錬金術 / ゲベル(原刊の帰属表示)完全性の大全 ― 全二巻
錬金術 / ゲベル(原刊の帰属表示)
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1541年De alchemia所収の全2巻・100章、427対訳単位。全巻版と同一本文の単独抽出版。原刊57–58頁は頁付けの飛び。
ゲベル『完全性の大全』全二巻
アラビア人ゲベル、きわめて才知に富む哲学者にして自然の事物、とりわけ金属に精通した者の、錬金術についての二巻。著者が『完全性、すなわち完成した術の大全』と題したもの。アラビア語からラテン語への翻訳。訳者不詳。ゲベル『完全性の大全』第1巻。
注 著者帰属と翻訳経路は1541年刊本の表示を訳した。現代研究でいうラテン語系ゲベル文献の成立事情と同一視しない。
第1章 この術の伝え方と、適した弟子たちについての序文。
私たちが古人の書物からさまざまに集成し、自らの諸巻で簡約してきた錬金術の学知全体を、ここで一つの大全にまとめた。私たちが著した他の書で不十分だったことは、本書での伝授によって十分に補い、それらの欠落を短い言葉で満たした。また、ある部分で隠していたことを、本巻のその同じ部分において明らかにした。それは、これほど優れ、高貴な哲学の一部の完成が、賢者たちに開かれるためである。だから、最も愛するわが子よ、知りなさい。本書には、この術の操作全体が、一般的な諸章と包括的な論述によって、何一つ欠くことなく、十分に含まれている。神にかけて、本書に従って作業した者は、この術の真の目的を発見したことを喜ぶであろう。
しかし、愛する者よ、知りなさい。自然の原理を自ら理解していない者は、すでに私たちの術から大きく隔たっている。自分の考えを据える真の根を持たないからである。自然の原理と、鉱物のあらゆる原因を知った者も、この最も隠された術の真の目的と実りを、まだ得たわけではない。ただし、私たちの作業の仕方について理解を欠いている者より、この術の原理への入口は容易であり、術の入口からそれほど遠くない。あらゆる原理、鉱物の原因、そして自然の意図に基づく生成の仕方を知る者には、作業の完成まで、なおわずかなものが残される。しかし、その残されたものなしには、私たちの学知は完成できない。技術は、自然のあらゆる働きを模倣できるわけではなく、適切に可能な範囲で自然を模倣するからである。
注 原刊正誤表(21頁・17行)に従い、行末の in- と訂正語 tētione を合わせ、intentione と展開した。
それゆえ、最も愛するわが子よ、秘密を明かそう。自然の作用の性質を、あらゆる相違にわたって模倣しようとする術者は、この点で誤っている。だから私たちの諸巻を熱心に学び、幾度も心の中で繰り返し考え、私たちの語り方から真の意図を得るよう努めなさい。そこには、自らの考えを据えるべき基礎が見いだされる。また、それらによって誤りを退ける方法と、自らの作業の技において、どの点で自然を模倣できるかを知るだろう。
注 原刊正誤表(21頁・22行)に従い、「quod naturam in omnibus」と読む。
注 原刊正誤表(21頁・24行)に従い、「et ea saepissime」と読む。
第2章 この第1巻の四部への区分。
そこで、まず術者が作業において妨げられ、真の目的を得られなくなるすべての障害を、短く示そう。また、この術の術者に必要な条件を述べる。第二に、無知な者や詭弁家に反論する。彼らは、この術の奥義と実りを求めながら、自らの無知と未熟のために、この術を否定し、そんなものは存在しないと主張する。私たちは彼らのあらゆる論拠を示し、その後、それをきわめて明確に論破する。そうすれば、彼らの詭弁には真理が一つも含まれていないことが、分別ある人々に十分明らかになる。第三に、自然の意図に属する自然的原理を論じ、同じ箇所で、自然の働きによるそれらの生成と相互混合の仕方、またその結果を、古代の哲学者たちの見解に従って論じる。第四に、私たちの作業の目的に属する原理、すなわち私たちが自然を模倣できる原理を示す。また、自然にかなうものをその原因とともに私たちの作業の目的へと導く、混合と変質の方法を示す。
第1巻第1部 術者がこの術の真の目的を得ることを妨げる障害について。
第3章 障害の分類。
この作業に加わる障害は、大別して二つある。すなわち、自然的な能力の不足と、必要な費用の不足、あるいは他の用事や労働である。ただし、自然的な能力の不足にも多くの種類がある。術者の身体器官の側のものと、魂の側のものがある。身体器官の側にもさまざまなものがあり、器官が弱い場合も、完全に損なわれている場合もある。魂の能力の不足もさまざまである。器官の状態によって魂が歪められ、正しさや理性をまったく持たない場合があり、著者のいう「狂人」や「愚鈍な者」の魂がこれに当たる。また、空想に支配され、相反する形象を不適切に容易に受け入れ、一つの認識からその反対へと突然移り、意志も同じように反対へ転じる場合がある。
注 本章以下には、身体・精神の障害や病気に対する歴史的な差別的判断が含まれる。原文の意味を示すために訳しており、現代の能力評価や医学的判断として是認するものではない。
第4章 術者の身体の側から、この作業を妨げる障害について。
すでに、この作業の障害を一般的に定めた。本章では、さらに個別的に語り、それらの障害をすべて、いっそう明瞭に、十分に、順序立てて述べよう。私たちはこう言う。身体器官が完全にそろっていない者は、たとえば目が見えず、あるいは手足を失っているなら、自力でこの作業の完成に到達できない。この術を完成させる媒介となり、自然に奉仕する身体の諸部分の助けを得られないからである。また、術者の身体が弱く病んでいるなら、たとえば発熱する者や、四肢が脱落する癩病の者、命の終わりに苦しむ者、あるいは衰弱した高齢の者の身体であるなら、術の完成には至らない。したがって、これらの自然的な身体能力の不足によって、術者はその目的を妨げられる。
注 病名・身体観は底本の歴史的なもの。leprosus を含め、現代の診断や当事者の能力の記述に置き換えない。
第5章 術者の魂の側の障害について。
前の一章では、術者の身体に由来する障害を、明確で完結した言葉で述べた。残るのは、作業の完成を大いに妨げる、魂の側の障害を短く語ることである。私たちはこう言う。生来の才知と、自然の原理、自然の基礎、自然の作用の性質に追随し得る技法を微細に調べる魂を持たない者は、この最も貴重な学知の真の根を発見しない。あらゆる探究において才知を欠き、頑なで、普通の言葉さえほとんど理解できず、一般的な作業を習うことにも苦労する者が多くいるのが、その例である。
注 原刊正誤表(24頁・25行)に従い、「huius preciosissimae scientiae」と読む。
注 原刊正誤表(25頁・2行)に従い、「sermonem, et opera」と読む。
このほかにも、どんな空想でも容易に信じる魂を持つ者を、多く見いだす。しかし、自分が真実を見つけたと思っているものは、すべて空想であり、理性から逸れ、誤りに満ち、自然の原理から遠く隔たっている。彼らの脳は多くの煙状のものに満たされ、自然の事物の真の意味を受け取れないからである。またこのほかに、考えから考えへ、意志から意志へと移りやすい魂を持つ者がいる。いまは何かを信じ、それを望むが、理性的な根拠がない。少し経つと、同じように別のことを信じ、別のことを望む。その変わりやすさのため、目指したことの最小の部分さえほとんど完成できず、むしろ未完のまま放置してしまう。
注 脳の「煙状のもの」による説明は歴史的な生理説。現代医学の説明ではない。
注 原刊正誤表(25頁・12行)に従い、「ratione ullius」と読む。訂正後にも格の不整合が残るが、刊本の訂正指示を保持した。
同じように、自然の事物から何らの真理も見いだせず、獣と変わらない者たちもいる、と著者はいう。精神を損なった者、狂気の者、子どもなどである。また、学知を軽蔑し、その存在を認めない者もいる。この学知も彼らを同様に軽蔑し、この最も貴重な作業の目的から遠ざける。さらに、金銭に仕える奴隷となっている者もいる。彼ら自身も、この驚くべき学知を認めてはいるが、そのために費用を出すことを恐れる。それゆえ、この学知を認め、理性に従って探究していても、金銭への執着のため、実際の作業経験には到達しない。したがって、私たちの学知は彼らには届かない。無知である者、あるいは学知の探究を怠った者が、どうして容易にそれを得られようか。
第6章 この術の作業を妨げる、外的な障害について。
私たちは、この最も貴重な営みの術者の本性に従い、根源的な原理から生じて術の目的を遅らせる障害を、すべて二つの章にまとめた。そこで最後に、偶然の運命や出来事から外的に加わり、この最も輝かしい作業を妨げる障害を語るのが適切である。私たちは、鋭敏で才知に富み、自然の働きに決して無知ではなく、可能な範囲で自然の原理と働きに従う者たちを見る。彼らはまた、月の圏内で自然の運動と作用によって秩序づけられるすべての事物について、空想に陥らない探究を行う。しかし、極度の貧困に圧迫され、支出の手段を欠くため、この卓越した術を後回しにせざるを得ない。このほかにも、この世のさまざまな心配や懸念にとらわれ、あらゆる世俗の用事に自分をすっかり費やす、多忙な者が多くいる。私たちの貴重な学知は、彼らからまったく逃れ去る。したがって、先の諸章によって、この術から人を引き離す障害が何であるかは、十分明らかになった。
注 「月の圏内」は、月より下の生成変化する領域をいう当時の宇宙論上の区分。
注 原刊正誤表(26頁・21行)に従い、「variis huius mundi curis」と読む。
第7章 第1部の結語。術者はどのような者であるべきか。
以上から、私たちはこう結論する。この作業の術者は、自然哲学の諸学に通じ、十分に熟達していなければならない。どれほどの金銭、生来の深い才知、この技への欲求を持っていても、学習によって自然哲学を獲得していなければ、その目的を得られない。生来の才知によって得られないものの不足は、学習によって補われるからである。したがって術者には、深い精査と生来の工夫の助けが必要である。学習によってどれほど多くの知識を得ても、生来の工夫にも助けられなければ、この貴重なものの饗宴には招かれない。工夫によってただちに訂正できる誤りも、学習だけに頼っていたなら、その治し方が分からないだろう。同じように、工夫だけでは避けられない誤りも、自然についての学習で得た知識によって、ただちに補うことができる。技術は才知によって助けられ、才知もまた技術によって助けられるのである。
注 原刊正誤表(27頁・25行)に従い、「preciosi」と読む。
また、作業において意志を一定に保ち、あるときはこれ、あるときはあれと、むやみに試みないことも必要である。私たちの術は、多くの物の中に成立するものではなく、それらによって完成するものでもない。術が成り立つのは、一つの石、一つの薬においてである。それに異質なものを加えることはなく、減らすこともない。ただし、調製において余分なものを除くことは別である。また、完成するまで熱心に作業に取り組み、途中で切り上げた作業を放置してはならない。不完全な作業からは学知も実りも得られず、むしろ絶望と損失が得られるからである。また、作業の成立に関わる、この術の原理と主要な根を知らなければならない。原理を知らない者は、終極を見いださないからである。私たちは、この術に必要なところに従い、それらの原理をすべて、十分な言葉で、分別ある人々には十分に開かれた明瞭な言葉で、あなたに語ろう。
注 原刊正誤表(28頁・11行)に従い、「sufficienter」と読む。
同じように術者は節度を保ち、怒ることに慎重であるべきである。怒りの衝動のために、始めたものを突然壊し、台無しにしないためである。また、自らの金銭を守り、自信過剰になって無駄に費やしてはならない。術を発見できなかった場合、貧困の惨めさと絶望の中に取り残されるからである。あるいは、探究によって術の目的に近づいたころには費用を使い果たし、不幸にも貧困のために、真の目的を無理に断念しなければならなくなるかもしれない。初めのうち無知な者が、全財産を浪費してしまい、術に近づいたときには、もはや作業を続ける資金がない、ということが起こる。このような者は二重の悲しみに埋もれる。無益なことに金銭を散らしたためであり、また、ほどなく探り当てたはずの最も高貴な学知を失うためである。
注 原刊正誤表(28頁・15行)に従い、「nec praesumptuosus」と読む。
注 原刊正誤表(28頁・16行)に従い、「distribuat, ne si forte」と読む。
あなたの財産を使い尽くす必要はない。この術の原理を理解し、私たちが伝えたことを正しく理解するなら、わずかな費用で術の完成に至るからである。それゆえ、本書で明瞭に書いた私たちの忠告を顧みず、金銭を失ったとしても、私たちを不当に責め、罵ってはならない。自らの無知と過信に責任を帰しなさい。したがって、この学知は貧しい者や困窮した者にあまり適さず、むしろその敵となり、対立するものとなる。
注 費用や成功可能性についての記述は著者の主張であり、経済的助言ではない。
また、偽りの作業の成果を求めようとしてはならず、ひたすら完全な完成を目指すべきである。私たちの術は神の力のうちに保たれており、栄光に満ち、崇高で、あらゆる正義と善に満ちる方が、望む者に与え、あるいは取り去るからである。偽りの作業への報いとして、神はあなたにこの術を拒み、誤りの道へと厳しく突き落とし、誤りから不幸と永遠の惨めさへ導くかもしれない。作業と労苦の終わりに、神からいつも真理を見ることを拒まれる者は、最も惨めで不幸である。生涯をつねに誤りの中で閉ざし、終えるからである。その者は労苦の中に置かれ、あらゆる尽きない不運と不幸に囲まれ、この世の慰め、喜び、楽しみをすべて失い、実りのない悲しみのうちに生を費やすのである。
また、作業の際には、それぞれの煮熟に現れるすべての徴候を心に刻み、その原因を探究するよう努めるべきである。以上が、私たちの術に適した術者に必要な条件である。もし、述べた事柄のどれかを欠いているなら、この術に取りついてはならない。
第1巻第2部。この術を否定する者たちの論拠を列挙し、次いで反駁する。
第8章 論述内容の一般的な区分。
本書の第一のまとまりにおいて、この作業の障害をすべてあらかじめ示し、この術に取り組むための十分な教えを与えた。そこでいま、予定した意図に従い、詭弁家と無知な者たちに反論するのが適切である。初めに約束したとおり、まず彼らの論拠を示す。その後、それらをすべて打ち破り、そこには真理が何も含まれないことを、明白な論証によって賢明な人々に明らかにする。
第9章 この術を無条件に否定する者たちの、さまざまな論拠。
この術を否定し、退ける者には、さまざまな者がいる。無条件に否定する者も、この術が存在すると仮定する者の発言に基づいて否定する者もいる。無条件に術の不在を主張する者は、次のような詭弁によって自説を補強する。彼らはいう。「事物の種と相違が区別されるのは、混合における元素相互の比率が、異なり、区別されているからである。ロバが人間と種において異なるのは、その組成における元素の比率が大きく異なるからである。他の事物の相違についても同じように推論でき、したがって鉱物についても同様である。それゆえ、形相と事物の完全性が得られる混合成分の比率を知らないなら、混合されたもの、また混合すべきものを、どう形成すればよいと分かるだろうか。しかし私たちは、太陽と月における元素の真の比率を知らない。したがって、それらの形成方法も知らないはずである。」以上から、彼らは「ゆえに、この術は無益で不可能である」と結論する。
注 本章の否定論は、著者が後で反駁するために列挙する議論。
同じように、別の仕方でも論じ、私たちの術を退ける。彼らはいう。「たとえ元素の比率を知っていても、その相互混合の仕方は知らないだろう。自然は、洞穴、鉱脈、隠れた場所でこれらを生み出すからである。したがって、その混合の仕方を知らない以上、それを行う方法も同様に知らない。」さらにこう論じる。「仮にそれを正しく知っていても、混合の働きにおいて、事物の完成を媒介する作用熱を、適切に均衡させることは知らないだろう。自然には金属を存在へ導く一定量の熱があるが、あなたはその尺度を知らない。また、自然に働く諸原因の、ほかの相違も知らない。それらがなければ、自然はその意図を真に完成できない。これらを知らない以上、この術の操作法全体も同様に知らないことになる。」
注 原刊正誤表(31頁・15行)に従い、「et haec facere」と読む。
さらに彼らは、理屈と経験も挙げる。「賢明な人々は、これほど長いあいだこの学知を探し求めてきた。もし何らかの道で到達できるなら、すでに千回も完成させていただろう」と彼らはいう。また、「哲学者たちは諸巻の中でそれを伝えているように見えるが、そこに真理を見いだせない。これによって、この学知が存在しないことは十分明白であり、もっともらしい。また、この世の多くの君主や王たちは、無尽蔵の財宝と多数の哲学者を持ち、この術の発見を望んだが、最も貴重な術の実りに到達できなかった。これは、この術が試してみれば空しいものであることを示す、十分な証拠である。」
また、こういう。「私たちは、結びつきの弱い種類の混合においてさえ、自然に従うことができない。ロバを作る方法も、その混合が弱く、感覚にもほぼ明らかな他の類似のものを作る方法も、知らないのである。ならば、きわめて強い金属の混合を作る方法は、なおさら知らないであろう。しかも、それは私たちの感覚と経験から、すっかり隠されている。その証拠は、金属から元素を分離することの難しさである。また、牛が山羊に変成されたり、他の種が別の種に変えられたり、何らかの技によって別種へ導かれたりするのを、私たちは見ない。それゆえ、金属が種において異なるのに、どうして一方の種から他方の種を作るよう、相互に種を変成しようとするのか。これは私たちにはまったく不合理で、自然の原理から導かれる真理から離れているように見える。」
さらにこういう。「自然は数千年かけて金属を完成させる。百年にさえほとんど届かないあなたが、どうして変成の技を数千年続けられるのか。」これに対して、「自然が非常に長い時間をかけても完成できないことを、私たちの技によって短期間に成し遂げる。技術は多くの場合、自然の不足を補うからである」と答えたとしても、彼らは再びいう。「それも不可能であり、とくに金属についてそうである。金属はきわめて微細な煙から成り、適度の煮熟を要する。その固有の湿りが内部で均衡を保って濃密となり、逃げ去らず、打撃と延展を受け入れさせる湿りをすべて失うことがないようにするためである。もし技術によって、鉱物や金属体における自然の煮熟時間を短縮しようとすれば、過度の熱によって行うほかない。しかしそれは均衡させるのではなく、むしろ金属体から湿りを解放し、散逸させ、破壊する。湿りを濃密にし、混合を完成させるのは、穏やかな熱だけであり、過度の火ではない。」
注 原刊正誤表(33頁・9行)に従い、「qua contusionem et extensionem」と読む。
同じように、こう論じる。「存在と完全性は、星々によって与えられる。星々は第一の完成因であり、生成と消滅の自然を動かして、種を存在または非存在へと導く。この作用は、一つまたは複数の星が運動によって天の定まった配置へ到達したとき、突然、一瞬に起こる。その配置から、完全な存在が与えられるのである。個々の事物は、一定の星の配置から、一瞬に存在を獲得する。この配置は一つだけではなく、多数あり、その結果が異なるように、相互にも異なる。それらは私たちに未知で、無数であるから、その相違と区別を詳しく知ることはできない。それゆえ、星々の運動による位置の相違を知らないことから生じる、作業の不足を、どう補えるのか。また、金属に完全性を与える一つまたは複数の星の一定の配置を知っていても、作業を目的どおりに完成できない。技術によって何かを形相の受容へ調製することは、一瞬に行われず、順次行われるからである。調製が一瞬でなければ、作業対象には形相が与えられない。」
注 星の配置による生成論は、この章で紹介される反対論の一部。現代の天文学的説明ではない。
同じように、彼らはいう。「自然の事物には、作るより壊すほうが容易だという順序がある。しかし私たちは、金を壊すことさえほとんどできない。ならば、どうして作ろうとまで思うのか。」こうした詭弁的な論拠や、それよりもっと見かけ上の説得力に乏しい論拠によって、彼らはこの神的な術を打ち消したと信じる。以上が、私たちの術の存在を無条件に否定する詭弁家たちの説得のすべてである。ある仮定に基づいて術を否定する者たちの論拠は、後でその反駁とともに示す。ここからは、いま挙げた論拠の反駁に進む。ただし、その前に、作業の完成に関わる真の意図を、これらの問題について示しておかなければならない。
第10章 予想される異論への先回り。技術は自然の作用の性質をあらゆる相違にわたって模倣できず、また模倣すべきでもないこと、および金属の原理についてのいくつかの教説。
そこで私たちはいう。自然が自らの作用の基礎とする原理は、きわめて硬く強固な組成を持つ。それらは、一部の哲学者によれば、硫黄と水銀である。きわめて硬く強固な組成を持つので、その分離も非常に難しい。しかし、それらが相互に濃密化・硬化し、槌打ちによって砕けるのではなく、打撃を受けて延びるようになるのは、混合中の粘りある湿りが、鉱脈内の連続的な煮熟によって保たれるためにほかならない。
注 原刊正誤表(35頁・5行)に従い、「contusio et extensio」と読む。
だが、最も愛するわが子よ、一般的な規則を伝えよう。湿ったものが濃密化するには、まず湿りのなかの最も微細な部分が蒸散し、より粗大な部分が保たれなければならない。混合において湿が乾に勝り、乾と湿が真に混合されているなら、湿は乾によって、乾は湿によって調和させられる。そしてこの実体は、その諸部分が同質の一つのものとなり、硬さと柔らかさの間に適度に調和し、打撃によって延びるものとなる。しかし、これが起こるには、粘りある湿と微細な土性のものが、ごく小さな部分に至るまで、長く混合されなければならない。湿が乾と同じになり、乾が湿と同じになるまでである。
注 homoeomera は諸部分が同種・同質であることを指す。
注 原刊正誤表(35頁・17行)に従い、「in contusione」と読む。
このような微細な蒸気の分離は、突然には起こらず、徐々に、数千年をかけて起こる。その理由は、自然の原理の実体が均一だからである。もし、それらから余分な湿りを突然分離しようとすれば、その強い混合のために湿と乾が分かれていないので、その物の湿は乾とともに解放され、すべてが煙となって消えるだろう。相互の結合が強いため、分離において湿を乾から切り離せないのである。このことは、精気の昇華において明白に経験される。昇華によって突然の分離が起こるとき、湿は乾からも、乾は湿からも切り離されず、その混合が完全に部分へ分かれることはない。むしろ実体全体が昇るか、その構成成分のわずかな部分だけが解け離れるのである。
したがって、微細で煙状の湿りが、順次、長く、均等に分離されることが、金属の濃密化の原因である。しかし私たちは、この方法で濃密化を行うことはできない。したがって、この点では自然に従うことができない。自然の作用の性質を、そのあらゆる相違にわたって模倣することはできないのである。ゆえに、私たちの意図は、原理そのものにおいても、混合される元素の比率においても、それらの相互混合の仕方においても、濃密化する熱の均衡においても、自然にそのまま従うことではない。これらはすべて私たちには不可能であり、まったく未知だからである。残るのは、この最も優れた学知を無知ゆえに否定する詭弁家の論拠を打ち破ることである。
第11章 この術を無条件に否定する者たちの論拠への反駁。
もし彼らが、私たちは元素の比率、それらの相互混合の方法、金属を濃密化する熱の均衡、その他多くの原因、自然の作用に伴う付帯的な事柄を知らない、と言うなら、私たちは確かにそれを認める。しかし、それによって私たちの神的な学知が打ち消されるわけではない。私たちは、それらを知ろうとも思わず、知ることもできず、それらを私たちの作業に持ち込むこともできないからである。その代わりに、別の原理と、別の金属生成の方法、すなわち私たちが自然に従うことのできるものを採用する。
注 原刊正誤表(36頁・22行)に従い、「Si dixerint ergo」と読む。
もし、この世の哲学者や君主たちはこの学知を望んだが、発見できなかった、と言うなら、私たちは、彼らは虚偽を述べている、と答える。少数ながら、とくに古代の君主の一部や、私たちの時代にも見いだされる賢者が、自らの工夫によって、すでにこの学知を探り当てたことは明らかだからである。ただし、そうした批判者たちはそれに値しないため、口頭でも書面でも伝えようとしなかった。それゆえ彼らは、この学知を持つ者を見なかったことから、誰も発見しなかったと考える誤りに陥ったのである。
さらに、空想的な議論によって、私たちはロバや牛の混合のような弱い結合においてさえ自然を模倣できないのだから、強い結合ではなおさらできない、と主張するなら、その多重の誤りを示そう。この論証方法には、私たちに術の否定を強いる必然性がない。彼らは類似、あるいは大から小への推論によって、自らの空想と誤りを補強しているが、そこに含まれるのは必然性ではなく、多くの場合そうなるという偶然的な関係だからである。また別の仕方でも示そう。彼らは、動物の弱い混合・組成と、鉱物の堅固で強い組成の間に、見かけ上でさえ成り立つ類似を何も示していないのである。
注 原刊正誤表(37頁・15行)に従い、「Ad hoc etiam」と読む。
注 原刊正誤表(37頁・19行)に従い、「esse」を削除した。
注 原刊正誤表(37頁・20行)に従い、「artem nostram non esse concedere」と読む。
その理由はこうである。組成の弱い動物やその他の生物を完成させるのは、比率だけでも、その比率に従う混合成分だけでも、その成分の性質だけでも、また、それらの第一の性質の集まりから生じる相互作用と受容に続く混合だけでもない。多くの人々の見解によれば、それは魂である。魂は、第五の実体、あるいは第一動者に由来するような、自然の隠されたものに属する。これも多くの人々の見解に従って述べるのであり、その秘密を私たちは知らない。したがって、そうしたものは混合の結びつきが弱くても、私たちは完成させる方法を知らない。完成をもたらす魂を注ぎ込む方法を知らないからである。
このことから明らかなように、私たちが牛や山羊を完成させられないのは、混合の側の不足ではなく、魂を注ぎ込めないためである。弱い、あるいはさらに弱い組成を作るのと同様に、強い、あるいはいっそう強い組成を作ることも、自然の道筋と過程を模倣する私たちの技によって、知り得るからである。金属における完全性は、生物におけるものより低い。金属の完全性は、他のことよりも比率と組成に関わる。それゆえ、すでに述べた他のものより完全性が低い金属は、私たちにも比較的容易に完成させられるが、生物はそうではない。至高で栄光ある神は、完全性を相互にさまざまな形で区別した。自然による組成が弱いものには、より大きく高貴な完全性、すなわち魂による完全性を置いた。他方、石や鉱物のように、より強く堅固な組成のものも作ったが、それらには、混合の仕方から生じる、より小さく低い完全性を置いた。したがって、彼らの類比が適切でないことは明らかである。私たちが牛や山羊を作れないのは、組成のためではなく、完成を与える形相のためだからである。牛や山羊の完全性は、金属の完全性よりも高貴であり、いっそう隠されているのである。
注 原刊正誤表(38頁・12行)に従い、「Per hoc utique patet, quod non」と読む。
もし別の仕方で、一つの種は他の種に変わらないと論じるなら、私たちは、彼らはまたも虚偽を述べている、と言う。これらのことについて真理を語るより、そうするのが彼らの常だからである。ある種の個体が別の種の個体に変わるとき、その道筋において種は種へ変わる。私たちは、虫が自然にも、自然に従う技によっても、それとは種を異にする蝿へ変わるのを見る。また、窒息させた子牛が蜂に、穀物がドクムギに、窒息させた犬が沸き立つような腐敗によって虫へ変わるのを見る。しかし、これを行うのは私たちではなく、私たちが奉仕する自然である。同じように、金属を変えるのも私たちではなく、自然である。私たちはそのために、技に従って材料を調製する。作用するのは自然そのものであり、私たちではない。私たちは、その奉仕者なのである。
注 本段の動物・植物の変化には、歴史的な自然発生説と現代では否定される説明が含まれる。動物を傷つける実践を勧めるものではない。
また別の論拠によって、自然は数千年で金属を完成させるが、人は数千年生き続けられない、と同じように論じ、詭弁で自説を補強するなら、私たちはこう言う。古代の哲学者の見解によれば、自然は自らの原理に働きかけ、数千年で完成させる。しかし私たちは、それらの原理に従うことはできない。だから、自然が数千年、さらに多くの年、より少ない年、あるいは一瞬で完成させるとしても、彼らの主張は成り立たない。原理において自然を模倣できないことは、前の否定的な説明で十分簡潔に定めたし、後ではさらに詳しく論証する。ただし、分別と洞察に富むある人々の見解によれば、自然は目的を突然、すなわち一日か、それより短い時間で完成させる。これが真実であっても、私たちは原理において自然を模倣できない。このことは十分な説明によって明瞭に証明した。しかし、この問いの残りの部分は認める。そこに述べられたことはすべて真実だと認めるからである。
もし、私たちには知られない、一つまたは複数の星の配置によって金属の完全性が与えられる、と言うなら、私たちは、その配置を知る必要はない、と言う。生成・消滅し得るものの種で、その何らかの個体の生成や消滅が毎日起こらないものはないからである。それによって、星の配置は毎日、いずれの種の個体をも完成・消滅させ得ることが明らかである。したがって、星の配置を待つ必要はない。有益ではあろうが、必要なのは自然のために準備することだけである。そうすれば、巧みな自然自体が、動く天体の適切な配置に合わせて整える。自然は、動くものの運動と配置なしに、自らの運動を完成できないからである。それゆえ、技の作業を自然に適うように整え、この術に付随するものをすべて適切に考慮したなら、その配置自体を考慮しなくても、自然によって、それにふさわしい配置のもとで完成する。
犬や他の腐敗し得る動物から虫が生じるのを見るとき、私たちは直接に星の配置を考慮せず、周囲の空気の状態や、その配置以外の、腐敗を完成させる諸原因を考慮する。この考慮によって、自然に従って虫を生じさせる方法を十分に知る。私たちに知られなくても、自然は自らに適した配置を見いだすからである。
注 自然発生説に基づく歴史的な説明をそのまま訳した。
もし、完全性は一瞬に与えられるが、私たちの調製は一瞬では行われない、と言い、そこから、技によっては完成せず、したがって術も存在しない、と結論するなら、私たちは、彼らの頭は愚かで、人間の理性を欠き、人間より獣に似ている、と言う。彼らは、導いた結論と何の関係もない前提から結論しているからである。その推論は、「ロバが走る、ゆえにあなたは山羊である」という推論と同程度にしか成り立たない。調製が一瞬に起こらなくても、調製されたものに形相あるいは完全性が一瞬で与えられることは、妨げられないからである。調製は完全性そのものではなく、形相を受け入れるのに適した状態へ整えることなのである。
もしさらに、自然のものを壊すのは技術で作るより容易であり、私たちは金を壊すことさえほとんどできないのだから、作るのは不可能だ、と結論するなら、こう答える。その結論には、金を作れないと認めざるを得ないほどの必然性はない。壊すのが難しいものは、作るのはいっそう難しい。しかし、作ることが不可能なのではない。その理由を示そう。金は強い組成を持つため、分離がいっそう難しく、したがって壊すことも難しい。彼らが金の形成は不可能だと考えるのは、自然の過程に従って技術で分解する方法を知らないためである。おそらく金の組成が強いことは確かめたが、どの程度強いのかは確かめなかったのである。
最も愛するわが子よ、これで詭弁家たちの空想を十分に示した。私たちは約束によってあなたの注意を引いてきたのだから、残るのは、その約束に従い、与えられた仮定から術を否定する者たちの論拠を検討することへ進むことである。それらを適切に定めたのち、自然の意図に属する原理を定めることへ進む。その実体については、後でいっそう十分に論じなければならない。その検討の後には、私たちの術の原理であるものについても語る。ただし、最初の説明は一般的に行い、その次には、一つ一つの原理を個別に論じる。いまはまず、仮定から否定する者たちの論拠と、その反駁を示そう。
第12章 この術が存在すると仮定する者たちの、さまざまな意見。
この術を認める者にも、その考えの相違に従い、多くの種類があることを私たちは見いだした。ある者は精気の中に、別の者は金属体の中に、また別の者は塩、明礬、ニトル、ボラクス類の中に、さらに別の者はあらゆる植物性の物の中に、この術と奥義が見いだされると主張する。これらの人々は、一部は正しく一部は誤って、あるいは全体にわたって誤って、この神的な術を評価し、後世へ伝えた。その多様な誤りの中から私たちが真理を集め得たのは、難しく骨の折れる慎重な推測と、長く退屈な経験、多大な費用を投じることによってであった。彼らの誤りは、私たちの精神の働きと理性に幾度も争いを起こし、ほとんど絶望へと導いた。
注 原刊正誤表(42頁・ultimo行)に従い、「ex intentione diversa」と読む。
それゆえ彼らは、永遠に非難されよ。彼らは後世に罵りと呪いを残し、自らの誤りによって、それを哲学する者たちに浴びせた。死後に残したのは、真理ではなく、むしろ悪魔的な誘惑であった。もし私が彼らの誤りを訂正せず、この真なる術が最も適切に要求するとおり、この学知における真理を伝えないなら、私も非難されるべきである。この術には、隠された言葉も、完全にあからさまな言葉も必要ない。そこで、分別ある者には隠れたままにならないような言葉で、それを伝えよう。ただし、その言葉は凡庸な者にはきわめて深遠であり、愚かな者には、その両端を開けられないよう閉ざす。同じ一つの私たちの伝授のうちで、そうなるのである。
注 「両端」は底本の utrosque terminos に従った。何を二つの端とするか、本文だけから一義的に限定していない。
本題に戻ろう。この術が精気の中にあるとする者も、多様に分かれる。ある者は水銀から、別の者は硫黄と、それに類する砒素性物質から、賢者の石を求めるべきだと主張する。またある者はマルカシータから、別の者はトゥティアやマグネシアから、さらに別の者はアンモニアク塩から求める。金属体の中にあるとする者は、ある者は鉛に、別の者は他のいずれかの金属体にあると言う。またガラスに、宝石に、さまざまな塩、明礬、ニトル、ボラクス類に、あるいはあらゆる種類の植物性の物にあるとする者もいる。こうした仮定を立てる者には、それぞれ、その仮定に応じた反対者がいる。そして彼らに反対する者は、この術自体に無条件に反対していると思っている。多くの場合、私たちは両者の学派ともに、理性的な根拠を欠くことを見いだした。
注 Marchesita、Tutia、Magnesia、nitrum などは歴史的物質名として訳す。現代の黄鉄鉱・酸化亜鉛・マグネシウム化合物・硝酸塩の純物質へ無条件に同定しない。
第13章 硫黄に基礎を置くと仮定した術を否定する者たちの論拠。
この術が硫黄に見いだされると仮定した者たちは、硫黄に労力を注いだ。しかし、その調製の完成を知らず、調製を不十分なままにしていた。彼らは、浄化と精製だけで完全化のための調製になると思った。そして浄化は昇華によって行われるため、硫黄では昇華だけで調製が完成すると考えた。類似の物、すなわち砒素性物質についても、同様に思い込んだ。そこで変質を目的とする投射に進むと、それが焼けて消え去り、金属体の中に長くとどまらず、金属体は投射する以前より不浄な状態で残されるのを見た。作業の仕上げでこの失敗を見た一方、この学知は硫黄だけから見いだされるという考えを、非常に長いあいだ心に抱いていた。そして硫黄の中に見いだせなかったため、他のものにも見いだせない、と論じる。こうして、それにも他のものにも見いだされない以上、どこにも見いだされない、と論じるのである。
第14章 前述の論拠への反駁。
短く答えよう。彼らはこの点をほとんど理解せず、まったく分別を欠いている。私たちの材料が硫黄だけだと仮定しているからである。仮にその仮定が正しくても、調製の仕方では欺かれている。昇華だけで十分だと思っているからである。彼らは、生まれたときから老年まで家に閉じ込められ、世界の広がりが自分の家の広さ、あるいは家の中で目に見える範囲を超えているとは思わない子どものようなものである。多くの石に労力を費やしてこなかったので、私たちの薬が何から取り出せ、何からは取り出せないかを知ることができなかった。多くの作業から手を引いていたため、どの作業がより完全か、そうでないかを知らないのは当然である。しかし、彼らの作業が不十分だった理由を言おう。硫黄のうちに、焼損をもたらす性質と逃散性を残していたからである。これらは完全にしないばかりか、散逸させ、破壊するのである。
第15章 砒素性物質に基礎を置くと仮定した術を否定する論拠と、その反駁。
別の者たちは、同じ硫黄と、それに類する砒素性物質にこの石が見いだされるはずだと考え、作業の完成をさらに深く検討した。そして、昇華によって焼損をもたらす硫黄性を浄化しただけでなく、土性をも除こうとしたが、逃散性は残した。彼らの投射にも同じように失敗が生じた。その物質が金属体の中にしっかり付着せず、徐々に少しずつ消え去り、金属体が以前の状態のまま残ったからである。彼らも最初の者たちと同じように論じ、術を否定した。私たちは彼らにも最初の者たちと同じように答え、術を肯定する。その存在を知っている。私たちは見て、真実に触れたからである。
第16章 硫黄、水銀、トゥティア、マグネシア、マルカシータ、アンモニアク塩に基礎を置くと仮定した術を否定する者たちの論拠と、その反駁。
ある者たちは、さらに深くそれを調べ、浄化し、逃散性と焼損性を取り除いた。すると、それは固定された土性のものとなったが、火の熱の中で良好に溶融せず、ガラス化する溶融しか示さなかった。そのため、投射において金属体と混ぜ合わせられなかった。そこで、最初の者たちと同じように論じる。私たちも最初の者たちと同じように答える。彼らは作業を不十分なままにし、完成させる方法を知らなかったのである。最終的に完成を与えるものである浸透性を、探究することを知らなかったからである。
他のすべての精気についても、調製の方法は同じである。ただし、水銀とトゥティア類については、焼損性を除くという大きな労苦を免れる。これらは、焼けやすく燃えやすい硫黄性を持たず、逃散性だけを持つからである。他方、マグネシアとマルカシータはあらゆる種類の硫黄性を持ち、マルカシータには多く、マグネシアには少ない。しかし、逃散性はすべてにある。水銀とアンモニアク塩では多く、硫黄ではより少なく、その類似物ではさらに少ない。第四にマルカシータはさらに少なく、第五にマグネシアはそれより少なく、第六、最後のトゥティアは、すべての中で最も少ない。いずれも逃散性を分け持つが、あるものは多く、あるものは少ない。そのため、それらの逃散性によって、一部の実験者は調製の操作でも投射でも、大きく期待を裏切られた。彼らもまた、硫黄を仮定した者たちと同じように論じ、術を否定する。私たちは彼らにも、硫黄を仮定した者たちと同じように答える。
注 比較の順序と性質は著者の歴史的物質論として訳した。現代の揮発性・燃焼性の比較表ではない。
第17章 金属体とともに固定される精気に基礎を置くと仮定した術を否定する者たちの論拠と、その反駁。
ほかに、何の予備調製もせず、精気を金属体の中に固定しようとする者たちがいる。しかし彼らも、失敗に苦しめられ、悲しみと絶望を味わい、そのため、この学知は存在しないと信じ、反論するに至った。混乱と不信の原因は、金属体が溶融すると、精気がそれを離れ、付着せず、むしろ火の苛烈さを避けて逃れ、金属体だけがその中に残ることにある。精気には除かれていない逃散性があるため、火の残酷な圧力を金属体とともに耐えられないのである。また、ときには金属体まで精気とともに火から逃れ、失敗することがある。固定されていない精気が、金属体の深部に分離できないほど付着している場合である。揮発するものの総量が、固定されたものの総量に勝るからである。そこで彼らも、最初の者たちと同じように論じる。私たちも、最初の者たちと同じように答えよう。
彼らの否定論の全体はこうである。「教えの子らよ、金属体を変成しようとするなら、何らかの材料によってそれが可能である以上、精気そのものによって行われるはずである。しかし、固定されていない精気は、金属体に有益に付着できず、むしろ逃れ、金属体を不浄なまま残す。他方、固定された精気は、溶けない土となっているため、浸透できない。また、金属体に包まれて固定されたように見えても、実際にはそうではなく、金属体が残って精気だけが離れるか、両方とも一緒に逃れ去る。それゆえ、より類縁性の高い材料においてさえ、いかなる方法でもこの術を見いだせないのなら、より遠い材料にも見いだされず、したがってどこにも見いだされない。」私たちの答えはこうである。彼らはこの問題について知り得ることをすべて知っているわけではない。それゆえ、そこから得られる作業の成果も、すべてを見いだしてはいない。自分たちの不十分さから生じた結果の欠陥を、自分たちの主張の強みとしているのである。
第18章 金属体に、とくに白い鉛、すなわち錫またはユピテルに基礎を置くと仮定した術を否定する論拠と、その反駁。
ある者たちは、この術を金属体に基礎づけた。しかし、実際の作業に進むと期待を裏切られた。彼らは二種類の鉛、すなわち青黒いものと、純白ではない白いものが、太陽と月の本性によく似て近づいていると思った。青黒いものは太陽に大いに似て月にはあまり似ず、白いものは月によく似て太陽にはあまり似ないと考えた。それゆえ彼らの一部は、錫、すなわちユピテルは月とよく似ており、軋む音、柔らかさ、溶融の速さだけが異なると考えた。そして、余分な湿りのために溶けやすく柔らかく、内部の諸部分の間に逃散性の水銀実体が入り込んでいるために軋むのだと信じた。そこで火にさらし、耐えられる火の中で焼成し、その灰が白くなるまで保った。その後、金属体へ戻そうとしたができず、不可能だと判断した。
注 原刊正誤表(49頁・19行)に従い、「liquefactu esse facile」と読む。
その一部は、いくらかを金属体へ戻したが、以前と同じ軋む音、柔らかさ、溶融の速さを見いだした。それゆえ、この道による達成は不可能だと信じ、硬化させる術は見いだせないという不信に至った。他の者は、焼成して戻し、鉱滓を取り去りながら、さらに強い火力によって再び焼成して戻した。この作業を幾度も繰り返し、それが硬化し、軋む音もなくなったのを見た。しかし溶融の速さを完全に除けなかったので、その考えは誤りに陥り、目的には到達できないと思った。
また別の者は、硬い金属体を加えることによって、硬さと溶融の遅さを与えようとしたが、失敗した。どの硬い金属体を混ぜても、それを脆くしてしまい、どのような調製も役立たなかったからである。硬い金属体によっても火によっても調製できなかったため、彼らは術の発見のために長く待つことをやめた。それを不可能だと信じ、そう述べ、このことによって術を執拗に否定し、その存在を認めなかった。さらに別の者は、多くの薬剤を加えたが、それらが何の変化ももたらさず、材料に適合せず、むしろ損壊させ、自分たちの目的に反して働くのを見た。そのため書物を投げ捨て、顔を背け、真に神的な術を空しいものと呼んだ。これらの者に対しても、私たちは初めと同じ答えを与える。
第19章 黒い鉛に基礎を置くと仮定した術を否定する者たちの論拠。
黒い鉛においても、同じ種類の失敗が見いだされる。ただし、これが金属体を脆くせず、その灰からユピテルより速く金属体へ戻ることだけが異なる。彼らは知識を欠くため、その青黒さを取り除けない。そのため、それによって良好な白化を行えず、自分たちの空想によって、それを安定した金属体に、強い火力でも混合物から離れないほど確実に結びつけることもできなかった。この調製において、学知はそれ以外のどこにも見いだせないと思い込む者たちは、とくに次の点で期待を裏切られる。灰から二度金属体へ戻しても、何の硬さも得ず、むしろ以前より柔らかくなることである。他の性質についても改善を見いだせなかった。それゆえ、この物質において、より近く、よりよく見いだせると思ったのに発見できなかったため、この学知は存在せず、欺きにすぎない、と信じ、論じるよう強いられる。こうして彼らも、前の者たちと同じ誤りを犯すのである。
第20章 硬い金属体どうし、柔らかい金属体どうしの混合に基礎を置くと仮定した術を否定する論拠。
別の者たちは、硬いものを硬いものに、柔らかいものを柔らかいものに組み合わせ、両者が適合するため、金属体が相互に変成し合うことを望んだ。しかし無知のため、それはできなかった。たとえば太陽や月をウェヌス、あるいは他のいずれかの金属と混ぜても、それらを確実な変成によって太陽や月にはできない。強い火力のもとでは、それぞれが混合物から分離し、焼け、あるいは元の本性へ戻るのを経験する。混合の中で、より長くとどまるものも、そうでないものもある。これはすでに十分に説明した。このような無知に由来する失敗が、彼らにこの術を疑わせ、その存在を否定させるのである。
第21章 硬いものと柔らかいもの、完全なものと不完全なものの混合に基礎を置くと仮定した術を否定する論拠。
別の者たちは、この問題をさらに内へ深く探究し、考え、工夫し、次の方法を見つけようとした。硬いものを柔らかいものに結びつければ、柔らかいものを安定して硬くでき、完全なものを不完全なものに結びつければ、それを完全性へ導き、一般に双方が確実に変成し合う、という方法である。そのため、あるときは薬によって、あるときは火の操作によって、両者の類似と類縁性を見いだそうとした。ウェヌスやマルスのような粗大なものを希薄化し、ユピテルやそれに類する微細なものを濃密化したのである。その一部は、この操作を完成させたと思ったが、これらの硬い金属体を混合すると期待を裏切られた。できたものがまったく脆かったり、硬いものによって変化せず柔らかすぎたり、柔らかいものによって変化せず硬すぎたりしたからである。こうして適合を見いだせず、この術の存在を否定した。
第22章 魂の抽出、あるいは火の調節に基礎を置くと仮定した術を否定する論拠。
さらに内へ深く調べる者たちは、金属体自身の魂を抽出することで金属体を変え、その抽出した魂で他のすべてを同様に変えようとした。しかし、その経験は目的に到達できず、企ては失敗した。そのため、術は見いだせないと判断した。また、火だけで金属体を完成させようとする者たちも、そこへ達する方法を知らず、自分たちの見込みを裏切られた。そして、このことから術は存在しないと思った。私たちは、これらすべてに対し、最初の者たちと同じように答える。
注 「魂」は、金属から取り出される変成力などを表す文献内の術語。人間の魂の抽出を論じたものではない。
第23章 ガラスと宝石に基礎を置くと仮定した術を否定する論拠と、その反駁。
この術をガラスと宝石に基礎づけた者たちは、それらによって金属体に変質を起こせないことを経験した。浸透しないものは変質させず、ガラスも宝石も浸透しないため、変質させないからである。また、ガラスを金属体に結びつけようとしても、それはほとんどできず、しかも目的を達成しない。金属体からガラスを作ってしまうからである。このため、彼らは自分たちの誤りが術全体に当てはまると思い、術は存在しないと論じる。私たちは、彼らは適切でない材料で作業し、不適切な結果に至ったのだから、自分たちの誤りによってこの術を打ち消すことはできない、と答える。
第24章 中間的鉱物、植物性のもの、あるいは何らかの物の混合に基礎を置くと仮定した術を否定する論拠。
注 底本見出しには cap. Cap. と重複がある。意味に影響しない重複した章表示は読書用転記で一つに整理した。
また、塩、明礬、ニトル、ボラクス類の中にこの術が見いだされると仮定する者たちがいる。彼らは確かにそれらを試すことはできるが、私たちはその中に術が見いだされるとは考えない。それゆえ、溶解、凝結、焙焼を試した後、変成にわずかな効用しか見いだせなくても、必然性があり知られているこの神的な術を否定してはならない。ただし、これらすべてにおいて何らかの変質を見いだすことは可能である。しかし、それは非常に遠い道で、大変な労力を要する。さらに、他のすべての成長するものに基礎を置くと仮定する者にとっては、いっそう労力を要することが明らかである。したがって、この術をあらゆる植物性のものに置く者は、可能なことを仮定してはいるが、自分たちに可能なことではない。作業を完成できるより先に、労苦に尽き果てるからである。それゆえ、自分たちの作業で術を見いだせなくても、いかなる作業によっても術を見いだせない、と論じることは許されない。
先に述べた誤る者たちは、みな一つの材料だけを立て、それ以外のものを置かなかった。これらの者は、すでにすべて反駁された。他方、多数、ほとんど無数の者たちは、これらすべての物、あるいはその一部をさまざまな比率で組み合わせ、無知のまま進む。その誤りは無限に広がる。混合され得る物の比率の違いは無限であり、混合され得る材料の種類も無限だからである。この二つの無限性の中では、あるときは過剰によって、あるときは不足によって、無限に誤り得る。そして、こうした誤りは訂正できる。しかし私たちは、説明が長大になることを避け、無限の事例にとどまりたくはない。短い言葉で普遍的な学知を伝えるつもりだからである。それによって彼らは、無限の誤りを明瞭に改め、正すことができるだろう。さて、まず自然の原理を、その原因に従って論じよう。初めにそれらへ言及し、あなたの注意を引いておいたとおりである。
注 原刊正誤表(55頁・17行)に従い、「emendare potuerint」と読む。
以下、第1巻第3部。自然的原理と、その結果について。
第25章 古人の見解に従った、金属体の自然的原理について。
そこで、私たちの学派に属し、この術に倣った古人の見解に従い、あなたに示そう。自然の働きにおける自然的原理は、臭気をもつ精気と、生きた水である。この水を「乾いた水」と呼ぶことも認める。臭気をもつ精気は二つに分けた。その隠れた状態では白いものと赤いものがあり、この術の作業においては、両方とも黒い。明らかな状態では、どちらも赤に向かう。それゆえ私たちは、それぞれの生成と、その生成の仕方を、短く、しかも完結し十分な言葉で述べよう。説明を広げ、展開し、それぞれの自然的原理に一章ずつを割り当てるのが適切である。
ただし一般にいうなら、それぞれは非常に強固な組成と、均一な実体を持つ。その理由は、土の部分が、空気、水、火の部分と、きわめて小さな部分に至るまで結合し、分解において一つが他を離れられず、どの部分も他の部分とともに分解されるからである。相互の結合が微小な部分まで強固であり、地中の鉱物における自然で均等な熱によって、徐々に凝集・増大・均衡化されてきたためである。その過程は、ある古代の哲学者たちの見解によれば、自然の適切な道筋に従い、それらの本質が求めるところに応じて進む。
注 Commonsの印刷56頁画像は右端が欠けるため、この頁は完全なe-raraの同年刊本画像を用いて校合した。
第26章 後代の人々と著者の見解に従った、金属の自然的原理について。
他の人々は異なる説を述べた。原理は本来の状態の水銀ではなく、変質し、自らの土に転じた水銀であり、硫黄も同じように変質して土へ変わったものである、というのである。それゆえ彼らは、自然の意図における原理は、臭気をもつ精気や逃散する精気とは別のものだ、と述べた。そう考えた理由は、銀や他の金属の鉱脈で、本来の状態の水銀や硫黄を見いださないからである。むしろ、それぞれが別々に、自ら固有の鉱脈に、本来の状態で存在しているのを見いだす。
注 原刊では頁数が56から59へ飛ぶ。独立した二つの同年刊本で本文と予告語の連続を確認できるため、57–58頁分の本文欠落とは扱わない。
彼らはまた別の理由によっても、この説を主張する。対立するものから反対のものへ移るには、中間の状態を経なければならない、というのである。そうであれば、水銀の柔らかさから、いずれかの金属の硬さへ移るには、その硬さと柔らかさの間の状態を経なければならない、と認め、信じざるを得ない。しかし鉱脈には、その中間の状態を保つ何ものも見いだされない。そのため、この論拠によって、自然の意図における原理は、本来の状態の水銀と硫黄ではなく、自然の根において、それらの本質が土性の実体へと変質した結果生じる、別のものであると信じるようになる。
その仕方はこうである。まず両者がそれぞれ土性の本性に変わり、地中で増した熱によって、この二つの土性の本性から、きわめて微細な煙が分離する。この二重の煙が金属の直接の材料となる。この煙は、鉱脈の穏やかな熱で煮熟されると、ある種の土の本性へ変わり、それによって一定の固定性を得る。その後、鉱脈の内部と土の海綿状の隙間を流れる水が、その土を溶かし、自然で強固な結合によって、均一に一つになる。
注 印刷59頁には tenuissimus に付された印刷の異読注 alias emissus(別読み「放出された」)がある。主本文には tenuissimus を保持した。
注 原刊正誤表(59頁・25行)に従い、「in」を削除した。
したがって、こう考える者たちは次のように述べる。土の通路を流れる水は、その内部で土の実体から生じた溶解可能な実体を見いだし、それを溶かして均一に結合する。内部で溶けた土の実体と、それを溶かす流水とが、自然な結合によって一つになるまで続く。この混合には、すべての元素が適切な自然の比率に従って集まり、ごく小さな部分に至るまで混合し、均一な混合物を作る。そして、その混合物は、鉱脈内の連続的な煮熟によって濃密化し、硬化し、金属となる。これらの人々は真理に近づいているとはいえ、純粋な真理を捉えているわけではない。
第27章 三つの原理、すなわち硫黄、砒素性物質、水銀についての論述の区分。
金属の自然的原理について、一般的な言葉で論じた。そこで、いま、それぞれの原理の章を設けることが残されている。原理は硫黄、砒素性物質、水銀の三つであるから、第一に硫黄、第二に砒素性物質、第三に水銀についての章を書く。次いで、それらの結果である各金属について、自然の働きによって存在するあり方に従い、それぞれ特定の章を設ける。その後、この術の基礎と、その操作へ進み、これらすべての原因を示そう。
第28章 硫黄について。
硫黄は土の脂であり、土の鉱脈内で穏やかな煮熟によって濃密化し、硬く乾いたものになったものである。硬くなったとき、硫黄と呼ばれる。硫黄は同質で非常に強固な組成を持ち、その実体は均一で、各部分も同質である。それゆえ、油を含む他の物のように、蒸留によってその油を取り去ることはできない。したがって、実体を気にするほど失わずに焼成しようとする者は、無駄に労することになる。大きな工夫と、多くの実体を散逸させることなしには、焼成できないからである。百の部分があっても、焼成ののちに十分残せるのは、わずか三部分ほどである。
同じく、あらかじめ焼成しなければ固定できない。ただし他のものと混ぜれば、その逃散をいくらか遅らせ、焼損性を抑えることができ、混合したものとともになら、より容易に焼成される。それゆえ、それから作業の成果を引き出そうとする者は、それだけを調製して引き出そうとしてはならない。混合物とともに完成するのであり、それなしには術は絶望するほど引き延ばされるからである。類似のものとともにすると、それは染める力となり、それぞれの金属に十分な重さを与え、汚れから浄化して輝かせる。これは術によって完成するのであり、術なしには、これらを何一つ行わず、むしろ損ない、黒くする。だから、術を施さずに用いてはならない。また、調製においてそれを混ぜ、金属体に親和させる方法を知る者は、自然の最大の秘密の一つと、完全性への一つの道を知るだろう。一つの結果、一つの目的に至る道は、多数あるのである。
それによって焼成される金属体は、どれも確実に重さを得る。銅もそれによって太陽の姿を帯びる。またメルクリウスと結びつき、昇華によってウスフルとなる。最後に、太陽とユピテル以外のすべての金属体は、それによって容易に焼成される。太陽は非常に難しい。しかし、一部の愚かな哲学者が考えたように、不十分な技によって、それが水銀を有益な太陽や月へと凝結させるわけではない。こうも言おう。湿りの少ない金属体は、湿りの多いものよりも、硫黄によって容易に焼成される。至高の神にかけて、それはあらゆる金属体を明るくする。それが明礬であり、染める力だからである。
注 原刊の正誤表62頁19行の指示に従い、aliud in tinctura を削除した。印刷本文は quoniam est aliud in tinctura alumen et tinctura。
注 Usfur は原文の物質名を音写。ここでは水銀との化合物を指す文脈だが、確実でない現代の純物質名には置き換えない。
また、溶解も非常に難しい。塩気のある部分ではなく、水に溶けにくい油性の部分を持つからである。何が水に容易に、あるいは難しく溶けるかは、溶解の章で十分明らかに示そう。一方、精気なので昇華する。ウェヌスと混ぜ、結合させると、驚くべき紫色を生じる。同じようにメルクリウスとも混じり、それらを煮熟すると、美しい空色が生じる。しかし硫黄だけで錬金術の作業が完成すると思ってはならない。それを信じるのは空しいことにすぎない。これは後で十分明瞭に証明しよう。選ぶべき硫黄は、厚く、輝きのあるものである。硫黄については、以上で十分としよう。
第29章 砒素性物質について。
いまは砒素性物質について論じることが残されている。それは微細な材料から成り、硫黄に類似するので、硫黄と異なる定義をする必要はない。ただし、次の点で硫黄と異なる。白く染める力は容易に示すが、赤く染める力を示すのは非常に難しい。他方、硫黄は赤く染めるのが容易で、白く染めるのは非常に難しい。硫黄と砒素性物質には、この術に役立つものとして、黄色と赤の二種類がある。その他多くの種類は役立たない。砒素性物質は硫黄と同じように固定される。両者とも、金属の灰から昇華させるのが、よりよい。ただし、硫黄と砒素性物質は、この作業を完成させる材料ではない。完成に必要なものを十分に備えていないからである。しかし、場合によっては完成を助ける働きを持つ。選ぶべきものは、輝きがあり、鱗片状で、割れやすいものである。
注 原刊正誤表63頁11・15行に従い、二つの difficillimae を副詞 difficillime とした。
注 ここでの Arsenicum は歴史的な砒素性物質名。現代の元素ヒ素の単体だけを意味するものではない。
第30章 生きた銀、すなわちメルクリウスについて。
生きた銀、すなわち古人の用法ではメルクリウスとも呼ばれるものは、大地の内部にある粘りある水である。それは、ごく穏やかな熱によって、微細な白い土の実体と、ごく小さな部分に至るまで完全に結合している。そして、湿は乾によって、乾は湿によって、均等に調和される。それゆえ、その水の湿りのため、平らな表面を容易に逃れ動く。しかし粘りある湿りを持ちながら付着しないのは、その乾性が湿りを調和させ、付着を許さないからである。また、ある人々によれば、それは硫黄とともに金属の材料である。
また、それは三つの鉱物、すなわちサトゥルヌス、ユピテル、太陽に容易に付着するが、月にはより難しい。ウェヌスには月よりさらに難しく、マルスには技を用いなければ、まったく付着しない。ここから、きわめて大きな秘密を汲み取りなさい。それは金属に親和し、なじみやすく、染める力を結合する媒介だからである。また、水銀の中に沈むのは太陽だけである。ただしユピテル、サトゥルヌス、月、ウェヌスは、それによって溶かされ、混じり合う。また、それなしには、どの金属にも金を被せられない。それは固定されると、きわめて豊かな回復力と、まばゆい輝きをもつ赤の染色力となる。そして本来の本性にあるあいだは、混合したものから離れない。ただし、本来の状態のままでは私たちの薬ではなく、場合によっては同じように助けとなり得るものである。
注 金属の付着、沈み方、鍍金についての記述も、原文の歴史的主張を訳したもの。現代的な物性や作業安全性の保証ではない。
第31章 自然の原理の結果である、金属体について。
これらの自然の原理の結果である金属体について語ろう。数は六つで、金、銀、鉛、錫、銅、鉄である。金属とは、溶融し得て、槌の下であらゆる方向に延び得る鉱物体である。すでに述べたように、金属は濃密な実体と、きわめて強固で安定した組成を持つ。金属どうしは強い類縁性を持つが、完全なものが不完全なものと混じるだけで、それを完全にするわけではない。金を鉛と溶融して混ぜても、鉛が金になるのではなく、鉛は混合物から消え、焼け去り、金だけが検査に残る。他の金属についても、通常の過程では、同じように推論できる。
注 原刊正誤表65頁3行に従い、extendibile を extensibile とした。
しかし、私たちの術に従えば、完全なものは不完全なものを助ける。また私たちの術では、不完全なものは異質な物を何も加えず、それ自身によって完全にされる。不完全なものは、この同じ術によって完成されるのである。神にかけて、それらは互いに変え、変えられ、互いに完成させ、完成させられる。そして、それぞれは他の何ものの助けも借りず、それ自身だけによって完全にされる。
第32章 太陽、すなわち金について。
一般的な章で、金属についての考えの要点を述べた。しかし、それぞれについて個別にも語ろう。まず金についてである。金とは、黄色で重く、鈍い音を持ち、輝き、大地の腹の中で均等に熟成され、鉱水によって非常に長く洗われ、槌の下で延び、溶融し、灰吹きとセメント処理による試験に耐える金属体である。この定義から、定義の原因と、金に属するあらゆる区別的性質を持たなければ、何ものも金ではない、と理解しなさい。ただし、金属を根底から黄色にし、均衡へ導き、浄化するものは、いかなる種類の金属からも金を作る。
注 cineritium は灰吹きによる試験、cementum は粉体などとの加熱による試金・精錬の歴史的操作。建築用セメントではない。
それゆえ、自然の働きを観察して、技によっても銅を金に変え得ると私たちは判断する。私たちは、銅の鉱脈から水が流れ出て、非常に薄い銅の鱗片を運び、長く絶えず流れ続けて、それらを洗い清めたのを見た。その後、水が流れなくなると、その鱗片が乾いた砂とともに、太陽の熱で三年間煮熟されるのを見た。そして、その中に真の金が発見された。そこで私たちは、水の助けによって鱗片が浄化され、砂の乾燥の中で太陽の熱によって均等に熟成され、均衡に達したと判断した。私たちは、可能なときには自然を模倣して同様に変質させるが、この過程そのものにおいて自然に従うことはできない。
注 観察とその解釈は著者の報告として訳した。銅が自然に金へ変わることの現代的な実証とするものではない。
金はまた、金属の中で最も貴重であり、あらゆる金属体を染め、変成するため、赤の染色力である。しかし、それを焼成・溶解しても益はない。またそれは、喜びをもたらし、身体を若さのうちに保つ薬である。メルクリウスとともにすると非常に容易に砕け、鉛の気によって粉砕される。現実の実体において、ユピテルと月ほど金に適合するものはない。重さ、音の鈍さ、腐敗性についてはサトゥルヌス、色についてはウェヌスが対応する。可能性においては、まずウェヌス、次いで月、ユピテル、サトゥルヌス、最後にマルスである。これも自然の秘密の一つである。同様に、精気は金と混合され、きわめて優れた工夫によって金により固定される。その工夫は、頑なで心の鈍い術者には得られない。
注 金の治療・若さ保持の効能は歴史的主張であり、服用や実践の推奨ではない。
第33章 月、すなわち銀について。
太陽の章を終えたので、月、通常の名でいう銀について語ろう。銀は、純粋な白さで白く、清浄で硬く、響き、灰吹きに耐え、槌の下で延び、赤熱し、溶融する金属体である。それゆえ白の染色力であり、技によってユピテルを硬くし、自らと同じものに変える。また太陽と混じり、それを脆くしない。しかし、技を施さなければ、試験の際に太陽とともに残らない。銀をいっそう微細にし、その後、金と結びつけて濃密化・固定することを知る者にとっては、それは闘いにおいて金とともに残り、決して金を離れない。
注 原刊正誤表67頁11行に従い、extendibile を extensibile とした。
酢、アンモニアク塩、未熟な葡萄の汁など、鋭い物の蒸気の上に置くと、驚くべき空色を生じる。銀は高貴な金属体だが、金の高貴さには劣る。銀には固有の鉱脈が見いだされるが、ときには他の金属体と混ざった鉱脈にもあり、その銀はそれほど高貴ではない。同じように焼成も溶解もされるが、多大な労力を費やしても、何の益もない。
第34章 サトゥルヌス、すなわち鉛について。
鉛についても同様に一章を設けよう。鉛は、青黒く、土性で、重く、音が鈍く、白さをわずかに、大きな青黒さを多く帯びる金属体である。灰吹きとセメント処理を逃れ、柔らかく、わずかな圧力で容易にあらゆる方向へ延び、赤熱せずに容易に溶ける。ところが、ある愚かな者たちは、鉛は本性において金に非常に近いと思い、そう述べる。しかし彼らは頑なで、理性的根拠を欠き、微妙な事柄から真理を推し量れず、感覚によって判断する。鉛が重く、音が鈍く、腐敗しないのを見て、太陽に非常に近いと信じるのである。しかし、これはすべて誤りであり、後の論述でさらに詳しく明白に証明する。
鉛は土性の実体を多く持つので、洗われ、その洗浄によって錫へ変わる。したがって錫のほうが、完全なものによく似ていることが明らかである。また鉛は焼かれるとミニウムとなり、酢の蒸気の上に置かれるとケルッサとなる。完全性にさほど近くなくても、私たちは自らの技によって、そこから容易に銀を作る。また、変成の際には元の重さを保たず、新しい重さへ変わる。こうしたことはすべて、術の中で獲得される。鉛はまた、灰吹きにおける銀の試験に用いられる。その原因は後で述べよう。
注 minium は鉛丹、cerussa は鉛白に当たる歴史的な顔料名。これらを含む処理は有害物を伴う。本文は実践の手引きではない。
第35章 ユピテル、すなわち錫について。
ユピテルについての教えも省かず、教えの子らに示そう。それは白いが純白ではなく、青黒さがあり、あまり響かず、土性を少し含む金属体である。軋む音と柔らかさを持ち、赤熱せずに速く溶ける性質を根源から備え、灰吹きとセメント処理にとどまらず、槌の下で延びる。それゆえユピテルは、完全性を欠く金属体の中では、その本性の根底において、完全なもの、すなわち太陽と月により近い。月にはより近く、太陽にはそれほど近くない。これは後で明瞭に述べる。
注 原刊正誤表69頁6・9行に従い、molliciem を mollicie、corpore を corpora とし、指示された句点を整理した。残る構文の不整合は、性質の列挙として訳した。
ユピテルは生成の根から多くの白さを得ているため、白くないすべての金属体を白くする。ただし、サトゥルヌスと最も純粋な太陽以外のあらゆる金属体を脆くするという欠点がある。また、太陽と月に強く付着するため、試験によっても容易には離れない。赤の染色力を受け入れると、測り知れない輝きを放ち、この術の操作によって重さを得る。硬化と浄化は、サトゥルヌスより容易である。脆くする欠点を取り去る方法を知る者は、その実りをすぐに享受して喜ぶだろう。太陽と月に適合し、決してそれらから分離されないからである。
注 原刊正誤表69頁12行に従い、albidinem を albedinem とした。
第36章〔底本の表示は第31章〕 ウェヌス、すなわち銅について。
注 第35章に続き、第37章の直前にある章。印刷見出しの番号 XXXI は保持し、配列に従う第36章として固定IDを付した。
いまはウェヌスについて語ろう。それは青黒さと暗い赤みを帯び、赤熱し、溶融し、槌の下で延び、灰吹きとセメント処理を逃れる金属体である。すでに述べたように、ウェヌスは実体の深部に、金の色と本質を示し、銀や金と同じように槌打ちされ、赤熱する。それゆえ、そこから秘密を得なさい。それは太陽と月の中間にあり、その本性をどちらへ変えることも容易だからである。変成しやすく、労力も少ない。トゥティアと強く適合し、トゥティアはそれを良好な黄色にする。ここから実りを引き出しなさい。それゆえ、ウェヌスによって、硬化や赤熱を得るための労力を免れる。小さな作業と中間の作業では、他の不完全な金属体よりこれを選びなさい。ただし、大きな作業ではそうではない。しかしユピテルに比べ、容易に青黒くなり、鋭く酸いものから汚染を受けるという欠点がある。これを根絶するのは容易な技ではなく、深い技である。
第37章 マルス、すなわち鉄について。
マルスについての説明とその秘密全体は、自然の働きに由来する。それは青黒さが強く、赤さは少なく、純粋でない白さを帯び、硬く、赤熱し、適切とはいえない溶け方で溶融し、槌の下で延び、よく響く金属体だからである。溶融しにくいため、マルスは扱いが難しい。しかし、その本性を変える薬によって溶かすと、太陽と月に結合し、多大な工夫なしには試験でも分離されない。また、その固定性の本性を変えず、不純物だけを取り除くように調製すれば、結合した後、いかなる技によっても分離されない。それゆえ、赤の染色力には容易になるが、白の染色力にはなりにくい。変質させずに結合すると、混合物の色を変えず、ただ量を増す。
したがって、すべての金属体の中でユピテルは、より光沢があり、明るく、輝かしく、完全な太陽と月の金属体へと変成される。しかし、その作業は扱いやすい一方、長い労力を要する。その次に選ばれるのはウェヌスで、変成の完全性はより低く、扱いは難しいが、ユピテルより労力の期間は短い。サトゥルヌスはウェヌスの次で、それより変成の完全性が低く、扱いやすいが、非常に長い労力を要する。マルスは、他のものの中でも変成の完全性が最も低く、きわめて扱いにくく、非常に長い労力を要する。それゆえ、速やかに溶ける性質から遠い金属体ほど、変成作業において扱いにくい。ウェヌスとマルスがそれに当たる。その隔たりが大きいほど難しさも増し、最大なら難しさも最大である。また、土からの青黒さと汚染を多く持つものほど、多くの労力を要し、完全性は低い。
ただし、いま述べた完全性の相違は、小さな作業と中間の作業の技において見いだされたものである。大きな作業では、すべてが同じ完全性を持つ。しかし、扱い方や労力まで同じなのではない。というのも、扱いやすさと難しさ、労力の短さと長さが、金属体の本性の根底にどのように見いだされるかを述べることが、なお残されているからである。さて、私たちは金属体の自然的原理を、自然の意図に由来する真の教えによって書き記した。また、各金属体の説明を、それぞれの章で正しく述べた。それは、自然の内奥を見通した人々の見解と、たゆまぬ労苦によってそこへ達した私たち自身の見解に従ったものである。いまは、すでに示したとおり、この術の説明の不足を補い、本論述の最後の部で、この術のすべての原理を伝え、私たちが見た完全性を、その要請に応じて、その原因とともに示すのが適切である。
第1巻第4部。この術の技術的原理について。
第38章 本部の論述の区分。第2巻で教える完成についても示唆する。
定めるべきことは二つある。すなわち、この術の原理と、その完成である。この術の原理とは、術者がこの術に取り組むための、操作の諸方法である。それらは互いに異なる。一つは昇華、別の一つは下降、また一つは蒸留であり、さらに焼成、溶解、凝結がある。第七は固定、第八は蝋化である。それぞれについて、一つずつ説明しよう。
完成には、それへ到達させるものの考察、助けとなるものの考察、最終的に完成させるもの自体の考察、そして術が完成したかどうかを知るためのものの考察が必要である。作業の完成へ到達させるものを考察するとは、変えるべき各金属体と、その技なしには本性の根から変えるべきでない金属体について、明らかな実体、色、重さを考えることである。また同様に、技を施したときの根源的な状態を考え、金属体の原理について、その深部、隠されたものと明らかなものを、本来の状態と技を施した状態の双方で考えることである。金属体とその原理を、本性の深部と表面において、技の有無の双方から知らなければ、何が余分で何が不足かも分からない。そのため、私たちはそれらの変成の完成には、決して到達できないことになる。
完成を助ける物の考察とは、技を加えなくても金属体に付着し、変化をもたらすと見られる物の本性を考えることである。それらは、マルカシータ、マグネシア、トゥティア、アンティモニウム、ラピス・ラズリである。また、付着せずに金属体を浄化するもの、すなわち塩、明礬、ニトル、ボラクス類、およびそれらと同じ本性のものを考えることでもある。さらに、類似した本性によって浄化するガラス化を考えることでもある。
注 Lazuli は原刊正誤表73頁26行の指定に従う。物質名は歴史的な用法の範囲で読む。
完成させるものを考察するとは、水銀の純粋な実体を選ぶことを考察することである。それは、水銀の材料から起源を得て、そこから作られた材料である。しかし、この材料は、本来の状態の水銀でも、その実体全体でもなく、その一部分である。しかも、いまそのままでそうなのではなく、私たちの石となったときにそうなのである。その石は輝かせ、焼損から保つ。それが完成を示す徴である。術が完成しているかどうかを知るためのものを考察するとは、灰吹き、セメント処理、赤熱、鋭い物の蒸気への暴露、焼入れ、金属体を焼損する硫黄との混合、焼成後に金属体へ戻すこと、水銀の受容を考えることである。これらすべてを、今後、その原因と容易な試験とともに説明しよう。それによって、私たちの言葉が誤っていないことを明白に知ることができる。そして、それらの試験を、あなたは十分に理解するだろう。
注 本書の「試験」は歴史的な試金・錬金術操作をいう。本対訳が家庭等での実験を勧めているわけではない。
第39章 昇華について。なぜ発見されたか。
予定した論述を続け、昇華について述べよう。その発見の理由は、私たちの古人も、私たちも、後に来る者も、金属体と結合するものとして、精気だけ、あるいは金属体と精気の本性をあわせ持つもの以外を見いださないことにある。そして、それらを浄化せずに金属体へ投射すると、完全な色を与えないか、まったく損ない、焼き、黒くし、汚すのを見た。これは精気の違いに応じて異なる。硫黄、砒素性物質、マルカシータのように焼損をもたらすものがあり、これらは完全に損なう。他方、あらゆるトゥティア類のように焼損しないものは、不完全な色を与える。そして、焼損させるものは、同時に黒くし、汚すのである。
注 quia quae は原刊正誤表75頁8行の指定に従う。
その原因は二つある。一つは、硫黄の焼損をもたらす油性が取り除かれていないことにある。その性質は容易に燃え、燃えることで黒くなり、その結果、他を黒くすることである。もう一つは、土性も取り除かれていなかったことである。完全な色を与えないものでは、土性が色を青黒くする原因である。焼損もまた、青黒い色を生じさせ得る。そのため私たちは、その油性を持つものからは焼損をもたらす油性を取り除き、すべてのものからは余分な土性を取り除くよう工夫した。これは昇華以外のいかなる術によっても達成できなかった。火が昇らせるときには、常により微細な部分を昇らせ、より粗大な部分を残すからである。これによって、昇華は、浸透を妨げ、不浄な色を与えていた土性から精気を浄化することが分かる。経験は、それらが土性から解放されたことを、自分の目によって十分に明らかにしてくれる。それらがより輝き、より透過しやすくなり、金属体の緻密さの内部へ容易に入り込んで貫き、以前のように汚い色を作らないのが見えるからである。
昇華によって焼損性が取り除かれることは、試験から分かる。昇華前には激しく焼損へ向かいやすかった砒素性物質も、昇華後には炎を上げず、ただ燃えずに逃れ去るからである。試せば、硫黄にも同じことを見いだすだろう。また、変質を伴って金属体に付着するものを、精気以外には見いださなかった。そのため、精気を用いなくてよい別の理由はなく、昇華による浄化を伴う調製が必要であった。これが、昇華の発見を必要とした原因である。そこで、昇華の手順全体とその原因を、何も省かずに語ろう。
第40章 昇華とは何か。その際に守るべき火の三段階について。
昇華とは、乾いた物が火によって昇り、その容器に付着することである。昇華は、昇華すべき精気の違いに応じて異なる。強い加熱によるもの、中程度のもの、弱い火によるものがある。砒素性物質または硫黄を昇華させるなら、弱い火による必要がある。これらは非常に微細な部分が粗大な部分と均一に結合しているため、そうしなければ、実体全体が何ら浄化されずに昇り、むしろ黒く焼けたものになるからである。不浄な土性の実体を分けるには、二種類の工夫が必要である。すなわち、火の適度な強さと、滓を混ぜることによる浄化である。滓との混合は粗大な部分を捕らえ、アルデルの底に押しとどめ、昇るのを許さない。
それゆえ、術者は昇華に三段階の火を用いる必要がある。第一は、変化し、より清浄で明るくなった部分だけが昇るよう調整した火であり、土性の滓から浄化されるのが明らかに見えるまで用いる。第二の段階では、滓に残った純粋な実体を、より強い火力で昇華させる。すなわち、アルデルと滓自体が赤熱し、その様子を目で見られる程度である。第三の段階では、滓から昇華してすでに精製されたものに、滓を加えず、きわめて弱い火を用いる。そこからほとんど何も昇らず、昇るものは、この作業で何の役にも立たない、きわめて微細なものとなるようにする。その物が、硫黄類において焼損を生じさせる媒介だからである。
したがって、昇華の目的全体はこうである。適切な火の操作によって土性を除き、同じように、損壊を伴う焼損を起こす最も微細で煙状の部分を取り去り、均衡のとれた部分が残るようにする。その部分は火の上で単純に溶け、焼損も炎も伴わず火から逃れる。最も微細なものが焼損をもたらすことは、きわめて明白な議論によって証明される。火は、自分により近い本性のものを、自分の本性へと変える。燃え得るそれぞれの物では、微細な部分がより火に近く、さらに微細なものは、いっそう近い。したがって最も微細なものが、最も近い。また経験からも、昇華されていない硫黄や砒素性物質は非常に速く燃え、硫黄はいっそう容易に燃える。正しく昇華されたものは炎を上げず、まず溶けてから、燃えずに飛び去り希薄になる。これらによって、私たちの言葉が真実であることが分かる。
注 affine は原刊正誤表78頁2行の指定に従った。
第41章 昇華の際、精気に加える金属体の滓と、その量および性質について。
滓を適切な割合で加えることの根拠は、昇華すべき精気がよりよく適合し、より深く混じる材料を選ぶことにある。精気が強く結合する材料のほうが、そうでない材料より、昇華されるものの滓を保持する力が強いからである。この論証は十分に理にかなって明白である。滓を加えることが必要な証明は、もし昇華すべき硫黄や砒素性物質を、何らかの固定された物の滓と結合させなければ、実体全体が浄化されずに昇ってしまう、ということである。昇華に習熟した者は、私たちが真実を述べていることを経験から知っている。
昇華すべきものが深部で適合・結合するような滓を加える必要があることの証明はこうである。滓がごく小さな部分まで混じらなければ、滓がない場合と同じことが起こる。すなわち、実体全体が何ら浄化されずに昇る。滓がなければ全実体とともに昇るのだから、結合しない滓から昇華させても、同じことが起こるはずである。これを見て知った者は、経験からその真実を知っている。金属体の本性に異質な物から昇華させたときには、作業は空しく、昇った後もまったく精製されたものを見いだせなかったからである。しかし何らかの金属体の灰とともに昇華させたなら、正しく昇華させ、容易に完全に浄化できた。
したがって、滓を用いる意図は、金属の灰からなるものを加えることにある。それらでは昇華の操作が容易であり、他の物では非常に難しい。その代わりとなれるものはない。ただし、金属体の灰なしでは昇華が不可能だというのではない。きわめて難しく、非常に長い労苦を要し、絶望するほど長引くのである。しかし、その方法にも一つの利点はある。滓なし、あるいは金属体の灰なしで昇華させるものは量が多く、滓とともに行うものはより少ない。金属体の灰とともに行うものはさらに少量だが、作業は最も容易で短い。金属体由来の滓を使う必要を最もよく軽減してくれるのは、あらゆる種類の調製された塩と、それと本性の類似するものである。それらを用いれば、多量の昇華も可能である。塩を溶かすことで、昇華すべきものの滓を容易に分離できるからであり、これは他の物には見られない。
滓の割合は、昇華すべきものの量と等しくなるようにする。これなら未熟な術者でも誤ることはない。中程度に熟達した術者なら、昇華すべきものの重さの半分の滓を置けば十分であり、誤るべきではない。熟練し、非常に経験豊かな者なら、ごく少量で足りる。滓の量が少ないほど、昇華の収量は多くなるはずである。ただし、滓を減らした割合に応じて、火も比例して弱めることが条件である。少量には小さな火、大量には大きな火、さらに多ければさらに強い火を用い、完成へ導くのである。
第42章 昇華における火の調節について。
火は測り得る物ではないため、習熟していない者は、しばしばその扱いを誤る。炉や燃やす木材の違いだけでなく、容器とその据え方の違いも原因となる。術者は、これらすべてを注意深く気にかけなければならない。しかし一般的な規則を示そう。初めは弱い火で、昇華すべき物から水性だけを追い出すのがよい。それを除いた後、その火によって何かが昇るなら、その初めには火を強めない。最も弱い火で、焼損の原因である最も微細な部分を取り出し、別に置くためである。
注 温度を数値で測定する近代的手法以前の記述である。現代の実験条件へ換算していない。
もはや何も、あるいはわずかしか昇らなくなったら、下の火を強める。これは、アルデルの上の穴に綿の灯芯を差し入れて確かめられる。火をどれほど強めるべきかは、灯芯による試しで分かる。昇華すべき物から出るものが、清浄であってもわずかなら、火はまだ弱いので強める。多量で不浄なら、火は過剰なので弱める。清浄で多量なら、適度な強さが得られた。不浄か清浄かは、アルデルの穴に置いた灯芯を抜いて知る。術者は、昇華する物が灯芯に付着した量と、その清浄さ、不浄さを見て、昇華全体に必要な火の適度な強さを推し量り、それによって誤りなく火を正す方法を見いだせる。
注 原刊正誤表81頁4行に従い、bombacis を bombicis とした。
滓としてよりよいのは、鉄の鱗片、あるいは焼いた銅の鱗片を取る方法である。これらは有害な湿りを欠いているため、硫黄や砒素性物質を容易に吸い込み、自らと結びつける。ただし、その方法を知るのは熟練した者だけである。
第43章 硫黄と砒素性物質の昇華で、滓の量と炉の配置に関して避けるべき誤り。また炉の建造と木材の選択について。
それゆえ、この二つの精気の昇華において、無知によって誤り得るすべての点で、術者を正すのが適切である。まず述べよう。滓を多く置いたとき、それに比例して火を強めなければ、昇華すべき物から何も昇らない。適度な火をどう見いだすかは、すでに十分説明した。また、滓を少量しか置かなかったり、金属体の灰でないものを置いたりした場合、その割合に適した火を見いださなければ、昇華すべき物は全実体とともに昇ってしまう。この適度を見いだす方法も、同様に十分伝えた。
炉によっても同じく誤りが起こる。木材と通気孔が適度に整えられているなら、大きな炉は大きな火、小さな炉は小さな火を与える。小さな炉に多量の昇華材料を置けば、昇らせるのに十分な火を与えられない。大きな炉に少量しか置かなければ、火の過剰によって昇華を台無しにする。また厚い炉は密で強い火を、薄い炉は疎で弱い火を与え、ここでも誤りが起こる。広い通気孔を持つ炉は明るく大きな火を、狭い通気孔の炉は弱い火を与える。さらに、容器を据えたとき、炉壁との距離が大きければ大きな火、小さければ小さな火を与える。これらすべてで、大きな誤りが起こり得る。
これらを正すには、求める火の目的に従って炉を造る。大きな火を求めるなら、炉を厚くし、通気孔をよく開き、アルデル容器を炉壁から十分離す。中程度の火を求めるなら、これらすべてを中程度に調整する。弱い火なら、それに応じた割合を見いだす。これらの割合をすべて、正しい調製と定まった経験によって見いだす方法を、あなたに教えよう。
注 原刊正誤表83頁2行に従い、proportione vera を praeparatione vera とした。
多量の昇華物を昇らせたいなら、その材料を底から一パルマの高さまで収められる容量のアルデルを用意する。それに合わせて炉を造り、中央にアルデルを収め、炉壁との間を二指分あける。炉ができたら、同じ大きさの通気孔を十個、等間隔に設け、すべての部分に火が均等に行き渡るようにする。次に、炉の中央を横断する鉄棒を炉壁に固定する。棒は、炉底から親指を含めた一パルマの幅ほど離し、太さは一指分とする。その上にアルデル容器を固定し、炉との周囲を塗り固める。続く図がこれを示す。
注 palma と digitus は身体寸法に基づく原文の尺度をそのまま保持した。現代の安全な設計寸法へ換算していない。
そして観察しなさい。煙を十分かつ自由に排出し、炎がアルデルの周囲を、炉全体にわたって自由に通るなら、割合は適切である。そうでなければ、適切ではない。その場合、通気孔を広げる。それで改善するならよい。そうでなければ、アルデルと炉壁の距離が小さすぎることになる。そこで炉壁を削り、間隔を広げ、再び試す。煙が自由に抜け、アルデルの周囲の炎が明るく、通気孔から煙が自由に出るまで、通気孔の拡張と炉壁の削りを繰り返す。これは、どの量の昇華に対しても、炉の大きさ、通気孔の広さ、アルデルと炉壁の間隔を見いだすのに十分な試しである。
炉の厚さを決めるには、大きな火を求めるなら、厚くし、親指を含めた一パルマの幅を尺度とする。中程度なら一パルマ、小さな火なら二指分の厚さに造る。
〔84頁の炉と容器の図〕
注 角括弧内は本対訳が加えた図の識別表示であり、原刊に印刷された表題ではない。図は底本画像のものを用いる。

同じように木材からも適度を見いだす。密な木は強い火を、海綿状の木は弱い火を与える。乾いた木は大きいが速く終わる火を、生木は小さいが長く続く火を与える。また密な木は長く、海綿状の木は短く燃える。それゆえ、前述のアルデルとの距離、通気孔の大小、炉壁の厚薄、木材の違いを考慮すれば、真の経験によって、あらゆる火の違いを探究できる。通気孔や薪を入れる炉の窓をどれほど閉じるか、種類の異なる木材をどう用いるか、その追加と減少をどう行うかによって、火の持続時間を定められる。それによって、各段階の火を、どれほどの時間、均等に保てるかを、明確に知ることができる。この探究は非常に有益で必要である。それによって、膨大な労力を免れるからである。だから、これと、いま最後に述べたすべてについて修練しなさい。修練する者は見いだし、しない者は見いださないのである。
第44章 アルデル容器を、どの材料と形で作るべきか。
アルデル容器についての意図は、厚いガラスで容器を作ることである。他の材料では、ガラスと同じような実体を持ち、厚くできるものでないかぎり役に立たない。ガラスとそれに類するものだけが、孔を欠くため、精気が逃れ、火によって失われないよう保持できる。他の材料では、その孔を通して精気が徐々に減り、消え去るため、それはできない。金属も役立たない。精気は金属との親和性と適合性のため、それに浸透して結合し、通り抜けて消えるからである。これは、すでに定めた事柄によって明らかに証明される。経験によっても、私たちの言葉が真実であることが必然的に見いだされた。それゆえ、アルデルを作る際には、ガラスの使用を他の何かで代えることはできない。
そこで、底がわずかに曲がった丸いガラスの鉢を作る。その側壁の中ほどに、周囲を取り巻くガラスの帯を設け、その帯の上に、鉢の壁から蓋の厚さだけ等しく離れた、円い外壁を立てる。この間隔に、蓋の壁が圧迫されず、ゆとりをもって入るようにする。この外壁の高さは、鉢の壁の高さと同じか、わずかに高いか低い程度とする。二つの壁の間のくぼみに合わせ、同じ大きさの蓋を二つ作る。高さはどちらも一スパンナ、形も同じ先細りの形とする。それぞれの頂部に同じ大きさの穴を一つずつ設け、どちらにも大きな鶏の羽軸が入るようにする。少し後の図で、さらに明らかに見ることができる。
注 spanna は手を広げた幅に由来する歴史的尺度。本版は製作用の現代寸法に換算しない。
鉢形の容器の意図は、術者の望むままに蓋を動かせ、しかも巧みな継ぎ目によって、泥で封じなくても精気の出口が開かないようにすることである。この点でさらによい工夫のできる者は、私たちの教えを口実に、それを怠ってはならない。とくに重要なのは、内側の鉢がその側壁とともに、蓋の中ほどまで入り込むことである。煙は昇り、下らないので、この最初の工夫によって、精気が失われる出口を持たないことを見いだした。それゆえ、私たちが探究した他の方法より優れている。これを試す者は、この容器についての私たちの判断が正しかったことを知るだろう。
もう一つの意図は、アルデルの頭部を頻繁に空にすることである。昇華物が頭部に過度にたまると、底へ落ち、昇華を何度も繰り返すために長時間を費やすことになるからである。また別の意図は、頭部の穴の近くまで粉として昇ったものを、溶けて濃密な塊となり、頭部の下方に、透けて明るく、容器の側壁に付着しているものから、常に別々に分けることである。後者は、穴の近くへ昇ったものより焼損性が少ない。このことは、先の箇所で、明白な理由と試験によって証明されている。
昇華の良否と完成を調べる方法は、すでに述べた。それは、明るく輝き、炎を上げて焼けないことを確かめることである。これが、硫黄と砒素性物質の昇華の目的の完成である。そうした状態が得られていなければ、そのすべての目的を考慮しながら、得られるまで作業を繰り返す。
〔88頁のアルデル容器と、取り外した蓋の図〕
注 角括弧内は本対訳による識別表示。本文が参照する図は次頁の第45章見出しの上に印刷されている。

第45章 メルクリウス、すなわち水銀の昇華について。
いま、水銀の昇華の目的全体を定めよう。その全体を成すのは、土性の精製と水性の除去である。焼損性は持たないため、それを除く労苦は不要である。余分な土を分離する工夫は、水銀を、それと類縁性のない物と混ぜ、それらから幾度も昇華を繰り返すことである。その種類にはタルク、卵殻の灰、白大理石の灰がある。同じく、きわめて細かく砕いたガラスや、あらゆる種類の調製済みの塩もある。これらによって水銀は浄化される。
しかし、水銀と類縁性のある他の物によっては、それが完全な金属体でないかぎり、むしろ損なわれる。それらはみな硫黄性を持ち、昇華の際にそれが水銀とともに昇って、水銀を損なうからである。これは、錫または鉛から水銀を昇華させると、昇華後に黒く汚れていることを観察すれば分かる。したがって、適合しない物を用いた昇華のほうがよい。適合する物も、硫黄性を持たなければ、そちらのほうがよいであろう。それゆえ、石灰からの昇華は、他のすべての物からよりも優れる。石灰はわずかな適合性しか持たず、硫黄性を持たないからである。
余分な水性を除く方法は、昇華に用いる灰と混ぜる際、浸潤を伴ってすり合わせ、水銀が見えなくなるまで混合し、その後、ごく弱い火で、浸潤に由来する水性を除くことである。それが去ると、水銀の水性も一緒に去る。ただし、火は水銀の実体全体が昇らないほど弱くする。こうして、浸潤と粉砕、穏やかな焙焼を幾度も繰り返すと、水性の大部分が除かれ、残りは昇華の反復によって取り除かれる。
注 原刊正誤表90頁1行に従い、imbitionis を imbibitionis とした。
それが雪に勝る白さで、死んだもののようにアルデルの側壁に付着するのを見たら、滓なしで再び昇華を繰り返す。固定された部分が滓に付着すると、どんな工夫でも分離できなくなるからである。あるいは、その後で一部を固定する。その固定方法は、後で明瞭に説明しよう。その部分を固定したら、残りの部分をその上で繰り返し昇華させ、同様に固定されるようにする。保存しておき、火の上で試す。よく溶けるなら、十分に昇華したのである。そうでなければ、昇華した水銀をいくらか加え、そうなるまで昇華を繰り返す。明るく、非常に白く、透ける色を持つなら、よく浄化できている。そうでなければ、できていない。
したがって、昇華による調製を怠ってはならない。不完全な各金属体や、未調製の生の水銀そのものに投射したとき、それによって生じる完成は、浄化の程度に応じるからである。そのため、ある者は鉄を、別の者は鉛を、また別の者はウェヌスや錫を、それによって作ることになる。これは精製の怠慢による。水銀そのものの場合も、それに混ぜた硫黄またはその類似物の場合もある。したがって、正しく昇華して浄化し、完成させるなら、それは比べるもののない、確実で完全な白の染色力となる。
第46章 マルカシータの昇華について。
水銀の昇華の目的全体を十分に伝えたので、いまマルカシータの昇華へ進もう。その昇華は二つある。第一は赤熱なしに行い、他方は赤熱して行う。これは、二つの実体を持つためである。一つは本来の状態の純粋な硫黄、他方は死化された水銀である。第一は硫黄として役立つ。第二は、死化され、ある程度調製された水銀として役立つ。したがって、後者を取ろう。これによって、前述の水銀を使うことと、それを死化する労苦を免れるからである。
注 原刊正誤表91頁14行に従い、argenti vivi を argento vivo とした。
注 mortificatio(死化)はこの文献の操作概念であり、微生物の殺菌等の現代概念には置き換えない。
その昇華の方法全体はこうである。すり潰してアルデルに入れ、赤熱させずに硫黄を昇華させる。先に述べた理由から、昇華したものは非常に頻繁に取り除き、火を次第に強め、アルデルが赤熱するまで進める。マルカシータの最初の昇華は、硫黄が去るまで昇華容器で行い、その後、この容器で順次、秩序立てて進め、含まれる硫黄がすべて出るまで続ける。これは次の明白な試しで確かめられる。硫黄がすべて昇った後には、次に昇華するものの色が非常に白くなり、きわめて明るく美しい空色が混じるのが見える。また、硫黄の本性を持つものは燃え、硫黄のように炎を上げる。これに対し、その後、第二に昇華するものは炎を上げず、硫黄の性質を示さず、昇華を繰り返す際、死化された水銀の性質を示す。
注 原刊正誤表91頁18行の saepissime を採用した。
第47章 マルカシータを正しく昇華できる容器について。
それゆえ、次の昇華の方法でこれを集めよう。非常に堅固で、よく焼いた土製の容器を作る。長さは成人男性の身長の半分、幅は手が入る程度とする。底は、深い平皿のような形で、取り外しと接合ができるように作る。容器の口から底近くまで測り、底から指を含む手一つ分の長さに当たるところを定める。その位置から頭部まで、容器の内側に非常に厚くガラス質の釉を施す。頭部には、広い嘴管のあるアランビックを置く。このような容器の中で、それは昇華される。
注 寸法の説明は原刊の身体尺度に従う。曖昧な設計記述を現代的な工作図へ補完していない。
底を強く粘着する泥で容器に接合し、その上にマルカシータを撒く。容器の頭には広い嘴管のアランビックを置き、強く赤熱させられる炉に据える。必要なら銀やウェヌスを溶かせるほどの炉であり、すべての器具の違いを述べる本書の総括部分で、十分に説明する。炉の上部を円板で囲み、その中央に容器の大きさに合った、容器を通せる穴を設ける。容器と炉の周りの継ぎ目を泥で封じ、外へ出る火が昇華物の付着を妨げないようにする。ただし円板には、開閉できる小窓を四つ残し、そこから炭を炉に入れる。また炉の側面にも、その下の間の位置に四つの窓を設け、同じく炭を入れる。さらに小指ほどの穴を六つか八つ設け、これは決して閉じず、煙がそこから自由に抜けるようにする。それらの穴は、炉と円板の接合部に設ける。
強い赤熱を与える炉は、側壁の高さを二クビトゥスとする。中央には、非常に小さく密な穴を多数あけた円板を置き、泥で強く固定する。穴は上を狭く、下を広くし、灰や炭が自由に落ちて、空気を取り入れるために、常に開いた状態が保たれるようにする。下の穴から空気を自由かつ多量に受け入れることは、炉が強い赤熱を与える一つの原因である。これに習熟しなさい。そうすれば見いだせるだろう。
注 原刊正誤表93頁17行の vero laxa を採用した。クビトゥスは肘から手先までに由来する原文の尺度。
容器を長くする理由は、その大部分を火の外へ延ばして冷やし、昇華の煙が冷却される場所を見いだして付着し、逃げて失われる道を見いださないようにすることである。短いアルデルで昇華させ、昇華物を何も得られなかった者は、このことを知っている。アルデルが短いため、全体に同じ火の熱が及び、昇華すべきものは常に煙状のまま、どこにも付着せず、容器の孔から徐々に消え去ったからである。それゆえ、何を昇華させる場合でも、容器の大部分を冷却される場所へ延ばす。
容器にガラス質の釉を施す理由は、昇る煙が、その上昇する場所でアルデルの多孔な壁を見つけ、浸透して逃れないようにするためである。それゆえ、煙の昇る部分をガラス質にして、逃げ道を塞ぐ。しかし、アルデルの底には施さない。底は火の中にあり、その火は釉を溶かしてしまうからである。釉が溶けると、底も、昇華すべきものも、ともに溶けてガラスになる。すべてを支配し、自らに変えるのがガラスの性質だからである。
これらすべてとその原因を考慮したうえで、アルデルの下に火を置き、すべてが昇ったことを確かな試しで確認するまで続ける。その試しは、よく焼いた土製の棒を、昇華の生じる材料の近くへ差し入れることである。棒は小指ほどの太さで、その先から中央まで小さな穴が通っている。その穴に昇華物が付着すれば、まだすべては昇華していない。付着しなければ、昇華したのである。この同じ試しによって、どの昇華でも確かめられる。マルカシータの最後の昇華に用いるアルデルと、炉、および検査用の棒の図は、次のとおりである。
〔95頁の容器、炉、検査用の棒の図〕
注 角括弧内の図の識別表示は本対訳が加えた。原刊本文が指示する木版図を掲載する。

第48章 マグネシアとトゥティア、および不完全な金属体の昇華について。また、それらを昇らせる材料の添加について。
マグネシアとトゥティアの昇華の目的は、マルカシータの最後の昇華と同じである。これらはみな、赤熱なしには昇華できない。それゆえ、同じ目的、原因、試しを持ち、一般的な手順も同じである。赤熱を必要とする昇華は、すべて滓を加えずに行うべきである。材料自体が十分な、むしろ余分な滓を持つからであり、その証拠は昇華の難しさである。完全性を欠くすべての金属体も、同じ順序で昇華させる。違うのは、金属体の昇華の火が、マグネシア、マルカシータ、トゥティアの場合より強いことだけである。また、金属体どうしの昇華にも違いはない。ただし、あるものは昇りやすくする物の混合を必要とし、他のものは必要としない、という違いはある。
ただし、金属体の昇華では、一つの特別な配慮がよいことが経験上見いだされた。アルデルの底に、昇華すべき金属体を多量に置かないことである。量が多いと昇華を妨げるからである。また、昇華用アルデルの底は、くぼみではなく平らにする。底に均一に薄く撒かれた金属体が、そのすべての部分で均等に、十分に昇れるようにするためである。昇らせる物の混合を必要とする金属体は、溶融の遅いウェヌスとマルスである。ウェヌスにはトゥティア、マルスには砒素性物質が必要であり、それらと非常によく適合するので、容易に昇る。これらを考慮した後、トゥティアおよび昇華においてそれと類似する物と同じように昇華させ、同じ順序に従って、その原因と試しを踏まえ、操作を整える。
第49章 下降と、練塊による精製の方法について。
昇華の目的とそのすべての原因を述べたので、今度は下降の方法を、同じくその原因と、定まった完全な手順とともに示すことが残されている。その発見の原因は三つあった。一つは、錬金術の下降器と呼ばれる容器に材料を収め、溶けた後にその穴から下降させることで、溶融したことを確かめるためである。もう一つは、弱い金属体をその灰から戻した後、焼損から守るためである。弱い金属体を灰から戻そうとするとき、すべての部分を同時に戻すことはできない。最初に金属体へ戻った部分が、全体が戻るまで待てば、その大部分が火によって消えてしまう。そこで、戻った部分をただちに火から離す工夫が必要であり、それが下降器によって行われる。第三の原因は、金属体からあらゆる異質な物を精製によって除くことである。清浄な溶融金属が下降し、異質な物はすべて容器のくぼみに残されるからである。
以上の三つの必要から下降が発見されたので、その方法を定めよう。まず、その器具と原因を明らかにする。器具は底を尖らせ、側壁が凹凸なく、均等に底の尖端へつながる形とする。どの溶融物も付着せず、自由に底の穴へ下降できるようにするためである。必要なら、平皿のような形で、よく合う蓋を付ける。どちらも良質で堅固な土を用い、火の圧力によって容易に割れないものとする。
下降させる物を器具に入れ、土製の丸棒の上に置き、上側の底へ近づくようにする。そして蓋をし、継ぎ目を固め、炭火に置き、空気を吹き付け、すべてが下に置いた容器へ下降するまで続ける。ただし、溶けにくい物なら、平らか、わずかにくぼんだ板の上に置いてもよい。下降器の頭を傾けたとき、溶けた物がそこから容易に下降できるようにする。これによって金属体が精製される。
注 上側の底(fundus superior)の表現は、原刊の器具記述に従う。構造を推測して書き直してはいない。
しかし、練塊によるほうが、いっそうよく精製できる。その精製方法は下降器の場合と同じであり、練塊によって下降器を使わずに済む。下降器と同様に金属体の滓を保持し、しかもそれよりよく保持するからである。そこで、その方法を述べよう。浄化すべき金属体を取り、非常に小さな粒、やすり屑、あるいは、より完全な仕方として灰へとする。それに溶けないことを意図する何らかの灰を混ぜ、その後、金属体を溶かす。これを幾度も繰り返すことで、金属体が浄化されることを見いだした。ただし、私たちが完成と認める完全な浄化ではなく、有益な浄化である。完全化の薬を受け入れたとき、その薬によって金属体が、よりよく、いっそう完全に変成されるためのものである。これは、その薬に先立つ処置である。すべての処置については後で十分説明しよう。いまは下降器の図を示す。
〔99頁の下降器の図〕
注 角括弧内は本対訳の識別表示。原刊本文が参照する木版図を掲載する。

第50章 蒸留とその原因、およびその三種、すなわちアランビック、下降器、濾布によるものについて。
そこで私たちの意図に従い、蒸留について、その原因とともに述べるのが適切である。蒸留とは、水性の蒸気を、その容器の中で上昇させることである。蒸留には相違があり、火によるものと、火を用いないものとがある。火によるものには二種が認められる。一つはアランビックへ上昇させるもので、もう一つは錬金術の下降によるものであり、これによって植物から油を取り出す。蒸留が発見された理由、また、あらゆる蒸留の発見に共通する原因は、液状の物を、その濁りの滓から精製し、腐敗から守ることである。どの種類の蒸留でも、蒸留された物がいっそう純粋になり、腐敗からいっそうよく守られるのが見られる。アランビックへ上昇させる蒸留の発見に特有の原因は、土を含まない純粋な水を求めることであった。その経験的な証しは、このように蒸留した水に滓がないことである。純水を見いだした原因は、精気に含浸させ、薬を清めるためであった。すなわち、含浸が必要なとき、蒸発した後に滓を残さない純水を得るためである。そうした滓によって、私たちの薬や清められた精気が汚され、損なわれるおそれがあるからである。
注 原刊の imbitio はそのまま転記し、続く imbibitione と同じ含浸の意味で訳した。精気(spiritus)は揮発性の錬金術的物質を指す。
下降による蒸留の発見の原因は、油をその本来の性質のまま純粋に取り出すことであった。上昇によっては、燃えるという本来の性質をもつ油を得られなかったからである。この探究は、油の実体と混じり合っている色を得るためであった。その色が役立つ場合があるからである。他方、火で熱せず濾布によって行う蒸留が発見された原因は、ただ水を澄ませることにあった。
そこで、すべての蒸留の方法を、その原因とともに述べよう。上昇によるものには二つの方法がある。一つは灰を満たした土鍋の中で行う。もう一つは水を使い、その容器に草や羊毛のような物を順序よく配置して行う。作業が完成する前に、ククルビタや蒸留用アランビックが割れないようにするためである。灰を使う方法は、より大きく、強く、鋭い火によって行い、水を使うものは穏やかで均等な火によって行う。水は灰のようには加熱の鋭さを受け入れないからである。したがって、灰を使う方法では色と土の粗い部分が上昇しやすい。他方、水を使う方法では、より微細で、無色で、単純な水性の本性にいっそう近い部分が上昇する。ゆえに、水によって行うほうが、灰によるよりも微細な分離となる。
注 ククルビタ(cucurbita)は蒸留の下部容器、アランビック(alembicus)は通常その上部の頭部を指すが、本章には装置全体にも用いる表現がある。
これが真実であることは、次の経験によって知られる。ある者が灰を使って油を蒸留したところ、受器には、ほとんど変化していない油が得られた。その部分を分離しようと望むと、必要に迫られて、水を使って蒸留することになった。これを繰り返して油をその元素的な部分へと分離し、非常に赤い油から、きわめて白く澄んだ水を取り出した。その赤色は、すべてアランビックの底に残ったのである。したがって、この術によって、あらゆる植物性の物、植物性の物から生じた物、そしてそれに似たあらゆる物について、そのすべての元素を明確に分離することへ至るはずである。
下降による方法では、どの物からも確実に油を得ることができる。すなわち、すべての植物性の物、およびそれらに似た物からである。濾布による方法では、どの液状の物も澄ませることができる。これらはすべて、わずかな知識しかない者、あるいはごく初歩の知識しかない者にも明らかで、よく知られている。これらを知らない者は、この術を何も知らない。そこで実習すれば、容易に探り当てるであろう。
灰による方法の配置は次のとおりである。丈夫な土鍋を取り、前述の昇華炉と同様の炉に据える。炉壁からの距離は同じとし、同じ工夫を用い、同様の耳を付ける。その底に、篩にかけた灰を指一本分の厚さに敷き、その灰の上に蒸留容器を置く。その周囲を、アランビックの首近くまで、同じ灰で覆う。その後、このように蒸留しようとする物を容器へ注ぐ。最後にアランビックをかぶせる。その首が、下部ククルビタの首を、アランビックの管の曲がりに達するまで内側に受け入れるようにして、蒸留する物が逃げ道を見いださないようにする。その後、アランビックとククルビタを封泥で封じ、両者の継ぎ目を固め、蒸留するまで下から火を加える。アランビックとククルビタはガラス製とする。蒸留の必要に応じて火を強め、火の大きな作用によって、蒸留すべき物がすべて蒸留されたと認められるまで続ける。
第二の目的をもつ、水による蒸留の配置は、容器とアランビックの点では前のものと同じである。ただし、この方法では鉄か銅の鍋を取り、述べたように炉に据える点が異なる。次に、その鍋の底に、草、羊毛、またはそれに似た物を指三本分の厚さに敷き、ククルビタが割れないようにする。同じ草や、それに似た物で、ククルビタの周囲をアランビックの首近くまで覆う。その敷き物の上に細い枝を散らし、枝の上に重い石を置く。石の重さでククルビタ、アランビック、敷き物を押さえ、鍋の底にしっかり安定して保持し、水によって浮き上がらないようにする。浮き上がることが、容器の破損と蒸留する物の損失の原因となるからである。その後、敷き物の上から鍋が満ちるまで水を注ぎ、すべてが蒸留されるまで下から火を加える。
注 原刊の virgae subtilis は語形をそのまま保ち、文脈に従って「細い枝」と訳した。
下降による蒸留の配置は、蓋を備えたガラス製の下降器を作り、両方を封泥で覆い、この方法で蒸留したい物を中へ入れるというものである。そして、その上部に火を設ける。蒸留された物は下降するであろう。
濾布による蒸留の配置は次のとおりである。蒸留する液を石製の鉢へ入れ、よく洗って湿らせた濾布の幅の広い側を、その液の中へ、鉢の底まで入れる。細い側は、鉢の口から外へ垂らす。濾布の先端の下に、滴下物を受ける容器を置く。濾布が滴らせ始めると、まず、それを湿らせていた水が滴り、その水が尽きると、蒸留すべき液がそれに続く。その液がまだ澄んでいなければ、きわめて澄んだ状態で滴るまで、何度でも鉢へ戻す。これらはすべて容易であり、大きな証明を必要としないので、証明については述べなかった。いま説明した各種の蒸留に用いる、すべての容器の図は次のとおりである。
注 distillatio は本章では加熱蒸留だけでなく、濾布を伝って液を滴下させる操作にも用いられる。
〔104頁の蒸留器具の図〕
注 角括弧内は本対訳の識別表示。原刊本文が参照する木版図を掲載する。

第51章 金属体と精気の焼成、およびその原因と方法について。
蒸留について述べた後は、焼成について説明しよう。焼成とは、諸部分を固く結びつけている湿りを取り去ることにより、火によって物を粉末にすることである。それが発見された原因は、物を損ない汚す焼損性の硫黄性を、火によって除くことにある。焼成には、焼成する物の相違に応じた違いがある。
したがって、金属体も、精気も、これらと本性を異にする他の物も焼成されるが、その目的は異なる。不完全な金属体には二種がある。一つはウェヌスとマルスのような硬いもの、もう一つはユピテルとサトゥルヌスのような柔らかいものであり、どれも焼成される。これらは、共通の目的と、個別の目的という、異なる意図に従って焼成する必要があった。ただし、一つの共通の目的によっても焼成される。それは、物を損ない汚すあの硫黄性を、火によって取り除くことである。このようにして、どのような物からも、焼成なしでは除けない焼損性の硫黄性を、ことごとく燃やし去る。金属体は固体であり、その堅さと、水銀の実体の連続した内部に硫黄性が隠れていることのために、硫黄性は水銀によって焼損から守られている。それゆえ、その連続性を断ち、火がどのように小さな部分にもいっそう自由に届き、そこから硫黄性を燃やし去れるようにしなければならなかった。内部の水銀の連続性が、それを守らないようにするためである。同様に、土性を除いて精製することも、焼成の共通の目的である。後で示すように、焼成と金属体へ戻す操作を繰り返すことで、金属体が清められることが見いだされたからである。
注 ウェヌスは銅、マルスは鉄、ユピテルは錫、サトゥルヌスは鉛の錬金術的名称。以下も同様。
柔らかい金属体に特有の焼成は、これら二つの目的とともに、それらを硬くし、赤熱させることを目的とする。それは、それらに対して工夫を凝らして焼成を繰り返すことによって達成される。この点は、後の説明で定める必要がある。私たちは、この工夫によって、それらが明らかに硬くなることを見いだした。ただし、ユピテルのほうが、いっそう明瞭に、より速く硬くなる。精気の焼成が発見された原因は、それらをよりよく固定し、より容易に水へ溶解させるためである。どの種類でも、焼成された物は、焼成されていない物より固定されていて、溶解しやすい。焼成された物の諸部分は、火によっていっそう微細になり、水と混ざりやすく、水へ変わりやすいからである。経験すれば、実際にそうなることが分かるであろう。他の物の焼成は、精気と金属体の調製に必要なことに役立つ。それについては、後で私たちがいっそう詳しく説明する。しかし、そのような他の物のいずれも、これらの完全化そのものを構成するのではない。
したがって、焼成する物が異なるため、焼成の方法も異なる。金属体は、精気や他の物とは別の方法で焼成される。また、互いに異なる金属体も、それぞれ異なる方法で焼成される。柔らかい金属体には、焼成の目的に向けた一つの共通の方法がある。すなわち、両者とも火だけで焼成でき、同様に、調製した塩でも、調製していない塩でも、その鋭さによって焼成できる。
第一の、火だけを使う方法は、次のように行う。皿の形をした、丈夫な構造の鉄製または土製の容器を取り、これらを焼成する炉へ、その下に炭を投じ、風を吹き込めるように据える。その容器の底に鉛または錫を入れる。容器は鉄製の三脚、または三本の石柱の上にしっかり載せ、さらに三つか四つの石で炉壁へ押し付けるように固定し、動かないようにする。炉の形は、すでに述べ、後でもいっそう十分に説明する強熱炉と同じとする。その炉で、焼成容器の下に、焼成する金属体を溶かすのに十分な火を起こす。火の熱によって、金属体が表面に黒い皮を生じたら、燃えて灰を汚すことのない鉄製または石製の箆で、その皮を取り除く。金属体が粉末に変わるまで、この皮を剝ぐ操作を続ける。それがサトゥルヌスなら、さらに強い火にかけ、その灰がきわめて黄いろい色へ変わるまで加熱する。ユピテルの場合も同様に火にさらし、完全な白さへ変わるまで置いておく。
ただし、ここで術者に注意を促しておく。サトゥルヌスは、その灰から容易に金属体へ戻るが、ユピテルは非常に戻りにくい。したがって、サトゥルヌスを最初に粉末にした後、より強い火にさらす際に誤り、その灰が完成する前に金属体へ戻ってしまうことがあってはならない。火を加減し、注意しながら徐々に強め、その灰の状態で安定させる必要がある。そうすれば、容易に金属体へ戻らなくなり、その灰を完成するため、より強い火を加えられる。同様に、ユピテルを戻すことが難しいために、誤りが生じてはならない。その灰を金属体へ戻そうとして戻らず、以前のままであったり、ガラスになったりしたものを見て、戻すことは不可能だと考えることである。私たちはこう言う。ユピテルを戻すとき、強い火を用いなければ戻らない。しかし、強い火を用いても、必ず戻るわけではなく、ガラス化させることもありうる。それは、ユピテルが本性の奥に、逃散性の水銀の実体を閉じ込めているからである。それが火の中に長く留まれば、逃げ去り、湿りを奪われた金属体を残す。その結果、金属として溶融するより、ガラス化へ変わるのに適した状態となる。本来の湿りを失った物は、何であれ、ガラス化する以外の溶融を示さない。したがって、必然的に、きわめて急激な火の作用によって、速やかに戻すことを急がなければならない。それ以外の方法では戻らない。そこで、実習すれば分かるであろう。
塩の鋭さによって行う、この二つの金属体の焼成法は、溶融しているそれらの表面に、塩を少しずつ、何度も投じるというものである。火の上で鉄の棒を使い、よく攪拌して混ぜ、塩の混合によって灰へ変わるまで続ける。その後、それぞれに必要な注意を払いながら、先と同じ完成の方法によって、それらの灰を完成させる。ただし、ここでも両金属体の焼成には違いがある。鉛は、焼成の最初の作業から、ユピテルより容易に粉末へ変わるが、その灰は、ユピテルの灰より容易に完成するわけではない。この原因は、サトゥルヌスが、ユピテルより固定された湿りをもっていることにある。
ウェヌスとマルスの方法は互いに同じだが、先の二つの金属体とは異なる。それらは溶けにくいからである。方法は、薄板にして、溶かすことを目的としない強い赤熱にさらすというものである。それらの中には土性が多く、焼損性と逃散性をもつ硫黄性も多いので、この方法で容易に灰へ導かれる。水銀の実体に多くの土性が混じるため、水銀が本来もつ連続性が乱されるからである。その結果、それらに多孔性が生じ、硫黄性がその孔を通って飛び去ることができ、火も、そのために内部へ入り、硫黄性を燃やし、上昇させることができる。こうして、諸部分はいっそう疎となり、その疎性がもたらす不連続によって灰へ変わることになる。このことの明らかな経験的証しは、ウェヌスの薄板を赤熱させると、硫黄の炎を発し、表面に粉末にできる鱗片を生じることである。それは、表面に近い部分では、硫黄がより容易に燃えるはずだからである。
この焼成に用いる炉の構造は蒸留炉と同じである。ただし、上部に一つだけ大きな穴を設け、そこから煙を自由に排出できるようにする。焼成する物は炉の中央に置き、周囲から自由に火を受けるようにする。その容器は、皿の形をした土製のものとする。
精気を焼成する方法は、それらが固定へ近づくにつれて火を加え、逃げないよう、順を追って少しずつ火を強め、きわめて強い火にも耐えるようになるまで続けるというものである。その容器は丸く、どの側も閉じられたものとし、炉は直前に述べたものと同じとする。同様の炉と同様の容器によって、他のどの物も焼成される。ただし、その場合には、逃散を防ぐために費やす、あの大きな労力を省ける。精気と、精気の本性に近い物以外は逃げないからである。直前に述べたすべての器具の図は、次のとおりである。
〔111頁の焼成炉と容器の図〕
注 角括弧内は本対訳の識別表示。原刊では第52章の見出しの直前に置かれている。

第52章 溶解について。
溶解について詳しく述べるなら、溶解とは乾いた物を水へ戻すことである。そこで私たちはこう言う。すべての溶解の完成は、微細で、きわめて鋭く、刺激が強く、渋味をもち、滓のまったくない水によってもたらされる。たとえば蒸留した酢、未熟な葡萄、非常に酸っぱい梨、同様に蒸留した柘榴、およびこれらに似た物である。溶解の発見の原因は、溶融する力も浸透する力もない物を微細にすることにあった。これらの力がなければ、固定された精気と、それと同じ本性をもつ物から得られる大きな効用が失われてしまう。溶解する物はすべて、塩、明礬、あるいはそれらに似た物の本性をもたなければならない。それらは、ガラス化する前に溶融する本性をもっている。したがって、溶解された精気も、同じような溶融を示すであろう。精気は、その本性上、金属体と、また互いに非常によく適合しているので、溶融性を得れば、それによって金属体へ浸透し、浸透することで変成するはずである。
注 aquis はここでは単なる水だけでなく、酢や果実由来の液など、操作に用いる液体を含む。
しかし、浸透し変成することは、術を施さずには達成されない。その術とは、すなわち、対象を溶解し凝結させた後、それに、精製はされているが固定されていない精気を何か一つ加えることである。そして、その精気が対象とともに留まり、より速い溶融をもたらし、溶融中のガラス化を防ぐようになるまで、対象から何度も昇華させる。精気は、その本性としてガラス化せず、混ぜられた物の中に留まっているかぎり、それもガラス化から守る。したがって、精気の本性をより多く保っている精気ほど、ガラス化をよく防ぐ。単に精製しただけの精気は、精製、固定、焼成、溶解を施した精気より、その本性をよく保つ。それゆえ、そのような精気を対象に混ぜる必要がある。これらから、良好な溶融、浸透、そして持続する固定が生じるからである。
自然の働きから、塩、明礬、およびそれらに似た物の本性を保つ物だけが、溶解可能であることを証明できる。自然のすべての働きを考察しても、それら以外の物が溶解するのは見いだされないからである。したがって、何であれ溶解する物は、それらの本性によって溶解するはずである。しかし、真に焼成されたすべての物が、焼成と溶解の反復によって溶けることを私たちは見る。このことによって、焼成されたすべての物が、塩または明礬の本性に近づくことを証明する。したがって、それらは性質の点でも互いに伴い合わなければならない。
溶解の方法には二つある。温かい堆肥によるものと、沸騰する水によるものである。両者の目的と効果は一つである。堆肥による方法は、焼成した物をガラス瓶に入れ、その上から、蒸留した酢または同様の液を、その物の二倍量注ぐというものである。空気が通らないよう瓶の口をよく塞ぎ、温かい堆肥の下で溶解するにまかせる。その後、濾布による滴下で、溶解した部分を取り分ける。溶解しなかった部分は、再び焼成し、焼成の後、同じようにまた溶解させる。その物に対して作業を繰り返し、すべてが溶けるまで続ける。
沸騰する水による方法のほうが速い。その方法は、同様に焼成した物を酢とともに瓶へ入れ、空気が通らないよう口を塞ぐというものである。水を用いる蒸留法で順序を追って指示したように、その瓶を、水と藁で満たした釜に埋める。その後、下から火を起こし、水が一時間沸騰するようにする。その後、溶解した部分を滴下させて取り、別に保存する。溶解しなかった部分は再び焼成し、同じ手順でまた溶解させ、反復によってすべてが溶けるまで続ける。いま述べたものの図は、次のとおりである。
〔114頁の溶解の図〕
注 角括弧内は本対訳の識別表示。原刊では第53章の見出しの直前に置かれている。

第53章 凝結とその原因、およびメルクリウスと溶解した薬を凝結させる種々の方法について。
凝結とは、液状の物から湿りを取り去り、固い実体へ戻すことである。その発見の原因には二つある。一つは水銀を硬くすること、もう一つは、溶解した薬から、混じっている水性を取り除くことである。したがって、凝結させる物の種類に応じて、方法も異なる。水銀に必要な凝結と、溶解した薬に必要な凝結とは異なる。ただし、水銀そのものの凝結にも二つある。一つは、その生来の湿りをすべて取り去ることによるもの、もう一つは、その湿り自体を濃密化し、硬くすることによるものである。しかし、水銀を凝固させるのは非常に難しく、骨の折れることであり、深く鋭い工夫を要する。私たちは、水銀を凝結させるための、あらゆる工夫を述べることにしよう。
ある者たちは、水銀を凝結させる工夫とは、加減した火の中に保つことだと考えた。ところが、凝結させたと思って火から取り出すと、以前と同じように流れることが分かった。そこで呆然とし、驚き、これは達成できないと強く主張した。他の者たちは、自然の原理から、どのような湿りも、火の熱によって必ず乾きへ変わると考え、忍耐強く力を尽くして、水銀を火の中に保ち続けようとした。その継続によって、ある者は白い石へ、別の者は赤い石へ、さらに別の者は黄色い石へと変えるに至った。しかし、それらには溶融性も浸透性もなかった。彼らは、こうした相違の原因を理解できず、その作業を放棄した。
注 巻末正誤表(115頁24行)に従い、本文の converterunt を converterent に訂正した。
また別の者たちは、薬を使って水銀を凝結させようとしたが、達成できず、期待を裏切られた。凝結しなかったり、気づかぬうちに量が減ったり、凝結しても、いずれの金属体の形にもならなかったりしたのである。彼らは、これらの相違の原因を知らなかった。別の者たちは、技巧を凝らした薬を調合し、投射によって水銀を凝結させた。しかし、それを不完全な金属体へ変えたので、その凝結は有益ではなかった。この原因も、彼らには同様に分からなかった。そこで、術者が水銀の凝結の術に達するため、私たちはこれらの原因を述べる必要がある。
すでに私たちが十分に述べたように、水銀の実体は均一である。したがって、短時間、火の中に保つだけで、その水性を取り除くことはできない。最初の誤りの原因は、急ぎすぎることであった。他方、水銀は微細な実体であるため、火から退いて逃げる。ゆえに、水銀を逃がした者たちの誤りの原因は、火が過度であることにある。水銀は、本性に共通するものがあるため、硫黄、砒素性物質、マルカシータと容易に混ざる。それゆえ、これらによって凝結したように見えても、金属体の形にはならず、鉛を混ぜた水銀の形になる。これらは逃散性であるため、水銀が金属体の本性へ達するまで、火との闘いの中にそれを保持できない。むしろ、火の衝撃によって、水銀と一緒に逃げるのである。これが、そのように凝結させる者たちの誤りの原因である。
注 マルカシータ(marchesita)などの鉱物名は、近代の化学組成を一義的に割り当てず、歴史的名称として保った。
同様に、水銀には多くの湿りが結びついている。それは、水銀をそれに適した火の中に保ち、注意深く火の強い作用を加える以外には分離できない。この適した火を、水銀が耐えられる程度に応じて強めていくと、彼らは、その湿りを取り去り、金属として溶融するのに十分な部分を残さない。湿りが取り去られると、それは溶けなくなる。これが、水銀を溶けない石へ凝結させる者たちの誤りの原因である。
同様に、水銀には硫黄の部分が自然に混じっている。ただし、多く含むものと、少なく含むものがあり、技術によって、それを取り除くことは可能である。硫黄には、水銀とともに、その分量に応じて赤色または黄色を生じる性質がある。したがって、硫黄を除いたときの水銀の性質は、火によって白さを示すことである。これが、水銀を石へ凝結させた後、その色がさまざまになる原因である。同様に、水銀には硫黄の土性も混じっており、その凝結物はすべて、この土性によって汚されるはずである。これが、水銀を不完全な金属体へ凝結させる者たちの誤りの原因である。
したがって、水銀を凝結させる薬の違いによって、また凝結させる水銀そのものの違いによっても、その凝結の際に、異なる金属体が生じる。薬または水銀が、固定されていない硫黄を含めば、それから柔らかい金属体が生じるはずであり、固定された硫黄を含めば、硬い金属体が生じるはずである。白ければ白いものが、赤ければ赤いものが生じる。白色または赤色が弱ければ、同様に弱い色のものが生じるはずである。土性であれば不完全なものとなり、そうでなければ、そうはならない。同様に、固定されていない物はどれも青黒い色を生じるが、固定された物は、それ自体の働きに関するかぎり、青黒い色を生じない。純粋な実体は純粋な金属体を生じ、不純な実体はその反対を生じる。硫黄を混ぜない水銀だけの場合にも、薬へとする際の浄化と調製の相違によって、同じ違いが生じる。したがって、薬の側の相違によって、期待を裏切る結果が起こる。水銀を凝結させると、ときには鉛、ときにはユピテル、ときにはウェヌス、ときにはマルスとなるが、これは不純さのためである。他方、ときには太陽、ときには月となる。これは純粋さと、色への配慮から生じるはずである。
注 太陽(Sol)は金、月(Luna)は銀の錬金術的名称。条件文は原刊の省略的な表現を保って訳した。
したがって、水銀は、厳しい火の中へ強く何度も落とすことで凝結する。火の厳しさは、その水性を容易に取り除くからである。この操作は、非常に長い形の容器で行う。その長さのため、水銀は容器の壁に冷却、付着、静止の場所を見いだし、逃げ道を見いださないようにする。そして、強い加熱のもと、再び容器の底へ落とし、固定されるまで何度も繰り返す。また、水銀に適した火の中に長時間保つことによっても凝結する。その際は、首が非常に長く、胴が瓶の形をしたガラス容器を使い、首を絶えず開けておき、そこから湿りが消え去ることができるようにする。
注 praecipitatio はここでは上昇・付着した物を下へ落とす操作であり、現代化学の溶液からの「沈殿」に限定しない。
また、水銀に適合する薬によっても凝結する。その薬については、後であなたにいっそう明らかに述べよう。ここでも、私たち自身の実験によって見いだしたところに従い、この件に関する考えを十分に述べておく。その薬とは、水銀の奥深くにきわめてよく付着し、水銀が逃げる前に、その最小の部分にまで混じり合うものである。したがって、水銀に適合する物から、その薬を集めなければならない。それに当たるものは、あらゆる金属体、硫黄、砒素性物質である。しかし、どの金属体も、その本来の状態で水銀を凝結させることはなく、どれほど水銀と親和性があっても、水銀がそれらから逃げるのが見られる。したがって、私たちは、どの金属体も水銀の奥深くには付着しないと考えた。ゆえに、その薬は、金属体そのものより微細な実体をもち、いっそう流動的に溶融するものでなければならない。また、精気が本来の状態にあるかぎり、それらによって水銀に堅固で安定した凝結が生じることもなく、逃散性で、非常に汚れた凝結しか生じない。一方の原因は精気が逃げることであり、もう一方の原因は、それらの土性で焼損しやすい実体が混じることである。
したがって、ここから明らかになるのは、何から水銀の薬を取り出すにしても、その薬は、きわめて微細で純粋な実体をもち、本性によって水銀に付着し、きわめて容易に液化し、水のようにきわめて薄く流れ、火との闘いにも固定されている必要があるということである。このような薬は、水銀を凝結させ、太陽または月の本性へ変えるであろう。私たちは、あなたがその薬へ到達するための工夫の方法を示し、その薬を、それに固有の説明の中で定めた。ゆえに、注意深くそれを目指して実習すれば、見いだすであろう。しかし、説明が不十分だと私たちを責めることができないように、こう言っておく。この薬は、硫黄または砒素性物質とともに調製した金属体そのものから取り出される。同様に、調製した硫黄だけ、または砒素性物質だけからも、また金属体だけからも取り出せる。しかし、水銀だけからなら、いっそう容易に、いっそう直接に、いっそう完全に見いだされる。自然は、異質な本性より、自らと同じ本性を親しく抱き、いっそう喜ぶからである。また、水銀はすでに現実に微細な実体をもつため、その微細な実体を取り出すことも容易である。
この薬を得る方法は、私たちが十分に述べたように、昇華による。その固定の方法も、それを扱う章で同様に述べられている。溶解した物を凝結させる方法は、瓶を首まで灰に埋め、加減した火を用い、水性が消え去るまで加熱するというものである。長い容器と、あらゆる凝結を行う容器の図は、次のとおりである。
〔120頁の凝結用容器の図〕
注 角括弧内は本対訳の識別表示。原刊本文が参照する木版図を掲載する。

第54章 固定とその原因、および金属体と精気を固定する種々の方法について。
固定とは、火から逃げる物を、その火に耐えられるよう適切に整えることである。固定が発見された原因は、すべての染色作用と、すべての変質が、変えられた物の中で永続し、変わらないようにすることにある。固定もまた、固定する物の種類に応じて異なる。それらは、サトゥルヌス、ユピテル、マルス、ウェヌスのような、完全性を欠く若干の金属体である。また、精気の相違によっても異なる。精気は、硫黄と砒素性物質が一つの区分、水銀が別の区分、マルカシータ、マグネシア、トゥティア、およびそれらに似た物が第三の区分に属する。完全性を欠くこれらの金属体は、焼成によって固定される。焼成によって、揮発性で物を損なう硫黄性から解き放たれるからである。その焼成については、それを扱う説明、すなわち焼成の章で十分に述べた。
注 マグネシア(magnesia)とトゥティア(tutia)は歴史的鉱物名として保ち、近代の同名物質と一律に同定しない。
硫黄と砒素性物質は、二つの方法で固定される。一つは、それらが留まるようになるまで、アルデル容器の中で昇華を繰り返すことである。したがって、その固定を速めるための狙いは、短時間に何度も昇華を繰り返せる仕組みを工夫することである。これは、二つのアルデルと、それぞれの蓋を使い、固定されるまで昇華の操作をまったく止めないようにして行う。一方の容器で上昇したら、もう一方のアルデルへ投じ、このように交互に行う。昇華物を、アルデルの壁に何もせず付着させたままにしておいてはならず、その上昇が止まるまで、絶えず火によって上昇させる。短時間に昇華の反復を多く重ねられるほど、固定に要する時間を、より速く、よりよく短縮できる。
注 アルデル(aludel)は昇華に用いる器具。
そこで、固定の第二の方法が見いだされた。それは、昇華させる物を熱の中へ落とし、固定されるまで、絶えずそこに置く方法である。これは長いガラス容器を用いて行う。その底は土製とし、ガラス製にはしない。ガラスでは割れてしまうからである。土製の底は、うまく工夫して、よく閉じるように容器へ接続する。昇華物が容器の壁に付着したら、鉄または石の箆で、熱のある最下部へ落とし、固定されるまで絶えず交互に繰り返す。
〔122頁の固定用の長い容器の図〕
注 角括弧内は本対訳の識別表示。原刊では、前段落の「longum vas vitreum」と次頁の「cuius fundus」の間にこの木版図が挿入されている。

水銀の固定法は、硫黄と砒素性物質の固定法と同じであり、次の点を除けば違いはない。硫黄と砒素性物質は、この最後に述べた固定法を用い、精妙な分離の技によって、まず、きわめて薄い可燃性の部分を取り除かなければ固定できない。水銀では、この配慮は必要ない。また、この方法で硫黄と砒素性物質を扱うときには、水銀よりも穏やかな熱が必要である。さらに、硫黄と砒素性物質の固定には、水銀より長い時間がかかる点も異なる。同様に、それらは、その遅さのため、水銀より高く上昇するという点でも異なる。それゆえ、固定するために、水銀より長い容器が必要となる。
注 原刊の tarditatem(遅さ)は画像で確認し、そのまま訳した。上昇の高さの理由を別の物性語に置き換えてはいない。
マルカシータ、マグネシア、トゥティアの固定は、次のように行う。最初の昇華の後、それらから望むものを得て、滓を捨てたら、それらに対して昇華を繰り返す。そのそれぞれについて、上へ昇った物を、下に残った物へ何度も戻し、固定されるまで続ける。これらの容器の図は、すでに示した。
注 巻末正誤表(123頁19行)に従い、本文の magnisiae を Magnesiae に訂正した。
第55章 蝋化について。
蝋化とは、硬く溶融しない物を、液化へ向けて柔らかくすることである。したがって、その発見の原因は明らかである。液化できないため金属体へ浸透できなかった物を、変質を起こすために柔らかくし、流動して浸透できるようにすることにあった。それゆえ、ある者たちは、蝋化は液状の油と水を使って行うべきだと考えた。しかし、これは誤りであり、この自然の術の原理からまったく離れ、自然の明らかな働きによって否定される。自然が金属体に、それらの溶融と軟化のために必要な湿りを与えるとき、すぐに尽きる湿りを置いたとは見られず、むしろ長く持続する湿りを置いているからである。もし、すぐに尽きるような湿りを置いていたなら、金属体はきわめて速く、すなわち一度の赤熱で、湿りを完全に奪われることになる。そうなれば、一度赤熱させた後は、どの金属体も鍛打できず、溶融もできないという結果になる。
それゆえ、できるかぎり自然の働きに倣う私たちは、蝋化においても自然の方法に従わなければならない。自然は、溶融する物の蝋化の根底で、あらゆる湿りのうち最も火の熱に耐える湿りによって蝋化する。したがって、私たちも、同様の湿りによって蝋化する必要がある。この蝋化する湿りは、次の物のうちに、最もよく、最も可能に、最も直接に見いだされる。すなわち、硫黄と砒素性物質のうちに近く見いだされるが、水銀のうちには、さらに直接に、よりよく見いだされる。これらの湿りが、その土を離れることは見られない。自然の混合の働きにおいて得た結合が、強いからである。湿りをもつ他のすべての物では、分解する際に、その湿りが土的実体から分離し、分離の後、その実体があらゆる湿りを奪われることが、経験によって分かるであろう。しかし、前述の精気では、こうしたことは起こらない。したがって、蝋化において、それらを用いずに済ませられるような、別の物はない。
注 expectans ignis calorem は、湿りが火の熱に持ちこたえるという本章の文脈に従って訳した。
したがって、それらを使う蝋化の方法は、蝋化する物に対して、それらの昇華を何度も繰り返すことである。それらが、自らの湿りとともに対象の中に留まり、良好な溶融をもたらすまで続ける。ただし、それらから、物を損なうあらゆるものを完全に取り除くまでは、これは起こらない。しかし私には、まずそれらの油を酒石油によって固定し、その油を用いて、この術に適合し、必要となるすべての蝋化を行うほうがよいと思われる。
注 酒石油(oleum tartari)は歴史的調製物名であり、現代的な油脂の意味に限定しない。
ゲベルの錬金術についての『完全性大全』第一巻、終わり。
ゲベル『錬金術についての完全性の大全』第二巻。
第56章 序文。この第二巻を三つの部に分ける。
さて、この秘術の原理についての検討を伝え終えたので、約束に従い、この術の目的を、それにふさわしい言葉で最後まで論じなければならない。すなわち、この作業の完成をいっそう明らかに示す、あらゆる物についての考察である。また、完全化の薬に必要な条件について考察し、あらゆる不完全な物を完成させるため、その薬を何から取り出すのが最もよく、最も直接的であるかを検討する。さらに、完成が成し遂げられたかを知るための技法について考察する。この三つを伝えれば、私たちの術に必要な限りで、完全性についての知識はすべて伝えられることになる。
この第二巻の第一部。完全化の可能性とその方法を把握しうる、諸物の認識について。
第57章 この術の完全性の認識は、精気と金属体の本性の認識に依存すること、そして両者について詳しく述べようとすること。
金属体や水銀そのものの変成を知るには、術者の精神に、それらの根源に即した本性の真の認識が生じなければならない。そこで、まず金属体の原理を明らかにし、それらがその原因に即して何であり、どのような善いもの、悪いものを内に含むかを示そう。その後、すべての金属体の本性を、あらゆる特性とともに示す。すなわち、それらの腐敗の原因が何であるかを、それぞれの実験によって確かめるのである。
第58章 硫黄と砒素の本性について。
まず金属体の原理である精気、すなわち硫黄とその同類、および水銀の本性を取り上げる。すでに述べたように、硫黄と砒素は土の脂肪である。その実験的で明白な証拠は、それが容易に発火し、熱によって容易に液化することから得られる。油性のものでなければ発火せず、その本性を持つものでなければ熱によって容易に溶けないからである。したがって、硫黄とその同類は、可燃性の実体と土性の滓を、腐敗の原因として持つ。一方、完全化をもたらす原因は、この二つの中間にある。
土性がその腐敗の原因であるのは、溶融も浸透もしないからである。可燃性の実体も同様に原因となる。それ自体が留まらず、ほかの物を留まらせることもなく、また、そのどの種類も黒さを与えるからである。したがって、これらの完全化の原因は、中間の実体である。その土性によって、良好な溶融で成し遂げられる浸透が妨げられることはなく、その精妙さのために揮散が生じても、その作用の痕跡が容易に失われることはない。ただし、この中間の実体も、固定されなければ、金属体や水銀を完全化する原因とはならない。固定されていなければ、その作用の痕跡は容易に失われないとしても、確実に永続するわけではない。したがって、術者はその中間の実体を分離しなければならない。
ある人々は、それが強固に混ざり合っているため、分離は不可能だと考えた。しかし、その人々自身の明白な操作が、その考えに反している。彼らは、わずかな量ではあるが、硫黄そのものを焼成し、もはや溶融も発火もしない物を作ったからである。これは分離によって起こったに違いない。硫黄が自然の混合状態に留まるかぎり、発火し、燃焼するはずだからである。したがって、硫黄の異なる実体を分けることによって、その中のいっそう燃えやすい部分が、燃えない部分から、技術によって別々に分離されると結論される。焼成によって、そこにある可燃性の部分をすべて除くことが可能なら、彼らは自らの自然に即した操作に基づき、あらゆる部分の分離が可能だと認めなければならない。だが、これはきわめて精妙な技術に依存するため、彼らは不可能だと考えた。本章で述べたことから、私たちの術の真実に属するのは硫黄全体ではなく、その一部分であることが明らかである。私たちはすでに、その分離を可能にする技術の認識へとあなたを導いた。砒素では、鉱床における根源の段階で、自然の働きによって可燃性の部分の多くが解き放たれているので、分離の技術は容易である。ただし砒素は白さの染薬であり、硫黄は赤さの染薬である。したがって、硫黄の分離には、大いなる慎重さが必要である。
第59章 メルクリウス、すなわち水銀の本性について。
水銀についても、余分なものを取り除く必要がある。水銀には腐敗の原因、すなわち土性の実体と、発火せずに焼損する水性の実体があるからである。しかし、水銀には余分な土や不純物がないと考えた人々もいた。その考えは根拠がない。水銀には白さよりも、鉛色の暗さが多いことが見て取れる。また、簡単な操作、すなわち後でその方法を述べる洗浄によって、そこから黒く滓を含む土が出てくるのを観察できる。水銀からは二通りの完全化、すなわち水銀から薬を作ることと、水銀自体を完全化することが得られるため、二種類の浄化の段階によって調製しなければならない。したがって、水銀には二種類の浄化が必要となる。一つは薬を作るための昇華によるものであり、ここで示している。もう一つは凝固させるための洗浄によるもので、これから示す。水銀から薬を作ろうとするなら、投射の際に鉛色を生じないよう、昇華によって土性の滓を除いて清め、投射の際に薬全体を揮発性にしないよう、その揮発する水性を除き、中間の実体を薬のために残さなければならない。この実体には、焼損せず、焼損から守り、揮散せず、固定するという特性がある。
それが完全化する力を持つことを、明白な実験によって証明しよう。水銀は何より水銀に付着し、それと最もよく親和し、その次に金、続いて銀に親和することが観察できる。したがって、それ自体が、その本性をいっそう多く持つと結論される。他の金属体は、それほどの類似性を持たず、したがって水銀の本性への参与が少ないことが、確かに認められる。また、焼損からいっそうよく保護されるものほど、水銀の本性を多く持つと判断する。ゆえに水銀は、完全化する力を持ち、焼損から守るものである。これこそ完全性の究極である。
注 原刊正誤表の130頁20行「plus illius naturae」、22行「perfectivum」を採用。本文の「plus suam naturam」「perfectissimum」を訂正した。
第二の浄化段階は、水銀を凝固させるためのものである。この場合は、一日かけてその土性を洗い流すだけで十分である。その方法は次のとおりである。土製の浅皿を取り、水銀を入れ、その上に、全体を覆うのに足りるだけの少量のきわめて強い酢、あるいはそれと同様の物を注ぐ。次に、煮立たないよう弱火にかけ、皿の底で指を用いて絶えずかき混ぜ、水銀をきわめて細かい白い粉に似た状態へ分ける。酢がすべて蒸発し、水銀そのものが再び現れるまで続ける。その後、そこから出た滓状の黒いものを洗い流し、捨てる。この操作を繰り返し、その土性の色が、白と空色の混じる明るい色へ完全に変わるまで続ける。これが完全な洗浄のしるしである。その状態になったら、凝固のための薬を水銀に投射する。すると、薬の調製のされ方に応じ、金の性質を持つもの、または銀の性質を持つものへ凝固する。その薬については、後で説明しよう。
注 原刊正誤表の131頁14行に従い「extiterint」を「extiterit」とした。指で扱う等の記述は歴史的原文の翻訳であり、現代の実施手順を勧めるものではない。
以上から、水銀も、そのままの本性において完全なのではなく、私たちの技術によって水銀から作り出されるものが完全であることが明らかとなる。硫黄とその同類についても同じことがいえる。したがって、これらについては、自然のままに自然に従うことはできず、自然に即した私たちの技術を通じて従うのである。
第60章 マルカシータ、マグネシア、トゥティアの本性について。
他の精気、すなわち金属体に強い作用を与えるマルカシータ、マグネシア、トゥティアについても、その本性に関する説明が必要である。そこで本章では、それぞれが何であるかを、その証拠とともに述べよう。
マルカシータは生成の際、二つの実体を持つ。すなわち、死化され、固定に近づいた水銀と、焼損をもたらす硫黄である。それが硫黄性を持つことは、明白な実験から分かる。昇華させると、そこから明らかに硫黄性で燃焼する実体が出てくるからである。昇華しなくても、その硫黄性は確認できる。赤熱させようとしても、その前に硫黄の発火によって燃え立ち、燃焼するからである。水銀の実体を持つことも感覚によって明らかとなる。水銀と同じく、銅に純銀の白さを与え、昇華の際には空色を示し、明白な金属光沢を持つのが観察できる。これらによって術者は、マルカシータが根源にこれらの実体を含むことを確信する。マグネシアについては、いっそう濁った硫黄と、いっそう土性で滓の多い水銀を持ち、その硫黄も、より固定され、燃えにくいことを、同じ実験によって明白に証明できる。また、それが鉄の本性にいっそう近いことも証明できる。
注 Marchesita・Magnesiaは原著の鉱物分類による名称。現代の単一物質への断定は避けた。
トゥティアは白い金属体の煙であり、これは明白な証拠によって確認できる。鍛冶場の灰受けに付着した、錫と銅の混合物から出る煙を投射すると、トゥティアと同じ作用を生じる。また、この金属の煙は、何らかの金属体を混ぜなければ金属に戻らず、トゥティアも同様である。トゥティアは白い金属体の煙であるため、白い金属体を黄色にするのではなく、赤い金属体を黄色にする。黄色とは、赤と白が一定の比率で混ざったものにほかならないからである。その精妙さによって、元の金属体よりも深く金属体の内部へ浸透する。したがって、元の金属体より強く変化を与え、すでに説明したわずかな技術によって、試験に際しても、いっそう強く付着する。ゆえに、変化させられるものはすべて、水銀、硫黄、またはそれらに類するものの力によって変化しなければならない。これらだけが、金属体と本性を共有するからである。
第61章 太陽、すなわち金の本性について。
今度は金属体について、説明を広げ、その最も内奥の本質を述べよう。まず金、次に銀、最後に他の金属体を、必要と思われる順に、実験による証拠とともに取り上げる。金は、水銀のきわめて精妙で、きわめて明るく固定された実体と、それを染める少量の硫黄の実体から作られる。その硫黄は清浄で、純粋な赤さを持ち、固定され、明るく、自らの元の本性から変化している。硫黄の色には相違が生じるので、金の黄色にも同じく相違があるはずである。ある金は黄色が濃く、別の金は薄い。金が水銀のきわめて精妙な実体からなることは、水銀が容易に金を受け入れることによって分かる。水銀は、自らと同じ本性のもの以外を受け入れないからである。明るく清浄な実体を持つことは、昼だけでなく夜にも現れる、輝き、光を放つ光沢が示している。
金が固定され、燃焼する硫黄性を持たないことは、火に対するあらゆる操作から明らかである。金は減少せず、発火もしないからである。また、その硫黄が染色するものであることは、それを水銀と混ぜると赤く変色させること、さらに金属体から強い赤熱によって、その精妙な部分が昇るように昇華させると、その部分とともにきわめて黄色い色を生じることから明らかである。したがって、純粋な実体とともにあれば純粋な色を、純粋でない実体とともにあれば純粋でない色を作る。その黄色について証拠を示してもらう必要がある者には、感覚がない。目で知覚されることだからである。ゆえに、固定へ導かれた水銀のきわめて精妙な実体とその純粋さ、そして固定され、焼損をもたらさない硫黄のきわめて精妙な材料が、金の本質的材料のすべてである。金の中では硫黄より水銀の量が多いことが示されるので、水銀は金へいっそう深く入り込む。したがって、何を変化させようとする場合も、金を手本にして変化させ、金と等しいものへ導きなさい。そのための方法は、すでに示した。
金の部分は精妙で固定されているため、非常に密に集まることができた。これが大きな重量の原因である。自然が多くの煮熟を行ったことによって、徐々に解きほぐされ、十分に濃密となり、究極の混合が生じたため、赤熱とともに溶融する。以上から、水銀の量が多いことは完全性の原因であり、硫黄の量が多いことは腐敗の原因であると分かる。また、自然の煮熟の中で混合によって生じる実体の均一性も、完全性の原因である。一方、実体の不均一性は腐敗の原因となる。長く穏やかな煮熟によって成し遂げられる硬化と濃密化は完全性の原因であり、その反対は腐敗の原因である。したがって、水銀に硫黄が適切でない仕方で加われば、その相違に応じて、異なる腐敗がもたらされるはずである。そこへ加わる硫黄は、全体が固定されて焼損しない場合も、全体が焼損性で硫黄の本性のまま揮散する場合も、揮散するが硫黄の本性を持たない場合も、一部が揮散性で一部が固定される場合もある。また、一部が硫黄の本性を持ち、他の部分は持たない場合、全部が清浄な場合、半ば不純な場合、量が多いか少ないかにかかわらず混合物の中で優勢な場合、量が少なく劣勢な場合、優勢でも劣勢でもない場合もある。白い場合、赤い場合、その中間の場合もある。これらすべての相違から、自然において異なる金属体やその類似物が生じなければならなかった。私たちはこれらの相違をすべて、明白な証拠とともに述べなければならない。
第62章 月、すなわち銀の本性について。
以上から、清浄で固定され、赤く明るい硫黄が、純粋な水銀の実体に、優勢にならず、むしろ少量で劣勢となるように加われば、純金が生じることが、すでに明らかである。一方、水銀の実体へ加わる硫黄が、清浄で固定され、白く明るいものであり、その量が優勢でなければ、純銀が生じる。ただし、その純粋さは金より劣り、その密質性は金より粗い。そのしるしは、部分が金と同じ重さになるほどには密集しておらず、実体も金ほど固定されていないことである。火によって減少することがそのしるしであり、その原因は、銀の硫黄が固定されておらず、不燃性でもないことにある。その硫黄がこのような状態にあることは、わずかに発火することによって証明される。同じものが、比較する相手に応じ、固定されているとも、固定されていないともいわれることは、不可能と考えるべきではない。銀の硫黄性は、金の硫黄性と比べれば固定されず、燃焼する。しかし、他の金属体の硫黄と比べれば固定され、燃焼しない。
注 原刊正誤表の136頁2行「si」を採用し、句切りを「fit argentum purum, si in quantitate non superet」と整理した。同頁14行の「non」も正誤表に従い採用。
第63章 火星、すなわち鉄の本性について。また硫黄と水銀の作用、および腐敗と完全性の原因について。
土性の固定された硫黄が、同じく土性の固定された水銀と混ざり、両者とも純白ではなく鉛色がかった白さを持ち、その中で非常に強く固定された硫黄の量が優勢であるなら、鉄が生じる。固定された硫黄の優勢は溶融を妨げるからである。したがって、硫黄は固定の操作によって、水銀より早く、速やかに液化する性質を失うと結論される。固定されていない硫黄は、水銀より速く溶けるのが見られる。ここから、それぞれの金属体で溶融の速さと遅さが生じる原因が明らかになる。固定された硫黄を多く持つものは遅く溶け、焼損をもたらす硫黄を多く持つものは、より容易に、より速く溶ける。これを、十分に明らかに示すことが、私たちに残されている。
固定された硫黄が溶融を遅くすることは、硫黄が焼成されなければ決して固定されず、焼成されるとまったく溶融しないことから明らかである。したがって、どの物の中でも溶融を妨げるはずである。焼成しなければ固定されないことは、焼成せずに固定しようとした人の実験から分かる。土に変わるまでは、絶えず揮散するのが認められるからである。その土は、石灰の本性に似ている。しかし水銀では、これはまったく同じではない。水銀は土に変えなくても固定でき、土へ変えながら固定することもできる。沈降によって達成される急速な固定では、固定されるとともに土へ変わる。これに対して、次々と昇華を繰り返す方法でも同様に固定されるが、土へは変わらず、むしろ金属的な溶融を示す。このことは、急速な沈降と、連続する昇華による緩やかな方法という、二通りの固定を完成に至るまで試した人には、明白であり、確証されている。その人は、私たちの記述のとおりに観察し、見いだしたからである。
その理由は、水銀が粘り気のある緻密な実体を持つことにある。その証拠は、他の物と湿潤混合しながらすり潰す際に見られる。強く付着することによって、その粘性が明白に感じられるからである。また、その外観と莫大な重さを量ることによって、片目しかない者にも、緻密な実体を持つことは明らかである。水銀は、その本来の状態では金より重く、また、述べたように、きわめて強固な組成を持つ。したがって、水銀は湿り気を消費せず、土へ変えることもなく、固定できると結論される。その各部分がよく付着し、混合が強固なので、何らかの仕方で火により部分が濃密になると、それ以上は腐敗せず、煙を含む炎が内部へ入っても、もはや煙として上昇することを許さない。その緻密さのために希薄化を受けず、また、水銀にはない可燃性の硫黄性によって生じる焼損を持たないからである。
注 「水銀は金より重い」は原文の主張をそのまま訳したもので、現代の密度比較へ訂正していない。
こうして、真実の発見によって、驚くべき二種の秘奥が見いだされた。一つは、各金属が火によって腐敗する原因である。その第一は、金属の実体の奥深くに焼損をもたらす硫黄性が含まれることである。それは発火によって金属を減少させ、最終的に煙へと消耗させ、消し去る。内部にどれほどよく固定された水銀があっても同じである。第二は、外部の炎が増大し、金属へ浸透し、水銀がどの程度固定されていようとも、金属を自らとともに煙へと解きほぐすことである。第三は、焼成によって金属体が希薄になることである。そうなれば、炎や火が内部へ浸透して、金属を消し去ることができる。したがって、すべての腐敗の原因がそろえば、金属体は最大限に腐敗するはずである。全部がそろわなければ、それらの原因が弱まる度合いに応じて、各金属体の腐敗速度も低下する。
第二の秘奥は、水銀を通して金属体の中に認められる優良さである。水銀は、いかなる消滅の原因によっても、自らの組成を部分に分けることを許さない。実体全体を伴って火から去るか、実体全体を伴って火中に留まるか、そのいずれかだからである。したがって、水銀の中には、必然的に完全性の原因が認められる。水銀を創造し、実体と、その実体に固有の特性を与えた、祝福され栄光ある至高者を讃えよう。そのような特性は、他のいかなる物も自然には持たず、そこに何らかの技術によって、この完全性が見いだされることもない。水銀の中には、それを近い可能性として見いだすのである。水銀こそ、火に打ち勝ち、火に打ち負かされず、むしろ火の中で親しく憩い、火を喜ぶものである。
第64章 金星、すなわち銅の本性について。
本題に戻ると、不純で粗い硫黄が、その大部分では固定され、小部分では固定されず、赤く鉛色がかり、全体として優勢でも劣勢でもない状態で、粗い水銀に加われば、必然的に銅が生成するといえる。これらすべての証拠は、それらの本性が示す事柄から得られる。銅を発火させようとすると、そこから硫黄性の炎が出るのを認めることができる。これは固定されない硫黄のしるしである。また、繰り返し燃焼させると、蒸散によって量が失われることは、固定された硫黄を持つことを示す。その結果、溶融が遅くなり、実体が硬くなるからであり、これらは固定された硫黄が多量にあるしるしである。硫黄が赤く不純で、不純な水銀と結び付いていることは、感覚によって示されるので、他の証明を必要としない。
そこで実験から秘奥を取り出しなさい。熱の作用によって土に変わったものはすべて、容易に溶解し、水の本性へ戻るのが見られる。これは、火によって各部分が精妙化するためである。したがって、元の本性において精妙なものほど、この土性の状態へ戻されると、いっそう精妙になる。それゆえ、いっそうよく溶解し、最も精妙なものは、最もよく溶解する。ここから、鉄と銅という二つの金属体の腐敗と汚染の原因が明らかになる。それは、多量の固定された硫黄と、銅では少量、鉄ではごく少量の固定されない硫黄による。固定された硫黄が火の熱によって固定に至ると、その部分は精妙化されるが、その実体のうち溶解に適した部分は溶解する。その証拠は、この二つの金属体を酢の蒸気にさらすことである。すると、その表面に硫黄の明礬性が花を吹くように現れる。この明礬性は、精妙化する熱によって生じたものである。また、この二つの金属体を渋味のある液に入れると、煮立てることにより、その多くの部分が容易に溶解する。両者の鉱床を調べれば、溶解した明礬性の実体がそこから滴り出て付着しているのを、明白に見いだせる。その明礬性の物は、渋味と容易な溶解性を備え、水へ変わる。渋味があり容易に溶けるものは、明礬と、その本性を持つ物以外には見いだされないからである。
この二つの金属体が火で黒くなるのは、内部に含まれる固定されない硫黄のためである。それは銅には多く、鉄には少なく、鉄では固定されたものの本性に近づいている。したがって、このような作用の痕跡を鉄から容易に取り除くことはできない。いまや、固定されない硫黄によって溶融が生じ、促進される一方、固定された硫黄からは溶融が生じず、妨げられることが明らかになった。しかし、固定された水銀からは、必ずしも溶融が生じなくなったり、妨げられたりするわけではない。硫黄を固定した後、どのような溶融の工夫を用いても、その溶融性を保つことができなかった人は、これが必然的に真であると知っている。その人も、水銀なら昇華を幾度も繰り返すことによって、良好な溶融性を保ったまま固定できたからである。したがって、水銀を多く含む金属体ほど完全性が高く、少なく含むものほど完全性が低いことが明らかである。あらゆる操作において、水銀が混合物の中で優勢になるよう努めなさい。水銀だけで完全化できるなら、あなたは最も貴重な完全性、自然の働きに打ち勝つ完全性の探究者となる。自然が到達しないほど深く清めることができるからである。水銀をより多く含むものほど完全性が高いことの証拠は、水銀を容易に受け入れることである。完全な金属体は、水銀を親和的に受け入れるのが観察される。
以上の説明から、金属体には二種類の硫黄性があると結論される。一つは、混合が始まるときに水銀の奥深くへ閉じ込められたものであり、もう一つは、後から加わったものである。その一方は苦労して取り除けるが、他方は、すでに水銀と結び付き、同じ蝋状軟化の状態をなしているため、私たちの操作が適切かつ有益に達成しうる、火によるどのような技法によっても取り除けない。このことは、焼損性の硫黄性は火によって除かれるが、固定された硫黄性はまったく除かれないという実験によって証明される。したがって、金属体が焼成によって清められるといった場合、その本性の根源で結合していない土性の実体から清められると理解しなさい。根源で結合したものは、水銀の薬が加わってそれを覆い隠し、適度に和らげるか、混合物から分離しないかぎり、火の技法によって清めることはできないからである。
本性の根源で金属と結合した土性の実体を、その混合物から分離するには、二つの方法がある。一つは、水銀の実体を上昇させ、硫黄性を残す物とともに上昇させる方法である。そのような物とは、親和性を持つトゥティアやマルカシータである。これらは、硫黄より水銀の量が多い煙だからである。これらを強く急激な溶融によって金属体と結び付けると、精気は揮散する際、金属体を伴って行く。この実験によってそれが分かり、したがって、これらとともに金属体を上昇させることができる。もう一つは、すでに述べた、水銀を混ぜ合わせる洗浄による方法である。水銀は、自らの本性に属するものを保持し、異質なものを退けるからである。
第65章 木星、すなわち錫の本性について。
以上の探究を踏まえ、本来の目的に従って述べよう。混合の根源にある硫黄が、わずかな固定を備え、不純な白さを持ち、優勢でなく劣勢であり、一部が固定され、一部が固定されていない、不純な白い水銀と混ざるなら、そこから錫が生じる。その証拠は、調製操作によって見いだせる。錫を焼成すると硫黄の悪臭が感じられ、これは固定されない硫黄のしるしである。炎が出ないからといって、それが固定されていると思ってはならない。炎が出ないのは固定のためではなく、混合物の中で水銀が優勢で、燃焼から保護するためだからである。したがって、錫には二種類の硫黄性と、二種類の水銀の実体があると示される。一方の硫黄性は固定の程度が低く、焼成すると硫黄のような悪臭を放つ。最初の混合についての実験がこれを示す。他方は、その灰のまま火中に保ち続けることによって示される。それは、より固定されているため、悪臭を放たない。
注 原刊正誤表143頁21行に従い「qui cum」を「quia cum」とした。続く「Per primam probatur mixtionis experientia」は原刊の語順が難解であり、直前の実験による第一の硫黄性の証明として訳した。
錫の中に、固定されないものと固定されたものという、二種類の水銀の実体があることも証明される。焼成前にはきしむ音を立てるが、三度焼成した後には音を立てないからである。それは、音を生じさせていた揮発性の水銀の実体が飛び去ったためである。揮発性の水銀の実体が音の原因であることは、鉛を水銀で洗浄することによって証明される。鉛を水銀で洗い、その後、鉛が溶ける以上に強くない火で溶融すると、水銀の一部が鉛とともに残り、鉛にきしむ音を与え、それを錫へ変える。逆に、錫を鉛へ変化させることからも、このことが考察できる。錫に焼成を幾度も繰り返し、還元操作にいっそう適した火を施すと、鉛へ変わる。とりわけ、滓を取り除きながら強火で焼成した場合にそうなる。これらの実体の相違は、それぞれに適した器具の中で保持する工夫と、それらを分ける火の扱いによって、確かめることができる。私たちは熱心な努力によってその方法に到達し、それによる判断が真実であったことを、自ら確証した。
錫から固定されない二つのもの、すなわち硫黄と水銀を除いた後に残るものが何であるかを、あなたに確実に知らせる必要がある。それによって、錫の組成を完全に知ることができるからである。残るものは鉛のように鉛色で重いが、鉛より白さを多く備える。したがって、それはきわめて純粋な鉛である。その中では、二つの構成要素である水銀と硫黄の固定度は等しい。しかし量は等しくない。混合物では水銀が優勢だからである。その証拠は、自然の状態の水銀が、容易にそこへ入り込むことである。もし内部の水銀の量が多くなければ、自然の状態で加えた水銀は容易には付着しない。だから水銀は、きわめて精妙な工夫をしなければ鉄には付着せず、銅にも、その混合物に水銀が少ないため、付着しない。したがって、鉄へ付着するのは最も困難である。銅へは、それより水銀が多いため、いっそう容易に付着する。その証拠は、銅が容易に溶融し、鉄は非常に溶けにくいことである。
この二つの実体の固定は、堅固な固定に近いが、それによって永久に固定されたわけではない。その証拠は、金属体そのものを焼成し、その後、きわめて強い火にさらすことで得られる。その火によって分離は起こらず、実体全体が上昇するが、いっそう精製される。したがって、焼損をもたらす硫黄の実体は、鉛からより錫からのほうが容易に分離されることが分かる。その実験的な証拠は、錫が容易に硬化し、焼成され、光沢が改善することである。そこで私たちは、これらの腐敗をもたらすものは、錫の根源にはなく、後から加わったと考えた。最初の混合のときに、錫と強く結合していなかったので、容易に分離できるのである。そのため、錫の変化、すなわち浄化、硬化、固定は、速やかな操作で生じる。その原因は、すでに述べたことから、明白に考察できる。また、焼成と還元というこれらの操作の後、強い上昇と火の強制作用によって生じる煙を観察すると、黄色に達するのを見た。これは焼成された硫黄の特性なので、錫が固定された硫黄の本性を多く含むと、真実の判断を下し、その判断を確証した。したがって、この私たちの学知において真実を見ようとする人々は、勤勉に操作しながら、これらすべてを熱心に探究しなさい。そして、推測ではなく確かな発見によって、金属体の原理と精気の特性を見いだすまで続けなさい。私たちは、この書物において、術の必要に十分なだけ、それを伝えた。
第66章 土星、すなわち鉛の本性について。
残るのは、鉛の記述である。鉛は、焼成を繰り返して鉛の本性へ戻した錫とは、次の点を除いて異ならない。すなわち、硫黄と水銀という、より粗い二つの実体が混ざっており、その実体がいっそう不純であること、内部の燃焼する硫黄が水銀の実体にいっそう強く付着すること、そして組成の中に、錫より多くの固定された硫黄の実体を持つことである。これらの証拠を、明白な実験によって示そう。鉛が錫より多くの土性の滓を持つことは、外観と、水銀による洗浄から明らかになる。洗浄によって出る滓は錫より多く、また、焼成の第一段階を錫より容易に受け入れる。これは土性が多いしるしである。土性を多く持つ金属体は焼成されやすく、少なく持つものは焼成されにくいと認められる。その証拠が、金を完全に焼成することのきわめて大きな困難である。また、鉛の汚さは、錫の場合と違って、焼成を繰り返しても改善されない。これは、その原理に本性上備わる汚さが、錫より多いことのしるしである。
可燃性の硫黄が、錫の場合よりも鉛の水銀の実体に強く付着していることは、次の事実から示される。鉛から目立つ量の煙を分離すると、それは必ず濃い黄色を帯び、下の底に残ったものも同じ色を持つ。このことは、次の三つのうち、必ず一つを示すと結論される。すなわち、可燃性の硫黄がまったくないか、ごく少量しかないか、あるいは、混合の根源で原理が近接しているために、強く結び付いているかである。しかし、その臭いによって、硫黄は確かに含まれ、しかも少量ではなく多量であると確証した。硫黄性の臭いは短時間には消えないからである。そこで私たちは、確実な考察によって、鉛の燃焼する硫黄が、固定の本性に近づいた燃焼しない硫黄と、水銀の実体の中で均一に混ざっていると考えた。したがって、煙が上昇するときは、黄色を作る特性を持つ、燃焼しない硫黄とともに、必ず上昇する。鉛にある焼損をもたらさない硫黄の量が錫より多いことは、焼成の際、鉛は全体の色が黄色に変わるのに対し、錫は白に変わるのを観察することによって、真実として示された。
これによって、次の操作の原因を探究する道が開けた。焼成すると、錫は鉛より容易に硬くなるが、液化の遅い状態になる速さは、鉛を上回らない。その理由は、本性上の硬さの原因が、固定された硫黄と水銀にあるからである。一方、液化の原因は二つ、すなわち水銀と可燃性の硫黄である。その一方である水銀は、赤熱を伴う場合も伴わない場合も、溶融のどの段階を完成させるにも十分である。錫には、真に固定されていない水銀が多量にあるため、液化の速さが大きく残り、容易には除かれない。また、軟化の原因も、水銀と可燃性の硫黄の二つである。燃焼する硫黄性は、鉛からより錫からのほうが容易に除かれるので、錫では柔らかさの原因の一つが除かれ、焼成によって必然的に硬くなる。これに対して鉛は、柔らかさの二つの原因が強く結合しているため、容易に硬くならない。
ただし、水銀による柔らかさと硫黄による柔らかさには違いがある。硫黄による柔らかさは圧力に屈する性質であり、水銀による柔らかさは引き延ばされる性質である。このことは、水銀を多く持つ金属体はよく延び、少ないものはあまり延びないという観察によって、必然的に証明される。したがって、錫は鉛より容易に薄く延び、鉛は銅より、銅は鉄より容易に延びる。銀は錫より薄く延び、金は銀より薄く延びる。それゆえ、硬化の原因は固定された水銀か硫黄であり、柔らかさの原因はその反対だと分かる。溶融の原因は、固定されない硫黄と、どの種類であれ水銀という二つである。しかし、固定されない硫黄は、必然的に赤熱を伴わない溶融の原因となる。この実験は、溶けにくい金属体に砒素を投射すれば、明白に観察できる。砒素はそれを、赤熱せず容易に溶けるものにするからである。容易な溶融の原因には、水銀も同じく含まれる。一方、赤熱を伴う溶融の原因は固定された水銀である。したがって、あらゆる溶融を妨げる原因は、固定された硫黄である。
ここから、最大の秘奥を引き出すことができる。水銀を最も多く持つ金属体が最も完全だと認められる以上、不完全な金属体の中でも、水銀を多く持つものほど、完全なものへ近いはずである。また、硫黄性の多い金属体ほど、腐敗も大きい。したがって、完全性が依存するものに関しては、錫が完全性を最も多く備えるため、完全なものに最も近く、鉛はそれより遠く、銅はさらに遠く、鉄が最も遠いことが、以上から明らかである。しかし、欠陥を補って完成させ、金属体の密質性を深部までいっそう完全に薄め、輝く光沢を持つ実体の下に、その暗い色を覆い隠す薬という観点では、事情は異なる。この薬によっては、銅が最も完全化されやすく、鉄はそれに次ぎ、錫はさらに劣り、鉛が最も劣る。したがって、真実に即した労苦と探究によって、金属体の相違に応じ、調製を伴う異なる薬が見いだされると分かった。赤熱する硬い金属体には一つの薬が、赤熱せず柔らかい金属体には別の薬が必要である。前者には、柔らかくし、深部まで精妙にし、その実体を均一にする薬が必要であり、後者には、硬くし、その隠れた内部を濃密にする薬が必要である。そこで、いまから薬へと移り、異なる薬を見いだす理由、それが何を不完全なまま残し、何を完成へ導くかを、明白な実験とともに示すことにしよう。
注 原刊「Hoc quidem…Illud vero…」の指示関係は作用内容に即して、硬い金属体には軟化、柔らかい金属体には硬化と訳した。
この第二巻の第二部。薬一般、および、すべての不完全なものを完成させる完全化の薬の必要性と、それを何から取り出すのが最もよく、最も直接的であるかについて。
第67章 各々の不完全な金属体にも、水銀にも、白化用と赤化用の二つの薬が必ず必要となるが、ただ一つの最も完全な薬が、それらすべての代わりを果たすこと。
精気が金属体にいっそうよく似ていることは、自然にある他のものよりも、金属体と強く、親和的に結び付くことによって証明される。したがって、私たちの最初の発見によって、これらの精気が金属体を変化させる真の薬であることが示された。そこで私たちは、可能なあらゆる工夫を尽くして、精気によって、各々の不完全な金属体を、確かな変化によって完全な銀または金の金属体へ変成させようと努めた。そのため、変化させる対象についての異なる目的に応じて、精気から異なる薬を作る必要が生じた。変化の対象となる金属は、完全化によって凝固させられる水銀と、不完全な金属体との二種類である。後者はさらに分かれ、鉄や銅のように硬く赤熱するものと、錫や鉛のように柔らかく赤熱しないものとがある。したがって、完全化する材料も、同じく複数でなければならない。
注 原刊正誤表151頁2行に従い「hoc esse」を「hos esse」とし、精気を指す複数形として訳した。
水銀に必要な完全化の材料と、変成させる金属体に必要な材料は異なる。さらに、銅や鉄のように硬く赤熱するものと、鉛や錫のように柔らかく赤熱しないものとでも、必要な材料は異なる。それぞれの種類に属する二つの金属体も、本性が互いに異なるので、異なる薬が必要となる。鉄と銅は同じ種類に属するが、ある特定の性質で相違する。鉄は溶けず、銅は溶ける。したがって、鉄と銅はそれぞれ別の薬によって完全化される。また、鉄は全体が不純であるが、銅はそうではない。鉄は暗い白さを帯び、銅は赤さと緑色を帯びる。こうしたことも、同じく薬を異ならせる必要を課す。もう一方の、柔らかい種類に属する錫と鉛も、同様に違うので、異なる薬が必要である。錫は清浄であるが、鉛はそうではないからである。
しかし、これらの変化可能なものはすべて、あるときは銀の金属体となり、あるときは金の金属体となるので、それぞれに二つの材料が必要である。一つは黄色い材料で、黄色い金の金属体へ変え、もう一つは白い材料で、同様に白い銀の金属体へ変える。四つの不完全な金属体それぞれに、金化用と銀化用という二つの材料があるので、金属体を良い形へ完全化する薬は、合計八つとなる。水銀も同じく金または銀へ完全化されるため、水銀を変化させる薬にも二種類ある。したがって、あらゆる不完全なものを完全に変化させるため、私たちが全体として見いだした薬は、全部で十となる。だが、私たちは長年の労苦に励み、徹底した探究に努め、この十の薬を見いだす苦労を、ただ一つの薬の恩恵によって免れようとした。そして、長く、きわめて骨の折れる探究と、確実な実験を通じて、一つの薬を見いだした。その薬によって、硬い金属体は柔らかく、柔らかいものは硬くなり、揮発するものは固定され、汚れたものは、言葉では表せず自然を超える輝きによって、明るくなる。
したがって、これらすべての薬について、それぞれ、その原因と、明白に証明する実験とを伴う説明を示す必要がある。まず十の薬の系列を取り上げ、そこで全金属体の薬、次に水銀の薬へ進み、その後、最後に、完成をもたらす秘術の薬へ移る。ただし、不完全なものには調製が必要である。そこで、術の伝授が不十分だとして、嫉妬深い者たちに非難されないよう、まず不完全なものの調製を説明し、その方法が見いだされる必要な理由を示そう。それによって、私たちの技術の中で、不完全なものが、それぞれの段階の白化・赤化の完全性の薬を受け入れ、その薬によって完全化されるのに適した状態になるようにする。その後、すべての薬について、十分かつ適切な説明を加えよう。
第68章 それぞれの不完全な金属体に、それに固有の調製を施すべきこと。
これまでの説明によって、それぞれの不完全な金属体に、自然の働きから何が余分なものとして残り、何が不足しているかが、おおむね十分に明らかとなった。完全にするために、前に省いたことは、ここで十分な説明によって補おう。まず、変化可能な不完全な金属体は二種類である。すなわち、鉛や錫のように柔らかく赤熱するものと、鉄や銅のように硬く、溶けないもの、あるいは赤熱して溶けるものである。鉄は溶けず、銅は赤熱して溶ける。それらの本性の根源にある本質の相違から、自然は私たちに、必要に応じた異なる調製を施すべきことを、必然的に教えた。
注 153頁原刊は「mollia scilicet, et ignibilia」と印刷する。直前の第67章等では鉛・錫を「non ignibilia」とするが、ここでは否定語を無断で補わず原文どおり訳した。
したがって、一方の種類には、変成すべき不完全な金属体が、必ず二つある。すなわち、メラン、つまり黒いものと呼ばれ、この術では土星と呼ばれる鉛と、レウコン、つまり白いものと呼ばれ、ここでいう木星に当たる、きしむ鉛である。両者は、その本性の生来の根源に由来する隠れた深部においても、表面に現れる状態においても異なる。鉛は暗く、鉛色で重く、黒く、きしむ音もなく完全に無音である。これに対して錫は白く、わずかに鉛色がかり、大きくきしむ音を立て、小さな響きも生じる。両者の深部の相違は、その必然的原因から、明白な実験とともに示そう。それらから、健全な知性を持つ術者は、程度の大小に応じた調製の順序を導き出すことができる。
注 ギリシア語の色名は原刊画像に従い μέλαν(黒)、λευκόν(白)と転記した。
そこで、まず金属体の調製を順序に従って述べ、次に凝固させうる水銀そのものの調製を述べよう。金属体でも、まず柔らかい種類を、その後に他の種類を取り上げる。第一の種類として、鉛と錫の調製を示し、その後、定めた順序に従って他の金属体を取り上げる。金属体の調製では、その深部から余分なものを除くのではなく、むしろ表に現れる部分から除かなければならないからである。
第69章 不完全な金属の不足は薬によって補い、余分なものは調製によって除くべきこと。
鉛の実体にも、同じく錫にも、その完全性への近さ、あるいは完全性からの遠さのさまざまな度合いに応じて、複数の調製を施す。腐敗をもたらすものには、一方では、その本性の生来の根源から深部へ入り込むものがある。すなわち、硫黄性の土性と、水銀の土の不純さであり、生成の原理に本質的な本性として混ざっている。他方には、最初の混合の後に加わって腐敗をもたらすものがある。第一の種類に属するのは、燃焼する硫黄性、その不純さ、そして水銀の汚れた実体であり、これらはすべて、鉛と錫の完全性の実体を損なう。だが、その一方は、第一階級のいかなる技法の薬によっても除くことができず、他方は、わずかな助けによって除ける。除去が不可能であるのは、この種類の金属体の固有の本性の原理において、それらが真の本質へと混ざり合い、真の本質そのものとなったためである。どの物でも、その物を存続させたまま、自然における真の本質を取り除くことはできない。したがって、これらの腐敗要因を金属体から除くこともできなかった。そのため、ある哲学者たちは、この事情から、術を成し遂げることは不可能だと考えた。
私たちも自分たちの時代に、この学知を探究して、同じ結論に到達した。どのような調製の工夫によっても、金属体を明るい光沢の完全な状態へ輝かせることはできず、むしろ全体が汚れ、黒くなってしまったのである。そのため私たちも当惑し、長いあいだ絶望の陰に身を隠していた。しかし、我に返り、果てしない思索と熟考の苦しみに自らをさらしながら、不完全な金属体は、その本性の深部で汚れており、自然には輝くものが内部に存在しないので、そこから輝くものを見いだせないと気付いた。ある物の中に存在しないものを、その物の中で見いだすことはできないからである。したがって、金属体の中に完全なものが見いだされない以上、その内部、その本性の深部で異なる実体を分離しても、余分なものは見いだされないと、必然的に結論される。こうして私たちは、金属体には何かが不足していること、そして、それに適合し、不足を補う材料によって、その不足を満たさなければならないことを見いだした。
その不足とは、すなわち水銀の少なさと、その濃密化が適切でないことである。したがって、それを補うのは、水銀を増やし、よく濃密化し、永続的に固定することである。これは、水銀から作られる薬によって達成される。この薬は水銀から存在へ導かれるため、その明るさと輝きの恩恵によって、金属体の暗い色を覆い隠し、輝きを引き出し、光沢へ変える。薬として調製された水銀は、私たちの技術で清められ、きわめて純粋で輝く実体に変えられているので、不完全なものへ投射すると、それを明るくし、自らの固定性によって完全化する。この薬については、その専用の説明の中で述べよう。以上から、完全性を見いだすためには、二つの方法が必要だと必然的に結論される。一つは、混合物から汚れた実体を分離する材料による方法であり、もう一つは、自らの光沢の輝きで汚れを覆い、明るくして美しくする薬による方法である。
金属体の深部に見いだされるのは余剰ではなく、むしろ不足なので、もし何か余分なものを除く必要があるなら、それは本性の表に現れる部分へ後から加わったものであり、さまざまな調製によって取り除かなければならない。その調製を、ここで説明する。まず錫と鉛を同じ説明の中で取り上げ、最後に他の金属体を順に取り上げよう。
第70章 鉛と錫の調製について。
鉛と錫は、完全性へいっそう近づける必要に応じ、共通の方法と固有の方法という、複数の調製によって調えられる。共通の方法には、完全性へ近づくいくつかの段階がある。第一は、清浄な実体から生じる光沢であり、第二は、溶融の際に赤熱を伴う硬さであり、第三は、揮発性の実体を除くことによる固定である。清めて輝かせる方法は三つある。すなわち、浄化する物を用いる方法、焼成と還元の方法、溶解の方法である。
浄化する物を用いる場合には、灰にして清める方法と、金属体の状態で清める方法の二つがある。灰にしたものは、塩類、明礬類、またはガラスによって精製する。金属体を焼成したら、その灰へ明礬や塩の水を注ぐか、ガラスを混ぜ、その後、金属体へ還元する。この操作を交互に幾度も繰り返し、完全に清浄な状態を示すまで続ける。塩、明礬、ガラスは、金属体とは異なる仕方で溶けるため、金属体から分離し、土性の実体を伴い去り、金属体の純粋な部分だけを残すからである。金属体のままでも、同様の方法で精製する。二つの金属体をきわめて細かくやすりで削り、同じ物、すなわち明礬、塩、ガラスで処置し、その後、金属体へ戻す。この操作を交互に繰り返し、より清浄に見えるまで続ける。また、すでに方法を示した、水銀による洗浄でも清められる。
これら二種類の金属体は、十分な火を用いて焼成と還元を交互に繰り返し、より清浄な姿になるまで続けることによっても、同様に清められる。この方法によって、不完全な金属体は、二つの腐敗要因、すなわち可燃性・揮発性の実体と、土性の滓から清められる。火は揮発する実体をすべて上昇させ、消耗させるからである。また、同じ火は、還元の際、適切な割合を保って、土の実体をすべて分離する。その割合は、順序として本書に先立つ、別著『完全性の探究について』に記した。そこには、精神の推論に従って探究したことをすべて書いたが、本書では、見て触れたことを、学知の順序に従って完全に明確化したのである。
さらに、すでに方法を述べた、その実体の溶解と、そこから溶解したものを還元することによっても、同じく清められる。この調製方法によるものは、他のどの種類の調製によるものよりも清浄で完全であると認められる。この方法に比べられるのは、昇華によって行う方法だけであり、それはこの方法と同等の力を持つ。また、柔らかい実体を硬化させ、溶融時に赤熱を伴わせることも、これらの調製である。そのためには、固定された水銀の実体、あるいは固定された硫黄やその同類の実体を、金属体の深部へ混ぜ込む工夫をする。あるいは、マルカシータやトゥティアの灰のような、硬く溶けないものと混ぜる。これらは金属体と結合し、親和し、赤熱するまでは溶けないようになるまで硬化させる。同じことは、後で説明する完全化の薬によっても達成される。
もう一つの調製方法は、揮発性の実体を取り除くことである。これは、焼成の第一段階の後、それらに見合った火の中へ保つことで達成される。調製方法には必ず順序があるので、その完全な順序を示そう。まず、腐敗をもたらす揮発性・焼損性の実体をすべて除いて清める。次に、余分な土性を除く。その後、溶解して還元するか、水銀による洗浄で十分に洗う。この順序は有用であり、必要である。
ただし、これらの金属体に固有の調製もある。まず錫には、いくつかの方法がある。一つは焼成であり、これによってその実体はいっそう硬くなるが、鉛ではそうならない。明礬によっても同様であり、明礬はとくに錫を硬化させる。もう一つは、焼成用の火の中へ錫を保つことである。これによって、きしむ音と、他の金属体を脆くする性質を失う。鉛にはもともと、きしむ音も金属体を脆くする性質もないので、このことは起こらない。また、塩の鋭い作用による焼成を繰り返すことによっても、錫はきしむ音を失う。次に、鉛に固有の調製は、塩の鋭い作用による焼成であり、これによって硬くなる。また、タルクによって特によく白くされ、マルカシータとトゥティアによっても白くされる。調製のすべての方法は、『完全性の発見について』と題する書物で、さらに詳しく定めた。本書では、それらの要点を簡潔にまとめたからである。
第71章 銅の調製について。
前に示した順序に従い、硬い金属体の調製を述べよう。まず銅、次に鉄を取り上げる。銅の調製には複数の方法があり、一つは上昇によって、もう一つは上昇させずに行われる。上昇による方法は次のとおりである。銅がよく適合するトゥティアを取り、工夫を用いて銅と結合させる。次に、昇華用の容器へ入れ、最高度の火によって、そのいっそう精妙な部分を上昇させる。その部分は、きわめて明るい光沢を持つと認められた。あるいは、銅を硫黄と最小の部分に至るまで混ぜ、前に述べた上昇の方法によって上昇させる。
昇華を用いない場合は、灰の状態、あるいは金属体の状態で、トゥティア、塩類、明礬類などの浄化する物によって調製する。また、すでに方法を示した水銀による洗浄、他の金属体について述べた焼成と還元、あるいは溶解と、溶解したものを金属体の本性へ戻す還元によっても調製する。あるいは、他の不完全な金属体と同様に、水銀による洗浄で清める。
注 水銀洗浄への言及は原刊で二度現れるため、反復も保持した。
第72章 鉄の調製について。
鉄の調製も同じく複数ある。昇華によるものと、昇華なしで行うものがあり、昇華によるものは砒素を用いる。その方法は次のとおりである。固定されていない砒素を、できるかぎり深く鉄へ結合させ、溶融の際、砒素とともに液化するよう工夫する。次に、専用の昇華容器で昇華させる。この調製は、他の方法に比べて、よりよく、より完全であると認められる。また、砒素を鉄から幾度も昇華させ、砒素の一定量が残るまで続ける、別の調製もある。これを還元すると、白く、溶融性があり、清浄に調製されたものが流れ出る。さらに第三の方法として、鉛とトゥティアとともに鉄を溶融する調製がある。これらから、清浄で白いものが流れ出る。
しかし、私たちは、焼成によって二つの金属体を巧みに柔らかくし、また柔らかい金属体を硬くすることについて詳しく述べると約束したので、説明が不十分と思われないよう、その方法を省かないでおこう。まず柔らかいもの、次に硬いものを取り上げる。沈降させた水銀を溶解し、硬くしようとする焼成済みの金属体も溶解する。この二つの溶液を混ぜ、これらを用いて、焼成した金属体に交互に混ぜ合わせ、すり潰し、湿潤させ、焼成し、還元する。硬くなり、赤熱とともに溶融するようになるまで続ける。同じことは、金属体の灰と、焼成・溶解・湿潤処理したトゥティアやマルカシータによっても、完全に達成できる。これらが清浄であるほど、変化もいっそう完全になる。
硬い金属体も、同様の工夫によって柔らかくされる。砒素と結合させて昇華させることを繰り返し、砒素の昇華後は、『炉の書』でその方法を述べた、適切な度合いの火で焙る。そして最後に、その箇所で説明した火の強制作用によって還元する。金属体の硬さに応じ、溶融の際に柔らかくなるまで続ける。これらの変化はすべて第一階級のものであり、これらなしには秘術は完成しない。
第73章 水銀の浄化について。
以上を受け、水銀の浄化を完全に述べる必要がある。水銀は二通りに清められる。一つは、すでに方法を示した昇華によるもの、もう一つは洗浄によるものである。洗浄の方法は次のとおりである。ガラスまたは石の浅皿に水銀を注ぎ、その上に、水銀を覆うだけの量の酢を注ぐ。次に弱火にかけ、指で扱える程度まで温める。その後、指でかき混ぜ、粉のような非常に小さい部分へ分かれるまで続ける。注いだ酢がすべて完全に消費されるまで、かき混ぜ続ける。そして、そこに認められる土性のものを酢で洗い、捨てる。この操作を繰り返し、その土性が最も完全な空色へ変わるまで続ける。これが完全な洗浄のしるしである。それでは、これらから薬へと進もう。
注 水銀に指で触れる記述は歴史的原文の忠実な訳であり、現代の安全な取扱方法を示すものではない。
第74章 最も完全な薬は、清浄さ、色、溶融、永続性、重さという、完全性の五つの異なる特性を必ずもたらすこと、そして、そこから何を材料として薬を取り出すかを推定すべきこと。
まず薬一般について、その原因と明白な実験を伴う説明を示そう。不完全なものから、薬によって、あるいは調製の方法によって、余分なものすべて、すなわち、余分な硫黄性と不純な土性がすべて取り除かれなければ、完全化は達成されない。ここでいう完全化とは、変化を与える薬の投射後、溶融させても混合物から分離しないことである。これを見いだしたなら、完全性を区別する特徴の一つを、すでに得たことになる。同様に、薬が明るくし、求める目的に応じて白または黄色へ変え、光沢の輝きと美しい明るさをもたらさなければ、不完全な金属体は全面的かつ完全には完成しない。
さらに、銀または金の溶融の性質を明確にもたらさなければ、完全に変化させることはできない。試験の際に留まらず、混合物から完全に分離して去るからである。この点は、後の灰吹きについての章で、いっそう詳しく示す。また、薬が、その作用による変化を堅固にして永続させなければ、変化には価値がない。作用の痕跡が持続せず、消えてしまうからである。さらに、完全性にふさわしい重量をもたらさなければ、思い込みの誤りによる欺きのない、確実で真実な本性の完成として変化させることはできない。本性に固有の重さは、完全性のしるしの一つだからである。したがって、完全性を区別する特徴が五つある以上、私たちの秘術の薬も、投射の際に、この五つの特徴をもたらさなければならないことが明らかである。
このことから、私たちの薬を何から取り出すかが明らかとなる。それは、金属体と最もよく結び付き、その深部に親和的に付着して変化を与えるものから取り出される。そこで他の物を探究したが、私たちの発見では、水銀ほど金属体の本性と親和する物は見いだされなかった。したがって、水銀に私たちの作業を注いだ結果、水銀こそ、変化可能なものを完成へ至らせる真の薬であり、その変化は真実で、しかも少なからぬ利益をもたらすと認めた。
第75章 薬が所要の特性を得るために施すべき調製について。
そこで、その実体と、その実体に固有な性質の相違を明確に記さなければならない。その本性を変える処置なしには変成を起こさないことが分かった。また、調製という方法なしには深部で混じり合わないため、必ず調製しなければならないことも分かった。つまり、その実体を、変成される金属体の奥底まで深く混じり合い、永遠に分離しないものにするのである。これは、昇華の章で定めた確実な調製によって、きわめて微細にしなければ実現しない。同じく、固定されなければ、その作用は持続しない。また、適切な工夫と、ふさわしい火による操作によって、そこから最も輝かしい実体を取り出さなければ、光沢を与えない。それによって硬いものを軟らかくし、軟らかいものを硬くするよう、固定の際に注意を払わなければ、完全な溶融ももたらさない。ただしその処置は、求める溶融の必要に応じて調整された湿気を、十分に保つものでなければならない。
したがって、そこから最も輝かしく清浄な実体が生まれるような調製を行い、施すべきことは明らかである。その後に固定する。このとき、術者は固定の方法における火の扱いに習熟し、完全な溶融を達成するのに足りる程度まで湿気を除けるよう、注意しなければならない。すなわち、この薬によって溶けにくい金属体を軟らかくしたいなら、薬を作り始める際に弱火を用いる。弱火は湿気を保ち、溶融を完成させるからである。逆に、軟らかいものを硬くするなら、強い火を設ける。そのような火は湿気を消耗させ、溶融を妨げるからである。良識ある術者は、いかなる薬についても、これらの規則をすべて必ず考慮すべきである。
重さの変化についても、原因と適切な順序とともに、ほかの多くの点を考慮する必要がある。大きな重さの原因は、金属体の実体の微細さと、本質の均一さである。これらによってのみ、その諸部分は、間に何も入り込まないほど密集できる。諸部分が密になることが、重さをもたらし、それを完成させるのである。
第76章 薬の相違、すなわち第一位・第二位・第三位の薬があることについて。
したがって、金属体に処置を施すための調製でも、それを完成させる薬の方法でも、操作の技法によって微細さを求めなければならないことは明らかである。術による探究では、変成された金属体は、重さが大きいほど、より完全であることが見いだされるからである。そこで、あらゆる薬の相違を述べれば、薬についての有益な説明が完結する。薬には必然的に三つの区別がある。一つは第一位、別のものは第二位、さらに別のものは第三位である。
第一位の薬と呼ぶのは、鉱物のあらゆる調製物のうち、完全さを欠く金属体へ投じると変化を刻み込むが、十分な完成を与えず、薬の作用がすっかり蒸散するにつれて、変成物がまた変わり、損なわれてしまうものである。たとえば、固定を受けていない、銅または鉄を白くするあらゆる昇華物がこれに当たる。また、セメント炉上に置かれる、金・銀の色を増す添加物や、銅に混ぜる添加物、すなわちジニアルなども同類である。これによる変化は持続せず、むしろ蒸発によって減少していくからである。
注 ziniar(ジニアル)は歴史的薬材名として原語を保持した。
第二位の薬とは、完全さを欠く金属体へ投じると、完成のある一つの特性へ変える一方、腐敗に属するほかの特性をいくつか、そっくり残す調製物である。たとえば、揮発するものをすべて除く金属体の焼成がそれである。銀を永続的に黄色くする薬、または銅を永続的に白くする薬も、この類に入るが、これらはほかの欠陥を残している。第三位の薬とは、金属体に加わると、その投与によってあらゆる欠陥を取り除き、完成に属するすべての特性を備えさせる調製物である。これはただ一つしかない。それによって、第二位の十種の薬を発見する労苦を免れる。ゆえに、第一位の仕事は小なる仕事、第二位は中なる仕事、第三位は大なる仕事と呼ばれる。以上で、すべての薬の相違を十分に示した。
第77章 銅を白くする第一位の薬について。
定めた順序についての約束に従おう。金属体の薬と水銀の薬とは別であり、金属体の薬には第一位、第二位、第三位があり、水銀についても同様である。そこで、薬のすべての相違を、まず第一位、次に第二位、最後に第三位の順に述べる。また、まず金属体の薬、次に水銀の薬を、十分な説明と適切な順序をもって伝える。第一位の金属体の薬には、硬い金属体のためのものと、軟らかい金属体のためのものとがある。硬い金属体のためのものには、銅用、鉄用、銀用がある。銅と鉄の場合は、その実体を清らかに白くすることであり、銀の場合は、快い輝きをもつ黄色を伴って赤くすることである。第一位の薬によって銅と鉄を赤くしても、輝きは現れない。これらは全体に不浄であり、輝きをもたらす調製が先行しなければ、赤色の輝きを受け入れられないからである。そこで、最初に銅のすべての薬を、次に第一位に属する鉄の薬を述べよう。
銅を白くする薬には、水銀によるものと、砒素によるものとがある。水銀によって銅を白くする薬は、次のように完成する。まず沈降させた水銀を溶解し、同じく銅の焼成物を溶解する。この二つの溶液を一つに混ぜ、その後凝固させる。それから、それらによる薬を銅の金属体へ投じる。この薬は白化し、浄化する。また、別の方法もある。沈降させた水銀を溶解し、密陀僧を溶解し、両溶液を合わせる。さらに、白くしようとする金属体の焼成物を溶解し、前述の溶液と合わせ、凝固させる。その後、それを当の金属体に投じれば、これによって白くなる。
また別法として、銅の金属体から、ある量の水銀を交互に昇華させ、十分に赤熱させても水銀の一部が銅とともに残るまで行う。その後、蒸留酢を何度も含ませながらすり潰し、深部でいっそうよく混合させる。続いて焙焼し、最後に同じように水銀をそこから昇華させ、再び含浸し、焙焼する。この操作を繰り返し、多量の水銀が、完全な赤熱のもとでもその中にとどまるようにする。これは第一位の優れた白化法である。また別法として、沈降させた水銀の上で、本来の状態の水銀を何度も昇華させ、その中で固定し、溶融するようになるまで続ける。その後、銅の実体へ投じれば、有益な仕方で白くなる。さらに別法として、銀と密陀僧とを溶解し、溶液を合わせる。これらによって銅の実体は白くなる。ただし、どの薬においても水銀を永続するものにすれば、さらによく白くなる。
また、昇華した砒素によっても白くなる。銅の焼成物を取り、その上で砒素の昇華を繰り返し、砒素が銅とともに残って、これを白くするまで続ける。ただし、昇華の諸方法に熟練していなければ、砒素はいかなる変成状態でも銅の中に持続しない。つまり、昇華の第一段階の後、マルカサイトの昇華について説明した第二段階を繰り返すのである。別法では、昇華した砒素を銀へ投じ、それからその全体を銅へ投じる。これは有益な白化をもたらす。また、まず密陀僧、あるいは焼いて溶解した鉛を銀に混ぜ、その上に砒素を投じてもよい。その全体を銅へ投じれば白くなり、これは第一位の優れた白化法である。あるいは、溶解して還元した密陀僧だけに昇華砒素を投じ、その全体を溶融銅に加える。それは銅を、優美な外観をもって白くするからである。
あるいは、銀と銅とを混ぜ、その上に白化する薬を投じる。銀は、どの金属体よりも砒素と親和するので、砒素による脆さを取り除く。次に親和するのは鉛であるから、私たちはそれをこれらに混ぜる。また別法として、昇華した砒素を溶かして塊にし、一塊ずつ銅へ投じる。粉末より塊で投じるよう勧めるのは、粉末のほうが塊より燃えやすく、したがって消えやすく、赤熱した金属体に落ちるより先に消耗してしまうからである。
さらに別法として、トゥティアによって銅の赤みを取り除き、白くする。しかしトゥティアの白化力は十分ではなく、黄色くするだけである。とはいえ、あらゆる黄化は白さに近縁である。その方法は、いずれの種類のトゥティアでも、溶解し、焼成し、次いで銅も同様に処理する。この二つの溶液を合わせ、それらで銅の実体を黄色くする。トゥティアを使って習熟すれば、その有用さを見いだすだろう。また、昇華水銀の場合と同じように、昇華したマルカサイトによっても白くなる。方法は同一である。
第78章 鉄を白くする薬について。
次に、鉄に固有の薬によって生じる白化を述べなければならない。これらは本質的に第一位のものである。鉄はこの段階では正しい溶融性をもたないから、溶かす薬によって白くする必要がある。銅を白くする薬は、同じ位の調製を施せば、どれも同様に鉄を白くする。ただし鉄に特有の融剤は、あらゆる種類の砒素である。したがって、どの砒素で白化し、溶融させるにせよ、水銀と合わせて洗い、すべての不純物を取り除き、白く溶けやすくするとよい。あるいは、激しい赤熱をもって加熱し、その上に砒素を投じ、溶けたら銀をある量投じる。銀は、一度鉄と結合すれば、容易な技法では分離しないからである。
あるいは、鉄を焼成し、すでに述べた溶解法によって、腐敗の汚染をもたらす可溶性の明礬質をすべて洗い去る。その後、何らかの昇華によって清めた砒素を鉄から昇華させ、幾度も繰り返し、砒素の一部が鉄とともに固定されるまで続ける。次いで、密陀僧の溶液を交互に含浸させ、混合し、攪拌し、交互に焙焼する。最後に、錫をその灰から還元する際に教えた火を用いて還元する。これによって、白く清らかで溶けやすい鉄が得られる。あるいは、灰の状態の鉄を、昇華した砒素だけとともに還元しても、白く清らかで溶けやすくなる。ただし、砒素が銅の深部に固定されるように、その銅から昇華を繰り返す際に教えたのと同じ注意を、術者は払うべきである。また、すでに述べた工夫と手際により、マルカサイトとトゥティアによっても同様に白くなる。しかし、これらによる白化または浄化は十分ではない。
第79章 銀を黄色くする薬について。
前述の順序に従い、第一の類に属し、銀の実体を黄色くする薬を、確実な真理とともに述べよう。それは、銀の深部に付着し、付着することによって、本来の性質から、またはこの秘術の技法によって、色を与える薬である。まず、その根に生来備わるものによって銀に付着する薬を述べ、次に、どんな種類の物でも、確実に浸入し付着するようにする技法を述べる。この薬は、硫黄、水銀、あるいは両者の混合物から取り出す。ただし、硫黄によるものはより不完全であり、水銀によるものはより完全である。また、これらの類に属さない鉱物、たとえば礬類や、銅の樹脂または滴出物とも呼ばれるクペローサからも、同様に取り出される。そこで、まず水銀から生じる薬のすべての方法、次に硫黄または両者の混合物から生じるもの、最後に銅の樹脂などから生じるものを述べよう。
注 vitriolum・cuperosa・guma Cupri は当時の鉱物・薬材名であり、現代の単一化学物質へ断定的に置き換えていない。
水銀による薬の方法は次のとおりである。沈降によって死滅させ、固定した沈降物を取る。次に、すでに教えた灰の保持法に従い、強く赤熱する炉に置き、ウシフルに似て赤くなるまで続ける。もし赤くならなければ、死滅させていない水銀を一部取り、硫黄とともにその昇華を繰り返す。ただし、硫黄も水銀も、あらゆる不純物から清めておく。この沈降物の上でその昇華を二十回繰り返したら、溶解力のある水の鋭さによってそれを溶解し、再び焼成し、再び溶解し、十分すぎるほどになるまで続ける。その後、銀を一部溶解する。溶けたら両溶液を混ぜ、凝固させ、溶融した銀へ投じる。非常に有益な黄色を与えるからである。水銀が沈降の際に赤くなっていたなら、それを着色する物を混ぜなくとも、述べた処置だけで、その完成した薬を投与するのに十分である。
注 174頁9行の重複する末尾の multum を巻末正誤表に従って削除した。usifur は原刊の歴史的薬材名を音写した。
硫黄によっても赤くなるが、その赤化は難しく、途方もない労苦を要する。同様に、鉄の溶液によっても銀は黄色くなる。しかしこの操作の必要から、まず鉄を焼成し固定しなければならず、それは大きな労働である。その後、同じ調製によって処置し、同じ投与法で銀の実体へ注ぐ。それでも、生じる黄色は輝かしくなく、むしろ暗く青黒く、生気のない黄色となる。
礬類またはクペローサによってなされる黄化の方法は次のとおりである。それぞれを一定量取り、昇華できる部分を、完全な駆出によってすべて昇華させる。その後、昇華物を、それに適した火の方法によって再び昇華させ、一部分ずつ固定させ、その大部分が固定されるまで続ける。次に、完成のためさらに強い火を加えられるよう、火に注意を払って焼成する。その後、比類のない鮮紅色の水に溶解する。続いて、それが銀の金属体へ浸入するように工夫せよ。私たちの書いた完全な操作を探究する者なら、その工夫はすでに十分示されている。この種の物が銀の深部に親和的に付着するのを見たので、私たちは考察し、これらが金属体の根に由来することを確実に知った。それゆえ、これらによって変成が起こるのである。
以上が、私たちの示した第一位の薬のすべてである。ただし、着色用物質の本質を保ちながら、方法の多様さによって、それらの手法をさらに増やすことはできる。水銀については、この第一位の薬はない。水銀をただ一つの特性において変える薬はなく、全面的な完成へと変えるものしかないからである。多くの薬を見いだした者もいるが、必然的に次の二つのいずれかになる。同じ物、あるいは同じ本性をもつ物から薬を作らなければならないか、さもなくば、その変成作用を含めて無に等しく、可動的自然の高みにある不滅の動者が静止する時まで、世界にもその諸部分にも何の益ももたらさない薬を作るのである。
注 末尾は天体運動をもたらす動者を引き合いに出す原文の表現を保持した。
第80章 第二位の薬の特性の相違について。
次に第二位の薬へ移り、その主題に必要なことを真に十分に、明白な証明と確かな経験とともに述べよう。変成される金属体の薬と、完全に凝固させられる水銀の薬とは別であるから、まず金属体のあらゆる薬を十分に述べる。その後で、水銀そのものを真の金または銀へ凝固させる薬へ進む。第二位の薬は、不完全なものを、完成に属するただ一つの特性によって完成させる。しかし、各々の不完全な金属体には、多くの腐敗原因がある。たとえば鉛には、必然的に腐敗をもたらす揮発性の硫黄質と水銀の逃散、さらに土性がある。そこで、その一つを完全に除去するか、覆い隠して美しくし、ほかの不完全さの原因だけを残す薬を作るのである。
金属体には、その根に生来備わり、第二位の薬では除けない不変のものがある。したがって、それを混合物から取り去る薬は、第二位ではなく、第三位すなわち上位の薬と呼ばれる。また、逃散する物の過剰分は焼成によって、先天的でない土性は還元の反復によって除けることを見いだした。そこで、生来のものを覆い、硬いものを軟らかく、軟らかいものを硬くし、硬軟いずれの不完全な金属体にも、見せかけではなく、真に金または銀の完成をもたらす第二位の薬を見いだす必要があった。軟らかい金属体だけについていえば、この操作の技法を工夫しても、溶ける速さや、その構成原理の根に生来備わる不純さを取り除けないことは明らかである。ゆえに、投与によって希薄なものを濃くし、濃くすることにより、溶融に先立つ十分な赤熱に耐えるまで硬くし、硬いものでは濃密さを薄め、薄めることによって赤熱の性質を保ちながら十分に速く溶けるようにし、両類の暗い色を覆って美しくし、一方を完全な白、他方を完全な黄色へ変える薬を探究しなければならない。
この薬が第三位の薬と異なるのは、調製が少ないための不完全さだけである。また、異なる金属体への投与や着色剤の選択にあるものは、薬そのものの違いではなく、調製方法の違いである。同様に、軟らかい金属体の希薄さを濃くする薬と、硬い金属体の濃密さを薄める薬とでは、必要な調製の工夫が異なる。こちらは消耗させる火の方法を、あちらは湿気を保持する処置を必要とする。
注 末文の haec/illa(こちら/あちら)の対応は原文の指示語を保持した。直前の議論および第75章との関係から推定して入れ替えていない。
第81章 不完全な金属体のための銀化薬と金化薬について。
第二位の薬について、確実で真実な区分による全般的で十分な説明をしよう。まず、完全さを欠くすべての金属体に対する銀化薬を、調製上の相違とともに、次いで金化薬を、同じく固有の相違とともに述べる。すでに私たちの説明で、あらゆる種類の硫黄が完成を損なうことを示した。一方、水銀は、十分に整えられた自然の働きにおいて、完成をもたらすものである。ゆえに私たちは自然を変えず、追随できる操作において自然を模倣する。この秘術においても、水銀を、あらゆる完全化の薬、すなわち不完全な金属体と凝固しうる水銀そのものに対する銀化薬および金化薬に用いる。直前に薬を、金属体の薬と、水銀を真に凝固させる薬とに二分したので、ここではまず金属体の薬、次に水銀の薬について確かな説明を伝えよう。
この薬の材料は、どの類のものでも、それ自体としてただ一つであり、すでに十分知られたものである。それを取り、銀化薬を望むなら、約束した順序に従って熟練し、この秘術の既知の方法で調製せよ。その目的は、そこから純粋な実体を分け、一部を固定し、別の一部を蝋化のために残すことである。こうして秘術の全工程を進め、溶融を試みて、それを完成するまで続ける。硬い金属体において速やかに溶けるなら、その薬は完成しているが、軟らかい金属体では逆である。この薬を不完全な金属体のいずれに投じても、既知の調製が薬に先立って行われていれば、完全な銀の金属体に変える。そうでなければ、不完全さを残し、この位の薬の処置に依存する範囲で、完成の一つの特性だけを整える。第三位に属するものは、前もって何の処置もなく、ただ投与するだけで完成させる。
一方、第二位に属し、いずれの不完全な金属体にも用いる金化薬は、材料が同じで、処置の運用も共通している。ただし、固有の消化の方法によって諸部分をさらに微細にすること、精妙な調製の運用を受けた硫黄を混ぜ、いま知られた材料に加えることの点で異なる。その硫黄の処置とは、最も純粋な硫黄を固定し、適切な方法で溶解することである。これによって薬は染められ、これとともに不完全な金属体へ投じられると、その金属体に既知で確かな前処置がなされていれば、第二位の薬の調製が及ぶ限り、金の完成へと仕上げる。また銀へ投じても、きわめて有益な金の完成へと仕上げる。
第82章 水銀を凝固させる薬について。
前述の順序に従い、初めに定めると示した操作を完結するため、次は水銀を凝固させる薬の説明へ移る。この薬は、同じ材料、すなわち本書の多くの章ですでに知られたものから取り出される。その理由は、水銀が炎を上げることもなく容易に逃散するので、逃散する前にただちにその深部に付着し、最小の部分まで結合し、それを濃くし、自らの固定性によって火中に保つ薬を必要とするからである。それによって水銀は、湿気を消耗するより強い火に耐えられるようになり、薬が調製された目的に応じて、その恩恵により一瞬のうちに真の金または銀へ変わる。水銀そのものより水銀に適合するものは見いだされず、それは同じ本性をもつからである。そこで私たちは、水銀によってその薬を完成できると考え、工夫によって、それに薬としての形を与えたのである。
すなわち、すでに述べた方法を用い、長期にわたり不断の労苦で調製し、その微細で最も純粋な実体のすべてが、銀化の場合は白く、金化の場合は濃い黄色として完全に現れるようにする。ただし黄色を作るには、同じ本性に属し、それを染める物を混ぜなければならない。その後、この最も純粋な水銀の実体から、この秘術の工夫により、水銀へ非常によく付着し、きわめて容易に溶け、それを凝固させる薬を完成させる。必要な前調製があれば、これを真の金または銀に変えるからである。ところで、この水銀の実体は主に何から取り出せるのかと、よく問われる。私たちは、それが存在するものから取り出されると答える。それは自然に、金属体にも水銀そのものにも存在する。これらが一つの本性をもつことが見いだされるからである。ただし金属体ではより難しく、水銀ではより近道であるが、より完全というわけではない。したがって、薬がどの種類であれ、貴重な石の薬は、金属体にも、水銀そのものの実体にも探し求められる。
注 181頁5行の ipsius は巻末正誤表に従った。
第83章 技法によって薬に浸入性を与えるにはどうするか。
薬が混ざる場合と混ざらない場合とがあるため、混合の方法、すなわち各々の物、または浸入しない薬が、いかにして金属体の最深部へ入る力を得るかを述べよう。その方法は、浸入するものを溶解し、浸入しないものも溶解し、両溶液を混ぜることである。浸入するものは、最小の部分までそれと結合するあらゆる種類のものに、浸入性を与える。この結合は溶解によって達成され、また、溶けない物にも溶解によって溶融性が与えられるので、浸入し変成するのに、さらに適するようになる。これらと同じ本性に属さない物を焼成するのも、よりよく溶解させるためであり、溶解させるのは、金属体がその作用をよりよく受け、同じくそれによって調製され、浄化されるためである。また、濃密さによって浸入を妨げられている物には、その上で非可燃性の霊的物質、すなわち未固定の砒素や水銀の昇華を幾度も繰り返すことによって、あるいは浸入性をもたない物の溶解を何度も繰り返すことによって、浸入性を与える。
ただし、混ざり合わない物に浸入性を与えるには、次の注意が有効である。これらによって変成しようとする金属体を溶解し、変成作用を伴って浸入させようとする物も溶解する。しかし、すべての部分を溶解するのではなく、一部分だけとし、その後、ほかならぬ当の金属体へ、繰り返し含浸させる。こうすれば、それだけには必ず浸入するが、ほかのどの金属体にも必ず浸入するとは限らない。以上の方法上の工夫により、どの物も、その本性の恩恵に応じた浸入性をもち、得られた混合によって変成させることになる。この説明によって、十種の薬は、その伝授に必要な説明とともに完結する。
第84章 第三位の薬の総論。
次に第三位の薬へ進もう。この位の薬には、金化薬と銀化薬の二つがある。しかし本質において一つであり、作用の仕方も同様である。そこで、私たちが著作を通読した古人たちは、唯一の薬と呼んだ。ただし、最も清浄な固定硫黄の実体によって作られる、黄色を与える添加物がある。この二つ、すなわち銀化薬と金化薬との差は、後者がこれを含み、前者が含まないことである。この第三位は、大なる仕事の位と呼ばれる。それは、その処置と完全化のための調製に、より鋭い洞察力と技巧を要し、真の完成に達するには、より長い労苦を必要とするからである。したがって、この位の薬は本質上、第二位の薬と少しも違わず、製造時の調製がきわめて精妙な段階に達することと、より長く不断の労苦を重ねることだけが異なる。
これらの全段階を十分に説明し、調製方法を、その原因と明白な経験とともに完全に述べ、さらにこの第三位の、より多くの処置に属する方法の段階を述べよう。着色剤の完全な調製において、金化薬の必要とする段階と、銀化薬の必要とする段階とは異なる。一方は薬を染める硫黄の処置を必要とし、もう一方は必要としない。
第85章 第三位の銀化薬について。
まず銀化薬の処置方法を述べよう。すでに知られたその石を取り、分離の方法によって最も純粋な部分を分け、別に置く。次に、その最も純粋な部分の一部を固定し、一部を残す。固定したら、そのうち溶解するものを溶解し、溶解しないものは焼成に付す。それから、その同じものに溶解を繰り返し、その中の可溶部分が再びすべて溶けるまで続ける。この順序を守り、大部分が溶けるまで行う。その後、すべての溶液を合わせ、凝固させる。続いて、軽く焙焼しながら適度な火に保ち、その必要に応じて、さらに強い火を加えられるようにする。次に最初の溶解の順序を守り、可溶部分を再び全部溶かし、再び凝固させ、再び適度な火に保ち、完全化のため、さらに強い火をまた加えられるようにする。これらの調製の全手順を四回繰り返し、最後に固有の方法で焼成する。こうして、石の最も貴重な土を、十分な処置によって整えたことになる。
次に、保存しておいた未固定部分の一定量を、この処置済みの土の部分へ、精妙な工夫によって最小部分まで結合させる。この工夫の目的は、前述の昇華法によって上昇させ、固定部分が未固定部分とともに全体として上昇するようにすることである。そうならなければ、未固定部分を一定量ずつ再び加え、上昇させるのに十分となるまで続ける。上昇したら、その昇華を繰り返し、この反復処置によって全体が固定されるまで続ける。全体が固定されたら、あなたの知る工夫によって、未固定部分を一量ずつ再び含ませ、全体が再び上昇するまで行う。それから再び固定し、赤熱を伴って容易に溶融するようにする。これこそ、完全さを欠くあらゆる金属体と、いかなる種類の水銀をも、最も完全な銀の金属体へ変える薬である。
第86章 第三位の金化薬について。
この金化薬の調製には、焼損させない硫黄を加える。その硫黄は、固定と焼成の方法、さらに幾度も繰り返す多重の溶解法によって、清らかになるまで、巧妙な手際で十分に処置したものでなければならない。これらに先立って、昇華によって達成される完全な処置を施す。この添加の方法は、未固定の石の部分の昇華を、結合の工夫とともに繰り返し、硫黄がその部分とともに上昇し、さらにそれとともに再び固定されて、とどまるようにすることである。この豊かな完成の手順を繰り返すほど、薬の豊かな効力はさらに増し、その良さは増大し、完成を増進させる力がきわめて大きくなる。
私たちは不敬な者に非難されないよう、この秘術の完成のすべてを、短く、十分で明瞭な説明にまとめよう。その目的は、昇華によって石とその添加物を最も完全に清め、次に工夫によって、それらの揮発するものを固定することである。その後、固定したものを揮発性にし、再び揮発性のものを固定する。この順序によって、この世のあらゆる学知の秘奥に優る最も貴重な秘奥、比類のない宝が完成する。最大限に不断の労苦を払い、計り知れないほど長く思索しながら、それに習熟せよ。それによってこそ見いだせるのであり、それなしには見いだせない。この薬に対し、そのような慎重な工夫を伴う良い処置を反復して石を調製すれば、水銀を無限に真の金または銀へ変えるまでに至りうる。それは、この薬を増強することだけにかかっている。
注 186頁1行は巻末正誤表に従い invenies とした。
いまこそ、祝福され栄光に輝く、万物の本性を司る高き神を讃えよう。神は、あらゆる薬の系列を、その経験とともに私たちに啓示された。私たちは、神の善き促しと不断の労苦によってそれを探究し、この秘術により究明した完成を目で見、手で触れた。私たちがこれを覆い隠していても、学びの子は不思議に思ってはならない。彼に対して隠したのではなく、悪人や不正な者に対して、愚者には必ず意味が隠される言葉で伝えたのである。同じ言葉によって、思慮ある者をその発見の探究へと誘う。ゆえに学びの子らよ、探究せよ。あなたたちのためだけに取っておかれた、この卓越した神の賜物を見いだすだろう。悪徳と悪意ある邪悪の愚かな子らよ、この学知から遠く逃れよ。それはあなたたちの敵であり、逆らうものであり、あなたたちを貧窮の悲惨へ陥れるからである。神の摂理の裁きにより、この神の賜物はあなたたちから完全に隠され、全面的に拒まれている。さて、あらゆる薬の方法を探究したので、所期の目的を追い、この秘術の完成を明らかにする試験と、その理由へ進まなければならない。
注 186頁24行は巻末正誤表に従い prosequentes intentum とした。
この第二巻の第三部にして最終部 完成の試験について。
第87章 以下に述べる事項の区分。
明白な検査、すなわち重さ、色、槌による展延の検査は、洞察の工夫を要さず、誰にも知られ確実であるから、ここでは説明を省く。そこで、この術の処置による投与が真の完成をもたらすかどうか、技法による検査を慎重に試みよう。それらは、灰吹き、セメント処理、赤熱、溶融、刺激性物質の蒸気への曝露、焼損させる硫黄との混合による試験、急冷、焼成と還元の反復、水銀を容易に、または困難に受け入れることの検査である。まず順序に従って第一のものから始め、次いで同じ順序に従い、約束どおり、既知の原因とともにほかのものも完全に述べよう。
第88章 灰吹きについて、ある金属体はそれに耐え、あるものは耐えないのはなぜか。
灰吹きについて、そのすべての明白な原因と、調製方法とともに述べよう。灰吹きの試験に耐えて残るのは、金と銀の実体だけである。そこで、これらの完全な金属体の実体上の真の相違を探究し、不完全なもののうち、あるものがこの秘術の試験により長く耐え、あるものがより短くしか耐えない理由も調べよう。この二つの金属体の実体の深部にある秘密は、すでに十分述べた。すなわち、その最初の根は多量の水銀であり、その本質は最も純粋で、初めはきわめて微細であり、その後、赤熱を伴って溶融するようになるまで濃くされたということである。
注 187頁22行は巻末正誤表に従い et suae confectionis とした。cineritium は灰を用いる試金法として「灰吹き」と訳す。
ゆえに、不完全なものは、土性が多いほどこの試験に耐えず、少ないほど長く耐える。土性の少ないものは、その諸部分が微細で、きわめてよく混じり結合するため、いっそう強く付着するからである。同様に、完全な金属体より希薄なもの、または逆に、より濃密なものは、溶融が同一でないため、混合物から完全に分離せざるをえず、そのため分離する。また、水銀を含む量の少ないものは、混合物からより容易に分離する。鉛には多くの土性があり、水銀の量は少なく、希薄で容易に液化する。これらは灰吹き試験での完全さに最も反する性質であるから、鉛はほかの金属体よりも、灰吹き操作の混合物中に残らず、最も速やかに分離して退く。不完全な金属体の中で最もよく退くので、この秘術の試験に最も適している。早く退くとともに、不完全なものを各々、混合物から一緒に早く引き去るからである。
そのため、試験の火の強い焼損から、より多量の完全な金属が守られる。完全な金属が、消耗を伴う試験に長時間置かれないからであり、鉛による試験では、それだけ焼損が少なく、容易に精製される。一方、錫の実体は、より多くの水銀を含み、土性が少なく、より純粋で微細な実体にあずかるので、鉛や銅よりも混合物中によく残る。深部で混合物に強く付着するからである。これが、結合した錫を分離する前に、完全な金属の多くが失われる理由である。銅は赤熱を伴って溶融する。しかし、完全な金属より溶融が遅いため、混合物から分離する。ただし、溶ける実体が赤熱するため、鉛よりは遅い。また、錫より水銀が少なく、土性が多く、実体が濃密であるから、錫より容易に混合物から取り除かれる。錫のほうが銅より深部に強く付着するからである。
鉄は溶融性をもたず、そのため混じらない。これは湿気を欠くために起こる。仮に火の激しさによって混じることがあっても、湿気をもたないので、銀や金の湿気を吸い込み、それらと最小部分まで結合する。したがって、多量の土性、水銀の少なさ、溶融性の欠如があっても、容易な技法ではそれらから分離しない。私たちの書いたことの効力を正しく知れば、これによって術者の手腕は、あらゆる金属体を真に整えるために広がる。しかし、空想的にしか理解しなければ、そこから何の真理も知ることはできない。この試験に耐えて残る完全な金属体は、金と銀の二つである。良好な混合から生じる良好な組成と、その純粋な実体によるのである。
第89章 灰吹き試験をどのように準備し、実施するか。
その方法を述べよう。篩にかけた灰、石灰、焼いた動物の骨の粉、あるいはこれら全部またはいくつかの混合物を取る。それを水で湿らせ、手で押して、堅く締まった床を作る。その中央に丸く堅いくぼみを作り、その底に砕いたガラスをいくらか撒く。その後、乾燥させる。乾いたら、試験に耐えるか確かめたい物をそのくぼみに置き、その上に強い炭火を起こし、試験する金属体の表面へ送風して、溶けるまで続ける。溶けたら、鉛を一部ずつ投じ、強く赤熱させる炎を伴って送風する。激しく攪拌され、強い揺動によって動くのが見えるうちは、純粋ではない。鉛がすべて消えるまで待て。鉛が消えてもその動きが止まらないなら、精製されていない。
そこで再び鉛を投じ、鉛が分離するまで、表面へ再び送風せよ。静まらなければ、また鉛を投じてから表面へ送風し、静まって、その表面が清らかに輝いて見えるまで続ける。その後、炭を開き、火を散らし、表面に水を注ぐ。こうすれば、完全に試験されたものが得られる。この試験の送風中、ときどきガラスを投じれば、いっそうよく、より完全に精製される。ガラスが汚れを取り除き、それを捕らえるからである。ただし、ガラスの代わりに塩、硼砂、あるいは何らかの明礬を投じてもよい。同じ灰吹き試験は、土製の坩堝でも行える。その周囲と表面へ送風し、試料をより速く溶かす。これで十分に説明したので、次にセメント試験へ移り、その原因と、明白で既知の経験を述べよう。
第90章 セメントについて、ある金属体はそれによく耐え、あるものはあまり耐えないのはなぜか。
すでに述べたように、金属体には、火による焼成で強く焼損するものと、あまり焼損しないものとがある。可燃性硫黄を多く含むものほど強く焼損し、少ないものほど焼損が少ない。金は、ほかの金属体より硫黄の量が少ないため、すべての鉱物性金属体のうち、火の炎による焼損が最も少ない。銀は金に次いで、ほかの金属体すべてより硫黄が少ないが、金よりは多い。したがって、炎による赤熱や、それと似た本性によって焼損させる物に、金ほど長時間は耐えられない。銅はさらに耐えにくい。金や銀より硫黄と土性が多く、そのため火の炎に耐える力が弱い。錫の硫黄質と土性は銅より少なく、金や銀より多いので、炎による焼損も銅より少なく、金や銀より多い。鉛は、いま述べた金属体より多くの土性と硫黄質を、本性上その混合物中に保っている。そのため、これらすべてより速やかに容易に発火し、炎によってさらに速く焼損する。硫黄質がきわめて強く結合し、錫より固定されているからである。
一方、鉄が焼損しないのは、それ自体によってではなく、付帯的な事情による。鉄は多くの湿気をもつ金属体と混ざると、自ら湿気を欠くため、それを吸い込む。したがって、結合した金属体が非発火性で非可燃性なら、鉄も結合した状態では発火せず、焼損しない。反対に、混合した金属体が可燃性なら、その燃焼の本性に従い、鉄も必ず焼損し発火する。セメントは発火性の物からなるので、その発明に必要だった理由は明らかである。それは、すべての可燃性物を焼き尽くすためであった。不燃性の金属体はただ一つであるから、それだけ、あるいはそれと同じ本性に調製されたものだけが、セメントの中で保たれる。ただし、セメントに長く耐えるものも、短くしか耐えないものもある。どれが長く、どれが短く耐えるかは、述べた原因から明らかである。銀が最もよく耐え、鉄はそれより劣り、錫はさらに劣り、銅はなお劣り、鉛が最も耐えない。
注 193頁3行は巻末正誤表に従い salvatur とした。
第91章 セメント試験をどのように準備し、実施するか。
セメントの方法を述べよう。これは完成の試験に最も必要だと知られている。その組成には発火性の物を用いる。この類には、黒くし、逃散し、浸透し、焼損させるすべての物が属する。たとえば礬類、塩化アンモニウム、銅の花、古い陶器を砕いた石質、微量の硫黄、または硫黄を加えないもの、男の尿、その他同様に刺激性と浸透性をもつ物である。これらをすべて男の尿で練り固め、試験によって判定しようとする金属体の薄板の上に置く。次に、板を土器の中に収め、鉄格子の上に並べる。ただし互いに触れないようにし、火の力が自由に均等に届くようにする。こうして土器を強火に三日間保つ。その際、板を赤熱させても溶かさないように注意する。三日目の後、金属体が完全なものなら、板はあらゆる不純物を除かれている。そうでなければ、全面的に損なわれ、焼成によって焼き尽くされている。
注 aeris flos(銅の花)は歴史的製剤名として直訳。sal ammoniacum は慣用に従い「塩化アンモニウム」としたが、原刊薬材の純度・組成を保証するものではない。
しかし、配合したセメントを使わず、板を直接炎にさらす者もいる。完全な金属体なら、これも同様に精製される。そうでなければ、すっかり焼損する。ただし、この最後の試験は火の炎だけで行うので、セメントによる試験より長い燃焼時間を要する。銀の本性は金から大きく隔たっていないため、わずかな処置で、試験の際に金とともに残る。これら二種の試験で金属体が互いに分離するのは、その実体の組成が異なるからにほかならない。そこから溶融の相違、濃密さ、疎らさが生じ、これらが分離の原因となる。組成が強固であるため、最小部分まで混じらない異質な金属体の実体によって、その実体が壊されることはない。それゆえ、本質を全面的に損なわず、混合物から互いに分離せざるをえない。したがって、不完全な金属体への処置が完成したと分かるのは、処置の工夫によって、溶融、赤熱、堅固さが同じになったと認められるときである。
第92章 赤熱について。
次に、赤熱についての章を示そう。最も完全な金属体は、溶融に先立って、定まった赤熱の仕方で火を受け入れることが見いだされる。したがって、完全な変成を見いだそうとするなら、処置した金属体を、それらと同じ溶融状態へ導かなければならない。すなわち、完全な金属体は、溶ける前に、美しい空色の炎を伴って赤熱する。その赤熱は、目で見ることのできないほどの火の白さへ達するより前に起こる。ゆえに、その完全な赤熱は溶融に先立って、強い赤さをもって完成し、目に耐えない白さをもって完成するのではない。処置した金属体が赤熱する前に溶けるなら、完成していない。また、労苦と強い火の圧力を要して赤熱する場合も、処置は真正ではない。これは軟らかい金属体についてである。同じことは、鉄だけについても認められる。赤熱しにくいものは、調製によって容易に赤熱を受け入れるわけではなく、溶けにくいものも、自然に完全な金属体に見いだされる正しい溶融を容易に受け入れるわけではない。
また、処置したものが赤熱とともに美しい空色の炎を示さなければ、その処置は完成していない。工夫によって得た調製物の良い特性、すなわち重さ、色、美しさ、赤熱性などが少しでも減るなら、術者の探究は十分ではなかったのである。ゆえに、神の善意によって授けられた方法により見いだすまで、改めて探究せよ。
第93章 溶融について。
溶融について、すべての金属体をその確かな赤熱に照らして試験するものとして、十分に述べよう。完全な溶融はただ一つで、赤熱を伴う。しかし、どんな赤熱でもよいのではない。金属体が完全に白熱する赤熱でもなく、火に暗さを生じさせる赤熱でもなく、赤熱の直後にただちに溶けて流れるほど液化するものでもない。したがって、弱い火のごくわずかな圧力だけで、あるいは赤熱せず、または暗い赤熱をもって溶けるなら、その調製物は、不十分な技法による不完全な金属体の一つでなければならない。また、溶融後に冷えるままにして、その赤熱がただちに黒さへ変わり、固まる前に赤熱を失うなら、どの種類の金属体であっても完成していない。これは、不完全な金属体の類のうち、軟らかいものに属すると判断すべきである。
一方、強烈で激しい火を労苦して加えることによって、溶融前の赤熱が起こり、測り知れない輝きの光線によって完全に白くなるなら、その金属体は完成したものではなく、硬いものへ変成したのである。したがって、溶融後に火から取り出して、明るい赤熱が残るのに、流れないほどただちに硬くなるなら、処置した金属体の種類や調製が何であっても、銀や金の完全さを備えたものではなく、鉄に特有の性質に属するとすべきである。以上から、溶融しうる物は、その実体が液化する前に、三種の赤熱を示すことが経験によって分かる。一つは暗いもの、次は赤く明るいもの、第三は最も白く、光線を発して輝くものである。第一は軟らかい金属体、第二は完全な金属体、第三は硬い金属体のものだと、理性と経験によって証明される。
これらすべての赤熱の程度を究めたい者は、溶融しうるすべての金属体を溶かし、溶融を完全に達成するのに必要な火の強さを考察し、その観察から、溶融の程度を示すすべての徴候の相違をまとめよ。こうすれば見いだせるが、ほかの方法では見いだせない。これは、私たちが定めた、また今後定める、すべての試験方法についての手本とせよ。溶融については、以上で十分である。
第94章 金属体を刺激性物質の蒸気にさらすことについて。
説明を完結するため、金属体を刺激性物質の蒸気にさらすことを述べよう。完全な金属体を、辛辣なもの、渋いもの、酢性のものといった刺激性物質の蒸気にさらすと、同様に、まったく花を生じないか、非常に美しい空色の花を生じることが観察される。最も純粋な金は花を生じないが、銀や純粋でない金は、刺激性物質の蒸気にさらすと、非常に美しい空色の花を生じ、金のほうが銀より美しいことが分かった。したがって、自然を模倣して、私たちも同様に、調製した金属体に空色を生じさせよう。それは水銀の良さによって達成されることを、前の説明ですでに十分述べた。ゆえに、調製した金属体が刺激性物質の蒸気にさらされても、美しい空色を生じなければ、調製は全面的には完成していない。
注 flos/florere の「花」は金属表面に生じる着色物・析出物を指す当時の表現であり、その化学種は断定しない。
金属体の中には、渋い物による試験で、表面に暗赤色、または緑を帯びた暗黄色の花を生じるものがあり、鉄がこの類である。暗緑色に濁った空色が混じる花を表面に生じるものもあり、銅がこの類である。暗い白色を生じるものは鉛、明るい白色を生じるものは錫である。最も完全な金属体は、ごくわずかしか花を生じないか、まったく生じず、生じる場合も、非常に長い時間を要する。一方、錫は、完全さを欠く金属体のうち、樹脂状物の花を生じるのが最も遅い。このため、この秘術の試験によって、錫は上位の仕事において完成に最も近いと判断する。この章で述べた事柄の順序を正しく考察すれば、この試験によって、処理した金属体がどの混和性状に属するかを究められる。そうでなければ、自分の軽率な愚かさを責めよ。
第95章 赤熱物の急冷について。
急冷試験について、十分に述べよう。この試験には多くの経験的な方法があり、秘術が完成に達しているかどうかを知ることができる。まず、赤熱した金属体を液中で急冷して、銀化したものが白くならず、金化したものが輝く黄色にならず、別の色に変わるなら、秘術による変成は完成していない。たとえば、いずれかの塩類や明礬類を処置して作った水の中で、赤熱と急冷を繰り返し、その表面に黒さに近い滓が現れる場合である。あるいは硫黄中で急冷し、その後何度も赤熱を繰り返すと消失する場合、醜い黒さで汚れる場合、または槌で打つとすっかり砕ける場合も、その技法は偽りである。
注 199頁14行は巻末正誤表に従い pretenderit とした。
あるいは、塩化アンモニウム、緑青、子供の尿の混合物、または同じ本性をもつものによるセメント処理の後、赤熱させ、続いて急冷し、同様に展延させたとき、銀化したものや金化したものが、本来の色を完全に失うか、滓を生じるなら、その金属体はまだ、見せかけによる不完全さにとどまっている。ただし、確実な一般則を一つ伝えよう。すでに述べた試験でも、これから述べる試験でも、変成した金属体が、重さや色など、完成の特性の何かを変えてしまうなら、術者は操作を正しくではなく、空想的に探究したのである。それは利益をもたらす仕事ではなく、むしろ破滅をもたらす仕事である。
注 199頁22行は巻末正誤表に従い similiter とした。
第96章 焼損させる硫黄の混合について。
硫黄との混合からも同じく、秘術が完成しているかどうかを確かめられる。私たちの経験では、金属体に混ぜた硫黄は、あるものを強く、あるものを弱く焼損させる。また、私たちの技法によって、その焼損から戻るものと、戻らないものとが見いだされる。これによって、見せかけの完成へ調製された、不完全な金属体同士の相違を認めることができる。あらゆる種類の金属体の中で、硫黄による焼損が最も少ないのは金である。その次が錫、次が銀、その後が鉛であり、銅はこれらすべてより容易に焼損する。鉄は硫黄の油性によって最も容易に焼損する。このことから、どれが完全なものの本性により近く、どれが遠いかが分かる。
また、金属体を焼損させた後の色の違いから、変成した金属体が、その本性の根においてどの種類に属するかを究められる。金は濃い黄色または明るい赤、銀は空色を混じえた黒、錫はわずかな赤い染まりを帯びた黒、鉛は多くの赤みと青黒さを混じえた暗い黒を示す。銅は、硫黄による燃焼が多く先行していれば青黒さを帯びた黒を、燃焼が少しだけなら、硫黄との混合によって、非常に光沢のある美しい紫色を示す。鉄は、どのような燃焼でも、きわめて黒い暗色を生じる。
硫黄による焼損から還元する際にも、金属体の相違が認められる。あるものは戻り、あるものは火の圧力によって、硫黄とともに還元から逃れ、全体またはその大部分が失われる。また、焼損から金属体へ戻るとき、本来の本性の金属体へ戻るものと、本来とは異なるものへ戻るものがある。金と銀は硫黄による焼損から本来の金属体の本性へ戻るが、錫と鉛は逃れる。錫は全部または大部分が逃れる。鉛は全部ではなく、ときには多く、ときには少なく失われる。この相違は、物と金属体の本性、さらに調製操作における処置の相違によって生じる。すなわち、急に火の圧力を加えると、錫は還元から失われるが、連続的に少しずつ加えると、鉛も錫も保たれる。しかし、その還元は、本来の金属体より、異なる金属体の本性へ向かう。私たちの経験では、錫の還元は明るいアンチモンへ、鉛の還元は暗いアンチモンへ変わることが見いだされた。
注 antimonium は原刊の物質同定として訳した。現代化学上の元素変換を確認した記述ではない。
還元の火の作用において銅は減少し、鉄はさらに多く減少する。しかし銅の還元物は重く、暗黄色で、軟らかく、黒さを帯び、その金属体の重さは増している。以上によって、変成されたすべての金属体の本性を究めることができる。
第97章 焼成と還元について。
続いて、焼成と還元を繰り返す試験を探究しなければならない。完全な金属体は、焼成と還元をいかに幾度も反復しても、その良い特性のうち、色、重さ、量、輝きについて、大きく気にかけるべき損失を何も被らないことが見いだされる。したがって、変成されたあらゆる種類の金属のうち、焼成と灰からの還元の諸方法を繰り返すことで、その良い特性を何か失うなら、術者は見せかけの探究を行ったと判断すべきである。ゆえに、それらを知るために、それらに習熟せよ。
第98章 水銀を容易に受け入れることについて。
完全な金属体は非常に多量の水銀を含み、そのため水銀ときわめてよく親和することが、すでに真実として明らかになった。したがって、より親和的に水銀を吸収する金属体ほど、完成に近いと考えるべきである。その徴候は、完全な金または銀の金属体が、水銀を容易に受け入れることである。この理由により、変成した金属体が、その実体の中へ水銀を容易に受け入れないなら、完全な完成からは大きく隔たっているに違いない。
第99章 術全体の要約。
所期の説明に必要な範囲で、この秘術の原因を十分に示す既知の経験を論じたので、残るのは、一章で神的な仕事全体の完成へ到達し、各章に分散した秘術を、簡潔な説明にまとめることである。操作全体の目的は、結局、諸章ですでに知られた石を取ることにほかならない。次に不断の努力をもって、その石に第一段階の昇華を絶えず施す。これによって腐敗をもたらす不純さから清められる。昇華の完成とは、それによって石を微細にし、微細さの究極の純粋さへ至らせ、最後に揮発性とすることである。その後、固定の諸方法によって、激しい火の中でもとどまるまで固定する。ここが調製の第二段階の到達点である。同じく第三段階でも石を処置し、調製の究極の完成へ至らせる。すなわち、すでに固定した石を昇華の諸方法で揮発性にし、揮発性のものを固定し、固定したものを溶解し、溶解したものを再び揮発性にし、また揮発性のものを固定する。石が流動し、確かな金または銀の完成へ変成させるまで続ける。
したがって、薬にこの第三段階の調製を繰り返すと、良い変成作用が増大する。石にその各段階の操作を繰り返す仕方が異なるため、変成作用の良さの増大にも相違が生じる。ある薬は自重の百倍、別の薬は二百倍、三百倍、千倍、さらに別の薬は無限の量の金属体を、完全な金および真正な銀へ変成する。その後、最後に、その秘術が完成しているかどうかを試せ。
第100章 著者が術を伝える際に守った方法について。
妬む者から非難されないように述べておく。私たちは、この学知を連続した説明として伝えず、別々の章へ散りばめた。連続して伝えていたなら、善人も悪人も、それを不相応に我が物としてしまっただろうからである。同じく、いっそう明白に語ったところでこそ、それを隠した。しかし謎の形ではなく、平明な言葉の連なりによって術者に語りかけた。そして、いと高く、祝福され、高邁で栄光ある神だけと、これを書いた私たちの精神だけが、あるいは、望む者に授け、また取り去る神の恵みの善に満たされた者の精神が、まとめ直すことのできる言い方で記したのである。
ゆえに、学びの子は絶望してはならない。求めるなら見いだすからである。ただし、教えを追うことによってではなく、自ら動いて自然を探究することによってである。自らの手腕の良さによって求める者は、学知を見いだす。一方、書物を追い求めることによって探す者が、この最も貴重な術に至るのは、きわめて遅い。私たちは、自分たちだけで探究した術を、他人のためではなく、自分たちだけのために公にしたのである。それでも、それは最も真実で、まったく確実である。したがって、思慮ある者だけを術へ誘い、私たちの伝えた工夫によって、探究の道を示した。発見済みの術そのものを記したのは、自分たちだけのためであったが、発見の方法と、その方法に属する工夫も記した。ゆえに、良識ある術者は、私たちの伝えたことによって鍛錬せよ。そうすれば、いと高き神の賜物を見いだしたことを喜ぶだろう。この高貴な術の探究については、以上で十分としよう。
ゲベル『完全性大全』第二巻、終わり。
図版と出典
円筒形の炉、側面の通気孔と開口、穴のあいた蓋、および二つの容器を示す1541年刊本の木版図(本文の図版) / 対応する訳文
二重の縁を持つガラスの鉢状容器と、その横に置かれた先細りの蓋の1541年木版図(本文の図版) / 対応する訳文
高い昇華容器を据えた炉と、取り外した容器・底・細い検査棒を示す1541年の木版図(本文の図版) / 対応する訳文
上部で加熱する炉、円錐形の下降器、その内部の支持棒、平らな蓋を示す1541年の木版図(本文の図版) / 対応する訳文
炉内の蒸留器、別置きのアランビックとククルビタ、および濾布から受器へ滴下させる石鉢を示す1541年刊本の木版図(本文の図版) / 対応する訳文
開放された上部と下方の焚口をもつ角形炉、二つの鉢、孔を開けた板を示す1541年刊本の木版図(本文の図版) / 対応する訳文
細長い瓶を湯浴の炉に据え、別の瓶を抱えた人物を示す1541年刊本の木版図(本文の図版) / 対応する訳文
長い円錐形の二容器と、球状の胴および細長い首をもつ瓶を示す1541年刊本の木版図(本文の図版) / 対応する訳文
長い円錐形容器と分離された底部を扱う人物、およびそれを見守る人物を示す1541年刊本の木版図(本文の図版) / 対応する訳文