるものより、現実的で、手応えがあり、空想についてこう言ってよければ、より『物質的』なのだ。

だから、捉えやすく扱いやすい視覚の像を使い、捉えにくく不安定な心の感情を、よみがえらせ、支えてもらおう。

映像のフィルムに、戯曲と通じ合う気分を、絶えず支えてもらおう。

その気分が私たちを包み、ふさわしい体験、衝動、欲求、そして行動そのものを呼び起こすようにする。

どの役でも、ただの状況ではなく、映像を伴う『与えられた状況』が要るのは、そのためだ」と先生は結んだ。

「つまり」と、私は最後まで確かめたくなった。「オセローの生活のあらゆる瞬間を、映像のフィルムとして自分の中に作り、それを内なる目のスクリーンに映せば……」

先生が引き取った。「そして、その映像が、戯曲の『与えられた状況』と魔法の『もしも』を正しく映し、役と同様の気分や感情を君の中に呼び起こすなら、そのフィルムを内面で見るたびに、映像に感化され、オセローの感情を正しく体験することになるだろう」

「出来上がったフィルムを映すのは、難しくありません。

問題は、どう作るかなんです!」私は引き下がらなかった。

「それは次回だ」先生は言い、立ち上がって教室を出ていった。

一九……年……月……日

「想像して、フィルムを作ってみよう!」先生が提案した。

「何を想像するのですか?」生徒たちが尋ねた。

「あえて、動きのない主題を選ぶ。行動的な主題なら、想像による準備がなくても、それ自体が活動を引き起こすからだ。

逆に、行動の少ない主題には、想像力による十分な準備が要る。

今、私が注目しているのは、活動そのものではなく、その準備だ。

だから、最も動きのない主題として、大地に深く根を下ろした木の生活を、生きてみてもらおう」

「いいですね!

私は木、樹齢百年のオークです!」シューストフが決めた。

「でも、そうは言っても、自分が木になれるとは信じられません」

「それなら、こう考えればよい。私は私だ。しかし、もし自分がオークで、周囲と内側に、このような状況が生まれたら、どうするだろう?」先生が助けた。

「でも、動けず、同じ場所にじっと立ったままで、どう行動できるのですか?」シューストフは疑った。

「確かに、別の場所へ移ったり、歩いたりはできない。

だが、それ以外の行動もある。

それを引き出すために、まず、どこにいるかを決めなさい。

森の中か、草原か、山の頂か?

いちばん心を動かされるものを選ぶのだ」

シューストフは、アルプスの近くのどこか、山の開けた草地に生えるオークを思い描いた。

左手の遠くには、城がそびえている。

周囲には、見渡す限りの広がりがある。

遠くには雪の山並みが銀色に輝き、手前には丘がどこまでも連なる。上から見ると、石になった海の波のようだ。

あちこちに、小さな村が散らばっている。

「今度は、近くに何が見えるか、話してごらん」

「自分の上に、葉の茂った大きな冠が見えます。枝が揺れると、ざわざわと大きな音を立てます」

「それはそうだ!

その高い場所では、よく強い風が吹くだろうからね」

「枝には、何かの鳥の巣が見えます」

「一人ぼっちの君には、よいことだね」

「いいえ、あまりよくありません。

その鳥たちとは、うまく暮らせないのです。

羽をばたつかせ、幹で嘴を研ぎ、ときには騒いだり、喧嘩したりします。

いらいらします……。

隣には小川が流れています。いちばんの友達で、話し相手です。

干ばつから私を救ってくれます」シューストフは空想を続けた。

先生は、この想像上の生活の、あらゆる細部を描き足させた。

次に先生はプーシチンへ向かった。彼は想像力を大きく働かせようとせず、記憶にすぐよみがえる、ありふれた、よく知るものを選んでいた。

想像力が、あまり育っていないのだ。

ペトロフスキー公園の、庭付きの別荘を思い描いていた。

「何が見える?」先生は尋ねた。

「ペトロフスキー公園です」

「公園全体は、一度には捉えられない。

別荘のある場所を、どこか具体的に決めなさい……。

さあ、目の前に何が見える?」

「格子のある柵です」

「どんな柵?」

プーシチンは黙った。

「何で作られている?」

「何で……。

鉄を曲げて作ったものです」

「どんな模様かね?

描いてみなさい」

プーシチンは、長いこと机の上に指を走らせた。今話していたものを、このとき初めて考えているのが分かった。

「分からないな。

もっとはっきり描いて」先生は、視覚の記憶を最後まで引き出そうとした。

「まあ、よい……。

それが見えているとしよう……。

今度は、柵の向こうに何がある?」

「車の通る道です」

「誰が歩き、何が通る?」

「別荘に来ている人たちです」

「ほかには?」

「辻馬車です」

「ほかには?」

「荷馬車です」

「ほかに、街道を通るのは?」

「馬に乗った人です」

「自転車もあるのでは?」

「そう、それです!

自転車、自動車……」

プーシチンが、自分の想像力を働かせようとさえしていないのは明らかだった。

教師が生徒の代わりに考えるなら、そんな受け身の想像に、どんな意味があるのだろう。

私は、その疑問を先生へ伝えた。

「私の、想像力を動かす方法には、注目すべき点がいくつかある」と先生は答えた。

「生徒の想像力が止まっているとき、私は簡単な質問をする。

話しかけられれば、答えないわけにはいかない。

生徒は答える。ときには、面倒を避けようと、当てずっぽうにね。

私は、その答えを受け入れず、成り立っていないことを示す。

もっと納得できる答えを出すには、生徒は想像力をすぐに動かして、問われたものを内なる目で見るか、あるいは知性を使い、筋道立てて考えながら問いへ近づく必要がある。

想像力の仕事は、そうした意識的な思考によって準備され、導かれることが、とても多い。

そして、ついに記憶や想像の中で何かが見え、具体的な像が現れる。

短い想像の瞬間が生まれたわけだ。

そこで、新しい質問を使って、同じ過程を繰り返す。

二つ目の、像の見える短い瞬間が生まれ、それから三つ目が生まれる。

こうして想像を支え、長く続かせ、生きた瞬間を次々と呼び起こす。それらが集まって、想像上の生活の絵になるのだ。

今はまだ、面白くなくてもよい。

生徒自身の内面の映像で織り上げられているだけでも、前進だ。

一度想像力を目覚めさせれば、同じものを二度、三度、何度でも見られる。

繰り返すほど、その絵は記憶へ深く刻まれ、生徒になじんでいく。

しかし、いちばん簡単な質問にさえ、いつも応じるとは限らない、怠けた想像力もある。

そのとき教師は、質問をして、自分で答えを示すしかない。

その答えに生徒が納得すれば、他人の像を受け入れながら、自分なりに何かを見始める。

納得しなければ、示されたものを自分の好みに合わせて直す。それもまた、内なる目で見つめ、見ることを促す。

結果として、そこでも一部は本人の材料から織られた、想像上の生活らしきものが生まれる……。

その結果に、あまり満足していないようだね。

それでも、苦労してひねり出した想像には、何か得るものがある」

「具体的には、何ですか?」

「少なくとも、それまでは、創ろうとする生活の像が、まるでなかった。

ぼんやりした、曖昧なものがあるだけだった。

この仕事をすると、何か生きたものが見え始め、定まってくる。

教師や演出家が新しい種をまける、土壌ができるのだ。

絵を描くための、目に見えない下塗りだ。

それに、私のやり方では、生徒自身が、想像力を刺激する方法を教師から学び取る。自分の頭が考え出す質問で、想像力を目覚めさせることを学ぶのだ。

想像力の受け身な、鈍い働きと、意識して闘う習慣ができる。

それだけでも、大きな成果だ」

一九……年……月……日

今日も先生は、想像力を育てる練習を続けた。

「前の授業では」とシューストフに言った。「想像の中で君は何者で、どこにいて、周りに何が見えるかを話してくれた……。

今度は老いたオークとして生きる想像の中で、内なる耳に何が聞こえるか、教えてごらん」

初め、シューストフには何も聞こえなかった。

先生は、枝に巣をかけた鳥たちの騒ぎを思い出させ、付け加えた。

「では周りの、山の草地では、何が聞こえる?」

今度は、羊の鳴き声、牛の声、鈴の音、羊飼いの角笛、つらい畑仕事の合間にオークの下で休む女たちの話し声が、シューストフに聞こえた。

「では、その想像の中で見聞きすることは、いつ起きているのかね?

歴史上のどの時代だ?

何世紀だろう?」

シューストフは封建時代を選んだ。

「よろしい。

それなら、老いたオークとして、ほかにもその時代らしい音が聞こえないかね?」

しばらくして、シューストフは言った。近くの城の祝宴へ向かう、旅の歌い手、ミンネゼンガーの歌が聞こえる。オークの下、小川のそばで休み、顔を洗い、晴れ着に替えて、歌う準備をしているのだ。

そこで竪琴の調子を合わせ、春や愛、恋の切なさを歌う新しい歌を、最後にさらっている。

夜になると、オークは、廷臣が人妻に愛を告げる言葉や、長い口づけを聞く。

やがて、恋敵である二人の宿敵が激しくののしり合う声、武器のぶつかる音、傷を負った者の最後の叫びが響く。

明け方には、死体を探す人々の不安な声が聞こえる。見つけると、どよめきや、ひときわ鋭い叫びが空気を満たす。死体が持ち上げられ、運ぶ人たちの、重く一定の足音がする。

一息つく間もなく、先生はシューストフに新しい質問をした。

「なぜ?」

「何が、なぜですか?」私たちは戸惑った。

「なぜシューストフはオークなのか?

なぜ中世の山に生えているのか?」

先生は、この問いをとても大切にしている。

答えていけば、すでに想像の中に出来た生活の、その過去を引き出せるからだという。

「なぜ、この草地に一本だけ生えている?」

シューストフは、老いたオークの過去について、次のような仮定を考えた。

昔、この高地はすべて深い森に覆われていた。

しかし、谷の向こうに見える城の主である男爵は、好戦的な隣の領主の襲撃を、いつも警戒しなければならなかった。

森は軍勢の動きを隠し、敵が待ち伏せる場所にもなった。

そこで、切り払われた。

大きなオークだけが残されたのは、その木陰のすぐそばから、泉が湧いていたからだ。

泉が枯れれば、男爵の家畜に水を飲ませる小川も、なくなってしまう。

先生は、次に「何のために」と尋ね、私たちはまた答えに詰まった。

「木の話だから、困るのも分かる。

だが一般に、『何のために?』は、とても大切な問いだ。求めている目標を明らかにしてくれる。その目標が未来を示し、活動や行動を促す。

もちろん木は、自分で目標を立てられない。だが、何らかの役割を持ち、活動に似たものを行い、何かの役に立つことはできる」

シューストフは、こう答えを考えた。オークは、その一帯で最も高くそびえている。

だから、敵である隣の領地を監視する、格好の見張り台になる。

その点で、この木には、過去に大きな功績がある。

城や近くの村の人々から、特別に敬われているのも不思議ではない。

毎年春には、オークをたたえる、特別な祭りが開かれる。

男爵自身も現れ、大きな杯のワインを飲み干す。

オークは花で飾られ、人々は歌い、その周りで踊る。

「さて」と先生は言った。「与えられた状況の輪郭ができ、想像の中で少しずつ生き始めた。最初と今を比べてみよう。

初めに、山の草地にいることしか分かっていなかったとき、内面の像は漠然として、現像前の写真のように曇っていた。

今は、ここまでの仕事で、ずいぶんはっきりした。

いつ、どこに、なぜ、何のためにいるのか、分かるようになった。

これまで知らなかった新しい生活の、輪郭が見えている。

足元に、地面の手応えが生まれた。

頭の中で、生き始めたのだ。

だが、それだけでは足りない。

舞台には行動が要る。

課題を設け、それに向かう欲求によって、行動を引き出す必要がある。

そのためには、魔法の『もしも』を伴う新しい『与えられた状況』、心を動かす新しい想像が要る」

だが、シューストフは見つけられなかった。

「自分に尋ね、正直に答えてごらん。どんな出来事、どんな想像上の災難なら、無関心でいられなくなり、心が揺れ、怖くなり、うれしくなるだろう?

山の草地にいると感じ、『私はいる』という状態を作ってから、答えるのだ」と先生は助言した。

シューストフは言われたとおりにしようとしたが、何も思いつかなかった。

「それなら、回り道をして課題に近づいてみよう。

まず答えてほしい。日常で、君は何にいちばん敏感かね?

何に心が動き、怖くなり、うれしくなることが多い?

今は、想像の主題とは切り離して尋ねている。

君に自然に備わる傾向が分かれば、すでに作った想像を、そこへ結び付けるのは難しくない。

君の性質をよく表す、自然な特徴、性格、関心を、一つ挙げてごらん」

「あらゆる闘いに、強く心を動かされます。

こんなおとなしそうな見かけと合わなくて、意外ですか?」少し考えて、シューストフは言った。

「そうか!

では、敵の襲撃だ!

敵対する公爵の軍が、君の領主の土地へ向かい、君の立つ山をもう登ってきている。

槍が日に光り、投石機や破城槌が進んでくる。

敵は、君の梢へ見張りがよく登って、自分たちを監視していると知っている。

君は切り倒され、焼かれるぞ!」先生は脅かした。

「そうはさせません!」シューストフが、すばやく応じた。

「味方は、私を渡しません。

私は必要なのです。

こちらも油断していません。

兵はもうここへ駆けてきて、騎兵も馬を走らせています。

見張りたちが、次々と伝令を送っています……」

「まもなく、ここが戦場になる。

君と見張りたちへ、弩から無数の矢が飛んでくる。中には、燃える繊維を巻き、樹脂を塗った矢もある……。

持ちこたえなさい。そして手遅れになる前に考えるんだ。この条件が本当なら、自分はどうする?」

先生の差し出した「もしも」から抜け道を探して、シューストフが内面でもがいているのが分かった。

「地面に根を張り、動けない木に、自分を救うために何ができますか?」逃げ場がないことにいらだち、彼は叫んだ。

「その心の動きだけで、十分だ」先生はよしとした。

「この課題は解けない。行動のない主題を想像するように言われたのだから、仕方がない」

「では、なぜそんな主題にしたのですか?」私たちは戸惑った。

「動きのない主題でも、想像が内面を切り替え、心を揺らし、行動への生きた衝動を呼び起こせると、分かってほしかったからだ。

だが、これまでの想像の練習の何よりの目的は、役の材料と内面の映像、そのフィルムがどう作られるか、そしてその仕事が、君たちの考えたほど難しく複雑ではないことを、示すことだった」

一九……年……月……日

今日の授業で先生は、俳優に想像力が必要なのは、新しく創るためだけでなく、すでに創り、繰り返して擦り切れたものを、新しくするためでもあると説明した。

新しい想像や、一部の細部を加えることで、それを生き返らせるのだ。

「実際の例のほうが、よく分かるだろう。

君たちが完成させる前に、もう擦り切れさせてしまったエチュードを取ってみよう。

あの暴れる男のエチュードだ。

新しい想像で、全体でも一部でも、新鮮にしてごらん」

だが、誰も新しいことを思いつかなかった。

「では聞くが」と先生は言った。「扉の外の人が、激しく暴れる精神の病人だと、どこで知ったのかね?

マロレトコワが言ったのか?

そう、彼女は階段へ通じる扉を開け、この家の前の住人を見た。

その人が激しく取り乱し、精神科の病院へ連れていかれたと、聞いていた……。

だが、君たちが扉をふさいでいる間、ゴヴォルコフは電話へ走り、病院に問い合わせた。すると、聞いていたような病気ではなく、ひどい飲酒によるせん妄の発作だったという返事があった。

今では回復して退院し、家へ戻ってきただけなのだ。

もっとも、その知らせが正しいとは限らないし、医者が間違えているかもしれない。

もし現実にこうなったら、君たちはどうする?」

「マロレトコワが出て、何しに来たのか聞くべきです」とヴェセロフスキーが言った。

「怖い!

お願い、皆さん、無理、無理です!

怖い、怖い!」マロレトコワは、おびえた顔で叫んだ。

「プーシチンが一緒に行く。

彼は頑丈な男だ」先生は励ました。

そして全員に号令をかけた。「一、二、三、始め!

新しい状況に狙いを定め、自分の内から起こる衝動を聞き取り、行動するのだ」

私たちは高揚し、本当に心を動かされながら演じた。先生も、その場にいたラフマーノフも、褒めてくれた。

想像の新しい変化が、私たちを生き返らせた。

授業の最後に、先生は創造的な想像力を育てる仕事をまとめた。

ここまでの各段階を振り返り、こう結んだ。

「想像で作るものには、必ず確かな理由を与え、しっかり定めなければならない。

誰が、いつ、どこで、なぜ、何のために、どのように。想像力を動かすためのこの問いが、どれほど幻のような生活でも、少しずつ具体的な絵にしてくれる。

もちろん、意識的な思考や、問いによる導きがなくても、直感で自然に絵が出来ることはある。

だが君たちも、想像の主題をはっきり与えられた場合でさえ、放っておけば想像力が働くと、当てにはできないことを確かめたはずだ。

明確で確かな主題もなく、『何となく』空想しても、実りはない。

一方、理性を手掛かりに想像を作ると、問いに答えるうちに、頭の中に、その生活の淡い像が浮かぶことが多い。

しかし舞台の創造には、それだけでは足りない。想像に触れて、俳優という人間の自然な生命が沸き立ち、その全存在が、心だけでなく体でも役へ身を委ねる必要がある。

では、どうすればよいか。

もうよく知っている問いを、改めて立てなさい。『もし、自分の作った想像が現実になったら、私はどうするだろう?』俳優としての性質から、この問いには行動で答えたくなることを、君たちはもう経験で知っている。

その行動が、今度は想像力を刺激し、後押しする。

まだ実際の動きにならず、しばらくは、果たされない衝動にとどまっていてもよい。

大切なのは、その衝動が起こり、心だけでなく体でも感じられることだ。

その感覚が、想像を確かなものにする。

形も実体もない想像が、実体のある肉体、私たちの体に、本当の行動を反射的に起こさせる力を持つことを、理解しなければならない。

この力は、私たちの心理技法で大きな役割を果たす。

今から言うことを、よく聞いてほしい。舞台上の一つ一つの動き、一つ一つの言葉は、想像の中で正しく生きた結果でなければならない。

自分が誰で、どこから来て、何のためにいて、何を求め、ここからどこへ行き、そこで何をするかも知らずに、機械的に何かを言い、何かをしたなら、想像力なしに行動したことになる。

その舞台上の時間は、短くても長くても、君にとって真実ではなかった。ぜんまい仕掛けの機械、自動人形のように動いていたのだ。

たとえば今、『今日は寒いかね?』という簡単なことを聞かれたとしよう。『寒い』『暖かい』『気づかなかった』と答える前に、頭の中で通りへ戻り、歩いたり乗り物に乗ったりしたときのことを思い出し、感覚を確かめるだろう。すれ違う人が身を包み、襟を立てていたこと、足元で雪が鳴ったことを思い出して、初めて、その一語を口にする。

そうした映像は一瞬でよぎり、外から見れば、ほとんど考えずに答えたように見えるかもしれない。だが映像も、感覚も、その確認もあった。想像力の複雑な仕事を経て、答えたのだ。

だから、どんなエチュードも、舞台の一歩も、内面の理由なしに、つまり想像力を働かせずに、機械的にしてはいけない。

この原則を厳しく守れば、どの課程の練習であれ、すべてが想像力を育て、強めることになる。

逆に、心が冷めたまますることは、君を損なう。想像力なしに、自動的、機械的に動く習慣を植え付けるからだ。

役を創り、劇作家の言葉の作品を舞台上の真実へ変える仕事には、初めから終わりまで、想像力が参加している。

内面を温め、心を揺さぶるのは、自分を捉えた想像でなくて、何だろう!

要求されるすべてに応えるには、想像力は身軽で、能動的で、よく反応し、十分に育っていなければならない。

だから、想像力を育てることには、格別の注意を払いなさい。

あらゆる方法で育てるのだ。学んできた練習で、想像力そのものに取り組む。そして舞台では何一つ機械的、形式的にしないことを習慣にして、間接的にも育てなさい」

第5章 舞台上の注意

一九……年……月……日

授業は「マロレトコワの家」で行われた。つまり、幕を閉め、装置を立てた舞台の上だ。

暴れる男と、暖炉をたくエチュードを続けた。

先生の助言のおかげで、うまく演じられた。

あまりに気持ちよく、楽しかったので、二つとも最初からもう一度やらせてほしいと頼んだ。

待っている間、私は壁際に座って休んだ。

そこで思いがけないことが起きた。そばにあった椅子が二つ、何の理由もないように、倒れたのだ。

誰も触っていないのに、倒れた。

私は椅子を起こし、さらに大きく傾いた別の二脚を、倒れる前に支えた。

そのとき、壁の細長い隙間が目に入った。

それは広がり、ついには目の前で、壁の高さ全部に及んだ。

なぜ椅子が倒れたか分かった。部屋の壁に見立てた布が左右へ動き、裾で物を引きずり、倒していたのだ。

誰かが幕を開けている。

現れたのは、あの舞台の枠の向こうの黒い穴だった。薄暗がりに、トルツォフ先生とラフマーノフ先生の姿が浮かんでいた。

幕が開くのと同時に、自分の中で変化が起きた。

何にたとえればよいだろう。

もし私に妻がいたとして、二人でホテルの部屋にいるところを想像してほしい。

打ち解けて話し、寝るために服を脱ぎ、気兼ねなく過ごしている。

すると突然、気に留めていなかった大きな扉が開き、暗闇から、知らない隣室の人たちが、こちらを見ている。

何人いるか分からない。

暗闇の中では、いつでも大勢いるように感じる。

慌てて服を着て、髪を整え、よその家にいるように、控えめに振る舞おうとする。

それと同じことが私に起きた。調弦の糸巻きが一度に締まり、弦が張ったようだった。さっきまで家にいたはずが、シャツ一枚で人前へ出てしまった気分になった。

あの黒い開口部が、どれほど親密さを壊すことか。

心地よい居間にいた間は、こちらが正面で、あちらは違う、という意識がなかった。

どう立っても、どこを向いても、問題なかった。

第四の壁が開くと、黒い開口部のほうが正面になり、それに合わせるようになる。

人に見られるその第四の壁を、絶えず考え、意識しなければならなくなる。

舞台で話しかける相手に都合がよいか、自分が話しやすいかは、どうでもよくなる。同じ部屋にはいないが、フットライトの向こうの暗闇に、姿を見せず座っている人たちに、見え、聞こえることが大切になってしまう。

さっきまで居間にいて、親しく、気さくに感じた二人の先生も、舞台の向こうの暗闇へ移ると、厳しく、要求の多い、別人のように見えた。

エチュードをしていた仲間たちにも、私と同じ変化が起きた。

ただゴヴォルコフだけは、幕が開いていても閉まっていても、同じだった。

言うまでもなく、私たちの演技は人に見せるためのものになり、うまくいかなかった。

「駄目だ。あの舞台の向こうの黒い穴を気にせずにいられるようにならなければ、俳優の仕事で、一歩も進めない!」私は心の中で決めた。

シューストフとも、その話をした。

だが彼は、先生の心を奮い立たせる説明付きで、まったく新しいエチュードをもらえれば、客席から気をそらせるのではないかと考えていた。

彼の考えを先生に伝えると、先生は言った。

「よろしい、試してみよう。

引き込まれるような悲劇を用意しよう。これなら観客を忘れられると思う。

舞台は、同じマロレトコワの家だ。

彼女はナズワーノフと結婚している。彼は、ある団体の会計係に選ばれた。

二人には、愛らしい、生まれたばかりの子供がいる。

母親は、子供を湯に入れに行く。

夫は書類を整理し、金を数えている。大事なのは、それが団体の書類と金だということだ。

時刻が遅くなり、勤め先へ納められなかった。

机には、使い古され、手垢で汚れた紙幣の束が、山になっている。

ナズワーノフの前には、マロレトコワの弟が立っている。背中が曲がり、知的な障害があって、物事を十分に理解できない。

ナズワーノフが札束の色付きの帯を破り、暖炉へ投げ入れるのを見ている。紙の帯は、明るく楽しげに燃える。

弟は、そのぱっと上がる炎が、すっかり気に入る。

金を数え終わった。

一万を超えている。

夫の仕事が終わったので、マロレトコワは、隣の部屋のたらいで湯を使わせている赤ん坊を、見に来てほしいと呼ぶ。

ナズワーノフが行くと、弟は彼をまねて、紙を火へ投げ入れる。

色付きの帯がないので、金を投げ込む。

すると、色紙よりも、もっと楽しげに燃えるではないか。

弟はその遊びに夢中になり、金を全部、団体の資金を残らず、帳簿や証拠の書類と一緒に火へ投げ込んでしまう。

最後の札束に炎が上がったところへ、ナズワーノフが戻ってくる。

事情を悟ると、我を忘れて弟に飛びかかり、力いっぱい突き飛ばす。

弟は暖炉の柵にこめかみを打ち、倒れる。

取り乱したナズワーノフは、すでに焦げた最後の札束をつかみ出し、絶望の叫びを上げる。

妻が駆け込んできて、暖炉のそばに倒れた弟を見る。

そばへ寄り、起こそうとするが、起こせない。

顔の血に気づいたマロレトコワは、夫に水を持ってきてと叫ぶ。だが、ナズワーノフには何も分からない。

呆然としている。

そこで妻が自分で水を取りに走り、すぐ食堂から叫び声が聞こえる。

生きる喜びだった愛らしい赤ん坊が、たらいで溺れて死んでいた。

この悲劇でも客席の黒い穴を忘れられないなら、君たちは石の心を持っていることになる」

新しいエチュードの劇的な展開と意外性に、私たちは心を揺さぶられた……。ところが、どうやら心は石だったらしく、演じられなかった!

先生は、いつものように「もしも」と「与えられた状況」から始めるように言った。

私たちは互いに何か話し始めた。だが、自由に想像力を働かせるのではなく、無理にひねり出して話を作っていた。そんな想像では、創造を呼び起こせるはずもなかった。

客席の引力のほうが、舞台上の悲劇の恐ろしさより強かった。

「それなら」と先生は決めた。「もう一度客席から隔てて、幕を閉めて、この『恐ろしい出来事』を演じよう」

幕が閉まると、居間はまた居心地のよい部屋になった。

先生とラフマーノフも客席から戻り、再び親しく、好意的になった。

私たちは演じ始めた。

静かな部分はうまくいったが、悲劇に入ると、自分の演技に満足できなくなった。もっと表したかったのに、感情も、内から湧く力も足りなかった。

気づかぬうちに道を外れ、俳優として自分を見せるほうへ進んでいた。

先生の感想も、私の感覚を裏付けた。

こう言った。

「エチュードの初めは正しく行動していたが、終わりには、行動するふりになっていた。

実際には、感情を無理に絞り出していたのだ。ハムレットの言葉で言えば、『情念をずたずたに引き裂いて』いた。

だから、黒い穴を責めても仕方がない。

舞台で正しく生きる邪魔をしているのは、それだけではない。幕を閉めても、結果は同じだったからね」

「幕が開いていると客席が気になりますが」と私は白状した。「閉まっていると、正直に言って、先生とイヴァン・プラトーノヴィチが気になったのです」

「これは驚いた!」先生は、おかしみたっぷりに叫んだ。

「イヴァン・プラトーノヴィチ!

とうとう、こんなことを言われたぞ!

黒い穴と同じになってしまった!

気を悪くして、出ていこうじゃないか!

生徒たちだけで演じさせよう」

二人の先生は、悲劇とも喜劇ともつかない足取りで出ていった。

ほかの生徒たちも、後に続いた。

私たちは演じる者だけで残され、見ている人、つまり邪魔者なしで、エチュードを試した。

不思議なことに、人がいなくなると、かえって悪くなった。

私の注意は相手役へ向かった。

演技を熱心に観察して批評し、知らないうちに、自分が観客になっていた。

相手役たちもまた、私を注意深く見ていた。

私は、眺める観客であると同時に、人に見せるために演じる俳優だと感じた。

そもそも、互いに見せ合うために演じるのは、馬鹿げていて、退屈で、何より無意味だった。

そのとき、たまたま鏡を見て、自分の姿が気に入った。元気が出て、家でオセローを稽古していたときを思い出した。あのときも今日と同じように、鏡を見ながら、自分のために演じていたのだ。

「自分自身の観客」でいるのが、楽しくなった。

自信が生まれたので、成果を見てもらおうと二人の先生を呼びに行く、というシューストフの提案に賛成した。

だが、改めて見せる必要はなかった。私たちだけで演じていたところを、二人は扉の隙間から、もう見ていたのだ。

二人によれば、幕が開いていたときより悪かったという。

あのときは下手でも控えめで、節度があった。今度はやはり下手なのに、自信満々で、だらしなくなっていた。

先生が今日の仕事をまとめると、こうなった。幕が開けば、フットライトの向こうの暗闇にいる観客が邪魔をする。閉まれば、同じ部屋にいる二人の先生が邪魔をする。演じる者だけになれば、相手役が観客に変わって邪魔をする。そして自分のためだけに演じれば、観客としての自分が、俳優としての自分を邪魔する。

どこを向いても、邪魔をするのは観客だ。

それなのに、観客なしでは演じるのが退屈だ。

「小さな子供より悪いぞ!」先生は私たちをたしなめた。

少し間を置き、先生は決めた。「仕方がない。エチュードはしばらく置いて、注意を向ける対象について学ぼう。

今日の出来事の主な原因は、そこにある。次回は、そこから始める」

一九……年……月……日

今日、客席には貼り紙が出ていた。

創造のための注意

居心地のよい居間の第四の壁だった幕は開かれ、いつもその前に置かれていた椅子は、片づけられていた。

私たちの親しい部屋は、一枚の壁を失って客席とつながり、誰からも見えるようになっていた。

普通の舞台装置になって、居心地のよさが消えていた。

装置の壁のあちこちに、飾り電灯のように、電球付きのコードが掛かっていた。

私たちはフットライトのすぐそばに、一列に座らされた。

厳かな沈黙になった。

「かかとが取れた靴は、誰のだ?」突然、先生が尋ねた。

生徒たちは自分や他人の靴を調べ始め、それにすっかり注意を向けた。

先生が、新しい質問をした。

「今、客席で何が起きた?」

私たちは答えられなかった。

「私の秘書に気づかなかったのかね? あんなに慌ただしく、騒がしい人なのに。

署名する書類を持って来ていたのだよ」

私たちは、見ていなかった。

「これは驚いた!」先生が叫んだ。

「どうして、そんなことが起きたのかね?

しかも、幕が開いていたのに!

客席へどうしても引きつけられると言っていたのは、君たちではなかったかね?」

「靴のかかとに気を取られていました」と私は言い訳した。

「何だって?」先生は、さらに驚いてみせた。

「取るに足りない、小さなかかとが、あの巨大な黒い穴に勝ったのか!

では、そこから注意をそらすのは、それほど難しくないわけだ。

秘密は、実に簡単だった。客席から注意をそらすには、舞台上のものに夢中になればよいのだ」

「確かに」と私は思った。「フットライトのこちら側にあるものへ、ほんの少し興味を持っただけで、向こう側のことを、知らないうちに考えなくなった」

そこで、舞台に散らばった釘と、それについての舞台係との会話を思い出した。

試演会の、ある稽古のときのことだ。

あのとき、釘とその話にすっかり気を取られ、口を開けた黒い穴を忘れていた。

「もう分かっただろう」と先生はまとめた。「俳優には、注意を向ける対象が必要だ。ただし客席ではなく、舞台上にだ。魅力のある対象ほど、俳優の注意を強く引きつける。

人の注意が何かの対象に向いていない瞬間は、人生に一度もない。

そして対象が魅力的なほど、注意を引きつける力は強い。

客席から注意をそらすには、この舞台の上に、興味を引く対象をうまく差し出せばよい。

母親がおもちゃで子供の気をそらすのを、知っているだろう。

俳優も、客席から気をそらしてくれる、そういうおもちゃを、自分に差し出せなければならない」

「でも」と私は思った。「舞台には、もともと対象がたくさんあるのに、なぜ無理に自分へ差し出す必要があるのだろう。

自分が主体なら、自分以外はすべて対象だ。

自分の外には、世界全体がある……。

何とたくさんの対象があることか!

なぜ、わざわざ作るのだろう?」

だが先生は、それは日常の話だと反論した。

日常では確かに、対象はひとりでに現れ、自然に注意を引きつける。

生きる一瞬一瞬に、誰を、どう見ればよいか、私たちはよく分かっている。

ところが劇場は違う。客席という黒い穴があり、俳優が普通に生きるのを妨げる。

『オセロー』を演じた私こそ、誰よりそれを知っているはずだと、先生は言った。

一方で、フットライトのこちら側、舞台の上には、その黒い穴より、ずっと面白い対象がたくさんある。

ただ、舞台にあるものをよく見つめる方法を身につけ、計画的な練習によって、注意を舞台上に保つことを学ばなければならない。

対象をしっかり捉え、その舞台上の対象自体が、外にあるものから注意をそらしてくれるようにする、特別な技術を育てる必要がある。

要するに、先生によれば、私たちは舞台で「目を向けること」と「本当に見ること」を学ばなければならないのだ。

日常に、したがって舞台にも、どんな対象があるかを講義する代わりに、先生は舞台上で、目に見える形で示すと言った。

「これから見せる光の点や明かりを、日常で知っている、したがって劇場でも必要な、さまざまな対象に見立ててほしい」

客席も舞台も、真っ暗になった。

数秒後、私たちが囲んでいる机の上、鼻先ほどのところで、箱に隠してあった小さな電球がついた。

暗闇の中では、その光の点だけが、明るく目立つ目印だった。

私たちの注意は、それだけに集まった。

「暗闇に光るこの電球は、近くにある『点の対象』を示している」と先生は説明した。

「注意を散らさず、遠くへ行かせず、一つに集めたいときに使う」

明かりがつくと、先生は生徒たちに言った。

「暗闇の中の光の点へ注意を集中するのは、比較的簡単だろう。

今度は、暗闇ではなく、明るい中で同じ練習をしよう」

先生は、ある生徒には椅子の背を、私には机の天板にある七宝細工をまねた装飾を、よく見るように言った。三人目には小さな飾り物、四人目には鉛筆、五人目には紐、六人目にはマッチというように、対象を与えた。

シューストフが紐をほどき始めたので、私は止めた。これは行動ではなく注意の練習だから、物を見て、それについて考えるだけにすべきだと言った。

しかしパーシャは同意せず、自分の考えを譲らなかった。

決着をつけるため、先生に尋ねることにした。

先生は言った。

「対象に注意を向けると、それに何かをしたいという、自然な欲求が生まれる。

そして行動が、注意をさらに対象へ集中させる。

こうして、注意と行動は結びつき、絡み合い、対象との強い関係を作るのだ」

訳注

底本の объемом(容積・分量)は前後の文意と合わないため、объектом(対象)の誤記と解して訳した。

七宝細工に見立てた模様のある机の天板を、もう一度見ると、手元にあった何か尖った物で、模様の輪郭をなぞりたくなった。

確かに、そうすることで、いっそう注意深く模様を見て、その中へ入り込めた。

パーシャは、熱心に紐の結び目をほどくことに集中していた。ほかの生徒たちも、何かをするか、注意深く対象を観察するかして、没頭していた。

やがて先生は認めた。

「近くの点の対象なら、暗いところだけでなく、明るいところでも扱えるね。

よろしい!」

次に、まず暗闇で、それから明るい中で、中くらいの距離と、遠い距離の、点の対象を示した。

近くの対象のときと同じく、できるだけ長く注意を保つためには、想像を使って、見ることに理由を与える必要があった。

新しい練習は、結局、簡単にできた。

すべての明かりがついた。

「周りの物をよく見回し、中くらいの距離か、遠くにある点の対象を一つ選び、注意を全部そこへ集中してごらん」と先生は言った。

周りには近い物、中くらいの物、遠い物がたくさんあり、初めは目があちこちへ行ってしまった。

一つの点の対象どころか、何十もの物が目に飛び込んできた。駄洒落を言えば、一つの点ではなく、点々々という対象だった。

ようやく、遠くの暖炉の上の小さな像に決めたが、長く注意の中心に置いておくことはできなかった。周囲の何もかもに気を取られ、像はすぐ、何百もの物の中へ紛れてしまった。

「なるほど!」先生が言った。

「どうやら、舞台上で中距離や遠距離の点の対象を作る前に、まず、ただ見つめて、きちんと見ることを学ぶ必要があるらしい」

「それの何を学ぶのですか?」誰かが尋ねた。

「何を、と言うがね。

人前で、あの黒い穴を前にすると、とても難しいのだ。

たとえば私の姪の一人は、食べることも、いたずらも、走り回ることも、おしゃべりも、大好きだ。

今までは、自分の子供部屋で食事をしていた。

ところが大人と同じ食卓へ座らせると、食べることも、話すことも、いたずらも、できなくなってしまった。『どうして食べないの、話さないの?』と聞くと、

『どうして見ているの?』と答える。

人前でも食べ、話し、遊べるよう、もう一度慣らす必要があるだろう?

君たちも同じだ。

日常では、歩き、座り、話し、見ることができる。ところが劇場ではその力を失い、大勢が近くにいると感じて、『どうしてあの人たちは見ているんだ?』と思う。

だから君たちにも、舞台で、人前で、それらを初めから教えなければならない。

覚えておきなさい。日常でよく知っている、最も簡単で基礎的な行動さえ、舞台へ上がり、明るいフットライトと大勢の観客を前にすると、すべてゆがんでしまう。

だから舞台では、歩くこと、動くこと、座ること、横になることを、学び直す必要がある。

最初の授業でも、この話はしたね。

今日は注意の問題に関連して、さらに付け加えよう。舞台で目を向け、きちんと見ること、耳を澄ませ、きちんと聞くことも、学ばなければならない」

一九……年……月……日

幕の開いた舞台へ皆が座ると、先生は言った。「何か一つ、物を選びなさい!

たとえば壁に掛かっている、鮮やかで目立つ模様のタオルを、対象にしてみよう」

全員が一生懸命タオルを見た。

「違う!」

先生は止めた。「それは見ているのではなく、対象へ目をむいているのだ」

私たちは力むのをやめた。だが、目を向けたものが本当に見えているとは、先生には思えなかった。

「もっと注意深く!」先生が指示した。

全員が前のめりになった。

「それでもまだ、注意が足りず、機械的に見ている部分が多い」

私たちは眉を寄せ、注意深そうに見せようとした。

「本当に注意を向けることと、注意深そうに見せることは、違う。

何が見せかけで、何が本当に見ることなのか、自分で確かめなさい」

長いこと姿勢を直した末、私たちは落ち着いて座り、力まないようにしてタオルを見た。

突然、先生は大笑いし、私に言った。

「今、写真を撮って見せられたら、一生懸命になるあまり、人が君ほど馬鹿げた姿になれるとは、信じられないだろうね。

目が、文字どおり飛び出しそうだ。

見るために、それほど力を入れる必要があるかね?

もっと抜いて、もっと!

ずっと抜くんだ!

緊張を、すっかり解く!

九十五パーセントは、捨ててしまえ!

まだ……まだ……。

どうしてそんなに対象へ身を乗り出し、体を傾けるのかね?

後ろへ戻りなさい。

まだ足りない、足りない!

もっと、もっと!

もっと大きく後ろへ!」先生は私に言い続けた。

「もっと、もっと」と粘り強く言われるほど、見ることを妨げていた緊張が減っていった。

余計な緊張は、途方もなく大きい。黒い穴の前で体を縮こまらせていると、その大きさにはまるで気づかない。

舞台で俳優が見るときの緊張の九十五パーセントは余計だという、先生の言葉は正しかった。

「見るのに必要なのは、こんなに簡単で、こんなに少しのことだったんですね!」私は感激して叫んだ。

「これまでしていたことに比べると、驚くほど楽です!

目をむいて体をこわばらせていたら何も見えず、力も努力も要らないこの状態なら、細かいところまですべて見える。どうして自分で気づかなかったのでしょう。

でも、舞台で余計なことを何一つしないのが、難しいんです」

「そのとおり!」先生が応じた。

「そんなときには、いつも考えてしまうからね。何かを見せようと努力していないなら、観客は何のために金を払うのだろう、と。

俳優の給料分は働かなければ、観客を楽しませなければ、とね!」

力まずに舞台へ座り、落ち着いて目を向け、見ることは、何と心地よいのだろう。

あの大きく口を開けた舞台の開口部を前にしても、そうしていてよいのだ。

舞台にいるその権利を感じると、何も怖くない。

今日、私は舞台で、人間として素直に自然に見ることを楽しんだ。そして最初の授業で、先生が同じように素直に座っていたことを思い出した。

日常では、この状態をよく知っているが、それをうれしいとは思わない。

慣れすぎているからだ。

しかし舞台では、今日初めて味わった。そのことを、先生に心から感謝している。

「よくできた!」先生が声を掛けた。

「それが、目を向けて、本当に見るということだ。

舞台では、目を向けながら何も見ていないことが、何と多いことか。

俳優の空虚な目ほど、恐ろしいものはない!

それは、演じる者の心が眠っている、あるいは注意が劇場や舞台上の生活の外へ行き、役とは関係のない別のことを生きている、というはっきりした証拠だ。

舌が盛んに動き、手足が自動的に動いても、意味を持ち、すべてに命を与える目の代わりにはならない。

目が『心の鏡』と呼ばれるのは、理由のないことではない。

俳優が対象に目を向け、本当に見ていると、その目は観客の注意を引きつけ、観客が見るべき正しい対象へと導く。

反対に、何も見ていない空ろな目は、観客の注意を舞台からそらしてしまう」

説明を終えると、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「今、近く、中ほど、遠くにある一点の対象を、電球で示した。目の見える生き物なら誰にも、したがって舞台の人物にも、それを演じる俳優自身にも、こうした対象が必要だ。

これまでの電球は、俳優本人が舞台上で見るべき対象を表していた。

劇場ではそうあるべきだが、実際にそうなっていることはめったにない。

今度は、舞台で決してあってはならないことを見せよう。残念ながら、大多数の俳優にほとんどいつも起きていることだ。

舞台に立つ俳優の注意が、ふだん何に向いているかを見てほしい」

その言葉が終わると、光の斑点が突然走り回り始めた。

舞台にも客席にも散らばって、俳優の注意があちこちへ飛んでいく様子を示した。

やがて光の斑点が消えると、平土間の椅子の一つに、百燭光の強い電球がともった。

「何ですか、あれは?」と誰かが尋ねた。

「手厳しい批評家だ」とトルツォフが答えた。

「観客の前で演じるとき、俳優はこの人にずいぶん気を取られる」

また光の斑点が走り回り、消えた。すると、別の大きな電球がともった。

「こちらは演出家だ」

その電球が消えきらないうちに、舞台上で、ごく小さな弱い電球が、見えるか見えないかの薄暗い光をちらつかせた。

「これは気の毒な相手役だ。ほとんど注意を向けてもらえない」とトルツォフは皮肉を込めて言った。

薄暗い電球はすぐに消え、舞台の最前部から投光器の光が私たちの目をくらませた。

「これがプロンプターだ」

また光の斑点があちこちを走り回り、ついたり消えたりした。

私は試演会の『オセロー』で、自分がどうなっていたかを思い出した。

「舞台上にあるものに目を向け、本当に見る力が、俳優にとってどれほど大切か、わかっただろう」と授業の終わりにアルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「これから君たちは、その難しい技術を身につけなければならない!」

一九……年……月……日

皆ががっかりしたことに、授業にはアルカージー・ニコラーエヴィチの代わりに、イヴァン・プラトーノヴィチだけが現れた。トルツォフから頼まれて、私たちを指導するのだという。

こうして今日は、ラフマーノフの最初の授業となった。

教師としては、どんな人なのだろう?

もちろん、イヴァン・プラトーノヴィチはアルカージー・ニコラーエヴィチとはまるで違う。

それでも、今日見せたような一面があるとは、誰も予想していなかった。

ふだん、敬愛するトルツォフのそばでは、おとなしく控えめで無口なラフマーノフが、彼のいないところでは、きびきびと断固として、厳しく振る舞うのだ。

「全神経を集中して! 気を緩めない!」と、彼は自信に満ちた有無を言わせぬ口調で命じた。

「練習の内容を説明します。一人ずつ、見る対象を私が指定します。

形、線、色、細部、特徴をよく見ておくこと。

私が三十まで数える間に、すべて済ませてください。

『三十!』と私が言います。

そこで明かりを消し、対象が見えなくなったところで、それについて話してもらいます。

暗闇の中で、目で見て記憶したことを、すべて説明してください。

皆さんの説明が実物と合っているか、私が確かめます。

そのときは、もう一度明かりをつけます。

集中!

始めます。マロレトコワ、鏡」

「ねえ、これですか?」と彼女は慌てて、鏡を指さした。

「余計な質問はいりません。

この部屋に鏡は一つしかありません。

ほかにはないんです!

俳優には察する力が必要です。

プーシチン、絵。

ゴヴォルコフ、シャンデリア。

ヴェリヤミノワ、アルバム」

「ビロード張りのですか?」と、彼女は甘ったるい声で聞き返した。

「今、指し示しました。

二度は言いません。

俳優は即座に察しなければいけない。

ナズヴァーノフ、じゅうたん」

「何枚もあります。どれですか?」

「わからなければ、自分で決めなさい。

間違ってもいい。迷ったり、聞き返したりしないこと。

俳優には機転が必要です。

機転だと言っているんです!

ヴュンツォフ、花瓶。

ウムノヴィフ、窓。

ドィムコワ、クッション。

ヴェセロフスキー、グランドピアノ。

一、二、三、四、五……」イヴァン・プラトーノヴィチはゆっくり三十まで数えてから、「消灯!」と命じた。

暗くなると、彼は私を指名し、何を見たか話すように言った。

「先生が私に指定したのは、じゅうたんでした」と私は詳しく説明し始めた。

「どれを見るかすぐに決められず、それで時間が過ぎてしまって……」

「手短に、要点だけ!」とイヴァン・プラトーノヴィチが命じた。「要点だけです!」

「ペルシャじゅうたんです。

全体の地の色は赤茶色。

端を幅広の縁取りが囲んでいます」そこまで説明すると、ラフマーノフが叫んだ。「点灯!

正確に覚えていませんね!

持ち帰る途中で、記憶がこぼれ落ちています。

消灯!

プーシチン!」

「絵の主題はつかめませんでした。

目が悪いのと、遠いのとで。

赤い地に黄色があるのだけは見えました」

「点灯!」とイヴァン・プラトーノヴィチが命じた。

「この絵に黄色も赤もありません」

「まことに、こぼれ落ちて、持ち帰れませんでした」とプーシチンが低い声で言った。

「ゴヴォルコフ!」とラフマーノフが指名した。

「金色のシャンデリアです。ほら、露店で売っているような。

ガラスの飾りがついていて」

「点灯!」とイヴァン・プラトーノヴィチが命じた。

「これは博物館に置かれるような本物の品です。アレクサンドル一世時代のアンピール様式です。

こぼれ落ちていますね!

消灯!

ナズヴァーノフ、じゅうたんをもう一度説明してください」

「すみません、また聞かれるとは知らなくて。

考えていませんでした」と、不意を突かれた私は弁解した。

「次は考えておきなさい。

間違いを直すこと。手をこまねいて、何もしないでいる時間は一秒もありません。

皆さん、覚えておいてください。見た印象を正確に説明できるようになるまで、二度でも四度でも、私は聞き直します。

プーシチン!」

「こぼれ落ちました。

またしても、こぼれ落ちました」

結局ラフマーノフは、私たちに指定された品物を細部の細部まで観察させ、説明させることに成功した。

私はそのために五回も指名された。

こうして、神経を張りつめて全速力で取り組む作業が、三十分ほど続いた。

目はひどく疲れ、注意力も精いっぱい働かせた。

これほどの強度で、長時間稽古を続けることはできない。

ラフマーノフもそれを知っているので、授業を三十分ずつの二つに分けている。

私たちはいったん練習を中断し、舞踊の授業へ行った。

その後、またラフマーノフの授業に戻り、最初の三十分と同じ練習をした。ただし今度は、数えるのが二十までに短くなった。

イヴァン・プラトーノヴィチは、いずれ三秒から五秒でできるようにすると言う。

「こうして注意力を研ぎ澄ましていくのです!」と彼は宣言した。

今、今日のイヴァン・プラトーノヴィチの授業を日記に書きながら、疑問が湧いてきた。彼の授業で起きることを、速記のように細かく書きとめる必要があるだろうか。それだけの意味があるだろうか。

むしろ、これらの練習は別のノートにまとめたほうがよくはないか。

そうすれば実技練習の手引き、いわば問題集になる。イヴァン・プラトーノヴィチ自身の言い方なら、「訓練と反復稽古」の記録だ。

毎日の練習に役立つし、いつか演出や指導をするようになれば、そのときにも役立つかもしれない……。

そうしよう。

これからはノートを二冊にする。一冊、つまりこのノートには、これまでどおり日記をつけ、トルツォフから学ぶ芸術の理論を記す。もう一冊には、ラフマーノフのもとで行う実技練習を書きとめる。

それを「システム」の「訓練と反復稽古」の問題集にしよう。

一九……年……月……日

今日もトルツォフは、舞台上の注意の対象を、光で示しながら説明した。

彼はこう言った。

「これまでは、一点の対象を扱ってきた。

今度は、いわゆる『注意の輪』を見せよう。

これは一つの点ではなく、ある小さな範囲だ。その中には、それぞれ独立した対象がいくつも含まれている。

目はその一つから別の一つへと移るが、注意の輪の境界からは外れない」

トルツォフの説明が終わると暗くなり、一瞬後、私のそばのテーブルに置かれた大きなランプがともった。

かさに遮られた光は丸く下へ落ち、私の頭と両手を照らした。

小物の並んだテーブルの中央が、明るく楽しげに浮かび上がった。

それ以外の広大な舞台と客席は、不気味な闇に沈んでいた。

それだけに、ランプの光の中は居心地がよかった。闇に囲まれた明るい輪の中へ、私の注意がすっかり吸い寄せられるようだった。

「テーブルの上のこの光が、小さな注意の輪を表している」とトルツォフが言った。

「君たち自身、正確には、光の中にある頭と手が、その中心に位置している。

これは、対象の細かな部分まで鮮明にする、カメラの小さな絞りのようなものだ」

トルツォフの言うとおりだった。テーブル上の狭い光の輪に置かれた小物は、どれも自然に注意を引きつけた。

あたりが真っ暗な中で、この光の輪に入ると、たちまち誰からも切り離された気持ちになる。

輪の中では、家にいるように、誰を恐れることも、何を恥じることもない。

暗闇のあちこちから、大勢の他人の目が自分の振る舞いを見ていることも忘れてしまう。

この小さな光の輪の中は、自分の部屋にいるとき以上にくつろげる。

部屋では好奇心の強い家主が鍵穴からのぞくが、小さな輪を囲む黒い闇の壁は、誰にも見通せそうにない。

この狭い光の輪の中では、注意を集中させているときと同じように、物のごく細かなところまで楽に観察できる。それだけではない。人には明かさない感情や思いを生き、複雑な行動をすることもできる。難しい課題に取り組み、自分の微妙な感情や思考を探ることも、相手と心を通わせ、その人を感じ取り、胸の奥の思いを打ち明けることも、過去を思い出し、未来を夢見ることもできるのだ。

トルツォフは私の状態を察した。

舞台の際まで来ると、生き生きした口調で私に言った。

「今の状態を、すぐに心にとめておきなさい。私たちはこれを『公衆の中の孤独』と呼んでいる。

私たち全員が君のそばにいるから、『公衆の中』なのだ。

そして、小さな注意の輪が君を私たちから隔てているから、『孤独』なのだ。

公演中、千人もの観客の目の前でも、カタツムリが殻に入るように、いつでも自分だけの世界に閉じこもれる。

では今度は、中くらいの注意の輪を見せよう」

暗くなった。

続いて、家具を置いたかなり広い範囲が照らされた。テーブルと椅子、グランドピアノの一角、暖炉、その前の大きな肘掛け椅子が見える。

私はその輪の中心にいた。

全体を一目で見渡すことはできなかった。

一部分ずつ見ていくほかなかった。

輪の中の品物は、それぞれが独立した一点の対象だった。

ただ困ったのは、明るい範囲が広がると、薄明かりの部分もできたことだ。

薄明かりは輪の外にまで届き、そのため、輪を囲む壁が以前ほど確かではなくなった。

そのうえ、私の孤独の場所は広すぎるものになった。

小さな輪を独身者の部屋にたとえるなら、中くらいの輪は家族向けの住まいだ。

十部屋もある、がらんと冷たい屋敷に一人で暮らすのが落ち着かないように、私はあの親しみやすい小さな注意の輪に戻りたくなった。

もっとも、そんなふうに感じ、考えたのは、一人でいた間だけだった。

シューストフ、プーシチン、マロレトコワ、ヴュンツォフたちが明るい輪に入ってくると、皆がどうにか収まるくらいになった。

私たちは肘掛け椅子や椅子、ソファに腰を下ろし、一つの集まりになった。

広い場所なら、行動も大きく広げられる。

広い場所では、個人的で内密なことよりも、皆に共通することを話しやすい。

そのため、中くらいの輪の中に、生き生きと若々しい、熱気のある群衆場面が自然に生まれた。

注文されて、同じことをもう一度できるものではない。

今日トルツォフが示した中くらいの光の輪も、小さな輪と同じように、注意の範囲を広げたとき俳優がどう感じるかを、私に実感させた。

ところで、面白いことに気づいた。今日の授業中、舞台での憎い敵、あの客席へ開いた黒い穴が、一度も頭に浮かばなかったのだ。

驚いた!

居間全体が明るく照らされると、トルツォフは言った。「これが大きな輪だ」

ほかの部屋はまだ暗かったが、私の注意は、もうこの広い場所で迷子になっていた。

残りの部屋にも一斉に明かりがつくと、アルカージー・ニコラーエヴィチは叫んだ。「そして、これがいちばん大きな輪だ!」

広い空間の中に、自分が溶けてしまった。

「いちばん大きな輪の範囲は、その人がどこまで遠くを見られるかで決まる。今はこの室内で、注意の範囲を可能なかぎり広げた。

けれども、ここが劇場ではなく草原や海だったら、遠くの地平線や水平線が、注意の輪の境界となるだろう。

舞台では、美術家がこの遠景の線を背景幕に描く」

少し間を置いて、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。「では同じ練習を、今度は暗闇ではなく、明るいところで繰り返そう。

脚光も頭上の照明も全部つけたままで、まず小さな注意の輪を作り、その中で公衆の中の孤独を得てみなさい。それから中くらいの輪、大きな輪へと進もう」

私たちを助けるため、トルツォフは、明るい場所で散っていく注意を保つための技術的な方法を示した。

室内にある物の輪郭を使って、目で注意を向ける範囲、つまり輪の境界を決めるのだ。

たとえば、いろいろな品物を並べたこの丸テーブル。

天板の範囲が、明るい場所での小さな注意の輪となる。

床には、家具を載せたかなり大きなじゅうたんがある。これが、明るい場所での中くらいの輪だ。

別の、もっと大きなじゅうたんを使えば、大きな輪の境界もはっきり決まる。

家具などのない床の部分では、トルツォフは床敷きに描かれた寄木の升目を、必要な数だけ数えた。

升目では輪の境界を定め、その内側に注意をとどめるのが難しくなるのは確かだ。それでも助けにはなる。

「そして住まい全体が、明るい場所でのいちばん大きな注意の輪だ」

範囲が広がるにつれ、がっかりしたことに、客席へ開いた黒い穴がまた舞台へ入り込み、私の注意を奪ってしまった。

おかげで、さっきまでは希望を持たせてくれた練習が、すべて無意味に思えた。

私はまた、どうしようもない無力さを感じた。

その様子を見て、アルカージー・ニコラーエヴィチが言った。

「注意を扱うための、もう一つの方法を教えよう。

こうするのだ。明るいところで輪を広げれば、注意の向く範囲も広がる。

ただし、頭の中で描いた輪の境界を保てるところまでにしなければならない。

定めた境界が揺らぎ、薄れ始めたら、すぐに、目で注意を向けられる範囲まで輪を狭めるのだ。

ところが、ちょうどそのときに、しばしば大失敗が起きる。注意が手をすり抜け、空間に散ってしまうのだ。

そうなったら、もう一度注意を集め、向け直さなければならない。

すぐに一点の対象の助けを借りなさい。たとえば今またともった、テーブルの箱の中の、この電球でもいい。

暗闇の中ほど明るく見えなくても、構わない。それでも、今ここで注意を引きつけることはできる。

ひとまず注意が定まったら、その電球を中心に、明るい場所で小さな輪を作る。

それから中くらいの注意の輪を定め、その中に小さな輪をいくつか作りなさい」

私たちは言われたとおりにやってみた。

しかし、注意の範囲が限界まで広がると、私はまた舞台の広大な空間に溶けてしまった。

明かりが全部ついた中で、丸テーブルの箱の中の電球が再びともった。

「すぐに、その一点の対象を見なさい!」とトルツォフが私たちに叫んだ。

私は、明るい中で光るその電球を食い入るように見つめた。周囲が闇に沈み、大きな輪が中くらいの輪に変わったことにも、ほとんど気づかなかった。

続いて、中くらいの輪が小さな輪まで縮まった。

このほうが、なおいい!

これが私の好きな輪で、自由に扱える。

その後アルカージー・ニコラーエヴィチは、暗闇の中で、すでに経験した輪の移り変わりを繰り返した。小さな輪から大きな輪へ、また大きな輪から小さな輪へ。そしてもう一度、小から大へ、大から小へ。

十回ほど繰り返すうちに、私たちもいくらか慣れてきた。

ところが十回目を終え、いちばん大きな輪となって、舞台全体が明るく照らされたところで、トルツォフが叫んだ。

「明るい中で、中くらいの輪を見つけなさい。その中では、目を自由に動かしてよい。

待った!

注意が散っている!

すぐに、あの助けの電球につかまりなさい!

そのために、明るい中でもつけてあるのだ。

そう、その調子!

よろしい!

では、明るい中で小さな輪を作りなさい。

中心に電球がともっていれば、難しくないだろう」

その後、逆の順序で、明るい中の大きな輪へ戻った。危なくなるたびに、救いとなる一点の対象、電球につかまりながら。

こうした明るい中での移り変わりも、何度も繰り返した。

「大きな輪で迷ったら、すぐに一点の対象につかまりなさい」とトルツォフは絶えず言い添えた。

「そこで注意を保てたら、小さな輪を作る。それから中くらいの輪へ進むのだ」

トルツォフは、注意を散らさずに、小さな輪から大きな輪へ、またその逆へと移れるよう、無意識にも自然に働く習慣を私たちに身につけさせようとしている。

私にはまだその習慣はない。それでも、輪が広がるときに公衆の中の孤独へ戻るこの方法が、舞台では自然に求めるものになりうるとわかった。

「この方法のありがたさが本当にわかるのは、演奏会用の広大な舞台に立ったときだ。

そこでは俳優は、砂漠にいるかのように無力になる。

そのときこそ、自分を救うには、中くらいの輪と小さな輪を自在に扱えなければならないとわかるだろう。

恐ろしい混乱や動揺に襲われたら、覚えておきなさい。大きな輪が広く、何もないものであるほど、その内側の中くらいの輪や小さな輪は狭く、確かなものでなければならない。そして、公衆の中の孤独も、いっそう外界から守られていなければならない」

少し休んでから、トルツォフは、光を使って小さな注意の輪と中くらいの注意の輪の、別のあり方を示した。これまでは私たちが輪の中心にいたが、今度は光の外、暗闇の中にいた。

明かりがすべて消えると、突然、隣の食堂のつり下げランプがともった。

食卓の白いテーブルクロスに、丸い光が落ちていた。

「これが、自分のいる場所とは別のところにある、小さな注意の輪だ」

やがてその輪は広がり、私たちの外にある中くらいの輪となった。

隣室の全体を照らし、さらに、私たちがいる暗い部屋を除く、ほかの部屋すべてに広がった。

「これが、自分の外にある大きな注意の輪だ」

暗い居間からは、周囲で起きていることを、目の届くいちばん遠いところまで楽に観察できた。

一つの点を対象に選ぶことも、自分たちの外にある小さな輪、中くらいの輪、大きな輪を選ぶこともできた。

同じように、自分たちの外にある大小さまざまな輪を使った練習を、全部の明かりをつけて行った。

今度は居間も、ほかの部屋も明るかった。

以前、自分が輪の中心にいたときと同じように、自分たちの外にある注意の輪を、頭の中で定め、狭め、広げなければならなかった。

一九……年……月……日

今日の授業の初めに、私は感激のあまり声を上げた。

「舞台で、いつも小さな輪と一緒にいられたら、どんなにいいでしょう!」

「一緒にいればいい。君次第だ」とトルツォフが答えた。

「でも、かさつきのランプを持ち歩いて、傘の下にいるみたいに、その中を歩くわけにはいきません」

「もちろん、そんなことは勧めない。

でも、小さな注意の輪なら、舞台だけでなく、日常でもどこへでも持っていける」

「どうやってですか?」

「今すぐ見せよう。

舞台へ行って、自分の家にいるように過ごしなさい。立ったり、歩いたり、別の椅子に座ったりして」

私は舞台へ行った。

すっかり暗くなると、どこからか丸い光が現れ、私と一緒に動き始めた。

私が部屋を歩けば、輪もついてきた。

そこで、思いがけないことが起きた。私はピアノの前に腰を下ろし、自分に弾ける唯一の曲、『悪魔』の旋律を弾き始めたのだ。

この出来事がどれほど特別だったか、わかってもらうには説明がいる。

私は音楽家などとは程遠く、家で弾くのも、本当に、本当に一人きりのとき、ひそかに弾くだけなのだ。

下手な音を誰かに聞かれ、演奏中に部屋へ入ってこられたら一大事だ。

ふたを閉めて、真っ赤になる。要するに、たばこを吸っているのが見つかった中等学校の生徒のようになる。

ところが今日は、人前でピアノを弾きながら、少しも窮屈な思いをしなかった。恥ずかしがらず、むしろ楽しみさえ感じて弾いたのだ。

信じられない!

奇跡だ!

どう説明すればいいのだろう?

注意の輪は、日常よりも舞台で、私たちをしっかり守るのだろうか。俳優は日常にいるときよりも、舞台でその力を強く感じるのだろうか。

それとも、注意の輪には、まだ私の知らない性質があるのだろうか。

入学してからの短い間に教わった創造の秘密の中で、移動する小さな注意の輪は、私には最も大切で、実践的な価値のあるものに思える。

移動する注意の輪と、公衆の中の孤独。これからは、この二つが、舞台で私をあらゆる災難から守るとりでになる。

その意味をさらにわかりやすく説明するため、トルツォフはインドの昔話をしてくれた。

こんな話だ。

マハラジャが大臣を選ぼうとしていた。

乳を縁まで満たした大きな器を持って町の城壁を一周し、一滴もこぼさなかった者を採用するという。

大勢が挑んだ。だが道中で呼びかけられたり、脅かされたり、気をそらされたりして、乳をこぼしてしまった。

「大臣には向かぬ」とマハラジャは言った。

そこへ、一人の男が挑んだ。

叫び声にも、脅しにも、どんな仕掛けにも、彼は満杯の器から目を離さなかった。

「銃を撃て!」と王が叫んだ。

銃声が響いたが、それでも効果はなかった。

「これこそ大臣だ」とマハラジャは言った。

「叫び声は聞こえたか?」と彼に尋ねた。

「いいえ」

「脅かされているのは見えたか?」

「いいえ。乳を見ていました」

「銃声は聞こえたか?」

「いいえ、陛下。

乳を見ていました」

「これが、輪の中にいるということだ!

これこそ本物の注意だ。しかも暗闇ではなく、明るい中での!」とトルツォフは話を結んだ。

「君たちも、脚光を全部つけて、同じ実験をしてみなさい」

残念ながら、私たちにはマハラジャの大臣になる見込みはなかった!

明るい舞台では、公衆の中の孤独を作れなかったのだ。

そこでイヴァン・プラトーノヴィチが、新しい工夫で助け舟を出した。

サーカスの女曲馬師がくぐり抜けるような、葦でできた輪を私たちに配ったのだ。

大きい輪も、小さめの輪もあった。

それを体の周りに通し、自分が中心に来るよう両手で持てば、輪の中に入れる。手で触れられる輪郭があるので、注意の輪の境界も、はっきり定めて保ちやすい。

輪を持って部屋を歩くと、本来は頭の中で持ち歩くべき移動する注意の輪を、目で見て、手で感じることができた。

ラフマーノフの工夫は、プーシチンなど、何人かには役立った。

太った彼は言った。

「樽の中のディオゲネスになった気分だ……。

私の腹回りには少々狭いが、孤独と芸術のためなら、耐え忍びます」

私はというと、移動する輪という難題に、自分なりのやり方で取り組んだ。

今日、街を歩いていて、ある発見をしたのだ。

不思議なことに、大勢の通行人や、走る路面電車、自動車に囲まれているほうが、舞台よりも、自分の周りに小さな注意の輪を思い描き、それを保って歩きやすかった。

アルバート通りのいちばん人通りの多い場所で、私は難なくそれができた。こう自分に言い聞かせたのだ。「輪の境界を決めよう。両肘まで。脇に抱えた書類かばんの端まで。そして、前へ踏み出す足先を越えないところまで。

この線の外へ、注意を広げてはいけない」

驚いたことに、定めた範囲に注意をとどめられた。

ただ、人込みでこの練習をするのはあまり都合がよくなく、危ない目にも遭いかねなかった。私は誰かの足を踏み、菓子の売り台をひっくり返しそうになり、知り合いに会っても挨拶しなかった。

そこで、自分の体からかなり離れたところまで、輪の境界を中くらいの大きさに広げざるを得なくなった。

そのほうが安全だが、注意を保つのは難しかった。広くなった輪を、通り抜けの庭のように、向こうから来る人や追い越す人がひっきりなしに横切るからだ。

輪を設けず、広い空間の中にいれば、目も向けなかっただろう。ところが、観察する範囲を狭く区切ると、さほど関心のない知らない人たちが、望む以上に目についてしまった。

彼らに注意が引きつけられた。

虫眼鏡や顕微鏡の小さな視野では、どんな細かなものも目につくのと同じだ。

私の移動する輪でも、同じことが起きた。

鋭くなった注意は、視野に入るものを何もかも捉えた。

注意の輪を広げたり狭めたりする練習も試したが、中断せざるを得なかった。地下へ下りる階段を、危うく転げ落ちるところだったのだ。

アルバート広場に出ると、目で捉えられるいちばん大きな輪を取ってみた。すると、その中の輪郭が、たちまち一緒になってぼやけた。

そのとき、けたたましい警笛と運転手の怒鳴り声が聞こえた。見ると、車の鼻先が迫っていて、私はもう少しでひかれるところだった。

「大きな輪で迷ったら、すぐに小さな輪へ戻れ」というトルツォフの言葉を思い出した。

私はそのとおりにした。

「妙だな」と私は独り考えた。「こんな広大なアルバート広場や人込みの通りのほうが、舞台よりも孤独を作りやすいのは、なぜだろう。

ここでは誰も私を気にしないのに、舞台では皆が俳優を見ることになっているからだろうか。

それは劇場につきものの条件だ。

舞台を見るため、そこにいる人物の公衆の中の孤独を見るために、劇場はあるのだから」

その晩、偶然の出来事から、もっと身にしみる教訓を得た。

こういうことだった。私はX教授の講演に遅れてしまい、満員の会場へ急いで入った。ちょうど教授が、講演の論点と基本的な考えを静かな声で説明しているところだった。

「しっ、静かに! 聞こえないじゃないか!」と四方から声が飛んだ。

皆の注目を集めていると感じたとたん、私はひどくうろたえ、集中力をすっかり失った。あの『オセロー』の試演会のときと同じだった。

だがすぐに、無意識に注意の範囲を、移動する小さな輪まで狭めた。その中にある一つ一つの対象がくっきりと見え、自分の座席番号を探せるようになった。

それで落ち着きを取り戻した私は、その場で人目を気にせず、ゆっくりと注意の輪を狭めたり広げたりする練習を始めた。大きな輪から小さな輪へ、また小さな輪から大きな輪へ。

そのうち、自分の落ち着きや慌てない態度、自信が、周りの人々に伝わったのを感じた。怒鳴り声はやんだ。

講師まで話を止め、ひと息ついた。

私は皆の注意を引きつけたまま、皆が自分の手の中にいると感じるのが愉快だった。

今日私は、移動する注意の輪の効用を、理論ではなく実践で知った。つまり、身をもって感じたのだ。

一九……年……月……日

アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「これまでは、自分の外にある対象へ注意を向けてきた。ただし、その対象はまだ生気のないものだった。『もしも』や、与えられた状況、想像の物語によって、命や温かさを与えられてはいなかったのだ。

注意そのものを練習するための注意、対象そのものを捉えるための対象が必要だったからだ。

今度は、外側の現実の生活ではなく、内側の想像の生活における対象と注意について話そう。

それは、どんな対象だろうか。

心の中をのぞけば、理性や感情、注意や想像力といった、心を構成するものが全部見えると思っている人がいる。

ではヴュンツォフ、自分の心をのぞいて、注意と想像力を探してみなさい」

「いったい、どこを探せばいいんです?」

「イヴァン・プラトーノヴィチが見えないね。どこにいるのだろう?」とアルカージー・ニコラーエヴィチが突然尋ねた。

皆があたりを見回し、それから何か考え込んだ。

「君の注意は今、どこを歩き回っているかね?」とトルツォフはヴュンツォフに尋ねた。

「劇場のあちこちで、イヴァン・プラトーノヴィチを探しています。先生の家にもちょっと行きました……」

「では、想像力は?」とトルツォフが尋ねた。

「注意と同じところで、探しています」とヴュンツォフは得意げに結論を出した。

「今度は、新鮮なキャビアの味を思い出してみなさい」

「思い出しました」と私が答えた。

「注意の対象は、どこにあるかね?」

「最初に、前菜のテーブルに置かれた、キャビアを盛った大皿が浮かびました」

「つまり、想像の中の対象は、自分の外にあったわけだね」

「でも、その光景が浮かぶとすぐに、口の中、舌に味を感じました」と私は思い返した。

「つまり、自分の内側だね」とアルカージー・ニコラーエヴィチが言った。

「注意も、そこへ向かったのだ。

シューストフ!

サケのにおいを思い出してみなさい」

「思い出しました」

「対象はどこにあるかね?」

「やはり最初は、前菜のテーブルの皿の上です」とパーシャが思い返した。

「つまり、自分の外だね」

「それから、口や鼻の中に移りました。つまり、自分の内側です」

「では、ショパンの葬送行進曲を思い出してみなさい。対象はどこにあるかね?」とアルカージー・ニコラーエヴィチが確かめた。

「初めは自分の外です。葬列が浮かびました。

でも、楽隊の音は耳の奥のどこかで聞こえます。つまり、自分の中です」とパーシャが説明した。

「注意もそこへ向いているかね?」

「はい」

「つまり、内面の生活では、まず目に見える像を作るのだ。イヴァン・プラトーノヴィチの居場所、前菜のテーブル、葬列などだ。そして、その像を通して五感のいずれかを内側に呼び起こし、最後にはそこへ注意を定める。

このように、注意は想像の生活の対象へ直接向かうのではなく、別の、いわば補助的な対象を経由して、間接的に近づくのだ。

五感の場合は、そうなっている。

ヴェリヤミノワ! 舞台へ出るとき、どんな気持ちになるかね?」とトルツォフが尋ねた。

「どう言えばいいのか、本当にわかりません」と、私たちの美女はそわそわした。

「今、注意はどこへ向いているかね?」

「さあ、本当に……楽屋でしょうか……舞台裏の……うちの劇場の……公演が始まる前の……あの試演会の」

「楽屋で、何をしているのかね?」

「どう言えばいいかしら……衣装が気になっているんです」

「カタリーナの役が心配なのではなくて?」とアルカージー・ニコラーエヴィチが聞き返した。

「カタリーナのこともです」

「それで、どう感じているかね?」

「急いでいて、何もかもうまくいかなくて……間に合わなくて……ベルが鳴って……そうすると、このあたりや、ここが……何か締めつけられるようで……病気みたいに力が抜けて……。

ああ!

本当に目が回ってきました」

ヴェリヤミノワは椅子の背にもたれ、美しい両手で目を覆った。

「見てのとおり、今回も同じことが起きた。舞台へ出る直前の楽屋の様子が、目に見える像になったのだ。

その像が内面に反応を起こした。言い換えれば、体験が生まれたのだ。それがさらに進んだら、本当に気を失うところまで行ったかもしれない。

注意の対象は、現実の生活にも、そしてとりわけ想像の生活にも、私たちの周囲にふんだんにある。

想像は、実在する世界だけでなく、現実にはありえない幻想の世界も描いてくれる。

おとぎ話は現実には起こりえなくても、想像の中では生きている。

この領域には、現実とは比べものにならないほど多くの対象がある。

内側へ向ける注意にとって、どれほど尽きない材料があるか、考えてみなさい。

ただし難しいのは、想像の生活の対象が不安定で、しばしば捉えにくいことだ。

舞台で私たちを取り巻く物質的な世界を捉えるにも、十分に鍛えられた注意力が必要だ。不安定な想像の対象には、その何倍もの注意力が求められる」

「では、内側へ向ける注意の対象を、安定して保つ力は、どう育てればいいのですか?」と私は尋ねた。

「外側へ向ける注意を育てたのと、まったく同じだ。

外側の注意について知っていることは、すべて同じように、内側の対象や内側へ向ける注意にも当てはまる」

「それなら、内面や想像の生活でも、近く、中ほど、遠くの一点の対象や、小・中・大の輪、固定した輪や移動する輪を使えるということですか?」と私はトルツォフに重ねて尋ねた。

「自分の中にも、それらがあると感じるだろう。

ならば、それらは存在するのだ。使わなければいけない」

アルカージー・ニコラーエヴィチは、外側と内側の対象、外側と内側へ向ける注意を、さらに比べながら話した。

「舞台そのものに起きていることから、客席へ開いた黒い穴に、何度も注意をそらされたのを覚えているかね?」

「もちろん覚えています!」と私は声を上げた。

「覚えておきなさい。舞台では、内側へ向ける注意も、役の生活から、俳優自身の個人的な生活の記憶へと、たびたびそれてしまう。

だから内側へ向ける注意の領域でも、役にとって正しい注意と間違った注意、役に立つ注意と妨げになる注意が、絶えず争っている。

妨げになる注意は、私たちを正しい道筋からそらし、脚光の向こう、客席へ、あるいは劇場の外へと引っ張っていく」

「つまり、内側へ向ける注意を育てるには、以前、外側の注意のために教わったのと同じ練習を、頭の中ですればいいのですね?」と私は確かめた。

「そうだ」とアルカージー・ニコラーエヴィチは答えた。「あのときも今も、必要なのは二つだ。第一に、舞台で気にしなくてよいこと、考えなくてよいことから注意を離す練習。第二に、役に必要なことへ、内側の注意をしっかり結びつける練習だ。

それができて初めて、外側でも内側でも、注意は強く鋭く、集中した、揺るぎないものになる。

そのためには、長い時間をかけた、地道で組織的な取り組みが必要だ。

もちろん、私たちの仕事でまず大切なのは、内側へ向ける注意だ。創造している俳優の舞台上の生活は、その大部分が、創造的な夢や物語、思い描いた『与えられた状況』の中で営まれるからだ。

それらはすべて、俳優の心の中で目に見えないまま生きていて、内側へ向ける注意でしか捉えられない。

人前で創造するという、気の散りやすい環境の中、千人もの観客の前で、不安定な内面の対象に全身全霊を集中して生きるのは難しいことだ。舞台で心の目を使ってその対象を見ることも、簡単には身につかない。

しかし、習慣と努力は、どんな障害も乗り越える」

「そのための特別な練習があるのですね?」と私は尋ねた。

「学校で学ぶ間にも、その後の舞台の仕事にも、練習の機会は十分すぎるほどある!

創造そのものと同じく、そうした仕事では、外側へ、そして特に内側へ向ける注意が、ほぼ休みなく働かなければならない。

生徒や俳優がそのことを理解し、家でも学校でも舞台でも、自覚を持って仕事に向き合い、十分に自分を律して、いつも内面を集中させているなら、安心していい。特別な練習がなくても、日々の仕事を通じて、注意力は必要なだけ鍛えられる。

ただ、こうした誠実な日々の取り組みには、強い意志と粘り強さ、自制心が必要だ。誰もがそれを備えているわけではない。

だから、舞台の仕事とは別に、私生活でも注意を鍛えるといいのだ。

そのためには、想像力を育てるのと同じ練習をしなさい。

あれは注意力にも、同じように有効だ。

寝床に入り、明かりを消したら、その日一日の生活を振り返る習慣をつけておきなさい。思い出せるかぎり細かくたどるのだ。たとえば昼食や朝のお茶を思い出すなら、食べた料理だけでなく、盛られていた食器や、テーブル全体の配置まで思い出し、目に浮かべなさい。

食事中の会話から生まれた考えや心の動き、食べ物の味も思い出しなさい。

別の日には、直近の一日ではなく、もっと遠い過去の出来事を振り返ってみなさい。

昔暮らした住まいや部屋、散歩した場所を、頭の中でさらに詳しく見ていきなさい。個々の品物を思い出したら、想像の中でそれを使ってみなさい。

そうすれば、かつてよく知っていた行動の順序や、昔の一日の流れがよみがえる。

それも、内側へ注意を向けて、細かく確かめなさい。

今も生きている親しい人、すでに亡くなった親しい人を、できるだけ鮮やかに思い出してみなさい。

これらの練習では、注意が大きな役割を果たし、そのたびに新たに鍛えられるのだ」

一九……年……月……日

今日、アルカージー・ニコラーエヴィチは、前回終わらなかった授業を続けた。

彼は言った。

「知ってのとおり、芸術では注意も対象も、非常に安定していなければならない。

表面をなぞるだけの注意はいらない。

創造には、心身のすべてを、一つ残らず集中させる必要がある。

どうすれば、対象をしっかり保ち、そこへ十分に注意を向けられるだろうか。

君たちは、その方法をもう知っている。

だから、実際に確かめてみよう。

ナズヴァーノフ!

舞台へ行って、丸テーブルの箱の中の電球を見なさい」

私は舞台へ行った。

まもなく、一つの電球を残して明かりが消えた。それが私の唯一の対象となった。

だが一分もすると、その電球が憎らしくなった。

床にたたきつけたいほど、うっとうしく感じたのだ。

アルカージー・ニコラーエヴィチにそう話すと、彼は思い出させてくれた。

「舞台で対象に注意を引きつけるのは、対象そのもの、つまり電球ではなく、魅力のある想像の物語だ。知っているだろう。

物語が対象を生まれ変わらせ、『与えられた状況』の助けで、魅力を与えるのだ。

早く、君の想像力で、美しく心を揺さぶる物語を作り、その対象を包んでごらん。

そうすれば、うっとうしい電球が姿を変えて、創造を呼び起こすものになる」

長い沈黙が続いた。私は電球を見つめていたが、それを見る理由となることを、何一つ思いつけなかった。

ついにトルツォフが、私を気の毒に思って助けてくれた。

「手を貸そう。

この電球が、眠っているおとぎ話の怪物の、半ば開いた目だと考えなさい。

深い闇に隠れて、その巨大な体の輪郭は見えない。

見えないだけに、いっそう恐ろしく感じられるだろう。

自分にこう問いかけるのだ。『この作り話が現実だったら、私は何をするだろう?』。おとぎ話の王子だって、怪物に戦いを挑む前には、同じことを考えるだろう。ごく普通の人間として筋道を立てて考えなさい。顔がこちらを向き、尾がはるか後ろにある獣なら、どちら側から攻めるのがよいか、と。

攻撃の計画がまずくても、おとぎ話の英雄ならもっと上手に考えるとしても、君なりに何かは思いつくはずだ。それによって、まず注意が、続いて思考が、対象へ向かう。

そこから想像力も目を覚ます。

想像が君を捉え、行動したいという衝動を生むだろう。

行動を始めたということは、その対象を受け入れ、信じ、対象とのつながりを持ったということだ。

つまり目的が生まれ、舞台の外にあるものから注意が離れたのだ。

ただし、注意の対象が生まれ変わる過程は、まだ始まったばかりだ」

与えられた課題は、私には難しく思えた。

だが、「もしも」は感情を無理強いしたり、絞り出したりするものではないと思い出した。アルカージー・ニコラーエヴィチの言う「人間としての筋道」に沿って、答えを出せばよいのだ。

今はただ、怪物をどちら側から攻めるのがよいか、決めればいい。

そこで私は、順序立てて考え始めた。「暗闇にあるこの光は何だろう?」と自分に尋ねた。

「うとうとしている竜の、半ば開いた目だ。

だとしたら、まっすぐ私のほうを見ている。

身を隠さなくては」

だが、動くのが怖かった。

どうしたらいい?

自分に問いかけたことを細かく、深く考えるほど、その注意の対象は私にとって重要なものになった。

そして、それに心を向けるほど、ますます引き込まれていった。

突然、電球がまたたき、私はびくっとした。

続いて、光がいっそう強くなった。

まぶしさと同時に、胸騒ぎと恐ろしさを感じた。

私は後ずさりした。怪物が私を見つけ、身じろぎしたように思えたからだ。

そのことをアルカージー・ニコラーエヴィチに話した。

「ようやく、思い定めた対象を見ることができたね!

対象はもとの姿では存在しなくなり、いわば消えてしまった。その代わりに、心を揺さぶる想像の物語に支えられた、まったく別の、もっと強い対象が現れたのだ。電球だったものが、目になった。

このように姿を変えた対象は、内面に感情の反応を呼び起こす。

このときの注意は、ただ対象に興味を持つだけではない。俳優の創造の働き全体を呼び込み、それらとともに創造的な活動を続ける。

対象を生まれ変わらせ、それに伴って注意そのものも、冷たい、知的で理屈だけのものから、温かく、ぬくもりのある自然なものへ変えることを身につけなければならない。

これは私たち俳優の間で使っている言い方だ。

ただし、『感情を伴う注意』という名称は私たちが作ったのではない。心理学者I・I・ラプシンが、著書『芸術的創造』で初めて使ったものだ。

最後に言っておこう。『役の人間としての内面の生活』を創り出すとき、つまり私たちの芸術の根本の目的を果たすとき、この感情を伴う注意が、とりわけ必要で、大切なものになる。

私たちの創造にとって、その注意がどれほど重要か、ここから考えなさい」

私の後に、トルツォフはシューストフ、ヴェセロフスキー、プーシチンを舞台に呼び、同じような実験をした。

繰り返しになるので、それは書かない。

一九……年……月……日

おじが病気になった。

私は授業に遅れた。

授業中も、電話で何度も呼び出された。

結局、授業が終わる前に帰らなければならなかった。

その心配に加え、気が散ってトルツォフの話に身が入らなかった。今日の授業の記録が途切れ途切れで、まとまりを欠くのは、そのためだ。

教室に入ると、ヴェセロフスキーと激しい議論になっていた。

どうやら彼は、役のこと、技術的な方法、注意から追い出せない観客のこと、さらにときには複数の対象まで、同時に気を配るのは、難しいどころか不可能に思える、と言ったらしい。

「そんなことをするには、どれほど注意力が必要なんですか!」とヴェセロフスキーは絶望したように叫んでいた。

「君はそんな仕事はできないと思っている。しかしサーカスで馬に乗って曲芸をする人は、命を危険にさらしながら、もっと難しい課題を見事にこなしている。

考えてごらん。駆ける馬の背で、脚と胴体を使って釣り合いを取り、額に立てた棒が倒れないよう目で見ている。その棒の先では大きな皿が回っている。そのうえ、三つか四つの球を投げ上げて操らなければならない。

同時に、いくつの対象を扱っていることか!

しかも、威勢よく馬に声をかける余裕まである。

曲芸師がこれをこなせるのは、人間の注意がいくつもの層で働き、それぞれが互いを妨げないからだ。

難しいのは初めだけだ。

幸い、多くのことは習慣になれば、自動的にできるようになる。

注意も同じだ。

もし今まで、才能さえあれば、俳優はひらめきに任せて仕事をするものだと思っていたなら、その考えを改めなければならない。

努力を伴わない才能は、まだ何も手を加えられていない素材にすぎない」

議論がどう終わったかは知らない。電話で呼び出され、医者のところへ行かなければならなかったからだ。

劇場の教室へ戻ると、ゴヴォルコフが舞台の前方で、不自然に目をむいて立っていた。アルカージー・ニコラーエヴィチは何かを熱心に説いていた。

「何があったんだ? 何を議論しているの?」と私は隣の者に尋ねた。

「ゴヴォルコフが『観客から目を離してはいけない』と言ったんだ」と、隣の者は笑った。

「私たちは大勢の人の前で演じるんですよ!」と、当の論客が叫んでいた。

しかしアルカージー・ニコラーエヴィチは反対し、「客席を目当てに」見てはいけないと述べていた。

議論そのものは省き、トルツォフの考えでは、どのような条件なら目を客席の方向へ向けてもよいのか、それだけ書きとめておこう。

俳優と客席の間を隔てるはずの、想像上の壁を見ているとしよう。

その壁の上にある、ごく近い一点の対象を見つめるとき、両目はどのような向きになるだろうか。

自分の鼻先を見るときに近いほど、内側へ寄せなければならない。

ところが、ほとんどの場合、俳優はどうしているだろう。

壁を見ると言いながら、すっかり身についた癖で、目は平土間の客席、演出家や批評家、自分をひいきにしてくれる女性の座席へ向いている。

その瞳の角度は、近くの対象を見るときに人体が自然に取る角度とは違っている。

そんな身体の働きの誤りを、俳優本人や相手役、観客が気づかないと思うだろうか。

そんな不自然さで、自分自身や私たちが人間として積んできた経験を欺けると、本当に思うだろうか。

では、別の場合を考えよう。役として遠くの水平線を見なければならない。そこには、去っていく小舟の帆が見えている。

遠くを見るとき、両目の瞳がどんな向きになるか、思い出してほしい。

どちらもまっすぐになり、二つの視線はほぼ平行に伸びる。

その向きを得るには、平土間の後ろの壁を視線で突き抜けるつもりで、想像の中のいちばん遠い一点を探し、そこに注意を定めなければならない。

ところが俳優は、その代わりに何をしているだろう。

やはりいつもどおり、客席の演出家や批評家、自分をひいきにしてくれる女性に目を向けるのだ。

この場合にも、自分や観客を欺けると思うだろうか。

技術の助けで、対象を本来あるべき場所に置き、そこに注意を固定できるようになったとき、舞台上の距離が視線の角度にどう関わるかを理解したときには、前方の客席を向いてよい。観客を越えた先へ視線を飛ばしても、反対に、観客より手前にとどめてもよい。

それまでは、身体で嘘をつく癖をつけないように気をつけることだ。

その癖は、まだ十分に育っていない注意の働きを、ゆがめてしまう。

「じゃあ、それまでは、いったいどこを見ればいいんです?」とゴヴォルコフが尋ねた。

「当面は、舞台の開口部の右、左、上の縁を見なさい。

心配はいらない。観客には君の目が見える。

必要になれば、目はおのずと、脚光の向こう側にあると想定した、想像上の対象へ向く。

それは自然に、本能的に、正しく行われる。

ただし、内側から潜在意識に促されてそうしたくなるのでないかぎり、必要な心理技法が身につくまでは、正面の存在しない壁や遠方を見ることは避けなさい」

私はまた呼び出され、そのまま教室へは戻れなかった。

一九……年……月……日

今日の授業で、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「俳優の注意が実際にどう働くかを、さらに十分に考えるために、創造の材料を集める道具としての注意について話す必要がある。

俳優は舞台の上だけでなく、日常でも注意深くなければならない。

心を引かれるものに、全身全霊を集中させるのだ。

ぼんやり暮らす人のように眺めるのではなく、観察しているものの奥へ入り込まなければならない。

それがなければ、私たちの創造の方法は偏ったものとなり、生活の真実や、今という時代から離れ、それらとのつながりを失ってしまう。

生まれつき観察力に恵まれた人がいる。

意識しなくても、周りで起きることに気づき、しっかり記憶に刻む。

しかも、見たものの中から、最も大切で、面白く、典型的で、生き生きしたものを選び取れる。

そうした人の話を聞けば、観察力の乏しい人たちが見逃すものも、目に浮かべ、理解できる。日常で目を向けて本当に見ることも、捉えたものをありありと言葉にすることもできない人たちが、見逃してしまうものだ。

残念ながら、生活の中の本質的なもの、特徴的なものを見つける、俳優に欠かせない注意力を、誰もが持っているわけではない。

自分のごく身近な利益のためでさえ、それができない人は、実に多いのだ。

まして、生活の真実を知るため、人々に繊細な心遣いを持って接するため、真実に根ざした芸術を創るために、注意深く見聞きできる人は、なおさら少ない。

それができるのは、ごくごく限られた人だけだ。

人が物事を見ようとしない姿を目の当たりにして、どれほど苦しい思いをさせられることか。そのために、ときに生来善良な人が、悪気なく身近な人を苦しめる者になり、賢い人が、目の前で起きていることに気づかない愚かな人になってしまうのだ。

相手の顔つきやまなざし、声の響きから、その人がどんな状態にいるのかを読み取れない。複雑な生活の真実に、自ら目を向けて見ることができない。注意深く耳を傾け、本当に聞き取ることができないのだ。

それができたなら、創造はどれほど豊かに、繊細に、深くなるだろう。

しかし、生まれつき与えられていないものを、人の中に植えつけることはできない。たとえわずかでも、その人に備わっているものを育て、補うよう努めるしかない。

注意の領域でそれを行うには、並々ならぬ努力と時間、意欲、そして体系的な練習が必要だ。

では、観察力の乏しい人に、自然や生活が与えてくれるものに気づき、それを見ることを、どう教えればよいだろう。

まず、悪いものだけでなく、何よりも美しいものに目を向け、本当に見て、耳を傾け、本当に聞く方法を教えなければならない。

美しいものは心を高め、最もよい感情を呼び起こし、感情記憶や、そのほかの記憶に、消えない深い跡を残す。

何にも増して美しいのは、自然そのものだ。

できるだけじっくりと、自然を見つめなさい。

最初は花や葉、クモの巣、窓ガラスに霜が描く模様などを選ぶといいだろう。

どれも、自然という偉大な芸術家の作品だ。

そのどこが気に入ったのか、言葉にしてみなさい。

そうすると、注意は観察する対象へいっそう深く入り込み、よさを判断するときにも自覚が生まれ、その本質をさらに掘り下げられる。

自然の暗い面も、避けてはいけない。

好ましくない現象の中にもよいものが隠れ、最も醜いものの中にも美しさがあり、美しいものの中にも醜さがあることを、ここでも忘れないでほしい。

本当に美しいものは、醜いものを恐れない。

醜さがかえって美しさを引き立てることも、少なくないのだ。

両方を探し、言葉にし、知り、見分けられるようになりなさい。

そうしなければ、美しさについての考えは偏り、甘く、きれいごとに満ちた、感傷的なものになってしまう。それは芸術にとって危険だ。

次には芸術作品にも同じ探究を向けなさい。文学、音楽、博物館の品々、美しい物など、目に触れるものの中で、よい趣味や美しさへの愛を育ててくれるものを、すべて調べるのだ。

ただし、鉛筆を片手に、分析者の冷たい目で取り組んではいけない。

本物の芸術家は、周りの出来事に心を燃やす。生活に魅せられ、それを探究と情熱の対象にする。目に映るものを、むせるほど貪欲に吸収し、外から受け取るものを、統計を取る人としてではなく芸術家として、手帳だけでなく心にも刻もうとする。

集めているのは、ただの材料ではなく、生きて脈打つ、創造の材料なのだから。

要するに、芸術の仕事は冷めたままではできない。

ある程度の内なる熱が、感情を伴う注意が、私たちには必要だ。

それは、創造の材料を探す過程にも当てはまる。

たとえば彫刻家がヴィーナスを作るために、大理石を探して一つ一つ眺めるとき、心は動いている。

石のさまざまな色合いや筋の中に、これから生まれる像の肉体を予感し、感じ取っているのだ。

舞台の芸術家である私たちも、創造の材料を集めるあらゆる過程の根底には、心を奪われることがある。

もちろん、だからといって、理性が大いに働く余地がなくなるわけではない。

冷たくではなく、熱く考えることだって、できるだろう?

日常では、偶然の出来事が注意を自然に、強く目覚めさせることがある。そんなときは、いつもぼんやりしている人まで、よく観察するようになる。

私自身の経験を、一つ話そう。

私は用事があって、敬愛するある有名な作家を訪ねた。

書斎へ案内されたとたん、驚いて立ちすくんだ。机は原稿や書類、本で埋まり、つい先ほどまで詩人が創作していたことを物語っていた。ところが、そのすぐ横に、大きなトルコ太鼓、ティンパニ、巨大なトロンボーン、それにオーケストラの譜面台が並んでいたのだ。隣の客間に入りきらなかったものだった。

それらは大きく開け放った両開きの扉から、書斎にまで押し寄せていた。

隣室は大混乱だった。家具は壁際に乱雑に寄せられ、空いた場所は一面、譜面台で埋まっていた。

『まさか詩人はここで、この有り様の中、太鼓やティンパニ、トロンボーンを聞きながら創作するのか?』と私は思った。

これほど意外な発見なら、いちばん観察力の乏しい人でも注意を引かれ、何としても謎を解き明かそうとするのではないだろうか。

私の注意も張りつめ、全力で働き始めたのは、当然のことだった。

ああ、俳優たちも、私がそのとき敬愛する作家の家の出来事に興味を持ったのと同じくらい、戯曲や役の生活に強い関心を抱いてくれたら!

日々の生活でも、同じような観察力で、いつも周囲の出来事の奥に入り込んでくれたら!

私たちは、どれほど豊かな創造の材料を持てるだろう!

そうなれば、材料を探す過程も、本物の芸術家にふさわしいものになる。

とはいえ、周囲の現実そのものが注意をつかみ、興味を引くときには、観察するのは難しくないことも忘れてはいけない。

その場合は、すべてが自然に、おのずと進むのだ。

では、好奇心を燃え立たせるものも、心を動かすものもなく、目にしたことについて尋ねたり、推測したり、調べたりする気が起きないときは、どうすればよいだろう。

たとえば、私が有名な作家の家を訪ねたのが、オーケストラの練習の日ではなく、譜面台が片づけられ、家具が元の位置に収まった、ふだんの日だったとしよう。

敬愛する作家の家には、ごくありふれた、むしろ小市民的ともいえる室内が見えただろう。一見したところ、何の感動も呼ばず、そこに暮らす著名な人物の生活を特徴づけるものもない。注意も好奇心も想像力も刺激されず、質問や推測、観察、探究へと促されることもなかっただろう。

そういう場合には、人の生活の、ほとんど捉えられないほどかすかな特徴や手掛かりを見つける、並外れた生来の観察力と鋭い注意力が必要になる。それがなければ、眠っている注意を目覚めさせる、技術的な刺激やきっかけ、補助的な方法が必要だ。

しかし、並外れた生まれつきの資質は、自分ではどうにもできない。

一方、技術的な方法は、まず見つけ、知り、使いこなせるようになる必要がある。ひとまずは、すでに実践で試し、よく知っているものを使おう。

以前、想像力が働かないときに、それを動かす助けになった、あの刺激の与え方だ。

その方法は注意を目覚めさせ、他人の生活を冷ややかに眺める状態から君を連れ出し、創造の熱を高めてくれる。

前と同じように自分に問い、正直に、誠実に答えなさい。今見ていることは、誰が、何を、いつ、どこで、なぜ、何のためにしているのだろうか。

その住まいや部屋、気になる品物の、どこが美しく、どこに特徴があるのか、持ち主を最もよく表すものは何か、言葉にしなさい。

部屋や品物の用途を確かめなさい。

家具や品物がなぜこの配置になっていて、別の配置ではないのか、そこに持ち主のどんな習慣がうかがえるのか、自分に問い、答えなさい。

たとえば、先ほどの敬愛する作家を訪ねた話なら、こう問いかけるのだ。

『なぜ、弦楽器の弓とトルコのショール、タンバリンがソファに転がっているのか。

ここで踊りや音楽をやるのは誰なのか。

主人自身か、それとも別の誰かか?』。答えるには、その正体のわからない『誰か』を探すことになる。

どう探せばいいだろう。

人に尋ね、調べ、推測してみるのだ。

床に転がった女性の帽子から、この家に女性がいると推測できる。

机の上の肖像や、隅に重ねられた額入りの肖像も、それを裏づける。越してきたばかりで、まだ壁に掛けていないのだ。

テーブルに置かれたアルバムも見てみなさい。

あちこちに、同じ女性の写真がたくさんある。ある写真では美人で、別の写真では美人とはいえなくても独特の魅力があり、いつも個性的だ。

これで、この家の生活を左右する気まぐれの主が誰か、ここで絵を描き、踊り、オーケストラを指揮するのが誰か、その秘密がわかる。

想像による推測や、人から聞いた話、有名人の名を取り巻く噂が、さらに多くを補ってくれるだろう。

そこから、その作家がこの女性を愛し、戯曲や長編、物語のヒロインを、みな彼女をもとに書いているとわかるのだ。

どうしても入り込む自分の推測や想像が、生活から集めた材料をゆがめてしまうのではないかと、心配になるかもしれないね。

恐れることはない!

自分で補ったことは、それを信じられるなら、材料をいっそう鮮明にする場合も多いのだ。

その例を一つ挙げよう。あるとき並木道で通行人を観察していると、体の大きな太ったおばあさんが、小さな乳母車を押していた。中には赤ん坊の代わりに、マヒワの入った鳥かごが載っていた。

おそらくその女性は、荷物を手に持って運ばずに済むよう、ただ乳母車に載せたのだろう。

しかし私は、その現実を別のふうに見たくなった。おばあさんは子どもも孫もみな亡くし、この世でたった一つ残った愛しい生き物が、かごの中のマヒワなのだ。だから、ついこの間まで最後の可愛い孫を連れて歩いたのと同じ並木道で、今はこの鳥を乗せて歩いているのだ、と考えた。

この解釈のほうが、現実そのものよりも心に迫り、舞台に向いている。

それなら、見たことをこの形で記憶に刻んで、いけない理由があるだろうか。

私は、集めた情報の正確さを求める統計家ではない。創造につながる感情を大切にする芸術家なのだ。

自分の想像で彩られたこの生活の一場面は、今も私の記憶に生きていて、舞台に出たがっている。

周囲の生活をよく見て、そこから創造の材料を探せるようになったら、次は、私たちに最も必要な材料、創造を主に支える材料の探究に進まなければならない。

生きた対象、つまり人間と、個人的に、直接、心と心を通わせることから得られる感情のことだ。

感情の材料がとりわけ貴重なのは、そこから『役の人間としての内面の生活』が作られるからだ。それを創り出すことが、私たちの芸術の根本の目的なのだ。

この材料を手に入れるのは難しい。目に見えず、捉えにくく、はっきり形を定められず、内側で感じることしかできないからだ。

たしかに、目に見えない心の体験の多くは、表情や目、声、話し方、動きなど、身体のあらゆる働きに表れる。

その点では観察する人の助けになるが、それでも人間の本質を理解するのは簡単ではない。人はめったに心を開き、ありのままを見せないからだ。

多くの場合、人は自分の心の動きを隠す。すると外側の仮面は、観察の助けになるどころか、見る者を欺き、隠れた感情を推し量るのをいっそう難しくする。

私たちの心理技法は、今述べたすべての過程を容易にする方法を、まだ作り上げていない。だから私は、場合によってはいくらか役立つ、実践的な助言をいくつかするにとどめよう。

目新しい助言ではない。こういうことだ。観察している人の内面が、生活から与えられる状況の影響を受けて、行動や考え、衝動に表れたら、その行動を注意深く追い、状況を調べなさい。両者を比べ、『なぜこの人はこうしたのか。何を考えていたのか』と自分に問うのだ。そこからふさわしい結論を導き、その人に対して自分はどう感じ、どう関わるのかを定めなさい。そうした取り組み全体を通して、その心のあり方を理解しようと努めるのだ。

長い時間をかけて深く観察し、探究した末にそれができれば、俳優はよい創造の材料を得られる。

しかし、観察している人の内面が、意識的には理解できず、直感でしか捉えられないこともある。

その場合には、いわば自分の感情の触手を伸ばして、他人の心の奥深い隠れ場所へ入り込み、創造の材料を探さなければならない。

この過程で働くのは、潜在意識から生まれる、きわめて繊細な注意と観察力だ。

ふだんの注意力だけでは、生きている他人の心の中に材料を探すには、十分に深く入り込めない。

私たち俳優の心理技法が、この過程を扱えるほど十分に発達していると言えば、嘘になる。そのようなごまかしは、実際の仕事には役立たない。

意識では捉えられない、きわめて繊細な感情の創造材料を探す、この複雑きわまりない過程では、私たちに頼れるのは、暮らしの中で得た知恵、人間としての経験、感受性、直感だけだ。

他人の心へ近づくための実用的な方法を、科学が見つけてくれるのを待とう。そして、感情の筋道や移り変わり、心理学、性格の研究を学ぼう。

それによって、周囲の外面的な生活だけでなく、人々の内面の生活からも、潜在意識に属する創造の材料を探す方法を、作り出せるかもしれない」

第6章 筋肉を解放する

こんなことが起きた。

教室に入ってきたアルカージー・ニコラーエヴィチは、マロレトコワ、ヴュンツォフ、そして私を舞台へ呼び、お金を燃やすエチュードをもう一度やるように言った。

私たちは演じ始めた。

最初の部分は、すべてうまくいった。

ところが悲劇的な場面に近づくと、自分の中で何かが揺らぎ、それからぱたんと閉じて、締めつけられるのを感じた……あそこが……ここが……。

腹が立った。

「負けるものか!」と私は決めた。外から自分を助けようと、手近にあった物を思いきり押さえつけた。それはガラスの灰皿だった。

しかし強く押すほど、心の弁はますます固く閉じた。

そして心の弁が閉じるほど、私は灰皿をさらに強く押した。

突然、何かがぱきっと音を立てて割れた。

同時に、鋭く刺すような痛みが走り、温かい液体が手をぬらした。

テーブルの上の白い紙が赤く染まった。

袖口も赤くなっていた。

手から血が噴き出していた。

怖くなり、目まいがして、気分が悪くなり始めた。

その後、気を失ったのかどうかはわからない。

騒ぎになったのは覚えている。

ラフマーノフとトルツォフがいたのも覚えている。

一人が私の手を痛いほど強く押さえ、もう一人がひもで縛っていた。

最初は支えられて歩き、それから抱えられて運ばれた。

ゴヴォルコフは私の重さに、耳元でひどく息を切らしていた。

私に対するその心遣いが、うれしかった。

医者のことも、治療の痛みも、霧の中のようにおぼろげに覚えている。

それから、ますます力が抜け……目が回り……。

どうやら気を失ったらしい。

私の演劇生活は、しばらく中断することになった。

当然、日記の記録も途絶えた。

この日記に私生活を書くつもりはない。まして、寝床で過ごすだけの、これほど退屈で単調な生活など。

一九……年……月……日

今、シューストフが来て、学校の様子をありありと話してくれた。

私の事故のために授業の予定が変わり、身体を扱う領域を先に取り上げることになったらしい。

トルツォフはこう言ったという。

「授業の厳密な体系と、理論上の順序を崩さなければならなくなった。予定より早く、俳優の仕事の重要な一面、筋肉を解放する過程について話そう。

本来なら、この問題は外面的な技術、つまり身体を扱うところで取り上げるべきものだ。

しかし実際に起きていることを見れば、今、授業の初めの段階、内面的な技術、より正確には心理技法を扱っているうちに、この問題に向き合うほうが適切だとわかる。

筋肉のこわばりや身体の力みが、創造の過程にどれほど害を及ぼすか、君たちにはまだ想像もつかないだろう。

発声器官にそれが起きると、生まれつき美しい声の人でも、声がかすれたり、しわがれたり、ついには話せなくなることもある。

脚に力みが居座れば、俳優は脚が麻痺したように歩く。腕なら、棒のように硬直し、遮断機のようにしか上がらなくなる。

背骨や首、肩にも同じ力みが生じ、それぞれの影響が出る。

どの場合も、その箇所に応じて俳優の姿を損ない、演技を妨げる。

最も困るのは、顔がこわばってゆがみ、表情が動かなくなったり、石のように固まったりすることだ。

目はむき出され、筋肉の引きつりが、俳優の感じている感情にはそぐわない、不快な表情を作る。

横隔膜や、呼吸に関わるほかの筋肉に力みが生じれば、呼吸の働きが乱れ、息切れも起こる。

こうしたことはすべて、内面で体験すること、その体験を外に具現すること、そして俳優の心身の状態全体に、必ず悪影響を与える。

身体の緊張があらゆる活動を妨げ、筋肉の力みが心の働きを縛ることを、確かめてみようか。

実験をしよう。舞台にグランドピアノがあるね。あれを持ち上げてみなさい」

生徒たちは順番に、体に精いっぱい力を込め、重いピアノの一角を持ち上げた。

「持ったまま、急いで三十七かける九を計算しなさい!」とトルツォフは生徒に命じた。

「できないかね?

では、横丁の角から順に、この通りの店を全部思い出しなさい。

それもできないかね?

それなら『ファウスト』のカヴァティーナを歌ってみなさい。

うまくいかないかね?

腎臓入りソリャンカの味を感じてみなさい。あるいは、絹のビロードに触れた感触や、焦げたにおいを思い出してみなさい」

トルツォフの課題に答えるため、生徒は精いっぱいの力で持ち上げていたピアノの角を下ろした。ひと息つくと、問いをすべて思い出し、その意味を理解し、求められた感覚を自分の中に呼び起こしながら、一つずつ答え始めた。

「つまり」とトルツォフはまとめた。「私の問いに答えるには、重いピアノを下ろし、筋肉を緩め、それから初めて、思い出すことに専念しなければならなかったのだ。

これは、筋肉の緊張が内面の働きを、まして体験することを妨げる証拠ではないかね。

身体に力みがある間は、適切で繊細に感じることも、役の自然な心の生活も、望めない。

だから、創造を始める前に、行動の自由を縛らないよう筋肉を整えなければならない。

そうしなければ、舞台で『芸術におけるわが生涯』に書かれているようなことが起きてしまう。

あの本には、俳優が緊張のあまり拳を握り、爪を手のひらに食い込ませたり、足の指を丸め、その上に全体重をかけたりした話が出てくる。

そして今、新たな、もっとはっきりした例が起きた。ナズヴァーノフの事故だ!

彼は自然の法則に逆らい、自然に無理を強いたために傷ついたのだ。

気の毒な彼には、早くよくなってもらいたい。そしてこの事故が、彼自身にも君たちにも、舞台で決してしてはいけないこと、自分の中からきっぱり取り除かなければならないことを教える例になってほしいのだ」

「力みや身体の無理な緊張を、すっかりなくしてしまうことなど、できるのか?

アルカージー・ニコラーエヴィチは、その点をどう言っていた?」

「『芸術におけるわが生涯』に出てくる、ひどい筋肉の緊張に悩んでいた俳優の話をしてくれた。

その人は、絶えず自動的に自分の状態を確かめる習慣を身につけたんだ。

すると舞台に足を踏み入れたとたん、筋肉が自然に緩み、余分な収縮から解放されるようになった。

舞台で創造するときの難しい瞬間にも、同じことが起きたそうだ」

「すごいな!」と私は、その幸せな人をうらやんだ。

「でも、俳優の正しい働きを妨げるのは、強い筋肉のけいれんだけじゃない。どこか一か所の、自分でもすぐには見つけられないほど小さな力みが、創造を止めてしまうこともある」とパーシャは、トルツォフの言葉を思い返しながら続けた。

「それを裏づける、実際の例がある。

すばらしい才能と情熱を持ちながら、それをいつもは発揮できない女優がいた。

たまに、偶然のようにしか発揮できなかった。

しばしば彼女は、感情の代わりに、ただ身体に力を込めていた。僕たちの言う『いきみ』だね。

筋肉を緩める稽古をずいぶんして、かなりよくなったのだが、それでも助けになったのは一部だけだった。

ところが、まったく偶然、劇的な場面になると、彼女の右の眉がほんの少し緊張することに気づいた。

そこで、難しい場面に入るときは、顔の緊張をすべて取り除き、完全に解放することが、自動的にできるよう習慣をつけてもらった。

それができると、全身の緊張も自然に緩んだ。

生まれ変わったようだったそうだ。身体は軽やかで表現豊かになり、顔もよく動いて、役の心の生活を鮮やかに表すようになった。内側の感情が、潜在意識の奥から自由に外へ出られるようになったんだ。まるで袋から解き放たれたみたいに。

その自由を感じ取ると、彼女は心にたまっていたものを喜びのうちに表し、それがさらに創造の力を与えてくれたそうだ」

一九……年……月……日

今日見舞いに来たウムノヴィフの話では、トルツォフは、余分な緊張を身体からすべて取り除くことはできないと言ったらしい。

それは不可能なだけでなく、そもそも不要な課題だという。

一方シューストフも、同じくトルツォフの言葉として、舞台でも日常でも、絶えず筋肉を緩めなければならないと言い張る。

そうしなければ、力みやこわばりが極限まで強くなり、創造の瞬間に、生きた感情の芽を押しつぶしてしまうからだという。

筋肉を完全に緩めることはできない。だが、緩めなければならない。この矛盾を、どう理解すればいいのだろう。

ウムノヴィフの後に来たシューストフは、だいたい次のように説明してくれた。

「神経の敏感な人には、生活のどんな瞬間にも、筋肉の緊張が起きるのは避けられない。

俳優も人間だから、人前に出れば、いつでも緊張は生まれる。

背中の緊張を減らすと肩に出る。肩から取り除くと、今度は横隔膜へ移っている。

そんなふうに、あちこちの筋肉に、絶えず力みが現れるんだ。

だからこの欠点とは、常に根気よく取り組んで、決してやめてはいけない。

完全になくすことはできなくても、取り組む必要はある。

その方法は、自分の中に観察役、つまり監視役を育てることだ。

監視役の仕事は大変だよ。日常でも舞台でも、どこかに余分な緊張や力み、こわばりが生じていないか、絶えず見張っていなければならない。

力みがあれば、取り除く。

自分を点検し、余分な緊張を取り除くこの過程を、無意識に自動的に行える習慣にしなければならない。

それだけじゃない。役の穏やかな瞬間はもちろん、何よりも神経も身体も最高潮に高ぶる瞬間に、当然の習慣として、自然に必要とするものにしなければならないんだ」

「どういうこと?」と私は理解できなかった。

「興奮しているのに、力を入れないのか?」

「入れないどころか、反対に、できるだけ筋肉を緩めるんだ」とシューストフが答えた。

「アルカージー・ニコラーエヴィチによると」とパーシャは続けた。「俳優は感情が大きく高まると、頑張りすぎて、ますます身体に力を入れてしまう。

それが創造にどう響くかは、僕たちも知っている。

だから、高揚したときに調子を崩さないよう、筋肉の緊張をできるだけ徹底して解くことに、とりわけ気を配らなければならない。

絶えず自分を点検し、緊張を取り除く習慣が、舞台上の俳優にとって、普通の状態になる必要があるんだ。

長い練習と、体系的な訓練で、それを目指さなければいけない。

大きく高揚したとき、力を入れたくなるよりも、筋肉を緩める習慣のほうが自然に働く。そこまで自分を育てるんだ」とパーシャは言った。

「そんなことができるのか?」

「アルカージー・ニコラーエヴィチは、できると言っている。

『避けられないなら、緊張が生まれても構わない』と先生は言う。

『ただ、その直後に監視役が点検するようにすればよい。

もちろん、自動的な習慣を身につける初めのうちは、監視役のことをずいぶん意識し、働き方を指示しなければならない。そのぶん、創造から注意がそれる。

けれども、やがて興奮したときに筋肉を解放すること、少なくとも解放しようとすることが、当たり前になる。

この習慣は毎日、規則的に育てなければならない。授業や家での練習だけでなく、舞台を離れた実際の生活でもだ。横になるとき、起きるとき、食事、散歩、仕事、休息、つまり暮らしのあらゆる瞬間に行うのだ。

筋肉の監視役を身体の自然な働きに組み込み、第二の天性にする必要がある。

そうして初めて、筋肉の監視役は、創造の瞬間に私たちを助けてくれる。

決まった時間、決まった数分間だけ筋肉の解放に取り組んでも、望む結果には届かない。時間を限った練習だけでは、習慣にならず、無意識に自動的に働くところまで進めないからだ』」

シューストフの説明したことが本当にできるのか、私が疑うと、彼はトルツォフ自身を例に挙げた。

若い頃のトルツォフは、ひどく神経が高ぶると、筋肉の緊張がほとんどけいれんに近くなるほどだったらしい。

だが、自動的に働く監視役を自分の中に育ててからは、同じように神経が高ぶっても、筋肉を緊張させるのではなく、反対に緩めたくなるようになったという。

今日は、親切なラフマーノフも見舞いに来てくれた。

アルカージー・ニコラーエヴィチからの挨拶を伝え、彼に頼まれて練習を教えに来たと言った。

「ナズヴァーノフは寝ている間、することもないだろうから、励んでもらおう。

今の彼に、いちばんふさわしい仕事だ」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは言い添えたそうだ。

練習は、床などの平らで硬い面に仰向けになり、不必要に緊張している筋肉のまとまりを見つけるというものだ。

内側の感覚をもっとはっきり捉えるため、「肩が力んでいる。首が、肩甲骨のあたりが、腰が」と、場所を言葉にしてもよい。

見つけた緊張は一つずつすぐに緩め、その間も新たな緊張を探し続ける。

私はラフマーノフの前で、この簡単な横たわる練習を試した。ただし硬い床ではなく、柔らかい寝床の上で。

力の入った筋肉を緩め、体重を支えるために必要だと思った箇所だけを残した。そして、その場所を「左右の肩甲骨と仙骨」と言った。

しかしイヴァン・プラトーノヴィチは異を唱えた。

「インドの人々は、小さな子どもや動物のように寝なさいと教えていますよ。

動物のように!」と、彼は念を押した。

「これは確かです!」

続いてイヴァン・プラトーノヴィチは、その必要がある理由を説明した。

子どもや猫を砂の上に寝かせ、落ち着くか眠るのを待ってから、そっと持ち上げると、砂には全身の形が残るという。

同じことを大人で試すと、強く押しつけられた肩甲骨と仙骨の跡しか残らない。ほかの部分は、慢性的に習慣となった筋肉の緊張のため、砂への触れ方が弱く、跡にならないのだそうだ。

子どものように寝て、柔らかい地面に全身の形を残すには、筋肉の緊張をすべて取り除かなければならない。

その状態なら、身体は最もよく休まる。

そうして休めば、ほかの状態では一晩でも得られないほど、三十分や一時間で疲れを取れるという。

隊商の先導者たちがこの方法を使うのも、理由のないことではない。

砂漠では長く足を止められず、睡眠時間を最小限にしなければならない。

そこで、全身の筋肉の緊張を解くことで休息の短さを補い、疲れた身体を回復させるのだという。

イヴァン・プラトーノヴィチも毎日、昼と夜の授業の間にこの方法を使っている。

十分間休むと、すっかり元気になるそうだ。

このひと休みがなければ、毎日の仕事には耐えられないという。

イヴァン・プラトーノヴィチが帰ると、私はすぐ、うちの猫を部屋へ呼び入れた。そして、体の形がくっきり沈み込む、とびきり柔らかいソファのクッションに寝かせた。

筋肉を緩めて横になり、休む方法を、猫に教わろうと決めたのだ。

アルカージー・ニコラーエヴィチの言葉を思い出した。「俳優は赤ん坊のように、見ること、歩くこと、話すことなど、何もかも初めから学び直さなければならない。

日常では、私たちはそれをみなできている。

しかし問題は、大多数が、自然にかなったやり方ではなく、まずいやり方で行っていることだ。

舞台では日常とは違って、もっとよく、もっと自然にかなった仕方で、見て、歩き、話さなければならない。第一に、脚光の下では欠点がとりわけ目立つ。第二に、その欠点が舞台上の俳優の状態全体に影響するからだ」

この言葉は、横になることにも当てはまるはずだ。

そういうわけで、今は猫と一緒にソファに寝ている。

猫の眠り方を観察して、まねをしようとしている。

だが、どの筋肉も緊張させず、身体のあらゆる部分を寝ている面に触れさせるのは、簡単ではない。

力の入っている筋肉に気づき、場所を確かめること自体は、難しいとは思わない。

余分な収縮を取り除くのも、別段難しくない。

困るのは、一つの緊張をなくしたと思うと、すぐに二つ目、三つ目が現れ、際限がないことだ。

身体の力みやこわばりに耳を澄ませるほど、それが増えてくる。

そのうち、これまで気づかなかった感覚を、自分の中に見分けるようになる。

すると、さらに次々と力みが見つかり、見つけるほど新しいものが明らかになる。

短い間だが、背中と首の緊張を解くことができた。

それで身体が生まれ変わったとは言えないが、私たちが気づかないまま、どれほど多くの余分で、役に立たず、有害な筋肉の緊張を抱えているかは、はっきりわかった。

あの眉の力みが引き起こした裏切りを思い出すと、身体の緊張は本気で恐ろしくなってくる。

すべての筋肉を完全に解放できたわけではない。それでも、いつかもっと自由になれたときの喜びを、先取りして味わえた気がする。

訳注

底本の насаждение(植栽)は文脈に合わないため、наслаждение(喜び・満足)の誤記と解して訳した。

いちばん困るのは、筋肉の感覚に気を取られ、混乱してしまうことだ。

そのせいで、手がどこにあり、頭がどこにあるのかも、わからなくなる。

今日の練習で、なんと疲れたことか!

こんな寝方では、休んだことにならない!

……

今、横になりながら、いちばん強い力みを解き、注意の輪を自分の鼻先まで狭めることができた。

すると、目まいが始まるときのように頭がぼんやりし、うちの猫氏と同じように眠ってしまった。

筋肉を緩めると同時に注意の輪を狭めるのは、不眠によい方法らしい。

一九……年……月……日

今日はプーシチンが来て、「訓練と反復稽古」の様子を話してくれた。

イヴァン・プラトーノヴィチは、トルツォフの指示で、生徒たちにさまざまな姿勢を取らせた。横たわるだけでなく、上体を起こした姿勢もだ。座る、腰を半ば下ろす、立つ、ひざをつく。一人で、あるいは何人かで。椅子やテーブル、ほかの家具も使ったという。

どの姿勢でも、横になったときと同じように、余分に緊張している筋肉を見つけ、その場所を言わなければならない。

もちろん、どんな姿勢にも、ある筋肉の一定の緊張は必要だ。

その筋肉には力を入れてよい。ただし、それだけにし、休んでいるべき周囲の筋肉まで緊張させてはいけない。

また、緊張にも程度があることを覚えておく必要がある。姿勢に必要な筋肉を、必要な分だけ収縮させることもできれば、ひきつり、けいれんするほど力を入れることもできる。

そのような余計な力は、姿勢そのものにも、創造にも、非常に有害だ。

授業の様子を詳しく話すと、親切なプーシチンは、その練習を一緒にやってみようと誘ってくれた。

もちろん私は賛成した。まだ体力がなく、治りかけの傷を開いてしまう恐れもあったが。

そこで、ジェローム・K・ジェロームの筆にでも託したくなるような場面が繰り広げられた。

大柄なプーシチンが、力んで赤くなり、汗をかき、息を切らしてふうふう言いながら、床を転がり、奇妙きわまりない姿勢を取る。

その隣には、やせてひょろ長く、青白い私が寝ている。腕をつり、しまのパジャマを着た姿は、まるでサーカスの道化だ。

この愉快な太っちょと、どれほどあれこれ転げ回ったことだろう!

別々に寝たり、一緒に寝たり、闘う剣闘士の格好をしたりした。一人ずつ立ったり、二人で記念碑の像のように並んだりもした。私が立ち、プーシチンが打ち倒されて地に伏す。彼が立ち、私がひざまずく。二人で祈りの姿勢になったかと思えば、擲弾兵のように直立不動になった。

どの姿勢でも、あちこちの筋肉のまとまりを絶えず解放し、監視役が念入りに点検しなければならなかった。

そのためには、すばやく状況をつかみ、身体の感覚を見分け、理解できるよう、よく鍛えられた注意力が必要だ。

複雑な姿勢では、必要な緊張と不要な緊張を区別するのが、横たわっているときよりはるかに難しい。

必要なものは保ち、余分なものを減らすのは、簡単ではない。

やっているうちに、何が何を動かしているのか、わからなくなる。

プーシチンが帰ると、私は真っ先に猫を探しに行った。

柔らかく自由な動きを、猫以外の誰から学べばよいだろう。

実際、まねのできない達人だ!

とてもかなわない!

私は猫にあらゆる姿勢を取らせてみた。頭を下にしたり、横向きにしたり、仰向けにしたり!

一本ずつの足で、四本の足全部で、しっぽでもつり下げられた。

どの姿勢でも、最初の一瞬は身構えるが、すぐに驚くほど軽やかに余分な緊張を解き、必要な力だけを保つ様子が見て取れた。

何を求められているかを悟ると、猫氏はその姿勢に合わせ、ちょうど必要な分だけ力を使った。

あとは落ち着いて、求められるかぎりその姿勢でいられるように見えた。

なんという適応力だろう!

猫氏と練習していると、突然、思いがけない人が現れた……。

誰だと思う?

こんな奇跡をどう説明したらいい?

ゴヴォルコフが来たのだ!

私はどれほどうれしかったことか!

あのとき、血を流して彼に抱えられ、意識もおぼつかないまま運ばれていた私は、耳元で彼がうなるのを聞きながら、その心から伝わる温かさを、かすかに感じていた。

今日も同じ温かさを感じた。

いつもの見慣れた彼とは違う姿が見えた。

トルツォフのことを話す口ぶりまで、普段とはまるで違った。そして、授業の面白い一節を教えてくれた。

筋肉を緩めることと、姿勢を保つのに必要な緊張について話しながら、アルカージー・ニコラーエヴィチは自分の経験を思い出した。ローマのある個人宅で、アメリカ人女性の実演に立ち会ったことがあるという。

彼女は古代彫像の復元に関心を持っていた。腕や脚、頭がなく、胴体も壊れ、その一部しか残っていない姿で伝わる像の復元だ。

そのアメリカ人女性は、残った断片から彫像の姿勢を推し量ろうとしていた。

そのため、人の身体が平衡を保つ法則を学び、自分でさまざまな姿勢を取りながら、そのつど重心がどこにあるかを見定める力を身につける必要があった。

彼女は、重心の位置を瞬時に察知する並外れた感覚を養っており、どうしても体の釣り合いを崩させることができなかった。

押されても、放り出されても、つまずかされても、とても立っていられそうにない姿勢を取らされても、いつも切り抜けた。

それどころか、小柄でほっそりした彼女が、かなり体重のある男性を、軽くひと押ししただけで倒してしまった。

それも、平衡の法則を知っていたからだ。

彼女は、相手のどこを押せば、力を使わずに釣り合いを崩して倒せるのか、その弱点を見抜いていた。

トルツォフには、彼女の技の秘密はつかめなかった。

だが、数々の実演を通して、平衡を決める重心の位置を見つける力が、どれほど重要かは理解できた。

高度に発達した平衡感覚が命じる仕事だけを筋肉が行うなら、身体の動きやすさ、柔軟さ、適応力を、どれほど高められるかを見たのだ。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、私たちにもこの技術、自分の身体の重心を知る技術を学ぶよう勧めている。

それなら、猫氏のほかに誰を先生にすればいい?

そこでゴヴォルコフが帰ると、私は猫と新しい遊びを始めた。押したり、放ったり、ひっくり返したりして、倒そうとしたが、どうしてもできなかった。

猫が倒れるのは、自分がそうしたいときだけだった。

一九……年……月……日

プーシチンが来て、「訓練と反復稽古」の成果を、アルカージー・ニコラーエヴィチが点検した話をしてくれた。

今日は重要な追加があったそうだ。トルツォフは、どの姿勢も、自分の監視役で確かめ、自動的に余分な緊張を解くだけでは足りないと言った。想像の物語や、与えられた状況、「もしも」によって、その姿勢を取る理由を与えることも求めたのだ。

その瞬間、姿勢はただの姿勢ではなくなる。能動的な課題を得て、行動になる。

たとえば、腕を上に伸ばして、こう自分に問いかけるとしよう。

「もしこうして立っていて、頭上の高い枝に桃がなっていたら、もぎ取るには、どう動き、何をすればよいだろう?」。この想像を信じさえすれば、桃を取るという実際の目的のために、死んだ姿勢が、生きた本物の行動に変わる。

その行動に真実を感じさえすれば、自然そのものがすぐに助けに来る。余分な緊張は緩み、必要な力は強まる。意識的な技術が口を出さなくても、そうなるのだ。

舞台には、理由のない姿勢があってはならない。

本物の創造、真剣な芸術に、芝居の型だからというだけのものは要らない。

何らかの理由で様式上の約束事が必要なら、それにも根拠を与えなければならない。外見をきれいに見せるためではなく、内面の本質に仕えるものでなければならないのだ。

続いてプーシチンは、今日、説明のために行った練習がいくつかあると言い、その場でやって見せた。

愉快な太っちょは、思いつくままの姿勢でソファに寝そべった。体を半分外へ垂らし、顔を床へ近づけ、腕を前に伸ばした。なんともおかしな格好だった。

ばかげた、何の意味もない姿勢だった。

楽でないのは明らかで、どの筋肉に力を入れ、どれを緩めればよいか、本人もわからない様子だった。

監視役を働かせると、必要な緊張と余分な緊張は見つかった。

それでも、すべての筋肉が適切に働く、自由で自然な姿勢にはなれなかった。

突然、彼が叫んだ。「大ゴキブリ様のお出ましだ!

早く頭をたたいてやれ!」

その瞬間、彼はある一点、想像上のゴキブリへ、それをつぶそうと手を伸ばした。するとすぐに、筋肉はみな自然に収まるべきところへ収まり、適切に働き出した。

姿勢に理由が生まれ、すべてが信じられるものになった。伸ばした腕も、垂れ下がった胴体も、ソファの背に突っ張った脚も。

プーシチンは、想像上のゴキブリを押しつぶしたまま静止した。身体が課題を正しく果たしていることは、はっきりしていた。

自然は、意識や名高い俳優の技術よりも、うまく生きた身体を導く。

今日トルツォフが行った練習はすべて、舞台でどんな姿勢を取るときにも、三つの段階があると、生徒に理解させるためのものだった。

第一は、余分な緊張。新しい姿勢を取るたびに、また人前に出る不安から、避けがたく生まれる。

第二は、監視役の助けを借りて、余分な緊張を自動的に解くこと。

第三は、その姿勢だけでは俳優自身が信じられない場合に、理由を与え、納得できるものにすること。

緊張、解放、そして理由づけだ。

「緊張、解放、理由づけ」とプーシチンは繰り返しながら、別れを告げた。

彼は帰っていった。

私は猫のおかげで、今教わった練習の意味を、偶然、確かめて理解することになった。

こういうことだ。先生に機嫌よくしてもらおうと、猫を自分の隣に置き、かわいがって、なでていた。

ところが猫は寝ていないで、私の腕を飛び越えて床に下りた。身構えると、何か獲物を察知したらしく、部屋の隅へ、柔らかな足取りで音もなく忍び寄り始めた。

その姿には、見とれずにはいられなかった。

私は一つ一つの動きを、注意深く追った。

猫を視野から外さないために、サーカスの「蛇人間」のように身体を曲げなければならなくなった。

傷めた腕をつっている私には、決して楽な姿勢ではなかった。

私はすぐに、その姿勢を点検の機会にした。できたての筋肉の監視役を、全身にくまなく巡らせたのだ。

最初の一瞬は、申し分なかった。必要なところだけに力が入っていた。

当然といえば当然だ。

生きた目的があり、自然そのものが働いていたのだから。

ところが注意を猫から自分へ移したとたん、すべてが変わった。

注意は散り、あちこちに筋肉の力みが現れた。必要だった力も強まりすぎて、ほとんどけいれんに近くなった。

周りの筋肉まで、不必要に働き始めた。

生きた目的と行動は止まり、代わりに、俳優が陥りやすい、いつものこわばりが入り込んだ。これには「筋肉の解放」と「理由づけ」で取り組まなければならない。

そのとき、履いていた靴が脱げた。

私は履き直して留め金を掛けようと、体を二つに折り曲げた。

傷めた腕をつっているため、また自然に、難しく力の要る姿勢になった。

この姿勢も、監視役で確かめてみた!

すると、どうだろう!

注意が行動そのものに向いている間は、すべてうまくいっていた。その姿勢に必要な筋肉には十分に力が入り、自由な筋肉には余計な力が見られなかった。

だが、行動そのものから気がそれて目的が失われ、自分の身体の観察にかかりきりになったとたん、余分な緊張が生まれ、必要な力までこわばりに変わった。

もう一つ、まるで狙ったように、偶然がよい例を届けてくれた。

たった今、洗面をしているときに、せっけんが手から滑り、洗面台と戸棚の間へ転がり込んだ。

傷めた腕を浮かせたまま、もう一方の手を伸ばして取らなければならなかった。

また難しい姿勢になった。

私の監視役は眠っていなかった。

自分から進んで、筋肉の緊張を確かめた。

すべて適切だった。動きに必要な筋肉のまとまりだけが、力を入れていた。

「今度は、わざと同じ姿勢を繰り返してみよう!」と自分に言った。

そして、繰り返した。

だが……せっけんはもう拾ってあり、その姿勢を取る現実の必要はなかった。

生きた目的は消えていた。

死んだ姿勢だけが残った。

筋肉の働きを調べると、意識して扱おうとするほど余計な緊張が増え、それらを見分け、必要な力を探すのが難しくなるとわかった。

そのとき、さっきせっけんがあったあたりの黒い筋が気になった。

何なのか確かめようと、触れるために手を伸ばした。

床のひび割れだった。

だが大事なのは、ひびではない。私の筋肉も、その自然な力の入り方も、またすっかり適切になっていたことだ。

これらの試みを通して、はっきりした。生きた目的と本物の行動は、自然そのものをおのずと働かせる。それは現実の行動でも、想像の生活の中の行動でもよい。ただし、与えられた状況によって十分な理由があり、創造する俳優本人が心から信じていることが必要だ。

筋肉を自在に扱い、正しく力を入れたり緩めたりできるのは、自然だけなのだ。

一九……年……月……日

今、ソファでうとうとしていた。

まどろみの中で、何かが気にかかった。

何かしなければならなかった……。

手紙を出すんだったか……?

誰に……?

やがて、それは昨日のことだと気づいた。今日は……今日はけがをしていて、包帯を替えるんだ……。

いや、包帯はもちろんだが……ほかに……。

プーシチンが来て、何か言った……それをまだ書いていない……。

とても大切なことを。

そうだ、思い出した。明日は本番前の総稽古……。

『オセロー』……それにしても、寝心地が悪い……。

わかった、すべてはっきりした……。

どこかの筋肉がひどく緊張して、両肩を上へ引きつらせているんだ……強すぎて、ほどけないほどに……。

監視役が全身を探し回って……私を起こそうとする。

ああ、よかった。ほどけた!

まったく別の支えどころを見つけると、具合がよくなり、楽になった。ずっといい……。

寝ている柔らかなソファに、体がもっと深く沈んだようだ……。

あれ、また何か忘れた。

さっきは覚えていたのに、なぜか忘れた。

そう……わかった、また監視役だ。いや、監察官のほうがいい。

筋肉監察官……。

そちらのほうが威厳がある。

また一瞬目が覚め、背中が力んでいるとわかった。

いや、背中だけじゃない。肩も……。

左足の指も丸まっている。

そんなふうにずっと、半分眠りながら、監視役と一緒に自分の力みを探していた。

今こうして書いている間も、それは絶えない。

思い返すと、昨日プーシチンがいたときも、同じような、わけのわからない落ち着かなさがあった。

おととい、医者が来る前には、背骨のあたりが窮屈で、いったん腰を下ろさなければならなかった。

座ると、楽になった。

これは何なのだろう?

私の中には、いつも力みが生まれているのか?

休みなく?

なぜ前には、こんなことがなかったのだろう?

気づかなかっただけで、まだ自分の中に監視役がいなかったからか?

ならば、監視役が生まれ、もう私の中で生きているということか?

いや、それだけではないかもしれない。監視役が働いているからこそ、以前は気づかなかった新しい力みが、次々と見つかるのか。

それとも、どれも昔からずっとあった力みで、今ようやく意識して感じ始めたのか。

誰にわかるだろう?

一つだけ確かなのは、私の中で、以前にはなかった新しい何かが起きているということだ……。

一九……年……月……日

シューストフによると、トルツォフは、動かない姿勢から身振りへと授業を進めたそうだ。その導き方と結論は、こういうものだった。

授業は広間で行われた。

生徒全員が、閲兵式のように一列に並ばされた。

トルツォフが右腕を上げるように言うと、皆が一斉に従った。

腕は遮断機のように、重々しく上がっていった。

同時にラフマーノフが、一人一人の肩の筋肉を触って、「だめです。首と背中を緩めて。

腕全体に力が入っている……」などと指摘した。

「腕の上げ方を知らないのだね」とトルツォフは結論づけた。

課題はごく簡単に思えたが、誰もできなかった。

求められたのは、肩の動きを担う筋肉のまとまりだけを、いわば「切り離して」働かせることだった。それ以外の首や背中、まして腰の筋肉は、緊張させずにおかなければならない。

よくあるように、腰の筋肉は動きを助けようとして、上げる腕とは逆側へ胴体全体を傾けてしまう。

こうして近くの筋肉まで余分に緊張することから、トルツォフは、押すと隣の鍵盤まで引っかける、壊れたピアノを思い浮かべた。

「ド」を弾くと、隣の「シ」と「ドのシャープ」まで鳴ってしまう。

そんな楽器では、さぞ立派な音楽になることだろう!

私たちの動きも、壊れた鍵盤と同じように働くなら、その音楽も推して知るべしだ。

それでは、油の足りない機械のように、動きがはっきりせず、すっきりしないのも不思議ではない。

動きを、ピアノの澄んだ音のように、明瞭にしなければならない。

そうしなければ、役の動きの線は濁り、内面と外面の生活の表現も、曖昧で芸術性のないものになる。

感情が繊細であればあるほど、それを身体で具現するときには、いっそう明瞭で、正確で、しなやかな動きが必要になる。

「今日の授業では」とシューストフは続けた。「アルカージー・ニコラーエヴィチが機械技師になって、僕たちのねじを外し、骨や関節や筋肉を一つ一つ分解して、全部洗って、掃除し、油を差してから、また組み立てて、元の位置にねじ留めしたみたいな気がしたよ。

授業の後は、自分が前より柔らかく、動きやすく、表現豊かになった気がするんだ」

「ほかには何をした?」と、話に引き込まれた私は尋ねた。

「肩、腕、背中、脚の、ある筋肉のまとまりを切り離して働かせるとき、ほかの筋肉はすべて緊張させずにおくよう求められた」とパーシャは思い返した。

「たとえば、肩の筋肉に必要な力を入れて腕を上げるとき、肘から先、手首、指、指の関節は、下へぶら下がったままにする。それぞれの筋肉は、すっかり自由で柔らかく、力が抜けていなければならないんだ」

「それで、できるようになったの?」と私は興味を持って尋ねた。

「正直に言えば、できなかった」とパーシャは認めた。

「そのうち身につくだろう感覚を、かすかに予感しただけだよ」

「求められたことは、そんなに難しいの?」と私は腑に落ちなかった。

「一見、簡単なんだ。

でも誰も、きちんと課題を果たせなかった。

そのための準備が必要なんだよ。

仕方がない!

心から身体まで、足先から頭のてっぺんまで、自分を丸ごと作り直して、芸術の求めるものに、いや、もっと正確に言えば自然そのものの求めるものに、合わせていかなければならないんだ。

芸術は自然と、とてもよく調和しているからね。

僕たちの自然な働きを損なうのは、日々の暮らしと、そこで身につく悪い癖なんだ。

普段なら見逃される欠点も、脚光の下でははっきり現れ、観客の目につきまとう。

もっとも、それは当然だ。舞台では、人間の生活が、カメラの絞りの中のように、狭い舞台の枠に収めて示されるのだから。

その開口部に収められた生活を、観客はオペラグラスで見る。小さな細密画を、虫眼鏡で眺めるようにね。

だから、どんな細部も、ごく小さなことも、観客の注意を逃れられない。

遮断機のようにまっすぐ上がる腕も、日常ならどうにか許されるかもしれないが、舞台では通用しない。

身体を木のように硬く見せ、人間をマネキンにしてしまう。

そんな俳優は、心まで腕と同じ、木でできているように思われる。

そこへ、棒のようにまっすぐな背骨まで加われば、人間ではなく、文字どおりの『木偶の坊』だ。

そんな『木』に、何が表せるだろう。

どんな内面の体験を伝えられるだろう?」

パーシャによると、今日の授業では、肩の適切な筋肉を使って腕を上げるという、いちばん簡単な課題さえ、結局できなかったそうだ。

肘を曲げる練習、続いて手首、指の第一、第二、第三の関節を曲げる練習もしたが、同じくうまくいかなかった。

やはり一部分を動かすと、腕全体が一緒に働こうとした。

さらにトルツォフが、肩から指へ、指から肩へと、腕の各部分を順に曲げていくよう求めると、結果はいっそうよくなかった。

当然だろう。

一つ一つの曲げ方ができないのだから、それらを筋道に沿って、次々と続けて行うのは、さらに難しい。

もっとも、トルツォフは、今すぐできるようにするために練習を示したのではなかった。

ラフマーノフの次の「訓練と反復稽古」の授業に、課題を与えただけだった。

首をあらゆる方向へ動かす練習も、背骨、腰、脚の練習も同じように行われた。特に、トルツォフが「身体の目」と呼ぶ、手の練習に力を入れたという。

プーシチンが来た。

親切にも、シューストフが言葉で説明したことを、すべて実演してくれた。

彼の体操は、実におかしかった。

とりわけ、後頭部のすぐ下から骨盤のそばまで、背骨を一節ずつ曲げ伸ばしするところが。

丸々とした愛すべきプーシチンの体では、脂肪が流れ移るように見え、動きが滑らかに感じられた。

だが本当に背骨まで感覚を届かせ、一節ずつ捉えられたのかは、疑わしい。

見た目ほど簡単なことではない。

私が自分で感じ取れたのは、たった三節、つまり背骨が曲がる三か所だけだった。

動く椎骨は、全部で二十四もあるというのに。

シューストフとプーシチンが帰った。

今度は猫氏の番だ。

私は猫と遊び、さまざまな、信じられないほど、言葉では表せない姿勢を観察した。

動物のように調和した動き、発達した身体には、人間はとても及ばない!

どんな技術を使っても、あれほど完璧に筋肉を扱うことはできない。

あれほど巧みに、軽やかに、明瞭に、無理なく動き、姿勢を取り、しなやかに振る舞うことを、無意識に成し遂げられるのは自然だけだ。

美しい猫が跳び、じゃれ、隙間から出した私の指をつかもうと飛びかかるとき、完全な静止から、目で追いきれないほど素早い動きへ、一瞬で移る。

なんと無駄なく力を使うのだろう!

なんと巧みに力を配るのだろう!

動いたり跳んだりする準備をしても、猫は余計な緊張に力を浪費しない。

そんな緊張はないのだ。

力を蓄え、決定的な瞬間に、そのとき必要な動きの中心へ、一気に送り込む。

だからこそ、動きがあれほどはっきりし、確かで、強いのだ。

確かさに加え、軽やかさ、機敏さ、筋肉の自由さが、ネコ科の動物ならではの、名高いしなやかさを生んでいる。

自分を試し、猫と張り合ってみようと、私は自分のオセローの歩き方で、「虎のように」歩いてみた。

最初の一歩で、意に反して全身の筋肉が張りつめた。試演会のときの身体の状態が鮮明によみがえり、自分のいちばんの誤りがわかった。

全身のこわばりに縛られた人間は、自由を感じることも、舞台で自然な生活を送ることもできないのだ。

ピアノを持ち上げて身体に力が入っていると、掛け算さえ難しい。まして、オセローのような複雑な心理を持つ役で、繊細きわまりない内面の感情を、どう扱えるというのだろう!

トルツォフは、あの試演会で、なんとよい、生涯忘れられない教訓を与えてくれたことだろう。

舞台で決してしてはいけないことを、私に得意満面でやらせたのだ。

実に賢明で、説得力のある、逆からの証明だった。

第7章 部分と課題

一九……年……月……日

今日の授業は客席で行われた。

中に入ると、大きな掲示が目に入った。

「部分と課題」

アルカージー・ニコラーエヴィチは、新たな、きわめて重要な段階へ進んだことを祝福し、「部分」とは何か、戯曲や役をどのように構成部分へ分けるのか、説明し始めた。

話はいつものように、わかりやすく面白かった。

それでも、まず書きとめたいのは、トルツォフの授業ではなく、授業の後に起きたことだ。それが、アルカージー・ニコラーエヴィチの説明を、いっそうよく理解する助けになったのだ。

今日私は、友人パーシャのおじである、名優シューストフの家を初めて訪ねた。

食事中、大俳優は甥に、学校では何をしたのかと尋ねた。

私たちの勉強に関心があるのだ。

パーシャは、新たな段階、「部分と課題」に進んだと答えた。

「シュポンジャは知っているかね?」と老人が尋ねた。

聞けば、シューストフの子どもの一人が、シュポンジャというおかしな姓の若い教師から演劇を学んでいるという。その教師はトルツォフの熱烈な信奉者だった。

おかげで、この家では年長の子も小さい子も、私たちの用語を覚えていた。

魔法の「もしも」、「想像の物語」、「本物の行動」など、私のまだ知らない用語まで、子どもたちの日常の言葉になっていた。

「シュポンジャは一日中、何か教えている!」と大俳優は冗談めかして言った。ちょうどその前へ、大きな七面鳥が運ばれてきた。

「いつだったか、うちに来てね。

これと同じような料理が出たんだ。

そのとき私は指が痛かった。

それで、彼に切り分けて配ってもらった。

『子どもたち!』とシュポンジャは、うちのワニどもに話しかけた。

『これは七面鳥ではなく、五幕物の大きな戯曲だと考えてごらん。たとえば〈検察官〉だ。

一度に、ひと息で片づけられるかな?

覚えておくんだ。七面鳥だけでなく、〈検察官〉のような五幕物の芝居も、ひと息には捉えられない。

だから、まず大きな部分に分けなければならない』ってね。

こんなふうに……こうして……」

そう言いながら、シューストフおじさんは脚、翼、胴の肉を切り離し、皿に載せた。

「『これが、最初の大きな部分だ』とシュポンジャは宣言した。

するともちろん、うちのワニどもはみんな歯をむいて、すぐに丸ごとのみ込もうとした。

だが何とか、大食らいどもを止めたよ。

シュポンジャは、この教訓的な一幕を利用して、『覚えておきなさい。大きな塊を、一度には平らげられない。

だから、もっと小さく切るんだ』と言った。

こう……こう……こうだ……」とシューストフは言いながら、脚と翼を関節のところで切り分けた。

「皿を出せ、ワニ君」と彼は長男に言った。

「ほら、大きな一切れだ。

これが最初の場面だ」

「『諸君に集まってもらったのは、ひどく面白くない知らせを伝えるためだ……』」と、少年は皿を差し出しながら、下手に低い声を作って台詞を言った。

「エヴゲーニイ・オネーギン、二つ目、郵便局長のところを受け取りなさい」と大俳優は幼い息子のジェーニャに言った。

「イーゴリ公、皇帝フョードル、君たちはボブチンスキーとドブチンスキーの場面だ。タチヤーナ・レーピナ、エカテリーナ・カバノワ、マリヤ・アントーノヴナとアンナ・アンドレーエヴナの場面をどうぞ」と、おじさんはふざけながら、子どもたちの差し出す皿に肉を配った。

「『一度に食べなさい!』とシュポンジャは命じた」と、おじさんは話を続けた。

「さあ、大変だった!

腹をすかせたワニどもは飛びついて、全部ひと息にのみ込もうとしたんだ。

止める間もなく、大きな肉を口へ押し込み、一人は喉に詰まらせ、もう一人はぜいぜい言い出した。

まあ……何とか済んだけれどね。

『覚えておくんだ』とシュポンジャは言った。『大きな一切れを一度に食べられなければ、もっと小さく切る。まだなら、さらに小さく。必要なら、そのまた小さくするんだ』。

よし!

切って、口に入れて、かむ……」とシューストフおじさんは、自分のしていることを実況した。

「お母さん! ちょっと硬いし、ぱさぱさだな!」突然、彼は困った顔で妻に向き直り、それまでとは違う、いかにも家庭内の口調で言った。

「『部分が乾いていたら、美しい想像の物語で命を与えるんだ』」と子どもたちはシュポンジャの言葉で教えた。

「はい、パパ、魔法の『もしも』のソースだよ」とエヴゲーニイ・オネーギンが、香草の入ったソースを父親によそいながら冗談を言った。

「これは作者から。『与えられた状況』だよ」

「こっちは、パパ、演出家から」とタチヤーナ・レーピナがふざけて、ソース入れから西洋わさびを添えた。

「俳優本人からもどうぞ。もっと刺激を!」と皇帝フョードルが、こしょうを勧めて笑った。

「前衛派の美術家から、からしはいかが? もっとぴりっとするように」とカーチャ・カバノワが父親に勧めた。

シューストフおじさんは、盛られたものを全部フォークで混ぜ、七面鳥を細かく切り、そのソースの中に浸し始めた。

よく染み込むように、肉をつぶし、押し、ひっくり返した。

「イワン雷帝、言ってごらん! 『ぶぶん……』」と、エヴゲーニイ・オネーギンが幼い弟に教えた。

「ぶ、ぶ」と幼い子が一生懸命言うので、皆が喜んだ。

「部分は『想像の物語』のソースのお風呂に入るんだよ」

イワン雷帝の言い方があまりにおかしくて、その場の全員と本人まで吹き出し、しばらく笑いがやまなかった。

「いや、『想像の物語』のソースは、うまいものだな」とシューストフ氏は、細かく切った肉を刺激のあるソースの中で返しながら言った。

「指までなめたくなる。

この靴底だって食べられるようになるし、肉の味がする」と、妻を困らせた。

「役の部分もまったく同じだ。与えられた状況を、もっともっと、こんなふうに、さらにたっぷり染み込ませるんだ。

乾いた部分ほどソースを多く。乾いているほど、多く。

さて、ソースの染みた小さな部分をたくさんまとめて、大きな一つにして……」

彼はそれを口に入れ、幸せそうな、とてもおかしな顔で、長いこと味わった。

「これぞ『情念の真実』!」と子どもたちは、演劇の言葉でからかった。

シューストフ家を辞去するとき、私の頭は「部分」のことでいっぱいだった。

自分の生活全体が、いくつもの部分に分かれ、細かく砕かれたようだった。

そちらへ向いた注意が、生活や自分の行動の中に、自然と部分を探した。

たとえば、帰り際に別れの挨拶をしながら、「これで一つ目の部分」と自分に言った。

階段を下りて五段目で、ふと思った。下まで下りることを一つの部分と数えるのか。それとも、一段ごとに別の部分に数えるべきなのか?

そんなことをしたら、結局どうなる?

シューストフおじさんの家は三階だ。少なくとも六十段はある……ならば六十の部分か?

それなら、歩道を歩く一歩一歩も、一つの部分になるのか?

ずいぶんな数になってしまう!

「いや」と私は決めた。「階段を下りるのが一つの部分。家まで歩くのが、もう一つの部分だ。

では、玄関の扉はどうしよう?

今、それを開けた。

これは一つの部分か、いくつもの部分か?

いくつもにしておこう。

さっき大幅に減らしたのだから、今回は惜しまず数えてもいい。

では、下まで下りて、二つ目。

扉の取っ手をつかんで、三つ目。

押し下げて、四つ目。

扉の片側を開いて、五つ目。

敷居をまたいで、六つ目。

扉を閉めて、七つ目。

取っ手を離して、八つ目。

家へ向かって歩き出して、九つ目。

通行人にぶつかった……。

いや、これは部分じゃなく、偶然の出来事だ。

店のショーウィンドウの前で足を止めた。

この場合はどうしよう?

本の題名を一つ読むごとに、別の部分と数えるべきか。それとも、陳列品を眺めること全体に、一つの番号を振ればいいのか。

一つにしよう。

十」

…………

家へ帰り、上着を脱ぎ、洗面台へ行き、せっけんに手を伸ばしたところで、二百七と数えた。

手を洗って、二百八。

せっけんを置いて、二百九。

泡を水で流して、二百十。

ようやく寝床に入り、毛布を掛けて、二百十六。

では、この先は?

いろいろな考えが頭に浮かんだ。

まさか、その一つ一つも新しい部分と数えるのか?

答えは出せなかったが、こう思った。

「『オセロー』のような五幕の悲劇を、この調子で数えたら、部分は何千にもなってしまいそうだ。

それを全部覚えていなければならないのか?

気が遠くなる!

混乱してしまう!

数を絞らなければ。

どうやって?

何を基準に?」

今日、最初の機会をとらえて、私はアルカージー・ニコラーエヴィチに、部分の数があまりに多くなるという疑問を解いてほしいと頼んだ。

彼はこう答えた。

「ある水先案内人が尋ねられた。『長い航路の、曲がりくねった岸や浅瀬、岩礁を、どうして全部覚えていられるのですか?』。彼は答えた。『そんなものは気にしません。私は船の通れる水路を進むのです』。

俳優も役を演じるとき、数えきれず、覚えきれない小さな部分を一つずつたどってはいけない。創造の道筋が通る、大きな、最も重要な部分に沿って進むのだ。

その大きな部分は、水路が通っていく区間にたとえられる。

今の話で言えば、シューストフ家から帰る様子を映画で演じることになったら、まず自分にこう問うのだ。

『私は何をしているのか?』

『家へ帰っている』。

つまり、帰宅することが、最初の大きな、主要な部分だ。

ただし、途中で足を止めて、ショーウィンドウを見たね。

その間は歩かず、立ち止まって別のことをしていた。

だから、ショーウィンドウを見ることは、新しい独立した部分としよう。

その後また歩き出した。つまり、最初の部分に戻ったわけだ。

やがて自分の部屋に着き、服を脱ぎ始めた。

そこで、その一日の新たな部分が始まる。

そして寝床に入り、あれこれ思いを巡らせると、また新しい部分になる。

こうして、君の二百もの部分に代わって、たった四つになった。この四つが、通るべき水路となる。

それらの部分をまとめると、帰宅するという、主要な大きな部分ができるのだ。

さて、最初の部分、帰宅を演じるとき、ただ歩いて、歩いて、歩くだけで、ほかに何もしなかったとしよう。

二つ目のショーウィンドウを見る部分では、立って、立って、立っているだけ。

三つ目ではひたすら洗面をし、四つ目では、ただ寝て、寝て、寝ている。

もちろん、そんな演技は退屈で単調だ。演出家は、各部分をもっと詳しく展開するよう求めるだろう。

そこで、それぞれをさらに小さな構成部分に分け、発展させ、補い、一つ一つを細部まで明瞭に表すことになる。

新しい部分もまだ単調なら、さらに中くらいの部分、小さな部分へと分け、同じ仕事を繰り返さなければならない。街を歩く行動にふさわしい細部、知り合いに出会う、挨拶する、周囲の出来事を見る、人とぶつかるといったことが、すべて表れるまでだ。

余分なものを捨て、小さな部分を大きな部分へまとめることで、『水路』、つまり全体の筋道ができる」

その後トルツォフは、食事のときにシューストフおじさんが話してくれたのと、同じ説明を始めた。

パーシャと私は、目を合わせて笑った。大俳優が七面鳥の大きな肉を細かく切り、「想像の物語のソースのお風呂」に浸し、浸かった小さな肉をフォークで大きくまとめ、口へ入れておいしそうにかんだ様子を、思い出したのだ。

「つまり」とアルカージー・ニコラーエヴィチはまとめた。「いちばん大きな部分から中くらいへ、中くらいから小さな部分へ、小さな部分から最も小さな部分へ進むのだ。それは、後でまた結び合わせ、いちばん大きな部分へ戻るためだ。

戯曲や役を細かく分けることは、あくまで一時的な手段としてしか認められない」とトルツォフは念を押した。

「戯曲や役を、いつまでも細切れの破片のままにしておいてはいけない。

壊れた彫像や、ずたずたに切った絵は、個々の部分がどれほど美しくても、芸術作品ではない。

小さな部分を扱うのは、準備の過程だけだ。創造するときには、それらを大きな部分へ結び合わせる。大きさはできるだけ大きく、数はできるだけ少なくするのだ。部分が大きいほど数は減り、数が少ないほど、それを通じて戯曲や役の全体を捉えやすくなる」

分析し、学ぶために、役を細かく分けることはわかる。だが、そこからどう大きな部分を作り直すのかは、はっきりしない。

そのことをアルカージー・ニコラーエヴィチに話すと、説明してくれた。

「授業の短いエチュードを百の部分に分けたとしよう。その中で混乱して全体を見失ったけれど、一つ一つの部分はまずまず演じられている。

しかし、単純な生徒のエチュードの内容が、百もの主要な独立した部分に分けられるほど、複雑で深いとは考えられない。

当然、繰り返しや、互いに近い部分がたくさんあるはずだ。

各部分の内面の本質を探れば、たとえば第一、第五、第十から第十五、第二十一などは同じことを扱い、第二から第四、第六から第九、第十一から第十四などは、有機的につながっているとわかる。

その結果、百の小さな部分が、内容を持った、扱いやすい二つの大きな部分になる。

こうなれば、難しく込み入っていたエチュードが、単純で、やさしく、手の届くものに変わる。

要するに、十分に練り上げた大きな部分は、俳優が身につけやすいのだ。

そうした部分を戯曲全体にわたって配置すれば、それが私たちの水路となる。正しい道を示し、危険な浅瀬や岩礁、迷い込みやすい戯曲の複雑な糸の間を、導いてくれるのだ。

残念ながら、多くの俳優はそれをせずに済ませている。

戯曲を解きほぐし、理解する方法を知らないため、内容のない、ばらばらな部分を、大量に扱わざるを得ない。

あまりの数に混乱し、全体の感覚を失ってしまう。

そうした俳優を手本にしてはいけない。必要もなく戯曲を細かく刻まず、創造の瞬間には小さな部分を一つずつたどらないことだ。十分に練り上げられ、構成する一つ一つに命の通った、最も大きな部分だけに沿って、水路の筋を通しなさい。

部分に分ける手順そのものは、かなり簡単だ。

『今扱っている戯曲は、何がなければ成り立たないか?』と自分に問いかけ、細部に入らず、主要な展開を思い出していくのだ。

ゴーゴリの『検察官』を扱うとしよう。

何がなければ、この芝居は成り立たないだろう?」

「検察官です」とヴュンツォフが即答した。

「もっと正確には、フレスタコフをめぐる一件全体ですね」とシューストフが補った。

「そのとおりだ」とアルカージー・ニコラーエヴィチは認めた。

「ただし、フレスタコフ一人の問題ではない。

ゴーゴリの描く悲喜劇的な事件が起こるには、それにふさわしい空気が必要だ。

その空気を作るのは、市長やゼムリャニーカ、リャープキン=チャープキンといった悪党、ボブチンスキーとドブチンスキーのような噂好きたちだ。

つまり『検察官』は、フレスタコフだけでなく、『三年馬を走らせても、どこの国にもたどり着かない』町の、お人よしの住民たちがいなければ成り立たないのだ。

ほかに、何がなければ成り立たないかね?」

「ばかげた恋愛への憧れや、マリヤ・アントーノヴナのような田舎の気取り屋の女性です。彼女がいたから婚約が起こり、町中が大騒ぎになりました」と誰かが言った。

「ほかには?」とトルツォフは問い続けた。

「好奇心旺盛な郵便局長」「分別のあるオシップ」「賄賂」「トリャピーチキンの手紙」「本物の検察官の到着」と、生徒たちは口々に思い出した。

「今、君たちは主要な出来事を通して、戯曲を鳥の目で見渡した。それによって『検察官』を、有機的な構成部分に分けたのだ。

それらが、戯曲全体を組み立てる、主要な、最も大きな部分だ。

同じように、分析のための分割は、中くらいの部分、小さな部分それぞれでも行う。それらが、後に最も大きな部分へとまとまる。

力量の乏しい作者の、仕上げの足りない戯曲では、演出家や俳優が自分で考えた部分を加えなければならないこともある。

その自由が許されるのは、必要に迫られた場合だけだ。

ところが、何一つ加える必要のない、天才の手になる一体的な古典作品にも、同じことをしたがる、勝手な付け足しの好きな人がいる。

加えた部分が、その作品の性質と、少しでも有機的なつながりを持っていれば、まだましだ。

たいていは、それさえない。

すると、すばらしい戯曲という生きた身体に、異常な肉の盛り上がりができ、その部分や、戯曲全体の命を奪ってしまうのだ」

授業の終わりに、今日学んだことを振り返って、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「俳優にとって部分がどれほど大切かは、いずれ実践でわかるだろう。

分析も掘り下げも足りず、明確な部分に分かれていない役で舞台へ出るのは、なんと苦しいことか。

そんな公演を演じるのはつらく、俳優を疲れさせ、その巨大さで脅しながら、いつまでも長く続くように思える。

十分に準備し、練り上げた役では、まるで感じ方が違う。

化粧をしながら考えるのは、すぐ次に演じる部分だけだ。もちろん、戯曲全体と、その最終的な目的とのつながりは保ったままで。

最初の部分を演じたら、次へ注意を移し、そのように進んでいく。

そんな公演は、楽に感じられる。

この仕事の仕方を考えると、学校から家へ帰る子どもを思い出す。

道のりが長く、あまりの遠さに気がめいるとき、その子はどうするか、知っているかね?

石を拾い、できるだけ遠くへ投げるのだ。そして『見つからなかったらどうしよう!』と、はらはらする。でも見つかると、うれしくなり、また張り切って遠くへ投げ、またはらはらしながら探す。

家に帰れば休めるという楽しみを胸に、長い道のりをそうして部分に分けると、子どもは距離を考えなくなり、気にもしなくなる。

君たちも役やエチュードでは、最後の目的を見失わず、一つの大きな部分から次へと進みなさい。

そうすれば、夜八時に始まって真夜中過ぎに終わる五幕の悲劇でさえ、短く感じられるだろう」

一九……年……月……日

「戯曲を部分に分けるのは、作品を分析し学ぶためだけではない。各部分の内面の本質にある、もっと重要な理由のためでもある」と、今日の授業でアルカージー・ニコラーエヴィチは説明した。

「各部分には、創造的な課題が含まれているのだ。

課題は、その部分から自然に生まれる。あるいは反対に、課題のほうが部分を生むこともある。

その戯曲と関係のない、外から持ち込んだ部分を無理に押し込んではいけない、とすでに話した。課題もまったく同じだ。

課題も部分と同じく、筋道と順序に従って、次々と生まれなければならない。

両者には有機的なつながりがあるので、部分についてこれまで話したことは、すべて課題にも当てはまる」

「それなら、大きい課題、中くらいの課題、小さい課題、重要な課題、二次的な課題があり、それらをまとめることもできる。

つまり課題も、水路の筋を作るのですね」と私は、部分について学んだことを思い出した。

「まさに課題こそが、水路を示す灯なのだ。道のりのどの区間でも、迷わないようにしてくれる。

俳優が創造するときによりどころとする、役の主要な段階だ」

「課題?」とヴュンツォフは、さも深い考えがあるかのように思案した。

「算数にも……課題がある!

ここにも……課題!

さっぱりわからない!

うまく演じる、それが課題だ!」と彼は結論を出した。

「そう、それは大きな課題だ。私たちの生涯の課題だ!」とトルツォフは認めた。

「そのためには、どれほどのことをしなければならないだろう!

考えてごらん。学校の一年、二年、三年、四年の課程を修める。

これも課題ではないか?

もちろん、偉大な俳優になることほど大きくはないが……。

それぞれの課程を修めるには、何度学校へ通い、いくつの授業を聞き、理解して身につけ、どれほど練習しなければならないだろう。

それも課題だろう?

もちろん、一年の課程を修めることよりは小さな課題だ。

そして毎日学校へ来るには、何度も時間どおりに目を覚まし、起き、顔を洗い、服を着て、通りを急がなければならない。

これも課題だが、さらに小さいものだ」

「顔を洗うには、何度もせっけんを取り、手や顔をこすらないと!」とヴュンツォフが思い当たった。

「ズボンや上着を着て、ボタンを留めるのも、何度もしなくちゃ!」

「それもすべて課題だ。ただし、いちばん小さいものだね」とトルツォフは説明した。

「生活、人々、状況、そして私たち自身が、自分や互いの前に絶えず障害を置く。私たちは茂みを抜けるように、その間を進んでいく。

一つ一つの障害が、それを乗り越えるための課題と行動を生むのだ。

人は生きているどの瞬間にも、何かを望み、何かを目指し、何かを乗り越えている。

それでも、目的が大きければ、生涯をかけても始めたことを終えられない場合は少なくない。

世界に関わる、人類に共通する大きな課題は、一人の人間ではなく、幾世代も、何世紀もかけて取り組まれるものだ。

舞台では、シェイクスピアのような天才的な作者や、モチャーロフ、トンマーゾ・サルヴィーニのような天才的な俳優が、そうした大きな、人類共通の課題に取り組んでいる。

舞台の創造とは、大きな課題を立て、それを果たすために、本物の、実りのある、目的にかなった行動をすることだ。

結果は、それまでのことが正しく行われていれば、おのずと生まれる。

大多数の俳優の誤りは、行動ではなく、その結果ばかり考えることにある。

行動そのものを飛び越え、結果へ直行しようとするのだ。

そうすると、結果をそれらしく見せるだけの演技、無理強いになる。それは型芝居にしかつながらない。

舞台にいる間はいつでも、結果を演じて見せるのでなく、行動を通じて、本当に、実りある形で、目的にかなって課題を果たすことを学び、習慣にしなさい。

自分の課題を愛し、そのための能動的な行動を見つけられなければならない。

では今、自分で課題を考え、実行してみなさい」とアルカージー・ニコラーエヴィチは私たちに提案した。

マロレトコワと私が考え込んでいると、シューストフが近づいてきて、こんな案を出した。

「僕たち二人ともマロレトコワに恋をして、二人とも求婚したことにしよう。

本当にそうなったら、僕たちはどうするだろう?」

まず三人で、込み入った状況を設定した。それを部分と課題に分けると、行動が生まれた。

行動の勢いが弱まると、新たな「もしも」と「与えられた状況」を加えた。そこから、また課題が生まれた。

その課題を解決しなければならなかった。

絶えずそうした刺激が加わるので、私たちはずっと夢中で、幕が開いたことにも気づかなかった。

幕の向こうは何もない舞台だった。壁際には、たまたま今夜使うらしい舞台装置が、用意されて積まれていた。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、舞台へ行ってそこで続けるように言い、私たちは従った。

終わると、トルツォフは言った。

「初めの頃の授業で、同じように何もない舞台へ出て、行動するよう言ったことを覚えているかね?

あのときはできず、途方に暮れて舞台をうろつきながら、人物像や情熱をそれらしく演じていたね。

今日はまた、背景も家具も道具もない舞台へ出たのに、多くの者が自由に、楽に過ごせた。

何が助けてくれたのだろう?」

「内面の、行動を生む課題です」とパーシャと私は答えた。

「そうだ」とトルツォフは認めた。

「課題は俳優を正しい道へ導き、見せかけの演技を防ぐ。

課題があるからこそ、俳優は舞台へ出て、そこにとどまり、役と通じ合う自分の生活を生きてよいのだと感じられる。

ただ残念なことに、今日の実験で、全員がそれを理解したわけではない。今日も、行動のためではなく、課題を作ること自体が目的になっていた者がいた。

そのため、課題はすぐに、俳優の見せびらかす『小芸』になってしまった。

ヴェセロフスキーがそうだった。

またヴェリヤミノワのように、今回も課題が外見だけのものとなり、自分に見とれることに近づいてしまった者もいる。

ゴヴォルコフの課題は、いつものように、技術を華々しく見せることに行き着いた。

これらはよい結果を生まない。本当に行動するのでなく、芝居をして見せたいという欲を起こすだけだ。

プーシチンの課題は悪くなかったが、あまりに理屈に傾き、文学的だった。

文学はよいものだが、俳優の芸術のすべてではない」

一九……年……月……日

今日、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「舞台の課題には、非常に多くの種類がある。

しかし、すべてが必要で役立つわけではない。有害なものもたくさんある。

だから俳優は、課題の質そのものを見分け、不要なものを避け、必要なものを見つけて定められることが大切だ」

「何を目安に見分ければいいのでしょう?」と私は尋ねた。

「私が『必要な課題』と言うのは、次のようなものだ。

一、まず、脚光のこちら側、俳優側にある課題であって、向こうの観客側にあるものではないこと。

言い換えれば、戯曲に関わり、相手役、つまりほかの役を演じる人に向けられた課題だ。客席で見ている観客に向けたものではない。

二、人間としての俳優自身の課題であり、役の課題と通じ合うこと。

三、創造的、芸術的な課題であること。つまり、『役の人間としての内面の生活』を創り出し、芸術的に伝えるという、芸術の根本の目的を助けるものだ。

四、本物で、生き生きと能動的な、人間らしい課題であり、役を前へ進めること。演じる人物には関わりがなく、観客を楽しませるために持ち込まれた、俳優の型にはまった、生気のない課題ではないこと。

五、俳優本人も、相手役も、観客も信じられる課題であること。

六、心を引きつけ、揺り動かし、本物の体験の過程を呼び起こせる課題であること。

七、的を射た課題、つまり、その役の特徴を捉えた課題であること。なんとなくではなく、戯曲の本質と明確につながっているものだ。

八、内容があり、役の内面の本質にかなう課題であること。戯曲の表面をなぞるだけの、取るに足りない課題ではないこと。

最後に警告しておきたいのは、私たちの仕事で非常によく見られ、最も危険な、機械的で動作だけの、俳優のための課題だ。それは型芝居へまっすぐ進む道だ」

「つまり、外面的な課題と内面的な課題、身体的な課題と心理的な課題があるということですね?」と私はまとめた。

「それに、ごく初歩的な心理的課題もある」とトルツォフが付け加えた。

「それは、どういう課題ですか?」と私は理解できなかった。

「部屋に入ってきて、挨拶をし、握手し、頭を下げ、私に声をかけるとしよう。

それは習慣になった機械的な課題だ。

心理は関わっていない」

「えっ! じゃあ、舞台では挨拶してはいけないんですか?」とヴュンツォフが驚いた。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、すぐに彼を安心させた。

「挨拶はして構わない。ただ、機械的に愛したり、苦しんだり、憎んだりしてはいけないのだ。君がやりがちなように、生きた人間の課題を、何も体験せず、動作だけで済ませてはいけない。

別の場合には」とアルカージー・ニコラーエヴィチは説明を続けた。「手を差し出して握りながら、同時に、愛情や尊敬、感謝をまなざしに表そうとする。

これも私たちに馴染みのある課題とその実行だが、いくらか心理が加わっている。

こうした課題を、私たちは『初歩的な心理的課題』と呼ぶ。

では、三つ目の場合だ。

昨日、私たちの間でひどい言い争いがあったとしよう。

私が君を人前で侮辱したのだ。

今日会ったとき、私は近づいて手を差し出し、その握手で許しを求めたい。自分が悪かった、昨日のことは忘れてほしい、と伝えたいのだ。

昨日の敵に手を差し出すのは、決して簡単な課題ではない。実行するまでに、さまざまなことを考え、感じ、自分の中で乗り越えなければならない。

これは心理的な課題、しかもかなり複雑な課題と言えるだろう」

授業の後半で、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「課題がどれほど正しくても、いちばん重要な性質は、『心を誘うこと』、つまり俳優本人にとって魅力があることだ。

課題が気に入り、心を引かれ、やってみたいと思わなければならない。

そのような課題は引力を持ち、磁石のように、俳優の創造への意志を引きつける。

俳優に必要な、こうした性質をすべて備えた課題を、私たちは創造的課題と呼ぶ。

また、課題が力に見合い、手が届き、実行できるものであることも重要だ。

そうでなければ、俳優の自然な働きに無理を強いることになる。

たとえば、君の好きな『ブラン』の『産着』の場面では、何を課題にしているかね?」

「人類を救うことです」とウムノヴィフが答えた。

「ほら、見たまえ!

そんな壮大な課題が、誰か一人の人間の力に収まるだろうか。

もっとやさしい課題を選びなさい。初めは身体的なものでよいのだ。ただし、心を引くものを」

「でも、面白いでしょうか……その……身体的なものが?」とウムノヴィフは、気弱そうに、愛嬌のある笑みを浮かべて尋ねた。

「誰にとって面白いのかね?」とアルカージー・ニコラーエヴィチは聞き返した。

「観客にです」と、内気な心理探究者は答えた。

「観客の心配はしなくていい。自分のことを考えなさい」とトルツォフは答えた。

「君自身が興味を持てば、観客もついてくる」

「私にも面白くないんです……やっぱり……その。

心理的な課題のほうが……やりたいんです……」

「いずれできるようになる。

心理的なものや、さまざまな課題を深く扱うのは、まだ早い。

時が来れば、そこへも進める。

今は、いちばん単純な身体的課題にとどめなさい。

どんな課題も、心を引くものにできる」

「でも、身体から……心は切り離せませんよね。

混ぜてしまったり……間違えたり……しそうで……」と、ウムノヴィフは照れながら訴えた。

「そう、そのとおり! 私もそう言っているのだ」とトルツォフはうなずいた。

「どの身体的課題にも、どの心理的課題にも、そしてその実行にも、身体と心の両方がたくさん含まれている。

どうにも切り離せない。

プーシキンの『モーツァルトとサリエリ』で、サリエリを演じるとしよう。

モーツァルトを殺すと決めたサリエリの心理は、非常に複雑だ。杯を取り、ワインを注ぎ、毒を入れ、それを友人に差し出す。しかも、自分が音楽に敬服している天才にだ。その決断は容易ではない。

けれども、行っていることはすべて身体的行動だ。

そこに、どれほど多くの心理が含まれているだろう!

あるいは、こう言ったほうが正確だろう。すべて複雑な心理的行動だが、そこにどれほど多くの身体的なものが含まれていることか!

では、ごく単純な身体的行動を考えよう。誰かに近づいて、平手打ちをする。

しかし、それを心から行うまでには、どれほど複雑な心理を経なければならないだろう。

杯のワインや平手打ちをめぐる一連の身体的行動を実際に行い、与えられた状況と『もしも』によって、内面から理由づけなさい。それから、どこまでが身体で、どこからが心の領域なのか、決めてみなさい。

簡単には決められず、両者が混じりやすいとわかるはずだ。

しかし恐れずに、混ぜて構わない。

身体的課題と心理的課題の境界が曖昧なことを、利用しなさい。

課題を選ぶとき、身体と心の境界を、厳密に引きすぎないことだ。

感覚の目測で、おおよそを捉えるくらいにし、いつも身体的な課題のほうへ寄せて考えなさい。

間違えても、私は責めない。

創造のときには、そのほうが役に立つのだ」

「なぜ、明らかな間違いが役に立つのですか?」と私たちは戸惑った。

「そのおかげで、自分の感情をおびえさせずに済み、内面への無理強いを防げるからだ。

身体的課題を正しく果たすことが、ふさわしい心理状態を作る助けになる。

そうすることで、身体的課題が心理的な課題へと変わる。

先ほど言ったように、どんな身体的課題にも、心理的な理由を与えられるのだ。

当面は、身体的課題だけを扱うことにしよう。

そのほうがやさしく、近づきやすく、実行もしやすい。

見せかけの演技へそれてしまう危険も少なくなる。

心理的課題はいずれ取り上げよう。今は、どんな練習でも、エチュードでも、抜粋場面でも、役でも、まず身体的課題を探すよう勧める」

一九……年……月……日

次は重要な問題、部分からどのように課題を取り出すかだ。

その心理技法は、調べている部分の内面の本質を最もよく表す、ふさわしい名前を考えることである。

「そんな名付けの儀式が、何のために要るんです?」とゴヴォルコフが皮肉を言った。

それに対して、アルカージー・ニコラーエヴィチは答えた。

「部分の内面の本質を捉えた、的確な名前が何であるか、わかるかね?

その部分の内容を一つにまとめたもの、精髄だ。

それを得るには、薬を漬け込むように、その部分をじっくり『浸し』、内面の本質を絞り出し、結晶させ、できた『結晶』にふさわしい名前を探さなければならない。

その言葉を探している間に、俳優はすでに部分を探り、学び、結晶させ、一つにまとめているのだ。

名前を選ぶうちに、課題そのものも見つかる。

部分の本質を言い表す正しい名前は、そこに含まれる課題を明らかにする。

実際に理解するために、たとえば『ブラン』の『産着』の場面でやってみよう」とアルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「最初の二つの部分、二つの出来事を取り上げよう。

内容を思い出してもらおう。

牧師ブランの妻アグネスは、一人息子を亡くした。

悲しみの中で、息子の残した産着、服、おもちゃ、さまざまな形見を、一つずつ手に取っている。

どの品にも、嘆く母の涙が注がれる。

思い出が胸を引き裂く。

この不幸は、一家が湿気の多い、健康によくない土地に住んでいたために起きた。

子どもが病気になったとき、母は夫に、任地を離れてほしいと懇願した。

しかし狂信的なまでに自分の信念に従うブランは、家族のために牧師の務めを犠牲にしようとはしなかった。

そのために、二人は息子を失ったのだ。

二つ目の部分を思い出そう。

ブランがやって来る。

彼自身も苦しみ、アグネスの苦しみにも胸を痛めている。

しかし、狂信的な義務感が彼を残酷にする。亡くなった子の服やおもちゃを、ロマの女性へ与えるよう妻を説得するのだ。それらの形見は、アグネスが神に身を委ね、二人の生きる根本の理念、隣人への奉仕を実践する妨げになるからだ。

では、両方の部分の内面の本質を絞り出しなさい。そのために、それぞれふさわしい名前を考えなさい」

「何を考える必要があるんです?

明らかでしょう。

一つ目の課題は『母の愛』。もう一つの課題は、よろしいですか、『狂信者の義務』です」とゴヴォルコフは宣言した。

「いいだろう。そうしておこう」とトルツォフは応じた。

「今は、部分の本質を結晶させる過程の細部に、立ち入るつもりはない。

その仕事は、役や戯曲を扱うときに、詳しく学ぶ。

ただ今は、課題の名前を名詞で決めないよう、助言しておこう。

名詞は部分の名前に使い、舞台上の課題は、必ず動詞で言い表しなさい」

「なぜですか?」と私たちは戸惑った。

「答えを見つける手伝いをしよう。ただし条件がある。今、名詞で名づけた二つの課題、一、『母の愛』、二、『狂信者の義務』を、まず自分で行動にしてみなさい」

ヴュンツォフとヴェリヤミノワが引き受けた。

ヴュンツォフは怒った顔をし、目をむき、背筋を伸ばし、木のように硬直させた。

床を力強く踏み、かかとを鳴らし、低い声を出して、いきんだ。そうすれば、「義務一般」を表すのに必要な、揺るぎなさや強さ、決意が出ると思ったのだ。

ヴェリヤミノワも、優しさや「愛一般」を表そうとして、わざとらしい身振りをした。

二人の演技を見て、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。「課題を表すのに使った名詞のために、一人は支配的な人物らしい型を演じ、もう一人は母の愛という感情を演じることになったのではないかね?

権力を持つ人、愛する人のふりをしただけで、そういう人として生きてはいなかった。

それは、名詞が観念、状態、人物像、現象を表すものだからだ。

名詞はそうしたものをイメージや形式として示すだけで、能動性や行動を指し示そうとはしない。

しかし、課題は必ず、行動につながるものでなければならない」

「失礼ですが、名詞だって、例を示したり、描いたり、演じて見せたりできます。それも、よろしいですか、行動ですよ!」とゴヴォルコフが反論した。

「そう、行動だ。ただし、私たちの芸術が舞台に求める、本物の、実りある、目的にかなった行動ではない。それは俳優が『見せている』行動であって、私たちが認めず、劇場から追い払おうとしているものだ。

では、課題を名詞ではなく、それにふさわしい動詞で言い換えたらどうなるか、見てみよう」とアルカージー・ニコラーエヴィチは続けた。

「どうすればいいのですか?」と私たちは説明を求めた。

「簡単な方法がある」とトルツォフは言った。「動詞を選ぶ前に、言い換えたい名詞に『私は望む』を添えるのだ。『私は何をしたいのか?』と考えなさい。

例で示そう。

『権力』という言葉で試すとしよう。

そこに『私は望む』を添える。

『私は権力を望む』となる。

この願いは漠然としすぎていて、現実味がない。

命を与えるには、もっと具体的な目的を加える。

それが魅力的に思えれば、自分の中に、その実現を目指す気持ちと、行動への衝動が生まれる。

その内面の本質を表す、的確な言葉を見つけなさい。

それが、生きた能動的な課題を示す動詞になる。名詞が作る、動きのない観念や概念にとどまらなくなるのだ」

「そんな言葉を、どうやって探せばいいのですか?」と私はまだ理解できなかった。

「『権力を得るために、私は何をしたいのか?』と、自分に問うのだ。答えれば、どんな行動をするべきかわかる」

「権力のある人でありたい」とヴュンツォフが即座に言った。

「『ある』は静止した状態を表す。

行動につながる課題に必要な能動性がない」とアルカージー・ニコラーエヴィチは指摘した。

「権力を手に入れたい」とヴェリヤミノワが言い直した。

「少しは能動性に近づいた。でも、まだ漠然としすぎていて、一度には実行できない。

試しに、この椅子へ座って、ただ『権力一般を手に入れたい』と思ってみなさい。

もっと具体的で、身近で、現実的な、実行できる課題が必要だ。

わかるように、動詞なら何でもよいわけではない。どの言葉も、能動的で実りある行動へ促してくれるわけではないのだ。

課題の名前を、うまく選べなければならない」

「全人類を幸せにするために、権力を手に入れたい」と誰かが提案した。

「立派な言葉だが、実際に実現できると信じるのは難しいね」とアルカージー・ニコラーエヴィチが返した。

「人生を楽しむため、愉快に暮らすため、尊敬されるため、思いどおりに振る舞うため、自尊心を満たすために、権力が欲しい」とシューストフが言い直した。

「その願いのほうが現実味があり、実現しやすい。ただ、果たすには、その前にいくつもの補助的な課題を解決しなければならない。

そうした最終目標には、一足飛びには届かない。階段を上って上の階へ行くように、段階を踏んで近づく。

一歩で上りきることはできない。

君も課題へと続く段を一つずつ上り、それぞれの段を挙げてみなさい」

「信頼を得るために、仕事ができて賢い人に見られたい。

頭角を現し、目上の人に認められて出世し、注目を集めたい。そういったことです」

その後、アルカージー・ニコラーエヴィチは『ブラン』の『産着』の場面へ戻り、全員を参加させるために、こう提案した。

「男性は皆、ブランの立場に立って、その課題の名前を考えなさい。

彼の心理を、より理解しやすいだろう。

女性はアグネスの代弁者になりなさい。

女性の愛、母の愛の機微には、そのほうが近づきやすいだろう。

一、二、三!

男性陣と女性陣の試合、開始!」

「アグネスに犠牲を捧げさせ、彼女を救い、導くために、彼女を動かす力を得たい」

私がまだ言い終えないうちに、女性たちが一斉に、自分たちの願いをぶつけてきた。

「亡くなった子を思い出したい!」

「あの子のそばへ行きたい!

心を通わせたい!」

「治してあげたい、かわいがりたい、世話をしたい!」

「生き返らせたい!」

「あの子の後を追いたい!」

「すぐそばにいると感じたい!」

「この品物の中に、あの子を感じたい!」

「墓から呼び戻したい!」

「あの子を取り返したい!」

「あの子が死んだことを忘れたい!」

「悲しみを鎮めたい!」

マロレトコワは、皆より大きな声で、一つの言葉だけを叫んだ。

「しがみついて、離れずにいたい!」

「それなら」と今度は男性陣が宣言した。「闘おう!

アグネスの心をほぐし、こちらへ向けたい!」

「優しくしてやりたい!」

「彼女の苦しみを理解していると、感じさせたい!」

「義務を果たした先にある、魅力的な喜びを描いてみせたい!」

「人間の偉大な使命を説明したい!」

「それなら」と女性陣が叫び返した。「自分の苦しみを見せて、夫に哀れに思わせたい!」

「私の涙を見せたい!」

「もっと強くしがみついて、放さずにいたい!」とマロレトコワは叫んだ。

男性陣が応じた。「人類への責任を突きつけて、恐れさせたい!」

「罰が下る、縁を切ると、脅したい!」

「理解し合えない絶望を伝えたい!」

この応酬が続く間、次々に新しい考えや感情が生まれた。それらを言い表すには、ふさわしい動詞が必要だった。そして動詞が、今度は内側から行動への衝動を呼び起こした。

女性たちを説得しようと、私は彼女たちと闘った。理性と感情と意志が示してくれた課題をすべて出し尽くしたときには、もうその場面を演じ終えたように感じた。

満ち足りた気分だった。

「選んだ課題はそれぞれに正しく、程度の差はあっても、行動を呼び起こしている」とアルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「もっと行動的な人には、『亡くなった子を思い出したい』という課題は、あまり心に響かないだろう。そういう人には、『しがみついて放したくない』という別の課題が必要だった。

何にしがみつくのか?

形見、思い出、亡くなった子への思いだ。

でも同じ課題を別の人に提案しても、その人の心は動かないかもしれない。

大切なのは、その課題が本人の心を引きつけ、動かすことだ。

これで、『なぜ課題は名詞ではなく、必ず動詞で表すのか』という質問に、君たち自身が、実際に取り組むことで答えられたと思う。

部分と課題について、今話せるのは、ここまでだ。

私たちの芸術とその心理技法をもっと学び、部分と課題に分けられる戯曲や役を扱うようになったら、残りの話をしよう」

第8章 真実の感覚と信じる力

今日も掲示のある授業だった。

そこには、こう書かれていた。

「真実の感覚と信じる力」

授業が始まる前、生徒たちは舞台上で、マロレトコワのまたしてものなくし物、お金の入ったバッグを探していた。

突然、アルカージー・ニコラーエヴィチの声がした。

ずっと前から、客席で私たちを見ていたのだ。

「舞台の枠は、脚光の前で起こることを、なんとよく見せてくれるのだろう。

探している間、君たちは心から体験していた。すべてが本当で、すべてを信じられた。小さな身体的課題は、的確に果たされていた。明確で、はっきりしており、注意も鋭く働いていた。創造に必要な要素が、正しく、互いに調和して働いていたのだ……。

つまり、舞台に本物の芸術が生まれていた」と、彼は意外な結論を述べた。

「いえ……。

どこが芸術なんですか?

現実だったんです。本当にあったこと、先生の言う『実際の出来事』です」と生徒たちは反論した。

「では、その『実際の出来事』を繰り返してみなさい」

私たちはバッグを元の場所へ置き、すでに見つかって、もう探す必要のないものを探し始めた。

もちろん、何もうまくいかなかった。

「いや、今度は課題も行動も、本当の真実も感じられなかった……」とアルカージー・ニコラーエヴィチは批評した。

「たった今、実際に体験したことを、なぜ繰り返せないのだろう?

それには俳優である必要もなく、ただ人間であればよさそうなものだが」

生徒たちはトルツォフに説明した。最初は探す必要があったが、二度目はその必要がなく、探しているふりをしただけなのだ、と。

一度目は本当の現実で、二度目はそのまね、見せかけ、嘘だった。

「では同じ捜し物の場面を、嘘をつかず、真実だけで演じてみなさい」とアルカージー・ニコラーエヴィチは提案した。

「でも……」と私たちは言いよどんだ。

「それは簡単ではありません。

準備して、稽古して、体験しなければ……」

「体験するとは、どういうことかね……?

バッグを探したときは、体験していなかったのかね?」

「あれは現実でした。今度は、想像したことを創り出し、体験しなければならないんです!」

「では舞台では、日常と何か違う体験の仕方をするのかね?」とトルツォフは、わからないというように尋ねた。

さらに質問と説明を交わすうちに、アルカージー・ニコラーエヴィチは、現実の領域では、本当の真実と、それを信じる心は、自然に生まれるのだと私たちに理解させた。

たとえば先ほど、生徒たちが舞台でなくし物を探したとき、そこには本当の真実と信じる心が生まれた。

それは、そのとき舞台にあったのが演技ではなく、現実だったからだ。

だが、現実ではなく演技が行われるときには、真実と信じる心を作るための、事前の準備が必要になる。

まず想像の生活、芸術的な虚構の中に真実と信じる心を生み、それから舞台へ移すという準備だ。

「つまり」とトルツォフは説明した。「たった今、現実に行ったバッグ探しを、自分の中に本当の真実を呼び起こして舞台で再現するには、まず内側のレバーを切り替えるように、想像の生活の領域へ移る必要がある。

そこで、現実と通じ合う物語を作るのだ。

魔法の『もしも』と、正しく受け止めた『与えられた状況』が、舞台の真実と信じる心を感じ、創り出す助けになる。

日常で真実というのは、そこにあり、存在し、人が確かに知っていることだ。

一方、舞台で真実と呼ぶのは、実際には存在しなくても、起こりうることなのだ」

「失礼ですが」とゴヴォルコフが尋ねた。

「劇場に、どんな真実があるというのです? シェイクスピアの戯曲から、オセローが自分を刺すボール紙の短剣まで、ほら、何もかも作り話と嘘ではありませんか?」

アルカージー・ニコラーエヴィチは、ゴヴォルコフに反論した。「短剣が鋼ではなくボール紙であることが気になり、その粗末な小道具を舞台の嘘と呼び、そのために芸術全体を非難して、舞台の生活を本物だと信じられなくなるのなら、安心しなさい。劇場で大切なのは、オセローの短剣がボール紙か金属かではない。オセローの自死を内面から納得できるものにする俳優の感情が、正しく、誠実で、本物かどうかなのだ。

大切なのは、オセローの生活の条件や状況が本当で、自分を刺す短剣も本物だったら、人間である俳優自身はどう行動するか、ということだ。

どちらのほうが君にとって面白く、大切で、信じたいことなのか、決めなさい。劇場や戯曲の中に、事実や出来事、物質的世界の現実の真実があることか。それとも、現実には存在しない舞台の物語が俳優の心に呼び起こした感情が、本物で、正しいことか。

劇場で私たちが問題にしているのは、この感情の真実だ。

創造の瞬間に俳優が必要とするのは、この舞台の真実だ。

こうした真実と、それを信じる心がなければ、本物の芸術はない!

舞台上の外的な環境が現実に近いほど、俳優が役を体験するあり方も、自然な生命の働きに近づかなければならない。

けれども舞台では、まるで逆のことをよく見かける。

装置や品物を写実的に整え、すべてを本物らしくする一方、役を演じる人の感情や体験が本物かどうかは、忘れてしまうのだ。

物の真実と感情の嘘との食い違いは、演技に本当の生活がないことを、いっそう際立たせる。

そうならないよう、舞台で行う一つ一つの行為や行動を、いつも自分の『もしも』と、与えられた状況によって、納得のいくものにしなさい。

そうした創造によって初めて、自分の真実の感覚を十分に満たし、自分の体験を本物だと信じられるようになる。

私たちはこの過程を、『理由づけ』の過程と呼ぶ」

トルツォフの語る大切なことを、最後まではっきり理解したくて、私は、劇場における真実とは何か、短い言葉で定義してほしいと頼んだ。

彼はこう答えた。

「舞台の真実とは、自分自身の内側にも、相手役の心にもあると、私たちが心から信じられるものだ。

真実と信じる心は、切り離せない。

どちらも、もう一方なしには存在できず、両方がなければ、体験も創造もない。

舞台上のすべては、俳優本人にも、相手役にも、観客にも、納得できるものでなければならない。

創造する俳優が舞台で感じるのと同じような感情が、現実の生活にも存在しうると、すべてが信じさせるものでなければならない。

舞台にいる一瞬一瞬を、体験している感情は本当だ、行っている行動は本当だという信頼が、支えていなければならない。

俳優が舞台で必要とするのは、そうした内面の真実と、それを素直に信じる心だ」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは話を結んだ。

一九……年……月……日

今日は劇場で、音響効果の仕事をした。

幕間に、アルカージー・ニコラーエヴィチが俳優の休憩室へ来て、俳優たちと、私たち生徒に話しかけた。

私とシューストフに向かって、ふとこう言った。

「今日の稽古を見られなかったのは、残念だったね!

舞台での本当の真実と信じる心が、どんなものか、目に見える形でわかっただろうに。

今、古いフランスの戯曲を稽古している。その始まりはこうだ。女の子が部屋へ駆け込んできて、人形がおなかを痛がっていると言う。

登場人物の一人が、人形に薬を飲ませるよう提案する。

女の子は走っていく。

しばらくして戻り、病人は治ったと報告する。

その後に続く『婚姻関係にない親たち』の悲劇は、この場面を土台に展開していく。

ところが劇場の小道具に、人形がなかった。

代わりに木片をきれいな薄い布で包み、女の子の役を演じる子に渡した。

その子はすぐに木片を自分の娘と認め、愛情いっぱいの心をすべて注いだ。

ただ困ったのは、幼い人形のお母さんが、おなかの治療法について、作者と意見が合わなかったことだ。薬ではだめで、浣腸のほうがいいと言うのだ。

そこで、この出演者は作者の台詞を自分の言葉に置き換え、その点を修正してしまった。

自分の経験に基づく、筋の通った理由まで挙げた。その経験から、下剤よりも浣腸のほうが効き目があり、嫌でないと学んでいたのだ。

稽古が終わっても、その子は娘を決して手放そうとしなかった。

小道具係は、人形に見立てた木片なら喜んであげると言ったが、布は夜の公演に必要で、渡せなかった。

泣き声と涙を伴う、子どもの悲劇が始まった。

それがやんだのは、きれいな薄い布を、安物でも暖かい毛織りの布切れに替えようと提案してからだった。

女の子は、おなかをこわしているときには、布の美しさや豪華さよりも暖かさのほうが大切だと考え、喜んで交換に応じた。

これこそ、信じる心と真実だ!

私たちは、こんな子どもにこそ演じ方を学ぶべきだ!」とトルツォフは感心した。

「もう一つ、思い出す話がある」と彼は続けた。「あるとき、じゅうたんの上を跳ねている姪を『子ガエル』と呼ぶと、女の子は丸一週間その役になりきり、四つんばいでしか移動しなくなった。

何日も、テーブルの下や椅子の陰、部屋の隅に座り込み、人や乳母から隠れていた。

またあるときは、食卓で大人のように行儀よく座っていたのを褒めた。すると、とんでもないいたずらっ子が、たちまち気取ったお嬢さんになり、自分の家庭教師に礼儀作法を教え始めたのだ。

その一週間は、家の者にとって、この上なく静かだった。女の子はまったく騒がなかったからだ。

考えてみなさい。遊びのために、丸一週間、自分から気性を抑え、その我慢を楽しいと感じるのだ。

これは、子どもの想像力の柔軟さと、遊びの題材を選ぶときの、素直でえり好みしない姿勢の証拠ではないか。

自分の想像を、本当だと信じている証拠ではないか。

子どもが、同じ対象と行動に、どれほど長く注意を向け続けられるか、驚くほどだ。

同じ気分や、お気に入りの人物像の中にとどまるのが、楽しいのだ。

遊びの中で子どもが作る、本当の生活のような感覚は、あまりに強く、そこから現実へ戻るのが難しいほどだ。

手に触れるものすべてから、喜びを作り出す。

『……のつもり』と自分に言うだけで、想像はもうその子の中で生きている。

子どもの『……のつもり』は、私たちの魔法の『もしも』より、はるかに強いのだ。

子どもには、私たちが学ぶべき性質が、もう一つある。何を信じられるか、何を見ないでおけばよいかを知っていることだ。

今話した女の子も、母親の気持ちを大切にし、木片であることを意識せずにいられた。

俳優も舞台では、自分の信じられることに関心を向け、それを妨げるものは、見ないでおくとよいのだ。

そうすれば、客席へ開いた黒い穴や、人前で演じるという制約を忘れやすくなる。

芸術において、遊んでいる子どもの真実と信じる心に到達できたなら、そのとき君たちは、偉大な俳優になれるだろう」

一九……年……月……日

アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「創造の過程における真実の意味と役割について、大まかに話した。

今度は、舞台上の不真実、嘘について話そう。

真実を感じ取る力があるのはよいことだが、嘘を感じ取る力も必要だ。

この二つを分け、対置することを、不思議に思うかもしれない。

そうするのは、現実のあり方が、それを求めるからだ。

劇場の指導者、俳優、観客、批評家の中には、舞台の約束事や芝居がかったもの、嘘だけを好む人が大勢いる。

ある人は趣味が悪く、ゆがんでいるため。ある人は、何もかも味わいすぎて飽きているためだ。

後者は美食家のように、舞台にも刺激やぴりっとした味を求める。演出や演技に加える味つけが好きなのだ。

日常にはない『特別なもの』が欲しい。

現実には飽き飽きしていて、舞台でまで出会いたくないのだ。

『とにかく現実と同じでないように』と言い、そこから逃れるため、舞台に、より大きなゆがみを探す。

そして、芸術の機微を洗練された感性で理解した結果だと称して、学者めいた言葉や論文、講演、作り上げた流行の理論で、それを正当化する。

『劇場には美しいものが必要だ!』と彼らは言う。

『芝居ではくつろぎ、楽しみ、笑いたい!

苦しんだり泣いたりしたくない』。

『つらいことは日常だけで十分だ』と言う人もいる。

その反対に、劇場の指導者、俳優、観客、批評家の中には、舞台に生きた実感や自然さ、写実性、つまり真実だけを求め、認める人も大勢いる。

こうした人たちが欲しいのは、刺激が強く害のある『ソース』のない、まっとうで健康な食べ物、よい『肉』だ。

劇場で、心を洗うような強い感動を受けることを恐れない。泣き、笑い、体験し、戯曲の生活に間接的に加わりたいのだ。

本当の『人間の内面の生活』が舞台に映し出されることを望む。

ただし、どちらにも行きすぎがある。刺激やゆがみが醜さの極限に達することもあれば、素朴さや自然さが、極端な自然主義に行き着くこともある。

どちらの極端も、最も悪い見せかけの演技と紙一重だ。

こうした事情があるので、私は真実と嘘を分け、それぞれについて話さなければならない。

しかし、それらを愛したり嫌ったりすることと、実際に……とは別だ。

いや……」とアルカージー・ニコラーエヴィチは思い直した。少し黙った後、言いかけた言葉を終えずに、ドィムコワとウムノヴィフへ向き直った。

「二人の好きな、『ブラン』の『産着』の場面を演じてみなさい」

二人は胸を打つほど真剣に従ったが、いつものように苦労し、「汗をかいて」演じた。

「教えてほしい」とアルカージー・ニコラーエヴィチはドィムコワに言った。「なぜ今、おどおどして、素人のように自信がなかったのかね?」

ドィムコワは黙り込み、身を縮めて目を伏せた。

「何が邪魔をしたのかね?」

「わかりません!

感じているとおりに演じられなくて……。

言葉を一つ口にするたびに、取り消したくなるんです」

「なぜ、そうなるのかね?」とアルカージー・ニコラーエヴィチが問い続けると、ついに彼女は、嘘っぽさや見せかけの演技が、恐ろしくてたまらないと打ち明けた。

「ああ!」とトルツォフは、その言葉を捉えた。

「嘘を恐れていたのだね?」

「はい」とドィムコワは認めた。

「では、ウムノヴィフ、君は?

なぜ演技に、あれほどの頑張り、力み、重さ、息苦しい間があるのかね?」とトルツォフは尋ねた。

「もっと深くつかみ、入り込みたくて……自分の中の生きた感情や言葉に手を掛けて……人間がそこにいるように……心が脈打ち、震えるように……信じなければ、納得させなければと思って……」

「自分の中に本当の真実、感情、体験、言葉の奥の意味を探していたのかね?

そういうことだね?」

「そのとおりです!

そのとおりです!」

「これで、二つの異なる型の俳優が、目の前にいる」とアルカージー・ニコラーエヴィチは生徒たちに言った。

「二人とも、舞台上の嘘を嫌っている。ただし、そのあり方が違う。

ドィムコワは、嘘を恐ろしく思い、注意のすべてを嘘だけに向けている。

舞台にいる間、考えているのはそれだけだ。

真実は思い出さない。思い出す暇がないのだ。嘘への恐怖に、すっかり支配されているからだ。

完全にとらわれてしまっていて、創造どころではない。

ウムノヴィフも同じようにとらわれているが、嘘への恐れのためではない。反対に、真実への熱烈な愛のためだ。

嘘のことはまったく考えず、真実のことだけに没頭している。

嘘と闘うこと自体を目的にするのも、真実への愛そのものを目的にするのも、見せかけの演技にしか行き着かないことは、説明するまでもないだろう。

『嘘っぽくならないように』という思いだけに取りつかれて、舞台へ創造しに出てはいけない。

何が何でも真実を作ろう、という一つの心配だけを抱えて出てもいけない。

そんなことを考えれば、ますます嘘をつくだけだ」

「どうすれば抜け出せるんですか?」と、気の毒なドィムコワは、今にも泣き出しそうに尋ねた。

「二つの問いを使うのだ。砥石がかみそりを整えるように、創造の向きを整えてくれる。

嘘への思いに取りつかれたら、脚光の前に立ちながら、自分を確かめるためにこう尋ねなさい。『私は行動しているのか。それとも、嘘と闘っているだけなのか?』。

私たちが舞台へ出るのは、自分の欠点と闘うためではない。本物の、実りある、目的にかなった行動をするためだ。

行動が目的を果たせば、それは嘘に勝ったということだ。

正しく行動しているか確かめるには、もう一つ尋ねなさい。『私は誰に向かって行動しているのか。自分か、観客か。それとも目の前の生きた人間、同じ舞台にいる相手役か?』。

創造の瞬間、俳優は自分自身の審判にはなれない。これは知っているね。

観客も、見ている最中には審判ではない。

家へ帰ってから判断をまとめる。

審判は相手役だ。

俳優が相手役に働きかけ、感情と心の交流の真実を信じさせたなら、創造の目的は達せられ、嘘は退けられたのだ。

舞台で創造するとき、見せたり演じたふりをしたりせず、本当に、実りある形で、目的にかなって、絶えず行動する人。観客ではなく相手役と心を通わせる人。その人は、戯曲と役の領域、生きた生活と真実、信じる心、『私はいる』という実感の中に、とどまれる。

その人は、舞台で真実を生きているのだ。

嘘と闘うには、別の方法もある」とアルカージー・ニコラーエヴィチは、泣いているドィムコワを慰めた。

「嘘を抜き取ることだ。

けれども、空いた場所に、もっと大きな嘘が入り込まないと、誰が保証できるだろう。

やり方を変えなければならない。見つかった嘘の下に、本当の真実の種を置くのだ。

子どもの新しい歯が育って乳歯を押し出すように、真実に嘘を押し出させなさい。

十分に理由づけられた『もしも』、与えられた状況、心を引く課題、適切な行動に、俳優の紋切り型や見せかけの演技、嘘を追い出させるのだ。

真実を自覚し、それによって嘘を押し出すことが、どれほど大切で必要か、ぜひ理解してほしい。

私たちが『嘘と紋切り型を抜き取る』と呼ぶこの過程は、気づかないうちに、習慣として絶えず働き、舞台での一歩一歩を確かめるものでなければならない。

今、真実を育てることについて話したことは、ドィムコワだけでなく、君にも当てはまるよ、ウムノヴィフ」とアルカージー・ニコラーエヴィチは、私たちの『製図家』へ向かって言った。

「一つ、しっかり覚えておいてほしい助言がある。舞台で真実に求めるものも、嘘の重大さも、決して大げさに捉えないでほしい。

真実に執着すると、真実それ自体を目的に、真実を演じて見せることになる。

それは、どんな嘘にも増して悪い嘘だ。

一方、嘘を恐れすぎると、不自然に用心深くなる。それも、舞台上の最も大きな『嘘』の一つだ。

舞台の嘘にも真実にも、落ち着いて、公平に、あら探しをせずに向き合うべきだ。

劇場で真実が必要なのは、心からそれを信じられ、自分や相手役を納得させ、自信を持って創造的課題を果たす助けになるからだ。

嘘も、賢く扱えば役に立てられる。

嘘は、俳優がしてはいけないことを知らせる音叉だ。

一瞬間違えて、嘘っぽくなったとしても、大したことではない。

大切なのは、そのとき音叉が、正しさ、つまり真実の境界を教え、誤った瞬間に正しい道へ導くことだ。

そうなれば、一時的な逸脱や嘘っぽさは、越えてはいけない境界を示すことで、むしろ俳優の役に立つ。

創造の間、この自己点検の過程は欠かせない。

それどころか、途切れず、絶えず続いていなければならない。

人前で創造すると、俳優は緊張から、自分の中に実際にある以上の感情を出したくなりがちだ。

けれども、その感情をどこから持ってくるのだろう?

舞台での体験を調整するための、感情の予備倉庫などない。

行動を抑えたり、大げさにしたり、感情を表しているつもりで必要以上に頑張ったりすることはできる。

しかしそれは感情を強めるどころか、かえって壊してしまう。

外側だけの誇張、見せかけの演技だ。

そんなとき、真実の感覚が上げる抗議の声こそ、最もよい調整役になる。

俳優が内面では正しく役を生きているときでも、その声に耳を傾けなければならない。

内面は正しくても、外へ表す身体の働きが、緊張のために頑張りすぎ、知らず知らず演じすぎることは、少なくないからだ。

それは必ず嘘につながる」

授業の終わりにトルツォフは、ある俳優の話をした。その人は客席でほかの人の演技を検討するときには、とても繊細な真実の感覚を持っているという。

だが、自分が舞台へ行き、戯曲の登場人物になると、その感覚を失ってしまうのだ。

「信じがたいことだ」とアルカージー・ニコラーエヴィチは言った。「つい今しがた、仲間の嘘っぽさや見せかけの演技を、繊細な理解をもって批判した同じ人が、舞台へ移ると、批判した相手以上の誤りを犯すのだ。

こうした俳優では、観客としての真実の感覚と、演じ手としての真実の感覚が違っているのだ」

一九……年……月……日

授業でアルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「俳優の行うことに、舞台で自然に真実が生まれ、それを本物だと信じられるなら、もちろん、それがいちばんだ。

しかし、そうならないときは、どうすればよいだろう。

そのときは心理技法の助けで、真実と、それを信じる心を探し、作り出さなければならない。

自分で信じられないこと、嘘だと思っていることを、創造することはできない。

では、自分の中のどこに、真実と信じる心を探し、どう作ればよいのだろう。

内側の感覚や行動、つまり人間である俳優の心の生活の領域だろうか。

けれども、内面の感情はあまりに複雑で、捉えにくく、気まぐれで、安定して保ちにくいものだ。

心の領域で真実と信じる心が生まれるには、おのずと生まれるか、複雑な心理技法の仕事を通すか、どちらかだ。

それらを最も容易に見つけ、呼び起こせるのは身体の領域だ。ごく小さな、単純な身体的課題や行動の中だ。

それらは手が届き、安定し、目に見え、感じ取れ、意識や指示にも従う。

そのうえ、定着させるのも容易だ。

だから私たちは、まずそれらを取り上げ、その助けで、創る役へ近づいていくのだ。

試してみよう」

一九……年……月……日

「ナズヴァーノフ、ヴュンツォフ!

舞台へ行って、いちばんうまくいかないエチュードを演じてみなさい。

私には、それは『お金を燃やす』エチュードだと思える。

うまく扱えないのは、何よりも、私が筋書きに盛り込んだ恐ろしい出来事のすべてを、一度に信じようとするからだ。

『一度に』が、何となくの演技を生む。

いちばん単純な身体的行動をたどりながら、部分ごとにこの難しいエチュードをつかんでみなさい。もちろん、全体とのつながりは完全に保って。

どんなに小さな補助的行動でも、真実に達するまで行うのだ。そうすれば全体も正しく流れ、その本物らしさを信じられるようになる」

「小道具のお金をください」と私は、舞台袖の当番の係員に頼んだ。

「要らない。何も持たずに演じなさい」とアルカージー・ニコラーエヴィチが止めた。

私は、存在しないお金を数え始めた。

「信じられない!」想像上の札束を取ろうと手を伸ばしただけで、トルツォフに止められた。

「何が信じられないんですか?」

「触ろうとしているものを、見もしなかったね」

私は想像の札束のあるほうを見た。何も見えなかったが、手を伸ばし、引き戻した。

「せめて指を閉じなさい。それでは札束が落ちてしまう。

放り出さずに、置きなさい。

それには一秒かかる。

自分のすることに理由を与え、身体で信じたいなら、その一秒を惜しまないことだ。

そんなほどき方をする人がいるかね?

札束をくくっているひもの端を探しなさい。

そうではない!

一瞬で済むことではないのだ。

たいてい、束がほどけないように、端はねじってひもの下に差し込んである。

その端をほどくのは、そう簡単ではない。

そう、その調子」とアルカージー・ニコラーエヴィチは認めた。

「では、一束ずつ数えなさい。

おや!

ずいぶん速く済んだね。

どんな熟練の出納係でも、古くてよれよれの紙幣を、そんなに速く数えられない。

わかるかね。舞台で行うことを身体が自然に信じるためには、ここまで具体的な細部、ここまで小さな真実に届かなければならないのだ」

一つの行動から次へ、一秒また一秒と、トルツォフは私の身体の仕事を、筋道と順序に沿って導いた。

想像のお金を数えながら、実際の生活では同じことをどう行うのか、どのような順序とつながりで進めるのか、少しずつ思い出した。

トルツォフが示した、筋の通った行動の積み重ねによって、何もないところにある物を扱う感覚が、今日はまるで変わった。

空っぽの手が、想像のお金で満たされたようだった。いや、正確には、現実には存在しない想像の対象へ、正しく狙いが定まったのだ。

わけもなく指を動かすのと、頭に思い浮かべた、汚れてくたびれた一ルーブル札を数えるのとでは、まったく違う。

身体的行動に本当の真実を感じたとたん、舞台が居心地のよい場所になった。

同時に、意図しない即興も生まれた。私はひもをきちんと丸め、テーブルの上の手近な場所に置いた。

この小さなことの真実が、私の心を温めた。

それだけでなく、さらに新しい即興を次々と呼び起こした。

たとえば、札束を数える前に、端をそろえて整えるため、しばらくテーブルにとんとんと打ちつけた。

そばにいたヴュンツォフは、その行動の意味を理解して笑った。

「何がおかしい?」と私は尋ねた。

「あまりに本物そっくりだったから」と彼は説明した。

「これこそ、最後まで十分に理由づけられ、俳優が自然に信じられる身体的行動と、私たちが呼ぶものだ!」と、アルカージー・ニコラーエヴィチが客席から声を上げた。

少し間を置いて、アルカージー・ニコラーエヴィチは話し始めた。

「この夏、久しぶりにセルプホフ近郊の別荘で過ごした。以前、何年も続けて休暇を過ごした場所だ。

部屋を借りた小さな家は、駅から遠く離れていた。

ただ、谷間、養蜂場、森を抜けてまっすぐ行けば、距離は何分の一にも縮まる。

昔は何度も歩いて道ができていたが、何年も来ないうちに、背の高い草に覆われてしまっていた。

私は自分の足で、もう一度道を作らなければならなかった。

初めは苦労した。何度も正しい方向を外れ、往来のためにでこぼこになった車道へ出てしまったのだ。

その道は、駅とはまるで違う方向へ続いていた。

引き返して自分の足跡を探し、そこから先へ道を延ばさなければならなかった。

そのとき目印にしたのは、見覚えのある木や切り株の並び、上り坂や下り坂だ。

それらの記憶が残っていて、道を探す私を導いてくれた。

やがて草の倒れた長い筋ができ、私はそれに沿って駅を往復した。

町へ出かけることが多く、ほとんど毎日その近道を通ったので、まもなく踏み分け道ができた」

再び少し間を置いて、アルカージー・ニコラーエヴィチは続けた。

「今日、ナズヴァーノフと私は、『お金を燃やす』エチュードの身体的行動の筋を定め、そこに命を与えた。

その筋も、一種の『小道』だ。

現実の生活ではよく知っている道でも、舞台では新たに踏み固めなければならなかった。

ナズヴァーノフには、この正しい筋のすぐそばに、習慣によって踏み固められた、別の誤った筋があった。

紋切り型と芝居の約束事でできた筋だ。

本人の意志に反して、何度もそちらへそれてしまった。

その誤った筋は、わだちにえぐられた田舎道にたとえられる。

それは何度も、ナズヴァーノフを正しい方向からそらし、ただの型芝居へと連れていった。

そこを避けるために、森の中の私と同じように、身体的行動の正しい筋を探し、新しく切り開かなければならなかったのだ。

それは森の中で踏み倒された草にたとえられる。

これからナズヴァーノフは、その筋をさらに『踏み固め』、役の正しい道筋を確かに定める『小道』にしなければならない。

私の方法の秘密は、明らかだろう。

大切なのは身体的行動そのものではなく、その行動によって自分の中に呼び起こし、感じられる真実と、それを信じる心なのだ。

小、中、大、最大の部分や行動があるのと同じように、私たちの仕事には、小さな真実、大きな真実、さらに大きな真実と、それを信じる瞬間がある。

大きな行動全体の真実を一度につかめなければ、それを部分に分け、いちばん小さい部分だけでも信じられるようにするのだ。

私も谷間や森に小道を作ったとき、そうした。

そのとき私を導いたのは、切り株、小さな溝、丘といった、ごく小さな手掛かり、正しい道の記憶だった。

ナズヴァーノフとも、大きな行動ではなく、ごく小さな身体的行動をたどり、その中に小さな真実と信じる瞬間を探した。

一つが次を生み、それらが一緒になって、三つ目、四つ目を呼び起こしていったのだ。

ささいなことだと思うかね?

そうではない。とても大きなことだ。

一つの小さな真実、一瞬でも行動を本物だと信じることから、俳優の目がたちまち開け、自分が役の中にいると感じ、戯曲全体の大きな真実まで信じられるようになることは、少なくない。

生活の真実が現れる一瞬が、役全体の正しい調子を教えてくれるのだ。

自分の経験から、いくつでも例を挙げられる!

俳優が型どおりの芝居をしている最中に、不意の出来事が起きる。椅子が倒れる。女優がハンカチを落として拾う必要が生じる。舞台上の動きが変わり、急に家具を動かさなければならなくなる。

新鮮な空気が息苦しい部屋をさわやかにするように、現実から舞台の作り物の空気へ入り込んだ偶然が、死んだ型どおりの演技を生き返らせる。

その偶然は役の稽古に含まれていないので、俳優は即興で、ハンカチや椅子を拾わなければならない。

その予想外の行動は、俳優らしくではなく、一人の人間として行われる。そして、信じずにはいられない、本当の生活の真実を生む。

その真実は、型にはまった芝居がかった演技とは、はっきり違う。

こうして舞台に、俳優が離れてしまっていた現実そのものから取り出された、生きた行動が生まれるのだ。

そうした一瞬だけで、自分を正しい方向へ向け直せたり、創造に新たな刺激や変化が生じたりすることは、少なくない。

そこから、生気を与える流れが、場面全体、場合によっては一幕全体、戯曲全体を走り抜けるようになる。

生きた人間の生活から飛び込んできた偶然の一瞬を、役の筋へ組み込むか、拒んで取り除くかは、俳優次第だ。

つまり俳優は、戯曲の登場人物としてその偶然を受け止め、その一回だけ、役の楽譜、生活の筋へ加えることができる。

しかし、一瞬役から離れ、意に反して舞台に入り込んだ偶然を始末し、つまりハンカチや椅子を拾って、それからまた舞台の型どおりの生活、中断した芝居へ戻ることもできる。

一つの小さな真実と信じる瞬間が、俳優を創造的な状態へ導けるのなら、そうした瞬間が筋道と順序に沿って連なれば、非常に大きな真実と、本当に信じている長い時間が生まれる。

その間、一つ一つが互いを支え、強め合う。

だから、小さな身体的行動を軽んじてはいけない。舞台ですることの真実を得て、それを本物だと信じるために、活用することを学びなさい」

一九……年……月……日

アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「小さな身体的行動、その中の小さな真実、それを信じる瞬間は、役の単純な場面だけでなく、悲劇やドラマを体験する、最も強い山場でも、大きな意味を持つ。

たとえば、『お金を燃やす』エチュードの後半、劇的な部分を演じるとき、君は何をしているかね?」

そう、アルカージー・ニコラーエヴィチは私に問いかけた。

「暖炉へ駆け寄り、火から札束を取り出す。それから、背にこぶのある男の意識を取り戻させ、赤ん坊を助けに走る、といったことだね。

これらが身体的行動の段階だ。エチュードで最も悲劇的な場面でも、その段階に沿って、君の創る役の身体的な生活が、自然に、順序を追って展開する。

別の例も挙げよう。

死にかけている人の親友や妻は、何をしているだろうか?

病人を静かに休ませ、医者の指示を守り、体温を測り、湿布やからし湿布をする。

そうした小さな行動の一つ一つが、病人の命に決定的な意味を持つため、まるで神聖な儀式のように、全身全霊を込めて行われる。

当然だろう。死との闘いでは、不注意は罪深いものだ。病人の命を奪うかもしれないのだから。

では、三つ目の例だ。

悲劇の頂点で、マクベス夫人は何をしているだろうか?

単純な身体的行動、手についた血の染みを落とそうとしている」

「失礼ですが」とゴヴォルコフが、急いでシェイクスピアの弁護に入った。

「偉大な作家が傑作を書いたのは、登場人物に手を洗わせたり、ほかの自然主義的な動作をさせたりするためだった、とでもいうのですか?」

「ああ、がっかりする話だろう!」とトルツォフは皮肉を返した。

「『悲劇的なもの』を考えず、君の大好きな、俳優の力みきった頑張りや、見せかけの演技、かぎ括弧つきの『情熱』や『霊感』を捨てるのだから!

観客や、観客へ与える印象のことも忘れ、そうした俳優のご自慢のものの代わりに、小さな具体的な身体的行動、小さな身体の真実、それを本物だと心から信じることに、自分を限るのだからね!

いずれわかる。これは自然主義のためではなく、感情の真実と、それを本物だと信じるために必要なのだ。実際の生活でも、高い感情が、ごく普通の、小さな生身の行動として現れることは少なくない。

重要な状況の中に置かれると、そうした身体的行動が大きな力を得ることを、私たち俳優は十分に活用しなければならない。

そのとき、身体と心、行動と感情が互いに働きかける。外側が内側を助け、内側が外側を呼び起こすのだ。血の染みを拭うことは、マクベス夫人が野心を遂げる助けとなり、野心が彼女に血の染みを拭わせる。

マクベス夫人の独白で、染みへの気遣いと、バンクォー殺しの折々の記憶が繰り返し交互に現れるのは、理由のないことではない。

染みを拭うという小さな、具体的な身体的行動が、マクベス夫人のその後の生活に大きな意味を持つ。そして、野心という大きな内面の望みが、小さな身体的行動の助けを必要とするのだ。

悲劇的な高揚の瞬間に、身体的行動の真実が重要になるのには、もっと単純で実際的な理由もある。

激しい悲劇では、俳優は創造の力を最高潮まで高めなければならない。

これは難しいことだ。

自然な衝動や欲求もないのに、自分を忘れるほどの高揚を呼び起こそうとするのは、どれほどの無理強いだろう!

創造への熱中からしか生まれない高い感情を、自分の意志に逆らって得ようとするのは、容易だろうか?

そんな不自然な近づき方では、道をそれて、本物の感情の代わりに、ただの型どおりの演技や筋肉のこわばりを生みやすくなる。

見せかけの演技は簡単だ。馴染みがあり、自動的にできるほど習慣になっている。

いちばん抵抗の少ない道なのだ。

その誤りから自分を守るには、現実的で、確かで、自然で、手応えのある何かにつかまらなければならない。

そこで必要になるのが、明確で、心を動かしながらも、容易に実行できる身体的行動だ。その瞬間に生きているものを、よく表す行動だ。

それが自然に、自動的に正しい道へ導き、創造の難しい瞬間にも、誤った道へそれるのを防いでくれる。

悲劇やドラマの感情が高まる、まさにそのとき、つかまりやすい、単純で真実のある身体的行動が、格別に重要な意味を持つのだ。

単純で、近づきやすく、実行しやすいほど、難しい瞬間にもつかまりやすくなる。

正しい課題は、正しい目的へ導く。

それが俳優を、いちばん安易な道、つまり紋切り型や型芝居から守ってくれる。

単純な小さな身体的行動に、さらに力と意味を与える、きわめて重要な条件がもう一つある。

俳優に、君の役や課題、行動は心理的で、深く、悲劇的だと言ってみなさい。たちまち力み始め、情熱そのものを演じて見せ、『ずたずたに引き裂く』か、自分の心をほじくり返し、むやみに感情を圧迫するだろう。

しかし、ごく単純な身体的課題を与え、それを面白く心を揺さぶる状況で包めば、俳優は自分を怖がらせずに行動を始める。自分のしていることに心理や悲劇、ドラマが隠れているかどうかなど、考えずに。

そのとき真実の感覚が、本来の力を発揮する。これは、俳優の心理技法が目指す、創造の最も重要な瞬間の一つだ。

こうして近づけば、感情は無理強いを免れ、自然に、十分に育つ。

偉大な作家の作品では、ごく小さな身体的課題でさえ、大きく重要な状況に包まれている。その中には、感情を誘い、目覚めさせるものが隠れている。

だから、悲劇ではウムノヴィフと反対のことをしなければならない。内面の感情を絞り出すのでなく、戯曲によって与えられた状況の中で、身体的行動を正しく果たすことだけを考えるのだ。

悲劇的な瞬間へ近づくときは、ウムノヴィフのように力んで無理をせず、ドィムコワのようにびくびくと神経質にもならず、多くの俳優のように一足飛びにも進まないことだ。少しずつ、順序と筋道に沿い、そのつど身体的行動の小さな真実、大きな真実を感じ、心から信じながら進みなさい。

感情へ近づくこの技術が身につけば、ドラマや悲劇の高揚の瞬間に対する姿勢も、まったく違う、正しいものになる。

もう、その瞬間を恐れなくなるだろう。

ドラマ、悲劇、ボードビル、喜劇の違いは、登場人物の行動が、どんな状況の中で行われるかだけにあることも、少なくない。

それ以外の身体的生活の流れは同じだ。

ボードビルでも悲劇でも、人は座り、歩き、食べる。

しかし、私たちの関心はそこにあるのだろうか?

大切なのは何のためにそうするかだ。与えられた状況と『もしも』が重要なのだ。

それらが行動に命と理由を与える。

行動は、戯曲の悲劇的な状況、あるいは別の状況の中に置かれると、まったく違う意味を得る。

そこで、大きな出来事や、重大な行為になるのだ。

もちろん、それを支えるのは真実と信じる心だ。

私たちが大小の身体的行動を大切にするのは、明確で、手応えのある真実を持つからだ。それらは身体の生活を作る。それは役全体の生活の半分だ。

また、身体的行動は、無理なく、知らぬ間に、役の生活そのもの、その感情へと私たちを導いてくれる。それも大切にする理由だ。

さらに、身体的行動は、俳優の注意を舞台、戯曲、役の領域にとどめ、しっかり正しく定めた、安定した役の筋に沿って導いてくれる」

一九……年……月……日

アルカージー・ニコラーエヴィチは私とヴュンツォフに、以前の授業で行った『お金を燃やす』エチュードを繰り返すように命じた。

私は調子がよく、そのとき見つけたことを比較的早く思い出し、すべての身体的行動を果たした。

舞台で、心だけでなく身体でも真実を感じるのは、なんと心地よいことか!

そんなときは、足元にしっかりした地面がある。そこに確かに立ち、誰にも倒されないという自信を持てる。

「舞台で自分を信じられ、ほかの人も自分を信じていると感じられるのは、本当にうれしいですね!」と、演じ終えて私は声を上げた。

「その真実を見つけるのに、何が助けになったかね?」とアルカージー・ニコラーエヴィチが尋ねた。

「想像上の対象です!

何もないところにある物です!」

「もっと正確には、その想像の物を扱う身体的行動だね」とアルカージー・ニコラーエヴィチは言い直した。

「大切な点だから、何度でも話さなければならない。

考えてごらん。劇場じゅうに散っていた注意が、存在しない対象、想像上の物に引きつけられるのだ。

それは舞台上、戯曲の生活のただ中にある。創造する人の注意を、観客や、舞台の外のあらゆるものから引き離す。

想像上の物は、まず自分自身に、それから身体的行動に、俳優の注意を集め、その行動を見守らせる。

君もそのおかげで、大きな身体的行動を構成する部分へ分け、一つずつ調べられた。

幼い頃、見ること、聞くこと、歩くことを夢中で学んでいたとき、君は、それを構成する小さな補助的行動を、一つ一つ学んでいた。

舞台でも、同じ仕事をしなさい。

俳優として幼いうちは、やはり何もかも、初めから学ばなければならない。

では、『お金を燃やす』エチュードで真実を得るのに、ほかには何が助けになったかね?」とトルツォフは問い重ねた。

すぐには思いつかず、私は黙っていた。

「私が君に求めた、行動の筋道と順序だ。

これはさらに重要で、時間をかけて考える必要がある。

筋道と順序も、身体的行動の中で働いている。行動に秩序とまとまり、意味を与え、本物の、実りある、目的にかなった行動を呼び起こす助けになる。

日常では、私たちはそんなことを考えない。

自然にすべてを行っている。

郵便局や銀行でお金を受け取れば、私が直す前のナズヴァーノフのようには数えない。

銀行では、私と取り組んだ後のナズヴァーノフのように、お金を数えるのだ」

「そりゃそうです!

銀行なら百、二百と数え間違えるかもしれないから、皆が心配します。でも想像のお金なら、数え間違えても怖くありません。

舞台では損しませんから」と生徒たちは言った。

「日常では、よくする行動を何度も繰り返すうちに、いわば『自動的な』筋道と順序が、身体的行動やほかの行動に生まれる」とトルツォフは説明した。

「そのために必要な、潜在意識の注意の構えや、本能的な自己点検は、おのずと働き、見えないところで私たちを導くのだ」

「筋道と、じゅ……ん……じょ……。行動の……じど……う……。注意の、か……まえ……。じこ……てん……けん……」とヴュンツォフは、難しい言葉を頭に押し込んでいた。

「君が怖がっている、『行動の筋道と順序』や、その『自動性』などの言葉を説明しよう。

聞きなさい。

手紙を書こうとするとき、最初に封筒の封をするわけではないね。

そうだろう?

紙とペンとインクを用意し、何を伝えるか考え、その考えを紙に書く。

それから初めて封筒を取り、宛名を書き、封をする。

なぜ、そうするのだろう?

行動に筋道と順序があるからだ。

では、舞台で俳優が手紙を書くところを見たことがあるかね?

机へ駆け寄り、手当たり次第の紙切れの上で、ペンを意味もなく宙に動かす。雑に折った紙を、どうにか封筒へ押し込み、唇を手紙に触れさせると……もう出来上がりだ。

そんなふうにする俳優の行動には、筋道も順序もない。

わかったかね?」

「わかりました!」とヴュンツォフは喜んだ。

「では今度は、身体的行動の筋道と順序が、自動的に働くということを話そう。

食事をするとき、フォークとナイフをどう持ち、どう使い、どうかんで飲み込むかといった細かなことに、いちいち頭を悩ませはしないだろう。

これまで何千回となく食べてきたので、その一連の動作はすっかり身について、自動的にできるようになっている。

動作に筋道と順序がなければ食事はできず、空腹も満たせないことを、君たちは本能的にわかっている。

では、その筋道や、自動的に行われる動作を見張っているのは何だろう。

それは、潜在意識のうちにも気を配っている注意力と、自分の動作を本能的に確かめる働きだ。

わかったかね?」

「なるほど……。わかりました!」

「実生活ではそうなのだ。

ところが、舞台では事情が違う。

知ってのとおり、舞台で私たちが行動するのは、生きるうえで自然にそれが必要になるからではなく、作者や演出家にそうするよう指示されるからだ。

舞台では身体的行動の自然な必要性がなくなり、それに伴って自動的に働いていた筋道と順序も、日常ではごく自然に働く潜在意識の注意や、本能的に自分の動作を確かめる働きも失われてしまう。

では、それらなしでどうすればよいのだろう。

自動的な働きに代えて、身体的行動の一瞬一瞬を、意識して筋道立て、順序を追って確かめる必要がある。

何度も繰り返していくうちに、その確かめ方自体が自然と身についてくる。

身体的行動の筋道と順序を感じること、そこから生まれる真実を感じ、その真実が本物だと信じることに、できるだけ早く慣れるのがどれほど大切か、君たちにわかってほしいのだ。

正しく練習すれば、こうした感覚と、それを求める気持ちは、驚くほど速く育つ。

それだけではない。筋道と順序、真実とそれを信じる心を求める気持ちは、思考、願望、感情、つまりあらゆる『要素』へと、ひとりでに広がっていく。

筋道と順序は、それらの要素、とりわけ注意力を鍛え、整える。

舞台上や自分の内面にある対象を見失わず、身体的行動だけでなく、内面的な心の行動についても、それを構成する細かな部分の一つひとつを見届ける習慣がつくのだ。

外側と内側の真実を感じ、それを信じると、まず内面に行動への衝動が生まれ、続いて行動そのものが自然に生まれる。

俳優の人間としてのあらゆる働きが、筋道と順序に従い、本物の真実とそれを信じる心をもって動きだせば、体験は十全なものになる。

戯曲と役の世界で、舞台上に起こるすべてのことに、筋道と順序を踏まえ、本物の真実とそれを信じる心で向き合える俳優を育てる。これは実に大きな課題ではないか!」

残念なことに、ドィムコワが気を失い、授業は中断した。

彼女を運び出し、医者を呼ばなければならなかった。

「ナズヴァーノフの、何か聞きたそうな目を見れば、何を待っているのかわかる」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは教室に入って言った。

「小さな身体的行動を通じて感情に働きかける方法を、どうすれば身につけられるか、早く知りたいのだろう。

そのためには、『物を使わずに行う動作』の練習が大いに役立つ。

君たちはすでにこの練習を見ているし、何の役に立つかも知っている。

思い出しなさい。『お金を燃やす』エチュードを始めたとき、ナズヴァーノフは、物を持っているつもりで、意味も方向もなく、自分が何をしているかもわからずに動いていた。舞台に出たとたん、注意を払い、自分の動作を確かめる働きも、自動的に働く筋道も失われていたからだ。

私はナズヴァーノフの意識の役を引き受け、お金を数えるという大きな行動を構成する小さな動作の意味とつながり、その筋道と進む順序を、彼に思い出させ、理解させようとした。

一つひとつの小さな補助的動作を、意識して確かめる習慣をつけさせたのだ。

その結果は、君たちが見たとおりだ。

ナズヴァーノフは、舞台上での自分の行動に真実と生きたものを思い出し、見いだし、感じ取った。そして、本当に成果を生む、目的にかなった行動を始めた。

今日、彼はさほど苦労せずに、すべてを思い出した。

こうして整えた練習を何十回、何百回と繰り返せば、筋道と順序のある舞台上の行動も、自動的にできるようになる」

「でもですね、物なしの動作ばかり練習しすぎて、本番で、ほら、本物の道具を渡されたら、扱えなくて途方に暮れるなんてことになりませんか」とゴヴォルコフがからかった。

「本当に、なぜ初めから本物の道具で練習しないのですか」と誰かが尋ねた。

「僕たちの想像することに全部そろえるなら、道具がどれだけ必要になるだろう」とシューストフが言った。

「ついこの間だって、家を建てて、梁やれんがを運んだじゃないか」と私は思い出して言った。

「もっと大切な理由もある。

それはゴヴォルコフに、実例で説明してもらおう」とアルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「ゴヴォルコフ、舞台へ行って、丸テーブルにある本物の道具を使って手紙を書きなさい」

ゴヴォルコフは舞台に上がり、言われたとおりにした。

彼が書き終えると、トルツォフは生徒たちに尋ねた。「彼の動作は一つ残らず見て取れたかね。そして、それを本当だと信じられたかね」

「いいえ!」と、生徒たちはほとんど声をそろえて答えた。

「では、どこが見えず、どこがおかしいと思ったかね」

「まず、紙やペンをどこから取り出したのかわかりませんでした」と一人が言った。

「誰に、何を書いたのか、ゴヴォルコフに聞いてみてください。

答えられませんよ。本人にもわかっていないんですから」と別の生徒が言った。

「あんな短い時間では、簡単な書き置きさえ書けません」と三人目が批評した。

「私は、ドゥーゼがマルグリット・ゴーティエを演じたとき、アルマンに手紙を書く様子を、細部まで覚えている。デュマの『椿姫』だ。

あれを見てから何十年もたつが、愛する人に手紙を書くというあの身体的行動の、どんな小さな細部も、今なお味わい直すことができる」とアルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

それから、再びゴヴォルコフに向かって言った。

「今度は同じことを、物を使わずにやってみなさい」

大きな行動を構成する小さな動作を、筋道と順序に従って一つずつ思い出させ、導いていくのには、ずいぶん手間がかかった。

ゴヴォルコフがそれらを思い出し、順番どおりにやってみせると、アルカージー・ニコラーエヴィチは生徒たちに尋ねた。「今度は、彼が手紙を書いていると信じられたかね」

「はい」

「紙やペンやインクを、どこから、どうやって取ったか、見えて、記憶に残ったかね」

「はい、見えましたし、覚えています」

「書く前に内容を頭の中で考え、それから筋道立て、順序を追って紙に書きつけていると感じたかね」

「感じました」

「では、この例から何がわかるだろうか」

私たちは、まだどう答えてよいかわからず、黙っていた。

「わかるのはこういうことだ」とアルカージー・ニコラーエヴィチは言った。「舞台上の俳優の行動を見る観客も、日常で無意識に知っている、動作の筋道と順序が自然に運ぶあの感覚を、意識せずに感じ取れなくてはならない。

それがなければ、舞台で起こることを真実だと信じられない。

だから、どの行動にも、その筋道と順序を与えなさい。

初めは意識して与えるのだ。やがて時間をかけて慣れるうち、自動的にできるほど身についてくる」

「もう一つ、わかることがあります」とゴヴォルコフが結論を出した。

「つまりですね、本物の道具を使う場合にも、舞台では一つひとつの身体的行動を練り上げなければならない、ということです」

「そのとおりだ。ただし舞台に慣れないうちは、本物の道具を使ってこの練習をするほうが、物なしでやるより難しいのだ」とトルツォフは言った。

「それはまた、どうしてですか」

「本物の道具があると、日常で身についた自動的な働きによって、多くの動作が本能的に進んでしまい、演じている本人が気づく暇もないからだ。

そうして通り過ぎる動作を捉えるのは難しい。かといって、その流れを乱せば、身体的行動の筋道と順序を途切れさせる空白が生まれる。

筋道が壊れれば真実も失われる。真実がなければ、俳優自身にも観客にも、それを信じる心も体験そのものも生まれない。

『物を使わない動作』では、条件が変わる。

大きな行動を構成する、ごく小さな動作の一つひとつに、否応なく注意を向けなければならないのだ。

そうしなければ、全体を支える細かな動作をすべて思い出して行うことはできない。そして、その細かな動作なしには、大きな行動全体も実感できない。

まず考え、それから動作を行うことになる。

そうすることで、自分の行動の筋道と順序を通して、自然に真実へと近づき、真実からそれを信じる心へ、そして本物の体験へと進んでいける。

私が初めのうちは『物を使わない動作』から始めるよう勧め、一時的に本物の道具を取り上げる理由が、これでわかるだろう。

道具がないからこそ、身体的行動そのものの性質を、もっと注意深く、深く探り、学ばずにはいられなくなるのだ。

私が勧める方法と練習に、貪欲に、情熱をもって取り組みなさい。そして、それを使って、行動を人間の自然な真実にまで高めなさい」

「失礼ですが」とゴヴォルコフが異議を唱えた。「物を使わない動作を、身体的と呼んでよいのでしょうか。そのうえ、生身の人間の自然な働きとまで呼べるのですか」

シューストフも彼に賛同した。

実在する本物の対象を相手にする行動と、物があるつもりで想像上の対象を相手にする行動とは、性質の違う二つの行動だと、彼も考えたのだ。

「たとえばですね、水を飲むことです。

そこには、口に水を吸い込み、味を感じ、飲み込むという、まさしく身体の、生身の人間に起こる一連の働きがあります……」

「そう、まさにそれだ!」とトルツォフが遮った。

「そうした細かな働きを、物なしの動作でも、すべて再現しなければならない。それがなければ、飲み込むことにはならないのだ」

「でも、口の中に何もないのに、何を使って再現すればいいのですか」

「唾液でも空気でも飲み込めばよいではないか」とアルカージー・ニコラーエヴィチは提案した。

「君たちは、それではおいしいワインを飲み込むのとは違う、と言うだろう。

それは認めよう。

違いはある。

しかしそれでも、私たちの目的には十分な、身体の真実を感じられる瞬間がいくつも残る」

「ですが、そんな練習では、役の肝心なところから気がそれてしまいます。

日常で飲むときにはですね、自然にできてしまって、注意など必要ありません」とゴヴォルコフは引き下がらなかった。

「いや、飲み物を味わうときには、注意を向けるだろう」とアルカージー・ニコラーエヴィチは反論した。

「でも、味わっていないときには、そんなことは考えませんよ」

「物なしの動作でも同じだ。

先ほども言ったように、何百回と繰り返し、それを構成する一つひとつの動作を理解し、覚えなさい。そうすれば体は、慣れ親しんだ行動だとわかってそれを感じ取り、繰り返すときに、ひとりでに力を貸してくれる」

授業が終わり、生徒たちが挨拶をして帰っていく間、アルカージー・ニコラーエヴィチはイヴァン・プラトーノヴィチに指示を出していた。

トルツォフは大きな声で話していたので、私にも聞こえた。

「生徒たちにも、まったく同じように指導してほしい。

初めは教師が生徒の意識の役を引き受け、生徒がうっかり飛ばしてしまった、小さな補助的動作を指摘してやるのだ。

一方、生徒たちには、大きな行動を構成するそうした細かな動作と、その筋道に沿った進む順序を、知っておく必要があると覚えておいてもらいたい。

生徒たちの注意力を鍛え、行動するときに人間の自然な仕組みが求めることを、正確に行えているか、根気強く見届けられるようにするのだ。舞台ではいつも、身体的行動の筋道と順序を感じているようにする。それが自然な欲求となり、舞台上でのふだんの状態になるようにする。そして音楽家が奏でる旋律の一音一音を愛するように、大きな行動を構成する小さな動作の一つひとつを、生徒たちが愛するようにするのだ。

これまでも君は、生徒たちが舞台で行動しているふりをするのではなく、本当に成果を生む、目的にかなった行動をするよう、いつも気を配ってきた。

それはよいことだ!

これからも『訓練と反復稽古』の授業で、同じ取り組みを続けてほしい。

これまでどおり、手紙を書き、食卓を整え、いろいろな料理を作り、想像のお茶を飲み、服を縫い、家を建てるなど、さまざまなことをしてほしい。

ただし、これからはそうした身体的行動をすべて、物があるつもりで、実物を使わずに行うのだ。この練習は、身体的行動を通して、俳優の内面に、人間の自然な働きから生まれる本物の真実と、それを信じる心を確立するために行うのだと、忘れないでほしい。

ナズヴァーノフはもう、実物がなかったからこそ、お金を数えるという身体的行動の一瞬一瞬に、どれほど注意深く入り込まなければならなかったか、わかっている。

この、きわめて大切な注意力の働きを、技術として高度に磨き上げてほしい。

そのうえで、同じ身体的行動の周囲に、さまざまな与えられた状況と、魔法の『もしも』を設定するのだ。

たとえば、生徒が服を着るという身体の動きを完全に身につけたとしよう。

その生徒に、こう尋ねてほしい。『学校へ急ぐ必要のない休日には、どんなふうに服を着ますか』

休日の着替え方を思い出し、そのとおりに着替えさせてほしい。

『授業のある日で、開始までまだ十分に時間があるときには、どんなふうに着替えますか』

次は、学校に遅刻しそうなとき。

次は、家の中で騒ぎが起こったり、火事になったりしたとき。

次は、自宅ではなく、よその家に客として来ているとき。そんなふうに続ける。

どの場合にも、着替えるときの体の動きは、ほとんど同じだ。ズボンをはき、ネクタイを結び、ボタンを留めるなど、個々の動作そのものは毎回まったく同じように行う。

これらの身体的行動の筋道と順序は、どんな状況でも、ほぼ変わらない。

その筋道と順序を、個々の身体的行動について、しっかり身につけ、十分に磨き上げておくのだ。

変わるのは、同じ身体的行動を取り巻く、与えられた状況や、魔法の『もしも』をはじめとするさまざまな仮定だ。

周囲の状況は行動そのものに影響を与えるが、その影響を自分で作ろうと気をもむ必要はない。

私たちに代わって、人間の自然な働き、人生経験、習慣、そして潜在意識そのものが、それを引き受けてくれる。

必要なことは、それらがすべてしてくれる。

私たちが考えるべきなのは、与えられた状況の中で、身体的行動そのものを、筋道と順序に沿って正しく行うことだけだ。

この、行動を学び、整えていく作業でこそ、『物を使わない動作』の練習が大いに役立つ。その練習を通じて、真実を知っていくのだ。

だから私は、この練習をとりわけ重視している。ワーニャ、もう一度頼む。ぜひ格別の注意を払って取り組んでほしい」

「了解!」とイヴァン・プラトーノヴィチは、水兵のように答えた。

一九……年……月……日

身体的行動の筋道と順序という考えは、私たちの意識にしっかり根を下ろした。

練習でも、エチュードでも、訓練や反復稽古でも、私たちの注意はもっぱらそこに向いている。

教室や舞台で試す、さまざまな実験を、自分たちで考え出している。

そればかりか、身体的行動の筋道と順序への関心は、ふだんの生活にまで入り込んだ。

私たちの間には、互いの動作を絶えず見張り、筋道や順序の通らないところを見つけて指摘し合う、一種の遊びが生まれた。

たとえば今日、学校の舞台の掃除が遅れたため、私たちは舞台に隣接する劇場内の廊下で、アルカージー・ニコラーエヴィチの授業を待つことになった。

すると突然、マロレトコワが甲高い声を上げた。

「ねえ、みんな!

困ったわ!

部屋の鍵をなくしちゃったの!」

みんなで鍵を捜し始めた。

「筋が通っていませんね!」とゴヴォルコフがマロレトコワに絡んだ。

「先にかがんでから、どこを捜すか考え始めているじゃありませんか。

つまりですね、その身体的行動は鍵を捜すためではなく、観客である僕らに愛嬌を振りまくため、と結論できますね」

「ああ、みんな、この人ったら、しつこいのよ!」とマロレトコワはむきになった。

その間、ヴュンツォフはヴェリヤミノワの後をぴったりついて回っていた。

「ほら!

つかまえた!

君の負け!

順序が違う!

信じられないな!

ソファの隙間を手で探りながら、目は僕のほうを見ているじゃないか。

はい、君の負けだ!」

と、ヴュンツォフはあら探しをしていた。

そこへプーシチン、ヴェセロフスキー、シューストフ、そして多少は私まで口を挟むのだから、捜し物をしている者が逃げ場をなくしたのも無理はない。

「ばかな子供たちだ! 自分たちを駄目にするようなことはやめなさい!」突然、アルカージー・ニコラーエヴィチの雷のような声が響いた。

生徒たちは、わけがわからず固まった。

「みんなベンチに座って! マロレトコワとヴェリヤミノワは、廊下を行ったり来たりしなさい!」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは、ふだん聞かない厳しい声で命じた。

「違う!

そんな歩き方があるかね!

かかとは内側、つま先は外側!

なぜ膝を曲げないのかね?

腰がほとんど動いていないね!

体の重心に気をつけて!

それでは動きに意味も順序もない!

信じられない!

君たちは、歩くこともできないのかね?

自分のしていることの真実と、それを信じる心はどこへ行ったのかね?

なぜ酔っぱらいのようにふらふらするのかね?

足を踏み出す先を見なさい!」

アルカージー・ニコラーエヴィチの小言はますます激しくなり、責め立てられる二人は、そのたびに落ち着きを失っていった。

トルツォフにあまりにも細かく責められて、二人は自分の膝も、かかとも、足先も、どこにあるのかわからなくなってしまった。

動かすよう指示された筋肉のまとまりを探そうとして、すっかり混乱した気の毒な二人は、見当違いのところを動かしてしまう。

するとまた、先生の小言が飛ぶ。

とうとう二人は自分の足をもつれさせ、ヴェリヤミノワは口をぽかんと開け、目に涙をいっぱいためたまま、動くのが怖くなって廊下の真ん中に立ちすくんだ。

トルツォフを見ると、驚いたことに、彼もラフマーノフもハンカチで口を押さえ、笑いに体を震わせていた。

まもなく、その冗談の意味がわかった。

「わからないかね」とアルカージー・ニコラーエヴィチは言った。「君たちのばかげた遊びは、私の方法の意味を台無しにしているのだ。

大きな身体的行動を構成する細かな動作を、形のうえで筋道と順序どおりに並べればよい、という話だろうか?

私が求めているのは、それではない。創造する俳優が感じる、本物の真実と、それを心から信じる気持ちだ。

その真実と信じる心がなければ、舞台で行うことはすべて、どれほど筋道と順序にかなった身体的行動であっても、ただの約束事になってしまう。つまり、信じることのできない嘘を生むのだ。

私の方法にとっても、『システム』全体にとっても、その心理技法にとっても、ひいては芸術全体にとっても、何より危険なのは、この複雑な創造の仕事を形だけのものとして扱い、狭く単純に理解してしまうことだ。

大きな身体的行動を小さな動作に分け、その間に形のうえで筋道と順序をつけ、それに合う練習を考えて生徒たちにさせる。本当に大切なこと、つまり身体的行動を本物の真実とそれを信じる心にまで高めることを気にしなくてよいなら、簡単で、金にもなる仕事だ!

『システム』を食い物にする人間には、なんと魅力的なことか!

『システム』そのもののために『システム』を使うことほど、愚かで、芸術に有害なことはない。

それ自体を目的にしてはいけない。手段を本質にすり替えてはいけないのだ。

そこに、最大の嘘がある。

私がここへ入ってきたとき、何か捜し物をしている君たちが生み出していたのは、まさにその嘘だった。

君たちが一つひとつの小さな身体的行動にけちをつけていたのは、真実を探り、それが本物だと信じる心を生み出すためではなかった。ただ身体的行動の筋道と順序を、形だけ満たそうとしていたのだ。

それは芸術とは何の関係もない、愚かで有害な遊びだ。

それから、友人として忠告しよう。自分の芸術や創造の仕事、その方法や心理技法などを、あら探しばかりする人間の餌食にしてはいけない。

そういう人間は、俳優から健全な判断力を奪い、身動きできないほど萎縮させたり、立ちすくませたりしかねない。

なのに、なぜそんな愚かな遊びで、自分の中にも他人の中にも、あら探しをする人間を育てるのかね?

やめなさい。さもないと、過剰な用心とあら探し、嘘をつくことへの恐怖で、すぐにまったく身動きが取れなくなる。

嘘を探すのは、真実を見つける助けになる範囲にとどめなさい。

あら探しをする人間こそ、かえって嘘を生み出すということも忘れないでほしい。責められる側は、自分が選んだ行動の課題を、いつの間にか果たさなくなり、代わりに『真実らしさ』そのものをわざと演じ始めてしまうからだ。

そのわざとらしい演技の中にこそ、最大の嘘が潜んでいる。

だから、外にも内にもいるあら探し屋など、追い払ってしまいなさい。観客の中にいるあら探し屋も、何より自分自身の中にいるあら探し屋もだ!

あら探し屋は、絶えず疑ってばかりいる俳優の心に、喜んで住みつくものだ。

自分の中に、健全で落ち着いた、賢く理解のある批評家を育てなさい。それこそ俳優の最良の友人だ。

その批評家は行動を干からびさせず、生き生きとさせる。形だけでなく、本当に行動するのを助けてくれる。

批評家は、美しいものに目を向け、見いだすことができる。ところが、けちなあら探し屋は、悪いところしか見ず、よいところを見逃してしまうのだ。

ほかの生徒の取り組みを見る君たちにも、同じことを勧める。

他人の創造の仕事を確かめる人は、鏡の役に徹しなさい。あら探しをせず、見たり聞いたりしたことを信じられるか、信じられないか、正直に伝える。そして、納得できた瞬間を指し示すのだ。

それ以上のことは求めていない。

劇場の観客が、日常の君たちと同じくらい、舞台の真実に厳しく、細かくけちをつけるなら、私たち気の毒な俳優は、舞台に出ることさえできなくなってしまう」

「観客は、真実に厳しくないのですか」と誰かが尋ねた。

「厳しいとも。でも、君たちのようにあら探しはしない。

むしろ、その逆だ!

よい観客は、劇場にあるすべてを信じたい、舞台上の作り事に納得させてもらいたいと、何より強く願っている。その願いが、笑い話のような無邪気さにまでなることも珍しくない。

つい先日、私に起こった妙な出来事を話そう。

知人の家の集まりで、若い人たちを楽しませようと、シューストフ老人が見事な手品をした。

みんなの目の前で、客の一人の上着やチョッキには手をつけず、ネクタイをほどき、シャツのボタンを外しただけで、そのシャツを脱がせてしまったのだ。

私はその手品の種を知っていた。たまたま準備をするところを見て、シューストフが助手と打ち合わせるのを聞いていたからだ。

ところが、いざ手品を見ると、そんなことは忘れ、この新しい役を演じるシューストフ老人に感心してしまった。

手品が終わると、みんな驚いて、どうやってやったのかを議論し始めた。私も、自分の知っていることを忘れ、いや、正確には考えたくなくて、その議論に加わっていたのだ。

信じて感嘆する楽しみを失いたくなくて、忘れたいと思っていたのだ。

あの不思議な物忘れと無邪気さは、そうとしか説明できない。

劇場の観客も同じように、『だまして』もらいたいと願っている。舞台の真実を信じ、そこが本当の生活ではなく演技の場であることを忘れるのが、心地よいのだ。

君たちが舞台ですることの、本物の真実と、それを信じる心で、観客を味方につけなさい」

一九……年……月……日

「今日は『お金を燃やす』エチュードの後半で、数日前に前半で行ったのと同じ練習をする」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは教室に入って告げた。

「今度の課題は複雑で、たぶん僕には無理です」と、マロレトコワ、ヴュンツォフと一緒に舞台へ行こうと立ち上がりながら、私は言った。

「かまわない」とアルカージー・ニコラーエヴィチは私を安心させた。「このエチュードを与えたのは、必ずやり遂げさせるためではない。難しい課題を通して、自分に何が足りず、何を学ばなければならないか、もっとよく理解してもらうためだ。

今は、できることをしなさい。

エチュード全体を一度にものにできなければ、一部分だけでも見せなさい。まず、外に現れる身体的行動の流れだけを作るのだ。

その流れに真実が感じられればよい。

たとえば、仕事をいったん中断し、妻に呼ばれて食堂へ行き、妻が赤ん坊をお風呂に入れているところを見る。それならできるかね」

「できます。それは難しくありません!」

私は立ち上がり、隣の部屋へ向かった。

「いや、違う!」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは急いで私を止めた。

「どうやら、まさにそれが正しくできないようだね。

もっとも、舞台上で部屋へ入り、そこから舞台袖へ出ていくのは、簡単なことではない。

だから、今の動きに、筋道や順序の通らないところがたくさんあったのも、不思議ではない。

小さく、ほとんど目立たないけれど欠かせない身体的行動と真実を、どれほど飛ばしてしまったか、自分で確かめなさい。

たとえば、部屋を出る前にしていたのは、つまらない用事ではなく、大切な仕事だった。団体の書類を整理し、会計を確かめていたのだ。

それなのに、なぜいきなり仕事を放り出したのかね。なぜ歩いて出ていかず、まるで天井が崩れ落ちるのから逃げるように、部屋から飛び出したのだろう。

恐ろしいことなど何も起きていない。妻に呼ばれた、それだけだ。

それに、実生活なら、煙の出ているたばこをくわえたまま、乳飲み子のそばへ行くだろうか。

赤ん坊は煙でせき込んでしまうだろう。

母親だって、生まれたばかりの子をお風呂に入れている部屋へ、喫煙中の人を入れはしないだろう。

だから、まずたばこを置く場所を見つけ、こちらの部屋に置いてから、出ていきなさい」

指摘された小さな補助的動作は、一つずつなら難しくなかった。

私は言われたとおり、たばこを居間に置き、舞台袖へ出て、次の出番を待った。

「今度は小さな動作を一つひとつ行ったことで、そこから『食堂へ行く』という一つの大きな行動ができた。

それなら無理なく信じられる」

居間に戻る動作にも、多くの修正が入った。ただし今度は、素直に行動せず、細かなことを一つひとつ味わいすぎ、必要以上に演じ足して、やりすぎていたからだった。

それもまた、舞台に嘘を生む。

ようやく私たちは、最も興味深い、劇的な瞬間に差しかかった。

舞台に出て、書類を置いておいたテーブルへ戻ろうとすると、ヴュンツォフがそれを燃やし、何もわからないような顔で、自分の遊びを喜んでいるのが見えた。

悲劇の瞬間を察した私は、突撃の合図を聞いた軍馬のように、前へ飛び出した。

激情に駆られてわざとらしい演技へ突き進み、抑える暇もなかった。

「止まれ! おかしくなっている! 脱線した! 間違った方向へ進んでいる!」とアルカージー・ニコラーエヴィチが私を止めた。

「今の感覚が残っているうちに、何を生きていたのか、自分でたどってみなさい」

「悲劇を演じてみせていました」と私は白状した。

「では、何をするべきだったのだろう?」

私がすべきだったのは、ただ暖炉に駆け寄り、燃えている札束を火の中から取り出すことだった。

ただし、そのためにはまず、自分の行く手を空けるために、背中の曲がった男を押しのける必要がある。

私はそのとおりにした。

しかしトルツォフは、そんな弱い押し方では、惨事や死につながるとは思えないと言った。

「では、もっと激しい行動を引き起こし、納得のいくものにするには、どうすればよいのでしょう?」

「こうしてみよう」とアルカージー・ニコラーエヴィチは私に言った。

「この紙に火をつけ、ここの大きな灰皿へ入れる。君は離れた所に立っていて、炎が見えたらすぐ駆け寄り、燃え尽きていない部分を助け出しなさい」

アルカージー・ニコラーエヴィチが言ったとおりにすると、私は燃える紙へ突進し、途中でヴュンツォフにぶつかって、危うく彼の腕を折るところだった。

「ほら」とアルカージー・ニコラーエヴィチは、その瞬間を捉えた。「今したことは、さっきしていたことと似ているかね?

今度は本当に惨事が起こりかねなかった。先ほどは、ただわざとらしく演じていただけだ。

もちろん、だからといって、俳優の腕を折ったり、舞台でけがをさせたりすることを勧めている、と受け取ってはいけない。

ここからわかるのは、君が一つの大切な事情を考えに入れていなかった、ということだけだ。紙幣は一瞬で燃え上がる。だから助けるには、こちらも一瞬で動かなければならなかったのだ。

それをしなかったために、真実と、それを信じる心が損なわれたのだ。

では、先へ進もう」

「えっ……。これだけで、もう終わりですか?」と私は心から驚いた。

「ほかに何をするのかね?

助けられるだけのお金は助け、残りは燃えてしまった」

「でも、人を殺してしまったことは?」

「人殺しなど起きていない」

「起きていない、ですって?」

「そうだ。

君が演じている人物にとっては、まだ人殺しなど起きていないのだ。

君は、お金が失われたことに打ちひしがれている。

知的な障害のある男を押したことにさえ、気づいていない。

何が起きたか知っていれば、たぶん立ちすくんでいるのではなく、死にかけている彼を助けようと急ぐだろう」

「それはそうですが……。それでも、この場面では何かしなくてはいけないでしょう。

劇的な瞬間なんですから!」

「なるほど!

要するに、悲劇らしい演技をしたいのだね。

でも、こらえたほうがいい。

先へ進もう」

私たちは次の、私にとって難しい瞬間へ進んだ。立ちすくむ、あるいはアルカージー・ニコラーエヴィチの言い方を借りれば、『悲劇的に何もしない』必要があった。

私は動きを止めた。そして……自分でも、わざとらしく演じたと感じた。

「ほら、お出ましだ!

おじいさん、おばあさんの時代からの、古い古いおなじみのものが!

なんと頑丈で、しつこく、こびりついた型だろう!」とトルツォフは私をからかった。

「どこが、そんな型になっているのですか?」

「恐怖に目をむく。悲劇らしく額をこする。両手で頭を抱える。指をいっぱいに開いて髪をかき上げる。胸に手を押し当てる。

どれも三百年ものの決まり文句ならぬ、決まり動作だ。

さあ、このがらくたを片づけよう!」と彼は命じた。

「型は全部、取り払って!

額や胸や髪を使う芝居は、追い出してしまいなさい!

その代わり、どんなに小さくても、本当に成果を生む、目的にかなった行動と、真実と、それを信じる心を見せなさい」

「でも、劇的に何もしない場面で、どうやって行動を見せればいいのでしょう?」と私は戸惑った。

「劇的な場面であれ、ほかの場面であれ、何もしていないように見えるときにも行動はあると思うかね?

あるのなら、どんな行動か言ってみなさい」

劇的に動きを止めている瞬間、人間は何をしているのか。思い出そうとして、私は記憶の棚を隅々まで探らなければならなかった。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、次のような出来事を話した。

「ある気の毒な女性に、夫が突然亡くなったという、恐ろしい知らせを伝えなければならなかった。

悲しい知らせを持ってきた人は、長い時間をかけて慎重に心の準備をさせ、ようやく決定的な言葉を口にした。

気の毒な女性は、動きを止めた。

しかし、その顔には悲劇らしい表情は何も浮かばなかった。こういうときに俳優が芝居をしたがる、舞台上の顔とは違う。

何の表情もなく、生気を失っている。その様子はぞっとするものだった。

彼女の内面で進んでいることを妨げないよう、数分間、こちらも身動きせずに立っているしかなかった。

とうとう動かざるをえなくなり、その動きが、彼女を硬直した状態から引き戻した。

彼女は我に返り、そして……気を失って倒れた。

ずっと後になって、過去のことを話せるようになったとき、彼女に尋ねた。あの『悲劇的に何もしない』時間に、何を考えていたのですか、と。

すると、夫の死を知らされる五分前まで、夫のためにいろいろな品物を買いに出かけようとしていたのだとわかった……。

でも、夫は亡くなった。だから、何か別のことをしなければならない。

では、何を?

新しい暮らしを作るのか?

古い暮らしに別れを告げるのか?

一瞬のうちにそれまでの人生をすべて追体験し、未来と向き合った彼女には、その先を見通すことができなかった。これから生きていくために必要な心の釣り合いを見いだせず、どうすることもできない思いに……意識を失ったのだ。

この数分間の『劇的に何もしない』時間が、十分に活動に満ちていたことは、認めてもらえるだろう。

実際、これほど短い時間で、自分の長い過去をもう一度生き、その意味を捉えようとするのだ!

これが行動でなくて、何だろう?」

「もちろん行動です。でも身体的ではなく、純粋に心理的な行動です」

「ああ、認めよう。

身体的なものではなく、何か別の行動だとしておこう。

呼び名をどうするか、厳密な区別にあまりこだわらないでおこう。

どんな身体的行動にも心理的なものが含まれ、心理的な行動にも身体的なものが含まれている。

ある有名な学者は、自分の感情を描写しようとすると、身体的行動を語ることになる、と言っている。

私から言えば、行動が身体的なものに近いほど、感情そのものを無理に引き出そうとする危険が少なくなる。

しかし……よいだろう。心理の話だとしよう。外側の行動ではなく内側の行動を、外に現れる身体的行動の筋道と順序ではなく、感情の筋道と順序を扱っているとしよう。

そうなれば、何をすべきか理解することが、いっそう難しく、いっそう大切になる。

自分でも理解していないことを行おうとすれば、漠然と『それらしく』演じる危険を避けられない。

内的行動について、はっきりした計画と流れが必要だ。

それを作るには、感情の性質と、その筋道と順序を知る必要がある。

これまで扱ってきたのは、感じ取ることも見ることもでき、自分たちで取り組める身体的行動の筋道と順序だった。

今度は、捉えどころがなく、目に見えず、思いどおりにならず、移ろいやすい内面の感情の筋道と順序に向き合うのだ。

この領域と、君たちの前に現れた新しい課題は、はるかに複雑だ。

感情の性質、筋道、順序などと、口で言うのは簡単だが!

どれも心理学のきわめて複雑な問題で、科学でもまだ十分に研究されておらず、この領域について、実践に使える指針も土台も、私たちには与えられていない。

だから、いわば私たちなりの手持ちの方法で、この難しさを切り抜ける道を見つけるほかない。

その話は次回にしよう」

一九……年……月……日

「では、『感情の筋道と順序』という、きわめて難しい問題をどう解けばよいのだろう。それがなければ、『悲劇的に何もしない』沈黙の時間に、命を吹き込むことはできない。

私たちは俳優であって、学者ではない。

私たちの領域は、活動であり、行動だ。

私たちが頼りにするのは、実践、人間の経験、人生の記憶、そして舞台で行うことの筋道と順序、真実と、それを信じる心だ。

私はその側から、この問題の解決に近づこうとしている」

少し間を置いてから、アルカージー・ニコラーエヴィチは続けた。

「実践から学んだ方法は、笑ってしまうほど簡単だ。

自分にこう尋ねるのだ。『実生活で、もし私が悲劇に直面して動けなくなったら、何をするだろう?』 この問いだけに、一人の人間として、正直に答えなさい。それだけだ。

見てのとおり、感情の領域でも、私は単純な身体的行動に助けを求めるのだ」

「私はですね、それには賛成できません。感情の領域には、身体的行動などありませんから。

あるのは心理的な行動です」

「いや、それは違う。

決断する前、人は自分の内面で、想像の中で、きわめて活発に行動している。何がどう起こりうるかを心の目で見て、これからしようとする行動を頭の中で実行しているのだ。

そればかりか俳優は、考えていることを身体でも感じ、内面の生を外に具現しようとする行動への衝動を、やっとのことで抑えているのだ。

行動を頭に思い描くことは、最も大切なもの、つまり内面の活動と、外に向かって行動しようとする衝動を呼び起こす助けになる」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは自説を曲げなかった。

「しかも、この過程のすべてが、私たちがふだん自然に創造する領域で起こっていることに、注意しなさい。

そもそも俳優の仕事はすべて、現実に存在する『本当の』生活の中ではなく、想像された、今は存在しなくても存在しうる生活の中で進む。

その生活こそ、俳優である私たちにとって、本物の現実なのだ。

だからこそ、私たち俳優は、想像上の生活や行動を語るとき、それを本物の、現実の身体的行為として扱ってよい、と私は言うのだ。

こうして、身体的行動の筋道と順序を通して、感情の筋道と順序を知るという方法は、実践のうえで十分に成り立つ」

難しい課題を出されるといつもそうなるのだが、私の頭の中は何もかもごちゃ混ぜになった。

エチュードにある事実と、与えられた状況を一つずつ思い出し、集め、その意味を考えなければならなかった。安定した暮らし、家族、家族と自分が働く団体に対する義務。会計係としての責任、支出を証明する書類の重要さ。妻と息子への愛情と、二人を慕う気持ち。いつも目の前に居座る、背中が曲がり、知的な障害のある男。間近に控えた監査と総会。惨事、お金と書類が燃える恐ろしい光景。それを助けようとする本能的な衝動。そして硬直、錯乱、虚脱。

それらがすべて、私の想像の中に映像となって現れ、感情にも響いてきた。

事実をあるべき場所に並べたら、それが何につながるのか、この先に何が待っているのか、どんな証拠が自分に不利に働くのかを、理解しなければならなかった。

その第一は、広くて立派な住まいだ。

収入に見合わない生活をして、使い込みに走ったのだと思わせる。

金庫にはお金がまったくなく、支出の証拠書類は半ば焼けている。知的な障害のある男は死に、私の無実を証言できる者は一人もいない。息子は溺れて死んでいる。

この新たな証拠は、逃亡を準備していたと思わせる。その逃亡には、乳飲み子と、背中が曲がり、知的な障害のある男が、大きな足手まといになっただろう。

裁判所はこう言うだろう。「だから、この悪人は真っ先に二人を始末したのだ」と。

息子の死は、私だけでなく妻まで、犯罪に巻き込む。

そのうえ、妻の弟を殺してしまったことで、私たち夫婦の間には必ず亀裂が生じる。

だから、妻にもかばってもらえるとは思えない。

あらゆる事実と『もしも』と与えられた状況が、頭の中で混ざり合い、もつれてしまい、初めは逃げて身を隠すほかに道が見つからなかった。

だが、すぐに疑いが、その早まった決心を揺さぶり始めた。

「どこへ逃げるんだ?」と私は自分に言った。

「逃亡者の暮らしは、刑務所よりましなのか。それに、逃げること自体が、私にとって強い不利な証拠になるのではないか。

いや、裁判から逃げるのではなく、起こったことをすべてそのまま話すんだ。

何を怖がる必要がある?

私は無実なんだから。

無実だって?……では、証明してみろ!」

こうした考えや迷いをアルカージー・ニコラーエヴィチに説明すると、彼は言った。

「考えたことをすべて紙に書き出し、それを行動に置き換えなさい。『実生活で、もし私が悲劇に直面して動けなくなったら、何をするだろう?』という問いで、君が知ろうとしているのは、まさにその行動なのだから」

「考えたことを行動に置き換えるとは、どうするのですか」と生徒たちは理解できずに尋ねた。

「とても簡単だ。

自分の考えを並べたリストが、目の前にあるとしよう。

それを読む。

立派な住まい、お金は一銭もない、燃えた書類、二人の死者、などだ。

それを書き、読んでいる間、君は何をしていたかね?

自分に不利な証拠になりそうな出来事を、思い出し、選び出し、その意味を考えていた。

これで、最初の考えが行動に置き換わった。

リストの続きを読もう。逃げ道のない状況だと結論を出して、逃亡を決意する。

そのときの行動は何かね?」

「以前の計画を考え直し、新しい計画を立てます」と私は言い表した。

「それが二つ目の行動だ。

リストに沿って、その先へ進みなさい」

「次に、たった今考えた計画を、もう一度批判して取り消します」

「それが三つ目の行動だ。

続けて!」

「その次に、起こったことを正直に打ち明けようと決心します」

「それが四つ目の行動だ。

あとは、こうして決めたことをすべて実行するだけだ。

それを、俳優にありがちな形だけの漠然とした演技ではなく、一人の人間として、本当に成果を生む、目的にかなった形で行えば、頭の中だけでなく、全身にも、内面のあらゆる『要素』にも、演じている人物に通じる、生きた人間の状態が生まれる。

『悲劇的に何もしない』沈黙を繰り返し演じるたびに、舞台で演じているその瞬間に、自分の考えを改めて検討しなさい。

その日の君には、以前とは少し違って見えるはずだ。

前より悪いか、よいかは重要ではない。今日の、新しくなった考えであることが大切なのだ。

そうしてこそ、一度覚えたことを繰り返したり、型を体に叩き込んだりせず、同じ課題を新たに解決できる。少しずつ、よりよく、深く、十分に、筋道と順序にかなうように。

この条件を守ってこそ、その場面に、生きた本物の真実と、それを信じる心、成果を生む目的にかなった行動を保てる。

それが、俳優らしいお決まりの演技を見せるのでなく、人間として心から体験する助けになるのだ。

こうして、『もし私が、悲劇に直面して動けなくなったら、何をするだろう?』という問い、つまり非常に複雑な心理状態についての問いに、君は学術用語ではなく、筋道と順序にかなった一連の行動で答えた。

見てのとおり、私たちは手持ちの方法で、いつの間にか、実践を通して、今の仕事に必要な小さな範囲で、感情の筋道と順序という問題を解いているのだ。

この方法の秘訣はこうだ。感情の筋道という複雑な心理の問題を、自分たちだけで解きほぐすことはできない。そこで、それはいったん置いておき、もっと取り組みやすい、行動の筋道という別の領域へ、探究を移すのだ。

そこでは学問的な方法ではなく、純粋に実践的な、暮らしの中の方法で解決する。人間としての自然な働き、人生経験、本能、直感、筋道、順序、そして潜在意識そのものの助けを借りるのだ。

外に現れる身体的行動を、筋道と順序に沿った流れにしていく。その過程を注意深く見つめれば、その流れと並行して、内側にも別の流れ、感情の筋道と順序に沿った流れが生まれているとわかる。

当然のことだ。内面の感情は、私たちが気づかないうちに行動を生み出し、その行動の生きた営みと、切り離せないほど結びついているのだから。

これも、納得のいく身体的・心理的行動の筋道と順序が、感情の真実と、それを信じる心へ導くことを示す、有力な例だ」

一九……年……月……日

今日、アルカージー・ニコラーエヴィチは、私とヴュンツォフとマロレトコワに、また『お金を燃やす』エチュードをさせた。

初めのお金を数える場面では、なぜか調子が狂い、アルカージー・ニコラーエヴィチは最初のときと同じように、一歩ずつ私を導かなければならなかった。

身体的行動の真実を感じ、それが本物だと信じられると、私は熱を帯びてきた。舞台にいるのが楽に、心地よくなり、想像力も順調に働き始めた。

お金を数えながら、ふと背中の曲がった男を演じるヴュンツォフを見ると、そのとき初めて疑問が湧いた。この男は誰で、なぜいつも目の前に居座っているのだろう?

その男と自分との関係をはっきりさせなければ、エチュードを続けられなくなった。

「ほらね!」と、私の話を聞いたトルツォフは得意げに言った。

「小さな真実が、もっと大きな、さらに大きな真実を求めたのだ」

アルカージー・ニコラーエヴィチに助けてもらい、相手役との関係を納得のいくものにするため、私は次のような設定を考えた。

妻の美しさと健康は、知的な障害のある弟の、ゆがんだ体を代償にして得られたものなのだ。

実は二人は双子だった。

二人が生まれるとき、母親の命が危険にさらされた。産科医は手術をするほかなく、片方の子と母親の命を救うために、もう片方の子の命を危険にさらさなければならなかった。

全員が助かったが、男の子は傷つき、知的な障害があり、背中の曲がった子に育った。

健康な家族たちには、何か罪が一家にのしかかり、絶えずその存在を訴えているように思われた。

この設定によって、知的な障害のある気の毒な男に対する、私の気持ちが動き、態度が変わった。

心からの優しさが込み上げ、体のゆがんだ彼を見る目が変わり、これまでの自分に、良心の痛みのようなものまで感じた。

燃える紙切れに楽しみを見いだす、この気の毒で無邪気な男がいることで、お金を数える場面全体が、なんと生き生きしたことか。

彼がかわいそうで、私はどんな他愛ないことでもして楽しませたくなった。札束でテーブルをとんとんたたく、おどけた動きや顔をする、紙切れを火に投げ入れるときに面白い身振りをする。ほかにも、思いつくままにふざけてみせた。

ヴュンツォフは私の試みに応え、よい反応を返してくれた。

彼の敏感な反応が、私にまた新しい工夫を思いつかせた。

それまでとはまったく違う、くつろいだ、生き生きとした、温かく楽しい場面になった。

客席からも、しきりに反応が返ってきた。

それも励みになり、私をいっそう駆り立てた。

やがて、食堂へ行く瞬間が来た。

誰のところへ?

妻のところへ?

では、妻とはどんな人なのか?

ひとりでに新しい問いが現れた。

今度も、妻がどんな人なのかをはっきりさせるまで、先を演じることができなくなった。

私は、ひどく感傷的な設定を考えた。

ここに書き留めるのも気が進まないほどだ。

それでも、その設定には心を動かされた。想像したとおりのことが本当にあったなら、妻と息子は私にとって、このうえなく大切な存在になると信じられた。

二人のためなら、喜んで休みなく働くだろう。

エチュードの生活が生き返ってくると、以前の俳優めいた演じ方は、この生活を侮辱するものにさえ思えてきた。

お風呂に入っている息子を見に行くのは、なんと自然で、心地よかったことか。

今度はたばこのことを言われるまでもなく、自分から気をつけて居間に置いていった。

子供への優しく、いたわる気持ちが、そうするよう求めたのだ。

書類のあるテーブルに戻ることにも、意味と必要性が生まれた。

私は妻と息子と、背中の曲がったあの男のために、働いているのだから!

自分の過去を知ると、団体のお金が燃やされることは、まったく違う意味を持つようになった。

今では、『これが本当に起きたら、自分はどうするだろう』と問いかけるだけで、どうすることもできない思いに、たちまち心臓が激しく打ち始めた。

目前に迫る未来が、なんと恐ろしく思えたことか。

私は、未来を覆う幕を開けて、その先を見なければならなかった。

そのために、動かずにいることが必要になり、『悲劇的に何もしない』時間が、きわめて行動に満ちたものになった。

どちらも、想像と思考の働きに、すべての力とエネルギーを集中するために必要だった。

続いて、すでに死んでいる背中の曲がった男を助けようとする場面も、自然に、ひとりでに生まれた。

彼が身内の、親しい人になり、その彼に新たな優しさを感じているのだから、当然だった。

「一つの真実が、筋道と順序に従って、ほかの真実を求め、生み出すのだ」と、自分の体験を説明する私に、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「初めは、『お金を数える』行動の小さな真実を探し、実生活での身体の動きを細部まで思い出せると、うれしくなった。

舞台でお金を数えるときに真実を感じると、ほかの瞬間にも、妻や背中の曲がった男など、登場人物と関わるときにも、同じような生活の真実を求めるようになった。

なぜその男が、いつも自分の目の前に居座っているのか、知る必要が生まれたのだ。

日常の筋道と順序を頼りに、無理なく信じられる、もっともらしい設定を作った。

それらすべてが一つになって、君は舞台で、人間の自然な仕組みに従って生きるようになったのだ」

私は、うんざりしていたエチュードを見る目が変わった。今ではそこから、生きた感情が呼び起こされた。

トルツォフの方法が見事だと、認めないわけにはいかなかった。

けれども、その成功は、魔法の『もしも』と、与えられた状況の働きによるものではないかと思えた。

私の中に変化を起こしたのはそれらであって、身体的行動や想像上の行動を作ったことではないのだ。

それなら、初めから『もしも』と状況で始めるほうが、簡単ではないか?

なぜ身体的行動に時間を費やすのだろう?

私はそのことをアルカージー・ニコラーエヴィチに話した。

「もちろんだ!」と彼は同意した。

「私も、そこから始めるように提案しただろう……。ずっと前、数か月前に、君たちが初めてこのエチュードをしたときに」

「あのときは、想像力を働かせるのが難しかったんです。

眠ったままでした」と私は思い出した。

「ああ。でも今は目を覚まし、設定を考えるだけでなく、それを内面で体験し、真実を感じて信じることも、楽にできるようになった。

なぜそんな変化が起きたのだろう?

以前は石だらけの土地に想像の種をまいていたので、種が育たなかったのだ。

真実を感じていても、自分のしていることを信じていなかった。

訳注

底本は「真実を感じていたが、していることを信じていなかった」とする。「感じていなかった」の否定が脱落した可能性はあるが、ここでは底本のまま訳した。

外見ばかりの大げさな芝居、体の緊張、不自然な身体のあり方は、真実と体験を生むには適さない土壌だ。

ところが今は、内面だけでなく身体にも、自然な生が備わっている。

そこでは、すべてが真実だ。

君はそれを、頭でなく、自分の生きた体の感覚で信じたのだ。

そういう条件のもとで、想像の生んだものが根を張り、実を結ぶのは、不思議ではない。

今の君は、以前のように、むなしく、宙に向かって、ただ漠然と空想しているのではない。ずっとしっかりした根拠の上で、想像しているのだ。

今の想像には、抽象的ではない、具体的な意味がある。

それが外に現れる行動を、内側から納得のいくものにしている。

身体的行動の真実と、それを信じる心が、私たちの心の営みを呼び覚ますのだ。

しかし、今日わかったことで、最も大切なのは次のことだ。今の君は、舞台ではなく、マロレトコワの家にいた。演じていたのではなく、本当にそこに存在していたのだ。

想像の家族の中で、本当に暮らしていた。

こうした舞台上の状態を、私たちの言葉で『私はいる』と呼ぶ。

仕組みはこうだ。身体的行動と感情の筋道と順序が、君を真実へ導き、真実が信じる心を生み、それらが一つになって『私はいる』という状態を作ったのだ。

では、『私はいる』とは何だろう?

それは、私は存在し、生き、役と同じように感じ、考えている、ということだ。

言い換えれば、『私はいる』は、情動や感情、体験へと導く。

『私はいる』とは、舞台上の真実が凝縮され、ほとんど絶対的になった状態だ。

今日の演技には、もう一つ注目すべき点がある。真実が持つ、新たな重要な性質を、目に見える形で示してくれた。

それは、小さな真実が大きな真実を呼び、大きな真実がさらに大きな真実を、さらに大きな真実が最も大きな真実を呼ぶ、という性質だ。

小さな身体的行動を整え、そこに本物の真実を感じると、正しくお金を数えるだけでは足りなくなった。誰のために数えるのか、誰を楽しませているのか、さらに知りたくなったのだ。

こうして、絶対的な真実に届くまで、もっと大きな真実を求める性質が、舞台上に『私はいる』という状態を作る。

真実と、それを信じる心と、『私はいる』があれば、そこには必ず、俳優の型ではない、本物の人間の体験がある。

それらは、私たちの感情を呼び寄せる、最も強力な誘い水なのだ」

一九……年……月……日

教室に入ると、アルカージー・ニコラーエヴィチは告げた。

「君たちはもう、舞台上の真実と、それを信じる心が何か、わかった。

あとは、それが一人ひとりに備わっているかを確かめよう。

そこで、君たち全員の、真実の感覚と、それを信じる力を見せてもらおう」

最初に舞台へ呼ばれたのは、ゴヴォルコフだった。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、何か演じるよう命じた。

もちろん、われらが見せかけ演技の大将には、いつもの相手役、ヴェリヤミノワが必要だった。

二人はいつものように、身も惜しまず、何やらばかげたものを演じた。

見せ終わると、アルカージー・ニコラーエヴィチはゴヴォルコフに、こう言った。

「舞台で見せる外面的な技術だけに関心を持つ、巧みな職人としての君から見れば、今日の演技はすべて正しく、自分の腕前にほれぼれしたことだろう。

しかし、私は共感できなかった。私が芸術に求めるのは、死んだ役に本物の人間の生を吹き込む、人間の自然な働きそのものによる創造だからだ。

君の見せかけの真実は、『人物像や情念』を演じてみせる助けになる。

私の真実は、人物像そのものを創造し、情念そのものを呼び起こす助けになる。

君の芸術と私の芸術の違いは、『そう見える』ことと『そうである』ことの違いだ。

私が必要とするのは本物の真実だが、君はもっともらしさで満足している。

私が必要とするのは信じる心だが、君は観客から信用されれば、それでよしとしている。

観客は舞台の君を見て、一度決めた演じ方に従い、すべてを正確にやってくれると安心している。

空中ブランコの演者が落ちないと信頼するのと同じように、君の腕前を信頼しているのだ。

君の芸術では、観客は観客のままだ。

私の芸術では、観客は知らず知らず、創造の目撃者となり、参加者となる。舞台で繰り広げられる生活のただ中へ引き込まれ、それを信じるのだ」

アルカージー・ニコラーエヴィチの説明に答える代わりに、ゴヴォルコフは、芸術の真実についてプーシキンはトルツォフとは違う意見だ、と毒のある口調で言った。

そして自分の考えを裏づけようと、こういうときに必ず持ち出される詩人の言葉を引用した。「卑小な真実の無数の群れより、われらを高める偽りこそ尊い……」

「私も同意する……。プーシキンも同じ意見だ。

君が引用した詩が、その証拠だ。詩人が語っているのは、私たちが信じる偽りなのだ。

まさに信じるからこそ、その偽りが私たちを高める。

信じなければ、偽りが私たちによい働きをし、高めることなどあるだろうか?

こんなことを想像しなさい。互いに嘘をつく習慣のある四月一日に、誰かがやって来て、君の俳優としての功績をたたえ、政府が銅像を建てると決めた、と言い張るのだ。

その嘘で、君は高められるかね?」

「私はばかではありませんからね。くだらない冗談は信じません!」とゴヴォルコフは答えた。

「では、高められるには、その『くだらない冗談を信じる』必要があるわけだね」とアルカージー・ニコラーエヴィチは、その言葉を捉えた。

「別の詩でも、プーシキンはほぼ同じことを言っている。『作り話に、私は涙を流すだろう』。

信じていないものに、涙を流すことはできない。

私たちが信じる偽りと作り話に、万歳を送ろう。それは俳優も観客も、高めることができるのだから!

そのような偽りは、信じた人にとって真実になる。

これは、舞台ではすべてが、俳優の想像上の生活の中で、本物の真実にならなければならないことを、いっそう強く裏づけている。

しかし、君の演技には、それが見えない」

授業の後半、アルカージー・ニコラーエヴィチは、ゴヴォルコフとヴェリヤミノワが今演じた短い場面を直していった。

トルツォフは小さな身体的行動ごとに演技を確かめ、真実と、それを信じる心を求めた。私の『お金を燃やす』エチュードのときと、まったく同じだった。

ところが……ある出来事が起きた。ここに書いておかなければならない。それがきっかけでトルツォフがした反論は、私にとって非常に教訓的だったからだ。

こういうことだった。

ゴヴォルコフは突然練習を中断し、演技をやめた。神経を高ぶらせ、怒った顔で、手と唇を震わせながら、黙って立っていた。

「黙ってはいられません!

どうしても言わせてもらわないと」と、しばらくして彼は、興奮を抑えながら話し始めた。

「私が何もわかっていないのなら、演劇をやめるしかありません。そうでないなら、失礼ですが、ここで教わっていることは毒です。私たちは抗議しなければなりません。

もう半年も、椅子を動かし、扉を閉め、暖炉に火を入れさせられている。

そのうち、リアリズムのためだと言って、小さな身体の真実や大きな身体の真実を込めて、鼻をほじれと命じられるでしょう。

でも、失礼ながら、舞台で椅子を動かしただけでは芸術にはなりません。

真実とはですね、何でも生々しく、汚いものまで見せることではないのです。

吐き気のするような真実など、くそくらえです!

『身体的行動』ですって?

いや、勘弁してください!

演劇はサーカスではありません。

サーカスなら、わかりますよ。ブランコをつかむとか、馬にひらりと飛び乗るとか、身体的行動はきわめて重要です。曲芸師の命がかかっているんですから。

でも、世界の偉大な作家たちは、失礼ながら、登場人物に身体的行動の練習をさせるために、天才的な作品を書くのではありません!

なのに私たちは、そればかりやらされている。

息が詰まります。

私たちを地面に押しつけないでください!

翼を縛らないでください!

高く飛び立たせてください。永遠に近く……地上を超えた……宇宙的なものへ。そう、もっと高い世界へ!

芸術は自由です!

必要なのは広がりであって、小さな真実ではありません。

大きく飛ぶための、思い切った広がりが必要なんです。虫のように地面をはうためではなく!

私たちは、美しく、心を高める、崇高なものを求めています!

空を閉ざさないでください!」

『トルツォフが、ゴヴォルコフを雲の上で舞わせないのは正しい。

彼にはできないんだから』と私は心の中で思った。

『何だって? あの、見せかけ演技の権化のゴヴォルコフが、空へ飛びたいだって?!

練習をする代わりに、「芸術をする」というのか?!』

ゴヴォルコフが話し終えると、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「君の抗議には驚いた。

これまで私たちは、君を外面的な技術の俳優だと思っていた。その分野では、実に目立つ力を示していたからだ。

ところが突然、本当の使命は雲の上の世界にあり、永遠や宇宙的なものを求めているとわかった。まさに、君がまだ何も示していない領域だね。

結局、俳優としての君の願いは、どちらへ向かって飛ぶのだろう。いつも自分を見せ、演じてみせる相手である、こちらの客席へかね。それとも脚光の向こう側、つまり舞台へ、詩人や俳優たちへ、自分が仕える芸術へ、自分が体験する『役の人間としての内面の生活』へかね?

君の言葉では、後者を求めているのだね。

それなら、なお結構だ!

早く自分の精神の本質を表しなさい。そして、趣味の悪い観客が喜ぶ、いわゆる崇高な調子の、お気に入りの演じ方は追い払いなさい。

外側だけの約束事や嘘には、翼がない。

体には空を飛ぶことはできない。

せいぜい地面から一メートルほど跳び上がるか、つま先立ちで上へ伸びるくらいだ。

飛ぶのは、想像力、感情、思考だ。

物質でも肉体でもない、目に見えない翼を持つのは、それらだけだ。君の言う『地上を超えたもの』を夢見るときに、語れるのはそれらだけなのだ。

その中には、記憶に残る生き生きした思い出、『人間の内面の生活』そのもの、そして私たちの夢が宿っている。

それらは単に『高み』へ行くだけでなく、もっと遠くへ、自然がまだ生み出しておらず、俳優の果てしない空想の中にだけ生きている世界へも、入り込むことができる。

しかし、ほかならぬ君の感情、思考、想像力は、君が奴隷となって仕えている客席より先へは、飛んでいかない。

だからそれらこそ、君に、君自身の言葉を叫ぶべきだろう。『私たちを地面に押しつけないでくれ!

息が詰まる。

翼を縛らないでくれ!

高く飛び立たせてくれ。永遠や、宇宙的なものへと近づかせてくれ!

使い古された俳優の型ではなく、崇高なものをくれ!』」

アルカージー・ニコラーエヴィチは、ゴヴォルコフの安っぽい大げささと朗誦めいた口調を、辛辣にまねてみせた。

「霊感の嵐が君の翼を捉え、巻き上げてくれないのなら、飛び立つための助走として、身体的行動の流れと、その真実と、それを信じる心が、誰より必要なのは君だ。

ところが君はそれを恐れ、俳優に欠かせない練習をするのは屈辱だと思っている。

なぜ自分だけ、みんなに当てはまる決まりの例外にしてほしいのかね?

踊り手は夜、トウシューズで舞うために、毎朝、決められた練習で汗を流し、息を弾ませる。

歌手は夜、歌に魂を注ぐために、朝はハミングをし、音を伸ばし、横隔膜を鍛え、頭や鼻の響く場所を探す。

どの分野の芸術家も、体という道具をおろそかにせず、技術を身につけるための身体の練習を欠かさない。

なぜ君だけ、例外でありたいのかね?

私たちは、身体と精神をできるかぎり緊密に、直接結びつけ、一方を通して他方に働きかけようとしている。ところが君は、二つを切り離そうとしている。

そればかりか、自分を成り立たせる半分、つまり身体を、すっかり捨て去ろうとさえしている。もちろん、言葉のうえでだが。

しかし、人間の自然な仕組みは、君を笑いものにした。君が大切にしている崇高な感情と体験を与えず、代わりに残したのは、演じてみせ、自分を見せつけるための身体的な技術だけだったのだ。

君は誰よりも、外側だけの職人的な手法、大げさな朗誦調、さまざまな使い慣れた型に酔っている。

では、崇高なものに近いのは、どちらだろう。つま先立ちで背を伸ばし、口では『空を舞う』と言いながら、実際にはすっかり客席に支配されている君か。それとも、真実と信じる心を通して複雑な人間の体験を伝えるために、身体的行動を含む俳優の技術を必要としている私かね?

どちらがより地面に縛られているか、自分で判断しなさい」

ゴヴォルコフは黙っていた。

「まったく、わからないものだ!」と、間を置いてトルツォフは声を上げた。

「崇高なものを最も熱心に語るのは、その素質が最も乏しく、飛ぶための見えない翼を持たない人たちなのだ。

そういう人たちは、芸術や創造について、気取った熱弁を振るい、わかりにくく、こねくり回した言い方をする。

本物の芸術家は、逆に、自分の芸術を簡潔に、わかりやすく語る。

君は前者の仲間ではないかね?

よく考えなさい。そして、自分が生まれ持った素質に合う役なら、すばらしい俳優となり、芸術に役立つ仕事ができるのだ、ということも」

ゴヴォルコフの次は、ヴェリヤミノワが演じた。

驚いたことに、彼女は簡単な練習をどれもなかなかうまくこなし、自分なりに納得のいくものにしていた。

アルカージー・ニコラーエヴィチは彼女を褒め、それから、机の上のペーパーナイフを取って、自分を刺す場面を演じるように言った。

悲劇となった途端、ヴェリヤミノワはたちまち気取った大仰な調子になり、ひどい演技で『情念をずたずたに引き裂き』始めた。そして最も激しいところに来ると、突然、とんでもない大声でわめいたので、私たちはこらえきれず吹き出した。

トルツォフは言った。

「私には、貴族と結婚し、立派な『社交界の貴婦人』になったおばがいた。

おばは、まるで刃の上で釣り合いを取るように、並外れた腕前で上流社会の『駆け引き』を見事にこなし、どんな場合にも勝利を収めた。

そして、みんなが彼女を信じていた。

ところがあるとき、名士の葬儀が、参列者でいっぱいの教会で行われ、おばはその遺族に取り入りたくなった。

棺に近づくと、オペラのようなポーズを取り、亡くなった人の顔を見つめ、効果たっぷりの間を置いて、教会中に響く声で朗々と言ったのだ。『さらば、わが友!

すべてに感謝を!』

しかし、真実の感覚が彼女を見放した。調子を外してしまい、その悲しみを信じた人は誰もいなかった。

今の君にも、だいたい同じことが起きた。

喜劇的なところでは、君は役の模様をレースのように繊細に編み上げ、私は信じることができた。ところが、激しい劇的な場面で調子を外したのだ。

どうやら、君の真実の感覚には偏りがある。喜劇では敏感だが、ドラマではねじれてしまう。

君もゴヴォルコフと同じように、劇場で自分が本当に生きる場所を見つけるべきだ。

自分に合った『役柄』を時機を逃さず見極めることは、私たちの芸術で大切なことだ」

一九……年……月……日

アルカージー・ニコラーエヴィチは、真実の感覚と、それを信じる力の点検を続け、最初にヴュンツォフを呼んだ。

彼は私とマロレトコワと一緒に、『お金を燃やす』エチュードを演じた。

前半のヴュンツォフは、これまでにないほど見事に体験していた。私はそう断言できる。

今回は、彼の節度のある演技に驚かされ、本物の才能があることを改めて確信した。

アルカージー・ニコラーエヴィチも大いに褒めたが、すぐにこう付け加えた。

「しかし、死ぬ場面では、なぜ舞台で見たくもないような『真実』を、大げさに演じたのかね。腹に力を込め、吐き気をもよおし、げっぷをし、恐ろしい顔をしかめ、全身をけいれんさせる……。

そこで君は、生々しく再現することそのものに、身を任せてしまった。

死の真実を、ただ死の真実のために求めていたのだ。

君が生きていたのは、『人間の内面の生活』の最後の瞬間の記憶ではない。興味が向いていたのは、体が死んでいく外面的、身体的な様子を見た記憶だった。

それは違う。

ハウプトマンの『ハンネレ』にも、生々しい自然主義的な描写はある。

しかしそれは、戯曲全体の核心を、いっそう鋭く浮かび上がらせるために使われている。

そのような方法なら認められる。

けれども、不要なごみとして捨てるべきものを、なぜ必要もないのに、実生活からわざわざ拾い出すのだろう。

そんな課題も真実も、芸術に反している。与える印象も、同じようなものになるだろう。

醜悪なものから美しいものは生まれない。カラスはハトを生まず、イラクサにはバラは咲かない。

つまり、実生活で知っている真実なら、どれも演劇によいとは限らないのだ。

舞台上の真実は、本物で、取り繕わないものであると同時に、日常の余計な細部を取り除いたものでなければならない。

現実に即した真実でありながら、創造的な想像によって詩情を与えられたものでなければならない。

舞台の真実は写実的であってほしい。しかし同時に、芸術的であり、私たちを高めるものであってほしいのだ」

「では、その芸術的な真実とは、どういうものですか」と、ゴヴォルコフが毒を含んだ調子で尋ねた。

「君の望みはわかる。芸術の高尚な話をしたいのだろう。

たとえば、芸術的な真実と、そうでない真実の違いは、絵画と写真の違いに似ている、と説明することはできる。写真はすべてを写し、絵画は本質だけを伝える。その本質を画布に定着させるには、画家の才能が必要だ。

あるいは、『お金を燃やす』エチュードでのヴュンツォフの演技について、観客にとって大切なのは、背中の曲がった男が死ぬということで、死にどんな生理現象が伴うかではない、とも言えるだろう。そうした細部は写真のものであって、絵画には邪魔になるのだ。

死にゆくことを示す本質的な特徴を、一つか二つ。それだけでよいのであって、あらゆる特徴を並べることではない。

そうしないと、大切な人が死に、去っていくという肝心なことが後景に退き、二次的な特徴ばかりが目立って、観客は涙を流すべきところで、吐き気を感じることになってしまう。

見てのとおり、こういうときに何が語られるかは、私も知っている。それでも、私は黙っている!

なぜだろう?

あまり深く求めない人たちは、短い説明を聞いただけで、創造における芸術性について、すべてわかったと安心してしまうからだ。

そんな思い込みは有害だと、私は考える。

何も与えないくせに、俳優にとってこのうえなく大切な好奇心と探究心を、眠らせてしまう。

逆に、私がきっぱり答えを拒めば、君たちは気にかかり、心を揺さぶられ、注意を向け、自分でよく見て、解けない問いへの答えを探そうとするだろう。

だから、こう言うのだ。芸術の中の『芸術的なもの』を、言葉で定義し、公式にすることは引き受けない。

私は実践家だ。言葉ではなく実際の取り組みを通して、芸術的な真実とは何かを知る、つまり感じ取る手助けはできる。

ただ、そのためには十分な辛抱が必要だ。それができるのは、授業の全課程を通してだからだ。もっと正確に言えば、『システム』全体を学び、日常の単純な人間の真実が、自分の中で生まれ、余分なものを除かれ、芸術的な真実へ結晶していく道筋を、自分でたどったときに、おのずとわかってくるのだ。

それは一度にできるのではなく、役を形作り、育てていく全過程を通して生まれる。

役の核心を自分の中に取り込み、それにふさわしい美しい舞台上の形と表現を与え、余計なものを取り除く。そのとき私たちは、潜在意識、芸術性、才能、直感、趣味の助けを借りて、役を詩的で、美しく、調和があり、簡潔でわかりやすく、見る人の心を高め、清めるものにしていくのだ。

こうした性質がすべて、舞台上の創造物を、ただ正しく真実に満ちているだけでなく、芸術的なものにする。

この、美しいもの、芸術的なものを感じる、きわめて大切な感覚は、乾いた公式では定義できない。

それには感情と、実践と、経験と、自分自身の探究心と、時間が必要だ」

ヴュンツォフの後で、マロレトコワが『捨て子』のエチュードを演じた。

内容はこうだ。マロレトコワが帰宅すると、戸口に赤ん坊が置き去りにされている。

衰弱したその子は、やがて彼女の腕の中で息を引き取る。

初め、彼女は捨て子を見つけたことを、驚くほど素直に喜び、生きた人形のように扱った。

抱いて跳びはね、走り、おくるみを巻き、キスをし、うっとり眺める。それがテーブルクロスに包んだ木切れであることなど、忘れていた。

ところが突然、赤ん坊が遊びに反応しなくなった。

マロレトコワは、どうしたのかを理解しようと、長いことその子を見つめた。

その間に、顔の表情が変わっていった。

驚きと恐れが顔に浮かぶほど、彼女はますます一点に心を集中させた。

そっと赤ん坊をソファに寝かせ、後ずさりした。

少し離れると、マロレトコワは、悲劇を理解しきれないまま、石のように立ちすくんだ。

それだけだった。

ほかには何もない。

しかし、その中にどれほど多くの真実、信じる心、無邪気さ、若さ、魅力、女性らしさ、趣味のよさ、本物の劇的な力があったことか。

彼女は、新生児の死と、成長した娘の生への渇望を、なんと美しく対比させたことか!

生気にあふれる若い人間が、初めて死に出会い、すでに生のない世界を初めてのぞき込む。その瞬間を、彼女はなんと繊細に感じ取ったことか。

「これが芸術的な真実だ!」と、マロレトコワが舞台袖へ去ると、心を動かされたトルツォフは叫んだ。

「すべてを信じられる。すべてが体験され、本物の生きた生活から取られているからだ。ただし、何もかもではなく、選び抜いて、必要なだけ。

多すぎも少なすぎもしない。

マロレトコワは、よく見て美しいものを見いだすことができ、加減を知っている。

それは大切な資質だ」

「まだ若い、入ったばかりの生徒なのに、どうしてそんなに完成されているのでしょう?」と、嫉妬した何人かが不思議がった。

「生まれ持った才能からだ。そして何より、並外れてすばらしい真実の感覚からだ。

繊細で真実にかなうものは、必ず、高い芸術性を持つ。

飾られも損なわれもしていない、自然そのものの真実に、何がまさるだろう!」

授業の終わりに、アルカージー・ニコラーエヴィチは私たちに告げた。

「舞台上の真実と嘘を感じる力、それを信じる心について、今話せることは、だいたい話したと思う。

これからは、この大切な天性の力を、どう育て、正しく整えるかを考える時期だ。

そのための機会やきっかけは、たくさんある。真実の感覚と信じる心は、自宅でも、舞台でも、稽古でも本番でも、創造するあらゆる瞬間、あらゆる一歩で働くからだ。

劇場で俳優が行い、観客が見るすべてには、真実の感覚が行き渡り、その感覚が『これでよい』と認めていなければならない。

内側の行動の流れに関する練習でも、外側の流れに関する練習でも、どんなに小さなものにも、真実の感覚による点検と承認が必要だ。

だから、学校の課題に取り組む一瞬一瞬が、劇場でも自宅でも、この力を育てるために使えることは明らかだ。

あとは、そのすべての瞬間を、害ではなく役に立つものにすることだ。嘘や偽りやわざとらしい演技ではなく、真実の感覚そのものを育て、強めるようにしなければならない。

これは難しい課題だ。真実に即して話し、行動するより、嘘をつき、取り繕うほうが、はるかに簡単だからだ。

生徒の真実の感覚が正しく育ち、強まるには、十分な注意と集中、そして教師による絶え間ない点検が必要だ。

まだ自分の力に余ることや、人間の自然な仕組み、筋道、健全な判断に逆らうことは、避けなさい。

それらはすべて、ゆがみ、無理、わざとらしい演技、嘘を生む。

それらが舞台へ入り込むことが多いほど、真実の感覚は傷つく。偽りによって、調子を狂わされ、ゆがめられるのだ。

舞台で偽りや嘘に慣れることを恐れなさい。その悪い種を、自分の中に根づかせてはいけない。

容赦なく抜き取りなさい。

そうしないと、雑草がはびこり、何より貴重で欠かせない、真実の芽をすべて押しつぶしてしまう」

第9章 感情の記憶

一九……年……月……日

授業の初めに、トルツォフは、長いこと繰り返していなかった『狂人』と『暖炉に火を入れる』エチュードに戻ろうと提案した。

私たちはエチュードをしたくてうずうずしていたので、この提案を熱烈に歓迎した。

それに、自信があり、うまくいったことを、もう一度やるのは気持ちがよい。

私たちは、いっそう生き生きと演じた。

無理もない。一人ひとりが、何をどうすればよいかわかっていた。自信から、得意がるところさえ出ていた。

前と同じように、ヴュンツォフが驚くと、私たちは四方へ飛び散った。

ただ、今日の驚きは不意打ちではなく、準備をし、誰がどこへ逃げるか考える時間があった。

そのおかげで、みんなが入り乱れる動きは、以前よりはっきりと、稽古の行き届いたものになり、それだけ迫力も増した。

私たちは、声を限りに叫びさえした。

私はというと、前のときと同じくテーブルの下へ潜り込んだ。ただ灰皿が見つからなかったので、大きなアルバムをつかんだ。

ほかの人たちも、同じようなものだった。

たとえばヴェリヤミノワは、最初のときにはドィムコワにぶつかり、偶然クッションを落とした。今日はぶつからなかったのに、前と同じように拾うために、わざわざクッションを落とした。

ところが、エチュードを終えると、トルツォフとラフマーノフは、以前の演技は自然で、誠実で、新鮮で、真実にかなっていたが、今日は偽りがあり、不誠実で、作り物めいていたと言った。私たちは、どれほど驚いたことか。

ただ両手を広げて、途方に暮れるしかなかった。

「でも、私たちは感じて、体験していたんですよ!」と生徒たちは言った。

「人間は誰でも、生きているどの瞬間にも、必ず何かを感じ、体験している」とトルツォフは答えた。

「何も感じず、何も体験しないなら、生きた人間ではなく死者だ。

何も感じないのは、死者だけなのだから。

問題は、今、舞台で創造しているとき、いったい何を『感じ』、『体験』していたのか、ということだ。

以前の演技と、今日、同じエチュードを繰り返したときの演技を、比べて検討してみよう。

疑いなく、舞台上の配置、移動、外に現れる行動、その順序、人の集まり方の細部まで、驚くほど正確に保たれていた。

扉をふさぐために積み上げた、この家具を見なさい。

写真や配置図を残しておいて、その図に従い、同じバリケードを作り直したのかと思うほどだ。

つまり、エチュードの外面的、具体的な部分はすべて、見事な正確さで再現されている。それは、舞台上の配置や集まり方、身体的行動、動作、移動などについて、君たちが鋭い記憶力を持っている証拠だ。

外側については、そういうことだ。

けれど、どんなふうに立ち、どんなふうに集まっていたかが、それほど大切だろうか?

観客である私には、君たちが内面でどのように行動し、何を感じていたのかを知るほうが、ずっと興味深いのだ。

現実から取り出し、役へと移した、君たち自身の体験が、舞台上で役の生を作るのだから。

まさにその、君たちの感情を、今日は見せてもらえなかった。

内側から意味を与えられていない、外面的な行動や配置や集まり方は、形だけで、乾いていて、舞台には必要ない。

今日と前回のエチュードの違いは、そこにある。

最初のとき、招かれざる訪問者が正気を失っているという仮定を私が持ち込むと、君たちは一斉に集中し、自分の身をどう守るかという大切な問題を考え始めた。

全員が、その場の状況を見極め、それを踏まえて初めて行動した。

筋道にかなった取り組みであり、本物の体験と、その具現だった。

ところが今日は、お気に入りの遊びができると喜び、考えもせず、与えられた状況を見極めもせず、前回の、すでに知っている外面的な行動を、いきなりまね始めた。

それは違う。

最初は墓場のように静まり返っていたのに、今日は浮かれ、興奮していた。

みんなが道具を用意しに走った。ヴェリヤミノワはクッションを、ヴュンツォフはランプシェードを、ナズヴァーノフは灰皿の代わりにアルバムを」

「小道具係が、灰皿を置き忘れたんです」と私は言い訳した。

「最初のときも、あらかじめ灰皿を用意していたかね?

ヴュンツォフが叫んで、君を驚かすと知っていたのかね……?」とアルカージー・ニコラーエヴィチは皮肉を言った。

「おかしいね!

今日はどうして、アルバムが必要になると予測できたのだろう?!

本来なら、たまたま手の届くところにあったはずだろう。

その偶然も、ほかの偶然も、今日起こらなかったのは残念だ!

もう一つ細かな点を挙げよう。最初は、想像上の狂人が向こうにいる扉を、君たちはずっと目を離さず見つめていた。

ところが今日、気にしていたのはその男ではなく、私たち、つまり観客であるイヴァン・プラトーノヴィチと私だった。

自分たちの演技が私たちにどんな印象を与えるか、知りたかったのだ。

狂人から身を隠す代わりに、私たちに自分を見せていた。

最初は、自分の感情、直感、人生経験が、内側から教えてくれるままに行動していた。今日は、前に通った道を、盲目的に、ほとんど機械的になぞったのだ。

最初のうまくいった稽古を繰り返しただけで、今日の、新しい本物の生を作ってはいなかった。

材料を汲み取ったのも、人生の記憶からではなく、芝居をした俳優としての記憶からだった。

最初は内側からひとりでに生まれ、行動に自然に表れたものが、今日は、見ている人にもっと強い印象を与えようとして、人為的に膨らまされ、誇張されたのだ。

つまり君たちには、かつて、俳優になるべきかどうか相談しに、ヴァシーリー・ヴァシーリエヴィチ・サモイロフを訪ねた青年と同じことが起きたのだ。

『いったん出て、もう一度入ってきて、今私に話したことを言ってみてください』と、その有名な俳優は青年に提案した。

青年は最初の訪問を外面的には再現したが、初めて来たときに体験したものを、取り戻すことはできなかった。

外側の行動に、内側から意味と命を与えられなかったのだ。

ただし、青年とのこの比較も、今日の失敗も、気に病む必要はない。ごく普通に起こることだ。なぜかを説明しよう。

創造の最良の刺激になるのは、しばしば、題材の意外さや新しさだ。

最初にエチュードをしたときには、その意外さがあった。

扉の向こうに狂人がいるという私の提案に、君たちは本当に心を動かされた。

今日は意外さが消えていた。自分の行動がどんな外面的な形になるかまで、何もかもよく知っていて、理解でき、明らかだったからだ。

そんなとき、もう一度考え、人生経験や、現実の中で体験した感情を確かめる必要があるだろうか?

すでに全部できあがり、私とイヴァン・プラトーノヴィチにも認められているのに、なぜそんな手間をかけるのか、と思うだろう。

できあがった外形は、俳優にとって大きな誘惑だ!

舞台に足を踏み入れたばかりといってよい君たちが、できあがったものに心を引かれ、外側の行動をよく覚えていると示したのは、何も不思議ではない。

しかし、感情を記憶する力は、今日は姿を見せなかった」

「感情を記憶する力?」と私は理解しようとした。

「ああ。これから私たちが『感情記憶』と呼ぶものだ。

以前はリボーに倣い、『情動記憶(アフェクティヴ・メモリー)』と呼んでいた。

今ではその用語は使われなくなり、新しいものにも置き換えられていない。

しかし、私たちにはそれを指す言葉が必要だ。そこで当面、感情を記憶する力を『感情記憶』と呼ぶことにしたのだ」

生徒たちは、その言葉が何を意味するのか、もっとはっきり説明してほしいと頼んだ。

「リボーが挙げている例を聞けば、わかるだろう。

二人の旅人が海辺の岩場にいて、満ちてきた潮に取り囲まれた。

二人は助かり、後でその体験を語った。

一人は自分の行動を一つ残らず覚えていた。どこへ、どのように、なぜ進み、どこを下り、どう足を踏み出し、どこへ跳んだか。

もう一人は、そうしたことをほとんど覚えておらず、そのときに体験した感情だけを覚えていた。初めの高揚、次いで警戒、不安、希望、疑い、そして最後の恐慌状態だ。

そのような感情を保存しているのが、感情記憶だ。

もし今日、『狂人』のエチュードを思っただけで、二人目の旅人のように、最初に体験した感情がすべてよみがえり、それを生きて、新たに、本当に成果を生む、目的にかなった行動を始めたなら。しかもそれが、意志で動かそうとしなくても、ひとりでに起きたなら。私は、君たちには第一級の、並外れた感情記憶があると言っただろう。

しかし残念ながら、それはめったにないことだ。

そこで、要求を少し下げよう。初めは外側の配置だけを頼りにエチュードを始めたとしても、それが以前に体験した感情を思い出させ、その感情の記憶に身を任せて、それに導かれながら最後まで演じたとしよう。

その場合には、並外れた、超人的なものではなくても、よい感情記憶を持っていると言うだろう。

さらに要求を下げてもかまわない。エチュードを外側から、形だけで始め、慣れた配置や身体的行動も、結びついていた感情をよみがえらせなかったとしよう。行動するうえでの、与えられた状況を見極める必要さえ、最初のときのようには感じなかったとしよう。

そんな場合は、心理技法で自分を助けることができる。新しい『もしも』と与えられた状況を取り入れ、それを新たに捉え直し、眠っている注意、想像力、真実の感覚、信じる心、思考を呼び覚まし、それらを通して感情も呼び覚ますのだ。

それがすべてできたなら、私は、君たちに感情記憶があると認めるだろう。

しかし今日は、今挙げたどの可能性も示していない。

今日は一人目の旅人と同じように、外側の行動だけを、非常に正確に繰り返した。内面の体験で、そこに温かみを与えることはしなかった。

今日気にしていたのは、結果だけだ。

だから、感情記憶を働かせていなかった、と言うのだ」

「では、僕たちには、それがないのですか?」と私は絶望して叫んだ。

「いや。その結論は間違っている。

でも、それは次の授業で確かめよう」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは落ち着いて答えた。

一九……年……月……日

今日の授業は、私の感情記憶を確かめることから始まった。

「覚えているかね」とアルカージー・ニコラーエヴィチは言った。「俳優用の休憩室で、モスクヴィンが***へ巡業に来たとき、どれほど強い印象を受けたか、話してくれたね。

今でもその舞台をはっきり覚えていて、思うだけで、五、六年前のあのときと同じ、胸の高鳴るような状態になるかね?」

「以前ほど強くはないかもしれませんが、思い出すと、とても生き生きした気持ちになります」

「そのときの印象を思い浮かべると、心臓の鼓動が速くなるほどかね?」

「たぶん、深く浸れば、そうなります」

「では、同じときに話してくれた、友人の悲劇的な死を思い出すと、心や体に何を感じるかね?」

「つらい記憶なので、思い出さないようにしています。今でも気持ちが沈んでしまうので」

「モスクヴィンの巡業や、友人の死のときに経験した、すでに知っている感情を、もう一度よみがえらせてくれる。その記憶こそが、感情記憶だ。

視覚の記憶によって、長いこと忘れていた物や風景、人の姿が心の目によみがえるように、感情記憶によって、以前に体験した感情が生き返る。

すっかり忘れたと思っていたのに、ふとした手がかりや考え、見覚えのある姿に触れると、再びその体験に包まれる。最初と同じくらい強いことも、少し弱いことも、もっと強いこともある。同じ形のことも、多少変わった形のこともある。

体験したことを思い出すだけで、青ざめたり赤くなったりする。遠い過去の不幸を考えるのが怖い。それなら、君には感情を記憶する力、つまり感情記憶がある。

ただ、人前で創造するという難しい条件に、自力で対処できるほどには、まだ育っていないのだ。

では、君に尋ねよう」とトルツォフはシューストフに向き直った。「スズランの香りは好きかね?」

「好きです」とパーシャは答えた。

「マスタードの味は?」

「それだけなら好きではありませんが、牛肉と一緒なら好きです」

「猫のふわふわした毛や、毛足の長い上質な布をなでるのは好きかね?」

「はい」

「そうした感覚を、よく覚えているかね?」

「覚えています」

「音楽は好きかね?」

「音楽も好きです」

「好きな曲はあるかね?」

「もちろんです」

「たとえば、どんな曲かね?」

「チャイコフスキー、グリーグ、ムソルグスキーの歌曲が、いろいろ好きです」

「それを覚えているかね?」

「はい。耳は悪くないので」

「耳と、聴覚の記憶だね」とトルツォフは付け加えた。

「絵画も好きだったね?」

「とても好きです」

「好きな絵はあるかね?」

「あります」

「それも覚えているかね?」

「とてもよく覚えています」

「自然は好きかね?」

「好きでない人なんて、いるでしょうか!」

「景色や部屋の様子、物の形を、よく覚えられるかね?」

「覚えられます」

「人の顔も?」

「はい。印象に残った顔なら」

「たとえば、誰の顔をはっきり覚えているかね?」

「たとえばカチャーロフです。

間近で見たことがあり、強い印象を受けました」

「つまり、視覚の記憶もあるわけだね。

これらもみな、以前の感覚が再び起こることだ。ただし、五感の記憶によって呼び起こされる。

感情記憶によって呼び覚まされる体験とは、別のものだ。

それでも、これから私は、ときどき感情記憶と並べて五感の話もする。

そのほうが都合がよいからだ。

では、五感で感じたことの記憶は、舞台上の俳優に必要なのだろうか。必要なら、どの程度だろう。

それを考えるために、一つひとつの感覚を見ていこう。

五感のうち、印象を受け取るときに最もよく反応するのは、視覚だ。

聴覚も非常に敏感だ。

だから、私たちの感情に最も働きかけやすいのは、目と耳を通してなのだ。

画家の中には、心の目が非常にはっきりしていて、その場にいない人の肖像画を描ける人もいることが知られている。

音楽家の中には、心の耳が非常に優れていて、たった今演奏された交響曲を、演奏の細部や、楽譜からのごく小さなずれまで思い出しながら、頭の中でもう一度聴ける人がいる。

舞台の俳優も、画家や音楽家と同じように、内なる目と耳の記憶を持っている。

その記憶によって、目に見えた姿や耳に聞こえたものを刻みつけ、再び呼び起こすことができる。日常で出会った人の顔、表情、体の線、歩き方、身のこなし、動作、声、抑揚、服装、暮らしの細部やそのほかの特徴、自然や風景などだ。

さらに人間は、とりわけ俳優は、現実に見聞きしたものだけでなく、目には見えず、耳には聞こえない、自分の想像の中で生まれたものも、覚えて再現できる。

視覚型の俳優は、求められているものを、動作で見せてもらうのを好む。そうすると、その感情を感じ取りやすくなる。

聴覚型の俳優は逆に、自分が演じる人物の声の響き、話し方、抑揚を、早く聞きたいと思う。

そういう俳優では、感情が動きだす最初のきっかけは、聴覚の記憶から来る」

「五感のうち、ほかの感覚はどうですか?

舞台で必要になることがあるのでしょうか?」と私は尋ねた。

「もちろんだ!」

「必要なら、何のために、舞台での創造にどう使うのですか?」

「想像してごらん」とアルカージー・ニコラーエヴィチは説明した。「チェーホフの『イワーノフ』第三幕の冒頭を演じるとしよう。

あるいは、君たちの誰かが、ゴルドーニの『宿屋の女主人』で騎士リパフラッタを演じるとしよう。ミランドリーナが見事な腕で作ってくれたことになっている、実は厚紙製の小道具の煮込み料理に、うっとりしなければならない。

自分だけでなく、観客全員の口にも唾が湧くように、その場面を演じる必要がある。

そのためには、演じているまさにその瞬間に、本物の煮込み料理でなくても、何かほかのおいしい料理の味を、少なくともおおよそ思い浮かべている必要がある。

そうでなければ、食べる喜びを体験せず、喜んでいるように演じてみせるだけになるだろう」

「触覚はどうでしょう?

どんな戯曲で必要になるのですか?」

「たとえば『オイディプス』で、目を失ったオイディプスが、子供たちに触れて確かめる場面だ。

その場合、よく育てられた触覚が、大いに役立つ」

「でもですね、失礼ですが、よい俳優なら、感情をわざわざ呼び起こさなくても、技術だけで全部表現できますよ」とゴヴォルコフは言った。

「そんな自信過剰な言い分を、信じてはいけない。

どれほど完成された俳優の技術でも、自然そのものが生む、計り知れず、手の届かない、きわめて繊細な芸には及ばない。

私はこれまで、さまざまな流派、さまざまな国の、有名な俳優や技術家、名人を数多く見てきた。それでも断言する。自然そのものの見えない導きを受ける、本物の俳優の潜在意識が、知らぬ間に達する高みへ、彼らの誰一人として届くことはできなかった。

複雑な人間の性質のうち、最も大切な部分の多くは、意識では制御できないことを忘れてはいけない。

私たちの手の届かないそうした部分を動かせるのは、自然だけだ。

その助けがなければ、体験と具現を生む、きわめて複雑な創造の仕組みを、私たちは部分的にしか使いこなせず、全体を扱うことはできない。

味覚、触覚、嗅覚の記憶は、私たちの芸術で使う場面が少ないとしても、ときには大きな意味を持つ。ただしその場合の役割は、補助的な、ほかの働きを助けるものだ」

「どんな役割なのでしょう?」と私はさらに尋ねた。

「例を挙げよう」とトルツォフは言った。「先日、私が見た出来事だ。二人の若者が、夜にどこかで騒いできた後、安っぽいポルカの旋律を思い出そうとしていた。どこかで聞いたのだが、どこだったかは、二人にもわからないのだ。

『あれは……。

どこだったかな……?

僕らは柱か何かのそばに座っていた……』と、一人が苦労して思い出そうとした。

『柱なんか関係あるか?』と、もう一人がいら立った。

『君は左に座っていて、右には……。

右には誰がいたっけ?』

と、一人目の若者は、視覚の記憶を絞り出そうとしていた。

『誰も座っていなかったし、柱なんかなかったよ。

でも、ユダヤ風のカワカマスを食べたのは確かだ。それから……』

『安っぽい香水、花のオーデコロンの臭いがした』と、一人目が手がかりを出した。

『そう、そうだ』と、もう一人がうなずいた。

『あの香水の臭いとユダヤ風のカワカマスで、忘れようにも忘れられない、ひどく不快な気分になったんだ』。

その印象から、二人は一緒に座っていた、ザリガニを食べている女性を思い出した。

続いて、テーブル、その上の食器の並び、そして柱が見えてきた。やはり二人は、柱のそばに座っていたのだ。

すると突然、一人がフルートの細かく転がる旋律を歌い、その奏者がどんなふうに吹いていたか、まねてみせた。

楽団の指揮者も思い出した。

こうして少しずつ、味覚、嗅覚、触覚の記憶がよみがえり、それを通して、その晩に耳や目で受け取った印象も戻ってきたのだ。

ついに一人が、あの安っぽいポルカを数小節、思い出した。

もう一人がさらに数小節を付け加え、やがて二人は一緒に、指揮者のように手を振りながら、記憶によみがえった旋律を歌い始めた。

しかし、それだけでは終わらなかった。二人は酔っていたときに交わした何かの侮辱まで思い出し、激しく言い争って、結局またけんかになったのだ。

この例から、五感の緊密な結びつきと相互作用、そしてそれらが感情記憶のよみがえりに及ぼす影響がわかる。

ご覧のように、俳優には感情記憶だけでなく、五感すべての記憶が必要なのだ」

一九……年……月……日

トルツォフが巡業のためモスクワを離れたので、授業は一時休みになった。

当分は、『訓練と反復稽古』、舞踊、体操、フェンシング、発声の基礎練習である歌唱、発音の矯正、学科の授業で満足するほかない。

授業が止まると、日記の記録も一時途切れた。

しかし最近、私生活でいくつかの出来事があり、私たちの芸術、とりわけ感情記憶について、非常に大切なことを理解させられた。

こういうことが起こった。

先日、私はシューストフと一緒に帰宅する途中だった。

アルバート通りで、大勢の人だかりに行く手をふさがれた。

私は街頭の出来事を見るのが好きなので、人をかき分け、前のほうへ出た。

そこで目に入ったのは、恐ろしい光景だった。

目の前の大きな血だまりに、年老いた物乞いが横たわっていた。顎を砕かれ、両腕と、片足の先の半分を切断されていた。

死者の顔は恐ろしく、腐った老人の歯が残る折れた下顎が、口からはみ出し、血に染まった口ひげの前に突き出ていた。

腕は体から離れたところに転がっていた。

それが長く伸びて、慈悲を求めて前へ差し出されているように見えた。

手の指が一本、誰かを脅すかのように、上を向いていた。

骨と肉の入った長靴のつま先も、離れたところに落ちていた。

犠牲者の上に止まっている路面電車は、巨大で恐ろしいものに見えた。

獣のように死者へ牙をむき、シューシューと音を立てていた。

運転士は機械のどこかをいじっていた。おそらく、不具合があったことを示し、自分の責任ではないと説明するためだろう。

一人の男が遺体の上にかがみ、死んだ顔を思案顔で見つめ、汚れたハンカチをその鼻先に押し当てていた。

その隣では、少年たちが水と血で遊んでいた。

解けかけた雪の細い流れが、赤い血の流れと合わさり、新しく桃色の流れになるのが、面白いらしかった。

一人の女性が泣いていて、ほかの人々は、好奇心や恐怖、嫌悪を浮かべて見入っていた。

役人や医者、救急車などの到着を待っていた。

このあまりにも生々しい光景は、ぞっとするほど強烈な印象を与えた。日差しの明るい日と、青く澄み、晴れやかな雲一つない空と、鮮やかに対照をなしていた。

私は打ちひしがれて事故現場を離れたが、恐ろしい印象が長い間、頭から離れなかった。

心を重く沈ませたその光景の記憶は、一日中、私につきまとった。

夜中に目を覚まし、目に焼きついた光景を思い出すと、さらに激しく身震いし、生きていることが怖くなった。

記憶の中の事故は、実際に見たときより恐ろしく思えた。夜だったせいかもしれない。暗闇では、すべてがいっそう恐ろしく見えるからだ。

しかし私は、自分の状態を、印象を強める感情記憶の働きによるものだと考えた。

そして、自分にはよい感情記憶がある証拠だとして、その恐怖を喜びさえした。

一、二日後、再びアルバート通りの事故現場を通ったとき、私は思わず足を止め、つい先日ここで起きたことを考えた。

恐ろしいことは、すべて過ぎ去っていた。ただ、人の命が一つ減っただけだった。

女性の掃除人が、事故の最後の痕跡を掃き消すかのように、静かに通りを掃いていた。人の血で染まったあの運命の場所を、路面電車は軽やかに走り抜けていた。

今日の電車は、あのときのように牙をむいたり、シューシューうなったりしない。むしろ、楽しく走ろうとでもいうように、元気よくベルを鳴らしていた。

命のはかなさを思ううちに、先日の恐ろしい事故の記憶は、別のものへ変わっていった。

むき出しになった顎、切断された腕や足の一部、上を向いた指、血だまりで遊ぶ子供たち。あまりにも生々しかったそれらは、今日もあのときに劣らず私を揺さぶったが、揺さぶられ方はまったく違った。

嫌悪感は消え、代わりに憤りが生まれた。

心と記憶に起こった変化を言い表すなら、こうなるだろう。事故の日には、見たものの衝撃のまま、街頭記者として生々しい新聞記事を書けたはずだ。ところが今なら、残酷さを激しく糾弾する随筆を書けそうだった。

記憶に残る事故の光景は、もう生々しい細部によってではなく、亡くなった人への哀れみや優しさによって、私の心を動かした。

今日は、悲しみに泣いていた女性の顔を、とりわけ温かい気持ちで思い出した。

感情の記憶が変わっていく過程に、時間がこれほど大きく影響するとは、驚くばかりだ。

今朝、つまり事故から一週間後、学校へ行く途中で、またあの運命の場所を通り、そこで起きたことを思い出した。

今日と同じ、白い雪が思い浮かんだ。

それは、生だ。

横たわり、どこかへ向かって伸びる黒い人影。

それは、死だ。

流れる血。

それは、人間からあふれ出る情念だ。

その周りには、鮮やかな対照をなして、再び空と太陽と光と自然があった。

それは、永遠だ。

満員の路面電車が走り過ぎていく。その姿は、永遠へ向かって通り過ぎていく、人間の世代の連なりのように思えた。

つい先日まで嫌悪を催させ、その後には残酷に見えた光景全体が、今では荘厳なものになっていた。

初日には新聞記事を書きたくなり、その後には哲学的な随筆に引かれたとすれば、今日は詩に、韻文に、厳かな抒情に心が向いている。

感情と感情の記憶の変化について考えるうちに、私は、最近プーシチンが話してくれた、彼自身の出来事を思い返した。

あの気のよい親切な男は、かつて、素朴な村の娘と一緒に暮らしたことがあった。

二人は仲よく暮らしていたが、彼女には耐えがたい欠点が三つあった。第一に、我慢できないほどおしゃべりで、教養が乏しいため、その話はくだらなかった。第二に、ひどい口臭があった。第三に、夜、ものすごいいびきをかいた。

プーシチンは彼女と別れた。その欠点も、別れの原因の一つだった。

かなりの時がたつと、彼は再び、自分のドゥルシネアを夢見るようになった。

彼女の悪いところは取るに足りないものに思えた。時間とともに和らぎ、よいところのほうが、いっそう際立ってきたのだ。

偶然の再会があった。

ドゥルシネアは、ある家で家事の仕事をしていた。プーシチンは、思惑もあって、そこに住むことにした。

まもなく、すべてが以前どおりになった。

感情の記憶が現実に戻った今、プーシチンは再び、別れることを夢見ている。

一九……年……月……日

なんと不思議なことだろう。

あれからしばらくたった今、アルバート通りの事故を思い出すと、視覚の記憶に、まず路面電車がよみがえる。

しかし、あのとき見た電車ではない。ずっと前の別の出来事の後に、記憶に残った電車なのだ。

この秋のある晩遅く、私はストレシネヴォから、終電でモスクワの自宅へ帰ろうとしていた。

電車は人けのない開けた場所に差しかかった途端、脱線した。

わずかな乗客たちの力だけで、車両を元に戻さなければならなかった。

あのとき、電車はなんと巨大で力強く見え、人間はそれに比べて、なんと小さく頼りなかったことか。

私はこの疑問を解きたい。なぜ、以前のあの感情のほうが、最近アルバート通りで体験したものより、感情記憶に強く深く刻まれているのだろう……?

同じ種類の不思議が、もう一つある。地面に横たわる物乞いと、その上にかがみ込んだ見知らぬ男を思い出すとき、私が考えるのはアルバート通りの事故ではなく、別の出来事なのだ。ずっと前、歩道で息を引き取ろうとしている猿に、かがみ込むセルビア人に出くわしたことがある。

その気の毒な男は、目に涙をいっぱいため、汚れた食べかけの果実菓子を、猿の口に押し込んでいた。

どうやら、この場面のほうが、物乞いの死より深く私の心に触れたらしい。

記憶にも、深く刻まれた。

だから今、街頭の事故を考えると、物乞いではなく死んだ猿が、見知らぬ男ではなくセルビア人が、思い出されるのだ。

もしこの場面を舞台へ移すとしたら、私は、その場面に直接対応する感情の材料ではなく、ずっと前に、別の状況で、まったく違う登場人物、つまりセルビア人と猿から得た材料を、記憶から汲み取るだろう。

なぜ、そうなるのだろう?

一九……年……月……日

トルツォフが巡業から戻り、今日は彼の授業があった。

私は、事故の後で自分の中に起こった変化を話した。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、私の観察力を褒めた。

「君の体験は」と彼は言った。「感情記憶の中で起こる、思い出や感情が結晶していく過程を、よく示している。

誰でも生きている間に、一つではなく、いくつもの惨事を見ている。

その記憶は残るが、細部まで全部ではない。とりわけ強く心を打った、いくつかの特徴だけだ。

そうして残った、数多くの体験の痕跡から、同じ種類の感情について、一つの大きな、凝縮され、広がりと深さを持つ記憶が生まれる。

その記憶には余計なものがなく、最も本質的なものだけがある。

同じ種類の感情がすべて、一つに合わさったものだ。

小さな個々の出来事一つではなく、同じような出来事全体に関わっている。

大きな尺度で捉えられた記憶なのだ。

現実そのものよりさえ、純粋で、濃密で、引き締まっていて、内容が豊かで、鮮烈だ。

たとえば今回の巡業の印象を、以前のものと比べてみよう。終わったばかりの巡業はすばらしい印象を残したが、あちこちに小さな腹立たしい出来事が混じり、全体の喜びに影を落とし、こまごまとしたものにしてしまっている。

もっと昔の巡業には、そんな記憶は残っていない。

感情記憶が、時間という炉の中で、思い出を精錬したのだ。

それはよいことだ。

そうでなければ、偶然の細部が記憶の中の大切なものを押しつぶし、その大切なものは細部に埋もれてしまうだろう。

時間は、体験した感情の記憶を濾過する、すばらしいフィルターであり、見事に精錬するものだ。

それだけでなく、時間はすばらしい芸術家でもある。

余分なものを取り除くだけでなく、思い出に詩情を与えることもできる。

記憶のこの性質によって、暗く、生々しく、むき出しの体験でさえ、時がたつと、より美しく、芸術的になる。

それが、心を引きつけ、抗いがたい魅力を与える。

しかし、偉大な詩人や画家は、実物をもとに描くではないか、と言う人もいるだろう!

そのとおりだ。ただし、実物を写真のように写すのではない。そこから霊感を受け、対象を自分自身に通し、自分の感情記憶にある生きた材料で補っているのだ。

もしそうでなく、詩人たちが悪人を、生きたモデルに見て感じた現実の細部まで、写真のようにそのまま描いたなら、その作品は嫌悪を催させるものになるだろう」

その後、私はトルツォフに、物乞いの記憶が猿の記憶へ、ある路面電車の記憶が別の電車の記憶へ、すり替わったことを話した。

「不思議なことではない」とアルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「よく使われるたとえだが、感情の記憶は、自分の書棚の本のように、思いどおりに取り出せるものではない。

感情記憶とは、どんなものかわかるかね?

たくさんの家を想像してごらん。その中には多くの部屋があり、部屋には無数の戸棚や引き出しがある。そこには大きな箱、小さな箱がいっぱいあり、その中に一つ、ビーズの入った、いちばん小さな箱がある。

家や部屋や戸棚や棚は、簡単に見つけられる。箱や小箱は、少し見つけにくい。では、今日こぼれ落ち、一瞬きらりと光って、二度と見えなくなった一粒のビーズを、見つけられるほど鋭い目があるだろうか?

再び出会わせてくれるのは、偶然だけだ。

私たちの記憶の保管庫でも、同じことが起きる。

そこにも、戸棚、引き出し、大箱、小箱がある。

手が届きやすいものもあれば、届きにくいものもある。

一瞬光を放ち、永遠に姿を消す流星のように、ふと姿を見せ、そのまま消えてしまった感情の記憶の『ビーズ』を、どうやって探せばよいのだろう?

猿とセルビア人の姿のように、それが私たちの中に現れ、光るときには、その映像を授けてくれたアポロンに感謝しなさい。しかし、すでに消え去った感情を取り戻そうと願ってはいけない。

明日は、セルビア人の代わりに、何か別のことを思い出すだろう。

昨日のものを待たず、今日のものを喜んで受け取りなさい。

新たによみがえった記憶を、うまく迎え入れることが大切だ。

そうすれば、繰り返しすぎて心を動かさなくなった戯曲の場面にも、君の心は新しい力で応えるだろう。

君の心に火がつき、そのとき、霊感が訪れるかもしれない。

しかし、古いビーズを追いかけようとしてはいけない。それは昨日という日や、子供のころの喜びや、初恋のように、取り戻せないものだ。

そのたびに、今日のための、新鮮な新しい霊感が生まれるように努めなさい。

昨日より弱くてもかまわない。

今日のものであり、自然に、ひとりでに、心の奥から一瞬現れて、創造の火をともしてくれる。それがよいのだ。

そもそも、本物の霊感が創造の中できらめいたとき、そのどれがよりよく、どれが劣るなどと、誰に決められるだろう。

どれも、それぞれに美しいのだ。霊感であるというだけでも、その価値がある」

一九……年……月……日

授業の初めに、私はアルカージー・ニコラーエヴィチに、疑問を解いてほしいと頼んだ。

「つまり」と私は言った。「霊感のビーズは自分自身の中に蓄えられていて、外から心に入ってくるのでも、アポロンのいる天から降ってくるのでもない、ということですか?

いわば、初めて生まれるものではなく、もう一度現れるものなのですか?」

「わからない!」とアルカージー・ニコラーエヴィチは答えを避けた。

「潜在意識の問題は、私の手に負えない。

それに、霊感の瞬間を包むものとして、私たちが親しんできた神秘を、消してしまうのはやめよう。

神秘は美しく、創造を刺激する」

「でも、舞台で体験するものが、すべて二度目のものというわけではないでしょう?

初めて体験することもありますよね。

だから知りたいのです。実生活で一度も経験したことのない感情が、舞台で初めて突然湧き上がってきたら、それはよいことなのでしょうか?」と私は食い下がった。

「どんな感情かによる」とトルツォフは言った。

「たとえば、君がハムレットを演じ、最後の幕で、王を演じる仲間のシューストフへ剣を手に突進したとしよう。そのとき、それまで知らなかった、抗いがたい殺意を、生まれて初めて感じたとしよう。

剣は刃のない小道具で、流血には至らなかったとしよう。それでも、ひどい取っ組み合いになり、予定より早く幕を下ろして、調書を作ることになるかもしれない。

俳優がそんな初めての感情に身を任せ、そんな『霊感』に達することが、公演のためになるだろうか?」

「では、初めての感情は望ましくないのですか?」と私は理解しようとした。

「逆だ。とても望ましいのだ」とアルカージー・ニコラーエヴィチは私を安心させた。

「自然で、強く、鮮やかだ。ただ、舞台には君の想像するような形、つまり一幕全体を占めるような長い時間には、現れない。

初めての感情は一瞬きらめき、役の中に、個々の瞬間として散りばめられる。

その形なら、舞台で大いに望ましいものだ。私は心から歓迎する。

もっと頻繁に訪れて、私たちが創造において何より大切にする、情念の真実を、いっそう鮮やかにしてほしいものだ。

初めての感情に潜む意外さには、俳優にとって抗いがたい、創造をかき立てる力がある。

ただ一つ困るのは、私たちがその最初の体験の瞬間を支配するのではなく、その瞬間に私たちが支配されることだ。だから、その問題は自然に任せ、こう言うほかない。初めての感情が生まれるなら、必要なときに自分から現れてほしい。ただ、戯曲や役に反しさえしなければ、と」

「では、潜在意識や霊感について、私たちは無力なのですね!」と私は落胆した声を上げた。

「しかし、私たちの芸術と技術は、初めての感情だけで成り立っているだろうか?

そんな感情は、舞台だけでなく実生活でも珍しいのだよ」とトルツォフは慰めた。

「感情記憶に呼び起こされ、再び体験する感情もある!

まず、それを使うことを学びなさい。

そのほうが、私たちには手が届きやすいのだ。

もちろん、突然、潜在意識から訪れる『ひらめき』には魅力がある!

それは私たちの夢であり、最も好む創造のあり方だ。

しかし、だからといって、意識して感情記憶を呼び戻すことの価値を、軽く見てよいわけではない。

むしろ大切にしなさい。それを通してこそ、ある程度、霊感に働きかけることができるのだから。

私たちの方法の基本原則を思い出しなさい。『意識を通して潜在意識へ』だ。

感情の記憶を大切にすべき理由は、もう一つある。俳優が役に与えるのは、手当たり次第の感情ではない。自分自身が生きて体験した感情の中から、必ず選び抜いた、最も大切で、親しく、心を引かれる記憶なのだ。

感情記憶から選び抜いた材料で織り上げる、演じる人物の生は、創造する俳優にとって、ふだんの毎日の生活より、大切に思えることさえある。

これが霊感を育てる土壌でなくて、何だろう!

自分自身の最良のものを選び、俳優は大切に舞台へ運ぶ。

その際、形や状況は戯曲の要求に合わせて変わるが、役の感情に通じる、俳優自身の人間としての感情は、生きたままでなければならない。

それを偽造したり、ゆがんだ俳優のわざとらしい演技に、すり替えたりしてはいけない」

「どういうことです?」とゴヴォルコフは戸惑った。

「つまり、ハムレットでも、アルカーシカでも、ネスチャストリフツェフでも、『青い鳥』のパンでも砂糖でも、どんな役でもですね、同じ自分自身の感情を使うというのですか?!」

「ほかに、どうするのかね?」と、今度はアルカージー・ニコラーエヴィチが理解しかねる様子だった。

「俳優が体験できるのは、自分自身の感情だけだ。

それとも、役を演じるたびに、どこかから新しい他人の感情と魂そのものを、手に入れてこいというのかね?

そんなことが可能だろうか?

いったい、いくつの魂を自分の中に収めることになるのだろう。

自分の魂を引き抜いて、役にもっとふさわしい別の魂を、代わりに借りてくるわけにはいかない。

どこから借りるのかね?

まだ命を得ていない、死んだ役そのものからかね?

その役自身が、魂を与えてもらうのを待っているのだ。

服や時計なら、一時的に借りられる。しかし、ほかの人や役から、感情を借りることはできない。

できるというのなら、その方法を教えてほしいものだ!

私の感情は切り離しようもなく私のもので、君の感情は君のものだ。

役を理解し、共感し、その立場に自分を置いて、演じる人物と同じように行動し始めることはできる。

その創造的な行動が、俳優自身の中にも、役に通じる体験を呼び起こすだろう。

しかし、その感情は、詩人の作った登場人物のものではなく、俳優自身のものだ。

何を夢見ても、現実でも想像の中でも、どんな体験をしても、君は常に君自身だ。

舞台で自分自身を見失ってはいけない。

いつも、人間であり俳優である自分自身として、行動しなさい。

自分から逃げることはできない。

自分という存在を捨てれば、足場を失う。それがいちばん恐ろしいことだ。

舞台で自分を失った瞬間に、体験は終わり、わざとらしい演技が始まる。

だから、どれほど演じても、何を表現しても、例外なく、いつも自分自身の感情を使わなければならない!

この法則を破ることは、俳優が自分の演じる人物を殺し、死んだ役に命を与えられる唯一のもの、震えるように生きた人間の魂を、そこから奪うことに等しいのだ」

「何ですって、一生、自分自身を演じるんですか!」とゴヴォルコフは驚いた。

「そのとおりだ」とトルツォフは応じた。「舞台では、いつでも、ずっと、自分自身だけを演じるのだ。ただし、さまざまな課題の組み合わせと、与えられた状況のもとで。役のために自分の中で育て、自分の感情の記憶という炉で鍛え上げた、それぞれの組み合わせだ。

それが、内面の創造に使える、最良で唯一の材料だ。

それを使いなさい。他人から借りようと思わないことだ」

「でも、失礼ですが」とゴヴォルコフは反論した。「世界中の戯曲の、あらゆる役のあらゆる感情を、自分の中に持つなんて、できませんよ」

「自分の中に収まらない役は、決してうまく演じられない。

その役は、君のレパートリーではないのだ。

俳優は、役柄の分類ではなく、その人の内面の本質によって区別すべきなのだ」

「でも、一人の人間が、アルカーシカにもハムレットにもなるなんて、どうしてできるのでしょう?」と私たちは戸惑った。

「まず、俳優自身は、そのどちらでもない。

その人自身として、内面と外面の個性を、強く、あるいは淡く持つ一人の人間だ。

その俳優の性質に、アルカーシカ・スチャストリフツェフのずるさや、ハムレットの高潔さはないかもしれない。しかし、ほぼすべての人間的な長所や欠点の種、その芽生えとなるものは、備わっている。

俳優の芸術と心の技術は、人間に自然に備わる長所や欠点の種を、自分の中に無理なく見つけ、それを演じる役のために育て、発展させることへ、向けられなければならない。

こうして、舞台上に描く人物の魂は、俳優自身の魂にある、生きた人間的な要素や、感情の記憶などを組み合わせ、積み上げて作られるのだ」

アルカージー・ニコラーエヴィチが明かしてくれたことを、私はまだうまく理解できず、そのことを打ち明けた。

「音楽には、音がいくつあるかね?」と彼は私に尋ねた。

「たった七つだ」と、すぐ自分で答えた。

「それでも、その七つの音の組み合わせは、まだまだ尽くされていない。

では、人間には、心の要素や状態、気分、感情が、いくつあるだろう?

私自身、数えたことはないが、音楽の音より多いことは確かだ。

だから、俳優としての一生を通して使うのに、十分にあると安心してよいのだ。

だからこそ、まず自分の心から感情の材料を取り出す方法を学び、次に、その材料から役の人間的な魂や、性格、感情、情念を、無限の組み合わせで作る方法を学びなさい」

「その方法とは、どんなものですか?」と私は食い下がった。

「まず、感情記憶を生き返らせることを学ぶのだ」とトルツォフは説明した。

「どうやって生き返らせるのですか?」と私は引き下がらなかった。

「内側のさまざまな手段や刺激を使うことは、もう知っているね。

しかし、外側から働きかける刺激や手段もある。

その話は次回にしよう。複雑な問題だから」

一九……年……月……日

今日の授業は幕を閉じて、私たちが『マロレトコワの家』と呼んでいる場所で行われた。

しかし、そこは見違えるほど変わっていた。

居間だった所は食堂に、前の食堂は寝室に変わり、広間は戸棚で仕切られ、いくつもの小部屋になっていた。

どこも、質の悪い安物の家具ばかりだ。

勘定高い女が住みつき、以前の立派な住まいを、安くても儲けの出る、家具付きの貸間に変えてしまったようだった。

「引っ越し、おめでとう!」とイヴァン・プラトーノヴィチが私たちを迎えた。

驚きから立ち直ると、生徒たちは声をそろえて、以前の居心地のよい『マロレトコワの家』に戻してほしいと頼んだ。今の部屋では落ち着かず、よい仕事ができないというのだ。

「仕方がない」とアルカージー・ニコラーエヴィチは取り合わなかった。「前の道具は劇場の上演中の芝居で必要になった。代わりに、あり合わせをもらって、できるように並べたのだ。

気に入らなければ、今あるものを使って、居心地がよくなるよう、自分たちで整えなさい」

たちまち騒ぎになり、みんなが勢いよく動き始めた。

まもなく、あたりはすっかり混乱した。

「止まって!」とアルカージー・ニコラーエヴィチが叫んだ。

「この混乱した様子は、君たちの中に、どんな感情の記憶を呼び起こし、どんな感情を再びよみがえらせるかね?」

「アルマヴィルで……あの……地震が……動いて……家具も……こんなふうに……」と、われらが製図家兼測量士のウムノヴィフはつぶやいた。

「何と言えばいいかしら。

お祝いの日の前に、床磨きの人が来て……」とヴェリヤミノワは思い出した。

「ああ、もったいないわ、みんな!

気が滅入っちゃう!」とマロレトコワは嘆いた。

家具の移動を続けるうちに、言い争いが起きた。

ある人はある雰囲気を、別の人は別の雰囲気を求めた。家具の並びを見て、それぞれの中によみがえる心の状態や感情の記憶が、違っていたからだ。

ようやく家具は、まずまずの具合に収まった。

私たちはその配置に納得したが、もう少し明るくしてほしいと頼んだ。

そこから、光と音の効果を見せる実演が始まった。

最初に明るい日差しが差し込み、気持ちまで晴れやかになった。

同時に、舞台の外で音の交響曲が始まった。自動車、路面電車のベル、工場の汽笛、遠くの機関車の汽笛が、昼の活動の真っ盛りを伝えた。

それから、少しずつ薄暗くなった。

私たちは、たそがれの時間を過ごした。

心地よく、静かで、少し寂しかった。

夢想にふけりたくなり、まぶたが重くなった。

やがて強い風が吹き、ほとんど嵐になった。

窓ガラスが枠の中でがたがた鳴り、風がうなり、鋭い音を立てた。

雨なのか雪なのか、窓をたたいた。

光が弱まるのとともに、すべてが静まった……。

通りの音もやんだ。

隣の部屋で、時計が時を打った。

それから誰かがグランドピアノを弾き始めた。初めは強く、やがて静かに、悲しげに。

煙突では風がうなり、心が寂しさに沈んだ。

部屋にはすっかり夜が来て、ランプがともされ、ピアノの音は消えた。

窓の外の遠くで、塔の時計が十二時を告げた。

真夜中だ。

静けさが広がった。

床下ではネズミがかりかり音を立てていた。

ときおり自動車のクラクションが鳴り、機関車の短い汽笛が呼び交わした。

ついに何もかもが静まり、墓場のような沈黙と闇が訪れた。

しばらくすると、灰色の夜明けの光が現れた。

やがて最初の日差しが部屋へ飛び込んできたとき、私は生まれ直したように感じた。

いちばん感激していたのはヴュンツォフだった。

「本物よりいい!」と、彼は言い張った。

「日常では、一日かけて変わる光の影響には気づかない」とシューストフは感想を語った。「でも今のように、昼と夜のあらゆる色合いの変化が、数分で通り過ぎると、光が僕たちに及ぼす力を感じるね」

「光と音につれて、感情も変わる。悲しくなったり、不安になったり、元気が出たり……」と私は感想を話した。

「家に病人がいて、小声で話してほしいと言われている気がすることもあれば、みんな穏やかに暮らしていて、生きるのもそう悪くないと思えることもある。

そうなると気力が湧いて、もっと大きな声で話したくなる」

「ご覧のように」とアルカージー・ニコラーエヴィチは、すかさず指摘した。「私たちを取り巻く環境は、感情に影響する。

それは現実の生活だけでなく、舞台でも起こる。

舞台にも、その場の生活と自然があり、森、山、海、町、村、宮殿、地下室がある。

それらは画家の描いた幕の上に、写し取られた姿で生きている。

才能ある演出家の手にかかれば、劇場のあらゆる装置や効果は、粗雑な偽物には見えず、芸術的な創造物になる。

それらが戯曲の登場人物の心の営みと、内側で結びつくと、外の環境は、舞台上で、現実における以上に重要な意味を持つことさえある。

そこから生まれる雰囲気が戯曲の要求に合っていれば、役の内面の生へ、見事に注意を導き、演じる人の心理と体験に働きかける。

つまり、舞台上の外的な環境と、それが生み出す雰囲気は、私たちの感情を呼び起こす刺激なのだ。

だから、祈りの最中にメフィストフェレスの誘惑を受けるマルガレーテを女優が演じるなら、演出家は、その場に合った教会の雰囲気を与えてやるとよい。

それが、役を感じ取る助けになる。

牢獄のエグモントの場面を演じる俳優には、演出家が、孤独を強いられていることにふさわしい雰囲気を作ってやるとよい。

俳優は感謝するだろう。その雰囲気が、感情を導いてくれるからだ。

舞台裏で公演を作るほかの人々も、それぞれが使える舞台上の手段で、私たちを助けてほしいものだ。

彼らの力と芸術の中にも、私たちの感情記憶と、再びよみがえる感情を呼び起こす刺激が、隠されているのだ」

「演出家がすばらしい外見の舞台を作っても、戯曲の内面の本質にあまり合っていなかったら、どうなりますか?」とシューストフが尋ねた。

「残念ながら、それはよく起こる。そして、いつも非常に悪い結果になる。演出家の誤りが俳優を間違った方向へ押しやり、俳優と役との間に壁を作ってしまうからだ」

「では、演出家の作った見た目の舞台が、単に出来の悪いものだったら?

どうなるのでしょう?」と誰かが尋ねた。

「もっと悪くなる!

演出家や舞台裏の作り手たちの仕事が、まるで逆の結果を生む。演じる人の注意を舞台と役へ引き寄せる代わりに、まずい環境が、俳優を舞台上のものから遠ざけ、脚光の向こうの、千人もの観客の支配に委ねてしまうのだ」

「では、演出家が舞台を、昨日私がN……劇場で見たような、俗悪で、いかにも芝居がかった、趣味の悪いものにしたら?」と私は尋ねた。

「その場合、その俗悪さが毒のように俳優へ染み込み、俳優も演出家に従ってしまうだろう。

人によっては、舞台の俗悪さの中に、非常に強い『刺激』があるのだ。

ご覧のように、公演の外面的な演出は、演出家の手にある両刃の剣だ。

役に立つのと同じくらい、害にもなりうる。

一方、俳優自身も、舞台で周囲に目を向け、実際に見て、受け取り、舞台の幻想が生み出す雰囲気に、素直に身を任せることを学びなさい。

その力と技術があれば、外面的な舞台づくりに隠れた、あらゆる刺激を、自分のために使えるようになる。

では、質問しよう」とトルツォフは続けた。「よい舞台装置なら、どんなものでも俳優を助け、感情記憶を呼び覚ますだろうか?

色彩、線、遠近法を見事に使いこなす、すばらしい画家の描いた、立派な背景幕を想像してごらん。

客席から見れば、舞台に上がりたくなるだろう。

ところが自分で舞台へ行くと、がっかりして、立ち去りたくなる。

なぜだろう?

装置が絵としての見栄えだけを考えて作られ、俳優の必要とするものが忘れられていたら、舞台には使えないからだ。

そうした背景幕では、画家は絵画と同じように、三次元ではなく、幅と高さの二次元だけを扱っている。

奥行き、言い換えれば舞台の床は、空っぽで、死んだままだ。

むき出しで平らな、何もない舞台の床が、俳優にとってどんなものか、君たちは経験から知っている。小さな練習や簡単なエチュードでさえ、そこで集中し、自分自身を見いだすのは難しい。

では、そんな床の上で、演奏会の壇上に出るように舞台の前へ出て、ハムレットやオセロー、マクベスという役の『人間としての内面の生活』を、すべて伝えてみなさい。

演出家の助けもなく、舞台上の動きの段取りもなく、手を置き、座り、寄りかかり、周りに集まれる物や家具もない。それが、どれほど難しいことか!

そうした姿勢や位置の一つひとつが、舞台で生き、内面の気分を身体の形で表す助けになるのだ。

脚光の前に棒のように立っているより、豊かな配置や動きがあるほうが、それを実現しやすくなる。

私たちには第三の次元が必要だ。つまり、歩き、生き、行動する舞台の床に、立体的な作りが必要なのだ。

私たちにとって、第三の次元は、初めの二つ以上に欠かせない。

背後に、天才の筆によるすばらしい背景幕が掛かっていても、俳優にとってどんな役に立つだろう?

私たちは背を向けて立つことが多いので、それを見てもいない。

その幕は、背景にふさわしいよい演技をしろ、と私たちに要求するだけで、助けにはならない。画家が、俳優を忘れ、背景幕のことだけを考え、自分の腕前だけを見せて作ったからだ。

プロンプター・ボックスの前に立ち、ほかの助けも、舞台上の動きの段取りも、演出家や美術家もなしに、戯曲と役の内面の本質をすべて伝えられる。そんな天才や技術の名人が、いったいどこにいるだろう?!

俳優が一人で、外からの助けなしに創造の課題を果たせるほど、私たちの心理技法が最高の完成に達するまでは、演出家や、舞台裏の作り手たちの力を借りることになる。舞台装置、配置、照明、音響など、さまざまな刺激を手にしている人たちだ」

一九……年……月……日

「なぜ隅に入り込んでいるのかね?」とアルカージー・ニコラーエヴィチはマロレトコワに尋ねた。

「私……離れていたくて。

だめ、だめなの!」と彼女は落ち着かず、戸惑うヴュンツォフから身を隠すように、さらに隅へ潜り込んだ。

「では、君たちはなぜ、そんなに仲よく、くつろいで座っているのかね?」とトルツォフは、いちばん居心地のよい一角で、テーブルのそばのソファに座り、彼の到着を待っていた生徒たちに尋ねた。

「小話を……あの……聞いているんです!」と製図家のウムノヴィフが答えた。

「君は、ゴヴォルコフと二人で、ランプのそばで何をしているのかね?」とアルカージー・ニコラーエヴィチはヴェリヤミノワに尋ねた。

「私……私……どう言えばいいのか……」と彼女は恥ずかしがった。

「手紙を読んでいて……それで……でも、本当に、なぜなのか……」

「君はなぜ、シューストフと歩き回っているのかね?」とトルツォフは私に問いかけた。

「少し考え事をしています」と私は答えた。

「つまり」とアルカージー・ニコラーエヴィチはまとめた。「それぞれが、気分や体験、用事に応じて、いちばん都合のよい場所を選び、ふさわしい配置を作って、自分の目的に使ったのだね。あるいは逆に、その配置が、することや課題を思いつかせたのかもしれない」

トルツォフは暖炉のそばに座り、私たちは彼のほうを向いて座った。

何人かは、近くでよく聞けるよう椅子を寄せた。私は、書き留めやすいよう、ランプのあるテーブルについた。

ゴヴォルコフとヴェリヤミノワは、ささやき合えるよう、少し離れた所に二人で座った。

「では今度は、なぜ君はここ、君はそこ、君はテーブルに座ったのかね?」とアルカージー・ニコラーエヴィチは、また説明を求めた。

私たちは再び自分の行動を説明した。彼は今回も、それぞれが状況、用事、気分、体験に応じて、配置を自分なりに利用した、と結論づけた。

それから、部屋のいろいろな一角へ私たちを連れていった。それぞれ家具の並び方が違う。そこが心にどんな気分や感情の記憶を呼び起こし、どんな体験をよみがえらせるか、考えるように言われた。

どんな状況なら、その配置をどう利用するかを、私たちは言い表さなければならなかった。

次にトルツォフは、自分の考えで、私たちにいくつもの位置や姿勢を取らせた。私たちは、どんな心の状態、条件、気分、与えられた状況なら、指示された座り方を都合よく感じるか、思い出して考えた。

つまり、前は自分の気分や、行動の課題を感じ取ることから、自分たちで配置を作っていた。今度はアルカージー・ニコラーエヴィチがそれを代わりに行い、私たちは他人の作った配置に、内側から意味を与えなければならなかった。それに合う体験と行動を探し、その中に、ふさわしい気分を見つけるのだ。

トルツォフによれば、最初の二つのように自分で配置を作る場合も、三つ目のように他人の配置に意味を与える場合も、俳優の実践では絶えず起こる。

だから、どちらも十分に使いこなせる必要がある。

続いて、反対の場合を示す実験が行われた。

アルカージー・ニコラーエヴィチとイヴァン・プラトーノヴィチは、授業を始めるようなつもりで腰を下ろした。

私たちも、『用事と気分』に合わせて場所を取った。

ところがトルツォフは、私たちが選んだ配置を、見違えるほど変えてしまった。

気分や、これからすることに逆らうように、わざと居心地の悪い座らせ方をしたのだ。

ある生徒はずっと遠くに置かれ、別の生徒は教師の近くにいても、背中を向けていた。

配置が心の状態や用事に合わないと、感情が混乱し、内面にずれが生じた。

この例から、舞台上の配置と俳優の心の状態を結びつけることが、どれほど欠かせないか、その結びつきを壊すと、どんな害があるかが、身をもってわかった。

さらにアルカージー・ニコラーエヴィチは、家具をすべて壁際に寄せ、生徒もその壁に沿って座らせ、中央の何もない床に、肘掛け椅子を一つだけ置くよう命じた。

そして一人ずつ呼び、その椅子を使って、想像できるかぎりのあらゆる姿勢や位置を試すように言った。

もちろん、そのすべてに、想像した設定、与えられた状況、そして感情そのものによって、内側から意味を与えなければならなかった。

私たちは順番に練習し、一つひとつの配置や人の集まり方、姿勢が、どんな体験へ自分を導くかを考えた。あるいは逆に、どんな内面の状態なら、どんな姿勢が自然に生まれるかを考えた。

これらの練習によって、よくできた、使いやすく豊かな配置の価値を、私たちはいっそう認めるようになった。配置そのもののためではなく、それが呼び起こし、保ってくれる感情のために。

「つまり」とアルカージー・ニコラーエヴィチはまとめた。「一方で俳優は、自分が体験している気分や、行うことや、課題に応じて、配置を探す。他方では、気分や課題や用事そのものが、私たちに配置を作らせる。

その配置もまた、感情記憶を呼び起こす刺激の一つなのだ。

舞台の細かな作り込みや照明、音、その他の演出上の誘い水は、まず客席の観客を驚かせるためのものだと、よく思われている。

そうではない。私たちがそうした刺激を使うのは、見る人以上に、俳優自身のためだ。

舞台の上にあるものへ注意をすべて向け、舞台の外のものから気をそらす、その助けをしようとしているのだ。

脚光のこちら側、俳優の側に生まれる雰囲気が戯曲に合っていれば、創造に役立つ空気が生まれ、感情記憶と体験を正しく刺激してくれる。

さて、さまざまな実験や実演を経て、演出、装置、配置、照明、音響など、舞台に雰囲気を作る手段や効果が、私たちの感情にとって、すばらしい外からの刺激になると、信じられたかね?」とアルカージー・ニコラーエヴィチは尋ねた。

ゴヴォルコフ以外の生徒は、その考えを認めた。

「しかし、舞台で目を向け、実際に見ることのできない俳優は、少なくない」とアルカージー・ニコラーエヴィチは続けた。

「そういう人をどんな舞台装置で囲んでも、どんなふうに照らしても、どんな音で舞台を満たし、どんな幻想を生み出しても、その俳優が気にするのは、舞台の上ではなく、脚光の向こうの客席で起きていることだ。

周囲の環境だけでなく、戯曲そのものや、その内面の本質でさえ、そういう人の注意を引きつけることはできない。

演出家や舞台裏の作り手が助けるために用意した、とても大切な外からの刺激を、自分で手放してしまっているのだ。

君たちがそうならないように、舞台で目を向け、実際に見ることを学びなさい。周りのものに身を任せ、応えることができるようになりなさい。

つまり、与えられたあらゆる刺激を使いこなすのだ」

一九……年……月……日

今日の授業で、アルカージー・ニコラーエヴィチは話した。

「これまでは、刺激から感情へと進んできた。

しかし、しばしば逆に、感情から刺激へとたどる必要もある。

偶然、内側に生まれた体験を、確かなものにしておきたいときだ。

例を挙げよう。

ゴーリキーの『どん底』の、初期の公演の一つで、私に起こったことだ。

サーチン役は比較的すんなりつかめた。ただし、最後の幕の『人間について』の独白だけは別だった。

そこでは無理なことを求められた。場面に社会的、ほとんど世界的ともいえる意味を持たせ、言葉の裏に果てしない深みを与え、独白を戯曲全体の中心、謎を解く鍵にしろ、というのだ。

その危険なところへ近づくと、内側にブレーキをかけ、身構え、力んだ。重い荷車を引く馬が、急な坂の前に来たようだった。

役の中にあるこの『坂』が、のびのび進むことを妨げ、創造の喜びを損なっていた。

独白の後には、いつも高音で声を外した歌手のような気分だった。

ところが意外にも、三回目か四回目の公演で、役のこの難所が、ひとりでにうまくいったのだ。

偶然の成功の理由をよく知りたくて、その晩の出演までに起こったことを、すべて思い返してみた。

まず、朝から一日をたどる必要があった。

その日は、仕立屋から高額な請求書が届くことから始まった。

予算が狂い、私は気を悪くした。

次に、書き物机の鍵をなくした。

それがどれほど嫌なことか、わかるだろう。

気分を損ねたまま、私たちの『どん底』の劇評を読むと、出来の悪いところが褒められ、よいところがけなされていた。

その劇評に、私は打ちのめされた。

一日中、戯曲のことが頭を離れなかった。

何度目とも知れず、繰り返し分析し、内側にある核心を探し、自分が体験した一つひとつの瞬間を思い出した。その作業にすっかり夢中になって、その晩は成功に関心がなく、出番の前にも成功するかどうかを気にせず、観客のことも考えず、公演全体や自分の演技がどんな結果になるかにも、無頓着だった。

そもそも、そのとき私は演じていたのではなく、ただ筋道と順序に沿って、言葉や動作、行動によって、役の課題を果たしていたのだ。

筋道と順序が正しい道へ導いてくれ、役はひとりでに演じられた。難所も、自分では気づかないうちに通り過ぎていた。

結果として、その演技は、私自身は考えてもいなかったのに、『世界的』とは言わなくとも、戯曲にとって大切な意味を持つものになった。

どういうことだったのだろう?

正しい方向へ進むのを妨げていた足かせから、何が私を解放してくれたのだろう?

何が正しい道へ押し出し、望んでいた目的地へ導いたのだろう?

もちろん、仕立屋が高い請求書を送ってきたことでも、鍵をなくしたことでも、劇評を読んだことでも、それ一つだけが理由ではない。

それらすべて、生活の条件と偶然の出来事が重なって、私の心に、劇評が予想以上に強く響く状態を作ったのだ。

その劇評によって、役全体の構想について、それまで固まっていた見方が揺らぎ、初めから考え直さずにはいられなくなった。

その見直しが、成功につながったのだ。

私は、経験豊かな俳優で、心理にも詳しい人に、その晩に見つけた体験を確かなものにするため、力を貸してほしいと頼んだ。

彼はこう言った。『舞台で偶然体験した感情を再現しようとするのは、しおれた花を生き返らせようとするのと同じです。

別のことに力を注ぐほうがよくありませんか。死んだものをよみがえらせるのでなく、しおれた花に代わる、新しい花を育てるのです。

そのためには、何をすればよいでしょう?

まず、花そのもののことを考えるのでなく、根に水をやることです。あるいは新しい種をまいて、新しい花を育てるのです』。

しかし、俳優はたいてい、違うことをする。

役のある部分が偶然うまくいき、それを繰り返したいと思うと、感情そのものへまっすぐ手を伸ばし、もう一度体験しようとする。

それは、自然の働きを借りずに、花を作ろうとするのと同じだ。

そんなことはできないので、結局、小道具を作るように、花をまねて作るほかなくなる。

では、どうすればよいのだろう?

感情そのもののことを考えず、それを育てたもの、体験を呼び起こした条件だけに、心を配るのだ。

それが、水をやり、肥料を与えるべき土壌であり、感情はそこに育つ。

その間に、自然そのものが、以前に体験した感情に通じる、新しい感情を生み出す。

君たちも同じようにしなさい。

決して結果から始めないことだ。

結果はそれだけで手に入るものではなく、その前にあったことから、筋道立って生まれるものだ。

私は、その賢い助言者の言うとおりにした。

花から茎をたどって根まで下りる必要があった。言い換えれば、『人間について』の独白から、戯曲が何のために書かれたのか、その根本の考えへと、道をたどったのだ。

その考えを、何と呼べばよいだろう?

自由だろうか?

人間が自分自身を自覚することだろうか?

考えてみれば、旅人ルカは、戯曲の初めからずっと、そのことを語っている。

役の根までたどり着いて、初めてわかった。その根には、かびやキノコのように、不要で有害な、俳優の見せ場のためだけの課題が、いろいろと生い茂っていたのだ。

私が作った『世界的な意味』を持つ独白は、ゴーリキーが書いた『人間について』の独白と、関係がなかったのだとわかった。

前者は、私のわざとらしい演技の頂点になっていた。後者は、戯曲の中心となる考えを語り、その頂点であり、作者と俳優が創造的に体験する、最も高い瞬間であるべきものだった。

以前の私は、役に書かれた他人の言葉を、どうすればもっと効果的に朗誦できるかだけを考えていた。演じる人物の思考や体験に通じる、自分の思考と体験を、いっそう鮮明に、豊かに相手役へ伝えることは、考えていなかったのだ。

筋道と順序に沿って行動し、その結果、戯曲と自分の創造の中心となる考えへ自然に近づく代わりに、結果だけを演じてみせていた。

私が重ねた誤りはすべて、石の壁のように、中心となる考えから私を隔てていた。

では、その壁を壊す助けになったのは何か?

役の構想が揺らいだことだ。

何がそれを揺るがしたのか?

劇評だ。

では、その劇評に、それほどの力を与えたのは?

仕立屋の請求書、なくした鍵、その他の偶然の出来事だ。それらが、気分を悪くし、神経を高ぶらせる全体的な状態を作り、その一日を、注意深く振り返らずにはいられなくしたのだ。

この例で示したかったのは、今日話した二つ目の道筋、よみがえった感情から、それを呼び起こした刺激へとたどる道だ。

その道筋がわかれば、俳優はいつでも、自分の意志で、必要な体験を再び呼び起こせる。

つまり、偶然生まれた感情から刺激へとたどり、その後、再び刺激から感情へ進むのだ」とトルツォフはまとめた。

一九……年……月……日

今日、アルカージー・ニコラーエヴィチは話した。

「感情記憶が広いほど、内面の創造に使える材料も多くなり、俳優の創造は豊かで充実したものになる。

これは、これ以上説明するまでもなく、わかると思う。

しかし、感情記憶の豊富さだけでなく、そこに蓄えられた材料の強さ、持続する力、質も区別しなければならない。

感情記憶の強さは、私たちの仕事で大きな意味を持つ。

強く、鮮烈で、確かなほど、創造の中での体験も、鮮やかで十分なものになる。

弱い感情記憶が呼び起こすのは、ほとんど感じ取れない、幻のような感情だ。

それは舞台には使えない。人に伝わりにくく、目立たず、客席までほとんど届かないからだ」

感情記憶についてさらに話すうちに、その強さの程度、持続時間、及ぼす影響は、実にさまざまだとわかってきた。

この点について、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「人前で侮辱されたり、平手打ちをされたりして、その後一生、頬が熱くなる思いをすると想像してごらん。

その場面が内面に与えた衝撃があまりにも大きく、その乱暴な仕打ちの細部や外の状況を、すべて覆い隠してしまう。

ほんの小さなきっかけで、あるいは何のきっかけもなく、受けた屈辱が感情記憶の中に突然燃え上がり、倍の強さでよみがえる。

顔は赤くなったり、死人のように青ざめたりし、心臓は締めつけられ、激しく打つ。

このように鮮烈で、容易に呼び起こされる感情の材料があれば、実生活で受けた衝撃の後に刻まれたものと似た場面を、舞台上で体験することは、俳優にとって難しくない。

その場合、技術の助けは必要ない。

すべてが、ひとりでに起きる。

自然そのものが俳優を助ける。

これは、感情の記憶と、再びよみがえる感情の中でも、最も強く、鮮烈で、はっきりしていて、生命力のある種類の一つだ。

別の例を挙げよう。

私の友人に、並外れてうっかりした人がいた。一年ぶりに知人の家の食事会へ行き、そこで、両親がとてもかわいがっていた幼い息子の健康を祝して、乾杯の挨拶をしたのだ。

その挨拶に、場は墓場のように静まり返った。そして家の女主人、つまりその子の母親は、気を失った。

実はその食事会は、今まさに健康を祝した幼い子が亡くなって一年になる日に開かれていたのだ。気の毒な友人は、そのことを忘れていた。

『あのときの気持ちは、一生忘れられない!』と彼は打ち明けた。

ただし今度は、平手打ちの例のように、感情が周囲で起こっていることを覆い隠しはしなかった。そのため友人の記憶には、体験そのものだけでなく、その出来事の中の、とりわけ鮮明な瞬間や状況も、はっきり刻まれた。

向かいの客のおびえた顔も、隣の女性が伏せた目も、テーブルの反対側で漏れた声も、はっきり覚えている。

長い年月がたった今でも、あの食事会の失態で体験した感情が、突然ひとりでによみがえることがある。

けれども、ときにはすぐによみがえらず、あの不運な出来事を取り巻いていた状況を、思い出さなければならないこともある。

すると、感情そのものも、一度に、あるいは少しずつ生き返る。

これは、先ほどより弱い、いわば中程度の生命力と強さを持つ感情の記憶の例だ。しばしば、心理技法の助けを必要とする。

同じ種類の、三つ目の例を話そう。

これも同じうっかりした友人に起きたことだが、今度は人前ではなく、一対一の親しい会話の中だった。

彼のいとこの女性が、母親の死後、棺に送ってもらった花輪のお礼を言いに、彼を訪ねたのだ。

いとこが用件を言う間もなく、うっかり者の彼は、愛想よく『大切なおばさん』の健康を尋ねた。亡くなったばかりの、その人のことだ。

そのときの気まずさも、もちろん記憶に残った。しかし、前の乾杯の例に比べれば、はるかに弱いものだった。

だから、もし彼がこの感情の材料を創造に使おうとするなら、あらかじめ内面で、かなりの作業をしなければならないだろう。

その感情記憶に残る痕跡は、ほかの助けなしに、ひとりでによみがえるほど、深く鮮烈ではなかったからだ。

これは、感情の記憶と、再び起こる感情の力が、弱い場合の例だ。

この場合、心理技法が引き受ける仕事は、大きく複雑になる」

一九……年……月……日

アルカージー・ニコラーエヴィチは、感情記憶の質や強さの違いについて、引き続き説明した。

彼は言った。

「体験した感情の記憶には、弱まって残るものもあれば、数は少なくても、強まって残るものもある。

受け取った印象が記憶の中で生き続け、そこで育ち、深まることは、珍しくない。

それが新たな心の働きを呼び起こす。一方では、その出来事の中で十分に体験しきれなかった細部を思い出させ、他方では想像力を刺激して、忘れた細部を補って作らせる。

この現象は、私たち俳優の間でよく見られる。

たとえば、私の家で会った、巡業中のイタリア人俳優を思い出しなさい。

もっとはっきりした実例を、私のきょうだいに起きた出来事から挙げよう。

町から村の家へ帰るとき、彼女は小さな鞄に、亡くなった夫の手紙を入れて持っていた。とても大切にしていた手紙だ。

列車が駅に近づくと、急いで飛び降りようとして、出口のいちばん下のステップまで下りた。

そのステップが凍っていた。

足が滑り、周りの人々が恐怖に包まれる中、彼女は、そばを動く車両と、プラットホームを支える柱との間へ落ちてしまった。

気の毒な彼女は、必死に叫んだ。しかし、自分の身が怖かったからではない。大切な荷物、手紙の入った鞄を落とし、それが車輪に巻き込まれるかもしれなかったからだ。

大騒ぎになり、女性が車両の下に落ちた、と叫び声が上がった。ところが車掌は、助ける代わりに、彼女をひどい言葉でののしった。

ばかげた、実に嫌な場面になった。

それに憤った彼女は、一日中気持ちが収まらず、家族に車掌への腹立ちをぶつけた。転落したことも、危うく大事故になるところだったことも、すっかり忘れていた。

夜になった。

暗闇の中で、彼女は起きたことをすべて思い出し、神経の発作に襲われた。

この出来事の後、彼女は、危うく命を落としかけたあの駅へ、戻る決心がつかなかった。

そこで記憶がいっそう鋭くよみがえることを、恐れていたのだ。

それよりは、馬車で五ヴェルスタ余計に走り、もっと遠い別の駅へ行くほうを選んだ。

このように、人は危険の真っただ中では落ち着いていても、それを思い出したときに気を失うことがある。

これは感情記憶の強さと、記憶の中で育ち続けるために、二度目の体験が最初より強くなることを示す例ではないだろうか。

しかし、感情の記憶については、力や激しさだけでなく、その性質や質も区別しなければならない。

たとえば、今話した平手打ち、乾杯の挨拶、いとことの会話で、君が当事者ではなく、ただの目撃者だったと想像してごらん。

自分が侮辱され、ひどく気まずい思いをするのと、起きていることを見て憤り、争いを起こした人たちの振る舞いを、責任のない立場から批判するのとでは、違う。

もちろん、目撃者が強く心を動かされることもある。

場合によっては、当事者より強く感じることさえ、あるだろう。

しかし今、問題にしているのは、そのことではない。

今指摘しているのは、目撃者が持つ体験の記憶と、当事者自身の記憶とは、その質が同じではない、ということだけだ。

当事者でも、目撃者でさえなく、ただその出来事について聞いたり読んだりしただけ、という場合もある。

それでも、強い影響を受け、深い感情の記憶を持つことはできる。

それは、書く人や語る人の説得力と、読む人や聞く人の感受性による。

私は、ある目撃者の話を決して忘れない。訓練中の少年たちを乗せた大型ボートが嵐に遭い、その最中に船長が突然亡くなって、船が沈んだという話だ。

幸運にも助かったのは、一人だけだった。

この海の悲劇を、細部まで目に浮かぶように語られて、私は衝撃を受けた。今もなお、心を動かされる。

もちろん、当事者、目撃者、聞き手、読み手の感情の記憶は、質が違う。

俳優は、こうしたあらゆる種類の感情の材料を扱い、役に当てはめ、その役が求めるものに合わせて、作り変えなければならない。

たとえば、前の授業で話した、平手打ちという腹立たしい場面で、君は当事者ではなく、目撃者だったとしよう。

目の前で起きたその場面から受けた印象は強く、感情記憶に深く刻まれたとしよう。

それに合う役なら、舞台で同じような体験を再びすることは、難しくないだろう。

その役が見つかったとしよう。ただし、演じるのは平手打ちの目撃者ではなく、侮辱された本人だ。

目撃者としての感情の記憶を、どうやって当事者自身の体験へと、自分の中で変えるのだろう?

当事者は自ら感じ、目撃者はその人に共感する。

だから、共感を、自分の感情へ変える必要がある。

目撃者の共感が、当事者の本物の感情へ変わる例を挙げよう。

友人を訪ねると、彼がひどい状態にあるとしよう。何かをつぶやき、落ち着きなく動き回り、泣いていて、すっかり絶望している様子だ。

その姿に、君も心から動揺するが、何が起きたのかは、わからない。

このとき、君は何を体験しているかね?

共感だ。

ところが友人に隣の部屋へ連れていかれると、床の血だまりに、彼の妻が横たわっているのが見える。

その光景を見て、夫は取り乱し、息を詰まらせて泣きじゃくり、何かを叫ぶ。君にはよく聞き取れないが、その言葉にある悲劇的な意味は感じられる。

この瞬間、君は何を感じているかね?

友人に、いっそう強く共感している。

やがて、彼を落ち着かせることができ、話がもう少しわかるようになる。

すると、夫は嫉妬から妻を刺し殺したのだとわかる。その嫉妬の相手は……君だった……。

それを知った瞬間、君の内側では、何もかもが変わる。

それまでの目撃者としての共感は、たちまち、その悲劇の当事者自身の感情へ変わる。実際、君は当事者だったのだから。

役を作るとき、私たちの芸術でも、これと似た過程が起こる。

俳優の内側に同じような変化が起き、戯曲の生活の中で、自分が行動する当人だと感じた瞬間、本物の人間の感情が生まれる。

人間である俳優の共感が、戯曲の登場人物としての感情へ変わることは、ひとりでに起こる場合も少なくない。

俳優が登場人物の立場を深く理解し、それに強く応えて、自分がその立場にいるように感じることがあるのだ。

そうなると、知らず知らず、侮辱された本人の目で出来事を見るようになる。

まるで自分自身の名誉が傷つけられたかのように、行動し、争いに加わり、侮辱した者の行いに抗議したくなる。

この場合、目撃者としての体験の中で、共感はひとりでに感情へ変わり、戯曲の登場人物の感情と同じ質、ほぼ同じ強さになる。

では、創造しているときに、この過程が起こらなかったら、どうすればよいだろう?

そのときは、心理技法の助けを借りる必要がある。与えられた状況や、魔法の『もしも』、感情記憶に反応を呼び起こす、ほかの刺激を使うのだ。

だから、内面の材料を探すときは、自分が実生活で体験したことだけでなく、ほかの人を通して知り、心から共感したことも使いなさい。

本を読んだり、人の話を聞いたりして得た記憶にも、同じような過程が起こる。

その印象も、自分の中で作り変える必要がある。読み手、聞き手としての共感を、物語の登場人物の感情に通じる、自分自身の本物の感情へ変えるのだ。

読み手の共感を登場人物の感情へ変える、この過程には、覚えがあるだろう?

新しい役に取り組むたびに、私たちは自分の中で、同じことをしていないかね?

私たちは戯曲を読んで役を知る。戯曲は、私たち俳優が目撃者でも当事者でもなかった出来事を、劇作家が語ったものだ。私たちはそれを、読んで初めて知るのだ。

劇作家の作品に初めて触れるとき、まれな例外を除けば、私たちの中に生まれるのは、登場人物への共感だけだ。

戯曲に取り組む準備の過程で、その共感を、人間である俳優自身の、本物の感情へ変えていかなければならない」

一九……年……月……日

「『狂人』や『墜落した飛行機』のエチュードを覚えているかね?」と、今日、アルカージー・ニコラーエヴィチは私たちに尋ねた。

「その『もしも』、与えられた状況、想像した設定、その他の刺激を覚えているかね。それらによって、感情記憶の中に、創造に使う心の材料を見いだした。

外側からの刺激を使っても、同じ結果を得たね。

『ブラン』の場面を、部分と課題に分けたことを覚えているかね。それが、教室の男子と女子の間に、激しい対立を引き起こした。

これは、また別の種類の、内側からの刺激だ。

注意を向ける対象について学んだとき、舞台や客席のあちこちで電灯をつけて示したことを覚えているかね。

今では、生きた人間も、私たちの感情を呼び起こす刺激になるとわかっているね。

身体的行動、その論理と順序、真実、そしてそれを本物だと信じることを覚えているかね。

これもまた、感情を呼び起こす大切な刺激だ。

この先、内側から働きかける新しい刺激を、さらにいくつも学んでいく。

その中でも特に強いものは、戯曲の言葉や思想、作者の台詞の下に込められた感情、登場人物同士の関係の中に潜んでいる。

外側からの刺激も、いろいろ知ったね。装置や調度、照明、音響、舞台上の配置や動きが生むさまざまな効果だ。それらは、舞台に本当の生活があると思わせ、その生き生きした空気をつくる。

すでに知っている刺激をすべて集め、これから学ぶものも加えれば、かなりの数になる。

それが、君たちの心理技法の財産だ。

それを使いこなせるようにならなければならない」

「でも、どうすればいいのでしょう。必要なときに、かつての感情を呼び戻し、感情記憶を働かせる方法を、どうしても身につけたいんです!」と、私はトルツォフに訴えた。

「感情記憶や、再び呼び起こそうとする感情には、猟師が獲物を扱うように接しなさい」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは説明した。

「鳥が自分から飛んでこなければ、茂った葉の中で探し出そうとしても、どうにもならない。

そんなときには、鳥寄せ笛という特別な笛を使って、森から誘い出すしかない。

私たちの俳優としての感情も、森の鳥のように臆病で、心の奥深くに隠れている。

そこから応えてくれなければ、隠れ場所を探し当てることはできない。

こういうときこそ、鳥寄せ笛を頼りにするのだ。

その鳥寄せ笛にあたるものが、これまで繰り返し話してきた、感情記憶や、かつての感情を呼び起こす刺激なのだ。

これまでの学習の各段階で、感情記憶や、かつての感情を呼び起こす新しい鳥寄せ笛、つまり刺激を手に入れてきた。

実際、魔法の『もしも』、与えられた状況、想像による設定、部分と課題、注意を向ける対象、内的・外的な行動の真実とそれを信じることは、結局、それぞれにふさわしい鳥寄せ笛を与えてくれたのだ。

つまり、これまで学校で取り組んできたことはすべて、鳥寄せ笛へとつながっていた。それが必要なのは、感情記憶を働かせ、かつての感情を呼び起こすためだ。

鳥寄せ笛は、私たちの心理技法を働かせるうえで、中心となる手段なのだ。

鳥寄せ笛と感情との結びつきを、大いに利用すべきだ。それは自然で、無理のない結びつきなのだから。

俳優は、名手がピアノの鍵盤を自在に操るように、こうした刺激を使いこなし、すぐに心で応えられなければならない。『狂人』や『墜落した飛行機』、『燃やされた金』について、心を引きつける設定や課題を考えると、たちまち内側に、それに応じた感情が燃え上がる。

別のことを考えると、今度はまったく違う体験が生まれる。

何がどんな感情を呼び起こすのか、どの餌に何が食いつくのかを、知っていなければならない。

いわば、自分の心の庭師となり、どの種から何が育つのかを知る必要があるのだ。

感情記憶を呼び起こす対象や刺激は、どんなものでも、おろそかにしてはいけない」

一九……年……月……日

今日の授業で、アルカージー・ニコラーエヴィチはこう話した。

「これまで感情記憶や、かつての感情を呼び戻すことについて話してきた。それらが創造の過程で、どれほど大きな役割を果たすかは、もう明らかだろう。

そこで次に問題になるのは、私たちの感情記憶に蓄えられているものだ。

この蓄えは、絶えず補い続けなければならない。

では、どうすればよいのだろう。

創造に必要な材料を、どこに求めればよいのだろうか。

ご存じのとおり、まず材料になるのは、私たち自身が受けた印象や感情、体験だ。

それらは、現実の生活からも、想像の中の生活からも得られる。思い出、本、芸術、科学や知識、旅、美術館や博物館、そして何より、人との交わりから得られるのだ。

俳優が生活からくみ取る材料の性質は、劇場が芸術の使命をどう考え、観客に対して芸術上どのような責任を負っていると考えるかによって変わる。

私たちの芸術が、娯楽を求める、暇のある少数の人にしか開かれていなかった時代もあった。そのころは、観客のそうした要求を満たそうとしていたのだ。

また、俳優を取り巻く、激しく波打つ生活そのものが、創造の材料になった時代もあった。

時代が違えば、演劇の創造に取り入れられる材料も違う。

ヴォードヴィルなら、表面的な観察で足りた。

オーゼロフの型にはまった悲劇なら、俳優にある程度の気質と外面的な技術があれば、英雄的な作品をいくらか読んでいるだけで足りたのだ。

訳注

オーゼロフはロシアの劇作家ヴラジスラフ・アレクサンドロヴィチ・オーゼロフ(1769–1816)。底本の Озесова は、同箇所に対応する電子版の人物注 Озеров В.А. に従って読んだ。

十九世紀の一八六〇年代から九〇年代にかけての、平凡なロシアの戯曲に心理的な命を吹き込むには、オストロフスキーの作品を別にすれば、俳優は身近な仲間や、自分に近い社会階層で得た経験だけで間に合った。

ところが、新しい時代の影響が染み込んだ『かもめ』をチェーホフが書くと、それまでの材料では足りなくなった。いっそう複雑で繊細な動きが生まれつつある、社会全体、人類全体の生活に、深く踏み込む必要が出てきたのだ。

個人の生活も人類全体の生活も発展し、複雑になるにつれ、俳優も、その複雑な現象を、より深く理解しなければならなくなった。

そのためには、生活を見る視野を広げる必要があった。

世界を揺るがす出来事が起こる時代には、その視野は、さらに際限なく広がっていく。

しかし、生活のさまざまな領域に注意を向け、視野を広げるだけでは足りない。観察するだけでも足りないのだ。目にした現象の意味を理解し、感情記憶に刻まれた、受け取った感情を、自分の中で消化しなければならない。周囲で起きていることの、本当の意味にまで踏み込む必要があるのだ。

芸術を生み出し、舞台上に『人間の内面の生活』を描くには、その生活を研究するだけでは足りない。いつでも、どこでも、可能なかぎりあらゆる方法で、そのさまざまな姿に、直接触れなければならないのだ。

それがなければ、私たちの創造は干からび、決まりきった型へと堕してしまう。

周囲の生活を傍らから眺め、そこで起きることの喜びや苦しみを自分でも味わいながら、その複雑な原因を探ろうとせず、背後にある、大きな劇的緊張や英雄的な力を帯びた生活の出来事を見ない俳優は、本当の創造にとっては、死んだも同然だ。

芸術のために生きるには、どうしても、周囲の生活の意味に踏み込まなければならない。頭を働かせ、足りない知識を補い、自分のものの見方を見直すのだ。

自分の創造を死なせたくなければ、狭い世間の常識だけで生活を見てはいけない。

そうした小市民的な人間には、その名にふさわしい芸術家になることはできないのだ。

ところが、大多数の俳優は、まさにそういう人間で、舞台の上で自分の出世を図っている。

感情の材料を探すときには、もう一つ、心に留めておくことがある。私たちロシア人は、他人についても自分についても、まず悪い面を見る傾向があるということだ。

そのため、否定的な感情や思い出に関しては、感情記憶の蓄えが豊富だ。

実際、私たちの文学には、否定的な人物像があふれ、肯定的な人物像は、とても少ないのだ。

もちろん、悪徳を描いた優れた芸術上の人物像もたくさんある。フレスタコーフや市長がそうだ。人間の暗い性質にも、イワン雷帝のような、大きな情念がある。しかし、美しい『人間の内面の生活』を伝える私たちの芸術の核心は、それだけにあるのではない。

別の材料も必要なのだ。

心の中の明るい場所に、それを探しなさい。歓喜や、美への憧れが息づいている場所に。

君たちの感情記憶の中に、美しいもの、気高いものを、努めて蓄えていきなさい。

本当の俳優に求められるすべてを果たすには、中身があり、興味深く、美しく、多彩で、心を揺り動かし、自分を高めてくれる生活を送らなければならない。今では、それがわかるだろう。

大都市だけでなく、地方や農村、工場、そして世界の文化の中心で、何が起きているのかを知りなさい。

自国でも外国でも、あらゆる人々の生活と心理を観察し、学びなさい。

私たちには、限りなく広い視野が必要だ。同時代のあらゆる民族の戯曲を上演し、地球上のあらゆる人々の『人間の内面の生活』を伝えることが、私たちの務めだからだ。

それだけではない。

俳優が舞台上につくるのは、自分の時代の生活だけでなく、過去や未来の生活でもある。

課題は、さらに複雑になる。

同時代を描くのなら、俳優は、今そこにあるものや、周囲で起きていることを観察できる。

けれども、過去や未来、あるいは存在しない生活を描くには、まずそれを想像の中で復元するか、新たにつくり出さなければならない。すでに見たとおり、それは複雑な仕事だ。

私たちの創造にとって、いつの時代にも理想だったのは、芸術の中で永遠に生きるものだ。決して古びず、死なず、いつまでも若々しく、人々にとってかけがえのないものだ。それは、これからも変わらない。

私が言っているのは、創造の頂点に達した作品のことだ。私たちにとって古典的な手本となり、永遠に目指し続けるべき理想となったものだ。

そうした手本を学び、それを表現するための、生きた感情の材料を探しなさい。

俳優は、現実の生活からも想像の生活からも、人に差し出せるものを、すべてくみ取る。

しかし、あらゆる印象、情熱、喜び、ほかの人々が自分自身のために味わって生きているものはすべて、俳優の中では、創造の材料になるのだ。

個人的で、はかないものから、詩的な人物像や明るい思想の世界をつくり出す。それは、すべての人のために、いつまでも生き続けるのだ。

感情記憶について、初学者に話せることは、これですべて話した。

あとは、この先、学習を進めるにつれてわかってくるだろう」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは、今日の講義を締めくくった。

第10章 交流

一九……年……月……日

客席には、「交流」と書かれた掲示が掛かっていた。

アルカージー・ニコラーエヴィチが入ってきて、新しい学習段階に進んだ私たちを祝福し、ヴェセロフスキーに声をかけた。

「今、君は誰と、あるいは何と、交流しているかね?」

ヴェセロフスキーは自分の考えに気を取られていて、何を尋ねられたのか、すぐにはわからなかった。

「僕ですか? 誰とも、何とも交流していません!」と、ほとんど反射的に答えた。

「君は『自然の驚異』だな! 何とも交流せずに生きていられるのなら、君は珍品陳列館に収めるべきだね!」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは冗談を言った。

ヴェセロフスキーは弁解し始めた。誰も自分を見ていなかったし、話しかけてもこなかったという。

だから、誰とも交流のしようがなかったのだ。

「交流するには、誰かに見られたり、話しかけられたりする必要があるのかね?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは不思議そうに言った。

「今、目を閉じ、耳をふさいで、黙っていなさい。そして、心の中で誰と、何と交流するかを観察してごらん。

交流の相手がまったくいない瞬間を、たった一瞬でも見つけてみなさい!」

私も自分を確かめてみた。目を閉じ、耳をふさぎ、自分の中で何が起きるかを観察し始めた。

昨日、劇場で開かれた集まりが思い浮かんだ。有名な弦楽四重奏団が演奏した会だった。そこで自分に起きたことを、一つずつ順に、心の中で思い返していった。

私はロビーに入り、挨拶をして、席に着いた。そして、演奏の準備をする奏者たちを眺め始めた。

やがて演奏が始まり、私は耳を傾けた。

けれども、演奏の中に十分入り込み、耳を澄ませ、その感情を感じ取ることは、まだできなかった。

ここだ、交流のない、空白の瞬間だ! そう思った私は、急いでトルツォフに知らせた。

「何だって!」と、彼は驚いて声を上げた。「芸術作品を受け取ろうとしている時間を、交流のない空白だと言うのかね?」

「はい。聴こうとはしていましたが、まだ音楽が耳に入っていませんでした。理解しようとしていましたが、まだ理解していませんでした。

ですから、交流はまだ始まっておらず、その瞬間は空白だったと思うのです」と、私は言い張った。

「音楽との交流や、音楽を受け取る働きが始まっていなかったのは、その前の心の働きがまだ終わらず、注意をそちらに引いていたからだ。

それが終わるとすぐに、君は音楽を聴き始めるか、ほかの何かに関心を向けただろう。

だから、交流には、少しも途切れがなかったのだ」

「そういうことにしておきましょう」と、私は認め、さらに先を思い返した。

気が散っていたとき、私は体を動かしすぎていた。それが、周囲の人々の注意を引いたように思えた。

しばらくじっと座り、音楽を聴いているふりをする必要があった。けれど実際には聴かず、周囲の様子をうかがっていた。

さりげなくトルツォフに目をやると、彼は私がもぞもぞしていたことに気づいていないとわかった。

それからシューストフの叔父を目で探したが、姿はなかった。ほかの俳優たちもいなかった。

その後、居合わせたほとんど全員を順に見回した。やがて注意はあちこちへ飛び散ってしまい、引き留めることも、望むほうへ向けることもできなくなった。

その間、どれほどいろいろなことを思い浮かべ、考えたことだろう!

音楽は、思考や想像がそうして飛び回るのを助けていた。

私は家族や、遠くの町に住む親戚、亡くなった友人のことを考えていた。

アルカージー・ニコラーエヴィチによれば、そうしたイメージが私の中に生まれたのは、わけもなくではない。相手に自分の考えや感情などを伝えるか、相手からそれらを受け取る必要があったからだという。

最後に、シャンデリアのランプに注意を引かれ、その凝った形を、私は長いこと眺めていた。

「こここそ、空白の瞬間だ」と、私は思った。「たかが照明を眺めているだけなのを、交流とは言えないだろう」

新しい発見をトルツォフに伝えると、彼はこう説明した。

「君は、その品がどうやって、何からつくられたのかを理解しようとしていたのだ。

その品は、自分の形や全体の姿、さまざまな細部を君に伝えていた。

君はそうした印象を取り込み、記憶に刻みながら、受け取ったものについて考えていたのだ。

つまり、対象から何かを受け取っていた。だから、私たち俳優の考え方では、そこに、私たちに必要な交流の過程があったことになる。

君は、相手が生き物ではないことに引っかかっているのだろう。

しかし、絵画も彫像も、友人の肖像画も、博物館の展示品も、生き物ではない。それでも、その中には、つくり手の生命が潜んでいる。

ランプだって、私たちが関心を注ぐことによって、ある程度は、生きたものになりうるのだ」

「それなら、目に入るあらゆる物と、私たちは交流していることになりますね?」と、私は反論した。

「周囲でちらりと目にしたものすべてから、何かを受け取ったり、それらに自分から何かを伝えたりする暇は、とてもないだろう。

そして、受け取る、あるいは与えるという瞬間がなければ、舞台上の交流はない。

自分から何かを送るか、相手から何かを受け取ることのできた対象とは、短い交流の瞬間が生まれる。

これまで何度も言ったね。舞台上では、目を向けて、実際に見ることもできれば、目を向けていながら、何も見ていないこともあるのだ。

もっと正確に言えば、舞台上に目を向け、そこで起きるすべてを見て、感じることもできる。しかし、目は舞台上に向いていても、感じたり関心を持ったりしているのは、客席や劇場の外で起きていることかもしれない。

また、目を向けて見て、その見たものを受け取ることもできれば、目を向けて見ていても、舞台で起きていることを何も受け取っていない場合もある。

要するに、本当に見ることもあれば、外側だけ、形だけの見る行為もあるのだ。私たちの言い方なら、『うつろな目で、見るという手続きだけを済ませること』だ。

内面の空虚さをごまかすための、職人的な手口もある。しかし、それで強まるのは、うつろな目を見開くしぐさだけだ。

そんな見方が舞台上で無用どころか有害なのは、言うまでもない。

目は心の鏡だ。

うつろな目は、空っぽの心を映す鏡だ。

このことを忘れないように!

大切なのは、舞台上の俳優の目や視線、見る行為に、創造する心の、豊かで深い内面が映し出されることだ。

そのためには、役の『人間としての内面の生活』に通じる豊かな内面が、俳優の中に蓄えられていなければならない。そして舞台にいる間じゅう、その心の中身を通して、戯曲の相手役たちと交流し続けなければならないのだ。

けれども、俳優も人間であり、人間らしい弱さを持っている。

舞台に上がるとき、当然、自分の日常の思いや個人的な感情、現実の暮らしから生まれた考えも、一緒に持ち込んでしまう。

だから劇場にいても、その日常的で小市民的な生活の流れは途切れず、隙があれば、演じる人物の体験の中に入り込んでくる。

俳優が役に自分を委ねるのは、役に心を奪われている間だけだ。

そのときには、人物像と一つになり、創造の力によって別の人間になるのだ。

しかし、役から気がそれた途端、再び自分自身の生活の流れに引き込まれる。それに運ばれて、脚光の向こうの客席や、劇場のはるか外へと心がさまよい、そこで、心の中で交流する相手を探すのだ。

こうした瞬間、役は外側だけで、機械的に演じられている。

気がそれることが繰り返されると、役の生活と交流の流れは、たびたび途切れる。その空いたところに、演じる人物とは関係のない、俳優自身の生活の断片が入り込むのだ。

高価な鎖を想像してごらん。金の輪が三つ続くと、四つ目はただの錫の輪。その先の二つの金の輪は、紐でつながれている。

そんな鎖に、何の値打ちがあるだろう?

同じように、ぶつぶつに途切れた交流の流れなど、誰が必要とするだろう?

役の生活の流れを絶えず断ち切るのは、役を傷つけ続け、殺し続けることだ。

日常生活でも、自然で途切れない交流の過程が必要だとすれば、舞台上では、その必要性は十倍にもなる。

それは、演劇とその芸術の性質による。演劇は、登場人物同士の交流と、それぞれの人物が自分自身と交わす交流に、全面的に支えられているのだ。

実際、劇作家が、人物たちを眠ったまま、あるいは気絶したまま観客に見せようと思いついたとしよう。つまり、登場人物の心の生活が、まったく表に現れない時間を。

あるいは、互いに知らない二人を舞台に登場させたとしよう。二人は自己紹介もせず、感情や考えを交わそうともしない。それどころか、それらを隠し、舞台の両端で黙って座っているのだ。

そんな状態では、観客は劇場で何もすることがない。見に来たものを受け取れないからだ。登場人物の感情に触れることも、その考えを知ることもできない。

けれども、舞台上で二人が近づき、一方が自分の感情を相手に伝えたり、自分の考えを納得させたりしようとし、もう一方も、その話し手の感情や考えを受け取ろうとするなら、話はまったく別だ。

二人、あるいは何人かが、感情や考えを渡し、受け取る場に居合わせると、観客は、たまたま会話を耳にした人のように、知らず知らず、それぞれの言葉や行動に心を引き込まれる。

こうして、黙ったまま彼らの交流に加わり、その体験を見て、知り、その感情が伝わってくるのだ。

つまり、劇場の観客が舞台上の出来事を理解し、間接的に参加できるのは、戯曲の登場人物同士が交流しているときなのだ。

俳優が、客席を埋める千人もの観客の注意を手放したくなければ、演じる役の感情や考え、行動に通じる自分の感情や考え、行動を通して、相手役との交流を途切れさせないようにしなければならない。

もちろん、その交流の内実は、見聞きする人にとって、興味深く、心を引きつけるものでなければならない。

舞台上の交流は、これほど重要だ。だからこそ、特に注意を向ける必要がある。次には、私たちが出会う交流のうち、主なものを、もっと丁寧に検討していこう」

一九……年……月……日

「まず、一人で行う交流、つまり自分自身との交流から始めよう」と、教室に入ってきたアルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「現実の生活で、私たちはどんなときに、自分自身に声を出して話しかけるだろうか。

憤りや興奮が強くて、自分を抑えきれないときだ。あるいは、すぐには意識で捉えられない難しい考えを、自分に言い聞かせるとき。暗記するために、声に出して覚えるのを助けるとき。また、少しでも気持ちを楽にしようと、一人で、自分を苦しめたり喜ばせたりしている感情を表に出すときだ。

こうした自分自身との交流は、現実にはめったにないのに、舞台上では実に頻繁に出てくる。

舞台で、黙って自分自身と交流するのなら、私はとても気持ちよく演じられる。むしろ、そうした交流は好きだ。現実の生活でよく知っていることなので、自然にできるのだ。

ところが、舞台上で自分自身と向き合い、長く飾り立てた詩の独白を語らなければならないとなると、途方に暮れ、どうすればよいかわからなくなる。

現実の生活では、ほとんど納得のいく理由が見つからない行為を、舞台上でどう正当化すればよいのだろう。

そんな自分との交流で、相手となる『自分自身』を、どこに探せばよいのだろう。

人間というものは、大きい。

どこに語りかければよいのか。

頭脳に、心臓に、想像力に、手に、足に……?

自分の中のどこから、どこへ、交流の流れを向ければよいのだろう。

この過程には、はっきりした主体と対象が必要だ。

それらは、私たちの中のどこにいるのだろうか。

内側に交流し合う二つの中心がなければ、方向を失って散っていく注意を、自分の中に引き留めることができない。

注意が客席へ飛んでいってしまうのも、無理はない。そこでは、観客の群れという、抗いがたい対象が、いつも私たちを待ち構えているのだ。

けれども私は、この難局を切り抜ける方法を教わった。

神経や心の働きの中心として普段考えられている脳のほかに、心臓の近く、太陽神経叢のある場所にも、もう一つの中心があると教えられたのだ。

私は、その二つの中心を引き合わせ、話をさせてみた。

すると、二つが自分の中にはっきり現れただけでなく、話し始めたように感じた。

頭にある中心は意識を代表し、太陽神経叢にある神経の中心は感情を代表しているように感じられたのだ。

つまり、私の感覚では、知性と感情が交流していることになった。

『それでいい。交流させておこう』と、私は自分に言った。

『これで、自分の中に、足りなかった主体と対象が見つかったのだ』

それ以来、舞台上で自分自身と交流するときの感覚が安定した。黙っている間だけでなく、声に出して自分と語り合うときにもだ。

私が感じたことが本当にそうなのか、科学的に認められているのかどうかを、論じるつもりはない。

私にとっての基準は、自分自身の実感だ。

私だけの感覚でも、空想の産物でもかまわない。役に立つのだから、利用しているのだ。

この実用的で非科学的な方法が、君たちにも役立つのなら、それに越したことはない。ただ、私は何も押しつけないし、断言もしない」

少し間を置いて、アルカージー・ニコラーエヴィチは続けた。

「舞台上で相手役と交わす交流のほうが、身につけ、扱うのは容易だ。

ただし、そこにも難しさがある。どんな難しさかを知り、対処できなければならない。

たとえば、君と私が舞台にいて、君が直接、私と交流しているとしよう。

しかし、私は大きい。

ほら、見てごらん。

鼻も口も、脚も腕も、胴体もある。

私を構成する体のすべての部分と、一度に交流できるかね?」と、トルツォフは私に問いかけた。

「それが無理なら、私のどこか一つの部分、一点を選び、そこを通して交流しなさい」

「目!」と、誰かが言った。

「目は心の鏡だね。

つまり、交流するとき、君たちはまず、相手の心、その内面を探しているのだ。

それなら、私の中にある生きた心、生きた『私』を探しなさい」

「どうすればいいんですか?」と、生徒たちは戸惑った。

「日常生活で、それを覚えてこなかったのかね?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは驚いた。

「他人の心を探ったことがないかね。自分の感情の触角を、その中へ伸ばしたことが?

これは、改めて習うようなことではない。

私をよく見て、私の内面の状態を理解し、感じ取ろうとしてごらん。

そう、それでいい。

今の私は、どんなふうに見えるかね?」

「優しくて、好意的で、親しみがあって、生き生きしていて、関心を持っている感じです」と、私は彼の状態を感じ取ろうとした。

「では、今は?」

と、アルカージー・ニコラーエヴィチは尋ねた。

私は身構えたが、不意に、目の前にいたのはアルカージー・ニコラーエヴィチではなく、ファームソフになっていた。いつもの癖のあるぴくつき、独特の無邪気な目、厚ぼったい口、ふっくらした手、甘やかされてきた老人らしい、柔らかな身振りまで、すべてそろっていた。

「君は誰と交流しているのかね?」と、トルツォフはファームソフの声で尋ねた。モルチャーリンに話しかけるときの、見下した口調だった。

「もちろん、ファームソフとです」と、私は答えた。

「では、トルツォフはどうなったのかね?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは、一瞬で自分自身に戻って、もう一度尋ねた。

「君が交流しているのが、人物の特徴をつくったことで形の変わったファームソフの鼻や手ではなく、私の生きた心なのだとしたら、その心は、今も私の中にあるはずだね。

私は自分の心を追い出すことも、ほかの人から借りてくることもできない。

だとすると、今度は君は狙いを外し、生きた心とは別のものと交流していたのかね?

それは何だったのだろう?」

本当に、私は何と交流していたのだろう?

もちろん、生きた心とだ。

トルツォフがファームソフに変わると、つまり対象が変わると、私の感情そのものも変わったことを覚えている。アルカージー・ニコラーエヴィチに抱いている敬意が、トルツォフの演じるファームソフに対して感じる、皮肉まじりで、悪意のないおかしみに変わったのだ。

結局、誰と交流していたのか、私は整理できず、そのことをアルカージー・ニコラーエヴィチに打ち明けた。

「君が交流していたのは、新しい存在だ。その名は、ファームソフ=トルツォフ、あるいはトルツォフ=ファームソフだ。

創造する俳優に起きる、この不思議な変身は、いずれ君たちにもわかるだろう。

今は、これだけを覚えておきなさい。人はいつも、相手の生きた心と交流しようとする。舞台上の俳優がしばしばするように、鼻や目、服のボタンと交流するのではない。

このように、二人が顔を合わせれば、それだけで、互いの交流は自然に生まれるのだ。

たとえば今も、私たちは顔を合わせ、すでにその交流が生まれている。

私は自分の考えを伝えようとし、君たちは私の話を聴いて、私の知識や経験を受け取ろうと努めている」

「つまりですね、それは相互の交流ではありませんね」と、ゴヴォルコフが口を挟んだ。「感情を送り出しているのは、主体である先生、つまり話している人だけです。一方、感情を受け取っているのは、対象である私たち、つまり聴いている者です。

失礼ですが、それのどこが双方向で、相互的なのでしょう?

感情の逆向きの流れは、どこにあるのですか?」

「では、今、君は何をしているかね?」と、トルツォフは尋ねた。

「私に反論し、納得させようとしているね。つまり、自分の疑問を私に伝え、私はそれを受け取っているのだ。

それこそ、君の言う逆向きの流れだ」

「今はそうでしょう。でも、さっき、先生一人が話していたときは?」と、ゴヴォルコフは食い下がった。

「違いはない」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは答えた。

「あのときも交流していたし、今も続けている。

交流の中で、与えることと受け取ることが交互に起きるのは、当然だ。

しかし、私一人が話し、君が聴いていたときにも、君の心に疑いが生まれつつあることを、私は感じていた。

君のもどかしさも、驚きも、心の動揺も、私に伝わっていたのだ。

なぜ私は、そのときすでに、君のもどかしさや動揺を受け取れたのだろう?

君がそれを内側にしまっておけなかったからだ。そのときも、受け取ることと与えることが、君の中で、気づかないうちに交互に起きていたからだ。

つまり、君が黙っていたときにも、問題の逆向きの流れはあったのだ。

そして今、君が最後の反論を口にしたことで、それがとうとう外にあふれ出したのだ。

これこそ、途切れない相互の交流の例ではないか?!

舞台上では、まさにこうした、互いに途切れず交わされる交流が、特に大切なのだ。作者の作品も俳優の演技も、ほとんどが対話から成り立っているからだ。対話とは、戯曲の登場人物である二人、あるいはそれ以上の人々の相互の交流だ。

残念ながら、こうした途切れない相互の交流は、劇場ではめったに見られない。

多くの俳優は、交流していても、自分の台詞を話す間だけだ。黙る番になり、相手が話し始めると、耳を傾けず、相手の考えを受け取ろうともしない。次に自分の台詞の番が来るまで、演じることをやめてしまうのだ。

このような演じ方は、相互の交流の連続性を壊す。感情を与え、受け取る必要があるのは、台詞を話したり、返答を聴いたりするときだけではない。沈黙の間も同じだ。その間も、目の対話は続いていることが多いのだ。

交流を途切れさせてはいけない。自分の考えを相手に伝えることを学びなさい。そして、言い終えたら、それが相手の意識や感情に届くかを見届けるのだ。そのためには、少しの間が必要だ。

届いたことを確かめ、言葉に収まりきらなかったことを目で伝え終えてから、台詞の次の部分へ進みなさい。

また、自分が受け取る番には、相手の言葉や考えを、そのつど新しく、今日初めて聞くように受け取れるようになりなさい。

稽古や何度もの上演で繰り返し聞いて、よく知っている相手の台詞、その言葉や考えを、改めて意識に受け止めるのだ。

感情や考えを、互いに途切れず受け取り、与え合う過程を、創造を繰り返すたびに、毎回行わなければならない。

そのためには、大きな注意力と技術、俳優としての規律が必要だ」

授業を終える時間になり、アルカージー・ニコラーエヴィチは説明を最後まで続けることができなかった。

一九……年……月……日

アルカージー・ニコラーエヴィチは、前回からの、さまざまな交流についての説明を続けた。

「次に、新しい種類の交流を考えよう。想像の中の、現実には存在しない対象との交流だ。たとえば、ハムレットの父の亡霊との交流だ。

それは、舞台上の俳優自身にも、客席の観客にも見えない。

経験の浅い人は、実際にはなく、いることになっているだけの対象を、本当に見ようとして、幻覚を起こそうとする。

舞台上で、そのために力も注意もすべて使い果たしてしまう。

しかし、経験のある俳優は、大切なのは『亡霊』そのものではなく、それに対する自分の内面的な態度だとわかっている。そこで、存在しない対象、つまり『亡霊』の代わりに、魔法の『もしも』を置く。そして、自分の前の何もない空間に、もし『亡霊』が現れたら、どう行動するだろうかと、誠実に、良心に従って答えようとするのだ。

また、俳優の中には、特に学び始めたばかりの生徒には、自宅での練習中、生身の相手がいないために、想像上の相手を使う人がいる。

心の中で相手を目の前に置き、それを見ようとし、誰もいない場所と交流しようとするのだ。

この場合も、力や注意の多くは、役として生きるために必要な内的な課題には向けられない。実際にはないものを見ようと、力むことだけに費やされてしまう。

この誤った交流に慣れると、俳優や生徒は、無意識のうちに同じやり方を舞台へ持ち込む。ついには、生身の相手に向き合うことに不慣れになり、自分と相手役の間に、架空の、生命のない対象を置く癖がついてしまうのだ。

この危険な習慣は、しばしば深く根づき、一生残ってしまう。

こちらを見ているのに、別の誰かを思い描き、こちらではなく、その相手に合わせて演じる俳優と共演するのは、なんとつらいことだろう!

そうした相手役は、本来直接交流すべき人との間を、壁で隔てている。こちらの台詞も、声の調子も、どんな働きかけも受け取ろうとしない。

その目は、何かに覆われたように空間を見つめ、幻を見ている。

この危険な、演技の生命を奪う歪みに、用心しなさい!

簡単に根づき、直すのは難しいのだ」

「でも、交流する生身の相手がいないときは、どうすればいいのでしょう?」と、私は尋ねた。

「簡単だ。相手が見つかるまでは、交流の練習をしないことだ」と、トルツォフは答えた。

「君たちには、『訓練と反復稽古』の授業がある。

一人ではなく、二人組やグループで練習するために設けられているのだ。

繰り返す。生徒は、空っぽの相手と交流してはいけない。生きた相手と、しかも、経験のある人の目が届くところで練習すること。私はこれを強く求める。

同じくらい難しいのが、集団を相手にする交流だ。つまり、普段『観客』と呼ばれる、千もの頭を持つ存在で満たされた客席との交流だ」

「観客と交流しちゃいけないんですよね! 絶対に!」と、ヴュンツォフが急いで注意を促した。

「そう、そのとおりだ。上演中、直接交流してはいけない。しかし、間接的な交流は必要だ。

舞台上の交流の難しさと独特さは、それが相手役と観客に対して、同時に行われることにある。

相手役とは、直接、意識的に。観客とは、相手役を通して、間接的に、意識せずに。

おもしろいことに、どちらとの交流も、相互的なのだ」

しかし、シューストフは異議を唱えた。

「舞台上でほかの役を演じる人との交流を、相互的と呼ぶのはわかります。でも、観客との関係でも、そう言えるのでしょうか。

それには、観客の側も、何かを舞台の私たちへ送ってくれなければなりません。

けれども実際、私たちは観客から何を受け取っているでしょう?

拍手や花輪くらいです。それも、創造している最中、幕の中ではなく、幕間にです」

「では、笑いは、涙は、演技の途中で起きる拍手や不満の声はどうかね? 観客の心の動き、しかも強烈な心の動きを、数に入れないのかね!」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは驚いた。

「観客と舞台の結びつき、交流の相互性がよくわかる出来事を話そう」と、彼は説明を続けた。「ある日の、子ども向けの『青い鳥』の昼公演でのことだ。木々や動物が子どもたちを裁く場面の途中、暗闇の中で、誰かが私をつつくのを感じた。

十歳くらいの男の子だった。

『猫が盗み聞きしてるって、教えてあげて。

ほら、あそこに隠れてる。僕には見えるんだ!』

チルチルとミチルの身を案じた、興奮気味の幼い声が、そうささやくのだ。

私はその子を落ち着かせられなかった。すると、小さな観客は舞台のすぐ近くまで忍び寄り、客席から脚光を隔てて、子どもたちを演じる女優に、危険が迫っていることをささやき始めたのだ。

これこそ、客席から返ってくる観客の反応ではないか?

観客の群れから何を受け取っているのか、もっとよく知りたいなら、観客を取り去って、誰もいない客席を前に上演してみなさい。

やってみたいかね?」

私は、がらんとした客席を前に演じる、哀れな俳優の立場を、しばし想像した……。そんな公演は、最後まで演じきれないと感じた。

私がそう告げると、トルツォフは尋ねた。「なぜだろう?」

「そんな条件では、俳優と客席との相互の交流がないからだ。それがなければ、人前での創造は成立しない。

観客なしで演じるのは、布張りの家具や絨毯でいっぱいの、音の響かない部屋で歌うようなものだ。

満員の、こちらに心を寄せてくれる客席を前に演じるのは、音響のよい場所で歌うようなものだ。

観客は、いわば、心の響きをつくり出してくれる。

私たちから受け取り、共鳴器のように、生きた人間の感情を返してくれるのだ。

約束事に基づく『再現の芸術』や、職人的な演技では、この集団との交流は、簡単に処理される。その方法の約束事そのものが、戯曲や演技、公演全体の様式になっていることが少なくないからだ。

たとえば、昔のフランス喜劇やヴォードヴィルでは、俳優はしょっちゅう観客に話しかける。

登場人物は舞台の前端まで出てきて、客席の人々に、短い台詞や、劇の事情を説明する長い独白を、そのまま語りかける。

自信たっぷりに、大胆に、堂々と行うので、観客を圧倒する。

実際、客席と交流するのなら、それくらい、観客の群れを支配し、動かすつもりで交流しなければならない。

もう一つ、群衆場面での集団との交流がある。ここでも大勢の人を相手にするが、客席ではなく、舞台上の群衆だ。そして、間接的にではなく、直接、その集団と交流する。

この場合、群衆の中の特定の一人と交流することもあれば、群衆全体を捉えなければならないこともある。

いわば、拡大された相互の交流だ。

群衆場面では、性質のまったく違う多くの人が、さまざまな感情や考えを交わし合う。そのため、交流はいっそう強烈になる。また、集団であることが、一人ひとりの気質にも、全体にも火をつけるのだ。

それは俳優たちの心を揺さぶり、見る人にも強い印象を与える」

続いて、アルカージー・ニコラーエヴィチは、別の種類の交流、俳優の職人的な交流の話に移った。

「これは、戯曲の登場人物である相手役を素通りして、舞台から直接、客席へ向かう交流だ。

いちばん抵抗の少ない道だ。

ご存じのとおり、これは俳優が自分を見せびらかすだけのこと、見せかけの演技だ。

職人的な演技については、これまでの授業で十分に話したから、ここで長く説明するのはやめよう。

交流についても、ただ自分を見せびらかすことと、生きた人間の体験を相手役へ伝え、相手から受け取ろうとする本物の欲求を、君たちは混同しないと思う。

この高い創造と、俳優の単なる機械的な行為の間には、非常に大きな違いがある。

まったく正反対の二つの交流なのだ。

私たちの芸術は、今挙げた種類の交流を、この見せかけの交流だけは除いて、すべて認める。

しかし、その見せかけの交流も、知り、研究しなければならない。少なくとも、それと闘えるようになるために。

最後に、交流が持つ行動性、積極性について少し話そう。

多くの人は、腕や脚、胴体の、目に見える外的な動きを積極的な行動と考える。その一方で、目に見えない内的な行動や、心の交流を、行動とは認めない。

これは誤りだ。役の『人間としての内面の生活』をつくる私たちの芸術では、内的な行動が現れることは、どんなものでも、とりわけ重要で貴重なのだから、なおさら残念な誤りだ。

内面の交流を大切にしなさい。それは、舞台と創造における、最も重要な積極的行動の一つだ。役の『人間としての内面の生活』をつくり、伝える過程で、欠かすことのできないものなのだ」

一九……年……月……日

「交流するには、交流に使えるものを持っていなければならない。何より、自分自身で体験した感情や考えだ」と、今日の授業で、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「現実には、生活そのものが、それをつくってくれる。

そこでは、周囲の状況に応じて、交流の材料が、自分の中に自然に生まれる。

劇場ではそうはいかない。ここに、また新しい難しさがある。

劇場で差し出されるのは、作者のつくった役の感情や考えだ。自分のものではなく、戯曲の中に、命のない文字として印刷されている。

こうした心の材料を、自分で生きて感じるのは難しいことだ。

自分の中には存在しない役の情熱について、その外面的な結果だけを、俳優らしく演じて見せるほうが、ずっと簡単だ。

交流でも同じだ。相手役と本当に交流するのは難しく、交流しているふりをするほうが、ずっと簡単だ。

それが、いちばん抵抗の少ない道なのだ。

俳優はこの道を好み、舞台上で本当に交流する代わりに、交流らしく見える演技で済ませたがる。

そんなとき、私たちはどんな材料を観客へ送っているのだろうか。そこを追ってみると、おもしろいはずだ。

考えてみる値打ちのある問題だ。

私たちが観客と交流するために、舞台へ持ち出しがちなものは何か。それを、頭で理解するだけでなく、感じ、さらに目でも見てほしいのだ。

そのためには、私自身が舞台に上がり、具体的な実例で、君たちが知り、感じ、見るべきことを示すのが、いちばんわかりやすいだろう」

アルカージー・ニコラーエヴィチは、舞台上で、まるで一つの公演のような実演を見せてくれた。才能、熟練、演技の技術、どれも見事なものだった。

最初に、何かの詩を朗読した。とても速く、華やかだったが、考えの筋がはっきりせず、私たちには何も理解できなかった。

「今、私は何を使って、君たちと交流していたかね?」と、彼は尋ねた。

生徒たちは当惑し、答える勇気が出なかった。

「何もない!」と、彼が代わりに答えた。

「籠から豆をこぼすように、言葉をまくしたてていただけだ。誰に何を言っているのか、自分でもわかっていなかった。

これが、俳優がよく、客席との交流に使っている空っぽの材料だ。役の言葉をしゃべりながら、その意味や言外の思いには気を配らず、ただ、どうすれば華やかに聞こえるかだけを気にしているのだ」

少し考えた後、アルカージー・ニコラーエヴィチは、『フィガロの結婚』の最終幕から、フィガロの独白を読むと言った。

今度の演技は、驚くような動き、声の抑揚、転換、つられて笑ってしまう大笑い、玉を連ねたように鮮やかな発音、早口、そして美しく豊かな声の輝きが、滝のように続いた。

あまりにも舞台映えがして見事だったので、私たちは喝采したい気持ちを、やっとのことで抑えた。

しかし、内面の内容はつかめず、独白で何が語られていたのかは、わからなかった。

「何を使って君たちと交流していたかね?」と、トルツォフは再び尋ねた。今度も答えられなかった。ただし今回は、受け取ったものが多すぎて、見聞きしたことをすぐには整理できなかったのだ。

「役の中にいる自分を、見せたのだ」と、アルカージー・ニコラーエヴィチが代わりに答えた。「フィガロの独白、その言葉、舞台上の配置や動き、行動などを使って、自分の中にある役ではなく、役の中にいる自分を披露したのだ。つまり、体つき、顔、身振り、姿勢、物腰、動き、歩き方、声、発音、話し方、抑揚、気質、技術。要するに、感情そのものと、役として生きる体験以外の、すべてだ。

外面的な表現の道具が鍛えられている人にとっては、難しい課題ではない。

声を響かせ、舌で音や音節、言葉や文を明瞭に刻み、姿勢や動きで体の美しさを示す。それらすべてが、見る人に好まれるように気を配ればよいのだ。

その際は、自分だけでなく、脚光の向こうに座っている人々にも目を配らなければならない。

私はカフェ・コンセールの歌姫よろしく、自分を部分ごとにも全体としても差し出しながら、見せたいものが相手に届いているかと、絶えず反応をうかがっていた。

自分が商品で、君たちが買い手であるように感じていた。

これも、観客には大いに受けるとしても、俳優が舞台上で決してしてはいけないことの例だ」

続いて、三つ目の実演が始まった。

「先ほどは、役の中にいる自分を見せた」と、彼は言った。

「今度は、自分の中にある役そのものを、作者が書き、私が仕上げたとおりに見せよう。

ただし、その役を生きて体験するという意味ではない。

扱うのは体験ではなく、役の輪郭だ。台詞、外面的な表情や行動、舞台上の配置や動きなどだ。

私は役の創造者ではなく、その形を報告するだけの人になる」

アルカージー・ニコラーエヴィチは、私たちの知っている戯曲の一場面を演じた。偉そうな将軍が、たまたま家に一人残され、何をして過ごせばいいかわからずにいる場面だ。

退屈のあまり、椅子を、閲兵式の兵士のように並べ直す。

それから机の上の物を整え、何か愉快で艶っぽいことを考え、仕事の書類には恐ろしそうに横目をやる。そのうち何枚かには、読まずに署名をする。そして、あくびをし、伸びをして、また先ほどの無意味な作業を始める。

こうした演技の間じゅう、トルツォフは、身分の高い人々の気高さと、それ以外の人々の無作法についての独白を、驚くほど明瞭に語った。

役の台詞を、冷たく、外側だけで届け、舞台上の配置や動きを示し、役の外的な流れと輪郭を、形どおりに見せていた。そこに生命を与えたり、深めたりしようとはしなかった。

ある箇所では、技術的に台詞をくっきりと刻み、別の箇所では、行動を際立たせた。姿勢や動き、演技、身振りを強調したかと思うと、人物の特徴的な細部を押し出す。そして、狙った役の輪郭が届いたかどうかを確かめるため、絶えず客席を横目で見ていた。

必要な箇所では、丁寧に間を取った。

よく仕上がってはいるが、もう飽きてしまった役を、五百回目の公演で演じる俳優は、こういう演技をするのだ。自分が蓄音機か、同じフィルムを際限なく回す映写技師にでもなった気がするのだろう。

「奇妙で、悲しいことだが、よく仕上げた役の輪郭を、これくらい形どおりに見せる演技さえ、劇場でそう頻繁に見られるわけではない」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「さて、あとは、舞台上でどう、何を使って交流すべきかを見せるだけだ。役の感情に通じ、演じる人が十分に体験し、具現した、生きて脈打つ俳優自身の感情を使うのだ。

しかし、そうした演技なら、君たちは実際の舞台で、私が交流の過程を、出来不出来はあっても実行しているところを、何度も見てきたね。

そうした公演で、私は相手役だけと向き合い、演じる人物の感情に通じる、自分自身の人間としての感情を、相手に渡そうとしている。君たちも、それは知っている。

それ以外のこと、役との完全な融合を生み、新しい存在である『俳優と役の一体』をつくり出すことは、潜在意識のうちに起きるのだ。

そういう公演では、私は舞台上で、いつも自分自身であると感じている。ただし、戯曲や演出家、私自身、公演をつくるすべての人が与えた状況の中にいる、自分自身だ。

これは珍しい種類の舞台上の交流で、残念なことに、実践する人は少ないのだ。

言うまでもないが」と、トルツォフは話をまとめた。「私たちの芸術が認めるのは、最後に挙げた、自分自身で体験している感情を使って相手役と交流する方法だけだ。

それ以外は退けるか、やむを得ず我慢しているのだ。

しかし、それらも、闘うためには、すべての俳優が知っていなければならない。

では今度は、君たち自身が、舞台上で何を使い、どう交流しているかを確かめよう。

今度は君たちが演じ、私が、交流を誤った瞬間にベルを鳴らす。

対象である相手役からそれたり、自分の中の役を見せたり、役の中の自分を見せたり、あるいは、ただ役を報告したりする瞬間を、誤りとする。

そうした誤りはすべて、ベルで知らせる。

黙って認めるのは、次の三つの交流だけだ。

一、舞台上の対象と直接交流し、その相手を通して観客と間接的に交流すること。

二、自分自身との交流。

三、その場にいない、あるいは架空の対象との交流だ」

こうして、実演の審査が始まった。

シューストフと私は、悪いというより、むしろよく演じていた。それなのに、驚いたことに、ベルは何度も鳴った。

ほかの生徒もみな同じように試され、最後にゴヴォルコフとヴェリヤミノワが舞台へ呼ばれた。

彼らの演技の間、アルカージー・ニコラーエヴィチは、ほとんど鳴らしっぱなしになるだろうと、私たちは思っていた。ところが、ベルは確かに多かったものの、予想よりずっと少なかった。

これはどういうことだろう。この実験から、どんな結論を出せばよいのだろうか。

私たちが戸惑いを口にすると、トルツォフはこうまとめた。「正しく交流していると自慢する人も、実際にはしばしば間違える。一方、その人たちが厳しく批判している相手にも、正しく交流する力があるということだ。

両者の違いは、割合だ。誤った交流の瞬間が多い人もいれば、正しい瞬間のほうが多い人もいるのだ。

この実験から、次のような結論が出せる」と、授業の終わりにアルカージー・ニコラーエヴィチは言った。「完全に正しい交流も、完全に誤った交流もない。

舞台上での俳優の生活には、どちらの瞬間もたくさんあり、正しいものと誤ったものが入れ替わりに現れる。

もし交流を分析できるなら、相手役との交流が何パーセント、観客との交流が何パーセント、役の輪郭を見せるのが何パーセント、報告が何パーセント、自分を見せるのが何パーセント、と数えることになるだろう。

その割合の組み合わせによって、交流がどれくらい正しいかが決まる。

相手役や想像上の対象、自分自身との交流が占める割合の高い人ほど、理想に近づく。反対に、その瞬間が少ない人ほど、正しい交流から遠ざかる。

また、私たちが誤っていると考える対象や交流の中にも、より悪いものと、まだましなものがある。

たとえば、役を生きて体験していなくても、自分の中にある役、その心理的な輪郭を示すほうが、役の中の自分を見せたり、職人的に役を報告したりするよりは、ましだ。

組み合わせは際限なくあり、すべてを数え上げるのは困難だ。

俳優一人ひとりの課題は、こうしたばらつきを避け、いつも正しく演じることだ。

そのためには、次のようにするのがいちばんだ。一方では、舞台上で相手役を確かな対象として捉え、行動を伴う交流を身につける。もう一方では、誤った対象や交流をよく知り、舞台で創造している最中に、そうした誤りと闘うことを学ぶのだ。

交流に使う内面の材料の質にも、特に注意を払いなさい」

一九……年……月……日

「今日は、君たちが外に向けて交流するための道具や手段を確かめたいと思う。それらを十分大切にしているか、知りたいのだ」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは告げた。

「全員、舞台へ行きなさい。二人ずつ座って、何か議論を始めなさい」

「それなら、議論好きの総大将、ゴヴォルコフを相手にするのがいちばんだ」と、私は心の中で考えた。

そこで、彼の隣に座った。

一分もしないうちに、狙いどおりになった。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、私がゴヴォルコフに考えを説明する際、手や指を盛んに使っていることに気づいた。

そして、それらをナプキンで縛るよう命じた。

「どうして、そんなことをするのですか?」と、私は戸惑った。

「反対の状態から証明するためだ。私たちは持っているものを大切にせず、『失って初めて泣く』ことが多い。それを、もっとよくわかってもらうためだ。

それに、目が心の鏡なら、指先は体の目だということを、納得してもらうためでもある」と、私の手が縛られる間、トルツォフは話した。

交流に使う手と指を奪われると、私は声の抑揚を強めた。

しかし、アルカージー・ニコラーエヴィチは、熱を抑え、むやみに声を張ったり、色をつけたりせず、静かに話すよう求めた。

代わりに、目や表情、眉、首、頭、胴体の動きの助けが必要になった。

それらが力を合わせて、奪われたものを補おうとした。

ところが、腕も脚も胴体も首も、椅子に縛りつけられ、使えるのは口と耳、表情と目だけになった。

やがて顔全体にも布を巻かれ、覆い隠された。

私はうなり声を出したが、役には立たなかった。

その瞬間から、外の世界は消えてしまった。残ったのは、内なる視覚と聴覚、想像力、そして『私という人間の内面の生活』だけだった。

私は、長いことその状態のまま置かれた。

ついに、外から、まるで別の世界から届くように、声が耳に入ってきた。

「奪われた交流の器官を、一つだけ取り戻したいかね? どれか選びなさい!」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは、声を限りに叫んでいた。

私は、「わかりました。考えます!」という意味の動きで、返事をしようとした。

最も大切で必要な交流の器官を選ぼうとしたとき、私の内側では、何が起きたのだろうか。

まず、視覚と言葉という二つの候補が、一番の座を争い始めた。

一般には、前者は感情を表し、伝えるもので、後者は思考を表し、伝えるものとされる。

それなら、それぞれの仲間は何なのだろう?

この問いをきっかけに、私の中では議論や喧嘩、反乱が起こり、収拾がつかなくなった。

感情は、声を出す仕組みは自分のものだと叫んだ。大切なのは言葉そのものではなく、話す内容に対する内面の態度を表す、声の抑揚なのだから、と。

聴覚をめぐっても、争いが起きた。

感情は、聴覚こそ自分を最もよく呼び起こしてくれるものだと主張した。言葉のほうは、聴覚は自分に不可欠な付属物であり、それがなければ、語りかける相手がいなくなると言い張った。

次には、表情と手をめぐる争いが始まった。

それらは言葉を話さないのだから、言葉の仲間とは、とても言えない。

では、どちらに入れればよいのだろう?

胴体はどうだろう?

脚は……?

「くそっ!」と、すっかり混乱した私は腹を立てた。

「俳優は、体の一部を欠いたままでいいはずがない!

全部返してもらおう!

一つだって譲るものか!」

縄や布を外してもらうと、私はトルツォフに、『全部か、さもなくば何もいらない』という、自分の『反逆』の標語を告げた。

彼は私を褒め、こう言った。

「やっと、交流の一つひとつの器官の意味を理解した、俳優らしい言葉が出たね!

今日の経験を通して、それらの値打ちを、余すところなく、正当に認めなさい。

うつろな目、動かない顔、こもった声、抑揚のない話し方、背骨や首が固まった不器用な体、動きが流れない木のような腕や手、指や脚、ひどい歩き方や物腰。そんなものは、舞台から永遠に消えてしまえばいい!

ヴァイオリニストが、大切なストラディヴァリウスやアマティに注ぐのと同じだけの注意を、俳優も、自分の創造の道具に注いでほしいものだ」

アルカージー・ニコラーエヴィチは夜の公演に出るため、授業を早めに終えなければならなかった。

一九……年……月……日

「これまでは、舞台上の、外から見える身体的な交流を扱ってきた」と、今日の授業でトルツォフは話した。

「しかし、もう一つ、さらに重要な交流がある。内側で起きる、目に見えない心の交流だ。今日はそれについて話す。

難しいのは、これから話すことを、私は感じてはいても、知識としてはつかんでいないという点だ。実践の中で経験しただけで、理論的な定式も、明確に言い表す言葉も持ち合わせていない。ほのめかすように説明しながら、これから話す感覚を、君たち自身に経験してもらおうとするしかないのだ。

『あの方は私の手を強くつかみ、
それから、ご自分の腕を伸ばした分だけ私を遠ざけ、
もう片方の手を目にかざして、
まるで私の肖像でも描こうとなさるように、
私の顔をじっと見つめられました。

訳注

引用はシェイクスピア『ハムレット』第二幕。ロシア語本文の引用はA・I・クローネベルク訳による。

長いこと、そうして立っていらっしゃいました。
やがて私の手を軽く握り、
三度、頭を振られました。
そして、体がばらばらになり、
命が胸から飛び去ってしまうかと思うほど、
深く、悲しげなため息をつかれたのです。

ため息の後、私の手を離し、
肩越しにこちらを振り返りながら、
まるで目を使わずに道が見えるかのように、
出口まで歩いていかれました。
その間ずっと、あの方の目の光は、
私を照らし続けていたのです』

この言葉から、ハムレットとオフィーリアの、無言の交流が語られていると感じないかね。

日常生活や舞台上で、互いに交流しているとき、自分から意志の流れが出て、目や指先、体の毛穴を通して流れ出すように感じたことはないかね。

この目に見えない、相互の交流の道筋と手段を、何と呼べばよいのだろう。

光線の発射と受容だろうか。

放射と受け入れだろうか。

ほかに用語がないので、ひとまず、これらの言葉を使おう。これから話そうとする交流の過程を、具体的に思い描かせてくれる言葉でもある。

今、私たちが関心を向けている、目に見えない流れが、科学で研究される日は近いだろう。そのときには、もっと適切な用語が生まれるはずだ。

それまでは、私たち俳優の間で使われてきた呼び名を、そのまま使うことにしよう。

では、自分自身の感覚を手がかりに、この目に見えない交流の道筋を調べてみよう。自分の中で、それを探し、気づくようにするのだ。

心が穏やかなときには、いわゆる光線の発射や受容は、ほとんど感じ取れない。

しかし、強い体験や恍惚、感情の高まりの中では、その放射と受け入れは、送り出す側にも、受け取る側にも、いっそうはっきり感じられるようになる。

君たちの中にも、試演会でうまくいった瞬間に、それを感じ取った人がいるかもしれない。たとえば、マロレトコワ、君が初めて舞台へ飛び出し、『助けて!』と叫んだとき。あるいは、ナズヴァーノフ、君が『血だ、イアーゴー、血だ!』という独白を演じたときだ。また、『狂人』のエチュードでも感じたかもしれない。日常生活なら、こうした内側の流れを、私たちはしょっちゅう感じている。

つい昨日も、親戚の家で、若い婚約者同士のやり取りを見た。

二人は喧嘩をして、口をきかず、離れて座っていた。

女性は、相手に気づかないふりをしていた。

しかしそれは、いっそう相手の注意を引くためのふりだった。

人は、交流するために、あえて交流しないという方法を使うこともあるのだ。

一方、男性のほうは、悪いことをした兎のような目で、じっと動かず、すがるように彼女を見つめていた。その視線は、彼女を貫くほどだった。

遠くから彼女の目を捉え、その目を通して、心の中にどんな思いが育ちつつあるのかを感じ、理解しようとしていたのだ。

彼は、彼女に狙いを定めていた。

視覚によって、彼女の生きた心に触れていた。

目から伸びる見えない触角で、彼女の内側へ入っていこうとしていたのだ。

しかし、怒った彼女は交流を避けていた。

ついに彼は、ほんの一秒、きらりと返ってきた彼女の視線を捉えた。

ところが、気の毒な青年は喜ぶどころか、ますます暗い顔になった。

それから、偶然を装うように、彼女の目をまっすぐ見やすい別の場所へ移った。

手を取り、触れることで自分の気持ちを伝えられれば、そうしたかっただろう。しかし、それもできなかった。彼女は、彼との交流を、頑として拒んでいたのだ。

言葉はなかった。声を上げることも、叫ぶことも、表情の変化も、動きや行動もなかった。

その代わりに、目があり、視線があったのだ。

これが、純粋な形での、直接の交流だ。心から心へ、目から目へ。あるいは指先や体から、目に見える身体的行動を伴わずに交わされる交流だ。

この見えない過程の性質は、科学者に説明してもらおう。私に話せるのは、自分の中でそれをどう感じ、その感覚を芸術のためにどう使っているかだけだ」

残念なことに、アルカージー・ニコラーエヴィチが急用で劇場へ呼ばれ、授業はまた中断された。

一九……年……月……日

「交流しているとき、自分の中で、光線を送り出し、受け取る目に見えない流れを探してみよう。自分で経験することで、それを知るためだ」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは提案した。

私たちは二人ずつ座らされ、私はまたゴヴォルコフと組むことになった。

私たちは、いきなり全速力で、外面的、身体的、機械的に、受け入れたり放射したりし始めた。何の意味も、きっかけもなかった。

トルツォフは、すぐに私たちを止めた。

「もう無理やりやっているね。光線を送り出し、受け取るという、繊細で扱いの難しい過程では、それを何より避けなければならない。

筋肉が緊張していては、受け入れることも放射することもできない。

ほら、ドィムコワとウムノヴィフも、互いの目に入り込もうとして、顔を近づけている。見えない流れを交わすというより、接吻でもするようだ。

まず、どこに現れたものでも、余計な緊張をすべて取り除くことから始めなさい。

後ろにもたれて!」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは指示した。

「もっと、もっと! ずっと、ずっと後ろへ!

できるだけ楽に、自由に座りなさい!

まだ足りない! ぜんぜん足りない!

本当に休めるように。

では、互いを見てごらん。

それが、見るということかね?

緊張で、目が眼窩から飛び出しそうだよ。

もっと、もっと力を抜いて!

瞳にも力を入れない!

君は何を受け入れているのかね?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチはゴヴォルコフに尋ねた。

「私はですね、さっきの芸術についての議論を続けたいのです」

「考えや言葉を、目から放射しようとしていないかね? それはできないよ」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「考えは、声と言葉で伝えなさい。目には、言葉で伝わらないものを補ってもらうのだ。

議論しているうちに、交流のたびに生まれている、光線を送り出し、受け取る過程を感じられるかもしれない」

私たちは議論を再開した。

「今、沈黙の間に、君から光線が出たように感じた」

トルツォフは私を指した。

「そして、ゴヴォルコフ、君には、それを受け取る準備が感じられた。

あの、何かを待つような沈黙の間に、何があったのか思い出しなさい」

「不発に終わったんです!」と、私は説明した。

「自分の考えを証明するために挙げた例では、相手を納得させられませんでした。それで、新しい例を用意して、狙いを定めていたんです」

「ヴュンツォフ、君はどうかね?」と、トルツォフは急に彼のところへ歩み寄った。「今のマロレトコワの視線を感じたかね?

あれは、本物の放射だった」

「感じたなんてもんじゃありません! こう、すごいんですよ!

もう丸一週間、あんな『放射』を浴びていて、まったく、たまったものじゃありません!

本当ですよ!」と、ヴュンツォフはこぼした。

「今、君は聴くだけでなく、話しかけている相手の心の中で動いているものを、自分の中へ取り込もうとしているね」と、トルツォフは私に言った。

「言葉で意識的に議論し、頭で考えを交換するほかに、それと同時に、もう一つの過程が起きていると感じるかね。互いに心を探り、目から流れを吸い込み、目から送り出す過程だ。

この、受け入れと放射による目に見えない交流は、水面下の流れのように、言葉の下でも、沈黙の中でも、絶えず動いている。それが、相手との間に見えない結びつきをつくり、内面のつながりを生むのだ。

前の授業で話したね。目を向け、見ていても、何も受け取らず、何も与えていないことがある。

しかし、目を向け、見ながら、交流の光線や流れを受け取り、送り出すこともできるのだ。

では、君から光線を引き出す、別の試みをしてみよう。

私と交流してもらう」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは、ゴヴォルコフの席に座った。

「楽に座りなさい。緊張せず、急がず、無理をしないことだ。

誰かに何かを伝える前に、まず、自分が渡したいものを、自分の中に持たなければならない。

自分が持っていないものは、渡せない。

内面の交流に使う材料を、何か用意しなさい」と、彼は私たちに求めた。

「学んできたことも、その心理技法も、少し前には、ずいぶん複雑に思えただろう。今では、楽々とやっているね。

光線を送り出し、受け取ることも、同じようになるよ」と、私たちが準備する間、アルカージー・ニコラーエヴィチは話した。

「言葉を使わず、目だけで、私に感情を伝えなさい」と、彼は私に指示した。

「目だけでは、感じていることの細かな違いまでは、全部伝えられません」

「仕方ない。細かい違いは、伝わらなくてもかまわない」

「では、何が残るのですか?」と、私は戸惑った。

「親しみや、尊敬の気持ちだ。

それらは、黙っていても伝えられる。

けれども、その人が賢く、有能で、よく働き、気高いから好きなのだと、言葉なしで理解してもらうことはできない」

「私は何を伝えようとしているのでしょう?」と、私はアルカージー・ニコラーエヴィチをじっと見つめた。

「わからないし、知りたいとも思わない」と、トルツォフは答えた。

「どうしてですか?」と、私は驚いた。

「君が目をむいているだけだからだ」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「君の体験している感情の大まかな調子を、私が感じ取るには、君自身が、その感情の内実を生きていなければならない」

「では、今は?

何を使って交流しているか、わかりましたか?

感じていることを、これ以上はっきり伝えることはできません」と、私は言った。

「君は何かの理由で私を軽蔑しているね。ただし、何が理由なのかは、言葉がなければわからない。

でも、問題はそこではない。

大切なのは、自分から意志の流れが出ていく感覚を、君が感じたかどうかだ」と、トルツォフは尋ねた。

「目のあたりでは、感じたかもしれません」と、私は答え、感じたように思った感覚を、もう一度確かめ始めた。

「違う。今の君は、自分の中から流れを押し出すことしか考えていなかった。

筋肉に力を入れていたよ。

顎と首を突き出し、目をむいていた……。

私が求めているものは、もっと簡単に、楽に、自然に伝わるものだ。

自分の願いの光線で相手を『包み込む』のに、筋肉の働きは要らない。

自分から流れが出ていく身体的な感覚は、かすかに感じられる程度だ。それなのに、今の君の緊張ぶりでは、心臓が破裂しかねない」

「では、僕は先生の話を理解していなかったんですね!」と、私はいらだち始めた。

「休みなさい。その間に、私たちが探している感覚を思い出させてみよう。日常生活では、君もよく知っている感覚なのだ。

ある女子生徒は、それを『花から漂う香り』にたとえた。別の生徒は、『輝きを放つダイヤモンドも、光線を送り出す同じ感覚を味わっているはずだ』と言った。

香りを放つ花や、光を放つダイヤモンドの感覚を、想像できるかね。

私自身は」と、トルツォフは続けた。「暗闇の中で、明るい光線をスクリーンへ流す幻灯機を見たとき、自分から意志の流れが出ていく感覚を思い出した。また、熱い空気を噴き上げる火山の火口の縁に立ったときにもだ。

そのとき、大地の奥から噴き出す強烈な内部の熱を感じ、強く交流するときに自分から流れ出す、心の流れの感覚を思い出したのだ。

こうしたたとえから、探している感覚を思いつかないかね?」

「いいえ。そういう例を聞いても、僕の感覚には何も響きません」と、私は頑固に答えた。

「それなら、別の方向から近づいてみよう」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは、驚くほど辛抱強く言った。

「聴きなさい。

演奏会で音楽に心を動かされないとき、私は退屈しのぎを考える。

たとえば、観客の中から誰か一人を選び、視線で催眠術をかけようとしてみるのだ。

美しい女性なら、うっとりする気持ちを伝えようとする。気に入らない顔なら、嫌悪を伝える。

その間、私は選んだ相手と交流し、自分から流れ出すものの光線を浴びせているのだ。

こうしたことは、君にも覚えがあるかもしれない。そのとき、私が味わっているのが、まさに今探している身体的な感覚だ」

「人に催眠術をかけるときにも、同じ感覚があるのですか?」と、シューストフが尋ねた。

「もちろん! 催眠術をやるのなら、探している感覚を、よく知っているはずだ!」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは喜んだ。

「それなら、ごく普通の、よく知っている感覚じゃないですか!」と、私も嬉しくなった。

「私が、特別な感覚だと言ったかね?」と、トルツォフは驚いた。

「でも、僕は自分の中に、特別なものを探していたんです」

「いつもそうなのだ」と、トルツォフは言った。「創造の話になると、誰もがすぐに力み、大げさに構えてしまう。

さあ、早く、さっきの実験をもう一度やってみなさい!」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは促した。

「僕は何を放射していますか?」と、私は尋ねた。

「また軽蔑だね」

「では、今は?」

「今は、私に優しくしてあげたいと思っている」

「今度は?」

「今のも優しい気持ちだったが、皮肉が混じっていた」

「ほとんど当たりです!」と、私は、彼が言い当ててくれたことを喜んだ。

「私たちが話している、自分から流れが出ていく感覚が、わかったかね?」

「わかったような気がします」と、私はためらいがちに答えた。

「この過程を、私たちの言葉では『光線の発射』と呼ぶのだ。

この呼び名は、感覚を実にうまく言い表している。

本当に、内側の感情や願いが光線を放ち、それが目や体を通り抜け、流れとなって相手を包み込むようなのだ」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは、いきいきと説明した。

「『光線の受容』は、その逆の過程だ。相手の感情や感覚を、自分の中へ取り込むことだ。

この呼び名も、今話している過程そのものを表している。

試してごらん」

ここで、私とアルカージー・ニコラーエヴィチは役目を交代した。彼が感情を放射し、私は、それをかなりうまく言い当てた。

実験が終わると、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。「光線を受け取る感覚を、言葉で表してごらん」

「先生がお話しになった女子生徒のように、たとえで表してみます」と、私は言った。「鉄を引き寄せる磁石は、光線を受け取るのと、同じ感覚を味わっているのではないでしょうか」

「わかる」と、トルツォフは認めた。

フェンシングの授業が待っていたので、この興味深い授業は、切り上げなければならなかった。

一九……年……月……日

アルカージー・ニコラーエヴィチは、中断した説明を再開した。

「言葉を使う交流でも、使わない交流でも、俳優同士の間に生まれる内面的な結びつきを、感じ取れたと思う」と、彼は言った。

「感じ取れたように思います」と、私は答えた。

「あれが、内面のつながりだ。

それは、偶然に生まれた、一つひとつの瞬間からできていた。

しかし、論理と順序に従って結びついた、長い一連の体験や感情を使えば、このつながりは強まり、育っていく。そしてついには、私たちが『つかんで離さない力』と呼ぶほどの、強い交流にまで育つことがある。そのとき、光線を送り出し、受け取る過程は、いっそう強く、鋭く、はっきり感じられるようになる」

「つかんで離さない力、ですか?」と、生徒たちは興味を示した。

「犬、たとえばブルドッグが、歯でくわえて離さない、あの力と同じだ」と、トルツォフは説明した。

「私たちも舞台上では、目に、耳に、五感のすべてに、その力を持たなければならない。

聴くなら、本当に耳を傾け、聞き取ること。

嗅ぐなら、本当に嗅ぐこと。

見るなら、本当に目を向け、見ることだ。対象を捉えずに、視線を表面に滑らせ、なめるだけで済ませてはいけない。

いわば、歯を立てるように対象をつかまなければならないのだ。

もちろん、だからといって、余計な力を入れるという意味ではない」

「僕の『オセロー』にも、そういう瞬間が一つでもありましたか?」と、私は自分の感覚を確かめた。

「一、二度はあった。

しかし、それでは少なすぎる。

オセローの役は、最初から最後まで、つかんで離さない力に貫かれているのだ。

それどころか、ほかの戯曲なら、つかんで離さない力で足りても、シェイクスピアの悲劇では、食らいついて絶対に離さない力が必要だ。

それは君にはなかった。

日常生活では、ずっとつかみ続ける必要はない。しかし舞台上では、とりわけ悲劇では、それが必要なのだ。

実際、日々の生活は、どんなふうに流れているだろう?

大部分は、毎日の小さな用事で過ぎていく。

起きて、寝て、さまざまな務めを果たす。

そうしたことは、対象をつかんで離さない力を必要とせず、機械的に行われる。

しかし、そんな瞬間は、舞台には向かない。

生活には、別の部分もある。日常の中へ、恐怖や、この上ない喜び、情熱の高まり、その他の重大な体験が、一瞬、あるいは長い期間にわたって入り込んでくることがある。

そこから、自由のため、思想のため、生存のため、権利のための闘いが生まれる。

私たちが舞台で必要とするのは、そうした瞬間だ。

そして、それらを具現するには、内側でも外側でも、つかんで離さない力が必要なのだ。

つまり、現実の生活から、その力を必要としない九十五パーセントを除き、必要とする五パーセントだけを、舞台へ持ち込む値打ちがあるのだ。

だから、日常生活は、それなしでも送れるが、舞台上では、ほとんど絶えず、高められた創造のあらゆる瞬間に、それが必要になる。

ただし、つかんで離さない力とは、決して過度の身体的な緊張ではない。強く積極的な内面の行動だということを、ここでも忘れないように。

また、人前で働く俳優の条件は非常に厳しく、絶えず力強く闘わなければならないことも、忘れてはいけない。

現実の生活には、舞台の開口部の黒い穴も、千人の観客も、明るく照らす脚光もない。成功しなければならない、何としても見る人に好かれなければならないという必要もない。

こうした条件はすべて、普通の人間にとっては、不自然なものだ。

それに打ち勝つか、気にならなくする力が必要だ。舞台の中に生まれる、興味深い創造上の課題に集中して、そうした条件から注意をそらすのだ。

その課題が、人間全体の注意と創造力を引きつけるようにする。つまり、つかんで離さない力を生むようにするのだ。

この力を考えると、ある話を思い出す。猿の調教師が、必要な動物を探しにアフリカへ行った。

そこには、選ぶために、何百匹もの猿が集められていた。

その中から、調教に最も向いた生きた素材を見つけるために、彼は何をしただろう?

一匹ずつ相手にし、何かの物に興味を持たせようとした。目の前で鮮やかな布を振ったり、光や音で猿を楽しませる小物を使ったりしたのだ。

猿がその物に興味を持つと、今度は、煙草や木の実など、別の物で気をそらそうとした。

それに成功し、色鮮やかな布から別の物へ、簡単に注意が移る猿は、不合格にした。逆に、新しい物へ一時的に気がそれても、しつこく元の布へ注意を戻し、布を探したり、ポケットから取り出そうとしたりする猿を見ると、買うことに決めた。その猿には、対象とつながり、つかんで離さない力がある、というのが理由だった。

私たちも同じように、この力の強さと持続時間によって、生徒の舞台上の注意や交流を判断する。

だから、その力を育てなさい」

少しして、アルカージー・ニコラーエヴィチは説明を続けた。

「科学的かどうかは、まったく保証できないが、ある本で、殺された人の目に、殺人者の顔が焼きついていることがあると読んだことがある。

もしそうなら、受け入れるという働きが、どれほど強いか、考えてみなさい。

創造が高まった瞬間、舞台と客席が交わす、受け入れと放射の過程を、何かの装置で見ることができたら、私たちは驚くだろう。俳優が客席へ送り、平土間に座る千もの生きた体から受け取る、その流れの圧力に、私たちの神経がどう耐えているのかと!

私たちのボリショイ劇場のような巨大な場所を、自分の放射で満たすだけの力が、どうしてあるのだろう!

不思議でならない!

俳優というのは、気の毒なものだ!

客席を捉えるためには、自分自身の感情や意志の、見えない流れで、その空間を満たさなければならないのだ……。

広い場所で演じるのが難しいのは、なぜだろう?

声を張り、動きを強めなければならないからでは、決してない。

違う!

そんなことは、たいした問題ではない。

舞台の発声や話し方を身につけた人には、怖いことではないのだ。

難しいのは、放射なのだ」

今日、学校から帰る途中、出会った人々は、私のことをおかしな人だと思ったに違いない。

というのも、私は歩いている間じゅう、受け入れと放射の練習をしていたのだ。

道で出会う生身の人間を相手に実験する勇気はなかったので、命のない物だけを相手にした。

主な対象になったのは、大きな毛皮店のショーウィンドウに飾られた、さまざまな動物の剥製だった。

そこは小さな動物園のようだった。盆を持った大きな熊、狐、狼、リスがいた。

私は彼らすべてと、親密な知り合いになった。毛皮を通り抜け、想像上の心へ入り込み、そこから何かを吸い出して、自分の中へ取り込もうとした。

剥製から中身のないものを引き出そうとするあまり、首も頭も胴体も後ろへ反らせ、後ろで見物している人たちを、少し押しのけるほどだった。けれど、そこで、アルカージー・ニコラーエヴィチが、頑張りすぎないよう勧めていたことを思い出した。

次に、猛獣使いのように動物たちへ催眠術をかけ、自分に言った。もし、この熊が後ろ脚で立って向かってきたら、目や口を通して自分の意志を送り込み、止めることができるだろうか。

自分から放射するとき、対象に向かって身を乗り出しすぎて、大きな窓の汚れたガラスに鼻をぶつけた。

相手へたくさん与えようとしすぎたため、船酔いが始まるときのような感覚になった。

そんなときのように、目も飛び出しそうになった。

「駄目だ!」と、私は自分を批判した。「こんな苦しい作業は、受け入れや放射というより、吐き出したり、無理に飲み込んだりすることだ」

「もっと楽に、もっと楽に! トルツォフの言うとおりだ。何のために、こんなに力むんだ!」

しかし、受け入れや放射を弱めると、自分から何かが出ていったり、逆に中へ入ってきたりする身体的な感覚は、すっかり消えてしまった。

私は、ほどなく実験をやめざるを得なくなった。見物人が集まってきたのだ。

店の中では、店員や客らしい五人ほどが、私を見て笑っていた。

私の実験に気づき、おかしいと思ったのだろう。

それでも私は、別の店で同じ実験を繰り返した。

今度の相手は、トルストイの胸像だった。

ゴーゴリの記念像の前では、腰を下ろし、つかんで離さない力も試してみた。

青銅の像を目でつかみ、視線で自分のほうへ引き寄せて、椅子から立ち上がらせたいと思った。

しかし、目を力いっぱい見開いていたため、すぐに痛くなった。

そのうえ、いちばん肝心なところで、通りかかった知人と目が合ってしまった。

「具合が悪いのですか?」と、彼は心配そうに尋ねた。

「ええ、ひどい偏頭痛で」と、私は言った。髪の生え際まで真っ赤になり、どう切り抜ければよいかわからなかった。

「こんな緊張は、絶対に起こしてはいけない!」と、私は心に決めた。

一九……年……月……日

今日の授業で、アルカージー・ニコラーエヴィチは話した。

「光線を送り出し、受け取る過程が、舞台上の交流でこれほど重要なら、一つの問いが生まれる。これを技術として身につけることはできないのだろうか。

自分の意志で、呼び起こせないだろうか。

この領域にも、目に見えない光線の発射と受容を呼び起こし、それを通して体験そのものを強める、何かの方法、鳥寄せ笛はないだろうか。

内側から外側へ進めないなら、外側から内側へ進む。

ここでも、体と心の有機的な結びつきを利用するのだ。

その結びつきの力は非常に強く、ほとんど死んだ人さえ生き返らせる。

実際、脈も生命の兆候もない溺れた人を、科学で定められた姿勢にし、強制的に動かして、呼吸器に機械的に空気を吸わせ、吐かせる。

それで血液の循環が起こり、続いて体の各部分が、いつものように働き始める。

そして、体との切り離せない結びつきによって、ほとんど死にかけていた溺者の『人間の内面の生活』も、よみがえるのだ。

舞台上で光線の発射や受容を人工的に呼び起こす際にも、同じ原理を使う。内面の交流が自然に生まれないなら、外側から近づくのだ」と、トルツォフは説明を続けた。

「この外側からの助けが、鳥寄せ笛になる。まず受け入れと放射を呼び起こし、続いて体験そのものを呼び起こすのだ。

幸い、すぐにわかるとおり、この新しい鳥寄せ笛は、技術として鍛えることができる。

では、その使い方を見せよう」

まず、アルカージー・ニコラーエヴィチは私の向かいに座り、課題と、それを正当化する想像上の設定を考え、そこから得たすべてを使って交流するよう求めた。

そのために、言葉も、表情も、身振りも、交流に役立つものは何でも使ってよいと言われた。

同時に、受け入れと放射の流れが出入りする、身体的な感覚に耳を澄ませるよう求められた。

準備には長い時間がかかった。トルツォフが求めているものを、私がなかなか捉えられなかったからだ。

それを捉えられると、交流はうまくいくようになった。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、言葉と行動を使って強く交流しながら、身体的な感覚に注意を向けるよう求めた。

その後、言葉と行動を取り上げ、放射だけで交流を続けるよう指示した。

しかし、身体的な放射と受け入れを、それだけで、独立して行えるようになるまでには、やはり、かなり手こずった。

それもうまくいくようになると、アルカージー・ニコラーエヴィチは、どんな感じだったかと尋ねた。

「水のない貯水槽から、空気ばかり吸い上げるポンプになった感じです」と、私は冗談めかして答えた。

「自分から流れが出ていく感覚はありました。主に瞳から、それから、たぶん、先生に向いている体の部分からもです」と、私は説明した。

「では、できるかぎり長く、身体的、機械的に、私へ放射し続けなさい」と、彼は指示した。

しかし、長くは続かず、私はほどなく、自分で『意味のない作業』と呼んだその行為をやめた。

「それに意味を与えたくはならなかったかね?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは尋ねた。

「内側の感情が、助けに来たがらなかったかね?

感情記憶が、生まれた身体的な放射の流れを利用しようとして、何かの体験を、ふと差し出してはこなかったかね?」と、トルツォフは問い詰めた。

「どうしても機械的な身体の放射を続けろと言われたら、その行動に意味を与える何かの助けなしには、難しいと思います。

つまり、自分から放射したり、自分の中へ取り込んだりする材料が必要になります。

でも、どこから持ってくればいいのですか?」と、私は戸惑った。

「たとえば、今感じていることを私に伝えればよいのだ。戸惑いや、どうにもできない気持ちだ。あるいは、別の感情を自分の中に探してもいいだろう」と、トルツォフは助言した。

私はそのとおりにした。

意味のない身体的な放射を続けるのが耐えられなくなると、トルツォフに、自分の不満やいらだちを伝えようとした。

「もう放っておいてくれ! どうしてそんなにしつこくするんだ! なぜ僕を苦しめるんだ!」と、私の目が語っているようだった。

「どんな感じだったかね?」と、トルツォフはまた尋ねた。

「今度は、水の入った桶をあてがわれたポンプです。空気の代わりに、吐き出すものができました」と、私はまた冗談を言った。

「つまり、意味のなかった身体的な放射が、意味と目的を持つようになったのだね」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

同じ練習を繰り返した後、今度は光線を受け取ることでも、同じように試した。

これは、同じ過程を反対向きに行うものだ。

だから、ここでは説明を繰り返さず、私の試みの中で新しく生まれた一点だけを書いておく。

受け入れる前に、私は、目から伸びる見えない触角でトルツォフの心を探り、そこから自分の中に取り込めるものを見つける必要があった。

そのためには、よく見つめ、いわば、彼がそのとき体験している状態を、自分でも感じ取ろうとしなければならなかった。そして、彼とのつながりをつくろうとした。

「わかるだろう。日常のように、ひとりでに、直感的に生まれないとき、舞台上で光線の発射と受容を技術によって呼び起こすのは、それほど簡単ではない」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「ただ、安心してよいことがある。舞台で役を演じているときには、この過程は、練習や授業のときより、ずっと容易に進むのだ。

理由はこうだ。今は、受け入れや放射を支えるために、その場しのぎの感情を急いで探す必要があった。しかし舞台では、同じ過程が、もっと楽に、簡単に進む。

本番を迎えるころには、与えられた状況がすべて明らかになり、課題も見つかっている。感情は役のために熟し、表に現れ、外へあふれ出す機会を待つばかりなのだ。

ほんの小さなきっかけを与えれば、役のために準備された感情は、自ら、途切れない流れとなって出てくる。

グッタペルカ製の管で水槽の水を抜くとき、最初に一度だけ空気を吸い込めば、あとは水が自然に流れ出すね。

放射の過程でも同じだ。きっかけを与え、光線の出口を開けば、感情は内側から、ひとりでに流れ出すのだ」

「光線を送り出したり受け取ったりする力は、どんな練習で身につくのですか?」と、生徒たちは尋ねた。

「今やった、二つの練習だ。

最初の練習は、鳥寄せ笛を使って、自分の中に何かの感情を呼び起こし、それを相手へ伝えることだ。

その際、自分の身体的な感覚に注意を向けなさい。

同じように、光線を受け取る感覚にも慣れていきなさい。人と交流するときに、自然に呼び起こし、それに気づくようにするのだ。

二つ目の練習では、感情を体験することなしに、光線を送り出す、あるいは受け取る身体的な感覚だけを、呼び起こそうとしてみなさい。

この練習には、十分な注意が必要だ。

そうしないと、ただの筋肉の緊張を、受け入れや放射の感覚と取り違えてしまう。

身体の過程がうまく働くようになったら、その流れで送り出す、あるいは受け取るための感情を、内側から差し入れなさい。

ただし、繰り返すが、無理強いや、身体を力ませることを避けなさい。

放射と受け入れは、必ず、楽に、自由に、自然に、身体的な力を費やさずに行うのだ。

付け加えるなら、この新しい方法は、対象に注意を向け、それを強める助けにもなる。確かな対象がなければ、光線を送り出すことはできないからだ。

ただ、一人で、自分自身や想像上の人物を相手に、この練習をしてはいけない。

現実に存在し、実際にそばにいて、君たちの感情を本当に受け取りたいと思っている、生きた相手だけと交流しなさい。

交流には、互いに応じ合うことが必要だ。

また、イヴァン・プラトーノヴィチなしで、自分たちだけで練習しないことだ。

ただの筋肉の力みを、受け入れや放射の感覚と取り違え、やり方を歪めてしまわないように、経験のある人の目が必要なのだ。

これは、どんな歪んだ癖もそうであるように、危険だ」

「なんて難しいんだろう!」と、私は叫んだ。

「私たちの本性にとって、普通で自然なことをするのが、難しいのかね?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは驚いた。

「それは思い違いだ。

自然なことは、楽にできるものだ。

自分の本性を歪める癖をつけるほうが、よほど難しいのだ。

だから、その法則を知り、本性にとって自然なことを求めなさい。

予言しておこう。やがて、相手役と舞台に立ったら、内面の交流の流れでつながらずにはいられなくなる。今は難しいと思える、内面のつながりや、つかんで離さない力が、欠かせなくなるのだ……。

筋肉を緩めることも、注意も、与えられた状況も、最初は難しく思えただろう。それが今では、なくてはならないものになっている。

だから、自分の技術に、交流を呼び起こす、新しくて非常に重要な鳥寄せ笛が加わったことを喜びなさい。それが、光線の発射と受容なのだ」

第11章 適応と、俳優のその他の要素・資質・能力・才能

一九……年……月……日

教室に入ってきたアルカージー・ニコラーエヴィチは、ラフマーノフの掛けた「適応」という掲示を読み、新しい段階に進んだ私たちを祝福した。そしてヴュンツォフを呼び、次の課題を与えた。

「君は町の知人のところへ出かけたい。そこで、とても楽しく過ごせると思っている。

列車は二時に出るが、もう一時だ。

どうすれば、授業が終わる前に学校を抜け出せるだろう?

難しいのは、私だけでなく、仲間全員もだまさなければならないことだ。

どうするかね?」

「悲しそうに、考え込んで、打ちひしがれて、病気みたいにしてみたら」と、私は助言した。

「みんなに『どうしたの?』と聞かせるんだ。とんでもない話を作ってもいい。ただし、全員に信じさせるように。

そうすれば、病人を帰さないわけにはいかなくなるよ」

「おお! それならわかる! よくわかるぞ!」と、ヴュンツォフは急に元気になり、喜びのあまり、筆では描ききれないほどの、跳び上がって脚を打ち合わせるアントルシャを始めた。

ところが……三つか四つ動きを繰り出した後、足を踏み外し、痛みで叫び声を上げた。片脚を上げたまま、顔を歪めて、その場に固まってしまった。

最初、私たちは、だまそうとしているのだと思った。それが彼の演技なのだろう、と。

しかし、本当に苦しんでいたので、私は信じ、気の毒に思って助けようと立ち上がった。けれど……また疑った。

ほかの者たちは、舞台へ駆け寄った。

ヴュンツォフは脚に触れさせず、足をついてみようとして、ひどく痛そうに叫んだ。その叫びに、私とアルカージー・ニコラーエヴィチは顔を見合わせた。舞台上で起きていることは本当なのか、それとも芝居なのかと、目で互いに尋ねたのだ。

皆は細心の注意を払いながら、ヴュンツォフを出口へ連れていった。

両側から腕を支えられ、彼は無事な片脚だけで歩いていた。

一行は、ゆっくり、厳かに、黙って進んでいった。

ところが突然、ヴュンツォフはカマリンスカヤを踊り出し、高らかに笑い始めた。

「どうだ!……見事に体験したぞ! 見事だ!……天才的だ! 本物そっくり! 絶対に見分けられないだろ!」と、彼は笑い転げながら、途切れ途切れに叫んだ。

ヴュンツォフには、ご褒美に喝采が贈られた。私はまた、彼の才能を感じた。

「なぜ彼に拍手したのか、わかるかね?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは尋ね、すぐ自分で答えた。「うまい適応の方法を見つけ、見事に実行したからだ。

これから『適応』という言葉で、人が交流するとき、互いに合わせ、相手への働きかけを助けるために使う、内面的、外面的な工夫を呼ぶことにする」

「『合わせる』とは、どういうことですか?」と、生徒たちは聞き返した。

「今、ヴュンツォフがやったことだ。授業を早く抜け出すために、工夫を使って状況に合わせたのだ」と、トルツォフは説明した。

「ただ、僕たちをだましただけじゃありませんか!」と、誰かが反論した。

「では、あの芝居がなかったら、君たちは彼を信じたかね?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは尋ねた。

「目的を果たし、学校から抜け出すためには、一計が必要だったのだ。

ヴュンツォフがその策を取り、人をだますことにしたのは、抜け出す邪魔をする条件、与えられた状況に合わせたからだ」

「つまり、適応とは、人をだますことなのですか?」と、ゴヴォルコフは追及した。

「場合によっては、だますことだ。別の場合には、内面の感情や考えを、目に見える形で示すことだ。交流したい相手の注意を引き、好意を持ってもらう助けになることもある。また、目には見えず、感じることしかできず、言葉では言い尽くせないものを相手へ伝えることもある。

このように、適応の可能性や働きは、多種多様なのだ。

たとえば、ナズヴァーノフ、君が重要な地位にあり、私が頼み事をしに来たとしよう。

私には、どうしても君の助けが必要だ。

しかし、君は私をまったく知らない。

だから、目的を果たすには、ほかにも大勢いる頼み人の中から、何らかの形で目に留まらなければならない。

どうすれば、君の注意を引きつけ、捉えられるだろう?

やっと生まれた結びつきと交流を、どうすれば強められるだろう?

私にとって好ましく、有利になるように、君へ影響を与えるには?

君の頭や感情、注意や想像力に、何を使って働きかければよいだろう?

力のある人の心を、どうすれば動かせるだろうか。

その人が、私の惨めな生活の様子を心の目で見て、恐ろしい現実に少しでも近い情景を想像できれば、私に関心を持ち、交流のために心を開いてくれるだろう。

そうすれば、私は救われる!

しかし、他人の心の中へ入り、その生活を感じ取るのを助けるには、適応が必要だ。

私たちはそれを使い、自分の内面の感情や全体の状態を、できるだけ鮮明に表そうとする。

けれども、別の場合には、同じ適応によって、自分の感情も全体の状態も、隠し、覆い隠す。

自尊心が強く、誇り高い人は、傷ついたことを隠そうとして、愛想よく振る舞う。

取り調べをする捜査官は、適応の工夫で、尋問中の犯人に対する本当の態度を巧みに隠す。

適応は、あらゆる交流で重要な方法の一つだ。自分自身との交流でも同じだ。自分を納得させるには、自分自身や、その心の状態に合わせる必要があるからだ。

課題や、伝えようとする感情が複雑になるほど、適応そのものも多彩で繊細になり、その働きや種類も多様でなければならない」

「失礼ですが」と、ゴヴォルコフは反論した。「そういうことのために、言葉があるのではありませんか」

「言葉だけで、感情の細かな違いを、すべて言い尽くせると思うかね?

いや、交流には、言葉だけでは足りない。言葉はあまりに形式的で、生命に乏しいものだ。

それに生命を与えるには感情が必要で、その感情を開き、交流の相手へ伝えるには、適応が必要だ。

適応は言葉を補い、言い残されたことを伝えるのだ」

「では、適応が多いほど、交流は強く、十分なものになるのですか?」と、誰かが尋ねた。

「問題は数ではなく、質だ」

「舞台では、どんな質が必要なのですか?」と、私は確かめようとした。

「さまざまだ。

俳優には、それぞれ独自の、その人だけの適応がある。その生まれ方も、優れている点も、実に多様だ。

日常生活でも、同じだろう。

男性も女性も、老人も子どもも、尊大な人も控えめな人も、怒りっぽい人も優しい人も、短気な人も穏やかな人も、それぞれ独特の適応の仕方を持っている。

生活の条件、周囲の様子、行動する場所や時間が変われば、それに応じて適応も変わる。みんなが寝ている夜には、明るい昼間、人のいるところとは違うやり方になるね。

外国へ行けば、その土地の条件に合う適応を探す。

体験している一つひとつの感情を伝えるにも、それぞれ、言葉では捉えにくい、微妙に独特な適応が必要だ。

相互の交流、集団との交流、想像上の相手や、その場にいない相手との交流など、どの種類の交流にも、それに応じた適応の特徴が必要だ。

人は、五感の器官と、目に見える交流の道筋、見えない道筋を使って交流する。目、表情、声、腕や手、指、体の動き、そして光線の発射と受容によってだ。

そのつど、それに合った適応が必要になる。

ある俳優は、劇的な体験では見事な適応ができても、喜劇では、まったくできない。逆に、喜劇では優れていても、ドラマでは下手な人もいる。

人間の感情のどの領域でも、見事に体験し、非常によく、正しく適応できる俳優も、少なくない。

しかし、そうした俳優の中には、演出家や見る人が近くに座る、親密な稽古の場でこそ、強い印象を与える人がよくいる。

もっと鮮明な表現を求められる舞台へ移ると、同じ適応が弱く見え、脚光を越えて客席へ届かなくなる。届いても、十分に鮮明で、舞台にふさわしい形では届かないのだ。

また、鮮やかな適応を持っていても、その種類が少ない俳優もいる。

単調なため、すぐに力や鋭さを失い、効き目が鈍ってしまう。

一方、運に恵まれず、適応は正しくても、乏しく、単調で、鮮明さに欠ける俳優も、少なくない。

こうした人々が、演劇の第一線に立つことはないだろう」

一九……年……月……日

アルカージー・ニコラーエヴィチは、前の授業で終わらなかった説明を続けた。

「日常生活で、人に無数の適応が必要だとすれば、舞台上の俳優には、はるかに多く必要だ。舞台では、絶えず交流し、そのため、いつも適応しているからだ。

その際、適応の質が大きな役割を果たす。鮮明さ、多彩さ、大胆さ、繊細さ、水彩画のような淡い味わい、優雅さ、趣味のよさだ。

たとえば、前回のヴュンツォフの適応は、向こう見ずなほど鮮やかだった。

しかし、別のあり方もある。

ヴェリヤミノワ、ゴヴォルコフ、ヴェセロフスキー、舞台へ行って、『燃やされた金』のエチュードを演じなさい」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは指示した。

ヴェリヤミノワは、椅子から気だるそうに立ち上がり、憂鬱な顔で、相手役たちも後に続いて立つのを待っていた。

しかし、二人は座ったままだった。

気まずい沈黙が訪れた。

いたたまれなくなり、ヴェリヤミノワは口を開いた。

言葉を和らげるため、女性らしく甘えるしぐさを使った。男性にはそれが効くと、経験から知っていたからだ。

目を伏せ、客席の椅子についた番号札を、せっせとはがそうとして、自分の気持ちを隠した。

頬が赤くなるのを隠そうと、ハンカチを顔へ持っていった。

沈黙は果てしなく続いた。

その間を埋め、気まずさを和らげ、行き違いを冗談めかしたものにしようとして、ヴェリヤミノワは無理に笑い声を絞り出した。しかし、楽しそうには聞こえなかった。

「つまらないんです! 本当に、とてもつまらないんです!」と、その美人は訴えた。

「ただ、どう言えばいいのかわからなくて。

でも、お願いですから、新しいエチュードをください……。そうしたら、私たち、すごく上手に……すごく……もう、びっくりするくらい演じますから!」

「ブラヴォー! よくできた! 見事だ! もう、『燃やされた金』のエチュードは要らない。それをしなくても、必要なものをすべて見せてくれた」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「何を見せたのですか?」と、私たちは尋ねた。

「こういうことだ。ヴュンツォフが、大胆で鮮やかな外面的な適応を見せたのに対し、ヴェリヤミノワは、もっと優雅で繊細な、内面的な適応を示した。

彼女は辛抱強く、あの手この手で私を説得し、同情を引こうとした。戸惑いも、涙さえも、うまく使った。目的を果たし、課題を実現するため、使えるところでは、愛嬌も振りまいたのだ。

体験している感情の、あらゆる細かな違いを私に伝え、受け取らせようとして、次々に適応の仕方を変えた。

一つが役に立たなかったり、効かなくなったりすると、二つ目、三つ目を試した。ついには相手の心に入り込む、最も説得力のあるやり方に行き当たることを期待していたのだ。

状況や時間、そして一人ひとりの相手に、適応できなければならない。

頭の鈍い人を相手にするなら、その考え方に合わせ、できるだけ単純な言い方と、その人の理解力でもわかる適応を探す必要がある。

反対に、交流の相手が察しのよい人なら、もっと慎重に行動し、いっそう繊細な適応を探さなければならない。工夫を見抜かれ、交流を避けられないようにするためだ。

創造における適応の重要さは、次のことからもわかる。体験する力は並程度でも、鮮やかな適応を持つ俳優の多くは、もっと強く深く感じていても適応が弱い俳優より、舞台上の『人間の内面の生活』を、よく感じさせるのだ。

適応を観察するには、子どもがいちばんだ。

大人より、はっきり表れるからだ。

たとえば、私の二人の姪だ。下の子は、あふれる感情とひらめきの塊のような子だ。

この上ない喜びを表すには、キスだけでは足りない。それでは、自分の幸せが十分伝わらないのだ。もっと強く表すために、噛みつかなければ気が済まない。

これが、その子自身は気づいていない、その子の適応なのだ。

意志とは無関係に、飛び出してしまうのだ。

だから、喜びを与えてくれた相手が痛がって叫ぶと、その子は本気で驚く。いつの間に、私、噛んじゃったのかしら、と。

これが、潜在意識による適応の例だ。

一方、上の子は、はっきり意識して、考えたうえで適応を選ぶ。

相手をどれくらい尊敬しているか、どれほど大事なことをしてもらったかによって、お辞儀やお礼の仕方を使い分けるのだ。

しかし、そうした適応も、完全に意識的だとは言えない。理由はこうだ。

私は、適応がつくられる過程に、二つの段階を区別する。一つは適応を選ぶこと、もう一つは、それを実行することだ。

姪が意識的に適応を選んでいることは、認める。

しかし、その実行は、多くの人と同じように、大部分が潜在意識に任されている。

こうした適応を、私は半ば意識的な適応と呼ぶ」

「全部が、完全に意識的な適応もあるのですか?」と、私は尋ねた。

「もちろんある。しかし……意外かもしれないが、現実の生活では、選択も実行も完全に意識的な適応は、私には見つからない。

潜在意識による交流が、存分に働けそうな舞台上でだけ、完全に意識的な適応に、絶えず出会うのだ。

それが、俳優の決まりきった型だ」

「なぜ、舞台上では、潜在意識による交流が存分に働けるのですか?」と、私はさらに尋ねた。

「人前での創造には、強く、抗いがたい働きかけが必要だからだ。有機的で潜在意識による適応の多くは、まさにそれに当たる。

鮮やかで、説得力があり、じかに生まれ、感情を相手に伝染させる。

さらに、かすかにしか捉えられない感情の微妙な違いを、舞台から千人の観客へ伝えられるのは、こうした有機的な適応によってだけなのだ。

複雑な心理を持つ、古典の大きな人物像を生きるうえでは、このような適応が、何より重要だ。

それをつくり、伝えられるのは、潜在意識を備えた、私たちの生きた本性だけだ。

知性を使っても、俳優の技術を使っても、偽物をつくることはできない。

感情が自然に高まる瞬間、ひとりでに、潜在意識の中から生まれるのだ。

潜在意識による適応は、舞台上で、なんと鮮やかに輝くことだろう!

交流している人々を捉え、観客の記憶に深く刻まれる!

その力は、意外さ、大胆さ、思い切りのよさにある。

俳優の演技や、舞台上の振る舞い、行動を見ていると、役の大事なある箇所では、大きな声で、はっきり、真剣に台詞を言うだろうと予想する。

ところが、まったく予想外に、冗談めかして、楽しそうに、かすかな声で言う。そして、それによって、自分の感情の独自性を伝えるのだ。

この意外さに、強く心を奪われ、驚かされるので、その箇所の解釈は、それしかないほど正しく思えてくる。

『ここには、まさにそんな意味が隠れていたのか! どうして気づかなかったんだろう!』と、観客は驚き、思いがけない適応に見とれる。

こうした意外な適応に出会うのは、大きな才能を持つ俳優の演技だ。

しかし、そのような並外れた人でも、いつも生まれるわけではない。霊感の訪れる瞬間に生まれるのだ。

半ば意識的な適応なら、舞台で、比較にならないほど多く見られる。

一つひとつが、どれくらい潜在意識によるものかを分析するつもりはない。

ただ、ごくわずかでも潜在意識が加われば、舞台上で感情を表し、伝えることに、生命と震えるような生々しさを与える、とだけ言っておく」

「では、舞台上の意識的な適応は、まったく認めないのですね?」と、私は結論をまとめようとした。

「演出家や共演者、こちらから頼んだ助言者や、頼みもしない助言者など、外から示唆を受ける場合には認める。

ただし、そうした意識的な適応は、慎重に、賢く使わなければならない。

与えられた形のまま、取り入れようなどと思わないことだ。

ただ真似するだけで済ませてはいけない!

他人の適応を自分のものにし、自分にとって身近で、なじみ深い、自分自身の適応へ変える力が必要だ。

そのためには、多くの仕事が必要だ。新しい与えられた状況や、鳥寄せ笛などが要る。

俳優が、現実の生活の中で、自分の役に典型的な適応を見つけ、自分と、つくり出す人物像に取り入れたいと思ったときも、同じようにすべきだ。

その場合にも、ただの模倣を避けなさい。それは、必ず俳優を、見せかけの演技や職人的な演技へ押しやる。

自分で意識的な適応を考えたなら、心理技法を使って生命を与えなさい。その助けによって、適応に潜在意識の要素を注ぎ込むのだ」

一九……年……月……日

「ヴュンツォフ、一緒に舞台へ行こう。前に一度演じた、あのエチュードの変形をやってみよう」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは指示した。

身軽な青年は舞台へ駆け上がり、その後をトルツォフがゆっくり追った。私たちに、こうささやきながら。

「これから、ヴュンツォフを誘導してみるよ!」

「では、君は、何としても、授業の終わる前に抜け出さなければならない。

これが、主な、基本の課題だ。

実行しなさい」

トルツォフは机に座り、自分の用事に取りかかった。何かの手紙を取り出し、読むことにすっかり没頭した。

相手役は、そばに集中して立ち、アルカージー・ニコラーエヴィチに働きかけるか、だますかするために、もっと巧みな適応を考えていた。

ヴュンツォフはいろいろな工夫を使ったが、トルツォフは、わざとのように注意を向けなかった。

この落ち着きのない青年は、授業を抜け出すために、ありとあらゆることをした。

苦しそうな顔で、長いこと、じっと座っていた。

アルカージー・ニコラーエヴィチが彼を見ていたら、きっと同情しただろう。

その後、突然立ち上がり、急いで舞台袖へ出ていった。

そこでしばらく過ごしてから、病人らしい、おぼつかない足取りで戻ってきた。冷や汗をぬぐうつもりでハンカチを使い、重たげに、アルカージー・ニコラーエヴィチに近い椅子へ腰を下ろした。しかし、トルツォフは相変わらず無視していた。

ヴュンツォフの演技には真実があり、私たちは客席から好意的に反応した。

さらに彼は、疲れ果てて死にそうになり、引きつりや痙攣を起こし、椅子から床へ滑り落ちるまでになった。その際、あまりにも大げさに演じたので、私たちは笑った。

しかし、アルカージー・ニコラーエヴィチは反応しなかった。

ヴュンツォフは新しい適応を考え出し、笑いはいっそう大きくなった。

それでもトルツォフは黙ったままで、演じている彼に注意を向けなかった。

ヴュンツォフは、さらに演技を大げさにし、客席の笑いはもっと大きくなった。

それに押されて、青年は、次々に、とてもおかしな適応を繰り出した。ついには道化芝居になり、客席は大爆笑に包まれた。

トルツォフは、まさにそれを待っていた。

「今、何が起きたかわかったかね?」と、皆が静まると、彼は私たちに尋ねた。

「ヴュンツォフの基本の課題は、授業から抜け出すことだった。

彼の行動、言葉、病人のふりをして私の注意や同情を引こうとする試みは、すべて、その主な課題を果たすための適応にすぎなかった。

最初、ヴュンツォフは、そのとおりに行動していた。行動は、目的にかなっていた。

ところが、まずいことが起きた。客席の笑い声を聞くと、すぐに対象を変えてしまったのだ。注意を向けない私にではなく、自分の芸を喜んでくれる君たちに、適応し始めた。

観客を楽しませる、という、まったく新しい課題が生まれたのだ。

しかし、それをどう正当化すればよいだろう?

与えられた状況を、どこに見つけるのだろう?

どうやってそれを信じ、生きて体験するのだろうか。

そんなものは、俳優らしく見せかけで演じるほかない。ヴュンツォフも、そうしたのだ。

だから、歪みが生まれた。

その途端、本物の人間としての体験は途切れ、職人的な演技が支配し始めた。

基本の課題は、ヴュンツォフの大好きな小技や芸の連続に、ばらばらになってしまった。

この瞬間から、適応はそれ自体が目的となり、本来の役割である補助ではなく、主役の座を占めた。適応のための適応になったのだ。

こうした歪みは、舞台でよく起きる。

見事で鮮やかな適応を持ちながら、それを交流を助けるためではなく、適応そのものを舞台で披露し、観客を楽しませるために使う俳優を、私は大勢知っている。

ヴュンツォフのように、適応を独立した芸、余興の出し物に変えてしまうのだ。

一つひとつの瞬間の成功に、そうした俳優は舞い上がる。

爆笑や拍手、個々の瞬間や言葉、行動が受けることのために、役そのものを犠牲にする。

しかも、その言葉や行動は、戯曲とは無関係なことさえある。

こんな使い方をすれば、適応は意味を失い、不要なものになる。

わかるとおり、よい適応も、俳優にとって危険な誘惑になりうるのだ。

そのきっかけは、いくらでもある。

役全体が、絶えず俳優を誘惑へ押しやることさえある。

たとえば、オストロフスキーの『どんな賢者にも抜けたところはある』には、ママーエフという老人の役がある。

暇を持て余し、誰にでも説教する。戯曲の最初から最後まで、つかまえた相手に、ひたすら忠告し続けるのだ。

五幕にわたって、説教し続けるという、たった一つの課題を通すのは、簡単ではない。同じ感情や考えだけで、相手役と交流し続けなければならないからだ。

そんな条件では、単調になりやすいものだ。

それを避けるため、ママーエフを演じる多くの俳優は、適応に注意を移す。説教し続けるという同じ課題を果たしながら、適応を次々に変えるのだ。

絶えず、休みなく適応を変えれば、多様さが生まれる。

もちろん、それはよいことだ。

問題は、俳優が気づかないうちに、適応だけが、主な、唯一の関心事になってしまうことだ。

そうした瞬間の俳優の内的な働きをよく見ると、役の譜面が、こんな課題でできていることがわかる。厳しい適応によって目的を果たしたい、ではなく、『厳しくありたい』。優しい、断固とした、鋭い適応によって課題を実現したい、ではなく、『優しく、断固として、鋭くありたい』となっているのだ。

しかし、君たちは知っているね。厳しさそのもののために厳しく、優しさのために優しく、断固としていることや鋭さそのもののために、断固として鋭く振る舞ってはいけない。

どの場合にも、適応は、気づかないうちに独立した目的へ変質し、ママーエフという役全体の、説教し続けるという主な課題を押しのけてしまうのだ。

この道を進むと、適応そのものを見せかけで演じることになり、課題から、それどころか相手そのものからも、遠ざかってしまう。

すると、生きた人間の感情と、本当の行動が消え、俳優の見せかけの感情や行動が、取って代わる。

ご存じのとおり、こうした俳優的な行動の典型は、まず、役として交流すべき相手役が舞台上にいるのに、客席に別の対象をつくり、そちらに適応してしまうことだ。

外見上は一人と交流しながら、別の相手に適応するのは、ちぐはぐなことになる。

例を使って説明しよう。

君が、ある建物の上階に住んでいるとしよう。向かい側の、かなり広い通りを隔てた家には、恋している彼女が住んでいる。

自分の気持ちを、どう伝えればよいだろう?

投げキスをする、手を胸に当てる、うっとりした様子を見せる、悲しげに、恋しくてたまらないふりをする。バレエの無言劇のようなしぐさで、そちらへ行ってもよいか尋ねる。そんなことが考えられる。

こうした外面的な適応は、少し大きく、はっきり行う必要がある。そうしなければ、向かいにいる相手には、何も伝わらない。

ところが、絶好の機会が来た。通りには誰もおらず、彼女は一人で窓辺にいて、家のほかの窓は全部閉まっている……。

愛の言葉を叫ぶのを妨げるものは、何もない。

二人の間の大きな距離に合わせて、声を張らなければならない。

こうして告白した後、君は下へ降り、彼女に会う。彼女は、厳しい母親と腕を組んで歩いている。

この機会を利用して、近い距離で愛を伝えたり、会いに来てほしいと頼んだりするには、どうすればよいだろう?

出会った状況に合わせ、ほとんど気づかれないけれど、意味の伝わる手の動きや、目だけの動きを使う必要がある。

言葉が必要なら、気づかれないよう、耳元で、かすかにささやくしかない。

まさにそれをしようとした瞬間、通りの反対側に、憎い恋敵が現れた。

頭に血が上り、自分を抑えられなくなる。

恋敵に勝利を見せつけたい気持ちがあまりに強くて、母親がそばにいることも忘れ、声を限りに愛の言葉を叫び、さっき遠くからの交流に使った、バレエのパントマイムを始めてしまった。

すべては、恋敵に見せるためだ。

彼女は気の毒だね!

君のばかな振る舞いのせいで、母親からどれほど叱られたことだろう!

普通の人には説明のつかない、これと同じちぐはぐなことを、多くの俳優は、舞台上で、何の咎めも受けずに、しょっちゅうやっている。

戯曲の相手役と並んで立ちながら、表情や声、動きや行動を、舞台上の二人の近さにではなく、自分から平土間の最後列までの距離に合わせているのだ。

要するに、相手役の隣にいながら、その相手ではなく、客席の観客に適応しているのだ。

そこから、演じる本人も観客も信じられない、嘘が生まれる」

「でも、失礼ですが」と、ゴヴォルコフは反論した。「何でも聞こえる最前列の席には、お金が払えない観客のことも、考えなければならないでしょう」

「まず考えるべきなのは相手役で、適応すべき相手も、その人だ」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは答えた。

「最後列のためには、舞台特有の話し方がある。よく整えた声と、鍛えた母音、特に子音を使うのだ。

そうした発音なら、部屋の中のように静かに話しても、叫ぶよりよく聞こえる。話す内容で観客の関心を引き、観客自身が言葉を理解しようと耳を澄ませるようにできれば、なおさらだ。

静かな声を必要とする親密な言葉も、俳優が叫べば、内面の意味を失う。意味のないものを、観客が理解しようとする気にはならない」

「でも、失礼ですが、観客には、舞台で起きていることが見えなければならないでしょう」と、ゴヴォルコフは譲らなかった。

「そのためには、十分に保たれた、明瞭で、順序と論理のある行動がある。それで観客の関心を引き、舞台上で何をしているのか、観客自身が理解しようとするようにできれば、特に効果がある。

しかし、内面の意味に反して、際限なく、わけもなく腕を振り回し、たとえ美しくても、ただポーズを取る俳優の演技は、長く見ていられない。第一に、観客にも、その戯曲の人物にも、必要のないことだからだ。第二に、身振りや動きをそんなに大量に繰り出せば、同じものが何度も繰り返され、すぐに飽きてしまうからだ。

同じことを果てしなく見るのは、退屈だ。

こうした話をするのは、舞台や、人前で演じるという条件が、どうやって自然で本物の、人間らしい適応から私たちを遠ざけ、型どおりの、不自然な、俳優的な適応へ押しやるかを説明するためだ。

しかし、そのような適応は、あらゆる手段で、容赦なく、舞台と劇場から追い出さなければならない」

一九……年……月……日

「次は、適応を生み出し、引き出す技術的な方法が問題になる」と、教室に入ってきたアルカージー・ニコラーエヴィチは告げた。

この言葉で、今日の授業の内容が、すぐに示された。

「まず、潜在意識による適応から始めよう。

残念ながら、潜在意識の領域へ直接近づく道はない。間接的な道を使わなければならない。

そのために、体験の過程を呼び起こす鳥寄せ笛を、私たちはたくさん持っている。

そして、体験があれば、必ず交流も、意識的あるいは潜在意識による適応も生まれる。

意識が入り込めない領域で、ほかに何ができるだろう?

本性の邪魔をしないことだ。自然な衝動を乱したり、無理強いしたりしないことだ。

そうした自然な、人間らしい状態に自分を置ければ、奥深く隠れていた、最も繊細な感情が開かれ、創造の過程は、ひとりでに進む。

それが、霊感の訪れる瞬間だ。その間、適応は潜在意識から生まれ、流れとなって外へあふれ出し、その輝きで観客の目をくらませる。

この問題について、今言えるのは、それだけだ。

半ば意識的な適応の領域では、事情が違う。

ここでは、心理技法の助けを借りて、いくらかは手を打てる。

『いくらか』と言うのは、ここでも、できることは多くないからだ。

適応を生み出す技術には、豊富な手段があるわけではない。

適応を探すために、私が使っている実用的な方法が一つある。

例で説明するほうがわかりやすいだろう。

ヴェリヤミノワ!

何回か前の授業で、同じ言葉を繰り返しながら、さまざまな適応を使って、『燃やされた金』のエチュードをやめてほしいと頼んだことを覚えているかね。

今、同じ場面を、エチュードとして演じてみなさい。ただし、すでに使い、力を失った古い適応は使わないこと。意識的にでも、潜在意識によってでも、新鮮な、新しい適応を自分の中に見つけるのだ」

ヴェリヤミノワには、それができなかった。まだ使っていない二つ、三つを除けば、古い、すでに使い古した適応を繰り返した。

トルツォフが彼女の単調さを指摘すると、私たちは戸惑った。「そんなに次々、新しいものを、どこから持ってくるのですか?」

トルツォフは、答える代わりに私へ向き直って言った。

「君は速記ができて、私たちの記録係だね。

では、これから言うことを書きなさい。落ち着き、興奮、人のよさ、皮肉、からかい、揚げ足取り、非難、わがまま、軽蔑、絶望、脅し、喜び、おおらかさ、疑い、驚き、警告……」

アルカージー・ニコラーエヴィチは、さらに多くの人間の状態や気分、感情などを挙げ、長い一覧ができた。

「この紙を指で突いて、たまたま当たった言葉を読みなさい」と、彼はヴェリヤミノワに言った。

「その言葉が示す状態を、新しい適応にするのだ」

ヴェリヤミノワは言われたとおりにし、「おおらかさ」と読んだ。

「すでに使った適応の代わりに、この新しい色合いを加えなさい。そして、なぜ変えたのかを正当化するのだ。そうすれば、演技が新鮮になる」と、トルツォフは勧めた。

ヴェリヤミノワは、おおらかに振る舞う理由と調子を、かなり簡単に見つけた。

しかし、プーシチンが、その成功をさらってしまった。

油を塗ったようになめらかな低音で、声を響かせたのだ。

その際、太った体も顔も、限りない人のよさで、とろけるようだった。

皆が笑った。

「これで、新しい色合いが、説得するという同じ課題に役立つことが、証明されたね」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

ヴェリヤミノワは、もう一度一覧を指で突き、「揚げ足取り」と読んだ。

女性らしいしつこさで取りかかったが、今度はゴヴォルコフに、成功をさらわれた。

揚げ足取りでは、彼にかなうはずがない。

「これも、私の方法が有効だという、新しい証拠だ」と、トルツォフはまとめた。

その後、ほかの生徒たちも、同じ練習を繰り返した。

「この一覧に、どんな新しい人間の状態や気分を加えても、内側から理由づけられていれば、すべて、適応の新しい色合いや微妙な変化に使える。

適応における鮮やかな対比や意外さは、心の状態を伝えるとき、相手への働きかけを強めてくれる。

たとえば、圧倒的な感銘を受けた公演から、帰ってきたとしよう……。

俳優の演技がよかった、すばらしかった、真似できない、到底かなわない、と言うだけでは足りない。

そうした形容のどれも、自分が体験したことを表してはくれない。

打ちのめされ、ぼろぼろになり、力尽き、憤り、絶望の底に沈んだかのように振る舞いたくなるのだ。そうした意外な適応の色合いによって、最高の感嘆と喜びを伝えるために。

そのとき、自分にこう言っているようなものだ。

『ちくしょう、あいつら、なんてうまいんだ!』。あるいは、『こんなに感激しては、たまらない!』

この方法は、劇的な体験や悲劇的な体験などでも、有効だ。

実際、適応の色合いを強めるために、最も悲劇的な瞬間に、突然笑い出すこともできる。まるで、『運命がこんなにも私を追い回し、打ちのめすなんて、笑ってしまう!』、あるいは、『これほど絶望したら、泣くこともできない。笑うしかない!』と、自分に言うように。

では、考えてみなさい。舞台上の俳優の潜在意識の営みには、表すのが難しいほど微妙な動きがある。そのすべてに応じるには、顔や体、声の仕組みが、どれほど柔軟で、表現豊かで、敏感に反応し、よく制御されていなければならないか。

適応は、交流に使う俳優の表現手段に、非常に高い水準を求める。

そのために、体や表情、声を、十分に準備しておく必要があるのだ。

今は、適応の勉強に関連して、少し触れるだけにしておく。

これを、体操、ダンス、フェンシング、発声などの練習の意味を、いっそう自覚するきっかけにしなさい」

授業が終わり、アルカージー・ニコラーエヴィチが帰ろうとしたとき、不意に幕が開いた。舞台には、お祝いのように飾られた、懐かしい『マロレトコワの居間』が現れた。

あちこちに、大小さまざまな掲示が掛かっていた。そこには、こう書かれていた。

一、内的なテンポとリズム。

二、内面的な人物の特徴。

三、持続と完結。

四、内面の倫理と規律。

五、舞台上の魅力と、人を引きつける力。

六、論理と順序。

「掲示はたくさんあるが、今は長く話さない」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは、親切なイヴァン・プラトーノヴィチの新しい趣向を見ながら言った。

「実は、内面の創造の過程に必要な要素や能力、才能、俳優としての資質を、まだすべて検討したわけではない。

ほかにも、いくつかある。

ただ、問題がある。実践、目に見える実例、自分自身の感覚から、理論や創造の法則へ進むという、私の基本の方法を崩さずに、今、それらについて話せるだろうか。

たとえば、目に見えない内的なテンポとリズムや、目に見えない内面的な人物の特徴を、今、どう説明すればよいだろう?

どうやって、行動によって、説明を目に見える形にできるだろうか。

目に見える外的なテンポとリズムや、外面的な人物の特徴を扱う段階まで待つほうが、簡単ではないかね。

そのときなら、目に見える外的な行動を通して学びながら、同時に、内面でもそれを感じることができる。

さらに、舞台で表現するときに持続を求める戯曲も役も、まだないのに、今、その持続について話せるだろうか。

完結させるものがないのに、完結について話せるだろうか。

また、君たちの多くは、試演会で、たった一度舞台に立っただけだ。その段階で、創造中の舞台における、芸術上その他の倫理や規律について、どう話せばよいのだろう。

最後に、舞台上の魅力や、人を引きつける力についても同じだ。千人の観客に及ぼすその力と効果を、まだ経験していないのに、どう説明すればよいだろう。

残るのは、論理と順序だ。

しかし、これまでの学習の間に、それについては、君たちがうんざりするくらい、十分に話してきた気がする。

学習の随所で、論理と順序について、そのつど注意を重ねてきた。すでに多くを話したし、この先にも多く話すだろう」

「いつ、そんな話をしたんですか?」と、ヴュンツォフが尋ねた。

「いつ話したか、だって!」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは驚いた。

「いつも、機会があるたびにだ。魔法の『もしも』や、与えられた状況を学んだときには、想像の設定に論理と順序を求めた。身体的行動をするとき、たとえば、実物を持たず、想像だけで金を数えたときにも、行動の厳密な論理と順序を求めた。注意を向ける対象を次々に変えるときも、『ブラン』の場面を部分に分け、そこから課題を取り出し、名前をつけるときも、厳密な論理と順序を求めた。

さまざまな鳥寄せ笛を使うときにも、同じことを繰り返した。ほかにも、いくらでもある。

今は、論理と順序について、当面知っておくべきことは、すべて話したという気がしている。

残りは、学習を進めながら、少しずつ補っていく。

これだけ話してきた後に、論理と順序のためだけに、独立した学習段階を設ける必要があるだろうか。

私は、実践の道からそれ、授業を理論で干からびさせてしまうことを恐れている。

これが、まだ検討していない、創造に必要な要素や能力、才能、資質について、今は、ひとまず触れるだけにする理由だ。

イヴァン・プラトーノヴィチは、要素の花束をそろえるために、抜けているものを思い出させてくれたのだ。

やがて、実際の仕事が、話し残した問題の一つひとつへ私たちを導くだろう。そのとき、今は飛ばした要素を、まず実践で経験し、感じ、それから理論として知っていくのだ。

今、これらについて言えるのは、それだけだ。

これらを挙げたところで、創造の仕事に必要な内的な要素、能力、才能、俳優としての資質を学ぶ、長い取り組みを終えることにしよう」

第12章 心の生活を動かす力

一九……年……月……日

アルカージー・ニコラーエヴィチは話した。

「さまざまな要素や能力、資質、心理技法の方法を見渡した今、私たちの内なる創造の仕組みは、準備ができたと言えるだろう。

これが私たちの軍隊であり、これをもって作戦を始められる。

あとは、その軍を率いて出征する指揮官が必要だ。

その指揮官とは、誰だろう?」

「僕たち自身です」と、生徒たちは答えた。

「その『私たち』とは、誰のことかね?

その、正体のわからない存在は、どこにいるのだろう?」

「想像力、注意、感情です」と、生徒たちは挙げた。

「感情です! 何といっても、それがいちばん大事です!」と、ヴュンツォフは決めた。

「賛成だ。

役を感じ取れれば、心のすべての力は、すぐに活動の準備を整える。

これで、最初の、最も重要な指揮官、創造を始め、動かす力が見つかった。

それは感情だ」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは認めた。しかし、すぐに付け加えた。「困るのは、感情が言うことを聞かず、命令されるのを嫌うことだ。

君たちも、経験から知っているね。

だから、感情がひとりでに創造へ向かって目覚めなければ、仕事を始められない。別の指揮官に助けを求める必要がある。

では、その『別の』指揮官とは、誰だろう?」

「想像力です! それなしでは……どうにもなりません!」と、ヴュンツォフは決めた。

「それなら、何かを想像して、自分の創造の仕組みを全部、一度に動かしてみなさい」

「何を想像すればいいんですか?」

「知らない」

「課題が要ります。魔法の『もしも』、それも、こう……」と、ヴュンツォフは言った。

「それは、どこから持ってくるのかね?」

「知性が教えてくれるんですよ」と、ゴヴォルコフは言った。

「知性が教えてくれるのなら、それこそ、私たちが探している指揮官、始動し、動かす力だ。

知性が創造を始め、導くことになる」

「では、想像力は、指揮官にはなれないのですか?」と、私はさらに尋ねた。

「見たとおり、想像力自身が、始めるきっかけと指導を必要としている」

「注意です」と、ヴュンツォフは決めた。

「注意も検討しよう。

どんな働きをするのだろう?」

「感情、知性、想像力、意志を助けます」と、生徒たちは挙げた。

「注意は、反射式の投光器のように、選んだ対象へ光を向け、思考や感情、欲求に、その対象への関心を持たせます」と、私は説明した。

「では、その対象を示すのは誰かね?」と、トルツォフは尋ねた。

「知性です」

「想像力です」

「与えられた状況です」

「課題です」と、私たちは思い出した。

「だとすれば、それらこそが、仕事を始める指揮官、始動し、動かす力だ。それらが対象を示し、注意は、単独では同じことができないなら、補助的な役割にとどまることになる」

「わかりました。注意は指揮官ではないのですね。では、誰なのですか?」と、私は食い下がった。

「『狂人』のエチュードをやってごらん。そうすれば、何が始動し、動かす力であり、指揮官なのか、自分でわかるだろう」

生徒たちは黙って顔を見合わせ、立ち上がろうとしなかった。

やがて、一人ずつ立ち上がり、気の進まない様子で舞台へ向かった。

しかし、アルカージー・ニコラーエヴィチは、皆を止めた。

「自分に打ち勝ったのは、よいことだ。

ある程度の意志があることを示している。

しかし……」

「では、意志が指揮官なんですね!」と、ヴュンツォフは即座に決めた。

「しかし……君たちは、死刑を宣告された人のように舞台へ向かった。意志に従ってではなく、それに逆らって。

それでは創造は生まれない。

内面が冷えたままでは、感情は温まらない。感情がなければ、体験も芸術もない。

君たち全員が、俳優としての情熱をすべて注ぎ、一斉に舞台へ飛び出していたなら、そのときこそ、意志、創造的な意志について話せただろう」

「みんながうんざりしている『狂人』のエチュードでは、そんなことは無理ですよ」と、ゴヴォルコフは不平を言った。

「それでも、試してみよう!

君たちが正面玄関から狂人が入ってくるのを待っている間に、彼は裏口へ回り込み、今、そこを破ろうとしている。そう言ったら、どうかね?

しかも、そこの扉は古い。

蝶番に、やっとぶら下がっているようなものだ。蝶番を壊されたら、君たちは大変なことになる!

この新しい与えられた状況で、どうするかね?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは問いかけた。

生徒たちは考え込み、注意が集中した。皆、何かを考え、何かに狙いを定め、最後には、もう一つバリケードをつくることに決めた。

騒ぎが起こり、声が飛び交った。

若者たちに火がついた。目が輝き、心臓が強く打った。

要するに、今では飽きてしまったこのエチュードを、初めて演じたときと、ほとんど同じことが起きたのだ。

「さて、私は『狂人』の場面を、もう一度やるよう求めた。君たちは気が進まないのを無理に押して舞台へ行き、いわば、人間としての意志を働かせようとした。しかし、無理強いでは、役に心を動かされることはなかった。

そこで、私は新しい『もしも』と、与えられた状況を提示した。

君たちはそれをもとに、新しい課題をつくり、新しい欲求、つまり意志を呼び起こした。しかも今度は、ただの欲求ではなく、創造的な欲求だった。

全員が夢中になって仕事に取りかかった。

では、誰が指揮官だったのだろう。最初に戦いへ飛び込み、全軍を引っ張っていったのは?」

「先生自身です!」と、生徒たちは答えた。

「もっと正確には、私の知性だ!」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは訂正した。

「しかし、君たちの知性にも、同じことができる。創造の過程で、指揮官になれるのだ。

そうであれば、二人目の指揮官が見つかった。

それは、知性だ。

では、三人目の指揮官がいるか、探してみよう。

要素を、一つずつ見ていこう。

真実を感じ、それを信じることが、その指揮官かもしれないね。

もしそうなら、信じてみなさい。そして、感情が目覚めたときのように、自分の創造の仕組みを、一度に全部動かしてごらん」

「何を信じるのですか?」と、生徒たちは尋ねた。

「私にはわからない……。それは、君たちの仕事だ」

「まず『人間の内面の生活』をつくり、その後で、それを信じる必要があります」と、パーシャが言った。

「では、真実を感じ、それを信じることは、探している指揮官ではないね。

それなら、交流と適応だろうか?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは尋ねた。

「交流するには、まず、相手へ渡せる感情や考えをつくらなければなりません」

「そのとおり。

では、それらも指揮官ではない!」

「部分と課題です!」

「大事なのは、それ自体ではなく、課題が生む、生きた欲求や意志の働きだ」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは説明した。

「その欲求や意志の働きが、俳優の創造の仕組み全体を目覚めさせ、舞台上の心の生活を導けるなら……」

「もちろん、できます!」

「そうなら、三人目の指揮官が見つかった。

それは意志だ。

これで、三人の指揮官がいるとわかった。すなわち」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは、目の前に掛かる掲示を指し、最初の文字を読んだ。

「知性、意志、感情。

これらが、『私たちの心の生活を動かす力』なのだ」

授業が終わり、生徒たちは帰り始めたが、ゴヴォルコフが議論を始めた。

「失礼ですが、なぜ今まで、創造における知性と意志の役割について、何も話さなかったのですか。その代わり、感情の話ばかり、耳にたこができるほど聞かされました!」

「君の考えでは、心の生活を動かす力の一つひとつについて、同じことを詳しく話すべきだったのかね。そういう意味かね?」と、トルツォフは理解できない様子だった。

「いいえ、なぜ同じことになるのですか」と、ゴヴォルコフは反論した。

「ほかに、どうしようがあるだろうか。

この三頭体制の三者は、切り離せない。一つ目を話せば、おのずと二つ目、三つ目に触れる。二つ目を話せば、一つ目と三つ目にも言及し、三つ目を話すときには、ほかの二つを考えている。

そんなふうに、同じことを何度も繰り返して、君たちは聴いてくれただろうか。

たとえば、私が、創造上の課題や、その分け方、選び方、名前のつけ方などを話しているとしよう。

この仕事に、感情は参加していないかね?」

「もちろん、参加しています!」と、残っていた生徒たちは認めた。

「では、意志は課題と無関係だろうか?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは、さらに尋ねた。

「いいえ、無関係どころか、直接関係しています」と、私たちは答えた。

「そうなら、課題について話すとき、感情の説明で話したことを、ほとんど全部、繰り返す必要があったはずだ。

では、課題をつくることに、知性は参加しないかね?」

「課題を分けるときにも、名前をつけるときにも参加します」と、生徒たちは答えた。

「そうなら、同じ課題の話を、三度目も繰り返さなければならなかっただろう。

君たちの忍耐と時間を大切にしたことに、感謝してほしいものだ。

とはいえ、ゴヴォルコフの指摘にも、一理ある。

確かに、私は感情による創造の側へ偏っている。それは意図してのことだ。ほかの芸術の方向では、感情があまりにも忘れられがちだったからだ。

理屈っぽい俳優や、頭からつくられた舞台の人物像が、多すぎるのだ!

その一方で、本当に生きた、感情による創造には、あまりにもまれにしか出会えない。

だから私は、知性を多少犠牲にしても、感情に倍の注意を向けるのだ。

私たちの劇場で長く創造の仕事をしてきた間に、私たち俳優は、知性、意志、感情を、心の生活を動かす力と考えることに慣れた。

それは意識に深く根づき、心理技法の方法も、それに合うようになっている。

しかし最近、科学が、心の生活を動かす力の定義に、重要な変更を加えた。

私たち舞台の俳優は、それをどう受け止めればよいだろう?

私たちの心理技法は、どう変わるのだろうか。

今日は、それを話す時間がない。

では、続きは次の授業で」

一九……年……月……日

今日、アルカージー・ニコラーエヴィチは、心の生活を動かす力についての、新しい科学的な定義を話した。

「表象、判断、意志=感情!」と、掲示の二つ目の文言を読んだ。

「この定義の内実は、以前、心の生活を動かす力とされていた、知性、意志、感情という、古い定義と同じだ。

新しいものは、以前の定義を、より明確にしているだけだ。

両者を比べれば、まず、表象と判断を合わせると、古い定義で知性が担っていた内的な働きに、ちょうど当たると気づくだろう。

さらに新しい定義を見ると、『意志』と『感情』という言葉が、『意志=感情』という一つの言葉に結びついていることがわかる。

この二つの変更の意味を、例を使って説明しよう。

今日は自由な一日で、できるだけおもしろく過ごしたいと思っているとしよう。

そのつもりを実現するために、何をするかね?

感情も意志も黙っているなら、知性に頼るほかない。

こういう場合、どうすればよいのか、教えてもらうのだ。

私が君たちの知性の役になって、提案しよう。

体を動かし、空気を吸うために、街や郊外を散歩してはどうだろう?

五感の中で、最も鋭く、よく反応する視覚は、想像力や心に浮かぶ像の助けを借りて、散歩で出会うもの、心を引かれそうなものを、もう描き始めている。

心の『スクリーン』には、さまざまな景色、見慣れた通り、郊外の町などが映る、長い映画が、すでに見えている。

こうして、これからの散歩についての表象、つまり心のイメージが生まれる。

『今日は、そんな気分ではないな』と、君は考える。

『街をぶらついてもおもしろくないし、天気が悪いから、自然にも惹かれない。

それに疲れている』

こうして、思い描いたものについての判断が生まれる。

それなら、夜、劇場へ行ってはどうだろう、と知性が勧める。

この提案で、想像力が絵を描き、内なる視覚が、よく知る劇場の情景を、次々に、非常にはっきりと鮮やかに映し出す。

心の中で切符売り場から客席へ歩き、公演の断片をのぞいて、新しい一日の計画について、まず表象をつくり、次に判断を下す。

今度は、意志も感情も、すぐに燃え上がり、知性の提案、つまり、その表象と判断に応えた。

皆で合図を発し、内なる要素を目覚めさせたのだ。

こうして」と、トルツォフはまとめた。「知性、つまり表象と判断から始めて、意志も、感情そのものも、仕事に引き込んだのだ」

かなり長い間を置いて、彼は続けた。

「では、この検討から、何がわかるだろう?

知性の働きが、具体的に見えてくる。その働きの主な二つの段階だ。最初のきっかけが、表象をつくる過程を呼び起こす段階。そして、そこから生まれる、判断をつくる段階だ。

これで、心の生活を動かす力の、新しい定義の前半の意味を説明した。

後半を見ると、先ほど話したとおり、意志と感情が『意志=感情』という一つの言葉にまとめられている。

なぜ、こうしたのだろうか。

また、例で答えよう。

こんな思いがけない偶然を、想像してごらん。

君は激しい恋をしている。

彼女は遠くにいる。

君はここにいて、恋がかき立てる不安を、どう鎮めればよいかわからず、苦しんでいる。

そこへ、彼女から手紙が来た。

彼女も一人で苦しんでいて、早く来てほしいと、切に頼んでいることがわかった。

愛する人の呼びかけを読むやいなや、感情が燃え上がる。

折も折、ちょうどそのとき、劇場から新しい役、ロミオが届いたのだ。

自分の感情が、演じる人物の感情と通じ合っているため、役の多くの箇所が、苦もなく、すぐに自分の中で生き始めた。

この場合、創造を導く指揮官になったのは、誰だろう?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは尋ねた。

「もちろん、感情です!」と、私は答えた。

「では、意志は?

感情と同時に、切り離せないものとして、心を乱し、願い、愛する人へ、舞台上ではジュリエットへ、向かおうとしなかったかね?」

「向かおうとしました」と、私は認めざるを得なかった。

「では、この場合、両方が指導者であり、心の生活を動かす力だった。そして、共通の仕事の中で一つになっていたのだ。

二つを切り離してごらん。

暇なときに、意志と感情が別々に生きている例を、考えて探してごらん。間に境界線を引き、一方がどこで終わり、他方がどこから始まるのか、示してみるのだ。

私にできなかったように、君たちにも、できないと思う。

だからこそ、新しい科学的な定義では、二つを『意志=感情』という一つの言葉にまとめたのだ。

私たち演劇に携わる者も、この新しい定義が真実を捉えていると感じ、将来、実践に役立つと見込んでいる。ただ、まだ十分に使いこなす方法がわからない。

それには、時間が必要だ。

新しいものは、実践で理解できた範囲だけ使うことにしよう。それ以外は、当分、十分に試してきた古いものを使う。

今のところ、ほかの道は見当たらない。

だから私は、心の生活を動かす力について、新旧両方の定義を使わざるを得ない。そのつど、どちらのほうが理解しやすいかによって、使い分ける。

あるとき、古い定義のほうが都合がよければ、知性の働きを二つに分けず、意志と感情を一つにまとめずに扱う。

科学者には、この勝手を許してもらいたいものだ。

学校で君たちと取り組むうえで、私を導いているのは、あくまで実践上の理由なのだから」

一九……年……月……日

「さて」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは話した。「知性、意志、感情、あるいは新しい定義で言えば、表象、判断、意志=感情は、創造の過程を導く役割を持つ。

その役割を、さらに強めるものがある。心の生活を動かす力の一つひとつが、ほかの二つにとっての鳥寄せ笛となり、創造へと呼び起こすことだ。

そのうえ、知性、意志、感情は、互いの支えなしには、単独で存在できない。

だから、いつも一緒に、同時に、密接に依存し合って働く。知性=意志=感情、感情=意志=知性、意志=感情=知性というように。

これも、心の生活を動かす力の重要さと、先導する役割を、大きく強めている。

知性を働かせれば、それによって意志も感情も創造に引き込む。

新しい言い方をすれば、何かを思い描くことが、自然に、そのものについての判断を生む。

その両方が、意志=感情を仕事に引き込むのだ。

心の生活を動かす力のすべてが、協力して働いて初めて、私たちは自由に、誠実に、じかに、有機的に創造できる。他人の名においてではなく、自分自身として、自分の責任と良心に従い、役の生活の、与えられた状況の中で創造するのだ。

実際、本当の俳優が、ハムレットの『生きるべきか、死ぬべきか』という独白を語るとき、作者の、自分のものではない考えを、形だけ報告し、演出家に指示された外的な行動をしているだけだろうか。

いや、はるかに多くを与えている。役の言葉に、自分自身を注ぎ込んでいる。人生についての自分の考え、自分の心、生きた感情と意志を。

こうした瞬間、俳優は、役の生活や思考、感情に通じる、自分自身が生きてきた生活の記憶に、本当に心を動かされている。

そういう俳優は、存在しないハムレットの名においてではなく、戯曲の与えられた状況に置かれた、自分自身として舞台上で語る。

他人の考え、感情、表象、判断は、自分自身のものへ変わるのだ。

その際、役の台詞を聞いて理解してもらうためだけに、言葉を発するのではない。話している内容に対する、自分の内面の態度を観客に感じてもらい、自分の創造的な意志が望むものを、観客にも望んでもらう必要があるのだ。

この瞬間、心の生活を動かすすべての力は、一つに結びつき、互いに依存し始める。

創造する力同士の、この依存、相互作用、密接な結びつきは、私たちの仕事で非常に重要だ。実践のために利用しなければ、それこそ誤りだろう。

そこから、それに応じた心理技法が生まれる。

その基本は、三者の相互作用を通して、それぞれの力と、俳優の創造の仕組みの全要素を、自然に、有機的に、行動へ呼び起こすことだ。

心の生活を動かす力が、一度に全部、ひとりでに、突然、私たちの意志とは無関係に、潜在意識から働き始めることもある。

こうした偶然の、恵まれた瞬間には、それらの力が生む、自然な創造への衝動に身を委ねなければならない。

しかし、知性、意志、感情が、俳優の創造への呼びかけに応えないときは、どうすればよいだろう?

そんなときには、鳥寄せ笛を使う。

それは、各要素だけでなく、心の生活を動かす力の一つひとつにもある。

全部を一度に呼び起こそうとしないことだ。

一つを選びなさい。たとえば、知性だ。

知性は、いちばん話が通じ、ほかの力より従順で、進んで命令に従う。

この場合、俳優は、台詞に書かれた考えから、それに応じるイメージを得て、言葉が語るものを見始める。

そのイメージが、今度は、それに応じた自分自身の判断を呼び起こす。

こうして、乾いた、形だけの考えではなく、心のイメージによって命を与えられた思考が生まれ、自然に意志=感情を目覚めさせる。

君たちの短い実践の中にも、この過程を示す例は、たくさんある。

たとえば、飽きていた『狂人』のエチュードを、どう生き返らせたか、思い出しなさい。

知性が、『もしも』や、与えられた状況という想像上の設定を考えた。それらは、新しい、心を揺さぶるイメージや判断を生み、すべてが一緒になって、意志=感情を呼び起こした。

その結果、君たちは見事にエチュードを演じた。

これは、創造の過程を呼び起こす際、知性が先頭に立って働く、よい例だ。

しかし、戯曲やエチュード、役には、別の道からも近づける。とても気まぐれで不安定ではあるが、感情から近づくこともできるのだ。

感情が呼びかけにすぐ応えてくれれば、とても幸運だ。

そうすれば、すべてが自然に、ひとりでに整う。イメージが生まれ、それについての判断ができ、それらが一緒になって意志を目覚めさせる。

言い換えれば、感情を通して、心の生活を動かすすべての力が、一度に働き始めるのだ。

しかし、そうしたことが自然には起こらず、感情が呼びかけに応えず、動かないままだったら、どうすればよいだろう?

そのときは、三者の中で最も近いもの、意志に頼る。

眠っている感情を起こすには、どの鳥寄せ笛を使えばよいだろう?

いずれ学ぶが、その鳥寄せ笛、その刺激となるのが、テンポとリズムだ。

残る問題は、眠っている意志を、どう創造へ呼び起こすかだ。

どうすれば、創造的な行動へ向かわせられるだろう?」

「課題を通してです」と、私は思い出して答えた。

「課題は、創造したいという欲求、つまり意志に、直接働きかけます」

「どんな課題かによる。

心を引かないものは、働きかけない。

そういう課題は、人為的な方法で、俳優の心に近づけなければならない。

鋭くし、生命を与え、おもしろく、心を揺さぶるものにする必要がある。

反対に、心を引きつける課題には、直接、じかに働きかける力がある。

ただし……意志にではない。

夢中になることは、まず感情の領域であり、欲求の領域ではない。だから、直接働きかけるのは、感情に対してだ。

創造では、まず心を奪われ、感じ、その後で、したいと思う必要がある。

だから、課題が意志へ及ぼす作用は、直接ではなく、間接的だと認めなければならない」

「でも、新しい定義では、意志は感情から切り離せないと、おっしゃいましたね。

では、課題が感情に働きかければ、同時に意志も目覚めさせるのが当然ではありませんか」と、ゴヴォルコフはトルツォフの言葉を捉えた。

「そのとおりだ。

意志=感情には、二つの面がある。

感情が欲求より強くなる場合もあれば、たとえ無理に起こしたものであっても、欲求が感情より強くなる場合もある。

だから、感情より意志に強く働く課題もあれば、反対に、意志より感情を強める課題もある。

しかし……いずれにせよ、間接的にであれ、直接的にであれ、課題は私たちの意志に働きかける。それは、創造したいという欲求を呼び起こす、すばらしい、私たちの大好きな鳥寄せ笛であり、私たちは大いに利用している。

だから、これまでどおり、意志=感情に間接的に働きかけるために、課題を使っていこう」

少し間を置いて、アルカージー・ニコラーエヴィチは続けた。

「心の生活を動かす力が、知性、つまり表象と判断、そして意志と感情であるという考えの正しさは、自然そのものも裏づけている。自然は、感情型、意志型、知性型といった、俳優の個性を生み出すことが、よくあるからだ。

第一の型、意志や知性より感情が強い俳優は、ロミオやオセローを演じるとき、その役の感情的な面を際立たせる。

第二の型、創造の仕事で、感情や知性より意志が強い俳優は、マクベスやブランを演じるとき、野心や宗教的な欲求を強調する。

第三の型、創造の性質で、感情や意志より知性が強い俳優は、ハムレットや賢者ナータンを演じるとき、意図せず、必要以上に知的な色合いを役へ与える。

しかし、心の生活を動かす力のどれかが優位に立っても、ほかの二つを、すっかり押さえ込んではいけない。

心を動かす力には、調和の取れた関係が必要だ。

このように、芸術は、感情が導く創造も、意志が導く創造も、知性が導く創造も、等しく認める。

私たちが否定するのは、俳優の、冷えた計算から出る仕事だけだ。

そうした演技を、冷たい、理屈だけの演技と呼ぶ」

厳かな間の後、アルカージー・ニコラーエヴィチは、こう語って授業を締めくくった。

「今、君たちは豊かだ。役の『人間としての内面の生活』を体験するための、多くの要素を手にしている。

それが君たちの内なる道具であり、創造へ出陣する軍隊だ。

それだけでなく、各部隊を率いて戦いへ出る、三人の指揮官も、自分の中に見つけた。

大きな成果だ。おめでとう!」

第13章 心の生活を動かす力が進む道筋

一九……年……月……日

「部隊は、戦闘準備が整った!

指揮官も、配置に就いた!

出発できる!」

「どうやって出発するんですか?」

「すばらしい戯曲を上演することになり、君たち一人ひとりに、見事な役が約束されたとしよう。

最初の読み合わせを終え、劇場から家へ帰ったら、何をするかね?」

「演じます!」と、ヴュンツォフは言った。

プーシチンは、役について深く考えると言った。

マロレトコワは、隅に座って、『感じる』ことを試みるだろう。

試演会の苦い経験から学んだ私は、そうした危険な誘惑には乗らず、魔法の『もしも』や、ほかの『もしも』、与えられた状況、さまざまな空想から始めるだろう。

パーシャは、役を部分に分け始めるだろう。

「要するに」と、トルツォフは言った。「君たちは、それぞれの道から、役の頭や心、欲求の中へ入り込もうとするだろう。自分の感情記憶の中に、役に通じる記憶を呼び起こし、演じる人物の生活を思い描き、自分なりの判断をし、意志=感情を引きつけようとするのだ。

自分の心の触角を、役の心へ伸ばし、心の生活を動かす力を、役へ向かわせるだろう。

ごくまれには、俳優の知性、意志、感情が、一度に、新しい作品の核心を捉えることがある。それに創造の力をかき立てられ、夢中になる勢いの中で、仕事に必要な内面の状態が生まれる。

しかし、もっとよくあるのは、台詞が知性にある程度しか理解されず、感情にも一部分しか響かず、意志には、はっきりしない、途切れ途切れの欲求しか生まれないことだ。

新しい定義の言葉で言えば、作者の作品に初めて触れる時期には、戯曲について、ぼんやりした表象と、ごく表面的な判断が生まれるのだ。

意志=感情も、最初の印象に、部分的に、おずおずと応じるだけだ。そのため、内側には、役の生活を『だいたい』感じる感覚が生まれる。

俳優が役の生活の本当の意味を、おおまかにしか理解していない以上、この段階では、それ以上の結果を望めない。

多くの場合、内実の深みに届くのは、長く取り組み、作品を研究し、劇作家自身が通った創造の道を、自分でもたどった後だ。

しかし、最初に読んだとき、台詞が俳優の知性にまったく入ってこず、意志も感情も応えず、読んだ作品について、何の表象も判断も生まれないこともある。

印象主義や象徴主義の作品に初めて触れるときには、よく起きることだ。

その場合は、他人の判断を借り、外からの助けで言葉を受け止め、力を尽くして内容へ踏み込む必要がある。

根気よく取り組んで、ようやく、何かかすかな表象や、まだ自分だけではつくれない判断が生まれ、それが少しずつ育っていく。

その結果、程度の差はあっても、意志=感情と、心の生活を動かすすべての力を、仕事に引き込めるようになる。

初めのうち、目標がまだはっきりしない間は、それらの力が目標へ向かう、見えない流れも、芽生えたばかりの状態だ。

戯曲との最初の出会いで捉えた、役の生活の個々の瞬間が、心の生活を動かす力に、強い衝動を起こす。

思考や欲求は、断続的に現れる。

生まれたかと思うと途切れ、また生まれては、再び消える。

心の生活を動かす力から伸びる線を、図に描いてみれば、途切れた線や、断片、小さな線ばかりになるだろう。

さらに役を知り、その基本の目標を深く理解するにつれ、目標へ向かう線は、少しずつ整っていく。

そのとき初めて、創造が始まりつつあると言えるのだ」

「なぜですか?」

アルカージー・ニコラーエヴィチは、答える代わりに、不意に腕や頭、体全体を、ばらばらに動かし始めた。それから、私たちに尋ねた。

「今の動きを、踊りと呼べるかね?」

私たちは、呼べないと答えた。

次に、彼は座ったまま、さまざまな動きをした。それぞれが次の動きへ流れ込み、途切れない線をつくっていた。

「では、これなら踊りがつくれるかね?」と、彼は尋ねた。

「つくれます」と、私たちは声をそろえて答えた。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、一つひとつの音の間に長い間を置きながら、いくつかの音を歌い始めた。

「これを、歌と呼べるかね?」と、彼は尋ねた。

「いいえ」

「では、これは?」彼は、よく響くいくつかの音を、一つから次へ流れるようにつないで歌った。

「呼べます!」

アルカージー・ニコラーエヴィチは、紙の上に、ばらばらの、でたらめな線や点、曲がりくねった線を描き散らし、私たちに尋ねた。

「これを絵と呼べるかね?」

「いいえ」

「では、こんな線なら、絵が描けるかね?」

アルカージー・ニコラーエヴィチは、長く、美しく曲がった線を、いくつか引いた。

「描けます!」

「では、どんな芸術にも、まず、途切れない線が必要だとわかるね?」

「わかります!」

「私たちの芸術にも、途切れない線が必要だ。

だから私は、心を動かす力が目標へ向かう線が整い、つまり途切れないものになったとき、初めて創造について話せる、と言ったのだ」

「失礼ですが、日常生活で、まして舞台上で、一瞬も途切れない線など、ありうるのですか?」と、ゴヴォルコフは難癖をつけた。

「ありうる。ただし、普通の人ではなく、狂人の場合だ。それは『固定観念』と呼ばれる。

健全な人には、ある程度の中断が、自然であり、必要でもある。

少なくとも、私たちには、そう思える。

しかし、中断の間も、人は死んでいるのではなく、生きている。だから、その人の中で、何らかの生活の線は続いているのだ」と、トルツォフは説明した。

「どんな線ですか?」

「それは、学者に聞きなさい。

私たちは、これから、人に必要な小さな中断を含む線を、自然な、途切れない線と考えることにしよう」

授業の終わりに、アルカージー・ニコラーエヴィチは、必要なのは、こうした線が一本だけではなく、何本もあることを説明した。想像の設定、注意、対象、論理と順序、部分と課題、欲求、目標への衝動と行動、真実や信じる感覚の連続、感情の記憶、交流、適応、そして創造に必要な、その他の要素の線だ。

舞台上で行動の線が途切れれば、役も戯曲も公演も、止まったことになる。

心の生活を動かす力の線、たとえば思考、つまり知性の線に同じことが起きれば、人間である俳優は、台詞の言葉が語ることを思い描き、判断できなくなる。つまり、舞台上で役として何をし、何を言っているのか、理解できなくなる。

意志=感情の線が止まれば、人間である俳優も、その役も、望むことや、体験することをやめてしまう。

人間としての俳優と、人間としての役は、舞台上で、こうしたすべての線を、ほとんど途切れずに生きている。

これらの線が、演じる人物に生命と動きを与える。

それが途切れた途端、役の生活は止まり、麻痺するか、死んでしまう。

線が再び生まれると、役はまた生き返る。

このように、死んだり生き返ったりを繰り返すのは、不自然だ。

役には、絶えない生活と、ほとんど途切れない、その線が必要なのだ。

一九……年……月……日

「前の授業では、演劇にも、ほかの芸術と同じように、まず、途切れない一本の線が必要だと認めたね」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは話した。

「それが、どうつくられるか、見せようか?」

「ぜひ!」と、生徒たちは頼んだ。

「では、今日の朝を、目が覚めたときから、どう過ごしたか話しなさい」

そう言って、彼はヴュンツォフに尋ねた。

落ち着きのない青年は、おかしいほど真剣に集中し、問いに答えようと、一生懸命考えた。

しかし、注意を後ろへ、今日の過ぎた時間へ向けることができなかった。

助けるために、アルカージー・ニコラーエヴィチは、こう助言した。

「過去を思い出すときには、そこから現在へ向かって進むのではなく、反対に、現在を足場にして、思い出したい過去へ後戻りしてごらん。

後戻りのほうが簡単だ。特に、近い過去なら、なおさらだ」

ヴュンツォフは、どうやるのか、すぐにはわからなかった。そこで、アルカージー・ニコラーエヴィチが手を貸した。

彼は言った。

「今、私たちは、この教室で話しているね。

その前は、何をしていたかね?」

「着替えていました」

「その着替えは、小さな、独立した一つの過程だ。

その中には、小さな欲求や、目標へ向かう衝動、行動などの瞬間が含まれている。それらがなければ、そのときの課題を果たせない。

着替えは、君の記憶に、生活の短い線として残っている。

課題の数だけ、それを実行する過程があり、そのような、役の生活の短い線があるのだ。

たとえば、こうだ。

着替える前には、何があったかね?」

「フェンシングと体操の授業に出ていました」

「その前は?」

「食堂で煙草を吸っていました」

「さらに、その前は?」

「歌の授業に出ていました」

「それらはすべて、記憶に跡を残す、君の生活の短い線だ」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

こうして、さらに、さらに後戻りしながら、ヴュンツォフは、今日目を覚まし、一日が始まった瞬間までたどり着いた。

「目覚めた瞬間から今まで、今日の前半に君が生きた、生活の短い線が、長く連なった。

それらは、君の記憶に残っている。

もっとしっかり捉えるために、今やったことを、同じ順番で何度か繰り返しなさい」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは求めた。

それも実行されると、彼は、ヴュンツォフが今日の過ぎた時間を感じただけでなく、確かに捉えたと認めた。

「では、近い過去を思い出す同じ仕事を、今度は逆向きに、何度か繰り返しなさい。目が覚めた瞬間から始めて、今、体験している瞬間まで進むのだ」

ヴュンツォフは、この指示も、一度だけでなく、何度も実行した。

「では、教えてほしい」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは彼に尋ねた。「こうして思い出し、取り組んだことで、何かの跡が自分の中に残ったと感じないかね。今日の生活の、かなり長い線について、思考や感情、その他の形で、イメージができたという感覚だ。

その線を織り成しているのは、少し前に行った個々の行動や振る舞いの記憶だけではない。体験した感情、考え、感覚などの連なりも含まれている」

ヴュンツォフは、何を尋ねられているのか、なかなかわからなかった。

生徒たちも、私も、一緒になって説明した。

「振り返れば、よく知っている毎日の用事が、いつもの順序で、次々に入れ替わっていたことを思い出せるだろう。どうしてわからないんだい。

もっと注意を集中し、少し前のことをよく考えれば、今日の生活の、外側の線だけでなく、内側の線も思い出せるんだ。

それは、ぼんやりした跡を残して、引き裾みたいに、僕たちの後ろへ伸びているんだよ」

ヴュンツォフは黙っていた。

すっかり混乱したようだった。

アルカージー・ニコラーエヴィチは彼をそっとしておき、私に話しかけた。

「今日の生活の線の、前半をどう生き返らせるかは、わかったね。

では、まだ生きていない後半についても、同じことをしてみなさい」と、彼は私に求めた。

「この先、何が起こるかなんて、わかりません」と、私は戸惑った。

「そうかね?

私の授業の後には別の授業があり、その後、家へ帰って食事をすることも、わからないのかね?

夜の予定は、何もないかね。知人を訪ねる、劇場や映画、講演へ行くなど。

そのつもりが実現するかどうかは、わからない。でも、予想はできるね」

「もちろんです」と、私は認めた。

「それなら、今日の後半について、何らかの見通しがあるわけだ!

そこにも、先へ伸びる、途切れない未来の線を感じないかね。心配事や義務、喜びや嫌なことがあり、それを考えると、今の気分が上がったり下がったりするような線だ。

未来を見通すこの働きにも、動きがある。動きがあるところには、生活の線も形づくられる。

この先に待っていることを考えるとき、その線を感じるかね?」

「もちろん、先生の言う感覚はあります」

「その線を、先ほどの線につなぎ、現在も含めてごらん。朝、目覚めた瞬間から、夜眠るまで、途切れず伸びる、今日の過去、現在、未来を貫いた、大きな一本の線ができる。

生活の小さな線が集まって、一日全体の大きな、途切れない線になることが、わかったかね。

では、こう想像してごらん」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは説明を続けた。「一週間で、オセローの役を準備するよう任されたとしよう。

その間の生活は、この非常に難しい課題を、立派に果たすという一つのことに、集中すると思わないかね。

七日間、君はそれにすっかり捉えられ、この恐ろしい公演を切り抜けるという、ただ一つの心配事に支配されるだろう」

「もちろんです」と、私は認めた。

「今示した生活の中にも、先ほどよりさらに長い、オセローの準備に費やす一週間全体の、途切れない生活の線があると感じないかね?」と、トルツォフは問いかけた。

「一日や一週間の線があるなら、一か月、一年、さらには一生の線があってもよいだろう。

そうした大きな線も、多くの小さな線からできている。

どんな戯曲や役でも、まったく同じことが起こる。

そこでも、大きな線は、多くの小さな線からできている。舞台上でも、一日、一週間、一か月、一年、一生など、さまざまな時間の幅を覆うことができる。

現実には、生活そのものが、この線を織り上げる。戯曲では、真実に近い、作者の芸術的な想像がつくる。

ただし、作者は、役の生活全体について、切れ目なく線を引くのではない。大きな中断を挟みながら、部分的に示しているだけだ」

「なぜですか?」と、私はわからずに尋ねた。

「すでに話したね。劇作家が示すのは、戯曲や役の生活のすべてではなく、舞台へ持ち出され、そこで起きる瞬間だけだ。

戯曲の場所を表す舞台装置の外で起きていることの多くを、劇作家は描いていない。

舞台裏で起きたこと、つまり、俳優が舞台上で実行する、登場人物の行為を引き起こしたことについて、何も書いていない場合も多いのだ。

作者が印刷された戯曲の中でつくりきっていないことは、私たち自身が、想像によって補い、つくり上げなければならない。

そうしなければ、役を演じる俳優の『人間としての内面の生活』は、舞台上でつながらない。扱うのは、ばらばらの断片だけになる。

役として生きるためには、役と戯曲の生活に、ある程度途切れない線が必要だ。

役の生活の線に飛躍や抜けがあってはならないのは、舞台上だけでなく、舞台裏でも同じだ。

そうした抜けは、演じる人物の生活を断ち切り、空白の、死んだ箇所をつくる。

そこは、人間である俳優自身の、演じていることとは無関係な考えや感情で埋められる。

そして、個人の生活という、誤った方向へと、俳優を押しやるのだ。

たとえば、『燃やされた金』のエチュードを演じているとしよう。役の生活の線をうまく保ち、妻に呼ばれて、息子の入浴を眺めに食堂へ行く。

ところが、そこで知人に会う。遠方から着いたばかりで、口利きによって舞台裏へ入り込んできたのだ。

その知人から、親しい身内に起きた、とてもおかしな話を聞かされる。

笑いをこらえながら、君は、金が燃やされた場面と、『悲劇的な無為』の間を演じるために、舞台へ出ていく。

役の線にこんなものを挟んでも、役のためにも、君自身の助けにもならないことは、わかるだろう。

つまり、舞台裏でも、役の線を断ち切ってはいけないのだ。

しかし、多くの俳優は、舞台裏で、自分のためだけに役を演じることができない。

演じなくてもかまわない。その代わり、もし今日、自分が演じる人物の状況に置かれたら、どうするだろうと考えなさい。

この問いや、役に関わるほかの問いに答えることは、すべての俳優にとって、公演のたびに果たすべき務めだ。

そのために、俳優は劇場へ来て、大勢の観客の前に立つのだ。

今日、自分が答えるべき問いに答えずに、劇場を去ったなら、その俳優は務めを果たさなかったと考えるべきだ」

一九……年……月……日

アルカージー・ニコラーエヴィチは授業の初めに、全員、舞台へ行き、『マロレトコワの居間』で楽に座って、好きなことを話すよう指示した。

生徒たちは、丸テーブルのそばや、電球を取りつけた壁際に座らされた。

ラフマーノフがいちばん忙しく動き回っていたので、これは彼の新しい趣向なのだと、私たちは察した。

皆で話している間、舞台のあちこちで電球がついたり消えたりした。私は、話している人の近く、あるいは話題にされている人の近くで、灯りがつくことに気づいた。

たとえば、ラフマーノフが一言話すと、彼のそばの電球がついた。

テーブルの上にある物を思い出すと、テーブルの灯りがつく、といった具合だった。

一つだけ、説明のつかないことがあった。私たちの部屋の外、食堂や広間など、隣の部屋の灯りもつくことだ。

それは、この居間の外にあるものを示していたのだった。

たとえば、過去を思い出すと、廊下の電球がついた。今、この部屋の外で起きていることを話すと、食堂の電球がついた。

未来を思い描くと、『マロレトコワの家』の広間の電球が光った。

私は、灯りが途切れずにつくことにも気づいた。一つが消えるか消えないかのうちに、もう別の灯りがつくのだ。

トルツォフの説明によると、この点滅は、私たちの生活の中で、論理や順序に従って、あるいは偶然に、絶えず起きている、対象の移り変わりを示していた。

「公演で役を演じるときにも、同じことが起きなければならない」と、トルツォフは説明した。

「大切なのは、舞台上で対象が途切れずに移り変わり、一本の切れ目のない線をつくることだ。

その線は、ここ、舞台上、脚光のこちら側に伸びていなければならない。向こう側、客席へ逃げていってはいけない。

人間や役の生活とは、対象や注意の輪が、絶えず移り変わることだ。舞台上の、周囲の現実の生活へ、想像上の現実へ、過去の記憶へ、未来の空想へと移る。ただし、劇場の客席へは移らない。

この線が途切れないことは、俳優にとって極めて重要だ。君たちは、それを自分の中で強めなければならない。

では、灯りを使って、俳優の生活の線が、役全体にわたって、どう途切れずに伸びるべきかを見せよう。

君たちは客席へ移りなさい」と、彼は私たちに言った。「イヴァン・プラトーノヴィチは、照明の操作室へ上がって、私に合わせて灯りをつけたり消したりしてほしい。

これから演じるのは、こんな芝居だ。

今日は、ここで競売が開かれる。

レンブラントの絵が二点、売りに出される。

買い手を待つ間、私は絵画の専門家と丸テーブルのそばに座り、絵にいくらの値をつけて発表するか、相談している。

そのため、こちらの絵、あちらの絵と、交互に見る必要がある」

部屋の両側の電球が交互についたり消えたりし、その間、トルツォフの手元の灯りは消えていた。

「ここの絵を、国内や外国の美術館にある、レンブラントのほかの傑作とも、頭の中で比べなければならない」

美術館の絵を想像していることを示す、玄関の電球が、居間にあることになっている二枚の絵を示す壁の電球と交互に、ついたり消えたりした。

「入口のそばで、今ついた、薄暗い電球が見えるかね?

小口の買い手たちだ。

注意を引かれたので迎えるが、熱は入らない。

『こんな客ばかりでは、絵の値段は上がらないぞ!』と、私は心の中で考えている。

その考えに没頭し、誰も、何も、目に入らない」

それまでの灯りがすべて消え、上からトルツォフに、小さな注意の輪を示す、動く光が当たった。アルカージー・ニコラーエヴィチが、落ち着かず部屋を歩き回るのに合わせ、光も移動した。

「見なさい! 舞台も奥の部屋も、新しくつく電球でいっぱいだ。今度は、大きいものばかりだ。

外国の美術館の代表者たちだ。

もちろん、私は特別にうやうやしく迎える」

その後、アルカージー・ニコラーエヴィチは、出迎えと、競売そのものを演じて見せた。

有力な買い手同士の激しい争いが始まると、彼の注意は、ひときわ鋭くなった。争いは、最後には大騒動となり、光の乱舞によって表された……。

大きな電球が、一斉に、あるいは別々に、ついたり消えたりし、花火の最後の盛り上がりのような、美しい光景をつくった。

どこに目を向ければよいか、迷うほどだった。

「舞台上で、途切れない生活の線がどうできるか、示せただろうか?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは尋ねた。

ゴヴォルコフは、トルツォフが証明したかったことは、証明できていないと主張した。

「先生は、まったく逆のことを証明したんですよ。

灯りの実演が示したのは、線が途切れないことではなく、絶えず飛び移っていることです」

「私には、そうは見えない。

俳優の注意は、一つの対象から別の対象へ、絶えず移っている。

この絶え間ない対象の交代が、途切れない線をつくるのだ。

もし俳優が、たった一つの対象につかまり、一幕、あるいは戯曲全体を通して、離れずにしがみついていたら、動きの線は生まれない。たとえ線ができても、それは先ほど言った、精神を病んだ人の『固定観念』の線になってしまう」

生徒たちはアルカージー・ニコラーエヴィチを支持し、彼の考えは、目に見える形で十分に説明されたと認めた。

「それなら、よかった!」と、彼は言った。

「舞台上では、いつもこうあるべきだという姿を、見せたのだ。

比較のために、舞台上で俳優によく起きている、しかし、決して起きてはいけないことを思い出しなさい。

以前、同じ電球を使って示したね。

舞台上では、たまにしか灯りがつかず、客席では、ほとんど途切れずについていた。

俳優の生活と注意が、舞台ではほんの一瞬だけ生き返り、その後、長く止まって、客席や劇場の外へ移ってしまう。そんなことが、自然だと思うかね?

そして、また戻ってきたかと思えば、再び長いこと、舞台から消えてしまうのだ。

そんな演技では、舞台上の俳優の生活の、ごくわずかな瞬間しか役に属していない。それ以外の時間は、役とは無縁だ。

異質な感情が混ざり合った、そんなものは、芸術には必要ない。

だから、心の生活を動かす力の一つひとつ、そして各要素について、舞台上で、ある程度途切れない線をつくることを学びなさい」

第14章 舞台上での内面の状態

一九……年……月……日

今日は、いつもの授業ではなく、掲示のある授業だった。

アルカージー・ニコラーエヴィチは話した。

「生まれたばかりの、心の生活を動かす力の線は、どこへ向かうのだろう?

ピアニストは、同じように芸術的な高まりを感じるとき、感情を注ぎ出し、創造を存分に広げるため、どこへ向かうだろう?

ピアノへ、自分の楽器へだ。

画家なら、同じとき、どこへ駆け寄るだろう?

画布や筆、絵の具へ。つまり、創造の道具へだ。

俳優は、もっと正確には、俳優の心の生活を動かす力は、どこへ駆けつけるだろう?

それが動かす相手へだ。つまり、俳優の心と体の本性、その内面の要素へ向かう。

知性、意志、感情は号令をかけ、それぞれの力や気質、説得力で、内なる創造の力をすべて動員する。

眠りに沈んでいた陣営が、進軍の合図で突然目覚めるように、俳優の心の力も、一斉に起き上がり、急いで創造への出陣を準備する。

無数の想像上の設定、注意や交流の対象、課題、欲求、行動、真実や信じる感覚の瞬間、感情の記憶、適応が、長い列をつくる。

心の生活を動かす力は、その列の間を通り、要素を目覚めさせ、自らも、それによって、いっそう創造の熱気をかき立てられる。

それだけではない。要素から、それぞれが本来持つ性質の一部も受け取る。

そのため、知性、意志、感情は、いっそう積極的に、力強く働くようになる。

想像による設定は、戯曲をもっと本当らしくし、課題をもっと確かなものにして、それらの力を、さらにかき立てる。

こうして、心を動かす力も各要素も、役の中の生活の真実を、よりよく感じ、舞台上の出来事が、現実にも起こりうると信じやすくなる。

すべてが合わさって、体験と、舞台上の登場人物たちと交流したい欲求を生む。そのためには、適応が必要になる。

要するに、心の生活を動かす力は、通り抜ける要素の列から、あらゆる調子、色合い、微妙な変化、気分を受け取る。

その内面の内容が、力の中に染み込んでいくのだ。

一方、心の生活を動かす力も、要素の列へ、自分自身のエネルギーや力、意志、感情、思考を伝えるだけではない。自分が持ってきた、役や戯曲の断片も渡す。作者の作品に初めて触れたとき、心を奪われ、創造へと駆り立てられた、あの断片だ。

役の心の、最初の芽を、要素へ接ぎ木するのだ。

その芽から、演じ手の心の中に、俳優と役が一体になった感情が、少しずつ育つ。

こうして、要素は整然とした部隊のように、心の生活を動かす力に率いられ、前へ進む」

「どこへ向かうのですか?」と、生徒たちは尋ねた。

「どこか、遠くへ……。

戯曲の想像上の設定、与えられた状況、魔法の『もしも』が、かすかにほのめかし、呼び寄せるところへだ。

創造上の課題に引かれるほうへ、役の内なる欲求や衝動、行動に押されるほうへ向かう。

交流の対象、つまり戯曲の登場人物たちが、それらを引き寄せる。

舞台上や作者の作品の中で、自然に信じられるもの、すなわち芸術的な真実へ向かうのだ。

注意しなさい。こうした、心を引くものはすべて、舞台上、脚光のこちら側にある。客席にはない。

要素の列が進むほど、それぞれの向かう線は、いっそう密接に結びつき、ついには、一つの共通の結び目をつくるようになる。

俳優と役を成り立たせるすべての要素が、共通の方向へ向かって一つになることで、舞台上の俳優に、非常に重要な内面の状態が生まれる。それを、私たちの言葉では……」

アルカージー・ニコラーエヴィチは、目の前に掛かる掲示を指した。そこには、こう書かれていた。

「舞台上での内面の状態」

「どういうことですか!」と、ヴュンツォフはおじけづいた。

「簡単だよ」と、私は、自分の理解を確かめるためにも、彼へ説明し始めた。「心の生活を動かす力と要素が、俳優と役に共通する一つの目標に向かって結びつくんだ。

そうですね?」

「そのとおり。ただし、二点、訂正がある。

第一に、基本となる一つの共通の目標は、まだ遠くにある。それを、これから力を合わせて探し求めるために、結びつくのだ。

第二の訂正は、用語についてだ。

これまでは、約束として、俳優の能力や資質、才能、生まれ持ったもの、さらには心理技法の一部の方法まで、単に『要素』と呼んできた。

それは、仮の呼び名にすぎなかった。

内面の状態について話すには、まだ早かったので、そう呼ぶことにしていたのだ。

しかし、今、その言葉を口にしたので、本当の呼び名を伝えよう。

『舞台上での内面の状態を構成する要素』だ」

「要素……舞台上での……内面の状態……。

舞台上での……内面の……状態……」

ヴュンツォフは、難しい言葉を頭へ押し込もうとしていた。

「さっぱりわからない!」と、ついに言い、深いため息をつき、手を振ってあきらめ、やけになって髪をかき乱した。

「難しく考えることはない!

舞台上での内面の状態とは、ほとんど、普通の人間の状態そのものだ」

「『ほとんど』ですか?」

「普通の状態より、よくもあり、同時に……悪くもある」

「なぜ、悪いのですか?」

「人前で創造する条件が不自然なために、舞台上の状態には、普通の人間の状態にはない、劇場や舞台の、自分を見せようとする味わいが、少し混じるからだ。

だから、舞台上の俳優の状態を、単に内面の状態とは呼ばず、『舞台上での』という言葉を加えているのだ」

「では、普通の状態より、どこがよいのですか?」

「現実の生活では知らない、『人前での孤独』という感覚があることだ。

これは、すばらしい感覚だ。

以前、君たちは、空の劇場や自宅の部屋で、相手役と二人きりで長く演じていると、退屈だと打ち明けたね。

そのとき私たちは、そんな演技を、絨毯や布張りの家具がいっぱいで音が響かない部屋で歌うことに、たとえた。

しかし、観客で満ちた劇場では、何千もの心が俳優の心と同じ拍で打ち、私たちの感情に、すばらしい共鳴と響きをつくってくれる。

舞台上で本当に体験する、その一瞬一瞬に応えて、客席から反応や共感、心の寄り添いが返ってくる。私たちと一緒に公演をつくる、心を動かされた千人の、生きた人々からの、目に見えない流れだ。

観客は、俳優を圧迫し、怖がらせるだけではない。本当の創造のエネルギーを呼び起こすこともできる。

そのエネルギーは、俳優に、豊かな心の温かさと、自分自身、自分の芸術の仕事への信頼を与える。

満員の客席から、千もの人の心が応えてくるのを感じることは、人間に味わえる、この上ない喜びをもたらす。

つまり、人前での創造は、一方では俳優を妨げ、他方では助けるのだ。

残念ながら、こうした正しい、ほとんど完全に自然な人間の状態が、舞台上でひとりでに生まれることは、めったにない。

まれに、そんな恵まれた公演や、その中の一場面に出会うと、俳優は楽屋へ戻って、『今日は、演技がひとりでに出てくる!』と言う。

つまり、偶然、舞台上で、ほとんど普通の人間の状態を見つけたのだ。

そのような特別な瞬間には、俳優の創造の仕組み全体、その各部分、いわば内側の『ばね』や『ボタン』、『ペダル』のすべてが、見事に働く。日常生活とほとんど同じか、それ以上によく働くのだ。

このような、舞台上での内面の状態は、私たちにどうしても必要だ。本当の創造が行えるのは、その状態にあるときだけだからだ。

だからこそ、私たちは、舞台上での内面の状態を、とりわけ高く評価するのだ。

これこそ、創造の過程の中で、各要素を磨いてきた、大きな目的の一つだ。

以前は『アポロンからの贈り物』として、偶然にしか訪れなかった、舞台上での内面の状態を、自分の意志でつくり出せる心理技法がある。それは、なんと幸せなことだろう。

だから、今日の授業も、お祝いの言葉で終える。君たちは今日、学校での取り組みの、非常に重要な段階を知った。舞台上での内面の状態を、知ったのだ」

一九……年……月……日

「舞台上で、正しい内面の状態ができないとき、残念ながら、それは非常によくあることだが」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは話した。「俳優は楽屋へ戻り、『気分が乗らない。今日は演じられない!』と訴える。

これは、俳優の心の創造の仕組みが、うまく働いていないか、まったく動いていないことを意味する。その代わりに、機械的な習慣、型どおりの大げさな演技、決まりきった型、職人的な手つきが支配しているのだ。

何が、そんな状態を引き起こすのだろう?

舞台の開口部の黒い穴を怖がり、内面の状態を構成する要素が、全部乱れたのかもしれない。

あるいは、役ができていないまま観客の前へ出て、語る言葉も、自分の行動も信じられなかったのだろうか。

そのため、迷いが生じ、内面の状態が揺らいだのだろうか。

もしかすると、ただ怠けて、創造にふさわしい準備をせず、よく仕上がっていた役を、新鮮にし直さなかったのかもしれない。

それは、毎回、公演の前に必ず行う必要があるのだ。

その代わりに、舞台へ出て、役の形を外側から見せていた。

それが、厳密に定めた譜面に従い、『再現の芸術』の完成された技術で行われていたなら、まだよいだろう。

そうした仕事は、私たちの芸術の方向ではなくても、なお創造と呼べる。

しかし、体調の悪さや、単なる怠慢、不注意、個人的な心配事や不愉快な出来事に気を取られ、公演の準備をしなかっただけかもしれない。

あるいは、ほかに何もできないため、役の台詞をまくしたて、観客を楽しませようと身振りをこね回すことに慣れた、『俳優』の一人なのかもしれない。

今挙げたすべての場合に、内面の状態を構成する要素の組み合わせ、選び方、質は、それぞれ違った仕方で、誤っている。

一つひとつを、別々に調べる必要はない。

共通する結論を出せば十分だ。

ご存じのとおり、人間である俳優は、千人の観客の前へ出ると、恐怖、気後れ、恥ずかしさ、責任、困難のために、自分を見失うことがある。

そんなときには、人間らしく話す、見る、聴く、考える、望む、感じる、歩く、行動することが、できなくなる。

観客の機嫌を取り、舞台から自分を見せ、喜ばせるための大げさなしぐさで自分の状態を隠そうとする、落ち着かない欲求が生まれる。

そうした瞬間、俳優の要素は、ばらばらになり、別々に生き始めるようだ。注意のための注意、対象のための対象、真実を感じるためだけの真実の感覚、適応のための適応、という具合だ。

もちろん、これは自然な状態ではない。

人間である俳優にとって自然なのは、現実の生活と同じように、人間の状態をつくる要素が、切り離せないことだ。

創造の瞬間、正しい舞台上の内面の状態でも、要素は同じように、切り離せないものであるべきだ。その状態は、日常のものと、ほとんど違わないのだから。

舞台上で俳優が正しい状態にあるときには、実際、そうなっている。

困るのは、創造の条件が普通ではないために、舞台上の状態が不安定なことだ。

少し乱すと、すぐに要素が共通の結びつきを失い、それぞれ、単独で、自分のためだけに生き始める。

すると俳優は、舞台上で行動していても、役に必要な方向へは向かわず、ただ『行動する』ために行動する。

交流しても、戯曲が求める相手ではなく……観客を楽しませるため、観客と交流する。適応しても、役に通じる自分の考えや感情を、相手役へよりよく伝えるためではなく、演技の技術の繊細さを見せびらかすために、適応するのだ。

こうして、俳優が演じる人物は、最初は、役を一人の人間として生かすために必要な、ある内面の性質を欠き、やがて、そうした性質をすべて欠いたまま、舞台を歩くようになる。

つくりきれていない人物の中には、自分のしていることに真実を感じず、信じてもいない者がいる。話していることへ、人間に必要な注意を向けていない者もいる。対象が抜け落ちて、本当に交流する意味も可能性も失っている者もいる。

だから、舞台上につくられた、こうした歪んだ人物の行動は、死んでいるのだ。そこには、生きた人間の表象も、心の中の映像も、欲求や衝動も感じられない。それらがなければ、俳優の心に、意志=感情そのものも生まれない。

同じような欠落が、外側の、身体の本性にあって、目に見えたら、どうだろう。舞台上につくられた人物が、耳も、指も、歯もないまま歩いていたら?

そんな欠落を、簡単には受け入れられないだろう。

しかし、内面の本性の欠落は、目には見えない。

観客はそれを意識せず、ただ無意識に感じるだけだ。

はっきりわかるのは、私たちの仕事に精通した、鋭い専門家だけだ。

だから、普通の観客は、『何もかもよさそうなのに、引き込まれない!』と言う。だから、そういう演技には反応せず、拍手せず、二度目の公演を見に来ないのだ。

こうした歪みや、さらに悪い歪みは、舞台上で絶えず私たちを脅かし、舞台上の状態を不安定にする。

それだけではない。誤った状態は、予測もできないほど、簡単に、素早く生まれるので、危険はいっそう大きくなる。

正しくできた舞台上の内面の状態へ、たった一つ、誤った要素を入れるだけで、それが、同じように誤ったほかの要素を引き連れ、創造を可能にする心の状態を歪めてしまう。

確かめてごらん。舞台上で、すべての部分が、調和したオーケストラのように協力して働く状態をつくりなさい。その正しい要素の一つを、誤ったものに置き換えて、どんな不協和が生まれるか見てみなさい。

たとえば、役を演じる人が、自分では信じられない想像上の設定をつくったとしよう。

そうすれば、必ず自己欺瞞と嘘が生まれ、正しい状態を乱す。

ほかの要素でも、同じことが起こる。

あるいは、俳優が舞台上で対象に目を向けていても、それを見ていないとしよう。

すると、注意は、戯曲や役に必要なものへ集中しない。無理に押しつけられた、正しい舞台上の対象を避け、誤っていても、もっと興味深く、心を揺さぶる対象へ向かう。客席の観客や、想像の中の、舞台の外の生活へだ。

こうした瞬間、俳優には、機械的な『見る行為』が生まれ、それが見せかけの演技を呼び、内面の状態全体を歪める。

あるいは、人間としての役の、生きた課題を、俳優の死んだ課題へ置き換えてみなさい。観客に自分自身を見せたり、役を利用して、自分の気質の強さを自慢したりするのだ。

こうした誤った要素を、どれか一つでも、正しい舞台上の状態へ入れた瞬間、ほかのすべてが、一度に、あるいは少しずつ変質する。真実は約束事や俳優の技術的な手口に変わり、自分の体験や行動が本物だという信頼は、職人的な技と、慣れた機械的行動への信頼に変わる。人間としての課題、欲求、衝動は、俳優の仕事上のものに変わる。想像による設定は消え、現実の日常、つまり、約束事どおりの上演、芝居、公演、悪い意味での『演劇』に取って代わられる。

では、こうした歪みを全部合わせてみよう。注意の対象は脚光の向こう側。真実の感覚は無理に曲げられ、感情の記憶は生活のものではなく演劇的なもの。そこに、死んだ課題が加わる。しかも、そのすべてが、芸術的な想像の空気の中ではなく、俳優の現実の日常、公演の不自然な条件の中に置かれ、そんな場合に避けられない、強い筋肉の緊張まで加わるのだ。

こうした『要素』が集まって、誤った舞台上の状態ができる。そこでは、役を生きて体験することも、創造することもできない。できるのは、職人的に見せ、身振りをこね回し、楽しませ、人物像の偽物をつくり、真似して見せることだけだ。

音楽でも、同じことが起きないかね。

一つの外れた音が、調和した和音を壊し、美しい響きを奪い、協和を不協和に変え、ほかの音まですべて、外れて聞こえるようにする。

誤った音を直せば、和音は再び、正しく響く。

今日挙げたどの場合にも、まず歪みが生まれ、その後、俳優の誤った舞台上の状態ができる。それを、私たちの言葉では、『職人的な、俳優的な状態』と呼ぶのだ。

君たちのような、経験と技術のない初学者や生徒は、舞台上で、この誤った心の状態に支配されることが、最も多いのだ。

そこから、さまざまな型どおりの演技が生まれる。

正しい、自然な、人間らしい状態は、本人の意志とは関係なく、偶然にしか生まれない」

「でも、舞台には一度しか立っていないのに、どうして職人的な癖があるのですか?」と、私や、ほかの生徒たちは反論した。

「それには、確か、君自身の言葉で答えよう」と、彼は私を指した。

「最初の授業で、仲間の生徒を前に、ただ舞台上で座るように言ったのに、君が大げさな演技を始めたことを覚えているかね。そのとき、こんな言葉が漏れたね。『不思議だ。舞台には一度立っただけで、それ以外は、ずっと普通に暮らしてきたのに、舞台では、自然に生きるより、演じて見せるほうが、ずっと楽だ』と。

その秘密は、舞台そのもの、人前で創造する条件の中に、嘘が隠れていることにある。

それを、ただ受け入れてはいけない。絶えず闘い、うまくかわし、気にならなくする力が必要だ。

舞台の嘘は、舞台上で、真実と絶えず闘っている。

では、嘘から自分を守り、真実を強めるには、どうすればよいのだろう?

次の授業では、この問題を考える」

一九……年……月……日

「では、次の問題を解いていこう。一方では、大げさなしぐさや見せかけの演技しかできない、誤った職人的な、俳優的な状態から、舞台上の自分をどう守るか。もう一方では、本当の創造ができる、正しい、人間らしい内面の状態を、舞台上でどうつくるかだ」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは、今日の授業の内容を示した。

「二つの問題は、同時に解ける。一方は、もう一方を排除するからだ。正しい状態をつくれば、それによって誤った状態が消える。逆も同じだ。

二つのうち、最初の問題が、より重要なので、それについて話そう。

日常生活では、心の状態は、どれも自然に、ひとりでにできる。

内側と外側の生活の条件を考えれば、その状態は、いつも、それなりに正しいものだ。

舞台上では反対だ。人前で創造する不自然な条件の影響で、ほとんどいつも、誤った俳優的な状態が生まれる。

普通の人間の状態に近い、自然な状態ができるのは、まれに、偶然にだけだ。

では、正しい状態が、舞台上でひとりでに生まれないときには、どうすればよいだろう?

現実でいつも味わっているのと、ほとんど同じ、自然な人間の状態を、人為的につくる必要がある。

そのために、心理技法が必要なのだ。

それは、正しい状態をつくり、誤った状態を取り除く助けになる。

俳優を役の空気の中にとどめ、舞台の開口部の黒い穴や、客席へ引かれる力から守ってくれる。

では、この過程は、どう行うのだろう?

俳優は皆、公演前に顔を化粧し、体に衣装をつけ、外見を、演じる人物へ近づける。しかし、いちばん大切なことを忘れている。役の『人間としての内面の生活』をつくるために、心を準備すること、いわば、心にも『化粧をし、衣装をつける』ことだ。それを、公演のたびに、まず自分で生きて体験するのが、俳優の務めなのに。

なぜ、そうした俳優は、体だけに、これほど特別な注意を払うのだろう?

舞台上で創造する主役は、体なのだろうか。

なぜ、俳優の心には、『化粧』をせず、『衣装』をつけないのだろう?」

「心には、どうやって化粧をするのですか?」

生徒たちは、そう尋ねた。

「心を整え、役へ向けて内側から準備するとは、こういうことだ。多くの人のように直前ではなく、大きな役なら開演の二時間前に楽屋へ入り、舞台へ出る準備をするのだ。

どうやってだろう?

彫刻家は、つくり始める前に粘土をこねる。歌手は、歌う前に声をならす。私たちも、演技の準備をする。いわば、心の弦を調律し、内側の『鍵盤』や『ペダル』、『ボタン』、創造の仕組みを動かす各要素や鳥寄せ笛を、確かめるのだ。

この仕事は、『訓練と反復稽古』の授業で、よく知っているね。

練習は、筋肉を緩めることから始まる。それがなければ、その先へ進めない。

それから……。

思い出しなさい。

対象は、この絵だ!

何が描かれているかね?

大きさは?

色は?

遠い対象を選びなさい!

小さな注意の輪は、自分の足元まで、あるいは自分の胸の内側までにとどめる。

身体的な課題を考えなさい!

まず一つ、次に別の想像上の設定で、その理由をつくり、生命を与えなさい!

行動に真実を感じ、信じられるところまで進みなさい。

魔法の『もしも』、与えられた状況などを考えるのだ。

こうして、すべての要素をほぐしたら、そのうちの一つに取りかかる」

「どれですか?」

「どれでもかまわない。創造するそのとき、自分にいちばんしっくりくるものだ。課題、『もしも』や想像上の設定、注意の対象、行動、小さな真実と、それを信じることなどだ。

その一つを働かせることができれば、ほかの要素も、すでに生き始めたものについてくる。ただし、『だいたい』でも、おおよそでも、形だけでもいけない。内実において、最後まで、十分に正しく働かせるのだ。

心の生活を動かす力と要素には、一緒に働こうとする自然な傾向があるので、そうなるのだ。

誤った俳優的な状態では、一つの誤った要素が、ほかのすべてを引き連れるね。ここでも同じように、十分に生きた一つの正しい要素が、ほかの正しい要素をすべて仕事へ呼び起こし、正しい舞台上の内面の状態をつくる。

鎖のどの輪を持ち上げても、ほかの輪は全部、それについてくる。

内面の状態の要素も、同じだ。

無理に歪めさえしなければ、私たちの創造の本性は、なんと見事にできていることだろう!

すべての部分が一つに結びつき、互いに依存しているのだ!

この性質は、慎重に利用しなければならない。

だから、正しい舞台上の状態に入るには、創造の仕事を繰り返すたびに、毎回、よく、注意深く準備する必要がある。稽古でも、公演ならなおさらだ。要素をほぐし、それらから正しい状態をつくるのだ」

「毎回ですって?」と、ヴュンツォフは驚いた。

「それは難しい!」と、生徒たちも同調した。

「君たちは、無理に歪めた要素で行動するほうが、楽だと言うのかね?

部分も課題も対象も、真実の感覚も、それを信じることもないほうが?

はっきりした、心を引く目標へ向かう、正しい欲求や衝動、納得できる魔法の『もしも』、説得力のある与えられた状況は、君たちの邪魔になるのかね。逆に、決まりきった型や見せかけの演技、嘘が助けになるので、それらと別れたくないというのかね?

違う!

すべての要素を一度に結びつけるほうが、楽で自然だ。要素そのものに、そうなろうとする自然な傾向があるのだから、なおさらだ。

私たちの体は、手も脚も心臓も腎臓も胃も、全部が同時に必要なようにできている。

その一つを取り去られ、代わりにガラスの目や人工の鼻、耳、義手、義足、義歯を入れられたら、とてもつらいことだろう。

なぜ、俳優の内なる創造の本性や、その役については、同じことを認めないのかね。

そこにも、構成する有機的な要素がすべて必要で、決まりきった型という代用品は、邪魔になるのだ。

正しい状態をつくるすべての部分が、十分に作用し合い、協力して働けるようにしなさい。

切り離され、それだけで、それ自体のためにある注意の対象など、誰が必要とするだろう?

対象が生きるのは、心を引きつける想像上の設定の中だけだ。

しかし、生活があるところには、それを構成する部分があり、部分があれば課題がある。

心を引く課題は、自然に欲求や衝動を呼び、それが行動へと至る。

しかし、誤った、嘘の行動は、誰にも必要ない。だから真実が必要で、真実があれば、それを信じることもある。

すべての要素が合わさって、感情記憶を開き、感情が自由に生まれ、『情念の真実』がつくられるようにする。

それが、注意の対象、想像上の設定、部分と課題、欲求、衝動、行動、真実と信じることなどなしに、できるだろうか。

こうして、終わりなく繰り返す『白い子牛のお話』のように、また最初へ戻る。

自然が結びつけたものを、君たちが切り離してはいけない。

自然に逆らい、自分を歪めないことだ。

自然には、それ自身の要求、法則、条件がある。それらを破ってはいけない。よく学び、理解し、守らなければならない。

だから、創造の仕事を繰り返すたびに、毎回、すべての練習を行うことを忘れないように」

「でも、失礼ですが」と、ゴヴォルコフは議論を始めた。「それでは、一晩に一回ではなく、二回も公演をしなければならないでしょう!

最初は、楽屋での準備中、自分のために。二回目は、舞台上で、観客のためにです」

「いや、そんなことをする必要はない」と、トルツォフはなだめた。

「公演の準備では、役やエチュードの基本となる瞬間、戯曲の主要な段階に、少し触れれば十分だ。すべての課題や部分を、最後まで展開する必要はない。

ただ、自分に尋ねてみなさい。今日、今、この役の、この箇所に対する自分の態度を、信じられるだろうか。

この行動を、感じられるだろうか。

想像上の設定の、ごく小さな細部を、変えたり補ったりする必要はないだろうか。

公演前のこうした練習は、いわば『試し書き』だ。表現の仕組みの点検、内なる創造の楽器の調律、役の譜面と、俳優の心を構成する要素の確認にすぎない。

説明した仕事ができる段階まで役が熟していれば、創造を繰り返すたびの準備も、楽に、比較的短時間で進む。

困るのは、俳優の持ち役がすべて、そこまで完成するわけではないことだ。譜面を完全に自分のものにし、心理技法を使いこなし、自分の芸術の創造者となる、その段階までは熟していないことが多いのだ。

そういう条件では、公演の準備は難しくなる。

しかし、だからこそ、いっそう必要となり、そのつど、さらに多くの時間と注意を求めるのだ。

俳優は、創造している最中だけでなく、その前にも、公演だけでなく、稽古や自宅での仕事でも、絶えず正しい状態を整えなければならない。

正しい舞台上の内面の状態は、役がまだ固まっていない初めのうちも、後に、役が使い古されて鮮やかさを失ったときも、不安定だ。

いつも揺れ動き、絶えず操縦を必要とする、空中で釣り合いを保つ飛行機のような状態にある。

経験を積めば、操縦士のこの仕事は、自動的になり、大きな注意を払わなくてもできるようになる。

私たちの仕事でも、同じことが起きる。

内面の状態の要素には、絶え間ない調整が必要だが、やがて、それも自動的にできるようになる。

例を挙げよう。

俳優が舞台上で創造し、すばらしい状態にあるとしよう。

自分を十分にコントロールできていて、役から離れずに、自分の状態を点検し、その構成要素を一つずつ見ることができる。

すべてが、互いを助けながら、正しく働いている。

ところが、わずかな歪みが起きた。俳優は、すぐに『目を心の内へ向け』、どの要素が誤って働き始めたのかを探る。

誤りがわかると、それを直す。

その際、自分を二つに分けるのは、少しも難しくない。一方では誤りを直し、もう一方では役を生き続けるのだ。

『俳優は舞台上で生き、泣き、笑う。しかし、泣き、笑いながら、自分の笑いと涙を観察している。

この二重の生活、生きることと演じることの釣り合いの中に、芸術があるのだ』」

一九……年……月……日

「舞台上での内面の状態とは何か、それが、心の生活を動かす力や各要素から、どうできるかは、もうわかったね。

では、その状態がつくられる瞬間の、俳優の心の中へ入ってみよう。

役をつくる過程で、そこに何が起きるか、たどってみよう。

最も難しく複雑な人物像、シェイクスピアのハムレットに取り組み始めたとしよう。

何にたとえられるだろう?

巨大な山だ。

その内部の豊かさを知るには、隠れた貴金属、宝石、大理石、燃料の鉱床を調べ、山の泉の鉱泉水の成分を知り、自然の美しさを味わわなければならない。

そんな課題は、一人では果たせない。

ほかの人の助け、複雑な組織、資金、時間などが必要だ。

初めは、近づきがたい山を麓から見上げ、周囲を歩き、外側から調べる。

それから岩を削って階段をつくり、上へ登る。

道を通し、トンネルを抜き、穴を掘って坑井をつくり、坑道を掘り、機械を据え、労働者の組を集める。そして調査を進め、さまざまな兆候から、この険しい山の中に、計り知れない宝が隠れていると確信する。

奥深く入るほど、得られるものは豊かになる。

高く登るほど、見渡す世界の広さと、自然の美しさに驚かされる。

底知れない谷を見下ろす崖に立つと、はるか下に花咲く谷が広がっているのが、かすかに見える。その色彩の豊かな組み合わせに、目を見張る。

そこへ、高いところから、小川が水の蛇のように流れ下る。

谷をうねり、日に輝いている。

さらに向こうには、森に覆われた山がある。上のほうは草に覆われ、さらに上では、白い切り立った岩になる。

その岩の上で、太陽の光や、反射した光が走り回り、戯れている。

空を速く流れる雲の影が、その光を、たびたび横切る。

もっと高いところには、雪山がある。

いつも雲に包まれ、遠い、地上を離れたその空間で何が起きているのか、わからない。

突然、山の人々が慌ただしく動き始めた。

皆、どこかへ駆け出す。

喜びに沸き、『金だ、金だ! 鉱脈を見つけたぞ!』と叫んでいる。仕事が一気に活気づき、あちこちで岩を掘り始める。

しかし、時が過ぎると、掘る音がやみ、すべてが静かになる。労働者たちは、黙って肩を落とし、別の場所へ、どこか遠くへ向かう……。

鉱脈を見失ったのだ。莫大な労力が無駄になり、期待は裏切られ、気力は落ちた。調査の専門家たちも途方に暮れ、この先どうすればよいかわからない。

それでも時がたつと、上のほうから、また喜びの声が聞こえる。

人々はそこへ登り、岩を掘り、ざわめき、歌う。

しかし今度も、その熱意は空振りに終わり、金は見つからなかった。

深い内部から、地鳴りのように掘る音と、同じ喜びの声が響いてくるが、それも、やがて静まる。

それでも山は、探究心が強く、粘り強い人々から、宝を隠し通すことはできなかった。

人間の仕事は実を結び、鉱脈が見つかったのだ。

掘る音が再び響き、労働者の楽しげな歌が沸き上がる。山のあちこちで、人々が元気よく、どこかへ向かう。

もう少しで、最も貴い金属の、豊かな鉱床が見つかるだろう」

短い間の後、アルカージー・ニコラーエヴィチは続けた。

「天才シェイクスピアの、ハムレットについての偉大な作品には、金を含む山のように、数えきれない宝、つまり心の要素と、それ自身の鉱石、つまり作品の思想が隠れている。

そうした宝は、極めて繊細で、複雑で、捉えにくいものだ。

役や俳優の心の中から、それを掘り出すのは、地中の鉱床を掘るより難しいのだ。

初めは、作者の作品も、金を含む山と同じように、外側から眺め、その形を調べる。

それから、精神の宝が隠れた、深い場所へ入り込む道や方法を探す。

ここにも『掘削孔』や『トンネル』、『坑道』が必要だ。課題、欲求、論理、順序などだ。『労働者』、つまり創造の力や要素も必要だ。『技師』、つまり心の生活を動かす力も要る。それにふさわしい『気分』、すなわち舞台上での内面の状態も必要だ。

創造の過程は、俳優の心の中で、何年も沸き立ち続ける。昼も夜も、自宅でも、稽古でも公演でも。

その仕事の性質は、『創造の喜びと苦しみ』という言葉で、最もよく表される。

役と自分自身の中に、金の鉱脈や鉱石が見つかると、私たち俳優の心にも、『大きな歓喜』が起こる。

役に取り組む、その一瞬一瞬に、創造する人の心身全体に、深く、複雑で、強く、長く続き、安定した、舞台上での内面の状態が生まれる。

本当の創造や芸術について語れるのは、こうした状態にあるときだけだ。

しかし残念ながら、これほど深い状態は珍しく、偉大な俳優に見られるものだ。

それより、はるかによくあるのは、浅く、深まりのない心の状態で、役の表面を滑ることしかできないまま、俳優が創造している場合だ。

そのとき、創造する人は、戯曲を山に見立てれば、その中に数えきれない宝が隠れていることには関心を持たず、のんきに山を散歩しているようなものだ。

そんな浅い、表面的な状態では、作者の作品の心の深みは開けない。外側の美しさを知るだけだ。

残念ながら、舞台で創造する人々の、内面の状態として最もよく出会うのは、こうした深まりに欠けるものだ。

もし私が、舞台へ行き、そこにはない紙切れを探すよう求めたなら、君たちは、与えられた状況や『もしも』、想像上の設定をつくらなければならない。舞台上の内面の状態を構成する、すべての要素を目覚めさせる必要がある。

その助けがあって初めて、日常で紙切れを探すという単純な課題を、どう実行するかを、改めて思い出し、知り、感じられるのだ。

そのような小さな目標なら、必要な舞台上の状態も、小さく、深くなく、短いものだ。

技術をよく身につけた人なら、一瞬でその状態に入り、行動を終えると、同じように一瞬で終わる。

課題と行動に応じて、舞台上での内面の状態も決まる。

ここから、自然な結論が出る。その状態の質、強さ、確かさ、持続性、深さ、長さ、浸透力、構成、種類は、限りなく多様だということだ。

しかも、その一つひとつで、ある要素や、心の生活を動かす力、創造する人の生まれ持った個性が優位に立つことを考えれば、その状態の種類は、際限がないとわかる。

ときには、偶然、ひとりでに生まれた舞台上の内面の状態が、創造的な行動の題材を探すこともある。

反対に、興味深い課題や役、戯曲が、俳優を創造へ駆り立て、正しい舞台上の内面の状態を呼び起こすこともある。

創造と、その準備の間、俳優の心には、こうしたことが起きているのだ」

第15章 超課題と、貫く行動

一九……年……月……日

「俳優と役が一体となった、舞台上の内面の状態ができた!

戯曲は、乾いた知性だけでなく、欲求としての意志、感情、そしてすべての要素によって、学び取られた!

創造の軍隊は、さらに整った陣形を組んだ!

出発できる!」

「どこへ導くのですか?」

「中心へ、首都へ、戯曲の心臓へだ。作者が作品を書き、俳優がその役をつくった、根本の目的へ向かう」

「その目的は、どこで探すのですか?」と、ヴュンツォフはわからずに尋ねた。

「作者の作品の中と、俳優と役が一体となった心の中だ」

「どうやってですか?」

「その問いに答える前に、創造の過程の、大切な点をいくつか話す必要がある。

聴きなさい。

種から植物が育つように、作家のある考えや感情から、その作品は育つ。

そうした作家の考え、感情、人生の夢は、一筋の糸のように、その人の一生を貫き、創造するときの導きになる。

それらを戯曲の基礎に置き、その種から文学作品を育てるのだ。

作家の考え、感情、人生の夢、いつまでも続く苦しみや喜びが、すべて戯曲の土台になる。それらのために、作家は筆を取るのだ。

作家の感情や考え、夢、苦しみ、喜びを、舞台上で伝えることが、公演の主な課題だ。

では、これから、この基本となる、最も大きく、すべてを包み込む目的を、『作品の超課題』と呼ぶことにしよう。あらゆる課題を例外なく引きつけ、心の生活を動かす力と、俳優と役の内面の状態を構成する要素に、創造への衝動を起こさせる目的だ」

アルカージー・ニコラーエヴィチは、目の前の掲示に書かれた言葉を指した。

「作品の超課題ですって?」と、ヴュンツォフは、悲壮な顔で考え込んだ。

「説明しよう」と、トルツォフは、すぐに助けに入った。

「ドストエフスキーは、生涯、人間の中に神と悪魔を探した。

それが、『カラマーゾフの兄弟』を書く原動力となった。

だから、この作品の超課題は、神を探し求めることなのだ。

レフ・ニコラーエヴィチ・トルストイは、生涯、自分をよりよくしようと努めた。多くの作品が、その種から育ち、それが、それらの超課題となっている。

アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフは、俗悪さや小市民的な狭さと闘い、よりよい生活を夢見た。

その生活のための闘い、そこへ向かう願いが、多くの作品の超課題となったのだ。

こうした天才たちの、大きな人生の目的が、俳優の創造にとって、心を揺さぶる、魅力的な課題になり、戯曲や役のすべての部分を引きつけると感じないかね。

戯曲の中で起きるすべてのこと、大きな課題も小さな課題も、役に通じる俳優の創造上の考えや行動も、すべて、戯曲の超課題を果たすことへ向かう。

公演で行われるすべてのことと超課題の結びつき、超課題への依存は、非常に強いものだ。そのため、超課題と関係のない細部は、どんなに小さくても、有害で、余計なものとなり、作品の核心から注意をそらしてしまう。

超課題へ向かう流れは、戯曲と役の全体を、切れ目なく、途切れずに貫かなければならない。

途切れないことだけでなく、その流れの質や、どこから生まれるかも、見分ける必要がある。

それは、俳優の形だけのものにとどまり、おおむね正しい、全体の方向を示すだけの場合もある。

そんな流れでは、作品全体に生命を与えることも、本当に実りがあり、目的にかなった行動を活発にすることもできない。

そのような創造への向かい方は、舞台には必要ない。

しかし、別のものもある。戯曲の基本の目的を果たすために、本当に、人間らしく、行動を伴って向かう流れだ。

それが途切れず続くと、大動脈のように、俳優と演じる人物の全体を養い、その両方にも、戯曲全体にも、生命を与える。

こうした、本当に生きた衝動を呼び起こすのは、超課題そのものの質、その魅力だ。

超課題が天才的なものであれば、そこへ引かれる力は、非常に強くなる。そうでなければ、弱くなる」

「悪い超課題なら?」と、ヴュンツォフが尋ねた。

「悪い超課題なら、俳優自身が、それを鋭くし、深めるよう努めなければならない」

「では、どんな質の超課題が必要なのでしょう?」と、私は理解しようとした。

「俳優自身にはおもしろくても、劇作家の創造上の構想に合わない、誤った超課題は、必要だろうか?」と、トルツォフは尋ねた。

「いや!

そんな課題は必要ない。

それどころか、危険だ。

誤った超課題が魅力的であるほど、俳優を強く引き寄せ、作者、戯曲、役から、いっそう遠ざけてしまう」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは自分で答えた。

「理屈だけの超課題は、必要だろうか?

乾いた、理屈だけの超課題も、必要ない。

しかし、知性から、興味深い創造的な考えから生まれる、意識的な超課題は、必要だ。

私たちの本性全体を目覚めさせる、感情に働く超課題は、必要だろうか?

もちろん、空気や太陽と同じくらい、どうしても必要だ。

心と体のすべてを引きつける、意志に働く超課題は、必要だろうか?

極めて必要だ。

では、創造的な想像力を目覚めさせ、注意を丸ごと引きつけ、真実の感覚を満たし、信じることや、俳優の内面の状態のほかの要素を呼び起こす超課題は、どうだろう?

心の生活を動かす力や、俳優自身の要素を目覚めさせる超課題は、どれも、パンや食べ物のように必要なのだ。

つまり、必要なのは、作家の構想に通じていながら、同時に、創造する俳優自身の、人間としての心に、必ず反応を呼び起こす超課題なのだ。

それこそが、形だけでも、理屈だけでもない、本当に生きた、人間らしい、じかの体験を呼び起こす。

言い換えれば、超課題は、役の中だけでなく、俳優自身の心の中にも探さなければならない。

同じ役の、同じ超課題は、すべての演じ手にとって守るべきものだが、それぞれの心の中では、違った響きを持つ。

同じでありながら、同じではない課題になるのだ。

たとえば、『楽しく生きたい』という、ごく現実的な人間の願いを考えてみよう。

その願いそのものにも、実現への道にも、楽しさについてのイメージそのものにも、どれほど多様で捉えにくい、微妙な違いがあることだろう。

そこには、個人的で、その人だけのものが、たくさんある。意識で評価しきれるとは限らない。

さらに複雑な超課題を選べば、人間である俳優一人ひとりの個性は、いっそう強く現れる。

演じ手によって異なる、こうした心の反応が、超課題にとって重要なのだ。

創造する人自身の主観的な体験がなければ、超課題は、乾いて死んだものになる。

超課題も役も、本物の人間の生活の、あらゆる色に輝く、生きて脈打つものにするには、俳優の心の中に反応を探さなければならない。

大切なのは、役への向き合い方から、俳優自身の感情の個性が失われず、同時に、作家の構想とも離れないことだ。

演じ手が役の中に、自分の人間としての本性を表さなければ、その創作物は死んでいる。

俳優は、自分で超課題を見つけ、それを愛さなければならない。

他人から示された場合には、超課題を自分の中に通し、一人の人間として、自分自身の感情で心を動かされる必要がある。

言い換えれば、どんな超課題も、自分自身のものにできなければならないのだ。

つまり、その中に、自分の心に通じる内実を見つけることだ。

同じ役を演じる一人ひとりを、それぞれ違う形でかき立てる、超課題の特別で捉えにくい魅力は、どこから来るのだろう?

多くの場合、自分の中で、はっきり意識せずに感じているもの、潜在意識に隠れたものが、超課題にその特徴を与える。

超課題は、その領域と深いつながりを持つ必要がある。

大きく、心を揺さぶり、深みのある超課題を見つけるには、どれほど長く、粘り強く探さなければならないか、わかるね。

作家の作品の中でそれを見抜き、自分自身の心の中に反応を見つけることが、どれほど重要かも、わかるだろう。

いくつもの超課題を退け、新たに育て直さなければならない。

目標に届くまでに、何度、狙いを定め、外すことになるだろう」

一九……年……月……日

今日、アルカージー・ニコラーエヴィチは話した。

「超課題を探し、確かなものにする難しい過程では、それをどう名づけるかが、大きな役割を果たす。

普通の部分や課題でも、的確な名前をつけると、力と意味が増すことは知っているね。

名詞を動詞に変えると、創造への衝動が、もっと積極的で、行動を伴うものになることも、話した。

超課題を言葉で名づける際には、これらのことが、さらに強く現れる。

『何と呼んだって、同じじゃないか!』と、よく知らない人は言う。

しかし実際には、名前の的確さ、その中に潜む行動性によって、作品の方向も、解釈そのものも変わることが、よくあるのだ。

グリボエードフの『知恵の悲しみ』を演じ、作品の超課題を『ソーフィヤのもとへ向かいたい』と定めたとしよう。

戯曲には、その名づけを裏づける行動が、たくさんある。

ただ、この解釈では、作品の主な側面である、社会への批判が、偶然の、挿話的な意味しか持たなくなるのが難点だ。

しかし、『知恵の悲しみ』の超課題は、同じ『向かいたい』という言葉を使って、ソーフィヤではなく、祖国へ向かいたいと定めることもできる。

その場合、チャツキーのロシアへの、民族や民衆への、燃えるような愛が前面に出る。

すると、社会を批判する側面が、戯曲の中で、もっと大きな位置を占め、作品全体の内面の意味も、いっそう豊かになる。

だが、超課題を『自由を求めたい!』とすれば、この戯曲をさらに深く掘り下げられる。主人公がそれを求めるとき、圧制を加える者たちへの批判は一段と厳しくなる。作品全体も、最初のソーフィヤへの恋のような個人的な意味や、二番目のように一国に限られた意味を超えて、広く人類にかかわる意味を持つのだ。

『ハムレット』の悲劇も、超課題の言い表し方を変えることで、同じように姿を変える。

『父の思い出を敬いたい』と名づければ、家庭劇へ傾くだろう。

『存在の謎を知りたい』とすれば、神秘的な悲劇になる。生の向こう側をのぞき見た人間が、存在の意味という問いを解かずには、もはや生きられなくなるのだ。

ハムレットを、剣を手にしてこの世の汚れを清めるべき、第二の救世主と見る人もいる。

超課題を『人類を救いたい』とすれば、悲劇はさらに広がり、深まるだろう。

超課題をどう言い表すかがどれほど重要か、私自身の俳優としての経験から、今の例よりもいっそうはっきり示せる話をいくつかしよう。

私はモリエールの『病は気から』でアルガンを演じた。

初めはごく単純に作品を捉え、超課題を『病人でありたい』と定めた。

病人になろうと力めば力むほど、それがうまくいけばいくほど、愉快な風刺喜劇が、病気の悲劇、病的な状態を描くものに変わっていった。

だが、やがて間違いに気づき、このわがままな男の超課題を『病人だと思われたい』と言い直した。

すると、たちまち作品の滑稽さが響き始めた。モリエールがこの戯曲で笑いものにしようとした医療界のいかさま師たちが、愚かな男につけ込む土台ができたのだ。悲劇は一転して、俗物たちを描く愉快な喜劇となった。

別の作品、ゴルドーニの『宿屋の女主人』では、初めに超課題を『女を避けたい』、つまり女嫌いとした。だが、それでは戯曲のユーモアも、行動の力も現れてこなかった。

主人公は実は女好きで、本当に女嫌いなのではなく、そう思われたがっているだけだと分かった。そこで超課題を『ひそかに口説きたい』、つまり女嫌いを隠れみのにして口説くこと、と定めると、作品はたちまち生き生きしてきた。

ただし、この課題は作品全体よりも、私の役に当てはまるものだった。

長い稽古の末に、女、すなわちミランドリーナこそが『宿屋の女主人』であり、言い換えれば『私たちの人生を取り仕切る女主人』なのだと理解した。それに即して行動を生む超課題を定めると、作品の内側にある本質が、おのずとすべて姿を現した。

これらの例から分かるように、私たちの創造とその技術にとって、超課題の言葉を選ぶことは、仕事全体に意味と方向を与える、きわめて重要な局面なのだ。

上演してから初めて、超課題が定まることも実に多い。

観客自身が、超課題を的確に言い表す言葉を俳優に見つけさせてくれることも、珍しくない。

もう分かるだろう。超課題と戯曲との切っても切れない結びつきは、有機的なものだ。超課題は戯曲の核心、その最も奥深いところから取り出される。

その超課題を、創造する俳優の心に、想像に、思考に、感情に、あらゆる要素に、できる限り深く根づかせなさい。

役の内面の生活と創造の目的を、絶えず演じ手に思い起こさせるものにしなさい。

俳優は上演の間じゅう、それに心を向けていなければならない。

役の生活の中に、感覚を伴った注意をとどめておく助けとするのだ。

それができれば、体験の過程は自然に進む。だが、舞台上で役の内なる目的と、それを演じる人間としての俳優の求めるものが食い違えば、致命的なずれが生じる。

だからこそ、俳優が何よりも心がけるべきなのは、超課題を見失わないことなのだ。

それを忘れるとは、演じている戯曲の生活の線を断ち切ることにほかならない。

それは役にとっても、俳優自身にとっても、上演全体にとっても破局となる。

その瞬間、演じ手の注意は誤った方向へそれ、役の魂は空になり、その生命は途絶えてしまう。

現実の生活では苦もなくひとりでに起きることを、舞台でも無理なく、自然に生み出せるよう学びなさい。

作家の作品は超課題から生まれた。俳優の創造もまた、そこへ向かわなければならない」

一九……年……月……日

「では」とアルカージー・ニコラーエヴィチは言った。「俳優の知性、つまり思考、欲求、つまり意志、情動、つまり感情から生まれた、心の生活を動かす力の流れは、役の断片を取り込み、俳優という人間の内なる創造の諸要素をたっぷりと吸収する。そうして幾本ものひものように結び合い、複雑な模様を描いてより合わされ、やがて一つの固い結び目を作る。

それらの流れが一体となって、舞台上での内面の状態を作り出す。この状態になって初めて、役の心の生活のあらゆる部分と複雑なひだを、また舞台上で創造している俳優自身の生活を、探っていけるのだ。

役をあらゆる面から調べるうちに、戯曲と登場人物が何のために生み出されたのか、その超課題が明らかになる。

創造において目指す真の目的をつかむと、心を動かすすべての力と諸要素は、作者が描いた道をたどって、共通の、最終的な、最も大きな目的へ、つまり超課題へと向かう。

役と一体になった俳優の心の生活を動かす力が、戯曲全体を通じて内側から行動へと向かう、その流れを、私たちはこう呼ぶ……」

アルカージー・ニコラーエヴィチは、私たちの前に掛けられた掲示の二番目の言葉を指して、読み上げた。

役と一体になった俳優の、貫く行動。

「つまり、俳優にとって貫く行動とは、創造する自分の知性、意志、感情に源を持つ、心の生活を動かす力の流れが、そのまま続いたものなのだ。

貫く行動がなければ、戯曲のすべての部分と課題、与えられた状況、交流、適応、真実を感じ、それを信じる瞬間、その他のすべてが、互いにばらばらのまま、生き返る望みもなく取り残されてしまう。

だが、貫く行動の線は、散らばった珠に糸を通すように、すべての要素を貫いて一つに結び、共通の超課題へと向かわせる。

そのときから、すべてが超課題に仕えるのだ。

私たちの創造で、貫く行動と超課題が実際にどれほど大きな意味を持つか、どう説明したらよいだろう。

君たちには、現実に起きた出来事が何より説得力を持つね。

その一つを話そう。

成功を収め、観客に愛されていた女優のZが、『システム』に関心を持った。

初めから学び直そうと決心し、そのために一時、舞台を離れた。

何年もの間、Zはいろいろな教師について新しい方法を学び、全課程を終えて、再び舞台に戻った。

ところが驚いたことに、以前のような成功は得られなかった。

かつての名優が、最も貴重な持ち味を失ってしまったと言われた。自然に湧き出る反応、ほとばしる衝動、霊感の瞬間を失ったのだ。

代わりに現れたのは、味気なさ、自然主義的な細部、形だけの演技の手法、そのほかの欠点だった。

この気の毒な女優の立場は、想像に難くない。

舞台に出るたびに、彼女にとっては試験になった。

それが演技を妨げ、うろたえと戸惑いを深め、ついには絶望へと追い込んでいった。

首都では『システム』の敵が新しい方法を偏見の目で見ているのだろうと考え、さまざまな町で自分の演技を試した。

しかし地方でも同じことが繰り返された。

気の毒な彼女は、もう『システム』を呪い、そこから離れようとしていた。

昔のやり方に戻ろうとしたが、それもできなかった。

一方では、型通りに演じる手慣れた技と、古いやり方への信頼を失っていた。他方では、新しく学んで心から好きになった方法と比べて、かつての演技の仕方がいかにばかげていたかを悟っていたからだ。

古いものから離れたのに、新しいものにはたどり着けず、どちらにも身を置けなくなっていた。

Zは舞台を去って結婚することにした、という話が聞こえてきた。

その後には、自ら命を絶とうとしているという噂まで流れた。

ちょうどそのころ、私はZの舞台を見る機会があった。

終演後、彼女に頼まれて楽屋を訪ねた。

彼女は、叱られるのを待つ生徒のように私を迎えた。

上演が終わってずいぶんたち、出演者も劇場の職員も帰ってしまったのに、彼女は化粧も落とさず、衣装姿のまま私を楽屋から帰そうとしなかった。そして絶望にも近い激しい動揺の中で、自分に起きた変化の原因を問い続けた。

私たちは役の一場面一場面と、その稽古の過程を振り返り、『システム』から学んだ技術の一つ一つを検討した。

どれも正しかった。

彼女は個々の部分を理解していたが、全体としては『システム』の創造の土台を身につけていなかったのだ。

『貫く行動は? 超課題はどうなっていますか!』と私は尋ねた。

Zはそれらについて聞いたことがあり、大筋では知っていた。だが、それは理論にとどまり、実際には使われていなかった。

『貫く行動なしに演じているのなら、与えられた状況の中で、魔法の〈もしも〉を用いて舞台上で行動してはいないということです。つまり、人間本来の働きとその潜在意識を創造に参加させていない。私たちの芸術の方向性が何よりの目的とし、基礎としている、役の〈人間としての内面の生活〉を創り出していないのです。

それらがなければ、〈システム〉はありません。

あなたは舞台上で創造しているのではなく、互いに何のつながりもない、〈システム〉の個々の練習をこなしているだけなのです。

それは学校の授業にはよくても、上演にはふさわしくありません。

これらの練習も、〈システム〉にあるすべてのものも、何よりまず貫く行動と超課題のために必要なのだということを、忘れてしまったのです。

だから、あなたの役は一つ一つの部分がすばらしくても、全体としては心を動かさず、満足を与えないのです。

アポロンの像を細かく砕いて、一つずつ見せたとしましょう。

その破片が、見る人を引きつけるでしょうか』

翌日、家で稽古をすることになった。

私は、彼女が用意していた部分と課題を貫く行動でつなぎ、共通の超課題へ向けていく方法を説明した。

Zは熱心に取り組み始め、この仕事になじむため、数日欲しいと言った。

私はときどき訪ねて、彼女が一人で取り組んだことを確かめ、ついに、新しく修正された上演を見に劇場へ出かけた。

その晩に起きたことは、とても言葉では言い尽くせない。

才能ある彼女の苦しみと疑いは、報われた。

圧倒的な成功だった。

これが、不思議なほどの力を持ち、生命を与えてくれる貫く行動と超課題にできることなのだ。

私たちの芸術における、その大きな意味を示す、十分に説得力のある例ではないか!

私は、さらにその先へ進もう!」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは少し間を置いて声を上げた。

「理想の俳優を、人間として思い描いてみなさい。その人は、生涯の大きな目的に自分のすべてを捧げる。『高い芸術によって人々の心を高め、喜びを与え、天才の作品に秘められた心の美しさを伝える』という目的だ。

その俳優は、自分が見いだした、すぐれた戯曲と役の新しい解釈を、劇場に集まった観客に示し、伝えるために舞台へ出る。その解釈こそ作品の本質をよりよく表すと、創造する本人は考えているのだ。

そうした俳優は、同時代の人々に知と理解をもたらす、高い文化的な使命に、生涯を捧げることができる。

自らの成功を力にして、自分の思考や心に親しい思想や感情を、多くの人へ届けることもできる。そのほかにも、いろいろあるだろう。

偉大な人物が抱く、高い目的はどれほどあることか!

今後は、俳優という人間のこうした生涯の目的を、超課題を超える課題、貫く行動を超える行動、と呼ぶことにしよう」

「それは、どういうことですか?」

「答えの代わりに、私の身に起きた出来事を話そう。今話していることを理解する、つまり実感する助けとなった出来事だ。

ずいぶん前、私たちの劇場がペテルブルクへ巡業したときのことだ。開幕の前日、準備不足でうまくいかない稽古が長引き、私は遅くまで残っていた。

腹を立て、いらだち、疲れ果てて、劇場を出た。

すると突然、思いがけない光景が目に飛び込んできた。

劇場の前の広場いっぱいに、大勢の人が野営していたのだ。

たき火が燃え、何千人もの人が、雪の上や持参したベンチに座り、まどろみ、眠っていた。

この大群衆は、切符の発売で少しでも早い順番を得ようと、朝になって窓口が開くのを待っていた。

私は胸を打たれた。

この人たちの行いがどれほどのものかを理解するために、自分に問いかけずにはいられなかった。どんな出来事、どんな魅力的な見通し、どんな驚くべき現象、どんな世界的な天才のためなら、私は一晩どころか何晩も続けて、凍える寒さの中で震えていられるだろうか。

これほどの犠牲を払うのは、窓口に並ぶ権利を与える紙切れを手に入れるためなのだ。それで切符が手に入る保証さえない。

私はその問いに答えられなかった。健康を、ひょっとすると命さえ危険にさらしてまで求める出来事を、思い浮かべられなかったのだ。

人々にとって、劇場の意味は何と大きいのだろう!

私たちはそれを、何と深く自覚しなければならないことか!

高い喜びを得るためなら命さえ危険にさらそうとする何千人もの観客に、その喜びを届けられるとは、何という名誉、何という幸福だろう!

私は自分にも、そのような高い目的を持ちたいと思った。それを超課題を超える課題と呼び、それを実現することを、貫く行動を超える行動と名づけた」

少し間を置いて、アルカージー・ニコラーエヴィチは続けた。

「だが、大きな最終目標へ向かう途中で、創造する者が小さな個別の課題に必要以上に心を奪われたら、困ったことになる。それが戯曲や役の超課題であれ、俳優の生涯を通じた、超課題を超える課題であれ、同じだ」

「すると、どうなるのですか?」

「こうなる。子どもが長いひもの先に重りや石を結び、頭の上で回して遊ぶ様子を思い出してみなさい。

ひもは棒に結ばれていて、棒を動かして回すうちに、その棒へ巻きついていく。

重りをつけたひもは速く円を描きながら、子どもが持つ棒に少しずつ巻きついていくのだ。

最後には重りが近づき、棒にぶつかって、ぴたりと一つになる。

さて、遊びの真っ最中に、誰かが回っているひもの途中へ、杖を差し出したとしよう。

すると、重りをつけたひもは杖に触れ、動きの勢いで、回転を生み出していた棒ではなく、その杖に巻きつき始める。

その結果、重りは本来の持ち主である少年のもとへ行かず、杖でひもを横取りした他人の手に渡ってしまう。

当然、子どもは自分で遊びを動かせなくなり、取り残される。

私たちの仕事でも、これに似たことが起きる。

最終的な超課題を目指していると、途中で、本筋ではない、さほど重要でもない演技上の課題に出くわすことが実に多い。

そこに、創造する俳優の力がすべて注ぎ込まれてしまう。

大きな目的が小さな目的にすり替わることが、俳優の仕事全体をゆがめる危険な事態だというのは、説明するまでもないだろう」

一九……年……月……日

「超課題と貫く行動の重要さを、さらによく分かってもらうために、図の助けを借りよう」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは大きな黒板に近づき、チョークを手に取って言った。

「役のすべての課題と、それに伴う短い生活の線は、一つ残らず、同じ定まった方向へ、つまり超課題へ向かうのが自然だ。

このように」

大小の右向きの矢印が一本の線上に並び、超課題へ到達する。
超課題へ向かう貫く行動 スタニスラフスキーの模式図に基づく日本語図(CC0)。 原典の図版

アルカージー・ニコラーエヴィチは、黒板に図を描いた。

「役の短い、中くらいの、長い生活の線が、長く連なって、一つの方向、超課題へ向かっている。

課題を伴う役の短い生活の線は、筋道を立てて順に続き、互いにつながっていく。

それによって、戯曲全体を通る、一本の途切れない線ができるのだ。

では、ちょっと想像してみなさい。俳優に超課題がなく、演じる役の短い生活の線が、それぞれ別の方向を向いていたら、どうなるだろう」

右向きの矢印の間に上向きや下向きの矢印が混じり、線が途切れている。
ばらばらになった貫く行動 スタニスラフスキーの模式図に基づく日本語図(CC0)。 原典の図版

アルカージー・ニコラーエヴィチは、またすぐに図を使い、切れ切れになった貫く行動の線を描いて、考えを示した。

「ここには、大、中、小の課題と、役の生活の小さな部分が並び、ばらばらの方向を向いている。

これで、途切れない一本のまっすぐな線が作れるだろうか?」

私たちはみな、できないと認めた。

「この状態では、貫く行動は失われ、戯曲は細切れになって、あちこちへ散らばってしまう。それぞれの部分は全体から切り離され、単独で存在するしかない。

これでは、個々の部分がどれほどすばらしくても、ばらばらのままでは作品の役に立たない。

三番目の場合を考えよう」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは説明を続けた。

「前にも言ったように、よい戯曲では、超課題と貫く行動が、作品そのものの性質から自然に生まれてくる。

この関係を壊せば、必ず代償を払う。作品そのものを殺してしまうのだ。

戯曲とは無関係な目的や主張を、外から持ち込もうとする場合を想像してみなさい。

超課題に向かう横向きの矢印から、別の主張へ斜めにそれる矢印が伸びる。
外から持ち込まれた主張にそれる行動 スタニスラフスキーの模式図に基づく日本語図(CC0)。 原典の図版

その場合、戯曲と有機的に結びついた超課題と、自然に生まれる貫く行動は、ある程度は残る。だが、外から持ち込まれた主張のほうへ、絶えず脇道にそれなければならなくなる。背骨を折られたこんな戯曲は、生きることはできない」

これにはゴヴォルコフが、持ち前の芝居がかった激しさを存分に発揮して抗議した。

「ちょっと待ってください。それでは、演出家と俳優から、自分で考えて取り組む余地も、独自の創造も、内奥の自分自身も、古い芸術を新しくして現代に近づける可能性も、何もかも奪ってしまうではありませんか!」

アルカージー・ニコラーエヴィチは、落ち着いて説明した。

「君は、君と同じ考えの多くの人と同じく、三つの言葉を混同し、しばしば取り違えている。永遠性、現代性、そして単なる時事性だ。

現代的なものも、大きな問いや深い思想を含んでいれば、永遠のものになりうる。

そういう現代性なら、劇作家の作品に必要であるかぎり、私は反対しない。

それとは正反対に、目先の話題だけに限られたものは、決して永遠にはならない。

今日だけ生きて、明日にはもう忘れられているかもしれない。

だから、演出家や俳優、とりわけ君がどれほど知恵を絞っても、永遠の芸術作品と単なる時事的な話題が、自然に一体になることはない。

古くからある、一体にまとまった古典作品に、時事的な話題や、その戯曲とは異質な目的を無理に接ぎ木すれば、美しい体に異常な肉が盛り上がるように、しばしば元の姿が分からないほど作品をゆがめてしまう。

傷つけられた超課題は、心を誘い、引きつけるものにはならず、いらだたせ、調子を狂わせるだけだ。

無理強いは創造のよい手段にはならない。だから、時事的な主張で『新しくした』超課題は、戯曲とその役たちを死なせることになる。

もっとも、主張と超課題がなじみ合う場合もある。

オレンジの木にレモンの枝を接ぐと、アメリカで『グレープフルーツ』と呼ばれる新しい果実ができることは、知っているだろう。

訳注

ここでは著者が当時の接ぎ木の説明をたとえとして用いている。植物の由来や栽培法を説明する箇所ではない。

戯曲でも、そのような接ぎ木がうまくいくことがある。

古い古典作品に現代の思想が自然に接ぎ合わされ、戯曲全体を若返らせる場合があるのだ。

このとき、主張は独立したものではなくなり、超課題へと生まれ変わる。

一本の線上の矢印が、互いに重なる超課題と主張の枠へ向かう。
超課題と主張が一つに結びついた行動 スタニスラフスキーの模式図に基づく日本語図(CC0)。 原典の図版

これを図にすると、こうなる。貫く行動の線が、超課題とその主張へ向かって伸びていく。

この場合、創造の過程は自然に進み、作品の有機的な性質は損なわれない。

ここまでの話をまとめよう。

何よりも超課題と貫く行動を大切にしなさい。無理に持ち込む主張や、戯曲とは異質な欲求と目的には、注意しなさい。

今日、創造において超課題と貫く行動が果たす、ほかに代えられない、第一の役割を理解してもらえたなら、私はうれしい。そして、最も重要な課題を果たし、『システム』の要となる点の一つを説明できたと考える」

かなり長い沈黙の後、アルカージー・ニコラーエヴィチは続けた。

「あらゆる行動は、それに対抗する行動に出会う。そして、対抗する行動は、もとの行動を引き起こし、強める。

だから、どの戯曲にも、貫く行動と並んで、それとは逆向きに進む、敵対する『対抗して貫く行動』がある。

これはよいことだ。歓迎すべきことなのだ。対抗する行動が、自然に次々と新しい行動を生み出すからだ。

私たちには、この絶え間ない衝突が必要なのだ。そこから闘い、けんか、議論、それぞれに応じた一連の課題とその解決が生まれる。

この衝突が、私たちの芸術の土台である、能動性と行動する力を生み出す。

もし戯曲に対抗して貫く行動がまったくなく、すべてがひとりでにうまくいったら、演じ手にも、演じられる人物にも、舞台ですることがなくなる。戯曲そのものが行動を失い、舞台に向かないものになってしまう。

実際、イアーゴーが陰険な企みを進めなければ、オセローはデズデモーナをめぐって嫉妬し、彼女を殺すこともなかっただろう。

だが、ムーア人のオセローは全身全霊で愛する人を求め、二人の間にはイアーゴーが立ちはだかって、対抗して貫く行動を進める。だから、破局に終わる、行動に満ちた五幕の悲劇が生まれるのだ。

対抗して貫く行動の線もまた、個々の瞬間と、役と一体になった俳優の短い生活の線から成ることは、言うまでもないだろう。

『ブラン』の例で、今の話を示してみよう。

ブランの超課題を、彼の標語である『すべてか、無か』と定めたとしよう。この定め方が正しいかどうかは、今の例では問題ではない。

狂信的な人間のこうした根本原則は、恐ろしい。

人生で掲げた理念を『実行する』うえで、妥協も譲歩も、道からそれることも、一切認めないからだ。

では、この戯曲全体の超課題と、『産着』の場面の個々の部分を結びつけてみなさい。以前に私たちが分析した部分を使えばよい」

私は、子どもの産着から「すべてか、無か」という超課題へ、頭の中で狙いを定めてみた。

もちろん、想像力と架空の設定によって両者を結びつけることはできる。だが、それには大きなこじつけと無理強いが必要で、作品をゆがめてしまう。

母親の側からは、協力ではなく抵抗が生まれるほうが、はるかに自然だ。だからこの部分のアグネスは、貫く行動ではなく、それに対抗して貫く行動の線を進んでいる。超課題へ向かうのではなく、それに逆らっているのだ。

ブラン自身の役についても同じことを試みた。彼の課題である「犠牲を捧げるために、産着を手放すよう妻を説得する」ことと、戯曲全体の超課題である「すべてか、無か」のつながりを探すと、こちらはすぐに見つかった。

狂信者が自分の人生の理念のために、すべてを要求するのは自然なことだった。

アグネスの抵抗が、ブラン自身の行動をさらに強めた。

そこから、異なる二つの原理の闘いが生まれる。

ブランの義務は母の愛と闘い、理念は感情と、狂信的な牧師は苦しむ母親と、男性的な原理は女性的な原理と闘う。

だからこの場面では、貫く行動の線をブランが担い、それに対抗して貫く行動をアグネスが進めている。

最後にアルカージー・ニコラーエヴィチは、今年の授業全体で話してきたことを、短く整理して思い出させてくれた。

この簡潔な振り返りのおかげで、私は最初の一年の学習で得たものを、それぞれふさわしい場所に収めることができた。

「これから、きわめて大切なことを言う。全神経を集中して聞きなさい」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「授業が始まってから進んできた課程のすべての段階も、今年の学習で行った個々の要素の研究も、すべては舞台上での内面の状態を作るためだった。

そのために、私たちはひと冬かけて取り組んできたのだ。

今も、そしてこれからも、そのことに何より注意を向けなければならない。

だが、ここまで育った舞台上での内面の状態も、超課題と貫く行動を繊細に、深く探るためには、まだ十分に整っていない。

作り上げたこの状態には、大切なものを一つ加える必要がある。

そこに『システム』の最大の秘密が隠れている。私たちの芸術の方向性の最も重要な基礎、『意識を通じて潜在意識へ』を実現するものだ。

次の授業からは、この付け加えるものと、その基礎の研究に取りかかる」

「これで『システム』の最初の課程は終わった。だが、ゴーゴリの言葉を借りれば、『私の心は、何とも晴れず、何とも妙な具合だ』。

ほぼ一年の仕事を通じて『霊感』にたどり着けると思っていたのに、残念ながら、その点では『システム』は期待に応えてくれなかった」

そんなことを考えながら劇場の玄関に立ち、私は機械的に外套を着て、気のない手つきで首にマフラーを巻いていた。

突然、誰かが脇腹をつついた。

私は声を上げ、振り返ると、アルカージー・ニコラーエヴィチが笑っていた。

私の様子に気づいた彼は、なぜ気が沈んでいるのか知りたがった。

私は曖昧に答えたが、彼は根気よく、詳しく尋ね続けた。

「舞台に立っているとき、何を感じるかね?」私が『システム』について抱いている、心を乱す疑問を理解しようとしていたのだ。

「それが問題なんです。特別なことは何も感じません。

舞台の上は居心地がよく、何をすべきかも分かります。むなしく立っているわけではなく、中身もあります。すべてを信じていますし、舞台にいるだけの理由が自分にはあると分かっています」

「それ以上、何を望むのかね!

舞台で嘘をつかず、すべてを信じ、自分の演技を自分で掌握できている。それの何がいけない?

それは、とても大きなことだよ!」と、トルツォフは私を説得した。

そこで私は、霊感についての期待を打ち明けた。

「そういうことか……!」と、彼は声を上げた。

「その件なら、相談する相手が違う。

『システム』は霊感を製造するものではない。

霊感にとって好ましい土壌を整えるだけだ。

それが訪れるかどうかは、アポロンか、君自身の自然な働きか、偶然にでも聞いてくれたまえ。

私は魔法使いではない。感情や体験を呼び起こす、新しいきっかけや方法を示しているだけだ。

君には、これから霊感という幻を追い回さないよう、勧めておこう。

その問題は、魔法使いである自然に任せ、自分では人間の意識にできることに取り組みなさい。

ミハイル・セミョーノヴィチ・シチェープキンは、弟子のセルゲイ・ヴァシーリエヴィチ・シュムスキーに、こう書いている。『演技に力が足りない日もあれば、まずまずの日もあるだろう。これは、そのときの心の状態に左右されることも多い。だが、正しく演じることはできる』

俳優としての願いも心遣いも、そこへ向けるのだ。

正しい軌道に乗った役は、前へ進み、広がり、深まって、ついには霊感へと導いてくれる。

それがまだ起きていない間も、これだけはしっかり覚えておきなさい。嘘、大げさな見せかけの演技、決まりきった型、わざとらしい身ぶりから、霊感が生まれることは決してない。

だから、正しく演じることに努め、『天からのひらめき』を迎えるためによい土壌を整えることを学びなさい。そうすれば、霊感もずっと君になじんでくれると信じるのだ。

もっとも、これからの授業では霊感についても話す。

それも調べてみよう」と、トルツォフは立ち去りながら言った。

「霊感を調べるだって……?

霊感について理屈をこね、哲学を語るのか?

そんなことが、いったいできるのだろうか?

試演会で『血だ、イアーゴー、血だ!』と言ったとき、私は理屈を考えていただろうか?

マロレトコワが、あの有名な『助けて!』と叫んだとき、理屈を考えていただろうか? 身体的行動や、そこにある小さな真実、信じる瞬間を扱ったように、霊感もまた、細かなひとかけらや一つ一つの閃きを集めて、組み立てていくというのか!」と、私は劇場を出ながら考えた。

第16章 俳優の舞台上の状態における潜在意識

一九……年……月……日

「ナズヴァーノフ、ヴュンツォフ、舞台へ行って、『燃やされた金』のエチュードの最初の場面を演じなさい」と、教室に入ってきたアルカージー・ニコラーエヴィチは命じた。

「創造の仕事は、いつでも筋肉を自由にするところから始める。それは分かっているね。

だから、まず楽に座り、自分の家にいるつもりで休みなさい」

私たちは舞台へ行き、言われたとおりにした。

「まだ足りない!

もっと自由に、もっと楽に!」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは客席から叫んだ。

「緊張の九十五パーセントを取り除きなさい!

余分な緊張の量を、私が大げさに言っていると思うかね?

いや、千人もの観客を前にした俳優の頑張りは、途方もない大きさになる。

何より困るのは、その頑張りと無理が、本人の気づかないうちに、必要もないのに、自分の意志や分別とはかかわりなく生じてしまうことだ。

だから、余分な緊張は、取り除けるだけ大胆に取り除きなさい。

舞台上では、自分の住まい以上にくつろぐのだ。

舞台では、現実の生活よりも心地よく感じられる状態でなければならない。劇場で私たちが得るのは、ただの孤独ではなく、『人前での孤独』だからだ。

それは、この上ない喜びを与えてくれる」

だが、私はやり過ぎたらしい。すっかりぐったりし、無理に動かないようにして、そのまま固まってしまった。

これも、最もよくないこわばりの一つだ。

それと闘わなければならなかった。

そこで姿勢を変えたり、体を動かしたりして、行動によって静止状態を崩した。すると今度は逆の極端に走って、そわそわと動き回ってしまった。

そのため、落ち着かなくなった。

この状態から抜け出すには、速く神経質なリズムを変え、ほとんど気だるいほどの、ごくゆっくりしたリズムにする必要があった。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、私のやり方を認めるだけでなく、ほめてくれた。

「俳優が力み過ぎているときには、少しぞんざいになるくらい、気楽に取り組んでみるのも役に立つ。

過度の緊張や頑張り、見せかけの演技に対する、よい解毒剤になる」

だが残念ながら、それでも、自宅のソファにいるときのような、現実の落ち着きと気楽さは得られなかった。

私は、この過程の三つの段階を忘れていたのだった。

一、緊張。二、解放。三、理由づけ。

すぐに間違いを直さなければならなかった。

それを済ませると、体の中で何か余分なものがほどけ、下へ沈み、どこかへ落ちていくように感じた。

自分の体が地面へ引かれる力、その重さを感じた。

半ば横たわっていた柔らかな肘掛け椅子に、体が沈み込んだようだった。

その瞬間、内側の筋肉の緊張が、大きく消え去った。

だが、それでも、現実の生活で知っている、求めていた自由さは得られなかった。

いったい、どうしたのだろう?

自分の状態をよく調べてみると、筋肉に気を取られたために、今度は注意がひどく張り詰めているのだと分かった。

注意が体を見張り続け、静かに休むのを妨げていたのだ。

私は気づいたことを、アルカージー・ニコラーエヴィチに話した。

「そのとおりだ。

内面の諸要素にも、余分な緊張はたくさんある。

ただし、内面のこわばりは、筋肉のような粗いものとは扱い方を変えなければならない。

筋肉を太い綱とすれば、心の要素は蜘蛛の糸のようなものだ。

一本ずつなら簡単に切れてしまう。だが、より合わせてひもにし、縄にし、太い綱にすれば、斧でも断ち切れなくなる。

しかし、生まれたばかりのときは、慎重に扱うのだ」

「その『蜘蛛の糸』は、どう扱えばよいのですか?」と、生徒たちは尋ねた。

「内面のこわばりと闘うときも、三つの段階、つまり緊張、解放、理由づけを念頭に置く必要がある。

初めの二段階では、内面のこわばりそのものを見つけ、その原因を知り、取り除こうとする。

三段階目では、その新しい内面の状態に、ふさわしい状況を与えて理由づける。

今の場合、君の大切な要素の一つである注意が、舞台や客席のあちこちに散らばらず、君の内側の筋肉の感覚に集まっている。このことを利用しなさい。

集まった注意に、もっと面白く、エチュードにとって必要な対象を与えるのだ。

仕事に命を吹き込み、君自身を引き込むような、心ひかれる目的や行動へ注意を向けなさい」

私はエチュードの課題と与えられた状況を思い返し、頭の中で住まい全体を歩いて回った。

その途中で、想像の中の生活に思いがけないことが起きた。これまで知らなかった部屋に入ると、ひどく年老いた夫婦がいた。妻の両親で、どうやら私たちの家で隠居生活を送っているらしい。

思いがけない発見に胸が温かくなると同時に、心配にもなった。家族が増えれば、それだけ彼らに対する私の責任も重くなるからだ。

自分のほかに五人を食べさせるには、ずいぶん働かなければならない!

こうなると、勤めも、明日の監査も、総会も、これから取りかかる書類の整理と現金の確認も、そのとき舞台上で生きていた私にとって、非常に大きな意味を持つようになった。

私は肘掛け椅子に座り、たまたま手に触れたひもを、落ち着かない様子で指に巻きつけていた。

「よし!」と、アルカージー・ニコラーエヴィチが客席からほめた。

「それが本当の筋肉の解放だ。

今は、すべてを信じられる。君のしていることも、考えていることも。具体的に何を考えているかは、私には分からなくてもね」

自分の体を確かめてみると、こちらから頑張ったり無理をしたりしなくても、筋肉は緊張からすっかり解放されていた。

どうやら、忘れていた三つ目の段階、座っていることの理由づけが、ひとりでに生まれていたのだ。

「ただし、急がずに」と、アルカージー・ニコラーエヴィチがそっと言った。

「心の目で、最後まで見届けなさい。

必要なら、新しい『もしも』を加えてみるのだ」

「もし現金に大きな計算違いがあったら?」と、頭をよぎった。

「そうなれば、帳簿や書類を調べ直さなければならない。

大変だ!

そんな仕事を、たった一人で……夜中に……片づけられるだろうか?」

私は無意識に時計を見た。

四時だった。

四時?

昼なのか、夜なのか?

一瞬、夜の四時だと考えてみた。あまりの遅さにうろたえ、思わず机へ飛びつき、何もかも忘れて、夢中で仕事に取りかかった。

「すばらしい!」というアルカージー・ニコラーエヴィチの声が、かすかに耳に入った。

だが、もうほめ言葉に注意を向けてはいなかった。

励ましは必要なかった。

私は舞台上で生き、存在し、自分がしたいと思うことを何でもしてよいだけの根拠を得ていた。

それでも、まだ足りなかった。

自分の立場をさらに困難にし、体験をもっと切実なものにしたくなった。

そのために、与えられた状況を一つ加えた。多額の現金が不足している、という状況だ。

「どうすればいい?」と、私はひどく動揺しながら自問した。

「事務所へ行こう!」と決めて、玄関へ飛び出した。

「だが、事務所は閉まっている」と思い出し、居間へ戻った。頭をすっきりさせようと長いこと歩き回り、紙巻きたばこに火をつけ、考えをまとめるために部屋の暗い隅へ座った。

厳しい顔の人々が、心に浮かんだ。

彼らは帳簿と書類、現金を調べていた。

私は質問されたが、何と答えてよいか分からず、しどろもどろになった。

絶望から意地になり、自分の不手際を素直に認めることができなかった。

やがて、私の運命を決める処分が書きつけられた。

人々は隅に集まって、ひそひそと話した。

私は侮辱を受け、一人離れて立っていた。

その後には、取り調べ、裁判、解雇、財産の差し押さえのための目録作り、住まいからの立ち退きが続く。

「見なさい。ナズヴァーノフは何もしていないのに、内側ではすべてが煮え立っているのが伝わってくる!」と、トルツォフは生徒たちにささやいた。

その瞬間、私は目がくらんだ。

役の中に自分を見失い、どこまでが自分で、どこからが演じている人物なのか、分からなくなった。

手はひもを巻くのをやめ、私はどうしてよいか分からず、動かなくなった。

その後のことは覚えていない。

ただ、どんな即興も、気持ちよく、楽にできるようになったことだけは覚えている。

検察へ行こうと決めて玄関へ飛び出したかと思えば、潔白を示す書類を戸棚という戸棚から探し出そうとしていた。そのほかにも、自分では覚えておらず、後で見ていた人たちの話から知ったことが、いろいろあった。

おとぎ話のように、私の中で不思議な変化が起きた。

それまでは、エチュードの中や自分自身に何が起きているのかを十分には理解せず、手探りでその生活を生きていた。

ところが今は、まるで「心の目」が開き、すべてがはっきり分かった。

舞台上のことも役のことも、どんな細かなこと一つ一つにも、違った意味が生まれた。

役そのものの感情、イメージ、判断、心に浮かぶ光景も、自分自身のそれらも、分かるようになった。

新しい戯曲を演じているようだった。

「それは、役の中に自分を見いだし、自分の中に役を見いだしているということだよ」と、私が自分の状態を説明すると、トルツォフは言った。

以前とは、見え方も、聞こえ方も、理解の仕方も違っていた。

それまでは「感情のもっともらしさ」だったものが、今は「情念の真実」になった。

それまでは貧しい想像力による単純さだったが、今は豊かな想像力による単純さだった。

それまでは、舞台上の自由は、約束事によって引かれたはっきりした境界の内側にあった。今は、自由がのびのびと、大胆になった。

これからは『燃やされた金』のエチュードを繰り返すたびに、毎回違う創造ができるだろうと感じる。

「これこそ、そのために生き、そのために俳優になる価値のあることではないかね?」

「これが霊感なのですか?」

「分からない。

心理学者に聞いてみたまえ。

学問は私の専門ではない。

私は実践する人間だ。こういう瞬間、自分の内側で創造の働きをどう感じるか、それなら説明できる」

「どんなふうに感じるのですか?」と、生徒たちは尋ねた。

「喜んで話そう。ただし今日は、もう授業を終わりにしなければならない。

君たちには、ほかの授業が待っているからね」

一九……年……月……日

アルカージー・ニコラーエヴィチは約束を忘れず、次のように授業を始めた。

「昔、知人の家の集まりで、冗談の『手術』を受けたことがある。

大きなテーブルが二つ運び込まれた。一つには手術道具と称するものが載り、もう一つは何も載っていない『手術台』だった。

床にはシーツを敷き、包帯、たらい、器なども持ってきた。

『医者』たちは白衣を着て、私はシャツ姿になった。

私は『手術台』へ運ばれ、『包帯を巻かれた』。要するに、目隠しをされたのだ。

いちばん落ち着かなかったのは、『医者』たちが重病人を扱うように、私に大げさなほど優しく接することだった。それに、この冗談にも、周囲で起きることにも、ひどく真剣に、手際よく取り組んでいた。

そのため、すっかり調子を狂わされ、笑えばよいのか、泣けばよいのか、どう振る舞うべきか分からなくなった。

『ひょっとして、本当に切り始めるのでは?』という、ばかげた考えまで頭をよぎった。

何が起きるか分からず、待たされることで、落ち着かなくなった。

耳が鋭くなり、どんな音も聞き逃さなくなった。

音はたくさんあった。周囲でささやき、水を注ぎ、手術道具や器を鳴らしている。ときどき大きなたらいが、弔いの鐘のように低く響いた。

『始めよう』と、誰かが、私にも聞こえるようにささやいた。

力強い手が私の皮膚をぎゅっとつまんだ。初めに鈍い痛みを感じ、それから三度、ちくりとした……。

私はこらえきれず、びくりと体を震わせた。

とがった硬いもので手の甲を引っかかれ、不快な感じがした。腕に包帯が巻かれ、周囲は慌ただしくなり、何かが落ちた。

ようやく、長い沈黙の後で……みんなが大声で話し、笑い、お祝いを言い始めた。目隠しを外されると……左腕に赤ん坊が抱かれているのが見えた。包帯でくるまれた、私の右手で作った赤ん坊だった。

手の甲には、間の抜けた赤ん坊の顔が描いてあった。

さて、ここで問題になる。あのときの体験は、本当に信じることを伴う真実だったのか。それとも、私が感じたことは、『感情のもっともらしさ』と呼ぶほうが正しいのだろうか。

もちろん、本当の真実でも、それを本当に信じていたのでもない。

『信じる』と『信じない』、本当の体験と、そのように感じる錯覚、『真実』と『もっともらしさ』が、交互に訪れていた。

同時に、もし本当に手術されていたなら、現実に起こることも、この冗談の間にときどき味わったことと、ほとんど同じだろうと分かった。

その錯覚には、十分なもっともらしさがあったのだ。

あのときのさまざまな感覚の中には、完全に体験し、本当に起きているように感じる瞬間があった。

気を失いそうになる前触れまで感じた。もちろん、ほんの数秒のことだ。

現れたかと思うと、同じくらい素早く消えていった。

それでも、その錯覚は跡を残した。

今でも、あのとき体験したことは、現実の生活でも起こりうると思っている。

こうして私は、潜在意識が大きく働く状態の兆しを、初めて感じた。今では舞台上でよく知っている、あの状態のね」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは話を結んだ。

「でも、それは生活の線というより、その切れ端や断片ではありませんか」

「君はひょっとして、潜在意識による創造の線は途切れないものだとか、俳優は舞台の上で何もかも現実と同じように体験するものだとか、思っているのかね?

もしそうなら、人間の心と体は、芸術が求める仕事に耐えられないだろう。

もう知っているように、私たちは舞台の上で、実際の現実についての感情記憶を生きている。

それがときどき、現実の生活そのもののように感じられるところまで達する。

役の中で完全に、途切れることなく自分を忘れ、舞台上の出来事を絶対に揺らぐことなく信じる状態も、生まれはする。だが、きわめてまれだ。

私たちが知っているのは、長いことも短いこともある、その状態の個々の時間だ。

演じる役として生きている、それ以外の時間には、真実ともっともらしさ、確信とそうだと思える感覚が、交互に現れる。

冗談の手術の最中の私にも、先日『燃やされた金』のエチュードを演じたナズヴァーノフにも、目のくらむ瞬間があった。

その間は、感情記憶を伴う私たち自身の人生と、演じている役の人生とが、あまりに緊密に絡み合って、一方がどこから始まり、もう一方がどこで終わるのか、分からなくなっていたのだ」

「それこそが霊感です!」と、私は言い張った。

「そう、その過程には潜在意識の働きが多い」と、トルツォフは言い直した。

「潜在意識があるところには、霊感もあるのです!」

「なぜそう思うのかね?」と、トルツォフは驚き、すぐにそばに座っていたプーシチンに声をかけた。

「急いで、考えずに、ここにない物を何か一つ言ってみなさい!」

「馬車のながえです!」

「なぜ、よりによって『ながえ』なのかね?」

「分かりません!」

「私にも『分からない』。誰にも『分からない』。

なぜそのイメージを差し出したのか、知っているのは潜在意識だけだ。

ヴェセロフスキー、君も、心に浮かぶものを何か、すぐに言ってみなさい」

「パイナップル!」

「なぜ『パイナップル』なのかね?」

話を聞くと、先日ヴェセロフスキーが夜、通りを歩いていたとき、突然、何のきっかけもなく、パイナップルを思い出したのだという。

一瞬、この果物はヤシの木に実るのではないか、という気がした。

ヤシと似ているのも、偶然ではないと思ったのだ。

たしかに、パイナップルの葉はヤシの葉のミニチュアのようで、うろこ状の皮はヤシの幹の表皮に似ている。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、なぜヴェセロフスキーにそんなイメージが浮かんだのか突き止めようとしたが、分からなかった。

「その前に、パイナップルを食べたのでは?」

「いいえ」と、ヴェセロフスキーは答えた。

「では、それについて考えていたのでは?」

「それもありません」

「ならば、謎を解く手がかりは、潜在意識に探すしかない。

何を考え込んでいるのかね?」と、トルツォフはヴュンツォフに尋ねた。

私たちの変わり者は、答える前に、何やら深く考え込んだ。

その間、答えようとしながら、自分でも気づかず、機械的に両手のひらをズボンにこすりつけていた。

それから、ますます懸命に考えながら、ポケットから紙切れを出し、熱心に折ったり広げたりした。

アルカージー・ニコラーエヴィチは大笑いして、言った。

「私の質問に答えるまでに、ヴュンツォフに必要だったあの動作を、すべて意識して繰り返してみたまえ。

あれは一体、何のためだったのか?

あの無意味なことの意味を知るのは、潜在意識だけだ。

見ただろう?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは私に向き直った。

「プーシチンとヴェセロフスキーが話したことも、ヴュンツォフがしたことも、霊感なしに行われた。それでも、その言葉と行いには、潜在意識の働く瞬間があった。

つまり、潜在意識は創造の過程だけでなく、何かを望む、交流する、適応する、行動するといった、ごく普通の瞬間にも現れるのだ。

私たちは、潜在意識と大の仲よしなのだよ。

現実の生活では、至るところで出会っている。

内側に生まれる一つ一つのイメージや、心に浮かぶ一つ一つの光景には、程度の差こそあれ、潜在意識が必要だ。

それらは、そこから生まれてくる。

内面の生活を体で表すたびに、また適応するたびに、その全体であれ一部であれ、潜在意識の目に見えない助言が隠れている」

「さっぱり分かりません!」と、ヴュンツォフは興奮した。

「だが、とても簡単なことだ。プーシチンに『ながえ』という言葉を教え、そのイメージを作ったのは誰か?

ヤシに実るパイナップルへの戸惑いを伝えるために、ヴェセロフスキーのあの妙な手の動きや表情、抑揚、つまりあらゆる適応を教えたのは誰か?

私の質問に答える前のヴュンツォフのような、思いも寄らない身体的行動を、誰が意識して思いつくだろう?

あれも、潜在意識が教えたのだ」

「つまり」と、私は理解しようとして尋ねた。「イメージや適応は一つ一つ、程度の違いはあっても、潜在意識から生まれるということですか?」

「その大部分はね」と、トルツォフはすぐに答えた。

「だから私は、生活の中で私たちは潜在意識と大の仲よしだと言うのだ。

それだけに、潜在意識を最も必要とする場所、劇場の舞台上で、めったに出会えないのは残念なことだ。

すっかり手順が固まり、丸暗記され、せりふも演技も繰り返されて擦り切れた上演の中に、潜在意識を探してみたまえ。

そこではすべてが、俳優の計算によって一度決められたきり、固定されている。

しかし、心と体に本来備わる自然な働きによる潜在意識の創造がなければ、俳優の演技は理屈だけになり、嘘っぽく、型通りで、味気なく、生命のない、形だけのものになる。

だから舞台上で、創造的な潜在意識のために、広く道を開きなさい!

その妨げになるものを取り除き、助けになるものを定着させなさい。

ここから、心理技法の根本の課題が導かれる。俳優を、生きた人間に本来備わる自然な働きが、潜在意識の創造を始めるような状態へ導くことだ。

だが、もともと意識の力では扱えないように見えるもの、『潜在意識のもの』へ、どうやって意識的に近づけるのだろう?

幸い、意識による体験と潜在意識による体験の間に、はっきりした境界はない。

それどころか、意識が方向を示し、そこを潜在意識の働きが引き継いで進むことも多い。

私たちは心理技法の中で、この自然の性質を大いに利用する。

それによって、私たちの芸術の方向性の基礎の一つ、意識的な心理技法を通して俳優の潜在意識による創造を生み出すことが、可能になる。

こうして次の問題は、心に本来備わる自然な働きによる、潜在意識の創造を呼び起こす、俳優の心理技法となる。

だが、その話は次回にしよう」

一九……年……月……日

「さて、今日は、意識的な心理技法を通じて、自分に本来備わる自然な働きによる、潜在意識の創造をどう呼び起こすか、という話をしよう。

この過程なら、ナズヴァーノフが話せるはずだ。前々回の授業で『燃やされた金』のエチュードを繰り返したとき、自分で経験したのだから」

「私に言えるのは、突然どこからか霊感が訪れ、自分でもどう演じたのか分からない、ということだけです」

「君はあの授業で得たものを、正しく評価していない。

君が思うより、はるかに重要なことが起きたのだ。

君がいつも当てにしている『霊感』の訪れは、ただの偶然だ。

それには頼れない。

だが、今話している授業では、頼りにできることが起きた。

あのとき霊感が訪れたのは偶然ではない。君自身が必要な土壌を整えて、呼び起こしたからなのだ。

この成果のほうが、私たち俳優の芸術にも、心理技法にも、実際の仕事にも、ずっと重要だ」

「土壌を整えた覚えはありませんし、そんなことはできません」と、私は否定した。

「では、君の気づかないところで、私が君の内側にそれを整えたのだ」

「どうやってですか?

いつですか?

すべて、いつものとおり順番にやりました。筋肉を緊張から解放し、与えられた状況を確かめ、課題を次々と立てて実行し、それから……」

「まったくそのとおり。

そこには新しいことはなかった。

しかし君は、きわめて重要な細部を一つ見落としている。そこに、大きな、重要な新しさがある。

付け加えたのは、ほんのわずかなことだ。あらゆる創造的な行動を、最後の最後まで、やり尽くすところまで、君に実行させたのだ。

ただ、それだけだ」

「どういうことでしょう?」と、ヴュンツォフは考え込んだ。

「とても簡単だ。

内面の状態を作るすべての要素、心の生活を動かす力、貫く行動そのものを、俳優の型通りの現実ではなく、ごく自然な、人間としての現実に達するまで働かせるのだ。

すると、舞台上で、役の中で、自分の心に本来備わる自然な働きの、本当の生命を知ることになる。

同時に、自分の内側に、演じている人物の生活の本当の真実を知る。

真実は、信じずにはいられない。

そして真実と信じる心があるところには、舞台上でおのずと『私はいる』の状態が生まれる。

気づかなかったかね。それらが俳優の意志によらず内側から自然に生まれるたびに、人間本来の自然な働きとその潜在意識が、仕事に加わることに。

以前もナズヴァーノフには、そういうことがあった。『燃やされた金』の場面を覚えているだろう。そして前々回の授業でも、同じことが起きた。

こうして、俳優の意識的な心理技法を最後まで徹底させることで、人間本来の自然な働きが潜在意識の創造を始めるための、土壌が整うのだ。

心理技法を最後まで徹底して、やり遂げること。これこそ、君たちが創造についてすでに知っていることに加える、きわめて重要な点なのだ。

この新しい点がどれほど重要か、分かってもらいたい!

創造の一瞬一瞬は、必ず何か、とても大きく、複雑で、高尚なものでなければならない、と考えられがちだ。

だが、これまでの授業で知っているだろう。ごく小さな行動や感覚、ほんのささやかな技法でも、舞台上の創造の瞬間に、生活の、人間の真実と信じる心、『私はいる』が始まるところまで、最後までやり通せば、非常に大きな意味を持つのだ。

そうなると、人前で創造するという特殊な条件にもかかわらず、俳優の心と体の仕組みは、舞台上で自然に働く。人間の自然な法則に従って、現実の生活とまったく同じように。

現実の生活では自然に、ひとりでに生まれ、行われることを、舞台上では心理技法の助けで準備する。

考えてみなさい。どんなに小さな体や心の行動でも、本当の真実と信じる瞬間を生み、『私はいる』に達するところまで進めば、俳優の心と体に本来備わる自然な働きと、その潜在意識を、仕事に引き込めるのだ!

これこそ新しいことではないか。君たちがすでに知っていることへの、重要な付け加えではないか!

ある種の教師とは正反対に、私は、君たちのように舞台で第一歩を踏み出したばかりの生徒も、できるだけ初めから潜在意識にたどり着けるようにすべきだと考えている。

初めのうちから、個々の要素や舞台上での内面の状態に取り組むときも、あらゆる練習やエチュードに取り組むときも、それを目指すべきだ。

初心者も、ごく短い瞬間でよいから、自然に創造しているときの俳優の幸福な状態を、すぐに知ってほしい。

ただ名前や呼び名で、あるいは初めのうちは初心者を怖がらせるだけの、生命のない、味気ない専門用語によって知るのではなく、自分自身の感覚で知ってほしいのだ。

実際にこの創造の状態を愛するようになり、舞台上で常にそれを目指してほしい」

「今日教えていただいた付け加えが大切なのは分かります」と、私はアルカージー・ニコラーエヴィチに言った。「でも、それだけでは足りません。

それにふさわしい心理技法を知り、使えるようにならなければなりません。

ですから、その心理技法を教えてください。もっと具体的な取り組み方を示してください」

「よろしい。

ただし、私の口から新しいことを聞くわけではない。

君たちが知っていることを、より正確にするだけだ」

「まず、こう勧めよう。舞台上での正しい内面の状態を作り、心理技法の助けで、心の中のすべてが創造に向けて整ったと感じたら、自分に本来備わる働きが、仕事に飛び込む最後のひと押しだけを待っていると感じたら、そのひと押しを与えなさい」

「どうやって押すんですか?」

「化学では、二つの溶液の反応が遅い、あるいは弱いとき、その反応の触媒となる、ある第三の物質を、ほんのわずか加える。

一種の仕上げの味つけのようなもので、たちまち反応を最後まで進めてしまう。

君たちも、そういう触媒を加えなさい。思いがけない即興、細部、行動、本当の真実を感じる瞬間という形で。心のことでも、体のことでも、どちらでもよい。

その瞬間の思いがけなさに心が揺さぶられ、自然な働きそのものが、活動へ飛び込んでくる。

『燃やされた金』のエチュードをこの前繰り返したとき、起きたのがそれだ。

ナズヴァーノフは、自分が舞台上で正しい状態にあると感じた。そして後で説明してくれたとおり、その創造の状態をいっそう切実にするために、その場で即興的に作った思いがけない状況、大きな現金の計算違いを加えた。

その想像が、彼にとっての『触媒』になった。

この『味つけ』が、反応を一気に最後まで進めた。つまり、心と体に本来備わる自然な働きによる、潜在意識の創造へ導いたのだ」

「『触媒』は、どこで探せばよいのですか?」と、生徒たちは尋ねた。

「どこにでもある。イメージ、心に浮かぶ光景、判断、感覚、願い、ごく小さな心や体の行動、想像で作ったささやかな新しい細部、交流する対象、舞台上で君たちを取り巻く環境の、気づかないほどの細かい点、立ち位置や動きの中にもある。

信じる心を呼び起こし、『私はいる』の状態を生む、小さな、本物の、人間の生活の真実は、いろいろな場所、いろいろなものの中に見つかるのだ」

「それで、どうなるんですか?」

「演じる人物の生活と、舞台上での自分自身の生活とが、不意に、完全に一つになる瞬間が何度か訪れ、君は目がくらむだろう。

役の中に自分の一部を感じ、自分の中に役の一部を感じるのだ」

「その後は?」

「もう話したとおりだ。真実、信じる心、『私はいる』が、君を自然な働きとその潜在意識に委ねてくれる。

前々回の授業でナズヴァーノフが行ったのと同じ仕事は、『舞台上の状態を作る要素』のどこから創造を始めても、繰り返せる。

ナズヴァーノフのように筋肉を緩めるところから始める代わりに、想像力と与えられた状況を頼ってもよい。願いや、すでに明らかになった課題、ひとりでに燃え上がった感情、イメージや判断を頼ってもよい。作家の作品の中に潜在意識で真実を感じ取り、そこからおのずと信じる心と『私はいる』が生まれることもある。

どの場合も大切なのは、最初に生まれ、生き始めた要素を、完全に、最後まで生かし切ることを忘れないことだ。

もう知っているように、この創造の仕事を一つの要素について行えば、ほかのすべての要素も、切り離せないつながりによって、その後を追ってくる。

今説明した、人間本来の自然な働きによる潜在意識の創造を、意識的に呼び起こす方法は、これ一つだけではない。

別の方法もあるが、今日はそれを実演する時間がない。

次回にしよう」

一九……年……月……日

「シューストフ、ナズヴァーノフ」と、教室に入ってきたアルカージー・ニコラーエヴィチは私たちに言った。「イアーゴーとオセローの場面の初めを演じなさい。最初の数言だけでよい」

私たちは準備して演じた。いい加減にではなく、十分に集中し、舞台上での内面の状態も正しく整えて演じたつもりだった。

「今、何に取り組んでいたかね?」と、トルツォフは尋ねた。

「目の前の課題です。つまり、ナズヴァーノフの注意を自分に向けさせることです」と、パーシャが答えた。

「私は、パーシャの言葉をよく理解することと、彼の話す内容を心の目で見ることに取り組んでいました」と、私は説明した。

「すると、一人は相手の注意を引くために相手の注意を引き、もう一人は、言われたことを理解して見るために、言われたことを理解して見ようとしていたわけだ」

「違います!

どうしてそんな……」と、私たちは抗議した。

「戯曲と役の貫く行動と超課題がなければ、それしか起きようがないからだ。

それらがなければ、注意を引くために注意を引き、理解し、見るために理解し、見ることしかできない。

では、今演じたところをもう一度繰り返し、その次の、オセローがイアーゴーをからかう場面まで続けなさい」

「課題は何だったかね?」と、私たちが演じ終わると、トルツォフは尋ねた。

「ドルチェ・ファール・ニエンテ、何もしない甘美なひとときを楽しむことです」と、私は答えた。

訳注

dolce far niente はイタリア語で、何もしないことの心地よさ。電子版にある語釈を本文の訳に織り込んだ。

「では、前の課題、『相手を理解しようとする』は、どこへ行ったのかね?」

「新しい、より大切な課題の中に入り、そこに溶け込みました」

「記憶が新しいうちに、今演じた二つの部分で、両方の課題をどう実行し、役のせりふをどう話したか、思い出してみなさい」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは促した。

「最初の部分で、どう行動し、何を言ったかは覚えています。でも、二番目は覚えていません」

「つまり、課題はひとりでに実行され、せりふもひとりでに出てきたわけだ」と、トルツォフは判断した。

「どうやら、そうです」

「では、今のところを繰り返し、次の部分、これから嫉妬することになる男の、最初の戸惑いまで続けなさい」

私たちは言われたとおりにし、課題を、不器用な言い方ながら、「イアーゴーの中傷のばかばかしさを笑う」と定めた。

「では、前の課題、『相手の言葉を理解する』と『何もしない甘美なひとときを楽しむ』は、どこへ行ったのかね?」

それらも新しい、もっと大きな課題に取り込まれたのだ、と言いかけたが、私は考え込んで、何も答えられなかった。

「どうしたのかね?

何が気になる?」

「ここで、役の一つの流れ、幸福の流れが途切れ、新しく嫉妬の流れが始まることです」

「途切れるのではない」と、トルツォフは訂正した。「与えられた状況の変化につれて、少しずつ変わり始めるのだ。

初めは、新婚のオセローの短い幸福な時間、イアーゴーとの冗談のやり取りを通っていた。それから、驚き、戸惑い、疑い、迫る不幸を押しのけようとする動きが訪れた。その後、嫉妬を覚えた男は自分を落ち着かせ、前の満ち足りた幸福へ戻った。

こうした気分の移り変わりは、現実の生活でもよく知っているはずだ。

そこでも、生活が幸せに流れていたところへ、突然、疑いや失望、悲しみが入り込み、その後また晴れてくる。

こうした変化を恐れてはいけない。むしろ大切にし、理由づけ、対照によっていっそう鮮やかにしなさい。

今の例なら、それは難しくない。

オセローとデズデモーナの恋が始まったころを思い出せばよい。二人の幸福な過去を心の中で生き、それから正反対のものへ思いを移す。イアーゴーがムーア人のオセローに予告する、あの恐怖と地獄と比べてみるのだ」

「過去の、何を思い出せばいいんです?」と、ヴュンツォフはまた分からなくなった。

「ブラバンショーの家での、恋人たちのすばらしい最初の出会い。オセローの美しい物語。秘密の逢瀬。花嫁を連れ出しての結婚。新婚の夜の別れ。南国の太陽の下、キプロスでの再会。忘れられない蜜月だ。

そして、その後の未来……これからオセローを何が待ち受けているか、自分で考えてみなさい」

「未来には、何が……?」

「イアーゴーの悪魔のような策略によって、第五幕で起きたことのすべてだ。

過去と未来の両極を並べてみれば、警戒し始めたオセローの予感と戸惑いが分かるだろう。

また、創造する俳優自身が、演じる人物の運命をどう受け止めるかも明らかになる。

オセローの幸福な時期を鮮やかに示せば示すほど、後の暗い結末を強く伝えられる。

さあ、先へ進みなさい!」と、トルツォフは命じた。

こうして私たちは、イアーゴーが天と星に向かい、「知性も、意志も、感情も、すべてを、辱められたオセローに捧げる」と誓う、あの有名な言葉まで、場面全体を進んだ。

「役の全体についてこの仕事をすれば」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは説明した。「小さな課題は互いに溶け合い、一連の大きな課題を作る。

その数は多くないはずだ。

戯曲の全体にわたって置かれたこれらの課題は、航路を示す標識のように、貫く行動の線を示すだろう。

今、大切なのは、大きな課題が小さな課題を取り込む過程は、潜在意識によって行われると理解すること、つまり実感することなのだ」

最初の大きな課題を、どう言い表すかという話になった。

私たちの誰も、アルカージー・ニコラーエヴィチ自身さえも、すぐには答えを出せなかった。

もっとも、これは不思議ではない。ただ理屈で考えた、形だけの課題ではなく、的確で、生き生きとして、心を引きつける課題は、ひとりでに、すぐに現れるものではない。

役に取り組む間、舞台上で創造的に生きることによって生まれるのだ。

私たちはまだその生活を知らず、だから、その内なる本質を正しく言い表せなかった。

それでも、誰かが不器用ながら名前をつけ、ほかによいものがなかったので、私たちは受け入れた。「理想の女性であるデズデモーナを崇めたい。彼女に仕え、生涯のすべてを捧げたい」

この大きな課題をよく考え、自分なりに生きたものにしてみると、場面全体と、役の個々の部分に、内側から根拠を与えてくれるのが分かった。

演技のある瞬間に、定めた最終目的、「理想の女性であるデズデモーナを崇める」ことへ狙いを向けたとき、それを感じた。

それまでの小さな課題から最終目的へ向かうにつれ、小さな課題につけた名前は、意味も役目も失っていくように感じられた。

たとえば、最初の課題、「イアーゴーの言うことを理解しようとする」を取り上げてみる。

この課題は、何のために必要なのか?

それは分からない。

何もかも明らかなのに、わざわざ理解しようとする必要があるだろうか。オセローは恋をしていて、デズデモーナのことだけを考え、彼女のことだけを話したがっている。

だから、愛する人について尋ねることも、自分で思い出すことも、すべて必要で、うれしいことなのだ。

なぜか?

それは、「理想の女性であるデズデモーナを崇め」、「彼女に仕え、生涯のすべてを捧げたい」と思っているからだ。

二番目の課題、「何もしない甘美なひとときを楽しむ」を取り上げてみる。

これも必要ない。それどころか、正しくない。愛する人について話すことは、オセローにとって、何より大切で、必要な仕事なのだ。

なぜか?

それは、「理想の女性であるデズデモーナを崇め」、「彼女に仕え、生涯のすべてを捧げたい」と思っているからだ。

イアーゴーが最初に中傷を口にしたとき、私の理解するオセローは、大笑いした。

どんな汚れも、自分の女神の水晶のような清らかさを曇らせることはできない。そう思えることがうれしいのだ。

その確信が、彼をすばらしい気分にし、彼女への崇拝を強めた。

なぜか?

それは、「理想の女性であるデズデモーナを崇めている」からであり、以下同じことなのだ。

私は理解した。彼の中に嫉妬がどれほど少しずつ生まれるか。理想への確信が、いかに気づかないうちに弱まるか。そして、愛する人の中に裏切り、淫らさ、蛇のようなずるさ、天使の姿をした醜いものが潜んでいるという思いが、いかに育ち、強まっていくかを。

「では、前の課題はどこへ行ったのかね?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは問い続けた。

「崩れゆく理想への、ただ一つの思いに取り込まれました」

「今日の試みから、何が言えるだろう?

授業の成果は何だろう?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは尋ねた。

「成果はこうだ。私は、オセローとイアーゴーの場面を演じる二人に、大きな課題が小さな課題を取り込む過程を、実際に経験させた。

それ自体に新しいことはない。

部分と課題について、あるいは超課題と貫く行動について話したときに述べたことを、繰り返しただけだ。

大切で、新しいのは別の点だ。ナズヴァーノフとシューストフは、創造の主要な最終目的が、どうやって目の前のことから注意を引き離し、小さな課題がどうやって注意の範囲から消えていくのかを、自分自身で知った。

それらの課題は潜在意識のものとなり、独立したものから、大きな課題へ導く補助的なものへ、ひとりでに変わるのだ。

二人には、もう分かる。定めた最終目的が深く、広く、重要になるほど、注意を強く引きつけ、目の前の、補助的な、小さな課題にかかりきりになる余地は少なくなる。

それらの小さな課題は、任せておけば、自然に、人間本来の働きとその潜在意識の受け持ちになる」

「何とおっしゃいました?」と、ヴュンツォフは身を乗り出した。

「こう言ったのだ。俳優が定めた大きな課題に身を委ねると、すっかりそこへ入り込む。

その間、人間本来の自然な働きは、妨げられることなく、自分の欲求や求めるものに従って、自由に働ける。

自然な働きは、見張られずに残った小さな課題をすべて引き受け、それらを使って、俳優を最終的な大きな課題へ近づける。創造する俳優の注意と意識は、その大きな課題にすべて注がれているのだ。

今日の授業の結論は、大きな課題こそ、心と体に本来備わる自然な働きと、その潜在意識に間接的に働きかけるために、私たちが探している、最も優れた心理技法の一つだということだ」

かなり長い間、考え込んだ後、アルカージー・ニコラーエヴィチは続けた。

「今、小さな課題で見たのとまったく同じ変化が、大きな課題にも起きる。その上に、すべてを包み込む戯曲の超課題が現れたとたんにだ。

超課題に仕えることで、大きな課題も補助的なものになる。

それらもまた、根本にある、すべてを包む最終目的へ導く階段になるのだ。

俳優の注意が超課題にすっかり捉えられると、大きな課題も、その多くが潜在意識によって実行される。

知ってのとおり、貫く行動は、大きな課題が長く連なることで生まれる。

その一つ一つに、潜在意識によって実行される、小さな課題が数多く含まれている。

では、初めから終わりまで戯曲全体を貫く、その行動のすべてには、潜在意識による創造の瞬間が、いったいどれほど隠れているだろう?

実に膨大な数になる。

貫く行動は、潜在意識に働きかけるために私たちが探している、力強い刺激の手段なのだ」

少し考えてから、トルツォフは続けた。

「だが、貫く行動は、それだけで生まれるものではない。

その創造の流れの強さは、超課題がどれほど心を引きつけるかに、直接かかっている。

超課題にも、潜在意識による創造の瞬間を呼び起こす力が、隠れている。

それを、貫く行動の中に生まれ、潜んでいる瞬間に加えてみなさい。そうすれば、人間本来の自然な働きによる潜在意識の創造を呼び起こす、最も力強い鳥寄せ笛が、超課題と貫く行動であることが分かるだろう。

舞台で創造するたびに、最も深く、最も広い意味で、この二つを余すところなくつかむこと。それを、創造するすべての俳優の、何よりの願いとしてほしい。

それができれば、あとは不思議な力を持つ自然そのものが、潜在意識のうちに果たしてくれる。

その条件が整えば、上演のたび、創造を繰り返すたびに、演技は自然に湧き出し、誠実で、真実に満ちたものとなる。何よりも、思いがけないほど多様になる。

そうなって初めて、芸術から機械的な職人仕事、決まりきった型、見せ技、不快な役者ぶりの気配を、取り除ける。

そうなって初めて、舞台に生きた人間が現れ、その周囲に、芸術を汚すものをすべて取り除いた、本当の生活が現れる。

その生活は、創造を繰り返すたび、ほとんど新しく生まれ直すだろう。

最後に勧めたいのは、超課題を道しるべの星として、絶えず頼りにすることだ。

そうすれば、戯曲と役の貫く行動も全体にわたって、楽に、自然に、その多くが潜在意識のうちに実行される」

また間を置いて、トルツォフは続けた。

「超課題と貫く行動が、すべての大きな課題を取り込み、補助的なものにするように、俳優という人間の生涯を通じた、超課題を超える課題と、貫く行動を超える行動は、その持ち役の戯曲や役の超課題を取り込む。

それらは、生涯の主要な目的を果たすための、補助的な手段、階段となるのだ」

「それは上演にとって、よいことなのでしょうか?」と、シューストフは疑問を示した。

「理屈が勝ればよくない。芸術的な手段によって働きかけるのなら、よいことだ。

これで、意識的な心理技法とは何か分かっただろう。

それは、人間本来の自然な働きとその潜在意識が創造するための方法と、好ましい条件を作ることができる。

だから、心の生活を動かす力を呼び起こすものについて考えなさい。舞台上での内面の状態、超課題と貫く行動について考えなさい。つまり、意識で扱えるすべてのことについてだ。

それらの助けで、俳優としての自然な力が潜在意識のうちに働くための、よい土壌を整えることを学びなさい。

ただし、霊感そのものを目的にして、それを直接考え、追い求めてはいけない。

それは、体を無理に力ませ、逆の結果を招くだけだ」

一九……年……月……日

「潜在意識による創造の土壌を整える、意識的な心理技法のほかに、舞台で演じていると、単なる偶然にもよく出会う。

それも活用できなければならないが、そのためには、それに応じた心理技法が必要だ。

たとえば、マロレトコワ、試演会での『助けて!』を思い出してみなさい。感情がほとばしったあの数秒間に、何を体験したか話してくれないか」

マロレトコワは黙っていた。おそらく、初舞台の記憶は、まだ混乱したままなのだろう。

「では、あのときのことを、君の代わりに思い出してみよう」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは助け舟を出した。

「君が演じた孤児は、誰もいない通りへ放り出された。同時に、生徒である君自身、マロレトコワも、何もない広大な舞台へ一人で押し出された。目の前には、舞台の開口部が恐ろしい黒い口を開けていた。

孤児と、初舞台の生徒とが感じた、何もない場所への恐れと孤独は、似ていて、しかも同時に起きていたために、混ざり合った。

舞台の何もなさが、誰もいない通りと重なり、自分自身の孤独が、家を追い出された孤児の孤独と重なった。そのため君は、現実の生活でしか知らないような、自然に湧き出る、本物の恐怖を込めて『助けて』と叫んだのだ。

それは、条件が似ていて重なったことで起きた、偶然の、しかし幸運な一致だった。

経験を積み、それに応じた心理技法を持つ俳優なら、この幸運な偶然を、自分の芸術に役立てただろう。

俳優である自分の恐怖を、役の人物の恐怖へ変えることができただろう。

だが君は、経験も心理技法も足りなかったために、一人の人間である自分が、女優としての自分に勝ってしまった。

創造を離れ、演技を中断し、舞台袖へ隠れてしまったのだ」

それからアルカージー・ニコラーエヴィチは、私に向かって言った。

「君も、今話したような状態を経験しなかったかね?

舞台上で、似た条件が重なることで、偶然、自分と役が一致したことはなかったかね?」

「『血だ、イアーゴー、血だ!』の場面が、そうだったと思います」

「そうだ」と、トルツォフはうなずいた。

「あのとき何が起きたか、思い出してみよう」

「最初、私はオセローとしてではなく、自分自身として、役の言葉を叫びました」と、私は振り返った。

「演技に失敗した俳優の、絶望の叫びだったのです。

自分自身の叫びだったのに、それがオセローを、プーシチンの心を打つ話を、オセローのデズデモーナへの愛を思い出させました。

私は、俳優である自分の絶望を、役の人物、つまりオセローの絶望として受け止めたのです。

頭の中で二つが入り混じり、誰として話しているのか自分でも分からないまま、せりふを口にしました」

「今回は、似たものが重なって一致するようなことが起きたのかもしれないね」と、トルツォフは判断した。

少し間を置いて、アルカージー・ニコラーエヴィチは続けた。

「実際に私たちが出会う偶然は、こういうものだけではない。

約束事で成り立つ舞台の生活へ、戯曲や役、上演とは何の関係もない、単なる外からの出来事が、本当の現実から飛び込んでくることも、よくある」

「外からの出来事とは、どういうものですか?」と、生徒たちは尋ねた。

「たとえば、いつか話した、うっかり落ちたハンカチや、倒れた椅子だ。

舞台にいる俳優たちが敏感で、その出来事を怖がらず、目をそらさず、逆に戯曲の中へ取り込めば、それは音叉になる。

舞台上の型通りの、役者じみた嘘の中に、生活の正しい音を響かせ、本物の真実を思い出させ、作品の流れ全体を引き連れていく。そして舞台上で、私たちの言う『私はいる』を信じ、感じさせる。

それらが一緒になって、俳優を、自分に本来備わる自然な力による、潜在意識の創造へ導くのだ。

一致も、偶然の出来事も、舞台では賢く利用しなければならない。見逃さず、大切にすることだ。だが、それらを当てにして創造の計画を立ててはいけない。

潜在意識による創造を呼び起こす、意識的な心理技法と偶然について、私に話せるのは以上だ。

分かるとおり、今のところ私たちは、それにふさわしい意識的な方法を、豊富に持っているわけではない。

この分野では、まだ多くの仕事と探求が待っている。

だからこそ、すでに見つけたものを、いっそう大切にしなければならない」

今日の授業で、私はすっかり目を開かれ、すべてを理解し、『システム』の熱烈な支持者になった。

意識的な技術が、潜在意識による創造を生み、その創造自体が霊感をもたらすのを見たのだ。

それは、こういうことだった。

ドィムコワが、かつてマロレトコワが見事に演じた『捨て子』のエチュードを演じた。

ドィムコワが、『ブラン』の『産着』の場面や、この新しいエチュードのような、子どもにまつわる場面を好むのには、理由がある。彼女は最近、心から愛していた一人息子を亡くしたのだ。

私はそれを、噂として、内緒で聞かされた。

だが今日、彼女の演じるエチュードを見て、それが本当だと分かった。

演じている間、涙がとめどなく流れ、ドィムコワの母親としての優しさによって、子どもの代わりの薪が、見ている私たちには、生きたものに変わった。

産着の代わりのテーブルクロスの中に、その子の存在を感じた。

死の場面に来たときには、重大なことが起きるのを避けるため、エチュードを止めなければならなかった。それほど激しく、ドィムコワは体験していた。

みな、深く揺さぶられた。

アルカージー・ニコラーエヴィチは泣いていた。イヴァン・プラトーノヴィチも、私たちも、みな泣いていた。

本当の生命そのものが目の前にあるとき、鳥寄せ笛や、流れや、部分や、課題や、身体的行動について、何を言う必要があるだろう。

「これが、自然と潜在意識が創造する姿だ!」と、トルツォフは感動して言った。

「それらは、私たちの芸術の法則に、厳密に従って創造する。この法則は作り話ではなく、その自然そのものが与えてくれたものだからだ。

だが、こうしたひらめきと洞察は、毎日授かるわけではない。

次には来ないかもしれない。そのときは……」

「いいえ、来ます!」と、たまたま話を聞いていたドィムコワが、興奮して叫んだ。

まるで霊感に去られるのを恐れるかのように、たった今演じたエチュードを、勢い込んでもう一度始めた。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、若い彼女の神経を気遣って止めようとした。だが、何もうまくいかず、間もなく彼女は自分からやめた。

「では、どうすればよいだろう?」と、トルツォフは尋ねた。

「将来、君には、最初だけでなく、その後の上演でも毎回、よく演じることが求められる。

そうでなければ、初日に成功した作品も、その後の上演で失敗し、客が入らなくなる」

「いいえ!

感じることさえできれば、演じられます」と、ドィムコワは弁解した。

「『感じたら、演じます』か!」と、トルツォフは笑った。

「それでは、『泳げるようになったら、水に入ります』と言うのと同じではないかね?

いきなり感情にたどり着きたいのは分かる。

もちろん、それができればいちばんよい。

うまくいった体験を繰り返す技術を、一度でしっかり身につけられたら、どんなによいだろう。

だが、感情は固定できない。

水のように、指の間からこぼれていく……。

だから、望むと望まないとにかかわらず、感情に働きかけ、それを支える、もっと確かな方法を探すしかない。

好きなものを選びなさい!

最も取り組みやすく、易しいのは、身体的行動、小さな真実、信じる小さな瞬間だ」

だが、私たちのイプセン崇拝者は、創造の身体的なことを、何もかも嫌そうに退けた。

俳優が進める道を、一つ残らず検討した。部分も、内面の課題も、想像で生み出す架空の設定も。

しかし、どれも十分には心を引かず、安定して取り組みやすいものではなかった。

ドィムコワは、どんなに身をかわし、身体的行動を避けようとしても、結局、そこに落ち着くしかなかった。それよりよいものを、自分でも出せなかったのだ。

トルツォフは、すぐに彼女を導いた。

新しい身体的行動を探したのではなかった。

彼女自身がたった今、直感で見つけ、あれほど見事に行った行動を、もう一度繰り返させようとしたのだ。

ドィムコワは、真実と信じる心を持って、よく演じた。

だが、その演技を、最初のものと比べることなどできるだろうか!

アルカージー・ニコラーエヴィチは、こう言った。

「見事に演じた。だが、与えられたエチュードとは違うものだった。

君は対象をすり替えたのだ。

私は生きた捨て子の場面を頼んだ。ところが君は、テーブルクロスにくるまれた、生命のない薪の場面を演じた。

身体的行動も、それに合わせていた。慣れた手つきで、器用に木切れを包んでいたね。

だが、生きた子どもの世話には、今、省いてしまった多くの細部が必要だ。

たとえば最初は、想像の赤ん坊をくるむ前に、小さな手足を伸ばしてやった。その手足を感じ、愛情を込めて口づけし、涙を浮かべてほほえみながら、何か優しい言葉をかけていた。

心を打たれたよ。

だが今は、その細部が抜け落ちていた。

それも当然だ。薪には、手も足もないからね。

最初、想像の赤ん坊の頭を包むとき、君は頬を押しつぶさないように、ずいぶん気を配り、丁寧に整えていた。

くるみ終えると、長いこと赤ん坊のそばに立ち、母親としての喜びと誇らしさから、とめどなく涙を流した。

では、間違いを直していこう。

薪ではなく、子どもと一緒に、もう一度エチュードを演じてみなさい」

トルツォフと長いこと、小さな身体的行動に取り組んで、ドィムコワはようやく、最初の演技で潜在意識のうちに行ったことを、意識して理解し、思い出した……。

子どもの存在を感じると、涙がひとりでに目から流れた。

「これが、心理技法と身体的行動が、感情に働きかける例だ!」と、ドィムコワが演じ終えると、アルカージー・ニコラーエヴィチは声を上げた。

「それはそうですが」と、私は落胆して言った。「今回も、ドィムコワは最初のように激しく揺さぶられてはいませんでした。だから、私も先生も、涙を流さなかったのではありませんか」

「構わない!」と、トルツォフは声を上げた。

「土壌が整い、女優の中で感情が生き始めたのなら、心を揺さぶる力は訪れる。火をつける課題、魔法の『もしも』、そのほかの『触媒』によって、出口を見つければよいだけだ。

ただ、ドィムコワの若い神経を酷使したくはない。

もっとも……」と、少し考えてから、彼女に向き直った。

「こんな魔法の『もしも』を加えたら、今、その布にくるまれた薪をどうするだろう?

子どもが生まれたと想像してみなさい。かわいらしい男の子だ。

君はその子を、心から愛するようになった……。

だが……数か月後、突然亡くなってしまった。

君は、この世のどこにも身の置き場がない。

ところが、運命が君を哀れんだ。

赤ん坊が君のもとへ置き去りにされた。やはり男の子で、初めの子にもまして、かわいらしい」

まさに、急所を突いた!

アルカージー・ニコラーエヴィチが想像の話を言い終えるやいなや、ドィムコワは、布にくるまれた薪を前に、激しく泣き始めた。そして……あの心を揺さぶる体験が、倍の強さで繰り返された。

私はアルカージー・ニコラーエヴィチへ駆け寄り、何が起きたのか、その秘密を説明しようとした。彼は、ドィムコワが実際に味わった悲劇を、ぴたりと言い当ててしまったのだ。

トルツォフは頭を抱え、気の毒な母親を止めようと舞台の縁へ駆け寄った。だが、彼女が舞台でしていることに見入り、演技を中断させる決心がつかなかった。

エチュードが終わり、みなが落ち着いて涙を拭うと、私はアルカージー・ニコラーエヴィチのところへ行き、言った。

「ドィムコワが今体験したのは、想像で作ったものではなく、現実、つまり彼女個人の、一人の人間としての、実生活の悲しみだったのではありませんか?

ですから、今舞台で起きたことは、俳優の技術の勝利でも、創造でも、芸術でもなく、偶然の一致の結果と考えるべきだと思います」

「では、最初に彼女がしたことは、芸術だったのかね?」と、トルツォフは問い返した。

「はい」と、私は認めた。

「あのときは芸術でした」

「なぜ?」

「彼女自身が、潜在意識のうちに自分の悲しみを思い出し、それによって生き始めたからです」

「つまり、問題はただ一つ。前のように彼女自身が内側に見つけたのではなく、感情記憶に残っているものを、私が思い出させ、示したことだというわけだ。

俳優が自分で生活の記憶をよみがえらせる場合と、他人に思い出させてもらってそうする場合に、私には違いが見えない。

大切なのは、記憶が過去の体験を保ち、きっかけを与えられると、それを生き返らせることだ。

自分自身の記憶に残るものは、心と体の全存在をかけて、自然に信じずにはいられない」

「分かりました。そうだとしましょう。

でも、今ドィムコワが生き始めたのは、身体的な課題や、そこにある真実と信じる心からではなく、先生が与えた魔法の『もしも』からだった。それは認めなければなりません」

「私がそれを否定したかね?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは私を遮った。

「ほとんどの場合、肝心なのは、想像で生み出す架空の設定と、魔法の『もしも』なのだ。

ただし、『触媒』をふさわしいときに加えられなければならない」

「いつなのですか?」

「こういうときだ!

ドィムコワに聞いてごらん。もし私が、もっと早く魔法の『もしも』を使っていたら、彼女の心に火がついただろうか。二度目の演技のように、冷ややかに薪を布で包んでいたとき、まだ捨て子の小さな手足を感じていなかったとき、その手足に口づけしていなかったとき、不格好な木切れの代わりに、生きた美しい子をくるんでいなかったときにだ。

あの変化が起きる前に、汚れた木切れと、彼女の愛らしい赤ん坊を並べてみせたら、彼女を傷つけるだけだったと、私は確信している。

もちろん、私の作った話と、実際に経験した悲しみが偶然一致したことで、泣き出しただろう。

息子の死を、ありありと思い出したはずだ。

しかし、それは亡くなった子を悼む涙だ。捨て子の場面で必要なのは、亡くなった子への悲しみに、生きている子への喜びが混じった涙なのだ。

それどころか、生命のない木切れを、心の中で生きたものに変える前なら、ドィムコワは薪を嫌がって押しのけ、遠く離れてしまっただろうと、私は確信している。

そこで一人、大切な思い出と向き合い、たくさんの涙を流しただろう。

だが、それも亡くなった子への涙であって、私たちが必要とする、彼女が最初のエチュードで流した涙ではない。

再び子どもの手足を見て、心の中で感じ、その子に涙を注いだ後だからこそ、ドィムコワはエチュードに必要な、最初と同じ涙を流した。つまり、生きている子への喜びの涙だ。

私はその瞬間を捉え、時機を逃さず火花を投げ込んだ。魔法の『もしも』を示すと、それが彼女の最も深い、胸に秘めた記憶と重なったのだ。

そこに、本当に心を揺さぶる体験が生まれた。今度こそ、君にも満足してもらえたと思うがね」

「それでは、ドィムコワは演技の間、幻覚を見ていたということになりませんか?」

「違う!」と、トルツォフは両手を振った。

「秘密はただ、彼女が信じたのは、薪が生き物に変わったという事実ではなかった、ということだ。エチュードで描かれた出来事は現実にも起こりうるし、そうなれば救われるような安らぎが得られる。そのことを信じたのだ。

彼女は舞台上で、自分の行動が本物であること、その順序、筋道、真実を信じた。それによって『私はいる』を感じ、自然とその潜在意識による創造を呼び起こした。

分かるだろう。身体的行動の真実を信じ、『私はいる』を通って感情へ近づく方法は、役を創るときだけでなく、すでに創ったものを生き返らせるときにも使えるのだ。

以前に生まれた感覚を、再び呼び起こす方法があるのは、大きな幸せだ。

それがなければ、俳優に一度訪れた霊感は、ただ一度輝いて、永遠に消えるためだけに現れることになってしまう」

私はうれしかった。授業の後、ドィムコワのところへ行き、お礼を言った。芸術について、自分がまだ十分には理解していなかった、とても大切なことを、目の前で示してくれたからだ。

一九……年……月……日

「確かめてみよう!」と、教室に入ってきたアルカージー・ニコラーエヴィチは提案した。

「何を確かめるのですか?」と、生徒たちは戸惑った。

「ほぼ一年取り組んだ今、君たちはそれぞれ、舞台で創造する過程について、考えを持つようになった。

その新しい考えを、以前のものと比べてみよう。つまり、素人芝居や、入学時の公開実演の記憶に残っている、芝居がかった見せかけの演技についての考えとだ。

たとえば、こうだ。

マロレトコワ!

初めのころの授業で、幕のひだの中から高価なピンを探したのを覚えているね。そのピンに、自分の将来と、この学校で学び続けられるかどうかが、かかっていた。

あのとき、そわそわと走り回り、あちこちへ駆け、絶望を大げさに演じようとして、それを俳優としての喜びだと感じていたのを、覚えているね?

今でも、ああいう『演技』や、舞台上でのあの状態に、満足できるかね?」

マロレトコワは過去を思い出して考え込み、顔には次第に、からかうような笑みが広がった。

やがて首を横に振り、声を立てずに笑った。どうやら、以前の自分の無邪気な見せかけの演技を笑っているらしかった。

「ほら、笑っている。

何を笑っているのかね?

以前の君が、結果へまっすぐ飛びつこうとして、すべてを一度に、『漠然と』演じていたことだ。

それでは、演じる役の姿も情念も、ゆがんだ、見せかけのものになったのは当然だ。

では、『捨て子』のエチュードをどう体験したか思い出してごらん。生きた子どもではなく、薪を相手に、ふざけたり遊んだりしたことを。

あの舞台上の本当の生活と、創造していたときの自分の状態を、以前の見せかけの演技と比べてみなさい。そして、この間に学校で知ったことに満足しているか、聞かせてほしい」

マロレトコワは考え込んだ。顔が真剣になり、やがて暗くなり、目には不安がよぎった。そして何も言わず、思いを込めて、考え深げにうなずいた。

「ほら」と、トルツォフは言った。

「今度は笑っていない。思い出しただけで、泣き出しそうになっている。

なぜだろうね?

エチュードを創るとき、まったく別の道を通ったからだ。

観客を驚かせ、揺さぶり、できる限り強く演じるという、最終結果へ直接向かおうとはしなかった。

このときは自分の中に種をまき、根から始めて、少しずつ実を育てていった。

人間本来の自然な働きによる創造の法則に従って進んだのだ。

この二つの違う道を、いつも覚えておきなさい。一方は必ず機械的な職人仕事へ、もう一方は本当の創造と芸術へ導く」

「私たちも、狂人のエチュードで同じ状態を知りました!」と、生徒たちはほめてもらいたそうに言った。

「そのとおりだ」と、トルツォフは認めた。

「そしてドィムコワ、君も、すばらしい『捨て子』のエチュードで、同じ状態を知った。

ヴュンツォフは、踊っている間に脚を折ったふりをして、私たちをだました。

自分で作った適応を心から信じ、一瞬、その錯覚に身を任せたのだ。

これでもう分かるだろう。創造は、君たちの多くが以前に考えていたような、役者の技術上の曲芸でも、人物像や情念を外側だけで演じることでもない。

では、私たちの創造とは何か?

新しい生き物、役としての人間を宿し、育てることだ。

それは人間の誕生に似た、自然な創造の営みなのだ。

俳優が役になじみ、その生活へ入っていく間、心に何が起きるのかを丹念にたどれば、このたとえが正しいと認められるだろう。

舞台上の芸術的な人物像は一つ一つ、自然の中のすべてと同じく、唯一無二の創造物だ。

人間の誕生と同じように、形になるまでに、似た段階を通る。

創造の過程には、彼、つまり『夫』である作者がいる。

彼女、つまり『妻』もいる。役を身ごもり、作者から作品の種を受け取った、男優または女優だ。

その実りである子ども、つまり、創られる役がいる。

彼女と彼、つまり俳優と役が、初めて知り合う瞬間がある。

近づき、恋をし、けんかし、意見が食い違い、仲直りし、一つになり、命を宿し、妊娠する時期がある。

その間、演出家は仲人として、この過程を助ける。

妊娠と同じく、創造の過程にはさまざまな段階があり、俳優自身の私生活によくも悪くも影響する。

たとえば、母親には妊娠の時期によって、それぞれ特有の好みや気まぐれが現れることが知られている。

創造する俳優という人間にも、同じことが起きる。

役を宿して育てていく、それぞれの時期が、私生活での性格や状態に、さまざまな影響を与えるのだ。

役を自然に育てるには、生きた人間を生み育てるのに劣らない時間が必要だと、私は考える。場合によっては、はるかに長い時間が必要だ。

この時期、演出家は産婆や産科医として、創造に加わる。

妊娠と出産が自然に進めば、俳優の内側に生まれたものは、おのずと体を通じて形を得る。その後は、『母親』である創造する俳優が、世話をし、育てていく。

だが、私たちの仕事にも、早産、流産、未熟なままの誕生、中絶がある。

そのとき生まれるのは、未完成で、十分に生きられていない、いびつな舞台上の存在だ。

この過程を分析すると、自然が世界に新しいものを創り出すとき、一定の法則に従っていることが分かる。それが生物としてのものでも、人間の想像力の生み出すものでも、同じなのだ。

要するに、舞台上の生きた存在、すなわち役の誕生は、俳優に本来備わる創造の力による、自然な営みなのだ。

この真実を理解せず、自分の『原則』や『基礎』や『新しい芸術』を考え出し、創造する自然を信じない人々は、何と大きな思い違いをしていることか。

法則はすでにある。自然そのものが変わらぬものとして生み出したのに、なぜ自分だけの法則を作る必要があるのか。

自然の法則には、舞台で創造するすべての人が、例外なく従わなければならない。それを破れば、災いが来る。

自然を無理にねじ曲げるそうした俳優は、創造する者ではなく、偽造する者、まがいものを作る者、模倣する者になってしまう。

だから、創造する自然の法則をすべて、深く、隅々まで学び、日常生活だけでなく舞台でも、無理なく従えるようになったなら、そのときは、自分の望むものを、望むように創りなさい。ただし、欠かせない条件が一つだけある。自分に本来備わる創造の力を支える自然の法則を、一つ残らず厳密に守ることだ。

私たちの自然な働きを土台としながら、不自然で、作為的で、そのときどきに流行する新機軸や、さまざまな『主義』の多くを実現できるほどの天才や、すぐれた技術家は、まだ生まれていないと思う」

「ちょっと待ってください!

では、芸術の新しさを否定するのですか?」

「逆だ。

人間の生活は、繊細で、複雑で、多面的だから、それを余すところなく表すには、私たちがまだ知りもしない新しい『主義』が、今とは比べものにならないほど多く必要だと、私は考えている。

しかし同時に、残念ながら言わなければならない。私たちの技術は弱く、初歩的で、真剣な革新者の興味深く、正当な要求の多くに応えられるようになるには、まだ時間がかかる。

彼らは大きな間違いをしている。思想、原則、新しい基礎がどれほど正しくても、それを実現するまでには、非常に大きな隔たりがあることを忘れているのだ。

その隔たりを縮めるには、まだ原始的な状態にある、私たちの芸術の技術に、長く、十分に取り組まなければならない。

心理技法がまだ磨き上げられていないうちは、自分に本来備わる創造の力と、その自然で破ることのできない法則を、無理にねじ曲げることを、何より恐れなさい。

分かるように、私たちの芸術では、あらゆる面から次のことが求められる。俳優になろうとする生徒は誰も、まず、人間本来の自然な働きによる創造の法則を、理論だけでなく実践でも、細部まで丁寧に学ばなければならないのだ。

そして、私たちの心理技法のあらゆる方法を学び、実際に使いこなさなければならない。

それなしに、舞台へ上がる資格は誰にもない。

そうでなければ、私たちの芸術に育つのは、本当の熟練者ではなく、素人や、生半可に学んだ人々になってしまう。

そうした人々が担っていては、劇場は成長し、栄えることができない。

逆に、衰える運命にある」

授業の終わりは、別れの挨拶に使われた。今日は、この学年で最後の『システム』の授業だったからだ。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、生徒たちへの話を、次の言葉で締めくくった。

「今、君たちには心理技法がある。

それを使って、体験を呼び起こせる。

今、君たちは、具現できる感情を育てられる。

だが、人間本来の自然な働きによる、きわめて繊細で、しばしば潜在意識のうちに進む内面の生活を、外に表すには、並外れて反応がよく、十分に鍛えられた声と体の仕組みが必要だ。

それらは、ほとんど捉えられないほど細やかな内面の体験を、鋭く感じ取り、直ちに、正確に、自然に伝えなければならない。

言い換えれば、舞台上の俳優の体の生活が、その精神の生活と結びついて動くことは、まさに私たちの芸術の方向性において、とりわけ重要なのだ。

だから、私たちの方向を目指す俳優は、ほかの方向の芸術以上に、体験の過程を生み出す内面の仕組みだけでなく、感情の創造的な働きの結果を正しく伝える、外側の、体の仕組みにも、心を配らなければならない。感情が外に形を取る、その具現のためにだ。

この仕事にも、人間本来の自然な働きとその潜在意識は、大きく影響する。具現の領域でも、どれほど巧みな俳優の技術も、それらには及ばない。技術のほうが上だと、うぬぼれることはあってもね。

当然、次に取り組むのは具現の過程となる。

来年の大部分は、それに充てることになるだろう。

それだけではない。

さらに後の『役づくり』に向けても、すでに蓄えができている。その仕事に取りかかるために欠かせない、内面の状態を作ることを学んだからだ。

これも、将来に向けた大きな強みだ。いずれ『役づくり』を学び始めたとき、大いに活用することになる。

では、また会おう!

ゆっくり休みなさい。

数か月後に再び集まり、『自己修養』の学び、特に具現の過程を続けよう」

私は幸せで、翼を得たようだった。「俳優の意識的な心理技法を通じて、人間本来の自然な働きによる、潜在意識の創造へ!」という言葉の意味を、実際に、身をもって、ついに理解したのだ。

今の私にとって、その意味はこうだ。何年も、何年もかけて心理技法を身につければ、霊感のための土壌を整えられるようになる。

そうすれば、霊感はおのずと訪れる。

何というすばらしい見通しだろう!

何という大きな幸せだろう!

生きて、仕事をする意味がある!

玄関で首にマフラーを巻きながら、私はそう感じ、そう考えていた。

突然、あのときと同じように、どこからともなく、アルカージー・ニコラーエヴィチが現れた。

だが今日は、脇腹をつつかれることはなかった。

逆に私のほうから首に抱きつき、強く口づけした。

彼は面食らい、なぜそんなに感激しているのかと尋ねた。

「先生のおかげで分かったのです」と、私は言った。「私たちの芸術の秘密は、人間本来の自然な働きの法則を、正確に守ることにある。私は、それを丁寧に、深く学ぶと、ここで固く誓います!

その法則にしっかり従うと約束します。創造と芸術への正しい道を示してくれるのは、それだけだからです。

心理技法を身につけることを、辛抱強く、計画的に、たゆまず続けると約束します!

要するに、潜在意識のための土壌を整えることを学ぶため、すべてを捧げます。霊感が訪れてくれるのなら!」

アルカージー・ニコラーエヴィチは、この熱意に心を動かされた。

私を脇へ連れていき、手を取り、長いこと両手で握りながら、言った。

「その約束を聞くのは、うれしい。だが、怖くもある」

「なぜ、怖いのですか?」と、私は戸惑った。

「失望が、あまりにも多かったからだ。

私は長いこと劇場で働き、何百人もの生徒を教えてきた。だが、私が生涯を捧げてきたものの核心を理解した、後を継ぐ者と呼べるのは、ほんの数人しかいない」

「なぜ、そんなに少ないのですか?」

「本当の芸術へたどり着くまでやり抜く意志と粘り強さを、誰もが持っているわけではないからだ。

『システム』を知っているだけでは足りない。

やり方を身につけ、実際にできなければならない。

そのためには、俳優として生きる間じゅう、毎日、絶えず、訓練と反復稽古を続ける必要がある。

歌手には発声練習が、舞踊家には基礎練習が必要だ。舞台俳優には、『システム』の示す訓練と反復稽古が必要なのだ。

強く望み、この仕事を日々の生活に取り入れ、自分の自然な働きを知り、それを鍛えなさい。そこに才能があれば、君は偉大な俳優になるだろう」

付録

『劇俳優の座右の書』の目的について

この本が目指すのは、演劇の俳優と演出家の仕事のうち、範囲をはっきり限定した分野で、実際に役立つことだけである。

すでに自分の道を確立し、経験によって独自の芸術観と創造の方法を身につけた俳優のために書いたのではない。

何より念頭に置いているのは、演劇学校の生徒と、舞台でまだ頼りない第一歩を踏み出している若い俳優たちだ。

芸術とその教育について私と考えを同じくする教師には、共通の教育体系や課程を組み立てる際に、いくらか役立つだろう。特に、いつも手元に置く本として役立ててほしい。

この本に記した基礎知識と実践的な助言は、その形式のために、どこか演劇芸術の教科書や文法書のような性格を帯びてしまう。

また、どうしても避けられず、人間の心理学、生理学、解剖学に言及しているため、科学的な著作を目指していると思われるかもしれない。

このささやかな仕事に対する、その二つの誤解を、私は何より恐れている。

演劇芸術の教科書や文法書など、ありえないし、あってはならない。

私たちの芸術を、文法書や教科書の、狭く、退屈で、一本調子な枠へ押し込められるようになったなら、その瞬間、私たちの芸術は存在しなくなったと認めなければならないだろう。

万力で締めつけ、何百もの作り上げた規則に従わせた芸術は、面白くもなく、死んでおり、だから必要もない。少なくとも、生きて絶えず動き、決して安住せず、いつも探求して前へ進もうとする、芸術の炎の火花を、まだ心の中で干からびさせていない人々にとっては、そうだ。

アカデミックな超然たる態度や、威厳をまとった不動の姿勢が芸術を害するのなら、でっち上げの文法が作る、狭く、俗っぽく、ありきたりな枠については、何と言えばよいのだろう。

その恐れはあまりに強く、本を出すまでに長いことためらい、不安が高まるたび、始めた仕事を何度も投げ出した。

この本が自由な創造を縛り、窒息させるために使われるかもしれない。そう思うだけで、背筋が冷え、筆を置いてしまう。

ある教室の光景が、悪夢のようにつきまとった。机には、まだ創造の自由を持つ若者たちが座っている。

その誰かの心には、生まれたばかりの才能の、清らかな炎がともっていたかもしれない。

若者たちはみな、この本と同じような本を目の前に置き、ここからここまでと、丸暗記している。

厳格な教授が教壇に座って問いを出す。ありふれた、つまらない教師との違いは、俳優らしくひげを剃った顔だけだ。「ウラジーミル・イワノフ、俳優の精神的な性質を構成する要素を、挙げなさい」

ウラジーミル・イワノフは立ち上がり、赤くなって息を詰まらせる。何より、自分が本当の芸術を学んでいるとは信じないまま、意味も分からず暗記した性質を列挙する。その一言一言が、私の心に短剣を突き刺す。

恐ろしいことだ。欺きだ。才能を殺すことだ。

「助けてくれ!」と、悪夢の中のように叫びたくなる。

「本を破れ、燃やせ、生徒たちを解放してくれ。私が罪を犯したこと、その罰はもう十分に受けていることを、彼らに説明してくれ。だが、無能な教師に私の間違いを利用させるな。私たちの芸術を救ってくれ。教師たち全員から私の本を取り上げ、不幸な若い俳優たちに、こんな愚かな本から丸暗記したことはすべて忘れ、以前のように学ぶよう言ってくれ」

どれほど問題があろうと、知識のない俳優のほうが、丸暗記だけの俳優、規則だけの俳優、芸術の中で感受性と生命を失った俳優よりは、まだよい。

『俳優の自己修養』序文の別稿より

私の本は、科学的な著作であろうとするものではまったくない。

芸術は科学と仲よく歩むべきだと認めてはいる。しかし、この本が主に扱う、直感によって創造している、そのまさに最中に、俳優が科学の理屈を振り回すことを、私は恐れている。

私たちの創造は、何よりもまず直感的なものだ。無意識の創造的な感情、俳優の本能に基づいているからである。

もちろん、これは俳優が無知でよいとか、知識を必要としないという意味ではない。

逆に、誰よりも知識を必要とする。それが創造の材料を与えてくれるからだ。

ただし、何事にもふさわしいときがある。

現実の生活では、その後も自分を磨き、知識、情報、印象、経験を蓄えてほしい。だが舞台で創造している瞬間には、科学を忘れ、創造の直感によって生きてほしい。

舞台俳優の創造の基礎には、直感がなければならない。私たちの芸術は、いつも人間の生きた精神、魂の生きた生活を扱うからだ。

生きた精神は、知性だけでは創れず、知ることもできない。それは何より感情によって知られ、俳優の生きた心によって創られ、感じ取られる。

私たちの芸術で、知るとは、感じることである。

創造の仕事では、感情が第一の役割を担う。

もしこの本が私の最後の著作となり、人々の注意を引くなら、科学的にも、そのほかの面からも、非常に厳しい批判を受けるだろう。

訳注

「最後の著作」は底本の последней による。別の語の誤記である可能性は残るが、ここでは推測で置き換えていない。

それは大いに望ましいことだ。もちろん、経験があり、私たちの仕事を知る人々の、筋の通った批判ならば、創造の技術や私たちの芸術にある、多くの誤解や欠落を明らかにし、この本の欠点を見つけ、説明してくれるだろう。

最近よく見られるような、創造の代用品ではなく、創造の核心そのものへ向かう議論と研究を起こせたなら、私は誇りと満足を覚えるだろう。

同時に、私が提起する問題について、私たちの芸術も、そこへ科学の方法や命題を当てはめることも理解していない人々が、多くの意見を述べることも、疑いない。

私たちの仕事の専門家だと、誤って思い込む人も発言するかもしれない。劇場に本当の芸術が現れるのを恐れ、ただ食い物にするためにしがみついている人も、発言するだろう。そうした人々は、大げさな言葉や講演、学術用語を隠れみのにする。それらには意味がなく、俳優と観客の頭をいたずらに埋めるため、実際の仕事では有害ですらある。

芸術にとって危険で、私たちの実践の仕事には素人である、こうした人々から身を守るために、あらかじめ俳優や専門家に伝えておきたい。この本への科学的な批判や、その他の批判を読むとき、何を拠り所にすべきか。どのような意見なら、私は深く感謝し、真剣に受け止めるべきなのか。つまり、この仕事に何を期待してよいのか、ということだ。

期待すべきなのは、実際に役立つことである。

この本が伝えようとする助言が、現実の助けになることだ。

実際に役立たなければ、私の仕事は成果のないものとなる。

実用的な価値と助言を離れては、この本に面白さも意味もない。

だから、創造と芸術について語るとき、私はいつも、私たちの芸術を理解するとは、それを感じることだという考えに従う。芸術と創造については、自分自身がどう感じているか、長い道のりと実践が何を教えてくれたか、そのことだけを土台に話す。その間、私は創造する俳優としての自分自身にも、演出家、教師として接する他の人々にも、鋭く注意を向け続けてきた。

この材料と、経験、仕事、観察、実践から私が得た個人的な結論だけが、私たちの分野の専門家、つまり俳優、演出家、そのほかの芸術に携わる人々にとって、意味を持つ。科学者にとっても、私たちの実際の仕事を助ける科学的な研究のために、実践と生活から得た生きた材料を求めるのであれば、意味を持つかもしれない。

要するに、誰がどんなふうにこの本を科学にしようとしても、その意味は、もっぱら実践にある。

どんな体系、方法、実践の手引きを学ぶときにも、ある現象が見られる。

体系を学ぼうとする人は、誰もがひどくせっかちなのだ。

本を読み終えたら、すぐに役立つ成果を得たがる。

そのため、さまざまな体系を説く本に夢中で飛びつくが、すぐに失望して、放り出してしまう。

私の実践的な助言は、ほかのどんなものにもまして、同じ運命をたどりかねない。

すぐに夢中になりやすい一方、初めのうちは役に立つどころか、むしろ一時的な害をもたらすからだ。私が伝えたい助言に、多くの人が、心を奪われたのと同じ速さで失望してしまう。

役者にはよく見られる、ただし真の芸術家には見られない、このせっかちさを恐れるため、忘れられがちな、ごく初歩的な真実を思い出してもらいたい。

どんな体系にも、まず、それについて考えなくなるほど、なじまなければならない。肉にも血にも心にも染み込んで初めて、自分でも気づかずに使い、実際に役立てられるようになるのだ。

どんな体系も、自分の中を通して、自分自身のものにしなければならない。その土台となる核心をつかんでおけば、細部はそれぞれ、自分なりに育っていく。

この本の核心は、意識を通じて超意識へ、ということだ。

私は、俳優の仕事の意識的な方法によって、自分の中に超意識による創造、霊感そのものを呼び起こすことを学ぼうとしている。

長い実践に基づいて、私はそれが可能だと断言する。もちろん、創造の主導権をすべて自然に委ねるという、ただ一つの条件のもとでだ。自然こそが、本当に美しく、計り知れず、手の届かず、いかなる意識にも捉えきれない、生きたもの、すなわち内に生きた精神を秘めるものを創り出せる、唯一の創造者だからである。

私のシステムは、そうした創造の力を生まれながらに備えた人のためにある。

私のシステムは、才能のある人のためにある。

才能は無意識に創造するのだから、どんなシステムも必要ない、と言う人がいるだろう。

多くの人が、ほとんどすべての人が、そう言う。

だが不思議なことに、本当に才能の豊かな人だけは、そう言わない。天才も、そうは言わない……。

私は個人的に、まさにその逆の言葉を何度も聞いた。エルモーロワからも、フェドートワ、シャリアピン、サドーフスキー、ヴァルラーモフ、ドゥーゼ、サルヴィーニ、ロッシ、バルナイからも、そして彼らと同時代の、多くの才能ある人々からも……。

私たちの創造は、何よりもまず、内面的で、心にかかわる、潜在意識のものである。

その領域に入れるのは、ただ一人、不思議な力を持つ魔法使い、俳優に備わる自然だけだ。

意識は、それを助けることしかできない。

直感と霊感によって、創造がおのずと進むのが、最もよい。

だが、そうならないときは、どうすればよいのか?

そのときには、内面と外面の技術を意識的に用いて、潜在意識による創造を呼び起こすほかない。

意識を通じて、潜在意識へ。

これが、いわゆる『スタニスラフスキー・システム』の標語である。

その標語に従って私は、創造的な潜在意識に常に狙いを定めながら、俳優の技術の意識的な道筋を研究している。

しかし、心ひかれる創造の高みへ達する前には、潜在意識そのものではなく、そこへ導く意識的な技術に取り組まなければならない。

この分野では、目に見えずに創造する俳優という人間の心だけでなく、その目に見え、手で触れられる体にも向き合う。

体は現実の、物質的なものであり、それを鍛えるには、どんな芸術にも欠かせない『下ごしらえ』が必要だ。

この地味な下働きは、歌手にとっての発声と呼吸の訓練、音楽家にとっての手と指の鍛錬、踊り手にとっての脚の練習と同じく、私たちにも必要である。

違いがあるとすれば、舞台俳優には、この準備がさらに必要だということだ。

実際、歌手が扱うのは声と呼吸と言葉、ピアニストが扱うのは手だが、私たちはそれらも、脚も、体も、顔も、心と体のすべてを、一度に、同時に扱う。

創造のための仕組みを整える地味な仕事は、最初の一歩から、心ひかれる最終目的によって理由づけられて初めて、必要で、楽しく、苦にならないものに思える。その目的とは、自然そのものによる、潜在意識の、ときには霊感に満ちた創造である。

自分の内側で創造の過程をどう感じるか、本に書くだけでは足りない。

その本を読める人々を、後に残さなければならない。

私は、そういう人を育てようとしている。

だが、偽の後継者がすでに多くおり、今後はさらに増えるだろうということも、知っておかなければならない……。

そういう人々を、火事以上に警戒しなさい。

危険なのは、システムを浅く、形だけ、表面だけで捉え、ひどく単純なものとして理解しているからだ。

この分野で、物事を安易に単純化するのは危険である。

それは、人間の心と、その内面の生活の中でも最も複雑な過程の一つに対する、理解の狭さ、才能のなさ、鈍さから生まれる。

鈍い人々は、外側の練習を、それ自体のために一通り行う。大切なのは練習そのものではなく、それが内側に何を呼び起こすかだということを、忘れている。

だが、内面は鈍い人には手に負えない。だから、切り捨てられる。

それなら、システム全体が何のために必要なのか?

芸術に貼りついた、こうした才能のない人々の、出世と収入と地位のためである。

彼らは、私の弟子だと名乗るだろう。

信じてはいけない。芸術の最も危険な敵だからこそ、私は彼らを、自分個人の敵とも考える……。

劇場では、さまざまなシステムが『流行』になっている。

頭角を現した俳優は誰も、自分の地位や経歴、人気のために、独自のシステムと、そのための特別なスタジオを持つことが必要だと思っている。

だが、これらの『システム』のすべてが、芸術へ何かを『もたらしている』わけではない。そもそも、必要なのだろうか?

実際には、『システム』は、ただ一つしかない。すばらしい芸術家であり、不思議な力を持つ、俳優という人間に本来備わる自然のシステムだ。

創造のために備わった、このすばらしい自然を、あらゆる面から研究し、それだけを土台にして、私たちの基礎と法則を築かなければならない。

ただし、その際にも慎重さが必要だ。

自然の創造の法則を、実際には使えないほど複雑にしてしまうこともある。

逆に、安易な単純化の極みにまで簡略にして、意味を失わせることもある。

私たちは、演劇芸術や俳優の演技について、ひどく難解な記事や批評を、絶えず読まされる。

そこには、書き手の豊かな知識や哲学的な能力が示されている。

だが、芸術の実践に、何をもたらすのか?

何もないか、ごくわずかであり、多くの場合、かえって戸惑いと混乱を持ち込む。

同じ結果をもたらす、難しい理屈を振り回す演出家も知っている。

一方で、物事を安易に単純化する、名の知れた演出家や教師もいる。

こうした人々は、芸術と創造を、ひどく軽々しく扱う。

何か興味深い試みや実験の結果を話し終えないうちに、単純化する人は、もう自分に必要なことを書き留めている。そして翌日には、自分が教えている多くの場所で、心理技法の最新成果を説いて回る。その新しい方法を研究した本人でさえ、まだ十分に確かめていないのに。

……

彼らは、芸術の中で重要だが難しいことから、実にたやすく身をかわし、重要ではないが簡単で手の届くことに、しがみつく。

たとえば、いろいろな練習をすることは簡単だ。だが、それを通じて、本当の創造へ導く心理技法を、計画的に身につけるのは難しい……。

俳優のL・M・レオニードフは言う。「真実があり、ちっぽけな真実もある」

今話している私の弟子たちは、多くの『ちっぽけな真実』を世に出し、誤ってそれを『システム』として広めている。だが、私がただ一つ大切にしている、システムの『真実』については、何も語っていない……。

こうした単純化する人々は、『システム』がまさに本当の本質を現し始めるところで、学ぶのを終え、理解に終止符を打つ。つまり、創造で最も大切な、人間本来の自然な働きとその潜在意識の仕事が、始まるところでやめてしまうのだ。

この複雑で難しい部分は、しばしば軽んじられる。同時に、それより簡単で取り組みやすい、最初の準備段階は、過大に評価される。

このように芸術を単純なものとして扱う人々は、『システム』の最も危険な敵である。

私たちの方向性を支持する、難しい理屈ばかりの人々も、同じくらい危険だ。

たいていは、科学、文学、理論の世界の、立派な人々である。

しかし、創造する俳優の心理、舞台芸術と心理技法の、人間としての本質を、感じ取っていない。

上演の結果だけ、その正しい解釈と演出だけを考える『支持者』もいる。

そこへ注意をすべて向け、上演に生命、その魂を与えられる唯一の存在である、俳優を忘れてしまう。

この本に記した一つ一つの言葉は、私自身が実践で確かめたものだ。

そこに、私の作り話が入り込む余地はない。

自分の経験から事実を取り上げ、便宜上、トルツォフという別の名前の陰に隠れただけである。

いわゆる『スタニスラフスキー・システム』が、俳優という人間に本来備わる創造の自然と、これほど直接に結びついていることは、重要な条件だ。何としてでも新しいものを求め、現代の芸術が自然から遠く離れてしまった今は、特にそうである。

時代についていく切実な必要を否定するものではない。だが、私たちの繊細で、気まぐれで、複雑な創造の自然を、少しでも無理にねじ曲げることは、きわめて危険だと考えている。

自然は、それに厳しく仕返しをする。現代の俳優の芸術に、その姿が見られる。

目の前に現れる課題とその形は、絶えず変わる。だが、創造する自然そのものと、その法則は、揺るがない。

この本では、現代芸術の新しい課題や、それを舞台に具現する、絶えず変わる形式については話さない。俳優に本来備わる自然の、永遠で変わらない創造の法則について話す。心と体の仕組みを導き、そこに起こりうるゆがみを避けるために、必要な法則である。

私たちの創造の内容、課題、形式は変わってよい。だが、それによって自然の法則を破り、無理強いを持ち込んではならない。

無理強いを認めたところで、創造は終わる。したがって、芸術そのものも終わる。

無理強いは、芸術の最も危険な敵である。

私たちの芸術には、どの流派に属していようと、俳優という人間の誰もが、必ず取り組まなければならない領域がある。

写実主義者も、自然主義者も、印象主義者も、立体派も、食べ物を口に入れ、歯でかみ、のみ込み、喉を通して胃へ送る。

まったく同じように、創造の題材を受け取り、身につけ、作り直し、具現することも、自然が定めた変わらぬ道筋によって行われる。その道筋は、どんな条件のもとでも変えられない。

だから、俳優や舞台に携わる人々は、何を、どう創ってもよい。ただし、必要な条件が一つある。その創造が、自然そのものと、その法則に逆らわないことである。

共産主義の『インターナショナル』を歌うにも、皇帝の讃歌を歌うにも、鍛えられた声と技術が必要だ。

この本が語るのは、私たちの芸術における、まさにその鍛錬と技術だけである。

自然の法則を守るために書いたのだ。

行動についての章への補足

一九……年……月……日

「前の授業で『狂人』のエチュードを繰り返して失敗したのは、今日という日にふさわしい新しい課題を用意せず、古い演技のやり方を繰り返したからだけではない。

もう一つ、間違いがあった。

行動の順序に一貫性がなく、筋が通っていなかったのだ。

そのことを理解するために、バリケードをどう作ったか思い出してみなさい。

初めてエチュードを演じたとき、君たちは大きな本棚を扉にぴったり寄せた。

扉を少し開けて棒を差し込み、本棚を押しのける隙間さえなかった。

だが、今日の演技では違っていた。

本棚は扉にぴったりつけず、離して置いてあった。

狂人は何にも邪魔されず、扉を少し開け、広い隙間を通り抜けられたはずだ。

ほかの重い家具も、ぴったり寄せず、間を空けて並べていた。

それではバリケードの強さが損なわれる。

こういう状態では、自分たちの仕事と行動が目的にかなっていると、君たち自身が信じられなかったはずだ。

信じられなければ、舞台上でしていることを、生きることはできない。

ヴェリヤミノワも、目的に合わず、筋の通らない行動の、別の例を見せてくれた。

ランプの傘を、何のために使う必要があったのかね?

まさか、それで狂人から身を守るためではあるまい?

なぜ、その災難続きのランプの傘を落とし、拾い上げることを、あんなに大げさに扱ったのかね?

ナズヴァーノフ、君には、なぜ柔らかな毛足の布張りのアルバムが必要だったのかね?

それも、身を守る道具としては頼りない。

君の行動は目的に合わず、筋が通っておらず、信じられるものではなかった。それは認めるだろう。

二度目の『狂人』のエチュードでは、行動の順序がつながっていない瞬間を、いくらでも挙げられる。

そうした瞬間も、信じられない。演じている間に自然な感覚を生む助けにもならなかった。

むしろ、体験が自然に湧き出るのを妨げていた」

「さっぱり分かりません!」と、ヴュンツォフはため息をついた。

「だが、とても簡単なことだ。

喉が渇いて、水差しからコップへ水を注ぐところを想像してみなさい。

水差しを取り、コップの上で傾ける。すると重いガラスの栓が口から落ち、コップを粉々に割ってしまう。水は喉へ入らず、テーブルいっぱいに広がる。

これが、行動の順序を守らなかった結果だ」

「ああ!」と、ヴュンツォフは考え込んだ。

「では、別の例だ。敵と仲直りするために訪ねたのに、けんかを始め、最後には殴り合って、けがをさせてしまう。

これが、行動の筋が通っていなかった結果だ」

「分かりました!

今度は、よく分かりました!」と、ヴュンツォフは喜んだ。

「こうして次に問題になるのは、心と体の行動の過程で、筋道と順序がどんな役割を果たすか、ということだ。

これは、なおさら大切な問題である。筋道と順序は、創造の過程で独立した要素[ではない]からだ。

それらは、ほかのあらゆる要素と、絶えずかかわり合う。

私は、そのかかわりが生じるたびに、その場で話すほうが説明しやすい。

だから、筋道と順序が、創造の各要素にどう影響するかという学習は、一か所にまとめず、課程全体に分けて置くことになる。俳優の創造する心を構成する諸要素を学ぶ、その全期間にわたって扱うのだ。

今、行動に取り組む中で、初めて筋道と順序に出会った。だから、この点に立ち止まり、注意深く調べている。

現実の日々の生活では、人は意識して、あるいは習慣によって、外側と内側の行動を、順序と筋道を守って行っている。

そこでは多くの場合、生活上の目的、差し迫った必要、人間としての欲求が、私たちを導く。

人はそれらに、考え込まず、本能的に応じることに慣れている。

だが舞台上で、役として生きる生活を作るのは、実際の現実ではなく、想像で生み出す架空の設定だ。

創造の初めには、演じる人物の目的に相当する、俳優自身の、人間としての欲求や、生きた生活の目的は、まだ心にない。

役の欲求と目的は、すぐに生まれるものではなく、長い創造の仕事によって、少しずつ育つ。

想像上の目的を、本当の、切実な目的へ変えられなければならない。

それにふさわしい内面の技術を持たない俳優は、この難しい状況から、無邪気で、初歩的な方法で抜け出そうとする。

作品の高い目的へ全力で向かい、そのために行動しているふりをするだけだ。

実際には、『役の情念を大げさに演じて』いるにすぎない。

だが、行動や感情のふりをして、その自己欺瞞を心から信じることはできない。

舞台上で自分が求めるものが本物だと信じられなくなると、俳優は、人間として生活の中で身につけた技、習慣、経験、自然な働きと潜在意識の仕事、そして願いや欲求や行動の筋道と順序、そのすべての導きを失ってしまう。

その代わりに、現実の生活とは何の関係もない、役者特有の状態が舞台上に生まれる。

人間としての欲求に導かれないと、人は舞台上で調子を狂わせ、最も抵抗の少ない道へ入り、決まりきった型と機械的な演技に支配される。

幸い、こうした危険と闘い、創造を正しい、生活に根ざした自然な道へ導く、心理技法の方法がある。

その一つは、心と体の行動の筋道と順序に基づいている。

この方法を身につけるには、自分自身と、ほかの人々の中で、そうした行動の性質を調べなければならない」

「ということは、いいですか、俳優は日常生活でいつも手帳を持ち歩き、自分や他人の筋の通った、順序正しい行動を見つけるたびに、いちいち書き込まなければならないわけですか!」と、ゴヴォルコフは難癖をつけた。

「いや、もっと簡単で実用的な方法を勧めよう。それを使えば、自分と他人の行動の筋道と順序を、自然に、注意深く見つめる必要が出てくる」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「どうするんですか?」と、ヴュンツォフは気をはやらせた。

「落ち着きなさい!

具体的な例で説明しよう」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「ナズヴァーノフ、ヴュンツォフ、舞台へ行って、何か身体的行動を始めなさい」

「何をすればよいのですか?」と、私は戸惑った。

「金を数え、仕事の書類を整理しなさい。

不要なものは暖炉に捨て、必要なものは脇へ置くのだ」

「僕は何をすればいいんですか?」と、ヴュンツォフも戸惑った。

「ナズヴァーノフの仕事を見て、関心を持ち、何らかの形で加わろうとしてみなさい」と、トルツォフは説明した。

私たちは舞台へ行き、暖炉のそばのテーブルについた。

「小道具の紙幣をください」と、私は舞台袖にいた当番の舞台係に頼んだ。

「必要ない。

何も持たずに演じなさい」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは止めた。

私は、存在しない金を数え始めた。

「信じられない!」と、想像の札束を取ろうと手を伸ばしたとたん、トルツォフに止められた。

「何が信じられないのですか?」

「君は、触れる物に目を向けさえしなかった」

私は想像の札束がある場所を見たが、何も見えなかった。手を伸ばし、また引っ込めた。

「せめて格好だけでも、指を閉じなさい。それでは札束が落ちてしまう。

放り出さず、置くのだ。

そのためには、一秒必要だ。

自分のしていることに根拠を与え、体で信じたいのなら、その一秒を惜しんではいけない。

そんなふうにひもをほどく人がいるかね?

札束を縛っている、ひもの端を探しなさい。

違う!

すぐにはできないはずだ。

たいてい、束がほどけないように、端をねじってひもの下へ差し込んである。

その端を引き出して伸ばすのは、それほど簡単ではない。

そう、それだ」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは認めた。

「では、束を一つずつ数えなさい。

おや!

ずいぶん早く済ませたね。

どんなに熟練した出納係でも、古くてよれよれの紙幣を、そんなに早くは数えられない。

分かるだろう。舞台でしていることを、人間本来の働きが体で信じるためには、これほど現実に即した細部、これほど小さな真実まで、行き着かなければならないのだ」

一つの行動から次へ、一秒また一秒と、トルツォフは筋道と順序を守って、私の体の仕事を導いた。

想像の金を数えているうちに、現実では同じ作業をどう行い、どんな順番で進めるのかを、少しずつ思い出した。

トルツォフが教えてくれた、筋の通った行動の一つ一つによって、今日は、そこにない物への向き合い方が、すっかり変わった。

何もない空間が、想像の金で満たされたようだった。正確に言えば、想像はするが現実にはない対象へ、注意を正しく向けられるようになったのだ。

意味もなく指を動かすのと、頭に思い描いている、汚れて擦り切れた一ルーブル札を数えるのとでは、まるで違う。

身体的行動に、本当の真実を感じたとたん、舞台が居心地のよい場所になった。

すると、意識していないのに即興が生まれた。私はひもをきれいに丸め、そばのテーブルに置いた。

このささやかなことの真実が、心を温めた。

それだけでなく、次々と新しい即興を生んだ。

たとえば、札束を数える前に、長いことテーブルでとんとんとたたき、端をそろえて、きちんと積んだ。

そのとき、隣にいたヴュンツォフは、私のしていることを理解して笑った。

「何がおかしいんだ?」と、私は尋ねた。

「本当にやっているみたいだったから」と、彼は説明した。

「それが、最後まで十分に理由づけられ、俳優が自然に信じられる、身体的行動というものだ!」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは客席から叫んだ。

「つまり」と、[彼は]まとめた。「君たちは初め、粗い見せかけの演技をしていた。

そこから抜け出すために、身体的行動の順序を、丁寧に確かめる必要があった。

何度も繰り返すうちに、現実の生活の感覚を少しずつ思い出し、それと分かり、信じ、舞台上での自分の行動が正しいと信じるようになった。

現実の生活では、こうした感覚はすべて、自然で、手の届く、簡単で、なじみのあるものに思える。

だが舞台に上がると、人前で演じる条件のもとで、姿を変えてしまう。見知らぬ、手の届かない、複雑なものに思えるのだ。

人間の最も初歩的な身体的行動でさえ、慣れ親しんだ筋道と順序が、舞台では私たちを裏切り、離れていく。

舞台上で俳優に起こる、この困った変化は、避けられない悲しい事実として、はっきり認めるべきだ。

そして、それと闘わなければならない。

そのためには心理技法の助けと、身体的行動、そのほかの行動の性質についての、基礎的な知識が必要になる。

その知識を得るには、行動を構成する一つ一つの瞬間を、細かく調べなければならない。

行動が自然に生まれず、生き返らない場合、私たちは外側から内側へ近づく原則を使う。行動を構成する個々の瞬間を、筋道と順序に従って組み合わせ、そこから行動そのものを作る。

部分が筋道と順序を守って続くことで、生活の真実を思い出す。

なじみのある動きの感覚が、その真実を確かなものにし、行っている行動の正しさへの信頼を呼び起こす。

俳優がそれを信じたとたん、行動はひとりでに生き始める。

今日は『金を数える』エチュードに取り組みながら、この過程全体をたどれたはずだ。

強調しておきたい。外側の技術から、生きた生活の真実へ進むこの仕事では、行動を構成する部分が、筋道と順序を守って続くことに、大きな意味がある。

それらを学ばなければならない。これから、部分を組み合わせることで全体を生き返らせるという、私の勧める方法を、大いに使うことになるのだから」

「どうやって学ぶんですか?」と、ヴュンツォフは気をもんだ。

「簡単だ。そうした『研究』をせずにはいられない状況に、自分を置けばよい」

「どういう状況なのですか?」と、私は尋ねた。

「今日、『金を数える』エチュードに取り組んだとき、君たちが置かれた、まさにその状況だ。

それを作るのは、実物を持たず、想像の物を扱う仕事だ。

私たちの用語では、『物なしの行動』と呼んでいる。

それに十分自覚して取り組めるよう、この仕事に隠れた秘密、あるいは実際上の意味を、具体的な例で説明しよう。

そのために、逆の場合を使って示すことにする。

ナズヴァーノフ、ヴュンツォフ!

同じ『金を数える』エチュードを繰り返しなさい。ただし今度は、前のように『何も持たずに』ではなく、小道具係が今から持ってくる、実物を使うのだ」

私たちは、エチュードを繰り返した。

演じ終えると、アルカージー・ニコラーエヴィチは、客席で見ていた生徒たちに向かって言った。

「今、ナズヴァーノフがテーブルから札束を一つずつ取り、ほどき、数え、並べた様子を、見ていたかね? 覚えているかね?」

「だいたいは覚えています」と、生徒たちは気のない調子で答えた。

「だいたいだけかね?

ずいぶん忘れたのかね?」と、トルツォフは問いただした。

「忘れたというより、思い出すには努力が要るんです」と説明する者もいた。

「よく見ていませんでした」と言う者もいた。

「では、演じた君たち自身はどうだね。実物を使って、たった今行った行動の、個々の瞬間をはっきり覚えているかね?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは私とヴュンツォフに尋ねた。

私たちは、身体的行動も、その個々の瞬間も考えておらず、すべてひとりでに、機械的にやっていたと、認めなければならなかった。

それからアルカージー・ニコラーエヴィチは、また客席で見ていた生徒全員に尋ねた。

「では思い出して、教えてほしい。その前の、実物を使わず『想像の物』で、つまり何も持たずに行った、同じ『金を数える』エチュードは、どのように記憶に残っているかね?」

『物なしの行動』のほうが客席によく伝わり、記憶にも、くっきりと、明確に、鮮やかに残っていたことが分かった。

「演じた君たちは、どう思うかね?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは、また私とヴュンツォフに尋ねた。

「金を数える『物なしの行動』について、どんな記憶が残っている?」

身体的行動の練習によって作られ、定まった注意の流れは、私たちの記憶に、よりはっきりと、筋道と順序を保って残っていた。

「実物を使った行動と、使わなかった行動。この二つの試みから、何が言えるだろう?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは尋ねた。

私たちは、どう答えてよいか分からなかった。

「こういうことだ」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは説明した。「実物を使う練習では、行動を構成する瞬間の多くが、知らないうちにすり抜け、創造する人の注意の流れから抜け落ちる。

機械的に、習慣によって、ひとりでに、気づかずに行われる瞬間だ。

こうした抜けは、調べている行動の性質を知る妨げになる。

その行動を成り立たせる部分を、順序と筋道に従ってたどれなくなるのだ。

また、俳優が途切れずに追い、常に頼りにすべき、注意の流れを作る仕事も難しくなる。

『物なしの行動』では、まったく違うことが起こる。

そこでは、注意が追えない抜け落ちが、おのずと取り除かれる」

「おお!

どうしてです?」

「実物をなくすと、それと切っても切れない、機械的な行動、習慣、手慣れた動きも、自然になくなるからだ。それらが、注意の流れに、望ましくない抜けを作っていた。

抜けがなくなれば、途切れず、筋道と順序の上でも一つにつながった流れを作れる。その流れは、行動そのものを成り立たせる、個々の瞬間の記憶で満たされる。

言い換えれば、想像上の対象を使うことで、日常では機械的にしていることを、最後まで意識するようになるのだ。

結局、『物なしの行動』という方法の秘密は、どこにあるのか?

それを構成する部分の、筋道と順序にある。

それらを思い出して組み合わせると、正しい行動が生まれ、それに伴って、なじみのある感覚も生まれる。

それらは真実に近いから、説得力がある。

生活の記憶や、なじみ深い体の感覚によって、それと分かるのだ。

こうしたことがすべて、部分から作り上げる行動に、命を吹き込む」

授業の終わりに、アルカージー・ニコラーエヴィチは、『物なしの行動』の練習に、十分注意して取り組むよう、熱心に説いた。

イヴァン・プラトーノヴィチには、この練習を見守り、その進み具合を報告するよう頼んだ。

「覚えておきなさい。この練習は、劇俳優にとって、歌手の発声練習に当たるものだ。

発声練習は声を正しく導き、『物なしの行動』は俳優の注意を正しく導く」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは説いた。

「私は何年も舞台に立っているが、今も毎日、十五分から二十分、『物なしの行動』に取り組んでいる。今では、その性質も、構成する部分も、よく知っている。

さまざまな状況を与えて、この行動を行っている。

この分野で、私にどれほどの技術が育ったか、想像してごらん。

それが俳優にどれほど必要で、どれほど役に立つか、分かってもらいたい。

どう役立つのかを説明するには、まだ早い。

今は頭で理解するだけだろう。そういう理解は、頭に負担をかける。

心と体の全体で、私の説明を理解できるときを待とう。

それまでは、いわば信用貸しで私を信じ、熱心に『物なしの行動』に取り組みなさい。ただし、イヴァン・プラトーノヴィチに直接見てもらいながらだ」

一九……年……月……日

今日、アルカージー・ニコラーエヴィチは、こう話した。

「前の授業で、物なしの行動と、実物を使った行動を試したとき、君たち自身が気づいたね。物を持たないほうが、実物を使って同じことをするより、ずっと明確で、最後まで行われ、筋道と順序を保っていた。

日常では、行動を構成する個々の部分は、たいてい、ひとまとめになり、曖昧になる。

それなら、今話している明確さは、現実の生活で起きていることに反する、と考えるべきなのだろうか?

答えの代わりに、私が四十年以上も大切に心にしまってきた、最も貴重な美の記憶の一つを話そう。

エレオノーラ・ドゥーゼが初めてモスクワに来たとき、私は彼女の『椿姫』を見た。

長い沈黙の間に、彼女はアルマンへ手紙を書いた。

あのすばらしい場面を、私は『だいたい』ではなく、それを構成するすべての瞬間まで覚えている。

それらは、驚くほどくっきりと、明確に、最後まで形を保って、心に残っている。私は見事に作られた宝飾品を眺めるように、その場面を、全体としても、部分ごとにも、味わっている。

このように天才の芸術作品を味わうのは、大きな喜びだ。

『でも、日常ではそんなことはありません!』と、ゴヴォルコフは難癖をつけるだろう。

それは違う。まれではあっても、あるのだ。

畑で働く女性の、明確な仕事ぶりに、何度も見入ったことがある。

工場の労働者が仕事を一つ一つやり遂げる様子や、アメリカの黒人の客室係が部屋を整える様子にも、見入った……」

『交流』の章への補足

一九……年……月……日

アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「犬は部屋に入ると、そこにいる人々を見回し、その気分をつかもうとする。

それを感じ取ると、交流する相手を決め、近づいて、脚に体をすり寄せたり、膝に前脚を載せたりする。

これはすべて、相手の注意を自分へ向けるためだ。

それができると、犬は選んだ相手の前に座り、交流を始めようと、その目をじっと見つめる。

別の領域を見てみよう。

昆虫や海の生き物にも、似た過程が見られる。

隠れていた場所からはい出して、周囲の自然を、やはり長いこと調べる。

進む途中で出会う物や生き物を、触角や触手で確かめる。

そして、十分に調べてから、初めて何らかの行動に移る。

人間も、同じではないか?

人間も、部屋に入るとそこにいる人々を見回し、気分をつかもうとする。相手を選び、近づき、注意を引き、目から、姿の見えない触角を伸ばして、その状態を理解しようとする。

入ってきた人は、光線を送り出し、受け取ることで、選んだ相手との交流を始める。

別の場合には、同じ生き物、犬や海の生き物、人間が、いきなり飛び込み、その場にいる者の注意をさらい、何らかの交流を始めることもある。

このように、その過程には、あらゆる生き物に必要な、一連の段階がある。

それらの段階は、同じ瞬間の組み合わせからなり、いつも同じ筋道と順序で進む。

ところが、舞台上の俳優だけは例外だ。

生き物にとって欠かせない、自然の法則を知ろうとしない。

舞台に出ても、周囲の気分に関心を持たない。交流する相手を選ばない。その目を探さず、心を感じず、そばにいることを感じない。

型通りに演じる俳優は、自分の相手は客席の観客だと、初めから決め込んでいる。舞台のどこに立ち、何をし、何を言うべきかも、あらかじめ知っている。

そのすべてを、人間として自分が必要とするからではなく、作者や演出家の指示に従って、無理に行う。

他人の感情、衝動、考え、言葉、行動を、自分自身のものに変えられないのだ。

だから、そうした俳優は、舞台に作られた部屋へ入るのではなく、劇場の舞台へ『登場』し、その高みから、千人の群衆に自分を見せる。

世界中の劇場にこれほど広まっている、人間の自然なあり方のゆがみを、どうすれば避けられるのか?

自然の法則に従えば、ひとりでに、潜在意識のうちに行われることを、舞台上で置き換えようとする、粗いまがいもの、機械的な演技、決まりきった型から、どうすれば離れられるのか?

私たちの手には、手段が一つある。心理技法だ。

日常ではひとりでにできることも、舞台ではしばしば、心理技法の助けが必要になる。

それは、交流も含めた、自然な過程のすべての瞬間と段階を、筋道と順序に従って、意識的に行うことを教える。

その過程が、ひとりでに、潜在意識のうちに生まれないときには、人間本来の自然の法則に従い、個々の瞬間を筋道と順序に沿って、意識的に組み立てなければならない。

この仕事を、外形だけ、形だけでなく、内側からの導きと、光線を送り出し、受け取る働きの助けで行えば、俳優は真実へ近づける。

だが、自然の法則にことごとく逆らって進めば、困ったことになる。

必ず、嘘と見せかけ、機械的な演技の道へ入ってしまう。

だから、自然の法則を熱心に学び続け、守れているかを意識して見ていこう。

交流が、ひとりでに、潜在意識のうちに生まれない場合も、同じだ。

これまでは、交流の過程を構成する、個々の瞬間を調べてきた。

これからは、その瞬間が組み合わさって一連の段階を作り、それらの段階から、交流の自然な過程そのものができる様子を、たどっていく。

舞台に表された部屋へ俳優が入り、そこにいる人々を見回し、周囲の状況をつかみ、相手を選ぶ。これらの瞬間が、自然な交流の第一段階を作る。

相手に近づき、その目をはっきり引く行動や、思いがけない抑揚などを使って、自分に注意を向けさせる。これらが、今調べている自然な過程の第二段階を作る。

目の触角で相手の心を探り、こちらの考え、感情、心に浮かぶ光景を、できるだけ楽に、自由に受け取れるよう、相手の心を整える。これらが、自然な交流の第三段階を作る。

光線を送り出し、声、言葉、抑揚、適応を使って、自分の心に浮かぶ光景を相手に伝える。相手が聞き、理解するだけでなく、話している自分が何を、どう見ているかを、心の目で見られるようにしたいと願い、働きかける。これらが、自然な交流の第四段階を作る。

相手が応え、心の流れを、光線として互いに送り、受け取り合う。これらが、自然な交流の第五段階を作る。

舞台上の交流では、そのたびに、この五段階をすべて踏まなければならない」

「難しい課題ですね」と、私は言った。

「そうではないと、示してみよう。

まず、交流に先立つ自然な過程は、きわめて筋が通り、順序正しい。

そして、知っているとおり、筋道と順序は真実へ、真実は信じる心へ導く。それらが一緒になって『私はいる』を生み、創造と、人間本来の自然な働き、その潜在意識を呼び起こすのだ」

「自然な過程の五段階と言うのは簡単ですが、身につけようとしたら大変ですよ!」と、生徒たちは言った。

「では、試してみよう!」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは提案した。

「ナズヴァーノフ、廊下へ出て、一分後に戻ってきなさい。そして、私たちがどんな状態にいるか、当ててみるのだ」

後で聞いたところによると、私が出るやいなや、トルツォフは皆に、秘密めかして伝えたという。

「気の毒なナズヴァーノフ!

モスクワから呼び戻されるため、学校を去らなければならないことを、まだ知らないのだ」

「えっ?

ナズヴァーノフが学校をやめるんですか?」と、生徒たちはアルカージー・ニコラーエヴィチに詰め寄った。

だが、答える間もなく、私はもう客席へ戻っていた。

気まずい沈黙が生まれた。作り話を信じた生徒は、私と目が合うのを避け、トルツォフの仕掛けに気づいた者は、くすくす笑って、挑むような目を向けた。

「何だ、これは!

何かあったらしいが、何なのか分からない」と、私は一人一人を食い入るように見ながら言った。

「すばらしい!

状況をつかみ、交流する相手を探す瞬間が、ひとりでに生まれ、過程の第一段階を作った。

君は、皆の状態を理解したくて、目の触角で懸命に一人一人を探っていた。

私たちの状態が分かったかどうかは、重要ではない。全力でそれを感じ取ろうとしたことが大切なのだ」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは、仕掛けの意味を説明した。

「第二段階、相手の注意を自分へ向けることについては、私が手伝おう。

君の相手は私で、私の注意はすでに君に向いている。

だから、私のところへ来て、目を見て、私の状態を理解しようとしてみなさい」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは命じた。

私は簡単に、言われたことを実行できた。

「すばらしい!

第三段階、相手の心を探ることもできた!」と、私が彼の目をじっと見つめると、アルカージー・ニコラーエヴィチは声を上げた。

「完全にできたわけではありません。先生の内面の状態は分かりませんでしたから」と、私は言った。

「そこは重要ではない。大切なのは、自分の意志で私との内面的なつながりを作り、交流の土台を整えたことだ。

ともかく、これらの課題は、初めに思ったほど難しくはなかった。交流に先立って相手を探る働きを、自分の中に呼び起こすのに、苦労はしなかったはずだ。

つまり、この課題は、君に十分できるということだ」と、トルツォフは結論づけた。

「舞台の上で、黒く口を開けた開口部と、千人の観客を前にすると、私にはできません」

「それは、練習と時間と注意の問題だ。

それらが、人前で創造する状況の中でも、この仕事を果たせるようにしてくれる。

必要な習慣が身につけば、断言するが、私と同じようになる。千人の観客を前にするときには、舞台上に交流の相手がいて、交流し、心で見て、光線を送り、受け取るといった自然な過程が、自分の中で正しく進んでいなければ、立っていられなくなるだろう。

このように、自然で必要な交流の過程を、心理技法の助けで、意図的に呼び起こすことは可能なのだ」

「待ってください。第四段階と第五段階は、どうなるのですか?」と、私はアルカージー・ニコラーエヴィチを引き止めた。

「心に浮かぶ光景を相手に伝え、互いの交流を作ることについては、次の授業で話そう」

一九……年……月……日

授業は、ゴヴォルコフの難癖から始まった。驚いたことに、今回は実に的を射ていた。それによって、私たちは今日の授業の中心となる問題へ導かれたからだ。

「失礼ですが」と、ゴヴォルコフは批判した。

「先生は、筋道と順序を守った交流の段階を通して、役へ近づくべきだとおっしゃいます。

でも、待ってください!

交流する前に、交流で伝えるものを持っていなければならないでしょう!

分かりますか、先に交流を始めてから、他人に伝える心の材料を、自分の中に作るわけにはいかないでしょう」

「いや、それは可能かもしれない。

実際に確かめてみよう。

そのために、みんなで舞台の『マロレトコワの居間』へ移ろう」

私たちは、言われたとおりにした。

「どんなエチュードを演じるのですか?」

「ここ、『マロレトコワの居間』で、現実に行っているのと同じ、演劇の授業をしていることにしよう。

違うのは、その授業に不意に『視察官』がやって来ることだけだ。

その役は、ゴヴォルコフが演じてくれる。

彼は舞台袖へ行き、ほかの者は何か練習をしていなさい。

そこへ視察官が入ってくる。

その役を演じる者は、自然の法則に従い、交流のすべての段階を行うところから始める。決まった課題も、交流で伝えるために準備した材料も、何も持たずにだ」

ゴヴォルコフは舞台袖へ向かった。

アルカージー・ニコラーエヴィチは、そっと客席へ下りて暗い隅に隠れ、私たち生徒は筋肉を緩める練習を始めた。

かなり時間がたってから、ゴヴォルコフが視察官として入ってきた。

自然の法則に従うならそうなるように、彼は扉のところで立ち止まり、全員を見回し(状況をつかむ)、アルカージー・ニコラーエヴィチを目で探した。

姿が見えないので、どの生徒に話しかけようかと考え、長いこと相手を選んだ。

ようやく、ヴュンツォフに近づいた(相手を選ぶ)。

「校長と話す必要がある」と、ゴヴォルコフは言った。

「絶対だめです!

いません。

忙しいんです」

ゴヴォルコフは、ヴュンツォフの無愛想な口調に一瞬あっけに取られた。だが、自分の口調を急に変え、相手がもっと注意を向けざるをえないようにした(相手の注意を自分へ向ける。第二段階)。

今度はヴュンツォフが、あっけに取られた。

かなり長い沈黙の間、二人は互いをじっと見つめた(相手の心を探る。第三段階)。

「校長に伝えたまえ」と、ゴヴォルコフは言い張った。「私は、いいかね、今開かれている大会の依頼で来たのだ。

この学校に問題があることが明らかになった、と伝えたまえ」

『視察官』は、想像の会議で起きたことを、できるだけ目に浮かぶように説明した。そこでは、アルカージー・ニコラーエヴィチの教え方が、生徒の意志を押さえつけるものだと批判された、というのだ(心に浮かぶ光景を伝える。第四段階)。

ヴュンツォフは引き下がらず、抵抗を続けた。

口論になった(互いに交流する過程。第五段階)。

生徒のそんな態度に『視察官』は激怒し、ヴュンツォフを問い詰め始めた。何者なのか、どうしてこの学校へ来たのか、どんな権利があって目上に無礼な口をきくのか、親は誰なのか、と。

そのとき、アルカージー・ニコラーエヴィチが、ゴヴォルコフに向かって叫んだ。

「ヴュンツォフは、君の息子だ。

若いころ、父親の圧制から逃れて、家出したのだ」

少し戸惑った後、ゴヴォルコフは尋問を続けながら、新しく与えられた想像の設定に備えた。

彼はそれを、見事に演じた。

息子との思いがけない再会を、俳優として先読みしたゴヴォルコフは、若者や子どもを大切に扱うべきだと、飾り立てた言葉で説いた。

親の務めについて、わざとらしく熱弁を振るった。

その大げさな演説が高尚になるほど、後で、自分こそが横暴な父親で、ヴュンツォフはその怒りの犠牲者だと明らかになったときの、立場はいっそう滑稽になった。

『視察官』は困った立場から滑稽なほど必死に抜け出そうとし、皆の笑いの中、たった今、愛して大切にすべきだと説いた、自分自身の子どもから逃げるように、教室を出ていった。

エチュードが終わると、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「認めなければならないね。ゴヴォルコフとその相手たちは、自然のあらゆる法則に従って、交流の過程を生み、実行した。しかも、交流に必要な内面の、心の材料を、あらかじめ用意せずに行った。

ゴヴォルコフがその材料を探し始めたのは、後になって、過程が十分に進んでからだった。

思い出してみなさい。視察官を演じる彼が舞台へ入ったときの意図は、そこにいる誰かと交流を始めること、それだけだった。

筋書きも、課題も与えられていなかった。ただ一つの『もしも』、視察官という立場と役目があっただけだ。

ヴュンツォフを相手に選ぶと、ゴヴォルコフは交流を始めた。

つながりが生まれるとすぐ、その過程を続けるために、内面の材料や、そのほかの材料が、自然に必要になった。

この大切な瞬間に立ち止まって、創造していた者の心に何が起きていたか、理解してみよう。

交流の過程が生まれることは、俳優に本来備わる創造の力全体へ、強い刺激を与える。知っているだろうか?

創造の力は、内面の諸要素に助けを求め、一つずつ、あるいは一度に、それらを仕事へ引き込む」

「どうしてです?」と、ヴュンツォフは気をはやらせた。

「すべての要素が加わらなければ、交流はできないからだ。

実際、内側と外側の行動、想像で生み出す架空の設定と与えられた状況、心に浮かぶ光景、正しく向けられた注意、舞台上の相手、筋道と順序、真実の感覚、それを信じる心、『私はいる』の状態、感情記憶などがなくて、生きた人間と交流できるだろうか?

舞台上の交流、つながり、つかんで離さない力には、俳優の内側と外側の創造の仕組みが、すべて加わらなければならない。

ゴヴォルコフにも、それが起きた。

交流の過程に刺激されて、彼の創造の仕組みが、自然に、ひとりでに働き出した。

想像力が、新しい材料、与えられた状況、課題、感情記憶を示し、行動したいという衝動も、おのずと現れた。

そのすべてが、順序と筋道を守って行われた。

こうして、創造の勢いに乗って、ヴュンツォフと『視察官』の口論と尋問の場面が、ひとりでに生まれた。

この場面が、エチュードの筋を進める助けとなった。

今見たことは、自然な交流に必要な心の材料をあらかじめ用意しなくても、交流そのものから創造を始められるという証明ではないか?

創造する者が、交流の準備となる瞬間をすべて、筋道と順序に従って実行できれば。人間本来の自然な創造の法則をすべて守って行えれば。生きていること、していることの真実を感じ、自分の中で起きていることを本物だと信じられれば。『私はいる』の状態を自分の中に作れれば。そのとき、俳優に備わる創造の自然そのものと、その潜在意識が働き出す。

創造の勢い、筋道、順序によって、新しい状況、課題、行動が生まれ、それらすべてから、演じるエチュードの筋そのものが生まれる。

それだけではない。この実験は、決まった題材を持たず、交流そのものから創造を始めると、自分で題材を生み出せるだけでなく、他人が示した筋書きにも理由を与え、命を吹き込めることを示した。

ゴヴォルコフもそうだった。

創造が生まれて勢いに乗り、交流を続けるために、自分でヴュンツォフを問い詰めることを思いついた、その真っ最中に、私は、その後の出来事の案を示した。

息子が父の家を逃げ出したという私の助言を、彼は喜んでつかんだ。

私の想像した設定は、ゴヴォルコフが始めた自然な交流の過程を、さらに広げる助けとなった。

私は作者として、自分の案を、まさにふさわしい瞬間に与えた。彼の内面の諸要素がすべて仕事に加わったことで、心の創造の仕組みが、新しい課題や状況を、特に敏感に受け取れるようになっていた瞬間だ。

これも、交流の過程から創造を始め、その後で、他人に伝える心の材料を自分の中に作れるという、新しい証明なのだ」

一九……年……月……日

今日のゴヴォルコフの発言も、授業を乱すことはなかった。逆に問題を浮かび上がらせ、アルカージー・ニコラーエヴィチが、それに詳しく説明を加えた。

こういうことだった。

ゴヴォルコフは引き下がらず、難癖をつけ続けた。

「分かりますか、作者自身が台本の中で、交流の過程を準備する余地を与えず、いきなり、いいですか、最後の段階から始めることがよくあるんです」と、彼は説明した。

「それは、下手な作者のことだろう。

そういう作者を引き合いに出しても、仕方がない」

「いや、グリボエードフは下手な劇作家ではありませんが、彼もそういう間違いを犯しています。

たとえば、『知恵の悲しみ』第一幕のチャツキーの登場です。

アレクサンドル・アンドレーエヴィチは、飛び込んでくるなり、交流を始めます。前もって状況をつかむこともなく、分かりますか、目の触角を使いもせずにです」

「そうだ。下手な俳優は、そうする。

闘技場の雄牛のように舞台へ飛び込み、ソーフィヤを見ることも、状況をつかむこともなく、バレエのように片膝をつき、芝居がかった熱情で朗唱する。

『夜明けから足を動かして、今、その足であなたの足元へ』。

だが、よい俳優は違う。

入口で立ち止まり、一瞬で状況をつかみ、すぐに相手、つまりソーフィヤへ狙いを定める。素早く近づき、愛する娘の注意をさらに引くために片膝をつき、目の触角で、彼女の目をじっと捉える。

その後、交流の過程のすべての段階が行われ、その一つ一つには、せりふによって理由が与えられる。

たとえば、こうだ。

『さて、喜んでくれた?

そうではない?

私の顔を見てほしい。

驚いたのか?

それだけ?

何という出迎えだ!

一週間もたっていないようだ。まるで昨日、二人で互いにうんざりしきっていたかのように。愛情は髪の毛一本ほどもない! 何とも、ご立派なことだ!』

これらの言葉はすべて、チャツキーがソーフィヤの心を探るために書かれている。

『こちらは我を忘れ、魂も抜ける思いで、四十五時間、一瞬もまぶたを閉じず、風も嵐も突いて七百ベルスタ余りを駆け抜けた。すっかり途方に暮れ、何度も転んだ。その奮闘への褒美が、これか!』

これらの言葉は、チャツキーが心に見ている光景を描き、それをソーフィヤへ伝えている。

その後、せりふに沿って交流の過程が進む。

だから、すぐれた詩人が、人間の自然な法則、特に自然な交流の過程を破っているという君の非難は、当たらない。

グリボエードフのような偉大な詩人、劇作家、作家はみな、人間本来の自然が求めるものを、非常に重く見ている」

「でも失礼ながら、幕が上がったとき、交流の準備段階ではなく、すでに十分に進んだ場面を見せる、よい戯曲も挙げられますよ」と、ゴヴォルコフは引き下がらなかった。

「それは、幕が閉まっている間に準備が行われるからだ」と、トルツォフは言った。

「ですが、作者の台本に、そういう指示はありません」

「その代わり、俳優という人間の自然な働き、その法則、筋道と順序、私たちの心理技法が、それを求めている。

準備の過程なしに幕は開けられず、俳優も演技を始められない」

「では、ネミローヴィチ=ダンチェンコの『命の値段』は、どうなるんです? 結末、つまり自殺から始まりますよ」と、ゴヴォルコフは食い下がった。

「ああいう戯曲では、俳優は幕が上がる前に、交流の過程を準備するだけでなく、戯曲を丸ごと自分で書き、それを生きておかなければならないのだ」

アルカージー・ニコラーエヴィチは夜の公演に出演するため、授業を早めに終えなければならなかった。

俳優と観客の相互作用について――幕間の楽屋で

俳優 どういうことでしょう?

私は泣いたのに、観客は冷たいままです。

演出家 舞台であなたの隣にいた、ほかの俳優たちは泣きましたか?

俳優 覚えていません。

気づきませんでした。

演出家 自分の体験が相手に伝わったかどうか、感じていなかったのですか?

俳優 あまりに興奮し、観客ばかり見ていたので、ほかの俳優には気づきませんでした。

言ったでしょう。あれほど高揚して演じたのですから、自分と観客以外は、何も覚えていないのです!

演出家 何のために舞台へ出たのかも?

俳優 何のために舞台へ出たか、とは、どういう意味ですか?

演出家 作者が示した、戯曲の登場人物たちと交流するために、舞台へ出たのでしょう。

舞台へ出る俳優に、それ以外のどんな目的があるのですか?

俳優 観客は、どうなるのです?

演出家 あなたの感情が共演者に伝わり、その心を動かしたなら、観客も引きつけられ、あなたの体験のどんな細かな変化も見逃さない。そう安心してよいでしょう。でも、すぐ隣にいる共演者にさえ伝わらない感情を、二十列も離れた、気の散った、ざわつく群衆に、どうして感じてもらえると思うのですか?

観客のことを考えるのを減らして、そばにいる戯曲の登場人物たちを、もっと感じてください。

俳優 俳優は何より観客のために演じるのであって、共演者のためではないと思います。共演者には、稽古ですでに十分、うんざりされているのですから。

作者が私たちに作品を託すのは、多くの人々へ届けるためです。

演出家 私たちの芸術を、おとしめないでください。

私たちは仲介業者ですか? 作者と観客の間を取り持つだけの存在ですか?

私たち自身が、創造する者なのです。

役を観客に報告し、観客に話しかけることが、創造なのでしょうか?

私たちは舞台上で、何より自分自身のために生きるのです。役の感情を生きたいと望み、それを、舞台で共に生きる人々へ伝えられるからです。観客は、たまたま居合わせた目撃者です。

聞こえるように声を届かせ、見えるように舞台上の位置を選びなさい。あとは観客を忘れ、戯曲の登場人物だけを心に置きなさい。

俳優が観客に関心を向けるのではなく、観客が俳優に関心を向けるのです。

観客と交流する最もよい道は、戯曲の登場人物たちと交流することです。

生きた対象

「いや、失礼ですが、観客をそんなふうに、分かりますか、すっかり無視してしまってはいけないでしょう!」と、ゴヴォルコフは抗議した。

「私がそうしろと言っていると、なぜ考えるのかね?」と、トルツォフは戸惑った。

「先生は、観客を見ず、気に留めるなと命じているではありませんか。

そんなことをしたら、俳優はしまいに、自分が舞台にいることを忘れ、分かりますか、まったく違う、不適切なことを言い始めたり、自分の部屋に一人でいるときにしか許されないような、みっともないことをしたりしますよ。

失礼ながら、それではいけません!」

「君は、それが可能だと信じているのかね?」と、トルツォフは答えの代わりに尋ねた。

「何が可能なのですか?」

「千人の群衆の目の前に立って、その存在をすっかり忘れることだ」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは説明した。

「それは素人や無責任な理論家の、作り話にすぎない。

無駄な心配はやめなさい。

千人の群衆を忘れることなどできない。

向こうから、自分たちの存在を思い出させてくる。

客席からは、逃れられないのだ。

強い磁石のようなものだ。

私がどんなに君の注意をそこからそらそうとしても、君はやはり、十分すぎるほど客席を意識するだろう。

必要以上に、ずっとね。

君の心配を聞いて、誰を思い出すか分かるかね?

八歳の姪だよ。たくさんの人形の家族を持つ、お母さんだ。

彼女も、家庭教師との勉強のせいで、人形のお母さんの務めがおろそかになりはしないかと、とても心配している。

それから、こんな話も聞いた。ある男が、空へ飛んでいってしまうのを恐れるあまり、正気を失い、ひもで自分を地面に結びつけていたそうだ。

君も同じだ。役に身を委ね、創造の世界へ飛び立つのを怖がり、あらゆる手を尽くして、観客との結びつきを強めようとしている。

心配はいらない。何もしなくても、その結びつきは強い。

重力が空へ飛んでいかせず地面へ引き戻すように、観客も君を支配下から離さず、絶えず引きつけ続ける。どんなに観客から離れ、役に身を委ねようとしてもだ。

どのみち避けられないことを、なぜそこまで気にかけるのかね。

むしろ、踊り手や曲芸師を見習いなさい。

彼らは空へ飛んでいくのを恐れない。逆に、地面へ引く力をよく知っているからこそ、ほんの一瞬でも床を離れ、空中を飛ぶ技術を、生涯かけて学ぶ。

君も、ほんの短い間でよいから、観客を意識から離すことを学びなさい。

粘り強く取り組めば、役に身を委ねられるようになるかもしれない。ただし、繰り返すが、それは一瞬一瞬、ほんの数秒のことだ。

だから、重力と同じく避けられないことへの、無意味な心配はやめなさい。

観客を捉え、関心を持ってもらうために、スタニスラフスキーは『芸術におけるわが生涯』で、君とは正反対の、まったく別の方法を勧めている。こう言っているのだ。

俳優が観客を気にかけなければかけないほど、観客は俳優に関心を持つ。

逆に、俳優が観客を楽しませようとすればするほど、観客は俳優を重く見なくなる。

役を生きるために観客から注意を離すことによって、俳優はかえって、観客をいっそう舞台へ引きつけるのだ」

俳優の素朴さについて

一九……年……月……日

今日、アルカージー・ニコラーエヴィチはシューストフを呼び、何か演じるよう頼んだ。

パーシャは自分の素朴さを試したくなり、そのために、トルツォフの演出の一つで、端役の少女が演じたような、子どもを扱う場面を演じさせてほしいと頼んだ。

「その勇気は好きだ」と、トルツォフは言い、試すことを許した。

パーシャは舞台へ駆け上がり、椅子から毛織りのテーブルクロスを引き剝がした。ほこりが柱のように立った。その布で、手近にあった薪のような木切れを包み、想像の赤ん坊をあやし始めた。

「なぜ体に抱き寄せず、宙に浮かせて持っているのかね?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは尋ねた。

「テーブルクロスを、しわにしないためです」と、パーシャは説明した。

「それに、すごくほこりっぽいんです!」と、付け加えた。

「なるほど!」と、トルツォフは声を上げた。

「君の素朴さには、計算がある。

創造するとき、子どものように素直になるには、君はまだ十分に『ばか』ではないのだ」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは判断した。

「『ばか』ですって?」と、私たちは戸惑った。

「俳優は愚かでなければならないのですか?」

「そうだよ。子どもや、おとぎ話の天才的な『イワンのばか』が、その素朴さ、飾らなさ、気高さのために愚かだと言うのならね。

おとぎ話のイワンのように、気高く、人を信じ、賢く、欲得がなく、恐れを知らず、身を捧げられる『ばか』であることは、立派なことだ。

彼がそう呼ばれるのは、知恵がないからではなく、素朴だからなのだ。

君たちも、日常では無理でも、せめて舞台ではそうなりなさい。

俳優にとって、黄金のように貴重な性質だ。

ほかならぬA・S・プーシキンも言っている。『詩は、お許しあれ、少しばかでなければならない』と」

「どうすれば素朴になれるのですか?」と、私は戸惑った。

「作ろうとしてはいけない。その結果は、素朴なふりになる。俳優の最も悪い欠点の一つだ。

だから、自分に備わっている分だけ、素朴でありなさい。

どんな俳優も、ある程度は素朴さを持っている。

だが日常では、それを恥じ、自分に備わる性質を隠してしまう。

少なくとも舞台では、そうしないことだ」

「僕は素朴さを恥じてはいません。

むしろ、何とか呼び起こしたいのに、どうすればよいか分からないのです」と、シューストフは訴えた。

「素朴さが現れるには、それ自体を気にするのではなく、一方で何が妨げ、他方で何が助けるかを、気にかけることだ。

妨げるのは、やはり私たちの内側にいる、その最大の敵だ。

その名は、あら探し屋。

素朴であるためには、想像で作ったものに難癖をつけ、必要以上にえり好みしてはいけない。

素朴さを助ける親友は、真実と信じる心だ。

だから、まず難癖をつけるあら探し屋を追い払い、心ひかれる想像によって、真実と信じる心を作りなさい。

それができたら、これから創造しなければ、何かを演じなければ、と自分をおびえさせてはいけない。

いや、まったく別の問いにするのだ。何かを創ろうとする必要はない。ただ心から考え、答えればよい。想像したことが現実だったら、自分はどうするだろう、と。

自分の答えを信じたとき、素朴さもおのずと生まれる。

だから、まず信じられるものを探し、信じられないものを取り除きなさい。そして、さっきのテーブルクロスのように、ほこりっぽすぎるとか、しわにしてはいけないとか、あまり難癖をつけないことだ。

ほこりっぽければ、はたけばよい。しわにできなければ、代わりを探せばよい」

「では、生まれつき素朴でない場合は?」と、シューストフは質問を挟んだ。

「日常では素朴でない人も、舞台で創造しているときには、素朴になれる。

生来の素朴さと、舞台上の素朴さは、区別すべきだ。もっとも、この二つはよく共存するのだがね」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは付け加えた。

「さて」と、少し息をついてから、彼はシューストフに向かって続けた。「注意の光を自分の心の中へ向け、よく見て、正直に言ってみなさい。今演じた場面で、内側では何を信じていたのかね?」

「何も信じず、何も感じず、ただ大げさな身ぶりをしていました」と、パーシャはためらわずに認めた。

「それなら、できることに理由を与え、信じられることを信じなさい。自分の力でできて、真実を作ったり見つけたりしやすいことを」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは助言した。

「どこから近づけばよいか、分かりません」と、シューストフは手がかりを探した。

「もちろん、内側から近づくのがいちばんよい」と、トルツォフは即座に言った。

「感情へ直接近づけなければ、間接的な道を使いなさい。

そのために、想像で生み出す架空の設定、課題、対象という鳥寄せ笛がある。

いつも、そこから始める必要がある」

パーシャは自分の内側で何かを探し、自分でもよく分かっていないらしいものへ、狙いを定めようとした。

当然、それは無理を生み、その後に見せかけの演技と嘘が続いた。

「鳥寄せ笛を使って感情へ近づいても結果が出ないなら、自分を無理強いしてはいけない。

その先にあるのは決まりきった型と機械的な演技だと、知っているだろう」と、トルツォフは止めた。

「だから、別の道から感情へ近づくしかない。

周囲を注意深く見回すところから始め、何が信じられ、何が信じられないか、何へ注意を向け、何を影に置くように見過ごしておくべきか、理解しよう、感じ取ろうとしてみなさい。

たとえば、『マロレトコワの住まい』が、自分の家だと信じられるかね?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは尋ねた。

「はい、もちろんです!

自分の部屋のようになじんでいます」と、シューストフはすぐに答えた。

「すばらしい」と、トルツォフはうなずいた。

「先へ進もう。

木切れが生き物だと、自分に言い聞かせる必要があるだろうか?

そんな幻覚にまで自分を導けるだろうか。また、そうすべきだろうか?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは尋ねた。

「もちろん、いいえ」と、彼は迷わず答えた。

「そのとおり」と、トルツォフは同意した。

「それなら、薪のことをこれ以上考えないために、代わりに魔法の『もしも』を布でくるみなさい。

こう自分に言うのだ。中にあるのが薪ではなく、生きた赤ん坊だったら、自分は何をするだろう、と。

さらに進もう。

テーブルクロスを毛布だと信じられるかね?

現実に、その布で子どもをくるむことはできるだろうか?」

「もちろん、できます」と、シューストフは認めた。

「それでよい」と、トルツォフはうなずいた。

「では、それを信じなさい。

毛布に変わったテーブルクロスと、何より、くるむときに正しく行う行動。それは現実の真実で、信じることができる」

パーシャは木切れを布でくるみ始めたが、うまくいかなかった。

「信じられない」と、トルツォフは言った。

「生きた子どもなら、もっと目的にかなった動きをするはずだ。下手でも、今のようにあちこちから風が入らず、光が眠りを妨げないように、くるむだろう」

シューストフは長いこと悪戦苦闘し、最後には、大きな、妙な包みを作った。

その間、アルカージー・ニコラーエヴィチは、私のときと同じように、身体的行動の、ごく小さな間違いにも注意を向けた。その中に、本当の、自然な真実と信じる心を求めていたのだ。

ようやくシューストフは、生まれたばかりの子を揺すってあやし始めた。

「なぜ、布の端で赤ん坊の顔を、そんなに念入りに隠しているのかね?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは尋ねた。

「一つには、想像を壊してしまう木切れを見ないためです。もう一つは、赤ん坊の目に光が入らない『つもり』になるためです」と、パーシャは答えた。

「すばらしい」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは認めた。

「君は真実で嘘を覆っている。子どもの目を気遣うことで、気に留める必要のないものから、注意をそらしたのだ。

言い換えれば、妨げになるものから、助けになるものへ、注意を移した。

それは正しく、よいことだ。

だが、分からないことが一つある」と、少ししてアルカージー・ニコラーエヴィチは続けた。

「そんなに大きな声で『しーっ』と言い、子どもを激しく揺すっては、[それで]眠りやすくなるとは思えない。

逆だよ。

起こしてしまっている。

本当の行動には、いつでも十分な順序と筋道と意味がなければならない。

そうなるように、やってごらん。

そうすれば、舞台でしていることの真実と、それを信じる心へ近づける。筋の通らない行動は、その両方から君を遠ざける。

さて、子どもが眠ったのなら、小さなベッドへ寝かせるか、ソファに静かに座って抱いているか、どちらかだ」

シューストフは薪を抱いてソファに座り、大真面目に、身じろぎしないよう努めた。

それはあまりに真実らしく行われたので、客席に笑いは起きなかった。

「なぜ、そんな不満そうな顔をしているのかね?」と、トルツォフは尋ねた。

「今やったことでは、物足りないのかね?

そんなことはない。

気にする必要はない。

やったことが『少し』でも、その『少し』が二つなら、もう増えている。十個なら、もうよい。百個なら、見事なものだ。

舞台上で、どんなに単純な行動でも、十分な真実をもって行い、それが本物だと心から信じていれば、喜びを感じるものだ」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは言った。

「喜び……というのは……何に?」と、ウムノヴィフは緊張してつかえながら、理解しようとした。

「俳優が舞台上で、観客が客席で、真実を体で感じることの喜びだ」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは説明した。

「自分にも私にも喜びを与えたいなら、最も単純な身体的行動を、最後まで、十分に理由づけて行いなさい。

情念を役者らしく大げさに演じたり、感情を無理に絞り出したりするより、比べものにならないほど面白い。

君が舞台上で気持ちよく過ごしているのが、客席の私にも伝わる。

君は、人間の体の生活の線も、心の生活の線も感じている。

初めの一歩として、それ以上何が要るのかね?」

「分かりますが、心は動かされません」と、シューストフは駄々をこねた。

「それは当然だ。君は、誰を、何のためにくるみ、あやしているのか、知ろうとさえしなかったのだから」と、トルツォフは言った。

「子どもを抱いてじっと座っている、その状態を使いなさい。眠っている子を起こさないよう、ささやき声で話してみるのだ。この子は誰で、どこから君のもとへ来たのかを。

そうした想像上の設定がなければ、身体的行動には動機も生命もなく、だから創造へ向けて心を動かす力もない」

「捨て子です」と、パーシャは突然、目が開かれたように言った。

「今、『マロレトコワの住まい』の玄関前で見つかったばかりです」

「ほら、見なさい」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは喜んだ。

「以前にはできなかったことが、今はひとりでに生まれている。

さっきは想像で何かを作れなかった。今は、創っている役の『人間の体の生活』がすでにあり、感じられるので、それに理由を与えるのは簡単になった。

こうして君は、二つの魔法の『もしも』を定めた。

一つ目は、薪が木切れではなく、生きた子どもだったら。

二つ目は、その子が君のところへ置き去りにされたのだったら。

君の立場を難しくする条件や事情は、何かあるだろうか?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは尋ねた。

「はい、あります」と、パーシャは不意に気づいた。

「実は、妻が留守なのです。

妻なしに、子どもの行く末を決めるわけにはいきません。

隣の家に置いてこようか、という考えも、正直、忍び込んできます。でも、一方ではかわいそうですし、もう一方では怖くもあります。

現場を見つかったら、どうしましょう。

自分は父親でも、この赤ん坊を捨てた人間でもなく、逆に自分のところへ捨てられたのだと、どうやって証明すればよいのでしょう」

「そうだね」と、トルツォフは同意した。

「どれも、君が定めた魔法の『もしも』を複雑にする、大切な事情だ。

ほかにも困ることはないかね?」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは、さらに尋ねた。

「あります。それも、とても大切なことです」と、パーシャは、生まれた状況へ、順を追ってますます深く入り込んだ。

「実は」と、彼は説明した。「僕は生まれたばかりの子を抱いたことがなく、心底、怖いのです。

カワメンタイという魚のように、手からするりと滑り落ちそうです。

今は思い切って抱き上げましたが、目を覚まして動き、泣き叫び始めたらと思うと、もう震えてしまいます。

隣の人たちは、どう思うでしょう?

この家に赤ん坊が現れたことで、どんな噂が立つでしょう?

でも、いちばん困るのは、赤ん坊によくある、あのことが起きた場合です。

そういうとき、どうすればよいのか、替えのきれいなおくるみや肌着を、どこから持ってくればよいのか、まるで分かりません」

「そう、そう」と、アルカージー・ニコラーエヴィチはうなずいた。「どれも、滑稽でもあるが深刻な事情で、考慮しなければならない。

それでも、そんなことは、まだ小さなことだ。

もっとずっと重要なことがある」

「何ですか?」と、シューストフは身構えた。

「知っているかね」と、トルツォフは厳かな調子で告げた。「君が布の端で子どもの顔を念入りに覆い、揺すってあやしている間に、その子は窒息して死んでしまったのだ」

傍で見ていただけの私でさえ、その思いがけなさに胸がどきりとし、内側で何かが動いた。

だから、舞台上の出来事の当事者であるパーシャに、それがさらに強く働きかけたのは、不思議ではない。

ひとりでに、劇的な場面が生まれた。

たまたま、見知らぬ子どもの小さな遺体を抱くことになった人間の立場は、それだけで劇的だからだ。

刑事事件になるかもしれないと思わずにはいられない。

「ほら!」と、アルカージー・ニコラーエヴィチは捉えた。

「薪が布の中で窒息したと聞いて、君は青ざめた。

ばかげた、ありえないことを信じたのだ。

それ以上、どんな素朴さが必要だというのかね!」

たしかに、と私は思った。大人の男が薪を丁寧にくるみ、あやし、動くのを恐れて長いことじっと座り、木切れが窒息したと聞いて青ざめる。作り事だということに気づかず、ばかばかしいことを真実として信じる。それは素朴さではないだろうか?

しかも、自分がしていることの大切さを自覚し、大真面目に行っているのだ。

「こうして」と、アルカージー・ニコラーエヴィチはまとめた。「偶然生まれた新しいエチュード、『無実の罪人、あるいは布にくるまれた薪』によって、君に俳優として十分な素朴さが備わっていることは、示されたはずだ。

さらに、今日のようにひとりでに生まれないときでも、少しずつ呼び起こし、部分ごとに組み立てられると、自分自身で確かめられた。

想像で作ったものの種が、準備された『人間の体の生活』という土壌に落ちれば、この仕事はずっと楽になる。

つまり」と、トルツォフは締めくくった。「前の授業でナズヴァーノフは、種をまくために、内側にも外側にもよい土壌を整えた。だが、魔法の『もしも』と、与えられた状況という種を、用意し忘れた。

今日は君が、小さな身体的行動と、その真実、それを信じる心によって、土を耕し、肥やしただけでなく、種もまいた。その種が、体験の一瞬の創造的な閃きという、よい実りをもたらしたのだ」

図版と出典

超課題へ向かう貫く行動(本文の図版)

ばらばらになった貫く行動(本文の図版)

外から持ち込まれた主張にそれる行動(本文の図版)

超課題と主張が一つに結びついた行動(本文の図版)