哲学 / John Dewey考えるしくみの研究Studies in Logical Theory

『考えるしくみの研究』の標題紙

哲学 / John Dewey

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原著・底本

原題
Studies in Logical Theory
著者
John Dewey
底本
1903
寄稿者
John Dewey
寄稿者
Helen Bradford Thompson
寄稿者
Simon Fraser McLennan
寄稿者
Myron Lucius Ashley
寄稿者
Willard Clark Gore
寄稿者
William Arthur Heidel
寄稿者
Henry Waldgrave Stuart
寄稿者
Addison Webster Moore
原典の利用条件
パブリックドメイン
Project Gutenberg 利用条件
収録範囲
一九〇三年版に基づき、序文、全十一章、目次、索引、原注を収録。ジョン・デューイら八名による共同研究。

日本語訳

利用条件
CC0 1.0
翻訳原稿
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表紙

画像
標題紙
利用条件
パブリックドメイン

画像は一九〇九年刷の標題紙。日本語訳の底本は一九〇三年版。

追加日: 2026-02-08 / 更新日: 2026-10-10

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考えるしくみの研究

著者

ジョン・デューイ

哲学教授

哲学科の教員および研究員の協力による

創立十周年記念出版
第二系列 第十一巻

シカゴ
シカゴ大学出版局
一九〇三年

著作権 一九〇三年
シカゴ大学

序文

本書は、シカゴ大学哲学科が創設以来の十年間に論理の理論をめぐって進めてきた研究の成果の一部をまとめたものである。十一編の研究は八人の執筆者による。編者を除く全員が、かつてこの大学で研究員を務めていた。ハイデル博士の専門はギリシア語で、ほかの者は哲学である。各人の氏名と現在の職は目次に記した。編者はごくまれにではあるが、各論考のつながりをより明らかにするため、注や語句を補った。また、仮説を論じる章のうち、ミルとヒューウェルを扱った部分は編者の執筆による。この二点を除けば、それぞれの研究の内容については、執筆者本人が全面的に責任を負っている。

各論考には見解の一致も相違もあるが、その程度は、成立の経緯からすれば自然なものだと編者は考える。執筆者たちは、演習や講義で共通の問題を追究しながら交流し、互いの考え方の形成に関わってきた。本書には執筆していないが、ここで示す見方の発展に力を貸してくれた人々もいる。執筆者一同、その方々から受けた恩恵に感謝したい。意見の相違は、それぞれが異なる関心から論理の問題に向き合っていることに由来する。また、ここでの見方が、幸いにもなお発展の途上にあり、閉じた体系になりそうな気配を少しも見せていないことにも由来している。

執筆者たちの方法がどのような点で、どの程度一致しているかは、各論考そのものから読み取れなければ、序文で説明してもうまく伝わらないだろう。ただ、繰り返し触れられながら、一まとまりの議論としては展開されていない問題について、少し述べておくのも無駄ではあるまい。それは、本書で論じる事柄が、哲学のより根本的な問題に対して持つ意味である。編者の判断で言わせてもらえば、次の点では全員の見解が一致している。判断は、知るという働きの中心であり、したがって論理学の中心問題でもある。知るという行為は、これと共通する面を持ちながらも異なる、感じること、価値を認めること、実践することと、密接で切り離せない関係にある。それゆえ、知ることを、それだけで閉じ、それだけで説明できる全体として扱うと、得られた成果をゆがめることになる。論理の理論が機能心理学と深く結びつくのは、このためである。知識は経験の内部にある一つの働きとして現れるが、その一方で、ほかの働きの過程と内容の双方を判断する。したがって、知識の役割と目的は、何かを組み直したり変えたりすることに、その特色があるはずだ。また、実在は経験に即して定義されなければならない。そうであれば判断は、実在が意識的な働きかけによって発展してゆく、その媒介として位置づけられる。このように実在は動的であり、みずから発展してゆくものだという前提を置かなければ、真理、つまり知る働きの成功について、一般的に妥当な基準を立てることはできない。個々の場合にも、生活の手段と目的を調整し直し、広げてゆくうえで、知ることがどのような具体的役割を求められているかを考えなければ、そうした基準は得られない。さらに、この考え方こそ、科学の実際の方法と、道徳的生活の正当な要求とを協働させる、唯一有望な基盤を与えるという点でも、全員の見解は一致している。もちろん、これだけでは、細部の結論へ向かう道をそれほど遠くまで進んだことにはならない。しかし、あまりにきっぱりと答えを定めて、その後の思考の進路に行き止まりの壁を築いてしまうよりは、正しい方向へ出発するほうがよいのではないだろうか。

おおむね、論理の問題で私たちが誰にどれほど多くを負っているかは、その人にどれほど批判を向けているかに対応している。全体としていえば、最も鋭く対立する見解から、最も多くを学んだ。したがって私たちは、ミル、ロッツェ、ボザンケ、ブラッドリーに、特に大きな恩義を負っている。編者個人としては、現在の哲学部の同僚、なかでもジョージ・H・ミード氏と、かつての同僚で、現在ミシガン大学にいるアルフレッド・H・ロイド博士に感謝したい。そして、着想を与えられたことでも、私たちが研究に用いてきた道具を鍛えていただいたことでも、一同がひときわ大きな恩義を負っているのが、ハーヴァード大学のウィリアム・ジェイムズである。この謝辞と本書を、等しく深い敬意と称賛の、ささやかな印として受け取っていただければ幸いである。

目次

第一章 思考とその素材 1頁

ジョン・デューイ

第二章 思考とその素材――思考に先立つもの 23頁

ジョン・デューイ

第三章 思考とその素材――思考の所与 49頁

ジョン・デューイ

第四章 思考とその素材――思考の内容と対象 65頁

ジョン・デューイ

第五章 ボザンケの判断論 86頁

ヘレン・ブラッドフォード・トンプソン、博士、マウント・ホリヨーク大学心理学実験室主任

第六章 判断の発展における典型的な段階 127頁

サイモン・フレイザー・マクレナン、博士、オーバリン大学哲学教授

第七章 仮説の性質 142頁

マイロン・ルーシャス・アシュリー、博士、アメリカン通信学校講師

第八章 論理学における心像と観念 183頁

ウィラード・クラーク・ゴア、博士、シカゴ大学心理学助教授

第九章 ソクラテス以前の哲学の論理 203頁

ウィリアム・アーサー・ハイデル、博士、アイオワ・カレッジのラテン語教授

第十章 論理的過程としての価値評価 227頁

ヘンリー・ウォルドグレイヴ・スチュアート、博士、アイオワ大学哲学講師

第十一章 目的の論理的側面 341頁

アディソン・ウェブスター・ムーア、博士、シカゴ大学哲学助教授

第一章

思考とその素材――論理の理論をめぐる一般的な問題

思考は、少なくとも、ときに構成的思考と呼ばれるものとは区別される省察的な思考は、何かから生じる二次的な働きだ。このことを疑う人はいない。思考は何かの後に、その何かから、何かのために生じる。日常の実生活や科学で行われる思考が、この省察的な種類のものであることも疑いない。私たちは、何かについて考え、何かを振り返って吟味する。では、思考に先立ち、その根底をなすものは何なのか。思考が途中に入ってくるのは、最終的に何を目指すためなのか。思考を、ほかのものから生じる手続きと理解するのは、どのような意味なのか。こう問えば、私たちは論理の問題の核心に踏み込んでいる。それは、思考と、それに先立つ経験上の条件との関係、思考と、その結果として生じる真理との関係、そして真理と実在との関係である。

ところが、理論を構えない素朴な立場からすれば、これらの問いに難しいところはない。思考に先立つのは、私たちが生き、愛し、価値を感じ、奮闘している、この世界である。私たちはありとあらゆることを考える。地面に積もった雪、下のほうから交互に響いてくる金属音と鈍い音、モンロー主義とベネズエラの紛争との関係、芸術と産業との関係、ボッティチェッリの絵の詩情、マラトンの戦い、歴史の経済的解釈、原因をどう定義すればよいか、出費を減らす最善の方法、切れた友情を結び直すべきか、またどうすれば結び直せるか、流体力学の方程式の意味、等々である。

この雑多でとりとめのない列挙にも、これだけの筋道は見える。出来事、行為、価値、理想、人、場所、何であれ思考の対象になりうるということだ。省察は、自然界にも、社会が成し遂げてきたことの記録にも、社会の願いを実現しようとする努力にも、等しく向けられる。思考が何かから派生するといい、間に入って媒介するといわれるのは、まさにこうした事柄との関係においてである。行為や感情や社会を築く営みの世界から、ある部分を特に引き受け、そこに生じた個別の困難を処理できるまで取り組む。そして用が済むと、思考はその問題を手放し、私たちは再び、いっそう直接的な経験へと進んでゆく。

しばらくこの素朴な立場にとどまってみると、ある種のリズムが認められる。直接的な実践と、そこから生じる理論、まず何かを築くことと、その後にそれを批判すること、生き生きと価値を感じることと、抽象的に記述すること、活動的な努力と、その薄い影のような省察との交替である。より直接的で一次的な姿勢は、どれも必要に応じて、熟慮し筋道をたどる二次的な姿勢へ移る。そして後者は、役割を果たすと退き、次へ道を譲る。素朴な立場では、このリズムは当たり前のこととされる。思考する姿勢を必要にする状況とは何か、その成功はどのような基準で判断されるのかを、理論として述べようとはしない。思考と、それに先立つもの、また後に続くものとの正確な関係について、一般理論を打ち立てることもない。まして、経験上の事情からどうして思考の合理性が生まれるのか、あるいは省察はどうして真理を定め、それによって新たな実在を築く力を持つといえるのか、などとは問わない。

素朴な生活のなかで行われる思考に向かって、理論的な説明は最小限にして、自分が実際にしていることをどう捉えているか述べてもらうとすれば、答えはおそらく次のようになるだろう。考えることは、特定の必要に応じて私たちが行う活動の一つである。別の必要があれば、友人と話す、家の設計図を描く、散歩する、食事をとる、服を一着買うなど、別の活動をするのと同じだ。一般に、その材料となるのは、広い世界にあるもののうち、その必要と関係がありそうなものなら何でもよい。困難がどこにあるかを明らかにしたり、それにうまく対処する方法を思いついたりするのに役立つものは、どれも材料になる。思考の成功を測る尺度、その妥当性の基準は、思考が実際にどれほど困難を解決し、私たちをより直接的な経験へ進ませてくれるか、その程度にほかならない。そして、その直接的な経験は、思考を経たことで、以前より確かで深い価値を持つようになる。

では、この素朴な姿勢はなぜ、自分の実践に含まれているこうした意味を、体系的な理論へと練り上げないのか。その立場に立てば、答えは明らかである。思考は、それを必要とする状況に応じて生じる。その状況への対処が切実であるため、時間も必要も、その場で求められる思考に向けられるのであって、思考そのものを省察するところまでは及ばない。省察はふさわしいきっかけにあまりにも自然に続き、その帰結はあまりにも明白で実際的であり、全体のつながりはあまりにも有機的である。思考は特定の必要に応えて生じると認めるなら、論理の理論という特殊な思考がそこに現れないのは、その種類の省察を実際に必要とする事情がないからだと分かる。私たちの注意は、個別の問いと具体的な答えに占められている。取り組まなければならないのは、「そもそも私はどうして考えることができるのか」という問題ではなく、「この場で、今、どう考えればよいか」という問題だ。問われるのは、思考一般を試す基準ではなく、この思考を何が正当化し、確かめてくれるかなのである。

この見方に従えば、私たちの思考の営みを一般的に説明するもの、すなわち論理の理論が歴史上現れるのは、状況が、今述べたような有機的なつながりを失った時期だということになる。省察を具体的に行うだけでなく、省察そのものについて一般理論を立てるようになるのは、省察を求める事態があまりに押し寄せ、互いに衝突して、思考による適切で個別的な応答が妨げられるときである。また、実際の事柄があまりにも多岐にわたり、入り組み、手の届かないものになって、思考がそこへ有効に働きかけられなくなったときにも、この理論は姿を現す。

ともあれ、この素朴な立場を保つかぎり、論理の理論という特別な省察的思考を促すものがどこにあるかは明らかである。状況が思考を必要としながら、個々の問題について明晰で一貫した思考を進めることを妨げている場合、あるいは思考を引き起こしながら、その成果が目の前の生活上の問題を導くことを妨げている場合である。こうした条件のもとで、次のような問いが生まれる。合理的な思考と、まだ吟味されていない経験、あるいは省察を経ていない経験との関係は何か。思考と実在との関係は何か。理性が真理の世界を隅々まで見通すのを妨げる壁とは何か。なぜ私たちは、一方では思考そのものが満たされない具体的な経験の世界に住み、他方では秩序立っていても抽象的・観念的でしかない思考の世界に住むという、交互の生活を送ることになるのか。

ここで、このように示唆された歴史的な探究を進めるつもりはない。この点に触れたのも、論理の問題とはどのようなものかに注意を向けるのに役立つからにほかならない。

この後者の種類の問いを扱うなかで、論理の理論は、実践上の熟慮や科学研究に含まれる理論的な意味から、大きく離れる方向へ進んできた。実践上の熟慮と科学研究とは、細部ではどれほど違っていても、一つの根本原則では一致している。どちらも、省察の問題や働きはつねに特定の状況との関係で生じ、その状況に応じた特定の目的に役立たなければならないと考える。どちらにも、明確に認め、守っている限界がある。どこから始まり、どこへ至るかという限界だ。出発点は、省察を呼び起こす個別の状況における必要によって限られる。到達点は、示された個別の問題をうまく処理することによって定まる。あるいは、解決できずに退いて、別の問題に取りかかるところで終わる。そこで、論理の理論の性質について、ただちに次の問いに直面する。省察についての省察も、これらの限界を認め、その内容をさらに正確に述べ、相互の関係をより適切に定めようとするべきなのか。それとも限界を取り払い、思考の具体的な条件や目的という問題を捨てて、思考と、その経験上の前提および合理的な帰結である真理との関係を、一般的に論じるべきなのか。

一見すると、省察の過程を一般化するという論理の理論の性質上、個別の条件や結果は関係のないものとして無視せざるをえないようにも思える。細部を無関係なものとして取り除かずに、どうして省察を一般化できるのか、というわけだ。このように考えて論理学の中心問題を定めると、その後の進路も扱う材料も、最初から決まってしまう。論理学の本務は、それ以後、思考そのものと実在そのものとの関係を論じることになる。確かに、そこには心理学的な材料が多く含まれるかもしれない。特に、思考に先立ってそれを呼び起こす過程を論じる際にはそうだろう。諸科学で使われる具体的な探究・検証の方法についても、多くを論じるかもしれない。また、概念を形成するさまざまな仕方、判断のさまざまな組み立て、推論のさまざまな型など、思考の種類や形式を区別することに盛んに取り組むかもしれない。しかし、この三つの領域を扱うのは、それ自体に価値があり、根本的だからではない。どれも、思考そのもの、あるいは思考一般と、実在そのもの、あるいは実在一般との関係という主問題を助けるためにすぎない。先に挙げた細かな考察のなかには、思考が実在と関わるときの条件、たとえば思考ができるかぎり折り合いをつけなければならない独特の制約に、光を当てるものもあるだろう。別の考察は、思考が実在へ到達する方法を明らかにするだろう。さらに別の考察は、思考が実在に取り組み、それを捉える際にとる形式を明らかにするだろう。しかし、結局はすべて付随的なこととされる。最後に残るのは、思考そのものの諸規定が、実在そのものに対してどうして成り立つのか、という唯一の問題である。要するに、論理学は認識論的な探究から生まれ、その解決へ向かうものと考えられている。

この立場から見た論理の理論の諸側面は、後で詳しく取り上げるある著者によって、よく述べられている。ロッツェは、「対象の相違にかかわりなく、現実について判断するときにも、可能性を吟味するときにも、あらゆる場面で妥当する、思考の普遍的な形式と原理」に言及している。[1] これが純粋論理学の役割の定義である。明らかに、思考そのもの、思考一般の問題だ。続いて、「最も完全な思考の構造が……私たちの観念の対象であり、またそれを生じさせるものとして、想定せざるをえないと思われるものを、どこまで適切に説明していると主張できるか」という問いがある。これも明らかに、思考一般と実在一般との関係の問いであり、認識論にほかならない。その次に「応用論理学」が来る。これは、特定の問題や事柄の探究に関連して、具体的な思考形式を実際に用いることを扱う。実践上の熟慮や科学研究の立場をとるなら、この「応用」論理学こそが、唯一の本来の論理学になるはずである。ところが、それ自体で存在する思考をすでに認めてしまっているため、ここでの「応用」論理学は、「純粋な」思考が個々の事柄から受ける特有の抵抗や妨げを、どうすれば最もよく減らせるかという、付随的な探究にすぎなくなる。人間の経験の制約のもとで現れる、思考一般と実在一般との関係の不備を補う探究方法を扱うのである。論じるのは障害と、それを克服する工夫だけであり、その方向を決めるのは実用上の配慮だ。この領域に、実践上の熟慮と具体的な科学研究の全手続きが含まれることを考えれば、ある論理理論が何を意味するかが見え始めるだろう。その理論は、思考が特定の事情から生じ、特定の結果へ至るという限界を、主問題には無関係とし、「純粋な」、あるいは「それ自体としての」思考活動、つまり「対象の相違にかかわりのない」活動を想定しているのである。

これと対照的に、論理の理論の問題を正反対の仕方で立てることもできる。省察の過程の性質を一般化するには、確かに、日常生活や批判的な科学における思考の場面から、個々の材料や内容をかなり取り除かなければならない。しかし、それは、ある特定の条件や要因を捉え、それらを廃棄するのではなく、はっきり意識できるようにするという考えと、十分に両立する。個別の実践や科学研究に固有の材料は取り除きながらも、次のことは目指せるのだ。(1)思考に先立ち、その基礎となって思考を呼び起こすさまざまな状況に、共通するものを見いだすこと。(2)思考に先立つ具体的な事情のなかの代表的な特徴が、どのようにして、それぞれ異なる代表的な思考の応答を呼び起こすかを示すこと。(3)思考がその歩みを全うする、具体的な帰結の性質を述べることである。

(1)この見方は、思考がそれを呼び起こす個別の状況に依存していることを切り捨てない。さまざまな状況の何が、思考を促すのかを明らかにしようとする。具体的なきっかけは取り除かれるどころか、重視され、前面に出される。したがって心理学的な考察は、思考が必要になる状況の発生をたどれるかぎりで、単なる補助的な話題ではなく、本質的に重要なものとなる。(2)また、この立場では、概念形成、判断、推論のさまざまな種類や仕方は、思考そのもの、あるいは思考一般の特性として扱われない。思考が、それぞれの具体的な状況に対して、最も無駄なく効果的に応じる際の特性として扱われる。これらは、刺激を制御するための適応の仕方なのである。「形式」論理学に蓄積されてきた区別や分類は、有用な資料になる。ただし、それらは、思考の材料となる先行条件や刺激に適応するための器官として、どのように使われるかという立場から、解釈し直す必要がある。(3)最後に、妥当性、あるいは思考の究極の目標という問いにも意味がある。ただしそれは、ある思考の働きが、特定の経過をたどった末に、どのような具体的結果に至るかという問いとしてである。諸科学の代表的な探究・検証の手続きは、どれも本質的にこの問題に関わる。さまざまな問題を扱うなかで、思考が実際にどのように自らの働きを首尾よく成し遂げるかを示すからだ。

すでに見たように、認識論型の論理学は、道具としての思考を扱う型の論理学に、「応用論理学」という名で補助的な場所を与えることができる。だが、思考を、具体的な先行状況と、その後の具体的な達成に関わる手続きとして扱う側は、その厚意を返すことができない。この側から見れば、経験の発展のなかで占める特定の位置や、果たす特定の役割を離れて、思考の先行条件、所与、形式、目標を論じようとしても、その結果は、真か偽かというより、根本的に意味をなさないものになる。限界から切り離して考えているからである。その結果は、単なる抽象ではない。そもそも理論化はすべて抽象に至るのだが、ここでは、何かを指したり、何かに意味を持ったりする可能性のない抽象になってしまう。この立場からすれば、あるものを、歴史を持ち発展する状況の限界から切り離して取り出すことこそ、形而上学的な手続きの本質である。そのあるものが、思考活動であれ、経験上の条件であれ、対象としての目標であれ、事情は変わらない。ここでいう形而上学とは、科学との間に深い溝をつくるという意味での形而上学である。

読者はもう予想しているだろうが、この章の目的は、後者の立場から、省察的思考の問題と営みを示すことにある。そこで、もう一度、素朴な経験の立場へ戻ろう。ここではこの語を、実践的な手続きと具体的な科学研究の両方を含むほど広い意味で使う。話を再開するにあたり、この立場には、省察以前の生活のなかで経験される価値と、最も抽象的な合理的思考の過程との間に、固定した区別はないと述べておきたい。理論がどれほど高く飛翔しても、実際に何かをつくり行動する際の細部の制御との間に、固定した溝があるとは考えない。その時々の状況と機会に応じて、愛し、闘い、行動する姿勢から考える姿勢へ移り、また逆にも移る。経験の内容や材料が持つ価値は、技術的・実用的なものと、美的・倫理的・感情的なものとの間で行き来する。必要に応じて、知覚による資料も、概念を順にたどって考えることによる資料も用いる。ちょうど発明家が、その目的に応じて、熱を使ったり、機械的なひずみを使ったり、電気を使ったりするのと同じである。この立場からすれば、経験の世界にある何でも思考の素材になりうるという先の説明(原著2頁)には、より明確な論理上の意味がある。過去の経験のどの部分でも、現在の問題を述べる際、または解く際の一要素になりそうなら、取り上げてよいのだ。このように考えると、可能性としては範囲の定まらない領域と、実際には限定された領域とが、矛盾せずに共存することが分かる。まだ特定されていない手段の集まりは、目的との関係で具体的に定まるのである。

以上の点で、科学の方法と普通の人の方法との間に、種類の違いはない。科学が異なるのは、問題の立て方と、感覚に関わる材料であれ観念に関わる材料であれ、適切な材料の選択と使用とを、よりよく制御している点である。両者の関係は、文明化されていない人々が当てずっぽうや試行錯誤によって発明することと、現代の発明家が、広範な仕事をする複雑な装置をつくるために、意図的に、一貫して粘り強く努力することとの関係に似ている。普通の人も科学の探究者も、省察しているとき、自分がある存在の領域から別の領域へ移っているとは意識しない。一方に実在、他方に単なる主観的観念という、二つの固定した世界を認めているわけではないし、越えなければならない溝を感じてもいない。日常の経験から抽象的な思考へ、思考から事実へ、物事から理論へ、そしてまた戻るという、途切れず自由で滑らかな移行を当然としている。観察は仮説の形成へ進み、演繹的な方法は個別の事柄の記述に用いられ、推論は行動へ移ってゆく。そこで感じる困難は、取り組んでいるその課題に固有の困難だけである。根本にあるのは、経験の内部の連続性であり、経験そのものの連続性という前提なのだ。

これは、事実と観念、観察された所与と自ら立てた仮説、理論と行動とを、混同するという意味ではない。旅人が陸から水上へ、あるいは水上から陸へ進むとき、陸と水とを混同しないのと同じである。言っているのは、それぞれが、相手に対して果たす役割と、その相手を今後どう使うかとの関係で位置づけられ、用いられるということにすぎない。

この自由で気軽な往来をする普通の人や科学者が、実在そのものの構造に開いた裂け目を滑り越えてよいと、無謀にも思い込んでいる。そのことに気づくのは、認識論の立場から傍観している者だけである。この事情は、認識論者にとって都合の悪い問いを生む。科学者は、事実を観念に、理論を法則に、現実のものを仮説に取り替えるという冒険的な交易を、絶えず行っている。それなのに、なぜ自分の営みが持つ、個々の事情に固有の困難とは別の、根本的で一般的な困難にまったく気づかないのか。こうして私たちは、先の問いに戻ってくる。認識論的な論理学者は、科学者がつねに直面する個別の困難、すなわち、この一群の事実とこの一群の観念との間を、正確かつ十分に行き来して表現し直すという細部の困難を、知らず知らずのうちに、思考全体と実在一般との包括的な関係という、まったく別の問題に移し替えているのではないか。もしそうなら、認識論型の論理学は、思考をその経験上の前提と客観的真理との関係で問題にする、その問いの立て方自体によって、問題を解けなくしていることになる。実際の働きのなかで用いられ、その働きゆえに柔軟で、歴史を持ち、相対的であるはずの諸項が、絶対的で固定され、あらかじめ定められた存在の形式へと変えられてしまうのである。

科学的探究が歴史的に少なくとも四つの段階をたどると認めれば、問題にもう少し近づける。(a)第一の段階は、矛盾した言い方を許してもらえば、科学的探究がまだまったく行われていない段階である。経験のあり方に、省察を促す問題や困難が現れていないからだ。どの科学でも、その現在の状態から、あるいはその内部の個別の問題の現在の状態から振り返れば、それについて省察的・批判的な思考が働いていなかった時期を見いだせる。そのころ、事実や関係は当然のこととして受け入れられ、経験から得られる価値のなかに埋もれ、吸収されていた。(b)問題が姿を現し始めると、比較的粗く、まだ整理されていない事実に取り組む時期が来る。原材料を探し、見つけ、集める時期である。これが経験的な段階だ。現在の科学が、獲得した合理性をどれほど誇ろうと、自分の祖先がこの段階にあったことは否定できない。(c)次に、思弁的な段階もある。推測し、仮説を立て、後になって単なる観念と呼ばれて退けられる考えを組み立てる時期である。区別や分類をつくり出し、後には頭の体操にすぎなかったと見なされる時期もある。現在の科学が、実験による確証の堅固さをどれほど誇ろうと、スコラ学的な祖先を持つことは否定できない。(d)最後に、単なる観念と単なる事実とが、実りある相互作用を始める時期が来る。ある導きとなる概念を用いて実験条件が定められ、その条件のもとで観察が行われる。省察はあらゆる点で、実験の資料によって導かれ、吟味される。また省察は、自らが演繹の前提として役立てるような形をとることを求められる。その演繹から新しい意味が展開され、最終的には、新たな事実を明らかにする実験的探究へと進む。より秩序立ち、より意味を持つ事実の領域と、より一貫し、内側から明瞭になる意味の体系とが現れる。ここに、その科学の論理が発展してゆく自然な到達点がある。

しかし、この歴史のなかで何が起きたかを考えてみよう。まだ分析されていなかった経験は、事実と観念との区別へと分かれた。事実の側は、範囲を定めない、ほとんど雑多ともいえる記述や、積み重ねられる一覧によって発展した。概念の側は、定義や分類などを、制約なく思弁的に練り上げることで発展した。受け入れられていた意味が、単なる観念という宙ぶらりんな領域へ追いやられることもあった。受け入れられていた事実の一部が、単なる仮説や意見の領域へ移ることもあった。逆に、観念が仮説や理論の領域から、事実の領域、つまり客観的で意味を持つものとして受け入れられた内容の領域へと、絶えず出てくることもあった。見かけ上の事実でしかないものと、疑わしい観念でしかないものとの世界から、次第に明確さと秩序と明るさを増す世界が現れてくるのである。

どの科学の記録からも確かめられるこの進歩は、一方に思考一般を、他方に実在一般を想定する認識論の立場からすれば、まったく異様な出来事である。実際にその進歩に携わる人々にとって、それが怪物じみた奇跡に見えないのは、指し示すものと使い方のうえで、ある種の同質性、あるいは連続性があるからだ。それが、区別される存在のあり方と、与えられる価値の程度の双方に見られる多様さを、まとめている。科学や、その内部の個別の問題が発展するとき、思考と事実との区別は、必要に促され、意図して設けられた実際的な分業として扱われる。課題を果たすために相対的な位置を割り当てることであり、手持ちの力をより無駄なく使うための、意識的な配分なのである。むき出しの事実と仮説としての観念とが相互に働きかけ、科学によって捉えられ理解される一つの世界へ至る。それは、そもそもこれらの区別を設けた目的が、首尾よく達成されたことにほかならない。

こうして私たちは、論理の理論の問題へ戻ってくる。思考と事実などの区別を、存在そのものの構造に固定された存在論的な区別と見なすなら、科学的探究と科学による制御の実際の発展は、結局、実用上の価値しかない補助的な話題にされてしまう。また、思考と存在とが関わる条件を、具体的な経験のなかでこれらの区別が実際に果たしている役割とは、まったく異質な仕方で述べることになる。その結果つくられる問題は、生活の営みに即してではなく、その問題自身の言葉だけでしか論じられない。ここでも、悪い意味での形而上学に陥るのである。これに対して、日常生活や批判的な科学における省察的思考の起こりと使われ方に沿って進む論理学の課題は、思考の自然な成り立ちと発展をたどることにある。思考を、それを生み出す先行条件と刺激、固有の状態と経過、そして具体的な目標または到達点を持つ、一つの生命過程として捉えるのである。

この立場なら、論理の理論は心理学と折り合いをつけられる。[2] 論理学は思考そのものの活動全般を扱うと考えるなら、この思考やあの思考が生じてきた歴史的過程や、その対象がなぜ感覚、知覚、概念という形で現れるのかといった問いは、まったく関係のないものになる。それらは時間のなかの偶然的な出来事にすぎないとされる。変化するものの領域から目を上げようとしない心理学者なら、そこに興味ある題材を見いだすかもしれない。心理学者の仕事は、心的な出来事が互いを促したり抑えたりしながら連なる様子をたどる、自然史的な仕事に尽きる。だが論理学者は、もっと深い問題と、はるかに広い見通しを持っているのだ、と言われる。扱うのは、思考の永遠の本性と、永遠の実在に対する、その永遠の妥当性の問題である。関心があるのは発生ではなく価値であり、歴史的な循環ではなく、絶対的な区別や関係なのだという。

それでも問いは消えない。本当にそうなのか。それとも、ある種の論理学者が、自分の用いる諸項を、それらが生じる具体的な機会や、働きを果たす状況との関係から切り離して、勝手にそうしてしまったのではないか。後者なら、歴史的な関係や歴史的方法の意義を否定すること自体が、自分の抽象が現実離れしている証拠にしかならない。それは事実上、扱っている事柄を、その意味を定め、価値を示せる唯一の条件から切り離したということだ。自然科学で進化的方法がこれほど進歩しているのに、論理学者がいまだに、起源の問題と本性の問題、発生と分析、歴史と妥当性との間に厳格な違いがあると主張し続けられるとは、驚くほかない。そのような主張は、進化の考え方が現れる以前の科学で生まれ、そこで意味を持っていた区別を、最終的なものとして繰り返しているだけである。科学的方法がこれまでに遂げた最も顕著な進歩に逆らって、論理的・科学的手続きがまだ未熟だった時代の名残を押し通そうとしている。私たちには二つの選択肢しかない。思考を、特定の刺激への応答として捉えるか、それとも「それ自体」として存在し、ただそれ自身のうちに、ある特性、要素、法則を備えたものとして捉えるかである。後者を捨てるなら、前者をとらなければならない。

生物学と社会史における進化的方法の意味は、すべての個別の器官、構造、形成物、すべての細胞や要素の集まりを、特定の周囲の状況に適応・調整するための道具として扱わなければならないという点にある。その意味、性質、価値が分かるのは、具体的な状況の条件に応じるための仕組みとして考えたとき、しかもそのときにかぎられる。この価値の分析は、発達の段階を順にたどることで、細かく進められる。それぞれの構造がどのような具体的状況から生じたかを突き止め、環境の変化に応じてどのような変容を重ね、現在の形に至ったかを追うのである。[3] 自然史が進化の過程を扱うものになる以前の意味に固執して、自然史を非難し続けることは、その立場を哲学的な考察から排除するというより、自然史が何を意味するかを知らないと示すことになる。

論理の理論を、思考がそれを生み出した条件に適応する一つの仕方を説明するものと捉え、その妥当性を、思考が自分の問題にどれほど有効に対処するかによって判断するなら、心理学はただちに、論理的な評価に欠かせないものとなる。ここでの心理学とは、経験する過程がたどるさまざまな姿勢や構造の自然史である。ある状態がどのような条件のもとで生まれ、促進や抑制を通じて、ほかの意識の状態や構成が生み出されるのにどう作用するかを説明する学問である。歴史的な見方は、その連なりを記述する。規範的な見方は、その連なりを結末までたどってから振り返り、歴史的な各段階を、それ自身の帰結との関係で判断する。[4]

変化する経験のなかで、感情的な状況から、実践的な状況、価値を味わう状況、省察する状況へ移っても、私たちが足場を失わずにいられるのは、個々の区別が現れる文脈を、つねに念頭に置いているからである。経験のそれぞれに特徴的な働きや状況を見つめれば、そこには二つの側面がある。努力のあるところには障害があり、愛情のあるところには愛し合う人々がいる。行為のあるところには達成があり、価値を認めるところには価値があり、思考のあるところには問題になっている材料がある。一つの姿勢から別の姿勢へ、一つの特有の性質から別の性質へ移っても、私たちが足場を保てるのは、今取り組んでいる働きが、発展全体のなかでどこに位置するか、そして今関心を向けている要素が、その働きのなかでどこに位置するかを知っているからなのだ。

ある姿勢や働きと、その前後にある姿勢や働きとの区別は、順序に関わる、動的で作用的な区別である。それに対して、一つの活動や働きの内部にある区別は、構造に関わる、同時的で役割分担的な区別である。たとえば、努力の後に思考が続き、思考の後に行為が続くとしよう。それぞれは自分の働きを果たすことで、必然的に次の働きを呼び起こす。だが行為の内部には、行う者と行われる事柄との区別が、思考の働きの内部には、考えることと考えられる材料との区別が、努力の働きの内部には、障害と目標、手段と目的との区別が、同時に、互いに対応して存在する。私たちが道を踏み外さずにいられるのは、経験の種類どうしの、順を追って因果的に働く機能上の関係と、一つの働きの内部の要素どうしの、同時的で相関的な構造上の区別とを、混同しないからである。果てしない混乱と際限のない移り変わりの迷路に見えるなかでも、実際に取り組んでいる過程の内部で生じる刺激や歯止めを頼りに、道を見いだす。ある活動の形成をなす条件や状態と、別の働きの内部で分担をなす位置や要素とを、対立させたり混同したりはしない。もしそうすれば、たちまち、意味をなさないがゆえに解くことのできない問題を抱え込むことになる。

訳注

原文は “of obstacle of aim, of means and end”。「障害」と「目標」の間に接続語や句読点がなく、語句の関係が明瞭ではない。前後の対比に沿って訳した。1909年刷でも同じ表記である。

ところが認識論的な論理学者は、普通の人が直感的に頼り、科学者が自分の技法を形づくるものとして意識的に探し求めて採用する、そうした手がかりや歯止めから、自らをわざわざ切り離してしまう。そのため、経験の連続する諸状況のうち、ある一つの働きの場面でしか位置と意味を持たない対象や材料を、別の状況の構造の一部をなす活動的な姿勢と、対立させがちになる。あるいは、同じく根拠のないまま、異なる段階に特有の諸項を、同じものとして扱ってしまう。愛情や価値を味わう親密な関わりのなかにある主体を、省察の過程のなかで定められた事実の外在性と対立させる。思考がその先へ進むための基盤として選び取った材料を、目的を首尾よく追究した結果として獲得する意味ある内容と同一視する。さらにその内容を、最初に与えられ、その独特の性質によって思考を呼び起こした材料と見なす。思考の働きの最終的な成果を、それを生み出した先行条件と同一視したうえで、そこから生じた不合理を、ある形而上学的な考察によって片づけるのである。その考察は、彼の理解する論理的探究、彼の理解する科学が仕事を終えた後にも、なお残るものとされる。これは彼が、秩序より混乱を、真理より誤りを好むからではない。ただ、歴史的な連なりの鎖を切れば、思考という船は、水深を測る手段も、つなぎ留める場所もない海で、向きを変えながら漂うほかなくなるからだ。選択肢は二つしかない。「それ自体としての」思考に対して「それ自体としての」対象があるのか、それとも、属する働きが変わるにつれて変わる、一連の価値があるのかである。後者なら、これらの価値を定めるには、それぞれが属する働きを区別するしかない。次に何をすべきかを知り、すでに行ったことの価値と意味を測れるのは、経験の一循環のなかの、特定の時期や発達段階に即した条件によってだけである。認識論的な論理学者は、思考が果たすべき具体的な仕事の限界を離れ、ただ「思考」であることだけで固有の形式を持つものとして問いを立てる。その選択によって、自分を支える足場を失ってしまったのである。

論理学の問題には、より一般的な面と、より個別的な面がある。一般的な形では、次のように問う。経験におけるある種類の働きの状況や姿勢は、どうして別のものから生じ、また別のものへ移ってゆくのか。たとえば、技術的・実用的なものから美的なものへ、美的なものから宗教的なものへ、宗教的なものから科学的なものへ、さらに科学的なものから社会的・倫理的なものへ、等々の移行はどう起こるのか。より個別的な問いはこうである。省察的と呼ばれる特定の働きの状況は、どのように作用するのか。それをどう記述すべきなのか。その内部に同時に成り立つさまざまな区別、つまり役割分担や対応する位置は、具体的には何か。それらはどのような特定の仕方で互いに働きかけ、その問題の必要から示された具体的な目標を達成するのか。

この章を終えるにあたり、経験の論理、すなわち広い意味での論理学が持つ、さらに別の意義に触れておこう。それは、経験におけるさまざまな代表的な働きや状況の連なりを、それらが互いを規定する関係に即して説明することである。このような論理学として定義される哲学は、閉じて完成した宇宙を説明するなどとは言わない。その仕事は、ある特定の実在や価値を確保し、保証することではない。それどころか、哲学は方法としての意義を持つ。経験の代表的な諸局面を、互いに適切に関係づけ、調整することは、生活のあらゆる分野で感じられる問題である。その調整を知的に正し、制御することは、実践の側の明晰さと確かさを増すことに、必ずつながるだろう。一般論理学は、科学や芸術や産業の活動を直接導く道具にはなれないかもしれない。しかし、これらの分野で直接の研究に用いる道具を吟味し、整理するうえで価値がある。また、個別の分野で得られた成果を、社会や生活の目的に照らして評価するうえでも、直接の意義を持つ。日々の仕事の多くがうまくいかないのは、自分のしている仕事が、関連するほかの仕事との有機的な関係のなかで、どこから生じ、何をもたらすのかを、私たちが知らないからである。社会の関心や職業のさまざまな分野で得られた価値を取り入れる仕方や程度が、不十分で偏ってしまうのも、経験のある働きが、ほかの働きに対して持つべき権利と責任を、私たちが明確に理解していないからなのだ。

訳注

原文は “more alternate value”。1909年刷にも alternate とあり、ここでは「さらに別の意義」と訳した。

社会の進歩にとって研究はどのような価値を持つか。心理学は教育の実践とどう関わるか。芸術と産業の技術とはどう関係するか。応用科学からの要求に対し、科学の専門化はどの程度まで、どのような形で進められるべきか。宗教的な願いを科学的な説明とどう調整するか。大多数が経済的に足りない生活を送るなかで、少数者のための洗練された文化をどう正当化するか。これらは多くの社会問題のほんの一部だが、その最終的な答えは、探究と解釈の方法として、経験の一般的な論理を持ち、それを使えるかどうかにかかっている。ここで示した方法、すなわち経験の発生と発展をたどる論理がなければ、これらの問題で一歩も前進できないと言っているのではない。しかし、ある姿勢や関心が、どのような局面で、それとのどのような関係から生じるのかについて、批判的で確かな見方を持たなければ、また、そのためにどのような役割を果たすことが求められ、どのような器官や方法でその役割を最もよく果たせるかを知らなければ、進歩は妨げられ、ちぐはぐになる。私たちは部分を全体と取り違え、手段を目的と取り違える。あるいは、自分が究極のものとして選び、神格化した一つの関心の支配を妨げるというだけで、別の関心を丸ごと攻撃する。経験におけるそれぞれの代表的な関心や仕事の位置と役割を定める方法があってこそ、社会の確信について明確で包括的な合意が得られ、それに基づいて努力を集中し、無駄なく方向づけられる。意見の領域は争いの領域であり、意見による支配は恣意的で、多くの犠牲を伴う。意見に代わるものを与えられるのは、知的な方法だけである。自然科学が何世紀もの闘いを経て、物理的な領域の活動に対して果たしつつあることを、社会的な価値や目的の領域で果たせるのは、経験の一般的な論理だけなのだ。

これは、経験が発展する際の個々の危機という限界を離れて、思考や実在一般の本性を述べようとしてきた哲学体系が、無価値だったという意味ではない。ただ、その努力の向け先には多少の誤りがあったということにはなる。形而上学の理論の展開は、経験の代表的な状況や関係の価値を具体的に見定めるうえで、大きく貢献してきた。意識して目指していたことがまったく別だった場合でさえ、そうである。どの哲学体系も、それ自体が省察の一形態である。したがって、私たちの中心的な主張が正しければ、それも具体的な社会的先行条件から呼び起こされ、それらに応答するものとして役立ってきたはずだ。自らを生んだ状況を変えるうえで、何らかの働きをしてきたのである。自分で意識的に掲げた問題を解けなかったこともあるだろう。多くの場合、問いの立て方があまりに誤っていて、解きようがなかったと後で分かったことも、率直に認めてよい。しかし、まったく同じ意味で、同じことが科学の歴史にも当てはまる。ほかに理由がなくても、この一点だけで、科学者は哲学者に最初の石を投げることなどできないのである。

どの分野でも、科学の進歩には、以前の形で立てられた問題は解けないという認識が、繰り返し伴う。現実にはない条件によって問いが立てられていたり、実際の条件に、頭のなかの作り物や誤った組み立てが混じっていたりするからだ。どの科学も、解決したと思っていたものが、見かけの解決にすぎなかったと、絶えず学んでいる。その「解決」は現実の問題を解いたのではなく、こしらえられた問題を解いたにすぎないからである。しかし、問いを立てたこと自体、誤った答えを与えたこと自体が、それまでの知的な習慣、立場、目的の変化を促す。問題と取り組むうちに、その扱いを制御する新しい技法が発達し、新しい事実が探し求められ、新しい種類の実験が始められる。経験を方法的に制御する力が増すのである。これはすべて進歩だ。科学が変化し続けることを見て、次々に出される説明がどれも誤っているのだから、その全歴史は誤りと愚かさであり、現在の真理も、まだ見破られていない誤りにすぎないと考えるのは、疲れ切った冷笑家、活力を失った享楽家、そして狂信的な独断家だけである。そうした人々は、これらすべてに無関心でいようと決めるか、固定して変わらない真理を一度で決定的に与えてくれる、何か外部の権威へ逃れようとする。だが、歴史上の哲学は、道を外れた形のものであっても、経験の価値を見定める一つの要因となってきた。問題を明るみに出し、価値を名目だけのものにとどめないために欠かせない知的な対立を引き起こしてきた。絶対的なものとして切り離そうとする企てを通じてさえ、相互依存と相互の支え合いへの理解を確かなものにしてきたのである。それでも、自分の仕事をもっと明確に定められるなら、哲学は固有の問題に力を集中できる。その問題とは、経験のなかで、さまざまな代表的な関心や営みが、互いとの関係においてどのように生まれ、どう働くかなのである。

第二章

思考とその素材――思考の働きに先立つ条件と手がかり

これまでに、経験に特有の働きや姿勢の連なりを扱う広い意味の論理学と、省察的思考の働きの記述と解釈を特に扱う、狭い意味の論理学とを区別した。しかし、どちらか一方だけを論理学と見なして他方を除外したり、両者を最終的に切り離せると思ったりする誘惑に負けてはならない。経験の発展のなかで省察が歴史的にどのような位置を占めるかを正しく理解していなければ、省察の器官や方法を詳しく扱う作業も、確かなものにはならない。だが、その大きな位置づけを決めるには、省察とは何か、その実際の構成はどうなっているかについて、漠然と大づかみに捉えるのではなく、明確で分析的な見方を持たなければならない。広い領域と狭い領域との間を往復し、一方で得た成果を、そのつど他方で研究する方法へと変え、それによって確かめる必要がある。現在の論理理論が混乱して見えること、自らの範囲や限界を定めかねていること、判断そのものの価値や推論の妥当性という大きな問いから、科学の技法の細部へ、また形式論理学の区別を探究・検証の過程の言葉で言い直す作業へと揺れ動くこと。これらは、この双方向の動きが必要であることを示している。

以下の三章では、論理の理論を広く捉える見方と狭く捉える見方との境界にある、いくつかの問題を取り上げる。思考という働きがどこに位置するかを論じるのは、その位置を知ることで、省察の過程の内部にある最も基本的な区別、つまり役割分担のいくつかを選び出し、その性質を明らかにできるからである。思考の素材という問題を取り上げ、経験が変わってゆくなかのどの段階にあるかによって、それが三つのまったく異なる形をとることを明らかにしたい。そして、それぞれの意味を、それが生じた経緯と占める位置に即して見分け、記述しなければ、混乱と不整合が絶えず生じることを示したい。素材は、第一に、思考を呼び起こす先行事情または条件という観点から、第二に、思考に示される所与、つまり直接の材料という観点から、第三に、思考に固有の内容という観点から考えなければならない。この三つの区別のうち、第一の、先行条件と刺激という意味は、明らかに、思考という働きそのものの直前にある状況を指す。第二の、所与、または直接に与えられた材料という意味は、思考過程の内部で、その働き方の一部として、またその働き方のために設けられる区別を指す。これは思考の仕組みのなかの一つの位置である。第三の、内容または対象という意味は、個々の思考の働きのなかで実際に達成された進展を指す。思考の状況がその目的を果たしたかぎりで、そこへ組織的に取り込まれた材料のことである。言うまでもなく、これらは、経験の自然な歴史における生命過程の段階として区別すべきものであり、最初から出来上がったもの、あるいは存在そのものの区分として区別するのではない。はっきり定められた歴史的な段階との関係で区別しなければ、これらは同じものとして一括されるか、絶対的に分かれたものとして扱われるか、あるいは、そのときの議論の都合に応じて、そのどちらかに交互に扱われてしまう、と私は主張する。実際、この章では、思考に先立つ条件の問題に、直接というより間接的に近づくことになる。近代の最も力強く鋭敏な論理学者の一人、ロッツェが陥った矛盾した立場を示すことによってである。彼は論理上の区別を、経験が調整し直されてゆく歴史に即して定めなかった。そのため、ある種の概念を、特定の段階や方法に関わるものではなく、絶対的なものとして解釈しようとしたのである。

ただ、ロッツェの説明と批判に直接入る前に、もう少し自由な形でこの問題を考えておこう。私たちは、何にもとらわれず、まったく直接に論理的探究へ向かうことはできない。必ず、ある種の区別を持ち込む。その一部は具体的な経験から生じ、一部は日常の言葉や現在の知的習慣に織り込まれた論理理論に由来し、また一部は、意識的な科学的・哲学的探究の成果である。これらの、ある程度出来上がった成果は、私たちの手持ちの資源だ。新しい問題に立ち向かう武器は、ほかにない。しかし、それらには検討されていない前提が数多く含まれ、私たちは論理のうえで、さまざまな結論へあらかじめ縛られてしまう。ある意味では、たとえば論理の理論という新しい素材を研究することも、実のところ、そこへ持ち込む知的な立場や方法を、見直し、試し直し、批判することにほかならないのである。

誰もがすでに、主観的なものと客観的なもの、物理的なものと心的なもの、知的なものと事実に属するものとの間に、ある種の区別を設けている。(1)私たちは、感情の揺れ、不確かさ、願望の領域を、どういうわけか特に自分自身に属するものと見なすようになっている。それに対して、観察と妥当な思考の世界は、自分の気分、希望、恐れ、意見には左右されないものとして、対置することを学んでいる。(2)また、経験のなかで直接に今あるものと、過去や未来とを区別するようにもなっている。記憶や予期の領域と感覚知覚の領域、与えられたものと観念上のものとを対比する。(3)さらに、現実の事実と呼ぶものと、その事実に対する自分の心の姿勢、つまり推測したり、不思議に思ったり、省察して調べたりする姿勢とを区別する習慣も、しっかり身についている。論理の理論の目標の一つは、まさにこれらのさまざまな区別の意味と関わりを批判的に意識させ、出来合いの前提から、自覚的に制御された構成へと変えることにある。ところが、私たちの心の習慣はあまりに固まっていて、私たちを思うままに動かしがちである。そのため、論理的な仕事を思いつくはるか以前にできた概念を、論理の理論のなかへ読み込んでしまう。結局、その仕事こそ、問題の諸項に適切な意味を与えるためのものなのに、そうしてしまうのである。

訳注

原文は “we contrast the realms of memory and anticipation of sense-perception” で、何と何を対比するかの接続が不明瞭である。1909年刷も同じ。直前の現在・過去・未来の区別に沿い、記憶・予期と感覚知覚との対比として訳した。

ロッツェは、こうしたさまざまな前提的区別を、並外れて明確に列挙している。また、それらを論理の理論の構造に持ち込むことで生じる問題に、並外れて真剣に取り組んでいる。(1)彼は、論理上の価値の問題と、心理的な発生の問題とを、はっきり分ける。したがって、論理学そのものの素材を、歴史的にどこに位置し、どのような状況に置かれているかという問いから、完全に切り離す。(2)その一方で彼は、論理的思考は省察的なものであり、したがって与えられた材料を前提とする、という常識的な見方に同意する。そして、先行する条件の性質に取り組む。(3)思考に先立ち、思考とは無関係に形づくられた材料が、それでもなぜ、思考が働きかける素材を提供できるのかという問題に苦闘する。(4)異質な材料に、独立して外から働きかける思考が、どうしてその材料を、妥当な、つまり客観的な成果へと形づくれるのかという問いを、明示的に提起する。

もし彼の議論が成功しているなら、もしロッツェが、独立した思考の材料と独立した思考活動との間の溝を架け渡す媒介を示せるなら、もし思考の材料や思考活動の起源の問いは、その価値の問いとは無関係だと示せるなら、私たちはすでにとった立場を捨てなければならない。しかし、彼が詳しく論じても、結局は同じ根本的な困難を、ある角度から、また別の角度から詳しく言い直すだけで、問題そのものを解決であるかのように示す以上のことができていないなら、論理の問いを別の立場から考える必要があるという私たちの考えは、いっそう確かなものとなるだろう。彼が表向きどのように論じようとも、実際にはいつも、互いに対応する具体的な思考の材料と具体的な思考活動の双方を生み出す源として、何か組織立った状況や働きに頼っているのなら、そのかぎりで、私たちの理論は説明を得るだけでなく、裏づけさえ得ることになる。

一 まず、思考の材料となる先行条件から始めよう。省察を条件づけ、手がかりを与えることで、反応または応答としての省察を呼び起こすものだ。ロッツェは、同じ型の多くの論理学者と違って、この先行条件を明確に説明している。思考に先立つ究極の材料は印象であり、印象は外的な対象の刺激によって生じる。これらの印象は、それ自体として見れば、単なる心的な状態または出来事である。それを呼び起こす対象が同時に働くか、次々に働くかに応じて、私たちの内部に並存したり、順に生じたりする。しかし、これらのさまざまな心的状態が起こるかどうかは、刺激を与えるものがその場にあるかどうかだけで決まるわけではない。ひとたびある状態が呼び起こされると、それは、以前に伴っていた状態や後に続いた状態を、再び呼び起こす力を持つようになる。連想による再現の仕組みが働くのである。刺激する対象とその効果、そして連想の仕組みの細部について、完全な知識を持っていたなら、与えられた資料から、ある観念の連なりや流れの全経過を予測できるはずだ。印象は、同時に、あるいは順に結びつくことで、観念や観念の流れになるからである。

感覚や印象は、それ自体として見れば、「私たちの意識の状態、自分自身の気分」にすぎない。観念の流れは、どれも、ある特定の感受する精神または有機体のなかで起こる、存在するものの必然的な連なりである。その必然性は、物質的な出来事の連続に劣らない。「こうした観念の系列はどれも、それぞれの条件のもとで、ほかのすべての系列と同じ必然性と法則によって結びついている。それゆえ、真と偽というような価値の区別を設け、一つの集まりをほかのすべてに対置する根拠は、何もないはずである。」[5]

二 最後の引用から明らかなように、ここまでは省察的思考の問題はなく、したがって論理の理論の問題もない。しかし、さらに調べると、観念の流れに独特の性質が見いだされる。観念には、単に一緒に起こるものと、互いに筋の通ったつながりを持つといえるものとがある。つまり、同時に、あるいは順に現れる観念のなかには、それらを呼び起こす原因が現実にも結びついている場合がある。それに対して、原因の間には実際のつながりがなく、たまたま同じ時に働くだけの場合もある。しかし連想の仕組みによって、本当につながりのある組み合わせも、偶然に一緒になっただけの組み合わせも、どちらも再び現れる。前者の再現は、知識を築くための積極的な材料を与える。後者の再現は、誤りを生むきっかけになる。

三 偶然に一緒になったものと、本当につながっているものとの独特の混在が、省察的思考に固有の問題を生み出す。思考の仕事は、本当に結びついているものを取り戻し、確かなものにすることである。そのつながりを回復するだけでなく、なぜ実際につながっているのかという根拠の考えを添えて正当化し、他方では、偶然の一致を、偶然の一致として取り除く。単なる観念の流れは、私たちの内部にただ起こるものにすぎない。それに対して、本当の根拠や結びつきの基盤を述べることで、あるものを除き、あるものを確かめる過程は、精神が精神として行う活動である。この区別によって、活動としての思考は、受動的に起こる心的な出来事や連想の仕組みから分かたれる。一方が関わるのは、事実上ただ並存し、連続していることだけであり、他方が関わるのは、それらの組み合わせの価値なのである。[6]

さまざまな観念を吟味し、選り分け、価値の基準に従って定めるという思考独自の仕事は、次の章で考察する。ここで扱うのは、ロッツェの説明する、思考の材料となる先行条件である。一見すると、彼は満足のゆく理論を示しているように思える。経験の材料はすべて、最初から合理的思考によって定められているとする超越論的論理学の行きすぎを避けているし、単に観念が生じて連想されることと、そこから生じるさまざまな結びつきが実際に持つ価値や妥当性とを区別しない、純粋に経験論的な論理学の落とし穴も避けている。感覚とその組み合わせによって定義される、省察以前の経験に、思考の材料となる条件を与えさせる一方、思考には、独自の仕事と尊厳を確保している。感覚経験が先行条件を提供し、思考はそこへ体系的なつながり、つまり合理性をもたらして発展させる、というわけである。

しかし、ロッツェの議論をさらに分析すれば、その説明には至るところに不整合と自己矛盾があり、実際には、ある部分を維持しようとすれば、ほかの部分を否定せざるをえないと考えるようになるかもしれない。

一 印象は、見る角度によって、最も純粋な形とも、最も未加工な形ともいえる、究極の先行条件である。それは、よい意味でも悪い意味でも、思考の影響をまだ一度も受けていないものだ。これらの印象は、観念へと結びつくと、思考の活動を刺激し、呼び起こす。そして思考の活動は、ただちにその印象へと向けられる。印象は、自ら呼び起こし、自らに向けさせた活動を受けるものとして、思考の材料的な内容、思考が実際に扱う素材をも提供する。ロッツェが繰り返し述べるように、「私たちが印象どうしの間にすでに成り立っている関係を意識すると、その関係そのものが思考の活動を引きつける。思考の活動は、つねに反応にほかならない。そしてこの活動は、受動的な印象の間に見いだされる関係を、印象の材料そのものの諸側面として解釈することに尽きる」。[7] また、「思考は、印象の材料のなかに違いを見いだせないところに、違いをつくり出すことはできない」ともいう。[8] さらに、「思考の手続きが可能であること、また成功することは、観念の世界全体がもともと持つ、この構成と組織に依存する。その構成は、思考のうえで必然的であるわけではないが、思考を可能にするためには、それだけいっそう必要なのである」とも述べる。[9]

印象と観念は、いくつもの役を演じる。究極の先行条件や、思考を呼び起こす条件となり、未加工の材料となり、さらに、どういうわけか、整理されると思考の内容ともなる。この変わり身の多さ自体が、疑念を呼び起こす。

印象は単に主観的なもので、自分自身の意識の一状態にすぎないとされる。それなのに、その存在も、同様に存在するほかのものとの関係も、外的な対象によって定められている。その対象は、原因とまでは言わないにしても、刺激として働く。また印象は、徹底して客観的、すなわち規則的に働く心的な仕組みによっても定められ、観念の流れは、物理的な連続と同じ必然性を与えられる。こうして、「私たちの意識の状態にすぎない」はずのものが、たちまち、事実の体系のなかで具体的に規定された、一つの客観的事実へと変わってしまう。

この全面的な変身が矛盾であることは明らかだが、まさにそのような矛盾がロッツェに不可欠であることも、同じほど明らかである。印象が意識の状態、自分自身の気分、ただ心的に存在するものにすぎないなら、私たちは印象を、そのような意識の状態にすぎないものだと知ることさえできないだろう。まして、思考にふさわしい条件や材料として保っておくことなどできない。印象や観念が、何らかの意味で思考の対象範囲に入ってくるのは、それを現実の世界における現実の事実として扱い、さらに、それを引き起こす世界の事実を表す能力を、説明のないまま何らかの仕方で印象や観念に持たせているからにほかならない。だが、先行条件が実際には、客観的な状況のなかに置かれた印象なのだとすれば、思考の価値を、客観的な意味を持たない単なる存在や出来事から区別するロッツェのやり方は、根本から改めなければならない。

印象は実際には、それ自身の材料、性質、意味を持っている。この含意は、思考の直接の先行条件を観念の材料に求めるロッツェの理論に目を向けると、はっきり現れる。思考は、「自らの活動によって生み出したのではなく、心的状態の無意識の仕組みによって、思考のために用意された関係を認識する」のだと述べるとき、観念に客観的な内容、何かを指す働き、意味を認めていることは疑いない。[10] 観念は、ロッツェにとって、きわめて都合のよい中継地点となる。一方では、思考に完全に先立つ、材料的な先行条件として、それは単に心的なもの、むき出しの主観的な出来事にすぎない。他方では、思考の素材として、思考が働くための材料を与える先行条件として、それは意味であり、内容を特徴づける性質なのである。

印象は、精神の活動が関与しない、受動的な刺激にすぎないと聞かされていた。だが、観念にこれほどの能力があるのを見れば、精神は実際には、刺激の受容にも、その後の連想的な組み合わせにも、決定的な役割を果たしていると聞いても驚かない。知覚されたものや心像として描かれたものはもちろん、感覚的なものさえ含めて、どのような心的対象が現れるときにも、主体は必ず関与している。ある事態を知覚できるのは、次のことを仮定した場合だけである。「知覚する主体は、それ自身の本性によって、対象から届く刺激を、対象のなかに知覚するはずの形式へと組み合わせることができ、同時に、そうせざるをえない。しかも、その形式を、主体は対象からただ受け取っているだけだと思っている。」[11]

ロッツェが、ただ思考を呼び起こす先行条件から、思考の具体的な材料的条件へと溝を架け渡せるのは、心の状態や出来事としての印象・観念から、認識上、あるいは論理上の対象や内容としての観念へ、絶えず移行しているからである。この矛盾もまた、ロッツェの立場には必要なものだ。先行条件として「意味」があると率直に出発すれば、論理的なものとその先行条件との違いを、価値と単なる存在・生起との違いと考える、立場全体を再検討しなければならなくなる。意味や価値はすでにそこにあるのだから、思考の課題は、価値評価の過程を媒介として、その価値を変え、組み直すことだと分かるはずである。他方、単なる存在という立場を貫くなら、思考の先行条件とさえ呼べるものが得られなくなる。

二 では、なぜ変えるという課題があるのか。材料が思考を呼び起こし、手がかりを与えるという働きに注目すれば、矛盾と実際の事実との全体像を描けるだろう。思考の応答を促す必要を生むのは、単に偶然に一緒になった観念と、本当につながっている観念との対立である。ここでロッツェは、三つの見方の間を揺れ動く。(a)偶然の一致も真のつながりも、心的出来事の存在に関わる事柄とする見方。(b)偶然の一致を純粋に心的なものとし、真のつながりを、少なくとも論理的なものに準ずるものとする見方。(c)そして、彼の議論そのものの内的な論理に従って、両方とも省察的思考の領域内で定められるものとする見方である。彼自身の前提を厳密に守るなら、偶然の一致も真のつながりも、私たちの内部で起こる出来事としての、観念の流れの特性にすぎないはずだ。だが、そう受け取ると、区別はまったく意味を失う。出来事は、内的な筋によって結びつくわけではない。せいぜい、ある組み合わせが別の組み合わせより多く、あるいは少なく起こるだけであり、理解できる違いは、偶然の一致が何度繰り返されるかという違いだけだ。しかも、それでさえ、ひとたび消えた出来事が再び現れるという、超自然的な性質を出来事に認めることになる。偶然の一致すら、同時に生じる心的出来事を引き起こすと想定された、対象どうしの関係に即して定義しなければならないのである。

近年の心理学の議論が十分に明らかにしたように、連合するのは観念の材料、意味、内容であって、状態や存在としての観念ではない。たとえば「地球の周りを回る太陽」という観念を考えよう。これはさまざまな感覚印象の結びつきを意味すると言ってもよい。しかし、そのとき私たちが念頭に置いているのは、属性どうしの結びつき、あるいは相互の関係である。太陽の心像が、地球の心像の周りを心のなかで実際に回っているのではないことは、まったく確かだ。もしそんなことが起きるなら、なかなか楽しいだろう。劇場も、あらゆる芝居も、人気がなくなってしまうに違いない。実際には、「地球の周りを回る太陽」は一つの意味、一つの観念である。統一された一つの素材であって、その内部に、何をどう関係づけるかという区別が現れる。問題なのは、地球や太陽を考えるとき、また両者を互いの関係において考えるときに、私たちが何を意味しているかである。それは実際、ある素材について考える機会が来たとき、どう考えるかを定め、方向づけるものだ。この相互の関係が生じることを、最初の心身的な刺激や連想の条件によって観念が結びついたというだけの事例として扱うのは、心理学的な誤謬の深刻な例である。確かに、ある経験を分析して、それが感受する有機体のある条件、知覚や連想のある特性から生じたことを見いだし、その経験に含まれる信念は、事実そのものによって正当化されていなかったと結論することはできる。しかし、「地球の周りを回る太陽」という信念が、それをそう理解していた人々の経験の一部として持った意味は、まさに、それが単なる感覚的な内容の連合とは受け取られず、客観的経験の構造全体の、明確な一部分として受け取られていたことにある。その部分は、構造のほかの部分によって保証され、同時にそれらを支え、色合いを与えていた。彼らにとって、それは物事の経験の枠組み、現実の宇宙の一部分だったのである。

逆に言えば、このような事例が、心的状態の単なる結びつきを意味するだけなら、そのなかに思考を呼び起こすものは何一つないはずである。ロッツェ自身が指摘するように(第一巻2頁)、出来事としての各観念は、それが占める位置へ、十分な理由によって必然的に定められたものと考えてよい。出来事の側には、単なる偶然の一致か、本当の結びつきかという問題はまったくない。出来事としては、それはそこにあり、そこに属している。あるものを、単なる存在の事実であると同時に、論理的探究の問題となる素材として扱うことはできない。省察の立場をとるとは、事柄をまったく新しい光のもとで考えることだ。ロッツェの言い方を借りれば、ある位置や関係を占めることを正当に主張できるかどうかを問うことである。

偶然の一致と結びつきとを対比すれば、この点はいっそう明らかになる。偶然の一致は単に心的なもの、真のつながりは少なくとも論理的なものに準ずるものと考えると、両者はあまりに違う基盤に置かれ、そもそも対比するという問いが生じなくなる。妥当な、あるいは根拠のあるつながりに先立つ偶然の一致は、対象の並存や行為の連続としては、十分に成り立っている結びつきである。その先行条件としての偶然の一致は、真のつながりと対置される偶然の一致と、決して同じものではない。本棚で本が横に並んでいることや、窓から次々に聞こえてくる音は、それ自体では、論理の問題として私を悩ませない。誤りとは見えず、問題とさえ見えない。新しい観点や目的が現れるまでは、どのような並存も、ほかと同じくらいそれでよい。本の並べ方の便利さが問われれば、今の配置の価値が問題になる。そこで初めて、現在ただ並んでいる状態を、筋の通った配列の構想と比べられる。音の連なりを、言葉として話されたものと見なせば、その順序が重要になり、確かめるべき問題となる。ある組み合わせが、見かけだけのつながりを示すのか、本当のつながりを示すのかと調べることは、すでに省察的な探究が始まっている証拠である。この月の形は本当に雨のしるしなのか。それとも、たまたま月がこの形になったときに暴風雨が来るだけなのか。こう問うことは、経験の世界のある部分が、より確かな説明へと述べ直すために、批判的な分析にかけられていることを示す。ある組み合わせを、単なる並置や偶然の一致と見なそうとすることは、本当のつながりを探す心の動きの、まさに一部なのである。

並存そのものを、非論理的なものとして、論理的な真のつながりそのものに対置するなら、どうなるだろうか。私たちの空間的な世界全体は、ものが配置されている世界であり、この世界で思考ができるのは、ある配置を別の配置へ置き換えることまでである。そうである以上、空間的経験の全領域は、即座に、しかも永久に、反理性的なものという判決を受けてしまう。だが実際には、真のつながりに対置される偶然の一致、本当の結びつきに対置される単なる並置とは、そのつながりが疑われ、活発な探究にさらされているものにすぎない。この区別は、論理的あるいは省察的な働きが及ぶ範囲の内部でしか生じないのである。

三 ここから明らかになるのは、二つの観念だけを取り出し、そのなかの要素や意味だけを見ても、偶然の一致とか真のつながりといったものは存在しない、ということである。「偶然に一致するもの」や「本当につながるもの」のどちらか一方よりも、また両者の単なる算術的な合計よりも多くのものを含む、一つの状況や働きのなかで、両者が共同の要因となって初めて、思考の活動は呼び起こされる。ロッツェは絶えず、次の二者択一に陥る。思考は自分の材料を形づくるのか、それとも、ただ受け入れるだけなのか。第一の場合、彼は、思考には固定した出来合いの先行材料がなければならないという前提を捨てられないため、思考の活動はその素材を変えるしかなく、そのぶん精神を実在から遠ざけることになる。しかし、思考が材料をただ受け入れるだけなら、そもそも思考に固有の目的や活動は、どうして存在しうるのか。すでに見たように、ロッツェは、思考は材料を受け取りながらも、それを吟味するのだと考えて、この難局を逃れようとする。ある部分を取り除き、別の部分を復権させ、そこに思考自身の妥当性の印章を添える、というのである。

思考は、あらかじめ用意された把握の形式を備えて、その素材を待ち受けるのだという考えに、ロッツェは強く反対する。その考えでは、思考がどうやって各印象の材料を、それぞれに適した特定の形式へ収めるのかという、解けない問いが生じるからである(第一巻24頁)。しかし彼は、実際にはこの困難を避けていない。思考は、どの組み合わせが単なる偶然の一致で、どれが本当につながっているのかを、どうして知るのか。どれを無関係として取り除き、どれを根拠のあるものとして確かめればよいかを、どうして知るのか。この評価は、思考が自分で押しつけるものか、それとも素材から合図と手がかりを得るものかの、どちらかである。もし、偶然に一緒になったものと本当につながるものとが、それ自体でこの方向づけを与えられるなら、両者には、実質的にすでに札が付いている。思考がその先で仕事をするのは、余計なことでしかない。せいぜい、すでにそこにある材料の組み合わせを認め、認証の印を押すだけだ。この見方では明らかに、思考の仕事は、形式のうえでは不要であり、実際の効果のうえでは無力になる。

この二者択一から抜け出す道は、後に単なる偶然の一致と分かるものと、本当の結びつきと分かるものとの双方を含む、経験の状況全体が、実際には思考を呼び起こすのだと認める以外にない。それまで受け入れられていた経験が、その全体として、同じく一まとまりをなす別の経験と衝突する。そして、それぞれを一部分として必要とする、より大きな経験が現れ始めるにもかかわらず、その内部では、必要とされる要因が互いに両立しないと分かる。思考は、そのとき初めて生じる。ただの偶然の一致、ただの結びつき、あるいはその二つを足しただけのものが、思考を刺激するのではない。全体として組織され、成り立っていながら、その諸部分がばらばらになりかけている状況、内部で対立している状況こそが、本当には何が結びつくのかを探す探究と、見かけだけで結びつくものを除こうとする、それに対応した努力を引き起こす。真のつながりとは、まさに、それらを包む全体のなかに存在できることを意味する。材料の単なる並置と妥当な関係との区別を、その前の状況にまで読み込むのは、心理学者の誤謬の一例である。これらの区別は、定まるのはもちろん、そもそも生じることさえ、思考過程の内部でしかないからだ。

ただし、この段階の議論を終える前に、私たちが何に反対しているのかをはっきりさせておかなければならない。省察的思考は、それ自体は省察的でない先行条件から生じる、というロッツェの立場に反対しているのではない。また、その先行条件は固有の構造と内容を持ち、思考を呼び起こして、その具体的な活動の手がかりとなる特有の問題を設定する、という考えに反対しているのでもない。むしろ、この後者の点こそ強調したい。そして、それを強調することで、否定的には、この見方が、心的な印象や観念を思考の真の先行条件とするロッツェの理論とは、まったく両立しないと示したい。肯定的には、思考を呼び起こし方向づけるのは、状況のなかから切り離した一部分や内部の区別ではなく、状況全体だと示したいのである。思考は実際には、乱れを生じた状況全体からしか出てこない。それなのに、以前の状況のある一要素が、単独で切り離されて思考を生むと考える誤りに、注意しなければならない。否定的な面から言えば、印象や観念を、心の内容としてであれ、心的に存在するものとしてであれ、特徴づける区別は、思考の本当の先行条件である状況を省察するなかでしか生じない。さらに、心的な存在と外的な存在との区別は、心理学者が心理学者として行う、高度に精密で専門的な省察の内部でしか生じない。[12] 肯定的に言えば、思考の状況を生み出すのは、動的な経験の全体である。そこには、全体を貫く、ある質を持った価値の同一性がある。同時に、内部の分裂があり、要素どうしが食い違い、緊張し合い、それぞれが自分にふさわしい位置と関係を求めて競り合っているのである。

この立場から、この発展段階を見ると、客観的と主観的という区別は、特有の意味を持つ。繰り返せば、先行条件とは、さまざまな要因が現に互いと両立せず、それでもそのせめぎ合いのなかで、それを通して、全体をつくり直し、諸部分を捉え直す方向へ向かう状況である。この状況そのものは、明らかに客観的だ。それはそこにあり、全体としてそこにある。さまざまな部分もそこにあり、それらが現に互いと両立しないことも、そこにある。この時点で、状況のある部分は錯覚的だ、主観的だ、単なる見かけだと言ったり、別の部分こそ真に現実的だと言ったりしても、何も伝わらない。対立する要因の一部を、経験の正当な構成員から外し、単に主観的なものの領域へ移すのは、この後の思考の仕事である。だが、この段階では、経験は、生きた活動的な混乱と対立として存在する。その対立は、事実として存在するという意味で客観的なだけでなく、論理的な意味でも客観的である。まさにこの対立が、思考の状況への移行を生み出すからだ。そしてその思考の状況とは、それ自体、明確な均衡へ向かう絶えざる運動にほかならない。この対立は、思考の先行条件であり手がかりであるがゆえに、客観的な論理上の価値を持つのである。

素朴な生活のなかでも、意図的な発明でも、管理された科学研究でも、省察する姿勢や働きはすべて、このような全体的で客観的な状況を通して生じてきた。抽象的な論理学者は、感覚や印象、連想された観念、単なる物理的事物、慣習的な記号が、先行条件なのだと言うかもしれない。しかし、その説明は、現実の実践や現実の科学研究に関わる思考の、ただ一つの事例によってさえ確かめられない。もちろん、幾重もの媒介を経て、記号が思考を呼び起こす条件になることはある。記号も、活動的な経験の対象になるからだ。しかし刺激となるのは、それらを操作して新しい全体をつくろうとすると抵抗が生じ、そのため相互の緊張が起こる場合だけである。記号とその定義は、それらを扱うこと自体が、固有のまとまりを持つ一つの経験になるところまで発達する。商品の取り扱いや、発明品の部品の配置が、一つの個別的な経験になるのと同じだ。思考に先立つのは、つねに物理的世界、社会的世界、あるいは組織された知的世界の、何らかの素材をめぐる経験である。その諸部分は現に争い合い、経験全体を壊しかねないほどになっている。そのため経験は、自らを保つために、緊張する諸部分を意識的に定め直し、関係づけ直すことを必要とする。これが、思考と呼ばれる再構成の過程である。諸部分が緊張しながら、統一された経験へ向かうように互いに動く、その再構成の状況が、思考の状況なのだ。

ここから、主観的な面がただちに見えてくる。状況、すなわち経験そのものは客観的である。混乱し対立する傾向が、経験されている。しかし、具体的に何が客観的なのか、状況が秩序ある調和した全体として、どのような形をとるべきなのかは、まだ分からない。そこに問題がある。このような経験があることは確かだが、その経験の中身が何であるかは不確かだ。この二つが合わさって、思考の働きを呼び起こす。不確かさの側から見るなら、状況全体は主観的である。特定の内容や、それが指すものを、ただちに断言することはできない。確定的な主張は、はっきり留保される。それは、これから行う省察的探究の手続きの成果となるべきものだからだ。内容を確定した位置に置くことを差し控え、組み直す候補として眺めること。思考の自然な歴史のこの段階で、私たちが主観的という語で意味するのは、このことなのである。

私たちは、ロッツェが不整合を重ねながらたどる、曲がりくねった道を追ってきた。ここでの問題を単なる自己矛盾と受け取られるくらいなら、無益な繰り返しになる危険を冒したほうがよいかもしれない。矛盾を、それを生む根本的な前提との関係で理解しないかぎり、矛盾を暴くことは空しい仕事である。ロッツェは、思考をその先行条件から区別せずにはいられない。しかし彼は、思考の状況をその前の状況から、全面的で固定的で絶対的な、あるいは全般的な違いによって、根本から分けようとする先入観を持って、この区別に取り組んでいる。彼が必要とするのは、経験のなかで、ある過程の一局面、あるリズムの一時期を、ほかと対比することではない。思考そのものを、何か別のものそのものと、全面的に対比することなのである。

ロッツェは、この完全で固定した違いを、単に存在し、起こるだけの経験と、価値、真理、正しい関係に関わる経験との違いに見いだす。しかし、物や対象はすでに、少なくとも暗黙のうちに、価値、真理、実在性などについての規定を持っている。行為や感情などについても同じことがいえる。存在として与えられながら、価値などについては何の規定も受けていないという条件を満たすように見えるのは、感覚的な意識状態や、むき出しの印象などだけである。そこで、観念の流れが登場する。すでに出来上がった、出来事や存在の流れであって、省察による規定をまったく受けておらず、思考に自然に先立つものだと特徴づけられる流れである。

しかし、この存在の流れが置かれるや否や、それには思考の材料的条件や手がかりを務める力が、まったくないことが分かる。月の裏側で起きているかもしれない変化と同じくらい、思考には無関係なのである。そこで、すでにたどってきた一連の価値の規定が、単なる存在であるはずのものの構成や内部構造へ、一つずつ持ち込まれる。すなわち、(1)事物によって定められる価値。ここでは印象や観念が、その事物の空間的・時間的関係を、何らかの仕方で表すものとされる。(2)その結果として、意味という形をとる価値。観念は、単なる出来事ではなく、意味を持ち、性質を備えたものになる。(3)流れの内部で区別される、偶然の一致と真のつながりとの価値である。すでに見たように、こうした価値はすべて明示的に認められている。そして、そのすべての根底にあり、すべてを貫いているのは、全体として組織されながら、内部の構成に対立を抱えた状況こそ、決定的な価値を持つという認識なのである。

これらの矛盾はすべて、価値や妥当性に関わる思考の仕事を、ただ先に起こった出来事としての経験と対置しようとすることから生じる。この対比のさらに奥には、私たちの経験においては具体的な依存関係を持つ思考を、それでも一般には独立した何ものかとして考えようとする試みがある。したがって矛盾を根本から避ける唯一の道は、思考を、意味ある経験が発展するなかでの、価値評価の特定の仕方として特徴づけることである。それは固有の具体的な機会または必要を持ち、固有の具体的な位置を占める働きなのである。

思考という働きの先行条件が、どのような組織と価値を持っているかは、ここで詳しく立ち入るには大きすぎる問題である。ロッツェ自身も答えを示唆している。彼は観念の流れを、流れであるだけで、「日常生活を導く、十分な根拠のある情報の集まり」を与えるものとして語る(第一巻4頁)。それは「有用な組み合わせ」「正しい予想」「時宜にかなった反応」を生むという(第一巻7頁)。実際、彼はこれを、科学的・哲学的探究によって批判的に改められ、合理化された世界と区別される、普通の素朴な経験の世界、いわゆる経験的世界そのものであるかのように語っている。この解釈と、単なる心的印象の流れという解釈との矛盾は、すでに論じた困難のもう一つの例にすぎない。しかし、その言い方は、その世界が持つ価値の種類を示している。省察以前の世界は、実践的な価値の世界である。目的と手段、両者の効果的な適合、結果を見通した行動の制御と調整の世界だ。どれほど純粋に実用的な価値でも、なお価値であって、単に存在するものではない。しかも、批判的な吟味を経ていない経験の世界は、物質的な用途や価値だけに還元されるわけではない。それは社会的な目的と手段の世界であり、至るところに、愛情や結びつき、競争や協力の価値が関わっている。また、その世界自体のなかには、美的価値の驚きも組み込まれている。光に出会う突然の喜び、音色や形がもたらす、心地よい驚きもあるのだ。

私は、省察以前の経験の世界を、批判的に思考する状況に対置して、全体としてそう言っているのではない。そのような対比こそ、私が避けようとしている、思考をひとまとめに、一般論として考えることになってしまう。私たちのごく普通の、実践・感情・美に関わる価値の領域が組織されるまでには、疑いなく、幾多の思考の働きが介在してきた。私が言いたいのは、思考は実際に、そのような世界のなかで起こるのであって、価値について何の規定もない単なる存在の世界の後に起こるのではない、ということである。また、組織された科学と呼ばれる、より体系的な省察は、ある意味では後から来ると言ってよい。ただしそれは、価値の世界を築くなかで、すでに実現し、表現されている、感情的・芸術的・技術的な関心の後に来るのである。

十分に展開することのできない示唆に、ここまで踏み込んだので、もう一つだけ脱線を許してもらおう。単に存在することと区別された価値や意味は、思考または理性の産物であり、ロッツェの矛盾の源は、思考以前の、あるいは思考に先立つ状況を見つけようとしたことにある、という考えはよく知られている。私のロッツェ批判を、そのように受け取った読者もいるかもしれない。[13] この立場はしばしば新ヘーゲル派と呼ばれ、カントを批判する多くの著者によって展開されてきた。ただし、その呼び名が正確かどうか、私は疑問に思う。この立場と本章でとった立場とは、確かに、いくつかの一般的な点で一致する。どちらも、先にあるむき出しの存在や単なる出来事から、実りある省察が発達するという事実を認めず、その可能性も否定する。どちらも、単なる存在、つまり意味について何の規定もない現象などは、心の現象であれ世界の現象であれ、存在せず、存在しえないとする。また、省察的思考は、すでに組織された経験から有機的に育ち、その有機体の内部で働くという点でも一致する。だが、ある根本的な問いを立てると、両者は道を分かつ。組織された意味はすべて、思考の仕事なのか。それゆえ、省察的思考が育つ土台の組織も、別の種類の思考、たとえば純粋思考、創造的あるいは構成的思考、直観的理性などの仕事だと、言えるのだろうか。この点で意見が分かれる理由を、簡単に示しておこう。

そこに関わる実践的・社会的・美的価値をすべて含めるためには、「思考」という語を、相当に広げなければならない。そこまで広げれば、その状況は、経験の代表的な価値を表す、ほかのどんな名前で呼んでもよくなってしまう。もっと具体的に言おう。省察的探究が出発する、組織され配列された価値の体系と、省察的探究そのものとの違いを小さくしすぎると、ちょうど同じ種類の問題が再び生じる。それは、この違いを誇張して、価値のないむき出しの存在と、合理的につながった意味との違いにしてしまったときの問題である。そもそも、省察的思考の先行条件も、何らかの仕方で思考なのだと主張する理由は、両者の違いを小さくすること以外にないだろう。

というのも、先行する状況は思考によって構成されていると強く主張すればするほど、なぜ別の種類の思考が必要なのかという疑問が大きくなるからだ。どのような必要がその思考を呼び起こし、それはどうして、先行する構成的思考の仕事を改善できるのか。この困難は、私たちを、具体的に経験される経験の論理から、純粋に仮定された経験の形而上学へと、ただちに追いやる。構成的思考は、私たちの意識的な思考の働きに先立つ。したがって、それは何か絶対的で普遍的な思考の働きであり、私たちの省察には知られないまま、組織された世界を築くのだ、ということになる。しかし、これに頼ると困難はいっそう深まる。絶対的な構成的・直観的思考は、どうしてそんなに下手で不器用な仕事をし、その産物を、有限な、順を追って考える活動に継ぎはぎしてもらう必要があるのだろうか。ここで、さらに形而上学が求められる。今度は絶対理性が、感覚を持ち、時間のなかにある有機体の、有限性による制限のもとで働くと想定される。したがって、省察的思考の先行条件は、純粋で汚れのない思考の規定ではなく、思考が身を低くして、変化と感覚のくびきを引き受けたときに、なしうることの規定なのだという。この形而上学への逃避によっても解かれない、形而上学上の問題は、ここでは措いておこう。すなわち、完全で絶対的で、欠けるところなく完成した思考が、なぜ、またどうして、自分とは異質で、自分を乱し損なう条件に従う必要があるのか。しかも、その末に、省察的思考を通じて、部分的で断片的で、まったく不十分な仕方で取り戻すのは、初めからはるかに満足な形で持っていたものなのである。

私は論理上の困難に話を限ろう。思考は、断片的な感覚、印象、感情と、どう関係できるのか。それらは、構成的思考の働きとの対比と不一致によって、省察的思考を構成的思考から分けるものであり、同時に、構成的思考の産物と結びつくことで、省察的な思考の手がかりを与えるものである。ここには再び、ロッツェが格闘してきた問題が、そのまま現れる。思考活動が、まったく規定されず、合理化されず、独立して先に存在するものと、どう関わるかという、同じ解けない問いである。この点で問題を引き受ける絶対的な合理主義者は、ロッツェと同じ、果てしないシーソー運動に追い込まれるだろう。乱暴に奪っては、無償で与えるという、同じ仕組みに陥るのだ。そもそも、ここがまさに、ロッツェ自身の出発点だった。彼は、それまでの超越論的な論理学者たちが、私たちの、有限で省察的だとされる思考と、その固有の先行条件との関係という具体的な問いを、手つかずに残したと見て、その欠陥を埋めようとしたのである。構成的思考が、感覚による外的な制限のもとで働くために省察的思考が必要なのだとすれば、結局、単なる存在や出来事でしかない要素があることになる。反対に、その要素が別の源から組織を与えられ、むき出しの印象などとしてではなく、ある全体のなかの位置によって省察的思考を誘うのなら、理性を離れても経験に有機的統一がありうると認めたことになる。そして、純粋な構成的思考を想定する根拠は放棄されるのである。

思考の活動と、それに特有の形式の側から見ても、同じように矛盾が現れる。結局、構成的なものとしての思考について私たちが知ることは、すべて省察的思考の働きを考察することで得られる。完全な思考の体系は、あまりに完全であるため、明確な部分や区別を持たない、明るく調和した全体だという。あるいは、部分や区別があるとしても、それを取り出すのは省察だけだという。したがって、構成的思考そのもののカテゴリーや方法も、省察的思考の働き方によって特徴づけるほかない。だが、省察的思考が生じるのは、まさに、それが生まれる特有の条件に、特有の問題があるからである。その仕事は、前へ進め、改め、組み直すものであり、カントによって広まった用語を使えば、総合的なものである。したがって、その規定を構成的思考へ移すことは、正当化されないだけではない。そのような移し替えを試みること自体が、厳に禁じられる。構成的思考への抵抗という第一の事実によって条件づけられた、論理的な過程、状態、工夫、成果を、その構成的思考の構造と同一視することは、一つの種類から別の種類へ議論を移す誤謬の、これ以上ないほど完全な例である。まず構成的思考と省察的思考を、両者の相違、さらには対立によって定義しておきながら、その直後には、何の断りもなく、後者を記述する形式をそっくり前者へ移してしまうのである。[14]

これは、論争のためだけの批判ではない。これらの章の根本的な主張を、積極的に示すことが目的である。思考という働きのあらゆる区別、感覚知覚に対する概念形成の区別、判断のさまざまな種類や形式の区別、推論の広範で多様な働きの区別。それらはすべて、経験があらかじめなしていた、特徴ある典型的なまとまりから生じる、思考の状況の内部にある。そして、その目的は、思考の働きを生み、発展させることになった特有の問題を解くことだ。つまり、経験が陥った内部の対立から、意識的に統合された経験を回復することなのである。

超越論的論理学が失敗する原因は、経験論的論理学が失敗する原因と同じである。後者が純粋な形であっても、ロッツェが示す混合した形であっても、変わらない。それらは、起源においても意味においても、まったく歴史的で相対的である、存在と意味との区別、またある種類の意味と別の種類の意味との区別を、絶対的で固定したものにしてしまう。思考を、実在を一度で決定的に表現し、述べようとするものとして捉える。実在のある局面や内容を、互いにより有効に、より意味ある仕方で用いるために定めようとするもの、つまり再構成するものとしては捉えない。そのような論理学が必ずぶつかって砕ける岩礁は、次の二者択一である。実在は、思考が与えようとしている説明を、すでに備えているのか。それとも備えていないのか。前者なら、思考はむなしく同じことを繰り返すだけであり、後者なら、思考は実在を偽るものとなる。

批判的な検討にとってロッツェが重要なのは、彼の独特の試みが、経験論的論理学と超越論的論理学の双方の根本的な欠陥を明るみに出すからである。彼は、思考についての超越論的な見方、すなわち、思考はそれ自体で純粋な固有の形式に従って活動するという見方を、私たちの思考が特定の経験的な先行条件に依存するという、明白な事実と結びつけようとした。そこから両者に共通する失敗が見えてくる。論理の用語や区別を、経験を再び統合する際にそれらが果たすべき働きに即して見ていない、という失敗である。

第三章

思考とその素材――思考の所与

私たちはいま、思考の状況が展開する過程の、第二の大きな転換点に達した。この危機においては、所与、つまり提示されているものと、観念、つまり『考え』とが、どう区別され、どう互いを指し示すのかという問題に取り組まざるをえない。議論を無駄なく進め、できればいっそう明確にするために、いま得られた比較的積極的で建設的な結論を出発点とし、その観点からロッツェの議論を検討し直そう。

私たちは、一つの経験の素材や内容が衝突するところまで来た。この衝突のなかで、また衝突が起きるからこそ、素材や内容、つまり意味を持つ個々の質が、それとして際立ってくる。太陽が地球の周りを回るという経験に、緊張も疑問もないかぎり、この『内容』、この事実が、内容や対象として取り出されることはまったくない。それを内容として、経験そのものの形式やあり方から区別すること自体、後から省察した結果なのである。同じ衝突によって、ほかの経験も意識的に対象として捉えられるようになる。それらもまた、生きて活動するあり方ではなくなり、観察や考察の明確な対象になる。惑星の運動や食などがその例である。[15] 統一された経験を保つことが、いまや問題となり、目標となった。それはもう安泰ではない。しかし、そうなると、衝突している要素を、新しい経験のどこかに位置づけられるように捉え直さなければならない。これらの要素は何とか処理する必要があるが、最終的に処理できるのは、その居場所を確保してやることによってだけである。つまり、単に否定し、締め出し、取り除くことはできない。新しい経験のなかに迎え入れなければならない。他方、そのためには、それらの要素の側にも、多かれ少なかれ修正や変容が必要になることは明らかだ。思考の状況とは、経験の統一を意識的に保ちながら、衝突するさまざまな内容が、その統一のなかに居場所を求めるそれぞれの主張を批判的に検討し、最後に、考え抜いたうえで位置を割り当てる状況なのである。

衝突の状況は、必然的に二つの極へと分かれる。両立しないものどうしが争っていても、その争いに揺るがされないものがある。確かなまま、疑われずに残るものがある。その一方で、疑わしく、不安定になる要素もある。ここから、この領域を大きく二つに分ける枠組みが生じる。一方は『事実』、与えられたもの、提示されたもの、所与であり、他方は観念、観念上のもの、考えられたもの、思考である。というのも、問題を抱えたどんな状況にも、その過程のどの段階にも、疑われないものが必ずあるからだ。[16] たとえそれが、衝突や緊張があるという事実だけであっても、そうである。この緊張は、漠然とした緊張一般では決してない。争っている個々の要素によって、隅々まで性格を与えられ、独特の調子と色合いを帯びている。したがって、それは、ほかに置き換えられない、この一回きりの衝突なのである。それがいま起きるということは、まさしく、これまで起きたことがないということを意味する。それがいま検討され、何らかの決着に至るということは、まったく同じこの衝突は二度と起きないということを意味する。要するに、衝突そのものが、ほかでもない、まさにこの種類の衝突として、直接に表れ、感じられる。この直接に捉えられる質が、それ以上ほかのものに還元できない所与なのである。ほかのすべてが疑わしくても、それは事実である。それを吟味していくにつれて、曖昧さが消え、いっそう明確な形を取るようになる。

ただし、確実で疑われない要素が、いま想定したほどの最小限にまで縮まるのは、ごく極端な場合だけである。ほかにどんな疑いがあろうと、ある事柄は事実としてはっきり現れる。太陽には、見かけ上、一日のうちに一定の変化があり、一年を通して一定の道筋がある。惑星には、夜ごとの一定の変化があり、季節に応じて繰り返される一定の軌道がある。その意味は疑われるかもしれない。これらは太陽に実際の変化があることを意味するのか、それとも地球の変化なのか。しかし、変化そのものはある。しかも、明確な性質を持ち、数値でも特定できる変化である。このようにはっきりと立ち現れる事実、すなわち存在するものが、思考の働きにとってのデータ、与えられたもの、提示されたものを構成することは明らかだ。

これが、状況全体のなかで、他方と対応する一方の項、一つの立場にすぎないことは明らかである。これを確かなもの、考慮に入れなければならない所与として意識することには、それが何を意味するのか、どう理解し解釈すべきかは不確かだという意識が伴う。事実は、提示されているもの、存在するものとしては確かである。しかし、その意味、つまり、これから確立される経験のなかでの位置や関係については、疑わしい。とはいえ、疑いが記憶や予期を排除するわけではない。実際、疑いは記憶や予期を通じてこそ可能になる。過去の経験の記憶によって、地球の周りを回る太陽が、注意深く見つめる対象となる。別のいくつかの経験を思い出すことで、地球が毎日地軸の周りを自転し、一年かけて太陽の周りを公転するという観念が示唆される。こうした内容も、変化の観察と同じく、いま存在している。しかし、その価値という点では、まだ可能性にすぎない。そこで、単に観念、意味、考え、事実を捉え、理解し、解釈する仕方として分類され、扱われるのである。

ここでは、存在のうえで相関していることと同じくらい、互いを指し示す対応関係も明らかである。論理的な過程において、所与だけが現実に存在し、観念は心のなかだけの非現実なものだというのではない。どちらも存在のあり方であって、一方は与えられた存在、他方は心的な存在なのである。そして、このような場合、目標とされる統一された経験の観点から見て、心的な存在の価値が可能性にとどまると考えられるなら、所与のほうも、価値の観点からは不完全で、確かさを欠くと考えられる。観念や意味が所与とは別に存在すること自体が、所与の部分的で分断された性格を、したがって、妥当性の観点からは客観的な実在性を欠く性格を示している。日常の言い方をすれば、観念の側が印象、示唆、推測、理論、見積もりなどであるのに対して、事実の側は粗く、生のままで、組織されておらず、ただそこにある。それらには関係、つまり世界のなかでの確かな位置が欠けている。つながりが不足しているのである。太陽の見かけの位置が変わるというだけのことは、所与としてはまったく疑いがない。しかし、これまでの組織された経験から見ても、目標として、すなわち目指す対象として再組織される経験から見ても、それだけを取り出した抽象にすぎない。それが経験や実在のなかに、持続する対象としてそのまま存在することはできない。言い換えれば、与えられたものと観念されたものとは、経験のまとまりを保つという問題を無駄なく扱うための、分業する、協働的な手段なのである。

もう一度、手短に述べよう。所与と観念されたものとは、それぞれに、物理的なものと心的なものとに分かれうる。そして実際、確かにそうなる。地球が太陽の周りを回るという確信が強まるにつれて、古い事実は、宇宙における新しい存在と、新しい心理的な条件とに分かれる。後者は、非常に遠くにある大きな物体に対する、小さな物体の運動を、逆向きに解釈させる心的な過程を認めることである。私たちは、古い内容に含まれる誤りの原因を、偽りとしてただ取り除くのではない。それを、宇宙の構造の問題としては妥当でなくても、それ自身の場所では妥当なもの、すなわち統覚の心理学の一例として解釈し直すのである。言い換えれば、与えられたものを、いっそう正確に特定するにつれて、方法上の目的から、感覚経験の質や素材と、その形式との区別が生じる。後者の感覚的に知覚する働きは、それ自体、一つの心理的事実であって、独自の位置と、法則ないし関係を持つ。さらに、太陽が回るという古い経験も残る。ただし、それは宇宙の世界に属するというより、『私』、すなわち経験するこの個人に属するものと見なされる。心的なものになるのである。

こうして、思考の状況が発展するなかで、特定の条件のもとで特定の真理を定める過程の一部として、私たちは初めて、ロッツェが、すべての思考に先立って出来上がっているものとして出発点に置いた区別への手がかりを得る。つまり、印象の素材と、心的な出来事としての印象との分離である。一般的な分離として受け取れば解決できない問題を生むものが、個別の省察的な探究のなかでは、価値の体系が必然的に分化することとして現れるのである。

思考、つまり意味の側でも、同じようなことが起こる。受け入れられつつある意味や観念、所与の意味として足場を固めつつあるものは、論理的な、知的な、あるいは客観的な力を得る。反対に、足場を失いつつあるもの、ますます疑わしくなるものは、ただの思いつき、空想、先入観、誤った理解、ついには単なる誤り、心の働きのつまずきとされる。

妥当性の点で空想的だと評価されると、それは単なる心像、主観的なものとなり、[17] 最後には心的な存在となる。取り除かれるのではなく、新しい指示先や意味を与えられるのである。したがって、主観性と客観性との区別は、意味そのものと所与そのものとの区別ではない。それは、論理的な動きがどちらへ向かうかに応じて、所与と観念されたものとの両方に、対応しながら生じる限定である。受け入れられる意味が発展していくなかで取り残されるものは、実在的ではあっても、心的な意味でのみそうであると特徴づけられる。目指して進んでいく先のものは、客観的な、宇宙に関わる意味で実在的だと見なされる。[18]

与えられたものと、それについての思考との、どちらにも心的なものと論理的なものが含まれていることは、ロッツェのような論理学者が、たえず立場を移さざるをえないところに現れている。意味をただ観念上のものとし、それに対して心的なものを存在として捉えるとき、実在性は心的なものの側にあるように見える。ともかく、それはそこにあるのであって、意味は妙な付け足しにすぎない。妙だというのは、単なる意味としては、出来事や状態として存在するものではないからである。しかも、その意味を担い、表す心的状態に、意味を結びつけるものさえ何もないように見える。ところが、内容として、意義としての思考に重点が置かれると、心的な出来事、意味としての観念と区別された、心像としての観念[19] は、偶然的でありながら避けられない厄介ものに見える。私たちの思考が、残念ながら通らざるをえない、それ自体は無関係な媒介物に見えるのである。[20]

一 思考の所与。ロッツェの議論に戻ると、思考に提示される材料、すなわち所与と、その所与に組織や体系を与える、思考に固有の典型的な働き方とを、彼は明確に区別している。また、所与を述べる際には、思考の先行条件を定義したときとは違う言葉を使っている点も興味深い。観念が働きかける材料という観点から重要になるのは、偶然の一致、並び合わせ、継起ではなく、一つの尺度に沿った程度の違いである。強調されるのは、空間や時間のなかに集まった物ではなく、互いに区別されながらも、共通する何かの違いとして分類される質である。あらゆる印象が、甘さと温かさほどにも、ほかのあらゆる印象とは比較できないほど違うという考えは、それ自体、考えられないものではない。ところが、驚くべきことに、実際はそうではない。系列があり、系列どうしが網の目のようにつながっている。共通するものの多様なあり方がある。さまざまな色、音、匂い、味などである。言い換えれば、所与は感覚的な質であり、思考にとって幸いなことに、それらは、同一の何かの色合い、程度、変化、性質として、配列された形で与えられているのである。[21]

これらすべてが、私たちの観念を働かせる活動に、与えられ、提示される。普遍的なものさえ、すなわち青、緑、白などのさまざまな質を貫く、共通の色という性質さえ、思考の産物ではない。思考が、すでに存在するものとして見いだすのである。それが比較や相互の区別を可能にする。とりわけ、数えること、すなわち数に関するものも、程度、すなわち多い少ないに関するものも、量、すなわち大きい小さいに関するものも、数学的な規定はすべて、思考の所与のこの特性に行き着く。ここでロッツェは、思考の成功だけでなく、その可能性そのものも、思考の材料が、この独特の普遍性、あるいは最初から見て取れる秩序を備えた形で与えられることに負うのだと、かなり詳しく論じている。互いに何の関係もない二つのものが出会う際に、前もってこれほど適合するようになっているとは、なるほど、驚き、喜ぶに十分な理由である。

ロッツェによれば、思考に与えられる材料と、思考に先行する条件とは、まったく同じものである。[22] それにもかかわらず、両者を述べるときに違う範疇を用いるのはなぜか、理解するのは難しくないはずだ。彼は違う働きを念頭に置いている。一方では、材料は、思考を呼び起こすもの、誘因、刺激として特徴づけられなければならない。この観点からは、偶然の一致と真のつながりとの独特な組み合わせが強調される。他方では、材料は、実際に扱う素材を供給するものとして特徴づけられなければならない。データは、思考に与えられるものというだけではない。思考の食物、原材料でもある。それらは、一方では、思考のまったく外にあるものとして記述されなければならない。そのため、明らかに感覚知覚の領域に置かれる。推論、判断、関係づけの影響をまったく受けずに与えられる、感覚の素材なのである。感覚とは、まさに、記憶のなかに呼び起こされたものでも、予期によって投げかけられたものでもない。それは直接的で、それ以上還元できないものである。他方、感覚の素材は質的なものであり、個々の質は共通の基盤のうえに成り立っている。共通の性質の程度や段階なのである。こうして、それらは、互いに区別され、参照し合う、ある出来上がった配置を持つ。それは、比較し、関係づけることの結果と、完全に同じとはいえなくても、すでにほとんど同じである。そして比較と関係づけこそ、思考に明白に固有の特徴なのである。

これまで述べてきたことに照らせば、この奇跡のような恵みを解釈するのは容易だ。データとは、実は、まさに、いまそこにある直接的なものとして、選び出され、取り分けられたものなのである。そのようなものとして、その先の思考に与えられる。しかし、この選択は、思考の必要を考慮して行われている。それは、この個別の問題において思考が頼りにできる、揺るがされていないもの、論争の対象になっていないものという資本を、一覧にすることである。したがって、その先の思考の仕事に特によく適合していても、不思議ではない。まさしくその目的を見据えて選ばれたのだから、適合していないほうが不思議なのである。人は、他人に使うために偽金をつくることはあるかもしれない。だが、それを自分自身につかませるつもりでつくることは、まずないだろう。

ここでの唯一の難しさは、感覚的な所与の論理的な解釈から、抽象的な心理学の探究から持ち込んだ、出来合いの考えへと、私たちの心が飛び移ってしまうことにある。感覚の個々の質が、何らかの仕方で私たちに押しつけられ、しかも特定の文脈なしに押しつけられるため、思考自身の仕組みのなかの手段や要素として思考を定めるのではなく、まったく外側から思考を条件づけるのだという信念が、あまりに固まっている。たしかに、そうした質は私たちに押しつけられる。しかし、文脈なしに押しつけられるわけではない。心理学者が構成したものとは異なり、経験の感覚的なデータは、つねに文脈のなかでやって来る。つねに、価値の連続体における変化として現れる。見かけ上の不連続と無関係の極端な例を取れば、突然響いてくる雷さえ、私を動揺させるのは、私の椅子、部屋、家があるのと同じ空間世界の一部として受け取られるからである。また、それが、私の活動を妨げ、乱す作用として受け取られるのは、私が日ごろ暮らす原因と結果の世界の一部だからである。この連続性の断絶そのものが、実践的な、あるいは目的に関わる事柄であり、したがって、生活の過程における目的、営み、手段の連続性を前提とし、それに影響する。現実の感覚は、出来事の世界における一つの出来事として定められるだけではない。[23] 経験の発展のある時期に起こり、その循環のある一点を示す出来事でもある。そして、それにはつねに、それ自身の意識された文脈と関わりがあるからこそ、経験を再構成する際の特有の働きなのである。この考えを強く要請するのは、形而上学ではなく、生物学なのだ。[24]

二 所与を思考する形式。感覚的な所与が、思考の仕事のために用意された材料であるのと同様に、思考が仕事をする際の観念的な形式も、その材料の必要に、的確に、すぐに応えるものである。真のつながりの根拠という『補助的な』[25] 考えは、実際には、データに形式的なものを外から付け加えることではなく、その性格を定め直すことだと分かる。思考は、付録という意味で補助的なのではなく、仕事を共にする助け手なのである。『思考』の役目は、単なる偶然の一致を取り除き、根拠のあるつながりを打ち立てることだ。ロッツェは、根本において、『思考』を、それ自体で働いてつながりの形式を押しつける活動とは考えていない。この点を彼はきわめて明確にしている。『思考』の組織する仕事は、経験の素材に内在する統一や体系を、徐々に実現することにほかならない。思考がその『補助的な』力を発揮する個々の仕方、すなわち名づけ、概念形成、判断、推論は、最初に所与としてやって来る素材を、十分に組織していく連続した段階である。所与が初めに持っていた欠陥を克服する努力の、相次ぐ段階なのである。概念形成は、感覚に与えられた普遍的なもの、共通の要素から出発する。しかし、重要なのは、それが単に、この共通の要素を取り出し、その要素に属する違いに対置して意識的に一般化するのではないという点だ。そのような『普遍的なもの』は、時間や場所による異質性を含み込まず、統御もしないからこそ、真のつながりではない。真の概念は、第一巻三八ページにあるように、ある根拠、あるいは規定し統御する原理に基づいて結び合わされた、属性の体系である。この根拠は、それ自身のすべての事例を統御して、内的につながる一つの全体にし、また、それ以外のすべてを排除するように、自分の限界を明確にする。さまざまな色の共通要素として色を抽象しても、その結果は科学的な観念や概念にはならない。さまざまな振動数がスペクトルのさまざまな色をなす、光の波の過程を発見することによって、概念が得られる。そして、そのような概念を得ると、それまで色の経験が時間のなかでただ唐突に現れていたあり方は、色の体系の有機的な部分へと変わる。言い換えれば、論理的な成果である概念は、形式上の印章や刻印ではない。ある方向に沿ってデータを徹底的に変容させることなのである。

データと観念とを、互いに関係づけながら引き続き変容させていく、その思考の形式や仕方が判断である。判断は、個別化された全体の内部のつながりを定める原理があるという想定を、明らかにする。赤を、色の法則ないし過程の、この事例、この実例として明確に述べることによって、概念形成がなお素材やデータに残していた欠陥を、さらに克服するのである。[26] さて、判断は、論理的には選言に行き着く。判断は、定義された複数の個別的な選択肢のどれをも定めうる普遍的なものを与えるが、そのうちどれが選ばれるかについては、何も決めない。体系的な推論は、法則、つまり統御する普遍的なものが、別の選択肢ではなく、この個別的な選択肢に適用される、その具体的な条件を明らかにする。こうして、素材の観念上の組織化を完成する。この働きが完了するなら、最後には、ある全体が私たちの前に現れるはずである。その全体について、何が決定し、作用し、あるいは根拠を与える要素なのか、また、ほかの要素がそこからどのような展開の順序で、どのような依存関係の階層に沿って導かれるのかを、私たちは知っているはずなのである。[27]

思考の諸形式の働きについての、このロッツェの説明には、一方の所与と、他方の観念ないし意味とが、絶えず互いを定めていく姿が、はっきりと描かれている。それは、経験が再び一つにまとまり、データが徹底して定義され、修正され、観念が、素材に即した意味として完全に具体化されるまで続く。ここに、実際に起きることの大筋が述べられているのは疑いない。しかし、それが、思考の材料ないしデータは思考の先行条件とまったく同じだというロッツェの想定と、完全に矛盾することも疑いない。また、観念や概念は純粋に心的な何かであって、思考に本質的に固有のものはそれだけであり、出来上がったものとして供給される材料に、外から作用するのだという想定とも矛盾する。ここから意味されることは、ただ一つである。内容が衝突していても経験の統一と全体性が保たれるのは、正確に記述され、適切に関係づけられるべき事実と、十分に解き明かされ、適切な対象に向けられるべき意味とを、厳密に対応させながら取り分けることによってである。所与は、思考の状況のなかで、観念や意味をさらに定めるために与えられる。しかし、この面から見ても、それは問題を含んでいる。何が与えられているかを見いだすことは、省察の力を最大限に要求する探究である。科学的方法の重要な進歩は、どれも、ただそこにあるもの、与えられたものを取り出して記述するための、よりよい手段、より熟練した技法の獲得を意味する。ある個別の探究において、何なら、そこにあるもの、与えられたものとして確実に受け取れるかを見いだすこと。そして、それを、秩序立った検証可能な思考の材料として、実りある仮説を立て、説明や解釈の観念を考慮するための材料として受け取れるようになること。これは、体系的な科学的探究の努力の一面であり、その帰納的な側面をなす。思考の目的を達成するために、観念や意味を対応させて区別しつつ、思考の状況のなかで与えられるものを、絶対的に与えられるかのように、あるいは特定の歴史的な位置や文脈から離れて与えられるかのように受け取る。これが、論理学説としての経験論の誤りである。概念形成、判断、推論という思考の形式を、素材、すなわち対象を徐々に組織する際の、相次ぐ配置としてではなく、『対象の違いを一切離れた純粋思考』の性質と見なす。これが合理論の誤りである。ロッツェは、両者を組み合わせることで、互いによってそれぞれの誤りを正せると考えている。

ロッツェは、もし感覚的なデータが最終的なものであり、それだけが実在的で、真に存在し、自らを正当化し、妥当なものなのだとすれば、思考は無用になると認めている。与えられたデータの真の価値についての経験論者の想定が正しいなら、思考は滑稽な僭称者になってしまうと分かっているのだ。何もする必要のないことを、苦労して、しかも下手にやり直すか、さもなければ、勝手に真理から逸れるかのどちらかになる。思考が実際に呼び起こされるのは必要だからであり、思考には、単に形式上の仕事ではなく、経験の素材を変化させる仕事がある。このことを彼は理解している。そこで彼は、独自の形式や働き方を備えた、それ自体としての思考を想定する。独自の、方向を示し規準を与える価値を持つ、意味の領域を想定するのである。これこそ、合理論の根本的な誤りだ。両者を折衷しようとする彼の試みは、結局、一方では思考から独立した材料という考えを、他方では思考の形式が独立した価値を持つという考えを、つまり双方の擁護できない考えを前提としていることになる。

このように矛盾を指摘しても、その根源とのつながりに立ち戻らないかぎり、議論は陳腐で実りのないものになる。その根源とは、発生と歴史のなかで生じる区別や、作業上の、手段としての分業を、実在の構造における、固定した出来合いの違いへと仕立て上げることにある。ロッツェは、思考の性質がその目的に依存し、目的が問題に依存し、問題が、思考にきっかけと存在理由を与える状況に依存することを、はっきりと認めている。思考のなすべき仕事は、あらかじめ決まっている。それは、したいことではなく、しなければならないことをする。ロッツェの言葉では、『論理学が扱うのは、仮定された条件のもとで思考がどうあるだろうかということではなく、現にある思考である』(第一巻、三三ページ)。この言葉は、思考の材料の特性が思考の活動を条件づけるという趣旨の言葉と、明示的に結びつけて述べられている。同様に、すでに取り上げた箇所でも、彼はこう述べる。『思考の産出一般が可能であること、また成功することは、観念の世界全体がもともと持つ、この構成と組織に依存する。その構成は、思考のうえで必然的であるわけではないが、思考を可能にするためには、それだけいっそう必要なのである。』[28]

見てきたように、概念形成、判断、推論の本質的な性格は、扱うものとして提示された材料の特性に依存する。これらの形式が持つ意味は、それぞれが出発する時点で、その材料の組織化がどの段階にあるかに依存するのである。

ここから導かれる結論は一つしかない。思考の性質が、現実の条件や状況に依存するなら、論理学の第一の問題は、条件づけられているそのあり方のなかで思考を研究することになる。思考とその素材とが、互いに区別され、互いを指し示すものとして現れる、その危機を突き止めることになる。しかしロッツェは、何らかの出来合いの先行条件に、あまりに深くとらわれているため、こうした発生的な考察を重視しない。歴史的方法は心理学だけの問題であって、論理学上の価値はないというのである(第一巻、二ページ)。心理的な機構と心理的な材料を前提にしなければならないが、論理学が関わるのは起源や歴史ではなく、権威、意義、価値なのだという(第一巻、一〇ページ)。さらに、『論理学が関わるのは、思考が利用する要素がどうして存在するようになるかではなく、それらが何らかの仕方で存在するようになった後、知的な操作を遂行するうえで持つ価値である』(第一巻、三四ページ)。そして最後に、こういう。『心理的な過程としての思考が、どのような条件のもとで生じるかを論じても、論理学には重要な利益を何ももたらさない。私は本書を通じて、そう主張してきた。論理的形式の意義は……思考が表明するもの、思考の行為の後、あるいはその最中に、思考が課す法則のなかに見いだされるのであって、思考の背後にあり、思考を生み出す条件のなかにあるのではない。』[29]

実のところ、ロッツェは、論理学説の発展が途中で足踏みする段階を代表している。彼は、形式だけの、それ自体としての思考について、純粋に形式的な区別を繰り返すだけで満足するには、すでに先へ進みすぎている。形式としての思考は、ある材料の形式であり、理性の理想的な要求を満たすように、その材料を組織することによってのみ価値を持つと認めている。そして『理性』とは、実は、材料や内容を理想的に体系づけることにほかならないとも認めている。したがって、扉を開けて、この材料を供給する『心的な過程』を迎え入れなければならない。ところが、材料を中に入れてしまうと、その材料が生まれてきた過程に対しては、再び扉を閉めなければならなくなる。無関係な侵入者として追い払うのである。思考が、こんな忍び込ませるような仕方でデータを手に入れるのなら、その材料の扱いが正当かどうか、いつまでも問題として残るのも不思議ではない。哲学のあらゆる分野と同じく、論理学説も、ある頑固な確信が捨てられるのを待っている。その確信とは、思考の仕事と目的は、与えられる材料によって条件づけられるのに、その働きの価値については、起源と発展の条件から完全に切り離して判定すべきだという確信である。

第四章

思考とその素材――思考の内容と対象

これまでの議論、とりわけ前章では、思考にはそれ自身の内容があることを、繰り返し認めるに至った。ロッツェは、ときには、思考にとってまったく異質な材料に思考が作用する、その活動の仕方や形式だけによって、思考を定義したくなる。しかし、二つの理由が、絶えず彼を反対の方向へ押しやる。(一)思考には固有の仕事がある。その仕事は、提示された材料の、少なくとも関係のあり方を質的に変容させることである。この仕事が進むにつれて、素材は、何らかの仕方で思考自身のものになる。いま見たように、データは、ある規定原理に従って諸部分が互いに結びつく、完全な全体という思考の理想に応じるよう、徐々に組織される。この組織化の進行は、データと思考の形式とは、もともと互いにまったく無関係だという想定を、さかのぼって疑わしくする。(二)素材の側からも、同じような理由が働く。ただ異質で外的なものにすぎないなら、それは思考の働きや影響を受け入れるには、あまりに異質である。第一章で見たように、観念は、ロッツェにとって都合のよい媒介物である。それによって、思考の目的や働きにまったく無関係な、ただ異質なだけの心的印象や出来事から、思考の努力に報いうる事態へと移ることができる。意味としての観念は、心的な印象がただ事実としてあることから、思考自身の内容が持つ、つながりのある価値へと橋を架けるのである。

本章では、観念、すなわち思考の内容という問題を、二つの観点から考察する。第一に、そのような内容が可能かどうか、すなわちロッツェの根本的な前提と両立するかどうか。第二に、その客観的な性格、すなわち妥当性と、それを確かめる方法である。

一 思考に固有の内容が可能かという問題は、意味としての観念の性質を問う問題である。意味は、思考そのものに固有の内容である。ロッツェは、意味を一種の思考の単位、思考が構築する際の石材と、たえず想定している。これまで私たちは、その想定を問い直さずに来た。意味を扱うところで、思考の先行条件、所与、内容に関するロッツェの矛盾は、その帰結を余すところなく現す。彼は明示的に、意味を思考の活動の産物とすると同時に、思考の操作がそこから生じる、省察されていない材料ともするのである。

ジョーンズ教授は、この矛盾を正確に、細部まで余さず論じている。[30] 彼は次のように要約する(九九ページ)。『彼〔ロッツェ〕には、まずすべてを感覚に帰し、その後ですべてを思考に帰し、最後には、それがすでに思考の材料のなかにあったという理由でのみ、思考に帰するという道しか残されていなかった。このシーソー運動は、彼の理論に不可欠である。彼が記述する知識の諸要素は、交互に相手のものを奪うことによってしか存立できない。』思考に与えられる素材は、『思考のいかなる働きもなしに』、物理的な機構の働きだけによって生じると見なされなければならない。この点をロッツェがどれほど強く主張するかは、すでに見た。[31] ところがロッツェは、心的な機構の産物が『一つの思考という明確な形で組み合わされうるためには、それぞれが、論理的な石材となり、印象から観念へと変わるよう、あらかじめ形を整えられなければならない。実際、この思考の最初の働きほど、私たちに馴染み深いものはない。ふだん見過ごすのは、受け継いだ言語のなかですでにそれが遂行されており、そのため、思考に固有の仕事ではなく、思考の自明の前提に属するように見えるからにすぎない』とも述べる。[32] また、判断は『もはや単なる印象ではない観念の組み合わせによってしか成り立たない。そのような観念はどれも、少なくとも前述の単純な形成を経ていなければならない』という(第一巻、二三ページ)。こうした観念は、すでに初歩的な概念、言い換えれば論理的な規定なのだと、ロッツェは続けて主張する。

他の箇所では、どんな思考の活動にも先立つ心的な機構に、明示的に帰していた事態を、思考の予備的な固有の仕事に帰する。ここに論理的な矛盾があることは明白だ。しかし、その明白さのために、この矛盾の意味や、ある意味で避けがたい理由を見失ってはならない。思い出しておこう。印象は、自分自身の意識の状態、自分の心のあり方にすぎない。そのようなものとしては、一つの出来事として、同種のほかの出来事と、ただ事実上の関係を持つだけである。しかし、省察する思考が関わるのは、ある内容や素材と、ほかの内容との関係である。したがって、印象が思考の働く範囲に入るためには、その前に、素材を持たなければならない。どうすれば持てるのか。そこで登場するのが、印象を対象化する、思考の予備的な活動なのである。青は、単なる感覚的な刺激や感じであったものから、一つの質、『青』という意味、青さを与えられる。感覚印象が対象化される。それは、『もはや、私たちが受ける一つの状態としてではなく、それ自体のうちに存在と意味を持ち、私たちがそれを意識するかどうかにかかわらず、それであり続け、同じ意味を持ち続ける何かとして』提示される。『ここに、先に私たちが思考そのものの働きとした活動の、必要な始まりがあることは容易に分かる。それはまだ、共に存在することを、真のつながりに変えるところまでは達していない。その前にまず、個々の印象に、それぞれ独立した妥当性を与えるという仕事をしなければならない。それがなければ、後に、印象の実際のつながりを、単なる共存に対置しても、理解できる意味を何も持たないだろう。』[33]

この対象化は、感覚する状態を、その状態が指し示す感覚可能な素材へと変えるとともに、その素材に『位置』、ある典型的な性格を与える。ただ一般的に対象化するのではなく、特定の種類の客観性を与えるのである。この客観性の種類として、三つが挙げられている。実体的な内容としてのもの、それに付属して依存する内容としてのもの、さまざまな内容を互いに結ぶ能動的な関係としてのものである。要するに、名詞、形容詞、動詞という形で言語に具体化される、意味の類型がある。思考のこの予備的な形成活動によって、省察的、すなわち論理的な思考には、意味の世界が提示される。それは、互いの独立と依存の度合いに応じた秩序に配列され、また、さまざまな構成部分が互いの意味に影響を与え合う、意味の複合体の要素として配列されているのである。[34]

いつものようにロッツェは、材料が思考によって構成されるということと、同じ材料がただ思考に提示されるということとの矛盾を、さらに別の立場によって仲立ちさせる。その立場は、どちらとも非常に異なるため、それぞれと順番に組み合わせると、隔たりを埋めるように見えるのである。彼は、思考が先に行う構成的な仕事を、いま述べたように説明した後、思考の第二の段階を論じる。それは、第一の段階と、第三の段階、すなわち本来の省察的な思考との間にある。第二の活動は、経験された質を系列や集団に配列し、こうして、すでに述べたように、さまざまな事例に、ある種の普遍的なもの、共通する何かを認めることである(五五ページ参照)。一方では、思考の活動のこの第二の段階は、実際には第一の段階と同じだと、明確に述べられる。対象化することはすべて、何かをあるものとして定立することを含む。定立は、ある素材をほかの素材から区別することを含む。そして、その区別は、系列や集団のなかに置くことを含む。そこでは各要素が、違いの程度と性質に関して、ほかのすべてから、測りうる仕方で区別されるのである。私たちは、思考の『実際には切り離せない一つの働き』を、二つの違う側面から考えているにすぎない、といわれる。第一は、対象化する思考が、感じる主体に対置される素材に与える効果であり、第二は、この対象化が、その素材とほかの素材との関係に与える効果である。[35] ところが後には、この二つの操作は、種類も性質も根本から異なるとされる。第一の操作は規定し、形づくるものであり、観念に、『それがなければ論理的精神が観念を受け入れられない形』を与える。ある意味で、それは『自らの法則を対象の素材に命じる』のである。[36] 第二の思考活動は、むしろ受動的で、受け入れるものとされる。それは、すでにそこにあるものを認めるだけである。『思考は、印象の材料のなかに違いを見いだせないところに、違いをつくり出すことはできない。』[37] 『初めの普遍的なものは、見てきたように、直接の感覚においてしか経験できない。それは思考の産物ではなく、思考がすでに存在するものとして見いだす何かである。』[38]

この新たな矛盾は、明白であると同時に、避けがたいものでもある。思考は、現実の経験から出発点と手がかりを得なければ、宙に浮き、意味を扱う際に、勝手気ままに暴走してしまう。だからこそ、思考の活動は、すでに与えられた内容を認めるだけだと強調する必要がある。しかし他方、ロッツェにとって、思考の仕事に先立っては、内容も意味も存在しない。感覚的な刺激の流れから何かを取り出し、それ自体の意味を与えるには、思考の働きが必要なのである。経験の動きのなかで両者が生じる条件という観点から、思考の活動の性質と思考の内容の性質とを、相関するものとして考えることを拒むなら、誰であれ、このジレンマを避けられない。その観点から見れば、解決の原理は十分に明らかだ。すでに見たように(五三ページ)、一つの経験の内部の不和は、ある価値を取り出すことへと導く。それまでは、その経験固有の質的な色合いの一部として、具体的な経験に溶け込んでいた価値である。そして、取り出されたこれらの価値が、再構成された経験の、さらに新しい直接的な価値へと統合されるまでのあいだ、それらを、裸の意味の世界、全体として観念的な領域へと移す。こうした意味は、その後、データを解釈する際の思考の道具となる。それは、提示された状況を定める感覚的な質が、思考にとっての直接の対象となるのと同様である。この両者を互いに関係づけたものが、内容なのである。つまり、所与と、思考の仕方ないし観念とが、結びついたものが思考の対象となる。

この統一に達することが、思考の目指すところ、目標である。まったく同じ価値が、手段として受け取られるか、達成されたものとして受け取られるかに応じて、道具としての観念にも、内容としての観念にもなる。思考の状況を、その進行に沿って次々に切り取ると、どの断面にも、それまでの思考の成果として当然のものと見なせるものが現れる。それは、その先の省察の手続きを定めるものでもある。思考の働きが到達した地点を定め、さらに先の思考を構成する単位として働くものと受け取れば、それは内容である。思考に与えられる材料と、思考自身の『石材』である内容とを、同じものと認めながら対置するロッツェの直観は、確かである。矛盾が生じるのは、ただ、彼の絶対的で歴史を離れた方法が、この同一性と区別との両立を、働きに即した、したがって相対的な意味で解釈することを許さないからなのである。

二 意味、すなわち思考の内容が可能であることを、どう理解すべきかという問題は、いつの間にか、その内容が実際に客観性や妥当性を持つかという問題へと移っていく。ロッツェの難しさは、もう馴染み深くなったものである。思考は独立した活動なのだから、これらの意味は思考に属し、その産物である、と彼の論理が主張を要求するかぎり、観念は単なる観念にすぎない。観念どうしが整合するという、まったく不十分で形式的な基準以外に、客観性を確かめるものは何もない。これに反発してロッツェは、これらの内容は、印象そのもののなかに初めから与えられた素材なのだという考えへと押し戻される。こちらには、思考の操作が実在に即しているかどうかを確かめる、客観的な、あるいは外的な基準があるように見える。ある観念は、経験そのものの素材とどれだけ一致するかに応じて、正しいと確かめられ、あるいは誤りだと分かる。しかし、これでも事情はよくならない。印象と思考とは、初めから独立し、異質であるという前提が強すぎて、思考の結果を印象と比較する道がない。価値の区別を、存在の事実上の違いだけと比較したり、対比したりすることはできないのである(第一巻、二ページ)。客観性の規準、確かめる基準が、あまりに徹底して外的なため、初めの定義によって、思考の領域のまったく外に置かれている。思考は、どうやって、自分自身の内容を、自分のまったく外にあるものと比較できるのだろうか。

あるいは、別の面から考えよう。思考を離れて与えられる経験の材料は、まさに、比較的混沌として、組織されていないものである。それは、心的な出来事の単なる連続にまでなってしまう。科学的探究の最高の成果を、自分自身の感覚的な状態の単なる連続と比較せよという指示に、どんな合理的な意味があるのか。それどころか、まさにその断片性と不確かさのために科学的探究を始めることになった、初めのデータと比較せよという指示にも、どんな意味があるのか。そんなものが、どういう意味で、探究の成果の価値を確かめる基準になりうるのだろうか。これは、意味の体系の妥当性を、あるものと比較して確かめるという話である。ところが、その比較相手の欠陥や誤りこそ、それ自身を正し、置き換えるために、この意味の体系を構築させたものなのだ。以下の探究では、いまや馴染み深いジレンマの両極の間を行き来する、この特徴的なシーソー運動の、いくつかの局面をたどる。すなわち、思考は経験の材料から切り離されており、したがって、その妥当性は思考自身の内輪だけの問題なのか。それとも、思考の客観的な成果は先行する材料のなかにすでに存在し、したがって、思考は不要であるか、あるいは自分の働きを確かめる方法を持たないのか、というジレンマである。

訳注

原文の former と latter の順序は、直前の科学的探究の成果と感覚状態・初期データとの列挙順に機械的に対応させると、議論の向きと合いにくい。参照した一九〇九年版の印刷面も同じ語順である。本文では、直後に説明される「欠陥のある初期材料を、そこから構築した意味体系の検証基準とする」という論旨に従い、指示先を明示した。

一 すでに見たように、ロッツェは、それぞれの意味、あるいは性格を定められた内容を、それ自体として受け取るとき、そこにある独立した妥当性を認める。『青』は、それ自体で、ある妥当性、ある意味を持つ。それは、そのままで意識の対象である。それを媒介した最初の感覚的な刺激がすっかり消えた後も、妥当な観念として、意味として残る。さらに、それは、ほかの人にとっても思考の対象や内容である。したがって、妥当性を示す二重のしるしを持つ。自分の経験の一部分を別の部分と比較するときと、自分の経験全体をほかの人の経験と比較するときとの、両方である。ここにあるのは、形而上学的な実在の問題を、まったく持ち出さない種類の妥当性である(第一巻、一四、一五ページ)。こうしてロッツェは、観念の妥当性を確かめるために、思考自身の領域の外にある実在を参照する必要を、免れたように見える。『接続詞』『参政権』『憲法』『代数上のゼロ』などの言葉は、客観的な妥当性を持つとされる。しかし、どれも、思考を超えた実在を指すと称しているわけではない。この観点を一般化すると、意味の妥当性ないし客観性とは、単に『すべての意識にとって同一である』ことを意味する(第一巻、三ページ)。『思考の世界のある部分が、思考する精神の外にも独立した実在を持つ何かを指すのか、それとも、その世界に含まれるすべてが、それを思考する人々の思考のなかにだけ存在し、しかもすべての人に等しく妥当するのかは、まったくどちらでもよい。』(第一巻、一六ページ。)

ここまでは順調に進むように見える。しかし、すべての思考にとって自己同一的な内容とは何を意味するのか、と問うた瞬間に、難しさが現れる。これは静的に受け取るべきなのか、それとも動的に受け取るべきなのか。つまり、ある内容や意味が、事実上、すべての人の意識に同じように提示されるということなのか。このように等しく現れることが、客観性を保証するのか。それとも、ある意味や内容が妥当性を持つのは、それが、その先の思考の働きを方向づけ、統御し、こうして、さらに新しい意識の内容の形成を方向づけ、統御するかぎりにおいてなのか。

ロッツェの、独立した観念そのものに、ある妥当性や客観性が備わるという考えと両立するのは、前者の解釈だけである。概念が判断に先立つという彼の主張と両立するのも、それだけだ。つまり、省察的な思考には、初めから観念や意味の領域が供給されているという考えと両立するのは、それだけなのである。しかし、この信念を保つことは不可能だ。ロッツェによれば、思考を観念や概念から判断や推論へと駆り立てる刺激がある。その刺激は、実際には、初めの独立した意味や内容が、妥当性や客観性を欠いていることにほかならない。独立した意味とは、まさしく、妥当性をまだ備えず、単なる観念、『思いつき』、空想、よくても、いずれ妥当だと分かるかもしれない推測にすぎないものである。もちろん、これは、何かを指し示す可能性があることを示している。それは、その先で実際に使われることによって、価値を定められるべき立場なのである。『青』が、ただ切り離され、浮遊する意味、文脈のない観念にすぎないなら、ある人の意識のなかで絶えず思い浮かべられたからといって、妥当性が増すわけではない。また、すべての人の意識において、同時に、注意深く持続的に見つめる対象にされたからといって、妥当になるわけでもない。それだけでよいのなら、キマイラもケンタウロスも、ほかのどんな主観的な構成物も、たやすく妥当性を得ることができるだろう。『クリスチャン・サイエンス』は、まさにこの考えを、その哲学の基礎にしている。

端的にいえば、『青』『参政権』『接続詞』といった例で、ロッツェは、単に独立し、切り離された意味ではなく、宇宙に関わる経験の領域、あるいは互いを規定する社会的な活動の領域を指す事例を、本能的に選んでいるのである。社会的な活動を指すことには、物理的な事柄を指すときと同じような、思考が自分を超えて指し示すことは含まれず、したがって、意味を超えた実在を指すという形而上学的な問題とは、まったく無縁でいられる。この考えは、人間の思考に居場所を得たもののなかでも、ひときわ奇妙である。物理的なものを指すことと、社会的なものを指すこととは、両方とも形而上学的なのか、どちらもそうではないのかの、いずれかである。どちらもそうでないのなら、それは、意味が、固有の検証基準を伴う特定の状況に生まれ、そこで働くからなのである(一七ページ参照)。ロッツェの考えが可能になるのは、対象とは、経験の仕組みのなかで規定する働きをするものだという本来の定義に代えて、多くの人にとっての思考の内容、あるいはすべての意識にとって事実上そこにある何か、という対象の考えを、無意識に置き換えるからにすぎない。多くの人に共通する思考内容として対象を捉える見方は、ロッツェの思考の捉え方とは両立するが、妥当性や意図については何も定めない。経験のなかで規定する働きを対象の基準とする見方は、あらゆる具体的な思考で、実験的に用いられる。しかし、それを認めれば、ロッツェのあらゆる想定を根本から変えなければならない。接続詞、参政権、あるいは青についてのある観念が妥当なのは、たまたま皆がそれを抱くからではなく、経験のある動きのなかで、統御や方向づけの要因を表すからである。観念の妥当性を確かめる基準[39] は、比較的衝突の多い経験から、比較的統合された経験への移行を実現する際に、その観念が働き、手段として役立つことである。もしロッツェの見解が正しいなら、一度妥当とされた『青』は、いつまでも妥当だろう。特定の条件を満たすには、実際には赤や緑が求められるときでさえ、そうなる。つまり、妥当性がつねに関わるのは、つながりを主張する際の働きの正しさや適切さであって、切り離され、眺められている意味ではないのである。

訳注

原文は『the conjunction of the franchise, or of blue』となっており、conjunction の後は or ではなく of である。参照した一九〇九年版の印刷面も同じ。直前で conjunction、franchise、blue がそれぞれ別の例として列挙されていることから、本文では接続詞・参政権・青という並列の例として読んだ。

もう一度、思考に真に先行する状況を考えよう。それは、現在のあり方に関しては緊張をはらみ、構造をなす要素に関しては秩序を失っている。しかし、過去の統一された経験から生じ、全体として、あるいはどの局面においても等しく、構成の調和した経験を取り戻そうと努めているという点では、組織されている。このことに立ち戻れば、ある内容が切り離され、現実の、あるいは可能な意味や指示として保たれることは、容易に理解できる。現実のものか可能なものかは、過去に関わるものとして見るか、未来に関わるものとして見るかによる。このように切り離された内容が、経験全体を見直す際に役立ち、経験のまとまりを保つ再構成のための観点や方法を与えることも理解できる。意味の妥当性が、単なる意味ではない何か、観念そのものを超えた何かとの関係で測られることも理解できる。その何かとは、思考が媒介者として入り込む、一つの経験の再構成である。日常の経験でも科学的探究でも、知覚の材料にも、考えられた関係にも、すなわち事実にも法則にも、等しく客観性が認められるという、一見逆説的な事態がある。しかし、それは特別な難しさをもたらさない。客観性の基準は、どこでも同じだと分かるからである。何であれ、衝突を媒介として、経験が一つの統一された形から別の統一された形へと再構成される、その移行の動きを統御するかぎりで、客観的なのである。感覚知覚の対象であれ、概念の対象であれ、まず対象が存在し、後から何らかの仕方で、この統御の影響力を振るうのではない。統御の働きを果たすからこそ、客観的なものとなるのである。それは探究の行為だけを統御するかもしれない。ただ疑いを起こすだけかもしれない。しかし、それも、その後の経験を方向づけることであり、そのかぎりで客観性のしるしである。

思考の内容、すなわち意味が、それ自身の妥当性を持つという点については、以上でよいだろう。孤立したもの、与えられたもの、静止したものとして持つのではない。動的な関わりにおいて、その先の経験の動きを定めるために使われることによって持つのである。言い換えれば、『意味』や観念そのものは、統一された経験が発展するなかで、ある役割を果たすために選び出され、組み立てられている。したがって、それが、果たすつもりだったこと、果たすと称することを、実際に果たすかどうかを見いだす以外に、確かめる方法はないのである。[40]

二 ロッツェは、この妥当性の問題の、さらに別の面と格闘しなければならない。全体としての態度、活動、機能としての思考の客観性は、何によって成り立つのか。彼自身の説明によれば、意味、すなわち妥当な観念も、結局は論理的な思考のための石材にすぎない。したがって、妥当性は、それらが独立して存在することではなく、互いを指し示し合う関係の問題となる。思考とは、この相互の関係を設ける過程である。散らばった、互いに独立したさまざまな石材を、筋の通った思考の体系へと組み上げる過程なのである。判断のさまざまな種類や、推論のさまざまな形式に表れる、思考の諸形式には、どのような妥当性があるのか。定言判断、仮言判断、選言判断。帰納による推論、類推による推論、数学的な等式による推論。分類、説明の理論。これらはすべて、省察の過程である。それによって、思考が出発時に与えられている、断片的な意味や観念が、個別化された一つの全体のなかで互いに結びつけられる。このような過程の妥当性について、何といえばよいのだろうか。

一つの点について、ロッツェはきわめて明確である。これらのさまざまな論理的な行為は、妥当な世界の構成に、実際に入り込むわけではない。論理的な形式そのものが保たれるのは、思考する過程においてだけである。妥当な真理の世界が、一連のねじれや展開を経ていくわけではない。私たち自身の思考の道筋には、一歩ずつの前進と踏み外し、試み、撤回、引き返しの連続がある。しかし、真理の世界が、それと並行するような動きを、何らかの仕方でたどるわけではないのである。[41]

ロッツェは、客観的な妥当性を持つのは、思考の過程が行き着く思考内容だけだという点を、明言している。思考の行為は、『まったく単に、私たち自身の精神の内的な動きであり、私たちの本性の構成と、世界のなかでの位置とのために、私たちに必要となるもの』なのである(第二巻、二七九ページ)。

ここで妥当性の問題は、思考の行為と、その行為自身の産物との関係の問題として現れる。ロッツェは、解決のために二つの比喩を用いる。一つは建築作業から、もう一つは旅から取ったものである。建物を建てるには、ある道具や、本体とは別の構造物、作業台、足場などが、どうしても必要になる。それらは最終的な建物を完成させるために不可欠だが、建物そのものの一部になるわけではない。その活動は、産物との関係で、構成する価値は持たなくても、手段としての価値を持つ。同様に、山頂からの眺めを得るには、その眺めが目標なのだが、旅人は、曲がりくねった道に沿って、予備的な移動を重ねなければならない。これらもまた、先に満たすべき必要条件ではあるが、到達して得られた眺めの一部を構成するわけではない。

内容としての思考から区別された、活動としての思考という問題は、ここで十分に考察するには、あまりに大きな問いを開く。しかし幸い、これまでの議論によって、いま争点となっているところに絞ることができる。それは、もう一度いえば、思考の活動を、先行条件にまったく外から付け加わり、データに外から向けられる独立した働きと見なすべきか、という問いである。それとも、それは、経験の進行が受ける変容の、一つの局面にすぎないのか。実践的な経験でも、芸術的な経験でも、人と人との情緒的な経験でも、どのような経験でも、それが緊張した状態に入ると、内容の調和を保つことが問題となり、そのため目標となる。その際の変容の一局面なのか、という問いである。後者であれば、思考の活動は手段であり、その価値は、活動自身の相次ぐ状態そのものではなく、それが結着する成果にある、という命題に、十分に理解できる意味を与えられる。しかし、独立した先行条件の後に何らかの仕方で起こり、独立した素材に働きかけ、最後に独立した成果をもたらす、独立した活動として思考を捉えるなら、奇跡をもう一つ増やすだけである。

私は、思考が徹底して手段としての性格を持つことを疑ってはいない。問題はそこではなく、器官や道具の性質をどう解釈するかにある。ロッツェの立場の難点は、手段と目的とは、ただ互いに外的なだけでありながら、必然的に互いに依存する、という想定へと私たちを追い込むところにある。このような立場は、どこに現れても、徹底した自己矛盾を含むため、そこへ導いた前提を、批判的に考え直さなければならない。ロッツェは、二つの思考の捉え方の間を揺れ動く。一つは、外的な意味での道具としての思考である。完成した建物には何の関わりも持たない、単なる足場としての思考だ。もう一つは、内在的な道具としての思考である。それは、建てる作業そのものの不可欠な一部をなす足場であり、足場とともに、足場を通じてこそ効果的に進められる建築活動のために設けられる。足場を単なる道具と見なせるのは、前者の場合だけである。後者の場合、外にある足場自体が、手段なのではない。実際の道具は、建物を建てる行為であり、この行為が、足場を自分自身の構成部分として含んでいるのである。建てる仕事は、目的のための単なる手段として、完成した建物に対置されるものではない。それは、目的を進行中のものとして、歴史的に、時間の長さに沿って見たものなのである。さらに、足場は、建てる過程の外にある手段ではなく、その有機的な一部分である。英語の building が、建てる過程と、完成した建物との、二重の意味を持つのは、単なる言葉の偶然ではない。思考の成果とは、思考の活動が、自らの完成まで進められたものである。他方、その活動とは、成果がまだ実現しきらない任意の段階で捉えられたもの、したがって、なお進行し続けているものなのである。

この見方を、すぐに無理なく受け入れることを妨げるのは、思考を純粋に形式的なものとする考えだけである。経験論者が、思考に外から与えられる材料を強調すればするほど、思考を、経験上の事柄の実際の構成から切り離された独立の活動とする合理論者を、かえって助けることになる。このことに経験論者が気づかないのは不思議だ。思考は、ある感覚や心像や対象に作用する、単なる形式的な活動だという命題は、まったく意味をなさない。思考を連合の過程と同一視する心理学の見方のほうが、はるかに真実に近い。実際、それは真実へ向かっている。必要なのは、連合するのは内容や素材や意味であって、ただ存在や出来事としての観念ではないと認めることである。そして、思考と呼ぶ種類の連合は、気ままな空想や夢想の連合とは違い、目的に照らした統御の要素を持つと認めることである。この目的が、連合する内容の適切さを定め、したがって、何を選ぶかを定める。そう認めれば、思考が、経験の現実の内容を互いに関係づけながら再構成する動きに、どれほど徹底してほかならないかが分かる。その動きは、衝突を抱えた経験を再び統合するためのものなのである。

妥当な結論に達する過程で、道具と材料とが互いに適合することに、奇跡はない。もし両者が、その起源において互いにも成果にも外的であったなら、なるほど、すべては解けない問題となるだろう。あまりに解けないため、もし本当にそういう状態であったなら、問題があるということさえ、私たちは知りえないほどである。しかし実際には、材料も道具も、望まれる目的、すなわち調和した経験を保つことを、無駄なく効果的に実現するために確保され、定められている。建築者は、自分の建築には、建築の道具も、建築の材料も必要だと見いだしてきた。それぞれは、全体の働きのなかで適切に使えるように、ゆっくりと発展してきた。そして、その発展は、あらゆる段階で、対応する相手に照らして確かめられてきた。大工は、漠然と建築について考え、次に漠然と道具をつくったのではない。建物に使われる材料に即して建築を考え、その材料を通じて、役立つ道具の考察へと進んだのである。生命は、どんなことがあっても、自らの過程の統一を保とうとする。経験は、自分自身であり続けることを、衝突を通じてさえ、また衝突を手段としてさえ、まとまりを確保することを求めるのである。

これは形式の問題ではなく、実際に経験に入り込む素材や価値を、どう位置づけ、関係づけるかという問題である。そして、この問題に応じて、材料を最も効果的に扱い、組織するために、まさにその心的な態度を取り、その知的な操作を用いることになる。思考とは、個々の客観的な内容を調整することを通じて、目的に適応することなのである。

考える人は、大工と同じく、手順のどの段階でも、直面する個別の状況によって、刺激されると同時に、確かめられ、制約される。ある人が、新しい家がほしいという段階にいるとしよう。そのときの材料は、利用できる資源、労働の価格、建築費、家族の状況と必要、職業などである。道具は、紙と鉛筆とコンパスであり、場合によっては、信用を得る手段としての銀行などでもある。次に、工事が始まり、基礎が築かれる。この段階もまた、それに固有の材料と道具を定める。さらに、建物がほぼ住める状態になる。具体的な作業は、足場を撤去し、敷地を片づけ、部屋に家具を入れ、内装を整えることなどになる。この個別の作業もまた、それにふさわしく、関係のある材料と道具を定める。いつ、どのような仕方で、それらを使い始め、使うのをやめるかを定めるのである。論理学説も、経験することの循環が展開していく各段階に密着し、その段階に内在する方向づけと制約をよく見るなら、実際の省察と同じくらいうまく進むだろう。この、あるいはあの個別の思考過程の妥当性から切り離して、思考過程一般の妥当性を問題にするのは、思考を、その歴史的な位置と、素材に即した文脈とから孤立させたときだけなのである。

三 しかしロッツェは、自分自身の立場からしても、まだ妥当性の問題を片づけてはいない。足元の地面が、またしても動く。もはや、思考がそれを出発点とするとされる観念や意味の妥当性ではない。思考の過程が、その産物との関係で持つ妥当性でもない。いま問われるのは、産物の妥当性なのである。結局、最終的な意味、すなわち論理的な観念が、徹底して筋が通り、組織されているとしよう。すべての意識にとって、そのままで対象となるとしよう。それでも、また問いが起こる。最も筋が通り、完全な観念でさえ、その妥当性とは何なのか。この問いは起こり、どうしても退かない。私たちはキマイラの考えを組み直して、独立した観念ではなく、ギリシア神話の体系の一部にすることができる。独立した神話でなくなり、体系化された神話の一要素になれば、妥当性が増したのだろうか。もともと神話であり、なお神話のままである。神話は大きくなっても、それによって妥当性を得るわけではない。最も慎重で、最も広範な科学的探究の産物である観念にも、同じことが当てはまらないと、どうして分かるのか。ここで再び、その内容は、すべての意識にとって自己同一的な対象だといっても、何の証明にもならない。幻覚の内容は、社会に広く伝わるほど価値が高まるわけではないからだ。あるいは、そのようにいうことは、まだ何の結論にも達しておらず、仮説を考慮しているだけだと示すことになる。社会的な妥当性は、単に内容が共通していることではないからである。それは、判断の一致によって方向づけられた行為を通じて、共に判断された社会的経験への参加を確保することであり、その行為は、まさにその参加へと向けられているのである。

ロッツェによれば、最終的な産物も、やはり思考である。ところがロッツェは、思考はどんな形であっても、外部の実在によって方向づけられ、その実在へと向けられる、という考えを捨てられない。この亡霊が、最後まで彼につきまとう。結局、理想的に完全で妥当な思考でさえ、どうして実在に適用され、実在を指し示すのか。その本当の主題は、なお思考自身の外にある。最後にロッツェは、この問いを、論理学ではなく形而上学の問題と見なすことによってしか、処理できない(第二巻、二八一、二八二ページ)。言い換えれば、論理的には、終わりに来ても、初めとまったく同じところにいる。観念の領域、観念しかない領域にいるのである。ただし、これらの観念を、それらを超えた実在に結びつけなければならないという意識が加わる。その実在には、観念はまったく到達できず、観念がどんな影響を及ぼしても届かず、観念の成果と比較するいかなる可能性も超えている。ロッツェはいう。『ここに含まれる循環を認めることから、身を引こうとしても無駄である。……外界について私たちが知るすべては、私たちの内にある外界の観念に依存する。』(第二巻、一八五ページ。)『したがって、私たちに直接与えられる唯一の材料をなすのは、私たちの内にある、この多様な観念の世界である。』(第二巻、一八六ページ。)それが私たちに与えられる唯一の材料であるなら、思考が最後に行き着ける材料も、それだけである。私たちの内にしかない観念を通じて外界を知ると語ることは、それ自体に自己矛盾を含んだことを語ることである。外界と私たちの観念とが出会える、共通の場はない。言い換えれば、思考の材料と、思考の働きや目的とが、それぞれ独立して切り離されているという初めの含意が、必然的に、主観的観念論の形而上学へと私たちを導く。そこに、その向こうに未知の実在があるという信念が付け加わる。しかも、その知りえないものが、単に主観的なものとされる私たちの観念の価値を確かめる、究極の基準とされる。心的な出来事の主観性が、最後には意味、すなわち観念上の対象にまで及ぶ。その出来事を『それ自体として』存在するものとしたため、思考もまた『それ自体として』存在するものになる。そして、あれこれ手を尽くした末に、結局、初めと同じところにいる。切り離された二つの異質なものがあり、一方には意味があるが存在はなく、他方には存在があるが意味はないのである。

この循環を完成させる、ロッツェの矛盾のもう一方の面は、彼の初めの命題に立ち戻れば明らかになる。初めに彼は、印象、すなわち観念の要素が生じ、結びつくこと自体を、すでに存在する物の世界が及ぼす作用と見なさざるをえなかった(三一ページ参照)。思考の独立した世界を立てながら、その起源でも終わりでも、思考が、絶対的な必然性をもって自分の外の世界を指すことを、認めなければならないのである。思考が初めと終わりに自分を超えて指し示すことには、歴史的な意味がある。それは、経験が発展する劇のなかで、特定の生成の場所と、特定の成就の地点を示している。このように受け取ることを頑固に拒むためにだけ、ロッツェは、この二重の客観的な指示を、純粋に形而上学的なものへと曲げざるをえないのである。

さらにロッツェはいう(第二巻、一九一ページ)。経験の個々の部分がどれだけ真であるかは、思考によって判断したとき、経験のほかの部分と調和しているかを問うことで測られる。また、観念の世界全体を、それ自身も観念にならないかぎり、こちらにとって存在しない実在と比較しようとしても、意味はないという。こうしてロッツェは、初めから率直に出発すればよかった地点に行き着くのである。[43] 彼が徹底した懐疑論を免れるのは、出来合いの観念そのものが、それとは別に独立する材料そのものと一致しなければならないという、懐疑論の明示的な前提を、無意味だと主張することによってだけである。彼は、思考の仕事を、経験のさまざまな部分を互いに調和させることと、正しく定義する。しかし、この定義が意味を持つのは、次の事実との関係においてだけである。経験は、絶えず自らを、つながりのある意味の全体へと統合していく。その全体は、内部の分裂を通り抜けることで、意義を深める。この分裂のなかでは、衝突によって、ある内容が部分的なものとなり、そのため、対象として意識されるようになる。この場合、思考を確かめる基準は、実際にもたらされた経験の調和や統一である。この意味で、実在を確かめる基準は、思考という働きそのものを超えている。それは、もう一方の端で、思考が、省察的ではない性質の状況から生じるのと同様である。この『前』と『向こう』とを、歴史的な意味で解釈してみよう。経験のなかの一つの働きとしての思考が、ほかの働きとの関係において占める位置、演じる役割の問題として解釈するのである。そうすれば、思考の中間的で手段としての性格も、その存在を、省察されていない先行条件に依存し、その最終的な妥当性の検証を、後に続く経験に依存することも、意味のある、必然的なものとなる。しかし、それらを文脈から離して一般的に受け取るなら、どうしようもなく複雑で、同じところを巡る形而上学の深みへと、私たちは落ち込むのである。

第五章

ボザンケの判断論の批判的研究[44]

ボザンケの判断論は、同種のすべての判断論と同じく、実在の性質と、思考と実在との関係という、形而上学的な問題を必然的に含んでいる。判断は、知識を得るための働きである。この命題は、誰もが受け入れるだろう。しかし、知識それ自体が、思考と実在との何らかの関係である。したがって、知識を得る過程の性質について論理学者が採る見方は、実在の性質について、その人が形而上学上どのような前提を持つかによって条件づけられる。同時に、ある形而上学的な立場から展開された判断論が、その立場の妥当性を確かめるものとなることも、また真実である。本論では、ボザンケの判断論が、実在の性質についての彼の見方から、どのように展開されるかを示そう。そして、その理論が、それを支える前提を裏づけるような、知識の過程の説明に成功しているかを問いたい。

ボザンケは、判断を『意味のある観念によって実在を規定し、そうすることによって、その観念の実在性を肯定する知的な働き』と定義する(一〇四ページ)。[45] この定義の形が、彼の根本的な問題の性質を示している。一方には、私たちがいま適用している思考や観念の外に、それらとは独立して存在すると考えなければならない、実在の世界がある。他方には、実在に適用できるか、実在の性質をそれによって定められるかによって価値を測られる、観念の世界がある。判断は、この二つの世界を結びつける働きである。もし判断が、ある一群の観念を、別の一群の観念と関係づけるだけなら、純粋に仮定的な知識以上のものは決して得られない。その知識が現実の世界に適用できるかどうかは、いつまでも不確かなままだろう。それは、知識は不可能だということを意味する。しかし、この結論は、知識が存在することによって否定されるように見える。したがって、ボザンケがいうように、論理学者は、判断の行為が、つねにその行為自体を超え、それとは独立する実在を指すことを、判断の本質的な要件と見なさなければならない(一〇四ページ)。こうして中心となる問題は、観念によって規定されうる実在とは、どんな性質のものなのか、また、実在すると肯定されうる観念とは、どんな性質のものなのかを理解することになる。現実の世界は、どのように経験のなかに表されるのか。そして、その表現が得られたとき、それが正しいという保証はどこにあるのか。

この問題の立て方は、ボザンケの判断論を生み出す、実在の性質についての見方を示している。彼にとって現実の世界は、それを知る過程とは、まったく独立して存在する世界である。現実の世界は、知られるべきものとしてそこにあり、私たちがそれについて得る知識によって、いささかも変化しない。思考の仕事は、実在の世界を表し、それに対応する、観念の世界を築くことである。この対応が完全で、申し分ないものになるほど、私たちの知識の蓄えは増す。

判断の言葉に置き換えれば、この、観念が実在を表すという見方は、判断の主語がつねに実在でなければならず、述語は観念であるということになる。しかし、どんな普遍判断でも、あるいは普通の知覚判断でも、その内容を調べると、判断に現れる主語は、明らかに実在そのものではない。ただしここで実在とは、いかなる意味でも思考の過程によって構成されないものをいう。私が『木は緑色だ』というとき、主語である木を、思考の過程に、出来合いのものとして与えられる実在の一片と見なすことはできない。木を知覚し、ほかの対象から区別し、一つの観念を適用するためにそれを取り出せるということは、明らかに、それ以前の判断の長い積み重ねを含んでいる。『木』という内容自体、観念的なのである。ボザンケは力強くこう述べる。『感覚や初歩的な知覚が意識のなかにあるなら、そして、そうでなければ論理学では扱わないのだが、それはすでに思考の形式を帯びている。』(三三ページ。)では、どうしてそれが判断の主語になれるのか。ボザンケは、判断の本当の主語は、命題に現れる文法上の主語ではなく、実在そのものだということで、この問題を解く。より複雑な判断の形式では、実在のどの部分を指しているかを示すため、明確な観念が導入される。そのため、実在を指すことは、覆い隠される(七八、七九ページ)。しかし、知られている最も単純な種類の判断、すなわち質的な知覚判断では、実在を指すことが、判断自体のなかに現れている。したがって、思考と実在との関係や、判断の諸要素の相互関係を最も容易に見て取れるのは、さまざまな部分が目の前に露わになっている、この初歩的な判断の形式を考察するときなのである。

ボザンケは、それを次のように説明する。

ある家を指して『あれは私の家だ』というとき、この判断の行為において、指示語によって伝えられる指示が不可欠なことは明らかである。『私の家』という意味のある観念は、私の心のなかの、別の一般的な意味のある観念について肯定されるのではない。知覚において私の前に現れることで、ほかでもないそれとして定まる何かについて、肯定されるのである。『あれは私の家だ』と判断するとき、私は、ある風景のなかにある家の、いまの感覚知覚に、『わが家』という観念上の内容ないし意味を付け加え、それを広げる。しかも、そうすることで、観念上の内容は、現に知覚して目の前にあるものと、いわば同じ一枚の織物をなしていると宣言する。つまり、観念の意味、あるいは意味として捉えられた観念は、私が知覚において捉えるものの、現実の性質なのだと肯定するのである。

同じ説明は、どんな知覚判断にも当てはまる。皿の上の白い物を見て『それはパンだ』と判断するとき、私は、心のなかの『パン』という象徴的な観念を構成する指示内容、すなわち一般的な意味が、現在の知覚のなかで、指示語『これ』によって指し示そうとする、その場所、その一点の、現実の性質だと肯定する。この行為は、一つの性質を肯定することで、与えられているが、まだ明確に定められていない実在を規定する。同時に、明確な性質を、それまで未規定だった実在に結びつけることで、その性質の実在性を肯定する。私にとって実在は、現在の感覚知覚と、それに伴う、自分自身が感覚する存在であるという直接の感覚とにおいて、与えられるのである。(七六、七七ページ。)

また、知覚判断の一般的な特徴について、次のようにも述べている。

感覚する自己に接する何かが、そこにある。そして、そのように接しているために、実在の性格を持つ。さらに、その実在に、名前によって象徴できるような何らかの意味を結びつけることで、その性質が定められるのである。(七七ページ。)

この見方によれば、私たちが実在と接する点、実在が思考の過程に入ってくる場所は、最も単純で、最も漠然とした知覚判断に見いだされる。私たちは、原初的な経験の、ただの未規定な『これ』において、実在に出会う。しかし、未規定な『これ』についての初歩的な判断は、どれも、孤立した経験の一片である。それぞれの『これ』が与えられるのは、せいぜい、切り離された実在の一片だけだろう。そこで、そうした実在の断片を継ぎ合わせて、どうやって現実の世界をつくり上げられるのか、という次の問題に直面する。ボザンケ自身の言葉によれば、その説明はこうである。

明確に組織された体系としての現実の世界は、私にとって、この現在の感覚と自己の感覚とを、判断によって拡張したものである。そして、そのような拡張を実現し、支えることが、判断の本質なのである。(七七ページ。)

また、こうも述べている。

どんな知覚判断でも、その主語は、知覚する自己に感覚的に接する、与えられたある場所、ある一点である。しかし、すべての実在は連続しているため、主語は、その与えられた場所や一点だけではない。この、あるいはあの提示されたもののなかに、現実の世界を閉じ込めることはできない。現在の知覚のなかの一点を定義し、その性質を定めるとき、そのどれもが、現在の知覚と連続する現実の世界について、肯定されるのである。知覚判断の究極の主語は、全体としての現実の世界であり、判断するときに私たちが性質や特徴を肯定するのは、この世界についてなのである。(七八ページ。)

この問題は、ブラッドリーが判断の主語を扱う際に格闘するものと同じであり、その解決も同じである。この点については、ブラッドリーの扱いのほうが、やや明示的かもしれない。彼もボザンケと同じく、判断の主語は、観念ではなく実在そのものでなければならないという命題から出発する。もし観念なら、判断が与えられるのは観念の結合だけであり、観念の結合は、いつまでも普遍的で仮定的なままだからである。それは、実在を指すために必要な、唯一性、個別性を決して獲得できない。唯一性は、私たちが実在と接するところにしか見いだせない。しかし、実在との接触は、いったいどこで起きるのか。ブラッドリーは、単純な感覚の場合でさえ、実在を与えるのは内容ではありえないと認めている。感覚の内容は、私の意識のなかにあるものであり、私の意識のなかにあるからこそ、現に示す形を持っている。実在とは、まさしく、それ自体は感覚ではなく、私の意識のなかにはありえない何かなのである。私が『これは白い』というなら、『これ』には白さの感覚という内容がある。しかし、白さの感覚は実在ではない。この経験が実在の確信を伴うのは、その内容が実在だからではなく、『感覚的な提示において、私が現実の世界と直接出会うこと』だからである。[46] これを明確にするため、ブラッドリーは、『これ』と『これとしての性質』とを区別する。どんなに単純な経験にも、内容、すなわち『これとしての性質』がある。しかし、それ自体は唯一ではない。内容としてだけ考えれば、不特定多数の存在に適用できる。言い換えれば、それは観念である。他方、どの経験にも、唯一でありながら内容ではない『これ』がある。それは、経験に唯一性を与えるが、それ以外には何も与えない、存在の単なるしるしである。『これとしての性質』は内容の側に、『これ』は存在の側に属する。ボザンケが、先に引用した箇所で、『私にとって実在は、現在の感覚知覚と、それに伴う、自分自身が感覚する存在であるという直接の感覚とにおいて、与えられる』と述べるとき、念頭に置いているのは、まさにこの区別である。また、『感覚する自己に接する何かが、そこにある。そして、そのように接しているために、実在の性格を持つ』というときも同じだ。序論では、この点をもう少し明示的に述べている。個人の現在の知覚は、なるほど実在そのものではないが、その人が実在そのものに接する、現在の接点なのである(三ページ)。

しかし、経験の内容と、その存在とのこの区別によって、私たちがどう実在を知るかという問題は解けたのだろうか。ボザンケが実在を知るというとき、それは、実在を正確に再現する観念を持つことを意味する。もし、経験の内容が実在を与えるといえる点を、どこにも見いだせないなら、彼自身の説明に従って、私たちの観念が実在を正確に表しているという確信を、どうすれば得られるのかは、依然としてまったく明らかでない。実在の個々の断片をどう知るかという問題を超えて、全体としての実在をどう知るかと問うと、事情はさらに悪くなる。ブラッドリーとボザンケの両者が示す説明は、感覚知覚という幕の覗き穴から、その存在をかいま見る実在の一片を、判断によって拡張し、こうして実在の組織された体系を築く、というものである。先に引用した箇所で、ボザンケは、すべての実在は連続しているから、判断の本当の主語は、感覚知覚に与えられる単なる場所や一点ではなく、現実の世界全体でなければならないという。しかし、実在が連続しており、現実の世界が組織された体系であることを、彼はどうして知るのか。実在についての知識は、判断を通じてしか得られず、判断が実在と接触させてくれるのは、孤立した点においてだけである。実在は連続する全体だと述べるとき、彼は、自分の判断論によっては正当化できない、形而上学的な前提に基づいている。その理論に基づいて、実在について維持できる唯一の主張は、何らかの実在が存在するということだけである。しかし、その同じ理論は、この実在について、その存在という裸の事実以上のことは決して知りえないという確信にも、同じだけの根拠を与えてしまう。しかも、実在が存在するという裸の事実は、感覚知覚に伴う、自分自身が感覚する存在だという感じの形でしか、私たちに与えられない。しかし、感覚知覚という幕の向こうのどこかに実在があるという確信だけがあり、仮にその確信を疑わずに済むとしても、それ以上のことは、どうやっても決して知りえないという確信が伴うなら、それは実際上、知識の可能性の否定に等しいのである。[47]

知識の可能性を否定することが、これらの前提からの論理的な帰結に見える。だが、それはボザンケが達する結論ではない。著作の冒頭で、彼は、私たちが考察してきた根本的な問いを、次のように立てる。『知識を、体系的な機能、あるいは機能の体系として分析することは、一方の人間の知性と、他方の事実ないし実在との間にある、真理を構成すると思われる関係を、どのように説明するのか。』その答えはこうである。『この難問への答えは一つしかない。もし実在という対象の素材が、本当に思考の体系の外にあるなら、私たちの分析だけでなく、思考そのものも実在を捉えられないだろう。』(二、三ページ。)この言葉は、知識の内容の外にある実在と、知られた現実の世界との間の溝に、橋を架けることは不可能だと、明示的に認めている。そして、ボザンケの判断の主語の扱いに含まれるジレンマを、私たちの前に示す。一方で、判断の主語は、私の思考の領域の外にあるのでなければならない。そうでなければ、判断は、私の観念どうしの関係を設けるだけで、現実の世界についての知識を与えないだろう。他方で、判断の主語は、私の思考の領域のなかにあるのでなければならない。そうでなければ、それについて何も主張できず、判断も、認識もできないだろう。このジレンマの一方の極を、彼が強調することは、すでに示した。残るのは、もう一方の極も彼が認めていることを示し、両者の間に本当の和解を見いだしているかどうかを確かめることである。

ボザンケは、知識とその内容である真理を扱う序論の節を、次の段落で締めくくっている。

このように、一人ひとりにとっての現実の世界は、まさしくその人の世界である。それは、その人の現在の知覚を拡張し、規定したものである。この知覚は、その人にとって、なるほど実在そのものではないが、実在そのものとの接点である。したがって、これから取り組むべき、判断の論理的な主語についての探究では、主語が、どのように移り、縮み、広がろうと、結局はつねに、この規定された実在の、大小いずれかの要素だと分かるだろう。この実在は、個人が、自分自身の知覚経験を通じて確信する世界に、意味のある観念を同一化することで構築したものである。普通の判断を分析すると、私が判断するということと、私にとっての現実の世界、私の現実の世界が、自らを拡張し、あるいはその組織された広がりを保つということとは、究極的には同じである。これこそ、判断をほかから区別する特徴である、肯定ないし言明の行為に、主語と述定との区別が含まれる、その究極のつながりなのである。(三、四ページ。)

ここでは、判断の主語は、個人が、自分自身の知覚経験を通じて確信する世界に、意味のある観念を同一化することによって構築した実在の、一要素として現れる。しかし、判断の主語について、先に強調されたまさにその点は、主語は、個人が構築したものではなく、そうであってはならないということだった。判断の主語は実在でなければならず、実在は、観念によって規定されるにしても、観念でできているわけではない。個人は、自分の知覚経験を通じて確信する世界に、意味のある観念を同一化することで、自分の現実の世界を構築したのだ、と説明しても、事情は改善しない。すでに見たように、『個人の知覚経験』は、結局、それ以前につくられた同様の心的な構成物にすぎず、そこに結びつけても何も得られないか、さもなければ、何らかの実在の存在は保証するとされても、それが何であるかは何も保証しない、接触の単なる衝撃を再び意味するかの、いずれかだからである。存在するということと、それが何であるか、『これ』と『これとしての性質』とは、なお切り離されたままである。ボザンケが、ある個人にとっての現実の世界を語るとき、その個人にとっての現実の世界と、それ自体としての現実の世界との間に、どのような関係がありうるのかは、まったく分からない。また、自分にとっての現実の世界が、それ自体としての現実の世界を表しているという確信を、個人がどうして得られるのかも、まったく分からないままなのである。

この対立する見方を和解させようとする、もう一つの試みも、私たちを納得させない。次の箇所である。

明確に組織された体系としての現実の世界は、私にとって、この現在の感覚と自己の感覚とを、判断によって拡張したものである。そして、そのような拡張を実現し、支えることが、判断の本質である。実在の属性だと宣言される内容を持つ観念が、知覚に与えられたものの内側に入るように見えるかどうかは、本質的な違いをもたらさない。与えられたものと、その拡張との間に境界を引こうとしても無駄だということが、後に分かるだろう。そうしようとした瞬間、私たちは道を誤る。与えられたものと、その拡張との違いは、絶対的ではなく相対的である。両者は連続している。拡張と呼ぶ比喩は、いわゆる『与えられたもの』も、それを拡張するものと同じくらいつくられたものだという事実を、私たちから隠してしまう。個人の現実の世界の、絶えず移る中心をなし、その中心から、実在の体系が判断によって受けるあらゆる拡張へと広がっていくものは、固定された内容の所与ではない。感覚知覚と直接接しているという、性格と性質なのである。(七七ページ。)

この箇所で『与えられたもの』というとき、彼が意味するのは、明らかに感覚経験の内容、『これとしての性質』、何であるかということである。彼自身がいうように、それは、それを拡張するものと同じ素材でできている。与えられたものも、それを拡張するものも、ボザンケの実在の解釈に従えば、実在的ではないという意味で、つくられたものである。どちらも観念なのだ。しかし、これをすべて認めるなら、知識の可能性はどうなるのか。ボザンケは、再び私たちに次のように保証して、それを救おうとする。個人の現実の世界の中心をつくり、それがなければ観念的なだけの、この中心の拡張に、実在の印を与えるのは、固定された内容の所与ではなく、感覚知覚と直接接しているという性格と性質なのだ、と。ここでも、私たちの知識の内容が、実在と何らかの関係を持つという証拠はない。あるのは、感覚経験に伴う生々しさの感じだけである。それは、その背後に何らかの実在があるという確信を与えるように見える。しかしそれでは、私たちの観念上の内容が、ぶつかった相手に本当に属するという保証すら得られない。まして、どう属するかは分からない。そして、『知識』という名に値するのは、そのことだけなのである。

最も単純な知覚判断の種類を詳しく扱う『質と比較』の章で、彼は同じ矛盾に戻り、このジレンマの両極が、どうしてともに真でなければならないのかを、再び説明しようとする。その箇所は次のとおりである。

私たちが述語を帰属させる実在は、疑いなく、自ら存在する。それは、私の心や判断の行為のなかにだけあるのではない。もしそうなら、判断は自分の観念を使った遊びにすぎないだろう。いま扱っている事例で、このことを明確にしておくのがよい。判断の後の諸形式では、かなり覆い隠されるからである。それでも、私が注意を集中させる実在は、私の判断の行為の内側にもある。それは、私の知覚に現れる実在の全体でさえない。まして、私がぼんやりと前提にしている、自ら存在する実在全体では、もちろんない。判断の直接の主語は、単なる一つの側面である。質を述定することによって、最初の特定が与えられる範囲を除けば、明確な観念によって記述するには、あまりに漠然としている。この実在は、私の判断のなかにある。それは、現実の世界が、現実のものとして私の意識にぶつかってくる点である。そして、この点に関わる判断をすることによってだけ、私は、心の前にある観念上の内容を、実在全体に結びつけられる。その実在全体を、私は存在すると信じると同時に、構築しようとしているのである。実在が私の意識の内にも外にもあるように、主語は判断の内にも外にもある。(一一三、一一四ページ。)

彼が達する結論は、難問を言い直したものにすぎない。解こうとしている問題は、主語がどうして判断の内にも外にもありうるのか、また外の主語と内の主語とはどう関係するのか、ということだ。そうなのだと主張するだけでは、理解の助けにならない。彼の手順は、感覚知覚の二つの意味、すなわち意識される質と、むき出しに、唐突に現れる直接性とを利用しているように見える。そして、その曖昧さを使って、判断を、観念を実在に関係づけることとする考えから生じる問題を、解こうとしているように見えるのである。

彼の判断論に現れる、事実の世界の扱いから観念の世界の議論へ、主語から述語へと目を移すと、またしても、認めざるをえず、避けられない逆説に出会う。観念は、本質的に意味である。判断の主語の場合のように、唯一であることを本質とする個別の存在ではない。重要なのは、不特定多数の、一つひとつ唯一の存在に適用できるということであり、そのような意味なのである。その特徴は普遍性である。しかし、心的な存在と見なされた観念、私の心のなかの内容としての観念は、ほかのどんな存在とも同じく、個別で唯一である。では、どうして普遍性という特徴を得るのか。ボザンケの答えは、自分以外の何かを指すことによって、普遍的になるはずだというものである。その意味は、心的な像として存在することにはなく、自分の向こうの何かを指すことにある。さて、肯定される観念は、どれも実在に関係づけられる。しかし、肯定されていない観念も存在するのだろうか。もし存在するなら、それが指すのは実在ではありえない。ボザンケは、序論の第二節で、この問いを次のように論じている。

理性的な存在どうしが互いに理解できるようにする、記号の同一の指示によってのみ成り立つ、観念ないし意味の世界がある。このことは、容易に否定できない。単なる示唆、単なる問い、単なる否定は、いずれも、私たちがときに、実在について肯定せずに観念を考えること、したがって、その観念の指示が実在する何かへの指示であるとも、その意味が事実であるとも肯定せずに、観念を考えることを含んでいるように見える。もし観念が、何か実在するもの、すなわち、私たちの意識である判断によって絶えず支えられる織物の、ある一要素を意味したり、指したりしないなら、いったい何を意味し、何を指しうるのか、たしかに戸惑うかもしれない。他方、ある観念について実在性が否定されても、それを否定する理性的な存在にとって、その観念はなお、同一の、それゆえ理解可能な指示、すなわち象徴的な価値を持ちうるし、さらには持たなければならない。この点を考慮しないなら、難問から逃げることになる。指示は、何かへの指示でなければならない、と論じることはできる。しかし、この場合の何かとは、指示する事実そのもの、知性ある存在の間の合理的な約束であるように見える。あるいは、もっと正確にいえば、一人の理性的な存在にとってであれ、多数にとってであれ、こうした知的な指示に含まれ、支えられることによってのみ存在する世界なのである。

私がこれらの考察を持ち出すのは、現実の世界ないし事実の世界から区別された、客観的な世界ないし意味の世界という、過渡的な考えを説明するためだけである。個々の主体から出発して思考を説明するとき、この考えを完全になくすことはできない。逆説は、こうして、私たちにとって、現実の世界ないし事実の世界が、客観的な世界ないし意味の世界のなかに入り、それに含まれるように見えるところにある。まるで、すべての事実は意味であるが、すべての意味が事実とはかぎらないかのようなのである。ここから、実在しない何かが客観的である、という矛盾が生じる。(四、五ページ。)

序論の第七節で、ボザンケは、自分の意味することを、さらに説明している。読者は、それを想像の飛躍、単なる比喩として受け取ってよい。しかし彼は、それでも問題を明確にできるかもしれないと考えている。

私たち一人ひとりに知られる世界は、その人の個々の意識によって構築され、支えられている、と考えてみることができるかもしれない。そして、ほかの一人ひとりも、それぞれが生き、活動する世界を、自分のために形づくり、知性の働きによって支えている、と。もちろん、この構築は、再構成、知識という仕方でのみ行う構築と受け取るべきである。しかし、いまの目的にとって、この違いは重要ではない。こうして、自分の私的な世界にある観念や対象を、ほかの人々が、それぞれの意識の領域のなかで構築しているものと、初めから同一だとするより、対応するものと考えられるだろう。そして、自分の世界の内側にある対象や内容についても、それを保つために、初めに構築するのに必要だったのと同種の行為や努力が求められるかぎり、同じことがいえるだろう。……こうすれば、指示の逆説は、もっと明らかになるはずである。私たちは、内容を手段として、対応関係を指しているのだと理解できるだろう。ある名前に応じて持てるのも、得られるのも観念だけなのに、その名前は、その観念ではなく別の何かを表す、という矛盾を和らげられるだろう。その名前が表すのは、それぞれの別々の世界で、また、自分自身の昨日と今日の世界で、対応していると捉えられた、観念のなかの諸要素なのだと、いえるようになるだろう。(四五、四六ページ。)

この見方によれば、観念は、一種の除去の過程によって、観念を観念たらしめる普遍性を得る。それは合成写真のようなものだ。多くの個別の存在から、共通する要素だけを選び、こうして、その観念をつくるもとになった、すべての個別の存在を表し、指し示すことに成功するのである。しかし、普遍性、すなわち一般化された意味についてのこの見方が、知識の過程をどう評価するかに及ぼす影響を考えると、問題はまだ解かれていないと感じる。第一に、観念を、多くの観念の共通要素から成り立つものと見なしても、その存在は、要素を取り出されたどの観念とも同じくらい、個別のままである。合成写真も、そのもとになったどの写真とも同じく、一枚の写真にほかならない。心的な像の個別性と、その意味の普遍性との間の溝は、像の内容を、多数の像から異なる要素を取り除いてつくられたものと見なしても、埋まらない。思考が扱う素材は、依然として、個別の心的な像以上の何ものでもない。その像に、一般的な意味としての論理的価値を与えるものは何かという問題は、なお解けていない。また、像の存在のうちに、それが自分の外の何かを指すことを説明できるものが、見いだせるとも思えない。指示するという事実そのものが、究極の謎になるのである。[48]

しかし、この難しさを脇に置いても、判断が、自分の内容の一部、すなわち、判断する意識の一部としての、心像の個別の存在を、本当にまったく無視するなら、その判断は、一部を切り落とされたものに見えざるをえない。この理論によれば、心像の個別の存在には論理的価値がない。論理的価値があるのは、その意味、すなわち一般的な指示だけである。しかし、心像そのものも、それが指すとされるものと同じくらい、実在する。もし判断が、本当に心像の存在を無視するなら、自分が表そうとする実在の一部分を無視しているのであり、自ら失敗を認めることになる。[49] さらに別の点でも、ボザンケが描く観念は、実在を築き上げる仕事に使う道具として、不十分だと分かる。ボザンケの言葉では、『意味は、さらに別の点でも、心的な像を圧迫する。その個別で排他的な存在を押しつぶして見えなくするだけでなく、その内容の一部も押しつぶす』(七四ページ)。私たちが使う観念は、内容の点で、何か実在するものの、完全な、あるいは正確な表現ではない。ボザンケの例を取ろう。

誰かが、私が一度も見たことのないエーゲ海について話す。それは、雲一つない空の下に広がる深い青の海で、岩だらけの島々が点在している、と。その言葉の意味は、私の思考に課された問題である。私は、知性ある存在として互いに共有する、客観的な指示の世界で、その人と出会わなければならない。どうするかは私自身の問題であり、使える具体的な心像は、日ごとに、一分ごとに変わる。トーベイで見た海と空の記憶を、オークニー諸島やヘブリディーズ諸島の、島の点在する海の記憶と組み合わせる、といえば簡単に聞こえる。それでも、調整したり、無視したりするものは多い。トーベイの赤い崖、北の曇り空などだ。しかし、そもそも私の記憶自体、すでに象徴的な観念である。トーベイやヘブリディーズ諸島を指すこと自体が、思考に課される問題であり、二度と同じにならない、移ろいやすい心像から、目印となる要素を選ばせる。私はまず、思い浮かべられるどんな青でも使い、そのように思い出した色を、確定し、修正し、余分なものを引き去り、ただの目印となる質にまで絞ることで、トーベイの色を象徴しなければならない。次に、こうして得た意味、すなわち意味のある観念も同じように扱い、トーベイの質を削り、調整し、エーゲ海の象徴として使えそうなものにしなければならないのである。(七四、七五ページ。)

こうしたことをすべて終えたとき、その観念は、どのように実在を表しているのだろうか。明らかに、きわめて貧しく、乏しく、断片的な表し方である。

それは、あまりに貧しく断片的なので、それ自体が、実在について肯定されるものではありえない。肯定されるのは、意味の世界に見いだされる、別の、もっと充実した存在であるはずだ。ところが、観念の乏しい内容が、どうして意味の世界を指し、さらに意味を実在に結びつける手段として働けるのかは、まったく明らかでない。内容どうしの対応という考えによって、指示を理解できるように説明することは、不可能に思える。

述語の解釈における根本的な難点は、主語の解釈で出会ったものと同じである。述語が実在について肯定されるべきなら、そうでなければ論理的価値はないのだが、肯定されるときには、何らかの意味で、実在の正確な表現でなければならない。しかし、述語は観念である。しかも、その存在においても意味においても、個人の意識が、与えられた感覚的内容を変形した成果であることが明らかな観念である。実在との唯一の接点が感覚経験にあるなら、単純な感覚経験は、反応を受け、加工されればされるほど、実在から遠ざかる。したがって、観念は、その本質において、実在について決して肯定できないもののように見える。心像としては、それ自体が一つの実在であるが、肯定されない。意味としては、その実在、つまり心像を、個人の目的のために操作したものである。実在を歪めれば、実在について肯定できる形になると、なぜ考えるのか。しかも、観念が直接の感覚経験から遠ざかるほど、言い換えれば抽象的になるほど、それを実在について肯定できる可能性は小さくなる。この観点の論理に厳密に従うなら、最後の結論は、考えれば考えるほど、現実の世界について知ることが減る、というものになる。ボザンケは、信じるという行為だけによって、この結論を避ける。知識を救うには、感覚経験に与えられた実在の断片に対して意識が行う仕事が、実際に、私たちに実在の知識を築き上げることに成功する、と信じなければならないのである。ボザンケはこう述べる。『観念上の内容によって性質を定められた実在の提示は、主語と述定の一つの側面であり、象徴的な観念によって自分を規定する、私個人の知覚的な意識は、もう一つの側面である。後者が前者と同一視されることは、意識的な思考が、自分の本性は知ることだと主張することから導かれる。』[50](八三ページ。)

状況をまとめよう。ボザンケは、知識とは、自分たちの観念から完全に独立した世界についての知識でなければならない、という想定から出発する。この想定がなければ、知識は観念どうしの関係にすぎなくなる。しかし、知識の重要さのすべては、知識が、本当に世界についての知識を与えるという確信にかかっているように思える。その世界は、それについての私たちの観念とはまったく独立して、そのとおりに存在し、私たちが何を考えても、どんな意味でも変わらない。知識が与えるのは、現実の世界の写し、あるいは表現であり、その価値は、どれだけ正確に表すかにかかっている。ところが、認識する個人の意識を調べると、判断の内に現れる主語は、その意識の外に存在する世界の部分では決してなく、つねに、その意識の内に存在し、知識の過程によって構成された世界の部分である。実在について肯定される述語が、その意味、その一般化された意義を得るのも、いつも、認識する意識の外の現実の世界との対応や、そこへの指示からではない。理性的な存在の間の一種の約束から成る、意味の世界への指示からなのである。この世界が存在するのは、明らかに、認識する意識の内であって、外ではない。[51] ボザンケが考える現実の世界と、知識の世界との間には、主語の側では一人ひとりに知られる世界が、述語の側では客観的な意味の世界が、挿入されている。どちらも現実の世界ではない。どちらも観念的なもの、すなわち個人の意識の構成物である。この観念的な世界と現実の世界との関係について、満足できる説明は、どこにもない。あるのは、知識が存在すると信じるためには、それらが現実の世界を表していると信じなければならない、という主張だけである。しかし、個々の判断を分析し、説明しようとするたびに、実際に扱うのは、つねに、主語としての、私たちにとって存在する世界と、述語としての、客観的な意味の世界なのである。ここでとどまるなら、知識は、ボザンケが初めに、そうではないと主張したもの、すなわち観念どうしの関係に、まさになってしまう。そこから先へ進む正当な理由を求めても、意識的な思考の、自分の本性は知ることだという主張以外には、何も見いだせない。その主張が正しいかどうかを確かめる方法は、まったくない。しかも、それを認めたとしても、どの個別の判断が真で、どれが偽かを決めるうえでは、少しの役にも立たないのである。

ボザンケの議論の展開は、終始、彼が出発点とする実在についての前提からの、必然的な論理的帰結であることが分かった。このような基盤のうえに知識の過程の理論を築く、根本的な難しさを、彼自身、初めから認めている。すでに引用した箇所である。『もし実在という対象の素材が、本当に思考の体系の外にあるなら、私たちの分析だけでなく、思考そのものも実在を捉えられないだろう。』(二ページ。)しかし、この主張にもかかわらず、実在についての根本的な考えは、思考の過程の外にある体系、というままである。彼の理論は、実在は思考の過程の外にあるという見方と、その内にあるという見方との、本質的に和解できない二つを、和解させようとする試みである。そして、それが成功するのは、そうなのだという私たちの信頼に訴えることによってだけなのである。

彼が考えるように、実在についてのこの二つの見方を、両方とも維持せざるをえないのなら、たしかに、それ以外の帰結はない。しかし、それは、ついには、実在を知る望みをすべて放棄することを意味する。その存在を信じることはできても、どの個別の判断が、実在を正しく含み、どれが正しく含まないかを決める方法はない。すべてが同じ基盤のうえに立ち、そして崩れるのである。しかし、ボザンケ自身、さらに進めば、知識の領域について、より満足できる見方に達する道を、指し示してはいないだろうか。彼は、私たちが知り、あるいは知りうる唯一の種類の実在は、判断の過程のなかに現れる実在、私たちに知られる実在だと示した。判断の過程の外に前提として置かれ、判断が結びつこうと努めている実在を取り払って、判断の過程の内に現れる種類の実在で満足することはできないだろうか。言い換えれば、実在が知識の過程と有機的に関係することを率直に認め、それでも実在としての価値を損なわない、満足できる実在の見方はないだろうか。実在は、ある意味で判断のなかで構成されると認めながら、それを同時に、個人の想像の産物、『観念を使った遊び』にしてしまわずに済むだろうか。

ここでひとまず、ボザンケ氏の考えの本当の難点、彼を出口のない循環にとどめる誤りは、真理とは、観念そのものを実在そのものに関係づけることだとする考えにある、と仮定しよう。この考えは、次の選択肢の間で私たちを揺れ動かす。すべての観念がそうした指示を持つから、真であり、知識をなすのか。それとも、どの観念もそうした指示を持たず、したがって偽なのか。あるいは、真とも偽ともいえない単なる観念なのか、という選択肢である。むしろ真理は、経験の内部のある特定の関係であり、ある観念を、ほかの観念と区別して特徴づけるものではないかと問うてみよう。そうすれば、問題は、観念がどうして自分を超える実在を指せるかではなく、正しい指示と誤った指示とを、どんな目印によって見分けるかとなる。そして次に、日常生活や科学で、実在を確かめるために使われる基準を尋ねてみよう。

哲学の議論に染まっていない人に、家から離れていて、その存在を直接示す証拠もないときに、どうして家がなお存在すると信じるのか、と尋ねてみよう。きっと、何度でもそこへ戻り、家を見て、中へ入れることが分かっているからだ、と答えるだろう。そこに家があるという前提で行動しても、家は決して彼を裏切らない。自分が家を経験していないときにも、その存在を信じるのは、心のなかの家の像が、それとは異なる種類の存在である現実世界の対象を、正確に表すからだ、などとは決して答えないだろう。物理学者に、運動の法則が真だと、なぜ信じるのかを尋ねれば、物体が、いつもその法則どおりに動くことが分かるからだ、と答えるだろう。一定の状況で物体が何をするか、正確に予測できる。運動の法則が真で、物体がそれに従うことを、どれほど長く当然視しても、期待を裏切られない。法則の真理性を疑わせるものがあるとすれば、それに従って動かない物体が見つかることだけだ。両方の場合で、基準は同じである。実際にうまく働くかどうかという、実践的な基準なのである。次の行動の基盤として、確実な前提にできるものが、実在し、真であると見なされる。この条件を満たし続けるあいだ、そしてそのあいだだけ、それは実在的であり続ける。条件を満たさなくなると、実在的と見なされなくなる。家を見て、中へ入るという、いつもの経験が得られなくなったと分かれば、その人は、家を実在するものと見なさなくなる。家は焼けたか、取り壊されたのである。ある法則によって予想したとおりに、物体が実際には動かないと分かれば、物理学者は、その法則を真と見なさなくなる。

実在の基準についての素朴な見方と、ここまで論じてきた見方との対照は、科学史のなかで、事実が次々と事実でなくなってきたことを、それぞれの立場からどう解釈するかを考えると、はっきりする。たとえば、地球は平らだという、かつての事実を取ろう。ここまで検討してきた理論なら、さらに思考によって現実の世界を構成し直した結果、『平らな世界』という観念に表される実在はなく、『丸い世界』という観念だけが実在を再現すると確信したため、事実でなくなったのだ、という。素朴な見方なら、それが行動の確かな手引きでなくなったため、事実でなくなったのだ、という。人々は、船で世界を一周できると分かったのである。一方の場合、対応とは絵のように似ていることであり、すでに見たように、そうした対応があるかないかは、決して確かめられない。他方では、対応とは、応答し、調整し、経験をさらに構成していく際に、特定の条件を互いに満たし合うことである。

したがって、現実の生活で使っている実在の基準は、実践的なものである。実在を確かめることは、ある観念と、観念ではない未知の何かとの関係を確定することではない。どの経験を、ほかの経験を確保するための確かな基盤として、前提にできるかを確かめることである。後者の見方の明らかな利点は、ほかの面でも十分かどうかはひとまず措くとして、前者の見方がすぐに引き起こす、根本的な懐疑を避けられるところにある。自分が発見した事実が、さらに先の思考による構成の検査にも耐えると、どうして確信できるだろうか。それも、捨てられた以前の事実と同じくらいしか、実在に近づいていないかもしれない。明らかに、どんな特定の思考内容についても、二度と修正の必要がないほど、実在を正確かつ完全に表しているとは、決して確信できない。しかし、実在の基準を、ある意識内容が、行動を促すものとして、統御の仕方として、どれだけ適切かに置くなら、使える規準が得られる。ある意識内容は、それから生じる行為が、ほかの内容に適切に適応するかぎり、実在的である、事実なのである。それが促す行為が、不適切だと分かったとき、実在的ではなくなる。

事実の究極の基準を、内容どうし、あるいは存在どうしの何らかの関係にではなく、思考の実践的な成果に置く。この見方は、判断を機能、すなわち行為として徹底して捉えることから、必然的に導かれるように思える。生物の活動についての、私たちの根本的な生物学的な考えでは、行為は、その結果のために存在する。行為はつねに、一定の具体的な条件によって刺激され、その価値はつねに、その条件にどれだけ適切に応えるかによって測られる。判断も、この原則の例外ではない。それはつねに、再調整を必要とする、ある条件によって促される行為である。その成果は一つの再調整であり、その価値は、それが適切かどうかによってのみ測られ、また、そうとしか測れない。したがって、真理と実在の究極の基準を、思考の実践的な成果に求め、判断という活動全体のなかで、『実在的なもの』と『観念的なもの』の性質を理解しようとすることは、現在有力な生物学的な考え方と、完全に一致するのである。

このような探究の初めに、一つの難しさがある。自分たちが調べているのが、本当の判断であると確かめることだ。論理学者が扱う、いわゆる判断の多くは、判断は行為であるという真実を強調する論理学者の場合でさえ、実は判断ではない。それは判断の成果である思考内容であり、生きた判断ではなく、いわば死んだ判断である。生きた思考の過程に現れる、実際の判断の行為を分析すると、つねに存在する、一定の要素が見いだされる。つねに、反応を求めるある状況がある。その状況はつねに、一部は確定して当然視され、一部は問いに付されている。何らかの明確な状況であるというかぎりで、確定している。次の行動の基盤として不十分で、そのため問題として意識されるというかぎりで、未確定である。たとえば、ボザンケの使う判断の一つ、『これはパンだ』を取ろう。まず、生きた思考の過程で、この判断が実際にいつ起きるかを問わなければならない。人は、何かのきっかけがなければ、考える途中で、そんな判断をしない。たとえば、見ている白い物が、パンかケーキか分からないのかもしれない。パンがほしいが、ケーキはほしくない。もっとよく調べて、パンだと確信し、完成した判断が、『これはパンだ』という命題にまとめられる。パンが実在し、判断が真であることを確かめるものは何か。明らかに、それに基づく行為である。その人はパンを食べる。パンの味がし、パンと同じ作用を及ぼすなら、パンは実在し、判断は真だった。他方、パンの味がしない、あるいは、ひどく具合が悪くなるなら、その『パン』は実在せず、判断は偽だった。どちらの場合でも、『これ』、すなわち解釈されるべき経験は、疑われていない。その人は、白い物を知覚しているという事実を疑わない。そこまでは、その判断の内では、当然のこととされ、問われない。しかし、経験には、問われている別の部分があり、それは判断の行為が終わるまで、暫定的なままである。知覚される白い物が、パンなのか、ほかのものなのかという疑いである。生きた判断、思考の生きた過程に普通に現れる判断は、どれも、これらの局面を持たなければならない。こうした部分が見えなくなるのは、判断を文脈から取り出し、過去の判断の単なる覚え書きにしてしまったときだけである。もちろん、その人は、さらにさかのぼれる。これは本当に白いのか、と疑うかもしれない。しかしその場合は、何らかの『これ』という経験、疑わずに受け入れる別のものに、立ち戻ることになる。

ここまでは、実在の実践的な基準を、日常生活で実際に働いているものとして、また、生物の機能についての生物学的な理論が示唆するものとしてだけ、考えてきた。しかし、それは、私たちが求めている、実在の性質についての修正された見方への手がかりも与える。先の議論では、実在の性質についての伝統的な理論にある矛盾が、付随的に明らかになった。もう少し考える価値がある。判断の主語を扱うとき、実在は事実と同義にされているように見えた。この意味では、事実、すなわち実在的なものは、観念的なものと対置された。知識は、実在的なものと観念的なものとの対応と見なされた。ところが、観念的なもの自体、すなわち判断の述語を扱う段になると、その内に、事実ないし実在の要素が現れ、理論にとって深刻な障害になった。私の心のなかの像として、観念は、いわゆる事実とまったく同じく実在する。しかし、問題の理論によれば、この種類の実在は、私たちがそれについて判断する実在でも、その実在の現実の性質でもない。ブラッドリーもボザンケも、判断はそれを無視し、そのかぎりで、本性上、実在を知るという課せられた仕事に十分に応えられないと、認めざるをえないのである。

この状況が新しい理論へ与える示唆は、これまでの実在の見方が狭すぎた、ということである。明らかに、実在という言葉は、事実と観念の両方を含むだけの広さを持たなければならない。そうであるなら、実在とは、事実と観念が絶えず対立し、活動を通じて絶えずその対立が解かれる、経験の全過程にほかならない。それまでの理論が実在と呼んでいたものは、実在全体ではなく、その一面にすぎない。こうして、事実と観念との関係という問題は、実在の一つの形と、別の形との関係という問題になる。したがって、ただ形而上学的な、あるいは一般的な問題ではなく、明確に限定された、解ける問題となる。このことを認めてもなお、狭い意味での実在、事実としての実在を、観念的なものとは別種の存在と見なし、思考の過程に対置できるだろうか。明らかに、できない。事実と観念は、一つの実在全体の二つの側面となる。両者をどう区別するかは、事実、すなわち狭い意味での実在についての実践的、生物学的な基準によって、すでに示唆されている。この観点からは、事実は、観念とは違う種類の存在ではない。経験の全過程のうち、一定の仕方で働く部分にすぎない。それはただ、与えられたものとして受け取られ、行動を促すものとして働く、経験の部分である。したがって、事実、すなわち普通の意味での実在の本質は、その内容の側にはまったくなく、その機能の側にある。同様に、観念的なものとは、経験全体のうち、暫定的なものとして受け取られる部分にすぎない。そのどちらが実在とどう関係するかは、問題にならない。この関係のなかで、それら自身が実在だからである。以前の理論が実在の全体と呼んでいたものは、いまや、その一側面、事実という側面を、ほかから人為的に切り離したものにすぎないと分かる。

実在の性質についてのこの見方を、判断論の言葉に置き換えると、判断の定義については、ボザンケと一致できることが分かる。判断は行為であり、観念上の内容を実在に関係づける行為なのである。判断が行為でなければならないのは、それが本質的に適応、すなわち与えられた状況に対する反応だからである。判断の主語は、経験の内容のうち、反応すべき状況を表す部分である。それぞれの場合に、与えられたものとして当然視される部分だ。これは、見てきたように、狭い意味での実在である。ボザンケが実在と呼んできたものは、いまや、判断の主語を、普通の働きから取り出し、孤立した物として考えたものにすぎないと分かる。人為的な抽象なのである。したがって、ボザンケが主張するように、判断の主語はつねに実在でなければならないというのは、正しい。彼の意味でも、私たちの意味でも、そうである。ただし、この実在が実在的なのは、判断から独立しているからではなく、判断のなかでの働きによる。この観点に立てば、判断の主語に関する彼の根本問題は、片づく。主語は、全面的に判断の内にあり、いかなる意味でもその外にはない。しかし、それと同時に、判断の主語は実在であることも真なのである。どんな判断の主語も、最も初歩的なものさえ、思考がそれに働いた明らかな跡を持つ、という事実は、もはや問題ではなくなる。主語は、本質的に、疑い、探究する過程によって構成され、その内で働くものである。現実の世界と、知る過程との間に、私にとっての現実の世界という中間のものを置く必要も消える。私にとっての現実の世界こそ、判断が考慮できる唯一の現実の世界だからである。主語の内容と、その存在との間には、もはや断絶がない。彼の意味での実在、事実としての実在は、内容から区別された存在の側にあるのではなく、内容から区別された機能の側にあるのである。

判断の述語は、経験全体のうち、疑わしいもの、あるいは暫定的なものとして受け取られる部分である。見てきたように、適応の行為には、反応すべき明確な状況、すなわち主語と、反応するために使う未確定な、あるいは暫定的な材料、すなわち述語とがある。判断を要求する状況が、ただ問われた、あるいは疑いうるだけの状況として意識に現れることはない、とすでに指摘した。[52] 疑いが生じるとすぐ、何らかの暫定的な解決が、つねにそこにある。これが述語、すなわち観念である。事実、狭い意味での実在が、その状況で与えられたものとして受け取られるものであるように、観念的なものは、暫定的なものとして受け取られるものである。それが観念的であるのは、別種の存在、客観的な意味の世界を指すからではない。判断のなかでの働き、すなわち、適切な行為へとつながるように、状況全体を見定めることによる。主語と実在との間を、私に知られる現実の世界によって仲立ちする必要が、もはやないのと同じく、述語と実在との間の溝を架橋するために、客観的な意味の世界を必要とすることも、もはやない。事実と観念を、別種の存在ではなく、一つの全体的な働きの、違う局面を示す内容として捉えるなら、観念を使ってどう事実を築けるのか、という理解の難しさは消えるのである。

ボザンケが描く観念は、実在の知識を築くために使うには、きわめて不十分な道具であることが分かった。第一に、思考の道具としての価値は、その普遍性に依存する。観念の普遍性を説明しようとするとき、ボザンケが直面する難しさは、すでに検討した。観念の普遍性は、心像として存在するというだけのことには、ありえない。その存在は、純粋に個別的である。普遍性は、観念が自分の外の何かを指すことにあるのでなければならない。しかし、個別の存在である心像が、別種の存在に属する、別の、もっと充実した内容を、どうして指せるのか、説明は見いだせなかった。指示という事実は、究極の謎のままだった。新しい観点からは、心像は、その組織する働きを通じて普遍性を得る。それは、現在の状況に適用できる、組織された習慣を表す。その習慣は、行動を方向づけることで、経験全体を組織し、統一するために働く。指示という考えを理解可能にできるのは、機能として捉えるときだけなのである。

もちろん、内容として見れば、この観点からでも、観念は、ほかのどの観点から見る場合とも同じく、個別的である。観念の個別性に論理的な価値があるのかどうかは、なお論じなければならない。ボザンケの理論では価値がないという事実が、思考の妥当性に限界を設けた。しかし、判断の妥当性を本当に確かめるのが、それが行き着く行為であるなら、観念の存在の側面にも、論理的価値があるのでなければならない。観念の存在の側面とは、それが『私の』ものだという面である。それは、私の個人的な経験として存在する。しかし、観念が何かを促す力を持ち、行為へとつながるのは、それが私の観念であるときだけだ。したがって、存在の側面は、無視されるどころか、観念の論理的な、すなわち規定する価値にとって、不可欠なのである。

観念が実在を表すとする知識の理論では、観念は、さらに別の点でも、実在を知るための不十分な媒介物であることが分かった。観念は、その本性上、充実した経験から、単なる目印へと切り詰められた内容である。客観的な意味の世界にある、もっと充実した内容を指すことには、仮に問題がないとしても、その客観的な意味の世界自体、実在から遠く離れている。それなのに、知るためには、観念を実在について肯定できなければならない。観念の機能説では、観念の価値は、それが何かを表す性質には、まったく依存しない。存在においても意味においても、観念を、ほかの内容の表現とは受け取らない。ある働きを示す内容として受け取るのであり、その価値は、観念が意識上に表している、その働きがどれだけ適切かによってのみ定まる。内容は、どれほど乏しくてもかまわない。感覚経験を切り詰め、変形する長い過程を経て得られたものでもよい。しかし、その観念を持つ人が、それを呼び起こした状況に、適切な行為で応じられるようにするなら、最も十分な意味で、真理と価値を持つのである。観念は、別のもっと充実した内容の記号ではなく、ある働きの道具だと分かれば、単なる目印に切り詰められることも問題ではない。こうして観念は、非難すべき実在からの逸脱ではなく、評価すべき思考過程の効率化となる。

観念的であることは、別の内容を指すことにあるという見方は、すでに一般的な考察によって批判した。その指示は、第一に実在そのものへではなく、むしろ中間の意味の世界へ向かうのだ、と論じる際に、ボザンケは、問いと否定判断とを挙げる。問いでは、観念は実在について肯定されておらず、否定では、実在について明確に否定されている。したがって、その指示は実在へ向かうはずがない。それゆえ、客観的な意味の世界へ向かうのでなければならない、というのである。ここでついでに、機能の観点から見れば、問いや否定判断のなかで観念が果たす役割は、肯定の場合と同じだと、指摘しておく価値があるだろう。

あらゆる判断は、疑いのなかに生じることを、私たちは明らかにしてきた。したがって、判断の最初の段階は問いである。その過程がそこで止まるか、肯定や否定へと進むかは、個別の条件にかかっている。問いに現れる観念は、肯定の場合とは別の問題を持ち出すわけではない。それらが観念であるのは、意味の世界の別の内容を指すからではなく、その働きによる。すなわち、経験全体のうち、疑わしいもの、それゆえ、まだ進行中のものとして受け取られる部分をなすからである。

この点を、否定判断について明らかにするには、否定判断と肯定判断との関係を、もう少し詳しく考える必要がある。判断は、どれも最初の段階では問いであるが、問いは決して、ただの問いではない。つねに、答えの何らかの候補があり、そのため、過程は実際には選言判断となる。問いは、選言の一つの選択肢が明示され、ほかが暗示される選言判断、と定義してもよい。過程が進んで、肯定や否定の形を取るなら、示唆された答えの一つが選ばれる。先のパンの例を続けよう。判断は、知覚された白い物が何かという疑いに生じる。しかし、その疑いは、何も候補のない問いの形を取らない。すぐに、判断する人が使える、組織された経験の蓄えから、ある可能な解決が示唆される。この段階では、判断は選言的である。この例なら、おそらく『これはパンかケーキだ』という形を取るだろう。判断がさらに進むと、ケーキという選択肢が退けられ、パンが選ばれ、その最終的な成果は、『これはパンだ』という命題にまとめられる。しかし、なぜ『これはケーキではない』という形にはならなかったのか。その命題も成果に含まれ、下された判断に暗に含まれている。答えは、最終的な成果の形は、判断する人の関心の向きに、全面的に依存するということだ。パンを得ることに関心があったなら、成果は自然に『これはパンだ』という形を取り、その行為は、それを食べることになる。ケーキがほしかったなら、自然な形は『これはケーキではない』であり、行為は、食べずにおくことになる。言い換えれば、判断が否定になるか肯定になるかは、関心の重点が、初めの選言の、選ばれた部分にあるか、退けられた部分にあるかという問題なのである。述語によって主語を規定することには、つねに両方が含まれる。関心に応じて、どちらかを選ぶことは、過程の最後の言い表し方に影響するが、そのさまざまな局面の関係を変えはしない。否定判断の観念は、肯定判断の場合と、まったく同じものである。どちらの場合も、ほかの内容を指すことによって観念になるのではない。

ここまで、ボザンケの判断論の概要を示し、その体系に内在する、解決できないように見える問題を指摘した。そして、その難点を解決する可能性を持つ、根本的に違う理論の輪郭を描いた。残るのは、この新しい理論が含むものを、さらに展開することである。そのために、論理学のいくつかの重要な問題への適用を、ボザンケの理論の場合と比較する。最後には、この新しい判断論が、その形而上学的な含意も含めて、ボザンケの理論より、どの程度満足できるものになったかを問わなければならない。

取り上げる個別の問題は、(一)判断と推論との関係、(二)判断の部分と、それらの関係、(三)判断における時間の要素、(四)一つの判断を、別の判断から、どのように区別して取り出せるか、である。

一 判断と推論との関係は、ボザンケが判断と命題との区別を扱う際に、付随的に論じられる(七九ページ)。命題は、判断と呼ばれる思考の行為を表す、言明の文にすぎない、と彼はいう。この区別には、私たちも賛成する。しかし、この点を論じるなかで、彼は、ヘーゲルの説を批判する。ヘーゲルによれば、判断は疑いに抗して自らを保つが、命題は、疑いの存在を含まない、そのとき限りの肯定であるという点で、両者は区別される。ボザンケの批判の根拠は、意識された疑いが存在する前にも、判断は働いていると見なさなければならない、ということである。また、ヘーゲルが示唆するように、判断と推論とが同時に始まるのは正しいが、両方とも、疑いが意識に上るより前から始まっている、というのである。疑いは、推論が自分の根拠を意識するようになる地点を示す。さて、根拠が暗黙にとどまる推論が、根拠が明示される推論よりも、経験の早い段階に存在することは疑いない。ふつう、前者を単純な把握、後者を判断と呼ぶ。ボザンケが望むのは、『判断』という言葉に、暗黙の活動も明示的な活動も、両方含めることである。すると、すぐに、その言葉の使い方は正確か、という問いが生じる。自分の根拠を意識する推論と、そうでない推論の間には、たしかに大きな違いがある。哲学的に重要な区別である可能性がある。両方に同じ名前を使って、その違いをぼかしても、何も得られない。思い出してほしい。私たちがボザンケの理論を批判してきた立場では、意識された疑いの存在を、判断の基準としている。したがって、『推論』を『判断』より広い言葉にするのがよい。判断は、自分の根拠を意識する推論である。事実と観念とは、判断のなかで、判断を通じて構成されると説明してきた。そこで直ちに、次の問いが生じるだろう。その立場からすると、判断が現れる前の経験の段階では、事実と観念の基準は何なのか。答えは、その問いには心理学的な誤謬が含まれている、ということだ。判断が現れる前の経験には、事実と観念という区別はない。事実と観念との区別が生じるのは、推論が自分の根拠を意識する、より高い経験の水準においてだけである。それ以前に両者は何だったかと問うのは、それらが存在する前に何だったかと問うことであり、もちろん、答えることのできない問いなのである。

したがって、判断と命題とのヘーゲルの区別を、私たちが採用しない理由は、ボザンケとは同じではない。この問題には、死んだ判断と生きた判断との区別で、すでに触れた。ヘーゲルが命題と呼ぶものは、実は、死んだ判断にほかならない。そのとき限りの肯定として彼が挙げるのは、『馬車が家の前を通っている』という文である。これが判断になるのは、本当に馬車が通っているかどうかについて、何らかの疑いがある場合だけだ、と彼はいう。しかし、まず答えるべき問いは、そのような『言明』は、経験のなかでいつ生じるか、である。自分か他人に、何か解くべき疑いがあるのでなければ、これが自然に生じる状況は、考えられない。たとえば、友人を待っていて、通りかかるのが馬車か荷車か、初めは分からないのかもしれない。誰かが驚いて、『何の音だ』と尋ねたのかもしれない。したがって、ヘーゲルが命題と呼ぼうとするものは、その場の文脈から取り出された判断にすぎないのである。

二 判断の伝統的な三つの部分、主語、述語、繋辞を扱う際、ボザンケは、判断を主語と述定とに分けることで、繋辞をすぐに片づける。しかし、『主語』と『述定』という二つの言葉は、同じ水準のものではない。彼の使い方では、主語は、内容を示す静的な言葉である。述定は、述語として言い表す行為を示す動的な言葉である。それは、別の何かについて述べられる何か、つまり二つの内容と、それらを関係づける行為を含んでいる。さて、繋辞によって意味しているのが、ある内容を別の内容について述べる、その内容から取り出した述定の行為だとすれば、述べられるものと述べる行為とを、まとめて『述定』という一語に含めても、判断の別個の要因としての繋辞を、なくしたことにはならない。『述定』という言葉には、同じ理屈で、主語まで吸収させることができるだろう。そうすれば、それは、実際そうであるように、『判断』と同義だと分かるのである。

しかし、主語と述定とに減らしても、判断の部分に関するボザンケの難しさは片づかない。彼は続けていう。

判断は、どれほど複雑でも、一つの観念であることは明らかである。その内部の関係は、観念と観念の間の関係ではなく、それ自体が、述定される観念の一部である。言い換えれば、判断の内容が主語について述べられるためには、主語は判断の外にあるのでなければならない。そうでなければ、『私の地球の観念が、私の太陽の観念の周りを回る』ということに戻ってしまう。そして、見たように、それは『地球が太陽の周りを回る』の意味では決してない。私たちが必要としているのは、『地球が太陽の周りを回るということで私が意味するものが、現実の世界に、事実として含まれている』ということなのである。(八一ページ。)

実在の性質についての前提が、ボザンケをどのような難問に陥れるかは、すでに指摘した。これは、同じ問題を、専門的な言葉で別様に述べただけである。主語が本当に判断の外にあるなら、判断の内容全体は、述語、すなわち観念の側に属するのでなければならない。続く段落でボザンケは、それでも判断には主語と述語との区別が含まれなければならない、と論じる。肯定する内容のなかに区別を持ち込まずに、何かを肯定することは不可能だからである。しかし彼は、この区別を、同一なものの内部の違いにすぎないとする。それは、文法上の主語と述語を分けるが、主語と述語の本質的な区別ではありえない。彼の難問の解決は、実は、私たちが主張してきたもの、すなわち『現実の世界は、第一に、まさしく私の世界である』ということなのだ。しかし、彼はなお、そのような現実の世界を究極的なものとして受け入れられない。私の世界を示す主語の背後に、私の世界ではないが、私の世界が表している、現実の世界を仮定する。そして、この現実の世界と、判断の内容全体との関係を、判断の本質的な関係と考える。このため彼は、指摘したように、思考と実在との関係についての理論から、依然として同じだけ遠いところにとどまる。しかも、判断の内部で主語と述語を区別する基準も持てない。同一なものの内部の違いだというだけでは、内容だけに基づいて、そのような違いが、同一なものの内でどう区別されるのか、また、どうして実際に持っている重要さを帯びるのかは、説明できない。彼は、知的な内容全体を述語とし、表されるべき実在を主語とする見方と、知的な内容の内に、十分な根拠も意義もなく現れる区別との間を揺れ動く。前者の場合、繋辞は『感覚知覚の接触』になるだろう。主語と述語を、一つの働きの諸局面が現れる内容と見なせば、この難しさは、もはや存在しない。

三 判断のなかの時間的関係を論じる際(八五ページ)、ボザンケはまず、主語は時間のうえで述語に先立ち、その先行性によって述語から区別される、という見方を退ける。意識のどんな内容も、すでに述語として関係づけられる何かとの関係によらなければ、主語という意味を持てない、と強調するのである。しかし、判断の諸部分が、時間のなかで互いの外に位置するわけではないとしても、少なくともある意味では、判断が時間のなかにあることは明らかだ。これを明確にするために、ボザンケは、判断に到達する過程と、完成した判断とを、ひとまず区別する。判断に到達する過程とは、未確定で仮の述語を伴う主語、一種の選言判断から、明確な述語を伴う主語へと移る過程である。この過程が時間のなかにあることは明白だが、主語から述語への移行ではないことも、同じく明白である。彼がいうように、それは、主語と述語とが、ともに歩調を合わせて変わることである。同じ区別は、完成した判断についても成り立つはずだ、と彼は考える。しかし、そうすると、判断における時間の要素について、ジレンマに陥る。時間は、判断の本質的な要因であるか、そうでないかの、どちらかである。本質的でないなら、知的な過程としての判断が持続するという明白な事実を、どう説明するのか。本質的なら、判断の諸部分が、時間のなかで互いの外に位置しないという事実を、どう説明するのか。ボザンケは明らかに、前者の問題を、二つのうち容易なほうと考える。その解決は、判断は時間のなかの知的な過程ではあるが、それは純粋に外的な側面だ、というものである。主語と述語とは共存するから、両者の本質的な関係は時間のなかにはない。したがって、時間は、判断の本質的な要素ではないというのである。

判断との関係で時間をこのように扱うことに、私たちがまず異議を唱えるのは、判断に到達する過程と、完成した判断との区別においてである。ボザンケ自身、判断を、観念上の内容を実在に関係づける知的な行為と定義する。では、この行為はどこで始まるのか。確かに、観念上の内容が、初めて実在に適用されるところである。そして、彼自身指摘するように、それは、判断に到達する過程と彼が呼ぶものの、始まりにほかならない。この段階では述語が暫定的で、後に明確になるということは、問題ではない。彼のいう、判断に到達する過程は、私たちが、あらゆる判断の初期段階として説明してきた過程そのものである。完成した判断を語るとき、彼は、自分の定義に含まれる、判断を動的に捉える見方から、静的な見方へ移っているように見える。判断に到達する活動全体から区別された、完成した判断によって意味できるのは、述定の過程全体が終わったときに、私たちが得ている新しい内容だけである。しかし、この内容は、まったく判断ではない。実在を新しく構成したものであり、後の判断で主語にも述語にもなりうるものなのである。

さて、判断を、観念上の内容を実在に関係づける活動全体と見なすなら、時間を、その本質的な要素としなければならないのではないか。ボザンケは、この問いに否と答える。時間が本質的な要素なら、判断の諸部分は、必然的に、時間のなかで互いの外に位置しなければならないと信じるからである。しかし、そうである必要があるだろうか。判断の本質が、主語と述語とが歩調を合わせて変わることそのものなら、時間はその本質的な要素でなければならない。だが、諸要素が、時間のなかで互いの外に位置する必要は、まったくない。言い換えれば、ボザンケが八七ページで指摘するジレンマは、本当のジレンマではない。判断は時間のなかの移行だと認めながら、その諸部分が、時間のなかで互いの外に位置するわけではないとすることには、何の難しさもない。判断は時間のなかの知的な過程ではあるが、主語と述語とは共存し、判断は両者の関係なのだから、時間は本質的な特徴ではない。これが彼自身の解決だが、それは、判断を動的に捉える自分の見方を捨てることを含む。彼の定義では、判断は、主語と述語との関係ではなく、知的な行為なのである。[53]

四 判断における時間の要素の議論は、次の難問へとつながる。思考の活動全体のなかで、一つの判断を、別の判断からどう区切るかという問題である。ボザンケは、判断の過程のどの段階にも、主語と述語の両方があり、徐々に変化していると指摘する。したがって、どの時点で過程の断面を取っても、主語と述語の両方が見いだされる。しかし、ある時点の断面に現れる主語と述語は、別の時点の断面に現れるものと、まったく同じではないだろう。彼は、判断は、菱面体に割れる鉱石が菱面体へと割れるように、諸判断に分かれる、と結論する(八八ページ)。したがって、一つの判断の限界をどこに定めるかは、まったく恣意的だというのである。彼がこの点を示す例は、次のとおりである。

『彼は階段を下りてきて、通りへ出ていく』という、知覚と推論が混じった日常の判断を取ろう。過程を、このように、接続詞だけで結ばれた二つの判断に分けるか、それとも、その人の習慣を知っているので、階段を半分ほど下りた音を聞いたとき、『彼は外出する』というかは、まったく偶然にすぎない。後者の場合、私は、より多様な観察と推論の組み合わせを、一つの判断にまとめている。しかし、その判断は、先に接続詞によって分けられた二つの判断の、それぞれと同じく、本当に一つなのである。というのも、それらの一つひとつも、知覚の組み合わせをまとめたものだからだ。その気になれば、それをさらに細かく分けて、別々の判断を表す、別々の命題にできる。たとえば、『彼は戸を開けた、そして階段へ向かっている、そして半分まで下りた、そして廊下にいる』などと。単に『彼は外出する』というときも、こうしたさまざまな関係のすべてを判断しているという意識は、少しも減っていない。ただ、それらすべてを、『外出する』という一つの体系的な内容に含めているのである。(八九ページ。)

しかし、さまざまな可能性のどれが実現するかは、まったく偶然の問題なのだろうか。ボザンケは、自分で考えているように、思考の実際の生きた姿を見ているのだろうか。それとも、具体的な条件のもとで実際に起きることではなく、少しずつ条件が違えば起こりうることを、考えているのではないか。判断が、疑いに始まり、その解決に終わる危機であり、刺激と反応の適切な相互作用を通じて、明確な状況へと展開するものなら、その限界が純粋に恣意的だというのは正しくない。判断は、問題とその暫定的な解決が現れるところに始まり、最終的な反応による解決に終わる。もちろん、その時々の関心には依存する。しかし、だからといって限界が恣意的になるわけではない。関心は外から加わるものではなく、その過程に内在するからである。ボザンケの例でも、一つの判断をするか、六つほどに分けるかは、まったく偶然の問題ではない。判断する人の関心がどこに集中しているか、言い換えれば、解くべき個別の疑いが何かに依存する。本当の疑いが、その人が部屋にとどまるか、外出するか、ということなら、部屋を出る音が聞こえたとき、『彼は外出する』という形で解決が得られる。しかし、部屋にとどまるか、外出するか、別の部屋に入るか、という疑いなら、一つひとつが問題を解く、判断の連続が起こる。『彼は戸を開けた』、ならば、部屋にとどまるのではない。『彼は階段へ向かっている』、ならば、反対側の部屋に行くのではない、といった具合である。このような判断の連続が実際になされるとは、それぞれが、問題のある状況と、その確定を表しているのでなければ、考えられない。人が実際に『彼は外出する』という判断を、そのような連続に分けようとするのは、連続の各要素が、それぞれ、不確かな個別の目標や問題を表し、独自の関心を引くときだけである。また、『彼は外出する』と判断するとき、こうした異なる関係のすべてを判断しているという意識が、少しも減らないというのも、全面的には正しくない。判断するのは、当面の問題を解くのに必要な関係だけである。戸を開ける音を聞くことが、解決の十分な根拠なら、判断の形成に、意識的に入り込むのは、それだけなのである。

以上の議論では、ボザンケの判断論に含まれると思われる矛盾と、解決できない問題とを明らかにし、それらが、彼の形而上学的な前提からの論理的な帰結であると示そうとしてきた。また、実在の性質について違う見方を含む、別の判断論を展開し、この新しい理論なら、ボザンケの体系に内在する難点を避けられると示そうとしてきた。観点の変化を短くいえば、こうである。現実の世界を、それについて私たちが下す判断から独立して、それ自体で存在するものと見なす代わりに、判断を手段として確実にされる経験の全体と見なした。つまり、その確かさや、具体的に利用できるかどうかが定められた、経験の全体である。こうして、内容が知識のまったく外で独立に存在する現実の世界を、観念がどうして正しく表せるのか、という、本質的に解けない問題を避けた。実在を、知識の外でそれ自体として存在するものと見なすことをやめれば、判断の主語や述語と実在との関係を理解する難しさは消える。主語と述語は、実在を築く過程の手段になる。観念が抽象的になり、実在と接する直接の感覚経験から離れるほど、思考は私たちを実在からますます遠ざける、ということは、もはやない。逆に、思考は、絶えず私たちを実在へと近づける。最後に、知識の可能性についての根本的な懐疑を避けられる。もう一方の立場からは、長い歴史のなかで次々と事実が誤った意見の領域へと消えていったこと、そして、現在のいわゆる実在の知識も同じ運命をたどらないという保証がないことが、その懐疑を強いる。その立場からは、実在は、未知であるだけでなく、知りえないものに見えるのである。

ここで展開した別の見方には、きっと次の批判が向けられるだろう。それが与えるボザンケの問題の解決は、本当の解決ではなく、解こうとする試みを放棄しただけだ、と。この見方では、実在そのものが発展の途中にあることになる。百年前の実在、あるいは昨日の実在でさえ、内容においては、今日の実在ではなかったと、認めざるをえなくなる。成長し、発展する実在は、不完全な実在ではないか。実在は、それ自体で完全に、申し分なく成り立っていると考えなければならない、といわれるだろう。これに答えられるのは、もう一度、次の点を強調することだけである。その想定によって、経験を理解し、矛盾のない全体に組織できるのでなければ、実在は、すでに完成した存在だと仮定する権利はない。本論が示そうとしてきたのは、そのような実在の考えは、実際には、経験全体を理解できるように説明することを、本質的に不可能にするということである。他方、実在は判断のなかで、判断を通じて発展すると見なすなら、一貫した、理解可能な世界の見方を築ける。このことは、『完全なもの』とは、結局、仕上がって終わったものではなく、その実在が、絶え間ない自己変容を生み出すほど豊かで、生き生きとしたものなのかもしれない、と示唆する。展開し、動く実在は、自分を使い果たした実在よりも、いっそう完全で、いっそう限りのないものかもしれない。しかも、心的なもの自体に、知識や実在のなかで意味のある場所を与えられるのは、実在はその性質において発展的であり、その発展の手段は、主語と述語を定める際に心的なものを含む判断である、という見方だけである。知識を永遠の内容の表現と見なす見方では、心的なものは、論理的に説明のつかない余りものにすぎないのである。

第六章

判断の発展における典型的な段階

論理学は、知ることの一般的な働きを探究する。しかし、ふつういわれるように、知ることは判断として成り立つ。さらに、判断は、その発展のなかで、はっきりした変化を経ると考える理由がある。したがって、判断の働きと、その発展上の段階を理解することは、きわめて重要である。この探究では、第一に、判断という働きの性格について、ある前提を述べ、擁護する。第二に、その前提が、判断の典型的な諸段階に、どのように適用されるかを示したい。

一

判断は、本質的に手段として働く。これが、説明し、根拠を示すべき前提である。そのために、判断を意味として分析しよう。

私たちが知識と呼ぶものは、妥当な意味を見分けることに関わる。このことは否定できない。知るとは、物事の意味を理解することであり、物事の意味とは、妥当な意味と同じことである。判断は知識を確定し、その同じ行為によって意味を展開する。別の言い方をすれば、知識は内容の問題である。内容とは意味であり、意味が満足できる形で定められたとき、私たちは知識を持つ。したがって、判断する働きを理解したいなら、まず、意味の性質と役割を明らかにしなければならないことは、明白である。

意味は、どの場合も観念のうちに具体化される。知ること、意味を理解すること、観念を得ることは、同じである。さて、観念には二つの要因を区別できる。第一に、どんな観念も、心像、あるいは経験のなかで際立たされた部分を、基盤に持つ。観念作用のある形では、ほかの形より、心像の存在を直接に意識しやすい。しかし、どんな観念も、最も抽象的なものさえ、最終的な基盤なしには存在できない。第二に、どんな観念も、同時に、指示と統御の働きを持つ。指示としては、観念は、これからの経験と、その実現に必要な条件の見通しを、心の目の前に映し出す。統御としては、観念は、予期を実現へと変えるための手段なのである。[54]

この二点を、もう少し具体的にしよう。ゴールトン以来、観念が心像の形に具体化され、その形は、個人どうしでも、一人の個人の内でも違うということは、心理学では、ほとんど常識になっている。なるほど、抽象的な思考の形では、心像が消えるという主張もある。この反論には、二つの答えがある。一つには、多くの抽象的な観念を運ぶ言葉は、きわめて明瞭な種類の心像を伴う。もう一つには、どんな観念も、詳しく調べれば心像が見いだされる。指示と統御という性格のため、そのとき一時的に、どれほど目立たなくなっていても、そうなのである。さらに、観念の予期する側面を調べれば、成果に関しても条件に関しても、心像の存在はきわめて明らかで、ほとんど否定できないだろう。

第二の点は、いくつかの仕方で例示できる。日常生活では、予期と実現は、観念の性質と使い方に、切り離せない形で結びついている。『帽子』は、頭が守られるという予期と、その予期を実現するのに適切な条件を動かそうとする傾向を意味する。少年がナイフを『木を削るもの』と定義する場合にも、同じ要因が明らかにある。また、知性は、人間の自己意識に不可欠な要因だといわれる。これは、人間は誰でも、ある程度、自分が何をしているかを自覚している、という意味である。この自覚は、自分の行動の意味を理解し、さまざまな活動の結果を見通し、一定の結果に結びつく条件を前もって捉えることから成る。この領域で、ある人々を、際立って知的だというとき、それは、そうした人々が、普通の先見の範囲をはるかに超えて結果を見通し、それを適切な条件と結びつける、という意味である。最後に、科学的な知性も、本質的に同じ種類のものである。それは、自然のなかで働く、さまざまな種類の過程を理解し、こうして、一定の条件のもとで予想すべき結果について、情報を得ようとする。たとえば、ルイ・パストゥールは、研究から得た知識によって、炭疽の病原体を接種した動物が、生きるか死ぬかを、それ以前に予防接種を受けていたかどうかに応じて予測できた。言い換えれば、その情報は、病気を制御し、根絶するための手段となった。この例についていえることは、あらゆる科学にも当てはまる。科学者にとって、観念は『作業仮説』であり、予測と統御を可能にするかぎりでしか価値を持たない。科学者は、ふつう自分の発見の、いわゆる実用的な価値を見過ごすことがある。だが、やがて研究者の後に発明家が続くことも、同じく真実である。研究者は、自分の観念を構成し、その真理性を示すことで満足する。発明家は、研究者の仕事が真であることを前提にし、その観念を、つくり出すための原理として、生活の複雑な事情のなかへ持ち込む。どちらにとっても、『知識は力である』。ただし、その『力』は、違う関心との関係で実現されるかもしれない。しかし、そうであるなら、観念を、すでに存在する何らかの実在の、個人の経験のなかの写しと見なすことは、もはやできない。むしろ観念は、予期と、その実現に適切な条件とを構成することによって、経験を変容させ、方向づける道具なのである。その真偽も、ここにある。真の観念は頼りになり、予期から実現へと私たちを運ぶ。偽の観念は頼りにならず、約束した結果をもたらさない。

さて、道具一般の発展には、経験頼みの、多かれ少なかれ省察を伴わない製作の段階と、全面的に省察的な段階とを区別できる。使い方については、不慣れな操作と熟練した操作との区別がある。このことから、思考の働きにも、構成と統御の、ある典型的な段階を見いだせると予想される。次に、この点の探究へ注意を向けよう。

二

未熟な形から熟練した形へと発展するなかで、判断は、三つの典型的な段階を示す。非人称的、省察的、直観的な段階である。これらを、発展の順に考察しよう。ただし、まず注意したい。判断のこれらの段階は、低い段階には高い段階の兆しが一切ない、というような、厳密に固定された区別ではない。むしろ、連続した発展の過程のなかに置く、作業上の区別として受け取るべきである。

一 非人称判断。ギリシアの文法学者の時代以来、非人称判断は、論理学における変則的なものとされてきた。その理由は、すぐに分かる。アリストテレス以来、判断を分析すると、主語と述語が現れると主張するのが慣例になっている。論理的に見れば、この両者は、完全に相関しているように見える。エルトマンの言葉では、『基体のない出来事、主語のない性質は、まったく表象できない』からである。[55] しかし、どんな言語にも、It rains、It snows、Fire!、すなわち『雨だ』『雪だ』『火事だ』のように、直接述べられた主語を見いだせない、一群の判断がある。これらには、非人称、無主語という名が与えられた。難点はここにある。非人称の表現が述定を含むと認めるなら、一貫性を保つために、主語を探さなければならない。ところが、その主語は、どうしても姿を現さない。古くは、正統派の論理学者は、言語、すなわち話された、あるいは書かれた命題に、探索の範囲を限った。これに対して異端の批判者は、主語を用意するには、非人称の表現の自然な意味を、無理にねじ曲げるしかないと主張した。この状態は、近代の比較言語学の発展まで続いた。そして、非人称表現の it、あるいはそれに相当する語は、内容をまったく持たない、形式だけの語であると、疑いの余地なく立証された。言語は、主語を何一つ与えないのである。しかし、伝統の力は強く、探索は再開された。今度は、そこに関わる心的な過程に注意が向けられ、見かけ上は、以前より成果があった。主語が何かについて、全体の一致はないが、さまざまな見解を分類することはできる。(a)主語は普遍的で未確定である。(b)主語は個別的で、多かれ少なかれ確定している。(c)この両極の間には、考えうるほとんどあらゆる中間段階がある。

ユーバーヴェークは、非人称判断の主語は、現在の経験の現実の全体だとする。It rains の『雨が降る』という述語について、『何が、その主語なのか』と問うなら、特定の要素を一つだけ選ぶことなく、周囲の環境全般を指していると理解すべきだというのである。他方、ジークヴァルトは、主語は現実の感覚印象としてしか解釈できないとする。この意見の多様さは、理論の拘束力がなければ、非人称判断に主語を考えることは、ほとんどないだろうと示すようにも見える。それでも、非人称の表現を詳しく調べると、明確な場合も不明確な場合もあるが、感覚印象と観念との組み合わせを見いだせることは、認めなければならない。これは、正統派の論理学者に有利に見える。彼ならすぐに、感覚印象が主語であり、観念が述語だと主張するだろう。しかし、注意が必要である。述定とはふつう、述語を主語に関係づけることとされる。判断の諸要因は、いわば、互いに離して保たれる。非人称判断には、そのようなことは見いだせない。意味は、非常に緊密に一体となっていて、印象と観念は、完全に融合している。表現を分析すれば、両者を見いだせるかもしれない。しかし、そうすることで、非人称判断の本質的な特徴である直接性を、壊してしまう。言い換えれば、非人称判断は、自分自身を分析しない。自分がどうできているかを、まったく意識しない。それでも明確であり、正確に適用される。講堂にいて、火災警報が聞こえれば、『火事だ!』という考えが浮かび、行動がすぐに変わる。立ち上がり、静かに外へ出て、自分のすべきことに備える。他方、玄関の戸を開け、雨が顔に当たれば、『雨だ!』と声を上げ、振り返って傘を取り、雨を防いで外へ出る。どちらの場合も、分かったうえで、意味を持って行動するが、思考の動きも行動の動きも分析しない。省察を伴わない非人称判断に対応するものは、初期の慣習にも見いだされる。慣習は社会的な観念を具体化し、行動を定め、統御する手段である。慣習によって動く個人は、自分が何をしているかを知り、慣習の求めるとおりに正確に行動する。しかし、慣習が直接的で、省察を伴わないことは、よく知られている。それは、体系的な方法によらずに育ち、長い時代を通じて、経験頼みの活動がゆっくり積み重なった、社会的な統御の道具を表す。したがって、非人称判断にあるのは、使ううえでは高度な正確さを得ているが、疑われない行動の道具としての単純さと確かさを、なお保っている種類の知的な道具である。このため、省察して見れば、非人称判断がどれほど複雑な要素を示しても、それ自身にとって、その複雑さはない。したがって、非人称判断にとっては、主語も述語も、一方を他方に関係づけることもない、といったほうがよいだろう。これらの区別が生じるのは、行動の道具が疑われ、心が、それまでためらわずに使っていた意味へと向き直り、分析し、探究し、構成し、自分の道具の方法と機能を露わにするときだけである。こうして、新しい、独自の種類の判断、すなわち省察的な判断が生まれる。

二 省察的な判断。省察的な判断とは、その構造と機能が、自分自身にとって問題になった、意味の形と理解すべきである。素朴に信じ、自発的に行動する時代は過ぎた。問い、批判し、距離を置くことが、すぐ行動しようとする傾向を抑える。意味は、世慣れて賢くなり、それぞれの状況が自分を説明すること、自分の道具の一般原理と具体的な適用が明らかにされることを求める。そこで、省察的な思考のさまざまな形には、意味が、経験における自分の働きを、十分に自覚するに至る、順次の段階が見いだされる。

指示判断、省察的な種類のうち最も単純なものには、疑い、批判、構成、主張が、その表面に書きつけられている。たとえば、『それは熱い』という表現には、もっと単純な、非人称の『熱い!』に特有の、直接的で即座の反応はない。代わりに見られるのは、傾向どうしの衝突、しようとした行動の中断、行動の方針を考え直すことの要求と実行、新しい意味の出現、そして、それに応じた活動の方向転換である。炉辺にアイロンが置いてある。元の場所へ戻そうと手を伸ばす。熱の兆しに気づいて、突然止まる。『それは熱い』という考えが浮かぶ。試してみて、判断が正しいと分かる。布を探し、それで手を守って、最初の意図を実行する。また、猟師が茂みの動きに気づき、すばやく銃を上げ、撃とうとする。対象の動きの何かが、彼を引き止める。立ち止まり、『あれは人かもしれない』と考える。目を引いたものが行動を止め、応答を求める問題になった。状況が明らかになるまで、猟師は何をすべきか決められない。言い換えれば、どう行動すべきか納得するためには、その前に、対象が何かを省察して確かめなければならない。主語と述語が生じ、疑いから決断への移行のなかで、意識的にその役割を果たしたのである。

『個別判断』という見出しのもとには、『あの船は軍艦だ』『ロシアは中国の門戸開放政策に反対している』といった表現が分類される。どちらも、考え方の明確さと、意味の複雑さとが、一段進んでいることは明らかである。同時に、思考の動きが持つ、手段としての性格は変わらないと分かる。判断の主語を考えると、刺激は、一部は明確に定まった要因として、一部は問題、切実な要求として現れる。『あの船は軍艦だ』という表現は、『あれは船であり、軍艦という種類だ』と書ける。したがって、ジークヴァルトが『二重の総合』と呼ぶものになる。しかし、実際の判断で使われるとき、両者は結びつけて保たれ、一部分は明らかで、一部分は疑わしい、一つの刺激の言明をなす。難点を解くものは、『軍艦だ』という述語に与えられる。そこには、すべての判断の根本にある、手段としての特徴が、すぐ見て取れる。例を挙げよう。米西戦争のサンティアゴ海戦が終わるころ、水平線に煙が現れ、見慣れない船の存在を知らせた。たちまち注意がそこに向けられ、それは行動上の問題、行動の手段となる情報を求める要求となった。やがて軍艦と確認され、アメリカの艦船は戦闘準備を整えた。さらに近づくと、その国籍について新たな問いが生じた。いくらか議論した後、これも解決され、敵対的な示威行動はやめられた。

普遍判断には、二つの異なる形があるといわれることがある。しかし、検討の結果、この言い方は正しくないと分かった。事例を、それ自体として、その性格から切り離して受け取っても、論理的な意義はない。進歩をもたらすのは、事例を数えることではなく、重みを見定めることである。要するに、真の普遍判断は仮言判断であり、その理由は容易に示せる。仮言判断は、本質的に二つの方向を持つ。一方では、行動上の問題を、それを解決へと変える条件に即して述べる。他方では、行動の条件が定まれば、望む結果を得られると主張する。ここで、判断が、自分自身と、経験のなかで果たす役割とを、明確に意識するに至ったことに注意しよう。判断は、正当に使われるための基準、すなわち自らの真偽について、いまや洞察を得た。この洞察によって、その主張がどう正当化されるかは、ほとんど自明になる。仮言判断は、『これこれの条件が実現すれば、これこれの結果が得られる』というのだから、条件を実行に移し、約束された経験が与えられるかを見れば、主張を確かめられるのである。さらに、仮説としてまとめられた判断が、約束したことを実際に果たすことが分かった以上、仮言判断は、同時に定言的でもあると認めなければならない。この二つの要因は切り離せない。なるほど、仮言判断は、妥当な意味のすべてを、『一定の条件が実現すれば』という形にする。しかし、同じくらい明確に、積極的に、『これこれの結果が得られる』とも主張する。判断の仮言的な面と定言的な面との、完全な相関性を捉えるとき、判断が、その構造と働きを意識するに至った場合に持つ、本質的に手段としての性格が、すぐ分かる。判断は、問題を自覚するところに生じる。その問題を省察し、見定める。難しさが捉えられると、判断は、望む目的、すなわち自由で妨げられない行動を実現する条件の意識として現れる。先に挙げたパストゥールの仕事が、このことを例示する。彼の研究は、フランスの農業事情が突きつけた問題に始まった。ある病気のために、羊や牛を飼育して利益を得ることが、ほとんど不可能になっていた。長く注意深く調べた後、彼は予防接種の有益な効果を発見した。病気が発生する条件が明らかになり、この知識が、畜産家の行く手の難点を一つ取り除く道具を与えた。この例には、科学者が至るところで果たす仕事の縮図がある。生活のさまざまな活動を統御する道具を発展させ、正確に定式化することが、その仕事である。それぞれの道具は、部分においても全体としても、知的に構成され、試され、そのつくりと働きが、正確に知られる。そのため、判断の非人称的な段階に見られた、省察を伴わない信頼に代わって、理由に基づく信念が生まれる。初めは損失に見えたものが、実際には獲得だった。非人称判断がうまくいかなくなることは、自分が存在する理由、働く方法と条件を自覚する、行動の道具を発展させる最初の一歩だったのである。これらの方法と条件が、省察的な判断に固有の主語と述語を構成する。

こうして、この形の判断が持つ仮言的な性格と、その普遍性とのつながりに行き着く。いまや、それは十分に明らかだろう。省察的な判断は、行為の条件と結果との間の、客観的なつながりを明らかにする。実際にその出来事をつくり出すことで、自分の主張を証明する。そうであるなら、普遍性とは、同じ条件が実現するところならどこでも、同じ結果を予測できるということにすぎない。『人間は死ぬものである』が真なら、『人間がいるところには、どこでも死すべき性質が見いだされる』と述べるのは、同じ主張なのである。

この点から、自然に、選言判断『AはBかCかDである』の扱いへ進む。選言判断が求めるのは、信頼できる行動の道具をつくることではなく、どの道具が、その状況に正確に適合するかという疑いを解くことである。実際、選言判断には、実践上の問題を特定することが含まれる。ある人について、『あの人は、とても単純なのか、ひどく底が深いのか、どちらかだ』というとき、どちらの場合にも、どう行動すべきかについて疑いはない。単純なら、こうする。底が深いなら、別の行動方針を取る。選択肢に応じた行動の道筋は、前もって示せる。難点は、『だが、あの人は結局どちらなのか』にある。要するに、選言判断は、具体的な問題を正確に診断することへの要求であり、その試みである。例を挙げよう。失語症の患者が医師のもとへ連れてこられる。障害が失語症だということは、明らかかもしれない。しかし、正確には、どの型で、どこに原因があるのか。訓練を受けた医師の心では、問題は選言の形を取る。『これは皮質下性失語か、皮質性失語のどちらかだ。皮質下性なら知能は損なわれていないだろう。皮質性なら、感覚路と運動路は正常だろう。』適切な検査が行われ、皮質下性の可能性が除かれる。選言は消え、『これは皮質性失語の症例だ』という判断が現れる。しかし、今度は新たな選言が生じる。皮質性失語の感覚型か運動型か、どちらかであり、そのどちらについても、またいくつかの可能性がある。選択肢が現れると、それを見分ける手段も現れる。特定の症状が観察され、やがて医師は、『これは視覚型の感覚性皮質失語だ』という最終的な結論に至る。そう定めると、行動の方法が確かになり、適切な処置へと進む。こうして最後には、自分の動機、方法、正当化を意識するだけでなく、個々の事例への具体的な適用をも意識する判断の形に達する。判断は自分自身へと戻り、自分の働く領域を、すっかり定め終えたように見える。そして、ある意味では、そのとおりである。仮言的な形と定言的な形の動機を含む選言判断において、省察的な判断は、発展の限界に達したように見える。しかし、まだ一つ考えるべきことが残る。知的な道具の使い方が、不慣れなものから熟練したものへと発展することである。

三 直観的な判断。先に述べたように、直観的な種類の判断は、判断を使いこなす熟練に依存する。この点で、非人称判断と直観的な判断には、大きな類似がある。どちらも即座で正確である。しかし、根本的で本質的な違いがある。非人称判断は、省察的な判断の厳密な分析、洞察、構成する力を何も知らない。他方、直観的な判断は、省察の成果を含み、それを最高の力で発揮する。逆説的にいえば、直観的な判断には、あまりに多くの省察があるため、もはや省察を必要としない。直観的な判断には、ためらいも、距離を置くこともない。行動は直接的だが、完全に自覚的である。このような直観的な判断が存在することは、疑いない。どんな分野でも、ただの素人と熟練者とでは、意識の質がまったく違う。素人は、状況を見定めなければならない。苦労が多くても少なくても、その過程の部分は、一つずつ順に現れる。熟練者は、状況を一目で捉える。部分と全体が、同時に、直接に現れる。それでも、意味は完全に正確である。熟練者の判断は、このうえなく自覚的である。ほかの人が何をするか考えているうちに、熟練者はつかみ、有利な点を見抜き、調整し、動く。要求と解決とが、同時に一つになる。たとえば、熟練した球技選手の動きを、それ以外にどう説明できるだろうか。そのすばやい反応、その瞬時の調整を見てほしい。普通の選手なら決して気づかない相手のミスを見つけ、それを利用する。新しい隙が見えた瞬間、どう合わせるかが明らかになり、動きが実行される。音楽や軍務など、ほかの生活の領域からも、同じ趣旨の例を挙げられる。直観的な判断が、もっと一般的には見られないということ自体、その独自の性格と価値の証明である。自分の特定の経験分野に熟練し、行動の道具を正確に統御できるようになったかぎりでのみ、直観的な判断の出現を期待できる。したがって、それは、技法と使用において完成された、判断の働きの最終的な成果なのである。

結びに、探究を短くまとめ、現在のいくつかの判断論を批判しよう。

判断は、本質的に手段として働く。その機能は、経験を構成し、正当化し、磨き上げて、行為を通じて未来の経験を方向づけ、統御する、正確な道具にすることである。最初には、生活の厳しい必要に応じて、体系的な方法によらず発達した道具の形で現れる。より高い発展の段階では、手段として働く過程そのものが考慮され、体系的に発展させられる。ついには、科学の組織的な手順において、知識の一般原理が明らかになり、効果的な行動の道具が構成される。最後に、絶えず知的に使うことで、完全な統御が得られる。そうなると、ある領域では、使う道具の性質についての疑いやためらいは消え、最も賢明で、最も適切な使い方を決める際の、一契機としてだけ残るように見える。

ここでの批判は、判断の、手段としての性格に基づき、知識は実在の『写し』や『再現』だと主張する、あらゆる理論に向けられる。この『写し』の理論が、どんな形で述べられようと、どうやって観念を実在と比較し、その真理性を知るのか、という問いが、必ず生じる。この理論では、私たちが持つのは、つねに写しであり、実在は、その向こうにある。言い換えれば、そのような理論を論理的に徹底すると、知識は成り立たなくなる。自分自身の具体的な動きの内に基準を含み、構成する理論だけが、自らの構成を検証できる。手段として捉える理論が、それである。判断は、意識のなかに一つの状況を構成する。この状況で割り当てられた価値は、その先で見定められる価値に、規定する影響を及ぼす。到達した構成は、未来の幸不幸に関わる。こうして、状況を解釈し構成することに、真偽の感覚が徐々に結びつく。この状況をどう見積もるかは、その状況自身を超える意味をはらむため、その向こうを見なければならないと分かる。そこから、批判的に省察する判断が生まれる。そのなかでは、ためらいや疑いは、状況そのもの全体にではなく、状況を定義し、特定する際の態度、要素、道具へと向けられる。状況そのものに質や意味を割り当てて、経験の複合体を展開する代わりに、個々の質の一つを選び、その意義を定めようとする。それが、一時的に、判断される状況になる。あるいは、それまで直接につかみ、用いてきた、ある『観念』や価値についても、同じことが起こる。どちらの場合も、省察的な判断、すなわち構成的な判断から区別された、純粋な関係の判断が生じる。しかし、繋辞を用いて、特定の述語を特定の対象に関係づける、この関係の判断も、結局は、経験を構成する、ある直接的な判断を統御するためにだけある。それが実現されるのは、個別化された状況に、すばやく正確に心を合わせる、確かな習慣が形づくられることにおいてなのである。

第七章

仮説の性質

帰納論理学の著作や、科学的方法についての論考に現れる、仮説をめぐるさまざまな議論では、その構造と機能は、かなり注目されてきた。しかし、その起源は、比較的軽視されてきた。仮説は一般に、新しい事実や、説明されていない事実を扱うため、明確な計画や方法が提案される段階を示す、科学的手順の一部分とされてきた。与えられたものを説明するための工夫、経験に訴えて検証すべき明確な推測と見なされる。その検証では、仮説に従って演繹したことが、実際に真であると分かるかどうかを調べる。仮説の働きは、統一し、物事を扱う方法を与えることであり、その構造は、この目的に適していなければならない。妥当だと確かめられそうな形につくられなければならず、著述家たちは、仮説をつくる際に従うべき、さまざまな規則を定式化してきた。これらの規則は、よい仮説に必要な主な条件を述べ、仮説が収まるべき一定の範囲を指摘して、一般的な助けとなることを意図している。

仮説の起源については、著述家たちは、ふつう、どのような状況で仮説が現れやすいかを指摘することで満足してきた。しかし、そうしたことを述べ、都合のよい外的条件を与えた後は、残りは『天才』に任せるしかない。仮説は、どんな規則も法則も与えられない、『うまい思いつき』として生じるからだというのである。実際、天才が、普通の、こつこつ働く人と違うのは、ほかの、それほど恵まれていない人には、つながりのない経験の集まりにしか見えない、同じ事実のただなかで、実りある仮説をつくる、まさにこの能力によるのである。

仮説の起源よりも構造と機能に重みが置かれてきた、この偏りには、三つの理由を考えられる。(一)仮説が扱う材料である事実、すなわちデータは、誰にも同じように与えられると見なされる。また、誰もが多かれ少なかれ、経験を体系づけ、統一することに関心を持つ。したがって、仮説の目的も、それをつくる機会も、実際上は誰にとっても同じである。そこで、仮説を使うすべての場合に適用できる、一定の明確な規則を立てられる。(二)しかし、その先には、定式化できる手がかりがないように見える。暗算を瞬時に行う方法を説明せよと迫られ、途方に暮れて、『神様がぼくの頭に入れたんです。ぼくには、あなたの頭へ入れられません』と叫んだ少年ゼラ・コルバーンの、最後の答えが、多かれ少なかれ公然と受け入れられているようなのである。[56](三)さらに、与えられたものとして受け取るものの起源を調べることを、無視しようとする強い傾向が、しばしばある。すでにそこにあるのだから、起源がどうであれ、現在それが何であるかとは無関係だ、というわけである。事実、データは、ここにある。現にあるとおりに扱わなければならない。その過去、その歴史や発展は、まったく関係がない。したがって、仮説を心理学の側から、もっとさかのぼれたとしても、その探究は無用だということになる。よい仮説が従うべき規則は、変わらないからである。

ゼラ・コルバーンの究極の説明が論理学に不要であることを、ラプラスが自分の天体力学について、同種の説明は不要だと述べたのと同じように、示せるかどうかは別として、心理学的な探究をさらに進めることで、少なくとも、その説明を持ち出すのを、いくらか先送りできるかもしれない。仮説の起源についての心理学的な探究は、その構造と機能の理解に無関係ではない、と分かるだろう。起源と機能とは、切り離して理解できず、構造は機能に適していなければならない以上、起源から独立することもできないからである。実際、起源、構造、機能は、有機的につながっており、互いから完全に切り離されると、それぞれの意味を失う。さらに、ふつう、与えられた材料と見なされるデータは、後から仮説を適用する相手ではない、と分かるだろう。データと仮説がそのような外的な関係にあるのではなく、何がデータなのかを定める際に、仮説が方向づけの働きを果たすのである。要するに、本論の主な目的は、仮説を見る、一つの便利な、特定の見方にすぎないものを、完全で十分な見方にしてしまうことに反対することである。私たちは、事実と、それに適用できる仮説とを語る。しかし、どんな仮説を適用しても同じままである事実はない、ということを忘れてはならない。また、素材を事実として捉えやすくするように扱う、その働きとの関係を離れては、仮説といえるものも存在しない。データは、規定されるために選ばれ、仮説は、その規定を進める仕方である。これから示そうとするように、データと仮説の関係が外的ではなく、厳密に相関的なのであれば、演繹と帰納、分析判断と総合判断、真理の基準をめぐる問いで、この事実を考慮しなければならないことは明らかだ。形而上学的な問題の探究でも、その関わりを認めなければならない。実在は、知る過程から独立できないからである。要するに、この仮説の議論の目的は、そのやや不明瞭な起源の探究を通じて、仮説の性質を、もう少し正確に定めること、そして、その働きのうち、これまで一般に十分な意義を認められてこなかった、ある特徴に注意を向けることである。

一

述語としての仮説。仮説の働きは、組織する必要のあるデータや素材を扱う方法を与えることだ、と一般に認められている。この使い方では、仮説は、解釈されるべきデータや事実を主語とする判断の、述語という役割で現れる。

ケプラーは、太陽の周りを回る惑星の運動を、何らかの一般式にまとめようとして、ついに、後にケプラーの法則と呼ばれる法則に行き着いた。各惑星の公転周期の二乗は、太陽からの平均距離の三乗に比例する、というものである。この法則は、初めは仮説として、暫定的に提出された。受け入れるべき理由が証明されるまで、ケプラーは、その真理性を確信していなかった。ニュートンも、最初から引力の法則に大きな確信を持っていたわけではなく、月の観察で試す最初の試みに失敗したときには、それを捨てる用意があった。ダーウィンや、ほかの研究者たちが、仮説を受け入れる際の慎重さについても、同じことがいえる。暫定的な定式化や示唆をすぐに受け入れず、極度に慎重だった理由は、ほかの説明のほうが正しいかもしれない、という懸念だけである。ほかの可能性を退けることは、この問題の否定的な側面である。ほかの可能な説明への信頼を失うにつれて、自分たちの仮説が正しいという確信を得る。そして、循環に陥ることなく、逆も付け加えられる。自分たちの仮説への確信が強まるにつれて、ほかの可能性への信頼を失うのである。

ケプラーやニュートンのような、複雑な仮説の場合には、肯定的な側面と否定的な側面の関係は、そのようなものかもしれない。しかし、もっと単純な仮説でも、同じなのだろうか。仮説が単純で、定式化と検証にかかる時間がずっと短いからといって、なぜ事情が本質的に変わるのか、理解しにくい。問いは残る。対立がないなら、なぜ不確かさがあるのか。したがって、どんな場合にも、仮説は、判断の素材として受け取られたデータに適用できる、ほかの可能な述語の一つとして現れるのである。

仮説としての述語。では、仮説が述語だとしよう。逆に、述語は必ず仮説なのだろうか。これが次に答えるべき問いである。述語を判断から切り離して考えることは、ほとんどできないため、この問いは、判断の性質に関わってくる。

挙げうるさまざまな判断の定義を、詳しくすべて説明する必要はない。しかし、主なものをいくつか挙げれば、さらに何かが必要だと示せるだろう。判断の定義では、主観的な側面が強調される場合もあれば、客観的な側面が強調される場合もあり、両者を組み合わせようとする場合もある。たとえば、ロッツェは、判断を、二つの概念の統一ないし関係についての観念とし、さらに、そのつながりが、指示される対象について成り立つという含意を持つとする。J・S・ミルは、どんな命題も、存在、共存、継起、因果関係、類似のいずれかを、肯定または否定すると述べる。トレンデレンブルクは、判断を、物事の現実のつながりに対応する思考の形式と見なす。ユーバーヴェークは、少し違う言い方で、判断の本質は、観念の主観的なつながりに、客観的な妥当性を認めることにあるとする。ロイスは、模倣の過程を指摘し、判断に入ってくる観念を用いて、私たちは描き出そうとするのだと主張する。観念は、その性質において模倣的なのである。ジークヴァルトの見方では、判断とは、何かについて何かをいうことである。彼にとって判断は総合の過程だが、ヴントは、その性質を分析的とする。概念を全体へと結びつけ、組み合わせるのではなく、全体的な観念や表象から、概念を分離して取り出すのだという。部分を全体に融合するのではなく、全体を、その構成部分へと分けるのである。ブラッドリーとボザンケは、ともに、判断において観念上の内容が実在と関係を持つ、とする。ブラッドリーによれば、どんな判断でも、実在は、象徴的な観念によって、その性質を定められる。観念上の内容は、そのようなものと認められ、行為の向こうにある実在に関係づけられる。これが判断の本質である。ボザンケは、観念と実在との間に、もっと緊密な関係を認めるように見える。判断を『意味のある観念によって実在を規定する知的な働き』という一方で、『実在が私の意識の内にも外にもあるように、主語は判断の内にも外にもある』ともいうからである。

これらの判断の定義では、どれも述語は観念的なものとして現れる。ある観念上の内容が、何かについて述べられる。その何かを、観念と見なしても、向こうにある実在と見なしても、一部は判断の行為の内に、一部はその外にある実在と見なしても、そうである。また、述語を、ふつう判断を分ける三つの部分の一つと考えても、ボザンケやブラッドリーとともに、主語、述語、繋辞をすべて合わせたものが、一つの観念上の内容をなし、何らかの仕方で実在に適用されるといっても、観念的であることに変わりはない。しかも、私たちは実在について判断するだけでなく、判断するかどうかは、実在にとって、まったくどうでもよいことのように見える。

私たちの判断は、多くの場合、偽だと分かる。判断を誤るだけでなく、誤りを恐れて、判断をためらうこともしばしばある。ほかの可能性を感じるため、述定が暫定的になる。ここには、仮説とよく似たものがある。観念上の内容は、ほかの選択肢があるなかで、実在の性質を定め、体系づけようとする、暫定的な試みとして現れるからである。したがって、これまで挙げた判断の見方に基づけば、仮説が判断の述語として位置を占めるだけでなく、述語そのものが、本質的に仮説の性質を持つように見える。

ここまで取り上げた判断の見方では、判断が何らかの仕方で扱おうとする相手だと、一般に認められている実在は、判断の行為の外にあるように見える。さて、判断によって何らかの前進があり、判断の前より後のほうが、物事をよくつかんでいると、誰もがいうだろう。しかし、実在が、判断の行為の外、その向こうにあるなら、どうしてそれが可能なのか。いま得ている実在は、初めに持っていたのと同じなのか。そうなら、実在そのものについては、何も前進していない。その捉え方だけが変わったのなら、以前より悪くなっている可能性が、なぜないといえるのかも明らかでない。実在が、本当に判断の向こうにあるなら、近づいたのか、さらに遠ざかったのかを、そもそもどうして知れるだろうか。近づいたと主張することは、少なくともある程度、実在に到達するということを含む。そうなら、実在が判断の行為の向こうにあり、それから独立しているということを、どう理解すればよいのだろうか。

判断の、さらに進んだ分析。判断をさらに調べても、述語は仮説だと分かるのかどうか、それが次の課題である。ある場合、判断は、多かれ少なかれ明確な省察の過程の終わりに現れる。その途中では、ほかの可能な判断も浮かんだが、退けられている。科学的発見の歴史には、新しい理論が発展する過程の性質を示す例が満ちている。たとえば、ダーウィンの『ミミズの作用による肥沃土の形成』には、彼の仮説が発展する、相次ぐ段階の記録がある。ダーウィンは、観察から、肥沃土は、まだ特定されていない何らかの作用によるのではないかと疑った。そして、肥沃土がミミズの生活習性の結果であるなら、つまり、ミミズが地下から土を運び上げ、その後、風雨がそれを広げるのなら、地表にある小さな物は、徐々に地中へ見えなくなっていくはずだ、と推論した。事実は、その理論を支えるように見えた。赤い砂の層、白亜のかけら、石が、それぞれ程度の違いはあるが、地表の下に沈んでいると分かったからである。従来の一般的な説明は、重い物は、自分の重みで、柔らかい土に沈むというものだった。しかし、ミミズの仮説によって、データがもっと注意深く調べられた。物の重さも地面の柔らかさも、目立つ違いをもたらさないと分かった。砂や軽い物も沈み、地面は必ずしも柔らかくなかったのである。一般に、ミミズが見いだされるところには肥沃土もあり、その逆も成り立つことが示された。

ダーウィンのこの探究では、石が沈むことについての、対立する説明が、ミミズによる肥沃土の形成という、主な問いの内に現れる。石の沈下についての古い理論に合わない事実には、この新しい理論を通じて近づいたのである。しかし、両理論には、共通するものがあった。石やほかの物が見えなくなる、ということだ。違いは、この消失を、さらにどう規定するかにあった。この例では、石の沈下についての通説に反する事実が、食い違いを持つと分かったのは、ミミズの仮説が提出された後でしかなかった、というようにも見える。新しい事実と古い理論の衝突は、新しい理論の影響によって生じたように見えるのである。

しかし、事実が、古い理論を明らかに否定し、そこから新しい理論が生じるように見える例もある。たとえば、ダーウィンの『種の起源』の序論には、次の言葉がある。『種の起源を考える際、博物学者が、生物の精神的な類縁性、その発生学的な関係、地理的な分布、地質学的な継起、その他の同様の事実を省察して、種はそれぞれ独立に創造されたのではなく、変種と同じように、ほかの種から生じたのだ、という結論に至ることは、十分に考えられる。』この言葉からは、独立した創造という古い理論では、十分に説明できないデータが見つかったように見える。しかし、別の解釈の仕方が、すでに心に浮かび始め、それによって、受け入れられていた考察や見方を見直すよう促されていなければ、博物学者が、これらすべての主題を比較して『省察』することは、まずないだろう。

訳注

本書の原文は mental affinities であり、参照した一九〇九年版一五一ページの印刷面も同じため、引用本文では「精神的な類縁性」と訳した。ただし、引用元であるダーウィン『種の起源』一八五九年初版の序論三ページの印刷面では mutual affinities(相互の類縁関係)となっている。

もっと単純な例として、近づいてくるもの、たとえば人が、誰なのか分からないという、よくある経験を挙げられる。初めは、人かどうかさえ確かでないかもしれない。やがて誰かだと分かり、近づくにつれて、知人ではないかと思う。その知人らしい人が、さらに近づくと、ある特徴を見分けて疑い始め、知人だという想定を捨てるかもしれない。あるいは、近づく人は、自分の知る別の人物だと、すぐ結論するかもしれない。その場合、一人からもう一人への移行は、非常に容易に起こるため、合わない特徴が、新しい想定が生じる前から合わなかったのか、それとも、第二の人物が念頭に浮かぶまで、食い違いと認められなかったのか、決めにくいだろう。あるいはまた、新しい人物を特定することと、最初の想定に反する特徴を見つけることとが、同時に進むように見えるかもしれない。

さて、この比較的単純な判断と、科学的研究の、はるかに複雑な判断との間には、目立った類似がある。長く続く科学の過程では、古い理論に反するデータが見つかり、それを説明する新しい仮説が生まれる。仮説が試され、それが確かめられるとともに、古い理論が退けられる、というより修正される。同様に、近づいてくる知らない人の場合にも、目立ち方は小さいが、これらの特徴はすべてある。科学的探究には、データをより注意深く考察し、ときには実際に実験することによって、検証する期間がある。一つの説明が、検証を受けるものとして受け入れられる前には、ほかにもいくつかの説明が浮かび、退けられているかもしれない。それらは、明示的に認められさえしなかったかもしれない。知らない人を特定する場合にも、この特徴はある。かなり明確な二つの特定の試みの間で、心は、空白のまま、あるいは止まったままでいるのではない。ほかの特定の可能性も浮かぶかもしれないが、真剣な注意を引くほど、もっともらしくはない。それらは、比較的短い示唆や傾向にとどまるのである。

これらすべての例で、最初の想定は、全面的に捨てられたのではなく、修正され、もっと正確に定められたことに注意したい。なぜ最初のものが完全に偽で、新しいものが全面的に新しいというわけにはいかないのかは、後で、習慣の持続と組み直しを論じる際に考える。古い理論は、新しいデータの要求を満たすように修正され、こうして新しい説明には、古い特徴と新しい特徴の両方が含まれたのである。

科学的な判断の述語は、あるデータに意識的に適用される仮説であることを見た。科学的な判断と、もっと直接的で単純な判断との類似を維持するなら、単純な判断の述語も、同じ性質を持たなければならないことは明らかだ。両者の構造が違うのは、仮説がどれだけ明示的になるか、その程度だけである。つまり、判断の述語は、そのものとして観念的であり、意味であり、意味を持つ質である。条件によって、判断する人がためらい、疑いを持つなら、心は揺れる。述語は、すぐにはデータを規定し、その性質を定めるために適用されず、したがって、それ自体として、より明確に意識されるようになる。『観念的な』ものから、一つの観念になるのである。それでも、その唯一の目的と価値は、データを解釈するために使える可能性にあり続ける。観念が切り離されたままとなり、それが正しい述語なのか、つまり、現在のデータを規定するために、本当に使えるのかという問いが、さらに批判的になれば、その観念は、明確に仮説になる。[57] 言い換えれば、仮説とは、判断の述語としての働きが、はっきりと捉えられ、その性質と適切さに関して考えられたものにほかならない。

判断の心理学的な分析。述語がこのように仮説的であることは、心理学的な分析をさらに進めれば、いっそう明らかになるだろう。この分析は、単純で直接的な判断に、より直接に当てはまるが、もっと複雑な判断にも広げられる。

心理学の言葉で判断の過程を説明すれば、行動を促すある刺激が、刺激として適切に働かなくなり、そのため、進行中の活動が中断された、といえる。いつもの仕方での反応が、うまくいかなくなったのである。こうした場合、経験のなかに、主語としての感覚内容と、述語としての観念上の内容との分化が生じる。言い換えれば、活動は、確立された習慣に従って進んでいたが、慣れた刺激が、もはや適切な刺激ではなくなると、その個別の活動は止まる。新しい、あるいは変化した刺激に適合する、新しい習慣が確立されて初めて、活動は、まとまった形で再開される。この再構成の過程において、主語と述語が現れる。感覚的な質は、緊張のかかる点、あるいは止まったように見える点を示す。他方、観念的な、あるいは心像としての側面は、続いていく活動を、先へ投じられたものとして定め、したがって、障害に取り組む出発点となるものを定める。それは、物事を見る立場、示された行動の仕方として働く。感覚は、中断された習慣を表し、心像は、新しい習慣、すなわち素材の新しい扱い方を表すのである。[58]

したがって、判断の目的は、適切な刺激を得ることにあるように見える。刺激と反応が互いに調整されれば、活動が再開されるからである。しかし、この再構成と反応が、すぐに続いて起こるなら、明確な判断の行為など、そもそもあるのだろうか。その場合、厳密にいえば判断はなく、判断をする機会もない。一つの活動の筋道から、別の筋道への、すみやかな移行があるだけだろう。新しい要求に応じて、反応の方法を、容易に、すぐに変えることになる。一方では、素材は、扱わなければならないと明確に認められたデータにはなっていない。他方では、それを解釈する観念上の方法もないだろう。[59] 活動は、中断せずに変化し、主語も述語も生じなかったことになる。

判断が起きるためには、中断と宙づりの状態がなければならない。では、この宙づりと不確かさは、どのような条件のもとで可能なのか。答えは、多かれ少なかれ明確に定まった選択肢があるから、ためらうのだということである。どの述語、どの反応の方法が正しいのか、確かではない。こうした選択肢が、どれだけ明確に心に浮かぶかは、判断の明示性の程度による。より正確には、判断の明示性が、選択肢の鮮明さに依存する。熟慮する判断のように、選択肢どうしが慎重に比較されることもあれば、日常の行動の、もっと単純な判断の大部分のように、選択肢だとほとんど気づかれないこともある。

述語は本質的に仮説的である。考察してきた判断の種類を短く振り返ると、明示的な科学的判断では、かなり明確に定まった素材があり、それをさらに規定しようとする。さまざまな示唆が、それぞれ違う程度のもっともらしさを伴って現れる。現れた途端に見送られるものもある。一時的に認められるものもある。明示的に試され、その結果、受け入れられたり、退けられたりするものもある。一つの説明を受け入れることは、別の説明を退けることを含む。検証や試験の過程では、新たに提出された想定が、多かれ少なかれ疑わしいと認められる。暫定的に適用される仮説以外にも、ほかの可能性が認められている。選言判断では、これらの可能な反応は、明確に定められた、ある選択肢に限られると考えられる。他方、明示性の低い判断では、それほどはっきり示されない。最も複雑で熟慮的なものから、最も単純で直接的なものまで、さまざまな判断の形式を通じて、種類は同じで、程度だけが違う過程をたどれることが分かった。最後に、いくつかの特徴が消えるように見える、最も直接的な判断でも、同じ説明が最も合理的に見えるだけではない。心理学の側から、もう一つの考慮も加わる。判断に、この疑わしく、暫定的な性格がないなら、反射とは異なる判断が、どうしてありうるのか、理解しにくいのである。したがって、全体を通じて、述語は本質的に、素材を扱う仮説の性質を持つように見える。そして、どれほど単純で直接的でも、どれほど複雑で長く続くものでも、判断は、本質的に、中断された経験の再開を目指す再構成の過程と見なすべきである。また、経験そのものが、意識的に知的な事柄となった場合には、統一された客観的な状況の回復を目指す過程なのである。

二

仮説に関する、いくつかの見解への批判。ここまでの仮説の説明によって、経験論の学派と合理論の学派で、仮説がどのように扱われてきたかを批判できる。両学派は、対立する見解にもかかわらず、共通の想定を持っていることを示したい。それは、固定的な、あるいは手段としてではない仕方で、何かが与えられているという想定である。その結果、仮説は不可能か、さもなければ無用になるのである。

ベーコンは一般に、スコラ学の衰退とともに、それに反発して起こった帰納の運動の指導者と認められており、極端な経験論の立場の、よい例となる。権威と演繹的方法の代わりに、ベーコンは、自然への回帰と、観察によって与えられるデータからの帰納を唱えた。彼が提唱した新しい方法には、積極的な側面と、否定的な側面との両方がある。積極的な一歩を踏み出す前に、身についたさまざまな誤った意見や偏見を、心から取り除かなければならない。『幻影』、すなわち『イドラ』から心を自由にする、この予備的な仕事を、ベーコンは脱穀場の掃除にたとえた。それが済んだら、自然に注意深く問いかけるべきである。性急な一般化があってはならない。真の方法は、『感覚と個別の事例から公理を集め、絶えず段階を追って上昇し、最後に最も一般的な公理に達する』からである。ベーコンの公理は、観察に基づく一般化であり、演繹的に適用される。しかし、彼の帰納を特徴づけるのは、注意深く段階づけられた歩みである。たとえばガリレオのように、ほかの人々も慎重に進んでいた。しかしベーコンは、彼ら以上に、段階の順序立った従属関係を重視したのである。

ベーコンが、仮説にほとんど場所を残さなかったことは明らかである。それは、どんな『幻影』によってであれ、自然を先取りして考えることを嫌った態度と一致する。彼は、明示的にさえ、こう述べた。『私たちの科学的発見の方法は、その性質上、天才の鋭さや力量に委ねられる部分は多くなく、天才や知性のあらゆる程度を、ほぼ同じ水準に置くものである。』[60] ベーコンは、仮説の働きを説明しなかった。彼の考えでは、仮説は、科学の手順のなかに正当な場所を持たず、邪魔な要素として追い払わなければならなかった。仮説とデータの相互関係では、仮説は経験によって試されるだけでなく、同時に、それを試す経験そのものを、ある程度統御する。しかし、その代わりにベーコンが求めたのは、直接観察によって、自然から一般法則を徐々に取り出すことだった。彼は、概念が歪みをもたらすことを、あまりに恐れるため、どんな条件でも概念を受け入れようとしない。先入観、すなわち偏見の影響を恐れるあまり、観念に依存する判断を認めない。観念には、事実の先取りが含まれるからである。個別の事実が、何らかの仕方で自ら配列され、分類され、概念のない心のなかに、ある一般化を記録し、登録するはずだというのである。観念は、与えられた個別の事実から派生し、記録されたものであるべきだとされる。この見方が、論理学説としての経験論の本質である。先に示した思考の論理についての見方が正しいなら、このような経験論が自己矛盾を免れないことは、いうまでもない。それは、主語だけによって判断を構成しようとする。しかし、主語は、すでに見たように、つねに、述語、すなわち観念、心的な態度、あるいは知的に規定しようとする傾向に対応するものである。したがって、判断の主語は、述語を対応して定めることとの関係でのみ、定められる。主語と述語、事実と観念の関係は、前後に並ぶものではなく、同時に成り立つものなのである(一一〇―一一二ページ参照)。

もう少し専門的でない言い方をすれば、ベーコンが、論理学の経験論と正確に歩調を合わせて、仮説の価値を否定した、その失敗は、実験と観察に対する態度に現れる。実験を軽視したことは、偶然の見落としではなく、概念や先取りは無価値だとする見方と結びついている。実験するとは、事実からだけでなく、観念からも出発し、その観念に従って、事実を解釈し、ときには発見しようとすることである。実験は、予期するだけでなく、その予期を実証しようと努める。もちろん、この努力は、各段階で、成功か失敗かによって確かめられる。したがって、仮説は絶えず、程度の割合を変えながら、確認と変容の両方を受ける。しかし、だからといって、仮説を事実に対して二次的なものとするわけではない。両者の区別と関係は、徹底して同時に成り立つ、という命題に忠実であり続けるだけである。ところが、実験と科学的観察との間にも、固定した境界線を引くことはできない。個別の事実を、体系的に観察し、集める必要を主張することは、印象を行き当たりばったりに集めることとも、曖昧な思弁とも異なる原理を立てることである。方向づけられた観察があるためには、何らかの問題、何らかの疑いとの関係がなければならない。それは、見たように、心を、ある反応の態勢に置く刺激である。統御された観察は探究であり、探索である。したがって、何かを探すのでなければならない。自然は、問いが投げかけられなければ、問いに答えられない。そして、問いを立てることには、予期が含まれる。観察者は、何かを求めているのでなければ、何についても問い、何かを探すことはしない。この探索は、与えられた個々の事実が不完全であることと、それを完全にする可能性、すなわち観念的なものとを、同時に含むのである。

やがて自然科学の発展は、ベーコンよりも、実際の手順をよく理解することを要求した。経験論は実験主義へと変わった。実験主義とともに、事実を観察し、集め、比較する際の仮説を認めることが、必然的に伴った。たとえば、ニュートンの実り豊かな研究が、ベーコンの考えに従って行われたものでないことは明らかだ。ニュートンの有名な、哲学するための四規則[61] は、実際には、仮説をつくるときに守るべき、ある原則を述べたものだということも、きわめて明らかである。これらの規則は、科学の技法が、仮説を、あまりに恒常的で不可欠な要因とする段階にまで進み、その使用について、ある共通の条件を定められるようになったことを含んでいる。とりわけ第四規則は、反対の仮説を考える根拠が生じるまでは、仮説そのものに相対的な妥当性を認める、という主張である。

その後のイギリスの論理学説の歴史は、経験論的な論理学の理論と、実験科学の手順を認めることとを、一つの体系に結びつけようとする試みによって方向づけられる。この試みは、ジョン・スチュアート・ミルの論理学において頂点に達する。彼が、自分の理解する実験科学の実際の手順に関心を持ち、忠実であったことは疑えない。また、序論を次の言葉で結んだときの誠実さも、疑えない。『本書で述べた命題は、一つとして、思索の世界がまだ決着を見ていない、知識や探究のいずれかの領域における、あらかじめ抱かれた意見を確立するために採用したものではない。また、その確立に役立つかどうかを考慮して採用したものでもない。このことを、私は良心にかけて断言できる。』しかし、ミルは、もう一つの信念にも、同じように固く結びついていた。人間の心にとっての究極の実在は、観念から独立して、感覚のなかに与えられる。そして、妥当な観念はすべて、そのように与えられた材料の組み合わせであり、便利な使い方だ、という信念である。まさにミルの誠実さのために、この信念が、思考の過程と、そのさまざまな道具の扱いを、あらゆる点で規定せずにはいられなかったのである。

第三編第一四章で、ミルは説明の論理を論じ、この主題を扱ううえで、当然、科学的な仮説を適切に使う問題を考える必要に迫られる。ここでは、科学的発見の技法に現れている、仮説の使い方の観点から論じられる。第四編第二章では、『抽象、あるいは概念の形成』を論じる。これは明らかに、仮説の形成を含む主題である。この章の考察は、科学の手順によってではなく、一般的な哲学理論によって進められる。しかも、ヒューウェル博士のある見解に反対していることによって、この観点が強められている。

この二つの章の言明の間の矛盾は、すでに示した二点を、はっきりさせるのに役立つ。すなわち、所与と仮説とが対応する性格を持つこと、そして仮説が、問題のある状況に生まれ、そのため、統一と解決の道具として使われることである。ミルはまず、仮説は、現象に演繹的方法を、もっと早い段階で適用できるようにするために工夫される、と指摘する。それは、帰納、推論、検証という三つの段階のうち、最初を省くことで可能になる。彼はいう。

複雑で、ひと目には混乱して見える、どのような現象の集まりでも、その規則性をたどる過程は、必然的に試行的である。私たちは、どんな帰結が生じるかを見るため、何らかの想定、偽の想定でさえ、まず置いてみる。そして、その帰結が実際の現象とどう違うかを観察し、想定をどう修正すべきかを学ぶ。……結果を先取りすることから、しばしば始めるのでなければ、帰納も演繹も、最も単純な現象さえ理解させてはくれない。その先取りとは、探究の最終目標そのものを構成する、ある概念について、初めは本質的に推測にすぎない、仮の想定を置くことなのである。[62]

さらに、ミルによれば、自然の直接的な経験は、つねに複雑で混乱した現象の集まりを示すのだと認めれば、まだ得られていない可能な経験の予期としての観念の重要さは、疑いなく分かる。そこで彼は、こういう。

ひと目に捉えられる自然の秩序は、一瞬ごとに、混沌の後に、また別の混沌を示す。それぞれの混沌を、個別の事実へと分解しなければならない。混沌とした先行するもののなかに、多数の別々の先行条件を見いだし、混沌とした後続するもののなかに、多数の別々の帰結を見いだせるよう、学ばなければならないのである。[63]

同じ章の次の節で、彼はさらに、さまざまな先行条件と帰結とを区別したら、『どれがどれと結びついているかを問わなければならない』と述べる。そのためには、複雑で混乱したものを、さらに分解する必要がある。これを行うには、状況を変えなければならない。目的を達するために、与えられた経験を修正しなければならないのである。この目的を達するため、観察か実験を用いる。『自然のなかに、私たちの目的に適した事例を見いだしてもよいし、人為的に状況を整えて、一つつくり出してもよい。』なお、『私たちの目的に適した』の斜体は筆者、それ以外はミルによる。続いて彼は、観察と実験の間には、本当の論理的な区別はないと述べる。実験的探究の四方法は、直接の経験の混沌と混乱から、実際に一組となる先行条件と帰結とを選び出し、結びつける価値という観点で、ミルによって明示的に論じられているのである。

これらの言明を、互いの論理的なつながりのなかで受け取れば、方向づけられた探究や科学的操作を行うために、仮説が絶対に必要であることが分かる。このつながりは、科学的探究についてのミルの議論全体を貫いている。したがって、彼が『仮説の働きは、科学において絶対に不可欠なものと数えなければならない』といい、また、『仮説は、観察と実験を示唆することで、独立した証拠へ至る道に私たちを置く』というのを見ても、驚きはしない。[64]

ミルは、科学の手順の観点から、ここで述べた観念の必要性を、理論的な観点からは、事実上撤回する。その撤回は、ヒューウェル批判に伴うものなので、まずヒューウェルの見解に目を向ければ、議論をよりよく見通せるだろう。[65] ヒューウェルは、初めに、ある区別を述べる。それは、本章、ひいては本書全体で示している立場に沿った、事実と観念の関係の理論へと、容易に発展させられたはずのものである。彼は、理論と実践との区別が固定していることを疑う(第二章)。私たちが事実と呼ぶものは、実際には、受け入れられた推論にすぎず、理論と呼ぶものも、しっかり確立されるにつれて、事実と呼べるようになる、と指摘する。真の理論は、事実なのである。『世界で次々に確立されてきた、すべての偉大な理論は、いまや事実と考えられている。』『最も難解な理論も、確実に立証されれば事実として受け入れられる。最も単純な事実にも、理論の性質を持つ何かが含まれているように見える。』

結論は、この区別は歴史的なものであり、その時点の知識の状態と、個人の態度に依存する、ということである。ある時代にとって、あるいは、その時代のある探究者にとって理論であるものが、別の時代には、あるいは同じ時代でも、もっと進んだ探究者には、事実である。ある事実を判断する際に含まれる推論の要素が、意識的に表に出されるとき、それは理論である。そこに含まれる推論を、これまで疑うことがなかった場合、あるいは、疑った後、その推論の過程を徹底して調べたため、もはや意識の前に置いておく必要がなく、再び意識されないものに戻った場合、それは事実である。『自分自身の内的な行為を、多く、あるいは少なく意識することだけが、事実と理論を区別するのなら、その区別は、やはり維持できないと認めなければならない。』つまり、固定した分離としては維持できない、ということである。また、『事実と理論には、その確実さと馴染み深さの程度を除いて、本質的な違いはない。理論は、しっかり確立され、心に定着すると、事実になる』ともいう。(四五ページ。斜体は筆者。)そして、もちろん、事実が疑われるにつれて、そのある面が、理論、さらには単なる意見の部類へと移ることも、同じく真実である。

この考えは、本章の立場と完全に一致する方向に、発展させられたはずだと私はいう。事実と観念の最終的な区別が、『相対的な確実さと馴染み深さ』という点だけに基づいて定式化されていたら、そうなったはずである。この観点からは、事実と観念との区別は、疑い、探究する働きに対して、純粋に相対的なものである。経験が、自覚された確かさに関して、どう発展するかに関わる。その起源は、問題のある状況にある。問題として現れるものは、何であれ、可能な解決との対照において現れる。思考の対象のうち、特に問題の側に関わるものが、理論、観念、仮説であり、解決の側に関わるものが、確かさ、疑われない馴染み深さ、事実である。この観点では、区別は、経験を省察によって変容させる過程の要求に、全面的に相対的となる。

しかしヒューウェルは、この思考の道筋を歩み始めると、すぐに背を向ける。第三章で、相対的、歴史的、作業上の区別だと述べたものを、固定的で絶対的な区別へ変えてしまう。感覚と観念とを区別するが、それは、その先の働きの条件を確立するという、発生の観点に基づいてではない。心に受動的に与えられるものと、心が発揮する活動との間に、根本的に固定した境界線を引くことによってである。こうして、つい先ほど退けた分離を、最も一般化され、固定した、したがって最も有害な形で復活させる。感覚は、観念から独立して存在し、存続する、変えられない裸の事実の要素となる。観念は、独自の独立した個別性をもって生じ、再び生じる、心的な操作の仕方となる。もし最初の思考の道筋を進めていたなら、事実としての感覚は、経験のほかの部分が、内的な衝突によって、どれほど解体されても取り除けない、馴染み深さと確かさの残余となっただろう。仮説や理論としての観念は、この残余を、つながりと意味のある経験へと再び統合するために必要な、経験内の、対応する要素となっただろう。

しかし、ヒューウェルは、自分自身の思考の筋道を進めず、むしろ、カント的な感覚と思考との対立へ戻ることを選んだ。そのため、事実と観念、与えられた所与と心的な関係を分けるやいなや、再び結びつけざるをえなくなる。観念は、『心の行為によって知覚に課される一般的な関係であり、感覚が直接に差し出すどんなものとも異なる』ものとなる(二六ページ)。感覚から学ぶ事実を、真理へと結びつけるには、そのような概念が必要なのだという。『心自身が供給する観念的な概念は、観察に最初に提示されたとおりの事実に、上から加えられる。帰納的な真理が発見される前にも、事実はある。しかし、多数あって、つながっていない。発見者がそれらに適用する概念が、つながりと統一を与えるのである。』(四二ページ。)したがって、ヒューウェルによれば、あらゆる帰納は、上から付け加えることに依存する。心のなかに独立して存在する、ある観念や一般的な関係を、感覚的なデータに課すことなのである。[66]

この見方への反論は、すでに示したので、繰り返す必要はない。事実によって、秩序ある仕方で観念が刺激されることは不可能であり、観念を事実に課すことを、確かめ、制約することも不可能だという点である。『事実』と概念とは、あまりに徹底して切り離され、独立しているため、どんな感覚的な所与も、考えうるどんな観念にも、区別なく、等しく関係する。ある特定のデータの集まりに、ほかの観念や仮説ではなく、この一つを『上から加える』根拠は、どこにもないのである。

すでに触れた、抽象、あるいは概念の形成についての章で、ミルは、この難点を捉える。しかし、彼とヒューウェルには、一つの共通点がある。二人とも、論理的な目的のために、論理的な過程そのものの、まったく外で与えられる、ある素材が存在すると認めるのである。ミルもヒューウェルと同じく、純粋な感覚のデータという原材料を仮定する。したがって、事実のうえに観念を付け加える、ヒューウェルの理論を批判すると、反対に、観念そのものは、与えられた事実そのものに、完全に依存するという主張へ導かれる。言い換えれば、ベーコン的経験論の根本を繰り返すことになる。こうして、観察であれ実験であれ、実りある科学的探究には観念が必要だという、自分の主張を、事実上撤回するのである。次の引用は、ミルの撤回がどこまで及ぶかを、よく示す。

したがって、事実をまとめ、秩序立てるために使う概念は、内部から自ら発展するのではなく、外から心に刻み込まれる。それらは、比較と抽象という方法以外では決して得られない。そして、最も重要で、最も数の多い場合には、まとめる役目を負っている、まさにその現象から、抽象することで形成されるのである。[67]

ここでさえ、科学的探究の積極的な側面に対するミルの感覚は、『事実』が何らかの仕方で不十分で、欠陥を持ち、観念の助けを必要としていると、彼に見抜かせる。それなのに、事実を助ける観念は、不確かな事実が刻みつけたものだというのだ! この矛盾は、ミルの次の言葉にはっきり現れる。『本当に難しいのは、暗闇と混乱から光と秩序を生み出すべき概念を、それが後に整理するために役立つ、まさにその現象のなかで探さなければならない場合である。』[68]

もちろん、ある意味では、ミルの見方は、ヒューウェルよりはるかに真実に近い。少なくともミルは、『観念』が、それによって整理され、『光と秩序』を与えられるべき事実やデータと、関係を持たなければならないと理解している。『暗く、混乱した』事実が提示されるのと同じ経験のなかで観念が発展するのでなければ、それは不可能だということも、十分に明確に分かっている。彼は続いて、衝突するデータが、混乱した経験のデータと、秩序ある、つまりすでにまとめられ、組織された別の経験のデータとの間に、『ぼんやりした類似の感じ』を心に抱かせることを、かなり正確に示す。そして、この漠然とした感じが、経験をさらに探索し、比較する過程を通じて、もっと明確で適切な形を取り、ついに受け入れられることを示す。この過程で、形成されつつある観念の価値を、私たちは、その目的への適合性に照らして、絶えず判断する、と彼は説明する。『適切さの問題は、私たちが念頭に置く個別の目標に相対的である』とまでいうのである。[69] 彼は議論を、次の言葉でまとめる。『よい一般概念を、前もってつくることはできない。得られた概念が、自分たちの求めるものかどうかは、それを必要とした目的の仕事を、実際に行って初めて分かる。』[70]

これはすべて、実際の事情を述べている。しかし、それと両立するのは、事実と仮説との区別を、経験を混乱した形から組織された形へと変えるための、手段として捉える論理学説だけである。感覚は、何らかの仕方で、究極の事実として最終的かつ完全に与えられ、観念は、その事実をもう一度記録したものにすぎないという、ミルの考えとは両立しない。仮説は、経験の途中で心に刻み込まれる、というのは、まったく正しい。心に浮かぶどんな考えも、刻み込まれるといえる、その意味である。何を意味するかを定義するなら、仮説は、与えられた事実、さらには感覚を媒介として刻み込まれる、すなわち、生じ、示唆される、というのもかまわない。しかし、それと同じく真実なのは、事実が提示され、感覚が生じるのは、裸の事実より広い経験の流れのなかだ、ということである。その経験には、事実どうしの衝突と、それに対応して、統一された経験を確保できるように、事実を何らかの仕方で扱おうとする意図とが、含まれるからだ。事実が心に観念を示唆し、『刻み込む』力を得るのは、解体と再構成の途上にある経験全体のなかで、その位置を占めることによってだけである。事実の『周辺』、あるいは傾向の感じも、事実そのものと同じくらい、事実なのである。『得られた概念が求めるものかどうかは、それを必要とした目的の仕事を、実際に行って初めて分かる』という事実だけで、仮説を生むのは裸の事実ではなく、必要や目的との関係にある事実、そして事実との関係にある目的だと、十分に示される。

ヒューウェルとミル以来の、仮説の議論の歴史を、特にジェヴォンズ、ヴェン、ボザンケの著作にたどるのは、興味深いだろう。その歴史は、もっと複雑な区別や関係を持ち込むことで、私たちの議論の言葉を精密にするだろう。しかし、精密にするだけで、根本的に新しい原理は持ち込まないと、私は考える。どの場合でも、著者は、いくつかの必要に取り組んでいる。事実と観念とを区別すること。観念を試す点では事実に、事実に意味と秩序を与える点では観念に、それぞれある優先性を与えること。そして、全体を通じて、観念と事実との、きわめて緊密な関係を保つことである。この関係では、観念は事実と『比較される』、すなわち事実の解釈に用いられることによってのみ発展し、事実は観念を通じて『結びつけられる』ことによってのみ知られる。絶対的な、歴史を離れた観点からは、逆説と矛盾の迷路であるものが、衝突と再構成を通じて、自らの意味を変容させている経験の観点から見た瞬間に、当然のこととなるのである。

しかし、ここでは一、二点を指摘するにとどめよう。ジェヴォンズの、自然という『無限の投票箱』は、どんな特定の概念や観念に対しても、完全に中立である。そのため、それに対応するものとして、可能な仮説をすべてつくることを要求する。どの仮説も、それ自体では同じ確率の水準に立つ。これは、科学の手順には事実と仮説の両方が必要だと感じながら、なお両者は、何らかの仕方で互いに独立して生じると見なすことの、論理的な帰結を示す、興味深い例である。極端な経験論と、極端な合理論とを結びつける試みなのだ。仮説をつくり、その合理的な帰結を演繹する過程は、手当たり次第に進む。与えられた事実のつながりのなさが、あまりに究極的で、事実は、ある仮説を、ほかの仮説より示唆しやすいということがないからである。ジェヴォンズに橋を与えるのは、数学である。事実に適用される測定と、演繹に適用される計算という、二つの形の数学によって、彼は、初めに自分でつくった溝を、最後に埋める。ヴェンの理論は、本文の立場と一致させるために、ほとんど、あるいはまったく言い直す必要がない。彼は、仮説の起源を、人間の初めの実践的な必要に置き、そこから現在の科学的な形へと、徐々に発展したとする。[71] 彼は明示的に、こう述べる。

知られているものと、知られていないものとの区別は、論理学にとって本質的であり、ほかのどんな科学にも見られないほど、論理学を際立って特徴づける。推論は、一方から他方へ移る過程である。前提として受け入れていた事実から、まだ受け入れていないが、まさにこの過程によって、いま受け入れつつある事実へと移るのである。事実を客観的なものとして見なし、その事実自体をどれほど詳しく調べても、私たちの心にとって、より馴染み深いか、そうでないかという特徴は、決して検出できない。その特徴を十分に説明したければ、主観的な要素も導入しなければならない。[72]

しかしヴェンは、論理的な区別、関係、操作を、『未知のものから、既知のものへ移る行為』の諸部分として、徹底して述べようとはしない。彼は、省察と、ここで『再構成』と呼んだ歴史的な過程との関係を認め、その動きのなかの道具として、仮説の起源と価値も認める。しかし、分析を、体系的な形にまでは進めないのである。

三

仮説の起源。判断の過程の分析では、確立された習慣に従って進んでいた、ある活動がうまくいかなくなった場合に、述語が生じることを示そうとした。古い習慣が、新しい条件に対応できず、止められるとき、つまり、状況が、違う目的を持つ二つの習慣を刺激するとき、問題は、新しい反応の方法を見つけることになる。すなわち、現在の状況をうまく働かせる一つの目的をつくり、衝突する傾向を協調させることである。判断では、習慣は、止められると観念的になり、一つの観念になる、と見た。同じように、新しい習慣も、まず、観念上の反応の型として形にされ、新しいデータを解釈しようとする仮説となる。この定式化がどう行われるか、つまり、仮説がどう発展するかを問うにあたっては、起源について、現在受け入れられている言い方をいくつか取り上げ、それらが、ここで提案した分析と、どう関係するかを示すのが便利だろう。

枚挙的帰納と、それに類する過程。ウェルトンは、仮説が示唆されるさまざまな仕方を、三つの種類にまとめられると指摘する。[73] 枚挙的帰納、命題の換位、類推である。『枚挙』という項目で、彼は、『現象どうしのつながりに規則性を観察するたび、それは普遍的なのか、という問いが生じる』と、注意を促す。数学には、この例が多数ある。たとえば、1+3=2²、1+3+5=3²、1+3+5+7=4²、などと気づく。すると、n がどれほど大きな数でも、最初の n 個の奇数の和は n² になる、という一般原理が含まれているのではないかと、問うことになる。この初期の帰納的推論には、二つに分かれる傾向がある。一つは、すべてを数え上げようとする傾向である。これは明らかに観念的であり、与えられた事実を超える。したがって、すべての事例を探すこと自体が、ある仮説に基づき、その仮説を試そうとする実験的な探究である。しかし、多くの場合、数え上げは不完全にしかできず、確からしさ以上のものには達せない。そこからもう一つ、内容を分析し、一つの事例の諸要素のなかに、つながりの原理を求める傾向が生じる。多数の個体に属するある特徴が、すべての個体にその特徴が属する類を示唆するなら、それは、各個体そのものに見いだされるのでなければならないからである。完全な類という仮説には、その類の各個体の性格についての仮説が含まれる。こうして、外延についての仮説が、内包についての仮説へと変わるのである。

しかし、ウェルトンが『新しい仮説を引き出す主な源』と考えるのは、類推である。枚挙的帰納で述べた第二の傾向、すなわち、内容や内包を分析する傾向では、自然に類推へと導かれる。具体的な個別の事例のなかで、分類を定める特徴を探すとき、最初の一歩は、類推による推論となるからである。類推では、観察した事例の数から、その性格へ注意が向けられる。そして、個別のものどうしに、ある共通の特徴があるため、さらに別の点でも同じだろうと想定する。類推で達しうる最善のものは、確からしさでしかない。それでも、論証によって、高度の確信に至ることはありうる。この論証形式に価値があるのは、類推の基礎となる特徴のうち、本質的なものと、そうでないものとを、区別できるかぎりである。何が本質的で、何がそうでないかは、念頭に置く個別の目的によって定まる。

ウェルトンが挙げた枚挙的帰納に加え、いくつかの個別の事例が、一般的な原理や方法の基礎になるように見えるという点で、それによく似た過程が、ほかにも多数あることに注意したい。帰納、教育、証明の方法には、こうした例がよくある。

新しい種類の仕事を教えるときには、具体的にどうすればよいかを、数例で示せば、方法を理解できると期待する。本人が実際に手を動かせば、なおよい。なぜ少数の事例の経験が役立つのか、とは問われない。経験のある人、物事を行う技術やこつを身につけた人なら、同じ性質のほかのすべての場合にも、うまく対処できるのは、自明に思えるからである。

いわゆる帰納的な証明にも、よく似たものがある。帰納的証明は、代数学によく見られる。二項定理の展開の法則を証明しようとするとしよう。実際の計算によって、n 乗について法則が成り立つなら、n+1 乗についても真であると示す。つまり、どの累乗でも、成り立つなら、その次にも成り立つ。しかし、たとえば二乗について成り立つことは、容易に示せる。したがって、三乗でも真であり、それゆえ四乗でも真であり、以下同様となる。この法則は、帰納的な過程で発見されても、証明の決定性は演繹に依存する、というジェヴォンズの見解が正しいのか。[74] エルトマンのいうように、証明は全面的に演繹的なのか。[75] それとも、数学の根本公理は帰納的だが、この証明は正確な類推に基づくという、ヴントが正しいのか。[76] いずれにしても、こうした証明では、学ぶ人を正しい方向へ踏み出させるため、少数の事例を使うことは明らかである。何かが示唆され、この場合も、次の場合も、さらに次の場合も真だと分かり、以下同様に進む。この『以下同様』に何が含まれるかについて、ふつう、どれほど明確に分かっているかは疑わしい。多くの人には、それは、数歩進んだ後、得られた勢いで学習者が先へ運ばれる地点を示すように見える。いくらか、ニュートンの運動法則の一つのような具合である。相次ぐ少数の段階が、証明の不可欠な部分なのか、単なる例示なのかはともかく、きわめて一般に用いられている。実際、n、k、l のような一般項を導入しようとさえせず、少数の個別事例で十分とする場合にも、しばしば使われる。たとえば、算術の手順では、これが慣例である。これらの事実を指摘するのは、説明の過程で、法則の一般性を確立する助けとして、相次ぐ事例が使われることを示すためである。

幾何学には、相次ぐ段階が大きな意義を持つように見える、一群の証明がある。円の面積の、よくある証明が、よい例となるだろう。円に外接する正多角形を描く。その辺の数を増やすと、周の長さが円周に近づくのに従って、面積も円の面積に近づく。正多角形の面積は、つねに二分の一×R×周の長さであり、円の場合、円周は2πRだから、円の面積はπR²と推論される。ここでも、多角形によって十分な勢いがつくため、ほとんど苦もなく円に達する。たとえば外接する正方形から、一度に移ろうとしたなら、きっと不安を感じ、無謀に思える試みから退いたかもしれない。しかし、多角形の辺の数が無限、多くの逆説的なことが可能になる、あの不思議な領域に近づくにつれて、移行は非常に容易になる。そのため、多角形が、本当に円になったといわれることさえ、しばしばある。

同様に、微積分のある説明も、ごく小さな違いなら無視できるという想定に依存する。より近代的な極限の理論は、微積分では、この態度を大幅に置き換え、円の面積のような幾何学上の問題の証明方法も変えた。しかし、その根底の動機は、移行を容易にし、それによって、物事を扱う特定の方法を、続けて適用できるようにすることだったと思われる。

しかし、これがすべて正しいとして、仮説の起源と何の関係があるのか。相次ぐ少数の事例によって仮説が示唆されることは、ありそうに思える。しかし、これらを、いま挙げた証明の相次ぐ段階と、同じものに分類できるのだろうか。第一に、仮説を証明しようとするのは、それが真だと確信していないからである。ほかに維持できる仮説がないとは、納得していない。しかし、仮説を試したなら、その試験だけで十分ではないか。それは、状況をどれだけ徹底してつかんでいるかによる。だが一般に、試す事例が増えるたび、確からしさが増す。試験の価値は、ほかの選択肢の力を抑えることで、仮説を強め、確証へと近づけるところにある。一例で不十分なのは、ほかにも可能な、芽生えかけた仮説、より正確には傾向があるからである。事例を数え上げることは、曖昧で、ときには意識下にある、ほかの傾向を弱め、一つの傾向を強めることで、それを際立たせる。その傾向が、突然、天才の不思議な産物として現れるのである。

衝突する傾向を、ただ繰り返すだけで、なぜ一つが優勢になるのか、という問いが生じるかもしれない。なぜ、すべてが衝突したまま、積極的な成果を妨げ続けないのか。それは、おそらく、完全な均衡というものが、決してないからである。相次ぐ事例は、いわば、すでに先頭に立ちかけている、ある傾向を強め、際立たせる。また、この関連で、さらにいえることがある。明確に区別された選択肢が排除されるように見えるのは、外から眺め、機械的な見方をするときだけなのである。

仮説の起源における類推の役割を説明して、ウェルトンは、事例の数だけでは、あまり遠くに進めず、『事例を数えると同時に、その特徴を特定すること』が必要だと指摘する。そして、観察した事例の数から、その性格へ注意が向くとすぐに、枚挙的帰納の論証は、容易に類推の論証へ移ると説明する。しかし、類推へ至るのに、枚挙的帰納を経る必要はない。『観察に示された事例が、SとPのつながりを推論する基礎となる特徴を、直ちに差し出すなら、事例を前もって数え上げることなく、すぐに類推による推論へと進める。』[77]

ウェルトンも、一般に論理学者たちも、類推を、部分的な同一性に基づく推論と捉える。ある共通の特徴があるため、さらに大きな類似を推論するよう導かれるのである。

枚挙的帰納も類推も、習慣によって説明できる。枚挙的帰納の検討では、一連の適用が成功することで、ある反応の形が強まることを見た。類推は、同一の要素があるとともに、ふつう『部分的な同一性』と呼ぶものを、さらに広げようとする傾向があることを示す。言い換えれば、類推では、ある点で同じである反応の型を、さらに大きな程度で似たものにできる、と示唆される。枚挙的帰納では、習慣が適用される事例の数を重視する。類推では、内容の側を強調し、部分的な同一性に注目する。実際、枚挙的帰納と類推との関係は、接近による連合と、類似による連合との関係と同じ種類のものである。接近による連合では、連合する物事を、ある時間的、空間的な関係に立つだけのものと考え、それらが、より大きな経験の要素だったことを無視する。類似による連合では、連合する物事の似た特徴を、さらに修正するための基礎と見なすのである。

命題の換位では、いわば反応の向きを逆にし、それによって習慣を自由にして、最小限の手がかりで働けるほど一般化された反応の仕方を得ようとする。たとえば、Aを、Bと呼ぶ仕方で扱えるとする。言い換えれば、Bと呼ばれるほかのものを扱ったのと、同じ仕方で扱える。『人間は動物だ』というなら、ある程度、『動物』という言葉は、『人間』をどう見るかを示す。しかし、すべての動物を、人間と同じように見られるか、という問いが生じる。明らかに、そうではない。動物に適した反応は、人間には部分的にしか適用できないからである。人間でもある動物において、一つの習慣が始まる。それを制止しなければ、すべての動物に同様の反応をすることになり、つまり『すべての動物は人間だ』というだろう。人間のほうが豊かな概念だといえる。ある対象を人間と定める反応の、一部分だけで、それを動物と呼ぶには足りるからである。他方、動物から出発すると、人間でもある動物の場合を除けば、もっと充実した概念を適用するための素材が足りない。動物=人間となる条件を補えば、逆向きにも働く習慣が得られる。専門科学の等式は、まさにこの性格を持つ。それは、述語を、述語として最大限に自由にし、抽象したものである。そのため、未来の判断の主語への適用可能性が増し、個々の場合に用いる際、無関係な部分を削り、再調整する必要も減るのである。

仮説の形成と検証。仮説の形成は、ふつう、その後で仮説が受ける検証の過程とは、本質的に違うと見なされる。私たちは事実を観察し、仮説を考案し、次にそれを検証するのだ、といわれる。初めの観察には、仮説は必要ないとされる。また、仮説は難しく複雑な検証を要する定式化だと考え、容易に確認したり退けたりできる、もっと単純な想定を、仮説として認めない著者もいる。この観点の、非常によい例が、ヴントの仮説の議論に見られる。それを調べて、このような区別は、実際の違いというより、人為的なものだと示したい。

ヴントによれば、科学の素材は、実際に与えられているものと、実際に予期すべきものとから成る。[78] ただし、内容全体は、それに限られない。これらの事実には、事実という意味では与えられていない、ある前提を補わなければならないからである。その前提が仮説と呼ばれ、私たちの根本的な、統一への要求によって正当化される。正しく使えば、仮説には大きな価値がある。しかし、ただ空想の傾向から生じたものを付け加えて、不当に広げる危険が、つねにある。さらに、この本来の科学的な意味での仮説は、よく見られる、さまざまな不正確な用法と、慎重に区別しなければならない。たとえば、仮説を、事実の予期と混同してはならない。その例としてヴントは、振り子の小さな振動は等しい時間で繰り返される、また、落下する物体の移動距離は、落下時間の二乗に比例する、というガリレオの想定を挙げる。なるほど、このような予期は、科学で重要な役割を果たす。しかし、事実そのものや、そのつながりに関わり、観察によっていつでも確認したり退けたりできるかぎり、それを、事実を結びつけるために使う、付加された前提と、同じ種類にしてはならない。したがって、すべての想定が仮説なのではない。他方、すべての仮説が、実際に経験されうるわけでもない。たとえば、物理学では電気流体という仮説を使うが、実際にそれに出会うとは予期しない。しかし、多くの場合、仮説は、経験される事実として証明される。コペルニクスの理論が、その道筋をたどった。初めは仮説にすぎなかったが、後の天文観察が与えた証拠によって、事実へと変わったのである。

ヴントは、理論を、仮説と、その仮説が明らかにするために考案された事実とを、ひとまとめにしたものと定義する。仮説が示唆したにすぎない、事実どうしのつながりを、こうして確立することで、理論は同時に、一部は仮説の根拠づけ(Begründung)を、一部はその確認(Bestätigung)を与える。[79] この二つの面は、厳密に区別しなければならない、とヴントは強調する。どんな仮説も根拠づけを必要とするが、確認が可能なのは、仮説が、実際の検証過程で扱える要素を含むかぎりにおいてだけである。多くの場合、検証できるのは、仮説の特定の要素だけである。たとえばニュートンは、引力の理論の検証において、月の運動という一例に、自分を限らざるをえなかった。ほかの天体が与えたのは、せいぜい根拠づけである。距離の二乗が増すのに応じて引力が減るという想定によって、惑星の運動を演繹できたからだ。しかし、彼の理論の主な目的は、これらの運動を演繹することにあり、普遍的な引力を証明することにはなかった。それに対し、ダーウィンの理論では、主な関心は、実際の発展の事例を調べて、理論を確かめることにある。したがって、ニュートンの理論や、ほかの物理理論の大部分は、個々の事例においてのみ検証できる仮説から、事実を演繹することへ向かう。一方、ダーウィンの理論は、できるだけ事実のなかから仮説を展開することに関わるのである。

ヴントの立場を、さらに詳しく見よう。第一に、仮説と予期との区別は、彼がいうほど際立っているのか。第二に、根拠づけと確認の関係は、彼が考えさせようとするよりも緊密なのではないか。この二点を問おう。

仮説の例として、ヴントは、コペルニクスの仮説、ニュートンの引力の仮説、海王星の発見へ導いた天文学者たちの予測を挙げる。単なる予期の例としては、ガリレオの落体と振り子の実験が示される。ニュートンの仮説では、一般法則が想定され、多くの労力と時間を経て検証された。惑星の運動に体系と統一をもたらすために考案された、コペルニクスの太陽中心の仮説も、かなり十分に裏づけられている。海王星の発見では、一般法則の証明でも、以前から知られたデータに、さらに特徴を見いだすことでもなく、観察された作用を通じて、新しい対象、あるいは作用するものを発見したように見える。どの場合にも、仮説は、容易に浮かんだのでも、簡単に、直接に検証されたのでもないことは、認めよう。

ガリレオの振り子と落体に目を向けると、まず明らかなのは、海王星の場合のような、ある対象の発見を目指していたのではない、ということだ。では、一般法則の証明に貢献したのか、それとも、すでにもっと一般的な仕方で知られていたものに、さらなる特徴を見いだしたのか。ヴントによれば、ガリレオは、すでに知っていたことを、少し正確に定めただけであり、それも、わずかな労力と時間で行ったのである。

では、仮説と予期との、本当の違いは何か。ガリレオが落体の法則を定めたことと、ニュートンが引力の仮説を検証したこととを比べると、予期も仮説も、観察に基づき、数式の形を取っている。どちらも、その式に表された一般法則の確認に向かう。ただし、もちろん、必要な時間と労力には、大きな違いがある。コペルニクスの仮説と、ガリレオの振り子についての想定を比べても、やはり、一般的な目的と方法は一致し、検証の難しさが違う。振り子の実験が、不正確なものを正確なものに置き換えただけなら、コペルニクスの理論は、種類の違う何かを行ったのだろうか。なるほど、振り子の振動についての、より正確な言明は、量的な形で表された。しかし、量的な言明であることは、仮説があることの基準にも、ないことの基準にもならない。

また、振り子と、ケプラーの法則とを比べてもよい。各惑星の公転周期の二乗は、太陽からの平均距離の三乗に比例する、というケプラーの仮説は、すでにもっと一般的に知られていた事実の、より正確な定式化以外の、何だったのか。ヴントの立場は、次のように見える。想定や示唆が、容易に検証できるときは、仮説に分類すべきではない。この場合、区別は種類ではなく程度の違いとなる。しかも、仮説という名を得るためには、どれだけ労力を費やさなければならないのか、想定が、どれほど長く、検証の努力をかわし続けなければならないのかは、分からないのである。

第二に、ヴントが、根拠づけと確認との間に、はっきりした境界を引くことを見た。どんな仮説にも、一定の正当化が必要なのは、疑いなく真実である。それに従って演繹されたことと一致する、別の事実を見いだせなければ、仮説を支えるのは、それを引き出したデータだけになってしまうからだ。そのような支持を得る過程は、あまりに明白に循環しており、真剣に受け取れない。ヴントが根拠づけと確認とを区別するのは、明らかに、後者に実験の要素があるためである。記述の目的には、この区別は役立つ。しかし、一方には経験だけが、他方には推論だけがあるという意味に理解すれば、誤解を招く。違いは、むしろ、それぞれにおいて、推論と、受け入れられた経験が果たす役割の、相対的な大きさによる。根拠づけでは推論の特徴が目立ち、確認では経験の側面に重点が置かれる。しかし、どちらか一方の側面が、完全に欠けていてよいとは考えてはならない。仮説が、考案された目的である、経験の衝突を統一するという要求を、ある程度満たしていないなら、そもそも、どうして仮説として考慮されうるのか、理解しにくい。そのかぎりで、仮説は確認されているのである。その十分さを疑わせる動機は、それを仮説、心的な概念として組み直すことへ導く動機と、同じである。

したがって、ヴントの立場の難点は、判断が再構成する性質を持つことを、考慮し損なったために生じる。述語、想定、仮説、何と呼ぶにしても、それが形づくられるのは、以前の習慣が止められるからである。判断は、新しい習慣を観念上で適用することであり、その検証は、この観念上の再構成に従って行動してみることである。ただし、まず想定が完全に出来上がり、その後、修正なしに試され、受け入れられ、あるいは退けられると考えてはならない。逆に、その成長は、相次ぐ小さな試験と、それに応じた、形の小さな修正の結果なのである。形成と検証は、形成、検証、再形成がともに進む、より大きな過程のなかでの、便利な区別にすぎない。実験による検証の活動は、仮説の妥当性を試し、確認し、あるいは弱めるだけではない。それまで仮説の趣旨を定める際に含まれていなかった、特定のデータと、いっそう密接に関係づけることで、仮説の意味を発展させることでもある。逆に、観念を仮説として展開する、純粋に省察的、演繹的な考察も、以前に受け入れられた事実の明確さを、観念の範囲、包摂する内容、すなわち内包へ持ち込むかぎり、そのかぎりで、検証なのである。

ここで主張してきた見方が正しいなら、仮説を、科学者が決定的な試験によって確かめようとする、精緻な定式化だけに限るべきではない。研究者の仮説が、普通の人の、比較的粗い推測と違うのは、より精密であるという点だけである。実際、示そうとしてきたように、仮説は、好きに使ったり使わなかったりできる方法ではない。逆に、判断するかぎり、仮説は、その述語として、多かれ少なかれ明示的な形で存在する。確認や棄却に必要な時間と労力が、一生にわたるものであっても、一瞬で済んでも、その性質は変わらない。その働きは、述語の働きと同じである。要するに、仮説とは、普通の判断では気づかれない特徴が目立つように、意識され、明確にされた述語なのである。そのとき私たちは、仮説が、実は述語がつねにそうであるもの、すなわち、組織し統御する方法であると認めるのである。

第八章

論理学における心像と観念

感覚印象と、その写しとしての観念の論理学は、一時代を終えた。それは独断論と争い、決定的な勝利を収めた。定められた公式や生得観念の王朝を倒した。慣習や社会の習わしから、出来合いのまま受け継がれ、その古さゆえに、遠く曖昧な神的起源のなかへ見失われるほどの観念を倒したのである。そして代わりに、まぎれもなく現実に、いまある世界の感覚経験から得られ、その経験を表す観念を王位につけた。それは、独断から、ドグマという語の本来の意味、物事がどう見え、どう現れるかへ立ち戻る反動だった。ベーコンとホッブズ、ロックとヒューム、この四人だけを挙げても、その仕事は徹底していた。そのため、戦われたスコラ学の伝統はもちろん、その争い自体から生じた問題の多くも、論理学的というより、歴史的な関心の対象にすぎなくなった。論理学は、もはや、観念の内容や感覚的な質、観念が感覚印象からどう派生するか、写しと原物、表すものと提示されるものとの関係といった問いに、あまり熱心ではない。むしろ、思考の構成する働き、意味、実在への指示、推論、つまり知的な過程に関心を持つ。論理学のこの立場の移り変わりを、これ以上明確に示すものはないかもしれない。かつて論理学が抱いていた、観念の感覚的な質への関心を、いまや惜しげもなく心理学へ引き渡す、その仕方である。意識状態そのものは、心理学にふさわしい研究対象であり、論理学は、思考とその対象との関係を扱う、といわれる。たしかに、この意識状態には、感覚印象だけでなく思考の状態も、感じや空想だけでなく観念や概念も含まれる。こうした状態と、意識の流れに運ばれるほかのすべてを、観察し、比較し、分類し、記述し、記録することが、心理学の仕事だというのである。しかし論理学が扱うのは、意識状態そのものでも、まして、その流れの漂流物でもなく、意識が実在を指すことである。真であるものではなく、真理である。意識が何をするかでさえなく、理性的で普遍的な全体のなかで、意識がどう自分を乗り越え、超えるべきか、なのである。経験的な論理学でさえ、一つの感覚印象から別の感覚印象へ進む道を、何とか整えなければならない。

論理学と心理学の間に、この、事実上は分離に等しい区別を引くとき、二つのことが見落とされる。第一に、この区別自体が論理的な区別であり、当然、論理学的な探究と理論の領域に属する問題となりうること。第二に、意識状態を研究する仕事を引き受けるものとして、心理学を、かなり恣意的に、公式に別立てにしても、心理学がその仕事だけに専念するという保証にはならないこと。特に後者を、心像と観念の問題を、論理学よりも心理学の観点から論じる、私の理由としたい。感覚印象から派生する観念の論理学は、一時代を終えた。しかし、過去のその残りものさえ、心理学が拾い集め、組み直して、論理学説の新たな展開のいくつかを先取りし、その難問のいくつかに応えているかもしれない。そんな単なる可能性に基づく議論を、あらかじめ正当化できるとは、ほとんど期待できない。むしろ、まず論理学の立場から、心像と観念の区別をいくつか、そして心像の論理的な働きと価値の評価を書き留めよう。それがどちらへ私たちを導くか、心理学の観点からの分析に頼ることを示唆するかどうか、見てみよう。

論理学の観点から、心像の論理的な働きと、心像と観念の区別とを問うと、対立するが、それぞれ特徴的な二つの答えに出会う。経験論的な論理学の学派に問いかければ、心像の働きについての問いには、肯定的に答えるはずである。その学派の伝統に忠実なら、心像は感覚知覚に対応するものであり、したがって、経験的な論理学が扱うデータを表すものだ、というだろう。さらに、心像は、文字どおり、感覚の通路を通って来るものを、再び表すもの、写し、反映なのだと続けるだろう。なるほど、感覚経験の、まったく同じ双子ではない。そうなら、区別できないはずだからだ。実際、夢や幻覚のように、写しが原物にあまりに似て、私たちが欺かれることもある。しかし、ふつうは両者を区別できる。通常、二つの基準がある。(一)心像は、対応する感覚経験より薄く、消えやすい。(二)正確な記憶の心像を除けば、その部分は、多かれ少なかれ、自由に組み替えられる。たとえば、実際に経験した風景の心像をつくり替え、遠い歴史上の出来事の舞台を整える場合である。

原物から離れて、恣意的に変えたり、構成し直したりする傾向を除く、あるいは統御して修正するなら、心像は感覚経験と同じ水準にあり、同じ論理的な目的に役立つ。つまり、経験的な論理学の基礎を構成するデータを提供するのである。観察、比較、抽象、一般化の操作に材料を与える。感覚経験に示されるかもしれない断片を、心像は補ってつなぐ。たとえば、実際に与えられるのが一本の骨だけでも、身体の構造全体を与える。しかし、真理の召使いとして、どれほど有用でも、慎重に監視しなければならない。データの実際の順序や共存を、自発的に変えようとする傾向が、探究者を道から逸らしかねないからだ。心像の差し出す写しは、結局、現在そこにない実在と、一点ずつ対応することが示されるまでの、一時的な間に合わせである。心像は、自然という書物の挿絵入りの版を与える。しかし、その挿絵は、原物と比較して確かめられるのを待っているのである。

心像が論理的に働くのは、ある時点の直接的な感覚知覚の範囲を超えて、データの領域を広げ、こうして、観察、比較、抽象、一般化という経験的方法を、もっと広く適用できるようにするときである。心像は、論理の機械に材料を供給するとき、論理的に働く。ただし、その機械に不可欠なのではなく、その原理を変えるのでもない。論理の製粉機は、心像の混じらない、感覚知覚の純粋な穀粒だけでも、同じ仕方で挽けるだろう。しかし、材料が足りないため、ゆっくり挽かなければならない。言い換えれば、経験的な論理学は、感覚に現れる対象やデータだけを基礎として、直接そこにない対象の心像や写しによって基礎を広げることなく、観察し、比較し、抽象し、一般化する操作を行えるだろう。ただ、その操作を適用し、遂行するのに、もっと時間がかかる。どちらの場合も、論理の機械は同じである。入る材料も、出る成果も同じである。心像はただ、挽く穀物を、もっと豊富に供給する役を果たすのである。

心像の論理的な働きについて、経験論者が与える答えは、その働きを、不確かで危うい状態に置く。心像は、一方では感覚知覚の確かさを欠き、他方では思考の操作に関与しない。一種の材料運びであり、その役目は、感覚知覚の原材料を、もっと高い場所へ運ぶことにある。そこで仕事をするのは、すべて別の者である。これを、論理的要素の機能的な解釈と呼ぶことは、できるのかもしれない。しかし、その場合の問いは、そんな働きをする要素が、いかなる意味で論理的なのか、ということである。思考過程の外にある要素として、それは論理に責任を負わず、その規則に従うものでもない。思考は、自分が本質的には統御できないものを使うと便利だと、考えるだけなのである。ここで議論を終えてもよい。しかし、論理の外にある、この心像という要素が思考を見捨てたなら、感覚知覚とは異なる、意識的な思考はすべて止まるだろう。取り越し苦労かもしれない。心像は、思考に切り離せない形で従属し、決して思考を見捨てないように、できているのかもしれない。思考は、ただ心像を分泌するのかもしれない。しかし、心像は、何らかの仕方で感覚知覚をも表さなければならない。思考の分泌物であると同時に、感覚知覚の写しでもあるというのは、ほとんど無理だろう。経験論者が絶対的観念論者に変わる覚悟でもあれば、別だが! そんな決死の飛躍をする前に、ほかに手立てがないかを見たほうが、よいかもしれない。

心像の論理的な働きという問いには、もう一つ、まったく違う答えがある。連合主義者や経験論者の答えと区別するために、それを、概念主義者の答えと呼ぼう。この呼び名を、かなりの理由をもって当てられる人にさえ、うまく定着するかは、まったく確信がない。『経験的』に対しては、『合理主義的』『超越論的』という言葉のほうが、好まれるかもしれない。また、『連合主義者』に対する『統覚主義者』という言葉もある。『概念主義者』が許されるなら、おそらく『新概念主義者』と、時代に合わせたほうがよいのだろう。意味という語から、便利な一組の派生語をつくれさえすれば、いまの用語上の難しさは、かなり和らぐ。しかし、それがないので、経験論の学派と反対の見方を示すために、概念という語の派生語を使うことにする。

概念主義者は、私たちの問いに否定的に答えるはずである。論理的な働きは、心像が終わるところから始まる。観念から、意味から始まるのである。概念主義者は、心的な存在としての心像と、論理的な意味としての観念、すなわち概念とを、はっきり区別する。一方には『心像』がある。ただ心的に存在するだけでなく、その存在も、厄介なものだ。消えやすく、不安定で、移り変わり、おそらく二度と同じにはならない。それでも、忘れてはならない、それは存在であり、事実である。このことは認めなければならない。他方には、『固定した内容、あるいは論理的な意味』を持つ『観念』がある。[80] それは、判断の行為によって、その行為を超える実在に関係づけられるのである。[81]

『観念』、すなわち論理的な意味は、『心像』が終わるところから始まる。これは、『観念』が『心像』から完全に独立しているということなのか。そうでもあり、そうでなくもある。『観念』は、ふつう『心像』の固有の特徴とされるもの、すなわち、その質、感覚的な内容からは独立している。つまり、『観念』は、どんな特定の『心像』からも、感覚的内容のどんな特定の具体化からも、独立している。どんな心像でもよいのである。ボザンケ氏は、心を通り過ぎる心像を、信号旗の備蓄にたとえて、こう述べる。

今日の信号旗が、昨日掲げたのと同じ一枚の布かどうかが、どうでもよいだけではない。それが信号の規則の一要素として、はっきり読み取れるかぎり、きれいか汚いか、厚いか薄いか、ほつれているか滑らかか、誰も知らず、気にもしない。その内容、属性、関係の一部分は、明確な指示を運ぶ、固定した目印である。残りのすべては、私たちにとって何でもない。暇な好奇心が働く一瞬を除けば、その存在に気づきさえしないのである。[82]

他方、『観念』は、どれほど古く、汚れ、薄く、ほつれたものでも、何らかの心像を伴わなければ、観念として働けず、意識のなかにも存在できない。『三角形の角の和は、二直角に等しい』という言明を取ろう。この言明が、ある個人にとって何かを意味し、観念を伝えるなら、必ず、何らかの心像、何らかの質的な、あるいは意識された内容を伴う。しかし、意味に関するかぎり、どんな質が含まれるかは、まったくどうでもよい。その質は、視覚、聴覚、触覚、運動感覚、言語の心像でもよい。その人は、辺を延長した三角形の黒板の図を思い浮かべるかもしれないし、一八〇度回転しながら、自分が三角形をつくるところを想像するかもしれない。三角形の角と二直角との等しい関係という観念が、何らかの仕方で伴うかぎり、誰がどんな心像を使おうともよい。しかし、概念主義者は、ここでは止まらない。判断の行為が加わり、『観念』は単なる観念ではなく、実在の性質だと肯定する。『その行為〔判断〕は、浮遊する形容詞〔観念、論理的な意味〕を世界の本性に結びつけると同時に、それは、すでにそこにあったのだと告げる。』[83] 『観念』、論理的な意味は、『心像』が終わるところから始まる。しかし、どういうわけか、終わるべき『心像』がなければ、『観念』は始まれないのである。

『心像』は『観念』ではなく、『観念』は『心像』ではない、と概念主義者はいう。(一)『心像』が『観念』でないのは、心像が、意識の特定の、個別的な断片だからである。それは、自分自身の存在に、あまりに強く結びついているため、『観念』の存在にも、自分の外のどんなものにも、手を伸ばせない。化学の言葉でいえば、そのようなものが考えられるとして、結合する原子価を持たない、意識の原子である。ボザンケ氏は、こう問う。

そもそも、象徴的でない観念はあるのか。……答えは、こうである。(a)判断そのもののなかで、観念を、時間のなかの個別的なもの、すなわち心的な事実として区別でき、そのかぎりで象徴的ではない。(b)動物の知性についての推測を引き出すもととなる、人間の経験のすべてにおいて、けだるさや無知のなかで、意識的な判断を伴わず、心像が心像に続くとき、私たちは、象徴としてではなく、事実として観念を持つことが、どんなことかを感じるのである。[84]

(二)『観念』が『心像』でないのは、観念が意味であり、意味とは、心像の内容の一部を切り取り、その内容や記号そのものの存在から離して考えたものだからである。[85] この意味、この心的な存在の断片は、自分自身として存在するという主張を、すべて放棄する。そうして、判断の行為を通じて、自分をも、その行為をも超えた実在を指すのである。『心像』は『観念』ではなく、『観念』は『心像』ではない。心像は、質、感覚的な内容としてだけ存在するのに対し、観念は、関係、向こうにある実在への指示としてだけ存在するからである。ブラッドリーの二律背反を思い出そう。『一方では、どんな観念〔心像としての観念〕も、それが意味するものではありえない。……他方では、どんな観念〔論理的な意義としての観念〕も、まさしく、それが意味するもの以外の何ものでもない。』

概念主義者と経験論者には、重要な一致点がある。両者とも、心像を、感覚知覚と同じ水準に置く。経験論者にとっては、見てきたように、心像が、感覚経験とくびきを並べる相棒として働かされうることが、その論理的な価値をなす。しかし概念主義者にとって、心像が感覚経験と結びつくことには、論理的な意義は何もない。心像と意味との区別を、いっそう際立たせる助けになるかもしれない、ということを除けばである。再びブラッドリーから引用しよう。

論理学の目的にとって、観念と感覚との心理学的な区別は無関係だといえるが、観念と事実との区別は決定的である。心像、すなわち心理学的な観念は、論理学にとって、感覚できる実在にすぎない。それは、感官の単なる感覚と同じ水準にある。両方とも事実であり、どちらも意味ではない。どちらも、切り刻まれた表象から切り出され、つながりとして固定されたものではない。どちらも、心的な出来事の流れのなかでの位置、時点、提示された集まりとの関係を、どうでもよいとはしない。どちらも、自分の存在を離れて指示され、異なる土地、別の空の下、移りゆく季節のなかで生きる、形容詞ではない。両者の生は、その環境とあまりに絡み合い、個々の感覚的なものからなる周囲の状況と、あまりに一体であるため、一本の糸が切れるだけで、その性格が壊れてしまうのである。[86]

概念主義と経験論とのこの一致点、心像と感覚経験とを共通の水準に置くことは、両学派の根本的な違いを浮き彫りにする。その違いが根本的なのは、実在そのものの性質に関わるからである。概念主義者は、心像と論理的な意味を熱心に区別しようとするあまり、心像を実在の腕のなかへ追いやる、危険なところまで来た。経験論には、両者を一つにする好機である。概念主義は、その結びつきをどう防げるのか。自分で武器を捨てたのではないか。論理的な意味を、述語として自分の内に含む判断の行為は、その行為の向こうの実在を指す。すると、心像も実在も、ともに判断の行為の外にあるのだ! 両者は、どんな同盟、あるいは不釣り合いな結婚を、結ばないともかぎらないではないか。

ここまでの議論で指摘した難しさは、大部分、論理の仕組みの心理学的な分析が不十分なためだと、私は考える。経験論者は、論理の心理学を、概念主義者ほど遠くまで進めていない。もっとも、概念主義者のほうが、その栄誉を、最も強く辞退するかもしれないが。この主張を証明しようとはしない。簡潔にするため、経験的な論理学の心理学的な不足と貢献には、ほとんど論評せずに通り過ぎ、残りの紙幅を、概念的な論理学が暗黙に仕上げている心理学と、その発展の可能性に充てる、その理由として示すだけにしよう。もちろん、心像の論理的な働きの問題を、特に念頭に置いてのことである。

心像と意味との、事実上は分離に等しい、論理的な区別は、心理学における、刺激と反応との区別、感覚運動活動の二つの極の区別に対応する。そこでは、刺激は、心像、すなわち中枢で引き起こされた感覚的な質という形で、意識のなかに規定される。反応は、この心像を通じて方向づけられ、統御され、何らかの目標、計画、目的、理想を実現に近づけ、何らかの問題を解決へと近づけるために働く。

心理学的にいえば、心像と反応、思考と行為との間に断絶はない。刺激は、condition という言葉の二重の意味の両方において、行為の条件である。(一)刺激は行為であり、行為の状態、あり方である。(二)同時に、行為の開始でもある。適切な刺激があれば、望まれる行為が起きる。心像への反応が、心像の意味である。あるいは、心像を通じた、どんな刺激への反応も、つまり、心像に媒介され、統御され、方向づけられた反応は、その心像の意味である。反応に伴う心像が少ないほど、その反応は、本能的な衝動であるか、さもなければ心の習慣、適切な観念となっている、と考える根拠が強くなる。心像が受ける、感覚的な内容の縮小や喪失、ときに、心像の摩耗と呼ばれるものは、この感覚的な内容に論理的な働きがないというしるしではない。むしろ、論理的な働きをあまりにうまく果たしたため、自分の一部を不要にしたというしるしである。ブラッドリー氏の比喩の一つを思い出せば、あの役に立たない殻は、真理の実が熟すのを助ける役目を果たした後、剥がれ落ち、意識から消えていく傾向があるのである。

ここで、心像の感覚的な内容、質、存在するものとしての質に、論理的な働きがあるかという、初めの問いに戻る。まず、心理学の観点から、働きがあるかどうかを問おう。心像の内容は、何かを表すものであるという点では、経験論者と一致してよい。それは、末梢から刺激された感覚器官の活動によって、以前に経験された感覚内容の、再来、復活である。では、この、何かを表す心像の働きは何か。先に示唆したように、感覚、質とは、意識に上った刺激である。刺激が、どうやって意識に『上る』のかという問題には、ここでは立ち入らない。私たちは、ときに、自分が何をしているかを知る。ある方向、あるいは別の方向へと向かう刺激、すなわち行為の条件を意識し、この意識を通じて、ある刺激を選んで強め、ほかを抑えることで、行動に統御の影響を及ぼす。これを事実として前提にする。たしかに、意識に上らない刺激、心像が現れる閾値を超えない反射、本能、習慣によって、自分たちの行動がどれほど統御されているかを、いつも理解しているわけではない。この隠れた巨大な仕組みの一部が明かされると、見る人は、存在について唯物論的、機械的、宿命論的な見方をし、自分たちは自分の仕組みの犠牲だというかもしれない。あるいは、逆の極端へ向かい、潜在意識、意識下の自己の領域について、多かれ少なかれ神秘的な言説を唱えるかもしれない。こうして、部分的な見方、半分の真実から、形而上学的な問題が生まれ、互いに戦うために武装する。それでも、私たちはときに、自分の行動の一部を意識的に統御する、という想定がある。ほとんどの人の心では、それは確信に達している。そして、刺激、すなわち行為の条件に気づき、それを選び、強めることで、行動を意識的に統御する、というのは、この確信を、少し明示的にするだけのことである。

意識が、刺激に対して選択の働きをするというのは、証明すべきことを前提にしているのだろうか。心理学の観点からは、そうは見えない。意識の特徴のうち、その選択する働き、ある限界内で刺激や行為の条件を選び出し、強める能力ほど、省察によっても実験によっても、明確に示されているものはない。

何かを表す心像は、感覚が意識に上った刺激であるのと同じ仕方で、意識に上った刺激である。それは、直接の刺激でもあり、間接の刺激でもある。『直接』『間接』という言葉は、それらを生む個別の状況の要求に対してのみ、相対的に使っている。直接の刺激とは、目立つほどの遅れをほとんど伴わず、与えられた状況の要求に適した反応や態度を始めさせる刺激をいう。意識的な省察を最小限にして、難しさを乗り越え、障害を取り除き、問題を解くのである。心像が、実際に働く象徴、すなわち観念になるにつれて、単に直接の刺激になる傾向を持つ。

『間接の刺激』とは、抑えなければ、その状況に無関係となる反応を始めさせる刺激をいう。しかし、それは、直接の感覚知覚の場には見いだされず、しかも、活動を続けるためには不可欠な刺激を、表すことがある。その状況には、問題がある。いつもの刺激がないため、あるいは新しい、まだ試されていない行為の条件があるため、身につけた習慣や心の対応の仕方が、ある点で機能しなくなり、滑らかに働かなくなる。このような状況に応える際の負担は、一部は適切な刺激を発見する側に、一部は既存の習慣から新しい反応の方法を発展させる側に、かかるのである。

このような状況では、心像が、刺激の側で働くことがある。緊張や摩擦から生じ、実際にそこにある刺激を手がかりにして、欠けている行為の条件を、その探索を導ける程度に表す場合である。心像は、いわば地図を投影する。その地図のなかで、感覚知覚に直接現れる断片的な条件が、自分の位置を見いだし、あるいは何らかの仕方で、欠けている要素が発見される。身近な例は、知人の忘れた名前を思い出そうとするとき、ときどき経験することである。その知人に結びつく場面、その名前に結びつく、さまざまな文字や語の響きの心像が浮かぶかもしれない。それらは、直接の刺激としてというより、中間の、あるいは間接の刺激として働く。身につけているが一時的に失われた対応を呼び起こす、直接の刺激となる心像を、あれこれ探す場合なのである。

心像は、それが表し、先へ投じる行為の条件が、現実の行為の条件ではないかぎりで、反応の側、新しい習慣、新しい対応の形を発展させる側でも働く。その条件が、あまりに手の届かないところにあって、到達するための新しい習慣を必要とする場合がある。また、実際にはそこにあっても、比較的統御されていない美的、情動的な反応を促す場合もある。しかし、その反応の表出そのものが、もっと適切で、知的で、統御された習慣や対応を求める要求へと変えられるかもしれない。まだ達していないもの、さらには達しえないものを、意識的に投影することは、すでにある程度達していることを示すだけでなく、さらなる発展の始まりでもある。ここで再び、刺激は、condition という言葉の二重の意味の両方で、行為の条件だと分かる。それは、活動の状態、あり方でもあり、さらなる活動の始まり、成立条件でもある。

問題のある状況から生じる間接の刺激として、心像は、必然的に、多かれ少なかれ無関係な材料を持ち込む。逆説を許してもらえるなら、心像は、無関係なものを持ち込まなければ、役に立つ関係も持てないだろう。状況が新しいため、何が関係するかを、あらかじめいうことはできない。だからこそ、心像の広がりと自由な動きが求められる。ついに見つけ、実行できた、成功する対応だけが、それを先取りした心像の関連性を確かめる基準となる。この基準でさえ、不公平かもしれない。省察と実験の途中で、適切な手がかりを見つけるために不可欠だったかもしれない心像を、いまは除かれたというだけで、低く評価しがちだからである。

心像の心理学的な働きについて、要点を言い直そう。心像は、統御を、事実としてではなく、観念上のものとして示す働きをする。それは、対応や習慣を組み直す、可能な過程を表すのであり、現実に完了した再調整ではない。ふつう、新たな要求や新しい問題がある、緊張のなかで生じる。帰結を見通すことが重要であり、また難しいため、あらゆる可能な方向へ先を見ようとする。しかし、新しい対応が、まずまず成功したとしよう。まずまず、であることに注意してほしい。観念上の目標が、実現したとしよう。練習によって、その対応は、問題を少なくし、もっと統御されるようになる。つまり、それを行うために、意識的な注意を、それほど必要としなくなる。心像は、感覚的な内容の一部を失う。すり減り、遠ざかり、ついには、概念と分類してもらえるほど、立派に曖昧で抽象的になる。心像は、習慣と習慣、概念と概念、観念と観念の間の、再構成の過程を促す刺激なのである。

いま、心像の論理的な働きについての、初めの問いに戻る。心像は感覚知覚と同じ水準にある、という経験論者と概念主義者に共通の想定を受け入れられる条件は、一つだけだと私は考える。それは、意味、論理的な意味も、習慣と同じ水準にあるとすることである。習慣という語は、刺激への、より目に見える、表立った反応の形を指し、論理的な意味という語は、より内的な反応や指示の形を指す。こうして、心的な反応と論理的な指示とは、同等の言葉になる。

心像は、習慣との関係で、直接の刺激と間接の刺激という、二つの働きを果たしうることを見た。論理的な意味との関係でも同じである。心像は、観念を直接に実在へ関係づける刺激となることもあれば、新しい意味をつくり出さなければならない、その条件を示し、映すこともある。心像の質、感覚的な内容は、それ自体で、習慣的な態度を直ちに呼び起こし、実在への即座の指示を引き出すのに十分かもしれない。何が起きているかを、はっと『飲み込み』、『つかむ』ことができる。意味の運動的な側面を表すために、こうした言い方を許してほしい。たとえば、『何をすべきか、閃くように分かって、すぐそうした』という場合である。心像の、意識された質的な内容が最小限になっている、もっと抽象的で複雑な判断や推論も、同じ種類に属する。ただ、直ちに外へ表れることに関しては、反対の極にある。私たちは、あまりに馴染んだ習慣的な活動の道筋を進むため、ほとんど暗闇でも働ける。精緻な心像は必要ない。信号旗が振られ、信号機の光が変わるだけを手がかりに、使用と習慣によって滑らかになった、線路の迷路をすばやく進む。しかし、新しい習慣の路線をつくるとしよう。信号旗や信号機では足りない。予定する経路の、詳しい測量が必要である。ここでこそ、以前の測量から生じた、豊かで多様で、しかも柔軟な感覚内容を持つ心像が、新しい条件の組み合わせを映し出し、予期するために働ける。そして、新しい習慣の路線、新しい、さらに遠くまで届く意味の刺激となる。この新しい習慣や意味の路線が、体系のほかの部分とともに動くようになると、心像はふつう、再び信号旗や信号機の役割へと縮まっていく。

ここで検討してきた、論理学説における『心像』と『観念』との区別は、心理学の観点からすれば、半分の真実でしかない。それは事実上、『観念』を、干からびた心像の断片が、その向こうの実在を指す、固定して変わらない指示に限ってしまう。心像の自由な動きと豊かさを、浮遊する感覚内容の残骸か、外的な実在かに、無造作に明け渡してしまう。思考の最後の段階、心像が直接の刺激として働く段階の検討に、自分を限る。その段階では、心像の感覚的な内容は、それ自体としては、ほとんど、あるいはまったく働きを持たない。その内容が、習慣的な対応、すでに仕上げられ確立された、目的への手段の適合を、直接に始めさせるからである。しかし、この見方は、純粋に本能的、あるいは偶然的ではない、そのような対応のすべてに、論理的に先立つ、意識的な省察の過程を見落とす。その過程では、何かを表すものとしての心像が、間接的に働く。過去の経験の資源、身についた習慣の蓄えを、現にある感覚経験の、断片的で問題を含む要素に作用させ、こうして経験の流れと連続性を保つのである。意味と質、『観念』と『心像』との、切り離せない結びつきには、古い意味から新しい意味をつくり、適用する可能性、より深い意味を発展させ、より包括的で普遍的な意味を試し、肯定する可能性がある。このことを、その見方は認め損なっているのである。

私たちは、次の二者択一に直面する。心像は、その感覚的な内容によって論理的な働きを持つのか。それとも、単なる象徴として論理的に働き、その感覚的な内容は、論理的にはまったくどうでもよいのか。経験論者によれば前者であり、概念主義者によれば後者である。経験論者は、論理的な過程が作用するデータを補うために、心像が必要なのだというだろう。その必要を満たすと、心像は現役を退く。経験論者にとって、観察、比較、一般化などの思考過程は、それが使うデータから独立している。それは、概念主義者にとって、論理的な意味、指示、『観念』が、『心像』の感覚的な内容から独立しているのと、同じことである。実際には、心像の感覚的な内容を、思考の過程から、したがって論理学の領域から除く点で、両者は一致しているのである。

心理学の理論の観点からは、概念主義者は、経験論者より一歩進んでいる。思考過程は、何らかの心像に結びついており、その感覚的な質が、どれほど無関係で、取るに足らず、すり減っていようとも、そうなのだと示すことによって、分析を一歩進めた。観念を、実在への指示として述べる彼の見方は、見てきたように、心理学の、観念運動活動、あるいは感覚運動活動という、一体的な考え方に、容易に結びつく。しかし、論理学説はここで止まり、『意識状態』の研究としての心理学が、未完の話を引き継いで先へ進むのだろうか。論理学が、思考について考えるという仕事を譲り渡すのでなければ、それは、ほとんどありえないように思える。

心像を、単なる象徴に切り詰めてみよう。その感覚的な質は、まったくどうでもよいことにしよう。すると、そこにあるのは、初歩的で原始的な反射行動以外の何なのか。どの感覚器官から生じるように見えるか、末梢で起こるように見えるか、中枢で起こるように見えるかさえ、特に重要ではない。感じて動く、触れて進む、それだけのことである。これは思考なのだろうか。思考の萌芽とも、最終の到達点とも見なせるかもしれない。しかし、私たちの多くが、論理学の本当の素材と考えがちなものは、単なる反射にも、反射の連鎖にさえも限られない。たとえ、反射の連鎖の複雑な絡み合い以上ではないとしても、もっと複雑な何かなのである。

思考と呼ぶ過程の複雑さは、それに含まれる本能的、習慣的な反射だけにあるのではない。誰もが知るように、ある対応が本能的で習慣的であるほど、それは思考の問題ではなくなる。もっとも、外から見る人には、その生物学的な複雑さは、変わらず明白である。思考過程の複雑さは、意識のなかにもある。意識に『上った』心像、刺激、望むなら単なる象徴と呼んでもよいもののなかにある。複雑さが感じられ始め、どんなものであれ、区別が導入され、あるいは認められ始めた、その瞬間に、心像の感覚的な内容、その質が、論理的な働きを持ち始める。意識的な区別が、どれほど曖昧で一瞬のものでも、それと心像の質の論理的な働きは、ともに生まれる。もっと明白で意図的な形の意識的な区別のほうが、論理的な過程を特徴づけると、あえて考えるのでなければ、そうである。さまざまな心像の感覚内容が区別され、比較されて初めて、思考と呼べるようなことが進むと考えられる。心像の個々の感覚内容は、論理的にどうでもよいどころか、思考の条件、思考を可能にするものなのである。

概念主義者は、少なくとも暗黙のうちに、思考に特徴的かもしれない心像の、遠くかすかで、縮小された性格に注意を向けることによって、記述的な心理学のデータに貢献した。しかし、心像の感覚的な内容が遠ざかり、減るほど、思考にとっての重要さも減り、区別の必要も減る、ということには、決してならない。逆に、残る感覚的な内容が、論理的にこのうえなく重要かもしれない。それは意味の精髄かもしれない。ほとんど同じほどに純化された、別の意識的な要因から区別されることで、行動の道筋全体を決める、意識的な要因かもしれない。この縮小された形の心像は、意識の縁を漂い、あるいは焦点をかすめていく。それらを、繊細に、すばやく見分け、捉えることは、幼いころに始まる、習得に長くかかる思考の技術の要点である。たとえばゴールトンのような質問紙調査が、多くの場合、科学者や高度な思考をする人の心に、豊かで多様な心像の備えを見いだせなかったとしても、それは、その心が心像に乏しい証拠にはならない。むしろ、実際に使われている心像の種類の、感覚的な内容について、高度に発達した技法、一種の名人芸があることを示すのである。

すでに予備的に述べた二者択一を、もう一歩進めよう。『観念』、あるいは『論理的な意味』は、単なる衝動や反射として、思考の過程の外にあるのか。それとも、その『心像』の感覚的な内容によって、区別し、比較し、選ぶ、光と影、疑いと探究の、意識的な過程に入るのか。その過程こそ、一つの判断の発展をなし、思考の一つの動きの、生の歴史をつくるのである。

第九章

ソクラテス以前の哲学の論理[87]

この研究は、ソクラテス以前の哲学者たちが、ある論理学の体系を持っていて、それが今初めて現代に紹介されるのだ、と示すことを目的としてはいない。実際、彼らが心の働きを省察し、概念や結論の形式を規制する、組織だった規準を必要とするまでに至ったことを示す証拠はない。アリストテレスは、問答術を発見したのはエレアのゼノンだとした。後に見るように、この見解には十分な根拠があった。しかし、専門的な意味での論理学は、概念なしには考えられない。そしてアリストテレス以来、厳密な定義はソクラテスに始まると、広く信じられてきた。定義と呼んでよいとすれば、その素朴な試みのいくつかは、エンペドクレスとデモクリトスに帰される。しかし、科学の精神に即して考えられたかぎりで、それらは、いわば物が生じる化学式を示し、物質の面から物を定義しようとしたのである。この事実自体、重要ではあるが、それは、思考の規準の初歩さえ、省察の対象になっていなかったことを示している。

アリストテレスは『オルガノン』で、科学的な論議を規制する技法が必要とされたのは、エレア哲学の最も強い影響を受けた人々が、勝ち負けを争うために論理をこね回したからだ、と明らかにしている。実際、これは弁論術の成立とよく似ている。アリストテレスは、問答術の始まりをゼノンに帰したように、弁論術を始めたのはエンペドクレスだと考えた。しかし、両方の技法が、まとまった体系として定式化されたのは、ずっと後のことである。ティシアスとコラクスの時代より前から、人々が訴訟を行っていたように、論理学の基本原理も、アリストテレスが抽象的な形を与える以前から、実践のなかで働き、効果を上げていたのである。

したがって、ソクラテス以前の哲学者たちが形式的な論理学を持っていなかったのは確かである。しかし、アリストテレスの論理学の土台となる概念や前提を、彼らが先人から受け継いだか、自ら発展させたことも、同じく確かであり、はるかに重要である。この研究の目的の一つは、ギリシア思想の、そうした基本概念のいくつかを探し、その起源と論理的な意義を考察することである。それらのほとんどは、ソクラテスの時代より前に存在していた。もう一つの目的は、理論を組み立て、確かめようとするあらゆる試みのなかに潜む論理的原理が、実際に働いた思考の道筋をたどることである。

いうまでもなく、何の前提にも立たない思想体系を見つけることはできない。前提とは縦糸であり、そこに、自らを創造者だと思う喜びとともに、体系という横糸が織り込まれる。その横糸自体、他の織物からほぐれた糸くずであることが、あまりにも多いのだが。思想家が自分の思考の過程を意識し、何を当然のこととしているかに気づいている場合は、まれである。ふつう、この内側の防衛線への退却が起きるのは、もはや維持できない前線から押し戻されたときだけである。エマソンは、あるところでこう述べた。「先立つ世代は、神と自然とをじかに見た。私たちは、彼らの目を通して見る。私たちも宇宙と独自の関係を結んでは、いけないのだろうか。伝承からではなく洞察から生まれる詩と哲学を、彼らの宗教の歴史ではなく、私たちへの啓示から生まれる宗教を持っては、いけないのだろうか。」難しさは、まさしく、直接の洞察や啓示を信じる、その点にある。それら自体、私たちが見落とした媒介を通る帰納の近道、心理的な短絡にすぎないからである。根底から批判的な哲学だけが、公理とみなされるに至った概念に、その資格の証明を求めるところまで、疑いを押し進めるのである。

真理を探究するには、アリストテレスより前へさかのぼる必要がある。そのことは、諸科学の第一原理に対する彼の態度によく表れている。彼にとって、それらは直接に与えられる命題、ἄμεσοι προτάσεις であり、したがって、究極のア・プリオリなものである。この事実の歴史的な意味は、すでに明らかだろう。これらの第一原理は、それ以前の思考の帰納的な動きがもたらした成果を要約するものだが、彼の時代には、決定的に確立されたとみなされていた。そのため、そこへ推論を進めた道筋は、記憶から消えるに任された、ということである。

こうして原理に体現された確信が、どこから生まれたかを説明しない思想史は、理性の要求を満たせない。受け入れられる説明は、意志と関心による説明だけであろう。しかし、その説明を与えるには、当時の世俗的な活動や大望について、もはや得られない知識が必要になる。タレス以前の時代の理論的な関心だけでも分かれば、実りがあるかもしれない。だが近代には、純粋に実践的な活動に特有の関心の向きが、日常生活の流れを形づくり始めてから、一世紀以上も後になって、思弁を変革する影響を現すことが分かっている。したがって、歴史的な資料が得られたとしても、読み違えるおそれがある。しかし、ここで繰り返す必要のない一般的な考察も、後に概観する思想史の、その後の展開に含まれる手がかりも、ともに実践の優位を示している。思考がたどる道を決める関心の方向は、実践から与えられるのである。

先に述べたように、科学の原理は帰納的な動きの成果であり、その帰納的な動きは、ある関心によって方向づけられる。したがって、原理は、それを生んだ関心のうちに含まれる。より正確には、その関心を明確に規定したものである。言い換えれば、あらゆる帰納には、演繹の過程が含まれている。どんな思考の流れも、本流だけでなく、ところどころで本流に戻る渦を含むのである。これは、長く哲学者の思考を引きつけてきた現象を説明する、一つの仕方でもある。科学の発見を先取りする予想が的中するという事実、さらに一般的にいえば、ア・プリオリな総合判断が可能であるということである。問題の解決は、つきつめれば、その問題の立て方のなかに含まれている。[88]

前提に基づかない心の段階に行き着こうとすれば、おそらく、その始まりまでさかのぼらなければならない。ギリシアの思考は、タレスの時代でさえ、すでに多くの前提を備えていた。ここで一覧を作ることはできないが、特に重要ないくつかを考えることは、私たちの目的に役立つだろう。思考も生命も、自然に一様性があること、究極的には世界が理にかなっていることを、成立の条件とする。これは、後にそうなるような、自覚的な要求ですらない。そうであるという信頼に現れる、根源的な倫理的要請である。ある角度から見れば、充足理由の原理と呼べるだろう。これと密接に結びつくのが、生じるものはすべて、それ以前にあったものと切り離せず結びついている、という初期ギリシア哲学者に共通の信念である。より正確には、絶対的な生成はなく、相対的な生成しかない、ということである。この公理からの帰結は、やがて物質または質量の保存、そしてエネルギー、古代についてより正確にいえば運動の保存という要請に現れた。論理的には、これらの原理は、主語を規定している間、その主語が元のままであること、また主語、述語、繋辞から成る体系で、検証のための調整が進む間、それぞれの項が「その場にとどまる」ことを意味するように思われる。この大きな問題のなかで一定しているものが、永続する道標となるのは、当然である。

この同じ一様性の原理から、ほかの帰結も生まれる。生じるものすべてが、何らかの意味ですでにあるのだから、世界の一体性という要請が現れる。この一体性は、世界の根底にあるものの統一性と均質性だけでなく、自然の個々の働き方をすべて従わせる普遍的法則という、より観念的な考えにも現れる。ここには、述語と繋辞とを組織立てようとする、強い要求が認められる。これらの定式と並んで、もう一つの定式がある。それは、秩序ある生成の過程と、両極の間を媒介しうる、段階的な存在の系列を求めるものである。初期ギリシア思想では、いたるところで、そのような系列に出会う。アナクシメネスの希薄化と濃縮の過程、ヘラクレイトスの ὁδὸς ἄνω κάτω、上りと下りの道、後のほとんどすべての体系に現れるエンペドクレスの四元素の規則的な順序など、多くの例が自然と思い浮かぶ。この考えが、有効に働く繋辞を表すものとして持つ意義は、まもなく明らかになる。これらのどの原理よりも、さらに捉えにくいかもしれないのが、φύσις、ピュシスという前提、すなわち自然のすべてに生命が宿るという前提である。ただし、これは他の原理ほど長く、異議を唱えられずにいたわけではない。この要請を論理的に解釈すれば、具体的な事物の体系、主語、述語、繋辞が、それ自体で完結し、外からの一押しを必要としない全体をなす、ということになるだろう。

初期ギリシア哲学者の前提を概観するにあたり、私は断りもなく、判断の用語を使ってきた。このやり方が正当かどうかは、ほかのどんな前提と同じく、つきつめれば、事実への適用がうまくいくかどうかによる。しかし、「論理学」が、生活のなかで実践的な目的を達成しようと、具体的な経験を扱う営みを、図式的に定式化するだけのものなら、その形式は、ほかの場所と同じく、ここにも当てはまるはずである。ここでも判断がつくられ、一定の事実から明確な概念へ帰納が行われ、前提とされた原理や命題から演繹がなされる。したがって、論理学の用語をこの領域へ迎え入れてよいと考えられる。その用語でいえば、ソクラテス以前の哲学者には、三つの論理的問題が与えられていた。第一に、述語、言い換えれば世界の理論が求められた。第二に、何を主語とみなすべきか、別の言い方をすれば、そもそも何が説明を必要とするのかを、確かめる必要があった。第三に、その理論を世界の述語とし、逆に、立てた仮説によって生活の具体的な経験を説明する、その方法や手段を見つける必要が生じた。論理学の用語では、これは、有効に働く繋辞を保つ問題である。実際の歴史が、この順序を、交差や重なりもなくたどった、と考えているわけではない。しかし、その時代の歴史を見渡せば、大筋では、論理的な要求がこの順序で現れたことが分かるだろう。

一 ギリシア哲学は、帰納から歩み始めた。その仕事に取りかかる際に持っていた前提も、それ以前の帰納の成果だったことは、すでに述べた。実際、ギリシア人の叙事詩や神統譜の詩には、これらの問題すべてを意識していたことをうかがわせる考えが、数多く含まれている。たとえばホメロスは、すべてのものが水から生じるという考えも、[89] 人体は朽ちると土と水に戻るという考えも、よく知っている。[90] ほかの説も挙げられるが、ここでの目的には何も付け加えないだろう。人々が哲学の精神で世界について理論を立て始めたとき、世界、すなわち主語は、十分に知られていると考えられていた。その存在は当然とされ、彼らの注意を引いたのは、その意味の問題だった。彼らの問いを定式化すれば、主語にどんな述語を与えるべきか、となる。注目されるのは、その帰納がずいぶん大まかだったことである。しかし、受け入れられることを競う対抗理論が現れるまでは、いつもそうである。対抗理論が現れてさえ、広い範囲から、実験によって確かめた証拠を集めようとする衝動は、仮説をつくる願いよりも、むしろ仮説を試す願いに伴って生じる。細部や反証例を明るみに出すのは、検証の努力なのである。したがって、すべては水であると一般化したタレスを、軽率だと責めてはならない。何が彼をその結論に導いたのか、私たちには分からない。アリストテレスは推測を試みたが、タレスに帰した動機は、ヒッポンが重んじたものとあまりによく一致しており、すぐには受け入れがたい。

アナクシマンドロスは、帰納の後に演繹が必要だと感じ、無限なるもののうちに述語を見いだした。この語で彼が何を意味したのかを、今立ち止まって調べることはできない。しかし、知識の衣の裾に熱心にすがりつく天才にとって、その曖昧さ自体が魅力だったとしても、不思議ではない。アナクシメネスは、検証をもう少し進め、いくつかの反証例を明らかにして、水と無限なるものを退け、すべては空気であると推論した。彼の ἀρχή、根源は、無限という性質を持たなければならない。しかし、希薄化と濃縮の過程に繋辞が見いだされた以上、存在の典型的な形態がなす系列のなかで、一定の位置を占めなければならない。この考えの論理的な意味は、後に取り上げる。

その前に、ここまで各哲学者が提示した述語は、それぞれ一つだけだったことに注意しておこう。これは、先に触れた、世界は一つで均質であるという前提によるものに違いない。当初、その意味はほとんど自覚されていなかったが、この考えは、ギリシア思想のなかで大きな役割を果たすことになる。それは、必ずしも対立しない、さまざまな見方から考察できる。実際、しばしばいわれるように、無知によるものだった、としてもよい。人々は世界の複雑さを知らず、そのため、その実体は単純だとしたのである。また、この前提は、経験を統一し、理想の実現へ向けて組織立てるべきだという倫理的要請を、素朴に反映したものにすぎない、ともいえる。知識が増すにつれて、いわゆる化学元素の数は増えたが、物理学はその違いを問題とせず、化学自体も、それらをより基本的なものへ還元することを求めるのである。

均質性という考えの適用範囲は、二つの仕方で広がった。第一に、事物に与えうる個々の述語から抽象することで現れた。これは、世界は理解できるものでなければならない、という根本的な前提が働いたためである。こうして、すでにアナクシマンドロスにおいて、世界の根底にあるものは、事物の多様性を顧慮しない。ただ、経験のうちの対立がそこから生じるようにしておく、という消極的な仕方でしか、多様性を扱わない。したがって、述語を求める私たちは、具体的な経験の背後にある何かへと向けられる。ピュタゴラス派は、事物の一つの側面を本質的なものと定め、数学的な関係のなかに世界の意味を見いだす。エレア派は、均質性の考えを、同一性にまで突き詰める。同一性とは、違いがないことである。したがって、空間の面から見れば、空虚を否定し、世界を分割できないものとすることを求める。時間の面から見れば、異なる状態が継起すること、したがって変化の可能性を排除する。

こうして、一と多の問題は、先鋭な段階に達する。ここで一は述語であり、多は主語である。この難しさを解くのは繋辞の仕事であり、この主題には、しかるべきところで戻る。ただし、ここで注意しておきたいのは、一がいつも述語と同じであり、多がいつも主語と同じだとはかぎらないことである。仮説を立て、検証する、その律動的な動きのなかで、関心は移る。つい先ほどまで述語だったものが、前提の位置を占めることで、個別的なものをそこから導出、あるいは演繹すべき所与とみなされるようになる。したがって、存在と意味の位置も入れ替わる。最初、主語、すなわち世界は、その意味である述語を組み立てるための、与えられた手段とされていた。いったん仮説が立つと、関心の方向は出発点へ戻る。そして検証または演繹の過程で、以前の述語、いまや前提となったものが所与となり、思考に課される仕事は、事実を導き出すことになる。当面は、あるいは世界への帰還が果たされるまでは、一だけが実在し、多様なものは単なる現れにとどまるのである。

世界の均質性という意識が姿を取る、第二の形は、第一のように静的ではなく、まったく動的である。世界全体を同族にするのは、ある性質の有無ではなく、一つの原理である。こうして明らかになる法則は、したがって、述語に関わるものではなく、繋辞そのものである。その詳しい考察は、さしあたり後に回さなければならない。

二 すでに述べたように、帰納的な動きは、演繹的な動きを含んでいる。それは単に帰納に先立ち、あるいは伴うものとしてではなく、帰納の内なる意味、究極の目的として含まれる。最初期のギリシア思想家の場合も同じだった。述語を立てる目的は、そこから主語を導き出すことにあった。言い換えれば、世界の生成がそこから始まる ἀρχή、根源を発見することが、彼らの大望だった。しかし演繹は、アリストテレスの前提と中項の仕組みに慣れた人が、初めに思うよりも、はるかに重大な仕事である。演繹の仕事は主語を明らかにすることだが、ふつう、主語はすっかり視界から消えてしまう。帰納は速やかに進むが、演繹は大きく遅れる。自然哲学者が原理を発見するには、一瞬の「洞察」のひらめきだけで足りるかもしれない。しかし、それが真に重要な原理なら、発明家たちは何世紀にもわたり、さまざまな仕掛けを考案して、生活の必要への応用を、その原理から導き出すことになる。こうして長い年月の後に、私たちは主語について、さらに多くを知るようになり、主語自体も豊かになる。仕掛けは、実践的な事柄のなかで繋辞を代表するものであり、準理論的な領域では、実験のための装置となる。いま、原理を生活へ適用することで、生活が豊かになると述べた。言い換えれば、生活は新たな意味を得る。そして新たな意味とは、新たな述語である。理論は、ときに、数多くの新しい述語が提示されることを、痛いほど意識する。しかし、新しい天と新しい地がつくられたことには、めったに気づかない。後者がなければ、前者は不合理なのである。

人々は実に多くのことを当然とし、ほとんどあらゆる成果を、当たり前とみなす。そのため、自分たちの立場が変わったことにも、それが新しい構想や広がった見通しに映るかぎりでしか、気づかない。主語には、どんな新しい述語を展開すべきか見定めるための、ざっとした一瞥が向けられるだけである。したがって、ギリシア哲学には、はっきりした演繹的な動きがあるものの、主語に関する理論的な成果は、乏しい。タレスは実際、世界を導出する手段を提示しなかったようだが、それが可能だという点は、明らかに疑っていなかった。彼もほかの人々も、曖昧にしか理解していなかったにせよ、主語も述語と同じく単純である、と前提していたように思われる。こうして、世界は本質的に一つであるということが、意味として見ても、存在として見ても、初めから決まった結論となる。主語のうちに区分があるという意識は、エンペドクレスに始まるようである。彼は、エレア派による実体の規定の成果を受け取り、主語としての世界も、述語としての世界も、四つの元素に分けたのである。

ここで少し立ち止まり、その後の哲学で大きな役割を果たす、四元素という前提の意味を考えてみよう。複数の元素と、何ものも絶対的に生じず、絶対的に消え去りもしないという要請とが結びつくことの重要さは、詳しく述べるまでもない。これらはまさに、化学を支える柱であり、さらに、異なる次元の性質が存在することを含意する。ただし、後に見るように、その含意は、アナクシメネスが導入した希薄化と濃縮の過程のなかにさえ、潜んでいた。ここで四元素に注目するのは、主に、ある種の実践的な関心が、自然の本質的な特徴を、今日まで残るほど意味のある形にまとめた、その事実を示すからである。火、空気、水については、それほど驚くには当たらない。土の場合は、いくらか事情が違う。冶金術など、大まかに土に分類されるものを扱う仕事が、人々の一般的な考え方に影響を及ぼすほど発達していたなら、この元素を、それほど均質だと考えることは、とうていできなかっただろう。この考えには、ギリシア人が大地に関わる際、農業への関心が優勢だったことが、はっきり映っている。これはまた、主語を組み立て直す演繹の歩みが、遅いことを示す例でもある。

しかし、アナクサゴラスと原子論者では、事情が異なる。エンペドクレスに始まった動きは、どうやら、すぐに極端なところまで進んだ。四元素に代わって、今や、それぞれ異なる無数の実体がある。この振り子の大きな振れの意味は、完全には明らかでない。しかし、たとえば金属が、エンペドクレスにとっては持ちえなかった意味を持っていたことは、アナクサゴラスの体系から明らかである。

振り子の反対方向への振れは、エレア派のその後の歩みに見られる。彼らの前提するほど、固定され、一つにまとまった述語を与えるなら、主語は、その述語によっては、とうてい考えられない。そのため、主語は、まったく否定されてしまう。一と多の問題を扱うゼノンとメリッソスの問答には、原子論者が提示した解決を思わせるところが多い。しかし、それらの箇所が、すでに唱えられていた説を批判するのか、それとも後の人々に道を示したのかは、今では、おそらく確かめられない。エレア派が一だけの実在を主張したのに対して、アナクサゴラスと原子論者は、本質的な統一のない多を前提した。しかし、人間の心は、この結論に安住できないようである。世界が、いくつもの意味ではなく、一つの意味を持つことを求める。この要求は、統一された述語だけでなく、有効に働く繋辞をも求めるのである。

三 述語がどのような段階を経て推論されたかは、大部分、知られていないことを、すでに指摘した。アリストテレスの記述には、いくつかの示唆が含まれる。しかし一般には、根拠の確かなものも、そうでないものもある推測だ、といってよい。大まかな帰納による媒介は、ほとんど痕跡を残していない。また、仮説が退けられ、修正された検証の過程も、記録のところどころでしか、たどれない。私たちが情報を得る、ほとんど唯一の手がかりは、諸体系の論争である。幸い、いまの目的には、個々の哲学者の心のなかで、問いが正確にどんな形を取ったかまで知る必要はない。論理の厳しい要求に応えようとする彼らの努力が、ここでは自らを語っているからである。

初めには、述語から主語へ戻る媒介の仕組みは、何もなかった。実際、タレスの心には、その必要の意識さえなかったようである。アナクシマンドロスは、この問いを立てた。しかし、彼の唱えた分離、あるいは分出の過程、ἐκκρίνεσθαι は、あまりに曖昧にしか考えられておらず、解いた以上の問題を生んだ。実りのある仕組みを初めて提示したのは、アナクシメネスである。彼は、事物は希薄化と濃縮によって空気から生まれるとした。この過程は、違いを説明する原理だけでなく、考察を導く概念をも与える。その価値を見極める仕事は、後のソクラテス以前の哲学者の、ほとんどすべての思考を占めた。この過程は、広がりと質量とが実体の本質的な性質をなすことを含意する。十分に理解すれば、一方の極のパルメニデスから、他方の極のデモクリトスやアナクサゴラスに至る、唯物論的哲学の全体を、萌芽として含んでいる。この見方に内在する難しさを、アナクシメネスは知らなかった。単一の述語を持った彼は、均質な主語をも前提していたからである。

ヘラクレイトスの論理的な立場は、アナクシメネスの立場と似ている。彼も単純な述語を立て、それを火と名づけることで、その働きとしての性格を、さらに際立たせる。論争のある領域へ踏み込まずにいえば、火という元素の休みない活動こそが、物事の意味を最もよく表すものとして、彼にそれを選ばせたのである。その律動的な揺れ動きは、彼にとって、存在のなかの変化と、変化のなかの存在の原理を表した。それは「永遠に生きる」繋辞であり、主語も述語も呑み込み、ともに自らを表す対等なものとして、働きの面からつくり直す。唯一存在するもの、変わらず保たれるものは、物の物質的な組成ではなく、物が均衡を保つ、相互作用の法則である。彼はこれを、調和、ロゴス、必然、正義など、さまざまに呼ぶ。互いに対応する働きから成るこの体系では、何ものも取引所での勘定から逃れられない。[91] すべては絶えず流れ、律動の節目だけが一定にとどまる。したがって、近代にヘラクレイトスが、多くの思索や論評の対象となってきたことは、不思議ではない。彼の体系の区別がすべて働きに即していることは、彼の説と、現代の心理学や論理学の説との近さを示しているからである。[92]

ピュタゴラス派は、抽象によって述語を得ると、主語の存在は認めたが、理論の領域では、述語の内部の関係に関わる場合を除き、繋辞の必要を感じなかった。彼らにとって世界は数だったが、数そのものが、多元的、むしろ二元的だった。数を構成する基本的な種類である奇数と偶数を、何らかの仕方で結びつけなければならなかった。その絆は、一、あるいは調和のなかに見いだされた。数がどのように世界を構成するのかを問うとき、彼らの答えは、一般には、抑えのない空想をむなしく働かせるものにすぎなかった。[93] ある数は正義であり、別の数は人間だ、といった具合である。記録に値する結論に達したのは、まったく実践的な実験の領域だけだった。しかも、その意義を、彼ら自身は悟らなかった。ここで彼らは、音に数学的な測定を適用し、一定の高さの音を出す方法を発見した。こうして、自らの繋辞が有効に働くことを、実際に示したのである。

エレア派も、大筋では同じ抽象の道をたどった。しかし彼らの場合、世界の一体性への意識が、世界の豊かな多様性を消し去った。クセノファネスは、世界のなかの変化をすべて否定するほど、この考えを押し進めなかったようである。しかしパルメニデスは、自分の論理的な立場から正当に導かれる帰結を、少しも緩めなかった。彼は、初めには意味として考えられた述語を、存在として解釈したのである。あるものは、ただ、ある。こうして、残るのは、かつての述語だけとなる。今やそれは主語に変わり、ただの事実として、それ自体以外は、何も述定できない。論理的にいえば、パルメニデスには、A=Aという同一命題を述べることしかできない。感覚の報告が誤っており、生成は不可能であることは、当然の帰結となった。論理的な繋辞が単なる等号であるところには、帰納も演繹もありえない。私たちは、理論の袋小路に捕らわれる。

臆見の世界を論じる必要が、パルメニデス自身にどのように映ったかは、いまの問題ではない。人が、単純化でき、三段論法で述べられる結論に達する道筋は、あまりに多様であり、具体的な証拠なしに、もっともらしく推測することはできない。しかし、その方策に頼ったことが、行き詰まりの意識を反映していたのは明らかである。彼は哲学詩のその部分で、多くの細かな問題を、かなり実践的な精神で扱った。ヘラクレイトスとピュタゴラス派に倣い、ここでは、形而上学の領域よりも成功した。理論の傷が実践によって癒されることを、ここでも見るのである。しかし、いつものことだが、形而上学者が、きわめて実践的な穴に落ち込み、自らの手で足場を作って抜け出すことで、自分の疑問への答えを得ても、その思考の習慣まで組み直されるわけではない。エレア派の固定された述語は、プラトンとアリストテレスの形式論理学へ受け継がれた。そして帰納と演繹は、その後何世紀にもわたり、理論のなかでは、ハリネズミとウサギの競走であり続けた。[94] ゼノンとメリッソスが、一、多、連続、広がり、時間、運動という概念に加えた破壊的な批判の、真の意味は、ただ次の点にある。注意が移ることで述語が主語となり、あるいは意味が存在として化石化すると、論理過程の各項は、働きへのつながりを失い、意味をなさず、自己矛盾するものになるのである。

エンペドクレス、アナクサゴラス、原子論者が、一と多、主語と述語の問題を解くため、単一の述語を砕き、両方の領域を多に明け渡したことは、すでに述べた。しかし、彼らが真の問題を先送りしただけなのは明らかである。思考も行動も、どこかに統一を求める。そのため、こうした統一の絆を見いだし、あるいは作り出すことが、これらの哲学者の没頭する仕事となった。その探究は、物理的な相互作用の基盤を探すという形を取った。[95]

エンペドクレスは、愛の支配する一と、憎しみの支配する多との間に、律動的な往復を設けたとき、この難しさを一つの形で解いていると、明らかに考えていた。しかし、彼さえ、それには満足しなかった。愛は、すべての元素を一つの球に集め、統一を生み出す。だが、その統一は、ただ異なるだけでなく、互いに対立する、奪い去れない性質を持つ元素の混合によって成り立っていた。他方、憎しみは、混じり合った粒子を、たしかに分離する。しかし、各元素の粒子を、ほかの元素から切り分けることによって、同じもの同士を集め、一種の統一を生み出す。この点では、愛に、結びつける力だけでなく、分離する力をも認めたアリストテレスは、明らかに正しかった。さらに、どれほどわずかであれ、両方の力が同時に働いていない瞬間は、考えられていなかったようである。

しかしエンペドクレスは、世界が生まれうるのは、愛と憎しみの争いで、どちらかが完全に勝利する両極の間だけだと主張した。いわば勝負がつかず、戦う者たちが入り乱れるときである。私たちの世界のあらゆるものに、各元素が一部ずつ含まれると、彼が明確に述べたかどうかは、疑問の余地があるかもしれない。しかし、彼はこの混合を、それほど不可欠と考えていたので、その混合が、物理的な統一を与える働きをすることは、疑いえない。彼が統一、すなわち繋辞を強く求めた、もう一つの証拠は、同じものだけが同じものに作用できるという説にある。また、彼が考え出した孔と流出物の仕組みは、この問題に真剣な考察を向けたことを、雄弁に示している。あらゆる相互作用は、それらを通じて起きると、彼は考えたのである。

したがって、エンペドクレスは、初めに元素に言い渡した離婚の判決を、取り消したといえる。しかし、ここでも解決が見いだされるのは、理論の領域ではなく、実践の領域である。彼は、元素は別々で対立しているという主張を、決して撤回しないからである。それでもなお、問題は解かれたというより、明確にされたのである。混合のなかで、元素同士を顕微鏡的な距離まで近づけても、同じものは同じものにしか作用できない以上、それらを隔てる狭い空間は、依然として渡れない深淵だからである。[96]

アナクサゴラスは、無数にある実体に、エンペドクレスの四元素を特徴づけるのと同じ、不変性と対立性を与えた。したがって、統一と協同を、有効な繋辞によって確保する難しさは、彼にとって、さらに増したことになる。これ以上難しくなる余地が、あるとすればの話だが。比較的少ない文献上の証拠から判断してよいなら、問題の捉え方は、エンペドクレスほど確かではなかった。ただし、解決には、大筋で同じ手段を用いた。彼もまた、すべての実体の混合を前提した。実際、それは先人よりも自覚的で明確だった。同じものだけが同じものに作用できると信じたため、[97] 実体が無数にあるだけでなく、それらが完全に混合しており、どれほど小さいものにも、ほかのすべてのものが一部ずつ含まれる、と考えることになった。たとえば食物は、見かけ上はどれほど単純でも、身体のさまざまな組織を養う。こうして、実体の普遍的な混合のなかに、協同と相互作用の基盤を見いだすのである。

したがってアナクサゴラスも、エンペドクレスと同じく、別々の実体の間に自ら想定した深淵に、橋を架ける必要を感じている。両者の失敗は同じく大きく、その原因は、エレア派の厳格な均質性という概念から受け継いだ前提にある。その均質性は、ほかのすべてとの絶対的な違いを意味するからである。アナクサゴラスの困難は、Νοῦς、ヌースの導入によって、いっそう増す。この働き手は、世界の形成を説明するために、すなわち、本質的に隔たった無数の実体を媒介し、具体的な事物の調和ある一致を実現するために、考えられた。普遍的な混合を基盤としてさえ、ヌースの働きは失敗を免れなかったが、その本性に与えられた定義は、仕事をさらに難しくした。アナクサゴラスによれば、ヌースは、事物の混合的な性格に対する唯一の例外であり、その本性は絶対に純粋で単純なのである。[98] したがって、ヌースは、その定義によって、果たすために考え出された仕事を、果たせなくなる。アナクサゴラスが、自ら導入した働き手を用いないと、プラトンやアリストテレスが嘆いたことは、驚くに当たらない。もっとも、ヌースは、プラトンのイデアやアリストテレスの神以上に、都合よく持ち出された解決役というわけではない。どれも、同じ制約の下で苦しんでいたのである。

原子論者も続いて、無限に多様な種類の原子として、多を認めた。しかし、その多は、本質的な均質性という前提によって和らげられた。一つの原子と別の原子を区別する特徴は、その空間的な関係による。質量と重さは、大きさに比例する。アリストテレスの伝えるところでは、事物も原子も違いを持つが、相互に作用するのは、その違いによってではなく、本質的な同一性によってである。[99] こうして、一次性質と二次性質の区別に、ほぼ重なるが、完全には重ならない区別が導入される。[100] 一次性質は、大きさ、形、おそらくは位置であり、[101] ほかのすべては二次性質である。他方、すべての原子に共通するのは、その物体性である。物体性は、たしかに一次的な、空間的性質に即して規定されるが、すべての原子で同じ仕方に規定されるわけではない。世界を構成する原子は、本質的な性質を同じくするが、位置においては、大きく異なるのである。

世界の一体性を破るのは空虚である。この表現を許されるなら、世界を原子化するのである。空虚は、あらゆる不連続の基盤である。したがって、原子と空虚は、互いを排除する両極となる。空間のなかで完全に孤立した原子には、世界を生み出せない。原子と原子の間の深淵に橋を架けるため、永遠で、どこにでもあり、必然的な運動に頼る。それが距離を消し去るのである。原子は、運動の過程で衝突する。原子論者は、この相互の衝突のなかに、世界を形成する協同の具体的な仕方を見いだす。[102] ルクレティウスが巧みに「生成をもたらす運動」と呼んだものは、この働きによるのである。

しかし、この問題は、当時の哲学者に執拗につきまとったため、原子論者は、この解決で満足しなかった。近代科学が、満足できる解決だと装ってきたにもかかわらずである。彼らは、エンペドクレスとアナクサゴラスに倣い、絶対に普遍的とはいわなくても、広範な混合を前提した。原子の間の「本質的な」違いを原理上は排除したものの、本質的なものと非本質的なものを、最終的には区別できないことが、しっぺ返しをしたのである。混合という工夫は、エンペドクレスとアナクサゴラスにとって重要だったが、原子論では、それと同じ程度に無意味なはずだった。原子論の仮説が、その主張どおりのことを果たせるなら、そうだったはずなのである。空虚によって互いに完全に切り離された「不可分な個体」を前提したため、原子論者にとって繋辞の問題は解けなくなった。この点を、繰り返して述べる必要はない。

アポロニアのディオゲネスは、ふつう、アナクシメネスへ立ち戻っただけで、独自の意義を持たない反動家として、軽蔑的に扱われる。この態度について、せいぜいいえるのは、哲学の理論を、個人の偶然の発言とみなしている、ということである。生まれつき才能に恵まれた、あるいは恵まれない個人が、後の時代の人々が同意したり、しなかったりする結論を、たまたま述べた、というわけだ。哲学上の説は、真空のどこかに置かれた原子であり、ほかのすべてから完全に切り離される。しかし、この見方に立って、思想の体系が、誰かにとってどうして意義を持ちうるのか、また進歩どころか、停滞さえ、どうしてありうるのかは、まったく分からない。

まったく外側から見れば、ディオゲネスの説は、実質的にはアナクシメネスの説の再燃に見えるだろう。空気が再び、すべてがそこから生じ、そこへ帰る元素、あるいは ἀρχή となる。変化の過程も、再び希薄化と濃縮に求められ、実体の属性も、初期の物活論者に共通していたものである。しかしそこには、アナクシメネスの知らなかった問題への、鋭い意識がある。初期の哲学者が、思考の若々しい無邪気さで主張したことを、後の自然研究者は、力を込めて繰り返す。その言葉こそ、生命をもたらす言葉だと信じるからである。

先の体系へ戻る動機を与えたのは、エンペドクレス、アナクサゴラス、原子論者を悩ませた、繋辞への切実な要求である。ここでは推測に頼らず、この哲学者自身の言葉に拠ることができる。出発点は争う余地のないものでなければならない、という短い序文の後、彼はすぐに、[103] 次の言葉で主題へ入った。[104] 「私の考えでは、全体を簡潔にいえば、すべてのものは、同じ実体が変化することで生じ、実際、すべては一つで同じものである。そして、これは、まったく明らかだ。もし今、世界にあるもの、土、水、空気、火、この世界にあると思われる、そのほかすべてのもののうち、どれか一つが、ほかと異なっていたなら、つまり、それ固有の本性において異なり、一つで同じものが、さまざまに変わるのではなかったなら、物が互いに混じり合うことは、決してできないだろう。一方から他方へ、助けも害も及ばず、土から植物が芽生えることも、ほかの生き物が生まれることもないだろう。物が、一つで同じものであるようにつくられていなければ、そうなるのである。」

この言葉は、過程の一体性を回復する必要を、たいへん興味深い仕方で表している。その一体性は、エレア派の得た見地を捨てずに、一と多の問題を解こうとする努力のなかで、失われていた。アリストテレスとテオプラストスは、上の引用箇所を言い換えて要約し、[105] 世界全体が一つで同じものだと前提しなければ、相互作用は不可能だ、と述べる。したがって、すでに述べたとおり、ディオゲネスがアナクシメネスの一元論的体系へ戻った、自覚的な動機は明らかである。その間に生じ、有効な繋辞を確保しようとする度重なる努力をむなしくした、二元論を避けることだったのである。

ただし、幾世代もの仕事を取り消そうとするこの試みのなかで、ディオゲネスは、その混乱を生んだ原理を残したことに、注意しなければならない。原子論的哲学の萌芽が、希薄化と濃縮の過程に含まれていたことは、すでに述べた。したがって、アナクシメネスの理論のほかの部分とともに、それを受け入れることで、致命的な前提が復活したのである。これは、人間のつくる体系の歴史の縮図である。上部の建物は倒され、その瓦礫で、古い土台の上に新しい建物が建てられる。

タレス以降の哲学的思考の全過程には、主語と述語の対立を示唆するものが現れていた。それは、実際に受け入れられている世界と対照される、φύσις、真の本性の探究に表れた、としばしばいわれる。この見方には、ある程度の真実がある。主語を繰り返すだけではない述語を得ようとする努力は、たしかに、対立の存在を意味するからである。しかし、演繹的な動きによって、述語から主語へ戻ろうとした努力は、その違いが絶対的だとは考えられていなかったことを示す。ただし、このことが当てはまるのは、実践生活の大きな道のすぐそばにある、思弁の領域だけである。その道は、どちらの方向にも通じる。むしろ、分離を示すと同時に、結びつける、といったほうがよい。抽象的な観念の領域では、困惑は深く、絶えず深まっていた。より低い水準で成し遂げられた再構成は、そうした高みには達しなかった。人々は結論を疑ったが、自分たちに共通する前提が、何によって正当化されるのかを、問おうとはしなかったのである。

ここまで述べた後期の哲学者たちと並んで、私たちがソフィストと呼び慣わす人々が歩んでいた。彼らは、当時の新聞記者や時評家だった。特定の問題を深く扱うことはせず、専門分野の研究者の一般的な見解に通じ、それらを組み合わせて、公衆を楽しませたのである。哲学者でも自然研究者でもなかったが、現代からも例を挙げられる、ある種の人々と同じく、両者の教えを広めようとした。当然、彼らは、最も広い範囲に及ぶ一般論と、多様な形に現れる前提をつかんだ。同じく当然ながら、より具体的な事柄で、先達が苦心して取り組んでいた、つきまとう問題の意義を見抜く目を、彼らは持たなかった。そのため、私たちがいま行った、この時代の哲学の分析で明らかになった矛盾が、すっかりむき出しになった。

結果は避けられなかった。統一した述語を見いだせないこと、さらに、有効に働く繋辞を得られないことが、述定そのものの可能性の否定へ、直接つながった。真理はない。仮にあっても、知ることはできない。たとえ知っても、伝えることはできない。ゴルギアスのこの鋭い言葉は、科学の論理を確立しようとして、実を結ばなかった努力の結論を、明確に述べている。しかし幸い、この言明は、ほとんど完全な誤りに等しい、半面だけの真理である。それは、いたるところに現れる、再構成の必要を示すしるしを、考慮しない。まして、その要求の意味を捉えてはいない。

しかしソフィストは、哲学者の教えを、抽象的に繰り返しただけではない。この動きを始めたのが彼らかどうかは、重要ではない。いずれにしても、彼らは道徳哲学の領域の先駆者だった。彼らが、φύσει、本性によることと、νόμῳ、慣習によることとの区別から、主に帰結を引き出したのは、この領域である。根深い道徳上の思い込みを解きほぐし、哲学による検討を受け入れるものにするために、これほど効果的なことは、なかっただろう。まさにここで、私たちはようやく、論理過程の意義を示す手がかりを得る。プラトンの『プロタゴラス』の、印象深い一節では、[106] 正義と畏敬に、真の妥当性が認められる。これは、あの偉大な人物の論述を、本質的には忠実に再現したものと、考えたくなる箇所である。その栄誉ある扱いが、どの性質によるのかを問うと、根拠は正義と畏敬そのものの内にはないことが分かる。それは、国家が存在しなければならない、という前提によるのである。

これこそ、一言でいえば、論理的な動きの帰結である。論理的な述語は、本質的に仮説であり、人々をその肯定へ動かす関心から、妥当性を得る。意志によって成り立つ体系のなかの項として持つ、この仮説的な性格を失い、独立した実体を名乗り始めると、述語は働かなくなり、存在する権利を失うのである。

第十章

論理的過程としての価値評価

この論考の目的は、価値評価の過程を論理的な観点から分析し、それに基づく価値論の骨組みを示すことである。明らかにしたい一般原理は、物について下される場合も、行動の仕方について下される場合も、価値判断は、その意味において本質的に客観的である、ということである。また、それに至る価値評価の過程は、物理的な事実についての結論を確立する判断過程と、本質的に同じ論理的性格を持つ、ということである。要するに、問題となる物に対する判断者の確定した態度を表す、完成した価値判断へと至る価値評価の過程は、現今の認識論で感覚知覚や科学の判断がそうだとされるのと同じ意味で、一つの実在の秩序を構成するのである。そのための方法として、倫理的または経済的な問題を熟慮している個人の立場に立ち、できるかぎり一貫して、その立場を保つことにする。というのも、ここで主張するように、正しく価値と呼ばれるものは、すべて倫理的か経済的かのいずれかだからである。そして、その個人に捉えられるとおりの、熟慮あるいは評価の過程と、そのさまざまな要素の意味を、できるだけ正確に確かめる。この意味で、私たちの方法は、心理学的というより論理的なものとなる。問題にするのは、評価の対象を対象として、価値の基準を基準として、価値を認められた対象をそのようなものとして、それぞれどういう意味を持つかを、その個人自身の捉え方に即して定めることである。その捉え方を心的な出来事とみなし、その性質や成立条件を確かめることではない。終始、これら価値評価の要素や段階を、評価する人の実践的な態度を決める、その働きの面から考察する。より「初歩的な」心的過程によって媒介される、意識内の出来事として扱うことはない。ただし、補助的な説明のために、きわめて一般的かつ試みの形で、そうする場合は別である。この方法を保つことで、価値判断が、その働きと意味において客観的であることだけでなく、感覚知覚や科学の判断も、それ自体、価値判断の達成と漸進的な再構成に伴うものとしてのみ、十分に解釈できることが分かるだろう。

初めの三節では、価値判断の内容と働きの客観性を確立する。第四節では、倫理的な価値判断と経済的な価値判断という二つの型を詳しく分析し、それぞれを定義し、相互の関係を示す。また、いま述べた仕方で、物理的な判断との関係も示す。第五節で、こうして述べた立場への一般的な反論のいくつかを検討した後、最後の第六節で、生活全体の営みにおける価値意識の働きを定めることにする。[107]

第一節

客観的な事物の秩序と呼ばれるものを定める判断の体系は、個々人にとって、必ず独自のものである。まったく同じ理論的・実践的な関心の立場から世界を見る二人はいない。また、世界について自分自身の知識を得る仕事を、まったく同じ熟練と正確さで進める二人もいない。個々の事物や、それらが存在する体系についての知識を組み立てる際には、誰もが、自分固有の関心や目的に促され、導かれなければならない。一人の人が、ある程度まで、ほかの人と関心や目的を共有していても、進む速さや仕方は同じではなく、得られた知識も、その配置や部分相互の関係が、同じ程度に体系的になるわけではない。誰もが、自分自身の世界に生きる。それは、たしかに、ほかの人々が自分のために組み立てた世界と、ある基本的な点では同じである。しかし、一人ひとりが独自の個人である以上、その世界は、すみずみまで独自のものでなければならない。もちろん、対象が「社会で共通に通用する」ことはあり、それは、異なる個人が経験する対象の意味が、ある程度同じであることを含意する。社会の存在は、一般に受け入れられた対象と関係の体系を前提する。そして社会の発展は、逆に、その体系を発達させ、広げる。それでも、「社会で共通に通用する対象」は、そのかぎりでは、画一的な社会的個人と同じく、抽象である。誰かが実際に知り、何らかの仕方で経験する唯一の具体的な対象は、その人が、自分の目標や目的に即して組み立てた対象である。したがって、そこには、ほかの誰にとっても意味を持たない、大きく重要な意味の部分が含まれている。

ここでは、近年の「機能的」心理学の一般原理、すなわち、実践的な目的が、客観的な事物についての知識を得る際の支配的な要因であることを、長く論じる必要はない。科学のどの領域でも、実践生活のどの領域でも、認識は、常に多少とも直接的に目的の達成に伴うという意味で、本質的に目的論的である。この一般命題を、正しいものと前提しよう。統覚、あるいは注意の過程としての認識は、本質的に、理論的または実践的な状況を吟味し、そこに現れる対象や条件が、自分の意図する目的に使えるかどうかを見定める過程である。こうして定められた対象や条件は、使われたり、無視されたり、有利なものとして頼られたり、不利なものとして警戒されたりする。要するに、問題となる関心に照らして確かめられた性格が示す仕方で、応答されるのである。この意味で、個人が知る客観的な事物は、本質的に複合した刺激である。その固有の働きと存在理由は、有用な行動上の応答、すなわち目的の実現に役立つ応答を引き出すことにある。

したがって、この観点からいえば、ある対象について一人の人が持つ知識と、別の人が持つ知識との違いは、(一)その対象を知ろうとし始めたときの、もともとの目的の違い、(二)その結果として、その対象に関わる現在の行動の仕方の違いを意味する。社会で共通に通用するだけの対象は、個人にとって、せいぜい、その後の構成の土台にすぎない。各個人が、自らの事情に促され、判断のなかで行いうる、その後の構成によって初めて、対象は、その個人にとって実在するものとなり、その目的にとって十分なものとなるのである。

さて、私たちがまず示したいのは、ある重要な種類の場合には、対象を、たとえ余すところなく、物理的な言葉だけで規定しても、その対象は、知る人にとって、本来の刺激として働く準備が、まだ整っていないということである。対象の寸法や物理的な性質が、よく知られたものだけでなく、より隠れたものまで分かっていても、それだけでは、しばしば十分でない。行為者の目的にとって、対象についての知識のすべてが、そうした性質から成るだけでは、足りないことが多いのである。物理的な範疇による、ある程度の知識は、しばしば始まりにすぎない。注意の対象を十分に知るまでに完了しなければならない、目的に即した規定の全過程の、予備段階の成果なのである。この価値評価の論理の研究では、もっぱら、このような場合を論じる。感覚知覚や自然科学の判断では、物質的な対象が、その物理的な側面から示される。それが、外に現れる行動を示唆し、あるいは正当化するのに不十分なら、その知識は、これから述べる仕方で補われ、組み直されなければならない。この補充と再構成を遂げる判断過程の結果として、正しい意味での価値意識が生まれる。そして、ここで「価値評価の過程」と呼んで考察するのは、そのような過程である。したがって、まず、物理的な判断がどのように不十分になりうるかを明確にするのが、最もよい入り方となる。

そこで、すでに示したように、知識を得る過程、すなわち判断または注意の過程は、どの場合にも、ある目的の達成に伴うと前提しよう。この前提を、ここで正式に根拠づけることはしない。ただし、以下の議論のなかで、十分に例示されるだろう。この見方に沿って、典型的な判断過程が、大筋で、次のように進むと考えてみよう。まず、何かが必要だ、足りないという感覚が生じなければならない。ときには、その前に、多少とも激しく突然の感覚への衝撃があり、ただちに行動する必要へ、強く注意を向けさせることもある。この必要の感覚は、しだいに明確になり、多少とも「明晰で判明な」目的の心像として現れる。行為者は、欲望によってその目的へ引かれ、大小さまざまな感情を込めて、それを見つめる。目的が意識に現れると、ただちに、その目的を実現すべき状況の明確な分析が可能になり、実際に始まる。状況の目立つ特徴、有用な物や好都合な条件、あるいは、そうしたものの不在が、すぐに気づかれる。こうして、包括的な判断過程に含まれる、多くの補助的な判断の述語が、次いで主語が、互いに作用し合いながら、ともに現れる。行為者が目指す一般的な目的から展開する述語は、状況を新たに分析するための観点を、次々に与える。他方、こうして見いだされた論理的な主語、注意と知識の対象は、吟味され判断されるにつれ、目的の修正と再検討を求める。目的から展開する述語、すなわち、そこに含意された「構成的な」観念が、互いに区別され、客観的な状況の棚卸しに使われることで、目的は、いっそう明確になり、細部も豊かになる。逆に、状況は、初めの混乱した姿を失い、有用なもの、関係のないもの、不利なものが、秩序立って集まる姿を、しだいに帯びる。それらの対象や条件によって、目的は、多少とも達成されうるか、どれほど大きく形を変えても、挫折せざるをえないかが決まる。さて、この判断過程の展開で注意すべきは、目的を、終始、多少とも明確かつ一貫して、活動として捉えなければならないことである。そうしなければ、過程のなかで定められた、行動の客観的な手段は、最後になっても別々でつながりのない所与にとどまり、なお調整を必要とする。目的が活動として捉えられてきたなら、手段は、必ず一つの機械的な体系の構成員として知られることになる。それを規定した述語には、どの点でも、調整し合えるという要素が含まれていたからである。判断過程が適切に進み、結論に達したなら、最後には、完成した行動計画と、利用できる手段の整った機械的な連携とが、働きの上で一つにならなければならない。

ここで、このような過程には、短い分析で明示した以上に多くのことが含まれうると、見なければならない。目的を実現する物理的な手段だけでなく、目的そのものも、熟慮の対象になりうるからである。また、手段も、物理的・機械的な観点以外から、吟味し規定する必要がありうる。最終的な行動には、感覚知覚や自然科学の判断だけでなく、熟慮した倫理的・経済的判断の結果も表れるかもしれない。たとえば、ある敷地に家を建てることを目的とする場合を考えよう。この目的は、もっと快適な、あるいはもっと体面のよい住まいが必要だという感覚を表し、そのかぎりで、一般的には支持する理由がある。しかし、ためらう理由も多いかもしれない。時間や金銭、手持ちの材料にかかる費用が、自分の資力を圧迫し、ほかの方面での活動を、有害なほど削るかもしれない。また、計画を実行すべきでない倫理的な理由もありうる。家が、近隣全体から美しい眺めを奪い、持ち主の利己的な虚栄を満たす以上の目的を果たさないかもしれない。その費用は、法的には時効になっていても、正当に返すべき債務の支払いに使える金額かもしれない。

さて、このような問題の立場から見れば、手段の物理的・機械的な適合性について、予備的に知りうることを、どれほど十分に知っても、それはなお、非常に抽象的で一般的である。その知識は、いま想定したのと同種の事業なら、どれにも役立つだろう。しかし、問題が自分自身の、具体的で個別的な、そのため独自の問題であるかぎり、それだけでは十分でない。もちろん、初めに現れたかもしれない倫理的問題を解決しないまま、物理的な判断の段階へ進むことはできる。ある種の機械的な問題を扱い終えるまで、目的を、仮説として試みに抱いておくこともできる。しかし、これは明らかに、争点を先送りするだけである。手段をそこまで規定しても、行為者は、計画の実行へ第一歩を踏み出す準備が、まだまったく整っていない。むしろ、不確かさは、それ以前よりもいっそう彼を悩ませるだろう。さらに、この場合の経済的な問題も、いっそう鮮明になり、さしあたり判断をさらに難しくする。この時点での熟慮の必要は、物理的な規定の必要に劣らず切実であり、同じように、実際の行動が止まり、延期されることに現れる。物理的な知識を持っていても、行為者は、まだ自由に目的を受け入れ、そのために手持ちの手段を使えるわけではない。実体と属性、原因と結果、そのほかどの物理的な範疇によってであれ、手段がどのように振る舞うと予想されるかを知らなければ、その物理的な手段を使うことは、明らかにできない。同じく、より高度で複雑な問題を理解できる知性と道徳性を備えた人にとっては、目的の倫理的な規定と、手段の経済的な規定が済むまで、こうして発見した物理的な性質を活用することも、やはり不可能なのである。[108]

したがって、手段を物理的に規定するだけでは、行動の準備として足りない場合がある、と結論できる。倫理的・経済的な問題のために、物理的には目的に適した手段でも、その適用が遅れる場合である。実際、この程度のことは、詳しい例示なしでも、十分に明らかに見えるだろう。物を手段として使う仕事に取りかかるときには、ほとんど常に、費用を見積もる必要があることを、誰もが知っている。また、何らかの魅力があり、手の届く目的なら何でも、それだけで、確定した欲望や努力の対象としてよいわけではないことも、誰もが知っている。ふつう理解されている意味で、こうした常識を詳しく説く必要は、実際ない。しかし、それが、いまの目的ではない。私たちの、より具体的な目的は、客観性の意味を広げなければならないことを示す点にある。ふつう客観性が限られている(三)物理的な側面だけでなく、(一)目的の「世界」を、その倫理的な側面から、(二)行動の手段を、その経済的な側面から、含めなければならないのである。これらは、実在の完全な概念をなす部分、あるいは側面である、と私たちは主張する。したがって、感官にとって「外にある」事物の世界を客観的と呼ぶときに含まれる、本質的な理由のすべてによって、これらにも客観性を認めなければならない。この結論を念頭に置いて、環境内の手段を物理的に規定するだけでは、実践的な目的にとって、しばしば甚だしく不十分であることを、強調してきたのである。

このように示唆された原理によれば、省察的な注意の包括的な過程に、倫理的・経済的な段階が現れる場合、それらには、感覚知覚や諸科学で働くのと同じ、判断の論理的な働きがあると、考えなければならない。最終的に行動の道筋を選び、形づくる際には、ときに、感覚知覚によって定めた周囲の手段や条件の物理的な規定とともに、倫理的・経済的な要因も、加わらなければならない。そうであるなら、少なくとも、かなり妥当な推定が成り立つように思われる。ア・プリオリに確実というわけではないが、これら倫理的・経済的な要因や条件も、物理的なものと同じく、判断過程のなかで形づくられたのであり、知識のほかの領域で有効と認める一般的な判断論によって、有益に分析できる、という推定である。これを確かめていこう。まず、これらの過程の論理的性格を定めようとする理由は、次の点から、すぐに理解されるだろう。ここでの見方では、私たちの経験のなかで、正しく価値評価の過程とみなすべきものは、これらだけだからである。価値評価、したがって、正しく価値と呼ばれるものの意識はすべて、倫理的か経済的かのいずれかでなければならない、と私たちは主張する。価値が明確になる、唯一の意識的な過程は、これら倫理的・経済的な判断の過程なのである。したがって、この価値論は、価値が論理的な、すなわち判断としての価値評価の過程のなかで、その過程によって定められると考える意味で、本質的に論理的である。その細部は、先に輪郭を示した判断の一般的な考え方に、密接に依存している。そこで、説明は大筋で次の順序で進めなければならない。まず、提示した判断の考え方を前提にする。以下の議論は、それを、いくつかの仕方でさらに例示し、裏づけることにもなるだろう。そのうえで、倫理的・経済的な判断による規定が、正しい意味で客観的であることを示す。これには、まず、倫理的判断と経済的判断が、それぞれどのような条件の下で生じるかを述べる必要がある。その説明は、二つの判断の型を区別することにもなる。次に、一般的な判断論の立場から、倫理的・経済的な形式を詳しく分析し、省察過程のこれらの部分が、判断としての性格を持つことを、具体的に確立する。この分析が、生活の営みとその全体的な組織における一要素としての、価値意識の解釈への導入となる。

第二節

そこで、倫理的な熟慮と経済的な熟慮を、それぞれ促す条件を、できるだけ明確に述べ、価値評価の判断が客観的なものを指すとは、どういう問題なのかを定めよう。これらの条件を調べれば、それに対処する際に得られる判断が、どのように客観的でありうるか、見やすくなるだろう。

判断過程の短い分析で示した仕方で、意識に現れる目的が、注意の中心となり、可能な手段の探究を通じて、最後の実際の行動へ進む道を止めるのは、どのようなときだろうか。これが、典型的な倫理的状況の問題を、一般的に述べた形である。心に描かれた目的が、まず注意の導き手から注意の対象へと変わることなく、ただちに、可能な手段のある環境へ注意を向けるなら、倫理的な熟慮は生じない。最後の行動へ向かう進行も、後に手段の発見や調整が難しくなって止まる場合を除けば、中断されない。しかし、目的が現れると、すぐに省察の過程が止まり、行為者が、想像に示された目的から身を引く場合がある。たとえば、それが権威によって禁じられているとか、自分の確立した基準に反するとかいう場合である。そうなると、目的は、ただちに消えるかもしれない。だが、しばしば、しつこく残る。残る場合に、最も単純に起こりうるのは、単なる機械的な緊張、いわば「押し引き」である。一方には目的、正確には、その目的が表す衝動がある。他方には、その衝動が、おそらく直感的に属すると認められる種類の衝動を、抑えてきた習慣がある。これは、一方の「誘惑」と、他方の「原則」や「良心」という、よくある場合である。二つの力が、このように固定的に対立するかぎり、正しい意味での倫理的な熟慮や判断はありえない。基準や習慣が、ただ機械的な力の優勢によって勝つこともあれば、新しい衝動、誘惑が、その攻勢で機械的な抵抗を崩して勝つこともある。

しかし、こうした状況からも、本当の倫理的な熟慮は生まれうる。そのためには、基準と「誘惑」が、抽象性と固定的な対立をいくらか失い、具体的な意味を持つ項へ発展する必要がある。行為者は、その目的が、ある明確な仕方で、本当に生きるうえで重要な関心に関わり、検討せずに退けるには、あまりに重要だと気づくかもしれない。もちろん、その際、ひどい自己欺瞞的な理屈に陥ることもある。自制心を試して安心するために、もう一杯飲む、という有名な酔っぱらいの例のように。あるいは、亡き夫から課された不可能な仕事を断念したドロシア・カソーボンのように、賢明に、しかもまったく誠実に行動することもある。道徳生活でも、科学的研究と同じく、自己欺瞞の危険から完全に免れることを、求めたり期待したりする理由はない。だが、それはともかく、いま関心があるのは、倫理的省察の個々の結果ではなく、その方法である。個々の場合に本当に正しいかどうかは別として、心に描かれた目的は、少なくとも、もっともらしく擁護できるように見えてくるかもしれない。その根拠となる原則は、受け入れられた生活の仕組みのなかで、すでに位置を与えられている、ほかの行動を正当化するのと同じ原則である。あるいは、その目的は、現れたこと自体が人格の広がりと新たな発展を表す、という、きわめて一般的な根拠から、比較的独立した承認を迫るかもしれない。[109] こうして目的は、盲目的に自己主張する衝動という性格を失い、将来の道徳的な成長の積極的な手段として、自らを認めるよう求めるかもしれない。抑圧し弱める拘束から解放し、すでに価値を認められた、ほかの行動の仕方を強めるものとして、である。他方、基準も、単なる抵抗や否定ではなくなる。長い経験と緩やかな成長の産物として、また、おそらく現在の生活の組織の重要な一部として、重大な危険なしには手を触れられないものとして、その隠れた意味の一部を明かすかもしれない。

さて、どちらの側で先に発展が始まるにせよ、ほどなく他方でも、同じような発展が起こらなければならない。倫理的な熟慮、あるいは判断の過程をなすのは、基準と、これから実現するかもしれない、問題となっている目的との、相互の作用なのである。先に描いた典型的な判断過程と同じく、ここでも、述語と主語は、初めの対立をやめ、ともに理由を考える姿勢に移ると、互いを発展させる。述語は、主語、すなわち新たな目的を、徹底して公正に試せるよう、自らを説明する。その吟味の下で、主語は、行動の道筋として持つ意味を十分に展開し、基準のさらなる分析と再解釈を促す。ただし、ここは過程を詳しく分析する場所ではない。[110] いまは状況の型を定めるだけであり、それは次のように述べられる。倫理的判断の不可欠な条件は、行為者の心に、少なくとも二つの、関心を引く対抗的な目的、あるいは、そのような目的の体系が存在することである。以上の説明では、判断の主語は、新たに現れた目的である。述語、すなわち「基準」は、古くからの目的や価値の象徴であり、それらは判断過程の緊張のなかで、多少とも明示的に挙げ直されなければならない。それだけでなく、組み直されもする、と付け加える必要がある。実際、この段階でも、述語と基準が、同じ意味ではないことに注意するのは重要である。判断の述語、あるいは述語の側面は、その過程を統御する心像のまとまりであり、見たように、主語の側とともに発展する。それに対して「基準」という語は、本来の判断過程が始まる前の段階で、抑制する概念や理想が持つ、硬い固定性を含意する。要するに、倫理的な判断過程とは、基準を組み直す過程そのものである。それに対応する、もう一つの側面から見れば、新たな目的を解釈する過程なのである。社会改革の方策や、新しい行動・信念のあり方に、「不道徳」だという理由を掲げて反対する人々は、自らの理由を率直に説明する抵抗に対しては、変化がかえって進みやすくなると、本能的に感じている。他方、社会的な判断過程の反対側にいる、より狂信的な人々は、既存の秩序を代表する人々の憎悪や軽蔑を、自分たちの宣伝に有利に使うすべを知っている。どちらの側にも、自らの主張そのものの価値より、機械的な「押し引き」を頼みにする者がいるのである。

こうして、衝動から現れた新しい目的は、ある理想に象徴される、対抗的な目的や目的の体系全体に出会うことで、行為者にとって行動の問題の中心となり、注意の中心を占める。それによって、それは、ここで主張するように、一つの対象となる。価値を評価し、それに応じて、行為者が一定の態度を取る根拠とみなせるようにするには、さらに十分に規定しなければならない対象である。次には、典型的な経済的状況を、同じように一般的な言葉で定めよう。

経済理論でも、日常的な考え方でも、望ましいとされる目的を達成するため、一定の手段を使おうと考える、その行為が、価値評価の論理的な主語として働くわけではない。経済的状況で評価される物、あるいは対象は、物質的か非物質的かを問わず、自分の現在の富、自分の役務や労働である。望む目的の達成のため、あるいは、さしあたり、その目的を達成するのに必要かつ十分な手段を確保するために、交換に出したり、ほかの形で取り分けたりするものが、その対象となる。ここでは、評価の過程で注意される対象そのものが、行動の目的なのではない。この点で、経済的な判断は、物理的な判断に似ている。どちらも、評価される対象は、多少とも明確に描かれた目的に適合させようとしている手段、あるいは、やはり何らかの特定の目的のために利用したい条件だからである。あらゆる判断の究極の目標は、目的に向かう行動の道筋を定めることにある。したがって、いまの問題は、次のように述べられる。判断過程のどのような事情の下で、まだ曖昧で不定な目的を明確にし、達成するために、必要な手段を、すでに物理的には部分的に規定していても、なお注意して吟味し、経済的な観点から規定することが必要になるのか。あるいは一言で、経済的な観点の「管轄」は、どこなのか。

通常の感覚知覚の判断については、私たちの分析が正しいとすれば、それが示したように、疑われていない一つの目的が意識にあるだけで、十分な契機となる。倫理的判断には、対立する目的が存在する必要があることを見た。次に、この条件は、ある限定を加えなければ十分ではないものの、経済的な判断にも必要だと主張しよう。心に描かれた目的が、対抗するものなく意識にとどまり、その達成のための物理的な手段が見つかり、調整されているなら、倫理的な判断も経済的な判断もなく、必ず手段の使用や消費が続く。ジェイムズ教授の言葉を言い換えれば、ある目的へ向かう努力を退け、抑えることができるのは、別の目的だけだからである。では、経済的な状況は、倫理的な状況とどこが違うのか。目下の主たる関心である目的と競合する、別の目的や目的の体系が、前者に必要だとすでに定められた「物理的な」手段に関わって、意識に呼び起こされた、という点である。つまり、経済的な状況での目的の対立は、両者が直接、本質的に両立しないことによるのではない。そうした両立不可能性が明らかにある場合、判断は倫理的な型になる。たとえば、家を建てるために抵当権を実行し、土地を持つ人に損害を与えることで、友情や、より特別な義務の理想を傷つける場合、あるいは、節度のない享楽への衝動が、社会に役立とうとする理想と出会う場合である。そのような場合には、目前の悪い行いが、自分の人格にどのような悪い結果をもたらすか、また、その場の衝動を抑えることで、承認され確立された生活全体のあり方が、どのように保たれるかを、はっきり見て取れるか、熟慮によって見て取れるようになる。しかし、対立する目的が、こうした相互排除の関係にないことも、非常に多い。それぞれが、それ自体として許され、他方とも両立しうるのであって、倫理的に可能な区別を尽くしても、どちらかを選ぶ根拠がないことがある。たとえば蔵書を増やす目的と、冬の燃料を蓄える必要とを、わざわざ結びつけ、判断のなかで意識的に対立させるのは、両方が、限られた手段に依存するからにほかならない。その場合、両方の目的は、それ自体としては、一般には許される。しかし、両方とも経済的に可能とはかぎらない。そのため、その人が直面する経済的条件の下では、つきつめれば、両方とも倫理的に可能というわけでもない。先に説明した意味で、二つの目的が密接で有機的な関係にあり、その間に対立がある場合、問題は倫理的である。これに対して、倫理的には許される目的、すなわち、どちらも、ほかの目的と直接に相容れないわけではない目的同士が、手段の全体、またはその一部をめぐって競合するという意味で対立するなら、問題は経済的な型なのである。[111]

手段について、経済的な判断、あるいは価値評価が必要になる典型的な場合は、三つある。それを挙げれば、倫理的判断と経済的判断の関係が明らかになる。(一)まず、倫理的な熟慮が、見るかぎり倫理的には問題のない行動計画を作り上げ、終わりに達したように思われる場合である。はっきりした「誘惑」を克服したかもしれないし、より複雑な状況から、苦労の末に、満足のいく倫理的な折り合いや調整を生み出したかもしれない。それでも、さらにためらわずには、その行動に入れない場合が、たいへん多い。計画の実行に物質的な手段が必要なら、手持ちの手段に限りがあるという事実が、それまで考えもしなかった目的を、その計画と対立させるからである。もちろん、方法や手段を考えずに、道徳的な選択を実行できる状況も多い。受けた害を許す場合や、禁欲的な、あるいは真に社会的な人格の理想を目指し、本能的な性向を律する場合などである。しかし、道徳的な厳格主義者が認めたがる以上に多くの場合、倫理的な「証拠がすべて出そろった」後で、経済的な問いを立てなければならない。それは、敏感な道徳心を持つ人には、より劇的な状況以上に厳しい試練となるだろう。劇的な状況では、実際の自己正当化の危険は、はるかに小さく、争点も単純で明確なため、より決定的で模範的でありながら、より容易な勝利が可能だからである。(二)次には、現れた目的に、目立った道徳的性格がない場合がある。立派な衝動を表すとしても、それより劣る欲望の抵抗を押しのけて、受け入れられる必要がなかったからである。これは、経済理論で理想化された、「道徳的な区別が関係しない」場合であり、その物語によれば、経済人は道徳的なためらいを考えず、自由に快楽の計算を行える。蔵書を充実させるような、それ自体で倫理的に受け入れられる目的も、手段が限られていれば、その一部を、ほかの用途から振り向けなければならない。そのため、不可欠な手段を通じて、その目的とは、遠い関係しかない、あるいは行為者の知るかぎり、何の関係もない別の目的と対立することになる。(三)最後に、企業、とりわけ大企業の活動に、倫理的な考慮から解放されているように見える極限がある。今、新たに価値判断を働かせることのない、日常的な業務は別として、そのような組織には、検討しなければならない新しい企画が常にあり、ふつう、それは手段の再評価を伴う。その再評価では、収入を最大にする原理が、唯一の基準だと考えられている。その方策を考察できる、ほかの個人的・社会的な観点があることは認めながら、それを顧みないのである。しかし、この想定が、現実の企業活動の事実にどれほど合っていても、社会生活全体の立場から見れば抽象であり、したがって、私たちの一般原理の本当の例外ではない、と考えなければならない。倫理的状況と経済的状況の型としての違いは、対立する目的同士の関係の密接さと、それらが初めに対立へ持ち込まれる仕方にだけある。関わる目的そのものの本質的な性質の違いではない。[112] 後に見るように、倫理的な価値評価が目的を対象とし、経済的な価値評価が手段を対象としなければならない理由は、この違いによって説明される。

行動の手段を価値評価することが、こうして経済的と名づけた種類の難しさを、どのように解くのかは、まだ見なければならない。この問いは、経済的な判断過程を、さらに詳しく分析できるところまで、後に回す必要がある。いまは、この過程の価値評価の主語が手段であることと、説明した典型的な条件の下では、その手段が競合する目的に実際に使えるという、物理的な規定以上の、さらなる規定が必要なことに注意すれば足りる。[113] 物理的・機械的には、手段は、問題となる各目的、あるいは各目的群に使える。切実な問題は、手持ちの手段が、経済的な意味で、どの目的に最も適切に使えるのか、そもそも、そのような目的があるのか、または、目的のいくつか、あるいはすべてを、どう折り合わせ、調整するために最も適切なのかを、定めることにある。[114]

倫理的状況と経済的状況についての、この予備的な議論から、次には、そのような状況の難しさに行為者が対処するための、判断の客観性へ進まなければならない。これらの判断が、実在の客観的な秩序を構成することを、示していこう。まず、感覚知覚という限られた領域で、一般に認められている客観性の経験について、その心理学的な条件を定める必要がある。そうしなければ、直接の論証を示した後でも、私たちの確立したい主張に対する、あらかじめの反対の見込みが、いくらか残るかもしれない。[115]

第三節

常識も自然科学も、客観的に実在するものを、空間と時間のなかに存在するものと、同一視しがちである。物理的な宇宙は、感覚的な形で示されないものには、ありえない仕方で、手に取るように実在すると考えられる。おそらく多くの人には、なぜプラトンが、感覚知覚の個々の対象よりも、高い実在性をイデアに認めたのか、理解しがたいだろう。まして、美、正義、善のようなイデアに、現実の存在を認めたことは、なおさら理解しがたい。「直接の」感覚知覚に示され、身体を通じて絶えず関わっている宇宙には、ある見かけの安定性がある。それは、何らかの意味で知られるとしても、感官を通じては知られない、単なる関係の秩序には、ないように見える。さらに、物理的世界についての知識は、経済的・道徳的な真理や基準とされるものについて得られる知識よりも、確実性が高いと感じられる。そうした知識については、スペンサー氏が形而上学についていうように、よくても、長く複雑な推論を前提し、長いために誤りやすい、といいたくなる。他方、物理的な真理は、直接に知られるか、推論を含むとしても、直接の事実に訴えて、容易に確かめられる。物理的な実在は、見ることができ、手で扱え、抵抗するものとして感じられる実在である。これが、同じく客観性を主張する、ほかの知識の領域にはない種類の、客観性の証拠となるのである。

こうした印象の力は、科学や倫理学における唯名論の歴史から、さらに強い言い方を探すのも難しくないが、感覚知覚に与えられていると、無批判に前提された客観性が、何から成るかを定めようとすると、弱まる。感覚経験のあらゆる可能な仕方が、知覚される客観的世界の提示に、同じように関わっているわけではないと、認めなければならないからである。ある種の感覚的な「質」は、ただちに外の対象に属するものとして、その対象へ関係づけられる。別の種類は、いわば「内的」であり、それ以上に明確な場所がないか、それを媒介する感覚器官に位置づけられるだけである。この違いの理由は、さまざまな感覚の質を、抽象的に取り出した内容のなかには、ありえない。日常経験のなかで生じる背景から切り離した視覚感覚は、最も曖昧で、情報の乏しい身体内部の感覚に比べて、より客観的な指示を持ちえない。実際、どんな種類の指示も、それ以上には持ちえない。感覚の質を区別する明確さの程度は、そのつど、それらと「結びつける」ことが重要な、解釈のための連想の数と重要性に依存するからである。逆にいえば、感覚の質は、それぞれが内在的な客観的指示や意味を持ち、それによってほかのすべてから引き離されることで、ひとりでに区別されるわけではない。実際、仮に感覚が内在的な意味を持ちえたとしても、その意味は、知識の発達にとって不要なだけでなく、獲得された意味や、働きとしての意味と取り違えられやすく、深刻な混乱さえ招くだろう。[116]

さて、「感覚の単純観念」に客観的な指示がないなら、同じく抽象的な感覚を、それに結びつけても、その欠如を埋められないことは、認めなければならない。それ自体には、そのような意味のない「運動」感覚や触覚が、同じく意味のない視覚感覚と、ただ「連合」されるだけで、後者に対象への指示を与えることはできない。実際、客観的な指示は、感覚的なものではない。それは意識の「要素」ではなく、そうした要素を、どう組み合わせ、融合しても、生じない。観念連合の構成部分として、そのなかにあるのでもなく、心的状態の系列として考えた連合に属するのでもない。むしろ、ここでの見方では、連合がそもそも成立する、その活動に属し、あるいは、その活動から生じる。連合は、その活動を通じ、その活動に関わって成立するのである。客観的な指示とは、ある側面、指示の種類、あるいは範疇である。感覚の質や所与が、刺激として新たな意味を得るために、意識の流れから切り離されるとき、それは、この範疇の下で統覚される。そのような「意識状態」で働く感覚は、[117] 「分析的」心理学の意識要素とは、非常に異なる心的現象である。したがって、感覚知覚の客観的な世界が、とりわけ視覚と触覚によるということが、どこまで正しいかは、生命の過程の必要が、ほかの領域に比べ、この二つの領域で、より精密な応答のために、より細かな感覚の区別を、どこまで求めたかを示すだけである。結論として、客観性の意識は、物質的世界の知覚のなかに与えられる場合でも、それ自体として感覚的なものではない、としなければならない。個々の実践的な差し迫った状況から見た世界が、客観的な世界であるのは、それ自体で存在するものとして「感覚的」「物質的」な側面を持つからではない。活動を導くために、規定されつつある刺激の世界だからなのである。[118]

この見方の意味を、さらに積極的に説明しておこう。根本的な心理学的な考えに、もう一度戻れば、知識は本質的に、緊急さも種類もさまざまな、個々の問題の解決に関わる。その解決のなかで知識は、さまざまな行動を示唆する、意識して認められた記号や刺激の集まりとして働く。したがって、知られた対象は、その対象を意識する、ほかの可能な仕方で捉えられたものと、同じではない。道具を使って材料を加工している職人や、戦いの最中に武器を使っている戦士は、それらの物を意識しているとしても、もちろん、そのようなときにも意識することはあるだろうが、対象として意識しているのではない。たとえば、前者が道具を特定の用途に合わせて調整し、後者が刃を鋭く研ぐときのようには、意識していないのである。後の場合には、道具や武器は対象となる。そして、その観察された状態は、一定の仕方で使う目的に照らされ、何らかの変更や改善を適切に示唆するものとみなされる。同じく、多くの道具や武器のなかから、それを見分け選ぶ瞬間にも、それに手を伸ばす行為、特に取りにくい場所にあるものへ手を伸ばす場合にも、それは行為者の捉え方のなかで、客観的な性格を持つ。しかし、客観的な手段を自在に使っている最中には、客観的という範疇は、意識のなかで役割を果たさない。そのとき、手段についての判断がないからである。つまり、ある意識の要素を、意識経験の残りの流れから切り離し、必要な応答への刺激として規定する、十分な契機がないのである。経験に含まれる意識内容が示唆する応答が、状況に十分に合うかぎり、通常、そのような切り離しは起こらない。対象は、意識の流れのなかに現れ、ある行動の仕方を正当化する性質を持つものと認められている。しかし、目的を達成するために、行為者が自分の活動を修正し、組み直す必要が生じないかぎり、通常、対象が、その流れから対象として切り離されることはないのである。[119]

では、物が客観的なものとして捉えられるのは、行為者の態度によるのか。それとも、典型的な場合、行為者の態度は、あらかじめその物の客観性を確定することに基づくのか。まず、そのような事前の確定はありえない、と答えなければならない。たしかに、視覚や触覚の証拠によって、ある対象が、本当に目の前にあると信じる、と語ることはできる。しかし、視覚も触覚も、特定の感覚の質として、それ自体には、客観的な意味を持たない。触覚が、何よりも客観的なものの感覚であり、触覚に訴えることが客観性の試験になるなら、それは、私たちの経験のなかで、触覚が行動に最も密接に結びつく感覚だからにほかならない。ためらいと判断の時間を経た後、行動は、調べていた物理的な手段に触れ、それを扱うことから始まる。触覚は、操作への直接の刺激であり、導き手であるだけではない。どんな判断過程でも、ほかの感覚、特に視覚を通じて得られた、関係する知識のすべては、最後には、触覚や、ほかの接触の感覚へ置き換えられなければならない。したがって、客観性の触覚的な証拠とされるものは、この見方への難点というより、むしろ、その裏づけである。要するに、示された刺激に運動として応答しようとする、根本的で先行する傾向に依存せず、その表現でもない客観性の意識がありうる、という仮説は、不可能として退けなければならない。これから刺激となるものへの私たちの態度が、自分に向き合って立つ対象の意識を媒介するのである。

実際、客観性が、行動に先立って特に確定すべき事柄だというのは、事実から程遠い。広く認められるように、客観性の確信は、どうにも抗しがたく、私たちに訪れる。いうところの、対象がこちらへ押しつけられるのであり、「望むと望まぬとにかかわらず」、目の前にあることと、自分の選択や知識から独立していることを、認めざるをえないのである。器具を慎重に操作するとき、扱いにくい材料を苦労して形づくるとき、繊細で難しい仕事をするとき、扱う物の客観性の感覚は、後悔や悲しみのように迫ってきて、それらと同じほど、払いのけがたい。ここで示唆した類比には、議論の後の段階で戻る。

いまや、客観性の感覚が現れる条件の性質を、さらに正確に定めることができる。そしてそれによって、経済的・倫理的な判断の客観的な意味を、有益に論じられる地点に達するだろう。物理的な世界が客観的であるのは、感覚的な形で示されるからではなく、人間の行動を導く刺激の世界だからだ、と述べた。では、どのような事情の下で、刺激を、行動の導き、促し、あるいは根拠として意識するのか。答えは、刺激としての正確な性格が、まだ疑わしく、そのため、さらに規定されなければならないとき、それらが刺激として解釈され、客観性の性格を帯びる、ということにならなければならない。

たとえば、野獣に追われる人は、逃げるか身を守るかの手段を見つけなければならない。登れそうな木や、投げられそうな石を見れば、目的に適するかどうか、できるだけよく調べるだろう。物理的な物が、知識の対象となり、頑として客観的な性格を帯びるのは、まさに、このような瞬間なのである。すなわち、本質的に問題を含んでいるときである。物理的な物が、このように問題を含み、知識にとって客観的な性格を持つためには、(一)部分的には理解され、それによって、多少とも無差別な応答を促すこと、(二)部分的には、まだ理解されていないことが必要である。そのため、行為者には、対象に応じて木に登る、石を投げるといった、不定で、まだ加減の定まらない傾向がある一方、それらの活動の調整には、完全な統一が欠けている。木や石に観察された異なる性質が、異なる行動を示唆し、その間に矛盾があって、ためらいが生じ、最後の行動が止まるのである。追われる人は、強度の疑わしい木に身を託す前に、不安げにそれを眺める。あるいは、立ち止まって投げる前に、石の重みをよく量り、そのごつごつした縁を確かめる。したがって、否定的な側からいえば、客観性の感覚が、仮に意識に現れても、長く続けられない状況は、二つ考えられる。たとえば、見慣れない低木や花が、いま想定する、追われる旅人の目を引いても、その差し迫った状況に関係する応答を、何も呼び起こさないかもしれない。その場合、それは、すぐ意識から消える。反対に、木や石が、正しくであれ誤ってであれ、行為者に完全に満足できるものに見える、むしろ実際の作用として、そうであるかもしれない。そのため、そうでなければ、多少とも長い注意の時間を経て初めて起こる、あるいは起こらないかもしれない行動を、ただちに促すのである。どちらの場合にも、問題を含む対象はない。一方では、その物が現在の関心から完全に外れているため、消える。他方では、見えた物が、その一般的な用途との関係で瞬時に理解され、明示的な注意の対象になることなく、ただちに行為者の意識の本流へ溶け込む。したがって、どちらにも、その物についてのためらいはない。対象のある特徴が促す、十分に考えない積極的な応答と、その不十分さに気づくことで生じる抑制との、対立がないのである。要するに、どちらにも判断も判断の可能性もなく、そのため、客観性の感覚もない。厳密な意味での対象の意識を持ちうるのは、行為者に向き合う状況全体の、ある部分や一般的な側面が、さらに規定するまで抑えておかなければならない応答を、引き起こし、あるいは正当化するように見えるときだけである。意識の言葉でいえば、対象は常に、注意の対象、すなわち、目的に関わって発展し、組み直されつつある対象なのである。

したがって、刺激に対して、多少とも一定の仕方で応答しようとする衝動が抑えられることが、客観性の感覚が意識に現れる、十分な条件である。活動が止まらず、中断されずに進み、状況の異なる部分や側面が促す運動的な応答同士に、対立が生じないかぎり、行為者の意識には、客観と主観の区別は現れない。そのような、自由で調和した活動に伴う意識のあり方は、美的な鑑賞、感覚的な楽しみ、心地よい感情に身を任せて浸ること、さらには、簡単な計算や、単純な代数の問題を解くといった、機械的な知的過程にも見られる。適度な関心を刺激する以上の難しさには出会わない過程である。しかし、先の例に戻れば、今の石への必要が、手に取った石には欠けているように見える性質を求めるなら、意識は、省察や注意の段階へ移らなければならない。その石は、いま直面する差し迫った状況に、一般的には関係する一定の性質を持つ、対象として現れる。必要な性質が欠けているため、それを見つけて解放できるまで、起こりかけた応答のすべてを抑えなければならない。要するに、私たちが知る石は、判断過程の主語の位置を占めた。そして私たちは、できれば、現在の状況に関係する新しい述語を、そこに与えようとする。心理学的にいえば、石は一つの対象であり、それに対し、新しい、あるいは組み直された仕方で応答する根拠を見つけようとしている、刺激なのである。

したがって、この過程では、まず何より、行為者が状況全体に関心を持つことを前提しなければならない。例に即していえば、その関心が、追われる人に、木や石を気づかせる。それがなければ、流れる雲や落ちる葉と同じように、まったく見過ごしたかもしれない。そして、その関心が、どんな性質や適合性を、その物に探すべきかを示す。状況全体から「何かを作り出そう」とする、この関心によって、石を認め、つかんで投げようとする衝動が説明されるなら、石の客観性の感覚は、その無差別な衝動が止まる、まさにそのときに現れる。石は、まず、刺激として何らかの意味を持たなければならない。しかし、それは、まだ十分に規定されず、受け入れてよいかも確かでない意味でなければならない。その意味の諸要素が示唆する、無差別な衝動を、秩序づけ、補い、より明確にするために抑えている、その場合に、その間だけ、石は対象となる。したがって、いまの主張の核心は、物理的な物が、私たちの経験において客観的であるのは、行動の手段や促しとしての不十分さが、認められるからだという点にある。その不十分さが、不十分と感じられるのは、注意によってその物を取り出した、もとの状況全体に対処するため、それを行動の手段や根拠として使い、あるいは条件として利用しようとしているかぎりにおいてなのである。

客観性の意識の条件についての、この分析から、次には、すでに説明した典型的な倫理的・経済的状況にも、本質的に同じ条件があるかどうかを、問わなければならない。

私たちの説明では、倫理的状況の判断の主語、すなわち注意の対象は、想像のなかに現れたばかりの、新しい目的である。ここで、その目的への行為者の態度が、いまの問題に関するかぎり、吟味される物理的対象への態度と、本質的に同じだと見なければならない。物理的な対象が、意識にとって対象なのは、一部では、促進するにせよ妨げるにせよ、行為者の目的に関わりながら、別の一部では、その観点からまだ理解されていないからである。同じく、心に描かれた目的も、曖昧でありうる。行為者の道徳的な目的は、道徳意識の「連合論的」な議論に登場する、おそらく架空の、原始的な目的、罰を避けることかもしれない。権威に「模倣的」に、共感をもって従うことかもしれない。この感情が倫理心理学に持つ根本的な重要性は、長く、十分に認められてこなかった。[120] 良心の理想への忠実さかもしれないし、人格を広げ、発達させる目的かもしれない。いずれの場合も、現れた目的が、支配的な基準や判断の原理と両立するかは、疑わしく、判断を求めることがある。もちろん、その問題が、倫理的状況の説明で述べた型の判断を含む、十分に論理的な意味での問題となるのは、権威や固定した理想に従う態度を、乗り越えた場合だけである。しかし他方、示しうるように、道徳生活を表すこれらの定式に関して、判断を用いることが、避けがたく増えていく、そのことこそが、それらを徐々に掘り崩す。そして、道徳意識の一種の「内的な弁証法」によって、行為者を、論理的な、あるいは熟慮による方法の、より十分な実践と、その方法の自覚へ導くのである。

したがって、典型的な倫理的状況において、目的とは、道徳的な「一貫性」と進歩の手段や条件として、分析と再構成によって規定しなければならない対象である。それゆえ、第二に、行為者が、自分の一定の活動は、その規定にかかっていると考える対象でもある。物理的な判断過程では、対象を自己に向き合うものとして区別し、いったん完全に規定されれば、身体の一定の動きを促す所与とみなす。同じく、ここで考えられている行為も、関係する心理的・社会的なつながりのすべてにおいて十分に規定されれば、自己による一定の拒否や受容を促す対象である。さて、私たちの考えでは、その行動の道筋を、心理学的・社会学的に完全に規定することは、実は、その選択を十分に説明することだと示せる。規定された行動の道筋を、外的刺激として受け取る、道徳的自己の別個の反応があるわけではない。同じく、物理的な判断の領域でも、完全な規定は、連続性を断つことなく、行動、あるいは行動に伴う直接に味わう意識のあり方へ移っていく。しかし、どの形式の判断過程にも、行為者の捉え方には、特徴的な、見かけの分離がある。一方には、これから知られ、使われ、あるいは応答される、客観的な物としての主語がある。他方には、細部をまだ整える必要があるが、適切な時に、十分な根拠を得れば解放される、応答としての述語がある。ここでの目的は、この働き上の区別について、形而上学的な解釈や誤解を論じることではない。ただ、この区別が、物理的な判断と同じく倫理的な判断にもあることから、前者に認められるのと同じ、真正の客観性を、後者にも認めるべきだと論じることである。倫理的判断が客観的なのは、そこでは、ある対象、すなわち、心に描かれた行動の仕方を、そのようなものとして取り上げ、行動の仕方として受け入れるか退けるかができるほど、十分に発展させるために提示するからである。倫理的な述語である正と不正、善と悪は、後に見るように、それぞれの対が特定の観点を表し、自己のこの受容や拒否の動き、この「意志の行為」を意味する。行為者は道徳的な判断の過程で、それを、しかるべき時に行うべき行為として、多少とも鋭く意識している。

先に述べた経済的状況にも、客観性の意識に必要な条件がある。ここでも倫理的状況と同じく、改めて規定しなければならない対象が示される。その対象に対して、やがて、判断によって細部まで定める仕方で、行動しなければならない。経済的判断の主語が、進行中の活動の手段となる理由は、後の段階で論じよう。これまでに示した条件の下で、なぜ手段が注意の中心にならなければならないかを示す準備は、まだできていない。ここでは、経済的判断が、実際に手段を中心とするという日常経験の事実に注意し、その事実によって、判断過程のなかでの手段の客観的な地位が与えられることを示せばよい。というのも、経済的な問題は本質的に、手段の一部、すなわち「限界的な増分」を、現在それに割り当てられている用途や用途群から引き上げ、少なくとも倫理的には望ましく見えてきた新しい目的に用いることだからである。この振り向けを、本質的に経済的な行為とみなせる。判断中の行為者には、その行為は、手段の規定にかかっていると捉えられる。したがって、経済的な対象とは、こうして振り向けられる、あるいは、いわば振り向けられる可能性にさらされる、手段またはその限界的な部分である。その規定は、振り向けが経済的に差し迫って必要なこと、少なくとも許されることを示す性質のものでなければならない。そこには明らかに、手段の物理的性質について、多くの補助的な探究の成果が入る。たとえば、代替物になりうるものと比べた、現在の用途への技術的な適合性や、新たに提案された用途への適応性に関わる性質である。対象という語を、思考の対象という広い意味で取れば、経済的判断が経済的価値を与えるのは、常に、空間と時間のなかにある対象である。そしてここでは、目下の差し迫った事情に即し、経済的な動機から客観的な手段を物理的に規定することが、経済的な行為の十分な「因果的」説明となる。倫理的価値を定めるために必要な、心理学的・社会学的な規定にも、相応の違いを考慮すれば、同じことが当てはまる。ただし、典型的な場合、行為者の立場から見た、この物理的な規定は、手段に経済的な性格や価値を与えることに、全面的に付随する、と注意深く見ておかなければならない。その価値は、判断の終わりに、意識して認められるものとなる。後に見るように、この過程は終始、経済的な原理や基準によって導かれる。この場合、どのような規定で十分となるかは、それらをどれほど正確に定式化し、どれほど徹底して適用するかによる。要するに、経済的判断は、初めに知られていた物理的対象に、新しい、非物理的な性格を与える。判断過程を通じ、その性格はしだいに明確になり、最後には、手段の価値として、すなわち、決定された新しい用途へ、それを振り向ける根拠として、受け入れられるのである。[121]

次に、人々の実際の倫理的・経済的な経験に、それぞれの状況の論理的分析が求めるように思われる結論を裏づける、直接の証拠があるかを考えよう。こうした典型的な難局で、満足できる行動の道筋を作り出す経験全体の、どこかの局面に訴えて、少なくとも暗黙には、この二種類の判断が、それぞれ実在の秩序、あるいは一つの実在の側面を示すと認められていることを、実際に示せるだろうか。

まず、行為者自身の捉え方では、価値判断には、純粋に主観的な意味を超えるものがある、と認めなければならない。多少とも苦労して判断を練り上げ、明らかに客観的な言葉で述べる人は、それを、ただ事実上の決意を告げたり、勝手な気まぐれを記録したりするものとしては、決して示さない。その人は、根拠のない選択や、心に描かれた目的を眺めて感じる快楽に基づく選択を、告げようとしているのではない。それは、物理的宇宙について判断するとき、心的な出来事としての「観念」の共存や継起、一致や不一致を、肯定しようとしているのではないのと同じである。疑わしい場合に訴えられる倫理的・経済的な真理があることは、実際、他人の熟慮した行動を批判するときの、暗黙の前提である。逆に、批判とは、自分の私的な偏見や欲望を、同じく私的な他人の偏見や欲望に対置するだけだと前提すれば、倫理的問題についての批判や話し合いは、すべて無意味でむなしくなる。それは哲学者にとっても、普通の人にとっても同じである。普通の人は、物質的世界についての知識を、自然に信頼しており、自分の感覚知覚や科学的判断を「観念の連合」に分析するという説明には、疑いの目を向ける。同じ信頼、あるいは、それによく似たものが、ほかの型の判断にも伴う。道徳的な真理の客観性への素朴な信頼を壊すほうが、科学的な知識への同様の信頼を壊すより、容易かもしれない。ただし、この譲歩自体、たいへん疑わしい。しかし、経済的問題はともかく、少なくとも倫理的問題について、普通の人が感じる切実さは、物理的な問題ほど鋭くないのが通例だと、覚えておかなければならない。普通の人の経験では、深刻な道徳的問題、すなわち、単なる誘惑として片づけられない、本当の意味での問題は、めったにない。そのような問題に気づき、意味を正しく理解するには、かなりの共感の力と、社会的関係についての知識を、身につけていなければならない。道徳的・経済的な危機は、知性、経験、想像力の発達した心でなければ、感覚的な心像として鮮やかには現れない。また、それに対処して得られる判断は、通常、精密に測り、計算し、調整した身体の動きを、明白に要求するわけではない。重要な経済的判断を実行する、その場の行為は、手紙を口述するような、ありふれたものかもしれない。倫理的な決断も、将来の実際の行動に、どれほど重要でも、ただちに目に見える身体の動きに表れるとはかぎらない。しかし、物理的な判断と、ほかの判断との間にありうる、この印象の強さの違いは、いまの立場からは本質的でない。実際、結局のところ、外的世界が本当に存在するという確信に劣らず、道徳的義務を明瞭に、強く、さらには感覚的にも鮮やかに感じる人がいることは、否定できない。マーティノー博士が述べる次のことは、普通の人には、たしかに明らかである。「……名誉が欲求より上なのは、そう感じるからだというのは、道徳的な真理を逆転させることである。そうであるから、そう感じるのだ。この『そうである』は、私たちの理解次第なのではなく、能力の構成から生じるのでもない、と私たちは知っている。それは、私たちにかかわらず実在するものであり、それに適応するよう私たちの本性がつくられ、それを認めるために能力が与えられているのである。」[122] また、道徳法則の崇高さを、目に見える星空の壮麗さにたとえることが、多くの人に強い印象を与えるのは、道徳的な真理を捉える意識が、少なくとも形式の上では、感覚知覚によって説明され、さらには強められるほど、感覚知覚に近いことを示唆しているように思われる。

ここで、先に別の関連で現れながら、そのときは詳しく展開できなかった示唆に、戻らなければならない。それは要するに、普通の感覚知覚、あるいは物理的な判断で、目の前の物の客観性を感じるとき、後悔や悲しみの執拗さに似た、押し迫る感じが、しばしばあるということだった。[123] この感じは、物理的な判断の意識状態で、あまりに目立つため、普通の人には、物質的世界が形而上学的に独立していることの、最後の、反駁できない証拠となることが多い。実際、それを説明することは、経験のなかの一要素としての客観性の意識の意味に、多くの光を投げかける。さて、もう一つ、よくある感じ、遠慮なくいえば、もう一つの情動があり、おそらく同じほど頻繁に、この仕方で引き合いに出される。ただし、二つの経験を同じ目的のために用いる議論でも、私たちの考えでは、まったく同じ関連では使われない。物質的な対象は、夢の移ろいやすい、まやかしの心像と違い、頼りになり、安定しているといわれる。そこには「確かさ」があり、それゆえ「当てにできる」。後で使うために置いた場所に、忠実に、しっかりとどまる。変わったり消えたりするとしても、あらかじめ変化を計算できる、一定の法則に従う。物質の領域は「確かな事実」の領域であり、原因が、必ず本来の適切な結果を生むと信頼して、仕事ができる。対立者である「観念論者」が、自分を魅了し閉じ込めようとする夢の世界から、人は喜んで、そこへ戻るのである。これから、外的な物理的実在を捉える、この二つの仕方を、先の判断の一般的な分析に照らし、簡潔に考えたい。それによって、この二つが、心理学的には、物理的・倫理的・経済的のいずれの形でも、判断状況の本質的特徴として述べたものの、情動的な表現であることが分かるだろう。そこから、倫理的・経済的な領域にも、同じような、あるいは本質的に同じ「実在の情動」が、実際にあるはずだと論じる。そして、その説明に合う倫理的・経済的な経験を示して、仮説を確かめることにする。

見たように、判断過程の注意の中心、あるいは主語は、それ自体として問題を含む。観察され、認められた属性のあるものは、目下の目的に、何らかの意味で関係し、役立つものにするが、別の属性、あるいは属性の欠如は、対立する活動を示唆する、という意味である。目の前のものは、確かに石であり、追ってくる動物に投げつけるのに、都合のよい大きさである。状況を分析し、投げる物が必要だと分かったため、石を探し、見つけたのである。しかし、その石の色は、柔らかく、もろい質を示すかもしれない。あるいは、遠くから見る形は、どれほど注意して狙い投げても、ほぼ確実に外れるように見えるかもしれない。これらの難点を確かめるまで、石には、なお、いくつかの本質的な規定が欠けている。確実に規定されたかぎりでは、身を守り逃げるという一般的な目的が、直接に示唆する応答を促す。しかし、ほかのしるしが、その応答を止め、それが確かめられれば、石は使われずに残される。さて、対象の、区別されたさまざまな性格が、対立する促しを与える、この対立や緊張の状況にこそ、押し迫る性格、こちらの意志にかまわず抵抗し、それから独立している性格の説明がある。それは、さしあたり、その物の客観性の、紛れもない印、あるいは指標に見えるものである。というのも、押し迫るのは対象全体ではないからである。実際、「対象全体」が押し迫るということは、明らかにありえず、その場合には判断もありえない。いまの場合の押し迫る感じは、反抗的な形而上学的対象が、強いられ無力な人間の意志に力を及ぼす、その感覚ではない。対象の「疑わしい」、まだ定まらない外見や、ありうる属性が促す、ある運動への傾向によって、行為者の別の運動への傾向が抑えられることを、意識の上で解釈したものにすぎない。使えるものとしての対象、その性質だけを取れば疑いなく、明らかに行為者の目的に役立つ性質は、さしあたり注意を要しない、といおう。むしろ注意は、疑わしく、どう見ても不利な性質へ向く。それらが、当面、対象についての行為者の知識の全体と内容をなす。他方、活動する自己としての行為者は、目的と、それを直接に実現しそうな、対象への応答の仕方とに、一体化している。関心は、その方向に定まり、心の力を尽くして、そちらへ進もうとする。そして、当面「行為者の意志の努力」と一体となり、その努力に表れている自己に対して、抵抗し、勝手に解釈されることを拒む対象が、押し迫るのである。対象を見て、見かけ上の、あるいは最後に確かめられた不適合を、認めなければならない。人は「強いられる」。状況は対立の状況であり、この対立から、本質的に情動的な「抵抗」の経験が生まれる。[124] 個々の場合には、焦り、怒り、落胆といった、より特定の情動がないか、抑えられているかもしれない。それでも、客観性の情動は残るのである。[125]

同じ一般原理によって、実在の二つの指標の、もう一方も説明できる。例の石が、ついに、その示唆するところの曖昧さをすべて解かれ、投げつける物として採用され、逃げる人が、それを手に、追跡者に投げる最良の瞬間を待っているとしよう。この条件の下で、対象としての石の実在の指標が、押し迫ること、自己に抵抗したり強制したりすることにあるとは、まずいえないだろう。石は今や、状況の固定され、確定した特徴、ほかのものがだめになっても頼れる条件とみなされる。状況の、まだ不確かなほかの側面に対して、石は安心できる事実として立つ。そのほかの側面は、今度は、それが抵抗し、強制し、押し迫るからこそ、実在する。石という事実を土台とし、その周りに、行為者は行動計画全体を組み立てられる。すべてがうまくいけば、それが窮地から無事に救い出すかもしれない。石は、いわば、状況の「目的」の側へ移ったのである。状況の規定が進み、それに応じて行動計画が変われば、そして、おそらく多少は変わらざるをえないが、石を捨て、別の防御手段を選ぶ必要が生じるかもしれない。それでも当面は、石を刺激として受け入れた、心に描かれる活動は、計画の固定した部分となり、まだ定まらない手段についての、その後の判断を導く。行為者は、しばらく状況の込み入った難しさに注意を向けた後、立ち止まり、確かな手持ちの資源を、もう一度点検するとき、いくらかの安心と励ましの感情なしに、石へ思いを戻すことは、ほとんどできないだろう。対象の「確かさ」と「頼もしさ」を、情動として感じることに、実在の第二の指標がある。こちらを再認の指標、もう一方を知覚の指標と呼んでもよい。両方とも、活動の緊張の現象であるため、情動として分類するなら、知覚の指標は、悲しみや怒りのような収縮型の情動と、再認の指標は、喜びや勝利感のような拡張型の情動と、同じ群に入るだろう。

さて、以上の解釈では、物理的な判断状況だけに特有の条件には、何も言及していない。説明の根拠は、再構成のために活動が止まるという特徴だった。そして、分析が正しかったなら、これは、物理的状況だけでなく、倫理的・経済的状況の本質でもある。では、この二つの領域に、実在の知覚の指標と再認の指標に、同じ性質を持ち、同じ一般的な条件の下で生じる経験が、見つかるだろうか。見つかれば、そのぶん、倫理的・経済的判断の客観的な意義と価値についての主張が、強まる。(一)まず、対象は、経済的な性格において、問題を含む。行為者が、それを手段として、新しい、あるいは新たに関心を引く目的へ用いたいと望む場合である。それは、すでにほかの用途に割り当てられており、今もそうであって、考えもなく、そこから引き上げることはできないからである。これまで疑われなかった、確立した用途が、経済的な良心に押し迫ってつきまとい、望む経済的行動を、強く抵抗して抑えることは、詳しく例示するまでもない。その力は、先の場合に、物理的な対象が与える、反対向きの促しの力に劣らない。また、再認の指標も、ここで容易に見いだせる。ためらいが勝った場合、その人は、必要だと思われた断念に、別の意味では、どれほど納得できなくても、少なくとも、自分の選択が従来の用途を守り、事実に合っていることに、慰めとなる安心を感じる。他方、新しい目的が、ある程度、その正当性を認められ、「ためらい」が代表していた支出の仕方が、それに合わせて調整された場合にも、手段は、新しい解釈が与えられる以前に劣らず、経済的な意味で、実在の地位を持つ。ただし今や、それは、判断過程の主たる傾向を抑える側面を示して、押し迫る仕方で実在するのではない。経済生活のなかで、固定した確かな性格を持つ手段として実在する。たった今乗り越えたためらいや疑いの後には、それを安心して頼りにでき、今後も念頭に置くべきなのである。(二)次に、対応する倫理的経験は、挙げるだけで足りるとしよう。十分に説明するには、文学や生活から、広く例を引かなければならないからである。一方には、良心の「静かな小さな声」、あるいは「神の声の厳しい娘」である義務の権威がある。他方には、満足のいく決断の立場から振り返り、これほど深刻な誘惑がありえたことに驚いたり、重苦しく抑圧的な偏見から、新たに解放されたことを喜んだりする、そのときの、安らかな確信がある。

価値評価の型の判断が持つ客観的な意義について、私たちの見方を積極的に説明するのは、さしあたり、ここまでとしよう。まだ触れていない本質的な点が、いくつかある。また、一般的な見方に対する反論のうち、検討すれば、その見方を、さらに説明する助けになるものもある。しかし、これらは、これから進める価値評価の判断の詳しい分析の後に、論じるほうが都合がよい。

第四節

つきつめれば、あらゆる省察的な思考の究極の動機は、行動の目的を、次第に定めていくことにある。物理的な判断、心理学の言葉でいえば、物理的世界の対象への省察的な注意は、どの局面でも、次第に発展する目的に照らして導かれ、統御される。したがって、その過程は、手持ちの手段を確かめ、規定することを通じ、初めには曖昧に捉えられた目的を、十分に明確にする過程ともいえる。省察が始まる、問題を含む状況は、必ず、この二面を持つ仕方で、一方では明確な目的の意識へ、他方では、その達成の手段や条件の意識へと発展する。

状況を、最終的に満足できる形で規定する際には、物理的な規定に意味と方向を与え、それを導いている目的を、明示的に省察し、定義することが含まれうると、すでに示した。しかし、そうでない場合も、非常に多い。子どもが、離れた場所に明るい色の物を見て、途中の家具を、多少とも上手に助けとして使いながら、そこへ向かうとき、もちろん、ある明確な目的を、目的として意識しているわけではない。つまり、子どもは、自分の行動を、その価値や目的の観点から、批判にさらすことはない。遠くの赤い球を強く欲する気持ちが、そのときの動きのすべてを統御し、間の場所を、最も楽に渡るにはどうするか、多少とも吟味して見渡すことを促すだけである。状況を物理的に規定する前に、目的は暗黙に受け入れられており、明示的には規定されていない。そのような場合に、目的の発展を語ってよいなら、その細部への展開は、周囲の条件についての判断を通じて起こる、といわなければならない。子どもに、あまりに発達した判断力を認めることにならないよう、例を変えよう。同じことは、大人の心の省察的な注意でも、初めに一般的な目的を受け入れ、それを、目的としての倫理的・経済的な性格を省察せず、実行まで進める過程に当てはまる。実行された具体的な目的は、省察過程の出発点だった一般的な目的と、確かに同じではない。それは細部を満たされ、あるいは、大筋さえ、まったく違っているかもしれない。必ず発展があり、ときには変形さえあったはずである。しかし、ここで主張したいのは、そのすべてが、目的そのものではなく、行動の条件を、直接の規定の対象とする判断過程のなかで、その過程を通じて成し遂げられた、ということである。注意が集中したのは、条件である。もちろん、その条件へ注意を導いたのは目的だった。論理学の用語でいえば、初めに受け入れた一般的な目的が示唆する述語の観点から、行動の手段や条件を選び、規定することによってのみ、その目的自体が、明確で実践的な、実行可能なものとなったのである。大人の経験では、おそらく、このような場合は、めったに見つからない。通例、物理的・技術的な判断を進めると、受け入れた目的の含意が、ほとんど必ず明らかになり、それが、倫理的・経済的な問いを避けがたく生む。そして、それらの解決が、逆に、状況をさらに物理的に規定するための、新たな観点を与える。そのような過程で、倫理的・経済的な価値評価の問題の、論理的な要点が、はっきり姿を現すのである。

先の説明では、便宜上、倫理的・経済的な判断に先立って、感覚知覚に示された一定の状況を、暗黙に、あるいは明示的に受け入れなければならず、そうした評価の判断は、固定した条件を一覧した土台の上でしか、結論へ進めないかのような言葉を用いた。そのため、家を建てるという一般的な目的の、最終的な倫理的性格は、建築の手段が実際にあり、その質がどうかを確かめ、予定する支出の経済的な関わりを考えた後、その目的が取る正確な形に依存するように見える。物理的に不可能な企画や、経済的な観点から論外の企画が、倫理的に正しいかどうか、自分のなかで議論するのは、たしかに無駄である。しかし今や、この見方が、不正確であり、自己矛盾もしていると分かる。実際に目的が発展するときには、このように整然として融通の利かない段階の配列はない。物理的に不可能な目的を熟慮するのが無駄なら、何をしたいのかを正確に知るまでは、必要な物理的手段を探し、その適合性を判断することもできない、と、さらに強く論じられるだろう。真実は、包括的な判断過程の、さまざまな局面の間には、絶えず相互の働きかけがあるということである。むしろ、それ以上に、完全で徹底した、相互の含み合いがあるのである。倫理的な目的は、物理的・経済的な可能性を考慮せず、真空のなかで形づくられえない。それは確かである。しかし、物理的・経済的な問題も、倫理的な対立の過程で生じるものと解釈されなければ、つきつめれば無意味であり、問題を立てることも、解くことも不可能なのである。

したがって、この節で扱うのは、省察過程の初めにせよ、その途中で折々にせよ、行動の目的同士に、明示的な対立がある状況である。これらの状況こそ、価値評価の判断の固有の領域である。議論の道筋を、あらかじめ簡潔に示せば、次のようになる。

一 価値評価の判断は、個人の経験として述べても、社会の発展として述べても、本質的に、目的同士の対立を、明示的に、熟慮して解決する過程である。この対立の最終的な解決への、付随的だが、ほとんど常に不可欠な一段階として、物理的な判断、一般的には、事実や存在についての判断が役割を果たす。その役割は、次第に形を取りつつある目的の実行に必要な手段によって、状況を規定することである。この二つの判断の仕方は、互いを促し、統御する。どちらも、他方からの促しと統御なしには、有益に進み続けることはできない。両方とも、内容と意義において客観的である。省察過程の終わりに、形づくられた目的を実行する、まさにその直前には、結果を二つの仕方のいずれかで述べ、あるいは捉えられる。(一)目的に即して、直接に、(二)発見され、規定され、配置された、現に存在する手段の、秩序立った体系に即して、間接に、である。行動の準備として、あるいは、ほかのどんな理由からでも、結果をこうして最後に見渡すなら、目的は倫理的価値を持つものとして、手段は、後に述べる条件の下で、経済的価値を持つものとして捉えられる。

二 では、目的や手段を価値あるものとして捉える、この意識の性質と源は、何か。目的や手段を価値あるものとして意識することは、情動的な意識である。それは、いま終えた倫理的・経済的な価値評価の判断によって定まった、行為者の実践的な態度を表す。そして、価値を認めた対象を捉え、あるいは心に描こうとする努力が、その態度を構成する活動を抑える結果として生じる。したがって、倫理的価値と経済的価値は、厳密に対応し合う。心理学的には、包括的で複合した判断過程の、同じ結果全体を、いま示した二つの仕方で、それぞれ捉えることに伴う、情動なのである。最後に、行動の時が来ると、まず、倫理的に価値を認めた目的の意識が消える。次いで、経済的価値の意識が、手段とその性質、組み立てられた秩序ある体系内の相互関係についての、純粋に「物理的」な、すなわち技術的な意識のなかに消える。そして、手段の使用が確かで、ためらいのないものになるにつれ、それも最後には、活動の、直接で未分化な意識へ溶け込む。

倫理的な状況、すなわち、さしあたり倫理的な側面から見られる状況で対立する目的には関係があり、経済的な状況の目的には関係がないというとき、前者では、その関係があるという事実によって、後者にはない満足できる解決が、すでに手元にある、といいたいのではない。たとえば、大切にしてきた自己修養の目的と、今や、その目的の放棄を求めるように見える社会奉仕の理想との間に、直接で内在的な関係を感じても、それは、今後の生活のなかで、その二つを正確にどう関係づけるべきか、すでに分かっていることではない。また、書物や絵画への欲望と食物の必要との間に、実現のため、ともに限られた手段に依存すること以外、内在的な関係を認められないといっても、その対立の帰結が、倫理的な意味を持たないということではない。ここで退ける見方は、真に問題を含む倫理的状況の可能性を否定することになり、[126] 経済的判断は、それ自体として倫理の領域の外にあり、せいぜい、ときどき倫理的な考慮から修正され、統御されるだけだ、という見解に一致するだろう。

ある状況で、目的同士に関係があるというのは、新たに生じ、まだ規定されていない目的が、ただちに行動するのを抑える基準の表す目的、あるいは目的群と、同じ体系に属する、という事実を指す。行為者は、その事実を、多少とも明示的に認めている。基準は、意識に現れた衝動に従う行動を抑える。他方、新しい目的の心像も、基準に従う行動を抑えるほど、明確で印象深い。この二要素の関係は、少なくとも最初には、それら自身で折り合いをつけることが、暗黙に期待されるという事実に、実際に示される。すでに概略を述べた過程によって、主語と述語が発展し始め、互いに近づく。こうして、双方の目的を直接比較し、調整する以外の方法に頼らず、問題の暫定的、あるいは部分的な解決に達することもある。問い直された基準には、新たに描かれた目的との間に、この方法で、少なくとも解決へいくらか進めるだけの、適合性があるのである。

倫理的な価値評価で、目的同士の関係があると認めることは、少し立ち止まり、規定された行動の目的を、自分のものとして受け入れ、あるいは省察して認める際の条件を、やや詳しく調べることで、最もよく理解できる。どんな新しい目的も、意識に現れると、多少とも固く確立した習慣に出会う。その習慣は、意識のなかで、何らかのしるしや象徴的な心像として表され、それ自体、過去の判断過程の成果である。いまの問題は、新しい衝動的な目的と、習慣を表す目的との関係を、行為者が認めることの意味にある。確立した目的を、そのようなものとして意識的に認める際の、さまざまな要素や条件を考えれば、最もよく、その解決へ近づけるだろう。

どんな確定した目的にも、必ず、いくつかの事実判断の群が含まれる。そこには、その目的を実行すべき客観的条件が示される。まず、周囲の物理的・社会的条件の全体像が、一群の判断として示される。(一)手持ちの手段、目的を実行する地域の地形、気候などを記述する判断、(二)関わる人々の思考や感情の習慣、偏見、趣味、制度を記述する判断である。決めた企画は、たとえば、部分的に文明化した民族が住む遠い国で始める、慈善的または商業的な、個人あるいは国家の事業かもしれない。仕事を進める物理的・社会学的な条件についての判断群に加えて、その事業に対する自分自身の身体的・精神的な適性について、多少とも十分で公平な知識もあるだろう。計画した仕事は、体力に厳しい負担をかけ、成功させるために、多くの勤勉さ、献身、忍耐、知恵を求めるかもしれないからである。実際、どんな確定した目的にも、必ず、多少とも多様で包括的な、条件の一覧が含まれている。いまの目的には、これ以上の例示は要らない。実践的な目的に関わる条件は、一般的には、物理的、社会学的、生理学的、心理学的という四つの分類へ、自然にまとまるといえる。四種類とも客観的である。ただし、後の二つは、行為者が、現在の活動のため、ある意味で向き合う環境に対して、一個人として固有に持つ条件を含んでいる。

訳注

「部分的に文明化した民族」は、原文の歴史的な表現を訳したもの。民族を文明化の段階で序列づける当時の見方を含む。

いま関心があるのは、典型的な状況に関わりうる条件を列挙し、分類することよりも、行為者が、それを捉える際の意味である。その意味は、次のようにいうのが、最もよいかもしれない。条件は、全体として、定められた目的を正当化するものとして、本質的に、印象深く捉えられるのである。この説明の裏づけとして、状況を見渡す瞬間に、行動の手段や条件が、形づくられた目的と、どのように関係しているか、公平に内省することを求めたい。状況を見渡して現れるさまざまな細部は、科学者の手帳に記されたような、裸の事実としてではなく、これから行う行動を正当化するもの、それに密接に、独自に、生きた意味で関わるものとして捉えられる。これは、普通の人が直面する、よりありふれた、単純な難局についても、公正な説明だと、私たちは考える。特に明らかなのは、かなりの困難を経て作り上げた、純粋に技術的な目的について、条件をやや慎重に見渡すまで、実行しない場合である。明示的な倫理的判断の場合にも、しばしば同じことがいえる。省察の倫理的な局面が、ひどく長く、難しいものでなかったなら、これから行う行為の倫理的価値についての、はっきりした感覚は、容易に消える。そして、区別した四種類のうち、一つ以上の分類に属する状況の事実的な側面や特徴が、決めた行為を正当化し、確証し、さらには強いるという性格において、いっそう意味を増す。バトラー主教の「人間そのものの組織と構成によって、主宰し統治することが、それに属する」という言葉は、[127] 道徳を知覚する能力としての良心についてだけでなく、実際に働く瞬間の、普通の感覚知覚についても、実感をもって当てはまる。より深刻な道徳的困難の場合でさえ、行動の手段や条件が持つ、この是認する側面は、陰に隠れない。複雑さのために、それらが大きな役割を果たし、行為者が実行の準備として見渡さなければならない状況なら、必ず、その人にとって、固有の働きとしての性格を帯びる。一般に、事実判断の体系に示された条件には、ある「正当な権威」がある。その条件を、現在の事実的な細部まで練り上げる際に照らした目的へ、その権威を貸し与えるように見えるのである。条件が、こうして目的を是認するように見えるのは、条件と目的が、一緒に作り上げられてきたからである。一方の漸進的な発展が、他方の分析的な探究を促し、その探究の成果によって、逆に導かれ、進められる。最後には、その結果を、目的に即しても、条件や手段に即しても、読み取れる。[128] 二つの読み取りは、一致しなければならない。行為者が、条件を目的の根拠として捉えることは、この「一致」の、意識における表現なのである。[129]

訳注

Project Gutenberg本文には注127の直後に孤立した「I」があるが、照合した1909年刷の277ページでは引用末尾の注番号の後にその文字はなく、Even in casesと続く。このため訳文では孤立した文字を省いた。

このような事実的な条件の捉え方には、論理的にきわめて重要な含意がある。その含意は、判断を続けて働かせるにつれ、必ず、いっそう明らかになる。広い見方をする訓練が足りないため、困難な状況を吟味する際の関心の習慣が、なお、ほぼ厳密に物理的な領域に限られている場合でさえ、そうである。その含意とは、先にいってしまえば、努力し、奮闘し、活動する原理、あるいは自己のことである。この自己は、特定の目的と、それに対応する条件の集まりによって、展開を助けられたり、妨げられたりする。特定の目的に尽くすことで、その生の広さ、充実、力強さを、失ったり得たりするのである。行為者が、この活動的な原理を捉え、参照する明示性の程度は、もちろん、事情によってさまざまである。単純な物理的判断にある、曖昧な気づきから、深刻な倫理的危機に特徴的な、明確な認識と規定への努力まで、あらゆる程度がある。

状況が発展し、この要素を明るみに出すことは、論理の一般的な根拠からも予想される。一群の条件が、ある目的を正当化し、是認し、確証するということは、目的には、根拠が必要となりうることを意味する。そしてそれは、目的のなかで、目的を通じて、その維持と発展が、当然に望ましいとされる何らかの過程を参照しなければ、不可能に思われるからである。行動の条件を、目的を正当化するものとして捉えることは、その状況の根源的で不可欠な特徴、実際、その状況を構成する特徴である。この点が、私たちの主張の核心である。もし関心が、省察的な経験の一局面としての、自己意識の心理学的な発達にあったなら、まず、その発達が、判断過程の途中に現れる、感じ、情動、欲望といった「主観的」現象によって媒介されることを示そうとするだろう。そのうえで、判断過程が終わり、知られた条件が目的について安心を与え、それを確証するという感覚が伴うときに初めて、自己が、初めから過程の不可欠な要素だったと、区別して認める可能性が生まれる、と主張するだろう。省察的な注意の過程の外には、自己意識の心的、あるいは「初歩的」な始まりはありえない。そして、注意の過程の終わりを特徴づけるとして述べた経験からの発展としてでなければ、自己について、特定のものと認められ、多少なりとも定義できる意識はありえない、と論じるだろう。しかし、これらはすべて、いまの目的からは、やや外れる。ただ強調したいのは、行為者が、自分を、力を発達させ、費やす中心として明確に認めることは、条件を、安心を与え、確証するものとして捉えること、この「根源的な芽」から生まれる、という点である。自己を意識した倫理的・経済的な価値評価の可能性は、ここから始まる。

見渡す手段が、まったく物理的な種類であっても、手段を、目的を正当化するものとして捉えることは、事実だと述べた。これは、「力を発揮する」自己の意識が、そのような状況や、もっと複雑な状況全体が展開する、その物理的な段階で生まれうることを、含意している。この形の自己意識の出現が、社会学や生理学という科学の発達を、どれほど、どのように本質的に促したかを考えるのは、興味深い思索だろう。しかし、これらの科学や、ある個人の心に生じる、それらへの真の関心について、事情がどうであれ、考えている行為の、客観的な心理的条件への関心は、主観的な自己への関心に、確かに密接に依存している。その自己は、過去に、ほかの三種類の条件を規定し、考察する判断を働かせて、知るようになったものである。行動に関わる物理的・社会的な条件の配列が、多様で複雑になるほど、それらについて明確に組み立てた知識だけでなく、自分自身についての知識も重要になる。見渡した条件によって、その目的を正当化された自己は、実行の間、安定し、一貫した態度を保たなければならない。そうしなければ、「与えられた機会を生かしきれず」、目的を作り上げた省察過程を、むなしいものにしてしまう。条件を見渡して得た確信が、規定されたかぎりの条件には、見える変化がなくても、いかに容易に挫折するかは、経験が豊富に示す。このような状況で、自己意識が、すでに区別できる要素として現れていれば、いま述べる失敗は、いっそう見分けやすく、解釈しやすい。突然の衝動が、選んだ目的の実行に割り込んだかもしれない。その目的が代表する生活の一般的な側面から、思いがけず関心がそれたかもしれない。あるいは、ほかのさまざまな仕方で、行動の初めの決意に、揺らぎや緩みが生じたかもしれない。すると、「力を発揮する」自己は、こういってよければ、ただちに気づく。そのときまでに知られた条件が、目的に与えた是認は、不完全なために、誤解を招くものだったのだと。そして、これら新しく現れた妨害的な現象を説明し、それによって統御する方法を作れるよう、自らのうちに、客観的な事実の新しい領域を展開し始める。失望に耐える忍耐、抵抗に向き合う勇気、長く困難な努力のなかでの安定と自制といった性質や、そのほか同種の性質が、内省的な分析によって区別される。それらは、行為者がすでに、その知識を身につけ、配慮することで助けられてきた、ほかの条件と同じように、正確に測られ、一般に客観的に研究できる。そして、新たに規定された心理的な条件は、以後、ほかの条件と同じく、目的を是認する役割を果たす。秩序立った心理学的な範疇や観点の体系が発達する。今後は、難局が生じるたびに、それに関わる個人の性向や能力の条件が、正確に述べられるようになる。それは、徐々に形を取る目的に向き合い、緊張し合いながら作られる。状況の、ほかのすべての関連する客観的側面についての記述と、同じように、である。[130]

これから示したいのは、この「力を発揮する」自己に、倫理的・経済的な価値評価に共通する、本質的な原理があること、その原理によって、両者が、ほかの従属的な判断の型から区別されることである。この原理の性質と働きを、できるだけ明確に定めよう。

選んだ目的が、自己に好都合か、そうでないかを認め、したがって、自己が、選んだ目的によって促進され、あるいは遅らされうると認めることは、判断を終えた後に生じうる心の状態に、いつも伴うわけではない。ふつうの人の日常生活の、よりありふれた状況では、また、省察の力が比較的発達していない人の生活では、事実上ほとんどいつも、それは経験の、区別された独立の局面としては存在しない。そのような場合、仮にあるとしても、知られた条件が目的を是認し、確証するという認識に、暗黙に含まれる意味として、曖昧に感じられるだけである。そのような状況は、容易に解決に向かい、複雑な状況が、発達した省察力と長い経験を持つ人に鋭く感じさせるような危険、後悔や悔恨につながりうる事情を、何も予感させない。主語の側でも述語の側でも、意識的な再構成は比較的少ないまま片づけられる。そして結論に達すると、行為者が条件を認めることには、目的が完全に、申し分なく選ぶに値するという、心地よい、だが、あまりにしばしば誤った確信が伴う。選ぶに値するかどうかが、仮に問われても、「どんな目的であれ、あるものは正しい」という暗黙の原理で答えられる。「普通の人」にとって、また、私たち誰もが、生活のある側面では、必要な手段と事実的な条件が、手元にあると分かる目的は、それが自分の目的であるというだけで、それゆえ正しいのである。

自己を広げ、豊かにするという観点から、目的が誤っていたと示す失敗や失望の経験は、初めにその目的を自信をもって信じたことに、暗黙に含まれていた論理を、いっそう明確に意識させる。同時に、その論理を明示する必要も強める。目の前の条件と、集められた手段によって正当化された目的は、自分自身のものだった。そして、自分のものであるかぎり、暗黙には、自己を促進する目的だった。失望は、この含意を、いっそう明らかにする。また、以前のように条件を規定するためではなく、目的そのものを規定するために、方法に従って進む必要も明らかにする。状況の本質は、目的を実行した結果、予期しなかった帰結が現れ、それが実は初めから、物事の性質上、目的に含まれていたと分かったことにあるからである。この帰結、あるいは帰結の群は、一般的にいえば、望ましい活動の仕方が弱まり、止まることである。その活動は、行為者が受け入れた目的の体系の、別のところに動機を持つ。それは、外から制限され、抑圧される感覚として、意識に記される。この感覚は、あらゆる情動的経験の、特に初期の段階で目立つ局面である。その帰結は、予期しなかっただけでなく、望ましくもない。それに対する反応は、初めは情動的だが、やがて、状況を省察して解釈する形へ移る。つまり、自己は、これほど危うい目的と、考えもなく急いで一体化したため、損失を被ったのだ、と理解するのである。[131]

こうして到達した省察的思考の段階で始まる、価値評価の過程を促すことこそ、自己意識の本質的な論理的働きである。自己意識は、どの観点から論じても、特に扱いにくい主題である。その意味が、二つの極の間を絶えず移るからである。一方は、「あらゆる思考の、あらゆる対象」が、自分の外にある主観性であり、他方は、ほかの物と同じく知られる、客観的な物、あるいは力の体系である。後者は、ある意味で、自分自身によって知られるとはいえ、やはり知られるものであり、ほかの対象と関係しうる対象として考えられる。価値評価の過程を刺激し、促すことが、その本質的な働きだというとき、語っているのは主観的な自己である。しかし、その役割を果たすには、やはり、何らかの感覚的な心像で示されなければならない。実際、主観的な自己は、さまざまに考えられ、多くの種類の心像として示されうる。しかし、どの形でも、心理学の記述する客観的な自己とは、注意して区別しなければならない。客観的な自己は、主観的な、あるいは「力を発揮する」自己が、その目的を実現する条件の集まりなのである。主観的な自己は、薄くかすかな身体の分身かもしれない。罪から救われる必要のある人格的な存在、魂の実体の原子、あるいは、ここでの用語では、発達し展開する力の中心かもしれない。重要なのは、これら主観的な自己の表象が、内容も動機も、どれほど異なっていても、表象として、そのかぎりで客観的なものとして、すべて、何らかの一定の応答への刺激となることである。未開の戦士は、戦いに出る間、安全のため、自分の分身を木や石に預ける。罪から救われるべき自己は、罪を犯したという事実が課した、いわば法的な義務を満たすため、受け入れられる一定の行為を促す自己である。表象された自己は、表象として、どんな形を取ろうとも、その働きを持つ。その働きは一般に、表象されてはいないが、その自己のために表象があるという意味での自己を、何らかの意味で保ち、増大させるための刺激となることである。さて、自己を「力を発揮する」もの、発達し展開する力の中心や源とする、いまの私たちの説明も、一つの表象である。それは感覚的な心像から成り、機械的な過程、あるいは、おそらく植物の成長を示唆する。適切に守れば、順調に進む過程であり、外からの抵抗や内側の摩擦で乱され、妨げられ、あるいは衰えてしまうことを、許してはならない過程である。おそらく多くの人には、この説明が、極端に恣意的で空想的に思われるだろう。しかし、細部を、さほど重く見る必要はない。表象の、この本質的な内容を、どんな種類、どれほどの数、どれほど感覚的に鮮やかな細部で包むかは、もちろん、一人ひとりの心の特質によるのである。

訳注

「未開の戦士」は原文の歴史的な呼称を訳したもの。現代の人々や文化を評価する呼称として用いてはいない。

実際、目的を省察する習慣が、いっそう固く定着し、価値評価の手続きが、自覚的に方法と秩序を持つようになるにつれ、表象された自己の感覚的な内容は、次第に薄まらなければならない。そして、ついには、言葉にされない原理や格率、暗黙の前提にまで縮まる。それは、具体的な実践上の難局が生じるたびに、価値評価の方法を、自由に、公平に適用するよう命じるものである。というのも、どんな種類であれ、表象された内容から成る自己を、具体的な目的の注意深い熟慮によって促進しようとすれば、まさに、その自己が内容を持つかぎりで、倫理的判断の帰結を、一定の方向へ定めてしまうからである。たとえば、罪から救われなければならない魂が、表象された自己の内容であるなら、その魂は、ある仕方で律法に背き、被造物と創造者の間の、正しい関係を損ない、それによって、多少とも専門的に定義できる罪責を負ったものである。この罪責を取り除き、自己を律法との正常な関係へ戻すには、状況への適切な応答が必要である。行為者が、まず悔い改めの一定の定められた手続きを選び、次いで律法の命ずるとおりに生きるという、定まった目的を選ぶのである。[132] 同じく、成長する有機体のように「力を発揮する」自己という、私たち自身の心像も、表象の細部をあまりに真に受ければ、確立し、認められたものに、ただそれだけの理由で、過度に保守的に固執する偏りを、助長するように見えるかもしれない。[133]

ここ数段落の議論は、個人の道徳的態度、あるいは自制の技法の発展に即して、次のように述べ直せる。

一 慣習と権威が行動を支配する原理である、道徳的発展の段階には、目的を自覚的、批判的、再構成的に評価するという、正しい意味での道徳的判断がない。そこにある判断は、せいぜい、固定した明確な概念の範囲に、個々の場合が入るかどうかを定める、単なる決疑論的な型のものである。進んで従うという感情が媒介するもの以外に、自己意識はない。この段階では、行為者の捉え方において、自己を広げ、発達させるのは、律法が命ずる特定の行動の種類ではない。自己を広げ、発達させるという考えが、行動に影響するかぎり、その効果は、行為者の信頼する信仰において、律法そのものを、全面的に、進んで受け入れることから生じる。「神の御心を行おうとする者は、その教えについて知るであろう。」さらに、社会の発展において、慣習と権威の段階には、きわめて単純な社会的条件か、あるいは、きわめて複雑でも安定した条件が伴う。そのため、どちらの場合も、行動の条件は、一般に、慣習と権威が命ずる行動と調和する。したがって、律法は絶対的でありえて、従えない可能性を考慮しない。神の正義は、律法の違反を、単に客観的な違反として罰するのであって、罪人の責任に応じて、罪として罰するのではない。

二 しかし、慣習と権威は、必ず不十分になる。社会的条件が変わるにつれ、慣習は古び、権威は、適切な個人の行動を命じようとして、誤り、揺れ、自らに矛盾する。服従は、もはや光への道ではない。服従が今や伴う、力の抑圧と方向の誤りを、次第に強く感じることで、自己は自覚的になる。これが、主観的な道徳、あるいは良心の段階である。良心の出現、良心に訴える態度は、権威そのものが対処しようとして、明らかに崩れた、新しい問題状況を、方法に従って解こうとする努力の始まりを意味する。ただし、良心を、その努力の始まりだというのは、良心が、実際には曖昧で、本質的に過渡的な現象だからである。一方で、良心は、人間の内なる本性が、その人の内で語るものであり、自己は、この自己の表現に耳を傾けることで、自らの成長を促す。この側面では、良心は方法に関わる。しかし他方で、良心は語り、語る以上、どれほど一般的であっても、何か一定のことを、いわなければならない。この側面では、良心は、慣習と権威の体系の下で実現した、一般的な価値の要約である。ただし、それらを今も実現し続けるには、慣習と権威の個々の指示が、もはや十分な案内ではない。したがって良心は、目下の場合に論理的方法を適用せよという内なる促しであると同時に、その場合を、どれかの下へ包み込める、一般的または具体的な規則の集まりでもある。そのため倫理理論には、良心の本性について、一致がない。一方の極では、それは、私たちの内で、あるいは私たちを通じて、詳しく具体的な言葉で語る神の声であり、したがって、事実上、姿を変えた慣習と権威である。他方の極では、正しいことは私たちを拘束する、という、内容のない抽象的な直観であり、したがって、論理的な手続きへの要求を、ただ実体化したものである。倫理学の歴史には、両極の動機を、巧拙さまざまに織り合わせ、比率を変えて組み合わせた、中間のあらゆる考え方が示される。真実は、良心が本質的に過渡的な概念であり、必ず前後の両方を見るということである。一方の側面では、良心は、かつて権威への服従が与えた価値を、また、おそらく、芽生えかけの活力や成長の感覚を、失って惜しみ、それゆえ自らのために心に描くようになった自己である。[134] 他方の側面では、自らの目的や価値を、自分の責任で定めることへ、自立して目を向ける自己である。そして最後に、周囲の手段や条件の世界についていえば、それは明らかに、必ずしも良心と調和し、それに従うものではない。実際、物事の性質上、そうであるのは一部にすぎない。したがって、良心の道徳は、神秘主義的なものとなり、世界は価値がなく、それゆえ非実在だと肯定する、その瞬間に、世界から逃れようとする。あるいは、「絶対的」道徳と「相対的」道徳との、事実上の区別へ逃げ込む。本来、この区別が入り込む余地のない体系から、用語を借りれば、そうなるのである。そしておそらく、天と地の仲立ちとして、特別な免除の仕組みを設けるのである。[135]

三 つまり、良心は一般に、自律的であると称する。しかし、厳密にいえば、その主張は語義上の矛盾である。また、状況の論理を別にしても、事実として、良心の理論は、いつも神学的な目的に、よく役立ってきた。それは、近代の古典的な形で述べられた自己実現の理論が、絶対者の形而上学的な教説に立脚するのと同じである。[136] この、本質的に不安定な概念のうちに隠れた動きは、必ず、筋の通った帰結に至らなければならない。(一)表象された自己から、固定した内容の要素を取り除き、それによって、表象を伴わない価値評価の原理として、自由にすること、(二)それらの内容の要素を、価値評価の原理から切り離し、従うべき法ではなく、参照し、相談するための基準とすること、である。

こうして、「力を発揮する」自己が、価値評価の過程への刺激として、明示的に認められるに至る論理の説明を、個人と人類の道徳的発展の、三つの主要な段階に結びつけた。この論理を論じることになったのは、意識された目的を初めて受け入れる際の要素、あるいは、同じことだが、その目的を後に基準として認める際の要素を、確かめようとしたからである。その試みは、二種類の価値評価の過程を、それぞれ詳しく分析するために、区別する必要から促されたものだった。ここで、その問題に戻ろう。

次の例が、いまの仕事に役立つだろう。ある法律家、あるいは実業家が、公職には誠実な人物が、いかに必要かに強く心を動かされる。あるいは、何か印象深い仕方で、現在の富の分配に大きな不平等があり、そこから多様な害が生じていることへ、注意を向けられる。それらの事実は、おそらく本人の意に反してまで、その注意を引きつけ、ついには、場合に応じて政治的・社会的な条件を改善するため、自分で何らかの努力をしよう、という考えを呼び起こす。しかし他方、彼の選んだ職業には、成功した、さらには華々しい経歴の見込みがあり、すでに十分な収入を得ていて、それも急速に増えている。また、成長する家族がいる。彼は、子どもの初期の教育と成長に強い関心を持ち、自分もその一部を担いたいと願うだけでなく、数年後には、子どもに適切な高等教育を受けさせるため、多額の資金が必要になることも分かっている。こうした状況を分析すれば、倫理的判断と経済的判断の領域を区別し、定められるだろう。

ここに目的同士の対立があることは、容易に分かる。一方には、重要な公職で社会に奉仕する考え、あるいは、提案されている社会改革の宣伝活動に加わり、より根本的に社会をよくしようという考えがある。この目的は、その人の本性にある社会的な衝動に基づく。直接の私益や享楽の目的と同じほど強く、その人に訴えると考えてよい。そのため、それは目の前に立ち、しつこく迫り、初めには誘惑として警戒させるほどである。この具体的な目的、すなわち道徳的な価値評価の主語に向き合うのは、ほかの目的である。それらは、規則正しく着実に働くこと、家族の物質的な生活を支えること、子どもへの父親の義務、法律家や裁判官としての学問的な達成などの理想に、含まれ、あるいは象徴されている。これらの理想は、確かに実践的で個人的である。しかし、いまの働きにおいては、一般的・普遍的な性格を持ち、新たに想像に現れ、これらの理想を述語の側で働かせた目的に備わる、具体性と情動的な質を欠く。この社会運動の生活は、本当に「体面のよい」、まじめで勤勉な人物にふさわしいものだろうか。家族を養い、教育できるだろうか。今の世話や教育に、十分な注意を向けられるだろうか。また、自分の性格をゆがめ、関心を狭く集中させ、将来、子どもに父親として正しく権威を行使する資格を、いくらか失わせはしないだろうか。さらに、自分や現在の同業者に比べ、多くの点で劣る知性や性格の人々と、絶えず交わる運動の生活は、自分の知的・道徳的な基準を下げ、ついには、今よりも社会に役立たない人間にしてしまわないか。こうした問いが、問題の初めの姿を示す。しかしやがて、試みに抱かれた目的も、自らを擁護する。自己犠牲、慈善、社会正義という、ほかの承認された理想や基準に、自分を支持する証言を求めるのである。こうして対立は、すでに説明した主語と述語の形式を取る。一方には、まだ規定されていないが、強く迫る具体的な目的がある。他方には、受け入れられ、認められた習慣的な行動の仕方を代表する、いくつもの象徴的な概念、普遍がある。問題は、状況の両側を、ともに作り直し、統一と調和を持つ行動計画にすることである。その計画は、いま与えられた難局を解くために選ばれるものとして、具体的で個別的でなければならない。同時に、過去の行動の仕方へ十分に配慮し、それ自体、将来の難局で考慮するに値するものとして、普遍的でなければならないのである。

では、いま説明した状況の、倫理的な側面と経済的な側面を、どう区別すればよいだろうか。最もよいのは、状況を解決へ進める際に、考慮すべき、さまざまな種類の条件や手段を検討することである。より正確には、目的が次第に細部を備えた形へ発展するにつれ、それに向き合って規定する必要のある、さまざまな条件や手段を検討するのである。

まず、いまの場合には、考慮しなければならない心理的な条件があるといえる。私たちの主張は、状況が心理的な条件の規定を生み、それを規定することで、最終的な解決へ近づくかぎり、その状況は倫理的だ、ということである。言い換えれば、その状況で争われる目的が「関係している」のは、同じ心理的条件の集まりに依存するかぎりにおいてだ、と考えるのである。これらの言明が、その状況に当てはまらないかぎり、経済的な判断に頼らなければならない。

行為者に浮かぶものとして挙げた一般的な問いは、選ぶ行動が、ある心理的な考慮に、どのように配慮しなければならないかを示した。新しい生活に入れば、現在の職業への関心は、必ず弱まるだろう。そのため、生活費の一部を得るためであれ、気晴らしのためであれ、その仕事を続ける試みは難しくなり、ついには煩わしくさえなる。新しい仕事は、心を奪うものとなるだろう。実際、意味のある仕事となるには、そうでなければならない。同じく彼は、自分の本性が、共感の力にあまりに豊かに恵まれ、一般的な惨苦や苦しみに絶えず接しても、個々人の特別な悩みや関心への繊細な感受性を鈍らせない、そのような、まれなものではないと認めなければならない。苦しむ人々全体を自分の子どもとするなら、自分の子どもたちは、おそらく、そのぶん、父親からの特別な共感と、理解ある世話を失う。同じく、友人たちからも引き離され、孤立することになる。自分の主たる関心とは別の考え方をする人々と、自由に親しく語り合うのは難しくなる、と予想しなければならない。自分をこれほど深く動かすものに、彼らが無感覚であることに、軽蔑とまではいわずとも、次第に、いらだちを感じるようになるだろう。これらや、同種の可能性を、さらに詳しく述べなくても、状況を省察すれば、やがて、提案した行動がもたらす、さまざまな帰結が意識されると分かる。それとともに、それらの帰結と、その行動との関係の根拠が、自分の本性の、一定の性質と限界にあることにも気づく。これらは、彼にとって、行動の一般的な心理的条件、「経験的な自己」である。その一般的な性質は、見かけは今の場合とまったく違うかもしれない、多くの過去の状況ですでに知っているはずである。

さて、提案した目的と、関わっている標準的な目的や行動の仕方のいくつかとの間に、このような相互排除の関係があるかぎり、判断は、これから説明する、直接的な、すなわち倫理的な調整の方法によって行われる。そこで、法律家の時間の一部を、職業と家庭生活に、残りを、社会改革の宣伝活動への、ほどほどの参加に充てるという、暫定的な解決に達したとしよう。この暫定的な倫理的解決に向き合い、先に説明した意味で、その根拠となるのは、今ここで状況を見渡せば現れる、経験的な自己の能力と働きの、かなり明確な配置、あるいは素質である。[137] こうして得た倫理的解決を基に、状況のさらなる検討が進む。実行しようとして失敗した結果かもしれないが、それよりも、実際の行動への、さらに進んだ準備として行われる可能性が高い。すると、提案した折衷案は不可能だと、すぐに分かる。社会運動への参加は、依頼人となりうる階層の敵意を引き起こし、現在の依頼人には、不信と、仕事の細部がおろそかになるのではないかという疑念を生じさせる。要するに、提案した計画を、実際に拒否する「外的」な社会学的条件の、まとまり全体がある。これらと協働し、その効果を強める物理的な条件については、ここで立ち止まって述べなくてもよい。一般に、これらの外的条件は、目的の倫理的な規定が提案した仕方で生きる、その手段を行為者から奪う。いまの場合、もっと実行可能な別の折衷案を考え出せないなら、どちらかの極端を選ばなければならない。職業と、それに対応する生活全体の仕組みを続けるか、それとも社会改革の宣伝活動を選び、そこから付随的に得られるかもしれない、乏しく不安定な収入に頼るか、である。

いまや、この例によって、状況の経済的な側面を定められる。法律家が曖昧に、試みに思い描いた目的は、見たように、その倫理的な基準に照らして規定された。すなわち、新しい仕事への、ある程度の参加が、社会正義への献身という理想と、自分と家族への義務感の両方を満たすものと定められた。この意味で、論理的にいえば、おそらく正や善という一般的な述語の下に含まれる、述語の体系が当てはまる主語が、規定されたのである。しかし今、物質的・社会的な環境を調べると、この目的の実行は、行為者の精神的な能力や力と、完全に一致するとしても、これまで考えなかった、ほかの帰結や犠牲を払ってしか、可能でないと分かる。職業に心から打ち込めなくても、ある程度の収入は得られるということは、最終的な決断への、倫理的な「第一近似」では、まったく疑われなかった。だが今や、その問題が正面に現れ、しかも、見るべきとおり、たいへん難しく苦しい形で現れる。状況の本質は、今対立している目的、生活の糧を得て家族の世話をすることと、社会のために働くこととが、本質的に、すなわち経験的な自己の観点からは、両立不可能ではない、という点にある。逆に、倫理的判断の結果が示すように、この二つの目的は、心理的には十分に両立する。ただ「外的な」条件だけが、両者を対立させている。この場合の難しさは、対立する目的が、どちらも自己の強い個人的な関心を表しながら、自己の「精神的な資源」や「力」を、両者に配分する直接の方法では、調整できないことにある。むしろ、ここでは外的な手段の配分が求められる。したがって、さしあたり求められるのは、最終目的を直接定めることではなく、手段を経済的に規定することなのである。

ここで、こうして区別した状況の型に対応する、判断あるいは価値評価の過程を、できるかぎり説明する仕事に進もう。いまや、その過程が構成的でなければならないことが分かる。そこでは、確立した基準と、新たに現れて承認を求める目的とが出会うことで、その独自の状況に適した行動の道筋が形づくられるからである。さらに、この価値評価の過程は、事実判断とは、異なる次元の構成を行うことも分かる。事実判断は、目的の分析と展開が示す観点から、外的な対象を、行動の手段や条件として規定する。価値評価の判断は、自己の、承認された一般的な目的が与える観点から、具体的な目的を定める。それらの目的が一般的なのは、目的として具体的な形を与えられた個々の場合から、抽象によって取り出され、「力を発揮する」自己に、一般に役立つ典型的な行動の仕方として、別に立てられたからである。[138] 論理的には、事実判断は、常に価値評価の判断に従属する。価値評価の判断が、自覚的な熟慮となると、この論理的な従属関係が明示され、事実判断は、その真の性格を示す。その本質的な働きは、倫理的・経済的に定めた目的を是認し、刺激する条件を示すことである。[139] 最後に、価値評価による目的の構成と基準の再構成では、「力を発揮する」自己を広げ、発達させる理想が、統御する。ただし、特定の行動の仕方を命ずる、「表象された」、内容を持つ自己としてではない。示唆を可能なかぎり広く受け入れ、目下の場合に、価値評価の方法を公平に適用せよと命ずる原理として、である。述べたように、「力を発揮する」自己を、どのような感覚的心像で描こうとも、その本質的な性格は、方法に従う価値評価を促す働きにある。良心の段階に特徴的な、二面を持ち曖昧な「表象された」自己に代わって、価値評価の段階では、一方に「力を発揮する」自己が、他方に基準があるのである。[140]

次に、実際の価値評価の手続きを、まず、先に定めた倫理的な形から考えよう。扱っているのは、権威への服従や、良心に従う場合ではないことを、念頭に置こう。そのうえで、少し前に考えたような、真の道徳的対立を取り上げる。ある人が、これまで軽薄、あるいは絶対に悪いと考えてきた娯楽に、ふけりたい衝動を抱いたとする。その目的は、心に描かれるやいなや、むしろ、心に描かれるための条件として、基準に象徴される、過去の行動の習慣と出会う。基準は、幼いときに教わった格言、ストア派の賢者やキリスト教の聖人という理想、友人の実例、抽象的に述べられた教訓など、さまざまな形を取りうる。しかし、どのように示されても、本質的には、確立した思考や行動の習慣の象徴である。[141] そのような問題の解決は、一般に、密接に絡み合う二つの道筋に沿って進む。(一)基準に合うと認められた事例を集め、比較し、標準となる行動の型を、より曖昧さのない形で定めること、(二)その行動の型と、徳目の一覧にある、ほかの承認された型との関係を定めること、である。

実際、この二つの動きは切り離せない。いま主張を始めた徳が、その一部をなす、徳の体系全体を参照しなければ、その徳を定義するために事例を比べても、盲目的で、成果を期待できないからである。いまの場合、行為者は、娯楽を節度あるものにし、余暇を有益に使いたいと望む。しかし、そうはいっても、その理想は、中世のある聖人の厳しい修行や、ストア派の心の平静を、本当に求めるのだろうかと疑うかもしれない。聖人の精神的な鍛錬の妙技は、より粗野な時代には、人間が徳高く、思慮深く生きられる証拠として、役に立ったかもしれない。しかし、そのような自己否定を、今の道徳的な人にも求められるのか。要するに、表面的に捉えた理想を分析する必要は明らかである。いうところの、聖人や英雄の行動を字面どおりになぞるのではなく、その「精神」を考えなければならない。そして、それを解釈するときには、その人の生きた時代の条件と、教え導こうとした人々の、一般的な知的水準を、十分に考慮しなければならない。基準が人物でも、たとえ話でも、抽象的な教訓でも、判断のどの場合にも、状況の論理は同じである。基準の分析は、それによって定められた行動の型を、区別できる、ほかの承認された行動の型と「総合」し、調整して、生活全体の包括的な理想にまとめなければ、進められない。つきつめれば、どれか一つの徳を正確に定義する過程で、すべての徳の暗黙の関係が、明示されることになる。

したがって、つきつめれば、倫理的判断の述語は、行為者の、承認された習慣の体系全体である。そして、それぞれの判断過程は、結果として、受け入れを求めていた新しい習慣に場所を与えるよう、体系を調整し直す。古い習慣も新しい衝動も、この過程で修正される。それは、通常の感覚知覚の判断で、類を表す語の内包と、その類の下へ「包摂」される個別的なものとが、互いに修正されるのと同じである。ここでも、倫理的判断、あるいは価値評価の過程が、包摂や分類によって、個々の行動の仕方の価値を確認する過程ではないことが分かる。逆に、価値を定め、与える過程なのである。それぞれの判断過程は、自己を、新たに、多少とも徹底して規定し直すことを意味する。したがって、目的として現れ、その過程を生じさせた行動の、倫理的価値を確定することを意味する。道徳的な経験は、本質的に、また、その典型的な難局において、価値を認め、それに合わせて行動の道筋を形づくるものではない。むしろ、当面は役立つが、いつでも再評価されうる価値を、定め、確定するものなのである。

もし、この議論の主眼が、一般的な倫理理論への貢献にあったなら、倫理的な理想を、内容を持つ「実質的な」言葉で定式化する試みは、常に、実践的な目的には不十分であり、それゆえ理論的にも擁護できないことを、詳しく示すのも、目的の一部となるだろう。これは、広く流布する自己実現の理想にも、さまざまな形の快楽主義や、より古い、良心や道徳感覚の体系にも、当てはまると示せる、と私たちは考える。それらはすべて、本質的に固定した理想であり、その内容を、多少とも完全に特定できる。そして、どんな具体的な行為の道徳的性質でも、そこに訴えれば演繹的に確かめられる、試金石や規準とみなされる。それらは、デカルトの神やスピノザの実体のような形而上学的原理の、倫理学における対応物である。それを行動の価値評価のための十分な基準とみなすことに含まれる論理は、合理主義者が、概念から個々の事物の世界を演繹しようとした論理なのである。今の倫理理論に必要なのは、何らかの道徳的理想を、さらに定義しようとする試みではなく、理想や目的を評価する論理的方法の発展だと思われる。そこでは、より近年の認識論の研究成果を用いるべきである。自己の概念が果たす役割は、合理主義的な形而上学における実体の概念の役割ではなく、[142] たとえば、科学的推論におけるエネルギー保存のような原理の役割でなければならない。[143]

したがって、自己の活動を調整し直すたびに、知識のなかで、倫理的な実在の再構成が行われる。その再構成は同時に、その調整のなかで作られた新しい行動の仕方へ、一定の価値を与えることを含む。ゆえに、倫理的な経験とは、客観的な実在の秩序を、絶えず構成し、再構成する経験だと結論できる。その秩序のなかには、感覚知覚の世界も、倫理的な目的を達成するための、多少とも扱いにくい手段の世界として含まれる。この倫理的実在の構成の過程で、現在の道徳的基準は、典型的な感覚知覚の判断において、すでに定義された概念、すなわち行為者の現在の習慣が果たすのと、同じ役割を果たす。それらは、検討中の個別例と同じ型の行動に関して、承認され、これまで習慣的だった行動の仕方を示唆する、象徴として働く。こうして、遅かれ早かれ、道徳的な自己全体を、判断の主語に関わらせる。結果は、新しい自己であり、それゆえ、将来に向けた新しい基準である。そのなかでは、以前の基準が表す過去の自己と、新しい衝動とが、互いに調整されている。私たちの立場は、この調整が本質的に実験的であり、そのなかで、自己の統一と拡張という一般原理を、前提しなければならない、というものである。それは、帰納的推論で、目的論、エネルギー保存、生物の部分同士の有機的なつながりといった一般原理が、前提されるのと同じである。自己の統一と増大は、試金石や規準ではなく、道徳的な実験の原理なのである。[144]

最後に、倫理的判断と、感覚知覚や科学の判断との、もう一つの並行関係に注意しよう。科学者が、唯名論者として、自然法則を、観察された事実の一様性にすぎず、個々のものこそ真の実在だと考えるとしても、実際に捉える際には、その同じ法則が、ときに、明確に客観的な性格を持つ。ある材料が、望む目的に使われることを頑として拒むとき、その捉え方においては、現象の「科学的な必然性」を認めることで、その頑なさが強められるのが通例である。見たように、抵抗することで、物そのものが客観的になる。同じく、この場合が、その一例にすぎないと認められる法則も、客観的になる。もう一方の型の客観性の経験も、自然の「事実」だけでなく、法則を捉える際に可能であることは、ここでは述べるだけでよい。二つの型の客観性は、道徳法則にも伴う。抑制する基準は、私たちの「上に」、あるいは「彼方に」あるものとなる。カントでさえ、星空との類比が示唆するように、かすかな「他律の情動」と、無縁ではなかった。何らかの形の権威は、一つの道徳的な力である。その抑制する面でも、是認する面でも、道徳的なものとしての客観的妥当性を、人間の本性は認めがちである。主張してきたように、客観性を捉えることは、どこでも情動的である。道徳法則が、この性格を帯びる状況の一つは、前へ進もうとする傾向を止めるため、法則が割って入る場合である。もう一つは、疑いから、到達した新しい調整へ移る瞬間である。前者では、法則は、その要求において「容赦がない」。後者には、二つの可能性がある。調整が、本質的に、新たな「誘惑」の拒否だったなら、従う法則は、もはや容赦のないものではなく、救いの岩のように、支えてくれるものとなる。調整が、明らかに新しい態度であるなら、そこに体現された原理の客観性の感覚は、当面ほぼ完全に欠けるとまではいかなくても、ふつう弱くなる。しかし、実際に行動する瞬間には、自分が立脚する、確かな真理という性格を、いくらか帯びるだろう。

道徳的経験の論理的な構成についての、この一般的な見方からは、イギリスの主知主義学派の根本的な教説との比較が、思い浮かぶかもしれない。主知主義の著者たちは、一方でホッブズを、他方でシャフツベリとハチスンを論駁したいという願いに、強く導かれて説明を行った。ホッブズに対しては、政治的権威による是認や制定から、まったく独立した、道徳法則の義務づける性格を確立しようとした。感情主義者に対しては、その客観性と恒久性を擁護しようとした。この二重の目的を、彼らは、行動の道徳性は「事物の客観的な本性」への適合にあるとすることで達した。そして、その本性の道徳的な側面についての知識は、数学の公理のように自明な、一定の道徳的公理から、論理的に演繹できるとした。この数学との類比こそ、主知主義者の立場全体を理解する鍵である。知識の性質を、そのように考えたことで、彼らは、一般的には強固だった自らの立場を、大きく弱めた。数学は、まさに、行動との関わりから最も遠く、一見、それから独立している知識である。それを理想に選んだため、主知主義者は、道徳法則が義務づけることを、説明できなくなった。知識についての適切な心理学があれば、彼らの体系の、この難点は避けられただろう。

見たように、経済的判断の契機は、経験的な自己としての行為者の本性について、確かめうる条件のどれから見ても、両立不可能ではない目的が、行為者に外的だと説明した条件から見て、互いを妨げる、その対立にある。こうして、例の法律家は、意図した仕方での職業の実践を不可能にし、収入を断つ社会学的条件のため、折衷案を妨げられた。同じく、ヨーロッパのある国の農民は、おそらく自分には理解できない理由で、従来の仕方では生活の糧を得られないと知り、自分の資本と身体的な力を、より有利に使える国へ移住する。同じく、私たちの日常生活でも、心的な能力を通じた相互の関係から見れば、まったく別々の目的や関心が、それでも頻繁に対立し、調整を求める。一方の娯楽、知的な活動、美的な教養の手段と、他方の日常生活の必需品との間で、選ばなければならない。そして、その難しさは、これらの目的に、どんな「精神的な親和性」もないことにある。日常的な必要を満たすことと、より高い能力を育てることの間には、必然的な比率はない。倫理的な価値評価の直接的な方法によって、個人が、自分の経験的な自己の構成のなかに、その是認を見いだせる比率はないのである。日常的な必要も、相応に認めなければならない。しかし、それを倫理的に評価しようとしても、心理的な条件によって、「力を発揮する」自己に、納得できる根拠を与える結果には至らない。経済的状況は、それ自体として、この意味で、すなわち、承認された倫理的基準のいずれの立場からも、理解できない。この倫理的な理解不可能性が、切迫し、争われる目的が倫理的に重大な状況へ、本当の悲劇の要素を、しばしば与える。たとえば移住者にとって、今の自分という人間へ成長するための根を、自ら断たなければならないのは、些細なことではない。その本性全体が、この暴力に抗議し、その必要を疑う。必要は明白であり、それに応じて行動しないことは、まったく不可能なのに、そうなのである。しかし、そのような対立が、どれほど悲劇的でも、論理的に本質的な点では、また、厳密な論理的困難の程度では、私たちの日常生活の、倫理的にははるかに軽い経済的問題と、違わないのである。

経済的判断が準備する経済的行為は、一般的に、現在の用途に割り当てられている手段を、一般に望ましく見えてきた新しい用途へ振り向けることだと、すでに定めた。[145] こうして、いま挙げた場合には、法律家は、職業が将来もたらしうる収入で、事実上、新しい生涯を買おうと考える。移住者は、自分の労働に、もっとよい市場を求める。楽しみを求める人、向上心のある学生、市場で商品を買う人は、それぞれ、一定の金額を、これまで予定していた何らかの用途から振り向けようとする。新しい仕方で使おうとする手段が、身体的・精神的な力であるか、すぐ使える製造の材料や道具であるか、望むサービスや商品を、ただちに得られる、何らかの購買の手段であるかは、論理的な観点からは、明らかに重要でない。専門的にいえば、経済的な問題は、手段という範疇を、きわめて広く解して、その手段を別の用途へ適用し直せるか、という問題である。

要するに、経済的な型の状況に適した方法は、目的を直接に評価することではなく、手段を評価することである。この方法も、倫理的な方法と同じく、目的を定めるため、価値評価の方法である。しかし、その結果を、独自の仕方で達成する。したがって、いまの分析の問題は、倫理的な方法では調整できない、別種の、あるいは関係のない目的を、手段の価値評価という方法が、どのように調整へ導けるか、ということになる。

たとえば、外国旅行という曖昧な目的が想像に現れ、予備的な倫理的判断の段階を経て、初めより明確な形となり、いまや経済的な検討に移る準備ができたとしよう。まず、旅費を定めなければならない。この段階は、いまの観点からいえば、単なる方法上の工夫である。倫理的判断の段階の基準では、示唆できなかった目的、あるいは、目的を定めるうえで、その基準と有効に協働させられなかった目的を、働かせるのである。必要な手段を確かめると、これら別種の目的、すなわち手段の、確立した使用の仕方が思い起こされ、その結果、行為者の「前へ進む傾向」が止まる。必要な金額を外国旅行に使うべきか。それとも、今のように、さまざまな生活必需品や快適さ、娯楽、事業への投資の増加に使うべきか。これらの使い方は、外国旅行の計画と、倫理的には比較できない。そのため、行為者の関心は、今や、手段へ集中しなければならない。

手段の論理的な位置づけが明らかになるのは、この、行為者の前へ進む傾向が止まるところである。手段を、単なる一定額の金銭として取れば、その事情の下では、ただちに支出することしか促さないため、形を取りつつある目的の実行を進めることにしか役立たない。事実判断の主語と同じく、経済的判断の手段にも、問題を含む側面がある。それは、手に取れる物理的な欠陥と同じほど有効に、望む使用を妨げる。この問題を含む側面は、形成中の目的が乱そうとしている、現在の確立した使用の仕方がある、という事実から成る。その使い方への行為者の関心が、手段の価値評価へ、注意を向けさせるのである。

経済生活にも、倫理的な領域で区別し、正しい意味での判断と区分した、「良心と誘惑」や、機械的な「押し引き」の状況に、ぴったり対応するものがあることは、ほとんど指摘するまでもない。実際、一般的な内省の根拠から見れば、これらの決定方法は、そもそも方法と呼ぶに値するなら、道徳生活より経済生活で、相対的に、もっと頻繁に頼られると考えるのが妥当である。真の判断の経済的方法は、倫理的方法より回り道で、複雑かつ困難であり、もう一方の価値評価では、大部分、暗黙に含まれるだけの抽象的な概念に、いっそう明示的に訴える。実際、経済的な価値評価と倫理的な価値評価の違いは、絶対的、本質的なものではない。むしろ、価値評価そのものの重要な要素を、どれほど明示的に、あらわに示すかにある。一般に、経済的な過程は、必ず三つの段階を含むと思われる。まず列挙し、その後、ごく簡潔に説明し、論じよう。(一)目的を達成するのに必要な手段を、予備的に考察する。この考察は、もちろん曖昧で暫定的でなければならない。想像された目的も、最終的に受け入れられるまでに備えるべき、十分な細部に比べれば、そうだからである。(二)こうして暫定的に取った手段を、現在、ほかの目的に割り当てられていることに照らして考察する。この現在の割り当ては、少なくとも、ある程度、過去の価値評価の成果である。(三)提案された用途と、過去の価値評価に含まれる要素との間を調整し、その用途に関して、手段を最終的に規定する。

一 最初の段階でも、全過程と同じく、手段を考察する主たる観点は、その物理的な側面ではなく、再配分されうるものとしての側面だと、注意しなければならない。したがって、経済的判断の主語は、汽船会社の窓口で、海を渡る運賃として受け取ってもらえる法定通貨としての金銭でも、望む物の製造に技術的に適した道具、材料、労働力でもない。もちろん、手段が目的に技術的に適応できなければ、再配分の問題は起こらない。他方、経済的な判断の途中で、手段の技術的な性質について、さらにいくらか事実を調べることも、通例、避けられない。それでも、二つの観点は異なる。また、この最初の段階では、手段は大まかにしか測られていないことにも、注意が必要である。外国に滞在する期間、建てたい家の大きさ、何であれ、その目的はまだ規定されていない。まさに、それを定めるのが、この過程の仕事なのである。最初に経済的な問題を立てるのは、「金銭一般」や「多額の金銭」に関してである。実際、量という範疇は、本質的に経済的なものだ。それは本質的に、価値評価をしやすくする仕方で、行動の手段を規定する観点なのである。オーストリア学派の経済学者の著作に親しんだ読者なら、限界効用の原理を論じる際に、彼らが、初めから、財の在庫が一定の単位に分かれていると、一様に前提し、そのうえで、一単位の価値をどう測るかと問うことを、容易に思い出すだろう。在庫には、すでに小麦一〇〇ブッシェルやパン一〇個がある。それは、まるで形而上学的な必然であるかのようだ。しかし実際、本質的な経済問題は、「小麦一般」を、どのように一定の大きさの袋に入れ、「パン一般」を、どのように一二オンスのパンとして焼くことになるのか、という、まさにその問題なのである。在庫の小分けと単位の価値評価は、前後する段階ではなく、価値評価の過程全体の、切り離せず対応し合う局面である。状況への関心に応じて、結果は、どちらの仕方でも述べられる。

二 しかし、まだ測られておらず、まだ定まらない仕方で再配分されうる手段は、これまで一定量ずつ割り当てられていた、確立した、量の定まった用途を意識に呼び起こす。こうして、どれだけを再配分できるか定める過程、すなわち、明確で受け入れられる行動計画に達する過程が始まる。では、今なお望ましいと認められる用途に、過去に割り当てたという事実は、状況のなかで、どう働くのか。まず、過去の割り当ては、(一)過去の経済的な価値評価の成果だったかもしれない。(二)倫理的な決断を実行する、ためらいのない、非経済的な行為だったかもしれない。(三)「良心」や「権威」への、多少とも自覚的な服従だったかもしれない。いずれの場合も、今、それは、当時、それに関わると認められた手段や条件によって、先に説明した仕方で、行為者、すなわち「力を発揮する」自己に、是認された行動の道筋として立つ。この意味で、過去の調整と、それによって手段が今持つ経済的な性格を認めることには、手段と確立した用途との間の、「エネルギー等価性」の判断と呼べるものがある。というのも、手段をその用途に割り当てたとき、行為者が感じた是認の、本質的な意味は、それによって、「力を発揮する」自己が、全体として促進される、ということだったからである。それは、その使用が伴う、すべての犠牲を考慮してのことである。あるいは、手段が手元になく、多少とも長い生産過程によってしか得られない場合には、その生産に必要な犠牲を考慮してのことである。

いま考えている例には、新しい企画が問い直し、そこから手段を振り向けなければならない、現在の用途の、広い配分表があると分かる。実際、このほうが、よくある場合である。金銭の新しい使い方は、通例、現在の一つの支出の仕方だけに影響するのではない。金銭についての個々の過去の価値評価が、事実上、共同して作ってきた支出の配分表全体を、調整し直すことになる可能性が高い。同じく、蓄えた建築材料や食料、ほかの分割できる商品の一部を使いたいとき、出会うのは、まだ享受していない、あらかじめ決めた単一の用途というより、秩序立った消費の体系である。この場合、価値評価の過程全体は、大いに容易になる。しかし、これは不可欠ではない。真の経済的な価値評価の場合でも、手段は、鉄道の切符や、傷みやすい果物のように、一度しか使えないかもしれないし、絵画や文学の傑作のように、事実上、限りなく繰り返し使えるかもしれない。一つの用途だけを表すにせよ、広い体系を保つことを表すにせよ、手段の経済的な意味は同じである。手段は、自己を促進する消費の行為、あるいは行為の体系として考えた、その用途や用途の体系の、「エネルギー等価物」である。過去の割り当てが、当時意味し、今も意味するのは、ただ、それによって「力を発揮する」自己が、避けられない犠牲で失う以上に、得るということだった。これこそ、手段の経済的な意味であり、それゆえ手段は、今、問題を含み、少なくとも一時的に、望む目的へ進む傾向を止めるのである。[146]

三 したがって、エネルギー等価性の判断は、手段の、行動を抑える経済的な側面を規定する。また、参照する過去の調整が、手段を小分けし、用途の配分表に割り当てる形だったなら、そのように区分され、割り当てられた手段について、その側面を規定する。第三段階の問題は、別のところで述べた、「主語と述語を結びつける」ことである。すなわち、いま確かめた手段の経済的な性格に照らし、新しく、まだ定まらない欲望を、満たしてよいのか、よいならどの程度かを定めることである。手段を新たに配分するなら、その配分は、「力を発揮する」自己に、少なくとも、確立した消費の仕方から得られるのと、同じほどと実感できる、促進と発展をもたらさなければならない。経済的な手段は、古い調整を保つための手段である。その全部、または一部を、新しい目的の全部または一部を実行するため、新たに配分するなら、少なくとも同じだけの正当性を示さなければならない。新しい配分は、物理的に可能なだけでなく、現在の配分を是認したのと同じ、自己の拡張の原理に照らして、経済的にも必要であると示されなければならない。それは、身体を、より強く均整の取れたものにするにせよ、仕事を、より巧みにするにせよ、頭脳を、より明晰にするにせよ、望むほかの具体的な仕方で、自己を、より有能にしなければならないのである。

こうして、なお不十分な言葉で述べた一般原則に、行動の道筋が適合する証拠として受け取られる是認は、心理学的には、最後に見渡す際、注意が手段から目的へ移るときに生じる、注意の緊張が「緩む」という、強弱さまざまな感覚である。そこで、さらに明確にするため、いま概略を述べた過程を、次のように述べ直せる。初めに対立する目的は、共通の心的な能力や力の蓄えに依存することを通じて、互いに実感できる影響を及ぼすものではない。それらは、行為者の経験では、共通の物理的な手段の蓄えに依存することだけで関係しており、したがって、倫理的な型の過程では調整できない。経済的な過程は本質的に、手段の以前の配分に伴った経験を、想像のなかによみがえらせ、それによって、以前の、今なお承認されている配分にとどまる手段の立場を強めることである。経済的な地位を、こうして情動的に強められた手段から、新しく考えた目的へ注意を移すとき、同じような緩みの経験を媒介する形に、目的を調整して想像できるなら、その手段は、経済的に再配分できると認められる。こうして、手段の価値評価という方法は、判断の結果として生じる、感覚の上で変わらない緩みや安心の経験に訴えることで、直接的な倫理的調整ではできなかった、別種の目的の調整を可能にするのである。[147]

分析してみると、経済的な過程にも、倫理的な過程と同じ要素が現れる。主語の側には手段があり、経済的なものとしては、別の用途へ適用し直せるかが、問題を含む。述語の側には、提案された新しい適用の仕方があり、確立した目的への適用を守ろうとする理想と、緊張し合う。一般的な倫理的述語を、正や善、すなわち、自分の目的の体系へ採用するに値することだといえるのと同じく、最後に規定される手段へ適用される経済的な述語は、「再適用できる」という一般概念である。一般に、この二つの型の区別は、究極的なものではない。たとえば移住を考える人の場合、経済的な価値評価の方法を、意識して厳密に進めるほど、最後に作り上げた決断に、真に倫理的な是認が伴うと、行為者は、いっそう強く感じる。それだけ、手段を再適用しなければならないという判断も、確かで、心からのものとなる。形づくられた目的が、自己を広げるという明示的な判断は、ここでいう是認の感覚に基づくからである。

したがって、以上の分析から、経済的な判断の型が、ここでいう意味で、構成的な過程であることが分かる。その働きは、ある商品、あるいは商品の在庫の一部を、配分できるという経済的な性格において規定することにある。そして、この働きを果たすことで、経済的な秩序のなかに、一定の実在を示す。さらに、このように個別的なものを定める際には、多少とも固有の名で呼べる経済的な基準に頼る。それらは、つきつめれば、確立した消費の習慣を表す象徴である。その習慣に照らすと、手段は、一見、ほかの目的には使えないように見える。倫理的な基準、科学や日常の知覚経験における類概念と同じく、これら経済的な基準も、唯名論には敬意を払いつつも、実在する世界を構成するものである。その世界が実在するのは、行動への刺激としての個々のものについての知識に、形と意味を与えるからである。

いまや、価値評価の過程が、その二つの形のどちらでも、実在の秩序を構成するという主張には、十分な理由が示された。また、経済的な秩序と、それを包み、論理的に先行する、倫理的な対象と関係の秩序との関係も、十分に説明された。こうして実在を構成することを、その概念の正しい、働きに即した意味で取るなら、それは同時に、自己を構成することでもあると分かる。それらの過程が構成する実在は、働きの面では、自己を発達させ、広げるための手段や条件、要するに刺激の集まりだからである。この見方を説明し、例示する、いくつかの考察をもって、この節を閉じよう。

判断過程が終わり、行動に移る直前に、行為者が状況を最後に見渡す際の要素を、もう一度考えよう。見たように、それらは、(一)形成した目的を是認する条件を認めること、(二)その是認に照らし、目的が「力を発揮する」自己を広げ、発達させる、選ぶに値する方法として正当化されていると認めること、(三)逆に、「力を発揮する」自己が、事実判断に示された好都合な条件によって、この新しい促進の方法を手にしていると認めること、である。この三つは明らかに、状況のなかで協働する要素というより、その切り離せない側面である。それぞれを区別でき、個人が持つ省察力、あるいは働かせようとする省察力の程度に応じ、区別して強調できる。厳密にいえば、この三つの側面は、目的を自分のものとして、また、これから実行するものとして、意識的に認めるときには、いつでも存在する。しかし、いつも同じほど目立つわけではなく、個人にとって、同じ論理的重要性を持つこともない。実際、この側面の列挙は、衝動から与えられる新しい目的に対する、個人の意識的な道徳的態度の発展を、三段階に分けたことと一致する。その第三段階では、最後に挙げた側面が前面へ出て、ほかの二つは、論理的、あるいは働きの上で、それに従属するのである。

さて、この第三の態度、すなわち真の価値評価の態度では、力を発揮する自己を、選んだ目的と同一視できないことは、論理的な根拠からも、単純な内省の証拠からも明らかだろう。目的は、認められた条件の下で、調整された手段を用いて行う、特定された明確な行為である。他方、自己は一つの過程である。自己を保ち、増大させる観点からは、その特定の目的は、たしかに不可欠である。それでも、自己は、その目的とは別である。その目的がなくても、おそらく、より狭く、発達の劣ったものにはなるが、なお自己である、という意味で、別なのである。読者には、ここでも、ほかと同じく、立場は論理的だと覚えておいていただきたい。判断の途中と終わりに、自分の判断の経験を解釈する、行為者自身の立場である。その経験を、一連の出来事として、心理学的に媒介する立場ではない。したがって、人の目的は、心理学者が記述する、その人の本性の表現であるという一般命題も、人の行動と性格は、同じものを異なる観点から見たものだという命題も、ここで否定するつもりは、まったくない。ただ強調したいのは、これら心理学的な命題は、目的を作りつつある、あるいは実行しようとしている行為者が、自分と目的について持つ経験を、忠実には説明しない、という事実である。実際、判断過程と最後の見渡しについての、この「内側からの見方」と、いま述べた心理学的な命題との間に、対立はない。行動と性格の同一性は、その人が、そういう人だから、そう行動するというだけではない。同じほど、しかも、より重要な意味で、そのように行動することで、そのような人であり、そのような人になる、ということである。したがって、行為者自身の状況の見方の核心は、自分の性格が形成中であり、目的は、そのために取る方法だ、という点にある。行為者にとって、自己は、もちろん目的から独立していない。説明した意味で、まさにこの目的に、自己が切実に依存すると、明らかに認められているからである。それでも、行為者の捉え方では、自己は本質的に、目的を超え、それより大きく、さらには、形而上学的に別だとさえ、いえる。この判断中の態度の検討から引き出したい結論は、理想的な自己を、どう定式化しても、行為者の目的には、決して十分にならない、ということである。グリーンが認めるように、その定式化が、必ず不完全で、不整合になるからだけではない。過程としての自己は、行為者自身の捉え方において、本来、定式化できないからである。定式化を試みれば、必ず特定の目的によって述べることになる。近代の倫理理論では、自己は、抽象的な普遍ではなく、「具体的な」普遍でなければならないからである。そのような定式化は、真の倫理的判断の態度にある行為者には、無用どころか有害であると、容易に分かる。内容を持ち、具体的であるかぎり、それは既存の基準を、多少とも整合的に組み合わせたものにすぎず、作り上げようとしている新しい基準の代わりとして、行為者へ差し出されるからである。新しい基準が必要なければ、判断過程もない。そのような組み合わせは、参照の基準、示唆の源として、適所にあれば有用で、実際、不可欠でもある。しかし、事柄の本性上、論理的に果たせない目的に、適していると押しつけられたなら、行為者は、その意図せぬ偽装に欺かれないとしても、控えめにいって、困惑せざるをえないのである。[148]

したがって、行為者にとって、「力を発揮する」自己は、決して理想として表せず、目的の言葉では表せない。それは、その本性上、どんな特定の目的、あるいは目的の一般化とも、論理的に釣り合わないからである。行為者は、ふつう、それを何らかの感覚的な形で描く。しかし、正しい意味で判断を行っているかぎり、その心像は、方法に従う価値評価の過程への刺激として使うために描かれる。もし本当に十分なら、価値評価そのものを不要にする、基準としてではない。自分を「力を発揮する」ものとして意識することは、理想ではありえない。その意識は、初めには理想に従おうとし、その後の道徳的発展の段階では、理想を使おうとする努力を通じてのみ、生じる。そして、表象としての働きは、行為者の衝動的な目的を統御するため、基準を、方法に従って使う過程を促すことにある。それは、人生の最終目標を先取りする幻ではなく、現にある生の、全体的な衝動と動きを、行為者が意識するようになることなのである。

内容を持つ「力を発揮する」自己を、自分の理想として受け入れれば、必然的に、省察的な道徳は、内省的な良心へのこだわりへ退化しやすくなる。それは一方の、独善的な利己主義と、他方の、道徳的な危険が、それを上回るとしても、ごくわずかな偽善との間で、絶えず不安定な均衡にある。テイラー氏が、その、該当箇所を探しにくい著書のどこかで、今日広まる、型にはまった観念論的倫理学を、「新ヘーゲル派の利己主義」と、辛辣に評したのには、たしかに、かなりの正当性がある。価値評価の過程の自己が、努力の究極目標であるなら、正しい行動そのものや、同胞の幸福を求める、普通の人の客観的な欲求と、固定した道徳的基準に従わせる自分の動機が、正しいかどうかを不安げに問う道徳家との間には、後者に不利な、和解しがたい対照があるはずである。[149] 自分の道徳的な動機を、良心的に調べる態度の価値や意味を、ここで問うつもりはない。ただ、いまの見方に従い、その価値は、価値評価の過程の、全体的な進行と成果に対して、明確に従属し、付随するものでなければならない、と主張すれば足りる。価値評価の過程で、自己意識は、気をもむ対象ではない。繰り返せば、単に、刺激を示す純粋な表象である。その役割は、古い基準の示唆を尊重し、新しい衝動の訴えを受け入れ、両者を、方法に従って働き合わせる態度を促し、必要なら、改めて促すことなのである。

もちろん、そのような過程の結果は予言できない。科学者の、事実に関する仮説を予言できないのと、同じ理由による。科学者の所与が不完全で、取り合わせが悪く、組織立っていないのは、必然的に、現在の概念に照らして集められ、初めには、それに照らして解釈されなければならないからである。その概念の不十分さを、まさに、問題が存在するという事実が示している。同じく、これから発展する最終的な道徳的目的は、現状を、どれほど一覧しても、そこから演繹できない。どちらも再構成の過程であり、その妥当性の試験は、どちらにも共通する、本質的に実践的な性格を持たなければならない。どちらでも、その過程は、働きに即した意味で、実在を構成する。また、どちらでも、判断過程は、自己をも構成する。行為者の過去の態度が蓄積した成果を、その将来の態度の決定に、方法に従って働かせる、という意味で、そうなのである。[150]

第五節

したがって、価値判断は、行動の条件を示す事実判断と、同じ意味で、客観的な意味を持つ。問題を含む状況は、その典型において、つきつめれば倫理的である。解決には、新たに生じた目的を、既存の基準に照らして定める必要がある、という意味で、そうなのである。この過程の結果を示す判断は、構造においても働きにおいても知識であり、客観的という語の、唯一妥当な意味で、客観的である。

しかし結局、次のように反論されるかもしれない。客観的なものの本質的な特徴は、誰にでも接近でき、その性質上、ただ一人の個人にだけ妥当するのではない、という点ではないか。価値判断について明らかにされた内容の客観性は、せいぜい、純粋に働き上のものであり、他人の一致した見解に訴えて確かめられるものではない。行為者が、規定しようとしている経済的・倫理的な素材の実在を確信していることも、得られた結果を客観的と感じることも、否定する必要はない。それらは、個人的な偏見や情熱の錯覚であってよいし、省察能力に通常伴う錯覚ですら、ありうる。物体の二次性質を、「その固体的部分の、かさ、形、広がり、数、運動」と、同じ意味で客観的と解釈する場合のように、である。[151] 私が指さす物理的対象なら、誰でも見て、私が認める性質を、自分の目で確かめられる。しかし、自分の立てた目的が、勤勉や自己抑制という理性的な理想に合っているとか、冬の燃料のこの部分を、燃料のない隣人へ与えてよいとかいう、私の判断を、他人が理解し、確かめることはできないのである。

しかし、この反論は、証明しすぎている。一貫させれば、自らが自信をもって基準として訴える、感覚知覚の判断そのものの、客観的な意味を否定することになるからである。この論考の第一節で示そうとしたのは、個人の経験のなかの、どんな対象も、その個人にとっては、自分自身の独自の構成物だということである。その形と細部は、個人の関心や目的によって定まり、したがって、社会的なやり取りでは同じものと通用する、ほかの個人の経験内の対象とは異なる。私にとって実在する対象は、私の経験のなかで働き、解くべき問題の側面を示し、多少とも、私の目的に役立つ対象である。そして私たちは、これは、社会で共通に通用する対象ではなく、完全な対象だと考える。私固有の目的に照らして、完全に規定されているかぎり、社会で共通には通用しえない対象なのである。先の反論は、倫理的・経済的な価値判断に見いだした欠点が、個々の感覚知覚の判断にもあるため、自らの足場を切り崩す。他人に直接確かめて、自分も確信できる対象は、裸の「概念的」側面における対象である。辞書が定義するような対象、商品目録が記述するような商品、刑法や道徳哲学の論文が定義するような倫理的行為である。それは、意味の中心的な核、固定した沈殿物から成る対象である。その意味によって、多くの人々、さらにはすべての人に、ある一般的な仕方で意味を持つが、形成中の私の目的の立場からは、まだ十分に知られていない。これら概念的な性格によって、その対象は、まだ一般的で不定な、私の目的に適応できる。しかし、事柄の性質上、判断を通じて成立する、将来の具体的な目的に、実際に適用できるものとしては、まだ知られていないのである。

したがって、客観的な意味の試験が、判断で示された対象や事実が、その示されたまま、社会で共通に通用し、社会的な検証の可能性から切り離され、個人の知性のなかへ閉じ込められていないことだとするなら、いま検討している反論の、一見した唯名論は、最も極端な実念論になる。そのような試験は、唯一の客観的実在は概念的なものだと、事実上、肯定することになる。そして、個々の感覚知覚の対象の「偶有的な性質」は、私的な好みや空想の、勝手な遊びにすぎないことになる。しかし、ここで反論は、足場を変え、次のような立場へ退くかもしれない。実在する対象は、たしかに、個人が特定の目的に関して知る対象である。また、個人の判断の内容を、社会で通用する概念的な意味の要素との一致に限ることは、不可能である。ある特別な目的に、ぴったり適すると判断した建築用の石、鉱物学者や植物学者が顕微鏡で調べる標本、使ううちに、その独特の働き方を見込んで扱えるようになった道具は、どれも、もちろん、きわめて個別的な対象である。当人にとっては、その時点で、ほかの誰も意識できない、数えきれない客観的な側面を持つ。さらに、対象を吟味しても、社会で通用する意味にはなかった、目立つ新しい性質を何も発見しなかったとしても、対象はなお、目下の目的を実現する機械的な過程で、ほかの対象と連携するだけで、真に独自のものとなる個別性を持つ。少なくとも、それは、まさにこの時に、ここにある対象、この特定の石を切り、この瞬間に、この独特の音を響かせて打つ道具である。これらは、おそらく、まったく本質的でない事実だが、たまたま考えれば、その対象を、ほかの誰も知らないものという意味で、個別化する。反論する側は、そのすべてを認めてもよい、それでも肝心の点は残る、といえるだろう。それは、初めから否定しようとしたことではないからである。肝心なのは、私の知る対象を、誰かが、私と同じように知っているかではない。物事の性質上、そのように知ることができる対象なのか、という点なのである。

したがって、事実判断と価値判断の違いは、ここにある。鉱物学者は、自分が見るのと、まさしく同じものを見るよう、弟子を訓練できる。同じく、感覚知覚のどんな場合も、対象に見いだした性質や特徴が、どれほど隠れていても、他人が、まったく同じように見ることはできる。ただ一つ、発見者が、その性質を指摘するか、ほかの仕方で、相手が見られるよう準備するという条件があるが、それは、多くの場合、乗り越えられない困難ではない。しかし、慈善のため、経済的に振り向けてよいと判断する一トンの石炭では、事情が違う。ここで判断の主語となるのは、その見える側面や、ほかの物理的な側面における石炭ではないからである。その一トンは、自分が、それまで専ら別の用途へ割り当てていたものとして、今、対象として働き、経済的判断が与えた性格を持つ。困難な状況で真実を語ろうとする行為も、同じである。商品や道徳的行為に与えた価値は、本質的に、気質、性向、気分、気まぐれといった心理的条件に依存し、他人が、その内に入ることはできない。そしてそれらは、過去の訓練や生来の資質の条件に依存しており、ほかの個人に、将来、まったく同じ仕方で生じたり、組み合わさったりすることは、決してない。要するに、物理的対象は記述でき、他人が注意を向け、私と同じように見ることを学べば、もちろん難しさの程度はいろいろでも、社会で共通に通用させられる。しかし、経済的な対象や道徳的行為の価値は、私の欲望や感情に依存するため、私個人の評価にとどまらなければならないのである。

この修正された反論に答えるために、それが持ち出した事実に関する争点、すなわち物理的な対象や出来事を完全に記述することが、実践的または理論的に可能かどうかを、論じる必要はまったくない。ただ、そのような完全な記述が目的を果たせるのは、よくても、それを試される個人が、進んで注意を向け、必要な「統覚の背景」を持っている場合に限る、と指摘すればよい。私が伝えようとする知識を、相手の知識が、どれほど正確に写すかは、明らかに、この二つの主要な条件に依存する。私自身の、教える技能や文章の技能の程度も、いうまでもなく関わる。ここで示唆されるような、純粋に心理学的な問題の検討は、判断の過程を分析することではなく、その意味の諸側面を解釈することが目的の議論には、まったく場違いである。どれほど個別的で具体的な対象の認識でも、ここで示された仕方で、社会で共通に通用させることが、心理学的に十分に可能だと認めよう。さらに、それが実際に実現したと認めよう。その証人の一致した証言は、伝えた知識を初めに得た、観察と推論の過程の正確さについて、自分の印象を、きっと裏づけるだろう。しかし、それ以上のことはできないと、否定しなければならない。実際、その知識の客観的妥当性に、他から独立した、自らに頼る確信がなければ、他人の同意を、どうして確証と受け取れるのか。むしろ、単に自分が暗示に巧みで、相手がそれに影響されやすい証拠と、受け取るべきではないか。改良された形でも、社会で通用することは、妥当な基準ではないとしなければならない。要するに、知識が社会で共通に通用することは、それが可能な範囲で、ある関心、目的、述定の観点が、同じく社会で共通に通用することを条件とし、その証拠でもある。具体的な知識を、細部の豊かさごと、社会で通用させられるなら、その知識が初めに形づくられる際に参照した、具体的で個人的な目的は、なおさら、社会で通用させられるはずである。そもそも、それが心理学的に可能かは、読者の判断に任せよう。しかし、事実についての知識の領域で可能なら、価値評価の領域でも可能でなければならない。要するに、どちらの領域の判断も、ある対象、商品、道徳的行為を、行為者にとって、一定の性格を持つ客観的な事実として定めるとき、社会的に検証できることを、当然として暗黙に前提する。しかし、その前提に基づいているのでも、その前提が、意味の本質なのでもない。私の判断は社会的に検証でき、私とまったく同じ立場にある人なら誰でも、知覚や価値評価の具体的な対象を、私と同じように見るだろう、ということは、単なる同語反復の仕方で、形式的に、私は判断を下し、今、自分にとって、一定の働き上の意味を持つ明確な対象を得た、と告げるにすぎないのである。

したがって、事実の領域と価値の領域を、すべての知的な存在に共通する、あるいは共通しうるものと、個人ごとに独自でなければならないものとして区別するのではなく、両者の広がりは同じだと考えなければならない。社会で共通に通用する対象は、個人のなかで働く、意識された目的や関心の、ある一般的な型、したがって価値評価の一般的な習慣に対応する。具体的な対象は、その目的の型を、承認され実際に働く生活の体系のなかの、ほかの目的に照らして、特別に規定したものに対応する。判断過程の終わりの、行為者の最終的な態度は、どちらの判断でも表せる。商品の価値や道徳的目的の価値についての判断でも、その目的を「力を発揮する」自己に正当化する、「外的な」条件を示す具体的な事実判断でも、表せるのである。判断過程の全体を通じ、社会で通用する対象が、適合した手段へと発展する動きと、社会で通用する行動の型が、規定され、価値を認められた目的へと発展する動きとの間には、対応関係がある。[152]

しかし、ここで第二の一般的な反論が現れる。物理的な事実についての知識が、内容において、どれほど個人的でも、それを他人と共有できる可能性が、その客観的妥当性への確信に、論理的には、どれほど関係しなくても、その知識は、なお、ある意味で持続する対象を指している。この点で、私の価値評価とは違う。経済的な価値評価では、ある商品を規定し、最後に状況を見渡す際の、すべての条件によって、その規定への確信を得る。しかし、新しい消費の仕方への欲求が失われ、新たに生じる別の欲望に、価値評価が容易に攻撃されるようになるかもしれない。あるいは、その商品の手持ちが突然増減し、それによって、単位量の価値評価が変わるかもしれない。同じく、テイラー氏が強調したように、性向や特定の欲求が変わり、別の、それを包む価値評価に従うのでなければ、それ以上維持できなくなるため、倫理的な価値評価を覆さなければならないかもしれない。そして、こうした変化には、客観的な事実をねじ曲げているという感覚も、逆に、以前の価値評価の誤りを訂正し、真理へ近づいたという判断も伴わない。さらに、古い評価に代わる新しい評価は、ある物理的対象について、一つの観点からの判断群が、別の観点からの判断群を補うように、前のものを補うわけではない。文字どおり、それに取って代わるのであり、しかも、以前のものを、必ずしも誤りだったと断ずることはないのである。

この一般的な反論は、かなり明らかな、いくつもの誤解に立っており、強そうに見えるだけである。まず、見たように、どんな判断の型の客観性の問題も、最後には、行為者にとっての、その判断の意味の問題に帰着しなければならない。価値評価が、折々に、どれほど移り変わっても、それぞれの評価は、それを形成した判断の終わりに、行為者が取る一覧に示された、変化した条件によって是認される。条件が変わり、以前の目的の評価も、同じく変わった。しかし、新しい目的は、新しい条件によって是認される。そして、新しい価値評価の、想定された妥当性を試すには、すでに論じた仕方で、[153] 実際に目的を実行してみるほかない。行為者の状況の解釈では、この変化に、以前の目的の侵害も、真理への接近もない。それぞれの評価は、それが対応する状況について真なのである。明らかに、ここで誤りの場合を考えているのではない。価値評価の誤りを行為者に示すのは、変わった条件に応じて、新しい評価が必要になることではない。見たところ条件が変わっていないのに、ある評価が、約束したことを果たせないことである。条件が変わったなら、「力を発揮する」自己の拡張を続けるためには、目的と条件を規定し直さなければならない。しかし、それによって、以前の評価が偽になるわけではない。

答えとしては、以上の短い考察で足りるはずである。しかし、反論を、もう少し追えば、一般的な立場を説明するのに役立つだろう。それでも、物理的な対象は持続するのであり、価値判断の対象、今では対象と認めよう、それとの違いは確かにある、といわれるかもしれない。ある人には、金は王水に溶けるものであり、別の人には、一オンスあたり何ペンスかの価値を持つものかもしれない。これらの判断と、それぞれの観点は、異なり、個別的である。しかし、金は一つであり、同時に、どちらの性格づけも公平に受け入れる。他方、一つの行為を、同時によくも悪くも判断することはできない。よいかもしれない、欺くという目的は、悪い欺きを許すものとは、まったく異なる理想によって統御され、形づくられる。実際、行為全体として取れば、非難する欺きの目的とは、まったく違うのであり、金についての二つの判断における「物質の一塊」のように、二つの価値評価の共通の主語ではないのである。

この「物質の一塊」の意味を少し考えれば、議論の弱さは、容易に明らかになる。つきつめれば、行為者にとって「物質の一塊」は、いってみれば、空間内の、密接に隣り合ういくつかの点を中心とし、働く際に、自然の体系内の、ほかの力を解放したり抑えたりできる、一定の統御可能な力に還元される。したがって、金は王水に入れれば溶けるが、大気中では輝く色を保ち、写真家の溶液では、その力は、また別の仕方で現れる。こうして、「金」に当てはめるさまざまな述語は、それぞれ、独自の条件の組み合わせを含意すると思われる。金は王水に溶けるが、黄色い輝きを保つのなら、そうではない。どの述語が金について真であるかは、「金に宿る」力が解放される条件による。それは、行為の道徳的な性格が、実行時に成り立つ社会的条件、すなわち、その行為を判断のなかで形づくる際に参照した理想によるのと同じである。文字どおりの、具体的な物理的意味で、溶けつつある金が、化合しつつある金と「同じ」だと、どうして主張できるのか。二つの過程で、「金」を構成する力の条件は、確かに同じではない。そして、今の時代に、不変の原子のなかに同一性を見いだそうと、期待できるだろうか。[154]

要するに、さまざまな観点に対応して、互いを補う多様な規定を許す、持続的な実体、あるいは「実在的な本質」は、厳密には、便利な抽象であって、時間のなかに存在する事実ではない。そして私たちは、同じ種類の抽象が、道徳的判断の領域にも、正当な位置を持ち、実際に現れると考える。道徳的秩序のなかで、実際に生じるたびに、ほかの基準との関係から、独自で特別な仕方に規定される、道徳的な行動の型は、あるときは王水に溶かされ、別のときは通貨として流通するが、両方の仕方では同時に扱えない「実体」に、正確に対応する。どちらも抽象である。「金」とは、ある一組の特定の目的の、どれかを達成できるという、一般的な可能性の名前である。それは、物理的な体系の、ほかの場所にある一定の力を、この特定の「物質の一塊」に今蓄えられた力と、適切に連携させることで可能になる。達成される結果は、その「一塊」だけでなく、外からそれに働く、特定の力にも依存する。では、あるときはよく、別のときは悪いと判断される行動の型を取ろう。たとえば欺きは、そのような型である。そして、型としては、ただ、「力を発揮する」自己を促進するか、損なうかの一般的な可能性を表す。それは、具体的な場合に、社会の幸福の理想によって規定されるか、目先の個人的利益の考慮によって規定されるかによるのである。

というのも、行動の型を、単なる身体的な遂行の型としてではなく、自己の可能な目的という専門的な意味での行動として考えれば、それは、説明した意味で、精神的な力が増す、あるいは散逸する一般的な可能性の象徴だからである。その力は、ほかの力が働きかけることによって解放されなければならない。そして、自己がすでに目的に役立てている、ほかの力と、どう連携するかに応じて、自己の拡張と発達を促し、あるいは、それに逆らう。[155] しかし、実際の行動は、常に具体的であり、決して単なる型ではない。同じく、示そうとしてきたように、実際の「実体」、事実判断で指される客観的な物も、常に具体的であり、決して本質ではない。それは、対立する多様な規定や実践的な用途を、同時に受け入れる固定した物ではない。絶対に独自であり、その時に作用し、逆に、その物が働き返す、物理的条件の集まり全体によって、その独自の性格へ、すでに規定されている。いまの説明では、物理的領域と同じく、道徳的領域でも、根本的な範疇は、エネルギーだと思われる。判断に与えられる特定の物理的対象は、特定の手段や道具という形で、目的を達成する一般的な可能性を、具体的に実現したものである。その可能性は、一定のエネルギーの蓄えという概念を、論理的な要請、あるいは推論の原理として解釈したときに、表される。特定の道徳的・経済的な行為は、自己の力を増し、あるいは減らす、特定の仕方である。どちらの領域でも、完成した判断に示される実在は、それが表す力を解放する刺激として、客観的である。したがって、検討してきた反論への答えは、ここでも、持続的な基体としての対象は、自己に向き合う、まだ定まらない手段一般を表す、抽象的な象徴にすぎない、ということになる。それに対応して、反対側には、「力を発揮する」自己の概念がある。一般に目的を持ち、何らかの仕方で広がる自己である。

経験の発展において、完成した事実判断が果たす働きは、価値判断の表す、完成した目的を、行為者に正当化することだと述べた。この節を閉じるにあたり、この見方には、もう少し説明と例示が必要である。まず、この言明は、事実判断が「最後の見渡し」で、目的を是認するものとして示す条件が、その目的を決定したのではない、ということを含意する。目的の決定に先立っては、条件は、そのように示されていなかったし、示されえなかったからである。したがって、価値評価で目的を形成する際に、既存の条件を認めることは、何の役割も果たさない、といいたいのかという問いが、自然に生じる。答えは、ごく大まかに、次のように示すことしかできない。

もちろん、経済的な判断過程で行為者は、使おうとする手段が、形成中の新しい目的に技術的に適応できるか、また、その適用の成否に影響しうる周囲の条件はどうか、といった事実を認め、考慮しなければならない。同じ技術的問題に照らして、自分の体力や心の性質も考える必要がある。同じく、倫理的な価値評価でも、見たように、「経験的な自己」の心理学が役割を果たす。しかし、さらに詳しく示せるように、こうして認められる条件は、過去の事実判断の成果として説明できる。そして、今知られている形へ、初めて規定されたとき、繰り返し述べてきた、是認する役割を果たしたのである。したがって、それらは、行為者の受け入れた実践的な理想に対応する。そのため、過去の経験が現在の行動へ及ぼす統御は、どちらの言葉でも、同じように述べられる。現在の、承認された主たる基準によっても、新しい目的が尊重すべき条件についての、現在の知識によっても、述べられるのである。こうして一般に、すべての人の行動を条件づけ、社会で通用する一定の知識体系として示される物理的秩序の概念は、ある型の行動を命ずる定言命法として考えた、道徳法則の論理的な対応物となる。

したがって、現在の難局での行為者の行動を、既存の、決定する条件の結果とみなす誤りは、自己実現の倫理理論における対応する誤りと、論理的に同じである。後者は、不変の絶対的自己にすでに実現されていて、ありうる倫理的問題のすべてを解くのに十分な、明確で記述可能な理想が、論理的に可能だとする。前者は、あらゆる行動が、今、完全に知られてはいなくても、少なくとも理論上は知りうる外的条件の、決定する力に従わなければならない、とする。初めの星雲の状態にあった物理的宇宙は、人間の行動として、これまであったものと、これからあるものすべての、「約束と潜在力」を含んでいた、というのである。固定した機械的体系には、新しいエネルギーは入れず、もともとの蓄えから失われるものもない。この機械論的な行動の理論は、快楽主義の倫理理論の本質的な土台である。そして、グリーンの快楽主義批判と、彼自身の道徳的理想についての積極的な理論、また、グリーン学派が、同じ趣旨で行う、今日の型どおりの快楽主義批判も、論理的には、それと同じだと示すのは難しくないだろう。行動が既存の客観的条件によって決まるという前提は、内容を持ち、「実現できる」理想的な道徳的自己という概念の、まさに論理的な対応物だからである。[156]

ここで、「最後の見渡し」に含まれうる、さまざまな是認の条件を論じる際に参照した「経験的な自己」を、事実判断の働きについての一般的な見方に照らして、解釈できる。心理学の「経験的な自己」は、心理学者や、内省する一般の人が、次第に組み立てた構成物である。それは、基準が働いて定められ、受け入れられた具体的な行動の仕方が、実際には、「力を発揮する」自己を、どう促進し、あるいは貧しくしたかの解釈として、組み立てられる。権威や良心に服従する道徳的態度で働く、曖昧な、表象された自己は、意識的な価値評価の態度では、一方の「力を発揮する」自己の把握と、他方の、個々の行動の型を記述する概念とに、場所を譲ることを見た。同時に、「経験的な自己」は、「力を発揮する」自己が使える「精神的な資源」の、絶えず広がる一覧として現れる。これらは、機能的な心理学が、その働きを示す心の機能、注意力、記憶力、連想によって思い出す豊かさなどである。そして、これらこそ、「力を発揮する」自己が、個々の難局で、新たな目的と、承認された基準とが協働して作る目的を実行し、それによって、自らを促進するために活用できる資源なのである。[157]

第六節

これまで、一貫して「倫理的・経済的判断」と「価値評価の判断」を、同じ意味で使ってきた。読者には、初めから論点を先取りしているように見えたかもしれない。論じて確立するといいながら、価値評価の経験が判断としての性格を持つことを、まさに前提しているからである。そこで、まず、価値意識と、価値評価として説明してきた過程との関係を、ごく簡潔に考える必要がある。それによって、第二に、生活全体の営みのなかで、価値意識が担う論理的な働きを定められるだろう。価値意識は、まったく明確で独特な心的事実であり、疑いなく、きわめて複雑な心的条件、究極的には生理的条件の組み合わせによって媒介される。そのようなものとして、記述的な分析ができ、完全な価値論には、当然、その分析が位置を占めるべきである。それは、過程としての価値評価と、態度として価値を認めることの起源に、多くの光を投げかけるだろう。また、過程としての価値評価を論理的に研究すると、導かれるように思われる、価値意識の働きについての見方を、見事に例示するだろう。しかし、この分析の問題は心理学に属し、いまの目的からは外れる。また、いまの見方を確立するために、その分析を行う必要もない。ここで必要なのは、それと見分けられるよう、価値意識を簡潔に記述し、省察的思考の過程のなかでの位置を示すことだけである。

価値意識は、第一近似としては、オーストリア学派の経済学者の言葉で、商品や、規定された道徳的目的が、自分にとって持つ「重要さ」の感覚と説明するのが、最もよいだろう。それは、判断過程の完成後に生じる、行為者の、見渡し、振り返る態度に属する。そして、倫理的・経済的な対象が、自己のよいあり方に、具体的に役立つものとして、新たに規定された性格へ注意することで媒介される。商品は、確かめられた物理的性質によって、その商品の価値評価を通じて、望ましいと受け入れられた、ある使用や消費の仕方に適合する。同じく、道徳的な行為は、一定の社会的な傾向を持ち、あるいは友人の福祉や幸福に役立つため、承認された。こうして、場合に応じて、商品や道徳的行為は、ある意味で自己を広げると判断された、明確に複合した意味を持つ。価値意識とは、この複合した具体的な意味を担うものとして対象を認めることで媒介される、評価された対象の重要さの感覚だと、見定められる。意味は、いわば、感覚知覚に与えられた対象へ、「凝縮」され、「圧縮」される。そして、その意味が自己の拡張を表すため、対象は、それを内に取り込むことで、価値を認められた対象としての、重要さを受け取るのである。

したがって、重要さの感覚は、行為者の態度を表す。対象の重要さの内容をなす、具体的な意味は、そのままなら、必ず実際の行動を促すだろう。商品はすぐ新しい用途に使われ、道徳的な行為は実行される。自己は、こういってよければ、選んだ目的に宿る精神的な力を、自分のものとする。しかし、見渡す態度は、この自己の行動を抑える。そして重要さの感覚は、その結果、認められるに至った対象の価値を、情動として捉えることである。ここで意図するのは、価値を認めた目的の細部に応じた、個々の具体的な情動ではない、と注意しておかなければならない。目的は、自己利益、憎悪、愛国心、愛情の衝動から生じるかもしれない。行為者がそれを見渡す際、その表象の心的な材料となるのは、目的全体を構成する個々の活動が抑えられることで生じる、さまざまな質を持つ情動の複合である。同じく、経済的な価値評価の物理的対象の把握も、その心的な構成において、全部でないとしても、大部分は情動的である。心理学的には、これらの情動こそ目的であり、時間のなかに生じる心的事実としての目的を作る「素材」である。しかし、行為者が価値を認める対象は、心的事実としての目的ではないことを、覚えておかなければならない。それは、物を切る道具が、分子の塊や、エーテルの応力の中心の集まりとして知覚されるのではないのと同じである。認識された価値の対象としての目的は、ここでの図式的な用語では、自己を増大させる力の源である。したがって、価値意識は、その力を自分のものにしようと動く自己に、抑制がかかることで生じる、まったく特有の情動である。表象された目的の実質をなす具体的な情動に対し、価値意識は「形式的な」情動、あるいは、典型的な省察的態度の情動と呼べるだろう。

そこで、価値を認める態度は、いま見渡している、完成した目的を活用するため、自己がそれを堅持しようとする「決意」の態度と説明できる。価値評価の過程と価値意識の関係は、次のように述べられる。価値評価の過程は、行為者が見渡す際に価値を認める目的を、必ず認識的・客観的な言葉で、作り上げる。しかし、この目的の展開は同時に、「力を発揮する」自己を、これから作り上げられる目的の受容へと定めることでもある。したがって、価値評価の過程は、二つの仕方で価値意識の源となる。(一)価値を認められる対象を定めること、(二)自己を、その対象を堅持し、活用しようと決意する態度へ定めること、である。[158] 価値意識は、対象を、経験の一要素として持つ、その完全な働き上の性格において捉えることである。

次に、価値意識の働きを、ごく簡潔に考えなければならない。これは目立つ現象であり、特に経済学者たちが強調してきたように、生活を営むうえで、実践的にも、たいへん重要に見える。[159] しかし、私たちの説明に従うと、この現象に働きを与える問題は、控えめにいっても、難しく見えるだろう。価値意識は情動的だと述べた。そして、この議論を通じて前提してきた情動一般の考えでは、この意識のあり方は、活動の緊張状態の反映にすぎない。そのようなものとして、すでに進行している運動の調整過程を、意識のなかで報告するだけであり、事柄の性質上、その結果に何も寄与できないのである。

さて、価値意識が働くとすれば、直接感じられる情動として、直接に働かなければならないのなら、この問題は、放棄してよいかもしれない。しかし、厳密に心理学的な、このような仕方で問題を捉えるのは、重大な誤りである。論理的に述べれば、別の問いが立つ。情動が、情動として、経験のなかで何らかの働きを持てるか、ではない。価値意識や情動一般が、省察的な解釈を受け、それによって客観的となり、後の価値評価の過程で、一要素として役割を果たすのではないか、という問いである。実際、心理学的な問題の立て方は、争点の全体を見失い、意識のどんなあり方でも、意識として力を出し、行動の統御の要因になれるか、という、まったく無関係な一般問題へ直行してしまう。いまの問題は、本来、論理的なものである。行為者は、この事柄を、どう捉えるのか。後の省察的な価値評価の過程で、以前の見渡しの特徴だった価値意識が、何らかの仕方で認められ、それによって役割を果たすのか。これは、単に事実を問う問題である。そして、行為者の省察過程の論理的内容に関わる問いとして、意識そのものが、力として効果を持ちうるかという問題には、明らかに何の関係も、関心もない。問いは、本来、心理学的でも形而上学的でもなく、論理的なのである。

こうして述べれば、問題には答えられるように思われる。しかも、経済的な価値評価の説明ですでに示唆した道筋に沿って、である。[160] 過去に、ある目的を見渡したとき、価値意識を経験したと認めることは、その目的を確証する。経済的な状況では、手段を定めた用途にとどめ、倫理的な場合には、基準への支持を強める。この認識は、以前の見渡しに含まれた認識上の細部を、記憶によって再現する刺激となる。そして理想的には、以前の、価値を認める態度を、多少とも完全に、かつ、十分だと分かる形で回復させ、それによって価値意識そのものも回復させる。結果として、確立した価値評価が強まり、承認を求める新しい目的が、より有効に統御され、古い評価から新しい評価へ、倫理的な発展の、一定の連続性が確保される。価値意識に、こうして与えた働きは、情動の領域の、ほかのところにも豊かな例がある。農業や牧畜の生活で、規則的に繰り返す段階を記念する、古代の定期的な祭礼、また、個人の私的・政治的生活の大切な出来事を記念する祭礼も、程度の違いはあれ、ここに説明を見いだせるようである。それらは、共同体の生活、また、その一員であり、一個人でもある市民の生活をなす重要な活動に、社会的な価値が内在すると、多少とも自覚的に認めることから促されたはずである。祭礼は、その活動を象徴的に再現し、それに通常、本来伴う情動的な意味を、いっそう強く、栄光あるものとして経験させることで、その日常的な活動への関心を保ち、高める目的を果たした。[161] 同じく、ギリシアの宗教祭儀は、個人が、制度的な生活でも私生活でも、ある一貫した健全な道を進む力を強めた。自分たちの社会にも、より低い文明にも、数多く見られる同種の現象は、いうまでもない。[162]

訳注

「より低い文明」は原文の歴史的な表現を訳したもの。文明を序列づける当時の見方を含む。

ここまで、価値評価の過程には、倫理的と経済的の二つの形しかないと、前提してきた。この限定の理由は、すでに十分に明らかかもしれない。しかし、少し詳しく示すことは、価値評価の過程についての、一般的な考えを、さらに説明する助けとなる。たとえば、「生の価値」、対象や道徳的行為の「情動的価値」、ある衝動的な活動の型の「自然な価値」といった、よくある「価値」の使い方は、どう考えるべきだろうか。これらは、一見、生きること、対象を知覚すること、衝動を持つことについて、自分だけの、伝えられない内的な経験を指す。その経験を自ら持たない他人には、示唆できないものである。私の快楽、感情面から見た私の色の感覚、私の情動は、内的で主観的である。そして、私は、それらを、上のような表現によって、目に見え、手に触れる対象から区別する。その対象に、それらを、自分にとっての直接的、自然的な価値をなすものとして帰属させるのである。この広い「価値」の用法は、以上では認めておらず、ここで一言、論評する必要がある。対象の経験の、これらの局面が、外的な条件や手段としての対象から、思考の上で分離できると認められないかぎり、それは、別の言葉で特徴づけたほうがよさそうである。しかし、分離できると認められ、それによって、その物への行為者の実践的態度を定めるものとされるなら、それは、先に述べた典型的な状況にほかならない。つまり、含意された何らかの目的を、自己に役立つものとして倫理的に評価し、その実行に必要なものとして、手段を経済的に評価する状況である。意識の何らかのあり方を、対象の価値と呼んでよいかの一般的な基準は、それが論理的な働きを果たすこと、単に心的事実の側面で指されるのではないことに、置かなければならない。感じであれ情動であれ、問題の意識のあり方が何であっても、それは、行為者が状況を見渡すなかで、対象への明確な実践的態度を促し、支えるという、認められた役割を果たさなければならない。要するに、その経験が、何らかの仕方で、行為者の意識された目的に入るなら、正しく価値と呼んでよいのである。[163]

美的な価値も、認めてこなかったが、それは反対の理由による。美の感覚は、行為者と自然環境、あるいは芸術作品が、多少とも印象深く示す条件との間に、比較的完全な調整が達成されたことの、対応物と思われる。たしかに、美的な経験には、美しい対象の、変わりゆく、あるいは多様な側面への関心を刺激するだけの、まだ満たされない好奇心が、含まれていなければならない。しかし、それは、示された細部について、省察的な判断を促すほどであってはならない。全体として、美的な経験は、本質的に、判断の後にあり、味わうものであるように思われる。個々の場合には、価値評価の型の判断過程の結果としてではなく、直接に味わうこととして生じる。直接の鑑賞としては、論理的な働きがなく、私たちの原理によれば、価値という名前を認めてはならない。立場は、経験する個人のものでなければならない。美的な経験という型は、芸術的な活動から発展したものであり、その究極の説明を、日常生活における、人間の原始的な技術活動の心理学に見いだせるかもしれない。述べたように、それは判断の後の型であり、生活の条件との完全な調整へ、ある方向に沿って、次第に近づいてきた、その累積した結果にすぎない可能性も高い。したがって、過去の省察的な価値評価の過程に、起源を持つかもしれない。それでも、現在の経験における、実際の性格と地位に照らして見るなら、美的なものは、価値の領域から除かなければならないのである。

こうして、事実と価値の領域は、どちらも実在する。しかし、価値の領域が論理的に先行し、その意味で「より実在的」である。事実の領域は、自己の目的を正当化する条件の領域である。それを、それ自体で完結し、絶対的な別の秩序とするなら、それは、自分が作られた理由を忘れた抽象である。論理的な意味での実在とは、自己の発達を促すものである。この点で約束を果たせない目的は、非実在的である。もちろん、想像のなかに一度も存在しなかったという心理学的な意味ではなく、もはや価値を認められないという、論理的な意味で、そうなのである。実在の包括的な領域のなかで、事実の領域は、自己が受け入れる具体的な目的に役立つ、手段の領域である。しかし、完成した目的は、手段ではない。そのさらに背後や先に、それが役立てる、別の、具体的で価値を認められた目的は、ありえないからである。また、究極の目的でもない。受け入れ、価値を認めた目的として、自己がそれを堅持しているからである。したがって、それは、自己の目的の全体を表せない。その自己の、特定し尽くせない活動の充実と増大に対して、一時的、試行的に寄与するものにすぎないのである。むしろそれは、自己が自分のものとして認め、受け入れることで実在性を与える、行動の定式、あるいは方法の性格を持つ。

第十一章

目的の論理的側面

序

いつ、どこであれ、直接の知覚に与えられる経験の内容を、観念によって組み直せると発見されたとき、そこでは、次のような問いが生まれ始めた。この再構成する力は、どんな意味を持つのか。それと直接の経験との関係は、何か。経験全体のなかで、それぞれは、相対的にどのような価値を持つのか。真理と誤りに、どう関わるのか。思考が真理へ導くとしても、なお、その材料を知覚から得なければならないなら、思考の成果は、どうして材料からの感染を免れられるのか。他方、真理が直接の経験に見いだされるなら、その真理を、思考の損なう作用から、そこで守れるのか。というのも、思考の活動は、あまりに執拗で広く行き渡り、知覚そのものの聖域にまで入り込むように見えるからである。第三の可能性へ移ろう。真理と誤りが両方に関わり、知覚と省察の共同の活動の成果だと分かったなら、それぞれは、正確に何をするのか。その働きの、何が真理と誤りを区別するのか。あるいは、さらに、知覚と省察の働きそのものに、真理と誤りを見いだせないなら、それらの過程と、何か別のものとの関係に、その所在を求めなければならない。そうなら、その別のものとは何か。このような問いから、論理学が生まれる。

これらの問いの、あるものを、「論理学的な」問題とすることに、反対する人もいるだろう。論理学を、再構成の形式や過程の記述に限り、真理と誤りの基準の問いは、「認識論」に委ねる人々である。この反論には、ここでは手短に答えて、退けなければならない。何という名前で呼ぶにせよ、思考の形式や過程を扱うなら、真理と誤りの基準を扱わなければならない。これら異なる「形式」は、まさに、異なる条件の下で、真理へ達しようとするとき、思考が取る形式だからである。

少なくとも初め、ギリシア人は、新たに発見した思考の力を、決して単なる形式とは考えなかった。実際、それは、まもなく、あまりに「実体的」になったため、知覚の世界と並ぶ、むしろ、その上にある、新しい事実と存在の世界そのものとみなされた。しかしソクラテスは、直接の感覚知覚によって解釈された経験が陥った、矛盾や逆説から救い出すものとして、観念を迎えた。概念のなかに、ソクラテスは、当時切迫していた社会生活の問題への解決を見いだした。ソクラテスの普遍は、思考が世界に押しつける、空虚な形式ではない。社会的な相互作用と相互関係のある生活を続けるために、思考が作り出すものである。これは、ギリシア人が、省察の上で、それを自覚していたという意味である必要はない。ソクラテスが、実際に、その仕方で概念を使い、発展させた、ということである。

この新しい観念の世界と、直接の感覚経験との関係を定式化しようとして、プラトンは、実体化と分有の仕組みを構成した。プラトンの実体化と分有の説は、ソクラテスが示したほど価値ある観念が、単なる形式や、非実在であるはずはない、という確信の表れである。これらの観念が発見されるまで、実在は、知覚の「実体」にあった。したがって、その価値、生活における価値ゆえに、観念が権利として求める実在性を持つには、観念を実体化しなければならなかった。

新たに発見した観念を、実体と実在の世界へ導き入れたことは、当然、後者の考え方を変えた。その変化は、以来、哲学の発展の、ほとんど全体を支配してきた。ソクラテスの目的は、経験を、ただ与えられた直接の内容の流れとみなす、解体的な考え方の影響で、社会がばらばらになるのを防ぐものを見つけることだったと、思い出そう。概念のなかで、彼は、まさに、この必要とされた全体性と安定の基盤を発見した。さらに、統一と安定が、当時の現実の社会的必要だったため、それを与える概念は、実体的で実在的と考えられただけでなく、より高い種類の実在、与えられた直接の知覚経験よりも「いっそう実在的」なものとみなされた。より高く、いっそう実在的だったのは、まさにそのとき、切迫した社会的必要に応えたからである。

観念が、この統一を与えたのは、与えられた知覚の材料に、目標や目的を与えたからである。所与は今や、何かのために与えられている。その何かは、単に眺めること以上のものである。またソクラテスは、きわめて鋭い分析によって、これらの目標や目的の内容が、すみずみまで社会的であることを示した。

倫理的な観点からは、観念の、この目的に即した性格が、はっきり認められる。しかし、「実在的」なものとしては、観念を、実体と属性という形而上学的な言葉で述べなければならない。ここでは、社会的な必要が捨象され、見失われる。観念の根本的な属性は、今や、形而上学的な統一と安定である。したがって、統一と安定、全体性と完全性こそ、実在の本質となり、多様性と変化は、現象の本性をなす。こうして、ヴィンデルバントのいうように、プラトンの実在は、「生成や出来事の世界には関わらず、それを知覚と臆見に委ね、イデアのなかに真の存在を求める、非物質的なエレア主義」となるのである。[164]

歴史的に重要なのは、実在を、絶対的な観念の、安定し完成した体系とする、この考え方の勢いである。その発展は、いま、ごく大まかに描いた。特定の歴史的状況から生まれたと思われる、この実在観が、なぜ二千年以上も哲学の理論を支配したのかは、初めには、少し不思議に見える。今もそれを擁護する人々は、もちろん、生き残ったことが妥当性の証拠だというだろう。しかし、結局、私たち人間の世界は、まだ非常に若いのかもしれない。「千年も、昨日のようにすぎない」のかもしれない。ともあれ、プラトンの実在観ほど見事に、その時代と世代に役立った概念を、哲学は決して、急いで組み直そうとしてこなかった。これは、経験が、さらなる構成の材料として持つのは、自らの産物だけだという、進化の本能に忠実である。他方、進化の原理は、同じ強さで、その産物が、経験の最終形態としてではなく、材料としてのみ存続することを求める。哲学は、進化という概念を、まだ十分に真剣に受け取っていないのかもしれない。いずれにせよ、確かなことがある。概念が、永遠で完全なのではなく、変化すること、特定の具体的状況が求めるだけの安定と全体性を持つことが分かった後も、言い換えれば、安定と全体性は、観念の内容に付着するものではなく、どんな内容であれ、目的として使われるときの働きだと発見された後も、これらすべてが心理学で受け入れられた、ずっと後まで、まったく異なる思考の本性の理解の下で生まれた、真理と実在の概念は、なお生き残っているのである。

観念の性格についての考えが変わりながら、実在の考えが、それに応じて変わらないことが、思考と実在の離別、そして認識論の問題の出現を示す。プラトンでは、完全で「永遠のイデア」から成る、より高い究極の実在と、知覚の低い実在との関係は、原型と模像だったことを思い出そう。知覚は、イデアをまね、写そうとする。ところが、観念が変化すると分かり、さらに、知覚と概念が相互に浸透すると発見されると、固定し完成した実在は、別の場所へ置かなければならなくなる。そして、古い体系で、知覚の仕事が「永遠のイデア」をまねることだったように、ここでも、実在を今どこへ置こうとも、思考は、それをまねるものだと、なお前提される。その置き場所についても、古い考えは捨てられていない。大先輩プラトンの力は、なお強い。実在は、やはり、固定し永遠な「物自体」「関係」、あるいは何らかの「ヌーメノン」の、完成した体系でなければならない。私たちの観念は、今では知覚と概念形成の両過程によって成るが、それでも、その体系を、何らかの仕方で「模倣」「模写」「反映」「表象」、あるいは、少なくとも「象徴」するものとされるのである。

したがって、ここから、思考は二つの働きを持つ。一つは、経験が、自らの過去の活動の結果に向き合い、それを自分の内へ組み直すことを助ける働きである。もう一つは、実在の絶対的な体系を、何らかの意味で反映し、表象する働きである。非常に長い間、後者が論理学の問題をなし続け、前者は心理学の領域へ委ねられてきた。

しかし、観念の再構成する働きを発見し、それを心理学の管轄へ割り当てても、論理学は以前のままではいられず、その仕事も軽くはならなかった。論理学は、観念の、この「心理学的な」性格に、目を閉ざせなかったのである。[165] 実際、心理学の記述するとおりの観念を受け取り、自分の目的のために、できるかぎり、それを使わなければならなかった。

観念の、この再構成する性格が、論理学を困らせることは、アリストテレスさえ、プラトンの知覚と永遠のイデアとの関係に、ある程度見いだしていた。彼は、流れる意識の流れに、永遠に固定し完成した実在を模倣させる、あるいは象徴させるだけでも、大きな難しさを見いだした。さらに私たちは、観念が、これほど明白に再構成の活動であると発見したので、その難しさは減っていない。

この状況では、観念の二つの働きを結びつけ、問題の解決を求める試みが現れるのは、時間の問題でしかなかった。結局、絶対的な体系の対象を表象することは、私たちの経験の再構成に含まれているのかもしれない。あるいは、経験の再構成として、欲し、奮闘し、熟慮し、選び、意志することとして、悲しみと喜び、失敗と勝利として現れるものは、絶対的な体系を表象する仕組みにすぎないのかもしれない。ともあれ、この二つの働きが観念に属することを、色や形が石に属するのと同じには、決して考えられない。そのような、理由も説明もない二元論では、とうてい満足できないだろう。

この総合を試みてきた歴史を、これ以上概観せず、すぐに、その方向での、最も鮮やかで、あらゆる点で注目に値する努力の一つとして、誰もが認めるに違いないものへ、考察を進めたい。ロイス氏の、アバディーンでの「世界と個人」についての講義である。ここで検討するのは、観念と実在の関係の問題を解く鍵を、まさに観念の目的を持つ性格に求める、その部分である。それは、全体の核心でもある。特に「序論」と「観念の内的意味と外的意味」の章に見いだされる。[166]

第一節 観念の、目的を持つ性格

根本を捉える確かな感覚によって、ロイス氏は、観念と実在の関係の問題が、まず求めるのは、観念の本性の議論だと告げるところから始める。ここで氏は、「近年の議論で重要となった、意識の内容そのものについての、いくつかの心理学的分析を、導きとする」と述べる。[167]

物事についての知的な観念は、決して、その物の心像だけから成るのではない。常に、観念の対象である、その物に対して、どう行動しようとするかの意識を含む。……複雑な科学的観念は、意識における意味から見れば、スタウト教授が的確に述べたように、行動の計画であり、科学的意識の対象を構成する仕方である。……そこで、対立する理論を批判した後、これらの講義で、自分の主張を述べる際に使う「観念」という語は、最後には、単純でも複雑でも、現れたその時、その場で、少なくとも、一つの意識された目的の部分的な表現、あるいは具体化とみなされる、どんな意識状態をも意味することになる。……要するに、いまの定義での観念は、自分を超えて存在する事実を表すように見えることがあり、そういいたければ、実際、いつでも、そう見える。しかし、それを観念にする第一の性格は、その表象的な性格ではない。自分を超えた存在を代理して表す責任を、代わりに引き受けることでもない。むしろ、目的を相対的に実現する、その内的な性格である。すなわち、観念が生じる瞬間の意識にある目的を、部分的に実現したものとして提示することである。[168] ……さて、この目的は、観念と呼ばれる複雑な状態の内容と形式に、現在、意識される具体的な姿を得る、そのかぎりで、以後、観念の内的意味と呼ぶものをなす。[169] ……しかし、観念は、しばしば意味を持つように見える。いや、こう付け加えなければならない。有限な観念は、常に、私たちの有限な視野に観念が現れる瞬間に、提示され、相対的に実現される、この意識された内的意味では尽くせない意味を、持とうとし、あるいは、持つように見える。歌われる旋律、芸術家の観念、いつまでも心にとどめておきたい、不在の友人についての思いは、すべて、その存在そのものによって、意識された目的を満たすという、明白な内的意味を持つだけではない。少なくとも、別の種類の意味、自分の外の対象への指示、外的な事実との認識的な関係、その事実に対応しようとする働きを持つようにも見える。私たちの観念についての多くの説明は、これを、その第一の、説明できない、究極の性格とみなす。私は、観念の本性の、この第二の、私にとっては、まだ問題を含み、派生的な側面を、その見かけの外的意味と呼ぶ。[170]

以上から、ロイス氏が、観念の本性についての近代心理学の研究成果を受け入れ、歓迎していることは、明らかである。難しさが生じるのは、その受け入れた成果と、次の言葉に示される、究極的な実在についてのプラトン的な考えとを、結びつけるところである。

存在するとは、ただ、ある絶対的な観念の体系の、完全な内的意味を表現し、具体化することである。しかもその体系は、どんなに断片的でも、あらゆる有限な観念の、真の内的意味、あるいは目的に、実際に含意されているのである。[171]

ここで、ついでに注意してよいだろう。観念の表象的な性格を、再構成する性格に従属させると、ここでは明言しているにもかかわらず、真理と誤りの問題を扱う、内的意味と外的意味の関係の章では、前者が非常に重要になるのである。

できるだけ著者自身の言葉で述べようとした、観念の二つの意味の説明には、その後の議論と、最終的な帰結を決めるうえで、重要な役割を果たす、観念、目的、両者の関係についての考えが現れている。内的意味の説明には、観念と目的の関係について、まったく異なる二つの考えがあるように見える。一つは、観念自体が、目的や行動計画をなすと考える。もう一つは、観念を、目的の「部分的な実現」と述べる。(一)「複雑な科学的観念は、意識における意味から見れば、スタウト教授が的確に述べたように、行動の計画である。」(二)「あなたは、自分に向かって旋律を歌う。そのとき、その場で、自分が歌うのを聴く、その旋律が、目的を部分的に実現し、具体化していると意識する。」[172] 内的意味と外的意味の関係の問題へ進むと、内的意味としての観念は、目的と第三の関係に入ることになる。すなわち、外的意味と一致し、対応するという、さらなる目的を持つのである。「観念と対象の間に達した対応は、その観念自身が意図した、まさに、その対応なのか。そうなら、観念は真である。……したがって、真理をなすのは、単なる一致ではなく、意図された一致なのである。」[173] こうして、観念は、(一)目的そのものであり、(二)目的の部分的な実現であり、(三)「絶対的な観念の体系」の対象に対応するという、さらに別の目的を持つ。

内的意味が計画や目的をなすという、第一の説明は、私の理解では、内的意味を、観念による構成として捉えたものである。その構成は、思考の必要と要求が生まれる、「漠然とした落ち着かなさ」と、盲目的な不満の感じに、実際に働く形、規定を与える。[174] これは、観念を作業仮説とみなす、科学的な考えに一致する。この観念の解釈を、終始一貫して追うなら、「ある絶対的な観念の体系」と述べられるものとは、まったく違う実在観へ導かれないとは、考えにくい。

内的意味の第二の定義は、それを、一つの意識された目的の「部分的な表現」「具体化」「実現」と述べるものである。そこでは、その後、その結果として、観念が、たとえば歌うことなど、「どんな意識的な行為」とも同一視される。説明の初めの部分は、旋律の観念が、その旋律を歌う目的としての観念を、「部分的に実現する」と、いっているように見える。しかし、内的意味の第一の説明が含意するように、観念のなかで、観念を通じてでなければ、どうして旋律を歌う目的を持てるのだろうか。漠然とした「不定の落ち着かなさ」や不満を、目的へ変えるのは、まさに観念の構成である。観念とは、単なる感覚や欲求の盲目的な活動を、行動の計画へと明確にし、研ぎ澄ますことなのである。

しかし、ロイス氏は、ここで「観念」という語が、たとえば歌うという観念を作る活動だけでなく、その目的を実現する、歌う行為も含む、と述べ、ただちに、この難しさに応える。「同じ意味で、どんな意識的な行為も、それを行う瞬間には、いまの私の意味で、観念を表すだけでなく、観念そのものである。」[175]

しかし、目的としての観念と、目的の実現としての観念との、このような調整は、新しい問いを生む。直接の経験と、媒介する経験との区別は、ここでどうなるのか。目的を持つ観念としての経験と、その目的を実現する経験との間には、かなりはっきりした違いがあるはずである。両方を「観念」と呼ぶのは、少なくとも紛らわしい。実際、後に真理と誤りの問題を扱う際に、根本的な難しさを見えにくくするのは、まさに、この混同だと思われる。たしかに、目的、すなわち「行動計画」としての観念を形づくること自体が、「不定の落ち着かなさ」から解放される始まりである。他方、それは不満を明確にし、鋭くもする。曖昧な不安が、食物や住まいを得る、調子を合わせて歌う、といった目的の形を取ることは、もちろん解決への第一歩である。しかし、不満を、このように明確にすること自体が、それを強める。したがって、目的としての観念は、実現そのものというより、実現の計画や方法に見える。実現する経験は、観念が指し示し、導く、さらに先の経験なのである。

経験の、目的を持つ側面と、それを実現する側面との関係を、もう少し追おう。目的、すなわち「行動計画」としての観念は、働きとしては、実現する経験へ移っていかなければならないことは、もちろん明らかである。旋律を歌う目的は、その行為が意識的であるかぎり、歌い終わるまで残らなければならない。「働きとして」といったのは、その目的の具体的な内容は、絶えず変化するからである。旋律を半分歌った後の目的は、内容において、初めの目的と同じではない。これは、目的が次第に実現されているということである。そして、一瞬ごとに目的の一部が実現するにつれ、観念の、もとの内容の一部は脱落する。この特定の目的を実現する過程が終わるか、中断されると、その目的は、別の目的に場所を譲る。ロイス氏の見方では、人間の経験では決して完全には終わらないので、中断という場合もある。新しい目的は、元のものから生じたのかもしれないが、それでも、別のものとみなされる。達成され、実現された目的は、目的として存続できない。記憶のなかで、その経験を繰り返したいと思うことはある。つまり、声を出して歌う代わりに、ロイス氏のいうように、ただ「静かに思い出し、想像に現れる、その響きに耳を傾ける」のである。しかしここで、記憶の経験それ自体は、論理的な意味での観念では、まったくないことを忘れてはならない。それは、歌を思い出す目的をなす観念を実現する、直接の経験である。声を出して歌うことが、そのように歌う観念を実現するのと、まったく同じである。大声を上げること、口笛を吹くこと、「記憶のなかで、音のない音符に耳を傾ける」ことは、すべて、同じく直接の、実現する経験となりうる。疑いなく、ロイス氏のいうように、目的としての観念は、記憶を含む。[176] しかし、それは、目的として使われる記憶であり、まさに、そのように使うことが、記憶の材料を論理的な観念にする。目的を持つ観念も、その内容では、経験のほかの部分と同じく、直接的で機械的である。「心理学は、この目的が存在することと、その現在の部分的な効力を、運動過程、習慣、あるいは、しばしば連合と呼ばれるものの法則によって説明する。」[177] ただしここでの「観念」は、ロイス氏の第二の説明と同じく、どんな種類であれ、意識内容というだけの意味である。しかし、これは論理的な意味での「観念」ではない。論理的な観念は、ほかの内容を得るため、組織するもの、「行動計画」として使われる意識内容である。たとえば、論文を書く途中で、抽象的な区別を思い出したいとき、その区別が意識に浮かんでも、それは論理的な意味での観念ではない。それは、よいゴルフの一打と、まったく同じく、直接の、実現する経験である。同じく、ロイス氏が見事に描く、数学者の最も難解な過程でも、「一人、星に向き合う天文学者と、同じほど経験的に」待ち受ける結果は、論理的な意味での観念ではない。それらは、直接の、実現する経験である。[178] したがって、媒介する経験としての観念、すなわち論理的な観念と、直接に実現する経験との区別は、内容の区別ではなく、使い方の区別なのである。

ただし、目的としての観念を、別の目的の部分的な実現と取れる意味はある。どんな目的も、以前の目的を含む活動から生まれる、という意味である。これは、目的としての観念が生まれる、「不定の落ち着かなさ」と不満を調べると、明らかになる。不満は、すでに何らかの活動が、以前の目的を実現しようと進んでいることを前提する。自分の歌い方や、歌っていないことに不満なのは、ある旋律を歌っている人々の演奏に、すでに加わろうとしていたからである。あるいは、お気に入りの小歌を、大声で要求する元気いっぱいの赤ん坊を、うかつにも楽しませると引き受けたからである。これは、どんな不満も、そこから生まれる目的も、以前に目的を立てたことを含む活動から生じる、といっているだけである。しかし、それによって、目的としての観念と、直接に実現する経験との区別がなくなるわけではない。

ここで議論が、いくらか重箱の隅をつつくように見えるなら、内的意味と外的意味との関係へ進もう。そこで真理と誤りの問題が現れ、これらの区別の重要さも、いっそう明らかになる。

第二節 目的と判断

ロイス氏は、伝統的な真理の定義から始め、それを解釈し直していく。

真理は、非常にしばしば、私たちが判断する、その事柄として、外的意味によって定義される。……第二に、真理は、観念とその対象との対応として定義されてきた。[179] ……真理の客観的妥当性を表そうとするとき、私たちは判断を用いる。これらの判断を主観的に、すなわち、対象がその思考過程の外にある、現在の私たち自身の思考の過程としてだけ見れば、その複雑な形はすべて、観念の組み合わせを含む。それは、すでにある観念を、より多様な構造へ織り合わせ、その内的意味を豊かにする工夫である。しかし、判断の行為には常に、もう一方の、客観的な側面がある。判断するときの観念は、外的意味をも持つべきなのである。……ブラッドリー氏が的確に述べたように、あらゆる判断が意図する主語は、実在そのものである。外的意味について判断するときに組み合わせる観念が、私たちにとって真理としての価値を持つのは、内的意味を持つだけでなく、その構造によって、自分とは別であり、意味においては自分より上にあるものを、模倣するかぎりにおいてである。少なくとも、判断の際に、自分の思考を、本質的に、その外的対象とは別であり、ただそれに対応するよう定められたものと考えるかぎり、これが、私たちの意識の自然な見方である。しかし今や、外的意味と内的意味を、このように切り離すかぎり、観念が従うべきであり、判断が、それについて下されるという実在を、定義することが、いかに難しいかを感じるに至った。[180]

全称判断。そこで問題となるのは、内的意味と外的意味、観念とその対象の関係が、正確にはどのような性質と根拠を持つかを発見することである。その関係は、判断の行為で成立する。まず全称判断を見ると、ここでは、内的意味は、外的意味に対して、せいぜい否定的な関係しか持たないことが分かる。

すべてのAはBであるということは、実際には、実在の世界には、Aでありながら、Bの類に属さない対象はない、と主張するだけである。どんなAもBではないということは、実在の世界には、Aであると同時にBでもある対象はない、と主張することである。[181]

したがって、全称判断は、「外的意味の領域に、何があるかを、間接的に告げる。しかし、まず、何がないかを告げることによってのみ、そうする」のである。[182]

しかし、これらの全称判断は、それでも、内的意味の領域、すなわち、単なる思考としては、積極的な価値を持つ。

いま述べたように、全称判断の、この否定的な性格が当てはまるのは、まさに、外的意味と内的意味を切り離し、実在を、彼方にあるもの、それだけのものと見るかぎりである。再び、内的意味として見た観念の領域へ注意を向ければ、この過程のすべてによって、観念の内なる生が、絶えず豊かになっていると分かる。内的な証明によって、二たす二は四であり、必然的にそうだと知ることは、単なる彼方として取られた外的世界に、真の、あるいは最終的に妥当な対象の多様性、数えられる二つや四つの対象が、そもそもあると知ることでは、まだない。……他方、内的意味に関するかぎり、この判断を必然的と呼ばせるものを、自分の内で経験したことは、たしかに、自分の観念について、当然、たいへん積極的に思える特徴を観察したことである。[183]

この一節は、特に注意に値する。カントに照らし、また、判断を内的意味の外的意味への関係づけとする、ロイス氏の一般的な定義を考えると、数学者にとって、「二たす二は四」の判断の積極的な価値が、内的意味の領域に限られるとは、不可解である。もちろんロイス氏は、全称判断の積極的な価値を、内的意味の世界に限るのは、外的意味と内的意味を切り離す場合だけだという。しかし、要点は、数学者でも、ほかの誰でも、「二たす二は四」の判断を、内的意味としてだけ積極的な価値を持つとみなすほど、実際に両者を切り離すことがあるのか、という点である。実際、別の関連では、ロイス氏自身が、数学の結果も、天文学者の星と同じく、客観的で経験的だと、きわめて明確に示している。[184] また、ここで誰かが、次のようにいう資格もないだろう。「もちろん、認識論者の親切な仲立ちによって、内的意味が外的世界に妥当すると分かった後には、それは、もはや内的意味ではない。」私たちが強調しているのは、数学者や科学者が、初めには、それを単なる内的意味と取り、後から外的意味を確立する、ということは決してない、という点である。数学的判断も、ほかのどんな判断も、内的意味から外的意味へ移るために、認識論の産婆を必要とはしないはずだ。外的意味は、数学者が扱う図形、運動の緊張、心像の形で、初めからそこにある。ここでも難しさの原因は、先に論じた、目的としての論理的な観念と、直接に実現する経験との区別を、見失うことにあるように見える。二と四の関係は、初め、単なる内的意味として発見されるのではない。その関係を求めることを含む、何らかの目的を実現する過程で発見される。同じく、三角形の角の和も、外的意味を後から探すべき、単なる内的意味として発見されるのではない。三角形を扱うなかで、三角形のうちに発見されるのである。繰り返せば、その三角形が、単なる記憶の心像であっても、かまわない。目的、すなわち論理的な観念に対しては、それは松の棒やチョークの線と同じく、外的で客観的である。目的の刺激によって自然に流れる、運動などの心像の流れは、棒やチョークの線を扱うことと、同じく、直接に実現する経験なのである。

全称判断を、判断として、単なる内的意味にとどめる難しさは、次の言葉から分かる。

全称と特称という、これら二種類の判断は、見たように、どちらも経験を用いる。全称判断は、経験と観念が、すでに一つの全体へ融合した領域で生じる。そして、それこそ、内的意味の領域である。ここでは、人は構成し、その構成の帰結を観察する。しかし、その構成は、同時に、事実の経験であり、観念でもある。……このような観念的な構成を基に、全称判断を下す。それらは、この段階では、まだ私たちに謎である仕方で、あの別の世界、外的意味の世界に妥当しようとするのである。[185]

「経験と観念」の融合とは、正確に何を意味するのか、いくらか戸惑う。観念に対置できる、経験のある側面との融合を意味すると、考えるほかない。そして、その側面は、これまで常に、外的意味を指してきた。この解釈は、直後に、その融合を「事実と観念」の融合と述べる言葉によっても、裏づけられるように思われる。すると、状況は次のようになる。内的意味と外的意味、事実と観念が「一つの全体へ融合」し、それによって、なお「まさに内的意味の領域」であるものを構成する。それが、さらに別の、外的意味の世界に妥当しようとするのである。しかも、この説明では、一つの全体へ融合した経験が、どうして内的意味となれるのか、という問いは棚上げされる。内的意味であるかぎり、外的意味に対置され、それを指さなければならないからである。逆にいえば、経験が、どうして事実であると同時に観念であり、しかも「一つの全体へ融合」していられるのか、という問いである。

普遍性と必然性の側面へ向かっても、難しさは消えない。内的意味の領域だけに限られた普遍性と必然性は、どのような意味と根拠を持つのか。

内的意味に関するかぎり、この判断を必然的と呼ばせるものを、自分の内で経験したことは、たしかに、自分の観念について、当然、たいへん積極的に思える特徴を観察したことである。[186]

しかし、この判断を必然的と呼ばせる、「内で経験する」ものとは、何か。全称判断と選言判断との関係を論じるところには、興味深い言葉がある。そこでは、全称判断は、その否定的な効力さえ、選言判断を通じて得ると示される。

たとえば数学のように、普遍的な言葉で判断できると自分が信じる事柄を調べる人は、初めに、いくつかの選択肢で答えられる問いを、心に持っている。「Aは、そもそも存在するなら、BかCのどちらかである」と、その人はいう。さらに調べると、おそらく、どんなAもBではないことが、普遍的に示される。

いま指しているのは、最後の文である。「さらに調べると、おそらく、どんなAもBではないことが、普遍的に示される」とは、何を意味するのか。内的であれ外的であれ、どのような「探究」が、それを示せるのか。要するに、内的意味の領域の普遍性と必然性にも、内的意味を外的意味へ関係づける場合と、同じだけの難しさがあるように見える。[187]

しかし、ロイス氏は、この点を論じる代わりに、外的意味と内的意味との関係の問題を追う。そして、両者を切り離してみるかぎり、内的意味を外的意味へ関係づける際には、否定的な普遍性や必然性さえ、これまでのところ、何の根拠もないと見いだす。

というのも、ここで、古くからの問いが生じるからである。外的な妥当性の領域が、外的であり、ただあなたにとっての他なるもの、彼方であるかぎり、それについての判断が、この観念的で否定的な仕方にせよ、普遍的に妥当すると、そもそも、どうして知りうるのか。その世界は、自分の否定と一致しなければならないと、ただ独断的にいうしか、ないのではないか。この判断は、たしかに積極的である。しかし、どう証明するのか。唯一の答えは、問題の切り離し自体が、いかに無益かを、すでに示唆する言葉でなければならない。対象に何が存在しえないかを、このように否定的にだけでも、前もって定められるなら、対象は、あなたと、まったく無縁のものではありえない。それは、あなたの意味によって、ある程度、あらかじめ定められていなければならないのである。[188]

しかし全称判断では、この規定は、外的意味に関しては、否定的なものにすぎない。

特称判断。そこで、全称判断が、外的意味への関係において、何らかの積極的な価値を得るのは、特称判断を通じて、ということになる。

近年の論理学の議論で、繰り返し指摘されてきたように、「あるAはBである」、あるいは「あるAはBではない」という形を取る特称判断は、外的なものとして見られる対象に、存在を積極的に主張する、典型的な判断である。この点が、全称判断との本質的な違いをなす。特称判断は、内的意味と外的意味を隔てるといわれる深淵を、越えようとする。そして、そのための手段は、いつも「外的な経験」と呼ばれるものである。

今こそ、内的意味が、なぜ、この外的意味を求めるのかを問うべきである。なぜ対象を求めるのか。なぜ深淵を越えたいのか。言い換えれば、特称判断を要求することの意味は、何か。序論では、記述として、内的意味は、外的意味を実際に求める、と告げられた。しかし、なぜ求めるのか。また、全称判断は「内的意味の領域を発展させ、豊かにする」とも告げられた。それなら、なぜ外的意味、さらに別の対象を要求するのか。答えは、こうである。

私たちは、内的意味を持ち、それを内的な経験で発展させる。そこで、それらは普遍的な価値を持つものとして示されるが、いつも断片としてである。それゆえ、そのかぎりで、満足を与えない。私たちは、これらの意味が、何らかの最終的な実現を得る、他なるものを考えるのである。[189]

したがって、特称判断を要求するのは、内的意味の、不完全で断片的な性格である。特称判断は、不完全で不定な内的意味を、さらに完成させ、規定するものとされる。ところが、その特称判断を下したとたん、「それは積極的であると同時に、非常に不満足なほど不定な形式である」と告げられる。さらに、こういわれる。[190]

経験の判断、すなわち特称判断は、外的な経験による、内的意味の、積極的だが、なお不完全な規定を表す。この過程の極限、あるいは目標は、意志が、自らの最終的な規定を表す、個体についての判断となるだろう。[191]

すると、内的意味が、完成と規定を求めて訴える特称判断は、どうやら、その断片的で不定な性格を、増すことにしか成功しないのである。

ここで、また別の「その前に問うべきこと」に至る。内的意味の、この「断片的」「不定」という性格を、正確には、どう理解すべきなのか。どのような意味で、何に対して、不完全で断片的なのか。後には、「それ自身の、最終的で、完全に個体的な表現」に対してだと告げられる。それは、個体についての判断で到達されるという。では、この最終的で完全な個体的表現とは、何を意味するのか。ちなみに、どんな人間も、それを経験できない。どうして知れるのかと、ずっと疑いながら読むと、それは、単に「ほかを求めない」「満足している」「完全さの探究を終わらせる」表現だというのである。[192] この満足と完全さの根拠の問いは、今は措くとしても、これらすべては、もう一方の端に関する問い、すなわち、内的意味の断片的で不定な性格の、意味と基準については、答えないままである。

ここで、観念の内的意味の、第一の定義に戻ろう。「調子を合わせて歌う」、幾何学的な図形の性質を求める、といった、「行動計画」という意味での目的である。そうすれば、この断片的で不定な性格の根拠と意味を見いだすのは、難しくないように思われる。まず一般的に、計画や目的の本質は、調子を合わせて歌うこと、数学の等式に達することなど、それを実現する経験へ導く点にある、といえる。しかし、ここで計画が指す、実現する経験は、単に計画それ自体の内部で、細部を仕上げることではない。もちろん、それも実際に行われるが、それだけではない。実現する経験が、それだけを意味するなら、主観的観念論を、どう免れられるか分からない。[193] 比較的不定な観念から始め、より定まった観念で終わることになる。ただし、その規定が増したことの基準も、まだない。たしかに、すでに述べたように、行動計画としての観念は変わり、そういいたければ、計画として、より明確で完全になる。しかし、それは、その実現をなすのではない。実現は、確かに、観念が指し示し、導く、歌うことなどの直接の経験に、見いだされるはずなのである。

したがって、行動計画としての内的意味の、断片的で不完全な性格は、結局、計画自体というより、その観念が生まれる、経験の一般的な状態を記述する。経験が計画や観念の形を取るのは、まさに、それがばらばらになり、「断片的」になったからである。ロイス氏が的確に示すように、内的意味の仕事は、この断裂を満足に癒す活動を刺激する、計画、理想、仮説的な総合を形づくることにある。したがって、「断片的」は、観念を、それ自体として見た性質ではなく、計画としての観念が表現する、経験の一般的な状態の性質なのである。

さて、内的意味の断片的な性格が、調子を合わせて歌うこと、幾何学的図形を調整することなど、それが指し示し、導く、実現の経験との関係だけで定まるなら、内的意味の完成も、同じ言葉で定義されなければならないように思われる。そして、ここから、真理と誤りを定義し直す、かなりまっすぐな道が開かれるように見える。

第三節 真理と誤りの基準

初めに、真理は、観念とその対象との「対応」や「一致」と定義された。しかし、見てきたように、対象との対応や一致は、観念それ自体の完成と規定を意味する。そして、ここでの観念は、具体的な「行動計画」だから、「真の」観念は、満足できる活動を刺激することで、自らを完成できるものと思われる。偽の観念は、調子を合わせて歌う、数学の等式を作る、といった、満足できる活動のなかで、自らを完成できないものとなる。そして、まさに、この解決を、著者は非常に明確に説明する。数学的な探究の場合には、

満足して立ち止まる、そのかぎりで、いまの特定の探究の方向には、求めるべき「ほかの」数学的事実はない、と観察する。示された事実によって目的が満たされ、さらに光や実現を求めて、別の経験へ向かわずにすむほど、明確に満たされること。まさに、この結果そのものが、探究を始めるときに求める、他なるものなのである。[194]

したがって、「経験のほかの事実が求められるとき」も、星、化学的な沈殿、株式市場の転換、友人の病状の変化を見守るなら、「示された事実」によって観念が満たされるとき、その観念は真である。さらに、

したがって、有限な観念の対象が最終的に確定した形とは、その観念そのものが個体化したときにとる形である。言い換えれば、観念が完全に確定した観念となったとき、すなわち、それに余すところなく適合する経験的内容によって満たされた観念ないし意志となったときにとる形である。その内容は、ほかの内容に置き換える必要がなく、満たされた観念の立場からいえば、置き換えることもできない。[195]

こうした箇所では、観念の真理性を判定する基準は、私たちを「満足して立ち止まる」ところ、「ほかの内容に置き換える必要がない」ところへ導く力にある、と明確に述べられているように思われる。また、個々の場合に満足へ到達できることにも、疑いは示されていないようである。ここでは、私たちは音程を合わせて歌うことも、求める沈殿物を得ることもできるし、ひょっとすると株式市場を正しく読み取ることさえできる。もちろん、不協和音も空腹も損失も、また生じるだろう。だが、新しい観念、新しい真理もまた生じる。「人が考えるのは、自分の世界を統御し、それによって自分自身を統御するためである。」[196] それなら、実際に得られた統御の程度こそが、その思考の価値、真理性を測る尺度となるはずだ。音程を合わせて歌いたいのなら、「そのとき音を外したといわれる音を出すように導く音楽上の観念は、誤っている」のである。[197]

ここで求められている確定は、単なる観念を、観念のまま、さらに確定することではない、という点にも注意したい。それは「提示された事実」、つまり歌うことや沈殿物を得ることなどの直接的な活動のうちに見いだされる。すでに指摘したように、この「満足して立ち止まること」を観念のさらなる確定と呼べるのは、「観念」という語を、目的にも、それを実現する歌唱の行為にも用いる場合にかぎられる。しかも、これもすでに述べたことだが、観念がここで得る確定とは、その観念が終わりを迎えることである。観念は、自らが導いた歌唱などの直接的な経験のなかへ消えていく。空腹や寒さからくる「果てしない落ち着かなさ」は、食べ物や住まいについての観念だけを、さらに確定し、具体化したところで、まず解消されないだろう。満足が生まれるのは、観念が「実現」され、「計画」がその成就のなかへ吸収されるときである。

ところが、ここまでの議論では、「ある絶対的な観念体系」について何も述べられていないし、それを必要とする事情も見当たらない。たしかに、いま検討した箇所では、経験は「断片的」になるとされていた。だが、経験は、自らを修復し、再び一つにまとめることもできるとされていたのである。もちろん、それは何か「最終的な全体」へとまとまることではない。「いま取り組んでいる個々の探究」に関して、「満足」という統一に達することなのだ。もちろん失敗もあるが、それも最終的なものではない。それが意味するのは、「満足して立ち止まる」ところをさらに探し、別の観念、別の「行動計画」を組み立てなければならない、ということにすぎない。

しかし、行動計画としての観念が個々の場合に満足へ導きうること、そして、それに成功するか失敗するかが、その観念の真偽を測る一つの尺度になることを示したあとで、私たちは突然、ある事実を突きつけられる。思考は結局、完成した「絶対的な観念体系」へ、永遠に途切れない満足の最終段階へは、私たちを導かない、というのである。

だが、私たち人間の経験の過程では、そのような確定に達することは決してない。それは私たちにとって、愛と希望の、欲求と意志の、信仰と仕事の対象ではある。しかし、いま現に見いだされるものでは決してない。[198]

この地点で、その絶対的な観念体系はいったいどこから来たのか、そもそもなぜそれを考慮しなければならないのか、と問うても、納得のいく答えはほとんど得られないように思われる。実際、この「ある絶対的な観念体系」は、プラトンの時代から受け継がれてきた哲学上の家宝なのではないか、という印象を拭いがたい。歳月によってあまりに神聖視され、何世紀にもわたる承認によってあまりに確固たる地位を得たために、私たちはその資格を問うことをやめてしまったのではないか。それを「人間の経験が本質的に断片的であること」に基礎づけるのは、論点先取のように思われる。というのも、この意味で経験が「本質的に断片的」に見えるのは、絶対的な体系をあらかじめ想定したあとだからである。

ここで気づくのは、この地点で、経験の断片性と統一性が、ともに新しい意味を帯びるということである。それまでは、断片性は「いま取り組んでいる個々の探究」との関係で定義されていた。ところが、絶対的な経験と人間の経験との区別が登場すると、断片性は、前者に対比された後者の、絶対的な性質となる。統一性についても、対応する仕方で同じことが起こる。それまでは、音程を合わせて歌うといった個々の問題について、人間の経験の内部で統一や全体性が可能だった。だが、絶対的な観念体系が登場すると、全体性はその体系だけに属する性質となり、不完全性は人間の経験に属する性質となる。もっとも、実際に働く統一、すなわち「満足して立ち止まること」をもたらす統一は、なお人間の経験のうちに残っていなければならない。

いまや問題は、絶対的な観念体系を、目的として、具体的な行動計画としての観念という考え方と、どうにか結びつけることである。ここで働き始めるのが、冒頭で述べた、観念と目的との関係についての第三の考え方だ。それによれば、観念は目的そのものでも、目的の実現でもなく、絶対的な体系のうちに含まれる「その観念自身の、最終的で完全に個体的な表現」に対応し、それを表象することを目的とする。それまでの立場では、観念の「最終的で完全に個体的な表現」は、音程を合わせて歌うこと、数式を得ること、化学的な沈殿物を得ることなど、目的を実現する経験のうちに見いだされていた。ところが、いまやこの完全に個体的な経験は、有限な人間の経験のうちには決して見いだせず、絶対的な体系のうちに求めなければならない。そして、それは「愛と希望、欲求と意志の対象」にはなっても、「いま現に見いだされるものには決して」ならないのである。

観念の目的にかかわる働きこそ、その「第一の」「最も本質的な」性格だと、それまで何度も強調されていた。それにもかかわらず、ここでは、対応、すなわち表象を、第一の、本質的な働きとして、しかも時には唯一の働きでさえあるかのように、再び持ち出さざるをえなくなる。というのも、この二つの働きを結びつけようとするなかで、目的にかかわる働きが、表象の働きにのみ込まれてしまうからだ。観念はなお、目的であり、あるいは目的をもち、「行動計画」である。だが、その目的、その計画は、いまや、絶対的な体系のうちにある自分自身の最終的で完成した形を表象し、それに対応することにすぎない。この単純な一手で、観念の目的にかかわる働きは、ただちに表象の働きへと還元される。ここで、あらゆる目的には表象が含まれ、計画は、なすべきことを象徴し、その実行を促す何らかの心像や図式でなければならない、と主張しても的を射ない。その点には誰も異論がない。ところが、いまや唯一の「なすべきこと」は、絶対的な体系のうちにある完全で個体的な形の表象を、完全にすることになっているらしいのである。[199]

ここでもまた、このような解釈を否定する文章を、ほとんどどのページからも数多く集めることができるだろう。だが、それらは、歌う、測るといった具体的な経験のなかで観念が果たす役割を説く箇所であって、絶対的な観念体系を表象する役割を説く箇所ではない。後者についてさえ、観念の能動的な性格を強調すれば、この絶対的な体系を、やはり私たち自身に似た意志の生活と見なせるのではないか、と主張することはできるかもしれない。ただし、その体系が同時に、有限な観念の「完全な具現」「最終的な実現」と記述されてさえいなければ、である。ただ実現だけからなる生活というのは、理解に苦しむ逆説である。しかも、それが時間を超えているとされることは、困難を増すばかりだ。他方、この体系が、測る、歌うといった具体的な活動から成ると考えるなら、意志は救える。しかし、その場合には、最初の真理の考え方へ戻らざるをえない。すなわち、観念が経験の断片的な状態を統一するところに真理を見いだす考え方である。その断片性は、特定の問題との関係での断片性であって、絶対的な体系との関係での断片性ではない。

こうして、議論の最後の、決定的な論点に到達する。「絶対的な観念体系」の立場から真理と誤謬を判定するとき、目的はどのような役割を果たすのか。観念が、その絶対的で最終的な、完成した形に対応しようとする目的は、いつ実現され、あるいは部分的に実現されるのか。ここでは、出発点ですでに困難がある。観念は、それ自体が「目的の部分的な実現」であると、私たちは繰り返し読んできた。その観念が、今度は、この実現の度合いを高める対象を探さなければならない。だが、その実現もなお不完全なままである。そして誤謬を考察すると、これまた部分的な実現から成ることになる。すると、「部分的な実現」には、区別すべき三つの段階があるように見える。一つは観念そのものに属し、もう一つは有限な真理に属し、さらにもう一つは誤謬に属するのである。

本題へ戻ろう。ここから先では、特定の状況の立場と、絶対的な体系の立場とが、きわめて密接に織り込まれ、もつれ合っていて、追いかけるのが非常に難しくなる。観念がその対象との対応を求めるのは、自らが「断片的」「不完全」「未確定」だからだ、ということはすでに見た。そして、その未確定さ、断片性は、目的としての観念、すなわち、音程を外して歌う場合などに生じる何らかの「落ち着かなさ」や「不満」から解放されるための計画に属していた。ところが、ここで動機となるのは、絶対的な体系のうちにある対象を不完全にしか表象していない、という不完全性である。問題は、その不完全な状態をどう改善するかになっている。ここでも、頼りにされるのは目的だ。絶対的な体系が何から成るにせよ、一つのことは確かだという。有限な観念が、自分の対象とすることを「意図し」、目的としないかぎり、その体系のうちの何ものも対象とはなりえない。そこで、私たちは再び問わなければならない。そもそも、絶対的な体系のうちのこの対象は、何に基づいて選ばれるのか。一般的な答えは、「さらなる確定」の必要に基づく、というものだ。だが、さらに分析してみると、それは、食べ物、住まい、測定、歌唱など、特定の欲求や必要に基づくということにほかならない。したがって、選択の根拠は、全面的に、具体的で有限な状況の側にある。

ここでも問うことができる。有限なものの側で生まれた目的を実現する何かが、絶対的な体系のうちに見つかる、という確信は、どこから来るのか。ここでは、予定調和のようなものに頼らざるをえないのではないか。これに対して、著者はこう答えるだろう。「まさにそのとおりである。絶対的な体系が有限な必要に応えるという事実こそ、有限なものと絶対的なものとを切り離せないことを示している。」だが、有限なものの側で生まれた目的を、絶対的な体系がどう満たせるのかを述べようとすると、その説明は再び、あまりに有限な経験の言葉で進められる。そのため、それを「最終的な」「完成した」「実現された」観念の体系と呼ぶのは、正確ではないように思われる。ここでも「目的」の意味の変化に注意しなければならない。観念は、音程を外して歌う場合などの落ち着かなさや不満を解消するのに必要な素材に基づいて、その対象を選ぶ。ところが、いまや観念は、絶対的な体系のうちにある自分の対象を、より広く表象することで満足しなければならないのである。

では、最後に、観念が「それ自身の完成した形」に対応し、それを表象するという目的を達成したことは、何によって分かるのか。その対応と表象は、いつ真となるのか。それは、ただ「私たちが満足して立ち止まる」ところ、「ほかの内容に置き換える必要がなく、満たされた観念の立場からいえば、置き換えることもできない」ところである。これで尽きている。ほかに答えはない。別の言い方はあるが、どれも同じことに帰着する。たとえば、こうである。

この瞬間の観念は、それ自身の尺度で、それ自身の計画に従って、曖昧なままであっても、それ自身の最終的で完全に個体的な表現に対応するなら、真なのである。[200]

だが、この「最終的で個体的な表現」とは何か、「それ自身の尺度で」「それ自身の計画に従って」とはどういう意味か、と問うた瞬間、私たちはただちに先ほどの説明へ引き戻される。いま引用した箇所の次の文は、たしかに、この「個体的な表現」を定義している。「その表現は、目的を実現する生活そのものであろう。この現在の観念は、いわばすでに、その生活を断片的に表現し始めている。」だが、全体性を何らかの形で経験していなければ、その表現が「断片的」であると、どうして分かるのだろうか。

ここで、これまでずっと含意されてきたことを、明言しておくべきかもしれない。人間の経験が絶対的に「断片的」であるという性格は、経験が一時的に陥る、相対的にばらばらな状態を抽象したものである。そして、その抽象が、固定した性質として経験に戻される。その際、経験が断片的になるのは再び全体となるためだ、という事実が見落とされている。絶対的な体系、最終的な実現についても事情は同じだ。これもまた、「満足して立ち止まること」のうちに現れる、全体になる働き、全体へとまとめ、実現する働きを抽象し、実体化したものにすぎない。

「しかし」と、ロイス氏は言うだろう。「個々の場合の全体性は、結局、真の完全な全体性ではない。目的を実現する経験を、別様でもありえたもの、別の形で具現されてもよかったものとして、いつでも考えられるからだ。」だが、そのことは、目的も別のものであることを含意する。しかも、この議論は、目的が生まれる具体的な条件から、目的を切り離している。たとえば、音程を合わせて歌うとき、自分が別の曲を、別の機会に、別の調で、ひび割れたバスの声ではなく澄んだテノールの声で歌う姿を想像するのは、たしかにたやすいだろう。だが、この機会に、この歌を、このひび割れたバスの声で歌う人が、これらの条件をすべて受け入れたうえで、いわばあらかじめ犯意を固めるように、わざわざ音程を合わせようとし、幸いにも成功したとしよう。その人が知り、受け入れた条件のもとで立てた、その目的にとって、達成はなぜ最終的で絶対的ではないのか。私に分かるかぎり、数学的な経験でも事情は変わらない。もう一度引用しよう。

あなたは数について考え、それに従って、一、二、三と数える。これらの数についてのあなたの観念は抽象的であり、単なる一般性にすぎない。なぜか。いまの数える過程が示すもののほかにも、数える場合や、数えられる数がありうるからである。では、なぜそうなのか。数える際のあなたの目的が、いま数えた数によっては、完全に実現されていないからである。[201]

正直に言って、ここでは、どの点で目的が実現されていないのか、私には分からない。たしかに「ほかの数える場合」や「ほかの数」はありうる。だが、それらは、ただいまここで数えるという、私の現在の目的には含まれていないかもしれない。この箇所では、目的が十分に定義されていない。人が数えるのは、ふつう何かのためである。それが、ただ数える過程を例示するためにすぎなくても、そうだ。この場合、その例示に「満足して立ち止まる」とすれば、使った数だけで目的は完全に実現される。また、数の性質を示したいのなら、数はいつでもさらに増やせると発見することによって、目的は実現される。この果てしない進行も、数の性質の一つだからだ。あるいは、人が突然、数えることに夢中になり、残りの生涯をそれに捧げようと決心したとしても、いつでもさらに数える数があるのは、やはり幸いなことだろう。つまり、目的としての観念は、特定の条件との関係で、その条件から形成される。突き詰めれば、問題はいつも、現在の条件のもとで、実際に手元にある素材を使い、いまここで何をするか、ということである。目的がこうした特定の条件によって定まるのと同じように、その実現も定まる。実現の仕方が別様でもありえたと言うのは、実際には、目的が別様でもありえたと言うこと、ひいては宇宙が別様でもありえたと言うことなのである。

このように、特定の「行動計画」という意味での目的として、観念の性格に立ち戻らなければならないことは、「絶対的な観念体系」の立場から誤謬を考えると、いっそう鮮明になる。すでに述べたように、ここで最初からつきまとっている問題は、この立場から、私たちの経験における真理と誤謬をそもそも区別できるのか、ということだ。絶対的な体系を表象しようとする私たちの試みは、どれも不十分に終わらざるをえない。それなら、ある観念を真、別の観念を偽と呼ぶことには、どんな意味がありうるのか。誤謬は次のように定義されている。

ある誤りが、特定の対象についての誤りであるのは、次の場合にかぎられる。誤りが生じた瞬間には曖昧な観念によって不完全にしか定義されていなかった目的が、ある対象によって、よりよく定義され、実際に、よりよく実現される。その対象の確定した性格は、最初にそれらを定義しようとした断片的な試みに、何らかの仕方で反している。ただし、絶対的に反していることは決してない。[202]

しかし、絶対的な体系との関係では、この記述の後半は、私たちの観念すべてに当てはまる。私たちの目的を「よりよく定義し」「よりよく実現する」であろう絶対的な対象が、常に存在するからだ。したがって、真偽を区別する根拠が見つかるのは、歌う、測るといった「特定の」場合との関係においてだけである。そこでは、特定の落ち着かなさや不満、特定の不協和音や空腹を解消するという使命を果たしていないかぎり、私たちの計画は真ではない。

したがって、目的が実現されたこと、すなわち絶対的な体系のうちの対象を表象する観念が真であることについて、私たちが見つけられた唯一の基準は、「音程を合わせて歌う」といった特定の目的を実現するときに経験する、全体性の感覚、「満足して立ち止まること」である。ここでまた、「まさにそのとおりだ。それこそ、私たちの経験と絶対的な観念体系との関係が、いかに密接かを示している」と言われるなら、私たちも再び、こう言わなければならない。絶対的な体系とは、私たちの経験における全体性、あるいは全体へとまとめる働きを抽象したものにすぎないのか、そうでなければ、両者の関係は、これまでのところ、ただの想定に基づいているように見える、と。

また、この議論の冒頭で示唆したように、観念には二つの目的があってもよいではないか、と主張されるかもしれない。一つは、日常生活の具体的な問題を成立させ、その解決を助けること、もう一つは、絶対的な体系を表象することである。それならそれでよいが、後者については、その根拠を示さなければならない。二つの目的が異なるなら、絶対者を表象する目的には、独自の基準があるはずだ。しかし、その基準は見つからなかった。むしろ、絶対的な体系の表象について基準を示すところまで突き詰めると、どの場合にも、特定の有限な目的の実現に訴えざるをえなかったのである。さらに、絶対的な体系を表象するこの目的に、見かけ上、何らかの独自の基準があったとしても、そこで話を終えるわけにはいかない。観念には再構成の働きがあり、それとは別に表象の働きもある、と単なる事実として認めるだけでは、とても満足できないだろう。そんな、説明抜きの二元論には耐えられない。

第四節 要約と結論

結局、観念と人間の経験との関係を、観念と絶対的な体系との関係に結びつけようとする試みは、満足のいく結果を得ていないように思われる。観念には、有限な経験を再構成する目的と、絶対的な体系を表象し象徴する目的という、二つの独立した目的が残されるか、そうでなければ一方が他方に吸収される。絶対的な体系の立場から結びつけようとすると、再構成の目的が表象の目的にのみ込まれる。他方、「この時の岸辺、この浅瀬で」真理と誤謬を区別する根拠が必要になると、表象の働きが再構成の働きのなかに消えてしまう。真の統一は、どこにも見いだせない。たしかに、絶対的な対象を表象することができさえすれば、それが、人間の有限な目的の「最終的な成就」「完成」「実現」となる、と私たちは繰り返し聞かされてきた。だが、これは、出発点からすでにその達成ができないと認めているうえに、これまで見たように、次のどちらかを伴う。音程を合わせて歌うといった特定の目的を、絶対的な体系を表象する目的へと突然変えてしまうか、絶対的な対象の表象が、何らかの仕方で特定の有限な目的の実現を助ける、とただ想定するかである。その助けがどのように与えられるのかは、どこにも説明されていない。

このことから考えられるのは、ロイス氏の講義の冒頭で示された、目的としての観念の分析が、さらに進められていたなら、目的の条件と起源が検討されていたなら、この不一致が露見せずにすむはずはなかったのではないか、ということだ。ロイス氏は、観念が目的にかかわるという一般的な説明を、心理学からそのまま受け取ることで議論を始める。目的を詳しく論じる箇所でさえ、すでに形成されたあとの目的の記述にとどまっている。この目的性がどこから生じるのかについては、何も語られない。経験が目的にかかわる性格をもつことは、もちろんきわめて明白だ。だが、目的を立てることは、経験全体のなかでどんな意味をもつのか。目的は何から生まれ、何を素材とするのか。

観念が目的にかかわるという性質を、このように無批判に受け入れることが、その観念を絶対的な体系と関係づけることの的外れさを見えにくくしている。観念はただ目的であるか、目的をもってさえいればよいのなら、その目的は、ほかの何かであるのと同じように、絶対的な体系の表象であってもかまわない。もちろん、有限な私たちの観念が、そもそもどうやってそのような目的をもつようになったのかという、厄介な問いは残る。だが、結局のところ、何らかの目的をもてばよいだけなら、絶対的な体系の表象も、ほかの目的と同じように役立つだろう。しかし、いざ実現の問題、真理と誤謬の問題を扱うときには、この目的性の源を顧みなかったことが、問題となってくる。

目的の根拠が分析されていないからこそ、実現という問題がこれほど曖昧になる。その分析が行われていれば、目的としての観念が生まれる条件は、同時に、どのような実現が可能かも定める、と明らかになったはずだと私たちは考える。実際、この方向を示す記述が、一つ二つある。非常に一般的ではあるが、さらに追究されてさえいれば、きわめて重要な記述である。たとえば、次のようなものだ。

私たちがしばしば「心を決める」と呼ぶことをするとき、意志と決意は、曖昧な状態から明確な状態へ移る。このような場合、出発点には、おそらく、何ともいえない落ち着かなさがある。それが、「私は何を求めているのか、何を望んでいるのか、私の本当の目的は何か」という問いを呼び起こす。

言い換えれば、この落ち着かなさは何を意味するのか。何が問題なのか。何をすればよいのか、ということである。

すると、目的は、落ち着かなさと不満から生まれる。では、その落ち着かなさと不満はどこから来るのか。この段階で、それを、有限な私たちの観念と絶対的な対象との不一致のせいにすることは、できないはずだ。目的をもった観念を生み出しているのが、まさにこの落ち着かなさなのだから。いずれにせよ、一つのことはかなり確かに思われる。この「何ともいえない落ち着かなさ」は、すでに何らかの活動が進行していることを前提とする。落ち着かなさは真空のなかで生まれるのではない。だが、その活動は、なぜ「何ともいえない落ち着かなさ」や不満と呼ばれる状態に陥るのだろうか。

論理学の議論に、生物学はおろか、精神と身体の関係を扱う学説を持ち込むことさえ、不快に思う人は多いだろう。それでも、この地点で問題に正面から向き合えば、ほかに道はないと、私は認めざるをえない。そして、まさにここで、現象主義という巨人を恐れてきたことが、論理学をこれほど長いあいだ荒野にさまよわせてきたように、私には思われる。

では、すでに進んでいるこの活動のうち、何が落ち着かなさを生むのか。まず、「何ともいえない落ち着かなさ」や「不満」は、ジェイムズ氏が「意識として最初に現れるもの」と呼ぶものを記述する言葉だ、という点に注目しよう。これは、意識を活動の一要因と考えている。したがって、いま問うべきことは、落ち着かず、満たされない意識という要因が、活動のなかでどんな意味をもつか、ということになる。ところで、意識が果たす役割を知る方法も、ほかの何かの働きを発見する方法と別ではないように思われる。それはただ、意識がどのような条件のもとで働き、何をするのかを、できるかぎり観察することである。ここで、生物学者と心理学者は声をそろえて、次のように教えてくれる。意識が働き始める地点を示す、この何ともいえない落ち着かなさは、互いに調整された活動の体系において、活動そのものの継続から新たな条件が生じ、その活動を続けるには再調整と再構成が必要になるところに現れる。すると意識は、一つの過程が生み出した結果を、その過程自体へと組み入れ直し、それによって活動の連続性を成立させ、保つ働きだと考えられる。このように解釈すれば、意識は、自らを維持する活動という考え方の、不可欠な要素となる。したがって、意識が始まるときの「何ともいえない落ち着かなさ」は、再構成の働きが作動していることを示す。その働きがなければ、活動は完全に破綻してしまうのである。

だからこそ、「計画としての」観念は、この落ち着かなさに応えて構想され、組み立てられる以上、その実現も、この落ち着かなさに即したものでなければならない。実現をめぐる困難が始まるのは、この落ち着かなさを母胎として生まれた、目的として、計画としての観念が、絶対的な体系を目指し始め、自らのささやかな出自を無視し、あるいは否認しようとするときである。それは、受け継いだ力や備えとは無縁のものを目指す、あらゆる野心につきまとう困難なのだ。

ここで、「行動計画」としての観念がどのように組み立てられ、実現されるかを詳しく述べれば、ロイス氏の主要な項目を、順に解釈し直すことになるだろう。しかし、この論文の範囲では、それはできない。例としていくつかの場合を、大まかに示すにとどめなければならない。

第一に、ロイス氏がきわめて鋭敏に捉えている「経験の断片的な性格」が現れるのは、観念を生み出す母胎である、この何ともいえない落ち着かなさのうちにおいてである。だが、繰り返すなら、その断片性は、断片の前後にある全体性との対比によってしか識別できない。落ち着かなさに先立つ全体性と、その落ち着かなさが目指す、新たな「満足して立ち止まること」との対比である。また、崩れることによって直接にこの落ち着かなさを生む、習慣という母胎は、思考そのものがそこから進化してきた何か形而上学的な究極のものではない、という点も忘れてはならない。その背後には、かつて習慣を役立てた、それ以前の目的がある。他方、この崩壊が意味するのは、古い目的、古い計画を再構成しなければならないということだ。その目的や計画は、崩れた習慣とともに、新たな計画の素材、経験を新しく一つにまとめるための素材になる。

第二に、この新しい行動計画を組み立てることには、たしかに「再び提示すること」、すなわち表象が含まれる。「何ともいえない落ち着かなさ」の状態から「計画」へ向かう移行の第一歩は、その落ち着かなさを診断し、明確にすることである。そのためには、落ち着かなさを生んだ活動を、意識のなかで再び提示しなければならない。この再提示は、再構成の始まりでもある。歌う活動を「音程が外れている」と診断することは、音程を合わせて歌い始めることの、否定的な側面である。あらゆる表象は再構成だということは、いまでは心理学の常識になっている。写しとしての表象に対して、象徴的、代数的な表象をロイス氏が強調したことは、ここで生きてくる。ここで必要なのは、何らかの心像だけだ。視覚的でも、聴覚的でも、運動的でもかまわない。歌う活動が十分に再構成されて「満足して立ち止まる」ところに至るまで、その活動へ注意を集中させるのに役立てばよい。[203] しかし、この過程のどこにも、絶対的な体系のうちにある観念の対象への言及はない。また、そうした言及が必要となるところも、入り込む余地も見当たらない。ここでの表象は、特定の状況の素材から、さらなる再構成の計画を形成する、その過程自体の一部である。表象は、その計画自体の目的ではない。計画の目的は、新しい一連の活動を促し、現在の落ち着かなさや不満の状態から抜け出すことである。

すでに述べたように、計画を実行し、観念を実現する過程で、計画そのものがさらに確定し、具体化されることも事実である。計画としての観念は、決して一度に出来上がるのではない。また、固定した内容に到達して、それを保ち続けるわけでもない。どんな目的も、最初の内容のままで実現されることはない。だが、だからといって、その実現が「部分的」「不完全」「断片的」だということにはならない。変わることも、目的の役目の一部なのだ。目的は、それ自身のために存在するのではない。経験を組み直し、再構成する手段として存在する。ロイス氏の言葉でいえば、「経験に統御を導入する」ための道具、「用具」として存在するのである。そして、道具が使われる過程でつねに変化を受けるように、ここでも、習慣を再構成する道具としての計画は、それ自体が再構成される。実際、その内容についていえば、ロイス氏が述べるように、計画そのものも、経験のほかの部分と同じく習慣であり、「連合の産物」である。目的を立てる働き、目的を立てる活動は残る。その内容は絶えず変わっていく。

「観念が対象に従うこと」が起こるのも、ここである。ただし、これは、ロイス氏が絶対的な体系を考えるときのように、すでに出来上がった対象に従うことではない。仮説的な行動計画、試みに組み立てられたものとしての観念は、自らが再構成しようとしている活動によって、試されなければならない。つまり、この地点で問われるのは、計画は、その落ち着かなさに実際にかかわっている活動に適用できるのか、ということである。事態を適切に診断しているか。したがって、それらの活動が、その計画のなかで、それを通じて働き、再び一つにまとまれるか。ここで「従う」のは、目的、目指すものが、自らを生み出し、自らが働きかけねばならない素材に対してなのである。だが、繰り返すなら、観念が従うこの素材も、その形が最終的に固定され、「完成」しているわけではまったくない。むしろ、すでに見たように、観念を必要とするのは、まさにこの素材が断片的で不完全な状態にあることだ。それでも、計画としての観念は、その使命と素材に忠実でなければならない。この意味で、素材が計画のなかで、それを通じて働けるようになるために必要だと「命じる」、あらゆる変更と再構成に従わなければならないのである。[204]

他方、ロイス氏が最も強調する点だが、「観念がその対象を規定しなければならない」ことも、同じように明らかである。プラトン以来、「観念の側から」実在に近づくすべての哲学は、この点にかかっている。そして、ここでも、対象がすでに永遠に固定され、完成しているのでなければ、それは不可能には見えない。対象が、観念によって再構成されつつある習慣の素材、そのまとまり自体から組み立てられるものであり、しかも「規定」が、写すことではなく、組み立てることを意味するなら、観念はまさしく「その対象を規定」しなければならない。そのためにこそ観念は存在する。それが観念の唯一の使命である。ここでは、観念が対象を規定するということは、単なる抽象的な要請ではない。もしそうでなければ、論理学や倫理学の私たちの前提が壊滅的な影響を受ける、という一般的な考慮に基づくものでもない。ここでは、その一般的な必要性だけでなく、この規定がどのように行われるかも明らかである。だが、うんざりするほどの繰り返しになる恐れを承知で、もう一度言わねばならない。絶対的な体系のうちの、完成され、完全な対象を規定することについては、その方法がどこにも見つからないばかりか、仮に見つかったとしても、「音程を外して歌う」といった特定の落ち着かなさが求める規定と、どんな関係があるのか分かりにくいのである。したがって、従うという過程は相互的である。対象の側にも観念の側にも、他方が従い、合わせなければならない固定した図式や秩序は存在しない。従うことは一方的ではありえず、規定は相互的でなければならない。これは、論理学のありふれた原則にすぎない。

こうして、結論としてだけでなく、冒頭に置いてもよかったであろう考察に到達する。いま述べたように、「観念の側から」実在に近づく哲学にとって、観念が対象を規定することは、死活的な問題である。そのような近づき方は、「事実としての世界に対する、観念の世界の優位」を主張しなければならない。[205] ロイス氏は、この立場をさらに次のように述べる。

観念とは何か、観念はいかにして実在と真の関係に立ちうるのか、と問うとき、人は、世界という結び目を、そのもつれをほどくうえで最も有望な仕方で扱っている。私はそう考える者の一人である。この道は、もちろん、きわめて古い。プラトンの道である。……別の意味では、カントの道でもある。哲学をこのように見るなら、事実としての世界の研究を、観念としての世界についての省察に従属させることになる。事実としての世界の、ただむき出しの実在を、信仰と伝統によって受け入れるところから始めれば、人は謎の大海の奥深くに沈んでしまう。……事実の世界は、さまざまな奇妙な対照によって、あなたを驚かせる。……愛らしいが、どうしようもなくわがままな子どものように、あるいは悪い妖精のように、気まぐれによってあなたを困惑させる。事実の世界は毎日、挑むような謎として、あなたの前に現れるのである。[206]

ここには、講義の冒頭に、私たちがこれまで多くの困難を伴うと見てきた立場が、簡潔に述べられている。すなわち、観念としての世界と事実としての世界との対立を、説明すべきものとしてではなく、初めから与えられたものとして受け入れる立場である。そして、その対立こそ実在の本質そのものである可能性があるのに、それが実在への到達を妨げると想定する立場である。たしかに、事実としての世界と観念としての世界の対立についての右の記述は、説明の出発点にすぎない。そして、それに続く議論が、この隔たりを埋めようとする試みに充てられていることも事実だ。しかし、すでに見たように、音程を外して歌うといった特定の落ち着かなさの経験から生まれる、特定の目的として観念を説明する場合を除けば、この隔たりは、見いだされたままに受け取られる。それを修復する試みも、対立の源へさかのぼるのではなく、与えられた対立から先へ進むことによって行われる。もちろん、この対立には、その先に目指すところがある。だが、難しいのは、その源を探らずに、そこを見つけることだ。その目標へ向かう方向は、対立が生まれた母胎へ立ち戻ることによって、見いだされるのである。

さらに、事実と観念とのこの対立を、与えられたものとして出発すると、それを収める方法は、一方を他方の言葉へ還元するか、何か新しい、したがって外から統一する働きに訴えるか、そのどちらかしかないように見える。だが、対立する要因が、一方が他方に従い、あるいは他方に対して「優位」に立つものとしてではなく、共通の母胎から生まれ、互いを規定し合いながら協働する働きとして、経験を再構成する仕事にともに携わるものとして見いだされるなら、いま述べた二つの方法に伴う困難のいくつかは、消えていくように思われる。[207]

先ほどの箇所へ戻り、事実としての世界、すなわち「むき出しの実在」が、「挑むように謎めいている」「困惑させる」「気まぐれである」とは、正確には何を意味するのかと問えば、この点はいっそう明らかになるかもしれない。第一に、「事実」として、「むき出しの実在」としての世界が、まだ「観念によって照らされて」いないほど生のままの経験を意味するなら、それがどうして謎めいたり、気まぐれだったりするのかは、理解しがたい。謎や気まぐれが現れるのは、経験をただ訪れるままに受け取ることをやめ、つながりや意味を探究し始めてからだからだ。つまり、何らかの秩序との関係がなければ、謎も気まぐれもありえない。そして秩序は、つねに観念にかかわる。だが、この点では、ロイス氏自身の言葉を示せば十分だろう。

私たちは誰もが、一瞬一瞬、経験をもつ。この経験の一部は、むき出しの事実としてやって来る。光と影、音と静寂、苦痛と悲しみと喜び。……こうした与えられた事実は、流れ去っていく。もしそれですべてなら、私たちの世界は、あまりにも手がかりのない問題となり、その無意味な存在に、戸惑うことさえできないだろう。[208]

次に、事実の世界を、観念の世界と対照をなし、互いに対等なものとして捉えるなら、謎も気まぐれも、決して事実の側だけにあるわけではない。ここでも、それらは事実と観念の関係から生じるものに違いない。すでに見たように、思考なしには、謎も気まぐれも存在しない。それなら観念は、謎と気まぐれを生み出すことに加わりながら、その途端、自分が親であることを否認するわけにはいかない。もちろん、謎と気まぐれは、対等な事実と観念との対立が生む、最後の実りではない。それらは最初の実りにすぎない。まだ比較的まとまりのない胚のかたまりであり、親である二つの働きがさらに活動することで、真理と法則の整った姿へと育っていくのである。

したがって、観念が事実に対して、あるいは事実が観念に対して、究極的な「優位」をもつとは思われない。また、どちらかが他方よりも、実在へのよりよい近づき方であるとも思われない。私たちが実在を「不完全」「未完成」「断片的」と感じ、ただちに「別のものを探さ」なければならなくなるのは、「見よ、この観念のうちに実在がある」、あるいは「見よ、あの事実のうちに実在がある」と言うときだけである。だが、それを求めるべき場所は、決して、「愛と希望、欲求と意志、信仰と仕事の対象であっても、いま現に見いだされるものでは決してない」という、「ある絶対的な観念体系」ではない。むしろ、愛し、希望し、欲し、意志し、信じ、働く、その営みそのもののうちに、私たちは実在を見いだすのである。「事実としての世界」も「観念としての世界」も、その実在のなかで、その実在のために存在している。

索引

絶対者:実在を構成するものとして、348。真理および誤謬との関係、363ページ以下。実体化された抽象として、369。

絶対的な自己、330。

付随的なもの:思考をそう捉えること、58ページ以下。

活動:社会的なものとして、74。活動としての思考、78。中断された活動と判断、154。仮説との関係、170。感覚運動的な活動、193、200。(「働き」「再構成」も参照。)

美的経験:省察的というより味わう経験、255。価値評価の一形式ではない、339、340。

選択肢:判断における、155。(「選言」も参照。)

類推、171、172、175。習慣との関係、176。

アナクサゴラス:一と多との関係、219。そのヌース〔νοῦς、知性〕、220、221。

アナクシマンドロス:無限なものとの関係、209。その分離の過程、214、215。

アナクシメネス:そのアルケー〔ἀρχή、根源〕、209。希薄化と濃縮の図式、209、213、215、224。

エンジェル、J・R、14ページ注、345ページ注。

アニミズム、49ページ注。

思考の先行条件(「刺激」を参照)。

応用論理学:ロッツェの定義、6。

味わうこと:省察との区別、255、339。価値評価と同一視してはならない、320~324、338。

アルケー〔Ἀρχή、根源〕:それを探すことの意味、211ページ以下。

観念連合:意味にかかわる、33、34。思考とのつながり、80。観念連合説:倫理学の主観主義との類似、261。機械論的な形而上学を前提とする、330、331ページ注。

原子論者:一と多の扱い、221。

オーストリア学派の経済学者、307、333。

権威と慣習:それに従う態度の論理、286。その支配と両立する社会的条件、286。道徳的統御としての破綻、286。

ベーコン:極端な経験論の立場、156ページ以下。帰納についての見解、157、158。

「悪い」:道徳的な述語としての実践的意味、259。「不正」との関係、335。

ボールドウィン、J・M、257ページ注、378ページ注。

生成:相対的なものとして、206。

「根拠づけ」〔Begründung〕と「確認」〔Bestätigung〕:ヴントによる区別、179。その批判、181、182。

生物学:感覚についての見解、58。論理学における利用、374、375。

ボザンケ、B、59ページ注、147、189、190、191、300。(第五章も参照。)

ブラッドリー、F・H、47ページ注、54ページ注、90ページ以下、147、189、190、191、192、194、299ページ注2、331ページ注、332ページ注、353。

ブレンターノ、250ページ注。

バトラー、J、277。

確かなもの:緊張との関係、50、51。所与として、57。

実在・知覚・再認の指標:定義、263~267。経済的経験と倫理的経験における存在、267~269。

共存、偶然の一致、真のつながり、28、29、33~36、58、59、68。

概念:ロッツェの見解、59。ベーコンの態度、157。事実との関係、168。ギリシア哲学における働き、342。(「観念」「心像」「仮説」も参照。)

概念の論理学:観念および心像との関係、188~192。

良心:その発達、286、287。曖昧で過渡的な性格、287。道徳的基準としての形而上学的含意、288。自律的ではない、288。

良心に忠実であること:自己実現の理想から生じる危険、316。グリーンによる擁護への言及、316ページ注。

保存:エネルギーと質量の保存、206。(「エネルギー」も参照。)

知識の内容:論理的対象とともに緊張から生まれる、49。思考自身の内容、65。所与との関係、69。真理として、79ページ以下。静的なもの、動的なものとして、73、93ページ以下、110ページ以下。(第四章、および「客観性」「妥当性」も参照。)

連続性、10、13、55。

統御:観念との関係、75、129。

命題の換位、171。習慣との関係、176。

コペルニクス:その理論、178。ガリレオの想定との比較、179~181。

繋辞、118ページ以下。主語と述語を媒介する図式、208、214ページ以下。

対応:所与と観念の対応、51。思考内容と思考活動の対応、70。真理の基準として、82ページ以下、353ページ以下。

ダーウィン、チャールズ、146、150、179。

思考の所与、7、8、24。事実として、26、50、52。ロッツェの理論の説明、55。その批判、56ページ以下。帰納との関係、61。内容との関係、60、70。(第三章、および「内容」「事実」「刺激」も参照。)
演繹、211、212。

定義:ソクラテスによる創始、203。

デモクリトス:定義の試み、203。

指示判断、134。

確定:真理の基準として、362ページ以下。有限な経験において完全な確定は不可能、364。

デューイ、ジョン、58ページ注、86ページ注、266ページ注2、316ページ注、381ページ注。

弁証法:創始者としてのゼノン、203。

アポロニアのディオゲネス、222ページ以下。

選言:判断における、115、138。

動的なもの:動的および静的なものとしての観念、73、76。動的なものとしての実在、126。

土:元素として、213。

経済的判断:物理的判断と同じ型の過程を含む、235。価値評価の過程、236。それを引き起こす状況の型、241~246、293~295、302、303。倫理的判断との区別、243ページ注、246ページ注、271、302、303。物理的判断との関係、246ページ注3。その主題は行動の手段、259、304。その過程の分析、304~312。「押し引き」との区別、237、238。心理学的説明、310、311。再構成の過程、311、312。

「新ヘーゲル派の利己主義」、316。

エーレンフェルス、C・フォン、318ページ注。

イドラ:ベーコンの見解、157。

エレア派:その論理学上の立場、216ページ以下。

元素:四つのものとして、213。無数のものとして、213ページ以下。

エマソン、R・W、204、246ページ注。

エンペドクレス:定義の試み、203。一と多の扱い、218ページ以下。

経験論、11、29、47、48、61ページ以下。合理論との関係、80。その批判、156。ジェヴォンズ、169。心像の扱い、186~188。

目的〔End〕:知識の獲得を方向づける要因、229。それ自体が注意と判断の対象となりうる、233。目的についての判断は事実に関する判断と切り離せない、234。関係する目的の衝突は倫理的判断の契機、238~241。関係のない目的の間接的な衝突は経済的判断の契機、241~243。倫理的判断の素材、258、259。目的を明確にすることは、あらゆる判断の目標、264、272。判断過程でつねに明示されるわけではない、269、270。倫理的判断における目的間の関係の性質、273、274、291、292。目的の受け入れに含まれる事実的条件の型、275、276。事実に関する判断によって裏づけられる、276。経済的判断における、目的同士が関係をもたないことの性質、293~295、302、303。(「目的〔Purpose〕」も参照。)

エネルギー:保存の原理、206、299、300。価値評価の領域では妥当しない、328。

「エネルギー等価性」:経済的判断における原理、308、309。その意味、309ページ注。

認識論、5~7、10、11、13、17、18、47、73、341。その問題の起源、344、345。

エルトマン、ベンノ:帰納について、173。

誤謬:その基準、371。

倫理的判断:物理的判断と同じ型の過程を含む、235。価値評価の過程、236、332。それを引き起こす状況の型、237~241、291~294。目的間の機械的な「押し引き」との区別、237、238。経済的判断との区別、243ページ注、246ページ注、271、302、303。その主題は行動の目的、258。その過程の分析、295~302。再構成の過程、295、299。

存在:意味との対比、216、217。

経験:その二重性、16。その論理学、19~21。どのように組織されるか、42。経験の組織化と思考との関係、43~48。まとまりを失ったものとして、75。(「絶対者」「働き」も参照。)

実験:演繹の一形式、212。

事実:所与に相当するものとして、26、50ページ以下。事実を定める基準、106ページ以下。実在として、110。観念および実在との関係、380ページ以下。理論との衝突、150、151。理論との相互依存、168。ヒューウェルの見解、163。(「所与」「観念」「実在」「真理」も参照。)

事実に関する判断:行為を十分に媒介するには不十分、230~234。目的によって方向づけられる、269。価値評価の判断に伴う、272、295。目的の受け入れに含まれる事実的判断の型、275、276。目的を受け入れる根拠を示す、277。

ファイト、W、331ページ注。

断片的なもの、72。内的意味の性質として、360、361。有限な経験の属性として、364、376。(「刺激」「緊張」も参照。)

働き:経験の働き、16。その論理学、18、23。身分との区別、16。思考の働き、23、24、78、85。全体としての働きが思考への刺激となる、36~38、80。異なる働きと論理的区別、42。ロッツェによる異なる働きの混同、56。働きとしての感覚、58。

発生的なもの:方法の意義、14、15、187。発生的区別の重要性、24、53、62、71、85。それを無視した影響、53、62、71。(「心理学」も参照。)

「よい」:道徳的な述語としての実践的意味、259。「正しい」との関係、335。

ゴア、W・C、377ページ注。

ゴルギアス、225。

思考と実在についてのギリシア的見解、342ページ以下。

グリーン、T・H、274ページ注、288ページ注3、315ページ注、316ページ注、330、331。

習慣:その中断と再開、および判断との関係、154。仮説との関係、170。類推との関係、176。単純枚挙との関係、176。換位との関係、176。論理的意味との関係、198。論理的な働き、375、376。

ヘラクレイトス:その立場、215ページ以下。

ヒッポン、209。
ホッブズ、トマス、301。

均質性:世界の根拠の均質性、207。世界の均質性、209、210。

ハチスン、F、301。

仮説:その性質、第七章、143~183。その起源・構造・働きに、通常、不均等な重点が置かれる、143~145。所与と仮説の関係は厳密に相関的、145、152、168。述語として、146、183。否定的側面と肯定的側面、146、155。実験主義の興隆とともに認められるようになった、159。検証との関係、174、175、177ページ以下。その起源、170、171ページ以下。想定との関係、178。形成と検証の相互依存、182。

観念:事実との連続性、9、10、12。事実との区別、13、110。ロッツェの混乱、31、32、41、65。観念の連合、33。所与との対比、52~54。働きに即した捉え方、70、112ページ以下。客観的妥当性、72~75。判断内容の全体として、119。存在の側面、97、99ページ以下、113。指示との関係、97ページ以下、103、129。表象説、100ページ以下、113ページ以下、141、347ページ以下、372ページ以下。普遍性、97ページ以下、113ページ以下。実在に関係づけられないものとして、97ページ以下。統御の形として、129。判断における働き、153、154。心像との区別、183~193。その区別の批判、199~202。その発見に伴う問題、341。ギリシア思想において、342。道具的な働きと表象の働き、346ページ以下、372ページ以下。目的にかかわる性格、347ページ以下。外的意味と内的意味、347ページ以下。ロイスの絶対的な観念体系、348。ロイスの説明における目的との三重の関係、349ページ以下。論理的な観念と記憶の観念、351。事実および実在との関係、379ページ以下。(「仮説」「心像」「述語」も参照。)

イデア:プラトンの、247。

心像:単なる空想として、53。意味との関係、54。判断における位置、154。観念との区別、189~193。その区別の批判、199~202。直接的・間接的な刺激として、195~197。

心像:経験的な判定基準、186。その働き、187。表象するものとして、186~188、194。心理学的な働き、193~197。論理的な働き、198、199。

直接的なもの:媒介との関係、342、350ページ以下。

印象:ロッツェの定義、27、28、29、32。客観的な規定、30、31。客観的な性質、31、68。心的なものとして、53。思考によって意味や観念へ変えられるものとして、67ページ以下。(「観念」「意味」「感覚」も参照。)

未確定なもの:有限な経験の性質として、364。

帰納:ベーコンの見解、157。枚挙および関連する過程による帰納、171。習慣との関係、176。演繹との対比、211、212。

推論:ロッツェの見解、60。判断との関係、117。

道具的なもの:思考の性格として、78~82、128、140、346ページ以下、372ページ以下。(「目的〔Purpose〕」も参照。)

相互作用:物理的な相互作用、218ページ以下。

関心:その方向、205。

発明:演繹の一形式、212。

ジェイムズ、ウィリアム、81ページ注、352ページ注、375。

ジェヴォンズ、W・スタンリー、169、173。

ジョーンズ、ヘンリー、43ページ注、59ページ注、66。

判断:ロッツェの定義、59および注。観念との関係、60。その構造、75ページ注。ボザンケの理論、86ページ以下。働きとして、107ページ以下。死んだ判断と生きた判断、108。その定義、86、111。推論との関係、116ページ以下。単一の判断の限界、123ページ以下。否定判断、114ページ以下。知覚判断、88ページ以下、96。その部分、118ページ以下、207、208。時間関係、120ページ以下。個別的なものとして、136。道具的なものとして、128、140。定言的・仮言的なものとして、136。非人称的なものとして、131。直観的なものとして、139。さまざまな定義、147ページ以下。その分析、149ページ以下。選言判断、155。その心理学、153。その目的、154。中断された活動との関係、154。判断の独特な体系、224~230。一般的な分析、230~232。目的にかかわる性格、353ページ以下。全称判断、354。特称判断、358。個体についての判断、359、360。数学的判断、354ページ以下、370。(「経済的判断」「倫理的判断」「事実に関する判断」「繋辞」「述語」「省察」「主語」も参照。)

カント、I、43、46、60ページ注、163、263、301。

ケプラー、146、181。

知識:実在との関係、102ページ以下。意味との関係、128。知識の「写し」説と「道具」説、129、140、141。(「判断」「真理」も参照。)

キュルペ、O、250ページ注。

論理学:その起源、4。その型、5~22。一般的および特殊なものとして、18、23。心理学との関係、14、15、63、64、184、185、192ページ以下。近代心理学による影響、345。発生的方法との関係、15~18。問題の例示、19、20。社会的意義、20。形式論理学の源としての論争術、203。ソクラテス以前の論理学、203。認識論との関係、341、342。(「認識論」「心理学」も参照。)

ロッツェ:批判、第二・三・四章。応用論理学、6。付随的なものとしての思考、56。判断についての見解、147。ヒューウェルとの類似、165ページ注。引用、6、28、29、30、31、32、42、56ページ注、62、63、64、65、66、67、68、69、73、77、83、84。

多:一との関係、210ページ以下、218ページ以下。

限界効用:その原理、307、337ページ注。

マーティノー、J、262。

数学:いくつかの証明形式、172ページ以下。数学的判断、354ページ以下、370。

マクギルヴァリー、E・B、257ページ注。

ミード、G・H、38ページ注、337ページ注。

意味:論理的な観念との関係、30、31、32、33、41、97。思考の内容として、66ページ以下。三つの型、68。独立した観念の性質として、73~75。観念連合との関係、33、80。指示との関係、97。意味の世界、98、103、112。知識との関係、89、128、190。応答に相当するものとして、198。存在との対比、216~218。内的意味と外的意味、347ページ以下。(「内容」「観念」「指示」も参照。)
手段:外的なものと構成的なもの、78。手段の転用は経済的価値評価の問題、242、243、246、259、260、303、304。自分の目的に対して十分に知られていないかぎりで客観的、256。手段を明確にすることは、あらゆる判断に伴う、272。手段を事実に即して定めることが、目的を定めることにもなる場合、270。

媒介:直接的なものとの関係、350ページ以下。

メリッソス:その弁証法、214。

形而上学、8、9、13、18、85。経験の論理学との関係、13。自然史として、13~18。その価値、19~22。論理的なものと形而上学的なもの、72、74。(「認識論」「論理学」も参照。)

ミル、J・スチュアート、147、160ページ以下、162、166。

混合:その観念の論理的意味、219、220、222。

一元論、224。

ムーア、A・W、76ページ注、346ページ注。

運動:その保存、206。

否定、97、114ページ以下。

新ヘーゲル派、43、316。

ニュートン、I、146、159、179。その哲学的探究のための覚書、159ページ注。

ノモーイ〔νόμῳ、慣習によって〕とピュセイ〔φύσει、自然によって〕の対比、226。

規範的なものと発生的なもの、16。(「目的〔End〕」「目的〔Purpose〕」「妥当性」「価値」も参照。)

服従:道徳の発生における一要因、257。(「権威と慣習」も参照。)

対象:どのように定義されるか、38、39、74、76。社会で通用する対象、230。実在的な対象の意味は個人的、230。倫理的対象の性質、240、328。経済的対象の性質、259、260、328。(「実体」も参照。)

客観性:ロッツェの見解、68(第四章を参照)。その型、68。論理的客観性と存在論的客観性についてのロッツェの区別、72、73。その区別の否定、341、342。客観性という概念の範囲、235。通常、事実に関する判断以外には認められない、247、248。感覚要素そのものの性質ではない、248、249。「統覚」のカテゴリー、250。問題をはらむもののしるし、250、251、255。特定の方法によって確かめられるものではない、252。その証拠としての「押しつけがましさ」、253。その証拠としての「信頼性」、263。客観性を経験する条件、253~256。その条件は倫理的・経済的状況にもある、257~260。倫理的・経済的判断の実際の特性である、261~263。社会で通用していることには依存しない、318~320。社会で通用しうることにも依存しない、320~324。永続性にも依存しない、324~329。(「実在」「妥当性」も参照。)

一:多との関係、210ページ以下、218ページ以下。

パルメニデス:その論理学上の立場、216ページ以下。プラトンとアリストテレスの論理学への影響、217。

分有:プラトンにおける意義、342ページ以下。

特殊性:観念の特殊性、99、113。特称判断、358。

知覚:知覚判断、88ページ以下、96。

完全なもの、126。

物理的判断(「事実に関する判断」を参照)。

ピュセイ〔φύσει、自然によって〕とノモーイ〔νόμῳ、慣習によって〕の対比、226。

ピュシス〔φύσις、自然〕、207、224。

プラトン、53ページ注。観念と実在について、342ページ以下、378、379。

多元論、81ページ注。

措定:思考をそう捉えること、68。

述語:どのように成立するか、75ページ注。実在との関係、101、103。仮説として、147、153、155、156、183、186。心に描かれた目的から発展する、232。主語との相互作用、232。倫理的判断において、258、291~296。経済的判断において、259、260、309~311。(「繋辞」「判断」「仮説」「観念」「心像」も参照。)

述定、118ページ以下。

予定調和:ロイスの哲学において、368。

前提、204、206。

問題をはらむもの(「緊張」を参照)。

証明:帰納的な証明、172、173。仮説の証明、174、175。仮説の起源との関係、179~182。ヴントの見解、177、178。

命題:判断との関係、118。

プロタゴラス、226。

慎慮:徳としての倫理的地位、246。

ピュタゴラス派:その論理学上の立場、216。実験の利用、216。

心的なもの:物理的なものとの区別、25。印象を単なる心的なものとするロッツェの見解、27、28、30。その批判、31~34、41、42。二つの意味、38ページ注。心的な機構、31。心的なものとしての観念、53。論理的なものとの関係の問題、54および注、64。ロッツェは思考活動も心的なものとする、77および注。その主観的な帰結、84。(「印象」も参照。)

心理学:論理学との関係、14~16、26、63、64、153、154、184、185、192ページ以下、345、348。機能心理学の原理、229、230。その発生、280、281。機能心理学の論理学的価値、293。

心理学者の誤謬、37。

目的〔Purpose〕:論理学上の重要性、4、9、10、13、15、20、35、58、76、80、154。論理的側面、第十一章。観念において、347ページ以下。判断において、353ページ以下。真理と誤謬の基準において、361ページ以下。観念としての目的の起源、373ページ以下。方法として、377。(「目的〔End〕」「再構成」も参照。)

感覚の質、55、56、60ページ注。

性質:一次性質と二次性質、221。

問い:判断との関係、97、114ページ以下。

合理論:その批判、156ページ以下、188ページ以下、298ページ以下。

合理性:世界の合理性、206。

実在:思考によって構成されるものとして、94ページ以下、104。発展するものとして、126。事実と観念を含むものとして、108、110、125、382。思考から独立したものとして、85、87ページ以下、104。主語の主語として、88ページ以下。一般的な判定基準、105ページ以下。実在についての知識の可能性、91ページ以下、102ページ以下、125。個人にとっての実在、94ページ以下、103、112、224ページ以下。判断することとの関係、149。感覚に与えられるものとして、160。実在の「知覚」と「再認」の指標、263~267、277。これらの指標は倫理的・経済的経験にもある、267~269。実在の情動的な把握、263。完全な実在概念の範囲、235、340。実在の度合い、340。プラトンの実在観、343ページ以下。ロイスの実在観、348。事実および観念との関係、379ページ以下。(「事実」「真理」「妥当性」も参照。)

充足理由:その原理、206。

再構成:思考の働き、38、40、46、75、76、85。これを否定した影響、47、71、72。所与との関係、49ページ以下。判断において、154、291、295、299、311、312、346、347。(「習慣」「刺激」「緊張」も参照。)

指示:社会的なものとして、74。観念の指示の問題、82ページ以下。意味として、97ページ以下。働きに即した捉え方、113。その逆説、99。指示としての観念、129。

省察:派生的なものとして、1~12。素朴な省察、3、9。その素材、7、8。論理学との関係、3、18、23。構成的な思考との対比、43~48。その区別、255。一般的な性質、269。その目的はつねに明示されるわけではない、270。その結果は目的または手段の言葉で述べられる、272。(「判断」「思考」も参照。)

省察的判断、134。

表象:観念の二つの働きの一つとして、345、347ページ以下、372。観念による再構成における意義、376。

応答:その失敗と判断の起源、154。

落ち着かなさ:省察と目的の源として、374ページ以下。(「緊張」も参照。)

修辞学:その起源、203、204。

「正しい」(「よい」を参照)。

ロイス、ジョサイア:言及、76ページ注、147。観念の理論の検討、346~382。引用、347、348、349、350、352、353、354、355、356、357、358、359、362、364、366ページ注、368、370、371、374、379、380、381。

満足:満足して立ち止まることが、真理への到達のしるしとなる、362ページ以下。

シラー、F・C・S、327ページ注、345ページ注。

科学:素朴な経験との関係、10、11。その歴史的段階、11、12。論理的手続きと認識論との区別、13。哲学と共通する歴史、21、22。

経験的な自己:その概念の発生と内容、290、292、331、332ページ注1。

「力を発揮する」自己:「根拠」の経験に含まれる、277、278。経験的な自己という概念の発展を促す、279~281。あらゆる価値評価に不可欠な原理、281~285。それを基準とする道徳的態度の発達、285~289。価値評価における論理的な働き、296。経済的価値評価における重要な位置、308、309。目的や理想の言葉で記述することはできない、313~316。ブラッドリーの誤解、332ページ注。

自己実現(「グリーン、T・H」も参照):道徳的理想としての理論は無益、298。決定論および快楽主義と論理的に整合する、330、331。

感覚:論理的な意味、57。経験の働きとして、58。実在との接点として、90。判断における位置、154。観念との関係、164ページ以下。(「印象」「心的なもの」も参照。)

感覚運動的な活動、193、200。

シャフツベリ、301。

ジークヴァルト、C:判断についての見解、147。

懐疑論、50ページ注、85。

「社会で通用すること」:異なる人々にとって対象のある側面が同じであることを含意する、229。そのような対象は、社会的個人と同じく一つの抽象、229。客観性を判定する基準ではない、318~329。

ソクラテス:概念の働き、342。

ソフィスト、225。

スペンサー、H、248、250ページ注1、315ページ注。

基準(「述語」も参照):倫理的判断において述語と同一視される、238~240。倫理的判断における働き、274、299、300。その形態と再構成の仕方、296、297。究極の倫理的基準は不可能、299。その客観性、300、301。

刺激:思考への刺激、7、8、17、24、37~40、47、81。ロッツェの見解、27、29、30。その批判、30~36。所与との混同、61。その定義、75。判断との関係、153~154。思考の条件として、193ページ以下。直接的・間接的な刺激、195~197。倫理的判断への刺激、238~241、291。経済的判断への刺激、241~246、302。(「内容」「所与」も参照。)

スタウト、G・F:言及、349。

ストラットン、G・M、318ページ注。

構造、15、16、17、18、24、75。(「働き」も参照。)

主語:判断の主語がどのように成立するか、75ページ注。思考によって構成されるものとして、94ページ以下、103。判断の一部として、118ページ以下。実在として、88ページ以下。判断の内と外にあるものとして、93、96。働きに即した理論、111、125。説明を要するものとして、208、211ページ以下。演繹によって修正される、212。状況の分析によって与えられる、232。判断において述語と相互に作用する、232。倫理的判断の主語、258、296~298。経済的判断の主語、259、260、304、309~311。(「繋辞」「所与」「判断」「述語」も参照。)

主観的なもの:客観的なものとの区別、25。印象を純粋に主観的なものとするロッツェの見解、27、28。その批判、31。その定義、39。省察の内部でのみ発展する、52、53。(「心的なもの」も参照。)

主観主義:ロッツェにおいて、83、84。ロイスにおいて、360。

思考の素材:刺激・所与・内容の区別、7、8、24。これらの発生的な区別の混同、17、18。先行条件として、第二章。所与として、第三章。内容として、第四章。
実体:合理論的な実体概念に含まれる論理に基づく倫理学説、298、299。実体概念の意味、326、327。行為の型は、ある種類の実体という概念に類似する、327、328。

実体化:プラトンによる観念の実体化の意義、342ページ以下。

想定と仮説、178~181。

スウィート、ヘンリー:引用、153ページ注。

総合的なもの(「再構成」を参照)。

テイラー、A・E、299ページ注2、315ページ注、316、324。

目的論(「目的〔End〕」「目的〔Purpose〕」を参照)。

誘惑:倫理的な誘惑、238、301。経済的な誘惑、305。

緊張:思考への刺激として、37、38、49、50、53、70、85。感覚的所与の成立との関係、53、58、59、70。事実から区別される意味の成立、75、85、154、237~246、250、251、255、291~295、374ページ以下。(「目的〔Purpose〕」「再構成」も参照。)

タレス:そのアルケー〔ἀρχή、根源〕としての水、209。演繹との関係、212、214。

思考:その形式、58ページ以下。所与を組織する様式として、63。ロッツェによる三つの種類、68、69。措定し区別する働きとして、69。その働きの妥当性、76~82。その産物の妥当性、82~85。道具的な性格、78~82。感覚的性質を識別する働きとして、200~202。(「判断」「省察」も参照。)

時間:判断に含まれるものとして、120ページ以下。

超越論、29、43~48。

トレンデレンブルク、A:判断についての見解、147。

真理:その基準、84。ボザンケの考え方、105。一般的な基準、105ページ以下。目的との関係、第十一章。表象的な見方と目的論的な見方の対比、341ページ以下。その基準、361ページ以下。(「客観性」「妥当性」も参照。)

ユーバーヴェーク:判断についての見解、147。

斉一性:自然の斉一性、206。

統一:世界の統一、207。

普遍的なもの:ロッツェによる第一と第二の普遍、56、59、69。普遍的なものとしての観念、97ページ以下、113。普遍的なものとしての判断、136。ロイス氏の扱い、354ページ以下。必然性との関係、357。

妥当性:思考の妥当性、7、8。発生との関係、14、15。その判定、17、18。思考の内容を定める、24。妥当性の問題、第四章。妥当性をめぐるロッツェのジレンマ、71~85。思考の単なる対象の妥当性、72~76。思考活動の妥当性、76~82。思考の産物の妥当性、82~85。(「客観性」「実在」「真理」も参照。)

価値:ロッツェによる存在との区別、28、29。その批判、31、41、45。経験の組織された価値、42~48。論理的過程のなかで、それによって定められる、233。価値意識の性質、273、333~335。価値意識の働き、335~337。本来、媒介的かつ機能的な性格をもつ、338~340。

価値評価(「倫理的判断」「経済的判断」も参照):倫理的判断と経済的判断の二つの型だけを含む、227、236、338~340。その過程の一般的説明、272、295。実在だけでなく自己も再構成する、312。

ヴェン、ジョン:仮説の起源、169。

「根拠」:その意識は、価値評価の判断過程だけでなく、純粋に事実に関する判断過程にも伴う、276、277。事実的条件を見渡すことの構成的な特徴、278、279。

ウェルトン、J:仮説の起源、171。

ヒューウェル、ウィリアム、163。感覚と観念についての見解、164、165。帰納についての見解、165。ミルとのある一致、166。

ヴィーザー、F・フォン、335ページ注2。

意志:思考との関係、366ページ注。(「活動」「目的〔End〕」「目的〔Purpose〕」も参照。)

ヴント、W:判断についての見解、147。数学的帰納についての見解、173。仮説の形成と証明、177ページ以下。想定と仮説の区別、178ページ以下。

「不正」(「悪い」を参照)。

クセノファネス:その論理学上の立場、216。

ゼノン:その弁証法、214。

原注

注 1

[1] ロッツェ『論理学』(英訳、オックスフォード、一八八八年)、第一巻、10–11頁。斜体による強調は本章筆者。

注 2

[2] エンジェル「構造心理学および機能心理学と哲学との関係」、『シカゴ大学創立十周年記念出版』第三巻(一九〇三年)、第二部、61–66頁、70–72頁を参照。

注 3

[3] 『フィロソフィカル・レビュー』第十一巻、117–120頁を参照。

注 4

[4] 『子どもとカリキュラム』28–29頁にある、心理的なものと論理的なものについての説明を参照。

注 5

[5] ロッツェ『論理学』(英訳、オックスフォード、一八八八年)、第一巻、2頁。これまでの説明については、第一巻、1–2頁、13–14頁、37–38頁、および『ミクロコスモス』第五編第四章を参照。

注 6

[6] ロッツェ『論理学』第一巻、6–7頁。

注 7

[7] ロッツェ『論理学』(英訳、オックスフォード、一八八八年)、第一巻、25頁。

注 8

[8] 同書、第一巻、36頁。

注 9

[9] 同上。

注 10

[10] 『ミクロコスモス』第五編第四章。

注 11

[11] 『論理学』第二巻、235頁。第325–327節の議論全体を参照。

注 12

[12] ここで強調しているのは、「存在するもの」という語、しかもそれが複数形であることだ。ある経験は特に親密な仕方で私に属し、私のものであるのに対し、別の経験は主としてほかの人に関わり、あるいは物に関わる、という区別が、早くから生じることは疑いない。しかし、それは関わりの区別、価値の区別である。本文で言っているのは、そのように感じられる価値の種類を、一つの対象、すなわち表象にし、それによって、固有の内的な結合法則を持つ、個々の「出来事」などへと分ける区別である。これは心理学的分析の仕事だ。心的なものをめぐる問題全体については、ジョージ・H・ミード教授の論文「心的なものの定義」を、ぜひ参照していただきたい。『シカゴ大学創立十周年記念出版』第三巻第二部に収められている。

注 13

[13] この立場からの、きわめて鋭く価値あるロッツェ批判は、ヘンリー・ジョーンズ教授の『ロッツェの哲学』(一八九五年)にある。私の個別的な批判は、大筋で彼のものと一致しており、そこから受けた恩恵に感謝したい。ただし、思考の仕事は実在そのものを規定することだ、という考えには同意できない。私には、思考の仕事は、実在のある側面や部分の再構成を定めることであり、それ自身、実在の進行の内部にあるものと思われる。実際、思考は実在の活動に特有の媒介なのである。また、知識が豊かになるにつれて、実在そのものが思考の体系として現れるという考えにも、同意できない。ただ、今述べたように、実在が、感情的・美的なものなどとして現れるのと同じく、思考による規定や価値として現れることには、何の疑いも持っていない。

注 14

[14] 合理主義的観念論に対するブラッドリーの批判によって、この論点の力は、かなりよく知られるようになったはずである。

注 15

[15] 原始的な人間は自分の意志や感情などを対象に投影する、というよくある説明は、『対象』などが、生活という母体から徐々に姿を現してきたという真実を、裏返しに述べているにすぎない。振り返って考えると、そうした対象が何らかの仕方で先に存在し、後から感情的に受け止められたのだという誤った想定を避けるのは、ほとんど不可能である。

注 16

[16] もちろん、この同じ要素が、別の状況では、不確かなもの、観念上のもの、場合によっては空想的なものとなるかもしれない。しかし、だからといって、すべてが一度に、あるいはそれ自体として不確かだと結論するのは、歴史的なものを絶対的なものへと変えてしまうことである。そこから生じるのは形而上学的な懐疑であって、あらゆる省察や科学的探究に本来備わる要因として働く懐疑とは異なる。

注 17

[17] ただし、これは省察のなかでゆっくり進んでいく過程である。この一般的な区別を意識に上らせるうえで大きな影響を与えたプラトンも、なお、『心像』それ自体が、奇妙な種類の客観的な存在であるかのように考え、書いていた。それが心的なもの、あるいは直接的な経験の一局面として扱われるようになったのは、徐々に進んだことなのである。

注 18

[18] もちろん、これは、この客観的内容を定める問題において、排除され、そのため取り残されるものが、心的なものと見なされる、という意味である。ほかの問題や目的との関係では、この同じ心的な存在が、残りものではなく、出発点になる。それまでの、まだ分析されていない経験への埋没から解放されると、それ自身の立場と勢いを得るのである。たとえば『個人差』は、天文学上のある時刻の測定から、純粋に主観的なもの、あるいは『誤差の原因』として取り除かれるものを表す。しかし、新たな技法、以前のデータの読み直し、心理学の新たな考察、さらには社会的・倫理的な新たな判断にとっては、それが出発点になる。しかも、自分自身の『内的な』経験の一部として、直接的な心の実在として、それは事実であり続け、価値のある事実でさえあり続ける。つまり、主として感情や情動に関わる、個人的な経験の領域が、価値の領域としてすでに認められている。『誤差の原因』は、この領域の事実にすることで処理される。偽であると認めることが、心的なものを初めて生み出すわけではない(三八ページの注)。

注 19

[19] もちろん、これは、さらに省察を進めて初めてなされる区別である。普通の人や学ぶ者は、外から入り込んだ、無関係で、誤解を招く材料を、心理学的な意味での心像と定めるわけではなく、ただ空想的、幻想的だとするだけである。それが心像と意味とに分かれるのは、心理学者にとって、その目的のためにだけである。

注 20

[20] ブラッドリーは、ほかの誰よりもこの二重の対立を捉え、まず論理的なものそのものを退けるために用い、その後で向きを変え、心的なものにも公平に同じ否定を向けた。『現象と実在』参照。第一五章では、いまそこにある心的な存在ないし実在を取り込むことが決してできないという理由で、『思考』を退けている。第一九章では、『心的なもの』が、ただ断片的に存在するという理由で、同じような判断を下している。ほかの認識論的な論理学者たちも、この問題と格闘してきた、あるいは、もがいてきた。しかし、出来合いの違いを前提とする観点からは、ブラッドリーの立場は崩しようがないと私は考える。この対立を、ある個別の素材の真理を定める過程の一部として、したがって歴史的で相対的なものとして扱うなら、事情はまったく違ってくる。

注 21

[21] 第一巻、二八―三四ページ。

注 22

[22] ロッツェが、結局、思考に先行するもののなかに二つの面を、どれほど明示的に区別せざるをえなくなるかを見るのは興味深い。一つは、思考を呼び起こす何か、すなわち不足や問題が存在するために必要であり、もう一つは、思考が呼び起こされたときに、手近にデータ、つまり思考の働きを受け止め、それに応えられる形の材料を見いだせるために必要なのである。『観念の多様な材料は、その質的な関係がなす体系的な秩序のなかだけでなく、場所と時間における豊かな組み合わせの多様性のなかにも、私たちの前に示される。……異質な観念の組み合わせは……問題を形づくる。その問題に関して、その後、思考は、ただ共に存在することを真のつながりへと変える努力を行う。他方、同質の、あるいは類似した観念は、その繰り返しを分け、結びつけ、数える機会を与える。』(第一巻、三三、三四ページ。斜体は筆者。)場所や時間における並び合わせの、異質な多様性がなければ、思考を刺激するものは何もない。質が体系的に配列されていなければ、思考を迎え、その努力に報いるものは何もない。思考に先立つ材料のなかで、質的な関係が持つ同質性が、同じ材料のなかに見いだされる配置や結合の異質性に、思考がうまく取り組むための道具や手段を与えるのである! ここまで来たならロッツェも、思考の刺激、思考の材料、思考の道具が互いに驚くほど適合していることから、自分が扱っているのは、結局、思考の働きに先立つ何かではなく、思考の状況のなかにあり、それを構成する不可欠な要素なのではないかと、疑い始めてもよかったはずだ。

注 23

[23] 前掲、三〇ページ。

注 24

[24] 感覚経験が、衝突や緊張を含む経験のなかで、最も強い圧力と緊張のかかる点と同一であることについては、『心理学における反射弧の概念』、『サイコロジカル・レビュー』第三巻、五七ページを参照。

注 25

[25] 思考の『補助的な』性格については、ロッツェ、第一巻、七、二五―二七、六一ページなどを参照。

注 26

[26] ボザンケの『論理学』(第一巻、三〇―三四ページ)と、ジョーンズの『ロッツェの哲学』(一八九五年、第四章)は、ロッツェの判断の扱いに、奇妙な不整合があることを指摘している。一方では、彼の説明は本文で述べたとおりである。概念形成に暗に含まれている、普遍的なものがそれ自身の個別的なものを定める関係を明らかにすることで、判断が概念形成から生じる。しかし他方では、判断は概念形成からまったく生じず、変化のなかのつながりを定めるという問題から生じる。ロッツェが後者の見解に表向き与える理由は、概念の世界が純粋に静的だということである。現実の世界は変化する世界だから、その変化のなかで、何が実際につながっている、つまり因果的であるのかを、単に偶然一致するものから区別して判断しなければならないというわけだ。しかし、ジョーンズが明らかにするように、この見解は、別の事情とも結びついている。ロッツェは、表向きは判断が概念形成から生じると述べながら、概念形成を判断の結果として扱っているのである。最初の見解では、判断が、ある観念の内容を説明するだけのものになり、したがって単に解説的、あるいはカントの意味で分析的なものとなって、現実に適用できるかどうかが、きわめて疑わしくなるからだ。この問題は大きすぎて、ここでは論じられない。すでに論じた、内容どうしの衝突と、感覚的な質の段階づけとの間を行き来することを指摘するにとどめよう(五六ページの注)。前者から生じるのは判断である。判断は、状況全体そのものだからだ。概念形成が後者に関わるのは、それが全体のなかから一面を取り出すこと、すなわちデータの可能な意味を解き明かすことだからである。所与もまた、別の一面を取り出したものである。実際、感覚的な所与は絶対的なものではなく、歴史的な文脈のなかで生じるのだから、所与を構成すると捉えられる質は、状況全体のなかで、衝突がどこにあるかを定めるにすぎない。それらは、衝突している物事の、緊張関係にある内容の属性であり、平穏で揺るがない究極の要素ではない。第一巻の三三、三四ページでロッツェは、いま見たように、思考を呼び起こし、その材料を供給するのは、実際には、体系的に段階づけられた感覚的な質、あるいは量的な規定と、『場所と時間における豊かな組み合わせの多様性』との両方であると認めている。真の概念に量的なものが不可欠な位置を占めると認めている箇所については、第一巻、四三ページを参照されたい。しかし、いつものように、彼はこれを、問題全体の鍵を与えるものとしてではなく、ただ歴史的な偶然として扱う。要するに、異質なものの配置や継起が、思考を刺激する問題の要素をなす一方で、感覚的な質を量的に定めることは、思考がその問題を扱う二つの主要な手段の一方を与える。それは、初めに衝突していた内容を、再統合の努力が最大の効果を上げられる形にすることなのである。観念上の意味としての概念は、もちろん、この仕事のもう一方の相棒である。それは、データのさまざまな可能な意味を、データを解き明かす際に最も役立つ形に整えることである。このことが判断の主語と述語にどう関わるかは、ここでは論じられない。

注 27

[27] これらの区別についてのロッツェの議論は、第一巻、三八、五九、六一、一〇五、一二九、一九七ページを参照。

注 28

[28] 第一巻、三六ページ。第二巻、二九〇、二九一ページも参照。

注 29

[29] 第二巻、二四六ページ。同じことは第二巻の二五〇ページでも繰り返され、そこでは起源の問題が、論理学を堕落させるものとされている。ある種の心的な行為は、論理的な操作の『条件と機会』として必要である。しかし、『心的な機構と思考の間の深い溝は埋まらないままである』。

注 30

[30] 『ロッツェの哲学』第三章『思考と経験の予備的な過程』。

注 31

[31] 第一巻、三八ページ。

注 32

[32] 第一巻、一三ページ。最後の斜体は筆者。

注 33

[33] 第一巻、一四ページ。斜体は筆者。

注 34

[34] 第一巻、一六―二〇ページ参照。二二ページでは、この仕事は、思考のすべての操作のうち、最初であるだけでなく、最も不可欠だとされている。

注 35

[35] 第一巻、二六ページ。

注 36

[36] 第一巻、三五ページ。

注 37

[37] 第一巻、三六ページ。すでに引用した、三〇ページの強い言い方も参照。この規準を、本文で述べた思考の最初の行為、すなわち、単なる状態を、持続する質や意味に変える最初の対象化にも適用したら、どうなるだろうか。つまり、最初の対象化の行為は、単なる感じの状態から、実体的な質、あるいはそれに付属する質をつくり出せない、その行為が設ける区別を、すでにそこに見いださなければならない、といったらどうだろう。たちまち無限後退に陥ることは明らかである。ここでロッツェは、根本的なジレンマに直面している。思考は、自分自身の区別を恣意的に押しつけるのか、それとも、すでにそこにあることを繰り返すだけなのか。偽りをつくるのか、それとも無用なのか、というジレンマである。この同じ矛盾が印象にどう及ぶかについては、すでに論じた。三一ページ参照。

注 38

[38] 第一巻、三一ページ。

注 39

[39] すでに見たように、概念、すなわち意味そのものは、つねに省察的な状況の一つの要因、あるいは一つの位置を占めるものである。それはつねに判断の述語であり、論理的な主語、すなわち知覚の所与を解釈し、展開するために使われる。仮説を扱う第七章参照。

注 40

[40] ロイスは『世界と個人』第一巻、第六、七章で、意味を妥当なものとする考えを批判している。しかし、その批判は、妥当性と実在性の間に違いがあり、妥当な観念の意味や内容が実在的になるのは、直接の感覚において経験されるときだけだ、という含意を持つ。本文の見方も、もちろん、妥当性と実在性の違いを含んでいる。しかし、妥当性を確かめる基準は、観念が果たすと称し、主張する、方向づけや統御の働きを、実際に果たすことにある。同じ観点は、ロイスが『内的な』意味、『外的な』意味と呼ぶものの解釈にも、大幅な修正をもたらすだろう。ムーア『存在、意味、実在』、『シカゴ大学創立十周年記念出版』第三巻参照。

注 41

[41] 第二巻、二五七、二六五ページ、および広く第三編第四章。思考自身が、自分の内容に対する思考の行為として現れるとき、ここでは心的なものとして扱われることは、重要である。しかし、このように思考を、感覚や連合の機構とともに、明示的に心的な領域に置いても、ロッツェは、心理学の問題は論理学にとってまったく無関係で、むしろ有害でさえあるという自分の主張を、考え直そうとはしない。したがって、本文で見るように、これによって、彼には格闘すべき難問がもう一つ増えるだけである。定義上、純粋に心的で主観的な過程が、どうして、存在論的な意味ではいうまでもなく、論理的な意味でさえ、妥当な成果を生み出せるのか、という難問である。

注 42

[42] ジェイムズ教授が、ただの多元性、つながりのなさ、徹底して互いに何の関係もないことを眺めて満足するのは、その一例である。この満足は、ただ多様であること自体が、一つの興味深い対象となる、美的な態度を示している。こうして統一は、それ自身が否定されるところで、自らを主張するのである。不協和が厳しく頑固で、知的にも実践的にも統一が得がたいとき、そのむき出しの多様さ自体を糧とする情動に頼って、必要な統一を確保することほど、ありふれた工夫はない。宗教、芸術、恋愛感情には、その例が満ちている。

訳注

原資料にはこの注の本文はあるが、本文中の対応する参照位置は不明である。

注 43

[43] ロッツェは、この関連で、私たちの観念と、それが向けられる対象との対立それ自体も、観念の世界の一部である、とまでいう(第二巻、一九二ページ)。連続して経験する世界に対して『観念の世界』という言い方をしている点を除けば、彼は、ここから出発するだけで、まっすぐに進み、どこかへ到達できたはずだ。しかし、この見方と、思考に、また思考のなかに与えられる何かが初めから独立して存在し、思考の活動、形式、内容も独立して存在するという見方とを、両方とも保つことは、絶対に不可能である。

注 44

[44] 本論で示すボザンケの判断論への批判は、ジョン・デューイ教授が『論理学の理論』の講義で展開した判断論の立場から行うものである。題名が示すように、本論の主眼は批判にある。しかし、批判の立場を説明するために、その一部を割く必要があった。――H・B・T。

注 45

[45] 本論の参照ページは、すべて、バーナード・ボザンケ『論理学、あるいは知識の形態学』第一巻、オックスフォード、一八八八年のものである。

注 46

[46] F・H・ブラッドリー『論理学の原理』六四ページ。

注 47

[47] もちろん、この難点は、単なる形式上のものでも、まして言葉の上だけのものでもない。私たちは本能的に、実在は連続する全体だというボザンケの言葉を認める。そういう権利があるのかと問うことは、ほとんど揚げ足取りのように感じる。しかし、なぜだろうか。それは、判断の内容が連続しているからである。判断はつねに、互いに関係する一つの全体を規定することに関わる。しかし、すべての内容が観念的であり、判断は、孤立した接触によって、この内容を実在に適用するだけだというのなら、適用される内容を離れても実在は連続しているといい、さらにその主張によって、判断の客観的な妥当性、その恒久的な真理の要素を正当化するのは、まさしく、証明すべきことを丸ごと前提にすることである。

注 48

[48] ボザンケ氏が、自分のなかでは、『対応』という言葉によってこの難点を免れている、と私たちが考えるだけの十分な理由がある。『名前は、別々の世界において対応する、観念のこれらの要素を表す。』この対応を、単なる存在の同一性と混同するのは不当だと、私たちが非難されることさえありうる。しかし、ある観念が、別の観念を指すという意味で対応するなら、それは、まさに説明すべき事実、すなわち、ある存在がどうして自分を超えて何かを指せるのかということではないだろうか。

注 49

[49] この結論は、ブラッドリーが『現象と実在』第四章で、明確に認めている。

注 50

[50] 意識的な思考が、どういう意味で知ると主張するのかを問うことは、示唆に富むだろう。それは、思考そのものが打ち出す一般的な主張なのか、それとも、ある個別の思考の内容が持つ主張なのか。前者なら、もちろん、具体的な妥当性や真理とは無関係な、敬虔な願望にすぎない。後者なら、まさに、いま考察している問題そのものである。

注 51

[51] 個人の観念そのものと、実在する対象そのものとの中間に、『意味』の世界を挿入するこの点で、ボザンケはロッツェに従ったように見える。すでに述べた批判、九三―九五ページ参照。

注 52

[52] あるいは、問いに付されたものとしての状況も、それ自体が事実であり、まだ確定されてはいなくても、その性格は十分に特定された事実なのである。三八、五〇ページ参照。

注 53

[53] もちろん、到達する過程は時間的であり、主語と述語の本質的な関係は永遠だとする区別は、判断を、『私たち』が、すでにそれ自体では現実である実在を再現し、あるいは自分にとって現実のものにする過程と捉える考えに、さかのぼる。そして、まったく同じ難点を含む。主語と述語との関係、すなわち、この同時の区別と相互の指示が意味を持つのは、調整の行為、統御を試みる行為のなかでだけである。その行為の内で、私たちは、自分の条件を振り分ける。行為が終わると、主語と述語が、主語と述語として持つ関係は、完全に消える。両者の永遠の関係というのは無意味であり、同じ手で、同じ遠くの対象に、永遠に手を伸ばし続けることを語るようなものである。そのような考えでは、状況の一時的な局面を捉え、それを切り離して、一つの実体に仕立て上げただけである。この観点から、カントの意味で、判断が『総合的』であるという性格を考察すれば、重要な成果が得られるだろう。近代の論理学者は皆、判断は拡張的で、知識を広げなければならず、『取るに足りない命題』は、そもそも判断ではないと認める。これは、判断が、その効果と意図において、発展させ、移行させるものであるということ以外に、何を意味するのか。それなのに、同じ著述家たちは、実在を、完成して変わることのない一つの判断のなかにある、完成した内容の体系と考える! この矛盾を避けるには、判断の仕事は変容させることなのだから、その検証基準、すなわち真理は、自ら課した個別の変容を首尾よく実行することにあり、その変容は時間的なものだと認めるほかない。

注 54

[54] これが、ロイスの外的な意味と内的な意味との区別の、実際の姿ではないかと考える価値がある。経験の予期は、観念、すなわち予期された経験を実現する統御の、働きのうえでの前提条件である。一方が他方より『内的』なのでも、『外的』なのでもない。

注 55

[55] 『論理学』三〇四ページ。

注 56

[56] ド・モルガン『逆説集』五五、五六ページ。ウェルトン『論理学』第二巻、六〇ページに引用。

注 57

[57] 先進的な文法学者は、この問題を、論理学者にとって学ぶべき仕方で扱っている。スウィートによれば(『新英文法――論理的・歴史的』、オックスフォード、一八九二年、第二九五節)、仮説は、肯定または否定を『思考の対象として』示唆する。『実際、私たちはしばしば、if it is true〔もしそれが真なら〕の代わりに、supposing、すなわち thinking、it is true〔それを真と想定する、つまり考えるなら〕という。』要するに、仮言判断は、そのものとして、思考の内容、述語、仮説を、私たちの前に明示的に置く。そして、そのかぎりで、十分な判断そのものというより、判断のなかの一契機なのである。

注 58

[58] もちろん、このことには、『感覚』と『心像』は、それ自体として別々の心的な存在なのではなく、区別された論理的な力である、という考えが伴う。

注 59

[59] 主語と述語、データと仮説の厳密な相関性については、三四ページ参照。

注 60

[60] 『ノヴム・オルガヌム』第一巻、六一ページ。

注 61

[61] ニュートンの『哲学するための規則』(『プリンキピア』第三編)は、次のとおりである。

第一規則。『自然の事物の原因として認めるのは、真であり、かつ、その事物の現象を説明するのに十分なものだけとし、それ以上を認めてはならない。』

第二規則。『同じ種類の自然の結果は、できるかぎり、同じ原因に帰さなければならない。』

第三規則。『物体の性質のうち、強さが増したり減ったりせず、実験の及ぶ範囲のすべての物体に属すると分かる性質は、あらゆる物体の性質と見なさなければならない。』

第四規則。『実験哲学では、現象から帰納によって集めた命題は、どんな反対の仮説があっても、正確に真、あるいはきわめて真に近いものと見なさなければならない。ただし、別の現象が現れ、それによって命題がより正確にされ、あるいは例外を認めるべきものになるまでは、ということである。』

注 62

[62] 第三編第二章第五節。斜体は筆者。この箇所の後半、『しばしば……始めるのでなければ』に始まる部分は、ミルがコントから引用したものである。『帰納も演繹も、最も単純な現象さえ理解させてはくれない』という言葉は、ミル自身のものである。

注 63

[63] 第三編第七章第一節。

注 64

[64] 第三編第一四章第四、五節。

注 65

[65] ウィリアム・ヒューウェル『帰納諸科学の哲学』、ロンドン、一八四〇年。

注 66

[66] ヒューウェルの見解と、すでに論じたロッツェの見解(第三章参照)との本質的な類似は、もちろん、両者がカントと共通の関係を持つことで説明できる。

注 67

[67] 『論理学』第四編第二章第二節。斜体は筆者。

注 68

[68] 同上。

注 69

[69] 同上、第四節。第六節では、どんな概念も、『私たちが理解したいことへと近づくのを助ける』程度に応じて適切である、と、さらに明示的に述べている。

注 70

[70] 同上、第六節。斜体は筆者。

注 71

[71] ヴェン『経験的論理学』三八三ページ。

注 72

[72] ヴェン『経験的論理学』二五ページ。斜体は筆者。

注 73

[73] ウェルトン『論理学教本』第二巻、第三章。

注 74

[74] W・S・ジェヴォンズ『科学の原理』二三一、二三二ページ。

注 75

[75] B・エルトマン『三段論法と帰納の理論について』、『哲学論集』第六巻、二三〇ページ。

注 76

[76] ヴント『論理学』第二版、第二巻、一三一ページ。

注 77

[77] ウェルトン『論理学教本』第二巻、七二ページ。

注 78

[78] 前掲書、第一巻、四五二ページ以下。

注 79

[79] 前掲書、第一巻、四五四―四六一ページ。

注 80

[80] ボザンケ『論理学』第一巻、四六ページ。

注 81

[81] ブラッドリー『論理学の原理』一〇ページ。

注 82

[82] 前掲書、第一巻、七四ページ。

注 83

[83] ブラッドリー『論理学の原理』一一ページ。

注 84

[84] 前掲書、第一巻、七五、七六ページ。

注 85

[85] ブラッドリー、前掲書、四―六ページ。

注 86

[86] 前掲書、七、八ページ。

注 87

[87] この研究は、ある意味で、一八九六年にシカゴ大学出版局から刊行した『アリストテレスの体系における必然と偶然』七〜一〇頁を発展させたものとみなせる。論じ方は、まったく独立しているが、この二つの論考は、互いを補うものである。

注 88

[88] 私の知る、この真理を最もよく示す具体例は、化学について、F・ヴァルトの論文「化学量論の基本法則の成立」(Die Genesis der stöchiometrischen Grundgesetze)、『物理化学雑誌』(Zeitschrift für physikalische Chemie)、第一八巻(一八九五年)、三三七頁以下に示されている。

注 89

[89] Ξ 二〇一、二四六行。

注 90

[90] Η 九九行。

注 91

[91] ディールス版、断片九〇にちなんだ表現。ディールスは、断片一〇八(バイウォーター版、断片一八)の ὄτι σοφόν ἐστι πάντων κεχωρισμένον に、神は絶対者であるという考えを見いだし、アナクサゴラスの Νοῦς、プラトンの χωριστὴ ίδέα、アリストテレスの οὐσία χωριστή と比較する。彼は σοφόν=λόγος と考え、この断片に大きな意味を認める。しかし、この解釈は、ヘラクレイトスについて知られている、ほかのすべてと、まったく両立しない。許される解釈が、ほかに一つもない場合にだけ、受け入れるべきである。ツェラーは、この断片を詳しく論じている。第一巻、六二九頁、注一参照。ディールスの解釈を受け入れるなら、本文で述べた、ヘラクレイトスの論理的な立場の説明は、放棄しなければならない。

注 92

[92] ヘラクレイトスを相対性の学説の創始者とするのが、かつて流行し、一部では今もそうである。しかし、それを否定するツェラーのほうが、まったく正しい。彼の教えが、そうした展開に適していたのは確かだが、彼自身は、そのようには述べていない。彼によれば、対立するものは、過程のなかで共存するのである。

注 93

[93] リッター=プレラー、第六五節c参照。

注 94

[94] 一言でいえば、これが拙著『アリストテレスの体系における必然と偶然』の主旨である。

注 95

[95] 私は、ソクラテス以前の哲学における物理的相互作用の問題について、研究を準備している。そこでは、この問題を、あらゆる側面から扱う。

注 96

[96] もちろん、これは比喩的な言い方である。エンペドクレスは、空虚の存在を否定したからである。

注 97

[97] この言明は、古代のいくつかの記述に反するが、ここで擁護することはできない。詳しい議論は、物理的相互作用についての私の論考に譲らなければならない。

注 98

[98] この前提を置く動機は、明らかに、ヌースを世界の原動者としながら、世界から反作用を受けないものにしたい、という願いにあった。その本性が、ほかの事物の部分を含んでいたなら、反作用は避けられなかっただろう。アリストテレスが、神と理性的な魂に、同じような定義を与えたのも、この「触れ返されずに触れる」という問題による。同じ難しさは、プラトンの『パイドン』の絶対に「単純な」魂と、イデアの因果作用にも、つきまとっている。

注 99

[99] アリストテレス『生成消滅論』三二三b、一〇行以下。

注 100

[100] この区別が、アナクシメネスの希薄化と濃縮の過程に潜んでいたことは、すでに見た。そのほかについては、シェニェ『心理学史』(Histoire de la Psychologie)、第一巻、一一四頁参照。ただし、その記述には、いくつかの点で訂正が必要である。

注 101

[101] 「おそらく」と述べたのは、位置や配列と、一次性質・二次性質の区別との正確な関係について、古代の記述が一致しないからである。

注 102

[102] これも、ヴェン氏が『経験的論理学』五六頁で、「原因と結果を、ねじで締めつけて、ぴったり隣り合わせにする」と、機知を利かせて述べたことの、一例にすぎない。

注 103

[103] シンプリキオスは、εὐθὺς μετὰ τὸ προοίμιον と述べる。ディールス『ソクラテス以前の哲学者の断片』(Die Fragmente der Vorsokratiker、ベルリン、一九〇三年)、三四七頁、一八行参照。

注 104

[104] ディールス版、断片二。

注 105

[105] ディールス『ソクラテス以前の哲学者の断片』三四三頁、二行、および三四四頁、二七行参照。

注 106

[106] 三二〇C以下。

注 107

[107] 紙幅の制約と、印刷に回す直前の準備の事情から、この主題の近年の文献には、ごく一般的、断片的にしか言及できなかった。その多くは、論理学的な観点と心理学的な観点を、十分に区別していない。そのため、批判の対象となる立場を詳しく述べ直し、分析せずに、批判的に参照しても、役に立たないだろう。

注 108

[108] 問題を複雑にしないため、ここでは、物理的な世界、対象、性質は、判断の十分な内容となりうるものとして当然視でき、問題は経済的・倫理的な内容の客観性だけにある、という一般的な考えを用いた。もちろん、最後には、「物理的」な対象自体が、広い意味で「経済的」な構成物、すなわち、有効な、あるいは成功した経験のための道具だと、考えるようになるかもしれない。先の例に即していえば、何らかの家を建てる計画を、一般的に抱く態度にあるとき、目の前には、さまざまな建築材料があるかもしれない。その確かめられた性質は、その用途に一般的に適すると、社会で認められているのかもしれない。この点では、いま触れた一般的な考えにも、確かな根拠がある。しかし、倫理的・経済的判断で計画を明確にし、実際に、しかも、ある特定の種類の家を建てると決めることとともに、手段の物理的な側面も、さらに規定しなければならない。そして、その規定は、絶えず、目的を定める過程へ働き返す。後の二四六頁、注三参照。

注 109

[109] 道徳生活でも、ほかの場合と同じく、演繹と帰納の違いは程度の違いである。推論の型、あるいは方法は一つしかない。ただし、ある推論は、ほかの推論よりも、純粋な「包摂」の極限へ近づくことがある。

注 110

[110] 後の第三節参照。

注 111

[111] 経済的に対立する目的が、生活の暫定的な体系の、有機的で内的に関わり合う一部になれないという見方は、ここでは取らない。反対に、経済的な判断で、そのような二つの目的の間に確立される調整は、それ自体、倫理的であり、個人の生の目的の、暫定的な体系の一部だということが、主張の核心である。それを定める際の経済的条件が変わらないかぎり、体系のほかの場所の変化による修正は受けつつ、そのようなものとして存続する。倫理的な熟慮における目的の「相互排除」は、生活の一定の条件が、比較的固定していることの、対応物にすぎない。私たちのような社会では、書物や燃料などを得る手段を、どれほど使えるかは、時々に、大きく、しばしば突然変わる。しかし、身体的な状態、知性、共感の力、社会奉仕の精神的な能力は、ふつう、そうではない。そのため、後者の能力の行使には、道徳的な義務として、多少とも明確で持続的な、包括的な行動の仕組みがありうるし、実際にある。しかし、先の変動する条件に依存するかぎり、行動は一般的な言葉では命じられず、道徳的な自己の、どんな暫定的な理想も、そのような指示を、本質的な要素として内に取り込めない。道徳的な自己は、生活のこれら固定的な条件に基づく、理想的な構成物である。それらの条件は、それに関わり、影響する行動から生じそうな精神的な促進や悪化を、「倫理的」な判断の方法によって、直接、比較的容易に見積もれるほど、固定している。もちろん、その構成物には、比較的持続的な社会的・物理的条件への参照が含まれる。社会、物理的自然、さらにいえば、個人自身の本性が変動するかぎり、それらは、「経済的」な方法で問題を解くことに伴う、「科学的」あるいは「事実的」な判断の主語となる。その問題とは、多少とも明確で安定した、実際に働く自己の概念を参照して、一般的な答えを与えられないものである。したがって、物理的な宇宙についての知識は、主としてとまではいわなくても、大部分、経済的な経験に伴い、それによって条件づけられる。また、経済的な判断は、どの場合にも、物理的・社会的・個人的な条件が、おそらく瞬間的にさえ変わるため、倫理的方法を適用できない状況で、自己を定めるものである。今より経済的な条件が安定しているかもしれない社会主義国家では、現在、ある意味で経済的である消費の問題の多くが、倫理的になるだろう。確立した国家の生産・分配計画が前提する、自己の型を参照して解けるからである。今でさえ、その解決が倫理的にまったく無関係な、経済的状況を特定するのは容易でない。トルコ絨毯ほど「美的」な楽しみにさえ、不節制の可能性がある。

注 112

[112] したがって、目的を、倫理的なもの、経済的だが倫理的には無関係なもの、倫理的・経済的のどちらの判断にも従わないものへと、区別することはできない。目的が当面、倫理的となるか、経済的となるか、あるいは、どちらの性格も目立たないものとなるかを決めるのは、状況の型と、それに応じて用いる判断の仕方である。

注 113

[113] ここでの見方では、慎慮が徳の一つに数えられる権利を、疑うことはできない。経済的判断は、手段の価値評価でなければならないが、本質的には目的の選択である。しかも、関わる目的同士の内的な関係が、ふつう乏しく、比較する有効な観点もないため、特に難しい種類の選択と思われる。エマソンが述べるように、教養は、「慎慮が、独立した能力ではなく、身体とその必要に語りかける知恵と徳の名前だと見る」。また、「感官を究極とする、偽りの慎慮は、酔いどれや臆病者の神であり、あらゆる喜劇の題材である。……〔真の慎慮は〕人間の存在を条件づける世界の法則を、そのまま受け取り、その本来の善を享受するため、その法則を守る」(「慎慮について」)。

注 114

[114] ここでも、意図的に不正確な言葉を使っている。厳密には、競合すると述べた目的は、まだ、ある程度不定で、「明晰さ」を欠き、その真の経済的な性格が理解されていないためにのみ、競合するといわなければならない。同じく手段も、最終的に確定した経済的目的のための手段として、やがて備える、最後の微妙な程度の物理的・機械的な確定性を、まだ欠く。したがって、経済的方法と原理によって、行動の目的を定めることと解すべき経済的判断は、一般に、手段を物理的に規定し直すことを含む。この経済的判断過程の初めに、検討中の、どちらの暫定的な目的にも、同じように物理的に使えそうな手段は、問題が解けた後に知られる手段と、大まかな意味でしか同じではない。今、定まっているかぎりの手段は、現在に似た過去の状況で、経済的目的を定めることに伴った、以前の物理的判断過程の成果なのである。

注 115

[115] この予備的な問いの議論では、客観性の意識の分析と呼べるものを、与えようとはしていない。その分析は、近年、この主題についての、よく知られた研究で、さまざまな心理学者が試みている。ここでの目的には、客観性の意識が生まれる知的・実践的な態度を特定すればよく、その経験を生み出す感覚的な「要素」や要因を、特定する必要はない。

注 116

[116] 反対に、曖昧な身体内部の感覚も、それ自身の目的には、いまのままのほうが、もっと鋭く区別され、複雑に対象へ関係づけられるより、役立つ情報を与えるのかもしれない。

便宜上、ここでは、検討中の見方を、それ自身の用語で論じている。その用語を、心理学的に正しいと認めている、と理解されてはならない。「構造心理学」に出てくる感覚の質は、私たちの考えでは、構造の単位ではまったくない。実際には、省察的な注意が始まる、感覚経験の、まだ組織立っていない全体から、高度に抽象して発達させたものである。たとえば、「目の前にある、赤という属性を持つ対象」と象徴できる、明確で、測られた経験を構成するほど、判断が進むまでは、単純で分析できない感覚の質「赤」というものは、意識にはない。もとの感覚的な全体経験に代わり、今や、多少とも発達した、知覚的、すなわち判断としての全体経験がある。判断によって構成された知覚対象の、実際には意味の要素であるものを、初めにはばらばらで、後から外的に結びつけられた心的素材の断片と解釈するのは、「心理学者の誤謬」の一例である。「感覚の単純観念」や「感覚要素」の本性は、実際には、その意味の要素だからである。

注 117

[117] この言葉はキュルペのものであり、たとえば注意的、統覚的、意志的というように、全体として取られた意識という、彼の意味で用いている。スペンサーらによって広まった意味ではない。

注 118

[118] 以上の議論は、多くの点で、同じ主題についてのブレンターノの議論に似ている。意識のあり方の第一の類、表象(Vorstellungen)を論じて、彼はいう。「表象の間には、表象の指す対象の対立以外に、対立を見いだせない。暖かさと冷たさ、明るさと暗さ、高い音と低い音が対立するかぎりでしか、それに対応する表象が対立するとはいえない。一般に、この意識過程の領域全体には、これ以外の意味での対立はない」(『経験的立場からの心理学』第一巻、二九頁)。これは、客観的な指示から切り離された、抽象的な感覚の質の間に、対立を見いだそうとする試みに、対抗するものとなる。しかし、表象された対象同士を区別する根拠は、何か。つきつめれば、上で述べたように答えなければならないだろう。この意味では、最後には、「感覚的」「物質的」を、先に定めた客観性によって解釈すべきであり、その逆ではない。それらは、適切な刺激を規定することの、一つの場合、あるいは具体化なのである。

注 119

[119] これに関連して、タイプライターの操作、ピアノ演奏など、確立した感覚運動の連携へ、細部への注意を無理に持ち込むと、よく知られた妨害の効果が生じることを、挙げられる。

注 120

[120] ボールドウィン教授『社会的・倫理的解釈』、およびマクギルヴァリー教授の近年の論文「道徳的義務」、『フィロソフィカル・レビュー』第一一巻、特に三四九頁以下参照。

注 121

[121] すぐ上で示したように、こうして受け入れられた対象の価値には、経済的判断の初めよりも、対象についての豊かな物理的知識が含まれる。前の二三四頁の注、二四六頁の注三、および後の二七一頁参照。

注 122

[122] 『倫理理論の諸類型』第二巻、五頁。

注 123

[123] 前の二五三頁参照。

注 124

[124] 一方の対象が、他方の行為者の意識に、この主題の近年の論争で大きな役割を果たしてきた「抵抗の感覚」を生じさせる、というより、(一)対象の、ある促しが、別の促しに「抵抗している」、あるいは、(二)行為者の「積極的」な活動が、「消極的」な活動によって抑えられ、それによって「抵抗の情動」が生じる、といったほうがよい。「積極的」「消極的」を、ここで目的に即して使っていることは、明らかだろう。「感覚」を、感覚的な質の強い経験という日常的な意味で使うのでなければ、批判的な引用符をつけてさえ、「抵抗の感覚」と語るのは、確かに誤解を招く。

注 125

[125] ここで前提し、実際、この議論全体の基礎をなす情動の一般理論は、デューイ教授の論文「情動の理論」、『心理学評論』第一巻、五五三頁、および第二巻、一三頁に見られる。

注 126

[126] 実際、倫理的直観主義のさまざまな形は、そう教える。そして、その立場が、多くの点で直観主義から遠い、グリーンの『倫理学序説』にさえ、それは、暗黙に含まれるだけでなく、明示的に肯定されている。一七八〜一八一頁、特に三五五〜三五九頁参照。

注 127

[127] 説教第二篇。

注 128

[128] もちろん、心理学的にも論理的にも、条件と手段の区別が、便利で表面的な区別以上のものだと、意味しているのではない。

注 129

[129] 明らかに、ここでは、先に述べた実在の「再認の指標」に、新しい方向から近づいていた。二六六頁参照。

注 130

[130] これを、科学としての心理学の成立や、個人の心理学的な関心の成立を説明するものとするなら、疑いなく、きわめて不十分である。たとえば、誤りと、それに続く実践上の失敗が、観察などの判断過程や、その統御の技法への関心を刺激する役割には、まったく触れなかった。目的を実行する過程と同じく、ここにも、科学としての心理学の根の多くが、見いだされるはずである。また、「力を発揮する」自己が、自分の力を中断し、遅らせる、これらの現象を、実際、自分自身のもの、あるいは自分の内にあるものとして引き受けることについても、説明していない。この問題は、心理学的であり、私たちの領域の外にあると思われるので、喜んで通り過ぎることにする。

注 131

[131] ここで、ごく大まかに描いた過程の、心理学的な仕組みや連鎖を、細かく分析することは、もちろんできない。いまの目的は、まったく記述にある。移行の過程についての説明は、わずかなものだが、それに紙幅を割いたのは、これから述べる、意識的な価値評価の過程を理解できるものにするため、必要と思われたからにほかならない。いま述べた動きが、その過程への道を用意するのである。

本文では、目的が計画どおりに成功し、その成功によって、望ましくない結果が生じると前提していることに、注意されたい。目的そのものの実行に失敗しただけなら、すでに概略を述べた仕方で、事実的な条件を、より十分に調べることしか促さないだろう。

注 132

[132] レビ記の律法に代わり、新しい契約の一般原理を置き、その細部を、権威ある教会や「個人の判断」が読み取るとしても、この場合の論理的な性格は、本質的には変わらない。

注 133

[133] 注意として、一言付け加えておこう。表象された自己は、状況への対処で、ある種の論理的な手続きを支持する、単なる格率や暗黙の前提にまで薄まる、と述べた。しかし、表象された自己も、ほかのすべての表象と同じく、経験のなかで働くために存在し、生じるのであり、初めから実践的だということを、覚えておかなければならない。したがって、描いた過程は、裸の表象内容そのものから、方法に関する前提への移行ではない。後者が、方法的で内容的ではないために、それ以前のものと、質的に違う、という過程ではないのである。

注 134

[134] 認められた権威と、絶対的に支配しているために、権威として気づかれていないものとは、もちろん、決して同じではない。

注 135

[135] この簡略な概観に、倫理学の歴史から実例を添えないことは、ご容赦いただきたい。

注 136

[136] 実際、先に示唆したように、『倫理学序説』は、多くの点で、その精神において、本質的に直観主義的である。ただし、その直観主義は、近代的で、慎重に薄められた種類のものではある。

注 137

[137] これが、心的過程の科学としての機能的心理学の、論理的な価値と思われる。

注 138

[138] ここで、ごく簡潔に論理的な言葉で特徴づけた歴史的な過程は、すでに少し概観した。

注 139

[139] 事実判断の問題の、さらなる考察は、第五節に譲る。

注 140

[140] 経験的な自己と、「力を発揮する」自己および基準との関係は、いま述べた関連で、第五節で説明する。

注 141

[141] 実際に働く、さまざまな型の道徳的基準の「論理」を、構成できるかもしれない。それぞれの型に、形態上、一段上の型が含意され、究極的には最高の型、すなわち、「力を発揮する」自己についての、何らかの概念が含意されることを示す、そのような構成である。

注 142

[142] 倫理学でも形而上学でも、普遍が抽象的か、逆に、グリーンの自己の概念や「ヘーゲル的」な絶対者のように「具体的」かは、まったく問題ではない。個々のものを定める際の、その論理的な用い方は、どちらも本質的に同じでなければならない。

注 143

[143] これに関連して、テイラー氏の近著『行動の問題』を挙げられる。同氏は、道徳生活を、利己主義と社会正義の理想の、究極的な対立へ還元し、その対立は理論上、和解できないとする。現在の倫理理論の基準への、この否定的な態度には、十分同意できるとしても、だから倫理学の理論は不可能だという、同氏の、さらに進んだ主張を受け入れる必要はない。「包摂の倫理学」が、明らかに無益だからといって、近代の科学的論理に沿って、科学の研究者の手続きと同じく妥当な、倫理学の方法を発展させられないとは、決していえない。テイラー氏の論理は、倫理的な理想が不可能だから、倫理学の理論も不可能だとする点で、批判する倫理理論と、事実上、同じである。興味深い並行例として、ブラッドリー氏の『論理学』の終わりの諸章にある、知識批判を思い出す。

注 144

[144] ボザンケ氏の、類推における目的論の原理の位置についての議論は、この関連で示唆的であろう(『論理学』第二巻、第三章)。

注 145

[145] 前の二四三頁、および二五九頁末尾参照。

注 146

[146] 「エネルギー等価物」という表現を使うのは、過去の調整によって自己が得た「超過分」が、まさにこの点では重要でないからである。いまの手段の本質的な意味は、力として得られると約束されたものより、「費用」が少なかったことではない。犠牲を要した以上、約束を果たさせなければ、今、自己が損失を被るということである。手段は、自己の力を保つ観点から、確立した消費の仕方に、論理的に等価なのであって、数学的に等価なのではない。

紙幅があれば、ここで働くエネルギーとエネルギー等価性の概念の、心理学的な基盤を、簡潔に説明したいところだが、省かねばならない。

注 147

[147] 否定的にいえば、新しい目的を断念することは、現在の消費体系を維持することで埋め合わせられる、すべての犠牲よりも「大きな」犠牲を伴う。

注 148

[148] よく知られるように、グリーンは、理想的な自己の、どんな定式化も不完全だと認める。しかし、それを理由に無用とはならない、とする。だがこれは、理想の発展が、根本的な再構成となることは決してなく、理想は、確立した変わらない成長の道筋に沿って広がり、充実するため、増加は、すべて付加の性格を持つ、と前提することである。体系としての自己は固定され、個人の道徳的な成長は、すべて、この絶対的な理想への接近となる。これは、論理的には、スペンサー氏の社会進化の仮説と、本質的に同じと思われる。その仮説では、社会は、それが完全に適応した環境のなかで、社会と個人が互いに完全に適応する状態へ、次第に近づく。その状態では、「完全に進化した」個人が、「絶対的倫理」の要求に従い、至福のうちに生きる。この後者の型の見方への批判は、先に挙げたテイラー氏の著書、第五章の各所を参照。

注 149

[149] 良心的であることを、道徳的な態度として、グリーンが慎重に擁護する議論は、『倫理学序説』第四篇、第一章参照。また、グリーンの難点に関わる、ここでの見方の説明は、デューイ『倫理学研究――講義要綱』三七頁末尾、および『フィロソフィカル・レビュー』第二巻、六六一〜六六二頁参照。

注 150

[150] こうして、不十分ながら示した道筋に沿えば、自己の形而上学的な観念を不要にしようとする試みへの、ある種の批判に答えられるかもしれない。その批判は、ふつう、形而上学的な理想を参照しなければ、行為者の道徳的な行為が、「力を発揮する」自己に及ぼす効果についていう、「調整」「拡張」「促進」などの概念に、意味はないと論じる。正しく広がった自己という形而上学的理想で判断しなければ、何をしても、新しいことであるかぎり、自己を広げることになってしまう、というのである。この一般的な批判の、優れた説明は、ストラットン「徳の心理学的な試験」、『国際倫理学雑誌』第一一巻、二〇〇頁参照。

注 151

[151] 近年の、ある著者たちによる価値判断の客観性への論駁、たとえばエーレンフェルスの『価値論体系』でのそれは、古くからの「一次」「二次」性質の区別を、主観と客観の論理的な区別に等しいものとして、無批判に受け入れることに立っているように見える。こうしてエーレンフェルスは、「価値概念が客観的な意味を持つという偏見」を、人間の知性に根深い、「自らの表象を客観化しようとする衝動」を表す、誤解を招く言葉遣いによるものと説明して、反駁する。そして続けて、「私たちは、物のなかに、神秘的で触れられない価値の本質があると認めるから、その物を欲するのではない。欲するから、価値を与えるのである」と述べる(同書、第一巻、二頁)。これは、論理学的観点と心理学的観点が、いかに容易に混同されうるかの例になる。エーレンフェルスの、価値の正式な定義も同様である(第一巻、六五頁)。

注 152

[152] 事実判断が、経済的・倫理的な対立の発生に、本質的に依存することは、知識の目的論的な性格についての、広く流布した教説に含意されている。実際、今日、知識は目的に相対的だと、何らかの意味で述べるのは、常識に近い。しかし、その見方を取る人々が、いつも認めているわけではないのは、目的が、目的として、単独で意識に現れることは決してない、という点である。事実的な知識の構成を導く目的は、本文で論じた仕方で、同じくまだ定まらない別の目的と、倫理的・経済的に対立する目的なのである。

注 153

[153] 前の二八二〜二八三頁参照。

注 154

[154] シラー『スフィンクスの謎』第七章、第一〇〜一四節参照。

注 155

[155] エネルギー保存の原理は、物理的な領域でのみ妥当すると思われる。しかし、この限定の論理的な意味を、ここで論じることはできない。

注 156

[156] この前提が、心理学の連合主義と、倫理学の快楽主義という、対をなす理論の本質的な基礎であることは、ウォーナー・ファイト博士の論文「経験の連合論的概念」、『フィロソフィカル・レビュー』第九巻、二八三頁以下に示されている。ブラッドリー氏『論理学の原理』二四四〜二四九頁の、快楽主義の論理についての考察も参照。

注 157

[157] 「力を発揮する」自己は、どうやら、ブラッドリー氏の第四の「自己の意味」、モナドとしての自己に当たる。「人間の生と並行して動く何か、むしろ、動かず、文字どおり、その人の継起する多様性と関係して立つ何か」である(『現象と実在』初版、八六頁、第九章「自己の意味」)。ブラッドリー氏の難しさは、本質的に論理的な概念に、心理学的な内容を求めることから生じるように思われる。こういってよければ、この混同は、その章全体を貫き、同氏の述べる、さまざまな自己の意味の、否定しがたく、救いがたい不整合の原因となっている。「モナドが、まったく性格を持たないか、別個の私的な性格を持って、離れて立つなら、それは、それ自体では立派なものかもしれないが、人間の自己と呼ぶのは、ただの嘲弄である」と同氏はいう(八七頁)。しかし、これは確かに、心理学的な内容を記述して規定する、いかなる可能性からも、本質的に、論理的に離れているという性格を、誤解したうえで非難することである。その性格こそ、価値評価の過程を、したがって必然的に事実判断をも刺激する論理的概念としての、「力を発揮する」自己の価値のすべてをなす。前の二五八〜二五九頁参照。読者は、ブラッドリー氏の意味の列挙のなかに、私たちの経験的な自己の概念を、自分で見つけられるだろう。しかし、私たちの説明では、「力を発揮する」自己と経験的な自己との間に、必然的な対立はないように思われる。

注 158

[158] この切り離せない二つの側面のうち、第一では、価値評価は、正しさと不正を定める。第二では、対象を、善または悪として示す。前の二五九頁参照。

注 159

[159] たとえば、ヴィーザー『自然価値論』英訳、一七頁参照。

注 160

[160] 前の三〇七〜三一二頁参照。

注 161

[161] この例も、それによって示そうとした一般原理も、数年前、G・H・ミード教授の「心理学史」の講義で示唆されたものである。筆者は、その講義を聴く機会に恵まれた。

注 162

[162] 価値評価の、保存する働きは、すでに触れ、近代の経済理論で大きな役割を果たした、よく知られる限界効用の原理によっても例示できる(前の三〇七頁)。この原理では、ある商品の在庫の単位量の価値は、在庫全体を配分する用途の一覧で、最も重要でない一つの用途によって測られる。したがって、単位量に与えた、この価値評価を維持することは、そのかぎりで、配分表全体を保つ。そして限界価値は、その配分表に示された、複合した目的全体の価値を表す、「速記的な」象徴である。さらに、消費、損失、再適用で在庫が減るのとともに、限界価値が増すことは、目的の変化というより、減った手持ちで、なお達成できるかぎり、もとの消費計画を守ろうとする決意を示すのである。

注 163

[163] したがって、この条件の下でなければ、友人や、思い出の品、聖なる遺物の価値を語るのは、適切でないとすべきである。そのような対象が、自分の目的を達成するうえで果たす働きを、正確に定めようとする目的は、それを愛し、慈しみ、崇敬する、本来の態度とは相いれない。友人のために犠牲を払う行為や、思い出の品を気遣い世話する行為は、倫理的に評価できる。しかし、その犠牲や気遣いの対象そのものは、それが適切に刺激する活動の種類に応じた、直接的な「質的」な情動的性格を持つだけである。

注 164

[164] 『哲学史』(タフツ訳)、117ページ。

注 165

[165] J・R・エンジェル教授「構造心理学および機能心理学と哲学との関係」、『シカゴ大学創立十周年記念出版』第3巻、10~12ページを参照。『フィロソフィカル・レビュー』第12巻第3号にも掲載。あわせて、『人格的観念論』所収のシラー氏の論文「要請としての公理」も参照。

注 166

[166] ここから先の本論は、『シカゴ大学創立十周年記念出版』第1系列第3巻から別刷りにされた論文「存在、意味、実在」の11~13ページにある、いくつかの段落を展開したものである。

注 167

[167] 22ページ。

注 168

[168] 22~23ページ。イタリックによる強調は本章筆者。

注 169

[169] 25ページ。

注 170

[170] 26ページ。

注 171

[171] 36ページ。イタリックによる強調は本章筆者。

注 172

[172] 22~23ページ。イタリックによる強調は本章筆者。

注 173

[173] 307ページ。

注 174

[174] 327ページ。

注 175

[175] 23ページ。イタリックによる強調は本章筆者。

注 176

[176] 34ページ、および22ページを参照。

注 177

[177] 35ページ。

注 178

[178] この点は、「行動計画」という表現の「行動」を、今日の多くの議論で用いられているよりも広く捉えなければならないことを、私たちに注意するよう促す。それを、身体を動かすことに限ってはならない。計画され、実際に生じたときにその計画を実現する、あらゆる種類の活動に適用されなければならない。ジェイムズ教授『哲学的概念と実際的結果』の7ページ冒頭の段落は、この趣旨だと私は受け取っている。

注 179

[179] 270ページ。

注 180

[180] 270~271ページ。

注 181

[181] 276ページ。

注 182

[182] 277ページ。

注 183

[183] 280~281ページ。

注 184

[184] 256ページを参照。

注 185

[185] 289ページ。イタリックによる強調は本章筆者。

注 186

[186] 281ページ。イタリックによる強調は本章筆者。

注 187

[187] ついでに指摘しておくと、ここでは、普遍的なものは有限な経験のうちに置かれ、特殊なものの根拠は絶対者のうちに置かれているように見える。

注 188

[188] 282ページ。

注 189

[189] 284ページ。イタリックによる強調は本章筆者。

注 190

[190] 283ページ。

注 191

[191] 332ページ。

注 192

[192] 339ページ。

注 193

[193] 主観主義のこの亡霊は、有限な観念の最終的な実現を「ある絶対的な観念体系」のうちに見いだす、この論考の部分全体につきまとっている。

注 194

[194] 330ページ。イタリックによる強調は本章筆者。

注 195

[195] 337ページ。

注 196

[196] 286ページ。

注 197

[197] 307ページ。

注 198

[198] 297ページ。

注 199

[199] 目的にかかわる働きを、表象の働きへ還元することには、思考と意志の性格全体と両者の関係について、興味深い含意がある。ロイス氏は、最初から最後まで、ほとんどすべてのページで、観念は意志の表現だと強調する。冒頭では、こう述べられる。「観念そのものを、意識の事実として定義しようとするとき、最もよい方法は、どんな観念も、それを形成する精神にとって、ある種の意志ないし能動的な意味を含んでいるという点を強調することである」(22ページ)。また、「観念は、自らの確定を求める意志である。それ以外の何ものでもない」(332ページ)。講義全体を通じて、このような言葉が続く。そして、歌うことなどの具体的な行為の分析において、これがいかに一貫して展開されているかは、すでに見た。ところが、絶対的な体系との関係では、観念に具現された意志は、ある絶対的な観念体系に近づくことに、その最終的な確定を見いださなければならない。これでは、意志は、表象そのものの単なる形式と、ほとんど変わらないものになってしまうように思われる。観念は意志である。だが、真理との関係では、その意志は、「曖昧なままであっても、それ自身の最終的で完全に個体的な表現に対応すること」なのである。

注 200

[200] 339ページ。

注 201

[201] 338ページ。

注 202

[202] 335ページ。

注 203

[203] 前掲のゴア氏の論文を参照。

注 204

[204] 「新しい経験」は、習慣を利用できるかどうかという試験に従わなければならない、という点については、ボールドウィン『発達と進化』250~251ページを参照。広く解釈すれば、ここでいう習慣は、有機体と環境を含む機械的な側面全体を意味しうる。したがって、ボールドウィン氏の第二の試験、すなわち「有機体外の」試験も含むことになる。

注 205

[205] 19ページ。

注 206

[206] 17~18ページ。

注 207

[207] 前掲、デューイ教授の第三章、49ページ以下を参照。

注 208

[208] 55ページ。