歴史 / Charles-Maurice de Talleyrand-Périgordタレーラン公回想録 第一巻Mémoires du prince de Talleyrand. I.
歴史 / Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord
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原著・底本
- 原題
- Mémoires du prince de Talleyrand. I.
- 著者
- Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord
- 編者
- Albert de Broglie
- 原典の利用条件
- パブリックドメイン(米国)
Project Gutenberg 利用条件 - 収録範囲
- 本文・原注・電子版補注を翻訳。図版の手書き書簡は判読できる部分を訳し、判読未確定の一文を明示。
日本語訳
表紙
- 画像
- 収録挿絵
- 利用条件
- パブリックドメイン(米国)
一八九一年版の収録肖像を表紙として使用しています。
追加日: 2026-10-10 / 更新日: 2026-10-10
本文・原注・電子版補注を翻訳。図版の手書き書簡は判読できる部分を訳し、判読未確定の一文を明示。
タレーラン公回想録
アカデミー・フランセーズ会員ブロイ公 編・序文・注釈
第一巻
パリ 出版者カルマン・レヴィ
オベール通り三番地、およびイタリアン大通り十五番地 リブレリー・ヌーヴェル
一八九一年
スウェーデンおよびノルウェーを含む、すべての国について、複製権および翻訳権を留保する。
原著刊行時の権利表示を、そのまま訳したもの。現在の権利状態を述べたものではない。
タレーラン公回想録

シャルル=モーリス・タレーラン 外務大臣(イザベーの作品による)
序文
タレーラン公は、一八三八年五月十七日に亡くなった。
死の四年前、一八三四年一月十日、公は遺言書を作成した。その条項はすべて、相続人のあいだでの財産の分配と、親族、友人、使用人に贈る形見の品の配分に関するものだった。
その二年後、一八三六年十月一日、公はこの遺言書に、性質の異なる次の宣言を付け加えた。
これは、私の遺言書に続けて、親族、相続人、親しい友人たちに読み聞かせるべきものである。まず私は、ローマの、使徒伝来のカトリックの信仰のうちに死ぬことを宣言する。
ここでは、憲法制定議会のさまざまな決議や仕事に私がどのように関わったか、また、イギリスやアメリカへの最初の旅について、語るつもりはない。
私の生涯のその部分は、いつの日か出版される『回想録』に記してある。しかし家族と、私に友情を、あるいは好意だけでも寄せてくれた人々には、私がアメリカから帰国して以来、フランスで起こった出来事にどう関与したかについて、いくらか説明しておかねばならない。
私はオータン司教の職を辞しており、その辞任は教皇によって認められた。さらにその後、教皇によって還俗させられた。私の還俗の証書は、遺言書に添付してある。私は自分が自由になったと考え、自分の置かれた境遇から、進む道を探さねばならなかった。その道は一人で探した。将来を、いかなる党派にも依存させたくなかったからである。私の見方に合う党派は、一つもなかった。長く考えた末、どのような状況にあろうと、フランスに、フランスという国そのものとして仕えるという考えに落ち着いた。どの状況にも、なすべき善はあった。それゆえ総裁政府から、この文章を書く現在まで、あらゆる体制に仕えたことについて、私は自分を何ら責めていない。革命の恐怖を抜け出すにあたって、何らかの形で秩序と安全へ導くものはすべて、行う価値があった。当時、分別ある人々は、それ以上を望みえなかったのである。
フランスが置かれていた状態から、王政へと移行することは不可能だった。中間の体制が必要であり、それも幾つか必要だった。総裁政府に、王権の影さえ見いだせると期待してはならなかった。そこでは国民公会の精神が支配するはずであり、和らげられていたとはいえ、実際に支配していた。しかし、まさにその精神のため、長続きするはずはなかった。それは統領政府への準備となった。統領政府には、まだ覆い隠されてはいたが、すでに王権があった。そこには、なすべき善があり、確かに遠くからではあるが、王政への実際の接近があった。
その後に来た帝政は、専制政治そのものではなかったにせよ、真の君主政よりも専制政治に似ていた。それは事実である。しかし、ボナパルトが帝冠を戴いたころ、イギリスとの戦争が再燃し、ほかの戦争も差し迫っていた。党派争いの精神が支配し、国の指導者が、真の王権の認めるただ一つの職務だけに自分を閉じ込めていたら、国の安全は、重大な危機にさらされかねなかった。そこで私は、統領として仕えたのと同じように、皇帝となったボナパルトに仕えた。彼自身がフランスだけに献身していると信じられるかぎり、私は献身をもって仕えた。しかし、のちに彼を破滅させた革命的な企てに着手するのを見るや、私は大臣の職を去った。彼は、そのことを決して許さなかった。
一八一四年、私が一七九一年以来、何の関係も持っていなかったブルボン家が、呼び戻された。その唯一の理由は、フランスとヨーロッパが切実に必要としていた平穏にとって、ほかの誰の治世よりも、その治世のほうが有利だと判断されたことである。この大きな出来事において私が果たした主要な役割と、あの忘れがたい日々に私が行うこととなった、かなり大胆な行動については、『回想録』に記しておいた。ブルボン家の諸王族を呼び戻したことは、あらかじめ存在する権利を認めたことではない。もし彼らがそう解釈したのなら、それは私の助言によったのでも、私の同意を得ていたのでもない。この問題について、私が自分のために定めた考えは、次のようなものだからである。
君主が君主であるのは、その者を市民社会の首長として立てる行為によってのみである。確かに、これらの行為は、統治する君主が真の権限の範囲にとどまるかぎり、各君主とその子孫について、取り消すことができない。しかし、統治する君主が、君主以上のものになり、あるいはなろうと試みるなら、自らの行為によって虚偽となった、あるいは虚偽となるであろう称号への、すべての権利を失う。これが私の考えだったので、さまざまな政府のもとで、私が果たした職務を引き受けるにあたり、その考えを捨てる必要は、一度もなかった。
生涯の八十二年目を迎え、長かった政治生活の、実に数多くの行為を思い返し、聖所の秤で量ってみると、次の結論に達する。
私が仕えたすべての政府のうち、私が与えた以上のものを、私が受け取った政府は一つもない。
私が見捨てた政府は、いずれも、それより先に自らを見捨てていた。
いかなる党派の利益も、私自身や身内の利益も、フランスの真の利益と同じ秤にかけたことはない。なお、私の考えでは、フランスの真の利益は、ヨーロッパの真の利益と、決して対立しない。
私が自分について下すこの判断は、公平な人々によって確かめられることを願っている。たとえ、私がいなくなったのち、この正当な評価を拒まれるとしても、それが自分にふさわしいと感じられるだけで、最後の日々の平穏を確かなものにするには十分である。
私の意志を、ここに記し、その記載に、遺言書に記したのと同じ効力を与える。繰り返すが、私の意志は、死後に世に出すため残す著作を、私の死の日に続く三十年が、完全に過ぎてからでなければ、出版しないことである。そうすれば、私が言及せねばならなかった人々は、すべて世を去り、真実のために、その人に不利なことを言わねばならなかったとしても、そのために苦しむ者がいなくなるからである。私は、どのような形であれ、誰かを害する意図で書いたものは、一つもない。したがって、死後三十年を経ても、私の『回想録』は、それを遺された相続人が、何ら差し支えなく出版できると判断した場合にだけ、世に出されねばならない。
また、私の文書の保管者には、それを狙うあらゆる密かな企てを防ぎ、あるいは無効にするために、必要な、少なくとも役立つ用心を、何一つ怠らないよう勧める。
さらに、今の時代には、偽の回想録が溢れている。あるものは、飢えた人間や貪欲な人間によって捏造され、またあるものは、邪悪で臆病な人間によって捏造される。後者は、危険を冒さず党派的な復讐を遂げるため、亡くなった著名人たちの名をかたり、最も露骨な嘘と、最も不合理な誹謗を広め、その人々の名誉を、力の及ぶかぎり汚そうとする。それゆえ私は、私の手稿を保管する人々に、上に定めた三十年が過ぎる前に、私の名で出版されるいかなる文章も、公然と、断固として、遅滞なく、私の著作ではないと否認するよう、明確に命じる。私自身も、あらかじめ、それらを自分のものではないと否認しておく。
私が愚かにもドイツとイタリアで買い集め、この種の古物を収集する愛好家や文書館員たちに差し出して、手放そうとしたものの、うまくゆかなかった、たいして興味深くもない膨大な文書の収集物、その残りについては、一部を貸してやった人々にも、何か値打ちのあるものを手に入れたつもりで、多くを盗んでいった人々にも、その完全な所有権を譲る。その人々は、好きなように処分してよい。
ヴァランセ、一八三六年十月一日。
署名 タレーラン公。
見てのとおり、この重要な文書には、明確に異なる二種類の事柄が含まれている。
まずは原則の表明であり、タレーラン氏は、それを自らの良心と後世の判断だけに委ねている。したがって、これについて論評する必要はない。
次に続くのは、文書の保管と出版についての指示である。
この『回想録』の編者が、読者に説明すべきなのは、それらの指示と、それに従って行われたことについてだけである。
これらの指示は、一八三八年三月十七日、遺言書および一八三六年の文書に添えられた補足遺言のなかで、繰り返され、補われた。その文面は、次のとおりである。
下に署名する私は、私の包括受遺者として、ディーノ公爵夫人だけが、私のすべての文書と著作を、例外なく受け取るべきことを宣言する。それは、私が指示し、夫人が承知している用途に供するためである。また、私の死に続く少なくとも三十年が、完全に過ぎるまでは、私の遺す著作を一切公にしてはならない。ただし、バーデン駐在の国王の公使バクール氏には、氏への敬意と友情の証として、受け取ってくださるようお願いする五万フランのダイヤモンドを贈り、遺贈するが、同氏には、ディーノ公爵夫人が不在の場合、すなわち夫人が私に先立って亡くなった場合にのみ、私がイギリスに残した未刊の文書すべてを、引き受けていただきたい。
ディーノ公爵夫人は、ほどなくタレーランおよびザガンの公爵夫人という称号と名を帯びることになったが、一八六二年九月二十九日に亡くなった。タレーラン氏が相続人たちに文書の出版を許した期日より、六年前のことだった。
それでも、タレーラン公爵夫人は、叔父の文書すべてを、完全に受け取っていた。そのことは、一八六二年九月十九日、ザガンで作成した遺言書から分かる。その第十七項には、次の条項がある。
亡き叔父タレーラン公の遺言書に従って私に引き渡された叔父の文書は、大部分が、アドルフ・ド・バクール氏の保管のもとにある。その一部は、必要な指示を添えたうえで、私の相続財産のなかにある。私はここに、この後者の部分も、私の死後ほどなく、バクール氏へ引き渡すよう命じる。同氏は、亡き叔父の定めた、当時私自身が受け取ったのと同じ条件のもとで、これを受け取ることになる。
一八六五年四月二十八日に亡くなったバクール氏は、タレーラン公爵夫人の死後、それほど長くは生きなかった。しかし、たった今見たように、公爵夫人が存命のうちから、あの著名な政治家が夫人に委ねた保管と整理の仕事に、夫人によって参加させられていた。夫人に遺贈された文書を、イギリスに残っていたものも、なおフランスにあるかもしれないものも、すべて集めるよう、夫人から任されていたのである。
三年間、この一群の文書を一人で保管することになったバクール氏は、たゆまぬ注意をもって、その点検を終え、主要な部分をなす『回想録』の出版準備を進めた。そのため、公の生涯の最も重要な点と、とりわけしばしば論争の的になった行為について、多数の補足・解説の注を執筆していた。また、託された貴重な文書群を増やすため、何一つ怠らなかった。タレーラン氏自身の手になるもの、さまざまな人物から氏に宛てられたもの、あるいは氏の事績に関わるものなど、多くの未刊文書を入手したのである。
信仰にも似た献身をもって打ち込んだこの仕事が、自分の死後も、自らが取り組んだのと同じ精神で続けられるようにと願って、バクール氏は、遺言書に一連の条項を定めねばならないと考えたに違いない。その文面を、そのまま掲げておこう。
たった今引用した二つの遺言書、すなわちタレーラン公とタレーラン公爵夫人の遺言書に定められた条項により、私は、タレーラン公の遺した文書について課された義務を果たす前に死んだ場合、生じうる事態に備えねばならない。これらの文書は、すべて私の手もとにある。
私は、その最善の方法は、イギリスで用いられる慣行にならい、同国でトラスティーズと呼ばれる、信頼できる人々を選ぶことだと考えた。その人々には、私が死んだ場合、第一に、私に代わって右の文書の保管者となること、第二に、私の定めた時期に、それらの文書のうち出版されるべきものの出版を取り計らうことを、任せる。そこで、この目的のため、パリのアンジュー=サントノレ通り十七番地に住む元公証人シャトラン氏と、同じくパリのサン=ラザール通り百一番地に住む、パリ帝国法院弁護士ポール・アンドラル氏を指名する。両氏とも、私の託す役目を、快く引き受けてくださった。私の死後、直ちに、この文書が置かれている場所と、そこで両氏の受け取りに供されていることを、両氏に知らせるよう、私は希望し、命じる。また、必要なあらゆる安全措置のもとで、両氏がそれを受け取れるよう、便宜を図ること……。
私はシャトラン氏とアンドラル氏に、明確な条件として、この文書からのいかなる出版も、いかなる場合にも、一八八八年より前には行ってはならないと命じる。こうして、タレーラン公の定めた三十年に、さらに二十年の期間を加える。
今見たように、バクール氏は、タレーラン氏の定めた三十年に、さらに二十年の猶予を加えることによって、公自身が相続人に留保していた権限を行使した。次にバクール氏の遺贈を受け取った人々には、それに従わない権利はなかった。
この期限が過ぎる前に、その一人であるシャトラン氏は亡くなり、息子が代わりを務めねばならなかった。そして、定められた期限が来たとき、共同で役目を担うアンドラル氏は、すでに病に冒されていた。その病は、翌年、友人たちの愛情から氏を奪うことになった。
したがって、永遠に惜しまれるこの友が、私に寄せてくれた信頼を知ったのは、今年の初めになってからである。バクール氏の遺志によって課され、病気のため果たせなかった仕事を、自分に代わって遂行する者として、私を選んでくれていたのである。私にその心構えをさせるようなことは何もなく、本人からも、それを予想させる連絡は一切なかった。高い価値を持ち、もっともな好奇心の対象となるこの著作を知りたいと、世間が長いあいだ待ちわびてきた気持ちは理解していたし、私自身も同じ気持ちだった。しかし、シャトラン氏と私が、その願いにどれほど応えたいと思おうとも、これほど重要な出版のために必要な注意を何一つ怠らないよう、必要な時間を取らねばならなかった。
タレーラン公爵夫人とバクール氏が、それぞれの遺言書のなかで、公の文書を例外なくすべて、完全に保有しており、そこから抜き取られたものも、取り逃したものもないと、どれほど念を押して確認しているかに、読者は気づかれただろう。沈黙を強いられた長い年月のあいだに、タレーラン氏の名を冠した偽の回想録や、偽造・改変された文書が現れることを、明らかに恐れていたのである。著名人については、こうした手口が、非常にしばしば用いられる。この種のあらゆる悪用や偽造に対して、二人は、あらかじめ抗議しておこうとした。その点でも、タレーラン氏自身が、一八三六年の文書で、秘密裏に行われるいかなる出版からも自分の名誉を守るよう、相続人に勧めた、その思いに忠実だった。
この用心は、それ自体きわめて自然なものだったが、とりわけ、非常に重大なある事実を知っていたことで、正当化されていた。その影響は、タレーラン氏の死ぬ前から、氏にも家族にも、もっともな不安を与えていた。
氏が大臣あるいは大使として、国家の最も重大な利害を任されていた年月に、その信任を得ていた一人の秘書が、二十年間の親密な勤務ののち、確かに重大だったはずの理由で、遠ざけられねばならなかった。その手もとにあるかもしれないすべての文書を引き渡すよう求める用心は、怠らなかった。それにもかかわらず、ほどなく、この返却が完全なものからは程遠かったばかりでなく、解雇された秘書自身が、重要な文書を幾つも手もとに残していると自慢し、以前の庇護者の許可なく、氏を害する意図で、それを使うと脅していることが分かった。
この不実な人物の振る舞いを、非難されるべきであると同時に、危険なものにしたのは、タレーラン氏と親しく交わった年月のあいだに、氏の筆跡をまねる技術を身につけていたことだった。その筆跡を最もよく知るはずの人々さえ、欺けるほどだった。しかもほどなく、この嘆かわしい才能を利用して、タレーラン氏のものと称する偽作や改竄された文章を流布させ、家族や友人との関係を乱し、氏への最も好ましくない非難を、信じ込ませようとしていることが分かった。
ある偶然のおかげで、バクール氏は、この不正の、物的で否定しようのない証拠を手に入れ、自分の文書のうち、特別な一件書類に残すことができた。それは今も、そこにある。氏は、タレーラン氏の書簡の原本と並べて、この筆写者の遺品から見つかった模写を置くことができた。模写は手本にあまりによく似ていて、明らかに悪意をもって挿入された文章が、偽造であることを暴いていなければ、見分けることはできないほどだった。
したがって、タレーラン氏の死から三日後、一八三八年五月二十日に、イギリスの新聞『タイムズ』が次の知らせを掲載したとき、氏の遺志を執行する人々が、どれほど不安を感じたかは想像できる。
タレーラン氏の政治的な『回想録』については、死後三十年を経て初めて世に出されることが知られている。しかし、その秘書ペレー氏が手稿の大部分を手に入れてしまったため、多額の金銭的犠牲を払わなければ、故人の意図の大半は実現できないだろうと考えられている。ペレー氏が手に入れたと知られている文書のなかには、百人以上の同時代人を風刺した人物描写がある。
付け加えると、『タイムズ』は、その同時代人のなかに、タレーラン氏とその家族の、個人的な友人たちをすべて数え入れていた。
確かに、八日後の五月二十八日、ペレー氏自身、なお、その名を挙げたのは『タイムズ』だったのだが、同紙に宛てた書簡で、この主張を否定し、「タレーラン氏の著作に、いくらかでも真正らしい外観を与えるため、私の名を利用する者は誰であれ」、法廷で訴える用意があると述べた。しかし、犯罪的な不正を犯したと自ら認めるのでないかぎり、出さずにはいられない、この否定に、どれほどの価値があったのか。そして『タイムズ』の主張には、どのような根拠があったのか。ペレー氏は、持ち去った『回想録』の断片や、その執筆のため用意された覚書に、自分の常套手段と知られている、増補し、歪めた複製を作る手口を、試していたのだろうか。そのような試みをしていたとして、その痕跡は消していたのか。また、無償あるいは有償で譲り渡した仲介者の手によって、それが世に出される危険はなかったのか。
タレーラン公爵夫人とバクール氏には、この恐れるべき事態に備えるため、どのような用心も、余計だとは思われなかった。そして、起こりうるあらゆる異議や混同を、あらかじめ防ぐため、バクール氏は、タレーラン氏から受け取ったとおりの『回想録』の本文を、添付されるべき注釈や文書とともに、自らの手で書き写すことにした。
この写本は、バクール氏の遺言書に添付された文書目録に、次のように記載されている。
革装の四冊。タレーラン公『回想録』の、唯一の真正かつ完全な写本。タレーラン氏が使用方法を指示した手稿、口述筆記、写本に基づいて、バクール氏が作成したもの。
さらに、この四冊の第一冊には、最後の紙葉に続いて、次の証明文がある。
下に署名する、亡き叔父シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール公の遺言執行者である私は、手書きの五百一ページからなる、この二つ折り判の巻が、タレーラン=ペリゴール公の遺した『回想録』の最初の五部と、ショワズール公についての一篇の、唯一の正本となる、完全で忠実な写本を収めていることを、宣言し、証明する。
ザガン、一八五八年五月二十日。
ドロテ・ド・クールラント タレーランおよびザガン公爵夫人。
まったく同じ内容で、同じ署名のある証明文が、第二冊の最後の紙葉を締めくくっている。
第三冊の末尾では、一人残ったバクール氏が、次のように述べている。
下に署名する、故シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール公、およびクールラント公女タレーラン・ザガン公爵夫人の遺言執行者である私は、手書きの五百六ページからなる、この二つ折り判の巻が、シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール公の遺した『回想録』の第八、第九、第十部の、唯一の正本となる、真正かつ完全な写本を収めていることを、宣言し、証明する。
バーデン、一八六三年一月二十日。
アドルフ・ド・バクール。
第四冊の末尾には、証明文がない。それは、この巻の最後の部分が、添付文書によって構成されるはずだったが、そのすべてを書き写し終える前に、バクール氏が死に襲われたためである。
今回の出版は、タレーラン氏自身が任せた人々によって、氏から受けた指示に従い、印刷のため整えられた、この本文に基づいている。いかなる種類の削除も変更も、そこへ加えることは許さなかった。ただし、バクール氏の準備した注の幾つかだけは、興味を失っていたため、省いた。その代わり、『回想録』に名の現れる人々の伝記的情報や、そこで言及されるが、今日の読者には十分に正確な記憶が残っていないかもしれない出来事についての説明を、多数の注として新たに加えた。
タレーラン公爵夫人の証明文に記されている、ショワズール公の大臣在任期に関する文章については、バクール氏は、『回想録』第一部の冒頭に置くべきだと考えていた。しかし、それは本来、第一部に含まれるものではなく、同じ時期に書かれたものでもない。この独立した文章は、最終巻の末尾に置くほうが適切に思われた。そこには、未刊のもの、あるいは忘れられたもののうち、今も興味をもって読める、タレーラン氏のほかの著作も幾つか、同じく収めることができるだろう。
二
読者がご覧になるように、『回想録』を構成する十二の部分は、完全で一貫した全体をなすものからは、程遠い。それらは、明確に異なる二つのまとまりに分けられる。最初のまとまりは、タレーラン氏が世に出てから、一八一五年、ルイ十八世の治世に務めた大臣職の終わりまでを扱う。きわめて明白な手がかりによって、この『回想録』の部分が、王政復古期に執筆されたことは疑えない。第二のまとまりは、一八三〇年の革命後、タレーラン氏のロンドン大使就任から始まり、その使命についての記述を含んでいる。これは、一八三四年の辞任後の隠退生活のあいだに、書かれたものに違いない。
十四年間の中断と、タレーラン氏の政治生活のある部分、とりわけ憲法制定議会での役割を、短く通り過ぎていることは、氏が『回想録』のなかで、自分の全生涯の完全な姿を示すつもりなど、まったくなかったことを、十分に証明している。氏自身、第一部の冒頭に置いた注で、自分の思い出を『回想録』と呼ぶのは、不適切な表現だが、もっと正確なものが見つからないからだと、断っている。実際、そこで最も乏しいのは、普通、人が回想録に最も求めるものである。すなわち、書き手の生涯の、あまり知られていない出来事の開示や、目撃した事件についての個人的な感想である。幼年期と青年期に割かれた数ページを別にすれば、タレーラン氏の記述は、自分の私生活について、抑制的という以上に寡黙であり、知り合った人々の私生活には、さらに少ない場所しか与えていない。自分が生きた社会についての判断は、鋭敏さと趣味のよさに満ちている。しかし、逸話、内緒話、打ち明け話を求め、場合によっては、少しばかりの醜聞があっても悪くないと思って読む人は、まったく失望するだろう。ふだん重々しい語り口は、そのような好奇心を満たすものには、何一つ向いていなかった。
タレーラン氏は、自分に向けられたさまざまな非難に対して、説明や弁明によって答えようとも、していないようである。アンギャン公の命を奪った加害行為について、幾人かの著述家が氏に帰した関与だけは別で、特別な注のなかで、憤りをもって否定している。しかし、そのほかのすべての非難については、沈黙を守っている。それは、単なる軽蔑には見えない。むしろ、自分一人にしか関わらない事柄で、未来の読者の心を占めまいとする、一種の決意のようである。何度もその運命を手に握り、フランスと後世が、氏に説明を求める権利を持つ、政治と国家の大きな利害にこそ、読者の注意のすべてを向けさせようとしている。
あらゆることからそう信じられるように、もしそれが氏の考えだったのなら、もし氏が、風刺も弁論も、いかなる種類の告白も行おうとせず、ただ、フランスが自分に信頼を置いたために、その国運が損なわれることはなかったと、自ら証言しようとしただけだったのなら、自分の名誉から非難を遠ざけるために、これ以上の方法はなかっただろう。その非難は、生前の氏を容赦しなかった以上、墓の上でも、決して沈黙しないはずだった。タレーラン氏の私生活には、弁護する権利のない過ちや不正がある。そのなかには、最期の時に、氏自身が厳粛に撤回したものもあるからである。関与した革命のさまざまな局面で、国内政治において果たした役割については、今後も常に、異なる評価が下されるだろう。また、今なおフランスを分ける党派の、いずれにも属さなかったため、どの党派も、氏のある行為を厳しく裁く権利が、自分にあると考えている。しかし、大臣としてであれ、大使としてであれ、敵、競争相手、同盟国という外国を前に、国家の偉大さと独立の大義を守らねばならなかったとき、氏が果たした貢献の重要性を争うことは難しいだろうし、氏がそれを誇張しているとは、読者も思わないだろう。
この点で氏を十分に公正に評価するには、総裁政府や第一帝政の大臣として、どのような影響を及ぼしえたかを語る記述だけに、とどまってはならない。氏自身、大臣生活の初期のこれらの段階は、かなり手短に通り過ぎている。この時期に次々と起こった事件が、いかに重大であろうと、熟達した歴史家の技で、その姿をしばしば描いてはいても、語るのは、当事者というより目撃者としてである。当時、どれほど高い職に就いていようとも、その権力は名目上のものだったと、分からせようとしている。たいていの場合、自分が反対した決定の、単なる実行者にすぎなかった。革命によって成り上がった者たちの無能さには、理解してもらえず、自分の天才か激情しか相談相手にしない、横柄な主人には、聞き入れてもらえなかった。そのため、従われない助言をした後で、自分なら犯さなかったはずの過ちを修復することに、手腕のすべてを費やした。自らの代表する君主から全面的な信頼を受け、完全に自由に行動する姿を見せるのは、王政復古後のウィーン会議と、一八三〇年以後のロンドン大使時代なのである。
長い経歴のなかで最も輝かしく、これから読まれる諸巻でも、当然ながら最も多くの場所を占めるこの二つの機会に、タレーランは、歴史上、おそらく外交がそれまで担ったことのない役割を果たさせ、一人の大使の個人的な働きに、ほとんど前例のない重要性を与えた。普通、最も名高い外交官でさえ、自分自身のものではない考えを、うまく伝える代弁者であり、上から与えられた計画を巧みに実行する者にすぎない。リシュリューがいなければ、ジョゼフ神父に何ができただろう。また、その威信は、本人の力量よりも、代表する政府が引き起こす恐れや信頼を、どれだけうまく利用するかに、かかっている。コンデとテュレンヌの勝利がなければ、ウェストファリア条約やピレネー条約の、大交渉家たちに何ができただろう。祖国のあらゆる利害が託された二つの機会に、タレーランには、この種の支えが、何一つ助けとならなかった。いずれの場合にも、力のすべてを、自分自身のなかから引き出さねばならなかった。
ウィーンでは、勝利し、結束し、なお武装している四つの大国の前に、姿を現す。氏が代弁するのは、二十五年の混乱ののち、不安定な地盤の上に再建された王政である。その国土は、なお外国軍に覆われ、王政自身が自由にできるのは、損耗し、忠実ですらない軍隊だけだった。会議が仕事をすべて終える前に、百日天下という悲しい冒険によって、氏は、亡命した君主の大使という、ほとんど滑稽な役回りに落とされる。ロンドンでは、革命から生まれた新しい権力の代弁者である。そのために、ヨーロッパのあらゆる君主政から疑いの目で見られ、しかも、それを生んだ民衆の力によって、いつ見放され、覆されるかもしれない危険にさらされていた。少なくとも、そう考えられていた。会議の席で平和の保証を伝える大使の声が、パリから届く響きにかき消される日もあった。その響きは、群衆の好戦的な叫びと、暴動のうなりを伝えていた。
それでも、タレーラン氏が、ウィーンでもロンドンでも、一日として会議の中心人物であることをやめず、集まったヨーロッパ諸国の決議を、実際に導いた人物であり続けたことは、否定できない。この点に疑いがあるなら、『回想録』を読むだけで、それは消えるだろう。困難な事情を考えれば、結局、その決議によって、フランスが害を受けることはなかった。外からの支えが絶えず欠けるなか、自らの手腕と知性の力で、それを補うことを可能にした、あの卓越した技は、定義するより、その存在を認めるほうが易しい。公の生活でも、私的な関係でも、一人の人間が、近づいてきたり交渉したりする人々に及ぼせる影響力は、生まれつきの賜物にかかっており、どのような優越性を挙げても、十分には説明できない。しかし、その思いがけない成功は、『回想録』が教えてくれるとおり、大部分は、たぐいまれな眼識の正確さによって説明される。その眼識があれば、ほかの誰もが絶望的だと考える状況にも、なお引き出せる資源があることを、一目で、何ら試してみる前から、見抜けたのである。
こうして一八一四年、ヨーロッパの元老院ともいうべき場へ入ったとき、タレーランには、相手に自分を恐れさせる手段は、何一つなかった。それでも、勝利の直後でさえ、物質的な力がすべてではないことを、直ちに見分けた。自分に最も不利に見える事件の流れが、それでも、ある精神的な力を自分のために用意しており、その働きを巧みに扱えば、自分に欠けている別種の武器の代わりとなることを、見抜いたのである。この精神的な力は、わが国に対して連合した諸宮廷が、兵士の数から得る力にさえ勝るものだった。氏は、それを、声高に宣言された君主政の正統性の原則に、まっすぐ求め、そこで見つけた。氏が会議へ持参した訓令の本文を、読者はご覧になるだろう。氏は大臣であると同時に大使でもあったため、自らに訓令を与えたのである。それは、ヨーロッパ全域に正統性の原則を復活させ、したがって、領土を奪われたすべての君主に、先祖伝来の領地をすべて返すという、全般的な計画だった。計画は、条項ごと、国家ごとに、体系的に展開され、留保も制限も、ためらいもない。世間体への気遣いもない、とさえ言いたくなる。教義の高さにまで引き上げられた、この君主政への信仰が、共和国と帝国の元大臣の口から出れば、いくらか驚きを招くかもしれないとは、タレーランは一瞬も考えていないように見える。
その驚きを本人に告げる人がいたら、氏は、いつもの冷静さで、自分のこの矛盾は、経験が必然性に捧げる、もう一つの敬意だと、答える用意があったに違いない。しかし実際には、ヨーロッパの大地を血に浸し、あらゆる領土を、千差万別の仕方で切り刻み、引き裂き、組み替えた二十年の闘争ののち、世の人々の心には、極度の疲労と、征服や革命の結果への深い嫌悪が広がっていた。総裁政府が即席で作った共和国や、皇帝の気まぐれで生まれた王国が、目まぐるしく入れ替わった。今日生まれ、明日消える、これらの幻の通過は、人々の目を眩ませると同じほど、疲れさせてもいた。民衆も君主も、もう勘弁してほしいと願っていた。一方は手から手へ、主人から別の主人へと渡されることに、他方は、その日の運に従って、冠を戴かされたり、王座を追われたりすることに、同じように疲れていた。権力の規則正しい継承を定め、それほど多くの衝撃によって揺さぶられた、あらゆる国家の基礎を固める、何らかの公法の原則が、四方から求められていた。この一般的な感情が、いかに切迫しているか、また、ルイ十八世の代表者が、それをどのような影響力の手段となしうるかを理解したことは、タレーランの功績だった。フランス王政は、昔の国境内に復活し、一時的な成功だけによって得た付加領土を失ったにすぎなかった。それは、修復の原則が適用された、最初にして最も高貴な例に見えた。ルイ十八世を、共通の願いの代弁者とし、簒奪と暴力の体制の粗暴さに対する、生きた抗議とすることで、氏は、同じ君主たちのあいだに、独自であると同時に、優越した地位を、王に与えた。自分の参加しなかった戦争の結果として復位したのなら、フランス王は、祖国の門を開いてくれた者たちに恩義を負う、被保護者にすぎない。しかし、力に依存しない権利によって復位したのなら、王は、彼らと対等となり、その家系の古さを考えれば、ある程度は、彼らより上位にさえ戻る。武力への恐れでは強制できないことを、一つの原則への敬意なら、獲得できる。ナポレオンの勝者たちの野心を抑え、彼の例をまねて、都合と欲望のままに、自軍の占領した領土を、自分のものにすることを、防げるのである。
承知しているが、こうした考え方は、騎士道的な忠誠に彩られており、そのいささか熱を帯びた表現も、タレーランの口から出る以上、真に誠実なものでも、まったく真剣なものでもありえなかった、と言われてきた。また、ドレスデンからナポリまで、ヨーロッパ全域で正統な権力の復活を追い求める代わりに、もっと容易に、もっと確かで実質的な利益を得られたはずだとも、ほのめかされてきた。たとえば、プロイセンとロシアに、北方で近隣諸国を犠牲にして、望みどおり拡張させておけば、ドイツの国境をわが国の国境から遠ざけ、将来の衝突を防ぎ、ヨーロッパの新たな均衡のなかで、わが国によりよい分け前を確保できたはずだ、というのである。本質的に実利的で実際的だと称するこの判断は、私にはいつも、事実の狭く表面的な評価に基づくものに見えた。タレーラン氏がウィーン会議へ入ってゆく記述の示す光景を前にしても、この判断を維持できるかは疑わしい。あの最初の会見ほど、劇的なものはない。なお連合を組んでいた諸国は、傲慢で冷たい態度で、和平が結ばれたあとも、緊密で他を寄せつけない関係を維持する意思を、氏に告げる。大きな会議のなかに小さな会議を作り、密室の協議でヨーロッパの運命を決め、フランスには、その決定をそのまま受け入れさせるつもりだった。革命の毒が、まだ十分に抜けていないとして、フランスを隔離しようという、公然たる要求である。タレーランが、自分を疑う者たちよりも厳格な君主政の精神に動かされている姿を見せ、この防疫線を破っただけだったとしても、また、この思いがけない策略の結果が、会見相手の一人に、失望を隠しきれない驚きとともに、「まったく、タレーランは、ルイ十四世の大臣のようにわれわれに話す!」と言わせただけだったとしても、過去においてさえ、国家の尊厳を気にかける人々は、なお氏に感謝すべきだろう。しかし、根底で問題になっていたのは、尊厳や名誉さえ超えるものだった。後の出来事が、あまりに早く証明することになるが、常に危険にさらされていたのは、フランスそのものの存在と、その統一の維持だったのである。結局のところ、ルイ十八世が、父祖の保有した領土を完全に取り戻せたのは、世襲の権利以外の、何の資格によるものだったのか。自らその恩恵を受けたあとで、ほかの場所では、弱い者を犠牲にして世襲の原則を破るのを、抗議もせずに見過ごすなら、それは自己矛盾であり、ある種の道義的な忘恩でさえあっただろう。それでは遠くまでは進めず、ほどなく後悔したはずである。わずか十か月も経たぬうちに、フランスは新たな災厄へ自ら突き進み、その運命は、言葉にできぬ不安の日々に、勝者たちの前で、再び問題にされた。最も大切な地方の幾つかを奪い取る地図が、すでに作られていた。ルイ十八世は、もう一度、自分の相続財産の不可侵を主張せねばならなかった。しかし、ウィーンの大使の迎合を通じて、自分を脅かす略奪と同じほど正当化できない、ほかの略奪を、自ら黙認していたなら、どうして声を上げ、聞き入れてもらえただろう。たとえば、タレーランが、利己的な思惑から、わが国の古く忠実な友であるザクセン王の世襲領を守る代わりに、それを欲しがるプロイセンの野心へ、餌として投げ与えていたとしよう。そうすれば、ワーテルローのあと、すでに十分知られていた、その飽くなき貪欲が、ラインを越え、ムーズとヴォージュまで広がるのを、誰が防げただろう。実際、タレーランが取った正統性の擁護者という立場は、代表する君主の物質的な力が、その影さえ消え去り、権利の力しか残らなくなった日にこそ、最もよく正当化された。その力は、観念的なものに見えたが、およそ空想とは最も無縁な知性の持ち主が、その日、その実際の価値を、正しく見抜いていたのである。
十五年が過ぎる。タレーランの活動的な生活における十五年の中断であり、『回想録』における十五年の沈黙である。そして再び姿を現し、ロンドンへ来て、新たな権力がヨーロッパの協議へ加わることを求める。その権力は、王位継承の規則正しい流れを断つことを、最初の行為とした革命ののちに生まれたものだった。転換は突然で、驚きを与えることは、認めねばならない。しかし、考えてみると、言葉の違い、さらには、しばしば見られる矛盾にもかかわらず、人は変わっておらず、追う目的も同じであり、同じ技と、適用だけが異なる同じ思考の方法を、そこで働かせていることが分かる。ウィーンでは、完全な平和のなかで存続すれば、孤立によってわが国を永遠に無力にする連合を、解体せねばならなかった。ロンドンでは、新たな戦争のために、その同じ連合が再結成されるのを、防がねばならない。危険は、少しも切迫の度を減じておらず、あらゆる事情から、避けるのはいっそう難しいだろうと思われる。一八一五年以来、ヨーロッパの対外的な情勢は、何一つ変わっていないからである。同じ人々が率いる同じ内閣が、同じ感情に動かされているように見える。同じ将軍たちが、同じ軍隊の指揮を執る用意をしており、フランスでの革命の勃発は、かろうじて眠りに就いた敵意を、呼び覚ましたはずである。実に奇妙な偶然によって、イギリスの閣議を主宰しているのは、ワーテルローの勝者その人である。一言を発し、一つの命令を下しさえすれば、かつて勝利へ導いたあらゆる大軍を、再び動かせるように見える。
しかし、そうではない。タキトゥスの言う「死すべき者の一生にとっての、この長い期間」である十五年のあいだに、時はその仕事をなし、表面の静止の下で、世の人々の心の奥底には、静かな変化が起きていた。それが最も深く進んだのは、タレーラン氏がかつて、避難し、追放された身として、青年期の一部を過ごした、このブリテンの地だった。当時知った古いイギリス、ピットやカスルレーのイギリス、ヨーロッパの連合の魂となり、四半世紀にわたって、憎しみの息吹でそれを動かし、自らの金で支えたイギリス、バークの呪詛によって、貴族的な誇りと道徳的な本能を、革命の過激さに対して奮い立たせたイギリスは、もはや見分けられなくなっていた。民主的改革の風が海峡を渡り、ウェストミンスター議会のゴシックの穹窿の下にさえ入り込んだ。一八三〇年七月の運動がパリで起こったとき、新しい革命を呪う声は、一つも上がらない。それどころか、イギリスは、自らも革命を行い、王冠を、統治する王朝の一つの支流から別の支流へ渡したことを、満足して思い出す。新しいフランス王政は、一六八八年のイギリス王政を手本として作られ、その手本に忠実であると約束している。この類似は、模範を借りに来てもらったことでくすぐられた、ブリテンの自尊心を喜ばせる。
タレーラン氏は、イギリスの地へ足を踏み入れるや否や、周囲のあらゆる空気の流れから、この転換を知らされ、新たな状況が自分に用意する、新たな行動の手段を、直ちに見抜く。計画はできあがる。あらゆる革命を恐れる大陸の君主政の連合に対して、ともに国民の選択に基づく二つの自由主義的な君主政の同盟を、対置するのである。そして、初めて正式の謁見を受け、イギリス国王に述べる演説で、ブラウンシュヴァイク家の後継者に向かい、原則の共通性と起源の兄弟関係の名のもとに、フランス人の王の友情を申し出ることを、ためらわない。
この瞬間から、氏の歩みは確かになる。その到来を予見していた、自由主義の党派から出るイギリス内閣の成立は、行く手の障害を取り除くばかりとなる。氏は、自分で動かせる梃子を手にした。イギリスが離れた時点で、脅威となる連合は、芽のうちに摘まれる。イギリスとの同盟は、長い交渉の軸にさえなる。その交渉は、ブリュッセルに、フランスと同じく民衆の選択から生まれた、もう一つの王政を確立することで、わが国の国境にある、厄介な敵意を抱く隣国を、友好的な中立国へと置き換えることになる。
認めねばならないが、われわれは、ウィーンと、正統性の絶対的な原則から、遠く離れた。その原則は、少なくとも同じ権威をもっては、もはや持ち出せないのは当然である。代わったのは、国民の願いを尊重することである。政治の原則を、絶対的な真理ではなく、適用の適切さによって価値の決まる、実際に役立つ道具と見なすことを可能にする、この精神の自由さには、確かに幾つもの異論がありうる。しかし、それは、革命が頻発することの、ほとんど避けがたい結果ではないだろうか。高貴な幻想を抱いて人生へ踏み出した、一七八九年の世代のなかで、無力な試みと、それに続く同じ数だけの失望によって、理論への軽蔑と、政治的懐疑の底流を生じさせたのは、タレーラン一人ではないことは確かである。この留保の重大さを、私は少しも軽く見るつもりはない。それを述べたうえでも、最も異なる試練や、最も対立する出発点からさえ、同じ大義に役立つ、尽きることのない多様な手段と論拠を引き出せる、この知性の柔軟さと、豊かな創造力に、感じ入らずにはいられない。そして、形の柔軟さの下に、常にフランスに結びついた愛国的な視点の、粘り強さを認めることは、公正である。国内がどのような状態にあろうと、王政復古の途上にあろうと、革命の渦中にあろうと、それは常にフランスであり、現在の安全と将来の偉大さに等しく心を配って、仕えねばならないことを、決して忘れてはいないのである。
最後に、氏の導いた交渉が成功したことについて、タレーラン個人の功績に帰すべき部分と並べて、氏の仕えた二人の君主の、堅固で賢明な協力にも、大きな、ほとんど同じほどの部分を帰さなければ、完全な公正さには、何かが欠けるだろう。『回想録』の長所は、この分かち合いを認め、フランス王家のこの二人の後継者に、それぞれふさわしい高い位置を与えていることである。すでに公刊され、感情の崇高さに等しい言葉の高貴さと、王者の誇りの真の響きによって、称賛を呼んだルイ十八世の書簡を、感動せずに読み返すことはできないだろう。幾つかの未刊文書は、この印象を確かめ、いっそう深めることになる[1]。ベルギー王国の成立をめぐる交渉では、ルイ=フィリップの書簡は、異なる性格を示すが、それも、同じほど氏の名誉となる。そこにあるのは、熟達した経験から来る助言、最も細かな点にも向けられる心配りの警戒心、王朝や家族の事情より、常にあらゆる公益を優先する姿勢、そして危機の時には、雄々しく分別ある決断である。要するに二人とも、父祖の作り上げたフランスの強大な統一を守る、忠実な番人だった。そして、その統一を、その後、自らの過ちと愚行で危うくする後継者たちに、無傷のまま遺すことができたのは、幸いだった。この統一が受けた痛ましい切断が、もし取り返しのつかないものならば、歴史は、それを築いた王家が王座を降りた日に、統一は滅んだと語ることになるだろう。
ブロイ公。

タレーラン公回想録
図版の手書き書簡(判読できる部分の訳)

一八三〇年十一月十日、午後十時
ロンドンでは、すべてが落ち着きを取り戻しつつあります。シティにはまだ取るに足りない集まりがいくつかありますが、誰も気にかけていません。警察はならず者どもを相手に実際に優勢に立ち、彼らを追い払い、ひどく手荒に扱いました。これには誰もが大いに喜びました。
各党派は争いを先送りしました。野党のあらゆる努力が、その力を余すところなく示すのは、十六日に提出されるブルーム氏の動議の時でしょう。どちらの側が多数を得るにせよ、それはきわめて懸念されることになります。
公爵は冷静で、毅然としています。その立派な気性をもって嵐に立ち向かいました。十六日の火曜日には、ブルーム氏とピール氏が論戦を始めます。その翌日にお便りします。公爵がこれからも長く政務を執れるような地位にあることは、ヨーロッパ全体にとって有益だと私は思います。
人々は彼を必要としています。残っている大きな名声は、彼のものだけなのです。できることなら、その名声を傷つけ、あるいは葬り去りたいという者もいるでしょう。〔この後の、行間への書き込みを含む一文は判読未確定。図版原画像を参照。〕
この手紙は、私が伝令としてパリへ送るルイに託しました。では、さようなら。言葉にできるかぎりの愛情と親しみを、あなたにお伝えします。
タレーラン公
この書簡は図版内の手書き文字であり、電子版の通常の本文とは別に、画像から判読して訳した。句読点と段落分けは読みやすく整えた。宛先は図版だけでは確定していない。
日付は一八三〇年十一月十日、午後十時と読んだ。多数に関する文の末語は、高解像度の比較画像で inquiétant(懸念される)と判読した。使者の名は Louis(ルイ)。
第二頁の行間加筆を含む一文は、意味を推測して補わず、判読未確定と明示した。この書簡については全文の翻訳完了を意味しない。
「ならず者ども」などは書簡の著者が用いた評価を訳したもの。

この文章に、どのような題名をつければよいか、分からない。これは一つの著作ではない。繰り返しに満ちている。『私の回想録』とも呼べない。私の生活や交友関係は、できるかぎり、ここに姿を見せないようにしているからである。これらの巻に、『わが時代の諸問題についての私見』という題名を与えれば、いくらか真実を含んだ呼び名にはなるかもしれない。しかしそれも、人生において私ほど多くを疑ってきた人間の著作の冒頭に置くには、断定的にすぎるところがあるだろう。哲学的な題名では、不十分か、誇張になる。そこで、題名なしで書き始める。献辞もなしである。私を弁護する義務を認めたいのは、ディーノ公爵夫人だけだからである。
第一部
一七五四年〜一七九一年
一七五四年〜一七九一年
私は一七五四年に生まれた[2]。父と母には、財産があまりなかった。しかし宮廷に地位を持っており、それをうまく扱えば、本人たちにも、その子供たちにも、あらゆる道が開かれえた。
長いあいだ、フランスの名門諸家は、君主の身辺に仕える種類の奉職を、あからさまに軽蔑しないまでも、さほど求めてはこなかった。国民の最上位にあること、あるいは、そう自ら信じることだけで、十分だったのである。そのため、王冠のかつての大封臣の子孫たちは、フランス公領の幾人かの一介の男爵の子孫よりも、名を知られる機会が少なかった。後者は、自然と君主の傍らの、より高い地位へ運ばれたのである。
高貴な家柄の多くを、距離を置かせることへと向かわせた誇りは、まさにそのために、彼らを国王にとって、あまり好ましくない者にした。
リシュリュー枢機卿は、王権を増大させるため、名門諸家の当主を、君主の傍らへ呼び寄せた。彼らは宮廷に住みつき、独立を捨て、遅く来た不利を、より深い献身によって埋め合わせようとした。
ルイ十四世の栄光は、あらゆる考えを、ヴェルサイユ宮殿の範囲のなかへ閉じ込めることに、一役買っていた。
摂政時代は、一種の空位期だった。その平穏は、財政の混乱にも、前の治世の末期には厳しく抑えられていた風俗の堕落にも、耐えていた。
当時、ルイ十五世への敬意は、なお十分な強さを保っていた。国の第一の臣下たちは、依然として服従を栄光とし、国王から発するもの以外に、権力も輝きも、考えなかった。
王妃は崇敬されていた[3]。しかし、その美徳には、どこか悲しげなところがあり、人々を惹きつける熱を生まなかった。国民がルイ十五世の美しさを、それほど誇る原因となったような、外見の魅力に欠けていたのである。それゆえ人々は、王妃を憐れむことで義理を果たしながら、ポンパドゥール夫人への国王の好みを許すという、寛大な裁きをした。パンティエーヴル氏[4]、デュラス元帥夫人[5]、リュイーヌ夫人[6]、マルサン夫人[7]、ペリゴール夫人[8]、フルーリー公爵夫人[9]、スールシュ氏[10]、ヴィラール夫人[11]、タヴァンヌ氏[12]、デスティサック夫人[13]は、確かに嘆いていた。しかし当時は、非難することで、その事実を確定させることが恐れられた。それは、誰もが知り、誰も否定する勇気はないが、黙って、知らないかのように振る舞うことで、軽くできると願う、家族の秘密の一つと見なされていた。たった今名を挙げたすべての人々の目には、国王の弱点を見すぎることは、名誉に背くことだったのである。
私の親族は、さまざまな職によって王家につながっていた。祖母は王妃付きの女官だった。国王は祖母を、格別に重んじていた。祖母は、いつもヴェルサイユに住み、パリには家を持っていなかった。
祖母には、五人の子供がいた。その初等教育は、宮廷に直接つながる人々すべてと同じように、かなりなおざりにされていた。少なくとも、重要な知識を、あまり与えられてはいなかった。その後の教育は、いわゆる世間の作法を身につけさせることだけから、成るはずだった。外見上の長所が、その人々に好印象をもたらしていた。
祖母の物腰は、高貴で、礼儀正しく、控えめだった。信心深さが敬意を集め、子沢山であることが、子供たちの出世のため、たびたび働きかけることを、自然なものにしていた。
宮廷に居を定めた一家の子供の教育について、父は、自分の母と同じ原則を持っていた。そのため、私の教育も、いくらか成り行き任せになった。それは無関心からではなく、何より大切なのは、皆と同じように振る舞い、皆と同じようであることだ、と考える心の傾きからだった。
世話を焼きすぎれば、教育に気負いすぎるように見えただろう。愛情を表しすぎれば、何か新奇なこと、したがって滑稽なことに見えただろう。当時、子供は、家名と紋章の相続人だった。出世や職や、幾らかの限嗣相続財産を準備し、結婚を世話し、財産を増やしてやれば、十分にしてやったと考えられていた。
親が子の世話をする流行は、まだ来ていなかった。私の幼年時代には、流行そのものが、まったく違っていた。そのため、私は何年ものあいだ、パリの場末に置かれたままだった。四歳になっても、そこにいた。その年齢のとき、私が預けられていた家の女が、私を整理箪笥の上から落とした。片足を脱臼したが、その女は、何か月も、それを話さなかった。私を引き取りたいと言っていた、ペリゴールの祖母シャレー夫人[14]のもとへ送るため、迎えに来たときに、それが分かった。シャレー夫人は、曾祖母だったが、私はいつも、祖母と呼ぶ習慣でいた。その呼び名のほうが、祖母に近づけるからだと思う。事故は、すでにあまりに古く、治すことができなかった。痛み始めたころ、体の重みを一方で支えていた、もう片方の足さえ弱くなっていた。私は、足を引きずる身のままになった。
この事故は、その後の私の生涯全体に、影響を及ぼした。両親は、私には軍人になれない、少なくとも不利なしにはなれないと確信し、私を別の職業へ向かわせた。それが、一家の出世にとって、より有利だと思えたのである。名門の家々では、個人より、まして、まだよく知らない若い個人よりも、はるかに家族そのものが愛されていたからである。私は、この考えにとどまっていたくない……。ここから離れよう。
私は、シャルルマーニュ嬢という、たいへんよい女性に世話を任せられ、ボルドー行きの乗合馬車に乗せられた。馬車は、シャレーまで私を運ぶのに、十七日かかった[15]。
シャレー夫人は、ひときわ優れた人物だった。その知性、言葉遣い、物腰の高貴さ、声の響きには、大きな魅力があった。当時なお「モルトマールの才気」と呼ばれていたものを、保っていた。モルトマールは、祖母の家名だった。
私は祖母に気に入られた。祖母は、それまで味わったことのなかった種類の、優しい喜びを教えてくれた。家族のなかで、私に愛情を示してくれた最初の人であり、愛する幸福を味わわせてくれた、最初の人でもあった。祖母に感謝を捧げたい! そう、私は祖母を、本当に愛していた! その思い出は、今も、とても大切である。人生のなかで、何度、祖母を惜しんだことだろう。自分の家族のなかに見いだされる、真実の愛情が、どれほど貴いはずのものか、何度、苦く感じたことだろう。その愛情が近くにあるとき、それは人生の悲しみのなかで、大きな慰めとなる。遠くにあれば、精神と心の休み場となり、思いの避難所となる。
シャレーで過ごした時は、私に深い印象を残した。幼いころ、初めて目と心を打つものは、しばしば、その子の気質を定め、性格に、生涯を通じて従う傾きを与える。
首都から遠い地方では、いまも城に住む古い大領主と、より低い身分の貴族や、その領地のほかの住民との関係は、品位への一種の配慮によって定められていた。地方の第一人者は、礼儀正しく、慈善に努めなければ、自分の品位を落とすと考えたはずである。近隣の有力者たちは、古い家名に対する重んじる気持ちと敬意を持たなければ、自らの品位に背くと思ったはずだった。その敬意は、節度ある自由さをもって表され、ただ心からの敬意であるように見えた。農民が領主に会うのは、援助と、幾らかの励ましや慰めの言葉を受けるためだけだった。その影響は、周囲にも感じられた。地方の貴族たちが、その地方の大貴族を手本にしようとしたからである。
ペリゴールの貴族の風習は、その古城に似ていた。どこか壮大で、揺るがぬものがあった。光は、あまり入り込まなかったが、届く光は柔らかかった。人々は、役に立つ緩やかさで、より啓かれた文明へと進んでいた。
小さな主権領の暴政は、もう存在しなかった。それは騎士道精神によって、南方の諸民族のもとで、それに続いて生まれた婦人への礼譲の心によって、そして何より、民衆の解放を土台として増大した王権によって、打ち壊されていた。
宮廷での経歴を終えた老人たちのなかには、自家の栄華を見てきた地方へ、好んで隠退する者がいた。自分の領地へ戻ると、そこで、愛情に基づく権威を享受した。それは地方の伝承や、祖先のありし姿の記憶によって飾られ、強められていた。この種の尊敬からは、なお寵愛の近くにいる人々にも、一種の威信が返ってきた。革命でさえ、かつて主権が宿った古い館の魅力を、消し去ることはできなかった。それらは、信者たちは去ってしまったが、伝承がなお崇敬を支えている、古い無人の神殿のように残った。
シャレーは、当時、敬われ、愛された城の一つだった。
古い家柄の幾人かの貴族が、祖母のまわりに、一種の宮廷を作っていた。そこには、十三世紀の封臣関係のようなところは、何もなかったが、敬意を払う習慣が、最も高貴な感情と混じり合っていた。ベナック氏、ヴェルトゥイユ氏、ダプサック氏、グールヴィル氏、ショーヴロン氏、シャミヤール氏は、毎日曜日、教区のミサへ祖母に付き添うことを喜び、それぞれ祖母の傍らで、洗練された礼儀によって高められる役目を果たした。祖母の祈祷台の隣には、私のための小さな椅子があった。
ミサから戻ると、城の、薬局と呼ばれる広い部屋へ行った。そこでは、棚の上に、大きな壺が並べられ、とても清潔に保たれていた。壺には、昔から城に製法が伝わる、さまざまな軟膏が入っていた。毎年、村の外科医と主任司祭が、注意深く調製したものだった。ほかにも、薬用液やシロップの瓶が幾本かと、別の薬を入れた箱があった。戸棚には、手当てに使うほぐした古布が大量に蓄えられ、ごく細かい織りの古い布が、さまざまな大きさの巻き物になって、多数収められていた。
薬局の手前の部屋には、援助を求めて来た病人たちが、皆集まっていた。私たちは挨拶をしながら、そのあいだを通った。祖母の侍女のうち最古参のソニエ嬢が、一人ずつ中へ入れた。祖母は、ビロードの肘掛け椅子に座り、目の前には古い黒漆の卓があった。着ているのは、レースをあしらった絹の衣装で、段々に並ぶリボンと、季節にふさわしい袖の結び飾りをつけていた。大きな模様のある袖口飾りは、三段だった。肩掛け、蝶形の飾りをつけた帽子、顎の下で結ぶ黒い頭巾が、日曜日の装いを仕上げていた。それは、平日のものより、手の込んだ装いだった。
ミサへ持っていった本を収めた、金の飾り紐付きの赤いビロードの袋は、ベナック氏が持っていた。氏は、曾祖母を通じて、わが家と少し縁続きだった。
私は、当然の権利として、祖母の肘掛け椅子の隣にいた。二人の慈善修道女が、病人一人ひとりに、病気や怪我について尋ねた。治したり和らげたりできる軟膏の種類を、二人が示す。祖母は薬のある場所を指し、ミサへ付き添った貴族の一人が、それを取りに行った。別の一人は、布の入った引き出しを運んだ。私が、その一切れを取ると、祖母自身が、必要な包帯や当て布を切った。病人は、煎じ薬のための薬草を幾らかと、葡萄酒、下剤のための薬を持ち帰り、いつも、そのほかにも幾つかの慰めを受けた。そのなかで最も心に沁みたのは、自分の苦しみに気を配ってくれた、慈愛ある貴婦人の、優しく親切な言葉だった。
もっと整い、もっと学問的な薬局が、名高い医師たちによって、同じように無料で使われたとしても、これほど多くの貧しい人々を集め、とりわけ、これほどの善をなすことには、遠く及ばなかっただろう。民衆にとっての大きな治癒の手段、すなわち、あらかじめ抱く好意、尊敬、信仰、感謝が、そこには欠けていただろうからである。
人間は、魂と体とから成り、前者が後者を支配する。傷に慰めを注がれた負傷者、希望を示された病人は、治癒への準備がすっかり整っている。血はよりよく巡り、体液は清まり、神経は活気を取り戻し、眠りが戻り、体は再び力を得る。信頼ほど効果のあるものはない。そして、権力と庇護についてのあらゆる観念が、そのまわりに集まる大貴婦人の世話から生まれるとき、信頼は、最も充実したものになる。
おそらく私は、こうした細部に、とどまりすぎている。しかし、本を書いているのではない。ただ、自分の印象を集めているだけである。人生のこの初めの時期に、見たり聞いたりしたものの思い出は、私には、このうえなく甘美である。「あなたさまのお名前は、いつも、この地方で敬われてきました」と、毎日のように繰り返し聞かされた。「うちの家族は、昔から、お屋敷のどなたかに仕えてきました。この土地は、おじいさまからいただいたものです。教会を建ててくださったのも、おじいさまです。母の十字架は、奥さまからいただいたものです。よい木は、悪い木にはなりません。あなたさまも、お優しくおなりでしょうね?」と、愛情深く言われた。私の行いの全般的な精神は、おそらく、この最初の年月に負っている。もし、馴れ馴れしくなりすぎず、親愛の、さらには優しい感情を示してきたのなら、さまざまな場面で、傲慢になることなく、いくらかの気高さを保ってきたのなら、年老いた人々を愛し、敬っているのなら、その源を汲んだのは、シャレーであり、祖母の傍らだった。この地方で、親族たちを包み、彼らが喜んで享受しているのを見た、あらゆる善い感情を、そこで得たのである。世代から世代へと増してゆく、感情の遺産というものがあるからだ。新たに財を得た者、新たに名声を得た者は、長いあいだ、その甘美さを知ることはできないだろう[16]。そのなかで最も善良な人々も、庇護しすぎる。ルフェーヴル元帥夫人[17]に、亡命から戻ってきた、貧しいアルザスの貴族の一家へ、こう言わせてみるとよい。「うちの長男は、どうしましょうね? 弟は、どの連隊に入れましょう? 聖職にある息子には、あてにできる聖職禄がありますか? アンリエットは、いつ結婚させましょう? 末の娘を入れてやるべき女子参事会を、知っていますよ……」。夫人は、親切にしようとするだろうが、滑稽になるだろう。心の内の感情が、その好意を退け、貧しさの誇りは、断ることに喜びさえ覚えるだろう。しかし、私は、まだ八歳にすぎないことを、忘れすぎている。今の風俗が、この感情の遺産は日ごとに減ってゆくと告げていることなど、まだ見えてはならないのである。
私はシャレーで、この地方で、よく教育された者なら知っていることを、すべて学んだ。それは、読み、書き、それにペリゴールの言葉を少し話すことに限られていた。勉強がそこまで進んだところで、パリへ帰らねばならなくなった。私は涙を流して祖母と別れ、祖母の優しさは、その涙に涙で応えてくれた。ボルドーの乗合馬車は、来たときと同じく、十七日で私を連れ戻した。
十七日目の午前十一時、私はパリへ着いた。両親に仕える年老いた従僕が、アンフェール通りの乗合馬車の営業所で待っていた。その人は、私を直接、アルクール学院[18]へ連れていった。正午には、食堂の食卓で、同い年の感じのよい子の隣に座っていた。その子は、生涯を通じて私の魂を揺さぶった、すべての心配、喜び、計画を分かち合い、今も分かち合っている。それはショワズール氏、結婚後はショワズール=グフィエの名で知られる人だった[19]。先に父と母の家へ連れていかれることもなく、突然、学院へ入れられたことは、衝撃だった。私は八歳で、父の眼差しは、まだ私に留まったことがなかった。何か差し迫った事情のため、このような急な手配になったのだと聞かされ、そう信じた。私は、自分の道を歩んだ。
私は、いとこの一人、ラ・スューズ氏[20]の部屋へ連れていかれ、数年来、その教育を任されていた家庭教師に託された。
もし私が、いくらか進歩したとしても、それを、いとこの模範にも、家庭教師の才能にも、帰することはできない。
週に一度、アルディ師が、両親の家へ連れていき、そこで食事をした。食卓を離れると、決まって同じ「よい子でいなさい。先生を満足させるのですよ」という言葉を聞き、学院へ戻った。私は、かなりよく勉強した。仲間は私を好み、私は、かなり陽気に自分の境遇へ慣れていった。この生活が三年続いたころ、天然痘にかかった。この伝染病にかかると、子供たちは学院を離れねばならなかった。家庭教師が家族に知らせると、家族は駕籠を寄越し、サン=ジャック通りのルロン夫人の家へ、私を運ばせた。夫人は、学院の医師ルオック氏に雇われた看護人だった。当時は、天然痘の患者を、まだ二重のカーテンの内側に閉じ込めていた。窓の隙間を塞ぎ、大きな火を焚き、強く作用する薬液で、熱を高めた。多くの人を死なせた、この炎上させるような療法にもかかわらず、私は治り、痕さえ残らなかった。
私は十二歳だった。回復期に、自分の境遇が、不思議に思われた。病気への関心の薄さ、両親に会わぬまま学院へ入ったこと、そのほか幾つかの悲しい記憶が、心を傷つけた。孤立し、支えがなく、いつも自分自身のほうへ押し戻されるのを感じた。それを嘆くつもりはない。こうして自分へ立ち返ることが、思索する力を早く育てたと思うからである。幼い時期の悲しみのおかげで、その力を早くから働かせ、満足することばかりだったなら、おそらくそうはならなかったほど、深く考える習慣がついた。また、そのために、不幸な時代を、かなり平然と耐え、自分の内に見いだせると信じる力にだけ、心を向けることを、学んだのかもしれない。
一種の誇りによって、人生のこの初めの時期へ、思いを戻すことに喜びを覚える。
その後、私は理解した。両親は、一家の利益と考えるものに従って、私が何の適性も示さない身分へ、私を向かわせると決めていた。しかし、あまりたびたび会えば、その計画を実行する勇気が鈍るのではないかと、自らを疑っていたのである。その恐れは、愛情の証だった。私は、そのことで両親に感謝することを、喜びとしている。
アルディ師は、ラ・スューズ氏の教育を終えると、つまり十六歳まで家庭教師を務めると、退いた。数か月間、私は、ユロ氏という教育係についたが、その人は正気を失った。そこで、ラングロワ氏の手に託された。氏は、学院を出るときまで私についており、その後、弟たちを教育した。たいへん善良な人物で、フランス史だけは、とてもよく知っていた。そして『宮廷年鑑』を読むことに、必要以上に熱中していた。王族に仕える衣服係の職は、貴族の身分を与え、宮廷宿営長官の推薦によって授けられることを、氏は、その種の本から学んでいた。宮廷宿営長官は、私のおじだった[21]。そこで私たちは、ラングロワ氏が切望する職を得た。一七九〇年、氏は衣服係の制服を作らせ、貴族として、見栄えのよい日付を得るために亡命した。その身分を楽しもうと、少し帰国を急ぎすぎたため、革命の混乱のなかで投獄された。その結果、今では、投獄と亡命という二重の誉れを帯び、サン=ジェルマン地区の、たいへんよい社交界で、穏やかに暮らしている。その後、私が大きな公の仕事に参加する誘惑に負けたとしても、その望みを吹き込んだのがラングロワ氏でないことは、分かってもらえるだろう。
私は、学業で、いくらかの成功を収められたかもしれない。自分の持っていた適性から、そう思うし、一緒に教育を受けた人々の大半にも、ほぼ同じ意見が残っているようである。私の若い時期を、あまり輝かせてはならないという恐れのため、受けた励ましは乏しく、人生の初めの数年は、かなり地味に過ぎた。いわゆる課程の終わりが来ると、私の将来についての父の完全な沈黙と、周囲で交わされる幾つかの言葉が、最初の警告となった。
私に予定された身分について、好ましく、魅力的ですらある印象を与えるため、フランス第一の大司教座、ランスへ送るべきだと考えられた。おじの一人が、そこの補佐司教だった[22]。乗合馬車から降りて大司教館へ入るのでは、わが家の体面に合わないので、この旅は、シャレーへの旅より快適にされた。継ぎ馬を使う小型の旅用馬車がアルクール学院へ迎えに来て、二日で私をランスへ運んだ。
出発前に、両親の家へは行かなかった。ここで、一度だけ言っておき、もう二度と考えずに済むことを願って、記しておく。名門に生まれ、多くの成員を持つ、尊敬される家族に属しながら、生涯の一週間さえ、父の家の屋根の下にいる喜びを持たなかった人間は、おそらく私一人だろう。私の心の状態では、私を惹きつけるため整えられたもののなかに、追放しか見えなかった。
ランス大司教とその補佐司教を取り巻く、盛大な贅沢も、敬意も、楽しみさえも、私の心を動かさなかった。形式ばかりの生活は、耐えがたかった。あらゆる心の動きが、まだ真実である十五歳のときに、慎重さ、つまり、自分の生活、考え、感情、印象の一部しか見せない技が、あらゆる資質の第一であると理解するのは、難しい。ラ・ロシュ=エモン枢機卿[23]の栄華をすべて集めても、求められている、私の誠実さの全面的な犠牲には、釣り合わないと思った。
私を囲む世話のすべては、足の不自由のため軍隊に仕えられない以上、私の家名を持つ人間には、ほかの道がないのだから、必ず聖職に入らねばならないと、心に深く刻み込むことを目指していた。しかし、私に認められていた、想像力と知性の、ある種の活発さを、どうすればよいのか。そこで、政務という餌と、それが与える影響力の姿によって、私を惹きつけようとせねばならなかった。私にあるかもしれない傾向を、捉えようとしたのである。そのため、レ枢機卿の『回想録』や、リシュリュー枢機卿、ヒメネス枢機卿、あるいは昔のランス大司教ヒンクマールの伝記を、読ませた。私がどのような道を取ろうとも、両親は、それをよいと認めるつもりだった。ただ一つの要点は、私が敷居を跨ぐことだった。
自分に絶えず加えられる、この働きかけは、決心させることなく、ただ私を混乱させた。若い時期は、人生のなかで、最も廉直さのある時期である。一つの身分に入りながら、別の道を進むつもりでいるとは、どういうことなのか。野心の道を、より確実に歩むため、絶えず自己を捨てる役を引き受けるとは、どういうことなのか。財務大臣になるために、神学校へ行くとは、どういうことなのか。私には、まだ分からなかった。こうしたすべてを当たり前と思うには、自分の入ってゆく世間と、生きている時代を、あまりによく知っていなければならなかった。
しかし、私には、何の防御手段もなかった。一人だった。周囲のすべては、決まりきった言葉を話し、両親が私のために決めた計画から逃れる方法を、何一つ見せてくれなかった。
ランスに一年滞在したあと、運命を避けられないと見て、疲れた心は諦めた。私は、サン=シュルピス神学校へ連れていかれるままになった。その年齢の普通の若者より思慮深く、反抗しても力はなく、憤っても、それを口にする勇気もなく、口にすべきでもないなか、神学校では、十六歳としては例の少ないほどの悲しみに包まれた。誰とも交わりを結ばなかった。何をしても、不機嫌だった。上長にも、両親にも、制度にも、そして何より、従わねばならないと感じさせられた社会の体面に与えられる力に、腹を立てていた。
サン=シュルピス神学校で、私は三年間、ほとんど口を利かずに過ごした。高慢だと思われ、しばしば責められた。それは、自分をあまりに知らない判断だと思えて、答える気にもならなかった。すると今度は、耐えがたいほど尊大だと見られた。ああ、神よ、私は高慢でも、軽蔑的でもなかった。ただ、極度に不幸で、内心で憤る、善良な若者だった。「私は、何の役にも立たないと言うのか! 何の役にも……」と、よく自分に言った。しばし落ち込んだあと、強い感情が私を蘇らせ、自分は何かに、それも、善いもの、高貴なものに、向いていると、内に感じた。そのころ、千度も押し返した、どれほど多くの予感が、思いのなかへ現れただろう。しかもいつも、自分では説明できない魅力を伴っていた。
フルーリー枢機卿によって充実させられた、サン=シュルピス神学校の図書館は、蔵書が多く、よく揃っていた。私はそこで、偉大な歴史家や、政治家の私生活についての本、道徳家、幾人かの詩人を読み、日々を過ごした。旅行記は、むさぼり読んだ。新しい大地、嵐の危険、災難の描写、大きな変化、ときには激変の痕跡が見られる国々の記述は、どれも強く私を惹きつけた。近代の航海者たちの著作を満たす、大きな移動や激突の描写を眺めると、自分の境遇にも、ときには、少しは変えられるところがあるように思われた。よい図書館は、魂のあらゆる状態に、助けを与えてくれる。
私の第三の、そして本当に役立つ教育は、この時期から始まる。それは、非常に孤独で、非常に静かなものだった。いつも、手にしている著者と二人きりであり、判断するには、自分自身の判断力しかなかった。そのため、意見が違うときは、ほとんどいつも、正しいのは自分だと思うことになった。こうして、私の考えは、私自身のもののまま残った。本は私を啓いたが、決して従属させなかった。それがよいか悪いかは、吟味しない。ただ、私はそうだったのである。自分一人で得るこの教育には、何らかの価値があるはずだ。不当な扱いが、能力を発達させながらも、それを苦々しさに染めすぎなかったなら、強い思想、高貴な感情、人生の難局と、より自在に向き合えるようになる。若い時期のあらゆる情熱と同じく、落ち着かず漠然とした希望が、私の精神を高ぶらせた。私は、その精神を、絶えず駆り立てた。
偶然によって、私は、当時の心の状態に影響を及ぼす出会いをした。それを思うのは楽しい。おそらく、その出会いのおかげで、極限まで達した憂鬱の影響を、すべて受けずに済んだからである。私は、魂と情熱の神秘的な啓示の年齢に、あらゆる能力が活発で溢れ出る、人生の時期に達していた。サン=シュルピス教会の、ある礼拝堂で、何度か若く美しい人を見かけ、その飾りのない、慎み深い様子が、たいへん気に入っていた。堕落していなければ、十八歳では、そうしたものに惹かれる。私は、主だった礼拝に、より欠かさず通うようになった。ある日、その人が教会を出るとき、強い雨のおかげで、大胆さが湧き、あまり遠くにお住まいでなければ、家まで送りましょうと申し出た。その人は、私の傘の半分に入ることを受け入れた。住まいのあるフェルー通りまで送ると、部屋へ上がることを許してくれた。そして、とても清らかな若い人らしく、気負いもなく、また来てくださいと言った。初めは三、四日ごとに行き、のちには、もっと頻繁に行った。両親は、その人を、本人の意に反して芝居の世界へ入れていた。私は、自分の意に反して神学校にいた。その人には金銭上の利益が、私には野心が、このような支配を及ぼしていた。そのことが、二人のあいだに、何の留保もない信頼を築いた。私の人生の悲しみも、不機嫌も、その人の困り事も、すべて会話を満たした。あとで、その人には、あまり才気がなかったと聞かされた。しかし、二年間、ほとんど毎日会っていたにもかかわらず、私は一度も、そのことに気づかなかった。
その人のおかげで、私は神学校にとってさえ、より感じのよい、少なくとも、より我慢のできる人間になった。私を普通の生活へ近づけ、いくらかの陽気ささえ与えたものについて、上長たちは、何か感づいていたに違いない。しかし、クチュリエ師[24]は、目をつぶる術を教えていた。大きな地位に就くはずであり、ランスの補佐司教に、おそらく枢機卿に、おそらく大臣に、おそらく聖職任命担当大臣[25]になると思われる若い神学生には、決して小言を言わぬよう、教えていたのである。先のことは分からないではないか。
時が過ぎ、神学校を出る日が来た[26]。ルイ十六世の聖別戴冠式のころだった[27]。両親は、参列するために、私をランスへ送った。宗教の権威が、栄光の極みに達しようとしていた。ラ・ロシュ=エモン枢機卿が、予想されていたように、高齢のため、この荘厳な儀式を執り行えなければ、ランスの補佐司教が、中心の役割を果たすはずだった……。何という輝かしい時代だったことか!
道徳に厳格で、まれな謙虚さを持つ若い国王。学識と廉直さで知られる大臣たち。親しみやすさ、優美さ、善良さによって、夫の美徳の厳しさを和らげる王妃。すべてが敬意だった! すべてが愛だった! すべてが祝祭だった! これほど輝かしい春のあとに、これほど嵐の多い秋、これほど不幸な冬が来たことは、かつてなかった。
それぞれ異なる長所によって際立ち、その友情が、一瞬も絶えることなく、私の人生へ魅力を添えてくれた幾人かの女性との交友は、ルイ十六世の聖別戴冠式から始まった。私が言うのは、リュイーヌ公爵夫人[28]、フィッツ=ジェームズ公爵夫人[29]、ラヴァル子爵夫人[30]のことである。
聖職者会議[31]が、まもなく開かれるところだった。私は、ランス管区から、その議員に選ばれた。この大きな団体で、物事がどのように運ばれるかを、注意深く観察した。野心は、あらゆる姿をまとっていた。宗教、人道、愛国心、哲学。誰もが、そこで一つの色を帯びた! 聖職者団の金銭上の利益が攻撃されると、全員が守った。しかし、その手段は異なっていた。最も信仰深い司教は、貧者の財産に手を触れられることを恐れた。大貴族に属する司教は、あらゆる革新を恐れた。野心を隠さない司教は、聖職者団は王国で最も知識のある団体なのだから、あらゆる行政の頂点に立つべきであり、国家の負担とならぬよう、父祖の信心によって豊かにされた財産から、高い地位には欠かせない体面のための費用を賄うものを、得るべきだと言った。こうして、十八世紀の聖職者団は、世俗的な財産の管理において、時代の精神に何一つ譲らなかった。財務大臣マショー氏[32]が、ほかのすべての臣民の財産と同じように、聖職者団の財産にも課税しようとしたとき、聖職者団は、全体で拒んだ。教会に与えられた財産は、神に捧げられている、と彼らは言った。この奉献によって、財産には特別な用途が与えられ、宗教の奉仕者だけが、その分配者、管理者となる。教会財産の免除特権は、フランスの公法の一部をなす。これらの金銭上の争いすべてに、良心が介入したことで、この大問題の文書には、聖職者団にしか備わらない雄弁さが与えられていた。モントーゼ氏[33]、ブルトゥイユ氏[34]、ニコライ氏[35]は、際立った働きを見せ、高い地位を得て、マショー氏の辞任によって与えられた、あらゆる重みを享受していた。
政府が放棄したこの問題に、別の問題が続いた。それは、聖職者団が財産を持つ方法に触れることで、所有そのものを揺るがすことにも、つながりえた。問題は、聖職者団が、国王に対して、忠誠の誓いと臣従礼、封土の認諾と明細の提出、要するに封建的義務に服するか、ということだった。十七世紀の初めから起こっていた、この論争のさまざまな時点で、聖職者団は、有利な裁定を得ていた。しかし、その享有が、正式な権原文書に基づいていなかったため、攻撃は繰り返された。一七二五年、五十分の一税に服することを拒んだため、政府は、それ以前の宣言の実施を迫った。その宣言では、封建的役務をすべて免れるという聖職者団の要求は、無効で、濫用であるとされていた。それ以来、聖職者団は、さまざまな口実で、会議のたびに猶予の裁定を得た。それは、問題の本質には触れずに、一六七四年の法律の施行を停止するものだった。
一七七五年の猶予裁定の交付に、幾つかの困難と遅れが生じたため、聖職者団は、新たな努力を重ねた。ドン・ブーケ[36]の研究が、文書庫から取り出された。そして多数の論考において、その一つは私の筆になるものだったと思うが、聖職者団は、免除をフランス国王たちの寛大さから得ている以上、その主張は、あらゆる身分の権利と市民の財産を、同じ保護のもとに置く王国の一般法に結びつく、と論じた。次いで、問題の細部に入り、一七〇〇年以前には、十分の一税、自由保有地、あるいは封建的負担を免れる自由施与として贈られたもの以外に、財産を所有していなかったと主張した。ところで、十分の一税にも、自由保有地にも、自由施与の寄進にも、封建的役務の義務はない。そこから、聖職者団の財産は、すべての封建的義務を免れるべきだと結論された。聖職者の大貴族領[37]から生じる難点を、どのように切り抜けたかは、もう覚えていない。ナルボンヌ大司教[38]、エクス大司教[39]、ボルドー大司教[40]、ヌヴェール司教[41]は、この大論争で、大いに手腕を示した。しかし、王会の裁定によって会計院に求められ、サン=ジュニ氏[42]が提出した説明によって、聖職者団の要求とは正反対の裁定が、まさに下されようとしていた。そのとき三部会が現れ、すべての当事者を押し流したのである。
今述べたように、聖職者団の野心的な部分へ入り込んだ幾つかの哲学的な考えは、影響力の強い司教たちを、一七六六年の王会裁定を求めるように促していた。この裁定によって、国王は、幾つかの修道会の改革を扱う委員会を設けた[43]。時代の思想に、これほど合った個別の改革は、これらの名高い団体への全面的な攻撃へと、必然的に導くはずだった。この学識ある軍勢が、いったん散らされると、宗教という建物には、もっと容易に近づけた。その魂と力をなすものを、すべて剥ぎ取られ、宗教の外面的な儀式だけしか残らなくなれば、その建物は、長く自らを守ることはできなかった。
電子版HTMLでは、次のブリエンヌに関する段落が先に置かれている。本文の論理と、同電子版TXTおよび以前照合した原著画像の順序に従い、ここでは一七六六年の委員会設置の段落を先に示した。
新しい思想に支えを求めていた、トゥールーズ大司教ブリエンヌ氏[44]が、一七七五年には、委員会の長だった。すでに、サント=クロワ、グランモン、カマルドリ、セルヴィット、セレスタンの修道会は、廃絶の打撃を受けていた。サン=リュフ修道会も、同じ運命を経験したばかりだった[45]。廃止を促す委員たちの報告書も、それを言い渡す裁定も、この極端な措置については、遺憾の意とともにしか語らなかった。しかし当時は、教会の規律を、より整ったものにし、存続を期待できる修道会における風紀の衰退を防ぐため、不可欠なものと見なそうとしていた。
この常設委員会を提案した司教たちが、その設置によって聖職者団に及びうる危険を、すべて知っていたなどと、私は、少しも思わない。きっと、その歩みを導き、止めることも、自分たちで支配できると考えていた。しかし、宗教の問題では、すでに人々は、立ち止まらなくなっていた。毎日、ある修道会に入り込んだ弊害や、別の修道会の無用さについての本が出た。そしてフランス革命に先立つ二十年間に、ただ一人でも、有能な書き手が修道会を擁護したとは、私は覚えていない。歴史家たちでさえ、この種の施設が、ほかのいかなる原因にもまして、ヨーロッパの偉大な文明に特有の性格を与え、ほかのすべての文明から、著しく際立たせたと言うことを、もはや恐れていた。司祭の独身制は、ヨーロッパにカーストの精神が根づくのを防ぐうえで、本質的に貢献したのではないかと、私は、しばしば考えた。歴史を開きさえすれば、その精神が一般に、文明の進歩を妨げる方向へ働くことが分かる。ボナール氏は、ここに、自分の考えと、よく調和する論考の主題を見いだせるだろう。
私が今、語り進めている時代には、誰もが、自分の身分の外で才能を働かせ、目立たねばならないと感じるという、特異なところがあった。地方議会[46]の設置は、その議長に選ばれた人々へ、世間の注意を引き寄せえた。自分がカルヴァン派であると責められることを、いつも恐れていたネッケル氏[47]は、いくらかの才能ある司教たちを、自分の行政のそばへ招くことで、その非難から身を守れると考えた。こうして、数年のうちに、すべての地方行政の頂点に、その地方で最も優れた司教が立つのを、見ることになった。
ある者は非常に信心深く、ある者はとりわけ行政家であり、またある者は世俗的で、ナルボンヌ大司教のように、聖職者の形式を捨て、貴族として暮らすことに、ある種の誇りを置く人々[48]から成る聖職者団が、これほど異なる要素で構成されていながら、なお同じ精神を保っていたのは、注目すべきことではないか。そのことは、自分で見ていなければ、信じがたかったであろう一つの事実で、十分に示される。三部会開会の数日後、私は、ヴェルサイユのラ・ロシュフコー枢機卿[49]の家で開かれた協議に、聖職者団の主要な成員たちとともにいた。そこで、アルル大司教デュロー氏[50]は、これほど好都合な機会を利用して、これは本人の言葉だが、聖職者団の債務を、国民に払わせようと、真剣に提案した。この提案には、テミーヌ氏[51]が聖職者団に、三部会を求めるよう勧めたときの提案と同じく、反対は一つもなかった。皆がその見識を信頼していたアルル大司教に、三部会で提案を採択させるため、最もよい時機を選ぶよう任せた。エクス大司教ボワジュラン氏の良識が、聖職者団を説得し、この馬鹿げた提案を諦めさせるばかりでなく、一年来行われてきたあらゆることの口実であった、有名な赤字を埋めるため、多額の犠牲を払わせるまでには、数か月と、そのあいだに起こったすべての事件が必要だった。実際、そのときには遅すぎた。口実は忘れられ、三部会が国民議会となってからは、もはや必要なくなっていたのである。
聖職者団について話すとき、年代順に従っていないことに、気づく。こうした進み方へと、引かれてしまうのである。どのような主題であれ、一つの仕事を年ごとに区切ると、しばしば不明瞭になり、いつも興味を失う。明晰さのためには、話している事柄に、本来属するものを、すべて一まとまりにして示すほうがよいと思う。それに、そのほうが、はるかに楽でもある。本を書くつもりがないのなら、少しぐらい気楽にしてもよいだろう。
一七七五年の会議が終わると、私はソルボンヌへ入った。そこで二年間、神学以外の、あらゆることに時間を使って過ごした。若い学士の日々では、楽しみが大きな場所を占めるからである。野心も、幾らかの時間を取る。ソルボンヌの教会に美しい廟のあるリシュリュー枢機卿の記憶は、その点で、気をくじくものではなかった。私はまだ、野心を、そのよい意味でしか知らなかった。うまくできると信じる、あらゆることへ到達したかった。神学校で、それほど長く、悲しく思われた、不機嫌、沈黙、読書の五年間は、私にとって、まったく無駄だったわけではなくなった。苦しい青春には、その利点がある。ステュクスの水に浸されてきたことは、よいことである。多くの理由から、あの試練の時に、感謝を保つことを、私は喜びとしている。
ソルボンヌを出ると、私はついに、自分自身の、自由で、ただ一つの指揮のもとに置かれた。
私は、ベルシャスの、小さく便利な家に住んだ。最初に心を砕いたのは、そこに書庫を作ることだった。それは、のちに、蔵書の選択、版の珍しさ、装丁の優雅さによって、貴重なものとなった。私は、過去の生涯、著作、野心、あるいは家柄や交友や才能の約束する将来によって、最も際立つ人々と、知り合おうとした。こうして、自らの衝動によって、それほど多くの優れた人々が、それぞれ異なる光を放つ広い輪のなかへ入り、自分の存在のすべてを、自分一人の力に負っているという、誇らしい喜びに身を任せた。国王によってランスのサン=ドニ修道院長に任じられ、最初の収入を使って、アルクール学院に、まだ多額が未払いとなっていた寄宿費の大部分を払い、ラングロワ氏に、幼年時代に受けた世話への恩を返せたときには、とりわけ甘美な瞬間さえあった。
神学校とソルボンヌは、私をショワズール=グフィエ氏から引き離していた。一緒に教育を受けた若者のうち、最初に再会しようとしたのは、氏だった。会わないあいだに、結婚し、子供も一人か二人できていた。そしてすでに、困難で興味深い旅によって、世間で注目されていた。その旅は、氏の名声の始まりとなり、のちの経歴をも決めた。
これから私の生涯を語るなかで、ショワズール氏について、たびたび述べることになるので、氏を紹介する喜びに、身を任せるべきだろう。ショワズール氏は、想像力と才能を持って生まれた。学識があり、話すのも、物語るのも上手で、会話は自然で豊かである。若いころ、ビュフォン氏の美辞を、もう少し控えめに称賛していたなら、優れた作家になれたかもしれない。身振りが多すぎると言われるが、私もそう思う。話すときには、それが助けになる。そして、身振りの多いすべての人と同じように、自分の言うことを自分で楽しみ、少し繰り返す。普通の才能の老年には、形式しか残らないので、氏の老年は、世話をする人々には、辛いものになるだろう。才気だけが、老年を愛すべきものにする。経験に、新しさ、ほとんど発見のような趣を与えるからである。ショワズール氏の性格は、高貴で、善良で、人を信頼し、誠実である。愛情深く、気さくで、忘れっぽい。それゆえ、妻や子供のところへ、ほとんど行かないにもかかわらず、とてもよい父親であり、とてもよい夫である。友人たちがおり、彼らを愛し、幸せを願い、助けもするだろう。しかし、会わずにいても、実に不自由しない。政務は、生涯のごく小さな部分しか占めなかった。自分にとって十分な仕事を、自ら作り出してきた。芸術へ注いだ、このうえない趣味と博識によって、最も有益で、最も優れた愛好家の一人となっている。
ショワズール氏は、私が最も愛した人である。世間では、しばしばショワズール氏、ナルボンヌ氏[54]、ペリゴール師[55]の名が、一緒に挙げられた。しかし私たち二人とナルボンヌ氏との関係は、それほど友情らしい性格を持たなかった。ナルボンヌ氏の才気は、効果だけを狙い、輝くか、何もないかのどちらかで、短い手紙や警句のなかで、尽きてしまう種類のものである。礼儀には細やかさがなく、陽気さは、しばしば趣味のよさを損ない、その性格は、親しい関係に必要な信頼を生まない。一緒にいて心地よいというより、面白い人だった。仲間づきあいに、誰よりもうまく与えることのできる一種の魅力が、多くの成功をもたらした。とりわけ、才気があり、少し俗な男性たちのあいだで、そうだった。私たちの若いころ、よい作法と呼ばれていたものを重んじる人々には、それほど好かれなかった。ある日、リュクサンブール元帥夫人[56]の家で晩餐をともにした男性たちを挙げ、そこに氏もいたなら、氏の名より先に、二十人の名が出ただろう。ジュリーの家なら、最初に名を挙げられただろう。
毎朝、人々が集まり、まずは何かしらの朝食にありつける私の部屋には、奇妙な顔ぶれが揃った。ローザン公爵[57]、パンショー[58]、バルテス[59]、ドリール師[60]、ミラボー[61]、シャンフォール[62]、ローラゲ[63]、デュポン・ド・ヌムール[64]、リュリエール[65]、ショワズール=グフィエ、ルイ・ド・ナルボンヌは、いつもそこで会い、いつも、それを楽しんでいた。話題は、何でも少しずつ、しかも、このうえなく自由に話された。それが、当時の精神であり、流行だった。私たち全員に、楽しみと学びがあり、実のところ、将来への多少の野心もあった。すばらしい午前の集まりであり、今でも、その楽しみを味わいたいと思う。
その日の知らせ、政治、商業、行政、財政の問題が、すべて順々に話題に上った。当時、最もよく取り上げられたことの一つは、結ばれたばかりの、フランスとイギリスの通商条約だった[66]。この大きな問題の細部は、パンショーやデュポン・ド・ヌムールなど、知識のある人々を、とりわけ惹きつけた。ローザン、バルテス、ショワズール、私といった、知識は乏しいが、多少の関心を持つ素人たちは、一般論にとどまった。これらの議論の、私に残っているものを、ここに書き留めておきたい。それは、その後に見たものとは、あまりに違う種類の考え方に属するので、その跡を残すことが有益に思われるからである。そのため、数年にわたり、この点で起こったことを、一つの概観にまとめる。
ヴェルサイユとロンドンの政府は、率直に築かれた商業関係がもたらす、相互の利益を深く理解していた。歴史のどの時代にも、これほど好都合な機会はなかった。一七六三年の和平[67]以来、国民同士の反感は消えたように見え、イギリスがアメリカの独立を認めた直後から、フランスとグレートブリテンとの頻繁な往来は、多くの嫌悪を、部分的に取り除いていた。互いを好む気持ちが現れていた。あとは、それを定着させ、相互に役立つものにするだけだった。両政府は、この大問題を扱う全権委員を任命した。
イギリスでは、ボリングブルック卿[68]が、ユトレヒト条約を結んだあと、フランスと通商条約を結ぶ考えを持ったことが、思い出されていた。この計画は失敗し、ホイッグ党から受けた迫害の、動機あるいは口実の一つとなった。当時、フランスとの通商条約に反対して挙げられた理由は、もっともらしいものだったかもしれない。イギリスの風習は、まだフランスの贅沢を恐れていた。関係が密になりすぎれば、イギリスの産業がまだ優位に達していない分野で、わが国の産業との競争が、心配された。また、フランスの土地の産物が、ポルトガルの産物に対して、優位に立つことも、恐れる必要があった。メシュエン条約[69]は、まだ新しすぎたので、フランスとポルトガルの産物を競わせ、その成果を危うくすることは、賢明に思われなかった。かつて、ある程度の力を持ったこれらの理由も、もはや存在しないか、価値を失っていた。イギリスは、機械の発明と莫大な資本によって、計り知れない商業的繁栄の道を進んでいた。贅沢が増えるという反対論は、流行が解決を引き受けた。政府の威信と製造業の利益が、ほかの反対論に勝ち、イギリスでは、条約は、ほぼ国民全体の賛同を得た。
フランスでは、この問題に関する世論は、まったく異なる性格を帯びた。こちらでは、港町の利益が、工業に従事する人々の利益と対立していた。そのため条約は、初め、いくらかの驚きをもって迎えられた。最初の結果は、わが国に有利ではなかった。わが国より準備の整っていたイギリス人は、大きな利益を得た。ボルドー市、ギュイエンヌ、オーニス、ポワトゥーの諸地方は、確かに、葡萄酒、ブランデー、そのほかの土地の産物に、幾らか余分な販路を見いだした。しかし、全体として評価すれば、こうした局地的な利益では、二千五百万人の住民が、品質で優れ、しかもイギリスがフランスの市場より、はるかに安く供給できる品物を、好奇心と欲望をもって消費する、その不利益を補えないと、主張された。
自らの利益を守ることに、これほど巧みで、富と人口によって、これほど大きな力を持つノルマンディーが、最初に反対を表した。条約に反対する長い論考を公表したのである。その主張は、ほどなく広く共有され、あらゆる偏見、憎悪や反感のあらゆる理由が、再び現れた。消費者の声はかき消され、条約は、政府を非難する材料となった。
しかし、この大きな取り決めに息を吹き込んだ精神は、最もよい原則にかなっていた。ともに、それに力を貸したヴェルジェンヌ氏[70]とカロンヌ氏[71]は、いつの日か、それによって栄誉を得るだろう。条約の目的は、密輸をなくし、不正な取引に利益の望みを残さないほど穏当な関税を基礎として、税関を通じて国庫収入を得ることだった。この利益は明白であり、両国に共通するものだった。フランスでは、富裕な人々がイギリスの商品に抱く好みや気まぐれを満たしやすくなる一方で、シャンパーニュとボルドーの葡萄酒の関税引き下げによって、イギリスには、より豊かな楽しみを与え、その代金はフランスへ支払われる。この引き下げは、イギリスでの消費を増やすはずだった。
必需品や嗜好品の関税が下がれば、消費者にとっては、負担すべき税が、より釣り合いの取れたものとなり、より払い易くなるはずだった。そして国庫には、消費の増加によって、より大きな収入をもたらすはずだった。
さらに、条約の原則は、あらゆる種類の産業を分担し、自然がそれぞれに割り当て、最も多くの利益をもたらすはずの部分を、両国に配分することへと導く、とも言わねばならない。
この最後の結果は、数年のうちに、自由貿易の原則を勝利させただろう。しかし、偏見が別の結果を決めた。偏見は、人間にあまりに深く根を下ろしているので、急に取り除こうとするのは、少なくとも軽率でないとは言えない。私は、長いあいだ、この悲しい真実に屈するまいとした。しかし、十八世紀の哲学者たちが、よい手段も悪い手段も、あらゆるものを使いながら、この企てに失敗したのだから、まったく別種の十九世紀の哲学者たちとともに、私も諦めて、もう、このことを考えないことにする。
政務の道が開かれたので、私は、自分に予定された聖職者団総代理人の職を、かなり巧みに使って、交友を広げた。早くから、モールパ氏[72]、テュルゴー氏[73]、マルゼルブ氏[74]、カストリ氏[75]、カロンヌ氏、幾人かの国務参事官、幾人もの行政部門の長と、関係を持った。最初の交友は、ほぼ同じころ、私をショワズール公爵[76]、ブリオンヌ夫人[77]、モンテソン夫人[78]、ブーフレール夫人[79]、ラ・レニエール夫人[80]の家へと導いた。決まった日には、パリの上流の人々が、そこへ集まった。冷ややかな物腰と、表面上の控えめな態度のため、私には才気があると、幾人かが言うようになっていた。自分の作ったものではない評判を好まなかったグラモン夫人[81]は、私を困らせようとして、かえって社交界へ出たばかりの私を、いくらか助けた。初めて、オートゥイユのブーフレール夫人の家で晩餐をとり、食卓の端に座って、隣の人とも、ほとんど話していなかった。グラモン夫人は、大きなしゃがれ声で、私の名を呼び、夫人のあとに続いてサロンへ入る際、何がそんなに目を引いて、「ああ!」と言ったのか、と尋ねた。「公爵夫人は、よくお聞きにならなかったのです。私が言ったのは、『ああ!』ではなく、『おお!』です」と答えた。このつまらない答えが笑いを誘い、私は晩餐を続け、それ以上一言も言わなかった。食卓を離れると、幾人かが近づいてきて、その後の日々への招待を幾つも受けた。そのおかげで、最も会いたかった人々と、知り合うことができた。
両親の家は、その点では、何の手段も与えてくれなかった。両親は、人づきあいが少なく、とりわけ、大きな舞台で輝いたり、大臣の地位を争ったりする種類の人々とは、ほとんど交わっていなかった。
母の家へ行くには、一人でいる時間を選んだ。その知性の優雅さを、もっと味わうためだった。会話で、母に比べられる魅力を持つ人は、一度も見たことがない。気取りは、何もなかった。ただ、微妙な陰影によって話し、警句は、一度も口にしなかった。それでは、表しすぎることになるからだった。警句は記憶される。しかし母は、ただ人を喜ばせ、自分の言ったことを消し去りたいだけだった。気軽で、新しく、いつも繊細な表現の豊かさが、知性のさまざまな必要を満たしていた。母から私に残ったのは、正確に話すために、専門用語しか使わない人々への、強い苦手意識である。言い換えを知らず、いつも定義してばかりいる人々の才気も学識も、私は信じない。その人々が知ることは、記憶だけに負っており、それでは、よく知っているとは言えない。この考えが、フンボルト氏[82]のパリ滞在中に浮かんだことは残念だが、もう書いてしまった。
日々は、たいへん楽しく過ぎ、それほど無駄にもならなかった。交友は広がっていた。当時の才人たちとの、持つべき交友は、エリクール夫人[83]という、よい女性から来た。夫は、マルセイユの海軍行政官の職を務めていた。夫人は、才気と若者と美食を愛した。私たちは、毎週、夫人の家で、とても楽しい食事会をした。集まるのは、ショワズール氏、ナルボンヌ氏、ドリール師、シャンフォール、リュリエール、アルノー師[85]と交替で来るマルモンテル[84]、ベルトラン師[86]、そして私だった。陽気さが、気負いを抑えた。これほど多くの自尊心が居合わせる集まりから、五年のあいだ、一つの陰口も、一つの揉め事も、生まれなかったことを、記しておかねばならない。
スウェーデン公使クロイツ伯爵[87]は、フランスで才人の列に入れば、自分の君主を喜ばせられると考え、エリクール夫人の食事会を構成する同じ人々が、週の一日、自分の家にも集まるよう、たいへんな骨折りをした。私たちは三、四度行った。しかしマルモンテルが、悲劇を繰り返し朗読したため、食事会は皆、散り散りになった。私は『ヌミトール』まで、持ちこたえた。
朗読会は、当時の流行だった。それが、幾つかの家の重要性を作っていた。ヴォードルイユ氏[88]、リアンクール氏[89]、ヴェーヌ夫人[90]、ダンゼリー氏の家で食事をすれば、たいてい、『フィガロの結婚』か、詩篇『庭園』[91]か、『ブルボンの大元帥』[92]か、シャンフォールの幾つかの物語か、当時『ロシア革命』と呼ばれていたもの[93]を、聴かねばならなかった。招かれた人々すべてに、かなり厳しく課される負担だった。しかし、その代わり、当代の優れた人々のなかに数えられた。私の知らない多くの人が、私について、よいことを言ったのは、評判を与える権利が認められた、これらの部屋の幾つかで、私に会ったというだけの理由だった、と言ってもよい。その点で私は、シャトリュクス騎士[94]が話していた、ある人物に似ていた。「あの人には、きっと大いに才気がありますよ。知ってはいませんが、ジョフラン夫人の家へ行くのですから」と、氏は言った。
また、人々に開かれた家々の常連の一人に分類され、群衆のなかに紛れたままになりたくなければ、世評の高い誰かに対して、距離を置き、ときには反対さえ示すことに、いくらかの利点があることにも気づいていた。そのために選んだのは、ネッケル氏だった。氏の家へ行くようにとの誘いは、すべて断っていた。氏は、よい財務大臣でも政治家でもなく、考えが乏しく、行政の原則がなく、借入れは拙劣で、高価で、公衆道徳に有害だと、かなり大胆に言った。拙劣というのは、償還の仕組みを伴わないからである。高価というのは、公債の相場からすれば、氏の借りるほど高い費用は必要なく、ジラルド商会とジェルマニ商会を富ませるため、ジュネーヴの三十人の存命を基準とする年金契約に与えられたような便宜も、必要ないからである。公衆道徳に有害というのは、氏の終身年金による借入れが、ネッケル氏以後になって初めて、フランスの一般的な風俗に見られるような、一種の利己心を作るからである。話し方が下手で、議論の仕方を知らず、決して素直ではないとも言った。身体の弱さのため、絶えず恐れのなかにいて、それが魂のあらゆる能力に影響しているとも言った。その尊大さは、性格から来るのではなく、むしろ知性の歪みと趣味の欠如から来るとも言った。奇妙な髪形、高く上げた頭、大きく太く単調な体つき、注意を払わぬ様子、人を見下した物腰、苦労して自分の実験室から取り出した格言を使うこと、それらのため、山師のように見えるとも言った。ほかにも、おそらく千のことを言ったが、今では皆の口に上っているので、繰り返しても無益だろう。
礼節のぎりぎりのところに踏みとどまっていたモンテソン夫人の家は、ひときわ楽しいものだった。オルレアン公を楽しませるため、夫人は、気に入られると分かっている幾つかの芝居を、自分の仲間たちに演じさせた。そして、ただ楽しませるだけでなく、もっと関心を引くために、自分でも、幾つか書いていた。その劇場には、いくらか放埒な聖職者たちのための桟敷があり、トゥールーズ大司教[95]、ロデーズ司教[96]、ナルボンヌ大司教[97]、コマンジュ司教[98]が、私もそこへ入れるようにしてくれていた。
また、音楽への確かな好みより、はるかに好奇心に引かれて、当時、ロシュシュアール伯爵、ダルバレ氏、ルブラン夫人[99]などの家で開かれた、学識豊かで退屈な音楽会へも、すべて通った。フランス音楽、イタリア音楽、あるいはグルックの音楽について、意見を持つことは、注意深く避けた。楽しみを理屈で考えるには、若すぎた。もし、それでも意見を持たねばならなかったなら、音楽とは一般に、私たちの感覚、さらには感情を、理想的な仕方で表す言語にすぎない以上、それぞれの国民には固有の音楽があるべきで、その身体の感覚のあり方によって、ほかのすべてより、それを好むように導かれるのだ、と言うほうへ傾いただろう。しかし、無知のおかげで守られ、この大問題について、誰とも争わずに済んだ。
社交界で得た地位は、総代理人の職に、一種の輝きを与えた。その仕事は、ほとんど一人で行っていた。同僚のボワジュラン師[100]が、少し公になりすぎた恋の事件のため、就任後、最初の数か月ですでに、聖職者団の信頼を失っていたからである。生来の無精さと、カヴァナック夫人への情熱によって、仕事のすべてを私に任せる決心は、容易についた。夫人は、ロマン嬢と名乗っていたころ、また、ブルボン師[101]の母であったことから、有名だった。
私は、知識があり、判断のよい人々を、まわりに集めていた。のちにトリーア司教となるマネー氏[102]、のちにエヴルー司教となるブルリエ氏[103]、ナント司教となるデュヴォワザン氏[104]、それに、同じ水準にはなかったデ・ルノード氏[105]である。生涯のあらゆる時期に、再び会えることを喜んだマネー、ブルリエ、デュヴォワザンの諸氏が、私に示してくれた友情のすべてを、喜んで認めたい。デ・ルノード氏は、私を離れ、国務書記官マレ氏[106]のもとへ入った。その種類の才能は、その行政で、日々の使い道を得ることで、氏を速やかに栄達へ導きえたのである。他人の考えを形にすることには、かなり巧みな人物だった。
私は、しかるべき配慮を保ちながらも、ただ聖職者団総代理人であるだけには、とどまるまいとした。そのため、自分の義務には入らないが、果たしている職務から、それほど遠くもない仕事に、とくに取り組んだ。
宝くじの廃止は、私の気に入っていた考えの一つだった。この災厄をもたらす制度の、あらゆる確率と、あらゆる結果を計算していた。同時に、哲学者たちに攻撃され、嘲られる聖職者団が、日ごとに尊敬を失っていることを見ていた。その尊敬を取り戻したかった。そのため、崇高な道徳の擁護者として、聖職者団を民衆に示したかった。道徳のために、幾らかの金銭的犠牲を払うよう聖職者団に勧めれば、公衆の風紀ばかりでなく、自ら従って入った身分そのものにも、役立つことになっただろう。
私は、聖職者団が政府から王立宝くじを買い取り、廃止することを提案してほしかった。つまり、宝くじが王室の国庫にもたらしていた収入を、毎年、定期的な無償献金として支給すると、約束してほしかった。この有害な制度を禁じるよう国王に願い出るための意見書は、すばらしいものにできただろう。それを書けたなら、とても幸せだったはずである[107]。
提案への支持を最も頼みにしていた聖職者たちは、拒んだ。政治における私の初陣が、不首尾だったことを、記しておかねばならない。私はあえて、それは、一緒に武器を用いようとした人々に対して、その鍛え方が強すぎたからだと考える。一七六八年の勅令で定められた主任司祭たちの待遇改善は、私には、十分には程遠く思われた[108]。聖職者団に、幾らかの増額を提案させる必要があった。大きな十分の一税収入を持つ人々の利益を、あまり刺激しないよう、私は、マルゼルブ氏とリュリエール氏が、プロテスタントのために弁論したときの方法にならった。目的を果たすために、二人とも、ルイ十四世の望んだことが実行されていないと主張した。私も同じく、聖職者の最低給付額を新たに定める際の原則が、五百フランにしか引き上げられていないために破られたと主張した。求めるのは、ただ一つの誤りの是正だけであり、聖職者団も、きっと指摘してもらいたいはずだ、と言うことに努めた。私が変化を追っていた、銀一マルクの価値と、その食料価格との比率からすれば、公正な増額をするには、七百五十フランにすべきだった。当時、この七百五十フランで十分に買えたものを手に入れるには、今なら、少なくとも千フランが必要だろう。私は成功しなかった。最低給付額は五百フランのままになり、今でも、ほぼ同じ額だと思う。
別の試みも、同じく不首尾だった。ブルターニュへ旅したとき、その地方には、未婚でも、人妻でも、寡婦でもない女性が、多数いることに気づいた。かつて船乗りと結婚したが、その夫は帰らず、死も確認されていなかったのである。法律は、再婚を認めなかった。私は、少し心得があれば柔軟さに欠けることはない、神学のすべてを使って、社会の混乱を生まないのに十分な年数が経てば、この気の毒な女性たちは、いわゆる第二の婚姻を結んでもよいと、立証した。私の意見書は、カストリ氏へ渡された。氏は、友人のアラス司教[109]に相談すべきだと考えた。この司教は、自分の神学のなかに、それが自分には何の役にも立たないことを見いだし、したがって、厳格な立場を取った。意見書は火に投げ込まれ、これらブルターニュの女性たちが、もう幾らか年を取っていたと思うが、再婚できるようになるには、革命まで待たねばならなかった。
聖職者団に固有の事務へ尽くしていた配慮と、訴訟評議会[110]への幾つかの報告で収めた成功のおかげで、私は、職務に含めようとした一般公益のための小さな企てを、すべて大目に見てもらえた。「若さだ。少し経験を積めば、治まる」と言われた。自分へ向けられる好意を見て大胆になり、私は、聖職者団の利益に一本の糸で結びつけていたが、実際には、ほとんど無関係な事業へ飛び込んだ。オルメソン氏[111]は、とても廉直な人物だったが、前世紀で最も能力の乏しい財務総監の一人だった。拙劣な運営を、それほど重ねたために、政府には、金も信用もなくなっていた。不安は広がり、人々は割引銀行へ群れをなして押し寄せた。そこは、一部の銀行家の利益だけによって動かされていたので、割引業務を減らすよりも、支払い猶予の裁定を願い出るほうを選んだ。オルメソン氏は、銀行の経営陣が求めた裁定を与えた。銀行券は強制通用となり、必然的に価値を失おうとしていた[112]。聖職者団の金庫には、その銀行券が多数あった。私は、監視の必要を理由に掲げ、最初の株主総会へ出席した。見識ある人々は、旧来の規則は不十分だと、正しく考えていた。それを調べる委員会が選ばれ、新しい規則が作られた。そして私は、総会へ報告する者として選ばれた。
私が、本来の意味での実務の舞台へ出たのは、初めてだった。任された報告に先立って、私は演説し、公信用のあらゆる利点を述べることに努めた。その重要性を明らかにし、大きな信用を持つ者には、すべてが可能であり、信用だけで、商業、大規模な事業、製造業などの、あらゆる必要を満たせると論じた。信用の利点をすべて示したあと、それを得て保つ方法を述べた。そのくだりでは、信用の傷つきやすさを、さまざまに説明するのが、とても楽しかった。そのため、最も臆病で繊細な感情を描くときにしか使わない表現を、多数使ったのを覚えている。私を注意深く聴いていたリイエという老銀行家、筋金入りのジュネーヴ人は、自分が為替手形をきちんと払うことによって、想像力の言葉を使わねば、うまく表せないほど美しいことをしていると知り、たいへん喜んだ。その喜びを、最も粗野な身振りで表した。私のところへ来ると、両手を握りしめ、演説のその部分を書き写させてほしいと頼んだ。その熱狂は、私の役に立った。たった今、私の言ったことを、あまりに下手に繰り返すので、まったく場違いだと分かり、印刷するときには、その部分を削ったからである。
信用の利点と、それを得る方法から、私は最後に、その歩みを速め、確かなものにし、あらゆる動きを容易にし、加速し、単純にする、個々の制度へと進んだ。
これらの制度のうち、最も重要なものは銀行だった。その第一の目的は、資金の価格を低く保ち、流通に必要なすべてを、豊富に供給することであるべきだった。割引銀行が、たった今経験した危機は、その仕組みに大きな変更を求めていた。それらは、すべて採用された。幾らかの難航を見たのは、銀行家を、それほど多数、会議の構成員にすべきではないと提案した条項だけだった。個人的な利益が、経営を任される機関の利益と、対立しているからである。しかし、株式の大部分がパリの銀行家の手にあったので、その条項は、ほどなく骨抜きにされるだろうと予想され、採用された。
ずいぶん長くなっている。しかし人は、好きなものを話すように、思い出を話す。それに、よくても悪くても、この文章を始めたとき、私は、生涯のなかで、行政の行為として、あるいは広く認められた計画として、しばらく自分の注意を引き、また世間の注意も引いたすべてのことについて、率直に意見を知らせようと思っていた。
私が取り組んだ、さまざまな種類の事柄は、仕事柄、新たに現れるすべての野心に通じている人々の視線を、私へ引き寄せた。フーロン[113]、パンショー、サント=フォワ[114]、ファヴィエ[115]、ドーデは、私との交際を求め、いつか大きな政務に携わる者だと言い触らした。その人々と、あまり親しくなりすぎるのは、幾らか危険だった。同時に、味方につけておくのも、よいことだった。しかし、しかるべく身を立てるには、望みうる地位へ、よい社交界の支持によって押し上げられる必要があった。とはいえ、私は急いでいなかった。学び、旅をしていた。地方三部会を持つ地方[116]が、どのようなものか知ろうとし、レンヌ司教[118]の義姉妹ジラック夫人[117]のいるブルターニュが、最も多くを教えてくれるだろうと、容易に思い込んだ。そこへは、幾度か旅した。名声は十分にあったが、世間についての知識は、まだ足りなかった。そして、計画的な野心の求める、いかなる組み合わせも考えずに、社会のあらゆる動きに身を任せられる年月が、まだ目の前に幾年かあるのを、喜んで見ていた。
大臣職を狙う人々は、それぞれ、パリの主要な家を幾つか、自分の自由にできた。その家の意見と言葉遣いを、自ら作っていたのである。モンテソン夫人の家は、トゥールーズ大司教のものだった。大司教は、ボーヴォー夫人[119]の家を、ネッケル氏と分け合っていた。カロンヌ氏が支持を見いだしたのは、ポリニャック夫人[120]の家と、リュイーヌ邸だった。アラス司教は、ブロ夫人[121]やカストリ氏の家では、ネッケル氏の次に来た。フルーリー氏は、ブリオンヌ夫人に推されていた。ブルトゥイユ男爵[122]は、多くの家で二番目だったが、どこでも一番ではなかった。スービーズ氏[123]は、フーロンを庇護した。シャトレ邸は、独自の野心を抱き、ショワズール公爵を夢見ていた。ラ・レニエール夫人は、ネッケル氏を除いて、誰にでも少しずつ肩入れした。ノアイユ家の人々は、メヤン氏[124]を褒めたが、二次的な位置に置いていた。
私は、ほとんどどこへでも行った。そして、いま話している十年間の上流社会は、少しでも観察へ心の向く者には、興味深い光景だった。野心や気負いが、誰をも本来の位置から動かしていた。ドリールは、ポリニャック夫人の家で王妃と食事をし、バリヴィエール師は、アルトワ伯爵と賭け事をし、ヴィアーヌ氏は、リアンクール氏と握手をし、シャンフォールは、ヴォードルイユ氏の腕を取った。ラ・ヴォーパリエール、トラヴァネ、シャラーブルは、マルリーへの滞在に加わり、ヴェルサイユのランバル夫人[125]の家で晩餐をとった。賭け事と才気が、すべてを平らにしていた。序列と秩序の大きな支えである、それぞれの職業の道が壊れていった。若者たちは皆、自分は統治に向いていると思っていた。大臣の施策は、すべて批判された。国王と王妃が個人として行うことも、パリのサロンで議論され、ほとんどいつも否認された。若い女性たちは、行政のあらゆる部門について、的確に語っていた。
ある舞踏会で、コントルダンスの合間に、スタール夫人[126]がシュルジェール氏[127]へ、ドメーヌ・ドクシダンとは何かを教えていたことを、覚えている。ブロ夫人は、フランス海軍のすべての士官について、意見を持っていた。シミアーヌ夫人[128]は、ヴァージニアの煙草には、関税をかけるべきではないと考えていた。小さな書類入れに、プロイセンのハインリヒ王子[130]の手紙を幾通か持っていたブーフレール騎士[129]は、フランスは、オーストリアとの同盟を捨て、プロイセンとの同盟に移らなければ、政治的優位を取り戻せないと言った。「ルーアン高等法院には、パリのそれより、はるかに多くの学識があります」と、エナン夫人[131]は言った。「私が国王なら、こうするのだが」と、ポワ氏[132]は言った。「私がアルトワ伯爵なら、国王に、こう言うのだが」と、サン=ブランカール[133]は言った、等々。政府が、もっと強いか、もっと巧みであったなら、真面目さが風習からすっかり消えていなかったなら、王妃が、それほど美しくなく、とりわけ、それほど可愛らしくなく、流行のあらゆる気まぐれに流されなかったなら、こうした状態は、一瞬で変わっただろう。君主のあまりに気安い態度は、敬意より愛情を生む。そして最初の難局で、愛情は消える。そこで権威を振るう手を、幾つか試みる。しかし、その権威の行使が、無理な力みであることは、あまりに明らかであり、力みは続かない。政府は、始めたことを続ける勇気がなく、必然的に、有害な怠惰へ戻ってしまう。そこで、大臣の交替という、大きな切り札が出てくる。何かを直すことだと思うが、ある家々を満足させ、ある人々を喜ばせる、それだけである。フランスは、政府が相手として数える、幾つかの社交集団から成るように見えた。ある人選で、その一つを満足させ、その集団の持つ威信を使い果たす。次には、別の集団へ向き、同じように利用する。こんな状態が、続きえただろうか。
ドメーヌ・ドクシダンは、フランスの西方植民地などに関わる税の徴収請負制度を指す。
フランスで社交界と呼ばれるものの力は、革命前の年月、さらには前世紀全体を通じて、驚くほど大きかった。それに特有の、軽やかで多様な形態のために、わが国の歴史家たちは、この近代の大文明の産物の起源に気づかず、その影響を追わなかったのかもしれない。私は、そのことを、しばしば考えた。この点についての考えは、次のとおりである。
国制の起源が、歴史の雲のなかに消えてしまう国々では、社交界の影響は、巨大であるはずだ。その国制の起源が新しく、したがって、常に意識にある場合、その影響は、何ものでもない。古代のアテネとローマ、近代のイギリスとアメリカ合衆国には、社交界は存在しなかったし、存在しないと分かる。
古代人の演劇、プルタルコス、キケロの書簡、プリニウスの書簡、スエトニウスの年代記は、それについて、何の観念も与えない。アリストファネスの喜劇や、テレンティウスの巧みな翻案によって伝わるメナンドロスの喜劇の断片から、アテネを判断すれば、女性たちは、完全に引きこもった生活をしていたと分かる。恋愛の筋は、ただ高級娼婦か、奴隷商人に親元からさらわれた娘たちをめぐるものばかりである。
誰もが国政に参加するとき、本当の集まりの場所は、公共の広場、裁判所、取引所である。熱い想像力の持ち主たちは、芸術家の工房や、名高い高級娼婦のサロンに、幾時間かを費やした。しかし、それは暮らし方ではなく、遊びだった。本質的に戦士であり、征服者であったローマ人は、生活を和らげ、穏やかにする慣習を、すべて、いつも退けてきた。栄光の大きな部分をなす雄弁そのものが、ローマから追放されなかったのも、元老院では、国家の大きな利害を議論するのに役立ち、広場では、市民の財産と生命を守るのに役立ったからである。征服の果実である芸術さえ、奴隷や解放奴隷に任せられた。ローマの女性たちは、決して家の内を離れず、何らかの芸を見せることが許されたのは、高級娼婦だけだった。
同じ社交の場で、両性が交わることは、古代人には知られていなかった。そして、わずか数年前まで、イギリスとアメリカの風習でも、なお退けられていた。フランスでは、それが認められ、社交界の本質的で独特な性格を形作った。女性たちが宮廷へ現れ始めたのは、フランソワ一世の治世である。その存在は、風俗、礼儀、趣味のよさへ、直ちに影響した。社交生活の文明の、あらゆる進歩において、イタリアは、わが国に先んじていた。ナポリ、フェラーラ、マントヴァの宮廷や、メディチ家の宮殿は、すでに洗練、礼儀、さらには優雅さの模範を示していた。文学が尊ばれ、美術が盛んに育まれていた。しかし、イタリアの政治的な状況、その地を舞台とする戦争、小国への分裂が、生活の実際的な技の、なしえたであろう進歩を止めた。
アンリ二世のもと、フランスで見られた騎馬競技や馬上槍試合は、婦人への礼譲に、イタリアの詩人たちの、あらゆる霊感がなしえた以上の輝き、優雅さ、高貴さを与え、社交に、より大きな魅力を与えた。
アンリ三世の治世の宮廷は、君主の軽薄で恥ずべき習慣を採り入れ、品位を落とした。加えて、宗教改革から生じた悲しい騒乱によって、国民の性格は、発展を妨げられた。
アンリ四世は、人生の初めのあらゆる嵐のあと、最初の妻と別れ、二番目の妻とは絶えず争っていたため、宮廷を持たなかった。その勇気、活気、巧みな機知、素朴で陽気で輝かしい言葉は、国民の風俗に、個人的な影響しか及ぼさなかった。
リシュリュー枢機卿は、大貴族たちを宮廷へ引き寄せたあと、宮廷を、自分の家へ引き寄せようとした。そのために、リュエイユの自邸を、その知性に最も心を打たれた男性と女性に開いた。宮廷の外で、初めて注目を集める社交界ができたのは、ここからである。恐るべき権力の存在は、その集まりが持ちえた楽しさの一部を奪った。
一つの火花が、フロンドの一時的な炎を燃え上がらせた。この滑稽な戦争には、騒ぎの楽しみに身を任せる以外の目的はなく、ほとんど、社交界の戦争にすぎなかった。
混乱は、ルイ十四世の即位とともに終わった。王は、秩序を呼び寄せた。その声に、あらゆる階級、あらゆる個人が、苦もなく、暴力もなく、自分にふさわしい位置を占めた。この壮麗な時代に刻まれた、礼節の技、風習の優雅さ、このうえない礼儀を、私たちは、この高貴な従属関係に負っている。両性それぞれに固有の資質の、幸いな組み合わせと、共通の楽しみのための協力が、社交界に輝きを与えた。その最も小さな細部さえ、フランス人は、いつまでも喜んで拾い集めるだろう。セヴィニエ夫人のサロンは、わが国の栄光の記念碑の一つである。
ルイ十五世のもとの社交界は、その治世の弱さを、すべて持っていた。自らの聖域を開き、幾人かの文人が入り込んだ。初めは、会話も、趣味のよい著作も、それによって得るものがあった。フォントネル氏、モンテスキュー氏、ビュフォン氏、エノー審理部長[134]、メラン氏[135]、ヴォルテール氏は、皆、ルイ十四世の世紀の影響のもとで育ち、パリの集まりの魅力と名声を作った、あの心遣い、あの自由さ、あの高貴なくつろぎを、社交界で保っていた。とどまるべき高さは、そこにあったのである。
しかし、ルイ十六世の治世には、文学のあらゆる階層が、社交界へ流れ込んだ。誰もが本来の位置を離れ、身分の列は混乱し、気負いは大胆になり、聖域は侵された。すると、社交界の全般的な精神は、あらゆる種類の変化を受けた。すべてを知り、すべてを掘り下げ、すべてを裁こうとした。感情は哲学的な考えに、情熱は人間の心の分析に、人を喜ばせたいという望みは意見に、楽しみは計画や企てなどに、置き換えられた……。すべてが性質を変えた。ここで止めよう。まだ数年と、多くの出来事によって隔てられているフランス革命を、予感させすぎることを恐れるからである。
イギリス人と、その植民地との争いが、起こったばかりだった[136]。哲学者たちは、この問題を、あらゆる深みにおいて捉えていた。民衆の権利と、君主の権利とを、秤にかけていた。老軍人たちは、そこに戦争を見、若者たちは新しいものを、女性たちは冒険めいたものを見た。政府は、狭量で、干渉好きで、先を見通さない政策によって、これらの熱狂すべての共犯者となった。ラ・ファイエット氏[137]、グーヴィオン氏[138]、デュポルターユ氏[139]の出発を、黙認し、むしろ許していた。名が残ったのは、最初の人だけである。小説では、主要な人物に、優れた知性や性格を与える。しかし運命は、それほど手間をかけない。平凡な人々が、大事件で役割を果たすのは、ただ、そこに居合わせたからというだけである。
ラ・ファイエット氏は、あまり名声のないオーヴェルニュの貴族の家の出である。ルイ十四世の時代に、一人の女性の才気が、その名に、幾らかの輝きを与えていた。多額の財産を持って世に出て、ノアイユ家の娘と結婚した。何か異常なことが、氏を列から引き出さなければ、生涯、地味なままだっただろう。ラ・ファイエット氏には、自分の順番が来れば地位に就けるだけのものしか、備わっていなかった。才人と見なされる境界には、届かない。目立ちたいという望みにも、その手段にも、どこか習い覚えたところがある。することは、自分の本性から出ているように見えず、誰かの助言に従っているように思われる。残念ながら、人生の最も大きな時期に、氏に助言を与えたと、自慢する者はいないだろう。
ラ・ファイエット氏の例は、国民の華やかな部分すべてを引き込んだ。独立の大義のため入隊したフランスの若い貴族たちは、やがて、守りに行った原則へ、愛着を持つようになった。一私人の境遇から、大国家の指導者が現れるのを見た。その人を助けた、飾りのない人々が、世間の尊敬に包まれているのを見た。そこから、自由の大義に尽くした奉仕こそ、名誉と栄光の唯一の真の資格だと信じるまでの距離は、非常に近い。フランスへ運ばれたこれらの考えは、いっそう速やかに芽を出した。社交界へ入り込んだ、劣った人々に攻撃され、あらゆる威光が、日ごとに消えていこうとしていたからである。
今、年代順に従いすぎて、語るに任せているこれらの考察には、この文章のなかで、何度か立ち戻ることになるだろう。フランス革命の初めの数年について話すときには、きっと、はるかに直接的な関連をもって、現れてくるはずだからである。
アメリカの大義への関心は、『ヨーロッパ通信』という新聞に、毎週掲載された、大陸会議のすべての審議の記録によって、フランスで保たれていた。この新聞は、わが国の政治専門紙の最初のものだったと思うが、警察に属する人物によって編集されていた。名はモランドで、『鎧を着た新聞記者』という、悪名高い誹謗文書の著者だった[140]。
軍事遠征によって植民地へ行ったフランス人たちは、この新しい世界の一部に収められた、あらゆる富の、壮大な描写を携えて帰ってきた。話題はアメリカばかりだった。私の若いころの大貴族たちには、自分にとって新しいものは、すべて、自分が発見したと思うという特異なところがあった。そのため、いっそう、それに執着した。「アメリカがなければ、われわれはどうなっていたか」が、誰の口にもあった。「海軍を与えてくれる」とマルエ氏[141]は言い、「商業を広げてくれる」とレナル師[142]は言い、「増えすぎた人口に仕事を与えてくれる」と当時の行政家たちは言い、「落ち着かない者たちを、すべて受け入れてくれる」と大臣たちは言い、「あらゆる異端者の避難所だ」と哲学者たちは言った、等々。それ以上に有益なものも、それ以上に平和なものも、ないように見えた。人々は、アメリカの発見に伴う栄光だけを語っていた。しかし、少し物事の底まで降りてみよう。新世界との、あらゆる往来から、何が生じたのか。まわりの貧困は減っただろうか。秩序を乱す者は、もういなくなったのか。遠くへ向ける眼差しは、祖国への愛を減らさなかったか。イギリスとフランスが、地球上の新しい地点で、敏感になり、苛立ちやすくなったため、戦争は、もっと頻繁に、長く、広範に、費用のかかるものに、なってはいないか。人類の歴史は、次の悲しい結論を与える。往来が容易になる場所には、どこへでも、破壊の精神が駆けつけるということである。幾人かのヨーロッパ人が、アメリカへ押し寄せると、この広大な大陸でも、直ちに狭すぎると感じ、その一人が主人になるまで、絶えず衝突し続けた。今では、ハドソン湾で、商船の船長と交易所の責任者とのあいだに争いが起こると、ヨーロッパのすべての国家が、その争いのために武装するのである。
たった今述べたすべてが、現在の考えと、どれほど対立するかは知っている。世界周航は、幾人かの個人と、それを命じる国家さえも、栄光に包む。学者たちは、偉大な航海者の発見の一つでも、ただ偶然に帰すことを許さない。地図を豊かにする新しい国々の存在を、見抜く、あるいは少なくとも推測する道へ、以前からの知識が導いたと、考えたがる。しかし、次のことに気づくのは、許してもらわねばならない。今日、引力説が支配的な学説となり、計算方法が最も完全な域に達したとき、地球の釣り合いのためには、南極に、相当な大きさの大陸があるはずだと考えられた。幾つもの遠征が、その地点へ向かったが、これまでの探索は、ほとんど、すべて無益だった。不幸なルイ十六世は、この考えに執着していた。ほかの人間を、遠くに探そうとしたことは、あの王なら自然だったと、思うべきだろう。
しかし、この種の企てに関わることは、わが国の利益には、ほとんどならないと思う。どうしても、そのような企てがなければならないのなら、海洋の新たな支配者たちに任せよう。それは、わが国に定められた道ではない。
当時、コンスタンティノープルの大使だったショワズール=グフィエ氏と、レヴァントの通商港の領事ペソネル氏との、数年にわたる継続的な書簡のやり取りによって、私は、今もなお、政治と商業の視線を、主として旧世界へ向けることから得られる、あらゆる利益を、十分に確信するようになった。
フランスと呼ばれる、この堅固で緊密なまとまりの地理的位置を調べ、その海岸線を、端から端まで追えば、地中海を、常に自分の領域と見なしてこなかったことに、驚かずにはいられない。入口が、数リューの幅の開口部からしか通じていない、この海盆は、大規模な海運を持たない国々によって、四方を閉ざされている。フランスは、自国と同盟国スペインによって、トゥーロンの施設、マルセイユの施設、カルタヘナの港などの与える、あらゆる手段を合わせれば、地中海で、獲得しようとするだけの、支配の優越を持てるはずである。そこから、わが国にもたらされうる莫大な利益は、なおざりにされてきた。
模倣の影響と競争心が、私たちを、大洋の側へ引いていった。フランスの海上の偉大さを求める計画が、いつも、対抗の精神によって刺激される必要があったことは、注目に値する。誇りと勇気と勤勉さを燃え立たせるには、常に、戦うべき敵か、弱めるべき大国を、見据える必要があった。こう考えるのは辛いが、あらゆることは、人間において、憎しみの力が、人類一般への思いよりも、さらには自己の利益への思いよりも、強い感情であることを示している。嫉妬も対抗もない、偉大さと繁栄の観念は、あまりに抽象的で、普通の人間の思考には、測りがたい。自分の考えを結びつけ、それに照らして、いわば物質的に測れる対象が、必要なのである。
あまり悲しくなりすぎないよう、折り合いを試みよう。新世界の、すでに知られている部分と旧世界とのあいだに生じる、自然な競争だけで、悪い傾向の欲求を満たすことは、できないだろうか。そうすれば、寛大さには、二つの大陸の勤勉さを刺激し、互いの幸福と繁栄に役立たせる希望が、残るだろう。
この問題について、私は、たいへん気楽に論じている。フランスには、ほとんど植民地がないからである。結びつきは断たれ、あるいは緩んでおり、最も役立つと思われる体系を選ぶのは、私たち自身なのだ。
新世界との古い関係を再建することは、旧世界との新しい関係を探すことより、わが国に利益があるだろうか。この政治的な問題を解くことは、重要である。旧世界のほうが新世界より栽培が容易で、費用も高くなく、産物は同じようによく、この新しい状態によって大洋航海が害を受けないことが示されれば、解答は完全になるだろう。
まず、栽培は、より容易である。なぜなら、イギリス、ウィーン会議、アメリカ合衆国で、黒人奴隷貿易の廃止が宣言されて以来、ヨーロッパのどの国民も、この不名誉を負った取引を再開するとは思えず、また、年ごとに数の減る有色人によって、アンティル諸島や赤道地方の植民地の土地を、今後も長く耕作し続けることは、不可能に思われるからである[143]。
農業に用いる手段が、もはや同じでなくなる以上、農業は変化せねばならず、アメリカの植民地の富が基づいていた計算の土台は、必然的に不正確になる。灼熱の気候における土地の労働が、より難しく、高価になれば、生産は減り、価格は、それに応じて上がるはずである。旧世界では、これらの不利益は、一つも感じられない。アフリカでは、手段は、その場にあり、数が多く、自ら維持される。土地が、もっと労働を要するなら、仕事のない人口は、それほど豊富なので、容易に、その必要を満たす。もはや比べるべきなのは、アメリカの黒人の労働と、アフリカの黒人の労働ではない。アメリカでは、今後、白人たちが、その力を超える仕事に用いられるのである。同じ産物を得るには、もっと多くの人数が要る。その人数は、得られるのか。アフリカには、それがいる。
この段落の「手段」は、労働する人間を含めて扱う著者の植民地経済観を、そのまま訳したもの。
問題の第二の点も、同じく、地中海に有利に解決される。アフリカの産物は、すべてよい。エジプトの砂糖は、力強く、粒がしっかりしている。精製すれば、サン=ドマングの砂糖と同じくらい白くなる。そして、チュニスとアルジェの摂政領の南部では、たいへんよいものが得られるだろうと、あらゆることから信じられる。アビシニアは、アンティル諸島より優れたコーヒーを産する。確かな販路によって、その栽培が励まされるなら、南アジアのあらゆる王国や島々は、それを豊富に供給するだろう。アフリカで、地域内の需要のためだけに収穫される綿の美しさは、カイエンヌや、わが国のほかの植民地、アメリカ合衆国の綿なしで済ませることが、容易だと証明している。藍は、緯度三十四度や三十六度で、よく育つ。アフリカの、その緯度でも、容易に得られるだろう。
したがって、残るのは、一見すると学問の領域を狭めそうに見える、新しい方向を商業に与えることが、航海の大いなる技に、有害ではないかを知ることである。
この点での、いかなる恐れも、根拠はないだろう。フランスが、大洋に面する長い海岸と、そこに持つ港を備えながら、大海での航海の競争を奪われるままになり、あるいは自ら禁じるとは、真剣に信じられない。その想定は、議論する必要さえない。大洋も、アメリカやインドの海も、すべての国民に開かれたままでなければならない。そこは、その技が保たれ、完成されるべき、大きな学校である。大発見の原理は、すでに据えられている。その可能な発展は、必然的に続くだろう。全地球を覆う恐るべき激変が起きないかぎり、これほど多くの努力、労働、世紀の果実が、フランスにも、世界のほかの部分にも、失われるはずはない。私が求めるのは、現在より少ないものではなく、多いものである。イギリスが、大洋でフランスに対して有利になる位置にあるのと同じく、フランスは、地中海でイギリスに対して有利になる位置にある。この分担からは、通商する国々に、あらゆる文明国の産業のあいだに、一種の均衡を保とうとする競争の動機さえ、生まれるだろう。
私が、とりわけ商業上の利益に語りかけるのは、理性が、むしろ疲労が、海軍を、それほど力として、戦争の手段として、考えなくなる状況をもたらすと、信じたいからである。いつの日か、その見方が二次的なものとなり、海軍の主要な目的が、交易と享楽を守り、全体の繁栄へ貢献することとなるよう、私は望む。
これらの考えには、いくらか漠然としたところがあり、願望を表すだけに見えるとしても、絶対性を取り去り、人間の事柄が常に従属する出来事のもたらす障害に、左右されるものとして考えるにとどめるなら、空想だと扱うことはできないだろう。素早く捉えられ、いつも短いあいだしか味わえない、わずかの善。それが、人間に期待を抱かせることのできる、すべてである。したがって、ある政治的な見通しが、幾らかの利益を示し、原則において自然にかない、危険、損害、犠牲が少なければ、それだけで、よいものと見なすべきである。自分の構想に引かれすぎることを恐れずに、幾らかの希望を託してよいのである。
わが国の歴史の、さらに古い時代へ戻れば、この見方は、いっそう励まされるだろう。十字軍の時代、ヨーロッパは、まさに、これらの考えの道筋にいたと分かるはずである。アジアとの通商、旧世界のこの豊かな部分との往来の自由は、西方の幾人かの君主が、アラビアのカリフ、エジプトのスルタン、ニコメディアのスルタンに対して戦争をする、隠れた動機の一つだった。宗教は政治の口実となり、政治は、すでに独占的な航海の利点を、見通しえた。幾つかの成功を慎重に扱っていれば、エジプトとシリアの海岸に、ヨーロッパの植民地が生まれるのを、ほどなく見たことだろう。そして、連合した君主たちの嫉妬や競争が引き起こす戦争では、フランスは、その位置によって、莫大な優位を持ったはずである。その優位は、のちに、アメリカの発見が生んだ争いでは、取り戻すことができなかった。今日、大きな宗教上の困難が消えた以上、通商の取り決めは、それ自体では本質的に航海に従事しない、東方のすべての大国の利益に、かなうかもしれない。
だからこそ、その力を持っていた人生のある時期に、私は、警戒心を起こさせぬよう、哲学的な見通しとして、アフリカの海岸の文明化を目指す、幾つかの条項を、アミアン条約へ入れたのである[144]。政府が、それを実行していたなら、サン=ドマングを再征服するという空しい望みに、エジプトの優秀な軍隊の残りを、すべて犠牲にする代わりに[145]、すでに気候に慣れた、この堂々たる兵力を、バルバリア諸国へ向けていたなら、私の哲学は、実際のものとなっただろう。フランスは、数か月のうちに、サン=ドマングで優秀な軍隊を壊滅させる代わりに、地中海のアフリカ沿岸に、しっかりと足場を築き、あの巨大で破滅的な大陸封鎖体制を、わが国に経験させずに済んだだろう。
さらに、非常に重い考慮を、一つ示さねばならない。アメリカは、政治的な秩序のなかで、まだ自分の位置を定めておらず、その点で、時の試練も、まだ済んでいないということである。もし、いつの日か、新しい大陸のまわりに散らばる、あらゆる土地を、自分のものと見なすほど大胆になれる力を持ったなら、そのとき、フランスが旧世界へ目を向けていたことは、どれほどの利益になるだろう! また、それによって、今の世代をアメリカへ引き寄せる移住の動きを防ぎ、少なくとも弱め、人類に、重要な奉仕をしたことにもなるだろう。ヨーロッパの人口を新世界へ運ぶ、ほとんど気づかれぬ傾斜には、おそらく、この逆向きの力が必要なのだ。哲学者たちが、この大問題を取り上げなかったことに、私は驚く。あらゆる点で、その原則に関わる問題である。黒人奴隷貿易だけでも、そこへ導くはずではなかったか。しかし、彼らがなおざりにした以上、おそらく、私のほうが間違っているのだろう。そこから、私は、哲学者について話すとき、自分自身の意味を、よく理解していないのではないかと思うようになる。この呼び名を、漠然としたことを表したいのに言葉がないとき、「自然」と言うように、いくらか使っているのである。しかし、哲学者をたびたび挙げ、わが時代への大きな影響を認め、これからも、とりわけ大きく認めるつもりなので、明確にするため、一度きちんと、十八世紀の哲学者とは、何を意味しているのか、自分自身に説明せねばならない。
十八世紀の哲学者たちが、一つの宗派を作っていたなら、その教説は、容易に知れただろう。しかし、近代の哲学は、宗派の精神とは、何の共通点もない。その呼び名を与えうるのは、無神論者や理神論者だけだが、それらは、必ずしも、わが時代に固有のものではない。物事の底へ入ろうとすれば、あらゆる宗派の隠れた原理は政治的であり、どこでも、その誕生は、独立と自由の精神に負っていると分かる。その精神は、既存の国制に抑えられ、支配的な法律に締めつけられると、逃れ出て、宗教によって正当化しようとする形で、爆発するのである。疑いようもなく、既成の政府への反抗の精神が、これらすべての新しい教説の、第一の原動力である。教説は、その後、さまざまな変形を伴って広がる。そのほかの、物理的、精神的な原因は、すべて、二次的で補助的な原因にすぎない。
政治的自由の原則が、国家の国制に含まれているイギリスでは、宗派は無数にあるが、危険は少ない。
支配権が分かれ、数多く、多様であるドイツでは、ルターとカルヴァン以来、改革の精神が続いてきた。フランス革命が、すべての政府を恐れさせ、革新者たちを散らさなければ、大きな荒廃をもたらしえただろう。クリュデネール夫人[146]を含め、残っている者たちは、ただ滑稽なだけである。
スペインもポルトガルも挙げない。哲学、文学、科学に関して、この二国は、十五世紀で止まっているからである。
フランスでは、厳密科学の精神が、その誇りと、実際に獲得した優越によって、あらゆる体系を軽蔑で覆い、宗派の精神を滅ぼした。ラプラス氏[147]によって完成された、ベーコン、ロック、ニュートンの哲学の導入は、想像力のあらゆる企てを、一つの試験に服させた。それは、想像力に発見を許しながら、迷い出ることは許さない試験である。
モンテーニュの不確かさは、その精神を、よくできた頭には、とても柔らかな二つの枕と呼ぶ、無知と無頓着の上に休ませていた。それゆえ、古い学派のどれかを受け入れることも、新しい学派を作ることも、できなかった。すべての意見を論じ、何も採用せず、疑いと無関心に立てこもるのである。
ほぼ同じころ、ラブレーは、嘲り、露悪的で、道化じみた気分の発作のなかで、あらゆる偏見を侮辱し、あらゆる信仰を攻撃していた。
この哲学の仕方と、学派の創始者たちのそれとのあいだには、ずいぶん隔たりがあるように思う。年代順では、モンテーニュとラブレーは、フランスの哲学者の先達だが、学派の長ではない。その懐疑主義は、考えのなかに、漠然としたもの、不確かなものを投げ込み、前世紀に私たちが結果を見た、あの混乱の幾分かを、彼らにも負わせるはずである。その二人に最も近づいた著述家たちも、何らかの教説の体系に属すると、決して主張しなかった。疑いへ向かう傾向と、宗派の精神とは、正反対なのである。
宗派の精神は、おそらく、不利益が少ない。その対象が、より限られており、幾人かの個人しか捉えず、フランスでは、それも短いあいだだからである。国民の移り気は、この種のいかなる意見にも、永続する支配を確立させない。それに対して疑いは、すべてに及び、長く続きうる。たいへん便利なので、誰をも捉える。疑いにとって、光は、かつて十分に明るくなることがあるだろうか。それが、到達すべき終着点であるなら、そこに危険がある。出発点であるなら、そこに利点がある。その場合は、早く推測しすぎることを恐れ、単なる思いつきに、おののくからである。知性は、慎ましく結果を調べることに満足し、ゆっくり原因へ遡る。こうして、段階を追って、抽象から抽象へ、次いで現象から現象へ、発見から発見へ、ついには真理から真理へと、高まってゆく。
この方法が、十分に知られ、忠実に従われたのは、十八世紀になってからである。それまでは、フランスは、すべてデカルト派だった。学校も科学アカデミーも、フォントネルさえも、メランも、絶えずデカルトに忠実だった。アルクール学院の私の哲学の教師で、のちに大学の総長となったデュヴァル氏[148]も、ニュートンに反対する小冊子を書いていたのを、覚えている。覚えているのは、私一人かもしれない。ダランベール[149]、モーペルテュイ[150]、クレロー[151]、ヴォルテールは、四人とも、ごく若かったが、新しい哲学の最初の使徒となった。そのおかげで、ニュートンの体系、むしろ自然の体系が、勝利した。また、そのおかげで、ベーコンの方法が諸科学で用いられ、最も明るい光を投げかけた。これが、十八世紀の哲学の輝かしい側面である。しかし、その道徳的な影響、まず何より、精神や道徳を扱う諸学での荒廃を見れば、栄光は曇る。ヴォルテールは、真の哲学者の性格と使命を、完全に描いたように思える。
「哲学は単純である」と、氏は言う。「静かで、嫉妬も野心もない。世間の贅沢、騒ぎ、策謀から遠く離れ、平和のうちに思索する。寛容であり、慈悲深い。その清い手は、人々を照らすべき松明を運ぶ。それを使って、地上のどこかに火事を起こしたことは、一度もない。声は弱いが、聞こえる。言い、繰り返す。神を崇め、王たちに仕え、人々を愛せ、と」。哲学の、この美しい性格は、ロック、モンテスキュー、キャヴェンディッシュ[152]の、あらゆる著作に見いだされる。これらの真の賢者は、大胆さのなかにも常に慎重で、人類の道徳を支える永遠の土台を、いつも尊重し、しばしば強めてきた。しかし、その弟子の幾人かは、見識が浅く、したがって慎重さも乏しく、探究を重ねるあまり、社会秩序のあらゆる柱を揺るがした。
ローマの元老院で、カティリナの共犯者たちに、どのような罰がふさわしいかを審議したとき、カエサルは、十八世紀の哲学者のように論じ、政治的結論を引き出すため、抽象的な原則を据え、魂の本性について長々と論じて、エピクロス哲学の教義を唱えた。カトーとキケロは、憤って立ち上がり、カエサルは、共和国と人類に有害な教説を唱えていると、元老院に宣言した。ところが、これらの偉大な政治家が、賢明にも退けた、この転覆的で、心を荒ませる教説が、前世紀には、公然と教えられたのである。自ら倒れかけていた迷信を根こそぎにし、自分たち以外の頭には、もはや火をつけていなかった狂信を消すという口実のもと、エルヴェシウス[153]、コンドルセ[154]、レナル、ドルバック男爵[155]は、あるときは自然状態、あるときは完成可能性によって、道徳的・政治的秩序のあらゆる絆を、激しく断ち切った。抽象や分析によって、秩序と平等についての不完全な観念によって、すべて形而上学的な道徳によって、世界を統治できると言い張るとは、何という狂気だろう! 私たちは、その空想の悲しい産物を見たのである。
もし、それが分析の必然的な結果ならば、私は、それをすべてに及ぼす軽率な哲学者たちに、善良なラ・フォンテーヌとともに、こう言おう。
その鉈を捨てよ、害をなす道具を。
あなた方の分析は、精神を啓くかもしれないが、魂の熱を消す。感受性を涸らし、想像力を萎れさせ、趣味を損なう。あなた方の託宣者コンディヤック[156]自身も、「哲学的精神ほど、趣味に反するものはない。これは、つい漏れてしまう真実だ」と言わなかったか。もう少し手を開いていれば、同じ種類の真実が、ほかにも多く、こぼれたかもしれない。それらは今日、本人の意見に反して、わが国の学校で説かれている。
たった今述べたすべてから、私は、十八世紀の哲学の特有の性格は、分析の使用にあると考える。自然科学へ適用されるときは有益であり、精神や道徳を扱う諸学へ適用されるときは不完全であり、社会秩序へ適用されるときは危険なのである。
したがって、これまで書いたもの、これから書くもののすべてで、哲学者という呼び名を、よい意味に取るべきか、悪い意味に取るべきかは、私がわざわざ指摘しなくても、分析の向けられる対象によって決まる。
経済を論じる哲学者たちが、ほぼ三十年にわたって持った重要性のため、私は、その人々について、とくに述べねばならない。
経済学者たちは、社会秩序に可能だと信じる、あらゆる改善の手段を行政から引き出すことに、もっぱら取り組む、哲学者の一部だった。二つの種類に分かれていた。一方は、農業だけが富を作ると考え、工業と商業を、不生産的なものと見なした。農業の労働によって生み出され、作られた物質に、形や交換を与えるだけだからである。この第一の種類の経済学者の教説は、純生産物の学説と呼ばれ、『経済表』[157]に示されている。この表の目的は、農業から生まれ、そこから社会という身体の、あらゆる動脈へ広がる富の配分を示すことである。この教説の帰結は、循環の流れをたどり、最後には、税をすべて農業に負担させる課税理論へと至る。
純生産物(produit net)は、ここでは生産費を差し引いたあとの余剰を指す。
自由貿易は、この第一の種類の経済学者たちが、これから述べる経済学者たちと接する、ほとんど唯一の点である。後者は、不生産階級という区分を採用せず、『経済表』を、循環の現象の厳密な証明とは見なさず、十分な証明とさえ見なさない。この点については、幾つかの個別の真実にとどめる。大原則は、最も広い意味での、通商全般の自由である。課税については、修正を認め、絶対的ではない。
政府は、どの学派に属するものであれ、経済学者の考えを退け、既知の、確立したものに執着した。税の形と、王室の国庫への定期的な収入に触れる変更を、恐れていた。国家の歳入が、少しでも減ることへの恐れが、あまりに大きく、増やす手段さえ試す勇気がなかった。これほど短く、狭い見方は、必然的に禁制的なものとなった。
議論の余地のない、幾つかの政治経済の原則と、公信用の理にかなった利用とが、財政運営の学問のすべてをなすことは、まだ知られていなかった。公信用は、政治経済の原則を、あまりに厳密に適用することから生じうる不利益を、減らしただろう。政治経済の原則は、公信用を用いる事業を啓き、節度を与えただろう。テュルゴー氏は、割引銀行を設けたとき、この有益な結合の利点を、垣間見たようである。資金の価格を穏当な水準に保つことによって、あらゆる産業に最も助けとなる手段を、捉えた。しかし、それ以上には進まなかった。租税を無理に増やさず、低い費用で、国家のために臨時の資金を調達し、その負担を一連の年に分配する、近代の技を、氏は知らなかった。あるいは、知っていたとしても、その利用には、将来の難点を見ていたのかもしれない。いつも安易で、いつも濫用へ近づきすぎるフランスの行政が、いつか、それを危険なものにするだろうという難点である。それに、絶えず返済しながら借り続けることは、経済学者の純粋な教説とは、まったく反対の考え方に属していた。借り入れ、借入れを消してゆくためには、期間は一時的でも、使い道は固定された歳入の割当てが必要だからである。その割当ては、土地税とは別の種類の国家歳入から取り出されねばならず、土地税には、通常の、定まった用途があるべきである。さて、この目的のためには、消費に課税しなければならない。とくに、生活の便利さに関わり、余裕ある財産、少なくとも十分な豊かさを享受する人々だけが使うものに、である。この範囲では、私の言う種類の消費は、それぞれの資力に応じて測られる。そして、消費の欲求が大きすぎ、強すぎるようになったなら、富裕な人々も、その側で、もっと巧みになり、限界の知られていない産業の増大によって、利益を取り戻すと考えられる。ただし、もし限界があるなら、それを予見しなかった財政当局は、大きな計算違いを経験する危険にさらされることは、確かである。
この豊かな主題は、私を、ずいぶん遠くへ導きかねない。私には、魅力に満ちているからである。それは、その価値のすべてを、イギリス人がわが国に教えてくれた、ある人物の会話と論考から学んだ、あらゆることを思い出させる。パンショー氏は、カロンヌ氏、メヤン氏、フーロン氏、ルイ氏[158]、そして私に、千度も言った。「今のヨーロッパの状態では、フランスとイギリスの二国のうち、私が提案する償還計画に正確に従ったほうが、相手の終わりを見ることになる」。それが、氏の言い方だった。イギリスは、その学説を採用し、そのため三十年間、ヨーロッパのあらゆる動きを導いた。パンショー氏は、非凡な人物だった。最も熱く、最も広く、最も力強い知性と、完全な理性を、同時に備えていた。あらゆる種類の雄弁さを持っていた。天才が、感じる能力と考える能力とが、同じ一人の人間に、豊かに、均等に配分されることから生まれるなら、パンショーは、天才の人だった。その寛大さ、無邪気さ、陽気さについて、語れば楽しいであろう、千ものことが思い出される。
しかし、自分に定めた考えの順序から、あまり長く離れないよう、止めねばならない。すでに、いくらか自分を責める理由があることを恐れる。哲学者とは何を意味し、経済学者とは何を指すかを定める、ずっと前に、聖職者団の華やかで野心的な部分への、哲学者や経済学者の影響について、話してしまったからである。そこで今は、国家のあらゆる身分、社会のあらゆる階層へ、多かれ少なかれ浸透した精神が、どのようなものだったかを、よく理解してもらうため、聖職者団について述べたことを、思い出してもらわねばならない。
聖職者団について指摘すべきだったことは、司法官の世界にも示さねばならない。それは、世俗社会における大きな権限によって、人々の精神に直接の影響を持つ。その働きは、あらゆる瞬間に及び、生活のあらゆる行為を見守り、財産と人身の安全を与える。その権力は巨大である。それゆえ、司法官が攻撃する制度は、人々の心のなかでは、すでに壊されかけている。新しい考えは、高等法院の若い人々のすべてを捉えていた。王権を守ることは、奴隷的な服従と見なされた。ダリグル長官[159]が宮廷のために保っていた多数派は、日ごとに弱まり、カロンヌ氏とブルトゥイユ氏が仲違いしたとき、失われた。ダリグル氏は、自分とともに票を投じる高等法院の成員に、国璽尚書ミロメニル氏[160]、パリ担当大臣ブルトゥイユ氏、そして親しく結ばれたメルシー氏[161]を通じて王妃の寵愛をもたらしていた。それでも、財務総監と公然たる争いに入ったとき、自らの多数派が、溶けてゆくのを見た。
その多数派を初めて失った機会は、王妃個人に関わるものだった。この不幸な王妃の助言者たちは、自分たちの情念に目をくらまされ、王妃の情念にも仕えようとして、首飾り事件の名で知られる、初めから揉み消すべきだった事件を、法廷へ持ち込み、最大限に公にしていた[162]。パリ高等法院の判決は、王妃に深い印象を与え、信頼を寄せた人々について、目を開かせるはずだった。しかし、宿命は、この厳しい教訓が、期待すべき効果を生むことを許さなかった。助言は同じままで、ブルトゥイユ男爵とトゥールーズ大司教は、いっそう力を増しただけだった。王妃は、周囲の軽やかな渦へすっかり戻り、ジョルジェル師[163]を軽蔑し、フレトー[164]、ルイ、ル・コワニュー[165]、ド・カーブル[166]の諸氏を苦々しく語り、ブリオンヌ夫人[167]と、その娘たちにつながる人々へ、不機嫌を示すだけで満足した。この小さな復讐は、私にまで及び、当然就くはずの地位を得るのに、困難が生じた。ブリオンヌ夫人と、その娘たち、カリニャン公妃とシャルロット・ド・ロレーヌ公女の愛情は、経歴のなかで受けた、あらゆる妨げを、大いに埋め合わせてくれた。女性の美しさ、その高貴な誇りが、ときには敵として、ときには支えとして、しばしば王座の近くにあった、著名で名高い血筋の威光と混じり合うと、その人の呼び起こす感情には、特別な魅力が添えられる。それゆえ、宮廷で不興を買っていたこの時代を、私は、人生で経験した多くの幸運な境遇よりも、楽しく思い返す。その幸運な境遇は、精神にも心にも、跡を残していない。グスタフ三世[168]が、教皇ピウス六世から、私のために枢機卿の帽子を得てくれたという、大きな親切[169]を、王妃が受けさせなかったことさえ、ほとんど覚えていない。王妃は、諸王室の推薦による枢機卿任命[170]より前に、フランス人枢機卿を任命することに反対するよう、ウィーンの宮廷へ働きかけてほしいと、メルシー氏に言った。その望みはかなえられ、教皇による任命は停止された。そして、おそらくその後、私の枢機卿の帽子は、フランスの幾つかの要塞で、何年かを過ごしたのである[171]。
高等法院へ入り込んだ新しい精神は、この古い団体を構成する全員を分裂させ、それぞれを駆り立てていた。そのため、あらゆる側から策謀が入り込んだ。ネッケル氏、カロンヌ氏、ブルトゥイユ氏は、それぞれ自分の手先を持ち、支えようとする大臣、あるいは倒そうとする大臣の政策を、擁護し、攻撃させた。君主政の輝かしい時代には、常に結びついていた王権から、この大きな司法官の団体が、日ごとに遠ざかるのが見えた。団体の結束そのものも、もはやなかった。数か月後に行われた三部会の要求が、その証拠である。必ずしも党派の色を取らない、ばらばらの意見が、気がかりなほど数多くあり、国家の必要が求めると思われる法律の、一つひとつの登録について、政府を不安にさせた。
カロンヌ氏は、この状態に敢然と立ち向かい、非常に微妙で、自分に欠けていた多くの知識を必要とする事柄について、法律を高等法院へ提出しようとした。
一七二六年の改鋳で採用された金貨と銀貨の比率は、もはや、商取引における金属としての金と銀の比率に、合わなくなっていた。ルイ金貨と同じ品位の金塊一マルクは、七百二十リーヴルを超える値で売られた。しかし、同じ一マルクの金をルイ金貨に鋳造しても、三十枚、すなわち七百二十リーヴルにしかならなかった。したがって、銀貨に対する金貨の比率を、銀に対する金塊の価値に、もっと近づける必要があった。一七二六年の法律では、金と銀の比率は、一対十四・五一三、ほぼ一対十四・五だった。ここで述べている法律によって、その比率は、一対十五・四七七、ほぼ一対十五・五へ引き上げられた。
この点で、カロンヌ氏は、金融仲買人マディニエ氏の意見を採用した。この人物は、貴金属の商取引には詳しかったが、政府が貨幣に触れるとき、常に守るべき配慮の技には、それほど詳しくなかった。改鋳が民衆の利益になることを、民衆に、数字で、しかも長く前から示す必要があった。それを望ませ、少しは待たせることさえ、必要だった。重要な事柄では、遅いという非難は、誰もが満足する。非難する者には、優越した顔を与え、受ける者には、慎重な顔を与えるからである。カロンヌ氏は正しかったが、その性急さのため、間違っているように見えた。ブルトゥイユ男爵、フーロン、小フォルニエは、次々と意見書を持ち回った。ヴェルモン師[172]が、それを王妃へ渡し、王妃は国王へ届けた。策謀の道具となった高等法院は、諫奏を行ったが、それは、この団体に、財務総監の施策を妨げる気持ちほど、この問題についての見識があるとは示さなかった。改鋳の法的な理由は、二十四トゥール・リーヴルの貨幣に含まれる純金の量を、六リーヴルのエキュ銀貨四枚に相当する銀塊と、対応する価値へ減らすことだった。
一七二六年の改鋳では、重大な過ちが犯されていた。今も、わが国の貨幣を構成する二つの金属の、正確な価値の比率という問題を、うまく解けていなかった。その比率は、定めることは易しいが、保つことは難しい。評価は、その金属の価値より、ほぼ六分の一低くなされていた。確かに、造幣局長の大半は、この不利益を和らげていた。しかしそれは、許容差の限界を超えて、品位や重量を下げるという、重大な不正によってだった。したがって、二つの金属の比率の欠陥に加え、同じ造幣所のルイ金貨のあいだにも、法にかなう同一性の欠如があった。ゆえに、新たな改鋳は必要だった。しかし、カロンヌ氏が、ただ公正であろうとしているのだと信じるだけの敬意は、払われなかった。新しい金貨が受けるはずの軽量化には、なかなかなじめなかった。それは、金銀の比率を回復するのに不可欠であり、旧貨の所有者には、貨幣の交換で、その差額が考慮されるにもかかわらず、である。新しいルイ金貨を受け取る前に、古い鋳造のルイ金貨を預けねばならなかった。交換の期間は、鋳造に必要な時間を、はるかに超えて長引いた。そして、同じくよいとは言えない、ほかの多くの財政上の方便に続くものとして、大臣の本当の目的は、旧金貨の所有者から借り入れる形で、資金を自由に使うことにあると、推測された。
こうして、カロンヌ氏の採用した比率はよかったのに、批判に口実を残し、批判は、それを容赦なく利用した。氏は、同じ価値尺度の役割を果たすべき二つの金属のあいだに、少なくとも、しばらくのあいだ、均衡を回復することに成功した。しかし、一七二六年の法律の改正を正当化する、非常に複雑な計算を、自分のものとしてはいなかった。したがって、疑いや無知から来る、あらゆる反論に答えられるようにもなっていなかった。目的は達したが、その功績を、すべて得たわけではなかった。
ルイ十六世は、ヴェルジェンヌ氏の意見に力づけられ、このとき、非常に断固たる意志を示した。高等法院の諫奏は、効果を持たなかった。ナルボンヌ夫人[173]から、この提案について、非常に学識ある意見書を受け取った、国王のおばアデライード王女でさえ、フーロンの追放を防げなかった。この不幸な人物は、アンジューの自分の領地の一つへ送られた。そして数年後、そこから戻ったのは、革命の最初の犠牲者の一人となるためでしかなかった。
持続する毅然さは、国王の性格にはなかった。それに、顧問会議のなかの不一致に、気をくじかれたはずである。すべてが困難になった。世論は力を増し、公然と非難し、擁護した。その働きは、あまりに強く、止めることも、導くことさえも、できなかった。王座の階段へ近づいていた。すでに、大臣について、人気がある、ないと言われ始めていた。これは新しい表現で、革命的な意味で受け取るなら、国王の評価と高い尊敬だけを求めたルイ十四世の顧問たちには、自分自身の目にさえ、品位を落とすものだっただろう。しかし、ネッケル氏の共和主義的な虚栄心は、それが独自の影響力を与えるため、名誉としていた。
ありふれた方便は、使い果たされていた。もはや、行える改革はないと思われた。しかし、支出は歳入を莫大な額で超えていた。一七八三年の赤字は、八千万を超えていた。ネッケル氏は、自分の『財政報告書』[174]で何と言おうと、退任したとき、ほぼ七千万の赤字を残していた。氏への熱狂が消えてからは、誰もが認めている。歳入の前借りに用いられる、徴税総監、出納官、管理官たちの手形は、恐るべき損失を伴わなければ、もはや流通しなかった。ネッケル氏の借入れのうち、終身年金ではない部分には、あまりに早い償還の約束がついていたため、王室の国庫を枯渇させた。一七八六年には、この償還が、ほぼ五千三百万に達し、一七九〇年まで、年ごとに増えるはずだった。
財産や産業の、最も細かな枝先まで厳しい取り立てを浸透させることに長けた徴税会社の解釈へ、税法を任せることで、国家の歳入を増やせた時代は、もう過ぎていた。フルーリー氏が課した、一リーヴルにつき四スーの追加税は、幾つもの地方にとって重すぎ、納まりが悪かった。購入のために金を払う必要のある官職は、引き受け手がなかった。高等法院は、もはや借入れの登録を望まなかった。公債は、日ごとに価値を失った。パリの取引所の動きは、すべて、個々の事業体の証券への投機から来ていた。割引銀行の株、インド会社の株、パリ水道会社の株、火災保険会社の株などが、売り買いされた。災厄の時代のように、賭け事が、すべての頭を占めた。政府は、王会裁定によって、数百万の宝くじを作り、幾らかの資金を調達しようとした。しかし、この弱い手段には限りがあり、その限りに達していた。
カロンヌ氏は、あらゆる施策を妨げられ、あらゆる側から攻撃され、トゥールーズ大司教の地下の策謀によって足元を掘り崩されていた。しかし、なおヴェルジェンヌ氏と国王を味方に持ち、何か新しく、華々しさもある手段によって、直面するすべての困難に勝てると考えた。名士会[175]の計画を思いついたのである。この思いがけない招集によって、国民の承認と高等法院の登録に代わるものを得て、世論を再び味方につけることを望んだ。世論の前には、有利な姿で出られると、自信を持っていた。
会議が開かれるとすぐに、王国全体への地方議会の設置、賦役の廃止、国内関税障壁と、世論に非難されていた幾つかの間接税の廃止、塩税の軽減、穀物取引の自由を提案した。
氏は、勇敢にも、赤字をさらに増やすことを決意した。塩税の収入を一千万、関税と間接税の収入を一千二百万、タイユ税を一千万、それぞれ犠牲にする。聖職者団の債務の返済を助けるため、七百万を出す。その債務の主要部分は、財産に付属する狩猟権や名誉上の権利の譲渡によって、消すはずだった。さらに、賦役に代える支出を一千万、農業、技芸、商業の奨励に六百万を出す。これほど多くの恩恵の代わりなら、一億一千万から一億一千二百万の歳入の新設、あるいは代替を、容易に得られると期待していた。
そのうち五千万は、フランス領内のすべての土地財産の純収入に、二口の二十分の一税を、きちんと徴収することで得られると見た。この税の増収は、カロンヌ氏が、団体や身分のすべての特権、あらゆる例外、あらゆる個別の優遇を廃止することを提案していたために生じる。氏は、この課税を、土地補助税と呼んだ。そして、新しい税ではないと言った。二口の二十分の一税を、正しく払っている者の負担は増えず、不公正な配分の弊害と、享受する人々が、まさに放棄しようとしている例外を、取り除くだけだからである。
印紙税の設置による収入は、二千万と見積もった。
王領の封土化と、森林のよりよい管理から、一千万の収入が得られるはずだった。
決まった時期の償還を果たすため、毎年二千五百万を借り入れ、その借入れ自体は、十五年かけて返済するものとした。
また、一千五百万に上る節約の一覧も示した。
名士たちには権限がなかったので、この計画は土台を欠いていた。しかし規模は大きく、全体は、かなり堂々としていた。国家へ資金を投じた人々すべてを安心させ、かなり以前から社会の知識ある階層に広がり、国民の大衆へも入り始めていた考えに、衝撃なしに近づくという利点を示していた。
しかし、ヴェルジェンヌ氏は亡くなっていた[176]。これほど多くの利益を公然と攻撃する大臣にとって、国王一人は、弱い支えだった。
聖職者団は、無償献金によって、永遠に免れると期待していた課税を受けることになった。二十分の一税という名では払わなくとも、聖職者賦課金という名で、相当する額を払っていると主張した。次いで、自分たち固有の問題を離れ、一般的な観点から、土地補助税を攻撃した。カロンヌ氏は、不幸にも、現物による税は、五千万を現金で納める税より、困難が少ないと思い込んでいた。意見書の一つで、現物徴収こそ、配分を比例的にし、恣意を取り除き、収穫のないときさえ払わねばならないという、納税者の残酷な必要を避ける、最も容易な方法だと論じていた。ナルボンヌ大司教、トゥールーズ大司教、エクス大司教、ボルドー大司教は、十分の一税によって、その弱点を知っており、この問題には、皆かなり通じていた。そこで、この徴収方法の費用は非常に高く、伴う困難は莫大で、土地を正しく分類するために費やさねばならない時間は、王室の国庫にとって、失われる時間だと示した。
聖職者賦課金(décime)は聖職者側が納める賦課金。後に出る十分の一税(dîme)は聖職者側が受け取るものを指し、両者は異なる。
高位聖職者たちの意見が、名士たちの意見となり、カロンヌ氏は、この点で敗れた。
一つの失敗は、別の失敗を、しばしば数多くの失敗を招く。
電子版HTMLは冒頭のUが脱落して「n échec」となっている。同版TXTの「Un échec」に従って訳した。
ヴェルジェンヌ氏の後任、モンモラン氏[177]には、まだ威信が乏しかった。意見を持たず、持っていると想像されることさえ恐れていた。国璽尚書ミロメニル氏は、新たな企ては軽率で、王権を危うくしたと考えた。ブルトゥイユ男爵は、動き回っていた。トゥールーズ大司教は、相変わらず足元を掘り崩していた。そしてカロンヌ氏は、問題の重大さによって、なお力を持ち、王弟殿下の家で開かれた協議では、驚くべき才能を示していたのに、自ら立つ堅固な地盤を離れ、宮廷の策謀のなかにしか、防御の手段を求めなくなった。アルトワ伯爵は、国王に対して氏を支えた。ポリニャック夫人は、自分に残っていた王妃への影響力を、すべて与えた。ヴォードルイユ氏は、詩人ルブラン[178]に、たいへん美しい詩の書簡を、氏へ宛てさせた。
平時なら、それも、幾らかの影響を持っただろう。しかし、これほど激しい事情のもとでは、ほとんど何でもなかった。カロンヌ氏は、もはや同じ自信をもって、国王に話しかけなかった。名士会は、一つの方便だった。そして今度は、その名士会のために、方便が必要だった。しかし、それは持っていなかった。他人を恐れ、自分自身にも、もはや完全な信頼がないとき、人は過ちばかり犯す。氏を破滅させたのは、復活祭の二週間、会議を休会にしたことだった。名士たちはヴェルサイユを離れ、パリのあらゆる社交の場へ散っていった。持ち込んだ反対の精神は、そこで見つけた反対の精神によって強められ、国王には、大きな世論の塊をなすように見えた。国王は恐れた。ヴェルジェンヌ氏の死後、王を安心させるだけの重みを、その精神に持つ者は、もういなかった。カロンヌ氏は解任された。
十八世紀の大臣たちの長い一覧のなかで、歴史が氏を、どの位置に、誰の隣に置くかは、分からない。しかし、私に見えた氏は、次のようなものだった。
カロンヌ氏は、自在で輝かしい才気と、鋭く素早い理解力を持っていた。話すのも書くのも上手で、いつも明晰で、優雅さに満ちていた。知っていることを美しく飾り、知らないことを脇へ置く才能があった。アルトワ伯爵、ヴォードルイユ氏、タレーラン男爵[179]、コワニー公爵[180]は、氏が自分たちから借りた物腰と、氏が自分たちに貸し与える才気を、氏のなかに愛した。カロンヌ氏は、友人への愛着と忠実さを持ちえた。しかし友人を選ぶのは、心よりも知性だった。虚栄心に欺かれ、自分の虚栄心が求めた人々を、本当に愛していると、心から信じていた。醜い顔だったが、背が高く、身軽で、体つきはよかった。顔には才気があり、声は快かった。大臣職へ到達するために、評判を危うくし、少なくとも、なおざりにしていた。取り巻きたちは、ろくな者ではなかった。世間は、才気を認めていたが、道徳心があるとは信じていなかった。財務総監となって現れると、破産した浪費家の、巧妙な財産管理人が来たように思われた。抜群の器用さは、人を喜ばせるが、信頼は生まない。努力や助言を、軽んじすぎると思われるからである。人々の大半は、大臣には、勤勉と慎重さを好む。その点で、カロンヌ氏は、安心できる人ではなかった。たいへん器用な知性の持ち主すべてと同じく、軽率さと思い上がりがあった。それが、性格の、むしろ物腰の、目立つ部分だった。際立つ例を、一つ挙げよう。国王が名士会を招集する計画を採用した翌日、カロンヌ氏は、ダンピエール[181]のリュイーヌ夫人の家へ来た。顧問会議への報告が成功したことに、すっかり酔っていた。最大限の秘密を守るよう求めながら、それを私たちに読んで聞かせた。一七八六年の夏の終わりだった。会議が開かれる一七八七年二月二十二日の八日前、氏は私に短い手紙を送り、会議へ提出する幾つかの意見書をまとめるのを手伝うため、一週間、ヴェルサイユで一緒に過ごすよう勧めた。引き受けてくれる問題については、必要な材料が、すべて見つかるだろう、とも書いていた。同じような手紙を、ラ・ガレジエール氏[182]、デュポン・ド・ヌムール氏、サン=ジュニ氏、ジェルビエ氏[183]、コルメリー氏にも送っていた。私たちは皆、同じ朝、カロンヌ氏の執務室に集まり、扱うべき問題ごとに、書類の束を渡された。そこから、八日後に印刷され、会議の討議に付される、すべての意見書と法案を、作り出すはずだった。つまり、二月十四日には、まだ何一つ、文章になっていなかった。私たちは、この莫大な仕事を分け合った。私は、穀物についての意見書と法案を引き受け、両方とも全部書いた。聖職者団の債務の支払いについての意見書は、サン=ジュニ氏と、賦役についてのものは、ラ・ガレジエール氏と、一緒に作業した。コルメリー氏は、関税障壁の外方移動[184]についての計画を、すべて作った。ジェルビエは、あちらこちらで段落を書いていた。友人デュポンは、なすべき善があると信じ、自分の意見に最も近い問題へ、想像力も知性も心も、すべて注いだ。こうして、カロンヌ氏が思い上がりと軽率さによって、五か月間なおざりにしていた仕事を、私たちは一週間で、かなりまずまずの形に仕上げた。
国王は、大臣を見捨てるという弱さを示したあと、自分との折り合いをつけるように、名士たちの前へ出させた、さまざまな計画には、いっそう執着した。そして、自らの考えによって、提出された計画を進めようとする人物を、カロンヌ氏の後任にしようとした。
フルクー氏[185]が、最も適しているように見えた。そのたいへんな素朴さ、考え方、あらゆる策謀から距離を置くこと、よい評判が、国王を喜ばせた。しかし、引き受ける決心をさせねばならなかった。ほかの誰よりも氏を好み、結局トゥールーズ大司教が選ばれるのを恐れたカロンヌ氏は、手紙を書いた。それを届ける役は、テュルゴー氏、グルネー氏、トリュデーヌ氏[186]を通じて、以前からフルクー氏とつながりのあったデュポン氏へ任せた。
この小さな細部を思い出すのは、それが、かなり面白い場面を生んだからにすぎない。カロンヌ氏が、自分の行政を攻撃された場合に要るだろうと見込む、あらゆる書類を集めているあいだ、親しい友人たちは、財務総監府の大広間で待っていた。そこで集まるのは、おそらく最後だった。長いあいだ、そこにいた……。誰も話さない……。夜十一時だった……。扉が開く……。デュポンが勢いよく入り、熱をこめて叫ぶ。「勝利です! 勝利です、奥さま方!」。皆、立ち上がり、取り囲む。氏は繰り返す。「勝利です! フルクー氏が引き受けます。カロンヌ氏の計画は、すべて続けます」。この種の勝利が、シャバンヌ夫人[187]、ラヴァル夫人、ロベック夫人、ダルヴレー夫人に起こした驚きは、デュポンを、ひどく憤らせた。氏は、地方議会のためにカロンヌ氏を愛しており、この女性たちが、カロンヌ氏のために地方議会を愛していることを、知らなかったのである。同じく待っていたヴェムランジュ[188]は、地方議会にもカロンヌ氏にも、たいした関心はなかったが、財務総監府は、心から愛していた。フルクー氏の任命によって有利になる投機を、皆より少し早く整えるため、直ちにパリへ出発した。
この新しい大臣の在任は、短かった。フルクー氏は、たちまち意気をくじかれ、王妃は、ついにトゥールーズ大司教を任命させることに成功した。その知性と性格は、フランスが置かれた事情に、見合うものではなかった。
就任当初から、大司教は世論に譲歩した。世論は弱さにしか出会わないので、日ごとに要求を強めた。名士会から引き出せたのは、不満の訴えと三部会を招集せよとの勧告だけだった。実際、名士たちに、それ以外の何ができたか、私には分からない。何かを譲歩しても、実際にはその権限がなかったのだから、すべて無効だっただろう。何の益もなく憎まれるだけだった。したがって、審議を導ける確信がないのに彼らを招いたのは、途方もない過ちだった。というのも、高等法院の権限は疑問に付され、むしろ名士会を招集したという事実だけで、その無権限が暗黙に宣言されていたので、高等法院には、もはや何もできなかったからである。そこで高等法院は、自分たちにその権利はないと言って、要求されたことを拒んだ。拒絶を罰して追放すると、人気を与えることになった。ほどなく呼び戻すと、自らの重要さをいっそう感じさせ、それを損なわないように努めさせるだけだった。こうした試みはすべて、王権に何の助けにもならず、その限界を示しただけなので、誰にも犠牲を求めず自力で賄うか、三部会を招集するか、二つに一つとなった。前者は財政赤字のため不可能だった。トゥールーズ大司教と高等法院との争いは、きわめて興味深いものだったので、この回想録の第二部を特にそれに充て、細部まで知らせるべきだと考えた。この時期の高等法院の抵抗に、政治上の活動がとりわけ結びついていたオルレアン公爵は、当然、そこでは主要な役割を演じる。
トゥールーズ大司教の施策は、何一つ成功しなかった。カロンヌ氏を倒す際に示した影響力は、まったく個人的なものだった。カロンヌ氏から聖霊勲章の青綬を奪い、自分には枢機卿の帽子、サンス大司教職、コルビー修道院を獲得し、兄弟を陸軍大臣にしても[189]、恐怖も恩恵も、一人の支持者さえもたらさなかった。国内の反対勢力は強まり、フランスの対外政策は無力となった。あれほど守りやすいオランダが、たった今、見捨てられたのである[190]。王室の金庫は空で、王座は孤立していた。王権の縮小が、その時代の熱情だった。誰もが統治されすぎていると思っていた。おそらく、わが国の歴史で、これほど統治が行き届かず、一人ひとりも集団も、これほど自らの限界を踏み越えた時代はなかった。
どの国民も、その政治的な存立は、一人ひとりに課された義務を厳格に守ることに根本的にかかっている。同時に、それらの義務がすべて果たされなくなると、社会秩序は損なわれる。サンス大司教の政権末期、フランスはこの状態にあった。
プロテスタントは動き始め、ネッケル氏に、不安を覚えさせるほどの信頼を示していた。
あらゆる階級が、新しい思想へ熱狂的に向かっていた。学校や学士院に入った者は、誰もが、そこで学び、読んだことを実行するのは、人間の精神が成し遂げるべき征服だと考えた。それぞれの身分が、自らを再生しようとしていた。
教義と同じく不変であるべき聖職者団は、大きな革新へ先を争って進んだ。国王に三部会を要求していたのである。
地方三部会を持つ諸地方は、フランスへの併合に際する取り決めのなかに、政府の提案するすべての全般的な施策へ反対する手段しか、もはや見いださなかった[191]。
高等法院は、何世紀ものあいだ行使してきた権力を反抗的に放棄し、四方から国民の代表を呼び求めた。
行政機構そのものも、それまでは国王に任命され、その代理となることを名誉としていたのに、服従を屈辱と感じ、独立を望んだ。
こうして、国家のすべての団体が、本来の使命から離れていった。それぞれが自らを結ぶ絆を断ち切り、経験も、道を照らす灯も、支えもないまま、必ず深淵へ引きずり込まれる斜面に身を置いた。それゆえ、このときから、何もかもが抗いがたい性格を帯びる。
このような情勢のもとで、国王は、自分では気が進まなかったが、ネッケル氏を呼び戻さざるをえないと考えた。氏は、支配的な思想に迎合する著作を、巧みに間を置いて発表し、絶えず世間の目を自分に引きつけておく術を心得ていた[192]。平時なら、幾らかの善をなしえたかもしれない。私には分からないし、個人的にはそう思わない。しかし、確信しているのは、一七八八年に、国王には、これ以上悪い人選はできなかったということである。国全体の危機にあたって、小さな共和国の市民で、国民の多数とは宗教を異にし、才能は凡庸で、自己満足に満ち、追従者に囲まれ、自らの確固たる基盤を持たず、したがって民衆の機嫌を取る必要のある外国人を、政務の頂点に据える。それは、三部会を招集する以外に何もできず、しかも、その招集をまずく行うほかない人間に頼ることだった。三部会を恐れていることは、あらゆる仕方で示されていたのに、それを恐るべきものにする唯一の理由は、知られていなかった。危険の性質を取り違えていたので、予防するためには何もせず、反対に、避けられないものにしてしまった。
三部会は、国家の三つの身分の代表団から構成され、誰もが選挙によらなければ、その議員にはなれなかった。したがって、期待できることも恐れるべきことも、すべて選挙の結果にかかっており、その結果は、それ自体、選挙をどのような方法で行うかにかかっていた。
三つの身分が王座に対して連合するのは、実情からして不可能なことは明らかだった。王座が攻撃されるとしても、それは第一身分からでも第二身分からでもなく、この二つの身分が存続するあいだでもありえなかった。第三身分がほかの二つを打ち倒したあとで、その第三身分によってなされるのであり、最初の攻撃は、この二つに向けられるはずだった。同じく明らかなのは、第一身分と第二身分には第三身分から獲得すべきものがなく、したがって、それを攻撃する利益も、その意思を持つ理由もなかったということだった。ところが第三身分は、ほかの二つに対してまったく逆の立場にあったので、当然、それだけが恐れるべき相手、備えを固めるべき相手だった。この状況では、正当な権利を維持することを目的とすべきだった。そして、その目的を達するには、最初の二つの身分の抵抗力を、第三身分の攻撃力に釣り合わせるしかなく、前者をできるだけ大きく、後者をできるだけ小さくしなければならないのは、明らかだった。
そのためには、二つの方法があった。
各身分の代表団の人数を、その身分のうち、地位と財産において最も有力な者たちだけで定員を満たせる数に定め、選挙権または被選挙権を制限して、必ずその人々が選ばれるようにすることができた。こうすれば、最初の二つの身分の代表団では、いかなる反対によっても団体の結束が弱められず、一方の代表団は、他方を自分たちと同じように守ることに利益を感じるはずだった。攻撃を受けた場合も、攻撃者は、その内部に秘密の内通者も援助者も見いだせない。また、第三身分の代表団では、失うことへの恐れが、獲得したい欲望を相殺し、侵奪の精神より保守の精神を優勢にする。これらを確実にできたのである。
さらに、最初の二つの身分に代えて、司教団の一部と、由緒、富、名声を最もよく兼ね備えた貴族の家長たちとからなる貴族院を設け、選挙は第三身分に限り、それには別個の議会を構成させることもできた。これは、はるかに優れた方法だっただろう。
革命が起きたあと、多くの人々が、それをどうすれば防げたかを探り、自分たちが想定する原因に対応した、さまざまな方法を考えた。しかし、革命の勃発に近い時期には、私がいま示した二つの方法の、いずれかによってしか、防ぐことはできなかった。
ネッケル氏は、そのどちらも採らなかった。最初の二つの身分が、それぞれ選ぶ議員数を三百人に定めた。それでは多すぎて、除外するのが適当だった下位の層にまで、選択の範囲を広げざるをえなかった[193]。
他方、選挙権と被選挙権には、ほとんど無限の余地が認められた。その結果、高位聖職者と上層貴族は、自らの身分の代表団で少数派となり、第三身分の代表団には、ほぼ弁護士ばかりが集まった。この種の人々は、その職業の必然的な結果である思考の習慣によって、一般にたいへん危険なものとなる。しかし、あらゆる過ちのなかで最大のものは、なおも、第三身分だけで、ほかの二つを合わせたのと同数の議員を選ぶことを認めた点だった。この譲歩は、三つの身分が一つの団体に融合する場合を除いては、第三身分の役に立ちえなかった。したがって、その場合を前提とし、その融合に暗黙に同意せずには、譲歩することはできなかった。つまり、第三身分が融合を実現するために行う試みを、あらかじめ正当化し、その成功の見込みを増し、成功したあとは、三つの身分が合流する団体のなかで、絶対的な優勢を保障したのである。
ネッケル氏には、自分自身の施策の結果を予見し、それを恐れることを妨げる、何かがあった。自分は三部会に絶大な影響力を持つはずで、とりわけ第三身分の議員たちは、自分の言葉を神託のように聞き、自分の目を通してしか物を見ず、自分の承認なしには何もせず、自分が彼らの手に渡す武器を、自分の意に反して使うことはない、と信じ込んでいた。長くは続かない幻想だった。自尊心だけが自分を置き、そこから出来事を支配できるとうぬぼれていた高みから突き落とされると、氏は隠退して、自分が引き起こすつもりのなかった災いと、自分の廉直さが恐怖する犯罪とを嘆いた。しかし、もっと有能で、うぬぼれが少なければ、それらからフランスと世界を救えたかもしれないのである。
その思い上がりのため、当時フランスに存在した動きが、一つの情念、いや、すべての人に共通する情念である虚栄心の迷走によって生じていることを、氏はまったく見抜けなかった。ほとんどの国民では、虚栄心は従属的に存在し、国民性の一つの色合いをなすにすぎない。あるいは、強く執着するとしても、一つの対象にしか向かわない。ところがフランス人では、昔の祖先ガリア人と同じく、虚栄心は何にでも混じり、個人としても集団としても、極端な行きすぎを可能にするほどの力をもって、あらゆる事柄を支配している。
フランス革命では、この情念だけが働いたわけではなかった。それは、ほかの情念を呼び覚まし、助けに招いた。しかし、それらは虚栄心に従属したままだった。その色と精神を帯び、その向かう方へ、その目的のために働いた。虚栄心は、フランス革命が虚栄心から生まれたと言えるほどに、衝動を与え、運動を導いたのである。
私の言う情念は、ある目的へ向けられ、一定の限界に抑えられれば、臣民を国家に結びつけ、国家を活気づけ、生命を与える。そのとき、それは愛国心、競争心、栄光への愛という名を取り、また、その名に値する。特定の目的への方向づけを離れて、それ自体を見れば、優越を望む欲求にすぎない。祖国の優越を望むことも、自分の属する団体の優越を望むことも、自分自身の優越を望むこともできる。最後の場合には、一つのこと、あるいは幾つかのことで、自分の置かれた領域の内、あるいは外で、それを得たいと望める。ついには、正気の沙汰ではないが、あらゆる点で、何に対しても優越を望むことさえできる。事情によって、国家の成員の大多数において、この欲求が社会的な身分の差へ向かうとすれば、避けがたい結果として、大多数は、誰もが自分も持てる、あるいは得られると思える優越の資格だけを望み、その性質上、ごく少数の者にしか与えられない資格を排除するようになる。こうして、優越への欲求から、政治的平等の精神が生まれる。革命前のフランスで起きていたのは、このことだった。シエイエス師[194]が特権についての著作で、革命的な仕方で論証したとおり、それは、フランスの置かれた状況の、自然で必然的な結果だった。
国家は、名目上は三つの身分に分かれていたが、実際には、貴族階級と平民階級という二つの階級にしか分かれていなかった。聖職者団の一部は前者に、他の一部は後者に属していた。
社会秩序におけるあらゆる優越は、権力、出生、富、個人的な功績という、四つのうちの一つに基づいている。
リシュリュー枢機卿の政権以後、ルイ十四世のもとでは、政治権力はすべて君主の手に集中し、国家の諸身分は、もはや何の権力も持たなかった。
産業と商業は、平民階級に富をもたらし、あらゆる種類の優れた資質が、そのなかで発展した。
そこで、ただ一つ残った優越の資格は、出生だった。
しかし、貴族の身分は、長く以前から売官によって与えられていたので、出生さえ金で補えるようになり、その価値は富と同じ水準にまで下がった。
貴族自身も、貧しくても貴族の血を引く娘より、金を得た成り上がり者の娘を妻に選ぶことで、出生の価値を、さらに下げた。貴族の身分が富より下になれば、貧困は、その身分を卑しめずにはいなかった。そして貴族の家々のうち、大多数は、相対的に、あるいは絶対的に貧しかった。貧困によって卑しめられた貴族の身分は、不釣り合いな結婚によって、富の犠牲にされたような場合には、その富によっても、また卑しめられた。
教会と司教団では、最も収入の多い高位聖職は、ほぼ貴族階級だけに与えられるようになっていた。この点で、ルイ十四世が一貫して守った原則は、捨てられていた。したがって、聖職者団の平民出身の部分、すなわち比較にならないほど多数を占める部分にとっては、自らの身分のなかで、功績が常に出生に優越するだけでなく、出生がまったく考慮されないことが利益となった。貴族階級のなかには、固定した序列はなく、地位を示すはずの称号にも、一定の価値はなかった。
一つの貴族階級の代わりに、七つか八つの貴族階級があった。帯剣貴族と法服貴族、宮廷貴族と地方貴族、旧貴族と新貴族、上級貴族と下級貴族である。一方は他方より上だと主張し、他方はそれと対等だと主張した。こうした主張の傍らで、平民も、自分の主張を掲げた。平民は、普通の貴族には容易になれたので、その主張は、普通の貴族の主張と、ほぼ同じだった。富や才能では、しばしば、その貴族をはるかにしのいでいたので、その貴族自身が対等だと思っている人々に対しても、自分が劣るとは思わなかった。
貴族は、もはや封建時代の城の主塔には住んでいなかった。戦争も、もはや彼らだけの仕事ではなかった。貴族同士、あるいは自分の兵士や召使とだけ暮らすのでもなかった。別の暮らし方が別の趣味を生み、その趣味が別の必要を生んだ。しばしば仕事をせず、楽しみだけを務めとしていたので、退屈をしのぐもの、享楽を増すものは、すべて必要になっていた。金も教養もあり、彼らに依存せず、彼らなしでもやっていけるのに、彼らのほうでは、その者なしにはやっていけない平民は、すでに述べたように、彼らと対等な者として暮らしていた。
革命当時のフランスの上流社会について語ったとき、私の目的は、そのころ社会を構成していた異質な要素をすべて知らせ、風習における、このような不調和が、どんな結果をもたらすかを、あらかじめ感じ取ってもらうことだった。いま私は、平等への愛が、ためらいもなく、顔を隠さずに現れえた時点に来た。
洗練された時代には、文学、科学、美術の研鑽が職業となり、それに身を捧げる人々の多くは、個人的な力量では社会の最上層に属しながら、出生や財産では、社会の最下層に属することが少なくない。ひそかな本能が、自分の持つ長所を、自分の持たない長所より上にとは言わないまでも、同じ水準に引き上げるよう、彼らを促すはずである。そのうえ、彼らの目的は、一般に名声を得ることである。その第一の条件は、人を喜ばせ、関心を引くことであり、そのためには、支配的な趣味や有力な意見に迎合する以上に、確実な方法はない。迎合することによって、彼らはそれらを強める。風習と世論は平等へ向かっていた。それゆえ、彼らは平等の使徒となったのである。
土地の富以外には、ほとんど富がなく、その富が貴族の手にあり、産業や商業が身分の低い人々によって営まれていたころ、貴族は、それを営む人々を軽蔑した。そして、一度軽蔑したという理由で、いつまでも軽蔑する権利があり、さらには義務さえあると思っていた。彼らと縁組をするときでさえ、そうだった。それは、甚だしい矛盾だった。このようにして、貴族は平民階級の自尊心を刺激した。平民階級は、自分たちの産業を軽蔑することは、自分たち自身を軽蔑することだと感じていたのである。
かつてのあり方の名残として、貴族は、幾つかの特権を保っていた。それらは、もとは、貴族だけが負っていた負担の埋め合わせにすぎなかったが、その負担は、もう負わなくなっていた。根拠が消えた以上、これらの特権は不正に見えた。しかし、それを最も憎むべきものにしたのは、その不正さではなかった。とりわけ憎まれたのは、特権が税の額ではなく、その形態にかかわり、一つの区別を設けていたからである。その区別を、平民階級は、貴族への恩恵というより、自分たちへの侮辱と見た。
平民階級のこうした感情は、平等の精神から生じ、また、それを養う働きをした。下位の者として扱われたくない人は、対等だと主張するか、対等になろうとする。
もう一つ言わなければならない。本国と戦うイギリス植民地を助けるため、あれほど軽率に派遣された軍の一部は、新世界で平等の教説を身につけた。その教説への賛嘆と、おそらくはフランスでも実行したいという願いを胸いっぱいにして、帰ってきた。そして、まるで運命のいたずらのように、まさにその時期を、セギュール元帥[195]は、軍のすべての将校職を貴族だけに限る時として選ぼうと思いついた。ファベール[196]、シュヴェール[197]、カティナ[198]、その他、彼らのような平民たちが、栄光のうちに歩んだ進路を、貴族でない者すべてに閉ざす措置に対して、多くの論説が抗議した。貧しい貴族には、利益の上がる職業が禁じられていたので、その埋め合わせを用意しなければならないと考えたのである。問題の、その一面しか見ていなかった。しかし、この措置は、まさに個人的な力量が支配すべき領域で、明らかに力量を出生で置き換えるものだったので、理性にも世論にも反した。というのも、平民階級が、すでに自分たちを辱める偏見だと見ていた優遇を、貴族が失ったからといって、その貴族を埋め合わせるために、平民階級へ不正と侮辱を加えたからである。外国の軍規が導入され、フランスでは古来、侮辱と見なされてきた扱いにさらされたために、すでに不満を持っていた兵士を、これで完全に離反させた[199]。まるで、最大の危険の時に、わが勇敢な兵士たちを頼りにできなくすることを、熱心に望んでいるようだった。そして実際、その時には、もう頼りにできなかったのである。
こうして、何もかもが貴族階級を損なう方向に働いていた。奪われたものも、残されたものも、返そうとしたものも、一部の成員の貧困も、ほかの成員の富も、悪徳も、美徳さえも。
しかし、ネッケル氏の第二次政権について上で述べたように、そのすべては、少なくとも人間社会の全般的な動きの結果であるのと同じ程度に、政府のなしたことだった。平民階級がなしたことではなく、その階級は、ただ利益を得ただけだった。平等のほうから、いわば彼らを迎えに来たのである。その好意に抵抗するには、人々の大集団が、恵まれた少数の個人にさえ、ようやく備わる程度の節度と先見を、持たなければならなかっただろう。
新しい風習と世論において、二つの階級の平等がいったん成立すれば、機会が現れるやいなや、法律によっても成立せずにはいなかった。
三部会の開会と同時に、第三身分の代表団は、ほかの二つへの攻撃を始めた。その主要な指導者は、第三身分に属していないのに、野心を妨げられた憤懣や、人気を利用して出世への道を開こうとする願いによって、その列に身を投じた人々だった。おそらく、その人々を導くのは、容易だっただろう。その必要に気づいたのは、成功しても、もはや何の役にも立たなくなってからだった。
ある団体の一員となるよう選ばれた者は、誰でも、その構成員となる資格と、その資格を与える根拠とを証明しなければならない。しかし、誰に対して証明するのか。明らかに、偽りの、あるいは不完全な権原によって、誰かがその集まりに紛れ込まないことに利害を持ち、それに反する利害を持たない人々に対してである。団体がすでに成立していれば、その団体そのものに対して、まだ成立していなければ、それを構成するために指名された人々の多数に対してであり、それ以外の誰に対してでもない。理性がそう教えており、あらゆる国民の政治も、どの時代にも、この原則に一致してきた。
ところが第三身分の代表団は、各代表団の議員が、三身分に対して資格を証明すべきであり、そのために、同じ場所へ集まるべきだと主張した。言い換えれば、議員の資格審査を合同で行うべきだというのである。この主張がいったん認められれば、ほかの二つの代表団へ、こう言ったはずだった。「帰結を認めた以上、あなたがたは必然的に原則も認めたことになります。合同の資格審査は、三つの代表団が一つの団体しか構成しないことを前提とします。一つの団体には、一つの共同審議と個人別の投票しかありません。三つの代表団が一つの団体である以上、もはや身分はありません。身分は、別々の、区別された団体としてしか存在できないからです。身分がなくなれば、それを成り立たせる称号と特権も、終わらなければなりません」。この代表団の目指していたのは、そこだった。しかし、まだ公然とそこへ向かう勇気はなく、回り道を選んでいたのである。
自らの主張の帰結を、すべて予見していたわけでも、あるいは、それを退けていたわけでもなかったかもしれないが、第三身分の代表団は主張を譲らなかった。そして、討論と審議が続くあいだに、自らを国民議会と宣言した[200]。こうして、ほかの二つの代表団を、暗黙のうちに単なる小集会として扱い、国民の外にいる者、国民の敵として、民衆の憎悪にさらしたのである。
私は聖職者身分の代表団の一員だった。私の考えでは、三部会を解散すべきだった。そして、事態を現状のまま受け止めざるをえない以上、上に述べた二つの方法のいずれかに従って、改めて招集すべきだった。私はアルトワ伯爵に、そう勧めた。そのころ伯爵は、私に好意を、そして、伯爵自身の言葉をあえて使うなら、友情を示していた。私の勧告は、危険すぎると見なされた。それは力による行為だったが、国王の周囲には、その力を扱う者が一人もいなかった。私はマルリーで、夜、幾度か会見した。しかし、どれも無益に終わり、自分には何の役にも立てないこと、そうである以上、正気を失うのでなければ、自分自身のことを考えるべきことが、明らかになった[201]。
三部会の構成が、最初の二つの身分を、明らかに無力にしていたので、取るべき理にかなった道は、一つしか残っていなかった。強制される前に、まだ自らの功績にできるうちに、譲歩することだった。そうすれば、事態が初めから極端へ進むのを防ぎ、第三身分に配慮を強い、共同審議に影響を与える手段を保ち、時間を稼げた。時間を稼ぐことは、しばしば、すべてを得ることになる。そして、失地を取り戻す機会があるとすれば、この道だけが、それをもたらした。そこで私は、この模範を示す人々のなかへ加わるのを、ためらわなかった。
争いが長引くと、国王が仲裁者として介入し、失敗する。第三身分の代表団に命令するが、従われない。集まれないようにしようとして、その会議場を閉ざす。代表団は球戯場を会議場とし、憲法を作るまでは、すなわち王国の国制を破壊するまでは、解散しないと誓う[202]。そこで、予見できなかった動きを、力で止めようと考えると、その力の道具が、使おうとする手から抜け落ちる。同じ日に、都市も村も小集落も、フランス全土が武装する。バスティーユは襲われ、二時間で奪われるか、引き渡され、その司令官は殺される[203]。民衆の激怒は、さらに別の犠牲者を生む[204]。すると、すべてが屈服し、もはや三部会はなくなる。それに代わって、一つの、全能の議会が現れ、平等の原則が承認される。武力の行使を勧めた者、それを動かした者、その指揮を執った者は、自分の安全しか考えない。王族の一部が王国を去り、亡命が始まる。
アルトワ伯爵が、最初にその合図を出した。伯爵の出発は、私をひどく悲しませた。私は伯爵を愛していた。あとを追わず、トリノで伯爵に合流するよう、伯爵の意を受けたカリニャン夫人から強く勧められるのを断るには、理性の力を、すべて必要とした。私が拒んだことから、亡命者を非難していたと結論するなら、それは誤りである。私は彼らを非難していなかったが、亡命という行動は非難していた。ほとんどすべての亡命者は、高潔な感情と大きな献身に導かれていた。しかし亡命は、誤った方策だった。その動機が、危険への恐れであれ、傷ついた自尊心であれ、失ったものを武力で取り戻したい願いであれ、果たすべき義務という考えであれ、どの点から見ても、私には、まずい計算にしか思われなかった。
亡命が必要となりうるのは、フランス国内に避難場所がないか、十分安全な避難場所がないほどの、身の危険がある場合だけだった。すなわち、貴族全般に危険が及ぶ場合である。当時、その危険は存在していなかった。防ぐことはできたのに、亡命の最初の効果は、その危険を生み出すはずだった。貴族階級の全員も、その過半数も、王国を去ることはできなかった。年齢、性別、病弱、金の不足、その他、劣らず強力な理由が、多くの人々にとって、越えられない障害だった。したがって出国できるのは一部だけで、その一部の不在は、残った者たちを必ず危うくする。疑惑にさらされ、やがて憎悪にさらされるなか、残留して逃げられない人々は、恐怖のために支配的な党派を大きくするか、その犠牲になるか、どちらかになるはずだった。
当時、平等の精神が貴族に脅かしていた唯一の喪失は、称号と特権の喪失だった。亡命しても、それは防げず、フランスの貴族たちは、さらに大きな喪失、財産の喪失まで加える危険を冒していた。称号と特権を失うことが、どれほど貴族につらくても、収入を差し押さえられるだけで陥る境遇に比べれば、苦痛ははるかに小さかった。称号だけの喪失なら、取り返しがつかないものではないという確信、さらには回復される希望によって、和らげられた。大きな、古い君主国では、厳密な意味での平等の精神は、必ず一時的な病であり、抵抗が少なければ少ないほど、その病は穏やかで短く済むはずだった。しかし、一度失った財産は、称号ほど容易には返せない。譲渡され、非常に多くの手に渡っていれば、取り戻すことは永久に不可能となり、試みるだけでも危険になりえた。その喪失は、貴族だけでなく、国家全体にとっても、救いようのない災いとなる。国家の本質的な構成要素の一つが、一部しか残らなくなれば、その自然な組織は、不完全にしか回復できないからである。ところで、君主制の本質的な構成要素である貴族は、単一の要素ではない。政治的に言えば、財産のない出生も、出生のない財産も、完全な貴族の身分を与えないのである。
貴族階級全体が、なお残された行動と影響の手段をすべて用いても、守り保つことのできなかったものを、国外へ移った一部の者の力だけで取り戻せると信じるほど、幻想を抱くことはできなかった。したがって、希望はすべて外国の援助にかかる。しかし、その援助には、何も恐れることがなかったのか。申し出られれば警戒せずに受け入れ、良心のためらいなく懇願できたのか。受けた侮辱がどれほど大きくても、外国の武力を自国へ呼び込む人々を、それだけで弁護することはできなかった。この種の行為を正当化するには、多くの事情が重なる必要があった。国そのものにとって、大きく明白な利益がそれを求め、ほかに手段がなく、成功が確実で、国の存立も、領土の一体性も、将来の独立も、何一つ損なわれないことが必要だった。ところが外国勢力が勝利したあと、何をするか、どんな確証があったのか。勝利するという確証は、あったのか。本当の援助を受けられる確証はあったのか。単なる希望のために、身を危険にさらすべきだったのか。援助が確実に来るとしても、理性は静かにとどまって待つことを求めていたのに、なぜ、来ないかもしれない援助を迎えに行くのか。待っていれば、国の社会的な必要が求める場合、援助に来る外国の勢力と、より効果的に協力できた。そうすれば成功の見込みを増し、何も危うくしなかった。それに引き換え、援助を求めに出かければ、親族も、友人も、財産も、それらとともに王座も、すべてを危うくした。王座だけでなく、君主とその家族の生命もである。その家族は、おそらく、ある日、深淵の縁で、あるいは、すでに深淵のなかで、自らの不幸を説明するのに、こう叫ぶしかなくなるかもしれなかった。「亡命は、結局、私たちをここまで連れてきたのだ」と[205]。
したがって亡命は、義務の遂行と見なせるどころか、弁明を必要としていた。それを弁明できるのは、ほかに逃れる手段のない、きわめて大きな身の危険だけだった。もし、いつか別の事態が現れるなら、革命の激流と再び戦わなければならないかもしれない人々のあいだに、こうした考えが広まることを、私は願う。
そこで私は、身の危険によって強いられるまでは、フランスを去らないと決めた。その危険を招くことは何もせず、通り過ぎるに任せるべき激流には抗わない。しかし、救えるものを救うために協力できる状況と位置を保ち、機会と自分のあいだに障害を置かず、その機会のために力を残しておく、と決めたのである。
第三身分の代表団は、ほかの二つに勝つ前から、イギリス植民地が独立を宣言した際の宣言に倣い、権利宣言を作ることに取り組んでいた。諸身分の融合後も、その作業は続いた。この宣言は、平等の理論にほかならず、その理論は、次のように要約できた。
「人々のあいだには、個人的な功績に由来するもののほかに、真の差異はなく、永続的な区別があってもならない。職務に由来する区別は偶発的なものであり、誰もがそれを望む権利が空虚とならないよう、一時的なものでなければならない。人民は、あらゆる政治権力の源泉であり、その目的でもある。主権は人民だけに属する。人民が望むことは法律であり、望むこと以外は、何一つ法律ではない。人民が多すぎて集まれない場合のように、自ら主権を行使できないときは、自分で選んだ代表者に行使させる。代表者は、人民自身にできることを、すべて行うことができ、したがって、その権力に限界はない」。
ここはタレーランによる権利宣言の理論の要約であり、宣言本文の逐語引用ではない。
世襲君主制と、このような理論の適用とが両立しないことは、明白だった。それでも議会は、心から君主制を保とうとし、同時に、すべての頭脳をとらえた共和的理論を、そこへ適用しようとした。両者を調和させるのが難しいとさえ、思っていなかった。それほど無知は思い上がり、それほど情念は盲目なのである。最も大胆で、最も傲慢な簒奪によって、議会は、人民に属すると自ら言う主権の行使を横取りする。自らを憲法制定議会と宣言する。すなわち、存在するすべてを破壊し、自分の好む何ものにでも置き換える権利を与えられている、と宣言するのである。
解散させようとしても議会は従わず、服従を強いる力もないという、悲しい確信が得られていた。議会に反論しても、何の役にも立たなかっただろう。議会が自らに帰した権力を否定するだけでは、その行動を妨げられない。その行為に抗議するのは、危険に満ちた措置であり、何一つ止められなかっただろう。しかし国王は、こう言うことができた。
「あなたがたは、主権が人民に属するという原則を立てる。人民が、その行使を余すところなく、あなたがたへ委ねたことを事実とする。その点について、控えめに言っても、私は疑問を持っている。先へ進む前に、この問題が決着することが、絶対に必要である。私が裁判官になろうとは思わない。あなたがたも、その裁判官にはなれない。しかし、その人民こそ、あなたがたが拒むことのできない裁判官である。私は人民に問おう。その答えを、私たちの法としよう」。
革命思想が、まだ大衆を侵しておらず、後に革命的利害と呼ばれたものも、まだ存在しなかった時期には、多少でも巧みに事を運べば、人民は議会の教説を否認し、その要求を退けたはずだという、あらゆる見込みがあった。そのときには、議会の解散ほど容易なことはなかっただろう。こうして退けられた教説と要求は、永久に退けられただろう。反対に、人民が投票によってそれらを承認したなら、その帰結をすべて引き受けたはずであり、引き受けるのは当然だった。避けられたのに、そうしようとしなかったからである。そして、責任のどの部分も、君主にかかることはなかった。確かに、人民へ訴えれば、人民が自ら主権者だと宣言した場合、そう認めなければならなくなる。それは、どんな代価を払っても避けるべきだったと言う人もいるだろう。しかし、すでに到達していた時点では、人民への訴えが、その必要を生み出すのではなかった。反対に、それこそ、なお残されていた唯一の、必要から逃れる機会だった。現実に、絶対的に存在していた必要を、条件次第の、単なる可能性へ変えるからである。議会は、人民主権を根拠とし、それ以外の根拠を持ちえない権力を、自らに帰していた。したがって、その権力を認めれば、ただちに、その主権も認めることになる。議会に撤回を強いるか、解散させるかという、どちらも同じく不可能な二つのことを行うか、あるいは人民に議会へ反対する判断を下させないかぎり、人民主権を認める絶対的な必要があった。そして、人民を裁判官とする以外に、その判断を得る方法はなかった。その場合、人民は、私の信じるように、寄せられた希望を満たしたか、あるいは裏切ったかの、どちらかだっただろう。前者なら、災いを生まれ際に止め、革命を未然に終わらせた。後者でも、人民によってしか避けられないことを、避けられなくしただけであり、災いを大きくしたのではなく、その大きさを明らかにしたにすぎなかっただろう。その性質について、もはや幻想を抱けなくなるだけでも、得るものがあった。災いを刺激するだけの手段で戦おうとする考えは、捨てられただろう。それが発展の全段階をたどるまでは、内部からの治療を期待できないと悟り、実際にそうであったとおりの伝染性を認めただろう。そしてヨーロッパは、実際にそうしたように、誤った、有害な安心のうちに眠り込むことはなかっただろう。したがって、最悪の場合を想定してさえ、人民への訴えは、いかなる不都合も交えず、最大の有益さを持つ措置だったはずである。では、なぜ行われなかったのか。おそらく、偏見、あるいは情念によってである。偏見と情念は、すべてが一方だけにあったのではないからだ。あるいは、そのころ国王の顧問会議を構成していた誰の頭にも、その考えが浮かばなかったからかもしれない。
力による試みを幾つか行い、思いつくやいなや、ほとんどすぐに捨てたあと、陰謀だけを頼りに、その権力を壊そうとした。しかし、そのように弱い手段では、抑えることはおろか、導くことさえできないほど、その権力を強くしてしまっていた。こうして議会は、ほぼ独りに任された。自らを揺さぶる情念のなかで、議会は、社会を成り立たせる原則を、ほどなくすべて見失った。市民社会には、それなしでは存在できない、必要な組織の形があることを、もはや理解しなくなった。
平等と人民主権という空想的な思想に魅了され、議会は無数の過ちを犯した。
国王は、人民の第一の代表者、人民の受任者、行政権の長と呼ばれた。そのどの称号も、王本来のものではなく、君主として果たすべき職務を表してもいなかった。
立法機関を招集し、休会させ、解散する権利は、王から奪われた。
一つの権力となったこの機関は、常設とされ、一定の期間ごとに改選されることになった。一つの院だけで構成されるものとされた。
成年のフランス人は、賃金を受ける召使でもなく、身体刑または名誉を奪う刑の判決を受けた者でもなければ、直接税を五十フラン払う場合は被選挙権を、わずか三フラン払う場合は選挙権を持つことになった。
選挙は、あらゆる職業を混ぜ合わせて行うことになった。
司教、裁判官、行政官の任命は、選挙人団に委ねられた。
国王が持つのは、行政官を暫定的に停職させる権限だけだった。罷免する権利は、全体を統べる権力に与えられた。裁判官の任期は、一定期間に限られた。
君主に残されたのは、講和または戦争を発議する権利だけだった。宣戦の権利と講和を承認する権利は、立法権に留保された。
軍では、階級の昇進方式が定められ、任命の選択の三分の二が、王の手から奪われた。
国王は議会の提案を拒むことができたが、次の制限があった。連続する三期の議会が採択したものは、国王が裁可を拒んでも、法律となるのである。
議会がフランスの政治社会と市民社会に押しつけた組織の法は、このようなものだった。それは、君主制の空しい見せかけしか残さなかった。
この君主制を破壊することに最も熱心だった人々も、ついには、行きすぎたと悟り、引き返そうとした。しかし、人気を失うだけに終わった。無知と情念の作り出した激流は、あまりに激しく、止めることは不可能だった。その被害を最もよく予感していた人々は、慎重さの許すかぎり、受動的な役割に閉じこもるしかなかった。
概して、私が採ったのは、その道だった[206]。しかし、高度な財政問題の幾つかについては、発言すべきだと考えた。アッシニア紙幣の創設と、公債利子の引き下げに反対した。かなり詳しい意見のなかで、国立銀行の基礎とすべきだと私が考える原則を示した。度量衡の統一を法令で定めることを提案した。また、公教育に関する憲法委員会の報告も引き受けた。
この大きな仕事をするため、当時、最も学識があり、最も注目されていた学者たちに相談した。ラグランジュ氏[207]、ラヴォアジエ氏[208]、ラプラス氏、モンジュ氏[209]、コンドルセ氏、ヴィック・ダジール氏[210]、ラ・アルプ氏[211]がいた時代である。皆が力を貸してくれた。この仕事が得た、幾らかの評判を考えれば、その名を挙げるのは、当然のことだった。
あらゆるためらいにもかかわらず、自ら前へ出る必要があると思った機会が、一度あった。私を決意させた理由は、次のとおりである。
それまでは、霊的権力と世俗的権力、教会法と世俗法の協力によってしか定められていなかったことを、議会は、単独で、世俗法だけによって定めようとした。聖職者のための特別な組織法を作り[212]、在職するすべての聖職者に、それを守る宣誓を要求し、従わなければ辞職したものと見なすことにした。ほとんどすべての司教は拒み、その司教座は空席と見なされたので、選挙人団が、その席を埋める人々を選んだ。新しく選ばれた者たちは、ローマ教皇庁の与える任命認可なしで済ませるつもりだった。しかし、司教の資格なしでは済ませられず、その資格は、すでにそれを受けている者によってしか与えられなかった。もし、それを授ける者が誰も見つからなければ、大いに恐れられたのは、数年後に実際に起きたように、あらゆる礼拝が禁じられることではなかった。私にとっては、長く続く可能性があるだけに、いっそう危険に思われることがあった。議会が、自ら承認した教説によって、当時の有力な意見に、より適した長老派主義へ、ほどなく国を押し進め、その結果、階層組織と形式が君主制のそれと調和するカトリックへ、フランスを戻せなくなることである。そこで私は、新しく選ばれた司教の一人を聖別するために、聖職者としての務めを果たした。その司教が、次に、ほかの者たちを聖別した[213]。
それを済ませると、私はオータン司教職を辞し、これまで歩んできた最初の職業から離れることだけを考えた。自分を出来事のなすがままに委ね、フランス人であり続けられるなら、何でもよかった。革命は、国民に新たな運命を約束していた。私は、その歩みに従い、その成り行きに身を賭けた。祖国そのもののために祖国へ仕えると決め、自分のあらゆる能力を、その革命に捧げた。そして、到達があれほど近いと思われていた立憲の原則に、すべての希望を置いた。このことが、私が幾度も公務に入り、去り、また戻った理由と経緯、そして、そこで果たした役割を説明する。
付録[214]
アルトワ伯爵とタレーラン公の会見についての、バクール氏の覚書
この箇所に、タレーラン氏が書き落とした、あるいは忘れていたかもしれない細部を、幾つか加えたい。この箇所が指す時期に、タレーラン氏がアルトワ伯爵と幾度か会見したことは確かである。その際、国王がすでに行った譲歩は保ちながら、日ごとに現れ、すでに首都の街路を血で染めていた民衆の騒動を、力強く抑える措置の必要を、王弟に納得させようとした。最も重要で、最後となった会見は、一七八九年七月十六日から十七日にかけての夜、マルリーで行われた。王弟がフランスを去る、わずか数時間前のことである。タレーラン氏がアルトワ伯爵のもとへ来たとき、王弟はすでに床に就いていたが、それでも中へ通させた。二時間以上の会話のなかで、タレーラン氏は情勢のあらゆる危険を改めて説き、それを国王に伝えるよう、王弟に懇願した。心を動かされたアルトワ伯爵は起き上がり、国王のもとへ行った。かなり長い不在のあと戻ると、国王には何を言っても無駄だ、とタレーラン氏に告げた。国王は、民衆の動きに抵抗して一滴でも血を流させるより、譲歩する決意だったのである。「私については」とアルトワ伯爵は付け加えた。「もう決めた。明朝出発し、フランスを去る」。タレーラン氏は、その決意を捨てるよう懇願し、それが現在の王弟自身に、将来の王弟と子供たちの権利に、どれほどの困難と危険をもたらしうるかを説いたが、無駄だった。アルトワ伯爵は譲らず、タレーラン氏は、最後にこう言った。「では殿下、国王も王族も、自らの利益と君主制の利益を見捨てるのですから、私たち一人ひとりには、自分の利益を考えることしか、残らないのですね」。王弟は答えた。「そのとおりだ。それを勧める。何が起きても、私はあなたを非難できない。いつでも、私の友情を当てにしてほしい」。アルトワ伯爵は翌日、亡命した。
この付録の説明はバクールの筆による。タレーランの回想本文とは語り手が異なる。
一八一四年四月、臨時政府の議長となったタレーラン氏は、ナンシーで事態の推移を待っていたアルトワ伯爵に、ルイ十八世が王位に迎えられ、王弟も王国総代官として政務を執るため、パリへ来るよう求められていることを、知らせる立場になった。この任務をヴィトロル男爵[215]に託し、その出発の際、王弟への公文書を封印しているあいだ、サン=フロランタン街の邸宅の中二階を歩きながら、一七八九年七月十六日の夜の会話を語った。そして、こう言った。「アルトワ伯爵に、この小さな出来事を覚えておられるか、どうか聞いてください」。
ヴィトロル氏は、重要な伝言の用を済ませたあと、忘れずに、タレーラン氏の問いを王弟に伝えた。アルトワ伯爵は、それに答えた。「その出来事は、完全に覚えている。タレーラン氏の話は、どの点でも正確だ」。
ヴィトロル氏が、この逸話を何人かに語ったと聞き、私たちは、その記憶と誠実さに訴えるべきだと考えた。ここで誠実さと言う理由を説明すると、ヴィトロル氏は、一八三〇年七月の革命のあと、タレーラン氏との関係をすべて断ち、その人物について、たいへん厳しく語っていたのである。このことが、ここに載せるヴィトロル氏の手紙からにじむ敵意と辛辣さの調子を、説明するだろう。私たちには、読者にとっても、この敵意は、ヴィトロル氏の証言の誠実さと、タレーラン氏の『回想録』のこの箇所の確かさを、いっそう裏づけるにすぎないと思われる。タレーラン氏から聞いた話と、ヴィトロル氏の手紙の話とのあいだに見られる、小さな違いは、時の経過が二人の語り手の記憶を変えたかもしれないことによって、自然に説明できる。確かな事実として残るのは、一七八九年七月に、タレーラン氏が、出来事の革命的な進行を止められると信じ、それを口にする功績と、引き受けると申し出る勇気を持ったことである。後になって、それを自慢したのは、氏だけではないかもしれない。しかし少なくとも氏については、根拠なく自慢したのではないと、確認できたと考える。
以下が、ヴィトロル氏の手紙である。
ヴィトロル男爵より、バクール氏へ
パリ、一八五二年四月六日
拝啓
タレーラン公の生涯の、ある特別な出来事について、私ができる証言に、あなたは幾らかの価値をお認めになりました。ご希望に応えるには、ずいぶん以前、一八一四年の出来事を述べた記録に、その件について書いたことを、ここへ転記するのが最善だと存じます。
以下は一八五二年のヴィトロル書簡であり、一八一四年の回想記録を、その内部で引用する。さらにその記録中にタレーランの発言が含まれる。
ロシア皇帝陛下とタレーラン公が、王国総代官の権限を帯びた国王の弟君の在席が必要になったと理解し、私が王弟殿下にパリへ来ていただくため、出発しようとしていたころ、私はこの件で臨時政府議長と幾度か協議しました。出発の際の最後の会談では、殿下をお迎えする条件と形式を話し合いました。しばらく沈黙したあと、タレーラン公は、人をなだめるような微笑を浮かべ、軽く、ほとんど無関心に聞こえさせようとする口調で、再び話し始めました。
「アルトワ伯爵に、私が最後にお目にかかった機会を覚えておられるか、聞いていただきたいのです。一七八九年七月でした。宮廷はマルリーにありました。三、四人の友人が、私と同じく、人々の心を押し流す動きの速さと激しさに驚き、私たちは、宮廷と大臣たちが知らないように見えた実情を、ルイ十六世に知らせようと決めました。陛下に、私たちをお受け入れくださるよう願い出たのです。王の御用のためにも、私たちのためにも、謁見は秘密にしていただきたいと望みました。返事は、国王が弟君のアルトワ伯爵に、私たちの応接を命じたということでした。会見の場所は、伯爵が一人で使っていたマルリーの別館と定められ、私たちは真夜中に着きました」。タレーラン氏は、正確な日付と、同行した友人たちの名を私に伝えました。その人たちは国民議会の議員で、第三身分に合流した貴族の少数派でした。日付も名前も、私の記憶からは同じく消えてしまいました。
「アルトワ伯爵の前に出ると」とタレーラン氏は続けました。「私たちは、自分たちの見る政務と国家の状況を、まったく率直に申し上げました。人々の心に与えられた動きが、容易に静まると信じるなら誤りだ、と言ったのです。フランスと王座と国王を脅かす危険は、引き延ばしや、遠慮や、幾らかの譲歩で払いのけられるものではありません。賢明に、巧みに加減した、王権の強力な発揮によってこそ可能です。その道筋と手段を、私たちは知っています。国王の信頼によって任されれば、着手でき、成功の保証となる立場にあることも、知っています。アルトワ伯爵はよく聞き、十分に理解してくださいました。おそらく、情勢の危険と、それを救ううえでの自分たちの重要さを、私たちが大げさに言っていると思われたかもしれません。しかし、伯爵の言われるには、国王から命じられたのは、私たちの話を聞き、国王に伝えたいことを報告することだけでした。答えるべきことはなく、国王の意思や言葉を約束する権限もなかったのです。そこまで来ると、私たちは、伯爵に申し上げる許しを求めました。良心に従い、誠意をもって行うこの働きかけが認められず、何の進展も結果も生まないなら、すべてを押し流そうとする激流に抵抗できない私たちが、新しい事態の流れに身を投じても、殿下は驚かれないでいただきたい、と……。どうか王弟殿下に」とタレーラン氏は繰り返しました。「この夜の会話が記憶に残っておられるか、聞いてください。フランスを去られる時が、すぐそこに迫っていました」。
私は、一つの思い出のなかに、自分の革命期の生涯すべての説明、弁解、ほとんど正当化まで見つける、その頭脳の巧妙さに感心しました。異なる事情、さらには逆の事情にも、氏なら、ほかに幾つも見つけただろうと思います。一種の無関心と無邪気な素朴さを帯びて語られる話を聞きながら、王弟殿下の記憶に残っているものが、たった今聞いた言葉と、完全に一致するだろうかと、私は疑わずにはいられませんでした。しかし、ナンシーでタレーラン氏の頼みを思い出すと、殿下は、何の細部にも立ち入らず、その出来事は忘れておらず、私が伝えることは、すべて完全に真実と一致すると言われました。
この証言が、私に期待しておられたことを満たすよう願います。深い敬意をお伝えする機会を与えてくださったことに、お礼申し上げます。
ヴィトロル男爵
付録および第一部終わり
第二部
オルレアン公爵について
オルレアン公爵について[216]
個人の回想録と著名人の生涯は、歴史的真実の源泉である。いつも軽信し、迷信的でさえある伝承と比べられると、それを批判し、あるいは証明するものとなる。そして伝承とともに、歴史が求める確かさを形づくるのに役立つ。
このため、アンリ三世、アンリ四世、ルイ十三世、ルイ十四世の時代は、よく知られ、それらの治世の歴史は、いっそうの信頼を得た。それに続く、私たちにより近い時代は、これまでのところ、それほど恵まれていない。この種の知識の蓄えは、より乏しいままである。一般に信じられていることを築いたのは、伝承だけのように見える。
ヴォルテール氏の『ルイ十四世の世紀』は、独自の著作である。簡明さ、自然な調子、幾つかの逸話の回想という点で、回想録の類に近いが、しばしば、全般的で、より高い次元の見解へ上っていく。ヴォルテール氏が、ルイ十四世治世の歴史を書こうとしたのではなく、その主な出来事を大づかみに描くことにとどめようとしたのは、明らかである。
コルベール氏かルーヴォワ氏の、よく書かれた伝記があれば、この偉大な王の政府が持っていた性格について、正しい考えが得られるだろう。ショワズール公爵の政権について、そのような著作があれば、ルイ十五世の治世に、宮廷と行政を支配していた精神が分かるだろう。私は、オルレアン公爵の生涯を描けば、ルイ十六世の弱く、短命だった治世の特徴と色合いが示されると考えた。その治世の公私の風習の全般的な弛緩、政府の形態と行政の慣行の堕落が、目に見える形で示されるだろう、と。この考えで書かれた著作は、フランス史の重要な時代の性格を表すだろうと思った。
三世紀のあいだ、ほぼ等しい間隔を置いて、フランスの政府は、それぞれ独自の刻印を帯びた動きに脅かされた。最初の二つ、カトリック同盟とフロンドの動きは、国の力と偉大さの発展を早めた。ギーズ家の人々とレ枢機卿の大胆さと手段には、何か高貴なものがあった。それが、その時代を魅了するものだった。最後の動き、すなわち私たちの時代の動きは、恐ろしい破局にすぎなかった。そこで目立ったオルレアン公爵は、無秩序と、礼節への軽蔑と、自らを投げ出すことから、それに身を委ねただけだった。それが、この時代の栄光であり、趣味であり、策謀だった。さて、本題に入ろう。
革命の初めからフランスを支配してきた各党派が、それぞれ自らを弁護するために、革命の大きな場面を描くとき、オルレアン公爵に、どんな役割を演じさせるか、私には言えない。ただ、極端に弱い性格から生じうる過ちだけを、すべて公爵に帰するなら、事実が正確でなくても、少なくとも、もっともらしくはなるだろう。その生涯全体が、これを証明するはずである。身を置いた事情は、幾度も変わった。しかし本人は、子供のころも、若いころも、年を重ねてからも、いつも変わらず同じだった。
オルレアン公爵の生涯と性格について、興味深く、あまり知られていない細部を語ることはできる。しかし、満たすものが好奇心だけなら、記憶のなかで失われるに任せただろう。私は、そこに有益な目的が見えると考えたので、まとめたのである。
まだ幾らかの選挙が行われる国では、政務の舞台から遠ざけるべき人物を見分ける、特徴的なしるしを示すのは、よいことである。その点で、オルレアン公爵は大きな実例だ。若いころ、世論への深い軽蔑を公然と示し、後には、自分を尊重しないほど風習が堕落した人間は、年を重ねると、自分、あるいは周囲の者の想像力が枯れること以外に、悪徳の限界を知らなくなる。
ルイ十六世とオルレアン公爵の血縁の度合いを、正確に知らせることが重要でなければ、ブルボン家の第一血統親王が、どのような利点を誇れたか、述べずに済んだだろう。公爵が享受したあらゆる利点のなかに置き、負うべきすべての義務と向き合わせてこそ、その性格は、よりよく知られる。何を踏みにじり、どんな絆を断ち切り、どんな感情を押し殺し、どんな地位を辱めたかが、分かるだろう。
第一血統親王は premier prince du sang の訳。国王の子・孫とは区別される血統親王のうち、王位継承順位が最上位の者を指す。
アンリ四世を祖先に数えることは、フランス人の愛を得る強力な資格だった。フランスは、第一血統親王のうちに、臣民の第一人者を敬うことに慣れていた。保護するには十分に大きく、抑圧するほどには決して大きくなく、どんな個人よりも強いが、法よりも、その姿を体現する国王よりも弱い者である。君主個人の慈善が民衆へ届き、民衆の感謝が王座へ上る、最も自然な経路の一つだった[217]。
シャルトル公爵の幼いころについて、詳しい記述を私に期待しないでいただきたい。子供の片言のなかに、将来の悪徳や美徳を占うものを、苦労して探す人々の真似はしない。それは、ある決まった考えに従って書く人々に任せる。私には、そのようなものはない。
シャルトル公爵は、幼児期を過ぎると教育を受け始め、そのときから養育係は男になった。というのも、乳母たちと最初の家庭教師たちのあいだには、女の弱さと男の迎合の違いぐらいしか、なかったからである。しかし、こう言われた。「よく教育されなくても、少なくとも善良にはなるだろう。オルレアン家の人々は善良だから」。誰もがそれほど確信していた善良さのために、勉強と同じく、性格にも注意が払われなかった。姿がたいへん優美だったので、身体の鍛錬で秀でさせようとした。公爵ほど上手に、しかも優雅に馬に乗る若者は少なかった。剣術もよくし、舞踏会では、いつも注目を集めた。フランスの旧宮廷の生き残りたちは、アンリ四世の衣装でベアルンの踊りを踊り、あるいはルイ十四世の宮廷で若者が着た祝祭の衣装で、気品ある舞踏の歩みを見せた公爵へ、喝采を送ったことを、皆、悔やんでいる。小さな自分の利害や、同年齢の子供たちとの関係では、知性にかなり的確なところが見えたが、何一つ十分には学ばなかった。幾つかの学問や言語を始めたものの、今日ではフランスのどの女性も知っている綴り字の規則さえ、ついに身につけられなかった。それでも、数学の教師は、この学問には、幾らか素質があると思ったと、私に話した。しかし、あまりに気が変わりやすく、さまざまな種類の知識を目の前に通してみる以外、何も試せなかった。注意力は、たやすく疲れ、教えられることについて、何かしらの概観を得るまでしか、保てなかった。そこで、もう先へ進まなくなる。性格には、まだ目立つところはなかったが、近づく人々を困らせることに、一種の意地悪な満足を感じていたのは分かった。それは、陽気で、騒がしく、尊大な悪意の一種で、好意的に見れば、いたずら好きと呼ばれるものだった。
また、若いころ、両親にも教師にも決して感謝を示さず、遊び仲間にも何の愛着も持たなかったことが、指摘されている。子供においては、そうしたことは、ある傾向を特徴づけるものではない、単に欠けているという性質の欠点ではある。しかし、それでも大きな心の冷たさを示している。教育に関わった人々のなかで、私があえて名を挙げるのは、ポン伯爵、シャトーブラン氏[218]、フォンセマーニュ氏[219]だけである。挙げるのは、その人々自身に、世間の尊敬を受ける確かな資格があるからにすぎない。
シャルトル公は、独り立ちする年齢の到来を待ち焦がれていた。それは、善良な若者たちのように、人生の名誉ある営みで自分を試すためではなかった。ただ、教育係の退屈さから逃れ、自らの性向のあらゆる激しさに身を任せるためだった。本来、その時点は、一人ひとりの精神の状態、性格の強さ、それまで時間をどう使ってきたかによってのみ、定められるべきである。しかし一般に、フランス人はその時点の見積もりがまずい。幼年期と、若者が案内もなしに、知らない世間へ入ってゆく瞬間とのあいだに、ほとんど間隔を置かない。この突然の放任は、王族の場合、さらに有害である。周囲で幾重にも行われる世話に縛られ、十六歳まで子供だったのに、突然、普通の大人以上の者になっている。まだ自由である能力もないのに、すでに命令している。新しく得た力に驚き、それが自分のものだと確かめるため、急いで濫用しようとするが、周囲には誘惑しか見つからない。最も忠実な僕たちも、忠告して不興を買うことを恐れ、そのほかの大勢は、あらゆる手段で気に入られようと、先を争うのである。
シャルトル公にすでに見えていたような性質に、これらの事情が組み合わされば、恐れなくてよいものなどなかった。心に深い印象を残した何らかの原則で武装していたなら、誰もが自分の内へ戻る静かな瞬間に、その効果が現れることを期待できただろう。少なくとも、自分の好みに、世論が慣習として定める限界を与えただろう。何かの学問に強く引かれていたなら、知性は広がろうとし、注意力も導けたかもしれない。ただ本当に恋をしていたというだけでも、喜ばせるため絶えず働く精神は、無為によってすり減ったり堕落したりせず、心は、真実の感情の前から逃げねばならないあらゆる欠点を、退けただろう。落ち着かない想像力の危険から身を守る、素朴な幸福と、あらゆる寛大な感情を生む自己放棄は、疑いなくシャルトル公のなかに、いくらかの堅固な資質を育てただろう。
しかし、乾いた心は青春の幻想を奪い、注意の散漫な精神は、真面目な事柄へ落ち着くことを知らなかった。好みには歯止めがなく、楽しみを、恋そのものを防ぐ砦にし、何もかも度を越すことから始めた。一貫していたのは、行きすぎだけだった。
一七六九年、氏はパンティエーヴル嬢と結婚した。善良で、色白で、みずみずしく、優しく、清らかな女性だった。氏にとって新しい女性であるあいだは、気に入られていた。シャルトル公夫妻が初めて一緒にオペラ座へ来たとき、パリのいくらか名のある高級娼婦たちは、好んで寡婦の装いで姿を現した。しかし数日後には、その衣装を脱ぐことができた。
社交界へ入ると、シャルトル公爵はヴォワイエ氏[220]と親しくなった。氏は、この時代の堕落した人々の頭目だった。大きな財産、実務の巧みさについての幾らかの評判、かなり華やかな軍事の話術、豊かな才気が、激しい情熱を持つ若者、評判を失った男、あらゆる身分の不良や策謀家を、その周囲に集めた。『百科全書』の幾つかの項目、とりわけ「魂」の項目よりも、その項目のために受けた、たいへん長い迫害によって知られるイヴォン師[221]が、氏に高度な形而上学を教えた。氏はその言葉を身につけ、最もくだけた会話にも使っていた。いつでも、魂……空間……存在の連鎖……抽象……物質……点からなる……単純な……広がりのない……分割できない、などなどだった。一度も定義されないこれらの言葉が、間を置き、身振りや言いさし、神秘的な様式を伴って語られ、若い信奉者たちを、信じる気にさせた。すると、あらゆる感情は滑稽にすぎない……あらゆる良心のためらいは弱さである……正義は偏見である……私たちのあらゆる行動を決めるのは、自分の利益、いや、自分の快楽だけであるべきだ、などと教えるのである。当然、証明は省かれた。
ある晩、遊興の晩餐で、コワニー氏の連隊の士官、ド・リール氏[222]が、正義はまったくの偏見だということに、十分納得できず、幾つか異論を述べた。氏は才気があり、友人をたいへん大切にし、少し傷つきやすく、おそらく馴れ馴れしすぎるところはあったが、総じて、とても誠実な青年だった。
「私のせいだよ、親愛なるド・リール」とヴォワイエ氏は謙遜して言った。「まだ疑いがあるなら、私が十分に根本までさかのぼらなかったからだ。私が悪かった。問題を、その起源から扱うべきだった……聞いてほしい、ほんの一言だ……誰もが知るように、私たちにとって存在とは、感覚の一定の集合の持続という観念であり、その集合は、よくついてきてほしいが、同じ、あるいは、ほぼ同じ事情のもとで、常に同じものとして再び現れる……分かるかい、ド・リール。もし完全に同じでなければ、宇宙を支配する一定の法則に従った変化しか受けない、などなど。よく理解しているね。このすべてのつながりと帰結は、分かるだろう。君のような人には、親愛なるド・リール、これ以上詳しく述べる必要はないね、などなど!!!」
若者の自尊心が、この神秘的な言葉を理解できないと認める手立てなど、あるだろうか。納得した様子を見せるほかなかった。ド・リール氏には、理解しないだけの良識はあったが、そう言う勇気はなかった。そして、フランスでそれまで、嘲笑にとって唯一、神聖不可侵だった堕落へ、嘲笑があえて攻撃を向けるようになって、初めて氏は、この会話と、言葉の奇妙さのために記憶に残っていた、ほかの幾つかの会話を語った。
この形のない形而上学の瓦礫のただなか、この新しい柱廊の学派で、完全な形で見いだせるのは、ひどく歪められた幾つかの格言と、巧みに人を堕落させる、もっともらしい訓戒めいた幾つかのそそのかしだけだった。
「柱廊」は原文 portique。柱廊で教えたストア派を思わせる、皮肉を込めた学派の呼び方として訳した。
しかし、ヴォワイエ氏の教説の根本原理は単純だった。道徳の存在を否定し、才知ある人間にとって、それは単なる言葉にすぎず、何ら実体はなく、その制裁を良心のなかに求めねばならないと主張した。したがって、才知と性格によって、決して良心の呵責を受けずにいられる者すべてにとって、道徳は無効だというのである。このことから、率直さ、誠実さ、信頼、生来の清廉さ、あらゆる立派な情愛が責められ、愚かなものと決めつけられた。
こうして真の楽しみの源を涸らしてしまえば、それを怪物じみた欲望で置き換えねばならなかった。秘義を授けられた者たちのあいだでは、二十歳で、すでに人生の魅惑は失われていた。これほど堕落した感覚器官には、強烈な刺激が必要だった。それを与えられるのは、腐敗だけだった。それゆえ腐敗は、道を失ったこれら若者の想像力すべてを支配した。そして腐敗が支配するとき、その権威は容赦がない。犠牲を捧げても、その支配は和らがない。与えれば与えるほど、多くを要求する。無邪気さ、忠実さ、正直さは、その祭壇に捧げられる最初の犠牲である。
ただの信徒であれば、信じることを強いられる。しかし創始者であるヴォワイエ氏は、宗派の首領の権利を行使し、自ら唱える教説を信じてはいなかった。そのことは、氏の生涯と死に関する多くの細かな事実によって証明される。口にするのは、いつも世論への徹底した軽蔑だったが、世間の判断は、氏を苦しめていた。「上流社会など、じきに、受けて当然の軽蔑を受けることになる」と、ある日氏は言った。ところが、それほど軽蔑する上流社会の家々のなかに、自分に戸を閉ざした家がいくつかあると知ると、打ちひしがれた。氏が演じる役割は、あらゆる感受性を蔑むことを要求した。そのため、ときには、不幸な家族に与えた援助を、誰にも気づかれないよう、用心せねばならなかった。
自分の領地レ・ゾルム[223]では、とりわけ人目につかぬ場所で、多くの善行を施した。宮廷についても、そこで振りまかれる恩賞についても、それを求める卑しい人々についても、嘲る口調でしか話さなかった。それなのに、国王の与えるあらゆる恩賞のなかで、最も寵愛の色合いが濃い聖霊勲章の青綬を、裏の手を通じて求めさせていた。ルイ十六世が、氏の堕落を宮廷の全員の前で咎めたのは、祭りと楽しみの場所であるマルリーに、氏が滞在していたときだった。国王は、正しい品行から来る厳格さと、内気さと廉直さが一緒になって生む無遠慮さをもって、そうしたのである。初め、驚いたヴォワイエ氏は、返す言葉が見つからなかった。やや気を取り直すと、モールパ氏のもとへ行き、起きたことを話し、名誉を回復してもらえるよう頼んだ。しかし、仲介者をありがたく思える理由は、ほとんどなかった。得られたのは、「われわれには、どうしても国王に礼儀を教えられませんな」という言葉だけだったからである。この「礼儀」という侮辱的な言葉、青綬の拒絶、国王の厳しい言葉は、氏を深く傷つけた。氏を親しく知る人々、たとえば妻などは、その後ほどなく訪れた氏の死の原因が、この悲しみだったことを疑わなかった。
シャルトル公は、ヴォワイエ氏の性格のうち、氏が表に見せる部分しか知らず、この集団の課したくびきに、完全に服した。自分を取り戻す手がかりとなりえた、生来の感情をすべて失った。したがって、オルレアン公の堕落が、本当に始まるのは、この時期、つまり、人が周囲のあらゆるものの弟子になる年齢に受けた、この第二の教育からである。それまでは、好ましくない傾向があっただけだった。そのとき氏は、悪を弁護する有害な格言を深く身につけ、その後決して捨てなかった習慣を得た。その全生涯を説明しようとするなら、この時期まで遡らねばならない。どのような毒を染み込ませられたかを知れば、氏の破滅的な過ちに、もはや驚かなくなる。だから、ヴォワイエ氏の教説を明らかにすることで、私はオルレアン公の全体を描き、その生涯の秘密と行動の動機を明かしたのである。いかに違って見える行動でも、すべてに同じ原理が現れる。自分の信念の奴隷に、これほど完全になった人は、かつてなかった。信奉者のあいだで「迷妄からの解放」と呼ばれたこの体系が、当代のフランス人たちのあいだに、どれほどの荒廃をもたらしたことか。十八世紀までは、少数の邪悪な人々の心のなかに閉じ込められていたそれが、この時代を待って、あえて公然と唱えうる意見として、哲学の体系として、表へ出たのである。この大胆さの出現は、記録に値する。
フランス国民の歴史は、人間精神の大きな迷走を、あまりにも記録せずに来た。あたかも、誤った考えと犯罪とのあいだに、必然的な結びつきなどないかのようである。たとえば、オルレアン公の意見を、その生涯のさまざまな行為と並べて示せるなら、道徳にとって、それは大いに有益ではないか。氏は、自分に都合のよいものしか正しくないと信じていた。人は、自分の幸福のために、ほかの人々の幸福に依存していることを、決して知らなかった。広く人々へ、また個々の人へ向ける善意の強い動機である、この互いに助けを必要とする関係を、理解しなかった。自然が寛大な目的のためにのみ配る、人に好かれるためのあらゆる手段を、氏は、信じやすく世慣れぬ無垢な者を狙う、利己的な計略にだけ従わせた。莫大な財産を受け継ぐ身でありながら、他人に施そうとする善のなかに、自分が他人から受ける善の保証を見なかった。狭い利己心のため、この交換では、自分が与える以上のものを返してもらえると、信じることができなかった。若いころ、感情を計算にかければ、いつも計算を誤る。むしろ、感情を計算するのは、感情を持たないからにすぎない。気まぐれが次々に好みを生み、心を熱中から無関心へ、無関心から別の気まぐれへと引きずる、その絶え間ない変化のなかには、友情の場所はない。それゆえオルレアン公は、誰も愛さなかった。氏の無関心を優しさと受け取る、気のよい若者たちは、氏に愛着を抱いた。氏は彼らを、楽しみの連れ、放蕩の仲間にはしたが、心からの愛情の対象には、決してしなかった。最初の交友の一つは、ランバル公とのものだった。ランバル公の体は、この義理の兄弟の生活ぶりに、長く耐えるには弱すぎた。
若い王族の死は、決して自然な死だとは思われない。この死によって、オルレアン公は途方もなく裕福になり、その財産を、あまりにも悪く使った。そのため、いくつかの著作で、単に放蕩を共にした以上に直接的な方法で、その死に関わったと、非難されてきた。しかし、この事実を証明するものは何もない。入念に得た情報に基づき、その疑いを抱く根拠となるものさえないと、私は断言せねばならない。ランバル公は、オルレアン公に最も親しい友であり、氏によって堕落させられ、そのために死に、しかも氏から、一片の惜しむ気持ちさえ得られなかった、と言わねばならないだけで、十分すぎるのである。
もっと長い親交も、オルレアン公の心には、それ以上の跡を残さなかった。一七八八年、二十五年の交際ののち、いつも身近にいた主要な友人の一人、コンフラン侯爵[224]を失ったとき、氏は最も残酷な無関心を示した。侯爵は、いつも人目を引く人物だった。初めは美貌、気品、体格、身のこなしによって、のちには、悪い仲間のなかでは欠点によって、軍人たちのなかでは長所によって、真面目な事柄を話すときには的確な判断力によって、そして生涯を通じて、好み、感情、嫌悪を率直に表すことによってである。コンフラン氏は、日々を弱々しくしながらも、突然の発作で命を奪うことになる病にかかっていたが、自分が病人だとは、どうしても認めず、いつものように社交界へ出ていた。亡くなった日も、モンルージュのビロン氏[225]の家で、オルレアン公とほかの数人の男性と、食事をするはずだった。皆が氏を待っていた。オルレアン公は、芝居へ行きたかったので、ほかの人々より苛立っていた。四時、全員が集まったところへ、コンフラン氏の使用人の一人が駆けつけ、たった今、主人が亡くなったと告げた。部屋にいた人々は、それぞれコンフラン氏との交際の深さに応じて、悲しみを表した。オルレアン公が口にしたのは、「ローザン、もう誰も待っていないのだから、食事にしよう。オペラの始まりに間に合うように」という言葉だけだった。
人の心を研究しても、これほど乾いた魂が、どうして友情を抱かせえたかは、説明できない。だから私は、オルレアン公爵が心から愛されたことを、奇妙なことだと思う。ビロン氏は、幼いころから死ぬまで、公爵に最も優しい感情を抱いていた。確かに、この感情の名誉をオルレアン公爵に帰すことはできない。それは、ビロン氏一人だけのものである。ビロン氏は勇敢で、空想的で、寛大で、才気があった。年齢の近さ、若いころの強い好み、機知のひらめきにおける幾つかの似たところ、ほぼ同じほど華やかな境遇が、二人を結びつけた。やがて、オルレアン公爵を愛するには勇気が、弁護するには寛大さが必要になった。この二つの資質を働かせることによって、オルレアン公爵はビロン氏にとって、いっそう愛しい者となった。そして、その空想的な性格は、後々まで、この感情を保つために高潔な魂が必要とする幻想を、すべて与えた。浪費のため、いつも金銭上の混乱に苦しむビロン氏が、金を差し迫って必要とする時でも、あれほど莫大な富を持つオルレアン公爵が、貸すと申し出ないのなら、貸せないのだろうと思っていた。そして、この同じ幻想の論理によって、オルレアン公爵が政治生活に入ってからも、秘密の考えや個人的な意図を持たず、革命の動きに何の関与もしていないと主張した。その件について、公爵が自分に何一つ打ち明けたことがなかったからである。
オルレアン公爵と、ラヴァル子爵[226]、シェルドン氏、リアンクール氏、アーサー・ディロン氏[227]、フィッツ=ジェームズ氏、サン=ブランカール氏、モンヴィル氏[228]などとの、ほかの交際については語らない。そのつながりは、どれも、さまざまな時期に消えた。それを作った快楽だけでは、生涯を通じて続くほど強い絆にはならない。このようにはかない友情は、否応なく、オルレアン公爵の人生の一部を占めた、大勢の愛人について、一言述べることへと導く。しかし、彼女たちが生んだ出来事は、あまりに少ないので、その長い一覧を探し出す義務はないと思う。初めは強く要求し、後には衰えた感覚を、満たし、あるいは刺激するために必要な、あらゆる好み、気まぐれ、奇癖を、オルレアン公爵が用いたと言えば、私の務めは、十分すぎるほど果たされる。
いま、オルレアン公爵に心を寄せた、より高い身分の女性たちを語ることで、もう少し穏やかな情景に、とどまれたらと思う。この王族は、ときおり社交界へ姿を見せたが、いつでも、犠牲者を探す敵国にいるようだった。ブイヨン公妃[229]、フルーリー侯爵夫人[230]、ランバル公妃は、次々に、公爵に愛されていると信じ、自分たちが愛していることを、公爵に示した。彼女たちの繊細さは、その堕落した精神にとって、放蕩の新しい形となり、その形も、ほかのすべてと同じように飽きられた。公爵はほどなく彼女たちを捨てたが、それを公にしたことは、幸い、公爵が期待したのとは逆の効果を生んだ。世間は彼女たちに寛大で、同情した。その後、彼女たちは、その過ちを忘れさせた。
オルレアン公爵の生涯で、ほんの一時しか目立たなかった女性たちを挙げるなかに、シルリー夫人[231]を置くことはできなかった。夫人は、別に扱わなければならない。
野心と節度、奔放さと慎み、原則と迎合が混じり合う人物なら、その生涯と親密な関係は、確かに、並外れた結果を生むはずである。ジャンリス夫人は、いつも正反対の手段を、決して切り離さずに使い、野心の望むことを、すべて成功させた。若く、美しく、孤立していたころには、午前中に男たちのもとへ、幾度か思い切った訪問をすることで、夫を見つけた。後には、恋愛沙汰ばかりの生涯で、厳格主義という高足を履いた。同じ筆で『白鳥の騎士たち』と『子供のための道徳の教え』を書き、同じ机で、シャルトル令嬢のための教会用の本と、オルレアン公爵のためのジャコバン派への演説を作った。その生涯全体が、同じ対照を示している。
「高足」は原文 échasses(竹馬・高足)に対応する比喩で、厳格な道徳を掲げて高みに立つ姿を皮肉っている。
サン=トーバン嬢、それが夫人の名だった。姿は優美だったが、気品はなく、顔の表情はたいへん人目を引いた。会話には機知のひらめきが少なく、日常に知性を働かせる際の魅力も乏しかったが、教養、観察、慎み、社交の機転が与える利点は、すべて自在に使えた。どうにかジャンリス伯爵と結婚すると、次には、夫の一族へ近づかなければならなかった。一族が自分に好意を持っていないことは、知っていた。才能と、演じられた内気さと、時間が、それを成し遂げた。シルリーへ行くことを許され、数日のうちに、その時代でもとりわけ退屈しきっていた一人、ピュイジュー氏[232]を楽しませ、ピュイジュー夫人の年老いた辛辣さを和らげた。これこそ本当の社交界への入り口だと、よく感じていたので、あらゆる手段を働かせた。愛想よく、気を配り、不器用さのない陽気さを見せ、絶え間ない迎合にさえ、感受性の色合いを与えた。この最初の成功は、きわめて役に立った。幾つかの扉が開き始め、ついにはシャルトル公爵夫人のもとへも行けた。公爵夫人は、はっきりと庇護を示し、まだ残っていたかもしれない社交上の小さな反対を、短期間で、すべて取り除いた。シャルトル公爵は夫人を魅力的だと思い、そう伝え、ほどなく、その求めを聞き入れさせた。というのも、ジャンリス夫人は、思わせぶりな振る舞いの醜聞を避けるため、いつも容易に身を任せたからである。数年の気配り、寛容、人目を避けた生活によって、シャルトル公爵への影響力を、それほどまでに得たので、公爵の行為、いや、その生涯を構成する出来事に、何らかの影響を与えたとも考えられた。これほど工夫を凝らした振る舞いには、報いがあった。公爵の子供たちの養育係、いや、男性の教育監にあたる役職へ、自らを任命させるに至ったのである。シャルトル公爵のこの選択には、人と違うことをし、一般に認められた礼節への軽蔑を、はっきり示そうとする意図しか、見て取れない。
ジャンリス夫人は、初めに発表した著作によって、知性にかかわる教育の全体を導けることを示した。恵まれた生まれつきの資質は、オルレアン公爵の長男と、マドモワゼルと呼ばれる娘[233]を、二人の優れた人物にした。不幸によって試され、鍛えられ、教えられ、高められた二人は、本来の運命へ戻ったとき、素朴で偉大な姿を示した。
ジャンリス夫人の最良の作品は、『クレルモン嬢』を除けば、この時期のものである。今日、夫人が衰え、女流作家として、栄誉もなく、奇妙で軽んじられた道を進むのを見るとすれば、それは、初めの成功に酔い、誇りに身を任せ、自らの判断に、もう耳を貸さないからである。かつて教え子たちの従順な服従を扱ったように、公衆の、独立を守ろうとする心まで扱おうとするからである。かつて周囲のすべてを支配したように、好意を与えることで道徳の教えを和らげ、公衆を支配することはできないからである。私は二つのことを指摘せずにはいられない。一つは、夫人には命令することが、それほど必要なので、指図する王族の子供がいなくなると、手当たり次第に、最初に出会う者を弟子にしたこと。もう一つは、厳格主義を説き、著作では道徳を掲げているにもかかわらず、近ごろの小説には、若いころの風習の気軽さが、いつも何かしら現れることである。そこには、いつも何らかの恋愛や、婚外の子供が見つかる。誰のために、何のために、まだ書くのか。もはや、評判を立てたいからとしか考えられない。若いころのほうが、考えは確かだった。
オルレアン公爵の青春はすべて、計画も、企図も、一貫性も、何の自制もなく過ぎた。すべての行為に、無思慮、軽薄、堕落、狡猾の性格があった。学ぶためといって、プレヴァルの実験を見に行き、気球に乗り、カリオストロ[234]やリュクサンブール騎士[235]と幻影の見世物を行い、ニューマーケットの競馬へ行く、などであった。
すでに莫大だった財産を増やすため、パレ=ロワイヤルの土地で投機をした[236]。それはルイ十三世、アンヌ・ドートリッシュ、ルイ十四世、最後には王弟殿下の住居であり、その王弟によって、オルレアン家の分封領の一部となった場所である。後に、疑いを抱いたとき、公爵は財務係セガンに、自分で金庫の状態を見るため訪問することを、数日前に知らせた。そして、訪れると自分の面前でセガンを逮捕させ、鍵を持ち去った。こうして、予告を受けたセガンが、自分の事業のために使った金を、一時的に埋め合わせようと、友人たち全員の財布からかき集めた金を、すべて押さえた。気まぐれな野心から、ドルヴィリエ氏の艦隊[237]へ姿を見せたいと望んだこともある。義父パンティエーヴル公爵の持つ、きわめて収益の大きい海軍大提督職を、将来継ぐ資格が得られると期待したのである。職は得られず、勇敢さも疑われた[238]。勇気を示そうとして、幾つかの劇場で喝采させ、アルヌー嬢[239]の窓の下で冠を授けさせた。そのころ、公爵を題材にした、辛辣だが、たいへん不当な歌が、パリを楽しませた。イギリスへの幾度かの旅、速さしか話題にならなかったイタリアへの駆け足の旅、フリーメーソンの総長に選ばれた栄光[240]、かなり重い病気のあと、九姉妹ロッジによって歌われたテ・デウム[241]、ムソー[242]での、あらゆる種類の快楽、いや乱行が、その後の年月を満たした。
オルレアン公爵は、多くの人において、若いころの情熱が衰え始め、新しい暴君へ支配を譲る年齢に近づいていた。しかし、公爵には、野心の発展を示す兆しが、まだ何一つなかった。放蕩によって干からび、私益の計算によって狭くなった心では、その発展も、おそらく遅れるのだろう。
それでも周囲には、やがてフランス全土へ広がる騒ぎが現れ始めていた。すでに王国の各地で、火山の噴火に先立つような、低い、遠い響きを聞くことができた。政府自身がフランス人に、自分たちの財政状態へ関心を持ち、国家の財産の報告を聞くよう呼びかけていた。その目に、これほど新しい光は、強い感覚と深い印象を生んだ。フランスには、まったく新しい力、世論の力が生まれていた。それは、長く平穏に自由を享受し、自国の事柄を知ってきた国民に特有の、明晰で確固たる世論ではなかった。激しく、経験に乏しく、それだけ判断では思い上がり、意思では断定的になる国民の世論だった。カロンヌ氏が、あえて扱おうとし、政府の古びた仕組みに加えようとしたのは、この恐るべき道具である。氏は名士会を集め、部会に分け、それぞれを王家の一員か血統親王に主宰させた。第三部会の議長は、オルレアン公爵に当たった。そこで目立ったのは、無頓着さと不熱心さだけだった。会議へ欠かさず出れば、しばらく快楽や習慣を犠牲にしなければならなかったが、公爵には、それができなかった。初めは夜の会議を欠席し、最後には朝の会議もなおざりにして、ひどく遅れて来るか、ときには、まったく来なかった。軽率さは、会議中にランシーの森で狩りをするところまで進んだ。追われた鹿は、サン=タントワーヌ郊外の堀へ来て捕らえられ、目撃したパリ市民を大いに憤らせた。
少数の支持者たちは、少なくとも公爵は、名士会を醜く揺さぶった末に、そこへ寄せられたあらゆる希望を打ち砕いた策謀には、かかわらなかった、と指摘すれば、その行動を弁護できると思っていた。この消極的な称賛は、大して立派なものではなかった。この記念すべき機会に、オルレアン公爵に取れる役割は、策謀家の役だけだったのか。フランスは、一世紀半以上ものあいだ、国王がこれほど重要な会議を周囲に集めるのを、見ていなかった。最も偉大な領主、最高位の司法官、最も裕福な土地所有者が、行政の主要な問題に意見を述べるため、集まっていたのである。高等法院の抵抗に、より強く、より啓発された意見の威力を対抗させ、聖職者の特権という巨像へ挑み、税制全体を変えて、公租の収入を国家の必要と釣り合わせ、関税障壁の外方移動、賦役、穀物取引の自由などについて、長く望まれてきた一定の規則を定めることが、問題だった。これらの改革に脅かされる人や団体が、改革を不可能にするために、あらゆる手を尽くすのは、理解できる。大臣職を争う野心家の大群が、この広い戦場で、大きな戦いを繰り広げたことも、理解できる。しかし、その種の利害から、これほど遠い血統親王が、自らの独立の重みで、こうした小さな策謀家をすべて押しつぶそうという、高潔な誘惑を感じなかったこと、騒乱のこれらすべての始まりを、無関心に見たこと、弱さをあれほど残酷に試され、測られている国王の危険を、平然と眺めたことは、私には理解もできず、公爵の功績として数えることもできない。国民は、この無感動を激しく非難した。これらの討議に強すぎるほどの関心を持ち、昔の軽薄な性格も、すでに捨てつつあった国民は、醜いほど公然と無頓着さを示す王族を、許せなかった。それゆえ、世間の不満の声は、ほどなく、この判断の厳しさを、公爵に十分知らせた。
その影響を食い止めるため、助言者たちは、目立つ行動が必要だと認め、公爵に、それをさせた。ただし、その行動は容易で、長く続ける必要の少ないものでなければならなかった。演じる人物に、役を釣り合わせる必要があったのである。
オルレアン公爵の家政長官は、デュクレ侯爵[243]だった。運命の気まぐれによって、ときおり、その車輪の頂へ投げ上げられ、自分の力量だけで、そこへ着いたと信じる冒険家の一人である。この男は、軽率さから大胆に事を企て、無謀なほど自信を持っていた。姉妹のジャンリス夫人の影響力によって、この地位に着き、実務家の能力というより、いかさま師の器用さによって、その職の重みを支えていた。オルレアン公爵の財務は、よく整えられていると評判だったので、デュクレ氏にも、幾らかの能力があると思われていた。当時は誰もが財政計画を作っていた。デュクレ氏は国家財政の意見書を書こうと思いつき、これまでの管理が悪かったことを容易に証明し、立て直すには、主人の財産管理で自分が実行した計画に従うよう提案した。オルレアン公爵が、その意見書を国王へ渡すことに話がまとまり、公爵は、その内容の原則を議論するより、進んで承諾した。この行動が世間に知られ、ほとんど労せず熱心に見えれば、公爵の狙いには十分だった。この計略は、初めのうちは成功した。国王は意見書を受け取り、内容を外へ漏らさなかった。それは、著者が望む以上に、著者のためになることだった。この沈黙に腹を立てた著者は、第二の意見書を書き、今度は大臣の施策を批判するだけにとどまらず、大臣個人、とりわけトゥールーズ大司教を、公然と攻撃した。問題の核心についても、財政再建だけにとどまらず、災いの源へ直行し、政府の過ちによって離れたフランス人の心を、国王へ取り戻そうとした。この二つの目的を同時に果たすため、行政の各部門の頂点に評議会を設け、それによって大臣の権限を弱めるよう提案した。しかし同時に、評議会の頂点には、最高の長、主要な原動力となる者を置きたいとした。そして、限りない権力と、それを強めるのに適した世論上のあらゆる手段を与えられるなら、その第一の役を引き受けてもよい、と献身的に宣言した。そのため、自分のために財務総監督の称号と俸給を復活するよう求めた。この官職は、ルイ十四世治世の、総監督フーケの有名な失脚以来、誰にも与えられていなかったのである。
ここでデュクレが求める surintendant des finances は、フーケが務めた財務総監督職。本文の別の箇所に出る contrôleur général des finances(財務総監)とは区別した。
オルレアン公爵が、この第二の意見書も提出した相手、ルイ十六世の寛容で甘い性質は、この過度の無礼を、軽蔑によってしか罰しなかっただろう。偶然が、それを公にして、相応の報いを与えた。地方の問題にかかわって総督に逮捕されたブルターニュの貴族、ケルサラン伯爵の所持品から、第二の意見書の写しが見つかったのである。こうして広まった秘密は、家政長官の慎ましやかな才能と、その主人の慎重さの程度を、示した。
この発見によって、二人は、韻文や散文による多くの揶揄にさらされた。ここでは、次の諷刺詩だけを載せよう。オルレアン公爵の生涯の、この時期に、フランスで優勢だった気分を知らせるのに、役立つからである。
よくできたおまえの計画で、
慎ましいデュクレよ、おまえの話では、
王妃と国王へ返すのだそうだ、
二人が失ったフランス人の心を。
奇跡がなくても、それはできよう。
ああ、二人が望みさえすればよい。
だが、おまえの腕前の証拠として、
その前に、おまえの主人を、私たちに愛させてくれ。
世論を取り戻そうとする、この最初の試みは、オルレアン公爵にはうまくいかなかった。しかし腹心たちは落胆せず、今後は措置をもっとよく打ち合わせるべきだと、教訓を得ただけだった。
政務の状況が日々変わり、いっそう複雑になるなか、機会が少ないはずはなかった。出来事より、さらに速い思想の歩みは、驚くべき勢いを増していた。
すでに述べたように、同じ年の初めには、名士会の招集が人々を驚かせたのに、続く七月には、パリ高等法院の内部で、三部会という名が、驚きより熱狂をもって口にされていた。至るところで裁判所は、課税への同意権を求めてきた長年の主張を捨てていた。課税勅令の登録を拒み、財政法を、三部会の自由な同意に委ねた。この言葉に驚いた宮廷は、高等法院を威嚇しようとした。パリ高等法院をトロワへ移し、別の紛争のため、ボルドー高等法院をリブルヌへ移した[244]。この厳格な措置は、長く続かなかった。司法官たちの頑固さも、曲がらないものではなかった。妥協案と策謀によって、一時的な和解ができた。その策謀には、セモンヴィル氏と、後のセモンヴィル夫人、当時のモントロン夫人が、それぞれ異なる役で、初めて姿を見せる[245]。しかし、それは休戦にすぎなかった。措置が後戻りしているように見える時でさえ、世論は、ますます脅威を強めて進んでいた。大臣たちの耳も、三部会という名に慣れたようだった。機会のあるごとに、新しい約束がなされた。政府の努力は、その招集を一七九二年まで延ばすことに限られていた。しかし、その時まで持ちこたえ、そのあいだ、税収の不足を補い、期限の定まった債務のうち、すでに満期となったものと、これから満期となるものを払い、臨時の支出にも応じなければならなかった。それほど多くの必要に対して、政府が示した財源は、五年続けて募集し、元本が四億に達する借入れ以外になかった。
この莫大な要求の影響を和らげるため、一方では改革、節約、改善を語り、他方では、財政勅令に、非カトリック教徒に有利な法律を組み合わせた。政府は、その法律が支配的な思想に合い、多くの支持者を取り戻せると信じていた。これほど支持を必要としたことは、かつてなかった。批判の精神が、至るところで優勢だった。誰もが反対派であることを誇り、それが全般的な気分だった。その気分は、あらゆる団体を動かし、あらゆる文章を支配していた。誰も弁護しようとしない政府を、誰が攻撃するか、普遍的な競争が起きていた。結局、その政府にとって、自分自身の無能力以上に危険な敵は、なかったかもしれない。それゆえ、政府に勝つのは容易で、こうした戦いでは、結果がどうであれ、世間の好意を味方につけられた。
オルレアン公爵の友人たちは、この容易な成功を求めるよう、公爵をせき立てた。公爵には、そこで同時に満たせる利害が幾つもあった。前にイギリスへ行く許しを求めた際、拒まれたことを、幾らか恨んでいた。血統親王は、国王の許可なしには、フランスを出られなかったからである。容易に理解できる政治上の理由から、王家のすべての成員は、私生活の重要な行為について、家長に一種の従属を負っていた。それは公共の利益に役立つ以上、正当な従属であり、実際、これほど多くの享楽が埋め合わせとして与えられるなら、実に容易に耐えられるものだった。オルレアン公爵が、自分を傷つけた拒絶の理由を知らないふりをしても、無駄だった。最も洞察の乏しい目にも、その理由は明らかだった。初めの旅行中の振る舞いについて、たいへん醜い噂がフランスで広まり、礼節と道徳を愛するルイ十六世は、公爵がさらに乱行を重ね、その見世物を隣国の人々にさらす新しい機会を、与えまいとしたのである。
公爵を拒むにあたり、自由な国の実例や習慣の影響を恐れるという弱さも、あったのだろうか。当時としては幼稚な恐れであり、イギリスの自由への侮辱でもあった。公爵が、その自由を好み、原則を理解できたなら、それこそ、願ってもないことだったはずである。そこでは真の自由を知り、一人ひとりに義務があり、社会秩序のなかで最も高い地位の者は、国王への敬意の模範を示す義務を負い、自分の恨みに公共の利益を犠牲にするのは犯罪だと、学べたからである。オルレアン公爵の恨みは、とりわけ王妃へ向けられ、増え続ける社交上の争いによって、養われていた。双方とも辛辣な言葉を惜しまず、それを伝える廷臣にも、事欠かなかった。
これほどつまらない争いが、不幸な王妃の運命に、あまりにも大きな影響を与えた。美しさだけが、その威厳に匹敵しえた王座の高みから、なぜ、知らずにいるべき争いに加わることを、一度でも承知したのか。君主は、休みなく君臨することを課せられている。私的な行動の重要さを、決して忘れてはならない。周囲の者たちに、それを忘れさせることは、決してできないからである。単なる不注意が憎しみを生み、わずかな好みが嫉妬を生み、ごく軽い侮辱が、和らげようのない恨みを生む。
オルレアン公爵は、王妃がフランスの宮廷で初めて手本を示し、プチ・トリアノンをいつもの集まりの場としていた、親しい社交の輪から、日ごとに遠ざけられていった。この美しい庭での幾つかの祝宴、とりわけ王妃が兄弟の大公[246]のために催した祝宴に、公爵は招かれなかった。確かに、ほかの血統親王にも、もっと幸運な者はいなかった。別の種類の不和によって、コンデ公[247]とその家族も、同じくプチ・トリアノンへの滞在から除かれていた。この魅惑的な隠れ家の入り口で、王妃は、自らの高貴な地位という鎖を、外せると思っていた。ヴェルサイユでは王妃として、崇高な地位への務めを果たしたつもりであり、トリアノンでは一私人として、最も愛すべき女性となり、親しい交わりの甘さだけを知りたかったのである。こうした小旅行に加われる好意を受ける、絶対の権利を持つ者が誰もいないからこそ、それはいっそう望ましく、嫉妬をかき立てるものとなった。オルレアン公爵は、無関心を装っても、自分の嫉妬を隠せなかった。ある祝宴の際、公爵は、自分と同じく寵を得ていない宮廷の女性たちと相談し、灯火の飾りを見ることを許された民衆に、紛れ込む手段を整えた。こうして庭へ入り、招かれなかった腹いせに、あまりに激しい嘲笑と、あまりに騒々しい陽気さに身を任せたので、王妃が知らずにいることはできず、深く傷ついた。
こうした小さな敵意は、オルレアン公爵を、それほど苛立たせていたので、もっと重大な反対行動へ導くのは難しくなかった。流行の力だけでも、決意させるには十分だっただろう。世論の波に身を任せるだけでよかった。王国の最も小さな代官区でさえ、安心して採り、廷臣たちが国王の控えの間でまで原則を唱える立場に、何を恐れることがあっただろうか。誰もが不満を持ち、あるいは持つふりをしていた時代には、オルレアン公爵は、姿を見せるだけで、不満分子の首領と宣言されたはずだった。公爵の信頼を得る術を知っていた人々は、その地位を、しばしば想像に描かせた。その人々を知らせるのは、私の主題に含まれる。役割を演じた人物の内面に入らず、その人々を動かした仕組みを明かさず、表面しか描かないなら、歴史は何になるだろうか。
オルレアン公爵の家で第一の地位にいた家政長官デュクレは、すでに紹介した。リモン氏[248]は、そのデュクレ氏の下で、財務管理官の職名と業務を持っていた。並外れて器用な実務家で、王弟殿下の財務にも雇われていた。先代オルレアン公爵の相続が始まったばかりで、遺産は莫大で、複雑に入り組み、共同相続人たちは扱いにくかった。リモン氏は、この混沌を解きほぐし、兄と妹[249]を、互いにも、自分にも満足させることができた。この働きによって、オルレアン公爵の信頼を確保した。氏は、それを利用しないような男ではなかった。相続に関する争訟を扱ううちに、パリ高等法院の主要な議員たちと知り合っていた。そのころ高度な政治に取り組んでいた彼らは、名が自分たちの意見に重みを与えうる王族の財務管理官を、喜んで迎えた。リモン氏の側も、自分を必要な存在にできる見込みを見て、この新しい知り合いを大切に育てた。王族と高等法院の仲介役という役割を、誰にも争わせないためだった。
リモン氏を強く助けたのは、この時代で最も騒がしく動いた高等法院議員の一人、サバティエ・ド・カーブル師だった。シルリー夫人と親しかったので、公爵の内輪へ入るのは容易だった。この聖職者は、まれな厚かましさ、人を引きつける想像力、豊かで奇妙で、悪口に富む雄弁によって目立っていた。オルレアン公爵に気に入られ、ほどなく動かすことができた。高等法院で尊敬はされていなかったが、力がなかったわけではない。前の政府の密偵だったと非難され、新しい政府を執拗に攻撃して、その疑いを晴らそうとしていた。一七八七年七月十六日、全部会合同の会議で、三部会の招集を求めたのは、この人物だった。この大胆で新しい要求は、大きな注目を集めた。オルレアン公爵を、無能力のために日ごとに依存を増すような、一連の政務へ投げ込めたら、この性格の男にとって、どれほどの利益だっただろう。師は、何よりも公爵の困難を平らにし、その軽薄さを克服する期待は持たず、むしろ、あらゆる弱さを折り合わせるために、要求を少なくするべきだと理解した。こうして公爵は、政務の舞台に登場するため、サバティエ師の整えた役を稽古するだけでよかった。すでに述べた四億の借入れが、その機会となった。オルレアン公爵が公務に加わった真の始まりは、ここにある。
この出来事をよく理解するには、政府が借入れを必要としたとき、当時のフランスで守られていた手続きの幾つかを、知らせる必要がある。借入れを設け、その条件を定める勅令は、法律の性格を持ち、ほかの法律と同じく、王国の高等法院の登録簿へ写されなければならなかった。国家の約束を承認するこの手続きが、貸し手の安全をなしていた。しかし、それほど強い効果を生むのに、単なる形式で十分だったのか。機械的に書き写す行為だけで、公的な債務を作り、国の歳入を担保にできたのか。高等法院の登録は、勅令に含まれる措置の承認ではなかったのか。承認する権利は、不承認とする権利を前提にしないのか。登録は国民の同意の証しではなかったのか。その同意は、機械的で、盲目的で、まったく受動的な操作によって、十分に表せたのか。これらの問いは絶えず繰り返され、いつも避けられ、一度も明らかにされず、議論と策謀の尽きない源泉だった。新しい借入れのたびに、司法官の自然な傾向から生じる抵抗と、戦わなければならなかった。その力は、もっぱら否定的なものだったので、拒絶によってしか行使できなかったからである。しかも司法官たちは、国家の必要も財源も、何一つ知らず、知ることもできなかった。したがって、彼らを納得させるのは、いつも一般的な理由によるほかなかった。そして、その一般的な理由を有効にするには、司法官一人ひとりに応じた説得の手段を見つけなければならなかった。この個別の仕事は、高等法院長に任され、難しすぎるときは、国王へ、権威を発揮する必要があると伝えた。そのとき、国王は親臨法院を招集した。
この種の集会は、その名からは正しい考えを得られないが、実際には、高等法院の抵抗のもとへ逃げ込んだ、わずかな自由と正義を、消し去るものにすぎなかった。だからフォントネル氏が、親臨法院とは正義が眠る寝台だと言ったのは、もっともだった。国王自身が高等法院に出席する場合も、登録簿を持って王宮へ来るよう命じる場合も、儀式の実質は、君主が叱責の演説をし、大法官が説明を加えることだった。そのあと王の法務官が立ち、勅令の理由を、しばしば非難を交えて述べながら、それでも、直ちに法律としての効力を与えるよう結論した。注目すべきは、国王の臨席が、法務官から考えを述べる自由を奪わなかった一方で、その請求の結論を強制的に動かしたことである。こうした演説がすべて終わると、国王は勅令を法律の登録簿へ記載するよう命じた。司法官たちには、この権威の行使に抵抗する手段がなく、あとに残るのは建白だけだった。それは、一種の遅すぎる警告だったが、世論に直接働きかけるため、しばしば政府の運営を妨げた。
lit de justice は国王臨席のもとで勅令登録を命じる親臨法院。lit は「寝台」も意味するため、ここではその語を使ったフォントネルの皮肉が続く。
親臨法院が、フランスの古い慣行の変質したものだったことも、指摘しなければならない。かつて、その慣行に従って、国王は高等法院で、血統親王や王国の同輩貴族たちに囲まれ、自ら裁きを行っていた。こうした国王臨席の会議では、すべての裁判官が意見を述べ、国王にも一票しかなく、多数に従って判決した。しかし、私人の争いの裁判に国王が臨席すれば、国王の採る意見に、好意による重みが加わる。ほかの点では、これほど尊重すべき王職の行使にとって、それが最大の欠点だった。後に、正義を与えることが王の義務であっても、自ら果たさないほうが、よりよく果たせると理解された。こうして国王は、訴訟の裁判には出席しなくなったが、裁判官たちのなかに席を占める権利は保った。普通、その権利を使うのは、幾つかの法律の登録を命じ、抵抗を押し殺すために来る場合だけだった。これが親臨法院と呼ばれたものである。その結果、税や借入れの問題でさえ、国王が唯一、かつ絶対の立法者となった。高等法院の関与は、いつでも、まったく受動的な行為へ縮められたからである。事実、提案する権利も、阻む権利もない法律に、高等法院が分け持つところは、何もなかった。
同輩貴族は pairs du royaume の訳。一般の貴族全体ではなく、特定の尊位と高等法院での席を持つペールを指す。
王権に対する唯一の釣り合いは、国民の風習と世論にあった。よく組織された国では、世論が法律に力を与え、純粋な専制の国では、制度の沈黙を補う。このつかまえようのない力は、とりわけ借入れの問題では、大きな実体を持っていた。政府がいくら資本を呼んでも、それをもたらすのは信頼だけであり、根拠のある信頼だからである。財政を担当するトゥールーズ大司教は、この真実を認めていた。続く五年間に分けて、四億を超す金が必要だということが、日ごとに明らかになっていた。同時に、借入れが強制によってしか登録されなければ、出だしから不利すぎて、決して募集額が満たされないことも理解していた。親臨法院は、憎まれるものになっていた。自由な同意は当てにできず、あからさまに強制した同意の結果は恐ろしい。権威を働かせる必要と、その働きを隠す必要とを、同時に感じていた。そこで、国王にパリ高等法院で会議を開かせようと思いついた。それは、親臨法院と昔の国王臨席会議とを、組み合わせたものとなる。後者からは、悪評のない名称と、各議員が意見を述べ、その理由を展開できる投票権を借りた。親臨法院からは、本質的な部分、票の多寡も多数の意思も顧みず、登録を命じる権利を残した。
一七八七年十一月十九日、国王は午前九時、高等法院へ向かった。オルレアン公爵も、ほかの血統親王たちも、そこにいた。ただし、そのころブルゴーニュ地方三部会を開いていたコンデ公は例外だった。国王は二つの勅令を携えていた。一つは四億の借入れを設けるもので、会議の主な目的だった。もう一つは、非カトリック教徒の民事上の身分についてのもので、財政勅令に幾らかの好意の光を反映させるためにしか、考え出されていなかった。
国王は、二つの部分からなる演説で会議を開いた。第一の部分では、行政と立法にかかわる二つの大きな行為について、パリ高等法院に諮問するため来たと告げた。理由はほとんど詳しく述べず、慣例どおり、細部と説明は国璽尚書に任せた。第二の部分では、地方議会についての法律の登録に難色を示し、リブルヌへ移される罰を受けたボルドー高等法院のため、パリ高等法院が提出した建白に答えた。この部分で国王は、幾分か強い調子を使おうとした。しかし、それは借り物で、短い演説のあいださえ保てなかったため、声のむらによって、性格のためらいを露わにしただけだった。
続いて国璽尚書[250]が話した。その演説は、広大な構想を含んでいた。初めに、高等法院の求める三部会の即時招集を、直接取り上げた。明確には拒まなかったが、国王の絶対権力についての原則を、その要求に対置するようだった。その原則は要求を退け、その実現を、まったく国王の意思にかからせるものだった。その国制の体系は、わが国の歴史のどの時代にも、フランスの大臣が唱えたなかで、最も絶対主義的な教説から引かれていた。
高等法院の要求と決定への、決定的な返答として示したこれらの原則から、国璽尚書は、提案された法律の検討へ移った。国王がすでに命じた改善、節約の措置、国防や国家の威光のための施設よりも、自分個人の楽しみへ好んで向ける削減を強調した。そして、四億の借入れという簡単な思いつきを、天才の仕事として提示した。それは、もっと負担の重いほかの債務を償還し、有益な改善を行い、歳入の穴を埋め、五年間の予想される支出と、予想されない支出をすべて払い、さらには戦費まで賄えるというのだった。国王は、賢明で断固とした交渉によって、戦争という災厄を長く遠ざけたという、もっともな希望を抱いていたが、それでも戦争が起きるなら、あらゆる準備が整っていると言われたのである。(こうして大臣は、一七八七年を通じたフランス宮廷のオランダに対する行動を、あえて言い表した。)
現在の行政の恩恵を描く、この説明は、ついに非カトリック教徒についての新しい勅令へ達した[251]。国璽尚書は、増えた人口が産業へ広くもたらす大きな利益、新しい市民を得て豊かになる社会の獲得するもの、ついに自然と風習に調和する法律を指摘した。しかし、この場限りの人類愛の狙いは、よく分かった。国庫へ四億をもたらす借入れの承認に、直ちに賛成しさえすれば、寛容な立法の恩恵を先送りしても、大臣を怒らせると思う者は、誰もいなかっただろう。
国璽尚書が審議事項の説明を終えると、審議は、高等法院の会議の、いつもの順序と形式に従って進んだ。まず借入れ勅令について、法院の報告担当者の話を聞いた。政府が登録のために高等法院へ送る、すべての法律の検討を任された司法官を、そう呼んだ。この司法官は、いつも政府によって、最古参の裁判官たちのなかから選ばれた。彼らは大法廷と呼ばれる特権的な部門を作っており、そこへは、任官順に従い、勤続年数だけによって到達した。法院報告担当という称号は、常設の官職ではなく、信任による委任だった。それは野心と財産への道だった。ほとんどいつも聖職者に与えられたのは、人に報い、裕福にするあらゆる手段のうち、最も手早く、費用がかからないのが、修道院を与えることだったからである。テレー師[252]が評判と財産を築き始めたのも、この役だった。その後は、通常の道を外れ、オルレアン家に庇護されたダメクール氏に与えられた。カロンヌ氏は、ダメクール氏が大臣職を狙うために、大臣の不利になることをしていると疑い、その役を取り上げた。タンドー師が後任となった。師には、その司法官の驚くべき自在さ、豊富な実務経験、よく整えられた外見はなかった。しかし役の核心は、顧問会議から受けた指示を忠実に繰り返し、質問には、何らかの説明で答えることだった。その説明は、真に明らかにするには軽すぎても、知識より敬意を求める大多数の要求を静めるには、十分だった。この機会のタンドー師の報告は、そういうものだった。勅令の長く退屈な解説である。結びには、この借入れが、きわめて重要である以上、勅令を検討し報告する委員会の任命を求めたいところだが、陛下の臨席によって、陛下が確定的な意見を求めて高等法院へ来られたと分かるので、そうはしない、と言った。
報告担当者の演説のあと、討議が始まった。高等法院長が各議員に順番に意見を求めた。オルレアン公爵は、きわめて短い言葉で、勅令を退けることに賛成した。これが、公爵が宮廷への反対を、公然と表明した最初の行為だった。
才能と人柄によって、ふだん最も関心をもって聞かれる演説者たちは、この日、国王に注目され、印象を与えようと、いっそう力を尽くした。この君主の臨席には、勇気を脅かし、真実を退けるような気配はなかった。王は、自らの同輩貴族の法廷に来て、本来の助言者たちの良心に問うものと考えられていた。言葉の力によって、凡庸さの誘惑から国王を引き離し、理性の光をその精神へ届け、フランスが苦しみながらも国王のせいとはしていない災いを描いて、その心を動かせたなら、司法官たちにとって、どれほど高貴な成功だっただろう。
デプレメニル氏[253]は、とりわけ、この最後の成功を求めた。宮廷に反対する高等法院議員のなかで、第一の演説者と評され、その党派の期待を裏切らなかった。この晴れがましい機会に、その演説は、とりわけ国王個人の感情への訴えとなった。氏は、大臣たちの助言と、顧問会議で前もって定めた意見とを脇へ置き、これから聞く真実を偏見なく量り、それがもたらす確信に導かれるよう、王に懇願した。自分は家族のなかにいて、子供たちに囲まれているのだと考え、その優しい境遇が父親の心に起こすはずの動きを、抑えないよう、切に願った。
各演説者は、ふだんの考えと、自分の才能の種類に最も近い観点から、問題をとらえた。厳格なロベール・ド・サン=ヴァンサン[254]は、国家の現時点の負担の総額と歳入の不足、将来ありうる改善と、すでに認められた赤字、未来の節約と現在の窮乏について、国璽尚書と法院報告担当者が述べたことを、すべて突き合わせた。そして、この借入れには、莫大な赤字しか担保がないとした。前の借入れの担保にすでに充てられた税を、新しい債務へ充てることは、二重担保の詐欺を犯さずにはできない。また、高等法院が、貸し手の資本を投げ込む底なしの深淵を、登録の信用で覆い、安心するよう誘うなら、その犯罪をともに犯すことになる、と述べた。
整理の悪い博識に養われ、言葉があまりに容易に流れ出るフレトー氏は、記憶から取り出す比較によって、国王と会議を驚かせた。氏は、国璽尚書の二重の立場の不適切さを、直接攻撃した。国璽尚書は、なおパリ高等法院長の官職を持ちながら、この法院に大臣として来ており、顧問会議で法案を作り、同じ法案を高等法院で審議しようとしている。こうして、発議と承認、計画立案者の偏りと司法官の冷静な中立を、一身に合わせている、というのである。その結論は、票を数える段階では、ラモワニョン氏を会議から除外せよというものだった。ルコワニュー師は、財務総監でありながら、名誉顧問官としても席に着いていたランベール氏[255]に対して、同じ除外理由を主張した。
オルレアン公爵の助言者の一人として、すでに紹介したサバティエ師は、国王を称賛して機嫌を取り、それによって、大臣たちへの辛辣な諷刺を、いっそう鋭くした。お気に入りの計画、三部会の招集を強く求めた。高等法院には、もはや公的な信用を約束する権限がないと強調し、国民の会議が、自分たちの政務の管理を取り戻し、その会議だけが治療法を持つ掠奪を終わらせるよう、大声で呼び求めた。
勅令に賛成する意見を述べた者も、幾人かいた。この大きな会議のなかで、宮廷に支持者がいなかったわけではない。その支持を表明した者のなかでは、一七七一年の事件の際、大法官モプーの計画に抵抗して目立ったニヴェルネ公爵[256]が、注目された。人は、その活動の終わりまで、気力を保つことが少ない。廷臣は早く老い、また、老いる人のほとんどは、廷臣になる。
討議には、丸七時間が費やされた。国王は途切れない注意をもって聞き、しばしば関心のしるしさえ示した。とりわけ、デプレメニル氏、サバティエ氏、フレトー氏の演説から受けたように見える印象に、抗わなければならなかった。しかし、その点では、国王には十分に準備が施されていた。
意見を述べる者をすべて聞き終え、票を集めて数える時が来た。そのとき、国璽尚書が立ち上がり、国王に近づき、命令を受けて、自分の席へ戻るのが見えた。そこで国王は、次の言葉を発した。
「……を定める勅令を、その形式と内容に従って実行するため、わが高等法院の登録簿へ記載することを命じる」。
いまこそ、オルレアン公爵が舞台へ出る時だった。しかし、公爵のために準備された行動をよく理解するには、国王の用いた表現に注意しなければならない。その定型句は、会議が本当の国王臨席会議だったなら、適切だった。すなわち、採決によって審議が完結し、確認され、確定された多数の意思に従ってしか、国王が命じなかった場合である。しかし、この会議に欠けていたのは、まさに、どんな会議の審議にも不可欠な、この性質だった。自由に討議はしたが、票は集めなかった。実のところ、大臣にもっと勇気と手腕があり、あえて票を数えさせていれば、結果は勅令に有利だっただろうと考えられている。多数を得るため、あらゆる措置を取っていたのは確かだった。一年のうち、高等法院の休暇が、法律上ちょうど終わる時を選んだ。よく知られた慣行によって、休暇は、法定の期限をはるかに超えて延ばされていた。非常に多くの議員が欠席し、六人の部長のうち、会議にいたのは四人だけだった。一方、トゥールーズ大司教は、当てにするすべての者へ、忘れずに前もって知らせていた。そのうえ、出席の権利をほとんど使わない通常顧問官や、職制上、従属しているうえに、性格や野心のため、さらに従属的な者を選んだ請願審査官で、会議を過度に埋めていた。これほど用意をしても、その多数を頼みにできれば、あれほど喜んだはずなのに、あえて多数の意思を問わなかった。会議は、結局、本物の親臨法院となった。引き寄せたい資本を、必ず恐怖させるしるしである。この振る舞いに、軽率さと臆病さが同時に、どれほど含まれているか、いくら注意してもしすぎることはない。
大臣たちは、登録命令のなかで、親臨法院を特徴づける「余の明示の命令により」という言葉を、国王に発音させなければ、すべて補えると信じていた。この言葉を削れば、世間を欺き、国王が国王臨席会議を開いたと言い張れると思ったのである。したがって、この言い逃れを奪えば、最後の一撃を与えることになる。それこそ、オルレアン公爵の助言者たちが、公爵のために整えた華々しい行動だった。国王が話し終えるやいなや、公爵は立ち上がり、言った。「国王が高等法院で会議を開かれるのであれば、票を集め、数えなければなりません。親臨法院であるなら、われわれに沈黙を強いられます」。そこでいったん止まり、国王が答えないので、続けた。「陛下、ご命令の違法性に対する私の抗議を、御足もとに差し出すことを、お許しください」。当時フランスを支配していた考え、行われていた権威の原則へ立ち戻らなければ、この出来事の効果は、とらえられないだろう。血統親王が高等法院で抗議し、国王自身の前で、たった今下された命令を無効として攻撃する、最初の例だったのである。
君主制の歴史全体に、これに似た例はなかった。血統親王が武器を手に、国王の力へ抵抗するのは見られたが、その権威に憲法上の限界を置こうとするのは、見られなかった。
驚き、当惑した国王は、急いで言った。「それは合法である」。そして直ちに、第二の勅令の朗読を進めさせた。それが終わるや、王は立ち上がり、二人の弟とともに退出した。八時間半に及ぶ会議は、王を激しく動揺させ、深い不安の種を残した。
王族と同輩貴族たち、そしてオルレアン公爵も、立ち上がり、慣例に従って王を送り、すぐに戻って審議を再開した。審議は、いっそう熱を帯びた。宮廷の支持者たちは、人々の気持ちを落ち着かせる時間を得るため、会議を打ち切り、一週間後へ延期しようとした。「諸氏」、これは高等法院の用語だったが、その諸氏は疲れきっており、休息が必要だ、と述べた。
非常に若いにもかかわらず、すでに高等法院の部長職にあったルペルティエ・ド・サン=ファルジョー氏[257]も、延期を提案したが、翌日までだけだった。この意見は、弱い精神と臆病な性格に、よく合っていた。そのために氏は、共和主義がフランスで支配的となり、その迷いを終わらせるまで、絶えず、あらゆる党派を損なわないよう気を配った。当時は、いつか共和主義者として、殉教の栄誉と神格化の冠を得るとは、ほとんど思っていなかった。
この日、氏はサバティエ師に激しく反対された。師は、二つの引き延ばしの意見を、一度に打ち破るためにまとめ、こう主張した。「諸氏が飢え渇くべきものは、正義だけである。明日が自分たちの自由になる保証はないのだから、今日の残る時間を、正義へ捧げるべきである」。これらの言葉を口にするとき、師は、口調に何か予言めいたものを込めようとした。続いて、オルレアン公爵に、抗議を書面にするよう促した。そして、公爵の記憶が確かでないといけないので、公爵が口にしたのを聞いたと思う表現を、自分の記憶から見つけ出し、教えた。
この助けによって、公爵は要求に応え、高等法院の登録簿へ、勅令を登録せよという国王の命令の直後に立ち上がり、次の抗議をした、と書かせた。
「陛下、御足もとに、また法院のなかに、次の宣言を差し出すことを、お許しくださるよう懇願いたします。私は、この登録を違法と考えます。それに関与したと見なされる人々の責任を免ずるため、これは国王の明示の命令によるものであると、付け加える必要があると考えます」。
幾らかの議論のあと、サバティエ師が提案した決定が、次の文面で採択された。
「法院は、国王臨席の会議で、たった今行われたことが違法であることを考慮する。同会議では、法令の定める方法で票が数えられず、したがって審議が完結しなかった。よって、一七八八年、一七八九年、一七九〇年、一七九一年、一七九二年にわたる、段階的かつ連続的な借入れを設ける勅令について、登録簿へ記載せよと命じられた、その記載には、いかなる関与もする意思がないと宣言する。その他の事項については、審議を次の開廷日に継続する」。
会議は午後八時に閉じられた。オルレアン公爵は、この日の栄誉をすべて得た。すべてが、公爵と友人たちによって、たいへん巧みに打ち合わされ、運ばれたことは、認めなければならない。
すでにこれほど揺らいだ王権を支えるのに、小さな手段しか使えなかった政府は、オルレアン公爵の抗議と、法院の決定によって、裏をかかれた。その決定は、政府が使おうとした策略を白日のもとにさらし、その弱さを明らかにした。
法院の内部で、オルレアン公爵にすべてが、こうしてうまく運ぶあいだ、外に配置された手先たちは、会議の出来事を広め、これほど立派な市民として振る舞った血統親王の名を、吹聴していた。民衆は群れをなして法院への道を取り囲み、聞こえる話は、公爵の勇気と成功ばかりだった。馬車へ乗るため、公爵が姿を現すと、この移り気な民衆の波が、最も甘い歓呼を浴びせながら、馬車まで運んだ。祖国の解放者でも、これほど見事な凱旋は得られなかっただろう。数日前には皮肉を浴びせられていた者が、今日は祝福に包まれる。人民という名で敬おうとする群衆の判断とは、このようなものである。
不幸にも、公爵は、もっと純粋な薫香を必要としなかった。そのような称賛だけが、手の届くものだった。世論のために真の犠牲を払うことができないのと同じく、それを表明する人々によって世論が高められているとき、その世論にどれほどの価値を認めるべきかを、見分けることもできなかった。
無知な群衆の歓声は、宮廷への敵意を満足させ、いかに安い代価で世論を獲得できるかを示して、公爵の世論への軽蔑を強めた。
トゥールーズ大司教と国璽尚書は、自分たちの策略が、自分たちを捕らえる罠となったことに憤り、力を合わせて国王の怒りをあおった。自分たちの措置が実行されないことを、公共の災いとして示したのである。「血統親王が」と二人は言った。「王座の支えとなるべきなのに、国王の権威に限界を想定し、御前でそれを言うところまで、あえて、その土台を掘り崩したのです。裁判官たちは、大臣、すなわち君主の信頼を預かり、その意思を実行する者を、職務上の不正で非難するほど大胆です。これほどの不敵さは、罰に値します。一方の追放と、他方の拘禁は、このような不祥事を止めるため、必要な見せしめです」。
こうした言葉によって、この弱い政府は、国王を、気まぐれな怒りの性格を持つ措置へ引き込んだ。それは、同じ階層のあらゆる野心家に、軽い迫害の華やかさを羨ませるだけだった。ルイ十六世の大臣たちは、恣意的な権力には、抵抗する者を穏やかに罰する余地はなく、その本性によって、敵を許容するか、押しつぶすかを強いられていることを、知らなかった。
前者は、国王の性格に、より合っていただろう。後者は、大臣たちを大いに誘惑しただろうが、国王の前でも、国民の前でも、それを選ぶほどの強さは感じられなかった。オルレアン公爵の追放を勧め、顧問官フレトーとサバティエの連行を提案するだけで、大きなことをしたつもりだった。前者はドゥランの城塞へ、後者は、海の波が打つ岩の上に孤立する塔のような、モン=サン=ミシェルの城へ連れていかれた。
十一月二十日、午後六時、オルレアン公爵に追放命令を伝えに行ったのは、パリを担当する大臣、ブルトゥイユ男爵だった。この大臣は、同僚の大臣の一人や、血統親王へ向けられる場合、封印王状を届ける任務を特に負っていた。大臣自身が知らせに行く慣例だったので、ときには、失脚した者の不機嫌がにじむ応対を受けた。この場合は、ブルトゥイユ男爵が、オルレアン家の庇護によって出世していたため、立場はいっそう微妙だった。叔父のブルトゥイユ師[258]は、先代オルレアン公爵の家政長官で、公爵から富と好意を豊かに与えられ、甥にも、恩恵と高位の官職への道を開いてもらっていた。男爵が公爵に渡した国王の手紙には、その日のうちにランシーの城[259]へ泊まり、翌日、そこから約十八リュー離れたヴィレール=コトレの城[260]へ向かうよう、命じられていた。公爵は不機嫌に命令を受け、その不機嫌を、命令の持参者に感じさせることを楽しんだ。一時間ほど、幾つかの手配をしたあと、馬を用意させ、馬車へ乗った。指示に従って同行しなければならない男爵が、隣へ乗ろうとすると、公爵は止めて言った。「何をするのだ」。男爵は命令書を示した。「それなら」と公爵は答えた。「後ろへ乗れ」。そして出発した。男爵は、この小さな曇りに心を乱さず、この逸話を話すとき自分で使った表現であるが、自分の馬車へ乗り、できるかぎり追った。
オルレアン公爵の追放の知らせは、ほどなくパリへ広まった。パレ=ロワイヤルの庭と、周囲のすべての街路と広場は、人々であふれ、「オルレアン公爵万歳!」という叫びで響いた。
二十一日の朝、高等法院の各部会が集まり、院長を国王へ送り、遠ざけた高貴な王族を再び身近へ戻し、熱意だけが意見を述べさせた二人の議員を、法院へ返すよう求めると決めた。正午、高等法院はヴェルサイユへ召され、国王は、十九日に採った決定を、登録簿から抹消させた。その際の演説は、残しておく価値がある。
王は言った。「先の月曜日、私が高等法院を去ったあと、あなたがたの採った決定の原本を、持参するよう命じた。その決定を登録簿に残しておくわけにはいかず、ほかのいかなる形でも、それに代わるものを載せることを禁じる。
わが高等法院は、どうして勅令の登録に何の関与もしなかったと言えるのか。私は、意見を述べようとする議員の助言と見解を、七時間、詳しく聞いたあとでしか、登録を命じなかった。しかも、わが王国の三部会の招集を早める嘆願を添えるなら、勅令の登録に多数の賛成があったことは、私にも、すべての者にも明らかだった。私はすでに、一七九二年より前、すなわち、遅くとも一七九一年の終わりより前に、三部会を招集すると言った。私の言葉は、神聖である。
わが高等法院が先王たちへ、幾度となく求めた、この古い形式に従い、私は信頼をもって、あなたがたのもとへ来た。そして、行政の一事項について、あなたがたのなかで顧問会議を開こうとした、まさにその時に、あなたがたは自らを通常の裁判所へ変え、裁判所が職務を行う場合にしか関係しない法令や規則を持ち出して、その会議の結論を違法と宣言しようとする。
わが高等法院の訴えは、敬意ある申し立て、あるいは建白によってしか、私へ届いてはならない。その決意の理由を示さず、わが意思への反対を記録する決定は、いつでも認めない」。
掲げた原則と、三部会についての正式な約束によって注目すべき、この国王の演説のあと、高等法院長[261]は、その朝に決めた、オルレアン公爵の追放と、二人の顧問官の拘禁についての申し立てを、述べる許しを得た。
国王は、次の短い言葉で答えた。「私と同じ王家の血を分ける王族を身近から遠ざけるときは、そうする強い理由があると、高等法院は信じるべきである。不満を持たざるをえなかった二人の司法官を、私は罰した」。
これほど素っ気ない返事は、予想されていた。それでも、高等法院は、再び要求するのをやめなかった。声を上げ、王座の足元まで申し立てを届ける権利を持つ、すべての者が、その例に倣った。あらゆる高等法院が、競って建白をし、すべてが王族と二人の司法官の帰還を求めた。王族と同輩貴族たちは、ほとんど絶えず開かれ、世間の注目を集めていた高等法院の会議への出席を、禁じられた。弱い政府に対して、執拗に迫ることは、効果のない手段ではないと、経験が教えていた。
十一月二十二日の会議では、高等法院は、書記イザボーをオルレアン公爵夫人へ送り、挨拶し、夫の追放について寄せる関心を伝えることも決めた。公爵夫人は、すでにヴィレール=コトレへ出発していた。オルレアン公爵は、追放先へ着くと、早速、パリ高等法院へ、自分のことにかかわらないよう頼んだ。自分について沈黙を求めるふりをすれば、民衆側の党派が、いっそう強く自分の側につくと、よく知っていた。また、自分の利益のための高等法院の熱意が、衰えないことも確信していた。しかし、法院の懇願が、自分の働きかけによるものだと思われてはならなかった。そうなれば、国王をなだめるより、怒らせることに役立っただろう。国王は、自らの権威を危うくせずには、下した罰を、これほど早く取り消せなかった。
同輩貴族たちは、高等法院へ行くことを禁じられ、従うのに苦労していた。追放された王族のために申し立てを準備しようと、リュイーヌ邸へ秘密に集まった。すでに述べたように、同じような要求が、至るところから届いた。しかし、オルレアン公爵には、寄せられる関心に値するところは、ほとんどなかった。自分の役割の華やかさには、さほど感動せず、そのために被る不自由を、苦々しく嘆いた。これほど軽い不自由が、これほど乏しい忍耐と勇気で耐えられたことは、かつてなかった。パリ市民が、新しい偶像の心の底を読めたなら、これほど小さな献身に、これほど多くの敬意で報いていることに、ひどく驚いただろう。
国王の命令は、公爵に、追放中は家族と仕える者以外の訪問を受けないよう定めていた。追放された者の隠退を敬い、とりわけ、その者に向けられた不興に逆らうため、必ず周囲へ集まるはずの、莫大な訪問者の群れを避けたかったのである。しかし、ヴィレール=コトレは、孤独とは、ほど遠かった。寛大なランバル夫人を忘れてはならないが、公爵の近親者たちは、皆、そばへ行くことを務めとし、子供たちも合流した。公爵と公爵夫人の従者たちは、大きな社交の集まりを作っていた。この時期、公爵はビュフォン夫人[262]と親密に結びついていた。若く美しい女性で、その無欲と、極度の献身のため、彼女を知ったすべての人々から、寛大に見られるに値した。週に一度、夫人は、ヴィレール=コトレとパリから等しい距離にある小さな町、ナントゥイユ[263]へ行き、公爵は、そこで会った。
こうした楽しみがあり、壮麗な住まいで、莫大な財産が与える、あらゆる気晴らしに囲まれていれば、幸福だと感じるには、ごく普通の節度があれば足りた。しかし、公爵には、その立場が耐えがたく思えた。この時期、盲目的な復讐が、その心を支配する情念となったことは、認めないわけにはいかない。その生涯の後半の秘密は、ここにある。
復讐の考えが頭のなかで発酵する一方、公爵は、どんな手段によってでも自由を得ようと、熱心に努めていた。自分たちの熱狂を正当化したいパリ市民は、公爵がトゥールーズ大司教の示す歩み寄りと和解の手段を拒んだ、と語っていた。その話では、公爵は、二人の顧問官が呼び戻され、しかも三人全員に対して、厳しい扱いの理由が明確に知らされるまでは、恩寵に復することを拒んだという。
この噂は、パレ=ロワイヤルに近い人々によって、信用を与えられていた。そこでは、コンデ公とブルボン公爵[264]が公爵のために働きかけ、成功しなかったことは、決して話さないようにしていた。国王は、この二人を親切に迎えた。オルレアン公爵へ示した関心も、とがめなかった。しかし、追放の期限を説明するよう迫られると、ただ、「私が親族思いだと信じてほしい」と答えただけだった。
作り話と同じく、黙っておくことにも巧みな、この同じ噂の伝え手たちは、公爵自身が直接、赦しを願った手紙についても話さなかった。その手紙で公爵は、懇願そのものより、確かに、はるかに屈辱的な理由を、恥じることなく掲げていた。要求の根拠にしたのは、自分の行動の正当性でも、意図の清らかさでさえもなかった。国王を動かすため、最も奇妙な手段を探してきたのである。パレ=ロワイヤルで始めた工事を再開し、監督する必要を強調し、中断が財務に大きな損害を与えていると言った。また、財務管理官リモン氏の病気で、財務が放置されているとも述べた。すべてを試そうとして、自分とオルレアン公爵夫人の健康を語り、二人とも、パリへ戻らずにはいられないと言った。最後に、家政長官デュクレの退任を、償いの犠牲として強調した。それには、恩寵の回復、少なくとも、「この軽率な寵臣が、自分に犯させたかもしれない」過ちを、寛大に忘れることで、報いるべきだというのである。
デュクレ氏が辞表を出したばかりなのは事実であり、それに添えられた手紙が世間に広められていた。その手紙によれば、辞職は、まったく自発的だった。忠実な従者は、自分が主人を害していると気づき、主人への愛着が、遠ざかることを命じたという。オルレアン公爵が国王へ渡した意見書の著者として、あまりに多くの憎しみが自分を追っていたので、何か役に立つことは、もう望めなかった。敵の復讐が満たされれば、ほかの犠牲者を求めることはないだろう、と期待したのである。そのすべてに、自分の管理の成功についての言葉が、織り交ぜられていた。家政長官デュクレの辞任も、その手紙も、オルレアン公爵の手紙も、国王の心を動かさず、決意には、なお厳しさが勝っていた。公爵は書面の返事さえ得られなかった。ただ、外務大臣モンモラン伯爵が、会って忍耐を勧め、国王が手紙を書かないのは、拒絶する悲しみを自分に味わわせないためだと、伝えるよう命じられただけだった。
王族と同輩貴族たちが、ようやく戻る許可を得た高等法院は、二人の顧問官と、追放された王族のために、絶えず要求を続けた。十二月は丸ごと、政府の返答を待ち、求めて過ぎた。コンデ公とブルボン公爵は、高等法院の会議への熱心な出席で目立った。幾つかの点では政府に同意しているように見えても、追放された三人のために発言する機会を逃したとは、とがめられなかった。数週間後、厳しい措置は終わった。国王は寛大さを頼りにしようとし、高等法院の懇願には拒んだことを、オルレアン公爵夫人へ与えるのを喜んだ。
サンス大司教、ブリエンヌ氏はトゥールーズ大司教職をサンス大司教職と交換していたが、この譲歩によって、幾らかの休息を得たと信じ、国璽尚書とともに、新しい司法組織を準備していた。それが制定されると同時に、王国のすべての最高法院の職務を停止するはずだった。この新しい計画は、全体法院という名で集められる会議で、承認されることになっていた。大臣が高等法院へ提案した勅令は、そこで登録させるはずだった。しかし、ブリエンヌ氏には、これほど大きな計画と、これほど重大な事情が求める、精神の強さも性格もなかった[265]。
政府が取る措置と、守る神秘的な沈黙は、司法官全体に強い不安を与えた。政府の計画を探り出すため、あらゆる試みがなされ、成功した。デプレメニル氏とゴワスラール氏[266]が、勅令と関連文書の写しを手に入れた。政府は、発見されたことさえ知らないうちに、それらは印刷され、配布された。直ちに全部会合同の会議が招集されたが、オルレアン公爵は出席していなかった。同輩貴族と高等法院議員の全員が、いま集まっている法院以外を同輩貴族の法院と認めず、三部会の招集を遅らせようとする、あらゆる提案を、生命の危険を冒しても退けると誓った。そのあと、暴力によって、フランス君主制を成り立たせる原則を自ら守れなくなった場合、その保管を、国王、血統親王、三部会の手へ委ねると宣言した。
何が起きているかを知った政府は、計画を発見し、公にしたと思われる司法官を、逮捕させると決めた。デプレメニル氏とゴワスラール氏は、高等法院へ逃げ込む。パリにいた武装部隊の一隊が追う。数時間後、二人は、この出動を指揮するダグー氏[267]の手に、自ら身を委ねる。従わなければ、力ずくで連れ去ると、氏が宣言していたからである。デプレメニル氏は、サント=マルグリット諸島へ連れていかれた。人間の精神の奇妙さについては、いつも記録するのがよいので、その歴史のために、ここで指摘しておきたい。同じデプレメニル氏と、当時の聖職者会議での、ブロワ司教テミーヌ氏は、当時は二人とも、宮廷への反対派の首領であり、三部会の断固たる支持者だった。それなのに、憲法制定議会の続くあいだ、二人とも、自ら引き起こした新秩序へ向けた反感、反対意見、策謀によって目立ったのである。
サンス大司教は、二十四時間、一種の破産を試し、数日間、高等法院に対する、ある程度の厳しさを試したあと、すべての計画を捨て、時間を稼ぐため、三部会を約束した。しかし時間は稼げず、退かなければならなかった。あとには、弱められた宮廷、自らの力を知った世論、ひとことで言えば、すでに始まった革命を残した。
オルレアン公爵は、高等法院の最後の動きに、何の影響も及ぼさず、三部会の招集まで、その名も、ほとんど口にされなかった。したがって、この重要な時期を特徴づける出来事には、立ち入らないことにする。
政府自身が、その権力の限界を公言し、すべての有識者へ呼びかけて、三部会を招集する最善の方法を、世間に考えさせた。それは、出発点に一定の原則もないまま、あらゆる種類の政治的議論で、軽率にフランスを揺さぶることではなかったか。事実、三部会の招集が生んだ混乱の、第一の原因は、そこにある。
この混乱の最初の兆候は、サン=タントワーヌ郊外で爆発した。あらゆる証拠は、オルレアン公爵が無関係ではなかったことを示している。レヴェイヨン[268]という、たいへん誠実な製造業者が、大勢の職人を働かせていた。その人々のあいだに、私には分からない何らかの中傷が広められ、生活を支えてくれる人への不満を起こした。同時に幾らかの金が配られ、群衆が混じると人数が増え、反乱は、鎮圧のためフランス衛兵とスイス衛兵を使わなければならないほど強くなった。殺され、あるいは逮捕された反乱者の一人ひとりから、十二フランという同額の金が見つかったことだけでも、より高い身分の誰かが、この騒動を導いたことを示していた。これらの不幸な者の幾人かの自白は、反乱をあおったのが、オルレアン公爵の手先だったことを疑わせない。公爵の放縦な性格は、どんな動きでも楽しんで眺めさせた。動き回り、騒ぎ、厄介事を作るのは好きだったが、それ以上のことを望む勇気はなかった。
この暴動への関与や人物評価についての断定は、回想録の著者タレーランの主張である。訳者による史実の確定を意味しない。
この暴動を指導したのは、しばらく前から、命令書記官としてオルレアン公爵に仕えていたラクロ氏[269]だった。ラクロ氏は、駐屯地で知り合ったノアイユ子爵[270]によって、パリの幾つかの家に紹介されていた。その野心、才気、悪い評判のため、公爵には、嵐のような状況では、手元に置くとよい、何にでも使える男と思われた。ヴォーバンの頌辞、不道徳な小説『危険な関係』、幾つかの戦術の著作、才能と同じく意見も柔軟であることを示した、幾つもの新聞記事によって、公爵は、自分の分封領に属する代官区で、自分を代表する人々へ与えようとする訓令の起草を、氏に任せた。この機会にラクロ氏は、一種の法典を作り、当時の哲学的思想をすべて、別々の条項で示した。公爵には、それが、あまりに露わに見えた。気に入らず、別の起草者を探すと、三部会が扱うはずと考えられていた問題について、最も深く考えた人として、シエイエス師を紹介された。モンルージュのビロン氏の家で会い、公爵はラクロ氏の案を示し、適当と思う変更を加えてほしいと頼んだ。他人の仕事には、ふだんから満足しにくい精神の持ち主であるシエイエス師は、残すべきものを何一つ見いださず、新しい案を書いた。公爵は、それを採り、印刷させた[271]。私の考えでは、この時以来、公爵とシエイエス師との交渉はなく、これが唯一のものだった。しかし、この訓令が大きな話題となり、著者も知られたので、革命のさまざまな時期に、二人のあいだに秘密のつながりがあると想定された。これほど相容れない二人は、かつて存在しなかったかもしれない。その最良の証明は、シエイエスを、ありのままに示すことだろう。その素描を試みよう。
シエイエスは、きわめて強い精神を持つ。心は冷たく、魂は臆病で、不屈なのは頭のなかだけである。非人道的にもなりうる。誇りが後退を妨げ、恐れが犯罪のなかへとどめるからだ。平等を唱えるのは、人類愛からではなく、他人の権力への激しい憎しみからである。しかし、権力を行使するのが、その人に向いているとも言えない。どんな政府の長となっても、居心地よくはいられないだろう。だが、その政府の思考、しかも唯一の思考でありたいと願う。排他的で、支配的であり、継続的で規則正しい行動には、自らを縛らない。知られていることを軽蔑し、その先へ進もうとする。あらゆる障害に反発し、あらゆる妥協を軽蔑する。原則と呼ぶものは、その手のなかでは、自然の不完全さにも、人間の弱さにも曲がらない、青銅の王笏となる。感受性が生む美徳も、引き起こす過ちも、同じく知らない。いったん決めれば、いかなる愛情も止められない。人間は、その目には動かすべきチェスの駒である。精神を占めるが、心には何も語らない。憲法を起草するときは、その憲法を受ける国を、そこに住む人々が、何も感じたことも、見たこともない場所のように扱う[272]。
シエイエスに真の影響を及ぼす唯一の感情は、恐怖である。国民公会では死を恐れていた。その後は、ブルボン家の復讐への恐れが支配している。
シエイエスは、私生活の風習は規則正しく、行動は几帳面で、身の処し方は陰鬱である。私生活には、哲学的に注目すべきものはない。好みには幾らか凝ったところがあり、世話をし、住まいを整え、家具をそろえるのに、気難しい。貪欲ではないが、富を軽蔑するほど心を高く置いてもいない。誇りさえ、その点で政治上の尊敬を損なわせないほど強くはなかった。頭の働かせ方に巧みさはない。命令することしか知らないので、議論しない。会話は下手で、納得させたいとは思わず、屈服させたいのである。気分は陰気で怒りっぽい。女性との肉体的な交わりを妨げる、生来の不調が、それにかかわっているのかもしれない。しかし、女性と冗談を言うことを嫌ってはいない。そのときには、一種の優雅さに届く。微笑み、意地悪で、抑制が利き、かなり鋭い揶揄を使うこともできるが、愛想よくなるほど、身を低くすることは決してない。高慢で臆病だから、必然的に嫉妬深く、疑い深い。したがって友人はいないが、従順で忠実な取り巻きはいる。
シエイエスは、意見の指導者にはなれるが、党派の指導者には決してならないだろう。その精神は、活動的というより高慢である。融通が利かず、望むことをすべてしてもらえないと、隅で不機嫌になり、人々がそこで自分を見ていると思って、慰めとする。顔つきは恵まれたものではなく、厳しく、考え込む性格の刻印を帯びている。眼差しには、優越し、見下すようなところがあり、微笑むときだけ生気を帯びる。青白い顔色、形のはっきりしない体つき、遅く、力のない歩き方、つまり外見全体は、口を開かないうちは、平凡に見える。だからといって、話すのが上手なわけではない。短い言葉しか言わないが、その一つひとつが考えを表し、熟考を示す。真剣な会話で、人を引き込むことは決してないが、圧倒する。
いま述べたすべてのなかに、自分の性格、気分、意見を王族のそれに従わせ、二番手の野心に必要な迎合をなしえた人物がいるだろうか。誰もそうは思うまい。
私は一度、性格の本質から引いた理由によって、オルレアン公爵がシエイエスと示し合わせた関係を持っていたという、一般に定着した見解を打ち破っておく必要があった。同じく真実なのは、公爵と、この時代の際立った人物の誰とのあいだにも、私的な出会いが自然にもたらし、個人的な計画とはまったく無関係な接触以外は、何もなかったということである。
自らの代官区へ訓令を与えたあと、オルレアン公爵は、活動的な政治的人物であることをやめた。弱い性格と、曖昧で不安な立場のため、再びそうなることはできなかった。自らの投票という犯罪のあと、もはや何者でもなく、果たすべき役割もなかった。ただ人々の列にとどまったが、そこは本来の居場所ではなかったので、無力となり、辱められ、殺された。
では、オルレアン公爵が革命の第一の起こし手であり、その名が多くの市民の集合の旗印となり、幾人かの騒がしい者の野心に励まされて、王座にまで目を向けたという、あれほど確固として信じられた見解は、どうなるのか。その生涯の描写を前にしては、この見解は、もはや保てない。なぜなら、不道徳、極端な軽薄さ、無思慮、弱さだけで、その活動も無活動も説明するには、十分だからである。そのうえ、いったん衝動が与えられると、人々の心の急速で激しい動きは、革命のどの時点にも、個人的な野心の発展を許さなかった。初めから、あらゆる思想が、平等を立て、権力を弱める方向へ集まったので、最高位を狙う野心は、必然的に挫かれた。ずっと後、恐ろしい試練を経て初めて、現状を変えるための指導者が必要だと感じ始め、そのとき、ボナパルトが現れたのである。
私がいま示した人々の心の傾向に、オルレアン公爵が気づくのは、遅いほうではなかったはずである。それゆえ、公爵は、野心の真の目的を、いつも疑わしいままにしておいた。すでに述べたように、公爵は、革命の源でも、対象でも、動機でもなかった。激流は、ほかの人々と同じく、公爵を押し流した。
オルレアン公爵は、自分自身、自分の好み、自分の必要へと引きこもった。そこから、一七八九年十月六日のあと、すべての党派が非難した、名誉を傷つけるイギリス行きを承知させる、ひそかな考えが生まれた[273]。莫大な財産が消え始めたのは、この時からである。動かしやすい形に変えられた財産は、今日では、これほど散逸したパレ=ロワイヤルの壮麗な絵画コレクションよりも、さらに痕跡を残さなかった。公爵の自由に使える資金は、すべて、迂回した経路と秘密の代理人によって、イギリスへ渡った。代理人たちは、その無名さに助けられ、不忠実に振る舞い、盗んだものを享受できたのかもしれない。当時、政務の頂点にいた人々の見解は、このようなものだった。
歴史家たちが、フランス革命を起こし、導き、変えた栄誉を与えるか、非難を向けるべき人物を、懸命に探すなら、余計な苦労をすることになる。革命には、起こし手も、首領も、案内者もいなかった。その種をまいたのは、啓発され、進取的な世紀に、偏見を攻撃しようとして、宗教と社会の原則を覆した文筆家たちと、国庫の窮乏と民衆の不満を増した、無能な大臣たちだった。
革命の真の起源と原因を見いだすには、高度な思弁的政治の問題を、量り、分析し、判断しなければならない。とりわけ、哲学的思想と偏見との争い、精神の要求と権力の要求との争いを、深く、巧みに検討する必要がある。というのも、この革命の結果だけを採るなら、ほどなく誤りに陥り、マルゼルブ氏とミラボー、ラ・ロシュフコー氏とロベスピエールを、混同することになるからである。
第二部終わり
第三部
一七九一年―一八〇八年
一七九一年―一八〇八年
憲法制定議会から生まれた姿の王権は、もはや影にすぎず、その影も日ごとに薄れていた。したがって、何より、この脆い権力を危うくしてはならなかった。失った実体を、時が来る前に取り戻させようとすることは、それを危うくすることだった。これほどの姿になっても、なお王権を恐れるふりをしたい者たちは、完全に破壊する口実を探しているだけだった。口実は何一つ与えてはならなかった。国王が、風に抵抗しないため、その力に打ち勝つ葦に倣うだけでは、足りなかった。国外と国内の臣下たちも、まったくの無活動に身を捧げ、国王も共有していると非難されうる考えを、何一つ表さないことが必要だった。しかし、これほど冷静な政策を、誰に理解させられただろうか。革命の動きには、すでに勢いがつき、すべての階級を揺さぶっていた。
もはやネッケル氏を含まない当時の内閣[274]は、ヨーロッパの主要な宮廷に働きかけ、ある国々には武装しないよう、ほかの国々には武装を解くよう求めるのが、王権に有益だと感じた[275]。ジロンド派の名で知られる第二の議会の指導者たちは、国王の内閣が受け入れないと確信し、この働きかけを要求していた。その見込みは外れた。当時の外務大臣レサール氏[276]は、この考えを取り上げ、そのためにイギリスへ行くよう、私に提案した。私は、しばらく遠ざかりたいと思っていた。疲れ、うんざりしていたので、この任務の成功の見込みが小さいことは、よく知っていたが、引き受けた。国王はイギリス国王へ手紙を書き、私が持参した[277]。
一七九〇年なら、戦争は王権に有益だっただろう。一七九二年には、必ず王座を倒すはずだった。革命家たちが戦争を望んだのは、そのためである。彼らの一人、ブリソ・ド・ヴァルヴィル[278]が後に認めたように、彼らは、戦争が始まれば、その指導を任される国王は、自分たちが渡すことを望む手段しか持たないため、自分たちの意のままになると考えていた。敗北を避けられなくし、その責任を国王へ負わせれば、軍も群衆も、王に対して蜂起させるほど容易なことはないからである。恐ろしい計算だが、出来事は、それが、まれな巧妙さで立てられていたことを証明した。近隣に武装して陣取る亡命者を、王国の国境から遠ざけ、どこでも平時の態勢にすれば、この恐ろしい企てを挫けたかもしれない。何もされなかった。いや、行われた働きかけは、これほど優柔不断な性格を持っていたので、無益となった。そして国王は、弱さのため、何より国外と通じているという疑いを避けようとし、議会へ宣戦を提案するよう強いられるままになった。議会は急いで可決した。それ以後、君主制の運命は決まった。国境で起きた出来事[279]が、六月二十日の侮辱と、ほどなく、八月十日の犯罪の口実となった。ラ・ロシュフコー公爵[280]への深い敬意のために、私は、その目撃者となった。公爵の手紙を受け、私はパリへ戻っていた。当時のパリ市長ペティオン[281]を、私たちの決定の一つで停職にしたため、その人気が、セーヌ県の行政官たちへ及ぼした、高潔で有益な危険を、ともにするためだった。私は、その同僚である名誉を持っていた。付け加えなければならないが、連盟祭の日、国王と王妃のいるバルコニーの下を通ったとき、王妃が私たちへ示した幾らかの賛意のしるしは、群衆の脅迫と侮辱を、倍増させた。
この日の事件と、シャンパーニュでのプロイセン軍の災難[282]のあと、革命家たちは、王権を永久に廃したと思い上がった。狂信が、彼らを盲目にしていた。しかし、王座をすぐに立て直し、武力でルイ十六世を戻せると信じた人々も、劣らず盲目だった。事態を、そこまで進ませてしまった以上、もはやルイ十六世に統治させることを、考えてはならなかった。考えるべきは、王自身、王妃、子供たち、そして王の妹を救うことだった。それはできた。少なくとも試みるべきだった。フランスが戦っていたのは、まだ皇帝、帝国、サルデーニャだけだった。ほかのすべての国が協調して仲介を申し出、タンプルの囚われ人たちが国外へ出て、望む所へ退く自由を持つという、ただ一つの条件のもとに、フランスが好んで選ぶ、どんな政体でも承認すると申し出ていたなら、民衆煽動家たちは、喜んで受け入れなかったとしても、拒める立場にはなかった。どんな口実で、拒絶を飾れただろうか。フランスに、こう言ったのか。「全面的な平和を申し出られているが、私たちは、ヨーロッパ全体を相手に、自分たちだけで戦う全面戦争を望む……独立は認められるが、私たちは、それを問題にし、戦場の偶然に委ねたい……自分たちの望むように統治する権利は、争われていない……国王を押しつけようとする者もいない。しかし私たちは、自分たちを治めた王を殺したい。その権利を、私たちは認めないが、ヨーロッパ全体が認め、しかも私たちの手中にはない相続人へ移すために」。彼らが全面戦争を望んでいなかった証拠に、まだ平和を保っていたすべての政府へ、急いで平和的な宣言を行った。そのうえ、ルイ十六世の血を欲していた者は、ごく少なかった。その後、実際に血を流したのは、ヨーロッパが、上に示した方策を採っていれば、一つも存在しなかったはずの動機によるものだった。
したがって、王家を救うことはできた。二十二年にわたる戦争も、防げただろう。それは、幾つもの王座を倒し、すべてを倒しかけ、幾つかを不完全に立て直すことによって、文明そのものを、なお脅かしている。革命政府、ここではポリガルキーという耳慣れない言葉を使うべきだろうが、それもフランスでは、もっと早く終わっただろう。対外戦争と勝利だけが、それを維持できたからである。
polygarchie は複数の者の手に権力がある体制を指す語。数の上での多数派支配とは限らない。ここでは著者が革命政府を呼ぶために用いる、特異な用語として音写した。
一七九二年八月十日の事件のあと、私は臨時の執行権力に、ロンドンへの一時的な任務を求めた。その目的には、私が幾らか関与する権利を持つ、科学上の問題を選んだ。以前、憲法制定議会にした提案に、かかわっていたからである。王国全体に統一した度量衡の体系を設けることが、問題だった。その体系の正確さを、ヨーロッパ全土の学者が検証すれば、後には広く採用される可能性があった。したがって、この件でイギリスと協議するのは有益だった。
本当の目的は、フランスを出ることだった。とどまっていても無益で、自分にとって危険でさえあると思われた。しかし、永久に扉を閉ざさないよう、正規の旅券を持ってしか、出たくなかった。
フランスで情念が勝ったように、ヨーロッパの政府でも情念が勝った。四方から攻撃されれば、フランスは抵抗できないと思い込んだ。勝利ばかり夢見て、フランスと戦う方策を採り、その成果に、あまりに大きなものを期待したので、王家の危険を見失った。共和派は、戦争が避けられないと気づくと、恐れていないことを示すため、先に宣戦した。
私は、恐るべき一七九三年の全期間と、一七九四年の一部を、イギリスで過ごした。パリで知り合ったランズダウン侯爵[283]に、きわめて親切に迎えられた。たいへん高い精神の持ち主で、会話は生き生きとして豊かだった。まだ老いの衰えを感じていなかった。侯爵には、狡猾だという、ありふれた非難が向けられた。イギリスでもフランスでも、優れた力を恐れられる人々を遠ざけるのに使われる非難であり、そのため侯爵は、政務へ戻れなかった。私はよく訪ね、知りたいと思う優れた人物が来ていると、いつでも親切に知らせてくれた。そこでヘイスティングズ氏[284]、プライス博士[285]、プリーストリー博士[286]に会い、カニング氏[287]、ロミリー氏[288]、ロバート・スミス氏、デュモン氏[289]、ベンサム氏[290]と親しくなった。ランズダウン卿の息子、当時イギリスの希望の一人だったヘンリー・ペティ卿[291]とも親しくなった。幾度かの時期に親密な関係を持ったフォックス氏[292]の友人たちも、皆、ロンドンでの滞在を快くしようと努めてくれた。午前中は書いて過ごした。アメリカからフランスへ戻ったとき、この時期に書いた覚書を、すべて返してもらったが、いま書こうとしている著作に、何の役にも立たないのを見て、たいへん驚いた。この時期の出来事を語るのは、私には不可能だろう。知らないのである。その筋道は、私には失われている。
そのうえ、革命の最も恐ろしい数年間、フランスから離れていたため、出来事の細部は知らず、遠くから大筋をとらえるのが、やっとだった。また、これほどの卑劣さが、これほどの残酷さに混じる、おぞましい光景から、あまりにしばしば目をそらそうとしたので、それを描くことはできない。私たちは、アンリ四世の治世全体、ルイ十四世の治世全体を、なお目の前に持っているのに、昨日の事実は、それに幾らか加わった人にさえ、不確かなものとなる。相次ぐ速さのために、ほとんど互いを消し去ってしまったのである。おそらく、民衆から発するものすべてには、刻印の薄さも伴うのだろう。その行動が残す痕跡は一時的で、民衆が用いる人々の性質も、記憶を助けない。舞台に現れる日までは無名で、役割が終われば、すぐに無名へ戻る。
率直に言えば、この大きな災厄の細部が失われるのを見ても、私は少しも悲しまないだろう。歴史上の重要さは、何もない。計画も目的もなく、抑えられない情念から自然に生まれた行為から、人は、どんな教訓を引き出せるだろうか。
むしろ、破局に先立つ事実を知ることに、人々のための、あらゆる教訓があり、資料はすべて存在する。そこに、革命の多くの強力な原因を解きほぐせる。そこにこそ、示すと有益な、人間社会の光景がある。君主にも、有力者にも、民衆にも教えるからである。この件について、私個人の知ることは、すべて、この著作に収めた。同時代の人々にも、同じことをするよう願う。きっと、私より上手にできるだろう。私の目には、これらの昔の出来事を振り返ることには、計り知れない利点がある。あらゆる不寛容を防ぐことである。君主制の最後の二十年を見るなら、幾らかの高潔さと誠実さを持つ人は、自分がしたこと、言ったこと、書いたこと、非難したこと、認めたことを思い出して、何らかの過ちを見つけずにはいない。何らかの影響を及ぼしていたのである。誰も、自分が与えたすべての例を知らない、とさえ言いたい。だから私は、知り合ったすべての人に、王族であれ私人であれ、自分の責任を完全に免れることを認めない。
一人ひとりの先を見ない態度が、同じほど有害だったと言いたいのではない。しかし、誰がどれほどの非難に値するかを、確実に定められる者は、誰もいない。行動する時代と、置かれた事情は、あらゆる行為の性格を変え、少なくとも修正する。ある日には単純で、おそらく許されることが、別の日には非難される。それゆえ、フランス人すべての良心へ訴えることを強調するのは、憎しみと不寛容の感情をすべて取り除き、長く美しい祖国から追われていた、穏やかな心の傾きを呼び戻そうとするためだけである。
イギリスへ長くとどまるつもりはなかった。フランスで名指しで法の保護の外に置かれていたとはいえ、自分の属していない亡命者の範疇に、自らを入れたくはなかった。しかし、イギリスの大臣は、まず亡命者たちの憎しみを幾らか満足させれば、共通の大義への熱意を示せると考えた。そのため、議会から得た外国人法[293]を利用し、二十四時間以内にイギリスを去るよう命じた。初めの衝動だけに従ったなら、その場で出発しただろう。しかし、尊厳が、自分へ向けられた不当な迫害に抗議するよう命じた。そこで、ダンダス氏[294]、ピット氏[295]、国王自身へと、次々に訴えた。要求は拒まれ、従うしかなく、アメリカ合衆国へ最初に出帆する船だと言われた船に、泊まりに行った。逆風と、船長の幾つかの用事のため、ほぼ十五日間、テムズ川にとどまった。ダンダス氏の友人が船へ来て、岸近くに所有する家へ下りるよう強く勧めてくれたが、応じようとはしなかった。
そのころ、何を断っても、私は楽しかった。たいへん不当な迫害にも、甘さはある。自分が何を感じていたかは、一度も十分に理解できなかったが、一種の満足のなかにいたのは、事実だった。誰もが不幸だったあの時代、自分も迫害されなければ、むしろ残念に思ったかもしれない気がする。
ついに出帆した。二日目、テムズ川を出たばかりで、激しい嵐に遭った。私は、フランスとイギリスのあいだにいた。人が置かれうる境遇のなかでも、確かに、最も危ういものの一つだった。フランスが見える……そこでは、私の首は法の保護の外に置かれている……イギリスへ戻る……安全は脅かされないが、私を傷つけようとした政府へ、避難所を求めるのは、あまりに苦しかった。
幸い、海岸から私たちの危険を見たファルマスの船乗りたちが、何人か、荒れ狂う海を冒して、助けに来てくれた。港へ入ることができた。索具全体を傷めた船を修理するあいだ、かなり注目すべき出来事が、この旅で感じることになる、あらゆる印象に、新たな種類の印象を加えた。食料を仕入れていた宿の主人が、アメリカの将軍が泊まっていると言った。会おうとした。普通の挨拶を交わしたあと、その国について幾つか質問したが、最初の問いから、迷惑そうに見えた。相手がいつも途切れさせる会話を、幾度か持ち直そうとして、無駄に終わると、アメリカへの紹介状をいただけるかと尋ねた。「いいえ」と答えた。しばらく沈黙し、私が驚くのを見ると、付け加えた。「私は、自分の国への紹介状を差し上げられない、ただ一人のアメリカ人かもしれません……あちらとの関係は、すべて切れています……決して戻ってはならないのです」。名を言う勇気もなかった。アーノルド将軍[296]だったのである! 私は、深い哀れみを感じたと認めなければならない。政治の清教徒たちは、非難するかもしれないが、私は自分を責めない。その苦しみの刑に、立ち会っていたのだから。
ファルマスを離れた。風はよかった。船の甲板で、乗客たちは皆、海岸へ目を向け、うれしそうに言った。「まだ陸が見える」。私一人は、見えなくなったときに、安堵した。そのとき、海は、私にとって大きな魅力を持っていた。海から受ける感覚が、心の状態に合っていたのである。
数週間の航海のあと、ある朝、恐れていた「陸だ! 陸だ!」という叫びに、起こされた。船長も船員も乗客も、皆、待ちきれない喜びを示していた。甲板へ上ると、デラウェア川を上らせるために来た水先案内人と、岬を離れる一隻の船が、同時に目に入った。案内人に、見えている船の行き先を尋ねると、カルカッタへ向かうと答えた。私はすぐに、その船長へ小舟を送り、もう一人乗客を受け入れるか、聞かせた。行き先は、どうでもよかった。旅は長いはずで、望んでいたのは、海を離れないことだった。しかし、乗客の定員がすでに満ちていたので、フィラデルフィアへ連れていかれるままになるしかなかった。
到着した私は、普通なら旅行者の関心を引く新しいものに、嫌悪を覚えていた。幾らかの好奇心を呼び戻すのにも、大いに苦労した。フィラデルフィアでは、パリで知り合ったオランダ人、カズノーヴ氏と再会した。かなり開明的な頭脳の持ち主だったが、遅く、内気で、たいへん無頓着な性格だった。長所によっても短所によっても、私の役に立った。何も急かさず、本人も、ほとんど何にも関心がなかったので、私は抵抗する必要がなかった。反対も、助言も、指導もないまま、本能だけに導かれ、知らず知らず、目の前の大きな光景を、もっと注意深く見るようになった。
北アメリカが植民地でなくなって、まだ十二年しか経っていなかった。自由を得た初めの時期は、自ら定めた最初の憲法が不十分だったため、繁栄のためには失われた時期となった。公的信用の基盤が置かれず、多少の違いはあれ信用を失った紙幣が、あらゆる貪欲を刺激し、不誠実を励まし、すべての取引を混乱させ、独立初期に必要な制度を、見失わせた。合衆国で財産が真に安定し、社会的な保障と、対外関係を安心させる保障が与えられ、政府が列強のなかへ位置を占め始めたのは、新しい連邦憲法の時期、一七八九年になってからのことだった。
ここから、合衆国は始まるのである。
海への思いは、まだ私を追っていた。何一つ思い出させるもののない、この広大な国のただなかにいるのは、ほとんど海を離れたことにもならなかった。
フィラデルフィアから遠ざかろうと思った。疲れきってみたかったのである。ボーメッツ氏[297]と、ヘイデコペルというオランダ人に、内陸を一緒に旅しようと提案した。二人は承諾し、初めの数日から、その試みが気に入ったと認めなければならない。私は驚きに打たれた。首都から五十リューも離れないうちに、人の手の痕跡は、もう見えなかった。まったく手つかずの、野生の自然があった。世界と同じほど古い森、耕作なしに育てた土地を覆う、老いて死んだ草木の残骸、それに代わって育ち、同じように死ぬはずの別の木々、しばしば行く手を遮る蔓、新鮮で力強い緑に覆われた川岸、ときには広い自然の草原、別の場所では、初めて見る花々。そして、通り道のすべてを倒した、昔の暴風の跡があった。一つの方向へ規則正しく、長く倒れた木々が、これらの恐るべき現象の驚く力を証している。小高い所へ達すると、目は、限りなく広がる光景のなかを、きわめて多様で心地よい仕方でさまよう。木々の頂と、広大な空間の一様さを唯一破る地面の起伏が、独特の効果を生む。私たちの想像力は、その広がりのなかで働いた。都市、村、小集落を置いた。森は山頂に残り、丘は穀物に覆われ、眼下の谷の牧草地には、すでに家畜の群れが草を食みに来た。このような国の旅には、未来が、言い表せない魅力を与える。少し前までは、ペン[298]と二千人の移住者が、フィラデルフィアの基礎を築いた場所も、こうだったのだ、と私は言った。そこでは今日、八万人の住民が、ヨーロッパのあらゆる贅沢を繰り広げている。数年前には、ベツレヘム[299]の美しい小さな町も、こうだった。住むモラヴィア兄弟団の人々は、すでに、家々の清潔さと、周囲の土地の驚くべき肥沃さで、人を感嘆させている。一七八三年の講和のあと、ボルティモアは、小さな漁村にすぎなかった。今日では、広く優雅な家々が、至るところに建ち、まだ切り株の消える暇もなかった木々と、土地を争っている。一歩ごとに、自然の抗いがたい歩みが、いつか膨大な人口によって、この動かない土地の塊を活気づけようとしていると、確信させられる。土地は、実りを与えられるため、人の手だけを待っている。この状態について予言する楽しみは、ほかの人に任せる。私は、海沿いの都市から、どちらへ数マイル離れても、感嘆する明るく肥沃な田園が、十年前、五年前、二年前には、人の住まない森にすぎなかったと知らされる、その事実だけを記す。同じ原因は、同じ結果を生むはずであり、その力が絶えず増して働くなら、なおさらである。したがって人口は、北アメリカの耕された部分とは、なお比較にならない広さを持つ、これらの空いた土地を、日々、開いていくだろう。
「人の手の痕跡」「人の住まない森」などは、著者の観察と開拓観をそのまま伝える表現であり、先住民の居住・土地利用がなかったことを訳者が確認したという意味ではない。
こうした考え、いや、印象を十分に味わうと、本を書く必要を感じるほど、頭が空っぽでも活発でもなかった私は、都市へ近づいた。その際、アメリカへ避難してくる資本の、かなりの部分が、開墾と大規模な農業へ使われることを願った。
文明の発展の、あらゆる遅さを経験しないまま、すでに洗練されたヨーロッパの風習を模範とした新しい国民は、自然という大きな学校で、自然を学ぶ必要がある。そして、すべての国は、農業から始めなければならない。私はここで、すべての経済学者とともに言うが、社会状態の最初の基礎を作り、財産への敬意を教え、他人の利益に反しすぎるとき、自分の利益は、いつも盲目になると知らせるのは、農業である。人の義務と権利のあいだにある、欠かせない関係を、最も直接に教えるのも農業である。耕作者を畑に結びつけることで、人を祖国に結びつける。初めての試みから、公私の繁栄の、あらゆる現象の源である分業の必要を感じさせる。人の心と利害へ深く入り込み、大家族を自分の富と呼ばせる。また、従順に受け入れることを教え、それによって、世界を支配する最高で普遍的な秩序へ、私たちの知性を従わせる。これらすべてから、私は、革命を終わらせる術を知るのは、農業だけだと結論する。人のすべての力を有益に使い、関心を失わせずに落ち着かせ、新しい試みを見守るための経験に、敬意を教えるのは、農業だけだからである。また、ただ規則正しく働くことの大きな結果を、いつも目の前に示すからであり、最後に、何一つ早めも遅らせもしないからである。
革命の時代には、巧みさは大胆さのなかだけに、偉大さは誇張のなかだけに見いだされる。革命を終わらせたいなら、用心深さが大胆さに代わらなければならない。そのとき、偉大さは節度のなかだけに、巧みさは慎重さのなかだけにある。したがって、自由であることを望み、世界を不安にさせたくない政府は、穏やかにするものへ、主な力を注がなければならない。農業は侵入しない。根を据える。商業は征服する。広がろうとする。
フランス革命のあと、対外商業には、フランスの第一の産業となり、したがって国の風習へ影響するには、障害が多すぎた。しかし、人々の心に残った動揺と幻想の続きとして、思想が、あまりに恐れられるとおり、公債投機へ向かうなら、その害は危険なものとなる。この種の組み合わせでは、策略が使われすぎ、富を得るのも破滅するのも、速すぎるからである。
アメリカ政府は、地理的な位置に引きずられすぎた。進取の精神を励ましすぎた。住民を得るより前に、ルイジアナが必要となり、いまやフロリダも必要なのである。商業は、セントローレンス川近くのサン=クロワ川から、メキシコ湾まで、港と停泊地を欲しがる。しかし、北アメリカをなす五億エーカーの土地の十分の九は、まだ耕されていない。あまりに多くの活動が商取引へ向かい、農耕へ向かうものは少なすぎる。国全体の思想へ初めに与えられた、この方向は、社会の基礎を、不安定なものにする。内陸へ三十リューも行かないうちに、同じ場所で、物々交換をしながら、ヨーロッパの主要な商業都市へ為替手形を振り出すのが見られる。あまりに不釣り合いであり、そこには社会の病がある[300]。
ボストンから六十マイルの所で、六千フィートの板材が雄牛一頭と交換され、ボストンそのものでは、フィレンツェの麦わら帽子に二十五ルイが払われるのを、私は見た。
東部の諸地方の端、フレンチマン湾の近くで、激しい嵐のためマチャイアス[301]に足止めされたとき、泊まっていた家の主人に、幾つか質問した。その土地で最良の家に住み、当地の言い方では、たいへん尊敬に値する人物だった。土地の質と価格の話が尽きたので、フィラデルフィアへ行ったことがあるか尋ねた。「いいえ、まだです」と答えた。四十五歳ほどの男だった。私は、ワシントン将軍を知っているかとは、ほとんど聞く勇気もなかった。「一度もお会いしたことはありません」と言った。「フィラデルフィアへ行けば、会えたらうれしいでしょうね」「ええ、もちろん。でも、何よりも」と、目を輝かせて付け加えた。「あれほど金持ちだというビンガム氏に、会ってみたいのです」。
アメリカ中で、同じ金への崇拝を見いだした。しばしば、その表し方も、同じほど粗野だった。贅沢が、あまりに早く到来したのである。人の第一の必要が、ようやく満たされる程度なのに、贅沢があるのは、目障りだ。ロバート・モリス夫人の客間で、その家の主人の国産の帽子が、優雅なセーヴル磁器の小卓に置かれているのを、覚えている。その小卓は、あるアメリカ人がトリアノンで買ったものだった。帽子のほうは、ヨーロッパの農民でさえ、ほとんど、かぶりたがらないようなものだった。オハイオ川のほとりでは、スミス氏が、当地でログハウスと呼ばれる種類の家に住んでいた。この家の壁は、角材にしていない木でできている。客間には、最も美しい青銅装飾を付けたフォルテピアノがあった。ボーメッツ氏が開くと、スミス氏は言った。「弾こうとしないでください。調律師は、ここから百マイルの所にいて、今年は来ていないのです」[302]。
私たち、古いヨーロッパの人間には、アメリカの贅沢がしようとすることのすべてに、何か不器用なところがある。私たちの贅沢も、しばしば無思慮や軽薄さを示すことは認める。しかし、アメリカでは、贅沢が示すのは、生活の営みでも、軽はずみな楽しみのなかでさえ、繊細さが、まだ何一つ風習へ浸透していないことを証す欠点だけである。アメリカについて話すときは、少し長くなるのを、お許しいただきたい。そこでは、あまりに独りだったので、会話へ投げ入れただろう多くのことが、今日、筆のもとに並んでくるのである。
フィラデルフィアとニューヨークで過ごした二度の冬を利用し、アメリカ革命によって歴史に名を置いた、主要な人物たちに会った。とりわけハミルトン将軍[303]は、その知性と性格によって、ピット氏やフォックス氏が存命中でさえ、ヨーロッパの最も優れた政治家たちと、肩を並べるように思われた。
上で述べたように、旅のなかで、農業はあまり奨励されず、商業のほうが奨励されていることに気づいていた。政府自身も、この二つの繁栄の源のあいだで、商業の側に大きな重りを置いていた。つい最近にも、アメリカ全土を覆い、もっぱら商業の利益のために働く公的な銀行が与える、あらゆる仮想的な手段によって、国の実際の手段を増やしていた。この方向をいったん採れば、虚栄心と貪欲は、賢明さ、節度、ただ誠実であることの性格を帯びるものを、ほどなく、狭い考えとして分類するはずだった。かつて本国は、植民地の産物を自らのうちに集め、自分で定める制限によって、その商業上の企てを統制していた。アメリカ合衆国は、その本国が設けた障壁を取り払い、位置の利点と、独立が与える力を、うまく利用している。旧世界のあらゆる市場へ、予想外の大量の商品を送り込む。それらは直ちに価格をすべて変え、避けようのない混乱を、商業にもたらす。この混乱すべての主な原因は、アメリカの東部の港と南部の港との、大きな隔たりにある。そこから、一年の同じ時期に、同じ産物を積む何千もの船が、ヨーロッパのすべての港へ向けて出るのである。したがって、新世界とヨーロッパとの商業は、まだ長く、偶然に委ねられるだろう。
現在の混乱に、これほど痛ましく悲しむ、不幸な祖国へ、思いを繰り返し向ける長い夜々、私は、しばしば、その未来を考えるに任せた。そして、フランスとアメリカの、双方に有利な商業関係を妨げる困難を、取り除く、少なくとも減らす手段を探した。
想像力に任せる探究が、どれほど空想的かは、よく感じていた。しかし、それが楽しかった。すでに予見され、指摘されていたスペインと植民地の紛争が、何らかの形で終わるときまで[304]、理性の示すとおり、推測するのを延期するのは、希望を遠ざけすぎることだった。確かに、大国の海上・商業関係が、規則正しい歩みを取りうるのは、本当には、そのときになってからのはずである。それゆえ、秩序への私の希望は、眼前のあらゆるものによって、日々、乱された。
一七九四年、私は、ベンガルへ行った最初のアメリカ遠征航海の帰還を目撃した。船主たちは莫大な利益を得て、早くも翌年には、十四隻のアメリカ船が、さまざまな港を出て、インドでイギリスの会社と、その豊かな利益を争いに向かった。アメリカの競争には、突然現れることによって、何か敵対的なところがある。商業の偶然の要素を際限なく増やし、その結果は、巧みな計画の報いであることが少ない。それが、文明化されたすべての国で人口が増え、その増加の生む必要が、すでに活発な人間の情念を、いっそう強める時代に起きている。
これらすべての考察は、未来を予測するのを、たいへん難しくし、それを導くことを、確かに、ほとんど不可能にする。
しかし、祖国から遠く投げ出され、宿屋や粗末な部屋にいる人間には、何も難しくない。自分の屋根の下で、平穏に座っている者には、何もかも、もっと難しく見える。そこで私は、小さな部屋が精神に与える状態を利用し、大政治を行い、世界を整えた。憲法制定議会のよき一員として、人間の性格を抽象の外へ置いたあと、哲学の精神を頼りにし、国民と個人の利害を釣り合わせ、諸国の相互の政治的利益のもとへ近づけ、ふだんの関係に寛大な平等を立てる、新しい普遍的な国際法典を求めた。思弁的な考えへ取り入れずにはいられない、商業の完全な自由と関税の廃止という経済学者たちの体系を、実現しかけていたほどに思う。そのとき突然、まさに、友人ハミルトンの提案でアメリカ議会が採用した、新しい関税率表が現れた。氏との初めの会話は、アメリカ行政のこの部分をめぐるものだった。「あなたがたの経済学者は、美しい夢を見ました」と氏は言った。「善意の人々の、空想的な行きすぎです。おそらく」と付け加えた。「理論上、その体系を攻撃し、誤りを示すこともできるでしょう。しかし、甘い幻想のなかに置いておきましょう。世界の現在の情勢だけでも、その計画の実行は、少なくとも延期すべきだと証明するには十分です。そこまでにしておきましょう」。私は経済学者を、あまり弁護しなかった。しかし、自由な方策が幾つかありえても、そこから、すべての貿易国民に利益が生じるとは限らない、という考えを捨てるには、大いに苦労した。自分の国で法の保護の外に置かれていると、人類愛の思想は、群れをなしてやって来る。
「利益が生じるとは限らない」に当たる箇所は、HTML・TXT・比較用原本画像の印刷頁244が、いずれも否定形「d’où il ne résultât pas des avantages」としている。前後の議論とのつながりには解釈上の難しさがあるが、否定を削除・反転せず訳した。
ハミルトン氏は、いつか世界が、すべての生産活動を、固定的かつ永続的に分かち合う可能性については、それほど断定的には退けないように見えた。
私は氏に言った。ヨーロッパは、贅沢にかかわるあらゆる技芸と、生活の楽しみを増すあらゆるものを持ち、それをうまく育てている。
新世界には、独自の富がある。競争のために、同種の栽培をどこかで始めようとしても、いつも有利に競える農作物がある。
人間の能力の使い方を、この二種類に分けることは、少なくとも長いあいだ、諸国民のあいだに必ずできる関係の、基礎と尺度になりえないだろうか。一方には、生活で最も普通に使うものを、手頃な値段で受け取る必要が、日々新たに生まれ、他方には、生活をもっと快く、穏やかにするものを楽しみたい願いがあるのだから。
この自然な組み合わせは、うまく構想された交換の、広大な基礎を与えないだろうか。その交換は、列強間の協定で規律でき、さまざまな国の商業関係を形づくるだろう。
「その考えを実行できるものにするには」とハミルトン氏は言った。「かつて旧世界にあったような大市場が、新世界にできる時を待たなければなりません。その時は、それほど遠い未来ではないかもしれません。あなたがたには、地上のすべての産物を交換する市場が、四つありました。ロンドンは、私たちの商業上の成功にもかかわらず、まだ長く第一であり続けるでしょう。アムステルダムは、オランダの事情がいまのままなら、ロンドンが奪うでしょう。カディスは、北か南か、私たちアメリカ側が受け継ぐでしょう。マルセイユは、レヴァントの諸港によって、たいへん栄えていましたが、あなたがたは、それを失う瀬戸際にいます。
「私たちには、二つあれば足りますが、その二つは不可欠です。北アメリカに一つ、南アメリカに一つです。この大市場がいったんできれば、商業は規則正しい道へ戻れます。商業上の企ては、もはや偶然だけに委ねられません。各市場が自らの利益のために、持ち込まれるすべてのものの価格と品質を公表しなければならず、それによって大きすぎる変動を防ぎ、あらゆる商取引の利益と損失を、予測された範囲に収められるからです。そのときには、世界各地の航海者が、すべての港へ、安心して来られるでしょう」。
HTML・TXTはいずれも perles(真珠)としているが、比較用原本画像の印刷頁245は pertes(損失)と明瞭に読める。原本画像に従い「損失」と訳した。底本テキストは変更していない。
ハミルトン氏の、祖国の繁栄を求める個別の考えには、いつも全般的な秩序の精神が混じっていた。私は、それに感嘆した。それが実現するかは分からない。しかし、実現するのは確かに、侵食し、侵入したいという願いが、アメリカ人と他国民との全般的な関係を損なわなくなり、自分たち自身の利益へ立ち返って、自国の内側を開くことを求める日になってからだろう。その開拓は、自分たちの住む大陸をなす土地の広大さに釣り合う価値を、自国の領土に作り出すことへ行き着くはずである。
アメリカで学びたかったことは、ほぼ終わりに来ていた。フランスにもイギリスにもいないこと以外の目的を持たず、歴史の始まる、この大きな国を見て知ること以外の関心も持たず、ほぼ三十か月を、そこで過ごしたところだった[305]。
ヨーロッパからの知らせによっても、将来が不確かなままだったので、巧みに、倹約して行えば、大きな利益を得られそうな事業に手を出した。用船した船で、自らインドへ行くはずだった。その積荷には、フィラデルフィアの幾つかの大商会と、幾人かのオランダ人資本家が出資していた。船は荷積みを終え、出発するところだったが、そのとき、フランスへの帰還を認める国民公会の決議を受け取った。私からの働きかけは何もなく、知らないうちに、ほとんど面識のないシェニエ氏[306]とドーヌー氏[307]の提案で、採られていたのである。考えが、どれほど異なろうとも、二人には、いつまでも感謝を保つだろう[308]。それを利用するか、フランスへ永遠の別れを告げるか、どちらかだった。大きな事業で仲間にしていたボーメッツ氏が、私に代わってインドへ行き、そこで亡くなった。深い愛着を持っていたラ・ロシュフコー氏[309]と、いつも思い出の大きな部分を占めるだろうハミルトン氏に別れるのは、つらかった。私は、ハンブルクへ向かう、あまりよくないデンマーク船へ乗った。
フランスへ戻る前に、そこで何が起きているかを知りたかった。ハンブルクにいたフラオー夫人[310]には、それを教える気が、あまりないようだった。私がまだエルベ川にいるうちに、上陸せず、アメリカへ戻るよう勧める伝言を送ってきたからである。リセ氏が、単純にも、その役を引き受けた。夫人の言う理由は、自分は私に深く心を寄せていたと見られており、そのため、私がポルトガル公使ソウザ氏との結婚の妨げになるのを恐れる、というものだった。リセ氏の示す奇妙な理由に従わなくても、礼を失することはないと思い、私は一か月、ハンブルクにとどまった。周囲の人々も私も、その後、夫人が善良なソウザ氏と結んだ結婚を、何ら妨げなかった。そこではジャンリス夫人にも再会し、シルリー、ベルシャス、イギリスで知った姿と、まったく同じなのを見いだした。入り組んだ性質の変わらなさは、その柔軟さにかかっている。
ハンブルクからアムステルダムへ行き、十五日とどまった。そこからブリュッセルへ向かい、予定していたとおり、パリへは一七九六年九月になってから着くよう、十分に滞在した。
パリには、国立の学術芸術研究所が設けられていた[311]。その組織だけでも、フランスを支配する精神を判断するには十分だった。四つの部門に分けられ、自然科学の部門が第一位、政治・道徳科学は第二位にすぎなかった。私は不在のうちに、この部門の会員に選ばれていた。学術研究所の会員としての務めを果たすため、あまり間を置かない二度の公開会議で、二つの論文を読んだ。かなりの注目を集めた。最初の主題は北アメリカ、二つ目はフランスにとっての植民地の必要だった[312]。フランスにおける社交界の影響について、三つ目も書きかけていた。しかし、自分の思い出から取りすぎていたため、友人たちには、総裁政府がフランスを治める時代に合わないと思われた。そこで、そのままにした。
文筆上の負い目を果たすと、動き回るさまざまな党派のなかに、秩序の要素も、持続の原理も見いだせなかった私は、政務から遠ざかるよう努めた。すでに一定の影響力を取り戻していたスタール夫人は、総裁政府の一員、バラス[313]のもとへ、一緒に行くよう強く勧めた。初めは断った。一人の総裁のもとへ行くなら、全員、とりわけ憲法制定議会の議員だった二人の総裁[314]にも、会うことを求めないわけにはいかなかった。断る理由は、有効と認められなかった。そのうえ、それはスタール夫人を通して伝わった。夫人は、バラスと私を近づけたかったので、話を進め、私はバラスから、ある日、シュレーヌの家へ食事に来るよう誘う手紙を受け取った。引き受けなければならなかった。午後三時ごろシュレーヌへ着いた。客間へ通る食堂には、五人分の食器が見えた。たいへん驚いたことに、スタール夫人は招かれていなかった。床磨きの使用人が、ばらばらの本が幾冊か入った戸棚を示し、総裁、これは家のなかでバラスに使う称号だったが、総裁は普通、四時半ごろまで戻らないと言った。何かの本を読んでいると、二人の若者が、客間の時計を見に来た。まだ三時半なのを見て、互いに、「泳ぎに行く時間がある」と言った。出かけて二十分もたたないうちに、一人が戻り、急いで助けを求めた。私は、家にいた者たち全員とともに、川岸へ行った。庭の正面、街道と島のあいだのセーヌ川には、一種の渦がある。若者の一人が、そこへ近づき、姿を消したのだった。船頭たちが四方から来て、二人は、たいへん勇敢に川底まで潜った。若者を救う努力は、すべて無益だった。私は家へ戻った。
不幸な若者の遺体が見つかったのは、翌日だった。三百トワーズ以上離れ、草のなかに沈んでいた。レーモンという名で、ロデーヴの出だった。バラスは、とてもかわいがり、育てていた。総裁となってからは、副官にしていた。私は客間に一人、どうすべきか、よく分からずにいた。たった今起きた不幸を、誰がバラスに知らせるのか。私は、まだ一度も会ったことがなかった。本当につらい立場だった。馬車の音が聞こえる。庭師が扉を開けて言う。「レーモンさんが、たった今、溺れました。はい、市民総裁、たった今、溺れたのです」。バラスは中庭を横切り、大声で叫びながら、自室へ上がる。しばらくして、使用人の一人が、私が客間にいると告げた。バラスは、下りて行けないのを許してほしいと伝えさせ、食卓に着くよう勧めた。一緒に連れてきた秘書は、そのままそばに残った。こうして私は、バラスの家の食卓に、独りとなった。十五分ほどして、部屋へ上がってほしいという伝言が来た。出される食事は、私には迷惑だろうと考えてくれたことを、ありがたく思った。私は、ひどく動揺していた。部屋へ入ると、バラスは手を取り、抱擁した。泣いていた。目の前の相手の状態と、自分自身の状態から湧く、あらゆる優しい言葉をかけた。知らない私を前にした一種の戸惑いは、少しずつ消え、私の示す気遣いは、慰めとなるようだった。一緒にパリへ戻ってほしいと頼まれ、同行した。それ以来、バラスについては、感謝すべきことばかりだった。情熱的で、すべてが動きと衝動の人だった。知り合って二時間もたたないのに、私は、自分が、ほとんど、その最愛の者だと信じられたほどである。
しばらくして、総裁政府は大臣の交代を望んだ[315]。バラスは同意したが、新しい友人を外務大臣にすることを条件とした。自分の提案を激しく主張し、採用させた。午後十時、外国人サロンというクラブで、憲兵が私を訪ね、たった今出された任命決議を届けた。
総裁政府のあらゆる行為が帯びる絶対的な性格、スタール夫人の強い懇願、そして何より、少しの善をなすことは不可能ではないという、自分のなかにある感覚が、拒絶の考えをすべて遠ざけた。そこで翌日、バラスに礼を述べるため、リュクサンブール宮へ行き、そこから外務省へ向かった。
前任のシャルル・ド・ラクロワ[316]のもとでは、この省へ来る案件は、総裁政府によって、すでにすべて決められていた。私も前任者と同じく、その送付を監督するだけだった。しかし、しばしば送付を遅らせ、総裁たちの最初の衝動が過ぎてから、文面を和らげた。そのほかには、旅券を出し、査証に署名するくらいしか、残っていなかった。国内の案件は、すべて私から遠ざけられていた。この奇妙な立場を、私は、ほかの人にも、幾らかは自分にも、こう言って高尚なものにした。国外に平和がないかぎり、国内で真の秩序へ進むことは不可能であり、その平和の回復に協力するため呼ばれた以上、全力を注がなければならない、と。
当時ではなく、王政復古以来、危機と革命の時代には、絶対の善をなすことが不可能なのだから、官職を引き受けるのは間違いだと考える人々がいると知った。私には、この判断の仕方には、いつも、ひどく浅いところがあるように思われた。この世の事柄では、現在の瞬間だけにとどまってはならない。いまあるものが、これからあるものを生むことを考えなければ、いまあるものは、ほとんどいつも、ごく小さなものにすぎない。実際、到着するには、まず出発しなければならないではないか。偏見なく、とりわけ嫉妬なく注意すれば、人々が官職を引き受けるのは、いつも私的な計算によるわけではないと分かる。犠牲について言えば、他人の仕事の責任ある編集者になることを承知するときには、非常に大きな犠牲を払う、とも言えるだろう。利己心と恐怖には、それほどの自己放棄はない。しかし繰り返そう。激変の日々に、自らの働きを拒むことは、破壊したい者たちへ、さらに一つの便宜を与えることだと、考えなければならない。気に入らない人や事柄へ仕えるためではなく、それらを未来の利益に役立たせるために、引き受けるのである。「何事も、結末を考えなければならない」と、善良なラ・フォンテーヌは言った。それは、単に寓話の格言ではない。付け加えると、その性格、知性、才能を愛し、尊敬していたブリュイ提督[317]が、海軍大臣に任じられるはずだった。そのため、私と同じく総裁政府の流儀に馴染みのない人物とともに政務へ入り、できる善と、防げる悪の両方について、理解し合うことができたのである。
ここで総裁政府の流儀と呼ぶものを、明らかにするには、初めて出席した会議で起きたことを語れば、十分だろう。カルノー[318]とバラスのあいだで争いが始まった。バラスは、総裁政府へ見せるべき手紙を隠したと、同僚を責めていた。二人とも立っていた。カルノーは手を上げて言った。「名誉にかけて誓う。それは事実ではない!」「手を上げるな」とバラスは答えた。「血が滴り落ちるぞ」。統治していたのは、この人々だった。そして、この人々とともに、フランスをヨーロッパの社会へ戻そうとしなければならなかった。私は、この大きな仕事へ身を投じた。
革命の初めからフランスの敵だった国々のほとんどは、講和に救いを求めざるをえず、その大半は、領土の割譲や金銭の拠出によって、それを買っていた[319]。イタリアでもドイツでも敗れ、領土を二方から侵され、首都をボナパルト将軍に脅かされたオーストリアは、すでに将軍とレオーベンで予備講和を結び、カンポ=フォルミオ条約となる最終条約を交渉していた。私が外務大臣になったのは、予備講和と条約調印のあいだだった[320]。ボナパルト将軍は、私の任命を知ると、総裁政府に祝意を伝え、この機会に、私へ、たいへん好意的な手紙を送った。この時から、将軍と私とのあいだに、継続的な書簡のやり取りが始まった[321]。この若い勝利者の、すること、言うこと、書くことに、その才に大きな希望をかけさせるほど、新しく、強く、巧みで、進取的なものを見いだした。数週間後、将軍はカンポ=フォルミオ条約に調印した。一七九七年十月十七日である。
一方、イギリスは、講和を語るため、全権使節マームズベリー卿を、フランスへ送っていた。しかし、この働きかけは誠実ではなかった。当時のイギリス政府は、国内の困難から抜け出すため、交渉をしているふりをする必要があった[322]。
私が大臣となったとき、フランスの対外的な状況は、このようなものだった。
国内では、一つの党派が、現存する秩序を変えようとしていた。何に置き換えるためか。それは、一度も分からず、これからも分からないだろう。というのも、この小さな党派は、共和主義者、憲法制定議会の旧議員、国民公会の旧議員からなり、憎しみでは結ばれても、確かに、どんな計画によっても結ばれなかったからである。
明らかになったのは、この党派の弱さだった。一吹きで倒され、本当の指導者、あるいは指導者とされた者の大半は、数時間のうちに捕らえられ、訴えられ、弁明を聞かれずに有罪とされ、当時、法律と呼ばれたものによって、カイエンヌへ送られた[323]。
内戦は、西部の田園を荒らし続けていた。都市のほとんどは、共和派が握っていたからである。この戦争の指導者たちは、ヴァンデの人という美しい称号を家族に残した。それは後に、シュアンという称号へ置き換えられ、損なわれた。戦争は当時、一定の範囲に抑えられ、その外へ広げる試みは無駄だった。政府にとって、危険というより、煩わしいものとなっていた。
共和国、自由、平等、友愛という言葉は、あらゆる壁に記されていた。しかし、その言葉の表すものは、どこにもなかった。最高の権力から最下位の権力まで、成立、構成、行動において恣意的でないものは、ほとんど一つもなかった。何もかもが暴力的であり、したがって、何一つ長続きできなかった。
二年間、これほど華々しく世界の舞台を占めていた若いボナパルト将軍は、普通の将軍たちの群れに埋もれたくなかった。名声を息つく間もなく働かせ、視線を自分へ引きつけ続けたかった。そのうえ、自分の栄光そのものから生まれる危険に対して、無防備となる立場を恐れた。最高の地位を望むほど野心的だったが、そのころ、近いとも、ありそうだとも考えられなかった出来事の重なりなしに、フランスでそこへ達せると信じるほど、盲目ではなかった。
クロムウェルの時代、イギリスには軍が一つしかなかった。その士官をすべて選んだクロムウェルには、そのなかに、自分の引き立てた者しかいなかった。軍の外には、栄光の競争相手がいなかった。二時間の狂信を巧みに用いれば、指揮する兵を、望む状態へ置くには十分だった。最後に、あらゆる権力を内部に集めた長期議会は、すり減っていた[324]。その独裁は、あらゆる党派をうんざりさせ、すべてが終わりを望んでいた。
ボナパルトには、これらの事情が欠けていた。しかし、クロムウェルのように、自国で支配する機会が、まだなくても、フランスが最初の手段を与えれば、ほかの場所で、自分の君主国を作ることは、不可能ではなかった。
カンポ=フォルミオでオーストリアとの講和に調印し、帝国との講和を交渉する場所として定められたラシュタットに、一時、姿を見せたあと[325]、将軍はパリへ来て、総裁政府にエジプトの征服を提案した。フランス共和国は、古代ローマ人に倣い、二つの敵を、同じ講和へ含めないことを原則としていたのである。
私は、まだ一度も将軍に会ったことがなかった。すでに述べたように、私の外務大臣任命の際、将軍は、長く、念入りな手紙を送ってきた。そこでは、政務の舞台で、それまで見えていたものとは違う人物を、私に見抜かせたいと思っていた。この手紙は十分興味深いので、本回想録の後に載せてほしい[326]。パリへ着いた夜、将軍は副官を送り、何時なら会えるかと尋ねた。待っていると答えると、翌朝十一時に来ると知らせてきた。スタール夫人に伝えさせると、夫人は十時に私の客間にいた。ほかにも、好奇心から来た人々が幾人かいた。ブーガンヴィル[327]がいたのを覚えている。将軍の到着が告げられ、私は迎えに出た。客間を通るとき、スタール夫人を紹介したが、ほとんど注意を払わなかった。ブーガンヴィルだけに気づき、幾つか好意的な言葉をかけた。
一見して、魅力的な顔だと思った。二十の勝利した戦いは、若さ、美しい眼差し、青白さ、一種の疲れに、実によく似合う。執務室へ入った。この初めての会話で、将軍は、まったく信頼を示した。私の外務大臣任命について、たいへん愛想よく話し、フランスで総裁たちとは別種の人物と文通できたのが、うれしかったと強調した。大して話をつながずに、こう言った。「あなたは、ルイ十八世のそばにいるランス大司教の甥ですね」。(そのとき、リール伯爵[328]とは言わなかったことに、私は気づいた。)そして付け加えた。「私にも、コルシカで大助祭をしている叔父がいます[329]。私を育てたのは、その人です。ご存じのとおり、コルシカで大助祭であるのは、フランスで司教であるのと同じです」。ほどなく、いっぱいになった客間へ戻ると、将軍は大声で言った。「市民諸君、皆さんの示す熱意に感謝します。私は、できるかぎりよく戦い、できるかぎりよく講和を結びました。共和国の幸福と繁栄のために、それを活用するのは、総裁政府の務めです」。それから私たちは、一緒に総裁政府へ行った。
総裁政府の優柔不断と嫉妬は、ボナパルトがパリで過ごした初めの数週間を、少し難しくした。私は、イタリアでの勝利と、結んだばかりの見事な講和を祝うため、宴を催した。華やかで、広く喜ばれるものにしようと、何一つ怠らなかった。そこには、幾らかの難しさがあった。当然、第一の席を占める総裁夫人たちの、あまりに俗なところを、うまく切り抜けなければならなかったからである。集まる部屋は、できるかぎり豪華に飾られ、誰もが褒めてくれた。「ずいぶん、かかったでしょうね、市民大臣」と総裁の妻、メルラン夫人[330]が言った。「ペルーほどの大金ではありませんよ、夫人」と、同じ調子で答えた。ほかにも多くの軽口が、そのほとんどは実際に言われたものだが、翌日のパリを満たした。
ペルーは、ここでは莫大な富の比喩。「ペルーほどではない」は、費用はそこまで巨額ではない、という軽口。
総裁政府は当時、アイルランドへの遠征を計画していた[331]。指揮は初めオッシュに任せるはずだったが、その間に亡くなった[332]。そこでボナパルト将軍へ与えようとしたが、どの点でも、その人には適していなかった。この企ては、成功しても失敗しても、必ず短期間で終わるはずだった。そして帰れば、避けたいと思っていた立場へ、ほどなく戻るだろう。アイルランドへ率いていく軍は、自分の狙いのため、自由に使える道具にはならず、最後に、アイルランドは、確固たる足場を築けると望める国でもなかった。
エジプトでも、また一般に、フランス軍を率いて征服するどの国でも、そのような足場を作ろうとは考えていなかった。その軍が、自分一人のために勝ったことを承知し、王冠を取らせ、あるいは頭へ載せてくれるとは、まだ期待していなかった。最も影響力を持ち、そのため最も連れていきたい兵は、指揮下でイタリア戦役を終えたばかりの者たちだったから、なおさらである。将軍自身が、その兵のなかに共和主義の狂信を育て、高めるよう努めていた。しかし、東方のキリスト教徒と、すべてのギリシャ人に、鎖を断とうとする解放者として現れる立場へ、自分を置くために役立てる。それだけが、軍に求めることだった。残りは、そのギリシャ人たちの数、力、感謝、そして何より、予想外の機会を頼みにしていた。
このような希望を見せれば、総裁政府との交渉を成功させるのに、役立たなかっただろう。そこで、フランスの利益だけを考えているように見せた。エジプトを、それ一つで、フランスが失った植民地すべてに値する植民地と示し、インドでのイギリスの力へ、大きな打撃を加えられる拠点と示した。しかし、激しい想像力と、生来のおしゃべりが、あらゆる慎重さの外へ連れ出すと、ときには、コンスタンティノープルを通ってヨーロッパへ戻ると話した。それは、インドへの道とは、あまり言えなかった。勝利者としてコンスタンティノープルへ着くなら、セリムの王座を残すためでも、オスマン帝国を、単一不可分の共和国へ置き換えるためでもないと見抜くのに、大きな洞察は必要なかった。
しかし、総裁政府には、自分たちを脅かし、抑えることもできない人物を遠ざけるのが、たいへん有益に思えた。そのため、ついにはボナパルトの強い要求に屈し、エジプト遠征を命じ、指揮を与えた。こうして、最も避けたかった出来事を、準備したのである。
ここで、ボナパルトの出発時に、ヨーロッパがフランスに対して、どのような状況にあったかを、簡単に振り返らなければならない。
ロシア皇帝エカチェリーナは、最初にフランス革命への反対を表明した。しかし、その政策はすべて、自国の公使たちに各宮廷で披露させた公文書によって、自分の意見を華々しく示すことに限られていた。私はナッサウ公[333]の手元で、多くを見た。皇帝は、隣国を必ず弱め、したがって自国の相対的な力を増すはずの戦争に、参加しないよう慎重にしていた。自国へのフランスの原則の伝染は恐れず、むしろ、ポーランドが無秩序から抜け出すために始めた努力を、はるかに気にかけていた。そこで、フランス、プロイセン、オーストリアが戦う時をとらえ、この王国の分割を完成させた。一部を自分のものとし、残りをオーストリアとプロイセンに残したのである[334]。ほどなく、一七九六年十一月十七日に死去した。
後継のパーヴェル一世は、父ピョートル三世の病を受け継いでいたが、フランスのエジプト侵攻がなければ、何をしたかは分からない。しかし、この侵攻は、その人にとって、決定的で、異論を許さない動機となった。
ピョートル一世の時代以来、ロシアは、ヨーロッパ側のトルコを、自分に定められた獲物と、絶えず見なしていた。ただし、一度には呑み込めないので、少しずつ食べるべき獲物だった。革命によってギリシャが独立を取り戻せば、この獲物は、永久に逃げただろう。そして、エジプト侵攻は、その革命を恐れさせるだけでなく、避けられないものとして示した。
パーヴェル一世は、トルコ人とはおのずと敵対する立場から、直ちに同盟者となり、イギリスとも結んだ。オーストリアも加わり、再び戦場へ入った。不本意にしか戦場を去らず、カンポ=フォルミオの講和以来、フランスから、もっともな不安の理由を与えられていたので、その復帰はいっそう容易だった。
ヴォーの人々と、その主権者であるベルンの評議会との争いは、総裁政府に、二方からスイスへ軍を入れ、連邦を単一不可分の共和国へ変える口実を与えた[335]。
別の口実によって、教皇領はフランス軍に侵入され、教皇ピウス六世は捕虜として、フィレンツェのカルトジオ会修道院へ、次いでドーフィネのヴァランスへ引き立てられ、そこで死んだ。その政府は、当時、共和政と呼ばれたものへ置き換えられた[336]。
ナポリ国王は、もっともな理由で恐れたが、慎重に考えれば、静かに待つべきだった。それなのに、ウィーン宮廷の助言に反し、経験も規律もない兵で、無謀に武器を取った。そのため、シチリアに避難所を求めざるをえず、ナポリ王国を捨てた。フランス総裁政府は、ほどなく、それをパルテノペア共和国へ変えた[337]。
この時期に、総裁政府がイタリアをフランスの防壁にしたいと望めば、この美しい国全体に、一つの国家となるよう呼びかけることで、そうできた。しかし、その考えとは、ほど遠かった。イタリアで、新しい共和国を一つに融合することが、秘密に進められていると知ると、震え上がり、力の限り反対した。共和国を望んだので、君主国に憎まれた。しかし望んだのは、弱い小共和国だけだった。守るという口実で、その領土を軍事占領し、実際には支配し、その負担で自軍を養うためである。そのため、その共和国自身にも憎まれた。
オーストリアの近隣で行われた、こうした激変はすべて、その相対的な立場を、あまりに大きく変えたので、平穏な傍観者ではいられなかった。
再び武器を取る際、最初の利益は、ラシュタットの交渉を破綻させることにあった。それには成功した。しかし、オーストリアにとって不幸なことに、その破綻には、フランス全権使節の暗殺が伴った[338]。この出来事のあとには、戦争が激しく再開されると、予想せざるをえなかった。
戦争のため、総裁政府には十分な兵がいた。しかし、カルノーの追放以来、フリュクティドール十八日のことだが、作戦を指揮できる者は、もう誰も残っていなかった。大きな名声を持つ将軍のうち、フランスにいるのはモロー[339]だけだった。しかし、友人ピシュグリュ[340]の反革命計画に参加したとは言わないまでも、少なくとも知っており、事後にしか明かさなかったと非難されていた。そのため、共和派の不興を、あまりに深く買っていたので、総裁政府は、指揮を任せたくても、あえてできなかっただろう。モローが、一介の志願兵としてイタリア軍へ行くのを許すだけで、大きなことをしたつもりだった。
モローがいても、イタリア軍は、最初の戦闘から完全に敗れ、潰走するのを免れなかった。合流するため、三万五千の兵を率いて、イタリアの奥から駆けつけたマクドナルド[341]も、トレッビアで壊滅した[342]。
総裁政府が作った、これらの幻の共和国はすべて、フランス軍の最初の敗北で消えた。総裁政府が、ピエモンテのすべての要塞を預かる用心をしていなければ、イタリアには、フランス人は一人も残らなかっただろう。モローは、これらの要塞と、その周囲へ敗軍の残りを集め、敵の前進を止めることができた。
総裁政府がスイスを革命化したとき、何世紀も閉ざされていた道を開き直し、いつか、その道から外国勢力がフランスへ入り、革命家たちの恐れる大きな変化を実現することになるとは、思ってもいなかった。総裁政府自身が、それを経験する瀬戸際だった。しかし、カール大公[343]が、フィリップスブルクの無益な包囲へ向かうため、スイスを去り、ロシア軍の一部隊しか残さなかったことで、マセナのチューリヒでの勝利を準備した[344]。この勝利は、フランスを救うために、それほど必要だったからこそ、パリでは、いっそう称えられた。
総裁政府には、専制者にいつも起こることが起きた。その軍に抵抗するものが何もないあいだは、憎まれながらも恐れられた。軍が敗れると、軽蔑された。新聞でも、パンフレットでも、つまるところ、至るところで攻撃された。当然、大臣たちも容赦されなかった。それが、待ち望んでいた、職を去る機会を与えた。この職で防げる悪は、あまりに少なく、真の善をなせるのは、もっと後だと、よく理解していた。
長く前から退くつもりだったので、一つの用心をしていた。エジプトへ出発する前のボナパルト将軍に、その意向を打ち明けていたのである。将軍は、退任の理由を認め、私のために総裁政府へ願うことを、喜んで引き受けた。トルコと交渉する道があるなら、コンスタンティノープルの大使職を、あるいは、オスマン政府の代理人と続ける交渉があるだろうと考えられるカイロで、将軍に合流する許可を、求めるのだった[345]。この許可を得て、辞表を出したあと、私はパリ近郊の田舎へ退き、出来事を待った[346]。
しばらく前から頭をもたげていた、大物の民衆煽動家たちは、騒ぎ、新たな恐怖政治をちらつかせた。しかし、総裁政府の転覆は、彼らが再開し、フーシェ[347]が、そうしようと思うと、すぐ閉じたクラブから来るのではなかった。総裁政府自身から来るはずだった。
シエイエスは、共和国の特命全権公使としてベルリンにいるあいだ、総裁の一員に任命されていた。暇乞いし、出発し、パリへ着くまでに、どうしても必要な時間が、総裁政府には耐えがたく長く感じられた。それほど、待ち望まれていたのである。内外の災いについて、準備万端の、確実な治療法を持っていることは、疑われていなかった。馬車を下りるやいなや、それを求められる。二つの議会の最も有力な議員たちは、話してくれさえすれば、協力を要するすべてのことに、熱心に力を貸すと約束する。何かを提案する前に、シエイエスは自分の目で見て、調べ、考えたい。考えた結果は、いまの同僚たちとでは、何もできないというものだった。直ちに、同僚の三人を遠ざけてもらう。代わりに選ばれた者のうち、二人は取るに足りず、三人目は、自分に献身している[348]。すると、今度は人々ではなく、制度が不満となり、絶対に変える必要があると言う。統治者は五人では多すぎ、三人で十分だ。総裁政府という名は憎まれているので、別の名へ換えなければならない。何より、軍が信頼する軍人を、政府へ入れることが不可欠だ。軍が味方にあるという確信なしには、何もできないからである。
打診されたモローは、文官の職務を引き受けようとしない。そこでジュベール将軍に目を向け、望ましいのに、まだ欠けている華やかさを、その名声に与えるため、イタリアの指揮へ送る。着くと、軽率にノヴィの戦いを行い[349]、戦闘の初めに殺され、寄せられたあらゆる希望を覆してしまう。同じ困難へ、再び落ち込む。総裁政府が、おそらく、ほとんど予期していなかった出来事がなければ、どう抜け出したかは、神のみぞ知る。
エジプトを征服したあと、ボナパルトは、シリアの征服を試みて、計画の実行を進めた。しかし、多くの死者を出す三度の強襲にもかかわらず、サン=ジャン=ダクルは奪えなかった。攻城砲を失ったのに、執拗に攻撃していたのである。砲は、エジプトからシリアへ海路で送っていたが、イギリス軍に奪われた。そのため、軍をエジプトへ戻さざるをえなくなった。そこでも、イギリス軍が上陸を脅かしていた。こうして壮大な希望が消えるのを見た。エジプトにとどまれる希望さえ、不確か以上だった。降伏条件を結ばなければ脱出できず、そうすれば冒険家という評判しか残らない、という恐ろしい考えに追われた。イタリアでのフランス軍の敗北が、この苦境から救った。そうでなければ、決して危険を冒す勇気のなかったことを、大胆に行わせたからである。クレベールに指揮を残して、自軍をひそかに離れ、イギリスの哨戒艦隊を逃れ、フレジュスへ上陸する[350]。
予想したとおり、さまざまな党派は、行動の説明を求めるべき人物ではなく、事情によって必要となり、味方につけなければならない人物として、将軍を見た。
当初、幾人かは、旧総裁のうち唯一、なお在職し、将軍の出世を作ったバラスが、自分の影響力を過信し、将軍を見誤ったために、モンクの役を演じさせられると期待した、と考えた。しかしボナパルトは、できても望まなかっただろうし、実際、当時は、その役を演じられる立場ではなかった。
したがって、そのような提案が示されたと仮定しても、それと、別の側から示されていた、最高権力そのものではなく、それを目指せる立場という申し出とのあいだで、長く迷うはずはなかった。
支持者の多くは、単に総裁の一員となることを、おそらく望んだだろう。しかし、そこまで来た以上、将軍の望むことを望まなければならなかった。事態の性質そのものが、交渉の主を将軍にしていた。総裁の一員という地位では、何も得られなかった。
そこで、総裁政府に代えて、三人の臨時統領を置くことで合意した。その統領たちは、両議会の二つの委員会と協力して、新しい憲法を準備し、それを第一次選挙集会の承認に付すことになった。そのころ、人民主権は、誰も争おうとしない教義だったからである[351]。
この計画が整うと、元老会は、憲法の与える権限によって、パリでの騒ぎを口実に、立法府をサン=クルーへ移した。それによって、打ち合わせた計画への、あらゆる障害を防げると期待したのである。総裁政府の最も有力な二人、シエイエスとバラス、元老会の大多数、五百人会の一部が、味方にあった。総裁政府の衛兵、フリュクティドール十八日以来のその指揮官オージュロー、多くの将官と、あらゆる階級の軍人、そして私も数に入る幾人かの見物人が、ブリュメール十八日、一七九九年十一月九日、サン=クルーへ向かった。
これほどの武力を整えても、五百人会では、すべてを失敗させかねないほどの反対に遭った。それでも、問題は、一つのポリガルキーを、別の形へ置き換えることにすぎなかった。(同義語がないので、いつも、この耳慣れない言葉へ戻らなければならない。)では、モンクの役を演じようと思いつき、ブリュメール十八日の成功に、何らかの仕方で加わった人々の、ほとんどすべてを敵にした者には、何が起きたか、想像していただきたい。結局、半ば説得、半ば恐怖によって、勝った。総裁政府は解散され、シエイエス、ロジェ・デュコ[352]、ボナパルトが統領となり、両議会には、憲法案に取り組む委員会しか残らなかった。
それから十日か十二日後、私は再び外務大臣の職を引き受けた。
フランスに友好的な外国のなかで、総裁政府の転覆を喜ばず、少なくとも無関心でない国は、なかったはずだった。その態度の変化は恐れなくてよく、それを防ぐ働きかけも必要なかった。敵対する国々を平和な気持ちへ戻せると期待できるのは、新しい勝利だけだった。しかし、国外と交渉する必要がない一方、国内では、最も重要で、最も微妙な交渉が続いていた。私は、公式に介入するよう求められてはいなかったが、無関係でも無関心でもいられなかった。君主制を再建しなければ、ブリュメール十八日を無駄に行ったこととなり、再建の希望を、不確かで、おそらく期限のない未来へ延ばすことになる。君主制を再建することは、王座を復活することではなかった。君主制には、三つの段階、あるいは形がある。任期を定めて選ぶもの、終身で選ぶもの、世襲のものだ。王座と呼ぶものは、第一の形には属しえず、第二の形にも必ず属するわけではない。フランスが外国の力に支配されないかぎり、前の二つを順に通らず、第三の形へ達するのは、まったく不可能だった。確かに、ルイ十六世が生きていれば、不可能ではなかったかもしれない。しかし、その君主の殺害が、越えられない障害を置いた。
ポリガルキーから世襲君主制へ、直ちに移れない以上、必然の結果として、世襲君主制の再建とブルボン家の復帰は、同時にはできなかった。したがって、ブルボン家にかかわらず、君主制の再建へ努める必要があった。王座に就いた者が、それにふさわしくないと示し、失うに値するなら、時がブルボン家を戻すこともありえた。終身の主権者となり、最後には世襲君主となれる、一時的な主権者を作らなければならなかった。問題は、ボナパルトが、君主として最も望ましい資質を持つかどうかではなかった。あらゆる革命思想に、なお心を奪われていたフランスを、君主制の規律へ再び慣れさせるため、不可欠な資質は、疑いなく持っていた。そして、それを同じ程度に持つ者は、誰もいなかった。
本当の問題は、どうやってボナパルトを、一時的な主権者にするかだった。唯一の統領に任じると提案すれば、どれほど慎重に隠しても足りない狙いを、明かしてしまう。称号と権力において対等な同僚を与えれば、ポリガルキーのままである。
常設の立法機関、あるいは招集なしに一定の時期に集まり、自ら休会を決める立法機関を置けば、ポリガルキーのままである。それが二つの別々の議会に分かれていても、その機関だけで法律を作れるなら、ポリガルキーのままである。最後に、主要な行政官、とりわけ裁判官を、選挙人集会が任命し続けるなら、やはりポリガルキーのままである。見られるとおり、解くべき問題は、たいへん複雑で、多くの困難に覆われ、恣意性を避けるのは、ほとんど不可能だった。実際、それは避けられなかった。
三人の対等な統領ではなく、第一、第二、第三統領が作られた。それぞれの権限は、第一統領が、自分の権力にかかわるときには、誰よりも巧みなボナパルトの幾らかの解釈を加えれば、ほとんど、抑制された君主制、あるいは立憲君主制で君主が行使する権力を、事実上一人で与えられるものだった。本質的な違いは、法律の裁可を任せるだけでなく、発議も与えられたことだけだった。この役割の兼任は、本人にも災いとなった。
第一統領の権力を、さらに実効的にするため、就任したその日に、私は一つの提案をし、将軍は進んで受け入れた。三人の統領は毎日集まり、各省の大臣が、担当する事務を、その前で報告することになっていた。私はボナパルト将軍に、その性質上、秘密である外交案件は、会議で開示できず、政府の長だけが手に持ち、指揮すべき外交の仕事を、自分一人に留保する必要があると言った。将軍は、この助言の有用さを感じた。新政府を組織する時は、すべてを、より容易に定められるので、初日から、私が第一統領とだけ仕事をすることが決められた。
第一統領としてのボナパルト将軍の最初の行為は、イギリス国王へ、両国の速やかな和解を望む手紙を書くことだった。オーストリア皇帝にも同じように働きかけた。この二つの試みは、和解をもたらさず、もたらしえなかったが、国内の平穏には、よい影響を与えた。民衆に喜ばれるはずの姿勢を示し、政府の長となった大将軍のうちに、巧みな政治家を見せたからである。それを済ませ、受領の返事さえ得られない手紙への無回答によって、両政府の拒絶が明らかになると[353]、ボナパルトは、もはやオーストリア軍しかいないはずの戦場へ、敵を求めに行く準備だけを考えた。
オーストリアに欺かれたと信じ、不満を持ったパーヴェル一世は[354]、ドイツから兵を呼び戻していた。第一統領は、この事情をとらえ、フランスにいた少数のロシア人捕虜を集め、新しい服を着せるよう命じ、身代金なしで帰国させた。その指揮官の一人に、マルタで見つかったラ・ヴァレットの剣を、パーヴェル皇帝へ贈る役を託した。ロシア皇帝が、マルタ騎士団を特別な保護下へ置いていたことは、知られている[355]。この心のこもった扱いに動かされた、感情の激しやすいパーヴェル皇帝は、スプレンツポルテン将軍[356]を通じて、フランスへ講和を打診した。カリチェフ氏が引き継いだその交渉は、私がマルコフ氏[357]と交渉し、調印する最終条約へつながった。
マルコフ氏は、エカチェリーナ皇帝の治世に政務へ入り、後に、ロシアで最も有能な実務家の一人として、パリへ送られた。私には、気難しく、学識はないが、才気のある男と思われた。当時、その不機嫌は、自分の政府へ向いていた。他国の外務大臣には、たいへん都合がよいことである。パーヴェル皇帝の存命中、業務上のやり取りは容易で、快くさえあった。しかし、アレクサンドル皇帝の即位とともに、マルコフ氏は傲慢で、耐えがたい人物となった。ドイツの世俗化という大問題を、私が交渉した相手は、この人物だった[358]。
総裁政府の一員だったカルノー将軍は、フリュクティドール十八日に、多くの人々とともに、これほど残酷に流されたカイエンヌを逃れ、しばらく前から陸軍大臣となっていた。政務へ戻ると、まず、二つの軍を集めることに努めた。一つはライン川、一つはアルプスの麓に置かれた。モロー将軍が前者の指揮を取り、ボナパルトは後者とともに、新しい道からイタリアへ突入する。一門の大砲も失わず、グラン・サン=ベルナールを越える。一八〇〇年五月二十日である。不意にオーストリア軍へ襲いかかり、幾つかの戦闘に勝ったあと、六月十四日、マレンゴで会戦する。その終わりに、ドゼー将軍[359]とケレルマン将軍[360]に助けられた運命は、本人も、もはや望まなくなっていたところで、ボナパルトに味方する。その結果の休戦は、再びイタリアを、その手にした。敗北を恐れた経験に警告され、このときは、勝利を乱用せず、活用することを知った。権力を増す前に固める必要を感じ、目指す権力への主な資格が、軍事的栄光になると、よく知っていたので、フランスが自分に負わない勝利を、自分の敗北と、ほとんど同じほど恐れた。そこで急いで、休戦によって、ドイツ帝国を含む新しい講和の基礎を置いた。それは、モロー将軍にウィーンへの道を開いたホーエンリンデンの勝利[361]を、ほとんど無用にした。
カルノーがカイエンヌへ流されたという本文の記述は、そのまま訳した。ただし本巻の編者原注318は、ジュネーヴへ逃れたと記す。フランス国民議会の人物紹介も、追放を逃れ、国内に潜伏した後スイスへ移ったとする。参照:https://www2.assemblee-nationale.fr/sycomore/fiche/12244?legislature=2
フランスと、自国および帝国のために取り決めるオーストリアとの条約は、リュネヴィルで交渉されることになった。ルイ・ド・コベンツル伯爵[362]が皇帝から全権使節に指名され、交渉開始前にパリへ行くことを認められた。ウィーン宮廷が伯爵を選んだのは、まだイタリア軍の将軍にすぎなかったボナパルトと、カンポ=フォルミオで交渉し、二人のあいだに親しい関係ができていたからである。コベンツル伯爵は、その関係へ容易に戻れると思っていたが、第一統領は、ほどなく消し去った。この件で、かなり興味深い場面があった。
ボナパルトは、午後九時、テュイルリー宮で、最初の会見を与えた。迎える部屋の配置は、自ら命じた。国王の執務室の手前の客間だった。隅に小さな机を置かせ、その前に座っていた。椅子はすべて取り除かれ、残るのは、遠くにある長椅子だけだった。机には書類と筆記用具があり、灯りは一つで、シャンデリアは点けられていなかった。私に案内され、コベンツル氏が入る。部屋の暗さ、かすかに見えるボナパルトの机へ近づくまでの距離、そこから生じる一種の当惑、ボナパルトが立って座り直す動き、そして、立ったままでいるほかないコベンツル氏。これらが、直ちに、各人を、その位置に置いた。少なくとも、第一統領が定めたいと思った位置に。
ジョゼフ・ボナパルトとコベンツル伯爵が、リュネヴィルで会談したあと、ほどなく条約が結ばれた[363]。こうして大陸では、全般的な平和が、ほぼ回復した。
それより少し前、同じくジョゼフ・ボナパルトがモルトフォンテーヌで署名した、アメリカ合衆国との協定によって、フランス共和国と、この国とのあいだの、すべての紛争は終わっていた[364]。
国外に同盟国がなく、国内にも幾らかの困難を抱えるイギリスも、自ら平和の必要を感じた。海上休戦に賛成し、あるいは反対するため、多くの知恵が用いられた点で、かなり興味深い議論のあと、予備講和がロンドンで、アディントン氏[365]とオットー氏[366]のあいだに結ばれた。最終条約に、コーンウォリス卿[367]とジョゼフ・ボナパルトが署名したのは、アミアンだった。すべての植民地を失っていたフランスは、自らは何も返さず、そのすべてを取り戻した。フランスのためだけに、フランスによって戦争へ入った同盟国、スペインとオランダへ、埋め合わせの負担をすべて任せたことは、おそらく、フランスの名誉を傷つけたかもしれない[368]。しかし、それは、気づく人が少なく、不誠実な成功を巧みさと見なすことに慣れた群衆の心には、自然には決して浮かばない観察の一つである。
アミアン条約の一条が、イギリスのマルタ撤退を定めていたことを、省いてはならない。この有名な島を奪うことで、地中海の運命を変えたボナパルトは、以前の支配者へ返させることを、たいへん重視していた。私は、条約に署名するのがアディントン氏ではなく、ピット氏かフォックス氏でありさえすれば、マルタは、完全な領有権とともに、喜んでイギリスへ残しただろうと言ったが、ボナパルトは、それを聞くのを嫌った。
これらの条約より前に、一種の協定、あるいは合意が、ヴァンデと西部諸地方で再燃した内戦を終わらせていた[369]。
マレンゴの戦いのころ、ボナパルトとローマ教皇庁のあいだに、秘密のつながりができた[370]。ミラノで、ピウス六世の後継としてヴェネツィアで選ばれた教皇ピウス七世の使者と、幾度か会談していた。その会談が、後にコンサルヴィ枢機卿[371]によってパリで署名されるコンコルダートの出発点となった。この合意と即時の批准は、フランスと教皇座を和解させた。反対したのは、ほかの点ではたいへん立派な人々だったが、この種の構想へ知性が届かない、幾人かの軍人だけだった。
私も大きく力を貸した、この教会との大きな和解のあと、ボナパルトは、私を還俗させるための小勅書を、教皇から得た。この小勅書の日付は、一八〇二年六月二十九日、ローマのサン・ピエトロである[372]。
ピウス七世が私に示した寛大さを、これほどよく表すものはないように思う。ある日、コンサルヴィ枢機卿へ、私について、こう言ったのである。「タレーラン氏か!! ああ、ああ! 魂は神にお任せしよう。だが、私は、あの人が大好きなのだ!!」
総裁政府が、ラ・アルプ氏[373]とオクス氏[374]に導かれ、単一不可分の共和国へ変えようとしたスイスは、自ら望むとおり、古い同盟を持つ連邦へ戻っていた。それは、仲裁法と呼ばれる法令によるものだった。フランスが、古い州と新しい州のすべてのあいだで、仲裁者を務めたため、この名がある[375]。
オスマン政府、ポルトガル、両シチリアは、フランスとの、昔からの友好と通商の絆を、結び直していた[376]。
スペインはバーゼル条約によって、ルイジアナをフランスへ返還し、フランスは、それを合衆国へ引き渡した。一八〇三年四月三十日のことである。合衆国は、国民公会の不合理な決議によって、アメリカ人が被った商業上の損失への賠償として、代金の一部を留保した。
本文はバーゼル条約と記すため、そのまま訳した。これに対して、一八〇三年ルイジアナ譲渡条約の第一条は、スペインからフランスへの返還の根拠を、一八〇〇年十月一日のサン・イルデフォンソ条約として引用する。参照:https://www.archives.gov/milestone-documents/louisiana-purchase-treaty
ドイツで世俗化された領土の配分は、フランスとロシアの共同仲裁のもとで、行われていた[377]。
少しの誇張もなく言えるが、アミアンの講和の時期、フランスは国外で、どれほど野心的な精神も、祖国にこれ以上を望めないほどの力、栄光、影響力を享受していた。この状況を、さらに驚くべきものにしたのは、それが作られた速さだった。二年半もたたないうちに、すなわちブリュメール十八日、一七九九年十一月九日から、アミアン講和の日、一八〇二年三月二十五日までに、フランスは、総裁政府に投げ込まれた屈辱から、ヨーロッパの第一位へ移ったのである。
対外問題に取り組みながら、ボナパルトは内政も怠らなかった。信じがたい活動力は、すべてに足りた。行政へ新しい規則を与え、できるかぎり君主制的なものにした。財政の秩序を巧みに取り戻した。聖職者は尊重された。党派を抑えるだけでは満足せず、自分へ結びつけようとし、ある程度は成功していた。かつての亡命者であることも、かつてのジャコバン派であることも、何かから排除する理由にはならなかった。ルイ十八世を、さらに孤立させ、多くの亡命者が与える、ボナパルトの言い方では「王らしい外観」を奪うため、多くの亡命者に帰国を許した。両方の人々を用い、何人かを身近へ置いた。ジャコバン派は、一人の権威への嫌悪を忘れ、亡命者は、その権威が別の手へ移ったことを、それほど惜しまないようになった[378]。
革命の長引く混乱にもかかわらず、フランスでは産業技術が大きく発展していた。多くの資本が、この方向へ向かっていた。国内で高度な繁栄に達するには、安全があれば足りた。そしてフランスの一般的な意見は、ボナパルトが、それを与えたというものだった。
こうして、ボナパルトを権力へ押し上げるのに協力した人々には、喜ぶ理由があった。権威を、有益なものにし、愛されるものにさえする仕方で、用いていた。革命を終わらせたばかりだと、信じることもできた。権力の評価を回復し、すべての王座の助け手となった。その有益な影響力は、ヨーロッパで統領政府に、古い政府のような安定した重みを与えた。陰謀が幾つもあり、その一つからは奇跡的に逃れたが、それは、秩序の友が寄せる感情を強めた。そのため、二人の同僚が、第一次選挙集会に集まるフランスへ、終身の第一統領に任じることを提案すると、ほぼ全票の賛成を得た[379]。
一方、チザルピーナ共和国の代表たちは、自国の確定的な組織を第一統領から得るため、リヨンへ来た[380]。そこで扱う事柄は、私の権限に属さなかったが、ボナパルトは、その運営に、私を大いに使った。私は、代表団に会うため、先にリヨンへ行かなければならなかった。ボナパルトは、これほど微妙な仕事では、内務大臣シャプタル氏[381]のすることも、言うことも、信用していなかった。鈍重で、虚栄心が強く、才気がないと思い、そのころ職に置いていたのは、庇護するカンバセレス[382]を、あまり悲しませないためだけだった。リヨンへ着くと、長く前から知るメルツィ氏[383]に会い、第一統領の望みではなく、チザルピーナ共和国が要求しなければならないことを、打ち明けた。数日のうちに、目的を達した。ボナパルトがリヨンへ着いたとき、すべては準備できていた。二日目から、ミラノの主だった人々が、終身の大統領職を受け入れるよう迫った。感謝のしるしとして、ボナパルトは、チザルピーナ共和国という名をイタリア王国へ変えることを承知し[384]、メルツィ氏を副大統領に任じた。メルツィ氏は、最初の侵攻の際にミラノの鍵を差し出していたので、オーストリアに対して、十分に後戻りできない立場となっていた。そのため、ボナパルトは、全面的な信頼を、あえて置けたのである。
アミアンの講和まで、ボナパルトは、多くの過ちを犯したかもしれない。過ちを免れる人が、いるだろうか。しかし、祖国を愛するフランス人が、その実行への協力をためらうような計画は、示していなかった。手段については、いつも同意できたとは限らないが、目的の有益さは争えなかった。明らかに、一方では対外戦争を終え、他方では王権を再建して革命を終えること以外に、目的はなかったからである。その王権を、最後の王の正統な相続人のために再建することは、当時は不可能だったと、私は断言する。
アミアンの講和が結ばれるや、ボナパルトから節度が離れ始めた。この講和が、まだ完全には実行されないうちに、すでに、新しい戦争の種をまいていた。その戦争は、ヨーロッパとフランスを圧倒したあと、本人をも破滅へ導くはずだった。
ピエモンテは、リュネヴィルの講和の直後に、サルデーニャ国王へ返されるべきだった。フランスの手には、預かりものとしてあるにすぎなかった。それを返すのは、厳正な正義の行為であると同時に、たいへん賢明な政策だっただろう。ところがボナパルトは、フランスへ併合した。この措置を思いとどまらせようと、私は努力したが、無駄だった。ボナパルトは、それが個人的な利益に合うと信じ、自尊心も求めていると思った。そして、自尊心が、慎重さのあらゆる助言に勝った[385]。
勝利によってフランスの拡大に寄与してはいたが、最近広がった領土のどれも、本人の指揮した軍が征服したものではなかった。アヴィニョン伯領、サヴォワ、ベルギー、ライン左岸がフランスへ併合されたのは、国民公会のもとであり、ボナパルト個人は、これらの征服のどれも、自分のものだとは言えなかった。かつて対等で、これから臣下にしたい指導者たちによって広げられた国を治め、しかも望むように世襲で治めるのは、ほとんど屈辱に思えた。そのうえ、避けたい反対を生む可能性もあった。こうして、主権者の称号への要求を正当化するため、フランスが自分から受け取る領地を、加える必要があると判断した。一七九六年にはピエモンテの征服者だったので、その国が、自分の狙いを満たすのに適していると思えた。そこで、元老院にフランスへの併合を宣言させた。国際法の最も神聖なものを、これほど甚だしく侵すことについて、誰かに説明を求められるとは、想像しなかった。その幻想は、長く続かないはずだった。
必要に迫られてのみ講和したイギリス政府は、その講和を、ほとんど不可欠にした国内の困難から抜け出すと、まだ返しておらず、保ちたいと願うマルタをめぐって、ピエモンテのフランスへの併合が与えた機会をとらえ、再び武器を取った[386]。
この出来事は、終身統領制を世襲君主制へ変えるという、ボナパルトの決意を早めた。イギリスは、献身的で、たいへん大胆な亡命者を幾人か、ブルターニュの海岸へ送り込んでいた。ボナパルトは、この陰謀を利用した。そこへ、栄光を争う三人、デュムーリエ[387]、ピシュグリュ、モローを、一度に巻き込めると期待し、元老院から皇帝の称号を与えさせたのである。しかし、節度と賢明さがあれば、多少遅れても、同じように得られたはずの称号が、暴力と犯罪の報酬となった。王座へ上ったが、その王座は、無実の血で、古く栄光ある思い出のため、フランスに愛された血で、汚されていた。
ピシュグリュの、暴力による説明のつかない死、モローを有罪とするために用いた手段は、政治のせいとすることもできた。しかし、アンギャン公爵の殺害[388]は、ルイ十六世の死ゆえに、自分たちから生じない、あらゆる権力を恐れる人々の列へ加わり、その人々を確保するためだけに行われた。その殺害は、弁明も赦しもできず、一度も赦されなかった。だからボナパルトは、それを自慢するしかなくなった[389]。
イギリスとの新たな戦争は、ボナパルトのすべての資源を必要とした。大陸の列強を刺激して、敵と手を組ませるようなことを、何も始めないのは、ごく普通の慎重さがあれば足りた。しかし、またしても虚栄心が勝った。ナポレオンの名でフランス人の皇帝と宣言されるだけでは足りず、教皇に聖別されるだけでも足りなかった。オーストリア家の長と同じく、皇帝であり、王であるため、イタリア国王にもなりたかった。そこでミラノで戴冠し、単にロンバルディア国王という称号を取る代わりに、もっと野心的で、それゆえ、もっと不安を呼ぶイタリア国王を選んだ。まるで、イタリア全土を王笏のもとへ服させるつもりのようだった。その意図に、いっそう疑いがなくなるよう、手先が巧みに恐怖を広めたジェノヴァとルッカ[390]が代表団を送り、前者は自らを差し出し、後者はナポレオンと同じ名の家系の主権者を求めた。こうして双方は、異なる形で、そのとき初めて「大帝国」と呼ばれ始めたものの一部となった。
この振る舞いの結果は、当然、予想されたとおりだった。オーストリアが武装し、大陸戦争が目前となる。するとナポレオンは、あらゆる方向へ交渉を試みる。ハノーファーを申し出て、プロイセンを同盟へ引き込もうとした[391]。成功しかけたとき、デュロック将軍[392]をベルリンへ送り、自ら失敗させた。その不器用な粗暴さが、私の指示で、駐在フランス公使ラ・フォレ氏[393]が先に行っていた働きかけの、よい効果を壊したのである。
バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンの選帝侯たちに対しては、皇帝は、もっと幸運だった。このときは、同盟につなぎとめた。
イギリスの海岸を脅かす目的で、このころ彼が設けたブーローニュの陣営は、まず、イギリスで戦争を国民に支持させ、前例のないことに、大規模な常備軍を編成させる結果となった。ナポレオンが、この陣営の仕事に没頭しているように見えた間に、オーストリア軍はイン川を渡り、バイエルンを横断し、シュヴァーベンの中央を占領して、すでにライン川の岸へ達していた。しかし、彼をきわめて危険な立場から救ったのは、まさしく、このオーストリア軍の性急さだった。もし彼らが、合流のため行軍していたアレクサンドル皇帝と十万のロシア兵の到着を待っていたなら、ナポレオンは、その危険な立場に置かれたであろう。そうなれば、プロイセンも必ず連合に引き込まれていたからだ。だが、オーストリア軍は、自分たちだけで戦いを始め、勝利できることを示そうとした。
ナポレオンは、自らの栄光をなす軍事的天才と迅速さをもって、この過ちを利用した。数週間、数日とさえいえるほどのうちに、大陸軍をブーローニュの陣営からライン川の岸へ移し、新たな勝利へと率いた。
私は、状況に応じて大本営に随行できるよう、ストラスブールまで同行する命令を受けた(一八〇五年九月)。この戦役の初めに皇帝を襲った体の異変には、ひどく驚かされた。ストラスブールを発つ当日、私は皇帝と食事をした。食卓を離れると、皇帝はひとりでジョゼフィーヌ皇后の部屋に入り、数分後、突然そこから出てきた。広間にいた私の腕を取り、自分の寝室へ連れていった。首席侍従のレミュザ氏[394]も、いくつか命令を仰ぐ必要があり、皇帝がそれを与えず出発するのを恐れて、一緒に入った。私たちが入るやいなや、皇帝は床に倒れた。私に戸を閉めろと言うのがやっとだった。息が詰まりそうに見えたので、私はクラヴァットを引き外した。嘔吐はせず、うめき、よだれを流していた。レミュザ氏が水を飲ませ、私はオーデコロンをたっぷりかけた。一種の痙攣が起きていたが、十五分ほどで収まった。私たちが肘掛け椅子に座らせると、皇帝は話し始め、服を着直し、秘密を守るよう私たちに言いつけた。それから三十分後には、カールスルーエへ向かう道中にあった。シュトゥットガルトに着くと、私に近況を知らせる手紙を送ってきた。その末尾には、こうあった。「私は元気だ。(ヴュルテンベルク)公爵は、宮殿の最初の門の外まで迎えに来た。気の利いた人物だ」。同じ日、シュトゥットガルトからの二通目には、こう書かれていた。「マックの行動について知らせが来ている。まるで私自身が指揮しているかのように動いている。ウルムで、卑しいやつらしく捕まるだろう[395]」。
のちに、マックは買収されていたという噂を広めようとする者があったが、それは誤りである。オーストリア軍を滅ぼしたのは、その思い上がりだけだった。各地で個別に破られ、ウルムへ押し戻された軍が、そこで降伏を余儀なくされたことは知られている。屈辱の軛をくぐったのち、その軍は捕虜としてとどめられた。
「屈辱の軛をくぐる」は原文のカウディウムの軛への故事的言及。ここでは屈辱的な降伏を表す。
ナポレオンは、勝利を知らせる手紙で、当初の考えとして、オーストリアにどのような条件を課し、どの領土を奪うつもりかを書いてきた。私は、彼の真の利益はオーストリアを弱めることにはなく、一方で奪うなら、他方で返して、同盟国とすべきだと答えた。理由を述べた私の意見書は、皇帝にかなりの印象を与えた。私が合流したミュンヘンで開いた会議に、その問題を諮り、私の提案した計画に従おうと傾くほどだった。その計画は、今でも政府の記録保管所で見つけられる[396]。しかし、前衛の一個師団が新たな戦果を上げると、皇帝の想像力は高ぶり、ウィーンへ進み、さらに成功を追い求め、シェーンブルンの皇帝の宮殿で勅令を発したいという願いしか残らなくなった。
三週間足らずで、上オーストリア全土と、下オーストリアのドナウ川以南の全域を支配すると、皇帝はその川を渡り、モラヴィアへ進んだ。このとき、六万のプロイセン兵がボヘミアへ入り、さらに六万がフランケンを経由してリンツへの道を占領していたなら、皇帝自身が逃れられたかどうかも疑わしい。正面にいた約十二万のオーストリア・ロシア連合軍が、ただ全面的な会戦を避け、カール大公が指揮下の七万五千を率いて到着する時間を与えていたなら、ナポレオンは、条件を命じる代わりに、条件を受け入れざるをえなくなっていただろう。しかしプロイセンは、軍を率いて来るどころか、ひとりの交渉者を送った。その人物は、愚行からか、罪深い意図からか、命じられたことを何ひとつ行わず、ほどなく祖国自身がのみ込まれる深淵を掘ったのである[397]。
オルミュッツで退屈し、まだ一度も戦闘を見たことのなかったアレクサンドル皇帝は、それを楽しみたいと思った。オーストリア側の諫言にも、プロイセン王から届いた忠告にもかかわらず、アウステルリッツの戦いとして知られる会戦を挑み、完全に敗れた。その結果結ばれた休戦協定が、屈辱的な義務として課したとおり、一日ごとの行程を定めて退却できるだけでも、幸運とするほかなかった。これほど輝かしい軍事上の偉業は、かつてなかった。戦闘の晩、アウステルリッツへ戻るナポレオンの姿が、今も目に浮かぶ。皇帝はカウニッツ公の邸宅に泊まっていた。その部屋へ、そう、カウニッツ公自身の寝室へ、オーストリアの軍旗、ロシアの軍旗、大公たちからの伝言、オーストリア皇帝からの伝言、帝国のあらゆる名門の名を持つ捕虜たちが、ひっきりなしに到着した。
これらの戦利品のただ中へ、ひとりの急使が中庭に入ってきたことを、私は忘れていない。パリからの手紙と、例の秘密めいた書類入れを携えていた。ラ・ヴァレット氏[398]は、その中に、開封した重要な私信の秘密と、フランスのあらゆる警察からの報告を収めていた。戦地では、急使の到着は、この上なくうれしい出来事である。ナポレオンは、直ちに手紙を配らせて、軍の疲れを慰め、褒美を与えていた。
そのとき、なかなか興味深い出来事が起きた。ナポレオンの性格と考え方を、あまりにもよく示すので、記さずにはおけない。このころ、私に深い信頼を寄せていた皇帝は、届いた書簡を読み上げるよう命じた。まず、パリ駐在の外国大使たちの、暗号を解読した手紙から始めた。世界中の出来事が自分の周りで起きていたので、それらには、あまり関心を示さなかった。次に、警察の報告へ移った。いくつかは、財務大臣マルボワ氏[399]の不適切な施策によって生じた、銀行の窮状を述べていた。皇帝が、とりわけ注目したのは、ジャンリス夫人の報告だった。長い報告で、すべて夫人の自筆だった。パリの気風を語り、当時フォーブール・サン=ジェルマンと呼ばれていた社交界の屋敷で、口にされたという、いくつかの侮辱的な言葉を挙げていた。五、六の家の名を出し、それらは決して皇帝の政府になびかないだろう、と付け加えていた。ジャンリス夫人が伝えた、かなり辛辣な言葉のため、ナポレオンは信じがたいほど激昂し、悪態をつき、フォーブール・サン=ジェルマンに怒りをぶつけた。「ああ、連中は自分たちのほうが私より強いと思っているのだな。フォーブール・サン=ジェルマンの紳士諸君、いまに見ていろ、いまに見ていろ!」。この「いまに見ていろ」が出たのは、いつだったか。ロシア軍とオーストリア軍に、決定的な勝利を収めてから、わずか数時間後だった。それほど皇帝は、世論、とりわけ、自分から距離を置く以外には何もしていない、少数の貴族の意見に、力と威勢を認めていたのである。だから、のちにパリへ戻り、モンモランシー夫人[400]、モルトマール夫人[401]、シュヴルーズ夫人[402]が、皇后の女官の職に就き、一緒に任命されていたバッサーノ夫人[403]にも貴族らしい格を添えると、皇帝は、新たな征服を遂げたと思ったのだった。
二十四時間後、私はアウステルリッツを発った。その恐ろしい戦場で、二時間を過ごしたあとだった。ランヌ元帥が案内してくれたのである。元帥の名誉のため、また、おそらく軍人一般の名誉のためにも、言っておかなければならない。前日には驚くべき勇気を示し、戦うべき敵がいる間は、並ぶ者のない勇敢さを発揮した、この同じ人物が、目の前にあらゆる国の死者と手足を損なった者しかいなくなると、気を失いそうになったのだ。心を激しく揺さぶられ、主な攻撃が始まった各地点を私に示しているとき、こう言った。「もう耐えられません。私と一緒に、死者や瀕死の者から物を剥ぎ取っている、あの忌まわしいユダヤ人どもを、みな殴り殺しに行くのでなければ」。
末尾はタレーランがランヌの発言として記す反ユダヤ的な表現と暴力的発言を、そのまま訳したもの。訳者の見解ではなく、発言内容や人物の同定を独立に裏づけるものでもない。
この大きな会戦の前には、むなしい見せかけにすぎなかった交渉が、ここで真剣なものとなった。モラヴィアのブリュンで始まり、プレスブルク[404]で終わった。ジュライ将軍[405]と、誠実なヨハン・フォン・リヒテンシュタイン公[406]が、私と一緒にそこへ赴いたのである。
私が、これらのうち最初の都市にいた間、ナポレオン皇帝はデュロックに条約を口述し、プロイセンの大臣ハウクヴィッツ伯が署名していた(一八〇五年十二月十五日)。条約には、オーストリアに要求する割譲が記され、プロイセンは、ハノーファーを受け取る代わりに、アンスバッハとヌーシャテルを割譲することになっていた。ナポレオンは、あらゆる種類の成功を収め、それを何の節度もなく濫用した。とりわけ、ほどなく[407]、ウィーンの日付を付した不遜な勅令を出し、両シチリア王フェルディナンド四世は、もはや統治していないと宣言した。そして兄のジョゼフ・ボナパルトに、容易に征服したナポリ王国と、自分の想像の中でしか支配したことのないシチリア王国を与えたのである。
ナポレオンが、このとき採用し、いま述べた勅令を最初の行為とした体制は、彼の没落の原因のひとつに数えなければならない。政府を倒して別の政府を作り、それもほどなく倒すということを、ヨーロッパのいたるところで繰り返す、このやり方に、どれほど政治的な誤りと破壊性があったかは、のちに、彼が作り出した新しい王たちの、それぞれの事例に即して述べることにする。
窮地に追い込まれたオーストリアには、勝者の課す条件を受け入れるほかなかった。条件は厳しく、ハウクヴィッツ氏との条約のため、賠償金に関する条項以外は、私にも緩和できなかった。私は、せめて、いかなる欺瞞的な解釈によっても、条件をさらに重くできないようにした。皇帝から遠く離れ、文案に干渉されず、私がその作成を掌握していたので、曖昧さが少しも残らぬよう努めた。そのため、得られるものをすべて得ていながら、ナポレオンは条約を気に入らなかった。しばらくして、こう書いてきた。「君がプレスブルクで私のために作った条約は、私をひどく窮屈にする」。もっとも、それでも皇帝は、ほどなく、大きな満足のしるしを私に与えた。その軍が占領していたベネヴェントの公に、私を任じたのである。私は、王政復古まで保持した、この公国を、それによって、あらゆる嫌がらせから、徴兵さえも含めて守れたことを、喜んで記しておく。
権限もなく、しかも君主の意向に反することを十分知りながら、あえて条約を結んだハウクヴィッツ伯は、確かに、首で償うに値しただろう。しかし彼を罰することは、ナポレオン自身に刃向かうことだった。プロイセン王は、伯の行為を否認する勇気がなかった。王妃の気高い懇請にも応じないという弱さまで示した。その一方、こうした行為を承認するのは恥ずかしく、初めは条件付きでしか条約を批准しなかった。しかし、その条件付き批准をナポレオンが拒むと、彼を敵としないため、無条件の批准に置き換えざるをえず、それによってプロイセンは、イギリスとの戦争状態に入った[408]。
ナポレオンは、皇帝となってからは、もはや共和国を、とりわけ近隣には望まなくなった。そこでオランダの政体を変え、ついには自分の兄弟のひとりを、この国の王として求めさせた[409]。選んだ弟ルイが、オランダ王の称号を受ける以上は、完全にオランダ人にならずにはいられないほど、誠実な人間であるとは、このとき、思いも寄らなかった。
ドイツ帝国の解体は、プレスブルク条約によって、すでに暗黙のうちに実現していた。条約は、バイエルンとヴュルテンベルクの選帝侯を王、バーデンの選帝侯を大公と認めていたからだ。この解体を完成させたのが、ライン同盟を結成する盟約だった[410]。それは、一八〇三年の帝国代表者会議決議で存続していた、多くの小国から、その存在を奪った。私は、もう一度、それらを救おうとした。しかし、成功したのは、ごく少数にすぎなかった。同盟の主要な諸国は、領土を拡大できるのでなければ、この盟約を受け入れようとしなかったのである。
ナポレオンの義弟のひとりミュラは、クレーヴェとベルクを主権領として与えられ、大公の称号で、この同盟に加えられた。のちに、その称号を王の称号と交換したが、彼にとっては、王位など得ないほうがよかった。
プロイセン王がハノーファーを占領して、イギリスとの関係を悪化させていた間に、イギリスはフランスとの交渉を考えていた。ピット氏が死去し[411]、そのあと長くは生きない運命にあったフォックス氏が、才能によって、国王の嫌悪を押し切り、グレンヴィル卿[412]を名目上の首班とする内閣で、外務担当の首席国務大臣となっていた。ナポレオン政府の圧政を、フォックス氏以上に嫌っていた者はいなかった。しかし、長年、野党の指導者として語ってきた言葉と、自分の行動を矛盾させないためか、あるいは、本当に平和を望んだためか、平和的な意思を示すべきだと考えた。私に手紙を書き[413]、皇帝その人を、あるいは、その手紙での呼び方に従えば「フランス人の首長」を、暗殺しようとする企てについて知らせてきた。陰謀を企てた卑劣な者のひとりから、打ち明けられたというのである。
私は、この機会に進んで飛びついた。皇帝の名で謝意を伝えるとともに、こちらの意向を示すと、ほどなくヤーマス卿を介した交渉の申し入れが続いた。二、三度の会談のあと、フォックス氏は、グレンヴィル卿の意にかなうよう、ローダーデイル卿[414]をヤーマス卿に加えた。
一方、アレクサンドル皇帝は、和解を図るため、ウーブリル氏をパリへ送った。私は、条約を結ぶよう彼を導き、彼はクラーク氏[415]と交渉した。ロシア皇帝は、まだそこまで進むつもりはなかったので、批准を拒み、署名した者を失脚させた。
ヤーマス卿が順調に始め、ローダーデイル卿が台無しにした交渉のほうは、結局、イギリス自身が望んだ以上に、プロイセンへイギリスの恨みを晴らす結果にしかならなかった。
イギリスとフランスの講和は、ハノーファーの返還なしには、事情からして、とうてい不可能だった。一方、ナポレオンは、代償と引き換えに、この国をすでに他へ与え、その代償も、さらに他へ処分していたから、返還もまた、事情からして、とうてい不可能だった。しかし、力で乗り越えられない障害しか、真の障害と認めない皇帝は、ためらわず、この返還を、今後の取り決めの基礎のひとつとして受け入れた。心の中では、こう考えていた。「恐怖からハノーファーを受け取ったプロイセンは、恐怖から返すだろう。プロイセンが差し出した代償のほうは、その内閣の自尊心を満たす約束で埋め合わせればよい。国のほうは、それで満足せざるをえなくなる」。
プロイセンが、この背信を長く知らずにいることは、ありえなかった。イギリスには、それを知らせる利益があり、おまけにプロイセンは、さらにもうひとつの背信に耐えなければならなかった。
ハウクヴィッツ伯は、ウィーンとパリでナポレオン皇帝と会談した際、ドイツ帝国を解体して、南と北、二つの同盟に置き換える計画を聞かされていた。皇帝が言うには、自分は南の同盟にだけ影響力を持ち、北はプロイセンが率いるというのだった。プロイセン内閣は、この計画に心を奪われた。しかし、二つの同盟の境界を定めようとすると、ナポレオンは、プロイセンの側に、ハンザ諸都市もザクセンも含めてはならないと宣言した。それらこそ、まだプロイセンの影響と保護のもとにない、唯一の国々だったのである。もてあそばれたと悟ったプロイセンは、国民のあらゆる階層に広がる憤激だけを頼りに、武器を取った。
皇帝は、初めてプロイセンと戦おうとしたとき、内心、不安を覚えずにはいなかった。プロイセン軍のかつての栄光に、威圧されていたのである。しかし、わずか四時間の戦闘で、その幻影は消えた。イエナの戦い[416]によって、プロイセン王国は、完全に勝者の意のままとなった。しかも勝者は、自分の側に非があり、多少の恐れも抱き、それが知られていたため、いっそう苛酷だった。
ナポレオンが、平和公の軽率な宣言を受け取ったのは、すでにベルリンにいたときだった。それは、スペインが近く離反することを告げているように見えた[417]。皇帝は、そのときから、いかなる犠牲を払っても、ブルボン家のスペインの分家を滅ぼすと誓った。そして私は、フランスへ戻ったら、どんな犠牲を払っても、皇帝の大臣を辞めると心の中で誓った。ティルジットで、皇帝がプロイセンを扱った残酷さは、この決意をさらに固めた。もっとも、そのときは、私を手先にはしなかった。戦争賠償金と、その軍による領土からの撤退の交渉を、今回は私に任せず、ベルティエ元帥[418]に担当させた。プレスブルクでは、私の処理の仕方が、自分の真の利益と考えるものに、あまりにも合わなかったと思っていたのである。しかし、話を先へ進めすぎた。
ベルリンにとどまったのは、ほんの数日だった。国王が信頼する副官ツァストロウ氏と、ルッケジーニ氏が、そこへ来る許可を得ていた。ルッケジーニ氏は、プロイセンでは、非常に有能で、とりわけ抜け目のない人物とされていた。その抜け目のなさから、私は、しばしばデュフレニーの言葉を思い出した。「才知がありすぎる、つまり足りない」。この二人の全権委員は、休戦交渉のために来た。マクデブルクの降伏を知らされるのが遅すぎなかったなら、おそらく休戦を得られただろう。確かに、ロシア軍はまだ無傷だった。しかし、兵力は何と少なかったことか。そのうえ、プロイセン兵は完全に気力を失い、すべての要塞が門を開き、ついには、ポーランドの代表団が、四方からナポレオンのもとへ駆けつけていた。これほどの事情がそろわなくても、皇帝が交渉者全員を帰し、ベルリンを発って、ポーゼンを経由し、ワルシャワへ急進する決意をするには十分だった。
何という奇妙な光景だったことか。ナポレオンが、軍に向けた公報を書いたばかりの、フリードリヒ大王の執務室から出てくる。食堂へ移り、捕虜のメレンドルフ[419]と、プロイセン王国の史官ミュラー[420]を、自分との食事に招く。二人に、それぞれの俸給を支払おうと申し出て、二人がそれを受け入れる。そして馬車に乗り、ポーゼンへ出発するのである。
皇帝は、イタリア戦役で、ともに自分の指揮下にあったドンブロフスキ将軍[421]とヴィビツキ伯を、先にポーゼンへ送っていた。二人は、ポーゼンの日付で、ポーランド全土に呼びかけるような文書を出し、祖国の再興を告げた。ベルリンで渡されていた、この文書は、事態が皇帝の企てを助けるか、阻むかによって、承認も否認もできる程度に、ナポレオンの許可を示すと同時に、隠していた。ポーゼンでは、皇帝は熱狂的に迎えられた。すでにワルシャワにいたミュラが手配した代表団が、皇帝の到着の翌日、その滞在する宮殿の門前に来ていた。国民の名で語っていると思わせるだけの、かなり有力な人物たちから成る代表団だった。人数は多く、私の記憶に残る名は、アレクサンデル・ポトツキ、マワホフスキ、グタコフスキ、ジャウィンスキの諸氏である。皇帝への演説で、彼らは国の全兵力を差し出した。ナポレオンは、この申し出を受け止め、ほかの要求には、あまり明確に答えず、こう返した。「四万の軍を持ったとき、君たちは一つの国民となるに値する。そのときには、私の全面的な保護を受ける権利を持つだろう」。代表団は、希望に満ちて、すぐワルシャワへ戻った。
皇帝はポーゼンで、それまでプロイセンの同盟者だったザクセン選帝侯と条約を結んだ。選帝侯はライン同盟に加盟し、王の称号を取った[422]。このとき、ナポレオンは、ドノン氏[423]がドレスデンの美術館から持ち去るよう勧めた絵画の一覧を受け取った。私が執務室へ入ると、皇帝はそれを読んでいて、私に見せた。私は言った。「陛下がドレスデンから絵画をいくつか運び去らせれば、ザクセン王が自分に許したことのないことまでなさることになります。王は、自分の宮殿に一枚置かせる権限さえないと考えているのです。美術館を国の財産として尊重しています」。「そうだな」とナポレオンは言った。「あの王は立派な人物だ。悲しませてはいけない。何にも手を触れないよう命令しよう。あとは、また考えよう」。
少なくとも四万のポーランド人から成る、新たな軍団を得ると確信して、皇帝は数日後、ワルシャワへ発った。クトノでデュロック将軍が重大な事故に遭っても、旅は十五分さえ遅れなかった。皇帝は将軍が倒れるのを見て、そのそばを通り過ぎ、道を進み、二リューほど先へ行ってから、様子を尋ねる者を送るべきだと思いついた。ワルシャワ到着の時刻を知っていたのは、ミュラだけだった。皇帝は夜中に町へ入った。朝六時、ミュラの軍団に属するフランス将校たちの影響で、すべて新たに設けられた当局の人々は、皇帝への拝謁のため、宮殿へ出頭するよう命じられた。皇帝は、集まった人々のうち、最も熱烈な者たちを、際立って厚遇した。祖国の制度に、どんな変革が起きようとも、いつでも進んで飛びつく、あの種の愛国者たちだった。他の者には、厳しいという以上の態度を示した。とりわけユゼフ・ポニャトフスキ公[424]には、皇帝の名によるミュラの明確な命令を受けて、初めて軍での地位に復することに同意した、と、ひどく厳しく非難した。この忠誠心ゆえの叱責に値したことで、ユゼフ公は、皇帝の評価の中で、特別な位置を占めた。皇帝は、ポーランドに臨時政府を与えるとき、公に陸軍大臣の職を託したのである。
リューは原文の距離単位 lieue。日本の里への換算ではない。
ナポレオンの最初のワルシャワ滞在は、たいへん短かった。到着後、国の最も有力な人々と交わした会話のすべてで、間もなくグロドノへ進軍するつもりだと告げていた。障害は小さいので、自分がすでに「ロシア軍の残骸」と呼んでいたものを、短期間で撃滅し、彼の言い方では、この「新参のヨーロッパ人」を、昔の境界内へ押し戻すというのである。プウトゥスクの泥濘[425]が、しばらく計画を妨げたが、それでも口ぶりは、すっかり変わることはなかった。ワルシャワへ戻ると、大きな成功を収めてきたが、季節のため、兵にはひどく苦しいものとなる優位を利用するつもりはなく、冬営に入ると告げた。
この休息は長くはなかったが、皇帝は、その間を使い、戦役の開始時に大きな助力となるよう、ポーランドを組織した。この特異な国では、想像力だけが人々を支配すると知っていたので、ワルシャワで過ごした三週間、国民の軍人的精神を高め、祝宴、舞踏会、演奏会を開き、ロシア人への軽蔑を示し、大いに贅沢を見せつけ、ヤン・ソビェスキについて語ることに、心を砕いた。また、公然と、その栄光を、美しいポーランド女性、アナスターズ・ヴァレフスカ夫人の足もとに捧げた。夫人は、皇帝が各宿営地を巡察する拠点として向かった、オステローデとフィンケンシュタインまで、あとを追った。
原文 madame Anastase Walewska は、夫アナスターズの名を用いた既婚女性の呼称。女性本人はマリア(マリー)・ヴァレフスカであり、アナスターズは本人の名ではない。参照:https://www.napoleon.org/histoire-des-2-empires/biographies/walewska-marie-1786-1818-comtesse/
私は、一種の外交団が集まっていたワルシャワに、とどまらなければならなかった。周りにはドイツ諸国の公使たちがいて、その主君たちは、この破壊の時代にも、領土の拡大を得ようと考える勇気を持っていた。オーストリアは、別の動機から、ヴァンサン男爵[426]を送っていた。男爵の任務は、かつてポーランド領で、最後の分割以来オーストリア皇帝に属し、戦場に隣接していた地域の秩序が乱されないよう、見張ることだけだった。私は、その意図に協力し、任務をよく果たせるよう、あらゆる手段で力を貸した。
ナポレオンがワルシャワ総督に任じた人物は、まったく無能だった。そのため皇帝は、不在中、本来は総督の職務である細々した事柄を、私に任せた。私は、軍服を支給させ、部隊を出発させ、食糧を買い、病院を訪れ、負傷者の手当てに立ち会い、手当金を配った。総督が日々の命令に何を書くべきかまで、指図しなければならなかった。こうした仕事は、私には不慣れで、ポニャトフスキ公と、その姉妹ヴァンサン・ティシュキェヴィチ伯爵夫人の家で、あらゆる助力と支援を得られなかったなら、たいへん苦しかっただろう。この優れた高貴な家族から受けた、初めは心遣い、やがては愛情のしるしは、私の心に消えない感謝の思い出を残した。ワルシャワを去るのはつらかった。しかし、アイラウの戦いで、かろうじて勝利を得たばかりで[427]、ナポレオンは、何らかの交渉を始めようと、私をそばへ呼び戻していた。この方向で試みたことは、すべて無駄に終わった。なお戦わねばならず、皇帝も数日後には、それを理解した。ダンツィヒの攻略[428]は、いわゆる軍の士気を立て直していた。士気は、プウトゥスクで経験した困難、アイラウの戦い、気候、そしてフランス人には長すぎる故国からの不在によって、いくらか沈んでいた。皇帝は、集めた全軍を率いてハイルスベルクへ進み、そこで最初の勝利を収めた[429]。そこからロシア軍を追い、グットシュタットで再び破り、最後にフリートラントで破った[430]。
この最後の戦いがロシア軍に広めた恐怖は、この大きな戦争を終えたいという強い願いを抱かせた。アレクサンドル皇帝が提案した、ネマン川の中ほどでの会見は、いかにも物語めいた構想で、しかも壮麗に演出できるものだったので、自分の生涯という詩の、輝かしい一挿話になると見たナポレオンは、それを受け入れた。そこで講和の基礎が定められた。その後ティルジットへ赴き、私は、プロイセンの全権委員カルクロイト将軍[431]とゴルツ氏[432]と、交渉するのではなく、条約に署名する任務を与えられた。条約には、ナポレオン皇帝とアレクサンドル皇帝が合意したとおりの、プロイセンの領土割譲が含まれていた[433]。アレクサンドル皇帝は、講和するだけにとどまらなかった。私がクラキン公[434]と交渉し、署名した条約によって、ナポレオンの同盟者となり、それによって、かつての同盟国の敵となった[435]。何も失わず、何かを得ることさえできたため、皇帝は満足した。好意的な歴史家なら、語りたがらないことだろう。こうして臣民に対する自尊心の利益も守れたので、プロイセン王に、名目上は王国の半分を残したことで、友情の義務をすべて果たしたと考えた。そして、王が保持するはずの半分が、速やかに、完全に返されるのか、新たな犠牲によって、もう一度買い戻す必要がないのかを、確かめる用心さえせずに去った。ある日、ナポレオンがプロイセン王妃にぶつけた、粗暴な問いを聞けば、懸念する理由はあった。「奥方、あれほど弱い手段しか持たずに、どうして私に戦争を仕掛ける勇気があったのですか」。「陛下、申し上げなければなりません。フリードリヒ二世の栄光が、私たち自身の力を見誤らせたのです」。この「栄光」という言葉が、ティルジットの、ナポレオン皇帝の広間で、これほど巧みに用いられたことは、私には見事に思われた。私は、王妃のこの美しい返答を、何度も繰り返した。とうとう皇帝は、ある日こう言った。「プロイセン王妃の、あの言葉の、どこがそんなに美しいのか分からない。ほかのことを話したらどうか」。
私は、見るもの、聞くもののすべてに憤っていたが、その憤りを隠さねばならなかった。だから、別の時代の王妃ともいうべき、プロイセン王妃が、それを察してくださったことには、生涯、感謝するだろう。自分の人生を振り返ると、つらい思いが、どうしても幾つも浮かぶ。しかし少なくとも、このとき王妃が、親切にも語ってくださったこと、ほとんど胸の内を打ち明けるように言ってくださったことは、大きな慰めとともに思い出せる。最後に、お車までお送りする光栄を得たとき、王妃は言われた。「ベネヴェント公、私がここへ来たことを後悔しているのは、二人だけです。私と、あなたです。この考えを持って帰っても、お気を悪くなさらないでしょうね」。目に浮かんだ、感動と誇りの涙が、私の答えだった。
この高貴な女性の努力も、ナポレオンには役立たなかった。皇帝は勝ち誇り、そのときは頑として動かなかった。他者に破らせた約束と、新たに結ばせた約束に、酔っていたのである。ロシア皇帝をうまく欺いた、と考えることにも喜びを覚えていた。しかし時が証明したのは、本当に欺かれたのは、自分自身だったということだ。
ティルジット条約によって、末弟ジェローム・ボナパルトは、ヴェストファーレン王と認められた。その王国は、プロイセンが割譲した幾つかの州と、ヘッセン選帝侯領およびブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公国の大部分から成っていた。後の二つは、征服されてはいたが、割譲されてはいなかった。ナポレオンは、アンハルト、リッペ、ヴァルデックの諸侯領も加えたがっていた。しかし私は、プウトゥスクの戦いのあと、皇帝が実際には窮地にあったことを利用した。本人は認めなかったが、その機会に、これらの諸侯領を、ロイス、シュヴァルツブルクとともに、ライン同盟へ加盟させていた。皇帝は、のちにはそうしたものの、当時はまだ、自ら加盟を認めた諸侯の存立を脅かす勇気がなかった。ティルジット条約が署名され、批准されると、ようやくフランスへ帰ることができた。
ほぼ一年、動揺の中で過ごしてきたので、ドレスデンを通ったとき、言いようのない安らぎを覚えた。そこで数日とどまった。ザクセン宮廷の、高雅で穏やかな慣わし、フリードリヒ・アウグスト王[436]の、公私にわたる徳、どこにでも見られる善意と誠実さのおかげで、このドレスデン滞在は、特別な思い出となって残っている。
パリに着くと、ナポレオンは、ベルティエ元帥のために副大元帥の職、私のために副大選挙侯の職を設けた[437]。いずれも、名誉があり、収入も多い閑職だった。そこで私は、望んでいたとおり、大臣の職を辞した[438]。
外交の指揮を任されていた間、私は、忠実かつ熱心にナポレオンに仕えた。長い間、皇帝は、私が申し述べることを義務と考えていた意見を、受け入れてくれた。その意見は、二つの考慮に基づいていた。フランスに、君主の権威を正当な限界の内に保つことで、それを保証する君主制の制度を設けること。そして、フランスの幸福と栄光を許してもらえるよう、ヨーロッパの諸国に配慮することだった。一八〇七年には、私が引きとどめようと全力を尽くした道から、ナポレオンが、すでに長く逸れていたことは認める。しかし、そのとき訪れた機会までは、私は職を去れなかった。皇帝のそばでの実務を辞めることは、人が考えるほど容易ではなかった。
ティルジットから戻るや、ナポレオンは、スペインに対する計画の実行に没頭した。この企ての筋立ては、あまりにも複雑なので、別に扱うべきだと考えた[439]。ここでは、ただ、皇帝が、その計画を私も支持していると思わせたくて、フェルナンド七世、その弟、二人の叔父の幽閉先として、ほかならぬ私のヴァランセの領地を選んだことだけを述べておく。しかし、王族たちも世間も、だまされなかった。スペイン征服に成功しなかったのと同じく、この試みにも成功しなかった。
ティルジットで別れたとき、アレクサンドル皇帝とナポレオンは、近いうちに再会しようと約束していた。自分の事情から必要に迫られないかぎり、ナポレオンには、守る気のない約束だった。しかし、ジュノー将軍がイギリス軍によってポルトガルから追い出され[440]、デュポン将軍がバイレンで降伏を余儀なくされ[441]、スペイン全土の蜂起が、長期に及ぶかもしれない抵抗を告げると、皇帝は、オーストリアが、この情勢を利用するのではないかと恐れ始めた。そして、ロシアを、さらに確実に味方につける必要を感じた。そこで、アレクサンドル皇帝との再会を望み、会見に招かせ、場所はエアフルトと決まった[442]。私とは、すでにひどく冷たい関係だったが、同行するよう望んだ。役に立つかもしれないと思い込めば、それで十分だったのである。この会見の、多くの興味深い細部は、独立した一挿話をなすので、これも別の一篇にするべきだと考えた[443]。ただし、ナポレオンの意図は、ここに記しておく必要がある。目的は、アレクサンドル皇帝に、オーストリアに対する特別な同盟を結ばせることだった。ティルジットで結んだ同盟は、全般的なものだったが、とりわけイギリスに向けられていた。もしエアフルトで成功していたなら、容易に考えつく何らかの口実で、オーストリアに争いを仕掛け、何度か軍事的成功を収めたのち、プロイセンにしたのと同じことを試みただろう。ロシアの全面的な協力があれば、目的を遂げる力は、あまりにも十分だった。アレクサンドル皇帝の才能と性格を、ひどく低く見ていたので、成功を期待していた。まず脅し、次いで虚栄心と野心を同時に攻めるつもりだった。そして実際、この三方から攻められれば、ロシア皇帝が、あまりにも容易に動かされるおそれはあった。しかし、オーストリアにとって幸運なことに、人々がしつこく誤った評価を加えてきたコランクール氏[444]は、アレクサンドル皇帝の信頼を得ており、私にも信頼を寄せさせていた。私はティルジットで、何度か皇帝と個別に会っていた。エアフルトでは、ほとんど毎日会った。初めは、ヨーロッパの列強の共通の利益、保つべき列強間の絆が、どのような条件で断たれるか、ヨーロッパ全体の均衡と、その破壊がもたらすであろう結果について、広く話した。その後、この均衡に存立が必要な国家、ついにはオーストリアへと、話題を絞った。こうした会話によって、皇帝の心は、ナポレオンの甘言、申し出、激昂が、まったく無駄になるほど定まった。エアフルトを去る前に、アレクサンドル皇帝は、会見によって生じた不安を鎮めるため、オーストリア皇帝に自筆の手紙を書いた。ナポレオンの治世が続いた間、私がヨーロッパに尽くせた、最後の奉仕は、これだった。そして、この奉仕は、私の考えでは、ナポレオン自身にも尽くしたものだった。
数多くの祝宴を催し、エアフルトへ来たとき頭に描いていたものとは、本質的に異なる一種の条約を結んで、皇帝はパリへ戻った。そのときから、シャンパニー氏[445]が、外務部門の指揮を、一手に担った。私も、大顕官としての、取るに足りない日常へ戻った。
私は、不測の事態にも備え、アレクサンドル皇帝の信頼を得るため、できることをしていた。そして、皇帝がフランスとの間に最初の困難を抱えると、パリのロシア大使館の参事官、ネッセルローデ伯を私のもとへ送るほどには、成功していた。伯は、私の部屋へ入ると、こう言った。「ペテルブルクから来ました。表向きはクラキン公のもとで働くことになっていますが、私が信任を受けて派遣された先は、あなたのもとです。皇帝と私的な書簡のやり取りをしており、そのお手紙を持参しました」。
第三部 終わり
第四部
スペイン問題
(一八〇七年)
スペイン問題
(一八〇七年)
フィンケンシュタイン[446]にいたとき、ナポレオンは、ある日、機嫌よく、こう言った。「私は、必要とあれば、獅子の皮を脱ぎ、狐の皮を着ることを心得ている」。
皇帝は、だますことを好んだ。だますという、その楽しみのためだけにでも、だましたがっただろう。政策がそうさせなくても、本能が、一種の欲求としたはずである。頭の中で絶えず練っていた計画を実行するには、策略も、力にほとんど劣らぬほど必要だった。とりわけ、スペインに対する構想を実現するには、力だけでは足りないと、よく感じていた。
ブルボン家の王座のひとつに座ったナポレオンは、ほかの二つを占める王たちを、当然の敵と見なし、倒すことが自分の利益だと考えていた。しかし、その企てに失敗すれば、自分の構想を壊し、おそらく自分自身を滅ぼすことにもなる。したがって、成功が完全に確実でなければ、試みるべきではなかった。
成功の第一条件は、大陸で、いかなる牽制行動も恐れずに済むことだった。
一八〇七年末、ナポレオンは、イタリア全土[447]と、ライン川とエルベ川の間のドイツの地域[448]を、主人として意のままにしていた。ワルシャワ公国の名で、シレジアからネマン川まで広がる、旧ポーランドの一部を再興しており[449]、この国は皇帝に忠実だった。プロイセンは、ほとんど消滅していた。オーストリアは、あらゆる種類の損失によって弱まり、単独では何も企てられなかった。ロシアには、二つの戦争を背負わせ、長く全兵力を費やさせるはずの、野心的な計画を、容易に気に入らせていた[450]。スペインは、望みうるかぎり、完全に孤立したように見えた。しかし、公然と武力で攻めるなら、二つの危険を恐れねばならなかった。
フランスとスペインのバーゼル講和以来、すなわち十一年来、スペインはフランスの同盟国であり、忠実な同盟国だった。金銭、艦船、兵士、すべてをフランスの用に供し、惜しみなく与えてきた。まさに、その当時でさえ、二万の精鋭と、最も優れた将軍たちが、ヨーロッパの反対の端で、フランス軍の隊列に加わっていた。どうやって宣戦布告するのか。どんな口実を挙げるのか。王朝的野心という動機を、公言できるのか。それを明かせば、自国の臣民の感情を、自分に敵対させるおそれがあった。人間というものを、どれほど軽蔑していても、世論の力を、いくらかは勘定に入れねばならないことまで、理解できなくなるわけではなかった。
宣戦布告すれば、スペインを抵抗へと駆り立てる。予期せぬ幾多の事態が起こりえた。どれほど順調に、短期間で戦争が進んでも、スペイン王家には、海外領へ移る手段と時間が残る。その場合、スペインは、皇帝にとって、不安定で統治しにくい領土となっただろう。王家に愛着を抱く国民は、去った王家に思いを寄せ、アメリカの植民地と、いつも再び一つになろうとしたはずだからだ。それは、ブルボン家に、スペインへ戻る希望と、有利な機会を残すことだった。さらに、スペインの植民地が本国から分離すれば、フランスの商業は、たいへん大きな損失を受ける。そうなればナポレオンは、自らの民の、最も大切な利益のひとつを傷つけたことになる。
したがって皇帝は、この二つの危険を防ぐため、あらゆる技を尽くさねばならなかった。企ての憎むべき性質を覆い隠すことができなくても、人間が、成功した犯罪を許しやすいことは知っていた。だから、企てている犯罪が、知られるときには、すでに成し遂げられていれば、与える印象は、かなり弱まると期待できた。
一撃も交えずスペインを征服する方法は、ただひとつだった。友好を装って、どこでも抵抗を防ぎ、または抑え込めるだけの兵力を、国内へ入れることである。口実が必要だった。それを与えたのは、ポルトガルがイギリスとの断交を拒んだことだった。ナポレオンは、ティルジットでのロシアとの同盟条約に、ポルトガルがイギリスとの平和を維持すれば、敵として扱うと定め、この口実を用意しておいた。そこで、スペインに宣戦する代わりに、ポルトガルに向けた新たな同盟を、スペインと結んだ[451]。征服後のポルトガル王国は、一部をスペイン王国に併合し、一部を、ナポレオンに譲られるエトルリア王国の代償として、王女マリア・ルイサと、その息子に与えるはずだった[452]。さらに、一部は、平和公のための公国とすることになっていた。この餌によって、ナポレオンは平和公を動かし、その国王に条約へ署名させたのである。
皇帝は、スペインを奪う計画について、何度か私に話していた。私は、そのような企ての不道徳さと危険を説き、全力で反対した。皇帝は、いつも最後には、ライン川沿いやイタリアで困難に遭ったとき、スペイン政府がピレネーで牽制すれば、危険にさらされるという点に立てこもり、イエナの戦いのころの、平和公の不幸な宣言を持ち出した。私は、スペイン国民が憎み、軽蔑する一人の男の過ちを、国民の責任とするのは、この上なく不正であり、スペインを奪うより、平和公を権力から倒すほうが容易だと、何度も反論した。しかし皇帝は、平和公の考えは、別の者にも採用されうるので、ピレネーの国境は決して安全にならないと答えた。そこで私は、その野心から出る巧妙な理屈に追い詰められ、スペインの側で求めていると言い張る、安全の保証を与える計画を提案した。イギリスとの海上の講和を得るまで、カタルーニャを占領させるよう勧めたのである。講和まで、この担保を保持すると宣言すれば、それによってスペイン政府に手綱をかけられる、と私は言った。講和が遅れれば、スペインの全地方のうち、最もスペインらしくないカタルーニャは、フランスに結びつくかもしれない。それには、すでに歴史上の伝統もある。そのときには、おそらく、最終的にフランスへ併合できるだろう。しかし、それ以上のことをすれば、いつか苦い後悔を招くだけだ、と。私は説得できず、皇帝は、この問題では、私を警戒し続けた。
いま述べたとおり、皇帝は、ポルトガル分割の条約によって、平和公の貪欲と野心を誘った。
この条約は秘密に交渉され、一八〇七年十月二十七日、フォンテーヌブローで、デュロック将軍と、平和公の腹心である顧問官イスキエルド氏[453]によって署名された。外務大臣シャンパニー氏も、私も知らなかった。そのとき私は、国家大書記長の職務を務めており[454]、しかもフォンテーヌブローにいたにもかかわらず、である。
国家大書記長は原文 archichancelier d’État。帝国の大顕職で、通常の書記とは異なり、外交文書や条約の認証に関わる。原注454は条約への査証権限を説明する。参照:https://www.napoleon.org/histoire-des-2-empires/articles/institutions-les-grands-dignitaires-de-lempire/
フォンテーヌブロー条約に従い、三万のフランス軍がスペインを通過し、スペイン軍と協力して、ポルトガルの征服に向かうことになった。さらに四万の第二軍を、ピレネーの国境に集め、必要に応じて、ジュノー元帥の指揮する第一軍を支援できるよう、備えることになっていた。
ジュノーの「元帥」は原文の maréchal に従った表記。
この第二軍は、さまざまな口実で国境を越え、スペイン北部とカタルーニャの要塞を占領した。これは、この国に、確かな足場を築くことだった。しかも、真に優れた唯一の部隊は、フランスに奉仕するために送られていたので、この国は、まったく軍を欠いていた。ラ・ロマナ侯爵の指揮する二万の兵は、デンマークの国境地方へ移されていた。見てのとおり、ナポレオンは、いかなる用心も怠らなかった[455]。
ナポレオンが、なお恐れるべきことは、ただひとつに見えた。国王と王家が警戒し、遠い地方へ退いて、そこから抵抗の合図を送るか、海を渡ることである。
ナポレオンが、どのような憎むべき策略によって、この不幸な王家全員を、自分の手中に身を委ねるよう導いたか、これから語ろう。
一八〇七年三月、アストゥリアス公は、以前の教育係で、トレドの大助祭兼参事会員、ドン・フアン・デ・エスコイキス[456]と、秘密に絶えず文通していた。公は、とりわけ信頼するドン・ホセ・マウリケという人物を、エスコイキスの住むトレドへ送った。エスコイキス氏に直接渡す手紙を託していたのである。そこでは、国王と王妃から日々何かしらの恩恵を受け、ますます強力になっていた平和公の、野心的な意図への疑念を語っていた。平和公は、大元帥と提督の称号を持ち、正規陸軍、民兵、海軍のすべてを指揮していた。病気がちで政務に疲れたカルロス四世が、王国の摂政を任せるつもりだという話も、すでに広まっていた。いったん摂政になれば、国王の死は、限りを知らぬとされる野心に、新たな道を開く。平和公の性格と、彼を王座に近づけた結婚[457]は、王家に忠実なすべての人々を恐れさせていた。アストゥリアス公の手紙に驚いたエスコイキス氏は、お人よしだったので、平和公についての国王と王妃の思い違いを解くだけでよいと考えた。アストゥリアス公が、母である王妃に直接手紙を渡し、国王が平和公に寄せる盲目的な信頼によって、王家が陥る危険を示せば、効果があると信じたのである。この手紙は、道理と真実に満ちすぎていて、アストゥリアス公を恐れさせた。公は渡す勇気がなく、自分の手で写して保管するだけにとどめた。決断力のなさを、いくらか恥じ、公はエスコイキス氏に、王妃の迷いを解くことは不可能と思うが、いつか国王と二人だけで話せれば、国王に理解させるほうが容易だろう、と書いた。
善良なトレドの参事会員は、できるだけ国王の弱点に合わせた覚書を作り、アストゥリアス公へ送った。公は、それを渡せる機会を、むなしく待った。この文書も、最初のものと同じく、公自身が写し、やはり机にしまっていた。書類を押収しに来たとき、そこで発見されたのである。
アストゥリアス公の振る舞いには、自分の構想に好ましくない企てが隠れていると疑った平和公は、公の身辺を掌握する手段を求めた。そして、王妃を通じ、自分の義妹で、王弟ドン・ルイスの次女ドニャ・マリア・テレサ[i]と結婚するよう勧めさせた。この王女は容姿が美しく、野心的で、すでに恋の戯れを、それほど嫌わない様子を見せていた。公は、その才気と顔しか知らず、この結婚に同意していた。しかし、数か月前から、平和公の野心が、さらに自信と大胆さを増すと、この結婚の話は、もはや出なくなっていた。
エスコイキス氏は、国王と王妃に真実を届ける手段が、すべて失われ、ドニャ・マリア・テレサとの結婚の申し出も進まなかったのを見て、この危うい状況にある公にとって、真に頼れる支えは、強力な外国勢力との利害の結びつきしかないと考えた。そして、ナポレオンの一族の娘と結婚させることを思いついた[458]。
当時、ナポレオンの姪との結婚は、揺らいだスペインの王座をアストゥリアス公に確保し、この美しく気高い国を、分裂から守るはずに見えた。のちに予期せぬ出来事がもたらした結果より、その結果を望んだからといって、弱さとはいえなかった。
エスコイキス氏は、採用した計画に、日ごとに深く心を寄せた。王家にとって不穏な噂は、ますます確かなものとなり、あらゆる階層に広がっていた。トレドにいて、かつての教え子から遠く離れていることに耐えられなくなり、政務の舞台に近づこうと、マドリードへ赴いた。そこで、アストゥリアス公に、とりわけ忠実な、善良なスペイン人オルガス伯と知り合った。自分の懸念と計画の一部を打ち明けた。ある会話で、オルガス氏は、平和公の兄弟ドン・ディエゴ・ゴドイが、マドリード守備隊に金をばらまき、多くの下級将校を確保している、と知らせた。守備隊の竜騎兵大佐ドン・トマス・ハウレギが、隊を買収しようとする、あらゆる働きかけを、伯に逐一伝えていたのである。少しでも目立つ将校は、一人残らず、平和公の何らかの手先から、こう言われていた。「スペインの惨めな状態を御覧でしょう。ブルボン王朝は、まったく衰え果てた。国王は死にかけ、王子は愚か者だ。対策を取らねばならない。あなたは立派なスペイン人です。頼りにしています」。こうした言葉が無数に、公然と語られていた。しかも、評判と地位によって信頼を集める人々が、語っていたのである。陸軍監督官で、主要な将校たちとの関係を保っていたドン・ルイス・ビグリは、最も活発な者のひとりだった。学校、学士院、あらゆる公共施設で、同じ言葉が語られていた。サン・イシドロの図書館員スタラ師に至っては、不用意にも文書を配っていた。その目的は、迫る危機にあって、平和公に全面的な信頼を寄せる以外には救いがないと、スペイン国民に示すことだった。エスコイキス氏は、一刻も失えず、王座に忠実な者たちが相談し、その防衛のために結束すべきだと感じた。そのため、インファンタード公と内密に話せるよう、アストゥリアス公に信任状を求めた。インファンタード公は、名門の出で、性格がよく、容姿にも恵まれ、世評も高い青年だった。公の自筆の手紙を携え、参事会員はインファンタード公[459]を訪ね、率直に話した。二人の信条からは、国王への忠誠に反する措置を取ることはできなかった。そこで、日ごとに衰弱するように見える国王が死ぬときに備える、予防策だけに専念した。平和公には、国王の死を、しばらく隠すことができた。王妃に、その息子である王子への不信と憎しみを、巧みに吹き込んでいたため、自分に忠実な兵で、宮殿を取り囲み、満たすこともできた。礼式を盾に、まだ生きていることにしておく国王の寝台へ、アストゥリアス公を呼び寄せられたし、実際それが狙いだった。そこで、公と王家全員を捕らえ、権力を自分の手に置くために必要な、あらゆる命令へ、無理に署名させる。王族たちをどうするかは、その後に決めればよかった。
インファンタード公とエスコイキス氏は、この暴挙を防ぐ唯一の手段は、軍の最高権限をインファンタード公へ与える、新国王名義の命令書を、あらかじめ用意することだと判断した。それは、新カスティーリャ全域、とりわけマドリードと、すべての王室の居所で、平和公を含む、あらゆる当局を、公の絶対的な指揮下に置くものでもあった。この命令書を持つインファンタード公は、国王の死が近いという最初の知らせを受けると、権限の告知を準備し、全軍の最高指揮を取り、大元帥の軍服で、市内と王室の館に姿を現すはずだった。平和公が少しでも不安の種を生めば、逮捕させることさえできた。エスコイキス氏は、この命令書を起草し、措置の趣旨と目的を説明して、王子へ送った。自筆で書き、署名し、印璽を押すよう勧めた。王子は、提案されたすべてを受け入れた。命令書はインファンタード公に渡され、使用すべき時が来るまで、厳重に保管することになった。
命令書の文面は、次のとおりだった。
「朕、神の恩寵によるカスティーリャその他の国王、フェルナンド七世は、
摂理が、敬愛する父カルロス四世を御許へ召されたので、神がその魂を聖なる守りの内に置かれんことを祈るとともに、朕は、その当然かつ正当な相続人として、スペインの王座に即いた。王の死に必然的に伴う、諸当局の権限が一時停止する最初の時期には、世間の声自体が示すように、それを利用し、公共の平穏を乱そうとする者が現れるおそれがある。そのような企てを、悪意ある者があえて抱くなら、それを抑える最善の方法は、朕の周囲の全軍を、全面的に信頼できる人物の手に置くことである。その人物は、才能、勇気、高貴な出自に加え、世論の全面的な支持を持たねばならない。朕の従兄弟、インファンタード公、そなたには、これらすべての資質が備わっていると認める。よって朕は、新カスティーリャと、すべての王室の居所にある全軍の最高指揮権を、そなたに授けるべきだと考え、本勅令によって、ここに授ける。歩兵、騎兵、砲兵、民兵その他、例外を一切認めない。近衛兵、王室直属の部隊、大元帥の護衛をなす部隊も、例外ではない。そなたは、あらゆる陰謀を抑え、あらゆる集結を散らし、朕自身や王家に反し、または、いかなる形であれ公共の平穏を乱しうる、あらゆる反乱の企てを消滅させるため、有用または必要と判断する方法で、これらを用いるものとする。そなたの指揮下にない、すべての権限、軍事上の権力を停止することが、朕の意志であり、ここに停止する。平和公の大元帥としての権限も、新カスティーリャ総司令官の権限も同様である。あらゆる種別、あらゆる階級の軍の指揮官に、朕がそなたを責任者とする公共の平穏という目的に資する、すべての事柄について、朕自身の命令に対すると同じく、そなたの命令に厳密に従うよう命じる。知らぬふりをし、または悪意から、そなたの命令に逆らい、あるいは、当然尽くすべき厳密さをもって従わない者は、すべて反逆者および祖国の敵に対する刑罰に処せられるものとする。
「従兄弟」は君主が高位の貴族に用いる儀礼上の呼びかけ cousin の訳で、ここで実際の従兄弟関係を確定するものではない。
朕はまた、すべての通常裁判所および軍事裁判所、あらゆる種別の行政司法官に、それぞれの所管に属するすべての事柄で、そなたの命令の執行に協力するよう命じる。違反者には、同じ刑罰を科す。
さらに朕は、公共の平穏を乱そうとする疑いがある者、または実際に乱す者を、種別、身分、階級にかかわらず、一切の例外なく、実力で確保し、必要なら投獄するための、すべての権限を、そなたに与える。これらの者の裁判は、所定の手続きに従って行うものとする。
これが朕の意志である。また、本勅令は、置かれた状況の緊急性のため、通常のように大臣のひとりによる認証を受けていないが、朕自らが書き、署名し、印璽を押している以上、朕の大臣のひとりの署名を備える場合と同じく、遵守し、執行すべきものとする。以上すべては、反対する者を大逆罪に処することをもって、執行されねばならない」。
……年……月……日、……にて作成。
署名:朕、国王(YO EL RÉ)。
この勅令の日付は空欄だった。国王が死去したとき、インファンタード公が書き入れるはずだった。
一八〇七年六月半ばごろ、エスコイキス氏は、アストゥリアス公から、新たな手紙を受け取った。そこには、首席馬官ドン・フアン・マヌエル・デ・ビリェナを介して、短い書状が渡されたとあった。馬官は、王子ドン・フランシスコ[460]の教育係で、工兵大佐のドン・ペドロ・ヒラルドから、それを受け取っていた。殿下に直接届くよう意図された書状は、フランス公使館の関係者と名乗る人物が書いたものだった。内容は、フランス大使ボアルネ氏[461]が、殿下に極秘の話をしたいという知らせだった。どう答えるべきか相談されたエスコイキス氏は、書状を渡した人々に対し、自分は何の政務にも関わらず、個別の面会も約束しない、と伝えるよう勧めた。そして、この伝言が、本当にフランス大使からのものかどうかを、正確に調べようと申し出た。それを確かめることは、たいへん役立つはずだった。もし偽りなら、目的は、殿下に罠をかけること以外にはなく、それを見破ることが重要だった。もし本当なら、ナポレオンの意図を探る、この機会を逃さないことが、公の利益にとって、極めて重要だった。十分知られていない、皇帝に対する平和公の立場についても、すでに漠然とした噂の流れていた、アストゥリアス公とナポレオンの姪との結婚についても、である。エスコイキス氏の返書には、この結婚がナポレオンの野心や虚栄心にかなうなら、その支援が公にもたらす利益、さらには安全に関する理由も述べられていた。
のちにエスコリアル事件の裁判資料のひとつとなった、この手紙に対し、アストゥリアス公は、全面的な賛同を返した。そこでエスコイキス氏は、インファンタード公に会い、この新たな策動を知らせてから、まだ面識のないフランス大使に、もっともらしい口実で紹介してほしいと頼んだ。スペインでは文学愛好家と思われていた大使に、エスコイキス氏の作った叙事詩『征服されたメキシコ』を献呈する、という口実を選んだ。大使は、自分の文学的な評判にも、さほど驚いた様子を見せず、本も作者も喜んで迎えると、インファンタード氏に答えた。『征服されたメキシコ』について少し話し、次第に訪問の目的へ近づく問いや所感を交わしたあと、エスコイキス氏は、大使からだとされる伝言と、率直に真実を知りたいというアストゥリアス公の願いを、打ち明けた。
ボアルネ氏は当惑を見せ、伝言について言を左右にした。王位継承者に対し、自分からそのような働きかけをするのは適切でない、と言うだけだったが、すぐに、アストゥリアス公への敬意は非常に深く、個別に殿下へ敬意を表せる機会があれば、喜ばしいとも付け加えた。エスコイキス氏には、大使が、否定する以上に認めていることが、はっきり分かった。ボアルネ氏のためらいに力を得て、もっと明確に話すと、大使は、公の手紙が手元にあれば、十分に安心して、殿下にとって極めて重要な事柄を話せる、と言うに至った。これに、エスコイキス氏は笑いながら、熟練した外交官は、伝言を否認できるようにしておくのがお好きらしいが、あらかじめ決めた合図でも、同じ効果と、同じ程度の信頼は得られるだろう、と答えた。そこで二人は、二、三日後に宮廷がマドリードへ来るので、大使は慣例どおり、外交団の先頭に立って殿下に拝謁し、そのとき公が、ナポリへ行ったことがあるかと尋ねる、と決めた。公は、大使から離れて、別の外国公使へ移るとき、ポケットからハンカチを取り出し、しばらく手に持つことになった。
七月一日、大使たちは王族たちに拝謁し、殿下は、取り決めた合図をした。二日後、事の次第を知らされたエスコイキス氏は、フランス大使を訪ねた。大使は、ナポレオンがアストゥリアス公に寄せる好意、できるかぎり公を助ける意向、そして平和公への評価の低さを、最も断固とした言葉で保証した。こうした言明は、どれほど曖昧でも、エスコイキス氏は、自らの新しい役割に少し興奮し、また、公の立場への不安に、絶えず苦しんでいたので、結婚の問題を切り出した。どの姪を与えるのがよいか、その選択を、公はナポレオンに任せるとさえ言った。双方から、秘密を守るよう念を押した。ボアルネ氏は直ちにパリへ書き送り、アストゥリアス公が父の目に疑わしく映らないよう、カルロス四世に働きかけるための、必要な許可を求めた。
平和公が、フランス大使館に関係するすべてを監視していたため、ボアルネ氏とエスコイキス氏は、最初の会見の場所として、レティーロ公園の人目につかない一角を選んでいた。二十日後、エスコイキス氏は、約束の場所へ、猛暑で誰も散歩に出なくなる午後二時に来るよう、知らせを受けた。大使が受け取った返答は、あまり意味のないもので、結婚の提案には、一言も触れていなかった。ボアルネ氏は、公から正式な書面が何もなかったための沈黙だと考え、公に、ナポレオンへ直接手紙を書くよう勧めてほしいと、エスコイキス氏に助言した。エスコイキス氏は、この行動には不都合が多すぎるので、提案する勇気がなかった。逆に大使へ、次の報告で、話がもっと進まないうちは、公の立場から、これほど微妙な行動は取れないと、理解させるよう勧めた。ボアルネ氏の曖昧な言葉からすれば、明確な訓令を持っていたかどうかは疑わしい。しかし、ボアルネ家の利益のためであれ、ボナパルト家の利益のためであれ[462]、大使は、アストゥリアス公との策動を作り出していた。その場所での策動は、皇帝の意図に役立つほかなかった。ともあれ、ボアルネ氏は、再び書き送り、トレドへ戻らなければならないエスコイキス氏へ、ナポレオンから受け取る返答を届けると約束した。
八月いっぱい、そして九月のほとんどの間、事態は、そのままだった。エスコイキス氏が、トレドでフランス大使の手紙を受け取ったのは、一八〇七年九月三十日になってからだった。そこには、ナポレオンの手紙からの抜粋として、次の言葉に下線が引かれていた。「……私は、保証なしには、買わず、売らず、何もしない。この件について、何か手紙、何か正式な言葉を受け取ったか」。この手紙の、乱暴なほど率直な表現に動かされ、エスコイキス氏はマドリードへ赴き、レティーロでボアルネ氏に会った。この会見で、大使は、公が最初の提案を信頼しなかったことを嘆き、殿下ご自身が書かなければ、何もできないと、さらに強く同じ提案をした。ナポレオンの支援だけが、公の危険を逃れる唯一の手段だと、以前から信じていたエスコイキス氏は、説き伏せられた。手紙の草案を書き、その表現ならパリで受け入れられる、とボアルネ氏から聞いてから、アストゥリアス公へ送った。公は、それを採用して自筆で写し、大使に渡すよう、エスコイキス氏へ送り返した。短い書状も添え、この件で全面的に信頼する唯一の人物として、引き続きエスコイキス氏を指名した。アストゥリアス公の手紙は、当時を支配していた全般的な精神を、あまりによく示すので、全文を掲げないわけにはいかない。
アストゥリアス公よりナポレオン皇帝へ。
「一八〇七年十月十一日、エスコリアルにて。
陛下、
全面的な崩壊の脅威にさらされるヨーロッパに、平穏、秩序、幸福を取り戻し、揺らぐ王座を強固にするよう、摂理によって定められた英雄、皇帝陛下にして国王陛下へ、その輝かしい資質が私に抱かせる敬意、賛嘆、尊敬の念を申し上げる機会を得た今日を、私は生涯で最も幸福な日と考えます。両家の友好が増し、両国民にとって、これほど有益な同盟が、陛下のご一族の王女と私との結婚によって、日ごとに緊密になることを、強く願っていると、皇帝陛下にして国王陛下へお伝えする喜びは、もっと早く味わっていたはずでした。しかし、私の置かれた事情が、沈黙を余儀なくさせました。ボアルネ氏の説明と、同氏から伺った皇帝陛下のご意向によって、初めて、こうして申し上げる決心をした次第です。
私の置かれた立場と、ここで用いる言葉からすれば、これほど罪のない行動であっても、発覚すれば、犯罪として描かれるのではないかと恐れています。
最も善良な王こそ、周囲の野心的で陰謀好きな人々の策略の犠牲になりやすいことを、皇帝陛下にして国王陛下は、私より、はるかによくご存じです。私たちの宮廷にも、そのような者は少なくありません。敬愛する両親の善良な心、まさに、その実直さ自体が、不誠実な策謀に、いっそう欺かれやすくしているのです。そこで私は、彼らが、自分たちの私的な利益に、もっと都合のよい、別の私の結婚計画へと、両親を、すでに誘導しているのではないかと恐れています。あえて陛下のお力添えを願い、敬愛する両親の目を開き、私が謹んでお願いしている、この婚姻を受け入れるようにしていただきたく存じます。
陛下を心から慕う、私の尊き両親である両陛下には、陛下からの、ほんのわずかの示唆だけで、この悪意ある利己主義者たちの、あらゆる考えと計画を消し去るのに十分でしょう。
私自身は、両陛下に対する敬意と、子としての従順さに満たされており、この件では、受動的な役割しか果たせません。すなわち、陛下のご承認のない、ほかのいかなる婚姻も断ることです。そして、両親と皇帝陛下にして国王陛下のお手から迎えられると期待する王女との結婚により、敬愛する両親の幸福、祖国の幸福、そして私自身の幸福が実現することを、陛下のお力添えに待ち望みます。
謹んで、以下略。
署名:フェルナンド、アストゥリアス公」。
平和公は、ボアルネ氏の邸内に持っていた内通者を通じ、事の次第を知った。直ちに国王に手紙を書かせ、大使マッセラーノ公[463]は、ナポレオンがどこにいようとも、すぐ届けるよう命じられた。ボアルネ氏の急使より三日早く着いた、この手紙は、フォンテーヌブローの皇帝に届いた。スペイン王は、息子と秘密の関係を持っていることを、ナポレオンに、たいへん激しく抗議し、アストゥリアス公から届いたはずの手紙にも触れていた。
スペインでは、数週間、事態は宙に浮いていた。しかし、フランス軍が、予期せず王国の幾つかの地方へ入ると、突然、新たな様相を呈した。この異様な措置の表向きの目的は、前に見たとおり、ポルトガル宮廷に、イギリスとの連帯を断たせることだった。アストゥリアス公からの連絡と、父が公についてナポレオンに寄せた訴えを受け、皇帝は、半ば恐怖、半ば野心を利用して、平和公に、一八〇七年十月二十七日付の二つの条約の規定へ同意させた。扱っている問題にとって重要なので、ここに掲載するべきだと考える。すでに述べたように、これらの条約は、フォンテーヌブローで、平和公の密使イスキエルド氏と、デュロック元帥、つまりナポレオン自身との間で、極秘に交渉された。
GutenbergのHTMLとTXTは十月二十一日とするが、印刷本スキャン(物理387頁/印刷346頁)は十月二十七日。本文は確認済みの印刷本に従い二十七日とした。デュロックの「元帥」は印刷本にもある maréchal に従う。直後の条約前文は師団将軍・宮廷大元帥と記す。
条約は次のとおりである。
「フランス人の皇帝、イタリア国王その他の称号を有する陛下、およびカトリック王たるスペイン国王陛下は、両国の利益を自発的に調整し、両国民の政策にかなう形で、ポルトガルの将来の状態を定めることを望み、全権委員を次のとおり任命した。すなわち、フランス人の皇帝陛下は、師団将軍にして宮廷大元帥ミシェル・デュロックを、カトリック王たるスペイン国王陛下は、名誉国務顧問その他の地位を有するドン・エウヘニオ・イスキエルド・デ・リベラ・イ・レサウンを任命した。両名は、全権委任状を交換したのち、以下のとおり合意した。
第一条 ミーニョ川とドウロ川の間の諸州は、ポルト市[464]とともに、北ルシタニア国王の称号のもと、エトルリア国王陛下に、完全な所有権と主権をもって与えられる。
第二条 アレンテージョ王国およびアルガルヴェ王国[465]は、平和公に、完全な所有権と主権をもって与えられ、同公は、アルガルヴェ公の称号のもと、これを享有する。
第三条 ベイラ、トラス・オス・モンテスおよびポルトガルのエストレマドゥーラ[466]は、全面講和まで保管下に置かれる。その際、情勢に応じて、締約両陛下が、その時点で定める方法で処分される。
第四条 北ルシタニア王国は、スペイン国王陛下の王家が採用する継承法に従い、エトルリア国王陛下の世襲の子孫が保有する。
第五条 アルガルヴェ公国は、スペイン国王陛下の王家が採用する継承法に従い、平和公の子孫によって世襲される。
第六条 北ルシタニア国王またはアルガルヴェ公に、子孫あるいは正当な相続人がいない場合、これらの国は、叙封の形式でスペイン国王陛下に与えられる。ただし、両国を決して一人のもとに統合せず、スペイン王冠にも統合しないことを条件とする。
原文は「スペイン国王に与える」としつつ、同一人またはスペイン王冠への統合を禁ずる文言を続ける。この表現上の緊張は、独自の補正を加えず残した。
第七条 北ルシタニア王国およびアルガルヴェ公国は、カトリック王たるスペイン国王陛下を保護者としても認める。これらの国の君主は、いかなる場合も、その同意なしに、戦争または講和を行うことはできない。
第八条 保全管理下にあるベイラ、トラス・オス・モンテスおよびポルトガルのエストレマドゥーラが、全面講和の際、イギリスがスペインおよびその同盟国から征服したジブラルタル、トリニダードその他の植民地との交換で、ブラガンサ家に返還される場合、これらの州の新たな君主は、スペイン国王陛下に対して、北ルシタニア国王およびアルガルヴェ公を同陛下に対して拘束するのと同じ義務を負う。
第九条 エトルリア国王陛下は、エトルリア王国を、フランス人の皇帝にしてイタリア国王である陛下に、完全な所有権と主権をもって譲渡する。
第十条 ポルトガル諸州の確定的な占領が実施されたとき、それぞれの領有を認められる君主は、適切な境界を定めるため、共同で委員を任命する。
第十一条 フランス人の皇帝にしてイタリア国王である陛下は、カトリック王たるスペイン国王陛下に、ヨーロッパ大陸のピレネー以南にある領国の保有を保証する。
第十二条 フランス人の皇帝にしてイタリア国王である陛下は、カトリック王たるスペイン国王陛下が、この称号を取ると定める時期に、同陛下を南北アメリカ皇帝として承認することに同意する。その時期は、全面講和の際、または遅くとも三年以内とする。
第十三条 締約両陛下は、ポルトガルの島々、植民地、その他の海外領を、等分するものと了解する。
第十四条 本条約は秘密に保たれる。批准され、署名の日から遅くとも二十日以内に、マドリードで批准書を交換する。
一八〇七年十月二十七日、フォンテーヌブローにて作成。デュロック。E・イスキエルド」。
同日付の秘密協定
「フランス人の皇帝、イタリア国王その他の称号を有する陛下、およびカトリック王たるスペイン国王陛下は、本日署名された条約の規定に従い、ポルトガルの征服と占領に関する取り決めの基礎を定めることを望み、以下略の者を任命した。両名は、全権委任状を交換したのち、以下の条項に合意した。
第一条 皇帝陛下の軍のうち、歩兵二万五千、騎兵三千から成る軍団が、リスボンへ直行するため、スペインに入る。これに、スペインの歩兵八千、騎兵三千、大砲三十門から成る軍団が合流する。
第二条 同時に、スペイン軍一万の師団が、エントレ・ミーニョ・ドウロ州およびポルト市を占領し、別のスペイン軍六千の師団が、アレンテージョおよびアルガルヴェ王国を占領する。
第三条 フランス軍がスペインを通過する間、その食糧と維持費はスペインが負担し、給与はフランスが支給する。
第四条 両国の連合軍がポルトガルへ入った時点から、保全管理下に置かれるべきベイラ、トラス・オス・モンテス、ポルトガルのエストレマドゥーラの統治および行政は、フランス軍を指揮する将軍に委ねられ、そこからの賦課金は、フランスの利益のために徴収される。北ルシタニア王国およびアルガルヴェ公国を構成する諸州は、占領するスペインの師団が行政と統治を担い、賦課金は、スペインの利益のために徴収される。
第五条 中央軍団は、フランス軍司令官の指揮下に置かれ、この軍に付属するスペイン軍も、同じく、その命令に従わねばならない。ただし、スペイン国王または平和公が、この軍団に合流することを適切と判断した場合、フランス軍および、それを指揮する将軍は、合流した国王または平和公の命令に従う。
第六条 別のフランス軍四万の軍団を、遅くとも来る十一月二十日までに、バイヨンヌへ集結させる。イギリスがポルトガルへ増援を送るか、攻撃の脅威を与える場合に、スペインへ入り、ポルトガルへ向かえるよう備えるためである。ただし、この新たな軍団がスペインへ入るのは、その点で締約両陛下の合意が成立したときに限る。
第七条 本協定は批准され、本日付の条約の批准書と同時に、批准書が交換される。
一八〇七年十月二十七日、フォンテーヌブローにて作成。デュロック。イスキエルド」。
フランス軍のスペインへの進入は、当時、この不幸な国を分裂させていた、さまざまな利害に応じ、異なる見方をされた。
平和公は、それを、フォンテーヌブロー条約によって保証された、ポルトガルの一部に対する主権を得るという構想を、実行する手段と見た。
アストゥリアス公に忠実な人々は、ナポレオンが、平和公を威圧するために用いる手段だと見た。平和公は、公の結婚と、その結果として行われるはずのカルロス王の退位を、妨げようとしていると考えられていた。
スペインの民衆の大多数は、ナポレオン皇帝を、私心のない保護者と見ていた。国民を平和公の圧政から救い、フランスとスペイン双方に有利な関係を、この国と築くはずだ、と考えていたのである。
数か月後、これらの幻想は、すべて消えた。まず、十月末には、アストゥリアス公が、不敬罪を犯した者として逮捕された。その後、平和公は暴動で殺されかけ、死を免れたのも、今度は自分が投獄されるためでしかなかった。フランス軍の到来を望み、解放者と見ていたスペイン国民も、ブルゴス、とりわけマドリードで、予想もしなかった苛酷な扱いを、彼らから受けねばならなかった。
フォンテーヌブロー条約が署名された、その当日、一八〇七年十月二十七日、午後十時に、スペイン王位の継承者は、エスコリアルで逮捕された。告発の内容は、勅令の言葉をそのまま用いれば、父を廃位し、暗殺させようとした、というものだった。同じ勅令は、国王が匿名の者から、この知らせを受けたこと、事件が、カスティーリャ総督ドン・アリアス・モン、ドン・ドミンゴ・フェルナンデス・デ・カンポマネス、ドン・セバスティアン・デ・トレスから成る法廷で裁かれることも定めていた。書記は、宮廷司法官ドン・ベニト・アリアス・デ・プラダが務めるはずだった。公の身分に配慮し、供述の聴取は、カスティーリャ総督と、司法大臣カバリェロ侯爵[467]に委ねられた。共犯として告発されたのは、エスコイキス氏、インファンタード公、オルガス侯爵、ボルノス伯、ドン・フアン・エマヌエル・デ・ビリェナ、ドン・ペドロ・ヒラルドだった。エスコリアルの独房に入れられ、互いとの連絡も、外部との連絡も、すべて断たれた。二か月半の審理のあと、いま挙げた三人の裁判官の要請によって、カスティーリャ評議会から、さらに八人の裁判官が加えられた。こうして裁判官は十一人となった。一八〇八年一月十一日、全員一致で、公と他の被告人は無罪であると宣告した。判決は国王に送られたが、王は公表せず、数日後、告発の対象となった人々を、各地へ追放した。アストゥリアス公は、宮殿内に引き続き留め置かれた。
オルガスの称号は、この箇所の原文 marquis(侯爵)に従う。先のu773では comte(伯爵)と記される。
裁判の審理中にも、王国内へ入ったフランス軍は増え、セゴビア、アビラ[468]、オルメド、アランダ・デ・ドゥエロなど、マドリードに近い拠点を占めていた。これらは、フランスからポルトガルへ向かう遠征軍の進路にはなく、パンプローナとバルセロナを奪った方法[469]と合わせれば、スペイン自身を脅かす意図があると考えられた。両政府間の説明によって、不安はいっとき収まった。しかし平和公が、ソラノ中将[470]の指揮下でポルトガルへ進んでいたスペイン軍に、引き返すよう命じる必要を感じなくなるほどではなかった。フランス大使は、知らない様子を装った。数日後、次のように伝える命令を受けた。スペイン政府は、軍にこの移動を行わせ、ポルトガル占領のために合意され、必要とされる措置に違反したので、皇帝は、遠征を成功させるため、条約で認められた以上の兵力をスペインへ入れざるをえなくなった、と。スペイン政府が、自軍への命令を撤回することを恐れ、ナポレオンは、自軍に強行軍を行わせた。撤回命令は、実際、ほどなく届いたが、皇帝は数日で、フィゲラス、サン・セバスティアンなど、カタルーニャ、ナヴァラ、ギプスコアの、ほかの国境の要地を占領した。
スペイン宮廷は、安心したように見せたがった。両政府の連絡は、通常どおり続いていた。その間にも、国土は侵略され、国は、この重大な事態を、まったく理解できずにいた。しかし平和公は、ナポレオンへの信頼を、いくらか失い始め、王家とともにカディス港へ向かうことを考えた。初めは、計画のすべてを明かす勇気がなく、アンダルシアへの旅行を提案するだけにとどめた。一八〇八年三月十三日、国王に提案すると、王は計画を採用し、その夜のうちに、宮廷総監モス侯爵、第一国務大臣ドン・ペドロ・セバリョス[471]、司法大臣カバリェロ侯爵へ、必要な命令を出した。出発は、初め、ごく近い日に定められたが、三月十六日へ延期された。そのためカバリェロ侯爵は、賛成していなかった計画に反対する時間を得た。侯爵の考えでは、国王は、マドリードかアランフエスで、ナポレオンの到着を待ち、両国の政治問題について、一緒に決断すべきだった。王妃の前で国王に示した理由は、十分な印象を与え、もはや秘密でなくなりかけていた出発命令を撤回させた。馬車と輸送馬を調達するための徴発、子供たちを連れた旅行用の馬車で、アランフエスを通過したトゥド夫人[472]の出発、これらの事情が重なり、民衆に動揺を引き起こしていた。
安心させるための勅令は、文章がまずく、逆の効果を生み、すでに強かった平和公への憤りを、さらに増した。国王にマドリードを捨てるよう勧めた、と公然と非難された。そのような助言は、自分自身の恐れを国王の心に移そうとした者からしか出ない、国を圧制者から解放する時が来た、と言われた。数か月、給与を受け取っていなかった近衛兵は、負担となる移動に不満を示した。同じく給金が遅れ、マドリードとアランフエスで、いくらかの助けを得ていた宮殿の使用人たちも、極度に不安になっていた。その恐れは下層の民衆へ広がり、数日前から動揺が表れていた。平和公の復帰と復讐を恐れ、暴動で倒れるのを、平気で見ていられる者たちの扇動も、民衆の憎しみを増した。民衆の騒動は、陰謀家には、まことに都合がよい。操り糸が切れ、追究が不可能になるからだ。予防措置は、何も取られていなかった。アランフエスには、通常の勤務に必要な兵しかおらず、しかも、最も頼れる部隊を選んだわけでもなかった。忠実で、使用できるスイス人の二個連隊は、マドリードに残され、ほとんど忘れられていた。
このような状況では、ごく小さな出来事でも、計り知れない結果を招きえた。三月十七日から十八日にかけての夜、真夜中になる前、カラビニエの巡回隊と近衛兵の間で争いが起き、拳銃が数発発射された。それが蜂起の合図となった。民衆が群れをなして現れ、激情に駆られて平和公の邸宅へ向かい、戸を破った。アランフエスの近衛兵と、スペインおよびワロンの近衛部隊は、義務だけを考え、混乱を止めようと駆けつけた。あらゆる努力にもかかわらず、邸宅は略奪されたが、公は見つからなかった。公は、用心のため作らせておいた屋根裏の場所へ逃げていた。その隠れ場所は、統治の歳月を重ねるごとに、いっそう必要となっていたのである。騒乱のさなか、民衆は、「ゴドイを倒せ! 国王万歳! 王妃万歳! アストゥリアス公万歳!」と叫び、憎しみの真の対象が誰かを示そうとした。平和公妃には、敬意のしるしさえ示し、娘のアルクディア女公爵とともに、宮殿へ送った。興奮は一晩中続いた。夜明けになると、民衆は国王への敬意と愛着を示そうと、宮殿前の広場へ向かい、姿を見たいと求めた。国王は王家全員とともにバルコニーへ出た。そこで、何度も拍手を受け、最も熱烈な愛情と忠誠の表明で迎えられた。国王が、少し優しさと感動を示し、自ら、平和公から大元帥と提督の職を取り上げると、進んで宣言しただけで、群衆は退き、その日の平穏は回復した。
軍は、民衆の国王に対する気持ちに安心し、平和公の屈辱を喜んで見た。公は逃走したと思われ、初めは追い払うことしか望んでいないように見えた群衆も、退いて、満足している様子だった。十九日、公が邸宅に隠れているという噂が町に広がった。歩哨に発見され、逃げる手段を与えることを拒まれたのである。人々は四方から駆けつけた。公は、通りに兵がいるのを見て、そちらへ飛び出した。周りを囲んでくれた近衛兵にたどり着くまでに、頭を何度も殴られた。事態を知った国王は、自分よりアストゥリアス公のほうが、民衆への影響力を持つと考え、宮殿近くの大群衆へ、平和公は裁かれると告げに行くよう、息子に勧めた。アストゥリアス公は、速やかに父の命令を実行した。最も興奮して見える者たちに話しかけ、退けば、公を牢へ送り、法の厳格さを余すところなく適用して裁くと約束した。この約束、少しずつ道を進んだこと、近衛兵の配慮によって、平和公は、近衛兵の兵営に着いた。門を閉じ、一室へ案内した。その部屋は、人間に大きな教訓を与えるための、あの種の偶然によって、公が単なる近衛兵だったころ、暮らしていたのと同じ部屋だった。
国王は、初め、平和公をグラナダのアルハンブラ城へ送ると決めた。しかし、処罰を求める相手が、遠ざかり、あるいは逃亡するのを見て、民衆が不満を示すことを恐れ、ほどなく、この計画を捨てた。
平和公の不在によって国王が陥った優柔不断、心を揺さぶる不安、自分への自信の乏しさ、長年、もっぱら身体的な楽しみに向けて営んできた生活、それらすべてが、健康は十分衰えており、これほど困難な状況なら、不名誉なく王冠を退けると考えさせた。長年、強い影響力をもって、自分たちの信頼と、あらゆる寵愛を享受してきた人物が、目の前で虐殺されるのを、王妃とともに恐れたことも、おそらく決意を促したのだろう。しかし、ともかく、動機が何であれ、この決断は、誰にも相談せずに下された。国王はセバリョス氏を呼び、正式な退位文書を起草するよう命じた。セバリョス氏は、朝に国王と会った外交団の人々から、すでに、この決意を知らされていた。王は、彼らの前で、年齢と病弱さのため、以前から考えていた計画を、情勢に促されて実行し、もっと若く、その重みに耐える力のある手へ、王冠を渡すと、はっきり宣言していたのである。続いて、ロシア公使ストロガノフ氏[473]に直接向き直り、これほど自分に喜ばしい決心をしたことは、一度もないと、満足した様子で語った。王は、その日じゅう、会う機会のあった人々、とりわけ大臣たち、近衛兵の隊長、ワロン近衛部隊の大佐に対し、同じ口ぶりを保った。
十九日の晩、退位文書が署名され、必要な手続きがすべて整うと、国王はアストゥリアス公を呼び寄せ、文書を示し、公表させた。公は、父王の手に口づけすると、直ちに、その命令に従い、王室の家政組織と宮廷全体から、祝辞と忠誠の表明を受けた。新国王は、治世の最初の行為を、父王に喜ばれるものにしようと、マドリードで平和公の親族と友人へ向けられていた民衆の騒動を止めるため、最も適切と考える措置を、すぐに取った。カルロス四世の大臣は、ソラル氏を除き、留任した。ソラル氏は、平和公の支持者で、アランフエスの騒動が始まると、身を隠さざるをえなくなっていた。後任は、元メキシコ副王アサンサ氏[474]だった。世論の支持を得ていたインファンタード公は、カスティーリャ評議会議長と、スペイン近衛部隊の大佐になった。平和公は、カステリャル侯爵中将の監視下で、ピントへ移された。
こうした最初の措置を取ると、新国王は、マドリードへ赴き、しばらく過ごすのが適切だと考えた。首都の民衆の懇願に促され、おそらく、アランフエスで起きた急激で重大な行為に、広い承認を得たいという、ひそかな願いにも促された、この決心は、スペインの運命に、大きな影響を与えたかもしれない。この行動によって、フェルナンドは、アンダルシアへの道を、自ら閉ざしたからである。この点は、ベルク大公[475]の考えから、おそらく抜け落ちていた。国王の計画を知った大公は、ボアルネ氏に、アランフエスへ行き、フランス軍がいる間はマドリードへ来ないよう、陛下を説得することを勧めた。国王は、大使の提案を断るにあたり、首都と交わした約束を理由とした。
布告によって告げられた国王のマドリード到着は、町の秩序を回復させた。あらゆる階層の住民が迎えに出て、最も熱烈で心のこもった言葉で喜びを示し、新たな治世に抱く希望を表した。
このとき、すべての頭を満たし、関心を独占していた事柄のため、国がどんな状況にあるか、見えなくなっていた。町が六万のフランス兵に囲まれていると知るマドリードの住民は、ほとんどいなかった。三月二十三日、ベルク大公が幕僚を従えて入市したとき、王国内への到着も知らなかった住民の大多数は驚いたが、誰も恐れなかった。人々の心を揺さぶっていた、一種の革命的な浮かれ気分が、平和公の権力を倒した者たちなら、克服できない危険はない、と群衆に信じさせていた。
フェルナンド七世がマドリードへ着いた翌日、フランス大使、オランダ公使、ザクセン代理公使[476]を除く、外国の公使たちは、新国王に敬意を表する光栄を得るため、宮殿へ赴いた。
フランス大使ボアルネ氏は、国王と個別に会い、皇帝が間もなくスペインへ来ることを告げた。以前からの国王との関係によって、ナポレオンを迎えに行くよう助言できる、と考えたのである。バイヨンヌまで旅を続けることさえ勧め、皇帝は、この信頼のしるしに心を動かされ、すぐにスペイン国王として承認し、姪のひとりとの結婚を認めるだろうと保証した。続いて大使は、平和公の命を、いかなる危険からも守るため、必要な予防措置を取り、始まっている訴訟手続きを停止する命令を出すのが適切だ、と付け加えた。エトルリア王妃のもとで、フェルナンド七世と二度会ったベルク大公も、同じことを言った。ただし、平和公について語る表現は、ボアルネ氏ほど慎重ではなかった。二人とも、国王に話しかけるときは、殿下という称号しか用いず、その呼び方を、いくぶんわざとらしく繰り返しさえした。国王は、二人に何も約束しなかった。返答は丁重で、いくらか当惑していたこともあって、たいへん短かった。
フェルナンド王は、置かれた困難な状況から、すぐに内々の諮問会議を設けた。構成員は、インファンタード、エスコイキス、サン・カルロス[477]、セバリョス、カバリェロ、オラゲル、ヒル・デ・レモスの諸氏だった。サン・カルロス公は、罷免されたモス侯爵に代わり、王室家政長官となった。国王は、とりわけエスコイキス氏に、政府がフランス大使およびベルク大公と扱う、すべての案件を担当させた。この人選の理由は、立場に一種の窮屈さが見えると思われていたフランス大使が、ほかの評議員よりも、エスコイキス氏を相手にしたほうが、気楽になるか、あるいは、それと同じく示唆に富むことだが、いっそう当惑するだろう、という考えだった。
エスコイキス氏とフランス大使の最初の会談は、数日後に行われたが、事態を明らかにすることは何もなかった。ベルク大公も出席し、二人の言うことは同じだった。ミュラの脅すような早口と、ボアルネ氏の穏やかで、曖昧で、控えめな言葉を通じ、エスコイキス氏は、ナポレオンの直接の命令で動くと考えられている、この二人の中心人物の真の関心が、とりわけ、フェルナンド七世が皇帝に会うためバイヨンヌへ赴くことと、平和公の裁判を停止することにある、と見た。会談で、ベルク大公の言葉に抑えられ、導かれたボアルネ氏は、それまで自国政府の真の意図に沿っていなかった、と悟った。そして、熟慮ではなく、利益だけから意見を変える人々と同じく、何の留保もなく、大公のあらゆる考えに身を投じた。しかし、大公から得た信頼は、この変節によってフェルナンド王の陣営で失った信頼ほどには、ならなかった。ベルク大公は、マドリードに非常に多くのフランス兵がいるため、民衆に生じ始めた動揺を止める措置が重要だと、エスコイキス氏に指摘して、会談を終えた。
フランス人に対する、この気持ちの変化は、民衆が、もはや彼らを必要としないと思ったためだった。自らの努力で平和公の圧政から解放され、新国王への信頼に満ちていた。したがって、フランス人を、もはや解放者と見ず、非常に費用がかかり、非常に迷惑な客だと感じたのである。
エスコイキス氏は、ベルク大公とフランス大使との会談を、評議会へ報告した。その後の会談には、インファンタード公が加えられた。国王は二人に、ミュラを訪ね、次のように伝える任務を与えた。フェルナンド七世は、皇帝が国境へ到着したという確実な知らせを得次第、迎えに行くつもりだが、フランスからの手紙は、まだパリを発ったとも伝えていない。平和公については、この司法行為を進め、公にすることが、国民に対する義務のひとつなので、裁判を停止することはできない。しかし、判決がどのようなものであれ、皇帝の承認を仰いでからでなければ、執行しないと約束する、と。インファンタード、エスコイキス両氏は、マドリードの平穏を回復するため、最も有効な措置を取ったばかりだ、と付け加えた。実際、すべての家屋所有者に、住んでいる地区で、昼夜、巡回するよう命じていた。マドリードの守備隊は、ベルク大公の要求で、スペインおよびワロンの近衛部隊の二個大隊と、近衛兵だけに減らされていた。この少数の兵は、警察当局の命令を実行させ、住民とフランス人の間で起こりうる争いを止めるために使われていた。
この返答は、ミュラを満足させなかった。平和公の裁判停止を、強く迫ったあと、自軍の維持のために出すすべての要求について、実行だけでなく、返答さえ遅れると、激しく不満を述べた。この新たな苦情には、自らの意図に従って単独で行動するための理由が見て取れた。数日後、その見方が実際に当てはまった。騎兵の一隊が、飼料を探すという口実で、砲兵を伴い、ピントの高地を占領した。カステリャル氏は、この新たな配置を国王に知らせた。その件で、ベルク大公とスペイン政府の間に、多少の応酬があったあと、政府は、平和公をピントから、マドリードの三リュー先で、フランス軍のいないビリャビシオサ城へ移すと決めた。
国王の評議会は、この点では、すっかり安全になったと思っていた。するとベルク大公は、インファンタード氏とエスコイキス氏を呼び、平和公の身柄を自分に引き渡すよう要求せよ、という皇帝の新たな命令を受けた、と宣言した。平和公をスペイン国外へ送ると約束し、決して帰国しないことを、名誉にかけて保証した。そして、皇帝の意志は、あまりにも明確なので、直ちに引き渡されなければ、武力で身柄を奪うことが、自分の義務だと付け加えた。国王は二人に、次のように答えることを許可した。皇帝の到着は間近と告げられ、皇帝が裁定者となるスペインの内政に、とりわけ決定的な意味を持つはずなので、大公も、そのときまで、用いると脅した実力行使を延期するものと確信する、と。二人は、平和公を奪うために武力を使えば、その措置が必然的に招く民衆の騒動によって、公の安全は、確実に危うくなる、と付け加えた。
ミュラの脅迫的な要求に、大使とサヴァリ将軍[478]の要求も加わった。将軍は、数日前に別れたばかりの皇帝の名で、同じ要求を示すとともに、ボルドー到着の確かな知らせを持ってきた。信頼を抱かせる、あらゆる言い方を用い、フェルナンド七世に対するナポレオンの好意を、好んで語った。すなわち、公が皇帝と最初に会えば、新国王として承認され、結婚が成立し、スペインの領土保全が保証される、と請け合った。そして、これほどの利益に対し、皇帝が望むのは、信頼を寄せる公の口から、その統治下のスペインが、家族協約後と同じく、フランスの忠実な同盟国となる、と聞くことだけだというのだった。
同じ要求と返答が、数日間、繰り返され、事態は変わらなかった。四月八日になって、国王は評議会の意見を聞き、王弟ドン・カルロス[479]を、ナポレオンの出迎えに送ると決めた。途中で会えなければ、王弟はパリまで行くことになっていた。兄王の手紙を携えていた。そこでは、皇帝と最も緊密な同盟を結びたいと述べ、姪のひとりとの結婚を再び求めたあと、皇帝がスペインの国境近くにいると知り次第、自ら迎えに行く、と告げていた。手紙の最後では、平和公の問題を、皇帝陛下の公正な判断に委ねていた。
王弟は、この手紙を持ち、四月九日に出発した。イハル公、バリェホ、マカナス[480]の諸氏と、フェリア侯爵が同行した。バイヨンヌでは、フェルナンド王が、ナポレオンへ挨拶を述べるため、すでに派遣していたフリアス公、メディナセリ公、フェルナン・ヌニェス伯[481]と会った。ナポレオンは、その数日後、バイヨンヌへ到着した。
皇帝がパリを出発したという知らせは、四月十一日にマドリードへ届いた。フェルナンド王は、ベルク大公のあらゆる要求、サヴァリ将軍の催促、ボアルネ氏の助言に疲れ、十日にブルゴスへ発つ決心をした。大臣たちは、全員一致で、それを勧めていた。国王には、交渉する手段も、防衛する手段も、逃げる手段もないと見て、この不幸な王が取れる道は、信頼をもってナポレオンの手に身を委ねること以外にない、と考えたのである。
原文は、知らせの到着を四月十一日とした直後、十日の出発決定を記す。日付と叙述順は原文に従い、独自に改めていない。
交渉はできなかった。フェルナンド七世は承認されず、ナポレオンは、どの手紙にも答えていなかったからだ。また、エトルリア王妃を介して、国王、王妃、ベルク大公の間で頻繁に行われていた連絡は、カルロス四世に退位を撤回させることを目的とする、と疑う十分な理由があった。この内部の交渉は、副官長モンティオン氏[482]を使者とし、エトルリア王妃を道具として、三月二十一日へ日付をさかのぼらせた文書を生んだ。その中で、カルロス四世は、次のように宣言している。
「朕が息子に王冠を譲るとした三月十九日の勅令は、さらに大きな災いと、愛する臣民の流血を防ぐため、強制された行為であると、異議を申し立て、宣言する。したがって、無効と見なされねばならない。
朕、国王」。
フェルナンド七世の大臣たちには、まだ存在を疑われているだけだった、この抗議の当然の帰結は、カルロス王が、反逆者で簒奪者である息子に対し、ナポレオンへ救済を求めることになるはずだった。
防衛することもできなかった。王国の主要な兵力は、ラ・ロマナ侯爵の指揮下で、フランス軍とともに北ヨーロッパで戦う、二万近い軍団の不在によって弱まっていた。フェルナンド七世の周りには、三千の兵さえ、ようやくだった。民衆は武器を持たず、何らかの口実で、いくつかの大隊をマドリード近くへ呼ぶ話が出ると、ベルク大公が、自らの指揮する十五万の兵から得る、ありったけの傲慢さで反対した。
逃げることもできなかった。わずかな準備でも、計画が露見しただろう。数日前、カルロス四世が、その種の不安を与えたため、民衆は厳しく目を光らせていた。国王は間諜に囲まれ、おそらく評議会の中にもいた。カバリェロ氏とオラゲル氏が、すでに委員ではなく、ペニュエラス氏とオファリル氏[483]に代わっていたとしても、である。しかも、軍も要塞も金もなく、たとえアルヘシラスまで退いても、それは絶望的な選択だった。評議会には、強い人物がいなかった。
さらに、三月二十日ごろ、イスキエルド氏がパリで草案を作った条約で、ナポレオンが、取り決めの基礎のひとつとして、エブロ川を両国の境界に定め、スペインが領土の一部を譲る義務を盛り込ませたことも知られていた。この考えに、誰も憤慨しなかった。その犠牲を払う必要は、確かにつらいと感じていたが、結婚の際には、ナポレオンが計画を捨て、フランスとポルトガルの連絡に必要な軍用道路を確保し、フランスの商業のため、スペイン植民地の産物をフランスへ無関税で輸入することを得るだけに、とどめると期待した。
フェルナンド七世は、マドリードを去る前に、不在中の統治を、叔父の王弟ドン・アントニオ[484]を議長とし、ペニュエラス、オファリル、アサンサの諸氏から成る評議機関に委ねた。同行させたのは、インファンタード、サン・カルロス、セバリョス、エスコイキス、ムスキス、ラブラドール[485]の諸氏と、少数の側仕えだった。近衛兵は一個騎兵中隊しか伴わなかった。スペインとワロンの近衛部隊の二個中隊には、ブルゴスへ行って待つよう命じた。そこへ着くまで三日かかった。この決定に至る前には、あまりにも多くのためらいがあったので、どんな遅延の理由も、国王と随員の気分にかなっていた。国王は、道が、あらゆる兵科のフランス軍で埋まっているのを見たが、スペイン兵には一人も会わなかった。ブルゴスでは、ベシエール元帥が、約一万の軍団を率いていた。元帥は、ビトリアへ行くため、ナポレオン用に準備された継ぎ馬を提供し、国王は利用した。そこまで同行していたサヴァリ将軍は、先にバイヨンヌへ向かい、新たな訓令を携えて、十八日にビトリアへ戻った。ビトリアは、ヴェルディエ将軍の師団に属する、約四千の第一旅団に占領されていた。ルフェーヴル将軍は、前日、ブルゴスから親衛隊の竜騎兵二百を連れてきており、アンリ中佐も、精鋭憲兵五十とともにいた。二十日には、ベシエール元帥が、ナポレオンの親衛隊四個大隊を率いて来るはずだった。
約四千の先行詞は原文の文法だけでは師団・旅団の両方が考えられる。当地の守備兵力を列挙する文脈、ナポレオンの1808年4月16日付ベシエール宛書簡(第一旅団をビトリア、第二旅団をエルナニに配置)、トレノ1835年叙述(印刷125–126頁)に基づき、第一旅団にかかると解して訳した。参照:https://napoleon-histoire.com/correspondance-de-napoleon-ier-avril-mai-juin-1808/ / https://www.gutenberg.org/files/68978/68978-h/68978-h.htm
フェルナンド七世は、ビトリアの市庁舎に泊まり、三日とどまった。サヴァリ将軍が、ナポレオンの手紙を持ってきた。その手紙には、意味の明らかでない表現もあったが、国王の置かれた状況は、あまりにも困難だったので、ナポレオンから来るものすべてを、好意的に解釈したくなった。この気持ちは、国王に仕える全員に共通しており、先にバイヨンヌへ行った人々も同じだった。フェルナン・ヌニェス、イハル、バリェホ、マカナスの諸氏は、両君主の会見から、最も幸福な結果を期待している、と知らせてきた。
国王は、バイヨンヌへ行く決心がついていると思いながらも、旅を続ける理由を示してもらいたがった。一日に何度も評議会の意見を聞き、いつも同じ意見なのに、なお相談した。三日間、動かずに過ごしたための遅れは、王族たちを、承諾ずくでも力ずくでも、バイヨンヌへ連れてくるよう命じられていたサヴァリ将軍を不安にした。十八日じゅうに、まだ説得だけに頼る最後の試みが成功しなければ、十九日に拉致する準備ができていた。十九日の朝、市庁舎はヴェルディエ将軍の歩兵が取り囲み、散弾を込めた三門の砲を、町の三つの門に据えるはずだった。サヴァリ将軍は、憲兵を率い、ヴェリット兵百人の支援を受け、王の滞在する館へ突入する予定だった。これらの準備は、すべて不要になった。国王が、十九日の朝九時に出発すると告げたのである。馬車に乗ろうとしたとき、民衆の直感から、大群衆が国王の車を囲んだ。ラバの引き綱が切られ、怒号が四方で響いた。国王が、すぐ布告を出すと決心しなかったなら、騒乱は、非常に重大になりえた。その布告の効果は著しく、叫びは涙へ、ほどなく落胆へ変わった。馬車に動物をつなぐことができ、近衛兵は騎乗し、出発した。午後十一時、国王は随員とともにイルンへ着き、この小さな町の外にある、オラサバル氏の家に泊まった。そこで国王連隊の一個大隊に守られた。サヴァリ将軍がイルンへ着いたのは、二十日の午前七時になってからだった。馬車の事故が、遅れの原因だった。
こうして国王と評議会は、八時間、フランス軍の護衛なしに、海辺のスペイン人の家で、自分たちだけになった。その家の庭には、杭につながれた小舟が、何艘もあった。サヴァリ将軍は、馬車を降りると、急いで、ほとんど不安げに、国王の泊まる家へ向かい、王が眠っているのを見た。午前八時、バイヨンヌへ出発した。国王がフランス領へ入ると、皇帝親衛隊の分遣隊が、馬車を取り囲んだ。その人数は、何人かのスペイン人には、単なる儀仗の護衛には、多すぎると思われた。初めは漠然としていた、この思いは、オグンナを通るとき、凱旋門に、「王を作り、王を倒す者は、自ら王である以上の存在だ」とあるのを読んで、不吉な予感に変わった。このような銘は、スペインの王族たちには、恐るべき威嚇となり、ダンテの、あの銘のように語りかけていた。
ここに入る者よ、あらゆる希望を捨てよ。
このとき、ナポレオンのあらゆる暴挙のうち、おそらく最も記憶すべきものが成し遂げられた。スペインの王族たちは、スペイン領の外に出て、皇帝の手中にあった。
バイヨンヌ滞在で興味深いのは、ナポレオンが用いた、さまざまなやり方だけである。その想像力は、自分自身を欺くために働き、その性格と才知は、単純で不幸な犠牲者たちの思い違いを、さらに数時間延ばすために手段を与えた。そしてフランスには、自分の兄弟のひとりがスペインの王座に就く以外の将来像を、何も示さずに、途方もない努力を促した。このときの出来事は、プラット氏の著作[486]に、詳しく、正確に、興味深く記されている。そこで私は、王族たちがヴァランセへ向かうまで、バイヨンヌで過ごした日々の、個々の事実を、ただ一本の糸をたどるように追うだけにしたい。ヴァランセでは、私は、お迎えする光栄を担うことになり、幸い、おそらく幾らかの不安と心配を、避けていただくことができた。
ビダントとバイヨンヌの間で、フェルナンド王は、王弟ドン・カルロスに会った。フリアス、メディナセリ、フェルナン・ヌニェスの諸氏とともに、不幸な兄を迎えに来ていた。国王は一行を自分の馬車へ乗せた。そこで、前日の午前十時、ナポレオンが、一行は決してマドリードへ戻らず、自分、ナポレオンの兄弟のひとりが、スペインの王座に就くと宣言した、と聞き、非常に驚いた。私が宣言の時刻を記すのは、イルンへ知らせを届ける時間が、十八時間あったと示すためである。見たとおり、イルンなら、フェルナンド王は、まだ誘拐者から逃れられた。バイヨンヌの一リュー手前となっては、王族たちに残るのは、悲しい諦めか、よほど単純でなければ、その力を当てにできないような、理屈への信頼だけだった。
馬車はバイヨンヌへ進み、十二時半、王族たちは到着した。ほどなく、フェルナンド王は、ナポレオンの訪問を受けた。この最初の会話には、ナポレオンの用いた、不安を呼ぶ Elle という語を除き、意味のあるものはなかった。この語は、通常は敬意を表すが、「陛下」にも「王族殿下」にも適用できた。先に訪問を受けたフェルナンド七世は、次いで、敬意を表するため、急いでナポレオンの宮殿へ赴いた。ナポレオンは、マラック城[487]の夕食に招き、サン・カルロス、メディナセリ、インファンタードの諸公にも声をかけさせた。夕食にいたフランス人は、ヌーシャテル公だけだった。政務の話は、何もしなかった。翌日、ナポレオンは、サン・カルロス、インファンタード、エスコイキスの諸氏に、個別の謁見を認め、スペインの王座を占める王朝を変える決意だと告げた。フランスの首位に自分がいることと、ブルボン家の王族がヨーロッパのいずれかの王座にいることは両立しない、と、何千回も繰り返したことを忘れ、スペインに対する計画を立てた時期と動機を、巧みに、イエナの戦いのころにスペイン政府が出した宣言に求めた。その宣言は、フランスでは、宣戦布告とまではいかなくても、少なくとも戦争の脅しと見なされた、と言った。そして、何ものも自分を変えられない、と、断固とした声で告げた。そこで、恐ろしい言葉が、十分に効果を発揮するのを待つかのように、口を閉じた。しばらく沈黙したあと、もっと穏やかな表現で話を再開し、若い王族たちの不幸に触れ、自分の政策は、心情と真に矛盾するので、採用した体制と両立するかぎり、彼らの幸福のための手段は、何も拒まないと言った。フェルナンド王が、スペイン王冠への権利を譲れば、王の称号とともにエトルリアを与え、そこで身を立てるための王国の一年分の収入と、姪のひとりとの結婚も提供するとさえ申し出た。子供なく死去した場合には、王の兄弟たちの男系に、継承を定めるというのだった。
Elle は女性単数の代名詞で、女性名詞である Majesté(陛下)にも Altesse Royale(王族殿下)にも受けられるため、ここでは王としての承認が曖昧になる。
聞いた言葉に衝撃を受け、インファンタード、サン・カルロス、エスコイキスの諸氏は、ナポレオンの方針に反論しようとした。皇帝は、その立場を理解しながらも、考えを撤回不能に固めた人物として、主君のもとへ戻ったとき、答えなかったことを悔やむような事柄は、何ひとつ省かず述べるよう勧めた。三人は声をそろえ、皇帝の目的が、スペインとの同盟を永遠に確保することなら、若い国王の性格と、皇帝の姪との結婚は、現在において、ほかのどんなものにも勝る保証だと述べた。遠い将来まで考えを及ぼすとしても、人間の事柄では、そこまで広げれば政治は道を見失ううえ、ナポレオンの一族の王族の子孫も、共通の起源から遠ざかるにつれ、家族への情に無関心になるだろう。場合によっては、より強大な本家の課す軛に、苛立つことさえある、と。また、高潔で心を打つ言葉で、皇帝が、その筆に輝かしい頁をこれほど与えてきた歴史も、十年来の同盟者である君主に、信頼をもって敬意を表しに来た、有力な国王から、その地位を奪う理由を記すことは、非常に難しいだろう、と付け加えた。次に、皇帝の決意がもたらす政治的な結果を検討し、現在の王朝のもとでも、忠誠が決して確実ではないスペインの植民地は、別の王朝のもとでは、イギリスの征服地か、独立した勢力になるだろうと予言した。そのときイギリスは、工業製品をそこへ流し込み、この新たな巨大市場によって、世界の他の列強を圧倒する商業上の優位を得る、と。利益を期待できる議論というより、良心の務めを果たすために見える、これらの理由は、詳しく展開された。ナポレオンは、苛立ちを見せずに聞いたが、この問題は、以前からあらゆる面で検討しており、三人は何も新しいことを示していない、と言った。そして、採用した方針を、揺るがず守ると述べた。
インファンタード、エスコイキス、サン・カルロスの諸氏は退き、フェルナンド七世に同行し、いくらか信頼を受けていた人々に、ナポレオンとの会話を報告した。そして、勇気ある行為をしているつもりで、その申し出を拒むべきではない、と言った。この意見の根拠は、国王と王弟がナポレオンの手中にあること、スペインにいるフランス軍の数と占領する拠点、少数で全国に分散したスペイン軍の無力さ、最後に、ナポレオンの望むことには何でも応じるだろう、カルロス四世の弱さだった。セバリョス氏だけは反対し、極めて強い理由をもって意見を支えた。今後の交渉では、口頭のやり取りを拒み、文書の形式を用いるべきだと提案した。まるでナポレオンがパリに、フェルナンド王がマドリードに、フランス軍がドイツにいて、スペイン軍がすべての要塞を占め、国境に集結しているかのように、である。異なる意見を示した評議員たちを、弱腰、それどころか臆病と非難した。王冠の譲渡を基礎とする取り決めは、一切、聞き入れてはならないと主張し、すべての評議員は、スペイン国民に対し、自分の意見の責任を負うので、書面で表明するよう求めた。
もはや諦めるしかないときになって、彼らに勇気が生じた。スペインでは、平和公にも、ベルク大公にも、サヴァリ将軍にも抵抗できなかった同じ人々が、バイヨンヌで、王族の権利、退位の原則、植民地に関して生じる危険などを、書面に記すことで、何かを成し遂げると思ったのは、注目すべきことではないか。
インファンタード氏とエスコイキス氏は、解決すべき諸点について、文書で交渉する権限を持つ全権委員を任命する、という王族たちの決意を、ナポレオンに知らせる任務を受けた。ナポレオンは、王族たちの評議会の決定が、事態を進めるのに適切とは思えないと言いながらも、全権委員を任命することに応じた。外務大臣シャンパニー氏に、権限を与えると二人に告げた。次に、王族たちは誰に権限を与えるのか、と尋ねた。インファンタード氏は、おそらく外務部門で働くスペイン人の中から選ぶだろうと答え、その職務にある者として、セバリョス、ラブラドール、ムスキス、バリェホ、マカナスの諸氏の名を挙げた。ラブラドール氏の名を聞くと、ナポレオンは、いくつかの評言を述べた。その無礼さゆえに、かえって、この外交官の人格と才知を讃えるものとなっていた。
インファンタード氏とエスコイキス氏は、新たな会談を国王の評議会へ報告した。直ちに、全権委員の任命が提案された。セバリョス氏は、ラブラドール氏についてのナポレオンの意見を、むしろ、評議会へ彼を推薦する理由が増えたとしか見なさなかった。国王は同意し、ラブラドール氏を指名した。同氏はシャンパニー氏と会談し、前提となる行為として、スペイン王冠の譲渡を求められた。ラブラドール氏は、その権限は持たず、神に誓って、決して持ちたくないと宣言した。会談は決裂した。評議会が、交渉を続けるために必要な権限を、与えるかどうか議論している間に、ナポレオンはエスコイキス氏を呼び、午後十一時までに、フェルナンド王のスペイン王位の正式な放棄と、エトルリア王位を求める申し出を持ってこなければ、翌日到着するはずのカルロス四世と交渉すると告げた。エスコイキス氏は、皇帝の意志を評議会へ報告した。セバリョス氏は、示された提案を、きっぱり拒むよう国王に懇願した。翌日、エスコイキス氏は、あえて再びトスカーナを話題にしたが、ナポレオンは、話に入らず、こう言った。「君、もう遅い」。
三十日午後四時、カルロス四世と王妃がバイヨンヌへ着いた。ナポレオンは、侍従のひとりをイルンへ送り、挨拶させていた。国王の馬車に続く車には、平和公の娘、アルクディア女公爵が乗っていた。国王と王妃の入市を、たいへん華やかにするよう、命令が出されていた。子供である王族たちは迎えに出て、両親に従って町へ戻った。ベルク大公の要求によって、ビリャビシオサから引き出されていた平和公は、泊まっていた私邸を離れ、国王と王妃とともに暮らすようになった。
カルロス王の到着で、事態の流れは変わった。王は、すべてに同意した。ナポレオンは、エスコイキス氏を通じ、フェルナンド王に、カルロス王が退位に異議を申し立てた以上、アストゥリアス公の義務は、無条件の放棄によって、王冠を返すことだと告げさせた。評議会は、フェルナンド七世に、従う意思を示す一方、放棄の行為は、マドリードでのみ行うと提案するよう勧めた。
カルロス王から息子への脅迫的な手紙、ナポレオンの前で見せた苛酷な扱い、フェルナンド王の助言者たちを反逆者として裁くという意向、これらの手段が合わさり、ナポレオンの期待した効果を生んだ。王子は、無条件の権利放棄をカルロス王へ送り、王は直ちに、ベルク大公を王国総代官に任命した。この任命によって、若い王が評議機関の議長としてマドリードに残した、王弟ドン・アントニオの権限は終わった。ドン・アントニオは、カルロス四世がベルク大公に宛てた命令によって、バイヨンヌへ呼び出されていた。大公は命令を伝え、直ちに実行させた。王弟は、短い統治の初めに、平和公を引き渡すよう、ベルク大公から強いられるという苦しみを味わっていた。ミュラは、引き渡されなければ武力で奪うと宣言し、バイヨンヌにいる王族たちの命が、平和公の命の保証になる、と付け加えていた。ドン・アントニオは、譲歩すべきだと考え、大公の副官が、平和公をバイヨンヌまで護送する任務を与えられた。公は二十五日に着いた。道中、いくつかの危険に遭い、とりわけトロサでは、ひどく興奮した民衆が、引きとめるため、荷車の引き馬を外し、橋の上で横倒しにした。このとき命が助かったのは、護衛を指揮する胸甲騎兵の大尉のおかげだけだった。
カルロス四世と王妃は、マドリードからバイヨンヌへの旅の間、憎しみのしるしも、愛着のしるしも受けなかった。
ミュラは、王国総代官の地位を授ける権限書が届くと、すでに見たとおり、王弟ドン・アントニオのバイヨンヌへの出発を急がせた。エトルリア王妃も、王子ドン・フランシスコとともに、同時に着いた。
フェルナンド七世の無条件の権利放棄が、カルロス王へ送られると、ナポレオンは、アストゥリアス公、その兄弟たち、その叔父に、スペイン王冠に対する、すべての権利を譲渡する条約を提案する時が来たと考えた。ナヴァールの領地を与え、スペインにある騎士修道会領および分封領の収入を受け取らせる、と約束した。エスコイキス氏とデュロック将軍に起草を委ねた、この条約の基礎が定まると、王族たちはヴァランセへ発った。ナヴァール城が居住できるようになるまで、ナポレオンが送ったのである。ボルドーに二日とどまり、五月十九日にヴァランセへ入った。私は、その数日前から、そこにいた。この瞬間は、私の心に、決して消えない印象を残した。王族たちは若かったが、身につけたものも、周りのものも、衣服、馬車、従者の仕着せも、すべてが過ぎ去った世紀の姿を示していた。彼らが降りるのを見た馬車は、フェリペ五世の車と見間違えるほどだった。この古風な様子が、その偉大さを思い起こさせ、置かれた境遇への同情を、いっそう深めた。これほど長い嵐と災厄の年月のあと、私が再び会った、最初のブルボン家の人々だった。戸惑ったのは彼らではなく、私だった。それを語ることを、私は喜びとする。
ナポレオンは、精鋭憲兵隊の上級将校アンリ大佐を、同行させていた。この種の任務を苛酷に遂行することで、軍人の栄光が得られると思う、あの警察的な軍人のひとりだった。私は、ほどなく、大佐が、疑いや懸念を、わざと示していることに気づいた。それでは、王族たちにとって、ヴァランセ滞在が耐えがたいものになる。私は主人としての口調で、ヴァランセの居室や庭園では、ナポレオンは支配しない、と理解させた。王族たちは安心し、それが、私への最初の報いだった。私は敬意と配慮と世話で彼らを包み、本人たちの許可を得る前には、誰も面前へ出ることを許さなかった。人々は、必ず礼装で近づき、私自身も、この点で定めたことを、一度も怠らなかった。一日のすべての時間は、ミサ、休息、散歩、祈りなど、彼らの慣習に従って割り振られた。信じてもらえるだろうか。ヴァランセで私は、スペインの王族たちに、父の王座のそばでは、一度も知らなかった種類の自由と楽しみを、知らせたのである。マドリードでは、年長の二人の王子は、国王の書面による許可なしに、一緒に散歩したことがなかった。二人きりになり、一日に十度でも庭や庭園へ出られることは、新しい楽しみだった。これほど兄弟らしく過ごせたことは、かつてなかった。
なぜスペインでは、狩猟、乗馬、踊りが禁じられていたのか、私には分からない。私は、初めて銃を撃たせた。そのため、コンデ公殿下の元近衛兵で、ブルボン公に射撃を教えたことのある、オーブリという人物に託した。敬意と愛情に満ちた老人は、何かにつけて、王族たちの一族の人々の名を挙げた。長年、私に仕えるフーコーとともに、乗馬もさせた。王の大厩舎で育ち、とりわけフランス王女エリザベートに仕えていたので、語る例も思い出も、すべて同じ王家から取られていた。ブーシェは、腕と心を尽くし、まずいスペイン風の煮込み料理を作った。城の正面のテラスは、私たちの舞踏場になった。王族たちが、まるで偶然に、ロンドと呼ばれる輪舞に出会うようにするためだった。踊り方を知らなくても加われる踊りである。庭のあちこちには、ギターが、とりわけカストロのギターがあった。
私は、図書室で数時間を過ごしてもらおうとしたが、そこでは、あまり成功しなかった。司書のフェルコック氏と私は、引きとめるため、思いつくかぎりの手段を試した。本の内容への興味だけでは失敗したので、美しい版を使い、次に版画入りの本を使い、絵にまで降りていった。すべてが、どれほど無駄だったか、言うのもためらわれる。叔父のドン・アントニオは、よい図書館を構成する本の大部分を、甥たちに危険だと恐れており、すぐに理由を思いついて、自室へ戻るよう勧めた。田舎の夏の夕べを魅力的にする、運動や遊びをやめさせようとするときより、それには抵抗が少なかった。皆が私を助けてくれる、こうした気晴らしに加え、王族たちには、宗教の慰めもあった。大きな不幸は、信仰を生き生きとさせ、心を敏感にする。一日は、皆での祈りで終わった。私は、城に来るすべての人、県の警備隊の将校、憲兵の何人かさえも、それに参加させた。誰もが、穏やかな気持ちで集まりを出た。囚人と、その番兵が、隣り合って膝をつき、同じ神に祈ると、互いを敵と見る気持ちが薄れるようだった。番兵は、それほど荒々しくなくなり、囚人の不安も減った。おそらく、いくらかの思いやりのしるしが、少しの希望さえ抱かせたのだろう。王族たちは、その心の中で、得た慰めを、ありがたくも私のおかげとしてくださった。バイヨンヌから戻るナポレオンの手紙で、ナントへ迎えに行き、数日、彼らと別れなければならなくなったとき、その悲しみを、私は感動なしには思い出せない。
皇帝は、スペインでの企てについて、私が表明した意見に、以前から腹を立てていた。さらに、王族たちがヴァランセへ来たとき、私が取った措置は、彼らの安全を守ることに、あまりにも重点を置いていると感じていた。だからナントで再会すると、かなり苛立たしい会話、論争と言ってもよいものを交わした。とりわけ一度、皇帝は、からかう口調で、手をこすり、嘲るように私を見ながら部屋を歩き、こう言った。「さて、スペインの問題を、私の考えどおりに片づけるには困難に遭うという、君の予言がどうなったか、分かっただろう。私は、結局、連中を打ち負かした。みな、仕掛けた網にかかり、私は、ヨーロッパのほかの地域と同じく、スペインの情勢も掌握している」。私には、ほとんど根拠がないと思える、この自慢、とりわけ、目的のために用いた恥ずべき手段に、我慢がならなくなった。しかし冷静に、自分は同じようには見ておらず、バイヨンヌの出来事で、皇帝は、得たものより失ったもののほうが多いと思う、と答えた。「どういう意味だ」と皇帝は返した。「実に簡単なことです」と私は続けた。「例で示しましょう。社交界の男が愚かなことをし、愛人を持ち、妻にひどく振る舞い、友人に重大な過ちを犯しても、確かに非難はされますが、金持ちで、強力で、才があれば、なお世間の寛容に出会えるでしょう。しかし、その男が賭け事でいかさまをすれば、直ちに、上流の社交界から締め出され、決して許されません」。皇帝は青ざめ、困惑し、その日は、もう私に話しかけなかった。この瞬間から、程度の差こそあれ、皇帝と私の断絶が始まったと言える。それ以後、スペイン、ヴァランセ、私の名を口にするときは、機嫌から生まれる何らかの侮辱的な形容を、必ず添えた。王族たちがヴァランセに来て、三か月もたたないうちに、ヨーロッパのあらゆる復讐が、そこから出てくるように思っていた。周囲の人々から、皇帝の話や質問が、ヴァランセに及ぶときは、いつも当惑して語っていた、と何度も聞かされた。私の不在は数日で、王族たちは、再び会うと、この上なく親切に迎えてくださった。
戻ったときに届いていた、ナポレオンの手紙は、残す価値がある。そのまま掲げよう。
「フェルナンド公は、私への手紙で、私を従兄弟と呼ぶ。それは滑稽であり、単に陛下と呼ばねばならないと、サン・カルロス氏に理解させるよう努めよ」。
「従兄弟」は原文 cousin。ここでは実際の血縁ではなく、君主間などの儀礼的な呼称を指す。
アジャクシオとセントヘレナがあれば、論評は一切、不要である。
この叙述には、主題に不可欠な文書だけを添えた。ほかの文書は、すでに刊行された、さまざまな著作か、私が利用できない保管所にある。
城での日常は、なお数週間続き、エアフルトへの旅のため、パリへ呼び戻されるときになって、ようやく終わった。出発の際、王族たちは三人とも、目に涙を浮かべ、私の部屋へ別れを告げに来た。友情と感謝のしるしとして、何を贈れるか探していた。実際、そのような言葉を用いてくださったのである。それぞれが、教会で使っていた古い祈祷書を贈ってくださった。私は、敬意と、決して言葉にする勇気の持てない感動をもって、受け取った。
このとき、彼らが親切にも用いてくださった「感謝」という言葉を、あえて思い起こしたのは、王族の間では、それほど珍しく、用いる人の名誉となる表現だからである。この高貴な負債から逃れるために、古い王朝は、その起源を天に置く。「神の恩寵によって」は、忘恩の儀礼文句なのだ。
ヴァランセを去り、私はパリへ向かった。数日しか過ごさず、ナポレオンとロシア皇帝が会うはずのエアフルトへ出発した。この会見の詳細は、独立した章とする。このときナポレオンと頻繁に話すうち、皇帝の命令で総警察大臣が仕掛ける罠に、スペインの王族たちを落とす計画を練っていると知った。結果は、彼らにとって破滅的になりえた。警告するため、一刻も失えないと考え、秘書のモルナール氏を、直ちにパリへ発たせた。同氏は、その町にいたサン・カルロス公のもとへ、驚くほどの速さで向かった。熱意と王族たちへの思いやりによって、四日で到着した。
私の思考も、心も、記憶も、スペインの王族たちへの思いやりで満たされていた。エアフルトでの最初の会見で、ロシア皇帝が、ナポレオンへ述べた好意的な言葉の中で、兄ジョゼフをスペイン国王として承認したと告げたとき、自分の受けた衝撃が、今もよみがえる。
このときから、スペインへ帰るまで、王族たちの生活には、何の動きもなかった。この五年間について言えるのは、ただ、生きていたということだけである。
ラ・フォレ氏がヴァランセへ来て、王族たちのスペイン帰還をナポレオン皇帝が認める、その根拠となる条約を交渉した。皇帝は、一八一四年二月八日、ノジャン=シュル=セーヌで、出発命令に署名した[488]。連合軍が、ピレネーの国境からフランスへ入るのを防ぎたいという希望に押されて出した命令に、自発的な同意の外観を与えようとしたのである。ラ・フォレ氏が、スペインの王族たちとの、あらゆるやり取りで用いた、敬意ある態度は、いっそう感謝されたはずだった。王族たちは、数年来、監視と偵察のため身辺に置かれた、ダルベルク、アンリ、コリの諸氏や、ほかの大勢の係官の、ひどい扱いと陰謀から、身を守らねばならなかったからである。フランス領を去る前にも、フェルトル公が起こした侮辱に耐えねばならなかった。公は、ナポレオンの命令を受けていないのに、喜ばせたいと思い、王族のひとりを、国境で人質として拘束させた。
ある企ての成功が、絶対確実に見えることがあったとすれば、それは確かに、この企てだった。裏切りが、武力に何もする余地を残さぬよう、すべてを組み立てていたのである。侵略されたことを悟る前に侵略され、政府と要塞の一部を奪われ、正規軍は数が少なく、質はさらに劣り、諸地方の連携もなく、それを作る手段もほとんどないスペインが、一瞬でも抵抗を考え、あるいは、自らの破滅以外の結果を求めて試みることなど、不可能に思えたはずだ。しかし、スペインとスペイン人を知る者たちは、別の判断をし、間違わなかった。スペインの誇りは、窮乏も危険も計算せず、憤りと絶望の中に、絶えずよみがえる力と手段を見いだすだろう、と予言した。
ナポレオンは、上陸するとイギリスを脅して、大規模な陸軍を作らせていた。こうして、予想もせず、イベリア半島への援軍を準備していたのである。一万七千のイギリス兵と、数千のポルトガル兵が、フランス軍をポルトガルから撤退させた。その後、フランス軍は一時的に戻ったが、定着できなかった。ポルトガル人は、ほどなく、多数で勇敢、かつ規律ある軍を持ち、イギリス軍とともに、スペイン全土で同時に起きた抵抗の、助けとなり、支えとなった。その抵抗を、あらゆる場所で抑えるには、巨大な軍が必要だったが、この国では、食べさせられず、維持できなかった。正規軍に対する絶え間ない勝利によって、ナポレオンの名に結びついていた「無敵」という称号は、疑いうるものとなった。ヨーロッパは、スペインから、皇帝を破れることと、その方法を学んだ。スペイン人の抵抗は、のちのロシア人の抵抗を、模範によって準備し、世界の支配を自らに約束していた男の没落を招いた。こうして、世界君主制の計画について、一点で失敗すれば、全体で失敗せざるをえない、とモンテスキューが述べたことが、確かめられた。
フランスで、ナポレオンのスペインに対する計画の最初の兆候が見えると、ある人々は、こう言った。この男は、失敗すれば自分を滅ぼし、成功すればヨーロッパを滅ぼすことに、手をつけている。実際、その企ては、彼を滅ぼすのに十分失敗した。そして、おそらく、ヨーロッパを滅ぼすのに十分成功したのでもある。
ヴァランセのフェルナンド七世は、圧制者の手の下で、限りなく卑屈になり、スペイン人に対する勝利を祝うほどだった。ところが王座へ戻るや、忠実な臣民と、コルテスへ革命精神を持ち込み、王権を滅ぼして、自分たちの権力に置き換えようとした者を区別せず、自分を守るため同胞を奮い立たせた者、自らの忍耐によって王の鎖を断った者、王が治められるようにした者たちに、追放、投獄、さらには死刑の判決まで言い渡した。不幸の中で示した意気消沈は、すべて、絶対権力への猛烈な愛に変わっていた。スペインの解放者を自称するイギリス人は、スペインのために条件を定めるべきで、しかも、それができたのに、しなかった。無益に終わることが容易に予見できる申し入れをするだけにとどまった。その成功にも、たいへん無関心だったと信じる理由がある。国外の圧政を憎むのは、ナポレオンのもとのように、自分たちの存立を脅かすときだけだからだ。そして、例は挙げないが、諸国民の隷属を、自分たちの誇りや繁栄の利益に転じることを好む。もっと先を見通す心があれば、当時イギリスを治めていた内閣も、別の考えを抱いただろう。
第四部 終わり
第五部
エアフルト会見
(一八〇八年)
エアフルト会見
(一八〇八年)
ティルジット条約に先立つ会談で、ナポレオン皇帝は、アレクサンドル皇帝に、モルダヴィアとワラキアを、いつかロシアへ併合されるはずの地方として、しばしば語っていた。勢いに押され、摂理の定めに従うかのように、ヨーロッパ・トルコの分割を、避けがたい事柄に数えていた。そして、霊感を受けたかのように、この帝国の分割の大まかな基礎を描いた。オーストリアも加えるはずだったが、その野心より、誇りを満たすためだった。目の利く者には、これらの幻想が、アレクサンドル皇帝の心に与える効果が見て取れた。
ナポレオンは、注意深く観察していた。相手の想像力を魅了したと見ると、パリからの手紙が帰還を急がせていると告げ、一刻も失わず、条約の起草に取りかかるよう求めた。この条約について、私の受けた訓令は、オスマン帝国の分割に関することを、何も入れさせない、ワラキアとモルダヴィアの二地方の、将来の帰属についてさえ入れさせない、というものだった。私は厳密に従った。こうしてナポレオンは、ほかの構想を実現するため、思うように整えられる将来を確保して、ティルジットを去った。自らは自由なまま、あらゆる種類の希望によって、アレクサンドル皇帝を絡め取っていた。さらに、トルコに関して曖昧な立場に置き、テュイルリーの政府は、そこから、条約では手つかずに残された、新たな要求を引き出せるようにした。
この立場を利用する最初の試みを、ナポレオンが行ったのは、一八〇八年一月、パリの宮廷の集まりだった。当時のロシア大使トルストイ氏[489]に近づき、脇へ連れていった。そして、ワラキアとモルダヴィアが、ロシアにもたらす利益を強調する会話の途中で、フランスへの代償を、あえて話題にし、シレジアが、最も適していると示した。このときも、新たな領土拡張を考える、あらゆるときと同じく、イギリスの野心を恐れる様子を見せた。イギリスは、どんな講和提案も聞こうとせず、通じていると考える理由のある列強の力を減らすため、慎重さの命じる、あらゆる手段を取らざるをえなくしている、というのだった。そして、今のところ、オスマン帝国分割の考えは、すべて遠ざけるべきだ、と付け加えた。大きな海軍力を持たずにトルコへ手を出せば、その最も貴重な領地を、イギリスの意のままに委ねることになるからだ。
聞くことが役目で、ほかの役目には、あまり向いていなかったトルストイ氏は、受けた示唆を本国の宮廷へ報告した。アレクサンドル皇帝は、非常に不快に受け止め、フランス大使[490]に、かなり激しく言った。「トルストイの報告で、いま読んだことが信じられない。ティルジット条約を破るつもりなのか。皇帝が分からない。私個人を窮地に立たせる意図は、持ちえないはずだ。逆に、速やかにプロイセンを条約で定めた状態に戻して、ヨーロッパの目に映る私の立場を、解き放たねばならない。これは本当に、私の名誉の問題なのだ」。この出来事から、いくつかの説明のやり取りが生じ、一八〇八年二月末ごろ、ペテルブルクへ届いたナポレオン皇帝の手紙[491]によって、ようやく終わった。手紙には、第一に、シレジアに対する、あらゆる要求の暗黙の放棄、第二に、トルコ分割の新たな考え、第三に、インドへ戦争を持ち込む計画、第四に、これらの大問題を扱うため、アレクサンドル皇帝自身が来られなければ、信頼できる人物をパリへ送るか、両皇帝が赴ける場所を決める、という提案が含まれていた。
注意すべきは、ナポレオン皇帝の手紙が、トルコ分割を提案しながら、それを行う基礎を、何ひとつ具体的に示していなかったことである。したがって、シレジアに関する困難が取り除かれたことを除けば、事態は、ほとんど同じ不確実な状態にあった。しかしアレクサンドル皇帝は、プロイセン王の個別の利益のため、もはや争わなくてよいことに、大いに安堵した。手紙を、この上なく喜んで受け取り、直ちにナポレオン皇帝との会見を決め、返書にそう記した。ただし、その前に分割を取り決め、会見の目的は、採るべき実行手段について、十分に了解し合い、人と人との約束によって、批准を、さらに破りがたいものにすることだけだ、という考えと条件のもとに求めた。宰相ルミャンツェフ氏[492]は、この趣旨で、フランス大使コランクール氏と協議する任務を与えられた。
ここでは、ナポレオン皇帝、アレクサンドル皇帝、そしてロシアの世論を代表するルミャンツェフ伯、それぞれの異なる態度と、個別の意図を、明確にしておくことが肝要である。
ルミャンツェフ伯は、オスマン帝国の破壊に、一家の戦勝の記念を見ていた。父の始めた大事業を、完成させたかったのである。だから会談で、単なる一部の切り取りの話になると、すべてが難しく見えた。しかし、全面分割の可能性が見えると、何も障害にならず、度を越して寛大になった。もっとも、その初めに、コンスタンティノープルとダーダネルスを、ロシアのために大胆に要求した。「コンスタンティノープルとダーダネルスをロシアに与えない分割は、どんなものでも国民の意見に反し、誰もが悪いと思っている現状以上に、不満を抱かせるだろう」と、ある会談で言った。この獲得のためには、艦隊も陸軍も、インド遠征へのロシアの協力も、すべて差し出した。しかし、コンスタンティノープルをトルコ人の手に残す、一部の切り取りにすぎない場合には、シリアとエジプトへの攻撃に、その協力を拒んだ。フランス大使が、折衷案として、コンスタンティノープルに、文明的で独立した政府を設けると提案し、その点で、以前アレクサンドル皇帝が示した意向を根拠にすると、宰相は、もはや君主の考えではないと言って退けた。ルミャンツェフ伯は、コンスタンティノープルを欲していた。その獲得に、自らの名の栄光をかけていた。それさえ得れば、世界の残りはフランスに委ね、インドには何も要求せず、ナポレオン皇帝が、兄弟のひとりにスペインの王冠をかぶせ、フランスにもイタリア王国にも、望むかぎりの併合を行うことに同意した。
アレクサンドル皇帝は、ワラキアとモルダヴィアの二地方さえ、ようやく望むかのように振る舞い、その野心は、ドナウ川の岸で終わることになっていた。「それも、この取り決めに、同盟を強固にする手段を見るからだ」と言った。「ナポレオン皇帝に都合のよいことは、私にも都合がよい。新たな獲得を望むのは、国民をフランスの体制に結びつけ、私たちの企てを正当化するためだけだ」。議論の途中で、要求をさらに高める場合も、ただ、大臣の計画を弁護し、古いロシアの考えに譲っているだけのように見せた。政治的な構想より、哲学的な格言に導かれているようだった。ある日、こう言った。「今こそ、ティルジットで持っていた計画に、啓蒙された君主の行為にふさわしい、自由主義的な色合いを与えるべきだ。政治以上に、われわれの時代が、トルコ人をアジアへ押し戻す。この美しい地方を解放することは、高貴な行為だ。人類愛は、この野蛮人たちが、もはやヨーロッパにいないことを求め、文明も、それを要求する、以下略」。表現は、何も変えていない。
「野蛮人」などの表現は、著者がアレクサンドル皇帝の発言として引用する当時の差別的な言説を訳したもの。訳者の評価ではない。
ナポレオンの忠実な代弁者であるフランス大使は、影響力と巧みさを尽くし、ロシア政府が、どこまでを狙っているか示すよう仕向けた。皇帝との面会のたびに、アレクサンドル皇帝が抱くナポレオンへの熱中をあおり、十分に了解し合う唯一の手段として、会見を望むよう導いていた。ルミャンツェフ氏と議論するときは、巧みに核心を外した。皇帝に対しては、ルミャンツェフ氏の計画を批判したが、ナポレオンの計画は、決して示さなかった。拒みはしても、要求はしなかった。アレクサンドル皇帝と同じく、時代の要請は、非常に切迫していると認めながら、ルミャンツェフ氏の提案するほどの大事業には、恐れを示した。そして、君主自身でなければ解けない困難を、絶えず挙げた。アレクサンドル皇帝の心にあった曖昧さが、同意へ導き、会見は一八〇八年九月二十七日と決まった。
一方、テュイルリーの政府は、事態を複雑にする出来事を増やすため、手段を何ひとつ怠らなかった。ロシアに知らせず、オスマン政府に、休戦の延長を保証した。セバスティアニ将軍[493]が、レヴァント旅行のあとに作った報告を、ロシア政府に伝えた。その結果、トルコの一部を切り取ることについて、語られ、書かれたすべてが、不確かなものとなった。トルコは、いつもフランスの古い同盟国と呼ばれ、機会あるごとに、ある種の配慮を示されていた。シレジアの話は、もはやしなかったが、プロイセンからの撤退を遅らせ、二地方の割譲を、そのように埋め合わせようとした。
見てのとおり、ナポレオン皇帝は、ティルジット条約後の自らの立場の強さを評価し、スペインに対する計画が実現するまで、ヨーロッパで、どんな動きの口実も生じないよう望んでいた。それまでは、インドでの戦争計画も、オスマン帝国の分割計画も、ロシアの注意を引きつけるため、舞台に登場させた幻影のように見える。だから、ティルジットとエアフルトの二つの会見の間、パリでもペテルブルクでも、議論されたすべての問題は、堂々巡りをしているようだった。一歩も進んでいなかった。エアフルトへ発つ五日前、アレクサンドル皇帝がフランス大使に言ったことは、ティルジットを去った五日後にも、言えたはずだった。「共通の利益を得るため、了解し合い、一致して行動しなければならない。私は、いつも約束を守るし、これまでも守ってきた。皇帝に言ったこと、皇帝が私に言ったことは、私には条約と同じく神聖だ、以下略」。
言葉は同じで、一八〇八年九月二十七日にも、事態は同じ地点にあった。一方のフィンランド征服[494]と、他方のスペイン侵入を除けば、である。しかし、それについて、双方の政府から、何ら重要な意見も述べられていなかった。したがって、両君主は、ほとんどティルジットから、そのままエアフルトへ来たと見なせた。
ティルジット条約で私が果たした役割、アレクサンドル皇帝が私に示した特別な好意、シャンパニー氏との関係でナポレオン皇帝が感じていた窮屈さ、そして、いつかは、その長所を正当に認めねばならないコランクール氏と、私の個人的な親交、これらすべてが、皇帝に、私への気まずさを乗り越えさせた。シャンパニー氏は、皇帝の言い方では、前日の不手際を言い訳する熱意を携え、毎朝やって来る人物だった。また私への気まずさは、スペインでの企てを非難したことについて、皇帝が私を激しく責め、自ら作り出したものだった。
そこで皇帝は、エアフルトへ同行し、そこで行われる交渉を担当するよう提案した。ただし、結果として条約ができれば、署名は外務大臣にさせるという条件だった。私は受け入れた。最初の会話で示された信頼は、私にとって、一種の埋め合わせとなった。皇帝は、コランクール氏の全書簡を渡させた。私は、それを優れていると認めた。数時間で、ペテルブルクで扱われた事柄を知らせてもらった。その後は、この特異な会見で、冒険的な意欲が強く支配しすぎるのを、できるかぎり防ぐ手段だけを考えた。
ナポレオンは、会見を非常に華やかにしたかった。頭を占める考えを、周りの人々に絶えず話すのが、習慣だった。私は、なお大侍従だった。皇帝は、宮廷大元帥デュロック将軍、興行を担当するレミュザ氏とともに、私を、しょっちゅう呼んだ。「私の旅は、たいへん見事なものでなければならない」と毎日繰り返した。三人が立ち会った、ある朝食で、当番の侍従は誰になるか、と尋ねた。「名門の名がないようだな。欲しいのだ。実際、宮廷で立派に振る舞うことを知るのは、その連中だけだ。フランス貴族は正当に評価しなければならない。その点では見事だ」。「陛下、モンテスキュー氏[495]がおります」。「よい」。「サピェハ公[496]も」。「悪くない」。「二人で十分かと存じます。短い旅なので、陛下は、いつもおそばに置けましょう」。「それでよい。……レミュザ、毎日、芝居が必要だ。ダザンクール[497]を呼べ。あれが責任者だったな」。「はい、陛下」。「壮麗さで、ドイツを驚かせたい」。ダザンクールは外出していたので、芝居の手配は翌日に回された。デュロックが言った。「陛下は、きっと幾人かの高貴な方々をエアフルトへ招くおつもりでしょうが、時間が迫っています」。「ウジェーヌ[498]の副官のひとりが、今日、出発する」と皇帝は答えた。「義父(バイエルン王)に、それとなく伝えるべきことを言わせられるだろう。一人の王が来れば、皆、来たがる。しかし、いや」と付け加えた。「このためにウジェーヌを使ってはいけない。才知が足りない。私の望むことを正確に行うのは心得ているが、ほのめかすのには向かない。タレーランのほうがよい。なおさら」と笑って言った。「私を批評する形で、来れば私が喜ぶと言うだろう。そのあとは私が、来ようと来まいと、まったく構わなかった、むしろ迷惑したくらいだ、と見せる番だ」。
翌朝の朝食で、皇帝は、命令を待っていたダザンクールを呼んだ。レミュザ氏、デュロック将軍、私には、同席するよう言ってあった。「ダザンクール、私がエアフルトへ行くと聞いただろう」。「はい、陛下」。「コメディ・フランセーズにも来てほしい」。「喜劇と悲劇を上演するのでしょうか」。「悲劇だけでよい。私たちの喜劇は役に立たない。ライン川を越えれば、理解されない」。「陛下は、さぞ見事な芝居をお望みでしょう」。「そうだ、最も優れた作品だ」。「陛下、『アタリー』はいかがでしょう」。「『アタリー』だと! とんでもない。私を理解していない男だ。ドイツ人の頭に、何かヨアスめいたものを吹き込むため、エアフルトへ行くのか。『アタリー』! 何と愚かなことだ。ダザンクール君、もうよい。最も優れた悲劇役者に、エアフルトへ行く準備をさせよ。出発の日と、上演する作品については、命令を与えさせる。行け。あの老人たちは、何と愚かだ。『アタリー』! もっとも、私のせいでもある。なぜ相談するのだ。誰にも相談すべきではない。せめて『シンナ』と言ったなら、重大な利害が動き、しかも寛容の場面がある。それは、いつでもよい。『シンナ』は、ほとんど全部、暗記していたが、うまく朗誦できたことはない。レミュザ、次の句があるのは、『シンナ』ではなかったか。
王冠のために犯す、あらゆる国家の罪を、
天は、王冠を与えるとき、われらに赦す[499]。
句を正しく言えているか、分からないが」。「陛下、『シンナ』です。ただし、『天が王冠を与える、そのとき』だったと思います」。「続く句は、どうだった。コルネイユの本を取れ」。「陛下、その必要はありません。思い出せます。
天は、王冠を与える、そのとき、われらに赦す。
そして天の恩寵が、彼を置いた神聖な地位では、
過去は正当となり、未来は許される。
そこへ達しうる者は、罪人ではありえない。
何を行ったにせよ、何を行うにせよ、彼は不可侵である。
「素晴らしい。とりわけ、いつまでも同じ考えにとどまり、まだアンギャン公の死を語っている、あのドイツ人たちによい。連中の道徳を広げてやらねばならない。アレクサンドル皇帝のことを言っているのではない。こうしたことは、ロシア人には何でもない。しかし、ドイツにあふれる、陰気な考えの持ち主にはよい。では『シンナ』を上演する。これこそ芝居だ。初日にしよう。レミュザ、その後の日に、どの悲劇を上演できるか調べ、何も決める前に報告せよ」。「陛下、パリにも俳優を少し残すことを、お望みでしょうか」。「そうだ、代役を残せ。よい役者は、すべて連れていかねばならない。多すぎるほうがよい」。九月二十二日までにエアフルトへ着くよう、直ちに命令が送られた。宛先は、サン=プリ、タルマ、ラフォン、ダマ、デプレ、ラカーヴ、ヴァレンヌ、ダザンクール、ロークール嬢、タルマ夫人、ブルゴワン嬢、デュシェノワ嬢、グロ嬢、ローズ・デュピュイ嬢、パトラ嬢だった[500]。
旅行が『モニトゥール』で告知されると、皆、加わろうと動いた。皇帝の二人の副官、サヴァリとローリストン[501]が、最初に選ばれた。軍人の随行団は、たいへん華やかなものとなるはずだった。皇帝は、部下のうち、ドイツで最も名を響かせた者たちに、囲まれているように見せたかった。まずスールト元帥、次にダヴー元帥、ランヌ元帥、ヌーシャテル公、モルティエ元帥、ウディノ元帥、スーシェ将軍、ボワイエ将軍、ナンスティ将軍[502]、クラパレード将軍[503]、サン=ローラン将軍[504]、そして官房秘書であるフェン氏[505]とメヌヴァル氏[506]が、ダリュ氏[507]、シャンパニー氏、マレ氏とともに、エアフルトへ赴く命令を受けた。デュロック将軍は、宿舎の手配にカヌーヴィル氏を指名した。「ボーセ[508]も連れていけ」と皇帝は言った。「コンスタンチン大公[509]に、わが女優たちの接待を取り持つ者が必要だ。食事では、宮廷監督官としての勤めもするだろう。それに、名のある家だ」。
毎日、誰かがエアフルトへ発った。道は、荷馬車、乗馬用の馬、馬車用の馬、皇帝の仕着せを着た人々で埋まっていた。
九月も進んでいた。私は全書簡を読んでいたが、皇帝は、そこで扱う案件についての、本格的な話を、まだしていなかった。私の出発予定日の数日前、宮廷大元帥から、皇帝の言いつけで、その晩、大拝謁に出るよう、手紙が来た。広間に入るや、皇帝は私を自室へ連れていった。
大拝謁は原文 grandes entrées。宮廷の高位者らに認められる特別な入室・拝謁の儀礼を指し、一般公開の大規模な謁見という意味ではない。
「さて、ロシアからの全書簡を読んだな」と皇帝は言った。「アレクサンドル皇帝を、私がどう操ったと思うか」。そして、この一年に言い、書いたことを、楽しげに振り返った。最後に、自分はティルジット条約のうち、都合のよいことしか実行していないのに、アレクサンドル皇帝に対して得た優位に、私の注意を向けた。「今度はエアフルトへ行く」と付け加えた。「スペインで、望むことを自由に行えるようになって、戻りたい。オーストリアを不安にし、抑えておける確信が欲しい。そして、レヴァントの問題では、ロシアに対して明確な約束を負いたくない。アレクサンドル皇帝を満足させ、とりわけイギリスに向けられ、それ以外の点では、私が十分自由に動ける協定を用意せよ。私も助けよう。威光には事欠かない」。私は、二日、皇帝に会わなかった。待ちきれず、条項に含めたいことを書き、できるだけ早く文案を持ってくるよう言い添えて、送ってきた。私は待たせなかった。数時間後、皇帝の構想どおりに起草した条約案を持ち、もとへ赴いた。
「フランス人の皇帝陛下、以下略、
および全ロシアの皇帝陛下、以下略、
両者を結ぶ同盟を、ますます緊密にし、永遠に続くものとすることを望み、共通の敵であり、大陸の敵であるイギリスに対して取るべき新たな決定と、向けるべき新たな攻撃手段については、必要となり次第、了解し合うことを留保し、平和の回復に至るため、すべての行動を導き、不変に従う決意である原則を、特別協定に定めることを決議した。(ここで皇帝は遮り、「原則はよい。それなら拘束されない」と言った。)
このため、以下略の者を全権委員に任命し、両名は、以下の条項に合意した。
第一条 フランス人の皇帝陛下とロシア皇帝陛下は、ティルジットで結んだ同盟を確認し、必要なかぎり更新する。共通の敵と単独講和をしないだけでなく、共同の合意なしには、交渉にも入らず、いかなる提案も聞き入れないことを約する。
第二条 平和においても戦争においても、不可分に結びついていると決意する締約両陛下は、イギリスとの講和交渉のため、全権委員を任命し、その目的で、イギリスが指定する大陸の都市へ派遣することに合意する。
第三条 交渉が行われる場合、その全期間を通じ、締約両陛下それぞれの全権委員は、常に、最も完全に一致して行動する。いずれも、相手の意見に反して、イギリス全権委員の、いかなる提案または要求をも、支持することはもちろん、受け入れ、または承認することさえ許されない。
第四条 締約両陛下は、それぞれ、交渉中、敵から、いかなる提案、申し出、連絡を受けた場合も、直ちに双方の全権委員へ知らせることを約する。
第五条 スペインを含め、現状の占有を基礎とする原則(uti possidetis)によって交渉することを、イギリスに提案する。締約両陛下が、決して離れないと約する不可欠の条件は、イギリスが、一方でワラキア、モルダヴィア、フィンランドのロシア帝国への併合を、他方でジョゼフ=ナポレオン・ボナパルトを、スペインおよびインディアスの国王として、承認することである。
インディアスはスペイン王権の海外領に関する歴史的称号で、ここでインド亜大陸を意味しない。
第六条 オスマン政府は、ティルジット条約以来、幾度もの革命と変動を経験した。そのため、ワラキアとモルダヴィアの住民の身体と財産に、十分な保証を与える可能性を失い、したがって、同政府から、その保証を得る希望も失われたように見える。また、ロシア皇帝陛下は、同じ時期以来、これらの住民に特別な約束を負い、前述の革命の結果、両地方を守るため、巨額の出費を強いられた。以上すべての理由から、両地方を手放さないと決意している。しかも、その保有だけが、帝国に、自然で必要な国境を与えられる。よって、ナポレオン皇帝陛下は、自らに関係するかぎり、両地方のロシア帝国への併合に反対しない。また、同陛下は、ティルジット条約で、自ら申し出て、ロシアが受け入れた仲介を撤回する。
(「この条項は要らない。明確すぎる」。「しかし陛下、『反対しない』は、確かに、最も拘束の弱い表現のひとつです。さらに、次の条項が、大きな歯止めとなります」。)
第七条 ただし、全ロシアの皇帝陛下は、当面、従来どおりワラキアとモルダヴィアを占領するにとどめ、すべてを現在の状態に保つ。また、両地方の割譲を友好的に得るため、コンスタンティノープルか、ドナウ川の島で、フランスの仲介のもと、交渉を始めることさえ提案する。しかし、この交渉を実際に開始するのは、イギリスとの交渉が、何らかの結末に至ったあとに限る。平和を遠ざけかねない、新たな論争の機会を生じさせないためである。
(「この条項はよい。私が仲介すれば、主導権は私に残る。そして前の条項は、真の敵であるオーストリアを不安にする」。「陛下、一時的には敵かもしれません。しかし根本では、その政策はフランスと対立しておりません。侵略的ではなく、保全を図るものです」。「タレーラン君、それが君の意見なのは知っている。スペインの件が済んだら話そう」。)
第八条 ナポレオン皇帝陛下は、アレクサンドル皇帝陛下と協力し、オスマン政府から友好的な割譲を得るため行動する。この目的に至るための、同盟両宮廷のすべての通牒と働きかけは、協議のうえ、同じ精神で行われる。
第九条 オスマン政府の拒否により、敵対行為が再開され、戦争が続く場合、ナポレオン皇帝は、それに参加せず、外交上の斡旋でロシアを助けるにとどまる。しかし、オーストリア、または他のいずれかの国が、この戦争でオスマン政府に加担する場合、ナポレオン皇帝陛下は、直ちにロシアと行動を共にする。この場合は、両帝国を結ぶ全般的な同盟が適用されると見なすべきだからである。
(「この条項は不完全だ。私の考えが全部入っていない。続けよう。何を加えるべきかは、あとで言う」。)
第十条 締約両陛下は、さらに、オスマン帝国の他の領土の保全を維持することを約する。それらについて、事前の合意なしには、自ら何も決定、実行せず、誰によるいかなる行動も許さないものとする。
第十一条 イギリスとの交渉で、ナポレオン皇帝陛下は、オスマン政府の同意の有無にかかわらず、ワラキアとモルダヴィアのロシア帝国への併合を承認させるため、ロシアと行動を共にする。
第十二条 前記条項でナポレオン皇帝が行った放棄の代わりに、アレクサンドル皇帝陛下は、ティルジット条約の第五秘密条項によって、自らに対してなされた、条件付きの約束を免除する。同条項は無効となり、存在しなかったものと見なされる」。
「おおむね、私が言ったとおりだな。置いていけ。私が整えよう。後ろのほうの条項、私が止めたところに、加えねばならない。オーストリアがフランスに不安を与えた場合、ロシア皇帝は、最初の要請で、オーストリアに対して敵対を宣言し、フランスと行動を共にすると約する。この場合も、両国を結ぶ同盟が適用される事例のひとつだからだ、と。これが肝心の条項だ。どうして忘れたのか。君は、いつもオーストリア寄りだ」。「少しは、陛下。しかし、決してロシア寄りではなく、いつもフランス人だ、と言うほうが、正確だと思います」。「出発の準備をせよ。私より一、二日早くエアフルトに着かねばならない。旅行中は、アレクサンドル皇帝に、たびたび会う手段を探せ。よく知っているのだから、相手に合う言葉で話せ。われわれの同盟が、人々にもたらせる利益の中に、摂理の大きな意図のひとつが認められる、と言うのだ。われわれは、ともにヨーロッパ全体の秩序を取り戻す運命にある。二人とも若いので、急ぐことはない。この点を大いに強調せよ。ルミャンツェフ伯は、レヴァントの問題に熱心だからな。世論なしには何もできず、ヨーロッパが、われわれの結び合った力に怯えず、企てる大事業の実現を、喜んで見なければならない、と言え。隣接する列強の安全、正しく理解された大陸の利益、自由を取り戻す七百万のギリシア人、以下略。人類愛を語るには、よい領域だ。この点は自由に任せる。ただし、遠い先の人類愛であってほしい。では」。
私は帰宅して書類を整え、必要になると予想したものを、すべて携え、馬車に乗った。九月二十四日土曜日、午前十時にエアフルトへ着いた。カヌーヴィル氏が、皇帝の泊まるはずの家の近くに、宿を用意してくれていた。到着して間もなく、コランクール氏が訪ねてきた。ともに過ごした最初の一日は、私に非常に有益だった。ペテルブルクと、両皇帝が会見へ臨む心構えを語った。知っていることを持ち寄ると、ほどなく、すべての点で完全に一致した。
エアフルト全体が、慌ただしく動いていた。まずまずの家は、一軒残らず、どこかの君主と随員を泊めることになっていた。ロシア皇帝は、コンスタンチン大公、ルミャンツェフ伯、宮廷大元帥トルストイ伯、駐仏大使トルストイ将軍、ヴォルコンスキー公、オジャロフスキー伯[510]、トルベツコイ公、ウヴァーロフ伯[511]、シュヴァーロフ伯[512]、ガガーリン公、ゴリツィン公、スペランスキー氏、ラベンスキー氏、ベートマン氏、ヒトロフ将軍、国務官ジェルヴェ、国務官クライデマン、シュレーダー氏、ザクセン=コーブルクのレオポルト公子[513]を伴って来ることになっていた。アレクサンドル皇帝に同行する光栄を得た人々は、これで、ほぼ全員を挙げたと思う。ワイマールで二十四時間とどまる予定だったので、到着は、ナポレオン皇帝より一日遅いと見込まれていた。
ザクセン王の侍従が来て、主君は二十五日にエアフルトへ泊まり、内閣大臣ボーゼ氏[514]、大主馬官マルコリーニ伯[515]、フンク男爵[516]、グートシュミット男爵、ティーレマン少佐、侍従ガブレンツ、マルクスハンスキー氏、シェーンベルク氏が従う、と知らせた。ドレスデン駐在フランス公使ブルゴワン氏[517]も、王への同行を許されていた。
次々にエアフルトへ到着した高位の人々の名を、ここで、まとめて知っておくのは、読者にも喜ばれると思う[518]。ザクセン=ゴータ公[519]は、テュンメル男爵、シュトゥドニッツ氏、ツィーゲザール氏、ヘルダ男爵、ヴァンゲンハイム男爵、ホフ氏[520]を伴った。ザクセン=ワイマール公は、世子[521]、エグロフシュタイン男爵[522]、アインジーデル男爵、そして、ともにワイマールの枢密顧問であるゲーテ氏とヴィーラント氏[523]を伴った。オルデンブルク公[524]は、ハンマーシュタイン男爵[525]とガル男爵を伴った。メクレンブルク=シュヴェリーン公[526]、メクレンブルク=シュトレーリッツの世子[527]、デッサウ侯[528]、ヴァルデック侯、ヘッセン=ホンブルク侯、ロイス=グライツ侯、ロイス=エーベルスドルフ侯、ロイス=ローベンシュタイン侯[529]、ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公妃[530]。シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯[531]は、ケッテルフット氏、ヴァイセ氏、グライヒェン氏を伴った。トゥルン・ウント・タクシス侯夫妻[532]は、ライカム氏を伴った。ヘッセン=ローテンブルク侯。ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯[533]は、ロイス=シュライツ侯とファルケンシュタイン少佐を伴った。バイエルンのヴィルヘルム公。首座大司教公[534]、すなわちダールベルク氏には、町の住民が誰も彼も、自宅を宿にと申し出た。かつて総督を務め、万人に愛されていたのである。ホーエンツォレルン=ヘヒンゲン侯[535]は、世子、ヘーフェル氏、バウアー氏を伴った。バーデンの世子は、妃ステファニー・ナポレオン[536]、フェニンゲン夫人、ブルジョリー嬢を伴った。パリ駐在バーデン公使ダールベルク男爵[537]、ロイス四十一世公、ダルムシュタットの世子[538]、ケラー伯[539]、ドルゴルーキー公[540]、レルヒェンフェルト伯、ライエン侯[541]、プロイセンのヴィルヘルム王子[542]、プロイセン外務大臣ゴルツ伯、ル・コック氏、デーヒェン氏。ヴェストファーレン王ジェローム・ナポレオンは、ヴュルテンベルク王女として生まれた王妃を伴った。ヘッセン=フィリップスタール侯[543]、ブーフホルツ伯夫妻、トルフゼス伯、ヴィンツィンゲローデ伯、バイエルン王[544]、モンジュラ男爵[545]、ヴュルテンベルク伯、ロイス伯、ヴュルテンベルク王[546]、ホーエンローエ公、ヴュルテンベルク公妃、タウベ伯、ゲルリッツ男爵、モルトケ男爵、ザルム=ディーク伯[547]。きっと幾人か忘れている。その方々には、お許しを願いたい。
皇帝の小姓たちは、すでに到着し、正装で町を歩いていた。軍務は、皇帝親衛隊の擲弾兵一個大隊、精鋭憲兵の分遣隊、第六胸甲騎兵連隊、第一軽騎兵連隊、第十七軽歩兵連隊が担っていた。
皇帝は、一八〇八年九月二十七日、午前十時にエアフルトへ入った。前日から、大群衆が宮殿への道を囲んでいた。王座、悲惨、不安、希望、すべてを配る人物を、誰もが見たがり、近づきたがった。地上で最も多くの称賛を受けた三人は、アウグストゥス、ルイ十四世、ナポレオンである。時代と才能によって、その称賛の書き方は異なるが、根底では同じだ。大侍従の地位にあった私は、強いられた、装われた、あるいは真心からの、ナポレオンへの敬意を、より間近に見た。そのため、私の目には、怪物的と呼べるほどの大きさに映った。卑屈さが、これほどの天才を持ったことはない。皇帝が、名高いイエナの戦いに勝った、その場所で狩猟を催すという発想まで生んだ。猪や野獣の殺戮は、勝者の目に、あの戦闘の成功を思い起こさせるためにあった。私は、何度も気づかずにはいられなかった。皇帝に恨みを抱いて当然の者ほど、その幸運に微笑み、天から授けられたという高い運命に、拍手を送るのである。
エアフルトで思いついたことだが、王座から降りたのではなく、自らの王座を、絶えず脅かす保護権に従わせた君主だけに、明かされる追従の秘訣があるのではないかと思う。自分たちを支配し、滅ぼすこともできる権力の周囲に置かれると、その秘訣を、この上なく巧みに使うのである。どの下手な悲劇だったか知らないが、次の詩句が引用されるのを、しばしば聞いた。
従うことしか知らぬお前は、暴君になるだろう。
エアフルトで会う君主は、誰であれ、むしろ、こう言うほうがよいと思えた。
支配することしか知らぬお前は、奴隷になるだろう。
これには説明がつく。強大な君主は、宮廷に、帝国の偉大さを示させたがる。反対に小さな君主は、宮廷によって、自らの力の狭い限界を、見えなくさせたがる。小君主の周りでは、礼式、気配り、追従、すべてが大きくなる、いや、膨れ上がる。とりわけ追従によって、自分の偉大さを測り、決して大げさとは思わない。この判断の習慣は、自然なものとなり、運命が変わっても変えない。したがって、勝利によって、自らの領国と宮殿に、自分も、その前では一廷臣でしかなくなる人物が入ると、かつて臣民に望んだのと同じほど、勝者の前で低く身をかがめる。追従について、それ以外の考え方を知らないのである。大きな宮廷では、自分を高める、もう一つの方法を知っている。身をかがめることだ。小さな君主は、地に身を投げることしか知らず、運命が起こしてくれるまで、そこにとどまる。エアフルトでは、獅子のたてがみを、高貴に撫でる手を、一つも見なかった。
誰か特定の人物に当てはめるためではない、このような厳しい考察のあと、本題へ戻れることを、うれしく思う。九月二十八日、アレクサンドル皇帝が到着を知らせた。ワイマールで一泊していたのである。ナポレオンは、正装の副官と将軍たちを従え、出迎えのため馬に乗った。会うと、二人は、この上なく親しげに、互いの腕へ飛び込んだ。ナポレオンは、アレクサンドル皇帝を、その宿舎へ案内した。相手が普段使うと知っている物が、周りにそろっているか、愛想よく確かめ、辞した。
私は、ナポレオン皇帝の宮殿で、帰りを待っていた。第一印象に、非常に満足したようで、旅はうまくいきそうだが、何も急いではならないと言った。「会えて、二人とも、あまりにうれしいので」と笑って付け加えた。「少しは楽しまねばならない」。着替えたばかりのところへ、アレクサンドル皇帝が来た。ナポレオンは、私を紹介した。「古い知り合いだ」とロシア皇帝は言った。「会えてうれしい。旅に加わっていてほしいと思っていた」。私は退こうとした。重大なことを何も話したくなく、第三者がいるのを好ましく思ったナポレオンは、私を引きとめた。そこで両皇帝は、深い関心を示す態度で、互いの家族について、意味のない質問を交わした。エリザベータ皇后[548]に対してはジョゼフィーヌ皇后、アンナ大公女[549]に対してはボルゲーゼ公妃[550]、といった具合だった。最初の訪問の時間が許せば、おそらくフェッシュ枢機卿の健康にも、一言触れたろう。残してきた家族の状態に、すっかり安心して、両皇帝は別れた。ナポレオンはアレクサンドル皇帝を階段まで送り、私は馬車まで同行した。この短い間に、皇帝は「また会おう」と何度も言った。その言い方から、出迎えたコランクール氏が、これから起きることを、私がすべて心得ていると伝えていた、と分かった。
皇帝のもとへ戻ると、こう言われた。「条約案を変更した。オーストリアを、もっと厳しく締めつける。見せよう」。それ以上の詳細には入らなかった。「アレクサンドル皇帝は、私の望むことを、すべて行う気らしい。話しかけてきたら、初めは、ルミャンツェフ伯と君の間で交渉させたいと思ったが、考えを変えた、と言え。相手を、それほど信頼しているので、すべて二人の間で行うほうがよいと思うのだ。協定が決まったら、大臣たちが署名する。何を言うときも、遅れをもたらすことは、すべて私に役立つと、よく覚えておけ。あの王たちの言葉は、役に立つだろう。私を恐れている。始める前に、アレクサンドル皇帝を、私の権力の光景で眩惑したい。それで容易にならない交渉などない」。
帰宅すると、トゥルン・ウント・タクシス侯妃から、到着を知らせる短い手紙が届いていた。すぐに訪ねた。再会は、大きな喜びだった。非常に優れた人である。エアフルトへ来たのは、ドイツの郵便総長である夫が、長年交渉を試みている、ドイツの諸侯に対し、アレクサンドル皇帝の斡旋を求めるためだ、と話した。訪ねて十五分もたたないうちに、皇帝の来訪が告げられた。とても愛想よく、率直な態度で、侯妃に茶を求め、毎晩、芝居のあとに、私たちへ茶を出してほしいと言った。気楽に話し、一日をよく終える方法だから、と。そうすることになり、この最初の晩には、特に興味深いことはなかった。
オーストリアは、エアフルト会見に招かれず、正式な通知さえ受けていなかったため、フランツ皇帝は不安になり、自らヴァンサン男爵を、直接エアフルトへ送っていた。ナポレオン皇帝への手紙と、私の記憶では、アレクサンドル皇帝への手紙も携えていた。ヴァンサン氏はロレーヌの貴族で、一家とロレーヌ家の関係から、フランス革命より、ずっと前に、オーストリアに仕えていた。私は、よく知っており、十年来、頻繁に関わっていた。その関係について、氏には喜ぶ理由しかなかった、とも言えよう。十八か月前、ワルシャワでの任務を華々しいものにするのを、私は喜んで助けていた。利用できる手段、当時は莫大だったその手段を、ガリツィア[551]各地で起きかけていた、あらゆる動きを抑えるため用いると保証したのである。ヴァンサン氏は、携えてきた手紙の写しを見せた。高潔な手紙で、君主の不安は、何も表れていなかった。氏は、私に心を開くよう命じられていた。私は、両皇帝の態度に不安がないわけではないので、その派遣は非常にうれしい、と言った。すでに見たとおり、ナポレオン皇帝自身の言葉から、私を、フランスとオーストリアの同盟の支持者だと、正しく認めていたことが分かる。それこそフランスへの奉仕だと、私は考えていたし、今も考える。エアフルトから、オーストリア政府の利益に害を与える決定が生まれぬよう、適切と思うことを、あらゆる方面で行っており、今後も行うと、ヴァンサン氏に保証した。
ナポレオンは、当面の引き延ばし策に忠実で、最初の数日を、政務を話す時間が決して見つからぬよう割り振っていた。朝食は長く、人を迎え、好んで話した。次に、その土地の公共施設をいくつか訪ね、そこから町の外の演習へ向かった。ロシア皇帝と弟の大公は、必ず参加した。演習は、夕食用に着替える時間しか残らなくなるまで続き、そのあと、芝居が残りの時間を占めた。
こうした朝食が、二時間以上続くのを、何度も見た。ナポレオンは、会うためエアフルトへ来ていた、有力な人々や、優れた才能の人々を、そこへ呼んだ。毎朝、新着者の名簿を、満足げに読んだ。ゲーテ氏の名を見つけた日、呼びにやった。
「ゲーテさん、お会いできてうれしい」。「陛下は、ご旅行の際、ごく小さな事柄にも、目を向けることをお忘れでないのですね」。「ドイツ第一の悲劇詩人だと知っている」。「陛下、それでは、わが国を軽んじることになります。私たちにも偉人がいると考えております。シラー、レッシング、ヴィーラントは、陛下もご存じのはずです」。「実を言えば、あまり知らない。しかし『三十年戦争史』は読んだ。失礼ながら、わが国の大通りの劇場向けの悲劇の題材にしか、思えなかった」。「陛下、私は、その大通りを存じませんが、民衆のための芝居を上演する場所と推察します。近代の最も優れた天才のひとりを、それほど厳しく評価なさるのを聞くのは、残念です」。「普段はワイマールに住んでいるな。ドイツの有名な文人が集まる場所か」。「陛下、そこでは厚く保護されています。しかし、いまワイマールにいて、ヨーロッパ全土に知られる人物は、ヴィーラントだけです。ミュラーはベルリンに住んでおりますので」。「ヴィーラント氏に会いたいものだ」。「陛下が、お知らせすることを許してくだされば、きっと、すぐに参りましょう」。「フランス語を話すか」。「心得ており、自著のフランス語訳を、幾つも自ら訂正しています」。「ここにいる間、毎晩、われわれの芝居へ来なさい。優れたフランス悲劇の上演を見るのは、悪いことではない」。「陛下、喜んで参ります。実を申せば、そのつもりでした。私も、フランスの戯曲を幾つか翻訳、むしろ翻案しました」。「どれか」。「『マホメット』と『タンクレード』です」。「上演できる役者がいるか、レミュザに尋ねさせよう。われわれの言葉で上演されるのを、見てほしい。君たちは、演劇の規則で、われわれほど厳格ではないな」。「陛下、わが国では三一致は不可欠ではありません」。「われわれの滞在を、どう思うか」。「陛下、たいへん華やかです。わが国にも有益であるよう願っています」。「君の国民は幸福か」。「大きな希望を抱いています」。「ゲーテさん、旅行の間じゅう、ここにとどまり、われわれが見せる大きな光景の印象を書くべきだ」。「ああ陛下、そのような仕事には、古代の作家の筆が必要でしょう」。「タキトゥスを好む一人か」。「はい、陛下、大いに」。「そうか、私は違う。しかし、それは別の機会に話そう。ヴィーラント氏に、ここへ来るよう書いてくれ。公に招かれているので、ワイマールで答礼に訪ねよう。公妃にも会いたい。非常に優れた女性だ。公は、一時、かなり行状が悪かったが、矯正された[552]」。「陛下、悪かったとしても、矯正は、少し厳しすぎました。しかし、そのようなことを裁く立場ではありません。公は文芸と学問を保護しており、私たちは皆、感謝することしかありません」。「ゲーテさん、今晩は『イフィジェニー』へ来なさい。よい作品だ。私が最も好むもののひとつではないが、フランス人は高く評価している。平土間には、かなりの数の君主がいるだろう。首座大司教公を知っているか」。「はい、陛下、ほとんど親友です。才知、知識、寛大さを、豊かに備えた君主です」。「では今晩、ヴュルテンベルク王の肩で眠るのを見るだろう。ロシア皇帝には、もう会ったか」。「いいえ、陛下、まだ一度も。しかし、紹介されることを望んでいます」。「君の言葉を、うまく話す。エアフルト会見について何か書いたら、献呈するとよい」。「陛下、それは習慣にしておりません。書き始めたとき、決して後悔せずに済むよう、献辞は書かないと決めました」。「ルイ十四世の時代の大作家たちは、そうではなかった」。「そのとおりです、陛下。しかし陛下も、彼らが決して後悔しなかったとは、断言できないでしょう」。「あの不心得者コツェブー[553]は、どうなった」。「陛下、シベリアにおり、陛下がアレクサンドル皇帝に、赦免を求められるだろうと聞きます」。「私の好む男ではないと知っているか」。「陛下、たいへん不幸で、大きな才能があります」。「では、ゲーテさん」。
この会話はタレーランが再現するもの。引用された評言や当時の人物の所在を、訳者が独立に確認して保証するものではない。
私はゲーテ氏のあとを追い、自宅の夕食に招いた。戻ると、この最初の会話を書き留め、食事の間、さまざまな問いをして、ここに記すとおり、完全に正確であることを確かめた。食卓を離れると、ゲーテ氏は劇場へ向かった。私は、舞台の近くに座れるよう気を配ったが、かなり難しかった。王冠を戴く人々が、肘掛け椅子で最前列を占め、世子たちが椅子にひしめいて第二列を埋め、その後ろの長椅子はすべて、大臣と、陪臣化された諸侯で埋まっていたからだ。そこでゲーテ氏をダザンクールに託した。同氏は、何の礼式も損なわず、よい席に着かせる方法を見つけた。
エアフルトの芝居の演目は、細心の注意と、巧みさをもって選ばれていた。題材は、すべて英雄時代か、歴史の大事件から取られた。ナポレオンが英雄時代を舞台に出した狙いは、自分を取り巻く、この古いドイツ貴族たちを、慣れた世界から引き離し、想像力によって別の領域へ運ぶことだった。そこでは、生まれではなく自らの力で偉大となり、行為によって伝説となり、自分の一族を創始し、神々を起源とすると称する人々が、その目の前を通るのである。
皇帝が上演を命じた、歴史に題材を取る作品では、中心人物の誰かの政治的な振る舞いが、皇帝自身が世界の舞台に現れて以来、日々見られる、似た状況を、いつも思い起こさせた。それが、多くの追従的な当てはめの材料となった。ミトリダテスのローマ人への憎しみは、ナポレオンのイギリスへの憎しみを思い起こさせ、次の詩句が語られると、
この地とローマとが、
永遠の城壁で隔てられている、などと思うな。
通るべき道は、すべて知っている。
もし死が、すぐにも行く手を妨げなければ、以下略[554]。
周りでは、低い声で繰り返された。「そうだ、進むべき道を、すべて知っている。気をつけるがよい。そうだ、すべて知っているのだ」。
『イフィジェニー』では、不滅、栄光、勇気、宿命という考えが、中心の観念として、あるいは付随する観念として、絶えず戻ってくる。それらは、近づく人々を、絶えず驚かせるという、皇帝の支配的な考えに役立った。
タルマは、次の美しい長台詞を、穏やかに語るよう命じられていた。
名誉が語る、それでよい。それが、われらの神託だ。
神々は、われらの命の、至上の主である。
だが王よ、われらの栄光は、われら自身の手にある。
なぜ、その至上の命令に、心を苦しめるのか。
神々そのもののように、不滅となることだけを思おう。
運命は運命に任せ、勇気が、
神々に劣らぬ偉大な運命を約するところへ、駆けてゆこう、以下略[555]。
しかし、皇帝が最も好み、自らの権力の理由と源を、最もよく示す作品は、『マホメット』だった。初めから終わりまで、自分自身が舞台を満たしていると、思っていたからだ。
第一幕から、すでに、
人は平等であり、違いを生むのは、生まれではない。
ただ、徳だけなのだ。
天に恵まれた魂の中には、
自らの力ですべてとなり、祖先には何も負わぬ者がいる。
ひと言でいえば、私が主と選んだのは、そのような人だ。
世界で、ただひとり、主たるに値する。
すべての人は、いつか、その法に従わねばならない、以下略[556]。
劇場全体の目が、皇帝に注がれた。俳優の言葉を聞きながら、見ていたのは皇帝だった。別の箇所では、ラフォンが暗い声で語る、次の句を、ドイツの君主は、それぞれ当然、自分に当てはめたはずである。
見よ、いたるところで崩れ落ちるローマ帝国を。
この引き裂かれた巨大な体、その散らばる手足は、
名誉も命もなく、離れ離れに衰えている。
この世界の残骸の上に、アラビアを興そう。
新たな信仰、新たな鎖が必要だ。
盲目の世界には、新たな神が必要だ[557]。
ここでは、敬意が拍手を抑えたが、次の句には、いっそう拍手が湧き出しそうになった。
誰が彼を王にした。誰が冠を授けた。勝利だ[558]。
続いて、オマールが、こう付け加えると、おそらく感動したふりもしただろう。
征服者、勝利者の名に、
平和をもたらす者の名を加えたいと、彼は望む[559]。
この最後の句で、ナポレオンは、巧みに感動を示した。そこにこそ、自分の全生涯の説明を見いだしてほしい、と示すものだった。
『カエサルの死』で、サン=プリが、スッラについて、見事な表現力で次のように言うと、人々は、進んで賛同の動きを示しさえした。
彼は、その恐怖だった。私は、その喜びとなろう、以下略[560]。
毎日耳にした、この種の当てはめや推論を、これ以上挙げるつもりはない。この大きな集まりの精神を、十分に知ってもらうため、不可欠なことだけを記している。
芝居のたびに、私はトゥルン侯妃のもとでアレクサンドル皇帝と会い、ときには、自宅でヴァンサン氏とも会った。持ち帰る印象は、大きく違った。アレクサンドル皇帝は、いつも魅了され、ヴァンサン氏は、いつも恐れていた。何を言っても、何も行われていないとは、なかなか信じなかった。しかし、最初の数日が、政務を話さずに過ぎたのは確かだった。初めて政務が話題となった会話は、非常に長かった。両皇帝は、この一年、両政府の間で扱われていた、すべての問題を徹底的に議論した。最後にナポレオン皇帝は、共通の利益のために起草したと言う協定案を示し、アレクサンドル皇帝に渡した。ただし、誰にも、たとえ自分の大臣の誰にも見せないと、約束させたあとだった。二人だけで扱うべき問題だ、と付け加えた。秘密を、どれほど重んじるか示すため、誰にも知られたくないので、条項の一部は、自ら書いたというのだった。
繰り返された「誰にも」という言葉は、明らかに、ルミャンツェフ伯と私に向けられていた。アレクサンドル皇帝は、親切にも、そう受け取らなかった。トゥルン侯妃に、誰も通さないよう頼んだあと、ポケットから条約を取り出した。ナポレオンは、私の渡した案の、ほとんど全部を、できるだけ丁寧に書き写す労を取っていた。ただし、一、二の条項を変え、ペテルブルク政府のオスマン政府に対する立場を口実に、ロシアの一個軍団を、オーストリア国境から、あまり遠くない位置に置く、と加えていた。アレクサンドル皇帝は、条約の基礎が、ペテルブルクで、ほぼ決まっていたものと違うと、ナポレオン皇帝に指摘したあと、適切と思う意見を、書面で述べる権利を留保していた。ロシアの秘密は、よほど守りが悪いらしい。翌朝、ヴァンサン氏が訪ね、交渉が始まり、すでに協定案ができていると知っている、と言ったからだ。私は、落ち着き、不可欠な働きかけだけを行い、とりわけ、不安を示さないよう勧めた。それ以上は明かさず、私は、今後の措置に、いくらか影響を与えられる位置におり、オーストリアの安全と威信を損なうものに、どれほど反対しているか、ご存じでしょう、と付け加えた。
二、三日、両皇帝は、閲兵か演習、夕食か芝居以外では会わなかった。私は、毎晩、トゥルン侯妃のもとへ通い続け、アレクサンドル皇帝も、必ず来た。何か気にかかる様子だったので、私は、できるだけ軽い話にした。しかし、ある日、上演したばかりの『ミトリダート』を使い、どれほど多くの暗示を含むかを指摘した。侯妃に向かって、いくつかの句を挙げたが、話は続かなかった。皇帝は、少し頭が痛いと言って辞したが、最後の言葉は、「また明日」だった。私は、毎朝、コランクール氏と会った。アレクサンドル皇帝の熱が、かなり冷めていると思わないか、と尋ねた。同氏は、そう思わなかった。ただ困惑しているだけで、ナポレオンへの熱狂は変わらず、困惑も、ほどなく消えるだろうと言った。
こうして政治上の慎重な日々が続く間も、ナポレオン皇帝は、毎朝、朝食のあと、自分が高く評価し、賛同を得たいと思うドイツ人たちと会い続けた。ゲーテ氏への依頼は、正確に果たされ、ヴィーラント氏が到着していた。皇帝は二人とも朝食へ招かせた。その日は首座大司教公もおり、大勢の人々がいたと覚えている。皇帝は、見せ場となる会話を、入念に準備した。自分の有利な点を、すべて生かそうと努め、そのため、相手には予想外の話題を、十分に用意して臨んだ。強い反論に困ることは、決してなかった。話している者を遮る理由が、簡単に手元に見つかったからである。国外では、軍人には一般に、かなり縁遠い高尚な問題を、好んで話題にし、直ちに自分を際立たせることに、私は何度も気づいた。この点の自信は、生涯の輝きによるにせよ、性格と自尊心の幻想によるにせよ、モンテスキューがいようと、ヴォルテールがいようと、揺らがなかっただろう。
とりわけ好んで話す題材が、三つか四つあった。前年、ベルリンで、名高いヨハン・フォン・ミュラーに向かい、人間精神の大きな努力の、主要な時期を定めようとしていた。キリスト教の普及と急速な発展が、ローマ精神に対する、ギリシア精神の見事な反作用を生んだ、と皇帝が論じたとき、ミュラーの顔に浮かんだ驚きが、今も目に浮かぶ。皇帝は、物理的な力によって敗れたギリシアが、知的な領域の征服を目指した巧みさを、満足げに語り続けた。そして、人類全体に、これほどの影響を及ぼした恵みある芽をつかむことで、その征服を実現した、と付け加えた。この最後の句は、暗記していたに違いない。フォンターヌ氏[561]にも、シュアール氏[562]にも、同じように繰り返すのを聞いたからだ。ミュラーは何も答えず、一種の唖然とした状態にあった。皇帝は、すかさず利用し、自分の歴史を書くよう提案した。
ヴィーラントから何を得たかったのかは知らないが、皇帝は、好意的なことを、数多く語るのを楽しんだ。「ヴィーラントさん、フランスでは、あなたの作品が非常に好まれている。『アガトン』と『オベロン』の作者だな。われわれは、ドイツのヴォルテールと呼んでいる」。「陛下、その類似は、非常な光栄でしょうが、真実ではありません。好意ある人々の、ひどく大げさな称賛です」。「教えてほしい。なぜ『ディオゲネス』『アガトン』『ペレグリヌス』は、小説を歴史に、歴史を小説へ持ち込む、曖昧な形式で書かれているのか。あなたほど優れた人なら、形式は、明確に、互いを排しているべきだ。混合は、すべて容易に混乱へ導く。フランスで、ドラマが、あまり好まれないのは、そのためだ。ここでは、踏み込みすぎるのを恐れる。手強い相手を前にしているし、言っていることは、あなたと同じく、ゲーテ氏にも向けているからだ」。「陛下、お許しいただければ、フランスの舞台でも、歴史と小説の混合でない悲劇は、ほとんどないと指摘したく存じます。しかし、それはゲーテ氏の領域です。ご自身で、きっと、よくお答えになるでしょう。私について申せば、人々に有益な教訓を与えたく、そのため、歴史の権威が必要でした。借りた模範を、容易に、喜んで倣えるものにしたく、そのため、理想と物語的なものを交える必要がありました。人間の思想は、ときに行為より優れ、よい小説は、人類より優れています。陛下、『ルイ十四世の世紀』を、君主と民にとって最もよい教訓を含む『テレマック』と比べてください。私のディオゲネスは、樽の底でも清らかです」。「しかし」と皇帝は言った。「いつも虚構の中に徳を描く者に、何が起きるか知っているか。徳は、いつも幻想にすぎない、と信じさせてしまうのだ。歴史は、歴史家自身によって、非常にしばしば中傷されてきた」。
ここでの drame は演劇全般ではなく、悲劇・喜劇などの厳密な区分と対置される混合的な劇の形式を指す。
きっとタキトゥスが登場したはずの、この会話は、ナンスティ氏が、パリからの急使が手紙を届けたと知らせに来て、中断された。首座大司教公は、ヴィーラントとゲーテと一緒に出て、私に、自宅での夕食へ加わるよう頼んだ。ヴィーラントは、素朴な人で、皇帝に、よく答えたのか、悪く答えたのか分からず、いったん宿へ戻り、会話を書き留めた。いま読んだとおりの記録を、首座大司教公のもとへ持参したのである。ワイマールと近隣の才人たちが、皆、この夕食にいた。首座大司教公の隣に座った、アイゼナハの女性が目に留まった。人々は、その人に、必ずミューズの名で呼びかけ、しかも気取りはなかった。「クレイオー、これはいかがですか」と、首座大司教公が言うと、ただ、はい、いいえ、と答えた。地上での名は、ベヒトルスハイム男爵夫人だった。食後、皆、劇場へ行った。私は、いつものように、芝居のあと皇帝を送り、それからトゥルン侯妃のもとへ行った。
アレクサンドル皇帝は、すでに来ていた。顔は、いつもの表情ではなかった。迷いは残り、条約案への意見も、まだできていないことが明らかだった。「この数日、皇帝は、あなたに何か話したか」が、最初の問いだった。「いいえ、陛下」と答え、あえて、「ヴァンサン氏に会っていなければ、エアフルト会見は、ただの遊興だと思うところでした」と付け加えた。「ヴァンサン氏は、何と言っている」。「陛下、非常に道理にかなうことです。陛下が、ナポレオン皇帝に引き込まれ、オーストリアを脅かす、少なくとも侮辱する措置に加わらないと望んでいます。お許しいただければ、私も同じ願いを抱いております」。「私も、そうしたい。しかし非常に難しい。ナポレオン皇帝は、ひどく意気込んでいるようだから」。「しかし陛下、意見を述べられます。オーストリアに触れた条項は、ティルジット条約に、暗黙に含まれるとして、不要と見なせないでしょうか。信頼の証しは相互であるべきだ、とも付け加えられると思います。提出された案で、陛下は、ある条項を実行する状況を判断する役割を、一部ナポレオン皇帝に委ねています。したがって、オーストリアが、両皇帝の採用した計画に、現実の障害となる場合を判断することについては、陛下に委ねるよう求める権利がございます。これが、お二人の間で合意されれば、オーストリアに関するすべてを、条約案から削除すべきです。また、フランツ皇帝に知らせず手配されたエアフルトの集まりが、ウィーンに与えたはずの恐怖をお考えなら、お手紙を書き、皇帝個人に関わるすべてについて、安心させることを、お望みになるかもしれません」。私の言葉が、アレクサンドル皇帝を喜ばせているのが分かった。鉛筆でメモを取っていた。しかし、決意させる必要があり、まだ決めていなかった。個人的な信頼をもって、決断を引き出したのは、コランクール氏だった。
翌日、アレクサンドル皇帝は、条約案への意見を見せ、優雅に言った。「ところどころに、自分の言葉があると分かるだろう。ナポレオン皇帝との、以前の会話からも、多くを加えた」。意見は十分よくできていた。翌朝、渡す決意だと分かった。それは、うれしかった。皇帝は、私が、この最初の一歩を早く済ませてほしいと思わずにいられるほど、気楽には見えなかったからである。しかし、心配は無用だった。三時間の会談で、皇帝はナポレオンに、何も譲らなかった。別れると、ナポレオンは私を呼んだ。「アレクサンドル皇帝とは、何もできなかった」と言った。「あらゆる方向から動かそうとしたが、頭が狭い。一歩も進まなかった」。「陛下、ここへ来て以来、大いに進まれたと思います。アレクサンドル皇帝は、完全に魅了されています」。「そう見せているのだ。君は、だまされている。それほど私を愛するなら、なぜ署名しない」。「陛下、相手には、ある騎士道的なところがあり、予防措置が多すぎると、気分を害するのです。ご自身の言葉と、陛下への好意によって、条約以上に結ばれていると考えています。読ませてくださった書簡には、それを示す例があふれています」。「すべて、たわごとだ」。
皇帝は部屋を歩き、数分の沈黙を破って言った。「この件は、もう相手と話さない。関心を持ちすぎていると見せることになる。結局、会見だけでも、謎に包まれ続けることで、オーストリアを威圧するだろう。秘密条項があると思うだろうし、私は否定しない。せめてロシアが模範となり、フランツ皇帝に、ジョゼフをスペイン国王と認めさせれば、幾らかは意味がある。しかし、期待しない。アレクサンドル皇帝と八日で行ったことを、ウィーンで行うには、何年もかかるだろう。君のオーストリア好みが分からない。古いフランスの政治だ」。「陛下、それは新しいフランスの政治でもあるべきだと思います。あえて加えれば、陛下ご自身の政治でもございます。陛下は、とりわけ文明を守ることを、最も期待される君主だからです。テッシェンの講和にロシアが現れたことは、ヨーロッパの大きな不幸であり、防ぐため何もしなかったフランスの大きな過ちでした[563]」。「もはや、その話ではない。君、時勢は、そのまま受け取らねばならない。過ぎたことなら、望むならヴェルジェンヌ氏を責めよ。今どき、文明に関心を払う者は、ほとんどいない」。「自分の利害を考えるのでしょうか」。「分かっていない。誰も私に率直に接しない理由を知っているか。子供がいないので、フランスは、私の一代限りの保有物だと思っているのだ。ここで見るすべての秘密は、それだ。人々は私を恐れ、各自、できるように切り抜ける。皆にとって悪い状態だ。そして」と、厳かに付け加えた。「いつか、どうしても改めねばならない。アレクサンドル皇帝に会い続けよ。会談では、少し乱暴に扱ったかもしれない。しかし、よい関係で別れたい。まだ数日ある。明日はワイマールへ行く。祝宴を催してもらうイエナの地で、愛想よくするのは難しくない。君は、私より先にワイマールへ着け。イエナへ来るには、あまりに誇り高い大貴婦人である公妃に、その周りに暮らすすべての学者に会いたいので、知らせておいてほしい、と言え」。「この旅の細部が失われるのは、惜しいことでしょう」。
皇帝は、コメディ・フランセーズの全員をワイマールへ送っていた。その日は、イエナの地での狩猟で始まり、次いで、馬蹄形の食卓に、大きな宴が供された。席に着いたのは、統治する君主だけだった。この言葉に注意しておく。その資格によって、ヌーシャテル公と私を招くことが、ナポレオンへの、さらなる敬意となったからだ。食後、劇場へ行き、エアフルトからワイマールへ来た、すべての君主と王侯を前に、『カエサルの死』が上演された。劇場から、舞踏室へ移った。広く、高く、四角く、上から光を取り込み、多くの柱で飾られた、非常に美しい部屋だった。『カエサルの死』の残した印象は、舞踏会へ来た、若く美しい女性たちの姿によって、ほどなく消えた。ナポレオンは、広間で、狩猟で、舞踏会で、ときには賭け事の卓のそばで、重大な問題を扱うことを好んだ。この種の動きが、普通の人間に与える印象にも、自分は動かされないと、証明するつもりだったのである。部屋を一巡し、何人かの若い女性のそばで足を止め、同行を命じられた公の侍従フリードリヒ・フォン・ミュラー氏に、その名を尋ねたあと、大広間から離れ、ゲーテ氏とヴィーラント氏を連れてくるよう頼んだ。このミュラー氏は、名高い歴史家ヨハン・フォン・ミュラーの親族ではないが、ワイマールの文芸協会に属し、確か、その書記だった。同氏は、この美しく奇妙な光景を、ほかの協会員と見ていた二人を呼びに行った。ゲーテ氏は、皇帝へ近づくと、一緒の人々を紹介する許可を求めた。名は挙げない。翌日ミュラー氏が渡してくれた、かなり詳細な覚書にも、ないからだ。私は、旅で気づいたことを、すべて書くよう頼んでいた。自分で記したことと、比較するためだった。
「われわれの芝居には、満足しているだろう」と、皇帝はゲーテ氏に言った。「この方々は、来たか」。「今日のには来ました、陛下。しかしエアフルトのには来ておりません」。「それは残念だ。よい悲劇は、優れた人間に、最もふさわしい学校と見なすべきだ。ある見方からすれば、歴史より上にある。最高の歴史でも、効果は小さい。人は、一人なら、わずかしか動かされないが、集まれば、より強く、長く続く印象を受ける。君たちが、いつも引用する歴史家タキトゥスは、私には、何も教えなかったと言おう。あれ以上に、しばしば不当に、人類を中傷する者を知っているか。最も単純な行為に、犯罪的な動機を見つける。すべての皇帝を、底知れぬ悪党にして、それを見抜いた自分の天才に、読者を感嘆させるためだ。『年代記』は帝国の歴史ではなく、ローマの裁判記録の抄録だ、という評は正しい。いつも告発、被告、風呂で血管を切る者ばかりだ。密告を絶えず語る当人が、最大の密告者だ。それに、あの文体。いつも暗い夜ではないか。私は優れたラテン語学者ではない。しかし、読んだ十か十二のイタリア語訳、フランス語訳にも、タキトゥスの難解さは現れている。だから、それは本人に固有で、文体だけでなく、いわゆる天才からも生じる、と結論する。表現の仕方から切り離せないのは、ものを考える仕方にあるからだ。暴君を恐れさせることで称賛されるのを聞いたが、暴君たちに、民衆を恐れさせるのだ。それは民衆自身にも大きな害だ。ヴィーラントさん、私が正しくないか。しかし、邪魔をしているな。タキトゥスを語るために、ここにいるのではない。アレクサンドル皇帝が、いかにうまく踊るか、見たまえ。
「なぜ、ここにいるかは分かりません、陛下」と、ヴィーラント氏は答えた。「しかし、いま陛下が、私を地上で最も幸福な人間にしてくださっていることは、分かります」。「では、答えてくれ」。「陛下の、いまの話し方は、二つの王座をお持ちであることを忘れさせ、私は、ただ一人の文人を見るだけになりました。陛下が、その称号を軽んじないことも存じています。エジプトへ出発なさる際、手紙に、『学術研究所会員にして総司令官、ボナパルト』と署名しておられたのを、覚えているからです。そこで陛下、文人に対して、お答えしようと思います。エアフルトで、ご批判の対象となったとき、自分の弁護が弱かったと感じました。しかしタキトゥスなら、もっとよく弁護できると思います。主な目的が、暴君を罰することなのは認めます。しかし暴君を告発して訴える先は、隷属する人々ではありません。彼らは、別の圧政に替えるためにしか、反乱を起こさないでしょう。暴君を、時代と人類の正義の裁きに訴えるのです。人類は、おそらく、十分な年月と不幸を経て、今日まで激情だけが持っていた力を、理性にも得させるはずです」。「それは、わが国の哲学者が皆、言うことだ。しかし、その理性の力を探しても、どこにも見えない」。「陛下、タキトゥスに、多くの読者が生まれ始めたのは、それほど昔ではありません。それは、人間精神の明らかな進歩です。何世紀もの間、学士院も宮廷と同じく、望まなかったからです。趣味の奴隷たちは、専制の手先と同じく恐れていました。ラシーヌが『古代最大の画家』と呼んで初めて、御国とわが国の大学は、本当かもしれないと考えたのです。陛下は、読むと密告者、暗殺者、盗賊しか見えないとおっしゃいます。しかし陛下、それこそ、タキトゥスの筆にかかった怪物たちが治める、ローマ帝国でした。ティトゥス・リウィウスの天才は、共和政の軍団とともに世界を巡りました。タキトゥスの天才は、ほとんど常に、ローマの裁判記録へ集中せざるをえませんでした。そこにこそ、帝国の全歴史が見つかったからです。そればかりか」と、勢いのある声で続けた。「どの国でも、君主と民が、原則と見解で対立し、互いに震えながら暮らす、不幸な時代を知ることができるのは、そこだけです。そのとき、すべては刑事裁判となり、死は、時や自然よりも、百人隊長や刑吏によって、頻繁に与えられるように見えます。陛下、スエトニウスとカッシウス・ディオは、タキトゥスより、はるかに多くの悪行を語っています。しかし、力のない文体で語るのに対し、タキトゥスの筆ほど恐ろしいものはありません。それでも、その天才が容赦ないのは、正義と同じだけです。ティベリウスの、あの怪物的な治世にさえ、何か善を見いだせれば、その眼差しは見分け、つかみ、すべてに与える輝きで浮かび上がらせます。あの愚かなクラウディウスにも、賛辞を見つけます。実際、愚かだったのは、性格と放蕩によってだけでした。正義の最も尊い属性である、この公平さを、タキトゥスは、最も対立する対象に行使します。共和政にも帝政にも、市民にも君主にも、です。天才の気質からすれば、共和政しか愛せないように見えるでしょう。若者すべての記憶に深く刻まれた、ブルトゥス、カッシウス、コドルスについての言葉は、その見方を強めるでしょう。しかし、両立しないと思われていた帝政と自由を、これほど幸福に調和させた皇帝たちを語るとき、その統治の技術を、地上でなされた最も美しい発見だと考えているのが、感じられるのです」。
近づいていた首座大司教公と、ヴィーラントを囲むワイマールの小さな学士会の全員は、喜びを抑えられなかった。
「陛下」と、ヴィーラントは続けた。「タキトゥスが描くとき、暴君は罰せられると言えるなら、善い君主の姿を描き、栄光へ差し出すとき、その君主は報われるということは、さらに真実です」。「ヴィーラントさん、相手が強すぎる。持つ有利な点を、何ひとつ怠らないな。私がタキトゥスを嫌うと、知っていたのではないか。ベルリンで会ったミュラー氏[564]と、文通しているか」。「はい、陛下」。「この話題について、書いてきたと認めるだろう」。「そのとおりです、陛下。同氏から、陛下がタキトゥスを好んで話題にしながら、好きではないと知りました」。「まだ完全に負けたとは思っていない。簡単には認めない。明日エアフルトへ戻る。そこで議論を続けよう。私の武器庫には、まだ十分な武器がある。タキトゥスは、出来事の原因と内的な動機の展開へ、十分に踏み込まず、語る行為の謎や、相互の連鎖も、十分に浮かび上がらせていない、と主張するためだ。それによって、後世の判断を準備すべきだった。後世は、人間も政府も、その時代、その周囲の状況の中にあった姿としてしか、裁いてはならないのだから」。
皇帝は、優しい眼差しでヴィーラント氏に、一緒にいる楽しみのため、踊る人々には、長く不作法な者と見られそうだ、と言って会話を終え、首座大司教公とともに去った。美しいコントルダンスの前で、しばらく足を止め、ザクセン=ワイマール公妃に、この華やかな祝宴の優雅さと美しさを語ってから、舞踏会を退出し、用意された壮麗な居室へ戻った。若い学士会員たちは、記憶の不確かさを恐れ、聞いたことを持ち寄るため、すでに出ていた。翌日、出発の日、午前七時にミュラー氏が訪ね、タキトゥスに対する皇帝の攻撃が、忠実に記されているか尋ねた。私は、いくつかの言葉を変えてもらった。それによって、ワイマールの文芸記録保管所に収める、諸氏の仕事の、完全な写しを受け取る権利を得た。午前中に、この美しい場所を去った。ザクセン、ヴュルテンベルク、バイエルンの王たちも、自国へ戻るため出発した。
エアフルトへ戻ると、ナポレオン皇帝は、アレクサンドル皇帝に、これまで以上に親切で、親しげで、打ち解けた態度を示した。すっかり意味の薄くなった協定は、ほとんど異論なく決まり、尊い同盟者を喜ばせること以外には、もはや本当の関心がないように見えた。「慌ただしい生活に疲れた」と語り、「休息が必要で、あらゆる好みが向かう、家庭生活の安らぎに、不安なく身を委ねられる時を、ただ望んでいる」と言った。しかし、しみじみとした様子で続けた。「その幸福は、私には与えられていない。子供なしに家庭があるだろうか。それに、私に子供を持てるだろうか。妻は十歳年上だ。許してほしい。こんなことを言うのは、滑稽かもしれない。しかし、あなたの心へ打ち明けるのを喜ぶ、自分の心の動きに従っているのだ」。そして、長い別れ、大きな距離、再会の難しさなどを、長々と語った。「しかし、夕食まで、もう少ししかない」と話を戻した。「ヴァンサン氏の暇乞いの謁見を受けるため、冷淡さを、すっかり取り戻さねばならない」。
「十歳年上」は、著者がナポレオンの発言として記す数値を、そのまま訳したもの。
晩になっても、アレクサンドル皇帝は、この親密な会話に、なお魅了されていた。私が会えたのは、遅くなってからだった。一日に満足したナポレオンが、就寝後も長く、私をそばにとどめたからである。その落ち着かなさには、奇妙なところがあった。問いかけて、返答を待たず、話そうとし、言っていることとは、別のことを言いたがっていた。ついに、離婚という大きな言葉を口にした。「私の運命が求め、フランスの平穏が要求している」と言った。「後継者がいない。ジョゼフは何者でもなく、娘しかいない。私自身が王朝を創始しなければならず、それには、ヨーロッパの大王家のひとつに属する王女との結婚しかない。アレクサンドル皇帝には姉妹がいる。年齢の合う者が一人いる。ルミャンツェフに話せ。スペインの件が終われば、トルコ分割について、その構想に全面的に従うと言え。ほかの議論にも困らないだろう。君が離婚の支持者だと知っているからだ。ジョゼフィーヌ皇后も、そう思っている。知らせておこう」。「陛下、お許しいただければ、ルミャンツェフ氏には何も言いません。ジャンリス夫人の『白鳥の騎士たち』[565]の主人公であっても、十分な才知があると思えません。それに、十分に説き聞かせたあと、同氏は、私の言ったことを、すべて皇帝へ繰り返さねばなりません。正しく繰り返せるでしょうか。正しく繰り返す気になるでしょうか。分かりません。この大問題を、アレクサンドル皇帝ご自身と、徹底的に話すほうが、はるかに自然で、容易とさえ言えます。陛下が、この意見を採られるなら、最初の打診は私が引き受けます」。「よい」と皇帝は言った。「ただし、私の使いとして話すのではないと、よく覚えておけ。フランス人として話しかけるのだ。私が死ねば運命が不確かになる、フランスの安定を保証する決意を、私から引き出してもらうために。フランス人としてなら、望むことを何でも言えばよい。ジョゼフ、リュシアン、一族全員が、よい材料を与える。好きに言え。フランスにとっては何者でもない。息子でさえも、これは言う必要はないが、無事に跡を継ぐには、しばしば、私の息子であることの力が必要だろう」。
遅い時刻だったが、トゥルン侯妃のもとへ行ってみた。戸は、まだ閉じていなかった。アレクサンドル皇帝は、いつもより長くとどまり、驚くほど素直に、朝の感傷的な場面を、すっかり侯妃へ語っていた。「あの人の性格を、正しく理解する者はいない」と言った。「他国を不安にさせることをするのは、立場によって強いられているからだ。どれほど善良か、人々は知らない。よく知るあなたも、そう思うだろう」。「陛下、そう信じる個人的な理由は、多くございます。いつも喜んで申し上げています。明朝、謁見を賜れるか、あえて伺ってもよろしいでしょうか」。「明日、よろこんで。ヴァンサン氏に会う前か、あとに。フランツ皇帝に、手紙を書かねばならない」。「陛下、お許しいただければ、そのあとに。このよいお仕事を遅らせるのは、たいへん残念です。フランツ皇帝は、安心させてもらう必要があり、陛下の手紙は、きっと、その効果を持つでしょう」。「少なくとも、そのつもりだ」。皇帝は、もう二時近いと気づき、驚いた。
翌日、指定された謁見へ向かう前、ヴァンサン氏が訪ねてきた。私は、皆に、ことにアレクサンドル皇帝に、どれほど満足する理由があるかを伝えられた。顔は、これ以上ないほど晴れやかだった。別れ際、愛情と感謝のこもる握手をしてくれた。謁見後、直ちにウィーンへ出発した。その謁見の間、私は、託された任務を、皆にも自分にも満足な形で果たす手段を、心の中で検討していた。フランスとロシアの間に、もう一つの結びつきが生まれることは、ヨーロッパのために恐ろしかったと認める。私の考えでは、ナポレオンを満足させるだけ、この婚姻の考えが受け入れられ、それでも実現を難しくする留保がある、という状態にする必要があった。必要だと思っていた、あらゆる技巧は、アレクサンドル皇帝には不要だった。最初の言葉で理解し、しかも、まさに望んだとおりに理解した。「私だけのことなら」と言った。「喜んで同意する。しかし、必要な同意は、それだけではない。母は娘たちに対する権限を保っており、私は争うべきではない。方向づけることは試みられる。おそらく従うだろうが、保証する勇気はない。すべて、非常に真の友情から出ているのだから、ナポレオン皇帝も満足するはずだ。すぐに訪ねると伝えてくれ」。「陛下、この会話は、愛情深く、厳粛であるべきことを、お忘れなきよう。ヨーロッパとフランスの利益を、お話しになるのです。ヨーロッパには、フランスの王座が、あらゆる嵐から守られることが必要で、その大きな目的に至る手段を、陛下が提案に来られるのです」。「それを話の主題にしよう。非常に豊かだ。今晩、トゥルン侯妃のもとで会おう」。
私はナポレオン皇帝に知らせに行った。求める側ではなく、答える側になるという考えに、皇帝は喜んだ。二、三の言葉を加える時間も、ほとんどないうちに、アレクサンドル皇帝は、中庭で馬を降りていた。両皇帝は、数時間、一緒にいた。このときから宮廷全体は、二人が交わす、親密で友好的な表現に驚いた。最後の数日は、儀礼さえ厳格さを減らした。どこにも、意見が一致している様子が表れた。実際、二人とも、完全に満足していた。離婚という大問題は動き出し、ジョゼフィーヌ皇后と結びつき、その高い地位に、自らの立場の保証を見いだす人々へ、ナポレオン皇帝が答えられる形で、進んでいた。
ナポレオンは、すでに真の帝国を創始する自分を見ていた。ロシア皇帝も、自らに個人的に結びつけたと考え、自分だけの影響力で、全世界が敬意を表し、その天才の前に、あらゆる困難が平らになる人物の支援を、ロシアの体制に与える、という考えを喜んで抱いた。だから劇場では、エアフルト全体の前で、『オイディプス』の次の句に立ち上がり、ナポレオンの手を取ったのである。
偉大な人の友情は、神々の贈り物だ[566]!
そのとき二人は、互いを、共通の将来に欠かせない存在と見なしていた。会見に予定された日数が過ぎると、互いの宮殿で、恩恵を惜しみなく与え、深い名残惜しさと、全面的な信頼を示し合って別れた。
ナポレオンがエアフルトで過ごした最後の朝は、人々に会うことに使われた。その最終日に、宮殿が示した光景は、決して記憶から消えない。皇帝は、自らが軍を破り、領土を縮め、地位を低くした君主たちに囲まれていた。頼みごとをする勇気のある者は、一人もいなかった。ただ見てもらい、しかも、記憶に残るため、最後に見てもらいたいと願っていた。これほど露骨な卑屈さは、報われなかった。皇帝が特別に扱ったのは、ワイマールの学士会員だけだった。彼らだけに話し、この最後の瞬間、新しい種類の印象を残そうとした。ドイツに観念学派の人間が多いか、と尋ねた。「はい、陛下、かなりの数です」と一人が答えた。「気の毒に。パリにもいる。夢想家だ。危険な夢想家だ。皆、姿を隠した唯物論者で、それほど、うまく隠してもいない。諸君」と声を高めた。「哲学者は、体系を作ろうと苦しむ。しかし、人を自分自身と和解させ、同時に公共の秩序と国家の安らぎを保証する、キリスト教よりよい体系は、探しても無駄だ。君たちの観念学派は、あらゆる幻想を壊す。しかし、幻想の時代は、国民にとっても、個人にとっても、幸福の時代だ。別れにあたり、私も、貴重な幻想を一つ持ち帰る。諸君が、私について、何かよい記憶を保ってくれるということだ」。ほどなく皇帝は馬車に乗り、自分では、スペイン征服を完成させるつもりで出発した。
ここに、エアフルトで署名されたとおりの条約を添える。皇帝が私に起草を求めた案とは、条項の順序に、いくらか違いが見つかるだろう。ワラキアとモルダヴィアに関する条項は、変わったように見える。しかしナポレオン皇帝は、両地方のロシア帝国への併合を正式に認めながら、その同意について、あまりにも「深い秘密」を求めている。これは条文の言葉である。そのため、皇帝の考えでは、二つの条項は、ほとんど同じ意味だった。この最終文案では、とりわけ、皇帝が第二の文案に加えた二つの条項が、もはやないことに注目されよう。一つは、ロシアがオーストリアへ宣戦するのを決めるべき理由を、自ら判断するものとする条項だった。もう一つは、ペテルブルク政府のオスマン政府に対する立場を口実に、ロシアの一個軍団を、オーストリア国境近くへ進めることに関するものだった。
エアフルト協定
一八〇八年十月十二日付、十三日批准。
「フランス人の皇帝、イタリア国王、ライン同盟の保護者たる陛下、以下略、
およびロシア皇帝陛下、以下略は、両者を結ぶ同盟を、ますます緊密にし、永遠に続くものとすることを望む。また、共通の敵であり、大陸の敵であるイギリスに対し、取るべき新たな決定と、向けるべき新たな攻撃手段については、必要な場合、後日、了解し合うことを留保する。そして、平和の回復に至るため、すべての行動において、不変に従う決意である原則を、特別協定に定めることを決議した。
このため、次の者を任命した。フランス人の皇帝陛下、以下略は、帝国伯爵その他の称号を有する、外務大臣ジャン=バティスト・ノンペール・ド・シャンパニー閣下を、
全ロシアの皇帝陛下、以下略は、実等枢密顧問、評議会員、外務大臣その他の地位を有する、ニコライ・ルミャンツェフ伯爵閣下を任命した。
実等枢密顧問はロシアの官等称号 conseiller privé actuel を区別して訳したもの。単に現職であることを示すのではなく、通常の枢密顧問と区別される官等を指す。参照:https://www.napoleon.org/histoire-des-2-empires/articles/convention-franco-russe-derfurt-12-octobre-1808
両名は、以下のとおり合意した。
第一条 フランス人の皇帝陛下、以下略、および全ロシアの皇帝陛下、以下略は、ティルジットで結んだ同盟を確認し、必要なかぎり更新する。共通の敵と単独講和をしないだけでなく、共同の合意なしには、交渉にも入らず、いかなる提案も聞き入れないことを約する。
第二条 こうして、平和においても戦争においても、不可分に結びついていると決意する締約両陛下は、イギリスとの講和交渉のため、全権委員を任命し、その目的で、イギリスが指定する大陸の都市へ派遣することに合意する。
第三条 交渉が行われる場合、その全期間を通じ、締約両陛下それぞれの全権委員は、常に、最も完全に一致して行動する。イギリス全権委員の提案や要求が、それ自体としてイギリスの利益にかなうとともに、締約一方にも何らかの利益を示しうる場合であっても、いずれの全権委員も、他方の締約者の利益に反して、それを支持することはもちろん、受け入れ、または承認することさえ許されない。
第四条 イギリスとの条約の基礎は、現状の占有を基礎とする原則(uti possidetis)とする。
第五条 締約両陛下は、イギリスがフィンランド、ワラキア、モルダヴィアを、ロシア帝国の一部として認めることを、イギリスとの講和の絶対条件と見なすことを約する。
第六条 同じく、フランスがスペインに樹立した新たな体制を、イギリスが承認することを、講和の絶対条件と見なすことを約する。
第七条 締約両陛下は、交渉中、敵から、いかなる提案、申し出、連絡を受けた場合も、直ちに双方の宮廷へ知らせることを約する。これらの提案が、講和のために開かれた会議でなされた場合、双方の全権委員は、互いに伝え合わねばならない。
第八条 全ロシアの皇帝陛下は、オスマン帝国を揺さぶる革命と変動により、ワラキアとモルダヴィアの住民の身体と財産に、十分な保証を与える可能性がなく、したがって、それを得る希望もないことから、この方面で帝国の境界を、すでにドナウ川まで進め、ワラキアとモルダヴィアを帝国に併合した。この条件でなければ、オスマン帝国の領土保全を認めることができない。よって、ナポレオン皇帝陛下は、この併合と、この方面でドナウ川まで進んだロシア帝国の境界を認める。
第九条 全ロシアの皇帝陛下は、前条を最も深い秘密に保ち、可能なら友好的に両地方の割譲を得るため、コンスタンティノープル、または他の場所で交渉を始めることを約する。フランスは、その仲介を放棄する。両国の全権委員または代表は、用いる言葉について了解し合う。フランスとオスマン政府の友好、およびレヴァントの通商港に居住するフランス人の安全を損なわず、オスマン政府がイギリスの腕へ飛び込むことを防ぐためである。
第十条 オスマン政府が両地方の割譲を拒み、戦争が再燃する場合、ナポレオン皇帝は参加せず、オスマン政府に対する外交上の斡旋にとどめる。しかし、オーストリア、または他のいずれかの国が、この戦争でオスマン帝国に加担する場合、ナポレオン皇帝陛下は、直ちにロシアと行動を共にする。この場合は、両帝国を結ぶ全般的な同盟の適用事例のひとつと見なすべきだからである。
オーストリアがフランスに対して戦争を始める場合、ロシア皇帝は、オーストリアへの敵対を宣言し、フランスと行動を共にすることを約する。この場合も、両帝国を結ぶ同盟が適用される事例のひとつだからである。
第十一条 締約両陛下は、さらに、オスマン帝国の他の領土の保全を維持することを約する。事前に合意することなしには、自ら、この帝国のいかなる部分に対しても行動を起こさず、他者による行動も許さないものとする。
第十二条 平和を回復するための締約両陛下の働きかけが、イギリスが提案をかわすか、交渉が決裂するかして、実を結ばない場合、両陛下は一年以内に再会する。共同の戦争の作戦と、両帝国の全資源をもって遂行する手段について、了解し合うためである。
第十三条 締約両陛下は、デンマーク王が、共通の大義を支えた忠実さと忍耐を認め、その犠牲に対する補償を得させ、今回の戦争で得るに至った領土を承認することを約する。
第十四条 本協定は、少なくとも十年間、秘密に保たれる。
一八〇八年十月十二日、エアフルト」。
第五部および第一巻 終わり
第一巻目次
第一部
第二部
第三部
第四部
第五部
パリ、シェ印刷所、ベルジェール通り二十番地。14430-6-90。
注
[1] とりわけ『回想録』第三巻には、ルイ十八世の手紙が収められている。非常に興味深いので、ここで先に紹介するべきだと考える。一八一五年、連合軍による二度目のパリ占領の際、イエナの名が不愉快な記憶を呼び起こすため、プロイセン軍がイエナ橋を破壊しようとしている、という知らせを受け、タレーラン氏に宛てたものである。正確な文面は、次のとおり。
たった今、プロイセン軍がイエナ橋に爆薬を仕掛け、おそらく今夜のうちに爆破しようとしていると知った。オトラント公はメゾン将軍に、できるかぎりの手段で阻止するよう伝えている。しかし、将軍に、その手段が何もないことは、あなたも、よく知っている。あなた自身でも、公爵(ウェリントン)でも、カスルレー卿でも、以下略、できることを、すべてしてほしい。私については、必要なら橋へ行く。望むなら、私ごと爆破すればよい。
賠償金については、二人の卿に、たいへん満足した。
土曜日、十時。
ルイ。
ここに複製を掲げる自筆の文書は、タレーラン氏の書類の中にある。当時の著作ですでに伝えられた、ルイ十八世の、この寛大な行為が、しばしば否定されてきただけに、同氏は、いっそう大切に保存していた。
GutenbergHTMLの voir は複製画像への案内リンクであり、文の本文ではないため、訳文には重複して組み込まない。
[2] 『回想録』の著者シャルル=モーリス・ド・タレーランは、中将で、王太子の近侍であったシャルル=ダニエル・ド・タレーラン=ペリゴール(一七三四―一七八八)の息子であり、国王軍の准将ダニエル=マリー・ド・タレーラン、グリニョル伯の孫である。母は、アンティニー侯ジョゼフ・ド・ダマの娘アレクサンドリーヌ・ド・ダマ。祖母は、カニー侯ミシェル・シャミヤールの娘マリー=エリザベート・シャミヤールだった。
[3] フランス王妃マリー・レシチンスカ。ポーランド王スタニスワフとカタジナ・オパリンスカの娘。一七〇三年生まれ、一七二五年にルイ十五世と結婚した。二男八女をもうけ、一七六八年に死去した。
[4] パンティエーヴル公ルイ・ド・ブルボン。一七二五年生まれ。トゥールーズ伯の息子で、ルイ十四世とモンテスパン夫人の孫。デステ嬢と結婚した。息子のひとりがランバル公、娘のひとりがオルレアン公と結婚した。パンティエーヴル公は、一七三四年に大提督、一七四四年に中将となった。一七八七年、名士会の一部会を主宰した。一七九三年に死去するまで、自領で暮らした。
[5] アンジェリック・ド・ブルノンヴィル。エナン伯たるブルノンヴィル公の娘で、一七〇六年、フランス元帥ジャン=バティスト・ド・デュルフォール、デュラス公と結婚した。ルイ十五世の王女たちの女官長となり、一七六四年に死去した。
[6] マリー・ブリュラール・ド・ラ・ボルド。ディジョン高等法院の院長の娘で、一七三二年、二度目の結婚で、フィリップ・ダルベール、リュイーヌ公と結ばれた。王妃の女官長となり、一七六三年に死去した。
[7] マリー=ルイーズ・ド・ロアン=スービーズ。同名の元帥の親族。一七二〇年に生まれ、一七三六年、ガストン・ド・ロレーヌ、マルサン伯と結婚した。フランス王家の子供たちの養育係となった。
[8] マルグリット・ド・タレーラン。シャレー公ルイ・ド・タレーランの娘で、著者の大おば。一七二七年に生まれ、一七四三年、ガブリエル・ド・タレーラン、ペリゴール伯と結婚した。
[9] アンヌ・ドクシー・ド・モンソー。一七二一年に生まれ、一七三六年、枢機卿の子孫アンドレ・ド・ロセ、フルーリー公と結婚した。一七三九年、王妃の女官に任命された。
[10] ルイ=フランソワ・デュ・ブーシェ、スールシュ伯、トゥールゼル侯。一七四四年生まれ。マルタ騎士、フランス大警務長官。一七六四年、ルイーズ・ド・クロイ・ダヴレと結婚した。
フランス大警務長官は grand prévôt de France。王室家政に関する警察・司法の職で、現代の全国警察長官を意味しない。
[11] ガブリエル・ド・ノアイユ。元帥ノアイユ公の娘。一七〇六年に生まれ、一七二一年、ヴィラール元帥の息子、アルマン、ヴィラール公と結婚した。王妃の女官、次いで衣装担当女官長に任命され、一七七一年に死去した。
[12] シャルル、ソー=タヴァンヌ伯。一七一三年生まれ。中将で、王妃の名誉騎士を務めた(一七五八年)。
名誉騎士は chevalier d’honneur の宮廷職名。王妃の主要な男性近侍・随行役で、単に名誉上の騎士称号ではない。
[13] マリー・ド・ラ・ロシュフコー、通称ラ・ロシュ=ギヨン嬢。一七一八年に生まれ、一七三七年、王室衣装総監ルイ・ド・ラ・ロシュフコー・ド・ロワ、エスティサック公と結婚した。
[14] マリー=フランソワーズ・ド・ロシュシュアール。モルトマール公ルイ・ド・ロシュシュアールの娘。最初にカニー侯ミシェル・シャミヤールと結婚し、もうけた娘が、著者の祖母となった。次に、スペイン大公位を持つシャレー公ルイ=シャルル・ド・タレーランと結婚した。同公は一七五七年に死去した。
スペイン大公位は grand d’Espagne、スペインのグランデという高位貴族の身分を指す。主権国家の大公(grand-duc)とは異なる。
[15] シャレー。バルブジュー近く、シャラント県の郡区首府。
[16] 旧貴族と新貴族を維持すると定める憲章の条文は、制憲議会でマチュー・ド・モンモランシー氏が行った、貴族を廃止する提案と同じく、意味がない。わが国の政体では、政治的な貴族身分は、すべて貴族院の中にあり、そこでは個人に属する。その外にあるのは、いかなる権利も伴わず、取り去ることも、加えることもできない、過去の記憶だけである。(タレーラン公の注。)
[17] ダンツィヒ公ルフェーヴル元帥は、一兵卒だったころ、所属連隊の洗濯女と結婚した。
[18] この学院は、パリの教会の参事会員ラウル・ダルクールが、一二八〇年、ノルマンディーの貧しい学生二十四人のために創設した。革命当時、パリで最も古い学校だった。そのとき牢獄に転用され、のちに高等師範学校が使用した。元の用途に戻ったのは、一八二〇年、リセ・サン=ルイの名になってからである。
[19] オーギュスト・ド・ショワズール=ボープレ伯。一七五二年生まれ。マリー・ド・グフィエと結婚し、その名を自分の名に加えた。初めは胸甲騎兵大尉だったが、旅行への好みに従い、東方各地を訪れた。コンスタンティノープル大使(一七八四年)。一七八九年、ロシアへ退き、一八〇二年にフランスへ戻った。王政復古期に、フランス貴族院議員、国務大臣、枢密会議員に任じられ、一八一七年に死去した。
[20] 一七〇九年生まれの、宮廷宿営長官で中将(一七四八年)だったルイ=ミシェル・シャミヤール、ラ・スューズ伯の息子。宮廷宿営長官の姉妹マリー=エリザベート・シャミヤールは、一七三二年、ダニエル=マリー・ド・タレーランと結婚し、『回想録』の著者の祖母となった。
[21] ラ・スューズ伯。
[22] アレクサンドル・ド・タレーラン。一七三六年生まれ。ランス大司教の補佐大司教(一七六六年)、トラヤノポリスの名義大司教、ランス大司教公(一七七七年)、三部会の聖職者代表(一七八九年)。一八〇一年、辞任を拒み、一八〇三年、ルイ十八世にミタウへ呼ばれ、一八〇八年、王室礼拝長となった。フランス貴族院議員(一八一四年)、枢機卿(一八一七年)、パリ大司教。一八二一年に死去した。著者の父方のおじである。
王室礼拝長は grand aumônier。王室の宗教・礼拝に関わる高位の宮廷職を表す訳語。
[23] シャルル=アントワーヌ、ラ・ロシュ=エモン伯。一六九七年生まれ。リモージュの司教総代理、サレプタの名義司教(一七二五年)。タルブ司教、トゥールーズ大司教(一七四〇年)、ナルボンヌ大司教(一七五二年)。フランス王室礼拝長(一七六〇年)。ランス大司教公(一七六二年)。枢機卿(一七七一年)。一七七七年に死去した。
[24] クチュリエ師。一六八八年生まれ。フルーリー枢機卿の友人で、ショーム修道院を与えられ、サン=シュルピス神学校の長に任命された。一七七〇年に死去した。
[25] 聖職禄一覧は、国王に任命権のある聖職禄が空くたび、そのすべてを記入する台帳だった。高位聖職者が管理し、国王は、事実上、任命権のすべてを委ねていた。国王が直接授与する、あらゆる司教座や修道院長職に、任命し、または任命させるのは、その人物だった。
[26] タレーラン氏が、ここで、司祭に叙階された正確な時期にも、儀式に伴う事情にも、何も触れていないことは、注目に値する。友人のショワズール=グフィエ伯は、この件について、叙階の前夜、訪ねると、タレーラン氏が、激しい内心の葛藤と、涙と絶望の中にいた、と語っていた。ショワズール氏は、その犠牲を果たさないよう、全力で説得した。しかし、母への恐れ、今さら騒ぎを起こすことへの恐れ、ある種の見当違いの羞恥心が、勇気を奪い、タレーラン氏は叫んだ。「もう遅い。もはや引き返せない」。(バクール氏の注。)
[27] 一七七五年六月十一日。
[28] エリザベート・ド・モンモランシー=ラヴァル。元帥モンモランシー=ラヴァル公の娘。一七六八年、ルイ・ダルベール、リュイーヌ公と結婚した。同公は、陸軍少将、三部会議員、帝政期の元老院議員となった。
[29] おそらく、ビシー伯アンリ・ド・ティアールの娘マリー・ド・ティアール。一七六八年、陸軍少将フィッツ=ジェームズ公と結婚した。
[30] カトリーヌ・タヴェルニエ・ド・ブーローニュ。一七六五年、ラヴァル子爵として知られる、マチュー・ド・モンモランシー=ラヴァルと結婚した。
姓の綴りはGutenbergHTMLでは Boullogne だが、TXTおよび印刷本スキャン(物理65頁/印刷24頁)は Boullongne。確認済みの印刷本の綴りに基づいて扱う。日本語音写はブーローニュ。
[31] 聖職者会議の起源は、十六世紀にさかのぼる。一五六七年以来、五年ごとに開かれた。目的は、国王に供する補助金(自発的献金)の決定と割り当てだった。宗教問題も扱った。大会議と小会議を区別し、交互に開いた。大会議は六か月続き、教会管区ごとに、第一階層から二人、第二階層から二人の代表を出した。小会議は三か月続き、各管区から、両階層それぞれ一人だけを出した。
[32] ジャン=バティスト・ド・マショー、ダルヌーヴィル伯。一七〇一年、古い法服貴族の家に生まれた。高等法院評定官(一七二一年)、財務総監(一七四五―一七五四年)、国璽尚書(一七五〇年)、海軍担当国務大臣(一七五四年)。一七五七年、すべての職を解かれ、革命まで隠棲した。一七九四年に逮捕され、数週間後、獄中で死去した。
[33] 当時、モントーゼという名の人物はいなかった。おそらく、ここでいうのは、モンタゼ氏である。一七一三年生まれ、一七四二年に国王の礼拝司祭、オータン司教(一七四八年)、リヨン大司教(一七五九年)となり、一七八八年に死去した。
[34] フランソワ=ヴィクトール・ル・トヌリエ・ド・ブルトゥイユ。一七二四年生まれ、一七六二年にモントーバン司教となった。
[35] 当時、ニコライ家には二人の高位聖職者がいた。ルイ=マリーは、一七二九年生まれ、一七七七年にカオール司教となった。エマール=クロードは、一七三八年生まれ、一七七一年にベジエ司教となり、一七九二年に亡命し、一八一四年、フィレンツェで死去した。
[36] ドン・マルタン・ブーケ。アミアン生まれの学識あるベネディクト会士(一六八五―一七五四)。サン=ジェルマン=デ=プレ修道院の図書館員。『ガリアの歴史家集成』を刊行した。別のブーケは、前者の甥で、優れた法律家だった。一七八一年に死去し、教会法の著作を刊行した。おそらく叔父と取り違えられ、前に述べられているのは、この甥の論著である。
[37] 王国の同輩貴族は、聖職者でも世俗人でも、国王へ忠誠を誓い、臣従礼を行い、国王に対して、すべての封建的義務を負った。
[38] アーサー・ディロン。一七二一年生まれ、エヴルー司教(一七五三年)、トゥールーズ大司教(一七五八年)、ナルボンヌ大司教(一七六二年)。ラングドックの地方三部会議長、一七八〇年の聖職者会議議長。
[39] ジャン=ド=デュー・レーモン・ド・ボワジュラン。レンヌ生まれ(一七三二年)。ラヴォール司教(一七六五年)、エクス大司教(一七七〇年)。プロヴァンスの地方三部会議長、三部会の聖職者代表。制憲議会議長(一七九〇年)。亡命後、一八〇二年にフランスへ戻り、トゥール大司教、枢機卿に任じられ、一八〇四年に死去した。
[40] フェルディナン・メリアデック、ロアン=ゲメネ公。一七三八年生まれ。ボルドー大司教(一七六九年)、カンブレー大司教(一七八一年)。一七九二年に亡命し、一八〇二年にフランスへ戻り、ジョゼフィーヌ皇后の礼拝司祭となった。
[41] ジャン=アントワーヌ・タンソー(Tinseau)。ブザンソン生まれ(一六九七年)。ヌヴェール司教(一七五一年)。
[42] ニコラ・ド・サン=ジュニ。一七四一年生まれ、一八〇八年死去。軍事行政官(一七六二年)、会計院監査官(一七六九年)。重要な教会法の著作を残した。
[43] 修道会の改革は、一七六五年、聖職者会議自身が求めていた。これを受け、国王評議会は、一七六六年五月二十六日の決定で、高位聖職者五人と国務参事官五人から成る「修道生活の改革のため」の委員会を任命した。同委員会は、一七六八年三月二十四日の王令の起草を準備し、王令は、次のことを定めた。第一に、誓願の年齢を、男子二十歳、女子十八歳へ引き上げる。第二に、修道者は、すべてフランス人でなければならない。第三に、一つの町に、同じ修道会の修道院を、二つより多く置いてはならない。第四に、各修道院には、少なくとも十五人の修道者がいなければならない。
[44] エティエンヌ・ド・ロメニー、ブリエンヌ伯。一七二七年生まれ。コンドン司教(一七六〇年)、トゥールーズ大司教(一七六三年)、財務評議会首席(一七八七年)、次いで首席大臣、サンス大司教(一七八八年)、同年十二月に枢機卿。聖職者民事基本法への宣誓を行い、枢機卿の地位を辞した。一七九三年に逮捕され、急死した。
[45] 聖十字の律修参事会は、リエージュに本部があり、フランスには十二の会院と、四十七人の修道者しかいなかった。一七六九年十月十四日、解散が宣告された。グランモン会は、一一二四年、聖エティエンヌがミュラ(リムーザン)に創設したが、十八世紀には、七つの会院に分かれた百八人しか残っていなかった。一七七〇年三月三日の勅令で解散が定められ、一七七二年八月六日の教皇勅書で確認された。十世紀にさかのぼるカマルドリ会には、男子修道院八つ、女子修道院十二があった。男子の最も重要なものは、モン・ヴァレリアンにあった。フランスで最も豊かな修道会だった。サーヴィット会は、十三世紀、フィレンツェで七人の商人が創設した。主要な拠点は、同市のアンヌンツィアータ修道院だった。フランスにも広がり、服装から「白いマントの人々」と呼ばれた。六世紀にさかのぼるサン=リュフ会は、修道院五十七、修道者二百しか残っていなかった。自身の願いにより、教皇クレメンス十四世が世俗化し、聖ラザロ騎士修道会へ組み入れた(一七七一年七月)。
[46] 地方集会は、ルイ十六世のもと、王国のエレクシオン制に属する二十六の徴税管区に設けられた、合議制の行政組織だった。最初に考えたのはテュルゴーで、ネッケルが実行した。三身分の代表から成り、第三身分は倍の人数だった。二年ごとに一か月の会期を持ち、税の割り当てと徴収を担い、そのほか、今日の県議会の権限を、ほぼすべて持っていた。国王が委員の半分を任命し、その委員たちが残りを選んだ。
[47] ジャック・ネッケルは、ドイツ系の家に属した。一七二四年、父が法律教授としてジュネーヴに移った。本人は一七三二年に生まれ、一七五〇年にパリへ来て、銀行を設立した。一七七六年、国庫長官、次いで、大臣の全権限を持つ財務総局長となった。プロテスタントで外国人だったため、大臣の称号は認められなかった。一七八〇年に退いた。一七八七年に追放され、一七八八年に政権へ戻った。一七八九年七月十一日、再び追放され、十日後に議会が呼び戻した。しかし人気は、ほどなく失われ、一七九〇年九月十八日に辞任した。コペへ退き、一八〇四年に死去した。
[48] ナルボンヌ大司教ディロン氏は、ソワソン近くに領地を持ち、年の六か月を、そこで大物の狩猟に費やした。この領地はオート=フォンテーヌと呼ばれた。(タレーラン公の注。)
[49] ドミニク・ド・ラ・ロシュフコー、サン=テルピ伯。一七一三年生まれ。アルビ大司教(一七四七年)、ルーアン大司教(一七五九年)、枢機卿(一七七八年)。三部会の聖職者代表。一七九二年に亡命し、一八〇〇年に死去した。
[50] ジャン=マリー・デュ・ロー。一七三八年、ペリグー近郊に生まれた。一七七五年、アルル大司教。三部会の聖職者代表。八月十日事件後に逮捕され、カルムに収容され、九月虐殺で殺された。
[51] アレクサンドル・ド・ロージエール・ド・テミーヌ(一七四二―一八二九)。国王の礼拝司祭、ブロワ司教(一七七六年)。一七九一年に亡命し、一八〇一年に辞任を拒み、政教協約を決して認めず、フランスへ戻らぬまま、一八二九年、ブリュッセルで死去した。
[52] 公訴官は、公益の名で請求を行う役目を負った。裁判所で働く検察に相当する。不正を犯した聖職者を告発し、教会の権利、自由、規律の維持を見守る任務があった。
[53] 聖職者団総代理人は二人いた。教会資金の収入と使用、および特権の維持に関わる聖職者の利益を、政府に対して代表する任務があった。聖職者会議によって、任期五年で選ばれた。
[54] ルイ・ド・ナルボンヌ=ララ伯。一七五五年、パルマ公国のコロルノで、非常に古いスペインの家系に生まれた。一七六〇年にフランスへ来て、砲兵に仕え、次いで外務部門で働いた。一七九一年に陸軍少将。同年十二月六日から一七九二年三月十日まで陸軍大臣。八月十日事件後に訴追が決議されたが、逃れて国外にとどまった。一八〇五年に階級を回復し、ラープ、次いでトリエステの総督となった。バイエルン公使、皇帝の副官、ウィーン大使(一八一三年)。ほどなくトルガウで死去した。モントロン嬢と結婚し、二女をもうけた。
[55] タレーラン氏は、若いころ、この名で知られていた。
[56] マドレーヌ=アンジェリック・ド・ヌーヴィル=ヴィルロワ。元帥ヴィルロワ公の孫娘。一七〇七年生まれ。最初に、一七四七年に死去するブーフレール公と結婚した。一七五〇年、元帥リュクサンブール公と再婚し、一七八七年に死去した。
[57] アルマン・ド・ゴントー、ビロン伯、のちローザン公。一七四七年生まれ。軍務に入り、コルシカ、次いでアメリカで戦った。三部会では、ケルシーの貴族代表となり、オルレアン公の党派に加わった。一七九二年、ライン軍の総司令官、次いでヴァンデ軍の総司令官となった。反逆の罪に問われ、逮捕され、一七九三年にギロチンにかけられた。
[58] パンショーは、パリに定住したジュネーヴ出身の銀行家だった。当時の財政について、『イギリスとフランスの信用の現状に関する考察』(パリ、一七八一年)という興味深い著作を刊行した。
[59] ジョゼフ・バルテス(一七三四―一八〇六)。非常に名高い医師、哲学者。
[60] ドリール師。オーヴェルニュのエグペルス生まれ(一七三八―一八一三)。十八世紀の、最もよく知られた詩人のひとり。アカデミー会員だった。
[61] オノレ=ガブリエル・リケティ・ド・ミラボー。制憲議会の大雄弁家(一七四九―一七九一)。名高い経済学者、農学者ミラボー侯の息子。
[62] セバスティアン・シャンフォール(一七四一―一七九四)。クレルモン=フェラン近郊生まれ。幾つかの悲劇と詩を作り、多少の好評を得た。革命の主要人物たちと親しく、シエイエス、ミラボーとともに活動した。一七九四年に訴追が決議され、逮捕しに来たとき、自ら命を絶った。
[63] レオン・ド・ローラゲ、ブランカ公(一七三三―一八二四)。生涯、文学の研究と科学上の仕事に専念した。一八一四年に貴族院議員となった。
[64] ピエール・デュポン・ド・ヌムール(一七三九―一八一七)。重農学派の、最も熱心な信奉者のひとり。カロンヌのもとで国務参事官、商務総監を務め、三部会の議員となった。恐怖政治のもとで投獄されたが、テルミドール九日の政変によって救われた。五百人会議議員。帝政下では隠退生活を送り、一八一五年に国外へ移住し、アメリカで死去した。
[65] クロード・リュリエール。一七三五年、パリ近郊のボンディに生まれ、リシュリュー元帥の副官となった。のちにブルトゥイユ氏が、秘書としてペテルブルクへ連れていった(一七六〇年)。一七六二年の政変を目撃し、その叙述に取りかかった。この著作『ロシアの諸革命』は、大いに成功を収めたため、著者は、王太子の教育に用いるポーランド史の執筆者に選ばれた。一七八七年にアカデミー会員となり、三年後に死去した。
[66] 一七八三年のヴェルサイユ条約第十八条を実施するため、ヴェルジェンヌ在任中に調印された、一七八六年九月二十六日の条約である。多くの批判を引き起こし、ヴェルジェンヌは、わが国の製造業を犠牲にしたと非難された。
[67] 七年戦争を終結させたパリ条約。
[68] ヘンリー・ポーレット・ド・サン=ジャン、ボリングブルック子爵。一六七二年、サリー州バタシーに生まれた。下院議員(一七〇〇年)、国務大臣(一七〇四年)、外務大臣(一七一三年)となり、ユトレヒトの講和に調印した。アン女王の死後(一七一四年)、追放され、フランスへ逃れた。一七二三年にイギリスへ戻り、十年間、ウォルポールの最も手ごわい敵となった。権力を取り戻せないまま、一七五〇年に死去した。二度目の結婚では、マントノン夫人の姪、ヴィレット侯爵夫人を妻とした。
[69] イギリスとポルトガルのメシュエン条約は、交渉に当たったイギリス大使メシュエン卿の名を取ったもので、一七〇三年に調印された。これは同盟および通商の条約で、イギリスは、ポルトガルへの輸入を独占する権利を確保していた。
[70] シャルル・グラヴィエ、ヴェルジェンヌ伯。ディジョン高等法院の審理部長の次男。一七一七年、ディジョンに生まれ、外交官となった。トリーア選帝侯駐在公使(一七五〇年)。このころ、国王の秘密外交に関わるようになり、その最も献身的な協力者のひとりとなった。コンスタンティノープル大使(一七五四年)。一七六八年にショワズールによって召還され、ショワズールが失脚するまで隠退生活を送った。その後(一七七一年)、大使としてスウェーデンへ派遣された。ルイ十六世は、彼を外務大臣に任じた(一七七四年)。ヴェルサイユ条約、イギリスおよびロシアとの通商条約に調印した。財務評議会首班(一七八三年)。一七八七年死去。
[71] シャルル=アレクサンドル・ド・カロンヌ。アルトワの良家の出身で、一七四三年一月二十日、父が高等法院の院長を務めていたドゥエーに生まれた。ドゥエー高等法院の検事総長、メスの地方総監(一七六八年)、リールの地方総監を務めた。リールで有能な行政官という評判を得たため、ルイ十六世から財務総監に任じられた。自ら招集を進言したにもかかわらず、名士会の後、罷免され、ロレーヌへ追放された(一七八七年)。そこからイギリスへ渡った。一七八九年、三部会議員に選ばれることを期待してフランスへ戻ったが、果たせず、イギリスへ帰った。亡命者の活動に積極的に関わり、一八〇二年に死去した。
[72] ジャン・フェリポー、モールパおよびポンシャルトラン伯。一七〇九年生まれ。父、祖父、曾祖父、高祖父も、彼と同じく国務大臣を務めた。したがって、一六一〇年から一七四九年まで、フェリポー家は、国王の諸評議会に席を占めていた。モールパは、早くも一七一五年に、父が辞した国務大臣の職を将来継承する権利を得た。ラ・ヴリイエール侯は、この親族に代わって職務を果たす任を負い、その親族は、まもなく侯の娘婿となった。一七二五年、モールパは自ら職務を担い、パリおよび海軍担当国務大臣となった。一七四九年に失脚して、ブールジュへ、次いでヴェルサイユ近郊の自領ポンシャルトランへ追放された。ルイ十六世は彼を政務に呼び戻し、国務大臣および財務評議会首班に任じた(一七七四年)。死去する一七八一年まで、実際には、首相のあらゆる権力を握っていた。
[73] ジャック・テュルゴー、ローヌ男爵。ブルターニュに起源を持ち、ノルマンディーに定住した旧家に属した。一七二七年生まれ。高等法院評定官を務め、次いで一七六二年、リモージュの地方総監となり、その善政によって名を上げた。海軍担当国務大臣(一七七四年)、一七七四年に財務総監となり、一七七六年に罷免され、五年後に死去した。
[74] クレティアン=ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブ。二世紀にわたり、司法官の最高の職を占めた、ニヴェルネの名家の出身。一七二一年生まれ。高等法院評定官(一七四四年)、租税法院院長(一七五〇年)。一七七一年に罷免され、追放された。ルイ十六世によって復職したが(一七七四年)、翌年、自ら職を辞した。王室担当国務大臣(一七七五―一七七六年)、国務大臣(一七八七―一七八八年)。一七九二年まで国外に暮らし、その年に帰国して、国王の弁護人を買って出た。一七九三年十二月に逮捕され、娘および娘婿(名高い作家の兄、シャトーブリアン氏)とともに、断頭台に上った。
[75] シャルル・ド・ラ・クロワ、カストリ侯。ラングドックの旧家の出身。一七二七年生まれ。陸軍中将、モンペリエおよびセートの総督(一七五八年)、フランドルおよびエノーの総督、海軍担当国務大臣(一七八〇年)、フランス元帥(一七八三年)となった。革命時に亡命し、コンデ軍の一個師団を指揮した。一八〇一年死去。
[76] エティエンヌ=フランソワ、ショワズール=スタンヴィル公(一七一九―一七八五)。大使を務め、次いで一七五八年から一七七〇年まで、国務大臣を務めた。
[77] ルイーズ・ド・ロアン。ルミルモンの女子参事会員。陸軍中将シャルル・ド・ロアン=モントーバン公の娘。フランス大厩長、シャルル・ド・ロレーヌ、ブリオンヌ伯と結婚した。
[78] シャルロット・ベロー・ド・ラ・エ・ド・リウ、モンテソン侯爵夫人。一七三七年生まれ。一七五四年、陸軍中将モンテソン侯と結婚した。一七六九年に夫と死別し、オルレアン公と秘密裏に再婚した(一七七三年)。公の死後(一七八五年)、隠退生活を送った。恐怖政治下で逮捕されたが、テルミドール九日の政変によって救われた。のちの皇后ジョゼフィーヌである、ボアルネ夫人と非常に親しかった。一八〇六年二月に死去した。モンテソン夫人は、多くのものを書き、数多くの喜劇と小説を残した。
[79] マリー・ド・ブーフレール=ルーヴレ伯爵夫人。旧姓ド・カンパール=ソージョン。オルレアン公爵夫人の女官長だった。一七六四年に夫と死別した。恐怖政治下で投獄されたが、義理の娘であるローザン公爵夫人よりも幸運に恵まれ、断頭台を免れ、一八〇〇年に死去した。
原文は belle-fille(息子の妻、または継娘)と記す。この親族関係は原注の記述であり、訳者が独立に確定したものではない。
[80] シュザンヌ・ド・ジャラント。アレクサンドル・デュ・ジャラント、オルジュヴァル侯の娘。一七六三年二月一日、単なる豚肉加工品商から徴税請負人となった、アレクサンドル・グリモ・ド・ラ・レニエールと結婚した。彼は巨額の財産を築き、今日、ボワシー=ダングラ通りとガブリエル大通りの角を占める、壮麗な邸宅を建てた。この邸宅は、ロシア大使館、次いでトルコ大使館に用いられた後、今日では、芸術連合クラブの所有となっている。ラ・レニエールが、第一級の美食家として名声を得ていたことは、よく知られている。彼と妻が邸宅で開いた宴会は、今も有名である。
原注の「今日」は、この注が書かれた時点を指す。人物の経歴・親族関係についても、ここでは原注の記述を訳している。
[81] ベアトリクス・ド・ショワズール=スタンヴィル。ショワズール公の妹。ルミルモンの女子参事会員。一七五九年、ナヴァール総督アントワーヌ・ド・グラモン公と結婚した。一七九四年、友人シャトレ公爵夫人とともに、断頭台に上った。
[82] ギヨームとアレクサンドルのフンボルト兄弟は、それぞれ名を輝かせた。兄は政治と文学の双方で、弟は科学である。ここで述べられているのは、弟のアレクサンドルである。一七六九年生まれ。アメリカとアジアを長く旅し、その旅行記を刊行した。ほかにも、『コスモス』をはじめ、多数の科学上の著作や論文がある。自然地理学と植物学は、彼のおかげで著しい進歩を遂げた。一八五九年に死去した。
[83] ルイーズ・デュシェ。モンペリエ租税法院の首席法務官の娘。一七四一年、元海軍行政官ベニーニュ・デュ・トルーセ・デリクールと結婚した。
[84] ジャン=フランソワ・マルモンテル。一七二三年、リムーザンのボールに生まれた。師であり友人でもあったヴォルテールの勧めに従い、舞台のために作品を書いたが、完全に失敗した。これに対し、道徳物語は大成功を収め、ヨーロッパのほとんどすべての君主から賛辞を受けた。フランスの史官に任じられ、アカデミー会員となった。一七九九年に死去した。
[85] フランソワ・アルノー師。一七二一年、ヴォークリューズのオービニョンに生まれた。十八世紀の哲学運動に熱心に身を投じ、その著作によって、かなりの名声を得た。アカデミー・フランセーズの会員だった。一七八四年に死去した。
[86] ベルトラン師。一七五五年、オータンに生まれた。天文学を学び、ディジョンの物理学教授に任じられた。同市のアカデミーに迎えられた。ダントルカストーと世界一周の旅に出たが、途上、喜望峰で死去した(一七九二年)。さまざまな科学論著を残した。
[87] ギュスターヴ・ド・クロイツ伯。一七三六年、スウェーデンに生まれた。一七五三年にスウェーデンのマドリード駐在公使、次いでパリ駐在公使となり、パリには二十年間とどまった。そのサロンは、哲学者や文人たちが集まる、最も人気のある場所のひとつとなった。一七八三年、グスタフ三世は彼をストックホルムへ呼び戻し、元老院議員および外務大臣に任じた。二年後に死去した。
[88] ジョゼフ・ド・リゴー、ヴォードルイユ伯。ラングドックの非常に古い家系の出身で、一七四〇年生まれ。長くヴェルサイユに暮らし、ポリニャック夫人のサロンと王妃の社交界に出入りした。アルトワ伯と親交を結び、一七八二年には、伯に従ってジブラルタル包囲戦に赴いた。ジュヌヴィリエの住まいでは、広く客をもてなし、しばしばタレーラン氏を迎えた。アルトワ伯とともに亡命し、一七九九年にロンドンに定住した。王政復古時にパリへ戻り、一八一四年にフランスの貴族院議員に任じられ、一八一七年に死去した。アルトワ伯との往復書簡が刊行されている(パリ、一八八九年、八折判二巻、L・パンゴー)。
[89] フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー、リアンクール公。一七四七年生まれ。竜騎兵の准将を務めた。王室衣装総監(一七八三年)。三部会ではクレルモンの貴族代表となり、陸軍中将(一七九二年)となった。八月十日事件後に亡命し、帝政下では隠退生活を送った。王政復古時に貴族院議員に任じられたが、自由主義的な考えのため、公職から遠ざけられた。一八二七年に死去した。その葬儀では、騒然とした事件が起きた。
[90] おそらく、収税総監、国庫委員であったJ・ド・ヴェーヌ氏(一七三三―一八〇三)の妻のことである。彼は、ボーヴォー元帥の社交界や、ジョフラン夫人の家で、しばしば姿を見かけられた。
[91] モンソーにあるオルレアン公の庭園を詠んだ、ドリール師の詩。
[92] 陸軍中将ジャック・ド・ギベール伯(一七四三―一七九〇)の悲劇。彼の名を後世に伝えるのは、悲劇ではなく、『戦術論』である。ナポレオンは、この著作について、「偉大な人物を育てるのに適している」と述べた。
[93] リュリエールの著作。
[94] シャトリュクス騎士(一七三四―一七八八)。陸軍中将。アメリカでの戦役で活躍した。さほど重要ともいえない幾つかの喜劇によって、アカデミーの席を得た(一七七五年)。
[95] ブリエンヌ氏。
[96] ジェローム・シャンピオン・ド・シセ。一七三五年、レンヌに生まれた。聖職者団総代理人(一七六五年)、ロデーズ司教(一七七〇年)、ボルドー大司教(一七八一年)、名士会の一員(一七八七年)、三部会の聖職者代表(一七八九年)、国璽尚書(一七八九年)。聖職者民事基本法への宣誓を拒み、亡命した(一七九一年)。一八〇二年にエクス大司教となり、一八一〇年に死去した。
[97] ディロン氏。
[98] シャルル・ドスモン・ド・メダヴィ。一七二三年生まれ。コマンジュ司教(一七六四―一七八五年)。
[99] マリー=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン。一七五五年生まれ。十八世紀の最も名高い画家のひとり。一七八九年にフランスを離れ、外国のほとんどの宮廷で、手厚く迎えられた。一八四二年に死去した。非常に興味深い『回想録』を残した。
[100] ボワジュラン師は、枢機卿にして大司教であったボワジュランの従兄弟だった。一七九二年、九月虐殺で命を落とした。
[101] ロマン嬢は、ルイ十五世との間に息子をもうけた。この息子は、ブルボンの名で洗礼を受けたが、国王のほかの庶子には、そのような例はなかった。しかし、彼女は、息子を嫡出として認めさせることはできなかった。息子はのちに、ブルボン師の名で知られ、ルイ十六世の治世下で死去した。ロマン嬢は、のちにカヴァナック氏と結婚した。(カンパン夫人の『回想録』第三巻を参照。)
[102] シャルル・マネー。一七四五年、ピュイ=ド=ドームのシャンポワに生まれた。一八〇二年にトリーア司教となった。
[103] ジャン=バティスト・ブルリエ伯。一七三一年、ディジョンに生まれた。聖職に入り、聖職者民事基本法に宣誓した。一八〇二年にエヴルー司教、立法院議員、一八一二年に元老院議員、王政復古下でフランスの貴族院議員となった。一八二一年に死去した。
[104] ジャン=バティスト・デュヴォワザン男爵。一七四四年、ラングルに生まれた。ソルボンヌ教授、パリ教会裁判所の公訴官、ランの司教総代理を務めた。一七九二年、宣誓拒否司祭として追放された。一八〇二年にナント司教に任じられ、皇帝と教皇庁との対立に関わった。一八一三年に死去した。
[105] マルシャル・ボルジュ・デ・ルノード。一七五五年、チュールに生まれた。オータンでタレーラン氏の司教総代理を務め、連盟祭のミサでは、副助祭としてタレーランを補佐した。タレーランの信任厚い人物で、タレーランは、自分の演説を作る仕事を彼に任せていたといわれる。公教育に関する報告は、すべて彼の手になるものである。統領政府のもとで、デ・ルノードは護民院議員に任じられた。一八〇二年に除かれたが、のちに検閲官に任じられ、王政復古下でも、その職を保った。一八二五年に死去した。
[106] ユーグ・マレ。一七六三年、ディジョンに生まれ、ブルゴーニュ高等法院の弁護士となった。一七九二年にナポリへ派遣されたが、オーストリア人に拘束され、一七九五年、アングレーム公爵夫人との交換によって釈放された。一八〇四年に国務大臣、一八一四年に外務大臣となり、バッサーノ公に叙せられた。陸軍大臣(一八一三年)。一八一五年に追放された。一八三一年にフランスの貴族院議員となり、一時、閣議議長を務めた(一八三四年十一月)。一八三九年に死去した。
[107] フランスでは長く、富くじが国家の収入源となっていた。国家は、保護する富くじから手数料を徴収し、自らも富くじを催した。一七七六年六月三十日の評議会決定により、フランス王立富くじが設けられた。これは共和暦二年に廃止され、共和暦六年に復活し、一八三二年の財政法を実施して、一八三六年になってようやく、最終的に廃止された。
[108] 下級聖職者は、暮らしを立てるだけの収入がないと、つねに訴えていた。一方、司教や名義上の修道院長は、莫大な収入を享受していた。政府は、その境遇を改善するため、折に触れて介入した。一七六八年の王令は、主任司祭に最低五百リーヴル、助任司祭に二百リーヴルを保障した。一七七八年、前者は七百リーヴル、後者は二百五十リーヴル、のちに三百五十リーヴルを受け取った(一七八五年)。これが「適正分」と呼ばれる生活費であった。これに対し、十分一税の大受益者のうちには、しばしばその収入の半分、時には四分の三まで、自分のために留保していた者もあった。その収入額を挙げておく必要がある。クレルヴォー修道院長は、このようにして年四十万リーヴル、ロアン枢機卿は百万リーヴル、クリュニーのベネディクト会士たちは百八十万リーヴル、千六百七十二人のサン=モールのベネディクト会士たちは八百万リーヴルを受け取っていた。しかも、これらは例外ではない。
[109] ルイ・ド・コンジエ。一七三二年生まれ。初めは軍務に就き、竜騎兵将校となった。その後、聖職の道に入り、サントメール司教(一七六六年)、アラス司教(一七六九年)に任じられた。革命の激しい敵対者で、三部会に出席することを拒み、イギリスへ渡った。一八〇四年、ロンドンで死去した。
[110] 訴訟評議会は、王国の最高行政機関である国務評議会、すなわち国王評議会の一部門だった。裁判権の争いを裁き、法律や王令を解釈し、国王が「評議会へ移すのが適当だと判断した」訴訟を審理した。議長を務める大法官、二十六人の常任参事官、十六人の半年交代の参事官で構成された。
[111] アンリ・ルフェーヴル・ドルメッソン。法服貴族の古い名家に属した。一七五一年生まれ。高等法院評定官、財務監を務めた。一七八三年に財務総監に任じられたが、その職務で完全に失敗し、カロンヌに交代した。一七九二年にパリ市長に選ばれたが、辞退した。のちにセーヌ県の行政官となり、一八〇七年に死去した。
[112] 一七七六年三月二十四日の王令は、「割引金庫」と名づけた銀行の設立を許可した。この銀行は、排他的な特権を持たず、商業に四パーセントの利率で資金を貸し付けた。一七八三年、国庫がきわめて危機的な状態にあったため、ドルメッソン氏は、この金庫から秘密裏に六百万を借り入れた。秘密は漏れた。銀行券の所持者たちは不安になり、払い戻しを求めた。ドルメッソンは金庫に対し、三百リーヴルを超える銀行券の正貨による支払いを、三か月間停止することを認め、銀行券を強制通用とした。恐慌はさらに激しくなり、支払期の来た利金の支払いまで、停止されかけた。カロンヌは強制通用を廃止した。銀行家たちが、払い戻しに必要な資金を金庫に融通したため、その信用は回復し、再び大いに歓迎されるようになった。
[113] ジョゼフ=フランソワ・フーロン。一七一五年、ソーミュールに生まれた。ベル=イル氏の在任中に軍事行政官を務めた。ブロイおよびスービーズ両元帥の軍の行政総監に任じられ、次いで財務監となった(一七七一年)。一七八九年には国務参事官で、パリに対して行動する予定の軍隊の行政を任された。七月十四日、身の危険を感じ、逃れようとした。しかし、パリから四リューの地点で捕らえられ、パリへ連れ戻され、市庁舎へ引き立てられて、そこで殺害された。
[114] アルトワ伯の外交担当者兼秘書。
[115] ジャン=ルイ・ファヴィエ。一七一一年生まれ。ラングドック地方三部会の総代を務めた。その後、外交の仕事に入り、ルイ十五世の主要な秘密外交担当者のひとりとなった。エギヨン公の命令でハンブルクにおいて逮捕され、バスティーユへ送られ、ルイ十六世の即位まで、そこにとどまった。一七八四年に死去した。ファヴィエは、多くの政治的著作を残した。最も重要な『一七五六年の条約に反対する考察』は、ダルジャンソン氏のために書かれたといわれる。
[116] 地方三部会を持つ地方と、エリュの管轄地方との違いは、よく知られている。前者は、地方三部会によって課税を受ける権利を保っていた(ブルターニュ、ブルゴーニュ、ラングドック、ドーフィネ、フランシュ=コンテ、ロレーヌなど)。後者は、地方三部会を持たず、エリュによって職権で課税された地方である。この役人たちは、一三五六年の三部会によって実際に選ばれて以来、「選ばれた者」を意味するこの名で呼ばれた。ずっと以前から国王が任命するようになっていたにもかかわらず、その呼び名を保っていた。
[117] ジラック夫人の名を聞くと、ある日のことを思い出す。病気の夫人の部屋で、その晩の終わりに、あらかじめ決めた脚韻に合わせて詩を作る遊びをしていた。提示された語は、jolie、folie、sourit、traces、esprit、grâces だった。私も作るようにと促されたので、詩など一度も作ったことがないと答えた。それでも鉛筆を渡された。思いついた第二行が、ほとんど私の生涯そのものを語っていたため、私は一枚のカードに、次のように書く気になった。
提示された脚韻語は順に、愛らしい、愚行、微笑む、足跡、精神、優美を意味する。訳詩では六行の意味と構成を保ち、フランス語の脚韻そのものは再現していない。
美しかろうと愛らしかろうと、私に何のかかわりがあろう、
理性に従って、愚かなことをしてしまった私に。
すべてが私に微笑むときも、私は嘆くことしかできない。
どこへ行こうと私の跡を追う、厳しい徳は、
精神の楽しみさえ、ほとんど私に許そうとはしない、
心を揺さぶられながら、優美な人の枕辺を見守っているのに。
(タレーラン公の注。)
[118] フランソワ・バロー・ド・ジラック。アングレーム生まれ(一七三二年)。同市の司教総代理、次いでサン=ブリユー司教(一七六六年)、レンヌ司教(一七六九年)となった。一七九一年に宣誓を拒み、亡命した。統領政府下でフランスへ戻り、サン=ドニの参事会員として、一八二〇年に死去した。
[119] マリー=シルヴィー・ド・ロアン=シャボ。一七二九年生まれ。最初にジャン=バティスト・ド・クレルモン・ダンボワーズ、ルネル侯と結婚し、二度目には(一七六四年)、スペイン大公位を持つフランス元帥、シャルル・ジュスト、ボーヴォー=クラオン公と結婚した。
ここでいうスペイン大公位は、スペインのグランデ(grande)の身分であり、主権者としての大公の位を意味しない。
[120] ガブリエル・ド・ポラストロン。一七四九年、ジュール・ド・ポリニャック伯と結婚した。伯は、一七八〇年に公爵に叙せられた。彼女は長くマリー=アントワネットの友人だった。そのサロンは、王妃の党派の中心だった。彼女は王子女の養育係となった。早くも七月十四日に亡命し、ほどなくウィーンで死去した。二人の息子を残し、そのひとりは、シャルル十世の大臣となった。
[121] ポーリーヌ・シャルパンティエ・デヌリ。一七三三年ごろに生まれ、一七四九年、陸軍少将ジルベール・ド・ショヴィニー、ブロ伯と結婚した。オルレアン公爵夫人の話し相手を務める侍女だった。
GutenbergのHTML版とテキスト版は結婚年を1719年とするが、照合した印刷本(本文59頁、スキャン100頁、同頁注4)には1749年とある。訳文は印刷本の1749年に従った。生年の1733年ごろは、いずれの資料でも同じ。
[122] ルイ=オーギュスト・ル・トヌリエ、ブルトゥイユ男爵。一七三八年、トゥーレーヌのプルイイに生まれ、ごく若くして外務部門に入った。ケルン駐在公使となり、国王の秘密外交に関わるようになった。ペテルブルク大使(一七六〇年)。フランスへ戻ると、国務大臣、次いで王室およびパリ担当国務大臣に任じられた(一七八三年)。一七八九年、一時政務に復帰した。一七九〇年、外国の君主たちと交渉するための国王の委任状を持って亡命した。一八〇二年にフランスへ戻り、一八〇七年に死去した。
[123] シャルル・ド・ロアン、スービーズ公。一七一五年生まれ、一七四八年に陸軍中将。フランス元帥および国務大臣(一七五八年)。一七八七年に死去した。三度結婚した。第一は、アンヌ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ、ブイヨン公女。彼女は一七三九年に死去し、コンデ公と結婚した娘を残した。第二は、テレーズ・ド・サヴォワ=カリニャン公女。第三は、クリスティーヌ・ド・エッス=ランフェルト公女。
[124] ガブリエル・セナック・ド・メヤン。一七三三年生まれ。初め請願審査官、次いでオーニス、プロヴァンス、最後にエノーの地方総監を務めた(マルセイユのメヤン並木道に、その名が残っている)。軍務行政総監(一七七五年)。一七九一年に亡命し、エカチェリーナの招きでロシアに滞在し、一八〇三年、ウィーンで死去した。セナック・ド・メヤンは、多くのものを書いた。二つの著作が、その名声を築いた。『精神と風俗に関する考察』(一七八七年)と、『革命前のフランスにおける統治、風俗および身分について』(一七九五年)である。
[125] マリー=テレーズ=ルイーズ・ド・サヴォワ=カリニャン、ランバル公妃。ヴィクトル・ド・サヴォワ=カリニャン公の娘。一七四九年生まれ。一七六七年、パンティエーヴル公の息子、ランバル公と結婚した。翌年に夫と死別し、生涯のある時期を王妃のそばで過ごした。王妃は彼女を王妃家政総監に任じた。八月十日事件後に逮捕され、九月二日に虐殺された。
[126] アンヌ=ルイーズ・ネッケル、スタール男爵夫人。一七六六年、パリ生まれ。ネッケルの娘。早くから、当時のあらゆる著名人や学者と交際した。二十歳で、スウェーデン大使スタール=ホルシュタイン男爵と結婚した。スタール夫人は、革命の全期間を通じてパリに暮らし、政務に積極的に関わった。第一統領によって追放された。コペに閉じ込められ、そこから出ることを禁じられたが、八か月の半ば囚われの生活の後、脱出することができた。ウィーン、モスクワ、ペテルブルク、ストックホルム、ロンドンへ赴いた。王政復古とともにフランスへ戻り、一八一七年七月十五日に死去した。
[127] ジャン=フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー子爵、シュルジェール伯。後者の名だけで知られた。陸軍中将シュルジェール侯の息子。『寄せ集め』の題で、道徳に関する幾つかの論著を刊行した(十二折判三巻)。一七三四―一七八八年。
[128] アデライード・ド・ダマ。一七七七年、連隊長であり、国王の弟ムッシューに仕える侍従であった、シャルル・ド・シミアーヌ伯と結婚した。
[129] ブーフレール騎士。一七三八年生まれ。二十四歳でマルタ騎士団員に迎えられた。一七八四年に陸軍少将となり、翌年、セネガル総督に任じられた。一七八九年の三部会議員となり、立憲派の一員だった。一七九二年に亡命し、ベルリンでプロイセンのハインリヒ王子のもとに暮らした。一八〇〇年にフランスへ戻り、一八一五年に死去した。ブーフレール騎士は、一七六八年にルボミルスカ公女と結婚していた。のちにベルリンで、サブラン侯の未亡人と再婚した。結婚前に彼女と交わした書簡が刊行されている。
[130] プロイセンのハインリヒ王子は、フリードリヒ大王の弟だった。七年戦争の間に、輝かしい戦果を挙げた。趣味も気質もきわめてフランス的で、しばしばパリへ来ては、あらゆるサロンに迎えられた。一八〇二年に死去した。
[131] モンコンセイユ嬢。一七六六年、シャルル・ダルザス・ド・エナン=リエタールと結婚した。彼は一七四四年生まれで、エナン公の名で知られた。彼女は王妃の宮廷女官だった。
[132] フィリップ・ド・ノアイユ=ムーシー、ポワ公。フランスの貴族院議員、スペイン大公位保持者。一七五二年生まれ。陸軍少将(一七八八年)。三部会の貴族代表となり、立憲主義の原則を受け入れ、ヴェルサイユ国民衛兵隊の司令官に選ばれた。一七九一年に亡命し、一八〇〇年にフランスへ戻り、王政復古まで隠退生活を送った。一八一四年に陸軍中将となり、一八一九年に死去した。
スペイン大公位はグランデの身分を指す。注119の訳者注参照。
[133] シャルル・ド・ゴントー、サン=ブランカール侯。一七五二年生まれ。当時、フランス近衛連隊の大尉だった。一七九二年に亡命し、コンデ軍の一個旅団を指揮した。フランスへ戻り、王政復古まで隠退生活を送った。
[134] シャルル・エノー。一六八五年生まれ。一七〇六年に高等法院評定官となった。審理部長(一七一〇年)、王妃家政総監を務めた。一七二三年にアカデミー会員となった。大成功を収めたフランス史概説、詩、および一八五五年に刊行された『回想録』を残した。
[135] ジャン=ジャック・ドルトゥー・ド・メラン。優れた学者であると同時に、文人でもあった。一六七八年、ベジエに生まれ、一六九八年に科学アカデミー、一七四三年にアカデミー・フランセーズの会員となった。一七七〇年に死去した。
[136] アメリカ合衆国の独立宣言は、一七七六年五月四日である。ヴェルサイユ政府は、新しい共和国を承認し、これと同盟条約に調印した(一七七八年二月)。イギリスとの断交は、それに続く六月十七日である。
GutenbergのHTML版・テキスト版、および照合した印刷本(本文67頁、スキャン108頁、同頁注1)は、いずれも五月四日と記すため、訳文でもその記述を保った。米国国立公文書館の独立宣言の転記は、冒頭を「In Congress, July 4, 1776」とし、七月四日を示している。https://www.archives.gov/founding-docs/declaration-transcript
[137] ジルベール・モティエ、ラ・ファイエット侯。一七五七年、ブリウード近郊のシャヴァニャックに生まれた。二十歳でアメリカの戦役に参加した。一七八七年の名士会の一員。三部会議員。七月十五日、セーヌの国民衛兵隊総司令官に選ばれた。一七九二年六月二十日事件後、法の保護を奪われたため、逃れなければならなかった。しかし、オーストリア人に逮捕され、オルミュッツで五年間、監禁された。帝政下では何の役割も果たさなかった。一八一四年に議員となり、皇帝の廃位に票を投じた。王政復古下でも議員となり、つねに野党にとどまった。一八三〇年に国民衛兵隊の指揮官に選ばれ、ルイ=フィリップの即位に貢献した。一八三四年に死去した。
[138] ジャン=バティスト・グーヴィオン。工兵将校としてアメリカの戦役に参加した。ラ・ファイエットに深く心を寄せ、一七八九年、国民衛兵隊の総参謀長に任じられた。一七九一年にパリ選出議員となったが、一七九二年に辞職し、同年六月十一日、モーブージュ近郊で戦死した。
[139] デュポルターユ。工兵将校としてアメリカの戦役に参加した。一七八三年に准将。一七九〇年に陸軍少将および陸軍大臣となった。議会で激しい攻撃を受け、八月十日事件後に訴追が決議された。二年間、身を隠し、その後アメリカへ渡った。一八〇二年、フランスへの帰途、海上で死去した。
[140] シャルル・テヴノ・ド・モランド。一七四八年、父が訴訟代理人を務めていた、コート=ドールのアルネ=ル=デュックに生まれた。パリへ来たが、放蕩と陰謀の生活のため、フォール=レヴェック監獄に十五か月、収容された。その後、イギリスへ渡った。パンフレット作者として、いくらか名を上げた。『鎧を着た新聞記者、あるいはフランス宮廷の醜聞逸話』(一七七二年)は、大きな反響を呼んだ。恐喝もまた、彼の収入源となった。とりわけデュ・バリー夫人を攻撃した。彼に金を払って口止めするために、ボーマルシェが、そのもとへ派遣された。のちに『ヨーロッパ通信』の名で刊行した定期刊行物も、さほど立派なものとはいえない。フランスへ戻ったモランドは、八月十日事件後、反革命の新聞記者として投獄された。脱獄することができ、一八〇三年まで生きた。
[141] ピエール=ヴィクトル・マルエ男爵。一七四〇年、リオンに生まれた。初めリスボン大使館の随員(一七五八年)、次いでロシュフォールの海軍行政官(一七六三年)となった。一七六七年に副行政官となり、サン=ドマングへ、次いで総行政官としてギアナへ派遣された。三部会のリオン代表となり、立憲派とともに投票した。一七九二年に亡命し、一八〇一年にフランスへ戻った。アントウェルペン海軍管区長官(一八〇一―一八〇七年)、国務参事官(一八一〇―一八一二年)。臨時政府のもとで海軍大臣となり、同年(一八一四年)に死去した。マルエは、海軍と植民地について多くのものを書いた。さらに、非常に興味深い『回想録』を残した(八折判二巻)。
[142] ギヨーム=トマ・レナル。一七一三年、アヴェロンのサン=ジュニエに生まれた。聖職に入り、一七四七年にパリへ来て、教師および説教師として成功を収めたが、その後、聖職の務めをやめた。レナルは、当代で最も大胆な哲学者のひとりとなった。彼の名を知らしめた『両インド哲学史』は、焚書の宣告を受けた。彼自身も国外へ出なければならなかった。一七八八年にフランスへ戻り、学術研究所の会員となった(一七九五年)。一七九六年に死去した。
[143] 黒人奴隷の売買が廃止されたのは、ごく遅くなってからであった。十八世紀を通じ、イギリスはユトレヒト条約によって、すべてのスペイン植民地、すなわち南アメリカのほとんど全域における奴隷売買を独占していた。北アメリカでは早くから禁止された(一七九四年)。これは連邦の最初の措置のひとつであり、のちには、奴隷商人に対する死刑さえ定められた(一八一八年)。デンマークは、この道で先行しており(一七九二年)、イギリスが後に続いた(一八〇六年)。ウィーン会議では、スペインとポルトガルを除くすべての列強が、宣言に調印した。その内容は、奴隷売買は普遍的な道徳の原則に反し、人類を苦しめ、ヨーロッパを辱めるものであるから、あらゆる国でこれが廃止される時を早めるため、各国間で交渉を始める、というものだった。エルバ島から帰還したナポレオンは、すべてのフランス植民地で奴隷売買を廃止し、ルイ十八世も、その命令を確認した。その後も長年、奴隷売買は、ヨーロッパ諸政府の間で、微妙な交渉の対象となることになった。
この注は原注の歴史叙述を訳したものであり、各国の法制や年次について訳者が独立に確定した記述ではない。ここでいう廃止の対象は奴隷の売買であり、奴隷制度そのものと同一ではない。
[144] アミアン条約は、マルタの独立を保障し、中立化し、あらゆる国の船舶に港を開いていた。特別な条項によって、バルバリア諸国の船舶は、この最後の権利から除外されていた。ただし、締約国が取りまとめる協定により、それらバルバリア諸国と、聖ヨハネ騎士団およびキリスト教諸国との間に存在する敵対関係が終わるまで、とされた。この条項には、その起草者が地中海について抱いていた、ある構想が表れている。前に彼が振り返っているのは、おそらく、この条項のことであろう。
[145] 一七九五年以来、サン=ドマング島は、トゥサン=ルーヴェルチュールの統治のもとで独立していた。第一統領は、これを再占領しようとした。義弟ルクレール将軍が、遠征を任された(一八〇二年二月)。初めは勝利を収め、島のほぼ全域を手に入れた。しかし、病気がその軍隊に甚大な犠牲をもたらした。彼自身も死去した。アミアンの講和が破れた後、イギリス人は黒人たちの奮闘を助けた。わが軍の残兵は、島から撤退しなければならなかった。島は、その後、独立を保った。
一七九五年以来の「独立」という記述は原注による。ここではその年次および表現を変えずに訳した。
[146] ジュリー・ド・ヴィーティングホフ。裕福なリヴォニアの領主の娘。一七六四年生まれ。十八歳で、ロシアの外交官クリュデネール男爵と結婚した。クリュデネール夫人は、非常に波乱に満ちた青春時代を送った。一八〇四年以降、まったく変わったようになり、禁欲と罪人の改心に身を捧げた。一八一五年、アレクサンドル皇帝の知るところとなった。皇帝は彼女に心を寄せ、彼女は皇帝にきわめて大きな影響力を持つようになった。その後、スイスとドイツを巡り、説教によって各都市を揺り動かし、しばしば迫害された。一八一八年にロシアへ戻り、一八二四年に死去した。
[147] P・シモン・ド・ラプラス侯。一七四九年、カルヴァドスのボーモン=アン=ノージュに生まれ、十七歳で数学教授となった。学術研究所創設以来の会員、ブリュメール十八日後の内務大臣、元老院議員(一七九九年)、元老院議長、フランスの貴族院議員(一八一五年)。一八二七年に死去した。
[148] ピエール・デュヴァル。一七三〇年、ノルマンディーの村ブレオテに生まれた。二十二歳でアルクール学院の哲学教授となり、次いで同学院の校長、大学の学長となった(一七七七年)。当代の哲学的な学説、とりわけビュフォン、ルソー、オルバックの学説を反駁しようとする、さまざまな論著がある。一七九七年に死去した。
[149] ジャン・ル・ロン・ダランベールは、タンサン夫人と砲兵将校デトゥーシュ騎士の息子だった。生まれると捨てられたが、職人の一家に引き取られ、育てられた。その名は、現在は取り壊されているサン=ジャン=ル=ロン教会の階段で、発見されたことに由来する。ほどなく、学問への情熱によって知られるようになり、一七四四年に科学アカデミー、一七五四年にアカデミー・フランセーズに迎えられた。ヴォルテール、ディドロときわめて親しく、『百科全書』の刊行に加わった。一七八三年に死去した。
[150] モロー・ド・モーペルテュイ。一六九八年、サン=マロ生まれ、一七五九年死去。騎兵将校だったが、ほどなく研究のために軍を去り、一七二三年に科学アカデミー会員となった。一七三六年、極地での科学調査に出発した。一七四三年にアカデミー・フランセーズ会員となり、一七四五年、ベルリンへ赴いた。フリードリヒ王が、彼を同地のアカデミー総裁に任じていたからである。そこでヴォルテールとの間に、後世に名高い争いを繰り広げた。
[151] アレクシ・クレロー。一七一三年、パリ生まれ。天文学者、数学者。十八歳で科学アカデミー会員となった。一七六五年に死去した。
[152] ヘンリー・キャヴェンディッシュ。イギリスの名高い物理学者、化学者。一七三一年、ニースに生まれ、デヴォンシャー公爵家の分家に属した。一七六〇年、ロンドン王立協会に迎えられ、一八〇三年にフランス学術研究所の外国人会員となった。一八一〇年に死去した。
[153] クロード=アドリアン・エルヴェシウス。一七一五年ごろ、パリに生まれ、早くも二十三歳で徴税請負人の地位を得た。もっぱら哲学に打ち込み、一七五八年、『精神論』を刊行した。この本は、教皇、ソルボンヌ、高等法院から、そろって断罪された。一七七一年の死後、著作集十四巻が刊行された。
[154] カリタ氏、コンドルセ侯。一七四三年、サン=カンタン近郊のリブモンに生まれた。ドーフィネを起源とする貴族の家系の出身。二十六歳で科学アカデミーに迎えられた。哲学者たちと非常に親しく、熱心に革命の大義を支持した。立法議会および国民公会の議員となり、ジロンド派とともに投票した。一七九三年五月三十一日に追放の対象となり、八か月、身を隠した。しかし、隠れ家を出たために逮捕され、投獄された。数日後、獄中で毒を飲んで自ら命を絶った(一七九四年三月)。コンドルセは、帝国元帥グルーシーの姉妹である、グルーシー嬢と結婚していた。
[155] P・ティリ、オルバック男爵。名高い哲学者。一七二三年、プファルツのヒルデスハイムに生まれた。若くしてパリへ来て、最も急進的な哲学上の見解を受け入れ、公然と無神論を説いた。最もよく知られた著作『自然の体系』は、ヴォルテールやフリードリヒ二世からさえ批判された。一七八九年に死去した。
[156] エティエンヌ・ボノ・ド・コンディヤック。一七一五年、グルノーブルの貴族の家に生まれた。聖職に入ったが、教会の職務は務めず、一七五七年にパルマ公である王子の家庭教師となった。一七六八年、アカデミー・フランセーズ会員。コンディヤックは、彼を感覚論学派の指導者たらしめた、幾つかの著作を残した。一七八〇年に死去した。
[157] 重農主義の学説を示した『経済表』は、この学派の創始者にして指導者である、医師ケネー(一六九四―一七七四)の著作である。
[158] ルイ男爵と呼ばれたルイ=ドミニク。一七五七年十一月十三日、パリに生まれた。聖職に就くことが定められ、高等法院の聖職評定官に迎えられた。タレーランと親交を結び、連盟祭のミサでは、副助祭として彼を補佐した。デンマーク駐在公使に任じられ(一七九二年)、一七九三年に亡命した。早くも統領政府下にフランスへ戻り、国務評議会請願審査官(一八〇六年)、国務参事官(一八一一年)、一八一四年、一八一五年および一八一八年の財務大臣、国務大臣、枢密評議会委員となった。一八二二年、すべての職から罷免された。議員となり、自由主義派に属した。一八三一年、再び財務大臣となり、一八三二年にフランスの貴族院議員に任じられ、一八三七年に死去した。
[159] エティエンヌ=フランソワ・ダリグル。シャルトルを起源とする、法服貴族の旧家に属した。審理部長、次いでパリ高等法院院長(一七六八年)。一七八〇年に辞職し、イギリスへ、次いでブラウンシュヴァイクへ渡り、一七九八年、同地で死去した。
[160] アルマン・ユ・ド・ミロメニル。一七二三年生まれ。ルーアン高等法院院長(一七五五年)。ルイ十六世のもとで国璽尚書(一七七四―一七八七年)を務めた。一七九六年、ノルマンディーの自領ミロメニルで死去した。
[161] フランソワ・ド・メルシー=アルジャントー伯。ロレーヌの旧家に属した。ルイ十六世の治世を通じ、帝国の駐仏大使を務めた。一七八九年以降、メルシーは、国王を援助するための外国の介入を実現しようと、積極的に働いた。一七九四年に死去した。マリー=アントワネットおよびマリア=テレジアとの往復書簡が刊行されている。
[162] 王妃がまったく無実であったにもかかわらず、取り返しのつかない損害を与えた、あの忌まわしい首飾り事件については、よく知られている。宝石商ベーマーは、百六十万フランの壮麗な首飾りを王妃に勧めた。王妃は断った。高い家柄の出ながら、品行に疑いのある女性、ラ・モット=ヴァロワ夫人は、それを手に入れようとした。彼女は、以前にマリー=アントワネットの不興を買っていたロアン枢機卿を、巧みに説き伏せた。王妃が首飾りを諦めたのは、過大な出費で世間の非難を浴びるのを避けるための見せかけにすぎず、もし密かに購入の手助けをすれば、王妃は感謝するだろう、というのである。信じ込んだ枢機卿は、首飾りを掛けで買い、王妃に届けさせるため、ラ・モット夫人に渡した。ラ・モット夫人は、ロンドンへ売りに走った。代金を受け取れないベーマーの請求によって、事件は、ほどなく世間に知れ渡った。枢機卿とラ・モット夫人は逮捕され、高等法院に送られた。高等法院は、前者を無罪とし、後者を有罪とした。さらに、王妃の無実に疑いを残すように、注意して判決文を作成した。
[163] ジャン=フランソワ・ジョルジェル師。一七三一年、ロレーヌのブリュイエールに生まれ、初めストラスブールの数学教授となった。ロアン枢機卿が、大使館書記官としてウィーンへ連れていった。帰国すると、ストラスブールの司教総代理に任じられた。首飾り事件では、枢機卿の書類を焼き、その弁明を書いて、枢機卿にきわめて大きな助けを与えた。彼自身は、モルターニュへ追放された。一七九三年に亡命し、一七九九年にフランスへ戻った。司教職を断り、ヴォージュの司教総代理に任じられた。一八一三年に死去した。ジョルジェル師は、一七六〇年から一八一〇年までを扱う『回想録』を残した(パリ、一八一七年、八折判六巻)。
[164] エマニュエル・フレトー・ド・サン=ジュスト。一七四五年生まれ。一七六五年に高等法院評定官となった。首飾り事件の裁判では、ロアン枢機卿の側についた。一七八七年十一月十七日の会議後に投獄された。三部会の貴族代表となり、第三身分と行動をともにした。議会議長を二度務めた。八月十日事件後、田園へ退いた。一七九四年に逮捕され、六月十四日にギロチンにかけられた。
[165] ルコワニュー・ド・ベラーブル侯。一七七七年に高等法院評定官となった。十七世紀初めに生きた院長ルコワニューの子孫である。この院長の息子が、名高いバショーモンだった。
[166] サバティエ・ド・カーブル師。トリノの大使館書記官を務めた。リエージュ駐在公使(一七六九年)、ペテルブルク代理公使、海軍省領事局長(一七八二年)。高等法院の聖職評定官だった。熱心に革命の大義を支持した。恐怖政治下で逮捕されたが、断頭台を免れ、一八一六年に死去した。ヴェルジェンヌの保護を受け、高等法院の問題でも、ある役割を果たした論客、サバティエ・ド・カストル師(一七四二―一八一七)と混同してはならない。
[167] ロアン枢機卿の従姉妹であるブリオンヌ夫人は、熱心に彼の側についた。
[168] スウェーデン国王グスタフ三世。アドルフ・フレドリクの息子で、その後継者。一七四六年生まれ、一七七一年に即位した。貴族の陰謀によって、一七九二年三月十六日に暗殺された。息子グスタフ四世に王位を残した。
[169] 教皇ピウス六世は、イタリアを訪れたスウェーデン国王グスタフ三世を、非常に温かく迎えた。教皇は、国王を特に喜ばせる方法を考え、グスタフ三世が求めていた、ペリゴール師に枢機卿の帽子を授けるという約束を与えた。これは、もっぱら恩恵によるものであり、プロテスタントの君主に与えられたという点で、なおさら注目すべきものだった。(バクール氏の注。)
[170] 教皇は、つねに枢機卿を任命する排他的な権利を留保してきた。ただし、フランス国王、皇帝、スペイン国王、ポーランド国王といった、ある種のカトリック君主たちは、一定数の枢機卿を任命する権利、より正確には、教皇による任命のために候補者を推薦する権利を得ていた。教皇は、つねにその選択を承認した。そのため、これらの枢機卿は、「諸王室の枢機卿」と呼ばれた。あらゆる点で、ほかの枢機卿と同等に扱われ、教皇選挙では、それぞれの君主を代表した。
[171] 皇帝ナポレオンによる教皇ピウス七世への迫害に伴い、フランスの要塞に監禁された枢機卿たちのことを指す。(バクール氏の注。)
[172] マチュー・ド・ヴェルモン師。村の外科医の息子。一七三五年生まれ。一七五七年、ソルボンヌで博士号を得た。ブリエンヌ枢機卿の庇護のもとで立身し、一七六九年、将来の王太子妃の読書係として、ショワズールによってウィーンへ派遣された。巧みに女帝と大公女の信頼を得て、後者に大きな影響力を持った。一七九〇年に亡命し、ほどなくウィーンで死去した。
[173] シャリュス嬢。陸軍少将ナルボンヌ=ララ伯と結婚した。マリー・レクザンスカ王妃、次いで王太子妃の女官長を務めた。前に述べた、一七九一年の陸軍大臣ナルボンヌ伯の母である(三十五頁)。
[174] ネッケルの財政報告は、一七八一年一月に刊行された。それまで、国家にいくら支払い、国家がいくら使っているかを知らなかった公衆に対し、「財政の秘密が、わずかながら開かれた」のは、初めてのことだった。
[175] 名士会は、三部会に訴えずに済ませるため、大臣が考え出した中間的な手段だった。カロンヌは土地税を課そうとしていた。しかし、高等法院と聖職者団の抵抗を予想し、国民のうちに支えを求めようとした。会議は二月二十二日、ヴェルサイユで開かれ、五月二十五日に散会した。
[176] 一七八七年二月十三日。
[177] アルマン・ド・モンモラン=サン=テレム伯。オーヴェルニュの非常に古い家系の出身で、一七四五年生まれ。マドリード大使を務めた。名士会の一員(一七八七年)、外務担当国務大臣(一七八七年)。立憲君主制の支持者だった。内務大臣臨時代理(一七九一年)を務め、同年十一月、すべての職を辞した。一七九二年八月二十一日に逮捕され、議会に引き出されて、訴追が決議された。九月虐殺で命を落とした。
[178] ドニ・エクシャール=ルブラン。抒情詩人。一七二九年生まれ。頌歌、警句詩、哀歌を書き、ルブラン=ピンダロスとあだ名されるほどの名声を得た。しかし、人柄は才能に見合っていなかった。長く王妃の年金で暮らした後、革命の潮流に身を投じ、サン=ドニの墓を暴くことを煽り、別の頌歌では、マリー=アントワネットの死刑を求め、ついには帝国の公式な賛美者となった。一八〇七年に死去した。
[179] ルイ・ド・タレーラン男爵。著者の叔父。一七三八年生まれ。一七八五年、両シチリア国王のもとへの大使となり、一七九九年に死去した。カロンヌの姪、ルイーズ・ド・サン=テュジェーヌ・モンティニー嬢と結婚していた。
[180] アンリ・ド・フランクトー、コワニー公。一七三七年生まれ。ショワジー総督(一七四八年)、陸軍中将(一七八〇年)。一七七一年以来、国王の首席厩官。一七九一年に亡命し、ポルトガルで総司令官となった。一八一四年にフランスへ戻り、フランス元帥および廃兵院総督に任じられた。一八二一年に死去した。
[181] ダンピエール。ランブイエから少し離れた、イヴェット川沿いのセーヌ=エ=オワーズの村。マンサールがロレーヌ公のために建てた城館は、のちにリュイーヌ家へ渡った。
[182] ショーモン・ド・ラ・ガレジエール侯。一六九七年生まれ。ソワソンの地方総監、次いでロレーヌ大法官(一七三七年)、一七六六年に国務参事官、王立財務評議会委員(一七七六年)となった。一七八七年に死去した。
[183] ピエール・ジェルビエ。パリ高等法院の名高い弁護士。一七二五年、レンヌに生まれた。高等法院が職務を停止されていた間、モプーが設けた委員会の前で弁論することを承知した、数少ない弁護士のひとりだった。それにもかかわらず、一七八七年に弁護士会会長に選ばれた。翌年に死去した。
[184] カロンヌが廃止して国境へ移そうとしていた、国内関税のことである。
[185] ミシェル・ブーヴァール・ド・フルクー。高等法院評定官(一七三八年)、会計院検事総長(一七六九年)、国務参事官(一七六九年)、財務監を務めた。一七八七年、一時、財務総監となった。
[186] Ch・ド・トリュデーヌ・ド・モンティニー。一七三三年生まれ。財務行政総監だった(一七六三年)。財務総監の職を断り、一七七七年に死去した。フールクー嬢との結婚で二人の息子をもうけたが、二人とも、一七九四年にギロチンにかけられた。
[187] マリー=エリザベート・ド・タレーラン。ダニエル=マリー・ド・タレーランの娘で、著者の叔母。一七五九年、擲弾兵大佐シャルル・ド・シャバンヌ=ラ・パリス伯と結婚した。マダムの女官長を務めた。
マダム(Madame)は、この宮廷での呼称として記されている。
[188] ヴェムランジュ氏は、フランスの郵便、継ぎ馬、乗合馬車便の監督官だった。
[189] ルイ=マリー・ド・ブリエンヌ。一七三〇年生まれ。陸軍中将、陸軍大臣(一七八七―一七八八年)。一七九四年五月十日、二人の息子および娘のカニジ夫人とともに、ギロチンにかけられた。
[190] オランダは、一七四七年、オラニエ公を総督として、総督職を復活させていた。一七八四年、議会は、その権限の大部分を取り上げた。公は、一部の貴族と民衆を頼みとし、イギリスとプロイセンに助けを求めた。議会は、一七八五年の皇帝との争いで、援助を惜しまなかったフランスの介入を求めた。しかし、ブリエンヌ枢機卿は、国境に軍隊を集めることに踏み切れなかった。オランダ人は、プロイセン軍に打ち破られ、勝利した党派の猛威にさらされた(一七八七年九月)。
[191] 地方三部会を持つ一部の地方、とりわけブルターニュは、フランスへ併合される際、明確な留保を付し、そのあらゆる権利と特権を維持するよう求めていた。
[192] ネッケルは、一七八八年八月二十五日に政務へ復帰した。隠退中、一七八四年に『財政行政』の題で、新しい報告書を刊行していた(八折判三巻)。八万部近くが売れた。カロンヌ氏との往復書簡も刊行していた(一七八七年、四折判)。
[193] 三部会の議員数は、千百四十五人だった。聖職者二百九十一人、貴族二百七十人、第三身分五百八十四人である。
[194] エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス。一七四八年、フレジュスに生まれた。聖職に入り、レンヌの司教総代理となった。次第に哲学運動に関わり、当代のあらゆる作家と親交を結んだ。オルレアン地方議会の一員となった。一七八九年、名高い小冊子『第三身分とは何か』を刊行し、数日で三万部が売れた。パリ選出議員となり、第三身分の最も権威ある一員となった。議長に選ばれた(一七九〇年六月)。パリ県行政機関の一員(一七九一年二月)。このころ、パリ大司教の職を断った。一七九二年、国民公会に選ばれ、その議長となった。国王の死刑に票を投じた。恐怖政治の間は距離を置き、一七九五年に五百人会議議員、一七九八年にベルリン駐在公使となった。総裁政府に入り(一七九九年)、議長に任じられた。ボナパルトと結び、その協力のもとに、ブリュメール十八日の政変を準備した。臨時統領となり、名高い憲法案を提出したが、カンバセレスに交代し、元老院に入った。一八一四年には、皇帝廃位を推進したひとりとなった。百日天下の間にフランスの貴族院議員に任じられ、一八一六年に追放された。一八三〇年にフランスへ戻り、一八三六年に死去した。一七九五年に学術研究所へ入り、一八〇四年にアカデミー・フランセーズ会員となったが、一八一六年に除名された。
[195] フィリップ=アンリ・ド・セギュール侯。ギュイエンヌの旧家に属した。一七二四年生まれ。十五歳で軍に入り、ロクー、次いでラウフェルトで重傷を負った。陸軍中将(一七六〇年)。クロスターカンプで再び負傷した。フランシュ=コンテ総督(一七七五年)、陸軍大臣(一七八〇―一七八七年)、フランス元帥(一七八三年)。恐怖政治下で投獄されたが、死を免れた。一八〇〇年、第一統領から年金を受けた。第一統領は、その高い位にふさわしい、あらゆる敬意をもって彼を遇した。一八〇一年に死去した。
[196] アブラアム・ファベール。ロレーヌの家系の出身。軍に入り、当時のすべての戦役に参加した。一六五四年にフランス元帥となり、一六六二年に死去した。
[197] フランソワ・ド・シュヴェール。一六九五年、ヴェルダンに生まれた。九歳で入隊し、十一歳でカルネ連隊の中尉となった。ボヘミア戦役では中佐となり、プラハの攻略に貢献し、のちには同市を防衛して、名を輝かせた。陸軍少将(一七四四年)、陸軍中将(一七四八年)、サン=ルイ勲章大十字章受章者。一七六九年に死去した。
[198] ニコラ・ド・カティナ・ド・ラ・フォコヌリー。一六三七年生まれ。初め弁護士となり、その後、軍に入った。一六八八年に陸軍中将となった。翌年、サヴォワとピエモンテで、後世に名高い戦役を戦った(スタッファルダ、マルサーリアの勝利)。フランス元帥(一六九〇年)。トリノ駐在全権公使(一六九五年)。再びイタリア軍を率い(一七〇一年)、次いでアルザスで指揮を執り、一七一二年に死去した。
[199] 陸軍大臣に任じられた陸軍中将サン=ジェルマン伯は、軍の規律を立て直そうと努めた。しかし、ドイツ人やイギリス人の間で用いられていた体罰を、フランスに導入しようとした。世論は、この新制度にきわめて激しく反発した。サン=ジェルマン伯は、就任時に寄せられていた好意を、すべて失った(一七七六年)。
[200] 一七八九年六月十七日の会議。第三身分は、ベリー選出議員ルグランの提案によって、国民議会であると宣言した。一般に考えられているように、シエイエスの提案によるものではない。
[201] 百三十七頁の付録を参照。バクール氏による、これらの面会の叙述が収められている。
[202] 一七八九年六月二十日。
[203] ベルナール・ジュールダン・ド・ローネー。ノルマンディーの貴族の家系の出身。一七四〇年、父が総督を務めていたバスティーユで生まれた。彼もまた、ジュミヤック氏の後任として、その職を務めた。七月十四日の襲撃の際に果たした役割は、よく知られている。降伏を余儀なくされた後、襲撃者の指導者であるエリーとユランの努力にもかかわらず、何人かの将校とともに虐殺されたことも、周知のとおりである。
[204] 民衆は、総督ローネーとその兵士たちのほか、商人頭フレセルを虐殺し、数日後には、行政総監フーロンと、その娘婿でパリの地方総監であったベルティエ・ド・ソーヴィニーを虐殺した。
商人頭(prévôt des marchands)は、ここではパリの都市行政の首長の職名。
[205] この点についてのルイ十六世の明確な意見は、私が読んだ、クレルモン=ガルランド氏を著者とする回想録に記されていると、私はいえる。これは彼の自筆で、現在、フォンテニーユ侯のもとにある。クレルモン氏は、コブレンツへ赴くために国王から受けた使命について述べている。国王に代わって、その兄弟たちに、亡命が国王自身の生命をどれほど危険にさらしているかを、描き出す任務を負っていたのである。(タレーラン公の注。)
原注の「現在」は、タレーランがこの注を書いた時点を指す。印刷本では、この署名付きの注に続いて編集者によるクレルモン=ガルランドの略伝が置かれる。Gutenbergではその略伝が本文中の別の位置に分離している。
シャルル、クレルモン=ガルランド侯爵は、メーヌ地方の古い家の出だった。一七四四年に生まれ、陸軍少将となり、八月十日のテュイルリー宮殿の防衛に加わった。恐怖政治のもとでは、長く投獄された。統領政府時代に、ルイ十八世が王位への復帰を求めた書簡を、ボナパルトへ届けたのは彼だった。一八一四年にフランス貴族院議員となり、一八二三年に死去した。その『回想録』は、一八二五年、パリで刊行された。八折判、全三巻。
電子版HTMLでは本文中に置かれているが、TXTおよび比較用原本画像の印刷頁128では原注205に続く編者の人物解説である。表示時には原注205の後へ移し、タレーラン自身の注と区別する。HTML末尾の余分な閉じ角括弧は訳文の表示から除いた。
[206] 制憲議会におけるタレーランの役割を、簡潔に整理すると、次のようになる。拘束委任の無効を提案(一七八九年七月七日)。憲法委員会委員に選出(七月十三日)。十分一税の廃止を促進(八月十一日)。人権宣言の幾つかの条項を採択させる(八月二十一日)。借入れの確保に適した措置を提案(八月二十七日)。聖職者団の財産を国家の必要に充てることを提案(十月十日)。パリの警察規則を提出(十一月五日)。聖職者団の財産目録の作成を提案(十一月七日)。割引金庫の状態を調査する任務に指名(十一月二十六日)。その調査結果を報告(十二月四日)。ユダヤ人を市民とみなすことを提案(一七九〇年一月二十八日)。民衆に平静を促す呼びかけを提案(二月九日)。シエイエスの百二十五票に対し、三百七十三票を得て議会議長に選出(二月二十六日)。国有財産の処分方法を提案(六月十三日)。二十億の強制通用アッシニャ紙幣の発行に反対(九月十八日)。登録税に関する報告(十一月二十二日)。貨幣の改鋳に関する演説(十二月十二日)。度量衡の統一に関する法案を採択させる(一七九一年三月二十六日)。信教の自由に関するパリ県の決定についての報告(五月七日)。公教育に関する報告(九月十日)。
[207] ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ。一七三六年、フランス人の両親のもと、トリノに生まれた。十八歳で、ヨーロッパ第一の数学者だった。一七六六年、フリードリヒ二世が、アカデミー総裁としてベルリンへ招いた。一七八六年にパリへ来て、一七九五年に学術研究所へ入り、帝政下で元老院議員に任じられ、一八一三年に死去した。
[208] ローラン・ラヴォアジエ。一七四三年、パリに生まれた。二十五歳で科学アカデミーに入り、ほどなく徴税請負人の地位を得た。当代第一の化学者だった。恐怖政治下で逮捕され、一七九四年五月八日、ギロチンにかけられた。
[209] ガスパール・モンジュ。一七四六年、ボーヌに生まれ、初めメジエール工兵学校の教授となった。一七八〇年に科学アカデミーへ入った。八月十日事件後、海軍大臣、次いで学術研究所会員となり、のちにボナパルトに従ってエジプトへ赴き、カイロ学術研究所の所長となった。ナポレオンは、彼を元老院議員およびペリュズ伯に任じた。一八一八年に死去した。
[210] フェリックス・ヴィック・ダジール。一七四八年、ヴァローニュに生まれた。医学を学び、一七七三年に、優れた解剖学講座を開いた。科学アカデミー会員(一七七四年)、次いでビュフォンに代わってアカデミー・フランセーズ会員となった。王妃の首席侍医(一七八九年)。旧アカデミーの最後の印璽官を務めた(一七九三年六月)。同アカデミーは、その年の八月八日に廃止された。一七九四年六月二十日に死去した。
原文の役職は chancelier(シャンスリエ)。アカデミーの印章を管理し、会長不在時に代行する役員で、終身書記(secrétaire perpétuel)とは別の職。参照:アカデミー・フランセーズの辞典 https://dictionnaire-academie.fr/article/A6C1026 および規約 https://www.academie-francaise.fr/sites/academie-francaise.fr/files/statuts_af_0.pdf
[211] J=Fr・ド・ラ・アルプ。一七三九年、パリ生まれ。文人、批評家。ピラートル・ド・ロジエが「リセ」の名で設立したばかりの教育施設で行った文学講義によって、名声を得た。ラ・アルプは、恐怖政治下で逮捕され、フリュクティドール十八日に追放された。一八〇三年に死去した。
[212] 聖職者民事基本法は、一七九〇年七月十二日に議会で可決された。よく知られるとおり、司教区の数を百三十五から八十三に減らし、司教と主任司祭を民衆の選挙で選ばせ、教会法上の任命手続きを廃止するものだった。フランスの教会を、宣誓聖職者と非宣誓聖職者に分けた分裂は、ここに始まる。
[213] タレーランは、司教叙階を行う高位聖職者に選ばれていた。ともに選ばれたのは、リュッダ司教ゴベルとバビロン司教ミルドだった。一七九一年二月二十四日、タレーランは、サントノレ通りのオラトワール教会で、最初の二人の立憲派司教、フィニステール司教エクスピイとエーヌ司教マロルを叙階した。
[214] 百二十四頁を参照。
[215] ウジェーヌ・ダルノー、ヴィトロル男爵。一七七四年、プロヴァンスの同名の城に生まれた。その家は、この地方で最も古い家のひとつだった。名高いバイイ・ド・シュフランの姉妹または兄弟の孫に当たる。一七九〇年に亡命し、志願兵としてコンデ軍へ入った。一七九七年にフランスへ戻った。ブリュメール十八日後、ベルナドット将軍の介入によって、亡命者名簿から抹消された。ベルナドットは、王立海軍連隊の軍曹だったころ、彼の剣術の教師を務めていた。ヴィトロル氏は、帝政下で市長と県会議員を務めた。一八一二年、牧羊場監察官に任じられた。この職は、フランスにおけるメリノ種の飼育を監督し、奨励するために、新たに設けられたものだった。ヴィトロル氏は、第一次王政復古にきわめて大きな役割を果たした。ためらっていた連合国の君主たちを、パリへ進軍する気にさせ、それによって帝国の崩壊を引き起こしたのは、彼だったのかもしれない。一八一四年に国務大臣、一八一五年にトゥールーズの国王委員となったが、同地でナポレオンの命令により逮捕され、百日天下の間、獄中にとどまった。「比類なき議会」の議員となり、一八一八年、大臣の職を罷免された。一八二七年、シャルル十世は彼をフィレンツェ駐在公使に任じ、次いで一八三〇年七月、フランスの貴族院議員に任じた。ヴィトロル氏は七月王政を支持せず、隠退のうちに、一八五四年に死去した。彼が王政復古について残した、興味深い『回想録』は、よく知られている。
バイイ(bailli)は、ここではシュフランが持っていたマルタ騎士団の高位の称号であり、個人名の一部ではない。参照:サン=トロペ市 https://www.saint-tropez.fr/hommage-a-pierre-andre-de-suffren-bailli-de-lordre-de-malte/
[216] 第二オルレアン家は、ルイ十三世の次男、フィリップ一世オルレアン公に始まる。これから述べられるルイ=フィリップ=ジョゼフは、この家の第五代の公である。母はブルボン=コンティ家の公女だった。一七四七年に生まれた。生涯を通じて、一貫して宮廷に反対し、一七八七年には、あらゆる不満分子の指導者となった。一七八七年に追放され、三部会議員となり、第三身分に合流した最初の人々のひとりとなった。ジャコバン・クラブの会員となった。国民公会での役割は、よく知られている。一七九三年十一月六日、断頭台上で死去した。彼は、パンティエーヴル公とマリー=テレーズ・デステの娘、ルイーズ・ド・ブルボン=パンティエーヴルと結婚していた。彼女は、当代で最も徳高く、優れた人物のひとりだった。一七九三年に投獄されたが、テルミドール九日の政変によって救われ、その後スペインへ追放された(一七九七年)。一八一四年にパリへ戻った。オルレアン公には、三人の息子がいた。のちの国王ルイ=フィリップとなるシャルトル公、モンパンシエ公、ボージョレー伯である。
[217] 手稿のこの箇所には、八葉分の欠落がある。その理由を、私たちは探したが、明らかにすることができなかった。
原文は feuillets、すなわち紙の葉の数をいう。八頁とは数え方が異なる。
[218] ジャン=バティスト・ヴィヴィアン・ド・シャトーブラン。一六八六年、アングレームに生まれた。オルレアン公の首席家政官。幾つかの悲劇を書き、それによってアカデミー会員となった(一七五三年)。シャルトル公の副養育係に任じられ、一七七五年に死去した。
[219] エティエンヌ・ド・フォンセマーニュ。一六九一年、オルレアンに生まれた。歴史論著によって名を知られた。シャルトル公の副養育係(一七五二年)。一七七五年に死去した。
[220] マルク=ルネ・ド・ヴォワイエ侯。陸軍担当国務大臣ヴォワイエ・ダルジャンソン伯の息子。一七二二年生まれ。陸軍中将、ヴァンセンヌ総督となり、一七八二年に死去した。
[221] イヴォン師。一七一四年、マメールに生まれた。教会の職務を務めたことは一度もなく、それどころか、つねにソルボンヌと争っていた。『百科全書』で執筆活動を始め、「魂」「無神論者」「神」の項目を書いた。プラードがソルボンヌで提出し、同大学によって断罪された論文に協力したとの疑いを受け、オランダへ逃れた。ほどなく戻り、アルトワ伯の史官に任じられ、一七九一年に死去した。イヴォン師は、多数の神学の著作を残した。
[222] ド・リール氏。サン=ミエル生まれの、シャンパーニュ連隊の将校。軽妙な詩を集めた詩集の著者である。
[223] トゥール近郊にある、ダルジャンソン家所有の城館と領地。
[224] ルイ=ガブリエル・ド・コンフラン=ダルマンティエール侯。一七三五年生まれ。コンフラン元帥の息子。陸軍少将だった。
[225] 叔父ビロン元帥の死(一七八八年)に際して、家の名を再び名乗ったローザン公のことである。
[226] マチュー=ポール=ルイ・ド・モンモランシー=ラヴァル。ラヴァル子爵の名で知られた。一七四八年八月五日生まれ。当時、オーヴェルニュ連隊の大佐で、一七八八年に陸軍少将となった。一八〇九年に死去した。
[227] アーサー・ディロン伯。一七五〇年、アイルランド生まれ。その家は、一世紀にわたりフランスに仕えていた。大佐としてアメリカ戦争で積極的に戦い、陸軍少将、トバゴ総督となった。三部会のマルティニーク代表、北部軍総司令官となり、一七九四年にギロチンにかけられた。ディロンは、ジョゼフィーヌ皇后の従姉妹、ラ・トゥーシュ伯爵夫人と結婚していた。
GutenbergのHTML版とテキスト版は処刑年を1791年とする。照合した印刷本(本文160頁、スキャン201頁、同頁注2)では、末尾の字形に欠けがあるものの1794年と読めるため、訳文は1794年に従った。
[228] トマ・ボワセル・ド・モンヴィル男爵。一七六三年、ノルマンディーのモンヴィル城に生まれた。同地方の貴族の家系の出身。一七八五年に高等法院評定官となり、最も活発な反対派のひとりとなった。熱心に革命の原則を受け入れた。帝政下では隠退生活を送った。一八一四年にフランスの貴族院議員となり、一八三二年に死去した。モンヴィルは、優れた学者だった。機械学を研究し、幾つかの農業機械を製作した。
[229] マリー=クリスティーヌ・ド・エッス=ランフェルツ=ロタンブール。一七六六年、一七四六年生まれのジャック・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ、ブイヨン公と結婚した。
[230] クロディーヌ・ド・モンモランシー=ラヴァル。一七五〇年生まれ。一七六八年、アンドレ・ド・フルーリー侯と結婚した。
[231] フェリシテ・デュクレ・ド・サントーバン、シルリー侯爵夫人、ジャンリス伯爵夫人。一七四六年、オータン近郊に生まれた。一七六二年、一七三七年生まれの海軍大佐シャルル・ブリュラール、ジャンリス伯と結婚した。伯は数年後、シルリーの領地を相続した際に、シルリー侯の称号を取った。シルリー氏は、のちに三部会議員となり、一七九三年十月三十一日、ジロンド派とともにギロチンにかけられた。妻は生涯、ジャンリス伯爵夫人の名を保った。一七七〇年、シャルトル公爵夫人の女官長となり、アデライード嬢の養育係、次いでオルレアン家の若い公子たちの養育係に任じられた。一七九二年、アデライード嬢とともに亡命し、スイス、次いでベルリンへ退き、一八〇〇年にフランスへ戻った。ジャンリス夫人は、多くのものを書いた。数多くの小説と教育に関する著作を残した。帝政下では、十五日ごとに、さまざまな刊行物に寄稿した。さらに、興味深い『回想録』も残した。一八三〇年に死去した。
[232] ルイ・ブリュラール、ピュイジューおよびシルリー侯。一七〇二年生まれ。初め軍に入り、次いでナポリ大使(一七三五年)、外務担当国務大臣(一七四七―一七五一年)、一七五六年まで国務大臣を務めた。一七七〇年に死去した。ジャンリス伯の大叔父で、シルリーの領地の所有者だった。
[233] 国王ルイ=フィリップとアデライード嬢。
[234] この名高い冒険家の生涯は、きわめて興味深い冒険小説になるだろう。一七四五年、パレルモに生まれ、本名はジョゼフ・バルサモといった。ヨーロッパ全域を旅し、公言しがたいさまざまな手段で、生活の資を得た。医学と化学の知識を多少持っており、民衆の信じやすさを巧みに利用することで、魔術師、治療師として、広く名声を得ることができた。フランスへ来て、カリオストロ伯と名乗った。ロアン枢機卿が、その庇護者となった。彼の家は、巧妙ないかさま師の奇跡を見ようと駆けつける、パリ中の人々の集まる場所となった。首飾り事件に巻き込まれ、追放されてイギリスへ渡り、再び放浪生活を送り、ついに一七八九年、ローマへ流れ着いた。宗教裁判所の命令で逮捕され、フリーメーソンの活動を行っていたとして裁判にかけられた。死刑を宣告されたが、減刑され、一七九五年、獄中で死去した。
[235] アンヌ・ド・モンモランシー=リュクサンブール。若いころは、リュクサンブール騎士の名で知られた。一七四二年生まれ。近衛隊長(一七六七年)、陸軍少将(一七八四年)に任じられた。一七九〇年に死去した。カリオストロが設立した、エジプト式フリーメーソン結社の総長の称号を引き受けていた。
[236] パレ=ロワイヤルは、一六二九年から一六三六年にかけて、建築家ルメルシエによって、リシュリュー枢機卿のために建てられた。当時はパレ=カルディナルと呼ばれていた。リシュリューは、遺言によって、これをルイ十三世に遺贈した(一六四三年)。摂政期に、アンヌ・ドートリッシュがルイ十四世とともに住むようになり、そのころ、パレ=ロワイヤルの名を得た。ルイ十四世は、一六九三年、弟のオルレアン公にこれを与えた。一七六三年に火災に遭い、建築家モローによって再建され、現在の配置となった。ルイ=フィリップ(摂政の孫)[ii]は、周囲に広大な土地を買い求め、その規模を大いに拡張した。革命下でパレ=ナシオナルとなったパレ=ロワイヤルは、一八〇〇年、護民院に充てられた。一八一四年、オルレアン家に返還された。第二帝政下では、ナポレオン公の住まいとなった。現在は、会計院と国務評議会に充てられている。
この注の「現在」は原注が書かれた時点を指す。[ii] はGutenberg電子版による別系統の補注への参照であり、印刷本の通し番号付き原注とは区別して示す。
[237] ルイ・ギユエ、ドルヴィリエ伯。一七〇八年、ムーラン生まれ。海軍に入り、一七六四年に艦隊司令官、次いで海軍中将となった。一七七七年、ウェサンの海戦を戦った。この海戦は、決着こそつかなかったが、わが軍にとって栄誉あるものだった。一七七九年に辞職して修道院に退き、一七八九年に亡命し、一七九一年に死去した。
[238] 国王は、ユサール騎兵総長の職を与えることで、彼に埋め合わせをした。
[239] ソフィー・アルヌー。オペラ座の名高い女優(一七四四―一八〇三)。
[240] オルレアン公は、一七七一年、クレルモン伯の後を継いで総長に任じられた。フランス大ロッジを廃止し、大東方会に置き換えたのは、公である。興味深い一資料として、公の就任承諾書を掲げる。
大いなる光の年一七七二年、イヤルの月の第三日、フリーメーソン暦五七七二年第二月第五日、すなわち救世主の降誕から一七七二年四月第五日。フリーメーソン暦五七七一年第四月第二十四日に開かれた大ロッジにおいて、いとも高貴にして、いとも強大にして、いとも卓越せる君公、王家の血統に属するシャルトル公ルイ=フィリップ=ジョゼフ・ドルレアン殿下を、フランスのすべての正規ロッジの総長とする布告がなされた。また、一七七一年エルルの月第二十六日に、東西皇帝最高評議会、すなわち崇高なるスコットランド母ロッジによって、殿下をフランスの大世界に属するすべての評議会、支部会およびロッジの最高総長とする布告がなされた。これらの布告に基づくこの職務を、殿下は、王者の術への愛ゆえに、また、あらゆるフリーメーソンの活動をひとつの権威のもとに集めるために、快く引き受けられた。
この就任承諾書は、儀礼上の紀年・月名・称号を用いている。大いなる光の年1772年、フリーメーソン暦5772年などの数字は原文のまま。「王者の術」は原文 art royal、「フランスの大世界」は grand globe de France の表現を保ったもの。
その証しとして、殿下は就任承諾の記録に署名された。
[241] 「九姉妹」ロッジは、一七七六年、幾人かの文人と、ヨーロッパ中に名を知られた人物たちによって設立された。このいささか世俗的な名(九人のムーサイ)は、創設者たちに多くの厄介事をもたらした。ロッジは一時、結社の名簿から抹消さえされた。それでも、当時最も華やかなロッジだった。フランクリン、エルヴェシウス、ルーシェ、そしてヴォルテール自身も会員だった。一八二七年、サン=ルイ・ド・フランスのロッジと合併したが、もとの名を保っている。
[242] ムソー、またはモンソーの小村は、現在はパリに含まれるが、かつてはクリシーの教区に属していた。徴税請負人ラ・レニエールがモンソーの領主権を取得し、そこにベルエール城を所有していた。今度はシャルトル公が、それを買い取った。公は、シャルトルのフォリーと呼ばれる遊楽の館を建てさせ、その周囲に壮麗な庭園を設計した。国民公会は、モンソー公園を国有財産とした。のちに皇帝がカンバセレスに与えた。ルイ十八世は、これをオルレアン家に返還した。同家は、一八五二年の命令によって、最終的に国有財産とされるまで、これを保有した。
「現在」は原注の執筆時点を指す。
[243] シャルル=ルイ・デュクレ侯。一七四三年生まれ。ジャンリス夫人の兄弟だった。初め海軍、次いで陸軍に仕え、擲弾兵大佐に任じられた(一七七九年)。しばらくオルレアン公の家政長官を務めたが、のちに公と仲たがいした。オランダへ亡命し、一八二四年に死去した。政治と経済に関する幾つかの著作、およびさまざまな科学論著を残した。
原文 chancelier du duc d’Orléans はオルレアン公の家政組織における職名。本文の同職と訳語をそろえた。
[244] パリ高等法院は、一七八七年八月十五日、トロワへ追放されていた。その原因は、同月七日に行った決議である。印紙税と土地税に関する王令を強制的に登録した国王臨席会議に、抗議したのだった。同月十九日、呼び戻された。政府は、その二つの王令を撤回することを決めていた。一方、ボルドー高等法院は、地方議会の設置に抗議したため、ほぼ同じころ、リブルヌへ追放されていた。リムーザンの地方議会が開かれることさえ禁じていた。
[245] シャルル=ルイ・ユゲ、セモンヴィル侯。一七五九年生まれ。一七七八年にパリ高等法院評定官となった。宮廷に反対していたにもかかわらず、国王の寵遇を保ち、ミラボーとの接近を交渉する任務、のちにはジロンド派への仲介の任務を負った。一七九一年にジェノヴァ駐在公使。一七九三年にフィレンツェ駐在公使となり、ダントンから王家の釈放を交渉するために送られたが、同僚マレ(のちのバッサーノ公)とともに逮捕され、三十か月の拘禁生活を送った。ブリュメール十八日には、オランダ駐在公使に任じられた。一八〇五年に元老院議員となったが、帝政下では、政治的な役割を何ら果たさなかった。一八一四年にフランスの貴族院議員、同院の大書記官となった。百日天下の間は距離を置き、一八一五年に職務へ戻り、一八三〇年まで保った。その年、君主制を救うため、あらゆる努力をした。それでも、新政府のもとでも、その職を保った。一八三九年に死去した。セモンヴィルは、最初の夫モントロン伯に先立たれた、ロスタン嬢と結婚していた。継子は、ナポレオンに従ってセントヘレナへ赴いたモントロン将軍である。継娘のひとりは、ジュベール将軍と結婚し、二度目にはマクドナルド元帥と結婚した。
[246] ヨーゼフ二世のフランス訪問時、一七七七年六月十三日に、トリアノンで皇帝のために開かれた祝宴。
[247] ルイ=ジョゼフ・ド・ブルボン、コンデ公。ルイ十五世のもとで首相を務めたブルボン公の息子で、大コンデから数えて四代後の子孫。一七三六年生まれ。七年戦争で積極的に戦い、一七八九年に亡命した。亡命者部隊の指導者となり、部隊は、それ以来コンデ軍の名を取った。一八〇一年にイギリスへ退き、王政復古時にフランスへ戻り、一八一八年に死去した。元帥スービーズ公の娘と結婚していた。
[248] ジョフロワ・ド・リモン侯。オルレアン公の財務総監を務めた。公に深く忠誠を捧げていたが、革命の間は、かなり曖昧な態度を取った。アルトワ伯を毒殺させようとした、とさえいわれた。熱烈な愛国派であった後、亡命し、激烈な王党派となった。ブラウンシュヴァイク宣言を書いたのは、彼である。一七九九年に死去した。
[249] ブルボン公爵夫人。
[250] 当時の国璽尚書は、名高いマルゼルブの従兄弟、クレティアン=フランソワ・ド・ラモワニョン侯だった。パリ高等法院評定官、次いで同院長を務め、一七七二年に追放された。一七八七年、ミロメニルに代わって国璽尚書に任じられ、印紙税と土地税の王令を起草し、高等法院へ提出した。一七八八年に辞職し、翌年に死去した。息子は王政復古下でフランスの貴族院議員となった。この息子を最後に、ラモワニョン家は絶えた。
[251] プロテスタントに関する一七八七年の王令は、ナントの王令の廃止以来、彼らが失っていた民事上の身分登録を、回復するものだった。実際、よく知られるとおり、身分登録簿は、もっぱら主任司祭が管理していたため、カトリック教徒だけが、その恩恵を受けていた。プロテスタントの場合、結婚は認められず、子供たちは、法律上、非嫡出とみなされていた。
[252] ジョゼフ・テレー。一七一五年、フォレのボエンに生まれた。初め高等法院評定官となり、高等法院をめぐる争いでは、つねに宮廷の側についた。その報いとして、報告官に任じられた(一七五五年)。一七六九年に財務総監となり、ショワズールの失脚に際して、モプー、エギヨンとともに、絶大な権力を握った。ルイ十六世によって追放され、一七七八年に死去した。
[253] ジャン=ジャック・デュ・ヴァル・デプレメニル。一七四六年一月三十日、ポンディシェリに生まれた。マドラス総督ジャック・デプレメニルの息子で、母は名高いデュプレクスの娘だった。五歳でフランスへ来た若いデプレメニルは、一七七五年に高等法院評定官となり、反対派の先頭に立った。すべての高等法院を廃止するブリエンヌの王令に対し、同僚たちの抵抗を引き起こしたのは、彼である。そのため逮捕され、サント=マルグリット島で、しばらく過ごした。三部会の貴族代表となり、君主制の最も断固たる擁護者のひとりとなった。しかし、自分の努力が無力だとわかると、議会を去り、二度と戻らなかった(一七九一年)。八月十日には、危うく虐殺されるところだった。アベイ監獄に投獄されたが、九月事件を奇跡的に生き延びた。数か月後に再び逮捕され、一七九四年、ギロチンにかけられた。妻も同じ運命をたどった。
[254] ロベール・ド・サン=ヴァンサン(一七二五―一七九九)。司法官の旧家の出身。一七四八年に高等法院評定官となり、とりわけ首飾り事件をはじめ、つねに宮廷に敵対した。革命時に亡命し、一七九九年に死去した。
[255] シャルル=ギヨーム・ランベール。一七二七年、パリ生まれ。高等法院評定官、国務参事官、財務評議会委員、名士会の一員を務めた。一七八七年に財務総監。一七八八年八月に罷免されたが、一七八九年八月に復職した。一七九〇年十月十九日、議会は、彼が国民の信頼を失ったと決議した。同年十二月四日、辞任した。一七九三年二月に逮捕され、その数日後、ギロチンにかけられた。
[256] ルイ=ジュール・マンチーニ=マザラン、ニヴェルネ公。マザラン枢機卿の甥に当たるヌヴェール公の孫。一七一六年生まれ。モールパ氏の姉妹である、ポンシャルトラン嬢と結婚した。娘をひとりもうけ、その娘は、ベル=イル元帥の息子ジゾール伯と結婚した。伯は、一七五八年にクレーフェルトで戦死した。ニヴェルネは、初め軍人の道を進み、イタリア(一七三四年)、ボヘミア(一七四二年)、バイエルン(一七四五年)の戦役に参加した。その後、ローマ、次いでベルリン(一七五六年)、ロンドン(一七六二年)の大使となった。革命下でも亡命しようとせず、恐怖政治の間に投獄されたが、テルミドール九日に釈放され、一七九八年に死去した。
[257] ルイ=ミシェル・ルペルティエ、サン=ファルジョー伯。法服貴族の旧家に属した。一七六〇年生まれ。パリ高等法院の法務官、次いで審理部長を務めた。三部会の貴族代表となり、初めは熱烈な君主制の擁護者だった。国王の命令にもかかわらず、ミルポワ伯と二人だけで、第三身分への合流を拒んだ(一七八九年六月二十七日)。七月十四日後、突然旗色を変え、最も急進的な革命派に加わった。ヨンヌ選出の国民公会議員となり、国王の裁判では、最も激しい者のひとりだった。国王を裁判にかけるよう求め、死刑に票を投じ、人民への付議を拒んだ。それに続く一月二十日、パレ=ロワイヤルで、パリスという名の元近衛兵によって暗殺された。パンテオンで、荘厳な葬儀が行われた。
[258] テオドーズ・ド・ブルトゥイユ師。一七一〇年生まれ。パリのサン=マルタン=デ=シャン修道院長、オルレアン公の家政長官。一七八一年に死去した。
原文 chancelier du duc d’Orléans はオルレアン公の家政組織における職名。本文の同職と訳語をそろえた。
[259] ル・ランシー。ボンディ近郊、パリから十二キロメートルの地点にあり、初めは修道院だった。十七世紀、ジャック・ボルディエが、そこに代えて壮麗な城館を建てた。のちにプファルツ公女の所有となった。一七五〇年、オルレアン公の財産となった。革命の間に略奪され、一八四八年に完全に破壊された。
[260] ヴィレール=コトレ。エーヌ県の郡区の中心地。十三世紀、シャルル・ド・ヴァロワがここに城を所有していたが、百年戦争の間に破壊された。フランソワ一世は、その古い城の隣に、別の城を建てさせた。そこは宮廷の最も好まれた滞在先のひとつとなった。十七世紀にオルレアン家が取得した。城は現在、物乞いを収容する施設として使われている。
「現在」は原注の執筆時点を指す。
[261] 院長ダリグル。
[262] セポワ嬢。一七八四年、名高い学者の息子で騎兵大佐のルイ=マリー・ド・ビュフォン伯と結婚した。伯は一七九四年に斬首された。オルレアン公とビュフォン夫人との間に生じた関係のため、夫婦は別居に至り(一七八九年)、それが離婚となった(一七九三年)。
[263] ナントゥイユ。オワーズ県の郡区の中心地。人口千六百人。サンリスから二十キロメートル。
[264] ルイ=アンリ=ジョゼフ、ブルボン公。一七七六年八月十三日生まれ。コンデ公の息子だった。ルイ十六世の治世下では、政務に何の役割も果たさなかった。革命の初めから亡命し、コンデ軍の一部隊を指揮した。その後、イギリスへ退いた。百日天下の間、ヴァンデを蜂起させようとしたが、大した成功は得られなかった。ルイ十八世のもとで、王室家政長官に任じられた。一八三〇年八月二十七日、シャンティイで自ら命を絶った。従姉妹のルイーズ・ドルレアン公女と結婚しており、不運なアンギャン公の父だった。
生年月日の1776年8月13日は、GutenbergのHTML版・テキスト版、および照合した印刷本(本文203頁、スキャン244頁、同頁注1)に共通する記述であり、訳文でも原注のまま保った。
[265] ブリエンヌは、高等法院を廃止しようとした。一七八八年五月八日、国王は高等法院をヴェルサイユへ召し出し、国璽尚書ラモワニョンが、次の六つの王令を読み上げた。第一は、「大バイイ裁判所」の名で、新たな裁判所を設けるもので、二万リーヴル未満のあらゆる民事・刑事事件が、その管轄とされた。高等法院が扱うのは、この額を超える事件と、聖職者および貴族に関する事件だけとなった。第二の王令は、高等法院の評定官の人数を大幅に削減した。第三は、あらゆる特別裁判所を廃止した。第四は、刑の執行前の拷問を廃止した。第五は、最も重要なもので、王国全域について法律を審査し、登録する任務を負う、全体法院を設けた。この法院は、大法官または国璽尚書、パリ高等法院の大法廷、王家の血統に属する公たち、王国の同輩貴族、王冠の大官、教会および軍の各種の高官、国務評議会と地方高等法院から選ばれた一定数の構成員によって成り立った。法院は建白する権利を持ったが、国王は国王臨席会議において命令を下す権利を留保した。最後に、第六の王令は、現存するすべての高等法院の職務を停止し、公私を問わず、いかなる案件についても集まることを禁じた。
刑の執行前の拷問は原文 question préalable。判決前に自白を得るための拷問とは区別される制度を指す。
[266] 若い高等法院評定官、ゴワスラール・ド・モンサベール氏。
[267] ヴァンサン・ダグー。コンデ家に付属する士官。コンデ公との大きな評判になった決闘をきっかけに、その職を辞した。二人の評定官を逮捕する任務を負ったときは、フランス近衛連隊の連隊少佐補佐官だった。
原文 aide-major は、連隊の major を補佐し、不在時に代行する幕僚職を指す。独立した現代的階級名としての「副少佐」ではない。参照:『百科全書』初版 https://fr.wikisource.org/wiki/L’Encyclopédie/1re_édition/AIDE-MAJOR
[268] レヴェイヨンは、サン=タントワーヌ郊外の壁紙製造業者だった。労働者に敵対的な発言をしたとして非難され、そのため激しい暴動が起きた(一七八九年四月二十八日)。住まいと工場は破壊された。暴動は鎮圧されたが、大量の流血を伴った。
[269] ピエール=アンブロワーズ・ショデルロ・ド・ラクロ。一七四一年、アミアンに生まれ、一七七八年には工兵大尉だった。オルレアン公に仕え、その命令伝達秘書となった。革命初期には、公の党派の策謀に積極的に関わった。ジャコバン・クラブの会員で、その新聞を運営した。ヴァレンヌ逃亡後、廃位を求め、ブリソとともにシャン=ド=マルスの請願を起草した。一七九二年に陸軍少将となった。恐怖政治下で二度投獄され、のちに旅団将軍としてライン軍へ送られた。一八〇三年、ナポリで砲兵総監を務めていたときに死去した。ラクロは、文学上の名声も残した。軽妙な詩と幾つかの小説があり、そのひとつ『危険な関係』は、今日まで知られている。
[270] ルイ=マリー・ド・ノアイユ子爵。ムーシー元帥の次男。一七五六年生まれ。アルザス猟騎兵連隊の大佐となり、アメリカの戦役に参加した。三部会のヌムール貴族代表となり、熱烈に新思想を受け入れ、第三身分に合流し、封建的権利の廃止を提案した(八月四日)。一七九一年に制憲議会議長、一七九二年に陸軍少将となったが、グリスワルで敗れた。ほどなく亡命した。一八〇三年にフランスへ戻り、旅団将軍として軍務に復帰した。ハバナ沖で、イギリスのフリゲート艦を奪取する際に戦死した。ノアイユ子爵は、ノアイユ元帥の孫娘で、自分の従姉妹に当たるアンヌと結婚していた。彼女は、一七九四年七月二十二日、母のアヤン公爵夫人および祖母のノアイユ元帥夫人とともに、ギロチンにかけられた。
[271] (パリ、一七八九年、八折判一巻。)この文書は、非常に興味深い。第一血統親王から出たものであるという事実によって、なおさら関心を引く。公は、まず、陳情書に盛り込むべき主要な条項を挙げる。すなわち、個人および政治上の自由、信書の秘密、財産の不可侵、定期的な課税の議決と平等な税負担、大臣の責任、離婚である。次いで、第一次集会の規則に移り、自分の正式な代理人たちに対し、国王の招集状に添付された規則を気にせず、この指示だけに従うよう求める。政府が、「つねにそれを照らしてきた英知にふさわしい首尾一貫性の欠如によって」、身分別の審議を命じたことを嘆く。「重要なのは、第三身分の審議だけである。なぜなら、第三身分だけが一般の利益を考え、第三身分だけが国民の権限を託されており、国家の運命を担うことになると感じているからだ。」さらに、先では、こう付け加える。「したがって、三部会の義務は、貴族たちの専制と、王権の無制限性を攻撃すること」であり、人権宣言を起草し、次の基礎の上に憲法を定めることである。国民議会は、三段階の間接選挙で選ぶ。教区の集会が郡区の集会を選び、それが地方議会を選び、地方議会が、自分たちの中から国民代表を選ぶ。すべての議員は、その選任者によって罷免され得るものとする。この指示が配布されたオルレアン公の領地が、わが国の三、四県に相当する広さを持っていたことを、忘れてはならない。
[272] 共和暦八年にシエイエスが提案した憲法を指す。
[273] オルレアン公は、十月五日と六日の事件に関わったとして非難されていた。宮廷とブルジョワジーの一部は、公に反発した。ラ・ファイエットは、これらの非難、さらには脅迫まで、公のもとへ伝えた。その結果、公は恐れをなし、ミラボーが、引き止めるためにあらゆることをしたにもかかわらず、名目上の任務を帯びてイギリスへ出発した。ただちにシャトレ裁判所は、公の有罪を立証するため、十月事件の調査を始めた。公は、一七九〇年七月七日、突然パリへ戻った。同年八月十四日、シャトレ裁判所は、議会に報告書を提出した。起訴すべきだと結論していたが、議会は訴追の許可を拒んだ。
[274] フイヤン派内閣、すなわち国王の最初の立憲内閣である(一七九一年十一月―一七九二年三月)。構成は、司法にデュ・ポール、外務にド・レサール、租税および公収入にタルベ、海軍にベルトラン、内務にカイエ・ド・ジェルヴィル、陸軍にナルボンヌであった。
[275] フイヤン派内閣は、戦争を望んでいなかった。したがって、この時期にヨーロッパとの間で始められたすべての交渉は、敵対行為を防ぐことを目的としていた。フランス政府の政策は、プロイセンとイギリスを味方に引き入れ、オーストリアに対抗させることだった。プロイセンへは、セギュール氏を送った(一七九一年十二月二十二日)。同時に、ナルボンヌ氏は、ブラウンシュヴァイク公にフランス軍の総指揮を提案するため、若いキュスティーヌを派遣した。イギリスでは、非公式の交渉者はタレーラン氏だった(一七九二年一月十二日)。ド・レサール氏は、さらにスペインとの友好を保とうとした(ブルゴワンのマドリード派遣、一七九二年二月)。イギリスとの接近の試みがもたらす結果について、皇帝を安心させようとし(一七九二年一月十六日付、ド・レサールからウィーン駐在大使ノアイユ氏への書簡)、帝国議会のいかなる介入も防ごうと努めた(バルベ=マルボワ氏の派遣、一七九二年一月一日)。
[276] アントワーヌ・ド・ヴァルデック・ド・レサール。一七四二年生まれ。一七六八年に請願審査官、一七九〇年十二月に財務総監、一七九一年一月に内務大臣、次いで同年十一月に外務大臣。一七九二年三月九日、ブリソの提案により、議会は彼の起訴を決議した。逮捕され、国民高等裁判所の置かれたオルレアンへ送られた。ダントンの命令でパリへ連れ戻される途中、一七九二年九月九日、ヴェルサイユで虐殺された。
[277] タレーランは、グレンヴィル伯にド・レサール氏の書簡を届け、イギリスの中立、さらには同盟を得る任務も負っていた。一七九二年一月十二日、ビロン公とともに出発した。三月九日にパリへ戻った。(ソレル『ヨーロッパとフランス革命』第二巻、第三編を参照。)
[278] ジャン=ピエール・ブリソ。シャルトルの宿屋の主人の十三番目の子供。一七五四年生まれ。ほどなく、自分が育った村の名、ウアルヴィル、またはワルヴィルを、自分の名に加えた。パリへ来て、一七八九年、『フランスの愛国者』という新聞を創刊し、そこで新思想を、力強く、才気をもって擁護した。パリ・コミューンの一員に選ばれ、次いで一七九一年に国民議会、さらに国民公会の議員となった。二年のうちに、一時は情勢を支配したジロンド派の指導者のひとりとなった。初めは国王を救おうとしていたが、それでも、人民への付議を条件として、死刑に票を投じた。仲間たちとともに、ジロンド派への追放措置に巻き込まれ、一七九三年五月三十一日にギロチンにかけられた。
処刑日の1793年5月31日は、GutenbergのHTML版・テキスト版と、照合した印刷本(本文221頁、スキャン262頁、同頁注2)に共通する記述である。一方、注231は、シルリーがジロンド派とともに1793年10月31日に処刑されたと記している。ここでは両注の不一致を解消せず、それぞれの原文の日付を保った。
[279] ベルギー国境でのビロン公の敗北と、ディロン将軍の部隊の潰走(一七九二年四月三十日)。
[280] ルイ=アレクサンドル、ラ・ロシュ=ギュイヨンおよびラ・ロシュフコー=ダンヴィル公。一七四三年生まれ。初め軍人の道を進んだ。名士会の一員、三部会の貴族代表となり、新思想に好意を示し、議会の主要な改革に賛成票を投じた。一七九一年にパリ県の議長となったが、一七九二年六月二十日後に辞職し、パリを離れた。しかし、ジゾールで身元を見抜かれ、石を投げつけられて殺害された。
[281] ジェローム・ペティオン・ド・ヴィルヌーヴ。一七五三年、シャルトル生まれ。同市の弁護士だったとき、三部会の第三身分代表に選ばれた。議会とクラブで、急速に大きな影響力を得た。一七九〇年十一月、議長に選ばれた。一七九一年六月、ヴァレンヌへ国王を迎えに行く任務に指名され、同年十一月十四日、パリ市長に任じられた。シャルトル選出の国民公会議員となり、議長に選ばれ、ジロンド派に加わった。国王の死刑に票を投じた。五月三十一日に追放の対象となったが、脱出に成功し、カーンへ逃れて、西部で抵抗を組織しようとした。ヴェルノンでの敗走(一七九三年七月)後、表舞台から姿を消し、一年近く南部をさまよった。一七九四年六月、ジロンドのサン=テミリオン近郊の畑で、遺体が発見された。
[282] ヴァルミーの勝利。一七九二年九月二十日。
[283] ウィリアム・ペティ、ランズダウン侯、シェルバーン伯。一七三七年生まれ。初め軍に入った。貴族院議員(一七六一年)、枢密院議員(一七六三年)、首席国務大臣、第一大蔵卿(一七八二年)。一七八三年に辞職した。死去する一八〇四年まで、フランスの友であり続け、ピットの政策に敵対した。
[284] フランシス・ロードン。ハンティンドン伯、モイラ伯、ヘイスティングズ侯の名で、順に知られた。一七五四年生まれ。アイルランドに定住したノルマン系の家の出身。一七八二年に貴族院議員となり、つねにホイッグ党に属した。東インド総督、次いでマルタ総督を務め、一八一六年に死去した。
[285] リチャード・プライス。一七二三年生まれ。イギリスの哲学者、政治著述家。財政を研究し、一七七二年に新しい債務償還方式を提案した。ピットは、これを適用して成功を収めた。フランスの哲学者たち、とりわけテュルゴーと非常に親しく、革命に好意を示した。一七九一年に死去した。タレーラン氏が、ロンドンに立ち寄った際に彼に会ったと述べているのは誤りである。タレーラン氏が来たのは、プライスの死から数か月後だったからである。
[286] ジョゼフ・プリーストリー。イギリスの名高い学者、哲学者。一七三三年生まれ。政治上、宗教上の見解のため、アメリカへ移住せざるを得なくなり、同地で一八〇四年に死去した。フランス市民および国民公会の名誉議員に任じられていた。
[287] ジョージ・カニング。一七七〇年、アイルランド系の家に、ロンドンで生まれた。一七九二年には、すでにクラブの優れた弁論家で、ホイッグ党の最も目立つ一員だった。一七九三年、突然政治的信条を変え、一七九四年に下院に入り、ピットの最も熱烈な側近のひとりとなった。一八〇七年に外務大臣となったが、同僚カスルレーとの大きな評判になった決闘の後、一八〇九年に辞職した。リスボン大使(一八一四年)。外務大臣(一八二二年)。一八二七年に死去した。
[288] サミュエル・ロミリー。イギリスの名高い法律家。一七五七年生まれ。しばしばフランスへ来て、当代の主要な作家や政治家と親交を結んだ。一八一五年に下院議員となり、ナポレオンの拘禁に対し、声を上げて抗議した。一八一八年に死去した。
[289] ピエール・デュモン。スイスの政治著述家。一七五九年、ジュネーヴ生まれ。プロテスタントの牧師だった。内乱のために祖国を離れざるを得ず、ロシアへ、次いでイギリスへ渡り、一七八八年にフランスへ来た。そこで、革命の主要人物たち、とりわけミラボーとタレーランと交際した。ミラボーについては、興味深い回想録を残している(ジュネーヴ、一八三一年)。一八一四年にジュネーヴへ戻り、一八二九年に死去した。
[290] ジェレミー・ベンサム。イギリスの政治著述家、道徳思想家(一七四七―一八三二)。
[291] ヘンリー・ペティ、ランズダウン侯。シェルバーン伯にしてランズダウン侯であった、ウィリアム・ペティの息子。一七八〇年生まれ。一八〇二年に下院議員、一八〇六年に財務大臣、一八〇九年に貴族院議員となった。一八二七年、カニング内閣の内務大臣に任じられ、ほどなく、ゴドリッチ卿の短命な内閣で外務大臣となった。一八三〇年、評議会議長として政務に戻り、一八三四年に退いたが、翌年に復帰し、一八四一年までとどまった。一八四六年、再び評議会議長たる大臣となった。一八五二年、最終的に引退した。
[292] チャールズ・フォックス。一七四八年生まれ。ジョージ二世のもとで大臣を務めた、ホランド卿の息子。十九歳で下院議員となり、大蔵委員となった。一七七四年に罷免されると、雄弁によってホイッグ党の指導者となった。外務大臣(一七八二年)。つねにフランスと革命に好意を示し、ピットの政策に敵対した。再び外務大臣となり(一八〇六年)、同年に死去した。
[293] エイリアン・ビル、すなわち外国人法は、イギリスで、外国人の取り締まりに関するあらゆる法律に与えられる名である。最初のものは一七八二年にさかのぼる。一七九三年、グレンヴィル卿は、フランス人避難民を警察の監視下に置き、国外追放できるようにする法律を成立させた。一七九四年一月、タレーランに適用されたのは、この法律である。
[294] H・ダンダス(メルヴィル卿)。一七四一年、スコットランドの貴族の家に生まれた。エディンバラ選出の議員となり、つねにピットの政策を擁護した。一七八三年にインド監督局長官。一七九一年に内務大臣。陸軍大臣。王璽尚書。一八〇四年に海軍大臣。一八一一年に死去した。
原文 Premier lord de l’amirauté は、文民の海軍大臣 First Lord of the Admiralty を指す。職業軍人の海軍首脳である First Sea Lord(第一海軍卿)とは別の職。 両職の区別について、英国議会の1912年3月20日の説明を参照:https://api.parliament.uk/historic-hansard/commons/1912/mar/20/board-of-admiralty-organisation-and
[295] ウィリアム・ピット。チャタム卿の次男。一七五九年生まれ。二十二歳で議会議員となり、二十八歳で財務大臣となった。一七八三年に辞職したが、同年末、第一大蔵卿として政務へ復帰した。ピットは、対仏諸同盟の中心人物だった。一八〇一年のリュネヴィル条約によって退陣を余儀なくされたが、アミアンの講和の破綻によって、権力の座へ戻った。第三次対仏同盟を起こし(一八〇五年)、一八〇六年に死去した。
[296] アーノルド将軍は、アメリカ合衆国の独立戦争の間、アメリカ軍の状況に関する情報をイギリス側に渡したため、死刑を宣告されていた。
[297] ボーメッツ氏。一七六九年生まれ。アルトワ最高評議会の一員。三部会議員となり、立憲派とともに投票した。一七九二年に亡命し、イギリス、合衆国、最後にインドへ渡り、そこで死去した。
[298] ウィリアム・ペン。一六四四年、ロンドン生まれ。ペン提督の息子。クエーカーとなったため、多くの迫害を受け、三度投獄された。国家に対する四十万フランの債権を相続すると、その代わりに、デラウェア川の西に位置する北アメリカの土地の所有権を得た。一六八一年、そこに自分の名を取った植民地、ペンシルヴェニアを建設し、フィラデルフィアを築いた。自らの領土に憲法を与え、それが合衆国憲法の基礎となった。イギリスへ戻り、一七一八年、同地で死去した。
[299] ベツレヘム。フィラデルフィアから八十キロメートルの、ペンシルヴェニアの小都市。一七四一年、モラヴィア兄弟団によって設立された。十五世紀にさかのぼるこの宗教団体は、よく知られており、その会員たちは、昔のフス派の子孫である。ヨーロッパで圧迫と迫害を受け、その一部が、合衆国に避難場所を求めて渡ってきていた。
[300] 著者が合衆国を旅したのは、一七九四年であったことを、忘れてはならない。したがって、非常に多くのドイツ人やアイルランド人の農民が、アメリカへ渡り、タレーラン氏がアメリカ人に示した役割を果たすことになった、大規模な移民の動きより、ずっと前のことである。(バクール氏の注。)
[301] マチャイアス。メイン州の小さな貿易港。
[302] この旅で、私の記憶に残る幾つかのことを経験した。少しばかり頭の働きが活発で、祖国からの知らせを恐れている者にとって、時間を無駄に過ごすのは、思うほど容易なことではない。感じることのできる刺激は、身体に関わるものばかりとなる。道もない大きな森で迷い、真夜中に馬上にいて、互いに一緒にいることを確かめるため、声を掛け合う。それは、私には言い表せない、ある感覚を抱かせる。ほんの小さな出来事にも、自分たち自身を笑うような、ある種の愉快さが交じるからである。私が「X君、そこにいますか」と叫び、相手が「ああ、神さま、はい、猊下、ここにおります」と答えると、自分たちの境遇を笑わずにはいられなかった。この、なんとも哀れな「ああ、神さま、はい」と、オータン司教の地位から引き出された「猊下」は、私を笑わせずにはおかなかった。あるとき、コネティカットの奥地で、非常に長く進んだ後、私たちは一軒の家に立ち寄った。その家は、親切にも泊めてくれ、そのうえ、晩餐まで出してくれた。その日は、普通のアメリカの家にあるより、少し多くの食料があった。泊まった家の家族は、老人、五十歳ほどの女性、体格のよい二人の青年、それに若い娘から成っていた。燻製の魚、ハム、ジャガイモ、強いビール、蒸留酒を勧められた。たちまち、強いビールと蒸留酒によって、会話が弾んだ。少し酔いの回った二人の青年は、自分たちの出発について話した。数週間、ビーバー狩りに行くという。その話しぶりが、あまりにも生き生きとして面白かったので、蒸留酒を何杯か飲んだ後には、ボーメッツ氏、ヘイデコペル氏、それに私は、ぜひとも同行したくてたまらなくなった。それは、数週間を使う、あるいは無駄にする、新しい方法だった。質問するたびに、酒を飲ませてくれた。この長い晩から私が覚えているのは、ビーバーの毛皮がよいのは晩秋だけであること、待ち伏せて殺すこと、割り木を餌につけた槍を仕掛けること、凍りついたときに巣を襲うことだった。するとビーバーは水中へ逃げるが、長くは潜っていられないので、氷に開けておいた穴へ息をしに来る。そこで、足をつかまえるのである。この小さな戦争の話は、私たちを大いに引きつけたので、ほかの者より狩猟好きだったのか、それとも、いっそう浮かれていたのか、ボーメッツは、この人たちの小さな企てに、私たちも加えてもらえないかと申し出た。相手は承知した。こうして私たちは、コネティカットの狩人仲間に加わったのである。約束を交わすと、どうにかこうにか、自分の寝床を探しに行った。朝になった。眠るうちに、蒸留酒の酔いはさめていた。持っていかなければならない一切の荷物が、少々重く思え始めた。まったくのところ、食料の重さは、四十リーヴル近くあったと思う。森や沼地で二か月を過ごすのも、少々長すぎると思われた。私たちは、前の晩にした約束を取り消そうとした。家に数ドルを置いていくと、約束から解放してもらえた。こうして私たちは、前の晩のことを、いささか恥じながら、再び道を進んだ。いや、旅を続けたのである。(タレーラン公の注。)
食料の重さのリーヴルは、通貨ではなく重量単位 livre。「数週間」と、翌朝の「二か月」は、原文の異なる表現をそのまま保った。
[303] アレクサンダー・ハミルトン。一七五七年、アンティル諸島のネーヴィス島に、スコットランド系の家に生まれた。まだごく若いうちから、合衆国の独立戦争に積極的に参加し、大佐に任じられた。ニューヨーク州は、憲法を制定した一七八七年の会議へ、彼を送った。ハミルトンは、連邦制の最も熱心な擁護者のひとりだった。一七八九年、ワシントンが財務長官に任じた。一七九五年、自ら職を退いた。一七九八年、フランスとの戦争が起こりかけたとき、ハミルトンは将軍に任じられた。六年後(一八〇四年)、合衆国副大統領バー大佐との決闘で命を落とした。
[304] この解決とは、スペイン植民地の解放であった。蜂起は、一八一〇年、メキシコから始まった。一八二四年には、スペインは、アメリカ大陸全体に、もはや何も領有していなかった。
[305] タレーラン氏が、ブロイ公によって最近刊行されたスタール夫人との書簡を交わしたのは、この三十か月の間、およびそれ以前にロンドンで過ごした間のことである。(『外交評論』一八九〇年一月号および四月号所収、「ブロイ城文書から抜粋した、タレーラン氏よりスタール夫人への書簡」を参照。)
「最近」は原注の執筆時点を指す。
[306] マリー=ジョゼフ・シェニエ。一七六四年、コンスタンティノープル生まれ。アンドレの弟だった。初め軍人となり、のちに文学に専念し、共和主義的、革命的な幾つかの悲劇を書いて、名を上げた。セーヌ=エ=オワーズ選出の国民公会議員となり、国王の死刑に票を投じた。一七九五年八月、議会議長。五百人会議議員。ブリュメール十八日後、護民院議員となった。帝政下では学務監察官を務め、一八〇六年に罷免され、一八一一年に死去した。
GutenbergのHTML版とテキスト版は罷免年を1800年とするが、照合した印刷本(本文247頁、スキャン288頁、同頁注1)は1806年とする。訳文は印刷本の1806年に従った。
[307] ピエール・ドーヌー。一七六一年生まれ。オラトリオ会に入っていたが、一七九二年、パ=ド=カレーから国民公会へ送られると、あらゆる聖職の務めをやめた。国王を裁判にかけることに抗議し、追放に票を投じた。一七九二年十月三十一日、七十三人の同僚とともに逮捕され、一年間、獄中にとどまった。テルミドール九日後、国民公会議長。五百人会議議員。護民院議員となったが、一八〇二年に除かれ、帝政下では隠退生活を送った。王政復古下で議員となり、一八三九年にフランスの貴族院議員に任じられ、一八四〇年に死去した。
[308] タレーラン氏のフランス帰国を許す国民公会の決議は、彼がいうとおり、シェニエ氏とドーヌー氏が提案したものだった。しかし、その背後には、多くの友人、とりわけスタール夫人からの働きかけがあった。
[309] ラ・ロシュフコー=リアンクール公。
[310] アデライード・フィユール。一七六一年、パリ生まれ。ごく若くして、陸軍少将フラオー伯と結婚した。伯は、一七九三年にギロチンにかけられた。彼女は、一七九二年に亡命していた。テルミドール九日後、フランスへ戻ろうとしたが、ハンブルクにとどまらなければならなかった。そこで、当時ポルトガルのデンマーク駐在公使だった、ジョゼ・ド・ソウザ=ボテーリョ侯と知り合った。フラオー夫人は、一八〇二年、彼がパリ駐在公使に任じられたばかりのときに、彼と結婚した。ソウザ氏は、ほどなく罷免されたが、死去するまでパリに住み続けた(一八二五年)。ソウザ夫人は、名声をもたらした幾つかの小説を刊行した。一八三六年に死去した。
[311] すべてのアカデミーは、一七九三年に廃止されていた。国民公会は、共和暦三年の憲法に、「発見を収集し、技芸と科学を進歩させる任務を負う」国立学術研究所を設立する、と記した。一七九五年の法律が、この研究所を組織し、四つの部門に分け、百四十四人の会員と百四十四人の準会員を置いた。アカデミーという旧来の名に戻ったのは、一八一六年になってからだった。
[312] この二つの論文は、『学術研究所論文集、道徳・政治科学部門』に刊行された(第一集、第二巻、一七九九年)。第一の「イギリスと合衆国の通商関係について」(共和暦五年ジェルミナル五日)は、植民地の独立宣言によってイギリスは何も失わず、アメリカにおいて、開発と入植のための実質的な植民地を、つねに保ち続けるだろうと論証しようとするものである。第二の「新植民地から得られる利益について」は、共和暦五年メシドール二十五日に朗読された。その中心思想は、革命の後、その成果を保とうとするならば、国の活力を新たな活動の場へ向ける必要がある、というものだ。そして、フランスの現状では、政府は、あらゆる党派の騒擾を起こす勢力や不満を持つ者たちに、植民のための広大な領土を提供するよう努めるべきだ、とする。
[313] ポール・ド・バラス伯。ヴァールのフォックス=アンフーに生まれ、一七八九年には大尉だった。国民公会議員となり、国王の死刑に票を投じた。国民公会議長(一七九五年二月)。総裁政府の成立からブリュメール十八日まで、総裁を務めた。クーデター後、政治の舞台から姿を消し、一八二九年に死去した。
[314] ラ・レヴェリエール=レポーとルーベル。
[315] 一七九七年の夏、大臣の顔ぶれは全面的に変わった。タレーランが外務、ランブレヒトが司法、ルトゥルヌーが内務、シェレール将軍が陸軍、プレヴィル・ル・ペレー提督が海軍、ソタンが警察を担当した。ラメルは財務にとどまった。
[316] シャルル・ド・ラクロワ・ド・コンスタン。一七五四年生まれ。一七八九年には財務総監部の事務室長だった。国民公会議員となり、国王の死刑に票を投じた。元老会議議員。外務大臣(一七九六年)。オランダ駐在大使(一七九七年)。ブーシュ=デュ=ローヌ県知事(一八〇〇年)、次いでジロンド県知事。一八〇八年に死去した。画家ウジェーヌ・ドラクロワの父である。
[317] ウスターシュ・ブリュイ。一七五九年、サン=ドマング生まれ。一七八九年には海軍大尉だった。一七九八年に海軍少将および海軍大臣となった。一八〇五年に死去した。
[318] ラザール・カルノー。一七五三年、コート=ドールのノレに生まれた。一七八九年には砲兵将校だった。立法議会、次いで国民公会の議員となり、国王の死刑に票を投じた。公安委員会の一員となり、戦争の準備と指揮を任された。十四県から元老会議議員に選ばれ、総裁に任じられた。フリュクティドール十八日に追放の対象となり、ジュネーヴへ逃れた。統領政府下では陸軍大臣、次いで護民院議員を務めた。一八一四年に師団将軍およびアントウェルペン総督に任じられた。百日天下では内務大臣となったが、王政復古時に追放され、一八二三年、マクデブルクで死去した。
ジュネーヴへ逃れたとするこの原注は、カルノーをカイエンヌへ送られた人物の中に数える本文の記述と異なる。本文側の訳者注も参照。
[319] 第一次対仏同盟との戦争を終わらせた条約を、年代順に挙げる。トスカーナ大公との条約(パリ、一七九五年二月九日)。プロイセンとの条約(バーゼル、一七九五年四月五日)。スペインとの条約(バーゼル、一七九五年七月二十二日)。ヘッセン=カッセルとの条約(バーゼル、一七九五年八月二十八日)。サルデーニャとの条約(パリ、一七九六年五月十五日)。ヴュルテンベルクとの条約(パリ、一七九六年八月七日)。バーデン辺境伯との条約(パリ、一七九六年八月二十二日)。両シチリア国王との条約(パリ、一七九六年十月十一日)。パルマとの条約(パリ、一七九六年十一月五日)。教皇との条約(トレンティーノ(Tolentino)、一七九六年二月十九日)。ヴェネツィアとの条約(ミラノ、一七九七年五月十六日)。ポルトガルとの条約(一七九七年八月二十日)。皇帝との条約(カンポ=フォルミオ、一七九七年十月十七日)。
「年代順」とあるが、Tolentinoの条約の日付は、GutenbergのHTML版・テキスト版と照合した印刷本(本文255頁、スキャン296頁、同頁注1)で、いずれも1796年2月19日とされる。ここでは原注の配列と日付をそのまま保った。
[320] 一七九七年七月十八日。
[321] タレーランがボナパルトとの関係を始めた書簡は、次のとおりである。
パリ、一七九七年七月二十四日。
将軍、執行総裁政府が私を外務大臣に任じたことを、謹んでお知らせいたします。私は、この職務の危険を伴う重大さを感じ、もっともなことながら恐れを抱いております。そのため、あなたの栄光が、交渉にどれほどの手段と便宜をもたらすかを思うことで、心を落ち着ける必要があります。ボナパルトという名だけで、あらゆる障害を取り除くはずの援軍となるのです。総裁政府から、あなたにお伝えするよう託される見解は、すべて速やかにお届けいたします。そして、あなたがそれをどのように実行されたかを総裁政府へ知らせる喜びは、いつものあなたの代弁者である名声によって、しばしば私から奪われることでしょう。
(『ナポレオン・ボナパルトと総裁政府、大臣その他との未刊公式書簡集』、パリ、一八一九年、八折判七巻。)
[322] 早くも一七九六年、ピットは講和を打診し、マームズベリーをパリへ送っていた。交渉は、一七九六年十二月十九日に打ち切られた。翌年、マームズベリーはリールへ戻り(七月四日)、新たな交渉が始められたが、これも同様に実を結ばなかった。
GutenbergのHTML版は交渉の中断日を1796年12月1日とするが、テキスト版と照合した印刷本(本文256頁、スキャン297頁、同頁注1)は12月19日とする。訳文は後二者に従った。印刷本では、この注に続いて同じ注の一部としてジェイムズ・ハリスの略伝が置かれているが、Gutenbergでは本文中に分離している。
ジェイムズ・ハリス、マームズベリー伯爵は、一七四六年生まれ。一七六八年に大使館書記官。一七七一年、ベルリン公使、一七七七年、ペテルブルク公使、一七八三年、ハーグ公使。一七八八年に貴族院議員。その公的な生涯は、フランスへの派遣をもって終わった。一八二〇年に死去した。
電子版HTMLでは本文中に置かれているが、TXTおよび比較用原本画像の印刷頁256では、原注322の第二段落に当たる編者の人物解説である。表示時には原注322の前段の後へ移し、本文は直前の段落から次の段落へ直接続ける。新しい原注番号は設けず、HTML末尾の余分な閉じ角括弧は訳文表示から除いた。
[323] 共和暦五年フリュクティドール十八日(一七九七年九月四日)のクーデターである。五月の選挙で反革命の多数派が送り込まれた両議会に対し、総裁政府が軍の助けを受けて行った。選挙の大部分が無効とされ、六十五人の議員がカイエンヌへ送られた。
[324] 長期議会は、イギリスで、チャールズ一世が最後に招集した議会に与えられた名である。一六四〇年に開かれ、二十年以上続いた。一六四八年、クロムウェルは、自分の政策に反対する議員を全員排除させ、一六五三年には、議会そのものを解散させた。一六五九年に呼び戻され、「残部議会」というあだ名で呼ばれ、一六六〇年に解散した。
[325] カンポ=フォルミオ条約以来、なお争われていた問題(ライン川の航行、領地を失った諸侯への補償など)を解決するため、ラシュタット(バーデン大公国)で会議が開かれていた。一七九八年初めに開かれたが、翌年初め、戦争によって突然中断された。
[326] この書簡は、タレーラン公の文書の中からは発見されていない。
[327] ルイ=アントワーヌ・ド・ブーガンヴィル。一七二九年生まれ。初め大使館書記官、次いで竜騎兵将校となった。海軍に入ったのは、三十四歳になってからだった。一七六六年、三年間に及ぶ世界周航へ出発した。一七九〇年に海軍を去り、学術研究所に入り(一七九六年)、帝政下で元老院議員となり、一八一四年に死去した。
[328] ルイ十八世が、亡命中に名乗っていたのが、この名である。
[329] ジョゼフ・フェッシュ。一七六三年、アジャクシオ生まれ。一七八九年には、同市の参事会の大助祭だった。聖職者民事基本法に抗議した後、参事会を去り、聖職者の服を脱ぎ、イタリア軍の軍事行政官となった(一七九五年)。ブリュメール十八日後、フェッシュは司祭の職務に復帰し、リヨン大司教(一八〇二年)、枢機卿、ローマ大使(一八〇四年)となった。一八〇八年に召還された。百日天下でフランスの貴族院議員となったが、王政復古時にはローマへ退き、一八三九年に死去した。
[330] メルラン・ド・ドゥエー(一七五四―一八三八)。元制憲議会議員および国民公会議員。一七九五年に司法大臣、次いで警察大臣となり、最後にフリュクティドール十八日後、総裁となった。帝政下では、破毀院長を務めた。
[331] 総裁政府は、イギリスをその本土で攻撃しようとしていた。アイルランドは好適な場所に思われ、住民の蜂起を期待できた。一度目の上陸の試みは、一七九七年一月に失敗していた。第二の遠征隊は、八月に出発した。アンベール将軍は、千百人を率いてスライゴ湾に上陸し、キララとキャッスルバーで勝利を収めたが、バリナマックで敗れ、降伏を余儀なくされた。
[332] オッシュは、一七九七年九月十八日に急死した。当時、サンブル=エ=ムーズ軍およびライン=エ=モーゼル軍の総司令官だった。
[333] オトン・ド・ナッサウ=ジーゲン公。一七四五年生まれ。ブーガンヴィルの世界一周航海に同行した(一七六六―一七六九年)。帰還するとフランスに仕え、次いでスペインへ移り、グランデの身分と将軍の階級を授けられた。一七八七年にロシアへ赴き、艦隊司令官に任じられ、ウィーン、ヴェルサイユ、マドリードでのさまざまな外交任務を負った。一七九〇年に海軍中将となったが、グスタフ三世に敗れた。その後、公職から退き、一八〇二年にパリへ来て、一八〇九年に死去した。
グランデはスペインの高位の貴族身分。注119の訳者注参照。
[334] ポーランドの第三次、そして最後の分割である(一七九五年二月十一日)。
[335] 当時のスイス諸州は、今日のように、すべてが独立していたわけではない。とりわけヴォー州は、ベルンに従属していた。同州は蜂起したが、敗れた。多くのヴォーの住民が、フランスへ逃れた。皆、スイスは、オーストリアに支配された連邦主義派に隷属していると訴え、総裁政府の介入を求めた。スイスは侵攻を受け(一七九八年二月)、フランスと類似の憲法のもと、レマン共和国が宣言された。
「今日」は原注の執筆時点を指す。スイスの canton は、この文脈では州と訳す。
[336] 一七九七年十二月二十七日、ローマで暴動が起き、デュフォ将軍が殺害された。翌二月十日、ベルティエ将軍が市を占領した。五日後、総裁政府の働きかけによって、民衆がローマ共和国を宣言した。
[337] 一七九九年一月。当時のナポリ国王は、スペイン国王カルロス三世の息子、フェルディナンド四世だった。女帝マリア=テレジアの娘、マリア=カロリーナと結婚していた。
[338] ロベルジョ、ボニエ、ドブリの三氏。傷を負っても生き延びたのは、三人目だけだった。
[339] ヴィクトル・モロー。一七六三年、モルレーに生まれた。一七八七年には、レンヌ法学校の総代だった。一七九二年に入隊し、翌年には将軍となり、ライン軍(一七九六年)、イタリア軍(一七九九年)、再びライン軍(一八〇〇年)を、順に指揮した。第一統領に強く敵対し、カドゥーダルの陰謀への加担を告発され、二年の禁錮を宣告された。ボナパルトは、これを国外追放に減刑した。一八一三年、アメリカから戻ったモローは、元帥としてロシア軍に仕え、ドレスデンで致命傷を負った(八月二十六日)。
レンヌ法学校の「総代」は、原文 prévôt de l’école de droit の職名を訳したもの。
[340] シャルル・ピシュグリュ(一七六一―一八〇四)。一七八九年には砲兵下士官だった。一七九三年にライン軍総司令官に任じられ、一七九四年に北部軍へ移り、オランダを占領した。王党派に取り込まれ、コンデ軍の指導者たちと関係を結んだ。総裁政府から疑われるようになり、一七九六年に罷免された。一七九七年、五百人会議に選ばれ、反革命派の指導者となった。そのため、フリュクティドール十八日に逮捕され、ギアナへ流刑にされた。ほどなく脱出してイギリスへ渡り、一八〇三年、カドゥーダルの陰謀に加わった。パリで逮捕され、獄中で自ら首を絞めて死んだ。
[341] アレクサンドル・マクドナルド(一七六五―一八四〇)。アイルランド系の家の出身。ディロンのアイルランド連隊に入隊し、一七九五年に師団将軍、一七九八年にローマ諸領の総督となった。一八〇四年に失脚したが、一八〇九年に軍務へ復帰し、ヴァグラムの後、元帥およびタラント公となった。一八一四年に貴族院議員、次いでレジオン・ドヌール勲章総裁に任じられた(一八一六年)。
[342] 一七九九年六月十七日、十八日、十九日。
[343] カール大公(一七七一―一八四七)。皇帝レオポルトの息子。一七九六年に帝国元帥、陸軍大臣(一八〇二年)。一八〇五年と一八〇九年、オーストリア諸軍の総司令官。大公は、当代第一級の将軍のひとりであり、ナポレオンにとって最も手ごわい敵だった。
[344] マセナは、当時ヘルヴェティア軍の総司令官だった。ロシア軍が壊滅したチューリヒの戦いは、一七九九年八月二十六日である。
戦闘日の1799年8月26日は、GutenbergのHTML版・テキスト版、および照合した印刷本(本文268頁、スキャン309頁、同頁注1)に共通する記述である。訳文では原注の日付を保った。
[345] エジプト出発前のタレーランとボナパルトの関係という問題について、ナポレオンは、のちに次のように述べた。「エジプト遠征隊の出発後、ただちに、その目的についてオスマン政府との交渉を始めることが、総裁政府およびタレーランとの間で取り決められていた。タレーラン自身が交渉者となり、エジプト遠征隊がトゥーロン港を出てから二十四時間後、コンスタンティノープルへ出発することになっていた。正式に要求され、明確に承諾されたこの約束は、忘れ去られた。タレーランがパリにとどまったばかりか、何の交渉も行われなかった。」(『セントヘレナでグールゴー将軍に口述されたナポレオンの回想録』第一巻、六十二頁。)
[346] 一七九九年七月二十日。
[347] フーシェは、バラスの仲介によって、警察大臣に任じられていた。
[348] 両議会が総裁政府に対して起こした、プレリアル三十日(一七九九年五月)のクーデターである。総裁トレヤールは罷免され、ゴイエに交代した。ラ・レヴェリエール=レポーとメルランは、辞職を迫られ、その代わりにムーランとロジェ・デュコが任じられた。シエイエスに全面的に忠実だったのは、この最後の人物である。
「プレリアル三十日(1799年五月)」という日付の組合せは、GutenbergのHTML版・テキスト版と照合した印刷本(本文270頁、スキャン311頁、同頁注1)で一致する。共和暦の日付と括弧内の西暦月の不整合は、ここでは原注どおりに示した。
[349] 一七九九年八月十五日。
[350] 一七九九年十月九日。
[351] ブリュメール十八日の数日前、私の家で、小さな一幕があった。それが興味深いのは、ひとえに当時の事情による。シャントレーヌ通りに住んでいたボナパルト将軍が、ある晩、その日の準備について話すため、私を訪ねてきた。私は当時、テブー通りの一軒家に住んでいた。のちに二十四番地となった家だったと思う。中庭の奥にあり、二階から、渡り廊下を通って、通りに面した別棟へ行けるようになっていた。私たちは、数本のろうそくで照らされた客間にいて、熱心に話し込んでいた。午前一時になったころ、通りで大きな物音が聞こえた。馬車の車輪の響きに、騎兵の護衛の馬の足音が交じっていた。馬車は突然、私の家の門の前で止まった。ボナパルト将軍は青ざめた。私も同じだったと思う。私たちは、同時に、総裁政府の命令で自分たちを逮捕しに来たのだと思った。私はろうそくを吹き消し、小刻みな足取りで渡り廊下を進み、通りに面して、そこで何が起こっているか見える別棟へ向かった。しばらく、この騒ぎが何なのかわからなかったが、ほどなく、かなり滑稽な事情が明らかになった。当時、パリの通りは夜には非常に危険だったので、パレ=ロワイヤルの賭博場が閉まると、賭けを取り仕切るために使われた金をすべて集め、辻馬車に積んだ。賭博の胴元は、自費で雇う憲兵の護衛に、毎晩、その馬車を自宅まで付き添わせる許可を、警察から得ていた。自宅は、クリシー通りか、その近くだった。その夜、一台の辻馬車のどこかが、ちょうど私の門の前で壊れた。それが、そこで馬車を止め、十五分ほども足止めされていた理由だった。将軍と私は、自分たちの恐慌ぶりを、大いに笑った。しかし、私たちのように総裁政府の意向と、どこまで極端な手段に訴えかねないかを知っている者には、それは、まったく当然の恐怖でもあった。(タレーラン公の注。)
[352] ロジェ・デュコ伯。一七五四年生まれ。国民公会議員として、国王の死刑に票を投じていた。元老会議議員。一七九六年に同議長。プレリアル三十日、総裁に任じられた。ブリュメール十八日には、積極的にボナパルトを助け、臨時統領、次いで帝政下の元老院議員となった。一八一四年に廃位を支持したが、それにもかかわらず、百日天下の間は、フランスの貴族院議員となった。一八一五年に追放され、一八一六年、ウルムで死去した。
[353] グレンヴィル卿とトゥーグート氏は、ともにタレーラン氏へ返信し、第一統領の提案を拒んだ。
[354] スヴォーロフは、ピエモンテを占領したばかりであり、主君の命令に従って、サルデーニャ国王に、自分の領国へ戻るよう勧める手紙を書いていた。北イタリア全域を欲していたオーストリアは、この行動に動揺した。軍事作戦の指揮を担っていた宮廷軍事評議会は、この厄介な同盟者をスイスへ送り出すことで、厄介払いをした。ロシア軍は、アルプス越えでひどく苦しみ、チューリヒで壊滅した。皇帝パーヴェルとスヴォーロフは、この惨事をオーストリアの責任とみなし、深く憤った。ロシア軍は呼び戻された。
[355] ツァーリ、パーヴェルによるマルタ騎士団の問題への介入は、当時の歴史の特異な出来事のひとつである。二つの勢力の関係は、一七九五年に始まる。騎士団は、ポーランドに広大な財産を所有していた。この財産が、一七九五年の分割によってロシアに帰属した領土に含まれたため、総長ロアン公は、エカチェリーナと取り決めを交渉しようとした。その間に即位した皇帝パーヴェルは、この問題に心を寄せ、マルタと関係を結び、聖ヨハネ騎士団の古く栄光ある伝統を、熱烈に敬慕するようになった。一七九七年一月四日、ポーランドにある騎士団の財産を、ロシア大管区とする協定が調印された。一年のうちに、七十二の騎士団領が設けられた。ツァーリとその息子は、マルタ騎士団員となった。フランス軍が島を占領した後、ツァーリは、この大管区の求めに応じ、騎士団の保護者を名乗った(一七九八年九月)。二か月後、総長の地位が空席になると、騎士団の一部は、その地位をツァーリに差し出すことを考えた。パーヴェルは、厳かに新たな位を受け入れた。ボナパルトは、これらの事情を巧みに利用して、ロシアに近づき、イギリスから引き離そうとした。そのころ、彼はツァーリに、マルタで発見された総長ラ・ヴァレットの剣を送った。あるいは、別の典拠によれば、総長ヴィリエ・ド・リラダンの剣だったともいう。これは、見事なロドス防衛の記念として、レオ十世が、この名高い戦士に贈ったとされる剣である。マルタがイギリス軍に占領されると、パーヴェルは、総長の資格で島を要求した(一八〇〇年九月)。しかし、イギリス側は、この重要な拠点を譲ることを明確に拒み、その結果、断交に至った。パーヴェルの死(一八〇一年三月)が、この奇妙な一幕を終わらせた。後継者アレクサンドルは島を要求せず、問題は、そのままとなった。(ジョルジェル師の『回想録』を参照。)
ロシア大管区は、騎士団の grand prieuré de Russie。騎士団領は、同じく commanderies と呼ばれる所領・組織単位をいう。剣の由来については、原注の二つの伝承とその不確実さを保った。
[356] ヨーラン・ド・スプレンツポルテン男爵。スウェーデンの将軍で、一七七二年の革命を起こした人物のひとり。のちにロシアに仕えた。ロシアがフィンランドを征服した後、同地の総督となり、忘れられたまま死去した。
[357] 一八〇一年十月八日。アルカディ・イヴァノヴィチ・マルコフ伯は、エカチェリーナの治世下で、外務の首席顧問だった。パーヴェル一世のもとで失脚したが、アレクサンドルによって呼び戻され、一八〇一年、パリ駐在大使に任じられた。ボナパルトの敵意を買い、ボナパルトは彼の交代を求め、それを実現した。ロシアへ戻った後、マルコフは、しばしば重要な外交任務を負った。非常な高齢で死去した。
[358] この重大な問題を十分に説明するには、一冊の本を書かなければならないだろう。そして、私もいつか、書くかもしれない。ルッケジーニ侯は、それを試みた。しかし、その著作では、もっぱら自分自身の弁明にかかずらっている。自分の時代の歴史を書く、悲しいやり方である。なぜなら、それによって同時代人の意見が変わることは、めったにないからだ。きわめて重要な政治問題を解決する任に当たった者は、一般の利益のために私益を犠牲にされた人々に、交渉者を責め、何のためらいもなく中傷するという慰めを、残しておかなければならない。これまで、この時期について刊行されたものの中で、最も正確なのは、ナッサウ家に仕えた才知ある人物、ガーゲルン男爵の著作である。(タレーラン公の注。)
ジェローム・ド・ルッケジーニ侯(一七五二―一八二五)。プロイセンの外交官。一八〇二年、パリ駐在大使となった。前に挙げられた著作『ライン同盟の原因と結果について』は、イタリア語で、匿名のもとに刊行された(フィレンツェ、一八二九年)。
ジャン・ド・ガーゲルン男爵(一七六六―一八五二)。統領政府下で、ナッサウ公のパリ駐在公使を務めた。歴史と同時代の政治に関する、多数の著作を残した。
[359] ルイ=アントワーヌ・ドゼー。リオン近郊のアヤを起源とし、革命前にはデ・ゼ・ド・ヴェグーの名で知られていた、貴族の家の出身。一七六八年生まれ。一七八九年にはブルターニュ連隊の少尉だった。一七九一年に軍事行政官、一七九四年に師団将軍となった。ボナパルトと親交を結び、エジプトへ同行した。エル=アリシュ条約の後、ヨーロッパへ戻り、一八〇〇年六月十四日、マレンゴで戦死した。
[360] フランソワ=エティエンヌ・ケレルマン(一七七〇―一八三五)。老元帥ヴァルミー公ケレルマンの息子。マレンゴでは旅団将軍で、騎兵を率いて勝利を決定づけた。百日天下でフランスの貴族院議員となったが、ルイ十八世によって除かれ、復帰したのは一八三〇年になってからだった。
[361] ミュンヘンの東三十キロメートルにある、バイエルンの村。モローがヨハン大公に勝利したのは、一八〇〇年十二月三日である。
[362] ルイ・ド・コベンツル伯(一七五三―一八〇八)。オーストリアのコペンハーゲン、ベルリン、ペテルブルク駐在大使。カンポ=フォルミオ、ラシュタット、リュネヴィルでの全権。一八〇二年、国務宰相および外務大臣。
原文 chancelier d’État はオーストリアの国家・外交行政における宰相職で、フランスの司法上の大法官とは区別する。
[363] 一八〇一年二月九日。
[364] アメリカの貿易は、国民公会が中立国に対して取った措置によって、大きな損害を受けていた。合衆国がイギリスと条約を結び、敵国の貨物を運ぶあらゆる船を没収する権利を、イギリスに与えると(一七九四年十一月)、国民公会は同じ措置で対抗し、アメリカ政府とのあらゆる関係を断った。一方、連邦議会は、フランスと結んだすべての条約を無効とした。公然たる断交へ向かっていたとき、権力の座に就いたボナパルトが、国民公会の諸決議を廃止した。一八〇〇年九月三十日に調印された条約が、あらゆる困難を取り除き、両国の関係は、正常な状態へ戻った。
[365] ヘンリー・アディントン、シドマス子爵。一七五七年生まれ。一七八二年に下院議員。一八〇一年に財務大臣となり、アミアンの講和に積極的に貢献した。一八〇四年に辞職し、一八〇六年、一時政務へ戻った。一八一二年に内務大臣に任じられ、一八二二年まで、その職を務めた。一八四四年に死去した。
[366] ギヨーム・オットー、モスロワ伯(一七五四―一八一七)。一八〇〇年にはロンドン駐在公使だった。ミュンヘン駐在公使、国務参事官、ウィーン駐在大使(一八〇九年)、一八一三年に国務大臣となった。
[367] チャールズ・コーンウォリス。イギリスの政治家、将軍。一七三八年生まれ。一七六二年に貴族院議員、一七八六年にインド総督、一七九三年にアイルランド総督。一八〇一年、アミアンの全権のひとりとなった。一八〇五年、再びインド総督となったが、任地への到着に際して死去した。
[368] スペインはトリニダード島を、オランダはセイロンを失った。
[369] 一七九九年十二月、休戦が調印されていた。一八〇〇年一月十八日、ドーティシャン氏は、ロワール川左岸の諸地方を代表して武器を置いた。二十日、シャティヨン氏が、右岸を代表して同じことをした。ブルターニュでは、ブルモン氏が一月二十四日、ジョルジュ・カドゥーダルが二十七日に降伏した。この地方は、ほどなく完全に平定された。
[370] ボナパルトは、早くも一八〇〇年六月、ヴェルチェッリ司教マルティニアーヌ枢機卿を介して、ローマ宮廷との交渉を始めていた。
[371] コンコルダートは、一八〇一年七月十五日に調印された。コンサルヴィ枢機卿は、ローマ宮廷の国務長官だった。
[372]
政府文書
共和暦十年フリュクティドール二日の決定
共和国の統領たちは、一八〇二年六月二十九日に、ローマのサン=ピエトロにおいて発せられた、教皇ピウス七世の小勅書に鑑み、
宗教に関するすべての事務を担当する国務参事官の報告に基づき、
国務評議会の意見を聴いたうえで、
次のとおり決定する。
一八〇二年六月二十九日に、ローマのサン=ピエトロにおいて発せられた教皇ピウス七世の小勅書、すなわち、フランス外務大臣である市民シャルル=モーリス・ド・タレーランを、世俗の俗人としての生活へ戻す小勅書は、その効力を完全に発揮するものとする。
第一統領 ボナパルト。
国務長官 H=B・マレ。
[373] フレデリック=セザール・ド・ラ・アルプ(一七五四―一八三八)。ヴォー州生まれ。同地で起きた騒乱に積極的に加わった。ベルン州の勝利の後、追放され、フランスへ逃れて、総裁政府の介入を促した。ヘルヴェティア共和国が宣言されたとき、総裁に任じられた(一七九八年)。
[374] ピエール・オクス(一七四九―一八二四)もまた、ヴォー州の反乱の後に危うい立場となった、スイス人避難民だった。ヘルヴェティアの元老院議員となり、一七九八年には総裁となった。
[375] 総裁政府のスイスへの介入は、混乱を増すばかりだった。そのため、一八〇二年、ボナパルトが調停を申し出ると、ただちに受け入れられた。すべての州が、パリへ代表を送った。代表たちは、バルテルミー、フーシェ、レデレールの三氏と協議に入った。調停規約は、一八〇三年二月十九日に調印された。各州に個別の憲法を定め、連邦権力を組織するものだった。同年十月十九日、フランスとスイスの間で、同盟条約が結ばれた。
[376] トルコとの条約、一八〇二年六月二十五日。ポルトガルとの条約、一八〇一年九月二十九日。両シチリアとの条約、一八〇一年三月二十八日。後二国は、イギリス人に対して港を閉ざすことを約束した。
[377] 革命戦争以前、ライン川左岸には、世俗と教会の諸侯領が広がっていた。カンポ=フォルミオ条約とリュネヴィル条約は、これらの領土をすべてフランスへ割譲するに当たり、世俗の諸侯には、世俗化した教会財産によって補償を行うと定めていた。今や、この原則を実施することが問題となった。皇帝は、自らこの問題を取り仕切るべきだったが、第一統領に先を越された。第一統領は、関係する幾人かの諸侯から求められ、この機会を逃すはずもなかった。プロイセンには、大幅な拡張を約束し、その協力を確保した(一八〇二年五月二十三日の秘密条約)。バイエルン、バーデン、ヴュルテンベルクの諸家と姻戚関係で結ばれていたアレクサンドル皇帝は、その考えに同調し、領地を失った諸侯の保護者を名乗った(一八〇二年十月十一日の協定)。ただちに、一方のフランスと、他方のヴュルテンベルク、バーデン辺境伯、バイエルン、ヘッセン=カッセルとの間で秘密条約が結ばれ、これらの国の取り分が、それぞれ確保された。全体が帝国議会に提出され、同議会は補償案を一括して採択した(一八〇三年二月二十五日の議決)。皇帝は、長くためらった後、同年四月二十七日、この決定を批准した。(ルフェーヴル『ヨーロッパ諸政府の歴史』第一巻、第六章を参照。)
[378] ある日、革命のジャコバン派の中でも、最も恥知らずな人物のひとりが、第一統領の執務室から出てくるのを見て、私が驚いた様子を示すと、彼がこういったことを覚えている。「あなたはジャコバン派を知らない。二種類いるのだ。砂糖味と塩味だ。今あなたが見た男は、塩味のジャコバンだ。ああいう者なら、思いどおりに使える。新しい権力のあらゆる大胆な行動を支えるために、使ってこれほど役に立つ者はいない。時には、歯止めをかけなければならないが、少し金をやれば、すぐに済む。だが、砂糖味のジャコバンときたら! ああ、あれは始末に負えない。あいつらの形而上学にかかったら、政府が二十あっても、潰されてしまう。」(タレーラン公の注。)
「砂糖味」「塩味」は、引用されたボナパルトの比喩 sucrés / salés を保ったもの。公式な党派名ではない。
[379] 一八〇二年八月二日。
[380] チザルピーナ共和国は、一七九七年に宣言され、一七九九年に倒され、マレンゴの後に再建されたが、一八〇〇年には、その政府は再編されなかった。ボナパルトは、同国の主要人物たちと合意して、確定的な憲法を与えた。終身任命の三つの選挙団が置かれた。大地主の選挙団、商人の選挙団、文人と聖職者の選挙団で、選挙人は全部で七百人だった。これらの選挙人が審査委員会を選び、その委員会が、国のすべての機関を任命する任務を負った。すなわち、八人から成る元老院、国務評議会、立法院であり、それらの権限は、フランスの同機関と同じだった。共和国の首位には、大統領と副大統領がいた。一八〇二年一月、ボナパルトは、憲法を承認させるため、五百人近い構成員から成る大諮問会議をリヨンへ集めた。そこで、自分に大統領職を授けさせた。
[381] アントワーヌ・シャプタル。一七五六年生まれ。公職に就いたときには、すでに名高い学者だった。ブリュメール十八日後、国務参事官および内務大臣となり、次いで一八〇四年に元老院議員およびシャントルー伯となった。百日天下の間は大臣およびフランスの貴族院議員。ルイ十八世は、一八一九年、彼を貴族院へ呼び戻した。一八三二年に死去した。
[382] ジャン=ジャック=レジ・ド・カンバセレス。一七五三年、モンペリエの法服貴族の旧家に生まれた。モンペリエ会計院評定官。エロー選出の国民公会議員となり、国王の死刑に票を投じたが、その決議は、フランスが敵の侵攻を受けた場合に限って執行すべきだ、という留保を付けた。テルミドール九日後、国民公会議長となり、次いで五百人会議議員および議長となった。一七九八年に司法大臣。ブリュメール十八日後、第二統領に任じられた。一八〇四年、カンバセレスは、公、帝国大法官、パルマ公となった。一八一五年に追放され、一八二四年に死去した。
[383] フランソワ・メルツィ・デリル(一七五三―一八一六)。初めから、チザルピーナ共和国の最も熱烈な擁護者のひとりだった。のちにロディ公となり、副王ウジェーヌの大尚書および国璽尚書となった。
大尚書は原文 grand chancelier。続く国璽尚書(garde des sceaux)とともに、副王ウジェーヌに関わる職名として示されている。
[384] ここには本文の誤りがある。イタリア王国が成立したのは、一八〇五年になってからである(ミラノでの戴冠式は五月二十六日)。タレーラン氏がいいたかったのは、明らかに、一八〇二年に、チザルピーナ共和国という正式名称が、イタリア共和国という名称に置き換えられた、ということであろう。
[385] 一七九八年十二月九日、敗れて領土を失った国王カルロ・エマヌエーレは、自分と子孫のための王位を放棄し、臣民に対して、以後はフランス当局に従うよう命じていた。それ以来、ピエモンテは、フランスの将軍たちによって直接統治された。一八〇〇年、マレンゴとホーエンリンデンの前、ボナパルトは、最初の講和提案で、サルデーニャ国王にピエモンテを返還することを申し出ていた。勝利によって要求が厳しくなり、リュネヴィル条約では、この点について何の約束もすることを拒んだ。一八〇一年四月十九日、ピエモンテは六県に分けられ、軍管区とされた。一八〇二年九月四日、フランスに編入された。
[386] 一八〇三年五月十六日。
[387] シャルル=フランソワ・デュペリエ=デュムーリエ。一七三九年、カンブレーに生まれ、十六歳で軍に入った。一七六三年、軍務を離れて外交に転じ、国王の最も活発な秘密外交担当者のひとりとなった。ルイ十六世のもとで、シェルブール総督、次いで陸軍少将に任じられた。一七九二年、外務大臣としてジロンド派内閣に入った(三月十五日)。三か月後には、北部軍総司令官に任じられた。ヴァルミーとジュマップで勝利を収めたが、ネールウィンデンで敗れ、起訴が決議されかけると、コーブルク公と交渉を始めた。自分を逮捕しに来た国民公会の委員たちを、オーストリア側へ引き渡し、自らも敵側へ移った。死去する一八二三年まで国外で暮らし、しばしば亡命者の策謀や陰謀に関わった。
[388] 一八〇四年三月二十一日。
[389] タレーラン氏は、アンギャン公事件に特別な一章を割いている。後続の巻のいずれかに刊行される予定である。
この刊行予定は、原注の執筆時点のもの。
[390] 一七九六年十月十日と一七九七年六月六日の協定以来、リグリア共和国へ改められたジェノヴァ共和国は、フランスの同盟国だった。元老院とドージェが、自分たちの都市のフランスへの併合を求めたのは、一八〇五年六月三日であり、ただちに併合が命じられた。一方、ルッカは、ピオンビーノの女君主エリザ・ボナパルトに与えられた(一八〇五年六月二十四日)。
原文 princesse de Piombino は、ここではエリザ自身の統治者としての地位を指す。君主の妻という意味の「公妃」とは区別した。参照:ナポレオン財団 https://www.napoleon.org/histoire-des-2-empires/biographies/bonaparte-elisa-1777-1820-grande-duchesse-de-toscane
[391] 一八〇三年から一八〇五年にかけて、一方のナポレオンと、他方のオーストリアおよびロシアは、プロイセンとの同盟を争った。国王フリードリヒ=ヴィルヘルムは、どちらの側につくことにも踏み切れなかった。しかし、一八〇五年、フランスとは、単なる中立協定を結んだ。
[392] デュロックは、一七九六年以来、ナポレオンのお気に入りの副官だった。一七七二年生まれ。帝政下で、師団将軍、宮廷大元帥、フリウリ公となった。一八一三年五月二十二日、ヴュルシェンで戦死した。
[393] アントワーヌ・ド・ラ・フォレ伯(一七五六―一八四六)。ミュンヘン駐在公使(一八〇一年)、レーゲンスブルクの帝国議会への公使(一八〇二年)、ベルリン駐在公使(一八〇三年)、一八〇七年にマドリード駐在大使。王政復古下で大臣およびフランスの貴族院議員。
[394] オーギュスト・ド・レミュザ伯。一七六二年生まれ。一七八九年にはエクス会計院の弁護士だった。革命の全期間を通じて、フランスにとどまった。一八〇二年に宮廷監督官、次いで一八〇四年に首席侍従および劇場総監となった。一八一五年、オート=ガロンヌ県知事、次いでノール県知事に任じられた。一八二一年に罷免され、一八二三年に死去した。
[395] カール・マック・フォン・ライベリヒ男爵。一七五二年生まれ。一兵卒として入隊し、一七九二年に将軍となった。幾度もオーストリア軍の指揮を任されたが、つねに敗れた。十月十九日、ウルムの降伏に調印した。ほどなく軍法会議にかけられ、死刑を宣告された。しかし、皇帝フランツが拘禁に減刑し、それも数年しか続かなかった。一八二八年、忘れられたまま死去した。
[396] この覚書は、最近、ピエール・ベルトランによる『タレーランよりナポレオンへの未刊書簡』に収録された(パリ、一八八九年、八折判一巻、百五十六頁)。タレーランは、皇帝がすでに、オーストリアを打ち砕き、早晩ロシアに手を差し伸べるつもりだと予見し、それを思いとどまらせようとし、オーストリアとの同盟を熱心に勧める。オーストリアを、ロシアに対するヨーロッパの防壁にしたいと考える。そのため、モルダヴィア、ワラキア、ベッサラビア、ブルガリアの一部を譲り、オーストリアをロシア帝国と接し、対抗する立場に置こうとする。その代わりに、オーストリアから、イタリアとシュヴァーベンの全領土を取り上げられるだろう。この方策には、さらに別の利点もある。ナポレオンの帝国とハプスブルク家の帝国の間の、領土上の接触をすべてなくすことで、それだけで、戦争のあらゆる口実をなくせるのである。そのようになれば、堅固で永続的な仏墺同盟は、西ヨーロッパ全体の守りとなるだろう。
「最近」は原注の執筆時点を指す。
[397] プロイセン国王は、ついにロシア皇帝の強い求めに屈し、皇帝と協定を結んでいた(一八〇五年十一月三日)。その条項によって、武力を背景とする調停を提案し、ナポレオンが十二月十五日までに受け入れなければ、宣戦することを約束した。交渉を任されたハウクヴィッツ伯は、十二月十三日になって初めて、シェーンブルンでナポレオンに迎えられた。そこで皇帝の脅しにおびえ、訓令に従って行動する代わりに、ハノーファーを代償とする同盟条約を押しつけられるままになった(十二月十五日)。
[398] マリー・シャマン、ラ・ヴァレット伯(一七六九―一八三〇)。当時、フランス郵便総局長だった。初め軍に入り、大尉となり、ボナパルトの信任厚い副官となっていた。一八一五年に死刑を宣告されたが、妻の献身によって救われた。妻は、ジョゼフィーヌ皇后の姪、エミリー・ド・ボアルネ嬢だった。
[399] フランソワ・ド・バルベ=マルボワ。伯、のち侯(一七四五―一八三七)。元老会議の元議員。国庫局長、次いで一八〇二年に国庫大臣。のちに一八〇八年から一八三七年まで会計院長を務めた。一八〇六年、責任を問われた金融危機の後、大臣の職を罷免されていた。国家の納入業者のうち、「合同商人団」の名で会社を作っていた者たちに、異例の支払上の便宜を与えていた。それによって、国庫側からの監督は、ほとんどなくなっていた。この会社は、大臣の信頼を悪用し、危険な投機によって国家財政を危うくしていた。最も明白な結果は、一八〇五年十月、フランス銀行が、即時に支払義務のある証券九千二百万フラン分に対し、金庫には百五十万フランしか持っていなかったことである。恐慌が起き、数か月にわたり、市場は強い影響を受けた。皇帝は帰還すると(一八〇六年一月)、バルベ=マルボワ氏をモリアン氏に交代させた。
この点については、ティエール氏の『統領政府と帝政』(第六巻、三十頁以下、百八十七頁以下、三百七十五頁)、およびモリアン氏の『回想録』を参照。
[400] ヴァランティーヌ・ダルシー。アンヌ・ド・モンモランシー伯と結婚した。(一七八七―一八五八。)
原文の末尾の年代表記を、夫の生没年と明示的に結びつけずに示した。
[401] エレオノール・ド・モンモランシー。一七七七年生まれ。ヴィクトル・ド・ロシュシュアール、モルトマール侯と結婚した。一八〇六年に皇后の女官となった。
[402] フランソワーズ・ド・ナルボンヌ=ペレ。一八〇二年、シャルル=アンドレ・ダルベール、リュイーヌおよびシュヴルーズ公と結婚した。一八〇七年、皇后の宮廷女官となり、一八一三年に死去した。
[403] 皇帝の大臣の妻、マレ夫人。
[404] 一八〇五年十二月二十六日。オーストリアは、イタリアの全領土を失い、それらは新しいイタリア王国に併合された。ティロルとフォアアールベルク、アイヒシュテット侯国、アウクスブルク市、その他さまざまな領主領が、バイエルンに与えられた。ホーエンベルク伯領、ネレンブルク方伯領、ブライスガウの一部、および、ほかの七つの重要な都市は、ヴュルテンベルクに与えられた。バーデン選帝侯は、オルテナウ、ブライスガウの残部、コンスタンツを受け取った。最後に、バイエルンとヴュルテンベルクの選帝侯には国王の称号が、バーデン選帝侯には大公の称号が認められた。
[405] イグナーツ・ジュライ伯(一七六三―一八三一)。一八〇〇年に将軍となっていた。当時のすべての戦争に参加し、一八一三年に元帥、次いで一八二三年にボヘミア最高司令官、一八三〇年に宮廷軍事評議会議長となった。
[406] ヨハン・フォン・リヒテンシュタイン。ドイツの主権諸侯。一七六六年、ウィーン生まれ。一七九四年にオーストリア軍の将軍。一八一四年、自分の公国へ退き、死去するまで統治した。(リヒテンシュタイン公国。ティロルとスイスの間に位置し、人口八千人。首都ファドゥーツ。)
括弧内の人口は、原注に記された当時の数字。
[407] 一八〇五年四月。
[408] 一八〇六年二月十五日の最終的な同盟条約。三月九日、プロイセン国王が批准した。
[409] ルイ・ボナパルトは、一八〇六年六月五日、オランダ国王と宣言された。
[410] 古いドイツ帝国は、一八〇六年には、名ばかりの存在となっていた。ナポレオンは、一八〇六年七月十二日、ドイツの十三人の諸侯と結んだ協定によって、最後の一撃を加えた。主要な諸侯は、マインツ大司教でドイツの首座大司教公であるダールベルク男爵、バイエルンおよびヴュルテンベルクの国王、バーデン大公、ヘッセン=ダルムシュタット方伯などだった。この協定によって、締約諸侯は帝国を離れ、ライン同盟を結成し、皇帝ナポレオンを保護者と認め、彼と攻守同盟条約を結んだ。皇帝フランツには、既成事実を認めるほかなかった。同年八月六日、ドイツ帝国の解体を宣言し、ドイツ皇帝の称号を放棄して、オーストリア皇帝の称号を取った。
首座大司教公は、原文 prince primat de Germanie の称号を訳したもの。
[411] 一八〇六年一月二十三日。
[412] ウィリアム・ウィンダム、グレンヴィル卿(一七五九―一八三四)。内務担当国務大臣、次いで外務担当国務大臣(一七九一年)。一八〇一年に退いた。
[413] 一八〇六年二月二十日。
[414] ジェイムズ・メイトランド、ローダーデイル伯。一七五九年生まれ。一七八九年にスコットランドの貴族となった。このころフランスへ来て、主要なジロンド派の人々と親交を結んだ。つねにフランスを支持し、ピットの政策と戦った。一八〇六年に枢密顧問官、スコットランド国璽尚書、パリ駐在特命大使となった。一八一六年、ナポレオンの拘禁に対し、声を上げて抗議した。一八三九年、隠退生活のうちに死去した。
[415] 一八〇六年七月二十日。クラーク伯爵将軍(一七六五―一八一八)は、翌年(一八〇七年)、陸軍大臣およびフェルトル公となる。王政復古下では、フランス元帥に任じられた。
[416] 一八〇六年十月十四日。
[417] 一八〇六年、スペイン政府は、一時フランスと断交することを考えた。イギリスとの戦いにおける長い失意、フェルディナンド王が領土を奪われたことから生じた不安など、すべてが、その道へ進むよう促していた。当時、政府の政策を指揮していた平和公は、ナポレオンがプロイセンと戦っている機会を捉え、国王の名ではなく、自分個人の名で、かなり曖昧な布告を出した。誰を相手とするかを明示せず、スペイン人民に戦争の準備を呼びかけたのである。イエナの勝利の後、恐れをなした平和公は、ただちに屈服し、スペインの唯一の敵はイギリスだという噂を広めさせた。しかし、誰も欺かれず、とりわけナポレオンは、誰よりも欺かれなかった。
[418] アレクサンドル・ベルティエ元帥。一七五三年生まれ。大陸軍の総参謀長および宮廷狩猟長官だった。一八〇七年に副大元帥となり、次いでヌーシャテル公およびヴァグラム公となる。一八一四年、ルイ十八世を支持し、国王からフランスの貴族院議員および近衛隊長に任じられた。百日天下の間は、バイエルンのバンベルクへ退いた。そこで六月一日、今も謎に包まれた状況のもとで死去した。
[419] メレンドルフ伯爵元帥。かつてフリードリヒ二世の部将を務め、プロイセン軍の最も優れた将軍のひとりだった。アウエルシュテットで重傷を負っていた(一七二五―一八一六)。
[420] ヨハン・フォン・ミュラー。ドイツの歴史家。一七五二年、シャフハウゼン生まれ。マインツ、次いでウィーンの宮廷顧問官となった。一七九五年にベルリンへ来て、フリードリヒ=ヴィルヘルムから、枢密顧問官および王家の史官に任じられた。ナポレオンは、一八〇六年に彼と会い、自分のもとへ引き入れ、新しいヴェストファーレン王国の国務大臣として用いた。一八〇九年に死去した。
[421] ヤン・ドンブロフスキ。名高いポーランドの将軍で、一七九四年の蜂起の英雄のひとり。一七九五年、総裁政府へ奉仕を申し出た。総裁政府は、フランスに仕えるポーランド軍団を募ることを認めた。彼は一八一四年まで、これを指揮した。
[422] 一八〇六年十二月十一日。
[423] ドノン男爵(一七四七―一八二五)は、美術館総局長だった。
[424] ジョゼフ・ポニャトフスキ公。ポーランド最後の国王の甥で、一八一三年にフランス元帥となった。ライプツィヒの戦いの翌日、エルスター川で溺死した。一八〇六年、ポーランド軍が自国の軍隊としての性格と独立性を保ち、フランス軍の隊列に編入されないことを要求して、その保証を得たうえで、この軍の指揮を執った。
[425] プウトゥスク。ロシア領ポーランドの、ナレフ川沿いの町(人口四千八百)。一八〇七年、ランヌがベニグセンに勝利した地。
年号と勝敗の記述は原注の記載を保った。歴史的事実として独立に検証したものではない。
[426] Ch・ド・ヴァンサン男爵。ロレーヌに生まれ、帝国に仕えた。ピシュグリュとの交渉に起用され、カンポ=フォルミオ条約の署名者のひとりとなった。一八一四年には、同盟諸国を代表してネーデルラント総督となり、次いでパリ駐在大使となった。一八〇七年に彼が、その利益を守る任務を負っていた地方は、ブーク川を境界とするクラクフ、サンドミール、ルブリンの諸県だった。
palatinats は、ここではポーランドの歴史的な地方行政区画を指し、「諸県」とした。
[427] 一八〇七年二月八日。
[428] 一八〇七年五月二十六日。
[429] 一八〇七年六月十一日。
[430] 一八〇七年六月十四日。
[431] フリードリヒ・アドルフ・フォン・カルクロイト伯(一七三七―一八一八)。一七五二年に入隊し、一八〇七年に陸軍元帥、次いでベルリン総督となった。
[432] アウグスト・フリードリヒ・フォン・ゴルツ伯(一七六五―一八三二)。一七八七年、プロイセンの外交官となり、コペンハーゲン、マインツ、ストックホルム、ペテルブルク駐在の公使を務めた。一八一四年に宮廷長官、次いで連邦議会におけるプロイセン代表および国務顧問官となった。
[433] 一八〇七年七月九日。この条約は、ロシアとの条約のいくつかの条項を、そのまま繰り返したにすぎない。ナポレオンは、プロイセンへの軽蔑をさらに示そうと、この国の存続を認めたのは、ただアレクサンドル皇帝への配慮からにすぎないように見せたかったのである。そのため、プロイセンに関する条項は、ロシア皇帝と自分との間で討議されたものであるように見せることを要求していた。プロイセンは、マクデブルクを含むエルベ川とライン川の間の全領土と、ポーランド諸州のほぼすべてを失った。人口は九百万人から四百万人に減った。
[434] クラキン公爵元帥は、ロシアの大臣および副宰相を務めていた。ティルジットの和約後、パリ駐在大使となった。
[435] ロシアとの条約は、一八〇七年七月七日付である。アレクサンドル皇帝は、西欧に生じた新しい情勢と、ナポレオンが最近創設したすべての王国を承認した。そのうえ、同じ日に秘密同盟条約が調印された。ロシアは、その年の十二月一日にイギリスへ宣戦することを約束した。その代わり、フランスは、トルコに対して仲介を行い、必要ならば同盟を結ぶことを約束し、オスマン帝国の分割計画が取り決められた。インドへの遠征も話し合われた。ナポレオンは、すでにその前の冬、道を開く準備のため、ガルダンヌ将軍をペルシアへ派遣していた。
[436] フリードリヒ・アウグスト一世。一七五〇年生まれ。一七六三年、兄弟の死によってザクセン選帝侯となり、ツヴァイブリュッケン公女アマーリエと結婚した。一八〇六年に国王の称号を取り、一八一三年までナポレオンに忠実であり続けた。ウィーン会議は、その領土の一部を彼に返した。一八二七年に死去し、王位を兄弟のアントンに残した。
継承のきっかけを「兄弟の死」とする記述は原注の son frère に従った。原注の系譜上の記述を訳者が訂正したものではない。
[437] 一八〇四年、ナポレオンは、大元帥と大選挙侯の職を創設した。前者をルイ・ボナパルトに、後者をジョゼフに与えていた。この二人の公が、それぞれオランダ王とナポリ王になったため、皇帝は、パリで彼らの代わりを務める副大元帥と副大選挙侯を置かなければならなくなった。
ここでの大元帥(connétable)および大選挙侯(grand électeur)、その副職は、ナポレオン帝国の高位の官職・栄典である。大選挙侯は、ドイツの領邦君主としての選帝侯と区別する。
[438] 一八〇七年八月九日。
[439] 第四部を参照。
[440] アブランテス公アンドシュ・ジュノー将軍は、ポルトガル方面軍の指揮官に任じられていた。初めは勝利を収めたが(一八〇七年)、一八〇八年八月二十一日、ヴィメイロで英葡連合軍に敗れ、シントラで降伏協定に署名することを余儀なくされた。この協定により、ポルトガルから撤退することになった。
[441] ピエール・デュポン・ド・レタン将軍(一七六五―一八三九)は、一八〇八年、アンダルシア方面軍の指揮官に任じられていた。七月二十二日、スペインのカスターニョス将軍が率いる優勢な軍勢に襲われ、バイレン近くの野戦の場で降伏した。八千人のフランス兵が武装解除され、バレアレス諸島のカブレラ島の岩地に収容され、そこで大半が病気と窮乏のために命を落とした。フランスへ戻ったデュポン将軍は、軍法会議にかけられ、終身禁錮を言い渡された。一八一四年に釈放され、第一次王政復古のもとで陸軍大臣となった。
[442] ザクセン王国の町(現在はプロイセンに併合されている)。ゲーラ川沿いにある。
「現在」は原注が書かれた時点を指す。
[443] 第五部を参照。
[444] ルイ・ド・コランクール。一七七三年、エーヌ県コランクールの貴族の家に生まれた。帝政下で、師団将軍、宮廷主馬長、ヴィチェンツァ公となり、次いでロシア駐在大使(一八〇七年)、外務大臣(一八一三年)を務めた。一八二七年に死去した。
電子HTML底本では番号443が重複するが、TXT版では、このコランクール略伝は444であるため、ここでは[444]とした。HTMLでは直前の「第五部を参照」への参照と略伝への参照のリンク先にも混乱がある。印刷本では別個の頁内注であり(印刷319頁の注4と320頁の注1)、印刷本の番号443を444へ訂正したのではない。本訳では、それぞれの参照が対応する注本文に進むよう、リンクを修復した。
[445] ジャン=バティスト・ノンペール・ド・シャンパニー、カドール公(一七五六―一八三四)。かつて全国三部会の貴族身分の代議員を務め、一八〇〇年に国務参事官、次いでウィーン駐在大使(一八〇一年)、内務大臣となり、一八〇七年、タレーランの後任として外務大臣となった。
[446] 一八〇七年のポーランド戦役における、ナポレオン皇帝の大本営。
[447] プレスブルク条約は、ヴェネツィアをイタリア王国へ割譲していた。ジョゼフはナポリで統治していた。したがって、そのころ皇帝に直接従属していなかったのは、教皇領だけだった。
[448] ジェローム・ボナパルトはヴェストファーレンを、ミュラはベルクを統治していた。バイエルン王とヴュルテンベルク王、バーデン大公、そしてライン同盟のその他の諸侯は、そのころ完全にフランスへ忠誠を尽くしていた。
[449] プロイセンから奪ったポーランド諸州で構成されるワルシャワ大公国は、ザクセン王に与えられていた。
大公国という呼称は原注の grand-duché に従った。
[450] 一つは、フィンランドを手に入れるための、スウェーデンに対する戦争。もう一つは、ドナウ諸公国を獲得することを望んでの、トルコに対する戦争。
[451] フォンテーヌブロー条約。一八〇七年十月二十七日。
[452] リュネヴィル条約は、スペイン王カルロス四世の娘婿であるパルマ公ルイに、トスカーナ大公国を与えていた。その代わりに、彼の旧領はイタリア王国へ併合された。トスカーナは、このときエトルリア王国という名を取った。ルイ王が一八〇三年に死去すると、その息子ルイ二世が、母である王女マリア・ルイサの摂政のもとで王位についた。フォンテーヌブローの秘密条約(一八〇七年十月)は、エトルリア王から領土を奪ってフランス帝国へ編入し、その補償として、ポルトガルの領土を削って今後創設されるルシタニア王国を与えると約束した。
[453] ドン・エウヘニオ・イスキエルド・デ・リベラ・イ・レサウン。サラゴサ生まれ。スペイン外交の秘密代理人を務めていたが、一七九七年、ゴドイの庇護によって国務顧問官の職を得た。さまざまな機密の使命、とりわけ総裁政府時代、および後の一八〇七年の任務を担った。一八一三年に死去した。
[454] 国家大書記長の特権のひとつは、すべての条約に査証を加えることだった。
[455] 一八〇七年、ナポレオンは、プロイセンとの断交の際、マドリード政府があまりに時宜を失して行った敵対的な示威行動、すなわち平和公の布告を罰し、またスペイン軍を弱めるために、北ヨーロッパで用いる一万五千人の部隊の派遣を要求した。これをラ・ロマーナ侯爵中将が指揮した。この部隊がフュン島に駐屯していたとき、一八〇八年の事件の知らせが届いた。ラ・ロマーナは、ただちに沖合を巡航するイギリス艦隊と連絡を取り、兵を乗船させてスペインへ輸送した。その先頭に立って、彼はフランス軍と力強く戦った。死去したとき(一八一一年)には、最高評議会の一員だった。
[456] ドン・フアン・デ・エスコイキス。一七六二年生まれ。サラゴサの参事会員だったが、平和公によってアストゥリアス公の家庭教師に任命され、公にきわめて大きな影響力を持つようになった。一八〇八年に国務顧問官となった。公に従ってヴァランセへ行き、ブールジュに拘留された。一八一四年にマドリードへ戻り、大臣に任命されたが、もはや政治上の影響力は何もなかった。
[457] 平和公は、スペイン王家の女性、ドニャ・マリア・テレサ・デ・ボルボンと結婚していた。彼女は王子ドン・ルイスの娘で、国王のいとこだった。
[458] この計画は、一時はある程度具体化した。この件について意向を打診されたナポレオンは、好意的に答えたように見えた(一八〇八年四月十六日、皇帝からアストゥリアス公への書簡、『書簡集』第十七巻)。リュシアン・ボナパルトの娘のひとりが候補に挙げられたが、この案は実現に至らなかった。おそらく皇帝には、これを成就させる考えは初めからなかったのであろう。
[459] インファンタードは、カスティーリャの古い領地だった。かつては通常、スペイン王子たちの分封領であったため、その名がついた。ここで言及される公爵は、二世紀前にこの公爵領を取得したシルバ家に属していた。一七七一年に生まれ、アストゥリアス公の友人となった。一八〇八年、初めはジョゼフ王を承認したが、まもなく彼と袂を分かち、スペインの一軍団の指揮を執った。一八二〇年にカスティーリャ評議会議長となり、一八二六年に引退し、一八三六年、隠退生活のうちに死去した。
[460] 王子ドン・フランシスコは、カルロス四世王の三男だった。
[461] フランソワ・ド・ボアルネ侯。皇后ジョゼフィーヌの義理の兄弟。一七五六年生まれ。全国三部会の代議員となり、一七九二年に亡命して、コンデ軍に従軍した。一八〇〇年にフランスへ戻り、一八〇五年にエトルリア王のもとへの大使、次いでマドリード駐在大使に任じられた。一八〇八年に召還され、ソローニュへ追放された。王政復古下ではフランスの貴族院議員となり、一八二三年に死去した。
[462] ボアルネ家の人々は、アストゥリアス公が皇后ジョゼフィーヌの姪と結婚することを望んでいた。一方、ボナパルト家の人々は、リュシアンの娘と結婚させようとしていた。皇帝が望んだのは、自分の計画に役立つことだけだった。(タレーラン公の注。)
[463] カルロ・フェレーロ=フィエスキ、マッセラーノ公。カルロス三世の近衛隊長。一八〇五年にパリ駐在大使、次いでジョゼフ王の宮廷儀典長となった。一八三七年に死去した。
[464] すなわち、トラス・オス・モンテス州を除く、ポルトガル北部。
[465] テージョ川の南に位置する、ポルトガル南部の全域。人口は、およそ六十万人。
[466] テージョ川とドウロ川の間に位置するポルトガル中部の全域と、さらにトラス・オス・モンテス州。すなわち、王国のほぼ半分。
[467] ホセ・カバリェロ侯。一七六〇年、サラゴサ生まれ。最高軍事評議会の検察官(一七九四年)、司法大臣(一七九八年)を務めた。一八〇三年に罷免されたが、国務顧問官および財務評議会議長にはとどまった。ジョゼフ王のもとで国務評議会司法部門の長を務め、一八一四年にフランスへ逃れ、一八二〇年にスペインへ戻り、一八二一年に死去した。
[468] セゴビアとアビラは、マドリードの北西わずか八十キロメートルほどに位置する。
[469] この二つの町は、フランス軍の奇襲によって、武力で奪取された。
[470] ドン・フランシスコ・ソラノ、デル・ソコロ侯(一七七〇―一八〇八)。フランスを熱烈に称賛し支持しており、モローの軍に一兵卒として従軍した。後にアンダルシア総司令官に任じられると、蜂起を防ごうとし、次いで鎮めようとしたが、カディスの暴動のさなかに殺害された。
[471] ドン・ペドロ・セバリョス。一七六四年生まれ。外務大臣を務めていた。アストゥリアス公に非常に忠実で、つねにジョゼフ王に敵対し、国民評議会の長となった。フェルナンドが帰還すると再び大臣となり、その後、ナポリ、次いでウィーン駐在大使に任じられた。一八二〇年に失脚し、一八四〇年に死去した。平和公の姪と結婚していた。
[472] ドニャ・ホセファ・トゥドは、平和公の愛人だった。
[473] グリゴリー・アレクサンドロヴィチ・ストロガノフ伯。コンスタンティノープル、次いでマドリードおよびロンドン駐在のロシア大使。一八五七年に死去した。
[474] ドン・ホセ・ミゲル・デ・アサンサ。一七四六年生まれ。初めはロシア、次いでプロイセン駐在の代理公使を務めた。その後、軍に入り、一七九五年に陸軍大臣、次いでメキシコ副王に任じられた。一七九九年にスペインへ戻り、フェルナンドの即位時(一八〇八年)に財務大臣となった。ジョゼフ王に最も早く従った人々のひとりで、司法大臣、次いで外務大臣となった。一八一四年に追放され、フランスへ逃れ、そこで死去した。
[475] ベルク大公ミュラは、そのころスペインにおける皇帝の代理を務め、マドリードに滞在していた。
[476] オランダ公使はフェルヒュエル氏、ザクセンの代理公使はフォレル男爵だった。周知のように、そのころオランダ王はルイ・ボナパルトであり、ザクセン王は完全にナポレオンへ忠誠を尽くしていた。このことが、二人の外交官の慎重な態度を説明している。
[477] ドン・ホセ・ミゲル・デ・カルバハル、サン・カルロス公。一七七一年生まれ。陸軍少将、次いでアストゥリアス公の侍従およびその子供たちの養育責任者となった。一八〇七年にナバラ副王となったが、エスコリアルの陰謀に関与して、一八〇八年に失脚した。フェルナンドは、彼を自らの評議会に呼び戻した。公爵は主君に従ってヴァランセへ行ったが、その後まもなく、ロン=ル=ソーニエに拘留された。一八一四年にスペインへ戻り、国務大臣、次いでウィーン駐在大使(一八一五年)、ロンドン駐在大使(一八一七年)に任じられた。一八二〇年の革命の際には、スペイン王女である女公マリア・ルイサ、かつてのエトルリア王妃が統治するルッカへ退き、彼女によってフランス駐在公使に任じられた。フェルナンドの帰還後、パリ駐在スペイン大使となった。一八二八年に死去した。
ルッカの duchesse は、公爵の妻という意味ではなく、本文の régnait が示す本人の統治者としての地位を指すため「女公」とした。
[478] ルネ・サヴァリ。一七七四年、ヴージエ近くのマルクに生まれた。若くして軍に入り、一八〇〇年には憲兵大佐だった。皇帝にきわめて忠実で、師団将軍およびロヴィーゴ公となり、一八〇七年にはペテルブルク駐在大使に任じられた。一八〇八年には、一時スペインのフランス軍を指揮した。一八一〇年に警察大臣となった。一八一五年、欠席裁判で死刑を宣告されたが、フランスへ戻り、その判決を取り消させた。王政復古下では隠退生活を送った。一八三一年にアルジェリア総督に任じられ、一八三三年に死去した。
[479] 王子ドン・カルロスは、カルロス王の次男で、一七八八年生まれ。一八〇八年、フェルナンドに従ってヴァランセへ行き、一八一四年になるまでスペインへ戻らなかった。兄弟である国王の死後、サリカ法を根拠に王位を要求したが、かなわなかった。カルリスタ派は、この時期に始まる。
[480] ドン・ペドロ・マカナス。一七六〇年生まれ。ロシア駐在大使館の書記官を務めた。スペインの王子たちに同行してフランスへ行き、しばらくヴァンセンヌに投獄され、その後、パリで監視下に置かれた。一八一四年に司法大臣となったが、不正行為で逮捕され、二年間服役した。その後まもなく死去した。
[481] フェルナン・ヌニェス伯。一七七八年生まれ。アストゥリアス公の最も熱烈な支持者のひとりだった。それでも、ジョゼフ王の宮廷で狩猟長官の職を引き受けたが、反逆が立証されたため、逃亡しなければならなくなった。一八一五年、フェルナンドによってロンドン駐在大使に、次いで一八一七年にはパリ駐在大使に任じられた。一八二一年に死去した。
[482] モンティオン将軍は、カルロス四世のもとへ赴き、フェルナンドに譲位したことに対して抗議するよう、王を説得する任務をミュラから与えられていた。(この一件については、プラット師の『スペイン情勢に関する回想録』を参照。)
[483] ドン・ゴンサロ・オファリル。一七五三年、スペインに仕えるアイルランド系の家に生まれた。中将および歩兵総監を務めていた。一八〇八年、フェルナンド王の陸軍大臣となった。王の出発後、アントニオ王子が議長を務める統治評議会の一員となった。しかし、ジョゼフ王を承認し、忠実に仕えた。一八一四年に死刑を宣告され、フランスへ逃れ、そこで死去した。
[484] 王子ドン・アントニオは、カルロス四世王の兄弟で、一七五五年生まれ。姪である王女マリア・アマリアと結婚していた。
[485] ペドロ・ゴメス・カベロ、ラブラドール侯。一七七五年生まれ。一八〇七年、フィレンツェ駐在スペイン公使を務めていた。フェルナンド王に従ってヴァランセへ行き、一八一四年に国務顧問官、次いでパリ駐在大使およびウィーン会議の全権に任じられた。後にナポリ、次いでローマ駐在大使となり、一八三〇年に死去した。
[486] ドミニク・デュフール・ド・プラット。一七五九年、オーヴェルニュのアランシュの貴族の家に生まれた。初めは将校だったが、軍人の道を離れて聖職に入った。ルーアンの司教総代理を務め、次いで全国三部会の聖職者身分の代議員となった。一七九一年に亡命し、統領政府時代にフランスへ戻り、皇帝の礼拝司祭、次いでポワティエ司教(一八〇五年)となった。ナポレオンは、一八〇八年のスペイン問題で彼を用い、まもなくマリーヌ大司教座を与えた。一八一二年にはワルシャワ駐在大使を務めた。一八一四年にレジオン・ドヌール勲章総裁に任じられた。一八一七年、クレルモン=フェラン選出の代議員となり、一八三七年に死去した。プラット氏は、多くの著作を残した。本文で言及される『スペイン革命の歴史的回想録』は、一八一五年にパリで刊行された。
レジオン・ドヌールの grand chancelier は勲章制度の最高管理職であり、国家の大法官とは区別した。
[487] マラック城は、バイヨンヌの南一キロメートルに位置し、フランスへ避難していたスペイン王太后、カルロス二世の未亡人のために、一七〇七年に建てられた。ナポレオンは、一八〇七年にこれを購入した。一八二五年、火災で焼失した。
[488] ヴァランセ条約は、一八一三年十二月十一日に調印された。スペインの領土保全が約束された。フランス軍は国外へ撤退し、スペイン軍とイギリス軍はピレネー山脈を越えないことになっていた。さらに、フェルナンドは、ジョゼフ王の娘との結婚という考えを原則として受け入れていた。条約はサン・カルロス公によってコルテスへ届けられ、フェルナンドは三月三日にヴァランセを出発した。
[489] ピョートル・トルストイ伯。一七六九年生まれ。スヴォーロフの指揮下で初めて従軍し、一八〇五年に将軍となった。フリートラントの戦いの後、交渉に起用され、一八〇七年にパリ駐在大使に任じられた。まもなくナポレオンは彼の召還を要求し、実現させた。一八一二年にモスクワの民兵を指揮し、一八一三年と一八一四年の戦役に従軍した。後に軍事入植地の長となり、一八三四年のポーランド戦役に従軍し、帝国評議会軍事部門の議長となり、一八四四年に死去した。宮廷大元帥トルストイ伯の兄弟であった。
ポーランド戦役の一八三四年という年号は、原注の記載を保った。
[490] ヴィチェンツァ公コランクール将軍。
[491] 一八〇八年二月二日付書簡。(『ナポレオン一世書簡集』第十六巻、四九八頁。)
[492] ニコライ・ルミャンツェフ伯。一七五〇年生まれ。同姓の陸軍元帥の息子だった。外交官として出発し、後に商務大臣、次いでアレクサンドルの即位時に外務大臣となった。フランスとの同盟の熱烈な支持者だったため、一八一二年には退かなければならなかった。それ以後、死去するまで(一八二六年)隠退生活を送った。
[493] オラース・セバスティアニ。一七七二年、バスティア近郊に生まれ、一七八九年には中尉だった。一八〇五年に師団将軍、一八〇六年にコンスタンティノープル駐在大使となり、イギリス艦隊がボスポラス海峡に姿を現した際、その果断な行動で名を挙げた。王政復古下では代議員、ルイ=フィリップのもとでは外務大臣および大使を務め、一八四〇年にフランス元帥となった。一八五一年に死去した。
[494] ティルジット条約により、アレクサンドル皇帝は、スウェーデンがイギリスと断交しない場合には、同国へ宣戦しなければならなかった。スウェーデンが一八〇八年二月八日付の協定によってロンドン政府との同盟を更新したため、アレクサンドルは出兵し、フィンランドへ侵攻した。フリードリヒスハム条約(一八〇九年九月五日/十七日)が、この戦争を終わらせた。スウェーデンは大陸封鎖体制に入り、フィンランドをロシアへ割譲した。
[495] ピエール・ド・モンテスキュー=フェザンサック伯。一七六四年生まれ。一七八九年には騎兵将校だった。革命の間は身を引いていた。一八〇四年に立法院議員に任じられた。一八〇八年、タレーラン氏に代わって大侍従となり、一八一〇年に立法院議長、第一次王政復古下でフランスの貴族院議員となり、百日天下の間には再び大侍従を務めた。一八一九年に貴族院へ復帰し、一八三四年に死去した。
[496] アレクサンドル・サピェハ公。祖国の敗運のために国外へ出なければならなかった、ポーランドの古い名門の出身だった。一七七三年にストラスブールで生まれ、学問だけに専念した。皇帝の侍従となり、一八一二年に死去した。
[497] ジョゼフ・アルブイ・ダザンクール。一七四七年、マルセイユ生まれ。初めはリシュリュー元帥の図書係を務めた。その後、フランセ座に入り、一七七八年に正座員となった。一八〇八年にコンセルヴァトワールの台詞術教授、次いで宮廷演劇の監督に任じられた。一八〇九年に死去した。
[498] ウジェーヌ・ド・ボアルネ。ボアルネ子爵将軍と皇后ジョゼフィーヌの息子で、一七八一年生まれ。一七九六年に入隊し、ボナパルトに従ってイタリアとエジプトへ行き、一八〇四年に旅団将軍、次いでフランス皇族および国家大書記長(一八〇五年二月一日)となった。同年六月、イタリア副王に任じられた。一八一四年にバイエルンへ退き、一八二四年、ロイヒテンベルク公の称号を持って、そこで死去した。ウジェーヌ公は、一八〇六年、バイエルン王の娘アマーリエ王女と結婚していた。その長女は、ベルナドットの息子であるスウェーデン皇太子と結婚した。
[499] 『シンナ』第五幕第二場。
[500] 出発前、彼らには上演すべき作品の一覧が渡された。すでに述べたように、最初は『シンナ』、続いて『アンドロマック』『ブリタニキュス』『ザイール』『ミトリダート』『エディップ』『オーリードのイフィジェニー』『フェードル』『カエサルの死』『オラース』『ロドギュンヌ』『マホメット』『ラダミスト』『ル・シッド』『マンリウス』『バジャゼ』の順に上演する予定だった。(タレーラン公の注。)
原文は Radamiste と Le Cid の間に読点を置かないが、二つの作品名を別々に示しているため、訳文でも作品名を分けた。また、本文側に置かれた俳優の略伝は、印刷本ではこの署名付き著者注に続く編者の注記であり、著者の署名部分と区別して示す。
これらの芸術家のうち、幾人かは、名が残っている。第一人者は、疑いなく、わが国で最も名高い悲劇俳優タルマ(一七六六―一八二六)だった。ナポレオンが、とりわけ惹かれ、治世を通じて保護したことは知られている。一七七五年に生まれ、一八〇〇年にテアトル・フランセへ入ったピエール・ラフォンは、首位を争い、悲劇にも喜劇にも優れていた。次いでサン=プリ、本名フーコーがいた。一七八二年に初舞台を踏み、フェドー座、オデオン座を経て、一八〇三年にテアトル・フランセで演じた。女優では、とりわけロークール嬢とデュシェノワ嬢の名が記憶されている。前者は一七七二年に初舞台を踏み、当初から輝かしい成功を収めた。恐怖政治のもとで、長く投獄されていた。一八一五年に死去し、葬儀では、サン=ロック教会で騒ぎが起きた。デュシェノワ嬢は、十六歳でテアトル・フランセへ入り(一八〇二年)、数年で悲劇女優の第一列に立った。
この俳優略伝はGutenbergHTMLでは本文位置にあるが、印刷本(物理446頁/印刷405頁)では、著者署名の原注500に続く編集者の補足。同じ注の枠内にあり、独立した原注番号はない。本文の流れはu928からu930へ続く。略伝の年齢・年次は原文どおり。
[501] ジャック・ベルナール・ロー、ローリストン侯。一七六八年、ポンディシェリ生まれ。摂政時代の名高い財政家の孫だった。一七九三年に砲兵隊へ入り、一七九五年に大佐となり、ボナパルトの副官を務めた。一八〇〇年に旅団将軍となり、幾度も外交上の使命を担った。一八一一年にペテルブルク駐在大使に任じられた。百日天下の間は身を引き、王政復古下でフランスの貴族院議員、次いで王室大臣となり、一八二三年に元帥、その後、宮廷狩猟長官および国務大臣となった。一八二八年に死去した。
[502] エティエンヌ・シャンピオン、ナンスティ伯。一七六八年、ブルゴーニュ出身の家に生まれた。一七八九年にはロザン軽騎兵連隊の大尉だった。革命と帝政のすべての戦役に従軍し、一八〇三年に師団将軍となり、幾度も重要な騎兵指揮を担った。一八〇四年に皇后の首席侍従、次いで皇帝の首席主馬官(一八〇八年)に任じられた。一八一五年に死去した。ヴェルジェンヌの姪と結婚していた。
[503] クラパレード伯。一七七四年生まれ。共和国の軍に仕え、一七九八年には大隊長だった。一八〇四年に旅団将軍となり、同時代のすべての戦争に参加し、とりわけ一八〇九年に功を立てた。王政復古下では、歩兵総監およびフランスの貴族院議員に任じられた。一八四一年に死去した。
HTML版・TXT版では没年1811だが、比較用印刷本406頁の注2では、三桁目にかすれがあるものの1841と読める。印刷本の読みに従って一八四一年とした。外部の伝記事実に合わせて年号を変更したものではない。
[504] ルイ・サン=ローラン。一七六三年生まれ。一七八九年には砲兵将校で、一八〇七年に師団将軍、一八一〇年に帝国男爵となった。同年に退役し、一八三二年に死去した。
[505] フランソワ・フェン。一七七八年生まれ。一七九四年に行政職に入り、十二年間にわたり、国民公会の諸委員会、次いで総裁政府と国務官房の事務局で、さまざまな職を務めた。一八〇六年、秘書として皇帝の私設官房に付属した。一八〇九年に帝国男爵および請願審査官となった。ナポレオンのすべての戦役に同行した。王政復古下では隠退生活を送った。一八三〇年に国王官房の秘書、次いで王室費管理官および国務参事官に任じられた。一八三四年に代議院議員に選ばれ、一八三七年に死去した。フェン男爵は、『一七九四―一七九五年、一八一二年、一八一三年、一八一四年の手稿』という題名のもとに、いくつかの歴史著作を残した。
[506] フランソワ・ド・メヌヴァル。一七七八年生まれ。初めはジョゼフ・ボナパルトの秘書を務めた。一八〇二年、書類担当秘書としてナポレオンの官房に入り、一八一五年までこの職にあった。一八一二年に帝国男爵および請願審査官となった。『ナポレオンとマリー=ルイーズに関する歴史的回想録』(八折判、三巻)を残した。
[507] ダリュ伯。一七六七年生まれ。初めは砲兵中尉、次いで軍事行政官を務めた。一七九三年に逮捕され、テルミドール九日まで投獄されていた。一七九六年に支出命令を担当する軍事行政官となり、ブリュメール十八日以後、兵員検査官となった。一八〇〇年に陸軍省事務総長に任じられ、一八〇二年に護民院へ入った。一八〇五年に皇帝宮内行政総監および国務参事官、大陸軍行政総監(一八〇六年)、ベルリン駐在公使(一八〇七年)、国務担当大臣(一八一一年)となった。王政復古下では貴族院へ入り、一八二九年に死去した。
[508] ルイ・ド・ボーセ。同姓の枢機卿の甥で、一七七〇年生まれ。一八〇五年に皇帝の宮廷監督官となり、一八一五年までこの職を保った。その後、皇后マリー=ルイーズに従ってウィーンへ行き、一時、彼女の宮廷家政長を務めた。『帝政に関する回想録』を残した。
[509] コンスタンチン大公(一七七九―一八三一)は、アレクサンドル皇帝の弟だった。生涯を軍務に費やしたが、重要な指揮権を得たことはなかった。一八一五年、新しいポーランド王国の軍の総司令官に任じられ、死去するまでこの職を保った。
「重要な指揮権を得たことはなかった」という評価と、その後に記されるポーランド軍総司令官の地位は、いずれも原注に従って保持した。
[510] アダム・ダルカンタラ・オジャロフスキー伯。ロシアに従ったポーランドの古い家柄の出身だった。アレクサンドル皇帝の副官を務めていた。
[511] フョードル・ウヴァーロフ伯。皇帝親衛隊の総司令官で、皇帝の首席侍従武官だった。ツァーリ・パーヴェルを暗殺した陰謀者のひとりだった。
[512] パーヴェル・シュヴァーロフ伯爵将軍(一七七五―一八二三)。皇帝の副官で、当時のすべての戦争で重要な指揮を担った。一八一四年には、ナポレオンに付き添ってフレジュスへ行く任務を負った委員のひとりだった。
[513] ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公子レオポルト。一七九〇年生まれ。ザクセン=コーブルク公フランツと、ロイス伯爵令嬢カロリーネの息子で、ごく若くして将軍の階級でロシア軍へ入った。一八一〇年、ナポレオンの命令によってロシア軍を去らなければならなかったが、一八一三年に復帰し、ドイツとフランスの戦役に従軍して、一八一四年と一八一五年に同盟君主たちとともにパリへ入った。翌年、イギリス王ジョージ三世の孫娘で王位継承者であるシャーロット王女と結婚した。レオポルトはイギリスに帰化したが、王女はその翌年に死去した。一八三〇年、ベルギー人の王に選ばれた。その二年後、ルイ=フィリップ王の長女ルイーズ・ドルレアン王女と結婚した。一八六五年に死去した。
国王への選出年1830および「その二年後」の関係は、原注の叙述を保った。
[514] フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ボーゼ伯(一七五三―一八〇九)。ストックホルム駐在ザクセン公使、次いでドレスデンの宮廷長官および大侍従を務めた。一八〇六年、ナポレオンとの和約に署名し、外務大臣となった。
[515] マルコリーニ伯(一七三九―一八一四)は、ザクセン王の大侍従および大主馬官だった。一八〇九年に国務大臣となった。フランスとの同盟の献身的な支持者で、死去するまで、われわれに忠実であり続けた。
[516] フンク男爵。ザクセンの将軍(一七六一―一八二八)。一八〇六年の戦争に積極的に参加した。一八一二年には、ザクセン騎兵の先頭に立ち、わが軍の隊列に加わってロシア戦役に従軍した。一八一三年、同盟君主たちの名による外交上の使命を担い、一八一八年にはロンドン駐在公使となった。
[517] ジャン=フランソワ・ド・ブルゴワン男爵。一七四八年、ヌヴェール生まれ。初めは将校、次いで大使館書記官を務めた。一七八七年にハンブルク駐在フランス公使、次いでマドリード駐在公使(一七九一年)となり、一七九五年にはバーゼルの和約交渉を担当した。統領政府時代にはコペンハーゲン、次いでストックホルム駐在公使を務め、後にザクセンへ赴き、一八一一年に死去した。
[518] これから続く長い列挙には、歴史に何の跡も残さず、われわれも何らの情報を得られなかった人物が、多数含まれている。そのうち、最も重要な人物の名だけを取り上げた。主権を持つ諸侯については、その名声、あるいは家同士の婚姻関係によって、特に記す価値のある人々だけを扱った。
[519] アウグスト、ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公(一七七二―一八二二)。ライン同盟加盟君主(一八〇六年十二月十五日)。
[520] カール・フォン・ホフ(一七七一―一八三七)。ザクセン=ゴータ公に仕える大使館書記官、次いで宮廷顧問官および国務大臣。政治と歴史に関する数多くの著作を残した。
[521] ザクセン=ワイマールのカール・アウグスト(一七五七―一八二八)。ライン同盟加盟君主(一八〇六年十二月十五日)。その息子カール・フリードリヒ公子は、ツァーリ・パーヴェルの娘マリア公女と結婚していた。
[522] アウグスト・フォン・エグロフシュタイン男爵(一七七一―一八三四)。プロイセン、次いでザクセン=ワイマール公に仕える将校。一八〇七年に旅団将軍となり、フランス軍に加わったザクセンの派遣部隊を、オーストリア、スペイン、ロシア、およびダンツィヒ包囲戦(一八一四年)で指揮した。
[523] クリストフ・マルティン・ヴィーラント。一七三三年生まれ。一七九二年にワイマールの公子たちの家庭教師、次いで枢密顧問官となった。この都市の学士院の会員であった。同院には、そのころドイツの最も卓越した人々、最も名高い学者たちが集まっていた。詩、長編小説、戯曲など、数多くの著作を残した。一八一三年に死去した。
家庭教師となった年1792は原注の表記を保持した。
[524] ペーター・フリードリヒ、リューベック公。いとこに代わってオルデンブルク公国の摂政を務めた。その息子で、公国の推定相続人であった公子は、ツァーリ・パーヴェルの娘エカテリーナ大公女と結婚していた。
[525] ハンス・デトレフ・フォン・ハンマーシュタイン男爵(一七六八―一八二六)。オルデンブルク公の大臣。後にハノーファーへ移り、枢密軍事評議会の一員、およびフランクフルト連邦議会の全権となった。
[526] フリードリヒ・フランツ、メクレンブルク=シュヴェリーン公。一七五六年生まれ。その息子は、ツァーリ・パーヴェルの娘エレナ大公女と結婚していた。この息子は再婚によって、後にオルレアン公と結婚するエレーヌ公女をもうけた。
末文の Il は、直前の Son fils を受けると解して「この息子」と明示した。
[527] ゲオルク・フリードリヒ。一七七九年生まれ。一八一六年に父の跡を継いだ。プロイセン王妃ルイーゼの兄弟だった。
[528] レオポルト、アンハルト=デッサウ公(一七四〇―一八一七)。フランスの最も忠実な同盟者のひとりで、ライン同盟加盟君主。
[529] ロイス家は、グライツ、エーベルスドルフ、ローベンシュタイン、シュライツという四つの統治家系に分かれていた。これらの諸侯は、すべてライン同盟に加盟していた(一八〇七年四月)。
[530] ライン同盟加盟君主(一八〇六年十二月十五日)。
[531] ライン同盟加盟君主(一八〇七年四月)。
[532] カール・アレクサンダー、トゥルン・ウント・タクシス侯。一七七〇年生まれ。オーストリア帝国の枢密顧問官。帝国郵便総監を務めており、この職は一六九五年以来、その家に伝わっていた。一七七三年、メクレンブルク=シュトレーリッツ大公の娘テレーゼ公女と結婚していた。
出生1770年と結婚1773年は原注の記載を保った。年次の不整合を推測で修正していない。
[533] アントン、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯。一七六二年生まれ。ライン同盟加盟君主(一八〇六年七月十二日)。ホーエンツォレルン家の各支流の諸侯が、プロイセンの王位にあるホーエンツォレルン=ブランデンブルク家に領主権を譲ったため、プロイセン王は、これらの侯国の主権を自らの王権に統合した。
[534] カール・フォン・ダールベルク公。一七四四年生まれ。聖職に入り、一七七二年にマインツ選帝侯の枢密顧問官、次いでエアフルト総督、マインツ大司教の補佐司教となり、一八〇二年にその後を継いだ。その後、帝国大書記長に任じられた。一八〇六年、この地位を退かなければならなくなったが、その補償として、ナポレオンによりライン同盟の首座大司教公、レーゲンスブルクの主権君主、フルダおよびハーナウ大公に任じられた。一八一七年に死去した。
archichancelier de l’empire は、この箇所では神聖ローマ帝国の職を指す。ナポレオン帝国の国家大書記長とは区別する。
[535] ライン同盟加盟君主(一八〇六年七月十二日)。
[536] カール・ルートヴィヒ・フリードリヒ、バーデン世子。皇后ジョゼフィーヌのいとこで、ナポレオンの養女であるステファニー・タシェ・ド・ラ・パジュリーと結婚していた。一八一一年に大公となり、一八一八年に死去した。ライン同盟加盟君主だった。
配偶者の名と家名は原注の記述に従った。
[537] エメリヒ・ヨーゼフ・フォン・ダールベルク男爵。一七七三年生まれ。叔父である首座大司教公に仕えて、外交官の道に入った。一八〇三年にパリ駐在バーデン公使となった。タレーラン氏との交際は、この時期に始まる。一八〇九年にバーデンの外務大臣となったが、パリでの地位は手放さなかった。同年、フランスに帰化し、ナポレオンによって公爵および国務参事官に任じられ、四百万の財産を授けられた。一八一四年に臨時政府の一員となり、次いで一八一五年にフランスの貴族院議員および国務大臣となった。一八三三年に死去した。
原注の quatre millions は貨幣単位を明示していないため、訳文でも単位を補わなかった。
[538] 彼は、ライン同盟に加盟する際(一八〇六年七月十二日)、大公の称号を取ったルートヴィヒ公の息子だった。一八三〇年に父の跡を継ぎ、一八四〇年に退位した。
[539] ルートヴィヒ・クリストフ・フォン・ケラー伯(一七五七―一八二七)。初めはフリードリヒ二世王の侍従および大使館顧問官を務め、ストックホルム(一七七九年)、ペテルブルク、次いでウィーン駐在のプロイセン公使となった。一八一一年、パリ駐在フランクフルト大公国公使となった。
[540] そのころ、ドルゴルーキー家には数人の公がいた。ここに登場するのは、おそらく、フィンランド(一七九五年)とコルフ(一八〇四年)で指揮を執り、ウィーンとオランダで大使を務めたロシアの将軍兼外交官、ゲオルギー公、あるいはそのいとこで、皇帝の副官かつ少将であり、その後まもなくフィンランドで戦死したミハイル公であろう。
[541] ライン同盟加盟君主。
[542] プロイセン王子ヴィルヘルム。フリードリヒ・ヴィルヘルム二世王の四男。プロイセン軍の将軍で、一八〇六年、一八一三年、一八一四年の戦争に積極的に参加した。一八三一年、ライン諸州の総督となった。
[543] フランツ・フォン・ヘッセン=フィリップスタール。一八一〇年没。両シチリア王に仕え、一八〇六年の名高いガエータ包囲戦を戦い抜いた将軍、ルートヴィヒ・フォン・ヘッセン=フィリップスタールの兄弟だった。
[544] マクシミリアン・ヨーゼフ(一七五六―一八二五)。一七九九年にバイエルン公、一八〇五年十二月二十六日に国王となった。ライン同盟加盟君主で、その娘はウジェーヌ公と結婚していた。
[545] マクシミリアン・ガルネラン・フォン・モンジュラ男爵(一七五九―一八三八)。バイエルンの宮廷顧問官、外務大臣(一七九九年)、次いで財務および内務大臣(一八〇六年)。フランスの誠実な同盟者であり、その関係を活用して、ナポレオンから自国に大きな利益をもたらす術を心得ていた。一八一四年に退いた。
[546] フリードリヒ(一七五四―一八一六)。一七九七年にヴュルテンベルク公、一八〇三年に選帝侯、一八〇五年に国王となり、一八〇六年にライン同盟に加盟した。イギリス王女と結婚していた。娘のひとり、フリーデリケ・ゾフィー・ドロテア公女は、ジェローム・ナポレオン王と結婚した。
[547] ヨーゼフ・ツー・ザルム=ライファーシャイト=ディーク伯。ザルム家の分家の出身。ケルン近郊にあったその領地は、一八〇一年にフランスへ、次いで一八一四年にプロイセンへ併合された。その代償として、二万八千フローリンの年金と、侯爵の称号(一八一六年)を受けた。初めにマリア・テレーゼ・フォン・ハッツフェルト伯爵令嬢と結婚し、次いでナントの水利森林監督官の娘コンスタンス・マリー・ド・テイスと再婚した。後者は、文学の世界に名を残した。
[548] ルイーゼ・エリーザベト。バーデン世子カール・ルートヴィヒと、アマーリエ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットの娘。一七七九年生まれ。一七九三年、後のロシア皇帝アレクサンドルと結婚した。
[549] アンナ。ツァーリ・パーヴェルと、ヴュルテンベルク公女ゾフィー・ドロテアの娘。一七九五年生まれ。一八一六年、一八四〇年にネーデルラント王となるオラニエ公子ヴィレムと結婚した。
[550] マリー・ポーリーヌ・ボナパルト。皇帝の二番目の姉妹。一七八〇年、アジャクシオ生まれ。一八〇一年、ルクレール将軍と結婚したが、将軍は一八〇二年、サン=ドマングで死去した。一八〇三年、ローマ貴族の最も名高い家のひとつの当主、ボルゲーゼ公と再婚した。ポーリーヌ公女は、兄によってグアスタッラ女公に任じられていた(一八〇六年)が、この地はまもなくイタリア王国へ編入された。一八一四年、皇帝に同行してエルバ島へ行き、翌年ローマへ退いて、一八二五年にそこで死去した。
ルクレールとの結婚年1801は原注に従った。duchesse de Guastalla は本人に与えられた領主の地位として「グアスタッラ女公」とした。
[551] 三一三頁を参照。
参照頁は原著の印刷頁を指す。
[552] ザクセン=ワイマール大公は、一八〇六年、プロイセンの側に立っていた。その軍はイエナで撃破され、プロイセン軍の退却路にあった首都は、大きな被害を受けた。
[553] アウグスト・フォン・コツェブー。一七六一年、ワイマール生まれ。ロシアに仕え、ペテルブルク政府の書記官およびエストニアの司法長官となった。一八〇〇年、ツァーリ・パーヴェルを攻撃するパンフレットの著者として逮捕され、シベリアへ流刑にされた。翌年戻り、宮廷顧問官に任じられ、その後、一八〇二年から一八〇六年までパリに滞在した。イエナの戦いの後、ロシアへ逃れ、そこからフランスとナポレオンに対する激しい攻撃文書を広めた。一八一三年には、ドイツの国民的蜂起の推進者のひとりとなったが、一八一五年以後に立場を変え、神聖同盟の政策の最も熱烈な擁護者のひとりとなった。一八一九年に暗殺された。
[554] 『ミトリダート』第三幕第一場。
[555] 『イフィジェニー』第一幕第二場。
[556] 『マホメット』(ヴォルテール)、第一幕第四場。
[557] 同作、第二幕第五場。
[558] 同作、第一幕第四場。
[559] 同作、第一幕第四場。
[560] 『カエサルの死』(ヴォルテール)、第一幕第四場。
[561] フォンターヌ氏。一七五七年生まれ。革命以前は、文学と詩だけに携わっていた。統領政府時代に学術研究所へ入り、一八〇四年に立法院議員、次いで同院議長(一八〇五年)となり、一八〇三年に大学総長、一八一〇年に元老院議員となった。一八二一年に死去した。
大学総長の任命年1803は原注に従った。ここでの université は当時のフランスの教育統治機構を指し、単独の大学の学長職とは区別される。
[562] ジャン=バティスト・シュアール。卓越した文人・著述家で、アカデミー・フランセーズ会員。王政復古下で検閲官となった。(一七三三―一八一七。)
[563] オーストリアとプロイセンの間で、一七七九年五月十日に調印されたテッシェン(シレジア)の和約は、バイエルン継承戦争を終結させた。この戦争は、マクシミリアン・ヨーゼフ公の死後、その国を奪おうとしたヨーゼフ二世皇帝が、前年に引き起こしたものだった。フリードリヒ二世王が、この要求に反対したため、短い戦争が生じていた。女帝エカチェリーナ二世は、巧みにフランスと協調して、両国間の仲介者としての地位を確保していた。
和約の調印日五月十日は原注に従った。
[564] 歴史家ヨハン・フォン・ミュラー。
[565] 『白鳥の騎士たち、あるいはシャルルマーニュの宮廷』。ジャンリス夫人による歴史小説で、十七世紀の騎士道小説の系統に属する。作者は、虚構に託して革命の諸場面への多くの暗示を織り込むことを好み、幾人かの登場人物に、同時代の特定の人物を描こうとした。ルミャンツェフ氏は、そのモデルのひとりだったらしい。
[566] 『エディップ』(ヴォルテール)、第一幕第一場。
Gutenberg電子版の注(1891年印刷本の原注とは別)
[i] 国王の弟である王弟ドン・ルイスの庶出の娘で、平和公の妻であった「マリー=テレーズ(ジョゼフ)・ド・ブルボン」とは、別人である。
[ii] 肥満公と呼ばれたルイ=フィリップ。フィリップ・エガリテと呼ばれたオルレアン公の父。