歴史 / Charles-Maurice de Talleyrand-Périgordタレーラン公回想録 第三巻Mémoires du prince de Talleyrand. III.

『タレーラン公回想録 第三巻』1891年版に収録されたタレーランの肖像

歴史 / Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord

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原著・底本

原題
Mémoires du prince de Talleyrand. III.
著者
Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord
底本
Paris, Calmann Lévy, 1891, Volume III
編者
ブロイ公
寄稿者
アドルフ・ド・バクール
原典の利用条件
パブリックドメイン(米国)
Project Gutenberg 利用条件
収録範囲
1891年版第三巻の第八部(続き)・第九部・第十部、付録、原注469件(番号1〜462および264-a〜264-g)、巻末目次、原刊図版2点。電子版の注は別区分で収録。 原著内の記述の食い違いや解釈は訳注で示しています。肖像下端の極小署名は判読できないため、訳を付していません。

日本語訳

利用条件
CC0 1.0
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表紙

画像
収録挿絵
利用条件
パブリックドメイン(米国)

1891年版の収録肖像を表紙として使用しています。

追加日: 2026-10-11 / 更新日: 2026-10-11

1891年版第三巻の第八部(続き)・第九部・第十部、付録、原注469件(番号1〜462および264-a〜264-g)、巻末目次、原刊図版2点。電子版の注は別区分で収録。 原著内の記述の食い違いや解釈は訳注で示しています。肖像下端の極小署名は判読できないため、訳を付していません。

標題・刊記

タレーラン公の回想録

序文・注釈を付して刊行 編者:ブロイ公(アカデミー・フランセーズ会員)

第三巻

パリ 出版者カルマン・レヴィ

オーベール通り三番地、およびイタリアン大通り十三番地、リブレリー・ヌーヴェル

原刊本の出版社印
原刊本の出版社印。 1891年Calmann Lévy刊、ブロイ公編。Project Gutenberg電子版(米国でパブリックドメインと表示)。 原典の図版

一八九一年

スウェーデンおよびノルウェーを含む、すべての国について、複製権および翻訳権を留保する。

タレーラン公の回想録

タレーラン公の肖像

シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール、ベネヴェント公(F・ジェラールの作品による)。

1891年Calmann Lévy刊、ブロイ公編。Project Gutenberg電子版(米国でパブリックドメインと表示)。 原典の図版

第八部

ウィーン会議(続き)

(一八一四―一八一五年)

ウィーン会議(続き)

(一八一四―一八一五年)

第二十号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年一月六日。

陛下、

メッテルニヒ氏、カスルレー卿、そして私が一月三日に署名した協定を、謹んで陛下へお届けした使者が出発してから二十四時間後、陛下から賜った十二月二十七日付のお手紙を受け取りました。今回の行動は、すべて陛下のご意向とお考えにかなっているはずだという、私の期待をいっそう強めてくれるお手紙でした。つい最近までは、到底得られそうになかった、このように喜ばしい成果を目指した私の努力にとって、何よりもありがたい報いとなりました。また、国王としても、一人の人間としても、これほど寛大で、心を打ち、高潔な思いをお持ちの主君にお仕えすることが、どれほど幸せであるかを、同じく深い感動とともに感じました。

陛下のお手紙を受け取ったばかりのところへ、カスルレー卿が訪ねてきました。私は、卿と摂政殿下に関わる箇所を読み聞かせるべきだと考えました。卿はたいへん心を動かされ、陛下が摂政殿下について、どのような言葉で語っておられるかを、自国の宮廷へ知らせたいと望み[1]、書き留めさせてほしいと頼みました。私は、二つの理由からこれを認めました。一つは、卿が言うとおり、絶対に秘密が守られるということです。もう一つは、今の情勢では、陛下が摂政殿下に寄せられた称賛が、きわめてよい効果を生むかもしれないということです。

ロシア皇帝は、ポッツォ将軍をパリへ戻します。二か月半もここに引き留めておきながら、会ったのは一度だけでした。一説には、あまり遠慮なく意見を述べる批判者を、遠ざけたいから戻すのだと言われています。皇帝は、ザクセン王に、その王国の代わりとして、ライン川左岸の人口数十万人の領地を与える案[2]を考えたのは、陛下への配慮から、陛下に喜んでいただけることをしたいと思ったからだと、陛下に信じていただきたいようです。ポッツォ将軍は、この取り決めに陛下の同意を得るよう、働きかける役を命じられるはずです。

しかし陛下は、ザクセン問題を、正統性の面からだけでなく、均衡の面からも考えなければならないことを、ご承知です。ザクセン王を強制してライン川へ移すなら、正統性の原則は破られますし、王自身も決して同意しないでしょう。さらに、正統性の問題を別にしても、ザクセンをプロイセンに与えれば、オーストリアとの勢力関係が大きく変わり、ドイツ諸国の間の均衡は、完全に失われてしまいます。

したがって、パリでもウィーンでも、ロシア皇帝の企ては、陛下の英知の前に失敗するでしょう。陛下は、ある原則を守ることに、ご自身の栄誉を見いだしておられます。その原則がなければ、ヨーロッパにも、その一つ一つの国家にも、安定したものは何一つ存在できません。一国一国の安全と、すべての国の平穏を保障できるのは、ただ、それらの原則だけだからです。

ポッツォ将軍がウィーンで一貫して述べていた意見は、フランスにあまりにも好意的で、ロシア皇帝がここで実行したがっていることとは、相いれませんでした。将軍は、日曜か月曜、つまり八日か九日に出発する予定です。

陛下、オーストリア、イギリスの間に結ばれた同盟が想定する戦争は、起こらないだろうという、私の考えは変わっておりません。しかし、最悪の場合を予測し、あらゆる事態に備えるのが、慎重な判断というものです。万一その場合が来たら、新たな列強を加えて、この同盟を強める方法を考えておく必要があると思いました。そこで、カスルレー卿とメッテルニヒ氏に、われわれと共同でオスマン政府へ働きかけ、必要なときには、有効な牽制作戦を行う用意をさせようと提案しました。二人はこの提案を受け入れ、三宮廷がコンスタンティノープルに駐在させている公使たちへ与える訓令を、共同で整えることになりました。陛下には、大使の出発をお急がせになることが、有益だと存じます。

スウェーデンとも同じように協調できれば、有利かもしれません。しかし、それを実現する手段は、よく検討する必要があります。このことは、別のお手紙で陛下に申し上げたいと存じます。

一月二十一日の追悼礼拝は、大聖堂で行われます。ウィーン大司教が司式します。皇帝を育てた、八十三歳の老人です。この儀式を荘厳なものにするため[3]、できることは何一つ怠られません。

謹んで……

第二十三号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。

ウィーン、一八一五年一月六日。

伯爵殿、

オーストリア、イギリスの両使節団と、われわれとの結び付きは、いっそう強まっています。ベルリンとペテルブルクの両宮廷に、意のままに決定を押し付けさせないという原則については、完全に意見が一致しています。

プロイセンは、ザクセンを手に入れなくても、諸条約が保障する以上のものを得られると示す、統計委員会の作業が完了しました。昨日以来、プロイセン政府自身も、自分たちの立場は、最初に考えていたほど確かなものではないと、認め始めたようです。政府は、新たな提案が示されるのを待っており、その準備が進められています。ザクセンからどれだけ領土を取り、ワルシャワ大公国からどれだけ割譲させるかは、オーストリアの利害に関わる問題です。慎重に扱われるなら、われわれが直接介入するには及ばず、ヨーロッパ全体の均衡への影響だけを、見守ればよいでしょう。

われわれがここへ着いたときには、すべてが投げ出されているように見えました。オーストリア、というより、その大臣は、この均衡に、ほとんど関心を示していませんでした。今では、国境の問題がどれほど重要かを、誰もが感じています。もし、この問題が十分うまく解決されないとすれば、それはウィーンの宮廷と、その政府の責任です。

そのほか、会議をできるだけ早く終わらせるため、われわれにできるかぎり、各案件の進行と決着を促しています。

スイス問題の報告書が準備されています。ベルンから届く知らせによれば、同州の内部の勢力関係に変化があり、これがスイス問題の決着を容易にするでしょう。われわれは、ベルン州の代表に、バーゼル司教領を獲得し、イギリスにある資金の返還を受けられるのであれば、それを受け入れ、現在の情勢のもとで、列強が最も有益だと考える全般的な取り決めに加わることが、州の利益になると伝えました。そのほかには、まだ何も決着していません。

敬具……

第十六号第三信――国王ルイ十八世からタレーラン公へ。

パリ、一八一五年一月七日。

そなたの第十八号を受け取った。あの兄弟二人[4]との会談には、たいへん満足している。正直なところ、最も重要な協議から、私の全権大使たちを締め出そうとする時代は、もう過ぎ去ったと思っていた。そなたの毅然とした態度が、その再発を防いだ。しかし、この成功に安心してはならない。昨年四月には終わっているはずの同盟を、列強がまだ存続していると思い込んでいるかぎり、害の種は残る。カスルレー卿へのそなたの手紙は、まったく申し分ない。その結論を否定できる者があるなら、やってみるがよい。だが、ロベスピエールが、あの最大の罪を早く成し遂げるために使った詭弁が、今度は偽りの同情によって、ザクセン王に向けられているのを見ると、私は戦慄せずにはいられない。

オーストリア皇帝が、ザクセンの正当な権利を守るために、あの『ボヘミア人の頑固さ』を発揮するのは、私も歓迎する。ただし、ナポリでの簒奪を支えるために、同じ頑固さを発揮しないのであれば、である。皇帝は、自分にとって何が懸かっているのかを、知らないのかもしれない。それでも、最近の発見と、最近取られた措置が、そのことを教えているはずだ。それらは、火の元を消さないかぎり、イタリアには統一派が絶えることはないと、そなたが示すための、実に有利な材料でもある。約束の話を持ち出し、それが守られなかったという証拠を欲しがっているように見せている。しかし、正当な権利を害しているのは、そこではない。別の原因、それも、これまで歴史に記されたなかで、最も恥ずべき原因なのだ。アントニウスが、卑怯にも艦隊と軍隊を見捨てたときでさえ、クレオパトラに心を奪われていたのは、本人であって、その大臣ではなかった。この障害は、どれほど軽蔑すべきものであっても、現実に存在する。唯一の対処法は、こちらへ引き戻したい相手に、重大な動機を数多く与えることだ。そうすれば、相手は、それらの動機のなかに、自分のささやかな弱さと戦う武器を見いだせるだろう[5]。

結婚の件について、そなたが送ると言っていた手紙を、待ちわびている。この件は、ウィーンで扱っている諸問題に比べれば、二次的に見える。しかし、ベリー公の結婚は、フランスの利益にとって、急を要する。そのためには、ロシアとの話を決着させなければならない。

そなたの新年の祝いを、うれしく受け取った。私も、そなたへ同じ願いを返さねばなるまい。それでは、親愛なる従兄よ、神がその聖なる尊い守りのなかに、そなたを置いてくださるよう、祈る。

ルイ。

第二十四号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。

ウィーン、一八一五年一月十日。

伯爵殿、

情勢は、おおむね、前回の報告でお伝えしたのと同じ段階にあります。予告したとおり、ロシアから、最初の提案がなされました。ロシアは対案を求め、プロイセンは、自国の再建の土台となる計画を、今、起草しています。ザクセンに要求されている犠牲を、イギリスは、さほど負担に感じていないようです。オーストリアは、その要求に加担しないほうが、自国の利益になるにもかかわらず、なおさら負担に感じていないようです。

イタリアの諸問題は、トスカーナ、パルマなどの問題について、オーストリアが覚書を提出して以来、進展していません……。

スイス問題の報告書は完成しました。明後日の十二日に開かれる、委員会の会合で審議されます。最終的に採択され次第、速やかに政府へお送りいたします。

敬具……

第二十一号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年一月十日。

陛下、

本日は、ジョクール伯爵から、陛下のお名前で求められた返答を差し上げる必要がなければ、お手紙を差し上げることはなかったでしょう。カーサ・フロレス氏の退去について、マドリードの宮廷が要求している、謝罪その他の償いの件です。陛下が、ありがたくも私の意見をお求めくださったので申し上げますが、どのような形の償いも、必要ありません。償いは、過ちがあったことを前提としますが、陛下の政府には、何の過ちもなかったからです。また、仮に償いをする必要があるとしても、マドリードの宮廷が、あえて要求してきたようなものであるはずはありません。この意見の根拠は、ジョクール氏が、謹んで陛下のお目にかける手紙で述べましたので、繰り返して陛下を煩わせることはいたしません。セバリョス氏が、ヘブライ人の公法や、いくつかの古代民族の慣行を基に、打ち立てようとしている、犯罪人引渡しの理論は、まったく常軌を逸しています。その手紙を見せたラブラドール氏も、嘆いていました。マドリードの宮廷には、私には分からない、何か別の不満があるように思われます。それはカーサ・フロレス氏の退去とは無関係で、この退去は、ただの口実なのでしょう。そう思うのは、ナポリやエトルリア女王の問題で、フランスがここで支援してくれないと、同宮廷が訴えているからです。陛下の使節団が、まずナポリを正統な君主へ返還するよう要求し、それ以来、あらゆる機会に、口頭でも書面でも、内々にも公式にも、同じ要求を繰り返してきたという知らせが、届いていないのは、スペインだけではないかと思います。ラブラドール氏は、自分のどの報告からも、われわれが最善を尽くして協力していないと、考える余地はないはずだと、私に断言しました。つまり、マドリードの宮廷は、根拠のないことを、自分でも十分知っているはずなのに、不満を申し立てているのです。

前回のお手紙以来、ここでの案件は、何一つ進展しておりません。準備ができていなかったプロイセン側のために、数日間延期されている協議が、明日には開かれると思います。議題は、ポーランドとザクセンの問題です。

ザクセン問題で危うくなっている二つの原則のうち、正統性の原則は、完全に守られるでしょう[6]。しかし、均衡の原則は、それほど十分には守られません。カスルレー卿は、以前の考えを、完全には捨てていません。プロイセン寄りの気持ちが、まだ根強く残っています。ザクセン王の犠牲を、あまりに小さく抑えようとすれば、プロイセンが、どれほど大きな不満を抱くか分からないと、卿は思い込んでいます。もともと決断力に欠け、意志の弱い人です。十月十日付の自分の覚書が、足かせとなっています。メッテルニヒ氏のように、あまり自分と矛盾することは、したくないのだと、私に言いました。卿に言わせれば、メッテルニヒ氏には、守るべき一貫した信念がないそうです。実際、その人には、意見を変えることへのためらいが、少しもありません。先月十日には、ザクセンの人口四十万人分の領土を、プロイセンに与えれば十分だと考えていたのに、今では、何の気兼ねもなく、その倍を与えるでしょう。十月二十二日には、ザクセンを完全に消滅させたがっていました。均衡という面から見れば、ザクセン問題は、ほかのどの列強よりも、オーストリア自身に関わる問題です。ところが、メッテルニヒ氏は、あまりにも軽々しく、無頓着に扱っています。見慣れているはずの私も、いつも驚かされます。

陛下、われわれは、自分と矛盾せず、日ごとに言うことを変えないためには、陛下のご命令どおりに、正確に行動するだけでよいのです。絶えず変わる気まぐれではなく、変わることのない原則に従う利点は、ここにあります。

二十一日の礼拝は、大聖堂で行うことに、正式に決まりました。ここ数日、病気だった大司教も、回復に向かっています。よほどひどい再発がないかぎり、ご自身で司式されるでしょう。

謹んで……

第十七号第三信――国王ルイ十八世からタレーラン公へ。

パリ、一八一五年一月十一日。

親愛なる従兄よ、

そなたの第十九号を受け取った。今度の手紙は短くなる。そなたの行動には、まったく満足している。使者が批准書を持参する、その条約にも、全面的に賛同する。伝えることは、それで全部だ。必要なことは承知しているので、リカール将軍を、できるかぎり迅速に、また、秘密を守って送り出そう。

二十一日に行われる礼拝のことを、たいへんありがたく思う。ちょうどその日に、国王と王妃の尊い遺骸が、サン=ドニへ移されると知れば、そなたも同じように心を動かされるだろう。それでは、親愛なる従兄よ、神がその聖なる尊い守りのなかに、そなたを置いてくださるよう、祈る。

ルイ。

追伸――順調に進んでいる、この間に、ナポリ問題も決着させるよう、努めよう[7]。

十二日朝。

手紙をもう一度開いて、伝えておく。リカール将軍は、現在トゥールーズにおり、師団を指揮している。直ちにパリへ来るよう命令を届けるため、昨夜、使者を出発させた。

L。

第十八号第三信――国王ルイ十八世からタレーラン公へ。

パリ、一八一五年一月十五日。

親愛なる従兄よ、

そなたの第二十号を受け取った。前回は、批准書の作成に必要な時間を、うまく見積もれていなかったため、実際より急ぐ必要があると思い、ずいぶん簡潔に書いた。しかし、第十九号を読んだとき、そなたが十二月二十七日付の私の手紙を受け取ったときと、同じ思いを抱いたことは、信じてほしい。ウィーン会議で扱われているような重大な利害について、私は、今も、これからも、決して油断しない。とはいえ、アレクサンドルと同じくらい、安心していてもよいだろう。実際、ある程度は安心している。私の手紙の一部を、カスルレー卿に知らせるよう、そなたに指示しなかったのは、そなたが自分の判断で、そうしてくれると、確信していたからだ。

ジョクール伯爵へのそなたの手紙に示されている、ザクセンを奪わなくても、プロイセンを満足させられるという見込みが、実現することを、強く望んでいる。そうなれば、すべて決着する。われわれは、剣を用いずに、ゴルディオスの結び目をほどくという、栄誉を得るだろう。それでも、オスマン政府との交渉には賛成である。リヴィエール侯爵[8]の出発も急がせよう。かなり重い病気から、まだ十分には回復していないが、その熱意は、よく承知している。

ポッツォ・ディ・ボルゴ将軍を、落ち着いて待ち受けている。もし、まだ君主になっていない公の話なら、私の近くに、小さな国家をつくるのを、喜んで見てもよい。しかし、ザクセン王のこととなれば、たとえ王自身が交換に同意したとしても、私は、それに手を貸すつもりはない。自分自身に対して公正であることは、神聖な義務だ。他人に対して公正であることも、同じく神聖な義務である。施しだけで生きていたときにさえ、自分の権利を手放すことを拒んだ者が、今、二千五百万人を超える人々を統治し、正義に加えて、ヨーロッパ全体の利益も守らなければならない立場となって、同じように正統な他人の権利を、裏切るはずはない。

スウェーデンの問題は、きわめて慎重に扱わなければならない。前回の条約によって、ロシアは、さほど力を使わずに、ストックホルムまで進める位置に立った[9]。敗れた場合の補償を、同時に保障することなく[10]、一つの王国を、これほど危険な戦争へ引き込むのは、賢明だろうか。しかも、その補償は、何を与えればよいかを考えることさえ、難しい。グスタフ四世は、自分の叔父を、正統なスウェーデン王だと認めていると、私に何度も話した。しかし、この不幸な君主は、自分自身の退位に際して、息子の王位継承権まで放棄することが、できただろうか[11]。仮にそれができたと認め、ベルナドットの選出が正統なものとなったとしても、その人物がその地位にいること自体に、彼との同盟をためらわせるような影響はないだろうか。この二つ[12]の点について、そなたの考えを、関心をもって読もう。

しかし、ベルナドットのことを考えると、はるかに危険な、もう一人の存在、ミュラのことへ戻らざるをえない。十二月二十七日付の私の手紙は、ナポリとザクセンを扱っていた。ザクセンについては、われわれは、よい位置に立っている。ナポリについても、同じ熱意で取り組み、同じ成功を得よう。

サルデーニャ大使が、私への謁見を求めてきた。その結果は、ジョクール伯爵から、そなたへ知らせるだろう。それでは、親愛なる従兄よ、神がその聖なる尊い守りのなかに、そなたを置いてくださるよう、祈る。

ルイ。

第十九号第三信――国王ルイ十八世からタレーラン公へ。

パリ、一八一五年一月十九日。

親愛なる従兄よ、

そなたの第二十一号の手紙を受け取った。スペインの問題について、そなたがどう考えているかは、心配していなかった。しかし、その考えが、私の取った措置と一致していると分かり、うれしく思う。ラブラドール氏が、自国の政府の無分別な考えに同調していないことも、喜ばしい。政府が、理性と自国の真の利益に、よりかなった考えを持つよう、氏が働きかけてくれることを願う。

先週はたいへん満足していたが、今は、カスルレー卿が以前の弱気へ傾き、メッテルニヒ公が態度を変え続けていることに、不安を覚えずにはいられない。卿は、人の名誉となるのは、正しいことを揺るがず守ること、あるいは、不幸にもそこから外れたときには、誠実に立ち戻ることだと、考えるべきである。公のほうは、プロイセンの取り分を増やすことが、オーストリアを弱めることだと、忘れている。私について言えば、そなたも知るとおり、ザクセン王から、すべてを奪うことには、決して加担しない。王が多少の割譲を強いられることは、理解できる。しかし、第四級、あるいは第三級の国家へ落としてしまうほどの割譲を求めるのであれば、それに手を貸す気も、私にはない。そなたたちの協議の結果を、待ち遠しく思っている。そして、それに劣らず、ナポリという大問題が、ようやく取り上げられることを、心待ちにしている。

今は、喪と悲しみの日々である。土曜に行われる式には、出席したかった。痛風への懸念が、私を引き留めている。しかし、出席できずに式を命じるのも、出席するのに劣らず、つらいものだ。ウィーン大司教が、自ら追悼礼拝を司式してくれたことについて、私の名で感謝を伝えてほしい。では、親愛なる従兄よ、神が、その聖なる尊い守りのうちに、そなたを置いてくださるよう祈る。

ルイ。

第二十五号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。

ウィーン、一八一五年一月十九日。

伯爵殿、

前回の十二月十四日の会合の議事録の写しを、謹んでお送りいたします。今月十四日に開かれた会合では、メッテルニヒ公が、ジェノヴァのピエモンテへの併合について、サルデーニャ宮廷の回答を伝えました。この会合の議事録は、次の会合で初めて署名される予定です。この文書も、次回の議事録に属するものですが、先に外務省へお送りいたします。

サルデーニャ使節団が、自国の君主に生じ得る権利を留保している、帝国の封土の処遇については、イタリアのほかの問題が片付くまで、最終的には決められません。

スイス問題の報告書には署名がなされ、八か国の協議へ提出されました。最終決定が下り次第、国王にお知らせいたします。

スイスについて取るべき最善の道が、ロシア皇帝の影響力に妨げられなかったなら、もう少しよい結果を得られたかもしれません。しかし、皇帝は、誤って理解され、誤って行使される自由に関わるものを、いたるところで保護しています。その力は、本来の秩序を真に回復する原則に従うことを、阻むほどに強いのです。それでも、この問題で得られるものは、すべて得ることができました。ヴォー地方とヴァルテリーナで、個人の財産に対して加えられた暴力については、賠償を認めさせることができました。

大河川の航行を取り決めるために任命された委員会は、まだ会合を開けていません。イギリスの代表たちは、この件について、追加の訓令と情報を求めました。プロイセンの代表たちは、ライン川の航行の取り締まりと管理から、フランスの関与を、すべて排除したがっています。ここでも、ほかのあらゆる場面で出会ったのと、同じ困難に直面しています。それにも、同じように打ち勝てると期待しています。しかし伯爵殿、これが、新たな論争の種になることは、お分かりのはずです。

ハルデンベルク公は、プロイセンの再建案を提出しました。ザクセン全土が、プロイセンへの併合地として、その案に記されているのを見て、少なからず驚かれることでしょう。しかし、この案では、プロイセンの人口が、一八〇五年の時点より、六十八万一千人多くなっています。また、ザクセン王に新たな領地を設けるため、七十万人を割り当てています。したがって、権利の正統性という問題と、新たなドイツ連邦の取り決めのなかに、均衡を築くという問題の、両方を救う余地が、この案にはあります。

バイエルンは、フランス、オーストリア、イギリスの間に結ばれた同盟へ、正式に加わりました。この同盟の目的は、列強の一国が、ヨーロッパへ勝手に命令を押し付けることを、認めないというものです。オランダとハノーファーも、加わる予定です。

伯爵殿には、国王の大使団が、一月二十一日に追悼礼拝を営むのが適切だと考えたことを、お知らせしてありました。タレーラン公は、ウィーン宮廷に駐在する国王の公使に、礼拝がウィーン大聖堂で行われることを、フランス大使団の名で、各国の君主へ伝えるよう依頼しました。君主たちは、式に出席すると答えただけではありません。出席へと自分たちを導く思いについて、国王への厚意を示す言葉を、皆が添えてくださいました。

オーストリア皇后は、ラ・トゥール・デュ・パン氏に、健康のために、この式へ出席できないと告げました。つらい感情の高ぶりに、神経をさらす勇気がないので、そのように国王へ伝え、お許しを願ってほしいとのことでした。また、アングレーム公爵夫人には、自ら事情を説明すると付け加えました。皇后の母君であるベアトリクス大公妃は、進んで、出席すると答えてくださいました。

まだ返答をいただいていないのは、ロシア皇帝と皇后だけですが、お二人も、きっと出席されるでしょう。

この式は、荘厳であるとともに、営むのがふさわしいものです。フランスと、過ぎ去った世紀にとって、きわめて不幸な時代を、思い起こさせるでしょう。しかし同時に、諸国民にとって役立つ考えを、育てることにもなるでしょう。

敬具……

第二十二号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年一月十九日。

陛下、

陛下が今月七日に賜ったお手紙を、受け取りました。そこに示されたご厚情は、私の献身と勇気を、さらに強めてくださいました。

本日、謹んで陛下にお便りするのは、手紙と手紙の間を、あまり長く空けないためだけです。新たな成果を、ご報告できるわけではありません。

問題は、あまり進展していません。それでも、私たちは、手をこまねいているわけではありません。

バイエルンの三国同盟への加盟は、手続きが進んでいます。その後に、ハノーファーとオランダの加盟が続くでしょう。ダルムシュタット大公は、同じ目的のために、バイエルンと結び付き、六千人の兵を出すことを約束しています。

イタリア、スイス、統計の問題については、それぞれの委員会で、作業が進められています。外務省に宛てた私の手紙が、陛下のお目にかけられるはずです。それによって、これらの問題の現状、直面している障害、また、すべてを望ましい形に整えられない理由を、ご承知いただけるでしょう。

オーストリア、イギリス、バイエルン、オランダ、ハノーファー、そしてドイツのほぼ全体が、ザクセン王とザクセン王国を存続させることについて、われわれと意見を同じくしています。したがって、ザクセンは、存続するでしょう。ハルデンベルク公が、最近提出した、プロイセン王国の再建案で、なおもザクセン全土を求めるという、厚かましい振る舞いに出たとしても、です。メッテルニヒ氏が、その案に回答することになっています。私は、その回答を待って、使者を出そうと考えていました。しかし、回答は、まだできていません。私が見たのは、その材料だけですが、いずれも、たいへんよいものでした。そもそも、プロイセンの案を見ただけでも、同国に、一八〇五年に持っていたものを返し、そのうえで、ザクセンに、百五十万人の臣民を残せることが分かります。一八〇五年に持っていたものこそ、プロイセンが求めてよい、すべてなのです。しかしプロイセンは、ロシアとオーストリアが領土を広げたことを口実に、一八〇五年より、六十万人多く受け取るべきだと主張しています。

正統性の原則に関わる点については、カスルレー卿、メッテルニヒ氏、そして私の間で、合意ができています。共同の提案を出すために、まだ意見を合わせなければならないのは、均衡に関わる点です。私たちは、それを日々検討しており、今日も、その件で協議しました。メッテルニヒ氏は、初め、際限なく譲歩するつもりでいるようでした。私は、そのように安易な態度を取れば、自国を危険にさらし、氏自身にどのような結果が及ぶかを考えさせ、思い直させました。氏は、以前なら手放したがったもの[13]を、今では、熱心に擁護しています。私は、オーストリア軍で最も知識の豊かな将校を、幾人か協議に連れてきて、その意見と根拠を述べさせるよう、勧めました。この助言に従わせるために、もし従わなければ、私がこの助言をしたことを、公にすると言いました。氏は、従う決心をしました。シュヴァルツェンベルク公が、スチュアート卿と協議し、その後、幾人かの将校とともに、明後日の私たちの協議へ出席します。困ったことに、カスルレー卿には、以前のプロイセンへの好意が、まだ残っています。それに加え、十月十一日の覚書では、ザクセン全土を明け渡しておきながら、今になって、プロイセンへ渡すのを、ごくわずかな部分にとどめると言い出せば、自分の『評判』と呼んでいるものを損なう、と恐れています。さらに、軍事地理についても、単なる大陸の地理についてさえ、その知識は、きわめて不完全で、皆無と言ってよいほどです。そのため、ごく小さなことまで納得させなければならないのに、納得させるのは、きわめて難しいのです。カウニッツ公の時代に、あるイギリス人がここを訪れ、公の前で、ドイツ諸国について、荒唐無稽な話を次々に述べたことがあったそうです。カウニッツ公は、それをいちいち論駁する[14]代わりに、ひどく驚いた調子で、こう叫んだと言います。『イギリス人が、これほど多くのことを知らないとは、驚くべきことだ!』カスルレー卿との協議の際、私は、何度、心の中で、同じ叫びを上げたことでしょう。

イタリア問題のために準備されている取り決めでは、マリー=ルイーズ大公女が、多額の年金を受け取るだけにとどまると、期待できる根拠が、いくらかあります。私は、この点を、たいへん重く見ていると、陛下に申し上げなければなりません。この方法なら、ボナパルト[15]の名を、現在についても、将来についても、君主の一覧から、決定的に消せるからです。エルバ島を持つ人物が、その島を保有できるのは、一代限りですし、大公女の息子にも、独立した国家を持たせないことになるからです。

二十一日の式の準備は、ほぼ終わりました。出席を希望する人々の熱意は、たいへん強く、応じ切るのは難しいでしょう。ウィーンで最も大きい聖シュテファン教会でも、出席したいという人々を、すべて収容することは、できないはずです。

すべての君主に、この式のことをお知らせしました。まだ回答していない、ロシア皇帝と皇后を除いて、皆が、出席すると伝えてきています。

オーストリア皇后は、健康のために出席できず、陛下にお許しを願いたいと望んでいます。これは、皇后が実際にお使いになった言葉です。母君のベアトリクス大公妃は、出席します。

女性たちは、皆、ヴェールを着けます。それが、最も深い喪のしるしだからです。

ポッツォ将軍は、なおも訓令を待っています。準備をしておくようにと言われていますが、すでに、一週間以上前から、準備はできています。それなのに、訓令は届きません。

アンドレオシ将軍[16]が、コンスタンティノープルから戻る途中、ここに立ち寄りました。その発言は、たいへん好ましいものでした。私が望むとおりの、政治上の信条を、私に表明しました。才知があり、重要な地位を歴任した人物で、任用することもできるはずです。

謹んで……

第二十三号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年一月二十一日。

陛下、

本日は、今朝ここで営まれた式について、謹んで陛下にお話ししなければなりません。

詳しく、それでいて、飾り立てない報告を書かせました。陛下がお認めになれば、これを『モニトゥール』に掲載するためです[17]。事実だけを示し、読者が自然に思い浮かべる考察を、こちらから添えることは、控えるべきだと思いました。そのほうが、読者の心へ、いっそう強く訴えるからです。

この報告には、フランス生まれの、聖アンナ教会の主任司祭が行った演説も、含まれています。これは、追悼の説教でも、通常の説教でもなく、演説です。作成に与えられたのは、わずか数日でした。式の目的に合い、同時に、現在の状況と、出席者のなかでも主要な人々の身分に、ふさわしいものとする必要がありました。雄弁さよりも、節度が求められていたのです。聞いた人々は、その点では、申し分ないと、感じました。

この式には、何一つ欠けていませんでした。その目的にふさわしい華やかな荘厳さも、出席者の顔ぶれも、式が思い起こさせる出来事によって、永遠に呼び起こされるべき悲しみも、すべてありました。大きな不幸を思い起こすなかに、大きな教訓を示すべき式でした。そこには、道徳上、政治上の目的がありました。本日、夕食に招いた[18]、主要使節団の長と、最高位の人々の話から、その目的は達せられたと、思うことができました。

式の秩序と威厳を高める措置を、オーストリア皇帝が、細やかな配慮と快い態度で、お許しくださり、あるいは、お命じくださったことには、どれほど感謝しても、足りません。君主たちのなかで、黒い服を着て出席したのは、皇帝お一人でした。ほかの方々は、軍服姿でした。

私自身も、申し分のない協力を得ました。とりわけ、アレクシ・ド・ノアイユ伯爵が、よく力を貸してくださいました。

すべての準備を任された、建築家モロー氏は、熱意と同じほどの、優れた工夫を示しました。音楽は、たいへん美しいと評されました。ノイコム氏[19]の作品で、同氏が、宮廷の首席楽長サリエリ氏[20]とともに、演奏を指揮しました。

陛下には、この三人の芸術家と、多大な助力をしてくれた、イザベー氏[21]に、ご満足のしるしをお与えくださるよう、お願い申し上げます。彼らのために、レジオン・ドヌールの勲章を、私へお送りいただきたいのです。

また、陛下の大使団に所属する、ルーアン氏[22]、フォルモン氏[23]、ダムール氏、サン=マルス氏[24]、セール氏にも、同じ恩典をお与えくださるよう、お願い申し上げます。私は、その働きに、きわめて満足しています。会議に参加している、すべての大使団の職員のなかで、勲章を持っていないのは、彼らだけなのです。

水曜日には、使者を出します。その使者に託して、結婚の問題について、謹んで陛下にお便りいたします。この問題の重要さは、十分に理解しており、決して忘れたことはありません[25]。

謹んで……

第二十六号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。

ウィーン、一八一五年一月二十四日。

伯爵殿、

一月十六日に開かれた、八か国協議の議事録を、謹んでお送りいたします。黒人奴隷貿易の問題については、その後、カスルレー卿とポルトガル大使の間に結ばれた協定によって、変更が生じました。大使は、自国の宮廷の名で、ポルトガルが、ただちに赤道以北での奴隷貿易をやめることに、同意しました。その見返りとして、イギリスは、同国の巡洋艦によって受けた損害の補償に、三十万ポンドを支払います。また、ポルトガルが返済しなければならなかった借款のうち、五十万ポンドを免除し、一八一〇年に署名された、直近の通商条約を破棄します[26]。最後にポルトガルは、八年後には、その領有地のどこでも、奴隷貿易を行わないことを、約束しています。

スペインは、自国の条約ですでに定められていた、この期限を、最終的なものとして維持するよう、主張し続けました。

フランスは、パリ条約によって定められた立場を、維持しました。奴隷貿易を抑制すると、引き続き表明し、その廃止の期限を、五年後としています。

伯爵殿、イギリスがポルトガルへ与える利益から、奴隷貿易をただちに廃止できる取り決めに、イギリスが、どれほど応じる用意があるか、お分かりになるでしょう。この件については、海軍大臣とご相談いただくべきです。言われているとおり、わが国の港の商人たちが、黒人を買い付けに行くための船を、準備していないのであれば、フランスに何の損失も与えずに、何か有益な妥協を図れるかもしれません。ただし、この考えを持ち出す際には、十分な配慮が必要です。

ポーランドの国境とザクセンをめぐる交渉は、続いています。二日以内に、ウィーン政府が、対案を提出する予定です。プロイセン側は、それに最後通牒で応じる準備をしているようです。一方、ロシア皇帝は、ザクセン王国を自国へ併合する要求を、ベルリン宮廷が取り下げるよう、仲介するかもしれないという、期待を残しています。カスルレー卿は、依然として、この問題を、強い態度で論じる決心が、つかないようです。卿は、存続の原則を守るためであれば、強く主張するが、単に人口の多い少ないという問題のために、イギリス国民へ犠牲を負わせるつもりはなく、その権限もない、と何度も繰り返しています。この障害はあるものの、ザクセンが、五十万人から六十万人の割譲まで犠牲を広げれば、同国は存続すると、期待しています。八日以内には、そのことを、確定的にお知らせできると思います。――オーストリアは、一八〇九年に失った、ポーランドのタルノポリ地区を、取り戻すはずでした。しかし、ロシアが、より大きな領地をプロイセンへ譲ることを条件に、その回復を断念しようとしています。これらの動きは、会議の進行を妨げてきた、この最初の重要な問題を、解決へ導くものです。

イタリア問題は、進んでいません。すべて、メッテルニヒ公の役所で、止まっています。

スイス問題は、これから、八か国協議で討議されます。ベルンから届いた知らせによれば、同州の代表は、失ったものの補償として、バーゼル司教領を受け入れる権限を、与えられました。ただし、その全域が譲られること、また、その住民について、旧ベルン州が以前享受していた特権とは、両立しない特権を要求しないことが、条件です。ベルンの人々は同時に、旧領を返還させるために、陛下が進んで払おうとなさった、寛大な犠牲について、感謝を伝えてきました。彼らは、国王にとって、最も忠実で、最も献身的な同盟者となると思います。

伯爵殿、最後に、一月二十一日の式が、人々の心に及ぼした効果について、お話ししなければなりません。私たちが確立しようと努めている原則を、確かなものにするためには、君主と全権委員を、式へ招くことが、最も有効な手段の一つだと、考えていました。

この記念日の式を営む決心は、一月の初めに、すでになされていました。国王の大使たちは、ただちに、その意図を、オーストリア宮廷と、イギリス、スペイン、ポルトガル……の使節団へ伝えました。そして、式のために手配した準備を通じて、できるかぎり、輝かしいものにしようとしました。

この記念日が呼び起こす記憶に敬意を払うことは、すべての君主の利益にかなっていました。しかし、国王の大使たちは、革命が人々の心に残した、悪い影響を、よく知っていました。そのため、すべての人から敬意を得るには、あらゆる配慮を尽くさなければならないと、考えていたのです。[訳注5]

式の前日になっても、ロシア皇帝は、式には何の有益な目的もない、と断言していました。また、オーストリア宮廷に駐在する皇帝の公使は、出席しないための口実を、持ち出していました。

伯爵殿、私たちが、そのような障害を乗り越えることに成功し、君主たち、公使たち、そしてウィーンの民衆が、深い敬意を持って、この礼拝に出席したことは、お分かりいただけるでしょう。

使節団は、演説の作成にも取り組みました。これほど大きな記憶が呼び起こすはずの、心を揺さぶる力は、十分に備わっていません。しかし、最善の原則を示し、フランスの状況、その悔恨、そして国王への愛情を、語ることができました。一人の罪人を非難することも、その名を挙げることも、せずにです。

国王の大使たちは、これらの原則を、説教壇から宣言させるだけでは、満足しませんでした。タレーラン公は、ゲンツ氏に働きかけて、記事を書かせました。その記事は、この式についての、ヨーロッパの見方を定めるとともに、私たちが目指した目的を達成したことを、伯爵殿にも示すでしょう。一月二十三日付の『ベオバハター』に、掲載されています[27]。

すでに国王へお伝えした、私たちの最初の報告から、伯爵殿には、この式が呼び起こした、人々共通の思い、その感動、そして、この国に残すことになる記憶について、ご判断いただけたでしょう。

同じ日、外国人とウィーン市民のなかで、最も名高い人々が、進んでタレーラン公を訪れ、弔意を伝えました。

オーストリア皇帝は、二十一日に予定されていた祝宴を、翌日へ延期するよう、お命じになりました。主要な新聞で、二十二日の祝宴の報道に、次の言葉を添えるのが、適切だとお考えになるかもしれません。『一月二十一日のため、皇帝の命令により中断されていた催しは、再開された[28]……。』

礼拝の日以来、棺台は、大聖堂の中に、置かれたままです。民衆は今も、深い崇敬の念を持って、そこを訪れ続けています。

敬具……

第二十四号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年一月二十五日。

陛下、

昨日、メッテルニヒ氏とシュヴァルツェンベルク公の協議に、出席しました。その目的は、オーストリア軍人たちの意見に基づいて、ザクセンのどの地点なら、オーストリアの安全を脅かさずに、プロイセンへ渡せるか、どの地点は渡せないかを、決めることでした。

オーストリア皇帝は、この協議の開催を望み、私が出席することも、望んでおられました。

二つの案が、提案されました。

一つは、トルガウをザクセンに残し、その代わりに、ドレスデンの城塞を取り壊す、というものでした。

もう一つは、トルガウをプロイセンへ渡すが、その城塞は取り壊す、というものでした。ドレスデンについても、同じように取り壊します。

どちらの案でも、プロイセンは、エアフルトを保持します。

両案を、オーストリア皇帝に提出することで、合意しました。皇帝が採用なさった案を、覚書の主題[29]として、皇帝ご自身から、カスルレー卿へ渡していただくことになっています。説得しなければならないのは、カスルレー卿だからです。

ロシアは、人口四十万人のタルノポリ地区を、オーストリアへ返すことを、申し出ました。オーストリアは、その受領を断念します。ただし、同じだけの人口を、プロイセンに隣接するポーランドの地域から、同国へ与えることが、条件です。それによって、ザクセンの払う犠牲を、その分だけ減らすためです。このことは、覚書のなかで説明されます。

二つの案のうち、どちらが採用されたかは、知りません。しかし、カスルレー卿が、今夜、オーストリア皇帝のもとを訪れることになっていたのは、知っています。この謁見で起きたことは、次の[30]使者に託して、陛下へご報告いたします。

オーストリア皇帝が、ご自身の大臣を、どれほど信頼しているかは、陛下にも、ご判断いただけるでしょう。今朝、皇帝は、ジッキンゲン伯爵を、私のもとへ遣わしました。昨日の協議について、メッテルニヒ氏が報告したことは、真実かどうかを、私に尋ねるためだったのです。

アレクサンドル皇帝は、自由主義的な考えを掲げながら、ここでは、ほとんど人気を得ていません。そのため、毎日の散歩の際に、民衆から侮辱されるのを防ぐには、警察の体制を、三倍にしなければならないほどです。

ゲンツ氏に書かせた、『ベオバハター』の記事を、謹んで陛下へお送りいたします。氏自身が作成した翻訳も、ここに添えます。たいへんよい訳です。この記事は、ウィーン発の記事として、『モニトゥール』に載せられると思います。また、ほかの新聞も、転載するとよい性質のものです。

謹んで……

タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

(私信)

ウィーン、一八一五年一月二十五日。

陛下、

ポッツォ将軍は、今週、パリへ戻るために、出発するようです。おそらく、結婚に関する命令を、アレクサンドル皇帝から受け取ったのでしょう。これほど微妙で、さまざまな点から見て、これほど[31]重大な問題については、本日、私の考えをいくつか、陛下に申し上げるべきだと思います。

陛下は、ベリー公が妻に迎える王女が、どのような方であれ、カトリックの王女として、フランスへ来ることを、望んでおられます。そのご希望には、十分な理由があります。陛下は、これを、絶対の条件となさっていますし、そのようにせずにはいられないはずです。『最もキリスト教的な国王』、また、『教会の長子』であられる陛下が、この点で、ボナパルト[32]自身がアンナ大公女に求婚した際、進んで示そうとした以上の寛容さを、示すことは、できません。アレクサンドル皇帝が、この条件を受け入れたなら、陛下は、すでにお約束をなさっていた場合、それを撤回する自由があるとは、きっとお考えにならないでしょう。しかし皇帝は、妹が改宗することに、反対するつもりはないものの、その改宗に、自分が手を貸したと見なされることは、望んでいないようです。改宗があらかじめ約束されていれば、そのように見なされる根拠が、生じるからです。皇帝は、王女が別の法のもとへ移った後、その王女一人の決心によって、改宗したと受け取られることを、望んでいます。したがって、改宗は、結婚に先立つのでなく、その後に行われるべきだとしています。そのため皇帝は、妹が、専用の礼拝堂を持つ形で、フランスへ渡ることに、こだわっています。ただし、同行する正教会の司祭が、平服を着ることには、同意しています。この点へのこだわりは、皇帝自身の良心上のためらいから、来るものです。自分の信仰を大切にしており、これほど微妙な事柄で、国民の考えを傷つけることを、恐れているのです。皇帝自身が[33]この態度を守り続けるなら、陛下がなさったかもしれない、どのようなお約束からも、皇帝のほうで、陛下を解き放つことになります。また、結婚の条件への同意を引き延ばすなら、陛下がお約束を解くための手段を、与えることにもなります。私は、恐れずに陛下へ申し上げたいと思います。この件で、陛下をお約束から解き放つ方向に働くものは、何であれ、たいへん望ましいと、私には思えるのです。

八か月前には、現在がもたらす喜びと、将来に抱きたくなる、明るい期待のなかにあっても、何の不安にも乱されない、安らかな気持ちで、その将来を見通すことは、できませんでした。そのような時には、ロシアとの王家同士の縁組は、有益に見えるものだったでしょうし、私にも、そう見えました。その利益の価値は、別の状況であれば、最も重く、決定的なものと見なしたであろう、ほかの考慮を、上回るべきだと思えたのです。

しかし今は、摂理が、奇跡のように再建した王位を、自ら、確かなものにしています。今、その王位は、民衆の崇敬と愛情に、取り囲まれ、守られています。そして今は、連合も解消され、フランスは、もはや外国の助力を当てにする必要がありません。むしろ、ほかの列強のほうが、フランスからの助力を、期待しています。したがって陛下は、ご選択に際して、この種の縁組に欠かせない、重要な釣り合いを、情勢の必要のために、何一つ犠牲にする必要はありません。それだけを、お考えになってよいのです。

アンナ大公女は、パーヴェル皇帝の五人の娘のなかで、最も美しく生まれついた方だと、言われています。情勢の推移によって、いつの日か[34]、フランスの王妃となるかもしれない王女にとって、それは、たいへん貴重で、望ましい資質です。自分たちが従う君主について、次のように言えることを望む気持ちが、フランス人ほど強い国民は、いないからです。

世の人は、その姿を見れば、自分たちの君主と悟るだろう!

大公女は、たいへん丁寧な教育を受けて育ったようです。美しい姿に加えて、優しい心も備えていると、言われています。最後に[35]、二十一歳ですから、あまりに早い結婚が、しばしばもたらす、不幸な結果を、心配する必要もありません。大公女は、ボナパルト[36]が求婚する前には、現在在位している、ザクセン=コーブルク公に、嫁ぐことになっていました。その後、ボナパルトが大公女と結婚するかどうかは、彼自身にかかっていました。彼が待つことができ、その気があったなら、大公女を彼に嫁がせるのを、相手は、むしろ望んでいたことが、確かだからです。この二つの事情から、大公女とベリー公の縁組に対する、何らかの異議を導けるかどうかは、分かりません。しかし、結婚が行われるのであれば、このような事情が、そもそも存在しなかったほうが、ずっとよかったと、私は申し上げなければなりません。

しかし、大公女の祖父ピョートル三世と、父パーヴェル一世の、知的な能力が、どのような状態であったかを、考えずにはいられません。先代デンマーク王、現在在位しているオルデンブルク公、不幸なグスタフ四世の例を見れば、その痛ましい精神の障害は、ホルシュタイン家[37]に付きまとう、不幸な宿命と、見えてしまいます。その障害が、結婚によって、フランス王家へ、さらには、王位の継承者へ伝わるのではないかと、私は、懸念せずにはいられないのです[38]。

大公女が、改宗しなければならないこと自体ではなく、その改宗が、純粋に政治上の理由だけによるものとしか、見えなくなるような形で、行われなければならないことも、軽くない異議になると思います。それは、私たちの時代の病である、宗教への無関心を、国民の間に広めることへ、必ずつながるからです。

結婚が結び付けるのは、当人たちだけではなく、その家々でもあります。したがって、家同士の釣り合いは、一般の人の結婚でさえ、第一に考慮されるべきものです。国王、または、国王になる可能性のある王族の結婚なら、なおさらです。ブルボン家が、自分たちより下位の家と縁組することは、避けられません。ヨーロッパには、ブルボン家と肩を並べる家が、ないからです。したがって、ホルシュタイン家が、北方の三つの王位を占めているとはいえ、王家としては、比較的新しいという点に、私は異議を唱えません。しかし、ブルボン家が縁組によって、ある家に名誉を与えるのなら、その家が、それを名誉と受け取るほうがよい、と申し上げます。高貴さと家の起源の古さを、領地の広さで補えると考え、対等であると主張するような家よりも、です。アンナ大公女の四人の姉のうち、一人は大公に嫁ぎ、ほかの三人は、ドイツの小さな領邦の君主に嫁いでいます[39]。どの王位にも、皇女を送り込めなかったロシアが、その一人を、フランスの王妃に迎えられるのを、見ることになるのでしょうか。大胆ながら申し上げれば、そのような見通しは、ロシアにとって、あまりに大きな幸運となるでしょう。また、ベリー公が、そのような形で、君主たちの最も低い部類に属する、多くの人物と、ごく近い親族関係に入ることを、私は望みません。

ロシアが、皇女たちを、そのように嫁がせたのは、主として、ヨーロッパの問題に介入するための、口実と手段を得るためでした。ヨーロッパでは、一世紀前、ロシアは、ほとんど知られていませんでした。その介入の結果は、ロシアの影響力が持つ危険を、十分に思い知らせています。それでは、ロシアの皇女が、フランスの王妃に迎えられるなら、その影響力は、どれほど増すことでしょう。

王家同士の縁組は、政治上の同盟ではなく、一方が、必ずしも他方につながるわけではないことは、承知しています。予定されている結婚によって、フランスが、アレクサンドル皇帝の野心的な構想と、革命的な考えを、支持するようになるわけでは、決してありません。皇帝は、そのような考えに満ち、それを、自由主義という、もっともらしい名前の陰に、隠そうとしています。しかし、ほかの列強が、それとは違う見方をし、不信を抱くことを、どう防げるでしょう。それによって、われわれとの結び付きが弱まったり、新たに結び付くのをためらったりすること、また、ロシアが、その事態を、自らの構想の実現に利用することを、どう防げるでしょう。

陛下、以上が、ベリー公とアンナ大公女の結婚について、私が考えた、異議となり得る点です。陛下には、包み隠さず、お示しするべきでした。しかし、誇張してはおりません。私が感じるほどの重みが、本当にあるかどうかは、陛下の英知によって、ご判断いただけるでしょう。

さらに申し上げれば、ブルボン家が、その家の存続のための道を、自分たちの一族のなかにだけ求めることは、その偉大さに、ふさわしいと思います。とりわけ、一族のすべての分家が、同じ嵐に打たれ、同時に立ち直った、今の時代には、そうです。シチリアの王太子の娘である、若い王女[40]については、たいへんよい評判を聞いています。ポルトガル、トスカーナ、ザクセンにも、ほかの候補がおり、そのなかから、陛下がお選びになれるでしょう。謹んで、その一覧を、ここに添えます。

宗教の点で合意できないために、大公女との結婚交渉が失敗する場合、あるいは、陛下が、縁談を断念するのが適切だと、お考えになる場合には、一つ、お願い申し上げたいことがあります。われわれが、ここで取り組んでいる問題を終えるまでは、この縁談について、後戻りのできない決定を下さずに済むよう、事を運んでいただきたいのです。アレクサンドル皇帝は、妹にとって、これほどの縁組が実現するという、自分にも、たいへんうれしい期待があるのに、われわれへ、これほどわずかな好意しか、示しませんでした。その期待を失った後には、皇帝から、どのような態度を覚悟しなければならないでしょう。

謹んで……

第二十号第三信――国王ルイ十八世からタレーラン公へ。

パリ、一八一五年一月二十八日。

親愛なる従兄よ、

そなたの第二十二号の手紙を受け取った。この手紙が届くより、ずっと前に、そなたは、ウェリントン公に会っているだろう。カスルレー卿の後任に、公が選ばれたことは、私にとって、たいへん喜ばしいことだった[41]。出発前に、公と会った。これ以上ないほど、満足したし、公のほうも、私に不満を抱いて出発したわけではないと、願っている。公にも、守るべき評判がある。『国王を作る者』ではなく、それよりも、いくらか立派な、『国王を復位させた者』という評判である。それに、公は、前任者の行動に、縛られていない。前任者の足跡をたどろうとすれば、ほとんど、両極端のどちらでも選べるからだ。ザクセンの人口[42]が、正確にどれほどあるかは、知らない。ザクセン王は、領内の人口を百五十万人まで減らされることには、同意せざるを得ないと思う。しかし、それよりも、さらに減らそうというのであれば、私が最近、そなたに書いたことを、思い起こしてほしい。[訳注6]

ジュール・ド・ポリニャック伯爵[43]が、日曜に到着した。その報告は、以前、さまざまな方面から受け取った報告と一致し、イタリアが、大きく動揺していること、また、ミュラの存在が、たいへん危険であることを、伝えている。あの人物が、自称している王位を放棄する代わりに、金銭上の生活の保障を与える協定であれば、イギリスも加わると思える、根拠がある。私も、その措置には、喜んで応じよう。ただし、ミュラが、なおも執着するなら、交渉で成し遂げられなかったことを、武力で行うと、同時に取り決めることが、条件である。

土曜日の、悲しく、それでいて慰めにもなる式は、たいへんよく行われた。聖シュテファン教会での式に出席した君主たちへ、私の感謝の思いを、伝えてほしい。とりわけ、オーストリア皇后には、この機会に、私に伝えさせてくださった、出席のご希望と、かなわないことへの残念なお気持ちに、どれほど心を動かされたか、伝えてほしい。では、親愛なる従兄よ、神が、その聖なる尊い守りのうちに、そなたを置いてくださるよう祈る。

ルイ。

追伸――リカール将軍は、昨日到着した[44]。この手紙から、さほど遅れずに、ウィーンへ着くであろう。

第二十七号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。

ウィーン、一八一五年一月三十一日。

伯爵殿、

前回の報告でお知らせした対案が、ウィーン政府から提出されました。ザクセン王国から、人口七十八万二千人を割譲する、というものです。国王の大使団へ正式に伝えられ次第、謹んでお送りいたします。

プロイセン側は、この案に満足していないようです。しかし、アレクサンドル皇帝は、賛成しているように見えます。皇帝が、同盟国に受諾を促し、これほど長い間、会議を分裂させてきた問題を、そのように終わらせてくれることを、期待しています。数日以内に、決まるでしょう。

カスルレー卿は昨日、イギリスへの帰国を命じる使者を、迎えました。ウェリントン卿の到着も、予告されています。

カスルレー卿は、ナポリ問題について、よい意向を持ったまま、ウィーンを去ります。フランスと、できるかぎり良好な関係を保つことを、重んじているようです。

スイス問題も、イタリア問題も、協議では取り上げられていません。メッテルニヒ氏は、席次と先後の順位を定めるために開かれた会合の後は、協議を開くのが適切だとは、判断していないのです。

すべての側が、フランス政府のあらゆる行動は、正義と理性に導かれていると、確信するにつれて、国王の英知への信頼と、会議におけるその大使への敬意は、高まっています。連合が解消されたこと、また、北方の列強が、あれほど強く支持する、自分たちの都合を優先する仕組みに対抗して、南方の列強が結び付くことは、平穏を確かにし、懸念されていた新たな動揺を防ぐ保障となることを、日に日に、いっそうはっきりした兆しから、感じ取っています。

敬具……

第二十五号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年二月一日。

陛下、

オーストリア皇帝が、カスルレー卿にお与えになった謁見は、皇帝が、たいへん誠実で率直なお方に見えた、と卿に言わせること以外には、何の効果も、もたらしませんでした。卿は、プロイセンを大きく強力な国にしなければならず、ザクセンの大きな部分、とりわけ、トルガウの要塞を与えるべきだという考えを、変えませんでした。私は、この要塞を救いたいと思っていました。オーストリア側も、初めは、それを望んでいましたが、いつものように、最後には手放してしまいました。そのため、以前、謹んで陛下へお知らせした、二つの案は、どちらも採用されませんでした。第三の案が作られ、それによれば、人口七十八万二千人のザクセン人を、プロイセンへ明け渡します。このオーストリア側の案は、草案として、プロイセン側へ渡されました。プロイセン側は、政府の判断を仰ぐものとして、受け取りましたが、まだ回答していません。

われわれは、最初から、ザクセンの人口のうち、四十万人から五十万人を割譲することには、同意すると、表明していました。カスルレー卿は、初め、ザクセンを手放してしまい、しかも、一度手放したという理由で、百万人を割譲させることに、執拗にこだわっていました。私は、オーストリア側から、ろくに支援を得られませんでしたが、この二つの数字の、ほぼ中間で、とどめることに成功しました。今も、それを得られたことに、驚いています。ここに来ている、ザクセンの大臣は、王国の存続に、絶対に必要とは見なされない地域の一覧を、作っていました。その人口は、七十五万人でした。草案で割譲するのは、それより、わずか三万二千人多いだけです。しかも、割譲される地域の一部は、交換によって、ザクセンの諸公家へ、戻ることになっています。

プロイセン側は、差し出されたものでは、満足する気が、あまりないと言われています。あるいは、そのように見せているのでしょう。彼らにとって、これは、領土だけの問題ではなく、自尊心の問題でもあるからです。ザクセン全土を、つい最近まで求め、実際に占領し、フランス以外のすべての列強から、そこを明け渡してもらっていました。そして、決して断念しないと、幾度も宣言していました。それだけに、この王国の三分の二を諦めるのは、苦しいはずです。しかし、ロシアの協力なしには、争わないでしょう。アレクサンドル皇帝は、ポーランドで、望んだものを得ており、ザクセン問題[45]には、自尊心からの関心しか、持っていません。したがって、おそらく、プロイセン側に、提出された案を受け入れるよう、勧めるでしょう。案は、ごくわずかな変更だけで、受け入れられると考える、根拠があります。

私たちがここに到着したときの、ザクセンほど、取り返しのつかない運命が定まったように見えた国は、ありませんでした。プロイセンは、その全土を自分のために求め、ロシアも、プロイセンのために、同じことを求めていました。カスルレー卿は、全土を明け渡していましたし、オーストリアも、いくらかの国境の調整を除いて、同じでした。陛下だけが、ザクセン王と、その王国の擁護に立ち、陛下だけが、原則を守ってくださいました。陛下は、あらゆる種類の欲望に、打ち勝たなければなりませんでした。連合の精神は、依然、完全な強さで残っていました。また、おそらく、それ以上に難しかったのは、すべての列強の自尊心に、打ち勝つことです。彼らは、自らの要求、宣言、譲歩によって、あまりに深く関わってしまい、恥をかかずには退けないように、見えていました。陛下は、ほとんど行われてしまった不正に、高潔な抵抗を続けることで、これらの障害を、すべて克服するという栄誉を、得られました。それだけではありません。連合は解消され、陛下は、最も大きな列強のうちの二国と、協調関係に入られました。その協調が、将来、いくつかの国家の野心がもたらす危険から、ヨーロッパを救うことになるかもしれません。

第三級の国家であった、ザクセン王国は、その地位を保つでしょう。その人口に、諸公家の領地、そして、王国の中に入り込んでいる、ロイス家とシュヴァルツブルク家の領地の人口を合わせれば、なお、二百万人のまとまりになります。それが、プロイセンとオーストリアの間、そして、プロイセンとバイエルンの間に、置かれることになるのです。

ザクセン問題が片付けば、私は、ナポリ問題に、全力を傾けます。私にある、活動力と手腕の、すべてを注ぐつもりです。イギリスは、われわれに反対はしないでしょう。しかし、公然と、決然とした形で、助力することもないでしょう。謹んでお送りする文書を、陛下がご覧になれば、お分かりになるとおり、イギリスは、この問題でも、すでに自らを縛る立場に、踏み込んでしまっているからです。カスルレー卿は、この件について、私が卿に書いた手紙を受けて、自国の政府から訓令を受け取りましたが、その内容は、今申し上げた方向に沿ったものです。

カスルレー卿が、ウェリントン卿とともに、ここにとどまるのは、八日間だけです。卿が、自国の宮廷から受け取った公文書を、私に見せてくれたことから、卿のプロイセンへの偏りと、ザクセン問題での頑なさは、卿自身と同じほど、リヴァプール卿[46]にも、責任があるのだと、思わざるを得ませんでした。バサースト卿は、プロイセンに対しては、たいへん寛大でなければならないこと、また、ザクセンについて、すでにここまで踏み込んだ以上、後退しない[47]ことが、イギリス政府の名誉に関わると、卿に伝えています。

一方、卿が結んだ条約は、全面的に承認されています。批准書は、最初の使者で送ると、知らされています。

卿は、フランスとイギリスの間に、最もよい協調が保たれることを、いかに望んでいるかについて、長く語りました。ここで行われる取り決めの結果、長く続く平和が得られると信じるほど、幻想は抱いていません。卿が望むのは、少なくとも、二年間は戦争が起きないことだけです。もし戦争が起きるなら、フランス、イギリス、オーストリアが、友好関係にあること[48]を、願っています。常に備えを保ち、前もって協議しておく必要があると考えているため、私と、直接、文通を続けるつもりでいます。しかし、オーストリアでは、大臣が交代するのが望ましいと、見ています。同国の大臣は、それ以上のことは言わないにしても、あまりに弱いからです。

全体として、卿が示した意向には、満足しました。

卿は、パリを通る際に、陛下への謁見を願い出るつもりです。

謹んで……

第二十一号第三信――国王ルイ十八世からタレーラン公へ。

パリ、一八一五年二月四日。

親愛なる従兄よ、

そなたの第二十三号と第二十四号の手紙を受け取った。最初の手紙には、政務についての話がなかったので、すぐには返事をしなかった。しかし、その内容にはたいへん満足し、深く心を動かされた。サン=ドニにも、パリのどの教会にも、聖シュテファン教会で行われた演説に近づくほどのものはなかった。ただし、説教者が殉教した国王の遺言を読むだけにとどめたサン=トマ=ダカン教会は別である。この私の感想を、その演説の作者に伝えてほしい[49]。ゲンツ氏の文章にも、同じくたいへん満足した。すぐに『モニトゥール』に掲載させた。また、二十一日の式に協力した芸術家たちに、そなたが求めてきた謝意のしるしを与えるよう、ジョクール伯爵に命じた。

エアフルトがプロイセンへ割譲されることは、さほど気にならない。しかし、ドレスデンの要塞が取り壊されることは、残念に思わずにはいられない。とりわけ、トルガウがプロイセン王の手に残るのであれば、なおさらである。せめてフランツ皇帝が最初の案を選び、カスルレー卿にもそれを認めさせていてほしい。もっとも、卿は今では、もうウィーンにいないかもしれない。ウェリントン公が、ここで奴隷貿易の廃止をどれほど熱心に求めたかは、そなたも知っているだろう。月曜日の閣議で、ブーニョ氏がサン=ドマングについて私に行った報告も、やがてそなたのもとに届くはずだ。条約で定めた期限を越えて続けることは、たいへん難しいと思われるこの貿易を、ほとんど即座に放棄することで得られる利益もあるのではないかと、私も次第に考えるようになってきた。

スールト元帥が、ブイヨンについてそなたに手紙を書く。ここで問題なのは保護であって、所有ではない。そのため、この公国がロアン公のもとに残ることが重要である。それに、イギリスが相手方を保護しているとはいえ、正当な権利は、どう見てもロアン公の側にある[50]。では、親愛なる従兄よ、神が、その聖なる尊い守りのうちに、そなたを置いてくださるよう祈る。

ルイ。

追伸――結婚についてのそなたの考えは、まったく私の考えと同じである。ポッツォ・ディ・ボルゴ将軍が来るのを待ち、何事も急がずに進めよう。

第二十八号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。

ウィーン、一八一五年二月八日。

伯爵殿、

ザクセン王とその領土の処置について、オーストリア政府が提出した案は、いくらか修正を加えて受け入れられるようです。ザクセン王がベルリンを離れ、プラハへ来ることまで話題になっています。オーストリア宮廷が望むのであれば、ウィーンへ来る可能性もあります。

このような情勢のもとで、ザクセンとポーランドのために、今回の結果以上のものを得られなかったとすれば、その原因は、ただイギリス政府の偏見と、ウィーン政府の弱さにあります。克服すべき困難は、数え切れないほどありました。しかし、王権と正統性、そして権利は守られました。残されるザクセン王国の領土に、諸公爵家の領土を加えれば、人口二百万人のまとまりができ、プロイセンとオーストリアの両君主国を隔てることになります。

成立する取り決めの細部は、ここ数日のうちに確定します。会議の仕事を進めるうえで最大の障害が取り除かれたことを、ひとまずこの報告でお知らせし、詳しい内容は、続いてすぐにお送りいたします。

カスルレー卿は、来週月曜日に出発します。国王に拝謁するため、パリを通る道を取り、カレーから船に乗る予定です。卿の出発と、ウェリントン卿がナポリ問題について表明している態度とが、この問題の解決に不利に働かないことを願っています。この問題には、私たちの関心と熱意をすべて注がなければなりません。

スイスの問題は、今週扱われます。メッテルニヒ氏は、イタリアの問題について回答すると知らせてきました。大河川の航行権を定める協議は続いており、ドイツに関する協議も再開される予定です。

伯爵殿、フランスの新聞、とりわけスウェーデン王太子についての報道に、あらためてご注意をお願いしなければなりません。新聞は、両者の立場の違いや、私たちがそれぞれに負っている約束を考慮せず、王太子とミュラを同じように扱っています。現在のヨーロッパでは、ロシア政府の侵略的な意図には、あらゆる警戒が必要であり、従来の諸政府が一致して協調することには、あらゆる期待がかかっています。したがって、スウェーデンには十分に配慮し、友好を保つために何一つ怠らないことが、私たちの務めとなるように思われます。

会議に出席するスウェーデンの全権代表、レーヴェンヒエルム伯爵がノアイユ氏に述べた、ほとんど公式のものといってよい意見を、いくつかお伝えする必要があると考えます。

以下は、その言葉をそのまま引用したものです。

「前スウェーデン王は、フランスへ行くつもりです。そう望んでいると考える理由がありますし、新聞にもそう出ています。私たちは、あの方がブルボン家のために尽くしたことを、目の当たりにしてきました。寛大さをよく存じ上げているフランス国王が、あの方に避難の場を与えることを拒むとは、考えられません。この点について、何らかのご連絡さえいただければ、私たちは満足いたします。

王太子は、ノルウェーとの合併以来、スウェーデンで確固とした地位を築いています。たいへんな人気と権威を持っています。フランスと友好を結びたいと望んでいるのです。私たちがそちらにお願いすることは、ほんのわずかです。王太子は、自分の出自を忘れていません。いつも不安を抱くでしょうし、敬意を示すしるしを、いくらか必要としています。結局のところ、成り上がりなのですから、そのような人物にありがちな敏感さを持っています。それを私たちが抑えることはできません。しかし、ほんのささやかな心遣いにも、心を動かされるでしょう。たとえば、国王が、パリにいる王太子妃にひと言お声をかけ、親切を示してくださるだけでも、王太子は感激し、たいへんよい結果が生まれるはずです。

そちらの新聞は、王太子について不適切な言葉で書き続け、その立場を損なうような記事を、辛辣な評言を添えて紹介しています。どこの国でも、外務省は新聞に影響力を持っています。政府から出たものではない、こうした悪口を、どうかやめさせてください。重ねてお願いし、切にお頼みいたします。」

敬具、伯爵殿……

第二十六号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年二月八日。

陛下、

ウェリントン公は、一日の夜、こちらに到着しました。翌朝十時にロシア皇帝が訪問し、いきなり、「フランスでは、何もかもうまくいっていないのでしょう」と言いました。公は答えました。「まったく、そのようなことはありません。国王はたいへん愛され、尊敬されており、きわめて賢明に行動されています。」「それほど私を喜ばせる言葉は、ほかにありません」と、皇帝は返しました。「では、軍はどうですか。」「国外で、どの国を相手に戦うにしても、軍は以前と変わらず、すばらしいものです」と、ウェリントン卿は答えました。「しかし、国内政治の問題に関しては、おそらく何の役にも立たないでしょう。」アダム公の話では、この返答は、皇帝が表に出そうとした以上に、深くその心を打ったそうです。急いで決断しなければならなかったザクセン問題にも、確かに影響を及ぼしました。ウェリントン公が到着した時には、まだ多くの困難がありましたが、今では、取り除かれたと見てよいでしょう。

ウェリントン公が陛下を称賛したのは、ロシア皇帝の前だけではありません。どこでも称賛を繰り返し、一般的な言葉だけにとどまらず、細かい点に立ち入り、事実を挙げています。そのため、陛下のお人柄に対して、こちらで抱かれていた高い尊敬が、いっそう深まりました。サン=ロックの事件[51]についても、公は、何でもないことだったと話しています。ドイツの新聞は、それを大げさに報じていました。フランスのすべてが望ましい状態にあるわけではないことは、公も認めています。しかし、時がたてば、そうなるだろうと言っています。公によれば、フランスで最も欠けているのは内閣です。「大臣はいるが、内閣はない」と言うのです。

公の言葉から導けるのは、国内政治の問題では、軍がまだ頼りにならない以上、軍が関わりかねない問題を起こすことを、何よりも避けなければならない、という結論です。また、人々の心になお動揺が残っているとしても、驚いたり、嘆いたりする必要はありません。あまりに急な心変わりは、かえって疑わしいものです。これは私が述べた考えですが、誰もがその正しさを認めました。

先週の土曜日、私はウェリントン卿のために盛大な晩餐会を開き、会議の参加者を全員招きました。その人々を公に紹介する役目を、フランスの使節団が果たせたことを、喜んでいます。

前の手紙で陛下にご報告したオーストリアの案に、プロイセン側は満足していませんでした。さらに多くを、何よりもライプツィヒを欲しがっていたのです。プロイセン王は、カスルレー卿を引見した時、たいへん激しい調子でこう主張しました。ザクセンを自分に与え、占領させておきながら、その一部しか残させないというのは、自分に屈辱的な役を演じさせることだ。ライプツィヒは、自分が征服したのだ。戦いに勝ったあと、同盟国はすべて、この都市を自分のものと認め、祝辞を述べたではないか、と。

カスルレー卿は、相変わらず、プロイセンは強くなければならないと考え、何よりも戦争を避けたいと望んでいます。ウェリントン卿自身も、今のイギリスには戦争はできず、戦争をできる国はフランスだけだと考えています。そのため、カスルレー卿は、プロイセン側をなだめるには、いくらか余分に与える必要があると主張しました。

プロイセンの取り分を増やすため、オランダの取り分から人口十万人分、ハノーファーの取り分から五万人分を減らし、フルダ地方も加えました。ロシア皇帝も、これは公平に認めなければなりませんが、取り決めの成立に力を貸そうとし、トルンの町をプロイセンに返しました。したがって、この問題は、最終確定には至っていないものの、今では解決したと考えられます。

ザクセンの人口は、百五十万人未満に減ります。しかし、それとは別に、ザクセンの諸公国や、王国の中に入り込んでいるシュヴァルツブルクとロイスの諸邦の人口も、数に入れなければなりません。もし王国がプロイセンのものとなっていたら、これらの国々も、事実上その支配下に入っていたでしょう。ザクセン王国を人口百五十万人未満に縮小することに同意しないのであれば、抗議する必要がありました。しかし、抗議すれば、救うことがきわめて重要で、いわば奇跡のようにして私たちが救った正統性の原則を、危うくしたでしょう。事実上、プロイセンに二百万人の臣民を与えることにもなったでしょう。プロイセンがそれを得れば、ボヘミアとバイエルンに危険をもたらさずには済みません。そして、間もなく自由となる王の拘束を、おそらく期限のないまま長引かせたことでしょう。(私はハルデンベルク公に、王がプラハへ行けるようにし、そのための命令をすぐ出してほしいと頼みました。公は同意し、私に[52]約束を与えました。明日、ベルリンへ命令が送られ、王はそこから出発できるでしょう。)

ザクセンのために望んだすべてを得られたわけではありませんが、ザクセンは第三級の国家として残ります。数十万人分の人口を余計に持てないことが不幸だとしても、その不幸は、比較すれば小さく、救済の道もないとは限りません。これに対し、ヨーロッパが救おうとせず、あるいは救うことができず、その目の前でザクセンが犠牲となったなら、それは極端な不幸であり、きわめて危険な結果をもたらしたでしょう。したがって、何より大切なのは、ザクセンを救うことでした。それを成し遂げた栄誉は、陛下おひとりのものです。誰もがそう感じ、そう言っています。しかも、誰とも仲たがいせず、それどころか、ナポリ問題での支援を得ながら、すべてを成し遂げたのです。

私はカスルレー卿の気持ちをよくするため、陛下が、パリを通る際に卿に会いたいと、私にわざわざ知らせてくださった、と伝えました。それによって、卿はパリを通る道を選びました。初めは、オランダを経由するつもりだったのです。カスルレー夫人は、アングレーム公爵夫人にお目にかかるお許しを願っています。パリには、二十四時間しか滞在できません。二人は、十三日、月曜日に出発するつもりです。ただし、それまでに、ナポリ問題について、カスルレー卿に、私が有益と考えて頼んでおいた働きかけをしてもらいます。この問題では、ウェリントン公の姿勢は適切です。ロシアとプロイセンも、私たちの側につくことを期待しています。しかし、すでにさまざまな困難が予想されます。その克服のため、あらゆる手を尽くすつもりです。

性質のまったく異なるベルナドットの問題を、この問題に混ぜれば、話を複雑にし、台なしにしてしまいます。

ベルナドットがスウェーデンへ来たのは、征服によってではなく、在位中の王が養子に迎え、国が同意したからです。彼は王ではなく、王位継承予定者にすぎません。彼を攻撃すれば、養子に迎えた王を攻撃せずには済みません。その王は、退位させられた前王自身も正統と認め、ヨーロッパ全体も同じように認めています。陛下も、直接その王と講和を結ぶことで、承認されています。王が生きている間、ベルナドットの権利は将来の条件次第で生じるものにすぎず、ヨーロッパに対しては、まだ存在しないも同然です。したがって、その権利をめぐる争いは、ヨーロッパにも会議にも、裁く権限のないものです。

この人物が、スウェーデンの王位を継ぐ者に選ばれたことは、確かに不幸であり、しかも、たいへん大きな不幸です。しかし、もし救済の道があるとしても、時と、それがもたらす出来事を待つほかはありません。

誰も望まず、しかも、ほとんど誰にも行う力のない戦争は、まず起こらないでしょう。したがって、スウェーデンに同盟を提案する必要も、スウェーデンが、陛下のためらわれる保障を求める必要も、生じないでしょう。

リカール将軍が到着しました。しかし、今では、その出張が必要なくなることを願っています。

ポッツォ将軍は、まだ出発しません。私は、出発を早めるような働きかけはしないでほしいと、勧めたほどです。ロシア皇帝の周辺へ伝えておきたい事柄について、将軍を通じ、うまく働きかけています。

ザクセン王が行き、問題の決着まで滞在するのは、プレスブルクになると聞きました。

本日の会合で、黒人の奴隷貿易の問題が決まりました。スペインとポルトガルは、八年後に、奴隷貿易を完全にやめます。それぞれの領有地の規模、そして、何よりも啓蒙の進み具合が、私たちの場合と大きく違うことを考えれば、この二国にとっての八年は、私たちにとっての五年より、はるかに短い猶予です。私たちは何も譲りませんでしたが、それでもイギリス側は満足しています。カスルレー卿は、公開の会合で、私が与えた助力に感謝しました。

今夜、もう一つ会合が開かれ、プロイセン側が、提示された提案に返答しました。返答の内容は、要するに受諾です。プロイセンは、ルクセンブルクもマインツも得られません。陛下の訓令は、この二つの要塞のうち、後者をプロイセンに与えないよう努めることを命じていましたが、前者も与えられないことになりました。

これから数日は、ポーランド、プロイセン、ザクセンについて合意した取り決めを、署名して議事録に収める条文として、起草することに使われます。

謹んで……

第二十二号第三信――国王ルイ十八世からタレーラン公へ。

パリ、一八一五年二月十一日。

親愛なる従兄よ、

そなたの第二十五号の手紙を受け取った。カスルレー卿がオーストリア皇帝に贈った称賛は、私人に向けたものであれば、喜ばしいものだろう。しかし、大きな弱さを示したばかりの君主に向けたものでは、皮肉のように聞こえる。私としては、三か月[53]前の情勢を思えば、ザクセン王の運命には、確かに満足しなければならない。しかし、フランツ皇帝には、もっと期待していた。せめて、その最後の案が最終的に採用されたことを見るまでは、私は不安を抱き続けるだろう。

そなたの報告に添えられた文書は、ザクセン王より、はるかに深い関心を寄せているナポリ王にとって、少しも安心できるものではない。しかし、これまで聞いたこともないほど不快な政治の内幕を明らかにしているとはいえ、私は落胆しない。私が決して手放すことのない、揺るがぬ粘り強さをもってすれば、最後には、ミュラという危険と恥ずべき存在を取り除けると、今も確信している。

今月一日になっても、ウェリントン公が、まだウィーンに着いていなかったことには驚いた。しかし、その後は長くかからなかっただろうと思う。したがって、カスルレー卿は、来週末ごろ、こちらに来るのだろう。正直に言えば、会議での卿の振る舞いには、あまり感心していない。しかし、先に結んだ同盟を大切にする十分な理由が、私にはある。だから、卿が私に満足して帰れるよう、配慮しよう。では、親愛なる従兄よ、神が、その聖なる尊い守りのうちに、そなたを置いてくださるよう祈る。

ルイ。

第二十九号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。

ウィーン、一八一五年二月十二日。

伯爵殿、

序列と席次の問題について、一月二十日に開かれた八か国会議の議事録を、謹んでお送りします。その後に開かれた第二回の会合で、この問題は、あらためて審議され、専門の委員会での検討に差し戻されました。今朝ロンドンへ向けて出発したカスルレー卿は、その席で、海上での敬礼について、政府から訓令が届き、イギリスの全権代表は、討議に応じる用意があると述べました。したがって、この点で、イギリス側がどの程度穏当な原則を取っているか、判断できるようになるでしょう。[訳注7]

ザクセンの問題は、最終的に決着しました。分割を定める各条項も、プロイセンの再建に伴う北ドイツの取り決めも、確定しました。

ザクセン王には、得られた結果が通知されました。王は、ウィーンに近い場所へ移るよう招かれています。ザクセンとその君主の政治的な存続に関して、交渉だけで得られるものは、すべて得られたと考えます。

ライプツィヒを保持しようとするプロイセン側の要求には、強く反対しました。プロイセン側は、その要求を引っ込め、ロシア皇帝が返還を認める、軍事上の要地トルンを代わりに得ることになりました。この機会に、かなり注目すべき事実をご紹介します。それは、六十年来、ヨーロッパの平穏を乱してきた国民の、革命的な精神と大言壮語を示すものです。その政府は、革命から利益を得るため、ほかのどの政府よりも、革命の進行を助けてきました。

プロイセンの主要な将校の一人、グロルマン将軍[54]は、徳盟(トゥーゲンブント)の指導者の一人として知られています。プロイセン政府は、その人脈を利用するため、将軍をウィーンへ呼び寄せていました。その将軍が、ウェリントン卿に手紙を書き、軍は、その栄光の記念碑であるライプツィヒの町が、プロイセン王国から切り離されることを、決して認めないと伝えたのです。

東フリースラントは、プロイセンからハノーファーへ割譲されます。この措置によって、イギリスは、エムス川を通じた交通路を得ます。大陸との関係では、いくらか重要なものです。

スイスの問題を討議する直前まで進んでいましたが、オーストリアから新たな要求が出され、報告の検討は延期され、委員会に差し戻されました。

パルマとエトルリアの問題について、メッテルニヒ公が行った提案から、私たちは、訓令に沿った解決を得られると期待していました。しかし、パルマの譲渡に、マリー=ルイーズ大公女が抵抗するつもりのようであり、再び見通しが不確かになっています。

これから、南ドイツの問題を扱います。この点では、オーストリアとバイエルンの利害のため、おそらく多少の遅れが生じるでしょう。困難の原因は、この二国がパリで結んだ個別の条約にあります。ロシア、プロイセン、オランダ、ハノーファーへの割譲によって、配分できる領土が大きく減ったため、その条約を履行できなくなるのです。

伯爵殿、最後に、陛下のご注意をお願いするのが適切と思われる事柄について、申し上げます。

『王室年鑑』は、レジオン・ドヌール勲章受章者の中に、この勲章を受けた外国の君主全員と、フランス人以外の受章者を掲載しています。すでに何度か、国王はこの勲章制度を存続させたのか、どのような形で残したのか、外国人は引き続き着用してよいのか、また、着用すべきなのか、と質問を受けました。着用すべきなのであれば、パリの外務大臣か、勲章の総裁から、公式の通知をいただきたい、とのことです。通知は、パリにある外国使節団に宛てても、諸外国に駐在するフランス使節団を通じて行ってもよいでしょう。

また、年金の証書とともに勲章を受けた外国の軍人に、引き続き給付を行うことも、よい効果をもたらすと考えます。

イギリスは、いつの時代にも、国外に、年金を支給する軍人を多数抱え、それによって、多くの協力者を得てきました。フランスも、ポーランド人、ドイツ人、イタリア人への年金を、たとえ減額してでも支給し続ければ、有用な人物を自国に結びつけ、時代の出来事によって、今ではすっかり失われてしまった支持者を、得ることができます。

このような公正さと寛大さの実例は、今も多くのフランス軍人が国外で行わなければならない請求を、成功させるうえでも、有利に働くでしょう。

伯爵殿、この件について、国王のご命令を仰ぎ、お知らせくださるようお願いいたします。そうすれば、私たちも、受けている質問に答えられるようになります。

敬具……

第二十七号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年二月十五日。

陛下、

カスルレー卿は、今日十五日に出発します。毎晩宿を取る予定ですが、旅の八日目にはパリへ着くと見込んでいます。翌日をまる一日パリで過ごし、その次の日に出発して、三月一日か二日に、ロンドンへ着くつもりです。

ワルシャワ公国の処置、ザクセンの処置、こちらで「プロイセン王国の再建」と呼ばれるもの、ハノーファーに与える拡張、そして、オランダ王国の名を取ることになる連合州の境界は、今では、すべて決まりました。これらは最も難しい問題であり、戦争を引き起こしかねない、唯一の問題でもありました。したがって、カスルレー卿は、平和が保たれるという確約を、イギリスへ持ち帰ることになります。

ザクセンには、約百三十万人の人口が残ります。王のもとには使者が送られました。今月末ごろには、プレスブルクではなく、ウィーンへ通じる道の途中にあるブリュンに着くはずです。私は、プレスブルクに滞在するよう求めれば、追放のように見えると指摘しました。諸国が合意した割譲に王が同意すれば、ウィーンへ来ることを妨げるものは、何もなくなります。

ルクセンブルク公国は、リンブルク地方と周辺のいくらかの領土とともに、オラニエ公に与えられます。公が、以前からの世襲領をプロイセンへ譲ることへの補償です。このため、プロイセンは、どの地点でもフランスの国境に接しません。陛下は、この点をたいへん重要と考えておられました[55]。なお、ルクセンブルク公国はドイツの領邦として残り、ルクセンブルクの要塞は、連邦の要塞となります。

オーストリアがバイエルンに求めている領土の返還と、それに見合う補償をバイエルンに与えることが、ドイツの領土調整で、まだ解決していない最も重要な問題であり、実際には、重要な問題として残る唯一のものです。両宮廷は、別々に私たちの支援を求めています。一方は、完全に見合う補償なしには何も譲ろうとせず、他方が切望するものも手放そうとしません。私たちには、理由は違っても、両者に配慮するほぼ同じだけの利益があります。そのため、仲裁役は微妙なものとなっています。それでも、生じる困難は、私たちの努力で乗り越えられると期待しています。

イタリアの領土調整については、案を準備する委員会が、パルマ、ピアチェンツァ、グアスタッラをエトルリア王妃に、教皇領の管区を教皇庁に返し、トスカーナ大公[56]には、ルッカ、プレシディ領[57]、ピオンビーノの主権、そして、将来エルバ島を取得する権利を与えるよう提案していました。マリー=ルイーズ大公女には、トスカーナが支払う年金と、かつて神聖ローマ帝国に属し、今もトスカーナ大公の所有である封土だけが与えられるはずでした。これらの封土は、帝国の決議によって、補償の不足を補うため、大公に与えられたものです。ボヘミアにあり、四十万フロリンの収入をもたらします。

この案は、私たちの働きかけによって提出されたもので、二つの利点がありました。一つは、イタリアの小さな主権国家の数を減らすこと。もう一つは、はるかに重要ですが、大公女の息子をイタリアから遠ざけ、その地で主権を得る見込みを、すべてなくすことです。

オーストリアは、一か月以上、態度を明らかにしませんでした。皇帝は、ようやく、公国をエトルリア王妃に返すと決めました。自分の利益のためにも、また、自分の希望としても、よい関係を保ちたいブルボン家の領国の一つを、自分や家族のために取り置くことは、適切ではない、と述べたのです。しかし、娘が独立した領地を持ちたがっていることを知って、ルッカを選び、大公女とこの件を交渉するよう、大臣に命じました。その際、用いるべき論拠を盛り込んだ訓令を、与えています。

皇帝のこの意向に沿って、メッテルニヒ氏は対案を作り、私たちに渡しました。大公女の息子はそこに名を挙げられておらず、ルッカの将来の帰属先も、オーストリアかトスカーナになるので、わずかな点を除けば、私たちにとって受け入れられる案です。それでも、いくつか異議を述べる必要はありますが、この件についての会話から、メッテルニヒ氏は譲歩するだろうと感じました。

この対案には、次のようにあります。

公国は、エトルリア王妃へ返還する。ただし、ピアチェンツァと、その周囲の人口三万人の区域を除く。

ルッカは、大公女の存命中に限り、その領地とする。また、オーストリアとフランスから、それぞれ年金を与える。

オーストリアは、以下を完全な所有権のもとに取得する。

一、ピアチェンツァと、前述の周囲の区域。

二、ポー川右岸のマントヴァ領。

三、ヴァルテリーナ。

四、大公女の死後のルッカ。

そして最後に、ピアチェンツァの町とその周囲の割譲をパルマ領に補償し、また、交換にも利用するため、帝国の封土を取得する。

フランスが何も得ないものの補償として、フランスに年金を負担させる提案、ルッカを将来オーストリア君主国のものとする提案、そして、近隣の領国の中にあるものまで含め、帝国の封土をオーストリアの自由に任せる提案は、ほぼ等しく受け入れ難いものでした。メッテルニヒ氏も、その点は、ほとんど納得しているようでした。

ポー川右岸のマントヴァ領をオーストリアへ渡すことには、異議は比較的少なかったでしょう。ピアチェンツァについても同様です。リカール将軍が私に話したところでは、今のこの町の状態と、現在のイタリアの情勢では、ほとんど重要ではないとのことです。

ヴァルテリーナは、もはや昔のように、オーストリアがロンバルディアと連絡するための不可欠な要地ではなく、ぜひともオーストリアから取り上げなければならない土地でもありません。しかし、かつて所有していたスイスが返還を求め、返す約束がされています。また、後ほど陛下にお伝えする機会もあるでしょうが、ロシア皇帝は、スイスへの返還にこだわっているようです。

メッテルニヒ氏が対案を提出し、私と討議したのは、大公女を訪ねる前のことでした。ひどく自信過剰で、軽率なため、完全な成功を収められないかもしれないとは、予想もしていなかったのです。しかし、話を始めるとすぐに、マリー=ルイーズ大公女は、ルッカでは満足せず、この公国を欲しいとも思わないという態度を見せました。ナポレオンがエルバ島にいる間は、そこへ行く気はしない、と言うのです。大公女、というより、その助言者たちは、四月十一日の条約から生じる権利を主張しています。パルマを保持したいとは求めていませんが、同等か、それに近いものを欲しがっています。満足させるには、将来教皇庁へ返すことを保障したうえで、教皇領の管区を与えるくらいしか、方法はないでしょう。しかし、アヴィニョンさえ失ったことを受け入れられないローマ宮廷は、大騒ぎし、おそらく、自らの立場まで危うくするような手段に訴えるかもしれません。メッテルニヒ氏は、いずれかの[58]方策に決め、回答するため、三日間ほしいと、私に求めました。

これらの困難が取り除かれれば、深刻なものは、これから述べるナポリ問題のほかには、残らなくなります。

河川の自由航行に関する取り決めは、まだ草案の段階ですが、原則は合意されています。ヨーロッパの産業が求め得る、あらゆる利益を貿易に保障するものです。とりわけフランスには、スヘルデ川の航行によって、ベルギーを領有していた時に得ていた利益を、保障します。

最後に、イギリス国民が熱狂に至るほどの情熱を傾ける[59]、奴隷貿易の廃止にも、まだ放棄していなかった、ただ二つの国が同意しました。

したがって、カスルレー卿は、野党のあらゆる攻撃に対して、十分に備えができ、民衆の意見を喜ばせるために必要な成果も、持ち帰ります。

しかし、私が念を入れて指摘したとおり、代議制の政府では、大臣は民衆側の党派を満足させるだけでは足りず、政府側の党派も満足させなければなりません。私は言いました。「それを成し遂げるには、ナポリの問題で、私たちと歩調を合わせ、私たちの[60]望む方向で行動するほかありません。」

私は、この八日ないし十日の間、この問題について、卿の熱意を高めることに努めました。自分の判断だけで決断することは、権限がないと考えているため、そこまで導くことはできませんでした。しかし、ミュラの追放を、私たちとほとんど同じくらい強く望むようになりました。そのために、自国政府の協力を得るべく、あらゆる手を尽くす決意で出発します。卿を困らせているのは、二つの点です。一つは、ミュラに与えた約束[61]を破ったように見せず、どうやって反対を表明するか、ということです。これを、カスルレー卿は、自分の信用を損なわないこと、と呼んでいます。もう一つは、ミュラが抵抗した場合にも、誰の利益も危うくせず、誰の先入観も傷つけず、誰の恐れも呼び起こさずに、成功を確実にする実行手段を、どう定めるかということです。卿は、ロンドン到着後三日目に、政府の決定を携えた使者を送ると、私に約束しました。私の[62]論拠をすべて胸に収めて、有利な決定を期待しています。私の望みは、主たる目的を弱めてしまう、さまざまな議論に立ち入らず、フェルディナンド四世を両シチリア王と認めると宣言する権限を、ウェリントン卿に与えてもらうことです。陛下には、パリでカスルレー卿に、この趣旨でお話しくださるよう、切にお願いいたします[63]。ウィーン滞在の最後の時期に、卿は、私が頼んだ働きかけに、たいへん親切に応じてくれました。ウェリントン公とともにロシア皇帝に会い、ミュラに反対する発言をしました。オーストリア皇帝には、こう言いました。「ロシアは、陛下にとって当然の敵です。プロイセンは、ロシアに従っています。大陸で頼れる国は、フランスのほかにありません。したがって、ブルボン家とよい関係を保つことが、陛下の利益になります。そして、ミュラを追放しないかぎり[64]、ブルボン家とよい関係を保つことはできません。」オーストリア皇帝は、「あなたの言うことは、すべて本当だと、よく分かります」と答えました。最後に、卿はウェリントン卿とともにメッテルニヒ氏を訪ね、こう言いました。「ナポリ問題では、たいへん激しい議論が起こるでしょう。逃れられると思ってはいけません。この問題は、会議に持ち出されます。前もってお知らせしておきます。したがって、そのつもりで手を打ってください。必要であれば、軍隊をイタリアへ送ってください。」二人は別々に、この宣言を聞いたメッテルニヒ氏は、ひどく気落ちしたと、私に話しました。これは、二人が使った言葉そのものです。ここに写しを添えてお送りする、ミュラとの条約の秘密条項をお読みになれば、陛下も、メッテルニヒ氏がなぜ気落ちしたか、いっそうよくお分かりになるでしょう。特定の事情のもとで、ミュラにナポリ王国を保障したというのなら、理解できます。しかし、ミュラが寛大にもシチリア王国への権利を放棄し、フェルディナンド四世にその王国を保障する、という条項まで、この条約に入れさせるほど卑屈になったとは、証拠があっても、信じ難いことです[65]。

ミュラに対するカスルレー卿、さらにはウェリントン公の態度に、正統性の原則への愛着が、ごくわずかしか関わっていないと聞かれれば、陛下は、いくらか驚かれるかもしれません。この原則は、二人にあまり深い感銘を与えず、十分には理解されてさえいないようです。ミュラのうちで二人が嫌っているのは、王位の簒奪者という点よりも、はるかに、その人間自体です。イギリス人がインドで従っている原則は、正統性についての[66]正確な考えから、彼らを遠ざけています。何よりも平和を望むカスルレー卿に、最も強い印象を与えたのは、ナポリ王位にミュラが存在することは、ブルボン家の存続と両立せず、ミュラを追放しないかぎり、平和はあり得ない、という私の宣言でした。

ロシア皇帝にも会いました。今月十三日、月曜日の朝のことです。私は、ナポリについてだけ話し、この件でいただいた約束を思い出してもらうつもりでした。しかし、皇帝は、この機会に、ほかにも多くの話をしました。それについて、陛下にご報告しなければなりません。これまでの幾通かの手紙と同じように、対話の形でお伝えすることを、お許しください。

私は初めに、皇帝の政務、さらには娯楽にも配慮して、長い間、お邪魔するのを控えていたこと、謝肉祭が終わって娯楽も終わり、政務にも決着がついたので、お目にかかりたかったことを述べました。さらに、会議でも、第一級の重要性を持つ問題は、一つしか残っていない、と付け加えました。
「ナポリの問題のことですね。」「はい、陛下。」私は、支援のお約束をいただいたことを思い出してもらいました。「しかし、あなたも私を助けなければ。」「私たちにできるかぎり、そうしてきました。ポーランド王国の完全な復興を考えることができなかった以上、個々の取り決めについては、陛下のお考えに反対しなかったことを、陛下もご存じです。また、会議の初めには、イギリス側が、この問題で、かなり非協力的だったことも、きっとお忘れではないでしょう。」「スイスの問題ではどうですか。」「スイスの問題で、私たちが陛下に反対したことがあるとは、存じません。私たちは、人々の激情を静めるため、あらゆる努力をするよう命じられていました。どこまで成功したかは分かりませんが、目指したのは、そのことだけです。最も憤っていたのは、ベルンの人々でした。最も多くを失い、最も多くを求めるべき人々だったからです。補償が提示されましたが、本人たちは、たいへん不十分だと考えていました。私たちは、それで満足するよう説得しました。ただ、バーゼル司教領の全部を求め、それより少ないものは受け入れないと決めている、と聞いています。」「では、ジュネーヴのためには、何をするのですか。」「何もしません、陛下。」「ほう。」驚きと非難のこもった口調でした。「私たちには、何もできません。国王は、決してフランス人を割譲しません。」「サルデーニャからは、何も得られませんか。」「まったく分かりません。」「なぜ、ヴァルテリーナをオーストリアに譲るのですか。」「陛下、この点では、まだ何も決まっていません。オーストリアの交渉が、うまく運ばなかったので……。」「それはオーストリアの責任です」と、皇帝は言いました。「なぜ、有能な人物を使わないのでしょう。」「オーストリアは、たいへんな負担となったはずの犠牲を払うことになりました。ですから、とりわけ、さほど重要でない事柄では、オーストリアの喜ぶようにするのが、当然だと考えます。」「ヴァルテリーナはスイスの一部でしたし、返す約束がされています。」「ヴァルテリーナがスイスから離れて、十八年になります。陛下が戻そうとお考えの制度を、この土地は一度も知りません。以前の所有者であるグラウビュンデンに戻せば、不幸にすることになります。したがって、オーストリアが得ないのであれば、独立した一つの州にする[67]のが、適切と思われます[68]。」「それは、いずれ決まるでしょう。では、ウジェーヌ公のためには、何をするのですか。」「ウジェーヌ公はフランス臣民であり、その立場では、何も求める権利はありません。しかし、バイエルン王の婿です。フランスの置かれていた情勢と、フランスが及ぼしていた影響の結果、そうなったのですから、その縁組を理由として、道理にかない、可能でもあるものを得られるよう、フランスが努めるのは、公正なことです。したがって、私たちは、公のために何かをしたいと考えています。バイエルン家から分封領を与えられる公子とし、それに応じて、配分できる領土の分配で、王の取り分を増やしたいのです。」「なぜ、主権を与えないのですか。」「陛下、バイエルンの王女と結婚したことは、十分な理由になりません。ラジヴィウ公は、プロイセン王の義兄弟ですが、主権を持っていません[69]。」「しかし、たとえばツヴァイブリュッケンを与えてはどうですか。小さなものではありませんか。」「恐れながら、陛下、ツヴァイブリュッケン公国は、いつも相当に重要なものと見なされてきました。それに、まだ配分できる領土は、これまでの約束を果たすだけでも、足りるかどうかというところです。」「それで、結婚の話は。」「国王は、今も強く望んでいると、私にお知らせくださいました。」「私も同じです」と、皇帝は言いました。「母も、同じように望んでいます。最近の手紙でも、そのことを話しています。」「国王は」と、私は言いました。「陛下のお返事を待って、ほかから出された申し出を断っています。」「私も、一つ断りました[70]。スペイン王が、妹を求めてきたのです。しかし、妹には、専用の礼拝堂を伴わせることが必要な条件だと知らされると、申し出を撤回しました。」「カトリック王の振る舞いから、最もキリスト教的な王も、何を求められているか、陛下にはお分かりになるでしょう。国王は、もう一つの問題に取りかかる前に、会議の仕事を終わらせる必要がある、とお考えです[71]。」「結局どうなるのか、知りたいものです。」「陛下、私が最後に受けたご命令は、ポッツォ将軍が陛下にお伝えしたことに沿うものです。」「なぜ、四月十一日の条約を履行しないのですか。」「パリを離れて五か月になりますので、この点で何が行われたか、存じません。」「条約は履行されていません。私たちは、その履行を求めなければなりません。私たちの名誉に関わることであり、どのような形でも、退くわけにはいきません。オーストリア皇帝も、私に劣らず重く見ています。履行されないことに傷ついているのは、確かです。」「陛下、ただ今お話しくださった[72]ことは、ご報告いたします。しかし、陛下に申し上げなければならないのは[73]、フランスの近隣諸国、とりわけイタリアが、今のように動揺している時に、陰謀を企てるつもりがあると思われる[74]人々へ、その手段を与えるのは、危険かもしれない、ということです。[75]」

最後に、ミュラの話へ戻りました。私は、ヨーロッパが結束して反対すべき、法、道徳、礼節の面からの理由を、簡潔にあらためて述べました。皇帝が特に気にかけているベルナドットとは、立場が異なることも示しました。その根拠として、届いたばかりの『王室年鑑』を挙げました。皇帝は、それを送ってほしいと頼み、こう付け加えました。「今のあなたの話は、たいへんうれしいものです。私は、反対の事態を恐れていましたし、ベルナドットも、とても恐れていました。」その後、皇帝は、ミュラについて、このうえない軽蔑をこめて話しました。「あれは、私たち全員を裏切った、ならず者です。しかし」と、付け加えました。「私は、何かの問題に関わる時は、うまく進める手段が確かにあると、分かっていたいのです。ミュラが抵抗すれば、追い払う必要があります。ウェリントン公と、その話をしました[76]。公は、相当な兵力が必要で、船で運ぶとなれば、大きな困難がある、と考えています。」私は、求めているのは兵力ではなく――それを求めれば、断られると分かっているからです――、将来の条約に、一行、ただ一行を入れることであり、残りはフランスとスペインが引き受ける、と答えました。すると、皇帝は、「あなたを支援しましょう」と言いました。

この会話の間、皇帝は[77]ずっと冷淡でした。しかし、全体として、私は、不満よりも満足を感じました。

カスルレー卿も、四月十一日の条約について、熱心に私に話しました。陛下にも、その話をすることは、疑いありません。この問題は、少し前から再び勢いを増し、今では誰もが口にしています。しばしば、不愉快な形で持ち出されることを、陛下に申し上げなければなりません。多くの陛下の臣民や家臣に関わる、ミラノ公債基金の問題にも、その影響が感じられます。

ところで、イギリスとの取り決めによって、四月十一日の条約の履行に伴う、最もつらい負担から、陛下は解放されるのではないかと、私は考えました。

こちらへ来て間もないころ、カスルレー卿は、フランスが今すぐ奴隷貿易を放棄することを望むと、私に話し、その場合には、何らかの補償をすると申し出ました。イギリスでは、一般に、金銭による補償は、ほかの補償よりも容易です。当時の私は、この提案をきっぱり拒まず、後で検討する余地を残しながら、かわしておく必要があると考えました。

先日、ミュラについて、また、ヨーロッパが不利な決定を下し、その決定に彼が従った場合、どうしても与えなければならない処遇について話している時、カスルレー卿は、ためらわずに、こう言いました。フランスが奴隷貿易の放棄に同意するなら、イギリスは喜んで、イギリスの公債に一定の金額を割り当て、ミュラの生活を保障することを引き受ける、と。このような取り決めが実行可能と判断されれば、イギリスが負担する支払いの中に、四月十一日の条約で定めた年金も含めることは、容易だと確信しています。

イギリス人は、奴隷貿易の廃止に熱意を持っていますから、この取り決めには、ナポリ問題で、イギリスを私たちの立場に強く結びつけ、あらゆる形で協力するよう促す利点が、確かにあるでしょう。

まだ確かめるべきなのは、植民地の現状で、フランスが、なお許されている四年三か月の奴隷貿易を放棄する場合、その犠牲が、今述べた取り決めから期待できる利益より、大きいのか、小さいのかということです。この点をご検討いただき、陛下のお考えを、カスルレー卿にお伝えいただけるよう、あえてお願いいたします。卿は、おそらく陛下に、この件をお話しするはずです。

会議が終われば適用されなくなる、一月三日の条約について、相互の宣言だけでもよいので、ある程度の期間、延長したいと考えていました。卿は、メッテルニヒ氏の性格をまったく信用しておらず、そこには困難があるとしました。しかし、条約の期限が切れても、それを生んだ精神は生き続ける、と私に請け合いました。卿は、何よりも、大陸のほかの国々に疑念を抱かせたくないのです。それでも、両政府の間に親密な関係を築き、平和と現状の維持を目指して、常に意思を通わせていくことを、望んでいます。つまり、卿は、私が称賛すべき気持ちでウィーンを離れました。陛下のお言葉を聞けば、その気持ちは、いっそう確かなものになるでしょう。

この手紙が、たいへん長くなったことに気づきました。陛下は、内容のわりに長すぎると思われるかもしれません。しかし、陛下が必要と判断されるかもしれない細部を省くよりは、長く書きすぎる危険を冒すほうを、私は選びます。

次の使者によって、入手することのできた連合諸国の条約を、謹んでお送りします。陛下がお読みになった後、外務省で保管できるよう、ジョクール氏へお渡しくださることを、お願いいたします。

ポッツォ将軍の出発について、再び話が出ました[78]。

謹んで……

第二十三号第三信――国王ルイ十八世からタレーラン公へ。

パリ、一八一五年二月十八日。

親愛なる従兄よ、

そなたの第二十六号の手紙を受け取り、たいへん満足した。確かに、ザクセン王がすべての領国を保てれば、さらにうれしかっただろう。しかし、そうなるとは期待していなかった。私たちが、これほどわずかな支援しか得られなかったにもかかわらず、王に残る部分を守れたのは、奇跡だと考える。もう一つ、私の満足を喜んで伝えたいのは、プロイセンが、ルクセンブルクもマインツも得ないことだ。このような隣国は、今後のフランスの平穏にとって、困ったものとなっただろう。したがって、剣は鞘に収めたままにしよう。リカール将軍の出張は、必要のないものになっただろう。しかし、同盟国に対する義務を果たす準備を、私が進んで整えようとしていることは、示したはずである。

ウェリントン公の振る舞い[79]には心を動かされるが、驚きはしない。公は誠実な人物である。その言葉についての、そなたの考えは、たいへん適切である。

私もそなたと同じように、ナポリ問題で困難が生じることを予想している。しかし、克服しなければならない。感情をすべて脇へ置いても、ミュラの存在は、日ごとに危険を増している。ベルナドットの存在は、異例ではあるが、いったんその原則を認めた以上、そこから生じる結果も、認めなければならない。

新聞は、ケーニヒシュタイン要塞の司令官の、立派な行動を盛んに報じた[80]。今は、その名前が思い出せない。私は、この人物をレジオン・ドヌール勲章のコマンドゥールにしたい。しかし、その前に、一、報じられた事実は本当か、二、ザクセン王は、私がこの将校に勲章を与えることを快く思うか、を知りたい。この二点を調べることを、そなたに命じる。

では、親愛なる従兄よ、神が、その聖なる尊い守りのうちに、そなたを置いてくださるよう祈る。

ルイ。

第二十八号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年二月二十日。

陛下、

前の報告でお知らせした文書を、謹んで陛下へお送りします。連合諸国間の条約を、完全に集めたものではありませんが、少なくとも、その最も重要な部分です[81]。

内容は、次のとおりです。

一八一三年三月二十九日、オーストリアとロシアの間で、覚書の形で交換された、カリシュ協定と呼ばれる協定[82]。

ロシアとプロイセンの間の、平和・同盟条約。カリシュで交渉され、どうやら草案もそこで作られたため、しばしばカリシュ条約の名で呼ばれています。しかし、署名されたのは、ブレスラウで、一八一三年二月二十六日のことです[83]。

同年六月二十七日、オーストリア、ロシア、プロイセンの間で結ばれた、ライヘンバッハ条約。

同じ三国の間で、九月九日に結ばれたテプリッツ条約と、その秘密条項。

最後に、ショーモン条約。これは、戦争が終わってからも二十年間、対仏同盟を存続させるもので、その期限が切れる前に更新することが予定されていました。この前の一月三日の条約によって解かれた連合を、永続させようとするものでした。

陛下には、これらの文書に目を通すことが、お役に立つかもしれません。私たちが取り組まなければならなかった困難の一部の説明と、同盟諸国自身、とりわけオーストリアが苦境に陥った原因が、見つかるでしょう。オーストリアは、すべてを自らの判断で定められた時に、ごく普通の常識でも不可欠と分かったはずの取り決めを、しなかったのです。

これらをお読みになった後、外務省の文書庫で保管できるよう、ジョクール伯爵へお渡しくださることを、お願いいたします。

バイエルン王とハノーファー王が、一月三日の同盟条約に加入したことは、すでに謹んでご報告しました。両王の加入文書は、オランダのものと一緒にお送りするつもりでした。しかし、オランダの文書はまだ送られておらず、ヴレーデ公が、バイエルンの文書の批准書の交換を急いでいますので、本日お送りします。私が署名した承認文書の副本も、同じくお送りします。陛下の批准が必要なのは、この最後の二つの文書です。陛下が適切とお考えであれば、批准書を準備できるよう、ジョクール伯爵へお渡しくださることを、切にお願いいたします。

到着した使者が、今月十一日付で、陛下が私に下さったお手紙を届けてくれました。カスルレー卿とのお話の結果をお知らせくださるお手紙を、たいへん待ち遠しく思います。ナポリについての部分は、メッテルニヒ氏に見せられる[84]ものとしていただきたいのです。どれほど明確にしても、明確すぎることはありません。

謹んで……

第二十九号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年二月二十四日。

陛下、

こちらにいるジョアシャンの公使[85]は、主君から、完成した覚書を受け取りました。メッテルニヒ氏へ知らせたうえで、私に送るよう命じられ、実際にメッテルニヒ氏へ知らせました。

この覚書の目的は、私が会議でジョアシャンに反対して行った、という働きかけについて説明を求め、陛下が、彼と平和状態にあるとお考えなのか、そうではないのかを明らかにする、宣言を求めることです。

ジョアシャンの公使は、この覚書が作られ、私へ送るよう命じられたのは、自分自身が送った情報を受け、ザクセン問題で合意が成立せず、戦争になるという想定のもとでのことだと、疑っていませんでした。そこで、その想定が崩れた今、これを使えば、主君の役に立つどころか、その利益を危うくすると考えました。そのため、自分の責任で取りやめ、私には送らないことにしたのです。

私は、この事情をウェリントン公から聞きました。公とともに、メッテルニヒ氏が覚書の内容を知らされたことを、どう利用できるか検討しました。

私たちは、メッテルニヒ氏に、この機会を利用し、いかなる外国軍にもオーストリア領の通過を許さない、と宣言するよう勧めることで、一致しました。その宣言は、私にも、カンポ・キアーロ公にも送られるものとします。また、現在、ポーランドとザクセンの国境にいる[86]軍隊を呼び戻し、イタリアへ送ることによって、宣言を裏付けるよう求めることにしました。

ウェリントン公が、メッテルニヒ氏に、その趣旨で話しました。私は、その後に会い、同じことを述べました。

その結果、オーストリア皇帝は、すでに今日、十五万人をイタリアへ移す命令を出しました。先に述べた宣言も、明日、私たちに渡される予定です。

ナポリ問題を延期するため、オーストリアが持ち出す最大の口実は、準備ができておらず、ミュラがイタリアで革命を起こす恐れがある、ということでした。この異議には、相応の説得力があり、イギリス側とロシア側にも、影響を与えていました。しかし、オーストリアがイタリアに大兵力を持てば、その瞬間に、異議は成り立たなくなります。これは、ジョアシャンの覚書のおかげです。そのため、私は、この覚書を、たいへん有益な出来事と見ています。

ザクセン問題が決着した今、この覚書が時機を失い、作者の利益にも反するため、役に立たなくなった[87]という事情は、その問題が決着したことを、私たちが喜ぶべきだと示しています。実際、そうなっていなければ、オーストリアは、大兵力をイタリアへ移せなかったでしょう。

メッテルニヒ氏を通じて覚書の写しを得られれば、謹んで陛下へお送りいたします。

この情勢で、本当の理由とは別の、何らかの口実を設けて、フランス南部にいくらかの軍を集めれば、有利なのではないかと、陛下はお考えになりませんか。

スイスの問題は、おそらく数日のうちに決着するでしょう。ただ一つ、保留にすると決めたらしいヴァルテリーナの問題を除きます。また、各州が、提示される提案を受け入れることも、条件になります。最善と判断した内容を、まず各州に提案し、必要が生じれば、その後で強制する、という手順に合意しているからです。

オーストリアとバイエルンは、バイエルンが占有する地域のうち、オーストリアが返還を求めるものと、バイエルンに与える補償について、交渉しています。両国の合意は、まだ遠いため、フランスとイギリスを仲裁者とすることが提案されました。しかし、仲裁の栄誉をイギリスだけに任せれば、フランスは、同じように配慮する利益のある両国の、どちらに対しても立場を危うくせず、取り決めに影響を及ぼせると思います。

メッテルニヒ氏は、たいへん秘密めかして私を訪ね、イタリア問題について、三月五日か六日まで、猶予を与えてほしいと頼みました。そのころには、陛下がカスルレー卿に会われた後、私に下さるご命令が届くと、考えているのです。この要求の理由は、はっきりとは読み取れませんが、断ることはできないと思いました[88]。しかし、他方で、オーストリアが、イタリア以外の自国に関わる問題をすべて片づけ、私たちに最も関わるイタリアの問題だけが、あらゆる不測の事態にさらされることには、不都合があります。私たちも、オーストリアが設けようと思えば設けられる、あらゆる障害にさらされるからです。したがって、バイエルンの問題は、あまり早く進めないでほしいと思っています。これほど長く陛下のもとを離れ、一刻も早くおそばに戻りたい気持ちは、会議が始まって以来、ウィーンの町に広がったように見える退屈に、強めてもらう必要もありません。それでも、今は、何も急がず、私にできるかぎり、むしろ進行を遅らせ、待たなければならないのです。

署名されたばかりの、オランダの加入文書を、この手紙に添えます。陛下が承認文書を批准された後、ジョクール伯爵を通じて、私に返送するようお命じくださることを、切にお願いいたします。

謹んで……

第四号――ブラカ・ドールプス伯爵からタレーラン公へ[89]。

パリ、一八一五年二月二十五日。

公爵殿、

国王は、あなたの第二十七号の報告を受け取りました。しかし、陛下は今、かなり強い痛風の発作に見舞われており、間もなく到着すると待っているカスルレー卿に会われるまで、返事を延ばしておられます。それでも、国王のご様子をお知らせしないまま、使者を出発させたくはありませんでした。今回の痛風の発作は、ごく穏やかに経過する見込みで、すでにこの二日間、陛下はいくらか楽になられています。

交渉の状態についてのお知らせからすると、あなたの努力が終わるまでには、まだ、はるかに道のりがあるのは明らかです。三万人分の人口が差し引かれるとはいえ、ザクセン王の批准が、遠からず、この大問題を解決することを、期待しています。ナポリの問題には、さらに多くの困難があります。しかし、あなたが会議に示し続けてきた、揺るがぬ毅然さと、あなたを助け、メッテルニヒ公の先入観やためらいと戦う意思を十分に持つウェリントン卿の有益な協力がなければ、その困難は、いっそう恐るべきものとなるでしょう。平和を固めることだけを望むすべての国々の利益に、これほど深く結びつく問題について、カスルレー卿がイギリスへ持ち帰る言葉を、最も決定的なものとするため、国王は、何一つ怠られません。奴隷貿易の廃止について、この点で譲歩する必要があるなら、せめて、その見返りを、イギリス政府の正式な約束として得るよう努め、フェルディナンド四世をナポリ王位へ復帰させるために協力することを、確実にしましょう。いわば、ほかを圧するほど重要となったこの問題で、国王のお考えを実現するために役立つ、すべての働きかけは、今後、この目標に向けなければなりません。

公爵殿、心からの親愛と、深い敬意を、重ねてお伝えいたします。

ブラカ・ドールプス。

第三十号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年二月二十六日。

陛下、

前の報告でお知らせした、メッテルニヒ氏の宣言の写しと、私がただ今送った返答の写しを、謹んで陛下へお送りします。

この返答は、ミュラに対して行動する時、私たちはイタリアを通らない、とカスルレー卿へ書いた手紙の趣旨に、まったく沿うものであることが、お分かりになるでしょう。

オーストリアの宣言には、ミュラに対して、もっと明確な態度を示してほしかったと思います。しかし、オーストリア側は、イタリアで準備が整っていないため、ミュラに、強硬な手段に訴える口実を与えることを、恐れました。軍を移す命令は出されています。イタリアに十五万人、ケルンテンに予備の五万人を置く予定であり、それだけあれば、ミュラを抑え、あるいは、その企てを無力にするには十分でしょう。しかし、こちらでは何事もひどくゆっくりとしか行われないため、シュヴァルツェンベルク公は、すべての兵力を目的地へ着かせるまで、七週間必要だとしています。

この派兵を決めさせた覚書は、今も、幸いな出来事だったと考えています。

明日、プレスブルクへ行き、ブリオンヌ夫人[90]に会います。夫人は、昨日、秘跡を受け、私を呼んでほしいと頼まれました。月曜日から火曜日にかけての夜には戻ります。交渉は、相変わらず同じ状態ですので、この二日間の不在が、何ら支障となることはありません。

ポッツォ将軍は、三月一日か二日に出発することが、ついに決まりました。道中に十日かかるはずです。

ロシア皇帝は、マリー=ルイーズ大公女の問題で、たいへん積極的に動いています。教皇から、その管区のほぼすべてを取り上げる案を、作らせました。これは、大国の全権代表の間で合意した原則に、反するものです。今のところ、この新しい案は、アンシュテット氏の書類入れに収まったままです。

謹んで……

第二十四号第三信――国王ルイ十八世からタレーラン公へ。

パリ、一八一五年三月三日。

親愛なる従兄よ、

そなたの第二十七号と第二十八号の手紙を受け取った。

先週、そなたに手紙を書かなかったのは、まず、カスルレー卿の到着を待っていたためであり[91]、また、いつものように、痛風の発作の初めに熱が出て、手紙を口述するのに、あまり適さなかったためである[92]。

カスルレー卿が着いたのは、日曜日の夜だった。月曜日と火曜日に会った。ナポリ問題の本質については、たいへん適切な考えを持っていると感じた。しかし、大臣としては、やや慎重すぎ、相変わらずウィーン政府に、強い愛着を持っている。メッテルニヒ公に話したこととして、そなた自身が知らせてきた内容を、すべて繰り返した後、オーストリアの大臣と合意している[93]という提案に話を進めた。その提案の趣旨は[94]、ウィーン宮廷は、ミュラの追放に協力することを、何よりも望んでいる、というものだった。ただし、と卿は付け加えた。オーストリアが南イタリアに関わることに示すのと同じ程度の譲歩を、陛下が北イタリアについて示し、パルマ、ピアチェンツァ、グアスタッラをマリー=ルイーズ大公女に与え、ブルボン家の三つの分家が、エトルリア王妃への補償を引き受けることが条件だ、と[95]。私は答えた。パルマ領は、エリザベッタ・ファルネーゼ王妃[97]を通じて、私の家に入った[96]世襲の財産であり、フランス、スペイン、ナポリ王国とは、何の関係もない[98]。したがって、一族の利益をすべて脇へ置いても、公正さだけで、この公国を所有する人々が、それを奪われるままにしておくことは、許されない[99]。しかし、オーストリアが、マリー=ルイーズ大公女について、四月十一日の協定の履行にこだわるのであれば、エトルリア王妃、むしろ、その息子が、補償としてルッカとプレシディ領を受け取ることには同意する。ただし、パルマの主権は、その息子に属し、マリー=ルイーズ大公女の死後、息子に戻ると認めることが条件である。その時には、ルッカとプレシディ領は、トスカーナに併合される、と。卿は、この取り決めに、さほど反対ではないようだった[100]。もっとも、これは、イギリスよりもオーストリア[101]に関わる問題である。

昨日、ヴァンサン男爵に会った。男爵は、私への直接の、秘密の用件を持っていた。秘密の覚書を渡してきたが、その主要な条項は、今述べたパルマについてのものだった。この点については、訓令がきわめて明確で厳格なものだ、と男爵は言った。私は、カスルレー卿への返答に沿った対案で応じ、互いに自分の立場を保ったまま、別れた[102]。それでも、この問題をまとめるのは、それほど難しくないと思う。ヴァンサン氏は、この最初の打診を済ませた後、メッテルニヒ公は、交渉をウィーンで続けたいと望んでいる[103]、ただし、そなたと公が直接行い、フランス使節団のほかの者は、一切加えないでほしい、と言った。そこに不都合はないと思ったので[104]、そのようにすると約束した。最初の使者によって、今述べた二つの文書[105]と、いくらかの[106]訓令を送ろう。

ロシア皇帝とのそなたの会話[107]には、たいへん興味を持った。皇帝のほうは、ひどく軽率で、話もあちこちに飛んでいるとはいえ、そなたの話し方には、まったく満足している。

また[108]、忘れずにそなたへ伝えなければならないことがある。カスルレー卿は、一、イギリス人の債権の支払いを保障する条約の条項、二、ボナパルト家に関する四月十一日の協定の履行については、私に強く迫ったが――この件は、次の手紙で再び扱う――、黒人の奴隷貿易については、一言も話さなかった。

痛風の具合は、かなりよい。今回の発作は、いつもほど長くはならないと思える理由がある。では、親愛なる従兄よ、神が、その聖なる尊い守りのうちに、そなたを置いてくださるよう祈る。

ルイ。

追伸――ただ今、そなたの第二十九号の手紙を受け取った。ミュラの覚書が渡されなかったという出来事は、そなたと同じように、たいへん有利なものと見ている[109]。メッテルニヒ氏がそなたに行った、秘密めいた依頼の理由は、この手紙で分かるだろう。次の手紙では、さらに詳しく知らせよう。

第三十号補――会議に派遣された国王の大使たちから、パリの外務大臣へ。

ウィーン、一八一五年三月三日。

伯爵殿、

パリ条約第五条によって、署名諸国は、将来の会議で、ライン川の航行を、すべての国の貿易にとって、最も平等で有利な形に定めるための原則を検討する、と約束していました。この部分の交渉を担当する特別委員会は、パリ条約に沿った基準を採用しました。フランスの貿易にとって重要な、さまざまな問題のうち、通行税率は引き上げないこと、そして、各国は、徴収した通行税による資金の配分に、それぞれの領土を川が流れる距離に比例した金額で加わることも、決めました。一方の岸しか持たないフランスは、割り当てられる収入を、対岸と分けることになります。

しかし、最も難しかったのは、この問題で合意を得ることではありません。フランスが通行税の管理に参加する権利、そして、その管理を指揮する中央委員会に、フランス代表を加える権利が、認められない恐れがあり、その点について、はるかに激しい討論が起こりました。しかし、さらに重要な問題で国王の大使団を成功へ導いた粘り強さと毅然さが、今回も、得られた成果をもたらしました。障害を克服することが難しかっただけに、いっそう満足すべき結果です。個々の利益だけでなく、この問題に関わる国々の一部が、フランスに対して抱いていた、非協力的な態度も乗り越える必要があったからです。

さらに、フランスが望めば、バーゼルとストラスブールの間の航行にも課税できること、そして、ストラスブールからオランダまでしか通行税を設けていない、一八〇四年の協定を、この点で改めることにも、合意しました。しかし、この権利を確保することは重要と考えたものの、私たちの貿易の妨げとならないか、そのためにドイツ側の岸での陸上輸送が有利となり、水上輸送が損なわれる恐れはないか、知っておくことも有用です。したがって、伯爵殿、ライン川沿岸の県の商業会議所に意見を求めるよう、財務担当の国務大臣へお伝えくださることを、お願いいたします。会議所は、この措置が、どの程度有利、あるいは有害となるか、また、川のほかの部分と同じ制度を設けるほうがよいか、それとも、この区間には制限のない自由を認めるほうがよいかを、示すことができるでしょう。

伯爵殿、添付した意見書を、お読みくださるようお願いいたします。そこにある、通行税の一職員の行動についての指摘は、さほど重要ではありません。しかし、ノイブルクとゲルマースハイムの徴収所に関する提案は、採用すべきと考えました。主にストラスブールの商人が被害を受けていた、不当な扱いを終わらせるものだからです。これは、ストラスブールとマンハイムの間で、通行税率が引き上げられていることを指しています。

以前、この二つの都市の間には、ノイブルクの徴収所が一つあるだけでした。同盟諸国は、ゲルマースハイムに、もう一つ設けました。フランスは、もはやストラスブールとマンハイムの間の全領土を所有していないので、以前の領土のうち、今もフランスに属し、ライン川が流れる部分についてしか、税を徴収できません。この要求は正当です。伯爵殿、この条項についても、先の条項と同じように、財務大臣と協議され、意見書で述べられている、ゲルマースハイムとノイブルクの徴収所間の精算を、実施していただくようお願いいたします。また、フランスと、通行税の暫定管理当局が、合わせて徴収する額を、一八〇四年の協定で、マンハイムからストラスブールまでの貿易に課される金額だけとし、それぞれの領土を川が流れる距離に比例して徴収するよう、仕組みを整えてください。

敬具……

第三十一号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年三月三日。

陛下、

ザクセン王を迎えるため、ブリュンまで出向いていたザクセン=テシェン公[110]が、今朝、こちらへ戻りました。王は、今日はウィーンから二つ目の駅にとどまり、プレスブルクへ行って、北方の二人の君主の出発を待つ予定です。王がこちらにいれば、二人はきっと困るでしょうし、王自身も、おそらく二人に会いたいとは、あまり思っていません。ブリュンでは遠すぎると判断されましたが、ブリュンからウィーンまでの道中には、王に提供できる適切な滞在場所がありませんでした。そのため、以前の手紙で謹んで申し上げた理由があるにもかかわらず、プレスブルクが選ばれたのです。

ロシア皇帝は、出発の話をしており、準備も進んでいます。初めは今月十四日、次には十七日とされ、今日は二十日という話になっています。皇帝は、ロシアの復活祭には、自国にいると約束しています。数多く行った約束のうち、守るのは、これ一つだけだと思います。守らなければ、自分に不都合があると分かるからです。皇帝が出発すれば、ほかの君主も残らないでしょう。一方、オーストリア皇帝も、以前から考えているイタリアの自国領への旅行を、四月より先には延ばしたくないと思っています。このように、誰もが帰らなければならない、あるいは帰りたいと思っていることが、交渉の決着を早めるでしょう。

メッテルニヒ氏に約束したとおり、カスルレー卿のパリ滞在と、ロンドン到着の知らせが届くまでは、イタリアの問題は、そのままにしています。

オーストリアとバイエルンは、一点を除いて合意しています。それはザルツブルクで、オーストリアは全部を欲しがり、バイエルンは一部を残したいと考えています。私は、両方の交渉者に別々に、合意できなければ避けられない、ロシアとプロイセンの介入を招かないよう、互いに折り合うことに努めるよう勧めました。この助言は、無駄にはならないと思います。助言したのは、どちらか一方に賛成しなければならない事態を、避けるためです。どちらか一方に賛成すれば[111]、もう一方を不満にさせずには済まないでしょうが、私たちには、両方とよい関係を保つ、ほぼ同じだけの必要があります。

スイスの問題は、案を準備した委員会から、決定を下す会合に提出できる状態に、すでになっているか、間もなくなるでしょう。ポラントリュイを取り置く話は、もうありません。私たちの望んだとおり、バーゼル司教領の残りとともに、ベルン州へ与えられます。ヴァルテリーナの処置だけが、イタリア問題の決着まで保留されます。ロシア側自身も、これに同意しています。

ベルンの人々に、いくら害を与えても足りないと考える哲学者ラ・アルプは、ベルン州を連邦の主宰州から外すことを思いつきました[112]。そして、その愚かな考えを、名高い教え子[113]にも気に入らせたのです。そのため、ロシアの公使が、それまで面識のなかった、フェルディナンド四世の公使の一人を訪ね、こう言いました。「ベルン州を主宰州に数えないことについて、フランスの同意を得るよう努めてください。この点での満足を特に強く望むアレクサンドル皇帝は、あなた方の問題で、たいへん好意的になるでしょう。」同じ大臣は、その日のうちにメッテルニヒ氏も訪ね、こう言いました。「アレクサンドル皇帝は、ミュラの問題では、まだ決めていません。ベルン州を主宰州に数えないことに協力してくださるなら、皇帝は、あなたがお望みのとおり、ミュラを支えるため、お助けします。」メッテルニヒ氏は、提案されている[114]ことは実行できない、と答えました。私も、話を持ちかけられた最初の言葉を聞いただけで、提案を拒みました。その結果、ロシア側は計画を断念し、この試みから、あまりにも露骨な二枚舌に伴う恥を得ただけでした。おそらく、その二枚舌を、たいへん見事な外交上の巧妙さと、考えているのでしょう。

初め、アレクサンドル皇帝が、ワルシャワ公国の大部分を求めた時は、王国を作り、かつての政治的な存立を思わせるものを示して、ポーランド人を慰め、分割によって道徳に加えられた傷を、できるだけ修復するためだ、と言っていました。その後、この考えを捨て、取得するワルシャワ公国の部分に、特別の憲法を与える、と表明しました[115]。今では、そのことさえためらっています。誠実さに遠く及ばない洞察力しか持たないアダム・チャルトリスキ公も、自分が幻想的な希望に浸っていたことに気づき始め、不満を述べています。皇帝は、ポーランド人に対しては、ワルシャワにごく短時間しか滞在せず、チャルトリスキ公に対しては、冷淡に別れ、説明を避けることで、切り抜けるのでしょう。

この数日、皇帝に起きた出来事から、皇帝が去ることを、こちらの人々がどれほど惜しむか、陛下にもお分かりになるでしょう。

舞踏会がなくなってから、どう時間を過ごせばよいか困り、誰もが身を焼くほどの退屈を紛らわせるため、あらゆる娯楽や遊びに頼っています。流行するようになったものの一つが、さまざまな集まりで行うくじ引きです。参加者は一人ずつ景品を持参し、全員が提供し、全員が当たる仕組みです。一昨日、マリー・エステルハージ公妃[116]のところで、このようなくじ引きが行われました。公妃は、気を遣いすぎ、これは厳しく批判されましたが、その場にいたロシア皇帝とプロイセン王が、特に目をかけている女性たちに、四つの主な景品が当たるよう、手配しようとしていました。しかし、この仕組みは、大臣の娘である若いメッテルニヒ嬢に、崩されました。嬢は、くじの入った籠に近づき、自分の順番でもないのに、一枚を引いたのです。そのくじは、ロシア皇帝が持参した、最も豪華な景品を得るものでした。皇帝は不満を隠せず、その場の人々は、たいへんおもしろがりました。(最近、皇帝が、メッテルニヒ氏の舞踏会へ行かなくなり、ほかで会っても話さなくなっていた[117]ことは、陛下もお覚えでしょう。)この夜、皇帝には、何もかもが不運でした。皇帝が好意を寄せているように見える、若いアウエルスペルク公女が持参した景品は、プロイセン王の副官が当てました。皇帝は、交換するよう申し入れさせましたが、副官は断りました。皇帝は重ねて求め、さらには、その景品は自分に当たるはずだった、と示そうとさえしました。副官は、自分にとって大切すぎるので、決して渡せないと答えました。これには皆が喜びました。そのため、皇帝も、ウィーンの夜会は、到着したころほど上品ではなくなった、と思い始めるほどです。

イタリアへ進む軍隊の一覧を、ただ今入手しました。百二十個大隊と八十四個騎兵中隊で、いずれも定員がそろい、歩兵十二万九千人、騎兵一万五千人となります。この兵力を指揮する将軍は、ビアンキ[118]、ラデツキー[119]、フリモン[120]、ジェローム・コロレド[121]です。さらに、ケルンテン、シュタイアーマルクなどに、五万人の予備兵力があります……。

ポッツォ将軍は、出発するため、皇帝からの最後の書類を待っています。

謹んで……

第三十二号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年三月七日。

陛下、

ボナパルト[122]がエルバ島を離れたことは、陛下も、すでにご存じか、この手紙を受け取るまでには、お知りになることと思います。しかし、念のため、急いでお知らせします[123]。私は、まずメッテルニヒ氏の短い手紙で知りました。日付から見ると、ボナパルトのこの脱出は、ミュラが、オーストリアの諸州を通る軍隊の通行を、同国に求めたことと結びついている、と返答しました。その後、ウェリントン公が、フィレンツェ駐在[125]のイギリス公使、バーガーシュ卿[124]からの報告を、見せてくれました。その訳文を、ここに添えて、謹んでお送りします。公から同じく見せてもらった、アンコーナの副領事の手紙の抜粋も、添えます。

ボナパルトがポルトフェッライオで乗船したのは、二月二十六日、夜九時でした。約千二百人、十門の大砲――うち六門は野砲――、いくらかの馬、そして、五、六日分の食料を携えていました。その動きを監視することを引き受けたイギリス側の不注意は、弁明するのが難しいほどです。

北へ向かったことから、ジェノヴァのほうか、フランス南部へ進んでいるように思われます。

フランス南部の諸地方に、何かを企てる勇気があるとは、私には思えません。内通者がいなければ、そのような危険は冒せないでしょうが、内通者を持つとは考えられないからです。それでも、その方面で予防措置を取り、選び抜いた、まったく信頼できる人物を配置する必要はあります。そもそも、フランスに対する彼の企ては、すべて盗賊の行為となるでしょう。

したがって、盗賊として扱うべきです。盗賊に対して許される、あらゆる措置を、彼に対して用いるべきです。

私には、北イタリアで行動するつもりである可能性が、はるかに高いように思われます[126]。ウェリントン公によれば、ジェノヴァには、イギリス兵二千人と、スペイン戦争に参加し、サルデーニャ王に仕えるようになったイタリア兵三千人がいます。公は、スペイン戦争に参加した[127]これらの部隊が、務めを果たすことを疑っておらず、優秀な部隊だと言っています。サルデーニャ王は、今、ジェノヴァにいて、近衛兵も伴っているはずです。港には、イギリスのフリゲート艦も三隻います。したがって、ボナパルトが、千二百人を率いてジェノヴァを襲っても、失敗するでしょう。しかし、山地を通ってパルマ領とロンバルディアへ進み、その出現が、長く準備されてきた蜂起の合図となることは、恐れられます。オーストリア人の悪い振る舞いと、その政府の誤った政策が、この蜂起を、あまりにも助長してきました。ボナパルトと合意していると思われるミュラの部隊が支えれば、イタリア全土が炎上するでしょう。シュヴァルツェンベルク公も、メッテルニヒ氏も、ボナパルトが北イタリアに着けば、まだ準備が整っていないため、たいへん困った状態になると、私に話しました。昨夜、イタリアへ向かう各部隊に、行軍を急がせるため、急使が送られました。しかし、どれほど急いでも、目的地へ着くには、少なくとも一か月は必要です。一か月あれば、多くの出来事が起こり得ます。シュヴァルツェンベルク公自身にも、イタリアへ向かう命令が出るようです。

どのような場合であっても、陛下は、情勢に応じて行動できるよう、南部に十分な兵力を集める必要があると、お考えになるでしょう。

この出来事の結果は、まだ予見できません。しかし、うまく利用すれば、幸いな結果も生じるかもしれません。こちらで誰も油断しないよう、私は、力の及ぶかぎり努めます。また、理解し難い弱さから、ボナパルトに残してしまった地位を、完全に取り上げ、ヨーロッパに新たな災厄をもたらす準備を、ついにできなくするような決議を、会議に行わせるため、あらゆる努力をします。

諸国が、ザクセン王からプロイセンへ行わせると合意し、王の同意を必要としている割譲を、どのように王へ伝えるか、協議しました。一般の議事録から、割譲を定める条項を抜き出し、別の議定書とすることで合意しました。いっそうの敬意を示すため、ウェリントン公、メッテルニヒ公、私の三人で、王に渡します。そのため、明後日、三人でプレスブルクへ行きます。ザクセン王が抵抗しても、王自身には役に立たず、すべての者にとって、たいへん困ったことになります。とりわけ今は、エルバ島の人物の企てに対して、すべての心と意見を結集できることが重要です。そのため、ザクセン王が、情勢の必然から求められることに、快く従うよう、必要な手をすべて尽くします。

スイスの問題については、合意しています。ベルン州を主宰州から外す考えを断念せざるを得なくなったロシア側は、せめて、代議制の部分を導入して、憲法を改めるようベルンに求めてほしい、と要求しました。これは、時代の考え方に沿う要求であり、すべての国が賛同しました。ヴァッテヴィル氏[128]とミュリネン氏[129]の手紙から、ベルンで深刻な困難を生じる性質の要求ではないと分かったので、フランスも拒むべきではありませんでした。ベルンの使節、ツェルレーダー氏も、同じ意見です。

謹んで……

第二十五号第三信――国王ルイ十八世からタレーラン公へ。

パリ、一八一五年三月七日。

親愛なる従兄よ、

そなたの第三十号の手紙を受け取った。ほかの状況であれば、たいへん不満に思ったであろうメッテルニヒ氏の宣言も、先日そなたに書いたことと、添付した文書によって、説明がつくと思う。訓令から、私の考えは十分に分かるので、ここで何かを加えるのは、余計なことだ。

今日は、昨年四月十一日の協定について、再びそなたと話すつもりだった。ボナパルト[130]が、その手間を省いてくれた。この報告を受け取る前に、そなたも、その大胆な企てを知るだろう。私はすぐに、後悔させるのに最も適切と判断した措置を取った。その成功を、確信している。

今朝、大使たちを迎え、全員に向けて、届いた知らせに、私が少しも不安を抱かず、この出来事が、私の心の平穏を乱さないのと同じように、ヨーロッパの平穏も乱さないと確信している姿を見た、と、それぞれの宮廷へ知らせてほしいと頼んだ。痛風は、先日から、目に見えてよくなっている。では、親愛なる従兄よ、神が、その聖なる尊い守りのうちに、そなたを置いてくださるよう祈る。

ルイ。

第二十六号第三信[131]――国王ルイ十八世からタレーラン公へ。

パリ、一八一五年三月十一日。

親愛なる従兄よ、

今、私の置かれている状況について、手紙を書くことはできない。しかし、ロアン=モンバゾン公を送る。公が、そなたの知りたい情報を、すべて伝えるだろう。オーストリア皇帝への働きかけで、公が役立つことを、期待している。

そなたを信頼しているので、この状況で、ロアン公が話すような重大な利益のために必要なことを、そなたがすべて行うことは、疑っていない。では、親愛なる従兄よ、神が、その聖なる尊い守りのうちに、そなたを置いてくださるよう祈る。

ルイ。

第三十三号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年三月十二日。

陛下、

今月三日付で、陛下が私に下さったお手紙を受け取りました。予告してくださったお手紙と、パルマ問題に関する訓令を待ち、それからメッテルニヒ氏との交渉を始めます。氏はすでに、私がまだ交渉に取りかかる準備ができていないのか、と尋ねてきました。問題を秘密で包もうとしたこと、私に知らせず陛下へ働きかけさせたこと、私だけと話をまとめたがっていることは、自分の案に、どれほど多くの異議があり得るか、誰よりもよく知っているためです。この案を受け入れることで、陛下は、確かに犠牲を払われます。しかも、私の考えでは、その後に影響を及ぼすかもしれない犠牲です。それでも、その見返りに、オーストリアが誠実に私たちと結び、ミュラに反対し、メッテルニヒ氏が申し出を忠実に守るのであれば、犠牲は大きすぎるものではない、と認めます。

水曜日の夜、ウェリントン公、メッテルニヒ氏、私の三人で、プレスブルクへ向けて出発し、朝四時に着きました。正午、ザクセン王が三人を迎え、メッテルニヒ氏の差し出した議定書を受け取り、開かずに、その場にいた大臣へ渡しました。内容を確認する、と私たちに言い、近づいて、いくらか好意的な言葉をかけましたが、態度は、きわめて冷淡でした。一時には、王と王妃との食事に招かれました。夕方、王は、私たちを別々に迎えました。メッテルニヒ氏は四時、私は五時、ウェリントン公は六時でした。王は、何度か、陛下への感謝の気持ちを、私に述べました。翌日、三人で、王の大臣、アインジーデル伯爵と、たいへん長い会談を行いました。伯爵は、フランス語をあまりよく理解せず、話すのは、さらに苦手です。これらの会談で、諸国がプロイセンのために合意した割譲へ、王を同意させるべき論拠を、すべて述べ尽くしました。王と大臣からは、異議しか返ってきませんでした。合意されたことも、まだ交渉し直せる、という期待を保ちたがっているようでした。土曜日に、王の大臣が私たちへ送った覚書でも、この期待が再び示されたので、プレスブルクを離れる際に送った返答に、明確な宣言を入れて、その期待をなくす必要がある、と考えました。この二つの文書の写しを、ここに添えて、謹んでお送りします。

五か国会議に、私たちの使節としての務めを報告したところ、プロイセン側は、与えられたザクセンの部分を、今すぐ、軍事占領から通常の行政へ移し、もう一方の部分は、当面、軍事占領のもとに残すよう求めました。

拒むことの難しい、この要求によって、おそらくザクセン王は、同意を決めるでしょう。私たちの得た情報によれば、王は同意したいと思っています。しかし、同時に、臣民に対しては、極端で、どうしても抗し難い必要に迫られたため、譲っただけだと見せたいのです。

ボナパルトは、アンティーブに降伏を要求したものの、砲撃で追い返され、ジュアン湾に上陸した、という知らせが届いたのは、プレスブルクにいた時でした[132]。これが、私たちの知る最新の消息です。マルセイユにもトゥーロンにも現れなかったので、そこには内通者がいなかったのだろう、また、アンティーブでも追い返されたのだから、そこにもいなかったのだろう、と判断されました。この考えは、安心を与えるものと思われました。それでも諸国は、必要が生じた場合、陛下に援助を申し出られる態勢を、整えようとしています。ライン川の近くにいるイギリス、プロイセン、オーストリアの軍隊には、集結し、準備を整える命令が送られました。ロシア皇帝は、ヴィスワ川まで戻っていた自国軍に、オーデル川とエルベ川のほうへ近づくよう命じました。

ボナパルトがどこへ行き、何を企てるか分からないうちは、反対の宣言を出せませんでした。分かるとすぐに、宣言を採択させることに取りかかりました。フランス使節団が草案を起草し、ウェリントン公とメッテルニヒ公に知らせました。明日、パリ条約の署名国である八か国の委員会で読み上げられ、おそらく、いくらか修正されるでしょう。採択されたら、使者によって、謹んで陛下へお送りします。使者には、一部をストラスブールの知事へ渡させ、知事には、印刷して、自分の県と近隣の県で配るよう、勧めます。メスとシャロンでも、同じようにします。サン=マルサン氏にも、同じ方法を取って、ニース、サヴォワ、ドーフィネに広めるよう、勧めます。

ロシア皇帝は、この状況では、全体として、たいへん適切な態度を示しています。ポッツォ将軍を出発させ、陛下への手紙を託し、全兵力の提供を申し出る予定です。フランスが、この援助なしでは済まないとすれば、悲しいことです。はっきりと拒むことはできませんが、陛下は、極端な場合に限って受け入れるべきだと、お考えになるでしょう。そのような場合は来ないと、私は願っています。

陛下が、南部へ軍を進めるよう命じられたことは、疑いありません。軍に与える指揮官について、最も適切と思う人物を、あえて申し上げるなら、マクドナル元帥を挙げます。名誉を重んじ、信頼できる人物で、軍からも信頼されています。また、ボナパルトのために、四月十一日の条約へ署名した人物なので、その人がボナパルトに反対して進むことには、いっそう重みがあるからです。

陛下が、リヨンとシャンベリの間に集めるよう命じられた三万人を、指揮する将官の名簿を見ました。知らない名前も、いくつかあります。しかし、信頼を置けない人物もいます。特に、モーリス・マチュー将軍[133]は、確か、ジョゼフ・ボナパルトに献身的な手先でした。

今この時、ジョゼフがヴォーにいることは、危険しかもたらしません。この州に影響力を持つロシア、イギリス、そしてオーストリアに、退去を求めてもらうため、働きかけます[134]。すでにロシア皇帝は、公平に認めなければなりませんが、自ら進んで、新しい諸州へ、私たちに都合のよい趣旨の手紙を、書かせました[135]。私は、このことをオーギュスト・ド・タレーラン氏[136]に知らせ、ロシアの代理公使、クリューデネル男爵[137]と、意思を通わせるよう勧めました。

ボナパルトがフランスに現れた、この、ほかの点ではたいへん不愉快な出来事にも、少なくとも、こちらでの交渉の決着を早める利点はあるでしょう。すべての人の熱意と努力が、倍増しました[138]。

起草委員会は、これから活動に入ります。したがって、こちらでの滞在の終わりも、数週間早まるかもしれません。

謹んで……

第三十四号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年三月十三日[139]。

陛下、

昨日の手紙で謹んで申し上げた宣言に、ただ今署名した会議から、戻ったところです。今朝、五か国の会合で起草しました。今夜、八か国の会合へ持ち出し、採択されました。急いで陛下へお送りします。同時に、ストラスブール、ブザンソン、リヨン、ナンシー、メス、シャロン=シュル=マルヌの知事にも、写しを送り、それぞれの県で印刷して知らせ、近隣の知事にも伝えるよう求めます。陛下も、王国のすべての場所で公表するよう命じるのが、適切とお考えになると思います。サン=マルサン氏にも写しを渡しました。氏は、それをジェノヴァとニースへ送ります。

この文書が持つべき力には、何も欠けていないように思われます。この宣言は、あらゆる経路で、フランスにもヨーロッパのほかの国々にも広められます。どの国でも、意図する効果を十分に発揮することを願っています。

エルバ島からイタリア本土へ渡っていた、ボナパルトの姉妹の一人、ポーリーヌ・ボルゲーゼが、ルッカで逮捕されました。トリエステにいたジェロームは、グラーツへ連れて行かれる予定です[140]。ジョゼフも、私がタレーラン氏に行わせるよう命じた要求に、ヴォー州が従えば、同じように移されます。ロシアとオーストリアの公使も、共同で同じ要求を行います。オーストリアとロシアの将校が、ヴォーに対する要求を携え、ジョゼフ・ボナパルトを、グラーツまで連れて行く任務を受けています。

同盟諸国の名のもとに、エルバ島を占領する命令が出されました。

このように、すべてが、同じ目標へ向かっています。これほどの協調と全会一致が、すべての国々の間に生じた例が、これまであったかどうか、私には分かりません。

シャンベリとリヨンの間に置かれた部隊の指揮を任された将軍たちについて、情報を集めました。セメレ将軍[141]、ディジョン将軍[142]、そして、とりわけ、マルシャン将軍[143]は、まったく信頼できる人物だと聞きました。ルーセル・デュルバル将軍[144]を知る人物には、誰にも会っていません。

謹んで[145]……

宣言

「パリ条約に署名し、ウィーンで会議に集まった諸国は、ナポレオン・ボナパルトの脱出と、武力を伴うフランスへの侵入を知り、自らの威厳と、社会秩序の利益のため、この出来事によって抱いた思いを、厳粛に宣言しなければならない。

ボナパルトは、自らをエルバ島に置いた協定を、このように破ることで、自分の地位を支える、唯一の法的根拠を失わせた。混乱と転覆を企ててフランスに再び現れることにより、自ら法律の保護を捨て、自分との間には、平和も休戦もあり得ないことを、全世界の前に示した。

したがって諸国は、ナポレオン・ボナパルトが、自らを市民社会の関係の外に置き、世界の平穏の敵、また、それを乱す者として、公の制裁に身をさらしたことを、宣言する。

同時に、一八一四年五月三十日のパリ条約、その条約で承認された取り決め、そして、その条約を完成させ、強固にするため、すでに定め、また今後定める取り決めを、損なわれることなく維持すると、固く決意していることを宣言する。ヨーロッパが望み、自分たちの仕事が常に目指してきた、全体の平和を、再び乱させないため、そして、諸国民を再び革命の混乱と不幸へ投げ込もうとする、あらゆる侵害から守るため、すべての手段を用い、すべての努力を合わせる。

フランス全体が、正統な君主のもとに集まり、無力で犯罪的な狂気による、この最後の試みを、直ちに無に帰すと、深く確信している。それでも、同じ思いに動かされ、同じ原則に導かれる、ヨーロッパのすべての君主は、あらゆる予想に反し、この出来事から、何らかの現実の危険が生じるとすれば、求めがあり次第、フランス王とフランス国民、あるいは、攻撃されたほかの政府に、公の平穏を回復するために必要な援助を与える用意があり、その平穏を危うくしようとする、すべての者に対して、共同で事に当たることを、宣言する。

一八一五年三月十三日の会合で、ウィーンに集まった会議の議事録に記入された、この宣言は、公表される。

パリ条約の署名国である八か国の全権代表が作成し、真正であることを証明する。ウィーン、一八一五年三月十三日。」

(各宮廷のアルファベット順で、署名が続く。)

オーストリア――

メッテルニヒ公、ヴェッセンベルク男爵。

スペイン――

P・ゴメス・ラブラドール。

フランス――

タレーラン公、ダールベルク公爵、ラ・トゥール・デュ・パン、アレクシ・ド・ノアイユ伯爵。

イギリス――

ウェリントン、クランカーティ、カスカート、スチュアート。

ポルトガル――

パルメラ伯爵、サルダーニャ、ロボ。

プロイセン――

ハルデンベルク公、フンボルト男爵。

ロシア――

ラズモフスキ伯爵、スタッケルベルク伯爵、ネッセルローデ伯爵。

スウェーデン――

レーヴェンヒエルム。

第三十五号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年三月十四日。

陛下、

本日出発させる使者は、スイスのタレーラン伯爵に、昨日、謹んで陛下へ申し上げた働きかけを、オーストリアとロシアの公使と共同で行うよう命令を届けます。ジョゼフ・ボナパルトを、フランスの国境から遠ざけるためです。そのため、パリへ直行する使者より、道中に時間がかかります。それでも、新たにお知らせすることはありませんが、陛下への手紙を託さずに、出発させたくはありませんでした。今月三日付のお手紙で、陛下が予告してくださった訓令を届ける使者は、まだ着いていません。この訓令が、メッテルニヒ氏の期待するように、ミュラの処置を、遠い時期まで延期する性質のものでないことを、願っています。この点で、メッテルニヒ氏の約束を信じることはできず、信じるべきでもありません[146]。今日も、この件について、かなり激しい話し合いをしました。私の考えでは、ミュラの問題が延期されれば、私たちには、もはや勝ち目がありません。そのため、今では全面的に私たちを支持している世論も、失われるでしょう。

私は、ある文書を入手しました。次に謹んで陛下へ書く手紙で、お送りします。その文書を作った時には、まだ自らを「同盟国」と呼んでいた諸国が、署名したものです[147]。これによって、会議に派遣された陛下の大使たちが、ウィーンへ着いた時、これらの国々に対して、どのような立場に置かれていたか、そして、それが現在の立場と、どれほど異なるかを、ご判断いただけるでしょう。

ウィーンで印刷され、ドイツ全土へ広められた宣言の印刷物を一部、ここに添えます。

謹んで……

第三十六号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年三月十五日。

陛下、

私の第三十五号の手紙は、携える使者がチューリヒを経由するため、本日、謹んで書いているこの手紙より後に、陛下へ届くでしょう。

ボナパルトが伴っているのは、ひと握りの兵にすぎませんが、とりわけ、フランス人ではなく、自国から離れている兵を、彼から引き離すのがよいと考えました。その二つの理由によって、いっそう彼に献身するかもしれないからです。そのため、付き従ったポーランド人を、自国政府が呼び戻すよう求めました。この提案は、進んで受け入れられました。帰還命令の草案は、私と協議して作られ、すぐに正式な文書となりました。今回出発させる使者が、それを携えています。ここに写しを添えて、謹んでお送りします。この兵たちに、必要な旅程証明書を渡すよう、ご命令くださることを、陛下に切にお願いいたします。ロシア皇帝も、チャルトリスキ公も、この小さな件に、たいへん親切に対応しました。

八日に私へ向けて出発した使者より、十二時間早く着いたプロイセンの使者が、消息を届けました。その内容は、パリから私に書き送られたもののすべてで、確認できました。この知らせは、すぐに広まり、こちらで、広く喜びを呼び起こしました。誰もが、陛下の取られた措置の賢明さを称賛しています。誰もが、ボナパルトは罰を逃れられないと確信し、喜んでいます。

ジョクール氏は、会議の宣言が生む、よい効果について、私に話しています。陛下のお考えとしても、伝えています。この点での陛下のお望みには、すでに先んじて応えたことを、陛下もご存じです。昨日の使者によって、スイスの国境で広めるため、印刷した宣言を送りました。本日は、いくらかの部数を、謹んで陛下へお送りします。ウィーンという発行地と、オーストリア国務庁の印刷所の活字は、この宣言に、なかなかふさわしいように思われます。

古い王朝がいくつも倒れ、新しい王朝がいくつも興ったため、その残骸の下に、いわば埋められていた正統性の原則を、私たちは、掘り出さなければなりませんでした。提示した時には、ある者からは、たいへん冷たく迎えられ、ほかの者からは拒まれましたが、ついに、以前より正しく評価されるようになりました。それを守った私たちの[148]粘り強さは、無駄ではありませんでした。その栄誉は、すべて陛下のものです。そして、ボナパルトの新たな暴挙に対して、諸国が全会一致で反対を表明したのも、その結果です。

初め、同盟国が、私たちを会議の仕事の、単なる傍観者とするよう取り決めていたことは、何度も謹んで陛下へ申し上げました。しかし、この点では、口頭の合意だけがあったと思っており、書面で合意していたとは、想像していませんでした。謹んで陛下へお送りする二つの議定書は、そうではなかったことを証明します。また、現在の私たちの立場が、彼らが置いておこうとした立場[149]と、どれほど違うかも示しています。この二つの議定書は、私が手にした原本から写したものです[150]。確かに、九月二十二日に彼らが望んでいたことと、諸国が今行った宣言の間には、たいへんな隔たりがあります。イタリアの取り決めについて、陛下が下さった訓令には、近いうちの使者によって、謹んで返答いたします。訓令を受け取ったのは、今夜になってからでした。

謹んで……

第三十七号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年三月十六日。

陛下、

ボナパルトと行動しているポーランド人を呼び戻す命令が、不注意で、昨夜の発送に添えられなかったため、今日もパリへ使者を送らなければなりません。この機会に、フランスで起こるすべてのことについて、できるだけ正確な情報を受け取りたいと、私がどれほど望んでいるか、そして、それがどれほど必要であるかを、謹んで陛下へ申し上げます。

君主たち、さらにはウィーンの人々の気持ちが、どれほど好意的であっても、こちらに、不安をあおる知らせを伝えようとする悪意ある者が、いくらかいて、それを、すぐ信じ、広める者が多くいるのは、当然です。そうした者がいないほうが、不思議でしょう。したがって、陛下の使節団が、いつでもそれを正せるようにしておくことが、重要です。

ボナパルトがフランスに入った知らせで、こちらの公債価格は下がりました。会議の宣言によって、再び上がりました。フランスでも、同じ効果を生むことを願っています。今朝届いた知らせが、また下落させるかもしれません。

ジュネーヴの政府は、八日、チューリヒの連邦政府へ、今朝知ったこととして、ボナパルトに対して送られた一個連隊が、彼の側へ加わり、彼が七日、夜八時にグルノーブルへ入り、町は祝賀の明かりで飾られた、と書き送りました。そのため、ボナパルトの何らかの企てによって、ジュネーヴが脅かされた場合に備え、援助を求めました。ヴュルテンベルク王は、この知らせを、急使によってアレクサンドル皇帝へ伝えさせました[151]。私は、この情報に反対する、少なくとも、もっともらしい理由を挙げています。しかし、私の考えでは、ジュネーヴの人々の恐れが生んだ印象を消すには、それだけでは足りません。

謹んで……

第三十八号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年三月十七日。

陛下、

今朝、こちらにいるミュラの公使から受け取った手紙を、謹んで陛下へお送りします。発送を遅らせず、また、こちらで持っている必要もないので、原本を送ります。カンポ・キアーロ公は、ウェリントン公にも、同じ内容を伝えました。ウィーン宮廷にも、再び伝えています。ナポリに駐在するオーストリア公使には、すでに知らせてありました[152]。この働きかけに、今日こちらへ届いた消息と、大国の全権代表の言葉を合わせると、ボナパルトがパリに近づき、諸国が私たちの国境に軍を集めることになれば、会議に、フェルディナンド四世を支持して、ミュラへの反対を表明させることだけでなく、オーストリア、さらにはおそらくイギリスにも、ミュラに反対する、即時の明確な約束をさせることは、ほぼ不可能になると予想されます。したがって、この点について、陛下の最終のご命令を、お願いしなければなりません。他者のことを考える前に、自分たちのことを考えなければなりません。

今日の知らせは、メッテルニヒ氏が、ミラノを経由して受け取ったものです。二個連隊の離反、ボナパルトのグルノーブル入城、そして、八日にグルノーブルを出て、リヨンへ向かったことを伝えています。さらに、通過した地方の人々の態度は、たいへん悪いと付け加えています。

この知らせは、オーストリア、イギリス、ロシア、プロイセン、フランスの使節団の間で、臨時の[153]会合を開く理由となるほど、重大と判断されました。その席で、次の問題を提起し、審議しました。

一、ボナパルトが、パリで権力を取り戻すことに成功した場合、諸国は、どのような政治的方針を取るか。

二、現在、利用できる軍事力は、どれほどあるか。

三、どのような軍事力を、準備すべきか[154]。

政治的方針は、会議の宣言によって、すでに決まっています。その方針を守ります。

残る二つの問題を検討するため、軍事委員会が設けられました。

構成員は、次のとおりです。

シュヴァルツェンベルク、ウェリントン、ヴォルコンスキ(ロシア)、クネーゼベック[155](プロイセン)。

委員会は、今夜集まります。ロシア皇帝は、出席したいと望んでいます。今夜、決まった内容が分かれば、明日を待たず、陛下へ新しい使者を送ります。アナトール・ド・モンテスキュー氏の、表向きは母君[156]に会うためだった、こちらへの旅行について、オーストリア側は、まったく別の理由があり、政治的な意図もあったのではないかと疑っています。そのため、私はただ今、すぐにフランスへ帰るよう勧めました。

オーストリア皇帝は、数日のうちに、ボナパルトの息子を引き取り、連れ去られないよう、自分の宮殿に住まわせるだろうと考える、十分な理由があります。アナトール氏の旅行には、この連れ去りが目的だった、という推測までされました。母君のそばに置かれたオーストリアの監視役が聞き取った、母君の言葉からは、そう考えることもできます。

謹んで……

第三十九号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年三月十九日。

陛下、

ウェリントン公は、今日、ロンドンへ使者を送ります。可能であれば、パリを経由する予定です。この機会に、一昨日開かれ、ロシア皇帝も出席した軍事会議で、諸国が決して交渉しないボナパルトを、迅速で大規模な努力によって阻止しなければならない、ということが前提とされたと、陛下へお知らせします。そのため、以前、謹んで写しをお送りしたショーモン条約を、更新することに決めました。しかし、この条約は、ボナパルトだけに向けられ、フランスには向けられません。むしろ、フランスも加入します。サルデーニャ、バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンも、オランダとハノーファーと同じく、加入します。

オスマン帝国の政府には、戦争への参加ではなく、反乱したフランス人も、その船も受け入れないことを、求めます。

スイスに対しても、働きかけます。ヨーロッパに武装を強いる人物は、盗賊にすぎないので、現在の問題は、中立の対象ではありません。

オーストリアから、ヴァルテリーナ、ボルミオ、キアヴェンナに関する宣言を受け取りました。この宣言は、これらを、イタリアの取り決めに含め、補償に用いなければならない、としています[157]。

謹んで……

宣言

[前の報告に添付。]

「ウィーン、一八一五年三月十八日。

下記署名者は、タレーラン公殿下に、以下を伝えるよう命じられた。全ロシア皇帝、イギリス国王、プロイセン国王の各陛下は、皇帝にして使徒的国王たる陛下とともに、これまでアッダ県の名のもとにイタリア王国の一部を成していた、ヴァルテリーナ、キアヴェンナ、ボルミオの諸渓谷を、皇帝兼国王陛下のイタリア領へ併合することで合意した。しかし、これらの領土は、ウィーン宮廷とテュイルリー宮廷の個別の交渉では、イタリアの取り決め、とりわけ、スペイン王女マリア=ルイサ陛下とその息子の将来の領地に関する取り決めで、交換または補償に用い得る対象に含まれていた。したがって、下記署名者は、この点について、次のことを、最も明確に宣言する権限を与えられている。これらの領土の最終的な併合は、今、きわめて切迫した情勢に迫られ、必要な措置となったが、予定された取り決めを、何ら損なうものではない。また、マリア=ルイサ王女の求める領地への補償に用いるべき対象の評価では、これらの領土も、従来どおり計算に入れられる。

下記署名者は、タレーラン公殿下に、深い敬意を表する。

メッテルニヒ。」

第四十号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年三月十九日。

陛下、

今日は、何の知らせも届きませんでした。夕方六時に、謹んで陛下へ書いています。

スイスの問題は、今朝、決着しました。ウィーンにいた代表団が、すべての国の合意と署名を得た宣言を、持ち帰る予定です。タレーラン氏[158]に、写しを送ります。スイスの全権代表たちは、この宣言は、どの党派も完全には満足させないが、どの党派にも大きな不満は与えない、と考えています。そのため、宣言に含まれる取り決めは、広く採用されるだろうと見られています。

これから最初に届く知らせによって、ウェリントン卿の出発の日が決まります。卿の使者は、普通に行けば、二十一日のうちに着くはずです。二十二日に、卿は決断するでしょう。

こちらの気持ちは、たいへん良好です。対象としているのは、ボナパルトただ一人です。すべての措置は、この趣旨で取られます。

謹んで……

第四十一号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年三月十九日、夜。

陛下、

ただ今、ロシアの大臣から受け取った手紙を、謹んで陛下へお送りします。そこに関わる問題については、申し分ないように思われます。表されている気持ちは、たいへん好ましく、この状況での皇帝の言葉にも、一致しています。皇帝に関わるすべての者が、最もよい気持ちでいます。

三つの実戦軍と、二つの予備軍を設けることが、提案されています。

一つは、海からマイン川までの地域で作戦を行い、イギリス、オランダ、ハノーファー、北方諸国の派遣軍、そしてプロイセンの部隊で構成されます。ウェリントン公が指揮する予定です。

第二の軍は、マイン川から地中海までを作戦区域とし、シュヴァルツェンベルク公が指揮します。この軍は、オーストリア、ピエモンテ、スイス、そして、南ドイツの派遣軍で構成されます。

イタリア軍の指揮官は、まだ決まっていません。

二つの予備軍のうち、一つは北方予備軍と呼ばれ、ブリュッヘル元帥が指揮する予定です。

もう一つ、南方予備軍となるものは、バルクライ・ド・トリー将軍[159]が指揮します。

これはすべて、まだ提案の段階ですが、オーストリアとイギリスには、受け入れられそうです。それぞれの軍の兵力についても、間もなく何か分かるでしょう。

謹んで……

第四十二号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年三月二十日。

陛下、

フランツ皇帝は、ただ今、モンテスキュー夫人に、世話を任されていた子供を、皇帝へ引き渡すよう命じました。現在の情勢で、夫人の言葉は、オーストリアとほかの国々の取った決議に、あまりにも反していたため、皇帝は、自分の孫のそばに、これ以上とどまることを、許しませんでした。明日、夫人は、フランスへ帰る命令を受けるはずです。子供は、ウィーンの宮殿に住むことになります。このため、さまざまな事情から予想されていた、連れ去りはできなくなります。

謹んで……

第四十三号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年三月二十三日。

陛下、

ロアン=モンバゾン公が、一昨日の夜に到着し、携えていた陛下のお手紙を渡してくれました。公が着くより数日[160]前に、すべての措置は取られていました。公は、ライン川の近くで、今月十三日の宣言が印刷されているのを見ました。今では、フランス全土へ広まっているはずです。その効果によって、悪意ある者の自信が奪われ、忠実な人々には、自信が与えられることを、願っています。

オーストリア、ロシア、イギリス、プロイセン、バイエルン、オランダ、ドイツの諸邦、サルデーニャが動員する兵力は、守備隊も含めて、合計七十万人を超え、求められ次第、行動する準備を整えます。プロイセンは、すでにライン川に八万人を置いています。イギリス、オランダ、ハノーファーも、同じほどの人数です。ロシア兵二十五万人が、五百九十門の大砲とともに、四月末に到着します。実戦軍は、三つではなく四つとなり、一つはブリュッヘル元帥が指揮するだろうと思います。

諸国自身、この兵力の一部も必要とされず、フランスが援助なしで済むことを、強く望んでいます。しかし、援助するには、陛下のお求めを待っているだけです。

今日受け取ったパリの新聞は、十四日付までのもので、これを見ると、陛下はパリを離れずに済むと、期待できます。そうならず、どうしても必要となった場合には、完全に信頼できる北部のどこかの要塞へ移り、両院と、忠実にとどまった軍の部分が、国民衛兵の一部も加えて、陛下に付き従うことが、こちらでは最も望ましいと考えられています。何よりも避けるべきなのは、陛下が孤立して見え、そのため、本来まったく一つである陛下の大義と、国民の大義とが、別のものと見なされることです。

ウェリントン卿は、どのような事態にも備えられるよう、指揮する予定の軍隊のもとへ、もうベルギーに行っていたいと思っています。そのため、残る交渉を急がせることに、たいへん積極的です。

こちらでは、モンテスキュー夫人を出発させることに、不都合があると考えられました。今日は、リンツへ送ろうとしていました。

ブリオンヌ夫人が、昨日亡くなったとお知りになれば、陛下は、きっと悲しまれるでしょう。八十一歳でした。[訳注8]

謹んで……

第四十四号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年三月二十三日、夜。

陛下、

この手紙は、今日出発するプロイセンの使者が、陛下へ届けます。

ボナパルトが、すべて自分の手で、マリー=ルイーズに[161]書いた手紙を、ただ今見せてもらいました。十一日付、リヨン発で、二十一日ごろにはパリにいるだろう、と知らせています。この手紙は、陛下を裏切ったソンジョン将軍[162]を通じて渡され、第七軽騎兵連隊のニヨンという将校が、ブブナ氏[163]のもとへ運び、氏がこちらへ送ったものです。二つの意図で書かれています。一つは、自分の軍と支持者に、オーストリアと連絡を取っていると信じさせること。もう一つは、フランスに膨大な数の支持者がいると、オーストリアに思わせることです。この手紙には、どれもひどい内容の宣言が、大量に添えられていました。以前の手紙についても触れていますが、それは届いていません[164]。

リヨンでの兵力は、第十四軽騎兵連隊と、第二十三、第二十四、第五、第七、第十一戦列歩兵連隊で構成されていました。各連隊は、千人を超えていません。すでに持っていた兵力と合わせても、せいぜい九千人から一万人の軍になります。(私は[165]、十一日時点の話をしています。)

一般に、人々の態度があまりよくないとされるシャロレーへ向かっている、と伝えられました。十三日には、まだリヨンにいました。

こちらの一致は、完全です[166]。陛下は、信頼していただけます。私が、そのことをお約束します。

交渉を早めるため、ロシア皇帝は、ポーランドに関する取り決めを、ロシア、オーストリア、プロイセンの間の、個別の条約として起草することを提案しました。今朝の会合で、これに合意しました。この個別の合意は、全体の条約の中に、組み込まれます。

オランダの主権者たる公は、オランダ王の称号を取ります[167]。明日、通知され、同じ日に承認されます。

これから、イタリアの問題に取りかかります。ミュラに反対する点で、私たちは、かなり有利になりました。

スイス駐在のオーストリア公使、シュラウト氏が、たいへん不適切な発言をしたため、私は、召還を実現しました。その過ちは、健康状態に原因があるようです。

今の時点では、私にとって何の役にも立たない、ラ・トゥール・デュ・パン氏を、フランスへ送ります。私の目的は、マッセナ元帥のもとへ行かせ、ボナパルトが一時的に占領した地域をすべて、陛下のために取り戻すよう元帥を励ますことです。また、決して恐れさせない形で、諸国の意向を知らせ、陛下が必要とお考えになる、あらゆる国外からの援助を、提供することです。この点では、陛下の署名した、正式の命令によってのみ、行動します。

謹んで……

第五号[168]――ブラカ・ドールプス伯爵からタレーラン公へ。

ブルッヘ、一八一五年三月二十四日、午後二時。国王がオーステンデへ出発される時に[169]。

公爵殿、

国王は、昨日、午後三時に、リールを離れなければなりませんでした。守備隊は、すでに完全にボナパルトの側にありましたが、モルティエ元帥が、まだ抑えていました。元帥がいたため、陛下は、危険がなかったとはいえないまでも、少なくとも、何事もなく町を出ることができました。分遣隊に護衛され、国王を見捨てることを拒んだ者も何人かいる、猟兵の小隊に従われて、メナンに到着しました。パリや、フランスのすべての町の国民衛兵と同じように、優れたリールの国民衛兵は、メナンの門まで陛下に同行しました。そこで、陛下は、イギリス軍に会われました。その軍は、おそらく間もなく国境を越えるでしょう。フランスの全住民は、正統な権威を回復するために来る軍隊に、合流するでしょう。この点について、住民の意見は、はっきり表れています。しかし、フランス全体が、反乱した兵士に支配され、二千六百万人の人々が、今、三万人か四万人の兵士に、従わされているのです。

国王は、昨夜、ブルッヘに泊まられました。今夕には、オーステンデへ行くおつもりです。そこで、ダンケルクへ向かうはずの王室部隊の消息を待ち、部隊が集まり次第、陛下も、その地へ合流されます。リールから、カッセルかサン=トメールを通ってダンケルクへ行くのは、危険と判断されました。また、これ以上リールにとどまれば、最も重大な危険にさらされることは、すでにお伝えしたとおりです。

王弟殿下が、どうなられたかは、分かりません。ベリー公とともに、陛下の王室部隊に残っておられました。しかし、ディエップで乗船されたと考える理由があります。きっと、すでにアングレーム公のいる南部か、今、動きが起こり、ブルボン公の指揮下にある、西部の諸地方へ行かれるのでしょう[170]。

国王が何らかの決断をされ次第、急いでお知らせします。また、お知りになることが重要なすべての事柄を、引き続きお伝えします。

国王は、リールで、リカール将軍を通じてお送りになった手紙を、受け取られました。ウィーンで会議に集まった諸国の宣言も、同じくリールで受け取られ、たいへん満足されました。そこに示される措置の効果から、最も幸いな結果を、期待されています。

オーステンデから、お手紙を書きます。今は、変わることのない親愛と、深い敬意を、重ねてお伝えする時間しかありません。

ブラカ・ドールプス。

追伸――この手紙を投函できたのは、オーステンデに来てからでした。ここで、ジョクール伯爵に会いました。伯爵が、私たちの状況について、さらに詳しく、お書きになるでしょう。

第二十七号第三信――国王ルイ十八世からタレーラン公へ[171]。

オーステンデ、一八一五年三月二十六日。

親愛なる従兄よ、

おそらく、ブラカ伯爵とジョクール伯爵がそなたに書いた手紙より、先にウィーンへ着くであろう、イギリスの使者を利用する。軍隊が完全に離反したので、私には、取るべき道を選ぶ余地がなかった。私の命は、フランスにとって必要だと言われている。あと数時間リールに残っていれば、危うくなったかもしれない、その安全を守らなければならなかった。したがって、ボナパルトには武力がある。しかし、すべての人の心は、私のもとにある。道中のどこでも、その、疑いようのない証しを見た。諸国は、今年は、フランスの望みを疑うことはできない。これが本文である。注釈は、そなたに任せる。マクドナル元帥とモルティエ元帥には、どれほど称賛を与えても足りない。前者は、どこでも、リヨンでしたのと同じように振る舞った。後者は、腕木通信で私を逮捕する命令を受けていたが、私のリール出発と、メナンまでの道中を、安全なものにした。では、親愛なる従兄よ、神が、その聖なる尊い守りのうちに、そなたを置いてくださるよう祈る。

ルイ。

第四十五号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年三月二十六日。

陛下、

アレクサンドル皇帝から、昨日、会いに来るよう伝えられたので、今朝十一時、宮殿へ行きました。私がウィーンに来て以来、これほど親切に接してくれたことは、ありません。「非難の応酬は脇へ置き、過去に戻らず[172]、今の状態について、率直に、有益な形で考えなければなりません。原因を探すためではなく、改善するためです」と、皇帝は言いました。陛下への愛着について、ある種の率直な心情の吐露ともいえる調子で、たくさん話しました。必要なら、最後の一兵、最後の一エキュまで、陛下のために用いるとのことです。手足を失うことも、命を危険にさらすことも恐れない、勇敢な兵士のような言葉さえ使いました。自分の名誉がかかっていると感じる大義を捨てるくらいなら、命を捧げるというのです。私も、最大の信頼を示しました。以前から、皇帝に最も近く、私と親しい人々を通じて、そうした信頼を示しています。外国の援助が必要となるなら、フランスを犠牲にして野心を抱くことのできない皇帝が、主要な役を担うほうが、私たちに都合がよいのです。

皇帝は、何度も繰り返しました。「国王に、今は寛大さを示す時ではない、と伝えてください。国王は、ヨーロッパの利益を守っているのです。」また、陛下が、パリを離れないと決められたことを、たびたび称賛しました。

皇帝が一覧を持っていた、動員された兵力は、合わせて八十六万人になります。

取り決めが更新されるショーモン条約だけで、六十万人を供出します。それには、十五万人となるイタリア軍も、ロシアとプロイセンの予備兵力も、含まれていません。

プロイセンは、すでにライン川に、歩兵七万人、騎兵七千人、砲兵五千人を置いています。さらに、歩兵十五万九千人、騎兵一万九千人、砲兵六千人を、進ませています。

ロシア側は、オーストリアがミュラに対して明確に敵対するまでは、同国を完全には信頼できない、と考え始めています。この問題について、皇帝は、たいへん好意的な態度だと感じました。

今夜、協力条約に署名するため集まります。昨日、私は、次の条項を入れることを提案しました。[訳注9]

「この条約は、ボナパルトとその支持者の企てに対し、フランス、あるいは、ほかの国を支援することだけを目的とするため、最もキリスト教的な国王陛下には、特に加入を求める。また、第……条で定めた兵力を求める必要が生じた場合、この条約の目的のために、情勢のもとで、どのような援助を捧げることができるか、明らかにするよう求める。」

この条項は、まだ最終的に採択されてはいませんが、採択されると考える、十分な理由があります。

謹んで……

第四十六号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年三月二十九日。

陛下、

信じられないほどの速さで、相次いで起きた悲惨な出来事に、私がどのような思いを抱いているか、陛下に申し上げる必要はありません。私の熱意と献身と同じように、よくご存じの、陛下ご自身への愛着から、お察しいただけるでしょう。陛下にお仕えするため、私に残っている手段は、すべて、常に陛下へ捧げます。この時に申し上げ、今後、繰り返すことはいたしません。

協力条約は、二十五日の夜に署名されました[173]。二十七日、私へ正式に知らされました。条約の写しと、全権代表たちが、その時私に渡した覚書、そして、私の返答の写しを添えて、謹んで陛下へお送りします。

この重要な仕事が済むと、ウェリントン公は、これ以上、軍のもとへ行くのを遅らせたくないと考えました。今朝六時、ウィーンを出発しました。

会議が解決すべき仕事を終えるため、私たちは、活動を倍増させています。私の考えでは、四月には終わります。厳粛な文書によって終えることが、これまで以上に重要だと思います。その文書は、すべての国々が一致し、ボナパルトの企てが覆そうとする秩序を維持するため、変わることのない決意を持っていることを、すべての人に示すからです。

陛下は今、フランスの国務庁、会議の大使団、使者や情報を集める者の派遣費用を、負担するのに困難があるかもしれません。そのため、私は、これらに対応する取り決めを、イギリスと行いました。この件で、陛下にお心を煩わせていただく必要は、ありません。

陛下の消息をいただき、向かうことを決められた場所に着かれたと知ることを、心から望んでいます。私が謹んで書いたすべての手紙を、お持ちになり、ジョクール氏にも、会議に関わるものをすべて携えるよう命じられたことを、願っています。私の手紙には、今では友好を望んでいるものの、この半年間、しばしば厳しく評価せざるを得なかった諸国にとって、不快なものが、確かにあります。

陛下がお選びになった場所と連絡するため、信頼できる使者を二人、そばに置いています。フランスに入る時は、必ず、陛下が安全を確信できる国境からだけ、入ります。

謹んで……

一八一五年三月二十五日の条約

[前の三月二十九日付の報告で言及されたもの。]

「最も聖なる、分かつことのできない三位一体の名において。

ハンガリーおよびボヘミア王たるオーストリア皇帝陛下、ならびに、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国の国王陛下は、ナポレオン・ボナパルトのフランス侵入と、同王国の現在の情勢が、ヨーロッパの安全に及ぼし得る結果を考慮し、全ロシア皇帝陛下およびプロイセン国王陛下と共同で、この重要な状況に、ショーモン条約が定めた原則を適用することを決定した。したがって、四か国のそれぞれが、残る三か国のそれぞれと、個別に署名する厳粛な条約によって、ヨーロッパに幸いにも回復された秩序を、あらゆる侵害から守る約束を更新することに、合意した。また、この約束を実行するための、最も有効な手段を定め、現在の情勢が強く求めるだけの範囲へ、拡張することにも合意した。

この目的のため、ハンガリーおよびボヘミア王たるオーストリア皇帝陛下は、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国の国王陛下と、この条約の条件を討議し、締結し、署名する者として、……氏を任命した。

また、イギリス国王陛下は、その側で、……氏を任命した。

上記の全権代表は、正式で適切なものと認められた全権委任状を交換した後、次の条項を定めた。

第一条――上記の締約大国は、それぞれの国の力を合わせ、一八一四年五月三十日にパリで締結された平和条約の条件と、その条約の取り決めを完成させるため、ウィーン会議で定め、署名された条項を、完全なまま維持し、あらゆる侵害、とりわけ、ナポレオン・ボナパルトの企てから守ることを、厳粛に約束する。この目的のため、必要な場合には、先の三月十三日の宣言の趣旨に沿って、協調し、合意のうえで、彼と、すでにその党派に加わった者、あるいは今後加わる者に対し、すべての努力を向けることを約束する。彼に、その計画を断念させ、諸国民の権利、自由、独立が、その保護のもとに置かれ、保障されたばかりの、全体の平穏と平和を、今後、乱せなくするためである。

第二条――これほど大きく、有益な目的の達成に向ける手段を、限定することはできず、締約大国は、それぞれの情勢のもとで使い得る、すべての手段を捧げる決意を持っている。それでも、各国が、守備隊を除き、少なくとも十分の一の騎兵と、適切な比率の砲兵を含む、定員を満たした十五万人を、常に戦場に置き、共通の敵に対して、積極的に、共同で用いることに、合意する。

第三条――締約大国は、共同の合意なしには武器を置かず、この条約の第一条で示す戦争の目的が達成される前、また、ボナパルトが、混乱を起こし、フランスの最高権力を奪おうとする企てを、再び行う可能性を、完全になくされるまでは、武器を置かないことを、互いに約束する。

第四条――この条約は、主として現在の情勢に適用されるものであるため、現在の目的が達成され次第、ショーモン条約の取り決め、とりわけ、第十六条に含まれるものが、再び完全な効力を持つ。

第五条――連合軍の指揮、補給などに関わるすべては……、個別の協定によって定める。

第六条――締約大国は、それぞれの軍を指揮する将軍のもとへ、互いに将校を派遣する権限を持つ。その将校は、軍事上の出来事と、軍の作戦に関わるすべてについて、自国政府へ知らせるため、自由に連絡を取ることができる。

第七条――この条約で定める約束は、全体の平和を維持することを目的とするため、締約大国は、ヨーロッパのすべての国に加入を求めることで、合意する。

第八条――この条約は、ボナパルトとその支持者の企てに対し、フランス、あるいは、侵入されたほかの国を支援することだけを目的とするため、最もキリスト教的な国王陛下には、特に同意を求める。また、第二条で定める兵力を求める必要が生じた場合、情勢のもとで、この条約の目的に、どのような援助を与えることができるか、明らかにするよう求める。

第九条――この条約は批准され、批准書は、二か月以内、可能であれば、それより早く交換される。

以上の証として、各全権代表は署名し、それぞれの紋章の印を押した。

ウィーンにて、紀元一八一五年三月二十五日。

メッテルニヒ公。ヴェッセンベルク男爵。ウェリントン公爵。」

同じ日、同じ条約が、ロシアとイギリスの間、ならびに、イギリスとプロイセンの間でも、締結された。

第四十七号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年三月三十日。

陛下、

ポッツォ将軍が、陛下のもとへ向けて出発します。陛下への手紙を託さず、出発させたくはありませんでした。

すべての国々は、ボナパルトを打ち倒すことについて、完全に一致しています。それぞれ、自らの利益に関わると見ているのです。

ロシア皇帝は、最も好ましい言葉を述べています。全軍を進ませ、この問題には、最後の一エキュまで投じる[174]べきだと考えています。自らも進軍する予定です。外交団が、陛下に付き従ったことを願っています。陛下からの消息を、たいへん待ち遠しく思います。

謹んで……

第四十八号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年四月三日。

陛下、

クランカーティ卿が、ベルギーを通ってロンドンへ行く使者を出すので、この機会に、現在の交渉の状態を、陛下へお知らせします。

数日前、ミュラが教皇領に入り、教皇がローマを離れなければならなかった、という知らせが、こちらに届きました[175]。この出来事によって、オーストリアは、ようやく目を開き、すべてのためらいに終止符を打ちました。イタリアの取り決めでは、今では、わずかな点を除いて合意しており、間もなく最終的に確定するでしょう。その後は、合意した条項をすべて集め、会議を締めくくる文書とするだけです。私は、文書を作ることに、たいへん、そして、これまで以上に、こだわっています。

陛下の大使団は、こちらで、同じ立場にあります。陛下がパリにおられ、王国のどの場所でも、その権威が否認されていないかのように、同じ敬意を受け、同じ影響力を行使しています。この立場を保っている[176]ことを、陛下にお約束できます。

陛下がパリを離れられてから、まだ何の消息も受け取っていません。たいへん待ち遠しく思っています。陛下の行動とお考えを知ることは、重要であると、あえて申し上げます。

謹んで……

追伸――陛下に付き従った人々と、到着を待っている人々について、詳しくお知らせいただきたいと思います。人の名前は、有益に使うことができます。ランス大司教は、陛下に付き従うことができたでしょうか[177]。

ジョクール氏については、何も知りません。陛下への封筒の中へ、氏宛ての手紙も入れることを、お許しください。

ヴァンサン氏が、今朝、到着しました。オーストリア政府は、おそらく、使節団書記官のルフェーヴル[178]を通じて、ボナパルトか、ヴィチェンツァ公[179]の手紙を受け取るでしょう。しかし、この通信には、返答もなく、効果もないでしょう。

私の手紙の第四十五号が、私のもとへ戻ってきました。これによって、陛下は、どの手紙が届いていないか、お分かりになるでしょう。

第四十九号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年四月八日[180]。

陛下、

フランスで起きた出来事は、会議における陛下の大使団の立場を、何ら変えませんでした。ヨーロッパの将来の取り決めについては、以前と同じように、討議が続いています。まだ解決を要する問題も、陛下がお知らせくださったお考えに沿って、決着することを期待できる理由があります。

陛下へ謹んで書いた幾通かの手紙で――届かなかったかもしれませんが――、フランスの領土を離れないこと、あるいは、それができないなら、できるだけ遠ざからないことが、私自身と同じく、こちらにいるすべての人にとって、たいへん重要と思われる、と申し上げました。ほかのすべての国の全権代表も同じく抱いている、私の意見を、ここであえてお伝えするなら、オーステンデのように海に近い町への滞在は、世論のうえで、陛下の大義を大きく損ないかねないと、申し上げます。陛下が大陸を離れ、自分と領国の間に海を置くつもりであると、思わせるかもしれないからです。今の情勢で、事情が許すなら、陛下の滞在に最も適切と思われるのは、リエージュかもしれません。軍隊の配置から、そこは安全と思われます。

こちらでは今、会議の第二の宣言に取り組んでいます。三月十三日の宣言で、諸国が表明した意向を、確認するものです。ボナパルトがパリを支配してから行った、すべての公表に答えるものとなり、知られたすべての場所で、大きな効果を生むだろうと思います。特に、フランスの人々の気持ちを考慮して、作られています。

陛下がパリを離れられてから受け取った、唯一のお手紙は、三月二十六日付で、陛下が私に下さったものです。ブラカ氏からも、ジョクール氏からも、一通も受け取っていません。このように取り残されることは、私にとって、きわめてつらく、こちらの仕事にも有害であると、陛下に申し上げなければなりません。

謹んで……

追伸――使者によって運ばれた[181]ものの、私のもとへ戻ってきた手紙と、同じ使者がジョクール氏へ運んでいた手紙を、ここに添えます。

第二十八号第三信――国王ルイ十八世からタレーラン公へ。

ヘント、一八一五年四月十日[182]。

親愛なる従兄よ、

ヴィクトル・ド・ロアン公[183]を通じて、そなたの第四十六号の手紙を受け取った。そなたの親愛の言葉は、いつでも、たいへんうれしいものだ。これほどつらい時には、もちろん、いくらかいっそううれしい。しかし、それを聞かなくても、そなたの親愛には、全面的な信頼を置いていた。

十三日の宣言を引き継ぎ、完成させる、三月二十五日の条約は、ボナパルトだけに向けられている。そのため、ためらわず、私の名で加入するよう、そなたに命じる。専用の訓令が必要なら、最初の求めに応じて与えよう。しかし、それまでの間も、受け取ったものとして行動する権限を、ここで与える。

私が天秤にかけられる重みは、フランス国民の二十分の十九である。その気持ちを、私も諸国も、疑うことはできない。しかし、この強力な手段も、外国の援助なしには用いることができない。したがって、同盟軍は、できるだけ早く、フランスへ入らなければならない。遅れるたびに、私の力は減っていく。強い熱意は、絶えず冷めるほうへ向かうのが、自然だからだ[184]。逆に、遅れは敵に力を与える。兵力を集め、使い方を熟知している手段によって、今は、私のために武器を取ることだけを望んでいる腕を、自分の側へ向ける機会を、与えるからである。

昨日会ったウェリントン公は、その意向を、どれほど喜んでも足りない人物だが、すべての兵力が集まるのを待たず、行動する自由を求めるため、使者を出した。この要求を強く支援するよう、そなたに勧める必要はない。全部が集まるのを待てば、六月一日までは、何もできなくなる。成功は疑わない。しかし、フランスを廃墟にしたうえでなければ、ボナパルトを打ち倒せないだろう。一方、迅速に動けば、一方を、いっそう確実に[185]滅ぼし、他方を救える。それが、すべての者の目標であるべきだが、とりわけ、私たちの目標でなければならない[186]。

ウェリントン公は、三月七日にそなたへ送った対案が、採択されたことを、私に知らせた。それを、たいへん喜んだ。国務庁、使者などのため、そなたが行った[187]取り決めにも、たいへん満足している。今は、きわめて乏しい私の財政にとって、助けとなる。

そなたがウィーンに来てから送ってきた、すべての手紙と文書を、私は持ってきた[188]。ジョクール氏にも、同じようにするよう命じた。確信していたとおり、そなたの勇気は、出来事によって揺らいでいない。私の勇気も同じだと、そなたには分かるだろう。では、親愛なる従兄よ、神が、その聖なる尊い守りのうちに、そなたを置いてくださるよう祈る。

ルイ。

第六号[189]――ブラカ・ドールプス伯爵からタレーラン公へ。

ヘント、一八一五年四月十日。

公爵殿、

ヴィクトル・ド・ロアン公に託された報告は、ヘントで私たちのもとへ届きました。国王は、乗船するという誤った噂を、あまりにも広く信じさせると思われたオーステンデを離れ、こちらへ来られたことを、お知りになったでしょう。陛下が領国を離れなければならなかったことを、私ほど嘆く者はいません。しかし、謹んでお送りする、たいへん正確な経緯の記録[190]から、どのような、どうしても抗し難い必要に従わなければならなかったか、また、助言が、これほど重要で、これほど難しくなった危機の中、国王の栄誉と、王制に残る最後の力のため、あらゆる恐れを抱いた忠実な臣民に、どのようなつらい義務が課されたか、お分かりになるでしょう。国王のおそばには、幾人かの元帥がいました。その意見が、この突然の革命で、フランスの運命を、ただ一方的に決める者となった軍隊について、陛下のお考えを定めたはずです。軍人の勢力が、これほど有害な支配力を振るったことは、ありません。国民の力と意思が、その下に屈した、抗し難い暴力に、あなたも憤られたことでしょう。幸い、ヨーロッパの諸国は、平和を維持し、自分たちに降りかかろうとする災厄を、防ごうとしています。フランスが陥っている、極端な混乱の中で、不幸な祖国を解放するには、この利益と援助だけを、頼りにしなければなりません。アングレーム公だけは、南部で、いくらかの兵力を集めることができたようです。裏切りが、再びその努力を妨げないよう、神が守ってくださいますように。公爵夫人の努力も、国王のために、ボルドーの町を保つことは、できなかったようです。

この状態では、働きかけによって、すでに決定された措置の実施を、どれほど急がせても、急がせすぎることはない、とお考えになるでしょう。特に、国王が国外にいることから生じかねない、悪い影響を防ぐことが、重要です。諸国は、陛下との関係によって、一時的に奪われた権利に代わることのできる、唯一の力を、陛下の周囲に与えられます。昨日こちらへ来たウェリントン卿は、近いうちの成功についても、戦争に王政復古の性格を与えるべきことについても、少しの疑いも迷いもないようです。しかし、全兵力を集めてからしか、作戦を始めたくないと考えています。その間、フランスは苦しみ、抵抗の意欲はくじけます。それでも、この悲しい考えを、攻撃の準備を導く、具体的な計算に対抗させることは、できません。

三月二十五日の条約は、最も満足できる形で起草されており、フランスでの公表が生む効果には、あらゆる期待をかけるべきです。パリの新聞は、マリー=ルイーズ大公女が、間もなくフランスへ来ると報じました。この主張を否定する事実を、できるだけ広く知らせることが、たいへん望ましいでしょう。いずれにしても、公爵殿、あなたの熱意と見識を頼ることが、最善です。私たちは、あなたから、あなたがその中心にいるヨーロッパの連合から、より幸いな将来を約束してくれる、すべてを期待しています。ポッツォ・ディ・ボルゴ氏は、ブリュッセルに着きました。今日のうちに、こちらに来るでしょう。国王が、ここに長くとどまられるかは、まだ分かりません。この点での決断は、ウェリントン公が取る措置に、左右されます。

私たちは、王室部隊の残りを集めようとしています。今は、アールスト[191]に、四百人から五百人が集まっています。

ハロビー卿と、ウェルズリー・プール氏[192]が、自国政府の命で、次の戦役の準備措置を、ウェリントン卿と協議するために来ました。ヘントを通る際、国王に会い、陛下は、二人の示した意向に、たいへん満足される理由がありました。

シャトーブリアン氏[193]、ラリー=トランダル氏[194]、アングレス氏[195]は、今、こちらにいます。国王は、三人の意見を聞くおつもりのようです。

公爵殿、変わることのない親愛と、深い敬意を、あらためてお伝えいたします。

ブラカ・ドールプス。

追伸――ポッツォ・ディ・ボルゴ将軍が、ただ今到着しました。ファーヘル将軍[196]は、今朝、オランダ王の公使としての信任状を、国王へ提出しました。

経緯の記録

[前の手紙に添付。]

「不幸で、予想外の災厄が、ヨーロッパを襲い、当然の驚きをもたらした。国民の信頼と愛に囲まれていた国王が、首都を離れ、間もなく領国も離れることを、強いられた。災厄と犯罪しか思い起こさせない、忌まわしい名を持つ人物が、領国へ侵入したためである。取り戻していた深い平和と、次第に増す繁栄の状態から、フランスは、三週間もしないうちに、永久に閉じられたと信じていた、災いの深淵へ、再び投げ込まれた。この状況で、裏切りが、公の力と国民の意思を縛ることができたのは、どのような抗し難い原因が、順に働いたためなのかを、知らせることが重要である。

ボナパルトが、千百人を率いてフランス領へ上陸したことを、国王が腕木通信による報告で知ったのは、三月五日であった。この企ては、二つの異なる見方で考えられた。広い内通網に助けられた陰謀の結果か、あるいは、野心と激しい性格のため、良心の責めによる心の動揺しか残さない静かな生活を、これ以上耐えられなくなった、狂人の行為であった。どちらの想定でも、慎重さが示し、最も差し迫った危険が命じるであろう、すべての措置を取る必要があった。何一つ怠られなかった。リヨンへ軍を集めるよう、急いで命令が送られた。グルノーブルの司令官からは、満足できる知らせが届いていた。アンティーブ守備隊の行動からも、国王の軍隊を自分の側に引き込もうとしたボナパルトの期待は、外れたと望むことができた。しかし、もし内通者を作っていたのであれば、最初の進展を助けることはあっても、リヨンに置く部隊が、止めるはずであった。王弟殿下は、六日の朝、指揮を取るため出発し、翌日、オルレアン公が続いた。

諸県で任務に就いていた、すべての元帥と将軍は、それぞれの指揮地へ向かうよう命じられ、直ちに出発した。ブザンソンを指揮し、王弟殿下の作戦を、きわめて有効に支援できるネイ元帥は、国王に別れの挨拶へ行った。陛下の手に口づけしながら、献身のこもった調子と、兵士の率直さから出たように見える勢いで、国王とフランスの敵に追いつけば、鉄の檻に入れて連れ戻す、と言った。その後の出来事から、最も卑劣な裏切りの計画が、その時、どのような低劣な偽りを語らせていたか、すぐに明らかとなった。王弟殿下は、リヨンで熱狂的に迎えられ、最も力強い抵抗のために、すべてが準備された。しかし、不幸にも、弾薬が何もなかった。

間もなく、グルノーブルの守備隊が、敵に町の門を開き、ラ・ベドワイエール氏[197]の指揮で、シャンベリを出た連隊が、反乱軍に加わったことが分かった。リヨンには、まだ少数の軍隊しか着いていなかった。それでも、急いで合流したマクドナル元帥を伴う王弟殿下は、急造したバリケードの背後で持ちこたえる、と決めた。しかし、ボナパルトに先行する竜騎兵が、最初に姿を見せると、王弟殿下の軍隊に、全面的な離反が起こった。タラント公の、あらゆる説得も無駄だった。その時も、その後も、奔流に抗するため集めた兵力は、奔流を増し、その激しさを養っただけであった。

十日、腕木通信の報告で、したがって、細かな事情を何も知らないまま、ボナパルトが、その日のうちにリヨンへ入ったことが分かった。十二日にパリへ着いたオルレアン公と、王弟殿下の帰還に、間もなく詳しい知らせが続いた。それは、これほど急速に相次ぐ災厄から生じる不安を、極限まで高めた。

しかし、これほど多くの恐れと疑いに動揺した世論は、嫌われている人物の、致命的な支配力とは別のところに、その嘆かわしい成功の原因を探した。その人物が現れる魅力だけで、軍隊にこのような効果を及ぼしたとは、信じたがらなかった。陸軍大臣、ダルマチア公たる元帥は、ナポレオンの、すでに敗れた大義を、フランスで最後まで、武器を取って支えた人物であった。この過去の献身の証しに、裏切りの兆候があると、見ようとしたのである。世論は元帥への非難を爆発させ、元帥自身が、辞表と剣を、国王の手に差し出した[198]。陛下は、最も恐ろしい裏切りの中でも、決して失わなかった信頼をもって、世間の尊敬が、その選択を勧めていたフェルトル公を呼び、王政復古までボナパルトのもとで持っていた、陸軍大臣の職を、再び与えた。国王のこの考えは、フェルトル公の忠実さによって、十分に正当であったと示された[199]。

敵へ向かって進むと、ほとんどどこでも、敵に援兵を与えてしまう軍隊は、引き返させることしか考えられなくなった。できるだけ多くの国民衛兵と志願兵を集め、パリの前面に軍を編成することが、決められた。すでに十一日、ベリー公が、この軍の将軍に任命されていた。マクドナル元帥は、到着すると、この公の命令のもとで、軍を指揮することを任された。

しかし、志願兵と、国民衛兵の移動部隊を組織するために送った命令は、目的地へ届き、実行されるまで、数日かかる一方、一刻ごとに新たな危険が生じた。ボナパルトは、その巨大な利点を自覚する速さで進んだ。どうしても、その進路の近くにいた幾つかの連隊が、合流した。中には、彼の名で、ブルゴーニュのいくつかの町を占領したものさえあり、その一つは、オーセールで彼に先んじた。

第一軍管区の軍隊と、パリの守備隊を、義務に忠実にとどめる、かすかな希望は残っていた。ラ・フェールの司令官の忠実さと、裏切り者デルロン、ラルマンの逮捕によって、逃れたばかりの差し迫った危険から、北部の諸県で起こることについては、いくらか安心が得られた[200]。レッジョ公は、古参親衛隊に見捨てられたものの、指揮下のほかの部隊を、義務に忠実にとどめることができた。ペロンヌに予備軍を編成することが、決められた。そこで軍隊が集まれば、誘惑にさらされにくくなり、この軍の指揮を任されたトレヴィーゾ公の監督も、受けるからである。オルレアン公は、間もなく、その地へ出発した。

その時、国王は、危険の大きさを深く感じると同時に、置かれている苦しい情勢が課す義務の広さにも、同じように敏感であり、危険が近づいた初めに、自分の周囲へ集めたいと望んだ、国民の代表のもとへ向かった。集まった両院への演説は、首都に大きな感銘を与えた。その住民は、国王と祖国への献身について、一致した気持ちだけを示していた。しかし、大部分を家族の父親で構成する国民衛兵は、抵抗の希望をいくらか持たせるだけの、十分な数の志願兵を出せなかった。指揮官のデソル伯爵[201]は、この点について、これらの市民を戦列兵と混ぜ、戦列兵を義務に忠実にとどめるほかには、考えを残さないような説明をした。ほかの防衛計画は、実行不可能であった。したがって、再び、忠実さがきわめて疑わしい軍隊を、抵抗の主要な手段と見なすほかは、なくなった。少数の勇敢で献身的な志願兵が、その忠実さを固め、それに、国王の王室部隊の騎兵が加わるのであった。

十七日、雷に打たれるような知らせが、これらの準備を、いっそう頼りないものにした。反乱軍を追っていると思われていたネイ元帥が、離反をさらに広めるような布告を出して、反乱軍に加わったのである。この知らせは、首都に最も近い諸県を、恐怖で打ちのめした。ナポレオンの進軍を遅らせられると思われていたサンスの町も、抵抗できないと表明した。敵は、間もなくフォンテーヌブローへ来るところであった。愛国心を呼び起こすため、あらゆる手段を尽くされたパリの軍隊は、黙ったままであるか、自分の旗を捨てたいという気持ちだけを、見せていた。

指定された集合地点へ向けて、出発したばかりの時に、この悪い気持ちは、公然の反乱へと変わった。十九日の朝、パリの前面には、この感染するような離反に侵されていない連隊が、一つもないことが分かった。したがって、ボナパルトの進軍を止めるものは、もう何もなく、国王に残された唯一の道は、今後、頼ることのできる、ただ一つの忠実な部隊である、王室部隊とともに退くことであった。陛下は、ブルボン公を西部諸県へ送り、南部諸地方の武装を指揮するため、必要な権限をアングレーム公へ与えていたが、自分は、北部諸県へ向かうほうがよいと考えた。その地の要塞を保ち、忠実な臣民を集める時の拠点にしようとしたのである。国王は、十九日の真夜中に出発し、一時間後、王弟殿下とベリー公が率いる王室部隊が、続いた。

二十日、午後五時にアブヴィルへ着いた国王は、王室部隊を待つつもりで、翌日も、その地にとどまった。しかし、二十一日の正午、陛下に追いついたマクドナル元帥が、さらに遠ざかる必要を示した。その報告に従い、陛下は、リールに入って籠もることを決め、王室部隊には、アミアンを通る道で、その地へ合流するよう命じた。

二十二日、午後一時、国王は、タラント公に先導されてリールへ入り、住民の愛と忠実さを示す、熱烈な歓迎を受けた。オルレアン公と、守備隊を町へ戻す必要があると考えたトレヴィーゾ公が、陛下より先に着いていた。国王が知らなかった、この最後の事情は、立てたばかりの抵抗計画を、狂わせかねなかった。軍隊が戻っていなければ、国民衛兵と王室部隊は、リールの人々の愛国心に支えられ、フランス領における、この最後の避難場所を、国王に保障できた。しかし、大人数の、非協力的な守備隊がいるため、この計画の実行は、きわめて難しく思われた。

それでも、陛下は、試みることを続けた。すでに、陛下が来られたことで、人々の熱意は頂点に達していた。熱心な群衆が、その後を追い、兵士たちの心を動かすため、あらゆる努力をしながら、彼らの前で、愛する『国王万歳』の叫びを、絶えず繰り返した。兵士たちは、陰気で冷たく、陰鬱な沈黙を守っていた。それは、間もない離反の、不安な前兆であった。実際、モルティエ元帥は、守備隊について責任を持てない、と国王へ率直に述べた。用い得る最後の手段について問われても、軍隊を要塞から出させることは、自分の力ではできない、と同じように述べた。

この間に、会議に集まったヨーロッパ諸国の名で、三月十三日にウィーンで公表された宣言が、リールへ届いた。国王は、すぐに広め、掲示させた。兵士たちに、その裏切りがもたらす破滅的な結果と、祖国へ招く避け難い不幸を、分からせようとしたのである。しかし、無駄であった。

二十三日、陛下は、内務大臣に任じられたバッサーノ公が、リールの知事へ、ボナパルトの命令を送ったことを知った。同じ日、午後一時、モルティエ元帥は、王室大臣のもとへ来て、こう伝えた。ベリー公が、王室部隊と二個のスイス人連隊を伴って来る、という噂が広まり、守備隊全体が、蜂起寸前となっている。最も恐ろしい不幸を避けるため、国王に出発を切にお願いしたい。自分で陛下を町の門の外へ護衛すれば、まだ兵士を抑えられると思う。しかし、一瞬でも出発を遅らせれば、それはできなくなる、と。

国王は、その時、王室部隊に、ダンケルクへ向かう命令を送るべきだと判断した。しかし、不幸にも、命令は届かなかった。陛下自身は、その町へ直接行けないため、オーステンデへ向かった。三時、モルティエ元帥を伴い、オルレアン公に続かれて、リールを出発した。要塞の斜堤の下で、トレヴィーゾ公は、自分の不在中に守備隊が起こしかねない騒動を防ぐため、戻らなければならないと考えた。オルレアン公も要塞へ戻り、再び出発したのは、数時間後であった。マクドナル元帥は、メナンの門まで、国王を離れなかった。最後の瞬間まで、トレヴィーゾ公と同じく、フランス軍が誇る勇敢な者のすべてが、誓いの神聖さと、名誉ある人の信義を軽んじているわけではない、という、慰めとなる証しを、陛下に与えた。

リールの国民衛兵の小隊と、国王の胸甲騎兵および猟兵の分遣隊が、国境まで陛下に従った。後者のうち数人と、幾人かの将校は、陛下を見捨てることを拒み、ベルギーの領土にも同行した。国王は、王室部隊がダンケルクを占め次第、その地へ行くことを期待して、オーステンデへ着いた。

この間、あらゆる年齢、あらゆる身分の、多数の志願兵が加わった、不幸な王室部隊は、国王がリールへ行くために取ったのと、同じ道を進んでいた。王弟殿下とベリー公は、常にこの勇敢な精鋭の先頭に立ち、疲労を分かち合い、その英雄的な粘り強さを、称賛する理由があった。初めて重い武器を腕に担いだ若者たち、激しく絶え間ない雨で、ほとんど通れなくなった道を、強行軍で歩く老人たちが、この忠実な部隊に加わっていた。欠乏にも、さらに残酷な不確かさにも、くじけなかった。その行軍は、近隣の守備隊の離反によって、最も破滅的なものとなり得る、消息に従わなければならなかったのである。

国王からの命令が届かず、陛下がリールを出たと知ると、部隊は、直接国境へ向かった。しかし、よりよい結果にふさわしい熱意と活動をもって、王族の命令のもとに指揮していたマルモン元帥に、全部隊が従えるほど速く、通過できなかった。馬が、きわめて苦労しなければ抜け出せない、ぬかるんだ土地に入り込んだため、この不幸な者たちの一部は、後方に残らざるを得なかった。王弟殿下は、その献身が、無益な危険を冒させるのを恐れ、退去する自由を与えた。しかし、間もなく、パリからの命令によって、不意に捕らえられ、ベテューヌに閉じ込められたので、全員が散って退くことさえ、できなかった。そのため、王弟殿下に残ったのは、国境で集められる者を、順次そばに集める希望だけであった。殿下は、その目的で、国境にとどまった。

二十五日、夜八時、国王は、王弟殿下がイープルへ着いたことを知った。そして、王室部隊の遭遇した運命の知らせが、陛下を苦しめていた悲しい思いの重荷を、さらに増した。

この恐ろしい災厄の中で、陛下は、輝かしい忠実さの証しを受けた。しかし、それは、ある意味で、その悲しみを、いっそう深めるものであった。迷わされた兵士たちの、あらゆる乱暴にさらしたまま残してきたのは、善良で、心の優しい国民である。そばに集めることさえできなかったのは、献身的で勇敢な家臣たちである。そして、国王が、自分の軍と呼びたい、その軍の、最も優れた指揮官の幾人かが示した、揺るがぬ忠実さに対しても、今は、フランスと後世が、いつか与えるであろう、敬意と称賛以外の報いを、何も与えられないのである。

最も深く心を動かす証しを受けた、立派な思いが、消えることなく国王の心に刻んだ記憶のうち、陛下が第一に置くのは、モルティエ元帥の行動の記憶である。オーステンデへ着いてから、陛下は、オルレアン公[202]を通じて、国王と、すべての王族を逮捕する命令が、元帥へ届いていたことを知った。その後、同じ命令を入れたダヴー元帥の文書を携えた参謀将校が、リールへ着いたが、国王は、すでに町を出ていた。しかし、トレヴィーゾ公は、オルレアン公が出発するまで、この件について何も漏れないよう、手を打った。

以上に描いた、短く不幸な時期の主要な事実についての、この簡潔な記録から、国王を囲んだ、突然の、数え切れない困難を、判断できる。これほど予想外で急速な出来事が、大きな君主国の姿を変えたことは、ない。しかし、兵士と市民の精神の対立が、これほど明瞭に、愛国心を完全に麻痺させ、権威を弱め、ほとんど一人でフランス領に現れた人物に、人々を魔法のように威圧する恐怖の力を与えたことも、ない。その人物は、二日後には、無防備な国民に向けられる、多数の武装した腕を、自由にしていたのである。

それでも、見てきたとおり、この軍隊の、同時に起きた全面的な離反は、あまりにも有害な支配力を取り戻した人物の運命に、長く結びつけておくような動機には、何一つ基づいていなかった。彼が軍隊と結んだ暗黙の契約は、待ち受ける敗北によって、間もなく破られるだろう。この信じやすい兵士たちが、従おうとしたのは、追放され、拒まれ、間もなくヨーロッパ全体に打ちのめされるボナパルトではない。世界を荒廃させ、その戦利品を再び与えてくれる用意のある人物を、見たのである。威光が壊れれば、ボナパルトは、借り物の力を、すぐに失うだろう。国王は、その瞬間を、大きな誤りへの陶酔に続く反省を、それが生む幸いな結果への期待から来る、あらゆる待ち遠しさをもって、待っている。」

第五十号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年四月十三日。

陛下、

ボナパルトがパリを支配してから、諸国は、三月十三日の宣言で表した思いを、第二の宣言で再び明らかにすることが、有用かもしれないと考えました。少数の人物を除けば、フランスのすべての党派と意見は、同じこと、すなわち、ボナパルトを打ち倒すことを望んでいると考える、十分な理由があります。したがって、この共通の気持ちを利用して、彼を排除したいのです。この目的が達成されれば、各党派それぞれの意見は、支えも、力も、行動する手段も失い、もはや何の障害にもならないでしょう。

そのため、宣言は、各党派の主要な人物すべてに、ボナパルトを取り除かせるように、計画されました。内容には一致しましたが、形式には、まだ合意できず、公表は、今のところ延期されています。会議の宣言に代えて、同盟軍がフランス領へ入る時、すべての最高司令官が、同じ布告を出すことも、考えられています。私も、この考えを採用することに、それほど反対ではありません。いくつかの利点があるように思えるからです。

フランスから届くすべての消息は、ボナパルトが、ひどく困っていることを示しています。こちらへ送ってきた使者からも、そう判断しています。

その一人、モントロン氏[203]は、パリのオーストリア使節団に属するアルティエリ神父の助けで、ウィーンまで来ました。報告書も、公に示せる任務も持っておらず、むしろ、ボナパルト自身よりも、今ボナパルトを助けている党派に、送られたのです[204]。私は、そう考えています。メッテルニヒ氏、ネッセルローデ氏、そして私に、口頭で伝える言葉を託されていました。外国の諸国が、ボナパルトを承認せず、戦争をするという決意を、本当に固めているかを、確かめる任務でした。また、ウジェーヌ公への手紙も持っていました。私に尋ねるよう命じられたのは、フランスに対する戦争をあおることを、私が本当に決意できるのか、ということでした。「宣言を読んでください」と、私は答えました。「私の考えに反する言葉は、一つもありません。そもそも、フランスに対する戦争ではなく、エルバ島の人物に対する戦争です。」メッテルニヒ氏には、オーストリア政府は、一八一四年三月に持っていた考えを、すっかり捨てたのか、と尋ねました。「摂政ですか。私たちは、まったく望んでいません」と、メッテルニヒ氏は言いました。最後に、ネッセルローデ氏を通じて、アレクサンドル皇帝の意向を知ろうとしました。「ボナパルトと、その一味を打ち倒すことです」と、氏は言いました。話は、そこで終わりました。

私たちは、直ちに用いられる兵力の一覧と、先の三月二十五日の条約を、モントロン氏に知らせることに努めました。氏は、この情報と返答を持って、パリへ帰りました。それらは、今、ボナパルトの運命に自分を結びつけている人々に、多くを考えさせるかもしれません。

送られた第二の使者は、フラオー氏[205]です。シュトゥットガルトへ着くと、ヴュルテンベルク王は、逮捕させ、国境へ送り返しました。オーストリア皇帝、アレクサンドル皇帝、マリー=ルイーズ皇后、そして、ウィーンの陛下の使節団へ宛てた報告を持っていました。各人に個別に宛てられたものなので、陛下の大使団の権限を終わらせる手紙だと、私たちは推測しました。

諸国は、引き続き、たいへんよい態度を示しています。これほど多くの人を、一つの目標へ向かわせることは、極端に難しい仕事だと、陛下に申し上げられます。そのうち誰一人として、目標からそれないよう、私は、絶えず、あらゆる注意を払っています。

南ドイツの領土調整については、昨日、合意しました。あと数日で、会議が扱うべきすべての仕事を終えることを、期待しています。

十五日、土曜日に出発する、次のイギリスの使者によって、あまりよく練られていない、オーストリアのミュラに対する宣戦布告を、謹んで陛下へお送りします。この問題は、間もなく、陛下のご満足のいく形で、決着すると願っています。

謹んで……

追伸――この手紙は、フォーシュ=ボレル氏[206]が届けます。

第五十一号――タレーラン公から国王ルイ十八世へ。

ウィーン、一八一五年四月十五日。

陛下、

陛下がジョクール氏に、私へ送るよう命じられた三通の手紙を、それぞれ届けました。宣言について陛下が満足されているかどうかを知るための、いくつかの質問からすると、両皇帝は、これらの手紙に、この件についての、いくらかの満足の言葉を期待していたように感じた、と、あえて申し上げます。それでも、言葉からも、行動からも、今、両者の間にある大きな一致を示す証ししか、私には伝わってきません。それを最後まで保つため、あらゆる努力をいたします。ポッツォ氏は、もっと難しくない状況でさえ、自ら異なると考えたがる利益を、一緒に動かすのに、どれほど苦労したか、陛下にお話ししたでしょう。

ロシア軍は、予想より四日早く、ボヘミアへ着きました。ヴィスワ川から来るとはいえ、オーストリア軍より先、あるいは、少なくとも同時に、ライン川へ着いても、不思議ではありません。ウェリントン公の指揮する軍の兵力と位置について、こちらの話は、ひどくまちまちです。そのため、陛下には、ジョクール氏に、この点についての確かな情報、特に、いつフランスへ入れるかを、私へ送るよう命じていただきたいと、強く望んでいます。

ヴレーデ元帥は、二日後、こちらを出発します[207]。指揮下の軍隊も、プロイセン軍も、たいへん士気が高まっています。

オーストリア側は、イタリアから、四月七日付の知らせを受け取り、全体として満足しています。しかし、わずかなことで満足しているのです。その理由は、ミュラの軍団が、オッキオベッロの橋頭堡を突破しようとして失敗し、退き、全軍が、モデナ、フェラーラ、海の間にある、ということです。

フリモン将軍は、十二日ごろには、攻撃できる態勢になると考えていました。

メッテルニヒ氏から正式に伝えられた、ミュラに対する宣言を、謹んで陛下へお送りします。

謹んで……

第二十九号第三信[208]――国王ルイ十八世からタレーラン公へ。

ヘント、一八一五年四月二十二日。

親愛なる従兄よ、

第三十八号を同封した、そなたの第四十九号の手紙に返事をしようとしていたところ、第四十四号を同封した第五十号を受け取った。そなたは、きっと君主たちの宣言に影響を及ぼした[209]。まだ間に合うなら、将軍たちの宣言にも、影響を及ぼすことを期待している。それは、たいへん重要な文書となるだろう。望むべき効果を、十分に生ませたいなら、三月十三日の宣言と、二十五日の条約の第三条に従い、ヨーロッパは、ナポレオン・ボナパルトの侵入に対して、国王とフランス国民の同盟者であり、前者たちを支持するすべての者の友であり、後者のために武装するすべての者の敵である、と宣言しなければならない。それは、征服という考えと、可能性さえ想定すべきでない、どのような中間の立場も、同時に排除する。

私も、再びフランスに足を踏み入れる時、公表する宣言、あるいは布告を、準備している。起草し次第、そなたに送ろう。しかし、その時には、そなたが、もうウィーンにいないことを、強く望んでいる。第五十号の手紙は、会議が間もなく終わると知らせている。もちろん、会議を締めくくる条約には、私の名で署名しなければならない。しかし、特に今の情勢では、そなたを再びそばに迎えることが、たいへん待ち遠しい。

甥の勇敢な企ての、不幸な結末は、そなたも知っている。姪自身も、ボルドーを救えなかったことを知っている[210]。フランスの世論は、それによって変わっていない。すべての報告が、この点で一致している。肝心なのは、迅速に行動することだ。それは、ウェリントン公の考えであり、望みでもある。

そなたの第三十八号については、一言だけ述べよう。カンポ・キアーロ公の手紙は、その主君の著しい裏切りを記すものとして、保存しておく価値がある。では、親愛なる従兄よ、神が、その聖なる尊い守りのうちに、そなたを置いてくださるよう祈る。

ルイ。

第五十二号――タレーラン公からルイ十八世へ

ウィーン、一八一五年四月二十三日。

陛下

当地で起きたばかりのある出来事について、ご報告いたします。陛下をお悲しませすることですので、できればお耳に入れずに済ませたいところですが、陛下の現在のご境遇と深く関わる以上、お知りいただくことが大切です。いずれ必ずほかからもお聞きになるでしょうし、その際には、事態の重みを和らげ、釣り合いを保つ事情が伝わらないおそれもあります。

このところ私は、ロシア皇帝がたびたび陛下のお望みに反対してきたのは、必ずしもご自身の目標だけのためではなく、ときには感情を害されたことも一因だと気づくようになりました。その理由は、次のとおりです。

一、陛下がイギリスの摂政王太子には青綬の勲章をお授けになりながら、皇帝にはお贈りにならなかったこと。

二、皇帝が深く心を寄せるヴィチェンツァ公のために取りなされ[211]、強く求められたにもかかわらず、甲斐なく公が貴族院から除かれたこと。

三、婚姻の問題で、陛下が宗教に関して皇帝のお望みに応じることを、きっぱりとお断りになったこと。

四、最後に、憲法憲章がいくつもの点で、皇帝がパリで示された考えと異なっていたことです。自由主義の思想を愛する皇帝は、それらの考えを、きわめて有益で重要なものと見ておられました。

皇帝がこのところ、側近の間でかなり激しい言葉を使って[212]不満を漏らしていることは承知していました。しかし、そのころは大したこととは思っていませんでした。今では、この心のわだかまりが、フランスの情勢と陛下のご境遇についての判断に影響を及ぼしていると考えざるを得ません。

フランスからの消息と、同国から来た人々の報告によれば、国民全体は陛下を支持しています。陛下に敵対するのは二つの党派です。一つは軍隊で、これは完全にボナパルトの側に立っています。その中の善意ある者も、大勢に押さえつけられるか、引きずられています。もう一つは、かつての革命諸党派の残党が作る一派です。後者が前者に加わったのは、軍隊が先に動いたため、もう一方[213]も従わざるを得なくなったからにすぎません。両者が一致するのは、ともに変化を望んだという一点だけであり、その動機も目的も違っていました。軍隊は平穏に耐えられず[214]、二十二年来慣れ親しんできた危険、出世、名声の機会を、すべて再び与えてくれる指導者を求めていました。ボナパルトこそ、明らかに[215]その求める人物でした。もう一方の党派の指導者たちは、ボナパルトを知り、彼を憎んでいます。その飽くなき支配欲を知り、市民の自由にとって、彼ほど残酷な敵はいないとわかっています。反乱軍が最高権力を与えたところでは、文民政府は、実体のない影ほどにも存在しえないことを、よく感じ取っています。文民政府の外では自分たちは何者でもなくなり、ほかのすべての人と同じく、ひたすら服従する身になるのです。ボナパルトが自分たちに近づいた動機についても、幻想は抱いていません。彼にとって自分たちとの結びつきは、やむを得ず結んだものであり、彼を抑えるために自分たちがかけようとし、彼も今は受け入れている束縛は、彼にそれを断ち切る力がない間しか効かないことを知っています。そして、もし彼が勝利すれば、その力が手に入ることも知っています。軍隊が一度したことは二度、三度と繰り返せること、そういう状態では主人にも奴隷にも安全[216]がないことを、彼らは自分に隠していません。かつての空想から目が覚め、もはや共和国を夢見てはいません。手に入れた爵位や財産が、彼らを君主制に結びつけています。正統な王朝に反対していたのでもありません。しかし、あらゆる官職から締め出され、政治的な存在をすべて奪われたと感じ[217]、今後さらに大きなものを失う恐れにさらされるような統治には、耐えられなかったのです。この状態への嫌悪はあまりに強く、どんな代償を払ってでも抜け出したいと望んでいました。そして、そこに戻るくらいなら、革命体制の恐怖と危険に再び身を投じるでしょう。

ボナパルトにとって最も大切なのは、これから戦う戦争を国民全体の戦争にすることです。列強にとって最も大切なのは、それを成功させないことです。彼は、説得ではそれができず、恐怖以外に手段がないことを十分承知しています。しかし、国境に集結させ、外国軍と戦わせねばならない自分の軍隊だけでは、道具として足りません。ほかにも道具が必要で、それを見つけられるのは、かつて自分が属し、滅ぼしたうえでのし上がり、長らく圧迫してきた、今は支援を求めているあの党派の中だけです。列強は、その党派の不安を和らげるよう努めれば、彼らの好まない人物から引き離すことができると考えました。それによって、ボナパルトから主要な力の源を奪い、抵抗を長く、危険にするものを取り除けると考えたのです。この目的で、宣言案が作られました。ヨーロッパが武器を取るのはフランスに敵対するためではなく、フランスのためであること、敵と見なすのはボナパルトとその支持者だけであること、彼とは決して交渉せず、講和も休戦も与えず、打倒するまでは武器を置かないこと、これだけを宣言する限り、意見は一致していました。しかし、戦争の最終目的が正統王朝の復位にあることも宣言に明記するかどうかでは、意見が分かれました。一方の人々はこう言いました。『復位に触れなければ、国内で武器を取った者、三月十三日の宣言によって国王のために立ち上がった者は、見捨てられたと思うだろう。確かな力を手放して、確かでない力を得ようとすることになる。簒奪者を倒すという意図だけを告げ、倒したあとはフランスが好きにできるとほのめかせば、フランスをジャコバン主義に渡し、ボナパルトそのものよりヨーロッパに危険な党派に渡してしまう。』他方は、こう言いました。『正統王朝を復位させることについて、列強の意図に疑いがあるとは思われない。三月十三日の宣言が、それを十分に示している。あまりに断定的な形で、あらためてそれを強調すれば、目的を果たせなくなる。目的は、譲歩によってしか取り戻せない人々をボナパルトから引き離すことだ。その譲歩は、列強が期待を持たせることはできても、約束し、実行できるのは国王だけである。』

こういう状況のとき、アレクサンドル皇帝がクランカーティ卿を呼び寄せられました。カスルレー卿とウェリントン卿が出発して以来、卿がイギリス使節団を率いています。

二人の会談については、一部をクランカーティ卿から、さらに詳しい内容をスチュアート卿とメッテルニヒ氏から聞きました。

これを陛下にお伝えするのは、いっそうつらい務めです。いくつもの点で、敬意と忠誠の間に立たされ、一方を尽くせば、他方を欠くように見えることを恐れねばならないからです。しかし、最も強大な同盟国の意向を正確に知ることが、これほど大切である以上、陛下は、その君主がどんな理由を挙げ、どんな非難によってまで自分の態度を正当化しようとしているのかをお知りにならなければ、十分に判断なさることができません。ただこの重大な理由に迫られて、お伝えする次第です。

皇帝はまず、なぜ宣言案に賛成しないのか[218]と、クランカーティ卿に尋ねられました。卿は、『私の考えでは、述べるべきことがすべて述べられていないからです。ボナパルトを倒すだけでは足りません。ジャコバン派に道を開いてはなりません。私には、ボナパルト本人よりも、なお受け入れがたい人々です』と答えました。アレクサンドル皇帝は言葉を継がれました。『ジャコバン派が恐ろしいのは、ボナパルトを助ける者としてだけである。だからこそ、彼から引き離すよう努めねばならない。彼が倒れても、そのあとを継ぐのは彼らではない。まず問題は、彼を倒すことだ。この点では、われわれは皆一致している。私としては、全力を注ぎ、それができるまで休むつもりはない。なお、どんな宣言や布告でも、われわれの軍隊がフランスにもっと近づくまで延期することには同意する。むしろ、それが私の考えでもある。しかし、ボナパルトの打倒だけが、われわれの意見を一致させるべき問題なのではない。今取りかかっているほどの大事業では、初めから、その結末を考えねばならない。ボナパルトの打倒は仕事の半分にすぎず、そのあとはヨーロッパの安全を確保せねばならない。フランスが平穏でなければ、ヨーロッパも平穏ではいられない。そしてフランスが平穏になれるのは、すべての人に適した政府の下だけである。』クランカーティ卿は、『フランスは国王の統治の下で幸福でした。全国民が国王を望んでいます』と言いました。皇帝は答えられました。『そうだろう。ただし、いつも受け身でしかなく、二十六年来、あらゆる革命を甘受し、嘆くだけで、何一つ防がない国民の一部は、ということだ。しかし、表に出て行動し、支配しているのはその人々だけであるために、全国民であるかに見える、もう一方の部分はどうか。つい先ごろ裏切った政府に、進んで従い、忠実でいるだろうか。本人たちの意に反して、それを押しつけるのか。そのために[219]、果てしなく続くかもしれない、相手を滅ぼし尽くす戦争をするのか。そして、成功する確信があるのか。』クランカーティ卿は応じました。『不可能なところで義務が終わることは、私にもわかります。しかし、不可能だと確かめられるまでは、列強の義務は正統な君主を支えることであり、見捨てられるかどうかを問題にするべきですらない、と考えます。』皇帝は言われました。『われわれの第一の義務は、ヨーロッパと自分たち自身に対するものである。たとえ政府を復活させるのが容易でも、将来の安定に確信がなければ、それを復活させて、フランスとヨーロッパに新しい不幸を用意する以外の、何ができるのか。一度起きたことが、また起きたら、われわれは今のように結集しているだろうか。百万に近い兵士を動員しているだろうか。危険が噴き出した瞬間に備えができているだろうか。そして、混乱の要因が同じである以上、国王の政府が以前より安定するという、どんな見込みがあるのか。なお、この点についてどんな意見を持つにせよ、われわれ皆が望み、私もとりわけ望んでいる国王の復位は、克服できない障害に出会うこともありうる。それがありうる以上、予想しておき、そのとき何をするか、あらかじめ取り決めておくのがよい。昨年なら摂政を置くこともできた。しかし、私が話したマリー=ルイーズ大公女は、どんなことがあってもフランスに帰りたくないという。息子にはオーストリアで身分を保障することになっており、息子のためには、それ以上何も望んでいない。オーストリアの側も、もはや摂政を考えておらず、望んでもいないことを、私は確かめた。昨年は、摂政ならさまざまな利害を調整できると思えたが、今は情勢が違う。したがって、もはやそれを考えてはならない。すべてを調和させるのにふさわしい人物としては、オルレアン公しか見当たらない。彼はフランス人で、ブルボン家の人間であり、妻もブルボン家の出で、息子たちもいる。若いころは立憲の大義に尽くし、三色の帽章を着けていた。私はパリでもしばしば言ったが、あの帽章は決して捨てるべきではなかった。彼ならすべての党派を結集させられる。卿もそう思わないか。この点について、イギリスはどう考えるだろう。』クランカーティ卿は答えました。『私の政府にとっても、私にとっても、全く新しい考えでありますから、政府がどう考えるかはわかりません。私自身の意見については、正統性の道を外れ、どんな形であれ簒奪へ飛び込むのは、きわめて危険だと思う、とためらいなく申し上げます。しかし、陛下がお話しくださったことを、私が政府に書き送るのを、陛下もきっとお望みでしょう。』皇帝は、書き送るようにと言われました。そして、これほどの大事業を始めるときには、どこへ到達したいのかを知っていることがどれほど肝要かを指摘されたうえで、退出されました。

クランカーティ卿は、実際に書き送りました。ただし、イギリスが陛下の大義に忠実であり続けるべき理由を、強調しています。

スチュアート卿とクランカーティ卿からこの会談を聞いたメッテルニヒ氏は、皇帝が持ち出された問題は、少なくとも今持ち出すには時期尚早だと考えました。起こらないかもしれない仮定の問題に迷い込まず、実際に起こるのを待ち、一つずつ、その時が来てから扱うべきだというのです。そして、ロンドンのオーストリア大使に、その趣旨で話すよう指示しました。

正統性の原則をあまり理解しておられないアレクサンドル皇帝は、イギリス内閣の意見を知るのを待たず、『フランクフルト新聞』に記事を載せさせました。私の手元にあるその記事には、列強が望むのはボナパルトの打倒だけで、フランス国内の体制に干渉したり、政府を押しつけたりするつもりは全くなく、フランスは望む政府を自由に選べると書かれています。

しかし、今のところ、この意見を持っておられるのは皇帝お一人です。皇帝の望むことをいつも望むのが習いとなっているプロイセンさえ、陛下の側に立っています。プロイセンは、陛下が布告をお出しになり、その布告が、ボナパルトの召集した選挙人団のパリでの集会に先立つことを望んでいるとさえ述べました。列強の大半も同じことを望んでいます。陛下があらゆる党派を、ご自分の下に結集させるよう努め、区別なくすべての者に立憲体制の利益をすべて保障なさることが、ぜひとも必要だと考えられています。列強は、この精神で陛下がなさる宣言を、これから展開する兵力への力強い助けと見ています。さらに数か国は、これまでの過失があれば、その責任を大臣たちに負わせ、フランスにおられるかのように、新しい内閣を組織なさることも望んでいます。その構成によって、どの党派も、自分の求める保障が得られるようにするのです。このことを陛下に書き送るよう、私は求められました。各宮廷が陛下のもとへ送る公使たちも、それとなくこの希望をお伝えする予定だと、あらかじめ聞かされています。ですから、陛下がその申し入れに先んじてお取り計らいになることを、願っております。

ロシア皇帝がクランカーティ卿に話された以上の事柄に加えて、十分に信頼できると考える理由のある筋から伝わってきた、皇帝のお言葉もお伝えせねばなりません。

皇帝は何度も、一年前にパリにおられたとき、目にし、耳にするあらゆるものから、政府は持ちこたえられないのではないかと恐れた、と繰り返しておられます。王族方の感情や意見が、その不在の間に生まれ、いくつもの点で父祖と同じ考えも習慣も持っていない世代の意見や習慣と、十分に調和するのは難しいと思われたのです。そして、抽象的な考えに身を置くことを好む皇帝は、時代の思想に逆らって統治することはできない、と絶えず指摘されます。陛下が大臣や顧問に迎えられた人々は、確かに立派な人ではあるものの、ほとんどが革命期を国外か隠遁生活で過ごしていました。そのため、フランスを知らず、フランスからも知られておらず、天才にも埋め合わせのできない実務の経験を欠いていました。それを見て、ご自分の不安は増した、と皇帝は言っておられます。彼らが王室の大義に与えた害は、非常に大きいと見ておられます。今後は陛下が別の人々をお選びになるので、同じような害は避けられると考えてはおられますが、あらゆる党派から最も多くの不満を招いた大臣こそ、誰にもまして陛下のご信頼を得ている[220]と、皇帝が指摘されていることは、申し上げねばなりません。皇帝はさらに、最大の害は、陛下が最もお近くに置く王族方にお与えになった、あるいは彼らが握るのをお許しになった権力の一部から生じた、とまで言われました。彼らに対して生まれた不信は、もはや治せない害に思えるというのです。仮に陛下ご自身に不信が向けられたとしても、その影響はずっと小さかったはずです。というのも、在位する君主への不満は、後継者にかける希望で抑えられ、和らぐものですが、恐れられているのがその後継者であれば、その希望を持てないからです。皇帝は普段の会話で、陛下がお一人であれば、フランスに適し、そこで愛され、敬われるだろうと、喜んで信じたいが、周囲のすべてから陛下を切り離すことはできないので、決してその地位を固められないのではないかと恐れる、と言っておられます。

列強が皆、陛下に心からの関心を寄せていることを見て、私は満足しております。ロシア皇帝のお言葉さえ、決まった計算からというよりは、気分や、ご自分を支配している哲学的な考えから出ています。その関心が、王弟殿下と、アングレーム公、ベリー公の両殿下にも及んでいると付け加えられれば、幸いなのですが。しかし、権力が陛下と、陛下および国民の信頼を得た、責任を負う大臣たちの手にのみ集中すれば、過失や不注意によって国内外に生まれた、誇張された印象も、次第に消えてゆくでしょう。

タレーラン男爵[221]が、陛下からいただいた四月十日付のご書簡を携えて到着しました。私は当地で、絶えず熱意を鼓舞し、急ぐことがどれほど大切かを説いています。しかし、陛下がお知らせくださったものより後の書簡で、ウェリントン公は、南部から届いた悪い知らせを受け、どの方面でも同時に大兵力で攻撃できるようになってから、作戦を始める必要を感じると知らせてきました。ところが、どれほど善意を尽くしても、移動すべき距離のため、オーストリア軍がライン川に十万の兵をそろえられるのは、五月末になるのです。

イタリアのオーストリア軍が、さらに大きな成果を期待させる勝利を収めたことを、陛下もお喜びになるでしょう。レオポルト王子[222]は、数日中にオーストリア軍に向けて出発します。ウィーンの新聞も、ようやく『ジョアシャン王』とは書かず、ただ『ミュラ』と書くようになりました。

元ポルトガル大使で、グロガウの参事会員であり、パリにいたボンベルの父でもあるボンベル氏[223]は、大使から代理公使まで、どんな形であれ外交官の仕事に戻りたいと望んでいます。代理公使としてならミュンヘンで役に立てると考えており、生活には八千フランあれば十分だと言っています。

この信書を陛下にお届けするアレクシ・ド・ノアイユ伯爵の熱意を、私は活用しております。当地ではあらゆる点で、大いに役に立ってくれました。今、私たちがこれほど必要としている各内閣の政治・軍事情勢について、陛下にこれ以上よくお伝えできる人はいないと思います。陛下から私に下されるご命令がありましたら、どうか伯爵にお持たせください。会議が終わる前に、当地へ戻るのがよいでしょう。終わらせねばならないドイツとイタリアの案件は、進み方があまりに遅いので、その調印には十分間に合うはずです。

謹んで……

第五十三号――タレーラン公からルイ十八世へ

ウィーン、一八一五年五月一日。

陛下

ヴァンサン男爵が本日、陛下のもとへ向けて出発します。ありがたいことに、私から陛下へのこの書簡も引き受けてくれました。

ミュラは戦端を開くにあたり、イタリアの諸国民が蜂起することを当てにしていましたが、その期待は完全に裏切られました。彼はその期待を抱いてポー川の岸まで進み、そこで最初の戦闘が行われました。それ以来、敗北ばかりを重ねています。トスカーナにいるオーストリア軍の一部に退路を断たれるのを恐れ、ナポリ王国へと大急ぎで退却しています。当地に公式の知らせが届いた最後の戦闘は、チェゼーナ付近で起こり、ミュラは大きな損害を受けてロンコ川を渡り戻りました。その軍隊は、すでに七千に上る捕虜を失って大いに減っていましたが、脱走によって、日ごとさらに減っています。あらゆる事情から、まもなくこの戦争は終わると期待できます。ミュラの没落から得られる利益は、フェルディナンド四世をその領国へ戻すことだけではありません。彼に対して使っている軍隊をほかに回せるようにし、イタリアの平穏を保つことへの不安をすべて取り除くので、ボナパルトに対する作戦を大いに助けるでしょう。また、暴力と不正義によって築かれた新しい支配を、ヨーロッパでは誰も許すつもりがなく、それを倒す固い決意があることを、すべての人に示すため、フランスでも絶大な効果を生むでしょう。これは、正統性の原則を支えるために、私たちが当地で尽くした努力の実りです。その原則は、今や明確に認められています。メッテルニヒ氏と、フェルディナンド四世のウィーン駐在公使であるルッフォ(コマンドゥール)[224]との間で、条約が結ばれたところです。この条約は、ミュラとの戦争でシチリアが提供すべき援助を定めています。聞くところでは、この戦争のために陛下がお出しになるおつもりだった二千万の代わりに、フェルディナンド王が二千五百万を出すと約束しています。私はまだ条約を直接見られていませんが[225]、次の便りで、その規定をすべて陛下にお知らせいたします。

両シチリアのレオポルト王子は、今月四日、オーストリア軍司令部へ向けて出発します。

パルマの問題はまだ決着していませんが、オーストリア皇帝は、娘の名で三公国[226]の恒久的な統治を引き受ける勅令を公表されました。これで陛下にも、会議で定めるはずの取り決めが、合意される前から実行されていることがおわかりになるでしょう。よくないことですが、私たちには、それを防ぐ力がありません。

オーストリア軍とロシア軍は、行軍を続けています。シュヴァルツェンベルク公の司令部は、ヴュルテンベルクのハイルブロンにあります。公自身も昨日、当地を出発し、ボヘミアを経由してそこへ向かいました。ボヘミアでは数日しか滞在しない予定です。

バイエルンとの取り決めについては、以前、決着したものの、まだ調印されていないと陛下にご報告しました。その後、新たな議論を経て、ようやく合意に達しました。ただし、あくまで暫定的なものです。最終的な確定は戦後になります。というのも、バイエルンに領地を譲り、ライン川左岸で補償を受けるはずのバーデン、ダルムシュタット両宮廷との交渉が、条件になっているからです。両宮廷は、戦争が不利に終われば、その成り行きによって失うかもしれない補償を、今受け入れることを望んでいません。

デンマーク公使ヴァルターストルフ将軍[227]は、明後日、陛下のもとへ向けて出発する予定です。ヴァンサン氏と同じく、ウェリントン公のもとに派遣される委員としても、資格を与えられています。

謹んで……

第五十四号――タレーラン公からルイ十八世へ

ウィーン、一八一五年五月五日。

陛下

かつてボナパルトの侍従を務め、マリー=ルイーズ大公女に付き従って当地に来てから、フランツ皇帝の侍従となり、しばらく前にパリへ戻っていた人物[228]が、先ごろ、ボナパルトから皇帝への書簡と、コランクール氏からメッテルニヒ氏への書簡を携えて、パリから遣わされました。オーストリア侍従の肩書を利用してミュンヘンまで来ましたが、そこで止められ、携えていた書簡は当地へ送られました。二通の書簡は、理由は違うものの、ともに皇后と息子の帰還を求めています。ボナパルトとその大臣が示す調子は、穏やかで、情愛に訴えるものです。書簡は会合の時まで封をしたまま置かれ、同盟列強の公使たちの前で開封されました。返答しないことが取り決められ、意見は一致しました。このように、ボナパルトが外国の列強との間に、どんな種類であれ関係を築こうとする[229]試みは、すべて退けられ、実を結んでいないことが、陛下にもおわかりになるでしょう。

会議における陛下の使節団の資金需要を満たすため、私が頼み、快く応じてくれていたイギリスの公使たちに、本国政府から書簡が届きました。それによると、六か月の間に十万フランを立て替えることしか、認められていません。

フランスに対して持っていた資金の引き出し枠は、まだ使い切るにはほど遠かったのですが、三月二十一日付で停止されました。その処置によって、すでに支出し、四月一日に支払われるはずだった経費も、私たちの負担となりました。また、使節団に属する人々へのパリでの支払いも、一月以来、行われていません。

四月、五月の経費を最低限に切り詰めても、未払い分のすべてを清算するには足りないまま、イギリス政府が約束している[230]額のかなりの部分が必要になります。残りでは、八月初めまでしか持ちこたえられません。その時点で、このことについてどんな措置が可能か、陛下にご判断いただくことになります。

謹んで……

第三十号第三信――ルイ十八世からタレーラン公へ

ヘント、一八一五年五月五日。

親愛なる従兄よ

ノアイユ氏から、そなたの第五十二号を受け取った。この信書に、これから公表する布告を添える。私のもとに駐在する公使たちは満足してくれたが、各君主にも同じように満足してもらえると期待している。しかし、これは大切ではあっても、最も大切な問題ではない。そなたの信書にはもう一つ、受け取って以来、私が最も真剣に考え続けている点がある[231]。その解決を仕上げるには、賢明な助言が必要であり、それは書面で与えられるものではない。会議の最終議定書に私の名で調印したら、すぐ私のもとへ来るようにと、そなたに伝えてあった。しかし、今はそなたに会いたい気持ちが、いっそう強い。したがって、調印による遅れが、せいぜい二、三日で済むのでない限り、それを待たずに出発してほしい。私の全権委員の誰が条約に調印するかは、それほど大切なことではない。そなたを私のそばに迎えることは、私にとって非常に大切なのだ。では、親愛なる従兄よ、神がその聖なる尊い御加護のうちに、そなたをお守りくださるよう祈る。

ルイ

第五十五号――タレーラン公からルイ十八世へ

ウィーン、一八一五年五月十四日。

陛下

ノアイユ伯爵がたった今到着し、陛下からいただいた五月五日付のご書簡を届けてくれました。その到着と、私が利用せねばならない急使の出発との間があまりに短いため、陛下にはごく短い書簡しか、お送りできません。

陛下のおそばに戻りたい気持ちからすれば、案件が十分に進んで、あとは調印だけとなっていたり、会議の終わりがまだ遠かったりするなら、明日にでも出発したいところです。しかし、イタリアの問題はまだ決着しておらず、間もなく決着するところです。その遅れのため、サン=マルサン氏とルッフォ(コマンドゥール)も、なお数日、当地に引き留められています。ルッフォ氏の出発は大変必要であり、サン=マルサン氏も、現在陸軍大臣を務めるトリノへ呼び戻されているのですが。また、各君主も出発する予定です。同盟の中では、どんな行動も無数の解釈を呼ぶため、私がその出発に先立てば、陛下の案件には、利益よりも不利益を多くもたらしかねません。もっとも、これからする準備を考えれば、違いは四十八時間ほど早いか遅いかという程度です。それに加え[232]、現在の状況では、皆を急がせねばならない時に、当地を離れることはできないと思います。

本日、アレクサンドル皇帝とかなり長い会談をしました。その内容は陛下にご報告いたしますが、今は、皇帝のお言葉が大変好ましく、私たちの問題について、たいへん力強く、適切に語られたと申し上げるにとどめます。皇帝のお考えでは、今のところ、陛下ご自身も、陛下の周囲も、あまり動かないほうがよいとのことです。とりわけ皇帝が力を入れて説かれたのは、どの列強の行動も、共通の利益や危険を伴う以上、ほかのすべての国と協議して進めねばならない、ということでした。各軍団へ公使を送る主な理由もそこにあり、陛下にも、この原則を採用していただくべきだと考えておられます。

謹んで……

第五十六号――タレーラン公からルイ十八世へ

ウィーン、一八一五年五月十七日。

陛下

これまで何度か陛下にお伝えした、計画中の第二の宣言に代えて、同じ目的を果たす報告書を出すことが合意されました。この報告書は、明日、『ウィーン新聞』に掲載されます。その後、ドイツの各新聞や、ほかの国々の新聞にも掲載される予定です。また、オーストリア宰相府の印刷所でも印刷されました。陛下には、その数部をお送りいたします。

この報告書が、三月十三日の宣言で列強の示した意向を完全に裏づけ、ボナパルトの詭弁を反駁し、その偽りを白日の下にさらしていることを、陛下もお認めになるでしょう。しかし、特にご注目いただきたいのは、ヨーロッパが、陛下のために、陛下のご要請によって戦争をしているという姿を取っていないことです。自らの利益がそれを求め、自らの安全がそれを必要とするから、自分たちのために戦うのです。今回の戦争をこのように捉えるのは、唯一正確な見方であるばかりでなく、陛下にふさわしい唯一の見方だと、皆が考えています。臣民に対して、陛下を偽った立場に置かずに済むのは、これだけです。なぜなら、戦争の原因について臣民に誤った考えを抱かせるほど、その心を遠ざけるものはないからです。戦争がこれから彼らに負わせる災厄を、決して陛下のせいだと思わせてはなりません。

謹んで……

追伸――陛下のご命令に従い、当地におられる各君主、王妃、大公の宮廷係に書き送り、別れの拝謁を願い出ました。

陛下にも多少ご関心のあるものと思い、ラ・トゥール・デュ・パン氏の書簡をジョクール氏へ送ります。それを包んでいたオズモン氏[233]の書簡には、最近のイタリア情勢について、いくらか詳しい説明があります。

第五十七号――タレーラン公からルイ十八世へ

ウィーン、一八一五年五月二十五日[234]。

陛下

別れの拝謁では、どの君主からも、陛下に対する最も好ましいお気持ちを示されました。これらの拝謁は単なる形式ではなく、このような場合に普通許されるものより、ずっと長いものでした。その内容は、陛下にご報告いたします。

まだすべてが終わったわけではありませんが、陛下のおそばに参りたい一心で、明日出発すると決めていました。しかし、メッテルニヒ氏、ネッセルローデ氏、ハルデンベルク宰相から、会議が決定した取り決めを収める議定書に、各内閣の首脳とともに調印するよう頼まれましたので、その要請に応じるべきだと考えました。それによる出発の遅れは、二、三日にすぎません。議定書には、会議の最終文書を形作る条文の確定稿が収められます。多少の変更はありえますが、文言に関するものだけです。当地には、各国一人ずつの全権委員から成る委員会を残し、条文を適切な順序に並べ、個別の関係を定めるものと、全般の利益に関わるものを分けます。この委員会でフランスを代表するため、私はダールベルク氏を当地に残します。各国の代表が、その上役より少しでも熱心に働くなら、この作業は八日から十日ほどで終わるでしょう。

アングレーム公殿下の書簡二通を、陛下にお送りいたします。私からもアングレーム公殿下に一通お送りしましたが、おそらく失われたのでしょう。いずれフランスの新聞で見つかるかもしれません。本日出発の急使で、アングレーム公爵夫人への書簡を、カスルレー夫人[235]に送りました。

陛下のお手元に、私からの膨大な書簡がすべてそろうよう、届かなかったと思われる号の写しをお送りいたします。

予期せぬ障害がなければ、六月四日の日曜日にはヘントに着き、陛下のご命令をお待ちいたします。

謹んで……

第五十八号――タレーラン公からルイ十八世へ

ウィーン、一八一五年五月二十七日。

陛下

この八日間、私が抱いてきた不安を、今ではすべて陛下に申し上げることができます。いくつかの点を未決のまま残さざるを得ない事情から、会議の最終文書への調印を、別の時期に延ばすべきではないかという問題が持ち出されました。かなり強い陰謀が、その方向へ動いていました。狙いは、決着済みの事柄を再び問題にし、決めるべき事柄のいくつかを決めずに済ませることでした。すべての列強の結束を告げるはずの文書に、陛下のお名前を記すことほど、陛下の利益に大切なものはありません。そのため、この目的を果たすべく、私は全力を尽くさねばなりませんでした。イギリス使節団とオーストリアが、たいへんよく助けてくれました。調印は、明日か明後日になります。

スイス連邦議会が、そこに派遣された各国公使へ送った宣言と、それらの公使とスイス側の公使との間で調印された協定を、陛下にお送りいたします。宣言では、スイスが中立を保とうとしているように見えますが、協定が明確に示すその意図は、ヨーロッパの大義のために、求められる限りのことをすべて行うというものです。同盟軍の将軍たちが判断する緊急の必要があれば、スイス領を同盟軍が通過することを認めます。昨日、ウィーンの各国公使に届いた書簡は、どれも、この望ましい目的を果たすためにオーギュスト・ド・タレーラン氏がしたことを、たたえています。同盟国は、スイスの行動が、道義の面でも軍事の面でも、この上なく役に立つと見ています。

ウィーンから陛下に書き送ることは、これでもうございません。これから旅立ち、陛下の御前に、敬意と忠誠を捧げに参ります。

書類は一切、携えてゆきません。

謹んで……

第八部終わり

第九部

第二次王政復古

一八一五年

第二次王政復古

(一八一五年)

私のウィーン出発は、五月二十七日の書簡で国王に知らせた日から、さらに何日も遅れた。会議の最終議定書への調印を阻むために仕組まれた陰謀は、まだ負けを認めておらず、私の忍耐が尽きるのを待っていた。しかし、譲歩しないことがどれほど大切かを十分に感じていたので、私は投げ出さなかった。結末が長く不確かなままになるかもしれない戦争を始める前に、列強から、書面で、調印済みの、取り消せない約束を得ることが、絶対に必要だと信じていた。同じ列強が勝利したあと、その約束を破ることも、私たちの側が、その余地を彼らに与えるという過ちを犯すことも、誰にも予想できなかった。いずれにしても、自分の務めは明らかだと思い、私はそれを果たした。私がウィーンを離れたのは六月十日で、会議の最終議定書はその前日に調印されていた。すでに述べたとおり、ワーテルローの戦いの結果を知ったのは、ベルギーに着いてからだった。

私がブリュッセルに着いたとき、国王はすでにヘントを発っていた。追いつくことができたのはモンスである。国王はイギリス軍のあとについて進んでいた。まさに、私が防ぎたかったことだった。伺うと、国王は馬車に乗ろうとしているところだった。私にかける親切な言葉を、いくつか探しておられた。私は、フランスへ戻ろうとしておられる、そのやり方を見るのが、この上なくつらいと率直に申し上げた。外国人の隊列の中に姿を現すべきではないこと、ご自身の大義を損なっていること、こうして国民の誇りを傷つければ、ご本人への愛着を冷ましてしまうことを申し上げた。私の考えでは、何らかの護衛を伴って、できれば護衛なしで、まだ外国軍が入り込んでいないフランス国境の一地点へ向かい、そこに政府を置くべきだった。この計画を実行するには、重要性からも位置からも、あらゆる点でリヨンがふさわしいと申し上げた。私は言った。『国王はリヨンからなら、同盟国から完全に独立して、権力を行使できます。お望みなら、私が先に行き、この町の人々の気持ちをご報告に参ります。リヨンへ到着したら、忠実な臣民に呼びかけることができます。誤った道へ導かれた者たちこそ、おそらく真っ先に応じるでしょう。そこで両院を召集し、党派心が妨げを持ち込む前に、すべての組織法を作る時間が得られます。リヨンからならフランスを守れますが、パリからでは守れません。同盟国が、今収めた勝利のあとで、態度と言葉を変え、フランスのためにしか得るつもりはないと、あれほど厳かに宣言した勝利を、フランスに不利な形で利用したがる場合を、予想せねばなりません。』私はさらに続けた。『いくつもの兆しが、そのような変化を恐れさせます。彼らが原則に立ち戻ったのは、あまりに最近のことです。要求に合わせて権利を測り、力に合わせて要求を測ることに慣れた人々から、何も恐れずに済むほどではありません。もし彼らが同盟者の役割を捨て、敵の役割を取り、国王が彼らと交渉せねばならなくなったなら、ご自身の首都ほど、彼らの言いなりになる場所はありません。』だから私は、国王が誰とも権力を分けずに君臨でき、パリが党派の扇動者からも、すべての外国軍からも解放されてから、帰還なさるよう強く求めた。そして、別の道をお選びになるなら、私には国務を指揮することができない、と申し上げて説明を終えた。辞職を申し出て、以下に掲げる覚書[236]をお渡ししたあと、退出した。この覚書は、会議での私たちの仕事を要約し、第一次王政復古で犯した過ちを正すのに適していると、私が考えた手段を述べたものである。

報告書 — ヘントからパリへ向かう旅の途中、国王に提出したもの

『陛下

一八一四年四月、フランスは三十万の外国軍に占領され、さらに五十万が後に続く用意をしていました。国内に残っていたのは、驚くべき勇気を示してきたものの、疲れ果てた、わずかな兵士だけでした。国外には大兵力がありましたが、分散して連絡を断たれ、もはやフランスの役に立つことも、互いに援助することもできませんでした。その一部は遠方の要塞に閉じ込められていました。多少長く持ちこたえることはできても、ただ封鎖されるだけで、必ず落ちるほかありませんでした。二十万のフランス人が捕虜になっていました。このような状態では、何としても休戦を結び、戦闘をやめねばなりませんでした。休戦は四月二十三日に成立しました。

この休戦は、必要だったばかりではなく、きわめて政治的に賢明な措置でした。何よりもまず、同盟国が武力に代えて信頼を置けるようにしなければならず、そのためには、彼らに信頼を抱かせる必要がありました。また、この休戦は、すぐにも、将来にも、フランスを助けうるものを、何一つ奪いませんでした。フランスが保てるという、ごくわずかな希望でも持てたものを、何一つ奪わなかったのです。要塞の明け渡しを講和まで遅らせれば、条約の条件を改善できたと考える人々は、要塞を返さずにフランスで休戦することは不可能だったことを知らないか、忘れています。それだけでなく、占領を長引かせようとすれば、同盟国の疑念を招き、そのために態度を変えさせてしまったでしょう。

その態度は、フランスが望みうるものであり、当然期待できるものより、はるかによいものでした。同盟国は解放者として迎えられていました。その寛大さへの惜しみない賛辞が、実際に寛大さを示すよう促していたのです。その感情が熱を帯びている間に利用し、冷める時間を与えてはなりませんでした。戦闘を止めるだけでは足りず、フランス領から撤退させる必要がありました。陛下がただちに、ふさわしい地位を占められるよう、フランスの利害をすべて決着させ、その運命に不確かさを残さないことが必要でした。したがって、できる限りよい条件で講和し、それがもたらす利益をすべて得るには、急いで調印する必要があったのです。

五月三十日の条約によってフランスが失ったのは、征服したものだけでした。しかも、その条約で終わった戦争の間に征服したものを、すべて失ったわけですらありません。安全に不可欠なものは、何一つ奪われませんでした。失ったのは支配の手段であり、それは繁栄や幸福の手段ではありませんでした。また、永続する平和の利益と両立させて保てるものでもありませんでした。

一八一四年の講和の性格を正しく判断するには、同盟諸国の国民が受けた印象を考えねばなりません。サンクトペテルブルクのアレクサンドル皇帝も、ベルリンのプロイセン王も、冷淡に迎えられたばかりでなく、不満と非難の声に迎えられました。五月三十日の条約が、臣民たちの期待を満たさなかったからです。フランスは各地で莫大な戦時賠償金を徴収していましたから、今度はフランスから徴収されると期待されていました。しかし、フランスは何も払わずに済みました。征服によって得た美術品もすべて保ち、記念建造物もすべて尊重されました。似たような状況で、歴史上どの時代にも例のない節度をもって扱われた、と言ってよいのです。

フランスに直接関わる利害はすべて決着しましたが、ほかの国々の利害は、将来の会議の決定に委ねられていました。フランスもその会議に招かれました。しかし、全権委員たちが到着してみると、五月三十日の条約で消えるはずだった激情、払拭されるはずだった偏見が、条約締結後に、そしておそらくは、その条約が列強に残した後悔のためにさえ、再燃していました。

そのため列強は、まるで戦争がまだ続いているかのように、引き続き自分たちを『同盟国』と称していました。先にウィーンへ到着し、フランスの参加は形式だけにとどめると、議定書に書いて取り決めていました。フランス使節団は、早くからその議定書の存在を疑っていましたが、内容を知ることができたのは、四か月後でした。

陛下のお手元にある、一八一四年九月二十二日付[237]の二つの議定書には、要するに、次のように記されていました。『同盟列強は、議論すべきあらゆる問題について、主導権を取る。』――同盟列強という名で指されていたのは、オーストリア、ロシア、イギリス、プロイセンだけでした。この四か国は、条約の上でも目標の上でも、ほかのどの国に対してよりも、互いに固く結ばれていたからです。

『処分可能な諸領地の配分は、この四か国だけで合意する。ただし、フランスとスペインには、意見を述べ、異議を申し立てることを認め、その際には、両国とそれらを議論する。』

『四か国の全権委員が、ワルシャワ公国、ドイツ、イタリアの領土配分について、ほかの二か国の全権委員と会議をするのは、この三つの問題のそれぞれを、四か国間で完全に、全員一致で決着させてからとする。』

したがって、フランスには会議で、完全に受け身の役を演じさせるつもりでした。そこで行おうとすることに加わるより、ただ眺めているだけの国とするつもりだったのです。フランスは、相次ぐ侵略の記憶に養われた不信の対象であり続け、つい最近までヨーロッパにもたらしていた災厄の感覚がかき立てる、敵意の対象でもありました。恐れられなくなったわけではなく、その力にはなお怯えがありました。そして、もっぱらフランスに対抗する体制にヨーロッパを組み立てることでしか、安全は得られないと考えられていました。要するに、対仏同盟は、そのまま続いていたのです。

あらゆる機会に、ベルギーとライン川左岸を取り戻す考えを自発的に捨てることこそ、フランスの利益であり、今や名誉でもあると主張し、陛下の軍隊の主要な将校たちをさえ説得しようと努めたことを、多少の喜びとともに思い返すのを、陛下もお許しくださるでしょう。この愛国的な放棄なしには、フランスとヨーロッパの間に平和は存在しえないと、私は考えていました。実際、フランスはもはやこれらの領地を持っていなかったのに、その国力の大きさが、ヨーロッパを恐怖のうちに置き、敵対する姿勢[238]を保たせていました。私たちの力はそれほどのものなのです。ヨーロッパの力が最大となり、フランスの力が最小となった今日でさえ、ヨーロッパは、これから始める戦いの成功を疑っています。この点についての私の意見は、陛下のお気持ちを表しただけでした。しかし、陛下の重臣の大半も、それ以外の点では立派な著述家たちも、軍隊も、国民の大部分も、この節度を共有していませんでした。それなしには、長く続く平和はおろか、平和の姿さえありえないのですが。フランス全体のものと見なすにも多少の理由があった、この野心的な気構えは、その力の引き起こす恐れを増し、正当化していました。

そのため、公の新聞は、フランスとその全権委員に対する、当てこすりや非難[239]で満ちていました。全権委員たちは孤立し、会おうとする人は、ほとんどいませんでした。この偏見を持たない少数の公使でさえ、ほかの人々との関係を損なわないよう、私たちを避けました。何をしようとするときも、注意深く私たちから隠しました。私たちの知らないうちに会議を開き、会議の初めにドイツの連邦組織のための委員会を作った際には、参加する公使は皆、そこで起きることを何も私たちに伝えないと、名誉にかけて約束せねばなりませんでした。

陛下の政府は、疑われていたような目標を一つも持たず、自分のために要求するものもなく、何も要求するつもりはありませんでした。それでも、会議で定められるべきことはすべて、陛下の政府にとって、きわめて重要でした。その定め方に関する利益は、一部の列強の現在の、一時的な利益とは異なっていましたが、幸いにも、大多数の国々の利益に一致し、すべての国々の持続的、恒久的な利益にさえ一致していたのです。

ボナパルトは、あまりに多くの政府を滅ぼし、あまりに多くの領地と、さまざまな住民を自分の帝国に併合していました。そのため、フランスがヨーロッパの敵であることをやめ、ほかの国々と友好関係[240]を保てる国境の内側に戻ると、ヨーロッパのほとんどあらゆる地域に、政府のない広大な土地が現れました。領地を奪われながら、完全には滅ぼされなかった国々も、失った領地を取り戻せませんでした。その一部は、のちにその国々と同盟を結んだ君主の支配下に移っていたからです。そこで、フランスの放棄によって空いた土地に政府を与え、フランスに領地を奪われた国々に補償するには、その土地をそれらの国々に分配する必要がありました。人間の尊厳を損なう、人と土地のこうした配分に、どれほど嫌悪を抱くべきであっても、それは避けられなくなっていました。自分の力を破壊にしか使わなかった政府による、暴力的な簒奪が、残された瓦礫から再建せねばならない、この必要を生み出したのです。

ザクセンは征服下にあり、ナポリ王国は簒奪者の手にありました。これらの国々の運命を決める必要がありました。

パリ条約は、これらの処置を、ヨーロッパに実質的で永続する均衡を築くように行うと定めていました。この原則に従うべきことを否定する国はありませんでした。しかし、一部の国々は、それぞれの思惑のため、その目的を果たす手段について、誤った考えを抱いていました。

一方、この均衡を築いても、同時に、ヨーロッパの将来の平穏の基礎の一つとして、ある原則を据えなければ、無駄になったでしょう。それは、各国の国内の平穏を保障できる唯一の原則であるとともに、国家間の関係が、もっぱら力の支配だけに置かれることを防ぐ原則です。

フランスへ帰還なさる際、陛下は、全面的に道義に基づく政治の原則も、ともに復活し、ご自身の統治の規範となることをお望みでした。それが各国の内閣にも届き、国と国との関係にも現れる必要があると感じておられました。そのため私たちに、陛下がお持ちになるべき影響力のすべてを使い、集まったヨーロッパ諸国がその原則を尊重するよう、全力を尽くすことをお命じになりました。陛下がお取りかかりになろうとしたのは、全般にわたる復興だったのです。

この事業には、多くの障害がありました。革命の影響は、フランス領の中だけにとどまりませんでした。武力によって、あらゆる激情を励ますことによって、また、放縦への広い呼びかけによって、国外へ広がっていました。オランダとイタリアのいくつかの地域では、何度も、正統な政府が革命政府に置き換えられるのを見ていました。ボナパルトがフランスの支配者となってからは、征服という事実だけで主権を奪えるようになったばかりではありません。単なる布告によって君主が王座を追われ、政府が滅ぼされ、国そのものが消されるのを見ることに、慣れてしまっていたのです。

このような状態が続けば、すべての文明社会の破滅を必ず招くはずでした。それでも、慣れと恐怖のために、なお受け入れられていました。また、それが一部の列強の一時的な利益にかなっていたので、いくつかの国は、ボナパルトを手本にするという非難を、十分に恐れませんでした。

私たちは、この誤った見方の危険をすべて示しました。政府の存続を、一党派や戦争の成り行きに委ねる体制では、すべての政府の存在が、この上なく危うくなることを明らかにしました。そして最後に、政府の正統性を確立するのは、何よりも諸国民の利益のためだと示しました。正統な政府だけが安定しうるからです。正統でない政府は、力以外の支えを持たず、その支えがなくなれば、自ら崩れます。そうして国民を、終わりの見通せない革命の連鎖に渡してしまうのです。

これらの原則は、一部の宮廷の政治には厳しすぎ、イギリスがインドで取る体制に反し、おそらくロシアにとっても不都合でした。少なくともロシアは、それほど古くない、いくつもの正式な行為で、自らこの原則を無視していました。そのため、長い間、耳を傾けてもらうのは困難でした。私たちがその重要さを感じさせることに成功する前に、同盟列強は、すでにそれに全く反する取り決めをしていたのです。

プロイセンは、ザクセン全土を要求していました。ロシアも、プロイセンのためにそれを要求していました。イギリスは正式な外交文書で、ザクセンをプロイセンへ渡すことに、留保なく同意しただけではありません。それをすることが正しく、有益だと示そうとさえしていました。オーストリアも、国境の若干の修正を除けば、正式に賛成していました。こうしてザクセンは、オーストリア、ロシア、イギリス、プロイセンの間で、フランスを関与させずに行われた個別の取り決めによって、完全に犠牲にされていました。

しかし、フランス使節団の言葉と、筋道を踏まえ、真剣で、一貫し、野心的な思惑を一切離れた、その歩みが、印象を与え始めていました。周囲で信頼が蘇るのが見えました。私たちの言うことは、フランスだけでなく、ヨーロッパと個々の国の利益のためでもあると、人々が感じるようになっていました。私たちが指摘した危険に、目を開くようになりました。オーストリアが真っ先に、ザクセンについて、いわば最終的に決まっていたことを見直そうとしました。そして、一八一四年十二月十日、ハルデンベルク公に渡した外交文書で、この王国を滅ぼすことは許さないと宣言しました。

これが、陛下が私たちに示された道を進んで得た、最初の成果でした。

陛下にお送りした書簡で、直面する困難や、案件の進み方の遅さについて、たびたび不満を申し上げたことを、私は反省しています。今では、その遅さをありがたく思います。もし案件がもっと速く進んでいたなら、三月前には会議が終わり、君主たちは首都へ、軍隊は自国へ戻っていたでしょう。そのときには、どれほど多くの困難を乗り越えねばならなかったことでしょう。

メッテルニヒ氏が十二月十日の外交文書を正式に知らせてくれたので、私はフランスの意見を聞いてもらえるようになり、メッテルニヒ氏とカスルレー卿に、政治上の信条をすべて述べた文書を送りました。陛下はフランスのために何も要求なさらず、誰のためにも、ただ正義しか要求なさらないこと、何にもまして望んでおられるのは、革命が終わり、それが生んだ教義が、もはや国と国の政治的な関係へ入り込まないことであると、私は宣言しました。そうすれば、各政府は、革命に脅かされたり、襲われたりした場合にも、それを防ぐか、完全に終わらせることができるのです。

これらの宣言によって、初め私たちに向けられていた不信は、すっかり消えました。すぐに、それとは反対の気持ちに変わりました。私たちの協力なしには、何も行われなくなりました。相談を受けるだけでなく、私たちの賛同が求められるようになりました。世論も、私たちに対して全く変わりました。そして、初め置き去りにされていた孤立に代わり、あれほど怯えていた人々が、大勢訪れるようになったのです。

ザクセン王国の全土を渡すという、プロイセンへの約束を取り消すのは、オーストリアよりイギリスのほうが難しいことでした。外交文書の表現が、より断定的だったからです。オーストリアと違い、イギリスは、一八〇六年以来プロイセンの受けた損失を、その希望にかなう領地で完全に補償するための、ほかの手段が見つからない場合に限る、という条件を付けていませんでした。また、イギリスの大臣たちは、その立場から、一度入った道を外れれば、イギリスでいう『信用』を失うことになります。そして、その道を選ぶ際にも、常に議会が抱くと思われる意見に従うのが、その政策でなければなりません。それでもイギリス使節団は、自分たちの約束を見直し、方針を変え、ザクセン王国の滅亡を望まなくなり、フランスへ近づくようになりました。さらに、フランスとオーストリアとの同盟条約によって、結ばれるようになったのです。この条約は、共通の利益によって、いずれ互いに支え合うはずの列強が、初めて接近したものとして、特に注目すべきものでした。一月三日に調印され、バイエルン、ハノーファー、ネーデルラントも加入しました。このとき初めて、平和が結ばれても存続していた対仏同盟が、実際に解消されたのです。

そのときから、大多数の列強が私たちの原則を採用し、ほかの国々も、それに長くは反対しないと示しました。したがって、残っていたのは、ほぼ、その原則を適用することだけでした。

オーストリアとイギリスの支援を失ったプロイセンは、なおロシアに支持されてはいましたが、ザクセンの一部を受け取るだけに、要求をとどめざるを得なくなりました。こうして、運命は取り消しがきかないほど決まり、滅亡が宣告されたかに見えた、この王国は、破滅から救われたのです。

ボナパルトは、武力でナポリ王国を占領したあと、諸国民の独立を無視し、まるで自分自身の所有物で、ただの領地を与えるかのように、一人の将軍へ、受けた奉仕への褒賞として与えました。そのような権利に基づく王国の所有を認めておくことも、正統性への、同じくらい重大な侵犯となるはずでした。その将軍の没落は準備されており、本人が侵略によって決定づけたときには、すでに疑いのないものとなっていました。その侵略から、わずか七週間ほどしか経っていませんが、簒奪者はもはや君臨しておらず、フェルディナンド四世が、すでに王座へ戻っています。この重要な問題では、イギリスの内閣は、野党の無分別で場違いな騒ぎや、イタリア各地でイギリス人旅行者が行った軽率な策動にもかかわらず、フランスの方針に全面的に加わる勇気を示しました。

フランスは、会議でのほかの取り決めの大半が、どのように決着したかについても、満足してよいものを得ていました。

サルデーニャ王には、現在在位している家系に男の後継者がいませんでした。そのためオーストリアが、王の娘の一人と結婚した大公に王位を継がせようとする恐れがありました。そうなれば、北イタリア全体が、オーストリアか、その一族の君主の手に入ってしまいます。カリニャーノ家がサルデーニャ王の領国を継承する権利は、認められました。この領国は、ジェノヴァ地方を加えて大きくなり、あらゆる点でフランスと結びつく一族の世襲領となります。こうして、イタリアにおけるオーストリアの力に対し、この地方の均衡を保つのに必要な釣り合いをなすでしょう。

ワルシャワ公国のどの部分もロシアに渡さずに済ませることはできませんでしたが、少なくとも、その半分は、以前の所有国へ戻りました。

プロイセンは、ルクセンブルクもマインツも得ませんでした。どこにおいてもフランスと国境を接せず、どこでも、ネーデルラント王国が間を隔てました。領土が拡大したこの王国の自然な政策によって、フランスは何も恐れる必要がないと保障されます。

スイスには、永世中立という恩恵が保障されました。この方面の国境が開けていて、守りのないフランスにとっても、それはスイス自身にとってと同じくらい、大きな利益でした。しかし、この中立は、現在スイスが、ボナパルトに対するヨーロッパの努力に加わるのを妨げません。スイスが望み、永遠に保障された中立は、各国の間で起こるあらゆる戦争において享受するものです。しかし、一つの国民に対して行われるのではない戦争、ヨーロッパが自らの救いのために、やむなく始める戦争、ほかのすべての国と同じく、スイス自身にも関わる戦争では、その恩恵を要求すべきではないと、スイスも感じていました。そして、その位置、組織、資源の許すやり方で、ヨーロッパの大義に加わることを望んだのです。

フランスはパリ条約で、定められた期限が過ぎたら、黒人奴隷貿易を廃止すると約束していました。もし、ほかの海洋国家が、この措置を生んだ人道の感情を共有せず、同じ措置を採らなかったなら、それはフランスが払った犠牲、行った譲歩と見なされたかもしれません。

これらの国のうち、なお奴隷貿易をしていたのはスペインとポルトガルだけでしたが、両国もフランスと同じく、廃止を約束しました。確かに、より長い猶予を留保しました。しかし、植民地の必要を考え、やや遅れたこれらの国々で、この問題についての世論を整えるためにどれほどの準備が必要かを考えるなら、比率としては、その猶予はむしろ短いのです。

ライン川とスヘルデ川の航行には、どの国にも同じ、一定の規則が適用されました。この規則によって、沿岸の国は、航行に独自の障害を設けたり、自国の臣民に定められたものと異なる通行税を課したりすることができなくなります。この取り決めは、通商を容易にすることで、ベルギーとライン川左岸からフランスが得ていた利益の、大きな部分を取り戻させるものです。

すべての主要な問題は、フランスの満足する形で決着しました。期待してよい限り、あるいは、それ以上であったかもしれません。細部でも、ほかの国々と同じく、フランス特有の都合が考慮されました。

列強が偏見を脱し、確かな秩序を築くには、どの国も、要求する権利のある利益をそこで得ねばならないと感じるようになってからは、ほかの国を害さないものを、それぞれの国に与えようと、誠実に努めていました。この事業は、途方もなく大きいものでした。二十年の混乱が壊したものを作り直し、公正な取り決めで相反する利害を調整し、部分的な不利益[241]を、より大きな利益で埋め合わせ、政治制度と力の配分についての絶対的な完全さという考えさえ、永続する平和の確立に従わせる仕事だったのです。

主な障害は乗り越えられ、最も難しい問題も解決されていました。何一つ未決のまま残さないよう、作業が進められていました。ドイツは、会議の討議に期待していた連邦憲法を、間もなく得るはずでした。それによって、世論の中に見える、南部同盟と北部同盟を形成しようとする傾向を、抑えることができたでしょう。列強はイタリアでも、公正で賢明な取り決めによって、何世紀もこの国の人々を苦しめてきた、頻発する革命の再来に、有効な障壁を築こうとしていました。有益な措置にも取り組んでいました。それによって、各国相互の利益を保障し、接点や、産業・通商上の関係を増やし、自由を重んじる政治の原則に従って、役に立つあらゆる交通・連絡手段を改良し、容易にするはずでした。

最後に私たちは、一時の必要や計算から生まれる、つかの間の同盟に代えて、共同の保障と全般的な均衡から成る恒久的な体制を作り、会議がその仕事を締めくくるものと期待していました。私たちは、その利益を、すべての列強に認めさせていました。カスルレー卿は、この考えに沿って、非常によい条文を起草させていました。オスマン帝国も、この広い保護の中に入っていました。イギリスと私たちがそれを知らせたことも、ボナパルトが試みたあらゆる働きかけを退けると、オスマン帝国が決めた一因だったかもしれません。こうして、ヨーロッパに築かれた秩序は、関係するすべての国々の、絶えざる保護の下に置かれるはずでした。賢明に協議した行動や、誠実に結集した努力によって、その秩序を脅かすあらゆる試みを、芽生えた瞬間に摘み取るはずでした。

そうなれば、革命は止められていたでしょう。政府は内政に力を注ぎ、国民の必要と願いにかなう、実質的な改善を行い、過去の危険や激動によって、残念ながら中断を余儀なくされた、数多くの有益な計画を実行できたでしょう。

ヨーロッパが、平穏と将来の幸福に確かな基礎を与えられるようになったのは、陛下の政府が復活したからでした。その利益、原則、願いは、すべて平和の維持へ向いていました。陛下が王座にとどまられることは、この大事業を完成させるのに必要でした。陛下をしばらく国民から引き離した、あの恐ろしい破局が、事業を中断させました。諸国民の繁栄に向けようとしていた配慮を脇へ置き、脅かされたその存在を救う手段に取り組む必要が生じました。計画していた事柄のいくつかは別の時期に延ばさねばならず、ほかの事柄も、それに専念できた場合に比べて、十分に熟考し、吟味しないまま決めねばなりませんでした。

会議はこのように、始めた仕事を未完成のまま残さざるを得なくなりました。そのため数人が、仕事を完成できる時まで、それを正式に承認する文書への調印を延期しようと言い出しました。

いくつかの内閣が、その方向へ動きました。ひそかに、これから起こる出来事を利用したいと望んでいたのかもしれません。私は、この延期を、陛下にとって非常に大きな災いと考えたはずです。列強の意図が不確かなままになること以上に、ヨーロッパ全体にこれほど深く関わり、現在の事情にもかかわらず、陛下が主要な当事者の一人として現れる文書が、フランスの世論にもたらすはずの効果を失うからです。そこで私は、調印されるよう、自分にできる限りのことをすべてせねばなりませんでした。そして、ようやくそう決まったことを、幸運に思います。

外国の宮廷で陛下の政府が受けるべき尊重は、大国の一員に当然属する尊重を、その臣民にも得させてこそ、完全なものとなりえました。フランス人は、自分たちが与えた恐怖のために、それを失っていたのです。一八一四年十二月以来、どんな用件であれ、ウィーンへ来たフランス人で、特別に厚遇されなかった者は一人もいませんでした。そして、一八一五年三月七日、ボナパルトのフランス到着が知られた日には、この町で、フランス人であるというだけで好意を受けるようになっていた、と陛下に申し上げられます。陛下がこの大きな和解をどれほど重んじておられたか、私は承知しております。この点についてのお望みが、完全に果たされていたとお伝えできることを、幸いに思います。

陛下が大使として私に添えてくださったダールベルク公、ラ・トゥール・デュ・パン伯爵、ノアイユ伯爵、そして、ウィーンへ同行した国務院顧問ラ・ベナルディエール氏が、交渉の成功にどれほど貢献したかをお伝えすることを、どうかお許しください。彼らは、所属する各委員会での仕事によって役立ったばかりではありません。社交の場での振る舞い、その言葉、そして自分たちと、代表する政府について人々に抱かせた評価によっても、役立ちました。これほど多くの障害を克服し、これほど多くの好ましくない態度を変え、これほど多くの悪い印象を消すことができたのは、彼らの見識ある協力のおかげです。ついには、陛下の政府がヨーロッパの討議で持つべき影響力を、すべて取り戻すことができました。

この重要な目的を果たしたのは、正統性の原則を守ることに専念したからでした。ウィーンにいた各君主と、会議の全参加者が、一月二十一日の贖罪の式典に出席したことは、この原則への、輝かしい敬意の表明でした。

しかし、この原則が会議で勝利している間、フランスでは攻撃されていました。

このことについて、これから陛下に申し上げる事柄は、パリより、遠くからのほうが、はっきり見えたのかもしれません。フランス国外では、注意をそらされることが少なく、事実はまとまって届きます。その場では本質を見誤らせるかもしれない付随する事情も取り除かれているので、ある程度離れていたほうが、正しく判断できるはずです。それでも、私だけの観察であれば、十分な自信は持てなかったでしょう。国外で長い任務を果たした以上、外務省がすべての在外の職員に命じていることを、陛下に対して行うのが、私の務めです。職員は、政府のさまざまな行為について、赴任先の国で抱かれた意見と、それが見識と注意力のある人々に、どんな考えを生じさせたかを、報告せねばなりません。

一定の状態なら、たとえその原則が自分を傷つけるものであっても、折り合うことができます。将来への不安を残さないからです。しかし、日々変わる状態とは折り合えません。毎日、新しい恐れを生み、その終わりがどこかもわからないからです。革命派は、陛下の政府の最初の行為については、すでに覚悟を決めていました。彼らが恐れたのは、十五日後、一か月後、六か月後に行われたことでした。だから、元老院からの排除[242]は受け入れていたのに、重要さでは劣る学士院からの排除[243]には耐えられませんでした。破毀院で行われた変更も、陛下が有益とお考えだったのであれば、八か月早く行われるべきでした[244]。

正統性の原則は、正統な権力を守る人々の過ちによっても、おそらく、より危険なやり方で攻撃されていました。彼らは、権力の源泉と、その行使という、まるで異なる二つのことを混同していました。そして、権力は正統であるという、まさにその理由で、絶対的でもあるべきだと信じるか、信じているかのように行動していました。

しかし、権力がどれほど正統であっても、その行使は、対象、時代、場所に応じて変わらねばなりません。私たちの生きる時代の精神は、大きな文明国家では、最高権力を、それが統治する社会の中から生まれた機関の協力を得てのみ、行使することを求めています。

この意見に逆らうことは、普遍的な意見に逆らうことでした。王座の近くにいる多くの人々は、それに反する意見を述べていたため、政府に重大な害を与えていました。陛下の力はすべて、人々がその美徳と誠実さについて抱く考えにありました。いくつかの行為は、それを弱める方向に働きました。このことについては、憲法憲章のいくつかの規定が、無理な解釈や細かな理屈によって、かわされているように見えたことだけを挙げます。とりわけ、法律に基づく制度を覆す勅令に、それが見られました[245]。すると人々は政府の誠実さを疑い始めました。政府は憲章を、事情の困難さに譲った一時的なものとしか考えておらず、代表機関の監視がその余地を残せば、形骸化させるつもりなのではないか、と疑いました。反動への恐れが生まれ、いくつかの人事が、その恐れを増しました。例えば、ブルージュ氏[246]をレジオン・ドヌール勲章の総裁に任じたことです。本人にどんな資質があったとしても、この任命は、フランスで誰からも歓迎されず、陛下には申し上げねばなりませんが、ヨーロッパでも誰もが驚きました。

この不安によって、革命派の誤りを共有していなくても立憲の原則を重んじる人々と、革命の教義ではなく、その影響の下に行われたことを維持することに利害を持つ人々が、すべて革命派の側へ集まりました。

ボナパルトが軍隊の外でいくらかの支持者を得、軍隊の中でさえ支持者の大部分を得たのは、本人への本当の愛着というより、これらの原因によるものでした。彼らは革命とともに育ち、あらゆる結びつきによって[247]、その指導者だった人々に結ばれていたからです。

正統性の利益がどれほど大きくても、そこから濫用が生じうることも、隠してはなりません。この点については、根強い考えがあります。革命前の二十年間、政治に関するあらゆる著述は、その濫用を知らせ、誇張する方向へ向かっていたからです。正統性の利益は、すべて将来を見越すものなので、それを正しく評価できる人は少ないのです。濫用はいつでも、あらゆる機会に現れうるため、誰もがその印象を強く受けます。この二十年間、十分に考える時間を取り、政府が正統でなければ安定できないと学んだ人が、誰であったでしょう。正統でない政府は、あらゆる野心に、倒して別の政府に置き換えるという希望を与えるため、常に脅かされ、いつでも発酵し始める革命の種を、内に抱えているのです。残念ながら、人々の心には、正統性は、君主がどう統治しても王冠を保つことを保障するため、あらゆる法律の上に立つのを、あまりに容易にするという考えが残っています。

今日、すべての国民に見られるこの気持ちの中で、あらゆること、とりわけ政治の問題が、議論され、吟味され、分析される時代にあって、人々は、正統性とは何か、どこから来るのか、何がそれを成り立たせるのか、と問います。

宗教的な感情が心に深く刻まれ、精神を全面的に支配していたときには、人々は、主権が神から流れ出るものと信じることができました。天の加護が王座に据え、その意志が長くそこに保ってきた家系は、神から授けられた権利によって、自分たちを治めるのだと信じることができました。しかし、その感情がかすかな跡しか残さず、宗教の結びつきが、切れていないとしても、少なくとも非常に緩んでいる時代には、正統性のそのような起源は、もはや認められません。

今日の一般的な意見は、政府はもっぱら国民のために存在する、というものです。それを弱めようとしても無駄でしょう。この意見から必然的に導かれるのは、国民の幸福と平穏を最もよく保障できるものこそ、正統な権力である、ということです。そこから、正統な権力は、長い年月にわたって存在してきたものだけである、と導かれます。実際、この権力は、過ぎた時代の記憶が呼び起こす敬意と、支配者の家系に人が自然に抱く愛着によって強められます。長く保ってきた地位も、その味方となります。個人の財産を律する法律では、長く所有していることが権利となるので、誰の目にも、それは権利となるのです。そのため、この権力は、ほかのどの権力よりも、国民の運命を革命の有害な偶然へ委ねることが少ないのです。したがって、それに従い続けるよう命じるのは、国民の最も大切な利益そのものです。しかし、不幸にも、この権力の濫用が、それのもたらしうる利益に勝ると思われるようになれば、正統性は空想にすぎないと見られるようになります。

では、国民に正統な権力への信頼を与え、その安定を保障する敬意を保つには、何が必要でしょうか。その権力が与えうる恐れの理由を、すべて取り除くように組み立てれば、それで十分です。しかし、それは不可欠でもあります。

そう組み立てることは、臣民だけでなく、同じく君主の利益でもあります。今日では、絶対権力は、それを行使される人々にとってと同じくらい、行使する者にとっても、重い負担になるからです。

革命前のフランスでは、権力は古い制度によって制限されていました。司法、聖職者、貴族という大きな組織の働きによって調整されていました。それらは、権力の存在に必要な要素であり、権力が統治に用いるものでした。今日、それらの制度は壊され、それらの大きな統治手段は消えています。世論の退けない、別の手段を見つけねばなりません。むしろ、世論の示すようなものでなければなりません。

かつては、宗教の権威が、主権の権威を支えることができました。今日では、宗教への無関心があらゆる階級へ入り込み、広く行き渡ったため、それはできません。したがって、主権が支えを見いだせるのは世論だけです。そのためには、同じその世論と歩調を合わせて進まねばなりません。

政府には、国民を幸福にするための力がすべてあり、その反対になることは何もできない、と国民が認めれば、その支持を得られます。しかし、そのためには、政府の行動に恣意が一切入りえないという確信が必要です。善を行う意志があると信じるだけでは足りません。その意志が変わったり、用いる手段を誤ったりするのを、恐れるかもしれないからです。信頼が、君主の美徳や優れた資質に基づくだけでは足りません。それらは、君主自身と同じく、失われるものです。信頼は、永続する制度の力に基づかねばなりません。さらに、それ以上のことも必要です。制度が国民の幸福を保障できる性質のものであっても、それだけでは無駄です。今の時代の一般的な意見が、この目的を達するのに適した唯一のものと考える統治の形を、その制度が定めていなければ、なお国民に何の信頼も与えないでしょう。

人々は保障を求めています。君主のためにも、臣民のためにも求めています。そして、次のような場合には、保障がないと考えるでしょう。

個人の自由が、法律によって、あらゆる侵害から守られていなければ。

出版の自由が完全に保障されず、法律が、その悪用による犯罪を罰するだけにとどまっていなければ。

司法が独立しておらず、そのために、罷免されない構成員から成っていなければ。

ある場合に、裁く権限が、裁判所ではなく、行政機関や、ほかの何らかの組織に留保されていれば。

大臣たちが、自分たちに委ねられた権力の行使について、連帯して責任を負っていなければ。

責任を負う者以外も、君主の諮問に加われるのであれば。

最後に、法律が、三つの別々の意志を合わせて作る、一つの意志の表現でなければ。

古く、人口の多い社会では、必要とともに知性が発達し、知性とともに情念が発達しています。そこでは、公の権力も、それに応じた強さを得る必要があります。そして経験は、権力を分けることによって強められると、証明しています。

今日、これらの意見は、一つの国だけのものではなくなっています。ほとんどすべての国に共通しています。だから、どこでも憲法が求められています。どこでも、政治社会の発展の程度に応じた憲法を作る必要を感じ、どこでも、それを準備しています。会議がジェノヴァをサルデーニャに、ルッカをスペイン王女マリア=ルイサに与え、ナポリをフェルディナンド四世に返し、教皇使節領を教皇に返すのも、それらの地方の現在の状態が求め、または許すと見られた秩序を、条件として定めたうえでのことです。フェルディナンド七世の取る統治体制が、スペインにもたらすはずの結果を恐れ、時代の思想に調和する制度を領国に与えるという条件を、ヨーロッパから課されずに王座へ戻れたことを、痛切に悔やんでいない君主や大臣には、私は一人も会いませんでした。文明の進歩がまだ十分でなく、高度に文明が発達したことを前提とする制度を、国民が受け入れられない君主たちまで、それを自分自身も苦しむ不幸として嘆くのを、私は聞きました。

私は、集まったヨーロッパ諸国の討議の中で、これらの意見を集めました。君主やその大臣たちとの、あらゆる会談で、彼らがその意見を深く抱いているとわかりました。ロンドン駐在のオーストリア、ロシア両大使の書くすべての書簡にも、カスルレー卿の書簡にも、それが表れています。したがって、この報告書で陛下にお伝えするのは、私の務めでした。別れの拝謁の際、各君主が皆、次のことを陛下にお伝えするよう勧めた以上、なおさら避けられませんでした。陛下が留保なくこれらの意見を共有し、統治の唯一の規範とされなければ、フランスは決して平穏にはなれないと、彼らは固く確信しています。フランスでは、すべてを忘れ、何の制限もなく忘れねばならないこと、どんな排除も危険であること、すべての党派に保障があって初めて、君主にも保障があること、そして、その保障は、社会のすべての階級が十分と判断してこそ、十分となることです。各部分が誠実さを際立たせ、明白にするような、完全な体制へ到達するのが不可欠だと思われること、その体制は、初めから政府の目指す目的をはっきり示し、誰もが自分の立場を判断でき、誰にも不確かさを残さないものでなければならないことです。君主たちは、さらに付け加えました。フランスの平穏を保つことに、誰よりも関わっているように見えるのは陛下ですが、実際には自分たちも、同じくらい関わっているのです。今フランスの置かれた危機は、ヨーロッパ全体の存在を危うくしているからです。そして、今年行っている努力は、いったん自国へ帰れば、繰り返すのが難しくなるのです。

陛下が先ごろ臣民にお出しになった宣言を読んだあと、各君主は、残念に思った一節があるとも、私に言いました。陛下が、たいへん慎重な言い方ではあるものの、彼らの援助を受け入れることに甘んじた、と伝えておられるところです。そこから、援助を断ることもでき、そうすれば平和が続いていた、と受け取られるかもしれません。彼らは、それによって陛下が、フランスの目には、外国から押しつけられたように映るという不利益を、ご自身に招いたのではないかと恐れています。陛下の利益にこれほど反する考えを国民に定着させないため、陛下も、その周囲の人々も、あまり動かないほうがよいと考えています。そのために陛下がなさるべきことは、多くあります。抑え、さらには押さえつけねばならないのは、熱意だからです。彼らの見方では、陛下は、起きていることに協力するよりも、それを嘆いておられるように見えるべきです。ご自身か、側近を通じて、同盟諸国の君主と国民の間に立ち、できる限り戦争の害を減らすべきです。また、降伏した要塞の忠実さについて、同盟国を安心させるべきです。それらの要塞は、陛下の大臣たちがウェリントン公と結んだと私の考える取り決めに従って、陛下のお選びになる人々に委ねられるはずです。最後に彼らは、戦争を促しているように、ましてご自身で行っているように見えないため、陛下も、ご一族のどの王族も、同盟軍とともに姿を現すべきではないと考えています。政治がこれほどの配慮を示すことは、かつてありませんでした[248]。

これから起こる出来事によって、フランスのどこかが、ボナパルトのくびきから逃れられたなら、陛下はただちにそこへ向かい、閣僚を伴い、両院を召集し、王国全体が従っているかのように統治を再開するのが、最善だと思います。リヨンへの遠征計画を私が強く望んでいたのは、それが南部の諸地方に重大な効果をもたらすからでした。この遠征によって、今述べた考えを、大いに有利な形で実行できたでしょう。

軍隊のもとに、あまりに多くの委員を送るという知らせは、好ましく受け取られませんでした。陛下のあらゆる行動は、同盟国と協議し、ほとんどその承認を得るようにして、行うべきだと思います。この配慮は、彼らの心に、戦争の目的をはっきり位置づけるのに役立つはずです。その目的は、申し上げねばなりませんが、各内閣で、必ずしも同じではないかもしれません。イギリスは、ただ陛下の帰還だけを、強く望んでいます。しかし、ロシアがほかの組み合わせを考えないとは、保証できません。オーストリアも、帰還を望んでいるとは思いますが、同じ熱意を持っているとは言えません。また、プロイセンが、自国拡張の考えを第一に置かないとも言えません。

外国軍がフランスへ入ろうとする時に、陛下が臣民へ第二の宣言をお出しになることは、できないでしょうか。たとえ自分の望むものであっても、外国人からは何一つ押しつけられたくないと、当然の気持ちを抱く、フランス人の誇りに、十分な配慮を示すものです。

この宣言はまず、ボナパルトが、今回の戦争の原因と目的について誤らせようとしている世論に向けて、次のように述べられるでしょう。外国の列強が戦争を始めたのは、陛下の利益のためではない。彼らは、フランスには圧迫から解放されることだけが必要だと知っている。戦争は、自分たち自身の安全のためである。長年にわたってヨーロッパを災厄で押しつぶしてきた人物が、フランスの支配者でいる限り、ヨーロッパが最大の不幸に脅かされるという確信がなければ、戦争を起こさなかっただろう。したがって、戦争の原因は、ただこの人物がフランスへ戻ったことであり、主要な、直接の目的は、彼が奪った権力を取り上げることである。陛下は、戦争の害を和らげ、防げる災厄は防ぎ、荒廃を止めるため、フランス人に囲まれて、外国の君主と国民の間に仲介者として立つ。ご自身に向けられる配慮が、こうして領国の利益になることを望んでいる。戦争中に取ろうとする立場は、それだけであり、王家の王族が、外国軍とともに戦争に少しでも加わることは望まない、というものです。

次にフランスの内政へ話を移し、陛下は、必要と判断される保障をすべて与えるおつもりだと、お知らせになるのです。大臣の選択は、陛下が差し出せる最も大きな保障の一つですので、今から内閣の変更を告げようとされている、と。現在用いている大臣たちは、暫定的に任じられたにすぎないと、述べるべきです。フランスへ到着したとき、与える保障[249]が、すべての党派、すべての意見、すべての不安に対する保障となるよう、内閣を組織する余地を残しておきたいからです。

最後に、この宣言が国有財産にも触れ、憲法憲章以上に、明確に、断定的に、安心させる言葉で述べるのも、よいでしょう。憲章の規定だけでは、これらの財産を買った人々の不安を終わらせるのに、足りなかったからです。今、その不安を鎮め、わずかな口実さえ残さないことが、ますます大切です。その不安が国有林の売却を止めてきたからです。売却代金は、これまで以上に必要となるため、あらゆる手段で売却を促さねばなりません。

以上が、陛下が国民にお語りになるのが有益で、必要ですらあると、一般に考えられている精神です。私自身も、そう確信していると、陛下に申し上げます。とりわけ保障については、望まれるものを何一つ欠かさないことが、不可欠だと考えます。私があえて期待するように、陛下もこの意見をお持ちであれば、信頼なさる方々のうち数人に、この宣言の案を準備し、提出させるのがよいと、ご判断になるでしょう。

会議の期間中に行われた交渉の成果と、フランスの情勢がウィーンに与えた印象について、正確で完全な報告を、今、陛下に申し上げました。あとは、細かな、それほど重要でないことについて、お話しするだけです。

ウィーンにいる間、私の手元には、かなり多くの書類がたまりました。その大半は、私が必要とするほど重要なものではありません。残りもすべて陛下が写しをお持ちなので、持ち帰る必要はありませんでした。そのため、大部分を焼き、残りはウィーンで、信頼できる人物に預けてきました。

陛下にお伝えすべき事柄の性質から、ときには私にとって、たいへんつらいものにもなった、この長い仕事を、次の話で終えられることを、幸いに思います。各宮廷における陛下の大使、公使たちは、会議の全期間を通じて、どんな賛辞も及ばない熱意と忠誠を、絶えず示してきました。その立場は、初めは、私がウィーンでこれほど多くの妨害に遭ったのと同じ理由で[250]困難でした。その後は、三月初めから相次いだ不幸な出来事のために、困難となりました。彼らは、その困難そのものを、心に抱く陛下への愛着を示す、さらなる機会としか見ませんでした。また、その数人は、すでに[251]しばらく前から、大きな金銭上の窮地にあります。陛下がお委ねになったそれぞれの任地で、ふさわしく身を保つため、できる限りのことをすべてしてきました。彼らの置かれた状態を和らげる措置が、きっといくらかは取られていることと思います[252]。

タレーラン公』

この覚書も、私の言葉と同じく、国王には何の効果もなかった。国王は馬の用意を命じ、フランスへ馬車を走らせた。私が居所としてリヨンを挙げたのは、王国第二の都市であり、この方面ではオーストリア軍に追い立てられずに済むと知っていたからである。ライン川沿いとスイスを通れば、リヨンには速く到着できた。

私はモンスに二十四時間とどまった。その間、四方から知らせが届いた。中でも、次のメッテルニヒ公の書簡を受け取ったが、それは、私の考えを確かなものにするに十分な内容だった。

「マンハイム、一八一五年六月二十四日[253]。

親愛なる公よ、私が作成し、末尾にシュヴァルツェンベルク公が署名した、フランス人への呼びかけをお送りします。原則の上でも、言葉の上でも適切で、何より、私たちの進め方に合うと、認めていただけるものと期待しています[254]。

ヴァンサン氏、いなければポッツォ氏には、私たちの軍隊への王室委員の任命に異議を述べるよう、命令が出ています。それは全面的に国王に不利な結果を招くでしょう。この点については、ヴァンサンへの指示に譲ります。また、ご自身の参考のために、ウェリントン卿へ私が書いた書簡の写しを同封します。国王の名で徴発することから生じる利益を、卿が私に説こうとした書簡への返事です。私はそこに、同盟軍の将軍に対する不利益と無用な複雑さ、国内に対する重大な不利益しか見ません。ご自身の考えを貫いてください。国王をフランスへ向かわせてください。南でも北でも西でも、お望みのところへ。ただし、自分の国で、フランス人に囲まれ、外国の銃剣や外国の援助から離れて、お一人でおられるようにしてください。ボナパルト政府の方針を追うだけで、彼が用いようとする大きな武器は、亡命者という問題だと確信できます。国王は、自分の国で自分の国民の中に入った日、亡命者ではなくなります。国王が統治し、王軍は同盟軍から離れて行動せねばなりません。国王が国内に核を作ったら、私たちは、自分たちの軍のもとへ脱走してくる者を、すべて国王のもとへ向かわせます。

ヴァンサンの負傷[255]には、たいへん困っています。代わりの者を送るべきかどうかを知るため、消息を待っています。いずれにせよ、私たちとの仲介役となる人物が、おそばにいることは、非常に大切だからです。

こちらはすべて順調です。今やロシア軍が戦列に加わったので――この措置はよいものですが、有用とは到底言えません――作戦は、非常に力強く進められるでしょう。オーストリアの主力軍は二十五日、バーゼルでライン川を渡ります。フリモン軍は二十六日、ジュネーヴに着く予定です。別の軍は同じ日にモン・スニを越え、さらにもう一つの軍は、まもなく南部に上陸します。[訳注10]

中央では、前衛部隊が昨日、国境を越えました。国内から届く知らせは、動揺が大いに強まっていることを示しています。もっとも、この事実を証明するには、フーシェの報告だけでも十分です。親愛なる公よ、何らかの形で、間もなくまたお会いできることを願っています。

心を込めて

メッテルニヒ」

しかしモンスでは、国王の友人たちが私の周りで騒ぎ、国王のさらされる危険を説いていた。これほど熱心な友人たちの中に、シャトーブリアン氏がいるのには、大いに驚いた。彼は一八一四年末、ウィーンの私に書き送り、フランスで行われるすべてを、痛烈に嘆いていたからである。当時は、誰に対しても、何に対しても不満を示していた。国王の公使としてストックホルムへ送ろうとするのを、非常に奇妙なことと考え、最後には、ロシアに仕えることを願い出るつもりだと、私に宣言していた。その手紙は、外務省文書館の、ウィーン会議関係の書類の中にあるはずである。

ついには、国王がまったく困窮することになる様子、テュイルリーへ戻りたいという激しい願い、そして、国王が外国人の中で孤立すれば、その立場をただちにフランスに不利に利用されるのではないかという恐れを描く人々に、悩まされ、追い立てられた。私は自分自身の確信を捨て、国王を追ってカンブレーへ向かい、国王と同じく、イギリス軍の荷車の列に身を置くことになった。

私のカンブレー到着には、少なくとも、国王から第二の公の宣言を得るという結果があった。六月二十五日にカトー=カンブレージで出された、あれほど不運な宣言の悪影響を、完全に修復するには至らなくても、和らげることのできるものだった。私が起草し、国王が書き写し、私が副署した宣言を、ここに掲げる。あのような状況で言える最善のことだったと、今でも思う。

ルイ十八世の宣言

[一八一五年六月二十八日、カンブレーで発布。]

「私の王国の入口が一つ開いたと知り、私は駆けつける。迷った臣民を呼び戻し、防ごうとした災厄を和らげるために、駆けつける。自分に向けられる配慮が、フランス人を救う役に立つことを望み、再び同盟軍とフランス人の間に立つためである。戦争に加わろうとしたのは、この方法だけだ。私は、一族のどの王族にも、外国軍の隊列に姿を現すことを許さず、自分の周りに集まれた臣下たちの勇気も、抑え込んだ。

祖国の土に戻り、私は喜んで国民に、信頼の言葉を語る。再び国民の中に姿を現したとき、人々の心は乱れ、相反する情念に流されていた。どこを見ても、困難と障害ばかりだった。私の政府は、過ちを避けられなかった。実際に犯したことも、あったかもしれない。最も清らかな意図だけでは指導に足りず、ときには、それが道を誤らせる時代がある。経験だけが教えられるのであり、その経験を無駄にはしない。私は、フランスを救うものをすべて望む。臣民は、苦しい試練によって、君主の正統性の原則が、社会秩序の根本的な基礎の一つであり、大きな国民の中に、賢明で整った自由を築ける唯一の基礎であると学んだ。この教義は、ヨーロッパ全体の教義として宣言されたばかりだ。私は、それを自分の憲章によって、すでに認めていた。そして、この憲章に、その恩恵を確保するための保障を、すべて加えるつもりである。内閣の一体性は、私の差し出せる最も強い保障だ。それを実現し、評議会の率直で確かな歩みが、あらゆる利害を保障し、あらゆる不安を鎮めることを、私は望む。近ごろ、十分の一税と封建的権利の復活が語られた。共通の敵が作ったこの作り話は、反駁する必要もない。その嘘と中傷が広まったこと自体、その出どころを十分に示している。それを退けるために、フランス王が身を低めることなど、期待されまい。国有財産を買った人々に不安が生じたのであれば、憲章は、安心させるのに十分だったはずだ。私自身が両院に、これらの財産の売却を提案し、実行させなかっただろうか。私の誠実さの、この証拠には、反論できない。

このところ、私は、あらゆる階級の臣民から、同じように愛と忠実さの証を受けた。それをどれほど深く感じたか、知ってほしい。そして、すべてのフランス人の中から、自分と一族の近くに来るべき人々を、喜んで選びたい。

私が自分の前から除こうとするのは、その名声がフランスには悲しみ、ヨーロッパには恐れとなる、あの者たちだけである。彼らの仕組んだ企てには、多くの迷った臣民と、少数の罪人が見える。約束を決して空しくしたことのない私が――ヨーロッパ全体がそれを知っている――迷ったフランス人たちについては、あれほどの涙の中でリールを離れた日から、あれほどの歓呼の中でカンブレーへ戻った日までに起こったことを、すべて赦すと約束する。しかし、世界の歴史にも例のない裏切りによって、臣民の血が流れた。この裏切りは、外国人をフランスの中心へ呼び込んだ。毎日、新しい災厄が明らかになる。したがって、王座の尊厳、国民の利益、ヨーロッパの平穏のために、この恐ろしい企てを唆した者と実行した者は、赦しから除かねばならない。彼らを法律の処罰に指名するのは、まもなく召集しようと考えている両院である。

フランス人よ、これが、そなたたちの中へ私が持ち帰る気持ちである。時が変えることも、不幸が疲れさせることも、不正が打ち倒すこともできなかった者、八世紀にわたって、そなたたちの父祖を治めてきた先祖を持つ国王が、残る日々を、そなたたちを守り、慰めることに捧げるために、戻ってくる。

ルイ」

その下に、

「タレーラン公」

それでも、国王をリヨンへ向かわせることで、三月二十日の出来事の再来を防ぐ秩序を築けるという期待を、捨てねばならなかったことは、つらかった。フランスが平穏と自由を得られるのは、立憲君主制の中だけだと、私は確信していた。憲章と呼ばれる基本法は、あらゆる種類の政府に属する原則を混ぜただけのものなので、国の規範となる一組の制度によって、その意味を定める必要があると思えた。ところが、絶対君主や、そうなろうとする君主のいるパリで、どうして本当の憲法を作れただろう。彼らは当然、大国が、自分たちの従いたくない手本を示すのを、あまり望まない。フランスの立憲体制の確立に、彼らが好意的であると期待するどころか、『亡命者のままの党派』が、少なくとも将来の成功を準備するために、あるいは今その目標を実現するために、彼らを利用するのを、恐れる理由がありすぎた。

国王が外国人と遠くからだけ交渉し、一族を手元に置いていたなら、あらゆる陰謀の糸を断ち切ることができた。そして、同盟諸国の君主が、感謝など不要になるほどの代価を奉仕の見返りに求めない限り、せいぜい礼を述べるのに間に合う程度に、パリへ戻ったことだろう。国王は、すでに整った内閣を伴って、首都へ帰ったはずである。フーシェ氏を警察大臣に選ぶことは、私が国王にも申し上げたとおり、弱さに思えた。その選択が、アルヌーヴィル[256]で王弟殿下の支持を得ることもなかっただろう。フーシェは、パリに残った王党派を代表するクリュソル騎士団代官に支えられて、殿下のもとへ現れたのだった。ウェリントン公も、ブリュッヘル将軍の野蛮な企てを止め、パリへ一番に入る栄誉を得るためには、サンリス、続いてヌイイで、フーシェ氏やほかの策士たち[257]と会談する必要がある、などと思い込まなかっただろう。彼らは、もはや持っていない権力を売り物にすることだけを考え、自分たちの個人的な窮地から逃れるものしか、公に勧められなかったのである[258]。

そのため、パリに着くや、困難ばかりに出会った。まず、プロイセン軍の暴力と略奪に抗わねばならなかった。彼らは、前年に満たせなかった、古い怒りに満ち、これまで抑えられていた埋め合わせをしていた。略奪された多くの倉庫は守れなかったが、名前のために壊そうとしていたイエナ橋は救った。国王の見事な書簡が、橋を守ってくれたのである[259]。

妥協が成立し、イエナ橋は『陸軍学校橋』と名を変えた。この名は、プロイセン軍の野蛮な虚栄心を満たした。そして言葉のしゃれによって、元の『イエナ』という名よりも、鋭い当てこすりになったかもしれない。

残念ながら、ウェリントン公自身が、美術館を空にしようとする人々の先頭に立った。芸術の傑作は、そもそも征服の対象に入るべきではなかったのかもしれない。私たちが、ほかの国民からそれを奪ったときに誤っていたのなら、一八一四年、敵だったフランスから、その一部を取り戻すことは、たいへん正しかったかもしれない。しかし、一八一五年、同盟国であるフランスから取り戻すことは、暴力行為だった。少なくとも、条約によって私たちに譲られたものと、そうでないものを区別すべきだった。何も区別されず、すべてが取り去られた。そして、ウェリントン公が、フランスを道徳の名で叱りつける書簡で、正当化しようとしたのは、この行為だった。公は道徳の擁護者を任じていた。政府が、確かにこの上なく道徳的なことしかしていないインドで勤務していたときも、きっとそうだったのだろう。フランスから絵画と彫像を取り戻すだけにとどめたかったのなら、この書簡ほど不要なものはなく、ウェリントン公も、書かずに済ませただろう。しかし、それには別の目的があった。私たちの解放者は、私たちの同盟者ではあっても、征服者の権利をすべて私たちに行使することが、全く正当でありえないほどの同盟者ではない、と教えることだった。そして、同盟諸国の内閣が考えていた要求に、私たちを備えさせることだった。彼らは、自分たちの望むものを、何と呼んでよいかわからず、要求を出すのに困っていたのである。

ここで話を止める。一八一五年七月のフランス内政に関わるいくつかの事実を思い返す前に、同盟列強との間で進めねばならなかった交渉を、先取りしたくないからである。

国王がパリへ戻った翌日、七月九日、勅令で新内閣の成立が告げられた。私は、首相兼外務大臣として、その首班に任じられた。陸軍にはグーヴィオン元帥[260]、海軍にはジョクール伯爵、司法にはパスキエ男爵[261]、財務にはルイ男爵を迎えた。王弟殿下とウェリントン公の強い要請に、ルイ十八世が応じた結果、警察大臣を得たオトラント公という、不幸な人選を、釣り合わせる必要があった。百日天下の間、フーシェ氏は、初めはメッテルニヒ氏[262]、次いでヘントの宮廷、最後にはウェリントン公と、秘密の書簡を交わしていた。そして、正統な王政を倒したあらゆる陰謀の糸を握っているため、その復活には自分が不可欠だと、すべての相手を説得していた。王弟殿下の側近たちは、これほど有能な人物を国王の側へ引き入れたことを、大きな獲物を得たと思っていた。その名だけで、革命派への脅しとなるより、王党派の恥となることを感じていなかった。ウェリントン公は、オトラント公の絶大な影響力について、イギリスに広まっていた先入観に欺かれ、国王の王座を固められるのは彼だけだと信じていた。メッテルニヒ氏も、この意見を共有しかねないところにいた。この人選は、イギリスとオーストリアの内閣を喜ばせたが、まさにその理由で、アレクサンドル皇帝を不快にせずにはいなかった。皇帝はまた、ウィーン会議で正統性とフランスの利益を強く守った私にも、恨みを持っていた。したがって、同盟の中でこれほど大きな役割を果たす、この君主の敏感な気持ちに配慮することが、肝要となった。そのため私は、王室大臣と内務大臣を空席にしておくことを、国王に提案した。あとで、ロシア皇帝の気に入る二人、リシュリュー公とポッツォ・ディ・ボルゴ氏を迎えるつもりだった。二人とも、まだロシアに仕えていた。ポッツォ・ディ・ボルゴ氏は、たいへん才知に富み、ボナパルトと同じくらいフランス人だった。それまで、その人生の唯一の情熱だったのは、ボナパルトへの憎しみ、コルシカ人の憎しみだった。一七九一年には立法議会の議員で、フランス革命の最初の出来事に参加していた。したがって、その入閣は、何らかの点で彼と接するすべての党派にとって、安心を与えるものだった。しかし、この組み合わせは、多くの話し合いのあと、失敗した。ポッツォ氏はロシアに仕え続けることを選んだ。リシュリュー公については、この件で二人が交わした書簡をここに載せれば、断った理由がわかるだろう。

リシュリュー公からタレーラン公へ

「パリ、一八一五年七月二十日。

公爵殿

ロシア皇帝陛下が、国王と私について交わした会話を、親切にも知らせてくださいました。先日、殿下がお話しくださったことから、国王が皇帝に強くお求めになったのは、殿下の働きかけによるものに違いないと思っております。そこで、取り消すつもりのない自分の決断について、その理由を殿下にお伝えすべきだと考えました。どうか国王へご報告くださるよう、お願い申し上げます。

私は二十四年間、フランスを離れています。その長い間に戻ったのは、ほんの短い二度だけです。人にも事情にも不案内で、仕事がどのように進められるかも知りません。行政に関わることは、何一つわかりません。私の知らないすべてを知ることが、今の時代ほど不可欠な時が、ほかにあるでしょうか。どこであれ、とりわけこの国で、内閣の職に就くのに、私ほど向いていない者はいません。殿下、私は誰よりも、自分の値打ちと、何に向いているかを知っています。提案された仕事には全く向かないことが、私には明白です。もしこの職に就いても、六週間と持たないと確信しています。辞退が世間に悪い印象を与えるとすれば、たいへんつらいことです。しかし、その責任を自分に帰することはできません。この任命は、私がまだナンシーにいたとき、知らないところで行われたからです。殿下、率直さをお許しください。しかし、決めたことを、胸を開いてお話しするのがよいと考えました。さらに付け加えますと、二十四年間ロシアに仕え、この十二年間は、深く愛着を持つ事業に取り組んできました。それを今、捨てることは考えられません。

殿下、どうか私のお詫びと残念に思う気持ちを、国王の御前へお届けください。そして、深い敬意をお受け取りください。

殿下の
この上なく謙虚で従順な僕

リシュリュー」

タレーラン公からリシュリュー公へ

「パリ、一八一五年七月二十八日。

公爵殿

取り消すつもりはないとお知らせくださった、ご決断を国王へ報告するにあたり、率直に申し上げれば、あなたのお書きになったものからできる以上に、その理由を正当化して差し上げたかったところです。長い間、この国の人や事情に不案内だとおっしゃいます。しかし、再びこの国をご覧になってから、ずっとこの国を離れなかったがゆえに、かえって、国王が抱き、今後は内閣に従わせたいと望む、秩序、節度、賢明さの考えに不案内な人が、大勢いることにもお気づきになったはずです。それらの人々に対して、あなたには強みがあります。フランスよりずっと不案内で、新しい国々で、これらの考えを抱き、才をもって実行してこられたことです。大きな困難が見えるとおっしゃいます。しかし、公爵殿、あえて申し上げますが、国王の信頼を受け入れるとき、私たちの誰も、現在にも将来にも目を閉じていませんでした。毎日、あらゆる瞬間に、私たちの熱意と気概を試すはずの、際限も数の限りもない困難を、私たちも見ていました。その見通しは、私たちを恐れさせ、今も恐れさせています。しかし、フランスが災厄に押しつぶされ、ヨーロッパが危険に囲まれ、国王の心が苦しい懸念にさいなまれているのを見ました。そのような事情では、私たちにはもはや、選ぶ権利がないと考えました。最後に、公爵殿、あなたは、長く仕えた国との利害と約束に縛られています。しかし、お名前が、私たちの歴史の最も輝かしい二世紀にわたって、目覚ましく光っていたことを、思い出していただくのをお許しください。その名前に永遠に結びつく栄光は、ほかの義務では決して釣り合わず、今日、免れることも許されない責務を、あなたに課しているのではありませんか。

ご覧のとおり、いただいたお手紙への返事を遅らせました。その理由は、容易におわかりになるでしょう。これらの考えのいくつかが、あなたの心にも浮かび、別の決断を促すのではないかと、期待していたのです。

敬具……

タレーラン公」

リシュリュー氏は、辞退を貫いた。この拒否については、一つだけ考えを述べる。その挙げた理由は、比較的重要さの低い王室大臣を断るには不適切だったのか、それとも有効だったのか。有効だったなら、二か月後、どうして首相となり、フランスを統治できたのだろう。

ポッツォ氏とリシュリュー氏の辞退によって、内務大臣の臨時代理は国璽尚書パスキエ氏に、王室大臣の臨時代理はプラデル伯爵に任せざるを得なくなった。

国王は七月八日、パリへ帰還した。そして、すでに十三日には、代議院の解散を定める勅令が、八月十五日に選挙人団を召集した。この勅令は、当時としては賢明で自由を重んじる考えに基づいており、ここで思い起こす価値がある。[訳注11]

勅令 — 代議院の解散、選挙人団の召集、および選挙の暫定規則を定めるもの

「神の恩寵によるフランスおよびナヴァールの国王、ルイ。

この文書を見るすべての者に、挨拶を送る。

私は、各県の代議士の選挙を定める法律を、両院へ提案するつもりであると告げていた。その計画は、経験の教えと、よく知られた国民の願いに従い、被選挙資格、代議士数、そして代議院の構成、法案提出権、議事の進め方に関する、憲章のいくつかの条文を変更することだった。

時代の不幸が両院の会期を中断したため、今や各県の代議士数は、さまざまな原因で、国民を十分に代表するには、あまりに減っていると考えた。特にこのような事情では、国民を代表する議員の数を多くし、その権限が更新され、より直接に選挙人団から授けられ、選挙が、国民の現在の意見を表すものとなることが、大切だと考えた。

そこで私は、代議院を解散し、遅滞なく新しい代議院を召集することに決めた。しかし、選挙の方法も、憲章に加えるべき変更も、法律で定めることができていない。そのため、より多数で、被選挙資格の制限も緩い代表によって、国民が得るべき利益を、今から享受させることが、公正であると考えた。ただし、いかなる場合も、憲章の変更は、憲法上の手続に従わなければ、最終的なものとはなりえないよう望む。そのため、この勅令の規定は、両院の討議の最初の対象となる。立法権の全体が、選挙法と、この点における憲章の変更を決定する。ここでは、最も不可欠で緊急の点だけについて、変更の発議を行う。また、憲章と、従来用いられていた手続に、できる限り近づく義務を、自らにも課す。

これらの理由により、私は以下のとおり宣言し、命じる。

第一条――代議院を解散する。

第二条――郡の選挙人団は、本年八月十四日に集まる。

第三条――県の選挙人団は、郡の選挙人団の開会から八日後に集まる。

第四条――各県の代議士数は、別添の表に従って定める。

第五条――郡の各選挙人団は、その県の代議士数と同じ数の候補者を選ぶ。

第六条――県知事は、郡の選挙人団の議長から送られてきた、各選挙人団の提案する候補者名簿を、県の選挙人団の議長へ送る。

第七条――県の選挙人団は、代議士の少なくとも半数を、これらの候補者から選ぶ。県の代議士の総数が奇数の場合には、候補者から選ぶ側の人数を多くする。

第八条――郡の選挙人団の選挙人は、満二十一歳であれば参加できる。県の選挙人団の選挙人も、同じ年齢で参加できるが、最高額の納税者の名簿から選ばれていなければならない。

第九条――一八〇六年二月二十二日の法令に従い、郡または県の選挙人団へ加えられるレジオン・ドヌール勲章の会員数が、定員に満たない場合、県知事は、会員たちの求めにより、新たな追加を提案でき、その追加は暫定的に実施される。

ただし、県の選挙人団へ認められるレジオン・ドヌール会員は、憲章第四十条に従い、少なくとも三百フランの直接税を納めていなければならない。

一八一五年三月一日以来行われた、すべての追加は、無効かつ違法とする。

第十条――代議士は、満二十五歳から選出できる。

第十一条――従来の法律と規則に従い、選挙人団の半数に一人を加えた人数が参加しない選挙は、無効とする。選挙が有効であるには、出席者の絶対多数が必要である。

第十二条――郡の選挙人団が、選べる候補者数をすべて選出していなくても、県の選挙人団は、その手続を行う。

第十三条――選挙の議事録は代議院で審査し、選挙の適法性を判断する。選ばれた代議士は、出生証明と、少なくとも千フランの税を納めていることを示す納税明細を、代議院へ提出しなければならない。

第十四条――憲章第十六条、第二十五条、第三十五条、第三十六条、第三十七条、第三十八条、第三十九条、第四十条、第四十一条、第四十二条、第四十三条、第四十四条、第四十五条、第四十六条は、両院の次の会期で、立法権による改訂の審議に付す。

第十五条――この勅令は印刷し、各選挙人団の会場に掲示する。上記の憲章の条文も、併せて印刷する。

第十六条――内務大臣を、この勅令の執行責任者とする。

恩寵の年一八一五年七月十三日、在位第二十一年、テュイルリー宮殿で発布。

署名、ルイ」

この勅令を出したあとは、各県で執行を担う県知事を選ばねばならなかった。その選択は容易ではなかった。新しい県知事は、政府の方針を行き渡らせるために穏健であり、同盟軍に占領された県での無理な徴収や、南部のいくつかの県の反動的な傾向に、できるだけ抵抗するために、強い意志を持つ人物でなければならなかった。帝政下の県知事の大半は、王政の政府に信頼を与えられず、王弟殿下や王族方の側近が勧める人々は、意見の激しさゆえに危険だった。このような条件で、新しい県知事の、これほど微妙な任務をよく果たすために必要な資質を兼ね備えた八十六人を見つけるのは、容易ではなかった。その結果が、私の書いているまさに今[263]、反動的な精神と軽率な極論によって目立つ代議院を、フランスに与えることになったのも、あまり驚くことではないだろう[264]。

新しい県知事たちの立場を、さらに複雑にしたはずのものは、先にアングレーム公か、国王自身によって、南部の各県へ送られていた王室特別委員だった。しかし内閣は、国王に、勅令によってこれらの委員の権限をすべて撤回する決心をさせた。この勅令は、宮廷の一部が内閣に抱く、大きな不満の一つとなった。内閣は、こうしてあらゆる方面から妨害を受けていた。

新聞を除く出版物に、完全な自由を返す、もう一つの勅令を国王に採用させるにも、私たちは限りない苦労をした[265]。

しかし、別の重大な問題では、私はそれほど幸運でなく、フーシェ氏が私に勝った。私は、厳しい措置を取るとしても、一八一四年の貴族院議員のうち、百日天下の間にナポレオンが作った貴族院に入ることを承諾した者を、すべて辞任したものと宣言するだけに、国王がとどめることを望んだ。このように国家の最も高い地位にある人々を罰すれば、三月二十日の出来事を助けた者を罰するにも、数日の間隔で王室の大義を捨てた者たちが、あれほど恥ずべき形で裏切った誓いの神聖さを、今後尊重させるにも、十分な見せしめだと考えていた。しかし、この措置では、司法の訴追と追放を求める、王党派の反動には足りなかった。私は、両院の招集を待ち、必要なら、罪人の指定を両院に任せるよう求めたが、無駄だった。措置を遅らせれば、時間が助けとなり、完全に退けられなくても、和らげられると期待していた。私の努力は、何の役にも立たなかった。オトラント公は、王党派の過激派や外国の内閣と結んだ関係に縛られ、その圧力を受けていた。ある日、百人を超える名簿を閣議へ提出し、一部は追放し、一部は軍法会議にかけるよう求めた。数日続く苦しい争いのあと、国王がこの忌まわしい措置に賛成したため、譲らざるを得なかった。ただし、名簿は五十七人に減らされた。十九人は、ほとんど全員が軍人で、軍法会議か重罪院にかけられるはずだった。残る三十八人は、三日以内にパリを離れ、警察の指定する場所へ向かうはずだった。第一の区分に入る者は皆、逃げたければ逃げられるよう、間に合ううちに警告された。しかし、それでもこの措置は、不器用で、分別のない行為であり、王政の政府に、困難と危険しか生み出しえないものだった[266]。

この勅令が出ても、貴族院について私がした提案は、もはや退けられなかった。今度は私が、百日天下の議院に在席したため、貴族院に戻れない者の名簿を作らねばならなかった。また、貴族院は新しい基礎の上に置かれていた。私は、国王の強い不本意に反して、貴族院議員の地位を、今後は世襲と認めさせていたからである。除かれた議員の名簿には、次の人々が含まれていた。アボヴィル伯爵、アルブフェラ公元帥、トゥール大司教バラル伯爵、ベリアール伯爵、ボワシー=ダングラス伯爵、カドール公、カンクロー伯爵、カサビアンカ伯爵、クレマン・ド・リ伯爵、コルシャン伯爵、コネリアーノ公元帥、コルニュデ伯爵、クロワ伯爵、ダンツィヒ公元帥、デドレ・ダジエ伯爵、ドジャン伯爵、エスリンク公元帥、ファーブル・ド・ロード伯爵、ガサンディ伯爵、ラセペード伯爵、ラトゥール=モブール伯爵、モンテスキュー伯爵、ピアチェンツァ公、ポンテクーラン伯爵、プララン公、ランポン伯爵、セギュール伯爵、トレヴィーゾ公元帥、ヴァランス伯爵。

この勅令も七月二十四日付だった。しかし、続く八月十七日、国王は私の提案で、九十二人の新しい貴族院議員を作る勅令を出した。その中で、百日天下の議院に在席していなかったと証明したアボヴィル伯爵、カンクロー伯爵を復帰させ、ボワシー=ダングラス氏も、国民公会で示した気高く勇敢な行いと、国王への特別な奉仕を思い起こして、復帰させた。私は、モンテベロ公、ベルティエ元帥、ベシエール元帥の、まだ未成年だった息子を、それぞれ一人、三人とも名簿へ加えさせた。勅令に署名するとき、国王は、百日天下の間に仕えたモレ氏の名に、多少抵抗した。しかし私は、こう言って押した。『この名前を復活させてください。マチュー・モレが、国王に願っているのです[267]。』すると国王は、いったん消したその名を、ご自身の手で書き戻した。

ついに八月二十日、貴族院議員の地位を定める勅令が出た。閣議では、数日間討議されていた。国王は、世襲にすれば議員への個人的な働きかけが全くできなくなるとして、激しく反対していた。しかし私は、それは、世襲が議院に与える強さと安定に比べれば、二次的な問題だと反論した。そのため、勅令の前文で、国王はこう述べていた。『政府を支える制度を、最も安定した形で築くことを、どれほど重んじているか、その新しい証を国民に与えたいと望み、公の高い職の世襲に伴って、家系の中に受け継がれる感情ほど、国家の平穏を固めるものはないと確信する。そうして、父から受けた原則と手本によって、君主と祖国への忠実さ、献身を保障された臣民が、途切れず続くのであるから……』

フーシェ氏の引き起こした苛烈な措置は、すぐに実りを生んだ。南部の各地で、恐ろしい混乱と流血の場面が起きた。王党派の反動は、これらの措置に励まされたと思い、ひどい虐殺に走った。政府は鎮圧に全力を尽くし、国王の布告を公表した。そこには、こう記されていた。

「……南部の各県で、臣民の数人が、近ごろ最も罪深い暴挙に走ったことを、私は悲しみとともに知った。公の報復の執行者を任じるという口実で、フランス人が、私的な憎しみと復讐心を満たすために、フランス人の血を流した。私の権威が、王国全体で回復し、認められてからさえ、そうしたのである。確かに、卑劣な裏切りと大きな犯罪が行われ、フランスを災いの深淵へ沈めた。しかし、その犯罪の処罰は、国全体として、厳粛に、正規の手続で行われねばならない。罪人は、私的な復讐ではなく、法律の剣によって倒れるべきである。自分の受けた侮辱について、さらには私自身に対して犯された攻撃についてさえ、自ら裁く者と処刑する者を兼ねれば、社会秩序を転覆させることになる。法律の働きを先取りする、この忌まわしい企ては、すでにやんだものと期待する。それは、私とフランスに対する攻撃となる。どれほど激しい悲しみを感じようとも、このような犯罪を罰するためには、何も惜しまない。そのため私は、大臣と司法官に、明確な命令で、法律を厳しく守らせ、違反者の訴追には、寛容も弱さも示さないよう命じた。」

この状況では、これほど当然だった布告も、王党派の過激派にとっては、内閣を非難する材料となった。一方フーシェ氏は、この党派の悪い情念に迎合して生んだ害を恐れ、後戻りし、卑劣な裏切りで切り抜けようとした。政府をさらに弱めれば、世論が自分個人のもとへ戻ると、考えたのである。国王に、二つの秘密報告を提出した。一つは、同盟軍の行いが、占領地方の住民をどれほど悲惨な状態に陥れているか、それが必ず招く結果を描いたものだった。第二の報告も、南部で犯された暴挙と、フランス各地に現れる党派間の激しい憎しみを、第一に劣らず力強く描いていた。ここまでは、すべてよかった。フーシェ氏は務めを果たしており、これらの覚書の内容は、ほぼ真実だったと、私たちは進んで認める。しかし、覚書は秘密のものであり、国王と閣議だけに伝えるべきだった。フーシェ氏は、そうしなかった。初めは内閣に隠し、国王に一部を渡したあと、世間に公開した。自分から盗まれたもので、自分が公表させたのではないと、言い張った。このような手段に頼る人物と、関係を続けることはできなかった。私は国王に、内閣からの解任を求め、まもなく彼は罷免された[268]。

しかし、状況に重くのしかかる、最も大きく、最も苦しい困難は、同盟諸国の君主と、その軍隊の行いだった。私は今、この点を扱わねばならない。この時期を扱う歴史家たちには、誰もが知る出来事を思い起こすことを任せる。私は、進めるほかない運命に置かれた苦しい交渉と、それに関わるいくつかの事実だけを述べる。この残酷な記憶を、一刻も早く終えたい。

これらの交渉で最も急を要し、何より先に扱うべき問題は、フランスへ侵入した、数え切れない軍隊への供給を定めることだった。これらの軍隊は、至るところで、この上なく恥ずべき徴収を行い、フランスを食い尽くしていた。その列強は、ウィーンで、同盟者であるフランス王を助けるために武器を取ると、署名して約束していたのである。バイエルン軍の将軍たちの行いについて、ヨンヌ県知事から届いた書簡は、すでに引用した。ここで、オーストリア軍の総行政長官の命令も、思い起こしたい。ボナパルトに体現された革命だけを敵として戦うと、声高に告げていた政府の、革命的な精神が、どこまで及んだかを示すためである。これを、それ以外の言葉で呼ぶことはできない。

皇帝にして使徒的国王たる陛下のイタリア軍。

「私、ヴルムザー伯爵。皇帝にして使徒的国王たる陛下の侍従、現任国務枢密顧問、ハンガリー聖イシュトヴァーン王立騎士団のコマンドゥール、君主国の土地台帳の指揮を担う宮廷委員会の委員長、皇帝兼国王陛下のイタリア軍総行政長官は、

一方で、県と郡の総収税官および地区収税官が、直接税と間接税の収納額を、決まった期日に支払うため、国庫宛ての支払約束に署名する義務を負わされていること、他方で、同盟列強の軍隊に占領されたフランス領では、これらの租税が、国際法と戦争法により、同盟列強に帰属することを考慮し、

以下のとおり決定し、命じる。

第一条――オーストリア皇帝のイタリア軍に占領され、または今後占領されるフランス領の、総収税官、地区収税官、その他の会計担当者が、フランス国庫のために署名した支払約束は、あらゆる種類の租税および公課について、未納分も現在分も、すべて無効とする。したがって、これらの収税官と会計担当者は、いかなる名目や口実でも、それを支払うことを禁じられる。

第二条――この禁止への違反は、各収税官と会計担当者の個人的な責任を伴うばかりでなく、敵との内通行為として、戦争法のあらゆる厳しさをもって罰する。

第三条――この規定は、国有財産、自治体の財産、国有林の伐採権を買った者が発行した、支払約束または手形にも適用する。

第四条――裁判所は、これらの支払約束または手形の支払いを求める訴えを、受理することを禁じられる。違反すれば解散し、さらに軍法のあらゆる厳しさをもって処分する。

第五条――この命令は、県知事と郡長の責任で印刷し、必要なすべての場所に掲示する。

一八一五年七月十八日、ナンテュアの司令部で発令。

ヴルムザー伯爵。

総行政長官閣下の命により、

行政長官
キュヴリエ」

ルイ十八世は、外国の政府とすべてを決着させる前に首都へ戻るべきではない、という私の助言に従わなかった重大な過ちを、遅すぎる時点で認めた。次の書簡を私に送って、その過ちを正そうとしたが、無駄だった。私はこれを、同盟国の全権委員に伝えた。

ルイ十八世からタレーラン公へ

パリ、一八一五年七月二十一日。

「同盟軍の行いは、まもなく私の国民を、スペイン人の例にならって、全国民で武器を取って対抗するほかないところへ追い込むだろう。もっと若ければ、私がその先頭に立つ。しかし、年齢と病弱のため、それができないとしても、少なくとも、私が嘆いている暴力を、黙認しているようには見られたくない。正義を得られなければ、王国から退き、スペイン王に庇護を求めると、決心している。戦争を宣言した唯一の相手を捕らえたあとでさえ、私の臣民を敵として扱い続け、したがって私も敵と見なすはずの者たちが、私の自由を侵そうとするなら、それは彼らの意のままだ。国民の不幸を、何もせず眺める者としてテュイルリーにいるより、牢獄にいるほうを選ぶ。

ルイ」

この書簡と、財務大臣ルイ男爵の提出した取り決め案を受けて、同盟国の全権委員は七月二十五日、次のような外交文書を私に送った。

「下記署名の大臣たちは、国王の大臣たちがルイ男爵閣下を通じて伝えた申し入れを、十分に検討した。行政の運営について、最も緊急で、最も有効な措置を取る必要を深く感じている以上、その提案を生んだ考えに、進んで応じないはずはない。したがって、今決まった以下の規定が、国王の希望と、同盟軍がフランス滞在中に置かれる状況とを調整するのに、最も適していると考える。」

この外交文書に記された規定は、フランス政府の承諾した一億の賠償金と引き換えに、次のことを定めていた。同盟軍が占領し、その扶養に充てられる県を決めるため、境界線を引く。国王の当局を復活させ、県知事と郡長を職務へ復帰させる。各軍の行動範囲を形作る県に、軍政長官を置く。長官は、当局を守り、軍への供給を確保し、軍とフランス当局との関係を監督する。国王の政府と外国当局の間の案件を直接扱うため、行政委員会をパリに置く。各県に課されていた、不規則な徴収をすべて停止する命令が、ただちに出された。

この点が決着すれば、君主たちがフランス王の誠実な同盟者であったなら、残りもまもなく終わっただろう。しかし、外国軍のパリ到着について述べた際、すでに言ったとおり、同盟諸国の内閣は、自分たちの望むものを何と呼んでよいかわからず、要求を出すのに困っていた。初めは『保障』という名だけを使った。何の保障かを言わず、ただ一般に保障を求めていた。そのため私は、一八一五年七月三十一日付で、次の外交文書を送った。

「国王の大臣は、同盟列強の大臣・国務卿各閣下に、陛下の勅令三件をお伝えします。一つは、フランス軍の解散についてリールで発したものです。ほかの二つは、まだ案の段階ですが、新しい軍隊の編成に関するものです。フランスが軍隊を持つことは、フランス自身に劣らず、ヨーロッパの必要でもあります。そのため国王は、この必要と、革命を再び戻ることのないように終わらせるという、両者に共通する、さらに大きな必要とを調和させることに努め、成功したと考えています。

二十六年前、フランスは、釣り合う力もなく、一体性も監督もなく行使される大臣の権力の濫用に対して、保障を求めていました。そして、ある種の平等の中へ迷い込み、道を失いました。その避けられない結果は、群衆の支配、すなわち、その暴政でした。あらゆる暴政の中で最も恐ろしいものでしたが、そのためにこそ、最も長続きしないものでもありました。この暴政は、いつも起きてきたように、また、いつも起きるであろうように、一人の専制に置き換えられました。その者は、気質と計算から、革命の原動力を変え、平等の精神に代えて征服の精神を置くことによって、革命を国内から国外へ移しました。

最近の出来事は、その両方がどれほど弱まったかを証明しました。簒奪者は、両方を自分の助けに呼びましたが、最初の、たった一度の敗北の結果に抗して、支えを得ることができなかったからです。

しかし、革命の起こる可能性は、この二つが完全に消えるか、二度と支配的になれないよう抑えられるまでは、終わりません。そのため、ベルギーへ退いている間、国王の考えはすべて、この結果を得る手段へ向けられました。そして帰還以来のあらゆる行為も、それを確保することを目的にしてきました。

極端な平等の教義には、なお、架空の世界のために理論を作る数人の思索家と、この教義だけによって、しばらく権力を得、その権力を濫用し、今も惜しんでいる一定数の人々が、宣教者や支持者として残っているかもしれません。しかし、群衆自身は、その苦い経験によって、とうの昔に幻想から覚めています。この教義が改宗者を増やすことはなく、その精神も、次の条件の下では決して恐れられません。政治上の憲法によって、一人一人の市民としての権利が、あらゆる恣意から守られることです。その憲法は、新たに手に入れる必要や願いよりも、今あるものを保つ必要を強く感じる立場にある者だけが、権力に入れるようにするものです。

これからフランスを治める政治制度の性格は、まさにそのようなものです。

貴族院は世襲となります。代議院は、それを立法府のほかの二部門と調和させうる、唯一の原則に従って組織されます。この原則は、市民社会の制度にも、再び取り入れるか、強めるよう努めるものです。

両院は、これまで国王がご自身に留保していた法案提出権を、国王と共有します。

法律を作るこの方法から、その公平な公正さについて、得られる限りの最も強い保障が生まれます。法律は、一人や、一つの団体の意志ではなく、三つの別々の意志の協力によって作られた、一つの意志の表現となるからです。

内閣はすでに成立しています。その構成員は、共同の討議で決まったことを、それぞれの担当範囲で実行します。こうして、統一が与える行動の力を、すべて持っています。また、責任を負っており、それが権力の逸脱を防ぎます。

判事は罷免されないものとします。それによって、裁判所の独立が保障されます。

刑事事件では、すでにある陪審による裁判を保ちます。財産の没収は、あらゆる場合に、永遠に廃止されたままです。

最後に、出版の自由に加えられた制限は、すでに撤回されました。

この制度は、国家を絶対権力と放縦の、双方から等しく離れた位置に置きます。放縦には、入り込む道も、そのために悪用できる口実も残しません。

同じこの制度は、征服の精神も、同じくよく抑えるでしょう。その精神を生んだ事情も、保ってきた原因も、もはや再び現れないからです。

フランスには、正統な君主を倒し、自分に似た君主を据えることに利益を持つ、革命的な王朝は、もはやありません。

フランスには、国民の最も清らかな血を代価とする栄光の幻想で、国民をあやし、その苦しみから注意をそらす必要のある、暴虐な王朝も、もはやありません。

ボナパルトは同盟国の手中にあり、永久に恐れるべき存在ではなくなりました。

彼の最後の犯罪を唆した者と、主な加担者は、裁判所へ引き渡されます。

専制の主な手先、最も熱心な信奉者は、一部はフランスから、一部は首都から、そして全員が公務から、遠ざけられています。

征服の精神は、フランスの精神ではありませんでした。フランスにとって、それは残酷な災厄にすぎませんでした。それが支配していたのは、軍隊だけです。しかし、それは成功によって養われる必要があり、敗北の中で消えます。これまでの戦役は、それを次第に弱めてきました。最後の戦役のあとまで生き残るとは、考えられません。今なおその精神にとらわれる者も、以前のように分裂したヨーロッパには、もはや出会えず、結束したヨーロッパを相手に、何も期待できないことを、自分に隠せません。希望なしに、いつまでも望み続ける者はいません。また、征服の精神は、ほとんど永久に続く軍務によっても保たれていました。そのため兵士は、やがて軍隊以外の家族も祖国も知らなくなったのです。この原因は、今回の編成案によって取り除かれます。軍人を、たびたび市民生活や家庭生活の習慣と愛情へ戻し、自分の国とは反対の利害や感情を、持たないようにするものだからです。

国王は、これらの事実、方針、措置の全体が、フランス、ヨーロッパ、そしてご自身に、望みうる限りの、あらゆる安心の理由を与えると考えています。

国王の内閣も、同じ意見です。

同盟列強の大臣・国務卿各閣下に、同じお考えであるか、または、これらの規定に何か加える必要があると判断されるか、後者の場合には、何を加えるのが必要とお考えか、お知らせくださるようお願いします。

タレーラン公は、各閣下にあらためて……

パリ、一八一五年七月三十一日。」

誠実な同盟者を相手とし、定められた事情の下なら、この外交文書に含まれる指摘には、反論の余地がなかっただろう。しかし、相手がそのような同盟者ではないと、私はすでに気づいていた。美術館から作品を奪い去る問題の際だった。この件では外交文書が交わされたが、先にこの問題を述べたとき、載せるのを省いていた。今、その抜けを補い、この苦しい時期の交渉文書を、そろえておこう。

まず、一八一五年九月十一日、カスルレー卿から私に送られた、この問題に関する最初の外交文書を掲げる。

カスルレー卿からタレーラン公への外交文書の翻訳。

「教皇、トスカーナ大公、ネーデルラント王、その他の君主から、同盟列強の大臣に申し入れがあった。それぞれの国が、フランスの前の革命政府によって、正義のあらゆる原則と、現行の戦争法の慣行に反して、相次いで、組織的に奪われた彫像、絵画、写本、その他の美術品の返還を、同盟列強の仲介によって求めるものである。この申し入れが本国宮廷の検討に付されたため、下記署名者は、摂政王太子から、この重要な問題について、以下の意見を同盟国の検討に供するよう命じられた。

ヨーロッパの列強が、自らの自由を守り、世界の平穏を確保するため、フランスへの侵攻を余儀なくされたのは、これで二度目である。そして二度とも、その軍隊は、ヨーロッパの大半から奪った品々が集められた国家の首都を、征服によって占領した。

また二度とも、フランスの正統な君主は、その軍隊の保護の下、王座を取り戻すことができた。そして同盟国の目覚ましい寛容から、国民のために平和を得た。その国民は、自らの君主と、ほかの国々に対する行いからすれば、一国民として、そのような平和を望む権利を持たなかったのである。

ルイ十八世への最も純粋な配慮、古く輝かしい王家への敬意、その不幸への尊重が、同盟国の判断を常に導いてきたことは、否定できないほど証明されている。昨年、パリ条約の明確な基礎として、フランスの完全な領土的一体性の維持を据えるよう努めたことによって、証明された。さらに、先ごろ期待を残酷に裏切られたあとでさえ、自国の臣民の安全に対する責務を満たせる、相応の一時的な警戒策の体系と、フランスの領土の基本的な一体性を、最終的に両立させようと、今も努めていることによって、なおさら証明されている。

しかし、世界が保護と平穏を期待していた同盟諸国の君主が、長年戦ってきた国へ、二度目の領土の一体性を与えようとする一方で、ほかの同盟諸国、とりわけ弱く、支えのない国々には、その原則の公正で寛大な適用を拒むなら、それは弱さと不正義の極みとなる。その結果は、フランス国民を道徳と平穏へ連れ戻すより、むしろ、道を誤らせる可能性のほうが、ずっと高い。

このような戦争の終わりに、フランスは、どんな権利によって、革命前と同じ広さの領土を保つことを期待できるのか。同時に、ほかのすべての国から奪った傑作を保つことまで、望めるのか。この争いの結末や、正義と政治が求めることを実行する、同盟国の力について、疑いがありうるのか。

疑いがないなら、どんな理由で、フランスから最近の領土獲得分を取り上げながら、その同じ土地から奪った品々を、残すのか。近代のあらゆる征服者が、それらを属する国から切り離せないものとして、一貫して尊重してきたのである。

同盟諸国の君主は、昨年パリにいたとき、この問題について取った行いを、ヨーロッパに対して弁明せねばならないかもしれない。確かに、この盗品の集積の犯罪性に加担し、条約の条項で認めるようなことは、決してしなかった。そのような承認は、一貫して拒んでいた。しかし当時、返還要求の声を抑えるために、その影響力を用いたことは確かである。武力に劣らず寛大さにも心を動かされたフランスが、国民と国王の和解を結ぶために、注意深く築かれた平和を、破ることなく保とうとするのを期待したからである。

しかし今、問題は大きく変わった。これほど本質的に異なる事情の下で、同じ振る舞いを保つことは、摂政王太子の考えでは、フランスに対しても賢明さを欠き、この問題に直接の利害を持つ同盟国に対しても不公正である。

王太子殿下は、この意見を示すにあたり、誤って解釈される可能性を防ぐ必要を感じておられる。今回、これらの品々を、持ち去られた場所へ戻すことを妨げないだけでなく、容易にすることも、同盟諸国の君主の務めだと判断されている。しかし同じく、その慎みからすれば、次のことも許さないのが適切である。フランスにいる軍隊の立場や、ルーヴルからこれらの品々を運び出すことが、直接にも間接にも、自国へ品物を入れる手段となってはならない。その品が、征服された時点で、各王家の収集品や、現在治める国に属していなかったなら、一点たりとも入れるべきではない。

別の方法で手に入れるのであれば、摂政王太子が、美術のこれほど完璧な手本を、どれほど高く評価されるとしても、フランスを犠牲にして所有者になりたいという願いはない。とりわけ、その原則を採用した国を非難しておきながら、戦争で自分も同じ原則に従うことは、望んでおられない。また、正当な所有者が金銭上の理由から譲ろうとする品を、この機会を利用して得たいなどとは、全く望んでおられない。むしろ王太子殿下は、長い間それらが飾ってきた、同じ寺院や美術館へ戻す手段を、与えたいと望んでおられる。

王太子殿下の、ルイ十八世ご本人と、その大義へのお気持ちが疑われたり、最もキリスト教的な国王陛下の、ご自身の国民に対する立場が損なわれたりする可能性があれば、摂政王太子は、最も苦しいためらいなしに、この結論へ達することはなかっただろう。

しかし、むしろ王太子殿下は、実際にこう信じておられる。最もキリスト教的な国王陛下は、革命的な戦争の体制の、これらの記念品から離れるほど、ご自身に対する臣民の愛と敬意を増すだろう。

これらの戦利品は、フランスと、侵略した諸国との道義上の和解を妨げるものであり、軍隊の武勲を思い起こすためには必要ない。その武勲は、どんな大義のために行われたにせよ、常に国外で、その国民の武威に敬意を払わせるはずである。しかし、これらの品がパリに残り、いわば、返された国々への権利の証を形作る限り、それらの国をフランスに再統合したいという願いは、決して消えない。そして、フランス国民の気質は、ブルボン家の治める国に割り当てられた、領土の縮小に、決して慣れることができないだろう。

摂政王太子は、この意見を示すにあたり、フランス国民を辱めるつもりは全くない。王太子殿下の全般的な政策、フランスでのその軍隊の行い、ボナパルト降伏の最初の瞬間から、フランスへ通商の自由を戻そうとした熱意、そして何より、わずかな変更だけで、フランスの領土の一体性を最終的に保とうと、最近示された願いが、最もよい証拠である。この決定を導いたのは、ほかの国への正義と、革命が与えた傷を癒したいという願いだけであり、フランスへの寛大さを欠く感情ではない。

問題のすべては、次の点に帰着する。ヨーロッパの列強は今、国王と、誠実で永続する合意を結ぶのか。そうであれば、どんな原則に基づいて結ぶのか。革命の戦利品を保つことか、それとも手放すことか。ほかのヨーロッパ諸国の苦しみに劣らず、ご自身の輝かしい王家の苦しみを思い起こさせる芸術品に囲まれて、国王は自らの威厳を高めると信じられるのか。

フランス人が後戻りしたいのであれば、自分たちと、ほかの国民との間の敵意の源を、保ちたいと合理的に望めるのか。後戻りしたくないのであれば、その虚栄心を満たし、これらの戦勝品を眺めることで生まれるはずの期待を、目覚めさせておくことが、政治的に賢明なのか。

軍隊自身でさえ、合理的にそれを望めるのか。その戦役の記憶は、決して消えない。ヨーロッパの軍事史に記され、自国の公の記念碑に刻まれている。なぜ、戦場で得た栄光に、現行の戦争法に反する略奪の仕組みを結びつけねばならないのか。それによって、戦いへ率いた指導者は、実際、その武勲の輝きを曇らせたのである。

本当に平和と、かつての原則へ戻りたいのであれば、過去の濫用の跡を、これほど多く保つことは、賢明ではない。家族が革命の主な犠牲となり、その難破から抜け出してきた国王は、この忌まわしい芸術の独占を、自分の王家に永続させたいとは望めない。

フランスが革命前から持っていた豊かな収集品に、その後購入されたボルゲーゼ収集品――世界でも最も美しいものの一つ――が加わっている。それによって、国王は、領国の首都を適切に飾る十分な手段を持てる。国王自身が、汚れた源から来た貴重な品々を手放しても、フランスの芸術文化を損なうことはない。

この危険な害に治療を施す際、中間の道を採ることはできないと思われる。条約という名で行われた、さまざまな収奪を認める方向へ向かわずに済む、中間の道はないからである。その収奪の性質は、一般にこれらの品々を集めた、公然たる略奪よりも、さらに際立っていると言ってよい。

これらの作品を取られた国の請求に従って定める所有の原則こそ、最も確かで、正義が従うべき唯一の指針である。徳、和解、平和のこの原則に、フランス王が敬意を払うことほど、今日、ヨーロッパの公の精神を確立するのに役立つものは、ないかもしれない。

カスルレー」

私はこの文書に、次のように答えた。

「国王の大臣は、フランスに属する美術品について、カスルレー卿閣下からお送りいただいた文書を受け取りました。この文書をお読みになった国王陛下は、次のように回答するよう命じられました。

摂政殿下が、フランス政府への要求を大臣に命じるべきだとお考えになった際、ご自身の利益を求めておられなかったことは、閣下のご説明がなくとも、国王は確信しておられました。むしろ陛下は、この申し入れを促した動機に、摂政殿下がつねに陛下に示してこられた好意を認め、喜んでおられます。しかし、その動機の根拠となる理由は、不正確な想定や誤りに基づくものとしか思われませんでした。実際、閣下は、一八一四年と一八一五年の二つの戦争が同じ性質を持ち、後者も、前者と同じく、講和条約によって終わらなければならないとお考えのようです。しかし、この二つの戦争は、性質が大きく異なります。最初の戦争は、まさしくフランス国民を相手に行われた戦争でした。ヨーロッパ全体からフランスの指導者として認められ、その名の下ですべてが運営され、すべてがその支配に服し、フランスのあらゆる資源を、しかも合法的に使う権限を持っていた人物との戦争だったからです。国民を相手に戦争をした以上、講和条約が必要でした。これに対して、一八一五年にヨーロッパが戦った同じ人物を、フランスの指導者として認めた列強は一国もありませんでした。以前と同じ手段の一部を使ってはいましたが、合法的に使っていたのではなく、服従も決して完全なものではありませんでした。ヨーロッパ自身の宣言によれば、戦争の相手は彼一人と、彼を呼び戻した党派であり、国民ではなかったのです。したがって、簒奪者が倒され、その支持者たちが散らされ、指導者たちが罰せられたという事実だけで、戦争は終わり、平和な状態が戻りました。それゆえ、一八一五年の戦争が、一八一四年の講和によって定められた状態を変更する正当な理由になるとは、どうしても考えられません。

一方、カスルレー子爵閣下は、美術品は征服によって取得できないと、確定した事実として述べられました。国王の政府は、いかなる種類の征服も擁護するつもりは全くありません。征服という言葉も行為も、初めから存在しなければよかったのです。しかし結局、それが国家の取得手段として、あらゆる民族、あらゆる時代の慣行で認められてきた以上、国王の大臣は、確信を持ってためらいなく申し上げます。感覚の楽しみ、あるいは、お望みなら知的な楽しみを与える以外に用途のない、生命を持たない品々を征服するほうが、人々を所属する社会から切り離し、新しい法律や自分たちのものではない慣習に従わせ、しばしば生来の性質からなじまない他の民族と一緒にし、昔から名乗ってきた名まで失わせる征服よりも、はるかに非難される度合いが小さいのです。

次々とフランスに運び込まれた美術品については、どうやら見落とされている区別があります。一八一四年にフランスが放棄した地域のうち、いくつかは、譲渡を受けていたため、フランス、あるいはその以前の指導者に、きわめて正当に属していました。したがって、フランスには、そこにあった美術品を処分する権利がありました。それらの地域を放棄したとき、フランスは、返還する時点の状態で返還したのです。フランスが放棄したものに含まれなかった品々を、現在の所有者が、どのような権利によって今になって要求するのか、理解できません。

最後に、これと同じほど正当な権原によって、今なおフランスに属する美術品もあります。それらは、正式な条約による譲渡に基づいて、フランスに属しているのです。

カスルレー子爵閣下の文書で述べられた道義上の考慮については、国王がそれに従いたいと望み、ご自身のお気持ちだけに従えるのであれば、革命の間に奪われてフランスへ運び込まれたものを、すべて進んで返還なさるはずだと閣下がお考えになるのは、全くもっともです。しかし、一八一四年当時より、今のほうが国王にそれを実行する余地があるとお考えなら、それは誤りです。政府は、ためらわず断言します。以前からの領土の一部でも、国王が割譲に同意なさったなら、そのすべてが国王の罪とされることを、政府は疑っておりませんが、美術品の引き渡しも、同じく罪とされるでしょう。国民の自尊心をより激しく傷つけるため、むしろ一層強い憤りを招くかもしれません。

閣僚会議議長タレーラン公は、謹んで……

タレーラン公

パリ、一八一五年九月十九日」

すでに述べたように、この文書への反駁を引き受けたのは、ウェリントン公だった。その返答は、軍人らしい無遠慮なもの、粗暴とさえ言ってよいものだった。彼は私にこう答えた。「パリの降伏をめぐる会談の際、フランスの交渉担当者たちは、美術館と美術の記念作品の尊重について、一条を盛り込もうとした。しかしブリュッヘル公は、美術館にはプロイセン王から奪われた絵画があり、ルイ十八世がその返還を約束していたことを理由に、それに反対すると表明した。」

ウェリントン公は、さらにこう述べた。「降伏の時点で、私はヨーロッパの他の国々を代表する立場にあったので、プロイセン人から奪われたものを、すべて要求しなければならなかった。美術館に関する訓令は受けておらず、この点についての君主たちの意見を正式に知っていたわけでもないが、君主たちは、フランス王の約束の履行を強く求めるはずだと考えるべきだった。というのも、恐るべきフランス革命の時代に、正規の戦争の慣行に反して自国から奪われた絵画や彫像を、国に取り戻す義務が、君主たちには皆あったからだ。君主たちは、フランスの軍隊と国民の誇りを満足させるために、自分たちの臣民に損害を与えることはできない。ヨーロッパのいくつかの国に対して、部分的、一時的な優勢を得たにせよ、今や返還の日が来たことを、フランスの軍隊と国民にわからせるのがよかった。同盟国の君主たちは、フランス人に道徳の大きな教訓を与えるこの機会を、逃してはならなかったのだ。」

武力を背にした、これほどの言い分を前に、何ができただろう。パリの国民衛兵を頼りに武力で抵抗しても、無益な戦いと確実な敗北を招くだけだった。それでは、執拗な敵の報復を正当化し、またウェリントン公自身のように、交渉全体ではわれわれにそれほど敵意を示さずにおこうとする人々を、怒らせるだけだった。したがって、この暴力行為の前に、頭を垂れるほかなかった。それを受けた側より、行った側のほうが、いっそう不名誉を負う行為である。この点では、歴史もフランス全体の気持ちと、そして、あえて言えばヨーロッパ全体の気持ちとも、一致するだろう。

ウェリントン公の返答の一節は、フランスの交渉担当者が直面した、最も深刻な困難の一つを明らかにしている。ここで、その困難を説明しておこう。見てきたように、ウェリントン公は、美術館を守ろうとした私の要求を退ける際、パリの降伏のときにも、この要求を受け入れるのを拒んだことを根拠にした。その降伏に同意したのは、百日天下の代議院だった。ウェリントン公とブリュッヘル元帥に休戦を求めて失敗したのち、フランスの正統な国王と交渉するよりも、外国人と交渉することを選んだのである[269]。代議院は、さらに悪いことまでしていた。院が選んだ使節団は、アグノーの外国の君主たちのもとへ行き、そこでブルボン家への憎しみに支配され、ルイ十八世を王位に戻さないのなら、領土の割譲にも、ほとんど同意していたのである[270]。これほどの提案を、あえて持ちかけたのは、大の愛国者を自称する人々だった。受け入れられなかったとはいえ、その提案は嘆かわしい印象を残した。私は、交渉の中で必然的に、その印象と再び向き合わねばならなかった。同盟国の全権委員たちが領土の割譲について最初の打診をしてきたとき、私は、フランス全体が、そのような割譲には断固として抵抗するだろうと言って拒絶した。すると相手は、アグノーの予備交渉が、まさにその逆を証明していると答えた。フランスの利益に最も献身的だと称する党派が、自ら領土の割譲を持ち出したからだ、というのである。

いわゆる愛国派が、このように同盟国の要求に抗するわれわれの力を弱める一方で、外国の外交官とひそかに連絡を取っていた亡命貴族派は、ブルボン家の復帰は同盟国のおかげなのだから、同盟国が求める譲歩をしなければならないと、至るところで言いふらしていた。

また四列強は、われわれの努力にもかかわらず、最も過酷な条件を押しつけるために結束し続けていた。アレクサンドル皇帝は、一八一四年のように、二度目の王政復古の中心的な立役者となれなかったことに、強い不満を抱いていた。それに加えて、私がウィーンで諸国民の大義と政府の正統性を守り、一八一五年一月三日の条約を実現させたことも、許していなかった。プロイセン人は、かつてないほど激しい憎悪と復讐心から、フランスのいくつもの地方を切り離すよう、怒りをあらわにして求めていた。

メッテルニヒ氏は、初めは約束を守り、イギリスのより穏健な考えに協力しようとする様子を見せていた。しかし結局、その穏健さがドイツの世論の中で自分の不利になるのを恐れ、プロイセンの憎悪に満ちた感情に同調した。公平さから幾分かの助けを期待できたのは、ウェリントン公が代表するイギリスだけとなった。ところが、この相手についても、ロシア、オーストリア、プロイセンの全権委員たちは、われわれに不利に働く手段を見つけていた。彼らは、新しいネーデルラント王国、すなわちイギリスが作り出した王国には、フランスに対する防備の強化が必要だと、イギリス人を納得させたのである。そのためには、フランスの国境にあるいくつもの要塞都市を奪い、ネーデルラント王国を強固にするために与えるもののすべてを、そのままフランスの弱体化につなげなければならない、というのだった。

フランスの交渉担当者の立場を、さらに難しく危ういものにしていたのは、すべてが彼らに対して秘密にされていたことだった。同盟国の全権委員が互いに計画を練る会議には、参加を認められなかった。相手を動かしている考えは、途切れ途切れの言葉やほのめかしから、推し量るほかなかったのである。

こうして八月いっぱいと九月の初めが過ぎた。九月半ばごろ、私はようやく四宮廷の全権委員から、次の文書を受け取った。フランスに求める保証について、一種の最後通牒として渡されたものだった。

「第一号――ここに提示する文書は、同盟国の君主たちが自国の人民に対して負う義務と、その義務を、フランス国王陛下に寄せる気持ちと両立させたいという願いから生まれたものである。

したがって、この文書は、君主たちがフランスに対して取ることで合意した、共同の立場を示すものである。

第二号――フランスに提案する最終合意の基本条件。

一、新条約で変更されない条項について、パリ条約を確認する。

二、パリ条約で定められた国境を修正する。この条項により、パリ条約が従来のフランスの領土に加えた地域のおよそ三分の二が、フランスから切り離される。

ネーデルラント王は、以前ベルギーに属していた地区の大部分を取り戻し、サルデーニャ王は、サヴォワ全域を再び領有する。ドイツ側でも、いくつかの変更を行う。フランスに要求する割譲には、コンデ、フィリップヴィル、マリアンブール、ジヴェとシャルルモン、ザールルイ、ランダウの要塞都市が含まれる。

三、ユナングの防御施設を撤去し、今後決して再建しないと約束する。

四、戦費の補償として、六億の賠償金を支払う。

五、フランスに隣接する諸国に、新しい要塞都市を建設する費用の一部を賄うため、別に二億を支払う。

六、同盟国が任命する将軍の指揮下にある十五万人の軍隊が、北部および東部の国境沿いの軍事線を七年間占領し、その維持費はフランスが負担する。

第三号――条約案。

同盟列強は、一致した努力と武力の成功により、ナポレオン・ボナパルトの最後の企てがもたらそうとしていた災厄からフランス国民を救い、また、その企てを成功させるためにフランスで再現された革命体制によって、ヨーロッパを脅かしていた混乱を防いだ。

そして今、最もキリスト教的な国王陛下とともに、次の願いを抱いている。すなわち、王権を侵すことなく維持し、立憲憲章を再び有効にすることで、フランスに幸いにも復活した秩序の安定について、ヨーロッパに最も確かな保証を与えること。パリ条約がフランスと近隣諸国の間に取り戻した友好と協調の関係を強固にすること。そして、その関係を損なったり危うくしたりするおそれのあるものを、すべて取り除くことである。

そこで、皇帝ならびに国王陛下たちは、フランスおよびナヴァール国王陛下に、過去に対する正当な補償と、将来に対する確かな保証を得られる合意の基本条件を提案した。それらの条件によってのみ、速やかで永続する平和を実現できるからである。最もキリスト教的な国王陛下が、これらの提案を受け入れられたため、最終条約に記すことが合意された。

この目的のため、締約国の君主たちは、次の者を任命した……

任命された者たちは、正規の形式に整っていると認められた全権委任状を交換したのち、以下の各条に署名した。

第一条――一八一四年五月三十日/十八日の条約を確認し、本条約で変更されない条項について、これを実施し、維持する。

第二条――締約国の君主たちは、一八一四年五月三十日の条約第二条で定められたフランス領土の境界に、行政および軍事のいくつかの面で不都合が伴うことを、経験によって知った。今後、この点で、全体の平穏の維持にも、臣民の幸福にも、ともに適した制度を採用するため、フランス領土と近隣諸国との境界線を、最終的に次のように定める。

北側では、この線は、スヘルデ川がジェマップ県に入る地点まで、パリ条約で定められた境界をたどる。そこからは、この川に沿ってコンデ郡の境界まで進み、同郡はフランスの国境外とする。キエヴランからは、ベルギー諸州および旧リエージュ司教領のかつての境界に沿って、オルヴァル近郊のヴィレまで境界線を引く。その中に囲まれたフィリップヴィルとマリアンブールの地域、およびジヴェ郡は、フランスの境界外とする。

ヴィレから、ティオンヴィルとトリーアを結ぶ街道の右手にあるブールまでは、パリ条約で定められた境界を維持する。ブールからは、ラウンスドルフ、ヴァルトヴィヒ、シャルドルフ、ニーダーライリング、パルヴァイラーを通ってウーヴルまで引く線をたどり、これらの場所とその付属地域は、すべてフランスに属するものとする。ウーヴルからは、ザールブリュッケン地方の旧境界をたどり、ザールルイとザール川の流路、および上記の線の右側に位置する場所とその付属地域は、ドイツに属するものとする。ザールブリュッケン地方の境界からは、現在モゼル県とバ=ラン県をドイツから分けている境界を、ラウター川までたどる。この川を、ライン川への合流点まで国境とする。その結果、ラウター川が形作る突出部の中にあるランダウはドイツに残り、この川沿いのローテルブールとヴィサンブールは、フランスに残る。

東側では、ラウター川の河口から、オー=ラン県のサン=ブレまでは、パリ条約で定められた境界を維持する。そこからはドゥー川をジュー要塞までたどる。その結果、ドゥー川の右側にあるポンタルリエの町は、周囲の一定区域とともにフランスに属し、左側にあるジュー要塞は、スイス連邦に属する。ジュー要塞からは、ジュラ山脈の稜線をローヌ川までたどり、レクリューズ要塞は、フランスの国境外とする。

ローヌ川から海までは、一七九〇年にフランスをサヴォワおよびニース伯領から分けていた国境を、境界線とする。

フランスは、モナコに守備隊を置く権利を放棄する。

スイスの中立は、次の線の北側にある地域にも適用する。ユジーヌから、この町を含めて、アヌシー湖南側のタヴェルジュを通り、レシュレーヌまで引く線、そこからブルジェ湖を経てローヌ川に至る線である。この適用は、ウィーン会議最終議定書第九十二条によって、シャブレーおよびフランシニーの地方に中立が適用されたのと同じ方式による。

第三条――ユナングの防御施設が、バーゼル市にとって絶えず不安の種となっているため、締約国の君主たちは、スイス連邦への好意と配慮の新たな証として、ユナングの防御施設を撤去することに合意した。フランス政府も、同じ理由により、今後いつまでも、これを再建せず、バーゼル市から三時間の距離以内に、代わりとなる防御施設を設けないと約束する。

第四条――同盟国の君主たちは、統治する人民への義務から、最後の総動員によって生じた金銭的な犠牲の補償を求めるに至った。フランスの革命政権に対して長年続いた戦争によって、すでに著しく疲弊していた諸国に、さらに負担が課されたからである。最もキリスト教的な国王陛下は、この要求の根拠となる原則を認めざるをえなかったため、フランスは補償として六億フランを提供する。その支払い方法および期限は、特別協定で定める。この協定は、本条約に全文を組み入れた場合と同じ効力を持つ。

第五条――さらに、革命の出来事に起因する戦争の間、フランスに隣接するすべての国、とりわけネーデルラント、ドイツ、ピエモンテでは、それまで防壁となっていた要塞都市が、次々と破壊されたことを考慮する。これらの国の安全と、ヨーロッパの将来の平穏のためには、双方の防御手段の間に、全体の平和の維持に本質的に役立つ均衡を設けることが、等しく望まれる。同盟列強は、この目的を達成する最善の方法は、フランスに向かい合う国境上に、いくつかの要塞都市を建設する費用の一部を負担するよう、フランスに提案することだと考えた。また、フランスの防御線の最も突出した地点にある要塞都市のいくつかを、同盟国のために放棄することで、この措置を容易にし、完成させるよう求めた。最もキリスト教的な国王陛下は、これほど長い動揺ののち、全体の平和を強固にすることによってフランスが得る利益を深く理解し、この大きな利益を得るためには、王国の領土を本質的に損なわない、いかなる犠牲も受け入れる用意をもって、列強の提案に同意された。そこで、前条で定めた金銭的補償とは別に、同盟国の防衛体制の復旧に伴う負担の一部を賄うため、フランス政府は同盟国に二億を提供し、第二条で示した適切な周囲の区域とともに、コンデ、シャルルモンを含むジヴェ、およびザールルイの要塞都市を割譲することが合意された。

第六条――幾多の激しい動揺、とりわけ最後の破局ののち、フランスには、なお不安と騒然とした状態が残らざるをえない。国王の慈父としての意図と、立憲憲章が臣民のあらゆる階層に保障する利益にもかかわらず、この状態がどれほど続くかは予測しがたい。近隣諸国の安全のためには、一時的な予防と保証の措置が必要である。そのため、同盟軍の部隊によって、フランスの国境沿いの軍事拠点を、暫定的に占領することが不可欠と判断された。ただし、この占領は、最もキリスト教的な国王陛下の主権にも、本条約で承認し確認する領有の状態にも、いかなる損害も与えないことを、明確な条件とする。

この軍隊の人数は、十五万人を超えないものとする。その最高司令官は、同盟列強が任命する。

この軍は、ヴァランシエンヌ、ブーシャン、カンブレー、モーブージュ、ランドルシー、ル・ケノワ、アヴェーヌ、ロクロワ、ロンウィ、ティオンヴィル、ビッチュの要塞都市、およびフォール=ルイの橋頭堡を占領する。

ストラスブールの要塞都市からは正規軍が退き、都市の警備隊に委ねる。ただし、内城には同盟軍が駐留し続ける。

あるいは、完全に撤兵し、武装を解除して、都市の警備隊に委ねる。

フランス軍と同盟軍を分ける線は、別途定める。この線の中に含まれ、同盟軍が占領しない要塞都市は、都市の警備隊に委ねる。

この任務に就く軍隊の維持は、フランスが担う。その件に関わるすべての事項は、特別協定で定める。この協定では、占領軍と、その国の文官および軍の当局との関係も定める。

この軍事占領の期間は、七年を限度とする。三年後、同盟国の君主たちが集まってフランスの状態を検討し、この措置を取らせた理由が、もはや存在しないと一致して認める場合には、期限前に終了する。ただし、満七年が経過した時点では、同盟軍が占領しているすべての要塞都市および拠点から、それ以上の遅延なく撤兵し、ルイ十八世陛下、またはその継承者および後継者に引き渡す。

パリ、一八一五年九月二十日」

(以下、署名。)

この通告を受け取って、私は心の底から憤りを覚えた。そこに含まれる不当な要求以上に、その形式のほうが、さらに無礼だったかもしれない。私が提案した返答について、閣僚会議の意見は完全に一致し、国王も全面的に同意された。そこで私は、同盟国の全権委員たちに、次の文書を送った。感じている憤りのすべてを、そこに表せないことを、ひどく残念に思った。しかし、状況は、つらいほどの慎重さを要求していた。

同盟国の提案に答える、フランス全権委員の文書[271]。

「下記署名の、最もキリスト教的な国王陛下の全権委員は、昨日の会議において、結束する四宮廷の全権大臣閣下たちから、最終合意について受けた通告を、ただちに陛下にお伝えしました。閣下たちが、その基本条件として提案されたのは、次の各項です。

一、最もキリスト教的な国王陛下が、五月三十日の条約によって従来のフランスに加えられた地域の三分の二に相当する領土を割譲すること。その中には、コンデ、フィリップヴィル、マリアンブール、ジヴェとシャルルモン、ザールルイ、ランダウの要塞都市、およびジュー、レクリューズの両要塞を含める。

二、ユナングの防御施設を撤去すること。

三、補償として六億、フランスに隣接する諸国に要塞都市を建設する費用として二億の、二つの金額を支払うこと。

四、同盟国が任命する将軍の指揮下にあり、フランスが維持費を負担する十五万人の軍隊が、ヴァランシエンヌ、ブーシャン、カンブレー、モーブージュ、ランドルシー、ル・ケノワ、アヴェーヌ、ロクロワ、ロンウィ、ティオンヴィル、ビッチュの要塞都市、フォール=ルイの橋頭堡、および北部と東部の国境沿いの線を、七年間占領すること。

陛下は、ご自身にできる限り、合意の成立を早めたいと、切に望んでおられます。成立が遅れることで、人民は陛下が日々嘆いておられる多くの災いを受け、列強が心配している国内の動揺も長引き、今なお続いているからです。しかし陛下は、それ以上に、ご自身の善意を、同盟する君主たちに示したいとのお気持ちから、下記署名者に対し、提案された基本条件の各項について、どのような原則で交渉を続けるべきとお考えかを、四宮廷の全権大臣閣下たちに、遅滞なくお伝えするよう命じられました。そして、最初の基本条件、すなわち領土の割譲について、次の考察を示すよう、お命じになりました。この重要な問題を、切り離せば大きな危険を招く、正義と有益さという二つの観点から考えるものです。

君主同士の争いを解決する権威と力を持つ、共通の裁判者がいないため、友好的な合意に達することができなかった君主たちには、その争いの決着を武力の結果に委ねるほか、手段がありません。それによって、両者の間に戦争状態が生まれます。その状態で、一方の領土が他方の軍隊に占領されれば、その領土は征服下にあります。征服の権利により、占領者は、占領している間、または平和が戻るまで、その領土を全面的に使用し、利益を得る権利を取得します。占領者は、平和回復の条件として、占領しているものの全部または一部の割譲を求める権利を持ちます。割譲が行われれば、使用収益の権利が所有権に変わり、単なる占領者から、その地の主権者となります。これは、国際法が認める取得方法です。

しかし、戦争状態、征服、そして領土の割譲を求める権利は、一つが次のものを生み、互いに依存するものです。最初のものが二番目のものの絶対条件であり、二番目のものが三番目のものの絶対条件です。戦争状態の外では征服は行えず、征服が行われなかったところ、または征服の状態が終わったところには、領土の割譲を求める権利は存在しえないからです。手に入れたことのないものや、もはや持っていないものを、そのまま保持したいと求めることはできません。

戦争状態の外では、征服はありえません。また、何も持たない者からは何も奪えない以上、征服できる相手は、領有する者だけです。したがって、征服が成立するためには、占領者が領有者、すなわち主権者と戦争をしていなければなりません。国土の領有権と主権は、切り離せないもの、むしろ同じものだからです。

それゆえ、ある国で、その住民の多かれ少なかれ一部を相手に戦争をしても、主権者が戦争の相手から除外されていれば、その国を相手に戦争をしていることにはなりません。国を相手に戦争をするという表現は、領土を、その領有者の代わりに用いる比喩にすぎないからです。外国人がある君主の国で戦争をしていても、その君主を主権者として承認し、通常の平和な関係を保っているなら、その君主は戦争の相手から除外されています。この場合、戦っている相手は、そもそも何の権利も持たない人々です。相手を倒す者も、その権利を引き継ぐことはできず、相手のものでないものを、相手から征服することも不可能です。そのような戦争の目的も結果も、征服ではなく、回復にしかなりえません。そして、自分のものではないものを回復する者は、その正統な領有者と認める者のためにしか、回復できないのです。

以前はある国の主権者と認めていた人物とは戦争をせず、その国とは戦争をしていると考えるためには、次の二つのうち、どちらかが必ず必要です。一つは、その人物を主権者と見なすのをやめ、戦っている相手が行った、まさにその戦争の理由となる行為によって、主権は相手に移ったと見なすことです。それは、多くの王座を倒し、すべての王座を揺るがし、ヨーロッパ全体が武器を取って立ち向かわなければならなかった教説を、認め、従い、それによって正当化することにほかなりません。

もう一つは、主権が二重に存在しうると考えることです。しかし、主権は本質的に一つで、分割できません。集団に属する場合も、個人に属する場合もあり、その形は異なりえます。しかし、同じ国に、両方が同時に存在することはありません。一国に同時に二人の主権者がいることはできないのです。

同盟列強は、この二つのいずれも行わず、いずれも信じていませんでした。

列強は、ボナパルトの企てを、人間が犯しうる最大の犯罪と見なし、それを試みただけで、彼は国際法の保護の外に置かれると考えました。その支持者たちも、この犯罪の共犯者としてしか見ず、戦い、屈服させ、罰すべき者と考えました。このことは、彼らが生来、何らかの権利を持っていたとか、権利を取得し、与え、移すことができたとかいう、あらゆる想定を、決定的に排除するものです。

同盟列強は、最もキリスト教的な国王陛下をフランス王として認め、その資格に伴う権利を認めることを、一瞬たりともやめませんでした。陛下との平和と友好の関係を、一瞬たりとも断ちませんでした。それだけで、陛下の権利を尊重する約束が伴っていました。三月十三日の宣言と二十五日の条約では、明言こそしないものの、正式にその約束をしました。さらに国王が条約に加入し、共通の敵に対する同盟に迎え入れられたことで、その約束はいっそう強まりました。友好国に対して征服できないのなら、まして同盟国に対してはできません。国王は、列強とともに積極的に行動しなければ、その同盟者にはなれず、それをしなかった、などとは言わないでいただきたい。三月二十五日の条約の時点ですでに知られ、避けられないと考えられていた軍全体の離反によって、国王は正規軍を動かせませんでした。しかし、西部と南部の諸県では、六万ないし七万人のフランス人が、国王のために武器を取りました。また、武器を取る意向を示し、簒奪者に兵力を分けざるをえなくさせた人々もいました。ワーテルローでの敗北ののち、彼が求めた兵力と資金を提供する代わりに、すべてを放棄する以外の道を残さなかった人々もいました。これらの人々は、同盟列強にとって、まぎれもなく、きわめて有用な援助者でした。最後に、同盟列強は、自軍がフランスの各地方へ進むにつれ、その地で国王の権威を回復しました。もしそれらの地方が、本当に征服されていたのなら、この措置によって征服の状態は終わっていたはずです。

したがって、領土の割譲という要求が、征服を根拠にできないことは明らかです。

同盟列強の支出も、領土割譲の理由にはできません。共通の利益、なかでもフランスの利益のために始めた戦争によって、列強が余儀なくされた犠牲を、列強自身の負担として残すべきではないというのが正当なら、その犠牲と同じ性質の補償で満足するべきだというのも、同じく正当です。同盟列強は、領土を犠牲にしたのではありません。

今は、他のどの時代にもまして、王の言葉への信頼を強めることが大切な時代です。列強が、ボナパルトとその支持者だけを相手に武器を取ると宣言したあとで、また、一八一四年五月三十日の取り決めの全体を、あらゆる侵害から守ると条約で約束したあとで、さらに、その最高司令官たちが、同じ保証を布告で繰り返したあとで、最もキリスト教的な国王陛下に割譲を要求すれば、全く逆の結果を生むでしょう。フランスの領土全体を保たなければ、五月三十日の取り決めの全体も、保つことはできません。

最もキリスト教的な国王陛下に割譲を要求すれば、簒奪者が吹き込んだ征服の精神を、人民の間から完全に、永久に消し去る手段を、陛下から奪うことになります。フランスが、正当に失ったとは決して思わないものを取り戻したいという願いとともに、その精神は必ず再燃するでしょう。

最もキリスト教的な国王陛下に割譲を要求すれば、あたかも陛下が、それによって列強の援助を買ったかのように、陛下の罪とされるでしょう。そして、正統な王朝にとって、きわめて重要な王政の安定を妨げます。ヨーロッパの平穏がフランス国内の平穏に結びついている以上、この安定は、ヨーロッパの平穏にも不可欠です。

最後に、最もキリスト教的な国王陛下に割譲を要求すれば、列強が多くの犠牲、努力、配慮を注いで築いた均衡を、壊すか、少なくとも損なうでしょう。フランスの持つべき領土の範囲を定めたのは、列強自身です。一年前に必要と判断したものが、どうして、もう必要でなくなったのでしょう。ヨーロッパ大陸には、領土と人口でフランスを上回る二つの国があります。フランス自体の規模が縮むと同時に、これらの国の相対的な大きさは、必ず増します。それは、ヨーロッパの利益にかなうでしょうか。両国が互いに置かれている関係から見て、両国それぞれの利益にさえ、かなうでしょうか。

古代の小さな民主国家でさえ、ある将軍が、非常に有益だが正しくない事柄を提案しようとしていると知ったとき、集まった人民全体が声をそろえ、どんな事柄かを知ることさえ望まないと叫びました。正しくないものが、さらに有害でもある今回の状況で、ヨーロッパの君主たちの意見が一致することを、どうして疑えるでしょうか。

したがって、下記署名者は、全面的な信頼をもって、以上の考察を同盟国の君主たちに、謹んで提出いたします。

それでも、現在の状況では、いかなる領土割譲にも不都合が伴うことを承知のうえで、陛下は、五月三十日の条約によって従来のフランスに加えられた地点について、旧国境に戻すことには同意されます。

陛下は、補償金の支払いにも同意されます。ただし、王国内の行政の必要を満たす手段が残される金額でなければなりません。それなしには、戦争の目的であった秩序と平穏の回復に到達することが、不可能になるからです。

陛下は、暫定的な占領にも同意されます。その期間、占領する要塞の数と地域の範囲は、交渉の対象とします。しかし国王は、七年間の占領は、王国の平穏と両立せず、全く受け入れられないと、この時点でためらうことなく表明されます。

このように国王は、従来のフランスに属していなかった地域の領土割譲、補償金の支払い、そして、今後定める兵力と期間による暫定占領を、原則として認められます。

最もキリスト教的な国王陛下は、同盟する君主たちが、この三つの原則を交渉の土台とすることに同意し、数量の算定においても、君主たちを動かす正義と節度の精神を示されることを期待しておられます。そうなれば、双方が満足する合意を、きわめて速やかに結べるでしょう。

この基本条件が採用されない場合、下記署名者には、それ以外の条件を聞く権限も、提案する権限もありません。

タレーラン公、ダールベルク公、ルイ男爵」

私は今も、この文書で述べた原則と考えに、毅然として力強く立ち続けていれば、同盟国の一部の全権委員による要求を退け、次の条件で切り抜けられたと確信している。一、国境の修正という口実による、わずかな領土の割譲。二、多くても三億ないし四億フランの賠償金。三、軍を再編する時間を与えるための、外国軍によるいくつかの要塞の短期間の占領である。しかし、復讐心と略奪への欲望がとりわけ強い外国の政府は、弱い国王を絡め取る陰謀も知っており、九月十五日の文書に示した要求に固執した。そして二十日の文書に、次の文書で答えた。[訳注12]

同盟国大臣たちの回答。

「一八一五年九月二十二日。

下記署名の同盟四宮廷の全権委員は、最終合意について今月二十日の会議で行った通告に対し、フランスの全権委員たちが回答した文書を受け取りました。この文書に、征服の権利、その権利が適用される戦争の性質、そして、今回列強がその権利に訴えるべきでない理由について、長々と考察が連ねられているのを見て、驚きました。

下記署名者は、フランスの全権委員たちの議論に付き合う必要がないと考えます。崇高なる君主たちの命令により、フランスとヨーロッパとの現在および将来の関係を定めるために行った提案は、どれ一つとして征服の権利に基づいておらず、通告においても、この権利の議論に結びつきうるものを、注意深くすべて避けたからです。

同盟宮廷は、つねに、フランスにおける秩序の回復と王権の安定を、自らの行動の主な目的としています。しかし同時に、近隣の国民がフランスに対して激しい恨みや絶えない不安を抱き続けるかぎり、フランスも確かな平和を享受できないと確信しています。そこで、過去の損失と犠牲に対する正当な償い、および近隣諸国の将来の安全への十分な保証という二つの原則だけが、あらゆる不満と恐れを終わらせるのに適しており、したがって、確実で永続するあらゆる合意の、唯一の真の土台であると考えました。同盟宮廷は、ただこの二つの原則だけに、提案の根拠を置いたのです。下記署名者が、フランスの全権委員たちにお渡しした条約案の文面そのものが、各条でこのことを明確に述べています。

フランスの全権委員たちは、最初の原則を自ら認めながら、二番目の原則については沈黙しています。しかし、将来への保証の必要が、パリ条約の署名時よりも、いっそう明白で切迫したものになったことは、疑いようがありません。最近の出来事は、ヨーロッパのあらゆる地域に、驚愕と恐怖をもたらしました。多くの苦難ののち、君主と人民が、ようやく長い平和の時期を楽しめると期待していたその時に、これらの出来事は、各地に動揺を起こし、新たな総動員に付きものの負担と犠牲を生みました。このような混乱の記憶を、今を生きる人々の心から、すぐに消し去ることは不可能です。したがって、一八一四年には満足を与ええたものも、一八一五年には、もはや満足を与えられません。五月三十日の条約の時点では、フランスの近隣諸国を安心させるはずと思われた境界線も、今、諸国が行う正当な要求には応えられません。フランスは、どうしても、安全を示す何か新たな証を与えなければなりません。正義と妥当さの感覚からも、よく理解した自国の利益からも、そう決断するべきです。フランス人が幸福で平穏に暮らすには、近隣の人々もそうであることが、絶対に必要だからです。

これらの強い理由が、同盟宮廷に、フランスに対していくつかの領土割譲を求めさせました。割譲の範囲が小さいことも、その対象となる地点の選び方自体も、領土拡大や征服の意図とは無関係で、隣接する諸国の安全だけが唯一の目的であることを、十分に証明しています。この割譲は、フランスの領土を本質的に損なう性質のものではありません。含まれるのは、離れた土地と、領土のうち大きく突出した地点だけです。行政上も軍事上も、いかなる面であれ、実際にフランスを弱めるものではありません。防衛体制も影響を受けません。フランスは、侵攻の危険に抵抗するための、あらゆる種類の手段が最も豊かで、領土が最もよくまとまり、最もよく守られたヨーロッパ諸国の一つであり続けます。

フランスの全権委員たちは、この重要な考察には立ち入らないまま、パリ条約が従来のフランスに加えた地点については、割譲の原則を認めています。下記署名者には、この区別の根拠が何なのか、同盟列強が示した観点から見て、旧領土と新領土の本質的な違いが何なのか、理解しがたいところです。現在の交渉において、フランスの全権委員たちが、いわゆるフランス領土の不可侵という教説を再び持ち出そうとしているとは、考えられません。革命体制の指導者や伝道者が掲げたこの教説が、ヨーロッパに押しつけようとした恣意的な法典の、最も不当な章の一つをなしていたことを、彼らも十分に知っているからです。フランスは、難なく国土を広げ、地方を獲得し、征服や条約によって領土に組み入れることができたのに、戦争の不運によっても、その結果生じる政治的な合意によっても、旧領の何一つ失わない特権を、フランスだけが享受する。これを原則とするのは、列強の間の平等と相互性という考えを、完全に壊すことになります。

フランスの全権委員たちの文書の最後の部分については、下記署名者が、次回の会議で詳しく説明することとします。その会議は、フランスの全権委員たちに、謹んで提案する予定です。」

(この最後の段落は、フランス領土に外国軍が滞在する期間について述べたものである。)

(以下、署名。)

この文書をルイ十八世に持参すると、国王は、その結果をひどく恐れておられた。何よりも、自分たちだけの力に任されるのを恐れる亡命貴族派が、きっぱりとした拒絶によって同盟国を怒らせるのは、フランスも国王ご自身も危険にさらすことだと、周囲であまりに騒ぎ立てたため、国王は勇気を失っておられた。まだ交渉し、折り合いを探し、もちろん最後の必要に迫られるまでは譲らないにせよ、結局は譲らねばならない、と私に言われた。しかし、割譲要求について交渉することは、その要求が正当だと暗に認めることだった。議論を、多いか少ないかだけに狭め、譲らずに済む道を失うことだったのである。

私にとっては、それは、ウィーンで行ったすべての行動を否定し、当時ボナパルトに向けられていた同盟を、いつかわれわれに向けられないように取った用心を、無にすることだった。だから私は、同盟国が持ちえない権利を、どのような形でも決して認めず、領土の一部の割譲を含むいかなる文書にも署名しないと、固く決めていた。他の大臣たちも、同じ考えだった。しかし国王は、要求を突きつける同盟国、自分たちのためにしか抱いていない不安を、国王ご本人のための不安と装う廷臣、そして、意見が揺るがず、王族たちを会議から遠ざけることもためらわなかった政府の間に、挟まれていた。目に見えて痛ましいほど苦しい立場にあったため、私は、辞表を差し出して国王をそこから救う義務があると思った。他の閣僚も、同じく退任を申し出た[272]。

メッテルニヒ氏、カスルレー卿、その弟スチュアート卿が、三人とも私を訪ね、自分たちから離れないでほしいと頼んだ。しかし私は、どの説得にも応じようとはしなかった。カスルレー卿は、こう言いさえした。「なぜ、われわれとともに、ヨーロッパの大臣になろうとなさらないのですか。」「私は、フランスの大臣だけでありたいからです」と、私は答えた。「あなた方の文書への私の答え方で、おわかりでしょう。」

辞表は、撤回しない決意で提出した。国王は、大いにほっとした様子で受理された。私の退任は、ロシア皇帝にとっても安堵となった。皇帝が、私という人間のうちに憎んでくださったのは、ご自身が言っていたような、イギリス人の友人ではなかった。帝国の国境をオーデル川まで広げようとしたとき、私が皇帝に対抗するため、イギリス人を助け手にしたことは、皇帝もよく知っていた。しかし、それだからといって、ヨーロッパ全体、とりわけフランスの利益にかなう以上に、私がイギリス人の友人だったわけではない。皇帝が私のうちに憎んでいたのは、幸運の中でも不運の中でも、きわめて異なる状況で、皇帝を間近に見て、その性格の寛大さ、かつての自由主義、最近の信心深さについて、どう考えるべきかを十分に知っていた人物だった。皇帝には、だまされてくれる人間が必要だったが、私はそうはなれなかった。しかし、皇帝の満足を頂点に達させたのは、閣僚会議議長と外務大臣という二つの職の私の後継者が、ロシアの陸軍中将で、元オデッサ総督のリシュリュー公になったことだった。確かにきわめて善良な人ではあったが、外交には不慣れで、少々人を信じやすかった。地上にある神の似姿のうち、アレクサンドル皇帝ほど美しく、ふさわしいものはないと信じていた公は、フランスの政務を引き受けるにあたり、皇帝の知恵と支援を仰ぎに行く以上の方策を、思いつかなかった。

私は、権力を手放すことに、さほど強い未練を感じなかった。確かに、フランスを治める名誉は、最も高潔な志が目指すものとなるべきだ。しかし、当時の状況では、その志を満たす代価は、私にはあまりに高すぎた。同盟国から敵となった国々が要求する犠牲とは別に、私個人に関わる困難も待っていた。それによって、権力を行使することは、ほとんど不可能になっただろう。ルイ十八世は、憲章を授けながら、大臣たちの独立について、憲章から生じる結果を、しぶしぶしか認めなかった。そして、私に負っていると感じる感謝の重荷を、苦しんで担っておられた。廷臣たちは、反動への道に熱心な代議院を生み出した選挙の成功に励まされ、私が率いる内閣を、絶えず掘り崩しただろう。代議院自身も、国王がひそかに抱く嫌悪に支えられ、穏健を旗印に選んだ政府を前に実際に示した以上に、無分別で暴力的な態度を取ったに違いない。私は、一七八九年から一七九一年にかけて、演壇での熱狂的な争いがどれほどのものかを、十分に見極めていた。国の利益についての、単純で落ち着いた議論に抑える権威を持たなければ、フランスでは、そうした争いは混乱にしか行き着かないと知っていた。王政に威厳を与えず、国にも利益を与えない嵐に、王政をさらす気はなかった。それに、年齢と、最近の出来事による疲労も、好みから望んでいた引退を、私に命じたはずだった。したがって、二度と政務の指揮を引き受けないと固く決め、未練なく公務から退いたと、私は言うことができる。

今後、私が祖国と、そのために望んだ政府に尽くせるのは、願いを寄せることだけである。この政府が、祖国の幸福と現在の必要に、最も適していると信じているからだ。新しい制度が正しく理解され、誠実に実践されれば、フランスは、自らの栄光のためにも、世界と文明の利益のためにも、ヨーロッパで占めるべき地位を、速やかに取り戻すだろうと、私は固く期待している。

ここで、この回想を終える。私の政治生活の終わりとともに、閉じられるべきものだからだ。この最後の行を書きながら、私は、自分自身について、喜んでこう証言することができる。あまりに長すぎたかもしれない政治生活の間に、過失や誤りを犯したとしても、それは私個人の不利益となっただけだった。フランスへの最も献身的な愛に動かされ、誠実に最も有益だと信じるものを、フランスのために求め、つねに良心に従って尽くしてきた。私のように、歴史の最も特異な時期の一つに、世界という大舞台に立った者には、まさにそのことゆえに、より偏りなく、より公正に裁かれる権利がある。後世は、同時代人よりも自由で独立した判断を、その者たちに下すだろう。

ヴァランセ、一八一六年八月。

付録[273]

パリ、一八二四年一月。

私は、この回想に、いくらか書き加えざるをえなくなった。それまでの頁では、触れることさえ望まなかった、残酷で痛ましい出来事を思い起こさねばならないのを、残念に思う。

私が生きてきたような時代には、国の大きな政務に身を捧げる者は、虚偽と侮辱に満ちた非難を、必ず受けるものだった。私は、それに答えることを、つねに軽蔑してきた。しかし、その軽蔑にも限度がある。流血の問題を持ち出されれば、少なくとも後世に対しては、もはや沈黙することはできない。告発者たちの卑劣さと犯罪は、彼ら自身の話によって、恥ずべき形でさらされている。普通の場合なら、それだけで非難への十分な反駁となるかもしれない。しかし、今回の事実の性質、歴史上の重要性、彼らの話に含まれる真実の部分、関わる人物たちの大きさ、私の名と家の名誉、そのすべてが、激しく、欲に駆られた憎しみによって、私にも浴びせかけられようとしている血を、はね返すよう命じている。

ロヴィゴ公サヴァリ氏は、二十年前、アンギャン公殿下の身に対して行われた恐るべき犯罪について、自らその実行の道具となったことを認めながら、私がそそのかした者であり、したがって、その犯罪を起こした者だと非難した。一方、モブルイユ侯爵は、一八一四年、エルバ島へ向かう途中の皇帝ナポレオンを暗殺するよう、私が彼を買収しようとした、と主張している[274]。狂気は、ときに奇妙な迷走をするものだ。この最後の非難については、私が言うべきことは、それだけでよいはずである。あまりに不合理で、常軌を逸しているので、狂人か、妄念に取りつかれた者にしか、考え出せないものだからだ。しかし、サヴァリ氏は、そのどちらでもない。まず彼に答えたい。

確かにサヴァリ氏の非難はすべて、彼が自分自身に向けた非難の中に消えてしまう。犯罪を疑われた者が、これほど軽率に、これほど恥ずかしく、自分をさらしたことは、かつてなかった。空虚で虚偽の主張に答えるため、彼が自ら飛び込んだ深淵まで、ついて行く必要があるだろうか。しかし、この主張は、別の出所から来た出版物と結びついている。セントヘレナから来た、あるいは来たとされる文章が出版された。その唯一の目的は、同時代の名士たちすべてを、計画的に、激しく中傷することで、失墜した偉大な名声を回復させることだった。だから私は、私の名が、当時のすべての君主、すべての大臣の名と、絶えず結びつけられているのを、名誉に思う。この恨みの表現の中で、私個人にこれほど大きな部分が割り当てられていることを、喜ぶほかない。その恨みの主な動機は、執念深く、ねたみに満ちた憎悪を満足させ、フランスを、その過去の栄光、最近の不幸、現在の繁栄、将来への希望のために罰することだった。むだ話、傲慢な自慢、学者ぶった議論、虚偽に満ちた誹謗を、まとまりなく集めたこれらの文章の中には、誰に対してであれ、罪を問う証拠にできるものは、何一つない。

これらの文章でも、サヴァリ氏の小冊子でも、私の二通の書簡が引用された。しかし、忠実には掲載されていない。私は、公文書館にあるはずのものを、そのまま全文示す。今も、そのすべての責任を引き受ける。この二通の書簡は、当時果たさなければならなかった義務のうち、私にとって痛ましい部分を表すものではない。私は、この恐ろしい惨事について、何も隠すことはない。私の関与は公にされており、それは痛ましい後悔を抱かせることはあっても、良心のとがめを残してはいないからだ。

事実を簡単に思い起こそう。それが、サヴァリ氏の虚偽の非難を退ける最善の方法となるだろう。

一八〇三年末から一八〇四年初めにかけて、第一統領の命を狙う数多くの陰謀があったことは、知られている。一八〇四年の初めには、ジョルジュ、ピシュグリュ、モロー、その他の被告人に対する、大規模な訴訟の審理が進められていた。警察が国内で行った捜査のあと、国外でも別の陰謀の痕跡が見つかり、当然ながら、両者を結びつけようとした。総警察省は、数か月前から廃止されていた。行政のこの部門を担当していたのは、一人の国務参事官で、その資格において、大法官兼司法大臣レニエ氏の指揮下に置かれていた[275]。

この大臣は、一八〇四年三月七日(共和暦十二年風月十六日)、第一統領に次の報告を提出した。

「市民第一統領殿。

バーデン選帝侯領のオッフェンブルク、ライン沿いの諸県からすぐ近くの場所に、イギリス政府に金で雇われた委員会が存在します。この委員会は、フランスの亡命者、旧将官、聖ルイ騎士団員などで構成されています……。その目的は、可能なあらゆる手段によって、共和国内に騒乱を起こすことです。主な手先は、ミュセという亡命者です。陰謀と、自国に向ける執念深い憎しみによって、以前から知られている人物です。

この卑劣な男は、反抗する司教たちの扇動的な教書と、国外でフランスおよびその政府に対して作られる、あらゆる恥ずべき中傷文書を、フランスに持ち込み、大量に流布させる任務を、委員会から与えられています。

ケールの郵便局長トリダンという者は、委員会がストラスブールに置く腹心たちへ、連絡文書を届けるために使っている人物です。その腹心たちは特定されており、逮捕の命令が出されています。

しかし、この措置だけにとどめるべきではないと考えます。公共の平穏も、国民とその指導者の尊厳も、オッフェンブルクに存在する陰謀家たちの巣を破壊することを求めています。彼らは、いわば共和国とその政府の門前に来て、恥知らずにも挑発しているのです。速やかに処罰することで、共和国と政府の双方への侮辱を晴らすことも、必要です。

したがって、市民第一統領殿に、バーデン選帝侯殿下に対し、ミュセ、トリダン、その共犯者たちの即時引き渡しを要求することを、提案いたします。

敬意をもって、ご挨拶申し上げます。

署名、レニエ。

原本と相違ないことを証明する。国務書記官、ユーグ・マレ。」

第一統領は、この報告を私に知らせると、バーデン選帝侯の政府に送付し、そこに名の挙がった人物の引き渡しを要求するよう、命じた。

その際、バーデン選帝侯殿下の外務大臣エーデルスハイム男爵に、私が送った文書は、次のとおりである。

「パリ、共和暦十二年風月十九日(一八〇四年三月十日)。

下記署名のフランス共和国対外関係大臣は、大法官が第一統領に提出した報告の写しを、エーデルスハイム男爵に、謹んでお送りします。閣下には、この重要な文書を、バーデン選帝侯殿下にお見せくださるよう、お願いいたします。殿下は、イギリス政府がフランスに対して続ける戦争の性質について、新たな明白な証拠を、そこに見いだされるでしょう。また、ご自身の領内のオッフェンブルクに、これらの忌まわしい陰謀のすべてに、最も活発に働く手先となっているフランス亡命者の団体があると知って、痛ましい驚きを覚えられるでしょう。

下記署名者は、このオッフェンブルクの委員会を構成する人物たちを逮捕し、すべての文書とともに、ストラスブールで引き取る任務に就くフランスの将校たちに引き渡すよう、正式に要求する使命を受けています。

下記署名者の、この件についての正式な要求は、リュネヴィル条約第一条の文面そのものに基づきます。すでに知られている事実によってヨーロッパの憤りを呼んだ、国家に対する陰謀が問題となっている以上、フランスと選帝侯殿下の間に存在する、特別な友好と善隣の関係に照らし、殿下が、フランス政府の要請に応じて、このリュネヴィル条約の重要な規定を、進んで実行されることに、疑いはありません。また、第一統領の命、フランスの安全、ヨーロッパの平穏を同時に脅かした策謀を暴くため、より多くの手段を得ることにも、ご協力くださるでしょう[276]。

さらに、下記署名者は、全般的で撤回されることのない措置によって、フランスの亡命者全員を、バーデン選帝侯領を構成する地域から遠ざけるよう、要求する使命を受けています。フランスに最も近いドイツの地域に彼らが滞在することは、不安の原因、騒乱の機会でしかなく、彼ら自身にとっても、陰謀を結び合わせる刺激でしかありません。イギリスは、その陰謀を利用し、自らの忌まわしい計画に合わせて、広げ、指揮するのです。

今なお国外にいる亡命者が、すべて、かつての祖国の現在の政府に対して結託した者たちであり、いかなる状況、いかなる変化によっても和解せず、絶えずフランスとの戦争状態にある者たちであることを考えれば、彼らが、リュネヴィル条約の規定により、ドイツ諸国で庇護も保護も与えられるべきでない者たちであるのは、明らかです。したがって、彼らの排除は、厳格な法の要求です。しかし、選帝侯殿下のよく知られた原則とお気持ちだけに期待する場合でも、殿下が、このように危険な者たちを領内から遠ざけるために心を配り、それによって、多くの事情がフランスとバーデン選帝侯領の間に築いた、完全に友好的な関係を、どれほど大切にしておられるか、その新たな証をフランス政府に示されることを、疑いません。

したがって、下記署名者は、お伝えする任務を受けた二つの要求について、選帝侯殿下のご決定を、全面的な信頼をもってお待ちいたします。また、この機会に、改めて……」

この文書と添付書類は、フランス政府が、バーデン選帝侯領から、一部の人物の引き渡しと、他の人物の追放を求めたのは、警察が提供した情報だけに基づいていたことを、はっきり示している。そして、アンギャン公への追及の理由とされた情報が、対外関係省から出たものではなかったことを、これから実際に見ることになる。

私の文書を送ったのは三月十日だった。数時間後、命令を受け、私は第一統領のもとへ行った。第一統領は、激しく興奮していた。その場にいた総警察担当の国務参事官レアル氏[277]に、アンギャン公がデュムーリエ将軍[278]とともにエッテンハイムにいて、共和国の安全と、自分自身の命に対する陰謀を企て、その陰謀の主な拠点がオッフェンブルクにあることを、なぜ知らなかったのかと責めていた。やがて私のほうを向き、同じ叱責を浴びせ、カールスルーエのフランス代理公使が、このような事実を報告しなかったのは、どういうわけかと尋ねた。激怒のあまり答える機会を与えてくれなかったので、話を聞いてもらうのは容易でなかったが、ようやく口を挟めると、私は、アンギャン公がバーデン選帝侯領にいることは、第一統領も以前から知っており、公がエッテンハイムに住んでよいと、選帝侯に知らせるよう、私に命じたことさえあったと指摘した。オッフェンブルクの陰謀については、カールスルーエの代理公使マシアス氏[279]が、知らなかったか、書簡での言及を怠ったのかもしれなかった。重要と思わなかったか、自分の妻の親族か姻戚だといわれるライヒ男爵夫人に、累が及ぶのを恐れたか、そのどちらかであろう。私は、第一統領の怒りを和らげようとしたが、無駄だった。第一統領は、憲兵隊第一総監モンセー将軍を通じて届いた報告を見せた。そこには確かに、デュムーリエがエッテンハイムにいると書かれていた。この種の報告は、どれもそうだが、明確な事実より推測に基づいていた。ただ、デュムーリエの滞在については、断定されていた。しかし、それは事実ではなかった。第一統領は、報告に強く心を動かされており、この陰謀が、当時パリで審理中の陰謀と、直接つながっているという考えを、どうしても捨てさせることができなかった。そこで、その場で、バーデン領内のオッフェンブルクとエッテンハイムにいる亡命者全員を、フランス軍に逮捕させるという、不幸な決断を下した。その実行について、陸軍大臣への命令を、自ら口述した。そして、自分が必要と判断して採用した措置を、事後にバーデン選帝侯に知らせる義務を、私に課した。したがって、私はエーデルスハイム男爵に、ここにも掲載する次の書簡を書いた。

「パリ、共和暦十二年風月二十日(一八〇四年三月十一日)、午前三時。

男爵殿。

私は、オッフェンブルクに住むフランス亡命者の委員会の逮捕を求める文書を、あなたにお送りしたばかりでした。そのとき第一統領は、イギリス政府がフランスへ吐き出した悪党たちの相次ぐ逮捕と、当地で進む訴訟の経過および結果によって、ご自身の身とフランスの安全に対して企てられた恐るべき陰謀に、オッフェンブルクのイギリスの手先がどれほど関与していたかを、すべて知ることになりました。また、アンギャン公とデュムーリエ将軍がエッテンハイムにいることも、知りました。この二人が、選帝侯殿下の許可なしに、その町にいることは不可能です。第一統領は、フランスの友情がもたらす、とりわけ特別な恩恵を、喜んで受けていただいてきた君主が、ご自身の最も残酷な敵に庇護を与え、このような前代未聞の陰謀を、安らかに企てさせていたことを、深い悲しみなしには見られませんでした。

この異常な状況の下で、第一統領は、二つの小規模な分遣隊をオッフェンブルクとエッテンハイムへ向かわせ、その性質上、関与したことが確かめられた者を国際法の保護の外に置く犯罪について、その扇動者たちを捕らえるよう、命じるべきだと考えました。

この件で第一統領の命令を受けているのは、コランクール将軍です。その実行にあたって、選帝侯殿下が望まれる、あらゆる配慮をすることを、疑われる必要はありません。私があなたに書くよう命じられたこの書簡を、閣下に謹んでお届けするのも、彼です。

男爵殿、どうか……」

この書簡をコランクール将軍に送る際、私は、次の文面を添えた。

「パリ、共和暦十二年風月二十日(一八〇四年三月十一日)。

将軍殿。

バーデン選帝侯の首席大臣エーデルスハイム男爵への書簡を、謹んでお送りします。オッフェンブルクへの遠征が完了し次第、お届けくださるよう、お願いいたします。第一統領から、あなたに次のことを伝えるよう命じられています。選帝侯の領内に軍隊を入れる必要がなく、またオルドネール将軍[280]も軍隊を入れていないとわかった場合は、この書簡を手元に置き、選帝侯に渡してはなりません。私は特に、ライヒ夫人の文書を押収させ、持ち帰るよう、お勧めする使命を受けています[281]。

謹んでご挨拶申し上げます。」

私は、この三通の書簡を全文示した。アンギャン公の嘆かわしい事件における、私の実際の、そして唯一の関与は、この三通だけだからである。少し注意して読めば、私の行動が、この件のどこまでに限られていたかを、容易に判断できるだろう。第一統領は、アンギャン公がバーデン選帝侯領にいることを、以前から知っていた。カールスルーエのフランス代理公使が、バーデン選帝侯の名で知らせていたのである。それに対しては、報告された公の行動は無害であり、滞在を続ける妨げはないと返答していた。対外関係省は、当時フランスの警察が、ライン国境に隣接する国々で行わせていた調査に、一切関与していなかった。この調査を指揮していたのは、共和国の総警察を担当する国務参事官レアルの命令を受けたストラスブールの県知事、あるいは憲兵隊第一総監モンセー将軍の命令を受けた、各地の憲兵将校たちだった。受け取った報告を第一統領に直接伝えていたのは、レアルとモンセーの両氏である。これらの件について、私は、第一統領が命令を与える際に話すこと以外、何も知らされなかった。見てきたように、私はエーデルスハイム男爵に、大法官レニエ氏の報告を送った。その中には、まだアンギャン公への言及はなかった。新たな情報に基づいて、エーデルスハイム男爵に二度目の書簡を書くよう、絶対的な命令を受けたとき、私は、その情報の確かさを崩そうと努めた。しかも、私の書簡が公の逮捕に何らかの働きを持つことはありえなかった。逮捕がすでに実行されたあとで、その逮捕をエーデルスハイム氏に知らせるためだけの書簡だったからだ。さらに、コランクール将軍への書簡は、バーデン領の侵犯が行われない場合を、私が想定していたことを示している。これは、選帝侯の領内に軍隊を入れるよう陸軍大臣に与えられた命令が、どれほど明確で、絶対的で、必ず実行されるものだったかを、私が知らなかったことを、はっきり証明する。まして、第一統領が心中に定めた流血の計画を、私が知っているはずはなかった。

公表されたものも、されていないものも、すべての文書によって裏づけられるこれらの事実を、私は強調する。サヴァリ氏の断言と悪意あるほのめかしを、最も決定的に退けるからである。引用した書簡以外について、私は全く何も知らなかった。そしてサヴァリ氏自身が、気づかずに、しかも確実に自分の意に反して、そのことを証明している。実際、彼は中傷文書の最も重要な段落の一つで、当時の警察の調査は国境を越えず、国外では私の省だけが担当していたと立証しようとしている。ところが、その先では、第一統領はアンギャン公の名も、その存在さえも知らなかったと教えてくれる。そのような不合理なことを述べれば、自分の話から、もっともらしさがすべて失われることも恐れないのである。そのあと彼は、国務参事官レアルと憲兵隊の長が、不幸な公の滞在、外出、交際、書簡、旅行を正確に知るため、どのような警察の手段や策略を考え出したかを、好んで詳しく説明する。結局、不吉で致命的な決断が下されたのは、彼らとその手先の報告に基づいていた。これらの措置のどれについても、その計画にも実行にも、私も、国外の私の省の職員も、一度として登場しない。国務参事官レアルと第一統領は、このような措置が、私の性格にも、私の省の原則にも適さず、私の関与は不要で、何も知らせないでおくほうがよいことを、十分に知っていた。

エーデルスハイム男爵への二通の書簡については、弁明が必要だとは思わない。しかし必要なら、その弁明は、当時の私の公的な立場、大きな出来事が当時フランスにもたらした難しい状況、そして同じ出来事によって、成立したばかりのフランス政府と大陸の他の政府の間に生まれた、新しい、全く予想外の関係の中に見いだされるだろう。

ここで、王個人の運命と、その人民の運命を、神の摂理が激しく切り離すような不幸な時代に、公職にある者が負う義務について、いくらか述べることを許していただきたい。そのとき君主は不在で、将来は見えない。個人的な臣下には、その運命に付き従い、不幸、危険、希望を分かち合う道がある。祖国の土を離れることで、君主の大義に、後戻りできない形で身を投じるのである。私は、この高潔な選択に、敬意も賛嘆も惜しまない。しかし、他の者には、祖国が残る。祖国には、守られ、治められる権利がある。そして、疑いなく、もう一つの権利もある。国王が不在になる前に、彼らが祖国に負い、果たしていたのと同じ奉仕を求める権利である。私は、この考え方の中に、自分の行動の規範を求めた。

当時、フランスは再びイギリスと戦争をしていたが、それ以外の世界とは平和な関係にあった。外務大臣の義務は、正義と法の範囲内で、自分の力でできることをすべて行い、この平和を守ることだった。

この点では、その義務がどれほど複雑だったかが、十分に知られていない。恐れ、疑い深く、自分たちの危険を心配し、互いには多かれ少なかれ和解していた政府たちと、その才知、性格、野心が、不安と疑念を抱く十分すぎる理由を与える強大な君主との間に、外務大臣は置かれていた。抑えなければならない政策にも、対抗しなければならない政策にも、絶えず等しく目を配る必要があった。自分が大臣を務める政府との交渉は、安心させなければならない外国の政府との交渉より、はるかに難しく、はるかに絶え間なく続くことが多かった。

先に示したコランクール将軍への書簡は、この問題に大きな光を当てる。第一統領が、この種の交渉に警戒していたことを、明らかに証明している。この事実だけでも、私の省に長く解きがたい困難をもたらすはずの出来事を防ぐため、私があらゆることをしたとわかる。バーデン選帝侯の大臣への私の書簡は、その困難の前触れだった。その本当の意味を理解するには、幸いにも私が、そこでは、自分の知る措置だけを正当化すればよかったことを、見失ってはならない。

弱い君主が、強大な隣国の敵意を招くのを思いとどまらせること。軽率な企てによってしか、成立している政府を傷つけられず、その企てがヨーロッパにもフランスにも、同じく平穏を失わせる敵の集団を、フランスの国境から遠ざけること。そして、フランス政府と隣接する諸国の政府の間に、不和を生むあらゆる原因を防ぐこと。これが、最初の書簡の目的だった。確かに、二通目の書簡は、公法の原則の一つを侵害する行為を、根拠薄弱なまま正当化している。これは、私が自分を責める過ちである。しかし、そのような行為を、多かれ少なかれ、もっともらしく正当化することと、行為を勧め、実行に関わることは別である。後者には犯罪がある。前者には、つらい、不幸な必要があるにすぎない。

隣国の領土への単なる侵犯にとどまる公法違反を、犯罪と呼ぶのは、言いすぎである。この戦争でも、他のすべての戦争でも、フランスの敵も、フランス自身も、より重大な違反を犯してきた。それを命じた政府も、実行を担い、その後弁護した大臣たちも、犯罪者とは呼ばれなかった。今回には、犯罪があった。しかしそれは、外国領を侵犯する際に目指した最終目的の中にだけあり、私は、それを知らなかったことによって潔白である。ここでの犯罪は、この侵犯がもたらした致命的な結果にある。しかし、私がその結果を予見していたと、告発者が証拠もなく主張してよいだろうか。そのような恐るべき予見は、共犯者だけのものだった。

異常な時代に、公職にある者が負う義務について、先に述べた考察に、さらに付け加えなければならない。事情に強いられ、政権を生んだ出来事と、その力による保護を人民が必要とすること以外に、正当性の根拠を持たない政府の下で、生き、仕えなければならなくなった場合、自分の立場に照らして、義務の性質を論じる必要がある状況が起こりうる。従っている政府が、犯罪を命じるだろうか。それなら、疑いなく、少しもためらわず、従ってはならない。どのような危険を冒してでも、政府の不興を買い、あらゆる結果を受ける覚悟をしなければならない。しかし、自分が関与しないまま、政府が犯罪を犯した場合はどうか。ここでは、二つの場合を分けて考えなければならない。犯罪が公共の秩序を危うくし、国を大きな危険に引き込む、または引き込みうるものであり、社会の解体、法の軽視、国家の破滅へ向かうなら、抵抗するだけでなく、そのくびきを振り払い、武器を取って立ち向かうべきことに、疑いはない。その権力は、もはや国の敵となり、国を治める権利をすべて失ったからである。

しかし、犯罪が、その性質上、単独のもので、対象も影響も限られ、全般的な結果としては、犯した者の名に汚点を付け、その道具、処刑者、共犯者となった者の名を、世間の嫌悪にさらすだけなら、苦く、慰めようのない悲しみに身を委ねなければならない。自然が、ときとして好んで形作る人物のうちに、大きさと弱さ、高貴さと卑しさ、力強さと邪悪さが混じり合って現れることを、悲しまねばならない。しかし、彼らに帰すべき栄光と不名誉を分け与える仕事は、後世の裁きに委ねるべきである。この犯罪で危うくされるのは、犯した者たちの名声だけである。国の法律、共通の道徳、国家の安全、公共の秩序が損なわれないなら、仕え続けなければならない。

もしそうでないなら、国にいる有能で、高潔で、見識があり、良心的な人々すべてから、政府が突然見捨てられ、あらゆる行政部門が、突然、社会の最も卑しい連中に占められたと想像してみてほしい。その状態は、どんな恐るべき結果を生むだろう。その原因は、いま述べた原則を忘れること以外に、何だろう。この原則は、非正統な政府を最も嫌う人々でさえ、自らの意志でその政府と結ばざるをえない約束を、正当化するだけではない。その約束を守ることで、社会秩序の維持と、外国の企てに対する国の権利の防衛がもたらされるかぎり、約束に忠実であり続けることを、義務にもするのである。

ここで問題にしている時代の、フランス行政全体への弁護は、この点に求めなければならない。その時代の少し前まで、国内の社会秩序も、国外の政治体制も、無秩序にさらされていたことを、忘れてはならない。それらの行きすぎを終わらせる仕事が、フランスの行政に託されていた。そして行政は、その高潔な仕事を、熱心に、しかも成功を収めながら果たしていた。動揺した人々の心を落ち着かせ、放縦な激情に歯止めをかけ、すべての部門に秩序、規律、節度、正義を取り戻すために、当時行われたことを語るのは、歴史の仕事となるだろう。優れた財政制度、県庁制度の設置、大軍の編成と適切な構成、道路の維持、民法典の公布は、この時代に始まった。そして、フランスの軍と文官の行政の各部門が、当時果たした良い奉仕を証明している。政教協約、アミアンの和約、イタリアの政治組織、スイスの仲裁、ドイツの連邦制度を築く最初の試みは、私が組織し、率いた行政の活動、賢明さ、信望を証明している。のちに、私が飽くことのない忍耐をもって定め、維持し、守ろうとした慎重さと節度の原則から外れたとしても、当時私が政務を離れると決めたこと、そしてその決定の時期が、その逸脱への関与について、後世に対し私を潔白にする。しかし、一八〇七年にできたことは、一八〇四年にはできなかった。その時に退けば、自分の国に対して果たすべきだと考えられる、大きな義務から逃げることになったからである。それに、この見方は、私以外の者も共有していた。アンギャン公が犠牲になった恐るべき犯罪に抗議する声が、国内で一つも上がらなかったことを、思い出すのも無益ではない。悲しいことだが、事実である。フランスを無秩序から救い出した政府を揺るがすことを、誰もが恐れていたと考えるほか、説明できない。

いま述べた、私が正当で根拠のあるものと考える考察はともかくとして、そのきっかけとなった嘆かわしい事件の諸点をまとめ、私について、改めて述べよう。

一、当時ライン川の向こうで企てられていた、本当の、あるいは誇張された陰謀について、第一統領に知らせたのは、対外関係省ではなく、したがって私でもなかった。

二、アンギャン公事件の全体において、私が関わったのは、まず司法大臣の報告をバーデン選帝侯の大臣へ送り、その後、第一統領がオルドネール、コランクール両将軍に与えた命令を、事後に知らせたことだけだった。その命令には、私は何の影響も持たず、持つこともできなかった。

さて、アンギャン公の裁判と処刑については、私がいかなる形でも寄与しなかったことを証明するのは、難しくないと思う。対外関係大臣として、軍法会議の任命にも、サヴァリ氏が大胆に責任を引き受ける処刑にも、何の関わりも持ちえなかった。それゆえ、この流血の劇に私の役を作るには、私が、いわば自発的に、血を好むこと以外に何の理由もなく、関与したと主張しなければならない。私の性格と過去の行動が、これほど卑劣で憎むべき疑いから私を守らないとしても、なお、告発者に一つ質問をすることはできる。誰よりも答えられる立場にある彼に、アンギャン公の殺害に、私がどんな利害を持ちえたのかと尋ねよう。私は、フランス革命のどの犯罪にも加担していない。第一統領が築いた体制への献身は、十分に示していた。五年来、全面的に得ていた信頼を得るために、激しい怒りをあおる必要はなかった。後世は、私とサヴァリ氏、そして彼のように、何らかの動機で、私が嫌悪をもって退ける犯罪の責任を、私に押しつけようとするすべての者との間を裁くだろう。私は、誰の告発者にもならず、今後もならない。ただ国王に、ここに示す書簡を書いた。それに、ヴィレール氏の返答を続けて掲載する。

国王ルイ十八世へ。

「陛下。

私に多くの敵がいると申し上げても、陛下にとって新しいことではありません。

王座の近くにも、遠くにも敵がおります。ある者たちは、革命の初めの動乱を、私が彼らとは違う目で見たことを、まだ十分に忘れていません。しかし、どのような判断を下すにせよ、神の摂理が定めた時に、陛下の尊い王座の復興と、正統性の勝利に、これほど幸いに寄与する喜びを得られたのは、当時の決断のおかげだったことを、彼らは知るべきです。他の敵たちが、私を許さず、決して許さないのは、まさに、この王政復古と、この勝利のためです。そこから、あらゆる中傷文書と、セントヘレナの膨大な回想が生まれました。この二年来、その中で、私は絶えず侮辱され、中傷されています。有名な死者の本当の、あるいはそうとされる言葉を売り、フランスのすべての高名な人物を種に稼ぐ者たちによってです。この恥ずべき商売によって、彼らは、ナポレオン・ボナパルトの復讐の遺言執行人を、自ら任じているのです。

陛下、皇帝の元大臣のうち、私が陛下の前で、その名を口にすることさえはばかる、ただ一人の人物を、この最後の部類に数えなければなりません。狂気の発作の中で、忌まわしい殺人の実行者だと、つい最近、自ら公衆の裁きに訴え出た男です。血の中に身を沈める際、私を一緒に引きずり込み、私の名を自分の名に結びつけて、二度の王政復古の主要な担い手を汚すことができれば、彼は満足なのでしょう。そうです、陛下、二度の王政復古です。彼らが私の中で追及するのは、一八一四年三月三十日と、一八一五年四月十三日の二つの日です。私にとって栄光の日、フランスにとって幸福の日、そして、陛下から授かった立憲秩序の創設に、私の名を結びつけた日です。しかし、ねたみ、憎しみ、裏切られた野心が、同時代の尊敬と歴史の公正な裁きに値する私の功績を奪おうと、結集しても無駄です。私は、それを守り、損なわずに、私の名を継ぐ者たちに伝えることができます。

過ぎた三十年を彩った多くの嵐の間、誹謗は、私に多くの侮辱を浴びせてきました。しかし、これまでは一つだけ、受けずに済んでいた侮辱がありました。身内の一人の血の償いを、私に求める権利があると考えた家族は、一つもいませんでした。ところが今、ある狂暴な男は、敵でさえ否定したことのない、私の穏やかな振る舞いと節度ある性格を、私が突然捨て去り、最も忌まわしい殺人を起こし、そそのかした者になったと、想像しています。私は、誰に対しても、最も執拗な敵に対してさえ、憎しみの言葉も、復讐の勧めも口にしたことがなく、そのことを天に感謝しております。その私が、ただ一つの例外として、いったい誰を選んだというのでしょう。自分の王たちの一族である公を犠牲にして、殺人者としての第一歩を、印づけたというのです。しかも、この残虐な犯罪を勧めただけでなく、犠牲者を第一統領の慈悲から遠ざけるため、権力をすべて使い、ボナパルトの意に反し、ボナパルトの命令に背き、最も恐るべき、しかも当然の責任を負う危険を冒して、裁判と処刑を早めたというのです。私に対して、あえてこのような恐ろしいことを言うのは、どんな男でしょう。告発者は、自分自身を、すでに十分に世間へ知らせています。

しかし陛下、私の名、年齢、人柄、そして陛下のご厚意によって授かった高い身分は、このような侮辱を、償いなしに放っておくことを許しません。フランス貴族院議員として、法律が誹謗の処罰を委ねた裁判所に、その償いを求めるべきではありません。告発者を引き出すのは、貴族院そのものの前です。そこから、調査と裁きを得るのです。陛下の正義に求める、この吟味について、陛下も、私自身と同じく、私のために恐れてはおられません。誹謗は打ち砕かれ、その無力な怒りは、真実が明るみに出る前に、息絶えるでしょう。

最も深い敬意をもって……

タレーラン公。

パリ、一八二三年十一月八日。」

ヴィレール氏からタレーラン公へ。

「公爵殿。

国王は、十一月八日のあなたの書簡を、注意深くお読みになりました。

陛下は、ロヴィゴ公が公表したばかりの話に含まれる事実について、貴族院で正式な審査を求める計画を、あなたがお持ちになったことを、驚きをもって知ったと、お伝えするよう命じられました。

陛下は、過去を忘却の中にとどめることを望まれました。例外としたのは、フランスと陛下ご自身に対して果たされた功績だけです。

したがって国王は、好ましくない議論を巻き起こし、最も痛ましい記憶を呼び覚ます、無益で前例のない行動を、承認できません。

公爵殿、あなたが宮廷で保ち続ける高い地位は、あなたを傷つけ、悲しませる非難が、陛下の心に何の印象も与えなかったことの、確かな証です。

公爵殿、閣下の、最も謙虚で、最も忠実な僕として。

ジョゼフ・ド・ヴィレール。

パリ、一八二三年十一月十五日。」

この書簡のあと、私は沈黙を命じられ、それに従った。いま読んでいただいた説明を書くべきだと考えたのは、私の死後、かなり時がたってから初めて公表されるものであり、一八二三年に恐れられた醜聞を起こさずに、事実の真実を取り戻せるからである。

一八二三年十一月十七日の新聞に載った告知には、こうあった。

「国王は、ロヴィゴ公のテュイルリー宮への立ち入りを禁じられた。」

ヴィレール氏の書簡を受け取った数日後、国王にご挨拶するため宮殿に出向くと、陛下は私を見つけて、こう言われた。「タレーラン公、そなたも家族も、嫌な相手に出会う心配をせず、ここへ来られるぞ。」

この話に付け加えることはない。今度は、モブルイユ氏の非難について一言述べよう。これは、あまりに不合理なので、本人が用いた言葉で示すだけで、自ら崩れるはずだと思う。しかし、まずモブルイユ氏がどんな人物だったかを知ることが、不可欠である。

ブルターニュの古い、名誉ある家の出身であるモブルイユ氏は、帝政下の一八〇七年、軍務に入った。しばらくスペイン占領軍で働いたのち、追放された。当時は、何より兵士が必要で、よほど重大な悪事でもなければ、軍から放逐されることはなかった。その名前と、得ることのできた推薦によって、彼はヴェストファーレンのジェローム王の宮廷に雇われた。この宮廷が、構成員の選択に、きわめて慎重だったという評判を持ったことがないのは、知られている。スペインでの一件のあとに、モブルイユ氏が王の主馬官に任命されたことも、必要なら、その証となるだろう。それでもモブルイユは、この宮廷からさえ、また追い出されることに成功した。パリへ戻り、かなりの財産を持ったモブルイユは、商売に乗り出した。ただし、自分のような人間にふさわしい商売、軍への物資納入だった。本人と仲間の手腕があまりに巧みだったのか、彼らに不誠実さがあったのか、ほどなく政府と争いになった。その結果、本人の話では、大きな損失を被り、皇帝ナポレオンに恨みを抱いたという。帝政崩壊の際の立場は、このようなものだった。そして本人によれば、一八一四年四月初め、臨時政府の書記を務めるルー=ラボリー氏[282]によって、何度か私の邸宅へ呼ばれたという。氏が私の名で、皇帝ナポレオンの暗殺を持ちかけたのだという。彼自身が秘密の任務と呼ぶこの仕事を実行すれば、報酬を与えると提案された。しかも、その話は、つねにルー=ラボリー氏を通じてだった。モブルイユは、私と話したことは一度もないと明言しているからである。報酬は、本人の言葉をそのまま繰り返せば、「馬、馬車一式、陸軍中将の階級、公爵の称号、一地方の総督職」だったという。彼は、すべてを受け入れ、秘密の任務を実行する手はずを整えたと認めている。良心のためらいが生じ、自分が犯そうとしている犯罪の恐ろしさを理解したのは、パリを出て、すでに道中にあったときだという。その場で、断念するという高潔な決断をした。しかし、善行によって徳への復帰を示したかったため、訪れた機会を利用した。道で、ヴュルテンベルクの王女であり、ジェローム・ボナパルトの妻であり、ヴェストファーレンでの彼自身の君主でもあったカトリーヌ王妃に出会うと、足止めし、馬車の後に続く荷車を奪い、金銭、持ち物、宝石をすべて取り上げた。そして意気揚々とパリへ戻り、ほどなく追い剥ぎとして逮捕され、訴追されたことに驚いた。これが、私の告発者モブルイユ氏の物語を、短くまとめたものである。

この話だけで、非難そのものを退けるのに十分ではないかと、私は問いたい。

ただ一つ、まだ述べなかった事実がある。話す際に、今も正確には説明できず、説明するには推測しかないと言うつもりで、残しておいたからである。逮捕されたとき、モブルイユは、同盟軍の指揮官とフランス当局が発行した、正規の旅券と通行証を持っていた。そこには、最大限の迅速さを必要とする任務を帯びている者として、配慮するよう記されていた。

一八一四年四月初め、臨時政府は、帝政政府の打倒と正統な政府の成立を知らせるため、フランス各地に使者を送らなければならなかったことを、思い出してほしい。その任務に当たる者は、いくらか行き当たりばったりに選ぶほかなかった。当時は、ナポレオンへの憎しみを声高に示すことが、こうした任務の一つを得る推薦理由になったのだろうと、私は思う。実際には、単なる伝令の任務だった。このように伝令として送る者の品行を調べる時間は、あまりなかった。モブルイユ侯爵と名乗り、皇帝の迫害の犠牲者だと称する男は、それ以上調べられずに採用されたのだろう。

旅券に記された秘密の任務という言葉は、当時の事情から、ごく自然に説明できる。臨時政府の命令を帯びる使者たちは、フランス軍の分遣隊や当局者に出会う可能性があった。任務の目的が、帝政政府の打倒を各地で宣言させることだとわかれば、任務を妨げようとする者もいたかもしれない。逮捕されたとき、モブルイユが持っていた旅券と正規の命令書について、私は、それ以外に可能な説明を見いだせない。

問題の核心、すなわち、私が皇帝ナポレオンを暗殺させる考えを持ったという話については、そのような考えが持つ忌まわしさを、ひとまず脇に置いて、何からも求められていない、憎むべき犯罪を引き受けることに、私がどんな利益を持ちえたのかと、ここでも問いたい。退位前、皇帝はフォンテーヌブローにいて、栄光ある軍の残りの兵たちに囲まれていた。そこへ行って殺そうなどと、誰も考えなかったはずだ。退位後は、倒れた敵で、その存在は、もはや誰にも危険をもたらさなかった。そして最後に、卑劣な暗殺者に、公爵の称号や地方の総督職を与えると持ちかけたとか、モブルイユ氏のような男が、それを信じたとかいう話を、いったい誰が認められるだろう。しかし、不名誉である以上に不合理と言えるなら、まさにそういう非難を退けるために、私はすでに語りすぎた。したがって、終わりに改めて繰り返そう。こんなことを考え出せたのは、狂人か、妄念に取りつかれた者だけである。

第九部および付録、終わり。

第十部

一八三〇年の革命

(一八三〇―一八三二年)

一八三〇年の革命

(一八三〇―一八三二年)

一八一六年、自分の時代と生涯のいくつかの出来事を書き終えたとき、いつか公務に戻り、したがって、この記録を補うために、再び筆を取る理由ができるとは、想像していなかった。確かに、当時フランス政府を率いていた者たちの賢明さと手腕に、完全に安心していたわけではない。しかし、政府を破滅へ導くとは思わなかった。私の努力が、多少は復興に役立った王座の陰で、平穏に死ねるという希望を、長く抱いていたことを認めよう。一八一六年から一八二九年にかけて、ときとして引き込まれる危険な道を見て、しばしば不安を覚えたが、新しい革命が起こるとまで恐れたことはなかった。私は何度か、許される範囲で警告を試みた。貴族院で、あるいは私的な会話で、自分の感じることを述べた。節度を保ちながらも、採用した、いや、むしろ、罪深い以上に軽率な一党に押しつけられるままになっていた内外の政策の危険を、示すことにはためらわなかった。一八二九年、シャルル十世が、内閣を替え、国内で最も不人気な者たちを会議に迎えるという、無分別な決断を下したとき、もはや、われわれが深淵へ向かっていることをごまかせなくなった。彼らの取り柄といえば、不幸な国王の頑固さに見合う、盲目的な服従だけだった。

ここで、心から誠実に言うことができる。私は、王政復古の維持を望むことをやめなかった。自分が果たした役割を考えれば、それは当然だった。王政を揺るがすためには何もせず、その崩壊に寄与したと誇る者たちと、責任を分かち合うことも拒む。一八一四年と一八一五年、私は、フランスが持てる確実で永続する制度は、正統性と、一七八九年の革命によって実行可能だと認められた、賢明な自由主義の原則とに、ともに基づくものだけだと考えた。今もそう考える。これは、私の確信、政治上の信念であり続けるだろう。しかし、正統性そのものが誓約を破り、自らの原則を裏切った瞬間から、フランスの救いを、先の見えない中に求めなければならなかった。そして、正統性自身が起こした大嵐の中で、できることなら、正統性とは別に、少なくとも君主制の原則だけは救わねばならなかった。一六八八年のイギリスの例にならい、王家の長子の家系を、弟の家系に置き換える考えは、シャルル十世の最後の内閣が成立して以来、いわば街中を走り回っていた。内閣を支持する新聞も敵対する新聞も、競って論じた。誰もがそれを考えていた。愚かな内閣が、そのように世論の下地を作ったことは、決して小さくない過ちだった。この点で警告が足りなかったわけではない。足りなかったのは、弱く、人を信じやすい君主が、坂を転げ落ちるのを止められたはずの、勇気ある忠誠と毅然とした態度だった。そして、これは犯罪である。それ以外の名では呼べない。一八三〇年七月の革命の核心は、そこにあるからだ。あの時の不幸な勅令に署名する卑怯な臣下を、シャルル十世が見つけられなかったなら、勅令は、考えの中へしまい直すほかなかったはずである[283]。

ともかく、ここで王政復古の過ちの歴史を書くつもりはないので、その過ちのため、フランスが自ら政府を選ばなければならなくなったという、単純な事実にとどめる。与えられた状況で、フランスの選択が、可能な最善のものだったと、私が言うのはいっそう容易である。この政権の創設に、私は何の働きもしていないからだ。私はそれを受け入れ、救いの錨としてすがり、進んで仕えた。この政府が崩れれば、もはや共和国と、それに伴う恐るべき結果しか見えなかったからである。無秩序、革命戦争、そして一八一五年に、フランスがあれほど苦労して抜け出した不幸である。ルイ=フィリップが、王国総代理の称号にとどまり、王冠を拒んだほうがよかったか、という問題さえ検討しない。この問題は、勅令が引き起こした運動の先頭に立ち、正統な王政が、そこで自分たちの果たした役割を決して許さないと考えた者たちによって、解決されていた。この人々は、フランスを共和国へ渡すか、王位を受け入れるかという二者択一に、ルイ=フィリップを追い込んだ。彼が受け入れたことで、何よりも国を救おうとする者たちの行動が決まった。危険が去れば、理屈を言うのは容易である。危険の日には静かにしていながら、翌日には広場へ出て、自分には防ぐ勇気がなかったことを、非難し批判した人々には、これだけを答えとしよう。

八月八日の投票で王冠を授けられた[284]あと、私はほどなくルイ=フィリップ王に会った。話し合うべき最初の話題は、新しい革命がヨーロッパに与える印象だった。われわれは二人とも、まず取るべき措置は、この革命の原則を外国の政府に承認させ、それによって、好意までは得られなくとも、少なくとも、フランスの内政への完全な不干渉を得ることだと理解した。当然、目はイギリスに向いた。最も近い隣国であり、その制度と過去の革命からして、われわれに最も好意的であるはずの列強だった。国王はただちに、副官ボードラン将軍[285]を送った。将軍は、ほどなく、イギリス政府によるわれわれの政府の承認と、イギリス内閣からの、かなり好意的な言葉を持ち帰った。この最初の成果を得ると、国王も私と同じく、この承認によって、他の政府もおそらく承認するだろうと考えた[286]。しかし、新政府が、外交政策の支点を求めに行くべき場所は、ロンドンだった。したがって、経験があり、すでにヨーロッパで知られている大使を送ることが、不可欠だった。国王は、その場で、この難しい立場を私に示した。私は、高齢であること、その任務には精力的な活動が求められること、そして、数えきれない困難が伴うことを挙げて、異を唱えた。しかし、国王と政府[287]、なかでも、当時の外務大臣モレ氏の懇請に、応じるほかなかった。私はこのときも、生涯の他の場面と同じく、義務の感覚と、祖国に尽くすという思いによって、決断した。新政府が安定を得られるのは、平和の維持によってだけだと考えた。当時は皆が、私に反対し、戦争は避けられないと主張していたが、私の名、かつてヨーロッパに果たした功績、そして私の努力が、最も恐るべき災い、すなわち革命的な全面戦争を、避けさせられるかもしれないと信じた。生涯を終える前に、それを成し遂げたと思えることを、私は喜んでいる。

九月の初めになっていた。三日、私はモレ氏から、次の短い手紙を受け取った。

「六時半です。疲労と頭痛で倒れそうになりながら、パレ=ロワイヤルから帰ってきました。国王は、この件にこだわり、私がお伝えしきれないほど強く求めておられます。お会いになって、ご自身でお確かめください。今夜八時の閣議で話される予定です。こんなに疲れ果て、苦しくなければ、伺ってすべてをお話しするのですが。

いつも、何事にも、あなたに尽くす者として。

モレ[288]。

一八三〇年九月三日、金曜日、午後六時半。」

二日後、国王から次の書簡が届いた。

「私が大きな満足をもって行った任命が、明日のモニトゥールに載ることを、自分で知らせる喜びを得たい。ロンドン駐在の私の大使に、明日四時ごろ都合がつくなら、会いに来てもらえるとうれしい。

ルイ=フィリップ。

一八三〇年九月五日、この日曜日、午後九時半。」

こうして私は、ロンドン大使となった。任地へ向かうため、急いで手配をしなければならなかった。ウェリントン公が率いる内閣では、アバディーン卿[289]が外務大臣だった。一八一四年と一八一五年、私は二人とも親しい関係にあった。アバディーン卿に書簡を書いて、私の任命を知らせると、すぐに次の返答が届いた。

「外務省、一八三〇年九月二十日。

公爵殿。

私を思い出してくださったことを、大変光栄に思い、気持ちをお伝えせずにはいられません。最も特筆すべき時期に、幸いにも閣下とご交際できたのであれば、その価値と喜びを見過ごすべき者は、決して私ではありません。公爵殿、イギリスに到着なさった際には、その交際を再開することを、私が心から望んでいると、おわかりいただけるはずです。なおさらそう願うのは、両国の良好な関係を強固にすることが、あなたの任務の主な目的だと考えて、誤ってはいないと思うからです。

どうか……

アバディーン。」

最も日常的に交渉する相手となる人物が、私の意図を理解したと確信できたので、あとは出発の準備をするだけだった。九月二十二日、パリを発った。二十四日の夕方、ドーヴァーに上陸した。フランス大使の到着を知らせる要塞の大砲が響くのを聞き、三十六年前、革命の嵐によって祖国から追放され、亡命者たちの陰謀によってイギリスの地からも拒まれ、この同じ岸を離れたことを、思い出さずにはいられなかった。今、私は、フランスとイギリスの同盟を、ついに築くという希望、何よりその願いに動かされ、戻ってきた。この同盟こそ、両国の幸福と世界の平和の、最も確かな保証だと、つねに考えてきたものだった。しかし、目的を達するには、なんと多くの障害を越えなければならなかったことか。他の人々の勇気を支えるため、彼らには隠しても、自分には隠せなかった。障害は多く、重大で、二種類あった。一方はフランスから来た。まだ安定しない政府が、日々、その存続のために戦っており、外国の政府に信頼を抱かせるには、適していなかった。他方、イギリスを治めているのが、トーリー党の保守的な内閣であることも、私は知っていた。われわれの革命を進んで承認したとはいえ、あまり好意的な目で見られたはずはなかった。とりわけ、カレーで私が知ったベルギーの蜂起のあとでは、そうだった[290]。豊かで平穏な、美しいイギリスを横切り、一八三〇年九月二十五日にロンドンへ入る間、私の心につきまとっていたのは、こうした思いだった。幸い、それらは、私の決意も確信も揺るがさなかった。そして、それは大いに必要なことだった。ほどなくフランスから、安心できない書簡が届いたからである。

例えば、モレ氏は、次のように書いてきた。

「パリ、一八三〇年九月二十六日。

公爵殿、昨日、カレーからのご親切な手紙を受け取りました。旅を全く無事に過ごされたと知り、大変うれしく思いました。新聞の記事は、いかに不正確であっても、ご出発後に起きたことを、予感させたでしょう。一時は、われわれの公務上の通信が、始まる前に終わると思いました。今は、始まるとは思いますが、いつまで続くかについては、約束できません。昨日お会いし、今日も夕食をご一緒するディノ夫人が、もっと詳しくお話しするでしょう。

どうか……」

一方、ダールベルク公も、九月二十七日付で、次のように知らせてきた。

「親愛なる公爵殿、パリを出られたばかりですが、この数日われわれを騒がせた出来事は、新聞でご存じでしょう。ディノ夫人が、あなたへの私の心からのご挨拶以外に、何か持って行きたいと望まれなければ、手紙を書くのは不要だと思ったでしょう。

われわれが、民主的な無秩序の体制に入る直前にいることは、お知らせしました。内閣は分裂寸前でした。ラフィット[291]が内閣を組織することになっており、国王は、ラマルク将軍[292]とモーガン[293]を除外したと聞いています。九十人の代議士が反対側に回り、証券取引所で請願への署名が集められ、地方からの知らせも、行動の基盤を低い層に求めすぎる政権に不利なことがわかると、ラフィットは引き下がりました。問題は、今の状態のまま、十月末まで行けるかどうかです。また、ベルギーが君主と折り合えるかどうかも問題です。その君主は、大変頑固で、率直で明確な言葉を使わないように思えます。ベルギーが蜂起し、抵抗すれば、こちらでは内閣が替わり、そのあと戦争になります。今朝、トレヴィーゾ元帥は私に、『ベルギー人は、半年早すぎた』と言いました。隣にいたスールト元帥は、こちらが遅れているのだと述べました。こういう考えで外交をしようというのなら、公爵殿、退任をお勧めします。あなたには、何も鎮められないでしょう……」

フランスについては、このような状況だった。モレ氏への二通目の公信から、次に抜粋する部分は、私が会ったイギリスの大臣たちの、われわれに対する姿勢を、正確に伝えるだろう[294]。

「ロンドン、一八三〇年九月二十七日。

伯爵殿。

アバディーン卿が今日、町へ戻られたので、ヴォードルイユ氏[295]に、私の到着を知らせ、何時にお会いできるかを尋ねるよう頼みました。卿は、私をお待ちし、外出せずにいると、快く答えられました。この最初の面会には、十分に満足できました。卿は、私がロンドンへ着いたと聞いて、田舎での滞在を切り上げ、帰りを早めたと、ご親切に言われました。訪問はかなり長くなりましたが、望んだとおり、話は一般的な事項にとどまり、その中で私は、フランスの政策を導く原則を、自然に述べることができました。そのためには、国王から与えられた訓令を思い出すだけでよかったのです。イギリス国王陛下の大臣が、その原則に反対するより、賛意を示すほうに傾いているのは、容易に判断できました。この点について卿が述べたことには、満足する[296]ほかありませんでした。

アバディーン卿のもとを出ると、同じく今朝戻られたウェリントン公を訪ねました。国王の代表として私が受けた歓迎には、大いに感謝する理由がありました。公が表された気持ちは、どれも、幸いにも[297]今フランスを治める体制に、好意的なものでした。しかし、会話の中で、公は、前の政府の無分別な企てが引き起こした革命について、『不幸な』という言葉を使われました。私は、この表現を取り上げるべきだと思い、こう述べました。確かに、それは、革命によって王座から落ちた人々への、ごく自然な同情から出た言葉なのでしょう。しかし、革命は、フランスにとっても、良好な関係を保ちたいとわれわれが望む他の国々にとっても、不幸ではなかったと、十分に理解していただきたい。フランスは、この革命によって、以前の統治方針が陥らせた不幸な立場から救われたのです。また、われわれが当然求められるように、フランスの尊厳がつねに尊重されるなら、他国との良好な関係から、決して外れるつもりはありません。この少々強い指摘を受けて、公は、すぐに、自分の表現を私が示した意味の範囲に限定し、ある意味で撤回されました。

総じて、伯爵殿、この最初の話し合いから、確信をもって、こう見通せると思います。イギリスの大臣たち個人の姿勢によって、私が彼らと扱う政務そのものの性質から生じうる困難が、さらに複雑になることはないでしょう。

国王が、いつ謁見を許されるか、また、ロンドンかブライトンかについては、アバディーン卿は、まだ答えられませんでした。」

公信と書簡からのこれらの引用で、私の立場の難しさを、その微妙な点に至るまで示すには、十分だろう。幸いにも人間から隠されている未来は、この立場が、さらにどれほど多くの新しい複雑さを抱えることになるかを、私に示さなかった。私は、勇気を持って仕事に取りかかった。

大使館の人員構成は、あまり良いものではなかった。大半は、パリを出る前に押しつけられたもので、のちにそうなったように役立つものにするまでには、何度か入れ替えをしなければならなかった。しかし、その代わりに、姪のディノ公爵夫人が、ロンドンへの同行を承諾してくれた。自分のためにも、ひどく閉鎖的なイギリスの社交界との親交を得るためにも、その大きく魅力ある知性を頼りにできた。予想したとおり、姪は、ほどなく社交界の好意を勝ち取った。それでも、簡単な仕事ではなかった。イギリス貴族の大多数は、内閣ほど容易に、われわれの革命を受け入れてはいなかった。さらに、その貴族社会には、あとで触れる機会のある、外国からの影響もあった。われわれの活動の初めに、それが活発に敵対したが、苦労しながらも、乗り越えることができた。

ベルギーでは、事態は速やかに、いっそう深刻な性質を帯びた。ブリュッセルの騒動は、国全体の蜂起へと変わった。政府の過ちと不人気によるものか、フランスの出来事にならいたいという願いによるものか、われわれのものと同じほど徹底した革命が起きた。ただし、大いに注目すべき違いがあった。フランスでは、革命の一因は聖職者の権限拡大だったのに対し、ベルギーでは、聖職者自身が革命をあおっていたのである[298]。政府に与えられた大きな教訓だった。政府は、ネーデルラントで行ったように、一つの宗教のために別の宗教を迫害すること、また、フランスで試みたように、宗教を政府の中へ置くこと、この二つの危険を、もう一度学ぶべきだった。

ベルギー革命というこの出来事は、イギリス政府との関係を築き始めたわれわれの困難を、著しく増した。初めから、フランスの革命を認めてもらうため、イギリス政府が一般に採用していた不干渉の原則を持ち出さねばならなかったが、一八一四年、ベルギーとオランダを合わせてネーデルラント王国を作ったのは、イギリスと、まさに一八三〇年にも権力の座にいた、同じイギリスの政治家たちの仕事だったことを、忘れられなかった。不干渉の原則の結果が、フランスへの憎しみや恐れから採用した仕組みを覆すものであり、しかも、そのフランスが、起こしたばかりの革命のあとでは、さらに危険に見えるはずだったとき、彼らは、その結果を受け入れるだろうか。イギリスの大臣たちに提起する最初の、非常に難しい問題だった。それでも、オランダ軍がブリュッセルから撃退され、ネーデルラント王が、ベルギーへの支配を回復できなくなったという知らせがロンドンに届くと、私はためらわず、その問題を提起した。

イギリス政府について、公正に認めねばならない。不干渉の原則の効力を、誠実に、ただちに認めたのである。しかし、今回の場合への適用については、説得力のある考えを示した。私に述べた言葉は、次のとおりだった。

「ネーデルラント王に、領内の秩序を回復することが不可能だと示されたとしても、事態を現状のままにしておかないことは、ヨーロッパにとって、依然として最も大きな利益です。起きていることに、われわれは無関心ではいられず、あなた方も同じです。不干渉の原則を守りながら、蜂起の精神が自国に広がるのを恐れる諸国が、戦争を避けられなくする暴力的な措置に出ることを、防ぐ方法を、ともに見つけなければなりません。有益な助言によって、オランダとベルギーの双方に有利な和解を、図れないでしょうか。両者が犠牲を払いつつも、要求する権利を持つものの、肝心な部分を得られるような和解です。助言を与える者が、従うことを強制しようとしないなら、助言は干渉ではありません。この友好的な役割だけにとどまれば、助言を受ける国の独立を損なわず、他のどの政府も、不快に思う理由はありません。一八一四年、ネーデルラント王国の形成には、ヨーロッパ全体が協力しました。この王国が完全に分裂しても、ヨーロッパの平和が乱れないと期待するのは、甚だしい思い違いでしょう。」

アバディーン卿は、ネーデルラント王にある程度の影響を及ぼせる列強には、今、その影響を使う義務があると結論づけた。ただし、説得だけを手段とし、それ以外の性質に見えるような働きかけは、すべて避けなければならない。双方に、率直に譲歩するよう勧め、それによって和解できるようにするためである。そして、行動することができ、状況の緊急性が求めるように、ただちにそうできる国は、フランスとイギリスだけなので、助言を伝えるのも両国であるべきだと考えていた。

これらの考察は、私の目には、いっそう価値あるものだった。イギリス政府の意図の誠実さを疑えなかったため、まず、自国の利益が関わる問題で、われわれと協調する必要を感じていると見えたからである。したがって、われわれが、不干渉の原則を一般論として盾に取り、受け身の態度を保つことは、不可能と思われた。その態度は、ヨーロッパの平穏にも危険を伴い、イギリス政府が、われわれに得てほしいと望む影響力の一部を、失わせたはずである。そこで私は、アバディーン卿が、駐仏イギリス大使ステュアート・ド・ロスシー卿を通じてパリへ伝えた提案を、支持した。

この打診に対するパリの返答を待つ間、十月六日、私はイギリス国王に謁見し、信任状を提出した[299]。

その際、次の挨拶を述べた。

「陛下。

フランス人の王陛下は、陛下に寄せるお気持ちをお伝えするため、私を選ばれました。

私の生涯の最後の歩みに、これほど高貴な目的を与える任務を、喜んでお受けしました。

陛下、長い生涯に経験したあらゆる変転のうち、出来事に満ちた四十年の間、私の人生に関わってきたさまざまな運命のうちで、この幸福な国へ私を連れ戻す任命ほど、願いを十分に満たしたものは、おそらく、まだなかったでしょう。しかし、時代は、なんと変わったことでしょう。長い間、フランスとイギリスを分けていたねたみと偏見は、見識に支えられた尊敬と親愛に道を譲りました。共通の原則が、両国の結びつきを、いっそう強めています。イギリスは、対外的には、フランスと同じく、近隣諸国の内政に干渉する原則を退けています。そして、偉大な国民の全会一致の投票によって選ばれた王政の大使は、自由の地で、名高いブラウンシュヴァイク家の子孫のそばに、安心していることができます。

陛下、私が保つ任務を受けている、陛下との関係に、ご厚意を賜りますよう、信頼をもってお願いし、深い敬意をお受け入れくださるよう、謹んで申し上げます。」

私が信任を受けて赴いたウィリアム四世は、海軍軍人だった。その職業が一般に与える口調と物腰を、保っていた。善良な人で、考えの幅はかなり狭かった。ホイッグ党は、つねに国王を自分たちの仲間に数えていたが、最近の即位(一八三〇年六月二十六日)以来、国王は、兄であり前王であるジョージ四世のトーリー内閣を、そのまま維持していた。国王は、私を大変よく迎え、不正確なフランス語で、ルイ=フィリップ王への友好的な言葉を、いくつかたどたどしく述べた。また、パリで民衆の結社が閉鎖されたと聞き、満足したことを伝えた[300]。今後繰り返さずに済むよう、ここで言っておきたい。ロンドン大使を務めた四年間、イギリスの国王と王妃の振る舞いについて、私は感謝することしかなかった。二人は、私にも、姪のディノ公爵夫人にも、喜びを与えるあらゆる機会を、進んでとらえてくださった。

イギリス内閣の打診に対するモレ氏の返答が届く前に、私は、氏から、あまり根拠のない非難を含む二通の書簡を受け取った[301]。国王に会ったあと、十月六日に送った私の公信から、次に抜粋する部分によって、その非難の性質も、根拠の乏しさも、十分に説明できるだろう[302]。

「……われわれは[303]、ネーデルラント政府から送られたとされる[304]援助の要請について、私に知らせなかったことを、アバディーン卿に責めるべきではありません。そのようなこと、そのような申し入れは、なかったと断言できます。恐れが表明され、必要が示されました。状況の苦しさや難しさは話されました。しかし、明確な要求は、何もされていませんでした。本当の支援と援助の要請が届いたのは、ようやく昨夜の午前零時です。アバディーン卿は、この件について私が書くことのすべてを、今、確認してくれたところです。イギリス政府は、われわれと合意するまでは、返答しません。ロンドン内閣は、今、この協調を強く望んでいます。そして、このような結果を得る[305]ために、九月二十七日から、私がお便りした[306]十月三日までの間に、時間が無駄になったとは思えませんでした。私は、提案はイギリス政府から出るほうがよいと思っていました。今も同じ考えですが、さほど固執はしません。あなたがウェリントン公に書いた書簡で、こちらからも打診したことがわかったからです[307]。ちなみに、その書簡を書くことは、私に知らせていただいていませんでした。ともかく、これは重要な点ではありません。交渉は良い方向にあり、こちらの好意的な姿勢は、強まるばかりです。誠実に、解決に至る方法を探しています。イギリス政府から受ける困難は、可能な限り少ないでしょう。もし困難が生じるとすれば、個別の条約による約束に関わるものでしょう。そして、強大な政府が本気で望むなら、この種の異議は、克服できないものではありません。強い政府には、解釈の道も容易に見つかるものです。

アバディーン卿は、数日前、ポルトガルの問題について会議を開くと知らせましたが、急ぐ必要はないと付け加えました。この問題については、あとでお便りします。あなたには[308]、私の訓令にあるように、テルセイラ政府が事実上の政府である[309]とイギリス政府に認めさせることは、難しいでしょう。実際の事実は、この政府がドン・ペドロから生まれ、彼によって費用を賄われ、彼が構成員を任命しているということだからです。あなたがこの問題を扱おうとすれば、イギリスがわれわれに[310]向ける異議は、おそらく、この点でしょう。

国王は、別れ際に、『またブライトンで会おう』と言われました。当地にいることが政務に必要でないと思えるとき、出向くつもりです……」

ロンドンに来て八日間、私からの便りが少ないとパリで思われ、そのことで騒ぎになっている[311]と知ったので、私は、いま読んでいただいた十月六日の公信だけにとどめなかった。八日、モレ氏に私信を書いた。任された政務を、どのように扱うつもりだったかを示すため、ここに掲載しよう。

「ロンドン、一八三〇年十月八日。

われわれは互いを知り、親しく思い、同じことを望み、同じように理解し、同じ方法で望んでいます。出発点も似ており、目的も同じです。それなのに、なぜ道中で話が合わないのでしょう。よくわからないことが、そこにあります。ごく一時的なものだと願います。われわれの文通は、友人同士のものでも、閣僚と大使のものでもありません。しかし、私たち二人の間では、違うものになるべきだと思い、長年の親愛の気持ちをもって、そうお願いします。信頼が完全でなく、意思の疎通が親密でなければ、政務を損ない、妨げ、止めることもありえます。それは、私には不幸です。友情も傷つき、大いに悲しむでしょう。私の政務の理解の仕方が時代遅れなら、ごく自然に、そう言ってくださるほうが簡単です。ですから、互いに十分、率直でいましょう。信頼から生まれる気軽さをもって政務を扱ってこそ、良い仕事ができるのです。全く重要でないと思うこと以外、私は何でもお話しします。皇帝とも、ルイ十八世とさえも、そうしていました。今のフランスは、もはやこの古い伝統の中にはおらず、いわゆる動きの中にあることは、承知しています。しかし、古いヨーロッパの地にいる私は、時間が持つ権利を、すべて認めなければならないと感じています。急ぐことは、イギリスの慣習から、あまりに外れています。そのため、あらゆる働きかけに持たせるべき、ある種の重みを、幾分失わずにはいられません。イギリス政府は、われわれに大変好意的であり、今後もそうでしょう。それは、どうか信じてください。心からの友情を込めて。」

この書簡とともに、イギリス内閣が、ベルギー問題について何を知り、どう考えているかを報告する公信も送った。ネーデルラント王が、同じく援助を求めていたプロイセンは、イギリスと協調してしか行動しないと答えていた。オーストリアも同じ態度を取ると思われていた。ペテルブルクからは、当然、この問題について、まだ何も知られていなかった。ネーデルラントのフレデリック公が、ブリュッセルへ進軍したことには、かなりの不安が抱かれていた[312]。

これらの書簡を送ったその日、モレ氏の私設官房長ブレッソン氏[313]が、ロンドンに到着した。スミルナの総領事として送られたシャレ氏に代わり、私の大使館の一等書記官に任命されていた。私は、多くの精勤を要する日々の仕事のために、この補強を必要としていた。

イギリス政府の打診に対する、パリの返答が、ようやく届いた。その返答では、イギリスの提案を受け入れながら、同時に、ベルギー問題の会議はパリで開くという、絶対に譲れない意志が示されていた。モレ氏は、私の書簡には友好的に答え、こうして、すべてが順調な道を進むように見えた。

会議の開催地について、フランス政府の希望をアバディーン卿に伝えると、この提案については同僚に相談しなければならないが、自分個人としては反対する理由はないと言った。しかし、ほどなく、フランス政府の提案を審議した閣議で、同僚も自分も、受け入れられないという結論に至ったと知らせてきた。この通告のあとに会ったウェリントン公は、提案を拒否すると決めた理由を説明した。今回の状況では、時間の問題がすべてだと考えていた。迅速に審議し、結論を出せることは、非常に大きな意味を持ち、ロンドンでは、速やかで最終的な解決のため、すべての用意ができていると言った。列強の承認を得ても、ベルギーが平穏になるまでは、われわれの立場は完成しないので、これは、われわれにとって大きな利益だと考えていた。そして今や、われわれの立場が完成するだけでなく、大きく強くなることが、イギリスにとっても重要だと付け加えた。会議をロンドンで開けば、招かれる外国の公使たちを、信頼できると考えていた。すでに全権委任を受けている者も何人かいて、まだ受けていない者は自分で責任を引き受け、皆が、フランスとイギリスの望むものに署名するという。しかしパリでは、同じようになるか疑っていた。外国の公使たちが、自分の宮廷に相談せず、何かに署名する勇気はないだろうという。数日の遅れで、事態が複雑になり、対処も合意も、きわめて難しくなるかもしれなかった。

私は、パリから届いた訓令に従い、これらの考えに反論したが、無駄だった。訓令にある『絶対に譲れない』という言葉を、特に強調した。それでも何も得られなかった。パリに書けたのは、この点で譲歩する側が、フランスであれイギリスであれ、イギリス内閣は、いずれにしても、われわれと良い合意の下で行動する用意がある、ということだけだった。

とはいえ、この点では、私もイギリス内閣の意見を共有していたことを、認めなければならない。ただし、彼らがまだ持ち出していない理由からだった。当時、暴動や日々の不安にさらされていたパリの真ん中に、会議を置くのは適当と思えなかった。政府の不安定な立場は、近く行われるシャルル十世の大臣たちの裁判[314]によって揺らぎ、ヨーロッパの平和を維持する使命を受けた外国の全権委員に、信頼を与えなかっただろう。またパリでは、モレ氏に対して振るう支配的な影響によって、ポッツォ[315]が会議を率いることになると知っていた。ヨーロッパでのウェリントン公の信望のほうが、ポッツォのそれより望ましかった。それでも、イギリスの大臣たちに、交渉の開催地としてパリを受け入れさせるため、私はあらゆる努力をした。しかし、今でも、拒否したのは賢明だったと考えている[316]。

当時、新しいフランス政府とイギリス内閣の関係を、複雑にする問題が、もう一つあった。ポルトガルの問題だった。

すでに少し触れたが、問題の状態を、よりよく理解するため、ここで事実を簡単に振り返る必要がある[317]。

知られているように、すべての列強の同意を得てポルトガルへ戻ったドン・ミゲルは、姪のドナ・マリアが成年に達するまで、国の統治を任され、その時には、姪と結婚することになっていた。この取り決めによって、ドナ・マリアの父ドン・ペドロの権利と、ドン・ミゲルの要求が生む困難を、調整できると考えられたのである。ペドロは、ブラジル皇帝となったため、自分のためにはポルトガル王位を放棄しなければならず、ミゲルは、その放棄のあと、自分にポルトガル王位を要求していた。しかし、ミゲルは、ポルトガルへ戻ると、ほどなく仮面を捨て、約束を破った。憲法を廃止し、自分の名で国を治め、姪の支持者たちを、容赦なく迫害した。その人々は、ジョアン六世が授けた立憲制度の支持者でもあった。この行動に怒った皇帝ドン・ペドロは、全員がポルトガル人からなる遠征隊を、ブラジルから送った。成功の見込みをもってポルトガルへ上陸するには、兵力が足りなかったため、遠征隊はテルセイラ島に拠点を置いた。そして、その島で、ドナ・マリアの政府と、ペドロが娘のためにポルトガル王位を退く前に授けた憲章を、宣言した。私がロンドンに着くまで、こうした変更後のミゲル政府は、列強から承認されておらず、テルセイラ島にできた政府も同様だった。新しいフランス政府は、イギリスがテルセイラの摂政政府を支持する態度を示すことを望んだ。一方、他の大国の政府、なかでもイギリス内閣は、ミゲルに傾いていた。双方を導く動機は、容易に理解できる。自由主義の革命を起こしたばかりのフランスは、自分たちの政治原則が実現している場所では、当然、それを支持したかった。この点では、イギリスの利益が妨げなければ、イギリスと一致できたはずだった。実際、イギリスでは、ポルトガル国民の多数がミゲル政府に好意的である可能性も、否定できないと考えられていた。しかし、何より確信されていたのは、どんな争いでも、イギリスとポルトガルの貿易に、大きな混乱を招くということだった。この貿易は、ポルトガルを、ほとんどイギリスの植民地と見なせるほど重要だった。ウェリントン公のトーリー内閣は、ミゲルの恥ずべき行動を非難しながらも、内戦、新たな革命、そして商業関係をつねに損なう変化を避けるため、その政府の維持を望んだだろう。ウィーン、ベルリン、ペテルブルクの政府には、イギリスと同じ動機はなかった。しかし、ミゲルが、どれほど残酷な専制君主の姿を見せても、立憲制度のない君主制の代表として、彼らには好ましかった。これほど相反する考えを一致させるのは、容易でなかったことがわかる。とはいえ私は、国内の政務とベルギー問題で苦しい状況にあるわれわれが、ポルトガルをめぐってイギリスと仲たがいするのは、賢明でないと考えた。訓令の方向に従って行動し、テルセイラ島の摂政政府を承認して、ミゲルの側から離れるよう、イギリス内閣を促すと決めた。しかし、他の問題での良好な関係を損なわないよう、節度をもって行うことにした。少しは時間と、ミゲルの過ちに任せた。その過ちは、案の定、私の判断を正しいものにした。一八三〇年十月には、アバディーン卿と政府は、イギリスによる承認の代価として、ミゲルから全面的な恩赦を得られると、まだ信じていた。そして、その措置によって、ミゲルの憎むべき圧政を承認したことを、イギリスの自由主義世論に対して正当化できると期待していた。

十月十九日付で、ポルトガル問題の状態をパリへ報告し、私は次のように書いた[318]。

「ポルトガルから届く知らせによれば、この不幸な国は、いっそう強まるミゲルの疑い深さと怒りに、さらされているようです。しかし、その結果、列強による彼の政府の承認が遅れることはないでしょう。これは、ほぼ決まった方針のままで、利害が他のあらゆる考慮に勝っているのです。今では、最初の条件としてミゲルに求めた恩赦さえ、いわば約束だけにとどまり、実行されるのは、イギリス政府とミゲルが合意して定める、ずっと先の時期になると思われます。となれば、体面さえ、もはや保たれません。今朝、私はアバディーン卿に、その結果生じる本当の醜聞を、ほのめかしました。卿は、承認には必ず恩赦が伴うと、確かに請け合いました。しかし、私は、あまり信じる気になれません。」

この時期のポルトガル問題は、こういう状態にあった。この問題には、この先も何度か立ち戻ることになる。ここで、ヨーロッパを戦火に包むおそれがあるため、はるかに深刻だったベルギー問題に戻ろう。フランス政府、つまりモレ氏は、この問題で急ぐことがどれほど重要であるかにかかわらず、会議の開催地をパリとするよう、非常に強く主張していた。この件で、私はさらに強い訓令を受け取り、イギリス政府へ伝えなければならなかった。ここでも、ウェリントン公との新たなやり取りを十月二十三日に報告した公信の一部を、引用する[319]。

「今月二十日付の公信でお伝えになったご希望に沿う決定を促すため、私は一刻も無駄にしませんでした。昨日もウェリントン公と協議しましたが、公はオーストリア大使とプロイセン公使も、その話し合いに加えました。私はあなたの論拠を繰り返し、それを広げ、詳しく説明しました。説得のために使える手段は、何一つ怠らなかったと思います。それでも三人は、同じ答えを返しました。パリの最近の出来事によって、反対はむしろ強くなっています。私たちが会議をパリへ呼び寄せようとし続けるのを、彼らが革命の渦と呼ぶものの中へベルギー問題を集めようとする意志のように受け取っています。フランスの新聞を手にして、その意見を主張するのです。確かに、この点で彼らは、国王の政府と、それが立ち向かっている好ましくない勢力とを、十分に区別していません。しかし、その誤りは、彼らの不安から理解できます。

その不安は大きく、彼らは、それを裏づける事実を挙げています。その事実がどこまで正しいかは、私よりもあなたのほうがよく判断できるでしょう。彼らの聞いたところでは、ベルギー軍に加わって戦っている一部のフランス人将校に、国王の政府は何ら処分を加えていないとのことです。ベルギー側からのあらゆる働きかけや要請を退け、その大義の成功に直接にも間接にも協力しないと表明しているのに、この将校たちは、フランス軍の名簿に残っていると言うのです。そうした表明には根拠があると、彼らも認めていますし、将校の人数については、彼らが大げさに言っていることを、私は疑いません。この件では、ポンテクーラン氏の名が、彼らの口にしばしば上ります。また、スペインからの亡命者の遠征を防ぐ措置が、十分に有効でなかったと考えています[320]。スペインから伝えられた参加者の名の中に、フランス人の名前を見いだして、疑念を抱いています。各政府とその閣僚の、私たちに対する態度が、多少変化したこと、その不安がはるかに強まり、自国の安全さえ危うく思えていることをお伝えしなければ、私は真実を隠すことになります。ウェリントン公は特に、フランス全体のこの沸き立つ状態が、ヨーロッパ全土の気がかりとなっている以上、国王の政府は、各国を安心させる方向へ進むべきだと言いました。いま、五大国がそれぞれ全幅の信頼を寄せる人物を置いているロンドンを、会議の中心とするという提案に、あなたが応じれば、その譲歩を、彼らは共同歩調のしるし、したがって安心させるものと受け取るでしょう。彼らは皆、会議は本来ハーグで開くべきだと言っています。ヨーロッパの以前の約束から、そう考えたのであり、それを断念するにあたっては、何より事態の切迫と、迅速に行動する必要を考慮しているのです。彼らによれば、それができるのはロンドンだけです。ここでは全員が準備を整えているのに、ほかの場所では誰も整えていない、と繰り返しています。反対の方針に固執すれば、他の列強から孤立し、貴重な時間を失うことになると言います。そして、ベルギーの情勢を変えていく数週間、いや数日が、各政府の態度も変えているのだと主張しています。

伯爵殿、私は聞いたことを報告し、個人的な意見は控えていることに、ご注意ください。ウェリントン公は、主張を変えない理由を述べた手紙を、あなたへ書いたと言いました。私がその理由に反論しても、無駄でした。パリの状態が、公と当地の各国公使の頭から離れず、これほどの騒ぎの中にあるパリを、外交会議にふさわしい場所とは認めようとしません。しかし、パリでは開けないと考える会議を、ほかの場所で急いで開く必要は、それだけ強く感じています。ベルギーの出来事がどれほど急速に進み、オラニエ公とベルギー人の間で、どんな取り決めが成立しても、暫定政府であれ、公であれ、どちらかが成功したからといって、この問題が片づくわけではないと、彼らは考えています。ネーデルラントの統合は、列強が保障しています。これが、承認された現状なのです。したがって、それに代わる状態を、改めて承認する問題が、必ず残ります。その時、要塞をめぐる大問題が、避けようもなく再び現れます[321]。この困難から生じるような微妙な審議で、互いに譲歩し、以前の約束を改めることが問題となる場合、多くのことは口頭で行うべきで、会議のほうが、覚書や、ほかのいかなる外交文書よりもよいと、彼らは考えています。この指摘は正しいものです。

ウェリントン公と各国公使には、なお一つ、最後の理由がありました。昨日、それぞれが別々に、決定的な理由として私へ示したものです。イギリス議会が間もなく召集され、国王はベルギー問題に言及しなければならず、その言葉は、非常に大きな意味を持つと指摘しました。ロンドンで会議が開かれていると言うか、開かれていないと言うか。そのどちらを表明するかによって、あらゆる場所に、安心または不安が生まれます。国王の演説は、情勢そのものを変えることさえあると、彼らは言います。そして、安心を与える報告を、演説のためにできるかぎり用意する必要があるとしています。

伯爵殿、ここで改めて、この報告を、私がイギリス政府や各国公使と意見を共にしているしるしとは、受け取らないでいただきたいのです。私はどの点でも譲っていません。すでに固まったと思われる意見を変えようと努めました。しかし、その意見は、私たちにとってあまりに重要で、列強の当初の態度から、あまりにはっきりと変化したことを示しています。ですから、私が聞いたままに、お伝えせずにはいられません。この公信をシュノワーズ氏に託して送り、大いに急ぐように言ってあります。あなたもきっと[322]、速やかで決定的な返答を持たせて、彼を私のもとへ送り返すべきだとお考えになるでしょう。イギリス議会の開会は、十一月二日です。」

四日後の十月二十九日、私はモレ氏へ、さらにいくつかの事情を書き送った。会議の開催地に直接関係するものではなかったが、列強の態度を考えるうえで、注意を促す内容だった[323]。[訳注13]

「……シャルル十世のために、エディンバラのある銀行家のもとで[324]、無制限の信用枠が開かれたことは、確かです。この奇妙な気前のよさは、イギリス人を大いに驚かせ、話題になっています[325]。ニコライ皇帝によるものだと言われています。私は、皇帝が私たちにあまり好意的でないと知っているだけに、ますます、そう信じてもおかしくないと思います。皇帝は対外問題に熱中し、頭の中で、自国の国内問題と混ぜ合わせています。いくつかの機会に、今日の時代について、非常に非平和的な言葉で述べました。秩序を乱す思想を食い止めるには[326]、武力を使うしかないと考えています。この先入観は、皇帝の考えに別の方向を与えようとしていた[327]ポッツォ氏の立場を、揺るがしかねません。氏と同じように語り、同じ方針で行動してきたマトゥシェヴィチ氏[328]も、自分の将来に安心していません。奇妙に聞こえても事実なのですが、メッテルニヒ氏は、いまのところ、ニコライ皇帝のこの見方を共有していません。しかし、容易にそちらへ引き戻されるでしょう。プロイセン政府は分裂しています。王太子[329]とアンシヨン氏[330]は戦争へ向かわせようとし、パリにいらっしゃる学者の兄、ヴィルヘルム・フォン・フンボルト氏[331]と、ベルンシュトルフ氏[332]は、戦争を避けたがっています。危機の時期です。ベルギーの出来事は、非常に複雑になっています[333]。スペインの出来事が、さらに困難を加えています。セア・ベルムデス氏[334]には、何日も自国の政府から知らせがなく、大いに心配しています。

シュノワーズ氏が持参した公信への返事を、明日か日曜日には届くものと、待っています。」

その公信が、ようやく届いた。モレ氏が、ぎりぎりになって、十月三十一日の午後に書いたものだった。それを書かせた考えと、伝えられた知らせが、どれほど安心の得られないものだったかを、よりよく判断してもらうため、全文を載せる。

「パリ、一八三〇年十月三十一日。日曜日、三時。

新内閣の成立をお知らせできるようになるまで、シュノワーズ氏の出発を止めていました[335]。しかし、昨夜、ウェリントン公から受け取った手紙によって、公爵殿、もはや延期はできません。返事の写しをお送りしたいのですが、写させる時間さえありません。国王は、あなたが直ちに会議に入り、ベルギー問題について行われるすべての会議へ参加することを許可するよう、私に命じられました。明日か明後日にも、私がまだ大臣であれば、訓令を持たせた全権委員を、あなたへ送るかもしれません。その人物を、できるかぎり、あなたが選ばれたであろう人にすることは、言うまでもありません。しかし、事態が切迫しているため、あなたがお一人で交渉を始める以上、結局、誰の同行もなく、最後まで交渉を進められるのではないかと思います。このベルギー問題からは、戦争か平和かということを別としても、多くのことが生じえます。公爵殿、この問題に含まれているすべてを、あなたほどよく知る人はいません。最善なのは、間違いなく、あなたお一人にお任せすることでしょう。

私たちは、厳しい一週間を過ごしたばかりです。おそらく誰にとっても、私ほど恐ろしいものではなかったでしょう。私を留任させようとする努力が、どこから来ているのか、思い違いはしていません。しかし、その努力が激しかったため、私が置かれた状況を、あなたに理解していただくのは、不可能でしょう。何も、まだ決まっていません。内閣の二つの派は、何度も互いに政権を押しつけ合いましたが、いつも事態の成り行きに迫られて、再び相手を頼りにしなければならなくなりました。つまり、連立内閣という考えに戻ったのです。ブロイ公とギゾー氏は、いまでは候補から外れています。このことが、私の考えでは、また私自身にとって、問題を大いに複雑にしています。もし私が退くなら、対外関係は、可能なかぎり最良の、あるいは最も悪くない状態で残すでしょう。ベルリンからは、きわめてよい保証が届いています。ベルギーに関しても、あらゆる種類の思想の宣伝に関しても、私たちを正当に評価しています。私たちに信頼を示し、会議をパリに置くことにも同意するでしょう。ベルリン政府は、ペテルブルク政府にも、同意するよう提案したそうです。このことをウェリントン公へ伝え、私たちが譲る相手は、公なのだと、よく知ってもらってください。実際、最も融通をきかせなかったのは、公でした。私の揺るがない意見は、また十分な根拠があると思う意見は、あらゆる面で、誰にとっても、会議はここで開くほうがよかったというものです。しかし、ロンドンで開くことになった以上、フランスにとって、あなた抜きでは済ませられません。そして二人目の全権委員は、少なくとも不要でしょう。あなたへお返事しなければならないことが、いくつもありますが、ほかにも、私に手紙を送るあらゆる人へ、返事をしなければなりません。この六日間は、毎朝八時から、少なくとも真夜中まで、組閣のための協議に出続けています。

では、公爵殿。どうか、ここにいない幸せを感じてください。私の言うことを信じてください。選挙の結果は、すばらしいものです[336]。しかし、意地でも内閣は作られるでしょう。そうなるのは避けられないと、私はずっと考えていました。

どうか……

モレ。」

この手紙には、矛盾と誤りを明らかにする説明が必要である。会議の開催地について、モレ氏は譲ったが、明らかに不本意だった。ロンドンを受け入れながら、なおパリのほうがよかったと信じ続けていた。だが、氏自身が、首都の状態、政府の状態、そして一方の派が他方の派と権力を争う内閣の状態を、何という姿に描いていることだろう。フランス政府が、革命へ引きずられる力に抵抗できることを基礎に、平和を維持する役目を負ったヨーロッパ列強の全権委員たちに、氏はこのような光景を見せようとしたのである。交渉を自分の手に握っておくという個人的な利害に、理由を求めなければ、まったく理解できない考えである。しかし、交渉は長くその手に留まらなかっただろう。この手紙を書いた四十八時間後には、氏は外務省を去らされていたからだ。外務省は、経験の乏しいメゾン元帥の手に渡った[337]。経験が乏しいことは、きっと認めてもらえるだろう。――この手紙の、私に対するあまり親切でない部分や、氏自身が大臣に留まっていたら、ロンドンへ二人目の全権委員を送ろうという意図は、脇へ置く。それは大して重要でない。より重要なのは、フランスの対外的な政治状況に対する、氏の誤った評価である。一八三〇年十月三十一日、対外関係を最良の状態で残す、と書いたのは、ただ自分を褒めるためだったのか、それとも本当に思い違いをしていたのか。この点で、どれほど間違っていたかを示すには、ロシア外務大臣ネッセルローデ伯爵が、ロンドン駐在ロシア公使マトゥシェヴィチ伯爵へ、一八三〇年十月十九日に送った、長い公信を載せなければならない。あらゆる点で興味深く、モレ氏がこれほどよいと考えた状況が、ペテルブルクでは、どれほどの好意をもって判断されていたかを示している。この秘密公信が、間違いなく真正のものであることは、言うまでもない。どんな偶然から私の手に入ったのかは、ここで述べる必要がない。

ネッセルローデ伯爵からマトゥシェヴィチ伯爵への公信。

「サンクトペテルブルク、一八三〇年十月十九日。

アヴィノフ代将から、十月七日、閣下の九月二十六日(十月八日)付の公信を受け取りました。私は一刻も遅れず、皇帝の御覧に入れました。そして本日、その内容について皇帝陛下が決定されたことを、急ぎ閣下へお知らせします。

九月九日/二十一日付の先の報告によって、イギリス政府がネーデルラントの問題を、どのような立場で見ているかは、すでにわかっていました。ウェリントン公とアバディーン卿は、ベルギーとオランダ諸州の統合を維持するため、ウィレム王が同盟の援助を求める権利を、そろって認めています。ネーデルラント王が、その援助を求める状況となった場合には、ヨーロッパの利益のためでも、イギリスの利益のためでもある、この建造物を崩壊させないよう、援助を与える必要があると、両者とも確信しているようでした。さらに両者は、ベルギー問題への外国の干渉を許さないという、フランス政府の主張に、強く反対していました。

イギリス内閣が、その意見をこれほど率直かつ明確に表明した以上、内閣が予想していた事態、つまりネーデルラント王からの正式な要請が現実になり、一方ではフランス政府が、奇妙な主張に固執している今、私たちが、その意見に沿った決定を期待するのは、当然でした。

ところが、閣下の最新の公信によれば、この決定的な時に、ロンドン政府は、異なる行動方針を取るべきだと考えたとのことです。イギリス政府が、いま利用できる手段では足りないため、ネーデルラント王へ直ちに援助するのは不可能と認め、平和を保つためのあらゆる可能性を試そうとしたのです。そのため、ベルギーをオランダ諸州から行政上分離することについて、同盟諸宮廷がネーデルラント宮廷との間で始めることに同意した交渉に、フランスも参加するよう招きました。

ヨーロッパに、平和の恩恵を享受させることを目的とする、いかなる試みも、その点では、私たちの君主の支持を得るに値します。したがって皇帝陛下は、ウェリントン公の提案した方針に、その実行と結果の面で不都合がなければ、喜んで賛同されたでしょう。その不都合は、公自身が、閣下との会談で、きわめて際立った持ち前の洞察力と率直さによって、指摘していました。フランス政府も加えて始めようとする交渉に、どのような成り行きがありうるか、ここで詳しく検討はしません。閣下は、公信の中で、それを見通しておられます。ベルギーの要塞問題で、フランスの利害が異なること、合意した取り決めを実行するための軍事力の使用に、フランスが同意しないことによって、交渉の目的自体を危うくする複雑な事態が生じえます。しかし、皇帝の目に、現実の、きわめて重大な不都合と映るのは、この交渉が、主要な問題、すなわちベルギーの反乱者たちの服従を、直ちに決するどころか、ただ先送りすることです。そのため、効果的に使うことが肝要だった貴重な時間を費やし、反乱者に、その罪深い企てを固める機会を与え、他国の革命派に、害をなす励ましを与えます。そうして、最終的には、武力を介入させることが不可欠だと、共通の合意で判断する時、私たちが立ち向かわねばならない困難と障害を、増すことになるのです。

イギリス国王陛下の首相が提案する平定の方策は、必ずそのような結果になると深く確信しておられる皇帝は、ロンドン政府が、直ちに強大な兵力を展開できる状態であることを、切望されました。そうして同盟国と協力し、一八一四年と一八一五年、イギリス政府がきわめて大きく貢献して成立させた体制を、維持してほしかったのです。

それでも皇帝陛下は、この機会にも、同盟国との結びつきを保つという変わらぬ願いと、その希望に配慮する姿勢を、改めて示そうとされます。したがって伯爵殿、あなたはイギリス内閣に、次のように伝えることを求められます。

フランスがベルギー問題を交渉することに同意するなら、皇帝も、その側から、フランスを会議に加えることに同意します。会議の目的は、ベルギーとオランダの統合の条件を変更して、ネーデルラント王国を平定することです。ただし、オラニエ家の支配のもとで、この国家の一体性を維持し、その独立を守るべき要塞群の、安全を完全に確保することを伴います。

この会議がロンドンで開かれる場合、あなたは参加を許可されます。グリエフ氏[338]には、会議がハーグで開かれる場合に出席できるよう、同様の権限が、すでに与えられています。

しかし陛下は、この交渉の結果を、同盟諸国が力強く支え、またフランスがいかに反対しようとも、合意した取り決めを実行するため、必要であれば、武力さえ用いることを、期待されます。

皇帝陛下は、この点について、ウェリントン公があなたへ与えた明確な保証を、真に満足して受け入れられます。

しかし、フランスが、提案された交渉を拒むか、武力干渉の可能性を排除することを条件にしなければ参加しない場合には、この国の意図は、もはや疑いようがありません。皇帝は、その時、イギリス政府が、条約の実行と自国の威厳のために求められる、断固たる措置を取ることを、期待されます。

第一の可能性、すなわちフランスが、この交渉に同意する場合については、次のことを見失ってはなりません。この交渉には、全ヨーロッパに及ぶ戦争を防ぎ、ある意味で、フランスをベルギーの反乱者に対して、具合の悪い立場へ置く利点があります。しかし一方では、反乱そのものの進展を止めることはできません。そして、ベルギーをオラニエ家のもとに留め、同盟の要塞群を維持する必要について、イギリスは、私たちと同意見でありながら、いまは行動できないとしています。したがって、せめて交渉の期間を利用し、武力を使うことが不可欠となる場合に備えて、重要な軍事的手段を用意することが、急務でしょう。皇帝は、この点で、イギリス政府の先見性を頼みにしておられます。また皇帝陛下は、自らの側では、分担する部隊だけでなく、有力な軍隊を国境に集めさせています。その軍隊は、共同の合意で軍事行動が決定され次第、進軍する準備ができています。

伯爵殿、皇帝陛下が、いまのところ決めておくべきだと考えられた事項は、以上です。なお、まもなくイギリス国王陛下のもとへ大使として復任するリーヴェン公[339]には、イギリス内閣およびウィーン、ベルリン両宮廷の代表と、あらゆる軍事上その他の取り決めを整えるために必要な権限が、与えられます。また、全般的な情勢から、あるいはとくにベルギー問題の状態とフランスの政策から、必要と判断される、あらゆる声明を整える権限も与えられます。

どうか……

ネッセルローデ。」

この公信を読めば、この時期、ロシアが私たちに対して、どのような態度だったか、またモレ氏が、自分の言う、残していく対外関係の状態を喜ぶだけの理由があったかどうかが、わかるだろう。私には明らかと思えるが、ニコライ皇帝は、ベルギー問題をパリで扱う権限を、ポッツォ氏へ与えることには、決して同意しなかっただろう。また、リーヴェン公とマトゥシェヴィチ伯爵が、ロンドンの五大国会議で、その問題を扱うことを許可しても、フランス全権委員に、容易な役目を用意したわけではなかった。

国外がこのような状態なら、パリでの状況も、私にとって楽ではなかった。閣僚の分裂によって、八日間、政府の働きが止まり、訓令どころか、ごく簡単な情報さえ受け取れなかった。結局、ほぼ全内閣が交代したが、ヨーロッパを安心させる変化ではなかった。ラフィット氏を首班とする新内閣が、いかによい意図を持っていようとも、一部の閣僚の名前は、ヨーロッパに、平和を維持するうえでの好ましい兆候とは受け取られないことを、認めなければならなかった。フランスで起きたことと、これから起こりうることを心配する列強の全権委員の会議で、交渉を求められる者にとって、また一つ障害が加わった。しかし私は気を落とさず、ようやく交渉開始の許可を得て、アバディーン卿に、参加する準備ができたと知らせた。

その間に、イギリス国王は、演説をもって議会の会期を開いた[340]。その中には、対外政策に関する、次のくだりがあった。

「……前議会の解散以来、ヨーロッパ大陸では、重要で、深い関心を引く出来事が起きた。

ブルボン家の本家は、もはやフランスを統治しておらず、オルレアン公が、フランス人の王という称号で、王位に迎えられた。

新しい君主から、友好を育み、わが国との既存の約束を、そのまま保ちたいという熱心な願いが表明されたのを受け、私は、フランス宮廷との外交関係と、親しい交際を続けることに、ためらわなかった。

私は、ネーデルラントの情勢を、深い遺憾の念をもって見ている。

国王の開明的な統治が、その国を反乱から守れなかったこと、また、国民の希望と苦情を、議会の臨時会期の審議に付すという、賢明で慎重な措置が、満足な結果に至らなかったことを、嘆いている。私は同盟国と協力し、ネーデルラントの福祉とよい統治、そして他の諸国の将来の安全と両立する、平穏を取り戻すための手段を、探すことに努めている。

ヨーロッパの各地で、騒乱と無秩序の光景が、不安を生んでいる。しかし、外国のすべての列強から、引き続き友好的な態度の保証を受けているため、わが国民に、平和の恩恵を保つことができるという希望には、根拠がある。

国家間の約束に誠実である必要を、私はいつも確信してきた。同盟国と一致して、ヨーロッパの政治体制を定めた一般条約を維持するという、私の決意は、世界の安寧に対する最善の保障となると、信じている。

私は、まだリスボン宮廷へ、大使を正式に派遣していない。しかし、ポルトガル政府が、全面的な恩赦を与えることによって、正義と人道にかなう大きな行為を、実施すると決めたため、長く両国間に存在していた関係を、回復することが、わが臣民の利益のために必要となる時が、まもなく来ると思う……」

この演説をパリへ送る際、私は、ウェストミンスター・ホールを出てから、国王の馬車に続いて宮殿まで行ったこと、通り道では、私が代表する栄誉を持つ国王に、ひとえに向けられた、友好的で好意的な歓迎を受けたこと、「ルイ=フィリップ万歳!」という声が、何度も聞こえたこと、そして私たちの国の帽章が、人々の注目を集めたことを、報告できた[341]。

国王は十一月二日に議会を開き、アバディーン卿は、私たちの会議の初会合を四日に定めた。モレ氏の最後の手紙で許可を受けていたので、私は出席した。しかし、そこでどう発言すべきかについては、モレ氏からも、十一月二日に外務大臣の後任となったメゾン元帥からも、何の訓令も受け取っていなかった。

ロンドン会議の審議を述べる前に[342]、この会議を開く理由となった、ベルギーでの出来事を、簡単に振り返る必要がある。すでに述べたように、ネーデルラント王は、ベルギー人との争いに敗れた。オランダ軍がまだ占領しているアントウェルペンの城塞を除き、オランダ軍は、旧ベルギー諸州をなす領土から、完全に撤退していた。オランダ軍とベルギー軍は、それぞれの国境で向き合い、戦争を続ける構えを見せていた。ブリュッセルには暫定政府が置かれていた。中には、誠実で穏健な人々もいたが、意見の違いがあまりに大きく、結局どの意見が勝つのか、予想するのは、なかなか難しかった。国内には、オラニエ家の支持者が、まだ多数いた。しかし、その人々は、暫定政府に代表を持っていなかった。この政府を構成していたのは、プロテスタントのナッサウ家の君主たちの話など、もはや聞きたくもないという熱心なカトリック教徒、国内に、確かな基盤も実際の支持も持たない少数の共和派、そしてベルギーをフランスへ統合することを、熱望する人々だった。最後の人々は、フランス帝政時代の元官吏で、大半は、あまり評判のよくない策士たちだった。さっそくパリの帝政派と連絡を取り、その帝政派の中には、ルイ=フィリップ王へ近づける者もいた。彼らの中で、最も策を弄したのは、ジャンリス夫人の孫娘の夫、セル伯爵だった[343]。当然ながら、ベルギー暫定政府は、それを作った代議院を反映していた。この全体が、いかにまとまりを欠き、扱いにくい要素の集まりだったか、判断できるだろう[344]。

ネーデルラント王の側でも、情勢は、やはりかなり複雑だった。長男で王位継承者のオラニエ公は、自分のために行動し、反乱したベルギー人と、父である国王の間に入ろうとした。公にとっては、ベルギーをひとまずオランダから分離し、ベルギーを自分の支配下に置く取り決めなら、満足だったろう。そして父の死後、両国を再び統合できると期待していた。アントウェルペンから出した布告に、この計画をにおわせたため、国王もオランダ国民も、公に対して、強く怒った。しかし結局、ベルギー人から拒まれ、オラニエ公はハーグへ戻らなければならなかった。そこでは、国王との関係を修復し、公に対して表れた民衆の動揺を静めるのに、大いに苦労した。公がオランダで置かれた、具合の悪い立場から救うため、国王はのちに、会議のもとで、オランダの利益を支えるという口実で、一時イギリスへ送ることを決めた。

十一月四日に、この会議の最初の会合が開かれたとき、問題はこのような状態にあった。私は、その会合について、五日付の公信でパリへ報告した[345]。

「ロンドン、一八三〇年十一月五日。

大臣閣下。

ベルギー問題について開かれるすべての会議に、出席し、参加することについて、国王から賜り、去る十月三十一日付でモレ伯爵が伝えた許可に従い、昨日の朝、私はアバディーン卿のもとへ行きました。オーストリア大使、プロイセンおよびロシア公使とともに、招集されていたのです。最初の会議が開かれました。出席していたウェリントン公が、まず発言し、会議の全員の気持ちを表して、列強は、ベルギーでの流血を止め、人々の極度の興奮を静め、国内の秩序を取り戻すために、最も適した和解と説得の手段を探すべきだと説明しました。私たちは[346]、人道も政治も、この目的に向けた最初の措置を命じており、列強の審議が終わるまで、両者から暫定休戦を得ることに、まず成功すれば、より確実に目的を達せられると考えました。この提案には、全員一致の同意がありました。そして、会議に代表を出している五大国の考えを、ハーグとブリュッセルへ伝える方法を検討するため、夜に再び集まることになりました。

夜の会議には、ネーデルラント大使ファルク氏[347]が出席しました。一八一八年十一月十五日、アーヘンで採択された議定書の第四条に従って、招かなければならなかったのです。その条文は、次のように定めています。『君主自らの間、またはそれぞれの大臣および全権委員の間の個別の会合が、ヨーロッパの他の諸国の利益に、とくに関係する事務を目的とする場合、その会合は、当該事務に関係する国々からの正式な招請を受けて、初めて開かれるものとする。また、その国々が、直接または全権委員を通じて参加する権利を、明確に留保するものとする』。

ファルク氏は、休戦の提案に同意しました。五人の代表が、今朝、その提案に署名し、氏は、それをネーデルラント王へ伝える役を引き受けました。今夜、二人の委員によって、ブリュッセルへも送られます。私は、人道のためのこの大きな行為に、フランスの姿を見せたかったので、二人の委員の一人をフランス人とするのが、適切で有益だと考え、五人の全権委員に、ブレッソン氏を指名してもらいました。もう一人には、フランクフルト駐在イギリス公使カートライト氏[348]が選ばれました。

急ぎ、議定書の正本を、あなたへお送りします。

この提案は、あらゆる面で有益です。たとえ十分な効果を得られなくても、この提案を行わせた意図は、正当に評価されるでしょう。

議会開会時のイギリス国王の演説は、興味深い論議を引き起こしました。野党は、ベルギー問題への不干渉の原則が、十分明確に打ち出されていないと、不満を述べました。積極的な干渉は、確かに、いまのイギリス政府の意図にはありません。勧告や助言による干渉には、何も恐ろしい性質はなく、ベルギーとオランダの統合に、五大国が保障を与えていた以上、その統合を崩した出来事の中では、必要でした。野党はまた、国王の演説が触れなかった議会改革の問題を提起しました。ウェリントン公は、皆の予想に反し、この問題をかわすか、先送りしようとする代わりに、自分が政権の首班であるかぎり、全面的な改革にも、部分的な改革にも、決して同意しないと宣言しました。公の支持者は、これほど明確な言葉で発言するとは、予想していませんでした。そして公が貴族院で話していた、まさにその時、ピール氏は、庶民院で同様の指摘に対し、もっと慎重で控えめに答えていました。この宣言は、現内閣を好む人々を、つらい気持ちにさせています……」

パリへ、あれほど強く求めていた訓令が、ようやく届いた。十一月四日に書かれた、外務大臣への就任を知らせる手紙とともに、メゾン元帥から送られてきたものだった。

その訓令は、次のとおりである。

「シュノワーズ氏の到着が、何によって遅れたかは、知りません。しかし、会議を開き、参加する許可を持参していたことは、知っていますので、この点で、さらにお伝えすることはありません。ただ、そこで起きたことについて、あなたが私に送られる詳報を、国王が待ち望んでおられることを、付け加えます。

ご要望の訓令については、これから起草に取りかかります。その間、以前は可能でも、いまは不可能となったことのすべてに、立ち入ることはせず、要点をお伝えします。

一、現状で可能な取り決めの、唯一の基礎は、ベルギーをオランダから分離し、一人の君主のもとで、独立国家にすることだと、私たちは考えています。

二、まだ可能であれば、その君主は、オラニエ公とします。

三、オラニエ公では無理であれば、国家の長となる君主の選択について、ベルギー人に、その希望を表明してもらいます。

四、ルクセンブルク以外の、いかなる要塞も、たとえ一時的であっても、どの外国の守備隊にも委ねることのないよう、そのためになされる要求は、すべて退けてください。

ただし、私がお伝えすることは、まったく内密で、秘密のものであり、私があなたへ伝えたことを、ロンドンの誰も知ってはならないと、申し上げておきます。お話ししたのは、あなたへの訓令に与えられる、特定の方向を知っていただくためだけです。したがって、国王が目指す目的を達成するため、イギリス政府とのやり取りにも、その方向を与えてください。目的は、現存する条約によって定められた、ヨーロッパの均衡にかなう取り決めを整え、同時に、約束を守るというフランスの決意を示すことです。また、戦争の理由も口実も与えず、全体の平和を続けるため、フランスが受け入れてきた犠牲が、どれほど大きくても、まったく私欲のない姿勢を明らかにすることです。

国王は、この点について、ウェリントン公が、貴族院での演説で与えた保証を、陛下が大いに喜んで御覧になったと、陛下の名で、公へ伝えていただきたいと望んでおられます。

また、以上によって、前任者があなたへ伝えたことが、何ら変わらないことを、お知らせしなければなりません。むしろ、その内容を確認するものです。いまのところ、会議に、特定の提案をしてはなりません。そこでなされる提案を、本国への照会を条件に受け取り、私へ送ってください。国王の命を仰ぎ、その御意向を、あなたへお伝えできるようにするためです。」

この訓令は、国王自らが、メゾン元帥に口述したものだと、容易に察せられる。元帥は、自分で考え、起草するには、事情にあまりに疎かった。この内容で、当面、私には十分だった。

オラニエ公が、オランダでの苦しい立場を隠すこと以外、何の役目もなく、ロンドンへ来たのと同じ頃、ベルギー暫定政府も、一種の代理人を送ってきた。ウジェーヌ・ド・ボアルネの息子の一人を、ベルギーの君主として受け入れる意向が、外国の政府にあるかどうか、探る役目だった[349]。そのほのめかしは、耳を貸してもらうことさえできなかった。

しかし、地平線では、別の嵐が大きくなり、事務の進行に、新たな障害を投げ込もうとしていた。フランスの内閣が解散し、革命的な精神とまではいわずとも、革命的な評判の付いた内閣に代わったばかりで、今度は、イギリス内閣の存続が揺らいだ。貴族院での、答辞案をめぐる議論を報告する際、ウェリントン公が、庶民院の選挙制度の、いかなる改革にも、きわめて激しく反対したと、私が伝えたことは、すでに見たとおりである。その激しさが、公を首班とする内閣に、致命的となるはずだった。

国王は、ロンドンのシティが催す大宴会への招待を受けていた。内閣、外交団、五百人を超える招待客が出席する予定だった。この光景には、大群衆が集まり、この機会をとらえて、改革への賛否をめぐる、自分たちの激しい気持ちを表すだろうと予想された。国王には喝采が送られても、内閣には、そうならないかもしれなかった。宴会の予定は、十一月九日だった。八日、内務大臣ピール氏は、市長への書面で、国王と王妃両陛下は、この祝宴に出席しないと知らせた。予定される集まりが、騒乱を引き起こし、陛下の臣民の命を危険にさらすことを、恐れたためだった。この決定は、市内に大きな動揺を引き起こした。シティでは人々が群れ集まり、証券取引所では国債が下落した。多くの協議のあと、宴会は、無期限に延期された[350]。しかし、このような出来事は、そこで止まるはずがなく、議会の議論を、いっそう激しくするはずだった。ブルーム氏[351]は、十一月十六日、議会改革について、動議を提出すると予告していた[352]。

十六日の議会と、その結果を待つ間、全権委員の会議は、何度か集まった。しかし、休戦の提案が、ハーグとブリュッセルで、どのように受け取られたか、まだわからなかったため、あまり重要なものではなかった。その間に私は、注目すべき文書を受け取った。訓令の補足と見なせるものだった。ルイ=フィリップ王自らが書いた、ベルギー問題の説明である。ここで、その全文を示そう。外務大臣メゾン元帥に宛てられ、元帥が、受け取ったまま私へ送ったものだった。一八三〇年十一月十一日付である。

「親愛なる元帥、ベルギーの現状について、タレーラン氏に、少し明らかにしておくことが重要と思う。ベルギー人に受け入れさせ、プロイセン人にも承認させうる統治の取り決めが、どのようなものか、氏を通じて知るためである。これこそ、解かねばならない問題であり、その解決は容易でない。とくに、現在にも将来にも、フランスの利益を損なわないという、私たちにとって最も重要な考慮を加えれば、なおさらである。

私たちは、第一の基礎として、オランダとベルギーの分離を定めた。これは、ベルギー人もオランダ人も等しく望み、ネーデルラント王が望まないものである。国王に、それを強いることはできるだろうか。これは問題である。そのために、武力を使うべきではないからだ。しかし、交渉で実現するには、国王へ与えうる、どこにも見当たらない利益を見いだすか、せめて、国王への要求で、列強を一致させなければならない。それができるかは、きわめて疑わしい。

ベルギー人に、オラニエ公を君主として受け入れさせることが、可能だったなら、また今も可能なら、私は、克服できない困難にぶつからずに、列強を、父である国王の承認を、一致して求める方向へ導けたと思う。そうなれば、国王も承認を与えざるをえなかっただろう。しかし、両国の国境を取り決める問題は、なお残る。それが大きな困難のもととなるので、この先へ進む前に、少し立ち止まって検討するのがよい。

タレーラン氏が、きわめて賢明にも加わった休戦の提案では、まず会議は、境界線を定めた。その線は、アントウェルペンの城塞からの撤退という、大きな利益をベルギー人に与える。しかし、その利益には、マーストリヒト、ステーフェンスウェールト、フェンローを、ネーデルラント王に残すことが伴っている。つまり、ドイツ側の侵攻からベルギーを守る、マース川下流の線である。そこの住民は、暮らし方、習慣、考えの面で、ベルギーと結びついている。ただ、以前には、ネーデルラントではなく、オランダの一部だった。住民の気持ちを知っていることと、十分な守備隊を置く兵が足りないことから、国王は、マーストリヒトの軍需品のほぼすべてを、すでにマース川から運び出させた。ブレダ、スヘルトーヘンボス、オランダ領ブラバントも、同じ感情と政治的な態度を持ち、オランダではなくベルギーと、行動を共にしたがっているという。

マース川右岸にあり、以前オーストリア領またはリエージュ領のネーデルラントをなしていた、ベルギーの部分、つまりルールモント、ヴェルヴィエ、リンブルフなどでは、住民はまったくベルギー人である。これらすべての地域が、すでにブリュッセルの国民会議へ、代議員を送ったと考える理由さえある。

同じマース川右岸でも、もっと南にある地域では、住民のベルギーへの思いは、他のどこよりも強い。しかし、そこには、解決がいっそう難しい、新たな困難がある。ブイヨン公国、ルクセンブルク公国、サン=ユベール、スタヴロ、マルメディなどの旧修道院領である。ルクセンブルク公国は、ドイツ連邦に組み込まれた。ルクセンブルク要塞は、連邦要塞となり、その資格で、十五年来、プロイセンの守備隊に占領されている。この地域を、新しいベルギー国家へ統合するにしても、オランダ君主のもとに残して、権威を回復させるにしても、どんな困難があるかを理解するには、これ以上述べる必要はない。国王の権威は、どこでも失われている。ただルクセンブルクだけでは、実際にとはいわずとも、少なくとも名のうえで、プロイセンの守備隊によって、保たれている。

確かに、ベルギーの国民会議を、オラニエ公を自分たちの君主に求めるよう導ければ、この困難は、すべて消えるかもしれない。この考慮の強さこそ、公が君主になれることを、これほど熱心に望む理由である。その場合、オランダとベルギーの間で整えるのは、国境の問題だけとなり、それは、ヨーロッパにとって、さほど重要ではなくなる。フランスにとっても、ほぼ唯一の関心は、プロイセンの占領が、いまと同じく、ルクセンブルク要塞だけに限られるよう見守ることとなるだろう。したがって、ブイヨン、マーストリヒトなどの要塞は、その領有者たる君主の軍隊だけが、占領できると定めなければならない。親愛なる元帥、たとえば、マーストリヒトとフェンローに、ドイツの守備隊を置くなら、フランスには、安全と釣り合いのため、ブイヨンとフィリップヴィルにも、フランスの守備隊を置くよう要求する権利があることは、あなたの洞察力、とりわけ愛国心が、見逃すはずはない。しかし、これは論じる必要のない点であり、危険ですらあるかもしれない。いずれにせよ、ドイツの守備隊が占領できるのは、引き続きルクセンブルク要塞だけだと定めるほうが、望ましい。フランスが持ってもいない野心を、持っていると思わせかねないことは、議論から取り除くよう努めなければならない。フランスが何より望むのは、ヨーロッパ全体の平和が乱されず、各国が、現在の境界内に留まることだからである。

したがって、いま最も重要な問題は、オラニエ公が、なおベルギーの君主になれるか、もはやなれないかを知ることである。まだなれるなら、フランスも他の列強も、公を優先すべきことに、疑いはない。しかし、もうなれないなら、その代わりの人物の選択について、一致するよう努めなければならない。

この重要な点について、ブレッソン氏に、できるかぎり早く、最も正確な情報を集める役目を与えなければならない。オラニエ公を選ぶことは、とくに外国政府内部の主戦派の力を、封じるために望ましい。なかでもペテルブルクでは、この選択だけが、ニコライ皇帝の同意を得られると言われている。ネーデルラント王は、長男を好んでいないとされ、また大陸で戦争の火をつけることに成功すれば、その結果、ベルギーを取り戻すだけでなく、フランス領フランドルと、私たちの要塞の一部を、自国に加えられると確信している。そのため、なおさら長男の選択に反対している。一七九二年に、各政府が自らを慰めたのと同じ幻に基づく夢は、今日も、おそらく当時と同じ結果になるだろう。つまり、ネーデルラント王は、戦争によってベルギーを取り戻し、フランス領フランドルを加えるより、オランダを失う可能性のほうが高い。しかし、長男を選ぶことに、国王が加えられるあらゆる妨げを、予想しなければならない。まして、ほかの人物の選択には、なおさらである。

ブリュッセル国民会議の構成は、ヴァン・デル・ノート[353]、ヴァン・オイペンらのもとにあった、一七九〇年のそれに、かなり似ているようだ。つまり、大部分が、国内の貴族と聖職者からなる。聖職者が全議員の四分の一以上を占めるとさえ言われる。この事情は、プロテスタントの君主を選ぶことを、非常に難しくするはずである。ナッサウ家を完全に除外すると決めたという話さえある。オラニエ公だけでなく、その息子も含む。一部の人々は、たとえば暫定政府の一員であるフェリックス・ド・メロード伯爵[354]のような、有力なベルギー人を摂政として、公の息子を君主に宣言させられると、期待していた。伯爵には、ベルギーの世襲大公、あるいは王にさえ選ばれるほどの影響力があると見られている。ラ・ファイエット氏の孫であり、パリの親族も友人も、この選択の可能性を、あちこちで話している。それどころか、彼らによれば、実現する見込みが高いという。彼らは、この選択を、ポッテル[355]とティルマン[356]の共和派に対する勝利と見ている。両者は、指揮下にあるブリュッセルの武装した群衆から、力を得ているのに、国民会議の議員に選ばれるだけの支持を得られなかった。信心深いと言われるフェリックス・ド・メロード伯爵の考えを、聖職者が支持しているとも付け加えられる。いずれにせよ、聖職者とカトリックの宗教精神は、ベルギーで、なお長く大きな影響力を持つことを、見失ってはならない。ベルギーの聖職者は、フランスの聖職者が、絶対的な権力を守る側に結びついたことを非難し、宗教を有効に守るためには、聖職者は、諸国民の自由の支持者でなければならないと唱えている。このことを、忘れてはならない。

したがって、このような状態では、オラニエ公、あるいは未成年の息子を選べると期待することは難しく、ほかのプロテスタントの君主を選ぶことも、それに劣らず難しいようだ。少数のカトリックの君主の範囲で、選ぶほかないだろう。

ブリュッセルでは、ロイヒテンベルク公の名が挙がった。そしてタレーラン氏は、その提案はロンドンで、耳を貸してもらうことさえなかったと知らせている。どこでも耳を貸してもらえないことが、望ましい。

ベルギー人の選択の対象になりうる、カトリックの君主の名簿は、残念ながら、非常に短い。ベルギー人は、私の息子の一人を求めることに、かなり気持ちが傾いていると考えられている[357]。しかし、この考えは退けねばならず、論じることさえしてはならない。現在のヨーロッパの状態では、その議論は危険であり、成功の見込みもないからだ。オーストリアの大公たちすべてについても、同じことが言える。同様に除外しなければならない。したがって、選択できるのは、ナポリ、ザクセン、バイエルンの家だけである。フランスは、それに反対しないし、他のいかなる列強も、反対すべきではないように思える。しかし、ナポリ王家の不人気によって、評判のよい十九歳の、ナポリのカルロ公子[358]を、ベルギー人が選ぶ望みは、ほとんどないことを、認めなければならない。したがって、三十歳のザクセンのヨハン公子[359]、わずか十歳か十一歳の、バイエルンのオットー公子[360]、そして摂政または世襲大公としての、フェリックス・ド・メロード伯爵を選ぶ以外、ほとんど道はないと、予想しなければならない。[訳注14]

結果は、確かに、あまり満足なものではない。もっと好ましい可能性が現れることを、期待しよう。しかし、より実行しやすく、それだけがヨーロッパの平和の継続を確かなものとする、どんな取り決めにでも、満足してもらうよう努めよう。ラ・フォンテーヌは、正しくも、こう言った。

最も折り合いのよい者こそ、最も巧みな者。
得ようと欲張りすぎれば、失う危険を冒すことになる。」

国王が、この文書の中で、ベルギー問題のさまざまな面を、思慮深く、私欲なく判断している様子には、感嘆するほかない。しかし同時に、解決になお、どれほどの困難がつきまとっているかも、見落としていないことがわかる。ベルギー人が休戦を受け入れた知らせを伝える際、私は、次の見解を送るべきだと考えた[361]。

「尊い御手で書かれた、ベルギー問題の説明を、私は何度も読みました。そして、そこに表れている高い理性と、事柄への深い知識に、心を打たれました。

私が集めた情報から、示せるかぎりで、国と各派の状態は、次のとおりです。

ベルギーの国民会議は、国民の希望を、正しく表しています。その多数派は、間違いなく君主派です。最初の議事と、議長の選択が、それを十分に示しています[362]。

共和派と、フランスへの統合を求める派の代表は、ほぼ同じ割合です。

君主派が、君主の選択について一致していれば、優位を保つでしょう。しかし、この問題で、分裂するはずです。多くの人々にとって、たとえば聖職者にとって、この問題は、統治の原則や形態そのものより先に来ます。したがって、君主派の中には、共和政を設けることよりも、オラニエ公個人や、ナッサウ家全体に、強く反対するかもしれない一派があります。これが、恐れるべき落とし穴です。あらかじめの合意、互いの譲歩、原則のために先入観を捨てることが、議論に先立ち、会議内の君主派に、統一した行動を取らせなければ、敵対する各派は、その分裂から力を得て、結びつき、優位を取り戻します。まず共和政を試み、失敗すれば、次にフランスへの統合を試みるでしょう。

君主派が一つにまとまるとしても、なお別の危険があります。とくにオラニエ公が選ばれた場合、反対派の戦術は、国民会議の構成そのものを、民意に反するとして攻撃することになるでしょう。会議の権限を争い、その決定を無効とし、決定に対して、国中を蜂起させようとします。しかしその時は、彼らが誤っているため、より攻撃を受けやすくなります。

君主派の中のオラニエ公支持派は、ほかの各派と、それぞれ個別に比べるなら、最も人数が多く、最も強いものです。君主派以外の各党派と、やはり個別に比べても、人数が多く、強力です。こう述べるにあたっては、ヌムール公の選択は、きわめて賢明にも、完全に候補から外されていると、前提にしています。公が候補になれば、たちまち秤は傾くでしょう。アントウェルペンの砲撃と、ハーグへの旅は、オラニエ公に、甚大な不利益を与えました。失った優位を取り戻させるのは、非常に難しいでしょう。列強が、最大限の配慮をもって、ほのめかしを与えれば、効果があるかもしれません。

メロード氏は、一派の指導者ではありません。とくに聖職者派の道具です。氏も、ウートルモン氏も、オーグヴォルスト氏[363]も、有力な見込みはありません。

ロイヒテンベルク公に支持派があるのは、その名が、帝政の記憶と、フランスへの親近感に結びついているためだけです。列強の支持がなければ、何の力もありません。

カール大公[364]は、メロード氏に代わる候補として、同じ派に推されています。カトリック君主派の、この一派は、それだけでは力がありません。しかし、改宗を条件として、オラニエ公か、その息子の一人の派を助けるなら、問題を決することができるでしょう。それより少ない条件では、折り合わないはずです。

ナポリ、バイエルン、ザクセンの公子たちについては、ベルギー人は、その名を思い浮かべていません。支持派はありませんが、必要に迫られて、その選択に至るかもしれません。

この情勢のすべては、非常に複雑であり、オラニエ公が、最もよい解決となることに、疑いはありません。」

それだけでも、すでに非常に難しい、これらの問題が議論されていた時、新たな障害が、会議の仕事を遅らせようとしていたことは、すでに述べた。

イギリス内閣は、庶民院で、さほど重要でない件に敗れ、退陣を決めた。王室費に関する法案を、特別委員会へ付託するかどうかという問題だった。内閣は、確立した先例に反するとして、反対していた。投票した四百三十七人のうち、政府反対側が二十九票上回ったため、ウェリントン公と閣僚たちは辞表を出し、国王が受け入れた。これは十一月十五日の議会で起きた。閣僚たちは、議会の敵意が、このように初めて表れた時点で退くことを、ブルーム氏の提案の審議を待つよりも好んだ。敗北は、もはや疑いようがなかったからだ。国王はグレイ卿[365]を呼び、穏健なホイッグ党から、内閣を作るよう命じた。

この出来事は、私たちの重大な交渉の結果に、さまざまな影響を及ぼしえた。個人としては、私はウェリントン公の退陣を惜しんだ。古く、堅い関係があり、しかも公は、ヨーロッパで、ほかの誰も同じほどには持っていない信望を得ていた。しかし、政治的な傾向が、より自由主義的なホイッグ党が政権に入れば、交渉の進行に、多少の便宜が得られると期待できた。一八一五年の取り決めは、この党の作ったものではなかった。しばしば攻撃し、非難してきた。その細部すべてを守ることに、自尊心がかかっているわけではなかった。もっとも、この利点には、別の不安が釣り合っていた。大陸全土で盛んに活動する革命派が、野党時代に、その希望を励まし、時には、さらに燃え立たせさえした閣僚たちから、支持を得られると考え、実際に得るかもしれないという不安だった。いずれにしても、この変化を受け入れ、できるかぎり、それを有利に使うよう努めなければならなかった。

辞任する内閣は、別の政権ができるまで、政務の指揮を続ける意向を示していた。実際、アバディーン卿は、辞表を出したあとにも、会議を招集した。この会合で、ブリュッセルから戻った私たちの委員は、暫定政府が休戦の提案に同意した文書を提出した[366]。この同意を得るには、議定書が定めた境界について、多少の議論が必要だった。しかし、同じ異議を、はるかに強く提起したのは、ネーデルラント王の全権委員、ファルク氏だった。氏は、君主の名で、提案された境界は、オランダに不利すぎると抗議した。この機会に、会議は、二つの議定書を作った。一つは公開、もう一つは秘密のものだった。第一の議定書では、ハーグとブリュッセルで示された休戦への同意を、そのまま受け入れた。しかし秘密の議定書では、ブリュッセルへ戻る委員に、ネーデルラント王の求める境界を得るよう求めた。ただし、困難が多すぎるなら、十一月四日の議定書の、当初の基礎を守るべきだとした。実際、問題は最終的な国境ではなかった。国境も、ベルギーの出来事から生じる、ほかの問題も、休戦によって、あらかじめ決められたわけではなかった。

カートライト、ブレッソン両氏は、会議の訓令と権限を携え、再びブリュッセルへ発った。会議は、戦闘の停止を得たので、いっそう安心し、落ち着いて、新しいイギリス内閣の成立を待つことができた。

ブレッソン氏の不在は、私にとって、大きな不便だった。すでに述べたとおり、私の大使館の人員は、かなり不適切だった。いわゆる運動派から、いくらか選ばれた若者たちを、何人も押しつけられていた。大使館の仕事には、参加する能力がなく、何の役にも立たなかった。そればかりか、勝手な行動で、大使館の威厳を危うくしていた。たとえば、一人は、ポーランドのために催された急進派の宴会に出席し、革命的な乾杯を述べた。別の一人は、ルイ=フィリップ王が王位を降りるまでは、その健康を祝して飲まないと宣言した。大使館の事務部門から、この厄介で調和しない人員を取り除くのに、私は大変苦労した。仕事のできる人物を送るよう、強く求めていた。そして十一月の末になって、ようやくバクール氏の到着を見ることができた。

新内閣の組閣には、大きな難題があった。ウェリントン公を倒したのは、突然できた、予想外の連合だった。ホイッグ党、公がカトリック解放を行ったことを許さない、強硬なトーリー党の一派[367]、そして二、三年前にトーリー党から離れた、カニング氏の支持者の一部からなっていた。グレイ卿がホイッグ党を、リッチモンド公[368]が強硬トーリー派を、パーマストン卿[369]がカニング派を代表していた[370]。三派が合流し、政権を作るには、まず、政権を導く原則と、提出する政策について、一致しなければならなかった。そこに、遅れと困難があった。一つだけ例を挙げれば、ウェリントン公の失脚は、何より、いかなる議会改革にも反対するという、あまりに明確な宣言の結果だったことは、明らかである。この点で、世論に、これほど正面から逆らえば、何らかの危険なしには済まないと考えられていた。したがって、議会改革は、新内閣の政策の一つとならねばならなかった。しかし、強硬トーリー派と、カニング氏の政権の原則の一つは、つねに、いかなる議会改革にも、明確に反対することだった。その主義を厳格に守るなら、ホイッグ党と歩めなかった。情勢上の必要に折り合うなら、カトリック解放の問題での、ウェリントン公とピール氏の例を繰り返すことになった。そして、その行動は、多くの古く忠実な政治的友人を、彼らから引き離す。新たな友人ができても、その人々は、忠誠が条件付きにすぎないことを、いま証明したばかりだった。ここで述べている時期までは、イギリスでは、いったん唱えた政治原則を譲ることは、まれだった。また、党派を離れることは、なかなか許されなかった。

また、世論全体が議会改革に熱中していたとしても、ホイッグ党の入閣は、実業家たちに、ある種の不安を与えていた。その不安は、国債の大幅な下落に表れた。イギリスは、一世紀にわたり、トーリー党の統治に、あまりに慣れていた。間に挟まれたホイッグ党の政権は、きわめて短く、付け加えれば、成功も、あまりに少なかった。そのため、地位や利害によって、重みを持つ人々の大半は、ホイッグ党を歓迎しなかった。こうして、長くホイッグ党の代弁者であり、支持する姿勢を見せていた『タイムズ』紙も、あらゆる金融と商業の取引が行われる、ロンドンのシティの受け止め方を、次の言葉で表さざるをえなかった。

「ホイッグ内閣を、ホイッグであるという理由では、あまり好意的に見ていない。この党の人々には、当地できわめて重視される、実務能力の評判がないからだ。しかし、ほかにどんな選択肢が残るかは、よくわからない。実務に通じた人々は皆、内閣が舵取りを任されるにあたって、これほど困難の大きい時期はなかったという意見である。」

見てのとおり、これらは、あまり安心できることではなかった。それでも私は、恐れなかった。起きた変化によって、イギリスとの関係が、実質的に損なわれることはないと考えた。確かに、退く内閣とは、よい関係にあった。よい状態にある時は、さらによくしようという考えに、あまり流されるべきではない。しかし、対外政策では、新政権は、旧政権の原則を、ほぼ採用するだろうと、私は考えた。そして、一つ利点があるかもしれなかった。私たちが新政権と協力して行うことは、旧政権と行ったであろうことと、まったく同じであっても、その時フランスで支配的だった世論の流れから、おそらく、より好意的に見られるだろうということである。

ついに内閣が成立した。その構成は、次のとおりだった[371]。

グレイ卿、

第一大蔵卿。

パーマストン卿、

外務大臣。

メルバーン卿、

内務大臣[372]。

ゴドリッチ卿[373]、

植民地・陸軍大臣。

オルソープ卿[374]、[訳注15]

インド統制局長。

ランズダウン卿、

枢密院議長。

ダラム卿[375]、

グレイ卿の娘婿で、王璽尚書。

ブルーム氏、

ブルーム卿の称号をもって、大法官。

ホランド卿[376]、

ランカスター伯領大臣。

リッチモンド公、

兵器総監。

オークランド卿[377]、

商務大臣。閣議には加わらない。

ロンドンで、この内閣が成立する間に、フランス内閣にも、新たな変更があった。海軍大臣セバスティアニ将軍が、ウィーン大使に任命されたメゾン元帥に代わり、外務大臣となった[378]。この絶え間ない交代は、事務の進行を容易にはしなかった。しかし、どこでも多少、革命のさなかにあるのだと、考えなければならなかった。そのような時は、何にでも合わせてやっていく術を知るのがよい。

アバディーン卿が出席した最後の会議で、私は、オランダとベルギーの休戦問題を、そこで決着させるよう、強く求めた。そのため、会合は、夜のかなり遅くまで続ける必要さえあった。他の委員たちにも、私の急ぐ気持ちを共有してもらった。私が望んだのは、新しい閣僚が、私たちの開いた道へ進まざるをえないと確信できるほど、事務を進めておくことだった。私の計画は、閣僚たちが職を引き継ぐ時、ベルギーについての会議で決まったことすべてを、よく準備され、よくなされたものとして受け入れ、最初の機会の一つに、自らそう宣言するよう求めることだった。これは、ベルギー人が今後下す決定に、大きな影響を与えると思えた。そのため、この点で、私は新閣僚たちを、大いに促した。互いに逆向きの二つの流れの間を、航行しなければならなかった。ベルギー人を重く見すぎる人々もいれば、ネーデルラント王を重く見すぎる人々もいた。この二つの利害の間を、あまり傷つけずに、私は進もうとした。すべては、望んだとおりに運んだ。ベルギー問題だけでなく、ヨーロッパの問題にかかわる、きわめて複雑で多様な利害を、どう調整するかについて、新内閣が、私の考えに完全に沿って行動したことは、のちにわかるだろう。私を、もっとよく理解してもらうため、この時点での各政府の、個別の態度を、手早く見渡しておくのは、無駄ではない。続いて、ロンドン会議での、それぞれの代表の態度と性格を、描こう。

オーストリアは、フランスで起きた革命と、ブラウンシュヴァイク、ザクセン、ヘッセンで表れた騒動に、不安を抱き[379]、ドイツでの不和を、なお煽り続けていた。それによって、連邦軍を動かさせるか、せめて定員まで整えさせることを、期待していた。自軍を、どこかへ進める口実を探していたのである。メッテルニヒ氏は、時代の精神に、多少譲らなかったことを悔やむどころか、それを、もっと押さえつけなかったことに、腹を立てていた。失った時間を取り戻す希望も、まだ捨てていなかった。

ロシアも同じ態度で、大規模な軍備を進めていた。その指揮を、ディービッチ元帥[380]に任せようとしていた。元帥はベルリンへ送られ、オーストリアの工作、王太子、アンシヨン氏の助けによって、ベルンシュトルフ氏の信望を崩し、ネーデルラント王が切望する武力干渉へ、国王を引き込もうとしていた。

しかし幸い、プロイセン王は、過去の経験と、ドイツ、とくにプロイセンの人々の心の状態についての深い知識、そして、言っておこう、生来の誠実な性格によって、王に及ぼそうとする、あらゆる影響力と圧力に抵抗した。いつまでも抵抗できるだろうか。それが問題だった。その解決に、平和の維持がかかっていた。しかし、この問題には、さらに多くの問題が結びついていた。いま述べた状態では、イギリス内閣の交代によって、北方の宮廷が、いっそう柔軟になるのか、いっそう要求を強めるのかを、問わねばならなかった。自分たちの方へ引き込む望みのない、ホイッグ内閣に対して、争いを始められると思うだろうか。それとも、さらに準備する必要があると思うだろうか。もっと疑い深く、もっと苛立ちやすくなるだろうか。ついには、すべてを賭けねばならないところまで来たと、思うだろうか。

このすべての考慮と、そこから生じうる事態が、頭から離れないまま、私は、次の会議で、どう発言するかを考えた。新外務大臣パーマストン卿が、ほどなく招集するはずの会議である。会議の構成は、次のようなものだった。

オーストリアを代表するのは、十五年来、ロンドン大使である、パウル・エステルハージ公[381]だった。イギリスの社交界と貴族たちから、愛され、尊敬されていた。親しみやすい外見、いつも陽気で感じのよい気質の下に、多くの鋭さと、思われている以上の政務への注意を、隠している。ハンガリーの大貴族として、その立場から、メッテルニヒ氏よりも自由な考えを持っていた。また、イギリスに長く住み、立憲政治の実際に慣れたことで、考えの幅が広がり、ヨーロッパの置かれた状況では、避けられない譲歩をする準備ができていた。少し後、メッテルニヒ氏は、ヴェッセンベルク男爵を補佐に付けた。ウィーンで、自分の邪魔となる男爵を遠ざけるためか、あるいは、行き過ぎを恐れたのかもしれないエステルハージ公を、引き止めるためだった。後者が目的なら、大変な思い違いだった。ヴェッセンベルク氏は、エステルハージ公以上に、流されやすかったからだ。私は、ウィーン会議で、すでに男爵を知っていた。知識があり、活動的で、勤勉な実務家であって、それ以上ではないと知っていた。政治家としての視野が、まったく欠けている。物事を、いつも小さな面からしか見ない。しかし人はよく、四十年間、ヨーロッパのあらゆる噂話を聞き、覚えてきたから、すべてを知っていると信じている。

プロイセン公使ビューロー男爵[382]は、政務に深く通じていた。多少プロイセン風ではあるが、才知のある人で、時には、鋭さを策略にまで進める。ヴィルヘルム・フォン・フンボルトの娘とは結婚したが、ウィーン会議で、私にあれほど不便を与えた、義父の反フランスの激しさまで、迎え入れたわけではない。ビューロー氏は、ベルリン宮廷を二分する両派に、好かれたがっていた。賢明で慎重な老王と、いつ父の後を継ぐかわからず、ロシアへ傾いている王太子である。この不可能な両立から氏を引き離し、情勢を見識ある目で判断するところへ戻すことが、私は何度も必要だった。

ロシアは、ロンドン会議に、二人の正式な代表を出していた。リーヴェン公と、マトゥシェヴィチ伯爵である。後者は、ポーランド人として生まれ、フランスで教育を受けた。一八一一年の競試で、パリ大学の最高名誉賞を得たことを、誇っても当然である。考え方の習慣は、まったくフランスのままで、文章を書く、まれな才能と、大きな自在さを持っている。ギリシャに関する交渉へ参加するため、ロンドンに送られ、リーヴェン公が一時不在の間、ロシアの臨時代表として留まっていた。私がロンドンに着いたときも、その職にあった。ベルギー問題の初めには、フランスにできた新しい体制を、君主が嫌っていると知りながら、非常に融和的な態度を示した。しかし、のちにポーランドが蜂起すると、ロンドン会議の全権委員に留めてもらうため、多くの巧妙さが必要となった。ポーランド人という曖昧な立場のため、交渉でも、以前ほど融和的でなくなったことは、理解できる。リーヴェン公については、その誠実さと、しばしば思慮を欠くニコライ皇帝の激情に抵抗したことで、私たちを大いに助けたと、証言しなければならない。リーヴェン氏には、一般に認められている以上の能力がある。この点では、妻がそばにいることが、不利に働き、必要以上に影を薄くしている。ロンドンでは、大使の職を保ちたいという願いが、イギリス政府との関係を、融和的にしていると言われていた。私には、そう思えない。いずれにしても、最後は呼び戻されたので、うまくは行かなかった。しかし、リーヴェン夫人[383]に言及することを忘れれば、ロンドンのロシア大使館と、そこで果たす重要な役割を、十分にも正確にも描けないだろう。夫人は、ほかの誰よりも、黙って通り過ぎることを、許さないかもしれない。夫人は、イギリスに十九年来住んでいた。一八一二年、ナポレオンの、ロシアに対する狂気じみた企てによって、アレクサンドル皇帝がイギリス政府へ近づいた時に、来たのである。この時期、ロンドン宮廷には、何年も外交団がなかったことを、思い出す必要がある。大陸のすべての政府は、少なくとも表面上、正式な関係を断たなければならなかったからだ。そのため、ロシア大使館の登場は、大きな反響を生んだ。摂政王太子、宮廷、貴族、国民とさえ言ってよいだろう、人々は、熱狂に似た熱心さで、ロシア皇帝の代表を迎えた。リーヴェン氏は、どこでも祝われた。夫がベルリンで任務にあった頃、すでに、ある種の名声を得ていた夫人も、当然、その盛大な歓迎を分かち合った。王妃のいない宮廷では、夫人に、当然第一の席が与えられた。摂政王太子は、夫人をブライトンへ呼び寄せることを喜んだ。夫人がいれば、イギリス社交界の女性の多くが会いたがらない、コニンガム侯爵夫人を、そこに迎えることも、許されるようになるからだった。もてなし好きの貴族たちは、新しい大使夫人のもとへ駆け寄り、美貌、才知、財産によって、優雅な社交界の先頭に立つ女性に、取り置かれた、ささやかな特権を、すべて即座に与えた。夫人が、イギリス社交界に及ぼした、疑いようのない支配力は、この時期に始まる。それを受け入れ、長く保つため、すべてを尽くしたことは、夫人の功績である。その栄誉は、すべて才知に帰すべきだ。本当に美しかったことは、なかったようである。しかし、年齢が若さの魅力を薄れさせると、夫人は、威厳、優雅な作法、堂々とした態度で、補うことを知っていた。それは、行使する権力のように、気高く、いくらか人を従わせるものを与えている。生まれつきの才知が豊かで、教育は少しもなく、かなり驚くことだが、読書も、一度もしたことがない。フランス語の文章は、魅力的で、文体は変化に富み、独創的で、いつも自然である。話すより、書くほうが上手だ。きっと、会話では、喜ばせるよりも、支配し、問いただし、飽くことのない好奇心を満たそうとするためだろう。そのため、返答の鮮やかさより、質問、さらには挑発の大胆さによって、辛辣である。話し相手を引き立てて喜ばせたいという願いより、相手を困らせた満足を、好むように見える。初めて会った幾度かのうちの一度、かなり大勢の集まりで、夫人は、私にも、この気まぐれを試した。『何を言って、何をしようとも、フランスで、いま起きたことは、明白な簒奪です!』と、突然叫んだ。私は答えた。『まったく、おっしゃるとおりです、夫人。ただ惜しいのは、あなたの君主、アレクサンドル皇帝が望み、求めたとおり、十五年前に起きなかったことです』。その日から、夫人は私を挑発しなくなり、関係は、とても感じのよいものになったと言わねばならない。もっとも、陰では、交渉を妨げるため、できることをすべてしていた。この対立には、やはり不便があった。とくに、いま起きたイギリス内閣の交代後には、そうだった。夫人は、若い頃の名残からか、政治的な好みに、かなり移り気だった。しかし、その巧みさが表れるのは、退く大臣より、政権に入る大臣と、ほとんどいつも、いっそうよい関係にあることだった。こうして、ウェリントン公との友情を、長く育んだあと、公から離れて、カニング氏を求めた。カニング氏が死に、公が政務の指導で、再び優位を得ると、夫人は、公のもとで、以前の信望を取り戻せなかった。そのため、グレイ卿が政権に入るとすぐ、その心をつかむため、あらゆる愛嬌を惜しまなかった。そして、ある程度、成功したことに、私は何度も気づく機会があった。

会議の委員の、この素描を完成させるには、アバディーン卿の後任となった、パーマストン卿について述べることだけが、残っている。

パーマストン卿は、間違いなく、私が生涯に出会った、最も有能な実務家の一人、あるいは、最も有能な人物かもしれない。イギリスで、そのような人物を作るはずの、あらゆる資質と能力を持っている。広く多様な知識、疲れを知らない活動力、鉄のような健康、尽きない頭脳の機転、議会での自在な発言力。イギリスで言う、偉大な討論家ではないが、弁舌は、辛辣で、風刺的である。聞き手を納得させるより、皮肉と嘲笑で、敵を圧倒することに、いっそう長けている。そして、社交上の愛想と、優雅な作法を備えている。しかし、性格の一つの特徴が、このすべての長所を損ね、私の考えでは、真の政治家として数えることを妨げている。公務で、感情に駆られ、恨みのために、最も大きな利益を犠牲にするほどなのだ。ほとんどすべての政治問題に、個人的な問題が絡む。そして、国の利益を守るように見えながら、ほとんどいつも、自分の憎悪や復讐の利益に仕える。この隠れた動機を、愛国的と呼んでもよいだろう外観の下へ隠すことに、巧みな手腕を示す。この手腕によって、つねに世論の大きな部分に働きかけ、自分の感情の方向へ引き込む。これらの回想では、この見方の正確さを確かめる機会が、何度もあるだろう。これは、パーマストン卿が、党を変え、その大きな才能を、順にトーリー、ホイッグ、さらには急進派の陣営へ持ち込みながら、一定の人気を、いつも保ってきた理由を、説明すると思う。イギリス人を体現するジョン・ブルの、愛国心の琴線に、卿ほどうまく触れられるイギリス人は、少ない。会議の最初の数か月、私たちは、完全に一致して歩んだ。得られたすばらしい結果は、その一致に、いくらか負っている。人物を述べたので、いま、政務へ戻ろう。

グレイ卿は、私が求めたとおり、新内閣が従おうとする方針を示した、議会での最初の演説をとらえて、平和、とくにフランスとの友好を保証した。また、両国の政府を、同じ原則に基づくものと見ることを、喜ぶと述べた。この演説は、印象を与えた。こうして、イギリスとの関係は、堅い基礎に置かれた。それは、欠かせない点だった。そこから利益を得なければならなかった。

一つの出来事が起き、オーストリア、プロイセン、とくにロシアの宮廷を怒らせ、フランスとイギリスの一致を、さらに必要にした。ベルギー国民会議が、会議の仲介で結ばれた、オランダとの休戦を承認する前に、ナッサウ家を、ベルギーの統治から永久に除外すると、決めたのである。私たちにとって幸いなことに、この投票は、それを防ぐための、フランス政府の目立つ働きかけにもかかわらず、行われた。そのため、この問題で示した、フランス政府の誠意は、十分に明らかになった[384]。

パーマストン卿の議長のもとで、会議が初めて集まったとき、卿は、休戦の提案を、ハーグとブリュッセルが最終的に受け入れたことを、私たちに知らせた。私は、集まった全権委員たちに、いくつかの考えを述べた。彼らを通じて、それぞれの政府へ伝えることが、有益だと思ったのである。

私は、こう言った。

「皆さん、いま私たちは、戦闘が止まり、血が流れなくなるという保証を得ています。したがって、私たちに委ねられた厄介な問題を、解決する手段について、一致することが必要です。全員が、ここに融和の精神を持ち込み、全員が必要とする、平和の維持という共通の目的を持たなければ、達成できないのは明らかです。フランスで起きた革命には、どのような理由があったにせよ、ヨーロッパのすべての王位を、多少なりとも揺さぶり、あらゆるところで、権威の原則を弱めたことは、認めざるをえません。私は、皆さんとともに、皆さんと同じだけ、それを嘆いています。この害への対策は、一つしか見いだせません。全員が一致し、互いに支え合って、それを修復することです。ヨーロッパの五大国の同盟の名で語れる時、それぞれの政府が、国内で、より強く感じることに、疑いを持たないでください。私の政府は、ベルギー国民会議が、ナッサウ家の除外を決めるのを防ごうと努め、その意図の誠実さを、皆さんへ示したばかりです。よりよい成果を得られなかったことを、私は惜しみます。まだ可能なら、この失敗を埋め合わせる手段を、皆さんと、誠実に探しましょう。しかし、この点で、私たちの努力が、どのような結果に至ろうとも、起こりうるすべての事態に備え、審議には、平和の維持を確かにする、唯一のもの、すなわち信頼と毅然とした態度を、持ち込まねばなりません。」

真実であるという価値があったと思う、これらの見解は、平和を維持するところへ至れると、私が期待できるだけの効果を与えた。

この会合では、ベルギーで、ナッサウ家の支持者が、国民会議の意見を、せめてオラニエ公支持へ戻そうとする試みに、余地を残すこととなった。そして、その間、いずれの場合にも解決しなければならない点を、扱うこととなった。たとえば、オランダとベルギーの休戦の境界から生じた困難、ルクセンブルクのために、ドイツ連邦との間に定める関係、債務の分担などである[385]。

会議が、この重要な問題の検討に入ろうとした時、フランスに新しくできた内閣、あるいは、少なくとも、その一部の閣僚の使者が、ロンドンへ来た。フラオー伯爵だった。氏の任務は、かなり複雑だった。口実とされたのは、グレイ卿やランズダウン侯をはじめ、新しいイギリス内閣の一部の閣僚との、古くからの社交上の交際と友情だった。また、氏の経歴の初めに、私が好意的な保護を与えたので、いまの状況で、その来訪を、私が喜ぶだろうと考えられていた。フラオー氏自身は、私が辞任する場合、ロンドン大使に任命される道を用意するつもりで、来ていた。

その派遣に与えられた、公式の外観の下にある、これらの個人的な動機を、私は、すぐ見抜いた。氏は、フランスの対外政策について、セバスティアニ将軍が、私の意見と助言を求める公信と手紙を持参していた。そして、ベルギー国民会議が、ナッサウ家の除外を決めたあと、オランダとベルギーの問題に与える解決について、私に、ほのめかしを与える役目も負っていた。氏が説明した計画は、次のとおりだった。セル氏と、その類の、ほかの策士たちが考え出し、私が信じる十分な理由があるとおり、セバスティアニ将軍が受け入れた計画である。ベルギーがナッサウ家を拒み、ルイ=フィリップ王が、新国家の君主に、ヌムール公を選ぶことに同意しない以上、すべてを調整する手段は一つしかない、ベルギーの分割である、と言うのだった。近隣の列強に、利害を持たせるよう分割すれば、その同意は、必ず得られる。こうして、ネーデルラント王に一部を与える。国王は、ベルギー全体を失うより、そのほうを好むだろう。プロイセンも取り分を得、フランスの取り分は、最も大きいものとなる。しかし、イギリスの同意なしに、その結果を得るのは不可能なので、イギリスにも取り分を与えなければならない。イギリスは、アントウェルペンの市と港、そして海までのスヘルデ川の流路を得る。このすばらしい構想を、フラオー氏は、私に採用させようと努めることになっていた。

そのような計画が、いかに無分別で、危険で、長く続く平和の維持と、何よりフランスの真の利益に反しているかを示すのに、多くの考えは要らなかった。他の列強に受け入れられるとしても、そうだった。過去の諸世紀、イギリス人を大陸から追い出すため、フランスが、どれほどの苦労と血を払ったかを、私は思い起こさせた。そして、私自身は、イギリス人を戻す文書に署名するくらいなら、拳を切り落としてもらうほうを選ぶと宣言した。私たちの北方国境で、プロイセンを拡大しようという考えにも、私の目には、同じほどの不都合があった。したがって私は、健全な政策に反し、陰謀以上の性質を持たない計画を、激しく、きっぱりと退けた。フランスに有益でありうる、この問題の出口は、私の考えでは、一つだけだった。誰であれ、一人の君主の統治のもとに、ベルギー王国を作ることである。その君主は、私たちを不安にさせるには弱すぎ、私たちに備えて、多大な費用で築かれ、維持されている、要塞の帯に、守備隊を置くことさえできないだろう。

フラオー氏は、この私の返答で満足し、パリへ持ち帰らねばならなかった。それとともに、フランスの対外政策について、私の考えを述べた公信も持ち帰った。この点で、セバスティアニ将軍からの質問に答えたものだった。

その公信は、次のとおりである[386]。

「ロンドン、一八三〇年十一月二十七日。

伯爵殿。

フラオー氏に、ロンドンへ来るよう促していただき、感謝します。氏は、新内閣と、日頃から交際があります。その点で、来訪は、私にとって非常に有益でした。きわめてよい判断力によって、私たちの役に立つには、どのように話すのが最善かを、理解していました。

現状で、フランスが従うことになりうる対外政策について、私に寄せられた全般的な質問に、直ちにお答えします。

フランスは、いわゆる同盟を作ることを、考えるべきではありません。すべての国と、よい関係にあり、いくつかの列強とだけ、よりよい関係にあるべきです。つまり、政治的な出来事が起きたときに、表面に出るような、友好関係を保つことです。

この種の結びつきは、今日、昔とは異なる原則を持たねばなりません。これから、私たちの親族の絆を作るのは、文明の進歩です。したがって、文明がより進んだ政府へ、いっそう近づくことを求めるべきです。そこにこそ、私たちの真の、一族同士の大使関係があります。このことから自然に、最も多くの関係を保つのが適した国は、イギリスだと考えることになります。イギリスと私たちの間には、共通の原則があり、本質的な原則を共有する、唯一の列強だと指摘しておきます。ある点では、私たちはイギリスに勝っていますが、ほかの点では、イギリスが私たちに勝っています。したがって、より緊密に結びつくことには、双方に、多少の利益があります。また、私たちが植民地を失ったことで、競争のあらゆる動機は、大きく減っています。

ヨーロッパは、確かに、いま危機の状態にあります。さて、イギリスは、私たちと同じく、率直に平和を望む、唯一の列強です。他の列強は、何らかの神授の権利を認めています。フランスとイギリスだけが、もはや、自分たちの起源を、そこへ結びつけていません。不干渉の原則も、両国に等しく採用されています。付け加えれば、今日、両国民の間に、ある種の共感があります。私は、それにも価値を認めます。

私の意見では、こうした接近の要素をすべて使い、ヨーロッパが必要とする平穏を、与えるべきです。いくつかの国が、平和へ向かう気があっても、なくても、フランスとイギリスは、それを望むと宣言すべきです。そして、ヨーロッパで最も強く、最も文明の進んだ両国から発する、この意志を、その力が与える権威をもって、ヨーロッパに聞かせねばなりません。

なお神授の権利の旗の下に歩む政府の一部には、いま、連合を作ろうという気があります。共通の原則があるため、一致できるのです。その原則は、確かに、一部の場所では弱まっていますが、なお存在しています。したがって、そうした政府が話し合えば、すぐに理解し合います。彼らは、その神授の権利を、大砲で支えます。イギリスと私たちは、世論を、原則で支えましょう。原則は、あらゆるところへ広がりますが、大砲には、限界のわかった射程しかありません。

こうしてヨーロッパは、二つの統治原則の間で分かれています。今日、それを支配するのは、この二つです。ロシア軍とオーストリア軍を動かす原則と、世論を通じて働き、少なくとも同じだけの力を、確実に動かす原則との間で、力は、ほぼ等しいものです。後者は、それに反対する国々で、多くの味方を得るでしょう。相手の原則が、私たちの側で、味方として数えられるのは、ほぼサン=ジェルマン街区だけです。釣り合っているなら、私たちの側へ傾けなければなりません。その手段は、北方の他の諸国より、プロイセンからは遠くない考えへ、プロイセンを引き寄せることです。これが、ロンドンとパリの政府の考えであるべきだと、私には思えます。昨日、パーマストン卿と、今日、グレイ卿と、この考えを、非常に詳しく話しました。両者とも、この見方を受け入れ、それに従って、ベルリンの公使へ訓令を与えるでしょう。私たちにとっても、観察力があり、人を動かせる代表を、そこに持つことは、非常に重要です。

伯爵殿、あなたは、現在のフランスが、どのような政治方針に従うべきかを、私に尋ねました。私は、その問いへの答えを、示そうとしました。手紙より、本一冊を書くほうがふさわしい問題です。その本は、悪いものになるかもしれませんし、この手紙も、おそらく、あまりよくはありません。

いま、私の考えを続け、述べた原則を、現在進めている交渉へ、適用したいと思います。フランスが、行動を共にすることを求めるべき相手は、イギリスだと、私は確信しています。そして、新しいイギリス政府の態度によって、この点では、多くの便宜が得られると思います。今朝、ラングスドルフ氏[387]をブリュッセルへ送った措置に、イギリス内閣が、どれほど満足しているかを見て、大いに喜びました。

この派遣の趣旨は、ポッツォ氏が、マトゥシェヴィチ氏へ書いた手紙の中で、非常によく説明されています。派遣に先立って、あなたと交わした会話を、多くの賛辞とともに報告しています。

ベルギー人が、まったく正気を失っていなければ、私たちの望むところへ至ると信じる、根拠があります。ベルギーの動きを指導する人々に、真の影響力を働かせるのは、非常に難しいことです。当地では、民衆を煽り、陰で国民会議の審議を支配しているのは、聖職者だと、確かにわかったようだからです。グレイ卿、パーマストン卿と、それぞれ別々に話した際、オラニエ公に成功しなければ、カール大公を考えられるという考えを、見たと思いました。私は、それを退け、ベルギーにオーストリア家の君主を置くことは、あまりに王政復古のように見えると述べました。そして、私が十五年前に忘れていたことを、思い出してもらうべきだと言いました。フォックス氏が、あらゆる革命のうち、最悪のものは王政復古だと、言い、活字にもしたことです。

私は、いまのところ、誰の名も口にしていません。しかし、バイエルンのカール公子の名は、しばしば口まで上りました。カトリックで、四十歳であり、才知と勇気のある人物だからです[388]。なお、この考えは、当地では、誰にも浮かんでいません。フランス政府が採用すれば、バイエルン家に対して、すべてを自らの功績とすることができます。

私の任務中に任されたことを、すべて報告するため、ギリシャについて、述べなければなりません。この件では、どの列強からも、何も提案されていません。ベルギー問題が、全員の注意と関心を占めています。誰も、この件を考えていないと思います。ギリシャの、あの美しい地名の一つさえ、どの会議でも、口にされていません[389]。

アルジェについては、話すことを避けました。私たちの新聞も、そうしてくれればよいと思います。占領に慣れてもらうのがよく、沈黙が、最善の手段です。この問題について、イギリスの意見は変わっており、扱うことになっても、克服できない困難はないと、私は考えています[390]。」

フラオー氏は、この公信と、ベルギー分割計画についての、私の意見を持って、パリへ戻った。この計画は、のちに再び持ち出されたが、後で見るように、私は、また退けた。氏自身については、のちにベルリンで、フランスを代表することになった。そこで、プロイセン政府を、私たちに好意的にさせようと努める代わりに、ポーランドの大義のために、あまりに激しく発言した。そのため、二、三か月後には、ポーランドを分割した三宮廷の一つに、何の影響力も及ぼせないことを嫌い、職を去らざるをえなくなった。

ロシア大使リーヴェン氏は、私がイギリスへ着いた時、妻をそこに残して、休暇に出ていた。十一月の末頃、ロンドンへ戻り、まもなく自国の政府の名で、イギリス内閣と私に、平和的な説明を与えた。ヨーロッパを不安にさせている、ロシアの軍備について尋ねると、きっぱりと答えた。

「私たちが行った軍備は、同盟者ネーデルラント王の、最初の要請によるものでした。その目的は、事情が求めれば集めることとなる兵力を、示すことだけでした。しかし、私は、その権限があるので、確かな資格をもって申し上げられます[391]。私たちの軍は、四大国との一致のもとでしか[392]、行動しませんし、行動できません。その同意なしには、国境を越えません。あなたに、そう宣言しますし、あなたも、ご自身の政府へ宣言してかまいません。グレイ卿とパーマストン卿にも、同じことを言いました[393]。」

私は答えた[394]。「それほど大きな兵力は、不安を与えるはずであり、フランスにも不安を与えていると、グレイ卿があなたへ指摘したことは、知っています。ロシア政府は、その不安を取り除くよう努めるべきです[395]。ところが、パリ駐在ロシア大使の信任状が遅れていることは、その不安を増すばかりです」。さらに私は、今日の諸国民には、配慮しなければならない敏感さがあることを、氏は、ヨーロッパをあまりによく知っているので、気づかないはずがないと付け加えた。そして、その配慮を果たす最も確かな方法は、不安の理由を、すべて取り除くことだと述べた。これに、氏は答えた。「あなたがお話しの信任状は、まだ届いていなければ、パリのロシア大使が、まもなく受け取ると確信しています。いずれにしても、いま申し上げた、安心を与える声明を、あなたへ直接伝える、この機会を得たことを、喜んでいます」。

ポーランドの蜂起は、まもなく、ロシアの、この新しい態度が、誠意からでなくとも、必要に迫られたものではあると、確かにした[396]。それでも私は、リーヴェン公の、安心を与える宣言を、ためらわず信用した。パリへ伝えるにあたり、同じように受け取ることを、強く求めた。ロシア大使の説明では、フランスの特別な立場が、話題にならなかったことを指摘し、こう書いた[397]。

「これからは、この話題を扱うことを、避けるべきです。フランスは、列強の一員としての地位を取り戻しました。この点に、少しでも疑いが示されることを、許せません。七月の出来事によって与えられた性格を保ちながら[398]、それでも、ベルギーの交渉では、他の列強と等しい役割を果たす自由が、私たちにはあります。不干渉の原則を守ることは、私たちの義務です。しかし、この原則は、条約と国境を維持する原則と、両立できます。

この見解を、お伝えすることを喜びます[399]。採用していただければ、私は、そうされることを疑いませんが、他国に対する、私たちの政治的な立場を強めることに、大きく役立つからです。いま、困難が来るとすれば、ベルギーからだけです。ベルギー人は、境界に同意したあと、支持できない要求を出しています。一八一四年五月三十日の条約以前、連合諸州の君主の領地と、のちに、その領土へ加えられ、ネーデルラント王国を作った地域とを分ける線について、法の点でも、事実の点でも、彼らの主張は誤っています。ポンソンビー卿[400]の訓令も、この意見に一致しています[401]。私たちと同じく、ベルギー人が示す線は、示し方によって、歪められていると主張するでしょう。イギリスは、ベルギーの独立について、決意を固めていることを、お伝えしなければなりません。今朝発ったポンソンビー卿は、この点では、何の困難も示さないことになっています。不干渉の保証を、改めて与える役目を負っています。しかし、その政府も、私たちと同じく、どちらかが境界を破る場合に生じる困難には、この原則を適用しません。」

この公信の抜粋から、イギリス政府が、ベルギーは、オランダから取り消しようもなく分離されるべきだと、認めるに至ったことがわかる。戦争を招かずに、この分離を認めさせたことは、フランスの政策にとって、非常に大きな成功だった。ブリュッセルに、共和政の政府がないかぎり、君主の選択は、私の目には、もはや、きわめて二次的な問題だった。誰が君主になろうと、都合のよい隣人、フランスの忠実な同盟者となることを、私は確信していたからだ。この時期に早くも、その君主の選択について、最もよい解決を与える組み合わせが、現れた。イギリスを喜ばせ、私たちも満足させるはずのものだった。ザクセン=コーブルクのレオポルド公のことである。ベルギー人に選ばれ、列強に承認されたのち、ルイ=フィリップ王の娘の一人と結婚するというものだった。しかし、この解決が実るまでには、まだ多くの曲折を通らねばならなかった[402]。

こうして、ロンドンでは、私たちの仕事は順調に進んでいた。ネーデルラント王の頑固な遅延と、ベルギー人のばかげた要求が、会議に困難を与えても、委員間の友好が、その困難を克服できるという確信を与えていた。また、十二月の初めに届いた、ポーランド蜂起の知らせは、ロシア、プロイセン、オーストリアが、ベルギー問題の解決で、融和的な態度を示す、強い動機を、さらに加えた。しかし、その知らせは、パリで、同じ効果を生むものではなかった。シャルル十世の大臣たちの裁判が、民衆に、危険な騒ぎを引き起こすかもしれない、まさにその時、人々の頭を、大いに興奮させた。

革命派が、この出来事を利用するため、あらゆる手段を用いることは、わかっていた。政府には、秩序を維持し、司法の進行を尊重させる、十分な力があるだろうか。それが、パリでの、強い不安のもとだった。そして、その不安も、原因も、ロンドンのフランス大使の立場を、楽にはしなかった。「あなたの政府は、いまも、まだ存在していますか」と、いつでも尋ねられかねない時、交渉者が、堂々と、毅然と語るのは、容易ではない。これは、革命の時代の悲しい結果である。乗り越える術を知らねばならないが、しばしば痛ましい思いに導かれる。

それでも私は、落胆に身を任せなかった。ネーデルラント王の頑固さと、ブリュッセル国民会議の、よりよい態度が与えた機会を、力強くとらえた。何より目指す目的、ネーデルラント王国の解体を、達成するためである。

十二月十七日、私はセバスティアニ氏へ、次のように書いた[403]。

「伯爵殿。

ネーデルラント大使は、病気だと知らせてきました。この体調不良を使って、会議の仕事を遅らせたがっていると思っていましたが、いま、君主の決定を知り、あらゆる手段で、私たちの決議を妨げようとしているという考えが、確かになりました。ファルク氏には、第五回会議の議定書を受け取ったあと、ネーデルラント王が、新しい訓令を届ける、第二の全権委員として、ゾイレン・ファン・ナイフェルト氏[404]を、ロンドンへ送ることにしたという知らせが、届いています。この任命は、単に時間を稼ぐ措置であることが、明らかです。当地で国王の事務を進めることに、ファルク氏以上に適した人はいないからです。また、最近、とくに今日の、氏のあらゆる歯切れの悪さは、困った立場にあり、その政府に誠意がないことを、十分すぎるほど示しています。

この出来事を、十分に考えたあと、不確かな状態を終わらせる手段は、一つしかないと考えました。ベルギーの独立を、速やかに宣言するよう求めることです。この要求には、根拠があると考えます。交渉の初めから、フランスが影響力を用いて、ベルギー人に休戦を署名させる一方、イギリスも影響力を用いて、オランダ王に同じことをさせると、合意していたからです。私たちは、十分に成功しました。ベルギー人は、すべてに同意しています。その応じる姿勢に、私たちは、報いねばなりません。イギリス政府は、きわめて誠実なあらゆる努力にもかかわらず、ハーグ宮廷から、当然受け取るはずの、明確な宣言を得られませんでした[405]。オランダ王の性格が、すべての障害となっています。しかし、その障害は克服しなければなりません。そのための手段は、会議に、ベルギーの独立を宣言させること以外[406]、私にはわかりません。したがって私の計画は、会議の前に、パーマストン卿へ話し、その後、四大国の全権委員へ、正式に提案することです[407]。明日、それを得られれば、私は、そうなると期待しますが、大きな一歩を踏み出したことになります。

パーマストン卿との会談のあと、卿自身が提案するよう、促すかもしれません。卿から出るほうが、ネーデルラント王に、より影響力があるため、望ましいでしょう。いずれにしても、何が最も適切か判断し、会議のあと、あなたが送られた使者を、送り返します……」

この公信を引用したからには、その後に続いた公信も、そのまま引用するのが、最善である。どのような話より、事の進み方を、明らかにしてくれるだろう。

「ロンドン、一八三〇年十二月二十日。

伯爵殿。

前の公信で、翌日、あなたの使者を送り返すと、お知らせしました。しかし、会議の進行と長さのため、そのつもりを果たせませんでした。ようやく今日、審議の重要な結果を、お伝えできる状態になりました。会議は毎日集まり、一度の会合は、七時間以上続きました。伯爵殿、イギリス全権委員と私だけが、ベルギーの独立について決意を固めており、ほかの四人の全権委員を、私たちの意見へ導かなければならなかったとお知りになれば、これほど長い議論も、驚かれないでしょう。しかし、国王の御意向を果たすことを、私は非常に大切に考えていました。そのため、私たちにとって、きわめて有益な決議を取るよう、できるかぎり強く促さずにはいられませんでした。

したがって、いま署名されたばかりの、会議の議定書をお送りします。理にかなう範囲で、私たちが望めたすべてを含んでいることを、ご覧になるでしょう。国王が満足されることを期待します。ロシア大使の署名を得ることは、非常に貴重でした。その署名も、ご覧になれます[408]。

どうか……」

「ロンドン、一八三〇年十二月二十一日。

伯爵殿。

昨日は、会議の議定書を持つ使者を、早く出発させたいと思い、急いでいました。今日は、採択された決議の重要さを、よりよく判断できます。また、それを知った、この国の有力者たちの間で、大きな効果を生んだことも、すでにお知らせできます。平和を維持する保障とまではいわずとも、少なくとも主戦派から、人々を動揺させる強い手段を取り去るものと、見られています。私も、かなり、この意見を共有しています。ヨーロッパの現在の状況でも、五大国が、ベルギーを独立国家として承認することは、私たちに、有益な結果を与えるはずだと、引き続き考えています。

ポーランドで起きた出来事は、まだ非常に若かった私が、フランス全土とともに、その国の第一次分割の際に感じたことを、思い出させました。前世紀に、それが与えた印象を、忘れることはできません。フランスの政策は、そのため汚されました。そして、外務大臣エギヨン公と、ウィーン大使ロアン枢機卿は、この大きな不正と略奪に先立つ交渉を知らなかったという恥辱から、二度と立ち直りませんでした。

のちに、ポーランド王国を再建する、最もよい機会が現れました。ナポレオン皇帝は、一八〇七年と一八一二年[409]、ヨーロッパの均衡にとって、非常に重要な、その国の独立を、返すことができました。しかし、そう望みませんでした。伯爵殿、この時犯された大きな過ちを、あなたに思い出させる必要はありません。一八一四年には、戦争の運勢が、私たちを、自分たちの存続以外、もはや考えられないところまで追い込み[410]、ポーランドの隷属が完成する時、黙っていなければなりませんでした。今日、ヨーロッパの評議の場で、私たちの声が、重要さを取り戻した以上、もはや、そうであってはなりません[411]。平和を乱さず、イギリスの支援を得て、よく時機を選べば、仲介を申し出て、ポーランドの最近の出来事を、ヨーロッパの利益へ向けることが、あなたには可能だと思います[412]。強固に組み立てられたポーランド王国が、ロシアの脅威的な侵出に対する、最善の障壁となることを、いま理解しない人はいません。この結果を得るための手段は、多くあります。イギリスが、率直に、私たちの考えに加わるなら、ポズナン大公国、ガリツィア、ロシアのポーランド諸州、フィンランド、そして、もしかするとスウェーデンとトルコにも、ロシアに対して働きかける、強い手段が見つかると思います。戦争をせずに、お話ししている目的へ到達することが、可能に思えます。サンクトペテルブルク政府は、よい助言を受ければ、時がたつにつれ、よく組み合わせた働きかけに、譲るかもしれません[413]。

このすべてには、多くの説明が必要でしょう。私は、ただ、いくつかの考えを示したかっただけです。この点で、あなたの考えが、私の考えと一致するなら、さらに追って述べたいと思います。

どうか……」

私がロンドンの会議で、ベルギー独立という重要な宣言を得ていた間、フランス政府は、パリで、革命派に対して、大きく栄光ある勝利を収めていた。十二月二十二日、シャルル十世の大臣たちの裁判が、貴族院裁判所で結末を迎えた。死刑の判決は出ず、暴動が司法の進行を妨げることもなかった。この知らせを、白状すれば、私は、非常に大きな満足をもって受け取った。アデライード王女が知らせてくれた手紙は、王女の立派さを示し、私に、あまりに大きな喜びを与えたので、ここに載せずにはいられない。

「パリ、一八三〇年十二月二十三日。

あの恐ろしい裁判の危機を、ようやく抜け出しました。この大きな劇は、私たちの革命と、私たちを治める国王に、ふさわしい仕方で終わりました。これほど見事で幸せな結末に至るには、確かに、国王の力、落ち着き、忍耐のすべてが必要でした。いま、人々が寄せる、あらゆる愛情と敬愛のしるしを受け、国王は、二重の喜びを感じています。国王は、人々の喝采の中、馬に乗って出かけたところです。各区を回り、あの勇敢で、すばらしい国民衛兵に、あらゆる賛辞を超える、見事な行動への満足を伝えるためです。私たちは、とてもつらい三日間を過ごしましたが、いまは、十分に報われています。セバスティアニ将軍が、昨夜、あなたへ使者を送ったことは知っています。この手紙が届く頃には、よい知らせも、すでに届いているでしょう。あなたが、よく事情を知っていることは、非常に重要でした。きっと、誤った知らせや、最も不安を煽る知らせが、ロンドンへ、たくさん届いたでしょう。恐れと恐怖を広めることは、非常に明白な戦術だったからです。ここでも、一区から別の区へ、最も悪く、最も誤った知らせが届いていました。国王の冷静さと落ち着きがなければ、まったく誤った措置を取ることに、至ったかもしれません。

会議の、よい結果について、心からお祝いします。見事で、十分に満足できる成功です。親愛なる公爵殿、あなたのためにも、私たちのためにも、私は二重に喜んでいます。国王は喜び、自ら選んだ大使の成功を、誇りに思っています。あなたへ、幾千もの温かい言葉を伝えるよう、私に言っています。いま私たちを心配させているのは、気の毒なポーランド人たちの運命です。私は、彼らの身の上を、とても心配しています[414]……」

こうして、私たちの事務は、よりよい方向へ進んだ。大臣たちの裁判の終結は、パリの情勢を緩めた。一方、五大国が、よい合意によって認めたベルギーの独立は、少なくとも当面、平和の維持を確かにした。多くを得たが、なお、厄介な困難を、いくつも解決しなければならなかった。ラフィット氏を首班とする内閣には、国内でも国外でも、力も信望もなかった。商業と産業は荒廃し、事業は回復せず、この内閣の傾向と弱さは、人々を安心させられなかった。

ベルギーの独立宣言には、かなり重大な難題が結びついていた。特別な関係によって、ドイツ連邦に属する、ルクセンブルク大公国である。ベルギー人は、この州を保持しようとしていた。この州は、一八一四年、ネーデルラント王の、ドイツでの個人的な領地の代償として、与えられたものだった。その中には、連邦の全体的な防衛体制に結びつく、連邦要塞があった。したがって、連邦の利害を調整し、ネーデルラント王とベルギー人の要求も、満たす必要があった。これは、数年間続く、長い交渉の対象となり、適切な取り決めで終わった。しかし長く、大きな心配を引き起こした。ヨーロッパの政治の空が晴れていくにつれ、ドイツの諸国は、譲歩することを、いっそう渋るようになったからである。

ベルギーの独立を決めた、十二月二十日の会議の議定書は、当然、ハーグで、非常に激しい不満を引き起こした。ネーデルラント王は、私たちの決定に対する、激しい抗議を送らせた。一八一四年、イギリスが奪ったオランダの植民地と引き換えに、ベルギー諸州を譲られたことを思えば、不満を述べる、正当な理由があったことは、否定できない。しかし、この苦境から抜け出すのは、イギリスの仕事だった。私には、通さなければならない考慮が、一つだけあった。ネーデルラント王国は、フランスへの敵意から、フランスへの脅威として作られたのだから、この造作は、役目を終え、これ以上続けられないことが、証明されたということだった。会議は、ネーデルラント王の抗議を受け取り、返答せず、ベルギーの独立を固める仕事を続けた。国王が反対し続けるなら、その協力なしに、終える決意だった。

すでに述べたと思うが、ベルギー問題を解決する五大国会議が集まる前、ロンドンには、別の会議があった。フランス、イギリス、ロシアの代表からなり、ギリシャ問題の調整に当たっていた。この三大国間で、一八二七年七月三日に結ばれた条約によって[415]、ギリシャの独立が認められたことは、知られている。条約の成立以来、まず、帝国のこの分割への、オスマン政府の同意を得るため、次いで、新国家の、他の列強による承認を得るため、長い交渉が必要だった。新国家は、一年来、カポ・ディストリア伯爵に、暫定的に統治されていた。ギリシャを保護する三宮廷は、初め、自らが与えた独立を固めることに、熱心に取り組んだ。しかし最近は、その熱意が、いくらか冷めていた。ロシアが、ギリシャの独立から、期待していた利益を得られないと気づき、交渉に障害を置いたためでも、フランスで起きた出来事が、すべての政府を動揺させたためでもあった。それでも、ギリシャの最終的な運命に、なお残る不確かさを終わらせることは、重要となった。そこで、三大国の会議は、再び集まることになり、一八三〇年十二月末、私たちは会合を開いた。この会合を述べる前に、審議の対象となる事実を、簡単に振り返る必要がある。

一八二七年七月三日の条約は、ギリシャ独立の基礎を定めた。新国家の境界、トルコとの関係、統治する憲法などを定めていた。そして、保護する三大国は、ギリシャを治める君主を指定する権利を留保し、ギリシャ人自身が望んだカポ・ディストリア伯爵が、暫定的に国を統治するため赴くことを許可した[416]。条約の条件がギリシャで知られると、新国家に割り当てられた国境について、不満が上がった。カポ・ディストリア伯爵は、まもなく、その不満を支持した。しかし、すでに述べたように、ロシアは、ギリシャの利益に対する熱意を失っていた。イギリスも、好意的ではなかった。独立戦争中、ロンドンで借款が行われていたが、ギリシャ暫定政府は、利息を払わないだけでなく、その借款を保証することも拒んだ。この件、そして、独立ギリシャの隣接が、イオニア諸島の統治には厄介となり[417]、ギリシャ人の商船隊が、イギリスの海運に有害な競争をもたらしかねないという、多少の見通しもあったのだろう、それらが、イギリスで、ギリシャの大義の人気を、大いに失わせていた。フランスだけが、裏の思惑なく、この大義に忠実であり続けた。シャルル十世の政府に、この正当な評価を与えなければならない。その功績は、いっそう大きい。王位から引き落とした惨事のあと、気の毒な国王が、自らの政府に与えた非難は、一つだけだったからだ。ギリシャ独立を承認して、反乱を励ましたという非難だった。

いずれにせよ、ギリシャの境界が不適切に定められた問題は、これから見るように、一種類にとどまらない難題を生んだ。多くの交渉のあと、三宮廷は、イギリスのシャーロット王女を失った、ザクセン=コーブルクのレオポルド公へ、ギリシャの主権を申し出て、公は受け入れた。しかし、受諾の条件を話し合うことになると[418]、公は、自らの政府の設立に必要な、多額の借款への保障を、三大国に与えてもらわねばならず、とくに新国家に、もっとよい境界を得させる必要があると、明確に宣言した。この提案は拒まれ、公は受諾を撤回した。代わる君主を探さなければならなかった。フランスで七月革命が起きた時、事態は、ここまで進んでいた。ギリシャにいる三宮廷の委員は、カポ・ディストリア伯爵の要請を支持し、党派と、一部の指導者の野心で引き裂かれる国の、不安定な状態を終わらせるよう求めていた。

一八三〇年十二月二十八日、パーマストン卿が、会議を招集した時、情勢は、このようなものだった。パリへ送った、その会合の報告は、次のとおりである[419]。

「今朝、ギリシャについて会議を開きました。パーマストン卿は、私の前任者が参加した会議で決まった、最後の議定書を読み上げました。レオポルド公の拒否によって、何の結果も得られなかったものです。私たちは、ギリシャの領土を拡大することに合意しました。その後、私は、オスマン政府が同意した最後の議定書を変えようとする以上、あまりに小さな改善のため変えるより、ギリシャに最も適した線を提案するほうがよく、ヴォロス湾からアルタ湾へ至る線が、最も適しているように思えると、認めてもらおうとしました。パーマストン卿は、この提案を、非常によく支持し、あらゆる書簡から引いた強い理由で、その価値を示しました。

ロシアは、オスマン政府との以前の関係を回復して以来[420]、ギリシャに、もはや同じ関心を示していません。そのため、全権委員は、きわめて慎重で、何事も、自らの判断で引き受けようとしません。

このような状態で、私たちは、イギリスが、ギリシャの委員ドーキンズ氏に[421]、カポ・ディストリア伯爵へ、国境は改善されうると、内密に伝えさせることに合意しました。そして、三宮廷の意図を明かさず、ギリシャ人が占領している、アカルナニアとアイトリアの各地点から、取り決めどおりの撤退を命じないため、何かもっともらしい口実を探すよう、頼むことにしました。この働きかけが行われる間、ロシアの全権委員は、一定の金額と引き換えの、双方の合意による協定で、ギリシャの境界の改善を得るために必要な文書へ、署名する許可を、本国政府に求めます。その金額は、三大国が保障するはずの借款から、取ることになります……

オスマン政府から、この変更を得ることができれば、境界を画定する委員は、同じ任務を果たすことになります。その時、フランスの委員が速やかに赴き、なされるべき仕事のすべてに参加することが、重要です。フランスが、その利益を守っていると、ギリシャ人によく知ってもらうためです。

前任者に与えられた命令を確認していただくか、ギリシャの君主の選択について、別の計画があるなら、新しい命令を与えていただくよう、お願いします。しかし、他の列強も、その気があるように思えるとおり、バイエルン王の息子の一人を任命することを続けるなら、国の行政は、カポ・ディストリア伯爵に保たせることが、重要でしょう。また、健康が非常に弱いため、摂政政府の計画を提出するよう、頼むことさえ必要です。

政府が、一八三〇年五月三日の文書によって、同年二月二十日の議定書第四条で合意された、六千万の借款を保障すると約したことを、どうか思い出してください。この点について、ご命令が必要です。

どうか……」

二日後、同じ件について、私は、さらに書いた[422]。

「一昨日の公信で、ギリシャ問題についての、パーマストン卿とリーヴェン公との、最後の会議の結果をお伝えしました。その後、この件で、イギリスの閣僚と交わした会話によって、新しいギリシャ国家の君主として、その政府が選んだのは、バイエルンのオットー公子だと、わかりました。したがって、ロンドン政府の、この決定は、もはや計画ではなく、ほぼ決まったことと、見なさなければなりません。なお、私の前任者は、それに賛同する許可を受けていました。バイエルン王との書簡では、息子がギリシャで統治を始めるにあたり、国の負担とならないよう、個人の収入を、どれほど与えるかを尋ねるところまで、話が進んでいました……」

出来事が、またこの問題へ連れ戻すとき、ギリシャ問題に戻ろう。いま到達した時点では、ギリシャを治める君主を考えるより、ベルギー諸州を治めるため選ぶ君主を考えるほうが、急を要した。後者の選択には、ベルギー、さらにはフランスの革命派を静めること、したがってヨーロッパの平和を維持することが、結びついていたからである。ザクセン=コーブルクのレオポルド公の名が、すでに挙がったことは、見たとおりである。ポンソンビー卿は、ブリュッセル国民会議の外交委員会で、その名を支持した[423]。それは、イギリス政府の承認を意味していた。グレイ卿、パーマストン卿との会話でも、私は確かめることができた。この時、ベルギーの外交委員長ヴァン・ド・ヴェイエル氏は、レオポルド公を受け入れさせる役目を負い、パリとロンドンへ向かっていた。

公自身も、直接私に相談し、私は、個人として、立候補の成功を、大いに喜ぶと、さっそく返答していた。実際、この微妙で複雑な立場に、公ほど適した君主は、ヨーロッパに見いだせなかった。ウィーン会議で知る機会があり、プロイセンとロシアに対して、ザクセン王の利益を支える際、多くの才知と誠実さを示していた。そして、数年間、その軍に仕えたにもかかわらず、アレクサンドル皇帝の甘言にも脅しにも抵抗した、堅い勇気を、私は覚えていた。レオポルド公が、ベルギー人の王となり、フランスの王女と結婚することは、私たちが扱う困難を解決するため、最善の選択に思えた。時は、私が間違っていなかったことを、証明した。しかし、この選択は、個人的な利害を、フランス政府の利害に結びつけ、政府を自らの策略へ引き込もうとする、ブリュッセルの一部の策士たちの計算を、狂わせた。まず彼らは、いま述べたとおり、国民会議の外交委員会へ、内密に伝えられていた、レオポルド公を選ぶ計画を、言いふらした。その委員会の一員であるセル氏は、急いで、パリの友人へ書き送った。そのため、代議院の最左派の議員の一部が、この計画を、フランス政府への攻撃の手段として、さっそく取り上げた。どんな効果があったか、これから判断してもらおう。

セバスティアニ将軍からタレーラン公へ。

「パリ、一八三〇年十二月三十日。

公爵殿。

最近の騒動のあと、議会で始まった討議が、いま終わりました。それは、人々の心にあった、私たちの状況の真の害である、不信を出し尽くしました。心の平穏が戻ったため、秩序は、完全に固まりました。苛立ちと不安が、毎日生んでいた、好ましくない出来事によって、政府の歩みが、今後妨げられることはなくなると、すべてが期待させています。

この討議の間、対外問題も、演壇で論じられました。国内の状況が、必ず生むはずの、気がかりと先入観の支配のもとで、論じられたのです。ベルギー問題は、昨日と今日の議会の、大きな部分を占めました。国王の閣僚たちは、慎重な態度を守りました。しかし、それは、平和的な意図と、思想の対外宣伝を嫌う姿勢を、最も明確かつ積極的に示すことを、妨げませんでした。

コーブルク公は、激しく攻撃されました。昨日はモーガン氏、今日はラマルク将軍によってです。議会で起きた、この嵐は、新聞と、認めなければなりませんが、世論によって、作られたものでした。公へ、心からの友情を持つ国王は、世論を、この考えへ引き戻すことが不可能と見て、いっそう悲しんでいます。したがって、ベルギー、フランス、ヨーロッパのすべてに、適した、別の君主へ、目を向けなければなりません。それは、あなたが解決しなければならない困難の中でも、小さいものではありません。

ベルギー人は皆、自国がフランスへ統合されるか、ヌムール公が、自分たちの君主となることを望んでいます。この重要な結果を得るため、アントウェルペンを自由都市とすることには、喜んで同意するでしょう。オーステンデについても、そこまで譲るかもしれません。フランスは、ベルギーの統合、またはヌムール公の選択に、過去の正当な埋め合わせと、将来の安寧を見るでしょう。この取り決めは、ヨーロッパにとって、平和の担保となります。しかし、そのために、ヨーロッパ全土と戦争せざるをえず、すでに揺らぐ社会秩序全体を、そこでも揺さぶるような、激しい状況へ、自らを置くことは望みません。それでも、私たちにも、他の諸国にも、これほど完全である政治的な仕組みの考えは、その持つ偉大さと真実のすべてを伴って、公爵殿、あなたの心に、示されるべきです。それを断念しなければならないなら、いかなる野心も、その純粋さを損なっていないだけに、いっそうつらい犠牲となるでしょう。

ナッサウ家の除外には、ベルギーは、認めなければなりませんが、すべてのプロテスタントの王家、さらには、バイエルンやザクセンも例外としない、ドイツの王朝の除外を含めています。また、バイエルン家の当主が、フランスから切り離されたランダウを持つ以上、バイエルンの君主が、当地で、喜んで迎えられることはないでしょう。

ナポリ王の弟、才知と気高い性格を示す、十九歳の若い公子は、王位に就くことが、フランス国民の心の中で、おそらく最も障害の少ない人物でしょう。

公爵殿、この微妙で複雑な問題を、わが国の威厳と利益にかなう仕方で解決する、高い任務が、あなたへ委ねられています。国王は、あなたにも容易に理解できる、待ちきれない気持ちで、返答を待っています。あなたの経験と、円熟した知恵は、列強の同意を得て、何が可能かを、私たちに教えてくれるでしょう。イギリスは、なお狭く、嫉妬深い政策の道にあるのでしょうか。今日、これほど開明的な政府は、それから解き放たれ、ベルギーについての取り決めを、理性がヨーロッパで、その支配を広げるために十分なほど長く、戦争を防ぐ仕組みとだけ、見ることはできないのでしょうか。

国王は今朝、ジャンドビアン氏[424]に会いました。愛情ある率直さで話し、国王の政策が、不誠実と非難されることは、決してありえず、ベルギーの革命を、自らの利益へ転じないという、列強とのすべての約束を果たすことを、隠しませんでした。したがって、統合の提案と、息子を王位に就ける提案を退けました。なお公爵殿、この、つねに再び現れ、つねに働いている戦争の原因を取り除くことは、私たちより、ヨーロッパの利益に深くかかわります。私たちは、幸せな結末を期待しています。

どうか……

オラース・セバスティアニ。」

この手紙を受け取るのと同時に、ブリュッセルにいる、会議のフランス側委員、ブレッソン氏が、次の手紙を送ってきた。

「ブリュッセル、一八三〇年十二月三十一日。

公爵殿。

この国の情勢について、私の不安は、倍増しています。オランダ王は、スヘルデ川を閉鎖することで、会議のあらゆる計画を壊しました。無秩序、無政府状態、内戦が、戸口まで来ています。何を助言すべきか、わかりません。しかし、膨らんでいる嵐をそらすには、大きな措置、大きな考えが、一つ必要です。フランスの王族を置くのは、不可能です。それは戦争を招きます。しかし、ベルギーの荒れ狂う動きを抑えられるのは、その類の譲歩によってだけかもしれません。何を言うべきでしょう。何をするべきでしょう。そのような解決は、私の力を超えています。

ポンソンビー卿は、私より、よい望みを持っていると言います。間違っていないことを、心から願います。しかし、その国は、私たちの国ほど、大きなものを賭けていません。私たちの不安が、より強いのは、まったく当然です。

どうか……」

セル氏と友人たちの策略によって、ブリュッセルの空が、大いに曇り、ついには、セバスティアニ将軍まで、その意見へ引き入れたことが、わかるだろう。いま読んだ手紙は、将軍が、その策略に加わったか、ふだんは、かなり健全で洞察力のある判断が、受け取った誤った情報によって、曇らされていたことを示している。いずれにせよ、フランスが、一国で四国を相手に勝たねばならない激戦なしに、列強が、ベルギーのフランスへの統合、あるいは、同じこととなる、ヌムール公のベルギー王位への即位に、同意するよう導かれうると考えるのは、無分別でなければ、できなかった。

私は、すでにセル氏の名を、何度も挙げたが、どのような人物で、どうベルギーとパリで、ある種の影響力を得たかは、説明していなかった。ベルギーの貴族の家に生まれたセル伯爵は、フランス共和国がベルギーを征服した時、まだ若かった。それでも、その頃から、放埒な行動と、一種類ではない行き過ぎによって、早くも人目を引いていた。ベルギー人の中で、最も早くナポレオンの帝政に加わった一人だった。ナポレオンによって、初め国務院に配属され、次いで、ナント、アムステルダムの順に、県知事に任じられた。帝政の最も苛酷な措置を、過度に厳しく実行させたこと、また、行動と生活態度の、恥を知らないあり方によって、オランダ人の憎悪を買っていた。帝国の解体後、数年間は、表へ出ずにいた。その後、ネーデルラントの第二院議員に選ばれ、野党に加わった。のちに、ローマへの旅を経て、その頃、ローマ宮廷との関係に困っていた、ネーデルラント王へ近づいた。自分ほど、教皇政府のもとで、有益に仕える者はいないと、君主に思い込ませた。哲学的で、反宗教的な考えによって、だまされることはなく、一方、妻の信仰の厚さによって、ローマで信望を得ていると、誇ったのである。国王は、教皇庁への大使に任命した。実際、数か月後、氏はコンコルダートを結んだ[425]。しかし、それは国王の期待を満たさず、ベルギーの宗教上の不和と、ベルギーのカトリック教徒の、国王への不満の、一つの原因にさえなった。氏は、第二院の議席へ戻った。しかし、過去の行動のため、オランダ人の間でも、国王の利益のために、自分たちの利益を裏切ろうとしたと非難する、ベルギーのカトリック教徒の間でも、同じく信用を失っていた。

一八三〇年の革命の際、セル氏は、このような立場にあった。最初に革命へ飛び込んだ一人となり、自由主義派によって、国民会議の議員に選ばれ、ベルギーの対外事務に関する、すべての問題を扱う外交委員会の、副委員長に任じられた。

セル氏は、ジャンリス夫人の娘と結婚した、ヴァランス将軍の娘を妻にしていた。セル夫人には、七月革命後、陸軍大臣となったジェラール元帥に嫁いだ姉妹がいた。ジャンリス夫人の、もう一人の娘、ラヴースティーヌ侯爵夫人は、ベルギーで結婚し、息子を一人残していた。その息子は、フランスのボナパルト派の、主要な指導者の一人として目立っていた。この親族関係が、ジャンリス夫人を通じてパレ・ロワイヤルと、ジェラール元帥を通じて政府と、どれほどの結びつきを、セル氏に与えたかが、わかるだろう。そのつながりによって、氏は、ベルギーのフランスへの統合、せめてヌムール公の王位を得ようと、策を巡らし、人々を煽った。それに成功すれば、フランスで大きな地位を得、自分が信用を失ったと感じているベルギーを、離れられると考えていた。

この、あまり興味深くない人物について、私は、長く述べすぎたかもしれない。しかし、イギリスでの仕事の進行を妨げに来た、策略の源を知らせるため、この脱線は必要だった。

この、あまり好ましくない兆しのもとで、一八三〇年は終わった。その間に起きた出来事によって、忘れがたい年となった。

付録

この付録には、タレーラン氏の書類から取り出した、一八三〇〜一八三二年の出来事に関する、いくつかの書簡を載せた。氏自身は、回想録の本文へ入れなかったが、歴史上、あるいは史料として、一定の関心を引くと思われたものである。これらすべての書簡は、公と、その文通相手の自筆原稿から、文字どおりに写した。

とくに、タレーラン氏から、アデライード王女、ヴォーデモン公妃への書簡がある。知られているように、氏は、ルイ=フィリップ王の妹と、非常に頻繁に文通し、ロンドンで続く交渉の、あらゆる段階を知らせていた。この手紙は、のちに国王の御覧に入れられた。完全に内密のもので、大使と内閣の公式の往復書簡とは、まったく別だった。

タレーラン氏の、非常に古く、親しい友人である、ヴォーデモン公妃への書簡も、公妃によって、たいてい王家に伝えられていた。そのため、いっそう意味深いものとなっている。

タレーラン公からヴォーデモン公妃へ[426]。

「ヴァランセ、一八三〇年五月二十日。

あの有名な勅令を読み[427]、誰もが夏の予定を乱されるのが、わかります。いまのところ、田舎での滞在に対するクーデターのように思えます。のちには、もっとよくわかるかもしれません。

アルジェ遠征は、軽率な行動の形を取り、それが深刻なことへ至るかもしれません。それなら、ブラジルで憲法作りに口を出すイギリス内閣は[428]、なぜパリの大臣作りには、口を出さないのでしょう。皆の役に立つでしょう。――現在の状況では、重要だと思います。そうすれば、イギリスと結ばれて、望むように発言でき、各国からの、あらゆる小さな反対は、引っ込むでしょう。他人の意志に従うことが、あまり愉快でないのは、よく知っています。しかし、その相手が、自分の望むことを知らないなら、耐えられません。

国外の事務は複雑にならないと、信じなければなりません。しかし、この内閣では、何か一つでも、確信できるでしょうか。すべては軽率に行われ、その結果は、現実の困難となりえます。このアルジェの企てが、国内に何かの方向を与えるための策なら、大きな思い違いです。もっと簡単な手段がありました。税を減らすべきだったのです。皇帝の政府以来、税は二億以上増えたのに、イギリスでは、同じ時期から、四億フラン減りました。これは、まったく田舎者らしい考えです。せめて、長すぎないようにしたいので、ここで終えます。

では……」

タレーラン公からヴォーデモン公妃へ[429]。

「ヴァランセ、一八三〇年六月十一日。

ここからパリへ発つ人がいるので、その機会に、少しお便りします。

決定的な時が近づいています。羅針盤も、水先案内人も見えません。難破を防ぐものは、何もありません。それが、すべての人を、あらゆる階層の、すべての人を、不安にしています……

イギリス国王の死は、大きな出来事です。すべてが複雑になるのに、私たちには、導く頭脳も、結び目を切る鋏もありません。心の世界でも、自然の世界でも、今年は嵐の年です。ここでは、この一週間、毎日二度、嵐があります。それでも、大司教と県知事が、立派で長い散歩をする妨げには、なりませんでした。[訳注16]

イギリスは、同じ内閣を保つでしょうか。変えないなら、よいことです。私たちの国のように、平穏から、これほど遠い国がある時、他の国々は、動かずにいるべきです。」

モレ伯爵からタレーラン公へ[430]。

「パリ、一八三〇年十月一日。

……公爵殿、二十七日付の手紙で、まずアバディーン卿と、次いでウェリントン公と、初めて会談したとお知らせになりました。白状しますが、私は、ベルギーという言葉を、懸命に探しました。そして、どこにもないことに、驚きました。この国で、次々に起きる出来事は、私たちが立場を説明し合うことを、求めているようです。この件で、二人の話し相手に、どんな態度を見いだしたか、あなたから知りたかったのです。こちらで話していることは、次のとおりです。きっと、あなたも、それに合わせて発言されたでしょう。

ネーデルラント王と、その臣民の、この一部の間に争いが続くかぎり、私たちは、最も厳密な中立の範囲に留まります。ベルギー人が、私たちへの統合を求める、あらゆる働きかけは、揺るがず退けます。しかし、彼らが争いに勝ち、独立するなら、どんな政府であっても、武力で押しつけられることは、許しません。いまから、この大きな問題を交渉の道へ進めようとするなら、応じ、他の政府と協力して、皆の利益に配慮し、ベルギーが自由に受け入れられる解決を、誠実に探します。公爵殿、よく考えてください。あなたは、誰よりも、この問題の解決に貢献できるでしょう。私たちの存続のためにも、尊重させる必要のある、国民的独立の原則を満たし、同時に、全体の平和を揺さぶるのでなく、強める取り決めを、見いだせるでしょう。――公使ベルタン・ド・ヴォー[431]は、同じ精神で書かれた訓令を持ち、明日ハーグへ発ちます。疑いを招きかねないことを、さらに避けるため、ルクセンブルク地方か、ヘントを通る道を取ります。ブリュッセルを通れば起きただろう、歓迎の示威を生じさせないためです。最後に、ブリュッセルにできた暫定政府は、構成員が選んだ代表を、こちらへ送ってきました。この代表は昨日着きましたが、私は会うことを拒みました。

公爵殿、手紙で沈黙されていても、イギリスの閣僚との会議で、この重大な事務が話されたことと、見いだされた態度を知らせる公信が、あなたから、まもなく届くことを、私は疑いません。

ポルトガルについても、同じことを申し上げます。この件では、ステュアート卿から、重要な伝達がありました。まもなく、この件に絞って、もっと詳しくお便りします。その前に、イギリス政府が取りたがっている決定について、あなたから、いくつか事情を受け取ることを、期待しています。

公爵殿、私の深い敬意と、変わらぬ親愛を、改めてお受け取りください。

モレ。」

タレーラン公からアデライード王女へ[432]。

「ロンドン、一八三〇年十月二日。

王女様から、お便りするよう仰せがありましたので、従います。

海峡の渡航は、ひどいものでしたが、二時間後には、もう考えていませんでした。

ロンドンは、一目見て、以前去った時より、はるかに美しく思えました。まったく新しい街区があります。王女様には、同じ町とわからないでしょう。人口は、大いに増えています。今日、百五十万の魂が住んでいます。その住民である、利己主義者たちを、魂と呼べるのであればですが。九月二十四日、着いてみると、大いに驚いたことに、かなりよい日差しがありました。閣僚たちは、それを利用して田舎へ行っていました。私たちの閣僚、とくに国王も、時には同じことができればと、切に願います。

シャルル十世は、海辺を離れることになっています。内陸へ約五十マイル入った、アランデル卿の立派な邸宅を、受け入れます。イギリス政府は、海にこれほど近く住めば、多くの策士が、しばしば往復することで、一度も受けていない委託を受けた者のように、振る舞う口実を与えると、ほのめかしていました。この小さな事情を、私はウェリントン公から聞きました。この問題で、イギリス政府は、非常に誠実です。

シャルル十世は、世襲領に住む許可を求めて、ウィーンへ手紙を書きました。どんな返事があったかは、まだわかりません。

今日、ウェリントン公は、七月末のフランスの動きが、誰かに指導されたものではなく、憤りが、全員を結ぶ絆で、策略は一つもなかったことを、深く確信していると思います。オルレアン公は、王国総代理の職、のちに王冠を、受け入れざるをえなかった。受け入れることで、義務を果たした。そして、その義務を果たすことで、ヨーロッパ全土に、重要な貢献をした、ということです。

ここには、国王に感嘆する人、国王を愛する人が、たくさんいます。誰の口にも、国王への賛辞が上っています……

政治的な判断力を持つ、私たちの支持者すべての願いは、内閣が留まり、議会が解散されないことです。これは、最も熱心な友人たちのもとで、聞いたことです……

……ベルギーの知らせを、私には十分伝えてもらえていません。この件で知ることは、いつもイギリス政府から来ます。」

モレ伯爵からタレーラン公へ[433]。

「パリ、一八三〇年十月四日。

公爵殿。

あなたは、腕木通信で知らせを求め、私は、ロンドンで何が起きているかを、あなたに尋ねています。いま受け取った十月一日付の手紙では、それがまったくわかりません。国王は、昨日、側近の集まりで、イギリスが、ネーデルラント王の援助要請に、否定の返答をしたと聞いたことを、あなたへ伝えるよう、私に命じられています。

ウェリントン公とアバディーン卿との、二度の会議のあと、イギリス政府が、それをあなたに隠したなら、不満を述べる権利があるでしょう。しかし、何も知らせてくださらなかったので、国王は、その返答が、あなたに伝えられたとは信じられません。

ポルトガルへの態度も、あなたに知らせなかったのか、私にはわかりません。しかし、三日前、ステュアート卿が、この件で、重要な伝達をしました。ロンドンで、あなたが何も知らなかったなら、驚くほかありません。

公爵殿、まったく異なる性質の報告をお願いする必要が、私にあることは、きっと理解されるでしょう。これまでの報告では、ロンドン政府の態度と、それとのやり取りについて、私は何も知らされていません。これは、あなたと私が任されている事務と利益に、有害になりかねません。

私の深い敬意と親愛を、改めてお受け取りください。

モレ。」

タレーラン公からアデライード王女へ[434]。

「ロンドン、一八三〇年十月七日。

王女様は、私たちの立場の改善に、驚かれると思います。フランスからの知らせは、国内について、望みどおりのものに思えます。また、私が当地で判断できる対外関係も、国王に適した道を進んでいるようです。毎日よくなっています。国王の大使は、シャルル十世の大使たちにはなかった敬意を、当地で受けています。私たちの大使館への配慮は、あらゆるところから来ます。クラブからサロンまで、最小の事柄から最大の事柄まで、ロンドンで盛んに流れる話は、私たちが、政務と社交の、正しい道に入ったことを示しています。ベルギー問題は、戦争を避けるための、あるべき道にあります。毎日、その方向で進歩があります。しかし、邪魔な急ぎ方で、イギリス政府の歩みを強いたり、少し角のあるものを、時間が丸めるのを待たなかったりすれば、あまりよい仕事にはならないと、私は思います。この点で、外務省は、少し急ぎすぎていると感じます。

いま届いている、すべての承認は、時間と熟慮が、もたらしたものです。プロイセンとオーストリアは、ベルギーのあらゆる難題で、イギリスの影響と導きのもとに入っています。この影響は、平和の維持に役立つでしょう。私は、それを時間の恩恵と考えます。時間に、十分働かせ、人々が最初の驚きから立ち直るのを、許す必要がありました。一部の先入観を消し、何より、私たちを無政府状態の近くにあると信じたがっていた外国を、政府が、その行動で安心させる時間を、与える必要がありました。クラブの興奮のさなかで行えば、どんな働きかけも、有害だったでしょう。いま、事柄は、あるべき場所に置かれています。そして当地で、ロンドンから友好への働きかけを出させたことは、フランス政府にとって、最も都合のよいことだったと思います。こちらから先に動けば、立場は、もっと窮屈になったはずです。パリで、別の判断がされたことを、私は惜しみます。モレ氏が、ウェリントン公へ直接行った働きかけには、少し若さを感じました。私は、それを、公からしか知らされませんでした。それによって、モレ氏は、求めた決定が、二日前に、すでになされていたと知ることになったのです。ともあれ、済んだことです。済んだことには、決して立ち戻るべきではありません。

謁見は昨日行われました。満足する理由は、すべてあり、王女様が御存じの挨拶は、国王の身近な人々の間でさえ、大いに認められました。活字にすれば、パリでも好まれると思います。私たちの国王とフランスの名で語ると、憲法制定議会の頃の声が、私に戻りました。

当地では珍しい日差しを、しばらく味わうため、王女様には、ここでお別れすることを、お許しいただきたいと思います。

追伸。――今日、モレ氏へ書く手紙の写しを、王女様お一人に、お送りします。まったく私的な手紙です。いつも避けたいと思っている、とげとげしい態度を、いくらか終わらせるのが有益だと考えたためです[435]。」

アデライード王女からタレーラン公へ[436]。

「パリ、一八三〇年十月八日。

……シャルル十世が海辺に住む不都合について、ウェリントン公が指摘したことは、まったく正しいものです。絶え間ない往復が、何のよいことにもならないのは、確かです。公が、私たちの大きく、美しい革命と、愛する兄の、きわめて気高く誠実な行動を、ようやく、より正当に判断するようになったことを、喜びます。当地では、すべてが順調で、日ごとに強まり、固まっています。政治犯罪の死刑の廃止を、代議院に求めた、負傷者たちの請願ほど、寛大で、心を打つものはないと思います。この法律が、すぐに通るかは疑問ですが、それでも、成立することを期待しています。――モンテスキュー氏[437]は、昨日四時、ナポリとローマから戻りました。承認と、ナポリ王からカステルチカーラ公への信任状[438]、教皇から教皇大使への信任状を、持参しています。後者が、これほど早く届いたことを、私は喜びます。これで、聖職者の困難や問題が、完全に解けるでしょう。少なくとも、もはや口実はなくなります。アタランの到着も、今か今かと待っています。最後の手紙は、九月十八日付でした。皇帝は、非常に親切で、氏は、その態度に魅了されていました[439]……ベルギー問題には、大いに苦しめられました。しかし幸い、聞くところでは、いくらか穏やかになってきたようです。そして、幸いにも、全体の平和は乱されないように思えます。それこそ、あなたのために、心から願うことです。

ベルギーの知らせを、十分伝えてもらえないと、あなたは不満を述べています。あなたとの文通を、どの点でも、政治的なものにしたいとは思いません。それでも、あなたへの気づかいから、そして、順調に進め、成功させたい事柄のため、内密にお伝えします。こちらでも、公信が十分詳しくなく、知らせを十分伝えていただけないと、不満が出ています。これは、あなたと私の間だけのことです。そのままにしておいてくださるよう、お願いします。私の動機を、正当に理解していただけると、確信しています。」

タレーラン公からアデライード王女へ[440]。

「一八三〇年十月十五日。

……外国の公使たちは、会議で、私たちと、相変わらず同じ関係にあります。ウェリントン公が提案し、支持するものは、いつも採用されます。少なくともベルギーの運命が決まるまでは、公を政務の先頭に保つことが、私たちにとって非常に重要だと思います。ロシアは、影響力を持つ宮廷に対する、私たちのあらゆる働きかけを、妨げようとしていることを、認めなければならないからです。そのため、マトゥシェヴィチ氏の発言も、少し変わっています。リーヴェン氏は、数日後に着きます。カニング氏の内閣以来、公から離れていたリーヴェン夫人は、再び近づこうとしています。

ブルーム氏の提案を採決する会合で、多数を得るか、少数となるかは、非常に重要に思えます。会合のすぐあとに、お知らせします。しかし、おそらく、ロスチャイルドには、すでに使者が届いているでしょう。イギリス内閣は、いつも、ステュアート卿の公信が届く十時間か十二時間前に、氏から知らせを受けます。そうなるほかありません。ロスチャイルド家の使者が乗る船は、その家の所有で、乗客を取らず、どんな天候でも出航するからです……」

タレーラン公からヴォーデモン公妃へ[441]。

「ロンドン、一八三〇年十月十五日。

ラ・ロシュフーコー氏[442]に託して、お便りします。大いに残念ですが、私たちのもとを離れます。すばらしい若者で、性格も、判断力もよく、よいことなら、何でも願ってやりたい人です。そのため、昇進にもなるベルリンの第一書記官の職に、氏が就くことを望んでいます。しかし、行かないなら、氏がロンドンへ戻ることを、本人も私も望んでいます。

イギリス政府、とくにウェリントン公の率直さと誠実さに、私は、当地で、まったく満足しています。よい、確かなことをしようと思うなら、公と信頼し合うことは、可能であり、必要です。私たちには、それが必要です。人気があっても、なくても、それこそ必要なものです。私たちの新しい王朝を、しっかり築くからです。これは、私の確信のすべてです。それだけが、確かなものです。国王と王女様が、それを確信してくださることを、強く願います。モレのことは、気にしません。自分の利益だと感じれば、その方向に歩むからです……

昨日、田舎のジャージー夫人のもとへ行きました。あなたが、夢中になるような家があります。美しく、趣味よく飾られ、最も美しい古い品々で、いっぱいです。ウェリントン公も来ました。健康です。パリで何を言われようと、公は、いまも、これからも、主導者です。では。」

タレーラン公からヴォーデモン公妃へ[443]。

「ロンドン、一八三〇年十月十九日。

田舎から戻ったところです。当地の、よい日差しを利用し、ジャージー夫人のもとへ行きました。ウェリントン公もいました。公がロンドンにいない時は、大使がいることも必須ではありません。そのため、マトゥシェヴィチも来ていました。

ペテルブルクの承認が、ようやく届きましたね。ポッツォは、それが最初に届くほうを、好んだと思います。しかし、遅れが、私たちを害したわけではないでしょう……

モレ氏の部屋では、イギリスは、あまり流行っていないと思います。氏を大臣にしたのは、ポッツォです。もっとも、ポッツォは、私たちの政府を固めるため、影響力を有効に使うと思います。才知のある人で、ベルギーの運命を決める会議を、パリに留めたがっているでしょう。ウェリントン公は、当地で開くことを、強く望んでおり、それは正しいのです。当地の公使たちは、その影響下にあります。また公の名は、ヨーロッパでは、ポッツォやモレの名とは、違う重みがあります。したがって、うまく行かなければ、ヨーロッパを戦火に包む、この大きな問題全体を、十五日、もしかすると、もっと短い期間で終えられるでしょう。ペテルブルクの承認を決めさせたのは、イギリスだということを、認めなければなりません。なお、私に利害があるように見えるため、私は、このことに口を出しません。しかし、ステュアートは、この件で、大きく、強い真実を語れる立場にあります。氏と話してよいでしょう。

最も簡単に言えば、会議がパリで開かれるなら、主導権を握るのはポッツォです。当地なら、ウェリントン公です。公は、誰よりも、ベルギーに、よい秩序ができることに利害があります。

では。この手紙を、よく読み、焼いてください。――私の揺るがない意見は、フランスの利益のためには、この大きな問題を、当地で決めるべきだというものです。私の意見を決めるのは、その利益です。」

タレーラン公からヴォーデモン公妃へ[444]。

「ロンドン、一八三〇年十月二十二日。

親愛なる友よ、ウェリントン公は、私たちの革命を、あるべき仕方で理解しています。気の毒なシャルル十世の政府の歩みから、長く、惨事を予想していたので、驚きませんでした。今日、その意見は、シャルル十世派の意見からも、共和派の意見からも、同じほど離れています。私たちが愚かなことをせず、不可能を求めなければ、私たちの王朝を固めるため、全力で貢献するでしょう。平和も、戦争も、ここから生まれえます。私たちに対するイギリスの態度が、ヨーロッパの態度を決めるからです。ほかの場所に支えを探すのは、大きな誤りでしょう。」

タレーラン公からアデライード王女へ[445]。

「一八三〇年十月二十九日。

イギリス内閣との会話を、十分詳しく繰り返していなかったかもしれません。王女様には、ナポレオン皇帝が私に与え、十五年間、役立った原則のせいにしていただきたいと思います。皇帝は、『会話大使』――そう名づけていました――を、劣ったものとしました。その会話は、自分の政府を喜ばせたいという願いによって、多少とも作られたものであり、価値も、教えることもないと言うのです。高く評価したのは、受けた全体的な印象だけを、政府へ伝える大使でした。そして、その印象を、書き手にあると思う判断力に応じて、信じました。」

ディノ公爵夫人からアデライード王女へ[446]。

「一八三〇年十一月二日。

……国王の臨席した議会から、いま帰ったところです。王女様は、演説をお読みになるでしょう。しかし、私がお伝えしたいのは、フランス大使の馬車が現れると、万歳、歓声、そして『ルイ=フィリップよ、永遠なれ! シャルル十世はいらない!』という声が起き、貴族院からボンド・ストリートまで、続いたことです。――『タレーラン公、万歳!』も、たくさんありました。私が、三色の帽章を着けた人々と帰ると、民衆は『フランスの貴婦人だ!』と叫び、道中ずっと、挨拶し、万歳を送ってくれました。――会場にいた王家の王子たちは皆、私のところへ来て、私たちの国王、王女様、王妃の近況を尋ねました。そして、言わねばなりませんが、私たちの内閣が交代したかを、不安そうに尋ねました。国王は、タレーラン氏が座れるように、別の席を用意させていました。しかし、タレーラン氏はその好意を辞退し、外交団の席で、ずっと立っていました。

民衆の、国王への熱狂は、非常に強いものでした。国王は、今日という日に、大いに満足しているでしょう。手紙そのものより長い追伸を、王女様に、お許しいただきたいと思います。しかし、今朝の詳しい様子には、多少、関心を持っていただけるかもしれないと、考えました。」

タレーラン公からアデライード王女へ[447]。

「一八三〇年十一月十日。

今日、ロンドンは、かなり静かです。シティには、なお、ところどころに人の群れがありますが、興奮は収まっています。今朝、ウェリントン公は、国王の朝の謁見に出ていて、そこで会いました。非常に落ち着いており、数日中断していた会議を再開するよう求めると、望んだとおりに答えました。明日、二時に集まることを、提案すると思います。

一昨日、シティで宴会が開かれないと知ると、ウェルズリー侯[448]は、貴族院で、大声で言いました。『これほど大胆な臆病の行為は、聞いたことがない』。王女様には、兄弟愛より、機知に富むと思われるでしょう。

内閣の問題では、十六日より前に、目立ったことはないでしょう。野党の、あらゆる手段が動いています。公は、自らの立場に自信を持っています。ブルーム氏の動議に反対する多数を得ると、考えています。六日後、この大きな争いは決まります。私は、この会合の結果について、見通しを持ちません。誰も持っていません。意見のわからない新議員が、多数いるからです……」

タレーラン公からアデライード王女へ[449]。

「一八三〇年十一月十九日。

内閣は、明日わかります。今夜、確かと思うものは、次のとおりです。(三九六ページの一覧が続く。)

……ウェリントン公は、ヒル氏[450]が持っていた、軍の総司令官の職を引き受けるよう、求められています。この交渉をしているのは、国王自身です。グラント氏[451]には、閣僚の職があると思いますが、確かではありません。

この政権は強く、私たちに好意的でしょう。主要な閣僚とは、社交上の付き合いが多くあります。皆が、フランスで起き、必要とされた変化を、好意的に語っています。『必要とされた』というのが、彼らの使う言葉です。イギリスとフランスが、他の列強とかかわる、あらゆる事務で一致することを、望んでいます。フランスの繁栄と力を、ヨーロッパの平穏のため、必要なものと見ています。そして皆、大きな敬意をもって、国王を話題にします。今朝、フレデリック・ラム[452]も、そう言っていました。私は、氏にパリ大使になってもらいたいと思います。

すべての大使が、オラニエ公を食事に招き、公も、国王の大使である私を、先に訪れたので、私の家での食事に招くべきだと考えました。当地では、八日から十日前に招待するため、旧内閣の主要な閣僚と、おそらく明日辞任する、宮廷の有力者を招いたことになります。少し間が悪いのですが、十日前には、起きたことを、何も予想していませんでした。

……王女様が、何かお言葉をくださったのでしょう。そのため、ロンドン大使館は、以前のように、内閣に軽んじられなくなりました。この八日間に、前の二か月間に書かれたものより多くの公信、しかも、よく書かれた公信を受け取りました。王女様に感謝します……」

ブレッソン伯爵からタレーラン公へ[453]。

[私信。]

「ブリュッセル、一八三〇年十一月二十四日。

公爵殿。

今朝、ラングスドルフ氏が、私のもとへ来ました。暫定政府と国民会議に、ナッサウ家の永久除外をめぐる討議を止めるよう、強く求める命令を持参しました。

長く努力しましたが、無駄でした。百六十一票対二十八票で、いま除外が決まりました。これで、多くのことが複雑になります。

ルクセンブルク問題には、また戻ります。宣言の留保には、曖昧な意味があります。ドイツ連邦との関係を保ったまま、ベルギーが大公国を求めていると、受け取られるようです。

休戦の交渉は進んでいます。今日の出来事によって、害されるとは思いません。昨夜の会議で、主要な点、双方の休戦受諾、一八一四年の線などを、定めました。したがって、スヘルデ川の左岸全体と、リンブルフの飛び地への要求は、退けられています。争いは、十七日の議定書第二条の意味を、どこまで広く取るかと、捕虜の返還だけです。まもなく、ご報告できることを期待しています。しかし、驚くことではないのですが、オランダも、その側で、戦闘停止の実行のため、措置を取ったかどうかは、まだわかりません。そちら側に不誠実や、無益な遅さがあるなら、すべてを諦めねばなりません……

ディノ夫人の御足もとへ、そして公爵殿、あなたへ、深い親愛と、心からの感謝を捧げます。」

ブレッソン伯爵からタレーラン公へ[454]。

[私信。]

「ブリュッセル、一八三〇年十二月二日、午後十一時。

指がもう思うように動きませんが、公爵殿、今夜セバスティアニ氏に送る公信の重要な点を、お知らせしなければなりません。これは氏の十一月二十八日付の公信への返事です。その公信は、きっと公爵にも知らされているでしょう。今日ロンドンへ送る公信と添付文書の写しを、氏にも送ります。ですから、公爵から氏に転送していただく必要はありません。

『国民会議がナッサウ家をベルギーのあらゆる権力から永久に排除したのは、同家が王位について主張しうる従来の権利を取り消すためだけではありません。自由な選挙によって同家を呼び戻す権利まで、国民会議自身から奪おうとしたのです。残念ながら、国民会議は自らの決議をそのように理解し、国民にもそのように伝えました。閣下にも、このような状況で、オラニエ公の息子の一人のために、国民会議が自ら禁じようとした例外を認めさせる望みが、どれほど乏しいかは容易におわかりでしょう。ただし、この大きな一撃を加えて以来、多くの者の間で、最初の激しい興奮に代わって、不安、疑念、後悔が生じたことは、申し上げておかねばなりません。もっと早く警告が届いていれば、効き目があったでしょう。多くの者は、ここまで深入りして、後戻りできなくなったことを嘆いています。落ち着いた健全な考えに戻りつつあるこの動きを、活かせないとも限りません……

言いにくいことが一つあります。しかし、事実です。ドイツ連邦によるルクセンブルク占領が、フランスで当然かつ正当と見なされ、しかも最も危険な衝突を招かないのであれば、私たちにとって、それほど不満を言うべきことではありません。その占領が当地に引き起こす恐怖は、ヨーロッパ全体の平和のためにベルギー問題を解決するうえで、私たちを大いに助けるでしょう。とはいえ、ルクセンブルクが占領された後にも、平和は保てるのでしょうか……

……君主の選挙までは、四、五週間の余裕があると考えられます。自国人を王にするという奇妙な考えは、ほぼ捨てられています。これは閣下に保証できます。また、ナッサウ家の一員を迎えれば、物事が進めやすくなり、安全も得られることを、ベルギー人に理解させる望みをすべて捨てねばならないとしても、少なくとも、王を決選投票にかけるという愚かな計画を諦めさせ、別の人選について、あらかじめ列強の同意を求めさせることはできると、断言できます。さらに、ヴァン・ド・ヴェイエル氏が数日中にパリへ出発することを、私は確実に知っています。氏は、フランスとイギリスの利害を両立させうる案――レオポルド公とフランスの王女との組み合わせ――か、それに似た別の案を、閣下に提出するでしょう。そして閣下のお考えを伺った後、ロンドン会議に赴き、その意見を求めるでしょう。ただ、歩み始めたばかりの国民と指導者の自尊心は、常にとても傷つきやすいものです。ですから、提出された案を閣下が認めない場合、その代わりの案が、当地で閣下の案として示されるのでなく、この国自身から生まれたように見えることを、認めていただく必要があるかもしれません。しかし、大きな善のための、害のない方便です。

ヴァン・ド・ヴェイエル氏には、直接、閣下とタレーラン公を訪ねるようにいたします。氏を迷わせたくてたまらないような人々と、付き合うことのないようにするためです。』

公爵殿、以上は確かな事実であり、お知らせしておくとよいと思いました。公爵からのお便りを、心待ちにしています。公爵のおそばにいられたなら、どんなによかったでしょう。当地では、つらい時間を過ごし、力に余る仕事を抱えています。

公爵殿、心からの献身と敬意をお受け取りください。」

アデライード王女からタレーラン公へ。

「パリ、一八三〇年十二月九日。

……そちらの会議がベルギー人との交渉を遅らせ、彼らが受け入れられる提案をするのを遅らせれば、それだけ困難が増します。彼らの意向について、私たちが確かな情報として知っていることから、私はいつも心配しています。オラニエ家を排除するという、すでに十分困った宣言に続いて、もう一つ、私たちにとってさらに困り、厄介な宣言をするのではないかと。つまり、ヌムールを自分たちの王にすると宣言することです。ですから、他の列強と合意して、急いで別の人選を示さなければなりません。さもなければ、この新たな争いの種が私たちのもとにやって来ます。なおさら心配なのは、あの不幸なベルギー人が、戦争を恐れるどころか望むという、破滅につながる盲目に陥っていることです。当地にも、彼らと同じ意見を持つ、考え違いをした人々がいます。

モニトゥール紙が、モルティエ元帥のロシア大使任命を発表しています。ロシア皇帝が、これ以上強い言葉は控えますが、不機嫌な態度を取っていたため、国王はこれまで公表を拒んできました。しかし、今の状況では、閣議の全員一致の意見に従って、モニトゥール紙にこの任命を発表させ、個人として少し譲歩するべきだと考えたのです。ポッツォは大喜びです。この措置によって、いろいろなことが円滑になると考えています。とくに、皇帝ニコライが気に入るはずの人物、少なくとも、かつては信頼し、尊重していた人物を、特使として送るという提案も、皇帝にする予定ですから。私が誰のことを言っているか、おわかりでしょう[455]。

十二月十二日[456]。

ディノ夫人が出発を遅らせたため、この手紙をそのままにしていましたが、また書き始めます。その間に、ワルシャワで革命が起きたという、なんという大きな知らせでしょう。ロンドンであなたがどうお考えなのか、早く知りたいものです。長い間、犠牲にされてきた気の毒なポーランド人に、私は心を寄せています。彼らが打ちのめされてしまうのではないかと心配です。しかし、この運動の先頭に立つ人々の名を見ると、ある程度の力を持っているのではないかと、期待もしています。私たちにとっては、これで確かに時間ができます。

ああ、プロイセンとオーストリアが、自分たちの利益をきちんと理解してくれれば、イギリスと私たちは、この不幸なポーランドのために、もっと耐えやすく、穏やかな体制を得られるでしょう。どんなにすばらしいことでしょう。当地では、ポーランドへの同情が、とても強く、広く行き渡っています。

列強は今、神聖同盟がまいた種を刈り取っています。そのことを見ようとせず、自らを保つためには方針を変えねばならないと気づかないなら、ヨーロッパが炎に包まれるのを見ることになるのではないかと、私は大いに心配しています。結局、変えることを強いられるのですから、先手を打ったほうがよいのです。ですが、私たちが目にしていることから、どうして列強がそうしてくれると期待できるでしょう。それでも私は、イギリスとあなたには、大きな期待を寄せています。

ベルギーから届いた最近の手紙によると、向こうも理性的で分別のある態度になり、交渉に入り、可能なことを受け入れる気持ちが強くなっているようです……

……手紙はここまでにします。私が書かないことは、すべてディノ夫人がお話しするでしょう。閣僚たちのリュクサンブールへの移送は、とても静かに行われました。また今日、百人ほどの若者などが、バンジャマン・コンスタンの葬列の秩序を乱そうとする、小さな騒ぎを起こしました。タンプルを出るところで、パンテオンに運べと叫んだのです。国民衛兵は見事に対処し、民衆はまったく加わらず、騒ぎはすぐに抑えられました。彼らを黙らせ、遺体は何の混乱もなく、ペール=ラシェーズ墓地に運ばれました。裁判を前に、よい出来事でした。」

タレーラン公からアデライード王女へ[457]。

「ロンドン、十二月十三日。

王女様から国王に、グレイ卿とパーマストン卿が、ザクセン=コーブルクのレオポルド公のもとへ、クレアモントで二日間を過ごしに行ったことを、お伝えいただきたいと存じます。休養のためとされるこの小旅行で、ベルギーの将来の君主について話し合われることは、疑いないようです。この問題と、そこから直接生じることには、国王としてのご配慮と、父親としての先を見通すお心遣いを向けていただく価値があります。レオポルド公は、十七日に私の家で食事をします。通常の雑談以上のことを何か話したなら、王女様に直接お手紙を書くよう勧めます。なお、レオポルド公は、今月末か来月初めにパリへ行くつもりです……

……王女様には、イギリスのフランス公使館に、国王の肖像をお送りくださいますよう、お願いしたく存じます。後には、ヴァランセのためにも、同じお願いをいたします。ただし、そのときには、王女様の肖像もお願いする勇気を、持たずにはいられません。」

タレーラン公からアデライード王女へ[458]。

「一八三〇年十二月十四日、火曜日。

今、パーマストン卿と、興味深い話をしたところです。私はこう言いました。『休戦はまもなく成立します。ベルギーの君主という大きな問題に取りかかる時が来たように思います。』卿は、進んで話し合おうとし、かなり準備もできている様子でした。多くの名前が挙がりました。ヴュルテンベルクのパウル公など、検討にすら入らなかったものもあります。――『カール大公は、お望みでないのですか。』私は、大公はロイヒテンベルク公とともに、私の除外する候補に入っており、もう少し突っ込んで聞かれれば、メロード氏も除外すると言いました。そして、次のことを伝えねばなりませんでした。『ベルギー人は、ヌムール公のことを盛んに考えています。しかし、国王はこの提案をやめさせようとしています。うまくいくかわかりませんが、私はそうなることを願っています。いずれにせよ、国王は奇妙な立場に置かれています。他の人々が何かを得るために尽くす意志と技巧を、国王はすべて、断るために使わねばならないのです。』――『ヌムール公を列強に認めさせるのは難しいでしょう』と、パーマストン卿は言いました。『しかし、婚姻によって、皆を安心させられる別の人を探しましょう。』――『私が皆と言うときは、あなたがたと私たちのことです』と、私は答えました。話はこうして、私たちの王女の一人と結婚するレオポルド公という案に、だいぶ近づいていきました。そして、その名前は、パーマストン卿の口から出ました。私は、その考えが今まで浮かんだことなどないように、少し驚いてみせました。ただ、その驚きには、幸運な発見をした様子も、少し混じっていたでしょう。私は、この会話のすべてを今日パリに書き送り、近いうちに話し合いを再開すると、言わねばなりませんでした。

今のところ、事情は以上のとおりです。フランスの王女と結婚するレオポルド公にベルギーを与えることは、イギリス人にとって、実現可能な取り決めと映るようです。この考えをお気に召したなら、会議での提案はパーマストン卿にさせるべきだと思います。私が、卿にその提案をさせる役目を引き受けます。別のお考えなら、ご指示ください。最もご意向にかなうことが、行われるだろうと思います……」

ブレッソン氏からタレーラン公へ[459]。[訳注17]

[私信。]

「ブリュッセル、一八三〇年十二月二十五日、深夜。

公爵殿。

十二月二十日の議定書がパリに届いたとき、ヴァン・ド・ヴェイエル氏は、そこにいました。セバスティアニ伯爵が、氏にそれを知らせました。氏はすぐに恐れを抱き、大急ぎで当地へ戻ってきました。すべてが失われたと思い込んだのです。ルクセンブルクについて話をしたなら、私たちは何も話していなかったことになる、と、氏はパリでも述べたのです。しかし、セバスティアニ伯爵は、ロンドン会議が原則として独立を宣言したことを、国民会議に知らせる許可を氏に与えました。氏は明日、それを告げるはずです。その後、すぐに、十分な権限を持って、公爵を訪ねるため出発するでしょう。この一切に、私たちは表立ってかかわりません。この国の問題を片づけなければなりません、公爵殿。ほんの小さな出来事によって、いつ何時、私たちの手を離れ、破滅的な決議に走るかわかりません。[訳注18]

パリで、ヴァン・ド・ヴェイエル氏は、君主の人選の問題を持ち出しました。氏はヌムール公を求めました。レオポルド公については、何も知らされませんでした。ナポリの王子か、バイエルンの王子が受け入れられるかどうか、探ろうとしました。合意したことは、何もありません。誰でもよいから、早く彼らに与えてください。一刻も失えません。彼らは、困難が起こるたびに、そこから抜け出す最も有力な手段として、三色の記章をつけると言うのです。ルクセンブルクがなければ、この国の領土はあまりに不完全なものになります。今の立場にとどまり、隣国に身を委ねる気を持ち続けないようにしたいなら、耐えられる境遇を与えなければなりません。

セバスティアニ氏は今日、はっきりと私に書いてきました。オランダ王が自ら進んで封鎖を解かないなら、フランスが武力で解かせる役目を引き受ける、と。それはよいでしょう。しかし、そこまで事態が進むなら、この強制措置の実行に、イギリスも半分の責任を持って加わることが望まれます。私たちだけで引き受けるのは危険です。今夜、使いを送って、ラ・ロシュフーコー氏[460]に大臣の公信を届けます。国王の政府のこの意向を、オランダ政府に知らせるよう命じるものです。おそらくウィレム王は、このような極端な状況にまで、事を進めたかったのでしょう。

公爵殿、二十五日付の二通のお手紙の後に、私にお送りくださった十六日付のお手紙を受け取りました。公爵がお望みなので、諦めてとどまることにします。しかし、目標まではまだ遠く、長い間、公爵にお目にかかれないでしょう……

……公爵殿、最も深い敬意を込めた献身の思いを、お受け取りください。」

タレーラン公からアデライード王女へ[461]。

「一八三〇年十二月二十六日。

当地では、この忘れがたい一週間を、パリの状態についての恐ろしい不安のうちに過ごしました[462]。とりわけ私は、一瞬たりともパレ・ロワイヤルから心を離すことができませんでした。そのため、王女様にお知らせする新しいことは、何もありません。ただ、これほど重く、つらいものが、私の心に迫ったことはなかったと、申し上げなければなりません。国王の英知は、この経験を政府の力に結びつけるでしょう。この危機によって、国王は、ご自身の政府の真の友と偽りの友を知ったことでしょう。その点で、危機は国王に、計り知れない働きをしたのです。私は、一昨日ほど国王に仕える者であることを強く感じたことはなく、今日ほど、国王の代表であることを誇りに思ったこともありません。王女様には、私の敬意を国王にお受け入れいただけますよう、お願い申し上げます。そして王女様ご自身も、私の親愛と敬意を込めたご挨拶と、幸多い新年への祈りを、お受け取りください。」[訳注19]

第十部および第三巻終わり

原注

注 1

[1] 異文:「知らせたいと望み」。

注 2

[2] 異文:「その案を示した」。

注 3

[3] 異文:「いっそう荘厳なものにする」。

注 4

[4] カスルレー卿とスチュアート卿。

編者注 5

[5] 国王の手紙のこの箇所は、メッテルニヒ公が、ミュラの妻であるナポリ王妃カロリーヌに抱いていたとされる、愛情を指していると推測できる。その愛情のために、公は、ミュラに反対し、ナポリ王国でのブルボン家の復位を支持する態度を、取れなかったのである。(バクール氏の注。)

注 6

[6] 異文:「……そして、それこそ、われわれにとって最も重要な原則だった」。

注 7

[7] この追伸は、文書館に保存された本文には、ない。

注 8

[8] シャルル=フランソワ・ド・リファルドー、リヴィエール侯爵、のちに公爵。一七六三年生まれ。十七歳でフランス衛兵隊に入り、一七八九年に亡命した。アルトワ伯爵の副官となり、伯爵から、ブルターニュやヴァンデにおける、いくつもの任務を与えられた。一八〇四年、ピシュグリュとともにフランスへ戻り、逮捕され、軍事法廷で裁かれて、死刑を宣告された。皇后とミュラの仲介によって赦免されたのち、まずジュー要塞に収監され、その後、流刑を宣告された。一八一五年、ルイ十八世によって、陸軍少将およびコンスタンティノープル大使に任じられたが、皇帝の帰還によって、出発を妨げられた。第二次王政復古の際には、フランス貴族院議員とコルシカの司令官に任命され、その後、再び、オスマン政府駐在大使に指名された。一八二〇年に召還され、一八二五年に世襲公爵となり、一八二六年には、ボルドー公の養育係となった。一八二八年に死去。

注 9

[9] スウェーデンがフィンランドをロシアへ割譲した、フレドリクスハムン条約(一八一〇年九月十七日)。

注 10

[10] 文書館に保存された本文では、この箇所が削られている。

注 11

[11] グスタフ四世は、一八〇九年に退位を強いられた際、息子の王位継承権まで放棄することを拒んだ。一八一四年、ベルナドットの簒奪に抗議する文書を会議へ送り、息子のためにスウェーデンの王位を要求したが、聞き入れられなかった。ヴァーサ公の名で知られる息子は、オーストリアに仕え、陸軍元帥となった。

注 12

[12] 異文:「さまざまな」。

注 13

[13] 異文:「手放したがっていたもの」。

注 14

[14] 文書館に所蔵されている本文では、削除されている。

注 15

[15] 異文:「ブオナパルテ」(Buonaparte)。

注 16

[16] アントワーヌ=フランソワ・アンドレオシ伯爵。一七六一年生まれ。一七八九年には砲兵中尉で、一七九七年に陸軍少将となった。ボナパルトに同行してエジプトへ渡り、一七九九年に、ともに帰国した。ブリュメール十八日に、ボナパルトを助け、まもなく砲兵総監となった。一八〇二年にはロンドンの大使となり、続いてウィーン、一八〇九年にはコンスタンティノープルへ赴任した。一八一四年に召還された。一八一五年には、外国軍のもとへ派遣された委員の一人となった。第二次王政復古の後、公職から退き、一八二八年に没した。

注 17

[17] 一月三十日付の『モニトゥール』を参照。

注 18

[18] 文書館に所蔵されている本文では、削除されている。

注 19

[19] ジギスムント・ノイコム。ドイツの作曲家。一七七八年、ザルツブルク生まれ。ハイドンの弟子だった。一八〇四年、ペテルブルクへ行き、帝国劇場の音楽監督に任命された。その後、ウィーンを経て、一八〇九年にパリへ来た。そのとき、タレーラン氏に紹介され、その交友の輪に加えられた。一八一四年まで、公の邸宅に住んだ。公に同行してウィーンへ行き、一月二十一日、同市の聖シュテファン教会で、この日のために作曲したレクイエムを、三百人の歌手によって演奏させた。一八一六年、リオ・デ・ジャネイロへ公使として赴任することになった、ルクセンブルク公に同行した。パリへ戻ると、再びタレーラン公のそばに身を置き、一八三〇年には、公に従ってロンドンへ渡った。一八五七年没。

注 20

[20] アントニオ・サリエリ。有名なイタリアの作曲家。一七五〇年生まれ。一七六六年、帝国宮廷楽長ガスマンとともに、ウィーンへ来た。一七七五年に、その後任となった。サリエリは、幾度かパリを訪れ、いくつかのオペラを上演して、大きな成功を収めた。一七八九年、ウィーンへ戻り、それ以後は、もっぱら教会音楽に取り組んだ。一八二五年没。

注 21

[21] ジャン=バティスト・イザベー。一七六七年、ナンシー生まれ。早くから、画家として名を成した。ダヴィッドのもとで学び、宮廷へ紹介され、アングレーム公とベリー公の肖像を描いた。恐怖政治の期間中も、パリに住んでいた。後にボナパルトと親しくなり、その全身像を描いた。ボナパルトは、テュイルリー宮廷の祝典の装飾、さらには儀式の進行まで、彼に指揮させた。一八一四年、ウィーンへ行き、会議に参加したすべての人物が、ある協議の後に集まった姿を描いた、有名な絵を制作した。一八五五年まで生きた。

注 22

[22] ルーアン氏。フランスの外交官。一八一三年、ワイマールの公使館付き職員として、外交官生活を始めた。タレーラン氏に従ってウィーンへ行き、一八一六年にトリノの書記官となった。その後、一八二八年にギリシャの総領事、一八三六年にリオ・デ・ジャネイロの公使となった。

注 23

[23] フォルモン氏は、一八一四年に外務省で働いていた。ウィーンのフランス大使館付きとなり、後にリヴォルノの総領事となった。

注 24

[24] サン=マルス氏は、外務省の翻訳官で、その資格で、フランス大使館に配属された。その後も、第一書記官として、ウィーンに残った。

注 25

[25] 異文:「追伸――ポッツォ将軍の出発は、二十四日火曜日に決まったようです。」

注 26

[26] イギリスとポルトガルの間の、友好・通商・航海条約。一八一〇年二月十九日、リオ・デ・ジャネイロで署名された。イギリスが押し付けた、この条約には、重い負担となる条件が定められていた。とりわけ、当時ポルトガルの植民地だった、ブラジルの通商に関する条件が、そうであった。

注 27

[27] 二月二日付の『モニトゥール』を参照。

注 28

[28] 同じく、二月二日付の『モニトゥール』を参照。

注 29

[29] 異文:「草案」。

注 30

[30] 異文:「最初の」。

注 31

[31] 異文:「これほど微妙で、これほど重大な」。

注 32

[32] 異文:「ブオナパルテ」(Buonaparte)。

注 33

[33] 文書館に所蔵されている本文では、削除されている。

注 34

[34] 文書館に所蔵されている本文では、削除されている。

注 35

[35] 文書館に所蔵されている本文では、削除されている。

注 36

[36] 異文:「ブオナパルテ」(Buonaparte)。

注 37

[37] ホルシュタインは、かつて、シャウエンブルク家に属していた。同家が一四五九年に断絶すると、諸身分は、亡くなったばかりの最後のホルシュタイン=シャウエンブルク伯爵の甥、クリスティアン・フォン・オルデンブルクを、伯爵に選んだ。クリスティアンは、同じく断絶した、旧デンマーク王家のヴァルデマール家に、女系で連なる人物として、一四四八年に、デンマーク王に選ばれていた。クリスティアン一世の孫たちは、一五四四年に、ホルシュタインを分割した。これによって、二つの系統が生まれた。長系、すなわち王家の系統は、一八六三年まで、直系でデンマークを統治した。弟系、すなわち公家の系統は、さらに、ホルシュタイン=ゴットルプ家と、ホルシュタイン=ゴットルプ=オイリン家の、二つに分かれた。前者は、一七六二年に、ピョートル三世によって、ロシアの皇位に上った。彼は、ホルシュタイン=ゴットルプ公カール=フリードリヒと、ピョートル大帝の娘アンナの子であった。後者の系統からは、一七一〇年に、ホルシュタイン=ゴットルプ=オイリン公アドルフ=フリードリヒが生まれた。一七四三年、オーボの講和に際し、ロシア皇帝エリザヴェータは、デンマーク王太子の代わりに、彼を、スウェーデン王として押し付けた。――したがって、デンマーク、スウェーデン、ロシアの君主の家は、同じ根から出ていたのである。他方、皇帝ピョートル三世の知的な衰弱が、どれほど痛ましいものであり、その子、皇帝パーヴェルの精神状態が、どれほど不安定であったかは、よく知られている。デンマーク王クリスティアン七世は、一七七二年に、精神に異常を来した。同じように、ホルシュタイン=オルデンブルク公も、統治の能力を失い、いとこのリューベック公が、その役を代わった。ただし、タレーラン氏の述べるところにもかかわらず、スウェーデン王グスタフ四世が、ホルシュタイン家の、この不調を、同じ程度に受け継いでいたようには、見えない。[訳注20]

注 38

[38] この段落全体は、文書館に所蔵されている本文には、ない。

注 39

[39] パーヴェル皇帝には、六人の娘があったことを、思い起こしておこう。幼くして亡くなったオリガ。一七八三年生まれで、皇帝フランツの弟、オーストリア大公ヨーゼフ=アントンに嫁いだ、アレクサンドラ。一七八四年生まれで、メクレンブルク=シュヴェリーンの世子フリードリヒ=ルートヴィヒに嫁いだ、エレーナ。一七八六年生まれで、一八〇四年に、ザクセン=ワイマールの世子カール=フリードリヒに嫁いだ、マリア。一七八八年生まれで、一八〇九年に、ホルシュタイン=オルデンブルクの世子パウル=フリードリヒ=アウグストに嫁いだ、エカテリーナ。そして、一七九五年生まれで、ここで話題になっている、アンナである。

注 40

[40] マリー=カロリーヌ=テレーズ・ド・ブルボン。一七九八年生まれ。両シチリア王国の王太子フランチェスコと、オーストリア大公女マリー=クレマンティーヌの娘。一八一六年にベリー公と結婚したが、公は、四年後に没した。一八二〇年九月二十九日、ボルドー公を産んだ。一八三二年、息子のために、反乱を起こそうとしたことは、よく知られている。同年十一月七日に逮捕され、ブライ城に幽閉された。翌年、シチリアへ送り返され、一八七〇年に没した。

注 41

[41] ウェリントンは、実際、一月二十四日に、会議への大使に任命されたばかりだった。

注 42

[42] 異文:「総人口」。

注 43

[43] オーギュスト=ジュール・ド・ポリニャック伯爵、後の公。一七八〇年生まれ。第一次王政復古に際して、陸軍少将、トゥールーズの特命委員、教皇庁駐在公使に任命された。一八一五年四月十七日、フランス貴族院議員に任命された。一八二〇年、教皇から、ローマ公の称号を授けられた。一八二三年にはロンドンの大使、一八二九年には外務大臣、また、内閣の首班となった。シャルル十世の出国後、国王と別れていたポリニャック公は、八月十五日にグランヴィルで逮捕され、ヴァンセンヌへ送られた。貴族院は、終身拘禁と、民事上の権利を失う『民事死』を宣告した。一八三六年に恩赦を受け、イギリスへ退いた。その後、パリへ戻り、一八四七年に没した。

注 44

[44] 文書館に所蔵されている本文では、削除されている。

注 45

[45] 文書館に所蔵されている本文では、削除されている。

注 46

[46] ロバート・ジェンキンソン、リヴァプール伯爵。一七七〇年生まれ。一七九〇年、下院議員に選ばれ、その後、インド統治局の委員、造幣局長、枢密院議員となった。一八〇一年、アディントン内閣で、外務大臣となり、一八〇四年には、ピット内閣で、内務大臣となった。一八〇八年まで、この職を保ち、その後、陸軍省へ移った。最後に、一八一二年、第一大蔵卿となった。一八二七年まで政権を率い、翌年、没した。

注 47

[47] 異文:「後退しすぎない」。

注 48

[48] 異文:「結び付いている」。

編者注 49

[49] 会議の全権代表の一人、アレクシ・ド・ノアイユ伯爵のこと。伯爵は、一月二十一日の聖シュテファン教会の式で、説教者が読み上げた演説を書いた。(バクール氏の注。)

注 50

[50] ロアン=ゲメネ公、モンバゾンおよびブイヨン公爵、シャルル=アラン=ガブリエルは、一七六四年に生まれた。一七九一年に亡命して、オーストリア軍に入り、陸軍中将の階級を得た。一八一四年には、フランスの貴族院議員に任じられた。ウィーン会議は、ブイヨン公国に対する彼の主権を認めたが、イギリスの海軍提督、フィリップ・ドーヴェルニュが、これに異議を唱えた。会議が上級の仲裁に付したこの事件は、ロアン公に有利に決着した。仲裁人たちは、公国をオランダ王に割譲したことについて、ロアン公が同王から補償を受ける権利を認めた。しかし、リエージュの裁判所が、この決定を破棄した。ロアン公は、一八三六年に死去した。

編者注 51

[51] 女優のロクール嬢の葬儀に際し、サン=ロック教会で騒ぎが起こり、一種の暴動となった。(バクール氏の注。)

注 52

[52] 別の読みでは、m'en a(「そのことについて私に」)。

注 53

[53] 別の読みでは、四か月。

注 54

[54] シャルル=ギヨーム・ド・グロルマンは、一七七七年、ベルリンに生まれた。一七九五年に入隊し、一八〇六年と一八〇七年の戦役には、下級の階級で参加した。一八〇九年には、オーストリア軍に入り、カール大公の参謀部に配属された。フランスを激しく敵視し、講和後にオーストリアを離れてスペインへ渡り、カディスの政務評議会が組織したばかりの外国人部隊で、指揮官の職を得た。バレンシアの降伏に含まれたため、捕虜となり、ボーヌに収容された。脱出に成功し、プロイセンへ帰り、プロイセン軍の参謀部に復帰した。講和後、将官となって、ウィーン会議へ派遣された。一八一五年の戦役にも参加した。のちには行政の重要な職務を務め、各種の指揮官職を得た。一八四三年に死去した。

注 55

[55] 一方をオランダ、他方をイギリス、オーストリア、プロイセン、ロシアとして結ばれた、一八一五年五月三十一日の条約を参照。この条約は、会議の決定に沿って、新しい王国を最終的に成立させた。

注 56

[56] オーストリア大公フェルディナント(一七六九〜一八二四年)。皇帝レオポルトの息子。一七九一年にトスカーナ大公となり、一七九九年に領国を失った。一八〇三年にザルツブルク選帝侯、一八〇五年にヴュルツブルク大公となり、一八一四年にトスカーナの領国へ復帰した。

注 57

[57] スペイン王フェリペ二世が、シエナとその領土をフィレンツェ人に渡した際、自分のために残しておいた、トスカーナ沿岸の一部を、この名で呼んだ。この海岸は、オンブローネ川の河口から、教皇領の国境まで広がっていた。一八〇一年にフランスへ割譲され、フランスは、エトルリア王に与えた。一八一四年には、トスカーナに残った。

注 58

[58] 別の読みでは、「この方策」。

注 59

[59] 別の読みでは、portée(「高まる」)。

注 60

[60] 別の読みでは、「別の方向」。

注 61

[61] 一八一四年一月十一日の条約によって、オーストリアは、ミュラにナポリの王位を保障していた。イギリスも、この条約を承認していたことを、思い出されたい。

注 62

[62] 別の読みでは、「私たちの」。

注 63

[63] 別の読みでは、「……パリで彼にお話しくださるよう」。

注 64

[64] 別の読みでは、sans que(「……しなければ」)。

注 65

[65] オーストリアとナポリが、一八一四年一月十一日に署名した、公表された同盟条約には、いくつかの秘密条項が付いていた。その要旨は、次のとおりである。

オーストリア皇帝は、ジョアシャン・ナポレオン国王陛下とその子孫のため、シチリア国王陛下が、自身およびすべての後継者に代わり、ナポリ王国に対する一切の要求を、永久に正式に放棄する文書を、得ることを約束する。この放棄は、オーストリア皇帝陛下によって、ナポリ国王陛下に対し、承認され、保障される。また、皇帝陛下は、ほかの同盟諸国からも、同様の承認と保障を得るよう働きかける。

これに対し、ナポリ王は、フェルディナンド王にシチリアを保障し、補償金を支払うことを約束していた(第一条)。

さらに、オーストリア皇帝は、ナポリ王に、北方の軍事上有利な国境を保障していた(第四条)。追加条項では、ローマ領から人口四十万人分を取り、領土を拡張することを約束していた。

注 66

[66] 別の読みでは、sur la(「……についての」)。

注 67

[67] 別の読みでは、faire(「作る」)。

注 68

[68] ヴァルテリーナは、かつて帝国の封土であり、以前、クールの司教たちに与えられた。司教たちは、一五三〇年にグラウビュンデンへ譲り、グラウビュンデンは、長くスペインからこの土地を守らなければならなかった。ナポレオンは、この地方をイタリア王国に併合し、アッダ県とした。一八一四年にはオーストリアへ与えられ、オーストリアは、一八五九年、ロンバルディアとともに、ピエモンテへ譲った。

注 69

[69] ここには誤りがある。ここで言われている、ポズナン大公国の総督、アントワーヌ=アンリ・ド・ラジヴィウ公は、一七九六年に、プロイセン公フェルディナントの娘で、フリードリヒ=ヴィルヘルム一世の孫に当たる、フレデリック=ドロテ=ルイーズ公女と結婚した。したがって、婚姻によって、フリードリヒ=ヴィルヘルム三世の、はとこに当たる関係となったのである。

注 70

[70] 別の読みでは、「……しかし、私も同時に断られました」。

注 71

[71] 文書館所蔵の本文では、削除されている。

注 72

[72] 別の読みでは、「……あなたがお話しくださった」。

注 73

[73] 別の読みでは、「……しかし、私は、……と申し上げなければなりません」。

注 74

[74] 別の読みでは、「……と思わなければならない人々」。

編者注 75

[75] この最後の数文は、皇帝ナポレオンについてのものである。フランス政府は、一八一四年四月十一日の条約によって、ナポレオンに渡すと約束した金額を、支払わせていなかった。(バクール氏の注。)

注 76

[76] 別の読みでは、「……と、付け加えました」。

注 77

[77] 別の読みでは、「……皇帝は冷淡でした」。

注 78

[78] 別の読みでは、「あらためて話が出ました」。

注 79

[79] 別の読みでは、「ウィーンでの……」。

注 80

[80] 一八一五年二月六日と十日の『モニトゥール』は、ケーニヒシュタイン要塞の消息を伝えている。国王がほのめかしているのは、おそらく、二月十日付で、次のように報じられた出来事である。

ボヘミアの国境から三リューにあるケーニヒシュタイン要塞は、今、七年戦争中と同じほど重要な役割を果たしている。ボナパルトの軍が、なおこの地域を占領していたころから、同盟の大国は、すでにその中立を認めていた。その時、チェシャウ将軍は、名誉を危うくする、提示された提案を避けるため、司令官の職を辞した。

注 81

[81] 別の読みでは、「構成しています」。

注 82

[82] 軍事行動を調整するための秘密協定。公表されていない。――一八一三年の交渉について、注目すべきことがある。オーストリアは、フランスと同盟条約で結ばれ、プラハ会議(一八一三年七月〜八月)まで、好意的な中立を装っていたが、実際には、三月から、秘密裏にヨーロッパの連合に加わっていたのである。

注 83

[83] カリシュ条約と呼ばれる条約は、二十六日ではなく、二月二十七日に、ブレスラウでハルデンベルク氏が、二十八日に、カリシュでクトゥーゾフ公が署名した。

注 84

[84] 別の読みでは、「……見せることができるように」。

注 85

[85] カンポ・キアーロ公のこと。初めはナポリ軍の将校であり、その後、ジョゼフ王のもとで、国務顧問、王室大臣を務め、最後に、ミュラのもとで警察大臣となった。何度か外交上の使節を任された。一八一四年にウィーンへ派遣されたが、承認されなかった。王政復古後は政務から退けられ、一八二〇年、一時、外務大臣となったが、間もなく辞任しなければならなかった。

注 86

[86] 文書館所蔵の本文では、削除されている。

注 87

[87] 別の読みでは、「渡されなかった」。

注 88

[88] メッテルニヒ氏の秘密めいた振る舞いの説明は、次のとおりである。二月半ばごろ、会議はパルマの問題について合意していた。この公国は、以前の王朝に戻るはずだった。マリー=ルイーズはルッカ公国を受け取り、それは、彼女の死後、トスカーナに併合されるはずだった。しかし、皇后はルッカを断固として拒み、パルマを要求した。メッテルニヒは、その意向に従わなければならなかった。そこで、パルマを皇后に与え、エトルリア王妃には、ルッカと年金で補償することに決めた。しかし、正統性の問題で、個人的な立場からも、粘り強い毅然さを示さなければならないタレーランが、激しく抵抗すると予想し、ルイ十八世へ直接働きかけるほうを選んだ。ロンドンへ帰るカスルレー卿は、パリを通る際、この交渉を引き受けることに同意した。メッテルニヒ氏が、イギリスの大臣の働きかける時間を作るため、数日の猶予を求めたのは、そのためである。(カスルレー卿との会見について、国王が三月三日の手紙で述べていることを参照。)

注 89

[89] この手紙は、パラン氏の集成には収められていない。

編者注 90

[90] ルイーズ=ジュリー=コンスタンス・ド・ロアン=モントーバン。一七三四年三月五日に生まれ、一七四八年十月三日、ランベスク公、ブリオンヌ伯爵、ルイ=シャルル・ド・ロレーヌと結婚した。一七六一年六月二十八日に夫を失い、一八一五年三月二十九日、プレスブルクで死去した。タレーラン氏がパリの社交界に出たころ、夫人は彼を迎え入れた。タレーラン氏は、夫人の死まで、このうえなく深い親愛を保ち続けた。(バクール氏の注。)

注 91

[91] 別の読みでは、「……カスルレー卿が、いつ到着するかと待っていたためであり、また、いつものように、痛風の初めに熱が出て、口述するのに、あまり適さなかったためである」。

編者注 92

[92] 国王は、ここで誤りを述べている。国王自身が手で書いた手紙の草稿は、すべて、パリの外務省文書館にある。(バクール氏の注。)

注 93

[93] 別の読みでは、「……卿は合意していた」。

注 94

[94] 別の読みでは、「その趣旨は……」。

注 95

[95] 別の読みでは、「しかし、卿は私に言った。南イタリアについて譲る以上、オーストリアは、北部について、陛下からも同じ譲歩を期待し、パルマ、ピアチェンツァ、グアスタッラが、マリー=ルイーズ大公女のものとなり、ブルボン家の三つの宮廷が、エトルリア王妃への補償を引き受けることを、望んでいる」。

注 96

[96] 別の読みでは、arrivée(「入った」)。

注 97

[97] パルマ公国は、一五四七年以来、ファルネーゼ家に属していた。男系は、一七三一年に絶えた。最後の公爵の姪エリザベッタは、スペイン王フェリペ五世、すなわち最初のブルボン家の王と結婚し、この公国を、息子のドン・カルロスに与えさせた。四国同盟の条約(一七一八年)、フランスとオーストリアの間のウィーン条約(一七二五年)、フランスとイギリスの間のセビリア条約(一七二九年)が、息子の領有を保障した。カルロス公がナポリ王位に就くと、パルマ公国はオーストリアへ移った(ウィーン条約、一七三六年)。アーヘン条約(一七四八年)は、公国を、フェリペ五世とエリザベッタ・ファルネーゼの第二の息子、ドン・フィリッポへ返還した。このようにして、パルマ公国は、最終的にブルボン家に入った。

注 98

[98] 別の読みでは、「……これは、……とは何の共通点もない」。

注 99

[99] 別の読みでは、「……私の一族の一つの分家から、財産を取り上げること」。

注 100

[100] 別の読みでは、「卿は、まったく反対ではないようだった」。

注 101

[101] 別の読みでは、「……よりも、オーストリアに、いっそう関わる」。

注 102

[102] 別の読みでは、「私たちは、それぞれ自分の立場を保って別れたが、私は……と思う」。

注 103

[103] 別の読みでは、「……しかし、男爵は、私個人への、この最初の打診が行われた後、メッテルニヒ氏は、交渉がウィーンで続くことを望んでいる、と私に言った」。

注 104

[104] 別の読みでは、「そこに困難はないと思ったので」。

注 105

[105] 別の読みでは、「二つの文書の写し」。

注 106

[106] 別の読みでは、「覚書」。

注 107

[107] 別の読みでは、「そなたの会話について、手短に言っておこう」。

注 108

[108] 別の読みでは、「さらに忘れてはならない」。

注 109

[109] 別の読みでは、considère(「考える」)。

注 110

[110] ザクセン=テシェン公アルベルトは、ザクセン選帝侯でポーランド王でもあったアウグスト二世の息子であり、したがって、ルイ十八世と、フリードリヒ=アウグスト王の叔父に当たる。一七三八年に生まれ、一七六六年、皇帝フランツ一世の娘、マリア=クリスティーナ大公女と結婚した。ネーデルラント総督に任じられ、一七九二年には、その地のオーストリア軍を指揮し、リールを包囲した。陸軍元帥となり、一八二二年に死去した。

注 111

[111] 別の読みでは、pouvait(「できた」)。

注 112

[112] 一八〇三年の調停法は、スイスの連邦議会が、フリブール、ベルン、ゾロトゥルン、バーゼル、チューリヒ、ルツェルンで、順番に開かれることを定めた。これらの都市を州都とする州が、一年間、主宰州となった。主宰州の首長または市長は、自動的に、一年間、スイスのランダマンとなった。その務めは、連邦の印章を保管することであった。外国の公使は、この人物に対して、信任状を提出した。また、ほかの州に対する最高警察権と、軍隊を要求する権利を持っていた。ラ・アルプは、ベルンから、順番に主宰州となる権利を、取り上げようとしていた。

注 113

[113] ラ・アルプ氏が、アレクサンドル皇帝の家庭教師だったことを、思い出されたい。

注 114

[114] 別の読みでは、「求められていることは」。

注 115

[115] 別の読みでは、「しかし、表明した」。

注 116

[116] マリー=ジョゼフィーヌ・ド・リヒテンシュタイン。一七六八年に生まれ、一七八三年、オーストリアの砲兵大将、ニコラ・エステルハージ・ド・ガランタ公と結婚した。

注 117

[117] 別の読みでは、pas(「話さなかった」)。

注 118

[118] ビアンキ(一七六八〜一八五五年)は、一八一五年には、陸軍中将であった。一八一三年には、ライプツィヒでオーストリアの一軍団を指揮し、一八一四年には、リヨンへ進攻する部隊の指揮を任された。一八一五年、ミュラに対する戦役を指揮し、ナポリを占領した。一八一五年に、ガリツィア総督となった。

注 119

[119] ラデツキー将軍は、一七六六年に生まれ、一七八八年に軍に入り、一八一四年には、シュヴァルツェンベルク公の参謀長であった。一八三一年、ロンバルディアのオーストリア軍の指揮を任され、長くこの地方にとどまり、一八四八〜一八四九年の反乱を鎮圧しなければならなかった。一八五七年に退役し、その翌年に死去した。一八三六年から、陸軍元帥であった。

注 120

[120] アントロドッコ公、フリモン伯爵、ジャン=フィリップは、一七五六年、ベルギーに生まれ、フランスの家系に属していた。初めはフランスで軍務に就き、一七九一年に亡命して、コンデ軍に加わった。その後、オーストリアに仕え、陸軍中将となった。一八一二年には、大陸軍を助けるオーストリアの軍団を指揮した。その後、一八一三年と一八一四年の戦役に参加し、一八一八年まで、フランスの占領軍を指揮した。一八二一年には、ナポリ王国の反乱を鎮圧する任務を与えられた。一八三一年に死去した。

注 121

[121] ジェローム・コロレド伯爵。皇帝レオポルト二世の大臣の第二の息子。一七七五年に生まれ、一八一三年に、特に目覚ましい働きをした。ドレスデンでオーストリアの一軍団を指揮し、クルムで勝利を収めた。戦後、砲兵大将、ボヘミア総司令官となった。

注 122

[122] 別の読みでは、「ブオナパルテ」(Buonaparte)。

注 123

[123] 知らせは、三月六日にウィーンへ届いた。公表されたのは、三月十一日だった。

注 124

[124] ウェストモーランド伯爵ジョン・フェイン(一七八四〜一八五九年)。父の死(一八四一年)までは、バーガーシュ卿の名で知られていた。初めは軍に入り、シチリアとポルトガルで従軍した。一八一三年、シュヴァルツェンベルクの参謀部に配属された。一八一四年、フィレンツェ駐在の公使に任じられた。一八二二年に枢密顧問官となり、その後、ナポリ(一八二五年)、次にベルリン(一八四一年)へ、大使として派遣された。ベルリンには、一八五一年まで滞在し、最後にウィーンへ行った。一八五五年に引退した。

注 125

[125] 文書館所蔵の本文では、削除されている。

注 126

[126] 別の読みでは、vraisemblable(「ありそうな」)。

注 127

[127] 文書館所蔵の本文では、削除されている。

注 128

[128] ニコラ=ロドルフ・ド・ヴァッテヴィル。スイスの政治家。一七六〇年に生まれ、一七九五年に大評議会議員、一八〇二年にパリへ派遣されたスイス代表団の一員となった。一八〇四年、一八一〇年、一八一五年に、ランダマンを務めた。一八三二年に死去した。

注 129

[129] フレデリック・ド・ミュリネン。一七六〇年に生まれ、革命前から大評議会議員であった。一八〇二年、蜂起の指導者の一人となり、代表団の一員としてパリへ来た。再び大評議会に入り、首長に任じられた。のちに連邦の議長となり、一八三三年に死去した。

注 130

[130] 別の読みでは、「ブオナパルテ」(Buonaparte)。

注 131

[131] この手紙は、パラン氏の集成には収められていない。

注 132

[132] ナポレオンは、三月一日、三時にジュアン湾へ上陸し、ただちに二十五人の分遣隊を送り、海岸の砲台を確保させようとした。この小隊は、アンティーブの前に現れた。要塞司令官のキュネオ=ドルナノ大佐は、入城させた後、自分の兵士たちが興奮しているにもかかわらず、捕虜にした。アンティーブの小競り合いは、それだけのことだった。大砲は、一発も撃たれていない。

注 133

[133] ラ・ルドルト伯爵モーリス・マチューは、一七八九年には騎兵将校であり、一七九九年に陸軍中将となった。ドイツとイタリアで指揮を執り、その後、スペインへ移り、バルセロナ総督、カタルーニャ最高司令官となった。一八一九年に、フランスの貴族院議員に任じられた。マチュー将軍は、クラリー嬢と結婚しており、したがって、ジョゼフ王とベルナドットの義兄弟であった。

注 134

[134] ジョゼフは、弟の上陸を知った時、プランジャンにいた。三月十九日の夜、この城を離れ、その夜のうちに国境を越えた。「これほど早く出発したのは、賢明な判断だった。翌朝、連邦政府の委員が、兵士の小隊を伴って邸宅へ着き、身柄を拘束して、ベルンへ連れて行こうとしたからである。このように行動することで、スイスは、連邦議会に派遣された外国公使の要求に、応じたのであろう。」(『ジョゼフ王の回想録』第十巻。)

注 135

[135] 別の読みでは、「……私たちに都合がよかった」。

注 136

[136] 当時、スイス駐在のフランス大使。

注 137

[137] アレクシ=コンスタンタン・クリューデネル男爵は、一七四四年に生まれた、ロシアの外交官。初めはマドリードとワルシャワの大使館書記官、次にクールラントの公使、ウィーン(一七八四年)、コペンハーゲン(一七八六年)、ベルリン(一八〇〇年)の大使を務めた。一八〇二年に死去した。一七八三年に、フィーティングホフ嬢と結婚していた。夫人は、クリューデネル男爵夫人の名で、非常に広く知られるようになった。[訳注21]

注 138

[138] 別の読みでは、doublé(「倍にしました」)。

注 139

[139] 別の読みでは、一八一五年三月十四日。

注 140

[140] ポーリーヌ公妃の、この逮捕を裏付ける記述は、どこにも見つからなかった。そもそも、逮捕は、無益な国際法違反にすぎなかっただろう。逆に、百日天下の間を、ナポリ、次にローマで過ごしたことは、確かである。――ジェローム王については、実際に王妃とともにトリエステにいた。しかし、オーストリア警察に逮捕されそうになった時、ミュラが送ったナポリのフリゲート艦に、ひそかに乗り込み、フランスへ行くことができた。

注 141

[141] セメレ男爵は、一七七三年に生まれ、一七九二年に志願兵となり、一八一一年に陸軍中将となった。百日天下の間に軍務を引き受けたため、第二次王政復古のもとで、非現役とされた。

注 142

[142] ディジョン子爵は、一七七一年に生まれ、徴税請負人の息子であった。一七九二年には少尉であり、一八一三年に陸軍中将となった。一八一五年には、アルトワ伯爵に伴ってリヨンへ行った。第二次王政復古のもとで、フランスの貴族院議員となり、一八二三年には陸軍大臣となった。一八二八年に死去した。

注 143

[143] マルシャン伯爵ジャン=ガブリエルは、一七六五年に生まれ、初めは弁護士であった。その後、軍に入り、一八〇五年に将官となり、帝政期のすべての戦役に参加した。一八一五年にはグルノーブルで指揮を執っており、ナポレオンに抵抗しようとしたが、退かなければならなかった。一八一六年、軍法会議にかけられたが、無罪とされた。それでも、退役させられた。ルイ=フィリップによって、フランスの貴族院議員に任じられ、一八五一年に死去した。

注 144

[144] ニコラ=フランソワ・ルーセル・デュルバルは、一七六三年に生まれ、初めはオーストリア軍に仕え、一八〇九年には少将であった。一八一一年にフランス軍へ迎えられ、一八一二年に陸軍中将となり、一八一五年には騎兵総監を務めていた。一八四九年に死去した。

注 145

[145] 別の読みでは、「追伸――宣言の後には、議事録との間を隔てる、はっきりした線を引くべきだと思います。議事録の末尾には、添付した写しにあるとおり、すべての署名を置くべきです。」

注 146

[146] 文書館所蔵の本文では、削除されている。

注 147

[147] 別の読みでは、「……この同じメッテルニヒ氏によって起草された」。

注 148

[148] 別の読みでは、「陛下の」。

注 149

[149] 別の読みでは、dans laquelle(「……その中に」)。

注 150

[150] 本巻の一九八ページを参照。

注 151

[151] 別の読みでは、「今朝、王の周囲の者が皆、この知らせを言いふらしていた」。

注 152

[152] 別の読みでは、「……すでに行われていた」。

注 153

[153] 文書館所蔵の本文では、削除されている。

注 154

[154] 別の読みでは、proposer(「提案する」)。

注 155

[155] クネーゼベック男爵シャルル=フレデリックは、一七六八年に生まれ、プロイセン軍で、一七九二年と一七九四年、次に一八〇六年の戦役に参加した。フランスを激しく敵視し、一八〇九年にオーストリアに仕え、一八一一年、ロシアへの秘密の任務を受け、将官として、一八一三年と一八一四年の戦役に参加した。のちに陸軍元帥となり、一八四八年に死去した。

注 156

[156] モンテスキュー=フェザンサック伯爵アナトールは、一七八八年に生まれ、一八〇八年に軍に入り、一八〇九年に皇帝の伝令将校、一八一四年に大佐となった。百日天下のもとで、養育を任されていたローマ王に同行した母のもとへ、ウィーンに来た。若い王子を連れ去ろうとしていると、根拠のある疑いをかけられ、退去を命じられた。第二次王政復古の初めには追放されたが、再び恩赦を受け、オルレアン公の家政に加わった。一八三〇年には、さまざまな外交上の任務を受け、陸軍少将、次いで、フランスの貴族院議員となった。一八六七年に死去した。

注 157

[157] 別の読みでは、「十一日にパリを出発した使者は、何の支障もなく到着しました」。

注 158

[158] スイス駐在の公使、オーギュスト・ド・タレーラン氏。

注 159

[159] バルクライ・ド・トリー公ミシェル。ロシアの陸軍元帥。一七五五年、リヴォニアに定住したスコットランドの家系に生まれ、一八一〇年に陸軍大臣となり、一八一二年にロシアの大軍を指揮した。一八一八年に死去した。

注 160

[160] 文書館所蔵の本文では、削除されている。

注 161

[161] 別の読みでは、「大公女に」。

注 162

[162] ジャン=マリー・ソンジョン。一七七一年に生まれ、一七九三年に軍に入った。一八一三年から陸軍少将であった。一八一六年に退役し、一八二四年に死去した。

注 163

[163] ブブナ=リッティツ伯爵フェルディナント。オーストリアの陸軍元帥。当時、トリノで指揮を執っていた。一八〇五年に宮廷軍事会議の議長、一八一三年にパリ駐在の大使を務めた。一八二一年にイタリア総督となり、一八二五年に死去した。

注 164

[164] ナポレオンは、三月八日、グルノーブル発の、最初の手紙を、マリー=ルイーズ皇后に書いていた。

注 165

[165] 別の読みでは、「彼は……を述べている」。

注 166

[166] 別の読みでは、complet(「全面的です」)。

注 167

[167] 別の読みでは、「取る予定です」。

注 168

[168] この手紙は、パラン氏の集成には載っていない。

注 169

[169] ルイ十八世は、三月十九日、夜十一時にテュイルリーを離れた。二十日にアブヴィルへ着き、その夜と翌日を過ごし、二十一日の夜、リールへ向けて出発した。翌日の正午に、リールへ着いた。二十三日に町を出て、ベルギーへ入った。ブルッヘを通り、三月二十四日にオーステンデへ着いた。そこから引き返し、ヘントに滞在することになった。

注 170

[170] ナポレオンの上陸の最初の知らせが届くと、王族の公たちは、全員、軍の指揮を任された。アルトワ伯爵は、三月八日にリヨンへ着いた。しかし、軍隊の離反と、ナポレオンの接近によって、十日に出発せざるを得なくなった。パリへ戻り、十九日に、国王の王室部隊を率いて、再び出発した。二十五日に、ベルギーのイープルへ着き、ヘントの国王のもとへ向かった。――国王のそばに残ったベリー公は、ムランとパリの間に集めようとしていた兵力について、実際に編成された場合の指揮を任された。父の退却に従った。――アングレーム公は、ナポレオンの上陸時、ボルドーにいた。きわめて広い権限を与えられ、南部で王権を組織し、しばらく維持した。また、ニームとマルセイユに兵を集めた。しかし、モンテリマールで包囲され、グルーシー将軍に降伏せざるを得なかった(四月八日)。セートで船に乗せられ、スペインへ行った。この間、公爵夫人は、ボルドーに残っていた。王権のための努力が実らず、四月二日に乗船しなければならなかった。ヘントで国王に合流した。――ブルボン公は、西部諸県の総督に任じられ、ナントへ行き、ヴァンデの人々の全面的な蜂起を起こそうとした。しかし、成功の望みがないと見て、スペインへ避難した。

注 171

[171] パラン氏によれば、この手紙は、外務省の原稿にはない。

注 172

[172] 文書館所蔵の本文では、削除されている。

注 173

[173] イギリス、オーストリア、プロイセン、ロシアの四国同盟条約。フランスは、三月二十七日のタレーラン氏の公式の覚書によって、加入した。

注 174

[174] 別の読みでは、「最後の一兵と……」。

注 175

[175] ミュラは、ナポレオンの上陸を知るとすぐ、それを利用して統一運動の先頭に立ち、イタリア王に推戴されようと考えた。北イタリアへ進み、ローマ領とトスカーナを占領し、オーストリア軍をポー川まで押し戻した。しかし、間もなく退却せざるを得なくなり、トレンティーノで敗れ、ナポリへ追い戻された。フランスへ向けて乗船し、カロリーヌ王妃は、子供たちとともにトリエステへ連れて行かれた(五月二十日)。ミュラは、フランスでしばらく過ごした後、コルシカへ移り、少数の支持者を集め、以前の領国への上陸を試みた。ほとんど直ちに捕らえられ、ピッツォで銃殺された(一八一五年十月十三日)。

注 176

[176] 別の読みでは、「保つでしょう」。

注 177

[177] 著者の叔父、タレーラン=ペリゴール枢機卿。当時、ヘントで国王のそばにいた。

注 178

[178] パラン氏は、Lefébureと書いている。この人物は、パリの大使館書記官を務めていた。

注 179

[179] ヴィチェンツァ公は、外務大臣に任じられたばかりであった。

注 180

[180] 文書館所蔵の本文では、この手紙の日付は、四月五日となっている。

注 181

[181] 別の読みでは、「出発した」。

注 182

[182] 別の読みでは、四月九日。

注 183

[183] ヴィクトル・ド・ロアン公は、一七六四年に生まれ、一七八九年には、侍従長であった。間もなく亡命し、オーストリア軍に入り、少将、陸軍元帥となった。一八一四年にフランスへ戻り、一八三〇年に再び離れ、オーストリアで死去した(一八三五年)。

注 184

[184] 別の読みでは、「弱まる」。

注 185

[185] 別の読みでは、「さらに」。

注 186

[186] 別の読みでは、「それは、すべての者の目標ではないかもしれないが、私たちの目標でなければならない」。

注 187

[187] 別の読みでは、pris(「取った」)。

編者注 188

[188] 国王の手紙のこの箇所は、ボナパルトが、テュイルリーの国王の書き物机で、一月三日の条約を見つけたということは、ないはずだと示している。(バクール氏の注。)第二巻、付録、五六一ページを参照。

注 189

[189] この手紙は、パラン氏の集成には収められていない。

注 190

[190] この経緯の記録は、一四九ページを参照。

注 191

[191] アールスト。ヘントの南東二十七キロメートルにある、ベルギーの都市。

注 192

[192] サー・ウィリアム・ウェルズリー・プール。イギリスの政治家。一七六三年に生まれ、造幣局長、下院議員を務めた。アイルランド担当の国務長官となったが、一八一一年に解任された。のちに、国務大臣として政務に復帰した。

注 193

[193] シャトーブリアンは、百日天下が起こった時、ストックホルム駐在の公使に任じられたばかりであった。国王に従ってヘントへ行き、国務大臣となった。

注 194

[194] 制憲議会の元議員、ラリー=トランダル氏は、当時、枢密会議の一員であった。

注 195

[195] ジュール・アングレス伯爵。一七七八年に生まれ、国務院の聴講官、一八〇九年に請願審査官、アルプスの向こうにある諸県の警察局長を務めた。一八一四年、臨時政府の警察大臣、第一次王政復古のもとで国務参事官となった。一八一五年三月には、文官の委員として、アルトワ伯爵に同行してリヨンへ行き、その後、ルイ十八世に従ってヘントへ行った。国王の帰還時に国務大臣となり、次に、ドゥカズ内閣で警視総監となった。ベリー公の暗殺後、辞任し、一八二八年に死去した。

注 196

[196] ロベール・ファーヘル男爵。一七七二年、オランダの古く名高い家に生まれた。若くして軍に入り、フランスに対する一七九三年と一七九四年の戦役に参加した。オラニエ家の失脚時に亡命し、一八一三年になって初めて帰国した。一八一四年、ファーヘル将軍は、パリ駐在の公使に任じられ、一八五四年まで、その地にとどまった。

注 197

[197] ラ・ベドワイエール伯爵シャルル・ユシェ。一七八六年に生まれ、一八〇六年に志願兵、一八〇九年にウジェーヌ公の副官、一八一三年に大佐となった。一八一五年には、シャンベリ駐屯の第七戦列歩兵連隊を指揮していた。ナポレオン接近の知らせを受け、グルノーブルへ送られたが、最初に支持を表明した者の一人となり、ヴィジーユで、自分の連隊をナポレオンのもとへ連れて行った。百日天下のもとで、陸軍少将、フランスの貴族院議員となった。続く八月四日に逮捕され、軍事委員会で裁かれ、銃殺された(八月十九日)。

注 198

[198] 元帥の辞任は、三月十一日である。数日後、ナポレオンは、フランスの貴族院議員、参謀総長に任じた。

注 199

[199] フェルトル公は、国王に従ってヘントへ行った。

注 200

[200] 実際、北部で軍の蜂起が起きたばかりであった。ラオンのラルマン将軍、リールのドルーエ・デルロン将軍、ノワイヨンのルフェーヴル=デヌエット将軍は、以前から奇襲を準備していたが、軍を集めてパリへ進み、国王を捕虜として拘束しようとした。ルフェーヴル=デヌエットは、ラ・フェールの砲兵倉庫を奪おうとして、合図を送った。しかし、ダボヴィル将軍の毅然さに阻まれ、失敗した(三月九日)。陰謀の一団は、その後、ショニーを占領したが、コンピエーニュで失敗すると、散り散りになり、運動は続かなかった。第二次王政復古のもとで、この三人の将軍は、欠席裁判で死刑を宣告された。

注 201

[201] ジャン・デソルは、一七六七年に生まれ、一七九二年に軍に入り、一七九八年に陸軍中将、イタリア軍の参謀長、一八〇一年に国務参事官となった。帝政のもとでは、長く引退生活を送ったが、一八一二年にウジェーヌ公の参謀長となった。一八一四年、臨時政府によって国民衛兵の総司令官に任じられた。第一次王政復古では、国務大臣、フランスの貴族院議員、国民衛兵の参謀総長となった。一八一八年、数か月の間、首相を務めた。一八二八年に死去した。

注 202

[202] 「……そこで私は、夜のうちに、リールを出発することを決めた。――この決意をした後で初めて、トレヴィーゾ公たる元帥から、十五リューの地点から腕木通信で、国王と、リールにいるかもしれない、すべてのブルボン家の者を逮捕する命令が、送られてきていたことを聞いた。元帥は、国王にも私にも、それを隠すという、きわめて細やかな配慮をしていたのである。さらに、国王が出発した後、ダヴー元帥の副官が門に現れ、自分のもとへ連れて来させたところ、国王と私を逮捕する命令を、携えていることが分かった、と話した。元帥は、この副官の身柄を確保した、と付け加え、今知らせたことは、まったく考慮しないよう私に求め、それを知らなかった場合と同じだけ、リールにとどまるよう頼んだ。私は、真の友情を抱いていたトレヴィーゾ公たる元帥の、あらゆる資質を、すでに高く評価していた。その高貴な人格を正しく認めるために、この新たな忠実さの証しは、必要なかった。」(ルイ=フィリップ・ドルレアン『私の日記――一八一五年の出来事』第一巻、二五六ページ。)

注 203

[203] カジミール・ド・モントロン伯爵は、革命の初め、ごく短い間名を知られたモントロン伯爵夫人の、第二の息子であった。本人は、目立つ役割を果たしたことはないが、その名は、タレーラン氏の経歴に、しばしば現れる。長くそばで暮らし、信頼する協力者として、最も秘密の交渉に、しばしば使われた。

注 204

[204] 別の読みでは、「また、おそらく、むしろ……に送られた」。

注 205

[205] フラオー・ド・ラ・ビヤルドリ伯爵は、一七八五年に生まれ、一七九八年に軍に入り、帝政期のすべての戦役に参加した。一八一三年に将官、皇帝の副官となった。一八一四年には王政復古に従ったが、百日天下の時には、最初に皇帝へ戻った者の一人となった。ウィーンへの失敗した任務から戻ると、フランスの貴族院議員に任じられた。第二次王政復古では、一時亡命せざるを得なくなり、一八一七年に辞任した。七月革命によって、階級と貴族院議員の地位を取り戻した。一八三一年、一時、ベルリン駐在の大使を務め、一八三七年には、オルレアン公の首席主馬官となった。一八四一年にウィーン駐在の大使に任じられ、一八四八年まで在職した。一八五三年に元老院議員、一八六四年にレジオン・ドヌール勲章総裁となった。一八七〇年に死去した。

注 206

[206] ルイ・フォーシュ=ボレル。フランス系の、スイスの政治工作員。一七六二年にヌーシャテルで生まれ、亡命者たちに大きく尽くした。一七九五年には、コンデ公とピシュグリュの仲介を務め、一八〇一年まで、フランスの王党派の、あらゆる工作と陰謀に関わった。その年、パリで逮捕され、十八か月間拘束された。プロイセン王の介入によって、釈放された。ベルリンへ退いたが、一八〇五年、ナポレオンの要求によって、町を離れ、ロンドンへ逃れなければならなかった。一八一四年と一八一五年には、多くの任務を受け、ヘントとウィーンの間を、しばしば往復した。しかし、ヘントで、ブラカ氏の命令によって逮捕された。一八一六年、プロイセン王から、大使館顧問の称号を受けた。しかし、間もなく、すべての者に見捨てられ、すっかり忘れられて貧困に陥り、ついには自殺した(一八二九年)。

注 207

[207] 別の読みでは、「ミュンヘンに四日間とどまり、そこから、自分の軍団へ行きます」。

注 208

[208] パラン氏は、第二十九号の手紙のほかに、四月二十一日付の、国王からタレーラン氏への別の手紙を、ここに収めている。国王が返答すると述べる、公の報告の番号から判断すると、発送されたのは、二十二日の手紙だけだったと考えられる。内容も、ほとんど同じであり、まったく同じ文さえある。なお、その手紙を、次に示す。

「ヘント、一八二五年四月二十一日。[訳注22]

親愛なる従兄よ、

そなたの第四十九号と、同封されていた第三十八号を受け取った。発送した後、間もなく、そなたは、私たちの消息を受け取り、それ以来、欠けることはなかっただろう。しかし、パリにいた時のような手段がないため、どうしても、通信に不正確さが生じる。

そなたが話している宣言を、待ち遠しく思っている。手紙からすると、そなたも、それに協力したことを、期待している。ステュアート卿が、ただ今、十一日に署名されたと伝えてきた。私も、フランスに足を踏み入れる時、公表する布告を準備している。起草したら、確定する前に、ウェリントン公とポッツォ・ディ・ボルゴ将軍に見てもらい、それからそなたに送ろう。届いた時、君主たちがまだウィーンにいれば、そなたが、その賛同を得ることを期待する。しかし、君主たちが、その時もそこにいることを、望んではいない。迅速な作戦は、何よりも必要である。国内からのすべての報告は、すばらしい。しかし、敵に時間を与えてはならない。

ルイ。」

注 209

[209] 別の読みでは、「影響を及ぼしただろう」。

注 210

[210] アングレーム公と、公爵夫人のことである。

注 211

[211] 別の本文では『介入』。

注 212

[212] 外務省文書館の本文では削除されている。

注 213

[213] 外務省文書館の本文では削除されている。

注 214

[214] 別の本文では『退屈して』。

注 215

[215] 別の本文では『とりわけ』。

注 216

[216] 別の本文では、同じく『安全』を表す別の語。

注 217

[217] 別の本文では、『奪われたと感じた』の箇所が『奪われた身となった』。

注 218

[218] 別の本文では『そして、どんな異議があるのか』。

注 219

[219] 別の本文では『その人々のために』。

編者注 220

[220] ここでアレクサンドル皇帝がほのめかしていたのは、ブラカ伯爵のことである。(バクール氏の注。)

注 221

[221] アレクサンドル=ダニエル・ド・タレーラン男爵。公のいとこ。国務院顧問を務め、のちにフィレンツェ公使(一八三二年)、コペンハーゲン公使(一八三五年)、フランス貴族院議員(一八三八年)となった。一八三九年に死去。

注 222

[222] サレルノ公レオポルト。フェルディナンド王の次男。一七九〇年生まれ。一八一六年、マリー=クレマンティーヌ大公女と結婚した。五月二十一日にテアーノのオーストリア軍司令部へ到着し、父の名で国を引き継いだ。

注 223

[223] マルク=マリー・ド・ボンベル侯爵。一七四四年生まれ。ポルトガルに起源を持ち、フランスに定住し、のちにオーストリアに仕えた家系の出。初めは外交官となり、フランスのポルトガル駐在大使を務め、一七九二年に亡命してコンデ軍に加わった。その後、聖職に入り、グロガウではなく、ブレスラウの参事会員となった。王政復古期にはベリー公爵夫人の付き司祭、アミアン司教となった。一八二一年に死去。

注 224

[224] ルッフォ(コマンドゥール)はイタリアの外交官で、一七九七年にはナポリ王のパリ駐在公使だった。一七九八年にナポリへ帰還し、一八〇五年には宮廷に従ってシチリアへ渡り、ポルトガルへの使節を命じられた。一八一五年、会議の全権委員としてウィーンへ赴いた。一八二五年に死去。

注 225

[225] ダンジュベルグ『ウィーン会議』一一五六ページ参照。

注 226

[226] パルマ、ピアチェンツァ、グアスタッラ。

注 227

[227] エルンスト=フレデリク・フォン・ヴァルターストルフ(一七五五―一八二〇年)。デンマーク王の陸軍中将兼侍従。一八一〇年以来、パリ駐在全権公使。

注 228

[228] スタッサール男爵のこと。一七八〇年、マリーヌに生まれた。帝政下で国務院審議官を務め、その後、チロルの行政長官(一八〇五年)、西プロイセンの行政長官(一八〇七年)となった。一八一〇年にヴォークリューズ県知事、一八一一年にブーシュ=ド=ラ=ムーズ県知事に任じられた。ナポレオンの没落後、生まれながらの君主であるオーストリア皇帝に受け入れられ、侍従に任じられた。百日天下の間にパリへ戻り、四月十七日、ナポレオンの信書を携えてウィーンへ向けて出発した。リンツで止められ、ヴェルツへ退き、そこから信書をウィーンへ送った。ワーテルローのあと祖国へ帰り、何度か全国議会に選ばれた。レオポルト王の治世には、上院議長となった。――タレーラン氏が彼をナポレオンの元侍従としたのは誤りである。スタッサール氏は、この職に就いたことは一度もない。

注 229

[229] 別の本文では『得ようとする』。

注 230

[230] 別の本文では『……私たちに約束された額のかなりの部分』。

注 231

[231] タレーラン氏が、皇帝アレクサンドルとの会話に託して、国内政策について国王に申し述べた意見のことである。国王自身も、閣僚の数人、とりわけジョクール氏も、当時『亡命者のままの党派』と呼ばれた人々の影響力に対抗するため、タレーラン氏の帰還を強く望んでいた。

注 232

[232] 別の本文では『さらに』。

編者注 233

[233] オズモン氏は国王のトリノ駐在大使だった。ラ・トゥール・デュ・パン氏が、王室の大義に役立てると期待して、ウィーンからフランス南部へ向かったことは、すでに述べたとおりである。(バクール氏の注。)

注 234

[234] 別の本文では『一八一五年五月二十三日』。

注 235

[235] 別の本文では『カスルレー卿に』。

注 236

[236] この辞職の申し出は実現しなかった。タレーラン氏が退いたのは、九月二十四日になってからである。

注 237

[237] ダンジュベルグ『ウィーン会議』二四九ページ参照。

注 238

[238] 別の本文では『実際に敵対する』。

注 239

[239] 別の本文では『公然たる』を加える。

注 240

[240] 別の本文では『平和と友好の』。

注 241

[241] 外務省文書館の本文では削除されている。

注 242

[242] ルイ十八世が設けた貴族院には百五十四人の議員がおり、そのうち八十四人は元の元老院議員だった。五十三人の元老院議員が除外された。そのうち二十三人は、もはやフランス人ではなくなったため、残る三十人は政治的な理由による。後者のうち特によく知られた者には、カンバセレス、シャプタル、ド・ラパラン、キュレ、フーシェ、シエイエス、ロジェ=デュコ、フランソワ・ド・ヌフシャトー、グレゴワール神父、ガラ、ランブレヒト、レデレール、フェッシュ枢機卿などがいた。

注 243

[243] 学士院の再編が行われたのは、一八一六年三月二十一日になってからである。しかし、第一次王政復古の時から、学士院に対して採られる措置は、すでに決まったことのように語られていた。一八一六年の法律は、学士院の各部門に、アカデミーという旧称を戻すとともに、次の人々の排除を定めた。アカデミー・フランセーズからは、リュシアン公、フェッシュ枢機卿、モーリー枢機卿、カンバセレス、ガラ、メルラン、レデレール、シエイエスの各氏。科学アカデミーからは、ナポレオン皇帝、モンジュ、ギトン・ド・モルヴォー、カルノー。碑文アカデミーからは、ジョゼフ王、ラカナル、グレゴワール神父。

注 244

[244] 一八一五年二月十六日の勅令で、破毀院の構成は次のように変えられた。院長ミュレール伯爵は、デセーズ氏に代えられた。三人の部長のうち、バリス氏とアンリオン・ド・パンセ氏の二人は留任した。三人目のムール氏は、罷免されたメルラン・ド・ドゥエに代わって検事総長に任じられ、部長職はブリソン氏が引き継いだ。判事については、十四人が職を失った。

注 245

[245] 例えば、日曜日と祝日の遵守に関する一八一四年六月七日の警察令は、信教の自由を保障した憲章への違反と見なされた。

注 246

[246] アンリ=アルフォンス・ド・ブルージュ子爵(一七六四―一八二〇年)。一七八九年には海軍大尉だった。亡命してコンデ軍に仕え、のちにイギリス軍へ入った。一八一五年、陸軍少将に任じられ、プラット氏に代わってレジオン・ドヌール勲章の総裁となった。

注 247

[247] 別の本文では『彼は革命とともに育ち、あらゆる結びつきによって結ばれていたので……』。

注 248

[248] タレーラン氏がここで指しているのは、国王がフランス帰還に際し、六月二十五日に署名した、次の布告である。

『フランス人よ

最も罪深い企てが、最も理解しがたい離反によって助けられ、私が一時、王国を離れざるを得なくなったその時から、私はそなたたちに警告していた。暴君である簒奪者のくびきを急いで振り払わなければ、危険が迫ってくる、と。

私は、自分自身の力も、一族の力も、裏切りを罰するために神の摂理が用いた手段と合わせようとはしなかった。しかし今、同盟国の力強い努力が、暴君の手先を散らしたので、急いで領国へ戻る。私がフランスに与えた憲法を復活させ、反乱と、その必然的な結果である戦争の害を、力の及ぶあらゆる手段で修復し、善良な者に報い、罪ある者には現行法を執行するためである。そして最後に、その忠実さ、勇気、献身によって、私の心にこれほど甘い慰めを与えた、フランス人の圧倒的多数を、父としての私の王座の周りへ呼び集めるためである。

カトー=カンブレージ、一八一五年六月二十五日。
ルイ

国王の命により
陸軍大臣国務卿
フェルトル公』

タレーラン氏を不安にさせたのは、この宣言だった。彼が閣議と外交団の人々に伝えたところ、強い異議が出され、ウェリントン公と彼自身が、それを国王に伝えた。国王は譲歩し、三日後の六月二十八日、カンブレーで第二の布告を公表した。タレーランが副署したこの布告は、二三〇ページに掲載されている。

注 249

[249] 別の本文では『彼が与える保障』。

注 250

[250] 外務省文書館の本文では削除されている。

注 251

[251] 外務省文書館の本文では削除されている。

注 252

[252] 別の本文では『数人は、きわめて切迫した困窮を経験している』。

編者注 253

[253] 同盟諸国の君主は、この日マンハイムに集まっていた。(バクール氏の注。)

注 254

[254] 一八二五年七月十日の『モニトゥール』参照。

編者注 255

[255] ヴァンサン男爵は、ルイ十八世のもとに派遣されたオーストリア公使と、ウェリントン公のもとに派遣された委員を兼ねていた。ワーテルローの戦いの朝に手を負傷し、初めは敗戦と思い、その知らせをヘントへ急いで伝えた。同盟軍の勝利がそこで知られたのは、六月十八日から十九日にかけての深夜だった。(バクール氏の注。)

編者注 256

[256] サン=ドニ近郊の城。国王は首都へ入る前、数日ここに滞在した。(バクール氏の注。)

注 257

[257] 臨時政府は六月二十七日、休戦委員会を任命した。構成員は、フランス貴族院議員のヴァランス伯爵将軍、アンドレオシ伯爵将軍、代議士フロージェルグ氏、フランス貴族院議員のボワシー=ダングラス伯爵、ラ・ベナルディエール氏である。外務大臣ビニョン氏の作成した訓令は、休戦中の境界線として、ソンム川と一つの要塞を提示することを認めていた。フランスの将来の政府について、ほのめかしがあっても、答えることは禁じられていた。――交渉団は二十八日にパリを発ち、ノワイヨンでブリュッヘルに会ったが、追い払われ、二十九日にウェリントンと合流した。場所はサンリスではなく、コンピエーニュの北西十六キロにある村、エストレ=サン=ドニだった。この任務は、何の成果も得られなかった。――ヌイイの会談について、タレーラン氏が指しているのは、フーシェの入閣に先立つ交渉である。フーシェは、ヌイイで何度もウェリントンに会っていた。王政復活を妨げる困難のため、国王は革命の人々に頼ることを余儀なくされる、と説得していた。これらの会談の結果、ウェリントンが国王に、フーシェを勧めたのである。

原注 258

[258] この件について、ウェリントン公から私に届いた書簡を、以下に掲げる。その文体の不正確さは残しておく。イギリス軍の総司令官が、アカデミー会員のようなフランス語を書く義務はなかったことを、思い出していただきたい。

「サン=ドニ、一八一五年六月二十九日。

公爵殿

ボワシー=ダングラス氏、ヴァランス将軍、アンドレオシ将軍、ラ・ベナルディエール氏、フロージェルグ氏が、戦闘の一時停止を求めるため、パリから私のもとへ派遣されました。皆さんと、国王にきわめて深く関わる話をしましたので、時を置かず、お手紙するのがよいと考えます。

私は、ナポレオンの退位が、作戦を停止する理由となるような保障を同盟列強に与えるとは思わない、と説明しました。いくらか議論したあと、こう言いました。『ナポレオンが同盟国へ引き渡され、私たちの前哨部隊がパリを占領し、フランスだけでなくヨーロッパの信頼も得られる政府が設けられなければ、私たちの目的が確保されたとは考えません。』

多少ためらったあと、皆さんは、そのような政府とは何を指すのか、説明を求めました。この件で話す権限はありませんが、私個人の意見では、いかなる条件もなく国王を呼び戻すべきだ、と答えました。そして、国王の帰還は列強の介入だけによるものだったと思われるようになる前に、この措置を取ることが、フランスの名誉のために必要だ、と。

皆さんは全員、私に同意しました。憲法については、とりわけ内閣と法律の提案について、多少の変更が必要と考えているようでしたが、それを条件にするより、その変更を国王に委ねるほうがよいと認めました。

フロージェルグ氏は、両院が、無条件での国王の帰還に一致するとは思わない、と言いました。

私たちの議論は、陛下が無条件で、静かに、自然に復位するという原則を損なわずに、皆が望むことを実現する方法についてでした。

この議論の間に、殿下の副署した二十八日付の国王の宣言が届きました。皆さんは、添付してお送りする二つの条項がないか、もっと明確であれば、私たちの意図すべてに応えるよう、見事に作られたものだと考えています。

第一の箇所で指される人物は、最後の陰謀に関わった人々です。しかし、十分に説明されていないため、国王殺しに関わった人々をも含めていると、考えられ、あるいは考えられかねません。私は、この考えに反対しました。国王は、出発前に、フーシェを用いるという原則に同意していたので、今さら彼、あるいはほかの大臣を用いることを拒めず、直前の一文もそれをかなり明確に説明しているからです。それでも、説明するか、いっそ削るのがよいでしょう。――第二の条項は、脅しを含むため、皆さんを不快にしています。あまりに多くの人を含み、何より、国王にふさわしい以上に強い言葉を使っているため、不要だと判断し、削除するのがよいと考えています。

皆さんは、第三と記した言葉を、強く非難しています。両院が、ただちに解散されると知れば、陛下の利益にも全般の利益にも、最も有利な形で国王を呼び戻すことはできない、と考えています。

したがって、下線を引いた言葉を省くよう、私は勧めます。そうすれば、国王は、新しい議会を召集することも、適当と判断すれば、今の両院を続けることもできます。現在の両院が合法的な議会を作っていると、あらかじめ認めることはできないでしょうが、最初から、解散すると知らせる必要は全くありません。これまでのすべてから、国王を復位させたいという私の願いを、殿下もお認めになるでしょう。一、無条件で。二、同盟国の暴力の結果と見えない形で。そのような結果を得るためには、多少の犠牲を払う価値が十分にあると、殿下も私と同じく、お考えになるかもしれません。

これからブリュッヘル元帥に会い、先に述べた条件で休戦に同意するよう、説得を試みます。明日の早いうちにお返事をいただけることを、強く願っています。差し当たり、国王は、カンブレーに守備隊を残して、ローズ(原綴Roze)へお越しになるべきだと思います。

ウェリントン」

(タレーラン公の注。)

原注 259

[259] 国王ルイ十八世からタレーラン公へ

「パリ、一八一五年七月十五日、土曜日、十時。

たった今、プロイセン軍がイエナ橋に爆薬を仕掛け、おそらく今夜のうちに爆破するつもりだと知った。オトラント公はメゾン将軍に、力の及ぶあらゆる手段で防ぐよう言ったが、そなたも知っているとおり、将軍には何の手段もない。そなた自身で、あるいは公や、カスルレー卿などを通じて、できることをすべてしてほしい。私としては、必要なら橋の上へ行く。望むなら、私ごと吹き飛ばせばよい。

賠償金については、二人の卿に大いに満足している。

ルイ」

(タレーラン公の注。)

注 260

[260] ローラン・グーヴィオン=サン=シール。一七六四年、トゥールに生まれ、一七九二年に入隊。一七九四年に陸軍中将となり、一七九八年にはローマ軍の総司令官を務め、ホーエンリンデン戦役(一七九九年)に参加し、一八〇一年にはマドリード駐在大使に任じられた。帝政下ではあまり重用されなかったが、それでも一八一二年には元帥杖を受けた。一八一三年、ドレスデンで降伏し、捕虜となった。一八一四年、ルイ十八世に加わり、一八一五年から一八二一年まで、何度か陸軍大臣を務めた。一八三〇年、隠退生活の中で死去。

注 261

[261] エティエンヌ=ドニ・パスキエ。男爵、のち公爵。一七六七年生まれ。一七八七年、パリ高等法院の判事となった。恐怖政治下で投獄されたが、テルミドール九日によって救われた。一八〇六年、国務院請願審査官に任じられ、のちに国務参事官、警視総監(一八一〇年)となった。第一次王政復古の下では橋梁道路総監となり、百日天下の間は表に出ず、一八一五年に国璽尚書、続いて国務大臣、枢密院議員、レジオン・ドヌール大十字章受章者、代議院議長となった。一八一七年一月十二日、再び国璽尚書に任じられ、一八一八年九月に内閣を去り、一八一九年に外務大臣として戻った。一八二一年十二月に退き、その際、フランス貴族院議員に任じられた。――一八三〇年には貴族院議長、次いでフランスの大法官(一八三七年)となり、同時に公爵の称号を受けた。パスキエ公は一八四八年に公職を離れ、一八六二年に死去した。

注 262

[262] フーシェとメッテルニヒ氏との陰謀、および奇妙なバーゼル交渉については、ティエール(第十八巻、四八八ページ以降)と、フルーリー・ド・シャブロン氏の『回想録』(第二巻、一―四二ページ)を参照。

注 263

[263] 回想録のこの部分は、『またとない議会』が開かれていた一八一六年に書かれたことを、思い出していただきたい。

原注 264

[264] 政府と、その職員の務めがどれほど難しかったかを示すため、当時の県知事の一人からの書簡を、一通だけ引用する。

ヨンヌ県知事ブーリエンヌ氏[264-a]からタレーラン公へ

「オーセール、一八一五年八月二十日。

公爵殿

四日前、この県は絶望していました。公金の差し押さえと持ち去り、莫大な徴発、あらゆる種類の過大な要求、虐待、軍事的制裁の脅し、国王の職員への見せつけるような軽蔑。これがバイエルン軍の行いでした。私は、パリ駐在の国王の公使の兄弟である、レヒベルク伯爵[264-b]に苦情を申し入れました。伯爵は、七月二十四日の外交文書[264-c]の作成に呼ばれず、戦時賠償金の分配から除かれそうだと気づいたため、バイエルン軍は、自分たちのことを考え、自分たちで取り分を作らざるを得ない、と言いました。続いて、オーストリア軍への憎しみを声高に示し、こう付け加えました。『私たちは六万の兵を動員している。会戦でなら、オーストリア軍十万を、十分に相手にできる。』それでも、私が多少強く、何より十分に理を尽くして話すと、行政上の措置は自分の管轄ではないが、軍の行政長官と相談しよう、と言いました。これらはすべて十八日のことで、その日は厳しい措置が何も取られませんでした。昨日、ようやくパリから、十七日に成立した取り決めの知らせが届きました。県知事への回状は、地方の住民の状態にも、バイエルン軍の振る舞いにも、大きな変化をもたらしました。彼らがまた、その取り決めを知らず、自分たちには関わりがないと言いに来ないよう、神に願います。今のところ、敵対行為は止まっています。二十二日に予定されるヴレーデ公の到着を待ち、初めの単独行動の方針が続くのか、それとも同盟国全体の旗の下に入り、秩序と方法をもって私たちを剥ぎ取るのかを、確かめようとしています。

十七日の取り決めの知らせとともに、戦時賠償金一億に関する勅令が届きました。公爵殿、申し上げますが、ほとんど喜びをもって受け取られました。不平は一つも上がらず、どこでも、『金の傷は致命傷ではない』と言っていました。政府が、苦しんだ県の犠牲と損失を考慮したことに感謝しているため、この県でも、ほかの県でも、速やかに支払われるでしょう。公爵殿、配分が公正で、使い道がわかる限り、どんな金銭の要求も、不満なく受け入れられると、保証してよいと思います。

デュモラール[264-d]が代議士になることは、ほぼ確実にありません。デフルノー[264-e]については、保証できません。確かに、候補者名簿から除くことには、すでに成功しました。しかしその後、この男は、策動と働きかけを倍にしています。上着の上に大きな赤い綬をかけ、左側に真新しい巨大な星章を着けて、県内のすべての市町村を回っています。その王室からの恩恵は昨年のもので、かえって背信を際立たせると反論されると、ただちに、一八一五年八月の書簡二通を見せて答えます。一通はオトラント公、もう一通はアヴレ公[264-f]のもので、どちらも、ヨンヌ県を代表するのに最もふさわしい人物として、彼を挙げています。一方では、政府が、当然にも、これらの策士を遠ざけようとし、他方では、大臣の一人と近衛隊長が、当局と世間の好意を彼に向けさせようとしているのです。

公爵殿、もし私が負けた場合に、あまりお怒りにならないよう、この事情をお知らせする必要がありました。

貴族院議員の名簿に、ルーヴォワ侯爵[264-g]の名を見て、喜びとともに感謝を覚えました。この人選は、広く歓迎されています。公爵殿が、私のお話ししたことを覚えておられたのだと、喜んで信じたいところです。私へのご厚意には、限りない献身と、どんな試練にも耐える忠実さで、常にお報いします。

深い敬意をもって、公爵殿の、
この上なく謙虚で、この上なく従順な僕

ブーリエンヌ」

(タレーラン氏の注。)

注 264-a

[264-a] ブーリエンヌ氏は、ヨンヌ県知事ではなかった。当時は、この県の選挙人団の議長だった。

注 264-b

[264-b] ヨーゼフ・フォン・レヒベルク伯爵(一七六九―一八三三年)。一八一四年、一八一五年には、バイエルン軍の将軍。のちにベルリン駐在公使となった。

注 264-c

[264-c] オーストリア、ロシア、プロイセン、イギリスがフランス内閣へ送ったこの外交文書は、同盟軍の占領するフランス領の統治方法を定めるためのものだった。特に第八条は、各軍の行政長官が、単独で戦時賠償金を要求してはならないと明記していた。

注 264-d

[264-d] ブーヴィエ=デュモラール。一七八一年生まれ。初めは国務院審議官、次いでケルンテン、ザクセンの行政長官を務め、ヴェネツィア諸領の組織整備を担当した。一八一〇年、県知事に任じられた。百日天下の下でも再び県知事となり、同時に代議士に選ばれた。第二次王政復古で、パリから離れるよう命じられた。

注 264-e

[264-e] エティエンヌ・デフルノー伯爵。一七六九年生まれ。一七八九年には軍曹で、一七九二年にサン=ドマングへ渡り、戦功によって一七九三年に総司令官に任じられた。一七九八年、グアドループ総督に任じられた。一八〇二年、サン=ドマング遠征で一個師団を指揮した。まもなくフランスへ帰還し、ヨンヌ県へ退いた。一八一三年に代議士に選ばれ、百日天下の間にも再選された。一八一五年には選ばれなかった。

注 264-f

[264-f] ジョゼフ=アンヌ=オーギュスト=マクシミリアン・ド・クロイ、アヴレ公。神聖ローマ帝国の諸侯に列せられ、スペインの大貴族。一七四四年生まれ。一七八九年には陸軍中将で、三部会のアミアン管区代議士。王政復古ではフランス貴族院議員、国王近衛隊長となった。一八三九年に死去。

注 264-g

[264-g] オーギュスト=ミシェル・ル・テリエ・ド・スーヴレ、ルーヴォワ侯爵。一七八三年生まれ。一八〇九年に皇帝の侍従、王政復古の下でフランス貴族院議員となった。政治的な役割は果たさなかったが、産業界では重要な地位を占めた。一八四四年に死去。

注 265

[265] 一八一五年七月二十日の最初の勅令は、出版行政の長と県知事に、一八一四年十月十二日の法律第三条、第四条、第五条を用いないよう命じた。これらの条文は、印刷用紙二十枚未満のすべての著作を、検閲官の事前審査に付す権利を与えていた。――一八一五年八月八日―二十二日の別の勅令は、すべての新聞を、警察大臣の新たな許可の下に置き、すべての定期刊行物を、委員会の審査に付した。

原注 266

[266] 一八一五年七月二十四日の勅令に含まれる人々の名簿は、次のとおり。

訴追され、裁判にかけられる十九人の区分。ネイ元帥、ラ・ベドワイエール、ラルマン兄弟、ドルーエ・デルロン、ラボルド、ルフェーヴル=デヌエット、アメイユ、ブライエ、ジリー、ムートン=デュヴェルネ、グルーシー、クローゼル、ドベル、ベルトラン、ドルーオ、カンブロンヌ、ラヴァレット、ロヴィゴ。――三日以内にパリを離れ、警察の指定する場所へ向かう三十八人の区分。スールト元帥、アリクス、エクセルマン、ヴァンダム、マルボ、ラマルク、ロボー、ピレ、ドジャンの息子、ユランの各将軍、フェリックス・ルペルティエ、ブーレー・ド・ラ・ムルト、メエ=ラトゥーシュ、フレシネ、ティボードー、カルノー、アレル、バレール、アリギ(パドヴァ公)、アルノー、ポムルイユ、ルニョー・ド・サン=ジャン=ダンジェリー、レアル、ガロー、ブーヴィエ=デュモラール、メルラン・ド・ドゥエ、デュルバク、ディラ、デフェルモン、ボリ=サン=ヴァンサン、フェリックス・デポルト、ガルニエ・ド・サント、メリネ、クリュイス、クールタン、フォルバン=ジャンソンの長男、ルロルニュ・ディドヴィルの各氏。(タレーラン公の注。)

訳注

原注の「Bory, de Saint-Vincent」は、七月二十四日の勅令では一人の名「Bory-Saint-Vincent」になっているため、一人として訳した。同じ勅令にはバッサーノ公も挙げられているが、この原注には記載されていない。

注 267

[267] モレ氏は、院長マチュー・モレから直系で五代目の子孫だった。百日天下の間、内務大臣と外務大臣の職を断っていた。フランス貴族院議員に任じられたが、議院には在席しなかった。

注 268

[268] 九月十九日。

注 269

[269] 一八一五年七月三日、臨時政府が任命した委員、外務大臣ビニョン男爵、セーヌ県知事ボンディ伯爵、ギユミノ将軍は、ミュフリング将軍およびハーヴィー大佐と軍事協定を結んだ。前者はブリュッヘルの、後者はウェリントンの名で行動していた。この協定により、フランス軍はパリから退き、パリは敵に引き渡され、フランス軍はロワール川の向こうへ移ることになった。協定は七月四日、議院に提出された。

注 270

[270] 臨時政府は、成立するとすぐ、同盟軍の進撃を止め、講和条約を結ぶための委員会を任命した。選ばれたのは、ラ・ファイエット、ダルジャンソン、セバスティアニ、ポンテクーラン、ラ・フォレの各氏だった。全権委員たちは、まずブリュッヘルのいるランへ行ったが、彼はあらゆる戦闘停止を拒んだ。君主たちに会えたのは、六月三十日、アグノーでのことだった。外交会議というより軍事会議に近い会議を開くことになり、出席したのは、同盟列強の大臣ではなく将校たちだった。何の成果も得られなかった。フランスの全権委員たちは、司令部を去るよう求められ、護衛付きでバーゼルへ送られた(七月一日)。

注 271

[271] この回答は、九月二十一日付。

注 272

[272] 九月二十四日。

注 273

[273] 一八二四年に書かれたこの付録は、ロヴィゴ公の非難をきっかけに生まれた。公は、一八二三年、自らの『回想録』からアンギャン公事件に関する部分を公表した。そこで、アンギャン公の逮捕と処刑を準備し、勧めたのはタレーラン氏だと、明確に非難した。ここでタレーラン氏は、自己弁護を行っている。

注 274

[274] マリー=アルマン・ゲリ・ド・モブルイユ、オルスヴォー侯爵(一七八二―一八五五年)。ブルターニュの旧家の出だった。革命時に両親とともに国外へ出て、一七九七年にフランスへ戻り、ヴァンデ軍の中で戦った。のちに陸軍に入り、ジェローム王の主馬官となった。寵を失うと、それ以降、きわめて波乱に満ちた生活を送り、多くの投機に手を出した。一八一四年、この付録で語られる奇妙な出来事に巻き込まれたが、それらは今も解明されていない。一八一四年四月に逮捕され、一八一五年三月に釈放された。再び皇帝の命令で逮捕されたが、脱走に成功し、ベルギーへ逃れた。そこでルイ十八世によって、また拘束された。ネーデルラント王の命令で釈放され、フランスへ戻った。一八一六年、また逮捕され、また脱走した。今度は、警察が黙認したともいう。幾多の変転ののち、一八二七年にパリへ戻った。そのとき、自分の不幸のすべてをタレーラン氏の責任にしようとする憎しみから、一月二十一日、ランスの大聖堂で氏に暴行を加え、五年の禁錮刑を受けた。その後は、世間に話題を提供することはなくなった。

注 275

[275] クロード=アンブロワーズ・レニエ、マッサ公。一七三六年生まれ。一七八九年、ナンシーで弁護士をしていたとき、三部会の議員に選ばれた。共和暦三年、元老会議の議員として再び登場し、霧月十八日の政変でボナパルトを助け、国務参事官、大法官、司法大臣となった。一時は警察大臣も務めた(一八〇四年)。のちに元老院に入り、一八一三年に立法院議長に任じられた。一八一四年に死去。

注 276

[276] 帝国とフランスの平和回復を定めるリュネヴィル条約第一条には、さらにこうある。「締約国のどちらか一方に損害を与えようとする者には、直接にも間接にも、いかなる援助も保護も与えないものとする。」

注 277

[277] ピエール=フランソワ・レアル伯爵。一七六五年生まれ。一七八九年、シャトレ裁判所の訴訟代理人だった。革命下でコミューンの検察官代理、革命裁判所の公訴官となった。総裁政府の下では、セーヌ県の政府委員となった。霧月十八日の政変後、国務参事官に任じられ、警察省に配属された。百日天下では警視総監を務め、第二次王政復古で追放されたが、ほどなくフランスへ戻り、一八三四年に死去した。

注 278

[278] 当時アンギャン公のそばにいた亡命者テュムリが、デュムーリエと取り違えられたことは、知られている。名前の似通いが、ドイツ語の発音によってさらに強まり、警察の手先たちは、この誤りを犯したのである。

注 279

[279] ニコラ・マシアス男爵。フランスの文筆家、外交官。一七六四年生まれ。初めは将校、次いで文学の教師となり、総裁政府の下で外交に入った。一八〇〇年、カールスルーエ駐在のシュヴァーベン管区への代理公使に任じられ、その後、バーデン大公のもとでも同じく信任された。一八〇七年、ダンツィヒの総領事となった。一八一五年に引退し、死去する一八四八年まで、もっぱら文学に打ち込んだ。

注 280

[280] ミシェル・オルドネール(一七五五―一八一一年)。十八歳で入隊し、一七八九年には下士官だった。霧月十八日の政変の際、統領親衛隊の騎兵隊長に任じられた。アンギャン公を連れ去る任務に就いた分遣隊を指揮したのは、彼である。一八〇五年、陸軍中将となり、次いで元老院議員(一八〇六年)、皇后の首席主馬官となった。

編者注 281

[281] ライヒ男爵夫人は、すでにオッフェンブルクでバーデン当局に逮捕され、同当局によってフランス当局へ引き渡され、文書とともにストラスブールへ送られていた。(バクール氏の注。)

注 282

[282] アントワーヌ・ルー=ラボリー。一七六九年生まれ。一七九二年、外務大臣の秘書をしていたが、八月十日の事件ののち、国外へ逃れた。フランスへ戻ると、霧月十八日の政変後、外務省の書記局長となった。しかし当時の王党派の陰謀に関わり、身を隠さねばならなくなり、その後、一八一四年まで隠退して暮らした。同年、臨時政府の事務総長に任じられ、一八一五年には宮廷に従ってヘントへ行った。第二次王政復古では、ソンム県の代議士に選ばれたが、一八一六年には再選されなかった。一八四〇年に死去。

注 283

[283] 付録(四四六、四四七頁)に、ポリニャック内閣について、タレーラン公がヴォーデモン夫人に送った二通の書簡があるので、参照されたい。

注 284

[284] 議院の投票が行われたのは、八月七日だった。

注 285

[285] ボードラン伯爵将軍(一七七四―一八四八年)。一七九二年、志願して入隊し、工兵の分野で経歴を積んだ。一八一五年には大佐で、一八三〇年の革命後、陸軍中将、フランス貴族院議員となった。

注 286

[286] イギリスが新しいフランス政府を承認したのは、八月末だった。十月末には、ロシア、オーストリア、プロイセン、スペイン、およびヨーロッパのすべての中小列強が、同じく承認していた。――付録四五〇頁の、タレーラン公からアデライード王女への書簡(十月七日)、および四五二頁の、アデライード王女からタレーラン公への書簡(十月八日)を参照されたい。

注 287

[287] 八月十一日の内閣である。デュポン・ド・ルール氏が司法、モレ伯爵が外務、ギゾー氏が内務、ブロイ公が公共教育、宗務、国務院議長、ルイ男爵が財務、ジェラール将軍が陸軍、セバスティアニ将軍が海軍を担当した。ラフィット、カジミール・ペリエ、デュパン、ビニョンの各氏は、無任所大臣だった。

原注 288

[288] なぜこの短い手紙をここに載せるのかは、あとでわかるだろう。それに、ここで一度だけ言っておきたい。私は、できる限り、記述の間に書簡や短い手紙を挟むつもりである。この種の最も優れた記述でも、出来事が起きたその時に書かれた文書に、決して及ばないと考えるからだ。(タレーラン公の注。)

注 289

[289] ジョージ・ゴードン、アバディーン伯爵。一七八四年生まれ。一八一四年の会議中、ウィーン駐在大使を務めた。一八二八年、ウェリントン内閣に外務大臣として入り、一八三〇年十一月十六日、内閣とともに退任した。一八三四年十一月、短命のウェリントン内閣で植民地大臣として政務に戻り、さらに一八四一年、ピール内閣でも復帰した。一八五二年には、フランスと攻守同盟を結ぶことになる内閣を率いた。一八五五年に退任し、一八六〇年に死去した。

注 290

[290] ブリュッセルの民衆が、国家の独立を掲げて蜂起したのは、八月二十五日だった。九月一日、国王の長男オラニエ公が、市の城壁の下まで来た。しかし、蜂起した人々と協定を結ぶのを恐れた父によって、呼び戻された。九月二十三日、弟のフレデリック公が市内に入ったが、四日間の戦いののち、撤退せざるをえなかった。続く十月三日、臨時政府は、ブリュッセルでベルギーの独立を宣言した。

注 291

[291] ジャック・ラフィット。一七六七年生まれ。一七八八年、銀行家ペルゴーの事務所に入り、全面的な信頼を得て、共同経営者となった(一八〇〇年)。ペルゴーの死後、事業を継ぎ、一八〇九年にフランス銀行の理事、一八一四年に総裁、一八一五年に代議院の議員となった。一八一六年と一八一七年にも再選された。七月革命後、八月十一日の内閣に入り、次いで一八三〇年十一月三日の内閣を率いた。一八三一年三月に退任した。一八三七年の短い中断を除き、つねに代議院へ再選され、死去する一八四四年まで、反対派の中で議席を保った。

注 292

[292] マクシミリアン・ラマルク伯爵。一七七〇年生まれ。一七九一年、志願して入隊し、一八〇一年に陸軍少将、一八〇七年にナポリ軍の参謀長、同年に陸軍中将となった。百日天下では、パリ総督、次いでヴァンデ軍の最高司令官に任じられた。第二次王政復古で追放され、一八一八年にフランスへ戻り、一八二八年に代議士に選ばれた。反対派の最も活発な議員の一人だった。一八三二年、コレラで死去。葬儀は、騒然とした示威行動と、流血の暴動のきっかけとなった(六月五、六日)。

注 293

[293] フランソワ・モーガン。一七八五年生まれ。一八一三年、パリの弁護士となり、一八一五年にラ・ベドワイエール氏を弁護した。王政復古期の政治裁判の大半で弁論した。一八二七年、コート=ドール県から代議士に選ばれ、その後、一八五一年まで、絶えず代議院に議席を持った。一八三〇年には、急進的な反対派に属し、ラマルク将軍の友人だった。一八五四年六月四日に死去。

注 294

[294] タレーラン氏から外務大臣への公信、とりわけこの書簡は、パラン氏によって、すでに公表されている(『ロンドンにおけるタレーランの大使活動、一八三〇―一八三四年』第一部)。その一部が、『回想録』に再録されている。該当箇所で、二つの本文の異同とともに示すこととする。

注 295

[295] ヴィクトル=ルイ・リゴー、ヴォードルイユ子爵。一七九九年生まれ。王政復古の下で外交に入り、ハーグ、カッセル、ロンドン、リスボンで書記官を務めた。一八三〇年には、ロンドンの一等書記官だった。ほどなく、ヴァイマル、次いでミュンヘンの公使に任じられ、同地で死去した(一八三四年)。

注 296

[296] 別本文では、「大変満足」。

注 297

[297] 公文書館の本文では、この語は削られている。

注 298

[298] 一八一五年、ベルギーにも適用されることになったばかりのオランダ憲法は、ベルギーの有力者たちの承認に付された。七九六票対五二七票で否決され、多数派のうち一二六人は、特に「宗教に関する条項を理由に」投票したと述べていた。

注 299

[299] 付録四五〇頁、タレーラン公からアデライード王女への書簡(十月七日)。

注 300

[300] この日(十月六日)までに政治クラブが閉鎖されたというのは、正確ではなかった。その前の九月二十五日、確かにこの問題について議院で議論が始まり、ギゾー、デュパンの両氏は、内閣に断固として行動するよう勧めていた。しかし大臣たちは、約束することを拒んだ。それでも同日の夜、モンマルトル通りで会合していた人民の友の会は、近隣の住民に押しかけられ、解散させられた。

注 301

[301] これらの書簡は、付録四四七頁と四五〇頁を参照されたい。

注 302

[302] この公信は、すでに公表されている。

注 303

[303] 別本文では、「私は、非難するべきではない」。

注 304

[304] 別本文では、「送られていた」。

注 305

[305] 別本文では、「得た」。

注 306

[306] 公文書館の本文では、この部分は削られている。

注 307

[307] タレーラン氏は、この出来事に気分を害していた。(十月七日付、アデライード王女への書簡を参照。付録四五〇頁。)

注 308

[308] 別本文では、「われわれには」。

注 309

[309] テルセイラ島(アゾレス諸島)は、ドン・ミゲルの王位簒奪中、ドナ・マリア女王の政府の所在地だった(一八二九―一八三三年)。三四九頁と、その注を参照されたい。

注 310

[310] 別本文では、「あなたに」。

注 311

[311] アデライード王女が、公に対して、この気持ちを代弁していた(付録四五二頁、十月八日付で公に送った書簡を参照)。――タレーラン氏は、自分を弁明するため、二十九日に返答した。四五六頁。

注 312

[312] フレデリック=ウィレム=カレル、ネーデルラント王子。ウィレム一世の息子で、一七九七年生まれ。父によって、陸軍部門の総管理者と海軍大将に任じられた。一八三〇年、ブリュッセルに対して行動する軍の指揮を任され、九月二十三日に市内へ入ったが、四日間の戦いののち、撤退せざるをえなかった。

注 313

[313] シャルル・ブレッソン伯爵。一七九八年生まれ。王政復古の下で外交に入った。一八三〇年、ロンドンの一等書記官、一八三三年、ベルリンの代理公使に任じられた。一八三四年十一月、外務大臣となり、フランス貴族院議員に任じられた。一八四一年、マドリードへ大使として送られ、一八四七年にはナポリへ送られた。同地で、到着の数日後に自ら命を絶った。

注 314

[314] 大臣たちの裁判は、十二月十五日、貴族院で始まることになっていた。

注 315

[315] ポッツォ・ディ・ボルゴ伯爵は、当時、パリ駐在のロシア大使だった。

注 316

[316] タレーラン氏は私信の中で、ウェリントン公の大きな影響力、ヨーロッパでの信望、そして会議の開催地をロンドンに定める必要を、日々強調している。特に、アデライード王女への十月十五日付の書簡(付録四五三頁)、およびヴォーデモン夫人への十月十五日、十九日、二十二日付の書簡(付録四五四、四五五頁)を参照されたい。

注 317

[317] ポルトガルの状況を理解するため、ここでは、出来事を少し前から振り返る必要がある。――ジョアン六世は、一八二一年に議会が課した憲法を受け入れ、施行したのち、一八二六年に死去した。二人の息子を残していた。長男ドン・ペドロは、王家がリスボンへ戻った際(一八二一年)、ブラジルに残り、自らをブラジル皇帝と宣言させた(一八二二年)。一八二五年には父と条約を結び、両国の分離が認められ、二つの王冠は、決して一つにしてはならないと定められた。次男ドン・ミゲルは、父の立憲への傾向に、つねに反対し、父に対して陰謀を起こしたことさえあった。

ジョアン王は、死に際し、王位に権利を持つ者が意志を知らせるまで、娘イザベル=マリアを長とする暫定摂政政府を置いていた。この曖昧な指名が、長い混乱を生んだ。一方、ペドロは、一八二五年の分離条約にもかかわらず、自らポルトガル王だと宣言した。しかし、ほどなく、臣民に新しい憲法を授けたのち、娘ドナ・マリア・ダ・グロリアに王位を譲った。娘の夫には、ミゲル自身を予定し、この結婚で、王家の二つの家系を和解させようと考えた。ところがミゲルは、従うふりをしたあと、母、叔父のスペイン王フェルナンド七世と協調し、ポルトガルに立憲思想が定着するのを好ましく思わない、ヨーロッパの主要宮廷の精神的な支援を得て、絶対王政の旗を再び掲げた(一八二六年十月)。初めは、ミゲル派が勝った。摂政イザベル=マリアは、ミゲルに権限を譲り、議会は、一八二八年七月、彼をポルトガル王と宣言した。全面的な内戦が起きた。ポルト市は、マリア女王を支持すると表明し、まさしく恐怖政治が国全体に広がった。しかし、皇帝ペドロは、娘の権利を武力で支えようとした。アゾレス諸島が女王への支持を表明し、立憲派の集結地点となった。一八三〇年三月、若い女王の名で、摂政政府が置かれたが、大陸の宮廷には、すぐには承認されなかった。ミゲルは、正統な王として、五千万の借款を交渉することさえできた。

七月革命の時点で、両派の立場は、このようなものだった。革命は、その余波によって、ポルトガルの状況も変えることになった。ミゲルは退かねばならず、一八三四年、マリア女王が王位に就いた。

注 318

[318] この公信は、すでに公表されている。

注 319

[319] この公信は、すでに公表されている。

注 320

[320] フェルナンド王が絶対的な権力を取り戻した後の反動によって、多くのスペインの自由主義者が、外国へ逃れていた。七月革命のあと、彼らは革命委員会を組織し、大胆な一撃を試み、武力でスペインへ侵入しようとした。マドリード政府は、パリとロンドンの政府へ抗議した。後者は、いくつか厳しい措置を取ったが、フランスの内閣は、この企てを止められなかったか、止めようとしなかった。フランシスコ・バルデス大佐と、有名なミナが、千五百人を率いてナヴァールへ入り、ウルダクスの町を占領した。この遠征は失敗に終わった。あちこちで敗れ、押し返された革命軍は、国境を越えて戻らざるをえなかった。

注 321

[321] 一八一五年の諸条約が、ネーデルラント王国を作った目的は、フランスと北方の列強の間に、障壁を設けることだけだった。そのため、新王国には、コルトレイク、トゥルネー、モンス、シャルルロワ、ナミュール、リエージュ、ルクセンブルク、フィリップヴィル、マリアンブール、ブイヨンからなる、強力な要塞線を確保した。フランスによるあらゆる企てを防ぐためのものだった。オランダ王は、この要塞群を、よい状態に維持しなければならなかった。同盟国の君主たちには、監視と査察の権利さえあった。一八一五年に作られた状態が失われれば、ヨーロッパは、つねに恐れられているフランスの侵出に対する、この貴重な保障を失うことになる。この要塞線が、まさにそれが備えていた相手国の友邦、同盟国となる新しい王国の手に落ちたら、どうなるのだろうか。

注 322

[322] 異文では、「あなたもきっと、……することが重要だとお考えになるでしょう」。

注 323

[323] この公信は、すでに公表されている。

注 324

[324] 異文では、「エディンバラ第一の銀行家のもとで。その名は、確かフォーブズだと思います」。

注 325

[325] タレーラン氏は、シャルル十世と王族、またその随員の暮らしについて、テュイルリー宮廷に、こまめに情報を伝えていた。とくに、付録四四九ページの十月二日付アデライード王女宛書簡と、四五二ページの十月八日付の王女の返事を参照。

注 326

[326] 異文では、思想の「広がり」を食い止める、という表現。

注 327

[327] 異文では、「パリの出来事について」の皇帝の考え。

注 328

[328] アンドレ=ジョゼフ・ド・マトゥシェヴィチ伯爵。当時、リーヴェン公大使の不在中、イギリスでロシア公使の職務を代行していた。一八一二年にワルシャワ大公国の財務大臣を務めたポーランド貴族、タデ・ド・マトゥシェヴィチの息子である。

注 329

[329] フリードリヒ=ヴィルヘルム(一七九五〜一八六一年)。フリードリヒ=ヴィルヘルム三世の息子。

注 330

[330] ジャン=ピエール=フレデリック・アンシヨン。ナントの勅令の廃止後、ベルリンへ逃れた、メッツ出身のプロテスタントの家に生まれた。一七六六年生まれ。初めは聖職を志し、哲学と歴史の著作で知られるようになり、一八〇六年、プロイセン王太子の教育係となった。のちに外務部門へ入り、政務局長(一八二五年)を経て、一八三一年六月に大臣となった。一八三七年に死去した。

注 331

[331] ヴィルヘルム・フォン・フンボルトは、この時、公職に就いていなかった。内閣を退いたばかりだった。その弟、著名な学者アレクサンダーは、七月革命のあと、ルイ=フィリップ王を正式に承認する役目を帯びて、パリに来ていた。

注 332

[332] クリスティアン・フォン・ベルンシュトルフ伯爵。一七六九年、デンマークの家に生まれた。初めベルリンとストックホルムでデンマーク大使を務め、一七九七年に外務大臣となった。一八一〇年に辞任し、一八一一年、パリ駐在大使に任命された。一八一五年、ウィーン会議でデンマークを代表した。一八一八年、プロイセン王に仕えるようになり、外務大臣に任命され、神聖同盟の各会議で国王を代表した。一八三〇年には、アンシヨン氏が補佐として付けられ、一八三一年、正式に後任となった。ベルンシュトルフ氏は、数か月後に死去した。

注 333

[333] 異文では、「危機の時期であり、ベルギーの出来事が、その危機を大いに複雑にしています」。

注 334

[334] フランシスコ・セア・ベルムデス。一七七二年生まれの、スペインの政治家。初め大使館書記官、次いでコンスタンティノープル、のちロンドンの公使となった。一八二四年、外務大臣の職を与えられたが、在任は一年だけだった。一八二八年、ロンドン駐在大使となり、一八三二年まで留まった。マドリードへ戻り、一時首相となったが、マルティネス・デ・ラ・ロサ内閣によって、自由主義の政策が勝利すると(一八三四年)、国外へ去らなければならなかった。スペインへ戻ったのち、一八四五年、上院に入り、やがて一八五〇年に死去した。[訳注23]

注 335

[335] 十一月二日、新内閣が旧内閣に代わった。構成は次のとおり。ラフィット、首相兼財務大臣。メゾン元帥、外務大臣。デュポン・ド・ルール、国璽尚書。モンタリヴェ伯爵、内務大臣。メリルー、公教育・宗教大臣。ジェラール元帥、陸軍大臣。セバスティアニ将軍、海軍大臣。

注 336

[336] 代議院は、当選の無効や辞職によって、この三か月に、百十三人の議員を失っていた。十月二十二日、補欠選挙が行われた。

注 337

[337] ニコラ=ジョゼフ・メゾン。一七七一年生まれ。一七九二年、志願入隊した。革命期のすべての戦役に参加したのち、一八〇五年、陸軍少将、一八一二年、陸軍中将、一八一三年末、北方軍総司令官となった。第一次王政復古では、フランス貴族院議員、パリ総督となり、百日天下の間は、身を引いていた。一八二八年、モレア遠征を指揮し、その功績で元帥杖を得た。一八三〇年十一月二日、外務大臣となり、ほどなくウィーン大使(十一月十七日)、次いでペテルブルク大使(一八三三年)に任命された。一八三五年、陸軍大臣に就くため、パリへ戻った(四月三十日)。一八三六年に引退し、一八四〇年に死去した。

注 338

[338] ハーグ駐在ロシア公使。

注 339

[339] クリストフ・アンドレイヴィチ・リーヴェン公。リヴォニアの貴族の家に生まれ、一八〇七年に将軍へ任命された。一八一〇年、全権公使としてベルリンへ赴き、そこから大使としてロンドンへ移り(一八一二年)、二十二年間、留まった。一八三四年に呼び戻され、皇太子アレクサンドルの教育係となり、一八三九年に死去した。

注 340

[340] 十一月二日。

注 341

[341] ディノ夫人は、この式典の様子を、アデライード王女へ書き送った。(付録四五六ページ。)

注 342

[342] 十一月四日に始まったロンドン会議では、イギリス、プロイセン、ロシア、フランス、オーストリア、ネーデルラントが、代表を出していた。

注 343

[343] アントワーヌ=シャルル・フィアクル・ド・ヴィシェ・ド・セル伯爵。一七七九年生まれ。ブラバントの三部会議員、ブリュッセル市会議員を務めた。ナポレオンは、国務院請願審査官、ロワール=アンフェリウール県知事、次いでゾイデルゼー県知事に任命した。一八一四年の出来事のあと、ネーデルラント王の臣民となり、一時、州議会に選ばれた。一八三〇年、ベルギーで、ヌムール公を王に求めるフランス派の先頭に立った。しかし、レオポルド王は、フランスへ全権公使として派遣した。ほどなく帰化し、一八三三年、国務参事官となった。一八四一年に死去した。

注 344

[344] 九月二十五日にできた暫定政府を構成していたのは、オーグヴォルスト男爵、シャルル・ロジェ、フェリックス・ド・メロード伯爵、ジャンドビアン、ヴァン・ド・ヴェイエル、ジョリー、ヴァンデルリンデン、ニコライ、ド・コパンの各氏だった。三日後、ド・ポッテル氏が加わった。

注 345

[345] この公信は、すでに公表されている。

注 346

[346] 異文では、「私たち」ではなく「公」。

注 347

[347] アントン・ラインハルト・ファルク男爵。オランダの政治家。一七七六年生まれ。初め、マドリードで大使館書記官を務めた。ルイ王の即位の際、公職を離れ、フランス軍がオランダから撤退した一八一三年に、ようやく復帰した。その時、暫定政府の書記、次いで国務書記官となり、一八一八年、公教育・産業・植民地大臣となった。一八三〇年の革命後、ロンドン公使、次いでブリュッセル公使(一八四〇年)に任じられた。一八四三年に死去した。

注 348

[348] サー・トマス・カートライト。一七九五年生まれの、イギリスの外交官。とくにパーマストン卿と近く、国外で、その秘密の代理人を務めた。一八五〇年、ストックホルム公使在任中に死去した。

注 349

[349] 候補に挙がったのは、ウジェーヌ公の長男、オーギュスト=シャルル=ウジェーヌ=ナポレオン・ド・ロイヒテンベルク公、アイヒシュテット侯(一八一〇〜一八三五年)だった。フランス政府の反対によって、立候補は実現しなかった。

注 350

[350] 十一月十日付、タレーラン氏からアデライード王女への書簡を参照。(付録四五七ページ。)

注 351

[351] ヘンリー・ブルーム卿。文筆家、法律家、政治家。一七七九年生まれ。一八一〇年、議員に選ばれ、ホイッグ党の一員として議席に就いた。弁護士としては、夫のジョージ四世が王妃キャロラインに起こした訴訟で、王妃を弁護した。議会でも法廷でも、第一級の弁論家となった。一八二五年、グラスゴー大学は、総長に選んだ。一八三〇年、ついに政権に入った。イギリス貴族院議員、大法官に任じられ、グレイ卿の内閣に加わり、議会改革法案の成立に貢献した。一八三四年に退いた。死去する一八六八年まで、貴族院で、しばしば発言した。

注 352

[352] ウェリントンが拒み、ブルーム卿が改めて提起した議会改革法案は、ついに一八三一年三月一日、ジョン・ラッセル卿によって、庶民院へ提出された。百三の腐敗選挙区の代表を廃止し、都市の代表を増やし、有権者の数を大幅に増加させるものだった。一八三一年、貴族院に否決されたこの法案は、両院で採択されたのが、一八三二年六月七日だった。

注 353

[353] アンリ=シャルル=ニコラ・ヴァン・デル・ノート。ベルギーの政治家。一七三五年生まれ。一七八九年、オーストリアの支配を振り払おうとする熱意で、注目を集めた。ベルギーの大義に、イギリス、プロイセン、オランダの関心を引こうと努め、ブレダで、ヴァン・オイペン神父とともに、ベルギー亡命者の委員会を率いた。一七八九年十月二十四日、ベルギーの独立を宣言した。この試みは、初めは成功した。ブリュッセルへ入り、会議を召集し、その会議に、大きな影響力を及ぼした。しかし、一七九〇年十一月、オーストリア軍の接近に、逃れざるをえなかった。オランダへ避難し、一八二七年に死去するまで、再び話題となることはなかった。

注 354

[354] フィリップ・フェリックス・ド・メロード伯爵。ベルギーの古く著名な家に、一七九一年に生まれた。グラモン家の令嬢と結婚し、フランシュ=コンテに住んでいたが、革命の知らせに、ブリュッセルへ向かった。暫定政府に加わった。その名と影響力によって、摂政、さらには王位の候補に挙げられた。しかし、レオポルド王の選出に貢献し、その治世で、一八三九年まで、何度か大臣を務めた。その年に引退し、一八五七年に死去した。

注 355

[355] ルイ=ジョゼフ=アントワーヌ・ド・ポッテル。ベルギーの論説家、歴史家。一七八六年生まれ。政治活動を始めたのは、一八二八年になってからである。その姿勢によって、何度も有罪となった。一八三〇年、八年間の追放を言い渡されていたとき、革命が起きた。ブリュッセルへ戻り、共和派の先頭に立った。努力が無駄と知ると、一八三一年、パリへ戻り、そこから、レオポルド王の政策を、激しく批判した。一八三八年、ブリュッセルへ戻り、公職を離れて暮らし、一八五九年に死去した。

注 356

[356] ジャン=フランソワ・ティルマン。ベルギーの法律家、政治家。自由主義派の最も活発な一員で、一八三〇年、友人ポッテルとともに追放された。同年八月、ブリュッセルへ戻り、内務総監、憲法委員、内務大臣(一八三一年二月)、アントウェルペン州とリエージュ州の知事に任じられた。ブリュッセルの代議員だった。ブラバント控訴院の判事にも任じられ、一八四七年、裁判官の仕事だけに専念するため、政治活動から退いた。

注 357

[357] ヌムール公。

注 358

[358] カルロ=フェルディナンド、カプア公。一八一一年生まれ。両シチリア王フランチェスコ一世の息子。

注 359

[359] ヨハン・フォン・ザクセン。一八〇一年生まれ。アントン王の息子。バイエルン王の娘、アマーリエ王女と結婚した。一八五四年、兄の死後、王位に就き、一八七三年に死去した。

注 360

[360] オットー=フリードリヒ=ルートヴィヒ、バイエルン公子。一八一五年生まれ。ルートヴィヒ王の息子。一八三二年、ギリシャ王に選ばれたが、一八六二年、王位を捨てることを強いられ、一八六七年に死去した。

注 361

[361] この一節は、一八三〇年十月十五日付、アデライード王女への書簡からの抜粋である。[訳注24]

注 362

[362] 十一月十日に会議を始めた国民会議は、二十二日には、百九十七票中百七十四票で、統治の形態を君主制と宣言した。共和政への票は、十三票だけだった。十一月十一日、シュルレ・ド・ショキエ男爵が、議長に選ばれた。君主派の指導者の一人だった。のちに、会議の中で、ヌムール公選出を支持する動きを起こすのは、この人物である。

注 363

[363] エマニュエル・ヴァンデルリンデン、オーグヴォルスト男爵。ベルギーの将軍(一七八一〜一八六六年)。一八三〇年、ブリュッセルの国民衛兵を指揮していた。暫定政府の一員、ベルギー全土の国民衛兵の、終身総司令官に任命された。

注 364

[364] 皇帝レオポルトの息子で、ナポレオンの著名な敵手(一七七一〜一八四七年)。

注 365

[365] チャールズ・グレイ伯爵(一七六四〜一八四五年)。一七八六年、庶民院に選ばれ、フォックスと親しく結びついた。一七九二年から一八〇二年まで、ホイッグ党の先頭に立った。一八〇六年、この党が政権に入ると、グレイ卿は海軍卿となり、フォックスの死後、外務大臣となった。一八〇七年に退き、兄弟の後を継いで貴族院に入った。一八三〇年、グレイ卿は組閣を命じられ、その内閣は、一八三二年の短い中断を挟んで、一八三四年まで続いた。

注 366

[366] 国民会議が休戦を受け入れたのは、十一月十日である。休戦を課した十一月四日の議定書は、境界線を、「一八一四年五月三十日のパリ条約以前の、オランダの境界」と定めた。ブレッソン、カートライト両氏は、受諾の知らせをロンドンへ届け、十一月十九日にブリュッセルへ戻った。そして、十一月十七日の第二の議定書を、国民会議へ提出した。これも、暫定政府に受け入れられた(十一月二十一日)。

注 367

[367] 解放法案以前のアイルランドの状況は、知られている。七百万の住民のうち、ほぼ六百万のカトリック教徒には、選挙権も被選挙権もなく、自由業を営むことも、土地を所有することも、許されなかった。長い紆余曲折のあと、一八二三年、オコンネルの影響力と努力によって、カトリック協会という名の、大きな抵抗の組織ができた。それから、増し続ける騒ぎが、政府を恐れさせ、解決を早めた。解放法案は、すでに四度、庶民院で採択され、貴族院で否決されていた。ついに一八二九年、ウェリントンとピールが、成立させた(四月十日)。カトリック教徒は、市民となった。

注 368

[368] チャールズ・リッチモンド公。一七九一年生まれ。一八一九年、父の死後、貴族院に入り、一八三〇年、グレイ内閣の一員となった。

注 369

[369] ヘンリー・ジョン・テンプル、パーマストン子爵。一七八四年生まれ。一八〇七年、庶民院に選ばれ、同年、ポートランド内閣の海軍委員となり、一八〇九年、陸軍担当大臣となった。一八二八年まで、その職を保った。次いで一八三〇年から一八四一年、また一八四六年から一八五一年まで外務大臣、一八五二年から一八五五年まで内務大臣、一八五五年から一八五八年、そして一八五九年から、死去する一八六五年まで、第一大蔵卿を務めた。

注 370

[370] 当時、トーリー党は、実際には二派に分かれていた。強硬トーリー派は、いわば妥協を許さない一派で、カニング氏の融和策に加わることを拒んでいた。もう一方は、カニング派、すなわち穏健なトーリー派だった。

注 371

[371] 新内閣についての、タレーラン氏の印象は、十一月十九日付、アデライード王女への書簡を参照。(付録四五八ページ。)

注 372

[372] ウィリアム・ラム、メルバーン子爵。一七七九年生まれ。一八〇五年、庶民院に選ばれ、一八二八年、父の死後、貴族院に入った。一八三〇年に内務大臣となり、一八三四年、第一大蔵卿となった。短い中断を除き、一八四一年まで、内閣の首班であり続けた。一八四八年に死去した。

注 373

[373] フレデリック・ジョン・ロビンソン、リポン伯爵、ゴドリッチ子爵。一七八二年生まれ。一八〇六年、庶民院議員、一八〇七年、ポートランド内閣の植民地担当次官、一八一〇年、海軍委員会の委員、一八二三年、大蔵大臣、一八二七年、植民地大臣となった。同年、ゴドリッチ子爵の称号で、貴族院に入った。数か月、第一大蔵卿を務め(一八二七〜一八二八年)、次いで再び植民地大臣、一八三三年、王璽尚書、一八四一年、商務局長、一八四三年、インド統制局長となった。一八四六年に退き、一八五九年に死去した。

注 374

[374] ジョン=チャールズ・スペンサー、オルソープ子爵、のちスペンサー伯爵。一七八二年生まれ。一八〇四年、庶民院議員、一八〇六年、大蔵委員となった。一八三〇年に大蔵大臣となり、一八三四年、貴族院に入った。グレイ内閣の退陣時に、政務から退き、一八四五年に死去した。

注 375

[375] ジョン=ジョージ・ラムトン、ダラム伯爵。一七九二年生まれ。若くして庶民院に入り、一八二八年、イギリス貴族に叙せられ、一八三〇年、王璽尚書として、グレイ内閣に加わった。一八三六年、ペテルブルク大使、次いで北アメリカのイギリス植民地総督(一八三八年)に任命された。一八四〇年に死去した。

注 376

[376] ヘンリー=リチャード・ヴァッサル・フォックス、ホランド卿。著名なフォックスの甥。一七七三年生まれ。父の後を継いで貴族院に入り、一八〇〇年と一八〇七年に、王璽尚書を務めた。一八三〇年、ランカスター公領大臣となり、一八三五年の短い中断を除き、死去する一八四〇年まで、その職を保った。

注 377

[377] ジョージ・イーデン、オークランド伯爵(一七八四〜一八四九年)。一八一〇年、庶民院に入り、一八一四年、父の後を継いで貴族院に入った。一八三〇年、商務局長、造幣局長としてグレイ内閣に加わった。一八三四年、メルバーン卿の内閣で、海軍卿となった。一八三五年、インド総督に任命され、一八四二年まで、その職を保った。一八四〇年、再び海軍卿となり、数年後に死去した(一八四九年一月一日)。

注 378

[378] 十一月十七日。――同時に、陸軍では、ジェラール元帥が、スールト元帥に交代した。海軍では、ダルグー伯爵が、セバスティアニ将軍に代わった。

注 379

[379] ブラウンシュヴァイク公国で、蜂起が起きたばかりだった。一八二〇年の憲法の実施を拒んでいた公爵は、弟ヴィルヘルムに、統治を譲らなければならなかった(九月七日)。ヘッセン=カッセルでも、ヴィルヘルム方伯に対する蜂起が起きた。方伯はハーナウへ退き、そこから臣民に、非常に自由な憲章を与えた。ドレスデンとライプツィヒも、激しい蜂起の舞台となった。アントン王は、内閣を退かせ、憲法を約束しなければならなかった。

注 380

[380] イヴァン・ディービッチ=ザバルカンスキー伯爵。一七八五年生まれ。一七九七年に軍へ入り、一八〇五年、一八〇六年、一八〇七年の戦役に参加した。一八一二年、陸軍少将となり、一八一三年六月、イギリスとプロイセンとのライヘンバッハ条約に署名し、ライプツィヒの戦いのあと、陸軍中将に任命された。平和のあと、皇帝の大参謀本部の長(一八二〇年)、次いで元帥(一八二九年)となった。ポーランドとの戦争で、ロシア軍を指揮したが(一八三一年)、戦役の途中で死去した(六月九日)。

注 381

[381] パウル=アントン・エステルハージ・フォン・ガランタ公。オーストリアの外交官。一七八六年生まれ。初め、ロンドンの大使館書記官、次いでヴェストファーレン大使(一八一〇年)、ローマ大使(一八一四年)、ロンドン大使(一八一五〜一八一八年)となった。一八三〇年、ロンドンへ戻り、一八三八年まで留まった。一八四八年、バッチャーニ内閣に加わった。一八六〇年に死去した。

注 382

[382] ハインリヒ・フォン・ビューロー男爵。一七九〇年生まれ。一八一三年に入隊し、一八一四年と一八一五年の戦役に参加した。平和のあと、フランクフルトの全権委員に任じられた。一八一七年、ロンドン大使館の書記官となり、ベルリンへ戻って、外務省の枢密顧問となった。一八二七年、ロンドン公使に任命され、一八四〇年まで留まり、次いでフランクフルトへ移り(一八四一年)、一八四二年、外務大臣となった。一八四四年に退き、一八四六年に死去した。

注 383

[383] ドロテア・フォン・ベンケンドルフ、リーヴェン公爵夫人。一七八四年生まれ。十六歳でリーヴェン公と結婚し、一八二八年、ロシア皇后の女官に任じられた。公がペテルブルクへ呼び戻されると、パリに定住した。一八四八年、ブリュッセルへ退いた。パリへ戻り、クリミア戦争の始まった一八五四年まで留まった。その時、再びブリュッセルへ移ったが、ほどなくパリへ戻り、一八五七年に死去した。リーヴェン夫人は、ロンドンとパリに、多くの思い出を残した。最も著名な政治家たちと交際していた。カニング、のちにはグレイ卿が、サロンの最も熱心な常連だった。

注 384

[384] 四一四ページと、その注を参照。オラニエ=ナッサウ家の人々を、ベルギーのあらゆる権力から、永久に除外する問題を、ローデンバッハ氏が国民会議へ提出したのは、十一月二十三日である。百六十一票対二十八票で、除外が決定された。

注 385

[385] これらの点では、ブレッソン氏とタレーラン氏の書簡が、参照するのに貴重である。この交渉について、タレーラン氏の説明を補う書簡を、いくつか付録に載せた。(付録四五九、四六〇、四六五ページ。)

注 386

[386] パラン氏の集成には、引用されていない。

注 387

[387] ナッサウ家の除外を決めないようにという、フランス政府の強い要請を、ベルギー国民会議へ届けたのは、ラングスドルフ氏だった。この働きかけに、何の成果もなかったことは、すでに見たとおりである。(バクール氏の注。)

エミール・ド・ラングスドルフ男爵(一八〇四〜一八六七年)。一八二八年、フィレンツェの大使館書記官だった。七月の革命の際、セモンヴィル、ダルグー両氏とともに、シャルル十世へ、勅令の撤回を求めに行った代表団に加わった。ブリュッセルでの任務のあと、ローマ、トリノ、ミュンヘン、コンスタンティノープル、ベルリン、ウィーンで、順に書記官となり、次いで、リオデジャネイロ、バーデン、ハーグの代理公使となった。一八四八年に退いた。

注 388

[388] バイエルンのカール=テオドール公子、ルートヴィヒ王の弟は、この時、四十歳ではなく、三十五歳だった。一七九五年生まれで、一八七六年に死去した。

注 389

[389] ロンドン会議は、ギリシャ問題も決定しなければならなかった。ロシアとトルコが結んだアドリアノープル条約(一八二九年九月十四日)は、ギリシャの独立を宣言していた。いま必要なのは、この新王国の君主を見いだすことだった。ヌムール公、バイエルンのカール公子、その弟オットー公子、ヘッセン=ホンブルクの公子、ザクセンのヨハン公子、ザクセンのベルンハルト公、ザクセン=コーブルクのレオポルド公の名が、候補に挙げられた。最後の人物は、すべての列強に受け入れられさえしたが、王冠を断った(一八三〇年五月二十一日)。この問題が解決したのは、一八三二年、バイエルンのオットー公子が王位に就いてからである。[訳注25]

注 390

[390] アルジェ遠征の知らせは、イギリスで、不安の混じった激しい怒りをもって迎えられ、イギリス政府は、シャルル十世の政府へ、きわめて威圧的な抗議を述べた。ここで、イギリス大使が、ある日、シャルル十世から引き出した、毅然とした答えを思い起こすのも、無意味ではないかもしれない。国王は、こう言った。「大使、私が、あなたの政府のためにできることは、いま耳にしたことを、聞かなかったことにするだけだ」。七月の出来事が、この興奮を静めた。

注 391

[391] 異文では、「その権力があるので」。

注 392

[392] 異文では、「五大国」。

注 393

[393] すでに公表された、十二月一日付の公信からの抜粋。

注 394

[394] 異文では、「私は、氏に答えることができた」。

注 395

[395] 異文では、「……しようとするべきだ」。

注 396

[396] ポーランドの蜂起は、十一月二十九日の夜、ワルシャワで始まった。ポーランド全土が武器を取り、独裁官に任命された、フウォピツキ将軍の指揮下に入った。十か月の戦いのあと、ロシアが勝った。一八三一年九月七日、ワルシャワは陥落した。(蜂起の知らせが、パリで与えた印象については、十二月十二日付、アデライード王女からタレーラン氏への書簡を参照。付録四六二ページ。)

注 397

[397] 十二月二日付の公信。すでに公表されている。

注 398

[398] 異文では、「政治的な性格」。

注 399

[399] 異文では、「私は、喜んでいました」。

注 400

[400] フランクフルトのイギリス公使の任地に赴かなければならなかったカートライト氏の後任として、ポンソンビー卿が、会議の委員としてブリュッセルへ送られていた。(バクール氏の注。)

ジョン・ポンソンビー子爵。一七七〇年生まれ。一八〇六年、貴族院に入り、ホイッグ党の一員として議席に就いた。外交に入り、ブエノスアイレス、リオデジャネイロ、ブリュッセル(一八三〇年)、ナポリ(一八三二年)へ、代表として派遣された。次いで、コンスタンティノープル大使、ウィーン大使(一八四六年)に任命された。一八五一年に退き、一八五五年に死去した。

注 401

[401] 異文では、「この件について、私が申し上げることに」一致している。

注 402

[402] この組み合わせの最初の着想と、そのための交渉については、十二月十三日、十四日付、タレーラン氏からアデライード王女への書簡を参照。(付録四六三、四六四ページ。)

注 403

[403] すでに公表された公信である。続く十二月二十日、二十一日の公信も同じ。

注 404

[404] ヒューホ・ファン・ゾイレン・ファン・ナイフェルト男爵(一七八一〜一八五三年)。オランダの外交官。初め、パリ(一八〇五年)、マドリード(一八〇七年)の大使館書記官だった。ルイ・ボナパルト王の即位の際、職を退いた。一八一四年のあと、外交に戻り、ストックホルム、コンスタンティノープルの公使、ロンドンの全権委員となった。一八三三年、国務大臣、次いで外務大臣、最後に宗教大臣(一八四二年)となった。一八四八年に退いた。

注 405

[405] 異文では、「待つはずの」。

注 406

[406] 異文では、「明日」が加わる。

注 407

[407] 異文では、「委員」。

注 408

[408] ベルギーの独立は、一八三〇年十二月二十日の議定書に始まる。その重要性から、ここに掲載すべきだと考える。

五宮廷の全権委員は、ベルギー政府から、提案された休戦への正式な同意を受け取った。ネーデルラント王も、それを受け入れた。こうして会議は、流血を止め、自らに課した第一の務めを果たした。全権委員は、ベルギーに起きた騒乱によって、一八一四年と一八一五年の条約が定めた体制に生じた乱れを、正すため、今後取るべき措置を審議するために集まった。

この諸条約によって、ベルギーとオランダを統合した時、その条約の署名国、すなわち、いま全権委員が集まっている列強は、ヨーロッパに、公正な均衡を築き、全体の平和の維持を確かなものとすることを、目的としていた。

この四か月の出来事は、残念ながら、列強が、両国間に実現しようとした、完全で十分な融合が、得られなかったこと、今後は実現不可能であることを示した。こうして、ベルギーとオランダの統合の目的自体が、失われた。したがって、その統合が手段となるはずだった意図を実現するため、新たな取り決めに頼ることが、不可欠となっている。

オランダと統合され、ネーデルラント王国の不可分の一部をなしていたベルギーは、この王国の、ヨーロッパに対する務めと、条約によって他の列強に対して負った義務のうち、自らの分を果たさねばならなかった。オランダからの分離は、これらの務めと義務の、その分担を免れさせることはできない。

したがって会議は、ベルギーの将来の独立を、条約の規定、他の列強の利益と安全、ヨーロッパの均衡の維持と、最も適切に両立させる新しい取り決めを、議論し、共同で整えることに当たる。そのため会議は、ネーデルラント王陛下の全権委員との交渉を続けながら、ベルギー暫定政府に、できるかぎり早く、十分に広い訓令と権限を持つ委員を、ロンドンへ送るよう求める。その委員の意見を聞き、相談することで、上記の取り決めの最終的な採択を、容易にするすべての事柄を、進められるようにするためである。[訳注26]

この取り決めは、ネーデルラント王とドイツ連邦が、ルクセンブルク大公国について行使する権利に、何の影響も与えることはできない。

エステルハージ、タレーラン、ビューロー、リーヴェン、ヴェッセンベルク、パーマストン、マトゥシェヴィチ。

注 409

[409] 公文書館の本文では削除されている。

注 410

[410] 異文では、「考える」ではなく「備える」。

注 411

[411] 異文では、「そうであってはならない」ではなく「そうでありえない」。

注 412

[412] 異文では、「……あなたには、イギリスの支援を得て、仲介を申し出る時機をよく選び、最近の出来事を……へ向けることが、可能でしょう」。

注 413

[413] 異文では、「巧みに」組み合わせた働きかけ。

注 414

[414] 十二月二十六日、タレーラン氏が、この手紙へ送った返事を参照。(付録四六六ページ。)

注 415

[415] 条約の日付は、一八二七年七月六日であり、三日ではない。ポリニャック公、ダドリー卿、リーヴェン公が、ロンドンで交渉し、署名した。三大国は、両者へ仲介を申し出て、次の基礎に立つ取り決めを採用させると約した。ギリシャ人は、スルタンを宗主として、その下に置かれる。毎年、貢納金を支払う。自ら指名する文民の機関によって統治されるが、その指名には、オスマン政府も、一定の役割を持つ。――追加条項には、オスマン政府が、なお平和的な取り決めを拒む場合、署名国は、ギリシャを武力で支援すると加えられた。

注 416

[416] カポ・ディストリア。一七七六年、コルフに生まれた。トロイゼンの国民議会で、七年間の最高指導者に選ばれ(一八二七年三月三十一日)、一八二八年一月、ギリシャへ到着し、ほぼ四年間、権力を保った。一八三一年十月九日、暗殺された。

注 417

[417] 一八一五年の諸条約以来、イオニア諸島は、イギリスの保護下にあった。共和国として構成されていた。行政権は、イギリスが議長を任命する元老院に属していた。イギリスの委員が、外務大臣の役目を果たした。――一八六三年、諸島はギリシャへ戻った。

注 418

[418] ロンドン会議は、一八三〇年二月三日の議定書で、ギリシャが独立した君主国をなし、その北の境界を、アスプロ川の河口から、スペルヒオス川の河口へ至る線とすると決めた。同日の、別の議定書は、レオポルド公を、新国家の王として受け入れた。次いで二月十一日、公は会議へ覚書を送り、ヴロホス地域の境界と、オイテー山の山脈を、国境線とするよう要求した。さらに、あらゆる外国の侵攻に対して、十分な部隊による保障を求め、統治を始める最初の数年間は、補助金を与えるよう要求した。会議は、境界の問題で譲ることを拒み、公は、王冠を最終的に断った(五月二十一日)。

注 419

[419] すでに公表された公信である。

注 420

[420] アドリアノープルの講和条約(一八二九年九月十四日)。

注 421

[421] 公文書館の本文では削除されている。

注 422

[422] すでに公表された公信である。

注 423

[423] 外交委員会は、対外事務を進めるため、十一月二十日、暫定政府に任命された。ヴァン・ド・ヴェイエル委員長、セル伯爵、アルスコット伯爵、デストリヴォー、ノトンの各氏からなっていた。

注 424

[424] ジャン=フランソワ・ジャンドビアン。一七五三年生まれ。一七九〇年、ベルギーの国民会議に、エノーの代議員として入り、議長となった。フランスとの統合後、五百人会議と立法院に選ばれた。一八一五年のあと、ネーデルラントの議会に議席を持った。一八三〇年、ベルギー国民会議に選ばれ、最高齢の議員として、一時議長を務めた。のちに、モンス裁判所の所長に任じられ、一八三八年に死去した。

注 425

[425] このコンコルダートは、教皇レオ十二世の在位中、一八二七年六月十八日に署名された。ピウス七世と第一統領の間で結ばれた、一八〇一年のコンコルダートは、王国の南部諸州で、引き続き有効とし、北部諸州には、次の変更を加えて適用するとした。各教区に、参事会と神学校を置く。――司教座に空席が生じ、その後任を定める時、参事会は候補者名簿を示し、国王は、それを承認することになる。その承認を得て、参事会は、名簿から、望む者を選べる。その選出は、次いで、教会法上の任命のため、教皇へ付される。教皇は、使徒書簡によって、この規定を補い、最初の組織づくりにあたっては、ベルギー教会に、牧者を自ら与える権利を留保した。司教は、国王へ宣誓できたが、総代理、およびすべての主任司祭を、自ら選び、神学校に、完全な権威を持たねばならなかった。最後に、すべての聖職者は、王室から給与を受けることになっていた。

注 426

[426] 三二七ページを参照。

注 427

[427] 代議院を解散した、五月十六日の勅令。

注 428

[428] ブラジル皇帝である兄ドン・ペドロに対して、ドン・ミゲルを、多少とも公然と支援していた、ウェリントン内閣の政策を指す。

注 429

[429] 三二七ページを参照。

注 430

[430] 三四二ページを参照。

注 431

[431] ルイ=フランソワ・ベルタン・ド・ヴォー。『ジュルナル・デ・デバ』創刊者の弟(一七七一〜一八四二年)。一八二〇年、代議員に選ばれ、一八三二年、フランス貴族院議員となった。一八三〇年、ハーグへの任務を引き受けたが、ごく短期間で、パリへ戻った。

注 432

[432] 三五七ページを参照。

注 433

[433] 三四二ページを参照。

注 434

[434] 三二九、三四〇、三四三ページを参照。

注 435

[435] この手紙は、三四四ページを参照。

注 436

[436] 三二九、三四四、三五二ページを参照。

注 437

[437] モンテスキュー伯爵は、ナポリとローマの宮廷に、新しいフランス政府を承認させる役目を、負っていた。

注 438

[438] パリ駐在の、両シチリア王の大使。一八一四年から、その職にあった。以前、ロンドン大使を務め、一七九六年には、アクトン大臣が設けた国家委員会の長だった。

注 439

[439] 国王の副官アタラン男爵将軍は、ルイ=フィリップ王の即位を知らせるため、ロシア皇帝のもとへ派遣されていた。

注 440

[440] 三四八ページを参照。

注 441

[441] 三四八ページを参照。

注 442

[442] ロンドンの第二書記官、イポリット・ド・ラ・ロシュフーコー伯爵は、ベルリンの第一書記官に、任命されたばかりだった。

注 443

[443] 三四八ページを参照。

注 444

[444] 三四八ページを参照。

注 445

[445] 三四四ページを参照。

注 446

[446] 三七〇ページを参照。

注 447

[447] 三七九ページを参照。

注 448

[448] ウェルズリー侯(一七六〇〜一八四二年)。ウェリントン公の兄。元インド総督、元アイルランド総督。

注 449

[449] 三九六ページを参照。

注 450

[450] ヒル子爵将軍。一七七二年生まれ。革命期と帝政期の戦争の古参軍人だった。一八二八年、イギリス軍の総司令官となり、死去する一八四二年の、ほぼ直前まで、その職を保った。

注 451

[451] チャールズ・グラント、グレネルグ卿。一七八〇年生まれ。ウェリントン内閣で、商務局長を務めていた。インド統制局長として、グレイ内閣に加わった。

注 452

[452] フレデリック・ラム。一七八二年生まれ。メルバーン卿の弟。ウィーン大使(一八一三年)、次いでミュンヘン大使(一八一五〜一八二〇年)、スペイン大使(一八二五年)を務めた。一八四一年、ボーヴェイル卿の称号で貴族院に入り、一八四九年、兄の名を継いだ。一八五二年に死去した。

注 453

[453] 四〇九ページを参照。

注 454

[454] 四〇九ページ参照。

注 455

[455] モルトマール公。

注 456

[456] 四一八ページ参照。

注 457

[457] 四二〇ページ参照。

注 458

[458] 四二〇ページ参照。

注 459

[459] 四〇九ページ参照。

注 460

[460] ポリドール・ド・ラ・ロシュフーコー伯爵。ハーグの第一書記官。

注 461

[461] 四二九ページ参照。

注 462

[462] 閣僚たちの裁判は、十二月十五日に始まり、二十一日になってようやく終わった。その間、パリでは毎日のように暴動が起きていた。

訳注5

原文は否定が重なり、字面どおりでは「配慮を尽くさなくても全員の敬意を得られると考えた」とも読めます。続く二段落では、出席を拒もうとするロシア側の反対を乗り越えたことが述べられるため、訳文は「配慮を尽くす必要がある」と解釈しました。1891年刊本二十九頁も同じ表現です。

訳注6

原文の de quinze cent mille habitants は「百五十万人を削減」と直訳できます。ただし、前の交渉ではザクセン王に残す人口が百五十万人とされ、直後も「それよりさらに減らす」と述べられています。そのため、ここでは王に残る領内人口を百五十万人まで減らす条件と解釈しました。1891年刊本四十頁も de と記します。

訳注7

カスルレー卿の出発は、二月十二日付のこの書簡では「今朝」、二月十五日付の次の書簡では「今日十五日」とされています。日付と本文をそれぞれ原著どおりに訳し、どちらかを推測で訂正していません。

訳注8

この書簡は三月二十三日付で、ブリオンヌ夫人の死を「昨日」と述べています。一方、原注九十は三月二十九日死去とします。双方の記述を原著どおりに残しました。

訳注9

三月二十六日付のこの書簡は、条約に「今夜署名する」と述べます。一方、次の書簡は三月二十五日署名と記します。書簡の日付と記述に食い違いがあるため、双方を原著どおりに残しました。

訳注10

rien moins と形容詞を組み合わせた否定用法は、当時のアカデミー辞典に記載されています。それに従って「有用とは到底言えない」と訳しました。ただし、この書簡では直前に措置を「よい」と評しており、文章には解釈上の緊張が残ります。

訳注11

地の文は選挙人団の召集を八月十五日としますが、直後に引用する勅令は郡の選挙人団を十四日、その八日後に県の選挙人団を召集すると記します。それぞれの記述を原著どおりに訳しました。

訳注12

地の文はフランス側の回答を九月二十日付とします。一方、原注二百七十一は同じ回答を二十一日付とします。送付日と作成日の違いとは断定せず、双方の日付を原著どおりに残しました。

訳注13

直前の公信は十月二十三日付とされますが、ここでは「四日後」の公信を二十九日付としています。日数と日付の食い違いを推測で補正せず、原著の記述を保持しました。

訳注14

一八三〇年のこの文書はオットーを十歳か十一歳としますが、原注三百六十は一八一五年生まれとします。年齢と生年はそれぞれ原著の記述を残しました。

訳注15

この表ではオルソープ卿をインド統制局長、ホランド卿をランカスター伯領大臣とします。一方、原注三百七十四は前者を大蔵大臣、原注三百七十六は後者の職をランカスター公領大臣と記します。表の職名と原注の職名を、それぞれ原著どおりに訳しました。

訳注16

この書簡の日付は六月十一日ですが、冒頭でイギリス国王の死が述べられます。ジョージ四世の死は六月二十六日の英国議会記録で告知されています。書簡の日付を推測で訂正せず、そのまま残しました。

訳注17

電子本文の見出しは BESSON ですが、1891年刊本四百六十八頁は BRESSON と印刷しています。原注四百五十九および前後の書簡群も踏まえ、日本語では「ブレッソン」としました。

訳注18

原文は肯定形で「ルクセンブルクについて話をしたなら」、続いて「何も話していなかったことになる」と記します。1891年刊本四百六十八頁も同じ表現で、論理上のつながりは明確ではありません。否定語を推測で足さず、原文のまま訳しました。

訳注19

タレーランはこの書簡をロンドンから送っています。「パレ・ロワイヤルを一瞬も離れなかった」という表現は、1891年のアンガス・ホール夫人による英訳(三百二十四頁)でも、心から離れなかった意味で訳されています。ここでもパリの情勢への心配を述べる表現と解釈しました。

訳注20

ここに二度現れる地名の原綴は Eulin です。1891年刊本三十六頁も同じ綴りであるため、「オイリン」と音写しました。意図された地名や公家の名称を推測で別の綴りに置き換えていません。

訳注21

本文は一八一五年のロシア代理公使クリューデネルについて述べていますが、この原注は一八〇二年に没した同名の人物を説明しています。人物の同定に食い違いがあるため、原注をそのまま訳し、別の人物の経歴を推測で補っていません。

訳注22

この書簡は一八一五年の書簡群の原注として収められていますが、引用された書簡の日付は一八二五年と記されています。年は原著どおりに残しました。

訳注23

電子本文は Martinez de la Bosa としますが、1891年刊本三百五十九頁は Martinez de la Rosa と印刷しています。人名は刊本に従い「マルティネス・デ・ラ・ロサ」としました。

訳注24

この原注は書簡を十月十五日付としますが、本文は十一月十一日付の国王文書に答えています。原著の日付を推測で変更していません。

訳注25

この原注はオットーをカールの弟としますが、原注三百八十八と三百六十の系譜説明によれば、カールとオットーは叔父と甥の関係になります。原注間の食い違いを保ち、それぞれ原著どおりに訳しました。

訳注26

電子本文の déconcerter は、1891年刊本四百二十六頁では de concerter と分かれて印刷されています。刊本に従い、「議論し、共同で整える」と訳しました。

第三巻目次

第八部(続き)

ウィーン会議(続き) 三ページ

第九部

第二次王政復古(一八一五年) 一九一ページ

付録 三〇一ページ

第十部

一八三〇年革命(一八三〇〜一八三二年) 三二三ページ

付録 四四七ページ

印刷所

パリ、シェ印刷所。ベルジェール通り二十番地。――9370-6-91。

電子版の注

電子版の注:明らかに植字の際に生じた誤りは訂正した。原著の綴りは維持し、表記を統一していない。白紙ページの番号は、この電子版では再現していない。

訳注

原注の末尾には閉じ括弧「]」がある。訳文では表記のみ整えた。

訳注

原注は一八一〇年とするが、フレドリクスハムン条約が結ばれたのは、一八〇九年九月十七日である。

訳注

「従兄よ」は、国王が公爵などの高位の貴族に用いた、儀礼的な呼びかけ。ここで実際の従兄関係を示しているわけではない。

図版と出典

原刊本の出版社印。(本文の図版)

シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール、ベネヴェント公(F・ジェラールの作品による)。(本文の図版)