歴史 / Charles-Maurice de Talleyrand-Périgordタレーラン公回想録 第二巻Mémoires du prince de Talleyrand. II.
歴史 / Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord
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原著・底本
- 原題
- Mémoires du prince de Talleyrand. II.
- 著者
- Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord
- 底本
- Paris, Calmann Lévy, 1891, Volume II
- 編者
- ブロイ公
- 原典の利用条件
- パブリックドメイン(米国)
Project Gutenberg 利用条件 - 収録範囲
- 1891年版第二巻の第六部から第八部・付録・巻末目次、印刷注478件(546段落)、原刊図版2点。電子版の注は別区分で収録。
日本語訳
表紙
- 画像
- 収録挿絵
- 利用条件
- パブリックドメイン(米国)
1891年版の収録肖像を表紙として使用しています。
追加日: 2026-10-11 / 更新日: 2026-10-11
1891年版第二巻の第六部から第八部・付録・巻末目次、印刷注478件(546段落)、原刊図版2点。電子版の注は別区分で収録。
タレーラン公の回想録
序文と注を付して刊行
編者ブロイ公
アカデミー・フランセーズ会員
第二巻

パリ
出版者カルマン・レヴィ
オベール街三番地、およびイタリアン大通り十五番地、リブレリー・ヌーヴェル
一八九一年
スウェーデンおよびノルウェーを含む、すべての国について、複製権および翻訳権を留保する。
原著刊行時の権利表示を訳したもの。現在の権利状態を述べたものではない。
回想録
著者タレーラン公

ベネヴェント公、帝国副大選挙侯。
(プリュードンの作品による。)
第六部
一八〇九―一八一三年
一八〇九―一八一三年
長いあいだ権力の幻影とその慌ただしさに揺さぶられてきた生活から離れるにあたり、私は、休息と関心をひく事柄と穏やかな仕事とが交じり合う、新しい生活を自分のために作ることを考えねばならなかった。あらゆる幻想に取って代われるのは、家庭の生活だけである。しかし、私がいま述べている時代には、この穏やかで静かな家庭生活を持つ者は、ごくわずかしかいなかった。ナポレオンは、人々がそこに愛着を抱くことをほとんど許さなかった。彼のものとなるには、自分自身の外にいなければならないと、彼は考えていた。事件の速い流れに、野心に、日々の利害に引きずられ、ヨーロッパ全体を覆っていた戦争と政治的変動の空気の中に置かれて、誰もが自分自身の境遇を注意深く見つめることを妨げられていた。公の生活が心の中であまりにも大きな場所を占めていたため、私生活に一つの思いを残しておくことさえできなかった。どこかで休息を取らねばならないから、ついでに自宅にいることはあっても、自分の家をいつもの居場所にしようという心構えのある者はいなかった。
私もこの状況を共有していた。誰もが生活のあらゆる行為に無関心を持ち込んでいたのは、この状況によって説明できるし、私自身も自分の生活のいくつかの行為にそうした無関心を持ち込んだことを責めている。そのころ私は、甥のエドモン・ド・ペリゴール[1]を結婚させようと考えた。彼に迎える妻の選択が、ナポレオンの神経を逆なでしないことが重要だった。フランスの名門の名を持つ青年の運命を、自分の嫉妬深い影響力の外へ逃がしたくないと、彼は思っていたのである。数年前、彼は養子ウジェーヌ・ド・ボアルネのために、私の姪、ジュスト・ド・ノアイユ伯爵夫人[2]との縁組を私に求めたが、彼女が断ったのは私が影響を及ぼしたためだと信じていた。したがって甥のためにどのような相手を選ぼうとも、皇帝が快く思わないことは覚悟しなければならなかった。フランス国内で相手を選ぶことは許さなかっただろう。国内のよい縁組は、自分に忠実な将軍たちのために取っておいたからである。私は国外に目を向けた。
私はドイツやポーランドで、クールラント公爵夫人[3]についてたびたび耳にしていた。その高潔な感情、高い人格、そしてこのうえなく愛すべく輝かしい資質によって際立った人であることを知っていた。末の娘が、まだ結婚していなかった[4]。この相手なら、ナポレオンも気に入るはずだった。彼の将軍たちは申し込んでも断られるだろうから、彼らのための縁組を奪うことにはならず、それどころか、外国の名門をフランスへ引き寄せることに彼が抱いていた虚栄心をくすぐるはずだった。この虚栄心から、少し前には、ベルティエ元帥をバイエルンの姫君と結婚させていた。そこで私は、甥のためにクールラントのドロテ姫を申し込むことにした。そして皇帝ナポレオンが、考え直したり気まぐれを起こしたりして、一度与えた承認を撤回できないように、公爵夫人と親しい皇帝アレクサンドルの好意にすがり、甥のために娘を妻に迎えたいという申し出を、皇帝自身から夫人にしていただくよう頼んだ。幸いそれがかなえられ、結婚式は一八〇九年四月二十二日、フランクフルト・アム・マインで行われた。
皇帝ナポレオンの行うことには、もう何一つ加わるまいと決心したとはいえ、私はなお、全般的な情勢を適切に判断し、避けられないように見える破局がいつ、どのような性質のものとして起こるかを見積もり、それがフランスにもたらすはずの災厄を防ぐ手段を探ることができる程度には、政務に通じていた。これまでの私の経歴と、各国の宮廷の有力者たちとの古い関係のすべてが、起こっていることを何もかも知るための便宜を与えてくれた。しかし同時に、自分の暮らしぶりには無関心と無為の様子を漂わせ、ナポレオンの絶え間ない疑念につけ入る隙を少しも与えないようにしなければならなかった。もはや彼に仕えないというだけで、すでに危険に身をさらすことになるという証拠も得た。彼は何度も私に激しい敵意を示し、公衆の面前で幾度となく激しく私を罵倒したからである。それは私には不愉快ではなかった。恐怖が私の心に入り込んだことは一度もなかったし、彼が私に示した憎しみは、私自身よりも彼に多くの害を与えたとさえ、ほとんど言えるからである。年代の順序を先取りすることにならなければ、その憎しみが私の独立を保たせ、のちに彼が執拗に申し入れてきた外務大臣の職を断る決心をさせた、と言いたいところである。しかし、この申し出を受けた時には、私はすでに彼の華々しい役割は終わったと見ていた。自ら成し遂げた善いことを、ことごとく自分で破壊することにしか心を用いていないように見えたからである。彼にとって、ヨーロッパの利害との妥協は、もはや不可能だった。彼は王たちと諸国民を同時に侮辱していた。
フランスでどれほど幻想を抱いていたいという気持ちが強くとも、大陸封鎖、深く傷つけられた外国の内閣が、隠しはしても当然抱いていた憤激、禁制の制度に縛りつけられた産業の苦しみを見れば、将来の平穏を何ら保証しないこの状態が長続きするはずはないと、認めざるをえなかった。一つ一つの勝利は、ヴァグラムの勝利さえも、皇帝の地位が固まることへの障害を一つ増やしたにすぎず、その後ほどなく彼が手に入れた大公女との結婚も、オーストリアがその時々の必要に迫られて払った犠牲にすぎなかった。ナポレオンは、自分の離婚を、ただ帝国の安定を確保するために果たす義務として示そうとしたが、誰も欺かれはしなかった。大公女との結婚に彼が求めていたのは、虚栄心を満足させるものをもう一つ得ることだったと、人々にはよく分かっていた。
新しい皇后を選ぶことを皇帝が審議に付した会議の細部には、多少の歴史的な興味がないわけではないので、ここに記しておきたい。ナポレオンは以前から、皇后ジョゼフィーヌにはもう子供ができないこと、栄光も才知も持たない兄ジョゼフ・ボナパルトには、自分の後を継ぐ能力がないことを、宮廷と世間に言い広めさせていた。これは国外へ伝えられ、国外からまたフランスへ戻ってきた。フーシェは警察を通じてこの噂を広めるよう取り計らい、バッサノ公は文人たちに同じ趣旨を吹き込み、ベルティエは軍人たちを受け持った。エアフルトでの会見の際に、ナポレオン自身が皇帝アレクサンドルへこの件を打ち明けようとしたことは、すでに述べた。こうしてすべての準備が整うと、一八一〇年一月、皇帝は、大顕職者、閣僚、教育総長、およびそのほか二、三人の文官の高官からなる臨時の会議を招集した。会議に参加する人々の人数と地位、招集の目的について守られた沈黙、会議室そのものでも数分間続いた沈黙、そのすべてが、これから起こることの重大さを告げていた。
皇帝は、いくらか当惑し、私には偽りのないものと思われた感情の動きを示しながら、おおよそ次のように述べた。「私の家庭生活にあれほど多くの安らぎをもたらした結びつきを断つのに、もちろん、名残惜しさを感じなかったわけではありません。私が新たに結ぶべき縁に帝国が寄せる期待に応えるために、もし私個人の気持ちだけに従うことができるなら、レジオン・ドヌールの若い女子生徒たちの中へ、フランスの勇士たちの娘の中へ伴侶を選びに行くでしょう。そして、その資質と徳によって王座に最もふさわしい者を、フランス人の皇后とするでしょう。しかし、自分の時代の風習、他国の慣例、そして何よりも、政治上、義務とされる配慮には従わなければなりません。君主たちは私の近親者との縁組を望んできましたし、今では、私自身との縁組を自信をもって申し出られない相手は、一人もいないと思います。フランスに皇后を迎えさせうる王家は三つあります。オーストリア、ロシア、ザクセンの王家です。皆さんに集まっていただいたのは、この三つの縁組のうち、帝国の利益のために、どれを優先すべきかを一緒に検討するためです。」
この演説のあと、長い沈黙が続いた。皇帝はそれを破って言った。「大書記長殿、あなたの意見はどうですか。」
カンバセレスは、これから言うことをあらかじめ用意していたように私には見えた。彼は公安委員会の委員だったころの記憶から、オーストリアはかつても、そしてこれからも、常に我々の敵であるという考えを引き出していた。数多くの事実と先例を挙げながら、この考えを長々と展開したのち、最後に、皇帝がロシアの大公女を妻に迎えることを希望すると述べた。
ルブラン[5]は政治を脇に置き、気風、教育、質素さから引き出したありとあらゆる理由を、いかにも市民らしく用いてザクセンの宮廷を選ぶべきだとし、この縁組に賛成票を投じた。ミュラとフーシェは、ロシアとの縁組のほうが革命の利益をより安全に守れると考えた。二人とも、ハプスブルクのルドルフの子孫と結ばれるより、ツァーリたちの子孫と結ばれるほうが気楽だったらしい。
私の番が来た。これは私の得意な分野だったので、かなりうまく務めを果たした。私は、オーストリアとの縁組のほうがフランスには望ましいことを、優れた理由を挙げて主張できた。内心の動機は、オーストリアの存続が、皇帝がこれから下す決定にかかっていたことだった。しかし、それは口にすべきことではなかった。ロシアとの結婚とオーストリアとの結婚の長所と短所を手短に示したのち、私は後者に賛成すると述べた。私は一人のフランス人として皇帝に呼びかけ、オーストリアの姫君を我々の中へ迎えていただきたいと願った。そうすれば、ヨーロッパの目にも、フランス自身の目にも、フランスの犯したものではなく、もっぱら一党派に属する罪について、フランスが赦されるからである。私が何度も用いた「ヨーロッパの和解」という言葉は、戦争にはもううんざりしていた会議の何人かの委員には、好ましく響いた。皇帝は私にいくらか反論したが、私の意見が彼の意にかなっていることは、よく分かった。モリアン氏[6]が私のあとで発言し、その人ならではの正確で鋭敏な精神をもって、同じ意見を支持した。全員の意見を聞いたのち、皇帝は会議に謝意を述べ、閉会を告げて退席した。その晩のうちにウィーンへ急使を送り、数日後には、皇帝フランツが娘の大公女マリー=ルイーズを皇帝ナポレオンの妻とすることに同意した、とフランス大使が知らせてきた。
この結婚に、自軍の征服の栄光を結びつけるため、ナポレオンはヴァグラム公ベルティエを遣わし、代理人として大公女との結婚式を挙げさせ、ランヌ元帥夫人、モンテベロ公爵夫人に女官長の職を与えた。夫はヴァグラムで戦死していた[7]。この時代の奇妙さは何一つ省くべきではないから、ここで指摘しておかなければならない。ウィーンで行われた婚約を祝う砲声がパリに響いていたちょうどその時、フランス大使の書簡は、オーストリアとの最新の条約が忠実に履行され、砲火によってウィーン市の要塞施設が爆破されていると知らせていた。この事実は、皇帝ナポレオンが新しい義父をどれほど厳しい要求で扱っていたかを示し、彼にとって当時の平和が、新たな征服の準備に用いる休戦にすぎなかったことを、はっきり証明している。だから、どの国の民も苦しみ、どの君主も不安と動揺の中にとどまっていた。ナポレオンはいたるところで憎しみを生み出し、ついには乗り越えられなくなるはずの困難を作り出していた。しかも、ヨーロッパだけではまだ足りないとでもいうように、自分の一族の野心を許すことで、新しい困難を自ら生み出した。かつて口にした、自分が死ぬ前には自分の王朝がヨーロッパで最も古いものになっているだろうという不吉な言葉が、勝利と背信によって手に入れた王座や公国を、兄弟や姉妹の夫たちに分け与えさせたのである。ナポリ、ヴェストファーレン、オランダ、スペイン、ルッカ、さらにはスウェーデンまで、彼はそのように扱った。ベルナドットがスウェーデンの王太子に選ばれたのも、彼の意にかなうようにしたいという願いによるものだったからである。
ランヌの戦死地をヴァグラムとする記述は本文のまま訳した。原注7も参照。
子供じみた虚栄心が、これほど多くの危険をはらむ道へ彼を押し進めた。なぜなら、新たに作り出されたこれらの君主は、彼の大きな政策の枠内にとどまってその衛星となるか、さもなければ、フェリペ五世がルイ十四世の手から離れたよりも早く、彼の支配から離れるかのどちらかだったからである。前者であれば、任された国に根を下ろすことは不可能だった。国民と国民とのあいだに避けがたく生じる利害の違いは、ほどなく君主たちの家族の絆を変質させる。こうして、新しく作られたものの一つ一つが、ナポレオンの運命を崩壊させる要因となった。この要因は、その治世の最後の数年間のいたるところに見いだされる。ナポレオンは王冠を与える時、新しい王が、すでに述べた世界支配の体制、あの大帝国に結びついたままでいることを望んだ。ところが王座に上った者は、権力を握るやいなや、それを独占しようとし、自分を従属させようとする手に、多少なりとも大胆に抗った。急ごしらえのこれらの君主は、一つの勅令と、フランスの一軍団に占領された首都への荘厳な入城という事実だけで、自分がヨーロッパの最も古い君主たちと同じ高さに置かれたと思っていた。独立しているように見せよと命じる世間体が、その者を、生来の敵よりもさらに危険な、ナポレオンの計画への障害にしたのである。しばらく彼らの王としての歩みを追ってみよう。
まず取り上げるナポリ王国は、一八〇六年三月三十日、皇帝の兄弟の最年長者、ジョゼフ・ボナパルトに「授与」された。当時の言い方がこうだったのである。彼のこの王国への入国には征服らしい様子を与えようとしたが、実際のところ、彼が受けたとされる抵抗の話を『モニトゥール』紙で読んで、本人は多少驚いたに違いない。
四か月もたつと、新しい王はすでに弟と争っていた。ジョゼフがナポリに住んだのはわずかな期間にすぎず、事情はほどなく彼をスペインへ導いた。ナポリにいたあいだ、権力は彼にとって楽しむための手段でしかなかった。そして、自分の王家の十五代目ででもあるかのように、ルイ十五世の言葉を借りれば、閣僚たちが統治の日々の厄介事をどう切り抜けるかを眺めていた。王座の上でも、彼が求めたのは私生活の安楽と、名門の名が華やかに彩る放蕩のしやすさだけだった。
ジョゼフの後を継いだのは、ベルク大公国ではもう満足できなくなっていたミュラだった。アルプスの向こうへ足を踏み入れるやいなや、彼の想像力は、いつの日かイタリア全土が自分のものになる姿を、すでに描き出していた。ナポリの王冠を彼に保証した条約によって、彼は前任者ジョゼフの与えた憲法を維持することを約束していた。しかし、この憲法は行政に関する部分しかまだ実施されていなかったので、彼は約束していた民法と刑法の変更を放置し、国の財政組織を完成させることだけを急いだ。徴収を容易にし、収入を増やすため、彼はまず封建的権利をすべて廃止した。大臣ズルロ[8]に促され、もっぱら財政の面からしか見ていなかったこの措置を、直ちに完了させようとした。そのために設けられた委員会は、領主と自治体とのあいだに存在していたあらゆる訴訟について、自治体だけを利するように裁定した。しかもこれは、ナポレオンがフランスで貴族制を再建し、長子相続財産を創設しようとしていた、まさにその時に行われたのである。この措置の結果、ナポリの男爵たちは、享受していたすべての封建的権利とあらゆる給付を奪われただけでなく、数世紀にわたって未分割のままだった土地の大部分までも、自治体のために取り上げられた。
この措置は貴族の財産に著しい損害を与えたが、課税の基礎を定めやすくし、税収を増やした。こうしてナポリ政府は、五年のうちに公の歳入を四千四百万フランから八千万フラン以上へ引き上げた。のちにモスブール伯爵となったアガール氏[9]の巧みな手で運営された国庫の繁栄に続いて、行政にも実際の改善がもたらされ、それが国内の初めの不満を鎮め、ナポレオンの耳まで届くのを防いだ。もっとも彼は、ミュラに対して寛大に構える気でいた。ミュラにはなお、こね上げられた粘土のようなところがあまりにも多く見え、自分が作り出したものの一つだと絶えず思い出させてくれるので、気分がよかったのである。彼は非難を加えるまでに、千ともいえる不適切な行い、さらにはかなり重大なものまで見逃した。しかし、皇帝の許可を得てナポリに仕えていたフランス人たちに対し、ミュラが自分への忠誠の誓いとナポリへの帰化を命じた時には、ついに怒りを爆発させずにはいられなかった。この要求には誰もが憤慨した。堪忍袋の緒が切れたナポレオンは、いつもの激しさで不満を示した。王国内にいたフランス軍を、ナポリから十二リュー離れた野営地に集結させるよう命じ、そこから、フランスの市民はすべて当然にナポリ王国の市民であると宣言させた。この王国は、その設立の条項によって大帝国の一部をなすからである。
リューは原文の距離単位 lieue。日本の里に換算したものではない。
一時の激昂に駆られてこれほど無分別な行動に出てしまったミュラは、皇帝は決してこれを許さないだろう、したがって権力を広げることで自分の安全を求める以外に道はない、と思い込んだ。それ以来、彼はイタリア全土に侵入する手段にしか心を用いなくなった。トスカーナ、ローマ、オランダ、ハンザ諸都市がフランス帝国へ併合されたことは、すでに彼の心に大きな不安を投げかけていた。自分の領国のただ中で耳にしたばかりの、定義もされない「大帝国」という言葉の使用が、彼を完全に動揺させ、彼はその先に抱く計画を明かし始めた。
王妃も、ある程度まではミュラの恐れを共有していたが、自分の兄が抱いているかもしれない計画からどう逃れるかについては、夫と意見を同じくしてはいなかった。これほど基盤の弱い支配を維持するのに、それを拡張しようとするのは悪い手段だ、と彼女は考えていた。
市の統治を引き受けるためにペリニョン元帥[10]がナポリに到着すると、ミュラの目には、自分がどんな極端な行動に出ても正当化されるように映った。やがてヨーロッパの出来事が、野心と復讐への期待を再び燃え立たせ、彼の策動をいっそう活発にした。フランスの影響から逃れ、イタリアでの支配を広げるという二つの思いから、彼は軍を増強し、オーストリアとの交渉を何とか始めることだけに専念した。オーストリア自身も、フランス政府の侵略的な政策にますます脅威を感じていた。王妃はメッテルニヒ氏に書簡を送る役を引き受けた。彼女は、自分がまだ彼に影響を及ぼせると思い、その口の堅さも経験していたのである。一方、王はイギリスの当局、とりわけシチリアにいたウィリアム・ベンティンク卿[11]と、秘密裏に交渉を進めていた。貿易上の利益がその口実であり、土台でもあった。ミュラは、ナポレオンに不満を述べ、禁制に対する憎悪を彼に転嫁してもよいと思い込み、彼から離れる用意があることを示していた。しかし、まだ決裂の時ではなかった。ロシア遠征が始まったばかりで、ミュラは割り当ての兵を率いてそこへ赴くことを拒めず、皇帝のほかの同盟者たちと同じく、兵数について交渉するだけにとどめた。王妃が残って統治を任された。理性と機知と色恋とが交じり合い、夫がかつて持ったことのないほどの影響力と権力を、彼女に与えていた。こうしてミュラが戦い、その身をもってフランスのために働いているあいだ、彼の政策全体は反対の方向へ進められていた。この二重の役割は、彼にはかなり気に入っていた。一方ではフランスと皇帝への義務を果たし、他方では王として、最高の運命に招かれた独立の君主として行動している、と信じていたのである。
オーストリアがフランスに敵対することを宣言し、ライプツィヒの戦いがナポレオンの幸運の終わりを告げると、ミュラはナポリへ駆け戻った。その時から、自分の離反を王冠の維持に役立て、ヨーロッパの大同盟に加わるために、あらゆる手を尽くした。そこには多くの好都合な事情があった。連合諸国はナポレオンを完全に孤立させたいと望んでおり、ウジェーヌ・ド・ボアルネはこの企てへの参加を拒んでいた。このためミュラの離反は、連合諸国にとってきわめて有益だった。
起こっていることをすべて知っていたナポレオンは、この場合、自分の天才からも顧問たちからも、正しい見通しを得られなかった。自分の利益を考えるなら、ウジェーヌ・ド・ボアルネを、残っているフランス軍のすべてとともにリヨンへ呼び戻し、イタリアをミュラの野心的な夢に任せるべきだった。それが、ミュラと連合諸国との合流を阻み、イタリアに国民的な運動を起こさせるために残された唯一の手段だった。そのような運動は、この戦役でナポレオンにとって大きな意味を持ったはずである。しかし、彼の目はくらまされていた。数か月も前にすでにオーストリアとの条約に署名していた人物について、なお忠誠を口にすることが有益だと彼が考えていた、まさにその時には、裏切りはすでに成し遂げられていたのである。それでもミュラは、イタリア全体の支配に到達するための陰謀を続けた。その足取りをかなり正確に追うことができたので、ウィーン会議では、それがすべての列強にとって彼との決裂の理由となった。その結果が彼の破滅だった。
ここで私が明らかにしたかったのは、当時の高みに達したナポレオンの権力と、彼が政治上作り出したものとには、根本的な欠陥があり、それが彼の地位の確立を妨げ、さらには没落さえ準備するはずだと私には思われた、という真実である。ナポレオンは、自分が引き立てた者たちを不安にし、屈辱を与え、苦しめることを楽しんだ。彼らは絶え間ない不信と憤りの状態に置かれて、自分たちを作り出した権力を、すでに最大の敵と見なし、その権力に害を与えようとひそかに働いていた。
いまナポリについてその存在を詳しく示したのと同じ破壊の原理は、形こそ違え、ナポレオンが築こうとした同種のあらゆる体制に見いだされる。
オランダで彼は、まず、交代させることのできる総裁政府の手中にあった権力を、一人の長の手に移させた。スヒンメルペニンク氏[12]に、大年金官の称号のもとで最高権力を引き受けるよう決意させたのである。スヒンメルペニンク氏ほどの才知の持ち主には、自分に求められた役割が一時的なものにすぎないことを、見誤るはずはなかった。しかし、フランスの係官たちの要求と、それに伴うあらゆる種類の不正な浪費は、当然ながらオランダの世論を憤激させていた。そこで彼は、ナポレオンへの恭順の代償となるはずの一時的な信用を、国のために有益に用い、それによってオランダによりよい条件を得ようと望んでいた。この点についての幻想は、長くは続かなかった。皇帝は、征服国の独立を消し去るために自分で引き起こす危機に、いつも国民運動の外観を与えたがった。スヒンメルペニンク氏の就任と同時に、市民階級出身の一個人に対する、かつての特権身分、都市の行政官、オランダ貴族たちの不満の声を、ひそかに煽った。それと同時に、民衆の革命精神を呼び覚まし、新しい秩序が一人の人間に与える権力に対して立ち上がらせようとした。しかし、大年金官の穏健さと賢明さ、オランダ人の深い良識、そして騒乱を起こそうとすれば直ちにフランスの有無を言わせぬ介入を招くという確信が、国民に、新政府へ静かに従うことを決意させた。
大年金官は grand pensionnaire の歴史的な職名。現代の年金事務担当者を意味するものではない。
皇帝は、自分の策動が意図した目的に届かず、国に働きかけても動かせないと見て、別の道を進んだ。主としてフェルヒュエル提督[13]を介し、スヒンメルペニンク氏自身と国内の数人の有力者に、この状態は続けられず、オランダにとっては、フランスの一公子を君主として求めることで、フランスともっと緊密な結びつきを作ることが不可欠だと知らせた。いくらか話し合った結果、この国が最も恐れているのはフランスへの併合だということが、ナポレオンには明白になった。彼はこの気持ちを巧みに利用して、自分の兄弟の一人を迎えることを、ほとんど望ませるまでにした。領土を完全なまま維持すると約束したばかりか、東フリースラントを加え、主だった家々にあらゆる種類の期待を抱かせた。スヒンメルペニンク氏は、きわめて苦しい逡巡の中にあった。国民に諮る勇気もなく、要求されていることに同意する勇気もなかった。代表団を任命してパリへ送り、どこまで抵抗できるかを現地で判断させることが、最も慎重で賢明な行動だと思われた。彼はゴルトベルク、ゴーゲル[14]、シックス、ファン・スティルムの諸氏を代表団に選んだ。彼らへの訓令は、フェルヒュエル提督への訓令と同じく、どんな口実のもとでも併合には同意せず、君主制を設ける提案にはことごとく抵抗し、その形態は国の気風と習慣に反すると主張する、というものだった。
皇帝は、こうしたことをオランダの代表たちと同じようによく知っていた。しかし、その意志はあまりにも断固としており、その虚栄心があまりにも深くかかわっていたため、どのような事情をもってしても、この不幸な交渉者たちが、ルイ・ボナパルトにオランダの王冠を引き受けていただきたいと正式に願い出るところまで追い込まれるのを、防ぐことはできなかった。ルイもまた、それを受け取るよう強いられた。こうしてオランダは王国に仕立てられた。このような秩序からは、ナポレオンにとって困難しか生まれるはずがなかった。そして困難は、ほどなく、しかも次々と現れた。
ルイ公子はハーグに到着すると、きわめて冷淡な歓迎を受けた。最初はごく短いあいだしかそこにとどまらなかった。プロイセンへの宣戦によって、オランダ軍の先頭に立ってヴェストファーレンへ進むことになり、ハーメルンの包囲を始めたところで、この要塞がマクデブルクの降伏条件に含まれることになった。彼の戦役はそこで終わった。アムステルダムへ戻ると、彼はオランダに独立した存在を与えることに努めた。そこから兄弟のあいだに果てしない争いが生まれ、その結果、オランダにとってきわめて苛酷な条約が結ばれた。皇帝は、弟がひどく気分を害し、退位を決意するに至るような形で、その条約を起草させた。しかし、ルイ・ボナパルトの憤りは、まったく別種の極端な行動へ彼を駆り立てた。表面上は従い、求められるままに署名すると、直ちにサンクトペテルブルクとロンドンの宮廷との交渉に入った。両宮廷への働きかけは、何の成果も得られなかった。すると彼は、兄と署名した条約を履行しない決意を固めていたので、公然たる抵抗の準備を始めた。オランダ全土を戦争へと煽り、フランスに備える要塞施設を築かせ、ナポレオンが彼に対して用いざるをえなくなった武力にさえ、屈しようとしなかった。ウディノ元帥の率いる軍が王国へ侵入するのを見ると、彼はひそかに国外へ去り、ドイツのどこか、私の知らない片隅へ引きこもった。兄に対して抱いていた憎しみを、そっくりオランダに遺していったのである[15]。
彼の出国に続いて、この国はフランスへ併合された。皇帝はそれによって帝国を広げたが、力は弱めた。新しい臣民たちの忠誠を確保するため、常時一軍団を用いなければならなくなったからである。彼らは、ヘルダーの砦がフランス帝国の海上の防壁の一つとなり、ゾイデル海が、フランスがアントウェルペンで建造させていた艦隊の乗組員を訓練する大きな航海学校となることを喜ぶ以上に、徴兵と名誉衛兵の厳しい徴募を恐れていた。ナポレオンがオランダに次々と経験させたさまざまな政府は、民衆の信頼を完全に破壊し、フランスという名を憎ませた。しかし、この国で彼が直面した最大の困難は、たったいま見たとおり、彼が作り出したほかの体制と同じく、ここでも彼自身の一族から生じたのである。
名誉衛兵は、ここで徴募の対象となっている軍事編制 gardes d’honneur の名称。単なる儀礼上の警護役を意味しない。
二十ほどの小国を寄せ集め、弟ジェローム・ボナパルトのために一つの勅令でヴェストファーレン王国に仕立てたことは、彼の野心に新たな厄介事をもたらした。約二百万の住民を持つこの王国は、ヘッセン=カッセル選帝侯の領国を丸ごと含んでいた。このヘッセンという国では、君主の意志が、ほとんどあらゆる制度の代わりを務め、重税に苦しめられていなかった民衆は、まだ別の統治のされ方を求めてはいなかった、ということを覚えておかなければならない。
ジェロームは任命後ほどなく、領国の首都カッセルへ赴いた。「任命」というのが、皇帝の使わせたがった言葉だった。兄は彼に、一種の摂政団を与えていた。たいそう才知に富むブーニョ氏[16]と、シメオン氏[17]、ジョリヴェ氏[18]からなり、ジェロームはその指導に従うことになっていた。彼らの書類鞄には、あらゆる種類の組織法令が詰まっていた。まずパリから一つの憲法を携えてきて、次にはそれに司法制度、軍事制度、財政制度を合わせることになっていた。最初の仕事は領土を区分することだった。こうして、革命精神の助けも借りず、時の流れが築いてきた伝統、習慣、関係のすべてを、一瞬にして変えてしまった。次いで県庁、郡庁を設け、いたるところに市町村長を置いた。フランスの組織のすべての歯車を、そのようにドイツへ移し、これで動き出させたつもりになったのである。顧問諸氏の仕事が済むと、ブーニョ氏とジョリヴェ氏はフランスへ戻った。ジェローム・ボナパルトは、二人が帰るための手段を整えることを急いだ。シメオン氏だけは司法大臣として留め、それからは一人で統治した。つまり、宮廷と予算を、いやむしろ、女たちと金を持ったのである。
宮廷はひとりでに形を成した。しかし予算は、ナポレオンが自由保有地の半分を自分のために留保していたことから、膨らませざるをえず、初めの年々から編成がきわめて難しかった。この王朝は、ほかの王朝が終わるところから始まったのである。治世二年目には、すでにその場しのぎに頼っていた。それも、可能な節約の中に方策を探すのではなく、新税の創設に求めた。国家に必要な支出を賄うには三千七百万の歳入で足りたはずなのに、五千万を超す収入を見つけなければならなかった。そのために、民衆を最も不満にさせる手段に訴えた。強制借款を行ったのである。この種の課税の通常の結果どおり、多くの苛酷な取り立てを引き起こしながら、半分も集まらなかった。必要額と支出は、三千七百万から、ついには六千万へ膨れ上がった。カッセルの宮廷は、華やかさでテュイルリーの宮廷と張り合おうとした。若い君主は、あらゆる欲望にあまりにも身を任せていたので、当時カッセル駐在のフランス公使だった、謹厳で誠実なラインハルト氏[19]がこう言うのを、私は聞いた。年齢ゆえに敬意を払われる三、四人の女性を除けば、陛下がその貞操に対して権利を得ていない女性は、宮殿にはほとんどいなかったというのである。美しいトルフゼス夫人と、若いヴュルテンベルク公子[20]の身辺にも目を配らなければならなかったラ・フレーシュ夫人が、どれほど監視を厳しくしても、そうだった。
歳入・支出の数値に、原文がこの段落で明示していない貨幣単位を補わなかった。
宮廷の贅沢、その乱れ、そして国の苦境は、すべての責任を負わされたフランスと皇帝を憎ませた。この苦境が直ちに爆発を引き起こさなかったのは、ドイツ人に生来備わる忍従が、ヴェストファーレン王と巨大なフランスの権力との緊密な同盟のもたらす恐怖によって、いっそう強められていたからである。ジェロームを君主と仰いでいた、謹厳なゲッティンゲンとハレの大学は、このドイツの地方を特徴づけていた質素さ、品位、良識からこれほどかけ離れた、放縦な贅沢と乱れを、どのような目で見たであろうか。そのため、一八一三年にロシア軍がヴェストファーレンへ入った時、人々はその瞬間を解放の時と見なした。しかも、この国は再び、三十年前には兵士をイギリスに売っていた、あのヘッセン選帝侯の支配下へ戻るのだった[21]。
ここで指摘しておくべきだが、ナポレオンが作ったこれらの宮廷の贅沢は、ばかげていた。ボナパルト家の贅沢はドイツ風でもフランス風でもなく、混ぜ合わせたもの、いわば物知りの贅沢で、あらゆるところから借り集められていた。オーストリアの贅沢のような重々しさもあれば、ペテルブルクから取った、ヨーロッパ風でもアジア風でもあるものもあった。カエサルたちのローマから借りた外套をいくらか見せびらかしたが、その一方で、かつてのフランス宮廷のものは、ごくわずかしか見せなかった。そこでは装いが、趣味のよいあらゆる芸術の魅力のもとに、壮麗さを何と巧みに覆い隠していたことか。この種の贅沢が何より際立たせたのは、ふさわしさがまったく欠けていることだった。そしてフランスでは、しきたりにかなう感覚があまりにも欠けると、嘲笑はすぐ近くまで来ているのである。
このボナパルト一族は、かろうじてフランス領といえる人里離れた島で、つつましい境遇に暮らしていたところから出てきた。その首領は一人の天才であり、その栄達は、沸き立つ民主政から生まれた共和政の軍隊を率いて得た軍事的な栄光によるものだった。それならば、古い贅沢を退け、生活の浮ついた面においてさえ、まったく新しい道を選ぶべきではなかっただろうか。自らの力と持続性への信頼を呼び起こすような、高貴な簡素さを示したほうが、いっそう威厳を持てたのではなかったか。ところがボナパルト家の者たちは、自分たちが王座を奪った王たちを子供じみて真似ることが、その後を継ぐ一つの方法だと信じるほど、自分を欺いていた。
私は誹謗文めいたものはすべて避けたい。それに、これらの新王朝が、その風俗によっても皇帝ナポレオンの道義的な力を損なったことを示すのに、固有名を挙げる必要はない。騒乱の時代には、民衆の風俗はしばしば悪くなる。しかし、群衆があらゆる悪徳を持っている時でさえ、その道徳上の判断は厳しい。「人間は」とモンテスキューは言う、「個々には堕落していても、ひとまとまりではたいそう立派な人々である。」そして、王や王妃について判決を下すのは、その立派な人々なのである。その判決が烙印となる時、権力、とりわけ新しい権力が、それによって揺さぶられずにいることは、きわめて難しい。
スペイン人の誇りは、この偉大で気高い国民が、ヴェストファーレンの民衆ほど長く憎しみを内にため込むことを許さなかった。ナポレオンの背信がその憎しみを生み、ジョゼフはスペインへ到着して以来、それを日ごとに養った。彼は、弟を悪く言うことは弟から離れることであり、弟から離れることはスペインに根を下ろすことだと、思い込んでいた。そこから、常に皇帝の意志と真っ向から対立する行動と言葉が生まれた。彼は、ナポレオンはスペイン人を軽蔑していると、絶えず言い続けた。スペインを攻める軍を、フランス軍の屑のように語った。弟に最も害を与えそうなことを、何でも話した。一族の恥ずべき秘密まで明かすに至り、ときには会議の席上でそれをした。「私の弟が知っている統治は、ただ一つだ」と彼は言った。「鉄の統治だ。それに至るためには、どんな手段でもよいのだ。」そして愚かにも、こう付け加えた。「一族の中で立派な人間は私だけだ。スペイン人が私の周りに結集する気になれば、フランスを何も恐れる必要がないと、すぐに分かるだろう。」皇帝もまた、同じように無作法にジョゼフを語り、軽蔑の言葉を浴びせた。それもスペイン人の前でだった。スペイン人は、自分自身の憤激にも駆られ、兄弟がお互いについて語る時には、ついに双方の言葉を信じるようになった。兄への苛立ちのため、ナポレオンはスペインの問題ではいつも最初の衝動に従って行動し、絶えず重大な過ちを犯した。二人はあらゆる行動で互いを妨げた。政治上の行動計画も、財政計画も、軍事上の配置も、二人のあいだで調整することは一度もできなかった。
最高司令部を定め、占領軍と作戦軍を持ち、兵に食料を与え、衣服を支給し、給与を払う方法を取り決めることが肝要だった。ところが、その結果に至りうるものは、次々に失敗した。一つには、ナポレオンが将軍たちに気を遣ったからである。彼らを頼りにするのが彼の常であることは知られており、将軍たちは絶えず、しかもしばしば自分自身の利益のために、「私が指揮する光栄を持つ軍の安全のためには、これこれが必要だ」というありふれた口実を用いた。もう一つには、弟への対抗から、戦争の費用をすべてフランスに負わせようと絶えず努める、ジョゼフ独自の政策のために、すべてが失敗した。自分の計画の実行にジョゼフが絶えず持ち込む障害を避けるため、皇帝は将軍たちに、総参謀長であるヌーシャテル公と直接連絡を取るよう命じた。将軍たちは皆そうした。そして、申し合わせたわけでもなく、ただ自分たちの利益だけを手引きとして、ほとんどすべての書簡で皇帝に勧めたのは、一族の公子を据えるためにスペインを確保する計画を捨て、ただイタリアのように分割し、そこに公国、公爵領、長子相続財産を配分して、勇士たちへの褒賞とすることだけを求めてはどうか、というものだった。いくらか才人を気取るアルブフェラ公[22]は、そうすれば西方カリフの臣下であるムーア人の君主たちの時代へ戻ることになる、と付け加えたそうである。
フランス軍の司令部で起きていることは、毎週カディスで知られ、そこから王国全土へ伝わっていた。このような将来への恐れが、スペインの抵抗にどれほどの激しさを与えたかは、想像できるだろう。そのため、フランスの将軍たちは勝利を収めても、常に新しい敵を前に見いだした。真に服従していたのは、フランス軍が覆っている地点だけであり、それさえも、互いの連絡はゲリラによって絶えず断ち切られていた。
ジョゼフは一方で、皇帝に不満を抱き、自分の帽章をつけるようになった少数のフランス人にしか恩恵を与えなかった。これらの新参のカスティーリャ人は、宮廷のあらゆる官職、文官職、軍職へ潜り込み、国務参事会にも入り込んでいた。彼らは耐えがたい尊大さでスペイン人を扱い、あらゆる方法で王の虚栄心をくすぐり、王の弟をけなすことを決して怠らなかった。皇帝への憎しみは、カディスの評議会の広間と同じくらい、王の宮殿でも露わにされていた。
指導者たちが公然と対立し、すでに土地に慣れた兵が、オーストリアやロシアに対して必要だというので次々に呼び戻され、気の毒な新徴集兵で置き換えられることによって手段も弱められていた、このような企てには、どんな結末がありえただろうか。
ロバウでは一時自分を見捨てた幸運を、ヴァグラムで再びつかんだ皇帝は、ウィーンで自分が押しつけた平和に、スペインの服従が続くはずだと思い込んでいた。しかし、そうはならなかった。この平和は半島の情勢に何の影響も及ぼさなかった。抵抗には組織を整える時間があり、いたるところでそれが整っていた。ナポレオンはそこで、大きな努力が必要だと考え、実際にそれを行ったが、方向を誤っていた。出発点の考えが間違っていたのである。ウェリントン卿をポルトガルから追い払えば、スペイン人をたやすく片づけられると信じていた。マセナ元帥はこの作戦に莫大な手段を投入したが、それは成果を得られず、いずれにせよ成功したとしても、問題の根本に対する効果はほとんどなかっただろう。立ち上がり、武器を取り、打ち負かさなければならなかったのは、スペインの民衆全体だったからである。しかも、仮に皇帝が武装した抵抗を破壊できたとしても、すべての抵抗の中で最も打ち壊しがたい、表に出ない抵抗が、長い年月にわたって残らなかっただろうか。
ジョゼフは、弟のほかの企てのため、以前より少し自分自身と自前の手段に委ねられるようになると、自分の本当の敵は民衆だと、ついに悟った。そこで民衆を味方につけるために、あらゆることをした。閣僚たちは、あらゆる種類の約束を詰め込んだ小冊子を撒いた。ジョゼフが望んでいるのはスペイン人の自由であり、国の気風に合った憲法であって、その案を最も見識のある人々に諮ろうとしているのだ、とされた。また、大幅な節約と、税の大きな引き下げが告げられた。彼の布告では、革命的な手段がすべて動員された。その効果を打ち消すため、カディスのコルテスは直ちにジョゼフと自由主義を競い合い、あらゆる点で彼よりも先へ進んだ。宗教裁判、封建的権利、特権、州と州のあいだの障害、新聞の検閲などを廃止するカディスの法令ばかりが、目につくようになった。そして、これらの廃墟のただ中から、全面的に民主的な憲法が生み出された。ただし、君主制の支持者をあまり驚かせないため、そこには世襲の王が置かれていた。しかし、いかなる王も、このような王座を威厳をもって、いや、安全にさえ占めることはできなかっただろう。オーストリア家の王たちによって巧みに掘り崩され、ついには破壊されたスペインの根本法を再び立てていたなら、カディスのコルテスは、もっと賢明だったはずである。
こうしたあらゆる策動のあいだに、ウェリントン卿はスペインへ進入していた。ダルマティア公[23]からバダホスを奪い、ラグーザ公[24]からシウダー・ロドリーゴを奪った。ポルトガル国境の南北両端にある、スペインへのこの二つの要衝を押さえると、イギリスの将軍はダルマティア公を巧みに欺いた。アンダルシアへ出るつもりだと信じ込ませながら、ドゥエロ川沿いをバリャドリード方面へ向かったのである。一方ラグーザ公は、手の届くところにあった一万五千の援軍を待たず、アラピレスの戦い[25]が始まるに任せた。そして戦場に到着すると、重傷を負った。最初の銃声から指揮官を失った軍は、惨敗した。ウェリントン卿は、成功のあと、初めは北へ進みすぎたが、慎重な人らしく、退却へ転じることをためらわなかった。ポルトガルへ戻り、一八一二年、ロシア遠征のあの有名な惨禍によって、再びそこから出ることになった。その惨禍のため、皇帝ナポレオンは、スペインに残っていた最良の部隊を、自分のもとへ呼び戻さざるをえなくなったのである。
ポルトガルから再び出る年の1812は、原文の年次を保った。
この惨禍の最初の知らせは、人数が多すぎ、しかも従順でない指揮官たちがジョゼフの周りに生み出していた混乱を、いっそう大きくした。その結果が、あの致命的なビトリアの戦い[26]の敗北だった。大急ぎでスペインへ送り返されたダルマティア公は、軍の残存部隊を集めようとした。巧みな行軍を行ったが、それも、もはや有能な敵将とフランス南部の諸州を争うためでしかなかった。こうして、背信によって企てられ、それに劣らず拙劣に遂行されたスペインの大征服は終わった。拙劣に、と私が言うのは、ナポレオンの将軍たちだけでなく、彼自身についてでもある。彼もまた、スペインで重大な軍事上の過ちを犯したからである。一八〇八年末、マドリードの降伏後、ラ・コルーニャから船に乗ろうと急いでいたイギリスの一部隊を追いかけ、しかもほとんど損害を与えられずに終わる代わりに、アンダルシアへ進んで大きな一撃を加えていたなら、スペインの将軍たちの抵抗を崩すことができたはずだった。彼らには、ポルトガルへ退く以外の手段がなくなっていただろう。
皇帝は、ひとたびフランスの真の利益を見失うと、情熱の無思慮さと激しさをもって、一族のもう一人をヨーロッパの第一級の王座の一つに据える野心へ身を委ねた。その目的を達するため、恥じることもなく、持ち出せる口実が少しもないまま、スペインを攻撃した。諸国民の公正な心が決して許さないのは、まさにこのことなのである。運命にとってこれほど重要な時期のナポレオンのすべての行為、いや、むしろすべての動きを研究すると、その高い知性を曇らせる一種の宿命に引きずられていたのではないかと、ほとんど信じたくなる。
もし皇帝がスペインを、イギリスに和平を強い、当時ヨーロッパで未決だったすべての大きな政治問題を決着させ、各君主に確かな保証のある領有状態を確保するための舞台としか見ていなかったとしても、その企てがより正当化されるわけではない。しかし少なくとも、征服者の大胆な政策には、もっとかなっていただろう。私は彼を知らない何人かの人に会った。その人たちは、昔ながらの外交官たちのように、出来事を理論的に判断する傾向があり、彼にはこの意図があったと考えていた。実際、バイヨンヌでの取り決めは、意のままに取り消せるものだったから、適切な時機にヨーロッパ全体の平和のために差し出すのに都合のよい犠牲と見なすこともできた。しかし、一八一二年四月以後、政治上の組み合わせを考える者たちは皆、この仮説を捨てざるをえなくなった。この時ナポレオンは、イギリス内閣の申し入れを拒んだからである。同内閣は、フェルナンド七世をスペインの王座に、ヴィットーリオ・アメデーオをサルデーニャの王座に復帰させることを前提として認めるなら、すべての係争点について彼と合意するうえで、乗り越えられない困難は見当たらない、と述べていた。彼がこの提案を受け入れていれば、その時、自分の払う犠牲を、容易に力強い正当化の根拠とすることができただろう。そして各国の内閣は、フランスに永続する平和を享受させ、自分の王朝を固める希望からだけ、彼はスペインへ侵入したのだと、信じることもできたはずである。
サルデーニャ王の名は、原文 Victor-Amédée のまま訳した。
しかし、ナポレオンにとっては、もはや久しくフランスの政策が問題なのではなく、自分自身の政策でさえ、ほとんど問題ではなくなっていた。維持することには思いを向けず、拡張することばかり考えていた。保持するという考えは、一度もその心に入ったことがなく、その性格がそれを退けているように思われた。
それでも、適切な時にできなかったことを、彼は手遅れになってから、自分の権力にも栄光にも何の利益もないまま、行うよう強いられた。一八一四年一月にスペインの王族たちをマドリードへ帰し、同じ時期に教皇をローマへ帰したのは、窮迫に促されたその場しのぎにすぎなかった。そして、その措置が突然、しかもひそかにさえ決定され実行されたやり方は、そこから偉大さと寛大さの威光をすべて奪った。しかし私は、ローマの宮廷との関係をこの叙述の中にまだ置いていないのに、教皇が自分の領国へ帰ったことを語っているのに気づく。それは我々の時代のあまりにも注目すべき出来事なので、ここでその詳しい経緯を述べないわけにはいかない。
一八〇一年のコンコルダートののち間もなく、ナポレオンとローマの宮廷とのあいだに生じた争いは、戴冠式のあと、さらに激しくなった。本来は争いを防ぐはずの二つの出来事だったのに、そうなったのである。長いあいだ、これらの争いは、皇帝が教皇に加える乱暴についての噂と、教皇聖下の気高い訴えによってしか知られていなかった。その訴えも、公衆には、きわめて伝わりにくく、ひどく混乱した形でしか届かなかった。これから述べる聖職者会議をナポレオンがパリに招集した時、争いの純粋に神学的な部分に関しては、その発端と原因を、もっとよく判断できたはずだった。しかし、たいそう学識のある人々からなるこの会議の活動は、秘密にされていた。
どのような出来事の連なりによって、教皇は十年近くものあいだ、これほど憎むべき、これほど政治的分別を欠いた、しかもこれほど多様なやり方で、苦しめられ迫害されることになったのだろうか。
少し前までさかのぼり、日付とともに事実をたどってみよう。これらの日付のいくつかは、ピウス七世の大きな不幸を説明してくれるだろう。教皇はそれをあまりにも英雄的な勇気で耐え抜いたので、教皇聖下に多少の先見の欠如があったと指摘することさえ、ほとんどためらわれる。
前任のピウス六世は、一七九八年二月十日、総裁政府の命令によってローマから連れ去られ、一七九九年八月二十九日にヴァランスで亡くなっていた。ピウス七世は一八〇〇年三月十四日、当時カンポ・フォルミオ条約の条項の一つによりドイツ皇帝に属していたヴェネツィアで選出された。そして同年七月三日、ローマに入った。ローマは、ボナパルトがエジプトにいたあいだに、教皇領とともに連合軍によって奪回されていた。
エジプトから戻ったボナパルトが、一七九九年十月十六日、突然パリに到着し、ブリュメール十八日のクーデタ(一七九九年十一月九日)の結果、同年十二月十三日、第一統領として政府の頂点に置かれたことは、すでにどこかで述べた。コンクラーヴェは、同じ十二月の一日にヴェネツィアで開かれていた。翌三月に選ばれたピウス七世がヴェネツィアからローマへ向かっていたあいだに、ボナパルトは、イタリアにきわめて大きな影響を及ぼす二つの出来事によって、権力を掌握したことを示したばかりだった。一八〇〇年六月二日、ミラノに入り、そこでチザルピーナ共和国を再建した。そして十二日後の六月十四日、あの有名なマレンゴの戦いに勝った。これによってイタリアの広大な部分がフランスの手に戻り、教皇領はトレンティーノ条約で定められていた範囲へ縮小された。
ここでのトレンティーノはイタリアの Tolentino を指す。
したがって、この二つの出来事のあと、一八〇〇年七月三日にローマへ入った教皇は、ボナパルトほど強力で恐るべき保護者を確保することが、いかに重要かを感じたはずである。また、自らが長であり、フランスで多くの変転と迫害を経験してきた宗教にとっても、あまりにも長いあいだこの不幸な国を引き裂いてきた教会分裂を終わらせることが、いかに重要かを感じたはずである。
ボナパルトも同じ必要を感じていた。ミラノを通った際、ローマの宮廷から、きわめて秘密裏に、きわめて巧みに行われた最初の申し入れを、非常に大きな関心をもって聞いた。軍事上の功績と、当時優勢だった哲学的あるいは自由主義的な思想によって政府の頂点へ押し上げられたボナパルトが、直ちにローマの宮廷へ近づく必要を感じたのは、注目すべきことではないだろうか。おそらくこの時こそ、彼が自らの性格の強さを最もよく示した時だった。軍のあらゆる嘲笑をものともせず、同僚であるほかの二人の統領の反対にさえ立ち向かったからである。彼は一つの考えを断固として守った。ともに信用を失っていた聖職者民事基本法や理神博愛教を維持するには、カトリックの迫害者という役割を引き受け、その宗教と聖職者たちに対して法の厳しさを向けなければならない。一方、革命による宗教上の新機軸を捨てれば、我々の古い宗教を容易に味方とし、さらにはフランスのあらゆるカトリック信徒の良心の中に、自らの支えを得ることができる、という考えだった。
そこで彼は、教会の長と合意することを決意した。これは、彼の大きな天才を示す特徴の一つである。和解させ、連れ戻し、裁判官あるいは仲裁者として判断を下し、ついには、ほかに比べるもののない権威によって、礼拝と教義の統一を回復できるのは、教会の長だけだったからである。
その権威には、教皇という人物の、深く真摯な信仰、豊かな学識、人を引きつける温和さによる感化力が加わっていた。
コンコルダートは、これ以上望ましい前兆のもとに現れることはできなかった。とりわけ地方では、強く待ち望まれていた。それは一八〇二年四月八日に法律となった。十七か条からなり、その起草には、注目すべき賢明さと先見があった。すべてが明確で、曖昧さがなく、人の感情を傷つけたり不快にさせたりしかねない言葉は、一つもなかった。譲渡された教会財産は、もはや返還を求められることはなく、その購入者は、この点について、あらゆる恐れから完全に解放され安心すべきであると宣言されていた。これは、信仰に満ちた教皇の寛容によって得られた、非常に大きな成果だった。
しかし、一点だけ、並外れて大きな困難があった。フランスで礼拝を再建するには、旧来の司教全員から辞任を得るか、それを得ずに進めるかしなければならなかった。彼らは皆、一七九一年、聖職者民事基本法の際に、ピウス六世へ辞任を申し出、辞表さえ提出していた。ピウス六世はそれを拒むべきだと考えた。教皇ピウス七世は、一八〇一年八月二十四日付の小勅書『タム・ムルタ』によって、あらゆる交渉に不可欠な前提として、彼らに辞任を求めた。ただし、穏やかで信頼を示しながらも毅然とした言葉で、拒否されるとは思わないが、もし拒否されたなら、残念ながら、新しい区画の司教区の統治を、新たな在職者によって整えなければならなくなる、と告げた。
まだ存命で、司教職を放棄していなかった八十一人の司教のうち、四十五人は辞任を申し出、三十六人は拒否した。大部分は、学識ある神学者アスリーヌ[27]から拒否を励まされていたとはいえ、神学的な確信というより、ブルボン家への愛着と、事実上の政府への憎しみによるものだった、と私は思う。何人かの拒否は絶対的なものというより引き延ばしだったとされているが、それでも皆が拒否を貫き、その抵抗は日ごとに強まるようにさえ見えた。辞任しなかった司教全員[28]が署名した一八〇三年の教会法上の異議申し立てに続き、一八〇四年四月には、さらに強い一連の異議申し立てとともに、イギリスに住む十三人の司教が署名した、国王の権利に関する宣言[29]が現れたからである。最後に、出来事を先取りしてここで述べれば、一八一四年、ルイ十八世が王座に戻ると、これらの司教は、教皇に抵抗したことを、教皇自身に対してさえ名誉の根拠にしようとした。そして、各人がかつての司教区の称号を名乗り、その趣旨の尊大な書簡を送った。教皇はそれを受け取ることを拒み、その拒否を貫くことで、ついに謝罪の書簡を送らせた。その書簡では、彼らは主張を捨て、ただ元司教として署名した。この点に少しの疑いも残さないため、教皇は、誰一人として、以前占めていた司教座へ戻すことを望まなかった。ランス大司教[30]に対してさえ、例外を設けるのがどれほど適切に思われようとも、そうはしなかった。
一八〇一年と、その後の数年に起こったことへ戻ろう。教皇は、フランスに何の混乱も起こすことなく、コンコルダートが全面的に働くのを見た。意見はさまざまだったが、反対は軽微で、まれで、あとに続かなかった。
とはいえ、ここで言っておかなければならない。この時ピウス七世は、通常の規則を超える権威を行使したのであり、別の時代であれば、教皇が行使しようとしても認められなかっただろう。それは、裁判なしに司教を罷免し、また、手続きを経ずにフランスの司教区の半数以上を廃止する権威だった。ほかの時代なら、フランスでは、ガリカン教会の自由にこれほど反するものはないと思われたはずである。しかし、この場合は通常の時代との比較を絶していた。ここでそれらの自由を持ち出し、その行使を適用しようとすることは、不可能であり、ほとんど滑稽でさえあった。教皇は、この三十六人の司教からなる少数派に対して、最も強い懇請を尽くしたが、無駄だった。そこでフランスの司教団の多数を支えとして、緊急に終わらせなければならない教会分裂を鎮める、唯一可能な手段を用いたのである。実際、教皇にはほかにどんな手段があっただろうか。探してみても、一つとして考え出すことさえできまい。フルーリ神父[31]は、熱心なガリカン主義者であり、教皇の権威を広げる気などほとんどなかったことは確かだが、それでもガリカン教会の自由についての論説で、規則を維持し、教会法規を守らせることが問題となる時には、「教皇の権威は最高であり、すべてを超える」と言っている。ボシュエも同様のことを述べている。「したがって、なおさらのこと」と、エムリ氏[32]は著書の一つで付け加える。「教会、あるいは教会の重要な一部分の存続が問題となる時、教皇の権威は最高であり、すべてを超え、教会法規さえ超えると言わなければならない。これらの規則と法規が作られたのも、ただ、そのような大きな利益を維持するためだからである。」トマサン神父[33]も、教会の規律についての大部の有名な著作で、こう言っている。「法規を守ること自体よりも、それに違反することから大きな善が生まれるはずの時には、法規に違反することほど法規にかなうものはない。」
したがってピウス七世は、この困難な状況で実際に取った行動によって、偉大な人格と、真の原則についての深い理解とを、同時に示したのである。立憲派の司教たちを怒らせず、屈辱も与えず、それでいて何一つ譲らずに教会分裂を鎮め、いたるところで平穏が回復した。
もっとも、以前の在職者が辞任していなかった司教区では、心の揺れる信徒もいた。これらの旧司教のうち何人かは、自分の管轄権を留保しながらも、後任の司教が権限を行使することには同意し、それによって、その司教の資格の不十分さを補っていた。しかし、抵抗の最も激しい者たち、政治的な信条によって革命の原理に対する最も強い敵であることを示し、その感情に揺るぎなく支配されていた者たちは、決してそうしなかった。もっとも、この根強い反対は、彼らが期待し、本来なら恐れるべきだった効果も結果も生まなかった。良心がとりわけ恐れを抱きやすい信徒たちも、一時は不安だったかもしれないが、ほどなく理解した。旧司教が、自分たちのもとへ来ることも、教皇の求めに応じて辞任することも望まなかった以上、このような事情のもとで、教皇聖下が送ってくる新しい司教を信頼しても、自分たちは確かに何の非難も受ける筋合いはない、ということを。
ロンドンにとどまった司教たちは、ブランシャール神父[34]やガシェ神父のように、自分たちの教説を身につけた者たちが、その教説から導かれる帰結を極端にまで押し進めるのを、きっと心を痛めて見たことだろう。もっとも、その帰結はかなり筋道立てて導かれていた。彼らはイギリスで教皇を攻撃する大量の誹謗文を刊行し、できるかぎりフランスへ持ち込んだ。そこでは、ルターを写したかのような狂乱した文体で、教皇は異端者、分裂者であり、教皇位を失い、司祭職さえ失っていると宣言されていた。ミサの奉献文でその名を口にすることは冒瀆であり、ユダヤ人や異教徒と同じほど教会とは無縁の者だ、と言っていた。その暴挙、醜聞などが語られていた。私は一音節も変えてはいない。当時「小教会」と呼ばれたものを形づくっていた司教たちの名誉のために、どれほど反対派であったにせよ、彼らに捧げられたように見えるこの分別のない激怒を、彼らが認めたわけではないと信じよう。なお、これらの誹謗文は、アイルランドの二十九人のカトリック司教と、ロンドン在住の使徒座代理によって、厳粛に非難された。付け加えなければならないのは、それらが撒かれたフランスでは、万人の軽蔑によって徹底的な裁きが下されたことである。警察がある時、裁判所に告発したか、しようとしたかと思うが、それでも、深い無名の闇から引き出すことはできなかった。
異端・分裂などの断定と宗教間の比較は、著者が反教皇文書の言葉として紹介する当時の言説を訳したもの。
ボナパルトは、コンコルダートと同時に、カトリックの聖職者とプロテスタントの礼拝の双方について、付属基本条項を法律の形で制定させていた。そのいくつかは、副次的な細部についてさえフランスの教会を政府に従属させすぎるように見えたため、教皇の気に入らなかった。教皇は穏やかに不満を述べ、修正を求めた。そして、少しずつ、さほど大きな困難もなく、重要な変更を得た。そもそも、そのうちのいくつかは暫定的な条項であり、それを生んだ事情が消えれば、その効力も終わるはずだった。別の条項は、古くからのガリカン教会の自由から自然に導かれるものであり、これらの変更を認めることはできず、教皇もそれを期待すべきではなかった。コンコルダートを結ぶには、これらの自由を一時的に断念しなければならなかったが、結ばれた以上、我々の特権に戻ることが急務だった。真に必要なものはすべて、直ちにでなくとも、少なくとも時とともに認められた。教皇は、自らの願いを実現するにあたり、後に述べるようにナント司教と、特使のカプラーラ枢機卿に十分支えられた。第一統領の性格を知るこの枢機卿は、あらゆる行動に大きな賢明さとこのうえない節度を示した。待つことを心得、相手を苛立たせるのを恐れ、すでに得た成果に十分満足していたので、それを危うくするようなことは求めなかった。
電子版HTMLでは改頁部分に文字の脱落があり、on ne pouvait order となっている。同電子版TXTの on ne pouvait pas accorder(認めることはできなかった)に従って訳した。
ボナパルトのもとへの教皇特使ア・ラテレに任じられたカプラーラ枢機卿は、一八〇一年八月の大勅書『デクステラ』と、同年十一月二十九日の大勅書『クオニアム』によって、コンコルダートを実施し、新しい司教を叙任し、起こりうるあらゆる困難を解決するための、最も広範な権限を与えられていた。しかし、コンコルダートは一八〇一年七月十五日にパリで締結され署名され、その翌八月にローマでピウス七世によって批准されていたものの、立法院が開会していなかったため、法律になったのは一八〇二年四月八日だった。特使が職務を行い、新しい司教を叙任できるようになったのも、この日からであり、同じ四月八日に第一統領の前で宣誓したのちのことだった。この宣誓には、統領たちの決定で定められたことと、彼が実際に用いた言葉とのあいだに、かすかな違いを認めることができる。ただし、よく鍛えられた目が必要である。決定には、次の短い言葉があった。「慣用の文言に従い、国家の法律およびガリカン教会の自由に従うことを誓い、約束するものとする。」ところが枢機卿は、ラテン語で、フランス共和国の憲法、法律、諸規定、慣行を遵守し、同時に「共和国政府の権威と管轄権、ならびにガリカン教会の権利、自由、特権を、いかなる仕方でも損なわない」ことを誓い、約束した。そのすべてに先立って、第一統領に対する賛辞が述べられたが、おそらく、どの君主に対しても、かつてなされたことのないほどのものだった。注意して見れば、ガリカン教会の自由に従うと約束する代わりに、ただそれを何ら損なわないと約束したことが分かる。前者は一種の賛同、少なくともその自由の承認を含むが、後者は純粋に否定的な約束だからである。もっとも、その違いは結果の点ではごくわずか、あるいは無に等しく、そこにこだわるべきではなかった。しかも宣誓の別の部分では、求められた以上のことを約束していた。国家の法律に従うと誓うことを求められたのに、彼は共和国の憲法、法律、諸規定、慣行を遵守すると明言して誓ったのであり、これはもっと明確な表現だった。
ローマの宮廷が恐れるガリカン教会の自由についていえば、それを損なわないと宣誓して約束することは、確かに、特使から期待できるすべてだった。とりわけ、いかなる教皇も、その自由を認めたことがないと考えれば、そうである。インノケンティウス十二世[35]、オデスカルキは、一六八二年の聖職者集会で確認されたその自由のために、八年ものあいだフランスの教会を混乱させ、集会の委員だった第二階層の聖職者たちに任命の勅書を与えることを、頑として拒んだ。しかも彼らは、その集会では議決権を持っていなかったのである。後継のアレクサンデル八世[36]、オットボーニは、拒否においてさらに頑固だった。死の二日前に、一六八二年の四か条に反対する大勅書を公布したほどである。ただし、臨終間近だったため、その勅書は何の結果も生まなかった。インノケンティウス十二世[37]、ピニャテッリは、人のよい人物だったとはいえ、一六八二年から一六九三年のあいだに任命された司教たちに勅書を与える決心がついたのは、一人一人が、あの集会で起きたことについて謝罪と遺憾の書簡を送ってからだった。この書簡はまことに屈辱的だった。とりわけそうした性質を与えたのは、ルイ十四世が自筆の書簡を添え、その中で、一六八二年三月二十二日の勅令を何ら実施しないと約束したことだった。国王の書簡は撤回に見えたに違いない。しかし、死ぬ前にはそこから立ち直っていた。結局、勅令は取り消されず、彼の死後も実施され続けたからである。
電子版の本文はオデスカルキをインノケンティウス十二世と記すが、原注35はインノケンティウス十一世(ベネデット・オデスカルキ)と記している。ここでは両者の不一致を解消せず、それぞれの表記を保った。
一八〇四年五月二十日、元老院によって皇帝と宣言されたボナパルトが、教皇から戴冠の聖別を受けることを大いに重視したのは、理解できることであり、ここで改めて述べるまでもない。彼がそれを得られたのは、その運命の奇跡である。当時私は、それに寄与できたことをたいそう喜んだ。そうすればフランスとローマの宮廷の絆が強まると考えたからだった。ピウス七世は、すでに統領政府を認めていた。コンコルダートの交渉をした相手が、その政府だったからである。したがって、新政府が自ら崩れ、国民がブルボン家を呼び戻すことになった場合に、いつか同家が主張するかもしれない権利を考慮して、思いとどまるわけにはいかなかった。ゆえに、ボナパルトが自ら与えた、あるいはフランスで授けられた皇帝の称号に対して、異議を述べることはなかった。その称号は、第一統領の称号よりも厳粛に、もっとも、おそらくは誠実さでは劣る形で与えられたのである。教皇が考慮すべき点は、もはやただ一つだった。新皇帝は莫大な権力によって宗教に大きな善も大きな害も与えられるのだから、宗教の利益だけを考え、その戴冠の聖別を行うために赴くことに同意すべきかどうかである。教皇ステファヌス三世の特使、聖ボニファティウスが、正統の国王キルデリク三世の存命中に、ピピンに聖別を授けに来たように、また、レオ三世が八〇〇年にローマでシャルルマーニュを皇帝として戴冠させたように、さらに別の教皇ステファヌス五世が、シャルルマーニュの死後、ランスへ来てルイ敬虔王に聖別を授けたように、そうすべきか、ということだった。
日付および中世の教皇名・番号と出来事の組み合わせは、ここでは本文の記述を保った。
教皇はパリへ来てこの戴冠の聖別を行う決心をし、記念すべき儀式は一八〇四年十二月二日に行われた。この時ピウス七世を導いたのは、ロンバルド人に対してピピンの援助を懇願した教皇ステファヌス三世のような世俗的な意図ではなく、明白に、ただ純粋に宗教上の動機だけだった。ボローニャ、フェラーラ、ラヴェンナの三つの教皇使節管区を取り戻したいという、きわめて自然な願いさえ、ほのめかすことを控えたからである。もっとも皇帝のほうでも、それを返すと申し出ることはもちろん、期待させることさえしなかった。教皇の願いは、例外なくすべて宗教の利益に関するものだった。個人的な利害に関するものは一つもなく、一族のために差し出された贈り物も拒んだ。
教皇は一八〇五年四月四日にパリを発ち、通った先々に、その徳と善良さの深い印象を残した。ナポレオンは数日前にパリを発っていたが、教皇聖下に感謝を示すこととは、まったく別のことを考えていた。五月十六日、教皇はローマに着き、五月二十六日、皇帝はミラノでイタリア王として戴冠した。ほどなく、その軍隊は教皇領内のアンコーナを占領した[38]。教皇は抗議した。ナポレオンは返答しなかったが、一八〇五年十二月二日のアウステルリッツの戦いと、二十六日のプレスブルクの和平のあと、一八〇六年一月六日付で教皇に書き送った。アンコーナを自分のものにするつもりはなく、聖座の保護者として、また、この都市がイスラム教徒によって汚されないようにするために、占領したのだ、と。
イスラム教徒についての表現は、著者がナポレオンの書簡の言葉として紹介する記述を訳したもの。
三か月後、一八〇六年三月三十日、ナポレオンは兄ジョゼフをナポリの王座に据え、教皇にその承認を求めた。ほとんど同時に、皇帝である自分と攻守同盟を結び、大陸体制を受け入れ、したがってイギリスに対して港を閉ざすよう求めた。これはつまり、イギリスに宣戦せよということだった。とりわけ、皇帝が一八〇三年にイタリアのために教皇と結んだコンコルダートを踏みにじり、司教区や修道院から財産を奪い、両者を意のままに廃止し、新しい宣誓などによって司教や教区司祭を苦しめていた時に、このような提案を受け入れることはできず、実際に受け入れられなかった。そこからフランス当局との書簡の往復が生じたが、その中では、ローマの宮廷側の力強さ、理の確かさ、礼節が、大いに注目された。
このような拒否と、これほどの道理は、皇帝を苛立たせずにはいなかった。一八〇八年二月二日、彼はミオリ将軍[39]の指揮する軍にローマを占領させた。軍はサンタンジェロ城を押さえた。将軍は、領国を失うぞと脅しながら、教皇に突きつけられたすべての要求に同意させようとした。いやがらせを重ね、郵便と印刷所を押さえ、数人の大臣を含む二十人の枢機卿を連行させるなどした。教皇はこのような暴力に抗議したが、無駄だった。ナポレオンは一向に顧みなかった。同年四月二日、ウルビーノ、アンコーナ、マチェラータ、カメリーノの教皇使節管区をイタリア王国へ併合し、三つの県とした。出生地へ戻らない枢機卿の財産を没収した。教皇聖下の衛兵のほとんどを武装解除させ、その中の貴族たちを投獄した。最後にミオリは、国務長官代理のガブリエッレ枢機卿[40]を連行させ、その書類を封印させた。
一八〇九年五月十七日、ウィーン発の日付を持つナポレオンの勅令が、シャルルマーニュの後継者という資格において、教皇の領国をフランス帝国へ併合した。ローマ市は帝国の自由都市となり、教皇は引き続きそこに座を置き、二百万フランの収入を受ける、と定められた。六月十日、この勅令をローマで公布させた。同じ六月十日、教皇はこれらすべての略奪に抗議し、いかなる年金も拒んだ。そして、自らが訴えなければならないあらゆる暴挙を列挙し、自分と聖座に対する暴力を企て、助け、実行した者たちに向けて、あの有名な、そして軽率な破門の大勅書を発した。ただし、誰の名も挙げなかった。
ナポレオンはこれに激怒し、最初の衝動のままにフランスの司教たちへ書簡を書いた。その中で、ほとんど革命的ともいえる言葉で、「はかない世俗の権力に、良心の永遠の利益と、あらゆる霊的な事柄の利益とを従属させようとする者」と、教皇を呼んだのである。
一八〇九年七月六日、ピウス七世は、ローマと教皇領の世俗的な主権を放棄する気があるかと問われたのち、ローマから連れ去られた。ラデ将軍[41]によってサヴォナまで送られ、八月十日、一人でそこに到着した。枢機卿たちは、あらかじめ全員パリへ移されていた。
そして、教皇に加えた略奪を完全に仕上げるため、ナポレオンは一八一〇年二月十七日、皇帝の長男にローマ王の称号を与える元老院決議を発布させた。それはさらに、皇帝は治世の最初の十年以内に、ローマで二度目の戴冠の聖別を受ける、とまで定めていた。
圧迫され、捕らわれ、あらゆる助言を奪われた状態で、教皇は、皇帝の任命した司教全員に勅書を与えることを拒んだ。こうして、司教座の空位を終わらせるための適切な措置について、議論が始まった。
聖職者会議
一八〇九年に設置。
この会議は、フェッシュ枢機卿、モーリ枢機卿[42]、トゥール大司教[43]、ナント司教[44]、エヴルー司教[45]、トリーア司教[46]、ヴェルチェッリ司教[47]、サン=シュルピスの長エムリ神父、およびバルナバ会総長フォンタナ神父[48]で構成されていた。
政府は会議に、三つの組に分けた質問を提出した。第一はキリスト教世界全般に関すること、第二は特にフランスに関すること、第三はドイツとイタリアの教会、および破門の大勅書に関することだった。
各組は、いくつかの質問に分かれていた。これから、そのすべてを回答とともに示そう。回答は短くしたが、意味は変えていない。会議自身の表現と、会議が援用する引用には、注意して強調を付すことにした。
この後の質問・回答には、会議の表現や、会議が引用する別の著者の言葉が重なっている。強調箇所は原著側の区別であり、訳者が新たな主張として加えたものではない。
政府の質問に対する会議の回答の冒頭に置かれた前文には、まず、次の言葉が目につく。私どもは、陛下に捧げる敬意と、教皇聖下の現在の境遇が私どもに命じる関心、熱意、愛の献身とを、切り離すことはいたしません。……したがって、私どもの審議の結果から期待できる霊的な善は、すべて、ただ陛下の御手の中にあります。……私どもの願いをお助けになり、陛下と教皇聖下との、これほど望ましい結びつきを早めていただけるなら、陛下がほどなくこの栄光を享受されるものと、あえて希望いたします。そのためには、教皇に完全な自由を与え、本来その助言にあたる者たちを周囲に置いていただくことです。彼らなしには、教皇は、その配慮を託された諸教会と連絡を取ることも、いかなる大きな問題を解決することも、カトリック世界の必要を満たすこともできないからです。
第一組・第一問。教会の統治は恣意的なものか。
回答。否。確かに、それは特に聖ペトロの後継者に属する。後継者は教会の長であり、教会全体において名誉と管轄権の首位を持つからである。しかし、統治は使徒の後継者である司教たちにも属する。そして、使徒座の権威がどれほど高くとも、その行使は教会法規、すなわち教会全体に共通する法律によって規律される。教皇聖マルティヌスは、ある司教にこう書き送った。我々は聖なる法規の擁護者、保管者であって、違反者ではない。ボシュエは言う。ローマの教会がほかの教会を超えて際立って高くなったのは、その法規を守り、ほかの者たちにも守らせることによってである。会議はさらに、個々の教会が持ち、古い規律に由来する慣行は、その教会にとって法律となる、と付け加える。それらはいわばその共通法をなし、尊重されなければならない。会議は、アフリカの教会について明確に次のように述べた教皇聖グレゴリウスの権威を援用する。カトリックの信仰を損なわない慣行は、手をつけずに残されなければならない。
第二問。教皇は、世俗上の事柄を理由として、霊的な事柄への関与を拒むことができるか。
回答。教皇が神の法によって享受する首位権は、もっぱら教会の霊的な利益のためのものである。したがって私どもは、次のように答えることで、その首位権に敬意を表するつもりである。世俗上の事柄が、それ自体では霊的なものと何ら必然的な関係を持たず、教会の長が使徒座大使の職務を自由に果たすことを妨げないならば、教皇は世俗上の事柄だけを理由に、霊的な事柄への関与を拒むことはできない。
原文は fonctions du nonce apostolique(使徒座大使の職務)と記す。教皇自身を主語とする文脈との関係を、訳者の推測で別の職名に置き換えなかった。
第三問。しばらく前から、ローマの宮廷が少数の家々のうちに閉じこもり、教会の事柄が、近郊の小さな土地から選ばれた少数の高位聖職者と神学者によって検討され処理されていることは、疑いがない。……このような状態で、公会議を招集するのは適切ではないか。
回答。ここでいうのが普遍公会議であれば、教会の長なしに開くことはできない。さもなければ、普遍の教会を代表しないからである。……一国の教会会議をいうのであれば、カトリック世界全体にかかわる事柄を定めるには、その権威は不十分である。
第四問。教皇聖下の判断を助けるため、枢機卿会議、すなわち教皇の特別な顧問会議は、あらゆる国の高位聖職者から構成されるべきではないか。
回答。バーゼル公会議は、いくつかの制限条項を付しつつ、枢機卿をすべてのカトリック諸国から選ぶことを決定していた。トリエント公会議でのフランス国王の代表たちは、バーゼル公会議の採用した提案を再び提出したが、この公会議が決定したのは、教皇は、支障なく行いうるかぎり、また、ふさわしい者を見いだすに応じて、あらゆる国から枢機卿を選ぶ、ということにとどまった。
会議は、陛下の望みにかなうこの措置の実行を願うことしかできない、と述べている。
第五問。現在の組織を変更する必要がないと認められるとして、皇帝は、枢機卿の指名についても、そのほかあらゆる特権についても、フランスの王、ブラバント公やその他のネーデルラントの君主、サルデーニャの王、トスカーナ公などが持っていた権利を、自分一人に合わせ持っているのではないか。
回答。会議は、帝国に併合された主権国家の特権を皇帝が要求するのは、まったく自然に根拠のあることだと考える。
第二組。特にフランスに関する質問。
第一問。皇帝陛下、あるいはその大臣たちは、コンコルダートを侵害したか。
回答。会議は、コンコルダートに対する本質的な違反について、教皇が不満を述べる理由はないと考える。コンコルダートに追加された付属基本条項については、教皇がパリ滞在中、そのいくつかをカトリックの自由な実践に反すると判断し、皇帝へ意見書を提出したことを、会議は認める。しかし、教皇聖下が不満を述べた条項のいくつかは、ガリカン教会で受け入れられている原則や慣行の適用、あるいは帰結にすぎず、皇帝もフランスの聖職者団も、それらを離れることはできない。
確かに、ほかのいくつかには、厳密に実行されれば教会にとって非常に有害な規定が含まれる、と会議は付け加える。それらは、その場の事情に応じた規則として、カトリックの礼拝の再建への道を平らにするために必要と判断された配慮として、コンコルダートに加えられたのだと考える理由は十分にある。私どもは陛下の正義と信仰に期待し、それらを廃止し、あるいは、それによって生じた不安を払拭するように修正していただきたいと願う。
会議は三つを挙げる。第一条は、大勅書、小勅書などについて、政府の許可なしには受け入れることも実行することもできないとするもの。会議は、高等法院が明文で例外としていた内赦院の小勅書を、例外にすることを望む。第二十六条は、司教から叙階を受けるために聖職者に求められる生活資力、すなわち収入を、三百フランに定めるもの。しかし、志願者の大部分が上層の階級から来ており、ずっと裕福だった革命以前には、それは百五十フランにすぎなかった。第三十六条は、司教総代理に関するもので、この条項では司教の死後も職務を続けることになっている。しかし原則として、総代理の権限は、それを与えた者の死とともに消滅し、参事会が当然に司教の管轄権を引き受け、司教座の空位中に統治する総代理を任命するのは、その参事会である。
この三つの要求は、一八一〇年二月二十八日の勅令によって認められたことを、指摘しておくのが公正であろう。
第二問。コンコルダートが施行されて以来、フランスの聖職者団の状態は、全般に改善されたか、悪化したか。
ここでの回答は、きわめて断固とした肯定であり、きわめて詳しく、きわめて多くの事実に富んでいる。それだけでもコンコルダートによる最大の恩恵である、カトリックの礼拝の自由に加えて、その後には何と多くの新たな恩恵があったことか。参事会への基本財産の付与、三万の支教会への給付、神学校のための四百の全額奨学金と八百の半額奨学金、司教の推薦する学生の徴兵免除、司教と参事会への給付を補い、礼拝の必要を満たすよう県の総評議会へ行った要請、無償教育と貧者・病者の救済に献身する修道会の再建などである。これらの事実は、すべて明らかである。
第三問。フランス政府がコンコルダートに違反していないなら、教皇は、任命された大司教や司教の叙任を恣意的に拒み、この十年来司教のいないドイツで宗教を滅ぼしたように、フランスでも宗教を滅ぼしてよいのか。
教皇が宗教を「滅ぼした」とする断定は、政府が会議に提出した質問の表現であり、訳者の評価ではない。
回答。コンコルダートは、国家の長と教会の長とのあいだの双務契約であり、双方が相手に対して義務を負う。……また、契約当事者のそれぞれが権利を得、義務を引き受ける公の条約でもある。教皇に留保された権利を、恣意的に行使してはならない。国王フランソワ一世とレオ十世[49]とのコンコルダート(一五一五年)によれば、教皇は、君主が指名した者に叙任の勅書を与えるか、拒否する教会法上の理由を挙げる義務があった。ピウス七世も同様に、自ら厳粛に批准したコンコルダートによって、皇帝とフランスに対する義務を負っている。
コンコルダートの年1515は、この回答の原文に従った。
教皇聖下は一八〇九年八月二十八日、サヴォナからカプラーラ枢機卿へ書簡を送り、拒否の理由を述べていた。会議は、教会の長の人格と最高の尊厳に対して深く抱いている尊敬から離れることなく、皇帝の御前に、自分たちの考えを示せると考える。もし教皇聖下と協議する光栄を許されるなら、その御本人にもあえて申し上げるであろう考えである。
教皇は書簡で、拒否の理由を三つ挙げていた。第一に、コンコルダート以来フランスに導入された宗教上の新機軸。しかし、そのコンコルダートに対する本質的な侵害であるものを、一つも具体的に挙げてはいなかった。知られている新機軸は、フランスでは宗教への恩恵だった。政府は付属基本条項に対する意見を認めており、そもそもフランスに関するかぎり、このすでに古い不満を理由に、教皇が勅書を拒んだことは、それまでなかった。第二の理由は、会議が判断する立場にない政治上の出来事と措置に基づいていた。主要な出来事は、ローマの領国をフランス帝国へ併合した一八〇九年の勅令である、と会議は言う。この理由は教会法にかなうか。宗教の原則と精神に基づいているか。会議は答える。宗教は、霊的な秩序と世俗的な秩序を混同しないよう教えている。教皇が本来、神の法によって行使する管轄権は、聖ペトロがイエス・キリストから受け、その後継者たちへ伝えることのできた唯一のものであり、これは純粋に霊的なものである。世俗的な主権は、教皇たちにとって、その権威とは別の付属物にすぎない。前者は教会と同じく、世界と同じく続く。しかし後者は人間の制度であり、教会に与えられた神の約束には含まれないから、人間と出来事によって与えられたように、奪われることもありうる。この点についてどのような場合を想定しようとも、また教皇の政治的な立場がどのようなものであろうとも、普遍の教会におけるその権威と、個々の教会との関係は、常に同じでなければならない。教皇が権能を受けたのも、ただ信徒の利益と教会の統治のためである。だから会議は、物事を間近に見ている自分たちと同じく、この拒否は教会にとってきわめて有害でしかありえないと教皇聖下が確信されたなら、拒否を終わらせるはずだと信じる。
したがって会議によれば、ローマへの侵入は、指名された司教に教会法上の叙任を拒む理由にはならない。この侵入はコンコルダート違反ではない。コンコルダートは世俗的な事柄について何も定めず、何も保証していない。そして、フランスの教会に対する教皇の管轄権が認められるかぎり、この教会を聖ペトロの座に結びつける絆は緩んでおらず、コンコルダートは完全なまま存続する。
教皇は書簡で、この区別を認めている。しかし、教会の財産を守ることを犠牲にはできなかった、と言う。これについて異論はない。持つ手段の力を尽くして要求することはできた。しかし、勅書の拒否が、どうしてその手段の一つになるのか。もし皇帝が、指名された司教たちに、聖座の権威に反する、あるいは教皇領への侵入に関する何らかの宣言を要求し、それを得ていたなら、教皇が彼らに教会法上の叙任を拒むのは、その権利の範囲内だったろう。しかし、この場合にそのようなことは何もない。それならば、彼らに帰することのできない出来事のために、なぜ彼らを罰しようと望み、あるいは罰してよいと思えるのか。カール五世の軍がローマを攻め取った時、クレメンス七世は、その君主に復讐するために、すべての教会を無秩序に委ねただろうか。第三に、教皇聖下の書簡にある拒否の理由は、その現在の境遇から取られている。教皇は言う。我々が、フランスの空位の教会に牧者を与えることをどれほど熱望し、それを適切に行う方法をどれほど見つけたいと願っているかは、神がご存じである。しかし、これほど重要な事柄について、本来の助言者に諮ることなく行動すべきだろうか。暴力によって彼らから切り離され、自由な連絡をすべて奪われ、そのうえ、このような事務を処理するために必要な手段もすべて奪われ、これまで秘書の一人さえそばに置くことができないでいるのに、どうして彼らに諮ることができようか。
この異議には力があり、会議は次のように答えるほかなかった。これら最後の訴えに対して、私どもには、それを自ら陛下の御前にお示しする以外に、なすべき回答はない。陛下は、その力と正当さを、余すところなくお感じになるであろう。
この一文には、おそらく、いくらかの勇気があった。教皇の拒否を正当化し、皇帝に、その不正と矛盾を明確に示すものだったからである。
第四問。フランス政府がコンコルダートに違反していないのに、一方で教皇がその履行を拒むならば、陛下はコンコルダートを失効したものと見なす意向である。しかし、その場合、宗教のために何をするのが適切か。
回答。もし教皇がコンコルダートの履行を拒み続けるならば、厳密にいえば、皇帝はもはやそれを守る義務を負わず、失効したものと見なすことができるのは確かである。これが回答の最初の言葉であり、すべてを決めてしまうように見える。しかし、実際はそうではなく、会議はすぐに付け加える。しかし、コンコルダートは純粋に個人間の取り決めではない。……それは我々の公法の一部をなす条約である。……たとえ教皇聖下が自分にかかわる部分の履行を拒み続けるとしても、その履行を要求することが重要である。
この論法は微妙で、奇妙でさえある。会議は、一つの原則を自信をもって掲げたのも、その帰結を前にいっそう早く退くためだったかのように見える。困難がかなり明確に解かれたように見える瞬間に、わざわざそれを再び生じさせようとしたようにさえ見える。
会議は続いて、コンコルダートを失効したものではなく、停止されたものと見なし、教皇の拒否には絶えず異議を申し立てつつ、事情をよりよく知らされた教皇自身、あるいはその後継者へ上訴すべきだ、と言う。
しかし、コンコルダートを失効したと見なすにせよ、停止したままにするにせよ、宗教のために何をするのが適切か、と会議は付け加える。これは質問の最後の言葉である。ここで会議は、原則を明確に立て、そのためにあらゆる論拠を尽くす。教会の聖職者の権能は、すべて霊的な秩序に属する以上、それを授けるのは教会だけである。司教は、叙階による権能と、管轄の権能を持つ。最初の三世紀の迫害の時代には、牧者にこれらの権能を授けるのは、当然、教会だけでなければならなかった。そして王たちが教会の子となったからといって、教会がその権利を失うことはありえなかった。教会は、自ら叙任した者以外を、司教として認めたことはない。しかし、選出を行い、次いで叙任を授ける方法は、常に同じだったわけではない。初めの数世紀には、単なる指名、選挙、あるいは推薦は、同じ教会管区の司教たちと、司教を置くべき教会の聖職者団および民衆に属していた。この選挙は首都大司教によって承認され、その手で司教は聖別された。首都大司教自身に関する場合は、その管区の会議が、選ばれたばかりの者に、その個別の教会のための叙任、あるいは派遣の権限を授けた。後には、皇帝やほかのキリスト教君主が指名、すなわち選挙に大きく関与するようになり、徐々に、民衆と地方の聖職者は招かれなくなった。選挙はそこで司教座聖堂の参事会へ移ったが、民衆を代表する君主の同意と、首都大司教または管区会議による承認ないし叙任は、常に必要だった。
首都大司教は métropolitain。ここでは教会管区の首位を占める大司教を指し、国家の首都にいることを意味しない。
聖職者会議は、十三世紀までは教皇が選挙にも叙任にも何ら関与していなかったことを、付け加えるのを忘れていた。その後、留保権や偽教皇令集[50]から引き出されたほかの原則によって、教皇たちは時に、選挙も承認も自らに帰属させた。教会の初めの十二世紀には痕跡もないほど、古い規律とは異質なこの状態を改めようとしたのが、バーゼル公会議と国事詔書だった。バーゼル公会議と、その決議に従って一四三八年にブールジュで公布された国事詔書[51]により、民衆と参事会による選挙は、首都大司教または管区会議が承認するものと決められていた。一五一六年には、この国事詔書に代わってフランソワ一世とレオ十世とのコンコルダートが置かれた。それにより、選挙は、民衆または参事会に代わって、全面的に国王へ移り、承認または叙任は、首都大司教と管区会議に代わって、教皇へ移った。
1516という年は、この箇所の原文による。先の回答では1515とされており、それぞれの表記を保持した。
聖職者会議は、これらの変更について続ける。選挙におけるこの二つの変更は、教会の明示または黙示の同意のもとに行われたと見なされてきた。さらに言おう。過去の数世紀に採用された方法の一つへ戻ることが提案されたとしても、この教会の承認は、なお不可欠である。廃止された法律はもはや法律ではなく、それを廃止した権威の行為によってしか、法律としての性格を取り戻すことはできないからである。これは、憲法制定議会が採用した聖職者民事基本法の、根本的な欠陥の一つである。……その法律によって定められた選挙は、初めの数世紀の選挙に少しも似ていなかったばかりか、政治上の権能しか持たなかった憲法制定議会は、教会が廃止した規律上の規則を、教会の協力と同意なしに復活させる権限を、本質的に持っていなかったからである。
したがって、勅書の拒否が続くことで、コンコルダートが停止または失効したものと見なされる場合にも、教会の権威がその復活に関与しないかぎり、国事詔書を蘇らせることは認められない。そうでなければ、一七九一年に聖職者民事基本法がフランス全土で引き起こしたのと同じような混乱の源となるだろう。
それでは、その場合、宗教のために何をするのが適切なのか。この問いは、いつも戻ってくる。
会議は、司教の承認における教皇の関与に代わる適切な措置を示すために必要な権威を持たない。(この答えは、果たして正確だろうか。そうした措置を示すことにも、権威があることを前提とするのだろうか。)
括弧内の問いは原著側の評言であり、会議自身の回答とは区別される。
会議は、皇帝にできる最も賢明で、最も規則にかなうことは、一国の教会会議を招集し、提出された問題を検討させ、勅書の拒否による不都合を防ぐ適切な手段を示させることだと考える。一六八二年の聖職者集会ののち、教皇インノケンティウス十一世が司教たちに同じように勅書を拒んだ際、一六八八年に、パリ高等法院は検事総長デュ・アルレーの意見に基づき、管区会議、あるいは一国の教会会議さえも招集していただくよう国王に懇願する、という判決を下した。
皇帝は、ナント司教デュヴォワザン氏に口述した覚書で、この答えでは問題が完全に明らかにならない、とした。覚書によれば、彼は、コンコルダートがなくなれば、フランスは当然に以前の状態へ戻ると考えていた。しかし会議によって考えを改め、今では会議と同じく、コンコルダートが締結当時存在していた法を廃止した以上、それを復活させられるのは、廃止した権力だけだと考えていた。ただし会議の意見と異なるのは、旧法の復活を決定するにはガリカン教会だけで十分であり、そうでなければ教会の立法に空白が生じる、と考えていた点である。皇帝はほかの政務に遮られたため、覚書の中でそれ以上、自分の考えを説明しなかった。
しかし聖職者会議は、覚書の簡単な示唆だけを受けて、この問題を再び議論した。ただし、皇帝の考えにはあまり沿わなかった。望む目的へ至りうる唯一の教会法上の道は、一国の教会会議の招集であるという考えを堅持する、とまず述べているからである。会議の想定では、招集された会議は最初に教皇へ、拒否がこれ以上続いた場合の結果と、皇帝および聖職者団が、宗教の存続と司教職の継続を別の道で確保せざるをえなくなることについて、敬意ある諫言を行い、次いで、和解のためのあらゆる手段を提案するだろう。……そして、集まったフランスの聖職者団の祈願や懇請を教皇が拒むなら、招集された教会会議は、回答者であるこの聖職者会議が自ら行うべきだとは考えなかった検討、すなわち、コンコルダートで定められた方法に代わる教会法上の叙任の方法を復活または更新する権限が、自らにあるかどうかを検討するだろう。権限があると判断したなら、陛下の御意向のもとに、この件について規律上の規則を定める。ただし、その規則は暫定的なものにすぎず、フランスの教会はコンコルダートの遵守を求めることをやめず、いつでもそこへ戻る用意がある、と宣言する。……一国の教会会議が自らに権限はないと判断した場合には、教会内で教皇の上にある唯一の権威、普遍公会議への付託を求める。そして、教皇が公会議を認めず、主宰も望まないため、あるいは政治的な事情により招集して集めることがあまりにも困難なため、この付託が不可能になったなら、宗教のために何をするのが適切だろうか。普遍公会議に訴えることが不可能であり、教会が差し迫った危険にさらされていることを考慮して、一国の教会会議は、教皇またはその後継者がコンコルダートの完全な履行に同意するまで、首都大司教がその管区の司教に授ける叙任、あるいは首都大司教に対して管区の最古参の司教が授ける叙任を、教皇の勅書に代わるものと宣言できるだろう。これは必要に迫られた法である。教皇自身も、通常のあらゆる規則を超え、前例のない権威の行使によってフランスの旧来の司教区をすべて廃止し、新たなものを作った時には、この法を認めてよいと考えたのである。
聖職者会議がこのような解決に達する前に、教皇の反対の主な理由をなくすため、皇帝に、少なくとも勅書を発給するのに必要な程度の自由を教皇へ返すよう願うことを、ここでも繰り返さなかったのは、驚くべきことではないだろうか。教皇は、カプラーラ枢機卿への書簡でその理由を示し、勅書を拒むのは、とりわけサヴォナの牢獄で一切の自由を奪われているためだと宣言していた。その自由を返してなお拒否を続けるなら、初めて教皇の側に非があることになるはずだった。ところが会議は、教皇が、純粋に世俗上の理由から、特にローマへの侵入のためだけに勅書を拒んでいるという想定を、いつも守り続けた。教皇聖下は、自由を奪われ、助言者たちを奪われ、秘書さえ奪われたからこそ勅書を発給しないのだと、正式に宣言していたのに、そうしたのである。
この訴えの力を十分に感じ、その正当さをすでに全面的に認めていた会議は、この点についての懇願を繰り返すべきだった。教皇がここで求めた自由は、純粋に世俗的な問題ではなかった。最も普通の市民の行為を有効にするにも不可欠な条件であり、教会の長の行為なら、なおさらだった。議論のこの長い最後の部分で、会議は、あらゆる非は教皇の側にあると信じているように見えすぎる。これは迎合なのか、臆病なのか。皇帝にローマを返すよう勧めなかったことは理解できる。その政治問題を扱うために招かれたのではなく、そもそもそれは、会議に提出された勅書の発給の問題とは、まったく別のことだったからである。しかし、会議の招集や、ほかの異例の救済手段を考える前に、教皇がこの要求によって強制を受けていると訴えられないだけの自由を返すことが必要だと、毎日繰り返さなかったのは、皇帝に対する大きな臆病さだったばかりか、矛盾でもあった。そのような救済手段に訴えられるのは、教皇が何の理由もなく、コンコルダートの履行をかたくなに拒む場合だけだったからである。たった一言で決裂を終わらせられたかもしれないのに、長引かせようとしているかのようだった。
第三組。ドイツとイタリアの教会、および破門の大勅書に関する質問。
第一問。自らを最も強力なキリスト教徒と見なして当然の陛下は、この十年来教皇に放置されているというドイツの諸教会の訴えに何の注意も払わなければ、良心に動揺を覚えるであろう。陛下は、ドイツの宗主、シャルルマーニュの継承者、真の西方皇帝、教会の長子として、ドイツの諸国民に宗教の恩恵を回復するため、どのように行動すべきかを知りたいと望んでいる。
回答。この質問に対する会議の回答は、これ以上ないほど曖昧である。報告者は、ここで一四四七年のドイツ国民の古いコンコルダートと、一六四八年のミュンスター条約を思い起こさせる必要があると考える。次いで、数多くの世俗化によってドイツの政治的・宗教的な状態を覆し、マインツの大司教座をレーゲンスブルクへ移した一八〇三年のレーゲンスブルク帝国議会、教皇大使と帝国の参事官とのあいだで行われた一八〇四年の予備会談、一八〇六年七月十二日のライン同盟規約、ドイツの政治体の解体をもたらした皇帝フランツ二世によるドイツ帝冠の放棄(一八〇六年八月六日)、多数の君主によるカトリックの聖職者、宗教教育、婚姻の特免などについてのさまざまな要求、司教、教区司祭、参事会員がこれらの君主すべてに従属させられたこと、そして最後に、教皇聖下の現在の境遇が、いかなる取り決めにも新たな困難を加えていることについて、長い細説に入る。
会議は、皇帝フランツ二世の退位後、教皇聖下と協力してこれらの弊害を正せるのは、ライン同盟の保護者ナポレオンだけだと見ており、ただ希望を述べるにとどまっている。
この時、ドイツの宗教上の混乱を、教皇が十年来ドイツの教会を放置してきたせいにした皇帝ナポレオンには、甚だしい身勝手さ、とりわけ甚だしい不誠実さがあったことを、認めなければならない。そして、この点についての会議の説明は、きわめて弱く、きわめて取るに足りない。
第二問。トスカーナや帝国のほかの地方で、司教区を新たに区画することは不可欠か。教皇がこの調整への協力を拒むならば、それを正式に整えるために、陛下はどのような道を取るべきか。
回答。会議は、トスカーナの教会はドイツの教会のように苦境にあるのではなく、正規に組織され運営されているので、新たな区画は有益ではあっても、緊急性はないと考える。会議は付け加える。教皇が助言者たちに囲まれるようになれば、聖下はこのことに積極的かつ持続的な注意を向けられると考える理由は、すべてそろっている。結局、会議は、ここには必要に迫られた法を適用できない以上、陛下は、教会全般の問題が解決するまで、トスカーナの教会のために計画している改善を見合わせることができると考える。
第三問。一八〇九年六月十日の破門の大勅書は、キリスト教の愛にも、王座の独立と名誉にも反する以上、騒乱と災厄の時に、教皇たちがこのような権力の濫用に走らないようにするには、どのような方策を取るべきか。
回答。会議はまず、この大勅書の一節を引用する。それは、暴挙、すなわちローマと教皇領の諸州への侵入、ならびにほかの迫害を企て、助け、助言し、実行した者たちが、そこで引かれた第二十二巻第十一章によって、トリエント公会議の宣告した破門を受けるに至った、と述べるものである。そして教皇聖下は、特に誰の名を挙げることもなく、彼らを改めて破門し、呪詛する。聖下はさらに、この範疇に含まれる者たちの権利や特権を侵害することを禁じてもいる。
会議は続けて言う。ボニファティウス八世がフィリップ美王に対して、ユリウス二世がルイ十二世に対して、シクストゥス五世がアンリ四世に対して発した大勅書は、フランスで効力も結果も持ったことはない。フランスの司教たちが、それを受け入れ、公表することを拒んだからである。同じ理由で、ローマで長いあいだ公布されていた大勅書『イン・チェナ・ドミニ』も、フランスでは常に存在しないものとして扱われた。
もし一八〇九年六月十日の大勅書がフランスの司教たちに宛てられていたなら、彼らは、それがガリカン教会の規律と君主の権威に反し、教皇の意図に反して公の平穏を乱しかねないものだと宣言しただろう、と会議は考える。
会議は、シクストゥス五世の後継者グレゴリウス十四世が、一五九一年にアンリ四世に対する警告書を発し、シャルトルに集まった司教たちは、その書簡によって宣告された譴責と破門は、形式の上でも内容の上でも無効であり、良心を縛ることも義務づけることもできない、と宣言したことを思い起こさせる。……
したがって会議は、次のように宣言するにとどめる。一国の教会会議が招集されるならば、この件についての真の原則と、譴責を適用する際の教会の精神を確認し、この破門についても無効を宣言し、この大勅書と、すべての同様の大勅書について、普遍公会議、あるいは事情をよりよく知らされた教皇へ上訴することは、疑いない。それは、教会でいつも行われてきたことである。
アンリ四世に対する警告書は、トゥールとシャロンに置かれた高等法院によって、焼却の判決を受けたことも、会議は付け加えることができたはずである。
アンリ四世自身についていえば、当時ナヴァール王であり、一五八八年にシクストゥス五世によって破門された時、その気性のままに、自分の上訴文をヴァティカンに掲示させ、教皇はかえって彼をいっそう高く評価したことが知られている。
破門の年1588は、この箇所の原文に従った。
聖職者会議は、その総括的な回答を、一六八二年のフランス聖職者団宣言の第一条[52]を引用して結んでいる。
一八一〇年一月十一日にこれらの回答を提出して、会議は、一八〇九年十一月十六日に始めた仕事を終えた。
言い忘れていたが、第一組の質問についての会議の仕事はトリーア司教、第二組はナント司教、第三組はトゥール大司教のものとされている。フォンタナ神父は初めの数回の会合にしか姿を見せなかったと言われる。また、エムリ氏は会合への出席がきわめて不規則で、委員会の回答には署名しなかった。枢機卿や司教の署名の隣に自分の署名を置くのはふさわしくない、というのが、その理由だった。
この聖職者会議についての考察。
会議の委員たちが皇帝に対して払わなければならなかったあらゆる配慮は、理解できる。彼を苛立たせ、さらに暴力的な措置、すなわち、フランスの教会に再び分裂をもたらしかねない教皇との完全な決裂へ追いやることを、恐れたのだろう。しかし、教皇に非を帰する権利を持つためには、少なくとも、教皇自身が勅書を与えるために必要だと判断する種類の自由を認め、そのために何が不可欠だと考えるかを尋ねなければならない、ということを、なぜもっと粘り強く皇帝に納得させようとしなかったのかは、理解できない。教皇も、何より先にローマと聖ペトロの財産が必要だとまでは、あえて言えなかっただろう。その返還を熱望し、自分から領国を奪った暴力への抗議をやめないことが、どれほど自然だったとしても、その主張はあまりにも明白に誤っていたはずだからである。おそらく、何人かの枢機卿、秘書、書類などを求めるだけにとどめただろう。もしそれ以上を求めたなら、あるいは最初に求めたものを得てなお勅書を拒み続けたなら、いま検討した会議の回答は、公衆に、公正で適切な意見の表明として示されたはずである。しかし、この不可欠な点が認められていないかぎり、教皇の拒否が頑なな不協力によるものと証明された場合にしか価値を持たない議論で、当時の境遇にあった教皇を追い詰めることは、ほかの想定のもとなら非常によい理由であったものを、大きく弱めることだった。その想定の外では、それらは、多少の不誠実さ、さらには不公正ささえ交じる詭弁にしか見えなかったはずである。
聖職者会議が集まり審議する前に、皇帝は、勅書を与えることへの教皇の抵抗を克服しようと、いくらか働きかけていた。カプラーラ枢機卿を通じて、次のことを伝えさせたのである。もはや特使ではなかったが、それでもパリにいたこの枢機卿は、一八〇九年七月二十日、サヴォナの教皇へ書簡を送り、皇帝は、国務参事会または宗務大臣の単なる要請によって発給される勅書の中に、皇帝自身の名も、さらには指名権も記さなくてよいと同意している、と知らせた。これに対して教皇は、八月二十六日に答えた。その国務参事会も大臣も皇帝の機関である以上、それでも皇帝に指名権とその行使の権能を認めることになり、自分はそれを望まない、と。
それでは、なぜその権利を認めたくなかったのか。破門のためだったのだろうか。それなら、十分に理の通らない感情を示し、自分の側に非を作り始めることだった。また、なぜ皇帝はこの犠牲を払ったのか。何も犠牲にせず、十分な自由を教皇聖下に与えた時に、それがどのような効果をもたらすかを試したほうが、よかったのではないだろうか。
一八一〇年は、教皇の境遇をいくらかでも和らげ、聖職者会議の願いと祈りに従って、少しでも自由を増やすどころか、反対にその境遇を悪化させ、幽閉をいっそう厳しくした。
実際、一八一〇年二月十七日、教皇領のフランス帝国への併合、帝位の地上のあらゆる権威からの独立を宣言し、教皇の世俗的な存在を廃する元老院決議が出された。この決議は教皇に年金を保証したが、同時に、一六八二年の四か条に反することは何もしないと、教皇が宣誓するものと定めていた。同じ日、別の元老院決議が、皇帝の長男にローマ王の称号を与え、皇帝はローマで二度目の戴冠の聖別を受けると定めた[53]。
これらの規定は、すべて敵対的で挑発的だった。教皇には、それについて不満を述べる権利も自由も、与えられなかった。ほかのことについて、どうして十分な自由があると思えただろうか。捕らわれた教皇に元老院決議によって宣誓を命じること、しかも一六八二年の四か条に反することを何もしないという宣誓を命じることは、このうえなく神経を逆なでする二つの点であり、とりわけこれほど高圧的に押しつけられた以上、明らかに受け入れられなかった。もっとも教皇は、侮辱的な年金を与える条件が、このような宣誓をすることだと知って、慰められ、ほとんど喜びさえしたはずである。それによって、まことに気高く使徒らしい回答ができたからである。すなわち、この年金は少しも必要なく、信徒の施しによって暮らす、と。
すべてを語らなければならない。教皇聖下は、サヴォナで幽閉されていたにもかかわらず、一八〇九年には、婚姻の特免について特別な権限を求めた十九人の司教の書簡に、一通ずつ答え、その権限を与えていた。また一八一〇年十一月五日には、少なくとも可能なかぎりにおいて、モーリ枢機卿に反対する小勅書を公表し、パリ大司教への任命を枢機卿が知らせてきたことへの返答として、その小勅書を送った。枢機卿は叙任の勅書を待つあいだ、大司教座の参事会から委ねられた教区の運営を引き受けていた。教皇は小勅書で、かつてあれほど立派に擁護した聖なる大義を捨て、誓いを破り、モンテフィアスコーネの司教座を離れ、任せられるはずのない司教座の運営を引き受けたことを、彼に非難した。そして、それを断念し、教会の法規に従って処分を進めざるをえないようにさせないでほしい、と命じた。この小勅書は大きな騒ぎを起こし、一八一一年一月一日、それを人々に知らせたダストロス神父を、目立った失脚へ追い込んだ。ほどなく、その親類で、彼を通じて小勅書を知っていた息子のほうのポルタリス氏も、同じ運命となった[54]。
ここには、否定できないことだが、教皇の側に多少の矛盾があった。モーリ枢機卿に対して小勅書を発し、権限を求める司教たちへ十九通の書簡で返答して権限を与えることはできるのに、自由がないために叙任の勅書を発給し、多くの教会の長い空位を終わらせることはできない。それは果たして筋が通っていただろうか。
さらに二つの事実が、この考えを裏づける。
一八一〇年末ごろ、皇帝はナンシー司教のドスモン氏[55]を、フィレンツェ大司教に任命していた。ピウス七世は、一八一〇年十二月二日付の小勅書で、この司教はフィレンツェの教区を運営できないと宣言した。その根拠に第二リヨン公会議とトリエント公会議の決定を挙げたが、それらは実際には、この場合に適用できるものではなかった。フィレンツェの参事会は教皇の命令に従い、それが市内の混乱を引き起こした。ナポレオンはまた、アスティ司教にドジャンという人物[56]を任命していた。教皇は別の小勅書で、参事会が彼に運営の権限を委ねないよう求めた。教皇が自分の権力に制限を設けようとしていると見た皇帝は、そこで激しい暴力的な措置に出た。
一八一一年一月一日、ダストロス神父の事件が表面化し、彼はテュイルリーを出たところで逮捕された。パリの参事会は、彼から総代理の権限を取り上げ、この機会を利用して、おそらくモーリ枢機卿の目の前で、皇帝へ書簡を書いた。その中で、参事会には空位の司教座の必要を満たし、指名された司教に参事会の全権限、すなわち司教の管轄権のすべてを委ねる権利がある、と主張した。ルイ十四世の時代に行われていたことに基づき、しかもボシュエの助言によって行われていた、と述べたが、その証明はできなかった。この書簡はフランスとイタリアの全司教区へ送られ、両国の司教や参事会から、この教説を支持する大量の賛同を集めた。
いま述べた小勅書がすべて公表されたことは、皇帝に教皇の自由を増やそうという気を起こさせるどころか、このように濫用している以上、自由は多すぎるのだと思わせた。一八一一年一月七日、その居室を厳重に捜索する命令が出された。書き物机に至るまで、何もかも調べられ、教皇の書類と、その家政に属する者たちの書類は、パリへ送られた。そこにはディ・ピエトロ枢機卿[57]に特別な権限を与える小勅書が見つかったという。そこで、教皇から筆、インク、紙が取り上げられた。侍従長、ドーリアという高位聖職者、聴罪司祭も遠ざけられた。サヴォナ司教[58]との連絡はすべて断たれ、その司教の書類も押収され、本人もパリへ連れていかれた。教皇のもとには数人の召使いが残され、その費用として一日約四十スーが割り当てられた。皇帝がこれほど卑劣な暴力を振るい、教皇が自分自身にかかわる事柄について、気高く正当な拒否を続けていたこの時に、ナポレオンは第二の聖職者委員会を任命する決心をした。
第二聖職者委員会。
一八一一年一月に設けられたこの委員会は、三月末に仕事を終えた。フェッシュ、モーリ、カゼッリの各枢機卿、トゥール大司教、ヘント[59]、エヴルー、ナント、トリーアの各司教、およびエムリ神父で構成されていた。
答えるべき質問は、次の二つだけだった。
第一問。教皇と皇帝の臣民とのあらゆる連絡が現在断たれている以上、聖座が与えるはずの特免を得るには、誰に願い出るべきか。
第二問。空位の司教座を満たすために皇帝が任命した司教たちに、教皇が勅書を与えることを拒み続ける時、彼らに教会法上の叙任を授ける正当な手段は何か。
委員会は、回答する前に、教皇と皇帝の臣民とのあらゆる連絡が断たれたことへの、深い悲しみをまず表明する。この連絡が長く停止されたままならば、教会には嘆きと苦しみの日々しか予想できない。……
これはまさしく教皇の自由を求めることだった。しかし委員会は、それを前文に置くだけで済ませるべきではなかった。回答の中でも立ち返る必要があった。そうでなければ、ナポレオンをこれほど強く責める異議を、前置きの決まり文句で片づけ、二度と触れないようにしようとしているように見えた。
第一問への回答。
委員会は、西方教会において教皇に属する特免の留保権は、聖職者団の一般的な規律に関しては、非常に適切なものだと考える。それが神の法によるものかどうかを検討するまでもなく、その適切さ自体と、きわめて長期にわたる行使によって、一種の共通法となっており、そこから逃れようとすべきではない。しかし、同じく教皇の権限に属するとはいえ、地方によって大きな違いのある、信徒の日常の必要に関する特免の留保については、委員会はためらわず断言する。司教たちはそれぞれ自分の教区で、それに関する特免と赦免を信徒へ与える権能を、自らのうちに完全に持っている。その権能は、いかなる法律、いかなる教会法規によっても、奪われたことはない。それどころか譲り渡すことのできないものであり、とりわけ現在のように教皇へ訴えることがほとんど不可能な状況では、司教たちはまったく自然にその権能へ立ち戻るのである。
第二問への回答。
この質問は、すでに一八〇九年の委員会に提出され、何とか解決されていた。ここで再び出されたのは、皇帝が、もっと明確で、以前デュヴォワザン氏に口述した覚書により近い回答が得られると見込んだからであり、その見込みはまったく外れたわけではなかった。新委員会はまず、フランスの諸教会が懇願し、拒否の結果が日ごとにいっそう有害になっているにもかかわらず、教皇は教会法上の拒否理由を何一つ挙げずに、勅書を拒み続けていると認めた。そして、インノケンティウス十一世の時代に、国王の任命した司教が、参事会から与えられた権限によって教区を統治できたことを思い起こさせた。そのようにしてラヴォール、次いでニームに任じられたフレシエが、その証拠だった。委員会はさらに、教皇がパリ、フィレンツェ、アスティの参事会への小勅書によって、フランスの教会が昔から採用してきたこの方法を禁じたのは、この教会の古い規律を公然と攻撃することであり、吹き込まれた先入見を示す悲しい証拠だ、と述べた。
しかし皇帝は、教皇が司教職全体の支配者となってしまうような、教皇の教会法上の叙任に、フランスの司教職の存立をこれ以上依存させたくない、と委員会は付け加える。何をすべきか。委員会は、コンコルダートがフランスの君主に対して教皇へきわめて大きな優位を与えていることを認める。君主は、定められた期間内に適任者を推薦しなければ、指名権を失う。(委員会はここでまったく間違っている。その権利を失うことは決してない。もし失うなら、その権利は誰に移るのか。)両者を等しくするには、教皇の側にも、定められた期間内に叙任を与えるか、教会法上の拒否理由を示すかする義務がなければならなかった。それを怠れば、叙任権を失い、その権利は正当に受けるべき者へ移ることになる。この条項はコンコルダートに欠けている。それを追加しなければならない。それが最も簡単で、最も原則にかなう措置である。皇帝にはそれを要求する権利があり、教皇は同意しなければならない、と委員会は言った。これが実際に用いられた言葉である。同意しないなら、教皇自身が、ヨーロッパの目に、コンコルダートの全面廃止と、教会法上の叙任を授ける別の手段への移行を正当化することになる。(一八〇九年の委員会は、これほど強く断定的な言葉を使ってはいなかった。)
括弧内で指名権の喪失を否定する部分と、一八〇九年の委員会との比較は、原著側の評言であり、回答の主張とは区別される。
その状況でコンコルダートを全面的に廃止することがどれほど公正であり、国事詔書や、教会法上の叙任のほかの方法を復活させることがどれほど正当でありえたとしても、委員会はなお、人々の心に準備をさせ、フランスの教会に司教を与えるためにはほかに手段が残っていないと、信徒に納得させておく必要がある、と考えていた。そうしなければ、新しい形式で叙任された司教たちの立場は、持ちこたえられないものとなる。この変更は一七九一年の聖職者民事基本法と同じものと見なされ、同じ混乱を起こすだろう。見識のある人々なら、教皇聖下とフランスのほとんどすべての司教の意見に反し、純粋に政治的な権威によって制定された教会の基本法とは、比べられないことがよく分かるだろう。しかし、それ以外の人々は、とりわけ皇帝の権威が教皇聖下に対してこれほど激しく振るわれるのを見れば、違いをうまく捉えられないかもしれない。この争いで、ある者はフランスの司教団に反して教皇の側に立ち、別の者は聖座から離れすぎるかもしれず、教会分裂はあらゆる混乱とともに再生するだろう。一八〇一年には、教皇と司教の多数との完全な一致によって、ようやくそれを鎮めることができたばかりである。もし司教たちが、これほど重大な決定によって、教皇から離れると宣言するなら、その再燃をどれほど恐れなければならないことか。
しかし、物事を現状のままにはしておけない。参事会が指名された司教に与える管轄権は、教皇に否認されるという重大な欠点もあるうえに、実際には、教区に完全な司教職の恩恵を与えない。したがって、教皇が教会法上の理由なしに拒否を続けるならば、私どもはあえて、聖下に次のことを宣言するよう希望を述べる。教皇自身の行為によってすでに破られたコンコルダートは、皇帝によって公に廃止されるか、さもなければ、恣意的な拒否に対して安心を与える条項によってのみ存続することになる。その拒否は、コンコルダートが我々の君主に保証する権利を、名ばかりのものにしてしまうからである。
これは委員会そのものの言葉である。したがって委員会は、この場合、皇帝にはコンコルダートの廃止を宣言し、その後で、それなしに済ませる手段を探す権利がある、と認めていたのである。それならば、勅書を必要としなかった旧来の法へ戻るか、あるいはコンコルダートを存続させたいなら、教皇が一定の期間内に権利を行使しない場合、その権利を別の権威へ移すという条項を加えるか、そのほかにどんな手段があるのか。旧来の法というのは、委員会の表現を借りたものである。
したがって、コンコルダートは廃止が宣言されるか、あるいは双方が受け入れ、あらゆる濫用を防ぐ条項を用いて、修正されることになる。
私はここで指摘しておく。前者の場合、教皇が拒否を続けるなら、教皇をまったく頼らず、その叙任とは別の教会法上の叙任を、ほかに求めることができる。委員会は、少しの制限も付けず、そう述べている。皇帝は、教皇が司教職全体の支配者となってしまうような、教皇による叙任にフランスの司教職をこれ以上依存させたくない、と委員会は言う。そして、それはもっともであり、皇帝しかコンコルダートを履行していない以上、皇帝がそれを廃止するのは公正であり、完全に皇帝の権限のうちにある、と考える。この点について、疑いも遺憾も抱かない。教皇の責任だというのである。ところで、そこから、皇帝は続いて残りのことを行い、あるいは残りのことが行われるための手段を考えられる、と言うまでには、ほとんど一歩もなかった。なぜなら、教皇の叙任に別の叙任を代えさせるために必要なものすべてを、皇帝が自ら持ち、あるいは意のままに使えないなら、コンコルダートを廃止する権限が、何の役に立つだろうか。それを廃止しても、以前と同じくらい困惑したままかもしれないのである。
しかし委員会は、その一歩を踏み出そうとしなかった。原則の上でも慎重さの上でも、この叙任をどこに求めるかを決める一国の教会会議が必要だ、と考え、宣言した。しかし、党派心とあらゆる種類の陰謀に揺さぶられるその会議が、自らにそのような権利があると考えることを、確信していたのだろうか。解決するために招かれた困難を解く代わりに、新たな困難によって悩ませ、不安にすることはないだろうか。司教の叙任がどこから得られるかを探すことに、同意するだろうか。したがって、解決は不完全なままになる可能性があった。
コンコルダートなしに済ませる確かな手段を皇帝に示せない以上、委員会は、皇帝がそれを廃止する権利をあれほど強調し、あれほど大声で宣言すべきではなかった。これは委員会の過ちであり、矛盾だったと、私は思う。
皇帝がナント司教を宗務大臣にしていたなら、問題を複雑にするだけの会議は、なくても済んだかもしれないと、私は時々考えた。この、たいそう誠実で有能で、神学の知識に通じた司教が、大臣、司教、熟達した神学者という三重の権威によって、ほかの司教一人一人へ個別に働きかけていたなら、教皇の叙任に別の教会法上の叙任を代えることへの同意を、会議の中でよりも、ずっと容易に得られただろう。会議では、各司教は自分より巧みな者に操られているように見られることを恐れ、しかも集まった司教たちは、一人ずつでは抱いていた皇帝への恐れを、もはや抱かなくなっていたからである。おそらく教皇自身も、将来にわたって叙任権を失うことを恐れ、この時は叙任を与えることで、全員を窮地から救い出したかもしれない。
この純粋に推測にすぎない考えはともかく、コンコルダートの廃止以外にも、検討すべき想定があった。すなわち、濫用を永久に防ぐ条項によって、それを修正することである。これは疑いなく、最も望ましく、最も原則にかなう方策であり、委員会自身も認めるとおり、あらゆる良心を安心させるのに最も適したものだった。
実際、それによって契約の双方が満足できたはずである。教皇は条項を起草する際、三か月または六か月が過ぎたなら、首都大司教に自分の代わりを務めることを許す、と宣言すれば、最も教皇権至上主義的な考えとも、その条項を両立させられた。そうすれば、権力の源は常に教皇自身であり、最も厳しく見る者たちの目にも、何一つ損なわれなかった。交渉がうまく進められれば、教皇からこの譲歩を得ることはできたと思う。皇帝の側は、望むものをすべて、しかも、それまで望んでいた以上のものを得られた。委員会が設けられるまでは、自分の任命した司教に教皇が勅書を与えることだけを求め、勅書に皇帝の名を入れないことにさえ同意していたからである。ところが私の提案する道を進めば、ナポレオンはさらに、教皇が今後勅書を拒んでも、その与えなかった叙任が直ちに同じく教会法にかなう行為で置き換えられることを、教皇自身の同意によって得られた。ローマもほかの領国も返さずにこれを教皇から得ることは、ナポレオンの伝説的な運命にふさわしい勝利となっただろう。その結果の重大さは、一国の教会会議から得るよりも千倍大きかったはずである。
しかし、まず委員会自身が、そのような条項を得ることへの障害を置いていた。コンコルダートにこの条項を入れることが最も望ましいと認めながら、それを得るにせよ、それなしに済ませるにせよ、一国の教会会議に頼らなければならないという話へ、いつも戻っていたのである。それでは困難は終わらなかった。会議が問題を解決せず、かわしてしまったら、どうなるのか。しかし委員会も、交渉という考えを退けることはなかった。ただ、そのために集められたのではないから、自分たちが提案する立場にはないと思っていた。
委員会が自らの権限ではできないと考えたことを、ナント司教は、あえて皇帝に直接働きかけて試みた。おそらく、コンコルダートを突然破棄すれば大きな騒ぎになり、勅令の理由書には確実に厳しい表現が添えられて、たいそう悪い影響が出ることを恐れたのだろう。デュヴォワザン氏は、招集される会議がどのような気持ちで臨むか、あるいはいったん集まってからどのような考えを吹き込まれるかについても、不安だったのかもしれない。そこで皇帝に強く迫った。最後の努力を教皇に対して試みるため、委員会の三人を派遣するのが気に入らないのであれば、派遣するのではなく、行くことを許していただきたい、と。
皇帝は長く抵抗し、デュヴォワザン氏が譲歩させるには、大変な苦労があった。皇帝は一時の激昂の中で、コンコルダートを破り捨てると決意し、そう口にしてしまったので、撤回したくなかった。私は本当に、そこに一種の名誉をかけていたのだと思う。しかし、大した名誉ではなかった。彼は、教皇との件に決着をつけたいと言っていた。コンコルダートさえ破り捨てれば、すべてが終わると信じていた。確かに会議の招集には同意していたが、それを恐れることは何もないと思っていた。「勅令によってコンコルダートが破棄されれば」と彼は言った。「会議が司教職を維持したいなら、司教の叙任について、どうしても別の方法を提案せざるをえなくなる。もはや存在しないコンコルダートに頼ることはできなくなるのだから。」
デュヴォワザン氏は負けを認めず、なお迫り続けた。ついに皇帝を決心させたが、皇帝は譲りながらも、あまりにも不承不承だったので、与えた訓令では、困難を平らにするよりも増やすことに心を用いた。自ら交渉を失敗させようとしているかのようだった。サヴォナへ向かう司教たちに宗務大臣[60]が与えた訓令は、皇帝の口述だったことが知られた。責任を負いたくなかった大臣が、聖職者団の何人かの有力者に、そう言ったのである。
得られればたいそう幸いだったはずの重要な一点にとどまらず、ナポレオンは、司教たちが教皇聖下に、最も受け入れがたい要求をすることを望んだ。自分の求める条項を付けたとしても、コンコルダートを維持してやるのは、教皇に与える恩恵だと言わんばかりだった。何より先に、来る六月九日の一国の教会会議の招集を知らせ、古い先例に従ってフランスの教会が取らざるをえなくなるかもしれない措置を説明させようとした。同じ訓令の中で彼は、教皇がまず任命済みの司教全員を叙任し、さらに今後は、自分で三か月以内に叙任しなかった場合、首都大司教が司教の叙任を行うことを約束しないかぎり、コンコルダートに戻ることには同意しない、と言っていた。また、交渉者たちが教皇に、君主としてローマへ戻ることは決してないと宣言することを望んだ。これは正式な命令だった。ただし、コンコルダートについて要求された変更を批准するなら、単なるカトリックの長としてローマへ戻ることは許される。もはやローマへ行くのが都合に合わないなら、アヴィニョンに住むことができ、そこで君主の礼遇を受け、キリスト教世界のほかの国々の霊的な事柄を管理する自由を持てる。最後に、二百万を申し出ることになっていたが、そのすべては、帝国内で一六八二年の四か条に反することを何もしないと約束する条件のもとだった。
末尾の二百万には、この箇所の原文が明示していない貨幣単位を補っていない。
派遣される三人の交渉者は、トゥール大司教、ナント司教、トリーア司教だった。これに、ヴェネツィア総大司教に任命され、別途サヴォナへ赴くことになっていたファエンツァ司教[61]が加わった。彼らは当時パリにいたすべての枢機卿と司教から派遣され、その人々から教皇聖下宛の十七通の書簡を託された。最も長く、最も強く訴えるものは、フェッシュ枢機卿の書簡だった。
これらの書簡、訓令、そして合意をまとめ署名する権限を携えて、三人の代表は一八一一年四月末に出発した。五月九日にサヴォナへ到着した。会議の開会八日前、すなわち六月九日より前にパリへ戻るよう、強く勧められていた。実際、彼らは五月十九日にサヴォナを発った。
会議の招集日と帰還期限の記述は、それぞれの箇所の原文に従った。
彼らがサヴォナから宗務大臣へ送った九通の書簡と、帰還後パリから送った、さらに詳しい一通の書簡の内容は、どれほど賢明かつ適切に交渉を進めたかを示している。教皇には何も隠さず、日ごとにいっそう穏やかで融和的な態度を示すよう導き、ついには、提出する、あるいは望むなら押しつけると言ってもよい、主な要求に、わずかな変更を加えたうえで同意させたのである。
注目すべきことに、到着の翌日、教皇は彼らを見ると、これから開かれる会議が、自分の行動の裁判官になろうとしていると告げに来たのではないかと、まず多少の不安を示した。その考えは強く否定され、落ち着いてもらうために、最大限の敬意を尽くす態度が用いられた。当時、この時にのぞかせた恐れが、好意的な態度にいくらか影響したのかもしれない、と言われた。初めの数日、教皇はとげとげしさもなく、きわめて穏やかに抵抗し、皇帝への親愛の言葉さえいくらか口にした。しかし、求められていることは非常に重要であり、いつもの助言者たちと協議する必要があるとして、彼らを奪われていることを訴えた。三人の交渉者は助言者を返すことはできなかったが、自分たちがそばで代弁している和解と平和の考えに入れば、もはや彼らを奪われることはない、と説得するため、あらゆる努力を尽くした。さらに、勅書については、多くの審議も助言者も必要ではなく、根本的に要求は正当であり、任命された司教に勅書を与えることが、信徒、教区、宗教のためにいかに重要かは、はっきり分かるはずだと付け加えた。また、コンコルダートに新しい条項を採用し、いったんコンコルダートの廃止が宣言されれば切れてしまう、フランスの司教団とのこの貴重な絆を保つことが、教皇自身の利益にもいかに重要かを説いた。
教皇は新しい異議を述べたが、それは日ごとに弱くなった。遺憾は表したが、協力を拒む態度は決して示さなかった。司教たちは、主な交渉を損なうことを恐れ、ローマの主権について話すことを急がなかった。しかも、教皇聖下は、もはや主権の回復を期待していないように見えた。その主権を犠牲にする権利はないから、この点については当然いつまでも抗議するだろうが、皇帝をその君主と認める宣誓をするよりは、ローマへ戻らないことを約束するだろう、と彼らは考えた。要するに、助言者が返されれば、主権を奪われたことが教会の統治を妨げるべきではないと、教皇もよく感じていた。教皇は、したがって諦めをつけていた。交渉の代表たちに必要なのは、それだけだった。
破門の大勅書については、司教たちが自分たちの考えを述べる機会はあったものの、本格的な議論はなかった。教皇聖下は、それに固執しておらず、なかったものとして扱うことに、容易に同意するだろうと、彼らには思われた。
教皇は、一六八二年の四か条をフランスの聖職者団の規律上の規則と見なすと約束することには、穏やかに、しかし一貫して抵抗した。世俗的な主権の独立を認める第一条には、非常に好意的な態度を示した。しかし、と彼は付け加えた。なぜ残りの三条について、自分に宣言を求めるのか。それに反することを何もしないと、名誉にかけて約束するから、自分を信じてもらってよい。この点について署名した約束という、どの教皇にも求められたことのないものを、どうして求めるのか。ここで問題となっているのは、双方にとって自由な意見だ、と彼は言った。ボシュエ自身も、それ以上を求めてはいなかった。自分の意見をイタリアの神学者たち、とりわけ教皇に示すようなことは、しなかったのである。教皇聖下はしばしば、インノケンティウス十一世の後継者アレクサンデル八世、オットボーニの大勅書に立ち返った。この教皇は、前任者の頑なさを緩めるどころか、死の三日前に一六八二年の宣言に反対する大勅書を発していた。聖下は、その大勅書が何の結果も生まなかったことを認め、正当化しようともしなかった。しかし、前任者を裁き、非難するのが自分の役割なのか。イタリアでも、キリスト教世界全体でも、幽閉にうんざりしたためにこの約束に同意したのだ、と言われないだろうか。そのような疑いによって、後世に残る自分の名声は汚されることになるだろう。そもそも、これらは複雑で難しい問題であり、これほど助言を必要とする問題は、ほかにない。……
アレクサンデル八世の死の三日前という記述は、この箇所の原文による。先の箇所では二日前とあり、両者を統一しなかった。
勅書については、と三人の司教は書いている。七、八回の会談ののちも、教皇から得られたのは、すでに任命された司教にそれを与えるという約束だけだった。教皇は、顧問たちなしに将来について何かを決定することはできず、したがってコンコルダートに挿入される、この新しい、非常に重要な条項にも同意できないと考えていた。私どもはこの点について、考えうるすべての理由と事情を尽くし、残念ながら明後日には出発すると告げた。これほど早い出発は、教皇の心を動かしたようだった。もう一度会いたいという希望が伝えられ、私どもはお召しに応じた。その時には、叙任権を行使する期限を、三か月から六か月へ変えることだけを求めているように見えた。私どもは、それが本当の障害になることはないと考え、この点について十分に確信していることをお伝えした。ついに少しずつ、以下の条項を認めるところまで導いた。いわば教皇の口述のもとに起草されたもので、御自身の譲歩と、教会の平和を回復したいという熱い願いの証として、と言って、その写しを手元に置くことを望まれた。
教皇の同意した条項。
「教皇聖下は、トゥール大司教と、ナント、トリーア、ファエンツァの各司教から示された、フランスとイタリアの諸教会の必要と願いを考慮し、これらの教会に父としての愛情の新たな証を与えたいと望み、上記の大司教および司教たちに、次のように宣言した。
一、フランスとイタリアのコンコルダートの際に合意された形式で、皇帝兼国王陛下が大司教および司教に任命した者たちに、教会法上の叙任を与える。
二、教皇聖下は、新たなコンコルダートによって、トスカーナ、パルマ、ピアチェンツァの諸教会にも、同じ規定を広げることに応じる。
三、教皇聖下は、一定の期間内に、陛下の任命した司教たちに叙任の勅書を発給させることを約束する条項を、コンコルダートに挿入することに同意する。その期間は、六か月より短くはできないと聖下は判断する。また、任命された者自身の不適格以外の理由で六か月を超えて遅延する場合、六か月の経過後、空位の教会を属下に置く首都大司教に、それがいなければ管区の最古参の司教に、教皇の名において勅書を与える権限を授ける。
四、教皇聖下がこれらの譲歩を決意するのは、派遣された司教たちとの会談から抱くに至った希望によってのみである。すなわち、この譲歩が、教会の秩序と平和を回復し、聖座にふさわしい自由、独立、尊厳を返す取り決めへの道を準備するであろう、という希望である。
サヴォナ、一八一一年五月十九日。」
こうして教皇から得られた宣言は、大きな成果であり、いわば、フランス政府とローマの宮廷との将来のあらゆる争いを閉ざすものだった。これからローマの宮廷が、どうやってフランスの秩序を乱せるだろうか。教皇の拒否と不作為が混乱をもたらしうる唯一の武器は、司教の教会法上の叙任だった。教皇が何かを行うことによっては、決して混乱は生じない。その行為は小勅書、大勅書などによってしか表せず、フランスは、それを調べ、国の法律に反するものが何も含まれないと判断してからでなければ公表を許さないという慣行を、常に守るからである。これによって、教皇のあらゆる敵対的な意志は、さらには気に入らないいかなる異論も、力を失うだろう。ガリカン教会の自由について教皇がどう考えるかは、その効力を止める権限がない以上、重要ではなかった。したがって、この点について、あらかじめ何らかの約束に署名させようとすることは、まったく無用だった。教皇自身もそう言っていた。それ以後は、教皇に加える子供じみた圧政にすぎなかった。教皇聖下の名誉にかけた約束が得られていた。それは十分な意味を持ち、どの教皇がかつて行ったことよりも、はるかに大きかった。たとえその約束がなくとも、危険はもちろん、ごく小さな不都合さえ生じなかっただろう。
言い忘れたが、会話の中で、決して譲らないと教皇が示した点が、もう一つあった。それは、皇帝がイタリアのすべての司教座への任命を自分に留保し、教皇には叙任だけを残そうとしたことだった。「何ということだ」と教皇は感情を込めて言った。「熱意と才能をもって教皇の行政に奉仕した者たち、枢機卿たちにさえ報いるために、教皇はキリスト教世界全体で、ただ一人の司教も任命できないというのか。太古からローマの教区に属してきた教会でさえ、単なるコンコルダートによってその権原が無効にされるのか。それは実に恐ろしいことではないか……。」これが教皇の表現であり、フランスの司教たちとの会談で漏らした、この種の言葉はこれだけだった。司教たちは、この点について何も言い返せなかった。教皇聖下の願いは、それほど自然に思われたのである。
司教たちは、一八一〇年二月十七日の勅令で教皇の生活維持のために定められた、農村の土地財産による二百万について話す機会を得た。ピウス七世は、まず断固として拒んだ。初めから述べていたとおり、わずかなもので暮らし、信徒の慈愛が与える援助に頼りたいと、好んで繰り返した。しかし司教たちは、その決意がいかに気高いものであっても、それに反対した。皇帝が認めた世俗上の利益、君主の礼遇、カトリック諸君主と連絡する手段、そして、一八一〇年二月十七日の勅令によって帝国国庫の負担とされている枢機卿団を維持するために必要な資源を、後継者たちから奪うことはできない、と指摘したのである。
こうした考慮は、教皇の決意を揺るがしたようだった。もう言い張らなかったが、この点については何も決定されなかった。
司教たちは、自由とよい助言を得、繊細な感情に配慮してもらえれば、教皇聖下は、かなり重要ないくつかの点についても、なお新たな譲歩ができるだろうと確信して、フランスへ戻った。しかし、肝心なものはすでに得ていた。
これほどよい滑り出しを見せた交渉は、あらゆる争いの終結をもたらすはずだった。
そのために何をすればよかったのか。おそらく、ただ一つである。教会会議を開かせず、一か月延期することだった。そのあいだにナポレオンは、ほかのことを混ぜず、勅書の件と、コンコルダートに加える新しい条項について、教皇と交渉できた。何人かの助言者と十分な自由を返せば、教皇は、少なくとも外から見えるかぎり、内心の確信によって約束したことを批准するのを、名誉としただろう。
この条約がいったん署名されれば、皇帝にはもはや会議は必要なかった。しかも、その招集によって、すでに多少の嘲笑を浴びていたことは、本人にも隠せなかったはずだから、無期限に延期する気になってもよかった。それに、交渉者を通じてあらゆる抵抗を克服した教皇本人とのあいだで決着をつけるほうが、確実に騒々しく、おそらく自分には統御しがたい集会を相手にするより、都合がよいはずではなかったか。教皇の約束がある以上、会議に何の用があったのか。会議を招集したのは、教皇が、任命された司教への叙任に決して同意せず、まして将来もそれを拒めなくなるよう自分を拘束することには同意しない、という想定のもとだけだった。ところが、そのすべては認められ、条約にまとめることができた。会議はこの点について、ほかのことを望むだろうか。それなら、なお悪い。これだけを望むのなら、その関与に何の役があるのか。会議の関与は、すでに見たように、教皇には少しも好ましくなかった。皇帝にとって好ましかったのも、すでに存在しなくなった場合だけであり、それでも、できるなら会議なしに済むことを望むべきだった。デュヴォワザン氏は、一人ずつならかなり従順でも、集まれば容易に熱くなる、フランスとイタリアの九十五人の司教を、意のままに導けると確信していたのだろうか。しかも、自分たちが決めるべきことはもう何もないと感じるからこそ、何も言えず何もできなかったと非難されないよう、多くの厄介事や付随的で面倒な問題を起こす気になったに違いない。
皇帝は、おそらく、会議を主宰するフェッシュ枢機卿が、自分のために及ぼしうる影響力を当てにしていた。ここでも、一族の者を引き立ててから利用しようと考えて行った、ほかのすべてと同じように、誤った。叔父のフェッシュ枢機卿は、自分の出自を忘れさせる必要があった。そしてナポレオンの兄弟たちと同じく、甥への影響力によってではなく、その意志への反対と、自分の厳格さによって、尊敬を得ようとした。
皇帝も、サヴォナでの成功からもっとよく見通せたはずのナント司教さえも、会議が集まることの重大さを、十分には感じなかった。ナポレオンは、教皇の苛酷な境遇にも、その境遇にもかかわらず引き出された驚くほど大きな譲歩にも、心を和らげられなかった。教皇に浴びせる侮辱の言葉をいくつか用意しており、それを無駄にしたくなかったのである。会議の中でそれを聞かせるという、ばかげた名誉にこだわった。しかし、どれほど臆病な集会でも、少なくとも礼儀の上から、教皇聖下の不幸に関心を寄せないわけにはいかず、公然と自らの名誉を汚したくはないだろう、ということを考えなかった。
ナント司教も、その優れた手腕と流暢で華やかな弁舌によって、会議で圧倒的な影響力を振るえると、自負していたのかもしれない。そうであれば、それは誤りだった。教皇との会談を報告すれば、まず関心を引き、次いで集会の信頼を受ける資格を得られると考えていた。しかし、生み出したのは嫉妬する者たちだけだった。彼の成功は許されず、信じることさえ拒まれた。そして、教皇聖下が同意した四か条には教皇の署名がなかったため、まったく考慮する必要はないと言われた。さらに、皇帝が彼に特別な好意を与え、頻繁に接していることは知られていた。彼は直ちに寵臣とされ、そのために、すべての言葉を疑われた。そのうえ皇帝は、激昂の中で、教皇と同じくらい会議にも厳しい言葉を向けたので、デュヴォワザン氏がその言い方を唆していると思われた。ついに、ある日、皇帝の教書に答える奉答文の案を集会で読み上げ、文言について異議を受けた時、信じがたいほど不器用なことをした。いま読んだままの案はすでに皇帝に知らせてある、と言って異議を退けようとしたのである。これで彼は、救いようもなく立場を失った。
私にとって明らかなのは、ナポレオンがこの集会を招集し、集まるに任せたことを、後悔せずにいられた瞬間は、一度もなかったはずだということである。サヴォナの代表団が戻ったあと、この会議がどれほど無用になり、どれほど有害になりうるかを、認めることができたからである。また、この集会を自分の権力の利益に役立てようという皇帝の意図から見ても、実際に取った道ほど、矛盾し、不器用な道を進むことはできなかった、というのも真実である。
私は、この集会の進んだ方向と、それにかかわるいくつかの出来事を、手短に振り返るだけにしたい。
会議は一八一一年六月九日に招集されていたが、ナポレオンの息子、ローマ王の洗礼を口実に、開会式をノートルダム教会で行ったのは六月十七日だった。トロワ司教ブーローニュ氏[62]が説教した。集会には九十五人の司教、そのうち六人は枢機卿と、皇帝に任命されたが教皇の叙任を受けていない九人の司教が加わっていた。すでに述べたように、フェッシュ枢機卿は直ちに議長席に就き、誰もそれを争わなかった。そして肩書の列挙に、リヨン大司教という資格によって当然に帰属する、ガリア首座大司教の称号を加えた。この細部に触れる理由は、あとで分かるだろう。説教ののち、議長は慣例の宣誓を行い、司教全員がそれに続いて繰り返した。その文言は、次のとおりである。
「私は、聖なるカトリックの使徒的ローマ教会を、ほかのすべての教会の母であり師であると認める。私は、使徒のかしら聖ペトロの後継者であり、イエス・キリストの代理者であるローマ教皇に、真の服従を誓う。」
この誓いは、それを向けられた不幸な犠牲者へ再び注意を集め、大きな効果を生んだ。その日の会合は、それだけで終わった。
開会のまさに翌日、十八日、ナポレオンは何人かの司教をサン=クルーへ呼び、「アントレ」と呼ばれていた夜の集まりの一つに出席させた。皇后マリー=ルイーズと、そのそばで勤務していた女官たち、ほかにも多くの人々、とりわけイタリア副王ウジェーヌ公子がいた。皇帝は、皇后が注ぐコーヒーを飲みながら、フェッシュ枢機卿、ナント司教デュヴォワザン、トリーア司教マネー、トゥール大司教ド・バラル、およびイタリア人の高位聖職者一人を入らせた。彼らが入ると、ナポレオンは、おそらく命令によってテーブルに置かれていた『モニトゥール』紙を、皆に見えるように勢いよくつかんだ。その新聞を手にして、彼らに近づいた。彼が作った動揺した様子、言葉の激しさと乱れ、そして話しかけられた者たちの姿勢によって、この奇妙な会談は、彼の好んで演じる劇的な場面となった。そこで彼は、粗暴な無作法を存分に示した。
皇帝の手にした『モニトゥール』紙には、会議の第一回の議事録が載っていた。彼はそれを手の中でねじっていた。まずフェッシュ枢機卿を攻撃した。興味深いことに、歴史的にも神学的にも何の予備知識もないまま、異様にまくし立てながら、いきなり教会の原則と慣行についての議論に飛び込んだのである。
「一体どんな権利があって」
と彼は枢機卿に言った。
「ガリア首座大司教の称号を名乗るのですか。何というばかげた思い上がりだ。しかも、私に許可を求めもしないで。あなたの企みは分かっています。見抜くのは簡単だ。あなたは自分を大きく見せ、世間の注意を自分へ集め、それによって将来のさらに高い地位への心構えを、世間にさせようとしたのだ。私の母との親族関係を利用して、私がいつかあなたを教会の長にしたいと思っているように信じさせようとしている。私の許可もなくガリア首座大司教の称号を取るほど大胆なことをしたとは、誰も思わないだろうからだ。ヨーロッパは、あなたを将来の教皇と見る準備を、私がそうやってさせようとしたと思うだろう……。まったく、立派な教皇になることだ……。この新しい称号で、ピウス七世を怯えさせ、ますます手に負えなくしたいのですね。」
傷つけられた枢機卿は、毅然として答えた。その立派な返答は、顔立ち、声、物腰に欠けていた威厳も、初めの職業[63]の記憶も忘れさせた。普段の彼には、その職業の痕跡があまりにも多く残り、大司教の衣の下から、しばしば私掠船乗りが顔を出していたのである。しかし、この時、皇帝を前にしては、彼が完全に優位に立った。フランスには昔から、ガリア首座大司教だけでなく、アキテーヌ首座大司教とネウストリア首座大司教もいた、と説明した。ナポレオンは少し驚き、ナント司教を振り向いて、本当かと尋ねた。「その事実には疑いがありません」と司教は言った。そこで皇帝は、それまで一人だけを責めていた枢機卿から離れた。怒りを全員へ広げ、宣誓の中の「オベディアンス」という言葉を、「オベイサンス」と混同しながら、熱くなって会議の司教たちを裏切り者とまで呼んだ。「なぜなら」と付け加えた。「敵対する二人の君主に、同時に二つの忠誠の誓いを立てる者は、裏切り者だからだ。」
オベディアンス(obédience)とオベイサンス(obéissance)は、いずれも服従にかかわる語だが、ここでは前者の宗教上の意味と、後者のより広い意味の混同が論点となるため、音写して区別した。
ナント司教は二、三言述べたが、皇帝は聞かなかった。デュヴォワザン氏の悲しげで、不満を抱き、考え込んだ様子にも、ド・バラル氏とマネー氏の打ちひしがれた様子にも、イタリア人の従順な姿勢にも、フェッシュ枢機卿の怒って身を動かす様子にも、注意を払わなかった。そして一時間にわたって、支離滅裂に話し続けた。三、四分ごとに繰り返す次の言葉が、その考えの底を明かさなかったなら、残った記憶は、その無知と多弁への驚きだけだったろう。「諸君」と彼は叫んだ。「私をルイ敬虔王のように扱いたいのだな。息子と父親を取り違えるな。諸君が私のうちに見ているのはシャルルマーニュだ……。私こそシャルルマーニュだ……。そう、私はシャルルマーニュなのだ。」この「私はシャルルマーニュだ」が、何度も戻ってきた。司教たちは、霊的なことについてだけ用いるオベディアンスと、もっと広い意味を持つオベイサンスの違いを理解させようと、何度か無駄な努力をしたが、ついに実りのない試みに疲れた。あとは、疲労がこの乱れた言葉の洪水を終わらせるのを、深い沈黙の中で待つしかなかった。ナント司教は、そこで一瞬の疲れを捉えて、皇帝に二人だけで話したいと願い出た。ナポレオンは外へ出て、司教は執務室までついていった。真夜中近くであり、人々はサン=クルーから奇妙な印象を持ち帰り、それぞれに退出した。
この騒ぎののち、皇帝は、フランスのビゴ・ド・プレアムヌー氏と、イタリアのボヴァラ氏という二人の宗務大臣を、会議の全会合に出席させるよう要求した。数々の不適切な行いに、また一つが加わった。純粋に聖職者だけの集まりの中で、審議に参加する権利のない二人の俗人には、集会にとっても本人たちにとっても、感情を傷つける立場しか占めようがなかった。
こうして二人の大臣は、六月二十日に開かれた会議の第二回会合へ出席した。皇帝の勅令を提出し、議長、三人の司教、二人の大臣からなる幹部会を設け、会議の活動を指揮させるよう命じた。この件で多少の異論が出たが、押し切られ、幹部会は、議長のフェッシュ枢機卿、ボルドー大司教ダヴィオー氏[64]、ラヴェンナ大司教コドロンキ、ナント司教、そして二人の大臣で構成された。大臣たちは続いて皇帝の教書を読み上げたが、それはピウス七世と、教皇全般に対する長い非難の声明にすぎなかった。宗教のためにすべてを行ったのは皇帝であり、フランスとイタリアで宗教に反することをすべて行ったのは教皇だ、というのが、その教書の要旨だった。当時、その起草は、元オラトリオ会員のドヌー氏によるものとされた。教書は、教皇がコンコルダートに違反したので、それは廃止されたと告げ、司教の叙任を行うための新しい方法を見つけるよう、集会に求めていた。この罵倒は、皇帝の期待とは正反対の効果を生んだ。すなわち、中傷され迫害される教皇聖下への同情が、倍加したのである。そして同じ会合で、多数派は、皇帝に任命されたが教皇の叙任を受けていない九人の司教を、審議から除外すると決めた。彼らは、それまで会議の活動に参加していた。これはすでに、政府にとって不吉な前兆だった。
六月二十五日、会議は、皇帝の教書に答える奉答文を提案する委員会を任命した。十二人の委員は、議長フェッシュ枢機卿を含め、ピウス七世の名で一八〇一年のコンコルダートを締結したスピナ枢機卿[65]とカゼッリ枢機卿[66]、ボルドーとトゥールの大司教、コマッキオ、イヴレーア[67]、トゥルネー[68]、トロワ、ヘント、ナント、トリーアの司教たちだった。二十六日、奉答文案が討議された。その起草はナント司教に委ねられており、すでに述べたように、この討議中、案がすでに皇帝に提出されていると漏らすという、際立って不器用なことをした。しかし、それでも多数派は、破門の大勅書を非難する箇所に反対した。翌二十七日、修正された奉答文案が採択されたのち、一人の司教、シャンベリー司教[69]だったと思うが、非常に心を打つ言葉で、会議の全員がサン=クルーへ行き、皇帝に教皇聖下の自由を求めよう、と動議を出した。フェッシュ枢機卿は、この動議を打ち切るために、急いで閉会した。そうしなければ、喝采のうちに可決されていたことは、確かだった。
ナポレオンは甚だしく不満を抱き、奉答文の受け取りを拒んだ。
今や十二人委員会は、政府が提出した提案について、判断を下さなければならなかった。それは、教皇が司教の教会法上の叙任を拒む場合に、その叙任に代わる方法を見つける、という提案だった。ナント司教は、この問題に関する一八一〇年の委員会の作業について報告した。トゥール大司教ド・バラル氏は、三人の司教のサヴォナ行きを報告し、最後に、教皇聖下の目の前で起草され、承認はされたが署名はされなかった覚書を読み上げた。
この点は直ちに脇へ置かれ、委員の一人が、何より先に、教会会議にその権限があるかどうかを決めるよう求めた。この提案から、非常に激しい討議が起こった。その中で、ヘント司教のド・ブロイ氏は、会議にその権限はないと、熱を込めて論じた。結局、「教会会議には、司教の叙任について別の方法を定める権限があるか」という問いが採決に付され、八票が否定に[70]、サヴォナへ派遣された三人の司教は肯定に[71]投じた。フェッシュ枢機卿は棄権した。
この結果を知ると、ナポレオンは激怒した。会議など追い払ってしまう、そんなものは必要ない、サヴォナで得られた譲歩を盛り込んだ勅令を自分で出し、皆を従わせてやる、と叫んだ。ナント司教は、今度も彼をなだめることに成功し、次の案に同意させた。すなわち、サヴォナでの譲歩を実際に盛り込みながら、その譲歩について教皇に感謝する一条を加えた決議案を教会会議に提出し、採決によって承認するよう、会議に求めるのである。
十二人委員会は、この決議案を受け入れた。ただし、法的効力を持つ前に、教皇の承認に付す、という条件を加えた。これは暗黙のうちに、教会会議にはその権限がないと宣言することだった。七月十日、修正された決議案が教会会議に伝えられた。その晩、ナポレオンは、委員のうち三人をヴァンセンヌへ送った。ヘント司教ド・ブロイ氏、トロワ司教ド・ブーローニュ氏、そして名前を忘れたが、ドイツ人のトゥルネー司教[72]である。さらに、皇帝の勅令によって、教会会議の解散が告げられた。
怒りに任せて行われたこの教会会議の解散と、三人の構成員に加えられた暴力は、何も解決せず、それどころか新たな困難を生み出した。解散された教会会議の名において、教皇に決議案を送ることは、もはやできなかったからである。しかも、その会議は、とりわけ、この案を教皇聖下に提出すべきだと主張したために、解散させられたのだった。教会会議の前なら、したがって会議を経ずに、十分できたはずのことが、今ではもうできなくなってしまったのである。
激情が招いた結果に窮したナポレオンは、後戻りせざるをえなかった。解散した教会会議を、いわば再び組み立てるという、情けない手段に頼らなければならなかった。まだパリを去っていなかった司教たちと、命令で引き留めた司教たちを集めた。一人ずつ別々に宗務大臣のもとへ呼び、決議案への賛同を、書面で取り付けた。ただし、そこには新たな一条を加えた。決議は教皇に提出すること、そしてフランスとイタリアの諸教会の苦境を終わらせうる唯一の決議を承認していただくため、六人の司教からなる使節団が教皇聖下のもとへ赴くことを許すよう、皇帝に懇願することを定めた条項だった。
これは二重の矛盾だった。一方では、教皇がすでに同意した提案を、改めて教皇に提出し、他方では、その承認を求めたという理由で教会会議を解散しておきながら、今また、その承認を願い出ていたからである。
司教たちは、怒るよりもむしろ気力をくじかれており、提示されたものに、一人ずつ署名した。そして一八一一年八月五日の総会で、次の案を起立採決によって採択した。これはモーリ枢機卿の策略から提案された、新しい採決方法だった。
「第一条。教会法の精神に従い、大司教座および司教座が空席である期間は、最長でも一年を超えてはならない。この期間内に、指名、叙任、聖別が行われなければならない。
第二条。皇帝には、コンコルダートに従って、空席の司教座への指名を引き続き行うよう懇願する。皇帝によって指名された者は、教会法上の叙任を得るため、われらの教皇聖下に申請する。
第三条。右の指名が、通常の経路で教皇に通知されてから六か月以内に、教皇は、コンコルダートに従って、教会法上の叙任を行う。
第四条。教皇が叙任を与えないまま六か月が経過した場合は、首都大司教が、あるいはその者がいなければ、当該教会管区で最古参の司教が、指名された司教の叙任を行う。首都大司教を叙任する場合は、当該管区で最古参の司教が、その叙任を授ける。
第五条。本決議は、われらの教皇聖下の承認に付す。そのため、フランスとイタリアの諸教会の苦境を終わらせうる唯一の決議を承認していただくよう、聖下に願い出るべく、六人の司教からなる使節団がそのもとへ赴くことを許すよう、陛下に懇願する。」
教会会議が最初に提案したものと、新たな集会が採択したものとの間には、実質的な違いはまったくなかった。第五条は教皇聖下の承認を求めていたが、当初の案では、皇帝の承認を求めることになっていた。もっとも、案は皇帝自身の要求を一字一句そのまま表したものにすぎなかったから、皇帝の承認など、まったく無用だった。では、何のために皇帝に提出するのか。しかし、一方の言葉を他方にそのまま置き換えることも、もしその変更を皇帝に提案していたなら、侮辱と思われかねなかった。だから、会議には、そうした変更を願い出る勇気はなかっただろうし、皇帝の承認を備えた決議が届いたことを、大いに喜んだに違いない、と私は思う。なぜなら、文案を提案したのはナポレオン、すなわち、その顧問会議だったからである。皇帝の承認は、その名で教会会議に提出された提案にも、教皇のもとへ使節団を送ることにも、使節団に与えた訓令にも、すでに含まれていた。さて、決議の第五条によって教皇に委ねられ、教会会議がそれほど重んじた承認については、ナント司教は、皇帝があれほど激しく退けた最初の案も、実際には、教皇に、それが確かにご自身の作られたものかと尋ねるための形式にすぎない、と容易に皇帝を納得させることができた。会議にこのささやかな満足を与えても、何の不都合もありません、と彼は付け加えた。そして、会議の一部の構成員に対する皇帝の厳しい処置は、その条項を決議に入れようとしたからではなく、政府に敵対する姿勢を示したためなのだと、会議に理解させる役目は、自分が引き受けるとした。
数日後の八月十九日、今度はまだ叙任されていない九人も含め、八十五人の司教が、決議の承認を求める教皇宛ての書簡に、共同で署名した。次いで、それをサヴォナへ届けるため、九人の使節が選ばれた。メヘレン[73]、パヴィア、トゥールの大司教、エヴルー、ナント、トリーア、ピアチェンツァ[74]、ファエンツァ、フェルトレの司教たちである。また、助言者を奪われていると教皇が不平を言えないよう、五人の枢機卿も送られた。ドーリア[75]、ドゥニャーニ[76]、ロヴェレッラ、ド・バヤンヌ[77]、ルッフォ[78]の各氏だった。彼らの協力は、あらかじめ密かに取り付けられていたと、私は十分な理由をもって信じている。最後に、教皇の秘密侍従ベルタッツォーリと、その礼拝司祭も、同時に出発させた。
彼らは八月末ごろにサヴォナへ着いた。教皇が会ったのは九月五日になってからだった。最初の使節団の時ほど、親切には迎えなかったと言われている。教皇は教会会議で起こったことを知らなかった。そもそも、教会会議という名を決して口にせず、いつも集会という言葉に置き換えていた。このことは、教皇聖下が少しも望んでいなかった教会会議に頼らずとも、最初の使節団の時点で、司教の叙任に関する肝心の問題を教皇との間で決着させるのが、いかに容易だったかを示している。しかし、ナポレオンはそれをするすべを知らず、それをするよう彼を説き伏せる才覚のある者も、誰一人いなかった。害は取り返しのつかないものとなった。この重大な問題を終わらせるはずだった、教皇による決議の承認を得ながら、ナポレオンの抑えがたい気性のため、何の結果にもつながらなかったからである。すべてがまとまりかけた時、彼はすべてを混乱させようとし、その手段を、あまりにも十分に見つけてしまった。
サヴォナへ送られた使節団と教皇との間で、きわめて穏やかに若干の説明が交わされた。教皇の側から持ち出された、何らかの実質的な難問をめぐる説明ではなかった。教皇聖下は、快く決議の五か条に同意した。そして、その五か条を、一八一一年九月二十日付の小勅書に、一字一句そのまま挿入した。この小勅書は、父親のような慈愛に満ちた言葉で司教たちに宛てられ、教皇自身のことには少しも立ち返らなかった。前文では、親愛なる子、フランス人の皇帝にしてイタリア王ナポレオン一世の同意を得て、この二つの称号はともに記されているのだが、四人の司教が訪ねて来て、フランスとイタリアの諸教会のために措置を取るよう願い出ることを、神がお許しになった、と感動的な感謝をもって振り返っている。どれほど愛情をもって彼らを迎えたかを語り、彼らが教皇の考えと意向を持ち帰って伝えた、その伝え方を、心から喜んでいる。さらに、至愛の子ナポレオン一世の新たな許可により、五人の枢機卿と、礼拝司祭である大司教が再びもとに来たこと、八人の使節は、一人が途中で亡くなったので八人だったのだが[79]、八月五日にパリで聖職者の総会が開かれたと報告し、その集会での出来事を記し、多くの枢機卿、大司教、司教が署名した書簡を届けたこと、そして、以前に承認した五か条を、改めて承認してほしいと、ふさわしい言葉で懇願されたことを告げている。
この段落は小勅書を語り手が紹介するもので、「四人」「八人」などの人数も本文どおりとした。前段の使節団の説明と同一視して数字を補正していない。
教皇は、五人の枢機卿と、侍従であるエデッサ大司教の意見を聞いたのち、提出されたすべての文書を承認した。ただ、小勅書の中に、首都大司教または最古参の司教が叙任を行う際には、通常の調査を実施し、信仰告白を求め、教皇の名において叙任を行い、これらの手続きが忠実に履行されたことを証する正式な文書を教皇に送付するよう求める、と付け加えた。この追加は、ごく単純な条項だった。五か条を採用すれば当然生じる帰結でもあり、皇帝自身も、読んだ時には、気を悪くした様子はなかった。
しかし、司教たちの振る舞いと心情を、教皇聖下が祝福し、称賛した文書に目を通すと、事情は変わった。司教たちが、当然そうすべきであるように、教皇と、他のすべての教会の母であり師であるローマ教会に対して、真のオベディアンス(宗教上の服従)を示した、とする一節、「aliarum omnium matri et magistri veram obedientiam」を読むと、ナポレオンは我慢できなくなった。「師」と「オベディアンス」という言葉が、ある時は彼の笑いを、ある時は激怒を引き起こした。そして、侮蔑を込めて小勅書を送り返し、別の文案を要求しようと決めた。移り気で、日に日に教皇聖下への敵意を強める皇帝の心境について、パリではさまざまな噂が流れた。やがて、何の公的な文書も出ず、私の記憶する限りでは、『モニトゥール』にも、この件について何も載らないまま、しばらくすると、教皇との交渉は打ち切られた、という話が広まった。それを伝えるために教会会議の司教たちを集めることもなく、彼らはそれぞれの教区へ帰された。教皇とのすべての交渉が、教皇のせいで決裂したということ以外、何も知らされなかった。
ラテン語の引用は原文の綴りを保持した。「師」はフランス語 maîtresse の訳で、ここでは他の教会を教え導く立場をいう。
しかし、小勅書はすでに出されていた。ローマ教皇庁の言葉遣いに慣れていないナポレオンは、いくつかの表現を非難し、さらには変更を求めることもできただろう。しかし、彼自身にも、その暴力にも、激怒にもかかわりなく、教皇に要求し、三年もの間あれほど望んでいた譲歩は、与えられていた。小勅書は、サヴォナで、すでに実施され始めてすらいた。教皇は、皇帝が指名した四人の司教に、難なく叙任を与え、その大勅書には、それまでと同じように皇帝の名が記されていたからである。これは、破門の大勅書を取り消すことに、きわめて明白に等しかった。ついに教皇は、期待する勇気さえ到底持てなかったもの、すなわちコンコルダートへの追加条項を受け入れていた。小勅書は、まさにそれにほかならず、皇帝は今後、望む時にいつでも、教皇に頼らず、勅令または元老院決議によって、その条項を実施できたのである。小勅書の主要部分の外にある、いくつかの表現のために、なぜ彼は、自分の立場から見て有益なものをすべて退け、小勅書を送り返すほうを選んだのか。受け入れたうえで、その表現に対して、望むだけの留保を付けることもできたのに。私には分からない。彼なら、どんな矛盾した行動もしかねなかった。
ナント司教がパリにいたなら、「すべての教会の母であり師」という言葉にも、「オベディアンス」という言葉にも、皇帝を納得させることができたと思う。一六八二年の聖職者集会の開会に際してボシュエが行った、あの有名な演説の中に、それらの言葉が何度も繰り返されているのを、示せばよかったのである。さらに、こうした表現は、教皇が長としてすべてのカトリック教会に語りかける権利を持つことを意味するにすぎず、そのことはフランスの教会も他の教会と同じく認めているのだから、ガリカン教会の自由と両立する、と付け加えることもできたはずだ。しかし、ナント司教は、他の使節たちとともにサヴォナにいた。彼らは皆、そこで新たな命令を待たなければならなかった。
皇帝は小勅書を送り返した。教皇は、悲しみながらそれを受け取り、なかったものと見なさざるをえなかった。しかし、知られていたあの穏やかな寛容さからすれば、求められればいつでも、その効力を維持する用意が、きっとあったはずだ。条件付きで出したわけではなく、何より、自分自身のためには、何も求めていなかったからである。
サヴォナへ出発する前に、使節となった司教たちにナポレオンが渡した訓令を読むと、皇帝が小勅書全体を退けたのは、本文のあちこちに散在し、その本質をなしてはいなかった、いくつかの表現のためではないことが、はっきり分かる。主な理由は、教皇が、その中で自分自身の名において語っていたことだったのである。(まるで、ほかにやりようがあったかのように!)
そもそも、この訓令は、何一つ調停を進めるようなものではなかった。憤りを覚えさせるほど苛酷で、一言ごとに、交渉を決裂させたいという明白な願望をあらわにしていた。使節の司教たちは、皇帝から次の宣言を託されたと、教皇に伝えるよう命じられていた。コンコルダートは、帝国とイタリア王国の法律ではなくなった。教皇自身が、数年来、これらの条約の一部の規定に違反したことによって、皇帝がこの措置を取ることを認めたのである。したがって、フランスとイタリアは、一般法のもとへ戻ることになる、と。さらに司教たちは、決議への無条件の承認を教皇に求めるよう命じられていた。決議の対象には、フランスとイタリアだけでなく、オランダ、ハンブルク、ミュンスター、ベルク大公国、イリュリア、要するにフランス帝国に併合された、または今後併合されるすべての国々を含めるよう、要求しなければならなかった。ローマ司教区についてを除き、何らかの修正、制限、留保を条件として教皇が承認するなら、その承認を拒絶しなければならなかった。とりわけ、教会会議が行ったことを、教皇が自分の名でやり直すことになるような教皇の法令や大勅書は、皇帝は一切受け入れない、と伝える必要があった。要するに、脅しを口にして話すことしか、許されていなかったのである。
おそらく、ナポレオンは、小勅書が自分の訓令を一字一句そのまま実行したものではないと見て、教皇を訓令に従わせるため、それを使節たちに送り返したのだろう。彼らは、小勅書がどう受け取られたかを知らせたうえで、おそらく脅迫ではなく、敬意と懇願を込めた形で、それを教皇に提案したのだろう。そして、教皇聖下は、自分にできる手段だけでは、皇帝を満足させることは到底不可能だとよく分かり、今度はご自身のほうから、これほど苛酷かつ専断的に要求されようとしているものを、拒んだのだろう。
言い忘れたが、小勅書には教会会議という名が用いられず、司教集会という名だけが使われていることも、指摘されていた。この点は、ナポレオンにとっては、気にも留める必要がなく、むしろ好都合なくらいだったはずだ。それに傷つくとすれば司教たちだけだったが、彼らは不平を言う気など、まったくなかった。この教会会議をあれほど軽く扱い、あれほど侮蔑して解散し、それを話題にされるたびに、招集したことを後悔していた皇帝が、その名称の格を高めることに、さほど熱心であるはずはなかった。とりわけ、教皇が、まったく同等の名称を与えていたのだから、なおさらである。しかし、争い好きな気性に駆られ、教会会議という言葉が省かれていることから、教皇聖下を攻撃する新たな口実を引き出し、会話の中で、しばしば繰り返した。それが拒絶と怒りの主な理由ではなかったことは、確かなのだが。
サヴォナにいた司教たちは、その後も、意に反して長くそこにとどめられた。パリへ戻ったのは、一八一二年の春の初めになってからだった。皇帝は、彼らの不手際を罰したいのだと言っていた。サヴォナで起こったことを知らせるために、教会会議の構成員をパリへ集めることすら、しなかった。一八一一年十月二日、警察大臣を通じて、それぞれの教区へ帰るよう伝えさせており、彼らは帰っていた。交渉についても、教会会議についても、小勅書についても、何一つ公表されなかった。誰もが、この混乱から、好きなように結論を引き出した。そして、人々は別のことを考えるようになった。
一八一一年から一八一二年にかけての冬、そして続く春にも、サヴォナで教皇聖下に加えられる厳しい扱いは続いた。このころ、イギリス艦隊が姿を現したため、教皇を連れ去るのではないかという懸念が生じたらしい。皇帝は、教皇をフォンテーヌブローへ移すよう命じた。六月十日、教皇はサヴォナを出発し、この不幸な老人は、昼夜を問わず旅をさせられた。モン・スニの救護宿で、かなり重い病気になったが、それでも旅を続けることを強いられた。道中で誰だか分からないような服を着ることも、強制されていた。移動を世間から隠すためにも、細心の注意が払われた。秘密があまりに厳重に守られたので、六月十九日にフォンテーヌブローへ着いた時、到着を知らされず、何の用意もしていなかった管理人は、自分の住まいに教皇を迎えなければならなかった。この苦しい旅の疲れと、少なくとも無益であった苛酷な扱いから、教皇聖下が回復するまでには、かなり長い時間がかかった。
パリにいた、ナポレオンの不興を買っていない枢機卿たちに加え、トゥール大司教、ナント司教、エヴルー司教、トリーア司教が、教皇を訪問するよう命じられた。教皇は、モーリ枢機卿には、もう少し訪問を控えてほしい、と希望を述べたと言われている。教皇がパリへ連れて来られるという噂が広められ、大司教館では、迎えるための大がかりな準備が行われた。しかし、教皇は、そこへ一度も来なかった。
あれほど多くの災厄に彩られたロシア遠征は、終わりに近づいていた。一八一二年十二月十八日にパリへ帰った皇帝は、なおも空想的な希望を抱き、おそらく、まだ巨大な計画を練っていた。それに身を投じる前に、教会の問題を再び取り上げようとした。サヴォナで片づけなかったことを悔やんでいたのか、それとも、教皇との二時間の差し向かいで、教会会議も、その委員会も、最も巧みな交渉役たちも成しえなかった以上のことをしてみせよう、と思いついたのか。しかし、自分自身の交渉を容易にする手は、すでに前もって打っていた。教皇聖下は、数か月前から、枢機卿や高位聖職者たちに囲まれていた。彼らは、確信からであれ、皇帝への服従からであれ、教会は無秩序に陥り、その存立さえ危うくなっている、と描いてみせた。皇帝に歩み寄り、その力を借りて害を食い止めなければ、教会の分裂は避けられなくなる、と絶えず教皇に繰り返した。こうして教皇は、年齢と病弱さ、そして心をかき乱すように吹き込まれた不安や心配に打ちのめされ、ナポレオンが演じようと計画し、成功だと彼が考えるものを手に入れるはずの場面に向けて、十分な下準備を施されていた。
一八一三年一月十九日、皇帝は皇后マリー=ルイーズを伴い、突然、教皇聖下の居室へ入った。教皇のもとへ駆け寄り、あふれる感情を込めて抱擁した。驚き、心を動かされたピウス七世は、若干の説明ののち、提案されたというよりも、むしろ押し付けられた事柄に、承認を与えるよう導かれてしまった。それらは十一か条にまとめられた。まだコンコルダートではなく、新たな文書の基礎となるはずのものだった。一月二十四日、皇帝と教皇は、この異様な文書に署名した。二人の君主が、直接、互いに交渉したため、通常の外交上の形式が欠けていたのである。
署名日は、ここでは原文の「一月二十四日」をそのまま訳した。
これらの条項には、次のように記されていた。教皇は、フランスとイタリアで教皇職を行使すること。教皇の使節と、教皇のもとに信任された使節は、すべての外交特権を享有すること。教皇の領地のうち、譲渡されていないものは免税とし、譲渡されたものについては、収入二百万に至るまで代償を与えること。フランスまたはイタリアの、後に指定される司教座について、教皇が指名を行うこと。ローマ近郊の司教座を復活させ、その指名権を教皇に帰し、これらの司教座の財産のうち、未売却のものを返還すること。事情によって自分の教区を離れているローマの司教たちに、教皇は名義司教座を与えることができ、彼らが空席の司教座に再び就くまで、以前の収入と等しい年金を支給すること。トスカーナおよびジェノヴァ地方の司教座について、必要な場合に行う削減と、オランダおよびハンザ諸県に設ける司教座について、皇帝と教皇は、適当な時に協議すること。布教聖省、内赦院、文書館を、教皇聖下の居住地に置くこと。最後に、現下の出来事によって皇帝の不興を買った枢機卿、司教、司祭、俗人に対し、皇帝陛下は恩寵を回復すること。サヴォナで教皇聖下が同意した、あの主要な条項も、当然、含まれており、次の言葉で起草されていた。「帝国およびイタリア王国の大司教座と司教座への皇帝による指名が、通常の手続きで通知されてから六か月以内に、教皇は、コンコルダートに従い、かつ本特許に基づいて、教会法上の叙任を行う。事前の調査は首都大司教が行う。教皇が叙任を与えないまま六か月が経過した場合、首都大司教が、また、その者がいない場合、あるいは首都大司教自身の叙任の場合には、管区で最古参の司教が、指名された司教の叙任を行う。いかなる司教座も、一年を超えて空席となることのないようにする。」これが第四条だった。
「二百万」の通貨名は、この箇所の原文には記されていない。名義司教座は原文の in partibus に対応する。
最後の条項で、教皇聖下は、教会の現状を考慮したこと、そして現下の宗教の数多い必要に対して、陛下がその強力な庇護を与えてくださるとの信頼を、陛下によって抱かされたことから、以上の取り決めに応じた、と宣言した。
この条約調印の知らせは、世間に大きな喜びを広めた。しかし、教皇の喜びは、長くは続かなかったらしい。余儀なくされた犠牲を払うやいなや、苦い悲しみを覚えた。その悲しみは、追放され、投獄されていたコンサルヴィ、パッカ、ディ・ピエトロなどの枢機卿たちが、自由を得るとともに、フォンテーヌブローへ行く許可も与えられ、到着するにつれて、深まるばかりだったはずである。その時、教皇聖下とこれらの枢機卿との間で、何が起こったかを、知っていると主張するつもりはない。しかし、ナポレオンは、いくつかの兆候から、これから起こることを察知したに違いない。十一か条は、公開しない予備的な取り決めにすぎないものとする、と教皇に約束していたにもかかわらず[80]、それでも、この条項を元老院への教書の対象とし、その教書を届ける役目を、大書記長に命じたからである。
教皇が署名したことをあれほど深く悔いていた文書を、時期尚早に公表したことは、その撤回を早めたに違いない。教皇は、一八一三年三月二十四日、小勅書によって皇帝に撤回を伝えた。教皇聖下が、どのような理由に基づいて撤回したのか、私は知らない。しかし、この時の行動を左右し、これほどわずかな間を置いて撤回に応じさせた、その弱さは、嘆くほかない。この行動について、最もよく説明するなら、身体も精神も衰えた結果、心がナポレオンの要求に屈し、忠実な助言者たちに囲まれていると感じて初めて、力を取り戻した、ということだろう。残念に思うことはできる。しかし、非難する権利が自分にあると、誰が思うだろうか。
今度は皇帝も、撤回にひどく腹を立てながら、大騒ぎをしないほうが得策だと考え、表向きは、まったく取り合わないことにした。二つの勅令を公布させた。一つは一八一三年二月十三日付、もう一つは三月二十五日付だった。最初の勅令は、一月二十五日の新たなコンコルダートを、国家の法律と宣言した。二番目では、それが大司教、司教、参事会を拘束するものと宣言し、このコンコルダートの第四条に従って、首都大司教たちに、指名された司教を叙任するよう命じた。そして拒絶した場合には、裁判所に送致するよう命じた。
ここでのコンコルダートの日付「一月二十五日」は原文どおり。先の署名の叙述では「一月二十四日」とされている。また、二月十三日付の勅令をこの順序で列挙することも、原文のままとした。
教皇聖下に一時的に与えられていた自由は、再び制限され、ディ・ピエトロ枢機卿は、また追放された。それから間もなく、ナポレオンは、ドイツでの一八一三年の戦役へ出発した。それは、彼の転落をもたらすことになる、次の戦役の前奏だった。
怒りに任せて発せられた勅令は、実行されなかった。一八一三年の戦役で情勢がさまざまに変転する間、帝国政府は何度か教皇との交渉再開を試みたが、何の成果もなかった。こうして事態は長引き、出口はまったく見えなかった。ところが一八一四年一月二十三日、まさにその日、教皇がフォンテーヌブローを出発し、ローマへ戻る途上にある、と突然知らされたのである。
この時、ナポレオンは、フランスへ侵入して来た連合軍に、激しく追い詰められていた。しかし、彼は連合軍に勝つつもりでいたから、これほど思いがけず、性急な決定をした理由は、理解されなかった。けれども、それには説明がつく。皇帝の運命を見限り、すでに述べたように、対仏連合と条約を結んだミュラが、当時、教皇領を占領していたのである。ミュラへの憤りから、ナポレオンが、義弟の手に教皇領があるのを見るよりも、教皇を自分の領地へ帰すほうを選んだことは、明らかである。
ピウス七世が旅を続け、皇帝がシャンパーニュで戦っている間、一八一四年三月十日の勅令は、教皇領のうち、ローマ県とトラジメーヌ県が設けられていた部分を、教皇が再び領有すると告げた。獅子は、敗れながらも、取り返すつもりでいた獲物を、まだすべて手放そうとはしなかったのである。
教皇聖下の旅には、妨害や困難が絶えなかった。そのため、私が議長を務める光栄を得ていた臨時政府は、一八一四年四月二日、これらすべての妨害を終わらせ、道中で教皇にしかるべき敬意を払うよう、命令を出さざるをえなかった。
イタリア副王ウジェーヌが、敬意をもって教皇を迎えたことは、述べておかなければならない。ミュラ自身も、自分の軍隊で教皇領を占領していながら、教皇がその領地を再び領有することに、あえて反対しなかった。
教皇は、四月三十日にチェゼーナ、五月十二日にアンコーナへ着き、一八一四年五月二十四日、荘厳な入市をもってローマへ帰還した。
皇帝と教皇の交渉について、今述べたほど長く筆を費やしたのには、二つの目的があった。正当な権利に基づく抵抗そのものを前にした時でさえ、激情がナポレオンをどこまで駆り立てえたかを示すこと、そして、ここで扱った問題において、彼が実質の点でも、やり方の点でも、等しく誤っていたことを証明することだった。それを示すのは、容易だと思う。一八〇六年以来、教皇に対して取った行動全体が、いかに憎むべきものであったかを確認するためには、もう何も付け加える必要はないように思われる。あれほど恥ずべき迫害を語るに当たり、公平に、できる限り冷静に、今述べてきた事実は、それ自体で語っている。これ以上言い募れば、かえって印象を弱める恐れがある。しかし、私が、おそらくそれ以上に明らかにしたいのは、一般的な政治の観点から見て、皇帝がローマ教皇庁との関係において犯した、途方もない過ちである。
一八〇一年、ナポレオンがフランスに礼拝を復活させた時、行ったのは、正義にかなう行為ばかりではなく、きわめて巧みな行為でもあった。ただそれだけで、全世界のカトリック信徒の共感を、直ちに自分のもとへ集めたからである。また、ピウス七世とのコンコルダートによって、フランス革命で一時揺らいだカトリックの勢力を、堅固な基盤の上に立て直した。フランスの思慮ある政府なら、たとえプロテスタントとギリシア教会の勢力拡大に対抗するためだけであっても、その発展を助けるべきである。さて、カトリックの主な力とは、あらゆる勢力の場合と同じく、統一と独立にほかならないではないか。ところが、最も無分別な野心に駆られてローマ教皇庁との闘争に入った日、ナポレオンが掘り崩し、破壊しようとしたのは、まさにこの二つの力だった。司教を叙任する権利を教皇から奪おうとして、カトリック教会の統一を攻撃し、聖座から世俗権力を奪い取ることで、その独立を攻撃したのである。
教皇による司教の叙任こそ、世界のすべてのカトリック教会をローマの教会に結び付ける、唯一の真の絆である。教会の教義と規則を支え、守る能力があると教皇が認めた者だけを、司教職に就かせることで、それらの統一を維持する。この絆が断たれたと、しばし考えてみよう。すると、教会分裂に陥るのである。この点で、ナポレオンの責任は、なおさら重かった。憲法制定議会の過ちから、学んでいたはずだからである。その事業に私がどれほど関与していたにせよ、ここで認めることを恐れない。憲法制定議会が定めた聖職者民事基本法は、その結果として生じた恐ろしい犯罪を別としても、おそらく、この議会の最大の政治的過失だった。このような前例のあとで、同じ過ちに再び陥り、国民公会と総裁政府がピウス六世に加えた迫害を、ピウス七世に対して繰り返すことは、許されなかった。その迫害を、ナポレオン自身が、あれほど厳しく、しかも正当に非難していたのである。したがって、この問題における彼の行動には、一切の弁解が成り立たない。司教の叙任を濫用し、カトリックの政府に対してさえ、それを武器とした、騒動を起こす教皇もいたではないか、と私に反論しても無駄である。それは事実だが、それらの政府は、その困難を切り抜けたのであり、再び同じ事態に置かれても、同じようにするだろう、と答えよう。そして、起こりうる濫用を防ぐために、現実の危険を作り出すのは、悪い政治である。付け加えれば、ナポレオンには、ほかの誰よりも、あのように行動する正当な理由がなかった。教会の問題を解決するうえで、ピウス七世から、思いもよらぬほどの便宜を得ていたからである。しかも、最も憎むべき扱いを受けながら、教皇の寛大さと穏やかさは、一瞬たりとも失われなかった。破門の大勅書は、何の実質的な影響も持たなかった一事件にすぎない。この時のナポレオンの過ちは、どれほど大きかったことか。かつてミトリダテスがローマ人に対してしたように、至る所でイギリスの敵を作っていると、あれほど自慢していた彼が、教皇をイギリスの同盟者にしてしまい、サヴォナで自分の犠牲者をイギリス人に奪われるのではないかと、一時でも恐れるに至ったのである。
ローマの領地を大帝国に吸収することで、教皇の世俗権力を破壊したことも、政治的に言えば、同じくらい重大な過ちだった。カトリックのように、地上の至る所に広まった宗教の長が、公平に権力と影響力を行使するためには、このうえなく完全な独立が必要なことは、一目瞭然である。時の流れが作り出した領土の分割と、文明から生じる政治的な複雑さの中にある、現在の世界の状態では、この独立は、世俗の主権によって保障されなければ、存在しえない。キリスト教がローマ帝国内に収まっていたため、教皇がローマ司教にすぎなかった初代教会の時代へ戻ろうとするのは、教皇聖下をフランスの一司教にしようとしたナポレオンと同じくらい、無分別で、馬鹿げている。そうなれば、フランス帝国に属さないすべての国々で、カトリックはどうなるのか。もし教皇がオーストリアや、ほかのカトリック強国の手中にあったなら、フランスはどう思うだろうか。教皇が十分に公平で、十分に独立していると、信じるだろうか。自分自身、あるいは後継者たちの権力の広がりと持続について、どれほど幻想を抱いていたとしても、ナポレオンは、これほど危険で、いつの日かフランスに致命的となりかねない前例を、作るべきではなかった。一八一四年は、この種のことに、何一つ不可能はないと証明した。
ここで筆を止めよう。皇帝の飽くなき野心が、将来のフランスに、どれほど多くの害を用意していたかを示すには、十分に述べた。しかし、一八〇〇年ごろの革命家のような連中は、私にこう言うかもしれない。それなら、なぜ宗教と教皇権を復活させたのか、と。ナポレオン自身が、一八〇一年のコンコルダートを結んだことで、すでに彼らに答えている。ただし、それは、後に彼の天才を押しつぶした激しい激情ではなく、その優れた天才に導かれた、真に偉大で、明晰なナポレオンの答えなのである。
第六部 終わり
第七部
帝国の崩壊――王政復古
(一八一三―一八一四年)
帝国の崩壊――王政復古
(一八一三―一八一四年)
ここで読者の注意を、ナポレオンの治世の、あの時期に戻さなければならない。スペインで巧みに事態を処理していれば、全面的な講和に至り、それによって自らの体制を確固たるものにできたはずだ、と私が述べた時期である。
ナポレオンは、無政府状態に反対して結集した、すべての人々の意志の協力によって、最高権力へ押し上げられた。彼を選ばせたのは、数々の勝利の輝きだった。彼の権利の根拠は、それがすべてであった。敗北はそれを無効にするが、栄光ある平和ならば、正当なものとし、強固にしただろう。しかし、判断力を支配する想像力に欺かれた彼は、かつてルイ十四世が築いた要塞線に代えて、一族の者たちが占める王座の防壁を、フランスの周囲に築かなければならない、と大げさに語った。大臣や廷臣の中には、この突飛な考えに賛成する者がいた。そして、その大半は、かつての国民公会や元老会の議員だった……。しかし、フランスの大衆の良識が望んでいたのは、革命の真に有益な成果を保つことに尽きていた。すなわち、市民的自由を維持することだった。皇帝は、常に専制的な権力を法の上に置き、その自由の形ばかりを、かろうじて残していたのである。
元老会(Conseil des Anciens)は総裁政府期の立法機関の一つ。後に登場する帝政期の元老院(Sénat)とは区別した。
成功に目がくらんだあまり、彼には分からなかった。国内でも国外でも、無分別に踏み込んだ政治体制を、極限まで押し進めれば、外国の諸国民と同じくフランス人をも疲弊させ、どちらにも、自分の外に保障を求めさせることになるのである。全面的な平和を確保し、フランス人にとっては、自らの市民的権利の享受を確保するための保障を、である。
スペインに対する企ては、何もかも無分別だった。彼に好意を寄せ、献身していた国を、なぜ破滅させるのか。その一部だけを手に入れるために、至る所で滅ぼす、少なくとも弱めると称していたイギリスへ、その豊かな植民地を渡してしまうのか。半島のすべての地方が、フランスのくびきに屈し、彼の兄の王権を受け入れるよう強いられれば、スペインの植民地は、自らの衝動からであれ、イギリスに動かされてであれ、反乱を起こすことは、明らかではなかったか。当時、政治の至芸となったはずなのは、イギリスを十分に孤立させ、大陸との一切のつながりを断ち、植民地とも新たな関係を持たせないことだった。ナポレオンは、それとは反対に、スペイン戦争によって、ヨーロッパ大陸とアメリカの植民地の両方を、イギリスに開いたのである。
今まで語ってきた二十年間に、特に強い印象を受けたことを思い返す時、私は、しばしば次の問いを自分に投げかけた。皇帝が、その歩みのある時点で立ち止まり、方針を変え、自らの基盤を固めることだけに専念していたら、どうなっていただろうか。たとえば、リュネヴィルの講和後、ロシアとの最初の条約に署名し、イギリスとアミアンの講和を結び、帝国決議をヨーロッパのすべての列強に承認させたのちなら、何もかも容易だったのではないか。その時、フランスは、ヨーロッパが同意せざるをえなかった国境を獲得していた。国内の反対勢力は静まり、宗教は国家の中に居場所を取り戻していた。この状況は、明らかにブルボン家に、もはや何の望みも残していなかった。
帝国決議(recès de l’empire)は、この文脈では神聖ローマ帝国の領土・制度の再編に関する決議を指す。
もしこの同じ思いが、時折ルイ十八世の心にも浮かぶなら、神の摂理に、どれほど感謝しなければならないことか。また、フランスの幸福と繁栄のために、どれほど心を配らなければならないことか。自らの帰還を準備するため、一八〇三年以来、どれほどのことが必要だったか、しばし考えてみるがよい[81]。
あらゆる幻想が、同時にナポレオンの心を捉えなければならなかった。彼が、見通しもなく、最も危険な遠征に身を投じなければならなかった。気まぐれに王座を作り、別の気まぐれによって、その王座から安定の可能性をことごとく奪い、自分がそこに座らせた者たちさえ、敵に回さなければならなかった。フランスと外国諸国民の信頼を壊すために、初めは共和制、次いで君主制の制度を押し付け、最後には専制支配に従わせなければならなかった。ついには、やがて互いに通じ合う諸国民に、その目の前を通り過ぎるさまざまな政体を、次々と軽蔑するという、悲しい慰めを与えなければならなかった。そして、その軽蔑から、諸国民の間に蜂起への一般的な気運が生まれ、まもなく復讐へと向かうことを、見抜けずにいなければならなかった。
電子本文の que ce mépris, devait sortir は前置詞 de が脱落している。1891年刊本の印刷一三二頁には que de ce mépris, devait sortir とあり、訳文の「その軽蔑から」は、この刊本文言に一致する。
しかし、さらにこの一八〇三年を越え、一八〇七年へ目を転じてみよう。皇帝は、オーストリア、プロイセン、ロシアを次々と破り、ヨーロッパの運命を手中に握っていた。その時、どれほど偉大で高貴な役割を、果たすことができたであろうか。
ヨーロッパが数世紀にわたって、むなしく求め続け、今日ではかつてなく遠ざかっている、真の均衡を与えることができた、最初にして唯一の人物が、ナポレオンだった。
そのために必要だったのは、ただ次のことだけである。第一に、バイエルン家をイタリアへ移し、イタリアを統一へ導くこと。第二に、ドナウ河口まで領地を広げるオーストリア家と、同じく領地を拡大するブランデンブルク家[82]との間で、ドイツを分割すること。第三に、ポーランドを復活させ、ザクセン家に与えること。
真の均衡とともに、ナポレオンは、ヨーロッパの諸国民に、真の道徳律にかなった秩序を与えることができた。真の均衡は、戦争をほとんど不可能にしただろう。適切な秩序は、すべての国民のもとで、文明を、その到達しうる最高の水準へと高めただろう。
ナポレオンは、これらのことを行えたのに、行わなかった。もし行っていたなら、感謝の思いから、至る所に彼の像が建てられ、その死は、すべての国民に悼まれただろう。そうする代わりに、彼は、われわれが目にしている現状を準備し、東方からヨーロッパを脅かす危険を招いた。彼は、これらの結果に基づいて裁かれるべきであり、実際にそう裁かれるだろう。後世は、こう言うだろう。この男は、きわめて大きな知力を授けられていたが、真の栄光を理解しなかった。道徳的な力は、きわめて小さいか、まったくなかった。順境にあって節度を保つことも、逆境にあって威厳を保つこともできなかった。そして、道徳的な力を欠いていたために、ヨーロッパをも、自分自身をも、不幸にしたのである、と。
あれほど長い年月、彼の計画のただ中に、いわば、その政治の噴火口に身を置き、彼に対して行われ、準備されるすべてを見ていた私にとって、新たに彼の法のもとに置かれた国々や、一族の支配のもとに置かれた新設の国家が、彼の権力に最初の打撃を加えると予見したことは、さほどの手柄ではなかった。告白するが、このような光景を見守るのは、苦痛と苦々しさを伴うものだった。私はナポレオンを愛していた。欠点はあっても、彼自身にさえ愛着を抱いていた。その出発の時には、偉大な天才が伴う、抗いがたい魅力によって、彼へと引き寄せられるのを感じた。彼の恩恵は、私に心からの感謝を抱かせた。なぜ、それを言うことを恐れようか……。私は彼の栄光を喜び、その高貴な仕事を助ける者たちにまで差す、栄光の反射をも喜んでいた。だから、私は献身的に、しかも自分にできる限り、良識ある献身をもって彼に仕えたと、自ら証言することができる。彼が真実に耳を傾けることを知っていた時期には、私は誠実に真実を語った。後に、彼へ届けるために慎重な配慮が必要になってからも、語り続けた。そして、率直さゆえに不興を買ったことが、祖国の運命を危うくするまでに彼が至った時、初めはその政治から、次いでその人自身から離れた私を、私の良心の前で正当化してくれる。
ナポレオンが、あらゆる合理的な妥協を退け、一八一二年、あの破滅的なロシア遠征に乗り出した時、思慮ある者なら誰でも、かつて屈辱を与えた列強に追われ、ライン川を渡って退却することを余儀なくされ、幸運が彼の周囲にまとわせていた威光を失う日を、ほとんど前もって定めることができた。敗れたナポレオンは、世界の舞台から消え去らなければならなかった。それが、敗北した簒奪者の運命である。しかし、一度侵入を受ければ、フランスには、どれほどの不利な可能性があったことか。迫り来る害を、どのような手段で退けられるのか。この恐ろしい破局を乗り切ったなら、どのような政体を採るべきなのか。これらは、すべての善良なフランス人にとって、熟考すべき重大な問題だった。かつて別の時期に、事情によって、あるいは野心によってと言いたければそれでもよいが、国の運命に影響を及ぼす立場へ呼び出された者たちにとって、それを考えることは義務だった。私は、数年来、それを行う権利が自分にはあると考えていた。そして、恐ろしい結末が近づくにつれ、残されるはずの手段を、いっそう注意深く、丹念に調べ、組み合わせていた。ナポレオンは、一度ならずそうだと私に言ったが、それは彼を裏切ることでも、彼に対して陰謀を企てることでもなかった。私が生涯で陰謀を企てたのは、フランスの多数派を共犯者とし、それとともに祖国の救済を求めた時だけである。ナポレオンが私に向けた猜疑と侮辱は、事実の真実を何一つ変えることができない。私は声を大にして繰り返す。彼にとって危険な陰謀家は、彼自身のほかには、一人もいなかった。それでも、治世の最後の数年間、彼は、最も憎むべき監視を私に加えさせた。この監視は、仮に陰謀を好む気が私にあったとしても、それを企てることが不可能だった証拠として、挙げることさえできそうである。
この監視について、記憶に戻ってきた一件を語ることを、お許し願いたい。皇帝の警察が、私生活の内輪の場を、どのように扱えたかが分かるだろう。一八一四年二月のある晩、私の客間には、数人が集まっていた。ルイ男爵、メヘレン大司教のド・プラット氏、ド・ダールベルク氏、そのほか何人かである。話題はさまざまだったが、特に、誰もが心を奪われて当然だった、その時の重大な出来事について話していた。突然、扉が激しい音を立てて開き、従僕が名を告げる暇も与えず、総警察大臣サヴァリー将軍が、客間の中央へ飛び込んで来て、叫んだ。「ああ、政府への陰謀の現行犯で、皆さんを捕まえたぞ!」その叫びに、どれほど真剣な響きを込めようとしていても、冗談を言うつもりなのだと、われわれには、すぐに分かった。ただし、できれば皇帝への警察報告の材料になる情報を、何か探り出そうとはしていたのである。しかし、われわれをうろたえさせることはできなかった。誰もが、ナポレオンの危険な状況と、そこから生じうる結果についての不安を、彼に述べたが、その不安は、事態によって、あまりにも十分に正当化されていた。皇帝が失脚していなければ、サヴァリー将軍は、この時の自分の大胆さと、彼自身が巧みさだと思っていたものを、必ず皇帝の前で売り込んだだろう、と私は思いたくなる。警察大臣というのは、まったく、嫌な職業である。
私に対するナポレオンの行動で奇妙なのは、私への疑いを最も強く抱いていたまさにその時に、私を自分の近くへ引き戻そうとしていたことである。一八一三年十二月、外務大臣の職を再び引き受けるよう、私に求めた。しかし、私はきっぱりと断った。彼自身の愚行が閉じ込めた迷路から抜け出す、唯一の方法について、われわれが決して一致できないことは、よく分かっていたからである。数週間後の一八一四年一月、軍へ出発する前、コランクール氏がすでにシャティヨン会議へ出立していた時[83]、皇帝は、ほとんど毎晩、ラ・ベナルディエール氏[84]と仕事をしていた。コランクール氏の不在中、外務を預かっていたのは、この人だった。夜更けまで続くそれらの会談で、皇帝はしばしば、奇妙な打ち明け話をした。実際、ヴィチェンツァ公がシャティヨンでの交渉の進み具合を報告した急使便を読んだあと、何度もこう繰り返したのである。「ああ、タレーランがあそこにいれば、窮地から救ってくれるのに。」彼は間違っていた。私に彼を救えるとすれば、自分の責任で、敵の条件を受け入れる以外になかったからである。おそらく、私はそうしただろう。しかし、その日に、ほんのわずかでも軍事的成功があれば、彼は私の署名を否認したはずだ。ラ・ベナルディエール氏は、もう一つ、居合わせた場面も私に話してくれた。あまりに彼らしいので、書かずにはいられない。ミュラは、義兄の大義に忠実であり続ける見返りとして、ポー川右岸までのイタリアを、自分に譲るよう求めていた。ナポレオンへ何通も手紙を書いたが、返事はなかった。ミュラは、それを侮蔑のしるしとして、激しく不満を訴えていた。「なぜ陛下は、彼にこのような口実をお与えになるのですか」と、ラ・ベナルディエールは皇帝に言った。「望みのものをお与えになるのではなく、多少の期待を持たせることに、何の不都合がございましょうか。」すると、皇帝は答えた。「分別のない男に、返事などできるか。教皇がローマにいないという事態を可能にしたのは、私の圧倒的な優勢だけだったと、なぜ分からないのか。教皇があそこへ戻ることは、すべての列強の利益だ。そして今では、私の利益でもある。ミュラは身を滅ぼす男だ。いずれ私が施しをしてやらねばならないだろう。だが、これほど悪辣な恩知らずを罰せずにはおかないために、奴を、しっかりと地下牢へ閉じ込めてやる。」他人の愚行を、これほどよく理解しながら、自分自身の愚行には気づかずにいられるものだろうか。
先ほど、ナポレオンに対して陰謀を企てたのは、ナポレオン自身だけだったと述べた。この事実が、完全に正しいことを示せる。破滅の直前の最後の瞬間まで、救われるかどうかは、ただ彼自身にかかっていたことが、確かだからである。すでに述べたとおり、一八一二年には、全面的な講和によって、権力を永遠に固めることができた。それだけでなく、一八一三年にも、プラハで[85]、一八一二年ほど輝かしくはなくとも、なお十分に有利な条件を得られたはずだった。そして最後に、一八一四年のシャティヨン会議そのものにおいてさえ、時機を得て譲ることを知っていれば、追い詰められたフランスに有益な講和を結ぶことができた。その講和は、無謀な野心の立場から見ても、後になって多少の栄光を取り戻す機会を与えただろう。彼が各国政府に抱かせることのできた恐怖は、最後の瞬間まで、彼と交渉するという決意を、それらの政府に保たせた。この点は、多少詳しく述べる必要がある。私が十分に知っており、今述べたことの正確さを裏付ける事実を、ここに記しておきたい。まず、ピレネー国境へ目を移さなければならない。そこではフランス軍が、イギリス、スペイン、ポルトガルの連合軍に対し、不利な戦いを、あれほど勇敢に続けていた。そののち、シャンパーニュの平原へ戻ることにしよう。
サン・セバスティアンの要塞は、一八一三年八月末に陥落し、十月末には、パンプローナの要塞も降伏したばかりだった。スペインが、この方面では敵から解放されたのを見、ライプツィヒの戦いと、その後に生じた重要な結果を知ったウェリントン公は、フランス領へ戦火を移すことを決意した。ヨーロッパ全体の大義の勝利に、できる限り寄与するためだった。スペインの大義は、二次的なものにすぎなかった。
スールト元帥の指揮するフランス軍の激しい抵抗にもかかわらず、彼は十一月半ばごろ、ビダソア川を渡った。司令部は、初日、国境の小村サン=ペに置かれた。
渡河の時期「十一月半ばごろ」は、この箇所の原文どおりに訳した。
天候はひどく、雨が滝のように降ったため、軍は進軍を止めざるをえず、司令部もサン=ペにとどまった。偶然、この村には、機知と行動力に富み、ブルボン家と王党の大義に、心から身を捧げた主任司祭がいた。革命の初めにスペインへ亡命し、コンコルダートのあとになって初めて、フランスへ帰って来た人だった。ジュダ師といい、バスク人の間で非常に人気があり、スペイン人にもたいへん尊敬されていた。悪天候のため外出できなかったウェリントン公は、退屈と手持ち無沙汰から、宿を借りていたこの司祭との交際を求めるようになった。
話は、自然に、フランスの状態と、そこを支配する気分へ向かった。司祭は、ためらわずに断言した。人々は、終わりの見えない戦争に疲れ果てている。とりわけ徴兵には、ひどく怒っており、税の重さにも、大いに不満を訴えている。要するに、ちょうど病人が、少しは楽になれるのではないかと願いながら、寝床で体の向きを変えたがるように、変化を望んでいるのだ、と。「あの巨像の足は粘土でできています」と、ジュダ師は言った。「強く、断固として攻撃なさい。思っておられるよりも、ずっと容易に崩れ落ちるのが、ご覧になれましょう。」
これらの会話によって、ウェリントン公は、政府の首班から名誉ある確かな平和を得たいなら、フランスをすべての国境から同時に攻撃する必要がある、と確信した。そして、この計画を、自国政府に伝えた。
ブルボン家は、話題にならなかった。忘れ去られ、新しい世代には、まったく知られていないことが、よく分かっていたからである。それでも、王家の一人が、フランス領のどこかに突然現れた時、どのような効果が生じるかを試し、実情を確かめようとはした。そのため、一八一四年一月初め、アングレーム公[86]が、サン=ジャン=ド=リュズの司令部へ来ることになったのである。
アングレーム公は、総司令官にたいへん好意的に迎えられた。それは、ごく自然なことだった。また、サン=ジャンの市長と聖職者たちも歓迎した。しかし、民衆に与えたのは、好奇心以外、何の効果もなかった。日曜日、公が教会へ行く時、人々はその道筋へ駆け寄ったが、何の感情も示さず、賛成とも反対とも受け取れる態度を、少しも見せなかった。奉仕の申し出や、忠誠の表明があったとしても、それは、きわめて秘密にされ、外からは、その影響はまったく見えなかった。
こうして、すべてを時の経過に委ねていたところ、一月半ばごろ、陸軍省次官サー・ヘンリー・バンベリー[87]が、ロンドンからサン=ジャン=ド=リュズに上陸した。さまざまな重要な使命の中には、次のことをウェリントン公に知らせる役目もあった。全面的な講和を取り決めるため、連合諸国の君主がフランクフルトで提案した基礎条件を、イギリスは受諾したこと。そして、交渉中である現政府に対して、イギリスの保護のもと、民衆を反乱へと扇動することを、予防し、阻止する必要があることだった。イギリス政府は、きわめて名誉ある心情から、講和の際には、ナポレオン政府の報復にさらしたまま見捨てざるをえない人々を、蜂起させたくなかった。この点を、あまりに強く要求したため、司令部にいるアングレーム公は、まったく不適切な立場に置かれ、総司令官も、非常に困惑することとなった。そのため、初めはそうするつもりだったが、これから行う作戦への参加を、公に求めることはなくなった。そして二月初め、アドゥール川を渡ってフランス軍を攻撃し、バイヨンヌを包囲しようとした時、アングレーム公は、作戦の舞台から遠く離れたサン=ジャン=ド=リュズに、残された。
その時、ちょうどガーヴ諸河川を渡ろうとするころ、ボルドーから来た何人もの人々が、総司令官の前に現れた。ド・ラ・ロシュジャクラン氏[88]も、その一人だった。彼らは、ボルドー市民の好意的な気持ちを強調し、ブルボン家のために運動を起こす必要があると、強く主張した。サン=ジャン=ド=リュズで王族である公に会い、当時サン=パレの近くにいたウェリントン公とも、何度か会った。この運動を助け、鼓舞するよう働きかけたが、公は、自国政府から受けたばかりの訓令に従い、頑として拒んだ。
ガーヴ(gave)はピレネー地方の河川名に用いられる語。ここでは原文の複数形 les gaves を、諸河川として訳した。
二月二十七日、フランス軍はオルテズの戦いに敗れ、ボルドーに至るランド地方全体が、無防備になった。自国との、より容易で、より直接的で、より開かれた連絡路を望んでいたウェリントン公は、ダルハウジー卿の指揮下にある軍の第七師団を送り、ボルドーを軍事占領することに決めた。
ブルボン家のための運動を求める嘆願と催促は、かつてなく激しく繰り返された。さらに別の人々がボルドーから到着し、軍事占領を機に、運動を起こすよう迫った。
ウェリントン公は、それに反対すべきだとは考えなかった。しかし、ボルドーの人々に事情を明らかにし、フランス政府と連合諸国の政府との間の状況を知らせようとして、この作戦の実行を、ポルトガル軍の総元帥で、軍の副指揮官であるベレスフォード将軍[89]に命じた。そして、市へ入る前にも、占領後にも、次のことを宣言するよう、きわめて明確な訓令を与えた。「皇帝ナポレオンと講和交渉中であり、すでに講和が成立している可能性さえ高い。講和が公表されれば、連合軍は、この国から撤退し、誰に対しても援助を与えることはできない。したがって、企ての成否に伴う危険を冒すかどうかは、ボルドーの住民自身が決めることである。」半島の二つの政府にも、同じ趣旨で書き送った。ボルドーへ入る前日、ベレスフォード元帥は、今記した内容を、リンチ市長[90]に伝えた。市長は、ほかの数人とともに、ベレスフォード卿の司令部に同行していたアングレーム公を、迎えに来ていたのである。
この宣言は、計画に加わっていた者の大半を、落胆させた。世間に及ぼしかねない悪い影響を打ち消すため、リンチ氏は、思い切って布告の中で、運動はイギリス軍と合意のうえで行われる、と述べた。これに対し、ウェリントン公から、きわめて強硬な抗議が起こった。公は撤回を要求し、ついに実現させた。アングレーム公が説明のため、ウェリントン公の司令部へ派遣したラヴェ氏[91]が、さまざまに働きかけたにもかかわらず、である。その説明では納得せず、公は、リンチ氏の表現を撤回するよう要求し続け、実際に撤回させた。
三月の残りは、決定的な出来事もなく過ぎた。フランス軍は、イギリス軍の前から退き続け、ついに四月初め、ガロンヌ川を渡り、トゥールーズ市の前方、ラングドック運河沿いに、強固な陣地を取らざるをえなかった。
四月六日、イギリス軍司令部は、ガロンヌ川左岸のグルナードにあった。その日、ウェリントン公は、陸軍担当国務大臣バサースト卿[92]から、公的な書簡を受け取った。それは、次のように告げていた。「この手紙が届くころには、皇帝ナポレオンとの講和は成立しているはずである。しかし、シャティヨンにいるイギリスの全権委員から、講和の正式な通知を受けるまでは、引き続き軍事作戦を続行されたい。」
そのため、四月八日、ガロンヌ川を渡り、十日、トゥールーズの戦いが行われた。パリで起こっていることについては、双方とも、ほとんど何も知らなかった。ただ、連合軍が首都へ入ったという知らせだけは、トゥールーズ当局が、辻々に掲示していた。
戦闘後、フランス軍は、十一日から十二日にかけての夜、市から撤退した。ウェリントン公は、ナポレオンとの講和が調印されたと、固く信じていた。そのため、十二日の午前十時ごろ、市へ入るため馬に乗ろうとしたところへ、市内でブルボン家の復位が宣言され、ナポレオンの胸像が倒されたのち、カピトールに白旗が掲げられたと、正式に知らされると、不賛成を隠さなかった。市が、このような行動を起こす前に、自分に相談してほしかったとも述べた。そして、ボルドーの人々に言ったことを繰り返した。ブルボン家の色を掲げた国民衛兵に迎えられたのち、カピトールで下馬した時にも、トゥールーズの市当局を前に、同じことを述べた。公の言葉は、明瞭で、正確で、別の解釈を許さないものだった。
しかし、午後三時ごろ、イギリスのフレデリック・ポンソンビー大佐が、ボルドーから到着した。臨時政府が、パリでの出来事、すなわち皇帝の退位とブルボン家の復位を、両軍へ知らせるために派遣した、ド・サン=シモン氏とH・クック大佐に先行して来たのである。
そこで、臨時政府は、これほど重要な出来事を両軍へ知らせるのを遅らせ、トゥールーズの戦いによる流血を防がなかった、と非難された。しかし、この非難には根拠がなかった。臨時政府は、皇帝の退位とブルボン家の復位を両軍に知らせる役目を託した、ド・サン=シモン氏とH・クック大佐を、時を移さず出発させたからである。そして、彼らの公文書の日付を調べれば、次のことが、確かに分かる。オルレアンで足止めされ、皇后マリー=ルイーズのいたブロワへ連れて行かれた彼らを、当時アングレーム公のいたボルドーへ向かわせる代わりに、本来の目的地へ出発させていれば、あれほど多くの不幸な人々の命を救うのに、間に合って到着していたはずなのである。
最後の出来事の日付をよく調べ、ボルドー市の宣言から一か月後にも、ナポレオンとの講和交渉を続けていただけでなく、グルナードで受け取ったバサースト卿の手紙によれば、講和はすでに成立し、調印されたとさえ信じられていたことを見るならば、この宣言の重要性を評価することができる。パリの出来事が、問題をまったく別の形で決着させていなければ、帝国政府の転覆とブルボン家の復位に対して、この宣言が及ぼした影響は、いかに小さいものだったかが分かる。
これらすべての、争う余地のない事実から、イギリス政府は、最後の瞬間まで、シャティヨンでナポレオンとの講和が調印されていてもおかしくないと、信じ続けていたことが分かる。ついでに言えば、このことは、ルイ十八世がイギリスの摂政皇太子に帰していたという功績を、少しばかり減らす。王位に戻れたのは、神に次いで、皇太子のおかげだ、と述べた時のことである。
ここで、パリとシャンパーニュで起こった出来事へ戻ろう。連合諸国の君主たちの司令部へ、ド・ヴィトロル氏が赴いた使命について語るのは、ここが適当である。この使命の結果は、私が扱っている問題の核心を明らかにするのに役立つだろう。そして、その使命そのものについては、私が果たしたとされる役割のうち、何が事実なのかを、述べることができよう。
すでに述べたとおり、パリでは、皇帝に対する陰謀など、何も企てられていなかった。しかし、彼の無分別な行動と、講和を結ばないという決意が、どのような結果を招くかについて、非常に強い不安が、広く行き渡っていた。事情を間近に見ていた者には、避けられないと思われた日、すなわち連合諸国がナポレオンの権力を打ち倒した時、それらの国々がどのような方針を取るのかを知ることが、きわめて重要になっていた。その後も彼と交渉しようとするのか。フランスに別の政府を押し付けるのか。それとも、フランス自身に自由に選ばせることで、どのような結果になるか計り知れない無政府状態へ、放り込むのか。
私は、皇帝アレクサンドルが、バーデン大公妃ステファニーに語ったいくつかの言葉を、知らされていた。また、ウジェーヌ・ド・ボアルネについて、この君主がほのめかしたことや、ベルナドットの野望も、聞いていた。フーシェ氏は、ミュラの妻、王妃カロリーヌと、策謀を巡らせていた。さらに、イギリスの新聞で、アングレーム公がウェリントン卿の司令部にいること、アルトワ伯がフランス国境近くのスイスへ行ったことを、知っていた。そこには、あまりに多くの、互いに方向の異なる要素があった。ナポレオンに勝てば、結局は情勢を支配することになる連合諸国の、本当の意図を知らない限り、合理的な方針を定めることは、不可能だった。したがって、知るべきなのは、それらの国々の考えだった。そのためには、信頼できる誰かが、司令部へ赴かなければならなかった。ド・ヴィトロル男爵が、この微妙で困難な使命を申し出た。私は彼を知らなかったが、モリアン氏とドートリーヴ氏[93]とは、つながりがあった。優れた、気力のある人物で、心からの王党派ではあるが、それでも、フランスには王政とともに立憲的な制度を設ける必要があると認めている、と聞かされた。その趣旨で小冊子を書き、ブルボン家の復位後に出版した[94]、という記憶さえあるように思う。
ド・ヴィトロル氏に与えられた訓令は、次の二点だけに関するものだった。避けられないことだが、ナポレオンが戦いに敗れると仮定した場合、連合諸国の政府は、どの方針を取るのか。なお皇帝と交渉するのか。それとも、フランスに別の政体を選ぶ自由を残すのか。
ド・ヴィトロル氏は、連合軍の司令部へ行くため、かなり長い迂回路を取らなければならず、到着したのは、一八一四年三月十日になってからだった。まさにその日が、連合諸国の最後通牒を受け入れるか否かについて、ナポレオンが最終回答を出すよう定められた日だった。その回答が、引き延ばしで、不十分だと判断されたため、全権委員たちは、交渉を打ち切ろうとした[95]。しかし、コランクール氏が、個人的な信用によって、三月十五日までの新たな猶予を得た。この点を述べるのは、ド・ヴィトロル氏の使命が、連合諸国政府の決定に、何の影響も及ぼさなかったこと[96]を、はっきり確認するためである。それらの政府は、一八一四年三月十五日まで、皇帝と交渉する意志を持ち続け、交渉の成立を妨げたのは、皇帝ただ一人の頑固さだった。三月十五日にも、なお一七八九年当時のフランスの国境が、彼に提示されていた。そして、一八一四年三月一日付のショーモン条約[97]は、その時点で、連合諸国がフランスの君主として、ナポレオン以外の誰をも考えていなかったことを、反駁しえないほど明らかに示している。
本文の国境年は一七八九年。原注95では一七九〇年とされているため、それぞれの原文の年を保持した。
ド・ヴィトロル氏は、まずトロワで、ド・ネッセルローデ氏とド・シュタディオン氏[98]に会った。パリと、まだ侵入を受けていないフランス各地の人心の状態を説明した。そして、名を挙げた何人かの人々が、変化を望み、皇帝の暴力と気性に対する法的な保障を求めていること、フランスが再び無政府状態へ落ち込むのを防ぐため、方針を決めることが急務となっていることを、伝えた。
ド・シュタディオン氏は、彼をド・メッテルニヒ氏のもとへ連れて行った。話を聞いたのち、メッテルニヒ氏は、次のように答えた。
「列強の考えていることを、すべて率直にお知らせしたい。列強は、ナポレオンを、もはや交渉し続けることのできない人物だと認めている。敗北を喫した日には、何もかも受け入れるように見えるが、わずかな成功を収めると、受け入れがたいほど過大な要求へと戻るからである。したがって、フランスに別の君主を立て、大陸において、オーストリア、ロシア、フランスが同等の力を持つ国となるよう、事態を整えたい。プロイセンは、その三国それぞれの半分の力を持つ国家にとどまるべきである。フランスに立てる新たな君主については、ブルボン家の王族たち自身の人物を考えると、同家を候補とすることはできない。」
ド・ヴィトロル氏によれば、これが、ド・メッテルニヒ氏の述べた意見だった。
ブルボン家に献身し、この返答には、さほど満足しなかったド・ヴィトロル氏は、ド・ネッセルローデ氏に、皇帝アレクサンドルとの会見を取り計らうよう頼み、実現させた。
皇帝アレクサンドルは、大臣たちとほぼ同じことを繰り返した。しかし、フランスの君主を選ぶ問題については、こう付け加えた。初めはベルナドットを、次いでウジェーヌ・ド・ボアルネを立てようと考えたが、さまざまな理由で、それはできない。いずれにせよ、何よりもフランス人自身の希望を聞く意向であり、たとえ共和政を樹立したいと望んだとしても、反対しない、と。ブルボン家を考慮することが不可能な理由について、皇帝は、大臣たちよりも、さらに詳しく述べた。
ド・ヴィトロル氏は、オーストリア皇帝にも会った。皇帝は、自分はディジョンへ行く、ロシア皇帝とプロイセン王が、パリで状況に応じた方針を取るだろう、自分は後から行く、と語った。
ド・ヴィトロル氏は、パリへ戻る代わりに、スイスからフランスへ入り、すでにナンシーにいたアルトワ伯のもとへ向かった。三月二十三日、そこで王族である伯に会った。パリには消息を知らせず、連合軍の入城後になって初めて到着した。その後、再びナンシーのアルトワ伯のもとへ戻ったが、その時には、パリへ来るよう伯を招く役目を、臨時政府から託されていた[99]。
この間ずっと、皇帝ナポレオンは、何をしていたのか。
三月二十日、アルシの前方で大軍の攻撃を受け、それが皇帝アレクサンドル自ら指揮する連合軍主力だと確かめたのち、皇帝ナポレオンは、オーブ川右岸へ渡った。そして、ソムピュイとオルコントを経てサン=ディジエへ向かい、三月二十三日に到着した。サン=ディジエから、敵の背後へ進むことに決め、ドゥルヴァンで一夜を明かした。進軍を続けようとした時、非常に大きな兵力、一個軍とさえ言われる部隊が、その後衛を追っているという報告を受けた。報告者はマクドナル元帥だったと思う。この報告を受け、皇帝は進軍を中止し、二十三日はドゥルヴァンにとどまった。皇帝が疑った情報について、マクドナル元帥が、自分の送った知らせは正確だと主張したので、皇帝は全軍を率い、サン=ディジエへ引き返すことにした。しかし、話にあった軍は見つからず、ヴィンツィンゲローデ将軍[100]の指揮する騎兵部隊がいただけだった。サン=ディジエへ到着したこの部隊は、分かれて、バール、ジョアンヴィル、ヴィトリという、三つの異なる方向へ退いた。最も大きな部分は、最後の道を取った。
この段落では、サン=ディジエ到着とドゥルヴァン滞在の双方に「二十三日」と記される。日付は原文どおりとし、行軍日程を推定して修正していない。
皇帝ナポレオンは、追撃するかどうかを決めるため、一種の会議を開いた。しかし、ヴィトリで強い抵抗を受け、マルヌ川の橋も切断されているかもしれない、と懸念されたため、再びドゥルヴァンへ戻ることになった。サン=ディジエで一日とどまったのち、二十八日に到着した。敵がパリへ向かっていることを、皇帝が確信し、大急ぎでそちらへ向かうと決めたのは、ドゥルヴァンでだった。二十九日にトロワ、三十日にフロマントー、三十一日にフォンテーヌブローへ着いた。
皇帝は、連合軍の背後へ回り、それによって退却を強いるという計画を、皇后マリー=ルイーズに知らせていた。この手紙は、アルシから書かれたものだった。それを運ぶ急使が同行していた輸送隊が、敵に捕らえられ、敵は皇帝の動きを知った。それが、おそらく、連合軍のパリ進軍を決定づけたのである。
今述べてきたすべての事実は、語る順序をあまり気にかけなかったとはいえ、次の三点を、このうえなく明瞭に、かつ完全に立証していると、私には思われる。
第一に、一八一四年三月十五日まで、連合諸国は、ナポレオンと交渉することを、固く決意していた。したがって、彼の政府の存続を基礎とする条約を、彼と結ぶつもりだった。
第二に、頑固さと、自らを慰めていたむなしい希望のために、自分自身の破滅を招いたのは、ナポレオンただ一人だった。そしてフランスを、至る所で勝利し、凱歌を上げる敵と、自らの存立と救済について交渉しなければならない不幸に、さらしたのである。
第三に、最後に、連合諸国の君主たちは、パリへ入る時にも、フランスに押し付ける政府、あるいはフランスに選ばせる政府について、まだ何も決めていなかった。
私の定めた目的だけのために、簡潔に振り返っている事実の、足早な叙述を続ける前に、王政復古の時期、なぜ当時の方針を採ったのか、その理由を説明しておきたい。それが、その時に私が及ぼしえた影響についての、最もよい説明になるだろう。また、私の目には、それを正当化する、最もよい理由でもある。
帝国の末期、しばしば自分に、次の問いを投げかけていたことは、すでに述べた。ナポレオン失脚という破局のあと、フランスは、どのような政体を採るべきなのか。
フランスを深淵へ突き落とした男の一族を残そうと考えることは、その不幸に屈辱まで付け加え、不幸の杯を満たそうとすることだった。しかも、皇后マリー=ルイーズの摂政就任を、不快に思わずに眺められたかもしれない唯一の国、オーストリアは、連合諸国の会議では、弱い発言力しか持たなかった。ヨーロッパの権利を守り返そうと立ち上がった大国の、最後に加わったのである。そして、ヨーロッパが前代未聞の努力を重ねたのは、フランスの王座をウィーン宮廷の自由にさせるためでは、断じてなかった。
ロシアは、スウェーデンの厄介な隣人を厄介払いするため、その計画の中で、ベルナドットを考えたかもしれない。しかし、ベルナドットは、革命の新たな一局面にすぎなかった。ウジェーヌ・ド・ボアルネは、軍によって擁立されえたかもしれないが、その軍は敗れていた。
オルレアン公を支持していたのは、ごく少数の個人だけだった。ある人々にとっては、彼の父親には、「平等」という言葉を汚した罪があった。ほかの人々にとっては、オルレアン公は、ボナパルトより家柄のよい簒奪者にすぎなかっただろう。
それでも、崩れつつある政府に、速やかに代えることのできる政府を準備する必要は、刻一刻と切迫していた。一日のためらいだけでも、不幸なわが国をひそかに脅かしていた、分割と隷属の構想を、一挙に噴き出させかねなかった。巡らせるべき策謀などなかった。どんな策謀も、十分ではなかっただろう。必要だったのは、フランスが望むものと、ヨーロッパが望むべきものを、まさしく見いだすことだった。
侵略の恐怖のただ中で、フランスは、自由であり、尊重されることを望んでいた。それは、正統性が定める継承順序に従って、ブルボン家を望むことだった。フランスのただ中にあって、なお不安を抱いていたヨーロッパは、フランスが武装を解き、旧来の国境へ戻り、平和を絶えず監視する必要がなくなることを、望んでいた。そのための保障を求めていた。それもまた、ブルボン家を望むことだった。
こうして、フランスとヨーロッパの必要とするものを認めさえすれば、すべてが、ブルボン家の復位を容易にするために働くはずだった。和解は、率直なものとなりえたからである。
軍事的栄光にあれほど敏感なフランス国民の目から、その旗を打ちのめしたばかりの敗北の痕跡を、覆い隠すことができるのは、ブルボン家だけだった。
国土を覆う外国軍を、ヨーロッパに危険を及ぼさず、一挙に退去させることができるのは、ブルボン家だけだった。
政治と自然が示す、適切な規模を、フランスに高潔な形で取り戻させることができるのは、ブルボン家だけだった。ブルボン家とともに、フランスは、巨大であることをやめ、再び偉大になるのだった。征服地の重荷から解放されたフランスを、諸国の社会秩序の中で占めるべき高い地位に、再び置くことができるのは、ブルボン家だけだった。二十年間の行き過ぎによって、フランスに対して積み上げられた復讐の念を、そらすことができるのも、同家だけだった。
自由な憲法に基づく王座へ至る、あらゆる道が、ブルボン家に開かれていた。あらゆる種類の仕組みを試み、最も恣意的なものまで耐え忍んだフランスは、立憲君主制の中にしか、安らぎを見いだせなかった。ブルボン家による君主制は、最も革新的な考えを持つ人々に対してさえ、完全な正統性を示した。家系が与える正統性と、制度が与える正統性を、結び付けていたからである。そして、それこそ、フランスが望むべきものだった。
奇妙なことに、共通の危険が終わりに近づくと、人々が武器を向けたのは、簒奪の原理に対してではなく、長く続いた幸運によって、それを利用してきた人物に対してだけだった。まるで、危険は、彼一人からしか生じなかったかのように。
したがって、フランスで勝利した簒奪は、ヨーロッパに、与えるべき印象を十分には与えていなかった。人々が驚かされたのは、原因よりも結果だった。まるで、結果が原因から独立しているかのように。とりわけフランスも、それに劣らず重大な誤りに陥っていた。ナポレオンのもとで、国が強く、平穏で、一種の繁栄を享受しているのを見て、国を導く政府が、どのような権利に基づいているかは、国民にとって、さほど重要ではないと、思い込んでいた。もう少し思慮があれば、その強さは不確かなものにすぎず、その平穏はいかなる堅固な基盤にも支えられておらず、部分的には他国の荒廃から得られた、その繁栄には、持続の要素が何もないと、判断しただろう。
実際、最初の敗北で崩れるような強さが、何になるのか。スペインは、戦争を戦わねばならないと知る前から、勇敢な大軍に侵入され、占領された。軍隊も資金もなく、無能な王のもと、卑劣な寵臣による長く有害な支配で、衰え、弱められていた。さらには、裏切りによって、自らの政府まで奪われていた。それでもスペインは、巨大な力に対し、六年間戦い続け、戦闘から勝者として出て来た。これに対してフランスは、ナポレオンのもとで、一見、権力と力の絶頂に達していながら、侵入を受けて三か月後には、屈した。そして、二十五年もの間亡命し、忘れ去られ、ほとんど知られていなかった国王が、神秘的な力を返し、散り散りになろうとしていた残骸をまとめるために戻って来なかったなら、今日、独立した国々の一覧から、消されていたかもしれない。
確かに、ナポレオンのもとで、フランスは平穏だった。しかし、その平穏は、何もかも押さえつける鉄の手が、少しでも動くものを、すべて押しつぶすと脅していたためであり、その手は、一瞬たりとも、危険なしに力を緩めることができなかった。そもそも、その平穏を維持するために、全精力を注いでも、なお余力がなかった人物の死後に、平穏だけが生き残ると、どうして信じられるだろうか。強者の権利によってフランスの主人となったのなら、彼のあとは、その将軍たちが、同じ権原でフランスを所有すると、主張できたのではないか。彼の示した前例は、権力を奪うには、才覚か幸運さえあればよいと教えていた。これほど輝かしい見通しを前に、どれほど多くの者が、運を試し、賭けに出たくなったことだろう。フランスには、軍の数だけ皇帝が生まれたかもしれない。そして、自らの手で引き裂かれ、内戦の激動の中で滅びただろう。
うわべだけで、表面的なものだったその繁栄は、たとえ、きわめて深く根を下ろしていたとしても、力や安らぎと同じく、一人の人間の寿命を限りとしていたはずだ。あまりにも短く、どの日にでも終わりを迎えうる、その寿命を。
したがって、反乱や征服によって、簒奪者のくびきの下へ落とされた国々にとっても、近隣諸国にとっても、簒奪ほど有害なものはない。前者に示すのは、騒乱、動揺、国内の激変が、際限なく続く未来だけである。後者をも、やがて襲い、同じように転覆させると、絶えず脅かす。すべての国々にとって、それは、破壊と死の道具である。
したがって、ヨーロッパが第一に必要とし、最大の利益とすべきことは、簒奪の原理を追放し、正統性の原則を復活させることだった。それこそ、ヨーロッパを打ちのめした、あらゆる災厄を癒やす唯一の薬であり、その再来を防ぐのに適した、唯一のものだった。
見てのとおり、この原則は、思慮のない者たちが想像し、革命を煽る者たちが信じさせようとするように、単に国王の権力と、その身の安全を守る手段ではない。それは何よりも、諸国民の安寧と幸福に必要な要素であり、その力と存続の、最も堅固な、むしろ唯一の保障である。国王の、より正確に言えば政府の正統性は、諸国民を守るものである。それゆえに、神聖なのである。
私は、国王だけの正統性ではなく、どのような形態であれ、政府一般の正統性について語っている。正統性は、そのすべてに当てはまるものとして、理解されるべきだからである。正統な政府とは、君主制であれ共和制であれ、世襲であれ選挙であれ、貴族政であれ民主政であれ、その存在、形態、活動の仕方が、長い年月の積み重ねによって、確立され、承認されている政府のことである。数世紀にわたる時効によって、と言いたいくらいだ。主権の正統性は、私人の所有権の正統性と同じく、古くからの占有状態から生じる。
「時効」は原文 prescription の法的な含意を保つための訳。ここでは、長期の継続が権利を正当化するという議論で用いられている。
しかし、政府の種類によって、正統性の原則に違反することは、ある点では、異なる結果を持ちうる。世襲君主制では、この権利は、定められた継承順序に従い、統治する王家の構成員の身に、切り離せない形で結び付いている。その継承順序によって、本人またはその子孫が王位に就きえた、すべての構成員が死なない限り、この権利が王家にとって失われることはない。だからこそ、マキアヴェリは『君主論』で、「正統に統治していた王家のすべての構成員を殺さない限り、簒奪者は、自らの権力を堅固に確立することができない」と言っている。革命が、すべてのブルボン家の者の血を求めたのも、そのためである。しかし、主権が、集合的な法人格の中にしか存在しない共和政では、簒奪が、その法人格を成り立たせていた制度を破壊し、それ自体を破壊した瞬間、政治体は解体され、国家は死に至る。権利が帰属する主体が、もはや存在しないから、正統な権利も、もはや存在しないのである。
こうして、共和政府の転覆も、王位の簒奪に劣らず、正統性の原則に違反しているとはいえ、この原則は、前者の復活を要求しない。一方では、王位を、それが帰属する者へ返すことを要求する。ここに、ほかのいかなる政体よりも、国家の保存と永続を保障する、君主政の優秀さが、はっきりと現れている。
これらの考えと省察によって、私は、次の決意を固めたのである。皇帝ナポレオンが、自らをもはや受け入れられない存在にし、しかも、最後に取られる方針に、私が何らかの影響を及ぼせるなら、ブルボン家の復位を実現する方針を、優勢にしよう、と。
こうした考えを抱いていたのが、私一人だったと主張するつもりはない。私と同じ考えを持っていた、有力な証人を挙げることさえできる。それは、ナポレオン自身である。先ほど述べた、ラ・ベナルディエール氏との会談で、連合軍がシャンパーニュへ入ったと知った日、彼はこう言った。「奴らがパリまで来れば、君たちにブルボン家を連れて来るだろう。そうなれば、決着だ。」「しかし」とラ・ベナルディエールは答えた。「まだ、そこには来ておりません。」「ああ」と彼は言い返した。「それを防ぐのは、私の仕事だ。防げると、十分に望んでいる。」別の日には、フランスの旧来の国境を基礎として講和を結ぶことが、自分には不可能だと、長く語った。「そんな講和は、ブルボン家にしか結べない」と言っていた。そのうえで、それよりも退位する、嫌がらずに私人の生活へ戻る、必要なものは、ごくわずかしかない、一日百スーもあれば十分だ、自分の唯一の情熱は、フランス人を地上で最も偉大な国民にすることだった、その希望を捨てなければならない以上、ほかのことは、自分には何でもない、と述べた。そして、次の言葉で締めくくった。「誰も戦おうとしないのなら、私一人で戦争はできない。国民が、旧来の国境を基礎とする平和を望むのなら、こう言ってやる。君たちを統治する者を、探すがよい。私は、君たちには偉大すぎるのだ!」
こうして、ブルボン家の帰還が必要だと認めざるをえなくなると、彼は、自分が国にもたらした不幸と、己の虚栄心との折り合いをつけていた。
しかし、事実へ戻ろう。
一八一四年の王政復古の歴史を、物語るつもりはない。それは、いつの日か、私よりも巧みな人々によって書かれるだろう。ここでは、当時の主要な出来事のいくつかを、振り返るだけで十分である。
ナポレオンが、連合軍主力の背後を駆け回っている間、連合軍はパリへ進み、三月三十日に到着した。三十日の一日中続いた激しい戦闘を、マルモン、モルティエ両元帥は、勇敢に戦い抜いたが、三十日から三十一日にかけての夜、降伏せざるをえなかった。皇后とローマ王を伴い、ブロワへ退いていたジョゼフ・ボナパルトから、その権限を与えられていたとおりである[101]。
皇帝アレクサンドル、プロイセン王、シュヴァルツェンベルク公は、三月三十一日、軍隊を率いてパリへ入った。シャンゼリゼで軍を行進させたのち、皇帝アレクサンドルは、サン=フロランタン通りの私の邸宅[102]へ、直接来た。そこには、朝からド・ネッセルローデ氏が、先に来ていた。皇帝アレクサンドルは、初め、エリゼ宮に泊まるはずだった。しかし、どのような経路でかは知らないが、そこでは安全でないとの知らせを受け、私の家にとどまるほうを選んだ[103]。
皇帝アレクサンドルと私の間で、最初に扱う問題は、当然、フランスのために採用する政府の選択以外には、ありえなかった。私は、先に述べた理由を強調し、ためらわずに、こう言い切った。ルイ十二世の原則と美徳を備えた昔の君主政を夢見る者たちも、自由な憲法を持つ新たな君主政を望む者たちも、ともにブルボン家を呼び戻している、と。後者の人々は、そのことを十分に証明した。国民の名において語りうる唯一の機関が表明した希望が、フランス全土に告げられ、すべての心に響き渡ったからである。
ロシア皇帝が私に発した問いの一つに、私は、決定的な答えを返した。「フランスがブルボン家を望んでいると、どうすれば分かるのか」と皇帝は言った。「陛下、私が責任をもって元老院に採択させる決議によってです。その効果は、直ちに御覧になれましょう。」「確かなのか。」「私が保証いたします、陛下。」
私は四月二日に元老院を招集し、夕方七時、集まった全員に一人ずつ署名させた、あの記念すべき決議を、皇帝アレクサンドルのもとへ持参した。ナポレオンの廃位と、憲法上の保障を伴うブルボン家の復位を宣言した決議である[104]。ブルボン家を求める元老院議員の中に、ルイ十六世の死刑に賛成票を投じた者たちの名を、いくつも見つけた時、皇帝アレクサンドルは、唖然とした。これは、述べておかなければならない。
元老院の決議が出された以上、ブルボン家は、ほとんど平穏のうちに王座に就いたと考えることができた。ただし、ルイ十四世の王座ではない。真の君主政的、立憲的な基盤の上に、堅固に築かれた王座だった。その基盤は、王座を揺るぎないものにするだけでなく、攻撃することさえできないものにするはずだった。
今書いたことは、すべて、多くの人々を不快にさせるだろうと、承知している。ブルボン家に忠実に仕えた多数の人々が、復位の実現のために行ったと自慢している、小さな努力の数々の重要性を、私は打ち消してしまうと思うからである。しかし、私は自分の意見を述べる。その意見とは、他の人々も、私も同じく、この王政復古を成し遂げた者など、誰もいなかった、ということである。ただ私は、長年かけて信頼を育んできたロシア皇帝に、こう言うことができた。「陛下も、連合諸国も、多少は影響力があると陛下がお考えくださる私も、誰一人、フランスに国王を与えることはできません。フランスは征服されました。陛下の武力によってです。それでも、今日でさえ、陛下にその力はありません。誰であれ、押し付けられた国王は、策謀か武力の結果であり、そのどちらも、十分ではないでしょう。長続きし、異議なく受け入れられるものを打ち立てるには、一つの原則に従って行動しなければなりません。原則があれば、われわれは強く、抵抗に遭うことはありません。いずれにせよ、反対は、短い間に消えるでしょう。そして、原則は一つしかありません。ルイ十八世が、その原則です。フランスの正統な国王なのです。」
当時の私には、保ってきた政治的な関係と、新たに築いた関係によって、外国の君主たちに、何ができるかを伝えられるという利点があった。また、長年、政務に慣れ親しんできたため、祖国の必要と希望を見分け、よく知ることもできた。ブルボン家の王座を復活させることで、偉大な国民が享受すべき賢明な自由を、フランスに永久に保障する、その主要な手段となる幸福に、もし私が恵まれていたなら、私の政治生活の終わりは、あまりにも美しいものとなるだろう。
言い落としたが、四月一日の会議で、元老院は、私の提案に基づき、臨時政府の設置を決議していた[105]。
二日の会議で、元老院が廃位を宣言すると、ナポレオンは、これから自分に与えられる地位について、連合諸国の君主たちと交渉する以外、もはや手段がないことを、よく理解した。コランクール氏と、二人の元帥[106]が、この交渉に当たるため、パリへ来た。彼らは、この辛い使命を、きわめて立派に果たした。数日前、四月二日その日にも、コランクール氏は、ナポレオンの権利を擁護するため、すでにフォンテーヌブローからパリへ来ていた。その日、皇帝の廃位を宣言させるため、私が元老院へ出発しようとした時、コランクール氏は、私にこう言った。私は、その直前まで、皇帝アレクサンドル、ド・ネッセルローデ氏、そのほか数人の前で、彼と長く議論していた。彼は、ナポレオンの利益を、熱意と勇気をもって守っていた。「それでは、あなたが皇帝の廃位を宣言させるため元老院へ行くなら、私は私で、そこで皇帝を擁護するために行きましょう。」私は、冗談めかして答えた。「知らせてくださって、ありがたい。私が戻るまで、あなたをこの邸宅に引き留めておくよう、命じることにします。」「本気でそのつもりなら」と、彼も同じ調子で答えた。「あなたに前もって知らせるはずはないと、お分かりでしょう。あなたがた全員が私に反対している以上、皇帝を救う方法がないことは、私にも、あまりによく分かっています。」
一方の連合諸国および臨時政府と、他方のナポレオンの全権委員との交渉の結果、取り決めが成立した。それによって、皇帝とその家族は寛大に扱われ、文面に用いられた言葉では、その尊厳さえも尊重されていた。連合諸国の宣言は、次のとおりだった。
「ヨーロッパの安寧を確保する必要がなくなった瞬間に、連合諸国の側の一切の敵意も終わること、また、皇帝ナポレオンが、その世紀の歴史に占める地位を、忘れることはできず、忘れる意志もないことを、皇帝ナポレオンに示すため、連合諸国は、本人およびその家族のために、エルバ島[107]の完全な所有権を与える。年間六百万の収入を保障し、そのうち三百万を本人と皇后マリー=ルイーズに、三百万を家族の残りの者に与える。すなわち、母、兄弟のジョゼフ、ルイ、ジェローム、姉妹のエリザとポーリーヌ、そして、夫との関係上、姉妹と見なす王妃オルタンスである。」
この引用での金額には、原文に通貨名がない。後の配分一覧で原文がフランと記す箇所には、その表記を残した。
その後、皇后マリー=ルイーズが皇帝ナポレオンに同行しなかったため、この配分は変更され、次のようになった。
皇帝に二百万、母に三十万フラン、ジョゼフとその妻に五十万フラン、ルイに二十万フラン、オルタンスとその子供たちに四十万フラン、ジェロームとその妻に五十万フラン、エリザに三十万フラン、ポーリーヌに三十万フラン。
臨時政府も、次の宣言によって、この取り決めに同意した。
「連合諸国は、皇帝ナポレオン陛下と条約を締結した。この条約には、その履行にフランス政府が関与すべき規定が含まれており、この点について、相互に説明が行われた。フランス臨時政府は、これまで起こった出来事に、節度、高潔さ、寛大さという特別な性格を与えるために採られる、すべての措置に有効に協力することを目的とし、必要な範囲で、この条約に同意することを宣言するのを、自らの義務とする。そして、連合諸大国の全権委員諸氏と、皇帝ナポレオン陛下の全権委員との間で、本日署名された、この条約に含まれる諸条項の履行を、フランスに関係する一切の事項について、保障する。」
私は、四月一日の元老院決議によって、数日間、フランスの政務を取り仕切った臨時政府の首班に置かれる光栄を得た。この政府のすべての行為について、ここで語り始めるつもりはない。それらは、至る所で印刷されている。そのいくつかには、ド・フォンターヌ氏の華麗な筆が認められる。そして、この人の名を挙げた以上、当時、ダールベルク公とジョクール侯爵[108]が、フランスに尽くした功績を思い起こせることを、うれしく思う。あの時、祖国を救うため、あれほど高潔に身を捧げた勇気ある人々を、忘れようとしているかに見える気配を目にすると、そのことは、私にとって、ほとんど義務でもある。
一時間で、ナポレオンの帝国は消え、フランス王国が存在していた。そして、この小さな臨時政府にとって、すべては、すでに容易だった。どこにも障害はなかった。警察の必要も、金の必要も、一瞬たりとも感じられなかった。それらがなくても、驚くほどうまくいった。十七日間続いた臨時政府と、国王のパリ入城に要した全費用は、その年の予算に、二十万フランと計上されている。確かに、誰もがわれわれを助けてくれた。当時、私がナポレオン軍の将校たちに命じ、フランスの端から端まで走らせた、その旅費は、今でも未払いだと確信している。
一八一四年四月十二日、私がド・ヴィトロル氏をナンシーへ派遣して迎えたアルトワ伯は、パリへ入り、王国総代の称号を取った。私に対する好意は、一七八九年七月十七日の夜、別れた時と同じだった。あの時、彼は亡命へ向かい、私は、ついには臨時政府の首班にまで導くこととなる渦中へ、身を投じたのだった。何と奇妙な運命であろうか。
職務上の義務によってパリにとどまらねばならず、ルイ十八世を迎えに行くことはできなかった。初めて会ったのは、コンピエーニュでだった。国王は執務室にいて、ド・デュラ氏[109]が、私をそこへ案内した。国王は、私を見ると手を差し伸べ、このうえなく親切に、愛情さえ込めて、こう言った。「会えてうれしい。われわれの家は、同じ時代に始まる。私の祖先のほうが、より巧みだった。もし君の祖先が、私の祖先よりも巧みだったなら、今日、君が私に、椅子を取って、そばへ来て、われわれの用事を話そう、と言っているだろう。今日は、私が君に言うのだ。座って、話をしよう。」
その後間もなく、叔父であるランス大司教に、わが家全体に対して好意的な、国王のこの言葉を伝え、喜ばせた。同じ晩、コンピエーニュにいたロシア皇帝にも、繰り返して話した。皇帝は、強い関心を示し、国王に満足したか、と私に尋ねた。これは、彼が用いた言葉のとおりである。この会見の冒頭について、ほかの人々に話すという、見栄を張る弱さは、持たずに済んだ。
私は国王に、これから目にすることになる情勢について、詳しく報告した。この最初の会話は、非常に長く続いた。
国王は、パリへ到着する前に、自分の意向を告げる布告を出すことに決め、自ら起草した。サン=トゥアンの日付を持つ布告である。国王がサン=トゥアンで過ごした一夜の間に、その周囲で行われた策謀によって、この最初の宣言に、私の賛成しない変更が、いくつか加えられた。パリ入城の前日、元老院を御前へ案内した時に、私が国王に述べた演説を見れば、私の意見がどのようなものであり、国王にどのような意見を持ってもらおうとしていたかが、ここで何を語るよりも、よく分かるだろう。次が、その演説である。
「陛下、
陛下の御帰還は、フランスに、その本来の政府と、フランスおよびヨーロッパの安寧に必要な、すべての保障を取り戻します。
この恩恵は、ただ陛下御自身によってのみ、もたらされえたのだと、すべての心が感じています。だからこそ、すべての心が、陛下のお通りになる道へと駆け寄るのです。偽ることのできない喜びがあります。今、その歓呼をお聞きになる喜びは、真に国民全体の喜びなのです。
元老院は、この心を打つ光景に、深く感動し、自らの思いを民衆の思いと一つにすることを喜びながら、民衆と同じく、敬意と愛情の証を、王座の足もとへ捧げに参りました。
陛下、数知れぬ災厄が、御先祖の王国を荒廃させました。われわれの栄光は、軍営に逃れ、軍隊がフランスの名誉を救いました。王座へお戻りになる陛下が継ぐのは、二十年にわたる荒廃と不幸です。この遺産は、並の徳の持ち主であれば、おじけづかせたでしょう。これほど大きな混乱を修復するには、偉大な勇気による献身が必要です。祖国の傷を癒やすには、奇跡が求められます。しかし、われわれは陛下の子供であり、その奇跡は、陛下の父としてのお心配りにこそ、託されているのです。
状況が困難であればあるほど、王権は、強力で、尊ばれるものでなければなりません。古い記憶のあらゆる輝きによって、人々の想像力に語りかけるとともに、近代の理性から、最も賢明な政治理論を借り受けることで、その理性のすべての願いを、味方につけるすべを知るでしょう。
立憲的な憲章は、すべての利益を王座の利益へと結び付け、最高の意志を、すべての意志の協力によって強めるでしょう。
陛下、このような制度が、隣国で十分に試され、法を愛し、国民の父である君主に対して、障壁ではなく支えを与えることを、陛下は、われわれ以上によく御存じです。
そうです、陛下。国民と元老院は、陛下の高い見識と寛大なお心を、深く信頼し、国王が強力であるために、フランスが自由であることを、陛下とともに望んでおります。」
私は、ルイ十八世の入城の準備をするため、パリへ戻った。入城は、たいへん華やかなものとなった。至る所で、フランスが、国王のうちに、平和の保障、守られた栄光、取り戻された自由を見ていることが示された。どの顔にも、感謝があった。アングレーム公爵夫人が、ノートルダム大聖堂で、身を投げ出すようにひざまずいた時、その姿は、誰の目にも崇高に映った。すべての目が、涙で満たされていた。
国王は、最初の二日間の午前に、国家のほとんどすべての機関を謁見させた。各機関が述べた挨拶は、非常に優れており、国王の返答も、適切で、愛情に満ちていた。外国の君主たちは、あまり姿を見せないという、細やかな配慮をした。
テュイルリーの中庭も、公共の広場も、劇場も、人でいっぱいだった。どこにも群衆があり、どこにも秩序があり、兵士は一人もいなかった。
やがて、予告されていた憲章を起草しなければならなくなった。すると、策謀と無能が、国王の周囲に押し寄せ、この重要な起草を握ってしまった。私は、何の関与もしなかった。国王は、それを任された委員会の委員の一人にさえ、私を指名しなかった。その栄誉はすべて、モンテスキュー師[110]、ダンブレ氏[111]、フェラン氏[112]、ド・セモンヴィル氏に、譲らなければならない。主要な起草者の名だけを挙げた。私自身は、両院開会の前日、閣議で大法官ダンブレ氏が読み上げるまで、憲章を知らなかった。また、貴族院を構成する人々の名も、国王臨席の会議で、大法官が発表するまで、知らなかった。
国王は、私を外務大臣に任じていた。その資格で、私は講和条約に取り組まなければならなかった。この困難な仕事について述べるのは、ここが適当である。この仕事に関して、私は、あれほど攻撃されたが、それを弁護するのは容易だろう。
四月二十三日には、まだ国王が到着する前に、すでに連合諸国の全権委員と、予備協定を交渉し、署名しなければならなかった。
当時行われた取り決めを、公平に判断するためには、フランスがどのような状態にあり、ナポレオンの過ちによって、どこまで落とされていたかを、よく思い描かなければならない。人も、金も、資源も尽き果て、ピレネー、アルプス、ライン、ベルギーと、すべての国境から同時に、無数の軍隊の侵入を受けていた。それらは、一般に、傭兵ではなく、憎しみと復讐の念に燃える、国民全体から成っていた。二十年来、それらの国民は、自分たちの領土がフランス軍に占領され、荒らされるのを見てきた。あらゆる形で金を絞り取られ、政府は侮辱され、このうえない軽蔑をもって扱われた。報復すべき侮辱で、受けていない種類のものはなかった、と言ってよい。憎しみの激情を満たそうと、彼らが決意していたなら、フランスには、それに抗する、どんな手段があっただろうか。国中に散らばり、互いの結束もなく、ナポレオンの鉄の手にさえ、常に従うとは限らなかった、競い合う指揮官たちに率いられた、軍の最後の残骸では、どうにもならなかった。確かに、立派な大規模のフランス軍は、まだ存在していた。しかし、それは、ヴィスワ川の岸からセーヌ川の岸まで、点々と連なる五十の要塞に、分散していた。また、敵に捕らえられた大勢の捕虜の中にも、存在していた。しかし、要塞は厳重に封鎖され、抵抗できる日数は限られていた。そして、その守備隊も、捕虜も、条約によってしか、フランスへ取り戻すことができなかった。
このような状況に支配されながら、フランスの全権委員は、しかもフランスの首都そのものにおいて、連合諸国の全権委員と交渉しなければならなかった。私が得た条件は、どれほど痛ましく、屈辱的だったとしても[113]、今、誇りをもって思い起こす権利が、十分にあると、私は思う。
次に、一八一四年四月二十三日の予備協定の文言を掲げる(『モニトゥール』一八一四年、第百十四号)。
フランス王子、国王の弟、フランス王国総代たる王弟殿下と、連合諸大国、すなわちイギリス、ロシア、オーストリア、プロイセンのそれぞれとの間の協定。一八一四年四月二十三日、パリで署名され、同日、王弟殿下により批准された。
「ヨーロッパの不幸を終わらせ、ヨーロッパを構成する諸国間の公正な力の配分に基づいて、その安寧を築く意図のもとに結集した連合諸国は、平和維持に必要な保障を、その原則によって与える政府へ戻ったフランスに対し、友好関係を結びたいという願いを示そうとする。また、講和のすべての取り決めが確定する前にも、可能な限りあらかじめ、フランスに平和の恩恵を享受させようとする。そこで、フランス王子、国王の弟、王国総代たる王弟殿下と共同して、それぞれの軍の間の戦闘行為を停止し、従来の友好関係を回復することを決議した。
一方のフランス王子たる王弟殿下等と、他方の陛下等は、そのため、講和の取り決めを予断せず、戦闘行為停止の条項を含み、できる限り速やかに講和条約が続くこととなる文書に合意するため、次の全権委員を任命した。
(締約諸大国およびその全権委員の記載。)
右の全権委員は、全権委任状を交換したのち、次の各条に合意した。
第一条。陸上および海上のすべての戦闘行為は、連合諸国とフランスとの間で停止し、その停止を維持する。すなわち、陸軍については、フランス軍および要塞を指揮する将軍たちが、フランス王国総代の権威を認めたことを、対峙する連合軍の指揮官たちに知らせた時、直ちに停止する。海上、ならびに沿岸の要塞・港湾拠点および駐留地についても、フランス王国の、あるいはフランス軍が占有する艦隊および港が、同様の服従を示した時、直ちに停止する。
第二条。連合諸国とフランスとの友好関係の回復を確認し、可能な限りあらかじめ、フランスに平和の利益を享受させるため、連合諸国は、一七九二年一月一日時点のフランス領から、自国の軍隊を撤退させる。その撤退は、この境界の外で、なおフランス軍が占有する要塞が撤収され、連合諸国へ引き渡されるのに応じて、行う。(シャティヨン会議で、敵がナポレオンに押し付けたのは、一七八九年のフランスの国境だったことに、注意されたい。したがって、この第二条によって、われわれは、アヴィニョンの伯領、ランダウ、サヴォワ、モンベリアル伯領[114]、そのほか、一七八九年から一七九二年の間にフランスへ併合された領土を、保持することになった。)
括弧内は協定本文ではなく、語り手による解説。領土名と年代の説明は原文どおりに保った。
第三条。したがって、王国総代は、これらの要塞の司令官に、次の期限で引き渡すよう命じる。一七九二年一月一日のフランスの境界に含まれない、ライン川沿いの要塞と、ライン川からその境界までの間にある要塞は、本文書の署名から十日以内。ピエモンテと、フランスに属していたイタリアの他の地方の要塞は、十五日以内。スペインの要塞は、二十日以内。フランス軍が占有するその他すべての要塞は、例外なく、来る六月一日までに、全体の引き渡しを完了できるようにする。これらの要塞の守備隊は、武器、荷物、あらゆる階級の軍人および職員の私有財産を携えて退去する。病人および負傷者を含め、兵千人につき三門の割合で、野戦砲を持ち帰ることができる。
要塞の備蓄および私有財産でない一切の物は、その場に残し、何一つ取り除くことなく、すべて連合諸国へ引き渡す。備蓄には、砲兵資材と弾薬の貯蔵品だけでなく、その他あらゆる種類の物資、ならびに文書、目録、図面、地図、模型等を含む。
本協定の署名後、直ちに、連合諸国およびフランスの委員を任命し、要塞へ派遣する。その現状を確認し、本条の履行を、共同して取り決めるためである。
守備隊は、フランスへの帰還のため合意される各経路に沿い、行程を分けて移動させる。
フランス国内の要塞の封鎖は、連合軍によって、直ちに解除する。イタリア軍に属するフランス軍、またはイタリアもしくは地中海の要塞を占有するフランス軍は、王国総代殿下が、直ちに召還する。(連合諸国がライン川を渡る前に、ナポレオンが、ヴィスワ川およびオーデル川沿いの要塞を、本条の最初の二段落に示された条件で引き渡すと、すでに申し出させていたことを、忘れてはならない[115]。)
括弧内は協定本文に挿入された語り手の解説。
第四条。前条の規定は、沿岸の要塞・港湾拠点にも、同様に適用する。ただし、締約諸国は、それらの拠点にある造兵施設、武装した軍艦および武装していない軍艦の処遇を、最終的な講和条約で定める権利を留保する。
第五条。フランスの艦隊および船舶は、使命を帯びた船舶の出港を除き、それぞれの現在の状態にとどまる。ただし、フランスの港について、本文書が直ちにもたらす効果は、陸海からの一切の封鎖の解除、漁業の自由、沿岸航行の自由、特にパリへの物資供給に必要な沿岸航行の自由、ならびに各国の国内規則に従った通商関係の回復とする。また、内地について直ちにもたらす効果は、都市への自由な物資供給と、軍事または商業上の輸送の自由な通過とする。
第六条。本協定の署名後に海上で行われる拿捕について生じうる、一切の苦情および紛争の原因を防ぐため、双方は次のように合意する。本文書の批准書交換から数えて十二日が経過したのち、イギリス海峡および北方の諸海で拿捕された船舶および物品は、双方が返還する。イギリス海峡および北方の諸海からカナリア諸島までの期限は一か月、赤道までは二か月、世界のその他すべての地域では五か月とする。時と場所について、いかなる例外も、さらに細かな区別も設けない。
第七条。双方の捕虜、陸海の将校および兵士、その他いかなる種類の捕らわれ人も、特に人質は、身代金も交換もなしに、直ちに、それぞれの国へ送り返す。この全面的な解放を進めるため、双方が委員を任命する。
第八条。共同交戦国は、本文書の署名後、直ちに、自国軍が現在占領している県または都市の行政を、フランス王国総代殿下が任命する行政官へ引き渡す。王国当局は、軍隊がフランス領から撤退するまで、その食糧その他の必要を賄う。連合諸国は、フランスへの友情の表れとして、正統な権力への引き渡しが行われ次第、軍事徴発をやめる意向である。
本条の履行に関する一切の事項は、特別の協定によって定める。(この第八条は、フランスを最後まで消耗させようとしていた、敵将軍たちの徴発を終わらせるために、きわめて重要だった。)
括弧内は、協定本文ではなく語り手の解説。
第九条。第二条に従い、連合諸国の軍隊が進む経路について、その食糧供給の手段を準備するため、相互に合意する。また、すべての細部の措置を定め、軍隊がフランス領を離れるまで随行するため、委員を任命する。
以上を証するため……。
一八一四年四月二十三日、パリにて作成。」
「追加条項。本日付協定の第三条の規定により、ライン川沿い、および同川とフランスの旧国境との間にある要塞の撤収について認められた十日間の期限は、ネーデルラント連合諸州にある、いかなる種類の要塞、砦、軍事施設にも適用する。」
この協定によって、最も差し迫った事柄には対処できた。国土の解放、捕虜の解放、ライン川の向こう側にいたフランス守備隊の帰国、そして、国を破滅させる徴発の停止である。フランスとヨーロッパとの新たな関係を定める、最終的な条約は、まだ交渉しなければならなかった。それが締結され、署名されたのは、五月三十日になってからだった[116]。
この条約も、ここに掲載しよう。
国王と連合諸国との間の講和条約。一八一四年五月三十日、パリで締結。
「至聖にして不可分の三位一体の御名において。
一方のフランスおよびナヴァール国王陛下と、他方のオーストリア皇帝にしてハンガリーおよびボヘミア国王陛下ならびにその同盟諸国は、列強間の公正な力の配分に基づき、その諸条項のうちに持続の保障を備えた、堅固な平和によって、ヨーロッパの長きにわたる動揺と、諸国民の不幸を終わらせたいという、等しい願いに動かされている。また、オーストリア皇帝にしてハンガリーおよびボヘミア国王陛下ならびにその同盟諸国は、フランスが、その国王たちの父としての統治のもとへ戻り、それによってヨーロッパに安全と安定の保証を与えている今日、前の政府のもとで、遺憾ながらフランスに求めた条件および保障を、もはや要求する意志はない。右の両陛下は、講和および友好条約を討議し、決定し、署名するため、次の全権委員を任命した。
フランスおよびナヴァール国王陛下は、ベネヴェント公、レジオン・ドヌール大鷲章受章者……、国王の外務大臣兼国務卿、シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール氏を任命した。
grand-aigle は当時のレジオン・ドヌール最高等級の名称で、大鷲章と訳した。省略記号は原文にもある。
オーストリア皇帝にしてハンガリーおよびボヘミア国王陛下は、金羊毛騎士……、侍従、現任枢密顧問、皇帝にして使徒的国王たる陛下の国務・会議・外務大臣、クレメンス=ヴェンツェル=ロタール・フォン・メッテルニヒ=ヴィンネブルク=オクセンハウゼン公、および、金羊毛騎士……、侍従、現任枢密顧問、皇帝にして使徒的国王たる陛下の国務・会議大臣、ヨハン=フィリップ・フォン・シュタディオン=タンハウゼン=ヴァルトハウゼン伯を任命した。
使徒的国王はハンガリー王の称号に対応する。オーストリア側全権の人名は、フランス語化された原文の名を、一般的なドイツ語形に対応させて表記した。
右の全権委員は、適法かつ正規のものと認められた全権委任状を交換したのち、次の各条に合意した。
第一条。本日以降、一方のフランスおよびナヴァール国王陛下と、他方のオーストリア皇帝にしてハンガリーおよびボヘミア国王陛下ならびにその同盟諸国、それぞれの相続人および後継者、国土および臣民の間には、永遠に、平和と友好が存在する。
締約諸国は、自らの間だけでなく、その力の及ぶ限り、ヨーロッパのすべての国々の間においても、ヨーロッパの安寧にきわめて必要な、良好な協調と理解を維持するため、あらゆる配慮を尽くす。
第二条。フランス王国は、一七九二年一月一日時点で存在した境界を、その全体において保持する。さらに、次条が定める境界線の内側に含まれる領土の増加を受ける。
第三条。ベルギー、ドイツ、イタリアの方面では、ダンケルクとニューポールとの間の北海を起点とし、カンヌとニースとの間の地中海に至るまで、一七九二年一月一日に存在した旧国境を、次の修正を加えて復活させる。
一、ジュマップ県では、ドゥール、メルブ=ル=シャトー、ボーモン、シメーの各小郡は、フランスに残る。境界線は、ドゥール小郡に接する地点で、この小郡と、ブスュー(Boussu)およびパチュラージュの各小郡との間を通り、さらに先では、メルブ=ル=シャトー小郡と、バンシュおよびテュアンの各小郡との間を通る。
ここでの canton は行政区画の小郡を指す。境界を定める地名は原文に従い、現行の行政区画への置き換えは行っていない。
二、サンブル=エ=ムーズ県では、ヴァルクール、フロレンヌ、ボーレン、ジェディンヌの各小郡は、フランスに属する。境界線は、この県に達すると、前記の小郡を、ジュマップ県およびサンブル=エ=ムーズ県の残りの部分から分ける線に従う。
三、モゼル県では、新たな境界が旧来の境界から離れる箇所については、ペルルからフレメスドルフへ引く線、およびトーライ小郡をモゼル県の残りの部分から分ける線を、境界とする。
四、ザール県では、ザールブリュックとアルヌヴァルの各小郡、およびルバッハ小郡のうち、次の線の南にある部分は、フランスに残る。その線は、ヘルヒェンバッハ、ユーバーホーフェン、ヒルスバッハ、ハルの各村の境界に沿い、これらの各地をフランス国境の外に置いて引く。そして、フランスに属するクエルセルの近くで、アルヌヴァル小郡とオットヴァイラー小郡を分ける線が、アルヌヴァル小郡とルバッハ小郡を分ける線に達する地点までとする。この方面の国境は、以上に示した線と、それに続く、アルヌヴァル小郡をブリースカステル小郡から分ける線によって、形成する。
原文の地名綴りは Herchenbach、Ueberhofen、Hilsbach、Hall、Querselle、Arneval、Ottweiler、Lebach、Bliecastel。境界の細部を示すため、ここに原綴りを併記する。
五、ランダウ要塞は、一七九二年以前、ドイツ内の孤立した地点をなしていたため、フランスは、ランダウ要塞とその周囲区域を、王国の他の部分に結び付けるため、国境の向こう側に、モン=トネール県およびバ=ラン県の一部を保持する。新たな境界線は、フランスの境界外に残るオーバーシュタインバッハの近くで、モゼル県とモン=トネール県との境界が、バ=ラン県に達する地点から始まる。そして、フランス側のヴァイセンブルクおよびベルクツァーベルンの各小郡を、ドイツ側のピルマゼンス、ダルム、アンヴァイラーの各小郡から分ける線に沿い、ヴォルマースハイム村の近くで、その境界が、ランダウ要塞の従来の周囲区域に接する地点まで進む。一七九二年当時のまま残されるこの周囲区域から、新たな国境は、フランスに残るクヴァイヒハイムの近くで、この区域を離れるクヴァイヒ川の分流に沿って進み、同じくフランス領に残るメルレンハイム、クニッテルスハイム、ベルハイムの各村の近くを通って、ライン川に至る。その後は、引き続きライン川が、フランスとドイツの境界となる。
原文の地名綴り Dalm、Anweiler、Merlenheim、Belheim は、現代の綴りに推定訂正していない。rayon は要塞に付属する周囲の区域として訳した。
ライン川については、最深河床線を境界とする。ただし、将来、この川の流路に生じる変化は、川の中にある島々の所有権に、何の影響も及ぼさない。これらの島々の占有状態は、リュネヴィル条約署名時の状態に復する。
六、ドゥー県では、国境を次のように修正する。ル・ロクル近くのラ・ランソニエールより上手を起点とし、ル・セルヌー=ペキニョとフォンテネル村の間を、ジュラ山脈の稜線に沿って進み、ラ・ブレヴィーヌ村の北西、およそ七千ないし八千ピエの所にある、ジュラ山脈の一つの頂に至る。そこで、フランスの旧来の境界に戻る。
ピエ(pied)は原文の長さの単位。ここでは高さではなく、村から北西方向への距離を示す。
七、レマン県では、フランス領、ヴォー地方、およびスイスの一部となるジュネーヴ共和国領の各部分との間の国境は、ジュネーヴがフランスへ編入される前と同じままとする。ただし、フランジー小郡、サン=ジュリアン小郡、レニエ小郡、ラ・ロシュ小郡は、フランスに残る。その例外は、次のとおりとする。サン=ジュリアン小郡については、レール川がシャンシー近くでジュネーヴ領へ入る地点から、フランスの境界外に残るセスガン、ラクー、セスヌーヴの境界沿いに引く線の、北側の部分。レニエ小郡については、フランスの境界外に残るラ・ミュラ、ビュシー、ペル、コルニエの境界に沿う線の、東側の部分。ラ・ロシュ小郡については、ラ・ロシュおよびアルマノワと呼ばれる土地と、その地区。国境は、これら各小郡の境界、およびフランスに残る部分を、フランスが保持しない部分から分ける線に沿って進む。
原文の地名綴りは Seseguin、Lacouex、Seseneuve、Régnier、la Muraz、Bussy、Pers、Cornier、la Roche、Armanoy。現代の行政区画や綴りに推定して置き換えていない。
八、モン=ブラン県では、フランスは、シャンベリー郡を、ロピタル、サン=ピエール=ダルビニー、ラ・ロセット、モンメリアンの各小郡を除いて取得する。また、アヌシー郡を、ファヴェルジュ小郡のうち、次の線の東側にある部分を除いて取得する。その線は、フランス側のウルシェーズおよびマルランと、反対側のマルトーおよびユジーヌとの間を通り、その後、山々の稜線に沿い、トーヌ小郡の境界まで進む。この線が、前記の小郡の境界とともに、この方面の新たな国境を形成する。
sous-préfecture は、ここでは副県庁という建物ではなく、その管轄行政区画として郡と訳した。原文の地名綴りは la Rocette、Faverge、Ourechaise、Thones。
ピレネー方面では、国境は、一七九二年一月一日時点で、フランスとスペインの両王国の間にあったとおりに維持する。その最終的な境界画定のため、両王国によって、直ちに合同委員会を任命する。
フランスは、前記の国境の外にある、すべての国、地区、都市、その他いかなる場所についても、主権、宗主権、占有に関する一切の権利を放棄する。ただし、モナコ公国は、一七九二年一月一日以前にあった関係へ復する[117]。
連合諸宮廷は、アヴィニョン公国、コンタ・ヴネサン、モンベリアル伯領、および前記の国境内にある、かつてドイツに属していたすべての飛び地について、一七九二年一月一日の前後いずれにフランスへ編入されたかを問わず、その領有をフランスに保障する。
各国は、自国の安全のために適当と判断する、自国領内のいかなる地点をも要塞化する完全な自由を、相互に留保する。
私有財産への一切の侵害を避け、最も寛大な原則に従って、国境沿いに住む個人の財産を保護するため、フランスに隣接する各国は、フランスの委員と共同して、双方の領土の境界画定を進める委員を任命する。
委員たちの作業が終わり次第、双方の委員が署名する地図を作成し、相互の境界を示す標柱を設置する。
第四条。ジュネーヴ市と、湖に面するスイス領の他の部分との交通を確保するため、フランスは、ヴェルソワを経由する道路の使用を、両国共通とすることに同意する。双方の政府は、密輸を防止し、郵便の運行と道路の維持を定める手段について、友好的に合意する。
第五条。ライン川の、航行可能となる地点から海まで、およびその逆方向の航行は、自由とし、何人にも禁止できないものとする。沿岸諸国が徴収する料金を、すべての国々の通商にとって、最も公平で、最も有利な形で定めるための原則については、今後の会議で取り扱う。
また、諸国民の間の交通を容易にし、互いをよそ者とする隔たりを、ますます小さくするため、航行可能な流域において、異なる国家を隔て、または横切る、その他すべての河川に、前記の規定を、どのように同様に適用できるかについても、今後の会議で審議し、決定する。
第六条。オラニエ家の主権のもとに置かれるオランダは、領土の増加を受ける。その主権の称号と行使は、いかなる場合にも、外国の王冠を戴く、または戴くべき地位にある、いかなる王族にも属してはならない。
ドイツの諸国家は独立し、連邦的な結合によって結ばれる。
独立したスイスは、引き続き、自らを統治する。
イタリアは、オーストリアに帰属する範囲の外では、主権国家から構成される。
第七条。マルタ島およびその属地は、完全な所有権と主権をもって、イギリス国王陛下に属する。
第八条。イギリス国王陛下は、自らおよび同盟諸国のために取り決め、フランスが一七九二年一月一日に、アメリカ、アフリカ、アジアの海域および大陸に所有していた、植民地、漁場、商館、その他あらゆる種類の拠点を、以下に定める期限内に、キリスト教信仰いと篤き国王陛下へ返還することを約束する。ただし、トバゴ島、サント=リュシー島、フランス島およびその属地、特にロドリグ島とセーシェル諸島は除く。これらを、キリスト教信仰いと篤き国王陛下は、完全な所有権と主権をもって、イギリス国王陛下に譲渡する。また、バーゼルの講和によってフランスへ割譲されたサン=ドマングの一部も除く。この部分を、キリスト教信仰いと篤き国王陛下は、完全な所有権と主権をもって、カトリック国王陛下へ再譲渡する。
「キリスト教信仰いと篤き国王」はフランス王の称号 Sa Majesté Très Chrétienne を訳したもの。Très はキリスト教信仰の篤さを強める語で、他のキリスト教君主への支配権を意味しない。「カトリック国王」はスペイン王の称号。「フランス島」は当時の呼称 île de France で、モーリシャスを指す。
第九条。スウェーデンおよびノルウェー国王陛下は、同盟諸国との取り決めに従い、かつ前条の履行のため、グアドループ島をキリスト教信仰いと篤き国王陛下へ返還することに同意し、同島について有しうる一切の権利を譲渡する[118]。
第十条。至誠国王陛下は、同盟諸国との取り決めに従い、かつ第八条の履行のため、以下に定める期限内に、一七九二年一月一日当時のフランス領ギアナを、キリスト教信仰いと篤き国王陛下へ返還することを約束する[119]。
「至誠国王」は原文 Sa Majesté très fidèle に対応する、ポルトガル王の称号。
前記の規定は、当時存在していた境界に関する争いを再燃させる結果となるため、この争いは、イギリス国王陛下の仲介のもと、両宮廷間の友好的な取り決めによって解決することに、合意する[120]。
第十一条。第八条、第九条、第十条に基づき、キリスト教信仰いと篤き国王陛下へ返還すべき植民地および拠点に存在する要塞と砦は、本条約署名時の状態で引き渡す。
第十二条。イギリス国王陛下は、インド大陸におけるイギリスの主権の範囲内で、通商ならびに身体および財産の安全に関し、キリスト教信仰いと篤き国王陛下の臣民に、現在、最も優遇されている国々へ与えられている、または将来与えられるものと、同じ便宜、特権、保護を享受させることを約束する。一方、キリスト教信仰いと篤き国王陛下は、フランスとイギリスの両王国の間の平和の永続を、何よりも願い、いつの日か相互の良好な理解を損ないうるものを、今から両国民の関係から取り除くため、できる限り寄与しようとする。そのため、返還されるべき拠点のうち、インド大陸におけるイギリスの主権の範囲内にあるものでは、一切の要塞化工事を行わず、治安維持に必要な数の兵しか置かないことを約束する。
第十三条。ニューファンドランドのグランド・バンク、同名の島および隣接する島々の沿岸、ならびにセント・ローレンス湾における、フランス人の漁業権については、すべてを一七九二年と同じ状態に戻す。
第十四条。イギリス国王陛下またはその同盟諸国が、キリスト教信仰いと篤き国王陛下へ返還すべき植民地、商館、拠点は、次の期限内に引き渡す。北方の諸海、またはアメリカおよびアフリカの海域と大陸にあるものは、本条約の批准から三か月以内。喜望峰の向こう側にあるものは、六か月以内とする。
第十五条。締約諸国は、去る四月二十三日の協定の第四条によって、同協定の第二条を履行するため、フランスが引き渡した沿岸の要塞・港湾拠点に存在する造兵施設と、武装した、または武装していない軍艦の処遇を、今回の最終講和条約で定める権利を留保していた。そこで、右の武装した、または武装していない軍艦その他の軍用船舶、ならびに艦砲、海軍用弾薬、すべての建造・艤装資材を、フランスと、それらの拠点が位置する国との間で分割することに合意する。その割合は、フランスに三分の二、右の拠点が属することになる国々に三分の一とする。
建造中の艦船で、本条約の署名から六週間後に、海へ出せる状態にならないものは、解体したうえで資材と見なし、前記の割合に従って、資材として分割する。
分割を決定し、その明細を作成するため、双方が委員を任命する。また、フランス人の工員、船員、職員のフランス帰還を確保するため、連合諸国は、旅券または安全通行証を与える。
四月二十三日より前に、連合諸国の手に落ちていた沿岸の要塞・港湾拠点にある艦船および造兵施設、ならびにオランダに属していた艦船および造兵施設、特にテクセルの艦隊は、前記の規定に含めない。
フランス政府は、前記の規定によって自国に帰属する一切の物を、分割が完了してから三か月以内に、搬出し、または売却させる義務を負う。
今後、アントウェルペン港は、商港としてのみ用いる。
第十六条。締約諸国は、ヨーロッパを動揺させた対立を、自らも、また人々をしても、完全に忘れさせることを望み、次のことを宣言し、約束する。本条約によって返還または割譲される国々においては、いかなる階級、身分の個人も、いかなる口実によっても、その身体または財産について、訴追、嫌がらせ、妨害を受けてはならない。その行動や政治的意見、いずれかの締約国、または存在しなくなった政府への忠誠、その他いかなる理由をもってしても、同様とする。ただし、個人に対して負った債務、または本条約より後の行為による場合は、この限りでない。
第十七条。本条約、またはそれに伴って行われる取り決めに基づき、今、あるいは将来、支配者が変わるべきすべての国々においては、いかなる身分、国籍であれ、その土地の住民および外国人住民に、批准書交換から六年間の期間を与える。その間、適当と考えるなら、今回の戦争が始まる前、または始まって以降の、いずれに取得した財産も処分し、自ら選ぶいずれの国へも移住できるものとする。
第十八条。連合諸国は、この講和によって幸いにも終わった不幸な時代の結果を、できる限り消し去りたいという願いを、キリスト教信仰いと篤き国王陛下へ、改めて示そうとする。そのため、一七九二年以来のさまざまな戦争において、フランス政府に対して行われた契約、物資供給、その他いかなる前渡しにも基づく、各政府がフランスに請求すべき金額の全額を、放棄する。
一方、キリスト教信仰いと篤き国王陛下も、同じ権原に基づき、連合諸国に対して行いうる一切の請求を放棄する。本条の履行のため、締約諸国は、相互に放棄した債権に関する、すべての証書、債務証券、文書を、互いに引き渡すことを約束する。
第十九条。フランス政府は、別途、自国領外の国々において、個人または民間の施設とフランス当局との間で結ばれた契約、その他の正式な約束に基づき、物資供給または法律上の義務によって、債務があると判明した金額を、確定し、支払わせることを約束する。
第二十条。締約諸国は、本条約の批准書交換後、直ちに、第十八条および第十九条に含まれる一切の規定の履行を取り決め、監督する委員を任命する。これらの委員は、前条で述べた請求の審査、請求金額の確定、ならびにフランス政府が提案する支払い方法を、取り扱う。また、締約諸国が相互に放棄する債権に関する、証書、債務証券、文書の引き渡しも担当し、その作業結果の批准によって、相互の放棄が完了するようにする。
第二十一条。当初から、フランスに属さなくなる国々を特に担保としていた債務、またはそれらの国々の内政のために負った債務は、引き続き、それらの国々の負担とする。したがって、そのうち、フランスの公債大帳への登録に転換された債務については、一八一三年十二月二十二日から、フランス政府に対して精算上の考慮を行う。登録の準備はされたが、まだ登録されていないすべての債務の証書は、それぞれの国の政府へ引き渡す。すべてのこれらの債務の明細は、合同委員会が作成し、確定する。
第二十二条。フランス政府は、一方で、前記の国々の臣民が、保証金、預託金、供託金として、フランスの金庫へ払い込んだ、すべての金額の返還を、引き続き負担する。同様に、それらの国々に仕えるフランス臣民が、各国の国庫へ保証金、預託金、供託金として払い込んだ金額も、確実に返還する。
第二十三条。保証金を要する職に就き、金銭の取り扱いを伴わない者には、本条約の日付から毎年五分の一ずつ、完済までの利息を付して、パリで返還する。
会計責任を負う者については、不正流用の場合だけを除き、会計報告の提出から、遅くとも六か月以内に、返還を開始する。最後の会計報告の写しは、参考資料および出発点とするため、本人の国の政府へ引き渡す。
第二十四条。共和暦十三年雪月二十八日(一八〇五年一月十八日)の法律の履行として、減債金庫に納められた司法上の預託金および供託金のうち、フランスの領有でなくなる国々の住民に属するものは、本条約の批准書交換から一年以内に、それらの国々の当局へ引き渡す。ただし、フランス臣民に関係する預託金および供託金は除く。その場合は、減債金庫にとどめ、権限ある当局の決定に基づく証明がある場合にのみ、引き渡す。
第二十五条。市町村および公共施設が、業務金庫、減債金庫、その他いずれかの政府金庫に預けた資金は、本条約の日付から、年々、五分の一ずつ返還する。ただし、それらに前渡しされた金額を控除し、また、当該市町村および公共施設の債権者が、その資金に対して正規に行った差し止めを妨げない。
業務金庫は原文 caisse de service、減債金庫は caisse d’amortissement に対応する。
第二十六条。一八一四年一月一日以降、フランス政府は、もはやフランス臣民ではない個人に対する、すべての文官、軍人、聖職者の年金、退職俸給、免職後の手当の支払いを、負担しない。
第二十七条。フランスの旧来の国境の外にある、ベルギー、ライン川左岸、アルプスの旧諸県において、フランス臣民が有償で取得した国有地は、取得者に対して保障され、引き続き保障される。
第二十八条。フランスとの間で相互に取り決めた国々、または以前フランスに併合されていた国々における、外国人の遺産没収権、財産移出に対する徴収権、その他同種の権利の廃止は、明示的に維持する[121]。
外国人の遺産没収権は droit d’aubaine、財産移出に対する徴収権は droit de détraction の訳。原注121も参照。
第二十九条。フランス政府は、フランスの軍隊または行政機関が占領した諸地方で、押収された債務証券その他の証書を、返還させることを約束する。返還を実行できない場合は、それらの債務証券および証書は、無効とし、引き続き無効とする。
第三十条。ライン川沿い、および本条約によってフランスから切り離される諸県で、まだ完了していない、または一八一二年十二月三十一日より後に完了した、すべての公共工事に対して支払うべき金額は、今後の領有者の負担へ移す。その金額は、当該地方の債務の精算を担当する委員会が確定する。
第三十一条。割譲される国々に属する、またはその行政に関する、文書記録、地図、図面、その他いかなる文書も、当該領土と同時に、確実に返還する。それが不可能な場合は、領土そのものの引き渡しから、六か月を超えない期限内に返還する。
この規定は、各軍によって一時的に占領された国々から、持ち去られた可能性のある文書記録、地図、図版にも適用する。
第三十二条。今回の戦争に、双方のいずれかとして関与したすべての国々は、二か月以内にウィーンへ全権委員を派遣し、全体会議で、本条約の規定を補完すべき取り決めを定める。
第三十三条。本条約は批准し、その批准書は、十五日以内、または可能であれば、それより早く交換する。
以上を証するため……。
一八一四年五月三十日、パリにて作成。
ベネヴェント公、メッテルニヒ公、シュタディオン公。」
署名者の称号は、ここでは原文がシュタディオンを prince とするため「公」とした。前の全権委員の列挙では comte(伯)となっている。
「追加条項。締約諸国は、その国民を苦しめた不幸な出来事の、すべての痕跡を消し去ることを望み、一八〇五年および一八〇九年の条約の効力について、本条約によってすでに事実上無効となっていない限りにおいて、明示的に無効とすることに合意した。この決定に従い、キリスト教信仰いと篤き国王陛下は、皇帝にして使徒的国王たる陛下に、現在仕え、または以前仕えていたフランス臣民、もしくはフランス臣民と見なされる者に対して出された諸勅令を、無効とすることを約束する。また、これらの勅令の履行として下された可能性のある判決も、同様とする。
本追加条項は、本日付の公開条約に、一字一句そのまま挿入された場合と、同じ効力および価値を持つ……。」
同日、同所、同時刻に、同じ最終講和条約が、次の間でも締結された。
フランスとロシアの間。
フランスとイギリスの間。
フランスとプロイセンの間。ただし、次の追加条項を伴う。
ロシアとの条約への追加条項
「ワルシャワ公国は、ロシア軍が占領して以来、ロシアの設けた臨時評議会の統治下にある。そこで、両締約国は、双方同数の委員で構成する特別委員会を、直ちに任命することに合意した。この委員会は、相互の請求に関する審査、精算、およびすべての取り決めを担当する。」
イギリスとの条約への追加条項
「第一条。キリスト教信仰いと篤き国王陛下は、自然的正義の原則も、われわれの生きる時代の良識も、ともに退ける一種の交易について、イギリス国王陛下の一切の感情を、無条件に共有する。そして、今後の会議において、イギリス国王陛下とあらゆる努力を合わせ、キリスト教世界のすべての国々に、黒人奴隷貿易の廃止を宣言させることを約束する。それによって、この交易が、あまねく終わるようにする。フランスについては、いかなる場合にも、五年以内に、最終的に終わらせる。また、この期限までの間も、奴隷商人は、自分が臣民として属する国家の植民地以外の場所で、奴隷を輸入し、または販売することができないものとする。
本条が定めるのは奴隷貿易の廃止であり、奴隷制度そのものの即時廃止ではない。五年間の期限と、それまでの交易先の制限を、原文どおり訳した。
第二条。イギリス政府とフランス政府は、戦争捕虜の維持のため、それぞれが負担した費用を精算する委員を、速やかに任命する。それにより、いずれか一方の国に有利となる差額が判明した場合、その支払い方法を取り決める。
第三条。双方の戦争捕虜は、拘留地を出発する前に、そこで負った可能性のある私的な債務を返済し、または、少なくとも十分な保証を提供しなければならない。
第四条。本講和条約の批准後、直ちに、双方は、一七九二年以来、締約諸国またはその臣民の資金、収入、債権、その他いかなる財物に対しても課されていた可能性のある、差し押さえを解除する。
第二条で述べた同じ委員たちは、イギリス国王陛下の臣民が、フランス政府に対して行う請求を審査し、金額を確定する。その対象は、フランス当局によって不当に没収された動産または不動産の価額、ならびに一七九二年以来、不当に差し押さえられていた債権その他の財産について、全部または一部を失ったことによる損失である。
フランスは、この点で、フランス臣民がイギリスで受けたのと同じ公正さをもって、イギリス臣民を扱うことを約束する。また、イギリス政府は、この講和によって幸いにも終わった不幸な時代の結果を消し去りたいという願いを、連合諸国がキリスト教信仰いと篤き国王陛下へ改めて示そうとしたことに、自らも寄与したいと望む。そこで、自国臣民に完全な正義が実現され次第、戦争捕虜の維持費について、自国に有利な差額があれば、その全額を放棄することを約束する。前記委員たちの作業結果の批准、ならびにイギリス国王陛下の臣民に帰属すると判断される金額の支払いと財物の返還によって、この放棄が完了するものとする。
第五条。両締約国は、それぞれの臣民の間に、最も友好的な関係を築くことを望む。そして、各国の繁栄を促し、増進するため、通商上の利益について、できる限り速やかに協議し、取り決める権利を留保し、また、そのことを約束する。
本追加各条は、同じ効力および価値を持つ……。
末尾の省略記号は原文のもの。条約の定型句を訳者が補ってはいない。
プロイセンとの条約への追加条項
「一七九五年四月五日にバーゼルで締結された講和条約、一八〇七年七月九日のティルジットの条約、一八〇八年九月二十日のパリ協定、ならびにバーゼルの講和以来、プロイセンとフランスの間で締結された、すべての協定その他の文書は、本条約によって、すでに事実上無効となっている。それでも、両締約国は、右の諸条約が、公開のものも秘密のものも含め、すべての条項について、拘束力を失うこと、また、それらから生じうる一切の権利を相互に放棄し、一切の義務を免れることを、明示的に宣言するのが適当と判断した。
キリスト教信仰いと篤き国王陛下は、プロイセン国王陛下に、現在仕え、または以前仕えていたフランス臣民、もしくはフランス臣民と見なされる者に対して出された諸勅令を、無効とすることを約束する。また、これらの勅令の履行として下された可能性のある判決も、同様とする。
本追加条項は、同じ効力および価値を持つ……。」
一八一四年五月三十日の公開条約に関わる一切の事項の列挙は、この条約の別個の秘密条項も、ここに掲載しなければ、完全にはならない。私は、それらに同意せざるをえなかった。それは、フランスの全権委員が、今後の会議で進めなければならない交渉にとって、おそらく最も不都合な部分をなしていた。これらの条項は、私に通知されただけであり、私は署名を付してはいない。
一八一四年五月三十日のパリ条約の、別個の秘密条項
「本日付の公開条約の第三条によって、キリスト教信仰いと篤き国王陛下が放棄する領土の処分、およびヨーロッパに真実かつ永続的な均衡の体制をもたらすべき諸関係は、連合諸国が相互に決定した基礎と、次の各条に含まれる一般規定に従い、会議において定める。
第一条。ヨーロッパに公正な均衡を築くためには、オランダを、自らの手段で独立を維持できる規模に構成することが必要である。したがって、海、本条約によって定められたフランスの国境、およびムーズ川に囲まれた地方は、永久に、オランダへ併合する。
第二条。ムーズ川右岸の国境は、オランダおよび近隣諸国の軍事上の都合に従って定める。
第三条。スヘルデ川の航行の自由は、本日付の公開条約の第五条で、ライン川の航行を定めたのと同じ原則に基づいて確立する。
第四条。一七九二年以来、フランスへ併合されていたライン川左岸のドイツの地方は、オランダの領土拡大と、プロイセンおよびその他のドイツ諸国への補償に充てる。」
これら一八一四年の条約の日付、私が経験した、あらゆる種類の困難、交渉相手の幾人かの中に見いだし、闘わざるをえなかった復讐心を考える時、私は、後世が下す判断を、確信をもって待つことができる。ここでは、国王のパリ入城から六週間後には、フランスの領土は保障され、外国兵はフランスの国土を去り、要塞守備隊と捕虜の帰還によって、見事な軍隊を持つに至っていたことを、思い起こすにとどめよう。そして最後に、われわれは、ヨーロッパのほとんどすべての美術館から、武力によって獲得した、あの見事な美術品のすべてを、保持していたのである。
もし一八一五年、新たな災厄がフランスを打ちのめし、一八一四年の条約の成果を失わせたのなら、その罪を負うべきなのは、やはりナポレオンただ一人だった。祖国に、取り返しのつかない災いを引き寄せたことで、国民から呪われるに値したのである。
パリ条約は、かつて征服によってフランスの手中に入った広大な国々を、フランスから取り去った。そのため、これらの領土を処分する、後続の取り決めが不可欠となった。サルデーニャ王[122]、ハノーファー選帝侯[123]、ヘッセン=カッセル選帝侯など、何人かの君主は、戦争で奪われていた国が解放されると、直ちにそこへ戻っていた。しかし、フランスが放棄した多くの国々の運命は、まだ決めなければならなかった。また、ナポレオンの大義に忠実だったため、連合諸国が憎しみを向け続けていたザクセン王の運命も、決める必要があった。フランスからではなく、その同盟者ザクセン王から奪われたワルシャワ公国、そして最後に、フランスの政策からも、この点では揺るがないルイ十八世の意志からも、明らかにミュラの手に残しておくことのできないナポリ王国についても、決定しなければならなかった。
すでに見たように、条約では、すべての処置を、ウィーンで開かれる会議で決定することが合意されていた。条約の規定の一つは、オラニエ家の主権下に置かれたオランダが、領土の増加を受ける、というものだった。それは、ベルギーから取るほかなかった。これは、アントウェルペン港を自国の従属下に置き、軍港となるのを防ぎたかったイギリスが、約束した結果だった。サルデーニャ王も、旧ジェノヴァ国から取った領土の増加を受けるはずだった。連合諸国の政府も、ナポレオンと同じく、フランス共和国によって、すでに揺るがされ、または破壊された古い共和国を、復活させるつもりはなかったからである。
神聖ローマ帝国の解体を生き延びたドイツ諸国と、オーストリア皇帝に属することになる地方を除いて独立したイタリア諸国は、その独立を維持するはずだった。そのほかの領土の分割や処分については、条約は何も定めていなかった。領土その他の取り決めは、その結果として、真実かつ永続的な均衡が生まれるように行うべきだ、と述べるにとどまった。「真実かつ永続的な均衡」という言葉は、実に曖昧で、行く末をほとんど予見できない議論に、広大な余地を開くことは、避けられなかった。会議の交渉が向かうべき方向も、その作業を導くべき精神も、確固とした原則によって、あらかじめ定められてはいなかったからである。決定されている点が、いくつかあったとしても、それは個別の事例に関する条項によってだった。
このような情勢では、フランスの役割は、とりわけ困難だった。長く憤りを募らせてきた各国政府にとって、フランスをヨーロッパの大きな利害から遠ざけておくことは、きわめて魅力的であり、きわめて容易でもあった。パリ条約によって、フランスは破滅を免れたが、国際政治全体の体制の中で、占めるべき地位を取り戻したわけではなかった。経験を積んだ目には、主要な全権委員の幾人かに、フランスを二次的な役割へ落とそうという、隠れた願いがあることが、容易に見て取れた。条約の秘密条項も、フランスから取り戻された領土の分配は、列強の間で、すなわちフランスを除外して行う、と述べていた。したがって、フランスが、会議の初めから、かつての力の記憶と、連合諸国の君主の何人かが一時的に示した寛大さによって与えられる立場を、自ら明確にしなければ、長くヨーロッパの交渉の外にとどまることを、覚悟しなければならなかった。そして、フランスがあれほど濫用した成功のために結ばれ、嫉妬によって再び結ばれうる同盟の影響に、さらされることになった。一言で言えば、ナポレオンの帝国と王政復古との間に、深い分離線を引く希望を失うのである。その線によってこそ、ヨーロッパの諸政府が、再生したフランスに対して、革命のフランスの行き過ぎと暴力の責任を問うことを、防ぐべきだった。
必要だったのは、情勢の重要性を十分に確信し、フランスに起こった変化をもたらした手段を深く理解し、自分たちが勝利したという考えから離れようとしない各国政府に、真実を、毅然と言って聞かせられる立場の交渉者だった。とりわけ、フランスの全権委員は、次のことを理解し、理解させなければならなかった。フランスは、今持つものしか望んでいないこと。征服の遺産を、率直に放棄したこと。旧来の国境内で、十分に強いと考えていること。それを広げる考えはないこと。要するに、今では、節度のうちに栄光を求めていること。しかし、ヨーロッパで、その声を重んじさせたいと望むのは、あらゆる侵害に対して、他国の権利を守ることができるためなのだ、ということだった。
政務に関わってきたすべての人々の中に、この使命を適切に果たすために必要な条件を備えていると思われる者を、私は、一人も見いださなかった。国王とともに帰って来た人々は、国際情勢全般から遠ざかったままだった。倒れた政府につながる者たちは、再生する君主政の利益と立場を、まだ理解できなかった。ウィーンにおけるフランス全権委員の立場を、私は、きわめて困難だと考えていた。それ以上に名誉ある立場は、これまで、知ったことがなかった。
実際、この全権委員の役割は、神の摂理が再建を許した建物の堅固さを確保することで、王政復古の仕事を完成させることだった。私は、その役目を求める権利が自分にはあると考え、また、それを義務と見なした。国王は、私がその願いを最後まで述べるのを待たず、遮って、「君への訓令の案を、私に提出してほしい」と言った。私は感謝し、私とともにダールベルク公を任命してほしいと願った。彼を引き立てたいと望み、友情を抱いていたからである。それに、生まれ、ドイツでの親族関係、能力によっても、私にとって、有益な協力者になるはずだった。
数日のうちに、国王から求められた訓令案を、御覧に入れることができた。国王は承認した。後に掲げるこの訓令を知れば、フランスは、それに署名した君主を、誇りに思うだろうと、私は考えている。
随行者として、私は外務省から、忠実で有能なラ・ベナルディエールを選んだ。長年にわたり、外務省に現れた人物の中で、最も優れた人だと考えている。そのそばに、シャレ、フォルモン[124]、ペレの各氏を置いた。三人とも若く、このように重大な情勢から得られるはずの教訓を、生かすだけの素質を備えていた。
次に、ウィーンのフランス使節団へ、さらに加えることのできる二人を、社交界から探した。選ぶ際には、ウィーンよりも、パリ、すなわちテュイルリーのことを、はるかに重く考えた。パリでは、王族たちを取り巻く、外交の小細工師たちを、抑えておく必要があったからである。私の周囲から内々の通信を得られると、彼らに安心させておきたかった。私が知っているようには見せず、しかし、政務に危険が及ぶこともないようにして、である。ウィーンとフランスのことは、私自身を頼りにしていた。こうして、アレクシ・ド・ノアイユ伯[125]と、ラ・トゥール・デュ・パン・グーヴェルネ侯爵[126]が、ウィーン会議の全権委員として、ダールベルク公と私に加わることとなった。
また、ウィーンの上流の、影響力ある社交界を、帝政フランスが抱かせた敵意ある偏見から、引き戻さなければならないと思った。そのためには、フランス大使館を、彼らにとって心地よい場所にする必要があった。そこで、姪のエドモン・ド・ペリゴール伯爵夫人に、同行し、わが家の女主人を務めてほしいと頼んだ。その優れた知性と機転によって、彼女は人々を引き付け、喜ばせ、私に大いに役立った。
ウィーンでは、フランスに、二十年来、人々がその口から聞き慣れていたものとは、別の言葉を語らせなければならなかった。また、フランスが示す尊厳を、高潔に、華やかにさえ表すことも、同じくらい必要だった。皇帝ナポレオンの過ちによって強いられた、フランスにとっては、これほど新しい自己抑制の役割も、私の考えでは、偉大さを欠くとは限らなかった。それどころか、正義と権利のために、私が述べることになる意見に、重みを与えるはずだった。だからこそ、弱い者たちを支えることで、フランスがいかに役立てるかを通じて、直ちに、尊厳ある名誉ある立場へ置こうとしたのである。
ウィーンでは、相当に大きな困難が待っていたことは、容易に察していただけるはずだ。そのことをもって、私が受けた非難への答えとしたい。誤った助言を受けた政府が、軽率な道を進み、その基盤の確立を遅らせ、国王到着の際に示された好意を冷ます恐れのある時に、パリを去った、という非難である。そのうえ、何よりも、自分にできることを、すべきである。そして、ここで私は、成功する自信のある仕事に着手したのだった。誠実な人々すべてに、私は問いたい。新たな政府が、忘れさせるべき記憶を呼び起こさず、恣意的な意志の、あらゆる外観を遠ざけることに気を配る代わりに、その正反対のことばかりに努めると、考えるのが自然だっただろうか。実を言えば、私は、そのような盲目を予想していなかった。最も大きな影響力を持っていたモンテスキュー師が、それを、これほど悪く使うとは、決して思わなかっただろう。
皇帝アレクサンドルは、フランスの内政が進む道に、どれほど驚いているかを、間もなく示した。それは、もう一つの困難だった。皇帝は、日頃会っていた、最も熱烈な自由主義者たちから、印象を受け取っていた。イギリスへ出発したのち、皇帝は、そこからパリへ戻る予定だったのだが、私は、次の手紙を書くべきだと考えた。一八二三年に、書類入れの中から、もしこれを再び見つけたなら、いくらか考えさせることができたかもしれない[127]。
ベネヴェント公より皇帝アレクサンドルへ
「パリ、一八一四年六月十三日。
陛下、
御出発の前に、陛下にお目にかかれませんでした。最も深い愛着に伴う、敬意ある率直さから、あえて、そのことをお恨み申し上げます。
陛下、ずっと以前、重要な交わりの中で、私の秘めた思いをお知りになりました。その結果、御信頼を賜りました。それは、幾年もの間、私を慰め、辛い試練に耐える助けとなりました。私は、陛下の運命を前もって見抜き、フランス人である私も、いつの日か、陛下の計画に力を合わせることができるだろうと感じました。その計画は、常に寛大なものであり続けるはずだったからです。陛下は、その美しい運命を、余すところなく果たされました。その高貴な道を、私もお供したのであれば、どうか、その報いをお奪いにならないでください。私は、想像の中の英雄に、そして、あえて申せば、心の中の英雄にも、このことをお願いしております。
陛下は、フランスを救われました。パリへの御入城は、専制の終わりを告げました。内々に、どのような所感を抱かれていようとも、もし再び同じ役目へ呼ばれたなら、なさったことを、もう一度なさらなければならないでしょう。たとえ、君主政が、陛下が必要とお考えになるより少し多くの権限を取り戻そうとしているように、またフランス人が、自らの独立への配慮を怠っているように見えたとしても、御自身の栄光に背くことはできないからです。そもそも、われわれは、まだ何者なのでしょう。あれほどの嵐のあとで、短い間にフランス人の気質を理解できると、誰が自負できるでしょうか。どうか、お疑いにならないでください、陛下。陛下がわれわれのために取り戻してくださった国王は、有益な制度を与えようとするなら、いくらかの用心を交えながら、優れた記憶の中に、昔のわれわれが何者だったかを探し、何がわれわれに適するかを、正しく判断しなければなりません。暗い圧制によって国民的な習慣から引き離されたわれわれは、与えられる政府に対して、長い間、馴染まない者のように見えるでしょう。
フランス人は、一般に、印象を受ける際には軽やかであり、今後もそうでしょう。それをすぐに言い広める姿が、いつも見られるはずです。その印象は長く続くまいと、ひそかな本能が知らせるからです。この移ろいやすさによって、彼らは、やがて、かなり広い信頼を君主の手に委ねるでしょう。そして、われわれの君主は、それを濫用しないでしょう。
フランスでは、国王は、常に祖国よりも、はるかに大きな存在でした。われわれには、祖国が人間の姿を取ったかのように思われるのです。われわれには、国民的な誇りはありませんが、広く行き渡った虚栄心があり、それは、うまく整えられれば、個人の名誉についての、非常に強い感覚を生みます。われわれの意見、むしろ好みが、しばしば国王たちを導きました。(ボナパルトも、自分の陰鬱な流儀にわれわれを従わせようとしなければ、フランス人の血を、もっと咎められずに流せたでしょう。)一方では、君主たちの形式や振る舞いが、われわれを形作りました。この相互の作用から、つまるところ、いつか憲法という名に値するものとなりうる、統治と服従の仕方が、われわれの間に生まれるのを、御覧になるでしょう。国王は、長くわが国の歴史を学んできました。われわれを知り、御自身から発するすべてに、王者としての性格を与えるすべを心得ています。われわれが自分自身を取り戻せば、国王の行動と資質を、自分自身のものとする、あの真にフランス的な習慣へ戻るでしょう。それに、自由主義の原則は、時代の精神とともに歩んでおり、そこへ至らなければなりません。陛下が私の言葉を信じてくださるなら、自由と結び付いた君主政を得ること、有為の人々がフランスで迎えられ、地位を与えられるのを御覧になることを、お約束いたします。そして、陛下の栄光のために、わが国の幸福を、お請け合いいたします。
陛下、パリで多くの不満を持つ者を御覧になったことは、認めます。しかし、先の革命の急速さと、これほど多くの激情が、同時にかき立てられた驚きを差し引いたとしても、パリとは、結局、何でしょうか。俸給で暮らす都市にすぎません。俸給の支給が止まったことだけが、パリの人々に、ボナパルトの専制を知らせたのです。官職にある者への支払いが続いていたなら、地方が暴政にうめいても、無駄だったでしょう。地方こそ、真のフランスです。そこでは、本当にブルボン家の帰還を祝福し、陛下の幸いな勝利を、声高に称えているのです。
この手紙が長くなったことを、陛下は、お許しくださるでしょう。陛下の寛大なお心から生じる御懸念の、大部分に答えるためには、必要な長さでした。これは、ぜひお伝えしたかった説明の代わりとなるものです。毎日会っているポッツォ将軍[128]、陛下が、われわれのもとに残してくださったことを、いくら感謝しても足りないこの人が、われわれを見守り、注意を与えてくれるでしょう。われわれには、時として、注意を受ける必要があるからです。私は、この人と、国家間の利害を取り扱います。そして、私の望むとおり、陛下が、しばしでもフランスへ再びお越しくださる光栄に浴するなら、私が陛下を欺いていなかったことを、この人がお話しし、陛下御自身も御覧になるでしょう。
私の悲しみの秘密を、もう一人、ただ一人だけ、打ち明けられた女性がおります。陛下の御厚情を受け、私の不安を、これほどよく理解してくれるクールラント公爵夫人のことです。再び陛下にお目にかかる幸福に恵まれた時には、どれほど心を痛めたかをお伝えする役目を、彼女に委ねましょう。そして、そうした苦しみを受けるいわれは、私にはなかったことも、彼女はお話しするでしょう。
しかし、陛下、どうか、その寛大なお心に、少しばかり御辛抱をお持ちください。真に善良なフランス人である私に、昔のフランスの言葉遣いで、国王たちを愛する古い習わしを、われわれが取り戻すままにしておいてほしいと、お願いすることを、お許しください。この感情が、偉大な国民に及ぼす力を、理解するのを拒むことは、陛下には、ふさわしくありません。
陛下、いつもの御厚情をもって、深い敬意の表明をお受け入れください。私は、陛下の、最も慎み深く、最も従順な僕でございます。
ベネヴェント公。」
次に、私がウィーンへ出発する際、ルイ十八世から与えられた訓令を掲げる。
訓令
会議に赴く国王の大使たちへ
「権限を与えられたいかなる会議も、正統に組織されているのでなければ、何一つ正統な行為をなしえない。したがって、参加する権利のある者を、誰一人排除せず、その権利のない者を、誰一人認めてはならない。また、厳密に自らの権限の範囲内にとどまり、定められた規則に従って進めなければならない。その規則がない場合は、会議が組織された目的と、事物の本性から導き出せる規則に従うべきである。事物の本性は、さまざまな対象の間に従属関係を置くことによって、それらを処理する際の不可欠な順序を定める。従属する問題は、その前提となる問題に先立って、取り扱い、解決することができないからである。最後に、最も正統で、最も賢明な行為であっても、実行の手段を欠き、効果がないままであれば、むなしく、まったく無駄なものとなる。
したがって、会議が、何より先に次の事項を定めることが、絶対に必要である。
一、いかなる国家が、全権委員を参加させるべきか。
二、いかなる事項を、そこで処理しなければならず、または処理できるか。
三、どのような方法で処理すべきか。決定または仲裁によるのか、交渉によるのか、それとも、一部は前者、一部は後者によるのか。また、それぞれの方法を用いるべき場合は何か。
四、決定による方法を用いる場合、どのように票を構成するか。
五、事項を取り扱う順序。
六、決定に与える形式。
七、何らかの障害が生じた場合の、実行の方法と手段。
五月三十日の条約の第三十二条によれば、会議は全体会議でなければならず、その条約が終結させた戦争に、双方のいずれかとして関与した、すべての国々が、全権委員を派遣しなければならない。「列強」という呼称には、大きさと力についての漠然とした観念が伴い、そのどちらも持たない多くの国家には、当てはまらないように思われる。しかし、第三十二条のように、抽象的かつ一般的に用いられ、その一般性が、国家の相対的な力とはまったく無関係で、最小の国にも最大の国にも共通する、一つの関係の表明によってのみ限られる場合には、その関係にあるすべての国家を、争う余地なく含む。すなわち、五月三十日の条約が終結させた戦争に、双方のいずれかとして関与した国家である。ところで、トルコとスイスを除けば、サンマリノ共和国は数えることができないから、ヨーロッパのすべての国家が、大小を問わず、この戦争に関与していた。したがって、最小の国家が会議へ全権委員を送る権利も、五月三十日の条約の規定から生じる。フランスは、それらを排除しようとは考えなかったし、他の締約国にも、それはできなかった。それらの国家のために、その名で取り決めた以上、それらに反する取り決めは、できなかったからである。弱さを理由に、最も排除したくなるであろう最小の国家は、すべて、あるいは、ほとんどすべて、ドイツにある。ドイツは連邦を形成することになっており、それらの国家は、その構成員である。したがって、その組織は、それらに最も深く関係する。それらの参加なしに組織すれば、本来の独立と、五月三十日の条約の第六条に違反せずにはいられない。その条項は、ドイツ諸国が独立し、連邦的な結合で結ばれると述べることで、その独立を暗黙に承認しているからである。この組織は、会議で作られる。したがって、それらの国家を排除するのは、不正である。
この段落は puissances という語の適用範囲を論じる。一般には大国を連想させるため「列強」としたが、ここでの条約上の用法は小国をも含む、と訓令は説明している。
これらの正義上の理由に、フランスの利益となる理由も加わる。小国の利益となることは、フランスの利益にもなる。すべての小国は、自らの存立を保ちたいと望み、フランスも、それらが存立を保つことを望むべきである。中には、領土を広げたいと望む国もあろう。大国の拡大を抑えうる限り、それらの国が拡大することは、フランスにとって好都合である。フランスの政策は、小国を保護し、優遇することでなければならない。ただし、疑念を抱かせないようにすべきである。小国が会議に参加せず、その要求を支持するだけでは済まず、代わって要求を出さなければならないなら、それは、より難しくなる。一方、小国がフランスの支援を必要とすることは、フランスに、小国への影響力を与える。したがって、小国の声が数えられるかどうかは、フランスにとって、どうでもよいことではない。
したがって、国王の大使たちは、必要な場合、前の戦争に関与した国家が小さいという口実で、その君主が会議へ送る全権委員を排除することに反対し、その参加を認めるよう強く要求する。
ヨーロッパの諸国民は、相互の間で、道徳法または自然法だけに従って暮らしているのではない。自ら作った法にも従っており、その法は、前者に欠けている拘束力を与える。文書による協定、または常に、あまねく、相互に守られてきた慣習によって定められ、明示または黙示の相互の同意に、常に基づき、すべての国を拘束する法である。この法こそ、国際公法である。
droit public は、この文脈では国家間の法を指すため「国際公法」とした。
さて、この法には、二つの根本原則がある。一つは、主権は、単に征服したという事実だけでは取得できず、主権者が譲渡しない限り、征服者へ移ることはない、という原則である。もう一つは、いかなる主権の権原も、したがって、それが前提とする権利も、他の国家にとって実在するのは、それらの国家が承認した限りにおいてのみだ、という原則である。
征服された国に主権者がいる場合は、常に譲渡が可能である。そして、先に挙げた第一の原則からすれば、その譲渡を、何ものによっても置き換え、あるいは補うことはできない。
しかし、征服された国に、主権者がいない場合もありうる。かつての主権者が、自分と相続人のために、権利を誰かへ譲渡することなく、単に放棄した場合、または、統治する王家が絶え、そのあとを継いで統治する者が、法律上定められていない場合である。共和国では、征服された瞬間に、主権者は存在しなくなる。その性質上、自由が、その存在の必要条件であり、征服状態が続く限り、一瞬たりとも自由であることは、絶対に不可能だからである。
その場合、主権者による譲渡は不可能である。
だからといって、この場合、征服の権利が無期限に続き、あるいは、それ自体で主権へ転じうるということになるだろうか。決してそうではない。
主権は、ヨーロッパの一般社会において、個々の市民社会における私有財産に当たる。征服下にあり、主権者を欠く国または国家と、所有者のいない財産は、いずれも無主の財産である。しかし、それぞれ、無主ではない領域の一部をなしている。したがって、その領域の法に服し、その法に従ってしか取得できない。すなわち、私有財産は、それが所在する個別国家の公法に従い、国または国家は、ヨーロッパの共有領域を形作る地域全体の一般法たる、ヨーロッパ国際公法に従う。ところで、この法の原則の一つは、征服という事実だけでは、主権は移転しない、というものである。したがって、主権者による譲渡が不可能な場合は、それに代わるものが、絶対に必要となる。そして、その代わりとなりうるのは、ヨーロッパの承認だけである。
領国が征服下にある主権者は、自然人であれば、自らの権利を譲渡し、または放棄しない限り、主権者でなくなることはない。征服によって失うのは、事実上の占有だけであり、したがって、その占有を前提としないすべての行為をする権利は、保持する。会議へ全権委員を送ることは、その占有を前提とするどころか、占有を取り戻すよう要求すること自体を、目的としうる。
したがって、ザクセン王と、アシャッフェンブルクの正統な主権者たる首座大司教公[129]は、後者が退位していない限り、それぞれの全権委員を派遣できる。派遣できるだけでなく、そうする必要がある。彼らの領有地の全部または一部を処分しようとする可能性は、きわめて高い。その際、彼ら自身による譲渡または放棄なしには、正統に処分できないため、彼らから権限を与えられ、その名で譲渡または放棄できる者が、必要だからである。また、自由になされない譲渡または放棄、すなわち自由な状態にある主権者によって行われないものは無効である、というのが、ヨーロッパ国際公法の第三の原則である。そこで、国王の大使たちは、何らかの使節が、この原則を援用して、ザクセン王が、適当と考えるいずれの場所へも、直ちに退去できるよう要求するように、取り計らう。そして、その要求を支持する。必要ならば、自ら要求する。
オルデンブルク公[130]、アーレンベルク公[131]、ザルムの諸侯[132]は、主権をもって国々を領有していた。それらは、平時のさなかに、自らを彼らの保護者と称し、保護者であるべきだった人物によって奪われ、フランスへ併合された。しかし、彼らは、それらを譲渡していない。連合諸国は、これまでのところ、アーレンベルク家とザルム家の権利を、認めていないように見える。しかし、それらの権利は、イーゼンブルク公の権利と同じく、存続している。同公は、自国を離れてフランスに仕えていたため、敵として扱われ、領国は征服下にある。
旧神聖ローマ帝国の諸侯および伯で、ライン同盟を成立させた文書によって、その加盟国の臣民となった者たちは、領国を奪われた主権者と見なすことはできない。彼らは主権者ではなく、皇帝および帝国の封臣かつ臣民にすぎず、彼らに対する主権が、新たな支配者へ移ったからである。領国を奪われた主権者として認めさせようとする彼らの試みは、いくつかの国が支持したがるかもしれないが、不当で危険なものとして退けなければならない。この点で、ためらうだけでも、南ドイツ全体を動揺させ、おそらくは、火の海にするに十分だろう。
エルサレムの聖ヨハネ騎士団は、会議への使節派遣を望むかもしれない。しかし、騎士団が領有していた唯一の領土は、マルタ島とその属地であり、それを譲渡した。財産のない所有者がありえないのと同じく、領土のない主権者はありえない。したがって、騎士団は、主権者ではなくなっており、領土を取得しなければ、再び主権者となることはできない。
征服された国の解放は、いかなる方法でなされても、占有だけを失っていた主権者には、直ちに占有を返し、共和国には、その存在を取り戻させる。どちらも、自らに属し、他の誰にも属していなかったものを、取り戻すだけである。
ハノーファーおよびヘッセンの選帝侯、ドイツの諸侯としてのナッサウ=オラニエ公、ブラウンシュヴァイク公[133]、オルデンブルク公は、その国々が侵入を受け、または処分された時、神聖ローマ帝国の解体によって、いずれも独立していた。したがって、今日も、従来と同じ権原によって領有している。
リューベック、ブレーメン、ハンブルクの各都市は、神聖ローマ帝国の解体によって独立し、ダンツィヒ市は、ティルジットの講和によって独立した[134]。ヴァレー、ジェノヴァ、ルッカ、ラグーザの各共和国は、数世紀にわたり独立していた。ジェノヴァとルッカが、自らを差し出したかのように見える文書を有効と見なさない限り、これらは、いずれも征服下に置かれたのである。
現在、外国軍に占領されず、外国の権力によって統治されていないものは、以前の状態へ戻っており、会議に使節を置くことができる。それ以外のものは、できない。
ジュネーヴは、かつての自由を取り戻した。しかし、五月三十日の条約が終わらせた戦争に、国家として関与しておらず、また、同じく戦争に関与していないスイス連邦の一部となるべきものである。
エルバ島は、戦争が終わってから初めて、一つの国家となった[135]。
征服は、それ自体では主権を与えられない以上、主権を返すこともできない。かつて譲渡した国へ、征服によって戻った主権者が、再びその国の主権者となるわけではない。それは、譲り渡した物を奪い取った所有者が、再びその所有者となるわけではないのと、同じである。
征服が一人に与えられないものは、複数の者にも与えられない。したがって、複数の共同征服者が、征服したものに対する主権を、自らに割り当て、または互いに与えるなら、それは、国際公法が認めず、無効とする行為である。
オラニエ公[136]は、オランダに対する一切の権利を譲渡していた。しかし、ヨーロッパの主要八か国が署名し、すべての国の名において結ばれた五月三十日の条約が、この国を彼に返す。(公開条約、第六条。)
同じ条約は、会議で行うべき処置の基礎をいくつか定める中で、一部しか譲渡していなかったサルデーニャ王の旧領を、同王へ返還すると述べる(秘密条項、第二条)。また、オーストリアのアルプス以南の境界を、ポー川、マッジョーレ湖、ティチーノ川とする。これによって、アドリア海沿岸およびイタリアで、かつて同国に属し、その後譲渡された地方が、返還されることになる。(公開条約、第六条、および秘密条項、第二条。)
参照される公開条約・秘密条項の番号は、訓令の原文どおりに保った。
したがって、オラニエ公は、かつて譲渡したために自らに属さなくなった国について、現に正統な主権を有する。サルデーニャ王とオーストリアも、同様の国々について、ほとんど現に成立している主権を有する。
しかし、条約は、プロイセンが、さまざまな時期にエルベ川のこちら側で譲渡した国々の、どれ一つとして返還していない。したがって、同国には、これらの国々に対する、現実の主権は何もない。ただし、ヌーシャテル公国は例外とする。これについては、最後の正統な領有者が、同国と、譲渡と見なしうる取り決めを行ったからである。条約は、トスカーナとモデナを、フェルディナント大公[137]およびフランツ大公[138]へ返していない。したがって、両大公は、その正統な主権者ではなく、正統な主権者であることもできない。
征服された国で、自分に譲渡されていない主権を、自らのものとする君主は、それを簒奪している。その国が、かつて彼に属し、かつ無主であるなら、簒奪の憎むべき度合いは小さい。しかし、それでも簒奪であり、いかなる正統な権利も生み出せない。
モデナは、五月三十日の条約が終結させた戦争より前に、譲渡され、別の国家の不可分の一部となっていた。したがって、その戦争に、国家として関与していない。ゆえに、仮に今、正統な主権者がいたとしても、その主権者は、会議に使節を置くことはできない。
パルマも同じく譲渡され、戦争より前に、独立した国家を形成しなくなっていた。そして、戦争が終わってから初めて、再び一つの国家となった[139]。
トスカーナは、それを譲り受け、併合していたフランスが放棄したとはいえ、無主の国ではない。譲渡には、履行されなかった条件があったからである。すなわち、定められた等価のものを提供する、という条件だった。それが提供されなかったため、エトルリア王妃は、この国に対する主権を、取り戻したのである[140]。
最も正統な権利でも、争われることはある。その場合、争いが決着しない限り、権利は不確かなものとなり、不確かなままにとどまる。そのため、権利が確実であることを必要とする、すべての場合、すべての場所で、その効力は停止される。自らを承認する国家にとってのみ主権者である者は、すべての国の使節が集まる場所に、その一部が認めていない資格によって、自分自身の使節を置くことはできない。
したがって、フェルディナンド四世が会議に使節を置けるのは、シチリア王としてのみである。これだけで、ナポリを統治している者には、使節を置けないことも、十分明らかである。
以上のすべてから、次の一般原則を導くことができる。
前の戦争に関与した国家に対し、あまねく承認され、自ら譲渡しておらず、他の誰にも認められていない主権を持つ君主は、その国家が征服下にあるかどうかを問わず、会議に全権委員を置くことができる。同様に、戦争の始まりには自由であり、その戦争に関与し、現在も自由である、すべての国家も、置くことができる。それ以外の君主または国家は、置くことができない。
国王の大使たちは、この原則を守り、採用させ、従わせるよう努める。
五月三十日の条約が、会議で処理すべきものとして挙げているのは、次の事項だけである。
一、フランスが放棄した領土の処分(秘密条項、第一条)。
二、ヨーロッパに真実かつ永続的な均衡の体制をもたらすべき諸関係(同条)。
三、ドイツ諸国家の連邦の組織(公開条約、第六条)。
四、条約以降、スイスが自ら定めた、または今後定める組織の保障(秘密条項、第二条)。
五、沿岸諸国が、ライン川の航行に対して徴収する料金(公開条約、第五条)。
六、ライン川の航行を自由とする規定を、実行可能と判断される場合、異なる国家を隔て、または横切る河川へ適用すること(同条)。
七、黒人奴隷貿易の全面的な廃止(イギリスとの条約、追加第一条)。
しかし、処分すべき領土は、フランスが放棄したものだけではない。フランスの首班として以外の資格でナポレオンに属していた領土、または、その家族の個人に属していた領土で、彼が自分のためにも、彼らのためにも放棄したものを、処分する必要もある。
これらの領土のほかにも、征服下にある領土は数多い。会議が、その運命を定めないとすれば、活動の主要かつ最終的な目的であるべき、あの均衡を、どうして築けるだろうか。すべての国家の力の間に、したがって領有地の間に、定まった関係があることは、均衡の必要条件ではないか。いくつもの国で、領有する権利が不確かであるなら、すべての国の領有地の間に、確かな関係が存在しうるだろうか。築くべきなのは、一時的な均衡ではなく、永続的な均衡である。それが続くのは、基礎とされた関係が続く限りにおいてのみであり、その関係自体も、領有権が、その関係を変えない順序で継承される限りにおいてしか、続かない。したがって、各国の継承順序は、均衡の計算に、不可欠な要素として入らなければならない。確実であるなら変えるためではなく、不確かであるなら確実にするためである。継承が不確かな国家の領土を拡大する場合には、それを定める理由が、もう一つ増える。現在の領有者に与えることは、その相続人に与えることでもあり、誰に与えるのかを、知る必要があるからである。不確かな継承権は、通常、ほとんど避けがたく、内戦か対外戦争、しばしば、その両方を同時に引き起こす。このことは、この点の一切の不確実性を除く、正当な理由となるだけでなく、それを必要なことにもする。
サルデーニャ王は、その称号の中に、神聖ローマ帝国の諸侯および永代代理というものを持っていた。サヴォワ、モンフェッラート[141]、ピエモンテのいくつかの地区は、帝国の封土だった。したがって、そこでの継承権は帝国の法によって定まり、その法は、女性を永続的に排除していた。
サルデーニャ王は、そのほかの領国を、独立した君主として領有していた。したがって、その継承権は、それらが服していない帝国の法によって、定められるはずがなかった。では、そこでの継承順序は、明文の法で定められており、その法は、慣習という黙示の法では代わりにならない事態にも、適用できるのだろうか。慣習では代わりにならないのは、その事態が、まだ一度も生じていないからである。それは、二系統に分かれたサヴォイア家において、統治する系統に女性しか残らなくなる場合である。確かに、これは、まだ将来の事態である。しかし、きわめて確実で、きわめて近い将来であるから、ヨーロッパとの関係でも、会議が処理すべき事項との関係でも、現在のこととして考えなければならない。統治する系統には、三人の王族しかおらず、三人とも高齢である。妻を亡くした前国王[142]、娘しかいない現国王[143]、そして、結婚して七年になるが、子供のいないジュヌヴォワ公[144]である。
一四四五年、ピエモンテが、すでに四世紀にわたりサヴォイア家に属していた時、ルイ公は、主権を持つ家の没落は、通常、その領有地の分割から生じる、という理由に基づき、サヴォイア家の領地、すなわち、同家が当時領有し、将来領有するすべてのものを、譲渡不能と宣言した。こうして、すでに取得したものも、今後取得するものも、すべてサヴォイア公の冠に結び付けられた。実際、数世紀を通じ、サヴォワの相続人は、常に、その家のすべての領有地の相続人でもあったことが分かる。もし、ほかの領有地とサヴォワとで、異なる継承順序があったなら、これは、決して起こらなかっただろう。共通していた継承順序は、統治する系統の中でだけ存続すべきであり、その系統に女性だけが残った場合、帝国の封土でなかった一切のものについて、その女性を、もう一方の系統の男性より優先すべきだ、と言うならば、それは、証拠なしには認められない主張をすることである。そして、それを証明できるのは、両系統の間に、そのような区別を設けた、法的に有効で、真正かつ厳粛な文書だけである。そのような文書が存在したなら、知られないままではなかっただろう。複数の集成に、引用または全文が載っているはずだ。しかし、その痕跡は、どこにも見つからない。したがって、そのような文書は存在せず、現行の継承法によって、サルデーニャ家の遺産は、帝国の封土だった部分だけでなく、その全体が、統治する系統の最後の王族から、直ちに第二の系統の王族たちへ移るべきであると、確実に考えてよい。言い換えれば、サルデーニャ家のすべての領有地は、長子相続権によって、男性から男性へ継承され、女性は除外されるのである。この点に疑問が生じることも、おそらく、なかっただろう。オーストリアが、自ら、または自家の王族を通じて、北イタリア全体の領有を目指し、疑いを起こすことに利益を持っておらず、また、フランツ大公と国王の長女である王女との結婚が、オーストリアに、利用されかねない口実を与えていなければ、のことである。大公が、自発的に、またはオーストリアに促され、妻の資格に基づいて行う要求を、権利と呼ぶだけで、オーストリアは、それを武力で支える権利を、自らに認められる。こうした要求と、それが必ず招く悲惨な結果を防ぐことは、賢明であるだけでなく、必要でもある。あらゆる争いを未然に防ぐ承認によって、カリニャーノ家の権利を確認しなければならない[145]。
ある主権の権原は、それを承認しない国家にとって無効である、という国際公法の同じ原則は、必然的な帰結として、主権を取得するすべての手段にも、したがって、主権を伝える継承法にも及ぶ。旧オーストリア家の二つの系統それぞれの最後の君主が、自分の代で終わるはずだった継承順序を、新たな順序へ置き換えた時、何が起こったかは、知られている。カルロス二世は遺言によって、カール六世は国事詔書によって、それを行った。ある国には承認され、ほかの国には承認されなかった新たな継承法は、血なまぐさい争いの対象となった。そして、それぞれの君主の取り決めが確立しようとした権利について、すべての国家が一致して初めて、争いは終わり、その時になって初めて、終わることができた。争いを終わらせることは、権利を確認することにほかならない。したがって、その承認がなければ、権利は存在しないと見なされるような者たちこそ、権利を確認できるのであり、それができるのは、彼らだけである。同じ手段によって、会議には、主権をめぐる現在の争いを終わらせる権能に加え、事物の本性が許す限り、争いを予防する権利だけでなく、義務も生じる。ヨーロッパは、個別の国家とは異なるからである。一国内では、所有権をめぐる争いが、容易かつ速やかに止められないような、きわめて重大な結果を生むことはなく、それを終わらせうる者も、常にいる。会議は、争いを最も確実に生み出しかねない、すべての原因の中でも最大のもの、すなわち、継承権の不確実性を取り除くことで、争いを予防しなければならない。
スイスは、ヨーロッパの戦争のただ中にあり、しかも対立する二大国の間に位置しながら、数世紀にわたり、常に尊重される中立を享受してきた。その中立は、自国と同じく、他国にも利益をもたらした。中立によって、戦場が限定されただけでなく、多くの戦争の原因も防がれた。また、フランスは、その国境の最も弱い部分、常に中立なスイスが覆っていた部分の防衛に、手段と兵力の一部を割く必要がなかった。将来、スイスに中立を保つ自由がなくなる、あるいは、それと同じことだが、中立が尊重されなくなるとすれば、その状態は、近隣諸国の相対的な力に必然的に影響し、築こうとしている均衡を乱し、さらには、覆すことにもなりかねない。五月三十日の条約は、スイスの組織を保障することしか述べていない。しかし、将来の中立も、保障する必要がある。
オスマン帝国は、前の戦争には関与していない。しかし、その存続がヨーロッパの均衡の維持に重要である、ヨーロッパの一国家である。したがって、その存立も保障することが有益である。
ゆえに、会議は、次の事項を定めなければならない。
一、征服下にあり、無主ではない国家の運命。それには二つの類型がある。第一は、争われている国家、すなわち、同一の主権が、異なる国々によって、複数の者に認められている国家である。
ナポリ王国とトスカーナが、この類型に属する。
第二は、主権者が、譲渡することなく占有を失い、ほかの者が主権を自らに帰してもいない、国家または領土である。
ザクセン王国、ワルシャワ公国、アドリア海沿岸の教皇領、アーレンベルク、イーゼンベルク、ザルムの各公国が、第二の類型をなす。それらには、首座大司教公が退位していないなら、アシャッフェンブルク公国も加えなければならない。
イーゼンベルクは、この箇所の原綴り Isemberg に従った表記。前段では同じ家を Isenbourg と記している。
二、不確かな継承権。
三、無主の国家または領土の処分。すなわち、正統な主権者が、譲渡することなく放棄した国家、または、ヨーロッパの同意によって、現に成立する主権が、誰にも与えられていない国家である。
これらも、二つの類型をなす。第一は、五月三十日の条約によって、まだ現に割り当てられてはいないが、帰属先を予定されたものを含む。すなわち、次のとおりである。
サルデーニャ王には、フランスへ譲渡された旧領の一部、すなわちサヴォワとニース伯領(その他の領有地は譲渡されていなかったので、同王は、法律上の主権者であり続けていた)、およびジェノヴァ国の未確定の一部。
オーストリアには、イリュリア諸州と、イタリア王国のうち、ポー川左岸、マッジョーレ湖およびティチーノ川の東側にある部分。
オランダには、ムーズ川左岸に、今後定める境界を持つベルギー。
最後に、プロイセンおよび名を挙げられていない他のドイツ諸国には、補償として、ムーズ川、フランスの国境、ライン川の間の地方。それらの国々の間で分割される割合は、示されていない。
もう一方の類型には、無主の国々の残りが属する。すなわち、次のとおりである。
ジェノヴァ国のうち、サルデーニャ王への帰属が予定されていない未確定の部分、旧イタリア王国のうち、オーストリアへの帰属が予定されていない部分、ルッカ、ピオンビーノ、イオニア諸島、一八一一年一月一日以前の状態でのベルク大公国、東フリースラント、ヴェストファーレン王国の一部をなしていた旧プロイセンの全諸州、エアフルト公国、ダンツィヒ市。
四、エルバ島の将来の運命。同島は、現在の領有者に、その生涯の間だけ与えられており、その死とともに、無主の国となる。
五、ドイツ連邦の組織。
これらすべては、その結果として真の均衡が生まれるように定めなければならない。その均衡を構成する不可欠な部分として、スイスの組織、将来の中立、およびオスマン帝国のヨーロッパ領の保全が、承認され、保障されなければならない。
六、ライン川、スヘルデ川、および航行が自由となるその他の河川の、通航料金。
七、奴隷貿易の全面的な廃止。
同意しない国家に、義務を新たに課すことも、その確かな権利を奪うこともできない。
そのいずれかを行おうとするすべての場合において、すべての国々が集まっても、一国より大きな権能を持つわけではない。関係当事者の同意が必要である以上、それを得るか、または、同意なしには正当でありえないことを、断念するほかない。その場合、許されるのは、交渉による方法だけである。
反対に、権限が一度確立されれば、会議の権限は、前述の原則から、疑いなく導かれるのだが、争いのある主権を確認し、誰にも属さない領土を処分し、または、複数の国家が正式な同意によって全体の利益に従属させた、共通の権利の行使を定める場合には、決定による方法だけが、取りうる方法である。第一の場合には、権利を無効と宣言された者の同意が、第二の場合には、処分可能な領土を要求するすべての者の同意が、第三の場合には、すべての関係者の同意が必要だとすれば、いかなる紛争も終わらせられず、いかなる無主の領土も無主でなくなることができず、全体の利益に従って行使を定めるべきいかなる権利も、行使できなくなるからである。
争いのある国家の運命、
不確かな継承権、
無主の国家の処分、
そして、ライン川に設ける通航料金は、
決定による方法で定めなければならない。ただし、対象の違いから生じる、次の区別がある。第一の場合、紛争当事者の一人の権利が、全会一致で承認されなければ、争いを終わらせることはできない。第二の場合も、決定は全会一致でなければならない。第三の場合も、同様であるが、競合する要求者たちの票は除き、数えてはならない。第四の場合は、多数決で足りる。
その他の事項は、交渉による方法でしか定められない。
無主でも、係争中でもない国々の運命については、それぞれの主権者に返還する以外の処分を行うには、その主権者の同意が必要だからである。
ドイツ連邦の組織については、その組織がドイツ諸国にとって法となり、同意なしには押し付けられないからである。
奴隷貿易の廃止については、それが、これまでヨーロッパ国際公法の対象外の事項であり、イギリスは今、その法のもとへ置こうとしているからである。
キリスト教世界のヨーロッパに住む、およそ一億七千万人のうち、三分の二以上は、フランスと、同国とともに五月三十日の条約に署名した七か国に属する。残りの三分の一の半分は、征服下にある国々に属する。それらは、戦争に関与しなかったため、会議に使節を置かない。残余が、四十を超える国家の人口をなす。その中には、五月三十日の条約に署名した最小の国家の、百分の一にも、かろうじて届くかどうかというものがある。すべてを合わせても、ヨーロッパの大国に等しい一つの勢力にはならない。それらは、審議にどの程度参加するのか。投票権は、どの程度持つのか。それぞれが、最大の国家と同じだけの割合を持つのか。それでは、事物の本性に反する。共同で一票しか持たないのか。その一票をまとめることは、決してできないだろう。まったく票を持たないのか。それなら、参加させないほうがよい。しかし、誰を排除するのか。教皇、シチリア、サルデーニャの使節か。オランダか、ザクセンか。それとも、王冠を戴く君主の使節でない者だけか。しかし、それらの諸侯が譲渡しなければならないなら、誰が代わって譲渡するのか。課そうとする義務に対し、彼ら自身が与えるべき同意を、誰が代わって与えるのか。彼らが譲渡しないまま、その国を処分するのか。国際公法が必要とする時にも、同意なしで済ませるのか。そして、ヨーロッパは、自らを律するこの法の原則を破るために、集まったということになるのか。長く無視され、苛酷に侵されてきた原則を、再び効力あるものとすることこそ、はるかに重要である。権利と実情の両方を調和させる簡単な方法は、第三級、第四級の国家が、これからの取り決めに参加する度合いを、その力の大きさではなく、その利害の大きさによって測ることだろう。
ヨーロッパ全体の均衡は、単純な要素から構成することはできない。部分的な均衡の体系からしか、構成できないのである。小国や中規模の国家は、自らの属する個別の体系に関することにだけ、参加する。イタリア諸国は、イタリアの取り決めに、ドイツ諸国は、ドイツの取り決めに参加する。大国だけが、全体を見渡し、それぞれの部分を、全体との関係において整える。
事項を取り扱う最も自然で、最も適切と思われる順序は、先に示した順序である。まず、それぞれが何を持ち、何を保持すべきかを確認し、何かを付け加える必要があるか、あるなら何を加えるべきかを知り、十分に事情を理解したうえでのみ、処分可能なものを処分する。次いで、配分すべきものを配分し、こうして、あらゆる均衡の第一の基礎である、全体の領有状態を定める。ドイツの組織は、そのあとでしか定められない。ドイツ諸国の相対的な力に応じたものにしなければならず、したがって、その力を、あらかじめ確定しておく必要があるからである。最後に、保障は、その対象となる取り決めに先立つのではなく、それに続かなければならない。
会議の審議、行為、決定については、議定記録を作成しなければならない。
これらの決定は、通常の条約の言葉でのみ表すべきである。ナポリ王国をフェルディナンド四世へ返すには、条約が、この君主をナポリ王として承認するだけで足りる。または、単に次のように、その称号を付して名を挙げるだけでもよい。「ナポリおよびシチリア国王フェルディナンド四世陛下。」
同じく、カリニャーノ家の権利を確認するには、条約が次のように述べるだけでよい。「ジェノヴァ国の当該部分は、永久にサルデーニャ国王陛下の領国へ併合され、その領国と同じく、完全な所有権と主権をもって領有され、王家の両系統において、長子相続の順序に従い、男性から男性へ継承されるものとする。」
実行の方法と手段については、承認された権利の共同保障が、すべてに足りる。それによって、保障する者たちは、その権利を支える義務を負い、その権利に対立する要求は、外部からの一切の支援を失うからである。
会議が処理でき、また処理すべき事項は何か、そして、その権限は、それらを処理するために用いられるべき法の原則そのものから生じることを示した。残るのは、これらをフランスの利益との関係から考察し、フランスが幸福な立場にあることを示すことである。すなわち、正義と有益さが切り離されることを望む必要も、全体の利益である正義の外に、自国だけの利益を求める必要もない、という立場である。
すべての国家の間の力の絶対的な平等は、決して存在しえないだけでなく、政治的均衡に必要でもなく、ある点では、おそらく有害ですらある。均衡とは、さまざまな政治体の相互の抵抗力と攻撃力の間の関係にある。もしヨーロッパが、最小の国家の抵抗力の最小値が、最大の国家の攻撃力の最大値に等しくなるような関係を持つ諸国家から成っていたなら、真の均衡、すなわち、事物の本性から生じる均衡が存在しただろう。しかし、ヨーロッパの状態はそうではなく、そうなることもできない。一つの国家に属する広大な領土のそばに、同じか、それより小さな領土が、多かれ少なかれ多数の、しばしば性質の異なる国家に分かれて存在している。これらの国家を連邦的な結合で結ぶことは、時に不可能である。そして、そのように結ばれた国家に、一つの単純な国家である場合と同じ意志の統一と行動力を与えることは、常に不可能である。したがって、それらが全体の均衡を構成する際には、常に、不完全な要素としてしか加わらない。複合的な政治体であるため、自らの内部の均衡を持ち、それは、数多くの変化にさらされる。そして、その変化は、それらが一部をなす、より大きな均衡に、必然的に影響する。
このような状況で許されるのは、まったく人為的で、不安定な均衡だけである。それが続くのは、いくつかの大国が、均衡を保つ節度と正義の精神に動かされている限りにおいてのみである。
現状を保全する方針は、前世紀を通じ、最近の戦争を生んだ出来事の時代に至るまで、フランスの方針だった。そして、国王が、常に従おうとする方針でもある。しかし、保全する前に、まず築かなければならない。
もしオーストリアが、イタリア全体の領有を要求したなら、おそらく、その要求に声を上げ、その途方もなさを非難し、イタリアのオーストリアへの結合を、ヨーロッパの独立と安全に致命的なものと見なさない者は、いないだろう。しかし、オーストリアにイタリア全体を与えることは、実は、イタリアの独立を確保するにすぎない。一度、一つのまとまりに統一されれば、イタリアは、いかなる資格でオーストリアに属していても、早かれ遅かれというより、ごくわずかな年数で、おそらくは数か月で、オーストリアの手を離れるだろう。オーストリアは、失うためだけに取得したことになる。反対に、イタリアの領土を七つに分け、主要な二つを両端に置き、最も小さい四つを、最大のものの隣に置くとしよう。最大のものをオーストリアに、最も小さいもののうち三つを、その家の王族に与え、第四のものも、その王族の一人に帰属させることのできる口実を、オーストリアに残すとしよう。もう一方の端の領土を、ヨーロッパの君主たちの一部に対する個人的な立場のため、オーストリア以外には望みも支えも持てない男が、占めるとしよう。第七の領土が、その身分に払われるべき尊敬だけに、すべての力を置く君主に属するとしよう。そうすれば、見かけのうえでは、イタリアの一部しかオーストリアへ与えないようでいて、実際には、すべてを与えたことになるのは、明らかではないか。さまざまな国家への、うわべの分割は、現実には、オーストリアがイタリアを失わずに領有できる、唯一の方法を与えるものにすぎない。そして、ポー川、マッジョーレ湖、ティチーノ川を境界とするはずのオーストリアに加え、モデナ、パルマおよびピアチェンツァ、トスカーナ大公国が、同家の王族を主権者とし、サルデーニャ家の継承権が不確かなままであり、ナポリを統治する者が、そのまま統治を続けるなら、イタリアは、まさに、このような状態となる。
連邦をなさない諸国へ分かれたイタリアは、真の独立を持つことはできず、相対的な独立しか持ちえない。それは、唯一の同じ影響力ではなく、複数の影響力に服することにある。これらの影響力が、相互に釣り合う関係こそ、イタリアの均衡をなす。
この均衡の存在が、ヨーロッパにとって重要であることは、あまりに明らかで、問題にする余地さえない。そして、今描いたようなイタリアの状態では、あらゆる種類の均衡が消えることも、同じくらい明らかである。
均衡を築くには、何が必要で、何ができるのか。正義が要求し、または認めること以外は、何も必要ない。
ナポリを、その正統な主権者へ返さなければならない。
トスカーナを、エトルリア王妃へ。
聖座へは、譲渡されていないアドリア海沿岸の諸州だけでなく、無主となったラヴェンナおよびボローニャの教皇使節管区も、返さなければならない。
ピオンビーノを、同名の公へ返さなければならない。彼は、ピオンビーノとエルバ島の鉱山を、ナポリ王冠の宗主権のもとで領有していたが、いかなる補償もなく、両方の財産を奪われ、それによって、困窮に近い状態へ落とされたのである[146]。
カリニャーノ家の権利を、疑いのないものとし、サルデーニャの領土を拡大しなければならない。
集まったヨーロッパに、次の宣言を提案したとしよう。
主権は、征服という事実だけで取得される。そして、ヨーロッパの大義への変わらぬ忠実さのためにのみ、君主が失った世襲領は、ヨーロッパの不幸によってのみ、それを手中に収めた者へ、ヨーロッパの同意をもって帰属すべきである、と。このような提案が、直ちに、全会一致の非難の叫びによって退けられないと、想像することは不可能である。誰もが感じるだろう。それは、主権の権利と実力との間に、実力を抑え、権利を守るため、諸国民の本来の独立が理性に築くことを許した、唯一の障壁を倒し、道徳そのものの基礎を掘り崩すことに、ほかならないのだ、と。
しかし、会議が、ナポリを統治している者を、その国の主権者として承認することが、仮にありうるなら、それは、暗黙に、この宣言をすることになる。また、フェルディナンド四世を、その資格において承認しなければ、やはり、そう宣言したと見なされるだろう。会議が、真実と認める、すべての主権者にとってこれほど重要な原則への違反を、沈黙によって公認したなどとは、諸国民には、決して理解できないからである。その原則は存在せず、実力だけが権利なのだと、結論するだろう。
オーストリアは、ナポリを統治する者に、保障を与えた[147]と反論するかもしれない。しかし、本人に属さないものを、その人に保障する行為は、必要がそれを弁明すると認めたとしても、少なくとも無効な行為である。そのうえ、この保障は、ヨーロッパの裁定に対して与えられたのではない。当時ヨーロッパが武器を取って対抗していた、一人の男に対してだけ、与えられたのである。
最善なのは、おそらく、ナポリを統治する者が、いかなる主権も得ないことだろう。しかし、彼がヨーロッパの大義に貢献した、と言われている。もし実際に貢献し、それに報いる必要があるなら、あるいは、困難を克服するために必要なら、国王の大使たちは、他人に属するものではなく、何か無主のもの、たとえばイオニア諸島の一部を、彼に与えることに、反対しない。
エトルリア王妃の、トスカーナに対する権利ほど、正統な権利は、かつてなかった。この国は、大公によって譲渡され、カルロス四世が、娘のために取得した。その代わりに、パルマ、ピアチェンツァ、グアスタッラの各公国、ルイジアナ、さらに一定数の艦船と、数百万の金額を与えたのである。それでも、トスカーナの返還に、あまりに多くの困難があり、その代わりに、パルマ、ピアチェンツァ、グアスタッラの各公国が提示されるなら、国王の大使たちは、スペインの大使たちに、この申し出で満足し、受諾するよう勧める。
金額は原文で millions とだけ記され、通貨名はないため補っていない。
オーストリアは、ナポリを統治する者に、その王国の領有を保障しただけではなかった。さらに、人口四十万から六十万に相当する領土の拡大を、実現すると約束していた。イタリア王国の三つの県が設けられていた、アドリア海沿岸の教皇領は、この約束を果たすために充てられることになっており、そのため、ナポリ軍によって占領されたままである。期待すべきことだが、ナポリを統治する者が、統治しなくなれば、この約束は、もはや問題ではなくなる。オーストリアにとって、それを果たす困難さは、約束した相手を見捨てる理由にもなりうる。しかし、いかなる場合にも、国王の大使たちは、これらの地方を教皇領から切り離すことに対して、疑いなく反対する教皇聖下の大使を、あらゆる努力をもって支援する。同様に、できる限り、ラヴェンナとボローニャの教皇使節管区を聖座へ返還させることにも、力を尽くす。フェラーラの管区は、五月三十日の条約によって、オーストリアへの帰属が予定されるものに含まれるため、その返還には、大きな、克服できないほどの困難が生じるかもしれない。しかし、何らかの取り決めで返還を容易にでき、それがイタリアにおけるオーストリアの影響力を増す性質のものでないなら、国王の大使たちは、それに同意する。
ピオンビーノ公は、ナポリ王冠の一封臣にすぎなかったとはいえ、主権を持つ諸侯であるかのように、その領有物を奪われた。したがって、暴力によって奪われた、すべての権利を回復されなければならない。
カリニャーノ家の権利は、十分に詳しく述べたので、再び語る必要はない。サルデーニャを拡大できるのは、それらの権利が、あらゆる疑いの外に置かれることを前提としてのみである。しかし、その場合には、その独立をいっそう強め、確保するため、処分可能な領土の量が許す限り、拡大されることが望ましい。
イタリアで、反対の影響力を対置して、支配するのを妨げなければならないのは、オーストリアである。ドイツでは、それはプロイセンである。その君主国の地理的な構成が、野心を、いわば必要なものにしている。どんな口実でもよい。何のためらいも、その足を止めない。都合こそが、その権利である。こうして、六十三年の間に、臣民の人口を四百万未満から一千万へ増やし、いわば、広大な君主国の外枠を作るに至った。あちこちに散在する領土を取得し、その間を隔てる領土を併合することで、それらを結び付けようとしている。野心によって招いた恐ろしい転落も、それを改めさせなかった。今、その密使や支持者たちは、ドイツを煽り、フランスは、再び侵入しようとしている、プロイセンだけが、ドイツを守れるのだ、と描いてみせる。そして、守るために、ドイツをプロイセンへ引き渡せ、と要求している。プロイセンは、ベルギーを欲しがっていた。今は、フランスの現在の国境、ムーズ川、ライン川の間にある、すべてを欲しがっている。ルクセンブルクも欲している。マインツを与えなければ、すべてが失われる、という。ザクセンを領有しなければ、安全はない、という。連合諸国は、転落前と同じ力、すなわち一千万の臣民を持つ状態へ、プロイセンを戻す取り決めをした、と言われている。好きにさせれば、まもなく二千万を持ち、ドイツ全体が従属するだろう。したがって、その野心に歯止めをかける必要がある。まず、ドイツでの領有を、できる限り制限し、次いで、連邦組織によって影響力を制限するのである。
プロイセンの領有は、すべての小国を存続させ、中規模の国家を拡大することで、制限される。
すべての小国は、ただ存在しているという理由だけで、存続させるべきである。唯一の例外は、アシャッフェンブルクの聖界公国で、その存続は、領土配分の全体計画と両立しないと思われる。しかし、その領有者には、名誉ある生活を保障しなければならない。
すべての小国を存続させるべきなら、ザクセン王国は、なおさらである。ザクセン王は、四十年間、父として臣民を治め、人間としても君主としても、美徳の模範を示した。安息の時期であるべき高齢になって、初めて嵐に襲われ、自分を倒し、ほかの多くを打ち砕いた同じ手によって、直ちに引き起こされた。もし過ちがあったなら、それは、正当な恐怖、または、その対象が何であれ、それを抱く者には常に名誉となる感情に、帰すべきである。王の過ちを責める者たちは、同じ弁明を持たないまま、まぎれもない、比べものにならないほど大きな過ちを犯している。王に与えられたものは、求めたのでも、望んだのでも、知ってさえいたのでもなく、与えられた。王は、順境を節度をもって受け止め、今は、不幸を威厳をもって耐えている。これだけでも、われらの国王が、同王を見捨てない理由として十分である。さらに、両王を結ぶ親族の絆[148]と、ザクセンがプロイセンの取り分となるのを防ぐ必要が加わる。そのような獲得によって、プロイセンは、ドイツでの絶対的な支配へ向け、巨大で決定的な一歩を踏み出すことになるからである。
この必要は、きわめて大きい。そのため、後に述べる一つの仮定において、ザクセン王が、別の王国を領有することになったとしても、ザクセン王国そのものは存続し、公爵家の系統へ与えなければならない。これは、ロシア皇帝にとって、とりわけ好都合なはずである。その場合、皇帝の義弟であるヴァイマル世子が、推定相続人となるからである。
したがって、国王の大使たちは、あらゆる手段をもってザクセン王の大義を守り、いかなる場合にも、ザクセンがプロイセンの一州とならないよう、全力を尽くす。
プロイセンにザクセンを取得させてはならないのと同じく、マインツも、さらには、モゼル川左岸の領土の、いかなる部分も、取得させてはならない。オランダが、ムーズ川右岸に持つべき国境を、その右岸から、できる限り遠くへ押し広げることを助ける。バイエルン、ヘッセン、ブラウンシュヴァイク、特にハノーファーが行う、領土拡大の要求を支援する。もちろん、これらの要求は、無主のものだけを対象とする。そのようにして、処分可能な領土のうち、プロイセンに残される部分を、いっそう小さくするのである。
連合諸国には、ルクセンブルクとマインツを、連邦の共有とし、連邦軍を駐留させる計画がある、と言われている。この計画は、フランス自身の利益に適しているように思われる。そのため、国王の大使たちは、支持する際、疑念を起こすようなやり方を避けなければならない。
すべての連邦は共和体であり、よく組織されるためには、その精神を持たなければならない。だからこそ、諸侯の連邦は、決して十分によく組織されえない。共和体の精神は平等へ向かい、君主の精神は独立へ向かうからである。しかし、問題は、ドイツ連邦に完全な組織を与えることではない。次のことを防ぐ効果のある組織を与えれば、十分である。
ここで république は、君主が一人で治めるものと対比された共同の政治体として「共和体」と訳した。
一、小国における臣民の抑圧。
二、大国による小国の抑圧。
三、そして、大国の影響力が支配へと変わり、その一国または数か国が、自らだけの目的のために、全体の力を自由に使えるようになること。
これらの効果は、小国の中でも、連邦の中でも、権力を分けることによってしか得られない。連邦に権力を集中するなら、その担い手を交代させ、できる限り多くの手へ、順番に渡していくことによってしか、得られないのである。
ドイツの将来の連邦組織について、ここで言えるのは、以上である。国王の大使たちは、その計画を立てる必要はない。どのような精神で作られるべきか、また、審議を求められる計画を、どのような基準で判断すべきかを、知っていれば十分である。
ポーランド王国の復活は、よいことであり、非常によいことだろう。ただし、次の三つの条件のもとでのみ、そうである。
一、独立していること。
二、強固な国制を持つこと。
三、プロイセンとオーストリアに、それぞれが得ていた取り分について、補償する必要がないこと。
これらは、すべて不可能な条件であり、第二は、ほかの二つ以上に不可能である。
まず、ロシアがポーランドの復活を望むのは、すでに得たものを失うためではない。まだ持たないものを得るためである。ところで、ポーランドを復活させ、その全体をロシアに与え、ロシアのヨーロッパにおける人口を四千四百万の臣民へ増やし、国境をオーデル川まで進めることは、ヨーロッパに危険を作り出すことになる。その危険は、きわめて大きく、差し迫っている。そのため、平和を保つために、あらゆることをすべきであるとはいえ、この計画の実行を武力によってしか阻止できないなら、一瞬たりともためらわず、武器を取らなければならない。このようにロシアへ結び付けられたポーランドが、自ら離れることを期待しても、無駄である。そう望むかどうかは確かではなく、そうできるかどうかは、なおさら確かではない。そして、一時、そう望み、そうする力があったとしても、くびきを逃れるのは、再びそれを負うためにすぎないことは、確かである。ポーランドは、独立へ戻されれば、どうしても無政府状態へ戻されるからである。国土の大きさは、厳密な意味での貴族政を許さない。また、民衆に市民的自由がなく、貴族が政治的自由を持ち、あるいは独立しているのに、無政府状態が支配しないような君主政も、存在しえない。理性だけでも、そのことを告げるし、ヨーロッパ全体の歴史も、それを証明する。では、ポーランドを復活させるに当たり、どうやって貴族から政治的自由を奪い、あるいは、民衆へ市民的自由を与えるのか。後者は、宣言や法律によっては与えられない。与えられる民衆が、自立した生活手段、財産、産業、技術を持たなければ、自由は、むなしい名前にすぎない。いかなる宣言も法律も、それらを与えることはできず、時の働きによってしか生まれないのである。無政府状態は、絶対権力の助けによってしか、ポーランドが抜け出せない状態だった。そして、国内にその権力の要素を持たなかったため、完成した形で外から来なければならなかった。すなわち、征服下に落ちなければならなかったのである。隣国が望むと、すぐにそうなった。そして、より文明の進んだ国民に帰属した部分の発展は、それらにとって、征服下に落ちたことが幸いだったと証明している。独立へ戻し、選挙によるのではなく、世襲の国王を与え、さらに、考えうるあらゆる制度を加えるとしよう。その制度が自由でないほど、貴族の気質、習慣、記憶に反することとなり、貴族を武力で従わせなければならなくなる。その武力を、どこから得るのか。他方、制度が自由であればあるほど、ポーランドは、いっそう避けがたく、再び無政府状態へ沈み、最後には、再び征服されることになる。この国には、いわば二つの国民があり、それぞれに、互いを排除し合う二つの制度が必要だからである。この二つの国民を一つにすることも、すべてを調和させうる唯一の権力を作ることもできない。他方、ヨーロッパに明白な危険を及ぼさずに、ポーランド全体をロシアへ与えることもできない。すでに持つものに、ワルシャワ公国だけを加えても、全体を与えることになる。このような以上、最後の分割によって成立した状態へ戻すより、よい方法があるだろうか。そうすれば、プロイセンのザクセン王国への要求にも終止符を打てるから、なおさら好都合である。プロイセンが、あえてザクセンを求めるのは、ポーランド復活を仮定した場合、取り戻せないものへの補償としてだけだからである。
ここでのポーランドの社会や征服に対する評価は、引用されている一八一四年の訓令の議論であり、訳者による評価ではない。
オーストリアも、両ガリツィアに含まれる五百万の臣民について、きっと補償を求めるだろう。あるいは、求めなかったとしても、イタリアのすべての問題において、立場がはるかに強くなるだろう。
それでも、あらゆる見込みに反して、ロシア皇帝が、ポーランドのうち、自らの領有する部分を放棄することに同意するなら、そして、試してみようとするなら、国王は、幸いな結果を期待しはしないが、何の反対もしない。ただし、ロシア皇帝が、ロシア人から自身への危険を招かずに、その放棄を行うことは、おそらくできないだろう。この場合には、すでにワルシャワ公国の主権者であるザクセン王を、ポーランド王にすることが望ましい。父や祖先たちがポーランド王位に就き、その娘も、ポーランドの王笏を持参して夫に嫁ぐべき地位にあったからである。
しかし、分割に参加した三つの宮廷のいずれからも、完全に独立したポーランドを復活させられる場合を除けば、認められる唯一の提案、国王が同意しうる唯一の提案は、いくらかの国境修正を別として、ポーランドのすべてを、最後の分割による状態へ戻すことである。
分割されたままであっても、ポーランドは、永遠に消滅するわけではない。ポーランド人は、政治的な社会を、もはや作らなくても、なお一つの家族を作り続ける。同じ祖国を持たなくなっても、同じ言語を持つだろう。したがって、すべての絆の中で、最も強く、最も長続きする絆によって、結ばれ続ける。九世紀の独立のうちに到達できなかった成熟へ、外国の支配下で到達するだろう。そして、そこへ達する時と、解放され、皆が同じ中心へと結び直される時とは、遠く隔たってはいないだろう。
ダンツィヒは、その中継交易地にすぎなかったポーランドと、運命をともにすべきである。ポーランドが再び独立すれば、自由を取り戻し、以前の分割が維持されるなら、プロイセンの支配下へ戻るべきである。
イオニア諸島の用途として考えられるものは、すでに一つ示した。これらの島々、特にコルフ島が、それを狙うイギリスにもロシアにも、またオーストリアにも属さないことが、重要である。コルフは、アドリア海の鍵である。イギリスが、ジブラルタルとマルタの領有に、コルフを加えたなら、地中海の絶対的な支配者となるだろう。イオニア諸島は、ロシア人にとって、オスマン帝国への攻撃拠点となり、ギリシア人を蜂起させる足場ともなる。オーストリアの手にあれば、コルフは、イタリアへの支配を築き、固めるのに役立つだろう。
エルサレムの聖ヨハネ騎士団は、マルタを失って以来、本拠地を持たず、いわば、安住の場も持たない。カトリック諸国には、騎士団が再興され、廃墟から立ち上がることに利益がある。確かに、騎士団はマルタを譲渡した。しかし、権利の観点からも、有益さの観点からさえも、正当化も弁明もできない侵入を受けた末に、譲渡しただけであることも、同じく事実である。成り行きによって、この不正から利益を得ているイギリスが、カトリック諸国と協力し、騎士団に補償を得させることで、不正の修復に寄与するなら、名誉あることとなるだろう。キリスト教世界のいかなる国家の利益も損なわずに、コルフを与えることができる。騎士団は、その領有を求めるだろうし、国王の大使たちは、その要求を支持する。
エルバ島は、現在の領有者の死によって無主となる領地として、その時点で、以前の支配者であるトスカーナとナポリに返すことも、トスカーナだけに与えることもできるだろう。
こうして、征服下にあるすべての国々、無主でない国々、無主の国々、今後無主になりうる国々の運命は、完全に定まることになる。
これらの国々の一部で、フランス人は、恩給領として財産を所有していたが、五月三十日の条約によって、それを失った。この厳しい規定は、すでに譲渡された国々にあった恩給領については、不当と見なすこともできる。そのうえ、支払期日の来た地代と収入にまで、遡って適用されたため、さらに苛酷なものとなった。国王の大使たちは、この不正に抗議し、正されるよう、できる限りのことを行う。連合諸国の君主たちは、受贈者から恩給領を奪う条項について、例外を認めるとの希望を抱かせ、すでに例外を認めた者もいる。国王の大使たちは、この恩恵が広げられ、できる限り多くの受贈者に与えられるよう、さらに全力を尽くす。
dotation は、ここでは収入を伴う贈与財産の意味で「恩給領」と訳した。
ライン川とスヘルデ川の航行料金については、すべての国に同じであるべきものだから、フランスが望むのは、それが非常に穏当であることだけである。ライン川とスヘルデ川の自由な航行によって、フランスは、これらの河川が流れる、放棄した国々を領有していたなら得られたはずの利益を得る一方、領有に伴う負担は負わない。したがって、もはや、領有を失ったことを惜しむ合理的な理由はない。
奴隷貿易廃止の問題は、フランスに関しては、すでに決まっている。この点で、これ以上譲歩すべきことはない。合意された猶予期間をなくすこと、または単に短縮することを求められても、同意できないからである。しかし、国王は、奴隷貿易の全面的な廃止を宣言させるため、イギリスと、あらゆる努力を合わせると約束した。この約束は、果たさなければならない。約束したからであり、また、フランスに最も関わりの深い問題で、イギリスを味方につけることが、重要だからでもある。
ヨーロッパの外では征服の精神に身を任せたイギリスは、ヨーロッパの問題には、現状保全の精神を持ち込む。それは、おそらく、領土を付け加えることのできない島国としての位置と、大陸で征服しても保持できない、相対的な弱さだけに由来するのかもしれない。しかし、それが必要からであれ、美徳からであれ、ヘンリー八世、エリザベス、アン女王の治世、そして、おそらく、はるかに最近のある時期にも、競争相手であるフランスに対してさえ、現状保全の精神に動かされる姿を示してきた。
フランスは、会議に、もっぱら現状保全の意図だけを持ち込む。したがって、自らも、イギリスが最も重視する点で満足を与えれば、イギリスが支援してくれると期待できる。イギリスが、奴隷貿易の廃止ほど重く見ているものはない。初めは、単に利害と計算の問題だったかもしれないものが、イギリス国民の間では、狂信にまで至る情熱となり、政府も、もはや逆らう自由を持たない。それゆえ、国王の大使たちは、奴隷貿易の廃止を、率直かつ強く支持することで、この点において、イギリスに十分な満足を与える。しかし、この点について、まだ約束をしていない唯一の国々であるスペインとポルトガルが、五年を超える期限の満了時にしか、奴隷貿易の停止に同意せず、その期限が認められた場合には、国王の大使たちは、フランスも、それを享受できるようにする。
本訓令は、国王の大使たちに、いかなる点でも逸脱できない絶対的な規則として与えるものではない。より大きな利益を得るために、より小さな利益に関することは、譲歩してよい。フランスにとって最も重要な点を、その相対的な重要さの順に並べると、次のとおりである。
一、サルデーニャ王の領国を、オーストリア家の王族の一人の手に、すなわち、オーストリア自身の手に落とす可能性を、一切残さないこと。
二、ナポリを、フェルディナンド四世に返還すること。
三、ポーランド全体が、ロシアの主権下へ移らず、また、移ることもできないようにすること。
四、プロイセンが、ザクセン王国を、少なくとも、その全体としては取得せず、また、マインツも取得しないこと。
その他の事項で譲歩する際、国王の大使たちは、単なる利益に関することだけを対象とし、義務に関わることには、譲歩してはならない。第一に、会議が処理する事項の、ほとんどすべてについて、権利は、同一の一つの原則から生じている。一点でその原則を放棄すれば、すべての点で放棄することになる。第二に、近年の出来事が残した印象を、消し去ることが重要だからである。フランスは、きわめて強大な国家であり、他国民が安心できるのは、フランスに節度があると考えることによってのみである。そして、フランスの正義について、より強い印象を与えれば与えるほど、その節度も、いっそう容易に信じられる。
国王は、会議において、単一であるべき自らの意志を伝える、複数の代弁者を持つ。したがって、国王の意向は、外務大臣の判断に基づかずには、いかなる打診、提案、譲歩も行えないものとすることである。外務大臣自身もウィーンへ赴く。そして、当該の打診、提案、譲歩を行うべきだと、外務大臣が決定した限りにおいてのみ、行うものとする。
パリ、一八一四年八月〔日付数字なし〕。
原文は「Paris, le août 1814.」で、月の前の日付数字がない。訳者が日を推定して補ってはいない。
承認。署名、ルイ。
さらに、その下に、
署名、タレーラン公。」
追加訓令
ウィーン会議に赴く、国王の大使および全権公使たちへ
「国王は、ウィーン会議へ出発する全権公使たちに与えた訓令に従い、また、その通信によって、ロシアに従属する、形ばかりのポーランドを復活させ、ザクセンによってプロイセンを拡大するため、ロシアとプロイセンの間に協調が成立したことを知り、次の追加訓令を全権委員たちへ送るのが適当であると判断した。
陛下が、ポーランドを従属させることによるロシアの拡大と、ザクセンのプロイセン君主国への併合は、ともに、正義と国際公法の原則、ならびにヨーロッパに堅固で永続的な均衡の体制を築くことに反すると考えた、その同じ理由を、ほかの国々も考慮しているように見える。また、両国間の協調に対抗する協調を形成すれば、おそらく平和を乱さずに、ロシアとプロイセンを、より穏当で、ヨーロッパ全体の利益に、より適した考えへ引き戻すことが、可能だと思われる。そこで陛下は、全権委員たちに、オーストリアおよびバイエルンの全権委員へ、次のように宣言する権限を与える。ポーランドおよびザクセンの双方に関する、ロシアとプロイセンの意図に対抗するため、両宮廷は、陛下の側から、最も積極的な軍事協力を期待してよい、と。国王の全権公使たちは、本訓令の内容を知らせることで、セント・ジェームズ宮廷を、フランス、オーストリア、バイエルンとの協調行動へ、少なくとも中立へと導けると判断するなら、イギリスの全権委員に、内々に伝えてよい。とりわけ、ハノーファーの全権委員ミュンスター伯[149]に、この内報を行うことが望ましい。
セント・ジェームズ宮廷は、イギリス政府を指す外交上の呼称。
パリ、一八一四年十月二十五日。
署名、ルイ。
さらに、その下に、
臨時に外務を担当する国務大臣、
署名、フランソワ・ド・ジョクール伯。」
付録一[150]
ここに、一八一四年のド・ヴィトロル氏の使命について、ダールベルク公が記した叙述を掲げる。この文書は、全体が公の自筆であり、タレーラン公の書類の中から発見された。
この導入は編者の文章で、続く文書の筆者はダールベルク公。タレーラン本人の一人称叙述とは区別される。
ド・ヴィトロル氏をシャティヨン会議へ派遣する使命は、皇帝に対する連合諸国の最終的な目的について、パリで情報を得たいという考えからのみ、立案された。
パリには、皇帝に対する計画も陰謀も、存在しなかった。しかし、その権力が、彼の愚行と無分別によって掘り崩され、彼自身が、無謀な抵抗と、絶え間ない欺瞞の方針の犠牲となるだろう、という確信は、一致していた。
将来への不安は、高まっていた。
ある日、ルイ男爵は、ド・ダールベルク氏に、皇帝を指して、こう言った。「あの男は、死体だ。ただ、まだ臭っていない。それが事実だ。」その時、敵は、パリから三十リューの所にいた。
パリでは、皇帝アレクサンドルがバーデン大公妃に語った言葉や、ベルナドットとウジェーヌ・ド・ボアルネに対して行った示唆が、知られていた。
フーシェとミュラ家の策謀が、疑われていた。南部では、アングレーム公が近づいていた。ベリー公はブルターニュで策を巡らせ、アルトワ伯はドイツの国境へ近づき、バーゼルにいた。ヴズールとトロワでは、動きが起こっていた。フランスでは、皇帝の軍事専制の行き過ぎに、あまりにも疲れ果て、皇帝からの譲歩には、あまりにも希望が持てなかった。そのため、皇帝が招いた危機が、フランスとヨーロッパをどこまで引きずっていくのかを、知ることが重要だった。もはや普通の戦争ではなかった。諸国民が動いていた。この状況は、すべての人々の心を不安にさせた。あらゆる方面で、この状態の解決が求められていた。
冒頭の原文は現行・旧版のHTMLとTXTの全四資料で同じ、不整なつながりである。訳文では Murat の後で区切り、続く dans le Midi, approchait le duc d’Angoulême を倒置文として読んだ。これは句読点上の整理であり、dans le Midi は動きの起こる「南部で」として、特定の行先は補っていない。
イギリスの新聞は、ブローニュの警察署長マルタン氏を通じて手に入れていた。同氏がド・プラット氏へ送っていたのである。陸軍省と外務省では、その新聞を渡すことが、特にド・タレーラン氏へ渡すことが、禁じられていた。
タレーラン氏は、連合諸国が、最終的に何を望んでいるのかを知りたがった。それをド・ダールベルク氏に話した。ダールベルク氏の考えでは、ド・シュタディオン氏またはド・ネッセルローデ氏へ、何らかの使者を送れば、知ることができるはずだった。
モリアン氏とドートリーヴ氏の友人である、ド・ヴィトロル氏が選ばれた。当時、この人は、立憲思想の進展を、非常に強く支持していた。その思想について、非常に優れた小冊子を書いており、後に出版した。
ド・ヴィトロル氏は出発した。その訓令は、次のことに限られていた。シャティヨンへ行き、ド・シュタディオン伯またはド・ネッセルローデ氏に、何も最終的な方針を表明しないことが、すべての者にもたらす危険を説明し、皇帝の権力を存続させるかどうかという問いへの返答を、パリへ持ち帰ることである。
北の道を取り、軍隊を迂回すれば、シャティヨンへ、より容易に着けると考えたド・ヴィトロル氏は、結局、一八一四年三月十日ごろになって、ようやく到着した。
ド・シュタディオン氏のもとを訪れ、手帳にド・ダールベルク氏が自筆で記した二つの名前によって、信用を得た。それは、書いた者と読んだ者が、ウィーンで知り合っていた、姉妹である二人の女性の名だった。
彼は、ド・シュタディオン氏に、フランスの人心と、何人かの人々の意向が、変化を望み、皇帝の暴力と気性に対する法的な保障を求めている、と伝えた。そして、戦争が、長い間平和を遠ざける方向へ進まないよう、速やかに取り決めを結ぶことが、重要だと述べた。
ド・シュタディオン氏は、連合諸国の政治上の中枢が置かれ、両皇帝とプロイセン王のいるトロワへ行くよう勧めた。
彼は、ド・シュタディオン氏からド・メッテルニヒ氏への書状を携え、出発した。メッテルニヒ氏は、次のように語った。
「列強の考えのすべてを、率直にお知らせしたい。列強は、ボナパルトを、もはや交渉し続けることのできない人物だと認めている。敗北を喫した日には、何もかも受け入れるように見えるが、わずかな成功を収めると、受け入れがたいほど過大な要求へと戻る。したがって、フランスに別の君主を立て、オーストリア、ロシア、フランスが、同等の力を持つ国となるよう、事態を整えたい。プロイセンは、その三国それぞれの半分の力を持つ国家にとどまるべきである。フランスに立てる新たな君主については、ブルボン家の王族たち自身の人物を考えると、同家を候補とすることはできない。」
ここで述べておくべきだが、ド・ヴィトロル氏の方針は、フランスに公的な自由の享受を保障する憲章を伴って、ブルボン家を復位させることによってしか、フランスとヨーロッパは安寧を得られない、というものだった。
彼は、エティエンヌ・ド・デュルフォール夫人とつながりがあり、出発の際、夫人を通じて、アルトワ伯宛ての一筆を受け取っていた。それによって、伯に面会し、信頼して扱ってもらえるはずだった。
ド・ヴィトロル氏は、メッテルニヒ公と話したのち、ド・ネッセルローデ氏に会った。ほぼ同じ情報を得た。同時に、こう告げられた。この基礎の上に全面的な講和が定められるまで、連合諸国が、一致して、共同の合意に従って行動することは、何ものによっても妨げられない。いかなる策謀にも、耳を貸すことはない、と。
数日後、ド・ヴィトロル氏は、ド・ネッセルローデ氏に、ロシア皇帝へ直接謁見できるよう頼んだ。大臣は、自分もすでに考えていたが、かなり難しいかもしれない、と述べた。それでも、ヴィトロル氏が、ド・タレーラン氏、ド・プラット氏、ド・ダールベルク氏と関係があると皇帝に伝え、謁見を取り付けた。皇帝は、大臣たちと、ほぼ同じことを繰り返した。初めはフランスにベルナドットを立て、次いでボアルネを置くことを考えたが、さまざまな理由でできない、と述べた。いずれにせよ、何よりも、フランス人自身の希望を聞く意向であり、彼らが共和政を樹立したいと望む場合でさえ、おそらく反対しないだろう、と語った。
皇帝は、ブルボン家を考慮することが不可能な理由と、君主たちが同家について述べた悪評を、全権委員たち以上に、詳しく語った。
ド・ヴィトロル氏は、本人の話では、ここで突然ひらめいた。通常の戦争の作戦を続ける代わりに、直ちにパリへ進むよう、皇帝に勧めた。そこで、人心のありようを判断できるだろう、と。
一方、ポッツォ・ディ・ボルゴ氏は、皇帝にその進軍を決断させたのは、自分だと断言している。また、事情を知る人々は、私に、皇帝が、ド・タレーラン氏と相談し、フランスの将来について意見を聞くまで、何も決めないと述べた、と話した。
ド・ヴィトロル氏が皇帝のもとを辞す時、皇帝は、こう言った。「あなたと今日交わした話は、ヨーロッパに大きな結果をもたらすだろう。明日、私自身が司令部へ出発する。」
実際、翌日、シュヴァルツェンベルク公と協議するため、出発した。
パリ占領後の朝、ド・ネッセルローデ氏は、ド・タレーラン氏の家へ赴き、ド・ダールベルク氏も、そこへ呼ばれた。皇帝は正午にパリへ入り、タレーラン氏の家に宿を取った。
ド・ヴィトロル氏は、オーストリア皇帝にも会った。皇帝は、自分はディジョンへ行く、ロシア皇帝とプロイセン王が、パリで状況に応じた方針を取り、自分はそのあとで行く、と語った。
ド・ヴィトロル氏は、パリへ戻る代わりに、王弟殿下のもとへ向かった。道中、ボナパルトが新たにいくつかの勝利を得て、その影響がシャティヨンの交渉にも及んだこと、また、アルトワ伯がナンシーにいることを知った。三月二十三日、そこに着いた。
パリには、まったく消息を知らせなかった。到着したのは、連合軍よりも数日後だった。その前には、王弟殿下の名で、ド・タレーラン氏へ手紙を書き、元老院に、立憲政体を望む意向を表明させてしまったことを、非難していた。
付録二[151]
元老院の会議の翌日、タレーラン氏は、バンジャマン・コンスタンから、次の手紙を受け取った。この手紙は、タレーラン公の書類の中から発見された。
この導入は編者の文章で、続く一人称の手紙はバンジャマン・コンスタンからタレーランへのもの。
「あなたは、長い間の謎を、栄光ある形で解き明かされました。このようなお祝いの申し上げ方は、奇妙で、あるいは不適切かもしれません。それでも、暴政を打ち砕くとともに、自由の基礎を築いてくださったことに、感謝せずにはいられません。一方がなければ、もう一方についても、お礼を申し上げることはできなかったでしょう。一七八九年と一八一四年は、あなたの生涯の中で、高潔に結び付いています。歴史の中で、あなたはモーリス・ド・サックスに似た人となるでしょう。そして、成功の瞬間に亡くなることは、ないでしょう。この敬意が、順境だけへ向けられていると、お咎めにはならないはずです。過去が、その疑いから私を守ってくれるでしょう。また、私のこの行動に、個人的な利害もありません。打ち砕くことのできないくびきから逃れるため、私はフランスを去りました。そして、フランスに役立とうと近づきはしましたが、大切にしている絆は、私を別の土地へ定住させようとしています。しかし、救済者であると同時に、フランス人の中で最も感じのよい人でもある人物に、感嘆を抱く時、それを表すのは、うれしいことです。私は、決議された憲法の基礎を読んだあとで、この言葉を書いています。
あなたの称号を、何一つ付け加えないことを、お許しください。ヨーロッパと歴史が、喜んで、それらを贈るでしょう。しかし、最も美しい称号は、常に元老院議長であることでしょう。
敬意と尊敬を込めて、
バンジャマン・コンスタン。
一八一四年四月三日。」
付録三[152]
次の手紙は、連合諸国の君主たちから提示されたエルバ島の主権を、皇帝が受け入れた直後、フーシェから皇帝へ送られたものである。添付の短い手紙に示されているとおり、この書簡はタレーラン公を介して皇帝に届けられ、公の書類の中から発見された。
「殿下にお約束した一通に代えて、二通の手紙をお送り申し上げます。
ボナパルト宛てに書く手紙を、王弟殿下にもお知らせするのが適当と考えました。
この状況で必要と思われた考えを、いくつか付け加えました。私が同じ不安を抱かないために、私が何か臆病な妥協をしたのではないかと疑う人々がいることは、殿下もご存じです。
五時半に殿下のお宅へ参り、夕食をご一緒させていただきます。あらゆる機会をとらえて殿下にお目にかかり、お話から益を得たいと存じておりますので、その点はお信じください。
署名、オトラント公。
一八一四年四月二十三日。」
「追伸――王弟殿下に手紙をお見せになったあと、ボナパルトへお届けいただきますよう、殿下にお願い申し上げます。」
「陛下、
フランスとヨーロッパの一部が陛下の足もとにあった時、私は陛下にお仕えするため、ご不興を買う危険を冒しても、絶えず真実をお耳に入れることを敢えていたしました。陛下が不幸の中におられる今日、率直な言葉でお心を傷つけることを、私はいっそう恐れます。しかし、それが陛下のお役に立ち、必要ですらある以上、申し上げる義務がございます。
陛下は、エルバ島とその主権を、引退の地としてお受け入れになりました。私は、この主権と島について語られることのすべてに、注意深く耳を傾けております。この島のヨーロッパにおける位置は陛下の境遇にふさわしくなく、数アルパンの土地の君主という称号は、広大な帝国を所有なさった方には、なおさらふさわしくないと、申し上げなければならないと考えます。
アルパンは旧来の土地面積の単位。ここでは領土の狭小さを強調する表現であり、正確な面積への換算は行わない。
この二つの点を、よくお考えください。そうすれば、いずれにも、十分な根拠があるとお感じになるでしょう。
エルバ島は、アフリカ、ギリシア、スペインにかなり近く、イタリアとフランスの海岸には、ほとんど接しております。この島からなら、海と風と一艘のフェルッカ船によって、動乱や事件や革命に最もさらされやすい国々のどこへでも、すみやかに渡ることができます。今日、まだどこにも安定はありません。諸国がこのように揺れ動いている今、陛下ほどの天才は、列強に絶えず不安と疑念を抱かせるでしょう。
フェルッカは地中海で用いられた小型帆船。
陛下は、罪なくして非難されるでしょう。しかし、罪なくして害をもたらすことにもなります。不安は、政府にとっても国民にとっても、大きな害だからです。
これからフランスを統治する国王は、正義によってのみ統治しようとするでしょう。しかし、憎しみというものが、中傷に真実らしい色を付けることに、どれほど巧みであるかは、陛下もご存じです。
陛下がお保ちになる称号は、失ったものを絶えず思い起こさせることで、悔恨をいっそう苦いものにする役にしか立ちません。それは、消え去った多くの栄光の名残というより、むなしい見せかけと映るでしょう。さらに申し上げれば、陛下の名誉を高めることなく、いっそう危険にさらすことになります。陛下がそれらの称号を保持するのは、かつてのあらゆる要求を保持しておられるからだ、と言われるでしょう。エルバの岩山は、世界を揺り動かそうとなさる梃子を据えるための支点なのだ、と言われるでしょう。
私の考えを、残らず申し上げることを、お許しください。これは、熟慮の結果です。一市民としてお暮らしになるほうが、陛下にとって、いっそう名誉があり、慰めにもなるでしょう。そして今日、陛下のような方にとって、最も安全で、最もふさわしい避難の地は、アメリカ合衆国です。
そこでは、まだ新しいともいえる人々の中で、陛下は新たな生活を始めることができます。彼らは、陛下の天才を恐れることなく、たたえるすべを知るでしょう。フランクリン、ワシントン、ジェファソンらの祖国で、陛下は、生きとし生けるすべての者に平等に適用され、侵すことのできない法律の保護を受けるでしょう。もし彼らの中にお生まれになっていたなら、彼らと同じように感じ、考え、投票なさったであろうこと、地上のあらゆる支配権よりも、彼らの徳と自由を選ばれたであろうことを、その人々にお示しになるでしょう。
原文の人名綴りは Jepherson。訳文では通常の表記「ジェファソン」とした。
敬意をもって、陛下の最も慎ましい僕として、お仕え申し上げます。
署名、オトラント公。
パリ、一八一四年四月二十三日。」
「追伸――この手紙を書くにあたり、私は誰にも相談せず、何の指示も受けていないことを、陛下に申し上げておかなければなりません。」
付録四[153]
手稿のこの箇所には、カプフィーグの著書『一八一五年の諸条約史』の一章に基づき、おそらくド・バクール氏が書いた長い注記が置かれている。その著者は、皇帝ナポレオンが、シャティヨン会議で連合国の最後通牒をついに受け入れたこと、そして帝政崩壊後の五月三十日、ド・タレーラン氏が獲得した条件のほうが、はるかに有利だったことを示している。
一八一四年二月十七日、シャティヨン会議は、皇帝ナポレオンに提示する条約案の文面を確定し、ド・メッテルニヒ氏が、それをド・コランクール氏に送った。
以下が、その文面である。
「至聖にして不可分の三位一体の名において、
一方に、すべての同盟国の名において行動するオーストリアおよびロシアの両皇帝陛下、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国国王陛下、ならびにプロイセン国王陛下、他方にフランス人の皇帝陛下は、陸海における強固で永続的な平和によって、ヨーロッパの安寧と将来の幸福を確かなものにすることを望み、この有益な目的を達成するため、それぞれの全権委員を現在シャティヨン=シュル=セーヌに集めて、この平和の条件を討議させた。右の全権委員は、次の各条に合意した。
第一条――同時にすべての同盟国の名において行動するオーストリアおよびロシアの両皇帝陛下、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国国王陛下、ならびにプロイセン国王陛下と、フランス人の皇帝陛下との間、ならびに各君主の継承者および後継者の間には、永久に平和と大赦が成立する。
高位の締約諸国は、ヨーロッパの将来の幸福のため、幸いにも相互の間に回復された良好な協調を維持すべく、あらゆる努力を払うことを約する。
第二条――フランス人の皇帝陛下は、ご自身および後継者のために、一七九二年の戦争開始以来、フランスが行ったすべての獲得、併合、または編入を放棄する。
陛下はまた、一七九二年の戦争以前に定められていたフランスの旧国境の外における、直接または間接の、国家制度上のあらゆる影響力、およびそれに由来する称号、特にイタリア王、ローマ王、ライン同盟保護者、スイス同盟仲裁者の称号を放棄する。
第三条――高位の締約諸国は、最終的な和平において構成されるとおりの、ヨーロッパのすべての国家の主権および独立の原則を、正式かつ厳粛に承認する。
第四条――フランス人の皇帝陛下は、フランスに隣接する諸国について、次の再編を正式に承認する。
一、ドイツは、連邦的な結合によって結ばれた独立諸国から成る。
二、イタリアは、オーストリア領とフランスの間に置かれた独立諸国に分かれる。
三、オランダは、オラニエ家の主権のもとに置かれ、領土を拡大される。
四、スイスは、自由で独立した国家として、フランスを含むすべての大国の保障のもと、旧国境に復する。
五、スペインは、フェルナンド七世の統治のもと、旧国境内に置かれる。
フランス人の皇帝陛下は、さらに、連合諸国が、諸国間に現存する条約に従い、フランスから割譲された諸国の境界と関係、および自国相互の境界と関係を決定する権利を承認する。フランスは、これに一切干渉することができない。
第五条――これに対し、英国国王陛下は、レ・サントと呼ばれる諸島を除き、戦争中にフランスから征服し、現在、西インド諸島、アフリカ、およびアメリカにおいて英国国王陛下の支配下にある、すべての領地をフランスに返還することに同意する。
トバゴ島は、本条約第二条に従って、グレートブリテンにとどまる。連合諸国は、グアドループとカイエンヌのフランスへの返還を妨げないよう、スウェーデンおよびポルトガルの両国王陛下に働きかけるべく、斡旋の労をとることを約する。
喜望峰以東でフランスから征服されたすべての拠点および商館は、サン=モーリス島(フランス島)、ブルボン島、およびその属地を除き、フランスに返還される。右の拠点および商館のうち、インド大陸にあって英国領の範囲内に位置するものについては、フランスが専ら通商拠点としてのみ所有することを条件に、再び領有するものとする。したがってフランスは、要塞を建設せず、また、それらの拠点の治安維持に必要な限度を超える守備隊その他いかなる軍隊も置かないことを約する。
原文は Saint-Maurice (île de France)。現在のモーリシャスにあたるフランス島を指すが、Saint-Maurice の表記は原文どおり残した。
前記のアジア、アフリカ、およびアメリカにおける返還は、一七九二年の戦争開始以前、実際にフランスの支配下になかった領地には及ばない。
フランス政府は、本条約によって返還されるすべての植民地および領地への奴隷の輸入を禁止し、また、臣民に対して、黒人奴隷の売買一般を、最も実効的な方法で禁止することを約する。
マルタ島およびその属地は、英国国王陛下の完全な主権のもとにとどまる。
第六条――フランス人の皇帝陛下は、本予備条約の批准後、直ちに、割譲諸国の要塞および堡塁と、ドイツでなおフランス軍が占領している要塞および堡塁を、例外なく引き渡す。特にマインツの要塞は六日以内、ハンブルク、アントウェルペン、ベルヘン=オプ=ゾームの各要塞は六日以内、またマントヴァ、パルマ=ヌオーヴァ、ヴェネツィア、ペスキエーラを引き渡す。オーデル川とエルベ川の各要塞は十五日以内に引き渡す。その他の要塞および堡塁は、できる限り早く、十五日を超えない期限内に引き渡す。これらの堡塁および要塞は、すべての砲、弾薬、食糧、文書類等とともに、現状のまま引き渡す。これらの要塞のフランス守備隊は、武器、荷物、および私有財産を携えて退去する。
原文は Mantoue, Palma-Nuova, Venise et Peschiera のあとにセミコロンを置き、続くオーデル川・エルベ川の要塞に十五日の期限を付している。イタリアの四要塞については期限が明記されず、後続の期限との係りも不明確なため、訳文には補わなかった。
フランス人の皇帝陛下はまた、四日以内に、ブザンソン、ベルフォール、およびユナングの各要塞を連合軍に引き渡させる。これらは、最終的な和平の批准まで担保として保持され、連合軍がフランス領から撤退するに従い、引き渡された時の状態で返還される。
第七条――双方の総司令官は、両軍の間の境界線を決定する委員を、遅滞なく任命する。
第八条――本予備条約が双方によって受諾され、批准され次第、陸海の敵対行為は停止する。
第九条――本予備条約に続き、できる限り短期間のうちに、最終的な講和条約に署名する。
第十条――本予備条約の批准書は、四日以内、可能であればそれより早く交換する。」
ド・コランクール氏は、ナポレオンの命令に拘束され、この条約案に含まれるものより有利な条件を得ようと交渉した。そのためらいは、皇帝ナポレオンが連合軍との戦いで、ある時は勝ち、ある時は敗れるという、戦況の変転のみに帰すべきものだったが、それを受け、メッテルニヒ公はド・コランクール氏に、次の手紙を送った。
「一八一四年三月十八日。
公爵殿、事態は非常に悪い方向へ進んでいます。不可欠な犠牲を払ってでも和平を結ぶという決意が完全に固まった日には、それを実現するためにお越しください。受け入れられない計画の代弁者として、おいでになってはなりません。問題の所在は、あまりにもはっきりしています。皇帝ナポレオンを大きな危険にさらさずに、これ以上、空想の物語を書き続けることはできません。連合国が冒す危険とは何でしょうか。大きな敗北を重ねた末、結局、旧来のフランス領から退去を余儀なくされるかもしれません。それで、皇帝ナポレオンは、何を得るのでしょうか。ベルギーの人々は、今、途方もない努力をしています。ライン左岸全体を武装させることになります。今まで、その処遇を自由に決められるよう、手を付けずにおいたサヴォワでも、蜂起を起こさせることになります。そして、皇帝ナポレオン個人を直接の標的とする攻撃が起こり、もはやそれを止めることはできなくなるでしょう。
ご覧のとおり、私は和平を実現する人に対するものとして、率直にお話ししています。私の立場は、これからも変わりません。私たちの見解、原則、願いは、ご存じのはずです。見解は、全面的にヨーロッパのためのものであり、したがってフランスのためのものです。原則は、オーストリアがフランスの安寧に利害を持つ、というものです。願いは、オーストリアの王朝とこれほど密接に結ばれた王朝に、好意的なものです。
親愛なる公爵殿、フランスを脅かす危険を終わらせるため、私はあなたに、全面的な信頼を寄せてきました。和平を結ぶかどうかは、まだあなたの主君にかかっています。しかし、近いうちに、それはもはや主君の意のままにならなくなるかもしれません。ルイ十五世が加えたものを併せ持つルイ十四世の王座は、一枚の札に賭けてしまうには、あまりにも恵まれた可能性を備えています。私は、カスルレー卿を数日引き留めるため、できる限りのことをします。この大臣が去ってしまえば、もはや和平は結ばれません。
敬具……
メッテルニヒ公。」
この手紙は重要である。もはや単独ではとどまれず、連合諸国と歩調を合わせなければならないオーストリアの立場を示しているからだ。連合軍は、パリへ進軍する。その時になって初めて、ナポレオンは連合国の条件を受け入れる決意をする。この受諾の事実は否定されてきた。皇帝は、連合国が提示した屈辱的な条約を拒んだ、と言われてきた。しかし、それは正確ではない。受け入れるのが遅かったとはいえ、彼は受け入れたのである。
以下は、ド・コランクール氏からメッテルニヒ公へ送られた手紙である。三月二十五日、ベルティエ元帥の伝令将校ド・ガルボワ氏によって、ドゥールヴァンから発送された。
「ドゥールヴァン、一八一四年三月二十五日。
地名は直前の編集本文では Doulevent、この日付行では Doulevant と綴られている。訳文ではドゥールヴァンに統一した。
ようやく今夜、皇帝のもとに到着いたしました。陛下は直ちに、講和締結に関する最終的な命令を私にお与えになりました。同時に、連合諸国の宮廷の大臣たちと交渉し、講和に署名するために必要な、すべての権限をお授けくださいました。この方法こそ、ほかのどの方法よりも、平和の速やかな回復を、実際に確実なものにできるからです。それゆえ、私は貴軍の大本営へ赴く用意があることを、取り急ぎお知らせし、前哨地点で閣下のご返答をお待ちいたします。私たちのこの熱意によって、皇帝の意図がいかに平和的なものであるか、また、世界の安寧を確保するはずの有益な事業の成就を妨げる遅延は、フランス側からは一切生じないことが、連合諸国の君主たちに明らかになるでしょう。
ヴィチェンツァ公コランクール。」
この手紙の日付は、連合国の最後通牒から一か月後の、三月二十五日である。同じ日、やはりド・コランクール氏からド・メッテルニヒ氏へ、二通目の手紙が発送された。それは、すべてを受け入れるものだった。
「公爵殿、私は到着したばかりですが、一刻も無駄にせず皇帝の命令を実行し、また、あなたがお示しくださった信頼に応えるため、申し上げるべきことのすべてを、先の手紙に内密に付け加えようとしております。
皇帝は、最も率直で、最も明確な仕方で、交渉を再開できるようにしてくださいました。それゆえ、私が、しかもできる限り早くそちらへ参れるよう、期待を持たせてくださった便宜をお願い申し上げます。公爵殿、世界に平和を取り戻す仕事を、ほかの人々にお任せにならないでください。あなたの良識がその仕事を導き、私たちと同じように率直に和平を望まれるなら、四日以内に講和が成立しない理由はありません。この機会をとらえましょう。そうすれば、多くの過ちと不幸を取り返すことができます。公爵殿、あなたの務めは栄光に満ちたもの、私の務めは、きわめて苦しいものとなるでしょう。しかし、そこから、これほど多くの国民の安寧と幸福が生まれ得る以上、私もあなたに劣らぬ熱意と献身をもって、取り組むつもりです。
ヴィチェンツァ公コランクール。」
以上が、明確で、文書によって確認される事実である。ナポレオンは三月末、連合国が課すあらゆる苛酷な条件とともに、旧王政時代の国境を受け入れていた。要塞とアントウェルペンの艦隊を引き渡すことを認めていたのである。この艦隊の引き渡しこそ、のちにド・タレーラン氏が、あれほど非難されたことだった。また、ブザンソン、ベルフォール、およびユナングの各要塞を担保として引き渡すことも認めていたが、ブルボン家は、一八一四年には、そうしなかった。これが真実である。ナポレオンが、シャティヨンでの連合国の最後通牒を最終的に受け入れたことを否定するのは、ド・コランクール氏の全書簡と、その後のパリでの交渉を、証拠として認めないことである。
ここからの評価と史実の主張は、この付録の筆者によるもの。直前に掲げられた条約案の本文にはアントウェルペン艦隊への明示的な言及がないが、本文の主張をそのまま訳した。
二度の王政復古には、数えきれない不忠や裏切りがあったと、あまりにも単純に書いた人々は、あらゆる裏切りに先立つものが、権力の自滅であることを、十分に見ていない。権力が自らを打ち倒した時、人々がそれを見捨てるのは、驚くべきことだろうか。
次の真実は、これ以上ないほど明白に、証明されている。
一、プラハでは(一八一三年)、ナポレオンは、イリュリアとハンザ諸都市を割譲し、ドイツとスペインの独立を認めれば、講和することができた。
二、フランクフルトでも(一八一三年十二月)、ライン川、アルプス山脈、ピレネー山脈という自然国境を保持したまま、講和することができた。
三、シャティヨンでは(一八一四年三月)、わが国の不運の中で、彼は旧国境に戻るという卑下し屈服した条件による和平を受け入れていた。わが国の植民地のほとんどすべてを割譲し、ブザンソン、ベルフォール、およびユナングを敵に占領させ、アントウェルペンの艦隊と、要塞のすべての軍需品を引き渡すというものだった。四、一八一四年四月二十三日と五月三十日の条約によって、ブルボン家はフランスに、より広い国境を獲得した。そしてウィーン会議では、ド・タレーラン氏は、ヨーロッパに対するフランスの優位を、見事に取り戻したのである。
第七部終わり。
第八部
ウィーン会議
(一八一四―一八一五年)
ウィーン会議
(一八一四―一八一五年)
私は、一八一四年九月二十三日に、ウィーンへ到着した。
フランス公使団のために借りられたカウニッツ邸に宿を取った。入ると、門番が何通かの手紙を渡した。その宛名には、「カウニッツ邸、タレーラン公殿」とあった。この二つの名が並んでいるのを、私は吉兆と思った。
到着の翌日から、私は外交団の人々を訪ねた。誰もが、パリの降伏から引き出した利益の少なさに、ある種の驚きを感じていた。彼らは、長年にわたり戦争で荒らされてきた国々を通ってきたばかりだった。そして、その国々に巨額の軍税を課し、しばしば傲慢な征服者として扱ったフランスに対する、憎しみと復讐の言葉しか聞かなかったという。新たな同僚たちは、パリ条約に署名した際の自分たちの弱腰を、至る所で非難されたのだと、私に言い張った。したがって、彼らは寛大さがもたらす満足に、すっかり飽きており、むしろ自分たちの主張すべき要求について、互いに煽り合う気持ちになっていた。皆がショーモン条約を読み返していた。この条約は、戦争継続のための同盟の絆を強めただけではなかった。現在の戦争が終わったあとも存続し、遠い将来にさえ、必要に応じて連合国を結束させておく同盟の条件をも、定めていたのである。そのうえ、ヨーロッパが二十年来、武器を取って対抗してきた大国を、どうしてヨーロッパの協議の席に迎え入れられようか。和解したばかりの国の大臣は、他の大国の大使たちが下す決定に賛意を示すことを許されるだけで、十分ありがたいと思うべきだ、と彼らは言っていた。
このように、交渉開始の時点で、各国の政府は、和平にもかかわらず、フランスに対し、まったく敵対的とまではいわなくとも、少なくともきわめて曖昧な関係にあると考えていた。程度の差こそあれ、フランスがさらに弱められていれば、自国の利益になったはずだと、皆が思っていた。その点では、もう何もできないので、せめてフランスの影響力を減らそうと、相談し合っていた。こうしたさまざまな点で、彼らの意見は、すべて一致しているように見えた。
私に残された望みは、戦争によって列強が自由に処分できるようになった、多くの領土を配分する段階で、彼らの間に何らかの意見の相違が生じることだった。どの国も、征服した領土の相当な部分を、自国のために獲得するか、自国に従属する国家に与えさせることを望んでいた。同時に、独立心が強すぎるのではないかと懸念される国々を、分配から締め出したいとも考えていた。しかし、こうした争いも、私が問題に入り込む機会を、ほとんど与えなかった。列強の間には、以前に取り決めができており、それによって最も重要な領土の運命が、定められていたからである。正義の命ずるところに従い、それらの取り決めを修正させ、あるいは全面的に放棄させるためには、偏見を取り除き、要求に対抗し、野心を抑えるだけでは、まったく足りなかった。フランス抜きで行われたことを、取り消させなければならなかった。というのも、私たちを会議の決定に参加させることに同意するとしても、それは体裁を整え、将来その有効性を争う手段を、私たちから奪うためにすぎなかったからである。すでに決定され、既成事実として扱おうとしている事項については、フランスには一切関与させないつもりだった。
私の考えでは、ウィーン会議の最も忠実な全体像を成すもの、すなわち、フランス外務省との私の公的な往復書簡、国王ルイ十八世との私信、ならびに会議期間中の国王からの手紙を、ここに掲げる前に、この大会議の審議の進み方を、手短に概観しておくべきだと思う。そのほうが、あとで細部を理解しやすくなるだろう。
会議の開会は、十月一日に定められていた。私は九月二十三日からウィーンにいたが、戦争を指導したあと、和平を結んだことを悔やみ、会議で優位を取り戻そうとしていた大臣たちは、私より数日早く到着していた。彼らがすでに委員会を組織し、内輪で協議を行い、その議事録を作成していることを、私はまもなく知った。その計画は、本来会議の審議に付すべきことを、フランス、スペイン、その他いかなる二流国の協力も得ず、自分たちだけで決めることだった。そのあとで、決めた各条項を、表向きは提案として、実際には決定として、それらの国々に伝えるつもりだった。私は抗議しなかった。引き続き彼らと会ったが、政務については話さなかった。私と利害を共にする中小国の大臣たちに、自分の不満をすべて知らせるだけにとどめた。彼らは、自国のかつての政策の中に、フランスへの信頼の古い記憶をも見いだし、ほどなく私を支えと見なすようになった。私の行うことすべてに彼らが賛同するという確信を得ると、私は会議の開会を、正式に催促した。最初の申し入れでは、それまで行われた協議について、何も知らないという立場を取った。開会は、しかじかの日と定められていた。その日は過ぎた。そこで、近いうちの別の日を指定してほしいと求めた。あまり長くフランスを離れずにすむほうがよいことも、理解してもらった。初めはいくつか曖昧な返事があったので、私は再び催促した。やがて、少し不満を述べるまでになった。そして、幸いにも以前の交渉で、会議の主要人物たちに対して得ていた、個人的な影響力を用いることになった。メッテルニヒ公も、ネッセルローデ伯も、私につれなくしたくはなかったので、外務官房で開かれる協議に、私を招待させた。会議の審議で行動を共にできたことを、私が誇りに思うスペインの大臣ド・ラブラドール氏も、同じ招待を受けた。
指定された時刻に国務官房へ赴くと、そこにはカスルレー卿[154]、ハルデンベルク公[155]、ド・フンボルト氏、ド・ネッセルローデ氏、ド・ラブラドール氏、ド・メッテルニヒ氏、そして書記を務める、優れた知性の持ち主ド・ゲンツ氏[156]がいた。それまでの会合の議事録が、机の上にあった。この最初の会合について詳しく述べるのは、それが、会議におけるフランスの地位を決定したからである。ド・メッテルニヒ氏は、ヨーロッパに回復されたばかりの平和を、堅固なものとすることが会議の務めだと、二、三の言葉で述べ、会合を開いた。ハルデンベルク公は、それに付け加え、平和を堅固なものとするには、戦争によってやむなく引き受けた約束を、厳格に守らなければならず、それが連合諸国の意向である、と述べた。
ド・ハルデンベルク氏の隣に座っていた私は、自然に、そのあとで発言することになった。ヨーロッパのすべての政府と、信頼と友好の関係にあることを、フランスがいかに喜んでいるかを、二、三言述べたあと、私は、メッテルニヒ公とハルデンベルク公が、もはや過去のものと思われる表現を、うっかり口にされた、と指摘した。お二人とも、連合諸国の意向について語られた、というのである。連合諸国と、その連合に属していない諸国を含む会議とが、誠実に共同で政務を進めることは、私には、きわめて難しく思われると述べた。私は、多少の驚きと、いくらかの熱を込めて、連合諸国という言葉を繰り返した。「連合している……。では、誰に対してですか。もはやナポレオンに対してではありません。彼はエルバ島にいます……。もはやフランスに対してでもありません。和平は成立しています……。ましてフランス国王に対してでは、決してないでしょう。国王は、この平和の持続を保証する方です。皆さん、率直に話しましょう。まだ連合諸国があるのなら、私はここでは、余計者です。」私は、いくらかの印象を与え、とりわけド・ゲンツ氏の心を動かしていることに気づいた。私は続けた。「しかし、私がここにいなければ、皆さんには、欠かせないものがなくなってしまいます。皆さん、何も要求しないのは、おそらく私一人でしょう。十分な敬意、それだけが、フランスのために私の求めるものです。フランスは、資源、広さ、住民の数と精神、諸地方が隣接していること、行政の統一、そして自然と人の技が国境に備えた防御によって、十分に強大です。繰り返しますが、私は何も求めません。そして、皆さんに、計り知れないものをもたらしています。ルイ十八世の大臣がここにいることは、社会秩序のすべてが立脚する原則に、権威を与えます。ヨーロッパにまず必要なのは、単なる征服によって権利を獲得できるという考えを、永久に追放し、秩序と安定の源である、正統性の神聖な原則を復活させることです。今日、フランスが皆さんの審議の邪魔になると示すなら、それは、もはや真の原則だけに導かれてはおらず、公正であろうと望んでいない、と言うことになるでしょう。しかし、私はそのようなことを、少しも考えておりません。私たちが果たすべき高貴な使命にふさわしいのは、簡明で正直な道だけであることを、私たちは皆、等しく感じているからです。パリ条約は、次のように定めています。今回の戦争に、双方のいずれかの側で参加したすべての国は、パリ条約の規定を補完すべき取り決めを、全体会議で定めるため、ウィーンに全権委員を派遣する。全体会議は、いつ開かれるのですか。協議は、いつ始まるのですか。それが、利害のためにここへ来たすべての者の、問いなのです。すでに噂されているように、特権を持ついくつかの大国が、会議に独裁的な権力を振るおうとするなら、私はパリ条約の文言を守り、この集まりに、会議の権限に属する問題について、いかなる最高権力も認めることはできず、そこから出るいかなる提案も、取り上げないと、申し上げなければなりません。」
しばらくの沈黙のあと、ド・ラブラドール氏は、誇り高く鋭い言葉遣いで、私のものとほぼ同じ声明を行った。すべての顔に、困惑が表れていた。この会合以前に行われたことについて、否定と説明とが、同時になされた。私はこの機会をとらえ、傷ついているように見える自尊心に、多少の譲歩をした。会議のように大人数の集まりで、これほど多様な事柄を扱い、第一級の問題について判断し、多くの二次的な利害を決定しなければならない時、そのすべてを総会で扱って結論に達するのは、きわめて困難であり、不可能ですらある。しかし、どの国の利益も尊厳も傷つけずに、すべての案件を分配し、分類する方法は、何か見いだせるはずだ、と述べた。
この発言は、まだ曖昧ではあったが、全般的な問題について、特別な指導の仕組みを設ける可能性を示唆したので、集まった大臣たちは、それまで行ったことを撤回し、なかったものとして扱うことができた。ド・ゲンツ氏は、それ以前の会合の議事録を破棄し、その日の議事録を作成した。それが第一回会合の記録となり、私は、その日付を確定させるため、署名した。それ以後、大国間の協議で、フランスが参加しないものは、一つもなくなった。続く数日、私たちは仕事の分担を決めるため、会合を開いた。会議の全参加者は、委員会に分かれ、それぞれ、付託された問題を検討することになった。各委員会には、その検討事項に、より直接の利害を持つ諸国の全権委員が入った。最も重要な事柄と、全般的な利害に関わる問題は、ヨーロッパの主要八か国の代表から成る委員会に割り当てた。そして、その選定の基準として、一八一四年五月三十日の条約に署名した国々とすることになった。この取り決めは、仕事を著しく短縮し、容易にするという点で有用なだけでなく、きわめて公正でもあった。会議のすべての参加者が同意し、何の異議も出なかったからである。
こうして、一八一四年十月末には、フランスへ戻って五か月のブルボン家と、五か月前には征服されたフランスが、すでにヨーロッパで本来の地位を取り戻し、会議の最も重要な審議において、当然持つべき影響力を回復した、と、私はパリに書き送ることができた。その三か月後には、不幸なルイ十六世を救うために何もしなかった、その同じ列強に対し、私は、遅ればせながらも厳粛な追悼の敬意を、その記憶に捧げるよう呼びかけた。この追悼もまた、時代の連鎖をつなぎ直す一つの方法であり、ブルボン家の正当な権利を、改めて神聖なものとする行為だった。一八一五年一月二十一日、ウィーンで執り行われた、敬虔で高貴な儀式のために、オーストリア皇帝と皇后が、私を力強く支援してくださったことを、述べておかなければならない。その儀式には、当時オーストリア帝国の首都にいた、すべての君主と、すべての著名な人物が参列した。
八か国委員会が最初に取り上げた問題は、ザクセン王とザクセン王国の運命であり、次いで、ワルシャワ公国の運命だった。プロイセンは、以前から長い間、ザクセン王国の領有を切望していた。プロイセンは、それを獲得すれば、豊かで美しい国を自国の領地に加えるだけでなく、従来の領土をも、大いに強固にできたはずである。パリの和平によって終わった戦争の間、プロイセンの同盟国は、今後の取り決めによって、ザクセンの領有を確実にすると約束していた。そのためプロイセンは、この重要な獲得を、まったく確実なものと期待し、すでに、この美しい国の主権者と見なしていた。軍隊でそこを占領する一方、ザクセン王を、プロイセンの要塞に捕虜として拘束していたのである。しかし、八か国委員会で、それをプロイセンに与えるという提案がなされた時、私は賛同できないと明言した。ナポレオンによって、広大で数多くの領地を奪われ、そのすべてを取り戻すことのできないプロイセンに、補償を受ける権利があることは認めた。しかし、それが、今度はプロイセンがザクセン王から領地を奪ってよい理由になるだろうか。それは、正義に基づく権利に代えて、プロイセン自身が危うく犠牲になりかけた、強者の権利を据えようとすることではないか。そして、その権利を行使することによって、その境遇から寄せられるはずの同情を、事実上、放棄することではないか。そのうえ、会議が処分できる領土には、十分な補償を与えるための、ほかの方法もあったのではないか。フランスは、権利に反しないかぎり、プロイセン王の意にかなう、あらゆる取り決めについて、柔軟に応じるつもりだった。そして私は、簒奪となるような取り決めには、参加することも、同意することもできないと、繰り返した。不幸と、その治世を飾った徳によって、尊敬すべきザクセン王個人に寄せられる同情には触れず、私は、ただ正統性の神聖な原則を、その王のために援用した。
Gutenbergの現行・旧版HTML/TXT全四資料では、冒頭が et ensuite on du royaume de Saxe と欠損している。訳文は、1891年Calmann Lévy版の印刷二八三―二八四頁の画像で確認できる celui du duché de Varsovie. Depuis longtemps la Prusse convoitait la possession を復元して訳した。出典:https://archive.org/details/talleyrand-perigord-memoires-du-prince-de-talleyrand-v-2/page/n297/mode/1up 。この箇所の照合であり、全巻の印刷画像照合を意味しない。
プロイセンは、自由に処分できる国々の中で、ザクセン王に何らかの補償を与えれば、その原則が求めるすべてを、十分に満たせると考えていた。そして、王がこの取り決めに同意しようとしまいと、連合諸国の君主の承認があれば、プロイセンにとって、ザクセン領有の正当性は十分に確立されるというのである。これに対し私は、あるものについて何の権利も持たない者たちが、そのような承認を与えても、権利を持たない者に、権利を与えることはできないと、ハルデンベルク公に指摘した。
あらゆる原則を、このように嘆かわしく忘れてしまったことは、二十五年来ヨーロッパが経験してきた、秩序を欠く激動に帰さなければならない。あまりにも多くの君主が領土を奪われ、あまりにも多くの国が主人を変えたため、国際公法も、一種の腐敗に侵され、いわば簒奪をとがめなくなり始めていた。ヨーロッパの君主たちは、抗しがたい状況の力によって、次々と、簒奪者を承認し、彼らと条約を結び、同盟することを余儀なくされていた。こうして次第に、良心上のためらいを、自国の安全に譲らせるようになった。そして、今度は自分たちに機会が来ると、野心を満たすため、自ら簒奪者となることも辞さなかった。正当な権利への敬意は、それほど弱まっていたので、ナポレオンに初めて勝利したあと、ブルボン家の権利に思いを致したのは、君主たちではなかった。彼らは、フランスについて、ほかにもいくつかの計画さえ持っていた。そして、フランスが歴代の王の家系を取り戻したのは、自らの願いを表明できるや否や、栄光ある歴史の記憶とともに、賢明な自由をもたらす、その尊い王家の腕の中へ、自ら飛び込んだからである。当初、王政復古は、列強にとって、権利上の事柄というより、事実としての出来事だった。繰り返すが、列強はそれに立ち会ったものの、それを成し遂げたわけではない。
フランスの大臣たちが、会議において、公然と正統性の原則の擁護者となった時、初めは、その原則から生じる帰結が、各国それぞれの都合に、何一つ反しない範囲でしか、それを認めようとしなかった。各国は、その都合の前で、原則を曲げさせようとしていたのである。したがって、この原則を勝利させるため、私は、満たされる寸前で妨げられた野心が生み出し得る、あらゆる障害を、乗り越えなければならなかった。
プロイセンが、熱心に、執拗に、ザクセンへの要求を主張する一方、ロシアは、自国の君主がプロイセン王に寄せる愛着からか、あるいは、この譲歩の代償として、アレクサンドル皇帝がワルシャワ公国を領有できるはずだからか、その要求を、全力で後押ししていた。ロシアの大臣たちは、何のためらいもなく、その趣旨のことを口にした。「政治上のことは、すべて取り決め次第です」と、その一人が私に言った。「ナポリが、あなた方にとって、第一の関心事でしょう。ザクセンで譲ってくだされば、ロシアはナポリで、あなた方を支援します。」「それは取引のお話ですね」と、私は答えた。「私には、取引はできません。幸いにも、私はあなたほど、自由な立場にはありません。あなたを決めるのは、ご自身の意志と利害ですが、私は原則に従う義務があります。そして、原則は妥協しないのです。」
イギリスが、ザクセンに関するプロイセンとロシアの構想に協力した主な目的は、エルベ川に第二の防衛線を設け、プロイセンがすでにオーデル川に持っていた防衛線を補強することにあるように見えた。それによって、将来ロシアがドイツに対して企てるかもしれない行動に、プロイセンが、より強固な障壁をもって対抗できるようにするためである。しかし、この考えは、戦略の面から見ても、まったくの幻想だった。
オーストリアがプロイセンの要求を支援する決定的な動機は、軍営の喧騒の中で、以前、軽率にも急いで構想された取り決めを維持すること以外、ほとんどなかった。その時には、プロイセンがボヘミアの山々の斜面に足場を築くことの、自国にとっての危険さえ、抑止とはならなかった。その危険は、フランスに指摘されて初めて、目に入ったようだった。私は、皇帝フランツに、その大臣を経由せず、ザクセンの存続がご自身にとって重大な利益となることを、直接理解してもらう方法を見つけた。私が用いた仲介者[157]に詳しく説明した理由は、皇帝の心を動かした。
イギリスもまもなく、ロシアに対してドイツへの入り口を守る二大国の間に、新たな敵意と不和の種を投げ込むのは、賢明でないと理解した。しかも、ザクセンはプロイセンにとって、長く、服従しきらない不安定な領地となり、支配を脱して独立を回復する機会を、常にとらえようとしたであろう。したがって、それはプロイセンを強めるより、弱めることになりやすい獲得だった。このように、ザクセンの運命という問題は、イギリスにとっては、当初の決定を促した個別の考慮から切り離され、オーストリアにとっては、自国の利益から当然とるべき、正しい見方に立ち戻った。こうしてフランスは、原則を優先させるための有力な理由に、この二大国が、ついに偏見なく耳を傾ける姿勢を示したと知った。両国は、自国の都合が正統性の原則と一致すると分かると、その原則が他国の都合に優先することを、進んで認めた。こうして両国も、その擁護者となるに至り、事態はまもなく、フランス、オーストリア、イギリスの間に、ロシアとプロイセンに対する、秘密の、事態に応じて発動する同盟が結ばれるところまで進んだ[158]。このようにフランスは、理性の優越だけによって、原則の力によって、自国だけを標的としていた同盟を、打ち破ったのである。(三月二十日の忌まわしい破局が、その絆を再び結び直しに来なかったなら、どれほど幸せだったことか!!)
このように、連合諸国が内部で分裂する一方、私たちは、フランスを主要な当事国とする、新たな同盟を築いた。最初の同盟、すなわちナポレオンに対する同盟は、それが結ばれた目的がなくなったあとも、存続させようとされていたが、連合諸国に与え得るものは、野心と個別の思惑を満たす手段だけだった。これに対し、新たな同盟の目的は、秩序、保全、平和の原則を維持すること以外には、あり得なかった。こうしてフランスは、ヨーロッパに恐れられる存在でなくなったばかりで、ある意味、その仲裁者、調整者となったのである。
イギリスとオーストリアが、ひとたび決意を固めると、プロイセンは、どうしても譲らざるを得なかった。ついにザクセンの存続に同意し、その国の君主が自発的に行う割譲という形で、その一部を受け取ることで満足した。この重要な点を実現したあと、今度はザクセン王に、その犠牲を受け入れてもらわなければならなかった。私は、ウェリントン公およびメッテルニヒ公とともに、王を訪ね、決意を促す任務を託された。ナポレオンがフランスに到着したという知らせが、ウィーンに広まったばかりだった。会議には、極度の動揺があった。このつらい使命を果たすために、私たちに与えられたのは、わずか二十四時間だった。私はすぐ、ザクセン王がようやく移り住むことを許された、プレスブルクへ向かった。
ド・ブリオンヌ伯爵夫人[159]は、亡命後、身を寄せたこの町に住んでいた……。ド・ブリオンヌ夫人!!……。あれほど長い間、わが子の一人に向けるような愛情のすべてを、私に注いでくださり、私がご自分に対して過ちを犯したと考えておられた、ド・ブリオンヌ夫人……。ああ、政治には待ってもらわなければならない! プレスブルクに着くと、私は走って行き、夫人の足もとに身を投げた。夫人は、そのまま十分な時間、私をそこにいさせてくださったので、私は、自分の顔に、その涙を受ける幸せを味わった。「とうとう来てくれたのですね」と、夫人は言った。「きっとまた会えると、ずっと思っていました。あなたに不満を感じたことは、あったかもしれません。でも、あなたを愛さなかった瞬間は、一度もありません。どこにいても、あなたのことを気にかけていました……。」私は、一言も言えず、泣いていた。夫人は、優しく質問をして、私を少し落ち着かせようとした。「あなたは、立派な立場にいますね」と言った。「ええ、本当に、立派な立場だと思います。」涙で息が詰まった。あまりにも激しく心を動かされたので、私は、少しの間、夫人のもとを離れなければならなかった。気が遠くなるように感じ、ドナウ川の岸辺へ、風に当たりに出た。いくらか我に返ると、ド・ブリオンヌ夫人のもとへ戻った。夫人は、また質問を始め、私は、前よりもよく答えることができた。国王について少し、王弟殿下について、たくさん話してくれた。ザクセン王の名も口にした。私がその王を擁護したことを知っていて、関心を寄せていた。この再会から数日後、死は、再び会えたことをあれほど喜んだ、この友を、私から奪った。
その晩、私は宮殿へ赴き、託された任務を果たした。ザクセン王は、ありがたくも私にいくらか信頼を寄せてくださっており、二人きりで会いたいと申し入れてこられた。この会見で、王は何のためらいもなく、私への感謝を語った。私は、いくつかの犠牲を払う必要を示し、事態がここまで来ている以上、それが自国の独立を保証する唯一の方法だと、納得していただこうと努めた。王は、二時間近く、私を引き留めた。まだ何の約束もせず、家族とともに私室へ退くつもりだとだけ言った。数時間後、メッテルニヒ公、ウェリントン公、そして私は、宮殿へ来るよう招きを受けた。私たちの代弁者に選んだメッテルニヒ公は、十分な配慮をもって、列強の希望を王に伝えた。王は、たいへん気高く、心を打つ言葉で、臣民への愛情を語りながらも、王冠の名誉と両立し、ヨーロッパの取り決めに寄与し得ることには、妨げを置かないであろうと、示唆した。ただし、自国の利益について交渉するため、全権を授けた大臣を、会議へ派遣する権利を留保した。
私たちは、王の同意を携えることなく、ウィーンへ戻った。それでも、王は決意しており、その同意は、全権委員のド・アインジーデル氏を通じて、会議に届けられるものと、確信していた。
ド・アインジーデル氏の参加を認めたいくつかの協議のあと、ザクセンとプロイセンの利害は、双方が満足する形ではなかったものの、双方の合意によって、調整された[160]。こうして、この重要な局面で、正統性の原則が、損なわれることはなかった。
これらの取り決めの結果、ワルシャワ公国全体の領有を要求していたロシアは、それを断念せざるを得なくなった。プロイセンは、相当な部分を取り戻し、ガリツィアの一部をずっと領有し続けていたオーストリアも、一八〇九年に割譲した地区のいくつかを回復した。この措置は、一見すると、この二大国だけに重要だったように見えるが、全般的な利害に関わっていた。ポーランドのほぼ全土がロシアの手中にあれば、ヨーロッパにとって、絶え間ない不安の種となるはずだった。自国の領有地を奪われる危険にさらされた大国が、一つではなく二つあり、共通の危険を感じることによって、プロイセンの野心的な企てに対し、あらゆる機会に結束する気持ちになることは、ヨーロッパの安全にとって重要だった。同じ利害が、両国にとって最も強い絆となる。そのために、フランスは、ここではプロイセンとオーストリアの要求を支持したのである。
原文は「プロイセンの野心的な企て」(les entreprises ambitieuses de la Prusse)。前後はロシアに対してプロイセンとオーストリアが結束する議論であり、国名に不整合があるが、訳文では原文の国名を保存した。この表記は電子本文の四資料だけでなく、1891年刊本の印刷二九二頁にも確認される。
ロシアの大臣は、私自身の議論を用いて、私に反論しようとした。正統性の原則がザクセン王国の存続を要求するなら、ポーランド王国の再建をも要求するはずだ、と主張したのである。そして、アレクサンドル皇帝は、ワルシャワ公国を王国にするため、その全体を手に入れたいのであり、したがって、その手に渡すことへの賛同を拒めば、私は一貫性を欠くことになる、と付け加えた。私は、勢いよく答えた。確かに、かつて強大で、広く連続した領土を占め、統一の絆が断ち切られるに任せてしまったとはいえ、習俗、言語、希望を共にすることによって、なお一体性を保っている、大きな民族を、独立した政府のもとに、一つの国民として再建することは、原則に関わる問題と見なせるだろう。もし、それを望むのであれば、フランスは真っ先に、ポーランド再建に賛同するだけでなく、熱心に要求するだろう。ただし、ポーランドが、かつての姿で、ヨーロッパが望むような姿で再建されることを条件とする。しかし、と私は付け加えた。正統性の原則と、ロシアがポーランドの小さな一部分で作ろうとしている国家の、領域の大小との間には、何の関係もない。しかもロシアは、最後の諸分割以来、その広大な帝国に併合された美しい諸地方を、あとでそこに統合する構想さえ示していない。ロシアの大臣たちは、何度かの協議のあと、自分たちが主張するよう命じられている利己的な構想を、正統性の原則で覆い隠すことはできないと理解し、数年間ワルシャワ大公国を構成していた領土の、なるべく大きな部分を得るための交渉に、専念するようになった。
ザクセン王国に関する決定によって、正統性の原則を尊重した以上、ナポリ王国の運命についても、暗黙のうちに判断を下したことになった。原則をひとたび採用すれば、そこから生じる帰結を認めることは、拒めなかった。したがってフランスは、征服の権利に基づく要求を退けたあと、フェルディナンド四世がナポリ王として承認される、という保証を求めた。ミュラと関係を結んでいたいくつかの政府、とりわけ彼と条約を結んでいたオーストリアの、実際の困惑を、乗り越えなければならなかった。同じ目的に達し、しかも列強の尊厳と両立し得ることなら、私は採用を拒むつもりなど、少しもなかった。ミュラ自身の行動が、私の助けになった。彼は絶えず動揺していた。次々と手紙を書き、声明を発し、軍隊に前進や後退を命じ、私に、彼の不誠実さを示す、無数の機会を与えた。軍をロンバルディア方面へ動かしたことが侵略と見なされ、この侵略が、彼の破滅の合図となった[161]。オーストリア軍は彼に向かって進み、打ち破り、追撃した。そして数日のうちに、軍に見捨てられた彼は、逃亡者としてナポリ王国を去り、王国は直ちに、正統な王の王笏のもとへ戻った。ナポリ王国をフェルディナンド四世に返すことは、正統性の原則を、再び一つの大きな実例によって確かなものにした。そのうえ、イタリアで、この地方の最も強大な国を同盟国として得ることになるので、フランスにとって有益でもあった[162]。
イタリアのほかのいくつかの地方について合意された取り決めは、オーストリアの野心が、いつかこの方面へ向けられた場合に、その力を食い止め得る、強い対抗勢力を、この半島に設けることを目的としていた。こうしてサルデーニャ王国は、ジェノヴァ国の全域を獲得した。当時トリノで統治していたサヴォイア家の一系統は、断絶が近く、オーストリアが王家間の婚姻関係によって、この豊かな相続財産に権利を主張する可能性があった。その影響は、カリニャーノ家の権利を承認し、この王冠の継承を同家に保証することによって、防がれた。
フランス、ドイツ、イタリアという三つの大きな地域が接する、ヨーロッパの中心点であるスイスは、厳粛に、永久に中立であると宣言された。この決定によって、その三つの地域それぞれの防衛手段を増し、攻撃手段を減らした。この措置は、とりわけフランスに有利である。フランスは、国境のほかのすべての部分を要塞で囲まれているが、スイスと接する国境には、それを欠いているからである。したがって、この国の中立は、フランスが弱く、武装を欠く唯一の地点に、難攻不落の防壁を与える。
スイスの連合体を、その安寧を乱し、中立の維持を危うくしかねない内紛から守るため、私たちは、各州の要求を調和させ、長年、州相互の間にあった紛争を解決することに努めた。従来の利害と、ナポレオンの仲裁のもとで作られた新たな組織から生じた利害との衝突によって、脅かされていた連合は、両者を最もよく調和させ得ると思われるすべての規定を、一つの文書にまとめることで、強固になった。
和平以前に合意されていた、新たなネーデルラント王国の樹立は、明らかにフランスに敵対する措置だった。この計画は、保護を必要とするために、イギリスとプロイセンの自然な同盟国となる、敵対的な国家を、フランスのすぐそばに作ることを目的としていた。しかし、この組み合わせの結果は、人々が考えるほど、フランスにとって危険ではないと、私には思われた。新王国は、長い間、自らを固めるだけで、手いっぱいになるだろうからである[163]。実際、古くからの敵意によって隔てられ、感情と利害が対立する二つの国から成るので、長年にわたって、弱く、まとまりを欠いたままであるはずだ。イギリスが、自国とこの新国家との間に築こうとしている、一種の保護的な親密さは、まだ長い間、政治上の夢にとどまるように思われる。商業の国と工業の国から成る王国は、イギリスの競争相手となるか、イギリスによって無力化され、そのために不満を抱くか、いずれかになるはずである。
ドイツ連邦の組織は、ヨーロッパの均衡の、最も重要な要素の一つとなるはずだった。会議が、その組織を、均衡の支えとして有効に働かせるような基礎の上に築くことに、成功できたであろうかは、私には言えない。一八一五年の不幸な出来事が、会議に審議を急がせたため、最終議定書には、まだ形をなさない萌芽しか盛り込めなかった。それは今日まで、確かな形を取ることができず、今も、その発展に向けた努力が続けられている。
この記念すべき局面で、フランスが果たした役割の評価は、読者に委ねよう。協議開始時の不利な立場にもかかわらず、フランスは審議において、大きな優勢を得た。その結果、最も重要な問題は、部分的にフランスの構想に従い、また、フランスが打ち立て、擁護した原則に基づいて決定された。これらの原則は、戦運によって、何の障害もなくヨーロッパに自らの法を押し付ける力を得た列強の意図とは、まったく対立するものであった。それでも、会議の討議のさなか、反乱と簒奪の精神が再びフランスを支配するに至ったあとも、ガンへ移った国王は、テュイルリー宮殿にいた時と同じ影響力を、ウィーンで行使していた。私の求めに応じて、しかも君主たちの名誉のために言っておかなければならないが、催促する必要もなく、ヨーロッパは、簒奪者に対する激烈な宣言を発した[164]。私がそのように呼ぶのは、エルバ島から戻ったナポレオンが、まさにそうだったからである。それまでは、彼は征服者であり、簒奪者だったのは、兄弟たちだけだった。
この時、私は、原則に忠実であったことへの報いを得た。国王の名において、他者の権利を守るために援用してきた原則が、国王自身の権利の保証となっていたのである。すべての列強は、フランスで再び生まれた革命に、またも脅かされていると感じ、大急ぎで軍備を整えた。いっそう差し迫った事柄に休みなく取り組むため、ウィーンの交渉の終結を急いだ。そして、会議の最終議定書は、一部がまだ草案にすぎない状態ではあったが、全権委員たちによって署名され、そのあと、彼らは散会した。
このように政務が終わり、国王、したがってフランスも、ナポレオンとその支持者に対する同盟に受け入れられたので、私は、もはや引き留めるもののないウィーンを離れ、ガンへの旅に出た。ブリュッセルに着いた時、ワーテルローの戦いの結果を知ることになろうとは、思いも寄らなかった。そのすべての詳細を、親切に教えてくださったのは、コンデ公だった。公は、決して忘れられないほどの優しさをもって、フランスがウィーン会議で収めた成功について、私に語った。
ウィーン会議の審議について、この簡潔な説明を読んだあとなら、以下の往復書簡を、いっそう興味深く読めるかもしれない。
これらの往復書簡は、すべて外務省の文書庫に保管されている。すなわち、国王ルイ十八世の自筆による手紙の控えと、私の手紙の原本である。ここに掲げる写しは、国王の手紙の原本と、私の控えから取ったものである[165]。
ウィーン、一八一四年九月二十五日。
陛下、
私は十六日にパリを発ち、二十四日の朝、当地に到着いたしました。私がストラスブールに着いた時、ウェールズ公妃は、出発したばかりでした。公妃は、同名の銀行家の未亡人であるフランク夫人の邸での舞踏会への招きを受け、一晩中踊っていました。出発の前夜には、タルマを夕食に招きました。私が聞いた話から、摂政皇太子が、公妃はイギリスよりも大陸にいてくれるほうがよいと考える理由が、理解できます。公妃は、イタリアへ向けて出発する準備をしていました。
到着日はこの書簡では二十四日朝とされるが、回想本文のu877・u883では二十三日。双方の原文の日付を保存した。
ミュンヘンでは、国王[168]が、陛下への敬愛について、私に語りました。「私は二十年間、フランスに仕えました。それは忘れられるものではありません。私がバーデンにいた時、王弟殿下かベリー公殿下がストラスブールにいらっしゃっていたなら、ご挨拶に伺うことを、大いに喜んだでしょう」と、私に言いました[169]。
小国の心を私たちに取り戻し、その信頼を得るためには、陛下がフランスの政治方針の基礎として定められた原則に従うだけでよい、と見て取りました。
当地に到着して以来、まだ数人の方しか迎えることができておりません。私より一日早く到着したド・ダールベルク氏も、いくつかの情報を集めていました[170]。
陛下、理性の言葉、そして節度を示す言葉が、すべての全権委員の口から出るわけではなさそうです。
ロシアの大臣の一人は、数日前、こう言いました。「人々は、わが国をアジアの大国にしておこうとしました。私たちは、ポーランドによって、ヨーロッパの大国になるのです。」
プロイセンは一方で、旧来のポーランド領を、ドイツとライン川沿いで切望している領地と交換することを、願ってもないことと考えています。この点で、両国は密接に結び付いていると見るべきです。
ロシアの大臣たちは、これまで少しの討議も認めず、旧プロイセンさえ自国の帝国に統合し、ヴィスワ川岸まで進出するような領土拡張を、強く求めています。ただし、この問題は、彼らへの訓令を変更できる唯一の方である、自国の君主と、まだ協議しなければならない、と述べています[171]。
ロシア皇帝は、さまざまな機会に、その真の利益と栄光に最も役立つと私が考えることを、率直に申し上げる権利を、お認めくださいました。皇帝が到着されたら、力に節度を添えることが、普遍的な人類愛という皇帝の理念にとって、いかに有益であるかを、お伝えできると期待しております。おそらく、この点こそ、すでに当地にいるド・ラ・アルプ氏[172]と、私との唯一の接点になるかもしれません。ロシア皇帝とプロイセン王は、本日到着の予定です。
ザクセン王が会議に大臣を置く権利は、なお争われています。王は、私も知っている、有能な交渉者シューレンブルク伯[173]を、当地へ派遣しました。私たちは、その人を役立てることができるでしょう。王は、ザクセンの存立を破壊するような、いかなる割譲、退位、交換も行わないと宣言しています。この名誉ある抵抗は、なお、この王国のプロイセンへの併合という考えを支持する人々に、反省を促すかもしれません。
バイエルンはザクセン王に対し、必要であれば五万人の兵で、その権利の主張を支援すると、申し入れさせました。
ナポリの全権委員を参加させないことについては、意見が一致していないようです。この問題は、まだ完全には解決されていないと、私は見ております。
オーストリアは、ナポリとザクセンを同列に扱おうとし、ロシアは、両者を引き換えの対象にしようとしています。
ナポリ王妃の死は、誰からも惜しまれておらず、その死によって、メッテルニヒ公は、気が楽になったようです。
そのほか、会議における議事の進め方や運営については、まだ何も決まっていません。イギリスの大臣たちの議論を聞いていても、彼ら自身、この準備作業を十分に練っていないように、思われました。
二つの委員会が提案されており、一方は大国、他方は小国から成ることになるようです。ドイツの問題は、特別の委員会で扱わせる方向です。陛下が大使たちにお命じになる役割は、きわめて高貴で、陛下の尊厳にかなっておりますので、大使たちは、ヨーロッパに秩序を戻し、真実かつ永続的な均衡を回復するための、あらゆることに寄与できるでしょう。
陛下の信頼にお応えし、会議に派遣する大使たちに陛下がお授けくださった訓令の示す道に従うため、私たちは力を尽くすことを、お信じくださいますよう、お願い申し上げます[174]。
謹んで……
タレーラン公[175]。
第一号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ[176]。
ウィーン、一八一四年九月二十七日。
伯爵殿、
会議に派遣された国王の大臣たちからの書簡で、外務省にまだお知らせできることは、わずかです。国王の大臣たちは、訓令で示された方針を守っています。あらゆる会話において、真実かつ永続的な均衡を確立するという名誉ある使命を、会議に与えている、五月三十日の条約の条項に立ち戻っています。この私心のない姿勢から、ヨーロッパ全体が承認する国際公法の原則に踏み込むことになります。そして、その原則からは、フェルディナンド四世のナポリ王位への復帰と、サヴォイア家のカリニャーノ系統への王位継承とが、ほとんど必然的に導かれます。
ザクセン王が退位も割譲もしていない以上、国王の大臣たちには、その王の立場を擁護する義務があります。
伯爵殿、お分かりのとおり、私たちは一般論の範囲にとどまっています。しかし、和平以前、私たちが連合国と呼んでいた諸国の大臣たちは、その適用を見越しているようであり、そのため、国王の大臣たちは、この大きな局面で国王が果たすべき、見事な役割にふさわしい立場に置かれていることを、申し上げなければなりません。
私たちが得た情報によれば、不幸と野心のために、プロイセンの大臣たちは、ウィーンの集まりほど平和的な場にふさわしいはずの言葉を、まだ語れずにいる、と申し上げられます。
謹んで……
タレーラン公。ダールベルク公。ラ・トゥール・デュ・パン・グーヴェルネ侯爵。アレクシ・ド・ノアイユ伯爵。
第二号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。
ウィーン、一八一四年九月二十九日。
陛下、
人数の多い皇族の方々すべてへの訪問を、ようやく、ほぼ終えました。至る所で、陛下個人への深い敬意、陛下への関心、陛下のための願いが示されているのを知り、私はたいへんうれしく存じました。表現の巧拙はあっても、いつも、偽りとは疑いようのない誠実さがありました。私たちの到着以来、専らロシア皇后のご接待に当たらなければならなかった皇后は、本日、私たちに時間を指定してくださいました。ご気分が優れず、何人もの方を、母君である大公妃に、代わって迎えさせておられましたが、陛下の使節団は、ご自身でお迎えになろうとされました。単なる礼儀ではない関心をもって、陛下のご健康をお尋ねになりました。「ミラノで国王にお会いしたことを、覚えています」と、私に言われました。「当時、私はまだ、たいへん幼かったのです。国王は、とても親切にしてくださいました。どのような時にも、そのことを忘れたことはありません。」アングレーム公爵夫人についても、その徳、ウィーンで寄せられた愛情、そしてここに残された思い出を、同じような言葉で語られました。陛下の大臣に対しても、ご親切な言葉を賜りました。会話の中で、二度、マリー=ルイーズ大公女の名を出され、二度目には、いくらかことさらにおっしゃいました。「娘のルイーズ」と呼んでおられます。ほとんど絶えず話を中断させる咳[177]と、痩せたお体にもかかわらず、この方には、人を魅了する天分と優美さがあります。きわめて厳しい目で見れば、ほんの少し、作為が混じるかもしれないという点を除けば、その優美さを、まったくフランス的と呼びたいところです。
ド・メッテルニヒ氏は、私にたいへん丁重です。ド・シュタディオン氏は、いっそう信頼を示してくれます。もっとも、後者は前者のすることに不満を抱き、自分が管轄を任された財政問題の中に閉じこもって、国政上の問題からは身を引いています。それで、かえって話をしてくれるのかもしれません。ただし、彼が財政を理解しているかどうかは、私には、たいへん疑わしく思われます。
カスルレー卿の率直さには、いつも感謝しています。数日前、彼はアレクサンドル皇帝と、一時間半にわたり会談し、その直後、私に内容を知らせに来ました。彼によれば、この会話で、アレクサンドル皇帝は、きわめて巧妙な知性の、あらゆる手段を用いたそうです。一方、自分、すなわちカスルレー卿は、非常に明確な言葉で話し、その言葉が受け入れられるように、皇帝の栄光を熱心に願っているとの表明を織り交ぜなければ、無礼になるほど厳しくさえ話した、と言います。しかし、それでも私は、私たちにとって、それほど必要な決断力を、カスルレー卿が持っておらず、いつも頭を離れない議会への思いが、彼を臆病にしているのではないかと恐れています。私は、彼に毅然とした態度を取ってもらうため、力の及ぶかぎりのことをいたします。
ネッセルローデ伯は、アレクサンドル皇帝が私に会いたがっておられると言い、謁見を願う手紙を、皇帝に書くよう勧めました[178]。すでに数日前、そのようにいたしましたが、まだお返事を頂いていません。私たちが隠していない原則を、アレクサンドル皇帝もご存じで、そのため、私に対して、いくらか気まずさを感じておられるのでしょうか。耳に入るすべてのことから、そうなると考えるべきなのですが、もし、ポーランドとザクセンの問題について、お話しくださる栄誉を賜るなら、私は穏やかに、融和的に、しかし明確に、原則だけを語り、決してそこから外れないつもりです。
私の考えでは[179]、ロシアとプロイセンが、あれほど騒ぎ、高圧的に語るのは、ほかの国々がどう考えているかを知るためにすぎず、自分たちだけしか味方がいないと分かれば、事態を極限まで進める前に、考え直すでしょう[180]。アレクサンドル皇帝が、パリで燃え上がらせていたポーランドへの熱情は、サンクトペテルブルクでは冷めました。それはプワヴィ[181]で再燃しましたが、再び消えることもあり得ます。ここにはド・ラ・アルプ氏がおり、チャルトリスキ家の人々[182]の到着も待たれているとはいえ、列強の簡明で、しかし全会一致の声明があれば、それを鎮めるのに十分でないとは、考えにくいのです。残念ながら、オーストリアで政務の頂点に立ち、ヨーロッパの政務まで取り仕切ろうとする人物は、軽薄さを、才能の優越を示す最も確かな印と見なしています。その軽薄さは、一方では滑稽なほどに達し、他方では、大国の大臣が、このような状況で示すものとして、災厄となるところまで、達しているのです。
これほど多くの情念が渦巻き、これほど多くの人々が、あらゆる方向に動き回っている状況では、性急さと怠惰とは、等しく避ける必要のある、二つの暗礁だと思われます。それゆえ私は、静かな威厳を保つことに努めています。それだけが、陛下の大臣たちにふさわしいように思われます。陛下のお授けくださった賢明な訓令のおかげで、私たちには、押し通すべき私利の計画はなく、守るべき原則があるだけだからです。
会議の結末がどうなるにせよ、二つの評価を確立し、保たなければなりません。陛下が公正であるという評価と、その政府が力強いという評価です。それこそ、国外での尊敬と、国内での安定の、最良の、いや、むしろ唯一の保証だからです。この二つの評価が、私の期待するとおり、ひとたび確立されれば、会議の結果が、私たちの望みとヨーロッパの利益に、かなっても、かなわなくても、私たちは、常に名誉を保って、会議を終えられるでしょう。
謹んで……
第二号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。
ウィーン、一八一四年九月二十九日。
伯爵殿、
ここ数日、私たちは、オーストリア皇族の方々に紹介を受けることに、時間を費やしていました。皇帝と大公たちは、たいへん親切にしようと努めてくださったように思います。とりわけ皇后は、私たちを迎える際、たいへん優雅に振る舞われました。国王への敬愛が述べられ、アングレーム公爵夫人のご健康の様子についても、熱心に尋ねられました。祝宴が始まりました。
先の手紙を差し上げて以来、会議の政務は、ほとんど進展しておりません。私たちは引き続き、与えられた訓令を守っています。
その訓令に含まれる原則を明らかにすることで、フランスと国王は、高貴で、しかもふさわしい仕方で、ヨーロッパの政務に影響を及ぼすことになるでしょう。
政務の進め方について合意されるはずだったことは、これまでのところ、すべてが決まったわけではないようです。
国王の大臣たちは、まだ介入すべきだとは考えておりません。伯爵殿、私たちは、これらのさまざまな事項について、関係者が相談をまとめるのを待ち、その結果をお知らせするつもりです。
ロシアは、ポーランドに対する要求を、一つも放棄していないと、私たちは、きわめて確かな形で知りました。ワルシャワ公国の全土は自国軍が占領しており、それを追い払わなければならないだろう、と宣言しています。実際に、そのような言葉が用いられています。
プロイセンは、その国について自らの権利と呼ぶものを、ロシアに譲り、ザクセン王国に補償を求めています。この状況は、会議の結末を、大いに不確かなものにしています。
オーストリアの意向について集めた情報からは、それなしには何も安定しない原則を支えるために、この大国が、その多数の軍隊を適切に用いようとするだろうと、十分に信頼することはできません。
国王の大臣たちは、さまざまな機会に示した、毅然として力強い言葉が、いくらかの効果を生み、ほぼ決まっていた計画についてさえ、ためらいを生じさせたと、見ております。
タレーラン公は、ロシア皇帝に、個別の謁見を願い出ました。その手紙は、三日間、返答のないままです。この会見のあとになって初めて、この君主が、ヨーロッパ全体の政務に、どれほどの節度をもって臨まれるかを、判断できるでしょう。その大臣たちは、すべてを知らされているわけではないようです。彼らは私たちとの議論に入ることを恐れて、私たちを避けています。
オーストリアの大臣たちは、ある種の警戒を示しています。
プロイセン人は、ロシア人のために働いています。イギリスの大臣たちは、それほどはっきりした言葉を用いていないようです。
小さな宮廷の使節たちは、フランスに近づこうとしており、私たちも、それを促しています。
まだ大まかな見通しを示すにとどまりますが、これによって、現状の一端を、お分かりいただけるでしょう。
第一号第三信――国王ルイ十八世からタレーラン公へ。
パリ、一八一四年十月三日[183]。
親愛なる従兄よ、
Mon cousin は、国王が高位の貴族などに用いる書簡上の呼びかけ。必ずしも実際の従兄弟関係を示さない。
ナポリ王とザクセン王は、私にとって、同じ親等の親族である。正義は、両者のために等しく要求する。しかし、私が両者に寄せる関心は、同じではあり得ない[186]。ルイ十四世の子孫がナポリ王国を領有すれば、フランスの力が増す。コルシカの一族の一人[187]にとどまれば、flagitio addit damnum、すなわち、恥辱に損害を重ねることになる。この王国とザクセンが、引き換えの対象になり得るという考えにも、私は、ほとんど同じほど憤りを覚える。公の道徳をすべて忘れる、そのような行いについての考えを、ここであなたに記す必要はない。しかし、急いで伝えなければならないのは、この不正を防げないとしても、少なくとも、私はそれに承認を与えたくないということだ。それどころか、機会があれば是正する自由を、私自身、あるいは私の後継者たちのために、留保しておきたい。
もっとも、これを言うのは、仮定を極限まで進めるためにすぎない。イギリスが、カスルレー卿がここで私たちに示した原則を、強く守り、オーストリアがバイエルンと同じ決意であるなら、この大義の成功を、私は、まだ諦めていないからである。
ザクセン王の決意について、ド・シューレンブルク氏があなたに述べたことは、まったく真実である。この不幸な君主は、そのことを、自ら私に書き送ってきた。
すでに議事が始まっているはずの会議からの知らせを、私が、どれほど心待ちにしているか[188]は、あなたにも容易に分かるだろう。では、親愛なる従兄よ、神が、その聖なる尊い守りのうちに、あなたを置かれるよう、祈る。
ルイ。
第三号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。
ウィーン、一八一四年十月四日。
伯爵殿、
先の手紙以来、私たちは、さらに一歩進みました。しかし、それでも、まだ会議の仕事が始まるところには、至っていません。これまでの動きを、簡潔にご説明いたします。
メッテルニヒ公は、九月二十九日付でタレーラン公に宛てた短い手紙により、個別の協議へ招待しました。その写しを、第一号として添付します[189]。
「列席する」という言葉と、名を挙げられた大臣たちとから、この会合は、連合国がフランスに一種の好意を示す、という性格を持つはずだと、推測されました。タレーラン公は、添付第二号の短い手紙で返答しました。伯爵殿、スペインをプロイセンの前に置くことで、メッテルニヒ公の意図を打ち消していることに、ご注目ください。
のちに、メッテルニヒ公が、ド・ラブラドール氏にも招待を送り、その中で、「メッテルニヒ公と、その同僚であるロシア、イギリス、プロイセンの大臣たちは、お招き申し上げます……」と書いていたことが、分かりました。
ド・ラブラドール氏は、フランス使節団に深く親しみを寄せ、その行動と原則の筋の通ったあり方に、賛同しているようで、タレーラン公が示したとおりに、返答しました。
協議は、メッテルニヒ公自身の邸で開かれました。公は、イギリスおよびプロイセンとの関係で知られるド・ゲンツ氏を、議事録の起草者に選んでいました。
そこで、一つの議事録と、宣言案とが読み上げられました。
議事録は、各段落の冒頭で「連合諸国」という呼称を用い、宣言も、その名において出されるものでした。宣言案は、第三号として添付してあります。
タレーラン公は、「連合諸国」という言葉を二度取り上げ、今回招集されたような会議の席では、それは侮辱にあたると述べたあと、この文書の結論は、他の諸国に払うべき敬意を傷つけており、何の権利にも基づかない発議を行うことは、連合諸国だけに属するものではない、と指摘しました。そして、すべての国に、会議に集まり、委員会を任命するよう促し、そうして、これなしには何も正当にならない節度をもって、進めるほうがよいと述べました。最後に、パリ条約の署名後に結ばれた、いかなる個別の取り決めも、認めることはできない、と宣言しました。
タレーラン公は、その晩、午前中に集まった五人の大臣たちに、意見をまとめたものを送りました。その覚書は、第四号です。
この覚書のため、二度目の協議の招集が遅れたようです。大臣たちは、それに困惑しているようだと、私たちには伝わってきました。また一方では、彼らは説教をされようとしていると考えているらしく、ヨーロッパを堅固な基盤に戻し得る唯一のものである原則へ、彼らを立ち戻らせようとする努力を、正当に評価していないようだ、とも聞きました。
タレーラン公が正式な覚書を送ることにしたのは、これらの大臣たちが準備協議を開き、議事録に署名し、未解決の政務で一種の主導権を行使するという、彼らの取り決めにかなうものとして、その文書を公表することまで決めていたからです。一方の側に正式なものがある以上、他方の側にも、正式なものがなければならないと考えたのです。
伯爵殿、これらのさまざまな文書をお読みになれば、全般的な政務が、すみやかに結論に至るために必要な率直さと、正義および公正の意識をもって、まだ扱われていないことを、お分かりになるでしょう。また、フランス使節団の立場が、たいへん困難であることも、お分かりになるでしょう。他の諸国に、節度を持ち、理性的であるよう促すことが、その方針であるのに、これらの諸国は、なお以前の約束に縛られ、耐えがたい野心に導かれているからです。この点についての私たちの見解は、タレーラン公がロシア皇帝陛下に賜った個別の謁見によって、裏付けられています。伯爵殿、それについてお話しする必要があります。
皇帝は、フランスの状態、その軍隊、財政、国民の気風について、ことさらに質問しました。現在手にしているものを保持したいと述べ、これから行われる取り決めは、自分の都合にかなわなければならない、という原則を掲げました。タレーラン公は、むしろ権利にかなうものを求めるべきだと指摘しました。すると皇帝は、こう言いました。「では戦争だ!……あなたは、戦争を望むのですか……?」タレーラン公は返答せず、戦争を決定し、その責任を負うことになるのは、皇帝自身であると示す態度を取りました。皇帝は、列強との間で取り決めができていると示唆しました。タレーラン公は、フランスがそれに参加していないこと、また、すべての列強が、パリで行われたこと以外の個別の約束には縛られていないと述べていることから、それに疑問を呈しました。
以上が、政務の現状です。すでに中小諸国が、支えを求めてフランスに向かっていると、あらゆる方面から伝わってきます。そして私たちは、なお期待しています。ロシアの国民と軍隊は、ポーランドの再建に関心を持たず、野心的な構想を支えるための戦争を望んでいません。それゆえロシア皇帝も、反省し、ヨーロッパが、理性の命ずる原則の庇護のもとに立つことで、安寧と平静を回復することに、同意するだろう、と。
伯爵殿、ポルトガルの大臣がカスルレー卿に宛てた手紙の写しを、お送りいたします。その手紙で彼は、ポルトガルの大臣である自分が、最初の諸協議から排除されたことに、異議を唱えています。タレーラン公は、その要求を支持すべきだと考えました。
敬具……
第三号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。
ウィーン、一八一四年十月四日。
陛下、
九月三十日の朝、九時から十時の間に、私はド・メッテルニヒ氏から、前日付の五行の手紙を受け取りました。そこでは、彼一人の名で、二時に準備協議へ列席するよう誘われており、彼の邸には、ロシア、イギリス、プロイセンの大臣たちだけ[190]が集まっているだろう、とありました。また、スペインの大臣ド・ラブラドール氏にも、同じ依頼をしていると、付け加えていました。
「列席する」と「集まっている」という言葉は、明らかに意図して用いられていました。私は、ロシア、イギリス、スペイン、プロイセンの大臣たちとともに、喜んで彼の邸へ伺うと、返答しました。
ド・ラブラドール氏への招待は、私が受け取ったものと同じ文面でした。ただし、三人称で書かれた短い手紙の形を取り、メッテルニヒ氏とその同僚たちの名で出されている、という違いがありました。
ド・ラブラドール氏が、それを見せ、返答について相談するために来たので、私は自分の返事を見せました。彼は、まったく同様の返事を書き、その中ではフランスの名を、他の諸国とともに、しかもそれらより先に挙げました。こうして、ド・ラブラドール氏と私は、他の人々が切り離そうとしているように見えるものを、わざと一緒にし、特別な絆で結び付けようとしているように見えるものを、分けたのです。
二時前にド・メッテルニヒ氏の邸に着くと、四宮廷の大臣たちは、すでに長い机を囲んで会合中でした。一方の端には、議長を務めているように見えるカスルレー卿、もう一方の端には、ド・メッテルニヒ氏が、協議の記録を取る人として紹介した人物がいました。それはド・ゲンツ氏でした。カスルレー卿とド・メッテルニヒ氏の間に、一つの席が空けてあり、私はそこに座りました。なぜ陛下の使節団の中から、私一人だけが招かれたのかと尋ねたところ、次のようなやり取りになりました。「準備協議には、各政府の責任者だけを集めるつもりでした。」「ド・ラブラドール氏は、そうではないのに、招かれています。」「それは、スペインの国務大臣が、ウィーンにいないからです。」「しかし、ハルデンベルク公のほかに、国務大臣ではないド・フンボルト氏も、ここにいます。」「それは、ご存じのとおり、ハルデンベルク公の身体上の不自由[191]から、必要となった例外です。」「身体上の不自由のことだけなら、誰にでもあり得ますし、それを理由に挙げる権利は、皆、同じです。」すると、各国務大臣が、自分に付属する全権委員の一人を伴うことを、認める方向になったようなので、その場では、それ以上、主張する必要はないと考えました。
ポルトガル大使パルメラ伯[192]は、ド・ラブラドール氏と私が出席する準備協議が開かれるのに、自分は招かれないと、カスルレー卿から知らされていました。その排除は、不公正であり、ポルトガル王冠にとって屈辱的でもあると考え、異議を唱えるべきだと判断していたのです。そこでカスルレー卿に手紙を書き、卿は、その手紙を協議の席で提示しました。その理由は有力で、筋道立っていました。五月三十日の条約に署名した八か国が、そのうちの六か国だけでなく、自ら開催を取り決めた会議を始動させる準備委員会を構成すべきだ、という要求でした。ド・ラブラドール氏と私は、この要求を支持しました。それを認める方向が示されましたが、決定は次の会合へ持ち越されました。スウェーデンは、まだ当地に全権委員を置いていないため、異議を申し立てる状況にも、まだなっていません。
「本日の協議の目的は」と、カスルレー卿が私に言いました。「ここに来て以来、四宮廷が行ってきたことを、あなたにお知らせすることです。」そして、ド・メッテルニヒ氏に向かい、「議事録は、あなたがお持ちですね」と言いました。するとド・メッテルニヒ氏は、自分、ネッセルローデ伯、カスルレー卿、ハルデンベルク公の署名した文書を、私に渡しました。この文書では、各段落に「連合諸国」という言葉がありました。私は、その言葉を取り上げました。そのため、私たちはどこにいるのか、まだショーモンかラン[193]にいるのか、和平は成立していないのか、戦争中なのか、誰に対する戦争なのか、と尋ねざるを得ないと、述べました。全員が、「連合諸国」という言葉に、現在の私たちの関係に反する意味を込めてはいない[194]、ただ簡潔にするために用いただけだ、と答えました。そこで私は、簡潔さがどれほど貴重でも、正確さを犠牲にして得るべきではないと、分かってもらいました。
議事録の内容はといえば、私たちの知らない条約にも依拠する要求を正当化するための、抽象的な理屈の寄せ集めでした。その理屈と要求を論じれば、論争の大海に飛び込むことになったでしょう。私は、決定的な論拠によって、全体を退ける必要があると感じました。いくつかの段落を読んで、「分かりません」と言いました。ある事柄の意味を理解しようとする人の様子で、落ち着いて、もう一度読み返し、「やはり分かりません」と言いました。そして付け加えました。「私にとって、二つの日付があり、その間には、何もありません。会議の設置が取り決められた五月三十日と、会議が開かれるはずの十月一日です。その間に行われたことは、すべて私の関知するところではなく、私にとっては存在しません。」全権委員たちは、この文書には、ほとんどこだわっておらず、喜んで撤回すると答えました。それに対し、ド・ラブラドール氏は、それでも、あなた方は署名したのではないか、と指摘しました。彼らは文書を引き取り、ド・メッテルニヒ氏が、それを脇へ置きました[195]。そして、その話は、二度と出ませんでした。
この文書を断念すると、彼らは、別のものを提示しました。それは宣言案で、ド・ラブラドール氏と私が受け入れれば、彼らとともに署名するはずのものでした。会議の仕事を簡単にし、短くする必要についての長い前文と、誰の権利も侵すつもりはないとの表明のあと、案は、会議が解決すべき事柄を二つの系列に分け、それぞれに委員会を設け、利害関係国はそこへ申し出ることができる、と定めていました。そして、二つの委員会が、すべての仕事を終えた時、初めて会議を招集し、その承認に、すべてを付すというのでした。
この案の目的は、明らかに、連合国と称する四大国を、会議のすべての活動の、絶対的な支配者にすることでした。主要六か国が、会議の構成、そこで解決すべき事項、解決のための手続、解決する順序について、自ら裁定者となり、すべてを準備する委員会を、自分たちだけで、誰の監督も受けずに任命するとしたら、フランスとスペインは、あらゆる問題で、常に意見が一致すると仮定しても、四対二の、二でしかないからです。
私は、この種の案については、一度読んだだけで意見を形成することはできず、熟考が必要だと述べました。何よりも、私たちが皆、尊重しようとしている権利と両立するかどうかを、確かめなければならない。私たちは、各国の権利を確立し、保証する[196]ために来たのであり、それを侵すことから始めるとすれば、あまりにも不幸である。会議を集める前に、すべてを取り決めるという考えは、私には初めて聞くものだ。始めなければならないと私が思っていたことを、最後にしようとしている。六か国に与えようとしている権力は、おそらく会議しか与えられない。責任を負わない大臣たちなら、容易に採用できる措置もあるが、カスルレー卿と私とは、まったく違う立場にある、と。ここでカスルレー卿は、私が今述べた考えは、すべて自分も思い浮かべており、その力は十分に分かっている、と言いました。しかし、こう付け加えました。「抜け出せない遅延に陥らないために、ほかにどんな方法があるでしょうか。」私は、なぜ今すぐ会議を招集しないのか、そこにどんな困難があるのかと、尋ねました。すると、それぞれが自分の考える困難を挙げ、会話が続きました。その中で、ナポリで統治している人物の話になると、ド・ラブラドール氏は、遠慮のない言葉を用いました[197]。私は、「どのナポリ王のことをおっしゃるのですか。私たちには、誰のことか分かりません」と言うにとどめました[198]。ド・フンボルト氏が、その人物を承認し、領国を保証した国々もあると指摘したので、私は、毅然とした口調で[199]、「それを保証した国々は、そうすべきではなかった。したがって、そうする権利もなかったのです」と答えました。この言葉が明らかに与えた衝撃[200]を、あまり長引かせないため、「しかし、今、問題になっているのは、そのことではありません」と付け加えました。そして会議の問題へ戻り、恐れているように見える困難は、考えられていたほど大きくないかもしれず、方法を探せば、きっとそれを防ぐ手段が見つかるだろう、と述べました。ハルデンベルク公は、ある方法をほかの方法より好むわけではないが、ライエン公とリヒテンシュタイン公[201]が、ヨーロッパ全体の取り決めに介入する余地を与えない方法が、必要だと言いました。そこで、ド・ラブラドール氏と私に、宣言案とパルメラ伯の手紙の写しを送るとの約束がなされ、会合は翌々日へ持ち越されました。
(陛下に差し上げるこの手紙で言及している、さまざまな文書は、本日、外務省へ送る手紙に添付してあります。)
それらを受け取り、よく考えたあと、私の意見を知らせるのに、次の協議まで待つべきではないと考えました。まず口頭覚書の形で返答を起草しました。しかし、四宮廷の大臣たちは、内輪の協議で議事録を作り、署名していたことに思い至りました。彼らと陛下の大臣との間には、何の記録も残らない会話だけしかない、ということではならず、正式な覚書こそ、交渉の糸口を結ぶのにふさわしいと思われたのです[202]。そこで十月一日、他の五か国の大臣たちに、署名した覚書を送りました。その要旨は、次のとおりでした。
「五月三十日の条約に署名した八か国は、その事実だけによって[203]、会議が何より先に決めるべき問題を、その決定に向けて準備し、設置が適当と判断される委員会の構成と、その委員に最もふさわしいと判断される人物の名を、会議に提案する委員会を組織する、十分な資格を持つと、私には思われる。しかし、その権限は、それ以上には及ばない[204]。八か国は会議そのものではなく、その一部にすぎないから、会議だけに属し得る権力を、自らに与えるとすれば、簒奪となる。私がそれに加わることになった場合、自分の責任と両立させるのは、きわめて困難であろう。会議の招集に伴う困難は、時間とともに減るような性質のものではなく、いつか克服しなければならない以上、延期しても、何も得られない。確かに小国は、ヨーロッパ全体の取り決めに干渉すべきではないが、その望みすら持たず、したがって障害にもならないであろう。以上のすべての理由から、私は自然に、八か国が、会議の決定すべき予備的な問題に、遅滞なく取り組み、すみやかに会議を招集して、それらを付託できるようにすることを望むのである。」
この覚書を発送したあと、私は、アレクサンドル皇帝から告げられていた、個別の謁見へ向かいました。ド・ネッセルローデ氏が、皇帝の使いとして、私一人に会いたいと伝えに来ており、前夜、宮廷の舞踏会でご一緒する栄誉を得た際には、皇帝ご自身も、そのことを念押しされました。私に近づくと、皇帝は手を取られましたが、その様子は、いつものように親しげではありませんでした。言葉は短く、態度は重々しく、いくらか儀式張ってさえいたかもしれません。これから一役演じようとしておられることが、はっきり分かりました。「まず何より、あなたの国の状況は、どうですか」と言われました。「陛下が望まれたほどに良好であり、大胆に期待し得た以上です[205]。」「国民の気風は?」「日ごとによくなっています。」「自由主義的な考えは?」「フランスほど多い所は、どこにもありません。」「しかし、出版の自由は?」「状況によって必要とされる、いくつかの制限を除けば、回復しています[206]。その制限は二年でなくなりますし、それまでも、善いもの、有益なもののすべてが出版される妨げにはなりません。」「軍隊は?」「すべて国王に忠実です。十三万人が軍旗のもとにあり、一声かかれば、三十万人が加わることができます。」「元帥たちは?」「陛下、どの方々でしょうか。」「ウディノは?」「国王に献身しています。」「スールトは?」「初めは、少し不満を抱いていました。ヴァンデの統治を任され、そこで見事に務めを果たし、愛され[207]、尊敬されています。」「ネーは?」「受けていた賜与財産を、少し惜しんでいます。陛下なら、その惜しむ気持ちを和らげることがおできになるでしょう。」「両議院は? 反対があるようですが。」「審議する議会のある所は、どこもそうです。意見は違っても、忠愛の心は一致しています。そして、意見が違う中でも、政府の意見には、いつも大多数の支持があります。」「しかし、一致はないのですね。」「誰が陛下に、そのようなことを申し上げたのでしょう。二十五年間の革命のあと、国王が、わずか数か月で、まるで一度もフランスを離れなかったかのように、しっかりと地位を固めておられるのです。すべてが同じ目標へ進んでいることの、これ以上確かな証拠が、あるでしょうか。」「あなた個人の立場は?」「国王の信頼とご厚意は、私の期待を超えています。」「では、私たちの政務の話をしましょう。ここで決着させなければなりません。」「それは陛下次第です。フランスの政務に臨まれたのと同じ高貴さ、同じ度量をお示しくだされば、すみやかに、幸いな形で終わるでしょう。」「しかし、それぞれの都合にかなわなければなりません。」「そして、それぞれの権利にも。」「私は、占領しているものを保持します。」「陛下は、正当にご自分のものとなるものだけを、保持しようとなさるでしょう。」「私は、列強と合意しています。」「陛下が、その列強の中にフランスを数えておられるか、私には分かりません。」「もちろん、そうです。しかし、それぞれの都合にかなうことを望まないのなら、何を求めるのですか。」「私は、権利を先に置き、都合は、そのあとに置きます。」「ヨーロッパの都合こそ、権利です。」「陛下、それは陛下の言葉ではありません。陛下には無縁の言葉であり、お心は、それを否認しておられます。」「いや、繰り返します。ヨーロッパの都合こそ、権利です。」そこで私は、そばの羽目板へ向き直り、頭をもたせかけ、板をたたきながら、叫びました。「ヨーロッパよ、ヨーロッパよ、不幸なヨーロッパよ!」そして皇帝の方へ向き直り、「陛下がヨーロッパを滅ぼしたと、言われることになるのでしょうか」と尋ねました。皇帝は、「占領しているものを諦めるくらいなら、戦争のほうがよい」と答えました。私は両腕を下ろし、悲しみながらも決意を固めた人の姿で、「責任は私たちにはありません」と語るかのように、沈黙を守りました。皇帝もしばらく、その沈黙を破りませんでしたが、やがて、「そう、戦争のほうがよい」と繰り返しました。私は同じ姿勢を保ちました。すると皇帝は、これまで見たこともないように両手を上げ、振り動かしました。その様子は、私に『マルクス・アウレリウス頌』の結びの一節を思い起こさせました。そして、言うというより叫びました。「観劇の時間です。行かなければなりません。皇帝に約束しました。皆が待っています。」皇帝はいったん離れましたが、扉が開くと、私の方へ戻り、両手で私の体をつかんで抱き締め、もはやご自身のものとも思えない声で、「さようなら、さようなら、また会いましょう」と言われました。
この会話のうち、陛下には、最も際立った部分しかお伝えできませんでしたが、その全体を通じて、ポーランドもザクセンも、一度も名指しされず、婉曲な表現で示されただけでした。皇帝が、「ヨーロッパの大義を裏切った者たち」と言って、ザクセンを指そうとされたのも、その一例です。それに対し、私は、「陛下、それは日付の問題です」と答えることになりました。そして、少し間を置いて、「また、状況によって陥らされた困難の、結果でもあります」と、付け加えることができました。
皇帝は一度、「連合諸国」と口にされました。私は、協議の席で行ったのと同じように、その表現を取り上げました。皇帝は、それは習慣のせいだと言われました。
二度目の協議が開かれるはずだった昨日、ド・メッテルニヒ氏の使いとして、ド・メルシー氏が来て、協議は開かれないと伝えました。
午後、ド・ゲンツ氏の友人が訪ねると、彼は仕事に忙殺されており、非常に急ぐ仕事なのだと言ったそうです。私の覚書への返答だったのではないかと思います。
その晩、トラウトマンスドルフ公[208]の邸で、全権委員たちは、私が覚書を彼らに送ったこと、とりわけ署名によって正式な性格を与えたことを、非難しました。私は、彼らが互いに文書を書き、署名しているので、自分も書いて署名しなければならないと考えたのだ、と答えました。このことから、私の覚書は、彼らをかなり困らせているのだと、判断しました。
本日、ド・メッテルニヒ氏は、今夜八時に協議があると書いてきましたが、そのあと、皇帝に呼び出されたので開かれないと、伝えさせました。
陛下、以上が、現在の状況です。
当地での私たちの立場が困難であることは、陛下にもお分かりいただけるでしょう。日ごとに、さらに困難になるかもしれません。アレクサンドル皇帝は、野心を思う存分に広げておられます。それを、ド・ラ・アルプ氏とチャルトリスキ公が煽っています。プロイセンは、大幅な領土拡大を期待しています。臆病なオーストリアには、恥ずべき野心しかありませんが、助けてもらうために、迎合しています。しかも、困難は、それだけではありません。かつて連合していた宮廷たちが、その後、倒されるのを目にした人物を、まだ倒せるとは思わず、その人物にならえるような和平を結ぼうと期待していた時期[209]に、引き受けた約束から生じる、別の困難もあるのです。
陛下が王座に戻られ、正義をも、ともにそこへ戻された今日、これらの約束によって利益を得る国々は、それを放棄しようとしません。そして、約束したことを、おそらく悔いている国々は、どうすれば解かれるか、分からずにいます。イギリスがそうだと、私は思います[210]。したがって、陛下の大臣たちは、名誉を守るという望み以外、すべてを諦めなければならないほどの障害に、出会うかもしれません。しかし、私たちは、まだそこまでは来ていません。
謹んで……
第四号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。
ウィーン、一八一四年十月八日。
伯爵殿、
四日付の報告で、私たちは、秘密の取り決めによって互いに結ばれていると、今も称している四大国に対し、緻密な論理で応じることが、彼らを大いに困らせていると、お伝えしました。
実際、国際公法を基礎づける、あらゆる原則の転覆をフランスに承認させ、同時にザクセンから領土を奪うことに同意させようとしているこれらの大国が、その同じフランスが、正義にかなう道しか進もうとしないと知って、格別に当惑するのは、当然のことです。
私たちの誠実さを疑い、理性の原則に制止されたくない人々に対して、この役割を演じることが、どれほど難しくとも、耳に入るすべてのことは、今たどっている道から、少しも外れてはならないと、確信させます。真剣な注意を向けなければヨーロッパを脅かす、力の氾濫に対して、堤防を築き得るのは、この道だけだと、私たちは感じています。
先の報告以来、行われたことを、お知らせいたします。
カスルレー卿は宣言案を起草し、メッテルニヒ公が、三日の晩、タレーラン公へ渡しました。(添付文書第一号。)
それは案の形でしか伝えられていませんが、読んでみると、私たちが抱いていた、次の見解が裏付けられます。「連合した四大国は、自分たちの取り決めに従い、ボナパルトがフランスの王座にとどまる場合に備えて決めた、各国の都合を優先する方針を、なお追い続けようとしている。そして、ブルボン家の復帰を、まったく考慮していない。この復帰は、ヨーロッパの状況をすべて変え、それによって、すべてが秩序に戻るべきものであるのに。」
一見して、この方針から大きな危険が生じるはずであり、真実かつ永続的な均衡が不可能になること、そしてウィーン政府の弱さを考えれば、フランスだけでは、将来起こる出来事を、もはや制御できなくなることが、分かります。
タレーラン公は、カスルレー卿に、私信で返答しました。会議は開かれるべきであり、諸大国は、全般的な利害に関わる問題について、準備し、提案することしかできず、自分たちだけで決定することはできない、という考えを、堅持しています。
この手紙は、むしろ短い書き付けの形を取っていますが、それでも、将来、必要となれば、会議の政務でフランスがたどった道を、ヨーロッパに明らかにする役に立つよう、起草されています。(第二号参照。)
その後、メッテルニヒ公は、第二回の協議へ招待しました。
タレーラン公とド・ラブラドール氏は招かれましたが、スウェーデンの大臣も、ポルトガルの大臣も、姿を見せませんでした。
この協議では、何も進展しませんでした。しかし、会議の開会を遅らせている理由を、各国へ知らせる必要があることは、認められました。
タレーラン公は、カスルレー卿の案が、パリ条約第三十二条に明記されている、会議を成立させる原則に反するとして、反対しました[211]。そのあと、新たな案を起草することで合意し、翌日、タレーラン公は、その用途に役立ち得る案を、ド・メッテルニヒ氏へ送りました。(第三号参照。)
伯爵殿、この案は、一読してお分かりになるとおり、次のことを、同時に述べています。
会議を招集する原則と、遅延の理由。
各国の権利に払われる敬意。
そして、各全権委員の参加が認められる原則。
宣言が定める原則によれば、ザクセン王は招かれ、ミュラは排除されることになります。しかし、後者の排除には、前者の参加を認めることに劣らぬ困難があります。私たちの訓令が、認めてはならないと命じている諸点について、ロシア、イギリス、プロイセンの間には、合意があるものと、私たちは推測しています。
メッテルニヒ公は、しばしば好んでミュラを擁護し、もし排除の知らせを受けて、八万人の兵の先頭に立ち、イタリア内陸へ進軍したなら、どのような障害が生じるかと、脅します。私たちは、その懸念には根拠がなく、フランス軍とスペイン軍をシチリアに上陸させるだけで、誰も加わりたいとは思えず、フランス以上にオーストリアに危険な、この王様芝居を、永久に終わらせることができると、分かってもらおうとしています。私たちは、一歩進むごとに、成功を妨げる主な困難が、オーストリアの大臣たちの臆病な性格と、国民の奇妙な無気力にあることを、思い知らされます。ロシアとプロイセンは、それを確信して計算に入れ、不当な要求を押し通すでしょう。そして、私たちに残るのは、おそらく、このような暴力的な行いに抗議し、フランスは一切関与しないと宣言することだけになるかもしれません。オーストリア政府の仕事を引き受けるのが、会議に来ているフランス使節団だというのは、奇妙なことだと、私たちは、しばしば繰り返しています。
カスルレー卿も、この状況では、力強さと威厳を欠いています。国々の存立を支える大原則に対し、これほど無関心であることを、将来、自国民の前で、どう正当化するつもりなのかと、私たちは、時折、考えます。
バイエルン、デンマーク、サルデーニャの大臣たちは、不満を漏らし始めています。会議は成立しているのか、どこで集まるべきなのかを問うため、列強へ申し入れるべく、相談していると、聞きました。
この考えを、それとなく示したのは、私たちです。列強が、あまり長く説明を遅らせるなら、その申し入れが行われることを、期待しています。
本日夕方ごろ、メッテルニヒ公は、タレーラン公を新たな協議へ招き、いくつかの重要な事柄を扱うため、全体の会合の一時間前に、邸へ来るよう頼みました。
この会話の結果、メッテルニヒ公が、私たちの考えのいくつかに近づき、諸大国の要求を、私たちの掲げる原則と調和させようとするのではないか、という希望が生まれています。
ポルトガルとスウェーデンの大臣も出席した全体の協議では、私たちの宣言案について、合意できませんでした。厳格で、あまりに高らかに掲げた原則によって、何事も先決せず、会議の開会を十一月一日に延期し、その間、各国との内密のやり取りによって、政務を進めることを試みる、と決められました。他の大臣たちは、この趣旨の宣言案を提示しました。長い議論のあと、タレーラン公は、次の一節を付け加えさせることに成功しました。「会議に提出する提案は、国際公法と、ヨーロッパの正当な期待にかなうものであること。」他の大臣たちは、この国際公法という言葉を取り除こうとしましたが、無駄でした。プロイセンの大臣たちは、長く拒み続け、二時間の議論の末に、ようやく、いわば剣先で勝ち取るようにして、その挿入が認められたのです。彼らは、ヨーロッパの国際公法を、本来基礎づける理性と正義の原則に従うよりも、自分たちの合意に基づいて、政務を終えたがっていることが、はっきり分かりました。
この宣言の写しを、お送りいたします。多少の修正を除き、このまま公表されることになります。(第四号参照。)
伯爵殿、ご覧のとおり、私たちは、完全な勝利を得たわけではありません。しかし、まだ何も損なわれておらず、原則は維持されています。そして宣言には、私たちが見守るべきすべての利益に配慮するための、大きな余地が残されています。
バイエルンの大臣は、政務を準備する委員会から、自国が排除されたことについて、正式に抗議したと聞いています。
メッテルニヒ公は、ドイツの問題を扱う委員会では、バイエルンが議長国となり、その資格で、全般的な取り決めのすべてに参加することになるとの期待を持たせて、彼をなだめました。
敬具……
第四号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。
ウィーン、一八一四年十月九日。
陛下、
四宮廷の大臣たちは、私の十月一日付の覚書に当惑し、反論する論拠が見つからなかったので、腹を立てることにしたようです。「この覚書は」と、ド・フンボルト氏は言いました。「私たちの間に投げ込まれた火種です。」「私たちを仲違いさせようとしている」と、ド・ネッセルローデ氏は言いました。「そんなことは、できません。」こうして、彼らが互いに結束し、すべてを支配して、ヨーロッパの最高の裁定者になろうとしていたという、容易に推測できた事柄を、公然と認めたのです。カスルレー卿は、より節度をもって、穏やかな口調で、ド・ラブラドール氏と私を招いた協議は、彼らの意図では、まったく内密のものとなるはずだったのに、私が覚書、しかも正式な覚書を送ったため、その性格を失わせたのだ、と言いました。私は、それは私ではなく、彼らの責任だと答えました。彼らが意見を求めたので、私は答えなければならなかった。もし、それを書面で、署名して伝えたのだとすれば、彼らが内輪の協議で文書を書き、署名しているのを見たので、自分も書き、署名しなければならないと考えたからだ、と。
しかし、私の覚書の内容が漏れ伝わると、彼らは、その効果を弱めるため、ベルリン政府が常用する手段に訴えました。私の掲げる原則は、単なる囮にすぎない、私たちはライン左岸を要求し、ベルギーを狙い、戦争を望んでいる、と言い触らしたのです。その話は、あらゆる方面から、私の耳に入りました。しかし私は、公使館の周囲にいる者すべてに、誰に対しても、簡明かつ率直に、そして、きわめて明確に説明するよう命じましたので、この馬鹿げた噂を作った者たちが得るのは、それを広めたという恥だけでしょう。
十月三日の晩、サガン公爵夫人[212]の邸で一緒になったド・メッテルニヒ氏から、カスルレー卿が起草した新たな宣言案を渡されました。この第二案が第一案と違うのは、四宮廷の提案が、五月三十日の条約の秘密条項第一条[213]から生じる帰結にすぎないと、見なさせようとしている点だけでした。しかし、その出発点となる原則は正しくありませんでした。カスルレー卿は、その条文の一つの規定に、本来なく、私たちも認め得ない意味を、明らかに与えていたからです。また、仮に原則が正しかったとしても、そこから引き出した帰結は、正当ではなかったでしょう。したがって、この試みは、二重に不首尾なものでした。
私は、カスルレー卿に手紙を書きました。内密の手紙という形にし、提案された計画に反する理由を、すべて集めることに努めました。(手紙の写しは、本日、外務省へ送る報告に添付してあります。)陛下にはお分かりいただけるでしょうが、私は、この計画が提案された動機を見逃していないことを、できる限り礼儀正しく、相手に悟らせるよう、とりわけ努めました。原則に反することには、何一つ加わることができないと、明言すべきだと考えました。なぜなら、不変の態度で原則を守らなければ、陛下がお戻りになった以上、当然得るべき地位と尊敬を、ヨーロッパ諸国の目に、回復することはできないからです。また、原則から外れることは、原則を長く忘れていたにすぎない革命を、よみがえらせることになるからです。
聞くところでは、カスルレー卿は、手紙を受け取ると、邸にいたポルトガルの大臣に読ませたそうです。その大臣は、法の上では、私たちに理があると認めました。しかし、私たちの提案が実行可能かどうかは、なお確かめなければならない、と付け加えました。それは、言い換えれば、四宮廷が、ヨーロッパから与えられてもいない権力を、ヨーロッパに対して僭称せずにすむのか、と問うことでした。
その日、協議がありましたが、初めにいたのは、わずか二、三人で、他の大臣たちは、十五分ずつ間を空けて到着しました。カスルレー卿は、皆に見せるため、私の手紙を持参しており、それが順々に回されました。ド・メッテルニヒ氏とド・ネッセルローデ氏は、ほんの一瞥を投げただけでした[214]。文書を見ただけで[215]全内容を理解する洞察力がある、とでもいうように。私は、覚書の撤回を求められると、あらかじめ知らされていました。実際、ド・メッテルニヒ氏は、その要求をしました。私は、できないと答えました。ド・ラブラドール氏は、もう遅い、すでに自国の宮廷へ写しを送ったので、撤回しても役に立たない、と言いました。「では、返答しなければなりませんね」と、ド・メッテルニヒ氏は言いました。「そうなさりたければ」と、私は答えました。「むしろ私たちだけで、政務を取り決めることにしたいものです」と、彼は続けました。私たちとは、四宮廷のことです。私はためらわずに答えました。「その方向で問題をお考えになるなら、私は全面的に賛成です。いつでも応じられます。願ってもないことです。」「どういう意味ですか」と、彼は尋ねました。「非常に簡単な意味です」と、私は答えました。「これからは、あなた方の協議には参加しません。私はここでは、ただ会議の一員となり、その開会を待ちます。」ド・メッテルニヒ氏は、その提案を繰り返す代わりに、徐々に、さまざまな回り道をしながら、今すぐ会議を開くことの不都合についての一般論へ戻りました。ド・ネッセルローデ氏が、あまり考えずに、アレクサンドル皇帝は二十五日に出発したがっておられると言ったので、私は、かなり無関心な口調で、答えることになりました。「それは残念です。政務の結末をご覧になれませんね。」「扱うべきことが、何も準備できていないのに、どうして会議を集められるでしょう」と、ド・メッテルニヒ氏は言いました。「では」と、私は答えました。「私が難癖をつけたいわけではなく、放棄できない原則と両立することなら、何でも応じる用意があると、お示ししましょう。会議の開会の準備がまだ何もできておらず、延期をご希望なのですから、十五日でも三週間でも延期することに、同意します。ただし、二つの条件があります。一つは、今、確定した日付を定めて招集すること。もう一つは、招集の通知に、参加を認める基準を定めることです。」
私は、その基準を、陛下がお授けくださった訓令[216]にあるものと、ほぼ同じ形で、紙に書きました。その紙は、手から手へ回され、いくつかの質問や異議が出ましたが、何も解決しませんでした。大臣たちは、一人ずつ来たのと同じように、一人ずつ帰って行き、協議は、終わったというより、いわば蒸発してしまいました。
最後まで残った一人であるカスルレー卿は、私と一緒に階段を下りながら、わが宮廷が最も関心を持つはずの、ある問題を、私の満足するように取り決めることができると、ほのめかし、彼らの意見に私を引き戻そうとしました。「今、問題なのは」と、私は言いました。「あれこれの個別の事柄ではなく、そのすべてを解決するための権利です。ひとたび糸が切れたら、どうやって結び直すのでしょう。私たちは、ヨーロッパの願い[217]に応えなければなりません。忘れられたために不幸を招いた諸原則に、敬意を取り戻さなかったなら、ヨーロッパのために、何をしたことになるのでしょう。今は、数世紀の間[218]に一度あるかないかという時です。これ以上よい機会は、与えられないでしょう。なぜ、それにふさわしい立場に立とうとしないのですか。」「いや」と、彼は、いくらか困った様子で言いました。「あなたの知らない困難があるのです。」「ええ、知りません」と、私は、それを知りたいという気持ちが、まったくない人の口調で答えました。私たちは別れました。
私は、ヴィンディシュグレーツ公[219]の邸で夕食を取りました。ド・ゲンツ氏もいました。彼が出席した協議で論じられた諸点について、私たちは長く話しました。彼は、私がもっと早くウィーンに来なかったことを、残念に思っているようでした。自分が不満だと称している事柄も、違った展開になり得たかもしれない、と考えることに、慰めを見いだしていました。最後には、内心では私に理があると皆も感じているが、自尊心が絡んでおり、一度踏み出してしまったあとでは、最も善意のある人々でさえ、後へ引くのがつらいのだ、と認めました。
二日間、協議はありませんでした。一日は祝宴、もう一日は狩猟が、その理由でした。その間に、私はオルデンブルク公爵夫人[220]に紹介されました。兄君と一緒にパリへ来られなかったことを、残念に思うと申し上げました。夫人は、その旅行[221]は延期されただけだと答え、それから突然、陛下、国民の気風、財政、軍隊について、皇帝が私にされたような質問に移りました。それは、二十二歳の女性からの質問として、ひどく驚くはずのものでしたが、その歩き方、眼差し、声の調子との対照のほうが、さらに際立っていました[222]。私はすべてに、ここで私たちが行うべきことと、守るべき利益とにかなうよう、答えました。
夫人はまた、スペイン王、その弟、その叔父について、かなり不適切な言葉で語りながら、質問しました。私は、それらの王族の個人的な価値についての自分の意見に、重みを与えるのに最もふさわしいと思う口調で、答えました。
オルデンブルク公爵夫人の邸から帰った時、ド・ゲンツ氏が訪ねて来て、会議招集の案文を作るよう、任されたと話しました。前日、私は、その前日の協議で提案したことに沿う案を作り、他の大臣たちにも伝えてほしいと頼んで、ド・メッテルニヒ氏へ送っていました。ド・ゲンツ氏は、それを知らないと断言しました。彼の案には、私が提案した参加資格の基準は含まれていない、と言いました。それを公表すれば、全権委員が排除されるため、ナポリで統治している人物を、何らかの極端な行動に走らせかねないと、ド・メッテルニヒ氏が恐れているからでした。ド・ゲンツ氏と私は、この点を論じ、彼は、ド・メッテルニヒ氏が恐れていることは起こらないと、納得した様子でした。
翌日は協議があると、私は思っていました。しかし、一日の四分の三が過ぎても、何の知らせもないので、もう期待しなくなっていたところ、ド・メッテルニヒ氏から短い手紙を受け取りました。八時に協議があり、少し前に邸へ来る気があれば、非常に重要な事柄について話す時間を作る、というのでした。(手紙の文言は、そのとおりでした。)私は七時に邸に着き、すぐに通されました。彼はまず、起草させた宣言案の話をしました。私の案とは少し違うが、たいへん近く、私も満足するだろうと思っている、と言いました。見せてほしいと頼みましたが、彼は持っていませんでした。「おそらく」と、私は言いました。「連合諸国の間で回覧中なのでしょう。」「もう連合諸国とは言わないでください[223]」と、彼は答えました。「そんなものは、もうありません。」「ここには」と、私は言いました[224]。「打ち合わせをしなくても、同じように考え、同じものを望むべきだという意味で、連合しているはずの人々がいます。あなた方の主要で、最も重要な領地であるハンガリーとボヘミアを、帯のようにロシアで取り囲むことを、どうして敢えてなさるのですか。大公女が嫁いでいる一族で、古くからの善良な隣人の世襲領が、あなた方の自然な敵[225]に与えられることを、どうして許せるのですか。それに反対しようとするのが私たちで、あなた方は反対しようとしないとは、奇妙なことです!……」彼は、私が彼を信用していない、と言いました。私は笑って[226]、信用する理由を、あまり与えてくれなかったではないかと答え、約束を守ってくれなかった、いくつかの出来事を思い出させました。「そのうえ」と付け加えました。「あなたの問題を自分の問題として引き受けようと、最も熱心に考えている人々に対してさえ、謎ばかりの人を、どうして信用できるでしょう。私は、謎など作りませんし、その必要もありません。原則だけをもって交渉する者の利点です。ここに」と続けました。「紙とペンがあります。フランスは何も要求せず、何も受け取りさえしない、と書いてくださいませんか。私は署名する用意があります。」「しかし」と、彼は言いました。「あなたには、本来あなた方の問題である、ナポリの件があります。」「私だけの問題ではなく、誰にとっても同じ問題です」と、私は答えました。「私にとって、それは原則の問題にすぎません。ナポリにいる権利のある者が、ナポリにいることを求めているだけで、それ以上ではありません。それこそ、すべての人が、私と同じように望むべきことです。原則に従ってくだされば、私は何についても柔軟に応じます。何に同意でき、何には決して同意しないか、率直にお話ししましょう。ザクセン王は、現在の立場[227]では、犠牲を強いられるかもしれないと、私は理解しています。賢明な方ですから、その覚悟もあるでしょう。しかし、領国をすべて奪い、ザクセン王国をプロイセンに与えようとするなら、私は決して同意しません。ルクセンブルクもマインツも、プロイセンに与えられることには、決して同意しません。ロシアがヴィスワ川を越え、ヨーロッパに四千四百万人の臣民を持ち、オーデル川まで国境を進めることにも、同意しません。しかし、ルクセンブルクがオランダに、マインツがバイエルンに与えられ、ザクセン王と王国が存続し、ロシアがヴィスワ川を越えないなら、ヨーロッパのこの部分について、異議はありません[228]。」するとド・メッテルニヒ氏は、私の手を取って言いました。「私たちの隔たりは、あなたが思うほど大きくありません。プロイセンがルクセンブルクもマインツも得ることはないと、約束します。私たちも、あなたと同じく、ロシアの過度の拡大を望んではいません[229]。ザクセンについては、少なくとも一部を存続させるため、力を尽くします。」私がこのように話したのは、これらのさまざまな問題について、彼の意向を知るためだけでした。それから会議の招集に話を戻すと、彼は、私が提案した参加資格の基準を、今、公表しない必要を強調しました。「それは皆を怯えさせますし、私自身にとっても、今は困るのです」と、彼は言いました。「ミュラは、自分の全権委員が排除されるのを見れば、自分の件は決着したと思うでしょう。あの頭で何をしでかすか、分かりません。彼はイタリアで準備ができていますが、私たちは、できていないのです。」
大臣たちが集まったと知らされ、私たちは協議へ向かいました[230]。ド・メッテルニヒ氏は、私が起草したものと、自分が起草させたものとの、二つの案を読み上げると告げて、会合を開きました。プロイセンの人々は、ド・メッテルニヒ氏の案は何も先決しないのに対し、私の案は多くを先決しているとして、前者を支持しました。ド・ネッセルローデ氏も同意見でした。初めて協議に出席した、スウェーデンの大臣ド・レーヴェンヒエルム氏[231]は、何事も先決すべきではないと言いました。それはカスルレー卿の意見でもあり、ド・メッテルニヒ氏の意見でもあることを、私は知っていました。この案は、会議の開会を十一月一日へ延期するだけで、それ以上は何も述べていませんでした。そこで、ポルトガルの大臣ド・パルメラ氏は、会議を招集するための第二の宣言が必要になると指摘し、その点は認められました。つまり、困難を解決せず、先送りするだけでした。しかし、以前の要求は放棄され、すべてを八か国に決めさせ、会議には承認の権能だけを残すという話は、もはや出ませんでした。他の諸国の大臣との、自由で内密のやり取りによって、会議が判断すべき問題を準備する、という話だけになっていました。それゆえ私は、原則を何ら損なわない譲歩なら、政務の進展に役立つかもしれないと考え、案の採用に同意すると述べました。ただし、会議の正式な開会を十一月一日に延期するとある箇所に、「また、国際公法の原則に従って開会する」と付け加えることを、条件としました。この言葉を聞くや、想像も難しいほどの騒ぎが起こりました。ド・ハルデンベルク氏は立ち上がり、両拳を机につき、ほとんど脅すように、自分と同じ身体上の不自由を持つ人にありがちな大声で、途切れ途切れに、こう叫びました。「いや、あなた……国際公法など、無用です。なぜ、国際公法に従って行動すると言うのですか。そんなことは、言うまでもありません。」私は、言わなくてもよいことなら、言えばなおよいでしょうと、答えました。ド・フンボルト氏は、「国際公法が、ここで何をするのですか」と叫びました。私は、「あなたを、ここにいさせているのです」と答えました[232]。カスルレー卿は私を脇へ引き、この点で私の希望に譲れば、そのあと、私はもっと柔軟になるかと尋ねました。私は逆に、自分が柔軟になった場合、ナポリの件で、彼が何をしてくれると期待できるかを、尋ねました。彼は、あらゆる影響力をもって、私を支援すると約束しました。「メッテルニヒに話します」と言いました。「私にも、この問題について意見を持つ権利があります。」「名誉にかけて、約束してくださいますか」と、私は言いました。「約束します」と、彼は答えました。「それなら私も」と、私は返しました。「放棄できない原則についてだけしか、難しいことは言わないと、名誉にかけて約束します。」その間に、ド・ゲンツ氏は、ド・メッテルニヒ氏に近づき、今扱っているような性質の文書で、国際公法に言及することを拒むわけにはいかない、と説きました。ド・メッテルニヒ氏は、それ以前に、この件を採決に付すことを提案していました。それによって、彼らの最初の案が採用されていたなら、自分たちに与えようとした権能を、どう使ったかを、露呈したのでした。結局、私の求めた追加[233]には同意しましたが、どこへ入れるかで、同じくらい激しい議論がありました。ようやく、私の提案した文の、一文前に入れることで合意しました。ド・ゲンツ氏は、協議の席で、思わずこう言いました。「皆さん、今夜のことは、会議の歴史に属します。職務上の義務に反するので、私が語ることはありませんが、必ず歴史に記されるでしょう。」その後、彼は私に、これほどの光景は見たことがない、と言いました。
だからこそ私は、原則を放棄することなく、会議の招集へ向けた一歩と見なし得ることを、何か実現できたのを、幸いと考えています。
ド・レーヴェンヒエルム氏は、ロシア駐在のスウェーデン公使で、すっかりロシア寄りです。おそらく、そのために当地へ送られたのでしょう。スウェーデン皇太子[234]は、ロシア人が望むことを、すべて望んでいるからです。
かつてライン同盟に属していた諸侯たちは、会議の開会を促すため、集まり始めています。すでに内輪で、ドイツの組織に関する案を作っています。
謹んで……
第五号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。
ウィーン、一八一四年十月十二日。
伯爵殿、
パリ条約に署名した諸国の名で出された宣言の、印刷された一部を、お送りいたします。国際公法という言葉を入れさせたことで、私たちが勝利を収めたと言われています。この見方から、会議を動かしている精神が、どのようなものか、お察しいただけるでしょう。
延期は、人々を不安にさせるかもしれません。一方、国王の外交関係を導く原則が、まだ十分に正当に評価されていないことは、確かです。二十年来、ヨーロッパは、力だけを評価し、その濫用を恐れることに、慣らされてきました。大国が節度を持とうとすることを、まだ誰も、心から期待も確信もしていません。
したがって、会議の政治上の仕事から生まれた、最初の文書であるこの宣言の公表には、フランスの行動と現在の影響力を、正しく明らかにする、いくつかの所見を添えるのが有益と、私たちは考えました。
伯爵殿、『モニトゥール』に使えると私たちが考える所見を、お送りいたします。その趣旨は、新聞のほかのいくつかの記事にも、方向を与え得るでしょう。
私たちは、ロシアとプロイセンが示す貪欲さに対し、あらゆる機会に行っている抵抗を、オーストリアが支援することを期待しています。そして、この大国の気力を、どこまで信頼できるかに応じて、私たちの言葉の強さを、加減するつもりです。
オーストリアが、ザクセンの消滅を承認すると約束していないことは、確かだと考えています。ウィーン政府が、このような暴力的な行いに抗議するため、私たちに協力するだけでも、有益でしょう。概して、ロシアがドイツを不安にさせており、プロイセンの支援がなければ、ロシアの同盟体制は、基盤を欠くと、私たちは見ています。
賜与財産について話す機会があり、私たちは、できる限り多くの個人の利益を守ろうとしています。しかし、この問題は、ショーモンで連合諸国が結んだ同盟の影響下にあります。ある国は別の国に、何も譲歩しないと約束したようで、その原則は、もはや争えないと、返答されます。
伯爵殿、連合国として振る舞う諸大国と交渉しなければならないかぎり、条約によって割譲されていた国々で与えられた所領は、受贈者に残すべきだという原則さえ、主張できないことは、お分かりでしょう。それでも、何らかの支援を与え得ると考える個人の利益には、あらゆる機会に配慮しようと、努めています。
ロシア皇帝は昨日、イギリス大使スチュアート卿[235]に、ポーランドの再建について話し、ご自身の兄弟の一人を王に選ばせたいと示されました。この問題には、近いうちに取り組まなければなりません。ロシア皇帝は、これについて、まだ明確に考えを固めておらず、この国を支配できる手段を、探っておられるのだと、私たちは考えています。
敬具……
第五号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。
ウィーン、一八一四年十月十三日。
陛下、
昨日朝、公表された宣言[236]を、そのまま、外務省宛ての報告に添えて送りました。会議の開会を十一月一日に延期するものです。いくつか変更が加えられましたが、表現だけの変更で、大臣たちは集まることなく、ド・ゲンツ氏を介して合意しました。八日以来、協議はなく、したがって、この前の二通の手紙で、陛下をお疲れにしたのではないかと案じているような議論も、ありません。
ロンドン駐在のプロイセン公使、老ヤコービ=クレスト[237]が、ド・フンボルト氏を助けるため、当地へ呼ばれました。プロイセン外交の俊英の一人です。古い知り合いで、私を訪ねて来ました。会話はすぐ、目の前の大きな困難へ移り、彼によれば、その最大のものは、ワルシャワ公国を欲しがるアレクサンドル皇帝に由来するということでした。私は、アレクサンドル皇帝が公国を欲するなら、おそらくザクセン王からの割譲を携えて現れるだろう、その時になれば分かる、と言いました。「なぜザクセン王からなのですか」と、彼は、たいへん驚いて尋ねました。「あなた方とオーストリアが行った割譲、そして、あなた方、オーストリア、ロシアが署名した条約によって、公国はザクセン王のものだからです」と、私は答えました。すると、何かを発見し、まったく予期しなかったことを教えられた人の様子で、「いや、まったくそのとおりです。公国は、あの王のものです」と言いました。少なくとも、ド・ヤコービ氏は、征服という事実だけで、主権を失ったり、得たりすると考える人々の一人ではありません。
エトルリア王のために、パルマ、ピアチェンツァ、グアスタッラを獲得できると、考える理由があります。しかし、その場合、王に権利があるとはいえ、トスカーナは、もう考えてはなりません。オーストリア皇帝は、マリー=ルイーズ大公女に、パルマを彼女のために保っておく望みは薄いと、すでにそれとなく伝えさせています。
四月十一日の条約[238]が履行されているかどうか、私の周囲では、しばしば問われ、カスルレー卿からも、直接、その話をされました。この点について予算が何も述べていないことに、ロシア皇帝は気づかれました。ド・メッテルニヒ氏は、フランスが自国の負担となる条約の条項を履行しないなら、オーストリアも、ミラノ公債基金[239]に割り当てられた支払いを行う義務はない、と言っています。要するに、この件は、さまざまな形で、ほとんどいつも不快な仕方で、繰り返し持ち出されます。この種の問題に心を向けることが、どれほどつらくとも、何らかの措置が取られることが望ましいと、陛下に申し上げずにはいられません。陛下のご命令により、ド・ジョクール氏から、そのことを私に知らせる手紙があれば、確かによい効果をもたらすでしょう。
当地では、ボナパルトをエルバ島から遠ざけようという、かなり固い意向が示されています。どこへ置けばよいかについては、まだ誰も、はっきりした考えを持っていません。私は、アゾレス諸島の一島を提案しました。どの陸地からも、五百リュー離れています。カスルレー卿は、ポルトガル人を、この取り決めに協力させることができるかもしれないと、考えているようです。しかし、この議論でも、金銭の問題が、再び出るでしょう。ボナパルトの息子は、今では、ウィーンに来た当初のようには扱われていません。儀礼的な華やかさを減らし、より簡素にしています。レジオン・ドヌールの大綬を外し、聖シュテファン勲章の大綬に取り替えています[240]。
アゾレス諸島の距離についての「どの陸地からも五百リュー」は、書簡の表現をそのまま訳したもの。現在の地理情報による距離の断定ではない。
アレクサンドル皇帝は、いつものように、自由主義的な考えしか語られません。歓待してくれる人々のご機嫌を取るには、その敗北の舞台を見に、ヴァグラムへ行くべきだと、皇帝を納得させたのも、その考えなのでしょうか。私には分かりません。確かなのは、皇帝が、戦場で研究することを好んでおられる両軍の配置と動きを、説明できるよう、その戦闘に参加した将校たちを、チェルニシェフ氏に探させたことです。一昨日、ヨハン大公[241]が、皇帝はどこにいるのかと尋ねると、「殿下、ヴァグラムにおられます」との返事がありました。数日中にペシュトへ行かれるようで、十九日に舞踏会を催すよう求められました[242]。ハンガリー服で出席するおつもりです。舞踏会の前かあとに、妹君[243]の墓で涙を流しに行かれることになっています。その儀式には、大勢のギリシア教会信徒が集まるはずです。皇帝は、あらかじめ彼らに知らせを出させており、彼らは、自分たちと同じ宗派の唯一の君主を見るため、きっと急いでやって来るでしょう。これらすべてが、この宮廷に、どれほど気に入られているかは分かりませんが、それほど喜ばれているとは、思えません。
カスルレー卿の弟で、ウィーン宮廷駐在大使のスチュアート卿が、数日前に到着しました。アレクサンドル皇帝に紹介され、その話によれば、皇帝から、こう言われたそうです。「私たちは、立派で偉大なことをしようとしています。ポーランド[244]を再建し、私の兄弟の一人か、妹の夫[245]を王にするのです。」(妹とは、オルデンブルク公爵夫人のことです。)スチュアート卿は、率直に言いました。「それでは、ポーランドに独立があるとは思えません。また、イギリスは、他の列強ほど直接の利害を持たないとはいえ、その取り決めを受け入れられるとは、思いません。」
私がひどく誤っているのでなければ、四宮廷の結束は、実質よりも外見のほうが強く、ただ、ある国々は私たちに行動する手段があると考えたがらず、他の国々は、その意志があると信じていない、という事情だけに支えられています。私たちが自分たちの要求に反対すると知っている人々は、私たちが対抗できるのは、議論だけだと考えています。アレクサンドル皇帝は数日前、「タレーランは、ここでルイ十四世の大臣の役を演じている」と言われました。ド・フンボルト氏は、ザクセンの大臣ド・シューレンブルク氏を、誘い込むと同時に脅そうとして、こう言いました。「フランスの大臣は、ここで、かなり高貴な言葉を掲げています。しかし、それは下心を隠しているか、それを支えるものが背後に何もないか、どちらかです。ですから、それを信じようとする人々は、不幸になるでしょう。」
これらの言説をすべて打ち消し、あらゆる迷いを終わらせる手段は、陛下が臣民に宣言を出し、私たちに従うよう命じられた原則と、それから決して外れないという固い決意を明らかにされたうえで、正しい大義には支えがないままにはならない、とだけ、ほのめかされることです。私が考え、その案を陛下にお示しする[246]ような宣言は、誰も望んでいない戦争を招くものではありません。要求を持つ者には節度を促し、他の者には、自国とヨーロッパの利益を守る勇気を与えるでしょう。しかし、その宣言は、今はまだ時期尚早なので、今後の状況が必要とするように思われた場合、改めてこの件を申し上げる許可を、陛下に願い出ます。
私たちの言葉は、影響を与え始めています。ミュンスター氏が遭った事故のため、支えを大いに必要としているカスルレー卿のそばにいられなかったことを、たいへん残念に思います。聞かされている見込みでは、二日以内には、政務に参加できる状態になるでしょう。
謹んで……
第二号第三信――国王ルイ十八世からタレーラン公へ。
パリ、一八一四年十月十四日。
親愛なる従兄よ、
九月二十九日付と十月四日付の報告を受け取った。(今後は、私がこの手紙にしているように、番号を付けるとよい。したがって、受領を知らせる[247]この二通は、第二号と第三号となるはずである。)
まず、あなたが全権委員たちに対して、またロシア皇帝との、つらい会談において取った態度と用いた言葉に、私は十分満足していると、心からの喜びをもって伝えよう。皇帝がポッツォ・ディ・ボルゴ将軍を呼び寄せたことは、おそらく知っているだろう。あの賢明な人物が、主君を、より分別ある考えへ戻してくれることを、神に願う。しかし、そうならない場合を仮定して、考えなければならない。
ロシアとプロイセンの野心的な計画を成功させないことが、私たちの目指すべき目標である。ブオナパルテ[248]なら、おそらく独力で成功できたかもしれない。しかし、彼には、私が持たず、今後も決して持たない手段があった。したがって、私には助けが必要だ。小国だけでは、十分な助けを与えられない。小国だけでは、という意味だ。だから、少なくとも一つの大国の助けが必要となる。オーストリアとイギリスが、自国の利益を正しく理解すれば、私たちは、その支援を得られるだろう。しかし、両国は、すでに約束に縛られているのではないかと恐れる。とりわけ、多くのイギリス人の間で支配的で、ウェリントン公自身にも染み込んでいるように見える、グレートブリテンの利益を、ハノーファーの利益から完全に切り離す方針を、私は恐れる。そうなれば、正しい権利を勝たせるために武力を用いることはできない。しかし、不正の保証人になることは、いつでも拒める。そのために、敢えて私を攻撃するかどうか、見てみよう。
ここで述べているのは、ポーランドとザクセンだけについてである。ナポリについては、あなたがド・フンボルト氏にした、非の打ちどころのない返答[249]を、私は常に守るつもりだからだ。
私は、最悪の場合を考えている[250]。それが、考える正しい方法[251]だと思うからである。しかし、あなたの手腕と毅然とした態度からは、はるかによい結果を期待している。では、親愛なる従兄よ、神が、その聖なる尊い守りのうちに、あなたを置かれるよう、祈る。
ルイ。
第六号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。
ウィーン、一八一四年十月十六日。
伯爵殿、
十二日付の先の報告以来、協議は一度も開かれておらず、会議の動きは、諸国間のいくつかの働きかけと、ごく低次の陰謀に尽きています。それでも、それらによって、人々の心の状態、ある者の昂ぶり、他の者の貪欲さ、そして全員の迷いが、分かります。
政務の進行を妨げる大きな困難は、ロシア皇帝が抱いた、ロシアの影響下に、見せかけのポーランドを再建し、ザクセンによってプロイセンを拡大しようとする考えにあります。敢えて言えば、この君主は、この点について健全な考えを何一つ持たず、正義の原則と、最も乱暴な構想を、同時に混同しています。
皇帝は、ポーランドに関する計画を、それとなく伝えるため、カスルレー卿を訪ねましたが、卿は反対しました。さらに、私たちと同じ捉え方で問題を位置づけた、筋道立った覚書を渡しました。そこでは、ヨーロッパの状況は、旧ポーランドの再建か、さもなければ、この混乱と要求の源を、ヨーロッパの議論から永久に取り除くことか、そのいずれかを必要としていると、論証しています。
カスルレー卿は、その覚書をタレーラン公とメッテルニヒ公に読ませました。この点では、ヨーロッパの真の利益を支えています。しかし、行き過ぎた構想に反対しながら、何の結論も出さず、結論を出すことを、避けているようでさえあります。まだ運命が討議されていないザクセン王については、カスルレー卿は、きわめて誤った考えに、とらわれ続けています。ザクセン王の裏切りと彼が呼ぶものが、ドイツとヨーロッパへの見せしめとなる、という考えに支配され、この王朝と国の存続には、ほとんど関心を持たず、この点では、あらゆる原則を捨てています。この措置がもたらす結果は、フランスが同意できるには、あまりにも重大です。私たちは、オーストリアが、名誉と自国の利益の命ずるところに、ついに目を開くことを、期待しています。この件については、私たちの働きかけがウィーン政府に支援されると考えさせる、いくつかの情報があります。しかし、それが実現するのは、この政府がフランスの意向を、全面的に信頼する時になってからでしょう。
オーストリアは、プロイセンに一千万人の人口を確保すると、同国に対して行った約束に縛られています。しかし、ザクセンについては、何も取り決められておらず、オーストリアは、それを救いたいと考えています。
メッテルニヒ公は、臆病で不確かな政策に導かれているとはいえ、自国の世論と君主国の利益を、十分に理解しています。プロイセン、ロシア、そして全面的にロシアの手中にあるポーランドに囲まれれば、オーストリアの諸領は絶えず脅かされ、この困難の中で助けてくれるのは、フランスだけだと感じているのです。バイエルンが援助を申し出たので、メッテルニヒ公は、ポーランドとザクセンに関する計画の実行を防ぐため、オーストリアおよびフランスとの軍事協調に加わる意向が、その政府にあるかどうか、ヴレーデ元帥[252]に探りを入れさせました。ヴレーデ元帥は、肯定的に答えました。
一方で、メッテルニヒ公は、ザクセン存続の方針を、国王が実効的に支援する意志についてだけでなく、国王が用い得る手段についても、疑念を保っています。そのことは、メッテルニヒ公に近い人物が、ダールベルク公と話して、こう言ったことからも確認されました。「あなた方は、たいへん巧みに吠えるが、噛まない犬のように見えます。私たちは、自分たちだけで噛みつくつもりはありません。」同じ人物は、フランスの毅然たる態度を確信できれば、オーストリアの言葉はもっと強くなり、ロシアも戦争の危険は冒さないだろう、とも言いました。しかしロシアは、ロシアとプロイセンの両国が支持する計画に対し、オーストリアとフランスが武力による抵抗を組織する可能性を認めないため、自分たちの計画に固執しています。ダールベルク公は、フランス国王は、ザクセンの消滅が示すような、公の道徳をすべて忘れる行いには、決して承認を与えず、名誉と公的秩序の大原則が命ずるものを支持するよう、自国の全権委員に命じるのも、決して遅れを取ってはいなかった、と答えました。
ロシア皇帝は、三日間、何の決定も示していません。最終的な言葉を述べる前に、イギリスとオーストリアの大臣たちを、味方につけようとしています。
皇帝は、自分の構想どおりのポーランド再建を主張し続けるかもしれませんし、それを断念するにしても、その犠牲を、他の列強が認め得る以上に、高く評価させようとするかもしれません。そうなれば関係は難しくなり、そこから生じ得るあらゆる事態に、備えていなければなりません。オーストリアは、北方に対抗する南方諸国の同盟という問題を、持ち出すかもしれず、それに答えられるようにしておく必要があります。
私たちは、国王の尊厳、フランスの利益、世論の力からして、国王は、ヨーロッパの秩序を形づくる大原則の防衛への協力を、拒むべきではないと考えています。また、差し迫った必要が生じた場合、ロシアとプロイセンの計画に対抗する軍事協定を結べるよう、必要な権限を与えてくださることが、よく、かつ有益だと考えています。
私たちは、ロシア自身が武器を取る用意があるとしても、プロイセンは危険に身をさらそうとはせず、自国の利益を正しく理解したオーストリアに支えられた、フランスの毅然たる態度が、平和を乱すことなく、ヨーロッパを救うだろうと考えています。
国王に、承認を拒み、ザクセン家の滅亡と、この国のプロイセンへの併合を防ぐため、実効的な援助を申し出させるよう、お勧めしようとするのには、もう一つの理由があります。それは、私たちがドイツで観察している、まったく独特の性格を帯びた、革命的な精神に由来します。
ここで動揺を生んでいるのは、第三身分と特権階級との闘争ではありません。軍人貴族、それも、かつてはきわめて独立していた貴族の、要求と自尊心です。彼らは、革命の温床と要素を準備しながら、細分化された国々と、自分たちの同輩と見なす君主たちに属するよりも、大きな国家の中で地位を得ることを、望むでしょう。
この党派の先頭には、陪臣化されたすべての諸侯と貴族がいます。彼らはドイツを一つの君主国に融合し、その中で、有力な貴族代表層の役割を担おうとしています。プロイセンは、この党派全体を、たいへん巧みに懐柔し、以前享受していた特権の一部を期待させることで、自らの戦車につなぎとめました。
陪臣化とは、従来は帝国に直属していた諸侯・貴族が、他の領邦君主の主権下に置かれること。
したがって、もしプロイセンがザクセンを併合し、あちこちの孤立した領地を自国に取り込むことに成功すれば、数年のうちに、隣国にとって、きわめて危険な軍事君主国を形成するだろうと、確信できます。そして、その場合、祖国を求めるという口実のもと、最も有害な変動によって、それを作り出そうとする、多くの熱狂的な頭脳ほど、プロイセンの役に立つものはありません。
これらの計画を阻止し、成功裏に対抗できるよう、オーストリアを支援することは、きわめて重要です。国王がそのように決意されれば、オーストリアとバイエルンを、対仏連合に結び付けている絆を断たせる助けにもなります。この点は、フランスの現在の状況では、たいへん重要です。
メッテルニヒ公がヴレーデ元帥に、バイエルンはフランスおよびオーストリアと同盟する意向があるかと尋ねさせた際、双方の軍事情勢が話題になりました。そして、南方諸国の軍事上の位置は、北方諸国に比べて大いに有利であり、フランケンの出口からエルベ川へ攻勢をかければ、プロイセンの諸軍を、ライン川の自国部隊と、資源の大部分から切り離せる、という点で一致しました。
オーストリアは、ナポリ軍と、イタリアの動揺について懸念を示しました。イタリアでは、ボナパルトが何らかの蜂起を準備しているのではないかと、恐れています。
ミュラは、バイエルンに同盟を申し入れさせましたが、拒まれました。しかし、事態が戦争へ進むことになれば、ミュラを釘付けにするため、シチリアへ軍団を送ることが、どうしても必要となるでしょう。スペインも、この作戦に協力するはずなので、フランスの部隊は、大規模である必要はないでしょう。
オーストリアは現在、三十万人近くを兵役に就かせています。かなり確かな情報によれば、その兵力は、次のように配備されています。
ボヘミアに八万人。モラヴィアとハンガリーに九万人。ガリツィアに三万六千人。トランシルヴァニアに二万人。オーストリアに三万人。イタリアに五万人。
列挙された兵力の合計は三十万六千人となるが、直前の「三十万人近く」も含め、原文の数値をそのまま保存した。
ロシアも、同程度の兵力を持つかもしれません。その配備は、次のとおりです。
ホルシュタインに五万人。ザクセンに八万人。ポーランドに十五万人。
プロイセンは十五万人で、そのうち五万人がライン下流にいます。その中には、一万五千人のザクセン兵も数えなければなりません。その指揮官ティールマン将軍[253]は、かつての君主たちに敵対する側につき、彼らに忠実ではないでしょう。彼を頼りにしてはなりません。
ロシア皇帝が、今年中に政務を終えられるとは考えていないように見える証拠は、保証人となるはずのデンマークとスウェーデンとの条約[254]の批准を遅らせ、ホルシュタインを占領し、食い荒らしている自軍を撤退させる命令も、出していないことです。デンマーク王は、この点について、何も得られませんでした。
敬具……
第六号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。
ウィーン、一八一四年十月十七日。
陛下、
陛下が、ありがたくもお授けくださったお手紙を、受け取りました。私がたどってきた行動の方針が、陛下のお示しくださるご意向にかなっていると知り、幸せに存じます。決してそこから外れないよう、全力を尽くします。
前便以来の状況について、陛下にご報告しなければなりません。
カスルレー卿は、すべてを乱し、すべてを覆すことにつながるポーランドの構想を、アレクサンドル皇帝に断念してもらおうと、改めて働きかけるため、謁見を願い出ていました。皇帝は、それにいくらか秘密めいた趣を持たせようとし、卿の邸を訪れるという栄誉を与えました。そして、卿が何を話すつもりか、よく承知しておられたので、自分の構想が反対を受けていることを嘆きながら、ご自身から本題に入りました。フランスとイギリスが、ポーランド王国の再建[255]に反対し得るとは、理解できず、今後も決して理解できない、というのでした。この再建は、分割によって辱められた公の道徳への償いであり、一種の贖罪となる、と言いました。確かに、ポーランド全体を再建する話ではない。しかし、ヨーロッパが望むなら、いつの日か、それを実現することを[256]妨げるものはない。今は時期尚早で、国そのものも、その準備を必要としている。ポーランドの一部だけを王国として再建し、文明のあらゆる原則を芽生えさせ、実らせるのに適した制度を与えることこそ、最善の準備となる。そして、全体を統合するのが適切と判断された時、その原則が、全体へ広がるだろう、と。自分の計画の実行によって、犠牲を払うのは、自分だけである。新王国は、征服によって自分が疑いの余地のない権利を得たポーランドの地域だけから成り、そこに、最後の戦争以前、分割後に獲得した地域、すなわちビャウィストクとタルノポルを、さらに加えるからだ、というのでした。したがって、自分がこうした犠牲を払おうとすること[257]に、誰も不平を言う筋合いはない。良心の原則から、不幸な国民を慰め、文明を進めるため、喜んで犠牲を払う。そこに、自分の名誉と栄光をかけている、と。カスルレー卿は、論拠を準備しており、非常に長い会話の中で、それを順に述べました。しかし、アレクサンドル皇帝を説得も納得もさせられませんでした。皇帝は、その意向に、カスルレー卿がほとんど満足できないまま、退出されました。しかし卿は、負けたとは考えず、論拠を書面にまとめ、その晩のうちに、メモランダムという表題で、皇帝へ提出しました。
カスルレー卿は、たいへん長い会話で、以上の詳細を私に語ったあと、その文書を読ませてくれました。ついでに申せば、そのことを知ったド・メッテルニヒ氏は、驚きを示しました。四宮廷の大臣たちの間に、自分たちだけで行うことは、他の人々に伝えないという一般的な合意がなかったなら、示さなかったはずの驚きでした。
メモランダムは、連合諸国が一八一三年に結んだ諸条約の、次の内容を定める条項を、まず引用しています。ポーランドは、三大国が友好的に合意する割合で、引き続き分割され、フランスは、それに干渉できない。(カスルレー卿は、急いで私に、それは一八一三年のフランスのことで、今日のフランスではない、と言いました。)続いて、アレクサンドル皇帝が、さまざまな時、さまざまな場所、とりわけパリで行った発言、約束、保証を、そのまま引用しています。それらは、皇帝が今進めている計画と、矛盾するものでした。
そのあとに、イギリスがアレクサンドル皇帝に尽くした貢献の説明が、続きます。
皇帝にフィンランドの平穏な領有を保証するため、イギリスは、ノルウェーをスウェーデンの支配下へ移すことに協力しました[258][259]。その際、自らの意向、もしかすると自らの利益さえ、犠牲にしました。仲介によって、オスマン政府からは割譲その他の利益[260]、ペルシアからは、かなり広い領土の割譲[261]を、皇帝に得させました。したがってイギリスは、同じような貢献をする立場になかった他の列強よりも、率直にアレクサンドル皇帝へ語る権利があると、考えています。
そこから皇帝の現在の計画の検討に移り、カスルレー卿は、ポーランド全体を、完全に独立した国家として再建するなら、すべての者の賛同を得られるだろうと述べています。しかし、ポーランドの四分の一で王国を作れば、残りの四分の三には未練を生み、そのいずれかの部分を領有する者には、当然の不安を与えることになる。ポーランド王国が存在するや否や、彼らは、自分たちの臣民の忠誠を、一瞬たりとも当てにできなくなるからである。こうして、文明の中心を作るどころか、すべての者が平穏を望み、必要としている時に、反乱と騒乱の中心を作るだけとなる、と。征服によって皇帝が権利を得たことは認めながらも、その権利には、隣国の安全を害さずには越えられない限界があると、主張しています。皇帝が大切にされるすべてのものにかけて、その人間愛と栄光にかけて、それ以上進もうとなさらないよう、懇願しています。そして最後に、もし皇帝が構想に固執されるなら、イギリスは、残念ながら同意できないので、差し出したすべての考えを、なおさら切に、よくお考えいただきたいと述べています。
アレクサンドル皇帝は、まだ返答されていません。
カスルレー卿は、ポーランドの問題では正しいのと同じくらい、ザクセンの問題では誤っています。裏切りと、見せしめの必要ばかりを語ります。原則は、どうも彼の得意なところではないようです[262]。健康を回復しているミュンスター伯は、ザクセンの存続に、ドイツの均衡、もしかすると存在そのものさえ、かかっていると、説得を試みました。しかし、せいぜい疑いを抱かせるのに成功しただけでした。それでも卿は、この問題で、私たちと同じ立場を表明するのではなく、この点では、プロイセンとの間に、拘束する約束があるようですが、私たちの趣旨に沿った、友好的な申し入れをすると、約束しました。
アレクサンドル皇帝に対する卿の働きかけは、ド・メッテルニヒ氏の同意だけでなく、その依頼によってさえ、行われたものでした。どちらからも、そう聞いたわけではありませんが、私には疑いようがありません。オーストリアは、ロシアの計画がもたらすすべての結果を感じていながら、敢えて前面に出ることはせず、イギリスを出させているのです[263]。
アレクサンドル皇帝が固執されるなら、オーストリアは、譲らないことに、あまりにも大きな利害を持っているので、譲らないだろうと、私は思います。しかし、その臆病さから、事態を長引かせるでしょう。ところが、この選択には、日ごとに大きくなり、極度に達するかもしれない危険があります。その原因は、現在をはるかに超えて続き、ご治世の全期間にわたり、陛下の深い配慮を必要とするかもしれません。それゆえ、なおさら、その危険に陛下のご注意を促さなければなりません。
ドイツでは、至る所に革命の酵母が広がっています。ジャコバン主義が支配しているのは、二十五年前のフランスのような中・下層階級ではなく、最も高位で、最も富裕な貴族の間です。この違いのため、そこで革命が起きた場合の進み方を、わが国の革命の進み方から推し量ることはできません。神聖ローマ帝国の解体とライン同盟の設立によって、領主の地位から臣民の身分へ落とされた人々は、かつて自分たちと同格だった、あるいは同格だと考えていた者を、主人として戴くことに耐えられず[264]、自尊心を憤らせる秩序を倒し、この国のすべての政府を、一つに置き換えようとしています。大学の人々、その理論を吹き込まれた若者たち、そして、ドイツが絶えず戦場となった多くの戦争による災厄を、小国への分裂のせいだと考える人々も、彼らと共謀しています。ドイツ祖国の統一こそ、彼らの叫びであり、教義であり、狂信にまで高められた宗教です。この狂信は、現在統治している諸侯にさえ広がっています。フランスがライン左岸とベルギーを領有していた時には、恐れる必要がなかったかもしれないこの統一も、今では、フランスにきわめて大きな影響を及ぼすでしょう。しかも、分かれた要素が動き始め、一つに溶け合う時、ドイツのような巨大な塊が揺れ動く結果を、誰が予見できるでしょう。ひとたび与えられた衝動が、どこで止まるか、誰に分かるでしょう。ドイツの大部分は、誰を主人とするのか分からずにいます。軍事占領、それにいつも伴う苛酷な扱い、多くの犠牲のあとに求められる新たな犠牲、現在の苦境、将来の不確かさ。そのすべてが、転覆の計画に有利に働いています。会議が延期され、決定を遅らせ、何も決めなければ、この状況を悪化させることは、あまりにも明白です。そして、その悪化によって爆発を招くのではないかと、強く恐れられます。したがって、最も差し迫った必要は、会議が仕事を急ぎ、終えることです。しかし、どう終えるのでしょう。ロシアとプロイセンの要求に譲るのでしょうか。ヨーロッパの安全も名誉も、それを許しません。力に力で対するのでしょうか。それには、オーストリアが、そうしたいという願望だけでなく、意志を持つ必要があります。願望はあると、私は思います。同国は巨大な兵力を動員していますが、イタリアの蜂起を恐れ、単独でロシアとプロイセンに対抗する危険を冒そうとしません。バイエルンは、非常に率直に立場を表明し、ザクセン防衛のため五万人を申し出ているので、頼りにできます。ヴュルテンベルクも一万人を出すでしょう。他のドイツ諸国も加わるでしょう。それでも、十分に安心できないのです。私たちの協力を当てにしたがっていますが、当てにできるとは信じていません。プロイセンの人々は、陛下の大臣たちが二重の訓令を受け、一方では語るべき言葉を、他方では何も約束しないことを命じられている、という噂を広めました。ド・メッテルニヒ氏は、ヴレーデ元帥に、自分もそう信じていると、伝えさせました。彼が最も信頼する人物の一人は、数日前、ド・ダールベルク氏に、こう言いました。「あなた方の使節団は、たいへん巧みに話しますが、行動するつもりはありません。そして私たちも、単独で行動するつもりはありません。」
私も陛下と同様、戦争を好まず、望んでもいないことは、陛下にも容易にお信じいただけるでしょう。しかし、私の考えでは、戦争の可能性を示すだけで十分であり、実際に行う必要はないでしょう。また、戦争だけが防ぎ得る、より大きな災いへの恐れよりも、戦争そのものへの恐れが勝るべきではない、とも考えています。
ロシアとプロイセンが、オーストリア、フランス、サルデーニャ、バイエルン、そしてドイツのかなりの部分に対する戦争の危険を、冒そうとするとは、私には思えません。もし、その危険を冒すつもりなら、実際はそうではありませんが、仮にオーストリアが単独で戦いを始める意志を持ったとしても、オーストリア一国を前に、なおさら退くことはないでしょう。
したがって、私たちの支援を欠いたオーストリアには、会議を無期限に長引かせるか解散するかして、革命への扉を開くか、あるいは譲歩して、陛下が決して承認しないと決意されている事柄に、同意するか、それ以外の道はないでしょう。
その場合、陛下の大臣たちに残るのは、陛下が最も望まれることを、何一つ得るのを諦め、会議から退くことだけでしょう。しかし、そうしてヨーロッパに成立した状況は、避けようとしていた戦争を、ごく数年のうちに不可避にするかもしれません。そして、その時には、戦う手段が、さらに少ない状況に置かれているかもしれないのです。
アレクサンドル皇帝の返答によって、説得に応じるという希望がすべて失われたなら、メッテルニヒ公が、オーストリアは私たちの協力を当てにできるか、また、どの程度までか、と尋ねてくることは、あり得るだけでなく、起こりそうだと、私は考えています。
陛下から頂いた訓令には、ロシアがポーランド全土を支配すれば、ヨーロッパは、きわめて大きな危険に脅かされるので、武力によってしか除けないなら、武器を取ることに、一瞬もためらってはならない、とあります。これは、その場合、陛下の援助を、一般的な形で約束する権限を、私に与えているように思われます。
しかし、具体的な要請にはっきり答え、明確な援助を約束するためには、特別な許可と訓令が必要です。どうか、それをお授けくださり、明白で、かつ極度の必要がある場合にしか、用いないことを、お信じくださいますよう、陛下に、敢えてお願い申し上げます。それでも、私が予想している事態は、起こらないだろうという考えを、なお持ち続けています。
しかし、あらゆることに備えるため、できる限り早く、ご命令を賜りたく存じます。
陛下にお送りした宣言以来、八か国の大臣たちは、集まっていません。
オーストリアの大臣一人、プロイセン人一人、そしてバイエルン、ヴュルテンベルク、ハノーファーの大臣たちから成る委員会が、ドイツの連邦規約に取り組んでいます。すでに一度、協議を開きました。彼らが代表する者たちの利害も、彼ら自身の性格も多様なので、合意できるかどうかは、疑われています。
謹んで、等々。
第七号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。
ウィーン、一八一四年十月十九日。
陛下、
ド・ラブラドール氏は、私たち二人が招かれた協議で、私と同じ意見を持ったため、そしておそらく、私の邸をかなり頻繁に訪ね、一度はカスルレー卿に出会ったためにも、四宮廷の大臣たちから、非常に激しい非難を受けました。裏切り者、スペインが解放を負っている人々から離反する者、と呼ばれました。注目すべきことに、この点で最も熱くなったのは、ド・メッテルニヒ氏でした。ド・ラブラドール氏は、それによって意見を変えはしませんでしたが、私を訪ねる回数を減らさなければならないと考えました。このことから、立場や性格の上で、彼ほど独立していない大臣たちが、陛下の使節団と継続的な関係を持つ自由を、どこまで実際に持ち、あるいは持っていると考え得るか、お察しいただけるでしょう。
連邦規約案に取り組むため集められた五人の大臣は、自分たちに提示される提案を、誰にも伝えないと、名誉にかけて約束するよう求められました。この、あまり役に立たない用心は、とりわけフランス使節団に向けられたものです。交渉で押し付けようとした役割を、使節団に受け入れさせられなかったので、今度は孤立させようとしているのです。
しかし、使節団を包み込み、時がたつほど、さらに濃くしようとしている暗闇を、一筋の光が貫きました[265]。初めは私たちを迷わせようとしていた、陰謀の迷路に入っていくための糸を、私たちは手にしているのかもしれません。以下は、その立場から、きわめてよく事情を知り得る人物から、聞いたことです。
四宮廷は、戦争を行った時の感情が、戦争のあとも残り、戦った時と同じ精神で、ヨーロッパの取り決めに臨んでいるという意味で、連合国であることをやめていません。自分たちだけで、その取り決めを行う計画でした。やがて、それを正当と見なさせる唯一の方法は、見かけの承認をまとわせることだと悟りました。会議が招集されたのは、そのためです。フランスを排除したかったのですが、同国に起きた幸いな変化のあとでは、それはできませんでした。この点で、その変化は、彼らの思惑を妨げました。それでも彼らは、フランスが長く、国内の困難だけにかかりきりとなり、会議には形式的にしか関与しないと、期待していました。ところがフランスは、彼らが反論できず[266]、しかも従いたくもない原則を掲げて現れました。そこで、除名はせず、事実上遠ざけ、すべてを自分たちの手に集中し、障害なく計画を実行することにしたのです。その計画は、結局、イギリスの計画にほかなりません。イギリスこそ、すべてを動かす中心です。原則への熱意が乏しいことに、驚くべきではありません。イギリスの原則は、自国の利益なのです。目的は簡単です。海上の優位を維持し、その優位によって、世界の商業を保とうとしています。そのためには、フランス海軍が、他国と結び付いても、単独でも、決して脅威にならないことが必要です。すでに、他の海洋国家に約束をさせることで、フランスをそれらの国々から孤立させるよう、手を打ちました。ブルボン家の復帰により、王家協約の再締結を恐れ、急いでスペインと七月五日の条約を結び、この協約を決して再締結しないと定めたのです。残るのは、フランスを大陸国家として、その力のごく一部しか海軍に振り向けられない状況に置くことです[267]。この観点から、イギリスはプロイセンを可能な限り強くし[268]、オーストリアと緊密に結び付け、両国をフランスの競争相手として対抗させようとしています。スチュアート卿がウィーン大使に任命されたのも、この計画によるものです。彼は全面的にプロイセン寄りであり、それが選ばれた理由でした。同じように、ベルリンには、心情的にオーストリアに結び付いた人物を置こうとするでしょう。プロイセンを強くする目的に、ザクセンを与えることほど、ふさわしいものはありません。したがってイギリスは、この国を犠牲にし、プロイセンに与えることを望んでいます。カスルレー卿とクック氏[269]は、この問題で、あまりにも決意を固めているため、国王の退位も割譲もないまま、ザクセンを犠牲にしても、何の原則も傷つかないと、敢えて言うほどです。当然、オーストリアは、この学説を退けるべきでしょう。正義、礼節、自国の安全さえ、すべてが、そうするよう迫っています。その抵抗を打ち破るために、何が行われたのでしょう。ごく簡単なことです。二つの困難に直面させ、一方で譲ることを条件に[270]、他方を克服するのを助けたのです。そこへ、ワルシャワ公国全体を手に入れ、見せかけのポーランド王国を作りたい[271]というロシア皇帝が、実に都合よく現れます。カスルレー卿はそれに反対し、議会に示す覚書を作ります。ポーランド問題をまとめるのに、これほど苦労したのだから、ザクセンを救わなかったことを、非難されるいわれはないと、信じ込ませるためです。そして、その努力の代償として、オーストリアに、この王国の消滅へ同意するよう迫ります。見せかけのポーランドを作るという願いが、それに反対している当人たちから、アレクサンドル皇帝へ吹き込まれたものでないと、誰に分かるでしょう。その願いが、本心かどうかも、誰に分かるでしょう。皇帝はポーランド人に気に入られるため、守るのを、ひどく厭うような約束をしたのではないでしょうか。向けられる抵抗こそ、最も望んでいるものではないでしょうか。望んでいるように見えることに同意すれば、皇帝を最大の困惑に陥れるのではないでしょうか。ところがド・メッテルニヒ氏は、すべてを動かしていると自負しながら、自分自身が、気づかぬまま動かされています。自分が操っていると信じる陰謀の玩具となり、子供のように欺かれるに任せているのです。
これらの情報が、すべて完全に正確であるとは保証しませんが、私には、きわめてありそうに思われると、申し上げなければなりません。
数日前、ド・メッテルニヒ氏は、いつも相談する人々を、何人か集めました。全員が、ザクセンを見捨てるべきではないとの意見でした。何も結論は出ませんでした。そして一昨日の晩、私は確かな筋から、ド・メッテルニヒ氏個人は、ザクセンを見捨てているが、オーストリア皇帝は、なお抵抗していると知りました。
連邦規約案の委員の一人は、自分たちに示された提案が、ザクセンは、もはや存在しないはずだという前提に立っている、と言いました。
昨日は、一日中、二つの祝祭に費やされました。一つは軍事的なもので、ライプツィヒの戦いを記念するものでした。陛下の使節団は、それには出席できません。私は、ド・メッテルニヒ公が平和を祝って催した、もう一つの会に出ました。そこで、オーストリア皇帝に、一言申し上げる機会が得られればと思ったのですが、残念ながら、得られませんでした。(前の舞踏会では、もっと幸運で、状況について、そのお心に何らかの効果を与え得る言葉を、いくつか申し上げることができました。その時は、たいへんよく理解してくださったようでした。)カスルレー卿は、二十分近く皇帝と話しましたが、その会話の主題はザクセンだったと、私には伝わってきました。
この国をプロイセンに与える措置は、オーストリアでは、政府の人々からさえ、オーストリア君主国にとっての不幸と見なされ、ドイツでは、災厄と見なされるでしょう。ドイツそのものが、遅かれ早かれ、ポーランドのように分割される運命を、確実なものにすると、受け取られるでしょう。
バイエルン王は、昨日も大臣に、ザクセンのため、新たに働きかけるよう命じ、「この計画は、まったく不正であり、私から、あらゆる安らぎを奪う」と言っていました。
オーストリアがザクセンを存続させようとするなら、どのような事態にも備え、私たちの協力を確保しようとするでしょう。そのような要請に答える準備をするため、私は、陛下のご命令を賜るよう、お願いしたのです。ただし、すでに申し上げたとおり、ロシアとプロイセンが戦いを始めることはないと、確信しています。
もしオーストリアが、私たちの協力を求めずに譲るなら、それは、協力を望まないと決めたからです。そうすれば、陛下から、ザクセンを救う希望をすべて奪うことになるでしょう。しかし、あらゆる王座の安全を支える原則を守るという栄光まで、奪うことはできません。
いずれにせよ、オーストリアが最終的に譲歩しないかぎり、私は絶望しません。それどころか、ザクセンが犠牲になるのを防げないとしても、犠牲にしたがっている人々を困らせる方法を、見つけたと思っています。すなわち、ロシア皇帝に、次のことを知らせるのです。どのような名称であっても[272]、皇帝に帰属することになる[273]ポーランドの一部を領有することに、私たちは反対しない。ただし、そのために国境を拡大して隣国を不安にさせず、同時にザクセンが存続すること[274]を、条件とする、と。
もし皇帝が、実際にはポーランド王国を作るつもりはなく、ポーランド人に示す口実だけを求めているなら、この表明は、皇帝を困らせるでしょう。ポーランド人が最も大切にする願いの実現を、フランスが妨げているとは、皇帝は彼らに言えず、彼らも信じられなくなります。一方、カスルレー卿は、フランスが反対していなかったのに、イギリスで多くの人々が望むことに、自分はどうして反対したのか、議会で説明するのに困るでしょう。
もしアレクサンドル皇帝が、本当にこのポーランド王国という考えに執着しているなら、フランスの同意は、固執する理由となるでしょう。ザクセンを見捨てることで抜け出せると思っていた困難へ、再び追い込まれたオーストリアは、どうしても、その放棄を撤回し、私たちのもとへ戻ることになります。
どの場合を考えても、この表明が私たちを害することはありません。私たちに重要なのは、ロシアの持つポーランドが、できる限り小さく、ザクセンが救われることです。ロシアが、自国のものとなり、領有するはずのものを、どの形で持つかは、それほど重要ではなく、むしろ、私たちには、重要でないとも言えます。それが重要なのは、オーストリアです。私たちが関心を持つと知っており、しかも自国にとって、なおさら重要なはずのものを、オーストリアが、不必要に犠牲にする時、どうして私たちは、その国が抜け出そうとした状況へ、引き戻すことをためらうべきでしょう。まして、自国と私たちの困難を、同時に終わらせることは、オーストリア次第であり、そのためには、私たちと結ぶだけでよいのです。
アレクサンドル皇帝は、ここ数日、何度も、私を呼び出す意向を示されたと、聞いています。そうされたなら、今、陛下にお話しした方法を、試してみます。
数日前から当地にいるポッツォ将軍は、フランスについて、たいへん適切な話し方をしています。
ハノーファー選帝侯は、神聖ローマ帝国も、選挙による皇帝も、もはや存在しないはずなので、その称号を保てず、かつて自分が、はるかに上位だったヴュルテンベルクの君主より、下位に置かれたくもないため、国王の称号を取りました。ミュンスター伯(転落事故から、ほぼ回復しています)が、そのことを私に通知しました。返答し、その主君が取った新しい称号[275]を承認するため、陛下が、きっと適当とお考えくださるであろう許可を、お待ちしております。
謹んで……
第七号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。
ウィーン、一八一四年十月二十日。
伯爵殿、
先の報告の一つでお知らせしたとおり、連合した四大国は、自分たちの取り決めに従い、ボナパルトがフランスの王座にとどまる場合に備えて決めた、各国の都合を優先する方針を、なお追い続けています。ヨーロッパの状況を変え、すべてを一七九二年に存在した体制へ戻すはずだった、ブルボン家の復帰を、まったく考慮していません。フランスの力が、なお彼らを怯えさせているため、メッテルニヒ公は、奇妙な盲目状態のまま、三大国の計画を助け続けています。ロシアにはワルシャワ公国を奪う手段を、プロイセンにはザクセンを占領する手段を、イギリスには、かつて対仏連合と呼ばれ、今もそう呼べるものに対して、最も絶対的な影響力を行使する手段を、容易にしているのです。この状況は、たいへん奇妙な効果を生んでいます。オーストリア君主国に心を寄せる者は、すべて私たちに近づき、政府に結び付く者は、すべて遠ざかっています。
前にお伝えした会合以来、協議は開かれていません。四大国の大臣たちは、会い、話し、計画し、変更していますが、何も終わりません。しかし、決定の時は近づいています。彼らは、自分たちが考えていることを、何一つ私たちに知らせないと、互いに名誉にかけて約束しましたが、私たちは、こうした細かな政治上の動きを、すべて把握しています。
列強の方針は、彼らがなお抱いている恐怖から生まれています。フランスを干渉させずにポーランド問題を決着させるという、一八一三年六月十三日の約束を、実行しようとしています。結局、フランスを孤立させようとし、自分たちが署名した和平を、悔いているのです。
イギリスの方針は、当地の至る所で、明らかに姿を現しています。大陸封鎖体制がイギリスに与えた影響を、なお恐れるイギリスの大臣たちは、北方とバルト海沿岸に、十分に強い国々が存在することを望んでいます。フランスが、いついかなる時も、イギリスと大陸内部との交易を、妨げられないようにするためです。そのため、プロイセンが要求することすべてに協力し、その要求を、全力で支えています。
この構想から、ネーデルラントの併合によるオランダの拡大、そしてハノーファーとプロイセンの拡大が生じました。同じ考えから、イギリスはスペインに、王家協約の規定を更新しないよう要求しました。国王が、この同盟体制によって、フランスの持つ力に、新たな力を加えることを恐れたのです。ウェリントン卿が、パリからマドリードへ急いで旅した目的は、この交渉でした。
この箇所の Pays-Bas は、北のオランダに併合された南部ネーデルラントを指す。
しかも、カスルレー卿は、この構想そのものによって、大陸の状況もフランスの状況も、判断できないことを示しています。両者とも、この体制の犠牲者であり、イギリス自身よりも、それを恐れるはずであることを、見ていないのです。
この文末の「この体制」は、直前から論じられているナポレオンの大陸封鎖体制を指す。
この状況で、一方の情念と、他方の列強の野心との間に置かれた国王の大臣たちは、国際法の保全的な諸原則を、最大限に毅然と守らなければなりません。その原則を覆すような好意的譲歩には、一切応じず、この迷いに対して、できる限りの威厳と平静をもって臨み、最後には、理性と時が、各国に真の利益を悟らせるのを、待たなければなりません。
昨日の晩、メッテルニヒ公が催した舞踏会で、シューレンブルク伯はヴレーデ元帥に近づき、ザクセンについて、何か話せることはあるかと、尋ねました。元帥は、こう答えました。「この家の主人のそばへ行き、あなたに目を上げる勇気があるか、見てごらんなさい。」
同じ舞踏会で、バイエルン王はド・ラブラドール氏に、タレーラン公に時々会うかと尋ねました。スペイン大使が、会うと答えると、王は言いました。「私もそうしたいのですが、勇気がありません。ただ、私の信条をお伝えしましょう。私は、ブルボン家に、たいへん忠実です。」
私たちは、これらの意向が正式に伝えられるのを待って、自分たちの立場を明らかにするつもりです。それまでの間も、あらゆる節度を忘れるこの行いが、革命を長引かせ、必然的に新たな動揺へ導くはずだと、繰り返す機会を、一つも逃しません。最終的に取るべき決断については、時が明らかにしてくれるでしょう。
国王が採用され、訓令で私たちに示された方針から、私たちは何一つ外れておりません。その方針が、情念と、最も有害な狂気に目をくらまされていない、すべての人々の尊敬と感謝を、国王に保証していることを、十分にご確信いただくべきです。
敬具……
第三号第三信――国王ルイ十八世からタレーラン公へ。
パリ、一八一四年十月二十一日。
親愛なる従兄よ、
あなたの第四号と第五号を受け取った。
十月一日付のあなたの覚書がよいものだった最も確かな証拠は、それが、かつての連合諸国の全権委員たちを不快にし、同時に、いくらか後戻りを強いたことだ[276]。しかし、この成功に眠り込んではならない。第四号で述べている結束が存在することは、私には明らかである。とりわけ、総裁政府、そして、それ以上にブオナパルテ[277]がヨーロッパに与えた屈辱の復讐を、フランスそのものに、ut sic、加えようという計画がある。私は、決してそのような立場へ追い込まれるままにはしない。したがって、宣言という考えを強く支持し、案を、遅らせず、早く送ってもらいたい[278]。しかし、それだけでは足りない[279]。背後に何かがあることを、証明しなければならない。そのためには、必要に応じて、軍を現在より大きな規模にできるよう、準備しておく必要があると、私には思われる。
ut sic は「そのものとして」「それ自体として」の意。総裁政府やナポレオン個人ではなく、フランスそのものに報復するという趣旨。
希望する手紙は、近いうちに、ド・ジョクール氏に書かせよう。しかし、ここだけの話だが、私は、取り決めを超えることもするだろう[280]。四月十一日の取り決め[281]のことだ。アゾレス諸島という、すばらしい案[282]が実行されるなら、そうするつもりだ。
パルマ、ピアチェンツァ、グアスタッラが、若い王族[283]へ返されるなら、たいへん満足だ。それは、その世襲財産である。トスカーナは、あまり正当に得られたものではなかった。
不幸なグスタフ四世[284]は、数日のうちに、ここへ来る意向を、私に知らせてきた。ウィーンで話題になったら、この旅には、政治上の取り決めは何も隠されていないが、いつも自分の扉を私に開いてくれた人に、私の扉が閉ざされることは決してない、と、ためらわずに断言してよい。
この手紙を終える前に、あなたの行動に対する満足を、伝えておこう[285]。では、親愛なる従兄よ、神が、その聖なる尊い守りのうちに、あなたを置かれるよう、祈る。
ルイ。
第I号――ブラカ・ドールプ伯爵からタレーラン公へ。
パリ、一八一四年十月二十一日。
公爵殿、ド・ジョクール氏から、ミナ[286]のパリ到着、その逮捕、スペイン代理公使[287]、いや、より正確には、その称号を名乗る人物の、まったく理解しがたい行動と、それについて取られた措置のことは、おそらくお知らせしているでしょう。
そのほか、今日は、新しいことも、特別なことも、お伝えするものはありません。しかし、この手紙を閉じる前に、私のことを思い出していただき、最も心からの親愛の情を、最も率直に、改めてお伝えしたいと存じました。
ブラカ。
第八号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。
ウィーン、一八一四年十月二十四日。
伯爵殿、
政務は、よい方向へ進んでいません。先の報告以来、全体の方針には、陰謀、秘密、不整合ばかりです。
ロシア皇帝は、ワルシャワ大公国の占領に固執しています。わずかな部分しか譲るつもりはなく、そこでポーランドを再生させようとしています。
プロイセンは、ザクセンの併合によって、損失を埋め合わせることに固執しています。ロシア皇帝は、それに同意したと表明し、プロイセン王に対して、個人的に約束したと宣言しています。
オーストリアの反対は、弱いものにとどまっています。態度を曖昧にし、時間を稼ぎ、この不正な行為が人々に与える印象を利用して、自らを強めようとしています。私たちには近づかず、この問題を、今後行われるポーランドの国境をめぐる討議に結び付けようとしながらも、もはや見込みはないと考えています。
イギリスが誠意を示すのは、プロイセンの要求するすべてを、同国に得させることについてだけです。プロイセンは、オーストリアとプロイセンとの緊密な結合を目指す、イギリスのドイツにおける関係の、保証者となるはずです。イギリスは、そこへハノーファーとオランダを結び付けています。
十一月一日が近づいていますが、何についても合意できないまま迎えるでしょう。協議は、一度も開かれていません。会議は開かれるのか、それとも、成立する前に、それを妨げた理由を、ヨーロッパが知ることになるのかと、人々は問い合っています。何人かの大臣は、当面、会議を解散し、ヨーロッパの真の必要を、もっとよく理解しようとするようになってから、しばらく先に、新たな会議を集めるほうがよいかもしれない、と考えています。
メッテルニヒ公は、一八〇五年にプロイセン君主国を構成していた一千万人の人口を満たすため、ザクセンの獲得を求める覚書に対し、プロイセンの大臣たちへ返答しました。この返答は、何も決定せず、何にも同意していません。むしろ議論を行い、ザクセンの問題は単独で扱えず、ポーランドの新たな国境について行う取り決めに、結び付けなければならないと、理解させようとしています。
この状況で、プロイセン軍によるザクセンの暫定占領が、行われようとしています。ウィーン宮廷のこの譲歩は、それだけで、すでに、たいへん不幸な出来事です。ロシアには、ワルシャワ公国で都合のよいことをする自由を残し、プロイセンには、ザクセンで地歩を固める、あらゆる手段を与えます。
ロシア皇帝とプロイセン王の性格を頼みに立てた計算は、外れることになるでしょう。私たちは、誤った栄光の観念と、敢えてこう申せば、仲間意識とが、両君主を、あらゆる申し入れに耳を貸さなくし、イギリスは、これらの計画の実行に利益を見いだして喝采し、オーストリアは、新たな戦争の危険に身をさらそうとしないのではないかと、恐れています。メッテルニヒ公は、自らの恥をいくらか覆い隠すため、ロシア軍がドイツから出て行くことに見いだす利点を、強調しています。しかし、ロシア軍がオーデル川から、さほど遠くない所へ集中し、なお六万人がホルシュタインにいることを、見ていません。カスルレー卿のほうは、すべてが自分の考えるとおりに実行されないかもしれない、ということだけを心配しています。ロシア皇帝の、ワルシャワ公国全体に対する要求を抑えるためにしか、努力しようとしません。そして、プロイセンとの関係で守るべき誠実さから、同国が、その拡大を確かなものにするザクセンを保持することには、反対できない、と言い張っています。
私たちはまた、ザクセン王とその一族が信じる宗教[288]が、イギリスの意向に影響し、これらの地域が、再びプロテスタントの諸侯の手に落ちることを、歓迎しているのだと、確信しています。この見方は、イギリス使節団の普段の言葉によって、裏付けられます。
タレーラン公は昨日、ロシア皇帝と会見しましたが、満足な結果は何一つ得られませんでした。そして、この君主が、ヨーロッパを不安にさせるはずの、都合と野心の原則に、盲目的に従っているのではないかという、私たちの懸念が、確認されました。皇帝は、四日間滞在するはずのハンガリーへ出発する前に、メッテルニヒ公と会話し、その中で、きわめて不適切な言葉を用いました。
オーストリアとイギリスが私たちの努力を支援しようとしない以上、再び迫る混乱に対抗する手段は何かと、今、問われています。カスルレー卿自身も、ロシア皇帝に対して、自分はもっと力を持つと思っていたこと、パリで提案されたとおり、会議に集まったヨーロッパ全体を、皇帝に対抗させなかったことを悔いていること、そして、その方法は、まだ試せることを、今では認めています。私たちが考えるように、それが効果を持たないなら、国王には、何も承認しないという権能が残るでしょう。この状況を変える、ほかの手段が見つからなければ、それが、最後に取られる措置となります。
ドイツの問題をめぐる協議は、続いています。
ヴュルテンベルク王と新たなハノーファー王との間で、席次をめぐる争いがありました。また、新しいドイツの連盟の長を誰が務めるかも、まだ決まっていないようです。
オーストリア家の世襲とすることに同意が得られれば、ウィーン宮廷は、皇帝の王冠を復活させるかもしれません。イギリスは、この考えを支援しているようです。メッテルニヒ公も、おそらく、そこに自分の政策を立て直し、その方針の弱さを覆い隠す手段を求めています。この点で、コーベンツル伯のやり方を踏襲しています。同伯は、その君主が神聖ローマ皇帝の称号を放棄した時、それをオーストリア皇帝の称号で置き換えると定めることで、君主と国とを慰めたのでした。
協議の一つで、プロイセンの大臣たちは、ドイツの連盟の安全のため、加盟諸国は使節の派遣・接受の権利と、戦争および講和の権利を放棄すべきだと、提案し、主張しました。バイエルンの大臣たちは、諸国を、真の従属国にしてしまう、この体制に強く反対しました。
敬具……
第八号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。
ウィーン、一八一四年十月二十五日。
陛下、
陛下が、ありがたくもお授けくださった十月十四日付のお手紙を受け取り、たいへん幸せに存じました。お手紙は、私を支え、慰めてくださいました。それが、どれほど必要だったかは、急使の到着の二時間前、アレクサンドル皇帝と交わした会話について、これからお伝えする話から、陛下にもお分かりいただけるでしょう。
すでに陛下へ書き送ったとおり、皇帝が何度も、私に会う意向を示されたと、知らされていました。最も近くにいる三人からの知らせだったので、皇帝の命によるものだと考えることができました。同時に、言われたことから、私のほうから謁見を願い出ることを[289]、皇帝が望んでおられると理解しました。皇帝は、カスルレー卿に返答していませんでした。その代わりに、ザクセンから自軍を引き揚げ、この国の行政をプロイセンに渡すと、オーストリアへ通知させました。オーストリアは、不本意ながら同意した、という噂が流れていました。(この同意の噂に信憑性を与えていたのは、プロイセンの人々でした。)加えて、アレクサンドル皇帝は、ハンガリーへ出発する直前でした。これらすべての理由から、私は謁見を願い出ることにし、一昨日の六時に迎えられると、知らされました。
四日前、ポーランドに世界のすべてを見るアダム・チャルトリスキ公が、私を訪ねて来ました。もっと早く会いに来なかったことを詫び、その最大の理由は、私がポーランド問題で、たいへん悪い立場を取っていると聞いたからだと、認めました[290]。「誰よりもよい立場です」と、私は言いました。「私たちは、完全で独立したポーランドを望んでいます。」「それは、たいへんすばらしいことでしょう」と、彼は答えました。「しかし、夢物語です。列強は、決して同意しないでしょう。」「それなら」と、私は続けました。「ポーランドは、もはや北方での、私たちの主要な問題ではありません。ザクセンの存続のほうが、私たちには重要です。この問題では、私たちは第一列にいます。ポーランドが国境の問題となる時には、第二列にいるだけです。自国の国境を確保するのは、オーストリアとプロイセンの役目です[291]。私たちは、その点で両国が満足することを望みます。しかし、あなた方が隣接することについて、一度安心できたなら、ロシア皇帝が、割譲される国に、望む政府形態を与えることを、私たちは何ら妨げません。私たちがこのように柔軟に応じる代わりに、ザクセン王国の存続を求めます。」この示唆は、アダム公をたいへん喜ばせ、私の邸から、すぐに皇帝のもとへ行き、三時間にわたり会話しました。その結果、私が到着した最初のころ以来、邸に来ていなかったネッセルローデ伯が、翌日の晩、説明を求めて訪ねて来ました。私は説明しましたが、アダム公に述べた以上に踏み込むことはせず、ザクセン王国の存続は、陛下が決して譲ることのできない点だと、納得してもらうよう努めました。
こうして皇帝は、どの点なら、私がご意向に応じることを期待でき、どの点では期待できないかを、あらかじめ知っておられました。そのため私は、最初の応対だけで、その意向を知り、会話を許してくださった目的が、和解の手段を提案することなのか、意志を通告することなのかを、判断できるという利点を得ていました。
皇帝は、いくらか気まずそうに、私の方へ来られました。私は、まだ一度しかお目にかかれていないことを、残念に思うと申し上げました。「陛下と同じ場所にいる幸せを得た時には、このようにお会いできないことに、慣らそうとはなさらなかったではありませんか」と。皇帝は、私には、いつでも喜んで会う、会わなかったのは私の責任だ、なぜ来なかったのか、と答えられました。そして、次の奇妙な言葉を付け加えました[292]。「私は公人です。いつでも会えます。」ここで注目すべきなのは、その大臣たちも、最も気に入られている側近たちも、時には何日も、皇帝に近づけないことがある、という点です。そのあと、「政務の話をしましょう」と、皇帝は言われました。
一時間半にわたった会話の、無用な細部で、陛下をお疲れにするつもりはありません。ロシア皇帝の口から出た言葉として、お伝えすることを、どれほど注意して短くしても、なお陛下には、信じられないと思われるかもしれません。それゆえ、要点だけにとどめることを、なおさら、ためらう必要はありません。
「パリでは」と、皇帝は言われました。「あなたはポーランド王国に賛成でした。どうして変わったのですか。」「陛下、私の意見は、今も同じです。パリでは、ポーランド全体の再建が問題でした。私はその時も、今日も同じく、その独立を望んでいます。しかし、今は、まったく別のことが問題です。オーストリアとプロイセンの安全を確保する国境の確定が、この問題の前提となっています。」「両国が不安になる必要はありません。それに、私はワルシャワ公国に二十万人を持っています。追い出せるものなら、追い出してみればよい! ザクセンはプロイセンに与えました。オーストリアも同意しています。」「オーストリアが同意しているかは、存じません」と、私は言いました。「それほど自国の利益に反するので、信じがたいことです。しかし、オーストリアの同意が、ザクセン王のものを、プロイセンの所有物にできるのでしょうか。」「ザクセン王が退位しなければ、ロシアへ連れて行かれます。そこで死ぬでしょう。別の王も、すでにそこで死にました[293]。」「陛下、そのお言葉を信じないことを、お許しください[294]。会議は、そのような暴挙を見るために、集められたのではありません。」「何です、暴挙とは! スタニスワフもロシアへ行ったではありませんか。なぜザクセン王が行ってはならないのです。一方の場合は、他方の場合と同じです。私には、何の違いもありません。」答えるべきことは、あまりにも多くありました。陛下に申し上げますが、私は、憤りをどう抑えればよいか、分かりませんでした。
皇帝は早口でした。その言葉の一つは、こうでした。「フランスは、私に何か恩を負っていると思っていました。あなたは、いつも原則の話をする。あなたの国際公法など、私には何でもありません。何のことか分かりません。あなた方の羊皮紙や条約[295]を、私が、どれほど重んじると思うのですか。」(私は、連合諸国が、ワルシャワ公国を三宮廷で分割すると合意した条約を、思い出していただいていました。)「私には、何よりも上にあるものが一つあります。私の言葉です。一度約束したからには、守ります。プロイセン王と合流した時、ザクセンを約束したのです。」「陛下はプロイセン王に、九百万から一千万人の人口を約束されました。ザクセンを滅ぼさなくても、与えられます。」(私は、ザクセンを倒さずに、プロイセンに与えることができ、条約で保証された臣民数を満たす諸地域の一覧を持っていました。皇帝は、それを取り、そのままお持ちになりました。)「ザクセン王は裏切り者です。」「陛下、裏切り者という呼び名は、決して国王に与えられるものではありません。そして、決して与えられてはならないことが、重要なのです。」この最後の部分には、いくらか力を込めたかもしれません。少し沈黙したあと、皇帝は言われました。「プロイセン王は、プロイセン王かつザクセン王となります。私がロシア皇帝かつポーランド王となるのと同じです。この二点でフランスが私に示す好意が、フランスに関わるあらゆることについて、私がフランスに示す好意の尺度となります。」
この会話の間、皇帝は、最初にお話しした時[296]のような、大きな身振りには走りませんでした。断定的で、苛立ちを示すすべてのものを、備えておられました。
皇帝は、また会おうと言われたあと、宮廷の内輪の舞踏会へ向かわれました。私も招かれる栄誉を得ていたので、あとを追いました。そこでカスルレー卿を見つけ、話し始めていたところ[297]、窓のくぼみにいる私たちを認めたアレクサンドル皇帝が、卿を呼ばれました。別の部屋へ連れて行き、二十分ほど話されました。そのあと、カスルレー卿は私のもとへ戻り、言われたことには、ほとんど満足していないと語りました。
カスルレー卿は、今月十九日の手紙で陛下にお話しした計画に従うことを、自ら決めたか、自国の宮廷から命じられたか、どちらかであることは、疑いありません。その計画は、フランスを孤立させ、あらゆる同盟を奪って、自国の力だけに頼らせ、強大な海軍を持たせないことです。したがって、陛下が、正義と善意の構想だけを会議に持ち込まれるのに対し、イギリスは、嫉妬と、まったく自分本位の利害の精神しか、持ち込んでいません。しかし、カスルレー卿は、計画の実行に、予想していなかった困難を見いだしています。ヨーロッパをロシアの餌食にしたとの非難を避けたいので、フランスに対抗させたい国々を、ロシアから引き離そうとしています。何より望むのは、プロイセンが、オランダと同じく、全面的にイギリス寄りの国となり、補助金によって、イギリスが意のままに動かせるようになることです。この見方では、プロイセンが強いほうが都合よいので、その領土を拡大し、プロイセンに対して、その功績[298]を独占したいのです。しかし、アレクサンドル皇帝が、プロイセン王の利益に注ぐ熱意が、それを許しません。カスルレー卿の目指すのは、可能ならば、プロイセンをオーストリアと結び付けることですが、彼がプロイセンに与えたい拡大の仕方こそ、その結合の障害なのです。プロイセン王とアレクサンドル皇帝との間にある絆を断ち、別の絆を作ろうとしています。しかし、それを妨げるのは、習慣、記憶、そして、いったん止んではいても消えてはいない対抗意識であり、その対抗意識は、多くの利害によって、必ず再燃するでしょう。しかも、プロイセンとオーストリアを結ぶ前に、後者の君主国の利益を守り、安全を確保しなければなりません。この点で[299]、カスルレー卿は、ロシアの要求という障害に出会っています。こうして、卿が自ら課した問題には、彼よりも強力な才能をさえ、立ち止まらせる困難があります。私は、それがフランスに不利な形で、少なくとも彼が望んでいると思われる程度には、解かれないことを、期待しています。しかし卿自身は、アレクサンドル皇帝に由来する困難しか見ていません。ザクセンを犠牲にすることには、何のためらいもないからです。
私はカスルレー卿に、その困惑は、ご自身とド・メッテルニヒ氏の行動に由来すると、言うことができました。ロシア皇帝を今の姿にしたのは、お二人なのです。初めから、会議を招集するという私の提案を、退ける代わりに支持していたなら、今起きていることは、何一つ起こらなかったでしょう。お二人は、自分たちだけでロシアとプロイセンに向き合おうとして、力不足だと分かったのです。しかし、最初の日から、ロシア皇帝を会議、したがってヨーロッパ全体の願いに直面させていたなら、今日のような言葉を、敢えて口にすることは、決してなかったでしょう、と。カスルレー卿は、それを認め、もっと早く会議を開かなかったことを悔やみ、近いうちに開かれることを望みました。そして、異議を招かず、起こり得る困難は全権委任状の審査の時まで留保するような、招集の形式を、一緒に考えようと、私に提案しました。
ロンドンから来たザクセンの将校、ド・ツォイクヴィッツ氏は、出発前に摂政皇太子に会いました。その報告によれば、皇太子はザクセン王について、最も深い関心を示す言葉で語り、会議の自国大臣たちに、保全的な原則を守り、決してそこから外れないよう命じた、と言ったそうです。皇太子は、ザクセン=コーブルクのレオポルト公[300]にも同じことを語っており、公は二日前、私自身に、その話をしてくれました。したがって、当地のイギリス使節団が取る道は、摂政皇太子個人の願いと意見[301]に、大いに反していると、考えざるを得ません。
ロシア皇帝が言ったように[302]、ザクセンをプロイセンへ与えることに、オーストリアが同意したわけでは、まだありません。むしろ、ザクセンの問題は本質的にポーランドの問題に従属しており、後者が解決しなければ、前者には答えられないと述べています。しかし、その覚書では、ザクセンを犠牲にする計画を、耐えがたく、憎むべきこととして語りながらも、一方で満足を得られれば、この点では譲るという姿勢を、あまりに強く示唆しました。オーストリア皇帝は、義兄であるアントン公(ザクセン)に、ザクセンの大義は敗れたと語った、とさえ言われています。確かなのは、オーストリアが、ザクセンをプロイセン軍に占領させ、プロイセン王のために統治させることには、同意しているということです。
しかし、世論は日ごとに、ザクセン王の立場と、それを擁護する人々を、ますます支持するようになっています。三日前、ジチ伯[303]の邸の舞踏会と、一昨日の宮廷の舞踏会で、大公たちと、オーストリア皇后ご自身までが、私に好意的な応対をしてくださったのは、きっと、そのためだと考えなければなりません。
オーストリア皇帝は、昨日の朝、オーフェン[304]へ出発し、晩に出発したロシア皇帝に先行しました。ロシア皇帝は、宮中伯大公に嫁いだ妹の大公女の墓で、涙を流しに行かれます。そのあとには、用意された舞踏会と祝祭が、すっかり皇帝を占めることでしょう。二十九日には、ウィーンへ戻られます。
出発に際して、誰にも権限も指示も残されなかったので、何も討議できず、不在中には、きっと重要なことは何も起こらないでしょう。
今晩、少し勇気を取り戻しかけていたド・メッテルニヒ氏に会いました。私は、力の限りを尽くして、彼に話しました。多くのオーストリアの将軍たちにも会いましたが、ザクセンの存続を支持しています。この点について、軍事上の論拠を述べ、それが影響を与え始めています。
謹んで……
第四号第三信――国王ルイ十八世からタレーラン公へ。
ウィーン、一八一四年十月二十七日。
国王からタレーランへの書簡であるが、原文の日付行は Vienne(ウィーン)となっている。訳文はその地名を保存した。
親愛なる従兄よ、
あなたの第六号を受け取った。最も急ぐことを先にして、求められた追加訓令を、火曜日の急使で送った。それに基づくあなたの働きかけで十分であることを、期待している[305]。しかし、前に伝えたとおり(第三号第三信)、背後に何かがあることを示さなければならない。そこで、軍が出陣できる状態になるよう、命令を出すつもりだ。神が証人だが、私は戦争を望むどころか、国家の傷を、ゆっくり手当てするため、数年間の平穏を望んでいる。しかし何よりも、フランスの名誉を損なわずに保ち、あらゆる道徳に反し、安寧を害する原則と秩序が、成立するのを防ぎたい。また、これは劣らず必要なことだが、私自身の人格を尊重させ、スペイン代理公使の事件から、私が弱い者にだけ強いと、言われることも許したくない。これほど重大な利益の前では、私の命も王冠も、私には何でもない。
それでも、そのためにオーストリアと、しかもオーストリアだけと、同盟せざるを得ないとすれば、たいへんつらいことだろう。ポーランドについて、あれほど立派に語ったカスルレー卿が、ザクセンについては違う意見を持ち得ることが、理解できない[306]。卿を立ち戻らせるため、ミュンスター伯の努力に大いに期待したいところだが、同じ問題についてのウェリントン公の言葉から、これは一大臣の方針ではなく、政府全体の方針ではないかと、恐れている。それに反論する論拠には、確かに事欠かない。しかし、実例のほうが効果を持つこともある。私には、たいへん印象的な例が思い浮かぶ[307]。カール十二世の例である。パトクル[308]の処刑は、この君主が、どれほど復讐心が強く、国際法に対して良心上のためらいを持たなかったかを、十分に示している。それでも、アウグスト王の全領国を、いわば手中にした時、ポーランドを奪うだけで満足し、ザクセンに手を付けてよいとは考えなかった。二つの状況を比べれば、ワルシャワ公国とポーランド王国、そして、かつてのザクセンと今のザクセンとの類似は、明らかだと思う。では、親愛なる従兄よ、神が、その聖なる尊い守りのうちに、あなたを置かれるよう、祈る。
ルイ。
追伸――あなたの第七号を受け取った。私を尊重させ得る軍事的な姿勢を取る決意が、いっそう固まった。
ロシア皇帝に対して行おうとしている表明を、私は承認する。皇帝との会談が、すでに行われていればよいと願う。
グレートブリテン王に対し、ハノーファー王の称号を、私の名で承認することを、あなたに許可する。
第九号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。
ウィーン、一八一四年十月三十一日。
伯爵殿、
会議の開会に定められた時が近づいていましたが、メッテルニヒ公が、自邸で協議を開くのがよいと判断したのは、ようやく昨晩のことでした。そこには、パリ条約に署名した八か国の全権委員が招かれました。
タレーラン公は出席し、フランスの全権委員として、ダールベルク公とラ・トゥール・デュ・パン伯爵を紹介しました。
ラ・トゥール・デュ・パンの称号は、先の署名欄では marquis(侯爵)、ここでは comte(伯爵)。それぞれの原文に従った。
ポルトガル大使は、四人の全権委員を伴い、メッテルニヒ公は、ヴェッセンベルク男爵[309]を同席させていました。
タレーラン公は、仕事を容易にするため、会議の進め方を規則立てる手段を示した、議事録の諸条項を起草させていました。(文書第一号から第五号を参照。)
前日、それについてカスルレー卿と話していました。卿は承認しながらも、メッテルニヒ公と相談する必要があり、フランスから出ることは何でも、いつも、ある種の警戒を招くだろうと、ほのめかしました。
タレーラン公は、会合の前に、メッテルニヒ公と、ほかの何人かの全権委員へ、それらを伝えました。
協議の冒頭、ド・メッテルニヒ氏は、たいへん散漫な演説をしました。その趣旨は、ポーランド問題について行われた内密のやり取りは、まだ結果を生んでいないが、決定は目前であること、ドイツの協議は、ヨーロッパに新たな安寧の保証を与える連邦規約の作成を進めていること、そして、この状況では、会議を延期する考えではなく、他の諸国が関与しない、これらの討議を終える時間を残す形式を、探すべきだということでした。現在の会議は、厳密には、その名で呼べず、審議する形式も認められないと、強調しました。
ここでタレーラン公は、協議のたびに意向が変わり、言葉そのものの意味まで変わるのは、何とも奇妙なことだと述べました。パリでは会議を望んだ。それなのに今、その望んだ会議は、もはや開かれず、会議であってもならないという。そのあと、十一月一日に集まるはずだったが、この招集は、必要な手続を踏んでいなかったという。開会も、もはや開会ではないというのです……。
ド・メッテルニヒ氏は、全権委任状の審査のため、さらに十日から十二日の猶予を設け、すべての全権委員に、指定された事務局へ委任状を送るよう求めることを提案して、演説を終えました。そして、会議に及ぼし得る影響について、いくらか悪意を込めて、それには二種類あると述べました。困難を生み出すことで及ぼす影響と、便宜を与えることで及ぼす影響だ、と。
タレーラン公は、この言葉を取り上げ、全員が同じ目標へ向かっている時には、有能か無能かによる影響しかない、と述べました。
そのあと、ド・メッテルニヒ氏は、宣言案を示しました。第六号として添付してあります。たいへん無味乾燥で、進め方も拙い議論に、二時間が費やされました。それは、これほど重要な問題に臨む際の、軽率さと考慮の乏しさを、際立たせました。
ついに、次のことが合意されました。
一、会議を延期しないこと。
二、全権委任状を審査する委員会を任命すること。
三、翌日に集まり、新たな招集案の朗読を聞き、会議が任命する諸委員会で作業し、全体委員会で再検討するという方法を取れるかどうかを決め、認められる審議の形式を定めること。
また、フランスの委員たちが示した文案を、翌日に定められた討議の基礎とすることも、合意されました。
全権委任状の審査委員会は、抽選で選ばれました。指定されたのは、ロシア、イギリス、プロイセンです。委任状が提出されたら、委員会が報告を行うことになります。
これらの結論からは、さらに一歩進んだように思われます。しかし、状況を検討すれば、次のことを確信せざるを得ません。
一、四大国は、自国に有利となるよう考えた均衡の体制を、確立することを諦めていない。
二、フランスを、いかなる影響力からも遠ざけようとしている。
三、現在の困惑は、予想していなかった、ロシア皇帝の過大な要求に由来する。
四、その困惑から抜け出すため、ザクセンを犠牲にし、ポーランドについては合意しているように見せたいと考えている。
五、フランス国王が宣言した原則は、ヨーロッパに、自らの尊厳を思い出させた。そして、国王の発する声は、まだすべての賢明な人々を結集させてはいないとしても、いつか必ず、耳を傾けられるようになる。
当地では、オーストリア政府の弱さ、ロシアとプロイセンの政府による、あらゆる原則の忘却、そしてロンドン政府のフランスへの偏見が、すべて、むき出しに見えます。これほど強い陰謀に対抗するには、理性の道を、確固として歩み、諸国家の存立と相互関係について、理性が賢明にも命ずるすべてを、支えとするほかありません。
ポーランドの取り決めに直接の利害を持つ列強が、ヨーロッパのこの部分の均衡を、すべて覆してしまわない国境に合意できれば、全般的に物事がまとまるという希望が、私たちには残ります。私たちは、それが伝えられるのを、辛抱強く待っています。秘密の規定によって、ロシア、プロイセン、オーストリアは、フランスを介入させずに、ワルシャワ大公国の分割を取り決めることに合意しました。この点について、私たちには、何も残念に思うことはないと考えています。
諸国が合意すれば、ヨーロッパは平穏になります。成功しなければ、対仏連合は解体し、フランスは、公の政務で、かつて行使し得たうち、最も名誉ある介入へと、招かれることになります。
ロシア皇帝の最終的な意向を、まだ予測できる状況にはありません。その君主一人が、思い上がりと空想的な精神によって、戦争を再燃させ、ヨーロッパを長く乱しかねない、瀬戸際にいるのです。
皇帝は、オーストリア皇帝とプロイセン王とともに行ったハンガリー旅行から、一昨日の晩、戻りました。
皇帝が提案したこの旅行にも、陰謀の印がありました。ハンガリー国民に取り入り、ハンガリーに非常に多いギリシア教会の聖職者の長たちを、周囲に集めようとしたのです。カスルレー卿自身から聞いたところでは、ギリシア人は、すでにトルコとの戦争を煽り、セルビア人は再び武器を取り、ロシアの一部隊が国境へ向かっているそうです。そして、ロシア皇帝は、その方面で動揺を起こす計画にふけりながら、当地では、スイスの大臣たちに、その政務を終えるまでウィーンを離れないと、告げています。聞くところでは、彼らと協議するため、シュタイン男爵[310]を任命したそうです。
ハンガリーへ出発する前、皇帝は、ポーランド問題についてカスルレー卿への返答を準備し、この国の再建と組織についての覚書を起草するよう、命じました。
皇帝が固執するなら、ヨーロッパの出来事は、必ずこの問題を軸に展開することになり、おそらく、ロシアに不利に働くかもしれません。
返答は、アレクサンドル皇帝が修正し、承認し次第、カスルレー卿へ渡されるだろうと、考えられています。その内容は、ワルシャワ公国の中にポーランドを作り、ザクセンをプロイセンへ与えるという要求を、打ち立てるものと、見られています。
オルデンブルク大公女は一昨日、この二つの問題は、兄によって決定されたように思えると、言っていました。
ここでは原文が grande-duchesse(大公女)と呼んでおり、前の duchesse(公爵夫人)とは区別して訳した。
それを防ぐには、ロシアが行おうとする力の濫用に、ヨーロッパの世論を対抗させるほかなく、そのためにこそ、会議を招集し、できる限りの威厳を与えなければならないと、私たちは、しばしば繰り返してきました。ロシアが全面的な侵略者となるなら、フランスは全面的な保護者となるべきでしょう。
ド・メッテルニヒ氏の弱さと、ヨーロッパの政務におけるフランスのいかなる影響力にも反対する、カスルレー卿の偏見がなければ、それは実行されるでしょう。しかし、この状況は続いています。フランスを、なお恐れている間に、他のあらゆる危険には、目を閉ざしていると言えます。
ポーランドについて、ロシア皇帝を穏健な考えに戻そうとする、こうしたすべての動きの中で、ドイツの協議は、そこでバイエルンが取る行動によって、いくらか興味を引いています。
プロイセンの計画は、非常に緊密な連盟を作り、その指導をオーストリアと分かち合うことでした。バイエルンは、指導を交代制とするよう要求し、この提案を挫きました。プロイセンが、この連盟を支えとして、ザクセンに対する簒奪を固めようとしていると、感じていたのです。それに同意するつもりはないので、ザクセン占領を正式に知らされた時、自国の意向を明らかにし、その際、その結果には協力しないと、宣言するはずです。この独立した役割を支え得る態勢を整えるため、バイエルンは、大規模な新兵徴集を命じたばかりで、軍を七万人へ増強しています。
伯爵殿、お分かりのとおり、私たちは先の報告で、国王に、その尊厳と当面の必要にふさわしい姿勢を取るよう、お勧めしましたが、その際、フランスに対して武装する連合の力を相手に、危険に陥ることを恐れなくてすむよう、手を尽くしました。それどころか、ヨーロッパの自由が脅かされるなら、それを守るために集まる力の先頭に、国王が立たれるようにしたのです。
国王の政策を導く原則と方針を、高らかに宣言した『モニトゥール』の記事[311]は、当地で、きわめて強い反響を呼び、広く喝采を受けました。フランス軍は征服地の喪失に不満を抱き、政府を新たな戦争へ引きずり込むだろう、それゆえ武装を解いてはならない、と言い触らされていました。それに対して私たちは、その政府自身に、十分な力があり、世論も十分よく導いていたからこそ、フランスは自国の境界に満足していると宣言できたのだ、と指摘しました。幸福であるために必要な、力と繁栄のすべての要素を、自国内に見いだしているからです。
このようにして、なお私たちに向かって高まる、多くの憎しみと疑念を解き、信頼を取り戻すことになるでしょう。それこそ、ヨーロッパとの関係で、国王にふさわしい力と尊厳を与えるため、目指すべき主要な目的です。
敬具……
第十号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。
ウィーン、一八一四年十月三十一日。
伯爵殿、
本日付の手紙でお知らせした協議が、急使の出発前、今晩開かれました。その結果を、お伝えいたします。
三十日の協議の議事録を読み上げた後、別添の写しにある宣言を、採決のうえ可決しました。この宣言は、明日中に印刷されます。
昨日、タレーラン公が提出し、書簡中に第二号および第三号として掲げられた案が、承認されました。メッテルニヒ氏は、第四号および第五号の案を審議するよう提案しました。ネッセルローデ氏は、皇帝のご指示を仰ぐ時間がなかったため、この審議を明日に延期していただきたいと求め、それが認められました。
ハンガリーで両皇帝が会談し、意見の対立を招きそうな諸問題を論じた際、ロシア皇帝は、「私はまだ、最終的な返答をしていない」と述べました。
敬具……
第九号――タレーラン公から、国王ルイ十八世へ。
ウィーン、一八一四年十月三十一日。
陛下、
情勢は、表面上は依然として変わっていません。しかし、変化の兆しが、いくつか見え始めました。アレクサンドル皇帝の行動[316]と言葉によって、それらは、さらに強まるかもしれません。
皇帝は、ハンガリーへ出発した日の朝、メッテルニヒ氏と会談しました。その際、この大臣に対して、自分の臣下に対してさえ異様と思われるほど、高圧的で激しい言葉を浴びせたことは、確かなこととされています。伝えられるところでは[317]、メッテルニヒ氏がポーランドについて、一つのポーランドを作るというのであれば、自分たちにも、それはできると述べたところ、皇帝は、その発言を不適切で無礼だと評したばかりでなく、オーストリアで、このような反抗的な口調を取る者は、メッテルニヒ氏ただ一人だ、と言うまでに激昂したそうです。さらに、事態はそこまで進み、メッテルニヒ氏は、会議には自分以外の大臣を任命していただくよう、主君に願い出ると告げたともいいます。メッテルニヒ氏は、その会談から、親しい人々も、かつて見たことがないという状態で出てきました。つい数日前には、時間を盾にし、忍耐を武器としているのだと、シューレンブルク伯爵に語っていた彼も、あのような試練を何度も受ければ、その忍耐を失いかねません。
この一件が、彼をロシア皇帝への迎合に向かわせるはずはありませんが、私が会っているオーストリア軍人たちの意見も、大公たちの意見も、彼をザクセンの放棄へ向かわせるものではありません。オーストリア皇帝は、今では、いくらか抵抗する意向を持っていると考える根拠があります。
当地には、ジッキンゲンという伯爵がいます。この君主と親しく接することを許されている人物で、私も面識があります。皇帝がハンガリーへ出発した後、彼はヴレーデ元帥を訪ね、さらに私のところへ来て、皇帝に代わり、ご帰還までは、すべてを未決のままにしておくよう、私たちに求めました[318]。
両君主は、一昨日の正午、ブダへの旅行から戻りました。その旅行中、アレクサンドル皇帝がメッテルニヒ氏への不満を述べると、フランツ皇帝は、案件は大臣たちが処理するほうがよいと思う、そうすれば、より自由に、より一貫して処理できる、自分も、自国の案件を自ら処理してはいないが、大臣たちは、自分の命令によらなければ何もしない、と答えたそうです。そして、その後の会話の中で、とりわけ、次のように語ったと伝えられています。自分を一度も見捨てず、自分のためにあらゆることをし、すべてを与えてくれた自国の[319]諸国民が、今のように不安を抱いているときには、その不安を鎮めるのに役立つことは、すべて行うのが、自分の務めだ、と。これに対して、アレクサンドル皇帝が、自分の人格と誠実さがあれば、あらゆる不安を防ぎ、取り除くに足りるはずではないか、と尋ねると、フランツ皇帝は、よい国境こそ、平和を守る最良の番人だ、と答えたそうです。
同じ十月三十一日付の大使たちの書簡(v02-u001312)では、帰還は「一昨日の晩」とされる。本書簡では「一昨日の正午」とあり、それぞれの原文の記述を保持した。
この会話は、ジッキンゲン氏からも、メッテルニヒ氏からも、ほぼ同じ言葉で、私に伝えられました。強い態度を示すことに、あまり慣れていない皇帝は、自分自身に、大いに満足して帰ってきたようです。
ドイツの政治組織に関する委員会で行われていることを、私たちに知らせまいとして取られた、あらゆる用心は、役に立ちませんでした。
最初の会合で、プロイセンは、領土のすべてが連邦内に含まれる君主は、みな、戦争と講和を行う権利、および使節の派遣・接受の権利[320]を放棄するよう提案しました。ヴレーデ元帥が、この提案を退けると、フンボルト氏は、バイエルンが、まだ心の奥で、フランスとの同盟を大切にしていることは、よく分かった、それだけに自分たちには、なおさら主張を通す理由ができた、と叫びました。しかし、第二回の会合で、国王の指示を受けた元帥が、きっぱりと提案を拒否すると、その案は撤回され、連邦の全軍事力を、半分はオーストリアの指揮下に、半分はプロイセンの指揮下に置くという案に、差し替えられました。ヴレーデ元帥は、指揮を担う国の数を増やし、それらの国が交代で指揮を執るよう求めました。さらに、これから取り決められる領土の保有状態を、各国について守るため、連邦の全構成国の間に、きわめて緊密な同盟を結ぶという提案もありました。バイエルン王は、プロイセンが、この同盟によって、とりわけザクセン王国を存続させようとする列強の反対に抗して、ザクセンの領有を確実にしようとしていることを、よく理解しました。ザクセンが一度犠牲にされれば、自分自身も、あらゆる危険を恐れなければならないと、十分に感じており、自力だけに任せられさえしなければ、ザクセンを守る用意があります。そこで王は、国内で二万人の徴兵[321]を命じました。これによって、その軍は七万人になります。提案された同盟に加わるどころか、少なくとも今のところ、王は、プロイセンがザクセンを手に入れたら、ただちに自国の大臣を委員会から引き揚げさせ、そのような簒奪の共犯者になることも、まして、その保証人になることも望まないと、宣言させる意向です。
プロイセン側は、この国王の意向を知りません。しかし、王の軍備増強は知っており、ザクセンを守ろうとする列強に、兵力を合わせる用意があるのではないかと、おそらく疑っています。また、フランスの同意がなければ、ザクセンの獲得は、プロイセンにとって[322]、確固たるものにならないと感じています。さらに、プロイセン政府は、国王ほど盲目的にアレクサンドル皇帝に尽くしてはおらず、ロシアに対して不安がないわけではない、そして、条約によってプロイセンが持つことになっている臣民数を、他の場所で補えるなら、進んで[323]ザクセンを断念するだろう、ともいわれています。その政府の思惑や狙いが、どうであれ、プロイセンの大臣たちは、私たちに近づこうとしているようで、次から次へと、招待を寄せてきます。
ロシアに対する防壁として役立てるという口実で、エルベ川のこちら側のプロイセンを強化することを考えついたカスルレー卿は、今も、この計画に強く執着しています。数日前、私のところで話した際、彼は、私がザクセン問題を最重要の問題にしていると非難しました。彼にいわせれば、ザクセン問題など、何ほどのものでもなく、ポーランド問題こそ、すべてなのです。私は、彼がポーランド問題を、単なる国境の問題に縮めてしまっていなければ、私にとっても、それが、あらゆる問題の中で第一のものになる、と答えました。ポーランド全体を、完全に独立した状態に復興させたいのか。それならば、私は、彼とともに最前線に立ちます。しかし、問題が国境だけなのであれば、最も深い利害を持つオーストリアとプロイセンが、前に出るべきです。その場合、私の役割は、両国を支えることに限られますし、私はそうするつもりです。オーストリアとプロイセンを結びつけるという彼の計画については、彼にも答えられない議論を示し、また、過去六十年間のプロイセンの政策について、彼にも否定できない事実を挙げました。しかし彼は、プロイセン政府の過去の非を認めながらも、将来は、もっとよくなるという期待を、最後のよりどころとしました。
それでも、さまざまな人が彼に述べた反論の中には、彼の心を動かしたものがあることを、私は知っています。ドイツでも屈指の商業都市で、ヨーロッパでも有数の大市が開かれるライプツィヒを、イギリスが将来も常に平和を保てるとは限らないプロイセンの支配下に置くことに、どうして同意するのか、イギリスが決して争いを持つはずのない君主の手に、そのまま残しておけばよいではないか、と、彼は問われました。自分の計画が、イギリスの商業上の利益を、いくらかでも損ねるかもしれないことに、彼は、一種の驚きと恐れを覚えたのです。
彼は、会議の招集案を、一緒にまとめようと、私に持ちかけていました。私は、一案を渡しており、彼も、それに満足していました。
私はまた、大臣たちの最初の会合、全権委任状の審査、および会議の初会合で設けるべき委員会について、いくつかの案を起草しました。(これらの文書は、私の外務省宛ての報告書に添えてあります。ジョクール氏から、陛下にお目にかけるはずです。)ダールベルク氏と私は、カスルレー卿を訪問する番でしたので、一昨日の晩、一緒に、それらを持参しました。彼は、何も異議を述べませんでしたが、プロイセン側は、私たちを恐れているので、きっと何か裏の意図を疑うだろうと指摘しました。プロイセンのその恐れが、真実のものにせよ、装ったものにせよ、話は自然に、尽きることのないポーランドとザクセンの問題に移りました。彼の机の上には地図がありました。私はそれを使い、ザクセンがシュレージエンと同じ支配者の手に入れば、ボヘミアは数週間で奪われかねず、ボヘミアが奪われれば、オーストリア君主国の心臓部が、むき出しになり、無防備になることを示しました。彼は驚いたようでした。それまで彼は、オーストリアには何も期待できないため、プロイセンに望みをかけるようになったかのように、話していました。そこで私たちが、オーストリアに足りないのは、軍を集結させるための資金だけであり、それがあれば、最も威力のある軍事力を持つことになる、しかも今なら、百万ポンド・スターリングで足りる、と告げると、彼は驚いた様子を見せました。これには気を奮い立たせ、ポーランドの問題では、最後まで主張を貫く気になったようでした。彼は、ロシアの外務当局が、自分の覚書への回答を作成していることを知っており、それが満足のいくものになるとは、期待していない様子でした。セルビア人が、再び武器を取ったことも知っており、ロシアでも屈指の将軍が指揮する一軍団が、オスマン帝国の国境に近づいている、と私たちに教えました。それゆえ、ロシアの野心をせき止めることほど、必要で急を要するものは、彼にもないようでした。しかし彼は、それが戦争なしで成し遂げられることを望み、もし戦争が避けられないなら、フランスの援助なしで戦えることを望んでいます。彼の、私たちの国力の見積もり方からすれば、最も恐れているのは、フランスなのだと分かります。「あなたがたには、二千五百万人がいる。私たちは、それを、四千万人に相当すると見ています」と、彼は私たちにいいました。あるときには、思わず、「ああ、あなたがたに、ライン左岸への野心が、少しも残っていなければよいのだが」と口にしました。私は、フランスの置かれた状況と、全土が武装しているヨーロッパの状況とを示し、フランスに野心的な意図があると考えるには、フランスが正気を失っていると、考えなければならないことを、容易に証明できました。「それはそうでしょう」と彼は答えました。「しかし、どんな理由にせよ、フランス軍がドイツを通過すれば、あまりに強い衝撃を与え、あまりに多くの記憶を呼び覚ますことになります。」私は、戦争は必要にはならず、ただ、同じ意思で結ばれたヨーロッパ全体と、ロシアとを向かい合わせればよいのだ、と説きました。こうして、話は会議の開会に戻りました。しかし彼は、困難があると繰り返すばかりで、それが何なのかはいわず、メッテルニヒ氏に会うよう、私に勧めました。そのため私は、両者の間で、何かが取り決められているのだと考えました。私が異議を述べるはずはないと思っていたのなら、彼も、それを隠しはしなかったでしょう。なお、彼は、私たちが、すべてを遅らせたと非難しながら、もともと彼らの意見は一致していたので、私たちさえいなければ、今ではすべて片づいていただろう、と、無邪気にも認めました。この告白は、彼ら自身の考えでも、ヨーロッパの問題について、陛下が、どれほどの影響力を持つ立場にあるかを、示すものです。
全体として、カスルレー卿の姿勢は、よいとはいえないまでも、よくなる可能性から、以前ほど遠くはないように思われました。彼が待っている、アレクサンドル皇帝からの回答も、その改善に役立つかもしれません。
昨日の朝、メッテルニヒ氏から、その晩八時の協議に、私を招く短い手紙を受け取りました。
言葉ばかり多く、実のない、この協議の細部によって、陛下をお疲れさせるつもりはありません。その詳細は、なお[324]、外務省宛ての私の手紙に記してあります。結局、くじで選ばれた三人の委員からなる審査委員会が設けられ、全権委任状は、その委員たちに送って審査を受け、その審査後に、会議を招集することになりました。
今晩、新たな協議が開かれました。そこで、全権委任状の審査に関する宣言案が読み上げられ、決定されました。この宣言は、明日、公表されます。今晩、その写しを、外務省宛ての報告書[325]に添えて送ります。陛下は、資料に当たるものは、すべて、常にジョクール氏宛ての手紙に添え、外務省が、一続きの文書として受け取り、保管することを、お望みになると考えました。
この八か月間、フランスは、一つの目標を達成すると、ただちに、その前に別の目標が現れ、同じように切迫した必要に迫られて、それを達成しなければならない状況にあります。しかも、そこへ至る手段を、いくつもの中から選べることは、たいてい、ありません。圧制者が倒され、人々の心の奥で、長い間、至るところから、陛下を御領国へと呼び戻していた願いが、自由に表明できるようになるや、五十万の外国兵に覆われていたフランスで、陛下がご到着になる際には、武器が収められているよう、手を打たねばなりませんでした。そのためには、どのような代償を払っても、休戦によって敵対行為をやめさせるほか、なかったのです。次いで、王国の富を食い尽くしている軍隊を、ただちに退去させるため、ひたすら速やかな講和の締結を、目指さなければなりませんでした。陛下には、もはや、諸国民の愛情と、ご自身の英知の成果を享受していただくだけかに見えましたが、そこへ、ご忍耐と、ご努力を要する、新たな目標が現れました。できることなら、一部の列強の野心と激情、また、他の列強の盲目や臆病さによって脅かされているヨーロッパを、その危険から救う、という目標です。この事業が難しいからといって、私は、その成功を、まったく不可能だと考えたことは、一度もありません。陛下が、ありがたくも私に賜った十月二十一日付のお手紙は、その望みを、いっそう高めてくださいました。同時に、私の熱意に対して、お満足の意をお示しくださったことは、私に、新たな勇気を与えております。
謹んで……
第五号第三信――国王ルイ十八世から、タレーラン公へ。
パリ、一八一四年十一月四日。
親愛なる従兄よ、
第八号を受け取った。たいへん興味深く読んだが、同時に、強い憤りを覚えた。かつて、まことにもっともな理由から、ブオナパルテ[326]について非難された口調と原則は、今のロシア皇帝のそれと、少しも変わらない。私は、軍の意見と皇室の意見が、メッテルニヒ公を、より健全な考えへと立ち戻らせ、カスルレー卿も、これまで以上に、摂政皇太子の考えに沿うようになり、そうなれば、そなたも、私が与えた武器を、有利に用いることができるだろうと、期待したい。しかし、どうなるにせよ、今進んでいる方針を、しっかりと守り、今日、私が喜んで繰り返す、正当な賞賛に値する働きを、続けてもらいたい。そして、最も忌まわしい不道徳を、公に認めるような文書に、私の名[327]が署名されることは、決してないと、確信してほしい。
それでは、親愛なる従兄よ、神が、その聖なる尊い庇護のうちに、そなたをお守りくださるよう祈る。
ルイ。
第十一号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。
ウィーン、一八一四年十一月六日。
伯爵殿、
これまでに開かれた、最初の二回の協議の議事録の写しを、お送りいたします。
そこで言及され、審議された覚書は、フランス大使団が提出し、前便の報告書で、外務省へ送ったものです。
第三回の協議は、十一月一日に開かれました。その朝に到着したノアイユ伯爵も、出席しました。
重要な成果はありませんでした。これまでのところ、それを議事録に記すことさえ、ためらわれています。
メッテルニヒ公は、議長として、ひどく冗長で、たいへん脈絡のない演説をし、「各種委員会の設置を進める前に、合意に達しておかなければならず、各国は、自国に直接かかわる事柄を、他国との間で解決しておかなければならない」と述べました。
原文は comités et commissions と二語を並べる。ここでは、ともに委員会を指す語として訳し、制度上の上下関係は補わなかった。
さらに、彼は、私たちに、こういいました。
「あらゆる問題には二つの面がある。この会議は、会議ではない。その開会も、厳密には開会ではない。委員会も、委員会ではない。列強がウィーンに集まっていることについては、距離のなくなったヨーロッパという利点だけを、考えるべきである。各国の意見は、一致したままでいるか、あるいは一致しなくなるか、そのどちらかだ。」
メッテルニヒ氏は、この会合で、その凡庸さ、こまごまとした策謀や、不確かで曲がりくねった進め方を好む性向、そして、曖昧で意味のない言葉を、際限なく繰り出す才能が、いかほどのものかを示しました。
無数の例のうち、一つだけ挙げましょう。彼は、委員会を、「交渉の機会」と名づけるのです。このような発言の不適切さを指摘しても、無益だったでしょう。
重要な主要問題をめぐる交渉が、好転したとの知らせがありました。私たちは、その確認を待ちたいと思っており、案件の進行を妨げている困難を、さらに増すことのないよう、注意深く避けようとしていました。
この協議では、多数が、時間を稼ぎ、会議全体を招集することの可能性と、その形式については、別の機会に協議することで、一致しました。
その間にも、ポーランド問題、そして、それに伴うザクセン問題については、活発な折衝が進んでいます。
確かな話として伝えられるところでは、ロシア皇帝は、イギリスの大臣たちに回答しました。アンシュテット氏[328]の起草した覚書は、あまり満足のいくものではなく、かなり非協調的な姿勢で書かれているようです。
カスルレー卿は、昨日、それに返答しました。聞くところでは、イギリスの名において、また、ヨーロッパの安全のために、ロシアがヴィスワ川を越えてはならないと、強く主張しています。
メッテルニヒ公は、主君である皇帝が、この問題を国務会議の審議に付して以来、この主張を支持せざるをえなくなりました。その会議は、結論として、「ロシアがこれ以上領土を広げれば、オーストリアの軍事拠点の安全が脅かされる。また、ザーレ川[329]の隘路が、プロイセンの手に入ることを防ぐのは、ドイツにとって、さらに重要である」と決定したのです。
ノアイユ氏が持参した、国王の追加訓令によって、国王の全権委員たちは、真実かつ永続的な均衡を実現し、ロシアがワルシャワ大公国を、プロイセンがザクセンを手に入れるのを防ぐため、フランスが積極的な役割を担うことを、ほのめかせるようになりました。
電子底本の empocher は、印刷版第四二一頁では empêcher(防ぐ)とある。訳文は印刷本文の読みを採用した。
このことは、バイエルンの大臣にも知らせてあり、また、オーストリア皇帝に、直接お伝えする手段も得ていました。これによって、メッテルニヒ公は、ロシアとプロイセンの要求に対し、果たすべき抵抗を、いっそう強められるだろうと、私たちは考えています。すでに、大使団が最初から用いてきた、毅然として明確な言葉が、彼を、ヨーロッパのこれらの重大な利益を、より力強く擁護する方向へ押し出しました。この二国、すなわちロシアとプロイセンは、それぞれの計画を成功させるうえで、直面する困難を理解し始めていると、広くいわれています。イギリスの大臣たちも、これらの問題に影響力を及ぼしているので、これらの問題をめぐる状況は修正され、国王は、ヨーロッパと、その将来の平穏にとって、最も有害な計画の実行を阻止した栄誉を、得られるだろうと、私たちは期待しています。
確かに、カスルレー卿は、今も、ザクセンをプロイセンに得させる方向へ傾いています。しかし、プロイセンも、フランスの協力なしには、平穏に領有できないことを考え、別の組み合わせで折り合うほうを、選ぶかもしれません。
ハルデンベルク公は、友人の一人に、ザクセンの併合が、ドイツで、たいへん憎まれるものだと考えていることを認め、プロイセンも、ザクセンの中核部分を残すことには、同意するかもしれない、と述べました。
オーストリアは、ロシアの国境をヴィスワ川にとどめられるなら、その中核部分を、ザクセンの四分の三とすることを、望んでいるようです。そうなれば、ザクセンは、百五十万から百六十万の住民を保ち、ヴュルテンベルクやハノーファーよりも、大きいままでいられます。
この成果は、フランスの全権委員たちが会議に到着した当時、抱きえた希望を、はるかに超えるものです。事が、このようにまとまれば、国王は、ご自身の手段によって、まことに目覚ましい成功を収められたことになります。
ドイツの連邦制に関する取り決めは、依然、秘密に包まれたまま、協議されています。バイエルンは、そこでプロイセンに対抗し続け、同盟を結成するのに必要な分を超えて、主権を犠牲にすることを、拒んでいます。
領土の交換は、まだ協議できていません。すべてが、プロイセンの国境にかかっているからです。
いま、調整すべき政治的利害の大きなまとまりが、ほかに二つ残っており、それらに取りかかろうとしているようです。スイス連邦の問題と、イタリアの問題です。
メッテルニヒ公は、昨日、カスルレー卿とネッセルローデ伯爵が出席する協議に、タレーラン公を招くのがよいと考えました。そこで、この二つの問題が話し合われました。
これらの大臣たちは、ウィーンにいるスイスの代表たちと、スイス連邦の問題を調整するため、委員会が任命されたことを、タレーラン公に伝えました。タレーラン公は、この問題で、フランスがどのように協力すべきかを協議するため、ダールベルク氏を任命した、と述べました。
イタリアの問題については、ナポリのことになると、メッテルニヒ氏の当惑は、明らかでした。これは、人々の気持ちの動きと、イタリア人がオーストリアの支配を、あまり好んでいないことへの恐れ、そして、ミュラが、イタリアのジャコバン派、とりわけ、かつて自分が総督を務めた旧イタリア王国のジャコバン派に及ぼしている影響力への恐れによるものと、考えるべきでしょう。
この影響力を封じるため、タレーラン公は、イタリアのほかの関係が調整され、暫定統治が終わり、北部から始めて、地理的な順序に従って体制が整えられるまでは、ミュラの処遇には手をつけないことを提案しました。
メッテルニヒ公は、イタリアの問題では、エトルリア王国の権利を無視することはできないと認めましたが、教皇使節管区を一つか二つ、マリー=ルイーズ大公女と、その息子に与えることを望む、と述べました。他の大臣たちは、これらの使節管区が、トレンティーノ条約の結果、帰属の定まらない領地になったと考えており、パルマを失う代わりに、同等のものを与えて補償するのは、公正だと判断しました。
イタリアの問題で、フランスが実現しようとしているのは、カリニャーノ家のサルデーニャ王位継承、パルマ家の復位、ミュラの追放、という三つの点ですから、あまり多くの難題を持ち出さないようにしなければなりません。タレーラン公は、この問題について異議を取り上げませんでした。しかし、イタリアの問題は、おおむね、このような原則に従って調整されると、考えられます。
タレーラン公は、この問題を、さらに詳しく扱うために設けられる委員会に、ノアイユ氏を指名し、国王のご意向を伝えました。
スイスの問題については、カスルレー卿は、フランスの関与を排除したかったようです。しかし、ベルンの代表[330]は、自分の訓令では、フランスの関与が厳しく求められており、自分の政府も、ゾーロトゥルンやフリブールの政府も、フランスの介入なしに、スイスの利害を調整できるとは考えていない、と述べました。ロシアの大臣カポ・ディストリア氏[331]と、カニング氏[332]も、同じ意見を述べたようです。したがって、この点では、他の列強の不信と嫉妬は、克服されるでしょう。スイスの調整には、それほど多くの困難は生じないだろうと、私たちは考えています。
ベルン州は、アールガウ州のうち、以前、自州に属していた部分を取り戻したいと望んでいます。チューリヒ州は、昔からの嫉妬によって、自州も、その一部を得るのでなければ、同意しようとしません。ここでも、ドイツのザクセン問題に見られるように、正統な権利が、都合を優先する仕組みと争っています。列強は、ベルン州にバーゼル司教領を与える意向のようです。この件に関連して、国王の速やかなご決定を仰ぐべき問題が生じています。
ジュネーヴ州は、ヴォー州と直接つながるため、ジェクス地方[333]の、人口一万から一万二千人に当たる地域を得ようとしています。その代わりに、フランスには、バーゼル司教領から、その倍の人口に当たる地域が提供されることになり、ユナング、ヴズール、ブザンソンの間の国境は、軍事上、より有利になります。
フランスが失うのは、ジュネーヴ湖へ通じる地点だけであり、その湖で、航行と通商の自由を保つことは、条項で定められるでしょう。
この交換は、私たちには有利と思われますが、バーゼル司教領が、それによって大幅に減るため、アールガウ[334]の一部を、ベルン州へ返還することが必要になります。しかし、ベルン州は、フランスとブルボン家に対して、きわめて強い愛着と献身の念で結ばれていますから、この州に与えられる利益は、いわば、フランスに与えられるものです。
また、この交換が行われない場合、ロシア皇帝は、ジュネーヴ湖を巡ってヴァレー方面へ延びるサヴォワの一部によって、ジュネーヴ州を取り囲もうとしています。この点にも、ご留意ください。したがって、この交換は、その構想を退けることにも役立ちます。
伯爵殿、国王のご命令を、できるだけ早く、また、陛下がお望みになる、あらゆる修正を含めて、お伝えくださるようお願いいたします。陛下が、この交換にご同意になれば、それは、スイス連邦の利益となりうる、すべてのことに協力したいという、フランスの意思を示すことになります。そして、スイスの代表たち、ベルンの代表自身もいうところでは、フランスは、それによって、スイスでの優越的な影響力を取り戻すことになるでしょう。タレーラン公は、この交換には利点があると見ていますが、私たちには、ご許可が必要です。
敬具……
第十号――タレーラン公から、国王ルイ十八世へ。
ウィーン、一八一四年十一月六日。
陛下、
ノアイユ伯爵は、十一月二日、水曜日の朝、当地に到着し、陛下が、ありがたくも私にお送りくださった追加訓令を、持参しました。陛下のご決意は、いまでは、オーストリア政府にも、オーストリア皇帝ご自身にも、バイエルンにも、知られています。フランスの介入となると、すぐに不安を抱くカスルレー卿には、まだ話さないほうが有益だと考えました。また、ミュンスター伯爵には、まだ話すことができませんでした。伯爵は、ようやく医師たちの手を離れたばかりなのに、ビュッケブルクの現君主の妹、リッペ伯爵令嬢との結婚の準備をしているのです。
ノアイユの到着日は、本書簡では十一月二日とされる。同日付の大使たちの書簡(v02-u001369)は、十一月一日の協議に、その朝到着したノアイユが出席したと記す。それぞれの原文の記述を保持した。
ノアイユ伯爵は、到着したその日に、協議に出席できましたが、それは、成果のないまま終わりました。全権委任状の審査が終わったら、審議の準備のため、委員会を任命するのか、いくつ設けるのか、どのように、誰が任命するのかを、検討することになっていました。メッテルニヒ氏は、長々と演説し、委員会という名称は、適切でないと論じました。それは、権限の委任を前提とし、権限の委任は、審議・決議を行う議会を前提とするが、会議は、そのようなものにはなりえない、というのです。彼は、自分の好まない名称に代わる、さまざまな表現を提案しましたが、どれにも、自分自身が満足できず、次回の協議で、別の名称を探す必要がある、と結論しました。その次回の協議は、まだ開かれていません。全権委任状を審査する三人の大臣にも、ドイツの政治組織を準備する五人にも、ためらうことなく、委員会という名を与えた後なのですから、この名称へのこだわりは、確かに奇妙であり、あまりに遅すぎました。しかし、メッテルニヒ氏の意図が、時間を稼ぐ口実探し以外にあるなどと、もし私が思いかけていたとしても、彼自身によって、その思い違いは正されたでしょう。
協議の後、彼は、私を自分の執務室へ誘い、カスルレー卿も自分も、ロシアがヴィスワ川の線を越えることは、決して許さないと決めている、この問題で、プロイセンにも、自分たちと行動をともにさせようと働きかけており、成功を期待している、と述べました。そして、そのための時間を与え、急き立てないでほしいと、懇願しました。私は、どのような条件で、プロイセンの協力を得られると期待しているのか、知ろうとしました。彼の答えは、ザクセンの一部、すなわち、その国の人口四十万から五十万人に当たる地域、とりわけ、ベルリンの防衛に必要とみなしうる、ヴィッテンベルクの要塞と管区を、約束することによって、というものでした。そうすれば、ザクセン王国には、なお百五十万から百六十万人の住民、トルガウ、ケーニヒシュタイン、そして、ヴィッテンベルク管区からボヘミアまでの、エルベ川の流れが残ります。
皇帝自身が議長を務め、シュタディオン氏、シュヴァルツェンベルク公、メッテルニヒ公、さらに、ジチ伯爵とドゥカ将軍[335]が出席した国務会議で、次のことが、原則として定められたと知りました。ザクセン問題は、ポーランド問題そのものよりも、オーストリアにとって重要であり、テューリンゲンとザーレ川の隘路を、プロイセンの手に落とさないことに[336]、君主国の存亡がかかっている、というのです。(この問題については、本日付の外務省宛ての手紙に、さらに詳しく記しています。)
この事情によって、私は、この件についてメッテルニヒ氏が語ったことを、いつもより、少し余計に信頼する気になりました。現在の人口の五分の四、あるいは四分の三と、主要な要塞・軍事拠点を保ったまま、ザクセン王国を存続させることができれば、私たちは、正義のためにも、実益のためにも、また、陛下の栄光のためにも、多くを成し遂げたことになります。
ロシア皇帝は、カスルレー卿の覚書に回答しました。私は、その回答を見ることになっており、次の報告書では、噂話によるよりも確かな形で、陛下にお伝えできるでしょう。今、確かに知っているのは、皇帝が、自分の心にはない野心を、あると決めつけられ、不当な扱いを受けていると、訴えていることだけです。彼は、いわば、自分を圧迫されている者として描き、そこから、さほど話のつなぎもなく、自分の要求は、一つも取り下げないという宣言に至るのです。
この回答に激昂したカスルレー卿は、反論を書き、それを、スチュアート卿が、昨日、届けたはずです。兄が彼に、この役目を任せたのは、彼が戦争中から、アレクサンドル皇帝のもとへ自由に出入りでき、その後も、その関係を保っているからです。
ゲンツ氏は、オーストリア政府に伝えられた、この文書を、同政府のために翻訳しましたが、たいへん強力で、よくできていると、私に話しました。
スイスの問題も、動き始めます。私は、その問題を審議する協議に参加させるため、ダールベルク氏を選びました。この件について、これまでに起きたことを、ここで陛下に繰り返すことはいたしません。外務省宛ての報告書に記しております。
昨日の四時、私は、立ち寄るよう頼まれていたメッテルニヒ氏のところへ行きました。そこには、ネッセルローデ氏とカスルレー卿がいました。メッテルニヒ氏は、私と信頼し合いたい、フランスと意見を合わせたい、私たち抜きでは、何もしたくない[337]と、盛んに言い立てるところから、話を始めました。彼によれば、彼らの望みは、私が、一切の感情的なこだわりを脇へ置き、案件を進め、彼ら自身も認める困難から抜け出すのを、助けてくれることだ、というのでした。私は、彼らの私に対する立場は、私の彼らに対する立場とは、まったく違うと答えました。私が望み、行い、知っていることで、彼らが、私と同じように知り、理解していないことは、何もありません。ところが彼らは、私の知らない数多くのことを、すでに行い、また、日々、行っています。私が、その一部を知ることがあっても、町の噂を通じてなのです。アレクサンドル皇帝からカスルレー卿への回答があると知ったのも、そのようにしてでした。(ここで[338]、私は、彼を困らせたことに気づきました。そして、ネッセルローデ氏の前で、この件について、何かを漏らしたとは、思われたくないのだと分かりました。)私は、急いで、その回答に何が書かれているかは知らず、そもそも、本当に回答があるのかさえ知らない、と付け加えました。それから、彼らが訴える困難については、一つの原因、すなわち、会議を招集していないことにしか、帰せないと指摘しました。「いずれ、会議は招集しなければならないでしょう」と、私は彼らにいいました。「遅れれば遅れるほど、公の場に出す勇気のない意図を持っていると、自ら認めているように見えます。これほど引き延ばせば、やましいところがあると、思われるでしょう。時間がかかるかもしれない全権委任状の審査を待たず、国務庁へ委任状を提出した者は、みな、指定された場所に集まるべきだと、宣言するのを、なぜためらうのですか。そこで、諸委員会を告知し、各自が、そこへ要求を提出できると述べ、その日は散会すればよいのです。それから、委員会が作業を行えば、案件は、ある程度、整然と進みます。」カスルレー卿は、この進め方に賛成しました。彼にとっては、異議の出ている全権委任状に関する難問を、避けられる利点があったのです。しかし彼は、会議という言葉だけで、プロイセン側は怯え、とりわけハルデンベルク公は、ひどく恐れている、と指摘しました。メッテルニヒ氏は、前回の協議で、私たちに述べた議論の大部分を、繰り返しました。彼は、少なくとも、主要問題のすべてについて、意見が一致してから、会議を招集するほうがよいと考えていました。いま、互いに向き合っている問題が一つある、と彼はいいました。ポーランド問題を指していましたが、その名を出そうとはせず、すぐに、狭い意味でのドイツの問題へ話を移しました。「これを扱っている人々の間では、すべて、きわめてよく意見が一致しています。スイスの問題にも、取りかかります」といい、さらに、「フランスが参加せずに、それを調整すべきではありません」と付け加えました。私は、彼らが、それ以外の意図を持つはずはない[339]と思っていたので、この件に関する協議へ出席させるため、ダールベルク氏を選んである、と答えました。それから、話はイタリアの問題に移りました。メッテルニヒ氏が、その弱い政策に必要な曖昧さの中へ逃げ込むため、絶えず用いる「複雑」という言葉が、ジェノヴァとトリノの問題から、ナポリとシチリアの問題に至るまで、使われました。彼が結局、証明したかったのは、イタリアの平穏、したがってヨーロッパの平穏は、ナポリ問題を、この会議では解決せず、もっと先へ延期することにかかっている、ということでした。「事態の成り行きが、必ず、ブルボン家をナポリの王位へ戻すでしょう」と、彼はいいました。「その事態の力は、今こそ、十分に働いているように思います」と、私は答えました。「この問題は、会議で決着させるべきです。地理的な順序では、イタリアの問題のうち、これが最後になります。私は、地理的な順序に従うことには同意します。しかし、譲歩できるのは、そこまでです[340]。」するとメッテルニヒ氏は、ミュラがイタリアに持つ支持者たちについて語りました。「イタリアの体制を整えれば、支持者はいなくなります。不快な暫定状態を終わらせ、北部と中部イタリアで、領土の帰属を確定してください。アルプスからナポリの国境まで、一片の土地も軍事占領下に置かず、どこにも正統な君主と、正規の行政を置くのです。サルデーニャの王位継承を定め、ミラノ地方には、大公を送って統治させ、エトルリア王妃の権利を認め、あなたがたが占領している、教皇に属するものを、教皇へ返してください。そうすれば、ミュラ[341]は、人々の心をつかむ手掛かりを、まったく失い、イタリアにとっては、ただの盗賊になるでしょう。」イタリアの問題を、地理的な順序で扱うことは、適切とみなされたようで、次回の協議には、サン=マルサン氏[342]を招き、この計画に従って、彼とともに、サルデーニャの問題を調整することになりました。また、ジェノヴァ市の商業上の利益については、同市の代表、ブリニョーレ氏[343]の意見も、聞くことになっています。カスルレー卿は、ジェノヴァを自由港とすることを、強く主張しており、その際、マルセイユ港の自由港としての扱いについて、賛意と苦々しさを込めて語りました。
私たちの立場は、いくらか改善に向かっていると、考えられるかもしれません。しかし、メッテルニヒ氏の誠実さを、当てにできない理由が、あまりにも多いため、私は、どのような外見にも、信を置く勇気がありません。また、コンスタンティン大公が、明後日ウィーンを発ち、直接ワルシャワへ向かうという、思いがけない出発を、どう受け取ればよいのかも、分かりません。
アレクサンドル皇帝が、シュタイアーマルク[344]のグラーツへ、旅行することになっているという話があります。トリエステまで足を延ばすつもりだとも、いわれています。大公の一人が、オーストリア君主国の、この地方での接待役を務めるそうです。旅行は、二十日の予定とされています。
ウィーンの宮廷は、引き続き、高貴な客人たちを歓待していますが、今の財政状態では、その負担は、たいへん重いはずです。どこを見ても、皇帝、国王、皇后、王妃、世継ぎの君主家の子息、在位中の諸侯ばかりです。宮廷が、全員の費用をまかなっています。一日の支出は、紙幣で二十二万フローリンと見積もられています。このような集まりの中では、王位が、その固有の偉大さのいくらかを失うことは、確かです。普通の私人の家[345]で開かれる舞踏会や茶会に、三人、四人の国王や、さらに多くの王侯がいるというのは、私には、たいへん不適切に思われます。王位を、人々の目に、同時に尊く、慕わしいものとする、あの輝きと威厳を見るためには、フランスへ来なければならないでしょう。
謹んで……
第六号第三信――国王ルイ十八世から、タレーラン公へ。
パリ、一八一四年十一月九日。
親愛なる従兄よ、
第九号を受け取った。
会議が開会へ向かっていることには、いくらか満足している。しかし、なお多くの困難があると、私は見ている。
私は、ブラカ伯爵に、次のことを、そなたへ知らせるよう命じた。
一、ウェリントン公爵[346]と交わした会話について。公爵が、カスルレー卿よりも、はるかに明確な言葉を使っていることが、分かるだろう。どちらが、自国の宮廷の真の意向に従って語っているのか。私には分からない。しかし、いずれにせよ[347]、ウェリントン卿の言葉は、そなたの手の中で、よい武器になるだろう。
二、この大使が、本物であると断言している文書について。メッテルニヒ公がすることなら、何を聞いても驚かない。しかし、十月三十一日の時点で、そなたが、このような事実を、まだ知らなかった[348]とすれば、驚く。ともかく、これも、そなたに知らせておく必要があった。
私の弟が、日曜日、たいへん元気に、当地へ到着したと知れば、そなたも喜ぶだろう。それでは、親愛なる従兄よ、神が、その聖なる尊い庇護のうちに、そなたをお守りくださるよう祈る。
ルイ。
第II号――ブラカ・ドールプ伯爵から、タレーラン公へ。
パリ、一八一四年十一月九日。
公爵殿、国王のご命令を果たすため、陛下に代わり、重要な情報と、それに劣らず重要とお考えの指示を、取り急ぎ、お伝えいたします。
ロシア皇帝との再度のご会見、とりわけ、オーストリアとイギリスの迎合的な態度について、あなたがお抱きの懸念を知り、国王は、イギリスの真の意向を明らかにしうる情報を、あらゆるところから集めたいと、強く望まれました。摂政皇太子の言葉について、あなたに伝えられたこと、また、この件について、陛下ご自身が、ご存じだったことから、イギリス政府の意向を探るのは、たいへん必要なことと、お考えになったのです。
私が、つい先ほどウェリントン公爵と交わした会話は、その目的を果たしました。少なくとも、国王が、交渉の最も難しい諸点について、イギリスの協力を、これまで以上に強く求める機会を、与えました。ウェリントン卿は、カスルレー卿に与えられた訓令を、自分も知っているが、それは、アレクサンドル皇帝のポーランドに対する企てに、まったく反対するものだと、私に断言しました。ザクセンの運命は、ポーランドについての決定に、全面的にかかっているのですから、したがって、ザクセンに対する企てにも反対するものです。そのうえで、この大問題だけに集中し、二次的な利害を、すべて脇へ置けば、容易に合意できる、と述べました。彼によれば、オーストリアは、フランスが退ける計画に、手を貸すことはなく、プロイセン自身も、ザクセンは、やむをえない代案にすぎないので、ワルシャワ公国での旧領を回復できれば、きわめて満足するだろう、というのです。この点について、ウェリントン公爵が、これほど明確に語る[349]のを見て、私は、国王のご意向に従い、一つの提案を試みるべきだと考えました。それは、公式な性格を一切持たないものでしたが、ロンドンの宮廷が、公に認めようとする見解だけを、彼から、いっそう引き出せるかもしれませんでした。私は、次のように述べました。あなたの政府の意向が、お話のとおりであり、交渉を速やかに、よい結末へ導くうえでの唯一の障害が、性質の異なる反対を、一つの抵抗へまとめる難しさにあるのなら、フランス、イギリス、スペイン、オランダの間で、この問題について、共同で採用する見解を表明することだけを目的とする協定を結べば、他の宮廷の同意も、すぐに得られるのではないか、と。この手段は、威力ある意思の結集を示し、多くの国を、自国の利益に反する方向へ引きずっている魔力を、ただちに解くはずです。国王には、国際公法の原則と、ヨーロッパにおける適正な均衡を回復すること以外、何の野心もありません。したがって、同じ思いを持つ国々が、国王の政策に加わるよう招かれたなら、どのような動機も、それらを、この政策から遠ざけはしないだろうと、期待できるのです。
ウェリントン公爵は、この提案の利点を、全面的には否定できませんでしたが、不要なものとして退けました。しかし、その分、ポーランドとザクセンの問題、さらにはナポリの問題についても、自国政府の意図が正しいものであることを、いっそう強く言明しました。そして、これらの重大な利害だけに注意を集中すれば、全権委員たちは、ペテルブルクの宮廷が逸れている目標へと、まもなく到達できる、と繰り返しました。
公爵殿、このように、イギリスは、会議に派遣した交渉担当者が、どれほど口を濁していようとも、当地では、彼の携える訓令の性格を、公然と認めています。その訓令は、ウェリントン公爵がしたように、二つの問題を結びつける[350]、すなわち、ザクセン問題をポーランド問題[351]と結びつけることによって、国王に、最も重要な支援を与えるものです。このような状況ですから、陛下は、私がお伝えする情報を、あなたが、有効に利用できるとお考えです。したがって、あなたは、カスルレー卿の訓令を持ち出し、彼が回答せざるをえないようにすることを、許されています。いずれ、自分の行動が、自国政府の見解と、自国の利益にかなっていたことを、証明せざるをえなくなる以上、彼には、それを、否定的な回答にすることは難しいでしょう。
ポーランドの独立は、それが完全なものであれば、イギリスで、たいへん人気があります。しかし、ロシアが企てている形の独立は、まったく、そうではないでしょう[352]。したがって、公爵殿、イギリスの大臣と接する際には、この二つの場合を区別することが、たいへん重要だと、あなたもお考えになるでしょう。国王は、実現が可能であるならば、ポーランド国民の真の、完全な独立を、あなたが強く望めば望むほど、カスルレー卿が、ワルシャワ大公国をアレクサンドル皇帝に引き渡すことを、イギリスの人々に対して[353]正当化する手段を、奪えると、確信しておられます。
国王のご命令によって、ここに添える文書は、本物であるとして、私に伝えられたものです。それは、私たちを取り囲む、あらゆる暗礁の中で、この措置が、どれほど必要であったかを示しています。メッテルニヒ公のすることなら、何を聞いても驚きはしません。しかし、このような事実を、あなたが十月三十一日の時点で、知らなかったとすれば、やはり、たいへん不思議です。お送りする、この文書を、私が誰から得たかは、どうか、お話しにならないでください。
ヴェルネーグ騎士の働きに、ご満足とのことで、たいへんうれしく思います。私たちが仕える大義に対する、彼の、見識ある熱意と、大いに尊敬に値する人柄を、私は、ずっと以前から知っています。
私は、ダンドレ氏を、国王領の管理に就けました。まずは、生活の糧を与える必要があったのです。しかし、今後は、収入のさほど多くない領地の管理にとどまるよりも、はるかに有益な形で、国王に仕えられるだろうと考えています[356]。
公爵殿、変わることのない親愛と、深い敬意を、改めてお伝えいたします。
ブラカ・ドールプ。
追伸――この手紙の一部は、あなたの第九号が届く前に書かれていました。そのお手紙は、交渉担当者たちの意見が分かれている諸問題について、イギリスとの協調を確立する必要を、いっそう明らかにしています。
第十二号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。
ウィーン、一八一四年十一月十二日。
伯爵殿、
私たちに届く、個別の情報は、いずれも、ポーランドとザクセンの問題が、好転していないことを思わせます。なお、ロシア皇帝とプロイセン王の盲目的な頑迷さ、そして、オーストリアの有害な譲歩に、左右されているようです。
五日にベルリンを発った、ザクセン王の急使が、正式な抗議文を持参し、それは、私たちにも伝えられました。この宣言によれば、国王は、どのような交換にも同意せず、決して退位しません。国王は、この宣言が公表されることを望んでいます。私たちは、それが、きわめてよい効果しか生まないと考えており、おそらく、次の急使で、『モニトゥール』に掲載していただくため、お送りするでしょう。ザクセン王は、プロイセンの暫定行政が置かれて以来、自分に割り当てられていた、あらゆる給与の受け取りを拒み、そのことを、プロイセン政府に知らせました。
その間に、コンスタンティン大公は、ワルシャワへ出発しました。確かな話として伝えられるところでは、大公は、この新しいポーランドを組織するための訓令を携えています。新ポーランドは、それ自体では取るに足りない存在でありながら、近隣諸国には、紛争の源となるでしょう。オーストリアは、これに警戒を強めており、その政府は、ロシア皇帝に計画を思いとどまらせ、プロイセン王を皇帝から引き離すため、あらゆる手段を尽くそうとしているようです。しかし、成功の見通しが立たないため、およそ二万から二万五千の兵を、ガリツィアへ進めることにしました。この軍は、その国境に置いていた警戒線を、増強するはずです。しかし、オーストリアは、武力によって、ザクセンの侵略に抵抗するつもりは、ないようです。
メッテルニヒ公は、ロンドンへ急使を派遣しました。おそらく、その急使は、メーアフェルト伯爵への命令を携えているのでしょう。カスルレー卿が、ロシア皇帝宛ての覚書で示した意見を、強く支持することが、いかに重要かを、イギリス政府に説くよう、命じるものと思われます。カスルレー卿は、ワルシャワ大公国が独立を保つか、あるいは、ヴィスワ川を、ロシア、プロイセン、オーストリアの間の国境とすることを、望んでいます。三国は、今も、この原則をもとに交渉しています。しかし、アレクサンドル皇帝は、目的を達成するため、さらに一歩を進める決意であり、プロイセン王を引きずっています。自分がワルシャワ公国の組織に着手するのと並行して、ザクセンの組織を始めるよう、王に勧めたのです。
このような行動は、今のところ取り除きようのない、戦争の種を、ヨーロッパに残します。それは、長い動揺のもととなり、ドイツの問題を決着させることを、きわめて難しくします。
先日の内々の協議を受けて、イタリアに関する問題が、再び取り上げられました。
オーストリア政府は、ヨーロッパの、この地方に現れ、ミュラに庇護されているジャコバン派の動揺を、懸念しているだけに、これらの問題を決着させようと、なおさら強く考えています。この動揺は、ロシアとイギリス人たちによって支えられています。ウィリアム・ベンティンク卿[357]は、ボナパルトに対抗するのに役立つはずの革命思想を、これらの地方へまきましたが、それが、現在の秩序では、妨げとなっているのです。
ジェノヴァのピエモンテへの併合は、私たちの考えでは、条件を定めた服属協定によって、行われるでしょう。ジェノヴァ人たちは、憲法案を提出していましたが、その民主的な性格から、受け入れることはできませんでした。しかし、ジェノヴァ人たちは、この服属に、ことのほか強い抵抗を感じています。それだけに、条件を取り決めることが必要です。ベルギー人をオランダ人に、ザクセン人をプロイセン人に、イタリア人をオーストリア人に結びつけるに際して、至るところで増えている反感や不和の種を、できるだけ、あらゆる場所で取り除くのがよいからです。
パルマをスペイン王家に返還させ、大公女マリー=ルイーズには、教皇使節管区の一つを与えさせるという期待には、根拠があります。この交換が実現できれば、大公女の息子である公子が、子を残さずに亡くなった場合には、その管区を、聖座へ返すことを提案するでしょう。ミュラの処遇については、まだ話し合われていません。しかし、国王の大使団は、ミュラの退去が明記されない限り、どの取り決めも、完結したものとはみなしません。
スイスの問題には、まだ手がつけられていません。同盟諸国は、フランスに対して、より強固な防壁を設けるため、スイスの対外関係を、ドイツの軍事体制と結びつける計画を、持っていたと思われます。ロシアが、この問題を担当する委員として、シュタイン氏を任命したことから、何か裏の意図があると、推測されるかもしれません。しかし、そのような取り決めは、スイス人の利益に、あまりにも反しますから、問題となったときには、彼ら自身が退けることを、当てにしてよいでしょう。
伯爵殿、会議の作業についての、この短い説明から、成果は、あまり進んでいない一方、個々の策謀は、引き続き、かなり活発であることを、ご理解いただけるでしょう。列強の策謀には、二つの源があります。今も、革命フランスに対して感じている恐怖と、フランスを、その国境の内側へ押し込め、自国の力を用いて、歴史上のある時期に持っていた影響力を、取り戻せないようにしたいという、内に秘めた願いです。
国王が採用された方針は、前の政府の措置によって、フランス国民が失った、他国からの信頼を取り戻すでしょう。そして、その信頼とともに、フランスの介入は、恐れられるよりも、むしろ、求められるものとなるでしょう。
ノアイユ伯爵は、到着後、諸君主に拝謁し、その際、自分に向けられた言葉のうち、関心に値すると思われるものを、記録しました。それを収めた覚書を、お送りいたします。そこには、満足すべきことばかりが記されています。
敬具……
第十一号――タレーラン公から、国王ルイ十八世へ。
ウィーン、一八一四年十一月十二日。
陛下、
メッテルニヒ氏とカスルレー卿は、ポーランド問題で、プロイセン政府を説得し、自分たちと行動をともにすることに、同意させていました。しかし、プロイセンの協力にかけた望みは、長続きしませんでした。ロシア皇帝は、数日前、プロイセン王を、自分のもとでの食事に招き、会話を交わしました。その一部を、私は、アダム・チャルトリスキ公から知ることができました。皇帝は、二人を結ぶ友情、自分が、それを、どれほど大切にしているか、そして、それを永遠のものにするため、どれほどのことをしてきたかを、王に思い起こさせました。二人の年齢は、ほぼ同じなので、親密な結びつきによって、両国民にもたらされる幸福を、長く、ともに見守ることができると思うと、うれしい。自分は、いつも、ポーランド王国の復興に、自分の栄光をかけてきた。その願いが、実現しようとする今、その反対者の中に、最も親しい友人であり、その思いを頼みにしてきた唯一の君主を、数えなければならないという悲しみを、味わうことになるのか、と。王は、幾度も真心を言い表し、ポーランド問題で、皇帝を支えることを誓いました。「あなたが、その気であるだけでは、足りません」と、皇帝は続けました。「大臣たちも、それに従わなければなりません。」そして、ハルデンベルク氏を呼び寄せるよう、王に勧めました。彼が到着すると、皇帝は、その前で、自分が述べたことと、王から得た約束を、繰り返しました。ハルデンベルク氏は、反論しようとしましたが、アレクサンドル皇帝から、国王の命令に従うつもりはないのか、と迫られ、しかも、その命令が絶対的なものであったため、忠実に実行すると約束するほか、ありませんでした。この場面について、私が知りえたのは、以上のことだけです。しかし、ゲンツ氏が、私に確言したように、ハルデンベルク公が、あのような場面は、かつて見たことがないと語ったのが本当なら、私の知らない細部が、まだ、たくさんあったはずです。
プロイセンの、この変心は、メッテルニヒ氏とカスルレー卿を、大いに当惑させました。彼らは、ハルデンベルク氏に、辞任を申し出てほしかったのです。確かに、それは、皇帝と国王を困らせる[358]ことができたでしょう。しかし、彼には、その考えさえなかったようです。
私は、メッテルニヒ氏が、認めている以上の譲歩によって、プロイセンの協力を得たのではないかと疑っていましたので、むしろ、プロイセンの、この離反は、よいことだと考えるほうへ傾いていました。私の予感には、あまりにも十分な根拠があったことを、陛下も、お分かりになるでしょう。
二日前に出発したコンスタンティン大公は、ワルシャワ公国の軍を組織することになっています。また、この国の民政の組織を定めることも、任されています。訓令を起草したアンシュテット氏[359]によれば、その文面の調子は、アレクサンドル皇帝が、自分の要求を、どれも撤回しないことを示しています。皇帝は、プロイセン王にも、同じように、ザクセンの民政と軍事の組織を定めるよう、勧めたらしいのです。伝えられるところでは、「民政を組織することから、領有することまでは、遠くありません」と、王にいったそうです。カラマン氏[360]から届いた手紙には、財務大臣の兄弟と、数人の将軍が、ザクセンを組織するため、ベルリンを出発したとあります[361]。しかし、カラマン氏は、ザクセンの占領は、ベルリンでは、もはや[362]確定的なものとはいわれず、単なる暫定措置とされている、と付け加えています。
さらに、アレクサンドル皇帝は、自分の考えにオーストリアが反対していることについて話し、メッテルニヒ氏を厳しく非難した後、「オーストリアは、イタリアを確実に手に入れたつもりでいるが、あそこには、利用できるナポレオンがいる」と述べた、とも伝えられています。この言葉が本当か、私には確信がありません。しかし、噂は広まっており、もし本当なら、語った人物が、どのような人間かを、十分に示すでしょう。
カスルレー卿は、最後の覚書に対する回答を、まだ受け取っていません。皇帝は、回答することさえ、しないだろうと考える人もいます。
ポーランドとザクセンの問題が、このように未決のままである間に、先に陛下へ、ご報告した協議で、私が示した、イタリアの組織についての考えは、実を結びました。一昨日、カスルレー卿を訪ねると、彼の頭は、その考えでいっぱいでした。昨日、ラズモフスキ氏のところで、私たちと夕食をともにしたメッテルニヒ氏も、同じでした。彼は、本日、それを扱うため、カスルレー卿、ネッセルローデ氏、私を集めました。私が到着すると、彼は、今日は、そのことだけを話す、明後日か、明日か、あるいは一時間後には、ポーランドとザクセンについて話せるかもしれないが、今は、まだ話せない、と告げました。私は、無理には求めませんでした。協議は、ジェノヴァ地方だけをめぐって進みました。これをピエモンテに編入するのでなく、独自の特権と制度を保障する[363]服属協定によって、サルデーニャ王へ与えることが提案されました。カスルレー卿は、この件について、自分に送られてきた覚書や案を持参し、読み上げました。彼は、自由港、保税倉庫、そして、ピエモンテを通過する際の関税を、きわめて低くした通過貿易制度[364]を設けることを、強く主張しました。明日、再び集まり、サン=マルサン氏とブリニョーレ氏を、協議に招くことになりました。
協議の後、メッテルニヒ氏と二人きりになりました。私は、ポーランドとザクセンについて、彼が、どこまで進め、それぞれ、どうするつもりなのかを知りたいと思いました。しかし、そのことを質問しても、はぐらかされるでしょうから、彼自身のことだけを話しました。昔からの友人としての口調で、案件に取り組みながらも、自分自身のことも考えなければならないのに、彼には、それが足りないように思える、と述べました。必要に迫られて、せざるをえないことはあるが、その必要は、誰の目にも分かるようにしなければならない。どれほど純粋な動機から行動していても、その動機が、人々に知られていなければ[365]、結局、誹謗される。人々は、そのとき、結果によってしか判断できないからだ。あなたは、あらゆる非難の的になっている。たとえば、ザクセンを犠牲にしたと、責められている。私は、そうでないと、心から願っているが、なぜ、そのような噂の口実を残すのか。なぜ、友人たちに、あなたを擁護し、弁護する手段を与えないのか、と。私が、いくらか打ち解けた態度で話した結果、彼も、少し、心を開きました。彼は、ザクセン問題について、プロイセン側へ送った覚書を、読み聞かせてくれました。そこで、親しみを込めた礼の言葉[366]を、いくつか述べると、彼は、それを私に預けてくれました。私は、秘密を守ると約束しました。陛下に差し上げる、この手紙に、その写しを添えます。どうか、大切にお手元に置いていただき、私が戻りましたら、お返しを願い出ることを、お許しください。
この文書をご覧になれば、メッテルニヒ氏がプロイセンに約束したのは、私に断言したような、ザクセンの一部ではなく、その全土だったことが、お分かりになるでしょう。幸い、その約束には、条件が付されており、それが満たされないため、約束は無効となります[367]。また、この覚書では、メッテルニヒ氏が、ルクセンブルクを、プロイセンへ渡していることも、お分かりになるでしょう。彼は、これまで何度も、プロイセンには与えられないと、私に断言していたのです。この同じ覚書は、ドイツを、オーストリアとプロイセンの「影響力」と呼ばれるものの下へ置く、以前からの計画をも明らかにしています。それは、実際には、この二国による、絶対的かつ排他的な支配になるでしょう。
今、メッテルニヒ氏は、ザクセンを見捨てはしないと、強く言明しています。ポーランドについては、大幅に譲歩するつもりだと、私にほのめかしました。つまり、アレクサンドル皇帝が何も取り下げなければ、すべてを譲る、ということです。
私が、まだ彼と一緒にいたとき、オーストリア軍の現況表が届けられました。彼は、それを私に見せてくれました。現在の兵力は、三十七万四千人で、そのうち騎兵が五万二千人、そして、大砲が八百門です。これほどの軍を持ちながら、彼は、オーストリア君主国には、すべてに耐え、すべてを甘受するほか、よい道はないと考えているのです。陛下、この兵員数が、軍の実員であることに、ご留意ください。
今朝、これから協議へ参ります。陛下への、この手紙は、そこから戻るまで、封をせずにおきます。
協議から戻りました。ネッセルローデ氏、メッテルニヒ氏、カスルレー卿が出席していました。約束してあったサン=マルサン氏を、室内へ招き入れました。話し合われたのは、ジェノヴァ地方のピエモンテへの併合だけでした。ある種の委任状が与えられていたこと[368]から、いくつかの難点が生じました。それを出したのは、数か月前、ウィリアム・ベンティンク卿が作り上げた暫定政府です。ジェノヴァが、帰属の定まらない国であると認定すれば、これらの難点は取り除かれるでしょう。明日、八か国が集まって、その宣言をし、ジェノヴァの代表、ブリニョーレ氏に、宣言を記載した議事録の写しを渡すことになりました。そうなれば、残るのは、併合の方式を決めることだけです。私は、本日の協議を利用して、サルデーニャの王位継承について話しました。あらかじめ知らせてあったサン=マルサン氏は、カリニャーノ家の権利にかなう訓令を、自国の宮廷から受け取っていました。私は、その権利を認める文案を提案しました。サン=マルサン氏は、それを採用し、支持しましたので、承認されると考える、十分な理由があります。
スイスの問題に関する協議も、まもなく始まるでしょう。
謹んで……
第七号第三信――国王ルイ十八世から、タレーラン公へ。
パリ、一八一四年十一月十五日。
親愛なる従兄よ、
第十号を受け取った。そなたが予告している、その後の重要な詳細を、待ち望んでいる。
ザクセンについて、そなたが示してくれた希望に、私は、強くすがりたい。メッテルニヒ公が、自分自身の考えからでなく、国務会議の意見に基づいて話している以上、ある程度の信頼をもって、その希望に身を委ねてもよいと思う。もちろん、王国が、そのまま全体として残るほうが、はるかに望ましい。しかし、不幸な国王は、三分の二か四分の三でも救われるなら、なお、幸運と考えなければなるまい。
提案された交換については、私は、一般に、自分のものを譲ることを好まない。それ以上に、他人から奪うことには抵抗を覚える。結局、バーゼルの司教侯の権利も、ヨーロッパの平穏にとっての重要性は、確かに小さいだろうが、ザクセン王の権利と同じく、神聖なものなのだ。しかし、この司教侯からの剝奪が避けられないのであれば、サルデーニャ王に、その領土の一部を残し、ベルン州にも、大いに役立つという、二つの点を考慮して、私は、この交換に同意する。この件のための特別の許可書[369]を、そなたへ送る。
それでは、親愛なる従兄よ、神が、その聖なる尊い庇護のうちに、そなたをお守りくださるよう祈る。
ルイ。
第十三号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。
ウィーン、一八一四年十一月十七日。
伯爵殿、
前便の報告書を発送してから、一度、協議が開かれました。そこで、ジェノヴァをピエモンテへ併合する秘密条項に従い、その運命が定められました。
この併合を行う条件を定めるため、委員会が任命されました。その構成国には、オーストリア、フランス、イギリスが指定されました。ヴェッセンベルク氏、ノアイユ伯爵、クランカーティ卿によって、構成されることになります。
カスルレー卿は、ウィリアム・ベンティンク卿がジェノヴァで取った行動によって、いくらか困惑しています。ベンティンク卿は、ジェノヴァの人々に、完全な独立への期待を抱かせていました。カスルレー卿は、この提督が、権限を越えたのだと、弱々しく弁明し、ジェノヴァ人に課す犠牲は、あらゆる融和の手段によって、和らげなければならない、といいました。そして、ジェノヴァの代表に、自分の故郷であるアイルランドが享受している、あらゆる利益を、ジェノヴァにも得させる、と請け合いました。アイルランドは、グレートブリテンとの連合によって、庶民院と貴族院へ代表を送る権利を享受しています。しかし、ピエモンテには議会がありませんから、ジェノヴァ人に、その特権を与えることはできません。カスルレー卿は、その権利に代わる何を、ジェノヴァ国へ与えるつもりなのか、私たちは、興味をもって見ています。この事実も、ほかの多くの事実も、この高貴な卿が、大陸の諸関係を研究することよりも、新たな大陸封鎖体制によって、祖国がさらされる危険のほうに、強く心を奪われていることを、日々、私たちに示しています。
原文はウィリアム・ベンティンクを cet amiral(この提督)と呼ぶ。電子底本だけでなく、印刷版第四五一頁にも同じ表記があるため、本文のまま保持した。
この協議で、スペインの全権委員ラブラドール氏は、ジェノヴァ人自身に、その体制を定める権利を残すべきであり、パリ条約に署名していないサルデーニャ王には、秘密条項も、何の権利も与えない、と主張しました。この大臣は、おそらく、エトルリア王妃のもとへ帰属したいという、ジェノヴァ人の表明した希望が、実現できるかどうかを、試そうとしたのでしょう。
パリ条約の規定を変えたくないという考えから、多数は、ジェノヴァのピエモンテへの併合を行うべきだと決定しました。また、この共和国がフランスへ服属した行為と、パリ条約による、その割譲があるため、国際法の原則には反しないと判断しました。私たちも、この意見に加わりました。
伯爵殿、この協議の議事録の写しを受け取り次第、お送りいたします。
それまでの間に、さらに興味深い文書を、お送りいたします。私たちが、それによって生じた困惑や、四国の大臣たちが、それを偽作、あるいはザクセン総督レプニン公[370]の、非難されるべき軽率さによって公表されたものだと、断じたがっている様子を、目にしていなければ、この文書は、同盟の原則を、厳しく告発するものとなるでしょう。
この文書には、特に注意を払う必要があります。それは、私たちが到着して以来、ロシアとプロイセンの秘密の工作、メッテルニヒ公の弱さ、カスルレー卿の行動の拙さを、私たちから隠そうと、あらゆる努力が払われていたにもかかわらず、私たちが、最初から、四国の大臣たちの誤った組み合わせと、不規則な進め方を見抜いていたことを、証明しています。フランスの介入がなければ、その進め方は、政治的均衡の体制について合意する可能性そのものを、失わせるところでした。この体制は、計算に不十分なところがあるかもしれませんが、それでも、革命前のヨーロッパを統べていた、一般原則の保護のもとに置かれるでしょう。
レプニン公の、この回状が、ドイツの新聞に掲載されたことは、シュタイン氏に、多くの面倒をもたらしました。彼は、ドイツで新たな体制を作り出すという自分の構想から、ザクセンのプロイセンへの併合を、擁護する立場になっていたのです。
イギリスとオーストリアの大臣たちは、自分たちが同意したと述べたことについて、彼を責めています。彼らは、同意を与えていないと主張していますが、実際には、たいへん弱い条件を付けていたにすぎません。したがって、いくつかの新聞には、反論が掲載されるでしょう。しかし、この不名誉な文書は、当地でめぐらされた策謀を暴くものですから、広く知られるのがよいのです。
ザクセンの大臣は、まだ、国王の抗議文を公表するのは適切でないと考えており、その存在を知らせるだけに、とどめることになります。
回状の写しを、お送りいたします。伯爵殿、外務省に別添として送る、そのままの形で、『モニトゥール』に掲載してくださるよう、お願いいたします。プロイセンによるザクセンの占領は、オーストリア政府にとっては、確かに、きわめて重大な過失であり、カスルレー卿にとっては、あらゆる原則を忘れた行為です。しかし、まだ、問題が、それで決着したわけではありません。世論が、この措置に強く抗していることを、私たちは、満足をもって見ています。
バイエルンは、ザクセンの王家と国民を滅ぼすことには、決して同意せず、このような要素をもって、ドイツの同盟を組織することはできない、と宣言しました。そして、オーストリアが全力を展開し、もっと率直で明確な方針を採るのであれば、という条件で、同国への申し出を、改めて行いました。
ヴュルテンベルクも、この同じ方向へ近づいているようです。
オーストリアの世論は、この措置を最終的に実行することに、全面的に反対しています。メッテルニヒ氏は、君主国の最も重要な利益を、おろそかにしていると、公然と責められています。
タレーラン公は、ロシア皇帝と三度目の会話を交わしました。その内容は、国王への個別の報告書に記しています。公は、この事態に際して、国王が取る用意のある方策について、皇帝に、何の疑いも残さないようにしました。皇帝自身も、最初の会見のときより、態度が穏やかで、断定的ではありませんでした。
プロイセンもまた、これほどの困難を伴って行う併合が、自国にとって、厄介事と危険の源になることを、認めないわけにはいきません。そこで、プロイセンの大臣たちは、交渉しようとしています。ザクセン王に、同等の代償か、ザクセンの人口の半分を含む領土の一部を、残そうとしているように見えます。しかし、この点について、彼らが同意したことは、何もありません。それどころか、ザクセン公を一人、残せば十分だ、とさえ述べました。
タレーラン公は、ロシア皇帝に、ザクセンには、百六十万人の住民を残す必要があると論証しました。ザクセンの人口は、二百万を少し超えています。そのエルベ川左岸の領土は、すべて保持すべきであり、右岸の領土は、人口が、それより少なく、五十万から六十万人を超えません。百六十万人より、いくらか少ない数で、受け入れることも、できるかもしれません。また、イギリスもオーストリアも、ポーランドで、整った国境線を求めることを、まだ断念していませんから、すべては、なお未決のままです。国王の大使団の毅然とした態度がなければ、完全に放棄されていたであろう、この交渉の最終結果を、いま、告げることはできません。
どのような場合でも、フランスにとって、ポーランドの一部がロシアのために犠牲になることは、ザクセンが滅ぼされることより、重大さが小さいでしょう。オーストリアの大臣の中にも、どちらかの点で譲らなければならないなら、プロイセンがザクセンを自国へ併合する利益を得ないという条件で、オーストリアもまた、ポーランドの国境について、より柔軟になるべきだと、考える者がいます。
これらの、さまざまな関係が組み合わさって働くことと、イギリスが、真の原則に、もっとかなった進め方をすることによって、この大義を救えるだろうと、私たちは期待しています。
イタリアからの知らせは、ナポリ王の策謀と軍備について伝えています。当地では、それに対してメッテルニヒ公が抱く恐れを、私たちは目にしています。しかし、確かな話として伝えられるところでは、ロシアの宮廷は、ミュラのもとに置いていた将校を呼び戻し、パレルモのロシア公使へ送った信任状には、両シチリア王のもとへ派遣される旨が、記されているそうです。
当地には、ミュラの副官フィランジェリ[371]という人物が書いた、革命的で威嚇的な性格の小冊子が、出回っています。警察は、それを買い取らせました。メッテルニヒ公は、このような不安を利用して、ミュラをナポリの王位に残すことについて、世論を迷わせています。しかし、オーストリア皇帝の大臣たちの中でさえ、この主張を支えているのは、彼一人です。この主張には、ヨーロッパが、正しい裁きを下すでしょう。
ロシア皇帝は、デンマーク王と結んだ条約の批准書に署名し、昨日、その交換が行われました。ロシア軍は、ホルシュタインから撤退することになっています。
スイスの問題については、まだ、何も決まっていません。ドイツ連邦の問題も、あまり進んでいません。メッテルニヒ氏とハルデンベルク氏は、皇帝へ提出するため、全体の計画を、ネッセルローデ伯爵に伝えました。十一月十一日付の回答で、ネッセルローデ氏は、オーストリアとプロイセンの政府に、ロシアは、連邦協約の基礎となる原則に賛意を表している、と知らせています。
この案を、私たちに内密に伝えられ、ドイツ委員会の審議に用いられている形のまま、お送りいたします。そこには、多くの変更が加えられています。とりわけ、管区への分割、戦争と講和を行う権利などです……。ネッセルローデ氏の覚書も、入手できることを期待しており、それもまた、外務省へお送りいたします。
敬具……
第十二号――タレーラン公から、国王ルイ十八世へ。
ウィーン、一八一四年十一月十七日。
陛下、
アレクサンドル皇帝が、プロイセンを自分の側へ引き戻す前、皇帝の信頼する人々[372]が、フランスへ目を向け、フランスと協調し、私に会うよう勧めたところ、皇帝は、喜んで会おう、今後、私が謁見を願う際には、ネッセルローデ伯爵ではなく、第一副官のヴォルコンスキ公を通すように、と答えたそうです。この知らせを伝えてくれた人に、私は、次のように話しました。皇帝への謁見を私から求めれば、オーストリア側とイギリス側も、知らずにはいないだろう。彼らは疑念を抱き、あらゆる憶測を重ねるはずだ。しかも、副官という、通常とは異なる経路で求めれば、皇帝と私の関係に、策謀めいた外観を与えることになり、それは、どちらにも、ふさわしくない、と。数日後、皇帝が、なぜ私が来ないのかと尋ねた際、私の理由が伝えられました。皇帝は、それをもっともだと認め、「それなら、こちらから先に、彼に仕掛けよう」と付け加えたそうです。大きな集まりで、皇帝と同席する機会は多かったのですが、私は、できるだけ、その通り道や[373]近くに立たず、礼儀に反しない範囲で、なるべく避けることにしていました。土曜日、皇帝も出席していたジチ伯爵の家でも、そうしました。私は、ほとんどの時間を、遊戯室で過ごし、一同が食卓に着く隙に、退出しようとしました。すでに控えの間の戸口まで来たとき、肩に手が置かれたのを感じ、振り返ると、それは、アレクサンドル皇帝の手でした。皇帝は、なぜ会いに来ないのか、いつ会えるのか、月曜日は何をするのか、と尋ね、その日の朝十一時、自分のところへ来るように、平服で来て、以前のように、平服で気兼ねなく付き合う習慣を取り戻そう、といいました。そういいながら、皇帝は、私の両腕[374]を取り、たいへん親しげに、握りしめたのです。
frac は、ここでは宮廷での正式な礼装と対比される服装として「平服」と訳した。
私は、何かを隠していると思われず、疑念を抱かれないよう、メッテルニヒ氏とカスルレー卿に、この出来事を、きちんと知らせておきました。
指定された時刻に、皇帝のもとへ参りました。「お会いできて、うれしい」と、皇帝はいいました。「あなたも、私に会いたかったのでしょう。」私は、同じ場所にいながら、もっと頻繁にお目にかかれないことを、いつも残念に思っていると、申し上げていました、と答えました。その後、会話が始まりました。
「案件は、どこまで進んでいますか。今、あなたは、どのような立場ですか。」
――「陛下、私の立場は、いつもと同じです。陛下が、完全な独立国として、ポーランドを復興させるおつもりなら、私たちは、陛下をお支えする用意があります。」
――「パリでも、私は、ポーランドの復興を望んでいましたし、あなたも賛成していました。一人の人間として、また、決して捨てるつもりのない、自由な思想に、常に忠実な者として、今も、それを望んでいます。しかし、私の立場では、人間としての願いを、君主の行動の基準にすることはできません。いつか、ポーランドを復興できる日が来るかもしれません。今は、それを考えるべきではありません。」
――「ワルシャワ公国の分割だけが問題なのであれば、それは、私たちよりも、はるかに、オーストリアとプロイセンの問題です。この点について、両国が満足すれば、私たちも満足します。両国が満足しない間は、私たちには、両国を支援するよう命令があり、それを行うのが務めです。オーストリアは、容易に防げたはずの困難を、生じさせてしまったのですから。」
――「どういうことですか。」
――「陛下と同盟を結んだ際、かつて自国に属していた、ワルシャワ公国の一部を、自軍に占領させる[375]ことを、求めればよかったのです。陛下は、きっと拒まれなかったでしょう。そして、オーストリアが、その地方を占領していれば、そこを奪おうとは、お考えにならなかったはずです。」
――「オーストリアと私は、意見が一致しています。」
――「世間では、そうは思われていません。」
――「主要な点では、一致しているのです。残っている議論は、いくつかの村についてだけです。」
――「この問題では、フランスは第二列にいます。しかし、ザクセン問題では、第一列に立っています。」
――「確かに、ザクセン問題は、ブルボン家にとって、一族の問題でしょう。」
――「まったく違います、陛下。ザクセンの問題で、かかわっているのは、ある個人や、特定の家族の利益ではありません。すべての国王の利益であり、陛下ご自身の、第一の利益です。なぜなら、陛下の第一の利益は、すでに獲得され、その輝きが、帝国にも及んでいる、ご自身の栄光を、大切に守ることにあるからです。その栄光は、国の財産となっていますから、陛下は、ご自身のためばかりでなく、自国のためにも、それを守らねばなりません。公の秩序と、すべての者の安全の基礎となる原則を保護し、尊重させることによって、その栄光を、確かなものにされるでしょう。陛下、私は、フランスの大臣としてではなく、心から陛下を慕う一人の人間として、申し上げています。」
――「あなたは、原則を語りますが、約束を守ることも、原則の一つです。そして、私は、約束したのです。」
――「約束にも、さまざまな重みがあります。陛下が、ニーメン川を渡る際、ヨーロッパに対してなさった約束は、ほかの、どの約束にも優先するはずです。陛下、付け加えることを、お許しください。ヨーロッパの問題への、ロシアの介入は、一般に、嫉妬と不安の目で見られています。それが許されてきたのは、ただ、陛下ご自身の、お人柄によるのです。したがって、そのお人柄への信望を、少しも損なわずに保つ必要があります。」
――「それは、私だけにかかわる問題であり、判断するのは、私一人です。」
――「お許しください、陛下。歴史に名を残す人物[376]にとっては、全世界が、その裁判官です。」
――「ザクセン王は、最も同情に値しない人物です。彼は、約束を破りました。」
――「彼は、陛下とは、何も約束していません。約束した相手は、オーストリアだけです。したがって、恨む権利があるとすれば、オーストリアだけでしょう。しかし、それどころか、ザクセンに対して企てられている計画は、オーストリア皇帝に、きわめて深い苦痛を与えていると、私は知っています。陛下は、きっと、このことをご存じないのでしょう。そうでなければ、陛下と、ご家族が、二か月にわたって、皇帝とともに、そのお宅で過ごされながら、そのような苦痛を与える決意をなさることは、決してできなかったはずです。この同じ計画は、ウィーンの人々をも、悲しませ、不安にさせています。私は、毎日、その証拠を得ています。」
――「しかし、オーストリアは、ザクセンを見捨てています。」
――「昨晩、会ったメッテルニヒ氏は、いま陛下から、ありがたくも伺ったこととは、まったく逆の意向を示していました。」
――「あなた自身も、ザクセンの一部を手放すことには、同意しているそうではありませんか。」
――「そうするとしても、きわめて大きな遺憾の念をもって、そうするのです。しかし、プロイセンの人口を、一八〇六年当時の、わずか九百二十万人に等しくするため、ザクセン人を三十万から四十万人、譲る必要があるのなら、平和のために、その犠牲を払います。」
――「まさに、それこそ、ザクセン人が最も恐れていることです。彼らは、プロイセン王に属することを、むしろ望んでいます。願っているのは、分けられないことだけです。」
――「私たちには、ザクセンで何が起きているかを知る手段があります[377]。ザクセン人が、プロイセン人になるという考え[378]に、絶望していることを、知っています。」
――「いいえ、彼らが恐れているのは、分割されることだけです。実際、それは、国民にとって、最も不幸なことです。」
――「陛下、その理屈を、ポーランドに当てはめたら、どうでしょう。」
――「ポーランドの分割は、私がしたことではありません。その災いが、まだ償われていないのも、私の力だけで、どうにかなることではないのです。すでにいいましたが、いつか、償われるかもしれません。」
――「上下ラウジッツの一部を割譲することは、厳密には、ザクセンを解体することにはなりません。両地方は、ザクセンに編入されていたわけではなく、つい最近まで、ボヘミア王冠に属する封土でした。ザクセンとの共通点は、同じ君主に領有されていることだけだったのです[379]。」
――「教えてください。フランスで、軍備を整えているというのは、本当ですか。」
(この質問をする際、皇帝は、顔が、ほとんど私の顔に触れるほど、近づきました。)
――「はい、陛下。」
――「国王には、どれほどの兵がいますか。」
――「在隊しているのが十三万人、帰郷させているものの、いつでも呼び戻せるのが三十万人です。」
――「今は、何人を呼び戻しているのですか。」
――「平時編制の定員を満たすために、必要な人数です。私たちは、軍をなくす必要と、軍を持つ必要を、順に感じてきました。軍がボナパルトの軍だったとき[380]には、それをなくす必要があり、次には、国王の軍を持つ必要があったのです。そのために、解散と再編成、まず武装解除をし、次いで再び武装させることが必要でした。今、仕上げているのは、それです。現在の軍備の理由は、そういうことです。誰も脅かしてはいません。しかし、ヨーロッパ全体が武装している以上、フランスも、相応の割合で、武装する必要があると思われたのです。」
――「よろしい。この一連の問題が、フランスとロシアの接近につながることを、私は望んでいます。この点について、国王は、どのようにお考えですか。」
――「国王は、陛下から受けたご尽力を、決してお忘れにならず、いつでも、その恩を認める用意がおありです。しかし、大国の君主として、また、ヨーロッパで、最も強大で、最も古い王家の一つの長としての務めを、お持ちです。ザクセン家を見捨てることは、できません。必要であれば、私たちが抗議することを、お望みです。スペイン、バイエルン、そのほかの国々も、私たちと同じように、抗議するでしょう。」
――「では、取引をしましょう。ザクセン問題で、私に好意的にしてくれれば、ナポリ問題で、あなたがたに好意的にします。そちらについては、私は、何も約束していません。」
――「陛下も、そのような取引ができないことは、よくご存じです。二つの問題は、同じではありません。ナポリについて、陛下が、私たちと同じことを、お望みにならないはずはないのです。」
――「それなら、私を約束から解放するよう、プロイセン側を説得してください。」
――「私は、プロイセンの人々とは、ほとんど会っていません[381]。きっと、説得できないでしょう。しかし、陛下には、そのための、あらゆる手段があります。国王のお心を、全面的に動かすことができますし、ほかにも、プロイセンを満足させる方法があります。」
――「どのようにですか。」
――「ポーランドで、もう少し領土を残しておけばよいのです。」
――「ずいぶん妙な方法を、提案するものですね。私から取り上げて、彼らに与えろというのですか!」
ロシア皇后が、皇帝の部屋へ入ってこられ、会話は中断しました。皇后は、ありがたくも、私に親切な言葉をかけてくださいました。ほんのしばらくで退出されると、皇帝は、「では、話をまとめましょう」と、再び口を開きました。私は、妥協できる点と、できない点を、手短に繰り返し、最後に、百六十万人の住民を持つザクセン王国を存続させることは、主張し続けねばならない、と述べました。「そうですか。決まったことに、ずいぶん、こだわるのですね」と、皇帝はいいました。しかし、その言葉には、変更できない決意を示すような口調は、ありませんでした。
皇帝が、私を呼んだ目的は、次のことを知るためでした。
一、フランスで進めていると聞いた軍備が、どのようなもので、何を目指しているのか。私は、皇帝に、自分が脅かされているとは思わせず、それでも[382]、安心させすぎることもないように、答えられたと思います。
二、陛下が、いつか皇帝と同盟するお気持ちがおありかどうか。皇帝が、征服への執着を捨てない限り、秩序の保全を旨とされる陛下が、どのように、彼と同盟できるのか、私には分かりません。もっとも、皇帝が、その執着を捨てるとは、まったく考えられません。ありうるのは、例外的な事態に際し、一時的な目的のために、という場合だけでしょう。しかし、皇帝が、それを望んでいるなら、その希望を奪うのは適切でなく、私は、それを避けなければなりませんでした。
三、ザクセンに関する、私たちの決意が、正確には、どのようなものか。この点では、私は、ほとんど疑いを残しませんでした。そのため皇帝は、ネッセルローデ伯爵に、「フランス側は、ザクセン問題で、決意が固い。しかし、プロイセンと話をつければよい。彼らは、私から取り上げて、プロイセンへ与えたがっているが、それには同意しない」と、語ったそうです。私は、伯爵から、それを聞きました。
この会話を、これほど詳しく記したのは、前回、皇帝に拝謁してから、その口調が、どれほど変わったかを、陛下に、よりよくご判断いただくためにほかなりません。会話の間、皇帝は、苛立ちや不機嫌を、一度も示しませんでした。終始、落ち着いて、穏やかでした。
皇帝は、プロイセンの利益を重んじ、国王への友情に縛られているというよりも、むしろ、王にした約束に、困っているのだと、確信しています。騎士道的な性格を装い、言葉を守ることに、どれほど忠実に見せようとしていても、心の底では、約束から抜け出せる、体面のよい口実が得られれば、大喜びするのではないかと、私は考えたくなります。
とりわけ、シュヴァルツェンベルク公と交わした会話から、私は、そう判断しています。この会話が、私に会いたいという皇帝の気持ちに、少なからず影響したと思います。皇帝は、両者の案件が、どこまで進み[383]、合意できるだろうかと尋ね、オーストリアの大臣としてではなく、友人として、意見を述べるよう、公に迫りました。しばらく答えを控えた後[384]、シュヴァルツェンベルク公は、はっきりと述べました。皇帝のオーストリアへの態度は、率直とはいえず、誠実ともいえない。その要求は、オーストリア君主国を、真の危険へ追い込み、戦争を避けられない状況にしようとしている。もし、今、戦争をしないとしても、それは、最近の同盟への配慮[385]からか、あるいは、何も見通せず、盲目的な信頼によって、成り行きに身を委ねた軽率な者として、ヨーロッパに姿をさらしたくないからであり、一年半か二年のうちには、必ず、戦争になる、と。すると皇帝は、思わず、「私が、これほど踏み込んでいなければよかったのだが」と、口にしました。しかし、続けて、「どうすれば、約束から抜け出せるでしょうか。ここまで来た以上、私が退くことは不可能だと、あなたにも、分かるでしょう」と、いいました。
シュヴァルツェンベルク氏が、遅かれ早かれ戦争は避けられないと述べる一方で、オーストリアがガリツィアへ進めた軍団は、戦争が近いかもしれないことを、示しているようでした。ウィーンの政府は、無気力から抜け出そうとしているように見えました。メッテルニヒ氏は、ヴレーデ公に同盟の話をし、バイエルンが、今すぐ、オーストリア軍に二万五千人を合流させる意向はないかと、尋ねました。これに対してヴレーデ公は、次の条件のもとでなら、バイエルンは、七万五千人まで提供する用意がある、と答えました。
一、同盟は、フランスを交えて結ぶこと。
二、オーストリアが出動させる十万人ごとに、バイエルンは、二万五千人を提供し、それ以上は出さないこと。
三、イギリスが、オーストリアに補助金を与えるなら、バイエルンも、それぞれの兵力の割合に応じた分を、受け取ること。
結局、これらは、まだ、単なる示威にすぎないだろうと、私は考えています。それでも、イギリス[386]が、それを行う決意をしたこと自体、すでに大きなことです。そして、当然、アレクサンドル皇帝に、私たちから、何を恐れ、何を期待できるのか、知りたいと思わせたはずです。
皇帝は、自分の見解に反対する者の一人と話すとき、ほかの者たちとは、意見が一致していると断言する習慣があります。私は、そのことを知っており、皇帝との会話の結果を、歪めて伝えられたくありませんでした。そこで、ジッキンゲン氏が訪ねてきたのを利用し、彼を通じて、オーストリア皇帝へ、内容を知らせました。皇帝は、メッテルニヒ氏に伝えましたが、同氏の話から、ジッキンゲン氏が、忠実に仲介してくれたことが分かりました。この内密の打ち明け話は、たいへんよい効果を生みました。私たちが、当地へ来た初めのころに、広く向けられていた不信の念は、日ごとに弱まり、それとは逆の気持ちが、増しています。
アレクサンドル皇帝のもとから戻ると、家には、ザクセンの大臣が来ていました。次のものを伝えるためでした。
一、ザクセン王の抗議文。国王が、会議へ提出するよう命じて、送ってきたものです。ただし、その前に、メッテルニヒ氏へ相談し[387]なければならず、その助言に従うよう命じられていました。
二、ロシア側のザクセン総督だった、レプニン公の回状。この文書の写しは、『モニトゥール』に掲載していただくため、外務省宛ての報告書に添えています。これが、国王の抗議のきっかけとなったものです。抗議文は、正式に会議へ提出された後でなければ、印刷できません。私が、その写しを得るのも、その後です[388]。
この回状で、レプニン公は、ザクセン当局に、次のことを告げています。すでに九月二十七日に結ばれた協定に従い、アレクサンドル皇帝は、オーストリアとイギリスの同意を得て、ザクセンの行政を、プロイセン王の代理人たちへ引き渡すよう命じた。今後、王は、この国を、自国の一地方としてではなく、別個の王国として保有することになり、その一体性を保つと約束している、と。この回状は、メッテルニヒ氏とカスルレー卿を、極度に困惑させ、両者から、きわめて激しい不満を引き起こしました。
確かに、両者の同意は、最も不当な形で悪用されました。意味を歪められ、純粋に条件付きだったものを、無条件の同意であるかのように示されたのですから、その不満には、理由があります。しかし、両者が、何らかの同意を与え、今では、それを与えたことを、深く悔やんでいるのも、同じく事実です。
陛下は、すでに、メッテルニヒ氏の覚書を、お持ちです。
本日は、カスルレー卿の覚書を、お送りいたします。私が、それを得たのは、わずか二日前です。厳重に秘密を守るという約束をして、初めて、手に入りました。したがって、陛下ご自身へ、直接、お送りします。カスルレー卿は、この覚書を、プロイセン側から返してもらおうと努めている、と聞きました。
この覚書は、この六週間、私が陛下にお伝えしてきたことを、すべて裏づけています。そればかりか、そこに疑いようのない証拠が示されていなければ、私にも信じられなかったであろう事柄まで、明らかにしています。
メッテルニヒ氏の覚書は、いかに奇妙なものであっても、カスルレー卿のものと比べれば、両者の相違は、すべて、前者のほうに有利に働きます。
メッテルニヒ氏は、プロイセンに、ザクセンへの企てを断念すべきだと、説得しようとしています。自分が、同意を与えることに抵抗を覚える、道徳上、政治上の理由を述べ、同意を与えるに際しても、ある種の必要に迫られて、そうするのだと認めています。
これに対して、カスルレー卿は、ザクセン王家への、強くはあっても、何の役にも立たない同情を、いくらか表した後、ザクセンをプロイセンへ引き渡すことに、道徳上も政治上も、何の抵抗も感じないと、宣言しています[389]。
メッテルニヒ氏が同意するのは、プロイセンが、ほかの方法では補償できない損失を被った場合に、限られています。
これに対して、カスルレー卿が同意するのは、メッテルニヒ氏が補償しようとしているものを、プロイセンが、そのまま保つ場合に、限られています。彼が望んでいるのは、ザクセンが、プロイセンにとって、失ったものの代償ではなく、国力の増大となることなのです。
このように、両者とも、ザクセン問題をポーランド問題に従属させていますが、その意味は、まったく逆です。これほど結束しているとされ、フランスが自分たちを分裂させたがっていると、あれほど大声で叫んでいた同盟者たちが、互いには、どれほど意見が合っていないかを、よく示しています。
ただし、レプニン公の回状を否認させることでは、一致しました。私は、プロイセン側自身が、それを否認することになると思います。
ともかく、健全な政治の原則と、最も初歩的な知識を、軽蔑しているとまではいわなくても、忘れている点において、このカスルレー卿の覚書以上に、極端な例を考えることは、難しいと思われます。
彼は、昨日、私のところへ、夕食をともにしたいといって来て、今日、話し合うことを提案しました。私は、何かの打ち明け話か、重要な提案を予期していましたが、彼は、自分の困難を話しに来ただけでした。プロイセンにかけた期待が裏切られ、それによって、自分の構想が土台から崩れたのを見て、一種の落胆に陥っていたのです。案件に弾みをつけ、進める方法について、相談に来たのでした。私は、次のように述べました。アレクサンドル皇帝は、ポーランド問題では、オーストリアと意見が一致しており、調整するのは、いくつかの細部だけだと主張している。もし、そうなら、最善なのは、オーストリアに、その取り決めを速やかに仕上げるよう促すことだと思う。あなたがたは、ポーランドとザクセンの問題を、一方に他方を従属させる[390]形で扱おうとしたが、それは、うまくいかなかった。したがって、二つを切り離し、まず、ポーランド問題を決着させるべきだ。オーストリアは、そちらで安心し、二つの問題に力を分ける必要がなくなれば、ザクセン問題に、全力を向けるだろう。オーストリアの軍人たちは、みな、二つのうち、ザクセン問題のほうが、はるかに重要だと考えている。ロシアは、自国に直接かかわる問題で満足すれば、もう一方では、おそらく、ほとんど妨げとならない。そして、プロイセンだけが、オーストリア、イギリス、フランス、スペインに向き合うことになれば、問題は、容易に、しかも速やかに解決するだろう、と。
レプニン公の回状は、バイエルンが待っていた合図となりました。バイエルンは、ザクセン王国の存続が、あらかじめ保障されない限り、どのような取り決めにも同意せず、どのようなドイツの同盟にも参加しない、と宣言しました。ヴレーデ公は、このことを、ハルデンベルク公にはっきり告げました。ハルデンベルク公は、自分の一存では、何も引き受けられず、国王に報告するといいながらも、ザクセン王には、百万の臣民を残して、存続させることができるだろうと、ほのめかしました。
このように、すべては、なお未決のままです。しかし、ザクセンの大部分を救う可能性は、高まりました。
ここまで書いたところで、陛下から賜った十一月九日付のお手紙と、陛下が、ありがたくもブラカ伯爵に命じて、私へ書かせてくださったお手紙を、受け取りました。
お送りするカスルレー卿の覚書から、陛下も、お察しになるでしょう。この大臣は、ウェリントン公爵の知らない訓令を持っているか、あるいは、与えられた訓令には、拘束されないと考えているのです。そして、ザクセン問題をポーランド問題にかからせたのも、ウェリントン公爵が考えていたのとは、まさに逆の意味においてなのです。
ナポリに関しては、メッテルニヒ氏、カスルレー卿、ネッセルローデ氏、私だけが出席した協議の一つで、メッテルニヒ氏が、この問題の合意は、会議が終わってからにしようと提案したことと、それに対する私の返答を、陛下にご報告してあります。(詳細は、私の書簡の第十号にあります。)ブラカ氏が、抜粋を送ってくれた手紙に含まれる脅しは、つい最近までウィーンにいた、ミュラの副官フィランジェリという人物が発表した小冊子にも、あるそうです。(この小冊子は、警察によって回収されました。)しかし、私が提案したように、アルプスからナポリの国境まで、イタリアの体制が、ひとたび整えられれば、これらの脅しは、ほとんど恐れるに足りなくなると、期待しています。
今晩八時に指定されていた協議から戻るまで、手紙に封をせず、待っていました。協議では、前回の議事録を読み、署名しただけでした。
ロシア皇帝は、寝床を離れられないほど、体調を崩していますが、軽い不調にすぎません。
謹んで……
第八号第三信――国王ルイ十八世から、タレーラン公へ。
パリ、一八一四年十一月二十二日。
親愛なる従兄よ、
第十一号を受け取った。自分の気持ちを満たすだけの論評は、控えることにしていなければ、いくらでも、述べたいことがある。
アレクシ・ド・ノアイユ伯爵が、会談した君主たちから聞いた言葉は、うれしかった。とりわけ、バイエルン王の言葉は、心に響いた。しかし、オーストリアとイギリスが支えなければ、これらの意向が、何の役に立つだろうか[391]。そなたが、メッテルニヒ公に、きわめて巧みに語りかけたにもかかわらず、また、十月二十二日付の覚書に掲げられた条件が満たされても、ポーランドもザクセンも、見捨てられるのではないかと、私は強く恐れている。その不幸の中でも、私の不運な従兄には、逆境にあって揺るがなかったことが、そして私には、これらの不正な剝奪に、どのような同意によっても加担しなかったことが、残る。私は、その決意を、これまで以上に固めている。
イタリアについて、アレクサンドル皇帝が語ったとされる言葉は、私も、本当だと思う。そうであれば、オーストリアとイギリスが、次の格言を、よく心に刻むことが、何より重要である。ありふれた言葉といわれるかもしれないが、意味深く、とりわけ、今の事態に、まさに当てはまるものだ。「原因を取り除けば、結果も消える」(Sublata causa, tollitur effectus)。
イタリアの問題の進み方には、より満足している。ジェノヴァの併合と、サヴォイア家の男系継承[392]は、重要な二点である。しかし、何より重要なのは、ミュラが自分の新聞で、どれほど大言を吐こうとも、ナポリ王国が、正統な君主のもとへ戻ることだ。もっとも、ミュラの大言には、実際、あまりにも十分な根拠があるのかもしれない。
それでは、親愛なる従兄よ、神が、その聖なる尊い庇護のうちに、そなたをお守りくださるよう祈る。
ルイ。
第十四号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。
ウィーン、一八一四年十一月二十三日。
伯爵殿、
前回の会合の議事録の写しを、お送りいたします。その後、文面を整え、署名するために集まりましたが、どの案件も審議していません。その際、ラブラドール氏は、エトルリア王妃の権利を、改めて指摘し、イタリアの調整を進めるに当たって、この問題を扱うよう求めました。メッテルニヒ公は、この件を論じる用意があり、ラブラドール氏から覚書が届くのを、待っていると答えました。スペイン大使は、近いうちに、それを提出することになっています。
メッテルニヒ氏の言葉に、少しでも信頼が置けるなら、大公女マリー=ルイーズには、五十万から六十万フランの収入をもたらすルッカ国を得させれば、十分に身分にふさわしい処遇となり、そうすれば、教皇使節管区を教皇に、パルマをエトルリア王妃に返還できると、彼は考えているのだろうと思えます。しかし、彼が、その意見を述べている間にも、大公女マリー=ルイーズは、父である皇帝の勧めに従い、馬車と印章の紋章を変えさせ、ボナパルトの帝室紋章を消して、パルマの紋章に差し替えさせている、と私たちは聞いています。
イタリアに関する交渉を担当するノアイユ氏は、タレーラン公から、次の指示を受けています。決定される取り決めは、暫定的なものとしてしか認めず、それら全体が、満足のいく一つの体制をなしたとき、初めて、正式な保障によって承認されるものとすること。この用心は、メッテルニヒ公が、日ごとに、ますます熱心に、頑なに、ミュラを擁護しているだけに、いっそう必要でした。公は、ミュラを挑発して、革命戦争へ追い込む危険を、口実にしています。自ら、ミュラをイタリアのジャコバン派の首領と呼びながら、まず、その影響力を誇張し、この動揺がもたらす危険を封じるには、その主要な首領を取り除くだけでよい、ということを認めようとしません。実際には、ミュラ夫人への自分の愛情を、損ないたくないのであり、この一家を王位に残せば、イタリアで企てている、あらゆることのために、思いどおりに使えると考えているのです。したがって、ジェノヴァのピエモンテへの併合を定める条項に署名する際、ノアイユ氏は、この留保を付す必要があります。なお、カリニャーノ家の王位継承は、すでに明記され、もはや異論はありません。
このような状況のもと、ポーランドとザクセンに関する大問題が、すべての案件の進行を妨げています。この八日間に、その解決が、大きく前進したとは思いません。レプニン公の回状を受けて、カスルレー卿とウィーンの政府は、プロイセン政府へ、かなり強い調子の覚書を送りました。そこでは、ザクセンの併合を認めたのは、条件付きでしかなかったと述べています。これは、プロイセン軍によるザクセンの暫定占領に際して、先に渡した覚書が、すでに明示していたことです。もし、プロイセンが、三国の利益のために定めるポーランドの国境の調整に協力しないなら、ザクセンについて行った譲歩は、なかったものとみなすべきだ、というのです。
カスルレー卿とメッテルニヒ公は、さらに先へ進まざるをえなくなりました。ロシア皇帝とプロイセン王が、これらの申し入れに応じないなら、より穏当な態度を、強制する準備が必要になる、と考えるに至ったのです。
実際、確かな話として伝えられるところでは、オーストリアとバイエルンの軍首脳の間で、軍事的な措置が取り決められ、作戦計画まで討議されたそうです。そこでは、フランスの協力が必要と判断されています。しかし、メッテルニヒ公もカスルレー卿も、これまでのところ、会議にいる国王の全権委員たちに、自分から話すことも、人を介して話させることも、適切とは考えていません。
これらの軍事措置が、単なる示威ではないと確信できるなら、驚くべきことです。しかし、それは、メッテルニヒ公が、しばしば、自分の政策を支えるために用いてきた、最近の措置と同じ種類のものなのでしょう。事情に通じていると思われる人々の中には、カスルレー卿とメッテルニヒ公は、この件について、まだ何の計画も決めておらず、このような措置を検討せざるをえなくなることを、恐れているのだと、主張する者さえいます。
しかし、カスルレー卿は、ロシアとプロイセンの野心と策謀をせき止める必要を感じたためか、あるいは、イギリスとドイツ全体の世論によって、進め方や構想を変えたためか、ロシアが要求を和らげなければ、戦争を仕掛ける決意のようです。彼は、そのことを、何人かに話し、イギリスが補助金を出すと告げました。この大臣も、メッテルニヒ公自身も、フランスの政策に、根拠のない不信を抱き、フランスの協力によって、ベルギーとライン左岸の状況が危うくなるのではないかという恐れを、なお持っているため、最後の最後にならなければ、フランスの援助は求めないでしょう。それどころか、避けられそうなら、避けるだろうと、私たちは考えています。伯爵殿、この件で、私たちから彼らを促すことはありませんので、その点は、ご安心ください。
もっとも、これらの列強は、経験によって、フランスの介入を排除できず、ヨーロッパの問題を調整するうえで、その介入は、有害というより有益であることを、すでに学んでいます。
私たちが当地へ到着したときには、フランスを、あらゆる審議から遠ざけたいという、内心の願いが、明らかでした。今、フランスは、イタリアとスイスについての交渉に参加しています。ドイツの領土区分にも、有益な形で関与するでしょう。そして、ポーランドに関する取り決めも、フランスが協力して、初めてまとまるとしても、私たちは驚きません。それを妨げ、私たちの邪魔をするため、フランスの敵たちは、ここ数日、フランスの内情について、きわめて荒唐無稽な噂を広めています。私たちを驚かせるのは、その噂が、パリにいるイギリスとオーストリアの公使館の外交書簡にも、繰り返されていることです。巧みに擁護されている、そうした主張の一つとして、国王には、自国の軍を動かす力がない、というものを挙げておきます。これには、デュポン伯爵[393]の手紙を示すことで、反論できました。その手紙は、軍の状態について、たいへん満足すべき、明確な形で語っており、反駁の余地を、少しも残していません。他の主張も、時が、その策謀を明らかにすれば、忘れ去られるでしょう。
ドイツの問題も、他のすべての問題と同様、ロシア皇帝の決定によって生じる遅延に、苦しめられています。そして皇帝は、ここでも、ほかの場所と同じく、自分の主要な狙いを助けるために、介入しようとしています。
前便、十六日付の報告書でお送りした、十二条からなる連邦案は、その主要な規定が変更されたことを、すでにお伝えしました。プロイセンとオーストリアの政府は、最初から、この案をロシア政府に伝えていましたが、回答はありませんでした。しかし、ロシア政府は、まず相手の気を引き、また、ザクセンの併合に、これほど強く反対しているドイツの世論を、迷わせるため、ドイツの問題に介入しうることを、改めて示すのが有益だと考えました。そして、ネッセルローデ伯爵が回答を出しましたので、その写しを、ここに添えます。ポーランドの問題によって、大同盟が破れるなら、この覚書も、なかったものとみなされることは、明らかです。
原文は前便の報告書を十六日付とする。先行する第十三号補の見出しは十一月十七日付(v02-u001492)であるが、日付を統一せず、各記述を保持した。
全体として、会議にいる同盟諸国の真の困難が、自ら抱いていた幻想に由来することは、見逃せません。彼らは、すでに決定済みだと、私たちに告げた原則に基づいて、ヨーロッパの問題を調整できると信じていましたが、その原則は、実際には、決定されていないのです。
敬具……
第十五号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。
ウィーン、一八一四年十一月二十四日。
伯爵殿、
昨日付の報告書の発送に合わせ、この国の外務当局の幹部の一人が、ダールベルク公爵へ送った手紙を、追加して、お伝えいたします。その手紙は、当地で強い反響を呼んだ、『ガゼット・ド・フランス』の記事を、指摘しています。手紙の筆者がいうように、ザクセン王を迫害し、その領土を奪う者たち[394]へ、世論を好意的に向けようとしたのででもなければ、なぜ新聞検閲が、この記事を通したのか、理解できません。
この君主の運命が、これほど重大な局面に置かれ、このような問題について、最も難しい討議が行われている中で、なぜ、新聞を指導する者たちに、政府が、世論を、どのような方向、どのような精神で導くべきだと考えているかを、知らせておかなかったのでしょうか。それは、国王とフランスの栄光のためにも、その真の利益のためにも、必要なことです。
『ガゼット・ド・フランス』第三一五号、十一月十一日付に掲載された、この記事の出所と筆者を、知ることが重要です。同じく重要なのは、『モニトゥール』が、公式の文章としてではなく、権利と実益の観点から、同じ問題を論じる、筋道の通った記事を載せることです。二十三日付の報告書に添えた覚書は、ラインハルト氏[395]が、それを起草する材料となるでしょう。
私たちは、その覚書を、ひそかに出回らせ、いくらか印象を与えたことを、確認しました。『モニトゥール』への掲載文が、この覚書そのものには見えないよう、書き換える必要があります。しかし、そこに含まれる原則と論証は、使えます。
同時に、『ガゼット・ユニヴェルセル』の記事も、お送りいたします。これは、オーストリアの官庁から出たものらしく、レプニン公の、あの有名な回状への回答になっています。
この記事を、『モニトゥール』に掲載し、読者の注意に値し、最良の原則を含むものとして、喜んで紹介する、と付け加えるのがよいでしょう。フランスに向けられた、ちょっとした当てこすりは、省いてもよいと考えます。
わが国の新聞は、外国に対して、他国の新聞とは比べものにならないほど、強い影響力を持っています。フランスの新聞が、政府の監督と統制のもとに置かれ続けていることが、知られているからです。
伯爵殿、お願いした調査の結果を、お知らせくださるよう、お願いいたします。
ザクセン問題の重要さは、ご理解いただいていると思います。そこで私たちが擁護すべき原則は、革命の進行をせき止め、国際法の原則を、再び確かなものとするために、用いなければならないものと同じです。それがなければ、ヨーロッパの社会全体の構造は、揺らいだままとなるでしょう。
敬具……
第十三号――タレーラン公から、国王ルイ十八世へ。
ウィーン、一八一四年十一月二十四日[396]。
陛下、
私たちが当地で、「原則」という言葉を口にし、会議の即時招集を求めるや、次のような噂が、急いで四方へ広められました。フランスは、ライン左岸とベルギーへの未練を捨てておらず、それらを取り戻すまで、休まない。陛下の政府も、国民と軍の、この願いを共有しているかもしれず、あるいは[397]、共有していなくても、抵抗するだけの力はない。どちらの場合でも、危険は同じだから、フランスには、いくら用心してもしすぎることはない。フランスが越えられない防壁を設け、そのために、ヨーロッパの取り決めを調整し、それを妨げようと、あらゆる手を尽くすに違いないフランスの交渉担当者に、十分警戒しなければならない、と。私たちは、突然、偏見の的となり、この二か月、その偏見と闘わねばなりませんでした。最も苦痛だったものには、打ち勝つことができました。私たちに二重の訓令が与えられたとは、もはや、いわれていません。これは、メッテルニヒ氏がヴレーデ公に、確言していたことです。ある方向で語り、別の方向で行動するよう命じられたとか、不和の種をまくために派遣されたとかも、いわれなくなりました。世論は、陛下を、公正に評価しています。陛下に、裏の意図があるとは、もはや思っていません。私心のなさに喝采し、原則を守る立場を取られたことを称えています。ほかのどの国の役割も、陛下ほど名誉あるものではないと、認めています。しかし、フランスが、いつまでも不信と恐怖の対象であることを望む者たちは、一つの口実で、それを引き起こせなくなると、別の口実を使います。フランスの国内情勢を、不穏なものとして描くのです。不幸にも、その根拠にしているのは、名声や評判、地位によって、重みを持つ人々からの、パリの知らせです。カスルレー卿と、きわめて頻繁に書簡を交わしているウェリントン公爵は、陰謀、隠れた不満、そして、今にも起きようとする嵐の、かすかな前兆である、低いざわめきのことばかり、伝えています。アレクサンドル皇帝は、パリからの手紙が、騒乱を知らせているといいます。また、ヴァンサン氏[398]は、内閣の変更が準備されており、それは確かだと、自国の宮廷へ書き送っています。人々は、大臣の交代を、内政と外交の方針が変わる、確かな徴候として、扱いたがります。そこから、フランスは頼みにできず、いかなる協調にも入るべきではない、という結論を導くのです。
私たちが、これらの知らせに反論し、それを打ち消す日付や事実を挙げ、自分たちの受け取った情報を対置し、ウェリントン公爵が情報を得ていると思われる出所を示して、その出所が、いかに疑わしいかを明らかにしても、無駄です。私たちはパリから離れているので、現地の出来事を知らないか、あるいは、隠す利益があり、現地にいるウェリントン公爵とヴァンサン氏のほうが、よく知っているか、より率直なのだ、ということに、したがるのです。
私たちが闘わねばならなかった偏見を、カスルレー卿が広めたとまでは、責めるつもりはありません。しかし、自ら抱いたにせよ、他人に吹き込まれたにせよ、彼が、誰よりも深く、それに染まっていたことは、確かです。イギリスが、ほとんど単独で耐えねばならなかった長い戦争と、その戦争によってさらされた危険は、彼に、あまりにも強い印象を与え[399]、時代が、どれほど変わったかを、自由に判断する力を、いわば、奪ってしまいました。今日、あらゆる恐れの中で、最も根拠のないものは、疑いなく、大陸封鎖体制の復活への恐れです。それでも、彼と、より親しい関係にある人々は、彼が、今も、この恐れに取りつかれており、この架空の危険に対しては、いくら用心を積み重ねても、しすぎることはないと、考えているといいます。彼は、まだシャティヨンにいて、ボナパルトと講和を交渉し、交渉しようとしているつもりなのです。このような心の状態に、ウェリントン公爵からの知らせが、どのような影響を及ぼすかは、容易に想像できます。こうして公爵は、カスルレー卿と私たちとの間に、容易に築けると思っているらしい、あの協調を、自ら妨げるものとなっているのです。
私は、カスルレー卿がロンドンを発つ前も、パリを通ったときも、また、ウィーンへ来てからも、あらゆる方法で、その協調を求めてきました。それが実現しないのは、カスルレー卿の偏見だけが理由ではありません。彼の見解と、私たちの見解との間に、現実の、まったく相容れない対立があったからです。陛下は、私たちに、原則を擁護するよう命じられました。先にお送りした、十月十一日付の覚書[400]は、カスルレー卿が、その原則に、どれほどの敬意を払っているかを示しています。私たちは、ザクセン王とザクセン王国を存続させるため、あらゆる手を尽くさなければなりません。カスルレー卿は、どうあっても、前者を、有罪判決を受けた犯罪者として扱おうとしています。その裁判官に、自らなったのです。そして、後者を犠牲にしようとしています。私たちは、プロイセンが、ワルシャワ公国の多くの部分を獲得するか、保持することを望んでおり、カスルレー卿も、この点では同じです。しかし、その動機は、あまりにも違います。私たちが、ザクセンを救うために使うのと同じ手段を、彼は、ザクセンを滅ぼすために使っています。このようにして、ポーランド問題で、私たちが彼に与えた支援を、私たち自身へ向けようとしているのです。これほど相反する意思を、調和させることはできません。
私は、しばしば、アレクサンドル皇帝ご自身にも、ポーランドの復興を、フランスが望み、支援する用意のあることとして、語ってきました。しかし、それ以外の選択肢を認めず、復興だけを求めたことはありません。カスルレー卿自身が、そうは求めておらず、私一人が、それを要求することになれば、他国から評価されることもなく、アレクサンドル皇帝を苛立たせるだけだったからです。それどころか、少なくとも、これまでのところ、その復興を望んでいないオーストリアをも、傷つけることになったでしょう。
二日とたたない前、私がカスルレー卿に、この二か月の案件の進め方について、いくらか非難を述べると、彼は、こう答えました。「同盟に加わっているときは、そこから離れるべきではないと、私は、いつも考えてきました。」つまり、彼は、自分が、同盟の中にいると思っているのです。この同盟は、講和以前の条約の延長に、ほかなりません。では、自ら敵として同盟を結んでいると認める、その相手と、彼が協調することを、どうして期待できるでしょうか。
フランスに対する同盟、あるいは連合の、ほかの構成国も、彼と同じような立場にあります。ロシアとプロイセンは、私たちからは、反対されることしか期待していません。オーストリアは、ポーランドとザクセンの問題で、私たちの支援を望むかもしれません[401]。しかし、その大臣は、この二つの問題で支援を望む以上に、ほかの問題への、私たちの介入を恐れています。彼は、私たちが、ナポリ問題を、いかに重く見ているかを知っています。彼自身も、同じくらい重く見ていますが、その方向は、私たちとは、まったく違うのです。先週の日曜日、トラウトマンスドルフ公のところで夕食を終えた後、私は、彼を訪ねました。前日に届いた、イタリアからの手紙には、ミュラは七万人を擁し、その大部分は、二万五千挺の銃を売ってくれたオーストリアのおかげで、武装しているとありました。私は、このことを、メッテルニヒ氏と確かめたかったのです。少なくとも、私が知っていることは、示したいと思いました。ナポリ問題へ話を向けましたが、客間には大勢の人がいたので、受け取った手紙を見せるため、執務室へ、ご一緒してもよいと申し出ました。彼は、急ぐことは何もなく、この問題は、いずれ、また取り上げるといいました。では、まだ決心していないのかと、私は尋ねました。彼は、決心はしているが、すべての場所で、一度に火をつけたくない、と答えました。そして、いつものように、ミュラがイタリアを蜂起させる恐れを挙げるので、私は、「それなら、なぜ、恐れている相手に、武器を供給するのですか。なぜ、二万五千挺の銃を売ったのですか」と、いいました。予想していたとおり、彼は、その事実を否定しました。しかし、否定すれば私を納得させられたと、彼が満足する余地は、残しませんでした。私が立ち去った後、彼は仮面舞踏会へ行きました。というのも、彼は、一日の四分の三を、舞踏会や祝宴で費やしているからです。頭は、ナポリ問題でいっぱいだったらしく、知り合いの女性を見つけると、この問題で責め立てられているが、同意することはできない、統治する国で、人々に愛されるようになった男の立場には、配慮している、しかも、自分は、王妃を情熱的に愛しており、絶えず、連絡を取り合っている、と語ったそうです。これらのこと、そして、この最後の点については、おそらく、さらに多くのことが、仮面の下で語られました。彼が、ナポリ問題を会議で扱わせないために、考えられる、あらゆる手段を使うことは、覚悟しなければなりません。それは、先ごろの協議で、彼がほのめかし、私が陛下に、ご報告したことと、一致しています。
同盟四国の宮廷は、それぞれ、フランスが会議で及ぼしうる影響力を、恐れる理由があるため、自然と結びついています。そして、互いに意見が割れたときも、私たちに近づくことを恐れます。どのような接近も、彼らが望まない譲歩を伴うからです。
当然、自尊心も、絡んでいます。カスルレー卿は、ロシア皇帝を譲歩させられると考えていましたが、ただ、皇帝を苛立たせただけでした。
最後に、これらの動機には、いつも、フランスへの嫉妬が加わっています。同盟諸国は、フランスを、もっと弱らせたと思っていました。フランスが、ヨーロッパで最良の財政と、最良の軍を、ともに持つことになるとは、予想していなかったのです。今では、彼らは、それを信じ、口にしています。そして、パリ講和を結んだことを悔やみ、互いに責め合い、どのような魔法にかけられて、それを結ぶことになったのか、理解できないとまで、いうようになりました。協議の席で、私たちの前でさえ、そういうのです。
したがって、イギリスとオーストリアが、真に、誠実に、私たちへ接近することを、合理的に期待できるのは、たとえば、ロシアとの議論が、公然たる決裂に終わるような、極度の必要に迫られた場合だけです。
それでも、このような態度や、それによって私たちに生じる困難、また、パリからの手紙が引き起こす困難にもかかわらず、当地の列強は、私たちに対し、六週間前には、ほとんど望みえなかったほどの配慮を示し、譲歩さえしています。彼ら自身も、それに驚いているといえます。
これまでのところ、アレクサンドル皇帝は、譲歩していません。
カスルレー卿は、最近、表現の穏やかなロシアの覚書を受け取ったものの、自尊心を傷つけられており、私たちにではありませんが、次のように語っています。皇帝がヴィスワ川で止まろうとしないなら、戦争によって、止めさせる必要がある。イギリスは、アメリカとの戦争[402]のため、わずかな軍しか出せないが、補助金は出す。そして、ハノーファーとオランダの軍は、ライン川下流で用いることができる、と。
シュヴァルツェンベルク公は、数年後よりも、今のほうが、有利な条件で戦えるとして、戦争を支持しています。
軍務当局では、すでに作戦計画まで作られています。また、ヴレーデ公も、独自に計画を立てました。
オーストリア、バイエルン、その他のドイツ諸国は、三十二万人を出動させることになります。
二十万人は、シュヴァルツェンベルク公の指揮下で、モラヴィアとガリツィアを経て、ヴィスワ川へ向かいます。
十二万人は、ヴレーデ公の指揮のもと、ボヘミアからザクセンへ進み、そこで蜂起を起こさせた後、オーデル川とエルベ川の間へ向かいます。同時に、グラーツとナイセを包囲します。
ここでの Glatz はシュレージエンの地名であり、シュタイアーマルクの Grätz(グラーツ、v02-u001420)とは異なる。
作戦の開始は、三月末になります。
しかし、この計画には、フランス兵十万人の協力が必要です。その半数は、フランケンへ向かい、プロイセン軍が、ボヘミア方面の軍を迂回するのを防ぎ、残る半数は、ライン川下流で、プロイセン軍を引きつけることになります。
したがって、戦争となるのであれば、この協力を、私たちに求めてくると、予期しなければなりません。その絶対的な必要について、軍人たちの意見は、一致しています。
しかし、これまでのところ、カスルレー卿もメッテルニヒ氏も、私たちに、戦争の話はしていません。それどころか、両者の間でも、その話題は出ていないと、いわれています。この件について、彼らが、それぞれ打診した相手は、バイエルンだけです。
なお交渉に、いくらか望みをかけているのか、時間を稼ぎたいのか、彼らは、交渉を続けています。カスルレー卿が失敗したため、再び、ハルデンベルク公を前面に出そうとしました。しかし、公は、一昨日も昨日も、アレクサンドル皇帝に会えませんでした。皇帝は、ずっとよくなってはいるものの、まだ、部屋にとどまっています。今日も、会ってはいないと思います。
ジェノヴァに関する取り決めは、イタリア委員会で、合意されました。今、文案を作成しており、委員たちは、ノアイユ氏に、その担当を頼みました。カリニャーノ家の権利は、認められています。私は、ノアイユ氏に、ピエモンテについての取り決めは、フランスの協力を得て、イタリア全体について行う取り決めの、不可分の一部としてしか、認めないよう指示しました。ナポリのことがあるため、この種の留保を付けるのが、有益だと考えたのです。
スイスの問題は、すでに陛下にお知らせしたとおり、ダールベルク公爵が委員となっている委員会で、扱われることになります。
ドイツの問題は、ザクセンの運命が決まるまで、バイエルンとヴュルテンベルクが審議への参加を拒んでいるため、停止しています。
多くの理由から、陛下のおそばにいたいと願っています。しかし、当地にいるほうが、陛下のお役に立てるという思いと、あらゆる障害にもかかわらず、陛下がお望みになったことの、少なくとも相当部分は、実現できるだろうという希望に、私は、ここへ引きとどめられています。
謹んで……
第九号第三信――国王ルイ十八世から、タレーラン公へ。
パリ、一八一四年十一月二十六日。
親愛なる従兄よ、
第十二号を受け取った。これが、初めて私を満足させた報告だと、偽りなく、いえる。そなたの進め方や、情勢を報告する仕方には、いつも満足していた。しかし、正義という考えが浮かび上がってくるのを、初めて見たからである。ロシア皇帝は、一歩、退いた。政治でも、ほかの何事でも、最初の一歩が、そのまま最後になったためしはない。しかし、この君主が、私を、自分との同盟へ誘い込めると思っているなら、間違っている。もちろん、政治的な同盟のことである。そなたも知るように、私の方針は、全体の同盟を結び、個別の同盟は結ばない、というものだ。個別の同盟は、戦争の源であり、全体の同盟は、平和の保障となる。私は、戦争を恐れてはいないが、願いのすべては、平和に向けられている。軍を増強し、オーストリアとバイエルンに、私の協力を約束する権限を、そなたへ与えたのも、平和を得るためだった。これらの措置は、実を結び始めている。「威厳を伴う平穏」(otium cum dignitate)を、期待してもよいと思う。それだけで、満足を覚えるには十分である。
カスルレー卿の覚書について、そなたは、私がいいえたであろうことを、すべて述べてくれた。彼の言葉と、ウェリントン卿の言葉の違いは、それぞれの立場によって説明できると思う。一人は訓令に従い、もう一人は、それを与えるのである。
アルプスからテッラチーナまで、イタリアの問題が、すでに調整されている姿を見たいものだ。そこから生じるはずの重大な結果を、私は、強く願っているからである。それでは、親愛なる従兄よ、神が、その聖なる尊い庇護のうちに、そなたをお守りくださるよう祈る。
ルイ。
第十六号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。
ウィーン、一八一四年十一月三十日。
伯爵殿、
前便の報告書以後、全体の協議は、一度も開かれていません。メッテルニヒ公とハルデンベルク公は、二人とも、風邪による発熱で、床に就いています。
その間に、ジェノヴァの問題は、調整を終え、決着しました。文書に署名が行われる予定で、次の急使が、その写しを外務省へ届けます。コルシーニ氏は、エトルリア王のためにトスカーナを要求する、ラブラドール氏の覚書に、回答する役を任されました。この問題の討議が、これから始まりますが、エトルリア王妃が、一族の、この旧来の世襲領へ戻るには、多くの困難があるのではないかと、懸念しています。カスルレー卿も、そのように語りました。
スイスの問題を調整するための会合が、一度開かれ、フランスの全権委員も、招かれました。
ベルン州の要求を聞きましたが、まだ、何も決着していません。全体として、ベルン州には好意的であるものの、連邦規約によって保障された、十九州の存立を、覆すつもりはないようです。協議の結果は、討議が進むにつれて、その都度、国王にお知らせします。
ジェクス地方の一部を交換するために、国王から与えられたご許可は、有効に役立つでしょう。ただし、この件では、もはや、バーゼル司教侯からの剝奪は、問題となりません。司教侯は、すでに一八〇三年、神聖ローマ帝国の帝国議会決議に際して、主権を失い、十二万フランの年金を受けることになっており、今も、霊的な権限は行使しています[403]。
ドイツの協議は、停止しています。ヴュルテンベルクとバイエルンは、自分たちのために用意されている鎖を、固く留めることに、手を貸そうとしませんでした。オーストリアとプロイセンの政府が、ヴュルテンベルクの全権委員たちに行った回答は、この点での不信を、さらに強めました。その写しと、フランス語訳を、ここに添えます。
その間に、ドイツの中小諸国は、別の連合を結成しました。バーデン大公も、この件について、姉であるロシア皇后から受けた助言に従い、それに加わりました。
ポーランドとザクセンの問題は、同じ状態にあります。会議が始まって以来、同盟諸国が、これほど明らかに、結束していないことを、フランスに確信させた時期は、ありません。今、イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンは、ヨーロッパ全体の調整の基礎となるはずだった原則の、どれについても、意見が一致していないようなのです。
フランスは、自ら取った態度によって、これらの策謀の結果を、落ち着いて待ち、理性の言葉を聞かせるためにだけ、そこへ姿を現せる立場にあります。この精神に従い、『ニュルンベルク通信』と『ライン・メルキュール』の論調に対抗する新聞記事を、いくつか出すのが、有益と思われます。この二紙は、ともに、事実を歪め、ドイツに広がる、フランスへの敵意を育てることを、好んでいるからです。
敬具……
第十四号――タレーラン公から、国王ルイ十八世へ。
ウィーン、一八一四年十一月三十日。
陛下、
今月十五日、陛下から賜ったお手紙を、受け取りました。また、同じ急使から、ジェクス地方の小さな一部と、ポラントリュイ地方の一部との交換に、同意するための、ありがたいご許可を受け取りました。
旧バーゼル司教侯は、司教としては、すでにポラントリュイの霊的な統治を再開しています。しかし、君主として、失った領有権を取り戻すことはできません。その喪失は、単なる征服の事実によるのではなく、一八〇三年の、ドイツの聖界諸侯領の全面的な世俗化によるものだからです。彼は、君主として六万フローリンの年金を受けており、それ以上は、何も要求していません。したがって、私たちが陛下に申し上げた交換の、障害となることはありません。しかし、この交換は、陛下が付された条件の一つ、すなわち、かつてベルンに属していたアールガウを、ベルン州へ返還することによって、難しくなるかもしれません。見たところ、この返還は、きわめて大きく、場合によっては、克服できないほどの困難に遭うでしょう。ただ、ベルンへ返すのを、アールガウのいくつかの代官区にとどめ、残りの代償として、旧来のスイスの境界内にあるバーゼル司教領の諸地域を与え、ベルンが、この取り決めに満足するなら、陛下も、ご満足くださるのではないかと、考えています。
旧バーゼル司教侯の年金は、ここでは六万フローリンと記される。先行する同日付大使書簡(v02-u001651)の十二万フランとは通貨が異なるため、それぞれ原文の額と通貨を保持した。
スイスの問題を担当する委員会は、これまでのところ、要求が多く、互いに食い違っているため、この問題が、たいへん厄介だと確かめた以外、何もしていません。当初、自分たちだけで処理しようとし、私たちの関与する権利を争っていた者たちが、真っ先に、私たちの協力を、いわば、援助と助言を、求めるようになりました。確かに、当地にいるスイスの使節たちは、私たちがウィーンへ来て、間もないころから、私たちと関係を築いており、彼らに、次のように明言していました。フランスの介入ばかりか、その援助[404]さえなしに、スイスに安定した体制を築けると思っているなら、それは、まったく空しい希望を抱いているのだ、と。
同盟諸国が、ボナパルトと講和を交渉し、結ぼうとしていたとき[405]、彼らは、スイスの革命によって、最も損害を受けた諸州に働きかけ、失ったものへの記憶と痛みを呼び覚まし、その回復の見通しを示しました。目的は、スイスをフランスから引き離すことで、この手段は、確実だと思われました。しかし、まさに、それらの州こそが、ブルボン家に、最も強い愛着を持っていたのです。そこで同盟諸国は、もはや目的に役立たず、むしろ、それに反する手段には、関心を失いました。その試みから得たのは、どう引き返し、すべてを鎮めればよいかという、困惑だけでした。一部の国は、スイスとドイツを、同じ同盟[406]へまとめる計画を持っていましたが、この考えも、放棄されています[407]。今では、最も重要で、最も正当な要求を満たし、それ以外には、できるだけ変更を加えず、かなり誠実に、決着させようとしているようです。したがって、スイスについては、それ自体として最良ではなくても、少なくとも、状況が許す最良の取り決めができ、この国の独立と、私たちにとって、それに劣らず重要な中立が、宣言されることを、期待してよいでしょう。
イタリアの問題を担当する委員会は、ジェノヴァについて、報告書と条項案を作成しました。明日、署名し、八か国へ送ることになっています。次の急使で、その案の写しを、陛下へお送りいたします。ジェノヴァの次には、パルマの問題に移ります。伝えられているように、オーストリア皇帝とメッテルニヒ氏が、最近、大公女マリー=ルイーズに、パルマを保有し続けられると、明確に請け合ったのが本当なら、こちらは、もっと困難を伴うでしょう。確かなのは、大公女が、これまで馬車に、夫の紋章を付けていたのに、その一台に、パルマ公国の紋章を描かせたことです。それでも、パルマを、エトルリア王妃へ返還させられると、私は期待しています。
ミュラへ売られた二万五千挺の銃は、ヴェネツィアから持ち出されたものでした。メッテルニヒ氏の庇護があっても、ミュラは、それほど安心していないようです。というのも、最近、大公女マリー=ルイーズへ、長い手紙を書き、その中で、ほかのこととともに、オーストリアが、自分をナポリにとどめるために支援してくれるなら、大公女を、決して降りるべきではなかった地位へ、再び引き上げる、と伝えたからです。(この言葉は、そのまま引用しています。)あの国の、あのような性格の人物だとしても、これほど突飛な言葉は、過度の恐怖が、思わず、姿を現したものとしか、説明できません。
ドイツ委員会の協議は、依然として停止しています。ヴュルテンベルクは、全体の一部を、一つずつ、切り離して見せられても、何ら意見を持つことはできず、全体像を知らされるまでは、どの部分についても審議しない、と宣言しました。これに対し、オーストリアとプロイセンから覚書が寄せられました。その中では、この二国が、ドイツを分け合って、どのような支配を及ぼそうとしているかが、十分に感じられます。
このように二国の間で分けられた影響力は、まもなく支配と主権に変わると確信し、旧ライン同盟の諸国は、バイエルンとヴュルテンベルクを除いて、すべて結集しました。そして、かつての首長を、その地位に戻し、旧神聖ローマ帝国を復興させたいという希望を、表明しました。
これらの国々は、オーストリアとプロイセンが押し通そうとしている体制に対して、同意せず、動かないという抵抗をするため、同盟を結ぼうとしています。当初、孤立を保っていたバーデン大公も、姉であるロシア皇后の助言で、ほかの国々に加わりました。皇后は、アレクサンドル皇帝の意向を伝えただけでした。
ポーランドとザクセンの問題は、依然、同じ状態です。メッテルニヒ氏が、ハルデンベルク氏に行わせた働きかけは、カスルレー卿が賛成していなかったものでしたが、カスルレー卿自身とアレクサンドル皇帝との討論と同じく、成果を生みませんでした。
この討論に関する文書、計六点を、陛下にお送りいたします。まだ一通、手元にありませんが、すでに読んでおり、いずれ入手することになっています。それは、アレクサンドル皇帝の最後の手紙で、カスルレー卿に、もう十分だと告げ、今後は、公式の経路を使うよう求めています。
これらの文書を読んだ人々には、あれほど前へ出たカスルレー卿が、どうやって退けるのか、分かりません。しかし、彼自身には、どのように、どの方向へ、さらに一歩を進められるのかが、分からないのです。
ともかく、陛下も、ご覧になれば、カスルレー卿が、ポーランドのことしか考えておらず、ザクセンを犠牲にする決意だったことが、お分かりになるでしょう。それは、大きな塊だけを見て、それを形づくる要素には、頓着しない、あの政策の帰結です。これは、未熟な生徒と、連合を組む者たちの政治です。
これらの文書についても、すでにお送りしたものと同じお願いを、陛下に申し上げねばなりません。同じ方法で、同じ条件のもとに、入手したものだからです。
アレクサンドル皇帝は、私たちへ接近する意向を、示しています。私たちが当地へ来てから、とりわけ初めのころ、皇帝と私たちとの間へ、いわば割って入った者たちへの不満を述べ、メッテルニヒ氏とネッセルローデ氏の名を挙げています。私との間の仲介者にしているのは、アダム・チャルトリスキ公です。公は、今、最も深い信頼を得ており、皇帝は、公を顧問会議に加えました。ネッセルローデ氏は、もはや、その会議には呼ばれていません。皇帝が、その構成員としたのは、アダム公、カポ・ディストリア伯爵、シュタイン氏です。
皇帝は、回復して、外出しています。メッテルニヒ氏は病気で、昨日も今日も、外出していません[408]。そのため、八か国の大臣たちの会合を、開くことができません。
カスルレー卿は、今朝、この何も進まない時間を利用して、黒人の問題を扱おうと、私に提案しに来ました。しかし私は、その提案と、彼がそれをする動機[409]について冗談をいいながら、この問題は、すべての最後にすべきであり、アフリカを扱う前に、ヨーロッパの問題を片づけなければならないと、たいへんはっきり告げました。もう一度、繰り返す機会を与えられずに済むことを、期待しています。
原文の l’affaire des noirs は、この外交上の文脈では、アフリカ人の奴隷貿易をめぐる問題を指す。本文では、書簡の当時の言い方を保持した。
謹んで……
第十号第三信――国王ルイ十八世から、タレーラン公へ。
パリ、一八一四年十二月四日。
親愛なる従兄よ、
第十三号を受け取った。そなたの行動には、いつもと同じく満足している。しかし、驚きはしないだろうが、情勢には、ほとんど満足していない。第十二号を送ったときの状態から、ずいぶん遠ざかっているように思われる。人の意志を支配できるのは、神だけであり、人間には、どうにもできない。しかし、どうなろうとも[410]、原則を固く守り、もしかすると、「正義を守り、志を貫く人」(Justum et tenacem propositi virum)という詩句を、私に当てはめてもらえるだけの者となれば、少なくとも、名誉は残る。それこそが、私の、最も強く求めるものだ。
出回っている噂や、送られてくる知らせ、悪意によって、それらに与えられるもっともらしさには、驚かない。私自身も、そうしようと思えば、一瞬も安らげずにいることはできる。それでも、私の眠りは、若いころと同じく、穏やかだ。理由は簡単である。王政復古の最初のひとときが過ぎれば、これほど多くの、異質な要素が混じり合って、動揺を生まないはずはないと、私は、初めから考えていた。動揺があることは知っているが、それを心配してはいない。国外では、公正さが命じることから、国内では、国民に与えた憲法から、決して離れず、正統な権力の行使で、決して弱気にならないと決意している。だから、何も恐れない。多少、早いか遅いかの違いはあっても、かねて生じると見ていた、この雲が晴れるのを、私は見るだろう。
そなたは、内閣の変更の噂を聞かされているが、私から、その変更を知らせよう。デュポン伯爵の熱意と長所は、十分に認めている。しかし、その行政については、同じように満足してはいない。したがって、今、その担当を解き、スールト元帥に任せることにした。海軍は、ブーニョ伯爵[411]に、警察総局は、ダンドレ氏[412]に与える。しかし、こうした信任の部分的な移し替えによって、私自身の政治方針は、何も変わらない。そなたに、真っ先に知らせたいと思ったのだが、今日の出来事について話しかけてくる者には、誰にでも、このことを、公然と、はっきり伝えてもらいたい。
時が来たら、再び会えることを、たいへんうれしく思う。しかし、そなたを、そばで用いることを断念した理由は、今も変わらず、それどころか、そなたが遭遇している困難によって、いっそう強まっている。したがって、会議が解散するまで、今と同じく立派に、私の代表を務め続けることが必要である。それでは、親愛なる従兄よ、神が、その聖なる尊い庇護のうちに、そなたをお守りくださるよう祈る。
ルイ。
第III号――ブラカ・ドールプ伯爵から、タレーラン公へ。
パリ、一八一四年十二月四日。
公爵殿[413]、先月九日に、私がお送りした手紙への返事は、その急使では届きませんでしたが、同じ急使が、国王へ届けた、あなたのお手紙によって、二十三日付で、私にお送りくださった手紙の主要な問題については、すでに、重要な手掛かりを得ていました。陛下は、ご親切にも、あなたの報告書と、カスルレー卿の覚書を、私にお見せくださいました。あなたのご指摘のとおり、この覚書の調子と、ウェリントン公爵の言葉との違いに、驚かずにはいられません。
しかし[414]、正直にいえば、私は、この違いの真の原因について、まだ考えを定められずにいます。国王は、それを、フランスの信用を落とすための、計画的な欺瞞だけに帰すことには、抵抗をお感じです。ウェリントン卿は、先にお話しした、ナポリとパリの関係についてのような、非公式の情報提供や、最近、オックスフォード卿[415]から押収された書簡をめぐって取った態度によって、ただ一つ、架空の恐怖を遠くまで広めようとする計画[416]だけでは、ほとんど説明できない意向を、示しています。もっとも、あまりにも広く信じられている噂が、臆病な人々を脅かし続けている、その危険を、彼自身も誇張して受け取っているため、意図せず、しばしば、国王の政策を損なったか、あるいは、それによって、自分ほど率直ではない者たちの意図を、助けてしまった可能性はあります。確かなのは、イギリスの考えとは無関係の、いくつかの事情が、あなたの恐れる不都合な見解を助長するような不信に、あまりにも多くの口実を与えたことです。公爵殿、各省の仕事[417]に、力強さと統一が欠けているため、陛下の政府に、確かな安定を与えられていなかったことは、ご存じですし、私とともに、何度も嘆かれました。しばらくは、政府内だけで知られていた、この欠陥も、いずれ、不幸なことに、広く知られずには、いなかったでしょう。これに、軍の不満を加えてください。王族たちが地方を巡った際[418]、その訴えは、絶えず、耳に届いていました。さらに、警察の不十分さへの、あらゆる苦情が保っていた不安もあります。最後に、最も危険な陰謀の扇動者だとして、多くの人物に告発が相次いでいます。その意図や発言が、そう見せているのであり、根拠はないかもしれませんが、もっともらしさまでないわけではありません。軍の指揮官たちの献身によって、目立ちすぎるものとなった警備措置に至るまで、すべてが、外国人たち自身が作り出さなくても、利用できる印象を、生んだはずです。
この状況から、国王が、内閣の一部を変えるに当たり、従わざるをえないとお考えになった、切迫した理由も、ご理解いただけるでしょう。陛下が、このご決定を明らかにされたのは、昨日です。デュポン伯爵の熱意と善意を認めながらも、陛下は、軍が、別の方針を、切実に求めていることを認められました。軍は、この大臣を、さまざまな過失について責めていますが、それらは、その時の困難によって、避けられなかったのかもしれません[419]。そこで国王は、陸軍の大臣職を任せるため、スールト元帥[420]に目を向けられました。国力を保つうえで、きわめて必要な、軍の服従と信頼と熱意を取り戻したいという願いに導かれた、この人選は、陛下が一貫して従ってこられた原則にかなうものと、きっと、お考えになるでしょう。
海軍大臣をブーニョ伯爵に、警察の指揮[421]をダンドレ氏に任せることが、国王が、世間の期待に応える手段を求めて行われた、ほかの人事変更です。
公爵殿、閣僚構成との関係で見れば、さほど大きくない、この変更も、重要な結果をもたらすはずだと、きっとお考えになるでしょう。実際、軍の士気と、警察による安全の確保は、世論の安定を保つ重要な要素となっていますから、この観点から、国王のご決定は、最大の関心に値します。陛下は、ウィーンで、この出来事を、真の姿で示し、内閣の革命としてではなく、むしろ、政府の力と識見が増すこととして、受け取らせる役割を、あなたに託しておられます。
国王は、この役割を、あなたにお任せする代わりに、ご自身のそばへ迎え、内閣について示したいと望まれる[422]好ましい評価の、もう一つの証拠とすることができないのを、深く残念に思っておられます。しかし陛下は、あなたの絶え間ない努力[423]が生んだ、有益な効果を感じておられます。もっとも、案件が、もっと速く進むようになれば、あなたが私たちに心配させているほど、長く引きとどめられずに済むかもしれません。私は、それを、強く願っています[424]。
スペインからの最新の知らせは、よくありません。ダグー氏[425]から、最近届いた報告については、ジョクール伯爵が、きっと、お伝えしていることでしょう。
両議院の休会時期[426]については、当地で、まだ何も決まっていません。
公爵殿、心からの、変わらぬ親愛を、改めてお伝えいたします。友情をもって、お受け取りください。
ブラカ・ドールプ。
第十七号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。
ウィーン、一八一四年十二月七日。
伯爵殿、
サルデーニャ王国の形成についての、委員会の報告書を、お送りいたします。ノアイユ伯爵が起草したものです。
パリ条約に署名した八か国の全権委員が集まる、近くの会合で、この件について、なお決定すべき、次のすべての点が、最終的に定められるでしょう。
一、サルデーニャ王家の継承権が、サヴォイア=カリニャーノ家に属することの、正式な承認。
二、ジェノヴァ国を領有するに当たっての、サルデーニャ王の称号。
三、帝国封土の処分。
また、外務省へ、ドイツ語の覚書を二通、お送りいたします。一通は、ヴュルテンベルクの宮廷が、ドイツ委員会に提出したものです。これを受けて、プロイセンとオーストリアの政府が回答し、その写しを、前便の報告書に入れました。
二通目は、ヴュルテンベルクの宮廷が、最初の覚書を起草した際の動機を、説明するために提出したものです。なお、ドイツの問題は、すべて未決のままで、依然、不確かなザクセン問題の決着を、待っています。双方の間で、歩み寄りは見られないようです。
スイスの協議が始まりました。ダールベルク氏は、できる限り、ベルン州の利益を擁護しています。列強は、十九州それぞれの領域を保つことを決めていますが、バーゼル司教領を用いることで、ベルン州に、いくらかの利益を与えられるでしょう。何かが最終的に決まり次第、ダールベルク氏が、総合的な報告書で、お知らせいたします。
敬具……
第十五号――タレーラン公から、国王ルイ十八世へ。
ウィーン、一八一四年十二月七日。
陛下、
陛下にお送りする、この手紙は、短いものになります。これからご報告する事実を知ったのは、つい、先ほどです。集めてあった、より重要さが少なく、より曖昧な情報に代えて、お伝えいたします。
聞くところでは、また、そう信じる十分な理由がありますが、昨夜到着した急使が、カスルレー卿とミュンスター氏に、ザクセンを支えるよう命令を届けました。(どこまで支えるのか、また、どの場合にも、そうするのか、特定の条件のもとでだけなのかは、まだ分かりません。)さらに、今朝、早くもカスルレー卿が、メッテルニヒ氏へ、その旨を告げる覚書を送り、ザクセンについて、これまで、やや控えめながらも、常に私たちと同意見だったミュンスター伯爵が、この問題で、強い態度を示すことになる、ともいわれています。ヴレーデ公は、メッテルニヒ氏のところで、カスルレー卿の覚書を、読んだらしいのです。
一昨日の朝、メッテルニヒ氏は、アレクサンドル皇帝と会談しました。双方が、できる限りの詭弁と策略を尽くしましたが、何の成果もありませんでした。しかし、メッテルニヒ氏が、自分の主君は、ザクセンをプロイセンへ引き渡すことには、決して同意しないと述べたため、アレクサンドル皇帝は、それが本当かを確かめようと、その晩、騎馬演武の後、フランツ皇帝に近づいて、いいました。「今の時代には、私たち君主は、国民の願いに合わせ、それに従わなければなりません。ザクセン国民が望んでいるのは、分割されないことです。ザクセンが分けられ、細分されるよりも、全体として、プロイセンに属するほうを、望んでいるのです。」フランツ皇帝は、こう答えました。「その説は、私には、さっぱり理解できません。私の考えは、こうです。君主は、望むなら、自国の一部を譲ることはできます。しかし、国土のすべてと、国民のすべてを、譲ることはできません。退位すれば、その権利は、正統な相続人へ移ります。君主は、その人々から権利を奪うことはできず、ヨーロッパ全体にも、その権利はありません。」――「それは、今世紀の啓蒙の精神に、かないません」と、アレクサンドル皇帝はいいました。――「これが、私の考えです」と、オーストリア皇帝は答えました。「すべての君主が、そう考えるべきであり、したがって、あなたも、そうであるべきです。私は、決して、この考えから離れません。」
この会話は、別々の二人から、同じように伝えられたので、確かな事実です。したがって、オーストリア皇帝は、ザクセン問題について、メッテルニヒ氏に、守るか見捨てるかの選択を、もはや許さない意見を持っている、という話は、正しかったのです。ザクセンの大臣が、見捨てられることはないと期待していたのも、根拠のないことではありませんでした。
アレクサンドル皇帝は、フランツ皇帝との一度の会話のほうが、メッテルニヒ氏との十度の会話よりも価値がある、前者は、はっきり話すので、どこに立っているかが分かるからだ、と述べたそうです。
ドイツの諸侯は、ドイツ問題を担当する委員会が持っていると知っている、あるいは推測している計画から、自らの権利を守る手段を考えるため、結集しました。私は、彼らが、ザクセンの存続を求める、理由を付した要望を、まもなく表明することを期待しています。その多くが相談したヴレーデ元帥は、急ぐべきであり、今が好機だと告げ、バイエルンも、その要望に賛同すると約束しました。
これに対して、ヴュルテンベルクは、今のところ、プロイセンの側へ回っています。カタリーナ大公女に恋をしている王太子が、政府の、この新しい態度に影響を及ぼしたのです。シュトゥットガルトの宮廷は、この件で、卑しいことをしています。それは、利益にはならず、害を及ぼすのも、ほとんど自分自身だけでしょう。ヴュルテンベルク王の、このように誠実さも気高さも欠く行動は、これ以上、強い言葉を使わないとしても、その甥になることを、強く望ませるのに、ふさわしいとは思えません[427]。ここで触れた事柄については、いずれ、もっと詳しく、陛下にお話しすることを、お許しいただきたいと思います。
ロシア皇帝は、私に会おうとしていました。しかし、その前に、頭を悩ませている、混乱した考えを整理したいと、アダム・チャルトリスキ公を通じて、伝えてきました。ポッツォ将軍は、皇帝との関係が、あまりよくないので、私は、皇帝への働きかけに、彼を使えませんでした。そもそも、皇帝の臣下たちも、なかなか会うことができません。リシュリュー公爵[428]は、謁見を、一か月まるごと待たねばなりませんでした。アダム公は、私たちの討議に利害を持つ当事者でありながら、最も役に立つ仲介者です。私は、まだ皇帝に会っていません。皇帝は、揺らいではいるが、なお決めかねている、と聞きます。いつ、何に決めるのか、私には分かりません。
皇帝が、彼自身の表現を用いれば、カスルレー卿との書簡のやり取りを「打ち切った」、二通の文書の写しを、陛下にお送りいたします。皇帝は、いわば、直接、組み合って争いに加わったことを、広く非難されています。たとえ利益があったとしても、その地位にふさわしくないと、みなされたであろう争いですが、実際には、その逆の結果となりました。したがって、疑いなく期待していたはずの勝利に代えて、自尊心に傷を負っただけなのです。
この議論全体をご覧になれば、カスルレー卿が、ポーランド問題を、一つの観点からしか見ず、ほかのあらゆる問題から、切り離していたことが、お分かりになるでしょう。彼は、独立したポーランドの復興を要求しなかっただけでなく、それを望むとさえ、述べていません。それどころか、ポーランド国民について、復興を促すよりも、思いとどまらせるのに適した言葉で、語りました。何よりも、ポーランド問題を、ザクセン問題に結びつけることを、慎重に避けました。ザクセンを、完全に見捨てていたからです。しかし、これからは、それを支えることになります。
また、リヴォルノの陛下の領事[429]からの手紙を、お送りいたします。そこに含まれる情報を、私は当地で、有効に用い、ロシア皇帝にも届けました。サン=マルサン氏も、同様の情報を受け取っており、メッテルニヒ氏も、パリから、同じ知らせが届いたと認めました。そこから、私が導く結論は、エルバ島の男とミュラを、急いで取り除かねばならない、ということです。私の意見は、実を結びつつあります。ミュンスター伯爵は、熱心に賛同し、自国の宮廷へ、その旨を書き送りました。また、カスルレー卿にも話し、その結果、今度は卿が、反対意見を通すため、あらゆる手段を使っているメッテルニヒ氏を、促しに行くほどになりました。
彼の得意技は、私たちの時間を浪費させ、それで自分が時間を稼げると考えることです。イタリア問題の委員会が、ジェノヴァの問題をまとめてから、すでに八日になります。陛下のご意向に従ってまとまったことは、すでに、お知らせしました。本日、外務省宛ての手紙に、委員会の成果を添えます。陛下は、そこに、私たちの訓令で指定された条項と、言葉遣いそのものを、ご覧になるでしょう。明日、八か国の委員会が、報告書を検討し、決定します[430]。その結論が採用されることを、私は疑っていません。その後、トスカーナとパルマを扱います。この作業は、すでに終わっているべきものでしたが、メッテルニヒ氏の軽い病気によって、遅れました。彼は、何も終わらせないために、今の状態を「回復期」と呼んでいます。
案件のために失われる時間は、祝宴で費やされます。アレクサンドル皇帝は、まるで自分の家にいるかのように、祝宴を求め、命じさえします。私たちは、それらに招かれ、配慮を示され、特別に遇されます。それは、陛下への思いを示すためであり、どこでも、陛下への賛辞を耳にします。しかし、そのすべてによっても、陛下から離れて、もう三か月近くになることを、忘れはしません。
ジョクール氏から知らされた、オックスフォード卿の逮捕について、カスルレー卿に話しました。彼は、不快の意を示すどころか、喜んでいると述べ、オックスフォード卿を、いかなる尊敬にも値しない男だと描きました。押収された書類の中に、当地の宮廷に対するミュラの立場を、危うくするものが見つかっていればよいと、私は強く願っています。
パリから来た二人の急使は、十一月二十二日付と二十六日付で、陛下から賜ったお手紙を、届けてくれました。
謹んで……
第十一号第三信――国王ルイ十八世から、タレーラン公へ。
パリ、一八一四年十二月十日。
親愛なる従兄よ、
第十四号を受け取った。
アールガウ州についての私の意向を、そなたは、よく理解してくれた。確かに、スイスが、かつての姿に戻るほうを、私は、はるかに望んでいる。しかし、不可能なことは望まない。状況に照らし、できる限り、ベルン州が満足するなら、私も満足する。バーゼル司教侯については、帝国の最後の議会決議を、思い出していなかった。しかし、それが、司教侯に関する問題に、決着をつける[431]ことが分かったので、ポラントリュイの処分には、もはや異議を述べない。
送ってくれた文書は、興味深く読み、慎重に保管しておく。カスルレー卿は、ポーランドについては、たいへん立派に語っている。しかし、十月十一日付の覚書は、その言葉の価値を、大きく損なっている。それでも、ロシア皇帝を説得できるなら、ザクセンにとって、大きな利益となるだろう。しかし、私には、その見込みは、ほとんど見えない。私たちは、自分たちの方針に沿って、進み続けねばならない。
そなたは、チャルトリスキ公を知っている。私も知っている。アレクサンドル皇帝が、公を仲介者に選んだことから、皇帝陛下は、自分が私に近づくよりも、私を自分へ近づけたいのだろうと、私は思う。それでも、これらの話し合いは続け、同じように、私の意向に従い続けてもらいたい。害は生じないだろうし、何か、よいことをもたらすかもしれない。
ミュラが大言を吐くのは、恐れているからだと、思いたい。しかし、ブオナパルテに、なお頼る道があるとすれば、それは、イタリアで、ミュラを通じてであることを、決して見失ってはならない。したがって、「カルタゴは滅ぼされねばならない」(delenda est Carthago)のだ。
それでは、親愛なる従兄よ、神が、その聖なる尊い庇護のうちに、そなたをお守りくださるよう祈る。
ルイ。
第十八号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。
ウィーン、一八一四年十二月十四日。
伯爵殿、
十一月五日付の外務省宛ての報告書では、ジェクス地方の一部と、バーゼル司教領の一部との交換から、得られうる利益を説明しました。これは、スイス連邦が望み、ジュネーヴ側が求め、列強が提案した交換です。
原文は報告書を十一月五日付とする。先行する交換案を扱う第十一号補の見出しは十一月六日付(v02-u001365)であり、日付は原文どおり保持した。
この犠牲によって、スイス連邦に対する、より大きな影響力を期待できたかもしれません。ベルン州へ、その旧領の州の一つを返還させることが、できていたならば、です。
また、ジュネーヴ側も、この譲歩の価値を認め、ベルン州が出している正当な金銭上の要求に応じるよう、ヴォーとアールガウの人々に働きかけるだろうと、考えてよかったはずです。
イギリスの全権委員から、ジェクス地方の一部の交換に、フランスが、どのような条件を付けるのか、明らかにするよう迫られ、フランスの全権委員は、口上書第一号を渡しました。その際、大臣たちにだけ伝え、各国の訓令が、ベルンのために、十九州それぞれの領域を保つ原則から離れることを、認めているかどうか、確かめてほしいと頼みました。しかし、イギリスの大臣は、この内密の伝達にとどめず、ジュネーヴの代表たちへ知らせ、代表たちは、対案、第二号を作成しました。
そこに含まれる条件は、すべて、国王のご命令に反しています。国王は、サルデーニャ王から領土を取ることなく交換を行い、ベルンが、かつて保有していたアールガウの一部を、取り戻すことを、お望みでした。
この間に、列強、とりわけイギリスが、この交換によって、スイスでの影響力が増すと期待していることが、分かりました。彼らは、交換を実現させたことについて、どれほど感謝されるべきかを、スイス連邦に言い聞かせていたのです。
ジュネーヴ側は、フランスが払う犠牲を認めるどころか、会議から、すべてを得ようとしており、同盟諸国の庇護がある以上、自分たちの要求は、何一つ拒まれないと主張していました。その証拠として、この交換はフランスの世論に反しているのに、国王は、同意していると、請け合っていました。
こうした言葉が知られ、注意を引きました。そして協議の中で、フランスの全権委員には、イギリスが、これほど熱心に交換を後押しするのは、自国の評価を高め、ショーモン条約の当時、ジュネーヴ側にした約束を、実現するためにすぎないと、見抜く機会がありました。
同時に、スイスの代表たちへ宛てた、パリからの複数の手紙は、世論が、この交換に反対し、フランス政府が同意していることに、驚いていると伝えました。
そこで、交換を取りやめるほうが、国王とフランスの利益にかなうと判断されました。スイスの内情と、ロシア皇帝が、新しい諸州の、いかなる変更にも設ける障害のため、国王が交換の実施に付された条件を得ることは、不可能でした。それだけに、取りやめる主張は、いっそう強まりました。
したがって、フランスの全権委員は、ジュネーヴ案への回答、第三号を提出し、交換は、もはや行えないと宣言しました。イギリスの全権委員は、この変更を遺憾としながら、自国政府が、交換の実施を得るため、パリで、新たな働きかけを行うと告げました。そして、代償となるはずだったバーゼル司教領の一部を、暫定行政のもとに残し、取り置くよう提案しました。他の全権委員たちは、これを拒みましたが、会議が終わるまでの間だけ、取り置くことと、イギリスの提案する働きかけを支えることには、同意しました。
オーストリアとフランスの全権委員は、それによって不確かな状態が長引き、スイスの真の利益が損なわれると指摘しましたが、イギリスの提案は、維持されました。
したがって、ウェリントン卿は、十九州それぞれの領域が保全されると認められたにもかかわらず、なお、国王が、この交換に同意なさるかどうかを知るため、新たなご決定を求める命令を、受けると思われます。私たちは、次の理由から、拒否することが、国王の利益にかなうと考えています。
一、交換は、もはや、期待されていた利益を与えないからです。
二、スイスにおけるフランスの影響力は、ベルン州と、その同盟州を通じてしか、増すことができないからです。
三、スイス連邦に関するすべてが、同盟諸国の後援のもとで行われている限り、フランスは、手段を温存し、後になって初めて、影響力を強めるために、行動すべきだからです。
伯爵殿、この件で起きたことを、このようにお知らせしておけば、イギリス大使が、この議論を再び持ち出すために来ても、すべてを、あらかじめご承知いただけます。
ロンドン駐在の国王の大使にも、この件を知らせることが、有益かもしれません。伯爵殿、国王に、お伝えいただく詳細を、同大使にも送ってくださるよう、お願いいたします。
タレーラン公は、イギリスの大臣たちの、しつこい要求を、より容易に退けるため、彼らに、次のように話しました。国王は、領土の割譲や交換を、どのような形式で行えるのか、フランスの大法官に尋ねた。大法官は、それは、まだ十分に定まっておらず、このような問題に踏み込むのは、避けるべきだと答えた。したがって、フランスの全権委員たちは、この問題を、さらに進めることはできない、と。
伯爵殿、大法官にも、このことを知らせ、イギリス大使が尋ねてきた場合、この件について説明するのを避けるか、あるいは、私たちが当地で述べたのと同様の返答をするようにしておくと、よいでしょう。
敬具……
第十九号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。
ウィーン、一八一四年十二月十四日。
伯爵殿、
前回の協議の議事録を、お送りいたします。その後、さらに新しい協議がありましたが、その議事録は、まだ発送されていません。帝国封土に関するラブラドール氏の提案については、エトルリア王や、大公女マリー=ルイーズなどの処遇が定まるときに、決定することにしました。フランスの全権委員は、パリ条約の規定を忠実に実施するという原則に従い、三つの新しい委員会の設置を提案しました。
第一は、第五条に従い、河川の航行を定めるための委員会。
第二は、諸王家の位階と席次、および、それから派生するすべてを定めるための委員会。
第三は、黒人奴隷貿易の廃止を討議するための委員会です。
最後の委員会には、いくらか困難が生じました。ポルトガルの全権委員が、利害関係のある国々だけで、構成されるべきだと述べたからです。ラブラドール氏も、ポルトガルの反対を、強く支持しました。議論は、たいへん断固としたものだったため、この委員会は延期され、問題は、通常の交渉へ戻されることになりました。
また、ポルトガルは、黒人奴隷貿易を放棄するのは、八年が経過した後で、しかも、イギリスが、両国間の既存の通商条約を、なかったものとみなすことに同意する場合に限る、という原則を示したことも、付け加えておきます。
フランスの提案は、すべての国に、奴隷貿易の廃止を宣言させるため、仲介の労を取るという、イギリスとの約束に従うものでした。したがって、私たちは、今後、この件を扱う必要は、もうありません。
ほかの二つの委員会は、設置されました。
タレーラン公は、航行に関する委員会に、ダールベルク公爵を、諸王家の席次と位階を定める委員会に、ラ・トゥール・デュ・パン伯爵を、それぞれ委員として任命しました。
ロシアは、イタリア委員会に代表を任命したいと求め、ネッセルローデ伯爵を指名しました。この件では、何の難点もありませんでした。
ポーランドとザクセンの問題は、進展しましたが、まだ、明確な成果は出ていません。しかし、ザクセンに関しては、すべてが好転しています。オーストリアは、ザクセンを支える決意です。イギリスは、言葉を変えました。プロイセンとロシアの策謀は、すべて明らかにされました。行われた説明は、いずれも、ザクセンから三十万から四十万人を超える住民を奪わなくても、プロイセンを、一八〇五年の人口を基準として、復旧できることを、証明する方向へ進みました。
原文は人口の基準年を一八〇五年とする。先行する皇帝との会話(v02-u001526)は一八〇六年と述べるが、各箇所の年を保持した。
この点では、私たちは、望んでいたところへ到達し、国王と、その政策は、最初の優位を得ました。ロシアの支援を受けたプロイセンが、譲歩を拒む可能性はあります。しかし、その場合、力には大きな開きがあり、プロイセンは、すべてを危険にさらすことになります。私たちは、ある程度の根拠をもって、プロイセンが、自分の立場を判断し、譲歩することを期待しています。
オーストリアは、今も、ミュラを退けさせない決意のようです。ロシアは、この点では、かなり好意的に見えるので、イギリスの態度を、もっと確かめようとしました。カスルレー卿は、自国の宮廷に、新たな訓令を求めることになっています。彼は、ナポリの問題に関する書簡を、すべて、タレーラン公へ見せました。また、自分が書き送ることを裏づけるためなのか、ミュラが、ボナパルトと二股をかけた工作をしていたことを、同盟諸国に証明できる資料を、私たちの文書箱から探してほしい様子でした。保存されている、ミュラの複数の手紙や報告書が、それを証明することは、疑いありません。伯爵殿、原本を、お送りくださるよう、お願いいたします。
ウジェーヌ公は、この件について、物的な証拠を持っていると述べましたが、それを渡すことは、拒みました。
タレーラン公は、ご自身の書簡で、全般的な情勢について、さらに詳しく述べています。しかし、私たちも、確信をもって、こう申し上げられます。国王とフランスは、会議で、本来の地位を得ました。そして、向けられる敬意によって、国王に名誉をもたらし、ヨーロッパに十分な保障を与えるだけの影響力を、行使する手段を持つに至ったのです。
敬具……
第十六号――タレーラン公から、国王ルイ十八世へ。
ウィーン、一八一四年十二月十五日。
陛下、
ドイツの中小諸侯が、ザクセンの存続を望む意思を示すための覚書は、署名される寸前でした。しかし、署名されず、今後も、されません。
これらの諸侯の先頭に立っていたのは、コーブルク公[432]でした。その行動は、いくら称えても、称え足りません。
姉妹の一人[433]は、コンスタンティン大公と結婚しています。弟は、大公の副官であり、ロシア軍の少将です[434]。公自身も、先の戦役で、ロシアの軍服を着ていました。アレクサンドル皇帝の深い寵愛を受け、プロイセン王とも、親密に結ばれています。両君主の計画に逆らえば、その恨みを恐れる理由がありました。その一方、ザクセンが犠牲にされるなら、その断片を、いくらか得られると期待する、十分な理由もありました。しかし、これらの動機は、どれも、彼の中の感謝と正義の声を、黙らせることも、一族と国に負う務めを、忘れさせることも、できませんでした。一八〇七年、父公爵の死後、彼がロシア軍の陣営にいたため、その領土は差し押さえられ、ボナパルトは、彼を追放しようとしました。そのとき、ザクセン王の取りなしによって、守られたのです。その後、ザクセン王は、すべてのザクセン諸公国に、主権を広げることができましたが、それを拒みました。今度は、公爵が、国王の大義を、熱心に擁護しています。ロンドンでは、弟のレオポルト公に、そのための働きかけをさせ、摂政皇太子は、きわめて好意的な態度を示しました。当地では、公自身が、諸君主と、その大臣たちに訴えました。そればかりか、私たちと相談して作成し、カスルレー卿の論理に反論する覚書を、自分の名で、卿に渡すところまで進んだのです。
準備中の覚書について、ヴァイマル公[435]から知らされたアレクサンドル皇帝は、コーブルク公を呼び寄せました。そして、カスルレー卿へ渡した覚書についても、最近の働きかけについても、激しく非難しました。策謀をめぐらしていると責め、ヴァイマル公の行動を、見習うべき模範として挙げ、何か申し入れがあるなら、ハルデンベルク公へ向けるべきだったといい、約束されていたものは、何一つ得られないだろうと、告げました。
公爵は、気高く、毅然としていました。ザクセン家の君主としての権利、ドイツの君主としての務めを語り、名誉を重んじる人間として、その務めを果たさない自由が、自分にあるとは考えていないと述べました。ヴァイマル公の考えが違うなら、気の毒に思うほかない。それに、皇帝陛下への忠誠から、自分の存立を、二度も危険にさらした。今日、名誉のために、それを犠牲にしなければならないなら、その覚悟はある、と。
一方[436]、プロイセン側、その使者たち、とりわけヴュルテンベルクの王太子は、ザクセンに有利な文書に署名する者は、すべて敵とみなすと宣言し、ドイツの大臣たちの一部を、脅しました。
覚書に署名がなされなかったのは、そのためです。しかし、署名されるはずだったことも、何が、それを妨げたかも、知られています。そこに表されるはずだった願いは、それを押しつぶそうとした強圧によって、かえって力を増したかもしれません。
この個別の出来事について、必要以上に、詳しく述べたとすれば、二つの理由からです。コーブルク公に、ふさわしいと私が考える、公正な評価を与えるため、そして、私たちが闘っている障害の性質と多様さを、陛下に、よりよく知っていただくためです。
これらのことが起きていた間に、プロイセン側は、メッテルニヒ氏から覚書を受け取りました。そこでは、ザクセン王国は存続させるべきだと述べ、添付の統計計算によって、次のことを示していました。プロイセンが保持している地域と、今後、与えられる予定の、処分可能な地域の人口に、ザクセン人を、わずか三十三万人加えれば、その人口は、一八〇五年と同じになる、というのです。
陛下に、急いでお知らせします。ミュンスター伯爵は、ザクセンの存続に必要なら、ハノーファーへ約束された領土拡大を、放棄すると宣言しました。これによって、交渉が容易になることからも、陛下が伯爵に寄せておられる敬意からも、きっと、お喜びになるでしょう。
メッテルニヒ氏の覚書には、プロイセンのザクセンに対する計画へ、フランスが反対していることを、自分の論拠とする一節がありました。それによって、アレクサンドル皇帝は、オーストリアと私たちの間に、すでに協調が成立したか、成立しかけているのではないかと、恐れたのでしょう。ただちに、アダム・チャルトリスキ公を、私のもとへ送りました。
公は、まず、私が最後に皇帝へ拝謁した際、皇帝ご自身がなさった提案を、繰り返しました。ザクセン問題で、皇帝の願いに応じれば、ナポリ問題では、全面的に支援する、という約束です。今では、ザクセン全土の放棄を求めず、王国の中核部分が残ることに同意しているので、なおさら、受け入れやすい提案だと、皇帝は考えていました。
私は、次のように答えました。ナポリ問題については、皇帝がおっしゃったことを守っていただけるものとし、そのお言葉を信頼している。そもそも、この問題での皇帝の利益は、私たちと同じなので、異なる意見を持つはずはない。ポーランド問題には、皇帝が満足と栄光をかけているので、個人的な問題とみなすべきだが、それが、ご希望どおりに決まったとすれば、オーストリアとプロイセンが、この点では、私たちは第二列にとどまると確信していたおかげである。(実際には、まだ、完全に決まってはいないが、もう少しだ。)皇帝の利益には、実際、かかわりのないザクセン問題で、私たちは、ザクセン王に、いくらかの犠牲を受け入れるよう促す役を、引き受けている。しかし、融和の精神によっても、皇帝が望んでいるらしいところまで、進むことはできない、と。
公は、同盟と結婚について話しました。私は、これほど重大な事柄を、いくつも同時には扱えないと答えました。また、ほかの事柄と混ぜてはいけないものもある。それでは、品位を落とす取引の性格を、与えてしまうからだ、と述べました。
公は、オーストリアとの間に、何か約束があるのかと尋ねました。ない、と答えました。ザクセンについて合意できなければ、オーストリアと約束を結ぶのか、と尋ねるので、私は、「そうなるのは、残念です」と答えました。しばらく沈黙した後、私たちは、礼儀正しく、しかし冷ややかに、別れました。
皇帝は、その晩、メッテルニヒ氏の開く祝宴に行くはずでしたが、来ませんでした。急な頭痛が、その原因、あるいは口実でした。皇后と大公女たちを、代わりに送ってきました。
皇帝は、メッテルニヒ氏に、翌朝、自分のところへ来るよう、伝えさせました[437]。
舞踏会の間に、メッテルニヒ氏が近づいてきて、私が、ちょっとした世話をしたことに礼を述べた後、ザクセンについてのカスルレー卿の覚書が、自分を、困難な立場に置いていると訴えました。私は、ひどく不都合なものは、十月十一日付の一通だけだと思っていました。しかし彼は、もう一通のことを話しました。それは、本日、入手できましたので、写しを、陛下にお送りいたします。「カスルレー卿の口上書」という題名が付いていますが、クック氏の作であることを、私は知っています。その説においても、文体においても、彼に、さほどの名誉をもたらすものではありません。長い間、同盟国と名乗ってきた三国に、渡されたものです。
メッテルニヒ氏は、アレクサンドル皇帝のもとを出た後、遅すぎなければ、私のところへ来て、何があったかを話す、と約束しました。今回は、その約束を守りました。
皇帝は、冷たく、そっけなく、厳しい態度でした。メッテルニヒ氏は、プロイセン側の名で、同国が否定することを述べ、一方、プロイセン側は、メッテルニヒ氏の言葉として、彼が覚書に書いたことと、まったく反対のことを伝えるので、何を信じてよいか分からない、と主張しました。そして、ハルデンベルク公に、何かしらの考えを吹き込んだと、メッテルニヒ氏を責めました。メッテルニヒ氏は、その反証となる短い手紙[438]を持っており、示しました。皇帝は、その手紙をきっかけに、不適切な手紙を書いていると、彼を非難しました。この非難には、いくらか根拠がありました。皇帝は、まったく私的で、内密な連絡文を、手にしていました。それは、プロイセン側の、まことに非難されるべき漏洩によらなければ、入手できなかったはずです。その後、皇帝は、メッテルニヒ氏の覚書が、オーストリア皇帝の真意を表していることを、疑いたがるように見え、皇帝自身と、話を確かめたいと付け加えました。メッテルニヒ氏は、ただちに主君へ知らせました[439]。もし、アレクサンドル皇帝が、この件について尋ねたら、覚書は、自分の命令で作られ、自分が認めないことは、何一つ含まれていないと、答えることになっています。
メッテルニヒ氏とハルデンベルク氏の協議では、難点は、メッテルニヒ氏の覚書に添えた、統計計算だけにかかわりました。それを検証する委員会を任命しようと、メッテルニヒ氏が提案しましたが、二人は、何も合意せずに別れました。
陛下、現在の状況は、以上のとおりです。
オーストリアは、その計算で、ザクセンの損失を、四十万人だけとしています。ボヘミアへの入口となるガーベルの隘路があるため、上ラウジッツを手放すつもりは、ありません[440]。一八一三年、フランス軍がボヘミアへ侵入したのも、そこからでした。
ロシア皇帝は、ザクセン王国が存続することに、同意しています。ただし、アダム・チャルトリスキ公によれば、その規模は、現在の半分にとどめるべきだ、というのです。
最後に、プロイセンは、今では、その要求を、人口の計算に絞り、したがって、その結果と検証に、従わせようとしているようです。
確かに、問題は、まだ決着していません。しかし、見通しは、今、これまでで最も有利になっています。
メッテルニヒ氏は、自分の覚書を読ませようと、申し出ました。私は礼を述べ、それは知っているが、公式に伝えてほしいと答えました。覚書で、私たちに言及している以上、そうするべきだと思う、事前に知らせず言及したことを、非難することもできるのだ、と。私たちが、その覚書を支持できるようにする必要があり、それには、正式な伝達を受けなければ、適切にはできません。彼は、私の望みどおりにすると、約束しました。正式な伝達にこだわる、私自身の特別な理由は、それが、連合の崩壊の、真の起点になるからです。
数日前、私は、黒人奴隷貿易の問題を扱う委員会の設置を、提案しました。この提案は、いずれ、なされるはずでしたので、私から取り上げて、カスルレー卿を喜ばせ、それによって、取りかかり始めた、イタリアの難しい問題で、私たちに近づく気にさせようとしたのです。いくらかは、成功しました。彼のほうから、ナポリ問題を、どのように解決することを提案するのか、示してほしいと尋ね、必要な命令を求めるため、急使を送ると約束したからです。私は、別添の手紙を書きました。それを受け取ると、彼は、ベンティンク卿との書簡を見せようと、申し出ました。私は、それを読み、この問題で、イギリス側は、完全に自由に行動できることが、確かになりました。しかし、ミュラには、ある種の約束がなされており、もし彼が、自分の約束を、すべて忠実に守っていたなら、人間として、それを守らないのは、気が引けたかもしれません。「ミュラは、一八一三年十二月と、一八一四年一月、二月に、ボナパルトと文通していたと、私は思っています」と、カスルレー卿は、私にいいました[441]。「しかし、その証拠があれば、ありがたい。それによって、私の進め方が、たいへん容易になります。あなたがたの文書保管所に、そのような証拠があれば、入手していただけると、助かります。」本日、外務省宛ての手紙で、同省に残っているかもしれない証拠を、探すよう書きました。国務局[442]にも、ミュラとボナパルトの通謀の痕跡が、いくらか残っている可能性があります。
本日、外務省へ送る二通の手紙は、ジョクール伯爵が、きっと、陛下にお目にかけるでしょう。ジェクス地方について、パリで提案がなされても[443]、どうか、お断りくださるよう、お願い申し上げます。陛下が、提案された交換に付された条件は、何一つ守られていません。そのうえ、当地にいるジュネーヴの人々には、不満を感じる理由が、多くあります。やや性急に進められた、この問題を取り下げる理由としては、大法官の権威で、十分すぎるほどです。
謹んで……
第十二号第三信――国王ルイ十八世から、タレーラン公へ。
パリ、一八一四年十二月十八日。
親愛なる従兄よ、
第十五号を受け取り、たいへん満足した。イギリスが、率直に、ザクセン支持を表明するなら、オーストリアと、ドイツの大部分との結びつきによって、「今世紀の啓蒙」には、打ち勝てるはずだ。フランツ皇帝の毅然とした態度は、気に入った。ヴュルテンベルク王の離反は、さほど気にならない。この君主について、そなたが述べている説明を待っているが、私の知る、その人柄からすれば、誰にも、あまり近い縁を結ぶよう、勧める気にはなれない。
オックスフォード卿の書類入れから見つかった手紙は、ミュラの工作について、何も明らかにしなかった。しかし、リヴォルノからの手紙に含まれる事実は、それ自体が、十分に語っている。メッテルニヒ公も知っていると認めている以上、その真実性は、疑いようがない。すべての列強が協調し、災いの最後の根を引き抜く時である[444]。これに関連して、エクトル・ダグー伯爵に向けられた、不当で、あえていえば、恩知らずな非難については、ジョクール氏が、きっと、知らせているだろう。ラブラドール氏にも、この件を話すのがよい。その証言によって、セバリョス氏[445]が誤解しているなら、目を開かせ、少なくとも、私が強く疑っているとおり、自分に嘘をついているのなら、それを暴くためである。
ロシア皇帝が、再びそなたに会いたいと望んでいるのは、よい兆しだと考える。重大な案件については、すでに述べたことに、何も付け加えることはない。しかし、一つ、どのような形にせよ、決着してほしいものがある。結婚の問題である。私は、最終条件を示した。外国で何が行われるかには、目を向けない。しかし、ベリー公爵夫人になる者は、誰であれ、カトリック・使徒的・ローマ教会の信仰を、公に表明しなければ、フランスの国境を越えることはない。この条件なら、私は、成立させる用意があるばかりか、進んで、そうしたい。反対に、この条件が、ロシア皇帝の意にかなわないなら、そういってもらいたい。それでも、よい友人であることに変わりはなく、私は、別の縁談を進める。
そなたが離れていることを、私も、そなたに劣らず、感じている。しかし、これほど重要な案件では、ルカヌスがカエサルについて述べたこと[446]を、自分たちに当てはめねばならない。それでは、親愛なる従兄よ、神が、その聖なる尊い庇護のうちに、そなたをお守りくださるよう祈る。
ルイ。
第二十号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。
ウィーン、一八一四年十二月二十日。
伯爵殿、
ポーランドとザクセンの問題は、まだ解決していません。タレーラン公は、メッテルニヒ公から伝えられた、プロイセン宛ての覚書について、国王に報告しています。その覚書で、メッテルニヒ公は、「ウィーンの政府は、ザクセンのプロイセンへの編入を認めない」と宣言しています。
タレーラン公は、ヨーロッパの問題の調整で、従うべき原則を、力強く示す覚書で、回答しました。プロイセン側の決定が、知らされるのを待っています。彼らは、ザクセンの自国への編入は、もはや異議を許さないという原則を掲げた、たいへん強い調子の覚書を、作成したといわれていました。ロシア皇帝自身が、その覚書を渡すことを、望まなかったと、私たちは聞きました。
カスルレー卿は、困惑を隠せませんが、まだ、何についても態度を明らかにしていません。その難しい立場は、さまざまな機会に、書面でさえ、ザクセンを見捨ててきたことに由来します。そのうえ、同じ覚書で、ポーランドを擁護した際にも、大きく、独立したポーランドについてではなく、ただ、ポーランドについてしか、語らなかったのです。
イタリアの問題は、まだ何も語られていないナポリを除き、進展しており、よい方向で扱われています。しかし、まだ、何一つ完了していません。
スイスの問題に関する協議は進み、八か国の委員会へ提出する報告書が、起草されています。提出され次第、外務省へ、お送りいたします。
敬具……
第十七号――タレーラン公から、国王ルイ十八世へ。
ウィーン、一八一四年十二月二十日。
陛下、
十二月十日付、第十一号として、陛下から賜ったお手紙を、受け取りました。
ザクセンについて、メッテルニヒ氏からハルデンベルク氏へ送られた覚書と、それに添えられた表[447]、さらに、これらの文書を伝えるに当たり、メッテルニヒ氏が私に書いた、公式の手紙の写しを、お送りいたします。彼は、その一式に、自筆の短い手紙を添えていました。そこでは、以前、口頭で述べたことを、やや明確さを抑えて、繰り返していました。すなわち、この覚書は、連合の最後の文書になるだろうということです。そして、これほど美しい大義を守るために、陛下の政府と、同じ線上に立てることを、喜んでいると付け加えていました。
私は、前の手紙で、陛下にお伝えした理由から、この伝達を、強く望んでいました。また、それは、陛下の原則、見解、ご決意を知らせるため、信条を表明する、きわめて自然な機会になるとも、望んでいました。私は、長い間、この機会を探し、さまざまな方法で、生み出そうと努めてきました。それが訪れるや、急いで利用し、メッテルニヒ氏へ、回答を送りました。その写しを、ここに添えます。
私は、他国が望んでいたなら、ポーランド問題が、私たちにとって、どのようなものとなりえたか、そして、なぜ重要性を失ったかを示し、その責任は、私たちにはないと、付け加えました。
ザクセン問題を扱うに当たり、私は、プロイセン側の革命的な議論と、クック氏が自分の「ザクセン問題」(Saxon-point)で述べた、同様の議論に反論しました。そして、これまで、カスルレー卿が理解できなかった、あるいは、理解しようとしなかったことを、証明できたと思います。均衡という観点では、今や、限定された形に縮められたポーランド問題よりも、ザクセン問題のほうが重要だ、ということです。ドイツが、自らの均衡を失えば、全体の均衡に、役立つことはできません。そして、ザクセンが犠牲になれば、その均衡は崩れます。これは、明らかです。
説得を目指すに当たり、私は、傷つけないことに努めました。反論する意見を、ある種の避けがたい成り行きのせいとし、それを支持する君主たちを、その意見から離れさせるために、称えました。
陛下については、賛辞を述べませんでした。ただ、私たちにお与えになった命令を示しました。それ以上、何がいえたでしょうか。事実が、語っているのです。
確かな話として伝えられるところでは、一方、プロイセン側は、メッテルニヒ氏の覚書への回答を用意し、その調子は激烈だったそうです。しかし、それを見せられたロシア皇帝は、送付を望まなかったといいます。
カスルレー卿は、道を失い、見つけ直せない旅人のようです。ポーランド問題を、小さなものにしてしまい、その問題で、むなしく全力を使い果たしたこと、私たちが警告したにもかかわらず、プロイセンに欺かれ、ザクセンを渡してしまったことを恥じ、もはや、どうすればよいか、分からなくなっています。そのうえ、イギリスの世論の状態も気にかけており、議会の再開に合わせて帰国し、クランカーティ卿を当地に残して、交渉を続けさせるつもりだ、といわれています。
イタリアの問題は、かなりよい方向へ進んでいます。パルマについて、エトルリア王妃が、大公女マリー=ルイーズに対して、有利な結果を得ると期待する、根拠があります。また、私は、教皇使節管区に手をつけず、これらの取り決めができるよう、事を運ぼうとしています。
席次に関する委員会には、ラ・トゥール・デュ・パン氏を任命し、陛下が、この件について定められたものに従う訓令を、与えました。この委員会は、おそらく、十日から十二日のうちに、報告できるでしょう。
メッテルニヒ氏に送った手紙は、陛下には、少し長く思われるかもしれません。しかし、これ以上、短くすることはできませんでした。いつか公表され、フランスだけでなく、イギリスでも読まれる可能性を、考えて書いています。用いた言葉には、一つ一つ、特別な目的があります。それは、私の膨大な書簡の中に、陛下が、見いだされるでしょう。
謹んで……
第十三号第三信――国王ルイ十八世から、タレーラン公へ。
パリ、一八一四年十二月二十三日。
親愛なる従兄よ、
第十六号を受け取った。ザクセン=コーブルク公と、ミュンスター伯爵の、気高く毅然とした行動を知り、たいへん満足した。私が、後者を高く評価していることは、そなたも知っている。公爵も、私たちとの親族関係に加え、私が、たいへん親しく思う、ヴュルテンベルクのアレクサンダー公爵夫人[448]の兄弟である。しかし、その満足によっても、覚書が署名されなかったことへの遺憾は、消えない。「言葉は飛び去るが、書かれたものは残る」(Verba volant, scripta autem manent)のだ。アダム・チャルトリスキ公との会話にも、満足している。前便で読んだとおり、私は、結婚の問題について、最終的な返答を望んでいる。しかし、それに、取引の性格を与えるつもりは、まったくない。
奴隷貿易の問題は、よい状態にあると思う。私にとって、はるかに身近なナポリの問題については、リシュリュー公爵がウィーンを発つとき、たいへん不都合な噂が出回っていた。私信でも裏づけられているが、そなたが、この点に触れていないため、信じることはできずにいる。オーストリアが、公然とミュラを支持し、イギリスも、同じ側へ引き込もうとしている、という噂である。カスルレー卿への、そなたの手紙と、それを受けて、私が命じた働きかけの結果によって、何を期待し、何を恐れるべきか、まもなく明らかになるだろう。その手紙で提案していることは、申し分ない。しかし、ミュラになされた、ある種の約束には、不安がないわけではない。たとえ、最も明白な証拠が見つかっても、そうなるかどうか、私には確信がないのだが、ボナパルトは、最後の時期に、多くのものを破棄させたからである、ともかく、たとえ見つかっても、狡猾な政治は、どんなことからも、自分に都合のよい結論を引き出す術を知っている。これは、あまりによく知られたことだ。どうであれ、進み続けよう。私は、一歩たりとも、退くことはない。
ジェクス地方の一部[449]の交換に同意したのは、ベルン州の利益のためだった。しかし、付した条件を受け入れないのであれば、いかなる同意も、拒む。義弟である国王[450]から、さらに何かを奪う取り決めにも、同じく同意しない。それでは、親愛なる従兄よ、神が、その聖なる尊い庇護のうちに、そなたをお守りくださるよう祈る。
ルイ。
第二十一号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。
ウィーン、一八一四年十二月二十七日。
伯爵殿、
オーストリアは、会議に派遣された国王の大臣たちが、毅然として支えるよう命じられた方針へ、引き戻されたと、確認できると思います。国王の大使団は、訓令に示された原則の線に従うことで、ウィーンの政府を立て直し、それまで欠けていた力強さを与えるうえで、大きく貢献しました。
プロイセン側は、かなり強い調子の覚書で、ザクセンの編入を弁護しました。メッテルニヒ公は、それに回答し、初めて、連合の一員としての立場を離れて、自分の覚書を、私たちに伝える勇気を示しました。
タレーラン公は、この機会を利用し、フランス政府の政策の真の原則を示すとともに、現在も、そして今後も、常に、その行動を導くものを、知らせるべきだと考えました。この回答の覚書は、カスルレー卿とヴレーデ公にも、伝えられました。
タレーラン公は、国王宛ての手紙に、これらの文書の写しを添えています。
伯爵殿、カスルレー卿宛ての手紙には、簡明で正確な論理が含まれていることに、ご留意ください。それは、真実と正義は、一体であり、これまで彼が用いてきた手段と論証では、勝利を得られないことを、この大臣に感じさせるはずです。
聞くところでは、フランツ皇帝は、アレクサンドル皇帝から、再び迫られ、プロイセン政府の覚書を読んだかと、尋ねられました。フランツ皇帝は、注意深く読んだ、読む前から、すでに方針は決めていたが、今では、これまで以上に、ザクセンのプロイセンへの編入には、同意しない決意だ、と答えたそうです。
その後、アレクサンドル皇帝とプロイセン王は、ポーランドの国境問題と、ザクセン問題を扱う全権委員を、任命しました。ロシア皇帝が、ウィーンの宮廷に好まれるであろう人物として、ラズモフスキ伯爵を選んだことに、注目しています。オーストリアは、メッテルニヒ氏が、プロイセンは、ハルデンベルク氏が交渉し、ヴェッセンベルク氏が、議事録を取ることになります。
したがって、この問題は、ようやく、公式に討議されることになります。いくらか異論は出るかもしれませんが、おそらく、ロシアに、きわめて大きな利益をもたらして、終わるでしょう。
さまざまな条約で交わされた約束を実施するため、プロイセン側と、他の政府が示す、異なる統計資料を照合し、調整するために、カスルレー卿は、この仕事を担当する委員会の設置を提案していました。プロイセン側は、フランスの委員を排除するという条件で、同意しました。スチュアート卿が、この無礼な条件を、タレーラン公に伝える役を、任されました。公は、このやり方の不作法さを強く感じ、フランスの委員を認めなければ、フランス大使団は、翌日、ウィーンを去ると宣言しました。さらに、その晩のうちに、返答を求めると付け加えました。返答は、きわめて丁重な形で、フランスの参加を認めるものでした。
メッテルニヒ公は、議長として、この委員会に対し、第一号として添えた訓令を提案しました。タレーラン氏は、第二号の文書で回答し、フランスの委員に、自分の覚書に沿う訓令を渡しました。
委員会の構成員は、次のとおりです。
一、クランカーティ卿。二、ミュンスター伯爵。三、ヴェッセンベルク男爵。四、プロイセンの国務参事官ヨルダン氏。五、ホフマン氏[451]。六、ダールベルク公爵。七、書記として、マルタン男爵。
プロイセンの委員たちは、同時に、ロシアの委員としての資格も示しました。しかし、第二回の会合では、ロシアのために、アンシュテット男爵が、加わることが知らされました。
各会合の議事録を、外務省へお送りいたします。
案件の、この全般的な状況から、ロシアは、ポーランドの国境問題を決着させ、自分の望むものを得た後は、プロイセンのための尽力を弱めるだろう、という期待が保たれています。
ヴュルテンベルク王は、こうした遅延のすべてに疲れ、自国の首都へ戻るため、昨日、この首都を離れました。
王は、ザクセンのプロイセンへの編入に同意する、個別の協定に署名した、という噂が広まりました。しかし、その大臣ヴィンツィンゲローデ伯爵は、ダールベルク公爵に、それは事実ではなく、オルデンブルク大公妃と、まもなく結婚しようとしている、ヴュルテンベルク王太子の発言だけが、その噂のもとになったのだろう、と請け合いました。
なお、ドイツ人たちは、この結婚を、残念に思っています。ロシアに、自分たちを不安にさせる意図があると、感じ始めているからです。
実際、ヴュルテンベルク王太子は、シュタイン男爵と結びつき、その英雄となっています。二人は、それぞれが自分の役割を占める憲法を、共同で作っています。この策謀は、おそらく、ドイツのほかの国々の目を開かせ、すべての国が欺かれかねない憲法よりも、一種の軍事同盟を選ぶ方向へ、動かすでしょう。
イタリアの問題と、航行の問題では、まだ、何も進んでいません。しかし、位階と席次についての委員会は、二度、集まりました。作業の対象について、かなり長く討議した後、大部分の条項で、合意に達しました。海上での敬礼に関する条項には、イギリスの委員が異議を述べました。しかし、彼が持ち出したのは、アメリカだけでしたから、アメリカに関することを切り離しておくと提案すれば、イギリスが、本当に、この問題で、アメリカだけを念頭に置いていたのか、判断できるでしょう。陛下が与えられた訓令の原則が、この作業の基礎となっており、その原則の適用と、みなすことができます。
最後に、プロイセンの新聞の、反論すべき記事に、外務省の注意を促しておきます。
『ニュルンベルク通信』第三五五号は、『アーヘン新聞』から取った、きわめて不適切な二つの記事を、掲載しています。
過去六十年間、プロイセンが、どのように行動してきたかを、ドイツの読者に知らせ、事実だけを挙げて、この国の方針から、フランスが距離を置くべき理由を説明するのが、よいでしょう。
次のことを、指摘しなければなりません。プロイセンにとっては、どの口実も役に立ち、何の良心のためらいも、その行動を止めず、自分の都合が、そのまま権利となること。この六十五年間に、四百万に満たなかった臣民を、千万に増やしたこと。そして、あちらこちらに領土を獲得し、その間を隔てる土地を編入して、つなぎ合わせようとすることで、いわば、巨大な君主国の骨組みを作り上げたこと。野心によって招いた、恐るべき転落にも、懲りなかったこと。今なお、ドイツが動揺しているのも、プロイセンと、その働きかけのせいであること。フランケンで、編入の方針を最初に進めたのも、バーゼルで、革命への抵抗の方針から最初に離れたのも、プロイセンであり、ライン左岸の喪失を促したのも、この国だけだったことなどです……。
新たな戦争の結果によって、フランスの平穏が脅かされるという威嚇には、強く反論すべきです。(伯爵殿、これらの記事は、小規模な新聞にだけ掲載すべきことに、ご留意ください。)
敬具……。
第十八号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。
ウィーン、一八一四年十二月二十八日。
陛下、
私がメッテルニヒ氏に、写しを陛下へお送りした、あの書簡を書いていた間に、プロイセン側は、彼の十二月十日付の覚書に回答していました。彼らは、彼が十月二十二日に送った覚書を持ち出し、彼の発言同士の矛盾を突いていました。また、権威ある意見や先例によって、ザクセンに対する要求を正当化しようとし、とりわけ、メッテルニヒ氏が根拠とした計算の正確さを、争っていました。
カスルレー卿は、私に見せる許可を得た、このプロイセン側の回答を持って、訪ねてきました。(この回答は私にも渡されることになっていますので、次の急使で、陛下にお送りいたします。)彼は、それを読み上げました。私は、その議論を詭弁だと述べました。そして、事情も時代も同じではない以上、持ち出された権威ある意見には重みがなく、先例にも説得力がないことを、示しました。今度は、私が、メッテルニヒ氏宛ての書簡[452]を、カスルレー卿に読んでもらいました。彼は、きわめて落ち着いて、最後まで読み、賛成とも反対とも、一言も言わずに、返しました。
彼が訪ねてきた目的は、プロイセンとオーストリアが、それぞれ提出した計算を検証する委員会の設置を、提案したいという話でした。私は、それには何の異存もないが、これまで、ほかの多くの問題についてしてきたように、原則も規則もなく、行き当たりばったりで進めるなら、何の結果も得られない、と答えました。したがって、まず原則を定める必要があり、計算の検証に先立って、ザクセン王の権利を認めなければならない、そのために、彼とメッテルニヒ氏と私との間で、短い協定を結んでもよい、と述べました。「協定ですか」と、彼は言いました。「それでは、同盟を提案なさるのですか。」「この協定は」と、私は答えました。「同盟なしでも、十分に結べます。しかし、お望みなら、同盟にしてもよいのです。私には、何の抵抗もありません。」「しかし、同盟は戦争を前提とするか、戦争に至るおそれがあります。われわれは、戦争を避けるために、あらゆる努力をしなければなりません。」「私も同感です。名誉と正義、そしてヨーロッパの将来を犠牲にすること以外なら、あらゆることを、しなければなりません。」「わが国では、戦争は、よく思われないでしょう」と、彼は答えました。「大きな目的、真にヨーロッパ全体のためになる目的を掲げれば、貴国でも、戦争は支持されるでしょう。」「その目的とは、何でしょう。」「ポーランドの再建です。」彼は、この考えを退けず、ただ、「まだ、その時ではありません」と答えました。もっとも、私が話をこの方向へ持っていったのは、彼の腹を探り、ある事態を仮定した場合に、何をする用意があるかを、知るためにすぎませんでした。「協定でも、覚書でも、あなたとメッテルニヒ氏と私が署名する議定書でも、よいのです」と、私は言いました。「ザクセン王の権利を認めるのであれば、形式は、どれでもかまいません。重要なのは、そのこと自体だけです。」「オーストリアは、ザクセン王の権利を、公式に認めています」と、彼は答えました。「あなたも、公式に認めています。私も、公然と認めています。それなのに、あなたが求めるような文書が必要なほど、われわれの間には、大きな違いがあるのでしょうか。」私たちは、それぞれが全権委員を一人ずつ指名する委員会の設置を、彼が提案することに合意して、別れました。
翌朝、彼は、スチュアート卿を私のもとへ遣わし、委員会の設置には、全員が同意しているが、フランスの全権委員を加えることにだけ、反対がある、と伝えてきました。「誰が反対しているのですか」と、私は、スチュアート卿に強く尋ねました。彼は、「兄ではありません」と答えました。「では、誰ですか」と、私は重ねて尋ねました。彼は、ためらいながら、「それは……その……」と言い、ついに、「連合諸国」という言葉を、口ごもりながら発しました。この言葉を聞いて、私は、もはや我慢ができなくなりました。言葉遣いでは、守るべき節度を越えませんでしたが、その口調には、熱意どころか、激しさをも越えるものが、こもりました。私は、今のような状況で、イギリス国民のような国民を代表する大使たちに、ヨーロッパが、当然、期待していたはずの振る舞いを、述べました。次いで、ウィーンに来て以来[453]、カスルレー卿が、一貫して行ってきたことに触れ、その行動は、知られずにはすまないこと、イギリスで判断を下されること、どのような判断が下されるかを述べ、それが、彼自身に、どのような結果をもたらすかを、示唆しました。スチュアート卿自身についても、プロイセン側への肩入れを、同じくらい厳しく批判しました。そして、最後に、もし彼らが、いつまでもショーモンの人々のままで、連合を組み続けようというのなら、フランスは、自らの尊厳を守るため、会議から退かなければならず、予定されている委員会が、フランスの全権委員を招かずに設置されるなら、陛下の使節団は、一日たりともウィーンには、とどまらない、と宣言しました。スチュアート卿は、うろたえ、不安そうな様子で、兄のもとへ駆けていきました。私も、その少し後で、彼の後を追いました。しかし、カスルレー卿は、留守でした。
その晩、カスルレー卿から、すべて自筆の短い手紙を受け取りました。弟から、私の希望を聞き、すぐに同僚たちに伝えたところ、私の意にかなうことだと知って、全員が、たいへん喜んで同意した、と知らせてきました。
同じ晩、日中に私が会っていたメッテルニヒ氏は、委員会の設置に参加する諸国に、私が示唆した提案をしました。それは、委員会の行う評価に、確定判決と同じ権威と効力を認めると、合意しておくことでした。彼は、さらに二つの提案を加え、私は、すぐに賛成しました。一つは、評価の対象を、フランスと、その同盟国から征服した、すべての領土とすること。もう一つは、人口だけを、評価の基準とすることでした。ただし、私は、人口は、数だけでなく、その性質によっても評価する、という条件を加えるよう、求めました。というのも、資本も土地も生産活動も持たないポーランドの農民を、ライン左岸や、ドイツでも、最も肥沃な、あるいは最も富んだ地方の住民と、同列に扱うべきではないからです。
人口の「性質」を評価するという比較は、この書簡におけるタレーランの主張を訳したもの。
私は、委員として、ダールベルク氏を選びました[454]。委員会は、翌日には集まり、休みなく作業しています。クランカーティ卿は、ここでも、彼が同じく委員を務めるイタリア問題の委員会で示したのと同じ熱意、同じ誠実さ、同じ断固たる態度を、発揮しています。
公平のために、言っておかなければなりません。この件で、カスルレー卿が示したのは、悪意というより、弱さでした。しかし、彼が代弁した反対は、プロイセン側だけから出たものでしたから、その弱さは、なおさら、弁解の余地がありません。
メッテルニヒ氏宛ての私の覚書は、二つの点で、オーストリアの内閣に、歓迎されました。フランスは、自国のためには何も要求せず、何も求めない、という宣言と、覚書の結びの宣言です。これを読んだ後、オーストリア皇帝は、ジッキンゲン氏に、「ここに書かれていることは、すべて、私の考えでもある」と言いました。
ロシア皇帝から、メッテルニヒ氏の十二月十日付の覚書に対する、プロイセン側の回答を読んだか、と尋ねられると、オーストリア皇帝は、「読む前から、決心していた。読んだ後では、その決心は、いっそう固くなった」と答えました。さらに、こう付け加えたと、言われています。「できることなら、問題をまとめよう[455]。しかし、あのような弁論書のことは、もう、私に話さないでいただきたい。」
彼は、バイエルン王には、こう言っていました。「生まれはオーストリア人だが、頭はボヘミア人なのだ。」これは、フランスで、ブルターニュ人の頭と呼ぶものに、当たります。「ザクセン問題については、決心がついている。一歩も退かない。」
「ボヘミア人の頭」「ブルターニュ人の頭」は、ここでは頑固さを指す比喩。フランスについての説明は原文の括弧内の語り手による。
私が、メッテルニヒ氏宛ての覚書を見せたチャルトリスキ公は、その写しを作らせ、アレクサンドル皇帝の目に触れさせました。皇帝は、自分自身と、自分の利益に関する部分には、満足しました。フランスだけが、言うことを変えず、自分を欺かなかった国だと、認めています。しかし、自分の原則に忠実でないことを、間接的に責められているようにも感じ、チャルトリスキ公を遣わして、自分の原則は、諸国民の幸福である、と伝えてきました。私は、それなら、フランス革命の指導者たちも、どの時期の、どの人物も、同じ原則を掲げていた、と答えました。皇帝には、また、私たちが望むように、ザクセン王を存続させれば、王が、たいへん不幸になるのではないか、という懸念から、ためらいが生じています。皇帝が王を気の毒に思うのは、すべてを奪われ、捕らわれている、今の境遇についてではありません。やがて王座に戻り、祖先の宮殿に帰った時のことを、気の毒に思っているのです。しかし、このためらいには、もはや、そのような不幸から王を救ってやろうという、以前ほど固い決意[456]は、表れていません。
一方、プロイセン側も、統計委員会の設置に同意し、全権委員を送り込んだことで、ザクセンに対する要求と期待を、明らかに、委員会の作業の結果に従わせたことになります。その結果は、かなりの確率で、ザクセンに有利なものとなるでしょう。
このように、ザクセン問題は、これまでにないほど、よい状況にあります。
ポーランド問題は、まだ、決着していませんが、決着させる話が出ています。ロシア側では、ラズモフスキ伯爵とカポ・ディストリア伯爵が、交渉に当たります。オーストリアの全権委員は、メッテルニヒ氏です。彼は、この協議を、できる限り正式なものにする決意です。ヴェッセンベルク氏が、議事録をつけることになっています。プロイセンの全権委員は、ハルデンベルク氏で、彼一人です。この交渉では、国境だけが問題となりますから、数日もすれば、見通しが立つはずです。
私は、メッテルニヒ氏宛ての書簡を、カスルレー卿に読んでもらいましたが、さらに、写しも送ることにしました。いずれ議会が、彼に提出を求めるかもしれない文書の中に、それを加えておくためです。そして、単なる送付状ではなく、ここに写しを添えてお送りする書簡を、付けました。そこでは、会議が解かなければならない大問題を、新たな形で提示し、最も単純な形に、整理しています。前提は、まったく争う余地がなく、結論も、そこから必然的に導かれるため、何も反論できないように、思われます。したがって、カスルレー卿が、この書簡をメッテルニヒ氏に見せ[457]、かなり困っているようだったと、メッテルニヒ氏から聞いても、私は、驚きませんでした。
イタリアにも、ドイツと同様に、統一派、すなわち、イタリアを一つの国家にしようと望む人々の一派が、存在します。通報を受けたオーストリアは、一晩のうちに、多数の逮捕を行わせました。この事件には、三人の陸軍中将も巻き込まれており[458]、ロザーリ[459]という教授の家から、一派の文書が押収されました。誰がオーストリアに知らせたのかは、分かっていません。ミュラが、関わり合いのあった人々を売り渡し、この宮廷に恩を売ろうとしたのだ、と考える人もいます。
généraux de division は将官の階級を指し、ここでは陸軍中将と訳した。実際の師団指揮職を特定するものではない。
お送りした文書によって、私がナポリ問題を見失っていないことは、陛下にも、お分かりいただけたと存じます。「カルタゴは滅ぼされねばならない」ということも、忘れてはおりません。しかし、そこから着手することは、できません。
原文のラテン語 delenda Carthago を日本語に訳した。
結婚のことも、考えております。事情は、すっかり変わりました。一年前には、陛下が、この縁組を望まれたとしても、今は、ロシア皇帝の方が、望むべき時です。ただ、この点には、詳しい説明が必要ですので、陛下に別途お送りする書簡で、申し上げることを、お許し願います。
この書簡が陛下のお手元に届くころには、新しい年に入っているでしょう。私は、新年を迎える日に、陛下のおそばにいて、謹んで、お祝いと祈りを申し上げる幸せを、得られません。どうか、ここに、それらをお届けすることをお許しくださり、その捧げものを、お受け取りくださいますよう、お願い申し上げます。
謹んで……
第十四号第三信――国王ルイ十八世から、タレーラン公へ。
パリ、一八一四年十二月二十七日。
親愛なる従兄よ、
イギリスと合衆国との間で、二十四日に、平和友好条約が調印されたとの知らせを、たった今、受け取った。この書簡が届く前に、そなたも、きっと知っているだろうし、それに応じて、必要な働きかけを、していることと思う[460]。それでも、急いで、そなたに命じておく。この喜ばしい出来事について、私に代わってカスルレー卿に祝いを述べるとともに、イギリスが、そこから得られる、あらゆる利点に、注意を促してほしい。今や、すべての力を、自由に用いることができるのだから、真に堅固な唯一の土台である公正の上に、ヨーロッパの平穏を確立すること以上に、気高い力の使い道があるだろうか。そして、私と緊密に結びつくこと以上に、それをよく実現できる方法があるだろうか。この問題で、私利を求めていないのは[461]、摂政皇太子と私だけだ。ザクセンは、かつて一度も、フランスの同盟国ではなかった。ナポリは、どの戦争でも、フランスを助けられる立場にさえ、なかった。イギリスとの関係でも、事情は同じだ。確かに、私は、両国王の最も近い親族である。しかし、それ以前に、フランスの国王であり、わが民の父である。ドイツに、ヨーロッパ全体の戦争の芽を植え付けることに、私が同意できないのは、王冠の名誉のため、臣民の幸福のためなのだ。イタリアに、その存在が、すべての君主にとって恥であり、すべての国家の国内の平穏を脅かす簒奪者を、許しておけないのも、そのためだ。摂政皇太子も、同じ思いに動かされている。彼が、その思いに、いっそう力を注げるようになったことを、私は、心から喜んでいる。
ザクセンとフランスの同盟関係についての断言は、国王の書簡の記述をそのまま訳した。
今、私は、国王として話した。次には、一人の人間として話さずには、いられない。本来、予想すべきではないことだが、私が、血のつながりだけを考える場合が、ある。もし、私の従兄たちである二人の国王が、かつて長く私がそうであったように、王笏を奪われ、地上をさまよう身となったなら、私は、すぐに、彼らを迎え入れ、必要なものを与え、世話を尽くして、その不幸に立ち向かうだろう。一言で言えば、幾人もの君主、とりわけ摂政皇太子が、私にしてくれたことを、彼らにもするだろう。そして、その君主たちと同じように、私の心と尊厳を、ともに満たすだろう。しかし、そのような事態は、決して起こらない。一部の君主の寛大さと、すべての君主の真の利益[462]が、確かな保証である。この上は、親愛なる従兄よ、神が、その聖なる、ふさわしいご加護のうちに、そなたを守り給うよう、祈る。
ルイ。
第十五号第三信――国王ルイ十八世から、タレーラン公へ。
パリ、一八一四年十二月二十八日[463]。
親愛なる従兄よ、
第十七号を受け取った。メッテルニヒ氏の覚書を、うれしく思った。これで、ようやく、オーストリアが、はっきりと約束したからだ。しかし、そなたの回答は、それ以上に、うれしく思った。短くすることができたかどうかは、分からないが、私が、それを望まないことは、確かだ。第一に、言うべきことを、すべて述べており、余分なことは、何も述べていないからだ。第二に、考えを、あまりに簡潔に言い表すよりも[464]、少し詳しく展開する方が、交渉において、あれほど有益で、しばしば、あれほど必要でもある、穏やかな物腰が、いっそう感じられるからだ。
カスルレー卿が困っているという、そなたの話は、前の書簡を送った私の判断が、正しかったことを、裏付けている。アメリカとの和平が、面目を失わずに引き返すための、すばらしい出口を与えてくれることに、彼は気付いていないのかもしれない。
エトルリア王妃の問題が、よい方向へ向かっているのは、喜ばしい。しかし、私は、これを、はるかに重大で、千倍も重んじている、もう一つの問題へ向けた、一歩としか考えていない。
ジョクール氏は、ビュチャキン氏[465]から聞いたことを、きっと、そなたに知らせているだろう。ウィーンについて、彼が語ったことの真偽は、私よりも、そなたの方が、確かめやすい立場にいる。しかし、ありそうなことだが、専制政治の下でも[466]、相応の重みを持つロシア国民が、この結婚に、誇りをかけているというのが本当なら、目的を望む者は、その手段も望むものだ、ということを、思い出してもらいたい。私としては、最終条件を伝えたのであり、何も変更しない。
この上は、親愛なる従兄よ、神が、その聖なる、ふさわしいご加護のうちに、そなたを守り給うよう、祈る。
ルイ。
第二十二号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。
ウィーン、一八一五年一月三日。
伯爵殿、
情勢は好転し、オーストリアとイギリスは、国王の使節団が、これまで擁護し、支持してきた方針に、近づいてきました。
ロシアの内閣は、ワルシャワ大公国の分割を定めるための、第二回協議において、自国とプロイセンのための、すべての要求を盛り込んだ条項を、提出しました。
その出発点は、ワルシャワ大公国はロシアに属し、ロシアが、その一部を切り離して、プロイセンとオーストリアに譲る、という原則です。ザクセンのプロイセンへの併合が、明文で定められ、ザクセン王には、ライン左岸で、人口七十万人に相当する代償を与えることが、規定されています。共同で合意して、これらの提案を退けられると、期待してよいでしょう。プロイセンの交渉担当者たちは、対案を求めており、これから、その作成に取りかかります。
イタリア問題は、再び取り上げられる予定です。三週間、待った末に、委員会は、トスカーナやパルマなどの問題に関する、オーストリアの意見書を、受け取りました……。
スイス問題についての報告は、そのために集まる委員会で、明日、討議されます。ジェクス地方を交換するという提案は、退けられるでしょう。
ロシア皇帝は、自分が取った立場に、困っています。皇帝自身は、タレーラン公に、ポーランドとザクセンの問題を扱う委員会での討議に、フランスが参加することを望む、と言っていました。ところが、その翌日、皇帝の大臣であるラズモフスキ伯爵は、タレーラン公の協議への出席を、拒みました。この君主の進め方は、このように、一貫していません。
それでも、皇帝が、要求の一部を撤回することは、なお、期待してよいでしょう。ザクセン王は、領土の半分を失うことを、受け入れなければならないと、予想されています。しかし、王を存続させるという原則は、守られるでしょう。また、ロシアが編入しようとしているワルシャワ大公国の部分から、さらに得られるものがあれば、その分だけ、連合諸国間の諸条約で、プロイセンに有利に定められた取り決めを、必然的に減らすことになるでしょう。
敬具……
第十九号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。
ウィーン、一八一五年一月四日。
陛下、
先月二十三日付で、陛下が、かたじけなくも賜った書簡を、拝受いたしました。
今月二十一日、あの恐怖と永遠の悲しみの日が、再び巡ってくる日に、ウィーンの主要な教会の一つで、荘厳な贖罪の追悼礼拝を執り行います。私は、その準備を進めさせています。この手配を命じたのは、ただ、自分の心の衝動に従ったからだけではありません。陛下の大使たちは、フランスの悲しみを代弁し、異国の地で、ここに集まったヨーロッパの目の前で、それを、はっきり示さなければならない[467]と、考えたからでもあります。この悲しい儀式では、すべてが、その目的の重大さ、フランス王冠の偉大さ、そして、立ち会う人々の地位に、ふさわしくなければなりません。会議の全参加者を招きますし、彼らが出席することも、確かめてあります。オーストリア皇帝は、出席する旨を、伝えてきました。ほかの君主たちも、きっと、その例に倣うでしょう。ウィーンで、最も名のある男女は、皆、出席を、自分の務めとするでしょう。費用がいくらかかるかは、まだ、分かりません。しかし、これは、必要な支出です。
イギリスとアメリカ合衆国との和平調印の知らせは、元日に、カスルレー卿の短い手紙で、届きました。私は、すぐに祝いを伝え、自分でも、喜びました。この出来事が、彼の考えにも、また、それまで、私たちが要求を退けようとしてきた人々の決断にも、どれほどの影響を及ぼし得るかが、よく分かったからです。カスルレー卿は、条約を見せてくれました。どちらの当事国の名誉も傷つけておらず、したがって、両国とも、満足させるでしょう。
この喜ばしい知らせは、それにも増して喜ばしい出来事の、前触れにすぎませんでした。
連合の精神も、連合そのものも、パリの和平の後まで、生き残っていました。これまでの私の書簡は、その証拠を、繰り返し、陛下にお示ししてきました。ここに着いた時に、すでに作られていた計画が実行されていたなら、フランスは、半世紀にわたって、ヨーロッパで孤立し、一つとして、よい関係を持てなかったかもしれません。私の努力は、すべて、このような不幸を防ぐことに、向けられていました。しかし、最も大きな期待を抱いた時でさえ、完全に成功できるとまでは、思っていませんでした。
今や、陛下、連合は解消しました。しかも、永久に、解消したのです。フランスが、もはやヨーロッパで孤立していないだけではありません。陛下は、すでに、五十年、交渉を続けても、得られそうになかった[468]、同盟体制を、お持ちです。陛下は、二つの大国と、三つの第二級の国家と、歩調を合わせており、やがて、革命的な原則や方針とは異なる原則と方針に従う、すべての国家とも、そうなるでしょう。陛下が、真っ先に宣言された原則を守るために結ばれた、この連合の、真の指導者、その精神となられるのです。
これほど大きく、喜ばしい変化は、陛下のご帰還[469]にも、あれほど明白に表れた、神の摂理のご加護によるものとしか、考えられません。
神のお力の次に、この変化を、実際にもたらした原因は、次のとおりです。
メッテルニヒ氏とカスルレー卿に宛てた私の書簡と、それらが与えた印象。
前の書簡で陛下にご報告した会話の中で、フランスとの合意について、私がカスルレー卿に行った示唆。
フランスの名において、まったく私利を求めない姿勢を示し、彼の疑念を鎮めようと、努めたこと。
アメリカとの和平によって、その方面での困難から解放され、いっそう自由に行動できるようになり、勇気を得たこと。
そして最後に、ここに写しを添えてお送りするロシア案に記された、ロシアとプロイセンの要求、とりわけ、両国の全権委員と、オーストリアの全権委員との協議で、その要求を持ち出し、主張した際の口調です。この無礼で、意味の取りにくい文書の、傲慢な口調は、カスルレー卿を、ひどく憤慨させました。彼は、いつもの冷静さを失い、ロシア側は、命令を押し付けるつもりなのか、イギリスは、誰からも命令を受ける国ではない、と宣言したのです。
これらすべてが、彼の気持ちを整えていました。私は、その気持ちを利用して、長く話してきた合意を、強く求めました。彼は、自分の考えを書いてみようと、申し出るほど、熱意を示しました。この会話の翌日、彼は、私を訪ねてきました。その考えが、条項の形にまとめられているのを見て、私は、うれしい驚きを覚えました。
それまで私は、彼を、ほとんど褒めていませんでした。そのため、彼は、自分の案について、私が述べた賛辞を、いっそう強く受け止めました。彼は、メッテルニヒ氏と私に、注意深く読んでほしい、と求めました。その晩[470]、いくつかの文言を直した後、私たちは、それを協定の形で、採択しました。幾つかの条項は、もっと丁寧に書けたでしょう。しかし、意志の弱い人々を相手にする時は、急いで、まとめなければなりません。私たちは、昨夜、署名しました。急いで、陛下にお送りいたします。
陛下は、これまでの書簡で、一般的な権限を、また、十月二十五日の特別訓令では、具体的な権限を、私にお与えくださいました。オーストリアとバイエルンに、最も積極的な協力を約束し、したがって、戦争の場合に、両国に対抗する戦力によって、必要になると予想される援助を、両国のために取り決める権限です。イギリスが中立を保つ場合でも、陛下は、その権限を、お与えでした。ところが、今日、イギリスは、積極的な当事国となり、連合州とハノーファーも、ともに参加します。これによって、フランスの立場は、きわめて優れたものとなります。
デュポン将軍は、十一月九日付の書簡で、新たな徴兵を行わなくても、陛下は、一月一日には、十八万人の兵を自由に用いることができ、三月には、さらに十万人を加えられる、と知らせてきました。そこで私は、十五万人の援軍を約束しても、差し支えないと考えました。イギリスが、同じ数の兵力を出すと約束する以上、この点で、フランスが、それを下回るわけには、いきませんでした。
この合意は、防衛の場合だけを対象としていますから、援助を提供しなければならないのは、攻撃を受けた場合だけです。そして、ロシアとプロイセンは、そのような危険を冒そうとはしない、と考える十分な理由があります。
もっとも、その場合も、起こり得ますし、軍事協定が必要になるかもしれません。そこで、私を補佐するため、リカール将軍[471]を派遣するよう、お命じくださいますことを、陛下にお願い申し上げます。彼は、ダルマティア公爵元帥の信任を得ています。長くポーランド、とりわけワルシャワにいたため、この種の取り決めに、たいへん役立ち得る現地の知識を、持っています。また、その功績と能力について聞いた評価から、私は、ほかの誰よりも、彼を望みます。ただし、身分を明かさずに来ること、陸軍大臣が、必要な文書を与えた後、最も厳重な秘密を守るよう、言い含めることが、必要です。聞くところでは、礼儀をわきまえた人物ですので、陛下が適当とお考えなら、直接、お命じになることも、できるでしょう。
協定の批准書を作成し、できる限り速やかに、私に送るよう、お命じくださいますことを、陛下にお願い申し上げます[472]。陛下は、きっと、ジョクール氏に、この仕事には、秘密を守ることが、最も確かに実証されている者だけを使うよう、言い渡す必要を、お感じになるでしょう。
オーストリアは、疑念を起こさせないため、今は、パリに急使を送ることを望んでいませんが[473]、自国の公使には、協定を知らせたいと、考えています。そこで、ジョクール氏からヴァンサン氏に、きわめて厳重に秘密を守るべきものだと告げて[474]、読ませてほしい、と望んでいます。
その後、陛下が、これまで私がお送りした文書の集成に、この二つの文書も、お加えくださるよう、願っております。
私たちが、今、結んだ合意の目的は、パリ条約の真の精神に、最もよくかなう方法で、ヨーロッパの利益を、最大限に図りつつ、同条約の規定を完成させることです。
しかし、もし戦争が起きたなら、その成功を、ほぼ確実にし、ヨーロッパに、計り知れない利益をもたらすような目的を、与えることができるでしょう。
フランスは、気高く戦われる戦争の中で[475]、すべての国民の尊敬と信頼を、完全に取り戻すでしょう。そのような獲得は、一つ、あるいは幾つかの地方を征服することに、勝ります。幸い、そのような領土の所有は、フランスの実際の力にも、繁栄にも、必要ではないのです[476]。
謹んで……
付録
ここに、一八一五年一月三日の協定の文面を、掲げる。タレーラン氏の文書の中には、彼が書簡で言及する、ほかの文書と同様に、この協定の写しも、見つからなかった。しかし、この協定は、イギリスの『国家文書集』に公表されているので、そこから採った。続いて、当時、この協定が、どのように知られるようになったかについて、タレーラン氏が、一部は知らず、一部は忘れていた、幾つかの事情を、記すことにする。
一八一五年一月三日、ウィーンにおいて、オーストリア、フランス、およびグレートブリテンの間で締結された、秘密防衛同盟条約。
至聖にして不可分なる三位一体の名において。
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国国王陛下、フランスおよびナヴァール国王陛下、ならびにオーストリア皇帝、ハンガリーおよびボヘミア国王陛下は、パリ条約の規定を完成させるべき諸国が、このように重要な義務を、忠実に、また、尊厳をもって果たすためには、完全な安全と独立の状態に、置かれなければならないと、確信する。したがって、最近、表明された要求に鑑み、正義と公正の原則に基づき、共同の合意によって、提案し、支持することを義務と考えた提案への反感から、自国の領土、または、そのいずれか一国の領土が、受けるおそれのある、あらゆる攻撃を退ける手段を、備えることが必要であると、考える。また、パリ条約の真の目的と精神に、できる限りかなう方法で、その規定を完成させることを、同じく切望する。以上の目的のために、相互に、厳粛な協定を結び、防衛同盟を締結することを、決意した。
これに基づき、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国国王陛下は、この目的のため、全権委員として、閣下、ロバート・スチュアート、カスルレー子爵を、任命した……。
フランスおよびナヴァール国王陛下は、シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール、タレーラン公を……。
また、オーストリア皇帝、ハンガリーおよびボヘミア国王陛下は、クレメンス=ヴェンツェル=ロタール、メッテルニヒ=ヴィンネブルク=オクセンハウゼン公を……。
これらの全権委員は、全権委任状を交換し、それぞれが、正式かつ適正な形式であると認めた後、次の条項に、合意した。
第一条――締約国は、相互に、また、各国は、他の各国に対して、最も完全に私利を離れ、最も十分な誠実さをもって、共同で行動することを約束する。その目的は、パリ条約の履行に当たり、その規定を完成させるべき取り決めが、同条約の真の精神に、できる限りかなう方法で、実施されるようにすることである。
その結果として、共同の合意によって行い、支持した提案への反感から、いずれかの締約国の領土が攻撃された場合、三国は、その時、その場合において、三国すべてが攻撃されたものとみなし、共通の立場に立ち、以下に定めるすべての戦力によって、その攻撃を退けるため、相互に援助することを、約束し、義務とする。
第二条――本同盟を発動させ得る唯一の理由である、前記の理由によって、締約国の一国が、一国または複数国から、脅かされる場合、ほかの二締約国は、友好的な介入によって、その力の及ぶ限り、攻撃を防ぐよう、努めなければならない。
第三条――そのための努力が、効果を上げなかった場合、締約国は、それぞれ十五万人の部隊をもって、攻撃された国の救援に、直ちに赴くことを、約束する。
第四条――各援軍は、それぞれ、歩兵十二万人、騎兵三万人、および、その兵力に見合う砲兵と弾薬の輸送隊で、構成される。
援軍は、攻撃され、または脅かされている国の防衛に、最も効果的に貢献するため、その派遣を要請された後、遅くとも六週間以内に、作戦を開始できる用意を、整えなければならない。
第五条――戦場となり得る国々の位置、または、ほかの事情によって、イギリスが、定められた期間内に、約束した援軍を、イギリス兵で提供し、これを戦時体制に維持することが、困難になる場合がある。そのため、イギリス国王陛下は、援助を求める国に対し、自国の負担兵力を、イギリスが給与を支払う外国兵で提供する権利、または、同国に、歩兵一人につき二十ポンド・スターリング、騎兵一人につき三十ポンド・スターリングの割合で算定した金額を、約束した援助が満たされるまで、毎年、支払う権利を、留保する。
グレートブリテンが援助を提供する方法は、要請がなされ次第、個々の場合について、イギリス国王陛下と、脅かされている国との間で、友好的に決定する。
第六条――締約国は、戦争が起きた場合、その性質と目的に、最も適した協力体制を、友好的に取り決めることを、約束する。また、その方法によって、作戦計画、あらゆる便宜を図るべき指揮権に関する事項、それぞれ投入される部隊の作戦線、これらの部隊の行軍、ならびに食糧と飼料の補給を、定める。
第七条――約束した援助が、情勢の要求に見合わないと認められた場合、締約国は、提供する必要があると判断される追加援助を定める、新たな取り決めを、できる限り短い期間内に、相互に結ぶ権利を、留保する。
第八条――締約国は、相互に、次のことを約束する。前記の援助を提供した国が、そのために、援助の対抗対象となった国と、直接の戦争に入った場合、援助を要請した国と、補助国として戦争に参加した、援助を要請された国々は、共同の同意によらなければ、和平を結ばない。
第九条――本条約によって負う約束は、締約国、または、そのいずれか一国が、すでに負っている約束を、何ら損なわず、また、ほかの国々との間で、今後、結ぼうとする約束を、妨げない。ただし、それらが、現在も将来も、本同盟の目的に反しないことを、条件とする。
第十条――締約国は、領土拡張の意図を一切持たず、独立国家としての権利の行使と義務の履行において、相互に保護し合うことだけを望む。したがって、神が許し給わぬことを願うが、戦争が起きた場合、和平の際に、それぞれの領有地の性質、範囲、および国境を定めるものとして、パリ条約の効力を認めることを、約束する。
第十一条――締約国は、さらに、情勢の許す限り、前記のパリ条約の原則と規定に従い、その他のすべての事項を、共同の合意によって定めることに、同意する。
第十二条――締約国は、本協定により、相互に合意する時期と条件の下で、ほかのいかなる国にも、本条約への加入を招請する権利を、留保する。
第十三条――グレートブリテンおよびアイルランド連合王国国王陛下は、本条約が対象とする戦争の場合に、攻撃を受け得る領有地を、ヨーロッパ大陸に持たない。したがって、締約国は、前記の戦争が起こり、ハノーファー国王陛下の領土、または、現在、その統治下にある地域を含む、連合州の主権公殿下の領土が攻撃された場合、自国の領土が攻撃された場合と同じように、その攻撃を退けるために行動する義務を負うことに、合意する。
第十四条――本協定は批准され、その批准書は、六週間以内に、または、可能ならば、それより早く、ウィーンにおいて交換される。
以上の証として、それぞれの全権委員は、本協定に署名し、その紋章印を押した。
恩寵の年、一八一五年一月三日、ウィーンにて作成。
カスルレー。メッテルニヒ公。タレーラン公。
別個の秘密条項。
締約国は、本条項により、バイエルン王、ハノーファー王、および連合州の主権公に対し、それぞれが提供する援助の数量について、合理的な条件の下で、本日付の条約への加入を招請することに、特に合意する。締約国は、その側から、バイエルン、ハノーファー、およびオランダに有利な、諸条約のそれぞれの条項が、全面的かつ完全に効力を発揮することを、約束する。
ただし、前記の国の一つが、上に述べたとおり加入を招請された後で、それを拒んだ場合、その国は、本日付の協定の規定によって、要求できたであろう利益に対する、すべての権利を失ったものとみなされることを、了解する。
この別個の秘密条項は、本日付の協定に、一語一句、そのまま挿入されている場合と同じ効力と価値を持つ。批准を受け、その批准書は、同時に交換される。
以上の証として、それぞれの全権委員は、本条項に署名し、その紋章印を押した。
一八一五年一月三日、ウィーンにて作成。
(以下、署名。)
タレーラン氏の書簡で見たとおり、ルイ十八世は、一月三日の協定の写しを受け取った。秘密にされていた、この協定の原本は、パリの外務省に保管されていた。ナポレオン皇帝がエルバ島から戻った時、同省のある上級職員が、皇帝に取り入ろうとして、その協定を持参したと、言われている。別の説では、ナポレオンは、ルイ十八世自身の書き物机の中で、協定を見つけたという。この二つの説の、どちらに、どれほど信憑性があるかは、ともかく、ナポレオンが協定を知り、少しの猶予もなく、それを利用しようとしたことは、確かである。
ルイ十八世に派遣されていた外国の外交団は、ナポレオン皇帝がパリに入ると、間もなく、全員、この首都を去った。ロシア公使館の職員ビュチャキン氏、すなわち、タレーラン氏の書簡の一つで言及されている、あの人物は、滞在を延ばしていた。外務大臣となったヴィチェンツァ公は、彼を呼び出し、ロシア皇帝に届けたい重要な知らせがあると述べ、遅滞なく持参することを条件に、それを引き受ける気があるかと、尋ねた。ビュチャキン氏は承諾した。数時間後、ヴィチェンツァ公は、協定の写しと、一通の書簡を入れた包みを、渡した。その書簡は、アレクサンドル皇帝を欺く、不実な同盟者たちへの怒りを、かき立てようとするものだった。ナポレオンは、この方法で、連合を分裂させられると、考えたのである。
ビュチャキン氏は、一八一五年四月の初めに、ウィーンに着いた。その到着後、間もなく、アレクサンドル皇帝は、メッテルニヒ氏を呼び寄せ、協定の写しを見せながら、「これを知っているか」と言った。しばらく、オーストリアの大臣の困惑を楽しんだ後、皇帝は、穏やかに、こう言った。「しかし、すべて、忘れよう。今は、共通の敵を倒すことが問題なのだ。彼自身が私に送ってきた、この文書は、彼が、どれほど危険で巧妙かを、証明している。」そして、そう言いながら、アレクサンドル皇帝は、文書を火に投じた。また、今、起こったことを、タレーラン氏には何も伝えないよう、メッテルニヒ氏に約束させた。メッテルニヒ氏は、この厄介な場面を、これほど軽く切り抜けられたことを喜び、約束して、沈黙した。
アレクサンドル皇帝は、まだ、メッテルニヒ氏を必要とすると考え、この危うい場面で、彼に手加減した。しかし、タレーラン氏に対しては、同じではなかった。一月三日の協定について、一言も語らず、おそらく、復讐を、別の機会に取っておいたのである。実際、ワーテルローの戦いと、国王のパリ帰還の後、ロシアの全権委員たちは、前年には、あれほど融和的で、同僚たちのフランスに対する要求を、常に和らげようとしていたのに、今や、彼らと同じくらい、扱いにくくなった。ロシアの全権委員たちが、ほかの国々の法外な要求に対して、ある程度、フランスの味方をするようになったのは、タレーラン氏が退き、リシュリュー公が入閣してからに、すぎなかった。(バクール氏の注。)
第二巻 終
第二巻 目次
第六部
一八〇九―一八一三年 003
第七部
帝政の崩壊――王政復古 129
付録 257
第八部
ウィーン会議(一八一四―一八一五年) 275
付録 561
パリ――シェ印刷所、ベルジェール通り二〇番地。――3196-2-91。
注
[1] アレクサンドル=エドモン・ド・タレーラン=ペリゴール。一七八七年八月二日生まれ。後にディノ公、さらに後には、タレーラン=ペリゴール公。
[2] フランソワーズ・ド・タレーラン=ペリゴール。著者の弟で、初めタレーラン=ペリゴール伯爵、後に公爵となった、アルシャンボー=ジョゼフの娘。一七八五年生まれ。一八〇三年、皇帝の侍従を務め、後にポワ公となる、ジュスト・ド・ノアイユ伯爵と結婚した。一八六三年没。
[3] シャルロット=ドロテ、メデム伯爵夫人。クールラントおよびゼミガリアの最後の公爵ピエールの未亡人。一七六一年二月三日生まれ。一七七九年十一月六日結婚。一八〇〇年一月十三日に夫と死別。一八二一年八月二十日没。
[4] ドロテ、クールラント公女。一七九三年八月二十一日生まれ。一八六二年没。
[5] シャルル・ルブラン。一七三九年生まれ。一七六八年、公債利子支払官および王領総監となった。大法官モープーの友人で、忠実な協力者だった。一七七四年に罷免された。三部会の第三身分の代議員、次いでセーヌ=エ=オワーズ県行政官を務め、一七九四年に逮捕されたが、テルミドール九日の後になって、ようやく釈放された。一七九六年、元老会議議員に選ばれた。ブリュメール十八日の後、第三統領となり、一八〇四年に大財務官、一八〇八年にピアチェンツァ公、一八一〇年にオランダにおける皇帝代理となった。一八一四年、カーンの国王委員、およびフランス貴族院議員に任命された。百日天下の際にも、帝国貴族院議員の地位と、大学総長の職を受けた。一八二四年没。
ピアチェンツァ公の称号について、原文は prince et duc の二つを併記している。
[6] モリアン伯爵。一七五八年、ルーアン生まれ。一七八九年には、財務総監府の首席書記官だった。一七九四年、徴税請負人たちの共犯として逮捕されたが、テルミドール九日によって救われた。ブリュメール十八日に、減債金庫の理事となり、一八〇四年に国務参事官、一八〇六年に国庫大臣となった。一八一四年まで、その職にあり、百日天下の際にも、復帰した。一八一九年、フランス貴族院議員に任命された。一八五〇年没。
[7] ランヌ元帥が戦死したのは、エスリングであり、ヴァグラムではない。
底本の綴りは Linnes。本文の人物名との対応から、ランヌと訳した。
[8] ジュゼッペ・ズルロ伯爵。一七五九年、ナポリ生まれ。一七九八年、財務局長に任命された。一八〇六年、フェルディナンド王に従ってパレルモへ行ったが、一八〇九年にはミュラに合流し、国務参事官、司法・宗務大臣、内務大臣となった。一八一五年、ローマへ避難し、一八二〇年、ナポリへ戻って内務大臣に任命されたが、同年、退かなければならなかった。一八二八年没。
[9] ミシェル・アガール、モスブール伯爵。一七七一年、カオール近郊生まれ。初め弁護士、次いで、この町の教師となった。一八〇四年、立法院に入り、一八〇六年、ベルク大公に任命されたばかりの、同郷のミュラの財務大臣となり、同じ資格で、ナポリへも同行した。王政復古期には引退生活を送り、一八三〇年にロット県選出の代議員、一八三七年にフランス貴族院議員に任命された。一八四四年没。
[10] ドミニク・ペリニョン。初め伯爵、後に侯爵。旧体制の下で、将校だった。立法議会の代議員、次いでピレネー軍の一軍団の指揮官となり、デュゴミエの後を継いで、最高司令官となった。一七九三年に五百人会議議員、一七九六年にマドリード駐在大使となった後、イタリア軍の一軍団の指揮を任されたが、ノヴィで負傷し、捕虜となった。一八〇一年、元老院に入り、一八〇四年、フランス元帥に任命された。その後、パルマおよびピアチェンツァ総督、最後に、ナポリ王国軍の最高司令官となった。一八一四年、フランス貴族院議員に叙され、一八一八年没。
五百人会議議員就任年「1793」は底本の記載を保持した。
[11] ウィリアム・キャヴェンディッシュ・ベンティンク卿(一七七四―一八三九年)。ポートランド公の子。陸軍に入り、一八〇三年にマドラス総督、一八〇八年に陸軍少将となった。その資格で、ポルトガルおよびスペインの戦役に参加した。一八一一年、シチリアのイギリス軍最高司令官に任命された。一八二七年、ベンガル総督、次いでインド総督に任命された。一八三五年、召還された。
[12] ロジェ=ジャン・スヒンメルペニンク伯爵。一七六一年生まれの、オランダの政治家。一七九五年、オランダを揺るがした革命運動に関わった。一七九八年にパリ、一八〇二年にロンドンの駐在大使に任命された。一八〇五年、ナポレオンの働きかけで、オランダの憲法が変更されると、大年金官の職を、受け入れなければならなかった。――ルイ・ボナパルトの治世には、引退生活を送った。オランダがフランスに併合された後、元老院議員に任命された。一八一四年に辞任し、再びオランダ人となって、全国議会の第一院議員となった。一八二五年没。
grand pensionnaire はオランダの最高行政職の名称として、大年金官と訳した。
[13] シャルル=アンリ・フェルヒュエル、ゼーフェナール伯爵。一七六四年生まれ。一七七九年、海軍に入った。一八〇三年に海軍少将となり、対イギリス作戦のための艦隊を指揮し、オランダの海軍大臣に任命された。一八〇六年、ルイ・ボナパルトにオランダ王冠を差し出す委員会の長を務めた。一八〇七年、元帥、およびパリ駐在大使となった。一八一一年、オランダのフランス併合後、立法院に入った。一八一三年、テクセルとヘルダーの軍を指揮し、最後の最後まで、皇帝に忠実だった。一八一四年、フランスに帰化し、一八一九年、フランス貴族院議員に叙された。一八四五年没。
[14] アレクサンドル・ゴーゲル。一七六五年生まれの、オランダの実業家、政治家。バタヴィア共和国の財務大臣だった。ルイ王の大臣も務め、オランダが帝国に併合された後、フランス国務院の一員となった。一八二一年没。
[15] ナポレオンが弟をオランダの王座に据えたのは、この国を、大陸封鎖体制の中に、とどめるためにすぎなかった。その任務は、困難だった。オランダ人の利益と共感は、イギリスに向かっていたのに対し、ナポレオンの政策は、彼らを破滅させるものだったからである。ルイ王は、自分の王国内で、皇帝の意志を貫こうとせず、あるいは、それができず、沿岸で、イギリスとの密貿易が組織されるに任せた。ナポレオンは、激しく不満を述べ、弟を、自分の考えに従わせるため、あらゆる手段を尽くした。一八〇七年十一月十一日の条約により、わずかな領土拡張と引き換えに、オランダの最重要港の一つ、フリシンゲンを取り上げた。それでも、状況が変わらなかったため、さらに進んで、政策上の必要から、オランダを併合せざるを得なくなるかもしれないと、立法院に告げた(一八〇九年十二月三日の演説)。しかし、この最終的な手段には、抵抗があった。そこで、ルイ王と第二の条約を結び(一八一〇年三月十六日)、それを避けようとした。この条約によって、ルイ王は、ゼーラントとオランダ領ブラバントを、ナポレオンに譲った。同時に、オランダの沿岸は、部隊の支援を受けるフランスの税関吏が、警備することとされた。ルイは、この条約に署名するため、パリへ来たが、自国に戻ると、実施を避けた。ナポレオンは、直ちに、二万人をオランダに進入させた。王は、一時は抵抗を考えたが、誰も従おうとしなかったので、退位し、国外に避難した。オランダは、一八一〇年七月一日付の勅令によって、帝国に併合された。
[16] ジャック=クロード・ブーニョ伯爵。一七六一年生まれ。一七八二年、パリ高等法院の弁護士、一七九〇年、オーブ県の行政検察官、一七九一年、立法議会の代議員となった。一七九三年に逮捕されたが、テルミドール九日に釈放された。ブリュメール十八日の後、セーヌ=アンフェリウール県知事に任命され、次いで、一八〇六年、国務参事官となった。一八〇七年、ヴェストファーレン王国の行政担当者の一人となり、一八〇八年、ベルク大公国の皇帝委員、および財務大臣となった。一八一四年、臨時政府により、内務担当委員、次いで警察総監に任命された。そこから、海軍に移った。第二次王政復古では、郵政総監、国務大臣、および枢密院議員となった。マルヌ県の代議員に選ばれた。一八三五年没。
[17] ジョゼフ=ジェローム・シメオン伯爵。一七四九年、エクス生まれ。一七八九年には、この町の法学教授だった。一七九二年、ジロンド派が南部で起こした、連邦主義運動の指導者の一人となった。一七九三年に逃亡を余儀なくされ、一七九五年にフランスへ戻り、五百人会議に入り、その議長となった。フリュクティドール十八日に追放処分を受け、ブリュメール十八日まで、オレロン島に拘禁された。一八〇〇年に護民院議員、一八〇四年に国務参事官に任命された。その後、ヴェストファーレンの内務・司法大臣および国務院議長、ベルリン駐在、次いでライン同盟駐在のヴェストファーレン公使となった。一八一四年、ノール県知事となった。第二次王政復古では、国務参事官(一八一五年)、次いで司法省次官、フランス貴族院議員、国務大臣、および枢密院議員(一八二一年)となった。七月王政の下では、会計検査院長を務めた。一八四二年没。
[18] ジャン=バティスト・ジョリヴェ伯爵。一七五四年生まれ。一七八九年には、ムランの弁護士だった。セーヌ=エ=マルヌ県行政官、次いで立法議会の代議員となり、立憲派に属した。恐怖政治の下で逮捕され、テルミドール九日の後になって、ようやく自由を取り戻した。一七九五年、抵当権総登記官となり、ブリュメール十八日の後には、国務参事官となった。その後、ライン左岸諸県の債務清算総監、ヴェストファーレン財務大臣(一八〇七年)を務めた。一八一五年に引退し、一八一八年没。
[19] シャルル=フレデリック・ラインハルト伯爵。一七六一年生まれ。一七九一年、ロンドン駐在の第一書記官として、外交界に入った。そこで、タレーラン氏と知り合った。一七九三年にナポリへ移り、一七九四年、外務省の部局長となった。一七九五年、ハンザ諸都市駐在の全権公使、次いでトスカーナ駐在の全権公使(一七九八年)に任命された。一七九九年七月、タレーランの後を継いで外務大臣となり、その後、ヘルヴェティア(一八〇〇年)、ミラノ(一八〇一年)、ザクセン(一八〇二年)、モルダヴィア(一八〇五年)、ヴェストファーレン(一八〇五―一八一四年)の公使に、順次、任命された。一八一五年、国務院に入り、その後、ドイツ連邦駐在公使(一八一五―一八二九年)となった。七月王政政府は、ドレスデン駐在公使(一八三〇年)、およびフランス貴族院議員(一八三二年)に任命した。一八三七年没。タレーラン氏は、道徳・政治科学アカデミーで、その追悼演説を行った。
ヴェストファーレン駐在期間の「1805–1814」は底本の記載を保持した。
[20] ヴュルテンベルク王太子は、父王と不和になり、この当時、ヴュルテンベルク王女カタリーナと結婚していた、義弟ジェローム・ボナパルトのもとに、身を寄せていた。
[21] ヴィルヘルム九世、ヘッセン=カッセル方伯。一八〇三年、選帝侯となり、一八〇六年、領土を奪われた。一八一四年、領土を返還された。一八二一年没。
[22] ルイ=ガブリエル・スーシェ。一七七二年、リヨン生まれ。一七九一年に入隊し、一七九六年に将軍、次いで一七九九年にイタリア軍参謀長となった。一八〇八年まで、帝政の大戦争で、目覚ましい活躍をした。同年、スペインへ派遣され、その見事な働きによって、元帥杖を授けられ、さらに、アルブフェラ公の称号を得た(一八一二年)。一八一四年、フランス貴族院議員となり、一八二六年没。
[23] スールト元帥。
[24] マルモン元帥。
[25] サラマンカ近郊の、スペインの村。戦いは、一八一二年七月二十一日。
戦いの日付「21 juillet 1812」は底本の記載を保持した。
[26] スペインの都市で、アラバ県の県都。戦いは、一八一三年六月二十一日。
[27] ジャン=ルネ・アスリーヌ。一七四二年生まれ。聖職に入り、パリ大司教ボーモン氏の総代理となった。一七九〇年、ブーローニュ司教に任命されたが、聖職者民事基本法への宣誓を拒み、一七九一年に亡命した。ミュンスターに退き、そこから、一八〇二年、コンコルダートに抗議した。一八〇七年、ルイ十八世の招きに応じ、死去するまで、王家と親しく暮らした(一八一三年)。多数の神学書を残した。
[28] 辞任を拒んだ司教たちが、ロンドンに集まり、コンコルダートに抗議し、拒否の理由を述べた長い意見書を、教皇に送ったのは、一八〇一年である。この意見書は、一八〇一年、ロンドンで出版された。十四人の高位聖職者が署名している。ナルボンヌ大司教アルテュール・ディロン、アラス司教ルイ・ド・コンジエ、モンペリエ司教ジョゼフ・ド・マリード、ノワイヨン司教伯爵でフランス大貴族のルイ・ド・グリマルディ、レオン司教ジャン・ラマルシュ、アヴランシュ司教ピエール・ド・ベルブフ、ヴァンヌ司教セバスティアン・アムロ、ユゼス司教アンリ・ド・ベティジ、ロデーズ司教セニュレー・コルベール、ナント司教シャルル・ド・ラ・ローランシー、アングレーム司教フィリップ・ダルビニャック、ロンベズ司教アレクサンドル・ド・ショーヴィニー・ド・ブロ、ペリグー司教エマニュエル・ド・グロソル・ド・フラマラン、ムーランの任命司教エティエンヌ・ド・ガロワ・ド・ラ・トゥールである。
[29] 一八〇四年四月十五日、ナルボンヌ大司教ディロン氏は、教皇に書簡を送り、コンコルダートに、再び抗議した。この書簡には、国王の権利に関する宣言が添えられていた。署名者は、ペリグー司教を除いて、前記と同じ高位聖職者たちだった。宣言は、次のように述べていた。臣民が君主に対して、侵すことのできない忠誠を守ることは、福音書の命令である。君主は、神のしもべである。国王に反抗する者は、すべて、神に対して罪を犯す。正統な君主に、当然の地位が与えられていない、現在のフランス政府は、無政府状態の下で、人々を苦しめていた災厄の重みを、幾らか軽くすることができるとしても、神をも、カエサルをも、満足させない……。それは、事実上の権力であり、法に基づく権力ではない。持っているのは、占有、いや、むしろ簒奪だけである。――しかし、正統な君主は、権利の行使を停止せざるを得なくても、すべての権利を、保持し続ける。したがって、以下の署名者たちは、司教として、また臣民としての義務を果たすために、宣言する。第一に、われわれの、いとも尊敬すべき主君であり、正統な国王であるルイ十八世は、フランス王冠に対して、神から授かった権利を、すべて、完全に保持している。第二に、何ものも、フランス人、すなわち、その臣民を、神の法により、この君主に対して負う忠誠から、解放することはできなかった。
[30] タレーラン=ペリゴール氏。後の枢機卿、パリ大司教。
[31] クロード・フルーリ神父。一六四〇年生まれ。初め、コンティ公の息子たちの家庭教師、次いで、ブルゴーニュ公、アンジュー公、ベリー公の養育副監督を務めた。一七一六年、ルイ十五世の聴罪司祭として、再び宮廷に入った。間もなく、この職を辞し、一七二三年に没した。フルーリ神父は、教会史と宗教論争について、多数の著作を残した。
[32] ジャック=アンドレ・エムリ。一七三二年生まれ。一七五六年、叙階を受け、オルレアンで神学教授を務めた。一七七六年、アンジェ教区の総代理、および同市の神学校長に任命され、間もなく、サン=シュルピス会の総長となった。恐怖政治の下では、十八か月間、投獄された。テルミドール九日の後、パリ教区の総代理の職務を任された。統領政府の下で、自らの会を再組織した。皇帝が招集した二つの教会委員会に加わり、一八一一年に没した。
[33] ルイ・ド・トマサン。一六一九年、エクス生まれ。オラトリオ会に入り、地方の幾つかの学校で、哲学と文芸を教えた。一六五四年、パリのサン=マグロワール神学校の神学教授に任命された。宗教史について、きわめて多くの著作を書いた。ここで言及されている『聖職禄に関する教会の旧新の規律』は、一六七八年、パリで出版された。トマサン神父は、一六九五年に没した。
[34] ピエール=ルイ・ブランシャール神父。一七六二年生まれ。一七八九年には、哲学教授だった。宣誓を拒んで、イギリスへ亡命し、一八一四年まで、とどまった。隠棲先から、多数の弁論書や論争文を公刊し、その中で、宗教の利益を損なう者たちに、きわめて激しく反対した。コンコルダートを攻撃し、とりわけ皇帝の戴冠に際しては、教皇さえも、容赦しなかった。その多数の著作は、ロンドンで出版された。
[35] インノケンティウス十一世(ベネデット・オデスカルキ)。一六一一年、コモ生まれ。一六七一年、教皇となり、一六八九年に没した。
教皇就任年「1671」は底本の記載を保持した。
[36] アレクサンデル八世。一六一〇年、ヴェネツィア生まれ。一六八九年、教皇となった。大勅書『インテル・ムルティプリケス』によって、一六八二年の宣言の諸条項を取り消した。一六九一年没。
[37] インノケンティウス十二世(アントニオ・ピニャテッリ)。一六一五年、ナポリ生まれ。教皇在位は、一六九一年から一七〇〇年まで。
[38] アンコーナは、この時、大きな重要性を持っていた。ロシア軍がコルフ島に集結し、イタリアへ渡ってイギリス軍と合流する機会を、待ち構えていたからである。したがって、アンコーナは、奇襲を受ける危険にさらされていた。守備隊が、ほとんどおらず、要塞も荒廃していたため、なおさらだった。ナポレオンは、教皇政府に、この都市の防備を整えるよう、求めた。しかし、その要求は、何の結果も生まなかった。そこで直ちに、ナポリ王国に向かうため、ちょうど教皇領を通過していた、グーヴィオン=サン=シール将軍に、この都市を占領する命令が下された。彼は、奇襲によって市内に入り、一八〇五年十一月六日、そこに陣取った。
[39] フランソワ・ミオリ伯爵。一七五九年生まれ。一七八九年には、歩兵大尉だった。共和国の軍に仕え、一七九四年に将軍となり、イタリア戦役で、優れた功績を挙げた。長く、マントヴァ総督を務めた。一八〇七年、ローマおよび教皇領の総督に任命された。一八一五年に退役し、一八二八年没。
四電子版は dans les années de la république とするが、印刷本49頁の脚注は dans les armées de la république。印刷本の読みを採り、共和国軍への従軍として訳した。
[40] ジュール・ガブリエッレ。古いローマの家系の出で、一七四八年生まれ。シニガリア司教となり、一八〇一年、枢機卿となった。一八〇八年三月二十七日、国務長官代理となった。皇帝が命じた、教皇の権利を侵害する、あらゆる措置に、強く抗議し、同年六月に逮捕された。フランスに抑留され、一八一三年、フォンテーヌブローへ行き、教皇のもとに参じた。一八二二年没。
[41] エティエンヌ・ラデ男爵。一七六二年生まれ。旧体制の下では、下士官だった。一七九二年、ヴァレンヌの国民衛兵少尉だった。ルイ十六世の逃亡を助けたと告発されたが、革命裁判所で無罪となった。一七九九年、陸軍少将、および憲兵隊最高司令官となった。その資格で、一八〇九年七月六日、教皇逮捕の命令を受けた。一八一三年、大陸軍の軍紀総監、および陸軍中将に任命された。一八一六年、九年間の拘禁刑を宣告されたが、一八一八年に恩赦を受け、一八二五年に没した。
général de brigade/général de division は階級として、それぞれ陸軍少将/陸軍中将と訳した。
[42] ジャン・モーリ。一七四六年、ヴァルレアス(ヴォークリューズ)生まれ。靴職人の子だった。一七七一年、叙階を受け、間もなく、その雄弁で名を知られた。一七八四年、アカデミーに入った。三部会では、ペロンヌの聖職者代表となり、右派の指導者となった。一七九一年に亡命し、ローマへ行き、名義大司教、枢機卿、およびモンテフィアスコーネ司教に任命された。間もなく、ルイ十八世は、彼を、聖座駐在大使に任じた。しかし、一八〇六年、皇帝側に合流し、元老院議員、およびジェローム公の宮廷司祭となった。一八一〇年、パリ大司教座に任じられ、そのため、教皇から非難され、後には、ルイ十八世の不興も買った。一八一四年、大司教職を去らなければならず、イタリアへ向かった。一時、サンタンジェロ城に拘禁されたが、間もなく釈放された。ピウス七世の寵遇を取り戻し、一八一七年に没した。
[43] ルイ・ド・バラル伯爵。一七四六年生まれ。一七八五年、聖職者団の総代理を務め、次いで、トロワ司教の協働司教、および名義司教となった。宣誓を拒んで亡命した。一八〇一年、教皇に辞表を送り、間もなく、モー司教、次いでトゥール大司教に任命された。一八〇五年、皇后の宮廷司祭の職を受け、後には、元老院議員の地位も受けた。一八一四年、ジョゼフィーヌ皇后の追悼演説を行った。また、一八一五年六月一日、シャン=ド=マルスで、司教として儀式を執り行ったのも、彼である。ルイ十八世の帰還に際し、辞任を余儀なくされた。一八一八年没。
[44] デュヴォワザン氏。
[45] ブルリエ氏。
[46] マネー氏。
[47] ジャン=バティスト・カナヴェリ。一七五三年生まれ。一七七一年、オラトリオ会に入り、一七九七年にビエッラ司教、一八〇八年にヴェルチェッリ司教となった。間もなく、レティツィア・ボナパルト夫人の首席宮廷司祭に任命された。一八一八年没。
[48] フランソワ=ルイ・フォンタナ。一七五〇年生まれ。一七六七年、バルナバ会に入り、ミラノ管区の会長に選ばれた。一八〇四年、教皇に同行してパリへ行き、その後、会の総代理、典礼顧問、最後に、会の総長となった。教皇が連れ去られた後、アルシ=シュル=オーブに抑留された。一八〇九年の教会委員会に加わったが、最初の数回の会議にしか出席しなかった。翌年、逮捕、投獄され、一八一四年になって、ようやく自由を取り戻した。ローマへ戻り、一八一九年、枢機卿に任命され、一八二二年に没した。
[49] このコンコルダートは、一五一五年十二月十日、両君主の会見で、その基礎が定められたが、署名されたのは、一五一六年八月十八日になってからだった。国事勅書を廃止し、初年度聖職禄収入を教皇に譲り、公会議に対する教皇の優越を認めた。その代わり、フランスのすべての高位聖職に任命する権利を、国王に与えた。
[50] 偽教令集という名で知られるのは、修道士ディオニュシウス・エクシグウスに帰せられている、六世紀の教会法集成であり、教皇の権力を、著しく増大させようとするものだった。
年代と帰属は、この底本の注の記載を保持した。
[51] ブールジュの国事勅書とは、シャルル七世が、一四三八年、フランス教会の問題について発した勅令に、与えられた名である。
[52] この条項は、要するに、神は、聖ペトロにも、その後継者たちにも、世俗の事柄に対して、直接にも間接にも、いかなる権力も与えなかった、と述べていた。
[53] 一八一〇年二月十七日の元老院決議は、これらの規定に加えて、次のように定めていた。教皇領は、ローマ県とトラジメーヌ県の、二県を構成する。皇族、または帝国の高官が、ローマで、皇帝の宮廷を維持する。外国の主権を持つことは、フランス国内で、いかなる宗教上の権威を行使することとも、両立しない。教皇のために、帝国内の、居住を望む各地に、宮殿を用意する。パリとローマには、必ず一つずつ、宮殿を持つものとする。二百万の収入を生む土地財産を、教皇聖下に割り当てる。国家は、枢機卿団と布教聖省の経費を負担する。
二百万の通貨単位は、この注の原文には明記されていない。
[54] この小勅書は、ピウス七世から、パリ教区の総代理ダストロス神父に、送られたものだった。神父は、当時、国務参事官および出版局長だった、従兄弟のポルタリス伯爵に、それを伝えた。二人とも、そのことを秘密にしており、小勅書は公表された。ナポレオンは、この事実を知り、激怒した。一八一一年一月四日の国務院の会議で、ポルタリス伯爵の行動を激しく責め、すべての職を罷免し、プロヴァンスへ追放した。ダストロス神父は、逮捕され、ヴァンセンヌに収監され、一八一四年になって、ようやく出ることができた。
[55] アントワーヌ・ドスモン男爵。一七五四年生まれ。初め、トゥールーズ大司教ブリエンヌ氏の総代理だった。一七八五年五月一日、叔父の後を継ぐため、コマンジュ司教に聖別された。革命期に亡命し、一八〇一年に司教座を辞し、一八〇二年、ナンシー司教に任命された。一八一〇年、フィレンツェ大司教に任命されたが、教皇が教会法上の叙任を拒んだため、一八一四年、ナンシーの司教座に、戻らなければならなかった。一八二三年没。
[56] フランソワ=アンドレ・ドジャン男爵。一七四八年、カステルノダリー生まれ。一八〇九年二月九日、アスティ司教に任命された。
[57] ミケーレ・ディ・ピエトロ。一七四七年生まれ。一七九八年、総裁政府の命令によってピウス六世がローマから連れ去られた際、同教皇により、教皇代理に任じられていた。ピウス七世は、彼を、エルサレム総大司教、枢機卿、および布教聖省長官に任命した。教皇の逮捕後、パリへ来なければならず、ナポレオンとマリー=ルイーズの結婚式への出席を拒んだため、スミュールに追放された。一八一五年、ローマへ戻り、内赦院長、およびアルバーノ司教となった。一八二一年没。
[58] 以下は、パリから送られた訓令に従い、モンテノッテ県知事シャブロル氏が、教皇聖下に通告した命令である。
「以下の署名者は、その君主、フランス人の皇帝、イタリア王、ライン同盟の保護者……ナポレオン皇帝・国王陛下の命令に基づき、教皇ピウス七世に、次のことを通告する任務を負う。教皇が、帝国内のいかなる教会とも、皇帝のいかなる臣民とも、連絡することを禁ずる。違反すれば、教皇自身、および相手方の不服従とみなされる。反逆を説き、その魂が、すべて憎悪に満ちている者は、もはや教会の代弁者ではない。何によっても、分別を取り戻させることができない以上、陛下には、その先人たちがしたことを行い、教皇を廃位するだけの力があることを、知ることになるだろう。」(バクール氏の注。)
サヴォナ、一八一一年一月十四日。
[59] モーリス=マドレーヌ・ド・ブロイ(一七六六―一八二一年)。ブロイ元帥の三男。一八〇五年にアックイ司教、および皇帝の宮廷司祭、一八〇九年にヘント司教となった。一八一一年の公会議で、皇帝の意志に抵抗した結果、投獄された。一八一四年、司教座に戻ると、ネーデルラント王国憲法の、幾つかの規定に抗議し、再び追放され、パリで没した。
[60] 当時の宗務大臣は、ジャン・ビゴ・ド・プレアムヌーだった。一七四七年生まれで、高等法院の弁護士を務めていた。一七九一年、パリ選出の立法議会代議員となり、一七九二年、その議長となった。革命の間は、ずっと、引退生活を送った。ブリュメール十八日の後、破毀裁判所の政府委員、次いで国務参事官、および立法部会長に任命された。民法典起草委員会に加わった。一八〇八年、宗務大臣となった。第一次王政復古は、その職を維持させ、フランス貴族院議員に叙した。第二次王政復古の下では、引退生活を送り、一八二五年に没した。
[61] ナポレオンが、ヴェネツィアの総大司教に任命した、ブオンシニョーリ氏。
[62] エティエンヌ=アントワーヌ・ド・ブーローニュ。一七四七年生まれ。一七七一年、聖職に入り、一七八二年、シャロン=シュル=マルヌのクレルモン=トネール氏の総代理となった。革命の間、ずっとパリにとどまり、恐怖政治の下で、三度、投獄され、フリュクティドール十八日に追放処分を受けたが、この時は、捜索を免れた。帝政の下で、ヴェルサイユ司教区の総代理、次いでトロワ司教となった(一八〇七年)。一八一一年の公会議の後、逮捕され、ヴァンセンヌに収監された。辞表を提出し、ファレーズへ追放されたが、教皇が辞任を受け入れなかったため、一八一四年、トロワへ戻った。一八二二年、フランス貴族院議員に叙され、一八二五年に没した。
[63] 海上戦争の初期、すなわち一七九三年、一七九四年、一七九五年に、フェッシュ枢機卿は、アヴァンチュリエ号という私掠船に乗っていた。彼は、幾つかの船を拿捕し、ジェノヴァへ運んだ。これらの拿捕は、後に訴訟を引き起こし、彼は、同市の裁判所で、熱心に争った。その訴訟について、私の知る限り、彼は、幾度も、政府の支援を求めた。(タレーラン公の注。)
[64] シャルル=フランソワ・ダヴィオー・ド・サンゼ伯爵。一七三六年生まれ。初め、アンジェ教区の総代理だった。一七八九年、ヴィエンヌ大司教に任命されたが、聖職者民事基本法への宣誓を拒み、亡命した。一八〇二年、ボルドー大司教となり、一八二六年に没した。
[65] ジョゼフ・スピナ枢機卿伯爵。一八〇一年のコンコルダートの交渉者の一人。コリントの名義大司教、ポーリーヌ公女の宮廷司祭。一八〇二年七月五日、ジェノヴァ大司教に任命された。
[66] シャルル=フランソワ・カゼッリ。一七四〇年生まれ。聖母奉仕会に入り、その総代理となった。一八〇一年のコンコルダートの調印後、名義司教、および枢機卿(一八〇二年)、次いで一八〇四年、パルマ司教となった。この都市が帝国に併合されると、パリへ来て、一八一四年まで滞在した。一八一四年、パルマに戻り、パルマ女公となったマリー=ルイーズ皇后の枢密顧問に任命された。一八二八年没。
[67] ジョゼフ=マリー・ド・グリマルディ。一七五四年生まれ。一七九七年にピネローロ司教、一八〇五年にイヴレーア司教となった。一八一七年、ヴェルチェッリ大司教となった。長くモナコ公国を領有してきた、古く、有力なグリマルディ家に属していた。
[68] フランソワ=ジョゼフ・ド・イルン。一七五一年、ストラスブール生まれ。一八〇二年、トゥルネー司教。
[69] イレネ=イヴ・ド・ソル男爵。一七四四年、オーシュ生まれ。一八〇二年四月二十九日、ディーニュ司教、次いで一八〇五年五月三十日、シャンベリー司教となった。
[70] スピナ枢機卿、カゼッリ枢機卿、ブロイ氏、ダヴィオー氏、イルン氏、ブーローニュ氏、グリマルディ氏、およびコマッキオ司教。
[71] バラル氏、デュヴォワザン氏、およびマネー氏。
[72] イルン氏。
[73] プラット氏。
[74] エティエンヌ=アンドレ・ファロ・ド・ボーモン。一七五〇年生まれ。聖職に入り、ヴェゾン(コンタ・ヴネサン)の司教となった。同地方のフランス併合に抗議し、その際、司教座を奪われ、ローマへ避難した。一八〇一年にヘント司教、次いでピアチェンツァ司教(一八〇七年)、ブールジュ大司教(一八一三年)に任命された。しかし、この新しい司教座について、叙任の大勅書を受けなかったため、一八一四年、去らなければならなかった。その後は、死去するまで、引退生活を送った。
[75] ジョヴァンニ・パンフィリ・ドーリア。同名の古いジェノヴァの家系の出。一七五一年生まれ。二十歳で大司教となり、次いでパリ駐在教皇大使、枢機卿、および国務長官(一七九七年)となった。その後、教皇庁の財務院長となった。
[76] アントニオ・ドゥニャーニ。一七四八年生まれ。聖職に入り、一七八五年、ロードスの名義大司教となった。一七八九年には、パリ駐在教皇大使だった。一七九二年、ローマへ戻り、枢機卿に叙された。一八〇〇年、ピウス七世の選出に、積極的に貢献した。この教皇への忠誠のため、一八〇八年、ミラノへ追放された。翌年、フランスへ移送された。一八一四年、ローマへ戻り、ポルトおよびサンタ=ルフィーナ司教に任命された。一八一八年没。
[77] アルフォンス=ユベール・ド・ラリエ、バヤンヌ公。一七三九年、ヴァランス生まれ。初め、ローマ教皇庁のロタ裁判所判事だった。一八〇二年、枢機卿に叙された。帝政の下でフランスへ戻り、教皇と皇帝との交渉で、かなり積極的な役割を果たした。一八一三年、元老院議員に任命された。王政復古の下で、フランス貴族院議員となり、一八一八年に没した。
[78] ファブリツィオ=ディオニジ・ルッフォ。一七四四年、ナポリ生まれ。聖職に進むことになっていたが、結局、助祭より上の位には、就かなかった。ピウス六世は、教皇財務院の総参与、および財務官に任命した。ナポリへ戻ると、フェルディナンド王により、宮廷監督官に任じられ、最も重用される顧問となった。一七九四年、枢機卿に叙された。一七九八年、王に従ってシチリアへ行き、無制限の権限を持つ総代理に、任命された。カラブリアを蜂起させ、各地に王権を回復した。一八〇五年、ローマに戻り、一八〇九年、フランスへ行ったが、イタリアへ帰ることができたのは、一八一四年になってからだった。一八二一年、両シチリア王により、国王評議会の一員に任命された。一八二七年没。
[79] フェルトレ司教。
[80] このコンコルダートの前文には、実際、次のように記されている。
「皇帝・国王陛下と教皇聖下は、両者の間に生じた紛争を終わらせ、教会の幾つかの問題について生じた困難に対処することを望み、最終的な取り決めの基礎となり得るものとして、次の条項に合意した。」
[81] タレーラン公の『回想録』の、この部分は、王政復古期に、ルイ十八世の死去以前に書かれたことを、ここで、思い起こしておこう。
[82] プロイセンの王座にある、ホーエンツォレルン=ブランデンブルク家。
[83] 一八一三年十一月には、すでに交渉が始まっていた。当時、連合諸国は、アルプスとラインを国境とする案を、提示していた。ナポレオンは、マンハイムで会議を開くことに同意した。しかし、事態は急速に進み、会議が開かれたのは、二月七日、シャティヨン=シュル=セーヌでのことだった。外務大臣コランクール氏が、皇帝を代表した。この時には、連合諸国が提示したのは、一七八九年の国境だけだった。会議は、成果を得ないまま、三月十九日に散会した。
[84] ジャン=バティスト・ド・グエ、ラ・ベナルディエール伯爵。一七六五年生まれ。旧体制の下で、オラトリオ会に入っていた。一七九六年、一介の書記として、外務省に入った。一八〇七年、第一政務局長となり、一八一四年まで、この重要な職を保った。一八二六年、国務参事官となり、一八三〇年、公務を退いた。一八四三年没。
[85] リュッツェン、バウツェン、およびヴルシェンで勝利を収めた後、意気盛んなナポレオンは、休戦に同意し、六月五日、プライスヴィッツで調印された。オーストリアが仲介国となり、七月十二日、プラハで会議が開かれた。ナポレオンは、何も譲ろうとしなかった。交渉は八月十日に決裂し、オーストリアは、連合に加わった。
[86] ルイ=アントワーヌ・ド・ブルボン、アングレーム公。アルトワ伯爵の長男(一七七五―一八四四年)。一七九九年、ルイ十六世の娘、マリー=テレーズ王女と結婚した。
[87] ヘンリー・エドワード・バンベリー卿。一七七八年生まれ。イギリス陸軍中将。一八〇九年、陸軍省次官となった。一八一五年、キース提督とともに、ナポレオン皇帝に、セントヘレナへの流刑を通告する任務を、負った。一八三〇年、庶民院に入り、間もなく、陸軍大臣の職を断った。一八六〇年没。
[88] ルイ・デュ・ヴェルジエ、ラ・ロシュジャクラン侯爵。一七九四年に戦死した、著名なヴァンデ軍の将軍の弟。一七七七年生まれ。父に従って亡命し、一八〇一年、フランスへ戻った。一八一四年、サン=ジャン=ド=リュズへ、アングレーム公を迎えに行き、間もなく、ルイ十八世によって陸軍少将に任命された。百日天下の際には、ヴァンデを蜂起させようとしたが、六月四日、ポン=ド=マトの戦いで戦死した。レスキュール侯爵の未亡人と結婚していた。
[89] ウィリアム・カー、ベレスフォード子爵。アイルランド系の家系の出。一七六八年生まれ。陸軍に入り、一七九三年と一七九四年、対フランス戦役に参加した。一七九五年、アンティル諸島へ渡り、次いでインド(一七九九年)、エジプト(一八〇〇年)、ケープ(一八〇五年)へ赴いた。一八〇六年、当時スペインの植民地だったブエノスアイレスを攻撃したが、敗れて捕虜となった。イギリスへ戻ると、マデイラ島への遠征を指揮し、一八〇八年、ポルトガルに上陸して、リスボン司令官に任命された。その後、陸軍少将、およびポルトガル軍最高司令官となった。その資格で、一八一四年まで、スペインの戦役に参加した。和平後、貴族院に入った。一八五四年没。
[90] ジャン=バティスト・リンチ伯爵。一七四九年、ボルドー生まれ。アイルランド系の家族は、一六八八年の革命後に亡命し、この都市に定住していた。一七七一年、ボルドー高等法院の評定官となった。恐怖政治の下で、長く投獄された。帝政の下で、ジロンド県会議員となり、一八〇八年、ボルドー市長となった。一八一四年、イギリス軍を招き、早くも三月十二日、ブルボン家の王政復古を宣言した。一八一五年、アングレーム公爵夫人とともに、抵抗を組織しようとしたが、失敗し、イギリスへ逃れた。第二次王政復古では、フランス貴族院議員に叙された。一八三五年没。
[91] シモン・ラヴェ。一七七〇年生まれ。一七九一年には、リヨンの弁護士だった。同市の国民公会に対する反乱に、積極的に関わり、リヨン側が敗れると、ボルドーに避難しなければならなかった。帝政の下では、あらゆる公職を断り、一八一四年には、ブルボン家の王政復古を、最初に宣言した人々の一人となった。一八一六年、ジロンド県の代議員に選ばれ、一八一九年、代議院議長となった。一八一七年には、司法省次官に任命されていた。一八三〇年、引退した。一八四八年、立法議会の代議員となったが、一八四九年に没した。
[92] ヘンリー・バサースト伯爵。同名の大法官の子。一七六二年生まれ。一七九三年、インド委員会の一員に任命され、一八〇九年、カスルレー内閣の下で、陸軍・植民地大臣となった。フランスに激しく敵対し、議会で、強力に主戦論を支持した。一八一五年には、ナポレオンのセントヘレナ拘禁を強く求めた。一八二七年まで政権にとどまったが、その時、ホイッグ党内閣に地位を譲らなければならず、翌年、復帰した。七月革命の余波によって、再び引退を余儀なくされた。一八三四年没。
[93] アレクサンドル=モーリス・ブラン、オートリーヴ伯爵。一七五四年生まれ。外交界に入り、コンスタンティノープルで、ショワズール=グフィエ氏の書記官を務めた。一七九二年、合衆国駐在領事に任命されたが、翌年、罷免された。フリュクティドール十八日の後、フランスへ戻り、外務省の部局長に任命された。ブリュメール十八日の後、国務院に入った。幾度か、外務大臣の職務を代行した。王政復古の下でも職にとどまり、一八三〇年に没した。
[94] 『代議政体における内閣について』、代議院議員著(パリ、ダンチュ、一八一五年)。――ヴィトロル氏は、当時、バス=ザルプ県の代議員だった。
[95] 連合諸国は、一七九〇年の国境を提示していた。ナポレオンは、三月十五日、コランクール氏が提出した対案で、アルプスとラインの線を要求した。さらに、イタリアで、ウジェーヌ公のための領地と、エリザ公女のための領地を、求めていた。
国境の基準年「1790」は底本どおり。原注83の「1789」と統一していない。
[96] 私たちは、タレーラン氏の『回想録』の、この重要な点について、説明を加えたいと考え、現在、ロシア帝国の宰相であるネッセルローデ伯爵に、提供できる情報を、知らせてほしいと求めた。伯爵が、快く提供してくれた情報は、次のとおりである。
「一八一四年の戦役中、連合軍が、二度目にトロワへ入った時、君主たちの本営は、そこに滞在した。私も、そこにいた。すると、サン=ジョルジュ氏という名で取り次ぎを求めた、見知らぬ紳士が、私の部屋に入ってきた。彼は、間もなく、自分はヴィトロル男爵であると明かし、連合諸国の君主たちに、重要な知らせを伝えるため、幾人かの人々によって、パリから遣わされた、と述べた。その人々の中には、タレーラン氏とダールベルク氏もいる、と言った。特に私に会うよう命じられていた彼は、私の信任を得るため、ポケットから白紙を一枚取り出し、灯火を求めた。その火で、あぶり出しのインクを現れさせたので、私は、友人であり親族でもある、某氏の筆跡を、認めることができた。そこには、こうあった。『私が送り届ける人物を、全面的に信頼して、迎えてください。その話を聞き、私だと分かってください。もっと、はっきりする時です。あなた方は、松葉杖で歩いています。自分の脚を使い、できることを、しようと決意してください。』ヴィトロル氏は、ナポレオンの状況、フランス国民が、そのくびきに疲れていること、そして、その専制に対する保証を必要としていることを、詳しく述べた。連合諸国の君主たちの意向は、これらの知らせに、直ちに応じて行動できるものではなかった。ヴィトロル氏は、曖昧な約束を得ただけで、帰らなければならなかった。
その後、さらに重大な出来事が起きた。一八一四年三月下旬、アルシ=シュル=オーブの戦いが行われていたころ(三月二十日、二十一日)、私は、バール=シュル=オーブで、連合諸国の君主たちの大臣が集まる協議に、出席していた。協議が終わると、ハルデンベルク宰相は、私を夕食に引き止めようとした。私は、アレクサンドル皇帝のもとへ戻り、今、行われた討議について、報告を急いでいたので、辞退した。おかげで、私は、幸いにも、アルシで皇帝に追い付くことができた。一方、ほかの大臣たちとオーストリア皇帝は、ナポレオンがサン=ディジエへ向かったことによって、軍から切り離され、ディジョンへ向かわざるを得なくなった。同じ晩、ロシア軍の本営は、ダンピエール城へ移された。到着は遅かった。そこで、アレクサンドル皇帝の本営は、シュヴァルツェンベルク公の本営と、合流した。私は、屋根裏部屋に宿を割り当てられた。眠りに入ったばかりの時、ヴォルコンスキ公の副官が、起こしに来た。ナポレオン皇帝に向かう急使から押収した、パリの当局と皇帝との、多数の往復書簡を、整理し、読むのを手伝うため、階下のシュヴァルツェンベルク公のところへ来てほしい、というのだった。
私は、すぐに仕事に取りかかった。すると、マリー=ルイーズ皇后、大臣たち、とりわけ警察大臣サヴァリーの書簡や報告が、見つかった。そこには、もはや抵抗の手段がなく、世論が、ナポレオンに、強く反発していること、敵が近づけば、パリの防衛は、ほとんど不可能であることが、報告されていた。さらに、ピレネー国境におけるウェリントン公の成功と、アングレーム公のボルドー到着も、伝えられていた。
私は、押収した書簡の重要な情報を、直ちに、アレクサンドル皇帝に報告した。この情報から、主力軍をブリュッヒャーの軍と合流させ、パリへ進む計画が、生まれた。その動きを隠すため、六千人の騎兵部隊を、サン=ディジエへ向かうナポレオンの後に、つけるのである。アレクサンドル皇帝は、ヴィトリ=ル=フランソワの手前の高地で、プロイセン王と会い、この計画を伝えた。そして、その場で、パリへ直進することが、決定された。」(バクール氏の注。)
[97] 連合諸国のすべてが署名したショーモン条約は、同盟を、二十年間に延長し、ナポレオン皇帝が、シャティヨン会議で提示された最後通牒を受け入れない限り、皇帝とは和平を結ばないと、宣言していた。
[98] ヨハン=フィリップ=ヨーゼフ=カール・フォン・シュタディオン伯爵。一七六三年生まれの、オーストリアの政治家。早くも一七八七年、ストックホルム駐在大使として、経歴を始め、一七九〇年には、ロンドン駐在大使となった。一七九二年に辞任し、再び公の場に現れたのは、一八〇四年になってからだった。その時、サンクトペテルブルク駐在大使を任され、第三次対仏大同盟の結成に、大きく貢献した。プレスブルクの和平の後、外務大臣に任命された。一八〇九年の戦役後、退かなければならなかった。一八一二年から、ナポレオンの没落に至るまで、相次いだ外交上の出来事に、再び大きく関わった。テプリッツ条約、フランクフルト協議、シャティヨン会議に参加し、一八一四年、パリ条約に署名した。一八一五年、財務大臣に任命された。一八二四年、バーデンで没した。
[99] 第七部末尾の付録I(二五七頁)を参照。そこには、ヴィトロル氏の、この使節行について、ダールベルク公が記した説明が、収められている。
[100] フェルディナント・フォン・ヴィンツィンゲローデ男爵。一七七〇年、ボーデンシュタイン(ヴュルテンベルク)生まれ。初め、ヘッセン方伯に、次いで神聖ローマ皇帝に仕えた。一七九七年、ロシアへ行き、少佐の階級を得た。一八〇二年、アレクサンドルの副官、一八〇五年、ベルリン駐在大使となった。一八〇五年、一八〇六年、一八〇七年の戦役に参加した。一八〇九年には、エスリングにおり、重傷を負った。その時、元帥に任命された。一八一二年、一八一三年、一八一四年の戦役で、積極的な役割を果たし、とりわけロシア騎兵を率いて、功績を挙げた。一八一八年没。
[101] ジョゼフ王は、帝国総代理の資格で、三月三十日正午、トレヴィーゾ公とラグーザ公に、敵と交渉する権限を与えていた。そのため、同日夕方六時、二人の元帥とネッセルローデ伯爵との間で、フランス軍によるパリ撤退を定める協定が、調印された。
[102] タレーラン氏は、サン=フロランタン通りの邸宅に住んでいた。この邸宅は、十八世紀初めに、建築家シャルグランが、国務大臣ルイ・フェリポー、サン=フロランタン伯爵のために、建てたものだった。その後、フィッツ=ジェームズ公、次いでインファンタード公爵夫人(一七八七年)の所有となった。一七九三年、硝石工場に変えられた。その後、エルヴァス侯爵が買い取り、タレーラン公に売却した。タレーランが、一八三八年に没したのは、この邸宅である。
建築時期「十八世紀初め」は底本の記載を保持した。
[103] 私たちは、この点についても、ネッセルローデ氏から説明を得たいと考えた。氏が、親切にも提供してくれた説明は、次のとおりである。
「三月三十日、アレクサンドル皇帝の本営は、パリの城壁の下にあった。パリは、三十日から三十一日にかけての夜に、降伏した。三十一日の朝、皇帝は、コサック一人だけを護衛につけて、私をパリへ遣わした。こうして、私は、最初に、サン=マルタンの関門から市内に入り、巨大な群衆で埋まる大通りを、通っていった。まっすぐに、サン=フロランタン通りのタレーラン氏の邸宅へ行った。氏は、たいへん温かく迎えてくれたが、髪を整えてもらっている最中だったため、抱擁した時、私を、頭から足まで、白粉まみれにした。私が、タレーラン氏の家にいる間に、アレクサンドル皇帝から、知らせが来た。宿泊しようとしていたエリゼ宮には、爆薬が仕掛けられているので、泊まらないようにと、たった今、警告を受けた、というのである。タレーラン氏は、その噂は信じないが、皇帝が、ほかの場所に泊まる方がよいとお考えなら、自分の邸宅を、ご用に供すると言った。私は、それを受け入れた。こうして、皇帝は、サン=フロランタン通りに、滞在することになった。」
ネッセルローデ氏が語っていないが、歴史には記録されていることを、付け加えておこう。氏は、この邸宅で起きた大きな出来事に、主要な役割を果たした。とりわけ、ダールベルク公とともに、連合諸国の君主たちが、フランス国民に向けて発した宣言を起草したのは、氏である。その時、ネッセルローデ氏とメッテルニヒ氏が、ルイ十八世に、どれほど大きな奉仕をしたとしても、二人が、この君主から、それぞれ百万を受け取ったというのは、まったくの虚偽である。これは、誹謗文の書き手たちが作り出し、王政復古の歴史家を自称する一人、ヴォーラベル氏が、真実であるかのように繰り返した、中傷である。この二人の政治家が、パリ条約に際して受け取ったのは、慣例による外交上の贈り物、一万八千フラン相当の小箱だった。(バクール氏の注。)
[104] 四月二日のタレーラン氏の役割について、バンジャマン・コンスタンが送った祝辞の書簡を、付録II(二六一頁)に参照。
[105] 構成員は、議長タレーラン氏、ダールベルク公、ジョクール伯爵、モンテスキュー神父、およびブールノンヴィル将軍だった。
[106] モスクワ公元帥、およびターラント公元帥。
[107] この点については、フーシェの意見を参照。「オトラント公からナポレオンへの書簡」(第七部末尾の付録III、二六二頁)。
[108] フランソワ・ド・ジョクール。初め伯爵、後に侯爵。一七五七年生まれ。一七八九年には、竜騎兵大佐だった。一七九一年、立法議会の代議員に選ばれ、翌年、亡命した。ブリュメール十八日の後、フランスへ戻り、一八〇二年に護民院議員、一八〇三年に元老院議員、一八〇四年にジョゼフ公の家政監督官に任命された。一八一四年、臨時政府に加わり、タレーラン氏のウィーン滞在中、外務大臣の職務を代行し、フランス貴族院議員に任命された。一八一五年、海軍大臣となった。一八三〇年、七月王政に合流し、貴族院の議席を保った。一八五二年没。
[109] アメデ、デュルフォール=デュラ公。一七七〇年生まれ。陸軍少将、国王の首席侍従。ルイ十八世に従って亡命し、王政復古の際、フランス貴族院議員に任命された。一八三六年没。
[110] フランソワ=グザヴィエ=マルク=アントワーヌ・ド・モンテスキュー=フェザンサック神父。一七五七年生まれ。聖職に入り、一七八五年、聖職者団の総代理に任命された。一七八九年、パリの聖職者団から三部会へ送られ、一七九〇年には、二度、議会の議長となった。恐怖政治の下では、あらゆる捜索を免れ、テルミドール九日の後、フランス国内で王の主張を擁護するため、ルイ十八世が任命した代理人の一人となった。そのため、統領政府の下で、マントンへ追放された。一八一四年、臨時政府に加わり、五月十三日、内務大臣に任命された。第二次王政復古の下でも、国務大臣にとどまり、フランス貴族院議員に叙された。一八三二年没。
[111] シャルル=アンリ・ダンブレ子爵。一七六〇年、ルーアン生まれ。初め、高等法院の弁護士だった。一七八八年、租税法院の検事長に任命された。恐怖政治の下でも、害を受けず、一七九五年、五百人会議の代議員に選ばれたが、議席に就くことを断った。統領政府の下で、セーヌ=アンフェリウール県会議員となった。一八一四年、大法官・国璽尚書、およびフランス貴族院議員に任命された。第二次王政復古の下では、貴族院議長の職だけを保った。一八二九年没。
[112] アントワーヌ=フランソワ=クロード・フェラン伯爵。一七五一年、古い法服貴族の家系に生まれた。十八歳で、高等法院の評定官となった。早くも一七八九年九月に亡命し、王族の軍に赴き、一七九三年、摂政評議会に加わった。一八〇一年、フランスへ戻り、歴史書の執筆に携わりながら、引退生活を送った。一八一四年、国務大臣、および郵政総監に任命された。一八一五年、その職に戻り、フランス貴族院議員、および枢密院議員に任命された。一八二五年没。
[113] 四月二十三日の協定、および、その条件と、シャティヨンで連合諸国が提示した条件との比較については、バクール氏の長い注を参照(第七部末尾の付録IV、二六五頁)。
[114] モンベリアルは、かつて、独立した公国の首都だった。同公国は、多くの手を経た後、一七二三年から、ヴュルテンベルク公の領有となっていた。フランスは、一七九二年、これを占領し、リュネヴィルの和平によって、その獲得を確保した。
[115] この点について、タレーラン公の主張を疑うかもしれない人々のために、次の書簡を掲げる。
総参謀長からマルモン元帥へ。
major général はここでは軍の総参謀長の職を指す。
「パリ、一八一三年十一月十八日。
ラグーザ公爵元帥殿。皇帝は、そのご意向をお知らせするため、私に、貴殿へ書簡を送るよう命じられました。聡明な将校をシュヴァルツェンベルク公のもとへ送り、ダンツィヒ、メーリン、ザモシチ、キュストリン、シュテッティン、およびグローガウの明け渡しについて、交渉を申し入れていただきたいとのことです。これらの要塞の明け渡し条件は、次のとおりです。守備隊は、捕虜とならず、武器と荷物を携えてフランスへ帰ること。要塞内にある、フランスの紋章を付けた、すべての野戦砲と、軍服の貯蔵物資を、わが方に残すこと。それらを運び帰る輸送手段を、提供すること。病人には治療を施し、回復するごとに、帰還させること。ダンツィヒは、なお一年、持ちこたえられること、グローガウとキュストリンも、同じく、なお一年、持ちこたえられること、これらの要塞を、包囲によって手に入れようとすれば、都市を破壊することになると、知らせてください。したがって、この条件は、連合諸国に有利であり、これらの要塞の明け渡しが、プロイセンの領土に平穏をもたらすことを考えれば、なおさらです。ハンブルク、マクデブルク、エアフルト、トルガウ、およびヴィッテンベルクの明け渡しが話題に出た場合、陛下は、貴殿に、次のように答えていただきたいと、お望みです。その点については、陛下の命令を仰ぐが、今は、訓令を受けていない。現在の交渉は、オーデルとヴィスワの要塞だけに関するものである、と。元帥殿、この連絡は、情報を得ることにも、役立つでしょう。
副大元帥公、総参謀長、アレクサンドル。」
vice-connétable は帝国の高位称号であり、本文では副大元帥と訳した。
(『ラグーザ公回想録』第六巻、七五―七六頁。)
付け加えておこう。一八一四年四月二十三日の協定によって、五十四の要塞に閉じ込められていた二十五万人の軍と、十五万人の捕虜が、フランスへ戻った。ダヴー元帥だけでも、ハンブルクから、武装した二万人、百門の大砲、二百台の弾薬車を伴って、帰還した。したがって、協定が定めた千人につき三門ではなく、五門の大砲となったのである。(バクール氏の注。)
[116] 条約調印の翌日、タレーラン氏は、クールラント公女に、次の書簡を送った。
パリ、一八一四年五月三十一日。
「四大国との和平を、結び終えました。三国の加入は、些細なことにすぎません[A]。四時に、和平条約が調印されました。たいへんよい和平で、完全な対等の立場で結ばれています。フランスが、まだ外国人で埋まっているにもかかわらず、むしろ、堂々とした和平です。私の友人たち、とりわけ、あなたには、私に満足していただけるはずです。」
[117] モナコ公国は、革命以前、フランスの保護下にあった(一六四一年のペロンヌ条約)。一七九三年、フランスに併合された。一八一四年の条約は、フランスの保護権を宣言しつつ、公国の独立を回復した。しかし、一八一五年、フランスは、この権利を失い、サルデーニャに与えられた。サルデーニャは、一八六〇年まで、その権利を保った。
[118] イギリスは、グアドループを占領し、スウェーデンに譲渡していた(一八一三年三月三日の条約、第四条)。
[119] ポルトガルは、一八〇九年の戦闘開始の当初から、フランス領ギアナを占領していた。
[120] 周知のとおり、この国境問題は、最終的な解決を見たことがなく、今日なお、フランスとブラジルの間で、未解決のままである。
「今日」はこの原注の執筆時点を指す。
[121] わが国の旧法における外国人遺産没収権は、フランスで死去した、すべての外国人の遺産を、君主に帰属させるものだった。しかし、ヨーロッパの、ほぼすべての国々との間で結ばれた、多数の条約は、とりわけ十八世紀を通じて、相互主義を条件に、この権利を、全面的に廃止するか、遺産の一部だけを、国王に残す、単なる控除権に置き換えていた。その割合は、四分の一から二十分の一までだった。国民議会は、この二つの権利を、完全に廃止した(一七九〇年八月六日、一七九一年四月十五日および二十八日の法令)。民法典の幾つかの規定(第七二六条、第九一二条)は、この改革を後退させるように見えたが、一八一九年七月十四日の法律が、改革を確認し、完成させた。
[122] ヴィットーリオ=エマヌエーレ一世。ヴィットーリオ=アメデーオ三世の次男。一七五九年生まれ。一八〇二年、退位した兄カルロ=エマヌエーレの後を継いだ。一八一四年までは、サルデーニャ島だけを統治した。その時、領土を回復し、一八二一年まで在位したが、反乱に直面して退位せざるを得なくなり、弟カルロ=フェリーチェに王位を譲った。一八二四年没。
[123] イギリス王ジョージ三世は、一八一四年、ハノーファー選帝侯領を回復した。同領は、王国に昇格し、さまざまな領土を加えられた。
[124] フォルモン氏は、官房の暗号局に勤めていた。後に領事となり、その資格で、ブカレスト(一八一五年)、カリアリ(一八一七年)、リヴォルノ(一八三〇年)に滞在した。一八四〇年、退職した。
[125] アレクシ・ド・ノアイユ伯爵。ルイ=マリー・ド・ノアイユ子爵の子。一七八三年生まれ。一八〇九年、教皇の皇帝に対する破門の大勅書を広めた罪で、逮捕された。間もなく釈放され、一八一一年、国外へ出て、スイス、次いでストックホルム、最後にイギリスへ行き、ルイ十八世に合流した。一八一三年の戦役には、ベルナドットの副官として参加し、一八一四年にも、敵側の隊列で戦った。その後、アルトワ伯爵の副官となり、タレーラン公に従ってウィーンへ行った。一八一五年、オワーズ県とローヌ県の代議員に選ばれ、国務大臣、および枢密院議員に任命された。一八三〇年まで、続けて再選され、その時、私生活に戻った。一八三五年没。
[126] フレデリック・ド・ラ・トゥール・デュ・パン・グーヴェルネ侯爵。一七五八年生まれ。父は、三部会の代議員、一七八九年の陸軍大臣を務め、一七九四年にギロチンで処刑された、ラ・トゥール・デュ・パン伯爵である。革命の初めには、大佐で、ハーグ駐在公使に任命された。一七九二年に罷免され、亡命した。統領政府の下でフランスへ戻り、アミアンとブリュッセルの知事となった。タレーラン氏に従ってウィーンへ行き、その後、再びハーグ駐在公使、次いでサルデーニャ王のもとへの公使に任命された。一八三〇年に引退し、一八三七年没。
[127] この書簡の原本が、今なお、ペテルブルクの帝国文書館にあることを、私たちは確認した(一八五七年)。(バクール氏の注。)
[128] シャルル=アンドレ・ポッツォ・ディ・ボルゴ伯爵。一七六四年、アジャクシオ近郊生まれ。若いころは、ナポレオンと、たいへん親しかったが、コルシカの内紛の過程で不和となり、生涯続く敵意の始まりとなった。一七九一年、コルシカ選出の立法議会代議員に選ばれた。一七九二年、コルシカへ戻り、翌年、同胞たちにより、パオリとともに、政務を任された。コルシカが、一時、イギリスの支配を受け入れると、国務院議長、および国務長官となった。一七九六年、亡命を余儀なくされ、ロンドン、次いでウィーンへ行き、一八〇三年、外交官として、ロシアに仕えた。ティルジットの後、オーストリアへ戻り、そこからイギリスへ渡り(一八〇九年)、ロンドンとペテルブルクの接近を、交渉した。一八一二年と一八一三年の出来事に、大きな影響を及ぼした。一八一四年、アレクサンドル皇帝に同行してパリへ入り、フランス駐在ロシア大使に任命された。多数の外交使節の任務を負い、神聖同盟の、すべての会議に出席した。一八三五年、ロンドン駐在大使となり、一八三九年に辞任し、一八四三年に没した。
[129] 首座大司教公は、ライン同盟の結成時に、皇帝によって、アシャッフェンブルク、フランクフルト、およびヴェッツラーの主権公に、任命されていた。
[130] オルデンブルク大公国は、一八一〇年十二月十三日、ナポレオンによって併合されていた。
[131] アーレンベルク公家の領土は、リュネヴィル条約により、その一部が、フランスに併合されていた。公家は、代わりに、メッペン伯爵領とレックリングハウゼンの要塞を、受け取っていた。一八〇三年、在位していたルイ=アンジルベール公は、一七八五年生まれの息子、プロスペール=ルイに位を譲った。息子は、一八〇六年、フランス帝国の元老院議員となり、一八〇七年、ライン同盟に入り、一八〇八年、猟兵連隊を編成し、それを率いてスペインへ送られた。捕虜となり、イギリスへ連行された。一八一〇年、ナポレオンは、その領土を処分し、一部をフランスに併合し、一部をベルク大公国に編入した。一八一五年、アーレンベルク公の領土は、ハノーファーとプロイセンに与えられ、公自身は、ハノーファー上院の議員となった。
[132] コンスタンティン=アレクサンダー、ザルム=ザルム侯、およびフリードリヒ四世、ザルム=キルブルク侯。ザルム侯国は、一八〇二年、フランスに併合された。その代わり、フランス軍の騎兵上級将校として仕えていたザルム=キルブルク侯は、ミュンスター司教領を得て、ライン同盟に入った。一八一二年、ナポレオンは、侯に支払う四十万フランの年金と引き換えに、この領土を併合した。一八一四年、旧侯国は、プロイセンに編入された。
[133] フリードリヒ=ヴィルヘルム、ブラウンシュヴァイク=エールス公。一七七一年生まれ。一八〇六年、父の後を継いだ。しかし、ティルジットの和平によって、領土を奪われ、公国は、ヴェストファーレン王国に併合された。世襲領を取り戻そうと、むなしく努力した後、イギリスへ避難した。一八一三年、再び武器を取り、同年十二月二十二日、領土に復帰したが、ワーテルローで戦死した。
戦死地「ワーテルロー」は底本の記載を保持した。
[134] ナポレオンは、その時、ダンツィヒをプロイセンから奪い、自由都市と宣言していた。ただし、フランスの守備隊が、駐屯することになっていた。
[135] ナポレオンは、エルバ島の主権公と認められていた。
[136] ウィレム、オラニエ=ナッサウ公。後のネーデルラント王。一七七二年生まれで、総督ウィレム五世の子。一七九四年と一七九五年、オランダ軍を指揮した。フランス軍の侵入を前に、父は退位してイギリスへ逃れ、ウィレム公は、オーストリアに仕えた。一八〇三年、オランダに対する、すべての権利を放棄する代わりに、世俗化されたばかりのフルダ修道院領を得た。しかし、一八〇六年、プロイセン側に立ったため、この侯領と世襲領を奪われた。そこで、再びオーストリアに仕えた。一八一三年、オランダへ帰り、連合州の主権公の称号を取った。ウィーン会議は、ネーデルラント王の称号を認め、ベルギーをオランダに併合した。翌年、ウィレム一世は、再び連合に加わり、ワーテルローで負傷した。一八三〇年まで統治した。その年、独立を宣言したベルギーを失った。王は、一八四〇年に退位し、一八四三年、ベルリンで没した。
一世のワーテルロー負傷、統治期間と退位年の記述は、原注のまま保持した。
[137] フェルディナント、オーストリア大公。レオポルト皇帝と、スペイン王女マリー=ルイーズの子。一七九一年、トスカーナ大公となった。一七九九年まで領土を保ったが、その年、奪われ、同年、一時、復帰した。しかし、マレンゴの勝利により、再び領土を失った。その領土は、一八〇一年、エトルリア王国となり、パルマ公ルイに与えられた。フェルディナントは、ウィーンに退き、一八〇三年、選帝侯の称号とともに、ザルツブルク大司教領を受けた。一八〇五年には、ヴュルツブルク司教領を受け、一八〇六年、大公の称号で、ライン同盟に入った。一八一四年、トスカーナに復帰し、一八二四年まで統治した。
[138] フランチェスコ四世。フェルディナント大公とマリー=ベアトリクス・デステの子で、母方の祖父は、モデナ公エルコレ三世である。一七九七年、エルコレは、フランス軍によって領土を奪われ、その領土は、チザルピーナ共和国に編入され、レッジョを県都とするクロストロ県と、モデナを県都とするパナーロ県となった。フランチェスコは、一八一四年、モデナ公となった。一八四六年まで統治した。サルデーニャ王ヴィットーリオ=エマヌエーレ一世の娘、マリー=ベアトリクスとの結婚によって、幾人かの子をもうけた。その中には、シャンボール伯爵と結婚した、マリー=テレーズ公女がいる。
[139] パルマ公国は、一八〇二年、チザルピーナ共和国に編入されていた。帝政の下では、フランスに併合され、パルマを県都とするターロ県となった。
[140] 周知のとおり、一八〇七年十月二十七日のフォンテーヌブロー秘密条約は、エトルリア摂政王妃に、イタリアの領土と引き換えに、ポルトガルの一部から作る予定のルシタニア王国を、約束していた。この約束は、果たされなかった。
[141] モンフェッラートは、ピエモンテとジェノヴァ共和国の間にある、古い侯国だった。首都は、カザーレである。この国は、一七〇八年、皇帝によってサルデーニャ王国に与えられ、サルデーニャ王たちは、皇帝代理の称号を取った。この称号は、皇帝カール四世が、モンフェッラート侯に授けたものだった。
[142] 一八〇二年に退位した、カルロ=エマヌエーレ二世。一八一九年、イエズス会士として、ローマで没した。妻は、王太子ルイの娘で、したがってルイ十八世の姉妹である、マリー=アデライード=グザヴィエール=クロティルドだったが、先立たれていた。
国王の世数「II」は底本の記載を保持した。
[143] ヴィットーリオ=エマヌエーレ一世。前者の弟。
[144] カルロ=フェリーチェ。一七六五年生まれ。前記の二人の弟。一八二一年、王位に就いた。一八二四年、子を残さずに没した。傍系のカリニャーノ公(カルロ=アルベルト)が、後を継いだ。
没年「1824」は底本の記載を保持した。次の原注145では「1831」となる。
[145] カリニャーノ家は、一六三〇年に没したサヴォイア公カルロ=エマヌエーレ一世に、さかのぼる。当時、この家を代表していたのは、一七九八年生まれで、ヴィットーリオ=エマヌエーレ王の従兄弟に当たる、カルロ=アメデーオ=アルベルト、カリニャーノ公だった。一八三一年、カルロ=フェリーチェ王の死去により、王位に迎えられた。
[146] トスカーナに囲まれたピオンビーノ公国は、面積が約四十平方キロメートル、人口が二万五千人だった。かつては、一六三四年に買い取ったブオンコンパーニ家に、属していた。ピオンビーノ公は、一八〇一年、領土を奪われた。ボナパルトが公国を手に入れ、妹のエリザ・バチョッキ公女に与えた。ウィーン条約は、これをブオンコンパーニ家に返還し、同家は、四百七十万四千フランで、トスカーナ大公に譲渡した。
[147] ミュラは、一八一四年一月六日と十一日、オーストリアおよびイギリスと、それぞれ条約を結んでいた。両国は、これらの条約によって、ミュラの領土を保証し、さらに、教皇領を削って、領土を増やすことさえ約束していた。その代わりに、ミュラは、自軍の三万人を、連合軍に加えることを、約束していた。
[148] ルイ十八世は、母マリー=ジョゼフ・ド・サックスを通じて、フリードリヒ=アウグスト王の従兄弟だった。
[149] エルンスト=フリードリヒ・ミュンスター伯爵。一七六六年、オスナブリュック(ハノーファー)生まれ。イギリス王でもあるハノーファー選帝侯の、枢密顧問となった。一七九七年、ペテルブルク駐在公使に任命された。ハノーファーがナポレオンの手に落ちると、ロンドンへ避難した。そこで、ジョージ王は、さまざまな重要な外交使節の任務を、与えた。一八一四年、ウィーン会議で、ハノーファー選帝侯領を代表し、翌年、ハノーファー政府の長となった。一八三〇年まで在職し、一八四一年に没した。
[150] 一五二頁を参照。
[151] 一六四頁を参照。
[152] 一六七頁を参照。
[153] 一七四頁を参照。
[154] ロバート・スチュアート、ロンドンデリー侯爵、カスルレー子爵。一七六九年、アイルランド生まれ。二十一歳で、庶民院議員に選ばれた。一七九七年、アイルランドの王璽尚書、次いでアイルランド総督カムデン卿の秘書、およびアイルランド枢密院議員となった。ピットを強く支持し、一八〇五年、陸軍・植民地大臣に任命された。ピットの死によって内閣は解散したが、カスルレーは、一八〇七年、同じ職に復帰した。一八〇九年、退任した。一八一二年、外務大臣として政権に戻り、リヴァプール卿内閣の下で、実際の指導的な大臣となった。一八一四年と一八一五年の出来事に、大きな影響を及ぼし、シャティヨン会議とウィーン会議に出席した。一八二二年没。自ら命を絶ったことは、知られている。
[155] カール=アウグスト・フォン・ハルデンベルク公。プロイセンの政治家。一七五〇年、ハノーファー生まれ。初め選帝侯に、次いでブラウンシュヴァイク公に仕え、その後、バイロイトおよびアンスバッハ辺境伯の大臣となった。これらの侯国が、一七九一年、プロイセンに編入されると、プロイセン王の大臣となった。一七九五年、フランスとのバーゼルの和平に署名した。一八〇四年、ハウグヴィッツ伯爵の後を継いで外務大臣となったが、アウステルリッツの戦いの後、辞任した。イエナの戦いの後、同じ職に復帰したが、ティルジットの和平の際、再び退かなければならなかった。一八一〇年、国家宰相に任命された。ロシア戦役の後、積極的に対フランス戦争を推し進め、パリ条約の署名者の一人となった。ウィーン会議に出席した。一八一七年、国務院議長となり、一八二二年に没した。
[156] フリードリヒ・フォン・ゲンツ。一七六四年生まれ。初め、プロイセン財務省の事務総長、次いでウィーンの宮廷顧問となった。フランスの激しい敵対者として、ヨーロッパ外交で、大きな役割を果たした。一八一三年、諸国の対仏宣言を起草し、書記としてウィーン会議に参加した。一八一五年のパリ条約を起草し、神聖同盟の、さまざまな会議に出席した。一八三二年没。
[157] この仲介者は、ドイツ貴族の家系の出で、著名な武将フランツ・フォン・ジッキンゲン(一四八一―一五二三年)の子孫である、ジッキンゲン伯爵だった。
[158] 一八一五年一月三日。この条約によって、フランス、オーストリア、およびイギリスは、プロイセンとロシアの野心を抑えるため、共同の立場に立つことを約束し、十五万人の軍による協力を、相互に保証した。
[159] ルイーズ=ジュリー=コンスタンス・ド・ロアン。シャルル=ルイ・ド・ロレーヌ、ブリオンヌ伯爵と結婚した(第一巻、四三頁、九二頁、および各注を参照)。
[160] プロイセンは、上ラウジッツと下ラウジッツの全域、マイセン地方とテューリンゲンの、ほぼ全域、およびトルガウとヴィッテンベルクの要塞を、獲得した(一八一五年五月十八日の条約)。
[161] ウィーンでは、ミュラを倒すことで意見が一致していたが、口実が見つからなかった。すると、ミュラ自身が、それを与えた。彼は、ウィーンに、カンポ=キアーロ公という代理人を置いていたが、その会議参加は、拒まれていた。そのため、公には、何の正式な地位もなかったにもかかわらず、ミュラは、一八一五年二月末ごろ、諸国に伝えるよう命じて、覚書を送った。その中で、王は、君主たちに、自分に対する意図の説明を求め、必要ならば戦う用意があると宣言し、その場合には、新たに作られたイタリアの幾つかの国々の領土を、通過せざるを得なくなると、警告していた。オーストリアは、この機会を捉え、イタリアのオーストリア系君主たちを保護するという口実で、十五万人を、ミュラに向けて進軍させた。
[162] フェルディナンド四世が、私にディノ公国を授けた、名誉ある勅令を、ここに記すことは、家族に対する義務である。たとえ、その義務がなかったとしても、感謝の気持ちだけで、記す義務を感じるだろう。(タレーラン公の注。)
両シチリアの国王と王妃は、会議で、自分たちの利益を守ることを、タレーラン氏に委ねていた。この件について、二人が氏に宛てた書簡を、以下に掲げる。公の文書の中にある原本に従い、一字一句、そのまま転記する。
「一字一句、そのまま転記」は、この書簡を収録した原編者の説明を訳したもの。
両シチリア国王の書簡。
「公爵殿、
私の手は、おぼつかないため、気持ちをお伝えするのに、他人の、しかし忠実な手を、借りなければなりません。長く信頼し、忠実に仕えてくれる大臣、ルッフォ(コマンドゥール)から、あなたが、私の利益に好意的であり、私のナポリ王国を返してもらうことに、関心を寄せてくださっていると、聞きました。そこで、遅滞なく、感謝をお伝えし、私の正当な大義を、あなたの手に委ねたいと思います。政務を扱う、あなたの卓越した才能だけが、よい結果を期待させてくれますし、それをペリゴール家の人に負うことは、私にとって、うれしいことです。会議で、私の大義へのご厚意を発揮してくださるとの信頼が、私に抱かせる、あらゆる思いについて、私の名において、確かめてお伝えするよう、ルッフォ(コマンドゥール)に、命じています。その思いをもって、あなたに、前もって、感謝の言葉を、お受け取りいただきたく存じます。あなたに、深い親愛を寄せる、
commandeur は騎士団内の位階・称号。騎士団全体の長を意味する grand maître と区別し、コマンドゥールと表記した。
フェルディナンド。
パレルモ、一八一四年十月一日。」
両シチリア王妃の書簡。
「ベネヴェント公爵殿、
あなたは、ブルボン家に属する、すべての者から感謝される資格を、今、得られました。そのため、私は、あなたのご親族で、私の古くからの変わらぬ友人である、タレーラン男爵夫人の仲介を借りて、深い敬意と尊重の思いを、お届けいたします。あらゆるつながりによって、私が属している、この家に対して、最近の幸運な出来事の中で、あなたが果たされた目覚ましい奉仕が、その思いを抱かせました。あなたは、この家の復興と偉大さに、熱意と同じほどの栄光をもって、貢献されたのです。私は、夫である国王と、家族全員の思いに、自分の感謝を合わせ、その代弁者となることを、喜んでおります。ブルボン家の本家とスペインの分家に、祖先の地位と王座を返した、驚くほど急速な出来事は、まだ、両シチリアの分家には、影響を及ぼしていません。この家は、不幸、とりわけ、その不屈さによって、同盟者たちの尊重と公正を受ける、神聖な権利を得ているにもかかわらずです。しかし、フランスが、正当に、ヨーロッパで取り戻そうとしている影響力は、確かな保証となります。フランスは、私たちへの厚意から、その国民と君主、そして、君主が、賢明さと才覚によって見いだし、選ばれた大臣を特徴づける、あの気高さと毅然さをもって、私たちの正当な権利を、支持してくれるでしょう。今日、私は、そこに信頼を置き、わが家の将来の幸福と栄光への希望を、託しています。ブルボン家全体の不幸も、苦しい経験も、すべて、私たちに教えました。それぞれの分家は、自らの繁栄と栄光、そして、統治する使命を負う人々の繁栄と栄光のため、永久に結びつかなければならず、一族の長に、結びつかなければならないのです。これが、夫である国王の思いであり、私の家族全員の思いです。そして、今後、私たちの政府が、政治上の関係において取る行動の基礎と、間違いなく、なるでしょう。公爵殿、私自身と家族全員の名において、あなたの才能と奉仕に、心からの喜びをもって捧げる、称賛と感謝を、どうか、重ねて、お受け取りください。
親愛を込めて、シャルロット。
ウィーン、一八一四年六月二十七日。
[163] その時間は、なかった。周知のとおり、一八三〇―一八三二年の革命は、ベルギーをオランダから分離した。
[164] 一八一五年三月二十五日、ナポレオンのパリ到着の知らせを受け、イギリス、オーストリア、ロシア、およびプロイセンは、同盟を結び直した。ヨーロッパの、ほかのすべての国々も、この条約に加入した。同時に、諸国は、次の宣言を発した。
こうして、自らをエルバ島に置いた協定を破ることによって、ブオナパルテは、その存立を支えていた、唯一の法的な根拠を、破壊した。混乱と変革を企てて、フランスに再び現れたことで、自ら、法の保護を失い、彼とは、和平も休戦も、あり得ないことを、全世界に示した……。したがって、諸国は、ナポレオン・ブオナパルテが、市民的・社会的な関係の外に、自らを置き、世界の平穏の敵であり、攪乱者として、公の制裁に、自らを委ねたことを、宣言する。
[165] 以下の往復書簡は、すでに、数年前、パラン氏によって出版されている(『ルイ十八世とタレーラン氏の未刊往復書簡』、八折判、一巻)。ただし、ここに収めた、国王の大使たちから外務大臣への書簡は、除く。――私たちは、パラン氏が外務省の文書館で見つけた公式の本文と、タレーラン氏が『回想録』に残そうとした本文との間に、幾つかの違いを認めた。多くは些細なものだが、時には、かなり興味深いものもあり、いずれにせよ、示す価値があると考えた。追加と異文は、注、および斜体で示してある。また、私たちの本文には、文書館の本文に再録されていない箇所が、幾つかある。それらも、同様に、字体を変えて示し、指摘した。
異文を示す字体についての説明は、底本の編集方針。日本語版でも、単なる修辞的強調と混同しないよう区別する。
[166] ここに収める三つの往復書簡については、番号を参照する書簡を理解しやすくするため、三系列の番号を維持することが、不可欠である(バクール氏の注)。したがって、タレーラン氏の書簡は、第一号、第二号、第三号……、大使たちから外務省への書簡は、第一号補、第二号補、第三号補……、国王からタレーラン氏への書簡は、第一号第三信、第二号第三信、第三号第三信……とした。さらに、ブラカ伯爵の書簡も、幾つか収めている。それらには、ローマ数字を用いた。
[167] ここに、この最初の書簡の全文を、パラン氏の著作に載っているとおりに掲げる。異文が、非常に多いため、ほかの方法で示すことは、難しかった。
「ウィーン、一八一四年九月二十五日。
陛下、
十六日にパリを発ち、二十三日の晩、ここに着きました。途中で泊まったのは、ストラスブールとミュンヘンだけです。
ウェールズ公妃は、ちょうど、ストラスブールを発ったところでした。同名の銀行家の未亡人、フランク夫人の舞踏会に招かれて出席し、一晩中、踊っていたそうです。私が泊まった宿では、タルマを夕食に招いていました。ストラスブールでの公妃の振る舞いを見れば、摂政皇太子が、公妃には、イギリスよりイタリアにいてほしいと思う理由が、よく分かります。――ミュンヘンでは、国王が、陛下への親愛と、プロイセンの野心に抱く不安を、語りました。そして、たいへん感じよく、こう言いました。「私は、二十一年間、フランスに仕えた。それは、忘れられるものではない。」モンジュラ氏と、二時間ほど話すことができました。その会話で、陛下が、フランスの政治方針の基礎として定められた原則に従うだけで、序列の低い諸国が、私たちの側へ戻り、その信頼を得られることが、よく分かりました。
ウィーンでは、全権委員たちの口から、まだ、理性と節度のある言葉は、聞かれません。
昨日、ロシアの大臣の一人は、私たちに、こう言いました。「われわれを、アジアの国にしておこうとする者がいた。ポーランドが、われわれを、ヨーロッパの国にするだろう。」
一方、プロイセンは、かつてのポーランド領諸州を、ドイツやライン河畔で欲しがっている諸州と交換することを、何よりも望んでいます。この点では、この二国は、緊密に結びついていると、見なすべきです。
ロシアの大臣たちは、これまで、少しの議論も許さず、旧プロイセンまでも帝国に編入して、自国をヴィスワ河畔にまで広げる、領土拡張を、主張しています。
皇帝は、これまで、さまざまな機会に、皇帝の利益と栄光に、最も役立つと私が考えることを、率直に申し上げるのを、許してくださいました。今度も、大臣たちの方針に反対する意見を、お耳に入れることを、許してくださるよう、願っています。人類愛を唱えるラ・アルプは、かつてのポーランド分割には憤慨しながら、ポーランドをロシアに従属させることを、弁護しています。彼は、十日か十二日前から、ウィーンにいます。
ザクセン王が、会議に公使を置く権利は、なお、争われています。長く知り合いのシューレンブルク氏は、昨日、王が、ザクセンの存立を破壊し、王家の権利を損ない得る、いかなる割譲、退位、交換も行わないと、宣言した、と話してくれました。この名誉ある抵抗は、なお、この王国をプロイセンに併合する考えを持つ人々に、幾らかの感銘を与えるかもしれません。
バイエルンは、必要ならば、相当数の部隊によって、その要求を支えると、ザクセン王に申し出ました。ヴレーデ氏は、最大四万人を提供するよう、命令を受けている、と言っています。
ナポリ問題は、解決していません。オーストリアは、ナポリとザクセンを同列に扱おうとし、ロシアは、両者を、代償の取引材料にしようとしています。
ナポリ王妃の死は、ほとんど惜しまれていません。その死によって、メッテルニヒ氏は、いっそう気が楽になったようです。
会議の運営と議事の進め方については、何も決まっていません。ほかよりも整然としていると思っていたイギリス人たちでさえ、この点では、何の準備もしていません。
二つの委員会を設けるという考えに、意見がまとまるのではないかと、私は考えています。一つは、六大国で構成し、ヨーロッパ全体の問題を扱うもの。もう一つは、ドイツの問題を準備するもので、同じく、ドイツの上位六か国で構成するものです。私は、七か国にしてほしいと思っていました。イタリアのための委員会という考えは、オーストリアを、ひどく不快にさせています。
陛下が、大臣たちに示された道は、たいへん気高いものですから、地上から、あらゆる理性が消えていない限り、最後には、必ず、彼らに、幾らかの影響力を、与えるはずです。
陛下に、最も深い敬意をもって、いとも謙虚で従順な、しもべ、臣民として、申し上げます。
タレーラン公。」
「追伸――ロシア皇帝とプロイセン王が、たった今、到着しました。入城は、たいへん見事なものでした。二人は馬上にあり、その間に、オーストリア皇帝がいました。馬が起こした、ちょっとした混乱のため、道中のかなりの区間で、プロイセン王が、フランツ皇帝の右側に位置しました。順序が元に戻ったのは、宮殿へ着く、少し前になってからでした。」
[168] バイエルン王マクシミリアン一世。一七八九年の革命以前、フランスに仕える大佐だった。当時は、ツヴァイブリュッケンのマックス公という名で、知られていた。
[169] 文書館の本文では削除。
[170] 文書館の本文では削除。
[171] 文書館の本文では削除。
[172] ラ・アルプ氏。スイスの政治家で、アレクサンドル皇帝の元家庭教師。総裁政府の時代に、自国の問題で、重要な役割を果たしたことは、すでに見た。
[173] フリードリヒ=アルベルト・フォン・シューレンブルク伯爵。一七七二年、ドレスデン生まれ。一七九八年、ザクセンのウィーン駐在公使、次いでレーゲンスブルク駐在公使に任命された。ラシュタット会議(一七九九年)に出席し、間もなく、コペンハーゲン、次いでペテルブルク(一八〇四年)へ送られた。一八一〇年、ウィーンに戻り、一八一四年の会議には、ザクセンの全権委員として出席した。一八三〇年、引退し、死去するまで(一八五三年)、もっぱら文学に専念した。
[174] 文書館の本文では削除。
[175] 国王との書簡のやり取りは、タレーラン公だけが行っていた。(バクール氏の注。)
[176] タレーラン公の不在中、パリで外務大臣の職を預かっていたのは、ジョクール伯爵だった。(バクール氏の注。)
[177] 異文:「しばしば」。
[178] 異文:「個別の謁見」。
[179] 異文:「私は確信しています」。
[180] 異文:「極端に」。
[181] ポーランドにある、チャルトリスキ公家の城館。この壮麗な邸宅は、詩人ドリールが、詩『庭園』の中で歌っている。
(バクール氏の注。)
[182] チャルトリスキ家は、ポーランドの最も有力な家系の一つだった。当時、この家を代表していたのは、ポドリアの総長官で、オーストリア軍の砲兵大将だった、アダム=カジミェシュ公(一七三一―一八二三年)と、その二人の息子である。アダム=イェジは、一七七〇年生まれで、元ロシア大使、後にポーランド王国の元老院議員となった。コンスタンティ=アダムは、一七七三年生まれで、当時、ロシア軍の歩兵大佐だった。
[183] この書簡の日付は、文書館の本文では、十月十三日となっている。
[184] 異文:「そなたに返答するために」。
[185] 国王ルイ十八世からタレーラン公への書簡は、ブラカ・ドールプ伯爵、後の公爵が清書していたが、国王が署名していた。国王の草稿が、外務省の文書保管所にあることは、すでに述べた。そこでは、どのようにして、それらが持ち込まれたのかさえ、分かっていない。
(バクール氏の注。)
[186] 異文:「同等の関心」。
[187] 異文:「あのコルシカ人の」。
[188] 異文:「どれほど待ち遠しく、私が待っているか」。
[189] タレーラン氏の書簡でも、大使たちの書簡でも、往復書簡に添えて、外務省へ送った文書が、しばしば言及されている。これらの文書は、公の『回想録』の原稿には、添付されていなかった。そのため、ここに収めることは、できなかった。
[190] 異文:「大臣たち」。
[191] ハルデンベルク氏は、ほとんど完全に、耳が聞こえなかった。
[192] ソウザ=ホルシュタイン氏。初めパルメラ伯爵、後に公爵(一七八六―一八五〇年)。後に、一八三〇年、ポルトガルの摂政となった。
[193] 一八一四年三月二十五日、シャティヨン交渉の決裂後、連合諸国の君主たちは、ランで、ショーモン条約を更新する宣言に署名していた。
[194] 異文:「帰していなかった」。
[195] 異文:「それを脇へ置いた」。
[196] 異文:「私たちは、保証するために来たのだと」。
[197] 異文:「その後、全員での会話になりました。誰かがナポリ王の名を口にすると、ラブラドール氏は、彼について、容赦なく述べました」。
[198] 異文:「どのナポリ王のことを、言っているのですか。話題になっている人物を、われわれは知りません」。
[199] 異文:「私は、毅然とした冷静な口調で言いました」。
[200] 異文:「実際に、目に見えて、生じさせました」。
[201] ドイツでも、最も小さい二つの侯国。とりわけ、リヒテンシュタイン侯国の人口は、わずか七千人だった。
[202] 異文:「適切に結ぶのに役立つでしょう」。
[203] 異文:「そして、仲介者がいないために」。
[204] 異文:「及ばなかった」(n’allait)。
[205] 異文:「よりよい」(meilleure)。
[206] 憲章は、出版の自由を保証していた。しかし、一八一四年九月に可決された法律は、二年間の期間で、検閲を復活させていた。
[207] 異文:「そこで、人々に好かれるようになりました」(原文:il s'y est fait aimer.)。
[208] オーストリア皇帝の国務参事官、および大侍従(一七四九―一八一七年)。
[209] 異文:「ある意味で」(un sens)。
[210] 異文:「……その大臣は、弱腰である」。
[211] 第三十二条――二か月以内に、今回の戦争に、双方の側から参加した、すべての国は、ウィーンに全権委員を送る。全体会議において、本条約の規定を完成させるべき取り決めを、定めるためである。
[212] サガンは、シレジアの都市で、かつて、著名なヴァレンシュタインが領有した公国の首都である。その後、クールラント公家、ビロン家に移った。クールラント公ピエールの娘、カタリーナ=ヴィルヘルミーネは、一八〇〇年、父の後を継いで、サガン女公となった。ここで言及されているのは、彼女である。一八三九年に没し、妹ポーリーヌが後を継いだ。一八四四年、公国は、クールラント公ピエールの三女ドロテに移った。ドロテは、タレーラン公の甥で、後にタレーラン=ペリゴール公となった、エドモン・ディノ公と結婚していた。
[213] この条項は、次のとおりである。「至キリスト教的陛下が、公開条約第三条によって放棄する領土の処分と、ヨーロッパに、真実かつ永続的な均衡の体制をもたらすべき諸関係は、連合諸国が、相互に定めた基礎と、以下の諸条項に含まれる一般規定に従い、会議で定められる」、等々。
[214] 異文:「一目」。
[215] 異文:「ただ目を通すこと」。
[216] 異文:「私たちにお与えになった」。
[217] 異文:「願いに」(au vœu)。
[218] 異文:「ある期間」(un cours)。
[219] アルフレート・ツー・ヴィンディシュグレーツ公。シュタイアーマルクの、古く、名高い家系の出。一七八七年、ブリュッセル生まれ。陸軍に入り、将軍となった。しかし、その名が広く知られるようになったのは、一八四八年になってからである。当時、プラハの司令官で、激しい反乱を鎮圧しなければならなかった。それを成し遂げ、報いとして元帥に任命された。次いで、反乱勢力の手に落ちていたウィーンを占領し、同じく蜂起していたハンガリーへ送られた。しかし、この最後の任務には失敗し、召還された。一八六二年没。
[220] エカテリーナ・パヴロヴナ。アレクサンドル皇帝の妹。一七九五年生まれ。一八一二年、オルデンブルク大公ペーター=フリードリヒ=ゲオルクと死別し、一八一六年、ヴュルテンベルク王と再婚した。
生年「1795」は底本の記載を保持した。本文にいう二十二歳との不一致も修正していない。
[221] 異文:「この旅行について、彼女は期待していると」。
[222] 異文:「もし、それらが私には……であったなら」(si elles m’eussent)。
本文の si elles n’eussent に対し、異文は si elles m’eussent。否定の n’ を補わず、断片の原語を併記した。
[223] 異文:「ですから、もう話さないでください」。
[224] 文書館の本文では削除。
[225] ザクセンのことである。フリードリヒ=アウグスト王の弟、アントン公は、第一に、レオポルト皇帝の娘で、一七八二年に没したマリー=シャルロット=アントワネットと結婚した。第二に、一七八七年、同皇帝の別の娘で、一七六七年生まれのマリー=テレーズ=ジョゼフと結婚した。
[226] 文書館の本文では削除。
[227] 異文:「現在の状況では」(原文:dans la position présente.)。
[228] 異文:「その部分については」(原文:pour cette partie-là.)。
[229] 異文:「われわれは、こだわっていません」。
[230] 異文:「私たちが赴く」。
[231] グスタフ・レーヴェンヒエルム。一七七一年生まれ。スウェーデン軍の将校だった。グスタフ三世の副官、後には、ベルナドットの副官を務めた。一八一四年、軍職から外交に転じ、ウィーン会議へ送られ、その後、パリ駐在大使に任命された。一八五六年没。
[232] 異文:「答えた」。
[233] 異文:「受け入れること」。
[234] ベルナドット。当時は王太子で、後にカール十四世の名で、スウェーデン王となった。
[235] チャールズ・ウィリアム・スチュアート、ヴェイン伯爵。兄カスルレー卿の死後、ロンドンデリー侯爵となった。一七七八年、ダブリン生まれ。陸軍に入り、一八〇三年、大佐だった時に、陸軍省次官に任命された。その後、准将としてスペインで勤務した。一八一五年、ウィーン駐在大使、および会議の全権委員に任命された。一八一九年に引退し、死去するまで、公職に就かなかった(一八五四年)。
[236] 異文:「今朝」。
[237] ヤコービ=クレスト男爵。プロイセンの外交官。一七四五年生まれ。一七九〇年、プロイセンのウィーン駐在大使、次いでロンドン駐在大使(一七九二年)となり、一八一六年まで、その地にとどまった。一七九九年、ラシュタット会議でプロイセンを代表し、オーストリアの軽騎兵に殺害されたフランスの全権委員たちを、公然と擁護した。一八一七年没。
[238] 一八一四年四月十一日の条約は、一方に、イギリスの加入を伴うプロイセン、オーストリア、およびロシア、もう一方にナポレオンが立って、締結された。その目的は、皇帝と、その家族の地位を定めることだった(第二巻、一六六頁参照)。周知のとおり、二百五十万フランの給付が、約束されていた。
[239] ナポレオンが、モン・ナポレオンの名で、ミラノに設立した国立銀行。皇帝と、その家族は、そこに資金を預けており、オーストリアは、四月十一日の条約第十三条によって、その未払金を支払うことを、約束していた。
[240] 異文:「そこでは、代わりに置かれた」。
[241] ヨハン大公は、レオポルト皇帝の七男。一七八二年生まれ。ホーエンリンデンでは、オーストリア軍の最高司令官を務めた。一八〇一年、要塞総監となった。一八〇五年と一八〇九年にも、重要な指揮を任された。不興を買い、一八一三年と一八一四年の最後の戦いでは、軍事上の役割を果たさず、一八四八年まで、表舞台から離れて暮らした。その時、フランクフルトに集まった議会は、彼をドイツ帝国の摂政に任命した。同時に、皇帝も、オーストリアでの総代理に指名していた。彼は、帝国摂政として、しばらく統治したが、その後の出来事によって、退かざるを得なくなった。一八五九年没。
[242] 異文:「そこで求めた」(原文:il y a demandé.)。
[243] アレクサンドラ・パヴロヴナ大公女。一七八三年生まれ。一七九九年、フランツ皇帝の弟で、ハンガリー王国の宮中伯である、ヨーゼフ=アントン大公と結婚した。一八〇一年没。
[244] 異文:「私たちは、再興しようとしています」。
[245] ここには誤りがある。アレクサンドルの妹、エカテリーナ大公女と結婚した、オルデンブルク公ペーター=フリードリヒ=ゲオルクは、一八一二年に没していた。
[246] 異文:「私が提出するような」。
[247] 異文:「ここに受領をお知らせする」。
[248] 異文:「ポッツォ・ディ・ボルゴなら、成功できたかもしれない」。
[249] タレーラン氏の十月四日付書簡、三二三頁を参照(フンボルト氏)。
[250] 異文:「最悪の場合に」。
[251] 異文:「それが、本当のやり方だと」(原文:que c'est là la vraie façon.)。
[252] カール=フィリップ・フォン・ヴレーデ公。一七六七年、ハイデルベルク生まれ。一八〇五年から一八一三年まで、フランスを援助するバイエルン軍を率い、ナポレオンにより、帝国伯爵に叙された。一八一三年に離反したが、ハーナウで、壊滅的な敗北を喫した。フランス戦役の後、元帥となった。ウィーン会議では、バイエルンを代表した。一八三八年没。
[253] ヨハン=アドルフ・フォン・ティールマン男爵。一七六五年、ドレスデン生まれ。ザクセン人でありながら、プロイセン軍に入り、一七九二年から一七九五年まで、および一八〇六年の対フランス戦役に参加した。一八〇九年、将軍に任命され、ザクセンに戻って仕え、ロシア戦役では、ザクセン騎兵を指揮した。一八一三年、連合軍側に移り、遊撃部隊の長となった。一八一五年、再びプロイセンに仕え、リニーで、プロイセンの一師団を指揮した。一八二四年没。
[254] ロシアとデンマークとの平和条約。一八一四年二月八日、ハノーファーで調印された。この条約の第六条は、ロシア軍が、ホルシュタインに、いかなる軍事賦課金も課してはならないと、定めていた。
[255] 異文:「ポーランド王国の」。
[256] 異文:「それが行われることを」(que cela ne se fît)。
参照先の empêcher に続く ne は虚辞であり、日本語で否定を加えない。
[257] 異文:「彼が望んでいることから」。
[258] 異文:「イギリスは始めた」(elle a commencé)。
[259] 一八一四年以前、ノルウェーは、デンマークに属していた。ところが、デンマークは、一八一三年、ナポレオンと同盟を結んだのに対し、スウェーデンは、連合諸国側に立ち、イギリスと補助金条約を結んでいた(一八一三年三月三日)。スウェーデンは、ノルウェーに侵入した。一八一四年八月十四日の条約が、戦闘を停止させ、続く十一月四日、ノルウェー議会は、スウェーデン王を、ノルウェー王と宣言した。
[260] 一八一二年のブカレストの和平。これによって、トルコは、ベッサラビアとモルダヴィアの一部をロシアに譲り、ワラキアに対するロシアの保護権を、認めた。
[261] ロシアとペルシアとの平和条約(一八一三年十月十二日)。
[262] 異文:「見えません」(n’apparaissent pas)。
[263] 異文:「イギリスを、その前面に立たせました」(原文:elle y a fait mettre.)。
[264] 異文:「耐えている」(supportent)。
[265] 異文:「現れました」。
[266] 異文:「彼らが、できないであろう」。
[267] 異文:「……しか割くことを許さないであろう」(qui ne lui permettra)。
参照先の後続句 qu’une petite partie と ne…que の限定構文をなす。全面的に許さないという意味ではない。
[268] 異文:「できる限り」(原文:qu'il est possible.)。
[269] エドワード・クック、またはクック(Cooke)。イギリスの政治家。初め、アイルランド庶民院の首席書記、次いで同国の陸軍部門の書記、および代議員となった。著作によって、イギリスとアイルランドの議会統合に貢献した。その後、カスルレー卿により、内務・外務の次官に任命され、全権委員として、ウィーン会議に同行した。一八一七年に引退し、一八二〇年に没した。
[270] 異文:「オーストリアが譲歩するであろうことを」。
[271] 異文:「そして、役立つこと」(et de servir)。
[272] 異文:「どのような支配の下であれ」。
[273] 異文:「そこに帰属することになる」。
[274] 異文:「そして、同時に、ザクセンが……であることを条件に」。
[275] 異文:「新しい称号」。
[276] 文書館の本文では削除。
[277] 異文:「ボナパルト」(Bonaparte)。
[278] 異文:「そなたが私に送ることを」。
[279] 異文:「しかし、それだけではありません」(原文:mais ce n'est pas le tout.)。
[280] 異文:「私は、越えるでしょう」。
[281] ナポレオンと、その家族の地位を定める、四月十一日の条約。
[282] 異文:「アゾレス諸島の一島の」。
[283] 若いエトルリア王。元パルマ公の子。パルマは一八〇一年、トスカーナは一八〇七年に、奪われた。
[284] グスタフ四世、スウェーデン王。グスタフ三世の子。一七七八年生まれ。一七九二年、叔父セーデルマンランド公の後見の下で、父の後を継いだ。ロシアとフランスに敗れ、貴族と民衆の不満を招き、自らに対する蜂起を引き起こして、一八〇九年に退位した。議会は、彼を永久追放とし、セーデルマンランド公を、カール十三世の名で、国王と宣言した。グスタフ王は、その後、グスタフソン大佐という名で、国外に暮らし、一八三七年に没した。
[285] 異文:「そなたに、改めて申し述べずには」。
[286] スペイン独立戦争中の、著名な遊撃隊長。フェルナンド七世が王座に戻った後、スペインを逃れ、パリに避難しなければならなかった。(バクール氏の注。)
[287] カサ・フロレス侯爵。独断でミナを逮捕させ、自宅に閉じ込めていた。フランス政府は、ミナを釈放させ、カサ・フロレス氏に、直ちにパリを去るよう命じた。(バクール氏の注。)
[288] ザクセン家の弟系、すなわち王家の系統は、カトリックだった。
[289] 異文:「私が彼に、することを」。
[290] 異文:「認めた」。
[291] 異文:「ポーランド問題では、私たちは、第二の立場にいるにすぎません。それが国境の問題となる時には、自国の国境を確保するのは、オーストリアとプロイセンの役目です」。
[292] 異文:「彼は付け加えた」。
[293] スタニスワフ二世ポニャトフスキ。ポーランド最後の国王。一七九五年に退位し、グロドノへ退いて、分割に加わった諸国からの年金で暮らした。その二年後、ペテルブルクで没した。
[294] 異文:「それを信じないことを」。
[295] 「あなたの、すべての条約の」。
[296] 「私が持った」。
[297] 異文:「話すことに」。
[298] 異文:「そして、その功績を、すべて得ること」。
[299] 異文:「それに対して」。
[300] 後のベルギー王。一八一六年、ジョージ三世の孫娘、シャーロット王女と結婚することになるのは、周知のとおりである。
[301] 異文:「個人的な意見と願いに」。
[302] 異文:「私に言っていたとおり」。
[303] ジチ・ド・ヴァジョニキュー伯爵。ハンガリーの、古く、有力な家系の出。一七五三年生まれ。ハンガリー宮廷庁の長官(一七八八年)を務め、後に陸軍大臣(一八〇三年)となった。一八二六年没。
[304] ブダのドイツ語名。
[305] 異文:「そして、私は期待しています」。
[306] 異文:「どうしてなのか、理解できません」。
[307] 異文:「そして、私は、その例を知っています」。
[308] パトクル(一六六〇―一七〇七年)は、リヴォニアの貴族だった。当時、リヴォニアは、スウェーデンの支配下にあった。パトクルは、幾度も、祖国をロシアに編入しようと試み、スウェーデン人に対する、さまざまな蜂起を引き起こした。ピョートル大帝は、彼を、ポーランド王アウグスト三世のもとへ、大使として送った。しかし、王は、カール十二世の歓心を買うため、パトクルを、その君主に引き渡した。パトクルは、直ちに軍法会議にかけられ、車裂きと四つ裂きの刑を、宣告された。
ポーランド王の世数「III」は底本の記載を保持した。
[309] ヨハン=フィリップ・フォン・ヴェッセンベルク=アンプフィンゲン男爵。一七七三年生まれ。オーストリアの外交官。世俗化問題の際、帝国議会でオーストリアを代表した(一八〇二年)。その後、ベルリン、次いでミュンヘンとロンドンの駐在大使となった。ウィーン会議では、メッテルニヒ氏を補佐した。一八四八年、一時、外務大臣となった。一八五八年没。
[310] カール・フォン・シュタイン男爵。一七五七年、ナッサウの、古い貴族の家系に生まれた。一七七九年、プロイセンに仕え、一七八四年、アシャッフェンブルクの大臣に任命され、一八〇四年、内閣に入った。フランスに対して、たいへん敵対的だった。そのため、イエナの戦いの後、退かなければならなかった。一八〇七年に呼び戻されたが、間もなく、ナポレオンの疑念を招き、罷免を要求されたため(一八〇八年)、オーストリアへ避難した。一八一二年、ロシアへ行くと、皇帝に熱心に歓迎され、そばに置かれて、最も重用される顧問の一人となった。一八一三年と一八一四年には、あらゆる手段で、ドイツ人の対仏感情をあおり、連合諸国の君主たちに従ってパリへ行った。次いで、ウィーン会議へ来て、アレクサンドル皇帝と再会し、皇帝は、幾度も彼を用いた。一八一八年、アーヘン会議の全権委員、一八二七年、国務参事官となった。一八三一年没。
[311] 以下が、その記事である。
「前掲の宣言(会議の開会を十一月一日まで延期した、全権委員たちの宣言。三四五頁以下を参照)は、ウィーン会議の開会を遅らせる理由を説明することで、集まった全権委員たちの仕事を導く、賢明な精神の、最初の保証となっている。実際、直近のパリ条約で援用され、承認された公法の原則の、保護を与える権威が、よみがえらなければならないのは、熟慮を重ねた協議と、情念の静まった状態によってである。
こうして、同時代の人々の正当な期待は満たされ、今後の交渉では、国際法と、普遍的な正義の法が、諸国民の相互関係に求めるものにかなった結果が、得られるだろう。
大国が、国家間の相互関係に、所有権の尊重と王座の安全を回復するために結びついた、この時代には、この公正な性格を備えた政治上の取り決め以外のものは、期待できない。
ヨーロッパは、すでに、この幸先のよい兆しを受け入れている。フランスは、ほかの国家が、合理的に望み得る、いかなる利益も、ねたんでおらず、ただ、公正な均衡の回復だけを、願っている。自らの中に、力と繁栄の、あらゆる要素を持つため、それらを国境の外には求めない。単なる都合に基づく体制を作ろうとする、いかなる示唆にも、耳を貸さない。かつて、諸国民の尊敬と感謝を得た役割に戻り、力を節度と正義に結びつけることによって、確かに得られる栄光以外を、求めない。再び、弱者の支えとなり、抑圧される者の擁護者となることを、望んでいる。
この姿勢で、フランスは、全面的な平和を固めるのに適した取り決めに、協力するだろう。そして、同じ原則を、あれほど気高く宣言した君主たちは、フランスとともに、世界の平穏を確保するべき、永続的な盟約を、確立するだろう。」
(『モニトゥール』、一八一四年十月二十二日。)
[312] ウィリアム・カスカート卿。一七五五年生まれ。陸軍に入り、アメリカ戦役に参加した。一七九三年に准将となり、その資格でオランダに従軍した。一八〇七年、スコットランド貴族、枢密院議員、および海軍中将に任命された。一八〇九年、コペンハーゲンへの遠征を指揮した。一八一二年、大使としてペテルブルクへ赴き、一八一三年と一八一四年の戦役では、アレクサンドル皇帝の本営に随行した。五月三十日のパリ条約に署名した。会議の全権委員として、ウィーンへ送られた。一八一五年、イングランド貴族に叙された。一八四三年没。
階級・遠征年は底本の記載を保持した。
[313] リチャード・パワー=トレンチ、クランカーティ伯爵。枢密院議員、植民地・通商担当の枢密院委員会長、郵政総監。一八一四年、全権委員としてウィーンに派遣された。
[314] アンドレイ・ラズモフスキ。初め伯爵、後に公爵。一七五二年生まれ。ロシアの外交官。ストックホルム、ナポリ、次いでウィーンの駐在大使を歴任し、ウィーンでは、会議に出席した。一八三六年没。
[315] グスタフ・フォン・スタッケルベルク伯爵。アレクサンドル皇帝の枢密顧問、および侍従。当時、ロシアのウィーン駐在大使で、その資格で、会議に出席した。
[316] 異文:「振る舞い方」。
[317] 文書館の本文では削除。
[318] 異文:「私たちに促すために」。
[319] 異文:「諸国民」(原文:les peuples.)。
[320] 異文:「そして、使節の派遣・接受の権利に」。
[321] 異文:「新兵」。
[322] 文書館の本文では削除。
[323] 異文:「おそらく」。
[324] 文書館の本文では削除。
[325] 異文:「そして、今晩、その写しを、書簡に入れて送ります」(原文:et j'en envoie ce soir la copie dans une dépêche.)。
[326] 異文:「ボナパルト」(Bonaparte)。
[327] 異文:「決して、私の名が」。
[328] ジャン・ダンシュテット男爵。ロシアの外交官。一七六〇年、ストラスブール生まれ。一七八九年、ロシアへ行き、外務省に勤めた。幾度も、代理公使として、ウィーンに派遣された。一八一一年、クトゥーゾフ公の外交官房長となった。プラハ会議(一八一三年)でロシアを代表し、次いでウィーンへ赴いた(一八一四年)。その後、フランクフルト連邦議会に駐在する、ロシアの全権委員となった。一八三五年没。
[329] ザーレ川は、バイエルンに源を発し、ザクセンを縦断して、エルベ川に注ぐ。一八〇六年の戦役で、ナポレオンが通ったのは、ザーレの隘路だった。
[330] ルイ・ツェルデラー(一七七二―一八四〇年)。調停法後、ベルン州大評議会の議員となり、ペテルブルク駐在公使、およびウィーン会議の全権委員を務めた。一八一五年、その職を辞した。
[331] ヨアニス・カポ・ディストリア伯爵。一七七六年、コルフ島生まれ。二十七歳の時、イオニア諸島のロシア帝国委員により、国務長官に選ばれた。ティルジットの和平によって、諸島がフランスの支配下に置かれると、辞任してペテルブルクへ行き、外務省に勤めた。一八一三年、スイスの中立を尊重させるため、同国への秘密使節の任務を負った。ウィーン会議の全権委員となり、翌年、外務担当国務長官となった。このころから、ギリシャは動揺し始めた。ギリシャ人の出で、皇帝の大臣である、カポ・ディストリアの立場は、難しくなっていた。実際、一八一九年、イプシランティの蜂起の際に、罷免された。ジュネーヴで、八年間の隠棲生活を送っていたところ、同胞たちにより、ギリシャの大統領に選ばれた(一八二七年)。彼は、この職を受け、四年間、務めた。一八三一年、暗殺された。
罷免と蜂起の年、および隠棲期間は底本の記載を保持した。
[332] ストラトフォード・カニング卿。一七八六年生まれ。イギリスの外交官で、同名の著名な大臣の親族。一八一四年、スイス駐在全権公使で、ウィーン会議に派遣された。一八二四年、ペテルブルク駐在大使、次いでコンスタンティノープル駐在大使(一八二七年)となった。一八三二年、庶民院に入り、一八四二年、コンスタンティノープルへ戻った。幾度か中断はあったが、一八五八年まで、その地に滞在した。その後、イギリスへ帰り、死去するまで暮らした(一八八〇年)。
[333] フランスは、当時、ジェクス地方のうち、ジュネーヴ湖に面する部分を、ヴェルソワの町とともに領有していた。ジュネーヴ州が望んでいたのは、この領土だった。
[334] アーラウ、ブルック、レンツブルク、およびツォフィンゲンと、それらの領域。
[335] ペーター・ドゥカ伯爵。一七五六年生まれ。オーストリア帝国の砲兵大将、および枢密顧問。一八二二年没。
[336] 異文:「……させないこと」(de ne point)。
[337] 「フランスなしには」。
[338] 文書館の本文では削除。
[339] 異文:「彼には、できなかったと」。
[340] 異文:「私の譲歩は、これ以上はできません」。
[341] 異文:「そうすれば、ミュラは」。
[342] アントニオ・アジナリ、サン=マルサン侯爵。サルデーニャの政治家。一七六一年、ラングドックに起源を持つ古い家系に、トリノで生まれた。一七九六年、陸軍・海軍大臣となった。ピエモンテがフランスに併合されると、ナポレオンにより、国務参事官、およびフランスのベルリン駐在公使に任命された。一八一三年、パリへ戻り、元老院議員に任命された。一八一四年、連合諸国の君主たちは、彼を、トリノ臨時政府の長に据えた。ヴィットーリオ=エマヌエーレ王は、帰還すると、彼を、陸軍大臣、およびウィーン会議の全権委員に任命した。一八一六年、外務大臣、一八一八年、首相となった。一八二一年に引退し、一八二八年に没した。
[343] アントニオ・ブリニョーレ=サーレ侯爵。ジェノヴァの、古く、名高い家系の出。一七八六年生まれ。初め、帝国国務院の審議官、後にサヴォナ県知事となった。一八一四年、ジェノヴァ市から、全権委員として会議へ送られた。サヴォイア王家に合流し、王立大学の長(一八一六年)、ローマ駐在大使(一八三九年)、次いでパリ駐在大使、国務大臣、および元老院議員となった。一八六三年没。
[344] 文書館の本文では削除。
[345] 異文:「ウィーンの」。
[346] ウェリントン公は、当時、パリ駐在大使だった。その後、一八一五年二月一日から三月二十六日まで、会議の全権委員として、ウィーンに派遣された。
[347] 異文:「しかし、ウェリントン公は、いずれにせよ」。
[348] 文書館の本文では削除。
[349] 異文:「彼の態度が、これほど明確だったので」。
[350] 異文:「結びつける時」。
[351] 異文:「ポーランド問題を、ザクセン問題に」。
[352] 異文:「そうは、ならないでしょう」(ne le sera)。
[353] 異文:「イギリス国民の」。
[354] 異文:「陛下がお出しになった命令を、お知らせしました」。
[355] 異文:「あなたが、その重みを十分に理解している、これらの考慮に基づく決定が、間もなく、不要となることを、期待しています」。
[356] この書簡の末尾全体と追伸は、外務省の文書館の本文には、ない。
[357] 周知のとおり、ベンティンク卿は、数年間、シチリアで、イギリス軍の部隊を指揮していた。
[358] 異文:「それが、困らせただろうと」。
[359] 異文:「アンシュテッテン氏」(M. d’Anstetten)。
[360] ヴィクトル・リケ、初めカラマン侯爵、後に公爵。一七六二年生まれ。一八一四年、ルイ十八世によってベルリン駐在大使、次いで翌年、ウィーン駐在大使に任命された。全権委員として、神聖同盟の、さまざまな会議に出席し、一八二八年、公爵に叙された。一八三九年没。
[361] 異文:「民政と軍事の両面で」。
[362] 異文:「示されていません」。
[363] 異文:「保証するでしょう」。
[364] 異文:「……を通って」。
[365] 異文:「知られていた」(étaient connus)。
本文の étaient inconnus(知られていなかった)と異なる、注の肯定形を保持した。
[366] 異文:「かなり親愛のこもった」。
[367] メッテルニヒ氏は、二つの条件で、ザクセンをプロイセンに引き渡そうとしていた。第一に、プロイセンが、ポーランド問題で、ロシアと袂を分かつこと。第二に、ライン方面では、一方はマイン川、他方はモーゼル川を、北部諸国と南部諸国の境界とすること。これは、プロイセンに、マインツの放棄を強いるものだった。ところが、周知のとおり、フリードリヒ=ヴィルヘルムとアレクサンドル皇帝は、ポーランドに対する考えで、緊密に結びついており、また、プロイセンは、マインツを、強く欲していた。
[368] 異文:「与えられた、一種の権限」。
[369] 異文:「……そなたは、次の五つの条件の下で、その権限を用いるものとする。第一の条件は、私たち自身の行動指針にすぎない。第一に、バーゼル侯領を救うことが不可能であること。第二に、サルデーニャ王に、残っているサヴォワの領土を保証すること。第三に、ベルン州に、そのアールガウの部分を返還すること。第四に、ジュネーヴ州へ譲るジェクス地方の部分で、カトリックの自由な信仰実践を認めること。第五に、フランスに、ジュネーヴ湖の自由航行を認めること。この条件なら、交換に署名してよい」。
[370] 連合諸国のためにザクセン総督を務めていたレプニン公が、この国を、プロイセンに譲ることになると告げた宣言のことである。ニコライ・レプニン=ヴォルコンスキ公は、ロシアの将軍、外交官で、同名の著名な元帥の孫。一七七八年生まれ。アウステルリッツでは大佐で、捕虜となった。一八〇九年、ジェローム=ナポレオン王のもとへの、カッセル駐在大使に任命された。一八一三年、中将となり、ライプツィヒの戦いの後、フリードリヒ=アウグスト王が捕虜とみなされたため、ザクセン総督に任命された。一八一四年、会議の全権委員として、ウィーンに派遣された。和平後、小ロシア総督(一八一六年)となり、後に帝国評議会に入り(一八三五年)、一八四五年に没した。
[371] カルロ・フィランジェリ、サトリアーノ公、タオルミーナ公爵。一七八五年生まれ。ナポリの将軍で、ミュラに、最も忠実な将校の一人。一八一五年、オーストリアとの戦闘再開の際、重傷を負った。ブルボン家の復帰後も、階級を保った。一八四八年、フェルディナンド王から、シチリアの鎮圧を命じられた。流血の戦闘の末に、これを成し遂げ、同地方の総代理、および総督に任命された。しかし、間もなく辞任し、その後は、引退生活を送った。
[372] 異文:不定冠詞 des に代わり、定冠詞 les(「その人々」)。
[373] 異文:「そばに」。
[374] 異文:「そう言いながら、彼は私の腕を取り、握り締めていました」(原文:et disant cela, il me prenait le bras et me le serrait.)。
[375] 「あなたとの同盟の際に、占領させることを求めて」。
[376] 異文:「その男」。
[377] 異文:「知ることを」。
[378] 異文:「その考えに」。
[379] ラウジッツは、エルベ川とオーデル川の間、ボヘミアの北、ブランデンブルクの南に位置する、ドイツの地方である。上ラウジッツと下ラウジッツに分かれ、それぞれが辺境伯領をなしていた。両ラウジッツは、もともと、ボヘミア王国の一部だった。一二三一年、オタカル王は、娘がブランデンブルク辺境伯と結婚する際、持参領として与え、王国から切り離した。しかし、翌世紀には、ボヘミアに戻った。一六三五年、皇帝フェルディナント二世は、この地方を、再びボヘミアから切り離し、ザクセン公ヨハン=ゲオルクに、最終的に与えた。
[380] 異文:「ブオナパルテ」(Buonaparte)。
[381] 異文:「プロイセン人たち」(原文:les Prussiens.)。
[382] 異文:「……するように」。
[383] 異文:「諸問題」(原文:les affaires.)。
[384] 異文:「破ることを」。
[385] 異文:「生まれつつある」。
[386] 異文:「オーストリアが」。
本文のイギリスに対し、注の異文はオーストリアとしている。その差を保持した。
[387] 異文:「……に伝えた後で」。
[388] 以下が、その回状である。
「十月二十一日付のシュタイン男爵大臣の書簡によって、九月二十八日、ウィーンで結ばれた協定について、知らされた。この協定により、ロシア皇帝陛下は、オーストリアおよびイギリスと協議の上、ザクセン王国の統治を、プロイセン国王陛下の手に委ねる。私は、到着するプロイセン国王陛下の全権代理人たちに、この国の政府を引き渡し、ロシア帝国軍を、プロイセン軍と交替させる命令を受けている。それによって、近く、より正式かつ厳粛な方法で行われる、ザクセンのプロイセンへの統合を進め、両国民の友愛を確立するためである……。全体と、その構成部分の幸福を目的とする、予備的な協議の後、両陛下は、次のようにされた。すなわち、フリードリヒ=ヴィルヘルム王は、この国の将来の君主として、ザクセンを、一地方として自国に編入するのではなく、ザクセン王国の称号の下で、プロイセンに統合する意図を、宣言された。その領土の一体性を、永久に保つこと。ドイツの憲法が、プロイセン王国に属するドイツの諸地域に保証する、権利、特権、および利益を、享受させること。それまでは、現在の憲法に、何の変更も加えないこと。そして、アレクサンドル皇帝陛下は、この宣言に、格別の満足を感じていることを、表明させた。」(『モニトゥール』、一八一四年十一月十五日。――レプニン公からプロイセン当局への権限移譲の式典については、十一月二十四日付『モニトゥール』も参照。)
回状引用の協定日は九月二十八日。本文の要約では九月二十七日と記されており、それぞれの原文の日付を保持した。
[389] カスルレー卿は、ハルデンベルク公宛ての、この覚書で、ザクセンについて、次のように述べている。
「ザクセン問題について、申し上げます。もし、この国の全域をプロイセン王国に編入することが、ヨーロッパに、これほど大きな利益を確保するために必要ならば、かくも古い家系が、これほど深い悲しみを受けることに、私個人が、どれほど心を痛めようとも、その措置自体に、道徳上も政治上も、何の抵抗も、抱くことはできません。自らの行動によって、ヨーロッパの将来の平穏のため、犠牲にされなければならない立場に陥った君主が、かつてあったとすれば、それは、ザクセン王だと思います。絶えず態度を変えたこと、ボナパルトの臣下の中で、最も忠実な者だっただけでなく、最も厚遇された者でもあったこと、そして、ドイツの国家とポーランドの国家の長という二重の資格で、あらゆる力を尽くし、進んで、全般的な隷属を、ロシアの中心にまで広げることに貢献したためです。」(カスルレー卿からハルデンベルク公への覚書、一八一四年十月十四日。)
[390] 異文:「彼らが従わせていたと」。
[391] 異文:「何の役に立つでしょうか」。
[392] 異文:「サヴォイア家における」。
[393] 当時、陸軍大臣だったデュポン将軍。
[394] 以下が、その記事である。
「長い逡巡の後、ザクセンの運命は、ついに、取り返しのつかない形で、決まったようである。フリードリヒ=アウグスト王は、王座を降り、その領土は、オーストリア、プロイセン、およびザクセン=ヴァイマル公の間で、分割される。人の世の移ろいやすさを嘆く、多くの声が、上がるだろう。思慮深い人々は、永遠の摂理の、計り知れない定めに、思いを巡らすだろう。わが国の最も偉大な詩人の一人が、聖書から借りた表現によれば、摂理は、『打ち、癒やし、滅ぼし、よみがえらせる』(ラシーヌ『アタリー』第三幕)。――ある人々は、王家の没落に、革命しか見ないだろう。ほかの人々は、そこに、秩序への復帰を見るだろう。この名高い家系の起源と分岐を、一瞥することは、前者の人々にとって、無益ではない。
第二代選帝侯、親和公、または平和公と呼ばれたフリードリヒは、一四六四年に没し、二人の息子を残した。長男エルンストは、エルンスト系の祖となり、次男アルブレヒトは、アルブレヒト系の祖となった。認められた長子相続の権利によって、第六代選帝侯ヨハン=フリードリヒは、争いなく統治していた。そこへ、名高いシュマルカルデン同盟が引き起こした騒乱が、帝国内に起きた。カール五世は、著名なアルバ公が指揮する大軍を率い、同盟諸侯に向けて進軍した。一五四七年のミュールベルクの戦いは、決定的だった。同盟の中心であるヨハン=フリードリヒは、皇帝の手に落ちた。皇帝は、勝利を、苛酷に用いた。不屈のスペイン人将軍を長とする軍事委員会は、帝権に反抗したとして、ザクセン選帝侯に、死刑を宣告することを、ためらわなかった。それは、神聖ローマ帝国に、まったく新しい法を持ち込むことだった。名高い捕虜は、判決を読み聞かされた後も、ブラウンシュヴァイクのエルンスト公とのチェスを、落ち着いて続けた。「彼らが欲しいのは、私の首よりも、選帝侯の地位なのだ」と、言った。その後の出来事は、彼が間違っていなかったことを示した。カール五世は、命を助けたが、一五四八年のアウクスブルク帝国議会で、選帝侯の地位を奪い、弟系、すなわちアルブレヒト系の長、ザクセン公モーリッツに与えた。不幸なヨハン=フリードリヒには、小都市ゴータだけが残され、そこで監視された。さらに気の毒なことに、その息子は、ドレスデンの祖先の宮殿に戻ろうとした、と告発され、捕らえられ、卑しい犯罪者のように、ウィーンへ送られた。
新しい政治上の地位を、カール五世の保護に負っていたにもかかわらず、簒奪者モーリッツは、ルター派のための熱意を示す機会を、貪欲に捉えた。その熱意こそ、正統な選帝侯から領地を奪う口実となったものだった。彼は、プロテスタントを蜂起させ、フランス王アンリ三世と秘密同盟を結び、皇帝を襲い、チロルの峡谷で、その身柄を捕らえる寸前まで迫った。そして、一五五二年、パッサウ条約を、皇帝から勝ち取った。
フランス王の世数「III」は、引用記事の記載を保持した。
この時以来、アルブレヒト系は、選帝侯の地位を保った。一方、兄系、すなわちエルンスト系は、ごく狭い領地に縮小され、多くの分家に分かれた。その数は、十四にまで達したが、今は六つしか残っていない。その第一は、ヴァイマル家である。したがって、同家の公爵は、カール五世によって、暴力的かつ不当に地位を奪われた選帝侯ヨハン=フリードリヒの、直系の、当然の相続人なのである。
時が経過しても、その子孫の権利の根拠は、忘れ去られてはいなかった。ブオナパルテは、ラシュタット会議に、短期間、姿を見せた時、ある日、ザクセン選帝侯の大臣に、いつもの無遠慮な調子で、こう言った。「あなたの主君は、一体、いつ、エルンスト系に、選帝侯の地位を返すつもりなのか[B]。」
しかし、後に、この君主が、国王の称号を取ることを望んだのも、同じ人物だった。
この日から、フリードリヒ=アウグストの、あらゆる不幸が始まった。周囲を固められ、縛られた彼は、自分がドイツ人であることを忘れ、ドイツの圧迫者と、行動をともにしなければならなかった。無謀なモスクワ遠征は、君主と民衆に、解放の時を垣間見せた。ザクセン王は、ボヘミアに退いた。そして、この中立の地で、ついに自由を得ると、ヨーロッパの解放者たちに、自らの力を合わせることを、厳粛に約束したと、言われている。ここでは論じたくない理由から、彼は、決意を変えた。
逃亡するナポレオンは、彼を、何の手段もないまま、連合諸国の君主たちの報復に、置き去りにした。フリードリヒ=アウグストは、君主たちに会うことを求めたが、公表された報道の一致した内容を信じるなら、その願いは退けられた。
この君主の私生活上の徳については、世論は一致している。ところが、その政治上の行動については、著しく分かれている。ある人々は、人類の敵との同盟に固執したことを、許し難い罪とする。ほかの人々は、ナポレオンの盲目を長引かせるため、摂理が用いた道具として、彼を敬おうとさえする。実際、ザクセン王は、要塞と軍隊を、ナポレオンの自由に用いさせ、エルベの線を保てるという、愚かな希望を抱かせた。ナポレオンが、ドレスデンの無意味な占有に満足し、長く無敵だった軍を、この無用な都市を守り、援護するために犠牲にしている間に、この分別を失った征服者を滅ぼす準備は、すべて進んでいた。もし、エルベの要塞を支配していなかったなら、彼は、ラインの背後に陣取ることを、余儀なくされただろう。そこでは、多くの要塞に支えられ、フランスとの連絡も、確実となり、勝者たちと、名誉ある交渉をする手段が、なお残っていただろう。
こうして、目に見えない全能の手は、かつて高めたものを低くし、低くしたものを高める。こうして、三世紀の後、アルブレヒト系は、簒奪した王座から落ち、エルンスト系は、奪われた相続財産の一部を、回復する。フランス人は、フリードリヒ=アウグストの運命を哀れみながらも、愛する君主ルイ十六世とルイ十八世を産んだ、尊い王女と、同じ血を引く君主として、彼を敬うだろう。」
[395] ラインハルト氏は、当時、外務省官房の長だった。
[396] 異文:「一八一四年十一月二十五日」。
[397] 異文:「……なので」。
[398] ヴァンサン氏は、当時、オーストリアのパリ駐在大使だった。
[399] 異文:「そして、この戦争が、それを陥れた危険が、もたらした」。
[400] 四七〇頁を参照。
[401] 異文:「ポーランド問題とザクセン問題において」。
[402] イギリスは、二年以上、合衆国と戦争をしていた。ワシントン政府の宣戦布告(一八一二年六月十九日)は、イギリスの次の要求によって、引き起こされた。フランス帝国の沿岸について、大西洋側ではハンブルクからサン=セバスティアンまで、地中海側ではポール=ヴァンドルからカッタロまでの、名目上の封鎖を、アメリカ船にも守らせようとしたこと。さらに、中立国の船上にある敵国の貨物を没収する権利があると、イギリス側が主張したことである。
[403] バーゼル司教領は、かつて、一部が独立した国家だった。一三五六年以来、神聖ローマ帝国の諸侯だった司教は、帝国の封臣として、ポラントリュイ、ドレモン、およびラウフェンと、それらの領域を領有しており、全体が、上ライン帝国クライスに属していた。そのほかに、ビエンヌとヌーヴヴィルの町、テッセンベルク、エルゲル、およびイルフィンゲンの領地について、独立した主権者だった。一七九二年、革命は、司教領をラウラキア共和国に変えたが、それは、数か月しか続かなかった。一七九三年、ドレモンとポラントリュイの地区は、フランスに併合された。一七九七年には、エルゲルとヴァル=ムーティエも、同じ運命をたどった。残りの領土は、一八〇三年、一万フローリンの年金と引き換えに、世俗化された。一八一五年、旧バーゼル司教領は、ウィーン会議によって、ベルン州に与えられた。ただし、十二の自治体は、バーゼル州に、一地区は、ヌーシャテルに与えられた。
[404] 異文:「同意」。
[405] 異文:「ブオナパルテ」(Buonaparte)。
[406] 異文:「同じ同盟に集めることを」。
[407] 異文:「それは、放棄された考えです」。
[408] 異文:「そして、昨日も今日も、起き上がっていません」。
[409] 異文:「個人的な理由」。
[410] 異文:「しかし、いずれにせよ……」。
[411] 海軍大臣の職は、その職にあったマルエ氏の死去(九月七日)以来、空席だった。
[412] アントワーヌ=バルタザール=ジョゼフ・ダンドレ。一七五九年、エクス生まれ。一七七八年、プロヴァンス高等法院の評定官、三部会の貴族代表、憲法制定議会議長(一七九〇年八月)を務め、立憲派に属していた。一七九二年、買い占め人として追及され、イギリスへ避難し、そこからドイツへ渡った(一七九六年)。フランスへ戻ったのは、一八一四年になってからで、警察総監、次いで国王の家政監督官に任命された。一八二五年没。
[413] 異文:「公爵殿、その書簡は」。
[414] 異文:「しかしながら」。
[415] エドワード・ハーリー、オックスフォード伯爵。一七七三年生まれ、一八四九年没。同名のイギリスの政治家(一六六一―一七二四年)の家系の出。この称号は、今日では絶えている。――オックスフォード卿は、当時、何の正式な資格もなく、ナポリに住んでいた。ミュラと、その宮廷と、継続的な関係を持っていたため、フランス政府の疑念を招いた。そこで、伯爵が、イギリスへ帰るためにパリを通過した際、何らかの口実を捉えて、逮捕した。その書類から、ナポリ王の書簡が何通か見つかったが、ミュラとナポレオンとの陰謀の証拠は、探しても、得られなかった。
「今日」は原注の執筆時点を指す。
[416] 異文:「広める計画だけが、理由となり得る」(motiver uniquement le projet de répandre)。
[417] 異文:「作業の中で」。
[418] 異文:「旅行の全期間を通じて」。
[419] 異文:「おそらく、その時の困難が避け難くしていた過ちを、この大臣のせいにして」。
[420] 異文:「ダルマティア公爵について」。
[421] 異文:「総監職」。
[422] 異文:「望んでいる」。
[423] 異文:「それでも陛下は、あなたの絶え間ない努力が生んだ、好ましい効果についての、あなたの指摘が、まったく真実であることを、感じておられます」。
[424] 異文:「そして、私としては、あなたが期待しているらしい時期よりも早く、お帰りになることを、強く望んでいます」。
[425] エクトル・ダグー。マドリード駐在大使館書記官。
[426] この書簡の末尾は、文書館の本文には、ない。
[427] ベリー公がアンナ大公女と結婚していたなら、ヴュルテンベルク王の甥になっていた。王は、パーヴェル皇帝と結婚した、ヴュルテンベルク公女ゾフィー=ドロテアの兄だったからである。アンナ大公女は、パーヴェル一世の末娘だった。この公女は、一八一〇年にはナポレオン皇帝と、一八一四年にはベリー公と、結婚するところまで行った後、一八一五年、オラニエ公と結婚した。公は、後に、ウィレム二世の名で、ネーデルラント王となった。
[428] アルマン・デュ・プレシ、リシュリュー公。同名の元帥の孫。一七六六年生まれ。一七八九年には、首席侍従だった。同年、亡命し、初めウィーンへ行き、次いでロシア軍に仕え、エカテリーナ女帝から、中将の階級を授けられた(一七九〇年)。一八〇二年、一時、フランスへ戻ったが、一八〇三年、再びロシアへ行き、アレクサンドル皇帝により、オデッサ総督、次いで新ロシア全域の総督に任命された。一八一四年まで、この高い職を保った。パリへ戻ると、宮廷の職に復帰し、一八一五年九月、外務大臣、および首相となった。一八一八年十二月に退いたが、国務大臣の地位は保ち、大狩猟長の地位も受けた。一八二〇年二月、政権に復帰したが、一八二一年十二月までしか、とどまらなかった。翌年、没した。
[429] エルバ島で、ナポレオンの動きを監視する任務を負っていた、マリオッティ騎士。
[430] 異文:「この作業について」。
[431] 異文:「その決議が決着させたと」。
[432] エルンスト=アントン・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト。一七八四年生まれ。初め、ロシア軍に仕えた。ティルジットの和平後、領土に戻り、その全域を保った。ウィーン会議は、リヒテンベルク侯国を与えたが、一八三四年、プロイセンに売却した。一八二一年、憲法を公布し、一八四四年に没した。
[433] ユリアーネ=ヘンリエッテ=ウルリケ、ザクセン=コーブルク公女。一七八一年生まれ。一七九六年、アレクサンドル皇帝の弟、コンスタンティン大公と結婚したが、一八一〇年、離縁された。
[434] フェルディナント=カール=アウグスト、ザクセン=コーブルク公。一七八五年生まれ。コハーリ公女と結婚した。三人の息子をもうけ、その一人はポルトガル女王ドナ・マリア二世と、もう一人はルイ=フィリップ王の娘、クレマンティーヌ王女と結婚した。娘ヴィクトリアは、一八四〇年、ヌムール公と結婚した。フェルディナント公は、一八五一年に没した。
[435] カール=アウグスト、初めザクセン=ヴァイマル公、後に大公。一七五七年生まれ。生後八か月で父を失い、当時、わずか十八歳だった母、ブラウンシュヴァイクのアマーリエの摂政の下で、公と宣言された。プロイセン軍に仕え、一八〇六年の戦役では、重要な指揮を任された。イエナの戦いの後、ライン同盟に入った。一八一四年、ウィーン会議へ赴き、その時、大公の称号を授けられた。一八二八年没。後を継いだ長男カール=フリードリヒは、アレクサンドル皇帝の妹、マリア・パヴロヴナ大公女と結婚していた。
[436] 異文:「他方では」。
[437] 異文:「翌朝、彼は、促すようにさせました」。
[438] 異文:「ハルデンベルク氏の」。
[439] 異文:「赴いた」。
[440] 異文:「望むであろう」。
[441] 異文:「彼は、私に言いました」。
[442] 異文:「なお、カスルレー卿は、私が提案した進め方に、何の異議も述べませんでした」。
[443] 異文:「……となるでしょう」。
[444] 異文:「そして、もはや、遅すぎるほどです」。
[445] スペイン外務大臣。
[446] 異文:「ルカヌスの言葉を、自分に当てはめなければなりません」。
[447] 異文:「付加された」。
[448] アントイネッテ=エルネスティーネ=アマーリエ・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト。一七七九年生まれ。一七九八年、ロシアに仕える将軍で、リヴォニアおよびクールラント総督だった、ヴュルテンベルク公カール=アレクサンダー=フリードリヒ(一七七一―一八三三年)と結婚した。幾人かの子をもうけた。その中には、一八〇四年生まれで、ルイ=フィリップ王の娘、マリー・ドルレアン王女と結婚した、フリードリヒ=ヴィルヘルム=アレクサンダーがいる。
[449] 異文:「部分」。
[450] サルデーニャ王ヴィットーリオ=エマヌエーレ一世。周知のとおり、ルイ十八世は、王の姉妹、サヴォイア王女マリー=ジョゼフィーヌ=ルイーズと結婚していた。同じく、アルトワ伯爵も、ヴィットーリオ=アメデーオ王の、別の娘、マリー=テレーズ王女と結婚していた。
[451] ヨハン=ゴットフリート・ホフマン。ドイツの経済学者、政治家。一七六五年、ブレスラウ生まれ。初め、ケーニヒスベルクで、政治経済学の教授を務めた。一八〇八年、国務参事官に任命され、パリ条約とウィーン会議に参加し、幾つかの外交使節の任務で、ハルデンベルク公に随行した。一八四七年没。
[452] 異文:「覚書」。
[453] 異文:「彼が、ここに来て以来」。
[454] 異文:「任命した」。
[455] 異文:「まとめてください」(Arrangez)。
[456] 異文:「一つの考え」。
[457] 異文:「彼に、……していた」。
[458] 異文:「含まれている」。
[459] ジョヴァンニ・ロザーリ。一七六六年、パルマ生まれ。優れた医師だった。一七九六年、フランス人がイタリアに作り出した、新しい体制を、真っ先に歓迎した人々の一人だった。パヴィア大学の学長、および内務省の事務総長となった。一八一四年、オーストリアに対する陰謀に関わり、逮捕、投獄された。一八三七年没。
[460] 異文:「そなたが、……した」(avez)。
[461] 異文:「この問題で、最も私利を求めていない。というのも、ザクセンは」。
[462] 異文:「利益」。
[463] 異文:「一八一四年十二月三十日」。
[464] 異文:「述べる」。
[465] パリのロシア大使館に勤務していた。
[466] 異文:「貴族政治」(aristocratie)。
本文の autocratie(専制政治)に対し、異文は aristocratie(貴族政治)。差を保持した。
[467] 異文:「適切であると」。
[468] 異文:「そうは思われないであろう」(ne sembleraient)。
[469] 異文:「ご帰還によって」。
[470] 異文:「その晩、会う時刻を決め、その後」。
[471] エティエンヌ・リカール。一七七一年、カストル生まれ。一七九二年、志願して入隊した。スールトの副官となり、一八〇六年、陸軍少将に昇進した。一八一四年、ブルボン家に合流し、フランス貴族院議員に任命された。一八二一年に退役し、一八四三年に没した。
[472] 異文:「できる限り速やかに」。
[473] 異文:「今日、送ること」。
[474] 異文:「同じく」。
[475] 異文:「これほど気高く戦われる」。
[476] 続く付録(五六一頁)を参照。そこには、一月三日の条約の文面と、バクール氏の長い注が、収められている。
[A] スペイン、ポルトガル、およびスウェーデンの加入。
[B] イエナの戦いの後、選帝侯本人に、この奇妙な挨拶をしたのだと、主張する人々もいる。
電子版の注
明らかに植字工によって生じた誤りは訂正した。原文の綴りを保持し、統一はしていない。白紙頁の頁番号は、この電子書籍には収録していない。