仏典 / パーリ仏典スッタニパータSutta Nipāta / Suttanipātapāḷi

森の樹の下で静かに坐る修行者を描いた、スッタニパータの独自装画

仏典 / パーリ仏典

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原著・底本

原題
Sutta Nipāta / Suttanipātapāḷi
著者
パーリ仏典
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収録範囲
本編五章七十経と散文・結び・まとめの詩を収録。巻末のまとめ二十一偈のうち五偈には、解釈が定まらない未訳語句を明示して残している。底本の省略と解釈上の留保は本文と注に示す。

日本語訳

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表紙

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本書のために制作した独自装画。原刊の装丁とは異なります。

追加日: 2026-02-06 / 更新日: 2026-10-09

本編五章七十経と散文・結び・まとめの詩を収録。巻末のまとめ二十一偈のうち五偈には、解釈が定まらない未訳語句を明示して残している。底本の省略と解釈上の留保は本文と注に示す。旧訳で付けた栞・マークや読書位置は、新訳では位置がずれる場合がある。

かの世尊、供養を受けるにふさわしい方、完全に目覚めた方に、礼拝いたします。

小部経典より

スッタニパータ

第一章 蛇

第一経 蛇

体に広がる蛇の毒を薬で鎮めるように、
湧き上がった怒りを鎮める人。
その修行者は、こちらの岸も向こうの岸も手放す。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。

訳注

『こちらの岸も向こうの岸も』は、この世と次の生をはじめ、対になった生存のあり方への執着を離れる表現と解される。ここでは岸のたとえを残した。『修行者』の原語は比丘(bhikkhu)で、出家して修行する人を指す。

池に入って蓮の花を摘み取るように、
燃える欲を残らず断った人。
その修行者は、こちらの岸も向こうの岸も手放す。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。

勢いよく流れる川を干上がらせるように、
渇くような欲求を残らず断った人。
その修行者は、こちらの岸も向こうの岸も手放す。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。

大きな流れが、弱い葦の橋を押し流すように、
自分を高く見るおごりを、すっかり取り去った人。
その修行者は、こちらの岸も向こうの岸も手放す。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。

ウドゥンバラの木に花を探すように調べても、
さまざまな生存の中に、確かな芯を見いださなかった人。
その修行者は、こちらの岸も向こうの岸も手放す。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。

訳注

ウドゥンバラはイチジクの仲間で、花が外から見えにくい木。ここでは見つからない花のたとえとして用いられている。

心の内に怒りがなく、
あのように、またこのように生まれることを超えた人。
その修行者は、こちらの岸も向こうの岸も手放す。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。

訳注

bhavābhava は、さまざまな生存や、生存と非生存を表す語と解される。ここでは生まれ変わりのさまざまなあり方を超える意味に取った。

心の中で作り上げた、あらゆる思いを、
残らず払い去った人。
その修行者は、こちらの岸も向こうの岸も手放す。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。

先へ行き過ぎることも、後ろへ退き過ぎることもなく、
思いが果てしなく広がるこの働きを、すべて超えた人。
その修行者は、こちらの岸も向こうの岸も手放す。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。

訳注

papañca は、考えが広がり、自分や世界についてさまざまな区別や執着を作り出す働きを指すと解される。

この世のすべては、思い描く通りの確かなものではないと知り、
先へ行き過ぎることも、後ろへ退き過ぎることもない人。
その修行者は、こちらの岸も向こうの岸も手放す。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。

このすべては確かなものではないと知って、むさぼりを離れ、
先へ行き過ぎることも、後ろへ退き過ぎることもない人。
その修行者は、こちらの岸も向こうの岸も手放す。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。

このすべては確かなものではないと知って、燃える欲を離れ、
先へ行き過ぎることも、後ろへ退き過ぎることもない人。
その修行者は、こちらの岸も向こうの岸も手放す。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。

このすべては確かなものではないと知って、憎しみを離れ、
先へ行き過ぎることも、後ろへ退き過ぎることもない人。
その修行者は、こちらの岸も向こうの岸も手放す。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。

このすべては確かなものではないと知って、迷いを離れ、
先へ行き過ぎることも、後ろへ退き過ぎることもない人。
その修行者は、こちらの岸も向こうの岸も手放す。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。

心に潜む執着の傾向が一つもなく、
よくない行いの根を引き抜いた人。
その修行者は、こちらの岸も向こうの岸も手放す。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。

苦悩から生まれ、こちらの生へ戻る条件となるものが、
もう何もない人。
その修行者は、こちらの岸も向こうの岸も手放す。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。

欲の茂みから生まれ、生存へ縛りつける原因となるものが、
もう何もない人。
その修行者は、こちらの岸も向こうの岸も手放す。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。

五つの妨げを捨て、苦しみがなく、
疑いを渡り越え、心の矢を抜いた人。
その修行者は、こちらの岸も向こうの岸も手放す。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。

訳注

五つの妨げは、感覚的な欲、悪意、沈み込みと眠気、落ち着きのなさと後悔、疑いを指す。

第一経「蛇」終わり。

第二経 ダニヤ

牛飼いのダニヤが言った。
「飯は炊けた。牛の乳も搾った。
マヒー川の岸辺で、家族と暮らしている。
小屋には屋根があり、火もおこしてある。
さあ、天よ。降りたいなら、降るがいい。」

世尊が言った。
「私には怒りがなく、心のこわばりも消えている。
マヒー川の岸辺で、一夜を過ごしている。
小屋の覆いは取り去られ、火は消えている。
さあ、天よ。降りたいなら、降るがいい。」

訳注

ダニヤの生活の備えに対し、世尊は執着を離れた心の備えを語る。『飯は炊けた』と『怒りがない』など、パーリ語では音の響きも対応している。

牛飼いのダニヤが言った。
「ここには虻も蚊もいない。
牛たちは、草の茂る湿地で草を食べている。
雨が来ても、耐えられるだろう。
さあ、天よ。降りたいなら、降るがいい。」

世尊が言った。
「いかだは、しっかりと結び上げた。
激しい流れを越え、向こう岸に渡り終えた。
もう、いかだを必要とはしない。
さあ、天よ。降りたいなら、降るがいい。」

牛飼いのダニヤが言った。
「妻は素直で、浮ついたところがない。
長く連れ添ってきた、愛しい人だ。
妻について、悪い評判を聞いたこともない。
さあ、天よ。降りたいなら、降るがいい。」

世尊が言った。
「私の心は素直で、解き放たれている。
長く育て、よく調えてきた。
私の中に、悪いものはない。
さあ、天よ。降りたいなら、降るがいい。」

牛飼いのダニヤが言った。
「私は自分で稼いで暮らしている。
子どもたちも一緒にいて、みな健やかだ。
子どもたちについて、悪い評判は聞かない。
さあ、天よ。降りたいなら、降るがいい。」

世尊が言った。
「私は誰にも雇われていない。
得るべき報いをすでに得て、世界を歩いていく。
賃金を求める必要はない。
さあ、天よ。降りたいなら、降るがいい。」

牛飼いのダニヤが言った。
「まだ調教していない成牛も、乳を飲む子牛もいる。
子をはらむ牛も、雄牛を求める雌牛もいる。
ここには、群れを率いる雄牛もいる。
さあ、天よ。降りたいなら、降るがいい。」

訳注

vasā は注釈に従い、まだ調教されていない成長した牛と解した。不妊の雌牛とする辞書の説明もある。paveṇiyo は、成熟して雄牛を求める雌牛。

世尊が言った。
「私にはまだ調教していない成牛も、乳を飲む子牛もいない。
子をはらむ牛も、雄牛を求める雌牛もいない。
群れを率いる雄牛も、ここにはいない。
さあ、天よ。降りたいなら、降るがいい。」

牛飼いのダニヤが言った。
「杭は深く打ち込み、びくともしない。
ムンジャ草の綱は新しく、しっかりと作ってある。
子牛にも、きっと切れはしない。
さあ、天よ。降りたいなら、降るがいい。」

世尊が言った。
「雄牛のように、つなぎ綱を断ち切った。
象が腐ったつるを裂くように、縛りを破った。
私は、もう母胎に宿ることはない。
さあ、天よ。降りたいなら、降るがいい。」

そのとき、大きな雲が雨を降らせ、
低い土地も高い土地も水で満たした。
雨の降る音を聞いて、
ダニヤはこう語った。

「世尊にお会いできたことは、
私たちにとって、なんと大きな幸いでしょう。
ものを見る眼を備えた方よ、あなたをよりどころといたします。
偉大な聖者よ、どうか私たちの師になってください。

妻も私も、教えに従います。
善く歩まれた方のもとで、清らかな修行の生活を送ります。
生と死の向こうへ渡り、
苦しみを終わらせる者となりましょう。」

悪しきマーラが言った。
「子を持つ人は子によって喜び、
牛を持つ人も牛によって喜ぶ。
手に入れて抱えるものこそ、人の喜びだ。
何も抱えていない人は、喜びもしない。」

訳注

マーラは、修行と解脱を妨げる存在。upadhi は、持ち物だけでなく、執着のよりどころとなるものを広く指す。

世尊が言った。
「子を持つ人は子によって悲しみ、
牛を持つ人も牛によって悲しむ。
手に入れて抱えるものこそ、人の悲しみだ。
何も抱えていない人は、悲しまない。」

第二経「ダニヤ」終わり。

第三経 犀の角

すべての生きものに対して、振り上げた杖を下ろし、
そのどれ一つをも傷つけず、
子をさえ望むな。まして連れを望むな。
犀の角のように、ひとりで歩め。

訳注

この経は、出家者が執着を離れて歩むあり方を説く。khaggavisāṇa は字面では『犀の角』で、独り歩く犀そのものを指すとする解釈もある。訳では角のたとえを残した。

交わりから愛着が生まれ、
愛着に伴って、この苦しみが起こる。
愛着から生じる危うさを見つめ、
犀の角のように、ひとりで歩め。

友や親しい人々を気づかううちに、
心を縛られ、自分の目指すものを失ってしまう。
親しい交わりの中に、この危うさを見て、
犀の角のように、ひとりで歩め。

子や妻への心のつながりは、
大きく伸びた竹が、互いに絡み合うようなもの。
若い竹の芽のように、絡まらず、
犀の角のように、ひとりで歩め。

訳注

絡まらないという訳は、別の伝本と古い注釈にある asajjamāno の読み方に沿う。本文の sajjamāno と区切り方の違いがある。

森にいる縛られていない鹿が、
餌を求めて、行きたいところへ行くように、
ものの分かる人は自由な生き方を見つめ、
犀の角のように、ひとりで歩め。

仲間の中にいると、声がかかる。
住むときも、立つときも、出かけるときも、旅するときも。
欲深い人が求めない、自由な生き方を見つめ、
犀の角のように、ひとりで歩め。

訳注

anabhijjhita は、望まれないという受動の語。注釈は、欲にとらわれた人が、出家の自由を望まないことと説明する。

仲間の中には遊びや楽しみがあり、
子どもたちには大きな愛情が湧く。
愛しい者との別れの苦しみを避けようとするなら、
犀の角のように、ひとりで歩め。

どの方角にも開かれ、敵意を持たず、
得られたものが何であれ満足し、
困難に耐えて、ひるむことなく、
犀の角のように、ひとりで歩め。

出家した人にも、世話をするのが難しい者がいる。
家で暮らす人々も、やはりそうだ。
他人の子にまで心を煩わせず、
犀の角のように、ひとりで歩め。

在家の暮らしを示す飾りを下ろし、
葉を落としたコーヴィラーラの木のようになれ。
勇ましく、家の暮らしへの縛りを断ち、
犀の角のように、ひとりで歩め。

共に歩める、思慮深い仲間、
よく生きる賢い人を見つけたなら、
あらゆる困難を乗り越えて、
喜び、気づきを保ちながら、その人と歩め。

共に歩める、思慮深い仲間、
よく生きる賢い人を見つけられないなら、
征服した国を捨てる王のように、
森の大象のように、ひとりで歩め。

よい仲間に恵まれることを、私たちは確かにたたえる。
自分より優れた人、同じほどの人と交わるがよい。
そういう人が見つからなければ、非難されない暮らしで食を得て、
犀の角のように、ひとりで歩め。

金細工師が見事に仕上げた、
輝く二つの腕輪が、
同じ腕の上でぶつかり合うのを見て、
犀の角のように、ひとりで歩め。

「誰かと二人でいれば、私にもこのように、
おしゃべりや、いさかいが起こるだろう。」
先にあるこの危うさを見て、
犀の角のように、ひとりで歩め。

感覚の楽しみは、色とりどりで、甘く、心をひく。
さまざまな姿を取って、心をかき乱す。
その楽しみの中に危うさを見いだし、
犀の角のように、ひとりで歩め。

「これは私にとって、災いであり、腫れ物であり、難儀であり、
病であり、刺さる矢であり、恐れなのだ。」
感覚の楽しみの中に、この危うさを見て、
犀の角のように、ひとりで歩め。

寒さと暑さ、飢えと渇き、
風と日差し、虻や、這う生きもの。
これらすべてを耐えしのび、
犀の角のように、ひとりで歩め。

蓮のような体を持つ、よく育った気高い象が、
群れを離れ、森で心のままに暮らすように、
犀の角のように、ひとりで歩め。

訳注

padumī は、注釈では蓮のような体を持つ象、またはパドゥマという象の系統と説明される。斑のある象とする辞書の説明もある。

群れ集うことを楽しむ人が、
一時の解き放たれた境地に触れることさえ、かなわない。
太陽の一族の方の、その言葉を心に留め、
犀の角のように、ひとりで歩め。

訳注

『太陽の一族の方』はブッダの呼び名。『一時の解き放たれた境地』は sāmayika vimutti の訳。

ゆがんだ見解をすっかり超え、
確かなあり方に達し、進む道を得て、
「私には知が生まれた。もう他人任せではない」と、
犀の角のように、ひとりで歩め。

むさぼらず、欺かず、渇望せず、
人のよさをおとしめず、心の汚れと迷いを払い、
世界のどこにも期待をつながず、
犀の角のように、ひとりで歩め。

悪い仲間を避けよ。
害になることを勧め、曲がった道に住む者を。
執着し、気を緩めている者とは自ら交わらず、
犀の角のように、ひとりで歩め。

よく学び、教えを保つ友、
心が大きく、理解と応答の力を持つ友に親しめ。
意味をよく理解し、疑いを取り除いて、
犀の角のように、ひとりで歩め。

この世の遊び、楽しみ、感覚の喜びを、満足のよりどころとはせず、
それらを当てにすることなく、
身を飾る営みを離れ、真実を語り、
犀の角のように、ひとりで歩め。

子と妻、父と母、
財産と穀物、親族を置いて、
それぞれの感覚の楽しみを捨て、
犀の角のように、ひとりで歩め。

「これは縛りだ。ここでの幸せはわずかで、
味わえる喜びは少なく、苦しみのほうが多い。
これは釣り針なのだ」と、よく理解して、
犀の角のように、ひとりで歩め。

水の中を行く魚が網を破るように、
自分を縛るものを引き裂け。
火が焼き尽くした場所へ戻らないように、後戻りせず、
犀の角のように、ひとりで歩め。

目を伏せ、むやみに歩き回らず、
感覚を守り、心を守り、
欲に流されず、心を焼かれることなく、
犀の角のように、ひとりで歩め。

在家の暮らしを示す飾りを下ろし、
葉に覆われたパーリチャッタの木のように、
染めた修行衣をまとって家を出て、
犀の角のように、ひとりで歩め。

訳注

底本の sañchannapatto は『葉に覆われた』と読んだ。この句を、葉の落ちた木のたとえと取る訳もある。修行衣の kāsāya は褐色系に染めた衣を指す。

味をむさぼらず、そわそわせず、
他人を養うために托鉢することなく、家々を順に回り、
どの家にも心を縛られず、
犀の角のように、ひとりで歩め。

心を覆う五つの妨げを捨て、
心を汚すものを、すべて払い去り、
何にも依存せず、愛着の害を断ち、
犀の角のように、ひとりで歩め。

喜びと憂いをすでに離れ、
さらに身体の快さも苦しさも背に置き、
清らかで静かな、偏りのない心を得て、
犀の角のように、ひとりで歩め。

最高の目的に達しようと力を奮い起こし、
心を沈ませず、怠けずに暮らし、
固い決意と、持ちこたえる力を備えて、
犀の角のように、ひとりで歩め。

ひとり静かに身を引き、瞑想を手放さず、
いつも教えに即して歩み、
さまざまな生存の危うさを十分に見きわめて、
犀の角のように、ひとりで歩め。

渇くような欲求の尽きることを願い、気を緩めず、
理解する力を持ち、よく学び、気づきを保ち、
物事を確かめ、道を定め、力を尽くして、
犀の角のように、ひとりで歩め。

物音におびえない獅子のように、
網に絡まらない風のように、
水に汚されない蓮のように、
犀の角のように、ひとりで歩め。

強い牙を持つ獅子が、
獣たちの王として、何にも屈せず歩くように、
人里を離れた住まいに親しみ、
犀の角のように、ひとりで歩め。

慈しみ、偏りのない心、あわれみ、
人の喜びを共に喜ぶ心による解放を、その折々に育て、
世界の何ものとも争わず、
犀の角のように、ひとりで歩め。

燃える欲と憎しみと迷いを捨て、
自分を縛るものを引き裂き、
命が尽きるときにも、おびえることなく、
犀の角のように、ひとりで歩め。

人は、利を求めて近づき、付き合う。
見返りを求めない友は、今ではめったにいない。
自分の得のことばかり考え、人々の心は汚れている。
犀の角のように、ひとりで歩め。

第三経「犀の角」終わり。

第四経 田を耕すバーラドヴァージャ

私はこのように聞いた。あるとき世尊は、マガダ国の南の山地、エーカナーラーというバラモンの村に滞在していた。ちょうど種まきの時期で、田を耕すバラモン、バーラドヴァージャは、およそ五百の犂に牛をつないで働かせていた。その朝、世尊は衣を整え、鉢と上衣を持って、バーラドヴァージャの仕事場へ向かった。そこでは食事が配られていた。世尊はその場所へ近づき、少し離れたところに立った。

バーラドヴァージャは、食べ物を乞うために立っている世尊を見て、こう言った。「修行者よ、私は耕し、種をまく。耕して種をまいたうえで食べている。あなたも耕し、種をまいたらどうだ。そうしてから食べるがよい。」

世尊は言った。「バラモンよ、私も耕し、種をまく。耕して種をまいたうえで食べている。」バーラドヴァージャは答えた。「だが、ゴータマ殿のくびきも、犂も、犂の刃も、追い棒も、耕す牛も、私たちには見えない。それなのに、あなたは『私も耕し、種をまき、そうしてから食べる』と言われるのか。」

そこで、田を耕すバラモン、バーラドヴァージャは、世尊に詩の形で問いかけた。

「あなたは耕す者だと名乗るが、
私たちには、その農作業が見えない。
尋ねられた今、どう耕すのか語ってほしい。
あなたの耕し方が、私たちにも分かるように。」

「信頼が種で、修練が雨だ。
知恵が、私のくびきと犂。
恥を知る心が犂の柄で、心が結び綱。
気づきが、私の犂の刃と追い棒だ。

身の行いと言葉を守り、
食べることにも、腹を満たすことにも節度を持つ。
真実によって草を取り、
穏やかな自制を、くびきを外す休息とする。

努力は、私のくびきを引く牛。
縛りを離れた安らぎへと運んでくれる。
後戻りせずに進んでいく、
たどり着けば、もう悲しまない場所へ。

私はこのように田を耕す。
そこには、死を超える実がなる。
この耕し方で耕せば、
すべての苦しみから解き放たれる。」

するとバーラドヴァージャは、大きな青銅の鉢に乳粥を盛り、世尊に差し出した。「どうか召し上がってください、ゴータマ殿。あなたは耕す方です。死を超える実のなる田を耕しておられるのですから。」

「詩を語った報酬として得たものを、私は食べるべきではない。
バラモンよ、それは、真に見きわめる者たちの道ではない。
目覚めた人々は、詩の報酬としての食べ物を退ける。
バラモンよ、教えがあるかぎり、これが、その生き方なのだ。

だが、すべてをまっとうした偉大な仙人、
心の汚れを尽くし、悔いや落ち着かなさを静めた人には、
別の食べ物や飲み物をもって仕えるがよい。
その人こそ、功徳を望む者にとって、実りをもたらす田だからだ。」

バーラドヴァージャは尋ねた。「では、ゴータマ殿、この乳粥は誰に与えればよいのでしょう。」世尊は答えた。「バラモンよ、神々、マーラ、梵天を含む世界で、修行者やバラモン、神々や人間を含む者たちの中に、如来か如来の弟子のほか、この乳粥を食べて十分に消化できる者を、私は見ない。だから、草木の少ない場所へ捨てるか、生きもののいない水の中へ沈めなさい。」

訳注

如来はブッダの呼び名。このあとの乳粥の描写は、経典が伝える奇瑞の物語として訳している。

バーラドヴァージャは、その乳粥を生きもののいない水の中へ沈めた。すると乳粥は、水に入ると、じゅうじゅう、ぱちぱちと音を立て、煙を盛んに上げた。一日中熱した犂の刃を水に入れると、じゅうじゅう、ぱちぱちと音を立て、煙を盛んに上げるように、その乳粥も、水に入ると、じゅうじゅう、ぱちぱちと音を立て、煙を盛んに上げた。

バーラドヴァージャは、畏れに震え、身の毛がよだつ思いで世尊のもとへ近づいた。そして足元に頭を伏せ、こう言った。「すばらしいことです、ゴータマ殿。すばらしいことです。伏せたものを起こし、覆われたものを開き、道に迷った者に道を示し、眼のある者が姿を見られるよう暗闇に油の灯を掲げるように、ゴータマ殿は、さまざまな仕方で教えを明らかにしてくださいました。私はゴータマ殿と、その教えと、修行者の集いをよりどころとします。あなたのもとで家を離れ、正式に出家者となることを、お許しいただきたいのです。」

田を耕していたバラモン、バーラドヴァージャは、世尊のもとで家を離れ、正式な出家者となった。出家して間もない尊者バーラドヴァージャは、ひとり静かに身を引き、気を緩めず、熱意を持ち、心を定めて暮らした。やがて、良家の子らが正しく家を捨て、家なき暮らしへ出る、その目的である清らかな修行生活の最高の到達点を、この生のうちに自ら知り、実現して、そこに安住した。「生まれることは尽きた。清らかな修行生活を生き抜いた。なすべきことは成し遂げた。もはや、このような生存を繰り返すことはない」と知ったのである。こうして尊者バーラドヴァージャも、阿羅漢の一人となった。

訳注

阿羅漢は、心を汚すものを尽くし、修行の完成に達した人を指す。

第四経「田を耕すバーラドヴァージャ」終わり。

第五経 チュンダ

鍛冶職人のチュンダが言った。
「豊かな知恵を持つ聖者、目覚めた方、
教えの主、渇望を離れた方に、お尋ねします。
人々の中で最高の方、導き手の中で最も優れた方よ、
この世には、どれほどの種類の修行者がいるのですか。どうか教えてください。」

世尊はチュンダに言った。
「修行者には四種類あり、第五の種類はない。
直に問われたので、明らかにしよう。
道をきわめた者、道を示す者、
道に生きる者、そして道を汚す者だ。」

鍛冶職人のチュンダが言った。
「目覚めた方々は、どんな人を道をきわめた者と呼ぶのですか。
道を説く人は、どのように比べるもののない人となるのですか。
道に生きる人とは何か、どうか教えてください。
そして、道を汚す人のことも明らかにしてください。」

「疑いを渡り越え、心の矢を抜き、
涅槃を喜び、何ものにもむさぼりつかず、
神々を含む世界を導く人。
目覚めた方々は、その人を道をきわめた者と呼ぶ。

訳注

涅槃は、欲や憎しみや迷いの火が消え、苦しみを離れた境地を指す。

最高のものを、最高のものとして知り、
ここで教えを語り、分けて明らかにする人。
疑いを断ち、欲の揺れを離れたその聖者を、
第二の修行者、道を示す者と呼ぶ。

よく説かれた教えの道に従い、
身を慎み、気づきを保って、その道に生き、
とがめられるところのない歩みを続ける人を、
第三の修行者、道に生きる者と呼ぶ。

よく戒めを守る人々の姿を隠れみのにして、
その中へ入り込み、家々を堕落させ、厚かましく、
欺き、慎みもなく、中身はもみがらのような人。
見せかけだけで暮らすその人が、道を汚す者だ。

よく学び、知恵を備えた、在家の聖なる弟子が、
この違いを見抜けば、
皆が皆、あのような者ではないと分かる。
そう理解するので、その人の信頼は衰えない。
どうして、汚れた人と汚れていない人、
清らかな人と清らかでない人を、同じにしてしまうだろう。」

第五経「チュンダ」終わり。

第六経 身を滅ぼすこと

私はこのように聞いた。あるとき世尊は、サーヴァッティーのジェータ林にある、アナータピンディカの園に滞在していた。夜が更けたころ、ひとりの神が美しい輝きをまとい、ジェータ林の隅々まで照らして、世尊のもとへ近づいた。世尊に礼をして、少し離れたところに立ち、詩の形でこう問いかけた。

「ゴータマよ、身を滅ぼしていく人について、
私たちはお尋ねします。
世尊に問おうと、ここへ来ました。
何が、破滅への入口となるのでしょう。」

「栄える人は、見分けやすい。
衰える人も、見分けやすい。
教えを好む人は栄え、
教えを憎む人は衰える。」

「そのことは分かりました。
これが、第一の破滅への入口なのですね。
世尊よ、第二をお話しください。
何が、破滅への入口となるのでしょう。」

「よくない人々を親しく思い、
よい人々には心を向けず、
よくない人々の生き方を喜ぶ。
それが、破滅への入口となる。」

「そのことは分かりました。
これが、第二の破滅への入口なのですね。
世尊よ、第三をお話しください。
何が、破滅への入口となるのでしょう。」

「眠りにふけり、集まりに入り浸り、
立ち上がって働かず、
怠け者で、怒りっぽさで知られる人。
それが、破滅への入口となる。」

「そのことは分かりました。
これが、第三の破滅への入口なのですね。
世尊よ、第四をお話しください。
何が、破滅への入口となるのでしょう。」

「老い、若さを過ぎた
母や父を、
養う力があるのに養わない。
それが、破滅への入口となる。」

「そのことは分かりました。
これが、第四の破滅への入口なのですね。
世尊よ、第五をお話しください。
何が、破滅への入口となるのでしょう。」

「バラモンや修行者、
あるいは、ほかの物を乞う人を、
うその言葉で欺く。
それが、破滅への入口となる。」

「そのことは分かりました。
これが、第五の破滅への入口なのですね。
世尊よ、第六をお話しください。
何が、破滅への入口となるのでしょう。」

「財産が豊かで、
金も食べ物もある人が、
自分ひとりでおいしいものを食べる。
それが、破滅への入口となる。」

「そのことは分かりました。
これが、第六の破滅への入口なのですね。
世尊よ、第七をお話しください。
何が、破滅への入口となるのでしょう。」

「生まれを誇り、財産を誇り、
家柄を誇って、
自分の親族を見下す人。
それが、破滅への入口となる。」

「そのことは分かりました。
これが、第七の破滅への入口なのですね。
世尊よ、第八をお話しください。
何が、破滅への入口となるのでしょう。」

「女遊び、酒、
賭け事にふけって、
手に入れるそばから財産を失う人。
それが、破滅への入口となる。」

「そのことは分かりました。
これが、第八の破滅への入口なのですね。
世尊よ、第九をお話しください。
何が、破滅への入口となるのでしょう。」

「自分の妻に満足せず、
遊女のもとへ通い、
他人の妻とも過ちを犯す。
それが、破滅への入口となる。」

「そのことは分かりました。
これが、第九の破滅への入口なのですね。
世尊よ、第十をお話しください。
何が、破滅への入口となるのでしょう。」

「若さを過ぎた男が、
ティンバルの実のような胸の若い妻を迎え、
嫉妬に駆られて眠れなくなる。
それが、破滅への入口となる。」

「そのことは分かりました。
これが、第十の破滅への入口なのですね。
世尊よ、第十一をお話しください。
何が、破滅への入口となるのでしょう。」

「酒にふけり、金をまき散らす女、
あるいは同じような男に、
家の財産を取り仕切らせる。
それが、破滅への入口となる。」

「そのことは分かりました。
これが、第十一の破滅への入口なのですね。
世尊よ、第十二をお話しください。
何が、破滅への入口となるのでしょう。」

「王族の家に生まれ、
財産は乏しいのに欲望ばかり大きく、
王位を望む。
それが、破滅への入口となる。」

この世で身を滅ぼす、これらのあり方を
賢い人は、十分に見きわめる。
聖なる人、見る眼を備えた人は、
安らかな世界へと向かう。

第六経「身を滅ぼすこと」終わり。

第七経 卑しい者

訳注

vasala は身分の低い者への蔑称としても用いられた語。この経では、何が人を卑しくするのかを、生まれではなく行いから問い直している。

私はこのように聞いた。あるとき世尊は、サーヴァッティーのジェータ林にある、アナータピンディカの園に滞在していた。朝、衣を整え、鉢と上衣を持って、托鉢のためサーヴァッティーへ入った。そのころ、バラモンのアッギカ・バーラドヴァージャの家では火が燃やされ、供え物が準備されていた。世尊は町の家々を順に回り、彼の家へ近づいた。

アッギカ・バーラドヴァージャは、世尊が遠くからやって来るのを見て言った。「そこで止まれ、丸坊主。そこで止まれ、修行者め。卑しいやつめ、そこに立っていろ。」

そう言われると、世尊はバラモンに尋ねた。「あなたは、卑しい者とは誰か、人を卑しくする行いとは何か、知っているか。」バラモンは答えた。「いいえ、ゴータマ殿。誰が卑しい者で、何が人を卑しくするのか、私は知りません。どうか、それが分かるように教えを説いてください。」「それなら、バラモンよ、聞きなさい。よく心に留めなさい。私は話そう。」「承知しました」と、アッギカ・バーラドヴァージャは答えた。世尊はこう語った。

「怒りっぽく、恨みを抱き、
人をひどくおとしめ、
ものの見方がゆがみ、人を欺く者。
その人をこそ、卑しい者と知れ。

訳注

pāpamakkhī は、人の価値を悪意をもっておとしめる意味に取った。自分の悪を隠す者という読みもある。

母胎から生まれるものでも、卵から生まれるものでも、
この世の生きものを傷つけ、
命へのあわれみを持たない者。
その人をこそ、卑しい者と知れ。

村々や町々を襲い、
殺し、包囲し、
人を圧迫する者として知られる者。
その人をこそ、卑しい者と知れ。

村でも森でも、
人が自分のものとして大切にしている品を、
与えられないのに、盗んで取る者。
その人をこそ、卑しい者と知れ。

借りたものを返すよう求められて、
「あなたから借りたものなどない」と言い、
逃げ去る者。
その人をこそ、卑しい者と知れ。

わずかな持ち物を欲しがり、
道を行く人を殺して、
その持ち物を奪う者。
その人をこそ、卑しい者と知れ。

自分のため、他人のため、
あるいは金のために、
証人として問われて、うそを語る者。
その人をこそ、卑しい者と知れ。

親族や友の妻と、
無理強いによってでも、
互いに望んででも、関係を持つ者。
その人をこそ、卑しい者と知れ。

老い、若さを過ぎた
母や父を、
養う力があるのに養わない者。
その人をこそ、卑しい者と知れ。

母や父、
兄弟、姉妹、妻の母を、
殴ったり、言葉で苦しめたりする者。
その人をこそ、卑しい者と知れ。

ためになることを尋ねられて、
害になることを教え、
自分の考えを隠して話す者。
その人をこそ、卑しい者と知れ。

悪い行いをして、
「人に知られたくない」と願い、
自分の行いを覆い隠す者。
その人をこそ、卑しい者と知れ。

人の家へ行き、
清らかな食事でもてなされたのに、
その人が訪ねてきても、もてなさない者。
その人をこそ、卑しい者と知れ。

バラモンや修行者、
あるいは、ほかの物を乞う人を、
うその言葉で欺く者。
その人をこそ、卑しい者と知れ。

食事のときにやって来た
バラモンや修行者を、
言葉でののしり、何も与えない者。
その人をこそ、卑しい者と知れ。

迷いに包まれ、
わずかな物を手に入れようとして、
事実でないことを言い立てる者。
その人をこそ、卑しい者と知れ。

自分を高く持ち上げ、
他人を見下し、
自分のおごりによって低くなる者。
その人をこそ、卑しい者と知れ。

人を怒らせ、けちで、悪い欲を抱き、
物を惜しみ、たくらみを持ち、
恥も、悪を恐れる心もない者。
その人をこそ、卑しい者と知れ。

目覚めた方をののしり、
また、その弟子を、
出家者であれ在家者であれ、ののしる者。
その人をこそ、卑しい者と知れ。

阿羅漢ではないのに、
『私は阿羅漢だ』と名乗る者は、
梵天を含む世界における盗人だ。
それこそ、卑しい者の中でも最も悪い者である。

私が明らかにした、これらの人々を、
卑しい者と呼ぶのだ。
生まれによって卑しい者になるのではない。
生まれによってバラモンになるのでもない。
行いによって卑しい者となり、
行いによってバラモンとなる。

この例によっても、それを知るがよい。
卑しめられたチャンダーラの家に生まれ、
犬を料理する者と呼ばれながら、
マータンガの名で知られた人がいた。

訳注

チャンダーラは、当時の身分秩序で強く差別された集団の呼び名。原文は、その出自がマータンガの精神的な到達を妨げなかったと語る。

そのマータンガは、
得ることの難しい最高の名声に達した。
多くの王族やバラモンが、
彼に仕えようと訪ねてきた。

彼は、神々へ通じる、塵のない大きな道へ上り、
感覚の楽しみへの欲を離れ、
梵天の世界へ至った。
その生まれは、梵天の世界へ生まれることを
妨げはしなかった。

一方、聖典を唱える家に生まれ、
聖句をよりどころとするバラモンたちも、
悪い行いに身を染めているところを、
たびたび見かける。

この生では責められ、
次の生では苦しい境遇へ向かう。
その生まれは、苦しい境遇からも、
非難からも、彼らを守らない。

生まれによって卑しい者になるのではない。
生まれによってバラモンになるのでもない。
行いによって卑しい者となり、
行いによってバラモンとなる。」

こう説かれると、バラモンのアッギカ・バーラドヴァージャは世尊に言った。「すばらしいことです、ゴータマ殿。……[原文中略]……どうか、私を在家の弟子としてお認めください。今日から命のあるかぎり、あなたをよりどころとします。」

第七経「卑しい者」終わり。

第八経 慈しみ

何がためになるかをよく知り、
あの静かな境地を目指す人は、こう行うがよい。
力を備え、まっすぐで、心の底から正直であり、
人の言葉をよく聞き、柔らかく、おごり高ぶらない。

足ることを知り、養いやすく、
仕事を増やさず、身軽に暮らし、
感覚が静まり、よく考え、厚かましくなく、
どの家にも、むさぼるような思いを向けない。

ものの分かる人々に責められるようなことは、
小さなことでも行わない。
すべての生きものが、幸せで、安らかであるように。
すべての生きものの心が、幸せであるように。

命あるものは、どんなものであっても、
弱いものも、強いものも、残らず、
長いもの、大きいもの、
中くらいのもの、短いもの、小さいもの、大きく太いもの、

訳注

『弱いものも強いものも』は tasā thāvarā の訳。動くものと動かないもの、恐れるものと動じないものなどと解する読みもある。

見えるものも、見えないものも、
遠くに住むものも、近くに住むものも、
すでに生まれたものも、これから生まれようとするものも、
すべての生きものの心が、幸せであるように。

互いに欺かず、
どこでも、誰をも見下さない。
怒りや、憎む思いに駆られて、
互いの苦しみを願ってはならない。

母が自分のたった一人の子を、
命をかけて守るように、
すべての生きものに対して、
限りのない心を育てるがよい。

世界のすべてに、
限りのない慈しみの心を育てるがよい。
上にも下にも横にも、
狭めず、恨まず、敵とすることなく。

立っていても、歩いていても、座っていても、横になっていても、
眠りに落ちていないかぎり、
この気づきを保ち続けるがよい。
この世では、それを気高い暮らし方と呼ぶ。

見解にしがみつかず、行いを慎み、
ものを見る眼を備えて、
感覚の楽しみへのむさぼりを取り除いた人は、
決して、再び母胎に宿ることはない。

第八経「慈しみ」終わり。

第九経 ヘーマヴァタ

夜叉のサーターギラが言った。
「今夜は十五日の布薩、
神々しい夜がやって来た。
すぐれた名声を持つ師、
ゴータマに会いに行こう。」

訳注

布薩は、月の定まった日に行われる宗教的な集まりや戒めの確認。夜叉は、この物語では人間とは異なる力を持つ存在として登場する。

夜叉のヘーマヴァタが言った。
「その揺るがない方の心は、
すべての生きものに、よく向けられているのか。
好ましいものにも好ましくないものにも、
思いを自在に保っているのか。」

夜叉のサーターギラが言った。
「その揺るがない方の心は、
すべての生きものに、よく向けられている。
好ましいものにも好ましくないものにも、
思いを自在に保っている。」

夜叉のヘーマヴァタが言った。
「与えられていないものを、取らないのか。
生きものに対して、身を慎んでいるのか。
気を緩めることから遠く離れ、
瞑想を手放さずにいるのか。」

夜叉のサーターギラが言った。
「あの方は、与えられていないものを取らない。
生きものに対して、身を慎んでいる。
気を緩めることから遠く離れ、
目覚めた方は、瞑想を手放さない。」

夜叉のヘーマヴァタが言った。
「うそを語らないのか。
人を傷つける言葉は使わないのか。
人々を仲たがいさせることを言わず、
むなしい話もしないのか。」

夜叉のサーターギラが言った。
「あの方は、うそを語らず、
人を傷つける言葉も使わない。
人々を仲たがいさせることを言わず、
よく考えて、意味のあることを話す。」

夜叉のヘーマヴァタが言った。
「感覚の楽しみに染まらないのか。
心は濁っていないのか。
迷いを超えており、
物事を見る眼を持っているのか。」

夜叉のサーターギラが言った。
「あの方は、感覚の楽しみに染まらない。
心も濁っていない。
あらゆる迷いを超えた、目覚めた方は、
物事を見る眼を持っている。」

夜叉のヘーマヴァタが言った。
「明らかな知を備えているのか。
行いはすっかり清らかなのか。
心を汚す流れは尽きており、
再び生まれることはないのか。」

夜叉のサーターギラが言った。
「あの方は、明らかな知を備え、
行いもすっかり清らかだ。
心を汚すすべての流れが尽き、
再び生まれることはない。」

「その聖者は、心も、
身の行いも、言葉も完成している。
知と行いを備えたその人を、
あなたは道理にかなってたたえている。」

「その聖者は、心も、
身の行いも、言葉も完成している。
知と行いを備えたその人を、
あなたが喜ぶのも道理にかなっている。」

「心も、身の行いも、言葉も完成し、
知と行いを備えた聖者、
ゴータマに、
さあ、会いに行こう。

かもしかのような脚を持ち、身は細く、勇ましく、
食べることが少なく、むさぼらない方。
森で瞑想する聖者、
ゴータマに、さあ、会いに行こう。

ひとり歩く獅子のような、偉大な方、
感覚の楽しみを当てにしない方に近づいて、
死のわなから
解き放たれる道を尋ねよう。

教えを語り、広め、
すべての物事をきわめた方、
恨みと恐れを超えた、目覚めた方、
ゴータマに、私たちは尋ねよう。」

夜叉のヘーマヴァタが尋ねた。
「世界は何から生まれ、
何と親しく結びつくのですか。
世界は何をつかむことによって、
何の中で苦しめられるのですか。」

世尊はヘーマヴァタに答えた。
「世界は六つのものから生まれ、
六つのものと親しく結びつく。
その六つをつかむことによって、
六つのものの中で苦しめられる。」

訳注

六つは、眼・耳・鼻・舌・身体・心に関わる、六つの感覚の領域を指す。

「世界がその中で苦しめられる、
そのつかみ取るものとは、何でしょう。
どうか、そこから出る道をお話しください。
どうすれば、苦しみから解き放たれますか。」

「この世には、感覚の楽しみをもたらす五つのものがあり、
心が第六だと説かれている。
それらへの欲求を離れることで、
このように、苦しみから解き放たれる。

これが、世界から出る道だ。
その通りのあり方を、あなたがたに語った。
私は、あなたがたにこれを教える。
このようにして、苦しみから解き放たれるのだ。」

「誰が、この激流を渡るのでしょう。
誰が、この大海を渡るのでしょう。
足場も、つかまるものもない深い水に、
誰が沈まずにいられるのでしょう。」

「いつも行いを慎み、
知恵を持ち、心をよく一つに保ち、
自分の内を見つめ、気づいている人は、
渡りがたい激流を渡る。

感覚の楽しみを思い描くことを離れ、
すべての縛りを超え、
生存を喜び求める心が尽きた人は、
深い水にも沈まない。」

「深い知恵を持ち、微妙な意味を見抜き、
何ものも所有せず、欲望の楽しみにも、生存にも執着しない方。
すべてから解き放たれ、神聖な道を歩む、
あの偉大な聖者を見よ。

すぐれた名声を持ち、微妙な意味を見抜き、
知恵を与え、欲望の住みかに執着しない方。
すべてを知り、知恵豊かに聖なる道を歩む、
あの偉大な聖者を見よ。

今日、私たちは、なんとよいものを見たことか。
なんとよい夜明けであり、なんとよい目覚めだったことか。
激流を渡り、心を汚す流れのない、
完全に目覚めた方に、お会いできたのだから。

ここにいる千人の夜叉は、
不思議な力と名声を持っています。
その全員が、あなたをよりどころとします。
あなたは、私たちの、この上ない師です。

私たちはこれから、村から村へ、
山から山へと巡りましょう。
完全に目覚めた方と、
教えのすばらしさに、礼拝を捧げながら。」

第九経「ヘーマヴァタ」終わり。

第十経 アーラヴァカ

私はこのように聞いた。あるとき世尊は、アーラヴィーの、夜叉アーラヴァカの住まいにいた。アーラヴァカは世尊のもとへ近づき、「出ていけ、修行者」と言った。世尊は「よいだろう、友よ」と答えて外へ出た。「入れ、修行者」と言われると、「よいだろう、友よ」と答えて中へ入った。

二度目も同じように……[原文中略]……三度目にも、夜叉アーラヴァカは世尊に「出ていけ、修行者」と言った。世尊は「よいだろう、友よ」と答えて外へ出た。「入れ、修行者」と言われると、「よいだろう、友よ」と答えて中へ入った。

四度目にもアーラヴァカは、「出ていけ、修行者」と言った。世尊は答えた。「友よ、私はもう出ていかない。したいことがあるなら、するがよい。」

アーラヴァカは言った。「修行者よ、お前に問いを出す。答えられなければ、お前の心を狂わせるか、胸を裂くか、足をつかんでガンジス川の向こうへ投げ飛ばしてやる。」

世尊は答えた。「友よ、神々、マーラ、梵天を含む世界で、修行者やバラモン、神々や人間を含む者たちの中に、私の心を狂わせ、胸を裂き、足をつかんでガンジス川の向こうへ投げ飛ばせる者を、私は見ない。だが、友よ、尋ねたいことを尋ねるがよい。」そこでアーラヴァカは、詩の形で問いかけた。

「この世で、人にとって最高の財産は何か。
何をよく行えば、幸せがもたらされるのか。
味わいの中で、最も甘美なものは何か。
どのように生きる人生を、最高だと呼ぶのか。」

「この世で、人にとって最高の財産は信頼だ。
教えをよく行えば、幸せがもたらされる。
味わいの中で、最も甘美なものは真実だ。
知恵によって生きる人生を、最高だと呼ぶ。」

「どうすれば激流を渡り、
どうすれば大海を渡れるのか。
どうすれば苦しみを越え、
どうすれば清らかになれるのか。」

「信頼によって激流を渡り、
気を緩めないことによって大海を渡る。
努力によって苦しみを越え、
知恵によって清らかになる。」

「どうすれば知恵を得て、
どうすれば財産を得られるのか。
どうすればよい評判を得て、友を結べるのか。
どうすれば、この世を去って次の世へ行っても、
悲しまずにいられるのか。」

「完成に達した方々が説く、
涅槃へ至るための教えを信じ、
よく聞こうとし、気を緩めず、
ものを見分ける人は、知恵を得る。

ふさわしく仕事をし、責任を持ち、
励んで働く人は、財産を得る。
真実を語ることでよい評判を得て、
与えることで友を結ぶ。

信頼を持って家で暮らす人に、
この四つが備わっているなら、
真実、教えにかなう行い、粘り強さ、分かち合う心があるなら、
その人は、世を去っても悲しまない。

ほかの多くの修行者やバラモンにも、
さあ、尋ねてみるがよい。
真実、自制、分かち合う心、忍耐よりも
すぐれたものが、この世にあるかどうかを。」

「今となって、どうして私が
ほかの多くの修行者やバラモンに尋ねるだろう。
次の世でためになることを、
私は今日、知ったのだから。

目覚めた方は、まさに私のために、
アーラヴィーへ来て、滞在してくださった。
どこへ与えれば大きな実りがあるのかを、
私は今日、知ったのだから。

私はこれから、村から村へ、
町から町へと巡ろう。
完全に目覚めた方と、
教えのすばらしさに、礼拝を捧げながら。」

第十経「アーラヴァカ」終わり。

第十一経 勝利

歩いていても、立っていても、
座っていても、横になっていても、
曲げたり伸ばしたりする。
それが、この身体の動きだ。

骨と筋で組み合わされ、
皮と肉で塗り包まれている。
身体は、うわべの皮膚に覆われて、
ありのままには見えない。

その中には、腸や胃の中身、
肝臓の塊、膀胱、
心臓、肺、
腎臓、脾臓が詰まっている。

鼻水、唾液、
汗、脂肪、
血、関節の液、
胆汁、脂もある。

九つの穴からは、
いつも汚れが流れ出る。
眼からは目やに、
耳からは耳あかが出る。

鼻からは鼻水が流れ、
口からは、ときに物を吐き出す。
胆汁や痰を吐き、
身体には汗と垢がつく。

頭の中には空洞があり、
脳で満たされている。
無知に導かれた愚かな人は、
それを美しいと思っている。

やがて死んで横たわり、
膨れ上がり、青黒くなって、
墓場に捨て置かれると、
親族も、もうかえりみない。

犬、ジャッカル、狼、
虫が、それを食べる。
烏や禿鷹も食べ、
ほかの生きものたちも食べる。

この世で、知恵を持つ修行者は、
目覚めた方の言葉を聞き、
身体を十分に理解する。
ありのままに見るからだ。

この身体がそうであるように、あの身体もそうであり、
あの身体がそうであるように、この身体もそうである。
自分の身体にも、他人の身体にも、
欲する心を離れるがよい。

欲求と執着を離れた、
知恵あるその修行者は、
死を超えた安らぎ、
揺らぐことのない涅槃の境地に達する。

この二本脚の、不浄で、
悪臭を放つ身体が、運ばれていく。
さまざまな朽ちるものに満ち、
あちこちから流れ出している。

このような身体をもって、
自分を高くしようと思い、
他人を見下すなら、
それは、見えていないということのほかに、何だろう。

第十一経「勝利」終わり。

第十二経 聖者

親しい結びつきから恐れが生まれ、
住みつくところから、心の塵が生まれる。
住みつかず、親しさに縛られないこと。
それこそが、聖者の見る道だ。

すでに生じたものを切り取り、植え直さず、
これから生じるものにも、育つ余地を与えない人。
その人を、ひとり歩む聖者と呼ぶ。
その偉大な聖者は、安らぎの境地を見たのだ。

生み出す土台をよく見きわめ、種をなくし、
それを潤す愛着の水も与えない。
その聖者は、生まれることの終わりを見て、
思いめぐらすことを捨て、いかなる数え分けにも入らない。

訳注

土台・種・水のたとえで、生存を繰り返す原因をなくすことを語る。『数え分け』は、ある生き方や存在として名づけ、規定することを表すと解した。

心が住みつく、あらゆる場所を知り、
そのどれ一つをも求めない。
その聖者は、むさぼりを離れ、執着せず、
新たに積み上げない。すでに向こう岸に渡っているからだ。

すべてに打ち勝ち、すべてを知り、知恵豊かで、
どのような物事にも染まらず、
すべてを捨て、渇望が尽きて解き放たれた人。
賢い人々は、その人を聖者と認める。

知恵を力とし、慎みある行いを備え、
心を一つにし、瞑想を楽しみ、気づきを保ち、
執着から解き放たれ、心のこわばりも、心を汚す流れもない人。
賢い人々は、その人を聖者と認める。

ひとりで歩み、気を緩めず、
非難にも称賛にも揺れない人。
物音におびえない獅子のように、
網に絡まらない風のように、
水に汚されない蓮のように、
人を導いても、自分は人任せにならない人。
賢い人々は、その人を聖者と認める。

水浴び場の柱のように、しっかり立ち、
人々が言葉の限りを尽くして何かを言っても、揺るがず、
欲を離れ、感覚をよく調えた人。
賢い人々は、その人を聖者と認める。

自分をしっかり保ち、機織りの杼のようにまっすぐで、
悪い行いを避け、
曲がったことと、まっすぐなことを、よく調べる人。
賢い人々は、その人を聖者と認める。

若くても、壮年であっても、
自分を抑え、悪を行わず、心を調えている人。
人から害されるいわれがなく、自分も誰をも害さない人。
賢い人々は、その人を聖者と認める。

訳注

arosaneyyo は、注釈では怒りや害意を向けられるいわれのない人という意味。現実に誰からも害されないということではない。

人から与えられたもので暮らし、
最初の分でも、途中の分でも、残りの分でも、食を受け、
そのために人を褒めそやさず、へつらいもしない人。
賢い人々は、その人を聖者と認める。

性的な交わりを離れて歩み、
若いときにも、どこにも心を結びつけず、
おごりと気の緩みを離れ、解き放たれた人。
賢い人々は、その人を聖者と認める。

世界を知り、最高の意味を見て、
激流と大海を渡り越え、揺るがず、
結び目を断ち、何にも頼らず、心を汚す流れもない人。
賢い人々は、その人を聖者と認める。

妻を養い、家で暮らす人と、
私のものという思いを持たず、よく戒めを守る人。
この二人は同じではなく、生き方は遠く隔たっている。
在家の人は、ほかの命を奪うことを十分には抑えないが、
聖者はいつも自らを慎み、生きものを守る。

青い首を持つ孔雀は、
どれほど飛んでも、白鳥の速さには及ばない。
そのように、家で暮らす人は、
森でひとり瞑想する聖者、出家の修行者には倣いきれない。

第十二経「聖者」終わり。

第一章「蛇」終わり。

この章の経をまとめる詩

蛇、ダニヤ、
犀の角、そして田を耕す者。

チュンダ、身を滅ぼすこと、
卑しい者、慈しみを育てること。

サーターギラ、アーラヴァカ、
勝利、そして聖者。

訳注

ここでは『ヘーマヴァタの経』を、そこに登場するサーターギラの名で挙げている。

この十二の経を、
『蛇の章』と呼ぶ。

第二章 小篇

第一経 宝

ここに集まった、あらゆる存在よ。
地上に住むものも、空中に住むものも、
皆、心を喜ばせ、
これから語る言葉を、よく聞くがよい。

だから、あらゆる存在よ、耳を傾けよ。
人間たちに慈しみを向けよ。
昼も夜も、彼らは供え物を運んでくる。
だから彼らを、気を緩めずに守るがよい。

この世にも、ほかの世界にも、どんな財宝があろうと、
天上にどんなすばらしい宝があろうと、
如来に等しいものはない。
目覚めた方には、このすばらしい宝がある。
この真実によって、安らかでありますように。

心を一つにした釈迦族の聖者が達した、
欲の尽きた、執着を離れた、死を超えるすばらしい境地。
その教えに等しいものは何もない。
教えには、このすばらしい宝がある。
この真実によって、安らかでありますように。

目覚めた方の中でも最もすぐれた方がたたえた、
すぐに実りへつながるといわれる、清らかな心の集中。
その集中に等しいものはない。
教えには、このすばらしい宝がある。
この真実によって、安らかでありますように。

よい人々がたたえる、八つのあり方の人々、
四組をなすその人々は、
善く歩まれた方の弟子で、供養にふさわしい。
彼らに与えたものは、大きく実る。
修行者の集いには、このすばらしい宝がある。
この真実によって、安らかでありますように。

訳注

四組の八人は、悟りへの四段階について、それぞれ向かう人と達した人を数えたもの。特定の八人の個人名ではない。

ゴータマの教えの中で、心を固く定め、
よく励み、欲を離れた人々は、
達すべきところに達し、死を超える境地へ入り、
得た静けさを、代償なしに味わっている。
修行者の集いには、このすばらしい宝がある。
この真実によって、安らかでありますように。

大地に据えられた門柱が、
四方からの風にも揺らがないように、
聖なる真実を、確かに見抜いたよい人も、
そのような人だと、私は言う。
修行者の集いには、このすばらしい宝がある。
この真実によって、安らかでありますように。

深い知恵を持つ方が、よく説かれた
聖なる真実を、はっきり理解する人々は、
たとえ大きく気を緩めることがあっても、
八度目の生存を受けることはない。
修行者の集いには、このすばらしい宝がある。
この真実によって、安らかでありますように。

ものを見る眼を得た、そのときに、
三つのものが捨てられる。
この身心を自分と見る考え、疑い、
そして、どのような戒めや儀礼への固執も。

四つの悪い境遇から解き放たれ、
六つの重大な行いをすることもできない。
修行者の集いには、このすばらしい宝がある。
この真実によって、安らかでありますように。

訳注

底本では bhabba と記されているが、照合したパーリ語版には否定形 abhabba がある。前後の内容に即し『できない』と訳した。四つの悪い境遇は地獄・動物・餓鬼・阿修羅の境遇、六つの行いは父母や阿羅漢を殺すことなど、聖なる道に入った人にはできないとされる行いを指す。

たとえ身や言葉や心によって、
よくない行いをしてしまっても、
それを隠すことはできない。
境地を見た人には、隠すことができないと説かれている。
修行者の集いには、このすばらしい宝がある。
この真実によって、安らかでありますように。

暑い季節の初めの月に、
森の木々の先が花で飾られるように、
最高の幸いのため、涅槃へ導く
すぐれた教えを、あの方は説かれた。
目覚めた方には、このすばらしい宝がある。
この真実によって、安らかでありますように。

すぐれた方、すぐれたものを知り、与え、もたらす方、
この上ない方が、すぐれた教えを説かれた。
目覚めた方には、このすばらしい宝がある。
この真実によって、安らかでありますように。

古いものは尽き、新たに生じるものはなく、
これからの生存に、心は執着しない。
種は尽き、芽を伸ばそうとする欲もなくなった。
賢い人々は、この灯のように、静かに消えていく。
修行者の集いには、このすばらしい宝がある。
この真実によって、安らかでありますように。

ここに集まった、あらゆる存在、
地上に住むものも、空中に住むものも、
神々と人間が敬う如来、目覚めた方に、
私たちは礼拝します。安らかでありますように。

ここに集まった、あらゆる存在、
地上に住むものも、空中に住むものも、
神々と人間が敬う、真実に至った教えに、
私たちは礼拝します。安らかでありますように。

訳注

この偈と次の偈の tathāgata は、教えと修行者の集いを直接修飾する語として解した。注釈は、道が「そのように進んだ」、涅槃が「そのように理解された」、修行者の集いが「そのように道を進んだ」と、それぞれ異なる説明をする。「真実に至った」は、これらをまとめた解釈的な訳。

ここに集まった、あらゆる存在、
地上に住むものも、空中に住むものも、
神々と人間が敬う、真実に至った修行者の集いに、
私たちは礼拝します。安らかでありますように。

第一経「宝」終わり。

第二経 生臭さ

「サーマーカ、チングーラカ、チーナカ、
葉や実、根の実り、ガヴィッパラ。
正しく手に入れたこれらを食べ、心を静めている人々は、
欲望の楽しみを求めて、うそをつくことはない。

訳注

挙げられた植物は、野生の穀物や草木の食用部分を指すが、現在の植物名との対応には異説があるため、固有名を残した。サーマーカは雑穀の一種、ガヴィッパラはつる性植物の実などと説明される。

ところが、カッサパよ。あなたは、人が差し出す、
丁寧に調理した、上等な、見事な料理を食べ、
米の飯を口にしている。
それでは、生臭いものを食べていることになる。

『生臭いものは、私にはふさわしくない。』
バラモンの末裔よ、あなたは、そう言いながら、
よく調理された鳥の肉とともに、米の飯を食べている。
カッサパよ、そのことを尋ねたい。
あなたのいう、生臭さとは、どのようなものなのか。」

訳注

この経で答えるカッサパは、過去の仏カッサパと理解されている。弟子マハーカッサパとの対話としては訳していない。

「命を奪い、打ち、切り、縛ること。
盗み、うそ、策略、人をだますこと。
学問をうわべの飾りにし、他人の妻と交わること。
これこそ生臭さだ。肉を食べることではない。

訳注

ajjhenakuttaṃ には異読と解釈の違いがある。ここでは、学識を装う不誠実さという解釈を採った。伝統的注釈は、利益を生まない多くの書物の学習と説明する。単に学ぶこと全般を非難する、と断定はできない。

欲望を抑えず、味にむさぼりつき、
汚れた暮らしに身を寄せ、
行いに意味などないと考え、よこしまで、導き難い人々。
これこそ生臭さだ。肉を食べることではない。

訳注

natthikadiṭṭhi は、善悪の行いに結果はないとする見解などを指す。この文脈では、現代の一般的な無神論と同一視していない。

荒々しく、残酷で、陰で人を傷つけ、
友を裏切り、思いやりなく、思い上がる人々。
分け与える心がなく、誰にも何も与えないこと。
これこそ生臭さだ。肉を食べることではない。

怒り、うぬぼれ、頑固さ、逆らって張り合う心、
偽り、ねたみ、言葉で自分を大きく見せること。
慢心と、人を見下す心、悪い人々との交わり。
これこそ生臭さだ。肉を食べることではない。

行いが悪く、借りを踏み倒し、人を中傷し、
取引で欺き、立派な人のふりをする者たち。
卑しい行いを重ね、罪を犯すこと。
これこそ生臭さだ。肉を食べることではない。

生き物に対して自分を抑えず、
他人のものを奪い、苦しめようとする人々。
行いが悪く、残忍で、荒々しく、敬う心のないこと。
これこそ生臭さだ。肉を食べることではない。

そうしたことにむさぼりつき、敵意を抱き、命を奪い、
いつも悪事にいそしむ者たちは、死後、闇へと向かう。
その者たちは、頭から地獄に落ちていく。
これこそ生臭さだ。肉を食べることではない。

魚や肉を食べないことも、裸でいることも、
頭をそることも、髪をもつれさせ、垢にまみれることも、
粗い獣皮をまとうことも、火への供犠に仕えることも、
この世にある、不死を求めるさまざまな苦行も、
聖句、火への供え物、祭り、季節に応じた苦行も、
疑いを越えていない人を、清らかにはしない。

訳注

amarā は、注釈に沿って不死を求める苦行と訳したが、尽きることのない多様な苦行という解釈もある。末尾の utūpasevanā は、注釈では夏の日光、雨季の木陰、冬の水などに身をさらす修行を指す。

感覚の働きを知り、それらを守って歩み、
教えに立ち、まっすぐで柔らかな心を喜びとする人。
執着を越え、あらゆる苦しみを捨てたその賢者は、
見たものや聞いたものに、染まらない。」

世尊は、この意味を繰り返し語り、
聖句に通じたバラモンは、それを理解した。
生臭さも、寄りかかるものもなく、他人には導かれない聖者は、
さまざまな詩の言葉で、明らかに示した。

訳注

第二句は注釈に従い、語ったのが世尊、それを理解したのがバラモンのティッサと解した。mantapāragū はここでは聖句に通じたバラモンを指す。

生臭さを離れ、あらゆる苦しみを払いのける、
目覚めた方のすぐれた言葉を聞いて、
相手は心を低くし、如来に礼をした。
そして、その場で、出家したいと申し出た。

第二経「生臭さ」終わり。

第三経 恥じる心

恥じる心を踏み越え、それを疎ましく思いながら、
『私はあなたの味方だ』と言う者。
できるはずのことにも、手を貸そうとしないなら、
『この人は私の友ではない』と見きわめるがよい。

友に向かって、
実の伴わない、耳ざわりのよい言葉だけを並べる者。
行動せず、口で言うだけなのだと、
賢い人々は見抜いている。

仲が裂けるのではないかと、いつも警戒し、
相手の弱みばかり探している者は、友ではない。
子どもが親の胸で眠るように、安心して身を預けられる人。
他人に何を言われても仲を裂かれない人こそ、友である。

人として引き受けるべき重荷を担い、
その実りを願う人は、
喜びを生み、称賛をもたらし、
幸せにつながる土台を育てていく。

訳注

原文では「実りを願う人」が主語で、「喜びなどをもたらす土台」が育てる対象。注釈は、この土台を努力、特に正しい努力と説明する。

ひとり静かに過ごす味わいと、
心の鎮まる味わいを飲み、
教えを喜ぶ味わいを飲む人は、
恐れを離れ、悪を離れる。

第三経「恥じる心」終わり。

第四経 この上ない幸せ

私はこのように聞いた。あるとき世尊は、サーヴァッティーのジェータ林にある、アナータピンディカの園に滞在していた。夜も更けたころ、一柱の神が、美しい輝きでジェータ林全体を照らしながら、世尊のもとに来た。世尊に礼をして、かたわらに立った。その神は、そこから世尊に詩の言葉で語りかけた。

「多くの神々や人間が、
安らかな暮らしを願って、
何が幸せをもたらすのかと考えてきました。
この上ない幸せとは何か、お教えください。」

訳注

題名にも用いられる maṅgala は、吉兆や幸運をもたらすものを指す。ここでは、その問いに対して、日々の行いや心のあり方が示される。

「愚かな人々と交わらず、
知恵ある人々と交わり、
敬うにふさわしい人を敬うこと。
これが、この上ない幸せである。

ふさわしい土地に暮らし、
これまでによい行いを積み、
自分の進む道を正しく定めること。
これが、この上ない幸せである。

広く学び、技を身につけ、
自分を律することをよく学び、
よい言葉を語ること。
これが、この上ない幸せである。

父母を支え、
妻子を大切にし、
仕事を乱れなく営むこと。
これが、この上ない幸せである。

人に分け与え、道にかなって生き、
親族を支え、
非難されるような行いをしないこと。
これが、この上ない幸せである。

悪を嫌い、悪い行いをやめ、
酒を飲むことを慎み、
よいことを実践する心を怠らせないこと。
これが、この上ない幸せである。

人を敬い、おごらず、
足ることを知り、受けた恩を忘れず、
折にふれて教えを聞くこと。
これが、この上ない幸せである。

耐える心を持ち、忠告に素直に耳を傾け、
道を歩む修行者に会い、
折にふれて教えを語り合うこと。
これが、この上ない幸せである。

自分を鍛え、清らかな修行生活を送り、
聖なる真理を見きわめ、
涅槃を身をもって実現すること。
これが、この上ない幸せである。

世の移り変わりに触れても、
心が揺らがず、
悲しみを離れ、汚れなく、安らかであること。
これが、この上ない幸せである。

訳注

世の移り変わり(lokadhamma)は、得失、名声と悪評、称賛と非難、苦と楽など、人が世間で経験する浮き沈みを指す。

このようなことを実践する人々は、
どこにあっても打ち負かされず、
どこにあっても安らかに歩んでいく。
それが、その人々にとって、この上ない幸せなのである。」

第四経「この上ない幸せ」終わり。

第五経 スーチローマ

私はこのように聞いた。あるとき世尊は、ガヤーにあるタンキタの寝台、夜叉スーチローマの住まいに滞在していた。そのころ夜叉カラと夜叉スーチローマが、世尊の近くを通りかかった。カラがスーチローマに言った。
「あれは修行者だ。」
「修行者などではない。修行者のまねをしているだけだ。私が確かめてやろう。本当の修行者か、それとも、まねだけなのか。」

訳注

スーチローマは「針の毛を持つもの」、カラは「粗いもの」の意を持つ名。夜叉は、人間とは異なる力を持つ存在として物語に登場する。

そこでスーチローマは世尊に近づき、体を世尊に寄せた。世尊は身を引いた。スーチローマが言った。
「修行者よ、私が怖いのか。」
「友よ、あなたが怖いのではない。ただ、あなたに触れるのは不快なのだ。」

「修行者よ、質問してやろう。答えられなければ、おまえの心を乱してやる。胸を引き裂くか、両足をつかんで、ガンジス河の向こう岸へ投げ飛ばしてやるぞ。」

「友よ、神々、マーラ、梵天を含むこの世界、修行者やバラモン、神々や人間のいるこの世で、私の心を乱し、胸を引き裂き、両足をつかんでガンジス河の向こう岸へ投げ飛ばせる者を、私は見ない。それはともかく、友よ、聞きたいことを聞くがよい。」
すると夜叉スーチローマは、世尊に詩の言葉で問いかけた。

「燃える欲と憎しみは、何をもとに生まれるのか。
不満も、楽しみも、身の毛のよだつ恐れも、どこから生まれるのか。
心のあれこれの思いは、どこから湧いてきて、人を投げ回すのか。
子どもたちが、カラスを放り投げて遊ぶように。」

「燃える欲と憎しみは、ここをもとに生まれる。
不満も、楽しみも、身の毛のよだつ恐れも、ここから生まれる。
心のあれこれの思いは、ここから湧いてきて、人を投げ回す。
子どもたちが、カラスを放り投げて遊ぶように。

それらは、しがみつく思いから生まれ、自分自身から生じる。
バンヤンの木の幹から生える枝のように。
欲望の対象へ、あちこちから絡みつく。
森に広がるマールヴァーのつるのように。

訳注

sneha は、愛着のほか、粘りや潤いも意味し、木のたとえに重なる。原典では、この詩と直前の詩に同じ番号274が付いている。

それが何をもとに生まれるかを知る人々は、それを払いのける。
夜叉よ、よく聞くがよい。
その人々は、かつて渡ったことのない、この渡り難い激流を渡り、
もう新たに生まれることのない境地へ行く。」

第五経「スーチローマ」終わり。

第六経 教えにかなって生きる

教えにかなって生き、清らかな修行生活を送ること。
これこそ、最もすぐれた宝だと人はいう。
だが、たとえ家を離れ、
住まいを持たない出家の身となっても、

口やかましく、
人を苦しめるのを喜ぶ、獣のような者なら、
その生き方は、ますます悪くなる。
自分自身の汚れを、増やしているのだ。

争いを好む修行者は、
迷いに覆われ、
目覚めた方が説いた教えを、
聞かされても理解しない。

心をよく修めた人々を苦しめ、
無知に導かれている。
自分を汚すその行いが、
地獄へ通じる道だとは気づかない。

そのような修行者は、
落ちるべきところへ落ち、
胎から胎へ、闇から闇へと移り、
死後にも苦しみを受ける。

何年にもわたってたまり、
いっぱいになった汚物の穴のように、
そのような者は汚れきっていて、
清めることが難しい。

修行者たちよ、そういう者を見きわめたなら、
家庭の暮らしへの思いを捨てられず、
悪い欲と悪い考えを持ち、
行いも、出入りする場所も悪い者と知ったなら、

皆で心を合わせて、
その者を退けなさい。
ごみを吹き払い、
不純なものを取り除きなさい。

そして、もみがらのような者たちを追い払いなさい。
修行者でないのに、修行者を気取っている者たちを。
悪い欲を持ち、
行いも、出入りする場所も悪い者たちを退けたら、

自ら清らかであって、清らかな人々とともに暮らし、
気づきを保ちなさい。
そうして、心を合わせ、思慮深く歩むなら、
苦しみを終わらせることができる。

第六経「教えにかなって生きる」終わり。

第七経 バラモンたちのかつての道

私はこのように聞いた。あるとき世尊は、サーヴァッティーのジェータ林にある、アナータピンディカの園に滞在していた。そこへ、コーサラの裕福なバラモンたちが何人も訪ねてきた。皆、老い、年を重ね、人生の長い道を歩んできた人々だった。世尊と挨拶を交わし、親しみのある言葉を述べ合ってから、かたわらに座った。そして言った。
「ゴータマ殿。今のバラモンたちのうちに、昔のバラモンの道を守っている人は見られるでしょうか。」
「バラモンたちよ。今のバラモンたちのうちには、昔のバラモンの道を守っている人は見られない。」
「では、ゴータマ殿。ご迷惑でなければ、昔のバラモンの道を、私どもにお話しください。」
「それなら、バラモンたちよ、よく聞き、心に留めなさい。これから話そう。」
「はい、どうぞ。」
バラモンたちがそう答えると、世尊は語った。

「昔の仙人たちは、
自分を律し、身を鍛えていた。
五つの感覚が求める楽しみを捨て、
自分にとって真の益となる道を歩んでいた。

バラモンたちには、家畜も、
金も、蓄えた穀物もなかった。
聖典の読誦こそが、その財産であり、糧であった。
清らかな生き方という宝を守っていた。

人々は、彼らのために食事を用意して、
戸口に差し出した。
信頼の心から整えたその食事は、
彼らに贈るべきものだと考えていた。

豊かな地方や国々は、
さまざまな色に染めた衣や、
寝床、住まいをもって、
そのバラモンたちを敬った。

バラモンたちは、害されることなく、
侵されることなく、守る道そのものに守られていた。
どの家の戸口に行っても、
誰ひとり、その行く手を妨げなかった。

彼らは若い時から四十八年、
性の交わりを慎んで修行した。
昔のバラモンたちは、
知と実践を求めて歩んでいた。

バラモンたちは、ほかの身分の女性のもとへは行かず、
妻を買うこともしなかった。
互いの愛情だけによって結びつき、
ともに暮らすことを喜んだ。

訳注

ここは古代のバラモンの慣習を述べた箇所。「ほかの身分」は、原文の「ほかへ」を伝統的な説明に沿って補った。現代の婚姻に対する規範として言い換えてはいない。

妻との交わりに定められた時期を除き、
バラモンたちは、
それ以外の時には、
性の交わりをしなかった。

訳注

utu はここでは、当時の慣習で妊娠に適するとされた、月経の後の一定期間を指す。現代医学の受胎時期の説明ではない。

彼らは、性を慎む清らかな生活と、よい行い、
まっすぐな心と柔らかさ、身を鍛えること、
穏やかさと、他を傷つけないこと、
そして、耐える心をたたえた。

彼らのうちで最もすぐれ、
清らかで、揺るがず励む者は、
夢の中でさえ、
性の交わりをすることがなかった。

その生き方に倣った、
もののわかる人々も、
性を慎む清らかな生活と、よい行い、
そして、耐える心をたたえた。

米、寝床、衣、
澄ましバターや油を請い、
正しい仕方で集めて、
それらを用いて祭りを営んだ。

祭りの準備が整っても、
彼らは牛を殺さなかった。
『母や父、兄弟や、ほかの親族のように、
牛たちは、私たちのかけがえのない友なのだ。
牛からは、私たちを養い、癒やすものが生まれる。』

『牛は食べ物を与え、力を与え、
よい顔色を与え、安らぎを与えてくれる。』
そうした恵みを知っていたから、
彼らは牛を殺さなかった。

物腰は柔らかく、体は立派で、
顔色もよく、人々の尊敬を集めていた。
バラモンたちは自らの道に従い、
なすべきことと、なすべきでないことに心を配っていた。
彼らがそのように世に暮らしていたかぎり、
人々は幸せに栄えていた。

ところが、彼らの心は、ゆがみ始めた。
王の華やかな暮らしぶりや、
美しく着飾った女性たちを、
細かなところまで、次々と見るうちに。

駿馬をつないだ、見事に仕立てられた車、
美しい縫い取りのある飾り。
住まいの建物も、その敷地も、
きちんと区切られ、測り分けられていた。

牛の群れに囲まれ、
美しい女性たちを大勢そばに置く、
そうした、人間の豪奢な暮らしを、
バラモンたちは欲しがるようになった。

そこで、そのための聖句を編み、
オッカーカ王のもとへ行って言った。
『あなたには、財産も穀物も豊かにあります。
祭りをなさい。あなたには、たくさんの富があるのです。
祭りをなさい。あなたには、たくさんの財産があるのです。』

戦車を駆る者たちの雄である王は、
バラモンたちに説き伏せられ、
馬の供犠、人の供犠、サンマーパーサ、
ヴァージャペーヤ、ニラッガラという祭りを営み、
バラモンたちに財産を与えた。

訳注

原文は五つの供犠の名を列挙する。最初の二つは assamedha、purisamedha。後三つは儀礼名を音写し、実際の手順について推測で補ってはいない。

牛、寝床、衣、
美しく着飾った女性たち、
駿馬をつないだ、見事に仕立てられた車、
美しい縫い取りのある飾りを。

さらに、心地よく、
部屋ごとによく整えられた住まいを、
さまざまな穀物でいっぱいにして、
バラモンたちに財産として与えた。

こうして財産を手にした彼らは、
蓄えることを好むようになった。
欲に取りつかれると、渇くような欲求は、いっそう強まった。
そこで、またそのための聖句を編み、
再びオッカーカ王のもとへ行った。

『水や大地、金、財産、穀物と同じように、
牛もまた、人間のための資材です。
それは、人が生きるために使うものなのです。
祭りをなさい。あなたには、たくさんの富があるのです。
祭りをなさい。あなたには、たくさんの財産があるのです。』

戦車を駆る者たちの雄である王は、
バラモンたちに説き伏せられ、
幾十万もの牛を、
祭りのために殺させた。

牛たちは、足でも角でも、
何を使っても、人を傷つけなかった。
羊のようにおとなしく、
かめに満ちるほどの乳を与えていた。
その牛たちを、角をつかませ、
王は刃で殺させた。

牛に刃が振り下ろされたとき、
神々も、祖先の霊も、
インドラも、アスラも、ラークシャサも、
『道に背くことだ!』と叫んだ。

かつて、病は三つだけだった。
欲すること、飢えること、老いること。
だが、家畜を殺すことによって、
病は九十八にも増えた。

訳注

この病の由来は、供犠による殺生を非難する経の語りをそのまま訳したもの。医学上の疾病分類や因果関係を述べたものとしては扱わない。

罪のない牛たちが殺され、
祭りを行う者たちは道を踏み外す。
この暴力という、道に背く行いは、
昔、そのように入り込んだのだ。

こうして始まった、卑しい慣わしは、
昔から、もののわかる人々に非難されてきた。
人々は、どこであれ、このようなことを見ると、
祭りを行う者を非難する。

こうして道が損なわれると、
隷属する身分の者と、商工農業に携わる身分の者との間に、分裂が起こった。
王族たちの間にも、さまざまな分裂が起こり、
妻は夫を軽んじるようになった。

訳注

身分名 sudda、vessa、khattiya をそれぞれ説明的に訳した。この結末は、古代の身分秩序と家族観を背景に社会の乱れを語っている。

王族も、バラモンの末裔も、
そのほか、家系に守られていた者たちも、
生まれを重んじるという自分たちの主張を投げ捨て、
欲望の言いなりになっていった。」

こう聞いて、裕福なバラモンたちは世尊に言った。
「すばらしいことです、ゴータマ殿。……[原文中略]……私どもを、今日から命のあるかぎり、あなたをよりどころとして帰依する在家の弟子とお認めください。」

第七経「バラモンたちのかつての道」終わり。

第八経 舟

人は、自分に教えを理解させてくれた人を、
神々がインドラを敬うように、敬うがよい。
その学識ある人は、敬われると、相手を信頼し、
教えを明らかに示してくれる。

賢い人は、それに心を向けてよく聞き、
教えにかなう道を実践する。
そのような師と交わり、怠らずに歩む人は、
よく理解し、見通しを持ち、細やかに見きわめる者となる。

ところが、心の狭い愚か者、
道の意味にまだ達していない、ねたみ深い者に仕えていると、
この世で教えを明らかに理解できず、
疑いを越えないまま、死を迎える。

水かさが増し、流れの速い川に入って、
自分自身が押し流され、
流れのままに下っていく人に、
どうして他人を渡らせることができるだろう。

それと同じく、教えを明らかに理解せず、
学識ある人々の説く意味にも耳を傾けず、
自分自身が知らず、疑いを越えていない者に、
どうして他人を納得させることができるだろう。

だが、丈夫な舟に乗り、
櫂や舵を備え、
渡る方法を心得た、巧みで思慮ある人なら、
ほかにも大勢の人を渡らせることができる。

それと同じく、知のきわみに達し、自分を修め、
広く学び、心の揺るがない人なら、
自ら知ったうえで、人々を理解へ導くことができる。
相手に、耳を傾けて聞くという条件が備わっていれば。

だから、善い人、
知恵があり、広く学んだ人と交わるがよい。
意味を理解して実践するなら、
教えを知り、幸せを得ることができる。

第八経「舟」終わり。

第九経 どのように生きれば

「人は、どのような戒めを守り、どのように振る舞い、
どのような行いを積み重ねれば、
正しい道にしっかりと立ち、
この上ない目的に達することができるのでしょうか。」

「先達を敬い、ねたまないこと。
師を訪ねるのにふさわしい時を知ること。
教えについての話が始まったら、その機会を逃さず、
すぐれた言葉に、心を込めて耳を傾けること。

訳注

先達(vuḍḍha)は、年長者だけでなく、注釈では知恵や徳にすぐれた人も含む。

よい時を選んで師のもとへ行き、
強情を捨て、へりくだって振る舞いなさい。
道の意味と教え、自分を律することと清らかな修行生活を、
いつも心に留め、自ら実践しなさい。

教えを憩いの場とし、教えを楽しみ、
教えに立ち、その意味を見きわめる人でありなさい。
教えを濁らせる話には加わらず、
真実を語る、すぐれた言葉に導かれて歩みなさい。

訳注

「教えを濁らせる話」は、伝統的注釈では、心を外の事柄に引きつけ、修行を妨げる世間話などと説明される。教えを中傷する発言だけに限定していない。

笑い騒ぎ、むだ話、嘆き、敵意、
偽り、ごまかし、むさぼり、慢心、
張り合う心、荒々しさ、心の汚れ、我を忘れるほどの執着を捨て、
うぬぼれを離れ、自分を確かに保って歩みなさい。

すぐれた言葉は、理解してこそ、その核心をつかめる。
学んだことは、理解した教えに心を定め、実践してこそ実となる。
性急で、心を怠らせている人には、
知恵も学びも育たない。

訳注

第二行の複合語は、理解した教えについて心を散らさず、実践することを学びの核心とする、という注釈の読み方に沿った。語を分ける異読もある。

聖なる人々が明らかにした教えを喜ぶ者たちは、
言葉でも、心でも、行いでも、この上なくすぐれている。
安らぎと穏やかさ、心の集中にしっかりと立ち、
学びと知恵の核心に達している。」

第九経「どのように生きれば」終わり。

第十経 起き上がれ

起き上がれ。座して修行せよ。
眠っていて、何になる。
矢に射られて苦しんでいる、
病んだ者に、どうして眠っていられるだろう。

起き上がれ。座して修行せよ。
安らぎを目指し、しっかりと学べ。
おまえたちが怠っているのを死の王に見抜かれ、
その支配下で、惑わされてはならない。

神々も人間も、欲するものにしがみついて立っている。
その絡みつく欲望を越えていけ。
この機会を逃してはならない。
機会を逃した者は、地獄へ落ちて、悲しむことになる。

怠りは、心のほこりだ。
怠りを重ねれば、ほこりもまた積もっていく。
怠らずに気を配り、明らかに知ることによって、
自分に刺さった矢を抜きなさい。

訳注

第一句には「怠り」を繰り返す読みに加え、語形の異なる伝本がある。ここでは、怠りが次の怠りを呼び、ほこりのように積もるという注釈の説明に沿って訳した。

第十経「起き上がれ」終わり。

第十一経 ラーフラ

「いつも一緒にいるからといって、
知恵ある人を軽んじてはいないか。
人々のために、たいまつを掲げるその人を、
おまえは、きちんと敬っているか。」

「いつも一緒にいるからといって、
知恵ある人を軽んじたりはしません。
人々のために、たいまつを掲げるその人を、
私は、いつも敬っています。」

「愛らしく、心を楽しませる、
五つの感覚の喜びを捨て、
信頼の心で家を出たのだから、
苦しみを終わらせる者となりなさい。

善い友と交わり、
人里を離れ、騒音の少ない、
静かな場所を寝起きの場とし、
食事では、適量をわきまえなさい。

衣や、施された食べ物、
暮らしを支える品々や、寝起きの場所。
それらに渇くような欲を起こしてはならない。
再び、この世に戻ってこないように。

修行者の戒律を守り、
五つの感覚の働きを慎みなさい。
体に気づきを向け、
執着から離れる思いを、十分に育てなさい。

訳注

pātimokkha は出家者の戒律。五つの感覚は、目・耳・鼻・舌・身の働きであり、信・精進などの五つの修行上の能力とは別である。

燃える欲を誘う、
美しいと見える姿から離れなさい。
体の不浄な面を観て心を育て、
心を一つに、よく落ち着かせなさい。

訳注

asubha は、体の清らかでない面や壊れていく性質を観る修行。美しいと感じるものへの強い執着を静める文脈で語られている。

しるしにとらわれない観察も育て、
心の奥に潜む慢心を捨てなさい。
そうして慢心を十分に見きわめたなら、
心静かに歩むことができるだろう。」

訳注

animitta(無相)は、対象の特徴やしるしをつかんで執着することを離れるあり方を指す。

世尊は、このように、これらの詩によって、尊者ラーフラを繰り返し教え導いた。

第十一経「ラーフラ」終わり。

第十二経 ニグローダカッパ

私はこのように聞いた。あるとき世尊は、アーラヴィーのアッガーラヴァ霊廟に滞在していた。そのころ、尊者ヴァンギーサの師、ニグローダカッパという長老が、その霊廟で亡くなって間もなかった。ヴァンギーサは、ひとり静かに過ごしているとき、こんな思いを抱いた。
「私の師は、完全な涅槃に達したのだろうか。それとも、達していなかったのだろうか。」
夕方、ヴァンギーサは静かな場所を出て世尊のもとへ行き、礼をして、かたわらに座った。そして言った。
「世尊よ。ひとり静かに過ごしているとき、私はこう考えました。『私の師は、完全な涅槃に達したのだろうか。それとも、達していなかったのだろうか』と。」
それからヴァンギーサは立ち上がり、衣を片方の肩に掛け直し、世尊に向かって合掌して、詩の言葉で語りかけた。

「すぐれた知恵を備え、
この生で疑いを断ち切る師に、お尋ねします。
アッガーラヴァで、一人の修行者が亡くなりました。
よく知られ、人々に敬われ、深く心を静めていた人です。

世尊よ、あのバラモンに、
ニグローダカッパという名をお与えになったのは、あなたです。
彼はあなたを敬い、解放を願って歩み、
力を奮い起こし、確かな教えを見つめていました。

釈迦族の方よ、あまねく見渡す方よ。
私たちは皆、その弟子について知りたいのです。
私たちの耳は、聞こうとして、あなたに向いています。
あなたは私たちの師、この上ない方です。

どうか、私たちの疑いを断ち切り、このことをお話しください。
豊かな知恵ある方よ、彼が完全な涅槃に達したことを知らせてください。
あまねく見渡す方よ、私たちの中でお話しください。
千の目を持つサッカが、神々の中で語るように。

この世のどんな心の結び目も、迷いへ通じる道も、
無知に属するものも、疑いのよりどころも、
如来に出会えば、もはやありません。
あなたこそ、人間にとって、この上ない眼なのですから。

もし、風が雲の塊を吹き散らすように、
人が心の汚れを払いのけることがなければ、
世界は、闇に覆われたままでしょう。
光を備えた人さえ、輝くことはできないでしょう。

けれども、賢者たちは光をもたらします。
勇気ある方よ、あなたこそ、そのような方だと私は思います。
よく見通し、よく知る方のもとに、私たちは来ました。
どうか、この集いの中で、カッパについて明らかにしてください。

どうか、早く、美しい、美しい声をお聞かせください。
首を伸ばした白鳥のように、穏やかにお話しください。
澄んだ、よく響き分けられた声で。
私たちは皆、まっすぐに心を向けて、お聞きします。

生と死を残らず捨て、清められたあなたに、
私は重ねてお願いして、教えを語っていただきたいのです。
普通の人は、知りたいことを、思いどおりに知って語れるわけではありません。
如来たちは、よく見きわめたうえで、お答えになります。

訳注

vadessāmi は、伝統的注釈に従い「語ってもらう」という使役の意味に取った。後半には、凡人の思うままにはならないことと、如来の知恵に基づく働きとの対比がある。

まっすぐな知恵を持つあなたは、
このことを十分につかみ、完全な答えをお持ちです。
これが最後のお願いです。心から両手を合わせます。
すぐれた知恵ある方よ、知っておられるのに、私を迷いの中に残さないでください。

聖なる道を、初めから終わりまで知る方よ。
すぐれた勇者よ、知っておられるのに、私を迷いの中に残さないでください。
暑い日に熱に苦しむ者が、水を求めるように、私はその言葉を待っています。
教えの雨を、降らせてください。

カッパーヤナが、清らかな修行生活を送った目的は、
無駄にはならなかったのでしょうか。
彼は完全に静まったのでしょうか。それとも、執着のよりどころを残していたのでしょうか。
どのように解放されたのか、それをお聞かせください。」

訳注

カッパーヤナは、この経ではニグローダカッパを指す呼び方。

世尊は答えた。
「この世の心と体への渇望、
長い間、奥深く流れていた、暗黒の者の流れを、彼は断ち切った。
生も死も、残らず渡り越えたのだ。」
五人の導き手である世尊は、こう語った。

訳注

nāmarūpa は「名と形」で、心の働きと物質的な体を含む、経験される存在を指す。「暗黒の者」はマーラ。「五人の導き手」は pañcaseṭṭha の注釈上の一解釈で、最初の五人の弟子の師という意味。五つの精神的能力などによって最上である、という別の説明もある。

「仙人の中でも最もすぐれた方よ。
そのお言葉を聞き、私は心が晴れました。
私の問いは、無駄ではなかったのですね。
あのバラモンは、私を欺かなかったのです。

訳注

「あのバラモン」は、前後から、質問者の師ニグローダカッパを指すと読むのが自然である。原文は固有名ではないため、本文にはその呼称を残した。

目覚めた方の弟子は、
自ら語ったとおりに行動する人でした。
人を欺く死の支配者が張り巡らした、
強固な網を断ち切ったのです。

世尊よ、カッパは、
執着が始まるところを見たのですね。
カッパーヤナは、まことに、
越え難い死の領域を越えたのです。」

第十二経「ニグローダカッパ」終わり。

第十三経 正しく遊行するには

「豊かな知恵を持つ聖者に、お尋ねします。
流れを渡り、向こう岸に達し、完全に静まり、自分を確かに保つ方よ。
家を出て欲望を払いのけた修行者は、
どのように、この世を正しく歩んでいけばよいのでしょうか。」

世尊は答えた。
「吉兆、不吉な異変、夢、身体の特徴による占いを、
根こそぎ捨て去り、
吉凶を気にする過ちを離れた人。
その人は、この世を正しく歩んでいける。

修行者は、人間の世界の楽しみにも、
天上の楽しみにも、燃える欲を静めなさい。
生存へのとらわれを越え、教えを深く理解した人。
その人は、この世を正しく歩んでいける。

修行者は、人の仲を裂く言葉に背を向け、
怒りと物惜しみを捨てなさい。
好きだから引き寄せ、嫌いだから退ける心を離れた人。
その人は、この世を正しく歩んでいける。

好きなものも、嫌いなものも手放し、
何もつかまず、どこにも寄りかからず、
心を縛るものから自由になった人。
その人は、この世を正しく歩んでいける。

手に入れて抱えるものの中に、確かなよりどころを見ず、
つかみ取ろうとする欲を静め、
寄りかからず、他人に引き回されない人。
その人は、この世を正しく歩んでいける。

言葉でも、心でも、行いでも、敵意を抱かず、
教えを正しく理解し、
涅槃の境地を願う人。
その人は、この世を正しく歩んでいける。

修行者は、『あの人は私を敬っている』と、思い上がってはならない。
ののしられても、恨みを結んではならない。
他人から食べ物をもらっても、うぬぼれない人。
その人は、この世を正しく歩んでいける。

修行者は、むさぼりと、生き続けたいという執着を捨て、
切り傷を負わせたり、縛ったりすることをやめなさい。
疑いを越え、心の矢を抜いた人。
その人は、この世を正しく歩んでいける。

修行者は、自分にふさわしい振る舞いを知り、
この世の誰をも傷つけてはならない。
教えを、ありのままに理解した人。
その人は、この世を正しく歩んでいける。

心の奥に潜む煩いが一つもなく、
善くないものの根を抜き去り、
望みに縛られず、何も当てにしない人。
その人は、この世を正しく歩んでいける。

心から流れ出す汚れを尽くし、慢心を捨て、
燃える欲の通り道をすべて越え、
自らを調え、完全に静まり、揺るがない人。
その人は、この世を正しく歩んでいける。

信頼を持ち、学びを備え、確かな道筋を見きわめ、
派閥に分かれた人々の中でも、派閥に走らない賢者。
むさぼり、憎しみ、反感を静めた人。
その人は、この世を正しく歩んでいける。

清らかに勝利を遂げ、覆いを取り払い、
教えを自在に修め、向こう岸に達し、欲に揺さぶられず、
形づくられたものが止むことを、よく知る人。
その人は、この世を正しく歩んでいける。

過去についても、未来についても、思い込みを越え、
きわめて清らかな知恵を持ち、
感覚と認識のあらゆる領域への束縛を離れた人。
その人は、この世を正しく歩んでいける。

その境地を知り、教えを深く理解し、
心の汚れを捨てた、開かれたあり方を見て、
執着のよりどころをすべて尽くした人。
その人は、この世を正しく歩んでいける。」

「世尊よ、確かに、そのとおりです。
そのように暮らし、自らを調えた修行者は、
あらゆる束縛と、つなぎ止めるものを越えて、
この世を正しく歩んでいくことでしょう。」

第十三経「正しく遊行するには」終わり。

第十四経 ダンミカ

私はこのように聞いた。あるとき世尊は、サーヴァッティーのジェータ林にある、アナータピンディカの園に滞在していた。そこへ、在家の弟子ダンミカが、五百人の在家の弟子たちとともに訪ねてきた。世尊に礼をして、かたわらに座ると、詩の言葉で語りかけた。

「豊かな知恵あるゴータマよ、お尋ねします。
弟子は、どのように行動すれば、善い弟子となれるのでしょうか。
家を離れ、住まいを持たない出家の身となった人も、
家に暮らしながら教えに従う人々も。

あなたは、神々を含む世界の行く道と、
その行き着く先を知っておられます。
微妙な意味を見きわめる点で、あなたに並ぶ方はいません。
人々があなたを、この上ない、目覚めた方と呼ぶのも、そのためです。

あなたは、教えを残らず、知によって深く確かめ、
生きるものたちをあわれみ、明らかに説いてくださいます。
覆いを取り払い、あまねく見渡す方よ。
あなたは、汚れなく、全世界で輝いています。

象王エーラーヴァナも、
あなたが勝利を遂げた方だと聞いて、そばに来ました。
あなたと言葉を交わし、教えを聞くと、
『すばらしい』と喜びに満ちて、帰っていきました。

訳注

nāga は文脈によって象や蛇などを指す。ここでエーラーヴァナは、注釈ではサッカの乗る象の姿を取る神とされる。

ヴェッサヴァナ、またの名をクヴェーラという王も、
教えを尋ねに、あなたのもとへ来ます。
賢い方よ、あなたは、その問いにも答えてくださり、
彼もまた、聞き終えると、喜びに満ちています。

議論を好む、ほかの教えの人々、
アージーヴァカも、ニガンタも、
誰ひとり、知恵であなたを追い越すことはできません。
立ち止まった人が、足早に行く人に追いつけないように。

訳注

アージーヴァカとニガンタは、当時の別の修行者集団を指す名称。ニガンタはジャイナ教の修行者を指す。

議論を好むバラモンたちも、
年老いたバラモンたちも、
議論に自信を持つ、ほかの人々も、
皆、意味を理解するためには、あなたを頼りとします。

世尊よ、あなたが見事に説かれたこの教えは、
繊細で、安らぎをもたらします。
私たちは皆、その教えを聞きたいのです。
目覚めた方の中でも最もすぐれた方よ、この問いにお答えください。

ここには、修行者たちが皆、座っています。
在家の弟子たちも、同じように、聞こうとして座っています。
汚れのない方が悟った、すぐれた教えを、聞かせてください。
神々が、ヴァーサヴァの言葉を聞くように。」

訳注

ヴァーサヴァは、神々の王サッカの別名。

「修行者たちよ、聞きなさい。あなたがたに、
汚れを払い落とす教えを聞かせよう。皆、それを実践しなさい。
出家者にふさわしい、日々の振る舞いがある。
意味を見きわめる、思慮ある人は、そのように振る舞うがよい。

修行者は、ふさわしくない時間に歩き回らず、
ふさわしい時間に、村で食べ物を乞いなさい。
時をわきまえず歩き回る人には、執着がまとわりつく。
だから、目覚めた人々は、時を外して歩き回らない。

形や色、音、味、香り、
肌に触れるものは、生きるものを酔わせる。
そうしたものへの欲を静めてから、
時を選んで、朝の食事を乞いに入りなさい。

修行者は、よい時に食べ物を得たなら、
ひとりで戻り、静かな場所に座りなさい。
内に思いを向け、自分をよく収め、
心を外へ走らせないようにしなさい。

弟子と語り合うときも、
ほかの人や、別の修行者と語り合うときも、
すぐれた教えについて話しなさい。
人の仲を裂く言葉も、他人への悪口も語ってはならない。

議論を、争いにしてしまう人々がいる。
私たちは、そのような、知恵の乏しい人々をたたえない。
執着が、あちこちからその人々にまとわりつく。
彼らは、争いの中へ、心を遠くまで走らせてしまうのだ。

食べ物、住まい、寝起きの場所、
水や、衣の汚れを洗い落とすこと。
すぐれた知恵を持つ弟子は、善く歩まれた方の教えを聞き、
よく考えて、それらを用い、行うがよい。

訳注

saṅghāṭirajūpavāhana は、外衣の汚れを洗い落とすこと。「衣の汚れを洗い落とすための水」とつなげて読むこともできる。

だから、食べ物や寝起きの場所、
水や、衣の汚れを洗い落とすことに、
修行者は、染めつけられずにいなさい。
蓮の葉に置かれた、水滴のように。

今度は、家に暮らす人の務めを話そう。
どうすれば善い弟子となるか、その道を。
家族や財産を抱える人には、
出家した修行者の道を、そのまま余すところなく実現することはできない。

自ら命を奪わず、人に殺させず、
他人が殺すことにも賛同してはならない。
この世のあらゆる生き物に対して、
強いものにも、弱いものにも、武器を下ろしなさい。

もののわかる弟子は、どこにあっても、
与えられていないものを、何ひとつ取らないこと。
人に盗ませず、盗む者にも賛同せず、
与えられていないものを取ることから、すべて離れなさい。

知恵ある人は、燃えさかる炭火の穴を避けるように、
性の交わりを避けるがよい。
だが、性を慎む生活をまっとうできないなら、
他人の妻を侵してはならない。

会議の場でも、人々の集いでも、
一対一で話すときでも、うそをついてはならない。
人にうそをつかせず、うそをつくことにも賛同せず、
事実でないことを語るのを、すべて避けなさい。

この教えをよいものと認める、在家の人は、
酒を飲んではならない。
酒は、ついには心を狂わせるものだと知って、
人に飲ませず、飲むことにも賛同してはならない。

愚かな人々は、酔って悪事を働き、
ほかの人々まで酔わせて、悪事をさせる。
心を狂わせ、迷わせる、愚かな人々の好むもの。
その悪い行いのよりどころを、避けなさい。

命を奪わず、与えられていないものを取らず、
うそをつかず、酒を飲まず、
性の交わりをやめ、
夜や、定められた時を過ぎて、食べ物を食べないこと。

花飾りを身につけず、香料で飾らず、
寝床か、地面に敷いたものの上で休むこと。
これを八つの決まりを守る布薩という。
苦しみの果てに達した、目覚めた方が明らかにしたことである。

訳注

布薩は、定められた日に戒めを守って過ごす実践。ここでの寝床は、豪華な高い寝台を避けた簡素なものと理解される。食事の時刻については、出家者に倣い、正午以後の食事を控える慣習が背景にある。

月の半月ごとの、第十四日、第十五日、第八日に、
また、特に定められた精進の期間にも、
心を晴れやかにして布薩を守り、
八つの決まりを、十分にまっとうしなさい。

訳注

特別な精進の期間(pāṭihāriyapakkha)が具体的にいつを指すかは、注釈にも複数の説明がある。雨季の前後を含む月々とする説、特定の三か月とする説、通常の布薩日の前後の日とする説などがあり、一つに断定していない。

こうして布薩を守った、もののわかる人は、翌朝、
心を晴れやかにし、喜びを分かち合いながら、
食べ物や飲み物を、ふさわしい仕方で、
修行者たちの集いに分け与えるがよい。

正しい仕方で父母を養い、
正しい商いを営みなさい。
家に暮らす人が、これを怠らずに実践するなら、
自ら光り輝くという神々のもとへ生まれる。」

第十四経「ダンミカ」終わり。

第二章「小篇」終わり。

この章の経をまとめた詩――

「宝」「生臭さ」「恥じる心」、
「この上ない幸せ」と「スーチローマ」、

「教えにかなって生きる」「バラモンたちのかつての道」、
「舟」「どのように生きれば」「起き上がれ」、

さらに「ラーフラ」「ニグローダカッパ」、
そして「正しく遊行するには」、

「ダンミカ」。
知る人々は、この十四経を「小篇」と呼ぶ。

第三章 大篇

第一経 出家

眼を開いた方の出家について語ろう。
その方は、どのように家を出たのか。
何を深く考えて、
出家する道を選んだのか。

『家庭の暮らしは、窮屈で、
心のほこりがたまる場所だ。
出家の暮らしは、開けた空のようだ。』
そう見きわめて、その方は家を出た。

家を出ると、
体による悪い行いを避け、
言葉による悪い行いを捨て、
生活の糧を得る方法を清らかにした。

目覚めた方は、マガダの国のラージャガハ、
山々に囲まれた都へ行った。
すぐれた身体の特徴を数々備え、
食べ物を乞うため、そこへ向かった。

訳注

経は悟る前の出家時代を語っているが、この箇所では、語り手がその人物を buddha(目覚めた方)と呼んでいる。

ビンビサーラ王は、
宮殿から、その姿を見た。
すぐれた特徴を備えているのを見て、
次のように言った。

『皆、あの人をよく見なさい。
美しく、背が高く、清らかだ。
歩き方も整っている。
目は、わずか先の地面に向けられている。』

訳注

原文は「一つの軛ほど先」を見ると表現する。歩行中、視線を遠くへ散らさない様子。

『視線を下げ、気づきを保っている。
身分の低い家の出とは思えない。
使いの者たちよ、急いで行き、
あの修行者が、どこへ行くのか確かめなさい。』

命じられた王の使いたちは、
その後をついていった。
修行者は、どこへ行くのだろう。
どこを住まいとするのだろう。

家々を順に回り、
感覚の入口を守り、自らをよく慎み、
何をしているかを明らかに知り、気づきを保って、
その方は、ほどなく鉢を満たした。

托鉢を終えると、
聖者は都を出て、
パンダヴァ山へ向かった。
そこが、その方の住まいとなった。

住む場所へ落ち着いたのを見届けると、
三人の使いは、その場に座った。
そのうちの一人だけが戻って、
王に報告した。

『大王よ、あの修行者は、
パンダヴァ山の東側に座っています。
堂々たる虎のように、
山の洞窟にいる獅子のように。』

使いの言葉を聞くと、
王は、立派な車に乗り、
急いで、
パンダヴァ山へと出かけた。

車で行けるところまで進むと、
王は車を降り、
歩いて近づいていき、
その方のそばに座った。

王は座ると、
親しみのある挨拶を交わした。
そうした話を終えてから、
次のように語った。

『あなたは、まだ年若く、
人生の初めに立つ、青年ではないか。
顔色も体つきもすぐれ、
由緒ある王族のように見える。』

『象の軍団を先に立て、
軍勢の先頭を飾る人となってはどうか。
財産を与えよう。豊かな暮らしを楽しみなさい。
聞かせてほしい。あなたは、どのような生まれなのか。』

『王よ、この先、ヒマラヤの山のふもとに、
富と力を備えた国があります。
私たちは、
コーサラの領域に暮らす人々です。』

『家系では、太陽の裔と呼ばれ、
一族では、釈迦族と呼ばれます。
私は、その家から出家しました。
欲望の楽しみを求めているのではありません。』

『欲望の楽しみに危うさを見て、
それを離れる道こそ安らかだと見きわめました。
私は、ひたむきな修行へ向かいます。
そこに、私の心は喜びを見いだすのです。』

第一経「出家」終わり。

第二経 ひたむきな修行

「私は、ネーランジャラー河のほとりで、
ひたむきな修行に心を向け、
束縛を離れた安らぎに達するため、
力を尽くして瞑想していた。

そこへナムチが、
私を気遣うような言葉をかけながら近づいてきた。
『あなたは、ひどくやせ、顔色も悪い。
死が、すぐそばに来ている。』

訳注

ナムチは、ここではマーラの呼び名。修行を妨げる者が、相手をいたわるような口調で現れる。

『死の見込みが千もあるのに、
生きる見込みは、たった一つだ。
生きなさい。生きているほうがよい。
生きていれば、功徳を積むこともできる。』

『清らかな修行生活を送り、
火に供え物を捧げれば、
功徳は、たくさん積み重なる。
このような激しい修行をして、どうなるというのか。』

『ひたむきな修行への道は、険しい。
実行するのも、成し遂げるのも難しい。』」
こうした詩を口にしながら、
マーラは、目覚めた方のそばに立った。

そう語るマーラに、
世尊は、こう答えた。
「怠る者の友よ、悪しき者よ。
何のために、ここへ来たのか。

私には、功徳を積むことを目的とする思いは、
ほんのわずかもない。
マーラよ、功徳を必要としている者がいるなら、
その者たちに語るがよい。

私には、信頼がある。力を尽くす心もあり、
知恵もある。
これほど心を定めた私に、
なぜ、命を長らえる話を持ちかけるのか。

この風は、川の流れさえ
干上がらせることができよう。
まして、心を定めた私の血が、
どうして干上がらずにいられようか。

血が乾いていけば、
胆汁や痰も乾いていく。
肉がやせ衰えるにつれ、私の心は、いっそう澄んでいく。
気づきも、知恵も、
心の集中も、いっそう確かになる。

このように暮らし、
極限の苦痛に達した私の心は、
欲望の楽しみを求めない。
一人の者の清らかさを、見るがよい。

おまえの第一の軍勢は、欲望の楽しみ。
第二は、不満といわれる。
第三は、飢えと渇き。
第四は、渇くような欲求といわれる。

第五は、気力の鈍りと眠気。
第六は、恐れといわれる。
第七は、疑い。
第八は、人のよさを認めない心と、頑固さ。

利得、評判、もてなし、
不正に得た名声。
そして、自分を持ち上げ、
他人を見下すこと。

ナムチよ、これがおまえの軍勢だ。
暗黒の者が送り出す、攻撃の軍勢だ。
勇気のない者には、これを破れない。
だが、打ち勝てば、幸せを得る。

私は、ムンジャ草を身につけよう。
この命だけを惜しんで、どうなる。
敗れて生きるくらいなら、
戦いの中で死ぬほうがよい。

訳注

ムンジャ草を身につけるのは、退かずに戦う決意のしるしと説明される。ここでは、欲望や恐れなどを軍勢になぞらえ、マーラに屈しない姿勢が語られている。

この戦いに入り込んで、
姿を見せなくなる修行者やバラモンたちもいる。
その人々は、よく戒めを守る者たちが
進む道を知らないのだ。

旗を立てた軍勢を、四方に見渡し、
乗り物とともに戦いに備えたマーラを見て、
私は、戦いに向かって進み出る。
おまえは、私をこの場所から動かせない。

神々を含む世界も、
おまえのその軍勢には、打ち勝てない。
だが私は、知恵によって、その軍勢を打ち破ろう。
石が、焼く前の土の鉢を砕くように。

思いを自在に治め、
気づきをよく確立して、
私は国から国へと歩き、
大勢の弟子たちを導こう。

その弟子たちは、怠らず、心を定め、
私の教えを実行する。
おまえが望まなくても、彼らは進んでいく。
ひとたび達すれば、もう悲しむことのないところへ。」

「七年もの間、
私は一歩一歩、世尊の後をつけてきた。
だが、気づきを保つ、完全に目覚めた方には、
つけ入る隙を見いだせなかった。

訳注

ここからの三詩は、マーラの言葉として読まれる。

脂の塊に見える石の周りを、
一羽のカラスが、回っていた。
『何か柔らかいところが見つかるかもしれない。
おいしく味わえるかもしれない。』

だが、味わえるものは見つからず、
カラスは、そこから飛び去った。
石に出くわしたカラスのように、
私たちも、ゴータマには望みを失い、立ち去ろう。」

悲しみに打ちのめされた彼の
脇から、ヴィーナーが滑り落ちた。
その夜叉は、気落ちしたまま、
その場で姿を消した。

訳注

ヴィーナーは弦楽器。この結びでは、マーラが夜叉と呼ばれている。

第二経「ひたむきな修行」終わり。

第三経 よく語られた言葉

私はこのように聞いた。あるとき世尊は、サーヴァッティーのジェータ林にある、アナータピンディカの園に滞在していた。そこで世尊は、修行者たちに呼びかけた。
「修行者たちよ。」
「はい、世尊。」
修行者たちが答えると、世尊は語った。

「修行者たちよ、四つの条件を備えた言葉は、よく語られた言葉であり、悪く語られた言葉ではない。過ちがなく、もののわかる人々にも非難されない。四つとは何か。修行者は、よく語られたことだけを語り、悪く語られたことは語らない。道にかなうことだけを語り、道に背くことは語らない。人が喜んで受け取ることだけを語り、不快にさせることは語らない。真実だけを語り、偽りは語らない。修行者たちよ、この四つの条件を備えた言葉は、よく語られた言葉であり、悪く語られた言葉ではない。過ちがなく、もののわかる人々にも非難されない。」
世尊は、こう語った。そして、善く歩まれた師は、さらに次のように語った。

「善い人々は、よく語られた言葉を、最もすぐれているという。
道にかなうことを語り、背くことを語らない。これが第二。
喜んで受け取られることを語り、不快にさせることを語らない。これが第三。
真実を語り、偽りを語らない。これが第四である。」

すると尊者ヴァンギーサが立ち上がり、衣を片方の肩に掛け直し、世尊に向かって合掌した。
「世尊よ、言葉が浮かびます。善く歩まれた方よ、言葉が浮かびます。」
世尊は言った。
「ヴァンギーサよ、浮かんだことを語るがよい。」
そこでヴァンギーサは、世尊の前で、その場にふさわしい詩をもってたたえた。

「自分自身を苦しめず、
他人も傷つけない。
そのような言葉だけを語るがよい。
それこそが、よく語られた言葉である。

相手が喜んで受け取る、
親しみのある言葉だけを語るがよい。
悪いものを持ち込まず、
他人に向かって、温かい言葉を語るがよい。

真実こそ、滅びない言葉。
これは、古くから変わらない道である。
善い人々は、真実と、益となることと、
道にかなうことに立っている、といわれる。

目覚めた方の語る言葉は、
安らかで、涅槃への到達と、
苦しみを終わらせることに役立つ。
それこそ、言葉のうちで最もすぐれたものだ。」

第三経「よく語られた言葉」終わり。

第四経 スンダリカ・バーラドヴァージャ

私はこのように聞いた。あるとき世尊は、コーサラの国、スンダリカー河の岸に滞在していた。そのころ、バラモンのスンダリカ・バーラドヴァージャは、同じ河の岸で火に供え物を捧げ、火の祭儀に仕えていた。祭儀を終えると立ち上がり、四方を見回した。
「この供え物の残りを、誰に食べてもらおうか。」
見ると、遠くない木の根元に、世尊が頭まで衣をかぶって座っていた。そこで、左手に供え物の残りを、右手に水がめを持って、世尊に近づいた。

世尊は、スンダリカ・バーラドヴァージャの足音を聞いて、頭を覆っていた衣を外した。バラモンは、『この人は、そり落とした頭ではないか。そり頭の者ではないか』と思い、引き返そうとした。だが、考え直した。
「バラモンの中にも、頭をそる者はいる。近づいて、どんな生まれか聞いてみよう。」
そこで、世尊のもとへ行って尋ねた。
「あなたは、どのような生まれの方ですか。」

世尊は、スンダリカ・バーラドヴァージャに、詩の言葉で答えた。

「私は、バラモンではない。王族でもない。
商工農業に携わる身分の者でもなく、ほかの何者でもない。
普通の人々がいう家系のあり方を、十分に知って、
何も所有せず、知恵をもって、この世を歩んでいる。

訳注

ここでは出生に関する単なる事実確認への返答ではなく、身分や家系によって自己を定めることを離れた立場が語られる。

縫い合わせた衣をまとい、家を持たずに歩み、
髪をそり、心を深く静めている。
この世の人々に、染めつけられることもない。
バラモンよ、私に家系を問うのは、ふさわしい問いではない。」

バラモンは言った。
「ですが、私たちバラモンは、互いに、
『あなたはバラモンですか』と尋ねるものなのです。」

「あなたが、自分はバラモンで、
私はバラモンでないというのなら、
私は、あなたにサーヴィットリーを問おう。
三つの句、二十四の音節からなる、あの詩を。」

訳注

サーヴィットリーは、ヴェーダの伝承でよく知られた聖句。ここでは、その文面自体は引用されていない。

バラモンは尋ねた。
「仙人たちや、人間たち、
王族やバラモンたちは、何を頼りとして、
この世で、神々のために、さまざまな祭りを行ってきたのでしょうか。」

「祭りのとき、道の果てに達し、知のきわみに達した人が、
ある人の供え物を受け取るなら、
その供え物は実を結ぶ。
私は、そういうのだ。」

バラモンは言った。
「確かに、そういう知のきわみに達した方に出会えたなら、
供え物は実を結ぶでしょう。
あなたのような方に出会えないために、
ほかの人が、供え物の菓子を食べているのです。」

「それなら、バラモンよ、真に益となることを求めるなら、
ここへ近づいて、尋ねるがよい。
静かで、煙のような煩いがなく、苦悩も、望みへの執着もない、
すぐれた知恵ある人を、ここで見いだせるかもしれない。」

「ゴータマ殿、私は祭りを喜び、
供犠を行いたいと願っていますが、よくわかっていません。
どうか、私をお導きください。
どこに捧げれば供え物が実を結ぶのか、それを教えてください。」

「それなら、バラモンよ、耳を傾けなさい。あなたに教えを説こう。

生まれを問うな。行いを問え。
火は、木から生じるものだ。
低い家の生まれでも、心を確かに保つ聖者は、
悪を恥じる心に守られた、すぐれた人となる。

真実によって自らを調え、自制を備え、
知のきわみに達し、清らかな修行生活をまっとうした人。
功徳を望んで祭りを行うバラモンは、
ふさわしい時に、その人に供え物を渡すがよい。

欲望の楽しみを捨て、家を持たずに歩み、
自らをよく律し、織機の杼のように、まっすぐな人々。
功徳を望んで祭りを行うバラモンは、
ふさわしい時に、その人々に供え物を渡すがよい。

訳注

杼は、織物の横糸を通す道具。ここでは、曲がらないあり方のたとえに使われる。

燃える欲を離れ、感覚の働きをよく静め、
ラーフの捕らわれを抜け出た月のような人々。
功徳を望んで祭りを行うバラモンは、
ふさわしい時に、その人々に供え物を渡すがよい。

訳注

ラーフは、日や月を捕らえ、食を起こすとされた存在。月がその捕らわれを離れるという、古代のたとえ。

何にも引っかからず、この世を歩み、
いつも気づきを保ち、『私のもの』という思いを捨てた人々。
功徳を望んで祭りを行うバラモンは、
ふさわしい時に、その人々に供え物を渡すがよい。

欲望の楽しみを捨て、それに打ち勝って歩み、
生と死の終わりを知った人。
完全に静まり、深い湖のように涼やかな如来は、
供え物の菓子を受けるにふさわしい。

平らかな人々と平らかに交わり、よこしまな人々から離れ、
限りない知恵を持つ如来。
この世にも、ほかの世にも、染まらない如来は、
供え物の菓子を受けるにふさわしい。

偽りも慢心も心に住まず、
むさぼりを離れ、『私のもの』も、望みへの執着もなく、
怒りを払いのけ、心を深く静め、
悲しみの汚れを捨てたバラモン。
そのような如来は、供え物の菓子を受けるにふさわしい。

心が居着く場所を捨て、
何ひとつ、つかんで所有することがなく、
この世にも、ほかの世にも、執着しない如来は、
供え物の菓子を受けるにふさわしい。

心を一つにして激流を渡り、
最もすぐれた洞察で教えを知り、
心の汚れを尽くし、これを最後の体とする如来は、
供え物の菓子を受けるにふさわしい。

生存への執着から流れ出す汚れも、荒々しい言葉も、
払い尽くし、静め、もはや残していない人。
知のきわみに達し、あらゆるところで解放された如来は、
供え物の菓子を受けるにふさわしい。

執着を越え、何にも絡みつかず、
慢心にとらわれた人々の中で、慢心にとらわれず、
苦しみを、その育つ場所や土台ごと、十分に知った如来は、
供え物の菓子を受けるにふさわしい。

願望を頼りにせず、離れて静まる境地を見、
他人に教わっただけの見解を越え、
寄りかかる対象を何ひとつ持たない如来は、
供え物の菓子を受けるにふさわしい。

上のものも下のものも、さまざまなあり方を深く知り、
それらを払い、静め、もはや残さず、
執着の尽きたところで解放され、安らかな如来は、
供え物の菓子を受けるにふさわしい。

訳注

paroparā dhammā には、すぐれたものと劣ったもの、善いものと悪いもの、外のものと内のものなどの説明がある。心身や認識の成り立ちも含むため、善悪の行いだけには限定していない。

生まれることが尽きる果てを見て、
束縛と、燃える欲の通り道を残らず払い、
清らかで、過ちも、汚れも、傷もない如来は、
供え物の菓子を受けるにふさわしい。

自分の中に、固定した自己を見ず、
心を一つにし、まっすぐに進み、揺るがず、
欲に揺さぶられず、心のこわばりも、疑いもない如来は、
供え物の菓子を受けるにふさわしい。

迷いの入り込む隙が一つもなく、
あらゆる物事を、知によって見きわめ、
これを最後の体とし、
この上なく安らかな、完全な目覚めに達した人。
その方の清らかさは、そこにある。
そのような如来は、供え物の菓子を受けるにふさわしい。」

「そのような、知のきわみに達した方に出会えたのですから、
私の供え物が、どうか、真に捧げられたものとなりますように。
梵天も証人です。世尊よ、私の供え物をお受け取りください。
世尊よ、この菓子をお召し上がりください。」

「詩を語った報酬として得たものを、私は食べるべきではない。
バラモンよ、それは、真に見きわめる者たちの道ではない。
目覚めた人々は、詩の報酬としての食べ物を退ける。
バラモンよ、教えがあるかぎり、これが、その生き方なのだ。

だが、すべてをまっとうした偉大な仙人、
心の汚れを尽くし、悔いや落ち着かなさを静めた人には、
別の食べ物や飲み物をもって仕えるがよい。
その人こそ、功徳を望む者にとって、実りをもたらす田だからだ。」

「世尊よ、私のような者からの供え物を
受けるにふさわしい人を、よく知りたいのです。
祭りのときに、その人を探し求めることで、
あなたの教えにかなうようにしたいのです。」

「張り合う心を離れ、
心が濁らず、
欲望の楽しみから解放され、
気力の鈍りを払いのけた人。

行いを踏み外させる汚れを取り除き、
生と死をよく見きわめ、
聖者としてのあり方を備えた人。
そのような聖者が、祭りの場に来たなら、

訳注

sīmantānaṃ の意味は明瞭ではない。ここでは、善い行いの境を越えさせる心の汚れを指す、という注釈の説明を採った。注釈には、修行中の人々などを導く者とする別の説明もある。

眉をひそめる心を捨て、
手を合わせて敬いなさい。
食べ物と飲み物をもって、もてなしなさい。
そうすれば、供え物は実を結ぶ。」

「あなたは目覚めた方。供え物の菓子を受けるにふさわしい方です。
この上ない、功徳の田であり、
全世界が供養すべき方。
あなたに差し上げたものは、大きな実を結びます。」

そこでスンダリカ・バーラドヴァージャは、世尊に言った。
「すばらしいことです、ゴータマ殿。実にすばらしいことです。伏せたものを起こすように、覆われたものを開くように、道に迷った者に道を示すように、目のある人々が姿を見ることのできるよう、暗闇に油の灯を掲げるように、ゴータマ殿は、さまざまな仕方で教えを明らかにしてくださいました。私は、ゴータマ殿と、教えと、修行者たちの集いに帰依します。どうか、あなたのもとで出家し、正式に修行者となることをお許しください。」
スンダリカ・バーラドヴァージャは、それを許された。……[原文中略]……そして、阿羅漢の一人となった。

第四経「スンダリカ・バーラドヴァージャ」終わり。

第五経 マーガ

私はこのように聞いた。あるとき世尊は、ラージャガハのギッジャクータ山に滞在していた。バラモンの青年マーガが世尊を訪ね、挨拶を交わし、親しみのある言葉を述べ合ってから、かたわらに座った。そして世尊に言った。

「ゴータマ殿。私は、人に分け与え、施しを行い、求める人の声に耳を傾け、頼まれれば応じています。正しい仕方で財産を得て、そうして正しく手に入れた財産から、一人にも、二人にも、三人にも、四人にも、五人にも、六人にも、七人にも、八人にも、九人にも、十人にも、分け与えています。二十人にも、三十人にも、四十人にも、五十人にも、百人にも、それ以上の人々にも与えています。ゴータマ殿。このように与え、このように捧げる私は、多くの功徳を生んでいるのでしょうか。」

「確かに、青年よ。あなたは、そのように与え、そのように捧げることで、多くの功徳を生んでいる。人に分け与え、施しを行い、求める人の声に耳を傾け、頼まれれば応じる人が、正しい仕方で財産を得て、そうして正しく手に入れた財産から、一人にも……[原文中略]……百人にも、それ以上の人々にも与えるなら、その人は、多くの功徳を生むのだ。」
そこで青年マーガは、世尊に詩の言葉で問いかけた。

マーガは言った。
「求める声をわかってくださるゴータマ、
褐色の衣をまとい、家を持たずに歩む方に、お尋ねします。
頼まれれば応じ、施しを行う、家に暮らす者が、
功徳を求め、功徳を願って供養し、
この世で人々に食べ物や飲み物を与えるとき、
どのようにすれば、その供養は清らかになるのでしょうか。」

世尊は答えた。
「マーガよ、頼まれれば応じ、施しを行う、家に暮らす者が、
功徳を求め、功徳を願って供養し、
この世で人々に食べ物や飲み物を与えるなら、
供養にふさわしい人々を得て、その願いを満たすがよい。」

マーガは言った。
「頼まれれば応じ、施しを行う、家に暮らす者が、
功徳を求め、功徳を願って供養し、
この世で人々に食べ物や飲み物を与えるのです。
世尊よ、供養にふさわしい人々が誰なのか、教えてください。」

「何にも執着せずに、この世を歩み、
何も所有せず、すべてをまっとうし、自らを律している人々。
功徳を望んで祭りを行うバラモンは、
ふさわしい時に、その人々に供え物を渡すがよい。

あらゆる束縛の結び目を断ち、
自らを調え、解放され、苦悩も、望みへの執着もない人々。
功徳を望んで祭りを行うバラモンは、
ふさわしい時に、その人々に供え物を渡すがよい。

あらゆる束縛から自由になり、
自らを調え、解放され、苦悩も、望みへの執着もない人々。
功徳を望んで祭りを行うバラモンは、
ふさわしい時に、その人々に供え物を渡すがよい。

燃える欲と、憎しみと、迷いを捨て、
心の汚れを尽くし、清らかな修行生活をまっとうした人々。
功徳を望んで祭りを行うバラモンは、
ふさわしい時に、その人々に供え物を渡すがよい。

偽りも、慢心も、その中に住まず、
心の汚れを尽くし、清らかな修行生活をまっとうした人々。
功徳を望んで祭りを行うバラモンは、
ふさわしい時に、その人々に供え物を渡すがよい。

むさぼりを離れ、『私のもの』も、望みへの執着もなく、
心の汚れを尽くし、清らかな修行生活をまっとうした人々。
功徳を望んで祭りを行うバラモンは、
ふさわしい時に、その人々に供え物を渡すがよい。

渇くような欲求に呑み込まれず、
激流を渡り、『私のもの』という思いなく歩む人々。
功徳を望んで祭りを行うバラモンは、
ふさわしい時に、その人々に供え物を渡すがよい。

この世にも、ほかの世にも、世界のどこにも、
さまざまな生存を求める渇望がない人々。
功徳を望んで祭りを行うバラモンは、
ふさわしい時に、その人々に供え物を渡すがよい。

欲望の楽しみを捨て、家を持たずに歩み、
自らをよく律し、織機の杼のように、まっすぐな人々。
功徳を望んで祭りを行うバラモンは、
ふさわしい時に、その人々に供え物を渡すがよい。

燃える欲を離れ、感覚の働きをよく静め、
ラーフの捕らわれを抜け出た月のような人々。
功徳を望んで祭りを行うバラモンは、
ふさわしい時に、その人々に供え物を渡すがよい。

静まり、燃える欲を離れ、怒らず、
この世を去った後には、新たな行き先がない人々。
功徳を望んで祭りを行うバラモンは、
ふさわしい時に、その人々に供え物を渡すがよい。

生と死を、残らず捨て、
あらゆる疑いを渡り越えた人々。
功徳を望んで祭りを行うバラモンは、
ふさわしい時に、その人々に供え物を渡すがよい。

自分自身を島として、この世を歩み、
何も所有せず、あらゆるところで解放された人々。
功徳を望んで祭りを行うバラモンは、
ふさわしい時に、その人々に供え物を渡すがよい。

訳注

attadīpa は、自分自身を安全な島、よりどころとすること。dīpa には灯という意味もあるが、ここでは島のたとえとして訳した。

『これが最後であり、もう再び生まれることはない』と、
このことを、ここで、ありのままに知る人々。
功徳を望んで祭りを行うバラモンは、
ふさわしい時に、その人々に供え物を渡すがよい。

知のきわみに達し、瞑想を喜び、気づきを保ち、
完全な目覚めに達して、大勢の人のよりどころとなる人。
功徳を望んで祭りを行うバラモンは、
ふさわしい時に、その人に供え物を渡すがよい。」

「私の問いは、確かに、無駄ではありませんでした。
世尊は、供養にふさわしい人々を教えてくださいました。
あなたは、このことを、ありのままに知っておられます。
その教えを、確かに知っておられるのです。」

マーガは、さらに言った。
「頼まれれば応じ、施しを行う、家に暮らす者が、
功徳を求め、功徳を願って供養し、
この世で人々に食べ物や飲み物を与えるのです。
世尊よ、供養を十分なものにするには、どうすればよいか教えてください。」

世尊は答えた。
「マーガよ、供養をするなら、行うがよい。
そして、そのどの場面でも、心を晴れやかにしなさい。
供養は、それを行う人の心を支える対象となる。
そこに心を置いて、憎しみを捨てるのだ。

その人は、燃える欲を離れ、憎しみを静め、
限りのない慈しみの心を育てる。
昼も夜も、いつも怠ることなく、
あらゆる方角を、量り知れない慈しみで満たしていく。」

「どのような人が清まり、解放され、また、縛られるのでしょうか。
何によって、梵天の世界へ行くのでしょうか。
私は知りません。聖者よ、この問いにお答えください。
世尊よ、私は今日、あなたという梵天を、目の当たりにした思いです。
あなたは、まことに、私たちにとって梵天に等しい方です。
輝く方よ、どうすれば、梵天の世界に生まれるのでしょうか。」

訳注

「縛られる」(bajjhati)は原典の読みを残した。注釈では、慈しみの瞑想の境地に執着することによる束縛と説明される。「梵天を目の当たりにした」は、質問者が世尊をたたえる言葉で、別の梵天が証人として登場するという意味ではない。

世尊は答えた。
「マーガよ、三つの面で十分な供養を行い、
供養にふさわしい人々を得て、その願いを満たす人。
頼まれれば応じ、そのように正しく捧げる人は、
梵天の世界に生まれる。私は、そういうのだ。」

訳注

三つの面とは、注釈によれば、与える前、与えているとき、与えた後の三つの時に、心を澄ませ、喜びを保つこと。

こう聞いて、青年マーガは世尊に言った。
「すばらしいことです、ゴータマ殿。……[原文中略]……今日から命のあるかぎり、あなたをよりどころとして帰依します。」

第五経「マーガ」終わり。

第六経 サビヤ

私はこのように聞いた。あるとき世尊は、ラージャガハの竹林、リスの餌場に滞在していた。そのころ、遊行者サビヤは、かつて自分の血縁者だった神から、いくつかの問いを示されていた。
「サビヤよ、修行者であれバラモンであれ、あなたがこれらを尋ねて、答えてくれる人がいたら、その人のもとで、清らかな修行生活を送りなさい。」

サビヤは、その神から問いを学び取ると、修行者やバラモンたちを訪ねた。それぞれ集団を率い、その師であり、名が知られ、人々に敬われ、教団を開き、大勢の人によい師と認められている者たち、すなわちプーラナ・カッサパ、マッカリ・ゴーサーラ、アジタ・ケーサカンバラ、パクダ・カッチャーナ、サンジャヤ・ベーラッタプッタ、ニガンタ・ナータプッタである。サビヤは彼らに、その問いを尋ねた。しかし、彼らは答えられなかった。答えられないと、怒りや敵意、不満をあらわにし、かえってサビヤのほうへ問い返してきた。

そこでサビヤは考えた。
「それぞれ集団を率い、その師であり、名が知られ、人々に敬われ、教団を開き、大勢の人によい師と認められている、あの修行者やバラモンたち――プーラナ・カッサパ……[原文中略]……ニガンタ・ナータプッタも、私の問いに答えられなかった。答えられないと、怒りや敵意、不満をあらわにし、かえって私に問い返してくる。いっそ、修行をやめて、世俗の暮らしに戻り、欲望の楽しみを味わおうか。」

だが、サビヤは、こうも考えた。
「修行者ゴータマもまた、集団を率いる師であり、名が知られ、人々に敬われ、教団を開き、大勢の人によい師と認められている。ゴータマのもとへ行って、この問いを尋ねてみようか。」

それでも、サビヤにはためらいがあった。
「あの修行者やバラモンたちは、老い、年を重ね、長い人生を歩み、多くの年月を知る長老で、出家してからも久しい。それぞれ集団を率いる師であり、名が知られ、人々に敬われ、教団を開き、大勢の人によい師と認められている。プーラナ・カッサパ……[原文中略]……ニガンタ・ナータプッタ。その人々でさえ、私の問いに答えられなかった。答えられないと、怒りや敵意、不満をあらわにし、かえって私に問い返してきた。それなのに、修行者ゴータマが、これらの問いに答えられるだろうか。ゴータマは、年も若く、出家してからも、まだ新しいのだ。」

だが、サビヤは思い直した。
「修行者を、若いからといって、軽んじたり、見下したりしてはならない。若くても、ゴータマには、大きな力と、大きな威徳がある。やはり、もとへ行って、この問いを尋ねてみよう。」

こうして遊行者サビヤは、ラージャガハへ向けて旅に出た。土地を順に巡って、やがてラージャガハの竹林、リスの餌場に着き、世尊のもとへ行った。挨拶を交わし、親しみのある言葉を述べ合ってから、かたわらに座ると、詩の言葉で語りかけた。

サビヤは言った。
「疑いと迷いを抱え、
問いを尋ねたいと願って、私は来ました。
どうか、その疑いを終わらせる方となってください。
私の問いに、一つずつ、道にかなってお答えください。」

世尊は答えた。
「サビヤよ、あなたは、問いを尋ねたいと願って、
遠くから来たのだね。
私が、その疑いを終わらせよう。
あなたの問いに、一つずつ、道にかなって答えよう。

サビヤよ、私に尋ねなさい。
心にあることを、何でも。
その問いの一つ一つに、
私は、あなたのために、決着をつけよう。」

サビヤは思った。
「なんと驚くべきことだろう。なんとすばらしいことだろう。ほかの修行者やバラモンたちのもとでは、問いかける機会さえ与えてもらえなかったのに、ゴータマは、その機会を与えてくれた。」
満足し、喜び、心が高まり、うれしさに満たされて、サビヤは世尊に尋ねた。

サビヤは言った。
「何を成し遂げた人を、修行者と呼ぶのでしょうか。
何によって穏やかな人といい、どのような人を自らを調えた人というのでしょうか。
また、どのようにして、目覚めた人と呼ばれるのでしょうか。
世尊よ、この問いに、お答えください。」

訳注

この経では、人のすぐれたあり方を示す呼称を問い、その語の響きに重ねて修行上の意味を説く。語の歴史的な語源を説明する辞書的な定義とは異なる。

世尊は答えた。
「サビヤよ、自ら歩んだ道によって、
完全な涅槃に達し、疑いを渡り越え、
消滅にも、生存にも、執着を残さず、
修行をまっとうして、再び生まれることを尽くした人が、修行者である。

あらゆるところで偏りなく見守り、気づきを保ち、
世界中の誰をも傷つけず、
流れを渡った修行者として、心が濁らず、
心を高ぶらせるもののない人が、穏やかな人である。

内にも外にも、世界のどこに対しても、
感覚の働きをよく育て、
この世と、ほかの世を見通して、静かに時を待つ人。
そのように自らを育てた人が、自らを調えた人である。

心が作り上げる思いを、残らず調べ、
死んでは生まれる、その両側を含む輪廻を見きわめ、
ほこりも汚れもなく、清らかになって、
生まれることの尽きたところに達した人を、目覚めた人という。」

訳注

kappa は、この箇所の注釈では、渇望や見解によって組み立てる考えを指す。長い時間を表す「劫」とは訳していない。

サビヤは、世尊の言葉を喜び、賛同した。満足し、喜び、心が高まり、うれしさに満たされて、さらに世尊に尋ねた。

サビヤは言った。
「何を成し遂げた人を、バラモンと呼ぶのでしょうか。
何によって沙門といい、どのような人を沐浴を終えた人というのでしょうか。
また、どのようにして、ナーガと呼ばれるのでしょうか。
世尊よ、この問いに、お答えください。」

訳注

沙門は、世俗の暮らしを離れて道を求める修行者。ナーガは、象や蛇などを指すほか、すぐれた力を備えた人の称号にもなる。ここでは、その人物像が問われている。

世尊は答えた。
「サビヤよ、あらゆる悪を払いのけ、
汚れなく、心をよく集中し、自分を確かに保ち、
輪廻を越え、すべてをまっとうし、
何にも寄りかからない、そのような人がバラモンと呼ばれる。

静まり、功徳も悪も手放し、
この世と、ほかの世を知って、ほこりを離れ、
生と死を越えた人。
そのように実際になった人が、沙門と呼ばれる。

内にも外にも、世界のどこにあっても、
あらゆる悪を洗い落とし、
神々や人々が思いを作り上げる中で、それに入り込まない人。
その人を、沐浴を終えた人という。

この世で、何ひとつ罪を犯さず、
あらゆる結びつきと束縛を解き放ち、
どこにも執着せず、解放された人。
そのように実際になった人が、ナーガと呼ばれる。」

それから遊行者サビヤは、……[原文中略]……さらに世尊に尋ねた。

サビヤは言った。
「目覚めた人々は、誰を、領域に打ち勝った人というのでしょうか。
何によって巧みな人といい、どのような人を賢い人というのでしょうか。
また、どのようにして、聖者と呼ばれるのでしょうか。
世尊よ、この問いに、お答えください。」

世尊は答えた。
「サビヤよ、あらゆる領域、
神々の領域、人間の領域、梵天の領域を調べ、
それらすべての領域に根ざす束縛から解放された人。
そのように実際になった人が、領域に打ち勝った人と呼ばれる。

あらゆる蓄えの蔵、
神々の蔵、人間の蔵、梵天の蔵を調べ、
それらすべての蔵に根ざす束縛から解放された人。
そのように実際になった人が、巧みな人と呼ばれる。

訳注

「蔵」(kosa)は、注釈では、さまざまな生存を生み出す善悪の行いの蓄えと説明される。また、生きるものや経験を収める鞘のような領域とする説明もある。「巧みな」(kusala)という語に響きを重ねている。

清らかな知恵によって、
内と外の両方にある、感覚の領域を調べ、
黒い行いも、白い行いも越えた人。
そのように実際になった人が、賢い人と呼ばれる。

訳注

第一の対は内側と外側の感覚の領域であり、後の「黒と白」は悪い行いと功徳を生む行い。前者の paṇḍara(白い、清らかな)と paṇḍita(賢い)にも音の重なりがある。

内にも外にも、世界のあらゆるところで、
悪い人々と善い人々のあり方を知り、
神々や人間に敬われ、
執着の網を越えた人が、聖者である。」

それから遊行者サビヤは、……[原文中略]……さらに世尊に尋ねた。

サビヤは言った。
「何を成し遂げた人を、知のきわみに達した人と呼ぶのでしょうか。
何によって深く知った人といい、どのような人を力強く励む人というのでしょうか。
また、どのようにして、生まれのよい駿馬のような人と呼ばれるのでしょうか。
世尊よ、この問いに、お答えください。」

世尊は答えた。
「サビヤよ、この世の修行者やバラモンたちの
知と教説を、残らず調べ、
あらゆる感受への欲を離れ、
知とされるものすべてを越えた人が、知のきわみに達した人である。

内にも外にもある、病の根本、
思いが増殖することと、心身の成り立ちを、深く調べ、
あらゆる病の根にある束縛から解放された人。
そのように実際になった人が、深く知った人と呼ばれる。

訳注

papañca(思いの増殖)は、注釈では渇望・慢心・見解と説明される。nāmarūpa(名と形)は心身の成り立ち。注釈は、この二つを挙げ、前者が後者を条件づけると説明する。

この世で、あらゆる悪をやめ、
地獄の苦しみを越えた人が、力強く励む人である。
その人は、力を尽くし、ひたむきに修行する。
そのように実際になった人が、賢い勇者と呼ばれる。

内にも外にもある、執着の根にある束縛を刈り取り、
あらゆる執着の根の束縛から、
解放された人。
そのように実際になった人が、生まれのよい駿馬のような人と呼ばれる。」

それから遊行者サビヤは、……[原文中略]……さらに世尊に尋ねた。

サビヤは言った。
「何を成し遂げた人を、よく学んだ人と呼ぶのでしょうか。
何によって聖なる人といい、どのような人を実践を備えた人というのでしょうか。
また、どのようにして、遊行者と呼ばれるのでしょうか。
世尊よ、この問いに、お答えください。」

世尊は答えた。
「サビヤよ、この世にある、過ちのあるものも、ないものも、
あらゆる教えを聞き、直接に知り、
それを越え、疑いなく、解放され、
どこにあっても苦悩のない人を、よく学んだ人という。

心の汚れと、しがみつく場所を断ち、
知る人となって、再び胎に宿ることなく、
三つの思いと、欲望の泥を払いのけ、
渇望や見解を組み立てることへ向かわない人を、聖なる人という。

訳注

三つの思いは、注釈の説明に沿えば、欲望・敵意・加害に関わる思い。「向かわない」は kappaṃ na eti という否定の読み方。

この世で実践すべきことを成し遂げ、
巧みに、いつも教えを理解し、
解放された心で、どこにも執着せず、
反感のない人が、実践を備えた人である。

上にも下にも、横にも、その間にも、
苦しみを実らせる行いがあれば、それを追い払い、
十分に知って歩み、偽り、慢心、むさぼり、怒りを払い、
心身の成り立ちを、終わりに至らせた人。
その、なすべきことを成し遂げた人を、遊行者という。」

訳注

原文は paribbājayitvā(追い払い、立ち去らせて)と paribbājaka(遊行者)の響きを重ねる。単に各地を歩く人ではなく、苦しみを生むものを離れた人として説明している。

サビヤは、世尊の言葉を喜び、賛同した。満足し、喜び、心が高まり、うれしさに満たされて立ち上がり、上衣を片方の肩に掛け直した。そして、世尊に向かって合掌し、その面前で、ふさわしい詩をもってたたえた。

「豊かな知恵ある方よ、修行者たちの論説に寄りかかり、
言葉で示した認識に頼る、
三つと六十、合わせて六十三の立場を退け、
あなたは、激流を渡り越えました。

訳注

原文は六十三と数える。注釈は、ほかの経で数えられる六十二の見解に、心身を自己と見る見解を加えると説明するが、ここでは原文の数を変えていない。

あなたは苦しみの果てに達し、向こう岸に渡った方。
供養にふさわしく、完全に目覚めた方です。心の汚れを尽くした方だと、私は思います。
輝き、思慮を備え、豊かな知恵を持つ方よ。
あなたは私を、苦しみを終わらせるところへ渡らせてくださいました。

私が疑っていたことを見抜き、
疑いから渡らせてくださった、あなたを敬います。
聖者よ、聖者の道を成し遂げ、心のこわばりのない方。
太陽の末裔よ、あなたは穏やかな方です。

眼を開いた方よ、以前、私にあった疑いを、
あなたは解いてくださいました。
あなたは、確かに聖者であり、完全に目覚めた方です。
あなたには、心を覆う妨げがありません。

あなたのあらゆる苦悩は、
打ち砕かれ、取り除かれました。
熱を冷まし、自分を調えきり、
心を確かに保ち、真実へ向かって力強く進む方です。

すぐれた者の中でもすぐれた、大いなる勇者である
あなたがお話しになると、
すべての神々が喜び、
ナーラダとパッバタの二人も喜びます。

人の中の駿馬のような方よ、あなたを敬います。
人の中で最もすぐれた方よ、あなたを敬います。
神々を含むこの世界に、
あなたに並ぶ人はいません。

あなたは、目覚めた方。あなたは、師。
あなたは、マーラに打ち勝った聖者です。
心の奥に潜む煩いを断ち、自ら渡り越え、
生きる者の一人である私をも、渡らせてくださいました。

訳注

末句は、原典の maṃ pajaṃ を「私という生きる者」と取った。「この人々」とつなげて読む伝本上の区切り方もある。

執着のよりどころを越え、
心の汚れを打ち砕いた方。
何もつかまず、
恐れも、おののきも捨てた獅子のような方です。

美しい白蓮が、
水に染まらないように、
あなたは、功徳と悪との
どちらにも染まりません。
勇者よ、足をお伸ばしください。
サビヤは、師の足もとに礼をいたします。」

サビヤは、世尊の足もとに頭をつけて、こう言った。
「すばらしいことです、世尊。……[原文中略]……私は、世尊と、教えと、修行者たちの集いに帰依します。世尊よ、あなたのもとで出家し、正式に修行者となることをお許しください。」

「サビヤよ、以前、ほかの教えに従っていた人が、この教えと戒律のもとで出家し、正式に修行者となりたいと望む場合は、四か月の試住期間を過ごす。四か月がたち、修行者たちがその人に納得すれば、出家を認め、正式に修行者として受け入れる。ただし、この点で人それぞれに違いがあることを、私は知っている。」

「世尊よ、以前、ほかの教えに従っていた人が、この教えと戒律のもとで出家し、正式に修行者となるため、四か月の試住期間を過ごし、その後、修行者たちが納得して受け入れるのでしたら、私は、四年の試住期間を過ごします。四年がたち、修行者たちが納得してくださったら、どうか、出家を認め、正式に修行者としてお受け入れください。」
こうしてサビヤは、世尊のもとで出家を許され、正式に修行者となった。……[原文中略]……そして尊者サビヤは、阿羅漢の一人となった。

第六経「サビヤ」終わり。

第七経 セーラ

私はこのように聞いた。あるとき世尊は、千二百五十人もの修行者の大きな集いとともに、アンガの北方を巡り、アーパナという町に着いた。
髪を束ねた修行者ケーニヤは、その話を聞いた。
「釈迦族の子であり、釈迦族の家から出家した修行者ゴータマが、千二百五十人もの修行者の大きな集いとともに、アンガの北方を巡り、アーパナに来たそうだ。そのゴータマには、すばらしい評判が広まっている。『あの世尊は、供養にふさわしい方、正しく完全に目覚めた方、知と実践を備えた方、善く歩まれた方、世界を知る方、導かれるべき人を導く、この上ない御者、神々と人間の師、目覚めた方、世尊である』と。神々、マーラ、梵天を含むこの世界、修行者やバラモン、神々や人間のいるこの世を、自ら直接に知り、確かめたうえで説いている。初めもよく、中もよく、終わりもよい教えを、意味も言葉も備えて説き、何ひとつ欠けることのない、清らかな修行生活を明らかにしている。そのような、供養にふさわしい方にお会いするのは、よいことだ。」

ケーニヤは世尊のもとへ行き、挨拶を交わし、親しみのある言葉を述べ合ってから、かたわらに座った。世尊は、教えにかなう話によって、ケーニヤに道を示し、実践へ促し、励まし、喜ばせた。そうして導かれたケーニヤは、世尊に言った。
「ゴータマ殿、明日、修行者の皆さんとご一緒に、私の食事をお受けください。」
世尊は答えた。
「ケーニヤよ、修行者の集いは大きい。千二百五十人もいる。それに、あなたはバラモンたちに厚い信頼を寄せているではないか。」

ケーニヤは、もう一度お願いした。
「ゴータマ殿、修行者の集いが千二百五十人と大きく、私がバラモンたちに厚い信頼を寄せているとしても、どうか、明日、皆さんとご一緒に、私の食事をお受けください。」
世尊は、二度目にも同じように答えた。
「ケーニヤよ、修行者の集いは大きい。千二百五十人もいる。それに、あなたはバラモンたちに厚い信頼を寄せているではないか。」

ケーニヤは、三度目のお願いをした。
「ゴータマ殿、修行者の集いが千二百五十人と大きく、私がバラモンたちに厚い信頼を寄せているとしても、どうか、明日、皆さんとご一緒に、私の食事をお受けください。」
世尊は、沈黙によって承諾した。ケーニヤは、承諾を得たとわかると立ち上がり、自分の庵へ戻った。そして、友人、仲間、親族、血縁の人々に呼びかけた。
「皆さん、聞いてください。私は、修行者ゴータマと修行者の皆さんを、明日の食事にお招きしました。準備を手伝ってください。」
「承知しました。」
人々はそう答えて、ある者は、かまどにする穴を掘り、ある者は薪を割り、ある者は器を洗い、ある者は水がめを据え、ある者は座る場所を整えた。ケーニヤ自身は、円形の会堂を準備した。

そのころ、アーパナには、バラモンのセーラが住んでいた。三つのヴェーダをきわめ、語彙を説くニガンドゥ、詩文の作法を説くケートゥバ、音韻や語の分析、第五とされる古伝承にも通じていた。語句に明るく、文法に詳しく、論争の学ローカーヤタと、大人物の身体的な特徴についての学にも欠けるところがなかった。三百人の青年に聖句を教えていた。

訳注

三つのヴェーダはリグ、ヤジュル、サーマ。注釈は、古伝承が「第五」であるのは、第四にアタルヴァ・ヴェーダを数えるためと説明する。ケートゥバの学問分野には異説があり、ここでは注釈の詩文作法という説明に沿った。ローカーヤタを後代の特定の唯物論と同一視してはいない。

ケーニヤは、そのセーラに厚い信頼を寄せていた。セーラは、三百人の青年に囲まれて散歩をしているうちに、ケーニヤの庵へ来た。見ると、ある者は、かまどの穴を掘り、……[原文中略]……ある者は座る場所を整え、ケーニヤ自身は円形の会堂を準備している。そこでセーラは尋ねた。
「ケーニヤ殿、花嫁を迎えるのですか。それとも、お嫁に出すのですか。あるいは、大きな祭りの準備でしょうか。それとも明日、軍を率いるマガダのビンビサーラ王を、軍勢とともにお招きしているのですか。」

「セーラ殿、花嫁を迎えるのでも、お嫁に出すのでもありません。明日、マガダのビンビサーラ王を軍勢とともに招いているのでもありません。ですが、大きな供養の準備をしています。釈迦族の子であり、釈迦族の家から出家した修行者ゴータマが、千二百五十人もの修行者の大きな集いとともに、アンガの北方を巡り、アーパナに来られました。そのゴータマには……[原文中略]……『目覚めた方、世尊である』という評判があります。その方と修行者の皆さんを、明日の食事にお招きしたのです。」
「ケーニヤ殿、今、目覚めた方と、おっしゃいましたか。」
「セーラ殿、目覚めた方と申しました。」
「ケーニヤ殿、目覚めた方と、おっしゃるのですね。」
「セーラ殿、目覚めた方と申しているのです。」

セーラは考えた。
「目覚めた方という、その言葉さえ、この世では、めったに聞けない。私たちの聖典には、大人物の三十二の特徴が伝えられている。それを備えた大人物の行く道は、二つだけで、ほかにはない。家にとどまれば、正しい道によって四方に勝利し、国土を安定させ、七つの宝を備えた、法にかなう転輪王となる。その七つの宝とは、輪の宝、象の宝、馬の宝、宝珠の宝、女性の宝、家長の宝、そして第七の、指揮する者の宝である。その王には、勇敢で、勇者の気質を持ち、敵軍を打ち破る息子が千人以上いる。そして、海に囲まれたこの大地を、暴力も武器も使わず、正しい道によって治めて暮らす。だが、家を離れ、住まいを持たない出家の身となれば、供養にふさわしく、正しく完全に目覚め、この世の覆いを取り払った方となる。」
セーラは尋ねた。
「ケーニヤ殿、その、供養にふさわしく、正しく完全に目覚めたゴータマは、今、どこにおられますか。」

訳注

転輪王は、輪の宝を象徴とし、世界を正しく治める王という古代インドの理想像。この段落は、セーラが信じている伝承として語られる。

ケーニヤは、右腕を上げて指し示した。
「セーラ殿、あの、青々と木々の連なるあたりです。」
セーラは三百人の青年とともに、世尊のもとへ向かった。途中、青年たちに言った。
「皆、足音を立てず、一歩ずつ静かに来なさい。あのような尊い方々には、ひとりで歩く獅子のような、近寄りがたい威厳がある。私が修行者ゴータマと話している間は、口を挟んではいけない。私の話が終わるまで待っていなさい。」

セーラは世尊のもとへ行き、挨拶を交わし、親しみのある言葉を述べ合ってから、かたわらに座った。そして、世尊の体に、大人物の三十二の特徴があるか調べた。二つを除いて、そのほとんどが見られた。だが、男根が鞘のような覆いに収まっていることと、舌が非常に大きいこと、この二つについては、疑いが残り、確信を持てなかった。

世尊は、こう知った。
「このセーラは、私に大人物の三十二の特徴があるのを、二つを除いて見ている。男根が覆いに収まっていることと、舌が非常に大きいことについて、疑いが残り、確信を持てないのだ。」
そこで世尊は、セーラが、男根が覆いに収まっているのを見られるよう、神通力による現れを起こした。次に舌を出し、両方の耳の穴に触れ、両方の鼻の穴に触れ、さらに、額全体を舌で覆った。

セーラは考えた。
「修行者ゴータマは、大人物の三十二の特徴を、欠けることなく備えている。だが、目覚めた方なのかどうかは、まだわからない。私は、年老いたバラモンの師たちや、その師たちが、こう語るのを聞いた。『供養にふさわしく、正しく完全に目覚めた方々は、自分の長所が語られると、自分が何者かを明らかにする』と。それなら、ゴータマの面前で、ふさわしい詩によってたたえてみよう。」
そこでセーラは、世尊の面前で、ふさわしい詩をもってたたえた。

「世尊よ、あなたは体がよく整い、明るく輝き、
生まれつきすぐれ、見目も麗しく、
肌は黄金の色をし、
歯はよく白く、力にあふれています。

すぐれた生まれの人に備わる
しるしである、
大人物の特徴がすべて、
あなたの体にあります。

澄んだ目、美しい顔、
堂々として、まっすぐな体、威厳ある輝き。
修行者の集いの中で、
あなたは太陽のように輝いています。

修行者よ、あなたは見目麗しく、
肌は黄金のようです。
これほど、すぐれた姿の方が、
なぜ、修行者の身でいるのでしょう。

あなたこそ、王となるにふさわしい。
転輪王、戦車を駆る者たちの雄、
四方に勝利し、
ジャンブの大地を治める王に。

訳注

ジャンブの大地は、ジャンブ樹に由来する名で呼ばれた、人間の住む大陸。古代インドの世界観に基づく名称。

富を持つ王族の王たちを、
あなたに従わせなさい。
王の上に立つ王、人々の主として、
ゴータマよ、国を治めてください。」

世尊は答えた。
「セーラよ、私は王である。
この上ない、教えの王である。
私は、正しい道によって輪を回す。
誰にも引き戻せない輪を。」

バラモンのセーラは言った。
「あなたは、完全に目覚めた方、
この上ない、教えの王であると名乗り、
『正しい道によって輪を回す』と、
ゴータマよ、そう語られるのですね。

では、あなたの将軍は誰ですか。
師に従う、その弟子は誰ですか。
あなたが回し始めた教えの輪を、
誰が、引き続き回していくのですか。」

世尊は答えた。
「セーラよ、私が回し始めた、
この上ない教えの輪を、
サーリプッタが、引き続き回していく。
如来に倣って育った者として。

知るべきことは、知り終えた。
育てるべきことは、育て終えた。
捨てるべきものは、捨て終えた。
だから、バラモンよ、私は目覚めた者なのである。

バラモンよ、私への疑いを静め、
信頼を定めなさい。
完全に目覚めた人々に、
たびたび出会えるものではない。

この世には、そうたびたび現れない、
その完全に目覚めた者が、
バラモンよ、この私である。
心に刺さった矢を抜く、この上ない者である。

清らかな者となり、比べるものもなく、
マーラの軍勢を打ち破り、
あらゆる敵を制して、
どこからの恐れもなく、私は喜んでいる。」

「皆さん、聞きなさい。
眼を開いた方が、どのように語られるかを。
矢を抜く、大いなる勇者が、
森の獅子のように、声を響かせている。」

「清らかな者となり、比べるものもなく、
マーラの軍勢を打ち破った方。
その方を見て、誰が信頼を抱かずにいられよう。
低い生まれとされる者でさえ、そうなのだ。

訳注

kaṇhābhijātika は、注釈では、当時、低い身分とされた家の生まれを指す。肌の色を表す言葉としては訳していない。

私についてきたい者は、ついてくるがよい。
望まない者は、去るがよい。
私は、この場で、
すぐれた知恵ある方のもとに出家する。」

「先生が、正しく完全に目覚めた方の教えのもとに
入ることを望まれるのなら、
私たちも、すぐれた知恵ある方のもとに
出家いたします。」

「世尊よ、この三百人のバラモンが、
手を合わせて、お願いしています。
私たちは、あなたのもとで、
清らかな修行生活を送りたいのです。」

世尊は答えた。
「セーラよ、清らかな修行生活は、よく説き示されている。
自ら確かめられ、実りを先延ばしにしない道である。
怠らずに学ぶ者にとって、
そこでの出家は、無駄にならない。」

訳注

「実りを先延ばしにしない」(akālika)は、注釈では、悟りへの道が成就すれば、それに続く実りまで時間を置かないこと。修行を始めれば即座にすべてが成就する、という約束ではない。

こうしてセーラは、弟子たちとともに、世尊のもとで出家を許され、正式に修行者となった。
その夜が明けると、ケーニヤは、自分の庵に上等な食べ物を整えさせ、世尊に時刻を知らせた。
「ゴータマ殿、時間になりました。食事の用意ができました。」
世尊は午前、身支度を整え、鉢と衣を持って、ケーニヤの庵へ行った。そして修行者たちとともに、用意された席に座った。

ケーニヤは、目覚めた方を先頭とする修行者の集いに、自らの手で上等な食べ物を配り、皆が満足するまで、十分にもてなした。世尊が食事を終え、鉢から手を離すと、ケーニヤは低い席を一つ取り、かたわらに座った。世尊は、次の詩によって、その善い行いを喜びたたえた。

「祭りでは、火への供儀が先に立ち、
詩句では、サーヴィットリーが先に立つ。
人間たちでは、王が先に立ち、
川々では、海が先に立つ。

星々では、月が先に立ち、
輝くものでは、太陽が先に立つ。
功徳を願って供養する人々には、
修行者たちの集いこそ、最もすぐれた供養の相手である。」

世尊は、これらの詩でケーニヤの善い行いを喜びたたえると、席を立ち、去っていった。
それから、尊者セーラとその弟子たちは、人々から離れ、ひとり静かに、怠らず、熱心に、心を定めて暮らした。ほどなく、……[原文中略]……セーラとその弟子たちは、阿羅漢となった。

尊者セーラは弟子たちとともに、世尊のもとへ行った。衣を片方の肩に掛け直し、世尊に向かって合掌して、詩の言葉で語りかけた。

「眼を開いた方よ、私たちが、
あなたをよりどころとして訪れてから、今日で八日目です。
世尊よ、七夜のうちに、私たちは、
あなたの教えのもとで、自らを調えることができました。

あなたは、目覚めた方。あなたは、師。
あなたは、マーラに打ち勝った聖者です。
心の奥に潜む煩いを断ち、自ら渡り越え、
ここにいる私たちを、渡らせてくださいました。

執着のよりどころを越え、
心の汚れを打ち砕いた方。
何もつかまず、
恐れも、おののきも捨てた獅子のような方です。

この三百人の修行者が、
手を合わせて立っています。
勇者よ、足をお伸ばしください。
すぐれた修行者たちが、師の足もとに礼をいたします。」

第七経「セーラ」終わり。

第八経 矢

この世で、人の命には、
いつ終わるという確かなしるしもなく、先もわからない。
苦労が多く、短く、
しかも、苦しみと結びついている。

生まれた者を、死なずにすませる
方法は、どこにもない。
老いに至っても、行き着くのは死である。
生きるものは、そのような性質を持っている。

熟した果実には、
朝にも落ちかねない危うさがある。
それと同じく、生まれた人間には、
いつも、死ぬ危うさがある。

陶工が作った
土の器が、
すべて、ついには壊れるように、
人の命も、そのようなものである。

若い人も、年を重ねた人も、
愚かな人も、賢い人も、
皆、死の支配に入る。
皆、死へと行き着く。

死にとらえられ、
あの世へと去っていく人を、
父が子を守ろうとしても、
親族が親族を守ろうとしても、引き止められない。

見なさい。親族たちが見守り、
さまざまに泣き叫ぶ、そのただ中でも、
人は、一人ずつ、連れ去られていく。
屠り場へ引かれていく牛のように。

このように、世界は、
死と老いに打ちのめされている。
だから賢い人々は、世の成り行きを知って、
悲しみに呑まれない。

その人が、どの道を通って来て、
どの道を通って去ったのか、あなたは知らない。
その両端を見ないまま、
あなたは、かなわぬことを嘆いている。

もし、泣き悲しみ、
心を乱して自らを苦しめることで、
何か得るものがあるのなら、
もののわかる人も、そうするだろう。

だが、泣くことや悲しむことでは、
心の安らぎには達しない。
苦しみは、いっそう増し、
体も傷んでしまう。

自分で自分を苦しめ、
やせ、顔色も悪くなる。
それによって、亡くなった人を守れるわけではない。
嘆いても、その願いはかなわない。

悲しみを手放さない人は、
さらに苦しみを受ける。
亡くなった人を嘆き続けるうちに、
悲しみの支配に入ってしまう。

ほかの人々も、去っていくのを見なさい。
それぞれの行いに応じたところへ行く人々を。
ここに生きるものたちは、
死の支配に入り、もがいている。

人が、こうなるはずだと思っても、
物事は、そこから別の姿になる。
別れとは、そのようなものだ。
世の成り行きを、見るがよい。

たとえ百年生きても、
それより長く生きても、
人は親族の集いから離れ、
この世の命を手放す。

だから、道をまっとうした方の教えを聞いて、
嘆きを静めるがよい。
亡くなり、去っていった人を見て、
『私には、この人を取り戻すことはできない』と。

燃え上がった家を、
水で消すように、
賢く、知恵があり、ものごとに巧みな人は、
湧き上がった悲しみを、速やかに払い落とすがよい。
風が、綿毛を吹き散らすように。

自分の幸せを求めるなら、
嘆き、しがみつく願い、心の憂いという、
自分自身に刺さった矢を、
抜き去るがよい。

矢を抜き、何にも寄りかからず、
心の安らぎに達した人は、
あらゆる悲しみを越えて、
悲しみなく、静まった人となる。

第八経「矢」終わり。

第九経 ヴァーセッタ

私はこのように聞いた。あるとき世尊は、イッチャーナンガラの森に滞在していた。そのころ、この町には、チャンキー、タールッカ、ポッカラサーティ、ジャーヌッソーニ、トーデッヤなど、名の知られた裕福なバラモンが大勢住んでいた。ある日、二人のバラモンの青年、ヴァーセッタとバーラドヴァージャが散歩をしていると、こんな話になった。
「人は、どういうわけでバラモンとなるのだろう。」

バーラドヴァージャは言った。
「母方でも父方でも、よい家の生まれであり、血筋が清らかで、父祖の七代前まで、生まれについて非難も汚点もない。それによって、バラモンとなるのだ。」

ヴァーセッタは言った。
「よい行いを守り、なすべき務めを十分に行う。それによって、バラモンとなるのだ。」
だが、バーラドヴァージャはヴァーセッタを納得させられず、ヴァーセッタもバーラドヴァージャを納得させられなかった。

そこでヴァーセッタは言った。
「バーラドヴァージャよ、釈迦族の子であり、釈迦族の家から出家した修行者ゴータマが、このイッチャーナンガラの森に滞在している。そのゴータマには、『あの方は……[原文中略]……目覚めた方、世尊である』という、すばらしい評判が広まっている。さあ、ゴータマのもとへ行こう。そして、このことを尋ねよう。ゴータマが答えてくださったとおりに、受け止めることにしよう。」
「そうしよう。」
バーラドヴァージャは、そう答えた。

二人は世尊のもとへ行き、挨拶を交わし、親しみのある言葉を述べ合ってから、かたわらに座った。そしてヴァーセッタが、詩の言葉で語りかけた。

「私たちは二人とも、
三つのヴェーダを修めた者として認められ、自らもそう名乗っています。
私はポッカラサーティの弟子、
こちらの青年は、タールッカの弟子です。

三つのヴェーダを学ぶ者に伝えられることは、
私たちは、すべて身につけています。
語句に明るく、文法に詳しく、
聖句の読誦では、師たちに劣りません。

ゴータマよ、その私たちが、
生まれについての考えで、争っています。
バーラドヴァージャは、生まれによってバラモンになるといい、
私は、行いによってなるといいます。
眼を開いた方よ、この事情をお知りください。

私たちは二人とも、
互いを納得させられません。
そこで、完全に目覚めた方と名高い、
あなたに尋ねに来ました。

人々が、欠けたところのない月に向かい、
手を合わせて、
礼をして敬うように、
この世の人々は、ゴータマを敬っています。

この世に現れた眼である、ゴータマにお尋ねします。
生まれによって、バラモンになるのでしょうか。
それとも、行いによってなるのでしょうか。
わからずにいる私たちに、バラモンをどう見きわめるか、お教えください。」

世尊は答えた。
「ヴァーセッタよ、あなたがたに、
生き物の種類の違いを、一つずつ、ありのままに説こう。
それぞれの種類には、互いに違いがある。

草や木を見てみなさい。
それらが、自分は何だと名乗るわけではないが、
それぞれに、その種類に応じた特徴がある。
種類ごとに、互いに違うのだ。

次に、虫や、飛び跳ねる虫を、
小さな虫や蟻に至るまで、見てみなさい。
それぞれに、その種類に応じた特徴がある。
種類ごとに、互いに違うのだ。

四つ足の動物も、
小さなもの、大きなものを、見てみなさい。
それぞれに、その種類に応じた特徴がある。
種類ごとに、互いに違うのだ。

腹を足のようにして進む、
背の長い蛇たちも、見てみなさい。
それぞれに、その種類に応じた特徴がある。
種類ごとに、互いに違うのだ。

次に、水の中で生まれ、
水の中を住みかとする魚たちも、見てみなさい。
それぞれに、その種類に応じた特徴がある。
種類ごとに、互いに違うのだ。

次に、翼を乗り物として、
空を行く鳥たちも、見てみなさい。
それぞれに、その種類に応じた特徴がある。
種類ごとに、互いに違うのだ。

それらの生き物には、
種類による特徴が、さまざまにある。
だが人間には、そのように、生まれの身分ごとに
別の種類だと示す、さまざまな特徴はない。

髪にも、頭にも、
耳にも、目にも、
口にも、鼻にも、
唇にも、眉にも。

首にも、肩にも、
腹にも、背にも、
腰にも、胸にも、
股のあたりにも、生殖器にも。

訳注

末尾の二語は、体の部位を並べる文脈に沿って訳した。後の語 methuna を、性の交わり方と解する読みもある。

手にも、足にも、
指にも、爪にも、
すねにも、ももにも、肌の色にも、声にも、
ほかの生き物の種類のような、
生まれの身分を区切る特徴はない。

人間には、一人一人の体に、
そのような違いは存在しない。
人間の間に区分が語られるのは、
人々が決めた呼び名によるのだ。

人間のうちの誰であれ、
牛を飼うことで暮らしを立てるなら、
ヴァーセッタよ、こう知りなさい。
その人は農民であり、バラモンではない。

人間のうちの誰であれ、
さまざまな手仕事の技で暮らすなら、
ヴァーセッタよ、こう知りなさい。
その人は職人であり、バラモンではない。

人間のうちの誰であれ、
物を売買することで暮らしを立てるなら、
ヴァーセッタよ、こう知りなさい。
その人は商人であり、バラモンではない。

人間のうちの誰であれ、
人に使われて暮らすなら、
ヴァーセッタよ、こう知りなさい。
その人は雇われて働く者であり、バラモンではない。

人間のうちの誰であれ、
与えられていないものを取って暮らすなら、
ヴァーセッタよ、こう知りなさい。
その人は盗人であり、バラモンではない。

人間のうちの誰であれ、
武器を使うことで暮らしを立てるなら、
ヴァーセッタよ、こう知りなさい。
その人は兵士であり、バラモンではない。

人間のうちの誰であれ、
祭儀を執り行うことで暮らすなら、
ヴァーセッタよ、こう知りなさい。
その人は祭司であり、バラモンではない。

人間のうちの誰であれ、
村や国から収益を受けて暮らすなら、
ヴァーセッタよ、こう知りなさい。
その人は王であり、バラモンではない。

私は、母の胎から生まれた、その生まれだけで、
人をバラモンとは呼ばない。
何かを所有し、それにとらわれているなら、
『君よ』と呼びかけるだけの者である。
何も所有せず、何もつかまない人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

訳注

『君よ』は bho の訳。ここでは、バラモン特有の呼びかけを口にすることと、真に清らかな生き方をすることとが対比されている。

あらゆる束縛を断ち、
もはや、おびえることなく、
執着を越え、つながれなくなった人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

縛り帯も、革ひもも、
結び目の付いた縄も断ち、
かんぬきを取り払い、目覚めた人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

訳注

束縛を解くたとえ。注釈は、帯を恨み、革ひもを渇望、縄を見解、結び目をその潜在的な傾向、かんぬきを無知に重ねて説明する。

ののしられ、打たれ、縛られても、
敵意を抱かず、耐える人。
忍耐を力とし、その力を軍勢とする人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

怒らず、務めを守り、
行いを整え、思い上がらず、
自らを調え、これを最後の体とする人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

蓮の葉の上の水のように、
針の先の、からし種のように、
欲望の楽しみに、染みつかない人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

まさに、この生において、
自分の苦しみが尽きたことを知り、
重荷を下ろし、束縛を離れた人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

深い知恵があり、思慮に富み、
道であるものと、道でないものとを見きわめ、
この上ない目的に達した人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

家に暮らす人々とも、家を持たない修行者とも、
どちらとも、もつれ合わず、
居場所にしがみつかず、求めるものの少ない人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

弱い生き物にも、強い生き物にも、
武器を下ろし、
自ら殺さず、人にも殺させない人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

敵意ある人々の中で、敵意なく、
武器を取る人々の中で、静まり、
つかみ取る人々の中で、何もつかまない人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

燃える欲、憎しみ、
慢心、人のよさを認めない心が、
針の先から、からし種が落ちるように、落ちた人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

荒々しくなく、意味のよく伝わる、
真実の言葉を語り、
その言葉で、誰も傷つけない人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

長いものでも、短いものでも、
小さいものでも、大きいものでも、美しくても、そうでなくても、
この世で、与えられていないものを取らない人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

この世にも、
ほかの世にも、求める望みがなく、
期待への執着も、束縛も離れた人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

しがみつく場所がなく、
確かに知って、疑いを離れ、
死を超えた境地に深く入った人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

この世で、功徳と悪、
その両方への執着を越え、
悲しみなく、ほこりを離れ、清らかな人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

月のように、汚れなく、清らかで、
よく澄みわたり、濁らず、
生存に喜びを求める心を尽くした人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

この泥道、この険しい道、
輪廻と迷いを越え、
流れを渡り、向こう岸に達して瞑想する人。
欲に揺さぶられず、疑いなく、
何もつかまず、静まった人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

この世で欲望の楽しみを捨て、
家を持たずに遊行し、
欲望と、再び生まれることを尽くした人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

この世で渇くような欲求を捨て、
家を持たずに遊行し、
渇望と、再び生まれることを尽くした人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

人間の世界へのつながりを捨て、
天上の世界へのつながりも越え、
あらゆるつなぎ止めるものを離れた人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

楽しみに浮かれる心も、不満も捨て、
熱を冷まし、執着のよりどころなく、
全世界に打ち勝った勇者。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

生きるものたちの死と、
再び生まれることとを、余すところなく知り、
執着なく、善く歩み、目覚めた人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

訳注

原典の ttānaṃ は語の一部が欠けたように見える。他のパーリ語伝本および『ダンマパダ』419の並行句にある sattānaṃ(生きるものたちの)によって意味を取った。

神々も、天の楽人ガンダッバも、
人間も、その行き先を知ることができず、
心の汚れを尽くし、供養にふさわしい人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

過去にも、未来にも、
その間にも、自分のものとして抱えるものがなく、
何も所有せず、何もつかまない人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

雄牛のように力強く、最もすぐれた勇者、
偉大な仙人、勝利を遂げた人。
欲に揺さぶられず、汚れを洗い落とし、目覚めた人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

かつての生存を知り、
天上も、苦しい境涯も見て、
さらに、生まれることの尽きたところに達した人。
私は、その人をバラモンと呼ぶ。

この世の名や家系は、
人々が定めた呼び名にすぎない。
互いの取り決めから生じて、
あちこちで、そのように名づけられているのだ。

ものごとを知らない人々の中には、
この見解が、長い間、深く根を下ろしている。
知らないまま、その人々はいう。
『生まれによって、バラモンとなる』と。

生まれによって、バラモンとなるのではない。
生まれによって、バラモンでない者となるのでもない。
行いによって、バラモンとなる。
行いによって、バラモンでない者となる。

行いによって、農民となる。
行いによって、職人となる。
行いによって、商人となる。
行いによって、雇われて働く者となる。

行いによって、盗人ともなり、
行いによって、兵士ともなる。
行いによって、祭司となり、
行いによって、王ともなる。

ものごとが条件によって生じることを見て、
行いの実りをよく知る賢い人々は、
このように、行いを、
ありのままに見きわめている。

行いによって世界は動き、
行いによって人々は動く。
生きるものは、行いに結びつけられている。
進む車が、軸の留め金につながれているように。

自分を鍛え、清らかな修行生活を送り、
慎み、自らを調える。
それによって、バラモンとなる。
これこそ、最もすぐれたバラモンのあり方である。

三つの明らかな知を備え、
安らかで、再び生まれることを尽くした人。
ヴァーセッタよ、こう知りなさい。
知る人々にとって、その人は、梵天であり、サッカにも等しい。」

訳注

冒頭の「三つのヴェーダ」と対照的に、ここでの三つの知は、過去の生存を知ること、生きるものの死と再生を見通すこと、心の汚れの尽滅を知ること。末句は、知恵ある人々がその人物を最上の者とみなす賛辞で、梵天やサッカに生まれ変わるという記述ではない。

こう聞いて、二人の青年ヴァーセッタとバーラドヴァージャは、世尊に言った。
「すばらしいことです、ゴータマ殿。……[原文中略]……私どもを、今日から命のあるかぎり、あなたをよりどころとして帰依する在家の弟子とお認めください。」

第九経「ヴァーセッタ」終わり。

第十経 コーカーリカ

私はこのように聞いた。あるとき世尊は、サーヴァッティーのジェータ林にある、アナータピンディカの園に滞在していた。修行者コーカーリカが訪ねてきて、世尊に礼をし、かたわらに座った。そして言った。
「世尊よ、サーリプッタとモッガラーナは、悪い欲を持ち、その欲の言いなりになっています。」

世尊は、コーカーリカに言った。
「そう言ってはならない、コーカーリカよ。そう言ってはならない。二人に対して、心を澄ませ、信頼を持ちなさい。サーリプッタとモッガラーナは、行いのよい人たちだ。」

コーカーリカは、二度目にも、……[原文中略]……さらに三度目にも、世尊に言った。
「世尊よ、私は、あなたを信頼し、頼りとしています。それでも、サーリプッタとモッガラーナは、やはり悪い欲を持ち、その欲の言いなりになっているのです。」
世尊は、三度目にも言った。
「そう言ってはならない、コーカーリカよ。そう言ってはならない。二人に対して、心を澄ませ、信頼を持ちなさい。サーリプッタとモッガラーナは、行いのよい人たちだ。」

コーカーリカは立ち上がり、世尊に礼をし、右側を世尊に向けたまま回って、立ち去った。去ってから間もなく、その全身に、からし種ほどの腫れ物が出た。腫れ物は、からし種ほどから緑豆ほどに、緑豆ほどからエンドウ豆ほどに、エンドウ豆ほどからナツメの種ほどに、ナツメの種ほどからナツメの実ほどに、ナツメの実ほどからアーマラカの実ほどになった。さらに、アーマラカの実ほどから未熟なベルヴァの実ほどに、そこからビルヴァの実ほどに大きくなり、ついには破れて、膿と血が流れ出た。コーカーリカは、その病で命を終えた。そして、サーリプッタとモッガラーナに敵意を抱いたため、死後、パドゥマ地獄に生まれた。

訳注

アーマラカやベルヴァ、ビルヴァは、腫れ物の大きさをたとえる果実名。この経は、害意を持った非難の結果を、病と死後の苦しみの物語として描いている。

その夜も更けたころ、梵天サハンパティが、美しい輝きでジェータ林全体を照らしながら、世尊のもとへ来た。世尊に礼をし、かたわらに立って言った。
「世尊よ、修行者コーカーリカは亡くなりました。サーリプッタとモッガラーナに敵意を抱いたため、死後、パドゥマ地獄に生まれました。」
サハンパティは、そう告げると、世尊に礼をし、右側を向けたまま回って、その場で姿を消した。

夜が明けると、世尊は修行者たちに語った。
「修行者たちよ、昨夜、夜も更けたころ、梵天サハンパティが……[原文中略]……このように告げた。そして、私に右側を向けて回り、その場で姿を消したのだ。」

すると、一人の修行者が尋ねた。
「世尊よ、パドゥマ地獄で過ごす命の長さは、どれほどなのでしょうか。」
「修行者よ、パドゥマ地獄で過ごす命は長い。何年、何百年、何千年、何十万年と数えて、簡単に示せるものではない。」
「では、たとえでお示しいただけますか。」
「たとえでなら、示せる。」
世尊は、こう語った。

「修行者よ、コーサラの量りで二十カーリ分の、ごまの山があるとしよう。そこから、ある人が、百年たつたびに、ごまを一粒ずつ取り出す。そのやり方でも、アブダ地獄の一期間が尽きるより先に、ごまの山は、すっかりなくなってしまう。
アブダ地獄の二十期間が、ニラブダ地獄の一期間に当たる。
ニラブダ地獄の二十期間が、アババ地獄の一期間に当たる。
アババ地獄の二十期間が、アハハ地獄の一期間に当たる。
アハハ地獄の二十期間が、アタタ地獄の一期間に当たる。
アタタ地獄の二十期間が、クムダ地獄の一期間に当たる。
クムダ地獄の二十期間が、ソーガンディカ地獄の一期間に当たる。
ソーガンディカ地獄の二十期間が、ウッパラカ地獄の一期間に当たる。
ウッパラカ地獄の二十期間が、プンダリーカ地獄の一期間に当たる。
プンダリーカ地獄の二十期間が、パドゥマ地獄の一期間に当たる。
修行者よ、コーカーリカは、サーリプッタとモッガラーナに敵意を抱いたため、そのパドゥマ地獄に生まれたのだ。」
世尊は、こう語った。そして、善く歩まれた師は、さらに次のように語った。

訳注

カーリは穀物を量る古い単位。量は地域や伝承によって異なるため、現代の容量に換算していない。

「人は、生まれると、
その口に、斧が生まれる。
愚かな者は、悪い言葉を語り、
その斧で、自分自身を切ってしまう。

非難すべき者をほめ、
ほめるべき者を非難する人は、
自分の口で、不幸を積み集める。
その不幸のために、安らぎを得られない。

さいころの賭けで財産を失い、
持ち物のすべてと、自分の身まで失ったとしても、
その不幸は、まだ小さい。
善く歩む人々に、心の敵意を向けるなら、
その不幸のほうが、はるかに大きい。

悪い言葉と、悪い心を定めて、
聖なる人々を非難する者が、地獄にとどまるのは、
十万と三十六のニラブダ、
さらに、五つのアブダという長さである。

訳注

巨大な期間の数え方は注釈の読み方に従い、十万三十六ニラブダと五アブダとした。数詞の係り方には別の解釈もある。現代の年数へは換算していない。

事実でないことを語る者は、地獄へ行く。
行ったのに、『私はしていない』という者も同じだ。
卑しい行いをした、その二人は、
死後、あの世で、同じありさまになる。

敵意を抱かない人、
清らかで、汚れのない人に敵意を向けるなら、
悪は、その愚かな者自身に戻ってくる。
風に逆らって投げた、細かなほこりのように。

むさぼりの糸に絡め取られた者は、
言葉で他人をののしる。
信頼なく、物惜しみし、人の求めにも応じず、
けちで、人の仲を裂く言葉にふける。

口のよこしまな者、うそつき、卑しい者よ。
幸いを壊す者、悪人、悪事を働く者よ。
人のうちで最も低い者、災いを招く、不肖の子よ。
ここで言葉を重ねるな。おまえは、地獄へ落ちる者なのだから。

訳注

この詩は、非難をやめない者への厳しい呼びかけ。「不肖の子」は、注釈では、目覚めた方の教えに背いた弟子を指す。「うそつき」は vibhūta の、この箇所での注釈の意味に従った。

罪を犯す者よ、安らかな人々を非難して、
自分を害するほこりを、振りまいている。
多くの悪い行いを重ねた後、
おまえは、長い間、深みへと落ちていく。

誰の行いも、消えてなくなるわけではない。
行ったことは戻り、その主は、必ず、その実りを受け取る。
罪を犯した愚かな者は、あの世で、
苦しみを、わが身に見ることになる。

訳注

原典の eti hataṃ には語の区切り方に難しさがある。注釈に従い、行った者が自分の行いの結果を受け取る意味に読んだ。行いが「破壊される」とは取っていない。

鉄の杭で打たれる場所、
鋭い刃の鉄の槍へ、その者は行く。
そこで与えられる食べ物も、
熱した鉄の塊に似た、その場所にふさわしいものだ。

そこにいる獄卒は、優しい言葉を語らず、
親しく近づきもせず、助けるために来るのでもない。
罪人たちは、敷き詰められた炭火の上に横たわり、
燃え盛る炎の中に入る。

訳注

前半の主語は、注釈に従い、地獄の番人とした。逃げようとする罪人たちの動作としては読んでいない。

網に包まれ、
そこで、鉄の槌で打たれる。
そして、目も見えない暗闇へ入っていく。
その闇は、霧のように、広く立ちこめている。

さらに、燃え盛る炎に包まれた、
鉄の釜の中へ入る。
炎そのもののように熱い、その釜の中で、
長い間、浮き沈みしながら煮られる。

膿と血の混じったものの中でも、
罪を犯した者は、煮られる。
どちらの方向へ体を向けても、
触れるたびに、苦しみを受ける。

訳注

この詩と次の詩の tattha kiṃ は、注釈に従い、疑問文ではなく「そこで」という意味に取った。

虫のすみかとなった液体の中で、
罪を犯した者は、煮られる。
岸へ行く道などない。
周囲は、どこも同じ釜の壁なのだから。

鋭い剣を葉とする森へ入れば、
体は、あちこち切り裂かれる。
舌は釣り針でつかまれ、
引き回され、繰り返し打ちつけられる。

さらに、渡り難いヴェータラニー河、
鋭い刃、剃刀の刃のようなところへ行く。
悪事を働いた愚かな者たちは、
そこで、落ちていく。

泣き叫ぶ者たちを、
黒い犬や、斑の犬、カラスの群れが食らい、
犬や、ジャッカルがむさぼり、
猛禽やカラスが、突きつつく。

罪を犯した人が、そこで受ける暮らしは、
なんと苦しいことだろう。
だから人は、この世に命が残っている間に、
なすべきことを行い、怠ってはならない。

パドゥマ地獄の期間をたとえる、ごまの山は、
知る人々によって、このように数えられている。
五コーティのナフタ、
さらに、千二百コーティである。

訳注

ナフタ(nahuta、那由他)とコーティ(koṭi、倶胝)は大きな数の単位。これは前の比喩にある「ごまの山」が何山分かという数であり、そのまま年数ではない。

ここに語られた地獄は、これほど苦しく、
そこには、これほど長くとどまることになる。
だから、清らかで、行いがよく、善い性質を備えた人々に対して、
いつも、自分の言葉と心を慎んで守るがよい。」

第十経「コーカーリカ」終わり。

第十一経 ナーラカ

昼の静かなひととき、仙人アシタは見た。
三十三天の神々が、喜びに満たされ、
天帝サッカも、清らかな衣をまとった神々も、
布を手に取って、大いにたたえているのを。

神々の心が喜び、高まっているのを見て、
アシタは、敬意を込めて、こう尋ねた。
「神々の集いは、なぜ、これほど晴れやかなのか。
何があって、布を手に取り、喜び楽しんでいるのか。

アスラとの戦いがあり、
神々が勝ち、アスラが敗れたときでさえ、
これほど、身の毛のよだつほどの喜びはなかった。
神々よ、どんな驚くべきものを見て、喜んでいるのか。

歓声を上げ、歌い、楽器を奏で、
腕をたたき、踊っているではないか。
メール山の頂に住む、あなたがたに尋ねよう。
尊い方々よ、どうか早く、私の疑いを解いてほしい。」

「比べるもののない、すぐれた宝である菩薩が、
人々の益と幸せのため、人間の世界に生まれました。
釈迦族の土地、ルンビニーの村に。
だから私たちは喜び、これほど晴れやかなのです。

訳注

菩薩は、ここでは、後に完全な目覚めに達する、生まれたばかりのゴータマを指す。

その方は、あらゆる生き物の中で最もすぐれた人、
人の中の雄牛、すべての人々にまさる方となります。
仙人の名を持つ森で、教えの輪を回すでしょう。
獣たちを圧する、力強い獅子が、声を響かせるように。」

訳注

仙人の名を持つ森は、最初の説法の地とされるイシパタナを指すと理解される。

その言葉を聞くと、アシタは急いで下り、
スッドーダナの宮殿へ入った。
そこで座り、釈迦族の人々に言った。
「お子は、どこにおられる。私も、お会いしたい。」

釈迦族の人々は、アシタという名の仙人に、
その幼子を見せた。
巧みな職人が炉でよく鍛えた、黄金のように輝き、
すばらしい姿と、幸いの光にきらめく、その子を。

幼子は、燃え上がる炎のように、
空を行く、清らかな星々の王である月のように、
秋の雲から出た、輝く太陽のように見えた。
その姿を見て、アシタには、大きな喜びが湧き上がった。

多くの骨を備え、千もの円い飾りを付けた傘を、
神々が、空中で支えていた。
黄金の柄の払子が、行き交って揺れる。
だが、傘や払子を持つ者の姿は見えなかった。

訳注

傘の円い飾りは、注釈では赤金の円盤と説明される。払子は、房状の毛を付けた柄のある道具。

淡い色の毛布の上にある、金の飾りのような幼子を見て、
また、その頭上に白い傘が支えられているのを見て、
髪を束ねた、カンハシリとも呼ばれる仙人は、
心を高ぶらせ、喜んで、その子を抱き取った。

訳注

カンハシリは、ここではアシタを指す別の呼び名。

釈迦族のすぐれた子を抱き取った仙人は、
そのしるしを見きわめようとした。彼は、身体の特徴を読む聖典をきわめていた。
そして、晴れやかな心で、声を上げた。
「この子は、この上ない者となる。二本の足で歩む者のうち、最もすぐれた者となる。」

ところが、自分が去る時を思うと、
仙人の顔は曇り、涙が流れた。
釈迦族の人々は、その涙を見て尋ねた。
「この子に、何か不幸が起こるのでしょうか。」

心を曇らせた人々を見て、仙人は言った。
「この子に不幸があると思って泣くのではない。
この子に災いが起こるのでもない。
並の子ではないのだ。皆、心を強く持ちなさい。

この子は、完全な目覚めの頂に達するだろう。
この上なく清らかに見通し、大勢の人の益を思ってあわれみ、
教えの輪を回すだろう。
その清らかな修行の道は、広く伝わるだろう。

だが、私には、この世に残された命が、もう長くはない。
その前に、私は命を終えることになる。
比べる者のない方の教えを、私は聞けないのだ。
それで私は、つらく、失うことを悲しみ、苦しんでいる。」

清らかな修行生活を送る仙人は、
釈迦族の人々に、大きな喜びをもたらして、宮殿を出た。
そして、自分の甥をあわれみ、
比べる者のない方の教えへと、その心を向けさせた。

「『目覚めた方が現れ、完全な悟りに達して、
教えの道を開いている』と、人から聞いたときは、
その方のもとへ行き、教えを尋ね、
その世尊のもとで、清らかな修行生活を送りなさい。」

自分の益を願い、未来を、この上なく清らかに見通す
そのような方から教えを受け、
すでに功徳を積み重ねていたナーラカは、
感覚の働きを守り、勝利を遂げる方を待ちながら暮らした。

すぐれた勝者が教えの輪を回したという評判を聞くと、
ナーラカは訪ねていき、仙人たちの雄を見て信頼を抱いた。
アシタの言葉どおりの時が来たので、
聖者の道において最もすぐれた、その方に尋ねた。

この経のいきさつを語る詩、終わり。

「アシタの語った、あの言葉が、
真実だったとわかりました。
ゴータマよ、あらゆる教えの向こう岸に達した
あなたに、お尋ねします。

家を持たない暮らしに入り、
托鉢によって生きたいと望む者のために、
聖者よ、どうかお教えください。
聖者のあり方という、この上ない境地を。」

世尊は答えた。
「あなたに、聖者の道を説こう。
行うのも、達するのも、難しい道だ。
さあ、これから話そう。
自分をしっかりと保ち、揺るがずにいなさい。

村でののしられても、敬われても、
同じように受け止めなさい。
心に敵意が生まれないよう守り、
安らかに、思い上がらずに歩みなさい。

森の炎のように、
さまざまな姿で現れる女性たちが、聖者を誘う。
そうした人々の中で、
誘惑に引き込まれてはならない。

性の交わりをやめ、
高いものも、低いものも、欲望の楽しみを捨て、
弱い生き物にも、強い生き物にも、
敵意も、執着も抱かないようにしなさい。

私がそうであるように、この者たちもそうなのだ。
この者たちがそうであるように、私もそうなのだ。
自分を相手に重ね合わせて、
自ら殺さず、人にも殺させないようにしなさい。

普通の人々がしがみついている、
欲しがる心と、むさぼりを捨て、
眼を開いて実践し、
この深い穴を、渡り越えなさい。

腹を満たしすぎず、食べる量をわきまえ、
求めるものを少なくし、むさぼらないようにしなさい。
いつも、欲による飢えを離れ、
欲しがることなく、静まった人でありなさい。

食べ物を乞い歩いた後は、
森へ向かいなさい。
聖者は、木の根元に身を置き、
そこで席に着く。

賢い人は、瞑想に心を向け、
森での暮らしを喜ぶがよい。
木の根元で瞑想し、
自らの内を、深い満足で満たすがよい。

そして夜が明けたなら、
村へ向かいなさい。
村からの招待や、
持ってこられる贈り物を、待ち望んではならない。

聖者は村へ来ても、
家々で、せかせか振る舞ってはならない。
食べ物を求めながらも、おしゃべりをやめ、
何かを手に入れようとする、作為のある言葉を語ってはならない。

『もらえた。それでよい。』
『もらえなかった。それでもよい。』
どちらの場合も、心を変えず、
その人は、木のもとへ戻っていく。

鉢を手にして歩くときは、
話せても、話せないかのように静かにしていなさい。
施しが少なくても軽んじず、
与えてくれる人を見下してはならない。

修行者の説いた実践には、
高いものも、低いものもある。
同じ道によって、二度、向こう岸に行くのではないが、
ただ一度だけで尽きるとも、いわれてはいない。

訳注

この二行は難解だが、注釈は、同じ悟りの道で二度涅槃へ達するのではなく、かといって一段階だけで全煩悩がなくなるのでもない、と説明する。四段階の道に沿う解釈を採った。

広がり絡みつく欲がなく、
その流れを断った修行者。
なすべきことも、なすべきでないことも捨て去った人には、
心を焼く熱はない。

訳注

この句は、注釈では善と不善をともに捨てたという意味に取る。修行をまっとうした人の境地を述べている。

あなたに、聖者の道を説こう。
剃刀の刃に向き合うように、慎重でありなさい。
舌を上あごに押しつけ、
食欲を慎むがよい。

訳注

剃刀のたとえは、注釈では、刃に付いた蜜をなめるとき舌を傷つけぬようにする慎重さに重ね、生活を支える品を用いる際の自制を説くものとされる。刃を用いた行為を実際に勧める文ではない。

心を沈ませず、
かといって、あれこれ考えすぎず、
生臭い悪を離れ、何にも寄りかからず、
清らかな修行生活を、行く道としなさい。

ひとりで座ることと、
修行者として瞑想に励むことを学びなさい。
ひとりでいることが、聖者のあり方と説かれている。
ひとりでいることを、心から楽しめるなら、
あなたは、十方に輝くだろう。

訳注

samaṇūpāsana は、修行者に親しみ仕えることとも読めるが、この箇所の注釈は、瞑想の対象に取り組み、心を煩いから離す実践と説明する。ここでは前後の独住と瞑想の教えに沿い、この読みを採った。

瞑想し、欲望の楽しみを捨てた、
賢い人々の言葉を聞いて、
私に従う者は、
悪を恥じる心と、信頼を、いっそう育てるがよい。

川の流れを、見て知りなさい。
谷や、裂け目を流れる水を。
小さな流れは、音を立てて行く。
大きな水は、静かである。

満ちていないものは、音を立てる。
満ちたものは、静かである。
愚かな人は、半分しか入っていない水がめのよう。
賢い人は、水をたたえた深い湖のようだ。

修行者が、多くのことを語るとしても、
それが、意味を備え、益に結びついているなら、
その人は、知ったうえで教えを説き、
知ったうえで、多くを語っているのだ。

だが、知っていて、自らを慎み、
知っていても、多くを語らない人。
その聖者は、聖者の静けさにふさわしい。
その聖者は、聖者の静けさに達している。」

第十一経「ナーラカ」終わり。

第十二経 二つの側面を観る

私はこのように聞いた。あるとき世尊は、サーヴァッティーの東園、ミガーラの母の楼閣に滞在していた。その日は十五日の布薩の日で、満月の夜だった。世尊は、修行者の集いに囲まれて、屋外に座っていた。静かにしている修行者たちを見渡し、こう呼びかけた。

「修行者たちよ、もし、こう尋ねる人がいたとしよう。『善く、聖なるもので、迷いから抜け出させ、完全な目覚めへ導く教えを、あなたがたは、何のために聞くのか』と。その人には、こう答えるがよい。『二つの側面を持つものごとを、ありのままに知るためです』と。では、どのような二つの側面をいうのか。

一、『これが苦しみであり、これが苦しみの生じるもとである』と観る。これが第一の観察である。『これが苦しみの止むことであり、これが苦しみの止むところへ至る道である』と観る。これが第二の観察である。修行者たちよ、このように、二つの側面を正しく観ながら、怠らず、熱心に、心を定めて暮らす修行者には、二つの実りのどちらかが期待できる。この生での完全な知、または、なお執着のよりどころが残る場合には、もはやこの世へ戻らない境地である。」

訳注

完全な知は阿羅漢の悟り、この世へ戻らない境地は不還を指す。

世尊は、こう語った。そして、善く歩まれた師は、さらに次のように語った。

「苦しみを知らず、
苦しみが生じるもとを知らず、
苦しみが、すべて、残りなく止むところを知らず、
苦しみの静まるところへ行く、その道を知らない人々は、

心の解放を欠き、
知恵による解放も欠いている。
苦しみを終わらせることができず、
再び、生と老いへ向かう。

だが、苦しみを知り、
苦しみが生じるもとを知り、
苦しみが、すべて、残りなく止むところを知り、
苦しみの静まるところへ行く、その道を知る人々は、

心の解放を備え、
知恵による解放も備えている。
苦しみを終わらせることができ、
再び、生と老いへは向かわない。」

二、「修行者たちよ、もし、『ほかの見方でも、二つの側面を正しく観ることができますか』と尋ねる人がいたなら、『できます』と答えるがよい。では、どのようにか。『どのような苦しみが生じるとしても、それはすべて、執着のよりどころを条件としている』と観る。これが第一の観察である。『執着のよりどころが、残りなく離れ、止むなら、苦しみは生じない』と観る。これが第二の観察である。このように正しく……[原文中略]……」
さらに、師は次のように語った。

「この世にある、どのような形の苦しみも、
執着のよりどころをもとに生じる。
知らないまま、それを作り上げる愚かな人は、
繰り返し、苦しみを受ける。
だから、苦しみの生まれるもとを観察し、知る人は、
執着のよりどころを、作らないようにするがよい。」

三、「修行者たちよ、もし、『ほかの見方でも、二つの側面を正しく観ることができますか』と尋ねる人がいたなら、『できます』と答えるがよい。では、どのようにか。『どのような苦しみが生じるとしても、それはすべて、無知を条件としている』と観る。これが第一の観察である。『無知が、残りなく離れ、止むなら、苦しみは生じない』と観る。これが第二の観察である。このように正しく……[原文中略]……」
さらに、師は次のように語った。

「生と死の輪廻を、
繰り返し進む人々が、
この生から、ほかの生へと移る。
その歩みをもたらすのは、無知なのである。

無知こそ、この大きな迷いであり、
それによって、長い間、さすらい続けてきた。
だが、明らかな知に達した人々は、
再び生まれることへは、向かわない。」

四、「ほかの見方でも……[原文中略]……では、どのようにか。『どのような苦しみが生じるとしても、それはすべて、意志による形成の働きを条件としている』と観る。これが第一の観察である。『形成の働きが、残りなく離れ、止むなら、苦しみは生じない』と観る。これが第二の観察である。このように正しく……[原文中略]……」
さらに、師は次のように語った。

訳注

saṅkhāra(行)は、ここでは、生存を形づくる意志的な働きを指す。単に日常の動作すべてをいうのではない。

「どのような苦しみが生じるとしても、
それはすべて、形成の働きを条件としている。
形成の働きが止むことによって、
苦しみは、生じなくなる。

苦しみが、形成の働きを条件とする、
その危うさを知り、
あらゆる形成の働きが静まり、
ものをとらえる認識が止むことによって、
苦しみが尽きるのだと、
このことを、ありのままに知って、

正しく見、知のきわみに達した賢い人々は、
正しく理解して、
マーラの束縛に打ち勝ち、
再び生まれることへは、向かわない。」

五、「ほかの見方でも……[原文中略]……では、どのようにか。『どのような苦しみが生じるとしても、それはすべて、意識を条件としている』と観る。これが第一の観察である。『意識が、残りなく離れ、止むなら、苦しみは生じない』と観る。これが第二の観察である。このように正しく……[原文中略]……」
さらに、師は次のように語った。

「どのような苦しみが生じるとしても、
それはすべて、意識を条件としている。
意識が止むことによって、
苦しみは、生じなくなる。

苦しみが、意識を条件とする、
その危うさを知り、
意識が静まることによって、修行者は、
欲による飢えを離れ、完全に静まる。」

六、「ほかの見方でも……[原文中略]……では、どのようにか。『どのような苦しみが生じるとしても、それはすべて、感覚の接触を条件としている』と観る。これが第一の観察である。『感覚の接触が、残りなく離れ、止むなら、苦しみは生じない』と観る。これが第二の観察である。このように正しく……[原文中略]……」
さらに、師は次のように語った。

訳注

接触(phassa、触)は、身体の接触だけでなく、感覚器官・対象・それを知る意識が出会うことを指す。

「接触に圧倒され、
生存の流れに従い、
誤った道を進む人々には、
束縛の尽きるところは、遠い。

だが、接触を十分に知り、
確かな理解によって、静まりを喜ぶ人々は、
接触のあり方を、見きわめることによって、
欲による飢えを離れ、完全に静まる。」

七、「ほかの見方でも……[原文中略]……では、どのようにか。『どのような苦しみが生じるとしても、それはすべて、快・苦などを感じることを条件としている』と観る。これが第一の観察である。『そうした感受が、残りなく離れ、止むなら、苦しみは生じない』と観る。これが第二の観察である。このように正しく……[原文中略]……」
さらに、師は次のように語った。

訳注

感受(vedanā、受)は、快、苦、どちらでもない感じを指す。喜怒哀楽などの感情全体とは区別される。

「楽であっても、苦であっても、
苦でも楽でもないものであっても、
内にあっても、外にあっても、
どのような感じであっても、

それは苦しみであり、当てにならず、壊れていくものだと知り、
接触するたびに、それが消えていくのを見る。
そのように、そこにあるものを理解する。
感受の尽きることによって、修行者は、
欲による飢えを離れ、完全に静まる。」

八、「ほかの見方でも……[原文中略]……では、どのようにか。『どのような苦しみが生じるとしても、それはすべて、渇くような欲求を条件としている』と観る。これが第一の観察である。『渇望が、残りなく離れ、止むなら、苦しみは生じない』と観る。これが第二の観察である。このように正しく……[原文中略]……」
さらに、師は次のように語った。

「渇望を道連れにして、
長い間、さすらう人は、
この生から、ほかの生へと移り、
輪廻を越えることができない。

渇望が苦しみを生むという、
その危うさを知り、
修行者は、渇望を離れ、何もつかまず、
気づきを保って歩むがよい。」

九、「ほかの見方でも……[原文中略]……では、どのようにか。『どのような苦しみが生じるとしても、それはすべて、つかんで離さない執着を条件としている』と観る。これが第一の観察である。『執着が、残りなく離れ、止むなら、苦しみは生じない』と観る。これが第二の観察である。このように正しく……[原文中略]……」
さらに、師は次のように語った。

「執着を条件として、生存が起こり、
生じた者は、苦しみを受ける。
生まれた者には、死がある。
これが、苦しみの生じるもとである。

だから賢い人々は、執着を尽くし、
正しく理解して、
生まれることの尽きるところを、直接に知り、
再び生まれることへは、向かわない。」

十、「ほかの見方でも……[原文中略]……では、どのようにか。『どのような苦しみが生じるとしても、それはすべて、行いを起こそうとする働きを条件としている』と観る。これが第一の観察である。『その働きが、残りなく離れ、止むなら、苦しみは生じない』と観る。これが第二の観察である。このように正しく……[原文中略]……」
さらに、師は次のように語った。

訳注

ārambha は、取りかかること、努力、企てなどを意味する。ここでは注釈に沿い、業を生み出す行いと結びついた努力を指すと読んだ。すべての活動をやめるよう命じる文としては取っていない。

「どのような苦しみが生じるとしても、
それはすべて、行いを起こそうとする働きを条件としている。
その働きが止むことによって、
苦しみは、生じなくなる。

苦しみが、その働きを条件とする、
その危うさを知り、
行いを起こそうとする働きを、すべて手放し、
それのないところで、解放される。

生存を求める渇望を断ち切り、
心を静めた修行者には、
生まれ続ける輪廻は、尽きている。
その人に、再び生まれることはない。」

十一、「ほかの見方でも……[原文中略]……では、どのようにか。『どのような苦しみが生じるとしても、それはすべて、生存を支える糧を条件としている』と観る。これが第一の観察である。『その糧が、残りなく離れ、止むなら、苦しみは生じない』と観る。これが第二の観察である。このように正しく……[原文中略]……」
さらに、師は次のように語った。

訳注

糧(āhāra、食)は、食べ物だけでなく、接触・意志・意識を含む四種として説明される。生存を生み、支えるものを観察する文脈であり、単純な断食の指示ではない。

「どのような苦しみが生じるとしても、
それはすべて、生存を支える糧を条件としている。
その糧が止むことによって、
苦しみは、生じなくなる。

苦しみが、糧を条件とする、
その危うさを知り、
あらゆる糧のあり方を、十分に理解し、
そのどれにも、寄りかからない。

病のない境地を正しく理解し、
心の汚れを尽くして、
よく考えてものを用い、教えに立つ、知のきわみに達した人は、
もはや、何者だという分類には入らない。」

訳注

最後の saṅkhyaṃ は、神や人間などの名称による分類を指すという注釈の読み方。数を計算しない、という意味ではない。

十二、「ほかの見方でも……[原文中略]……では、どのようにか。『どのような苦しみが生じるとしても、それはすべて、欲に動かされる心の揺れを条件としている』と観る。これが第一の観察である。『その揺れが、残りなく離れ、止むなら、苦しみは生じない』と観る。これが第二の観察である。このように正しく……[原文中略]……」
さらに、師は次のように語った。

訳注

iñjita は動揺、動きを指す。注釈では渇望・慢心・見解など、業を生む働きに関わる動揺とされる。体を一切動かさない、という意味には取っていない。

「どのような苦しみが生じるとしても、
それはすべて、心の揺れを条件としている。
その揺れが止むことによって、
苦しみは、生じなくなる。

苦しみが、心の揺れを条件とする、
その危うさを知り、
心を揺さぶる欲を手放し、形成の働きを止め、
修行者は、揺さぶられず、何もつかまず、
気づきを保って歩むがよい。」

十三、「ほかの見方でも……[原文中略]……では、どのようにか。『寄りかかる者には、揺れがある』と観る。これが第一の観察である。『寄りかからない者は、揺らがない』と観る。これが第二の観察である。このように正しく……[原文中略]……」
さらに、師は次のように語った。

「寄りかからない者は、揺らがない。
寄りかかり、つかんでいる者は、
この生から、ほかの生へと移る、
輪廻を越えることができない。

寄りかかるところには、大きな恐れがある。
その危うさを知って、
修行者は、寄りかからず、何もつかまず、
気づきを保って歩むがよい。」

十四、「ほかの見方でも……[原文中略]……では、どのようにか。『修行者たちよ、形のある境地よりも、形のない境地のほうが静かである』と観る。これが第一の観察である。『形のない境地よりも、止滅のほうが静かである』と観る。これが第二の観察である。このように正しく……[原文中略]……」
さらに、師は次のように語った。

訳注

形のある境地と、形のない境地は、色・無色と呼ばれる瞑想や生存の領域を背景にした表現。注釈では、止滅そのものが涅槃であり、形のない境地よりも静かな解放とされる。

「形のある境地に至る者も、
形のない境地にとどまる者も、
止滅を理解していないなら、
再び生まれるところへ戻ってくる。

だが、形のあるものを十分に知り、
形のないものにも居着かず、
止滅において解放される人々は、
死を捨て去る人々である。」

十五、「ほかの見方でも……[原文中略]……では、どのようにか。修行者たちよ、神々、マーラ、梵天を含むこの世界、修行者やバラモン、神々や人間のいるこの世が、『これは真実だ』と考え込んでいるものを、聖なる人々は、正しい知恵で、ありのままに、『これは偽りだ』と見きわめる。これが第一の観察である。修行者たちよ、神々を含む……[原文中略]……神々や人間のいるこの世が、『これは偽りだ』と考え込んでいるものを、聖なる人々は、正しい知恵で、ありのままに、『これは真実だ』と見きわめる。これが第二の観察である。このように正しく……[原文中略]……」
さらに、師は次のように語った。

「神々を含む世界を見なさい。
自己でないものを、自己だと思い、
心と体に居着いて、
『これこそ真実だ』と考えている。

人が、こうなのだと思っても、
物事は、そこから別の姿になる。
その人にとって、それは偽りとなる。
それは、当てにならず、はかないものなのだから。

涅槃は、欺くことのないものであり、
聖なる人々は、それを真実と知っている。
その真実を見きわめたことによって、
欲による飢えを離れ、完全に静まる。」

十六、「修行者たちよ、もし、『ほかの見方でも、二つの側面を正しく観ることができますか』と尋ねる人がいたなら、『できます』と答えるがよい。では、どのようにか。修行者たちよ、神々、マーラ、梵天を含むこの世界、修行者やバラモン、神々や人間のいるこの世が、『これは楽だ』と考え込んでいるものを、聖なる人々は、正しい知恵で、ありのままに、『これは苦だ』と見きわめる。これが第一の観察である。修行者たちよ、神々を含む……[原文中略]……神々や人間のいるこの世が、『これは苦だ』と考え込んでいるものを、聖なる人々は、正しい知恵で、ありのままに、『これは楽だ』と見きわめる。これが第二の観察である。修行者たちよ、このように、二つの側面を正しく観ながら、怠らず、熱心に、心を定めて暮らす修行者には、二つの実りのどちらかが期待できる。この生での完全な知、または、なお執着のよりどころが残る場合には、もはやこの世へ戻らない境地である。」
世尊は、こう語った。そして、善く歩まれた師は、さらに次のように語った。

「形や色、音、味、香り、
肌に触れるもの、心に浮かぶもの。
望ましく、いとしく、心地よいと
いわれるものは、すべて、

神々を含む世界にとっては、
楽しいものとみなされる。
それらが止むところは、
その人々にとって、苦しいものとみなされる。

だが、聖なる人々は、
自分の存在を成り立たせているものが止むことを、楽と見る。
ものごとを見る人々にとって、
このことは、世間全体と反対になる。

訳注

自分の存在(sakkāya)は、注釈では心身を成り立たせる五つの集まり、五蘊を指す。その止滅を涅槃と説明しており、生物学的な死だけをいうのでも、自己についての意見を変えるだけをいうのでもない。

ほかの人々が楽だというものを、
聖なる人々は、苦だという。
ほかの人々が苦だというものを、
聖なる人々は、楽だと知る。

知り難い、この教えを見なさい。
ものを知らない人々は、ここで迷ってしまう。
覆われた人々には、闇となり、
見ることのできない人々には、暗黒となる。

だが、善い人々には、開かれている。
見ることのできる人々に、光があるように。
教えを知らない、獣のように愚かな人々には、
すぐ近くにあっても、それがわからない。

訳注

最後の句は、別のパーリ語版の magā dhammass’ akovidā と注釈の説明に沿い、「教えを知らない」と読んだ。原典の綴りには異読と、語の結合の表記上の難しさがあり、肯定の「教えに詳しい」とは取っていない。

生存への欲に圧倒され、
生存の流れに従い、
マーラの領域に入り込んだ人々には、
この教えは、容易には悟れない。

聖なる人々を除いて、誰が、
その境地を、よく悟ることができるだろう。
それを正しく知ることによって、
汚れの尽きた人々は、完全に静まるのだ。」

世尊は、こう語った。修行者たちは満足し、世尊の言葉を喜んだ。この説明が語られている間に、およそ六十人の修行者の心は、何もつかむことなく、あらゆる汚れから解放された。

第十二経「二つの側面を観る」終わり。

この経の内容をまとめた詩――

真理、執着のよりどころ、無知、
形成の働き、第五に意識、

接触、感受、渇望、
執着、行いを起こす働き、糧、

心の動揺、揺れ、形、
真実、苦しみ。合わせて十六。

第三章「大篇」終わり。

この章の経をまとめた詩――

「出家」「ひたむきな修行」、
「よく語られた言葉」「スンダリカ・バーラドヴァージャ」、

「マーガ」「サビヤ」、
「セーラ」「矢」、

「ヴァーセッタ」「コーカーリカ」、
「ナーラカ」「二つの側面を観る」。

この十二経が、
「大篇」と呼ばれる。

第四章 八詩句篇

第一経 欲望の楽しみ

欲しい楽しみを求める人が、
望みどおりに、それを得たなら、
その人の心は、確かに喜ぶ。
欲しかったものを、手に入れたのだから。

だが、欲しがる思いを抱き、
求め続けているその人が、
楽しみを失えば、
矢に射られたように苦しむ。

蛇の頭を踏むのを避けるように、
欲望の楽しみを避ける人は、
気づきを保ち、この世で
絡みつく欲を渡り越える。

田畑、土地、黄金、
牛や馬、奴隷や召使い、
女性、親族、さまざまな楽しみを、
むさぼり求める人は、

自らを弱くするものに、打ち負かされ、
さまざまな危険に押しつぶされる。
そして、苦しみが、その人についてくる。
壊れた舟に、水が入り込むように。

だから人は、いつも気づきを保ち、
欲望の楽しみを避けるがよい。
それらを捨て、激流を渡りなさい。
舟の水を汲み出して、向こう岸へ行くように。

第一経「欲望の楽しみ」終わり。

第二経 洞窟をめぐる八詩

洞窟にとらわれ、多くのものに覆われて、
人は、迷いの中に深く沈んだまま、とどまっている。
そのような人には、離れて静まる境地は遠い。
この世の欲望の楽しみは、容易には捨てられないからだ。

訳注

洞窟は、伝統的な説明では、身体をたとえたもの。

欲しがる心をもとに、生きている楽しさに縛られた人々は、
抜け出すのが難しく、他人に解放してもらうこともできない。
後のことを望み、前のことを思い、
今の楽しみを、昔の楽しみを、恋い慕っている。

訳注

aññamokkhā には、他人にはその人を解放できないという説明と、自分も縛られた人には他人を解放できないという説明がある。本文は前者を採った。

楽しみにむさぼりつき、そればかり追い、迷いきって、
物惜しみし、よこしまな道に居着いた人々は、
苦しみに追い詰められて、嘆く。
『ここで死んだ後、私たちは、どうなるのだろう。』

だから人は、まさに、この世で学ぶがよい。
どんなものであれ、よこしまなものだと知ったなら、
そのために、よこしまな行いをしてはならない。
この命は短いのだと、賢い人々はいう。

私は見る。この世で、人々がもがいているのを。
生存への渇望に取りつかれた、この人々を。
さまざまな生存への渇望を離れないまま、
弱り果てた人々は、死の口もとで、嘆いている。

『私のもの』のために、もがく人々を見なさい。
流れが尽き、水の少なくなった場所の、魚のようだ。
このことも見て、『私のもの』という思いなく歩み、
生存への執着を、作らないようにするがよい。

両方の極への欲を静め、
接触のあり方を十分に知り、むさぼらず、
自分で自分を責めることになる行いをしない賢者は、
見たものや聞いたものに、染まらない。

ものをとらえる認識を十分に知って、激流を渡るがよい。
聖者は、つかんで所有するものに染まらない。
心の矢を抜き、怠らずに歩み、
この世も、ほかの世も、待ち望まない。

第二経「洞窟をめぐる八詩」終わり。

第三経 敵意をめぐる八詩

敵意を抱いて語る人もいれば、
真実だと信じて語る人もいる。
だが聖者は、起こった論争には入り込まない。
だから聖者には、どこにも、心のこわばりがない。

欲する心に引かれ、自分の好みに居着き、
自分で、完全だとするものを作り上げる人が、
どうして、自分の見解を越えられるだろう。
自分が知っていると思うとおりに、語るだけだろう。

尋ねられもしないのに、
自分の戒めや修行の決まりを、人に言い立てる者。
自分で自分を語ってほめる、そうしたあり方を、
もののわかる人々は、聖なる道にかなわないという。

だが、安らかで、心を深く静めた修行者が、
戒めについて、『私はこうだ』と誇ることなく、
この世のどこにも、思い上がるところがないなら、
もののわかる人々は、それを聖なるあり方という。

自分で考え、組み立てた、清らかでない教説を、
前に掲げている人は、
それが自分にもたらす利益を見て、そこへ寄りかかる。
移ろいやすく、条件に依存した『安らぎ』へ、寄りかかるのだ。

訳注

kuppapaṭicca santiṃ は、注釈に従い、変わり得る、条件に依存した安らぎを指すまとまりとして読んだ。『その人が怒る』という動詞としては取っていない。

教説について、これだと決めて、しっかりつかんだ、
見解の住まいは、容易には越えられない。
だから人は、その住まいの中で、
教説を捨てては、また取り上げる。

汚れを洗い落とした人には、この世のどこにも、
さまざまな生存について、作り上げた見解がない。
偽りと慢心を捨て、清められた人は、
寄りかからずに、何について行くというのか。

教説にしがみつく人は、論争に入る。
しがみつかない人を、何によって、どう論じられるだろう。
その人には、取り上げるものも、退けるものもない。
まさに、この世で、すべての見解を振り払ったのだ。

訳注

attā nirattā は、この前後に合わせ、取り上げることと退けることと解した。注釈には、自己を認める見解と、自己が死後に断滅するという見解の対とする説明もある。仏教の『無我』を、そのまま後者に当てたものではない。

第三経「敵意をめぐる八詩」終わり。

第四経 清らかさをめぐる八詩

『私は、清らかで、最上で、病のない人を見る。
その姿を見ることによって、人は、すっかり清らかになる。』
こう考え、それを最上と決めた人は、
『清らかな人を見ているのだ』と、その認識を頼りにする。

もし、見たものによって、人が清らかになり、
そのような知によって、苦しみを捨てられるなら、
その人は、執着のよりどころを抱えたまま、別のものによって清まることになる。
そう語るその人のあり方を、その見解自体が、さらしている。

訳注

この詩の「知」は、前の詩にある、目で見たことを清浄への知とみなす文脈に続く。最後の句は、その人ではなく、その見解が、その人を示しているという構文。

バラモンは、見たもの、聞いたもの、戒めや修行の決まり、
あるいは感じたものという、ほかの何かによって清まるとはいわない。
功徳にも悪にも染まらず、つかんだものを捨て、
ここで、新たに何かを作り上げない。

訳注

attañjaho には、自己という見解を捨てることと、つかんだものを捨てることの両方の説明がある。「作り上げない」は、注釈では、功徳などの業の形成を新たに行わないと説明される。

前のものを捨てて、別のものに寄りかかる人々は、
欲に揺さぶられるまま、執着を越えられない。
つかみ上げては、投げ捨てる。
猿が、枝を放しては、また別の枝をつかむように。

自分で修行の決まりを取り上げ、
自分の認識にとらわれた人は、上へ下へと行き来する。
だが、知によって教えを深く理解した、豊かな知恵ある人は、
上へ下へと、揺れ動かない。

見たもの、聞いたもの、感じたものが何であれ、
あらゆる教説に対して、対立を離れた人。
そのように見て、覆いなく歩む人を、
この世の何を基準に、こういう者だと決めつけられるだろう。

その人々は、考えを作り上げず、何かを前に掲げず、
『これが究極の清らかさだ』とも、言い立てない。
つかむことによって結ばれた結び目を解き放ち、
この世のどこにも、望みをかけない。

境界を越えたバラモンには、
知ったことや見たことをもとに、つかみ固めたものがない。
欲に熱中せず、欲を離れることにも執着せず、
この世で、何かを最上として、つかむことがない。

訳注

欲を離れることへの執着は、古い注釈では、色・無色の瞑想の境地に執着することと説明される。解放そのものを否定する、と単純には取れない。

第四経「清らかさをめぐる八詩」終わり。

第五経 最上をめぐる八詩

『これが最上だ』と見解に居着き、
この世で、あるものを最高に置く人は、
それ以外のすべてを、『劣っている』という。
だから、その人は、論争を越えられない。

見たもの、聞いたもの、戒めや修行の決まり、感じたものの中に、
自分の利益になるものを見つけると、
それだけを、そこで、固くつかみ、
ほかのものをすべて、劣ったものと見る。

あるものに寄りかかって、ほかを劣っていると見るなら、
そのこと自体が結び目だと、もののわかる人々はいう。
だから修行者は、見たもの、聞いたもの、感じたもの、
戒めや修行の決まりに、寄りかかってはならない。

知識によっても、戒めや修行の決まりによっても、
この世で見解を作り上げてはならない。
自分を他人と引き比べ、『等しい』と考えず、
『劣っている』とも、『すぐれている』とも、考えないがよい。

つかんだものを捨て、何も取り込まない人は、
知識にさえ、よりどころを作らない。
見解によって分かれた人々の中で、派閥に走らず、
どんな見解にも、頼らない。

この世でも、ほかの世でも、さまざまな生存について、
両方の極へ向かう願いがない人には、
教説について、これだと決めて、つかみ固めた、
住まいとする場所が、何ひとつない。

見たもの、聞いたもの、感じたものをもとに、
作り上げた認識が、わずかもない人。
見解をつかまない、そのバラモンを、
この世の何を基準に、こういう者だと決めつけられるだろう。

その人々は、考えを作り上げず、何かを前に掲げず、
教説を受け取って、自分のものとすることもない。
そのバラモンは、戒めや修行の決まりに引き回されず、
向こう岸に達して、もはや戻らない、そのような人である。

第五経「最上をめぐる八詩」終わり。

第六経 老い

なんと短いことだろう、この命は。
人は、百年に満たないうちにも死ぬ。
たとえ、それを越えて生きたとしても、
やはり、老いによって死んでいく。

人々は、『私のもの』のために悲しむ。
だが、いつまでも持ち続けられるものはない。
持つことの先には、必ず別れがある。
そう見きわめて、家に居着かないがよい。

『これは私のものだ』と人が考えるものも、
死によって、手放すことになる。
このことを知って、私に従う、もののわかる人は、
『私のもの』という思いへ、心を傾けないがよい。

夢の中で会った人を、
目覚めた後には、見ることができないように、
いとしく思った人も、
死んで去った後には、見ることができない。

見たことのある人も、聞いたことのある人も、
それぞれ、その名で呼ばれている。
だが、人が死んで去れば、
語り伝えられる、その名だけが残る。

『私のもの』に、むさぼりつく人々は、
悲しみ、嘆き、物惜しみを、捨てられない。
だから、安らぎを見た聖者たちは、
つかんで所有することを捨てて、歩んでいった。

人から離れて暮らし、
静かな居場所を好む修行者には、
どこかの生存の場に、自分を現さないことが、
その人にふさわしいあり方だといわれる。

訳注

注釈は、ここを再生する領域に姿を現さないことと説明する。家の中に姿を見せず隠れる、という意味ではない。

聖者は、どこにも寄りかからず、
好きなものも、嫌いなものも、作らない。
その人には、嘆きや物惜しみが、染みつかない。
葉の上の水のように。

蓮の葉の上の水滴のように、
蓮の花に、水が染みつかないように、
聖者も、見たもの、聞いたもの、
感じたものに、染まらない。

汚れを洗い落とした人は、見たもの、聞いたもの、
感じたものをもとに、あれこれ思い定めない。
ほかのものによって清まろうとも望まない。
その人は、欲に染まることも、そこから離れようとすることも、もはやない。

訳注

最後の句は、注釈では、欲がすでに尽きているため、欲に染まる者でも、欲を離れつつある修行中の者でもない、という意味に説明される。単に好き嫌いがない、ということだけではない。

第六経「老い」終わり。

第七経 ティッサ・メッテッヤ

尊者ティッサ・メッテッヤは言った。
「尊い方よ、性の交わりにふける人に、
どのような苦しみがあるか、お話しください。
あなたの教えを聞いて、
私たちは、離れて静まる道を学びます。」

世尊は答えた。
「メッテッヤよ、性の交わりにふける人は、
教えを忘れ、
誤った道を歩むことになる。
その点で、聖なるあり方から外れてしまう。

以前は、ひとりで歩んでいたのに、
性の交わりを行うようになった人は、
暴走する車のようであり、
道から落ちた普通の人だと、この世で呼ばれる。

以前あった、名誉や評判も、
その人から衰えていく。
このことを見て、
性の交わりを離れるよう、学ぶがよい。

その人は、思いに圧倒され、
みじめな者のように、思い悩む。
他人の声を聞くと、
そのような人は、恥じ入ってしまう。

そして、他人の言葉で責められると、
身を守るために、偽りの言葉を武器として作り出す。
その人の欲は、それほど大きい。
うその中に、深く入り込むのだ。

訳注

原文は「武器を作る」と表現する。注釈では、修行を捨てたことを問いただされ、偽りの説明をすることを指すとされる。

ひとりで歩む暮らしを定めていたころは、
賢い人と認められていたのに、
性の交わりにふけるようになれば、
愚かな者のように、苦しむことになる。

聖者は、以前と、その後との違い、
この危うさを知って、
ひとりで歩む暮らしを、確かなものにし、
性の交わりを行わないがよい。

離れて静まることをこそ、学ぶがよい。
それが、聖なる人々にとって、最もすぐれたものだ。
だが、そのために、自分はすぐれていると思ってはならない。
そのような人は、涅槃の近くにいる。

何も抱えずに歩み、
欲望の楽しみを、待ち望まない聖者。
激流を渡り越えたその人を、
欲望につながれた人々は、うらやましく思うのだ。」

第七経「ティッサ・メッテッヤ」終わり。

第八経 パスーラ

『清らかさは、ここにしかない』と主張し、
ほかの教えには、清らかさはないという。
自分の寄りかかるものだけを、すばらしいといい、
大勢の人が、それぞれ自分だけの真実に居着いている。

その人々は議論を好み、集いの中へ入り、
互いに、相手を愚か者と決めつける。
それぞれ別のものを頼りに、論を戦わせ、
ほめられたいと願って、自分こそ巧みだという。

人々の集いの中で、議論に身を入れ、
称賛を望む人は、不安と苦しみを抱える。
反論されれば、恥じ入り、
非難に腹を立て、相手の弱みを探し回る。

問いを吟味する人々から、
『その議論は劣っている。反駁された』といわれると、
論争に敗れた人は、嘆き、悲しみ、
『私は負かされた』と、悔やみ続ける。

修行者たちの間に、このような争いが生まれ、
その中で、心は上がったり下がったりする。
このことを見て、議論の争いをやめるがよい。
称賛を得ることのほかに、そこに得るものはないのだから。

また、人々の集いの中で、
自分の議論を述べて、ほめられると、
その人は喜んで笑い、思い上がる。
思っていたとおりの目的を、達したのだから。

だが、その思い上がりが、苦しみの土台となる。
その人は、慢心と、人を見下す心を語ることになる。
このことを見て、論争しないがよい。
もののわかる人々は、それによって清まるとは、いわないのだから。

王の食物で養われた勇士が、
対する勇士を求めて、雄たけびを上げて来るようだ。
勇士よ、相手のいるところへ行くがよい。
ここには、初めから、戦うためのものがない。

見解を掲げて争い、
『これだけが真実だ』と主張する者たちとは、語り合うがよい。
論争が起こったとき、おまえに対抗する者は、
ここには、いない。

対立する立場を離れて歩み、
自分の見解を、ほかの見解と争わせない人々から、
パスーラよ、おまえは、何を得られるというのか。
その人々には、これを最上と、つかんでいるものがないのだ。

それでも、おまえは、頭であれこれ考え、
さまざまな見解を思いめぐらして、ここへ来た。
汚れを洗い落とした人と、肩を並べようとした。
だが、おまえには、ともに進むことはできない。

第八経「パスーラ」終わり。

第九経 マーガンディヤ

「タンハー、アラティ、ラガーを見ても、
性の交わりを求める心は、起こらなかった。
まして、この、尿と糞の詰まった体に、何を望もう。
足で触れることさえ、望まない。」

訳注

タンハー、アラティ、ラガーは、注釈ではマーラの三人の娘で、それぞれ渇望・不満・情欲を意味する名。この対話は、マーガンディヤが娘を差し出したという物語の背景で説明される。冒頭の厳しい表現は、その申し出への返答として訳した。

「多くの王たちに望まれた、
これほど宝のような女性も欲しくないのなら、
あなたは、どのような見解、戒めや修行の決まり、生き方を説くのですか。
どのような生存、どのような再生を説くのですか。」

世尊は答えた。
「マーガンディヤよ、私には、教説について、これだと決め、
『私はこれを主張する』と、固くつかんだものはない。
さまざまな見解を見ても、つかみ取らず、
深く調べながら、内なる安らぎを見たのだ。」

マーガンディヤは言った。
「聖者よ、判断によって作り上げられたものを、
あなたは、つかまないとおっしゃるのですね。
では、その、内なる安らぎとは、
賢い人々によって、どのように明らかにされるのですか。」

世尊は答えた。
「マーガンディヤよ、見解によって、聞いたことによって、知によって、
また、戒めや修行の決まりによって清まるとは、私はいわない。
かといって、見解がなく、聞いたことがなく、知がなく、
戒めも、修行の決まりもなければ清まる、ともいわない。
それらを手放し、つかまず、
安らかに、寄りかかることなく、生存を恋い慕わないがよい。」

マーガンディヤは言った。
「見解によって、聞いたことによって、知によって、
また、戒めや修行の決まりによって清まるのでもなく、
見解がなく、聞いたことがなく、知がなく、
戒めも、修行の決まりもなければ清まるのでもないというのなら、
私には、それは、ただ人を迷わせる教えだと思えます。
見解によって清まると信じる人々もいるのですから。」

世尊は答えた。
「マーガンディヤよ、見たものを頼りに問い続け、
自分が固くつかんだものの中で、あなたは迷ってしまった。
ここで語られたことについて、わずかな理解も見いだしていない。
だから、これを、人を迷わせるものと決めつけるのだ。

『私は等しい』『すぐれている』『劣っている』と考える人は、
そのために、論争するだろう。
この三つの比べ方に、揺さぶられない人には、
『私は等しい』『すぐれている』という思いがない。

そのバラモンは、何を『真実だ』と言い立てるだろう。
何をもって、『偽りだ』と争うだろう。
等しいとも、等しくないとも比べない人が、
何によって、論争に結びつくだろう。

住まいへの執着を捨て、居着くところなく歩む聖者は、
村でも、人々とのなれ合いを作らず、
欲望の楽しみを抱えず、何かを前に掲げず、
人々と言い争う話を、しないがよい。

すぐれた人は、あるものを離れて、この世を歩むなら、
離れたはずのそれらを、再びつかんで、論じるべきではない。
水に生まれ、とげのある茎を持つ蓮が、
水にも、泥にも染まらないように、
安らぎを語り、むさぼらない聖者は、
欲望の楽しみにも、この世にも染まらない。

知のきわみに達した人は、見解を頼りに進む者ではなく、
自分の考えによって慢心することもない。それで自分を作ってはいないからだ。
行いにも、学んだことにも、引き回されず、
見解の住まいのどこにも、引き込まれない。

訳注

原典の diṭṭhiyāyako は、注釈にもある読みで、「見解によって進む者」という意味に取った。後の否定句は、自分の考えによって慢心しないことにつながる。

認識への欲を離れた人には、結び目がなく、
知恵によって解放された人には、迷いがない。
認識と見解をつかみ取った人々こそ、
この世で、ぶつかり合いながら歩いているのだ。」

第九経「マーガンディヤ」終わり。

第十経 壊れる前に

「どのようにものを見て、どのように振る舞う人が、
静まった人と呼ばれるのでしょうか。
ゴータマよ、お尋ねします。
その、最もすぐれた人について、お教えください。」

世尊は答えた。
「体が壊れる前に、渇望を離れ、
過去の端に寄りかからず、
その間の現在にも、こういう者だと数えられず、
先に置いて待ち望むものがない人。

怒らず、おびえず、
自慢せず、悔やみやそわそわした心もなく、
よく考えて語り、心を浮つかせない。
その人こそ、言葉を慎む聖者である。

未来に執着せず、
過去を悲しみ続けず、
接触するものの中でも、離れて静まる境地を見て、
見解に引き回されない。

人から離れて暮らし、ごまかさず、
欲しがらず、物惜しみせず、
厚かましくなく、人に嫌われるような行いもせず、
人の仲を裂く言葉に、加わらない。

快いものに、欲を流し込まず、
思い上がることにも、加わらず、
柔らかく、知恵がよく働き、
他人の言葉を信じて頼る段階も、欲を離れようとする段階も、越えている。

訳注

na saddho は、自ら確かめた教えについて、他人の保証を頼りとしないこと。na virajjati は、欲がすでに尽き、これから欲を離れる過程にはないこと、と注釈は説明する。

利益が欲しくて学ぶのではなく、
得られなくても、腹を立てない。
敵意を抱かず、
渇望に駆られて味をむさぼることもない。

いつも気づきを保ち、偏りなく見守り、
この世で、自分を他人と等しいとも、
すぐれているとも、劣っているとも思わない。
その人には、思い上がりがない。

寄りかかるところがなく、
教えを知りながら、それに寄りかからず、
生存にも、消滅にも、
渇くような欲求を抱かない人。

欲望の楽しみを待ち望まない、
その人を、私は、静まった人と呼ぶ。
その人には、結び目がない。
絡みつく欲を、渡り越えたのだ。

その人には、自分のものという子も、家畜も、
田畑も、土地もない。
取り上げるものも、退けるものも、
その人の中には、見いだせない。

普通の人々や、修行者、バラモンたちが、
その人について、何かを言う根拠とするようなものを、
その人は、前に掲げていない。
だから、さまざまな言説の中でも、揺らがない。

むさぼりを離れ、物惜しみしない聖者は、
すぐれた者、等しい者、劣った者の仲間として、
自分を言い立てない。
思い込みで定められず、思い込みを組み立てるところへも行かない。

この世に、自分だけのものがなく、
それがないことを悲しまず、
教説に引かれて行かない人。
その人こそ、安らかな人と呼ばれる。」

第十経「壊れる前に」終わり。

第十一経 争いと論争

「争いと論争、嘆きと悲しみ、物惜しみ、
慢心と、人を見下す心、人の仲を裂く言葉。
それらは、どこから生まれるのでしょうか。
どうか、その生まれるところを、お話しください。」

「争いと論争、嘆きと悲しみ、物惜しみ、
慢心と、人を見下す心、人の仲を裂く言葉は、
いとしく思うものから生まれる。
争いと論争は、物惜しみと結びつき、
論争が起これば、人の仲を裂く言葉も起こる。」

「この世で、いとしく思うものは、何をもとに生まれるのでしょうか。
この世を行き交う、むさぼりは、どこから生まれるのでしょうか。
人が将来に向けて抱く望みと、その成就は、
何をもとにしているのでしょうか。」

「この世で、いとしく思うものと、
この世を行き交う、むさぼりは、欲する心をもとに生まれる。
人が将来に向けて抱く望みと、その成就も、
ここをもとにしている。」

「では、この世で、欲する心は、何をもとに生まれるのでしょうか。
さまざまな判断も、どこから生まれるのでしょうか。
怒り、うそ、疑い、
そのほか、修行者がお説きになったものは、どこからでしょうか。」

「この世で、『快い』『不快だ』といわれるものに
寄りかかって、欲する心は生まれる。
人は、形あるものが消え、また現れるのを見て、
この世で、判断を下す。」

「怒り、うそ、疑い、
それらも、この二つがあるときに生じる。
疑いを持つ者は、知る道へ向かって学ぶがよい。
修行者は、これらを知ったうえで、説いているのだ。」

「快いことと、不快なことは、何をもとに生まれるのでしょうか。
何がなければ、それらはないのでしょうか。
また、消えることと、現れることという、そのことも、
どこから生まれるのか、教えてください。」

「快いことと、不快なことは、接触をもとに生まれる。
接触がなければ、それらはない。
また、消えることと、現れることという、そのことも、
ここをもとにすると、私は、あなたにいう。」

「では、この世で、接触は、何をもとに生まれるのでしょうか。
所有しようと、つかむことも、どこから生まれるのでしょうか。
何がなければ、『私のもの』という思いはないのでしょうか。
何が消えれば、接触を受けなくなるのでしょうか。」

「接触は、心の働きと、形あるものに依存して起こる。
所有しようと、つかむことは、欲する心をもとに生まれる。
欲する心がなければ、『私のもの』という思いはなく、
形あるものが消えれば、接触を受けることもない。」

訳注

心の働きと形あるものは、nāma-rūpa(名色)の訳。この対話では、接触がどう成り立つかをたどっている。

「どのような状態に達した人には、形あるものが消えるのでしょうか。
楽も、苦も、どのように消えるのでしょうか。
どうすれば消えるのか、そのことをお話しください。
私の心は、それを知りたいと願っています。」

「普通のとらえ方をするのでもなく、とらえ方が乱れているのでもなく、
認識がないのでもなく、すでに認識を超えきったのでもない。
そのようなあり方に達した人には、形あるものが消える。
思いを増殖させる区分は、認識をもとに生まれるのだから。」

訳注

認識について四つの否定を重ねる難解な詩。注釈は、通常の認識、乱れた認識、認識のない境地、形の認識をすでに超えた無色の境地を区別し、その移行に関わる段階として説明する。

「私たちの問いに、お答えくださいました。
もう一つ、お尋ねします。どうか、お話しください。
この世の賢いとされる人々は、
人の清らかさは、ここが頂点だというのでしょうか。
それとも、ここからさらに先を説く人もいるのでしょうか。」

「この世の賢いとされる人々の中には、
人の清らかさは、ここが頂点だという者もいる。
だが、その中のある者たちは、
何も残らないことに詳しいと名乗り、完全な消滅を説く。」

訳注

samayaṃ は、ここでは注釈に従い、ある論者たちの説く断滅と読んだ。単に世尊が死を勧める文としては取っていない。

「深く調べる聖者は、それらの人々も、なお何かを頼りにしていると知り、
その、よりどころのあり方を知っている。
知って解放され、論争には入らない。
その賢者は、さまざまな生存へと、再び結びつかない。」

第十一経「争いと論争」終わり。

第十二経 小さな布陣

「それぞれ自分の見解に居着いて、
賢いと名乗る人々は、互いに違う主張をし、争っています。
『このように知る人こそ、教えを知っている。
これに反対する者は、完全な知を得ていない』と。

このように、言い争い、
『相手は愚かだ。何もわかっていない』といいます。
この人々の、どの主張が真実なのでしょうか。
誰もが、自分こそ、よくわかっていると名乗っています。」

「もし、他人の教えを認めないだけで、
愚かで、劣り、知恵の乏しい者となるなら、
この人々は皆、愚かで、きわめて知恵が乏しいことになる。
皆、自分の見解に居着いているのだから。

自分の見解によって清められていないのに、
その人々を、清らかな知恵を持ち、巧みで、思慮ある者とするなら、
誰ひとり、知恵の足りない者はいなくなる。
誰もが、そのように、自分の見解を完全だと思っているのだから。

訳注

原典の否定を含む読みを採り、注釈の説明に沿って条件文として訳した。『自分の見解によって清められているなら』とする別の読みも、注釈に記録されている。

人々が互いに、『相手は愚かだ』ということを、
私は、そのまま真実だとはいわない。
それぞれが、自分の見解を真実にしてしまった。
だから、相手を愚かだと決めつけるのだ。」

「ある人々が、真実で、確かなことだというものを、
ほかの人々は、中身のない偽りだといいます。
このように、互いに争い続けています。
なぜ、修行者たちは、一つのことを語らないのでしょうか。」

「真実は一つであって、第二の真実はない。
それを知る人々は、そのことについて争わない。
だが、人々は、自分で、さまざまな真実をたたえ上げる。
だから、修行者たちは、一つのことを語らない。」

「賢いと名乗る論者たちは、
なぜ、さまざまな真実を語るのでしょうか。
たくさんの、互いに異なる真実を、聞き伝えてきたのでしょうか。
それとも、自分たちの推論に従っているのでしょうか。」

「認識によって、変わらないものだとつかむ、その外に、
この世に、互いに異なる真実が、たくさんあるわけではない。
人々は、見解について推論を組み立てて、
『真実だ』『偽りだ』という、二つのあり方を語る。

訳注

『変わらない』は、人が真実だとつかんだものにかかる。認識そのものが永遠だ、という意味ではない。

見たもの、聞いたもの、戒めや修行の決まり、感じたもの。
それらを頼りとして、相手を見下し、
自分の判断の上に立って、得意になり、
『相手は愚かだ。何もわかっていない』という。

相手を愚かだと決めつける、その同じ物差しで、
自分を、よくわかっている者だという。
自分の口で、自分こそ巧みだと名乗り、
相手を軽んじ、同じことを言い続ける。

その人は、度を越した見解によって、自分を完全な者とし、
慢心に酔い、自分は十分に満たされていると思う。
自分の心で、自分自身に、権威を授けたのだ。
その人には、その見解が、それほど完全に見えている。

もし、他人の言葉によって、劣った者となるのなら、
自分も同じく、知恵の乏しい者となる。
だが、自分で名乗れば、知のきわみに達した賢者になるのなら、
修行者の中に、愚か者は一人もいなくなる。

『これと違う教えを説く者たちは、
清らかさを取り逃がし、完全ではない。』
さまざまな教団の人々は、そう言い続ける。
自分の見解への欲に、すっかり染まっているのだから。

『清らかさは、ここにしかない』と主張し、
ほかの教えには、清らかさはないという。
さまざまな教団の人々は、それぞれの立場に居着いて、
自分の道だけを、かたくなに言い立てる。

自分の道だけを、かたくなに言い立てる人が、
いったい、誰を愚かだと決めつけられるだろう。
相手を、愚かで、清らかな教えを持たない者というなら、
自ら、争いを招くことになる。

自分の判断の上に立ち、自分で相手を測る人は、
この世で、いよいよ論争へと進んでいく。
だが、そうした判断をすべて手放した人は、
この世で、争いを起こさない。」

第十二経「小さな布陣」終わり。

第十三経 大きな布陣

「見解に居着き、
『これだけが真実だ』と論争する人々は、
皆、そこで非難を招き、
また、称賛も受けています。」

「それは、わずかな得るものにすぎず、心を静めるには足りない。
私は、論争の実りには、この二つがあるという。
このことを見て、争いのない境地を安らかだと見きわめ、
論争しないがよい。

世間に広く生まれた、さまざまな取り決めに、
知る人は、どれにも入り込まない。
見たもの、聞いたものに、これこそよいと決めつけない、
しがみつかない人が、どうして、しがみつくところへ行くだろう。

戒めこそ最上だとする人々は、自制によって清まるといい、
修行の決まりを取り上げ、それに専念している。
『ここで学べば、清らかさを得られる』という。
賢いと名乗りながら、なお、生存へと導かれている。

もし、守っていた戒めや修行の決まりから外れれば、
自分の行いを損なって、震えおののく。
清らかさを恋い慕い、求め続ける。
家を離れた旅先で、隊商から取り残された人のように。

だが、戒めや修行の決まりも、
過ちのある行いも、ない行いも、すべて手放し、
清らかさだ、汚れだと、求めることなく、
悪をやめ、安らぎそのものもつかまずに、歩むがよい。

それらや、身を清める苦行、
見たもの、聞いたもの、感じたものを頼りにして、
生存を重ねて高まろうとする人々は、清らかさを求めて言い立てる。
さまざまな生存への渇望を、離れていないのだ。

訳注

uddhaṃsarā は、古い注釈では、生存の繰り返しを通じて清浄に至ると説く人々に結びつけて説明される。単なる向上心という意味には限っていない。

何かを願う人には、恋い慕う思いがあり、
自分で作り上げたものをめぐって、心が揺れる。
だが、この世で、死んでは再び生まれることのない人は、
何によって揺れ、どこへ向かって望みを抱くだろう。」

「ある人々が、最上だという、その教えを、
ほかの人々は、劣っているといいます。
この人々の、どの主張が真実なのでしょうか。
誰もが、自分こそ、よくわかっていると名乗っています。」

「人々は、自分の教えを完全だといい、
他人の教えを劣っているという。
このように、互いに言い争い、
それぞれ自分の取り決めを、真実だという。

他人に見下されただけで、教えが劣るのなら、
どの教えにも、すぐれたものはなくなるだろう。
多くの人が、自分の立場をかたくなに主張し、
他人の教えを劣ったものといっているのだから。

自分の教えをたたえることについても、同じだ。
それぞれが自分の道をほめるとおりなら、
すべての主張が、真実になってしまう。
その人々にとって、清らかさは、自分だけのものなのだから。

バラモンには、教説について、これだと決めて固くつかんだものがなく、
他人に引き回されることもない。
だから、その人は、論争を越えている。
ほかの何かの教説を、最上だとは見ていないからだ。

『私は知っている。私は見ている。確かに、こうなのだ。』
そうして、見解によって清まると信じる者たちがいる。
だが、見たとして、それが、その人に何をもたらすだろう。
彼らは、聖なる道を差し置いて、別のものによる清浄を説いている。

訳注

末句は、古い注釈の、聖なる道を外れて別の方法による清浄を主張する、という読みを採った。別の主語を取る解釈も伝えられている。

人が見るときは、心と形あるものを見る。
それを見て、知るとしても、やはり、それらを知る。
たくさん見ようと、少ししか見まいと、
もののわかる人々は、それによって清まるとは、いわない。

一つの立場に居着いて語り、作り上げた見解を前に掲げる人は、
容易には導けない。
自分の寄りかかるものを、すばらしいといい、
そこに清らかさを説く。その人には、そう見えたのだ。

バラモンは、よく見きわめて、思い込みを作らず、
見解を追って歩まず、知識との結びつきにも寄りかからない。
世間に広く生まれた取り決めを知り、それらを静かに見守る。
ほかの人々が、それらをつかんでいる、その中で。

訳注

末尾の maññe は、注釈に従い、aññe(ほかの人々)を含む区切り方で読んだ。次の詩も同じ対比が続く。

この世で結び目を解き放った聖者は、
論争が起こっても、派閥に走らない。
静まっていない人々の中で、安らかに、偏りなく見守り、
ほかの人々がつかんでいるものを、つかまない。

古い心の汚れを捨て、新しい汚れを作らず、
好みに引かれず、立場に居着いて語らない賢者は、
さまざまな見解から解放され、
この世に染まらず、自分を責める行いもない。

見たもの、聞いたもの、感じたものが何であれ、
あらゆる教説に対して、対立を離れている。
その聖者は、重荷を下ろし、解放され、
思い込みを作らず、自制を仕上げる途上にも、もはやなく、何も求めない。」

訳注

nūparato は、注釈では、自制を実践中の段階をすでに越えたこと。単に無自制でよい、という意味ではない。

第十三経「大きな布陣」終わり。

第十四経 速やかに

「太陽の末裔である、大いなる仙人よ。
離れて静まることと、安らぎの境地について、お尋ねします。
修行者は、どのようにものを見れば、
この世の何もつかむことなく、静まるのでしょうか。」

世尊は答えた。
「思いを増殖させる区分の根、
『私はある』という思いを、知恵によって、すべて止めなさい。
内にある、どのような渇望も静めるために、
いつも気づきを保ち、学ぶがよい。

内にあるものでも、外にあるものでも、
何かを深く知ったからといって、
それを、かたくなな自信にしてはならない。
それは、善い人々のいう静まりではない。

その知によって、自分はすぐれているとも、
劣っているとも、等しいとも思わないがよい。
さまざまなものに触れても、
自分はこういう者だと、決めつけてはならない。

修行者は、自分の内でこそ静まるがよい。
ほかのものから、安らぎを探し求めてはならない。
内で静まった人には、取り上げるものがない。
まして、退けるものが、どこにあるだろう。

大海のただ中が、
波を起こさず、静かにとどまるように、
修行者も、そのように、揺さぶられずに立ち、
どこにも、思い上がりを起こさないがよい。」

「眼の開かれた方よ、あなたは、
自ら確かめられ、危うさを除く教えを、お話しくださいました。
尊い方よ、さらに、実践の道をお説きください。
戒律についても、心の集中についても。」

「目を、あちこちへ欲深く走らせず、
世間話から、耳を守り、
味をむさぼらず、
この世の何ものも、『私のもの』としてはならない。

接触を受けたときも、
修行者は、何についても、嘆き続けてはならない。
生存を恋い慕わず、
恐ろしいものの中でも、震えおののかないがよい。

食事や飲み物、
食べ物や衣を得ても、
ため込んではならない。
得られなくても、不安になってはならない。

瞑想し、むやみに歩き回ることを好まず、
悔やみやそわそわした心をやめ、怠らないがよい。
修行者は、音の少ない場所を、
座り、寝起きする場とするがよい。

眠りにふけらず、熱心に目覚めていることに親しみ、
だるさ、ごまかし、笑い騒ぎ、遊び、
性の交わりと、
身を飾ることを、捨て去るがよい。

アタルヴァの呪術、夢占い、身体の特徴を読む術、
星占いを行わず、
鳥などの鳴き声による占い、妊娠に関わる術、治療にも、
私に従う者は、従事しないがよい。

訳注

妊娠に関わる術(gabbhakaraṇa)は、古い注釈では、薬などで流産の原因を抑え、妊娠を保つ処置として説明される。堕胎と決めつけては訳していない。この一連の戒めは、出家修行者への教えである。

修行者は、非難されても震えず、
ほめられても、思い上がってはならない。
むさぼりと物惜しみ、
怒りと、人の仲を裂く言葉を、払いのけるがよい。

売買に携わらず、
修行者は、どこでも、人をそしってはならない。
村で、人と衝突せず、
利益が欲しくて、人に甘い言葉をかけてはならない。

修行者は、自慢する者であってはならず、
何かを手に入れようとする、作為のある言葉も語ってはならない。
厚かましさを身につけず、
争いを生む話を、しないがよい。

うそに引き込まれず、
自分のしていることをよく知り、欺くことをせず、
また、自分の暮らし方や知恵、
戒めや修行の決まりを理由に、他人を見下してはならない。

修行者たちや、普通の人々から、
多くの言葉を浴びせられ、ののしられたとしても、
荒い言葉で、言い返してはならない。
安らかな人々は、対抗して敵とはならないのだから。

この教えを知って、
修行者は、よく調べ、いつも気づきを保って学ぶがよい。
静まりこそ安らぎだと知り、
ゴータマの教えのもとで、怠らないがよい。

その方は、打ち勝った人であり、打ち負かされない人である。
伝聞によらず、自ら確かめた教えを見た方である。
だから、その世尊の教えのもとで、怠らず、
いつも敬い、倣って学ぶがよい。」

第十四経「速やかに」終わり。

第十五経 武器を取ること

「武器を取ることから、恐れが生まれる。
争い合う人々を、見なさい。
私が、どのように心を揺さぶられたか、
その、切実な思いを語ろう。

水の少ないところにいる魚のように、
もがく人々を見て、
互いに敵対する姿を見て、
私の心に、恐れが入り込んだ。

世界には、どこにも確かな芯がなく、
どの方角も、揺れ動いていた。
自分の住む場所を求めても、
まだ占められていない場所は、見つからなかった。

ついには滅びへ行き着くのに、なお敵対している。
それを見て、私は、心の休まらない思いを抱いた。
そして、そこに、一つの矢を見いだした。
見つけるのが難しい、心に刺さった矢を。

その矢に射抜かれた人は、
あらゆる方角へ、走り回る。
だが、その矢を抜き去れば、
走り回ることも、沈み込むこともない。

そこで、学ぶべきことが説かれる。
この世で、人々を縛っているものに、
夢中になってはならない。
欲望の楽しみを、残らず見きわめて、
自分自身の静まりを、学ぶがよい。

聖者は、真実を語り、厚かましくなく、
偽りがなく、人の仲を裂く言葉もなく、
怒らず、むさぼりという悪と、
物惜しみを、渡り越えるがよい。

涅槃へ心を向ける人は、
眠気、だるさ、気力の鈍りを克服し、
怠りと、ともに暮らしてはならない。
思い上がりの中に、とどまってはならない。

うそに引き込まれず、
形あるものに、しがみつく思いを起こさず、
慢心を十分に知り、
乱暴な行いを離れて、歩むがよい。

古いものを、恋い慕わず、
新しいものに、これこそよいと執着せず、
失っていくものを悲しまず、
心を引っ張る渇望に、寄りかかってはならない。

訳注

ākāsa は通常は空間を意味するが、この箇所の古い注釈は、ものへ引き寄せる渇望と説明する。本文は、その読み方に従った。

むさぼりを、私は、『大きな激流』と呼ぶ。
駆け巡る渇望を、『恋い慕う思い』と呼ぶ。
それは、寄りかかる対象であり、思いを作り上げることでもある。
欲望の泥は、越え難い。

訳注

この詩は、渇望に関わる呼び名を重ねている。原典の pakappana は、思いを組み立てることと読んだ。別の伝本には pakampana(動揺)という読みがある。

真実から外れることなく、
聖者であるバラモンは、乾いた陸に立つ。
すべてを手放したその人こそ、
安らかな人と呼ばれる。

その人は、知る人であり、知のきわみに達した人である。
教えを知りながら、寄りかからない。
この世で、正しく身を処し、
ここで、誰をもうらやまない。

この世で、越え難い結びつきである、
欲望の楽しみを渡り越えた人は、
悲しまず、思い煩わず、
欲の流れを断ち、束縛を離れている。

過去にあるものを、干上がらせなさい。
未来にも、何かを抱え込むことがないように。
その間の現在に、何もつかまなければ、
あなたは、心静かに歩むだろう。

心と体のどこにも、
『私のもの』という思いがなく、
それがないことを悲しまない人は、
この世で、打ち負かされることがない。

『これは私のものだ』というものも、
『これは他人のものだ』というものも、何ひとつない人は、
『私のもの』という思いを見いださないから、
『私にはない』と、悲しむこともない。

冷酷でなく、むさぼらず、
欲に揺さぶられず、どこでも平らかな人。
揺るがない人について尋ねられたなら、
私は、それが、その人のすぐれたところだという。

揺さぶられず、よく知る人には、
新たな生存を形づくる働きがない。
その人は、さまざまな業を起こす企てを離れ、
どこにあっても、安らぎを見る。

訳注

nisaṅkhati と viyārabbha は、注釈では、結果を生む業の形成や、業に関わるさまざまな企てとして説明される。日常の働きが、すべてなくなるという意味ではない。

聖者は、自分を、等しい者とも、
劣った者とも、すぐれた者とも、言い立てない。
安らかで、物惜しみを離れ、
つかみ取ることも、投げ捨てることもしない。」

第十五経「武器を取ること」終わり。

第十六経 サーリプッタ

尊者サーリプッタは言った。
「これほど美しく語る師を、
私は、これまで見たことがなく、誰からも聞いたことがありません。
トゥシタから来られた、集いを導く方を。

訳注

トゥシタは、満ち足りたという意味を持つ天界名、兜率天。注釈には、そこから人間界へ来たという説明のほか、満ち足りた天界からの来訪や、満足を得た阿羅漢の集いへ来たこととする説明もある。

神々を含む世界が見る、
その、眼の開かれた方は、
あらゆる闇を払いのけ、
ひとりで、喜びに達しました。

目覚め、何にも寄りかからず、揺るがず、
ごまかしなく、集いを導いて来られた、その方のもとへ、
ここで縛られている大勢の人々のために、
問いを携えて、私は来ました。

悪を嫌い、静かな居場所を好む修行者が、
木の根元や、墓地、
あるいは、山の洞窟を
住まいとするとき、

そうした、さまざまな寝起きの場所、
音の少ない場所には、
どれほどの恐ろしいものがあるのでしょうか。
修行者は、その何に、おびえずにいるべきでしょうか。

まだ行ったことのない方角へ向かい、
人里離れた寝起きの場所にいる修行者が、
克服すべき危うさは、
この世に、どれほどあるのでしょうか。

心を定めた修行者は、
どのような言葉を語り、
どこを行動の場とし、
どのような戒めと修行の決まりを守るべきでしょうか。

どのような学びを引き受ければ、
心を一つにし、思慮深く、気づきを保って、
銀細工師が銀の汚れを取り除くように、
自分の汚れを、吹き払えるのでしょうか。」

世尊は答えた。
「サーリプッタよ、悪を嫌い、静かな場所で寝起きし、
完全な目覚めを願う人にとって、
何が安らかで、教えにかなうか。
私の知るとおりに、あなたに話そう。

賢く、気づきを保ち、節度を守って歩む修行者は、
五つの恐れに、おびえないがよい。
虻、ほかの飛んで刺す虫、蛇、
人から受ける嫌がらせや害、四つ足の獣である。

訳注

原文は、飛んで刺す虫を二つに分けて、五つと数える。第二を必ず蚊に限定する、という注釈ではない。

ほかの教えに従う人々をも、恐れてはならない。
その人々の、さまざまに恐ろしい振る舞いを見ても。
そして、善いものを求める人は、
ほかのさまざまな危うさも、克服するがよい。

病にかかり、飢えに襲われても、
寒さや、暑さを耐え忍ぶがよい。
さまざまに、そうしたものに触れても、居着くところなく、
力を奮い起こし、励む心を、確かなものにするがよい。

盗まず、うそを語らず、
弱い生き物にも、強い生き物にも、慈しみをもって接し、
心が濁ったと気づいたら、
『これは暗黒の者の側だ』と、払いのけるがよい。

怒りや、思い上がりの言いなりにならず、
それらの根まで掘り抜いて、立つがよい。
そうして、好ましいものも、好ましくないものも、
確かに、克服するがよい。

知恵を先に立て、善い喜びを持ち、
それらの危うさを、押しのけなさい。
人里離れた寝起きの場所で、不満を乗り越え、
嘆きとなる、四つのことを乗り越えなさい。

『何を食べよう。どこで食べよう。』
『ここで寝るのはつらい。今夜は、どこで寝よう。』
定まった住まいを持たずに歩む、学びの途上にある人は、
こうした、嘆きを招く思いを、静めるがよい。

食べ物や衣を、よい時に得たなら、
必要を満たすのに、どれだけあればよいかを知るがよい。
それらについて自らを守り、村でも慎んで歩み、
ののしられても、荒い言葉を語ってはならない。

視線を下げ、むやみに歩き回らず、
瞑想に親しみ、よく目覚めていなさい。
偏りなく見守る心に立って、心を一つにし、
あれこれ思いめぐらす傾きと、そわそわした心を、断つがよい。

言葉で注意されたときは、気づきを保ち、喜んで受け取り、
ともに修行する人々への、心のこわばりを破りなさい。
善い言葉を、長すぎることなく語り、
人々の落ち度を言い立てようと、心に企ててはならない。

さらに、この世には、五つのほこりがある。
気づきを保つ人は、それを静めるよう学ぶがよい。
形や色、音、味、
香り、肌に触れるものへの、燃える欲を克服しなさい。

それらへの欲を静め、
気づきを保つ修行者は、心を十分に解放し、
よい時に、教えを正しく、よく調べながら、
心を一つにして、闇を払いのけるがよい。」

第十六経「サーリプッタ」終わり。

第四章「八詩句篇」

終わり。

この章の経をまとめた詩――

「欲望の楽しみ」「洞窟をめぐる八詩」「敵意をめぐる八詩」、
「清らかさをめぐる八詩」「最上をめぐる八詩」「老い」、

「ティッサ・メッテッヤ」「パスーラ」、
「マーガンディヤ」「壊れる前に」、

「争いと論争」、二つの「布陣」、
さらに「速やかに」、

すぐれた「武器を取ること」の経、
長老の問いに答える経を加えて、十六。

これらの経は、すべて、
「八詩句篇」に属する。

第五章 彼岸への道

いきさつを語る詩

聖句をきわめた、一人のバラモンが、
何も所有しない暮らしを願って、
コーサラの美しい都を離れ、
南の地方へ行った。

アッサカの領内、アラカに近いところ、
ゴーダーヴァリー河の岸に住み、
拾い集めた穀物や、
果実を食べて暮らしていた。

彼を頼って、
大きな村ができた。
その村から得られた収入によって、
彼は、大きな祭りを営んだ。

大きな祭りを終えると、
彼は、再び自分の庵へ入った。
そこへ戻ったところに、
別のバラモンが訪ねてきた。

足はこすれて傷つき、喉は渇き、
歯は汚れ、頭はほこりまみれだった。
その男は近づいてきて、
五百枚の貨幣をくれと求めた。

訳注

原文は「五百」とだけ数え、貨幣の名称や額面は示していない。金貨などの種類には限定しなかった。

バーヴァリは、その姿を見ると、
座る場所へ招き、
暮らしや体の具合を尋ねてから、
次のように言った。

「私に、分け与えられるものがあった分は、
すべて、人々に差し上げてしまいました。
バラモン殿、どうか、ご容赦ください。
私には、五百も残っていません。」

「私がこうして求めているのに、
あなたが与えないというなら、
七日目に、あなたの頭が、
七つに割れてしまえ。」

その欺く者は、仕掛けを作り、
恐ろしいことを、言い立てた。
その言葉を聞いて、
バーヴァリは、苦しみに沈んだ。

悲しみの矢に射抜かれ、
食事もとれず、やせ衰えていった。
そのような心になっては、
瞑想にも、心が喜びを見いだせなかった。

おびえ、苦しんでいるのを見て、
彼の幸いを願う一柱の神が、
バーヴァリに近づき、
こう語りかけた。

「あの男は、頭とは何かも知りません。
財産が欲しいだけの、うそつきです。
頭についても、頭が砕けることについても、
あの男には、知るところがありません。」

「では、尊い方、あなたはご存じなのでしょうか。
どうか、お尋ねする私に、お教えください。
頭と、頭が砕けることについて、
あなたの言葉を、お聞きしたいのです。」

「私も、それは知りません。
私には、それを知る力はありません。
頭と、頭が砕けることを見きわめるのは、
勝利を遂げた方々なのです。」

「では、この大地のどこに、
頭と、頭が砕けることを
知っている方が、おられるのでしょうか。
神よ、私に教えてください。」

「カピラヴァットゥの都を出た、
世界を導く方が、おられます。
オッカーカ王の末裔、
光をもたらす、釈迦族の子です。

バラモンよ、その方は、完全に目覚め、
あらゆる教えの向こう岸に達しています。
直接に知る、あらゆる力を備え、
すべてのものごとについて、眼を開いた方。
あらゆる業の尽きるところに達し、
執着のよりどころが尽きることで、解放された方です。

その世尊は、この世で目覚めた方であり、
眼を開いて、教えを説いています。
あなたは、その方のもとへ行って、尋ねなさい。
その方が、答えてくださるでしょう。」

『完全に目覚めた方』という言葉を聞くと、
バーヴァリの心は高まった。
悲しみは、薄らいでいき、
大きな喜びが生まれた。

満足し、心が高まり、うれしくなったバーヴァリは、
その神に尋ねた。
「その世界のよりどころである方は、どの村、どの町、どの国におられますか。
どこへ行けば、完全に目覚めた、人のうちで最もすぐれた方に、お会いできるのでしょうか。」

「豊かな知恵、広くすぐれた思慮を備えた勝者は、
コーサラの都サーヴァッティーにおられます。
その釈迦族の子は、比べる者なく、心の汚れを尽くした、人の中の雄牛。
頭が砕けることを知る方です。」

そこでバーヴァリは、
聖句をきわめた弟子のバラモンたちを呼んだ。
「若者たちよ、こちらへ来なさい。話そう。
私の言葉を、よく聞きなさい。

この世には、そうたびたび現れない、
その方が、今、現れた。
完全に目覚めた方と、知られている。
急いでサーヴァッティーへ行き、
人のうちで最もすぐれた、その方に会いなさい。」

「バラモンの師よ、会ったとき、
どうすれば、目覚めた方だとわかるのでしょうか。
知らない私たちに、その方を
見きわめる方法を、お教えください。」

「聖典には、
大人物の特徴が伝えられている。
三十二の特徴が、
一つずつ、残らず説明されている。

体に、その大人物の特徴が
備わっている人には、
行く道が、二つだけある。
第三の道は、ない。

家にとどまって暮らすなら、
この大地に勝利し、
暴力も、武器も用いず、
正しい道によって、人々を治める。

だが、家を離れ、
住まいを持たない出家の身となるなら、
覆いを取り払い、完全に目覚め、
供養にふさわしい、この上ない方となる。

私の年齢、家系、身体の特徴、
聖句についての学び、そのほかの弟子たちのこと、
そして、頭と、頭が砕けることを、
心の中だけで尋ねなさい。

もし、その方が、妨げなく見通す、
目覚めた方であるなら、
心の中で尋ねた問いに、
声に出して答えてくださるだろう。」

バーヴァリの言葉を聞いたのは、十六人のバラモンの弟子だった。
アジタ、ティッサ・メッテッヤ、
プンナカ、
そして、メッタグー。

ドータカ、ウパシーヴァ、
ナンダ、ヘーマカ、
トーデッヤとカッパの二人、
そして、賢いジャトゥカンニン。

バドラーヴダ、ウダヤ、
バラモンのポーサーラ、
思慮あるモーガラージャ、
そして、大いなる仙人ピンギヤ。

皆、それぞれの弟子の集いを率い、
世界に広く名を知られていた。
瞑想し、瞑想を喜ぶ賢い人々であり、
以前からの修練によって、身を調えていた。

皆、バーヴァリに礼をし、
右側を師に向けたまま回った。
髪を束ね、獣皮をまとって、
北へ向かい、出発した。

アラカのパティッターナ、
マーヒッサティーの町、
ウッジェーニー、ゴーナッダ、
ヴェーディサ、ヴァナサという町を通り、

コーサンビー、サーケータ、
すぐれた都サーヴァッティー、
セータビヤ、カピラヴァットゥ、
クシナーラーの町へ。

さらに、パーヴァー、ボーガナガラ、
ヴェーサーリー、マガダの都を通って、
美しく、心を楽しませる、
パーサーナカの霊廟へ来た。

喉の渇いた者が冷たい水へ向かうように、
商人が大きな利益へ向かうように、
暑さに苦しむ者が日陰へ向かうように、
彼らは、急いで山を登った。

そのとき世尊は、
修行者の集いの前に座り、
修行者たちに教えを説いていた。
森で獅子が、声を響かせるように。

アジタは、目覚めた方を見た。
幾百もの光を放つ太陽のように、
十五日になって満ちた
月のように輝く、その方を。

体に、すべてのしるしが
欠けることなく備わっているのを見て、
アジタは、喜んで、かたわらに立ち、
心の中で、問いを尋ねた。

「師の年齢を、見通してお答えください。
家系と、身体の特徴を、お答えください。
聖句にどれほど通じているか、
何人に教えているバラモンなのか、お答えください。」

「その人の年齢は、百二十歳。
家系は、バーヴァリである。
体には、三つのしるしがあり、
三つのヴェーダを、きわめている。

身体の特徴を読む学と古伝承、
語彙の学ニガンドゥ、詩文の学ケートゥバに通じ、
五百人に教えている。
自分の学ぶ教えを、きわめた人である。」

「人のうちで最もすぐれ、疑いを断ち切る方よ。
バーヴァリの身体のしるしを、
詳しく、明らかにしてください。
私たちに、疑いが残らないように。」

「舌で顔を覆うことができ、
眉と眉の間に、毛の房があり、
男根が、鞘のような覆いに収まっている。
青年よ、このように知るがよい。」

問いの言葉を、何も聞かなかったのに、
問いへの答えが語られるのを聞いて、
人々は皆、驚きと喜びを覚え、
手を合わせながら、考えた。

「いったい、どの神が、あるいは梵天が、
あるいは、スジャーの夫である天帝が、
心の中で問いを尋ねたのだろう。
この方は、誰に向かって、答えておられるのだろう。」

訳注

スジャーの夫は、天帝サッカを指す呼称。

「世尊よ、バーヴァリは、
頭と、頭が砕けることを、尋ねています。
どうか、そのことにお答えください。
仙人よ、私たちの疑いを、静めてください。」

「無知を、頭と知るがよい。
明らかな知こそが、その頭を打ち砕く。
信頼、気づき、心の集中、
そして、志と、励む力を備えた知である。」

青年は、大きな喜びに
身を奮い立たせ、
獣皮を片方の肩に掛け直して、
世尊の足もとに、頭をつけた。

「尊い方よ、バラモンのバーヴァリは、
弟子たちとともに、
心を高め、喜びながら、
眼の開かれた、あなたの足もとに礼をいたします。」

「バラモンのバーヴァリが、
弟子たちとともに、幸せであるように。
あなたもまた、幸せであるように。
青年よ、長く生きるがよい。

バーヴァリの疑いも、あなたの疑いも、
皆の、あらゆる疑いも、尋ねなさい。
あなたがたには、尋ねる機会がある。
心に望むことを、何でも尋ねるがよい。」

完全に目覚めた方に、機会を与えられ、
アジタは、座って手を合わせた。
そして、その場で、
如来に、最初の問いを尋ねた。

いきさつを語る詩、終わり。

第一の問い 青年アジタ

尊者アジタは言った。
「世界は、何によって覆われ、
何によって、明るくならないのでしょうか。
何が、その汚れだとおっしゃいますか。
世界にとって、大きな恐れとは何でしょうか。」

世尊は答えた。
「アジタよ、世界は、無知によって覆われ、
物惜しみと怠りのために、明るくならない。
恋い慕う欲が、その汚れだと、私はいう。
苦しみが、世界にとっての大きな恐れである。」

尊者アジタは言った。
「流れは、あらゆるところで流れています。
何が、その流れをせき止めるのでしょうか。
流れを抑えるものを、お話しください。
何によって、流れは閉じられるのでしょうか。」

世尊は答えた。
「アジタよ、この世にある、さまざまな流れは、
気づきによって、せき止められる。
それが、流れを抑えるものだと、私はいう。
知恵によって、それらは閉じられる。」

尊者アジタは言った。
「尊い方よ、知恵と、気づき、
そして、心と体について、
どうか、お答えください。
これらは、どこで止むのでしょうか。」

「アジタよ、あなたの尋ねた問いに答えよう。
心と体が、
残りなく止む、そのところを。
意識が止むことによって、
そこで、これらは止む。」

「教えを十分に見きわめた人々と、
ここに大勢いる、学びの途上の人々について、
思慮ある、尊い方よ、
その生き方を、お教えください。」

「欲望の楽しみを、むさぼらず、
心を濁らせず、
あらゆるものごとを、よくわきまえて、
修行者は、気づきを保って歩むがよい。」

第一の問い「青年アジタ」終わり。

第二の問い 青年ティッサ・メッテッヤ

尊者ティッサ・メッテッヤは言った。
「この世で、満ち足りているのは、誰でしょうか。
心の揺れがないのは、誰でしょうか。
両方の端をよく知り、知恵によって、その中間にも染まらないのは、誰でしょうか。
誰を、大いなる人とお呼びになりますか。
この世で、縫い合わせる女を越えたのは、誰でしょうか。」

訳注

縫い合わせる女(sibbinī)は、さまざまな生存を縫いつなぐ、渇望のたとえ。

世尊は答えた。
「メッテッヤよ、欲望の楽しみがある中で、清らかな修行生活を送り、
渇望を離れ、いつも気づきを保ち、
よく見きわめて、静まった修行者。
その人には、心の揺れがない。

その人は、両方の端をよく知り、
知恵によって、その中間にも染まらない。
私は、その人を、大いなる人と呼ぶ。
その人は、この世で、縫い合わせる女を越えたのだ。」

第二の問い「青年ティッサ・メッテッヤ」終わり。

第三の問い 青年プンナカ

尊者プンナカは言った。
「揺さぶられず、根本を見きわめる方のもとへ、
問いを携えて、私は来ました。
仙人たち、人間たち、王族、バラモンたちは、何を頼りとして、
この世で、神々のために、さまざまな祭りを営んできたのでしょうか。
世尊よ、お尋ねします。どうか、お答えください。」

世尊は答えた。
「プンナカよ、この世で、神々のために、
さまざまな祭りを営んだ、仙人たち、人間たち、王族、バラモンたちは、
このように生きたいと、願いをかけていた。
老いを免れないものに寄りかかって、祭りを営んだのだ。」

尊者プンナカは言った。
「世尊よ、この世で、神々のために、
さまざまな祭りを営んだ、仙人たち、人間たち、王族、バラモンたちは、
祭りの道に、怠らず励むことで、
生まれることと、老いを、渡り越えたのでしょうか。
尊い方よ、世尊よ、お尋ねします。どうか、お答えください。」

世尊は答えた。
「プンナカよ、彼らは願い、ほめたたえ、恋い慕い、供え物を捧げる。
得られる利益を頼みとして、欲望の楽しみを求める。
祭りに身を入れながら、生存への欲に染まっている。
生まれることと、老いを、渡り越えてはいないと、私はいう。」

尊者プンナカは言った。
「尊い方よ、祭りに身を入れる人々が、
祭りによって、生まれることと老いを渡り越えてはいないなら、
神々と人間の世界で、誰が、それらを渡り越えたのでしょうか。
世尊よ、お尋ねします。どうか、お答えください。」

世尊は答えた。
「プンナカよ、この世の、上のものも下のものも、よく見きわめ、
この世のどこにも、心の揺れがなく、
安らかで、煙のような煩いも、苦悩も、望みへの執着もない人。
その人が、生まれることと老いを、渡り越えたと、私はいう。」

第三の問い「青年プンナカ」終わり。

第四の問い 青年メッタグー

尊者メッタグーは言った。
「世尊よ、お尋ねします。どうか、お答えください。
あなたは、知のきわみに達し、自らを修めた方だと、私は思います。
この世にある、さまざまな形の、あらゆる苦しみは、
どこから生まれてきたのでしょうか。」

世尊は答えた。
「メッタグーよ、あなたは、苦しみの生じるもとを尋ねた。
私の知るとおりに、それを話そう。
この世にある、さまざまな形の、あらゆる苦しみは、
執着のよりどころをもとに、生まれる。

知らないまま、それを作り上げる愚かな人は、
繰り返し、苦しみを受ける。
だから、苦しみの生まれるもとを観察し、知る人は、
執着のよりどころを、作らないようにするがよい。」

「私たちの問いに、お答えくださいました。
もう一つ、お尋ねします。どうか、お話しください。
賢い人々は、どうすれば激流を、生まれることと老い、悲しみと嘆きを、渡り越えるのでしょうか。
聖者よ、そのことを、よくお説きください。
あなたは、その教えを、確かに知っておられるのですから。」

世尊は答えた。
「メッタグーよ、この生で確かめられ、
伝聞によらない教えを、あなたに説こう。
それを知り、気づきを保って歩むなら、
この世の、絡みつく欲を渡れる。」

「大いなる仙人よ、私は、
その、この上ない教えを、喜んでお聞きします。
それを知り、気づきを保って歩むなら、
この世の、絡みつく欲を渡れる、その教えを。」

世尊は答えた。
「メッタグーよ、上にも、下にも、横にも、その間にも、
あなたが知るものは、何であれ、
それへの喜びと、居着く思い、意識の形成的な働きを払いのけ、
生存にとどまらないがよい。

訳注

注釈に従い、意識を、喜びや居着く思いとともに「払いのける」の対象として読んだ。ここでは、新たな生存を形づくる意識の働きが問題となる。

このように暮らし、気づきを保ち、怠らず、
『私のもの』を捨てて歩む修行者は、
まさに、この生で、知る人となって、
生まれることと老い、悲しみと嘆き、苦しみを捨てるがよい。」

「大いなる仙人の、その言葉を、喜んで受け取ります。
ゴータマよ、執着のよりどころのない境地が、見事に説かれました。
世尊よ、あなたは、確かに苦しみを捨て去った方です。
だからこそ、その教えを知っておられるのです。

聖者よ、あなたが絶えず教え導く人々も、
きっと、苦しみを捨て去るでしょう。
すぐれた方よ、あなたにお会いできた私は、礼をいたします。
世尊よ、どうか私も、絶えずお導きください。」

「何も所有せず、欲望の楽しみにも、生存にも執着しない、
知のきわみに達したバラモンだと、あなたが見きわめる人は、
確かに、この激流を渡っている。
向こう岸に達し、心のこわばりも、疑いもない。

この世で、よく知り、知のきわみに達した人が、
さまざまな生存への執着を解き放ち、
渇望を離れ、苦悩も、望みへの執着もないなら、
その人が、生まれることと老いを渡り越えたと、私はいう。」

第四の問い「青年メッタグー」終わり。

第五の問い 青年ドータカ

尊者ドータカは言った。
「世尊よ、お尋ねします。どうか、お答えください。
大いなる仙人よ、あなたの言葉を待ち望んでいます。
その声を聞いて、
自分自身の静まりを、学びたいのです。」

世尊は答えた。
「ドータカよ、それなら、まさに、ここで、
思慮深く、気づきを保って、励むがよい。
ここから響く言葉を聞いて、
自分自身の静まりを、学ぶがよい。」

「神々と人間の世界で、何も所有せずに歩む、
そのバラモンを、私は見ています。
あまねく見渡す方よ、あなたを敬います。
釈迦族の方よ、私を疑いから解き放ってください。」

「ドータカよ、この世の誰であれ、疑いを抱いた人を、
私が代わって解き放つことはできない。
だが、最もすぐれた教えを、自ら深く知るなら、
そのようにして、あなたは、この激流を渡れる。」

「清らかな方よ、私をあわれみ、お導きください。
離れて静まる教えを、私が理解できるように。
そして、空のように、何にも害されず、
まさにここで、安らかに、寄りかからずに歩めるように。」

世尊は答えた。
「ドータカよ、この生で確かめられ、
伝聞によらない安らぎを、あなたに説こう。
それを知り、気づきを保って歩むなら、
この世の、絡みつく欲を渡れる。」

「大いなる仙人よ、私は、
その、この上ない安らぎを、喜んでお聞きします。
それを知り、気づきを保って歩むなら、
この世の、絡みつく欲を渡れる、その安らぎを。」

世尊は答えた。
「ドータカよ、上にも、下にも、横にも、その間にも、
あなたが知るものは、何であれ、
この世で執着となり得ると知って、
さまざまな生存を求める渇望を、起こしてはならない。」

第五の問い「青年ドータカ」終わり。

第六の問い 青年ウパシーヴァ

尊者ウパシーヴァは言った。
「釈迦族の方よ、ひとりで、支えもない私は、
この大きな激流を、渡ることができません。
あまねく見渡す方よ、支えを、お教えください。
それを頼りに、この激流を渡れるように。」

世尊は答えた。
「ウパシーヴァよ、気づきを保ち、何もない境地を見つめ、
『何もない』ということを支えに、激流を渡るがよい。
欲望の楽しみを捨て、あれこれ語ることをやめ、
昼も夜も、渇望の尽きることを見つめなさい。」

訳注

何もない境地は、ここでは無所有処という無色の瞑想の境地。冒頭のバーヴァリが望んだ、物を所有しない暮らしという意味とは異なる。

尊者ウパシーヴァは言った。
「あらゆる欲望の楽しみへの欲を離れ、
ほかの境地を捨て、何もない境地を支えとし、
認識に関わる解放のうち、最上のものに解放された人は、
そこに、後戻りすることなく、とどまるのでしょうか。」

訳注

注釈は、下位の六つの境地を離れ、無所有処に至ることと説明する。ここでいう最上の認識の解放を、そのまま最終的な涅槃とはしていない。

世尊は答えた。
「ウパシーヴァよ、あらゆる欲望の楽しみへの欲を離れ、
ほかの境地を捨て、何もない境地を支えとし、
認識に関わる解放のうち、最上のものに解放された人は、
そこに、後戻りすることなく、とどまるだろう。」

「あまねく見渡す方よ、もし、その人が、
多くの年月、後戻りせず、そこにとどまるなら、
まさにそこで、心の熱を冷まし、解放されたままなのでしょうか。
そのような人の意識は、消え去るのでしょうか。」

訳注

最後の問いには、意識が終わるのか、そこを去って再び生まれるのか、という注釈上の読みの違いがある。いずれも質問者の問いであり、ここで世尊が断滅を肯定しているわけではない。

世尊は答えた。
「ウパシーヴァよ、炎が、風の勢いで吹き散らされ、
消え去って、どこにあるとも数えられなくなるように、
聖者も、心の働きの集まりから解放され、
消え去って、どこにあるとも数えられなくなる。」

訳注

nāmakāya は、注釈では精神的な働きの集まりを指す。単に名前や呼び名から自由になることとは読んでいない。

「その人は、消え去ったのでしょうか。それとも、存在しないのでしょうか。
あるいは、永遠に、損なわれることなくあるのでしょうか。
聖者よ、私に、よく説明してください。
あなたは、その教えを、確かに知っておられるのですから。」

世尊は答えた。
「ウパシーヴァよ、消え去った人には、測る物差しがない。
その人について語る根拠となるものが、もはや、その人にはない。
あらゆるものが取り除かれたなら、
語るための道筋もまた、すべて取り除かれているのだ。」

第六の問い「青年ウパシーヴァ」終わり。

第七の問い 青年ナンダ

尊者ナンダは言った。
「この世には聖者がいると、人々はいいます。
その言葉は、どういう意味なのでしょうか。
知識を備えた人を、聖者と呼ぶのでしょうか。
それとも、厳しい修行生活を送る人でしょうか。」

訳注

生き方(jīvita)は、注釈では厳しい苦行的な生活と説明される。知識や生活の形式が聖者を決めるのか、という問いとして訳した。

「ナンダよ、もののわかる人々は、この世で、
見解、聞き学んだこと、知識、戒めや修行の決まりだけによって、聖者とは呼ばない。
対立を離れ、苦悩も、望みへの執着もなく歩む人々。
私は、その人々を、聖者と呼ぶ。」

尊者ナンダは言った。
「見たものや聞いたものによって清まるといい、
戒めや修行の決まりによって清まるといい、
さまざまな形のものによって清まるという、修行者やバラモンたちは、
そこで努力して歩むことで、
生まれることと老いを、渡り越えたのでしょうか。
尊い方よ、世尊よ、お尋ねします。どうか、お答えください。」

世尊は答えた。
「ナンダよ、見たものや聞いたものによって清まるといい、
戒めや修行の決まりによって清まるといい、
さまざまな形のものによって清まるという、修行者やバラモンたちは、
たとえ、そこで努力して歩んでいても、
生まれることと老いを、渡り越えてはいないと、私はいう。」

訳注

原典の nāriṃsu は、一部が欠けたように見える。他のパーリ語伝本と古い注釈にある nātariṃsu によって、「渡り越えてはいない」と訳した。

尊者ナンダは言った。
「見たものや聞いたものによって清まるといい、
戒めや修行の決まりによって清まるといい、
さまざまな形のものによって清まるという、修行者やバラモンたちが、
聖者よ、激流を渡っていないとおっしゃるのなら、
神々と人間の世界で、誰が、生まれることと老いを渡り越えたのでしょうか。
尊い方よ、世尊よ、お尋ねします。どうか、お答えください。」

世尊は答えた。
「ナンダよ、私は、修行者やバラモンが皆、
生まれることと老いに、覆われているというのではない。
ここで、見たもの、聞いたもの、感じたもの、戒めや修行の決まりを、すべて捨て、
さまざまな形のものも、すべて捨て、
渇望を十分に知って、心の汚れを尽くした人々。
その人々が、激流を渡り越えたと、私はいう。」

「大いなる仙人の、その言葉を、喜んで受け取ります。
ゴータマよ、執着のよりどころのない境地が、見事に説かれました。
ここで、見たもの、聞いたもの、感じたもの、戒めや修行の決まりを、すべて捨て、
さまざまな形のものも、すべて捨て、
渇望を十分に知って、心の汚れを尽くした人々。
その人々が、激流を渡り越えたと、私もいいます。」

第七の問い「青年ナンダ」終わり。

第八の問い 青年ヘーマカ

尊者ヘーマカは言った。
「これまで、ゴータマの教えとは別のところで、
私に説明してくれた人々の言葉は、
『昔はこうだった。先にはこうなるだろう』と、すべて伝聞の重なりでした。
それらはすべて、推論を増やすばかり。
私は、そこに喜びを見いだせませんでした。

聖者よ、どうか、あなたが、私に、
渇望を打ち砕く教えをお説きください。
それを知り、気づきを保って歩み、
この世の、絡みつく欲を渡れるように。」

「ヘーマカよ、この世で、見たもの、聞いたもの、
感じたもの、意識で知ったもののうち、好ましく思うものへの、
欲しがる心と、燃える欲を払いのけること。
それが、涅槃という、揺らぎ落ちることのない境地である。

これを知り、気づきを保つ人々は、
教えを見きわめ、深く静まっている。
その人々は、いつも安らかで、
この世の、絡みつく欲を渡り越えている。」

第八の問い「青年ヘーマカ」終わり。

第九の問い 青年トーデッヤ

尊者トーデッヤは言った。
「欲望の楽しみが、その人の中に住まず、
渇望もなく、
疑いを渡り越えた人。
その人の解放は、どのようなものなのでしょうか。」

世尊は答えた。
「トーデッヤよ、欲望の楽しみが、その人の中に住まず、
渇望もなく、
疑いを渡り越えた人には、
それより先に求める、別の解放はない。」

「その人は、望みへの執着を離れたのでしょうか。それとも、まだ望んでいるのでしょうか。
知恵を持つのでしょうか。それとも、知によって考えを作り上げているのでしょうか。
釈迦族の方よ、私が、その聖者を、よく理解できるように、
あまねく見渡す方よ、詳しくお教えください。」

「その人は、望みへの執着を離れ、なお望み続けるのではない。
知恵を持ち、知によって考えを作り上げるのではない。
トーデッヤよ、このように、聖者を知りなさい。
何も所有せず、欲望の楽しみにも、生存にも執着しない人として。」

訳注

知によって考えを作り上げること(paññakappī)は、注釈では、知や修行の境地をもとに、渇望や見解による構想を作ること。単に知恵を偽装することではない。

第九の問い「青年トーデッヤ」終わり。

第十の問い 青年カッパ

尊者カッパは言った。
「大きな恐れを伴う激流が起こり、
その水のただ中に立って、老いと死に圧倒されている人々のために、
尊い方よ、安全な島を、お話しください。
こうしたことが、もう再び起こらないように、
その島を、私にお教えください。」

世尊は答えた。
「カッパよ、大きな恐れを伴う激流が起こり、
その水のただ中に立って、
老いと死に圧倒されている人々のために、
あなたに、その島を説こう。

何も所有せず、何もつかまないこと。
それが、この上ない島である。
私は、それを涅槃と呼ぶ。
老いと死が、尽きるところを。

これを知り、気づきを保ち、
教えを見きわめ、深く静まった人々は、
マーラの支配には従わず、
マーラの後を、ついていくこともない。」

第十の問い「青年カッパ」終わり。

第十一の問い 青年ジャトゥカンニン

尊者ジャトゥカンニンは言った。
「欲望の楽しみを求めない勇者と聞いて、
欲を離れ、激流を越えた方に尋ねようと、私は来ました。
生まれながらに眼を備える方よ、安らぎの境地をお説きください。
世尊よ、そのことを、ありのままにお話しください。

世尊は、欲望の楽しみに打ち勝って歩んでおられます。
光り輝く太陽が、その光で大地を照らし尽くすように。
豊かな知恵ある方よ、知恵の少ない私に、理解できる教えをお説きください。
まさにここで、生まれることと老いを、捨て去れるように。」

世尊は答えた。
「ジャトゥカンニンよ、欲望の楽しみを離れることこそ安らかだと見て、
それらをむさぼる心を静めなさい。
取り上げて固執するものも、退けるものも、
何ひとつ、残さないがよい。

過去にあるものを、干上がらせなさい。
未来にも、何かを抱え込むことがないように。
その間の現在に、何もつかまなければ、
あなたは、心静かに歩むだろう。

バラモンよ、心と体のすべてについて、
むさぼりを離れた人には、
死の支配へと向かわせる、
心の汚れは、存在しない。」

第十一の問い「青年ジャトゥカンニン」終わり。

第十二の問い 青年バドラーヴダ

尊者バドラーヴダは言った。
「住まいへの執着を捨て、渇望を断ち、揺るがず、
快楽を喜ぶ心を捨て、激流を渡り、解放された方、
思い込みを捨てた、すぐれた知恵ある方に、お願いします。
人々は、すぐれた方の言葉を聞いてから、ここを去るでしょう。

さまざまな国から、多くの人々が集まり、
勇者よ、あなたの言葉を待ち望んでいます。
その人々に、どうか、よく説明してください。
あなたは、その教えを、確かに知っておられるのですから。」

世尊は答えた。
「バドラーヴダよ、上にも、下にも、横にも、その間にも、
つかみ取ろうとする渇望を、すべて静めなさい。
この世で何をつかもうと、
マーラは、まさに、それを通じて、その人についてくる。

だから、よく知り、気づきを保つ修行者は、
世界のどこでも、何ひとつ、つかんではならない。
つかむことに執着した、この人々が、
死の領域に絡め取られている、そのありさまを見ながら。」

第十二の問い「青年バドラーヴダ」終わり。

第十三の問い 青年ウダヤ

尊者ウダヤは言った。
「瞑想して座り、ほこりを離れ、
なすべきことを終え、心の汚れを尽くし、
あらゆる教えの向こう岸に達した方のもとへ、問いを携えて来ました。
無知を打ち破る、
完全な知による解放を、お説きください。」

世尊は答えた。
「ウダヤよ、欲望の楽しみを求める心と、
心の憂い、その両方を捨て、
気力の鈍りを払い、
そわそわした心を抑えること。

偏りなく見守る心と、気づきによって清らかで、
教えをよく考えることを、先導とするもの。
それを、無知を打ち破る、
完全な知による解放と、私はいう。」

「世界は、何によって結びつけられているのでしょうか。
何が、世界を行き巡らせるのでしょうか。
何を捨てることで、
涅槃と呼ばれるのでしょうか。」

「世界は、喜んで求める心によって結びつけられ、
思いめぐらすことによって、行き巡る。
渇望を捨て去ることによって、
涅槃と呼ばれる。」

「どのように、気づきを保って歩む人の
意識が、止むのでしょうか。
世尊に、それをお尋ねしに来ました。
あなたの言葉を、お聞かせください。」

「内にあるものも、外にあるものも、
快・苦などの感受を、喜んでつかまないこと。
そのように、気づきを保って歩む人の
意識は、止むのだ。」

第十三の問い「青年ウダヤ」終わり。

第十四の問い 青年ポーサーラ

尊者ポーサーラは言った。
「過去を明らかにし、
揺るがず、疑いを断った方、
あらゆる教えの向こう岸に達した方のもとへ、
問いを携えて、私は来ました。

形あるものの認識を越え、
身体の全体を離れ、
内にも、外にも、『何もない』と見る人の知について、
釈迦族の方に、お尋ねします。
そのような人は、さらに、どう導かれるべきでしょうか。」

世尊は答えた。
「ポーサーラよ、如来は、意識のとどまるところを、すべて深く知り、
その人が、どこにとどまり、
何に心を向け、何を行き着く先としているかを、知っている。

訳注

この箇所の vimuttaṃ は、注釈では、無所有処などの境地へ心を向けていることと説明される。すでに最終的な解放を得た人、という意味ではない。

何もない境地を生じさせるものを知り、
『そこへの喜びが、束縛なのだ』と知る。
このように深く知ってから、その境地を、よく観察する。
それが、修行をまっとうするバラモンにとって、
確かな知となるのだ。」

訳注

注釈は、無所有処を生む業の働きと、その境地への執着を見きわめたうえで、瞑想から出て、その無常を観察する過程と説明する。

第十四の問い「青年ポーサーラ」終わり。

第十五の問い 青年モーガラージャ

尊者モーガラージャは言った。
「私は二度、釈迦族の方に尋ねましたが、
眼の開かれた方は、お答えになりませんでした。
けれども、神々にも敬われる仙人は、
三度目には答えてくださると、私は聞いています。

この世も、ほかの世も、
梵天の世界も、神々を含む世界も、
誉れあるゴータマ、あなたの
見通すところを、知り尽くしてはいません。

そのように、すぐれたものの見方をなさる方のもとへ、
問いを携えて、私は来ました。
世界を、どのように見る人を、
死の王は、見つけることができないのでしょうか。」

「モーガラージャよ、いつも気づきを保ち、
世界を、空であると見なさい。
自己という見解を抜き去れば、
そのようにして、死を渡り越える者となれる。
このように世界を見る人を、
死の王は、見つけることができない。」

訳注

空は、ここでは直後の句にある、固定した自己という見方を抜き去ることと結びついている。単に何も存在しない、と断言する語ではない。

第十五の問い「青年モーガラージャ」終わり。

第十六の問い 学徒ピンギヤ

尊者ピンギヤは言った。
「私は老い、力もなく、顔色も衰え、
目はよく見えず、耳もよく聞こえません。
道の途中で、迷ったまま、命を終えることがないように、
私にも理解できる教えを、お説きください。
まさにここで、生まれることと老いを、捨て去れるように。」

訳注

題の māṇava は、若者のほか、バラモンの学徒を指す。ピンギヤは、自ら老齢だと語るため、この問いの題では「学徒」と訳した。

世尊は答えた。
「ピンギヤよ、体や形あるもののために、苦しむ人々を見なさい。
人々は、気を緩め、形あるものの中で、損なわれていく。
だから、ピンギヤよ、あなたは怠らず、
再び生まれないために、形あるものを手放しなさい。」

「四方と、その間の四方、上と下、この十の方角、
この世のどこにも、あなたにとって、
見ていないもの、聞いていないもの、感じていないもの、知っていないものはありません。
私にも理解できる教えを、お説きください。
まさにここで、生まれることと老いを、捨て去れるように。」

世尊は答えた。
「ピンギヤよ、渇望に圧倒され、
心を焼かれ、老いに取りつかれた人々を見なさい。
だから、ピンギヤよ、あなたは怠らず、
再び生まれないために、渇望を手放しなさい。」

第十六の問い「学徒ピンギヤ」終わり。

『彼岸への道』をたたえる詩

世尊は、マガダの国、パーサーナカの霊廟に滞在していたとき、これらの教えを語った。師に仕える十六人のバラモンに請われ、問いを受けるたびに、答えたのである。たとえ一つの問いでも、その意味と教えを理解して、その教えにかなう道を実践するなら、必ず、老いと死の向こう岸へ行くことができる。これらの教えは、向こう岸へ行かせるものである。それゆえ、この教えのまとまりを『彼岸への道』と呼ぶ。

アジタ、ティッサ・メッテッヤ、
プンナカ、メッタグー、
ドータカ、ウパシーヴァ、
ナンダ、ヘーマカ。

トーデッヤとカッパの二人、
賢いジャトゥカンニン、
バドラーヴダ、ウダヤ、バラモンのポーサーラ、
思慮あるモーガラージャ、大いなる仙人ピンギヤ。

この人々は、実践をまっとうした仙人、
目覚めた方のもとへ来た。
微妙で深い問いを尋ねようと、
目覚めた方の中でも、最もすぐれた方のもとへ来た。

目覚めた方は、
問いを受けると、ありのままに答えた。
聖者は、その問いへの説明によって、
バラモンたちの心を満たした。

眼を開いた、目覚めた方、
太陽の末裔によって、心を満たされた人々は、
その、すぐれた知恵ある方のもとで、
清らかな修行生活を送った。

問いの一つ一つについて、
目覚めた方が説いたとおりに、
実践する人は、
こちらの岸から、向こう岸へと行く。

この上ない道を育てながら、
こちらの岸から、向こう岸へ行くのである。
その道は、向こう岸へ行くための道。
だから、『彼岸への道』という。

『彼岸への道』を歌い継ぐ詩

尊者ピンギヤは言った。
「私は、『彼岸への道』を歌い継ぎましょう。
汚れなく、豊かな思慮ある方は、見たとおりに語られました。
欲望を離れ、渇望の林を離れた、すぐれた方が、
何のために、偽りを語るでしょうか。

さあ、私は語り伝えましょう。
汚れと迷いを捨て、
慢心と、人のよさを認めない心を捨てた方の、
すぐれた性質に満ちた言葉を。

闇を払い、あまねく見渡す、目覚めた方。
世界の果てに達し、あらゆる生存を越え、
心の汚れなく、あらゆる苦しみを捨てた、名にたがわぬ方。
バラモンの師よ、私は、その方に仕えてきました。

鳥が、小さな林を離れ、
実り豊かな大きな森に住むように、
私も、わずかしか見えない人々を離れ、
白鳥が大海へ来るように、その方のもとへ来ました。

これまで、ゴータマの教えとは別のところで、
私に説明してくれた人々の言葉は、
『昔はこうだった。先にはこうなるだろう』と、
すべて伝聞の重なりであり、
すべて推論を増やすばかりでした。

だが、その方は、ひとり座って闇を払い、
輝いて、光をもたらします。
ゴータマは、豊かな知を持つ方。
ゴータマは、豊かな思慮を持つ方です。

その方は、私に教えを説いてくださいました。
自ら確かめられ、実りを先延ばしにせず、
渇望を尽くし、わざわいを離れ、
どこにも比べるものがない、その教えを。」

「ピンギヤよ、なぜ、おまえは、
その方から、一時でも離れているのか。
豊かな知を持つゴータマ、
豊かな思慮を持つゴータマから。

訳注

注釈では、この問いと次の詩を、バーヴァリの言葉とする。

おまえに、教えを説いてくださった方から。
自ら確かめられ、実りを先延ばしにせず、
渇望を尽くし、わざわいを離れ、
どこにも比べるものがない、その教えを。」

「バラモンの師よ、私は、その方から、
一時たりとも、離れてはいません。
豊かな知を持つゴータマ、
豊かな思慮を持つゴータマから。

私に、教えを説いてくださった方から。
自ら確かめられ、実りを先延ばしにせず、
渇望を尽くし、わざわいを離れ、
どこにも比べるものがない、その教えを。

バラモンの師よ、私は、昼も夜も怠らず、
目で見るように、心で、その方を見ています。
敬いながら夜を過ごします。
それゆえ私は、離れてはいないと思うのです。

私の信頼も、喜びも、心も、気づきも、
ゴータマの教えから離れません。
豊かな知恵ある方が、どの方角へ行かれても、
私は、その方角へと、身をかがめています。

老いて、力の弱くなった私には、
体を、そこへ運ぶことができません。
けれども、思いによって、いつも向かっています。
バラモンの師よ、私の心は、その方に結ばれているのですから。

泥の中に横たわり、もがいていた私は、
島から島へと、渡り歩いていました。
そのとき、私は、完全に目覚めた方を見たのです。
激流を渡り、心の汚れを尽くした、その方を。」

「ヴァッカリが、信頼を十分に開いて解放されたように、
バドラーヴダや、アーラヴィーのゴータマがそうであったように、
あなたも、信頼を十分に開きなさい。
ピンギヤよ、あなたは、死の領域の向こう岸へ行くだろう。」

訳注

注釈では、ここをピンギヤに呼びかける世尊の言葉とする。『信頼を開く』は、信仰を捨てる意味ではなく、信を十分に働かせるという説明に従った。

「聖者の言葉を聞いて、
私の信頼は、いっそう深まりました。
完全に目覚めた方は、覆いを取り払い、
心のこわばりなく、知恵がよく働く方です。

神々にまさるあり方を深く知り、
すぐれたものも、劣ったものも、すべて知る方。
疑いを抱えながら、疑いはないという人々の
問いに、決着をつけてくださる師です。

訳注

第一行は、神々にまさる性質を知るという注釈の説明に沿った。第二行の原典 varovaraṃ に対し、注釈の見出しには parovaraṃ という読みがあり、いずれも上下を含めて知る意味に説明される。

訳注

kaṅkhīnaṃ paṭijānataṃ は、注釈に従い、実際には疑いを持ちながら、疑いはないと主張する人々と解した。疑いを持っていると認める人々、と読む余地もある。

奪われず、揺るがず、
どこにも比べるもののない、その境地へ、
私は、必ず行きます。このことに、疑いはありません。
私を、そのように心を定めた者と、お認めください。」

第五章「彼岸への道」終わり。

巻末のまとめの詩

「蛇」「ダニヤ」、
「犀の角」「耕作」、
「チュンダ」「身を滅ぼすこと」、
「卑しい者」「なすべきこと」、
「ヘーマヴァタ」「夜叉」、
「勝利」、すぐれた「聖者」の経。

訳注

この二十一のまとめの詩は、収録しない伝本もある、巻末の補遺である。「耕作」は「田を耕すバーラドヴァージャ」、「なすべきこと」は「慈しみ」、「夜叉」は「アーラヴァカ」を指す略称や別名。後半には、伝わる語形だけでは意味を確定し難い句があり、その箇所は注記した。

最初の、すぐれた区切り、すぐれた章は、
よく分けられた十二の経を収める。
汚れなく、眼を開いた方によって説かれ、
「蛇の章」という、すぐれた章として伝わる。

「宝」「生臭さ」「恥じる心」「この上ない幸せ」、
「スーチローマ」「カピラ」「バラモンたちの道」、
「舟」「どのように生きれば」「起き上がれ」、
「ラーフラ」、さらに「ヴァンギーサ」。

訳注

カピラは「教えにかなって生きる」、ヴァンギーサは「ニグローダカッパ」の別名。ヴァンギーサは、その経で問いかける弟子の名。

さらに「正しく遊行するには」、
よく分けて説かれた、すぐれた「ダンミカ」の経。
第二の章は、十四の経を収め、
「小篇」という、すぐれた章と呼ばれる。

「出家」「ひたむきな修行」「よく語られた言葉」、
「供え物の菓子」、さらに「マーガ」、
「サビヤ」「ケーニヤ」「矢」、
すぐれた「ヴァーセッタ」、そして「コーカーリカ」。

訳注

「供え物の菓子」は「スンダリカ・バーラドヴァージャ」、「ケーニヤ」は「セーラ」の別の呼び方。ケーニヤは、その経で食事を供養する人物。

よく分けて説かれた、すぐれた「ナーラカ」、
さらに「二つの側面を観る」。
第三の章は、十二の経を収め、
「大篇」という、すぐれた章として伝わる。

「欲望の楽しみ」「洞窟をめぐる八詩」「敵意をめぐる八詩」、
すぐれた「清らかさをめぐる八詩」と「最上をめぐる八詩」、
「老い」、よく分けて説かれた「メッテッヤ」、
「パスーラ」「マーガンディヤ」「壊れる前に」。

「争いと論争」、二つの「布陣」、
「速やかに」「武器を取ること」「サーリプッタ」。
第四の章は、十六の経を収め、
「八詩句篇」という、すぐれた章と呼ばれる。

美しいマガダの国、
功徳を積んだ人々の住む、すぐれた土地、
よく整えられた、すぐれたパーサーナカの霊廟に、
集いの中で最もすぐれた世尊は、滞在した。

両方が集まった、その集いは、
十二ヨージャナにわたって広がった。
十六人のバラモンが、
十六の問いをもって尋ねると、
その方は、教えを明らかに示し、授けた。

訳注

第一句 ubhayavāsamāgatiyamhi は、語の区切りに難しさがある。両方が集まるという意味は読み取れるが、人間と神々と特定する語は、この句にはない。ヨージャナは古い距離の単位。現代の距離へは換算していない。

意味を明らかにし、言葉も十分に備え、
人々に安らぎを生む教えを、説いた。
人のうちで最もすぐれた勝者は、世界の益のため、
さまざまな教えで彩られた、すぐれた経を説いた。
あらゆる心の汚れからの解放をもたらす、
すぐれた経を、人のうちで最もすぐれた方は説いた。

言葉と意味が結び合い、
文字、表現、たとえを深く備えた、
〔第三句の意味は確定できない〕
すぐれた経を、人のうちで最もすぐれた方は説いた。

訳注

第三句は lokavicāraṇañāṇapabhaggaṃ。「世界」「考察」「知」「壊れた・打ち破られた」に当たる要素は読めるが、その結びつきは未詳。別のパーリ語伝本にも同じ語形がある。以下の同じ句も同様。

欲の汚れの中で、汚れなく、清らかさにすぐれ、
憎しみの汚れの中で、汚れなく、清らかさにすぐれ、
迷いの汚れの中で、汚れなく、清らかさにすぐれた、
〔第四句の意味は確定できない〕
すぐれた経を、人のうちで最もすぐれた方は説いた。

訳注

第四句 lokavicāraṇañāṇapabhaggaṃ は、巻末のまとめの詩、第十二詩の注を参照。

心の煩いの汚れの中で、汚れなく、清らかさにすぐれ、
悪い行いの汚れの中で、汚れなく、清らかさにすぐれた、
〔第三句の意味は確定できない〕
すぐれた経を、人のうちで最もすぐれた方は説いた。

訳注

第三句は lokavicāraṇañāṇapabhaggaṃ。巻末のまとめの詩、第十二詩の注を参照。

心から流れ出す汚れ、束縛、つなぎ止めるもの、煩い、
心を覆う妨げ、そして三つの汚れ。
そうした心の汚れからの解放をもたらす、
すぐれた経を、人のうちで最もすぐれた方は説いた。

訳注

三つの汚れは、前の詩にも並ぶ、欲・憎しみ・迷いを指すと読める。

汚れなく、あらゆる心の煩いを払い、
燃える欲を離れ、揺るがず、悲しみなく、
安らかで、すぐれ、きわめて見きわめ難い教え。
その、すぐれた経を、人のうちで最もすぐれた方は説いた。

〔前三句は、伝わる語形から文意を確定できない〕
すぐれた経を、人のうちで最もすぐれた方は説いた。

訳注

前三句の原文は、Rāgañca dosakamabhañjitasantaṃ / yonicatuggatipañcaviññāṇaṃ / Taṇhāratacchadanatāṇalatāpamokkhaṃ。欲、憎しみ、破ること、安らぎ、生まれ、四、行き先、五、識、渇望、覆い、守り、つる、解放に当たる語が含まれるが、文としての結びつきは未詳。別伝本には、Rāgañca dosañca bhañjitasantaṃ / yoni ca duggatipañcaviññāṇaṃ / taṇhātalaratacchedanatāṇapamokkhaṃ とあり、語形の揺れが大きい。第二句を、四つの生まれ方と五つの行き先に関わる表現と見ることもできるが、確定はできない。

深く、見きわめ難く、繊細で、精妙であり、
賢い人に知られる、奥深い意味を持つ、
〔第三句の意味は確定できない〕
すぐれた経を、人のうちで最もすぐれた方は説いた。

訳注

第三句は lokavicāraṇañāṇapabhaggaṃ。巻末のまとめの詩、第十二詩の注を参照。

九つの部分からなる、花の首飾りのように、
さまざまな能力、瞑想、解放を分けて示し、
八つの要素を持つ道を載せた、すぐれた乗り物。
その、すぐれた経を、人のうちで最もすぐれた方は説いた。

訳注

花の首飾りという訳は、navaṅga-kusuma-mālā-gīveyya の区切り方による。九つの部分は、伝統的な九部の教えを指すと考えられるが、この詩では個々の名称を列挙していない。八つの要素を持つ道は、八正道。

訳注

能力(indriya)は、感覚の機能や、信頼・努力・気づきなどの修行上の能力にも用いる語。この句には種類を特定する語がない。

月のように、汚れなく、清らかで、
大海のように、宝によって美しく彩られ、
花に似て、太陽のような輝きを持つ、
すぐれた経を、人のうちで最もすぐれた方は説いた。

安らかで、幸いで、心地よく、涼やかに静まり、
死からの守りとなり、この上ない目的を示すもの。
その、よく静まった境地を見るための、
すぐれた経を、人のうちで最もすぐれた方は説いた。

訳注

第二句 maccutatāṇaparaṃ には語形の難しさがある。別伝本の maccuttāṇaparamatthaṃ も参照し、共通して読める、死からの守りと、最高の目的という意味を取った。『死の向こう岸』に当たる長母音の pāra とは区別した。

『スッタニパータ』パーリ語本文、終わり。