歴史 / Charles-Maurice de Talleyrand-Périgordタレーラン公回想録 第四巻Mémoires du prince de Talleyrand. IV.
歴史 / Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord
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原著・底本
- 原題
- Mémoires du prince de Talleyrand. IV.
- 著者
- Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord
- 底本
- Paris, Calmann Lévy, 1891, Volume IV
- 編者
- ブロイ公
- 編者
- バクール氏
- 原典の利用条件
- パブリックドメイン(米国)
Project Gutenberg 利用条件 - 収録範囲
- 1891年版第四巻の第十部(続き)・付録、原注410件、巻末目次・刊記、原刊図版2点。電子版の注は別区分で収録。日付・年代などの食い違いは訳注で示しています。肖像下部の小さな文字は判読できないため、訳を付していません。
日本語訳
表紙
- 画像
- 収録挿絵
- 利用条件
- パブリックドメイン(米国)
1891年版の収録肖像を表紙として使用しています。
追加日: 2026-10-11 / 更新日: 2026-10-11
1891年版第四巻の第十部(続き)・付録、原注410件、巻末目次・刊記、原刊図版2点。電子版の注は別区分で収録。日付・年代などの食い違いは訳注で示しています。肖像下部の小さな文字は判読できないため、訳を付していません。
標題・刊記
タレーラン公の回想録
アカデミー・フランセーズ会員ブロイ公の序文・注釈を付して刊行
第四巻
パリ 出版者カルマン・レヴィ
オーベール通り三番地、およびイタリアン大通り十五番地、リブレリー・ヌーヴェル

C・L
一八九一年
スウェーデンおよびノルウェーを含む、すべての国について、複製権および翻訳権を留保する。
第十部(続き) 一八三〇年革命(続き) (一八三〇―一八三二年)
タレーラン公の回想録

タレーラン公 駐ロンドン・フランス大使
一八三〇年革命(続き) (一八三〇―一八三二年)
一八三一年一月の初め、ベルギー問題のさまざまな論点を整理すると、われわれは各地で行き詰まっていた。ハーグではオランダ国王が、ようやくベルギーの独立を認める方向に傾きながらも、国境と債務の分割について、受け入れられない条件を付けていた。ブリュッセルでは国民会議が、なおもベルギーのフランス併合を議決すると脅していた。それは、ヨーロッパ全体の戦争を意味した。あるいは、ヌムール公を王位に迎え、フランスの保護によってルクセンブルク大公国の併合を確かなものにしようとしていたが、これも同じく戦争に通じた。パリでは、ザクセン=コーブルクのレオポルド公を選ぶことが、イギリスへの屈辱的な譲歩と見られるのを恐れていた。そしてロンドンでは、ロシアの全権代表たちが、君主からベルギーの独立を宣言する文書への署名を許される一方、その国の君主としてはナッサウ家の王子以外の選択に同意してはならないと、厳命されていた。
明確で断固とした方針によって、この迷路から抜け出さなければならなかった。私は会議に参加する他の三国に、君主の選択についてロシアが拒否しても、それを障害にしないよう提案することにした。各国が同時に承認する必要はなく、大国のうち四国が王国として認めれば、ベルギーは王国になるからである。ベルギー人とオランダ人の抵抗にも構わず、先へ進むよう強く求め、パリへ次のように書いた[1]。
「……もはや問題は、国境をどこに引くか、債務の負担をどれほど多くするか少なくするかということではありません。ナッサウ家かバイエルン家かということでもありません。問題のすべては、戦争を求める政策と平和を求める政策のどちらを採るかにあるのです。前者は、ベルギーをフランスに併合するか、ヌムール公の選出を受け入れるかすれば、必ずその望みを遂げます。後者は、会議が受け入れる意向を示しているナポリの公子を選ぶことで満たされます。ただしフランス政府は、断固とした態度を保ちつつ、ベルギーの意向を確かめなければなりません。セル氏が率直にその方針で動くなら、この案の実現に役立つでしょう。その場合、わが内閣は、ナポリの公子を選ぶという立場に立って、モーガン派とラマルク派と戦う用意をしなければなりません。ブリュッセルでもパリでも、必ずいくらかの反対が起こるからです。パリの陰謀家たちが、われわれを困らせようとヌムール公を君主に宣言させたとしても、国王が正式に拒否すれば、われわれは列強に対して困らずに済みます。いま受け取った二日付の外交報告にある、回答を引き延ばす方針は、各国政府の信頼に、たいへん手痛い打撃を与えるのではないかと危惧します。イギリスの政策を自分の手に握ろうと常に待ち構えているロシアは、この機会を利用して、当地で非常に大きな影響力を持つ団体の敵意を、極限まであおるでしょう。ですから、私がそう考えているように、国王が平和を維持するだけの力があるとお考えなら、ヌムール公の選出は、きっぱりと拒否しなければなりません。フランスには、広く行き渡った誤解があるように思います。大陸と戦争をしながら、イギリスとは平和を保てると考えているのです。しかしイギリスを戦争に加わらせないためには、われわれの尊厳と両立しないほどの犠牲が必要になることは確かで、それでも、おそらく十分ではないでしょう。到着したときには納得していなかったフラオー氏も、ついにはそう確信するようになりました[2]。したがって問うべきは、フランスに大陸と戦争をする力があるかどうかです。私は、あると思います。ですが、大陸とイギリスの双方と戦う力があるでしょうか。私は、ないと思います。わが国の新聞や議会の討論を読むと、そこを支配している驚くほどの無知、偏見、盲目的なうぬぼれに、恐ろしさを覚えます。当地では、われわれの討論の調子が悪くなっていると見ています。非難され、われわれの興奮を心配されてはいますが、恐れられてはいません。
これが、私の義務として隠してはならないことです。古い道筋を守っている人々を相手に、沸き立つ国の政務を担わなければならない、この立場の難しさについては、まだいくらでも付け加えられます。私の献身は、いつでも再び頭をもたげようとしている、イギリスの古くからの嫉妬と当地で戦う勇気を与えてくれます。自分の祖国に喜ばれるとは期待しないままに……。
ヌムール公の選出を拒否したあとも、ベルギーがその選択、あるいはロイヒテンベルク公の選択に固執するなら、ブリュッセルにいる英仏の委員を呼び戻し、ベルギー人からの連絡は、両国が一緒に受け取ることにしなければなりません。ベルギーがオランダとの戦争を再開するか、オランダがベルギーとの戦争を再開するなら、われわれは自国のすぐそばで戦争を起こしたくないのですから、どちらの国であろうと、攻撃を始めた側の港を封鎖する必要があります。それを済ませたら、静かに待ち、時間が何か道理にかなった解決をもたらすに任せるのです……。」
一月五日付のセバスティアニ将軍からの、次の返事を受け取ったとき、私は、これらの意見がパリでいくらかの効果を生んだと思った。
「公爵殿、
ベルギーに対してどの方針を採るかについて、われわれは一度も迷ったことがありません。ベルギーのフランスへの併合も、ヌムール公のための王冠も、ためらわずに拒否します[3]。なるほど、ベルギーを独立させる以外の取り決めのほうが、ヨーロッパの平和をいっそう確かなものにすると考えてはいました。しかし、その確信が列強、とりわけイギリスの考えにもなるまで待ちます。その時がどれほど遠くても、われわれは待つことができます。
フランス国王は、偉大な無私の精神と、模範となる政治上の誠実さを、ヨーロッパに示すでしょう。それが国王の固い意志です、公爵殿。そして国王は、そのことをあなたにお伝えするよう、私に命じておられます。ですから、その決意を何かが揺るがすのではないかと恐れることなく、この点について列強にはっきりと約束していただけます。平和は、公爵殿、あなたの仕事となるでしょう。そして、これほどの宣言のあとでは、その維持を危うくするものがあるとは、私には思えません。ベルギー人に対するわれわれの言葉は、いつも明確で断固としたものでした。彼らが愚かなことをしないよう、なおも期待しています。
国王は、あなたの高い英知と、国王への奉仕に尽くす献身を深く信頼し、王冠の尊厳と祖国の利益に関わる事柄で採るべき方針を、あなたに委ねておられます。」
この手紙の言明によって、国王の支援を頼りにできると確信した私は、セバスティアニ将軍や他の閣僚たちが、勢いに任せて行きすぎるかもしれないことを、それほど心配しなくなった。しかし、それは間違いだったことが、やがてわかる。ベルギー人の考えについては、告白すると、ほとんど気にかけていなかった。ブリュッセルに派遣された会議の委員の一人、ブレッソン氏は、決して好ましい色合いで彼らを描いてはいなかったのに、である。したがって私は、その側から用意されていた不意打ちを、予想していなかった。
ブリュッセルでは、ベルギー王位の新しい候補が、突然現れた。十四歳のバイエルンのオットー公子である。ブレッソン氏からこのことを知らされたセバスティアニ将軍は、公子がフランス国王の娘と結婚することが確かな合意になっていれば、フランス政府は、オットー公子の選出を嫌わないだろうと、ただちに氏へ書き送った[4]。ブレッソン氏は、国民会議の主要な議員たちに将軍の手紙を伝えた。それは、ほどなく公表され、印刷され、ブリュッセルの街頭にまで貼り出された。
会議とフランス政府の両方の権限を持つとされている使節が、そのような知らせを伝えれば、それは非常に重要な意味を帯びることになる[5]。
オットー公子の名が挙がっていると知るや、私は一月六日にパリへ、誰の賛同も得られないだろうと書いていた[6]。「……この公子が王位に就くには、顧問たちに取り囲まれなければなりませんが、その人数と人間関係のため、彼らはヨーロッパの各国政府に、何の信頼も与えません[7]。どのような決定がなされたか、まだ知らせはありません。しかし最後の急使が出発したときには、公子が選ばれる公算が大きいと伝えられていました[8]。公子は、まだ十四歳ですから、メロード氏がそのそばに置かれ、摂政の役目を果たすことになるはずでした。これほど重大な決断が、誰もが驚くほどの軽率さでなされたのです。第一に、バイエルン国王が同意するかどうかわかりません。第二に、新しい王国を子供の手に委ねるのは、あまり道理にかなっていると思えません。第三に、摂政政治から始まる新しい王制は、陰謀に取り囲まれかねません。第四に、メロード氏にはフランスに人脈があり、それが、おそらくは不当にではありますが、いくつかの列強を不安にさせるでしょう」と、私は述べた。
三日後の一月九日、ブリュッセルで起きたことの詳しい事情が会議に伝わると、私はパリへの外交報告で、この問題の進め方がロンドンでどれほど非難されているかを、あらためて述べた。それだけでは済ませず、国王の妹アデライード王女に、陛下へ伝えていただきたいことを書き送った。
「ロンドン、一八三一年一月九日。
ここ数日は、私のさまざまな苦労をお伝えして、王女様を煩わせることを控えておりました。申し上げなければなりませんが、政務の進行に大きな支障が生じるのを見ざるをえなかっただけに、私はいっそう心を痛めました。不信は増しており、フランス大使の立場が変わらないようにするには、多大な努力と、当地で私に寄せてくださっている信頼のすべてが必要です。私個人の感情など、取るに足りません。しかし国王への奉仕を損なうおそれのあることには、深く傷つきます。王女様には、その証拠をご覧いただきます。ブリュッセルに貼り出された手紙を私が知ったのは、外交団を通じてでした。これほど明白な事実を前に、私は非常に困りました。私の言葉にどうしても必要な信用を、この事実が奪うからです。同じ立場に置かれれば、他の人なら誰でも、おそらく職を去ったでしょう。会議の委員たちは、私の退任を恐れており、私が去れば、それは決裂の合図になると、何度も告げました。ですから私は残りました。個人的な考慮によって、政務の進行を少しも妨げたくなかったためでもあり、また、王女様の大使として、王女様が私に望まれたこの職を、そのように去れば、いくらかお悲しみを与えると思ったためでもあります。しかし、私の言葉に、その力を十分に取り戻させ、当地に集まっている列強にも、何らかの納得を与える方法が見つからなければ、私は有益な仕事をしながら、ここに残ることはできません。パリからの外交報告は、このことに触れていないのですが、新聞によれば、ブレッソン氏は許可なく、セバスティアニ将軍の手紙を貼り出させたようです。そこで私は、ブレッソン氏の無分別な熱心さを叱責し、氏をロンドンの職へ戻すこと、そして、ベルギー問題でフランス内閣は、列強の採る方針から離れて単独で進むつもりはないと、私が宣言するのを許していただくことを求めます[9]。また、私の外交報告をもっと注意深く読んでいただき、単なる提案と、最終的な決定とを取り違えないでいただきたいのです。そうすれば、そもそも存在しなかった議定書に、偏りがあると書き送られることもなくなります。ベルギー問題は、会議だけに委ねておく必要があります。さもなければ、われわれは、常に二重の策を弄していると非難されるでしょう。そうすることで国王も、パリであまりに騒ぎ立てているベルギー人たちの陰謀に、これ以上煩わされずに済みます……。」
バイエルンのオットー公子について、私が行わなければならなかった明確な言明に安心した会議の委員たちは、私の提案で、第九号議定書に署名した。その議定書では、われわれにとって、その問題は存在しないかのように脇へ置き、一方ではオランダ国王に、ベルギー人が苛立つ大きな原因の一つとなっていたアントウェルペン港の封鎖を解くよう、他方ではベルギー人に、マーストリヒトの周辺で続けている敵対行為をやめるよう、きわめて強く求めた。
私はパリに、ポンソンビー卿がブリュッセルで、ナッサウ家の公子たちのために行う働きかけを、すべて任せておくよう強く求めた。そうした試みが何の成果も生まなければ、イギリス政府は、私が依然として最も望ましい候補と考えているザクセン=コーブルク公を、いっそう強く支持するようになると確信していたからである。ブリュッセル国民会議の外交委員会は、その委員の何人かをパリとロンドンへ派遣し、われわれにとって最も都合のよい公子について、相談させることにしていた。私は、この代表団を頼みにして、道理にかなった選択を通そうと考えた。私の見通しは、間違っていなかった。代表団の中で最も聡明な人物、ヴァン・ド・ヴェイエル氏は、このときからコーブルク公と連絡を取り、公の立候補を妨げる、さまざまな出来事にもかかわらず、ブリュッセルで、その利益のために巧みに働いた。
私は、パリから毎日伝えられる不安を鎮めようと、一月十二日、王女様へ書き送った[10]。
「ここ数日、王女様にお便りしなかったのは、事情を十分に理解してから、お返事をしたかったからです。王女様は、ご親切にも助言をお求めくださっています。しかし、たいへん複雑であるばかりか、刻々と変わっていく情勢について、断定的にお答えすることはできません。イギリス人の遅さ、ベルギー人の移り気、オランダ人の頑固さ、自分たちの好み、しばしば利益にも反する譲歩に、ようやくのことでしか応じない人々と交渉しなければならないことが、すべてを難しくしています。前日に決まったことを、翌日にやり直さなければならないこともしばしばです。ブレッソン氏と、いつも同じ考えではないポンソンビー卿の手紙の影響を、新しい議論で打ち消す必要もあります。オラニエ公が当地にいることと、その影響力、グレイ卿の親しい友人であるリーヴェン夫人が、公に与えている支援。これらが、絶えず新しく生まれる障害です。私の心にある熱意と愛情ほど、誠実で強いものでなければ、くじけてしまうでしょう。いまのところ、はっきりとした助言を申し上げられるとは思えません。国王は、この一連の事柄で、実に見事な方針を採られました。あと数日、同じように節度ある行動を続けていただきたいのです。この短い間に、イギリス政府は、オラニエ公がベルギーで成功する見込みについて、もう一度思い違いを解かれると思います。そのとき、われわれは有利な立場と権威をもって、バイエルンの公子か、ナポリの公子、とりわけ後者を支持できるでしょう……。」
一月十三日には、再び王女へ、次のように知らせた。
「……ロンドン会議の遅さを、王女様が不快に思われるのは、よくわかります。国王とは違い、わが国でいつも急いで事を運ぼうとして、閣僚たちをひどく困らせる、政治の策士たちのせわしない動きや、しつこい要求に追い立てられてはいませんが、私も、それに劣らず困惑していると、あえて申し上げます。イギリス内閣が、何事も決して急がないのは、これほど迷惑な焦りに応じる必要がないからです。パリでは政府をせき立てることばかり考え、当地では引き止めることばかり考えています。また、交渉の進行を大いに妨げ、あらゆる種類の説明に多大な時間を費やさせるのは、ベルギー人が伝え、公表する話です[11]。彼らが公にする、正確とは限らない会話のすべてを説明し、政治の初心者である彼らが毎日犯す過ちを、できるだけ傷を小さくして修復しなければなりません。イギリス内閣は、ベルギー問題を二月三日までに終わらせたいと考えています。国王は、第九号議定書をご覧になり、障害があっても、われわれが何らかの結果にたどり着き、しかも皆が一緒に、そこへ至っていることを、おわかりになったでしょう。今日は会議がありませんので、ブライトンへ赴き、国王にご挨拶を申し上げ、外の空気を吸ってまいります……。」
ブライトンから戻ると、私はグレイ卿と長く話し合った。そのことを一月十七日、パリへ報告した[12]。
「……今朝、グレイ卿と、非常に長い時間お会いしました。私の考えを、きわめて明確に説明することができました。今月十四日、あなたからいただいたお手紙[13]と、当地で集めた情報が、その根拠となりました。その情報から、オラニエ公の情勢は、イギリス政府が思い込みたがっているほど、よいものではないとわかったからです。私はグレイ卿に、遅延によって人々の気持ちは変わってしまったこと、オラニエ公の支持勢力は、思われているほど強くないこと、カトリック教徒は公を望まず、今後も決して望まないこと、フランスへの併合を望む人々も、公に反対していることを述べました。いまの方向で進み続ければ、内戦のあらゆる惨禍に身をさらすことになります。ベルギーの内戦は、フランスにあまりに近く関わるため、ついには、あらゆる問題を複雑にせずにはおかないでしょう。いよいよ君主を選ばなければなりません。その君主は、カトリック教徒でなければならず、ザクセンのヨハン公子、バイエルンのオットー公子、ナポリのフェルディナンド公子の中から選ぶほかない、と述べました[14]。
そこでグレイ卿は、オラニエ公に会うことを重視したのは、公の可能性を最後まで確かめ、それが失われたあとで、ロシアが、もはや公をわれわれへの対抗候補にせず、われわれとともに進む決意をするようにするためだった、と答えました。バイエルンの公子については、なぜ国王の弟カール公子を優先しないのか、わからないと言いました。『それは、公子がフランスの先の革命に激しく反対したからです。反フランス政策が企てることなら何にでも加わろうとする公子を、自国の近くに置きたくはありません』と、私は答えました。『しかし、バイエルンのオットー公子は、あまりに若すぎる』と、グレイ卿は言い返しました。『王朝を摂政政治から始めなければならなくなります。そして誰が摂政になるのですか。われわれが、これほど不満を持っている、騒ぎ好きの人物たちの何人かでしょう。』『では、なぜナポリの公子を選ばないのですか。十八歳ですから、その不都合はありません』と、私は言いました。『まだ十七歳にすぎません[15]』と、卿は答えました。『それに、フランスとの結びつきが近すぎて、議会の前で、われわれを困らせずにはおかないでしょう。』私はグレイ卿に、それは実際には不都合ではないと指摘しました。ザクセン=コーブルクのレオポルド公が候補になったときにも、同じような反論ができたはずですが、それでも私は、ためらいませんでした[16]。そもそも、われわれの意図は、イギリスと合意することにあります。しかし、ベルギーがヨーロッパ、とりわけフランスを置いている、この危険な状態からは抜け出さなければなりません。イギリスとわれわれが選んだ人物は、間違いなく受け入れられるでしょう。そのためには、互いに譲歩する必要があります。『ナポリとバイエルンの公子たちを拒むために、あなたが挙げておられる理由は、十分ではないと思います』と、私は話を終えるにあたって述べました。『そのような理由でヨーロッパが戦火に包まれるなら、非難を向けられるのは、われわれではありません。』
この長い会話から、私には、オラニエ公の可能性が消えたあと、選択は、先に挙げた三つの王家の間で行われることになるとわかりました。私は、ナポリの公子のために力を尽くすつもりです。しかし会議の委員たちに対する自分の立場を守るためには、オラニエ公を選ぶ案の可能性が尽きるまで、任せておかなければなりません……。」
ベルギーの将来の君主を選ぶという、見てのとおり非常に複雑な問題と並んで、いや、それより重大な問題として、さらに差し迫った脅威があった。オランダ人とベルギー人の戦闘再開であり、それには必然的に、ヨーロッパ全体に及ぶ戦争が結びついていた。前に述べたように、オランダ国王は、その戦争がベルギーで自分の統治を回復させるだろうと考え、何よりもそれを望み、頑なに、その実現のために動いていた。スヘルデ川とアントウェルペン港を封鎖することで、ベルギーの商業全体を止め、ベルギー人の間に激しい怒りを引き起こした。ベルギー人は、報復として、少数のオランダ守備兵が占領するマーストリヒトの町を封鎖した。この二つの行為は、会議の仲介によって結ばれた休戦に、正面から反していた。そこでわれわれは、議定書の一つによって、オランダ国王には、遅くとも一月二十日までにスヘルデ川の封鎖を解くよう、ベルギー人には、マーストリヒト周辺の敵対行為をやめるよう、通告していた[17]。
しかし、まだ、どちらも従っていなかった。オランダ国王は、マーストリヒトへ軍隊を進めさせており、プロイセンは、この行動を助けることに、かなり前向きだった。ブリュッセルのボナパルト派と共和派は、スヘルデ川の封鎖が引き起こした怒りを利用し、マーストリヒト方面での敵対行為を促していた。そして戦闘が始まる時を待ち、その瞬間にフランスの援助を求めようとしていた。彼らも、オランダ国王と同じく、ただし別の目的で、全体に及ぶ戦争がフランス政府の転覆をもたらし、ベルギーが、共和国となったフランスに併合されることを望んでいたのである。
この危険に対処することが急を要した。会議はオランダ国王に、スヘルデ川の封鎖を解くよう、正式な命令を繰り返した。またベルギー人には、マーストリヒトへの攻撃の試みをやめなければ、英仏の艦隊によって、その港を封鎖させると警告した。会議の一部の委員は、ベルギー人のマーストリヒトへの進軍を阻むため、プロイセン軍を使うことを提案していた。しかし私は、断固として反対し、代わりに、ベルギーの港を封鎖するという威嚇を採らせた。この手段には、ウィレム王にアントウェルペンの封鎖を解かせるため、以前、私がオランダの港について提案したものと同じだという利点があった。そのうえ、一月二十日になっても、九日付のわれわれの議定書が実行されていなければ、私は、再びその手段を用いるつもりでいた。
タレーラン公からセバスティアニ将軍へ[20]。
「伯爵殿、
昨日の会議の議定書をお送りいたします。今月十日付、第七十号の外交報告でお伝えした考えを、私が守り続けた結果、全権代表たちに、ベルギーの中立を原則として認めさせることができたのを、ご覧いただけるでしょう。パーマストン卿が、力強く助けてくれました。私は卿に、いつも公正さと、非常に確かな平和への意向を見いだしています。
争いが長く、困難だったことは、申し上げるまでもありません。この決定の重要さは、会議の委員全員が、よく理解していました。そのため、会議は八時間半に及びました。
ベルギーの中立が認められたことにより、この国はスイスと同じ立場に置かれます。したがって、列強が一八一五年に採用した、フランスへの憎しみから築かれた政治体制は、覆されることになります。われわれの北の国境を絶えず脅かしていた、ベルギーの十三の要塞は、この決定によって、いわば崩れ落ち、われわれは、今後、厄介な足かせから解放されます。一八一五年に提示された屈辱的な条件は、当時、私が政務を退く決心をする原因となりました。それだけに今日、この方面でフランスの立場を立て直すことに貢献できたのは、私にとって、うれしいことだと認めます。
伯爵殿、あなたも私と同じく、この決定が平和の維持にもたらす、非常に大きな利益を認められるでしょう。ベルギー人は、独立した立場に置かれ、自分たちの記憶と慣習に調和する政治の形を自由に選べるようになれば、ヨーロッパを不安にさせなくなるでしょう。自分たちの愚かな行動の結果が、自分たちにしか返ってこないと知れば、間違いなく、もっと導きやすくなるはずです。フランスについては、この決定が、過去に対する見事な償いであり、未来の安全を保証するものだと受け止めてくれると、期待する理由があります。
議論の中で私が困難に遭ったのは、とりわけ議定書の最後の部分でした。そこには、他の国々も、認められたベルギーの中立に加わる自由を持つと、私の主張で盛り込ませました。これが将来、ルクセンブルク大公国という厄介な問題に、最善の解決を与えると考えたからです。同じ結果を予想したプロイセンの代表は、長く抵抗しました。しかし、ついに私が押し切り、その一節は、いくらか曖昧な形にはなりましたが、私の望みどおりに書かれました[21]。
なお、ドイツ連邦に属するルクセンブルク大公国の問題は、当地で扱うべきではありません。ここでは、利害関係を持つ人々が難題を持ち出すばかりで、それを解決する権限を持っていないからです。
議定書は、数日待ってからブリュッセルへ送ることを、パーマストン卿と合意しました。そこに挙げられている論点のいくつかを、先に解決するほうが適切だと、われわれは考えています……。」
この大きな勝利――今日でも私はそう考えている――は、パリとブリュッセルから絶えず伝えられていた不安を鎮めるのに、まさに好都合な時に得られた。その不安は、セバスティアニ将軍とブレッソン氏の、次の手紙に、ほぼ要約されている。
セバスティアニ将軍からタレーラン公へ。
「パリ、一八三一年一月十六日。
公爵殿、
昨日の議会の記録を、十分注意してお読みいただきたいと思います。一月十五日の、フランス代議院の会議です。一人のベルギー人の請願をきっかけに、ラマルク将軍は演説し、七月革命以来の政府の対外政策を検討しました。将軍が取り上げようとしていたのは、明らかにベルギー問題でした。その攻撃は激しく、われわれを戦争へ引き込むことを目指していました。私は挑戦に応じるのを拒み、代議院の全体が、私の自制を認めました。しかし、これらの問題に立ち入るつもりでいたドクトリネール派は、侮辱されたと言い、ギゾー氏が、長く演壇を占めました。モーガン氏は、激しく、情熱をこめて答えました。そして認めなければなりませんが、国内に大きく響き渡る、あの愛国心の琴線に触れたのです。デュパン氏の返答は、成功しませんでした。ラ・ファイエット将軍も、党派に関わる問題で、いつも見せる巧みさを示しませんでした。この会議が国民に及ぼす影響によって、政府は、できるものなら、さらに慎重な方針を採らざるをえなくなるでしょう。われわれは、フランスの利益と尊厳を傷つけないだけでなく、その誇り、そして、はっきり言えば、その願いにも配慮しなければなりません。
イギリス内閣が、いまベルギーで行っている試みは、隠さずに言えば、ヨーロッパの平和を危うくしています。オラニエ公には支持勢力があります。しかし、弱く、臆病で、敗れた勢力です。武力によってというより、国民の憎しみによって、敗れたのです。われわれは長く、公のために働き、公自身か、その子供たちのために、勝利を得ようと努めました。しかし、われわれの努力は、成果を上げませんでした。われわれの政策の基礎である、平和への誠実な願いが、ベルギーに対する行動を導いてきましたし、これからも導くでしょう。
オラニエ公は、イギリスの影響力に支えられて、活動を再開しようとしています[22]。われわれは、その動きには関与しません。しかし、そのあとに生じうる結果からは、無縁でいられないと、痛ましい気持ちで予想しています。ベルギー人の自由な意思が、オラニエ公を王位に迎えるなら、われわれは、その選択を尊重します。ベルギーの独立は、常に、われわれが尊重するものだからです。しかし、公爵殿、マクラガン氏が国民会議で行った提案が、どのような結果になったかは、ご覧になったでしょう[23]。
イギリス内閣は、ナッサウ家の排除以前のベルギーの状況と、現在の状況の間にある違いを、十分理解しているのでしょうか。当時なら、すべてが可能であり、許されていました。しかし今日では、ナッサウ家が排除されたあとに、休戦が結ばれ、列強の保証のもとに置かれました。オランダとベルギーの分離が宣言され、ベルギーの独立が認められたのです。たとえばオラニエ公が、オランダ軍の力を借りれば、どうして休戦、分離、独立の原則を損なわずに済むでしょうか。公は、ベルギー人の支持者たちを使い、ベルギーの征服を企てるのでしょうか。しかし、その場合には、臨時政府と国民会議の軍隊にぶつかり、内戦を始めることになります。そのような戦いが、自国のすぐ前で起こるのを、フランスは無関心に眺めてはいられません。そもそも、この内戦から何が生まれるか、誰がすべてを予測できるでしょうか。公爵殿、お認めください。この試みには、あまりに無分別な性格が強く、イギリスのような政府の、先を見通す賢明な考えによるものとは、私には認められません。それでも、グレイ卿とパーマストン卿の慎重さは、私を安心させます。誤った情報や、実現を焦るオラニエ公の期待に惑わされていた両卿も、国民会議でいま起こったことによって、目を開かれたでしょう。そして、ポンソンビー卿に与えた指示も、間違いなく撤回されたはずです。
われわれの態度は穏やかであり、行動は誠実なものになります。しかし、われわれの不安も、容易に理解されるでしょう。これほど重大な状況では、会議の立場も、公爵殿、あなたの立場も、たいへん難しいものです。あなたが示された以上に気高い人格と、優れた能力を示した人はいませんが、それでも、これらすべてに疲れを覚えられるのは、理解できます。ロンドンでは、ベルギーの大砲の音はフランスに響くこと、そして世界では、自分一人だけが分別を守っているわけにはいかないことを、決して見失わないでいただきたいのです……。」
一方、ブレッソン氏は、一月十七日、ブリュッセルから、私へ次のように書いていた。
「公爵殿、
あらかじめお知らせしなければなりません。ポンソンビー卿は、今夜、パーマストン卿へ、次のことを書き送ります。ナミュール、リエージュ、ユイの各要塞を、包囲に備えた状態にし、物資を補給するよう勧める通知が、フランス陸軍省からベルギー政府へ送られたという情報を、確かな筋から得た、というのです。この話に、何か根拠があるのか、私にはわかりません。また、正しいとすれば、ポンソンビー卿が、どうやって知ったのかもわかりません。しかし、あなたに説明が求められることもありえますから、先にお知らせしておくのが、慎重な対応だと考えました。
不満を抱く親フランス派は、スタッサール氏[26]を先頭に、われわれへの報復として、国民会議の不意をつき、ロイヒテンベルク公を突然選出させようとしています。ベルギー人が独立を示すには、もうこの方法しかない、というのを口実にするつもりです。私は、彼らが失敗することを願っています。少なくとも、そのために、力のかぎりを尽くします。
オラニエ公の支持派も、一方で準備を整えています。危機は近づいており、私も、決して安心してはいません。オラニエ公とレオポルド公について、あなたのお考えを知ることが、私には非常に重要です。われわれは強力な相手を敵に回しており、その相手は、パリからも強い支援を受けています。エクセルマン将軍[27]、ファブヴィエ将軍[28]、ラルマン将軍[29]が、身分を隠してブリュッセルに来ているという噂が、三日間流れました。いまでは、ナミュールとリエージュへ出発したと言われています。ヘントと当地で、オラニエ派の運動が起これば、フランスを支持する運動が爆発するのは、そちらの方面です。
当地で満足のいく解決にたどり着くには、ひどく苦労するでしょう。国民会議に足りないのは、善意というより、見識です。しかし、会議は、手のつけられない状態です……。」
これらはすべて、非常に複雑だった。この陰謀の迷路から抜け出すには、日々の出来事によって目的からそらされることなく、確固とした方針を守らなければならなかった。私の考えでは、われわれにとって、その方針は、イギリスとの固い結びつきを保つこと以外に、ありえなかった。両国の結びつきが、他の三国を抑え、平和を保証したのである。それに私は、ベルギーでナッサウ家への反感が強すぎて、オラニエ公を、そこへ復帰させることはできないと、完全に確信していた。したがって、イギリスに、その可能性を追わせておいても、危険はないと見ていた。イギリス内閣が議会に臨むためには、その可能性が尽き、実行できないと認められる必要があることを、私は知っていた。また、ベルギーの諸州と引き換えになっていた植民地を、イギリスが保持している以上、ある種の気兼ねから、オランダに対して、このような配慮の証を示さなければならないことも、わかっていた[30]。最後に、われわれが、オラニエ公の選出に公然と反対しないことで示した誠実さを、イギリス内閣が、後になって評価してくれることを、私は確信していた。こうした考えを支えに、私は、ベルギーの君主の選択を気にするよりも、この国をオランダから、さらに明確に、確実に切り離すことに、力を注ぐ決心をした。
一月二十日の議定書は、ベルギーの永世中立を宣言すると同時に、その分離の最初の基礎を定めていた。これを発展させ、オランダ国王に受け入れさせなければならなかった。国王は、スヘルデ川の封鎖を解くよう命じた議定書には、すでに従っていた。もっとも、非常に不承不承ではあった。こうして、ベルギー人を絶えず怒らせる原因が、一つ取り除かれていた。
私は、最良の道を選んだと思い、その道を積極的に進んでいた。そのとき、フラオー氏が、再びロンドンに現れた。セバスティアニ将軍の手紙を携え、私が、すでに忘却の中に葬られたと思っていた、例のベルギー分割案を、あらためて持ち出す役目を負っていた。フラオー氏は、その道中、中立の宣言をパリへ運ぶ急使とすれ違っており、したがって、その宣言を知らなかった。一月二十一日付のセバスティアニ将軍の手紙を材料に、ロイヒテンベルク公が選ばれる可能性がパリに引き起こしていた恐怖を、私にも抱かせようとしていたのである。フラオー氏は、この点を詳しく説くことになっていた。次が、その手紙である。
「公爵殿、
ベルギーの状況は、われわれと、ほとんど同時にお知りになったでしょう。国民会議が君主を選ぶのは二十八日であり、すべての事情から、その選択はロイヒテンベルク公に傾くのではないかと心配されます。ブレッソン氏には、公が選出されても、フランスは承認しないと、正式に宣言するよう命じました[31]。氏は、ヌムール公の選出も、ベルギーのフランス併合も認めないという拒否を、繰り返さなければなりません。しかしベルギー人が求め、フランス人が望んでいるのは、その併合なのです。ほどなく、おそらく、われわれは、それを妨げることができなくなるでしょう。阻止する努力は続けます。しかし、もはや、その効果を信じることはできません。この報われない戦いで、われわれの力は消耗しています。今日、フランスの願いを口にするのは、あなたが、その慎重さを最も高く評価し、人格を最も尊敬しておられる人々です。われわれの状況は、国王と閣議が、外交報告だけでは、あなたに忠実に伝えられないと考えるほどのものです。そこで国王の政府は、フラオー伯爵を派遣することに決めました。伯爵は、あなたに真実をすべてお知らせし、イギリス国王陛下にも、その事情をご覧に入れることができるでしょう。これが伯爵の任務です。そこから、国王とフランスへの奉仕に、最も役立つ結果を引き出すのは、あなたの役目です。長い手紙を書く必要はありません。知っておくべきことは、フラオー氏が、すべてお伝えします。時間は迫っています。一日一日、一時間一時間を有効に使い、ヨーロッパの社会秩序を救いうる唯一のもの、この平和を保ちましょう。
追伸。――二十八日という決定的な期限に、あまりに急かされたため、ロンドンへ人を送ることを決める前に、あなたにご相談することができませんでした。」
私がこの手紙を読んだあと、フラオー氏は、フランスとヨーロッパを救うには、ベルギーを分割する以外の道はないと、私に示そうとした。私は、この考えに断固として反対した。私には、政治的にも賢明でなく、実行も不可能と映ったからである。そのあと、セバスティアニ氏へ返事を書いた[32]。
「伯爵殿、
フラオー伯爵は、一昨日の晩、当地に到着し、あなたから託された、私宛の手紙を渡してくださいました。伯爵を、その届け役に選んでくださったことを、感謝いたします。
アントウェルペンの封鎖が解かれたことと、オランダ国王の怒りは、会議が、意図していたとおり、双方に十分厳しく接し、望んだ結果を得たことを示しています。
フラオー氏との会話から、私が当地で担当している政務についての、国王の政府の考えと意図、そしてフランス国内の人々の気持ちに関して、貴重な情報を得られました。ただ、私の二十一日付の外交報告が、あなたのもとに届く前に、氏がパリを出発されたことは残念です。その外交報告に記した、会議が採った決定の知らせは、国王と閣議の考えにも、ベルギーに対して採るべき行動にも、必ず影響を与えるはずです。私は、引き続き、中立の宣言を喜んでいます。この宣言を知った当地の政治家たちは、いまのところ、大いに賛同しています。誰もが、どの党派に属するにせよ、現代の文明にとって名誉となる、優れた政治上の行動と考えています。すべての要求とはいかなくても、少なくとも、重要な利益のすべてを調整しやすくするため、平和の維持を保証するものと見ているのです。付け加えなければなりませんが、この宣言に賛同する人々は、一人の例外もなく、そのすべてがフランスに有利だと考えています。
ベルギーの情勢が、いまの段階まで進み、フランスとヨーロッパを難局へ引き込もうとしているように見える中で、人々が、互いに正反対の解決案に飛びついたことは理解できます。しかし、中立が認められたことによって、今日では、その案の大部分が実行できなくなりました。そして私は、初め当地で、あれほど反対されていたナポリの公子の問題を、有利な形で再び取り上げることができました。アントウェルペンを自由港に、より正確には、ハンザ都市のような都市にすれば、この点で、完全な成功に至るとさえ思います。また、アントウェルペンを自由港としてベルギーに属させたまま、この結果を実現することも、まだ不可能だと決まったわけではありません。これが、議定書に署名した日から、私が進んでいる道です。反対のご命令をいただかないかぎり、その道を進み続けます。
この案には、大陸でイギリスに譲歩することが、どれほど不要かを示すという利点があります。大陸でイギリスに譲歩するという考えを、すべて退けるためにこそ、いま進めている方針を選んだとさえ、申し上げます。将来の裁きを顧みない政府と同じ列に、わが政府を置くことになると、私には思えるような条項に、国王とあなたの名が結びつけられることは、決して望みませんでした。
歴史は、イギリス人によるカレー占領が、そのあとに引き起こした難題を証言しています。またギーズ家が、フランスを、この恥辱から解放したとき、その周りを取り巻いた支持も、思い起こさせます。その教訓を、われわれは無駄にしてはなりません。同じ過ちは、同じ結果を生み、国王の政府の、あらゆる行動に結びついている、独立という花の輝きを曇らせかねません。国王の高い英知が、そのような考えに、長くとどまることを許さないのは、確かだと思います。わが国そのものに、直接の影響を与えるものでなくても、われわれの大陸政策の進め方に向けられる非難を、避けることはできないからです。
ベルギーのフランス併合が、フランスに利益をもたらすことを、否定しようとする人はいないでしょう。もっとも、フランスの政策についての私の考えには、ライン川沿いで領土を広げるほうが、よくかなっています。併合を実現した政府は、フランスの産業が、その中に不都合を見いだしたとしても、しばらくは人気を得るでしょう。そのことは認めます。しかし伯爵殿、提案されている代価で、その人気を買わなければならないなら、人気は、きわめて一時的なものになると、信じてください。このような行為によって、揺らがない評判はありません。テシェンの和約が、ロシア人をヨーロッパに引き入れたことを、非難しない人はいません。では、大陸にイギリスを引き入れた人々には、どれほど厳しい判断が下されるでしょうか。相手の本拠に手を出せないのなら、その相手と隣り合う立場に立ってはなりません。
伯爵殿、もし、あなたが当地の全権代表であったなら、どれほど長く、不幸な戦争を経ても正当化できないような文書に、決して名を署されないと、私は確信しています[33]……。」
この外交報告が、その宛先の人々を説得したかどうか、私にはわからない。しかし、少なくとも、厄介なベルギー分割案を、それ以上、耳にすることはなくなった。
すべての人に公平であるため、当時のパリの空気が、最も優れた頭脳をも混乱させるのは、それほど不思議なことではなかったと、言わなければならない。その証拠は、一月二十二日付でダルベルク公が私へ書き送った、次の手紙の、いくつかの箇所に見いだせる。
ダルベルク公からタレーラン公へ。
「親愛なる公爵殿、
当地では、何も立ち直らず、何も固まりません。ベルギー問題は、皆を危うくしています。まず、あなたの上司からして、そうです。上司と呼べる者がいるとしての話ですが。ラフィット氏をめぐる問題は、首相としての氏の信用を、あまりに失わせており、その上にあるものまで、大いに傷つけています。ティエール氏は、その醜い行いのため、後ろ指を指されています。
昨日、パスキエ氏とセモンヴィル氏と話しました。このすべてが、どうすれば持ちこたえられるのかと、問い合っていたのです。セモンヴィル氏は、『総裁政府の時代を、また見ているようだ』と言いました。仕事をしているのは、スールトだけです。国の財政を犠牲に、四十万の兵を編成しています。その軍が動けるようになったら、戦争なしに、維持できるでしょうか。戦争をすれば、略奪と徴発の仕組みを、また採用できるでしょうか。解けない問題です。権威がどこにもないため、無秩序と無政府状態が、幕の向こうに控えています。人々の心は、異様なまでに熱せられ、一八一四年と一八一五年にフランスが受けた侮辱と、ライン川の線を取り戻して復讐しなければならないという話しか、聞かなくなりました。それらは、すべて馬鹿げたことで、ついには国を混乱させると主張すれば、中国人のような現状維持論者とされるのです。
あなたのロンドン会議について、ブリュッセル国民会議は、たいへん奇妙な解釈をしています。もう終わってよい頃でしょう。ブリュッセルへ進軍し、この国民会議の存在を終わらせる軍の指揮官が、どうして見つからないのでしょうか。
ポーランドは、人々の心を大いに占めていますが、財布の中身までは奪いません。ポーランド委員会は、これまで六万フランしか集められず、そのうち二万フランは、ラ・ファイエット氏からのものです。
公爵殿、ギリシャに与える君主について、あなたは、どうお考えですか。ヴュルテンベルクのパウル公子[36]は、迎えられるのを待ちきれず、皆を煩わせています。当地では、誰もあまり耳を貸していません。バイエルンの公子が未成年であることは、カポ・ディストリアに有利に見えます。彼は、その地位にとどめておくべきでしょう。
ブイエ氏のカールスルーエへの任命と、アレー氏のフランクフルトへの任命は、非常に不評でした。後者は、できるかぎり連邦を分裂させるために、任じられたと見られています。私は、反対の効果を生むと思います。国王が、こうした人選を好まれる理由は、説明できません……。」
パリからのこうした話にも、ベルギー人のとんでもない行動にも、オランダ国王の頑なな抵抗にも、落胆させられずにいるには、相当の粘り強さが必要だった。それでも私は揺らがず、自分に定めた道を、断固として進み続けた。パリの無分別な思いつきにも、ブリュッセルで選出させようとしていたロイヒテンベルク公にも、構わなかった。公は列強に承認されないと、確信していたからである。そして会議に、ベルギーをオランダから分離する仕事を、確かなものにするよう急がせた。一月二十七日の会議では、その分離に関わる財政と商業の問題に取りかかり、後になって両国の真の利益を調和させるはずの、公平な取り決めによって解決した。この会議の議定書をパリへ送るにあたり、私は一月二十九日、次のように書いた[37]。
タレーラン公からセバスティアニ将軍へ。
「伯爵殿、
二十七日の会議の議定書を、お送りします。オランダとベルギーの分離に関わる、財政と商業の問題を、いくつか扱っています。この文書は、ヴェッセンベルク男爵とマトゥシェヴィチ伯爵が起草しました。両氏は、分離のために提案する措置を、以前、両国の統合を導いたのと同じ原則に結びつけるべきだと考えました。この二人の全権代表、とりわけヴェッセンベルク氏は、この問題について、われわれ全員、ことに私に欠けている知識を持っていました。なお、この文書をブリュッセルの委員へ送るにあたり、ベルギー政府へ渡すのに、最も適した時期を、自ら判断してよいという指示も付けました。この議定書が、ブリュッセルで新たな難題を引き起こす可能性もありますので、委員たちが、最もよく接触している人々の意見を探ったあと、どのように行動したかを知るまで、公表を遅らせるよう、お勧めします[38]。
この議定書で扱った、いくつかの問題については、多くの議論が起こるでしょう。しかし、われわれは、両国の必要の大部分を満たしていると考えました。オランダ国王は、ベルギーとの関係が、絶え間ない難題を生み、ついには克服できなくなることを避けられる程度に、よい扱いを受けています。他方、優れた工業家、生産者であるベルギー人は、販路を持つことになり、いつもフランスとの密輸に頼らなければならない状態には、置かれません。イギリスで、この分野に最も通じている人々の意見では、オランダに、さらに不利な別の基礎を選べば、この国は、押しつぶされるほどの莫大な負担によって、存続できなくなります。この点は、あなたの英知によってご判断いただくことです。きっと、高度な政治の問題に関わると、お考えになるでしょう……。」
こうした措置は、ベルギーの中立の宣言と同じく、当面、パリの焦りも、ブリュッセルとハーグの要求も、満たすものではないことは、よく予見していた。しかし肝心なのは、われわれとイギリスの良好な関係を保ち、それによって、両国で決めた、道理にかなった、できるかぎり公平な決定を、他の政府にも受け入れさせることだった。私にとって、それ以外は、二次的なことにすぎなかった。私は、フランスの真の利益を、それが実際に見つかると信じる場所に求めていた。国を破滅へ導くことしかできない、夢の中には求めなかった。
実際、全面戦争となれば、たとえ相手が北方の三国だけであっても、わが国には致命的だったはずである。戦争はたちまち革命戦争の性格を帯び、イギリスをわが国から引き離しただろうからだ。したがって、これほど不利な条件のもとでは、何よりも戦争を避けなければならなかった。ただし、フランスの名誉を傷つけず、むしろその利益になる手段で防ぐ必要があった。それまで私がしてきたことは、この目的にまったくかなっていた。人口七百万を擁し、わが国に向けて強力な要塞線を築いたネーデルラント王国に代わって、すでにその王国を二つに分け、わが国との国境に、人口四百万の中立国ベルギーを置くことができていたのである。当初、実現不可能だと嘲笑されたこの中立は、人々が考えるよりも確かであり、長く続くだろうと私は期待している。もっとも、フランスが全ヨーロッパを相手に全面的な革命戦争を企てないかぎりでの話である。健全な政治は、そうした戦争を計算に入れるべきではない。フランスがイギリスと戦うなら、ベルギーの中立を守ることについて、わが国はドイツと同じだけの利害を持つ。逆に、イギリスが加わらず、フランスがドイツと戦うなら、イギリスがベルギーの中立を守るだろう。したがって、どの場合にも、この中立は保障される。もちろん、何よりもまずわが国自身が、いつでもそれを尊重することが条件である。ベルギーの中立が確保されれば、ダンケルクからルクセンブルクまでの国境には、スイスの中立によってバーゼルからシャンベリーまでの国境に得ているのと同じ守りができる。ロンドンの列強会議でこの中立への同意を得てからは、正直に言って、ベルギーに君臨する君主が誰になるかは、私にとって以前ほど重要ではなくなった。誰が君主になっても、その第一の利益は、フランスに配慮し、良好な関係を保つことにあると、あらかじめ確信していたからである。何より必要だったのは、ベルギーとオランダの分離を、双方がともに存立できるほど公正な基礎の上に置くことだった。そうすれば、感情が鎮まるまでしばらく時を置いたのち、両国はふさわしい関係を取り戻せる。ロンドンでの任務中、私の努力はつねにこの目標に向けられていた。この点で私は誤っていなかったと思う。無駄ではないと思われるこの余談を終え、私の構想の実現をなお長く遅らせることになった出来事に戻ろう。まず、ブリュッセルから一月三十日付で届いたブレッソン氏の手紙を引用する。
「公爵殿、
当地の情勢は刻一刻と悪化し、人々の感情は激昂の極みに達しています。バイエルンの公子を推したのは、いつ恐ろしい案が飛び出すか知れないと予見したからでした。あの案なら、本来、中立で害のないものです。その時も申し上げたように、あらゆる危険が私たちを取り囲んでいました。今やそれが眼前にあります。残念ながら、反対の意思があまりにも早く示されたため、できあがっていた計画に代わって不確実な状況が生まれました。悪意ある者や陰謀家に、また活動の余地を与えてしまったのです。彼らはその時間を無駄にしませんでした。
六週間前、国家の元首を選ぶことにすべてを従属させるべきだと私が求めていた時に、ナポリの公子か、ほかの中立的な候補を適時に立てていれば、成功の見込みは十分にありました。しかし、そのためにはイギリスの協力と援助が必要でした。私たちはその協力も援助も得られませんでした。ロイヒテンベルク公に対抗するためでさえ、得られなかったのです。彼が勢力を伸ばすままにさせ、フランスに敵対しているからこそ列強の気に入るはずだという考えも、抑えませんでした。そして今日では、彼の成功を願い、そのために動く人々がいます。その結果、起こるべくして起こったことですが、フランスの友人たちは、私たちの以前の声明にもかかわらず、自発的に、彼に勝てる唯一の候補、ヌムール公を対抗させています。こうして私たちは、フランスに敵対する候補と、列強に敵対する候補との間に置かれました。どちらを選んでも、恐ろしい災いにしか行き着かない、過酷な二者択一です。
オラニエ公の見込みについては、初めから思い違いがありました。それが続いたのは、同じ立場の人々としか会っていなかったからです。確かに、世論がオラニエ公を呼び戻せば、すべての難問が解決したでしょう。私自身そう考え、あなたにもそう書きました。しかし、公爵殿、もはや単なる反感ではなく、怒り狂った状態になっていたのです。私は実に残忍な言葉を耳にしました。公が戻ってくれば最初の一撃を加えると、公然と名乗り出る不届き者たちまでいました。内戦なしにオラニエ公を迎えることは不可能でした。この民衆は理性にも利益にも従わず、激情に従います。あの狂信的な人々の中では、公の命は安全ではなかったでしょう。それでも、公を呼び戻せるという希望のために、私たちが示したあらゆる中間案が犠牲にされました。今や眼前には深淵しかありません。その挙げ句、どうしているでしょうか。自分の犯した過ちを、他人に押しつけようとしているのです。腹を立て、言葉の慎みも忘れています。しかし、節度を取り戻せとたしなめられないよう、気をつけるべきでしょう。
公爵殿、事態があまりに重大なので、私はパリへ赴き、国王と大臣に自ら説明すべきだと考えました。往復にかかったのは、わずか六十六時間です。私の留守中、一月二十日の議定書、つまり中立についての議定書がポンソンビー卿に届き、卿から伝達されました。信じがたいことですが、そこには偉大な考えが込められ、感謝と称賛を呼ぶはずだったのに、実際には怒りを引き起こしています。この一事だけでも、あの人々がどんな人物かお分かりになるでしょう。同封の新聞に詳しいことが載っています。明日か明後日、国民会議で抗議文が審議されます[39]……」
この手紙を引用したのは、ブリュッセルの情勢を示すとともに、感情に駆られすぎた使節の報告がしばしばどれほど危険かを明らかにするためでもある。ブレッソン氏が有能で聡明な人物だったことは確かである。しかし、自分を委員として派遣した会議の許可も得ず、バイエルンの公子の立候補を支持した過ちを、正当化しようとしていた。そのため、同僚のポンソンビー卿を激しく非難し、ブリュッセルの人心を、明らかな誇張を交えて、燃え立つような筆致で描く必要があったのだ。彼はパリへ足を運び、そこでその言葉はすべて信じられた。やがて、その余波がロンドンの私にも及んだ。幸い、他人の時ならぬ熱情のために、私は気を落とすことも、自分の計画からそれることもなかった。ベルギーの君主選びについて、私の考えはしっかり定まっていた。私の候補はザクセン=コーブルクのレオポルド公であり、終始変わらなかった。この問題をめぐって各地で騒ぎが起こっても、私は動じなかった。私の期待は、第一に、ルイ=フィリップ国王が息子のヌムール公のために王位を受けることを拒むこと、第二に、列強がロイヒテンベルク公を退けること、第三に、ベルギー人がオラニエ公を呼び戻すために一致することは決してない、ということだった。そこで、この点にとらわれることなく、すでに述べたように、私が真の問題だと考えたこと、すなわちベルギーとオランダを完全に分離し、二度と元に戻れないようにすることを進めようとした。しかし、この点では落ち着いていたものの、ほかには心配が尽きなかった。二月いっぱい、フランス国内の出来事の進み方と、フランス政府のためらいについて、絶えず不安を抱いていた。ここには、いくらか説明が必要である。
すでに述べたとおり、会議は一月二十七日の議定書で、オランダとベルギーの間の債務分担と、そのほかいくつかの通商上の取り決めを定めていた。この議定書は本質的に暫定のものだった。国境については、唯一採用できる基準である一七九〇年の両国の状況に基づいて定めていたが、それ以外は議論の余地があり、双方から示される説明に応じて変更できたのである。
私はその趣旨をパリへ書き送っていた。しかし、パリでは熱心にベルギー側だけの肩を持ち、議定書の取り決め案はベルギーにあまりに不利だとして非難していた。署名を加えた私自身も、非難された。
この議定書への署名から数日後、会議の数名の委員は、ブリュッセルからの報告に驚き、フランスがヌムール公の選出を目指して絶えず画策していると述べた。そして二月一日、かつてギリシャの君主選びで行ったことにならい、五大国の正式な誓約を記す議定書を作るよう提案した。ロンドン会議に代表を送っている五つの宮廷の、現在君臨している王家の公子からは、いかなる場合もベルギーの君主を選ばないという誓約である。私は、この議定書への署名を明確に拒んだ。当時、実際に適用されそうなのはフランスだけであり、フランスに対する不信の表明に見えたからである。
以下を理解するための説明は、これで済んだ。ここからは、二月中に私が書いた外交報告と、送った手紙、受け取った手紙の抜粋を、日付の順に挿入することにしよう。出来事の推移は、そこからはっきりたどれるはずである。
タレーラン公からセバスティアニ将軍へ[40]
「ロンドン、一八三一年二月一日
伯爵殿、
今日の会議は夜八時半まで続き、私はいま戻ったところです。お送りする使者は、潮の時刻に合わせて急がなければならず、手紙を書く時間がほとんどありません。それでも、同封する議定書をお読みになれば、私が署名を拒んだことがお分かりになりますので、その理由を説明する必要があります。
イギリスの全権代表が、会議で採用され、この議定書に記された意見を述べた時、私は反対し、こう申し上げました。この決議は、フランスに直接向けられた措置としか見られず、列強の間の良好な協調を保つのに役立つとは思えない。そもそも、その根拠とされている第十一号、第十二号議定書の文言自体が、五大国の考えを十分に明らかにしている、と。実際、それらの議定書には、次のように記されています。
『第十一号議定書――全権代表は、五大国が、自国の利益を正しく理解すること、その団結、ヨーロッパの平穏、および十二月二十日の議定書に記された意図の実現のために、厳粛な意思表示と明白な証しを示す義務があるとの意見で一致した。すなわち、ベルギーに関する取り決めにおいても、今後起こりうるあらゆる事態においても、領土の拡大、排他的な影響力、または一国だけの利益を、いっさい求めないという固い決意を示すものである。』
『第四十二号議定書――ベルギーの君主は、その個人的な立場から、近隣諸国の安全を保障できる者でなければならない。』[訳注1]
伯爵殿、これほど明確に定めたあとでは、新たな説明を加える必要はないと私は考えました。そこで、国王の政府に照会し、訓令を仰ぎたいと求めたのです。ほどなく、あなたから訓令をお送りいただけるものと思います。
パーマストン卿が言及した、ギリシャに関する議定書の条項は、一八二九年三月二十二日付で、次のように記されています。『いかなる場合も、署名国の宮廷に現在君臨している王家の公子から、元首を選ぶことはできない……』」
ブレッソン氏からタレーラン公へ
「ブリュッセル、一八三一年二月三日
公爵殿、
本日午後、正確に四時二十五分、ヌムール公殿下がベルギー人の王に選ばれ、その旨が宣言されました。
第一回投票の投票者は百九十一名でした。ヌムール公は八十九票、ロイヒテンベルク公は六十七票、オーストリアのカール大公は三十五票を得ました。当選には百一票が必要でした。[訳注2]
第二回投票には百九十二名が参加し、必要な絶対多数は九十七票でした。ヌムール公は、ちょうどその票数を得ました。ロイヒテンベルク公は七十四票、大公は二十一票でした。
国民会議の議長は、会議の定めた憲法を受け入れることを条件として、ヌムール公をベルギー人の王と宣言しました。
市内はこの上なく熱気に満ち、それでいてこの上なく平穏です……」
タレーラン公からセバスティアニ将軍へ[41]
「ロンドン、一八三一年二月四日
伯爵殿、
昨夜、一月三十一日付のお手紙を、今朝、二月一日付のお手紙を受け取りました。さっそく、お返事いたします。
まず、同封した第十二号議定書の付属文書をご覧になれば、あなたの外交報告で挙げられた異論のいくつかは、この付属文書に含まれる原則によって、すでに解決されていたとお分かりになるでしょう。これをもっと早く送れなかったのは、会議の事務局から発送できたのが、ようやく昨夜だったからです。ご覧のとおり、採用した方式からあまり離れないよう、財政と通商に関する第二項には『取り決め案』という題を付けています。これにより、当事者には新たな説明を提出する時間と手段が残されています。この題は、議定書に列挙した問題をすべて、私たちだけの権限で決着させるつもりではなかったことを、明確に示しています。これはまったく明らかです。実際、ブリュッセルの委員に与えた訓令でも、この議定書がどのような反響を生みそうか、接触している有力者たちに探りを入れるよう勧めています。同時に、いつこれを用いるのが適切かは、委員たちの慎重な判断に任せました。一月二十九日付の手紙でも、その趣旨をお伝えしました。
オランダ領の植民地との通商が認められても、ベルギーにはさほど重要でないというあなたの見解は、ロンドンのシティの有力商人たち全員の意見に反しています。とりわけ有能な商人たちにも意見を求めましたが、誰もが、この十五年間のベルギーの産業の発展は、その通商のおかげだと考えています。フランドルの両州からの請願も、この見解を裏付けています。この条件の実行にあたってオランダから予想される妨害は、最終的な条約を結ぶ際に、容易に取り除けると思います。その時に、オランダが逃れようのない保障を課せばよいのです。
あなたはそうお考えのようですが、ルクセンブルク大公国の問題を、私たちが決着させることはできませんでした。それを扱う権利と権限を持つ人々に、判断を委ねたのです。この点について、私の第七十四号外交報告に記した意見を、あなたが見落とされたはずはありません。
ベルギーの領土と国境を定めることについては、私たちがした以外のやり方は、不可能だったように思います。私たちはベルギーの独立を認めようとしていました。そのためには、ベルギーとは何なのかを明らかにし、独立させる国の国境を定めなければなりません。オランダとベルギーが別々の国家だった一七九〇年の国境以外を定めて、公正だと言えたでしょうか。しかも会議は、一月二十日の議定書で、最終的な取り決めを容易にするための飛び地の処理や領土の譲渡は、会議の仲介のもとに双方が決めると、明確に宣言しています。ご覧のとおり、これはあなたが会議に認めている権限の範囲内です。
伯爵殿、あなたは、国王の政府が一月二十七日の議定書に同意しなかったとお知らせくださいました。今日お送りする付属文書が示すとおり、この暫定の文書には、今後の事情に応じて定める規定しか含まれていません。それに同意するにせよ、しないにせよ、何を目的としてのことなのか、正直に言って、私には理解できません。
二月一日付のお手紙のうち、将来のベルギーの君主に関する部分にお答えするにあたり、国民会議がヌムール公を選んだ場合について、あなたがお決めになったらしい方針には、不安を覚えると申し上げなければなりません。拒否の意思を示すのを遅らせるのは、賢明ではないと思います。そのような場合に返答を引き延ばせば、イギリスの不満は頂点に達するでしょう。イギリスは、フランス政府をいわれなく非難しているあの策謀が、事実だった証しだと見るでしょう。そしてロシアも、必ずこの機会を利用し、あなたが隠れた意図を抱いていると非難するでしょう。伯爵殿、これが、イギリス内閣との交渉を通じて私が得た見解です。
ナポリの公子については、その見込みをよくするために、あなたの決断を保留する必要はないと思います。この候補を選ぶために、ブリュッセルでどのような働きかけが有益かは、あなたがご判断ください。私の書簡からお分かりのとおり、こちらではイギリスの大臣たちと会議の委員たちが彼を好意的に受け止めるよう、準備を整えてきました。この問題を扱うことになれば、もはやイギリス政府の反対には遭わないと、断言しても言いすぎではないと思います。イギリス政府は、オーストリアとプロイセンの同意を得られると確信しています。ロシアの同意は、訓令を得るのに必要な時間だけ遅れるでしょう。行動にためらいがあれば、この好ましい気運は変わってしまいます。そして、今日まだ確保されており、私たちが唯一の目標とすべき、イギリスとの平和の維持を、間違いなく危うくするでしょう……」
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年二月五日[42]
親愛なる公爵殿、あなたがまことにもっともな理由で署名を拒まれた、最新の議定書について、国王からお伝えするよう頼まれた考えがあります。あなたもその正しさを十分にお認めになると、私は確信しています。事情がまったく違う以上、列強自身も、これをギリシャについて結んだ議定書と同じに扱うことはできないということです。ギリシャでは、三大国が君主を選び、任命しました。今回は、五大国が独立を認めたベルギーと、その国民会議が、自らの君主を自由に選ぶべきなのです。
国王とその政府が一貫して拒んできたにもかかわらず、ヌムールが選ばれました。拒否の意思をあらためて繰り返し伝え、その意思を再びブレッソン氏へ届ける使者は、昨日、ブリュッセルへ出発しています。腕木通信でヌムール選出の知らせが届く、四時間前のことでした。したがって、公爵殿、私たちは率直で誠実です。正しい道理は私たちの側にあります。あなたなら、それを巧みに、有益に用いてくださるでしょう。私たちは名誉と栄光を保ち、立派に切り抜けられると、固く信じています。私たちが望み、願うのは、心から、私利を交えず、すべての人の真の幸福だけです。真実は策略や陰謀に打ち勝つでしょう。そしてあなたは、才能とあらゆる力によって、その勝利に大きく貢献したという栄光と満足を得られるでしょう。
あなたからのお便りを、言葉では言い尽くせないほど待ち望んでいます。しかし、公爵殿、今こそロンドンでは、歯をむき出すくらい強くものを言わなければなりません。私たちは手玉に取られ、平和でも戦争でもない状態に置かれています。ベルギーは、恐ろしい無政府状態に陥りかけています。もう耐えられません。話をまとめ、相手にも受け入れられ、安全を保障する取り決め、解決案へ、率直に進まなければなりません。そうすれば、すべてうまくいくでしょう。しかし、相手のためにも、私たちのためにも、あらゆることのためにも、言い尽くせないほど急を要します。経験というものが、ある種の人々に何らかの役に立つとすれば、すでにオラニエ公への卑しく愚かな期待によって、あまりに多くの時間を失ったことを、十分に示しているはずです。もう公を候補として考える余地はなく、断じて退けなければならないことが、今では明らかなはずです……」
この手紙を書いたアデライード王女も、口述した国王も、その言葉にはまったく偽りがなかったと、私は確信している。しかし、同じ日、同じ日付の次の手紙をブリュッセルから受け取った私は、どう考えればよかっただろうか。
ブレッソン氏からタレーラン公へ
「ブリュッセル、一八三一年二月五日
公爵殿、
私たちは立場を変えざるをえず、避けたかった争いに踏み込むことになりました。もはや取れる道は一つしかなく、勝たなければならなかったのです。そして勝ちました。しかし今日では、まだ確かなものになっていない、この成功の先を考えなければなりません。
あなたにお受け入れいただければ、何らかの成果をもたらしそうな考えが浮かびました。オラニエ公は、ある意味では、私たちに地位を奪われたと考えているでしょう。公自身にも、ヨーロッパの平和と均衡にも都合のよい埋め合わせを見つけ、それを私たちの影響力と友好的な仲介によって受け取ってもらえば、好意と政策をともに示す行為になります。ヌムール公の選出から生じるさまざまな複雑な問題の解決を容易にし、それが引き起こすいくつもの怒りを和らげられるでしょう。
オラニエ公はロシア皇帝と義兄弟の関係にあります[43]。イギリスにも好意を持たれています。性格は穏やかで、物腰には魅力があり、騎士道的な精神を備えています。この厳格なカトリックの国では、彼の軽率さや一貫性のなさが致命的な打撃となりましたが、ほかの場所では、もっと寛大に見てもらえるかもしれません。ポーランドは王を求めており、長く血なまぐさい抵抗を続ける覚悟を固めているようです。戦闘の前にロシア皇帝を妥協へ導けるなら、ほかの誰のためよりも、オラニエ公のために譲歩するほうが容易でしょう。そして、私たちが発案し、強く働きかけて、ポーランド革命をこのような結末へ導けば、勇敢な国民の大義に尽くすと同時に、私たちに敵意や不安を抱く人々をこちらへ引き寄せ、ポーランド分割によって壊れたヨーロッパの体制を組み直し、ヌムール公の王位も固められます。公爵殿、あなたに、この考えのあらゆる展開を詳しく述べるのは無用でしょう。ご検討に供するにとどめます。それでも、最初のうちに用いれば、よい鎮静剤になるかもしれませんので、この手紙は早馬でお送りします。
ヘントの反乱の指導者たちが処刑されないよう、私はすでに働きかけていますし、今後も続けます[44]。私たちの若く好ましい公子の治世は、寛大な行為で始まるのがふさわしいでしょう。その機会を、公子のために取っておく必要があります。
国王陛下が拒否されたり、条件付きでしか受諾されなかったりした場合、この国にどんな影響が出るかは、いくら強く描いても描ききれません。たちまち、すべてがひっくり返ります。内戦、オラニエの徽章、フランスの徽章、混乱、殺人、無政府状態が、激しく吹き荒れるでしょう。公爵殿、もはや私たちは後ろを振り返れません。一歩退くほうが、断固として明確な姿勢を取るより、千倍も危険です。
一月二十七日の議定書に対するわが政府の抗議によって、私はいわば、会議の委員としての職を解かれたことになります。リンブルクとルクセンブルクの反対派の票を獲得できると分かっていたので、この抗議をヴァン・ド・ヴェイエル氏に知らせておきました。彼はそれを人に見せ、やがて奪い取られるままにしてしまいました。それは議場で朗読され、印刷されました。
国王がヌムール公のために受諾されれば、一月二十日の議定書に対しても別の抗議が必要になるという、非常に微妙な問題があります。私たちの九十七票のうち、二十票はルクセンブルクのものだからです。ルクセンブルクをオランダ領と認めれば、選挙を無効にしてしまいます。ささやかな約束も、思った以上に先まで人を引き込みます。しかし、私たちからオラニエ公をポーランドの王に推すだけでも、かなりのことが片付くかもしれません……」
この手紙に示された見事な政治構想が、ブレッソン氏の頭だけから生まれたのか、私は知らない。しかし、それを説く自信満々の様子からすると、どこかに後ろ盾があると感じていたのだろうと思わざるをえない。いずれにせよ、私は、このようなばかげた話に、返事をする手間さえかけなかった。外交報告の抜粋を続けよう。
タレーラン公からセバスティアニ将軍へ[45]
「ロンドン、一八三一年二月六日
伯爵殿、
イギリスの閣僚会議は、いま、ポンソンビー卿から届いたばかりの外交報告を審議するために集まっています。その報告によれば、ブレッソン氏は、フランス政府の声明のようなものを、ブリュッセルに広めたとのことです。私はその声明を承知していませんが、ロンドン会議の最新の議定書を認めないという、明確な保証が含まれているそうです[46]。当地では、これがきわめて悪い反響を呼びました。その理由は容易に理解できます。五大国が、ベルギーの蜂起によって生じた難問の処理をロンドンの全権代表に任せたのは、ヨーロッパの平和を乱す複雑な事態を防ぐためでした。一八一四年にベルギーをオランダと統合したのは、列強すべての間の条約によるものでした。ベルギー革命によってその統合が不可能になった以上、同じ列強には、相互の良好な協調を保つのに最も有利で、それぞれの利益を最もよく保障する解決策を探る義務が生じたのです。これがロンドン会議を導く原則でした。ブリュッセルでフランス政府の名によって出されたと伝えられるような声明は、必然的にこの原則を攻撃し、フランスがもはやほかの列強と一致していないことを示すでしょう。私たちは、事実上、ヨーロッパのほかの国々の政策から切り離されてしまうのです。
フランス内閣が会議の最新の議定書への不満を表そうとするなら、会議だけに伝えればよいはずなのに、なぜベルギー人に伝えたのかと、人々は驚いています。その驚きはもっともだと思います。そもそも、最新の議定書自体、ベルギー人には伝えないはずだったのです。伯爵殿、隠さずに申し上げますが、この措置は当地で非常に激しい不満を呼び、私の立場をきわめて困難にしました。いくつかの列強の、わが国への悪感情を強めたくなければ、この措置がもたらしうる有害な結果を、一刻も早く食い止めなければなりません。先の私の外交報告から、提案しか含まない議定書に対して、あなたの側から同意するとか、しないとかいう問題は、初めから成り立たなかったと、お分かりいただけたはずです。したがって、無用で、少なくとも軽率だったこの措置を撤回するのは、容易なはずです。
今朝、ブレッソン氏の使者から、ブリュッセルの国民会議の審議結果を知らされました。ヌムール公に差し出された王冠を、国王は遅滞なくお断りになると、私は確信しています。列強に意見を求めようとする措置は、どれも引き延ばしと受け止められること、そして、明確で自発的な拒否だけが、同盟を失いかけているイギリスを引き留められることを、よくご理解ください。あなたの外交報告に基づき、私は、この拒否が行われると明言しました。そして今も、私が与えた保証を、国王とあなたが裏付けてくださると信じています。
イギリスはロイヒテンベルク公を退け、ナポリの公子の選出を、きっと受け入れるでしょう。しかし、繰り返しますが、その代償として、ヌムール公をベルギー人に差し出すことを、あなたの側から迅速かつ明確に拒まなければなりません。
伯爵殿、お分かりのとおり、これは、平和を保つか、直ちに戦争になるかという問題です。率直に言って、ベルギーには、いま平和を犠牲にしてまで守るほどの重要性はないと思います。
会議の委員たちに見せられる手紙を、できるかぎり早くお送りください。その中で、国王の政府には、ほかの列強から孤立する意図はいっさいないと宣言するよう、私に命じていただきたいのです。」
タレーラン公からセバスティアニ将軍へ[47]
「ロンドン、一八三一年二月七日
伯爵殿、
昨日お伝えした内閣の会議は三時間以上続き、もっぱらヌムール公選出の問題を扱いました。フランスがこの選出を認めた場合には、直ちに戦争を始める必要があるという点で、閣僚全員が一致しました。私の情報が正しければ、この戦争に全力を注ぐことまで決めたようです。
伯爵殿、昨日午後七時、あなたの四日付の外交報告を受け取った時、イギリス内閣はそうした決議を採択していました。会議の決定を知らされていた私は、すぐに、あなたの外交報告に含まれていた保証を、グレイ卿とパーマストン卿に伝えました。両大臣は、この上ない喜びをもって受け止めました。それを知らせた外交団の人々も同様でした。私はその晩、できるだけ多くの人に会い、朝の会議の影響を打ち消そうとしました。フランス政府を導く誠実さは、広く認められ、平和を保つための第一の保障と見なされています。
それでも、ヌムール公の選出と、とりわけ、会議の最新の議定書を認めないとして、ブリュッセルでフランスの名によって出されたらしい声明が、当地でどのような影響を生んだかを、あなたにお知らせするのは私の務めです。この二つの事実は、シティや商人たちの間だけでなく、上流社会でも、戦争が目前に迫った原因と受け止められました。列強の大使は皆、この点に関するイギリス内閣の決定を、自国政府の行動の基準にすると明言していました。今日では、その言葉はすっかり変わり、戦争の噂に代わって、平和と友好を誓う言葉が聞かれます。
伯爵殿、この出来事を通じて、私は、わが政府がヨーロッパでどれほど重要な地位を取り戻したかを知ることができました。今や、平和になるか戦争になるかは、明らかにわが政府にかかっていると、人々は考えています。ベルギーはさほど重く見られていません。あまりに愚かなことを重ねていて、強い関心を寄せる気になれないのです。あなたも、私たちのこの有利な立場を保ちたいとお考えでしょう。そのためには、繰り返すことを恐れずに申し上げますが、イギリスとの緊密な結び付きを、わが国の政策の基礎に置く必要があります。この結び付きは、ほかの列強がわが国に抱くかもしれない、あらゆる敵意から私たちを守ります。また、政府を固める時間と手段を与えてくれます。反対に、イギリスと離れれば、必然的に全面戦争を招きます。その危険は容易に理解できるでしょう。たとえ大陸で最大の成功を収めたとしても、通商と産業が壊滅する損害を埋め合わせられるでしょうか。党派がフランス国内に蜂起を起こすのを防げるでしょうか。イギリスが整えることのできる強大な軍備については、すでに報告しました。それからも、海上の戦争がわが国に何をもたらすか、お察しいただけるでしょう。
国王とフランスにふさわしい、毅然として慎重な態度を取れば、いま申し上げた緊密な結び付きは得られると、私は確信しています。これは、私自身の責任で明言します。ただし、イギリス内閣を動かすのは、つねに自国の利益だけだということを、忘れてはいけません。わが国の利益を傷つけるほど譲歩することなく、相手の利益に巧みに配慮してこそ、緊密な接近を期待できるのです。
最新の外交報告に、わが国の政策をヨーロッパのほかの列強の政策から孤立させないという意図をお示しになった箇所があり、たいへんうれしく拝見しました。この決意は、私たちにきわめてよい結果をもたらすと思います。フランスが会議に参加しているかぎり、神聖同盟は存在しないということを、よく胸に刻む必要があります。議場で飛び交う多くの言葉への答えは、ここにあります。
本日の会議の議定書をお送りします。国王にも、喜んでお読みいただけるものと期待しています[48]。」
タレーラン公からセバスティアニ将軍へ[49]
「ロンドン、一八三一年二月八日
伯爵殿、
昨夜、フラオー伯爵が出発された直後、今月五日付のあなたの外交報告を受け取りました。その内容から、ベルギーについて、また不安を抱かれていることが分かります。驚きはしません。政府が自ら身を置いた立場は、必然的に、日ごと新たな難問を生むはずです。そこから抜け出すのは、容易だと思います。ただし、その手段を、迅速かつ断固たる決意で用いなければなりません。
パリでは、ヌムール公のためにベルギーの王冠を受けることを拒み、ロンドンでは、列強がロイヒテンベルク公を認めないとの保証を得ています。これによって、国王の政府は、次のように宣言できます。ベルギーの問題は、すべての列強の利益を調和させる形で解決する必要があるという点で、会議と一致しているので、今後、その処理を会議に委ねる、と。
このように宣言すれば、ほかの列強の協力なしには、あなたの力で決着させられない問題を、手放すことになります。もし自力で決着させようとすれば、列強を怒らせ、新たな難問を招くでしょう。私の考えでは、どの国も単独でベルギーを導く役目を引き受けることは不可能です。しかし、会議の手に権限が集まっているからこそ、会議には、それを成し遂げる望みがあります。会議は、干渉権や不干渉の限界について、好きなだけ議論させておき、それに煩わされないでしょう。ベルギーの独立を保ち、ベルギーが近隣諸国を脅かさず、しかもヨーロッパの平和を保てれば、自らの義務を忠実に果たしたと考えるでしょう。
伯爵殿、今日お勧めするこの措置に、国王が重大な不都合をお感じになることはないと思います。国王の威厳にも、その利益にもかなっています。
なお、この措置が取られないなら、当地にいる私は、国王への奉仕にも、フランスの国事にも、役立たなくなると申し上げなければなりません。ブレッソン氏がブリュッセルで行った公表によって、私は不愉快な立場に置かれましたが、耐えるしかありませんでした。私が会議を離れれば、ほかの四人の全権代表も直ちに離れると、確信していたからです。きわめて有害な結果を招く出来事の原因には、なりたくありませんでした。しかし、今後、国王の大使にふさわしい役割以外を、私が当地で演じることは不可能だと、お分かりいただかなければなりません……」
タレーラン公からセバスティアニ将軍へ[50]
「ロンドン、一八三一年二月九日
伯爵殿、
昨日の会議の議定書の写しをお送りします。お読みになればお分かりのとおり、マーストリヒト付近でベルギー軍が依然として破っている休戦協定を、履行するよう求めざるをえませんでした。オランダ国王がスヘルデ川の通航を認めた以上、列強に対する誓約を明白に破っている暫定政府には、弁解の余地がありません。その誓約の文言は明確です。『一八一四年五月三十日のパリ条約以前にベルギーとネーデルラント連合諸州を隔てていた境界の外で、それぞれの軍隊が占領する領土、要塞その他の地点との間で、陸路および海路を通じ、自由に行き来することを、双方とも認める。』
ブリュッセルの委員たちへ訓令を送る際――その写しも同封します――ブレッソン氏は、引き続き会議の委員として扱われました。ブリュッセルで起きたことに目をつぶってくれたのは、いくらか私への配慮もあるでしょう。しかし、この状態は続けられません。ブレッソン氏をこちらへ戻すことを、お勧めします。こちらなら、ごく短期間で、以前の立場に戻してあげられるでしょう。
会議の進行は、これから少し緩やかになるでしょう。人々の心が落ち着く時間を与えるため、会議をしばらく休むのが適当です。ベルギー人が、パリでもロンドンでも冷淡に扱われるようになれば、理性の言葉に耳を貸すようになるでしょう。その時こそ、巧みな使節なら、あなたが望まれ、イギリスも反対しない、ナポリのカール公子を選ぶ考えを、彼らの心に植え付けられます。この一息つく時間は、私が当地で唯一の目標とし、今後もそうし続ける平和へ至るために、有益だと思います……」
「ロンドン、一八三一年二月十日[51]
伯爵殿、
ポンソンビー卿が、オラニエ公のためにブリュッセルで続けている働きかけには、懸念があるとイギリス政府に伝えるよう、あなたから命じられました。この件でパーマストン卿と話し、内戦しか招きようのない努力をやめてほしいと私たちが考える理由を、説明しました。パーマストン卿はよく理解し、今後、オラニエ公に関する事柄には干渉しないよう、ポンソンビー卿に命令を送るところだと、私に言いました……
今朝、あなたの八日付の外交報告を受け取りました[52]。それによれば、国王陛下は、ブリュッセルで混乱や騒動が起きるのを防ぐため、ヌムール公にベルギーの王冠を差し出そうとパリへ来たベルギー代表団[53]に、拒否の意思を正式に伝えることを延期すると、お決めになったとのことです。この決定は、ロイヒテンベルク公を排除してもらうため、フラオー氏と私がイギリスの大臣たちに行った説明に、あらゆる点で反しています。そのため、今朝の外交報告について、パーマストン卿には話さないことにしました。国王の決意にどのような理由があろうと、拒否が遅れることは、当地では疑いを招くばかりです。何よりもそれを避けるべきだと思います。パリの新聞が到着してから、今朝、私たちに最も好意的なイギリスの閣僚たちから、三通の手紙を受け取りました。フランス政府が明確かつ断固として拒否し、その誠実さをあらためて証明するとともに、あらゆる不確実さを取り除いてほしいという、彼らの願いが記されていました……」
タレーラン公からセバスティアニ将軍へ[54]
「ロンドン、一八三一年二月十二日
伯爵殿、
九日付の外交報告に感謝いたします。そこに記された、国王とあなたからの保証は、最近の出来事で私たちから遠ざかった人々の心を取り戻すのに、大いに役立つでしょう。
ただし、お手紙には、当地では十分に納得してもらえない点が一つあり、それについては、正確な説明が必要です。ブレッソン氏がブリュッセルで取った、少なくとも軽率といえる措置について、あなたは次のようにお書きになっています。『一月二十七日の議定書の噂がブリュッセルに広まり、非常に悪い反響を呼んだ可能性がある。そこでブレッソン氏は、疑い深く、きわめて気の立ちやすい人々を鎮めるため、フランス政府がこの議定書の規定に同意しないことを、公表せざるをえなかったのかもしれない。』
ブレッソン氏がその措置を取った理由は、私には分かりますし、当地でも理解してもらえるかもしれません。しかし、人に見せられる手紙で、その措置は、その時の難問を乗り越えるためだけに取られ、実際にそれによって難問を避けることができたのだと、あなたから明言していただくことが、絶対に必要です。また、あなたはどの点についても、会議との一致を一度も失っていないと、明言していただきたいのです。この趣旨の宣言だけが、イギリス内閣と会議の委員たちを安心させられます。それは、フラオー氏と私が述べてきたこととも、すべて調和します。ここで私個人の利害を強調するつもりはありませんが、当地のあなたの友人たちは、自分たちの言葉を裏付ける保証として、この宣言を待っていると申し上げなければなりません……」
「ロンドン、一八三一年二月十三日[55]
伯爵殿、
昨夜、お送りした使者が出発したあと、パーマストン卿から、ポンソンビー卿の手紙を見せてもらいました。それによると、ブレッソン氏は、二月七日の会議の第十五号議定書を、国民会議の外交委員会へ提出することを拒んだそうです[56]。
ブレッソン氏があらためて示したこの態度によって、私は当地できわめて困難な立場に置かれています。あなたの手紙をブリュッセルで公表したことについては、緊急の措置だったと受け止めてもらうことで、ある程度までは正当化を試みることができました。しかし、二月七日の議定書の提出を拒んだことには、同じ説明は通用しません。
ブレッソン氏は、会議の権限を与えられてロンドンを出発しました。その資格で、二か月間、私たちと書簡を交わしてきたのです。それなのに、突然、会議に何も知らせず、書簡のやり取りをやめ、その命令に正面から反して行動しています。このような振る舞いは、最も偏見の少ない人にも、説明のつかないものと映るはずです。そのため当地では誰もが、ブレッソン氏がまず一月二十七日の議定書に抗議し、次に二月七日の議定書の提出を拒んだことは、本人の判断だけではありえないと、繰り返し言っています。その行動は、フランス政府から受けた命令によるものだと考えられています。その命令が、あなたから当地で伝えるよう命じられた説明に、正面から反しているとすれば、わが内閣の政策への不信が広まります。新しい政府が、何よりも避けるべきことです。
最近、ブレッソン氏を動かしていた理由を、あなたが私に知らせてくださらなかったため、当地の私の立場は、きわめて難しくなりました。私は、国王の政府の意図を知らないか、あるいはパリかブリュッセルと示し合わせ、会議を誤らせようとしているか、そのどちらかに見えてしまうからです。
伯爵殿、いま申し上げたのは、個人的な面子を気にしてのことではありません。ここにはフランス政府にとって現実の不都合があり、それをお知らせするのが私の務めだと考えたのです。あなたも、きっとその重みをお分かりくださるでしょう。
繰り返しますが、パリとブリュッセルの間で起きたことすべてについて、率直で明確な説明が必要です。その説明があって初めて、私はイギリス内閣と会議に対し、国王への奉仕に役立つ立場を取り戻せます。さらに、一月二十日の議定書のように確定したことと、二十七日の議定書のように、単に提案しただけのこととを、混同していないと示す必要があります。
二十日の議定書は、オランダとベルギーのかつての区分に基づいています。地図を手にすれば、その区分に異議を唱える余地はありません。二十七日の議定書には、議論の余地があります。しかし、やはり何らかの基礎を提案しなければなりませんでした。当地へ派遣されたベルギーの委員に、交渉の権限を持たせるよう求めたのに、実際にその権限を示すよう求めると、持っていないと答えたからです。こちらから基礎を示さなければ、問題はいつまでも終わらなかったでしょう。
ブレッソン氏をこちらへ戻すのは、早ければ早いほどよいのです。ブリュッセルでの滞在が長引くほど、各国政府の不安は増すばかりだからです……」
ブレッソン氏からタレーラン公へ
「ブリュッセル、一八三一年二月十一日
公爵殿、
今月七日、九日付でお送りいただいたお手紙を、添付の文書とともに、一昨日と今日、それぞれ受け取りました。
公爵殿、あなたは寛大で、お叱りの言葉も、謎めいた形でしか私にお伝えになりません。これほど好意に満ちたお気遣いには、心を打たれるばかりです。もし自分に罪があると思えたなら、後悔は千倍にも増したでしょう。しかし、正直に申し上げて、大臣が一月二十七日の議定書に同意しないと決めたことを、ブリュッセルの私と同じ時に、ロンドンのあなたも外務省から知らされていないとは、一瞬も考えませんでした。また、ヌムール公選出の知らせを急いでお送りしたため、送付を忘れたものは、街頭に張り出された貼り紙ではなく、国民会議の印刷文書だったのです[57]。こうした場合の慣例である伝達や公表について、当地の一外交官に責任を負わせるのは、あまりに厳しいでしょう。ベルギー政府は、この点で、何の節度も守りませんでした。
国家の元首を選ぶことに関しては、詳しい事情を紙に託すのは、軽率だと思います。幸いにも、あなたに再びお会いできた時、すべて口頭でお伝えします。その時、とりわけ私がパリへ赴いた際の事情をお知りになれば、おそらく、責めるよりも、気の毒に思ってくださるでしょう。
今月七日の議定書、つまりロイヒテンベルク公を退けた議定書が、一か月前に決まっていなかったことが、どれほど残念か知れません。いま迫っている、恐ろしいものになるだろうと思われる危機は、おそらく避けられたはずです。
公爵殿、この議定書は、一昨日届きました。ポンソンビー卿は、私に相談することさえせず、これを伝達しました。昨日、ヴァン・ド・ヴェイエル氏は、国民会議がヌムール公を選んだ以上、その選出への返答は、現在パリにいる代表団を通じてしか受け取れないという口実で、卿に返送しました。この出来事をめぐる国民会議の議論は、同封の新聞をご覧ください。いま聞いたところでは、ポンソンビー卿は今日、会議の議長自身へ直接伝達しようとしているそうです。もし卿が私に相談してくれたなら、私は必ず、数日間、その伝達を待つよう頼んだでしょう。国全体が激しく動揺している時に、必要な配慮をあまりに欠いた形で届くからです。拒否の影響を和らげ、それが引き起こす傷つきやすい感情を鎮められるのは、国王だけです。
しかし、公爵殿、私には選択の余地がありませんでした。ポンソンビー卿の添え状には、次の一節があったのです。
『会議は、この議定書の伝達にあたり、あなたに私との協力を求めるのは適当でないと判断した、と聞いています。会議は二月一日付の手紙、すなわち、あなたが国民会議に伝えたセバスティアニ伯爵の手紙について、説明か、あるいはその撤回を待っています。』
その時から、新たに事情が明らかになるまでは、会議の委員としての職務を停止されたものと、私は考えざるをえませんでした。公爵殿、今日、あなたにお願いしたいのは、その事情を明らかにしていただくことです。昨日、二月八日付の訓令は、確かにポンソンビー卿と私の連名宛てで届きました。しかし私は、卿に、単独で実行するよう頼みました。卿と私を会議が区別し、私への信頼がいわば途絶えたことを示す、あの手紙の一節について、会議に照会するまでのことです。会議は、いまも私にポンソンビー卿と同じ資格と権限があると考えているのか、どうかお知らせください。
公爵殿、九日付のお手紙で、希望が戻りました。あなたのおそばに戻ること、それだけが、あなたと別れて以来の私の願いです。当地では、会議の訓令と、国王の政府の訓令を、次々に忠実に果たしたために、私は党派の人々の憎悪の的として、公然と名指しされています。三週間前には、不届き者の一団に、公衆の面前で侮辱されました。毎日のように、匿名の手紙や、カフェや喫煙酒場で、命を脅かされています。心の底には悲しみがあり、健康はすっかり損なわれました。過酷な試練を経て、得られるのは、おそらく非難だけでしょう。哀れな人間一人を犠牲にするのは、なんと都合のよいことなのでしょう[58]。」
その哀れな人間は、恐れていたほど不平をこぼす羽目にはならなかった。彼とパリとの間で何があったか、私にあまりに詳しく明かすのを恐れられ、私のもとへ戻されることはなかった。しかし、数週間後にはハノーファーの全権公使に、その数か月後にはベルリンの全権公使に任命された。私はそれを喜んだ。ロンドンからブリュッセルへ派遣することで、彼の出世を開いたのが私だったことも、喜んでいた。また、パリではいずれ真実が明らかになると、私は知らされていた。ダルベルク公は、次のように書いてきた。
ダルベルク公からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年二月十二日
公爵殿、
八日付のお手紙は、私が長く確信してきた二つの真実を示しています。一つは、激しい情念のためにパリのジャコバン派の影響下に陥っているベルギー人には、一致した五大国だけが、従うべき方針を命じなければならないということ。もう一つは、わが国を治める人々が不和で無能なため、当地から卑劣な陰謀が広がっているということです。
ロンドン会議とその措置に向けられた、あの屈辱を呑み込まれたのは、賢明でした。人々も感謝するでしょう。フランスはベルギーを併合するために戦争を望んでいませんし、ましてヌムール公を選ぶためになど、なおさら望んでいないからです。
ナポリの公子を選ぶ案が成功すれば、それに越したことはありません。しかし、私は疑っています。ベルギーの議員たちは、その案に気が進みません。最も有能な議員たちから聞いて、印象に残った言葉は、第一に、国民の四分の三はフランスとの併合に関心がないということ、第二に、革命に深く関わった人々を除き、皆、ナッサウ家の主権を認めつつ、オランダとは完全に分離し、両国の間に築かれていた通商と産業の結び付きを取り戻したいと望んでいる、ということです。
ナポリの公子は、彼らには魅力がありません。自分たちを締め付け、窒息させている関税がもたらす難問を、公子は何一つ取り除いてくれないと、彼らは言っています……」
二日後、ダルベルク公は、パリで起きた恥ずべき事件、大司教館の略奪と放火のあとに、再び手紙をくれた[59]……。その手紙は、当時の状況をよく物語っている。
ダルベルク公からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年二月十四日
公爵殿、
わが国の状況は、ますます悪化しています。当局が予見でき、しかも防ぐべきだった昨日の騒動は、重大なものでした。サン=テティエンヌ=デュ=モン教会と、サン=ジェルマン=ロクセロワ教会が略奪されました。大司教館は、完全に荒らされています。サン=シュルピス神学校も襲われました。どこでも、当局の権威は無視されています。ベルギーをめぐる愚かな陰謀によって、国王と内閣は、言葉では言い表せないほど信用を失いました。国と家族の利益を得たいという、父親としての願いだったと説明して弁護しようとすれば、かえって厄介なことを招きかねません。世論は冷静さよりも洞察力に富み、深く憤っています。この一連のことに、一瞬たりともだまされませんでした。
戦争派は、熱に浮かされ、どんな代償を払っても戦争を招こうとしています。ベルギーからは戦争が生まれないと分かると、イタリアを動かしました。ラ・ファイエット派は、準備がすべて整い、イタリアの結社の中心があるモデナとボローニャにまで、活動を広げました[60]。私の考えでは、オーストリア軍は行動するでしょう。その時に、愚かにも不干渉の原則を持ち出すべきではありません。イタリア問題の処理を、新たな会議に委ねるべきです。
何よりも、五大国が仲たがいし、互いに戦争を始めてはなりません。ヨーロッパの現状を救えるかどうか、私は十分な確信を持てません。しかし、まだ救いがあるとすれば、それは間違いなく、主要国の政府が熟慮のうえで了解し合うことから生まれるものです。
セバスティアニ氏が私の言うことを聞いていれば、いま、外交団や両院の笑いものにはなっていなかったでしょう。パレ・ロワイヤルの陰謀にも、気骨を示して対抗したはずです。彼はベルギー問題で、ギリシャ問題と同じように振る舞いました。このような指導では、どこへ向かうのか分かりません。当地のベルギー人は、ナポリの公子を歓迎する気には見えません。マカロニとカプチン会の修道士しか持ってこられない公子など、欲しくないと言っています。セル氏の画策によって、時間がたてばほかに何か得られると期待するよう、促されているのだと私は思います。ですから、ロンドンでは決定を急ぎ、それが言葉だけに終わらないよう、備えていただきたいのです。
セバスティアニ氏は、私にこの話を伝えてくれた人に、こう言ったそうです。『しかし、ロンドンのあの会議は、ただのおしゃべりで、それ以上のものではない。』彼がそう言ったことは確かです。同時に、自分でもそうは思っていないことも、私は確信しています。しかし、リニー[61]がまことにうまく言ったように、彼はどんな靴にも足を入れる――誰にでも調子を合わせるのです。毎朝、シャトラン[62]にも、ベルタン・ド・ヴォー[63]にも会っています。どれも哀れなことです。その間にも、国は崩れていきます。ラフィットは、財務省のために一千万を長期で借り入れる相手さえ見つからないと、私に打ち明けました。それなのに、戦争をするなどと言っています。親愛なる公爵殿、平和です。さもなければ、すべてが破滅します。
昨日、ポッツォは私にこう言いました。『セバスティアニには、イギリスがブリュッセルの陰謀をまったく理解しないだろうと、十分に警告しておきました。また、交渉の重さを量る秤では、フラオーなど一オンスにしかならないとも言いました。タレーラン氏だけが、見るべきとおりに事態を見ていました。この点は、公平に認めます……』」
セバスティアニ氏は、ポッツォ氏の議論に納得しなかったか、自分の陰謀で身動きが取れなくなり、腹を立てたようだった。会議の進め方に不満を述べ、今後はいかなる議定書も、本国の承認を条件とする形でしか受け入れないよう命じる手紙を、私に送ってきた。
私は次の外交報告で答えた。
タレーラン公からセバスティアニ将軍へ[64]
「ロンドン、一八三一年二月十五日
伯爵殿、
今朝、十二日付の外交報告を受け取りました。その内容には、できるだけ急いでお答えしなければなりません。
お手紙から、会議の進め方が国王の政府の承認を得ておらず、そうであれば、同じ見方を採った私にも非があるとお考えなのは、容易に分かります。この点について、いくらか説明する必要があります。
昨年九月、パリを発つ時、出発の十五分前に、いくつかの問題についての一般的な訓令を渡されました。しかし、私がこちらへ来て以来、それらの問題に、この訓令を適用する機会はありませんでした。詳しい訓令はすぐに送ると約束されましたが、その後、何度求めても、得られませんでした。そこで、あなたからいただいたほとんどすべての外交報告に含まれている、ただ一つの勧告を頼りにするしかありませんでした。すなわち、フランスの威厳を損なわずに、平和を維持することです。伯爵殿、会議とのあらゆる交渉で、私はこの点を出発点としました。そして、多少の困難はありましたが、国王の望まれる目標を果たせたと考えています。あなたはこの見解を共有されず、今後は個別の訓令に基づいてのみ行動するよう、お望みです。ご命令には従います。しかし、このような国事の扱い方がもたらす重大な不都合を、少なくともお察しいただけるようにしなければ、私は務めを怠ることになると思います。
それは、会議が世論に対して得ていた権威の一部を失わせるでしょう。各委員を、本国の判断を待たなければならない立場に置くことで、あらゆる交渉を止めてしまうからです。一例を挙げましょう。ベルギーの中立に関する議定書は、十時間半に及ぶ会議のあとで署名されました。二日後だったら、プロイセンの全権代表は、おそらく署名しなかったでしょう。
ここから、国境の問題についても申し上げます。国境の確定はベルギーの承認[65]の結果であり、承認そのもの以上の干渉があったわけではありません。
国境は事実であり、昔からある事実です。会議はそれを宣言しただけです。統合前のベルギーとオランダがどのようなものだったかは、地理が示しています。両国の領土には何も変更を加えておらず、飛び地の問題さえ決めていません。会議の委員全員が述べたとおり、採用された基礎に異議を唱えられるのは、どちらかに以前の領土から何かを与えるか、あるいは取り去るかという意図がある場合だけです。そのような変更こそ、本当の干渉になるでしょう。したがって、一月二十日の議定書で、会議が不干渉の原則から外れておらず、外れようともしていなかったことは、明らかです[66]。あなたが主に注目されたように見えるこの二点で、会議は不干渉の原則から外れなかったことを、あらためてご指摘できるのをうれしく思います。
カニング氏以来、この原則にきわめて敏感なイギリス政府も、同じ考え方を採っています。わが国と同じく、原則から外れることには同意しなかったでしょう。パーマストン卿は今日、イギリス議会で、私があなたに用いるのと同じ言葉で、この考え方を擁護しています。
なお、会議の委員たちが提案する議定書で、フランスの実際の利益[67]に触れないものについて、私が署名を拒むことで戦争があまりにも差し迫ると判断したなら、以前の一般的な訓令に照らして、署名するのが義務だと考えるでしょう。このことも申し上げなければなりません。ポンソンビー卿とクリューデネル氏についてお書きになったことには、明日お答えします[68]。」
「ロンドン、一八三一年二月十六日[69]
伯爵殿、
政府の命令に従い、パーマストン卿に、ポンソンビー卿の召還について話しました。ブレッソン氏があなたの手紙を公表し、その後、会議の命令を実行することを拒む前なら、召還は容易に得られたと思います。しかし、今日それを行えば、会議に対して、ポンソンビー卿とブレッソン氏を同じ扱いにすることになります。イギリス内閣には、それに同意する意向がありません。
すでに書きましたが、パーマストン卿は、人心の動向を引き続き観察しつつ、オラニエ公の利益にはいっさい関わらないよう、ポンソンビー卿へ命じています。なお、パーマストン卿は、公をベルギーの王位に就ける案こそ、ベルギー問題を早く終わらせるのに最も適していると、自国政府がつねに考えてきたことを、私に隠したことはありません。イギリスも、わが国と同じくらい、この問題の終結を望んでいます。しかし、卿はもはや、その案が成功するとは考えていません。
また、昨日と今朝、リーヴェン公に、ブリュッセルでクリューデネル氏が行っているとされる策謀について話しました。公の返答によれば、クリューデネル氏は休暇でロンドンに来ており、ベルギーの情勢を自分で見てみたいと望んだので、公がその報告を頼んだということでした。オラニエ公の問題については何の命令も与えておらず、オラニエ公がベルギーでどれほど見込みを持つか、観察したことを自国の宮廷に知らせるだけにとどめるはずだと、はっきり保証しました。オラニエ公に有利な陰謀を実際に進めているのは、フランドルの両州の住民たちです。そのうち何人かは、いまロンドンで、そのために活動しています。ご存じのとおり、クリューデネル氏はほとんど耳が聞こえませんから、もっぱら陰謀を進める任務には、あまり向きません。第十五号議定書を、もう一度お手元に置いてご覧ください。そこで暫定政府には、マーストリヒトへ近づく軍隊を止め、約束どおり、休戦協定の境界内へ戻すよう求めたことを、お忘れではないでしょう[70]。返答があまりに遅く、オランダ側はマーストリヒトへの補給を心配しています。明日になっても返答が届かなければ、公正を期すため、オランダ国王がこの町との連絡を回復するのを、認めざるをえません。国王は、以前、議定書を受け取ると軍の進撃を止めていました。この件のため、私たちは明日集まります。
本日の『タイムズ』をお送りします。パーマストン卿が外相になってから最初の演説が載っています。受けたさまざまな質問に、自信をもって答えたことで注目されましたから、よくお読みください[71]。同じ新聞には、大臣に質問する議員と、答える大臣が、どこまでの節度を守るべきかについて、イギリス全体の考えを示す記事もあります。この論説は、広く知らせる価値があると思います……」
記憶をたどっても、セバスティアニ氏が、この二通の外交報告に返事をくれた覚えはない。そのあとに続く、私の外交報告の引用を続けよう。
「ロンドン、一八三一年二月十七日[72]
伯爵殿、
ベルギーの君主としてナポリの公子を選ぶことについて、イギリス内閣と会議の委員たちの意向を、お知らせできます。
イギリスの大臣たちは、以前から私に隠していないとおり、オラニエ公を好んでいます。それでも、ナポリの公子の選出に反対はしません。ただし、その選出を容易にするための協力も、期待すべきではありません。
オーストリアの全権代表は、この案の成功を望むと、私に言いました。さらに、ブリュッセルにオーストリアの使節がいるかと尋ねると、いないが、もしいれば、ナポリの公子の利益を助けることに、きっと何の異存もないだろうと付け加えました。
プロイセンの公使は、この点についての訓令を持っていません。しかし、その君主は、ベルギーの秩序を回復し、近隣諸国への影響を恐れている難問を終わらせることにつながるなら、何であれ喜んで受け止めるという保証を、公使から得ています。
リーヴェン公とは、きわめてよい関係にありますが、自国の宮廷の意向に沿わない候補について、公は自分の意見を私に伝えるわけにはいかなかったのでしょう。しかし、エステルハージ公は、私たち全員がナポリの公子で一致するなら、あとでロシアにも、その承認を得られると確信していると言いました。私も同じ考えです。
伯爵殿、以上から、この問題をめぐる人々の意向を、ご判断いただけるでしょう。今や、どの方針を取るかを明確に決め、その実現のためにブリュッセルであらゆる努力をするのは、国王の政府の役目です。すべての列強の支持を得られなくても、少なくとも反対には遭わないと、私は確信しています。
この件で当地の人々と交わしたすべての会話では、平和を望む意図しか示されなかったことも、お伝えしなければなりません。イギリスの大臣たちと全権代表全員が、各自の政府は平和の維持を強く望んでおり、戦争の正当な理由になりうるのは、フランスが何らかの侵略を行う場合だけだと、明言しました。
昨日お知らせした議定書を作成した会議から、いま戻りました。会議、ベルギー、オランダの間で、以前に合意したことを守らなければ、無数の難問の中で道を見失ってしまいます。この議定書は、ポンソンビー卿だけに送られます。ブレッソン氏が、前の議定書の提出を拒み、会議はもはや、彼をベルギーにおける自らの使節と見なしていないからです。人々の感情を考えると、もし彼をこちらへ戻すおつもりであっても、帰還を遅らせるよう、むしろお勧めします……」
「ロンドン、一八三一年二月十九日
伯爵殿[73]、
昨日の会議の第十八号議定書をお送りします。一月二十日、二十七日の議定書に対する、オランダ国王の同意が記されています。全面的で、留保のない同意ですが、得るのは容易ではありませんでした。会議が措置を取ると迫ったことで、国王は譲歩を決めたのです。
プールに着いたイギリスのスクーナー船が、リスボンを発った時、市街で戦闘が起きていたという知らせを運んできました。騒動は非常に激しく、牢獄が破られていました。ドン・ミゲルは軍隊の先頭に立っていました[74]……」
ダルベルク公からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年二月二十一日
親愛なる公爵殿、
半年後までにフランスがどこへ引きずられていくかと尋ねられたら、見通しは立たないと、はっきりお答えください。国王は、ボナパルトや、ルイ十八世、シャルル十世がそうしたように、少数派とともに進んでいます。私には、ラフィット氏は、ジャコバン派にとってのポリニャック氏に見えます。ポリニャック氏が、亡命貴族たちの盲目的な道具だったのと同じことです。
タレーラン公からセバスティアニ将軍へ[77]
「ロンドン、一八三一年二月二十三日
伯爵殿、
先週、パリで起きた出来事は、ロンドンに、言葉では描ききれない不安を引き起こしました。十九日、二十日、二十一日と、フランスからの知らせがまったく途絶えたことは、値下がりを狙う投機家たちに、格好の機会を与えました。彼らはきわめて不安をあおる噂を広め、公債の価格をかなり下落させることで、狙いを果たしました。七月革命以来、証券取引所にも、社会のあらゆる階層にも、これほどの動揺はありませんでした。戦争になるという見方が信用され、保険料が非常に高くなるほどでした。この状況で、私は最も適切な言葉を述べたと思います。しかし、パリで何が起きているのか知らなかったため、立場は非常に困難でした。知らせを求めて訪れる人々が、私の家から絶えることはありませんでした。
昨日、十九日付のあなたの外交報告を受け取りました。もっと早く届かなかったことが、残念です。その命令を知っていれば、今日お送りする議定書は、おそらく本国の承認を条件としてしか受け入れなかったでしょう。その草案は、十九日に確定していたものです。二十二日になって届いた十九日付のお手紙に従い、署名を拒んでいたなら、会議とともに進みたいと何度もお書きになった、あなたのお考えに背くことになったでしょう。なお、お読みになれば、会議は、集まって以来その行動を導いてきた理由を示しただけだと、きっとお気付きになります。会議のあらゆる審議を導いた正義の精神と節度が、あらためて示されています。それによって、諸国民の権利と条約の尊重から課される限界を、会議が越えなかったことを明らかにしているのです。この議定書には、以前の議定書にないことは、まったく含まれていません[78]。
会議は、しばらく集まる必要がないと思います。しかし、今後の会合の目的や、決議の結果がどうであれ、十九日付の外交報告でお勧めになったとおり、国王の許可を受けるまで、重要な文書には、今後いっさい署名いたしません。
いまではもはや同じ立場にないポンソンビー卿とブレッソン氏を、同時にブリュッセルから召還してほしいというあなたのご希望を、会議に、とりわけイギリスの大臣たちに伝えておきました。返答は、この二人の使節の立場を同等には扱えないというものでした。会議の委員であるポンソンビー卿は、受けた命令を実行し続けてきたのに対し、同じく会議の委員であるブレッソン氏は、伝達を命じられた議定書の提出を拒んだからです。私もすでに何度か、ポンソンビー卿のブリュッセル滞在が、どれほど無用で、かえって有害でさえあったかを示そうとしました。しかし、卿の家族関係と当地での地位によって、私の働きかけを成功させるのは、たいへん難しくなっています[79]。そのうえ、パーマストン卿は、グランヴィル卿[80]の外交報告を手にして、私にこう言いました。
『フランス政府はポンソンビー卿を公正に評価し始め、卿のいかなる行動も、フランスの望みに反して行われたとは、もはや考えていません。』なお、当地では、オラニエ公に見込みがあると信じる人は、誰もいません……」
タレーラン公からオルレアン家のアデライード王女へ
「ロンドン、一八三一年二月二十三日
……今日、パリへお送りする議定書には、王女様も、新しい決定は何一つお見いだしにならないでしょう。これまでに行われたことの要約と、私たちが従って行動してきた、根本的で秩序を保つための原則の表明だけが含まれています。私たちを導いた精神に、国王もご満足くださるものと期待しています。あえて申し上げますが、会議の委員たちを導いた原則と、緊密な結び付きを保ってこそ、ベルギー問題を終わらせるだけでなく、古いヨーロッパが四方から崩れ、王位、国王、諸制度、そして自由までも呑み込むのを、防げるのです。
この数日、私の心を占めていた悲しい考えについては、王女様に申し上げません。少しも落胆に身を任せたくないからです。国外でフランスの情勢がどんな色に描かれようとも、人々がつけようとするあらゆる汚点を免れた、自由という神聖な大義を勝たせるために、私は国王の深い知恵を頼りにしています。
いただいたお便りによれば、国王は四大国とともに進むことを望んでおられます。そのとおりになされば、ベルギーのあらゆる問題について、気を楽にしていられると思います。この問題には、できるだけ関わらないことです。人々の憎悪を招くことがあれば、それは会議に引き受けてもらえばよいのです。」
タレーラン公からセバスティアニ将軍へ[81]
「ロンドン、一八三一年二月二十四日
伯爵殿、
ベルギー代表団への返答として国王がなされた演説の反響を、お伝えしなければなりません。ロンドンでは非常に好評でした。今朝、王妃の誕生日を祝って宮廷で開かれた大きな集まりでも、何人かがこの演説について話しかけ、皆、称賛しました。この集まりでは、並々ならぬ不安を生んだパリの知らせも、依然として大きな話題でした。誇張なしに申し上げますが、もし私が十九日の議定書への署名を拒み、四大国から離れていたなら、人々は戦争になると信じ、公債価格はその日のうちに三〜四パーセント下がり、パリの公債にも強い影響を及ぼしたでしょう。
十九日の議定書では、一八一四年の条約だけを引用していることに、お気付きでしょう。この条約は、当時の事情が許すかぎり、わが国にとって幸いなものでした。敵軍は六週間後にはフランスの領土から退去しました。以前のフランスの領土は広がり、国境も有利に修正されました。サヴォワのかなりの部分を領有したことで、リヨンは守られ、今日のように国境すれすれの町ではありませんでした。ナポレオン美術館も損なわれず、フランスの文書館は、ヴェネツィアとローマの文書によって充実したままでした。一八一五年の条約には触れていません。私は署名を避けるために辞職したので、その条約には、何の功績も主張できません。ただし、そのあと十五年間の平和が続いたことは、認めなければなりません。
あなたは今月九日と十七日のお手紙で、列強とともに進む必要があるとお書きになりました。それは、かつてないほど必要です。いまのヨーロッパの大きな危機から何が生じるか、私には分かりません。しかし、できるだけ長く四大国とともにとどまるべきです。この結び付きは、さまざまな力を生み、両院の前でも、擁護するのは難しくないはずです……」
ルイ=フィリップ国王が、ヌムール公のために王冠を差し出そうと来たベルギー代表団に、それを拒む演説をした時、誰もがその演説を支持したと書いたのは、正確ではなかった。この演説に際して、首相のグレイ卿が私に寄せた短い手紙が見つかった。その中には、後日、事実によってしか取り除けなかった不信が、にじんでいる。
グレイ卿からタレーラン公へ[82]
「ダウニング街、一八三一年二月十九日
親愛なるタレーラン公爵殿、
あなたの国王の、ベルギー代表たちへの返答をお送りくださり、厚く御礼申し上げます。おそらく、この返答は、断った王冠に対して、遺憾の言葉の奥に、あまりに強い欲望を示していると批判されるでしょう。しかし、内容そのものを見れば、私は十分に満足しています。
ただ一つ付け加えるなら、平和を得ようとする私たちの努力を挫く出来事が、何も起こらないことを、心から強く願っています。
敬具……
グレイ」
タレーラン公からセバスティアニ将軍へ[83]
「ロンドン、一八三一年二月二十五日
伯爵殿、
昨日、ロンドンでは、王妃陛下の誕生日が、国民のさまざまな階層の人々の熱意をもって祝われました。祝宴、華やかな灯り、民衆の歓声は、君主への愛着を示し、一部のパンフレット作者たちの侮辱的な言説を、事実によって否定していました。
議会の審議は、日に日に注目を集めています。内閣は予算審議で、いくつかの敗北を喫しました。一部の措置でためらいを示したことが、反対派を勢いづけ、支持者を落胆させています。数日後には、議会改革法案が提出されます。本来、内閣を強めるはずのものですが、おそらく改革派のすべての要求を満たすことはないでしょう。そのため、全面的な改革を望む人々にも、改革をまったく望まない人々にも、反対のための好都合な材料になります。採決では、この二派が結び付くことも、十分にありえます。そうなれば、イギリス内閣の立場は苦しくなるでしょう。
大陸の情勢は、すべての人の心を占めています。パリの騒乱、聖職者への攻撃、イタリアの革命[84]、ドイツに広がる不安は、深刻な考慮の対象となりました。これらは通商取引に大きな影響を及ぼし、いまではほとんど停止させています[85]。
公の仕事に関わる人々は皆、列強の同盟を維持することで、各地に急速に広がる混乱を食い止められると考えています。この問題で偏った意図を疑われるはずのない、サー・ジェームズ・マッキントッシュ[86]の意見を挙げましょう。大陸のさまざまな政府に反対することを、生涯の歩みとしてきたこの優れた人物も、ヨーロッパの平穏を取り戻せるのは、五大国の固い結び付きによると考えています。専制、無政府状態、そしてその先に、原則をめぐる戦争が世界にもたらす軍事政権の危険を抑えられると期待すべきなのは、この結び付きだけだと、彼は言っています……」
「ロンドン、一八三一年二月二十五日[87]
伯爵殿、
今朝、会議のほかの委員たちとともに、外務省へ呼ばれました。ポンソンビー卿の外交報告を読むためです。それによれば、マーストリヒトの包囲は続いており、この要塞都市と北ブラバント、アーヘンとの連絡は、完全に断たれています。
この外交報告を読んだあと、議定書を作成し、一月十八日の第十号議定書に従って、休戦協定を破るこの新たな行為を抑えるため、直ちにベルギー人に対して強制措置を取る意思を宣言しよう、という意見が出ました。あなたから受けた命令に従い、これほど重大な問題で何かに署名する前には、自国の宮廷に照会したいと、私は述べました。その結果、パーマストン卿がグランヴィル卿に使者を送り、卿から全権代表たちの意向をあなたへ知らせることになりました。そして、ベルギー政府自身も同意した文書の規定を実行させるため、どのような協力を提供するおつもりかを尋ねるのです。グランヴィル卿は、あなたがオランダとベルギーの間の戦闘の停止と、その保障となる条件を承認したことを、あらためてお伝えするはずです。また、会議の現在の目的は、すべての当事者が採用した協定を、厳格に履行させることだと、お伝えするはずです。
この件であなたに行われる伝達は、ご希望どおり、十分に敬意を払ったものになると確信しています。いまにも乱れそうなヨーロッパの平穏のため、すべての事柄であなたと一致して行動することが、たいへん重く見られているからです……」
「ロンドン、一八三一年二月二十七日[88]
伯爵殿、
クリューデネル氏のブリュッセル行きと、そこでオラニエ公のために行ったとされる働きかけについて、リーヴェン公から説明を受けるよう、あなたから命じられました。すでにお知らせしたとおり、その説明は受けています。そして、その結果、リーヴェン公はクリューデネル氏を呼び戻し、氏はいまロンドンにいます。なお、オラニエ公に関するあらゆる試みはもちろん、あらゆる期待さえ、当地ではすっかり捨てられたことを、付け加えられます。
モルトマール公のペテルブルクでの任務は、成功しなかったという噂が広まっています[89]。この知らせは、フランクフルトからの手紙で当地に届きました。しかし、次の知らせ以上には信用すべきでないと思いたいところです。すでにお聞きかもしれませんが、ロシアでは、ロンドンのロシア全権代表は、最新の議定書を本国の承認を条件としてしか受け入れていないと言われているそうです。このまったく根拠のない噂は、あなたも容易に否定できたでしょう。すべての議定書に対する、リーヴェン公とマトゥシェヴィチ伯爵の署名には、留保がなく、全面的なものでした。そして、わが国にとって非常に有益だったと思います。
シュルレ・ド・ショキエ男爵がベルギーの摂政に任命されたことは、昨日の朝、当地に知らされました[90]。伝えられるとおり、国王がベリアール将軍[91]をブリュッセルへ正式に派遣されたのであれば、ブレッソン氏が数週間パリに滞在したあと、ロンドンへ戻ることを妨げるものは、もはやないように思います。氏の立場は、私が責任をもって立て直します。イギリスにいることは、氏の将来にも役立つと思います……
第十九号議定書が、あなたにもっと早く届かなかったことを残念に思います。そこに含まれる多くの事実や議論を用いれば、……日の議会審議で、あなたが答えなければならなかった非難が、どれほど根拠の乏しいものか、示せたでしょう[92]……」
ダルベルク公からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年二月二十七日
親愛なる公爵殿、
情勢は日ごとに悪化しています。支払いは何一つ得られません。総裁政府以来、フランスがこのような状態を経験したことはありません。権威はどこでも行使されず、陰謀はいたるところにあります。
ロンドン会議は、ヨーロッパで多少なりとも力を持つ唯一の権力であり、何としても維持すべきだというあなたの言葉は、まことに正しいものです。しかし、それがわが国の内政に、どのように影響を及ぼせるでしょうか。内閣は、まったくの無能と、極左に頼りたがる性向によって、議院との関係を、諸権力の間の一致を取り繕うことさえ、もはや不可能と思えるところまで悪化させました。三か月も両院の支持なしに過ごすなら、政府はどうやって大変動を避けるのでしょうか。
最近の出来事[93]は、かなり明らかになってきました。シャルル十世派の陰謀の試みがあり、共和派・ボナパルト派がそれを利用したことを示すには、十分です。実際に動いているのは後者であり、国王が自分への信頼と敬意を取り戻すために考え、行動しなければ、彼らが勝つでしょう。ベルギーで起きていることも、この党派を強めています。もし明日、ラ・ファイエットがフランスの摂政政府の首班になりたいと言えば、その座へ呼び込まれ、二十四時間後には追い払われるでしょう。
国王や内閣との書簡のやり取りから、相手が何を望んでいるか、あなたにはお分かりでしょう。私と友人たちは、目の前の惨めな建物を倒す雷が、どこから落ちるのかと、自問しています。従わせることのできない王権、法律の中にさえ基礎を持たない貴族院、侮辱され、追い払われようとしている代議院、嫌気がさし、必要な時に力を行使することも妨げられる国民衛兵、誰に従うべきか分からない正規軍。目に入るのは、これだけです。このような無政府状態への治療法を、見つけ、示してください。
対外問題でも、見えるのは、諸国民を蜂起させようとする密かな工作だけです。それを防ぎ、あるいは秩序を回復するための一致も、力もありません。ウェストファリア条約のあとには、決定を守らせるために、履行を強制する軍隊が組織されました。結局、そこまで進まざるをえないでしょう。しかし、何よりも先に、諸国民がどのような基礎の上に国を築くのを認めるか、その点で合意しておく必要があります。
長い無政府状態の混乱を経たのち、わが国は軍事政権へ戻ることになると、私には明らかに思えます。家族は今月十八日にジェノヴァを出ました。その時は、まだすべて平穏でした。しかし、サヴォワへ侵入するため、リヨンで反乱者の隊列が組織されたことは、当地でも知られていたのに[94]、それを止めるために動いたのは、隊列が出発してからでした。そのくせ、ヨーロッパが武装し、革命と戦うことで安全を求めると、驚くのです……。
あなたの名目上の上司セバスティアニは、リニーとレーヌヴァル[95]の言うとおり、どんな靴にも足を入れる――誰にでも調子を合わせます。編集者シャトランも、ベルタン・ド・ヴォーも、毎朝、彼と朝食を取ります。今日、前者は、あなたへのなかなか激しい攻撃を載せています[96]。
実際には、やりたいことができていないのです……。戦争をするなら、あの善良な老ジュールダン[97]が言うように、国民公会の助けを借りることになるでしょう。国王は、よくお考えになるべきです。
私が目を回すほどの、この狂乱のただ中で暮らさずに済んでいることを、お祝い申し上げます……」
ここでダルベルク公が描いたような状態は、長く続けられるものではなかった。ラフィット氏が代表する人々と原則を、消耗するままにしておくのは、国王にも不本意ではなかったと私は思う。しかし国王も、この一種の無政府状態から抜け出す手段を考えざるをえなくなった。内閣全体、あるいは少なくとも数名の閣僚を退け、代議院の保守派から精力的な人物を選ぶ必要があった。幸い、望みどおりの人物がそこにいた。カジミール・ペリエ氏である[98]。首相の地位をめぐり、彼とスールト元帥の間に多少の難問が生じたが、それは容易に乗り越えられるはずだった。しかし、ペリエ氏が政権入りの条件として示したことは、そうはいかなかった。国王の気に入らなかったのである。ついには、すべてを押し流しかねない危険を前に、国王が譲歩しなければならなかった。そして三月十三日、首班ペリエ氏の名で呼ばれる内閣が、ようやく成立した[99]。国王は、セバスティアニ将軍を外相に留任させることには成功した[100]。
パリでこの調整が行われている間、イギリス内閣が改革法案の最初の審議に追われたため、ロンドン会議は、多少の休みを得た。この法案は、三月一日の下院の会議で、ジョン・ラッセル卿[101]が提出した。卿の発言は、概して下院に好意的に聞かれていた。イギリスの将来に大きな影響を及ぼすこの重大な措置について、ここで詳しく述べても、私の目的には役立たない。両院で長い議論の対象となったが、私は、その結果が現れるたびに言及するにとどめよう。
私の側では、書簡の中で、別の種類の議論を続けなければならなかった。ベルギー問題について、パリでは頑なに、私と同じ視点から見ることを拒んでいたからである。ポンソンビー卿をブレッソン氏と同時にブリュッセルから召還することを、相変わらず求めていた。また、もっぱらベルギーだけを支えるつもりで、会議に、その利益へもっと好意的であるよう求めていた。会議はオランダ国王に肩入れしているという非難も、絶えなかった。一方、国王も私たちへの不満をヨーロッパ中に響かせていた。こちらの訴えのほうが、むしろ真実に近かったかもしれない。救援を求めて招いた私たちが、自分の国の半分以上を奪う革命を認めた、と言うのである。
ラフィット内閣、より正確にはセバスティアニ将軍は、ベルギー問題では、フランスの政策を四大国の政策から切り離したかったのだと思う。意識してか否かはともかく、ボナパルト派や共和派の陰謀家たちに、それほどだまされていたのである。彼らは、ベルギーとフランスの併合がかなうと将軍の期待をあおったり、革命戦争で脅したりしていた。しかし、事態の必然に押され、将軍はつねに列強のほうへ戻った。そのあとイタリアとスペインで起きた出来事により、少なくともイギリスの協力は求めざるをえなくなった。
イタリアの革命派は、パリの友人たちに励まされ、教皇領で武装蜂起した[102]。ボナパルト家の二人も、そこへ赴いた。フランス政府は、始まった戦いそのものよりも、その結果としてほぼ避けられないオーストリアの介入を恐れていた。そして、可能であれば、列強の共通の了解によって、オーストリア単独の行動を防ぐため、イギリスと協議するよう、私に求めてきた。パリでは、スペインの問題も、フランスとイギリスで共同して扱いたいと望んでいた。
この提案に答え、一八三一年三月五日、私はセバスティアニ将軍に次のように書いた[103]。
「伯爵殿、
本日五日、今月一日付でお送りいただいた、二通の外交報告を受け取りました[104]。(一通はルクセンブルク大公国の問題について、もう一通はイタリアの問題についてでした。)
そこに含まれる訓令を、十分に理解しました。すべての点で、それに従います。ただ、これらの外交報告に基づいてイギリス内閣へ行うべき伝達を、遅らせざるをえないのが残念です。下院で長引く議会改革の審議に、大臣たちは昼も夜も追われており、いま、ほかの重大な国事について話すことは、不可能です[105]。
昨夜、下院で、かなり注目すべき出来事がありました。陸軍大臣ウィン氏が、提出された改革法案を熟考した結果、賛同できず、内閣から退くと宣言したのです[106]……。
ルクセンブルクの問題について、ビューロー氏とヴェッセンベルク氏に会いました[107]。二人とも、フランクフルトへ手紙を書くのは難しいと言いました[108]。自分たちへの誓約が守られておらず、ベルギー政府の保証と、メリネ将軍[109]が受けた命令にもかかわらず、二月二十八日の時点で、ベルギー軍がマーストリヒトを封鎖し続けていると、知っていたからです。政府の命令が実行されないことは、あらゆる交渉を難しくします。私は、摂政がメリネ将軍に、従わなければ免職すると警告したうえで、休戦協定で定めた位置へ戻るよう命じたと保証しました。二人は、ベルギー軍の撤退を知りしだい、ドイツ連邦議会が提案したあらゆる行動を遅らせるため、必ずフランクフルトへ書き送ると答えました[110]……」
「ロンドン、一八三一年三月八日[111]
伯爵殿、
今月一日付でお送りいただいた外交報告の、イタリアの情勢に関する情報を、非常に注意深く読みました。フランスとピエモンテの関係については、あなたの見解に全面的に賛成です。教皇領に関して採用された計画も、非常に有益で、実現可能だと思います。オーストリアの二人の全権代表、エステルハージ公とヴェッセンベルク男爵に話したところ、この計画に、それほど反対ではないようでした。この点についての宮廷からの訓令は、まだ持っていません。それでも、あなたの考えを受け入れる意向があり、その趣旨でウィーンへ書き送るだろうと、判断できました。
今朝、パーマストン卿と長く話し、一日付のお手紙に含まれることを、すべて伝えられました。この会話のあとに残った印象は、主要な点では合意できること、そして、私たちのいくつかの議定書について、あなたが挙げられた難点も、説明によって解ける性質のものだということです。
イタリアの問題について、パーマストン卿は、国の行政の一部を聖職者ではない人々の手に置く譲歩を、教皇政府に促すため、わが内閣とウィーンの内閣に協力して行動したいと言いました。ピエモンテに対するわが国の行動も、大いに称賛しました。そして、ピエモンテからの亡命者を武装解除するため、フランスの国境当局に与えられた命令には、たいへん満足していると述べました。
スペインへのあなたの不満について話すうちに、あなたの側でスペインの亡命者たちをフランス北部へ移らせるなら、スペイン軍をピレネーの国境から撤退させるのは、きっと容易だろうという考えになりました。この問題は、パリのスペイン大使と、有利に交渉できると信じる理由があります。なお、いま申し上げた方向であなたが求められることは、何であれ、イギリス内閣の支持を得られます。
パーマストン卿との会話の直後、会議が集まり、あなたから受け取った、人に示せる外交報告を読みました。そこでも、かなりよい反響がありました。結局は、互いに了解できると思います。議会の審議で、パーマストン卿に一瞬の暇もないため、次の会議は金曜日に延期しなければなりませんでした。金曜日には、お手紙で扱われたさまざまな点を議論します。議定書の作成が提案されても、本国の承認を条件としてしか受け入れません。何かに署名する前には、国王の命令を待ちます……」
これらの外交報告を書いた時、アデライード王女にも、次のように書き送った。
「王女様も、私たちがすべての列強に対して、望ましい位置に達したとお感じになるはずです。今や列強は、自分たちの平穏のためにも、国王の平穏がもう乱されてはならないと理解しているからです。したがって、国王の政府を揺るがしかねないことを望むどころか、パリ、諸県、議院の動きの中に、混乱へ向かう兆しがあれば、何であれ心配するようになっています。もはや、どの列強も平和を乱そうとは考えていません。皆、その維持を望んでいます。もし平和が守られないなら、その唯一の原因は、フランスに見られる、落ち着きのない、侵略的な精神でしょう。
この先を見ない精神は、栄光と領土拡大の夢のために、国の実際の必要を、いつでも犠牲にしようとします。他国のすべてを問題にすれば、最後には自国のすべてを問題にすることになる。そのことをフランスでは忘れているか、知らないのです。今日、ルイ=フィリップ国王の王位は、聖王ルイの王位と同じくらい古いものです。しかし、戦争になれば、昨日生まれたばかりのものになります。その戦争を避けるため、何でもするよう、あなたは私に命じられました。さまざまな宮廷が、わが宮廷へ友好的になるようにも望まれました。それは、完全に達成しました。私がすることすべてで、つねに思い浮かべていた王女様にも、ご満足いただけるものと願っています。
新しい王位に見たいと願われる原則をすべて含む、十九日の議定書に、まだ返答がないことを、指摘せずにはいられません。ロンドンの外交団とロスチャイルドは、四十八時間以上も前から、この文書がパリへ届いたと知っています。わが国の新聞はこれに言及し、その精神を歪め、表現を変えています。正確な公表が、ますます必要になっています。この文書の中で、わが宮廷がどれほど第一の位置を与えられているか、また、私が条約について述べる時は、一八一四年の条約を指すのだと、国民が知ることは、国王への奉仕に役立ちます。この条約によって、フランスは大きく、強いままでした。したがって、一八一五年の条約を出発点として挙げるのは、誤りです。一八一五年に国へ押された汚点を前に、私は身を退きました。そして、誰にも劣らぬ国民的な誇りを持っていると思います……」
友人であり、アデライード王女の信頼を受けていたヴォーデモン公妃にも、私は書いた。
「パリでそう言われているとおり、私は物事を高すぎるところから見ているのかもしれません。しかし、高いところに身を置いてこそ、確かな立場を築けます。ベルギー人のような、軽率で騒々しい人々に、支えを求めることはできません。ベルギーは、いずれわが国のものになるかもしれません。しかし、それは先のことです。いまは二次的な利益にすぎません。事態の力は、ベルギーをフランスへ導いています。しかし、まずフランスの基盤を固めなければなりません。それを確かに、無事に行えるのは、いまフランスを求めている列強と協調してこそです。ロンドンで、私は事態をそこまで導いたのです。この位置を離れないようにしましょう。愛する国王と王女様によくお仕えしたかったので、この位置を得るため、多大な苦労をしました。小さな利益は放っておき、大きな利益だけを考えましょう。ヴァン・ド・ヴェイエル氏とその仲間の友人であるより、列強と一致し、対等な位置に立ち、ともに既存の秩序を守る友人であるほうが、よいのです。
あなたのベルギーが送ってきた、私たちの議定書は、理にかなっているとお認めください。わが国で持ち出されている難点は、実に小さなものです。オランダに肩入れしていると言われていますが、それはまったくの誤りです。債務の問題では、何も決定しようとしていないからです。双方が顔を合わせれば変更できる基礎を、提案しています。私たちはオランダ側だと非難され、オランダからはベルギー側だと非難されています。オランダ国王は、毎朝、私たちに悪口を言い、まったく不満なのです。誰もが不満を述べるなら、公正にかなり近いということでしょう。フランスでは、片側の言い分、すなわちセル氏の言い分しか聞いていません。そして正直に言って、この人物は、尊敬に値しません。」
タレーラン公からセバスティアニ将軍へ[112]
「ロンドン、一八三一年三月十三日
伯爵殿、
昨日開くはずだった会議は、また延期され、外務省に集まるのは、ようやく明日になりました。人に示せるあなたのお手紙を、会議の委員たちに伝えた結果と、提案される決議を、そのあとでお知らせします。ほかの委員が採用したことは、本国の承認を条件として受け入れます。国王の政府が、一月二十日、二十七日の議定書に留保を付けている以上、わが政府と会議との間に意見の相違があると受け取られる文書には、命令なしで署名すべきではありません。
昨日、パーマストン卿を訪ね、最近の外交報告で扱われたさまざまな事柄について話しました。まず、ワルシャワの出来事と、ニコライ皇帝がポーランド人に対して節度と寛大さを示さなければ、ヨーロッパの平穏にどのような危険な結果が生じうるかを述べました。パーマストン卿は、この点で私たちの考えに全面的に賛同しました。ペテルブルクのイギリス大使には、ポーランド王国をロシア帝国に結び付けた、一八一四年の規定を守るよう、ロシア内閣に求める任務が与えられます。とりわけ、ポーランドが別個の国家であり続け、ロシアの一州として併合されないよう、強く求めるでしょう。パーマストン卿も、ペテルブルクに理性の声を聞かせることが、ヨーロッパにどれほど重要かを、私たちと同じく理解しています。卿の言葉から、ロシア駐在のイギリス大使に送られる訓令は、あなたがモルトマール公に与えたものと一致するはずだと、確信できます。
続いて、ギリシャの問題に関する、七日付のお手紙に記された意見を、パーマストン卿に伝えました。卿の返答によると、ちょうどリーヴェン公が、ギリシャの国境拡大についてロシアが感じている、一種のためらいを説明する宮廷からの外交報告を、卿に知らせたところでした。ギリシャへの貸付金の一部は、新しい国境線によって失う領土について、トルコ政府への補償に充てられます。その金は、アドリアノープル条約で課された賠償金の支払いに用いられ、結局ロシアの手に入ります。そのためロシアは、ギリシャのために領土拡大を求める際、自分が先頭に立たないほうが、慎みがあると考えたのです。これが、ペテルブルクの内閣が、最初の働きかけをイギリスとフランスに共同で任せることにした理由だと、パーマストン卿は言いました。しかし、時機が適当と判断されれば、ギリシャのための要求を支えるため、自らの働きかけも加える意向です。リーヴェン公は、何かを伝えるために、私との面会を求めてきました。おそらく、それはパーマストン卿に伝えたのと同じ内容で、いま報告したことだと考えています。
今月四日付の外交報告で扱われた、ポルトガルの情勢と、それに関わる問題についても、パーマストン卿に話しました。卿は、両国がポルトガル政府に対して訴えるべき不当な扱いを正すために、イギリスがフランスと共同で行動できない理由を、詳しく述べました。イギリスはポルトガルと特別な条約を結んでおり、わが国にはない特権を持っています。そのため、この国との関係や、そこでの事柄では、単独で行動する義務があるのです。例えば、主としてイギリス人の利害に関わる件で難問が生じた時、イギリス政府は、適当と判断すれば、自分だけが指名したポルトガルの司法官に、その件を裁かせる権利を持っています。なお、ドン・ミゲルの承認は、かつてないほど遠のいていると申し上げられます。また、ポルトガルに関するイギリスの今後の計画がどうであれ、わが国へ予告せずに何かをすることはありません……。
改革の問題は、この数日、進展しています。賛成する請願が各地から届き、内閣は議会の多数を確保したと信じています……」
すでに述べたとおり、いま報告した交渉の合間の三月十三日、パリではペリエ氏を首班とする新しい内閣が成立した。ダルベルク公は、この内閣について、次のように書いてきた。
ダルベルク公からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年三月十五日
親愛なる公爵殿、新しい政権が現れました。フランスがこれまで国の利益を任せた中で、最も愚かで、無能で、軽蔑すべき政権に代わるものです。国家破産が、大股で迫っていました。人々の憤りは激しく、おそらく議院も、ラフィット氏とティエール氏に、暫定予算として年額の十二分の四を任せるのを、ためらったでしょう。イギリスの新聞が、あの政権を徹底的に打ちのめしてくれればよいのですが。当地の革命派の仲間意識はあまりに強く、わが国の新聞には、相応の評価を下す勇気がありません。その間、ラフィット氏は押し切られ、親族や普段付き合っている人々のうち、五十〜六十人に職を与え、事業の清算の際には、九人の事務員を行政の主要な地位に据えました。
考え方の混乱と、あらゆる組織を崩す、歯止めのない反抗の中で、新しい内閣は持ちこたえられるでしょうか。そのためには二つのことが必要です。一つは、街頭の暴動と妥協しないことです。その決意はあります。七万人の兵がパリの周囲におり、騎兵三個連隊が市内へ入りました。行動が意図にかなうよう、期待しましょう。次に、新しい議院が、内閣に多数を与えなければなりません。そして、新しい議院が必要なのです。選挙によって、中道左派の人々が勢力を取り戻すだろうと、私は考えています。そうなれば、勝利を確実にできるでしょう。南部からは、シャルル十世派がもっと多く送られてくるでしょう。家宅捜索が、あらゆる党派を怒らせました。その措置で得られたのは、それだけです。
対外問題については、セバスティアニ将軍の留任は誤りです。彼は、パレ・ロワイヤルを支配していた弱さと陰謀の、道具にすぎません。セバスティアニ将軍は戦争を望まないのに、平和を確保することができませんでした。これが大きな過ちです。
カジミール・ペリエは、平和を保ちたいと望んでいます。しかし、事態はかなり損なわれているように思います。ヨーロッパがわが国を攻撃しようとしていると広め、不釣り合いな軍備の理由を並べ立てたため、人々はすっかり逆上し、もはや鎮め方も分かりません。国王の周囲にいる、ヴァトゥー[113]、リュミニー[114]、トレヴィーゾなどの話は、情けないものです。その言葉を聞けば、ヨーロッパはもうサン=ドニの関門まで来ており、こちらはそれを丸呑みにすればよいだけだと、思うでしょう……」
三月十九日、私はセバスティアニ将軍に次のように書いた[115]。
「伯爵殿、
昨夜、今月十六日付でお送りいただいた外交報告を受け取りました。ルクセンブルク大公国についてのベルギー摂政の布告は、当地できわめて悪い反響を呼びました[116]。この件に関して、お手紙に含まれる知恵に満ちた説明を読むと、布告が十五日前に出ていなかったことが、なおさら残念でなりません。ベリアール将軍に与えられた訓令は、ベルギー政府の新たな愚行[117]が当地で呼び起こした怒りを鎮めるのに、たいへん役立ったはずです。今日発表された、数隻のイギリス艦をスヘルデ川へ送る措置も、止められたかもしれません。また、プロイセンの全権代表が、フランクフルトの連邦議会へ、もっと明確な保証を与えられるようにできたかもしれません。
いずれにせよ、伯爵殿、十六日付の外交報告を、できるだけ生かす努力は怠りません。ブリュッセルとロンドンで、列強とともに進むという固い決意を示せば、よい結果が生まれると期待しています。長すぎた遅延のため、その結果は得にくくなっているのですが……」
なお、その前日、私はカジミール・ペリエ氏へ、次の手紙を送っておいた。ロンドンでの任務中、私の行動を導いた政治思想を、ありのままに示すものとして、今も喜んで読み返している。[訳注3]
タレーラン公からカジミール・ペリエ氏へ
「ロンドン、一八三一年三月二十八日
拝啓
十五日間、わが美しいフランスの運命をめぐる動揺、難問、悲しい予測が続きましたが、地平は明るくなり、あらゆる希望が蘇って、あなたのお名前に結び付いています。『モニトゥール』でその名を見た時は、まことにうれしく思いました。イギリスの、良識ある人々すべてが満足しています。ヨーロッパの大きな利益のために当地へ集まった、大陸の見識ある人々も、喜んでいます。さらに、ここにいる多くのフランスの友人たちも、と付け加えられます。私は、彼らの満足をあなたに伝えることを、ほとんど託されたようなものです。
ここで、駐ロンドン・フランス大使の行動を導いた精神について、首相に報告しなければなりません。
その主な目的は、平和を保つことでした。新しい王朝を固め、フランスが占めるべき地位を保ち、崩壊の深刻な脅威から、この古いヨーロッパ全体を救えるのは、平和だけだと考えていたからです。この平和を犠牲にする決心ができるのは、祖国の独立のためだけです。そして、その独立が、これほど脅かされていない時代は、かつてありませんでした。そのため私は、フランスの若い熱狂に反して、ベルギー問題は、フランスで思われているほど重要ではないと考えました。わが国の人々が、完全な無政府状態にある一握りの人間を頼りにし、過度に彼らへ迎合して、この問題を解決しようとするのは、残念でした。もっと適当な時が来れば、時の経過と事態の力によって、わが国は必ずこの問題を掌握するでしょう。しかし、それまでは、難問しかもたらさないのです。平和と秩序を保つには、どこかに権力が必要です。いまの不幸は、そうした権力がほとんど見当たらないことです。私に見えるのは、もはや一つだけです。それは、五大国の一致の中にしか存在しません。現在のその一致は、神聖同盟とは何の共通点もありません。政府を替えたり、形を変えたりする国々の内政に、不干渉の原則を適用することで、神聖同盟の基礎は崩れます。これこそ、空想的な部分を取り除いた不干渉です。当地に集まった列強は、経験に照らし、必要な譲歩を行うことを知るでしょう。同時に、社会が決して欠かすことのできない保障と防壁を、提供するでしょう。私の見方では、これが、新しいわが政府の真の支えです。ヨーロッパ自身が最も必要とするものとして、わが国の体制の確立と存続を、ヨーロッパに望ませなければなりませんでした。それを、私は成し遂げました。ほどなく、わが国は第一の影響力を振るうでしょう。しかしその前に、わが国が戦争を企てているという国外の疑いを鎮め、この三か月間よりも、国内をしっかり統御できると示す必要があります。
不干渉の原則は、それ自体、たいへん便利で、ある状況にはよく適しています。しかし、これを絶対のものと見なし、互いに最も遠く離れた事柄にまで適用しようとすれば、ばかげたものにしかなりません。この原則は、判断力が用いる手段です。退けるか、適用するかは、判断力に任されています。カニング氏も、そのように理解していました。判断力の問題である以上、あなたは誰よりも巧みに、この新しい道具を扱えるでしょう。これは、行動する理由というよりも、行動しないための便法となることのほうが、多いものです。
私の政策が、あなたの採用したいとお考えの政策と通じ合うものであってほしいと、強く願っています。なお、私はもう、疑うことを学ばずにいられるほど若くはありません。お寄せくださるすべてのご意見に教えられ、あなたが有益とお考えになる道に従う用意は、十分にあります。
あらためて敬意を申し上げます……」
この手紙は、カジミール・ペリエ氏に多少の感銘を与えたと、私は考えている。そもそも、氏は前の内閣よりも賢明な政策に従うと、固く決めていた。その決意によって、セバスティアニ氏の言葉も変わり、すでに三月十六日の外交報告に、その変化が見えていた。この新しい意向を保たせるため、私は急いで、三月二十日付で次のように書いた[118]。
「伯爵殿、
今朝、パーマストン卿、エステルハージ公、ビューロー男爵に、十六日付のあなたの外交報告について話しました[119]。三人とも、私の話した内容にたいへん満足し、ベルギー問題がフランスにもたらす難問から、ようやくフランスが抜け出すのを見たいと述べました。三人はそれぞれ別々に、この国はフランスを引きずり込もうとすることしか考えていないと、私に言いました。この国を動かす陰謀家たちの目的は、フランスの平穏に役立つどころか、フランスをヨーロッパとの間で厄介な立場に追い込むことだというのです。ビューロー氏は、こう言いました。『会議が、第七号議定書で「将来の独立」という言葉を用いた時、ベルギーを正しく見ていたことを、ベルギー自身が証明しました。』
これが、ともに進むことが私たちにとって重要な四大国の、確かな見解です。四大国も、私たちと歩調を合わせる意向を持っています。今朝会った会議の三人の委員は、それぞれ、きわめて明確な保証を、もう一度述べました。各自の政府は、フランスで現在の体制が固まり、ヨーロッパの平和が維持され、フランスが当然占めるべき地位を占めることを、望んでいるというのです。皆、その必要を感じており、これが、つねに自分たちの判断の理由になると、言いました。なお、プロイセンとオーストリアの全権代表は、フランクフルトへ書き送ると約束してくれました。その意見によって、私たちが恐れているドイツ連邦の企てが、止まることを期待しています……。
オラニエ公は、今朝、ロンドンから船でオランダへ発ちました。この首都で、あらゆる種類の楽しみを味わったあとでした。去るのが残念だと、かなり公然と言っていました。当地での暮らしぶりによって、公はあまり尊敬を得ませんでした……」
オーストリアとプロイセンの公使が、フランクフルトへ書き送ると約束してくれたことは、無駄ではなかった。ベルギー摂政の布告は、ルクセンブルク大公国の領有を自国のために求める意図を、公然と示していたため、ドイツ連邦議会の不満を極限まで高めていた。おそらく強制措置を取るところだったが、私がエステルハージ氏とビューロー氏に伝えられた内容によって、二人は、とりわけ新しいフランス内閣に寄せるべき信頼を強調し、フランクフルトで準備されていた敵対的な決議を止めた。
パリから、イギリス政府に、イタリアへイギリスの使節を送るよう提案する任務を受けていた。とりわけ教皇領で起きたばかりの騒乱を鎮め、可能であればオーストリアの介入を防ぐために、わが国の外交が行う働きかけを助けてもらうのだった。改革法案の審議で下院に拘束されていたパーマストン卿に、この件で短い手紙を書かなければならなかった。下院は、三月二十二日から二十三日にかけての夜、一票差の多数で、この法案を採択した[120]。その際、パーマストン卿は、次の短い手紙を返した。
「親愛なる公爵殿、
お祝いのお言葉に感謝します。私たちの標語は、『一つあれば十分』です。
優れた外交官、サー・ブルック・テイラーは、健康のためにローマで冬を過ごしたあと、いまフィレンツェにいます。まさしく、私たちに必要な人物です。あなたとオーストリアに協力するため、ローマへ戻るよう、必要な訓令を、遅滞なく送ります[121]。
フィレンツェからの最新の知らせによれば、ボローニャはワルシャワではないようです。ミラノ地方から吹く風を前に、革命はしおれています。ビアンケッティ[122]と、もう一人、名前を忘れましたが、その人物がトスカーナに着いたばかりで、リヴォルノから船に乗り、フランスかイギリスへ逃れようとしているそうです。教皇と、これらの反乱者との間で和解を成立させるのに、大きな難しさはないでしょう。敬具。
パーマストン」
このように、当時ヨーロッパを揺るがしたあらゆる問題は、結局ロンドンへ集まってきた。イギリス内閣と議論し、歩調を合わせて進められるように、私はそれらの問題を調べなければならなかった。このイタリア問題は、フランス政府にとって、新たな重大な難問だった。しかし、それを扱う前に、ほかの問題の推移を示す外交報告の引用を、続けなければならない。
タレーラン公からセバスティアニ将軍へ[123]
「ロンドン、一八三一年三月二十五日
伯爵殿、
いくつかの外交報告でお勧めになったとおり、パーマストン卿に、ポーランドの問題を繰り返し話すことを、怠りませんでした。卿の言葉から、イギリス内閣はポーランドの大義に関心を寄せ、ペテルブルクの大使ヘイツベリー卿[124]に、節度の声を聞かせるための訓令を送ったと、信じる理由があります。この点でヘイツベリー卿と連絡を取るよう、モルトマール公に命じるのが有益だと思います。卿の受けた命令は、モルトマール公に与えられた訓令に、どの点でも反しないはずです。二人の大使が同時に非公式の働きかけを行えば、必ず何らかの効果を生むでしょう。その目的は、ロシア皇帝の統治下でポーランドの独立した存立を保障する、一八一四年の諸条約を守るよう、ロシア内閣に求めることです。皇帝の宣言は、ポーランド人が服従しなければ、武力で制圧し、そのあと帝国に併合するつもりだと受け取れます。この措置は、列強が履行を求める権利を持つ、一八一四年の条約の重要な条項を、無効にしてしまうでしょう。これを出発点にすれば、ポーランド人を擁護するために述べるすべての言葉に、力を与えられると思います。
今朝、当地への新しいベルギーの使節、アルスコット伯爵[125]に会いました。会話では、氏をロンドンへ来させた問題の核心には、あまり踏み込みませんでした。摂政の布告によって、ロンドンにいるすべての公使が、ベルギー代表へ冷淡な態度を示すようになっていたからです。それでも、十六日付のお手紙の一節を、有益に使うことができました。ベルギーが、何の挑発も受けていないのに、ヨーロッパの平和を乱すような道へ踏み込まないかぎりにおいてのみ、フランスはベルギーを支える意向がある、という一節です。この言葉には、話を広げる余地が十分にありました。私は強い関心を示して説明を展開し、最後に、会議が氏の国の立場をどう理解しているかという、伝えたかった考えへと会話を導きました。私は言いました。『今日のベルギーは、一七九〇年のベルギーに、リエージュ司教領を加えたものです[126]。その独立は、いま認められようとしており、中立はすべての列強に保障されています。ほかの国々の平穏を乱さない、ただその条件で、これらの利益がすべて確保されているのです。』
摂政の布告によってドイツ連邦議会が取ろうとしていた敵対的な決議を止めるため、ロンドンから議会の委員たちへ書き送った外交報告の結果を、あなたから知らされるのを待っています。あなたの直接の働きかけは、きっと期待された効果を生んだでしょう……」
「ロンドン、一八三一年三月二十八日[127]
伯爵殿、
……ベルギーの将来の君主選びについて、意見を探るため、会議の委員全員に、再び一人ずつ会わなければなりませんでした。二十四日付のお手紙に含まれるご意見を、有益に使いました。皆、昨日この件についてお知らせしたことを、繰り返しました。すなわち、君主が治める国の国境を定める前には、ベルギーの君主を決められない、ということです。そうしなければ、この公子を、現在の摂政と同じ難しい立場に置くおそれがあります。主権を受け入れる時、ベルギー人が自分たちの好きなように広げた領土の一体性を保つという条項を含む憲法に、誓いを立てなければならないからです。そのような誓約が、新たな難問を招くのは、容易に予見できます。したがって、全権代表は、何より先に、ベルギーの領土の国境を定めた議定書を、留保なくそのまま採用することが、絶対に必要だとの意見で一致しています。同時に、ベルギーとオランダの双方に最も都合のよい飛び地の処理については、あとで取り決めるべきことも認めています。その時には、ブイヨン公領の問題も、容易に解決されるでしょう[128]。
ナポリの公子には、国王の政府にとって有利な点も、不利な点もあります。それは、私よりもあなたのほうが、よく判断できる立場におられます。ザクセン=コーブルクのレオポルド公については、名前を挙げた会議の委員たちの間で、その人物に対する反対は、何も見られませんでした。何度も書いたとおり、イギリス内閣は、つねにオラニエ公が最適の候補だと考えていましたが、今日ではその考えを捨てています。熱心ではないにせよ、ザクセン=コーブルクのレオポルド公を選ぶ案に、加わるでしょう。
ロシア大使には、名前を挙げて候補の話をすることができませんでした。訓令によって、オラニエ公以外の公子に関心を寄せることが、認められていないからです。しかし、これはベルギーの問題を何も妨げません。必要だったのは、ロシアが独立に反対しないことであり、それは得られています。君主の承認は、あとから来るでしょう。
ザクセン=コーブルクのレオポルド公が選ばれた場合に、あなたが要求される要塞の撤去は、容易に得られるものだと、私は以前から考えていました。私の見方では、中立の宣言以来、要塞はその重要性を失ったからです。この宣言に、本来の重要性をフランスで認めていないことは、承知しています。それでも、中立こそ、要塞問題を終わらせる最善の手段だったと、私は今も信じています。パリを発つ時には、最も見識のある人々にも、この問題は、あらゆる人の自尊心を巻き込み、何百万もの金を失わせ、解けなくなったものに見えていました。なお、いまはこの問題を扱う時ではなく、きっと、また取り上げる必要があるでしょう[129]。
君主選びについて、あなたの外交報告のとおり、候補をナポリの公子とザクセン=コーブルクのレオポルド公に絞るなら、私個人の考えでは、あなたが選出を実現できる見込みの大きいほうに、決めるべきです。四か月前の情勢では、ザクセン=コーブルクのレオポルド公が、誰よりも容易に選べるように見えました。その後、あなたの方針は違ったため、私はもう彼の件には取り組んでいません……」
「ロンドン、一八三一年四月五日
伯爵殿[130]、
最近お送りした手紙では、四つの宮廷の全権代表から届いた覚書への返答を、何度も急いでいただかなければなりませんでした。同意や説明を与えるまでの時間が長いほど、時には悪意ある解釈の余地を与え、すべてを難しくするからです。三月三十日付の外交報告に基づき、私が理解し、伝えなければならなかったとおり、あなたはオランダとベルギーの国境に同意しています。フランス駐在の大使たちから当地へ届いた手紙にも、その同意は記されています。人々は、この同意と、わが内閣の沈黙とを、どう整合させるか考えています。
それでも、要塞の問題に多少の疑いが残るなら、四大国の全権代表への返答の中で、なぜそれを述べないのでしょうか。各国の内閣は、合意する意向です。多少の不安はありますが、怒りはどこにも見当たりません。むしろ、ボローニャに関するわが内閣の説明は、人々を不安にするより、安心させたと申し上げなければなりません。ウィーンでも、あなたが期待される効果を生むよう、誰もが願っています。
当地では、ベルギーの君主としてオラニエ公を選ぶことに、日ごとに冷淡になっているのが見えます。もはや、本当の関心を持っていません。ロシアを除き、どの政府も、公のために働きかけはしないでしょう。
ベルギーの大義は、イギリスで日ごとに支持者を失っていると、きっとお聞きでしょう。ベルギー人は独立を受ける準備が、あまりにもできていないと見られています。イギリスのように良識が支配する国では、ブリュッセルの国民会議の審議は、あまり好評ではありません。
首相カジミール・ペリエ氏の演説は、当地で大きな反響を呼び、昨日は誰もが、次の言葉を繰り返していました。『内政上の約束は、憲法の中にある。対外問題については、条約以外に約束はない[131]。』
敬具……」
同じ日、オルレアン家のアデライード王女にも、私は書いた。
「ロンドン、一八三一年四月五日
あえて王女様にお願い申し上げます。この年老いたしもべを、お憐れみください。そして、ブレッソン氏か、その代わりの誰かを、これ以上遅らせず、私のもとへ送るよう、強くお求めください。五か月前、ブレッソン氏がブリュッセルへ発って以来、一等書記官はおらず、そばにはバクール氏しかいませんでした。氏の働きには、実のところ、まったく満足していました。しかし、無理な仕事がたたり、この十日間、重い病気で寝込んでいます。今では、会議、面会、大使館の細かな事務まで、仕事はすべて私にかかっています。どれほど意欲があり、身を削って働いても、望むようには運べません。
長い政治の議論で、王女様をお疲れさせたくはありません。しかし、あえて申し上げるなら、私たちは、近いうちに平和を確保しなければならないところまで来ています。そうでなければ、少数の大胆な陰謀家たちの悪い精神に引きずられ、戦争に入るでしょう。その行方を思うと、最も深い献身を捧げる方々のために、私は震えるのです。フランスがベルギー人に対し、適切な宣言を出せば、平和は得られます。一部の領土交換と要塞の撤去を取り決める余地を残し、ベルギーの古い国境を認める宣言です。これを、ブリュッセルでも、会議でも、正式に行うことが肝要です。イギリス内閣が受け取ったすべての情報によれば、ベルギーに関してフランスが列強と一致していると分かれば、ブリュッセルでは会議の決定に従う寸前のところまで来ています。そのため、この宣言はいっそう必要です。
あらゆる手段で、ドイツ連邦の怒りが爆発するのを遅らせています。しかし、残る日は限られており、パリからの遅れは、大きな危険になりかねません。ベルギーの問題を終わらせることの重要性に、王女様のご注意をすべてお向けいただくよう、お願い申し上げます。絶えずこの仕事に携わり、完全に献身する中で得た確信をもって、お願いしています……」
カジミール・ペリエ氏の政権入りは、フランスの内政の進め方に、すぐによい影響を与えた。幸い、対外問題、とりわけベルギー問題にも、ほどなく同じく好ましい影響を及ぼした。フランス政府は、オランダとベルギーの国境を定めた、一月二十日の会議の議定書を、ついに受け入れると決めた。セバスティアニ将軍は、四月四日付の外交報告で、この受諾を知らせてきた。その動機は、これから分かるだろう。以下の外交報告と手紙で、そこに絡んださまざまな出来事の事情は、十分につかめるはずである。
まず、カジミール・ペリエ氏の手紙から始めよう。
カジミール・ペリエ氏からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年四月二日
親愛なる公爵殿、
息子の一人に代筆させることを、お許しください。私の字は、どの政府にも解読の鍵がない暗号なのです。
数えきれない仕事のために、あなたからいただいた温かいお言葉に、もっと早くお礼を申し上げられず、たいへん残念です。いま私に起きていることを、私は少しも望んでいませんでした。このような状況では、権力に心を引きつけるものはありません。しかし、その地位へ呼ばれた以上、経験と見識を持つ人々の側に、信頼と支えを得られるのは、うれしいことです。あなたのご好意が判断を誤らせず、私の名によって、本当にわが国の友人を、いくらか増やせるよう願っています。
それがどこかで起こりうるなら、イギリスでしょう。私の考えでは、両国はますます結び付くべきです。根本では、同じ大義を持っています。偏見に曇った目には見えませんが、経験がそれを証明するでしょう。
ここからは、フランス大使に申し上げます。私たちは平和を重く見ています。しかし、相手も同じくらい重く見るべきだと考えています。したがって、賢明であろうという固い意志を持ちつつ、わが国の権利については、何一つ譲歩しません。フランスは、平和を保つことで、ヨーロッパに十分大きな奉仕をしています。ヨーロッパも、それを考慮すべきです。また、武力を用いて自分たちの信条を広めるより、賢明な態度によってこそ、私たちは諸国民に役立つと思います。
なお、私の政策はすべて、議場で述べました。二つの政策を持ってはいません。この点では、つねに考えをすべてお伝えします。見解に少しでも変化が生じれば、すぐにお手紙を書きます。
いま、ベルギーの王位の問題に取り組んでおられることは、承知しています。同じ一つの文書で、新しい国の国境も最終的に定めたいと、望んでいます。問題の本筋に関わらない難点によって、その決着が遅れないことを、強く願います。一般に、今日の政治では、時機を逃さず決断することが重要です。これまで、あなたのご意向には大いに反することだったと承知していますが、ためらいと先延ばしこそ、わが国の仕事の成功を最も損なってきました。これを繰り返してはなりません。本当の難問を招くかもしれないからです。
公爵殿、人と物事を深く知り尽くすあなたなら、私たちの考えを通す手段を見つけてくださるでしょう。どうか、頻繁にお手紙をください。私は事情を十分に把握しておく必要があります。あらゆる点で、あなたの巧みで率直な協力を、頼りにしています。
息子をあなたのもとへ送りました。どうか、親切にしてやってください。世間と国事を学んでほしいと願っています。あなたのおそば以上によい場所は、どこにもありません。
敬具……」
カジミール・ペリエ氏からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年四月四日
公爵殿、国のために、きわめてよい成果を期待できる、あなたとの直接の連絡を始めたいという願いに、すぐに従うわけにはいきませんでした。国王から、閣僚を集め、政府の運営に大きく関わるよう求められた時、まず内政に力を注がなければならなかったからです。その状況は知られており、長く私の考慮の対象でした。前もって固めた見解と計画に従い、遅滞もためらいもなく、行動できました。
国外との関係も、同じく難問に満ちていました。しかし、事柄が複雑で、しかも秘密にしておく必要があるため、国事の運営に加わっていない者には、なおさら調べにくいものでした。
閣議に入った時から、これらの関係を真剣に研究しなければなりませんでした。私が担当する省の専門分野には入らないこの研究は、まだ完全なものにはなりえません。とりわけ、新しい見識に教えられる必要があります。
閣議で審議され、この手紙と同時に届く外交報告は、あなたに教えを求める機会となりました。ヨーロッパで並ぶもののないご経験と、フランスの運命に深く影響しうる、あの外交会議でフランスを代表するお立場によって得られた知識を、お伝えいただきたいのです。
問題の外交覚書には、私は賛成しました。ヨーロッパ全体の状況、交渉の状態、そして平和か戦争かという問題を複雑にした最近の出来事に、適したものだと考えたからです。しかし、その賛成は、私が関わってこなかった、それ以前の外交上の事実や交渉の推移を、自分で評価して得た確信というよりも、ほとんど全員が前の内閣に参加していた同僚たちの意見への、信頼によるものです。
公爵殿、あなたに送られた覚書が適切かどうか、ご意見を、できれば近く派遣される使者の誰かを通じて、内々にお知らせいただけると期待しています。私がこれに賛成したのは、とりわけ、この覚書がベルギーの運命についての交渉を導いてきた精神と完全に調和し、あなたが有益と判断して与えた方向へ、交渉を後押しすると保証されたからです。公爵殿、政府が定めた目標へ進むのに適した覚書だという確信を、あなたから得られればうれしく思います。反対に、どの点であれ、不十分か、不完全だと思われるなら、それをはっきり知ることが、私には重要です。今後の内閣の決定が、この問題のよい解決に、もっと効果的に寄与できるようにするためです。この問題は、フランスと列強との関係で重大な難点であると同時に、国内に広がる不安と動揺を、絶えず養っているのです。
敬具……」
三月末、職を完全に離れる前に、数日間ロンドンを訪れたブレッソン氏も、私に手紙を寄せた。
ブレッソン氏からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年四月五日
公爵殿、
あなたのご指示を十分に果たすため、最大限の注意を払いました。今晩には、会議が全面的な満足を得られると、お分かりになるでしょう。ただし、多少の形式上の点は残ります。傷ついた自尊心に配慮し、その点は寛大に扱うのがよいと思います。私の主な論拠は、ベルギー人が会議の外にも支えがあると思っているかぎり、必要なことに従い、理性に目を開く気持ちは弱いままだというものでした。意図せず犯した過ちを償い、あなたの寛大なご親切と、前回のロンドン滞在でお会いした会議の委員の方々のご親切に、感謝を示したいという思いが、私を励ましました。公爵殿、どうか、私を動かしたこの気持ちを、委員の方々にお伝えください。
内閣は、自ら定めた道へ、率直に踏み込んでいます。ペリエ氏の与える推進力は、強いものです。議院を解散すれば、信頼できるかどうか疑いのある東部の諸県でさえ、内閣に多数を返すと、私は疑っていません。公爵殿、あなたご自身については、その意見を多少なりとも重くお考えになるような人々は皆、あなたをロンドンでの平和の希望と保障と見なしています。平和は、ほぼ全員の願いであるだけでなく、必要でもあります。騒々しい党派への譲歩も、彼らが考えるほど遠くまで、わが国を縛り、導くものではありません。公爵殿、お分かりでしょうが、ペリエ氏が私に、あなたへの私信で話すと約束したことを、指しています。
ベルギーからの知らせは、よくありません。当面の難問と、国の切り刻みと呼ばれ、独立した存立を不可能にすると言われるものによって、無条件でフランスに併合されようとする党派が、勢力を増しています。ザクセン=コーブルクのレオポルド公も、支持を伸ばしています。しかし、フランスの王女との結婚が、不可欠の条件になると書かれています。なお、この縁組が決まるかどうかは、彼の選出がフランスでどのような反響を呼ぶかによるでしょう……」
ベルギーの国境を定めた、一月二十日の会議の議定書について、自分が私に課した指示を、なかったものとするよう求めたセバスティアニ将軍の手紙は、見つからない。次の外交報告から、その手紙の趣旨は推し量れるだろう。
タレーラン公からセバスティアニ将軍へ[132]
「ロンドン、一八三一年四月六日
伯爵殿、
今朝、四月四日付の外交報告を受け取りました。来週の月曜日か火曜日に、会議へ伝える予定ですが、多くの点で満足を与えることは、疑いありません。そこまで伝達を延ばすのに、驚かれるかもしれません。しかし、会議の数人の委員がロンドンを留守にしているため、やむをえません。
残る大きな難問[133]は、マーストリヒトの位置に関連して、あなたが要求する領土の交換から生じるものです。四日付の外交報告で命じられたことを得るため、全力を尽くし、あなたのすべての論拠を用います。二か月前なら、成功はもっと容易だったでしょう。その時には、ベルギー人は、その後のように、今日いたるところに見られる不信を、まだそれほどかき立てていませんでした。全般に見て、時間は私たちに不利に働いています。この点は、注意しておくとよいと思います。時間は何も容易にせず、難問を増やすばかりです。
以前の外交報告の一通で、要塞について取るべき決議をお書きになりました。この点での私の意見は、望まれる撤去は得られるでしょうが、この問題は、国王を選んだあとへ延ばすべきだというものです。今日では、自尊心[134]を傷つけるかもしれません。会議からの要求として、国王を相手にすれば、この問題を最も有利に扱えるでしょう。
会議へ伝えるよう命じられた内容は、グレイ卿が、ほかの大臣よりも先に知ることになります。金曜日を、卿が滞在する田舎の邸宅で過ごす約束をしているので、これから開催を求める会議[135]の目的を、話す機会があるからです。審議中の事柄は、書くよりも、話すほうがよいと思っています。
今朝、ビューロー男爵とエステルハージ公に会いました。お望みのとおり、二人は明日、フランクフルトへ書き送ります。エステルハージ公は、ミュンヒ氏[136]本人に手紙を書き、ルクセンブルク大公国について、連邦議会を急がず融和を図る方針にとどめるよう求めます。この件に関するあなたの外交報告で述べられた、考慮すべき点が、どれほど重要かを感じているので、二人の行動が迅速で明確なものになるよう、強く求めました……。
ラマルク将軍が議院で私を攻撃した時、思い出そうとしなかった事実を、あなたが正してくださったことに、感謝します[137]。この審議を報じているのは、五日付のフランスの新聞だけですが、それがまだ届かないため、この点でのあなたの返答は読んでいません。しかし、そこに古くからの友情の証しを見いだせることは、確信しています。私を神聖同盟の一員だったと見なそうとするのは、奇妙なことです。私が大臣を辞めた二年後、アーヘン[138]で、リシュリュー氏がこの新しい盟約に加わったのですから。
会議の行動が神聖同盟を思わせると言いたいのなら、それはまことに大きな誤りです。納得するには、ナポリやスペインで行われたこと[139]と、ベルギーでいま行われたこととを、比べれば十分です。会議は、二か月後にはベルギーの独立を宣言したのです……」
重い病気にかかったバクール氏の代わりに、私が求めた大使館の書記官を送ることに、セバスティアニ将軍は、かなり不快そうな態度を示していた。しかし、カジミール・ペリエ氏の強い要求の前に、譲歩しなければならなかった。セバスティアニ氏は、自分の息のかかった人物を押しつけようとした。一方、私は、氏が外務省の事務局から解雇した、文書起草担当のテリエ氏を送るよう頼んでいた。以前の上司ブルジョ氏が、私に推薦してくれた人物だった。テリエ氏は、ようやくロンドンに着き、カジミール・ペリエ氏の手紙を届けた。同時に、ペリエ氏から、次のことを伝える任務も受けていた。国王の政府は、パリの暴動を鎮めたのと同じように、ベルギー人を抑えると固く決めている。勇気と決意を示す時が来ている。しかし、政府の行動を容易にし、人気を高め、批判者たちから口実を奪うためには、オーストリア軍が占領している教皇領の地域から、その軍の撤退を実現する必要がある、ということだった。
ペリエ氏は、この点について、規定を迅速に定めたいと強く望んでいた。氏自身も、次のように書いてきた。
カジミール・ペリエ氏からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年四月八日
公爵殿、
先日お送りした手紙の内容を、あらためて確認します。そこでは、外相からすでに届いているはずの、ベルギー問題に関する外交報告を予告しました。また、ベルギーに対して採ろうとしている行動方針について、どのような変更を提案するのが適当とお考えか、お知らせいただくようお願いしました。この方針は、あなたがロンドンで署名した議定書に沿うものだと、私たちには思われました。あまりに長く、暴動の仕掛け人たちが内政を左右したのと同じように、外交政策を左右してきた一握りの人々には、強い言葉で話すと決めています。あなたと一致すれば、この目標は容易に達せられると、考えています。
当地では、国事はたいへん順調です。国内情勢については安心しています。オーストリアが、ローマ教皇領の占領について、私たちを満足させてくれれば、平和を保てることも確実です。両国の名誉を保って、この問題をまとめる手段があるはずです。イギリスが誠実で、わが国を支える意志があるなら、この望ましい取り決めを、効果的に助けられます。
ウィーンとロシアから受け取る知らせは、どれも非常に心強いものです。モルトマール公の最新の外交報告も、たいへん満足のいくものです。しかも、これはロシアで、新しい内閣の構成が知られる前に、発送されたものです。
議院は、数日中に休会になります[140]。私たちの法案は、すべて大きな多数で可決されると期待しています。今日の審議は、すばらしいものでした。一億の臨時予算についての法案には、反対票を示す黒玉が、三十二個しかありませんでした。
公爵殿、あなたは国外でも国内でも、きわめて高い位置におられます。そのため、私たちが進もうとする道について、あなたのご意見を知ることを、何よりも重く見ています。この点で、お考えと見通しをお伝えいただければ、たいへんありがたく思います。
セバスティアニ将軍の、議院での最近の演説には、ご満足いただけたでしょう。将軍は、あなたに当然払われるべき、公正な評価を与えました。ようやく、その時が来たのです。そして、実に気持ちのよい態度で行いました。
この手紙を運ぶのは、テリエ氏です。あなたのご希望だと承知していましたので、ブレッソン氏よりも彼を派遣するよう、ようやくセバスティアニ将軍を説得しました……」
このペリエ氏の手紙と、パリから届く報告は、少数の陰謀家たちによって、国事があまりに長く停滞させられていた、あの厄介な轍から、ようやく抜け出したことを示していた。ペリエ氏の有効な協力を頼りにできることは、イギリスでの任務を成功させるため、非常に重要だった。ペリエ氏には、世間でいう才気はなかった。しかし、その代わり、自分の力で財を築いた人々の、まっすぐで確かな判断力を、豊かに備えていた。目標を探し、見つけると、決然とそこへ進んだ。氏には、難しい立場の中で、欠点さえ長所になるという、まれな幸運もあった。独断的で、多少頑固で、時には激しやすかった。しかし、そのすべてが、固く屈しない意志に見え、非常によい効果を生んだ。ある者の弱さや、ほかの者の陰謀と暴力を、強い障壁で食い止める必要のある時代だったからである。私自身、氏との関係には、満足することしかなかった。氏が政権にいたことは、私に任された問題の解決を、大いに容易にしたと、喜んで認める。
私は、四月四日付のセバスティアニ氏の外交報告を伝えた会議について、氏に報告した。
タレーラン公からセバスティアニ将軍へ[141]
「ロンドン、一八三一年四月十三日
伯爵殿、
会議の委員たちは、一昨日ロンドンへ戻り、昨日集まりました。今月四日付でお送りいただいた外交報告を、彼らに伝えました。この伝達は、好ましい印象を与えました。国王の政府が、その意図を会議の意図と緊密に結び付けたことは、喜んで受け止められました。また、フランス全体の状況、世論の進歩、陛下の政府が収めた数々の成功も、各委員に、正しく、ふさわしく評価されていると分かりました。この外交報告の写しを取らせてほしいと求められましたが、私は断りました。アポニー氏[142]の名が含まれており、オーストリアの不満を招きかねないことは、すべて避けるべきだからです……。
次の会議は、木曜日か金曜日です。議会の仕事のため、それより早く集まることはできません。会議は、すぐに返答するでしょう。私の考えでは、あなたにご満足いただけるものになるはずです。
伯爵殿、八日付の外交報告の内容は、まだ会議で扱うべきではないと考えています。しかし、すでに各委員には、それぞれ話しました。その意向から、わが国の要求の大部分、それも最も重要なものは認められると、信じ、保証する理由があります。
オーストリア大使とプロイセン公使には、それぞれの内閣へ委ねられた問題で、全体の利益のために解決が望まれているものについて、その検討の遅れを減らすのが、どれほど望ましいかに、注意を向けるよう頼みました。なお、エステルハージ公から見せてもらった外交報告は、私がウィーンの宮廷へ送るよう頼んだ要求への返答です。それを読めば、メッテルニヒ公が、国王の政府から伝えられた願いと期待を、全面的に助ける意向であることは、疑えません。これらの外交報告は、フランス政府の賢明さが、ヨーロッパのほかの国々に与える安心についても、きわめて好意的に述べています。イギリスのわが国に対する意向も、引き続き良好です。イギリス内閣は、サン=トーレール氏[143]がローマで行うよう託された、あらゆる要求について、わが国を助けてくれるでしょう[144]。
改革法案は、月曜日に再び審議に上ります。激しい議論が予想されています。内閣が提案する変更は、反対者を減らさず、かえって改革の支持者の票を失わせるからです。」
少なくとも私が扱う問題については、パリ側の国事は、よりよく進んでいた。しかし、国内でも国外でも、あらゆる種類の難問は尽きなかった。一つから抜け出すと、また別のものに落ち込んだ。ペリエ氏が内閣の首班にいるだけで、すべての不和を鎮め、秩序を取り戻せると期待することは、できなかった。そこでダルベルク公は、次のように書いてきた。
「パリ、一八三一年四月十二日
親愛なる公爵殿、当地では事態が固まりつつあると、あなたには伝えられるでしょう。私は一言も信じません。社会の崩壊は、そのまま進んでいます。ペリエ氏は、ヴァンドーム広場の円柱の上にボナパルトの像を戻す命令によって、計り知れない過ちを犯しました[145]。共和派と無政府主義者に導かれるボナパルト派は、また力を得るでしょう。ボナパルト家全員の帰還を要求し、それが、政府には抑えられない陰謀の口実になります。教皇大使は、イタリアでは、もはやこの一族を置いておきたくないと、私に言いました。もし当地で、イタリア問題への不干渉に固執していなかったなら、メッテルニヒ公は、フランスの分裂を深めるため、ライヒシュタット公を利用する用意がありました。これは確かなことと、お受け取りください。
ポーランドの問題は、全体の情勢に新しい様相を与えています。当面は、国外の連合よりも、増している国庫の難問のほうが恐ろしいものです。十九日の借り入れは、どんな条件でも行わなければなりません。さもなければ、支払いが止まります[146]。そうなったら、四十五万人のわが軍を、どうするのでしょうか。」
ダルベルク氏の、多少誇張された不機嫌の底には、真実があった。それでも、まっすぐ自分の道を進み、日ごとに現れる絶え間ない難問に、できるかぎり対処しなければならなかった。これから、新しい難問が生じるのを見よう。次の外交報告は、それらを伝えていた。
タレーラン公からセバスティアニ将軍へ[147]
「ロンドン、一八三一年四月十六日
伯爵殿、
十二日付の外交報告を受け取りました[148]。ドイツ連邦の軍隊がルクセンブルク大公国へ入ることは、フランスに重大な不安を与える、その理由を理解させるためのものです。伯爵殿、そこでは、連邦議会が議長の影響によって戦争へ引きずられることへの懸念も、述べておられます。また、連邦軍の動きは、フランクフルトだけで決めるべきではないと、正しくご指摘になり、ロンドンに集まった五大国の代表こそ、この重大な措置が不可欠となる時機を判断すべきだと、付け加えておられます。
これらのさまざまなご意見には、満足のいくお答えができると思います。
ベルギーとドイツ連邦の紛争が始まった時から、国王の政府は、連邦議会が性急な決議をせず、反対に、慎重に計算したうえで、決定を急がない方針を採るよう、望んでいました。そこで私は、君主がドイツ連邦に関わる会議の委員たちに、その趣旨で働きかけました。彼らの助言が、これまでフランクフルトの審議に強い影響を与えてきたという考えは、捨てられません。連邦の部隊がずいぶん前に指定されていても、その最終的な編成がどれほどゆっくり進められてきたか、あなたもきっとお気付きでしょう。
最近、ルクセンブルク大公国についてのベルギー摂政の布告や、国民会議の議論と措置が、ドイツ連邦に重大な不満の理由を与えていなければ、連邦議会は、おそらくこの引き延ばしの方針を続けたでしょう。それらのため、議会は、非難をいっさい避けるために、強制手段の使用を考えることになったのです。
しかし、伯爵殿、いただいた命令に従い、私はエステルハージ公とビューロー男爵に会いました。二人は、つねに融和的な考えに応じる意向です。そこで、フランクフルトで採ろうとしていた敵対的な決議を、すべて停止させるため、連邦議会の議長に仲介の働きかけを行うよう、求めました。
この二人の委員とは毎日連絡しており、連邦議会の現在の意向については、ほとんど疑いがありません。すべての事情から見て、それは私たちを不安にするようなものではないと、考えられます。軍事措置も、直ちに行動する意図を示していません。まだ準備にすぎないのです。どれほど遠くから兵を呼び寄せようとしているか、あなたも、きっとお気付きでしょう。ライン川を越えて進むよう求められたのは、ホルシュタイン、オルデンブルク、ハンザ諸都市、メクレンブルクから派遣される部隊です。手元には、もっと早く動かせるほかの派遣部隊があったのに、そうしなかったのです。プロイセン軍を呼ぶことも、その介入には不都合が伴うと予見し、避けました。
したがって、連邦議会の意図にも、軍事措置にも、近いうちの攻撃を恐れさせる性格はないことが、明らかだと思います。この議会の議長は、あなたの得た私的な情報では、ベルギーとの戦争の支持者と描かれています。しかし、その影響力が、自国政府の意志を上回るとは思いません。エステルハージ公が応じた働きかけからも、その宮廷からの直接、間接の連絡からも、オーストリアがヨーロッパのどこにも戦火を起こしたくないことは、よく分かっています。
しかも、連邦議会には、これほど重大な問題を単独で決める権限はありません。会議は、つねに意見を送る力を保っています。伯爵殿、もはや和解の手段がないと会議が知らせるまでは、フランクフルトから攻撃命令は一つも出ないと、私は保証できます。
ポーランド人が重ねる輝かしい成功は、フランスと同じく当地でも、大きな感動を呼んでいます[149]。クールラントに近いリトアニアの各地で起きた動きが、ロシアにとっての敵を増やす結果になれば、ワルシャワの蜂起は、初めに予測したよりもはるかに重大な結果を生んだと、認めなければならないでしょう[150]。
伯爵殿、秩序と平和を願う人々は、代議院の最近の審議であなたが述べた言葉に、賛同するしかありません。外交報告の末尾でお書きになったとおり、ベルギーをかき乱す騒動屋たちを従わせるのは、このやり方なのです。
当地の議会の審議では、この二日間、注目すべき出来事はあまりありません。しかし、月曜日か火曜日には、大きな関心を集めるでしょう……」
「ロンドン、一八三一年四月十九日
伯爵殿[151]、
パーマストン卿から連絡を受けました。それによれば、イギリス国王陛下の臣民の何人かが、ポルトガルで侮辱や不当な扱いを受け[152]、ポルトガル政府は、それを止めるより、むしろ助長していました。そこでイギリス政府は、謝罪と補償を求める命令を与え、軍艦二隻を送りました。それが得られない場合、部隊の司令官は、自ら実力に訴えて償いを得て、海上で出会うポルトガル船に厳しく対処すると宣言する権限を、与えられています……」
「ロンドン、一八三一年四月二十日
伯爵殿[153]、
ポルトガルでフランス人が受けた敵対的な扱いについて、今月十六日付でお送りいただいた外交報告を受け取りました。昨日の手紙でお伝えした、パーマストン卿からの連絡によって、イギリスはポルトガルとの問題で、自ら単独で行動することを、ためらわないとお分かりになるでしょう。イギリスは、自分で内容を定めた償いを求めています。それが得られなければ、ドン・ミゲルの役人が拒否した結果として、海上で発見したポルトガル船を拿捕することになります。しかし、残忍さにつねに伴う臆病さによって、彼は直ちに譲歩し、適切な償いをすべて行うだろうと、誰も疑っていません。
イギリス政府の進め方をお知らせするのは、同じような態度が、いっそう適当だとお考えになるかもしれないからです。パーマストン卿は、威嚇だけで十分だと確信しています。
伯爵殿、サモス島の住民についてお送りいただいた情報には、十分に注意を払いました[154]。しかし、このところ、ギリシャの問題を見失わないようにしつつも、ベルギー問題や、イギリスの大臣たちが議会の仕事に追われているため、その問題に取り組むのが難しくなっています。近いうちに、この件で会議を開けると期待しています。
内閣は、改革問題について、ガスコイン将軍の修正案で多数を失ったところです[155]。この敗北がもたらした難局から抜け出す方法を考えるため、いま集まっています。午前五時まで続いた議論は、興味深くお読みになるでしょう。今日の閣議の決定を知るのは、郵便に間に合わない時刻になります。明日、お知らせいたします……」
「ロンドン、一八三一年四月二十二日
伯爵殿[156]、
昨日お送りした手紙では、内閣が敗北を喫し、難局から抜け出す方法を考えるため、閣議が集まっているとお知らせしました。内閣の立場は、昨日のうちに、さらに難しくなりました。貴族院議員のウォーンクリフ卿[157]が、閣僚から提案されるかもしれない議会の解散に、国王が同意されないよう請願する上奏文を、提案すると予告したからです。
この状況、国王の意向が分からないこと、強い反対意見を持つ王族たちが陛下に及ぼしうる影響、改革そのものの重大さ。これらのすべてが、この二十四時間、人々の心に大きな不確実さを広めることになりました。
しかし、昨日の朝、内閣は、議会を解散するという明確な約束を国王から得ていました。ただし、解散前に、王妃が寡婦となった場合の給付を定める法案を可決する、という条件付きでした[158]。そのため、一日か二日の遅れが生じるはずでした。しかし、ウォーンクリフ卿の提案の予告によって、内閣は、遅れれば遅れるほど増す新たな難問と、戦うことになると感じました。そこで陛下は、直ちに休会を宣言すると決心されました。慣例によれば、休会のあと二十四時間以内に、解散が行われます。国王は、そのため、今日、議会へ赴かれました。
伯爵殿、ご存じのとおり、今後、新しい議院を開くまでには、四十日間を置かなければなりません。各党派は、この期間を票の確保に使い、どちらかの見解を勝たせるため、最大限の努力が払われるでしょう。議員たちは皆、選挙の準備をするそれぞれの地域へ向かうため、すでにロンドンを発つ支度をしています。
昨日、ベルギーの四人の代表がロンドンに着きました。メロード伯爵、ヴィラン十四氏[159]、フォエール神父[160]、ド・ブルケール氏[161]です。この代表たちは、ザクセン=コーブルクのレオポルド公に王冠を差し出すために来たと、推測されています。次の外交報告では、彼らの任務の正確な目的、それを果たすために採った形、そして公の返答を、お知らせします。返答は、おそらく断定を避けたものとなり、殿下は、ベルギーが一月二十日の議定書に同意するまで、明確な受諾も拒否も述べるのを避けるでしょう。少なくとも、公と親しい人々は、そう考えています[162]……。
国王が今朝、議会でなされた演説をお送りします……」
「ロンドン、一八三一年四月二十五日
伯爵殿[163]、
今朝[164]、今月二十二日付でお送りいただいた外交報告を受け取りました。
国王の政府が第二十一号、第二十二号議定書に同意し[165]、多少の軽い意見を述べるだけだったことを知り、まことに満足しました。その意見は、外交報告に含まれる論拠で支えながら、会議へ示します。
パーマストン卿が、再選の準備のためにケンブリッジへ行っていなければ、すぐにこの伝達を行ったでしょう。卿が戻るのは、来週の半ばになるはずです。その間、会議のほかの委員たちには、別々に会うようにします。
ルクセンブルクで用いることのできる軍隊の人数と、行動を起こす時期を定めるため、五大国の協議を整えるよう求める国王の政府の要求は、正当で、慎重さにかなっていると思います。会議も、当然これを認める意向だろうと考えています[166]。
フェンローとアントウェルペンの城塞からの撤退については、ベルギー人が一月二十日の議定書に全面的に同意すれば、難問は生じないようです。
伯爵殿、オランダとベルギーの間で行う領土の交換については、ご存じのとおり、会議は第二十一号議定書で、この問題は時期尚早であり、境界画定の委員たちの調査によって明らかになるまで、延期すべきだと述べています。この点で、当地の見方[167]を変えるのは、私にはきわめて難しいでしょう。オランダ国王は、すでに国境の議定書に同意しており、いま変更を加えようとすれば、国王から多くの異議が出る危険があると、きっと反論されるでしょう[168]。それでも、あなたのお考えを全権代表たちに受け入れてもらうため、あらゆる努力をします。
ベルギー人に最終的な意思を決めるために与えたいとお考えの期限は、六月一日までとなるなら、正直に言って、あまりに長いように思います。両国とも同じ頃に議院が開くのですから、ベルギーの主要な問題をすべて終えたうえで、その前に出るほうが、陛下の政府にとっても、イギリス政府にとっても、もしかすると有利でしょう。
レオポルド公は、王冠を差し出しに来たベルギーの代表たちに、ベルギーが五大国の定めた国境の議定書に同意した日に、受諾すると宣言しました。五大国から離れるつもりはないのです。代表の一部は、すでにロンドンを発ちました。彼らは、私のところにも、会議のどの委員のところにも、顔を出しませんでした。
イギリスは、いま、一六八八年の革命以来経験したことのない、大きな動揺の中にあります。議会改革の問題は、すべての人の心を占め、あらゆる利害を目覚めさせ、いわば国民を二つの敵対する陣営に分けています。中立を保つ人はおらず、党派に属する者は、誰もが留保なく身を投じ、財産まで差し出しています。両方の側で献金が募られ、すでに巨額に達しています。一人の約束だけで、十万ポンドに上るものもあります……。
アイルランドには、普段の状態に加えて、イギリスから伝わる動揺があります。現在、南部は重大な騒乱に揺れています。この状態は、イギリスが動揺によって失うあらゆる利益を、フランスが平穏の中で得る機会を与えるように思います。
サー・フレデリック・ラムが、ウィーン宮廷への大使に任命されました[169]。――ブロイ公が、当地へ着いたところです……」
「ロンドン、一八三一年四月二十六日
伯爵殿[170]、
昨日、ベルギー代表の一部がロンドンを発ったとお知らせしましたが、その情報は正確ではありません。代表たちが出発しようとした時、レオポルド公が夕食へ招き、彼らは公の家を訪れました。グレイ卿も、そこにいました。ベルギーの問題が大いに話し合われ、すでに行われた議論が、再び取り上げられました。レオポルド公は、昨日お知らせした返答を変えず、さらに新しい理由と詳しい説明を加えました。
今晩はフォエール神父だけが出発し、ほかの代表たちは、神父がブリュッセルで行う努力の結果を待つため、当地に残ることになりました……。代表たちに述べられたことは、要するに次のとおりです。『まず、一月二十日の議定書に同意し、君主を選びなさい。この二つが済んだら、領土の交換を交渉できます。合意できない点について、会議に判断が求められれば、好意的な態度を得られることは、保証します。』
グレイ卿は、レオポルド公と自分が代表たちと交わした会話に、よい結果を期待しています。ただし、問題の終結には、まだほど遠いことも承知しています。
パーマストン卿は、まだ戻っていないので、会議の日は決まっていません。昨日の手紙で述べた意見は、今も変わりません。全般に、あなたに届けられる返答には、ご満足いただけると思います……。
当地では、ギユミノ将軍がレイス=エフェンディへ送った覚書について、大騒ぎしています。三つの宣言が含まれているそうです。第一の宣言は、フランス政府の原則が、ロシアとオーストリアの掲げる原則と正反対であるため、この二国との戦争は避けられないと、オスマン政府に示すものです。第二は、イギリスが中立を保つか、フランスの同盟国になると告げています。第三は、オスマン政府は自国の独立を考え、フランスに敵対する列強との同盟によって、どんな不利な事態にさらされるかを考えるべきだと、示すものです[171]。
この覚書について聞かれた時、私は、コンスタンティノープルで行われたという話は、何も承知しておらず、わが君主と政府の誠実さを考えれば、信じることはできないと、答えざるをえませんでした……」
この外交報告で述べた、コンスタンティノープルでのギユミノ将軍の行動によって、実際、私はイギリス内閣から、きわめて激しい抗議を受けていた。パーマストン卿がケンブリッジで選挙に取り組み、留守の間、首相のグレイ卿は、わが大使の行動への強い怒りを示した。事実を知らなかった私は、信じられないと述べることしかできなかった。翌日、卿は、きわめて正確な、コンスタンティノープル駐在のイギリス大使の報告を送り、次のように書いてきた。
グレイ卿からタレーラン公へ[172]
「ダウニング街、一八三一年四月二十六日
親愛なる公爵殿、
コンスタンティノープルのフランス公使の行動について、わが政府に届いた情報の写しを、同封してお送りします。
これほど信義に反する行動が、フランス国王の承認を受けたはずはないと、私は確信しています。また、その首相の人柄からも、この行動を知りさえすれば、最も明確で有効な形で、政府としてその行動を認めないと表明するだろうと、同じく確信しています。
したがって、同封の書類の性質について、私から意見を述べることは控えます。お読みになったあとで、ご返送いただければ幸いです。
親愛なるタレーラン公爵殿、深い敬意を込め、忠実なる友として。
グレイ」
見せてもらった文書は、確かに、ギユミノ将軍がオスマン政府に対し、フランスはロシアとオーストリアに宣戦しようとしており、イギリスは中立を保つか、フランスに加わると告げたことを示していた。ギユミノ氏ほど経験豊かな人物が、自国政府の訓令もなく、なぜこのような宣言をする危険を冒せたのか、説明するのは難しい。
いずれにせよ、カジミール・ペリエ氏が事実を知ると、すぐにギユミノ将軍は召還された。将軍はパリへ戻ると、セバスティアニ将軍から、その行動を承認していないと表明され、見捨てられたと、声高に不満を述べた。二人のどちらに非があったのかは、ついに十分明らかにならなかった[173]。しかし、このような出来事が、わが政府への信頼を生むものではなかったことは、変わらない。幸い、日付によって、コンスタンティノープルでギユミノ将軍が行動したのは、カジミール・ペリエ氏を首相にした政権交代が、まだ当地に知られる前だったと、確かめられた。
私の外交報告に戻ろう。
タレーラン公からセバスティアニ将軍へ[174]
「ロンドン、一八三一年四月二十八日
伯爵殿、
新しい議会の召集を受け、昨夜、ロンドン市内では、あちこちに灯りがともされ、多少の騒動も起きました。民衆は、改革法案に反対していることで知られる、何人かの議員の家の窓ガラスを割りました。しかし、この騒ぎは深刻な性質のものではなく、重大な結果も招きませんでした。ご存じのとおり、ロンドンではかなり頻繁に起こる、こうした民衆の騒動の費用は、教区が負担します。前には、キャロライン王妃の裁判と、カトリック解放法案の時に起きました。この出来事がさほど重大でない証しは、公債相場に何の影響も与えなかったことです[175]。――シティでは、明日、選挙が始まります……」[訳注4]
「ロンドン、一八三一年四月二十九日
伯爵殿[176]、
ロンドンに残っているベルギーの代表たちと、長く話し合ったところです。その内容をご報告します。
まず、フランスがベルギーの幸福に関心を寄せていることを、代表たちに伝えました。そして、この関心は変わらず、この点でのわが政府の意図を十分に理解している私は、つねに彼らの権利を擁護し、自分にできるかぎりで、フランスの誠実で私心のない友情の証しを与える用意があると、付け加えました。
すると、メロード氏は、ルクセンブルク大公国の住民たちを見捨てないことは、自分も同胞も、良心の問題だと考えていると述べました。住民たちは、あれほど率直に彼らの大義へ加わり、その成否をともにしてきたからです。
私は、会議はルクセンブルクが置かれることになる特別な立場を、最も真剣に考慮してきたと述べ、この点で安心させようとしました。また、この国の住民が国民の代表機関を持つ権利は、最新の第二十一号議定書だけでなく、大公国がその一部を成すドイツ連邦の基本文書によっても、保障されていると思うと、伝えました。
次に、代表たちが領土交換の問題へ移ったので、一月二十日の議定書が、その交換の原則と、各国の領土を連続したものにすべきことを、どれほど注意深く定めているかに、目を向けるよう頼みました。そして、この条項の実行が、その後延期されたのは、ただ、境界画定の委員たちに、必要な時間を与えるためだと付け加えました。ベルギーとオランダが合意できない点を、五大国が定めることになった時、最もよく事情を明らかにできるよう、委員たちが、交換の問題についての情報を集める時間です。
説明の終わりに、会議がこの重要な仕事を扱うことになれば、理性と公正に基づくベルギー側の要求は、適切に評価されると、代表たちに保証しました……。
最後に、代表たちは、ベルギーの現在の政府を囲む難問を詳しく述べ、自分たちの権利を擁護できる君主を、頂点に迎えたいという願いを、強く示しました。私は、確かに君主の選出を望むべきだが、王位に選ばれる人物は、おそらくベルギーが一月二十日の議定書に同意するまで、王冠を受け入れないだろうと、理解しなければならないと答えました。その同意によって、治世の初めから、列強に対して適切で、ベルギーにも有益な関係を築けることを、その人物も認めるはずだからです。これらのことは、十分に詳しく述べ、この一か月用いてきたすべての論拠を、繰り返しました。
伯爵殿、以上が、ベルギー代表たちとの会話の要点です。当地で彼らの利益に尽くすことで、国王の政府の意図を助けたいという、私の変わらぬ願いを、率直に示したと受け止めてもらえたはずです。この話し合いから残った印象は、代表たちの誠実な人柄については、間違いなく、全面的に好ましいものでした。しかし、国事には、まだずいぶん不慣れに見えたと、指摘せずにはいられません……」
「ロンドン、一八三一年五月一日
伯爵殿[177]、
選挙は、全面的に改革に有利な方向へ進んでいます。だからといって、この措置が、前の議会に提出されたものと同じ形でまとめられるとは、推論すべきではありません。しかし、下院の多数が改革を望み、きっと何らかの改革が行われることは、結論できるでしょう。
パーマストン卿は、当選がまったく確実ではないケンブリッジの選挙へ戻り、ヴェッセンベルク氏もかなり重い病気にかかっています。そのため、会議はこの数日開かれておらず、再開できるのは来週です。その間、ギユミノ将軍の行動とされることについて、四月二十八日付の外交報告に含まれるご意見を、最も適切に用いるよう努めます。
ベルギーの代表たちは、一昨日、私の家で夕食を取りました。しかし、フォエール神父からの返答を待っているため、彼らからは、たいしたことを聞き出せませんでした……」
「ロンドン、一八三一年五月三日
伯爵殿[178]、
……今朝、レオポルド公が私の家を訪れ、非常に長い会話を交わしました。
公は、ベルギーの王位を受け入れると決めているようです。しかし、この国をヨーロッパの諸国家の一員として認めてもらうためには、列強との良好な関係を築き、まず、オランダ国王と同じような立場に置かなければならないことを、よく理解しています。この立場だけが、六か月続く難問を終わらせられるのです。
殿下は、ロンドンにいる代表たちに頻繁に会い、つねに、いま述べた趣旨で話しています。公は、アントウェルペンの封鎖の時に生じた難問と、それを終わらせるため、オランダ国王に対して払わなければならなかった注意と努力を、代表たちに思い出させました。したがって、どう終わるか予見できないので[179]、この君主との間に新しい争いの理由を生むことは避けるべきで、その予防の手段は、国王がしたように、一月二十日の議定書に同意することだと述べたのです。さらに公は、代表たちが列強との適切な関係を取り戻ししだい[180]、自ら強い関心をもって、領土の交換と、彼らの望むほかの取り決めに取り組むと、宣言しました。
公は、一月二十日の議定書の一つの規定が、ベルギー人とオランダ国王の領土を連続したものにすることを目的としている以上、領土交換の原則は、すでにそこで定められていると、彼らに指摘しました。また、この点で列強の好意を得られると信じる理由があると述べました。最後に、ベルギーの幸福のために絶えず働き、ヨーロッパで占めるべき地位を得させ、この美しい国のあらゆる繁栄の源を発展させるため、自分が持ちうるすべての影響力を用いると、言いました。
伯爵殿、ルクセンブルク大公国については、要塞をドイツ連邦に残せば、要塞以外の領土については、オランダ国王との合意を得られるかもしれません。国王のほかの領土から遠いため、もはや、さほど価値を持たないかもしれません。ベルギー人が一月二十日の議定書に同意したあとなら、ある額の金と引き換えに、その領土を譲る交渉へ導けることも、ありうるでしょう……」
「ロンドン、一八三一年五月六日
伯爵殿[181]、
ギユミノ将軍の召還に関する、今月三日付の外交報告を受け取りました。四月二十六日付の私の手紙に含まれた情報から、お伝えした事実には、ほとんど疑いがありませんでした。その一部は、通訳官たちの陰謀によるものと、私は考えていました。この件が当地での私たちの関係にもたらした困難は、なくなりました。
国王は、ロンドンのシティが催すはずだった夕食会には、お出ましになりません。全般に、民衆の集まる機会となりうるものは、すべて避けられています。パーマストン卿は、ケンブリッジの選挙では、確実に落選しそうです[182]。この大学では、聖職者の影響力が非常に大きいのです。内閣は、それほど華やかではないものの、自分たちで動かせる別の選挙区で、当選を確保するでしょう。もし何人かが貴族に叙せられるなら、卿も、国王の選ぶ人々の一人になるかもしれません[183]。
パーマストン卿は、おそらく明日、こちらに戻ります。そうなれば会議を開け、ヴェッセンベルク氏も、健康の状態から出席できると思います……。
ロンドンにいるポーランドの代表たちは、数日中に起こりそうな、ロシア軍と同胞たちとの戦闘が、ポーランド側に有利に終われば、オーストリアとプロイセンが仲介を申し出るだろうと、考えています。代表たちは、それを恐れています。フランスとイギリスがその仲介に加わるなら、安心できるでしょう。イギリスも、わが国とともに加わることを拒めないように思います[184]……」
「ロンドン、一八三一年五月九日
伯爵殿[185]、
本日、会議を再開しました。ベルギーが、フランスと、ヨーロッパのほかの列強に対して、依然として取っている立場を扱いました。当地の代表たちは、これまで派遣されてきた人々よりも、賢明な精神で動いているようで、その点は正当に認められました。しかし、以前の代表たちと同じく、交渉の権限を持っていません。そのため、ついに終わらせなければならない、自国に関する問題を、何一つ進められないのです。
四月二十二日付の外交報告で望まれたとおり、ベルギー人には、第二十二号議定書に含まれる提案について、最終的に意思を決めるため、六月一日までの期限を与えることで合意しました。この期限は、会議が次に定める議定書に、記されます。
まだお持ちでない場合に備え、ルクセンブルク大公国で用いられる予定の、ドイツ連邦軍の一覧をお送りします。ヒニューバー将軍の指揮下にあります。当地へ届いた知らせによれば、進軍は遅いようです。
今日、レオポルド公に会いましたが、決意は変わりません。国民会議が定め、ベルギー人自身も占領していない土地まで含むベルギーは、受け入れません。しかし、ルクセンブルク大公国の問題を切り離し、五大国が定めたベルギーは、受け入れます。
公は代表たちと頻繁に話し合い、つねに最も適切で率直な言葉を述べています。代表たちも公への信頼を深め、あらゆる機会に、早く自分たちの上に迎えたいという願いを示しています。その時になって初めて、国に秩序が蘇ると期待しているからです。しかし、レオポルド公は、問題がもっと進み、とりわけ一月二十日の議定書についての暫定政府の決定に、不確実さがなくなってからでなければ、彼らのもとへ赴く決心はしないと、隠さずに述べています。ご覧のとおり、事態はまだ、ずいぶんゆっくり進んでいます。しかし、全般に会議の委員たちは、早く終えたいと考えており、今日、皆がその願いを述べました[186]……」
「ロンドン、一八三一年五月十日
伯爵殿[187]、
会議が今朝定めた議定書をお送りします。そこには、以前の議定書と同じ精神を、お見いだしになるでしょう[188]。この議定書、ロンドンで採られた決議へのフランスの同意がよく知られていること、一月二十日の議定書で定めた国境をベルギー代表が採用すれば受諾するという、レオポルド公の条件付きの意思表明、その同意の期限として定めた六月一日。これらのすべてから、ついにベルギーでも理性の声が聞かれるようになると、考えられます。
それでも、ベルギー人が事態を極端なところまで押し進める場合に備え、慎重を期して、フランクフルトの連邦議会と定期的に連絡している二人の委員に、その議長へ手紙を書くよう求めることになりました。ミュンヒ氏の返答に含めてほしい文言を、そのまま送るのです。議長の手紙には、次の言葉が挿入されます。
『連邦が軍隊をルクセンブルクへ入れるのは、国王兼大公の権利と、条約の効力を回復するためだけである。周辺諸国の、知られ、認められた利益のために行動する連邦は、ベルギー自身が中立の原則を守ることを条件として、ベルギーの中立も尊重する。』
これらの措置は、ベルギー人に与えた期限が切れる六月一日を過ぎたあと、連邦に属する領土を占領する者たちを、武力で退けざるをえなくなった場合だけに適用されることに、ご注意ください。
私の考えでは、連邦は強制的な実行手段に訴えずに済むことを、強く望んでいます。とりわけ、各地の派遣部隊をライン川の向こうへ送らずに済むことを、望んでいます。その移動には、費用が非常にかかると考えているからです……」
「ロンドン、一八三一年五月十二日
伯爵殿[189]、
今月十日付でお送りいただいた外交報告を受け取りました。ベルギーの現状を、当地へ届いた情報が知らせるとおりに、描いています。九日付の手紙で、会議の委員たちがどれほど決着を急いでいるかを、お知らせしました。それでも、あなたのご希望に応じ、ベルギー人に与える最終期限を六月一日へ延ばすことで、譲歩の証しを示したかったのです。
ベルギー代表団に、もう一人加わりました。国民会議の議員で、閣僚でもある、ドヴォー氏[190]が着きました。しかし、先に来た人々以上の交渉権限は、持っていません。
レオポルド公はドヴォー氏に会い、氏にも同僚たちにも、申し出を受け入れる意向は、変わらないと述べました。しかし、ベルギーという国の姿が曖昧で不確かであるかぎり、そして何よりも、ベルギー人がヨーロッパの主要な列強と良好な協調関係にないかぎり、受諾はしないと、言いました。
……ベリアール将軍に、当地の現在の情勢を知らせるのが、有益だと思います。ベルギー人が、示されている融和の手段を受け入れるよう、その影響力を用いてもらうためです……」
複雑な交渉がぶつかった障害を、十分に描いているこれらの外交報告に、付け加えることはない。しかし、パリではどう受け止められ、そこからどのような反響が届いたかも、知らせておきたい。
それは、この頃受け取った、以下の手紙に見いだせる。お気付きのとおり、考え方も見解も、かなり対立した人々からの手紙である。
カジミール・ペリエ氏は、次のように書いてきた。
「パリ、一八三一年四月二十三日
公爵殿、最新の外交報告と、お送りいただいた二つの最新の議定書を、たいへん満足して受け取りました。昨日、この件で開いた会議では、承認を得ることに成功しました。外相が今日、多少の意見をお送りするはずです。とりわけ、領土の交換に関する意見をお考えに入れ、会議の同意を得ていただければ、うれしく思います。これらの取り決めは、ベルギー問題の交渉を容易にすると、私たちは考えています。好意的に受け入れられたと分かれば、私たちが心から願う最終的な解決への、よい一歩と受け止めるでしょう。ベリアール将軍は、外相からあなたへ伝える内容に沿う訓令を携えて、出発するところです。ただし、この件について、あなたの返答を受け取るまでは、その訓令を用いないことになっています。
内政の進み方は、いっそう満足できるものとなり、政府は、自ら定めた目標へ、よりよく進んでいます。それでも、私たちの立場は、きわめて重大です。全般的な動揺の中では、平和はフランスだけでなく、すべての国家の安定にとって必要です。主な障害は、混乱と新奇な変革を求める精神にあります。それは、もはやフランスだけのものではなく、わが国の例が、ヨーロッパ全体のものにしてしまったようです。しかし、忍耐強く進み、あなたがこれほどよく助けてくださる平和の維持によって、置かれた難しい立場から抜け出せるでしょう。これが私たちの希望です。そして、引き受けた任務を果たす必要と義務を、かつてないほど感じています……」
サン=ジェルマン界隈を代表する人物と見てよい、アレクシ・ド・ノアイユ伯爵[191]は、四月三十日、次のように書いてきた。
「公爵殿、
……県議会の会期と選挙に参加するため、自分の県へ出発します。選挙の見通しについては、さまざまな話があります。しかし、考え方は日々変わっています。最も不安を抱いていた人々も、全般には、選挙は非常に穏健なものになるという考えへ戻っています。パリでは、ドマルセー氏[192]、コルセル氏[193]、サルヴェルト氏[194]さえ、再選されないと噂されています。最後の人物は、きっと再選されるでしょう。その才能を思えば、疑えません。左派の誰よりも手ごわい人物です。ほかの二人については、実際、当選は非常に疑わしいものです。
公爵殿、あなたはなんという運命のもとにあり、なんと栄光ある政治の生涯を送ってこられたのでしょう。この国が崩壊の差し迫った脅威にさらされた、最も重大な局面で、三度も、ほとんど一人で船を導くように、介入されたことになります。そして、港まで運ばれたのです。今回は、初め、ほぼ全般の世論に逆らって戦い、行動されたのですから、その奉仕は、なおさら大きなものです。交渉や出来事だけでなく、人々の意見まで、ご自分の側に引き戻されました。いま、フランスでは戦争が忌み嫌われています。政府は、平和のためなら何でもできます。すべての党派が、この考えに戻りました。違う考えを、あえて公言する者はいないでしょう……」
今度は、ダルベルク公の言葉を聞こう。
「パリ、一八三一年五月三日
……リュクサンブールの老狐、セモンヴィル氏[195]は、こんな状態は続かないという予言を、変えていません。あまりに多くの考察を添えるので、同意せずにいるのは、多少難しいほどです。氏は、小さな若鷲、ライヒシュタット公が呼び戻されると考えています。その公も長くは続かないと見ていますが、退いたあとには、王位を求める者たちの間で、別の組み合わせを作る余地が残るでしょう。
私たちがイタリアでの戦争をもってオーストリアを脅している間、当地の、たいへん活発で盛んに動くボナパルト派は、援助の保証を得ていたと、私はほぼ確信しています。いまでは、この党派に対する言葉は、まったく変わっています。
オーストリア軍が教皇領を出るよう求めれば、あらゆる場所で暴動が再開するでしょう。パルマとモデナで取られている行動は、ばかげています[196]。
カジミール・ペリエは、できるかぎり進んでいます。しかし、下の者を相手にするよりも、上の者を相手にするほうが、苦労が多いのです。
ギユミノ将軍の召還は、多少の反響を呼びました。後任には、ナポリにいるラトゥール=モブール[197]を置くべきです。しかし、セバスティアニは自分の兄弟[198]を送ると言われています。都合がよいのは、その家族だけでしょう……」
「パリ、一八三一年五月十日
……当地を支配する党派的な精神は、政府もできることはしているとはいえ、その弱さによってますます強まり、ここにいることを、いっそう嫌なものにしています。
いま、人々が動く時に掲げる旗は、ボナパルト主義です。軍隊や下層の人々を動かすために、ボナパルト主義が利用されています。彼らは、自分たちの階層から身を起こして王位に上り、幸運の恵みを受けた人々の成功に魅了されているのです。帝政という体制について、世論にもっとよく知らせないのは、政府の誤りです。誰もがボナパルト派になるのは、パレ・ロワイヤルとその取り巻きたちが、この党派だけを恐れ、配慮しているからです。その結果、党派は力を固めています。数日前、モーガンは、私にこの話を伝えてくれた人に、こう言いました。『ライヒシュタット公の名による、暫定政府と摂政政府が必要です。そして、私たちは、それを実現します。』
イタリアで戦争が起きれば、オーストリアがこうした陰謀を活気づけると、信じてください。一方、集めた軍隊の熱気と、外国人がフランスへ攻め込もうとしていると、あまりに愚かにあおられたフランス国民の熱気を、どう抑えるのでしょうか。
結局、これらの不和の種を、どう退けられるかは、次の両院の会期で分かるでしょう……」
手紙の引用は、オルレアン家のアデライード王女から、五月十一日付で届いた、かなり長い手紙で終えることにしよう。お読みになれば分かるとおり、すべての中で最も重要なものである。
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ
「サン=クルー、一八三一年五月十一日
親愛なる公爵殿、お便りがこれほど遅れ、まことに残念に思っています。しかし、この数日、愛する国王の祝いのために、ずいぶん忙しく過ごしました。祝いは、望んだとおりに運びました。そのあと、こちらへ移ったこともあり、望んでいたように、あなたに書く時間が取れませんでした。昨日、ディノ夫人に会えてうれしく、あなたが、いまはすっかりお元気で、終わってほしいと私が願う、あの不幸なベルギー問題に、相変わらず忙しく取り組んでおられると聞きました。コーブルク公からの手紙によれば、この話には、ずいぶん心を引かれているようです。しかし、ギリシャ問題で急ぎすぎた経験から、取り決めが済む前には受諾しないのです。正直に言って、それは理解できます[199]。ルクセンブルクの取り決めについて公の述べることも、たいへん理にかなっていると思います。フランス、ドイツ、ベルギーの平穏のために、オランダ国王が、何らかの代償や補償と引き換えに、この国を譲るよう促せれば、非常に望ましいということです。もし可能だったなら、あるいはいまでも可能なら、フランスの仲介、あなたの働きによって、それを得られたらと、強く願っていました。それは、わが国にとって立派で有益なことだと思います。しかし、この点では、政治に無知な私らしい考え方をしているのかもしれません。親愛なる公爵殿、どうかお許しいただき、ご意見をお聞かせください。
私たちはまったく平穏だとお伝えできるのを、喜んでいました。実際、昨日までは、そうでした。しかし、七月十字章への抗議の指導者たちに供された食事のあと、一昨日の夜、歌、叫び声、人だかり、混乱が起きました[200]。昨日は、集まった人々が何度か解散させられました。しかし、夕方になると、ヴァンドーム広場の群衆が増え、解散の警告のあと、騎兵が突撃し、完全に散らしました。国民衛兵も、パリの住民全体も、少数の悪人が起こす騒乱の試みに、腹を立てています。実際に心配するほどのことはありませんが、非常に煩わしいことです。広く否定され、非難されている、この最後の試みが、本当に最後になるよう、願っています。
国王は来週の月曜日、ノルマンディーの巡幸へ出発される予定です。長く求められ、望まれてきたもので、きっと非常によい効果を生むでしょう。ルーアン、ル・アーヴルへ行き、ウーの町を通って戻るおつもりです。二十六日にこちらへ戻る計画です。その間、王妃と私は、姪たちと、甥や姪の息子たちとともに、サン=クルーに残ります。愛する小さな水兵、ジョアンヴィル公からは、よい知らせが届いています。いまはトゥーロンにいるはずで、十五日頃、船に乗ります。まずコルシカへ行き、そのあと、リヴォルノ、ナポリ、シチリア、マルタ、アルジェへ向かいます。最後にマオンで検疫期間を過ごします。どの点でも役に立つ、すばらしい旅です。およそ三か月後に戻ります。
来る前には、あまり心を引かれなかったサン=クルーでの滞在にも、すっかりなじみました。見事な場所で、周辺は魅力的、散歩もたいへん楽しいものです。それに、私たちにとって大切な、昔の思い出もあります。およそ六週間は、ここにいると思います。
では、親愛なる公爵殿……。
追伸――この手紙に書いた政治の話を、いま兄に読み聞かせましたが、多少期待していた褒め言葉は、もらえませんでした。兄は、会議に問題の処理を任せて以来、あちらこちらに助言することには、もう関わりたくないと言いました。自分に対して感じられた不信に、少し疲れてしまったのです。自分はそんな疑いを受けるような立場ではないと、自負していたのです。レオポルド公にも、これ以上助言したくないということです。公への信頼や友情が足りないからではなく、まったくその逆です。ただ、自分の助言を、もう歪められたくないのです。助言を与える気持ち以外の何かを、また探られるのを恐れています。その気持ちは、ベルギー問題が、独立を保障するとともに、平和と秩序を保てる政府を組織する君主の確立によって終わるのを、見たいという願い、いや、待ちきれない思いにほかなりません。
兄から、次のことをお伝えするよう言われました。あなたが、会議を導いてネーデルラント王国を二つに割り、ベルギーをオランダから切り離し、いや、むしろ両国の互いに独立した存立を認めさせた、その巧みさと大胆さは、兄の期待を超えたものでした。しかし、この大きな一歩のあと、ベルギー人への反感が、進み方を歪めたと考えています。彼らの扱いにくさのために、何よりもまず、彼らから君主の選出を得る必要を見失った、という重要な点です。兄は、つねに信じ、述べ、繰り返してきたと言っています。ヨーロッパにも、とりわけフランスにも適した形で、いったんこの選出が済めば、ベルギー人との問題はすべて終わる。そのあとの問題については、彼らの協力が確実になり、容易に得られるからです。それなのに、ベルギー人に自分たちだけで行動することを求めると、統治する議会の迷路に入り込むことになります。実際に起きたように、彼らから得られるのが、勝手に選んだ受け入れがたい候補だけになる危険があります。あるいは、いまも続く無政府状態と統治不能の状態を長引かせ、彼らをますます、革命思想の宣伝や、戦争と共和国の幻想の腕の中へ投げ込む危険があるのです。
兄は、一月二十日の議定書について、一分たりとも迷ったことはなく、そのことをベルギー人に自分の口で、絶えず伝えてきたと言っています。しかし、君主選びを遅らせたいとは思わなかったのです。共和派は、つねにその遅れを望んでいました。兄の考えでは、いったん君主を選べば、共和派は敗れます。そして君主にとって、一月二十日の議定書の受諾を前もって求めても、選出されたあとで求めても、ほとんど同じことのはずです。どちらにせよ、君主がそれを要求したことは、分かるからです。
ただし、兄は、このように個人的な見方をお伝えすることを許したのは、つねに喜んであなたに示したい信頼の証しであり、内密にしておくよう念を押す必要もないと言っています。これは、ソファに座って、あなたと交わしたかもしれない会話として受け止めてほしいのです。正式な伝達としてでは、決してありません。そのような伝達の役を、私に担わせるつもりは、決してないと言っています……」
明らかに国王が口述した、アデライード王女のこの手紙の長い追伸に、立ち止まらなければならない。事実を正すことで、オランダとベルギーの問題が、どこまで進んでいたか、そして何が私たちを袋小路へ追い込みかねなかったかを、簡潔に振り返ることができる。
ベルギーの国民会議は、ベルギー人の考えるベルギーの領土を定めた憲法を、可決していた[201]。その定義には、どのような権原によっても彼らに属さない領土まで含めていた。その領土の住民が革命で自分たちに加わったのだから、名誉にかけて、その併合を求める義務がある、という口実だった。彼らの選ぶ君主は、王位を受け入れる時、このように作られた憲法を守ると誓わなければならなかった。一方、それに反するものとして、条約と歴史的な前例に基づいてベルギーの領土の境界を定めた、一月二十日の会議の議定書が存在していた。ベルギーを失ったオランダ国王も、不本意ながら、会議の定めた境界に同意していた。ベルギーの国民会議がレオポルド公へ王冠を差し出そうと考えた時、情勢はこうなっていた。最も普通の慎重さだけでも、ベルギー人が根拠のない要求を取り下げてからでなければ、王冠を受けてはならないと、公には明らかだったはずである。ほかの行動を取れば、きわめて不自然で危険な立場に置かれた。実際、王冠と憲法を受け入れたあとで、ベルギー人には属しえない領土を放棄するよう強く求めれば、憲法の外に出ることになる。仮にベルギー人がその要求に従っても、選べば得られると期待していたものを得られなかったと非難され、最も不幸な兆しのもとで治世を始めることになる。反対に、国王となったレオポルド公が、ベルギー人の根拠のない要求を支えれば、ロンドン会議に代表を送る五大国と、ルクセンブルク大公国を要求するドイツ連邦に、正面から対立することになる。したがって、レオポルド王が、これほど危険な立場を受け入れようとしなかったのは、当然だった。これが、先に引用したアデライード王女の手紙にあった、ルイ=フィリップ国王の意見への答えである。
ルクセンブルク大公国に関する事実も、もう一度振り返っておくと、役に立つだろう。この大公国は、オランダ国王個人に属していたことを、忘れてはならない。一八一四年、ナッサウ家の公子としてドイツで要求する権利を持つ領土と引き換えに、国王に与えられたのである。その領土の一部は、プロイセンへ譲られていた。ルクセンブルク大公国を与える際には、そこにあり、連邦要塞とされたルクセンブルクの要塞のために、大公国をドイツ連邦に所属させたままにすることが、定められていた。オランダ国王は、当時、ネーデルラント王として、行政を容易にするため、あとで大公国をネーデルラント王国に統合したのは確かである。しかし、この統合は完全ではなかった。国王は、ルクセンブルク大公としてドイツ連邦の一員であり続け、その資格で、大公国自体から集めた派遣部隊を、連邦軍へ提供する義務を持っていたからである。
パリで何と言われようと、これらの問題すべてについて、フランスの利益は、きわめて二次的なものにすぎなかった。ネーデルラント王国の解体、ベルギーの独立と中立の宣言、そして、それに加わるベルギーのいくつかの要塞の撤去[202]によって得た、巨大な利益は、すでにフランスのものだった。しかも、戦争なしに得ていた。ベルギー人に、多少なりとも整った国境を保障するため、戦争の危険を冒すことが、わが国にふさわしかっただろうか。明らかに、そうではない。だから私は、この点についてブリュッセルやパリから来る声明には、さほど煩わされず、ベルギーの問題を、会議によってできるだけ公正に決めさせるという計画を進めた。幸い、パリでも、すべての候補者の中で、レオポルド公が最もよい保障を与える人物だと、ようやく理解した。そのため、私の仕事は容易になった。しかし、なお数か月、かなりの苦労が続くはずだった。
外交報告の続きを取り上げる前に、それほど重要ではないものの、一部の新聞でばかげた評言を生んだ出来事に、触れなければならない。私に関する真実を、ここで正しておきたい。サン=ルー公妃[203]が、教皇領の騒乱に加わった長男を、その後フィレンツェで亡くし、次男ルイ・ナポレオン公子を伴って、身分を隠してパリへ来たことは、知られている。公妃は、首都にいることを、国王とカジミール・ペリエ氏に知らせざるをえなくなった。病気だと言っていた息子が、旅を再開できるようになるまで、滞在は黙認された。パリからロンドンへ移ると、国王の政府は、パリ滞在中の詳細とともに、公妃の到着を私に知らせた。公妃から会いたいとの意向が伝えられたが、私は面会を避けるほうが適当と考えた。そして姪のディノ夫人に、公妃を訪ね、何か役に立てることがあるか、聞くよう頼んだ。公妃が欲しかったのは、息子とともに再びフランスを通り、住まいを持つスイスへ行くための旅券だった。その願いをパリへ伝えると、多少のためらいのあと、私が旅券を与える許可が出たので、すぐにそうした。公妃に役立つことであれば、会うことに何の困難も感じなかっただろう。私はロンドンの社交の場で、ナポレオン皇帝の二人の兄弟、リュシアンとジョゼフ・ボナパルトに会い、この一族の人々に、いつでも示すはずの礼を尽くしていた。いまも、一八一四年と同じく、ナポレオン的な政策はわが国に危険だと考えている。しかし、ナポレオン皇帝に負うものは、忘れられない。それは、皇帝の一族に、つねに感謝に基づく関心を示す十分な理由である。ただし、その関心が、私の政治的な考えに影響することはない。
なお、サン=ルー公妃が旅券について寄せた手紙は、次のとおりである。いま述べたことを、裏付けている。
サン=ルー公妃からタレーラン公へ
「タンブリッジ・ウェルズ、一八三一年
公爵殿、
アレーネンベルク伯爵夫人と、その一行の旅券を、あなたにお願いする許可を得ています。(これは、公妃のスイスの所領の名だった。)一行に加わる人々を明記すべきだとお考えなら、息子、マズュイエ嬢、男の使用人二人、侍女一人と、お加えください。
旅券は、単にスイス行きとしていただきたいと願っています。今月末の数日間のうちに、出発するつもりです。公爵殿、この機会に、この件で示してくださったご親切に感謝できるのを、たいへんうれしく思います。出発前にディノ公妃に会えなかったことは、残念です。この残念な思いをすべてお伝えいただき、あなたも、公妃も、私の気持ちをお受け取りください。
オルタンス」
外交報告の続きを取り上げよう[204]。
タレーラン公からセバスティアニ将軍へ
「ロンドン、一八三一年五月十六日
伯爵殿、
……最近のパリの騒動は、当地では、相応以上に重く受け止められませんでした。むしろ、公債価格が上がり続けていることが、注目されました。しかし、このような出来事で、外国の列強の注意が、もうわが国へ向けられないよう、強く願います。
今日のイギリスの新聞は、ドン・ミゲルの政府が、イギリス軍の司令官の求めたことを、すべて受け入れたと伝えています。さらに、わが国との紛争を解決するため、おそらくイギリスの仲介を求めるだろうと、付け加えています。この主張を裏付ける連絡は、私にはまだ何もありません。
ポンソンビー卿が昨日ロンドンに着き、ベリアール将軍の手紙を届けてくれました。そこには、ブリュッセルの政府が、この件で何一つ審議にかけようとしないため、二人とも、会議の決議を実行することが、いわば不可能な状態にあると記されています。この状況は、ますます危機的となり、強い措置を必要としています。ベルギー人に猶予を与えるほど、彼らの立場が悪化することが、見て取れるからです。会議は、ポンソンビー卿が自国政府に行った説明を、読むことになります。私も、ベリアール将軍から伝えられた情報を知らせ、この状況にどのような措置が適用できるか、検討します。
ロンドンで得られた、ブリュッセルの問題に関する情報によれば、フランス人たちが、最近の騒動に非常に積極的に加わりました。逮捕された十七人のうち、十二人がフランス人で、そのうち一人から、二万二千フラン相当の有価物が押収されたそうです。さらに、パリの結社はブリュッセルの結社と盛んに連絡し、武器と金を提供しているとも言われています。かなり広く流れている、こうした噂に、あなたのご注意を促さなければなりません。
昨日、出発の数時間前に、まだロンドンにいた三人のベルギー代表に会いました。ベルギー人に自分たちの立場をよく理解させるため、ブリュッセルで持つ影響力を用いるよう、あらためて強く求めました。彼らは、国民の名誉を考えれば、ルクセンブルクを見捨てたり、将来マーストリヒトを領有することを断念したりできないと、なおいくつかの異論を示したので、それについて議論しました。私は、かつて自国の一部であったことのない領土に、国民の名誉という考えを当てはめてはならないと、言いました。何よりも先に、ヨーロッパの国々の社会へ入り、そのあと、問題としている事柄を、重要さの順に、一つずつ扱うべきなのです。最後には、ブリュッセルへ持ち帰れるよい印象と賢明な考えを与えるため、あらゆる手段を用いました。しかし、彼らはかなり落胆し、自国の将来を、たいへん心配しているように見えました……」
「ロンドン、一八三一年五月十八日
……昨日、ベルギーの情勢を扱い、ポンソンビー卿の説明を聞くために、会議を開きました。数時間前に、十五日付のあなたの外交報告を受け取っていたので、私は、卿が示すはずの融和的な考えを通したいという強い願いをもって、出席しました。会議の結果を詳しく伝えた、ベリアール将軍への私の返答から、お分かりになるでしょう。ベルギー人には、ルクセンブルクの譲渡について、オランダ国王との交渉を始めると約束しています。しかし同時に、この君主の領土へのいかなる攻撃も、列強の使える手段で退けられると、はっきり理解させています。
これほど好意的で、明確でもある言葉が、ブリュッセルによい効果を生むことを、期待しています。会議のほかの委員たちも、同じ趣旨で書き送っています。
ポンソンビー卿は、いま着いたゾイレン氏に会ったあと、おそらく今晩、出発します。氏はハーグの宮廷から、ベルギー人に、オランダとの分離の条件を実行させる必要を訴える任務を受けています。ハーグでは、ベルギー人が得た猶予を心配し、拒否した場合に続く措置を、協議してほしいと望んでいます。また、オランダ政府は、アントウェルペン方面、ルクセンブルク付近などでの、一部の攻撃についても不満を述べています。マルイユ氏[205]がハーグからあなたへ送る外交報告には、きっともっと詳しい情報があるでしょう。同封してお送りします……。
ギリシャ問題の会議の委員たち[206]は、シュネデール将軍[207]の旅団の五百人を、カポ・ディストリア伯爵の政府への援助に向かわせるという、国王の政府の措置を知り、たいへん感謝しています。この措置への感謝を、あなたに伝えるよう、私に頼みました……」
「ロンドン、一八三一年五月十九日
ベルギー問題について、オランダ国王の特別な信頼を受けているらしいゾイレン氏の到着で、ポンソンビー卿の出発は二日遅れます。二人が今日と明日、交わすはずの会話の結果は、次の使者でお知らせします。」
「ロンドン、一八三一年五月二十日
……ポンソンビー卿が述べた、ベルギーの情勢、政府の弱さ、この国に広がる無政府状態については、あなたに描き直す必要はありません。十五日付の外交報告で、ブリュッセルでは理性の声が聞かれないだろうと、すべてが示しているとお知らせくださった時、すでに正確にご判断になっていたからです。国王の政府は、この状態には、なお自らの側から配慮が必要だと考え、私は、武力の使用と戦闘の再開を防ぐよう努める命令を受けました。それに従いました。第百四十三号外交報告[208]でお分かりのとおり、会議は、あなたが通したいと望む考えに、明確な譲歩をしました。ルクセンブルクについて、できれば取り決めに至るため、オランダ国王との交渉を始めると、ベルギー人に約束したのです。しかし、隠さずに申し上げるなら、会議の委員たちは、この譲歩が、難問を取り除くどころか、ベルギー人とその愚かな期待をあらためて励まし、いっそう難しくするかもしれないと考えています。それでも、陛下の政府への敬意と、融和的な気持ちを、もう一度示したかったのです。
ベルギー人がこの譲歩を適切に評価せず、五か月以上も前から示されている正当な要求を受け入れないなら、むしろ列強に抵抗する方針へ、いっそう固執するなら、率直に言って、会議は、すでに予見しているこの場合には、あらゆる融和の手段を尽くしたと考えるでしょう[209]。そうなれば、国王の政府から、新たな訓令をいただく必要があります……。
ゾイレン氏には、いま扱っている問題を、少しでも進められる権限がありません。国王は、ベルギー人の攻撃を恐れ、それを退ける準備をしたと、氏は述べています。
ポンソンビー卿は、まだロンドンにいます。明日、レオポルド公に会うため、クレアモントへ赴きます。イギリス政府は、公がベルギーの王冠を受け入れやすくしようと考えているようです。しかし、成功するとは思いません。レオポルド公には、不確かなものを受け入れる意向がないからです……」
「ロンドン、一八三一年五月二十二日
伯爵殿、
第百四十三号外交報告で、ルクセンブルク大公国について、会議がベルギー人に行う用意のあった譲歩を、お知らせしました。その後、レオポルド公がベルギーの王位を受け入れやすくする手段を、注意深く検討しました。公は会議の数人の委員に会い、受諾したいとの思いを、あらためて示しました。
昨日、私たちは集まり、第二十四号議定書を定めました。その写しをお送りします[210]。
この議定書には、ザクセン=コーブルクのレオポルド公の名が記されています。予想されるとおり、ベルギー人が公を選べば、列強は同意するということを、示す形になっています。また、この議定書には、これまでオラニエ家への愛着のため、レオポルド公の選出に異論を示していたロシア政府の、二人の全権代表が署名していることにも、ご注意ください。したがって、ロシアはいま、この選出に同意したことになります。
今や、国王の政府が、ブリュッセルで持ちうるすべての影響力を用い、ベルギー人が、これほど好意的な取り決めを受け入れるよう促すことが、必要です。
ドイツ連邦の行動が、いまは延期され、オランダとの交渉の結果を待つことになっている点も、ご覧になるでしょう。これは、すべての人にとって安心の理由になります。
このところ、ベルギー問題には、出口がないように見えました[211]。今日では、定めた目標へ私たちを導けると期待できる[212]出口が、一つ見えるように思います。これほど難しく、これほど多くの注意を要する問題を扱ったことは、めったにないので、なおさら喜んでいます。私が参加した交渉が、期待しうるすべての成功を収めるよう、心から願います。少なくとも、フランスの利益と平和の維持のために、何一つ怠らなかったはずです。
ポンソンビー卿は、今日、ブリュッセルへ出発します……」
「ロンドン、一八三一年五月二十四日
……今月二十一日、あなたは、ルクセンブルクをベルギーへ譲るための交渉を始める計画を、会議が採ったことに、国王の政府は満足したと、お知らせくださいました。二十二日付の外交報告に添えた第二十四号議定書で、この考えが、どう進められたかお分かりでしょう。ベルギー人が、それを評価し、時機を逃さず利用すれば、その問題を進める手段になります。
伯爵殿、会議がこの措置を採用したことを、ポンソンビー卿と、卿が会議に与えた印象だけに帰するのは、完全に正確ではありません。ベリアール将軍から届き、会議に伝えた手紙のほうが、卿の説明よりも、はるかに大きな効果を生みました。注意深く聞かれたことと、パーマストン卿が、もう一度読むよう私に求めたことが、その証しです。なお、全権代表の心に何が働き、どのような手段が用いられたにせよ、私たちは、この決定を、なおさら喜ぶべきだと思います。会議の前日、いや、数時間前でさえ、得られるとは期待できなかったかもしれないからです。疲れと、終わらせる必要も、そこに寄与したのだと思います。
ルクセンブルク大公国とドイツ連邦の間に、なお残りうる関係が、要塞以外のものにも及ぶ[213]とは、私は一度も考えたことがありません。ベルギーが中立である以上、その中立がルクセンブルク大公国の領土や、今後得るかもしれないほかの領土へも及ばないことは、不可能だからです。
今朝、レオポルド公に会いました。ポンソンビー卿の出発を知らされ、その後、私も確かめました。こうして、ベルギー問題は、いま解決へ向かって進んでいます。列強を代表する会議が、ベルギー人へ示したあらゆる譲歩を、ブリュッセルで適切に評価すれば、その解決には容易に至れるでしょう。今やベルギー政府には、満足すべき正当な理由と、周囲の扇動者の要求に答える手段があることを、認めないわけにはいきません。結局、難問の主要な点は取り除かれ、残るのは、その結果の調整だけです。それでも、レオポルド公も私と同じく、まだ危機を抜け出していないと感じています。私たちは、おそらく来週の火曜日、五月三十一日まで、危機が続くと見積もりました。ベルギー人が最終的な決定を知らせるために与えられた期限が、切れる前日です。
レオポルド公との会話から、ベルギーの王位を受け入れる決意の、新たな証しも得られました。この決意は、つねに、ベルギー人が一月二十日の議定書で定めた基礎を受け入れる場合を前提としています。反対の場合には、公は何の義務も負っていないと考えています……」
「ロンドン、一八三一年五月二十五日
伯爵殿、
ベルギー人の抵抗で、列強の忍耐がついに尽きれば、自分には戦争の機会が生まれ、それを熱心に利用できると、オランダ国王が期待していたことは、疑いありません。イギリス政府と会議に、強制手段へ訴える決心を促しうる理由を示すため、ゾイレン氏がこちらへ来たことは、すでにお知らせしました。
ところが、融和的な考えが勝り、第二十四号議定書が採用されたため、オランダの抱く戦争への期待は、弱まるはずです。しかし一方では、ルクセンブルクの譲渡を交渉するという考えに、オランダから多くの異議が出るのではないかと、懸念しています。この取り決めの必要について、オランダの考えをしっかり定め、問題の難しさをできるだけ減らすため、第二十四号議定書の採用とポンソンビー卿の出発以来、私も、会議の何人かの委員も、ロンドンのオランダ公使たちに、とりわけ積極的に会っています。私たちは、国王が対外的な不安から解放され、国の行政に専念できるようにしたいという、彼ら自身も述べる願いを示しています。そして、全体の利益と、それから切り離せない国王自身の利益のためにも、ベルギー人が今回の提案を受け入れ、君主を選びしだい始まる交渉に、応じるべきだと付け加えています。
ルクセンブルクは、オランダのほかの領土から遠く、住民もウィレム国王の支配下へ入る気がないことを、彼らに指摘しています。また、ベルギー人との接点が少ないほど、争いの種も減ること、オランダ国王ほど見識ある統治者にとって、多額の元金や、よく計算された収入は、大きな利益となりうることも述べています。結局、政府がきわめて重く見ている、この取り決めの有益さについて、こちらの考えを受け入れてもらうため、よい論拠も、悪い論拠も、何一つ省いていません。この取り決めは、ベルギーの問題を解決する手段、もしかすると唯一の手段になるからです。
ミヒールス[214]という名のベルギーの使節が、連邦議会の議長に提出し、議長から会議の委員たちへ伝えられた覚書の写しを、お送りします。この使節はフランクフルトに住み、そこで拠点を設けています。当地では、フランクフルトから、この使節が、ブリュッセルの外相ルボー氏[215]と連絡していることが知られています。この文書を読めば、ベルギー政府がドイツ連邦と緊密に結び付くことを望み、ドイツとの関係を、フランスとの関係よりもずっと重く見ていると、信じる理由があることが分かるでしょう。国王の政府にとって、集めておく価値のある手掛かりが、この文書に見つかるかもしれないと思いました……」
「ロンドン、一八三一年五月二十六日
決着に近づくベルギー問題に関わることすべてについて、頻繁に知らせを受けたいと、きっと望んでおられるでしょう。この時に、お伝えすることがほとんどなくても、一日たりとも、あなたへ手紙を書かずにいたくありません……。
……前回のベルギー代表団の一員で、当地に残ったヴァン・プラート氏[216]が、いま私の家から帰ったところです。氏が述べた自国の状況は、非常に不安なもので、要するに、政府には力も権威もなく、何一つ掌握できていないということです。義勇兵には多くのフランス人が加わり、かなりの資金を動かせるらしいパリの銀行から、金を受け取っていると、氏は言いました。この事実は、氏が自国政府から受け取った手紙に記されており、私も読みました。銀行家の名はありませんが、ベリアール将軍なら、この点を明らかにできるでしょう。この事情は重大であり、国王の政府が注意を向けるに値します。
「ロンドン、一八三一年五月二十九日
……ベルギー問題の状況について、ベリアール将軍から何通かの手紙を受け取りました。その写しは、あなたにも送ると知らせています。ポンソンビー卿のブリュッセル到着後の手紙は、五月二十日の議定書に含まれる提案が、どう受け止められるかについて、大きな不安を抱かせました。しかし、今朝届いた二十七日付の手紙は、もっと希望を与えます。その写しは、あなたにも届いているはずです。
会議は本日、これらの報告と、今朝同じく到着したポンソンビー卿の外交報告を検討するために開かれました。ベルギー問題の解決を早めるため、報告が必要だと説いているように、ベルギー側へさらに譲歩すべきかを審議しました。求められた譲歩は、ベルギー側がどのような資格においても所有したことがなく、今なお所有していない領土に関するものでした。
会議は、最新の議定書で定めた取り決めに何も付け加えることはできず、ベルギー側が六月一日までに一月二十日の議定書に示された基本条件を受諾しなければ、ポンソンビー卿はこの件ですでに受けた指示に従い、ブリュッセルを去るべきだと決定しました。
私は会議の決定を直ちにベリアール将軍に知らせるため、昨日急使としてこちらへ到着したレプコー大佐を、その場で派遣しました。会議がブリュッセルでどのような理由を説こうとしているかお分かりいただけるよう、私の手紙の写しをお送りします。ベリアール将軍がまだパリにいた際、あなたが与えた指示を読み返すよう、私が将軍に勧めている点にご留意ください。その指示は、ベルギー側が一月二十日の議定書の基本条件への同意を拒んだ場合に適用されるものです。」
「ロンドン、一八三一年五月三十一日。
ハーグから知らせが届きましたが、到着が遅く、昨日の急使ではお伝えできませんでした。
オランダ国王は会議の最新の決定と、補償を受ける代わりにルクセンブルク大公国を譲渡する案を知り、強い不満を示し、これに応じないという意向をかなりはっきり表しました。
国王は、自分が数か月前、分離の基本条件を誰よりも先に受諾し、列強の決定を十分に尊重してきた以上、ベルギー側もその点で自分と同じ立場に立つべきだと指摘しています。したがって、自分を拘束することになった議定書を、ベルギー側もようやく実行すべきだと要求するのは正当だと考えています。ベルギー側が本来の境界内に戻り、分離の条件に従うまでは、領土の交換も、ルクセンブルクに関する取り決めも、自分に提案することはできない[217]というのが国王の考えです。そもそも、大公国の代償として何を提供できるのかさえ、国王には見当がつかないのです。
これらの知らせから、ハーグでは障害にぶつかると考えられます。しかし、ベルギー側が分離の基本条件を受諾すれば、私たちはその障害を乗り越えられると確信しています。ハーグのわが公使館が、オランダ国王の頑なな態度を和らげるよう努めればよいと思います。国王は四百万人の臣民を失い、ヨーロッパでの政治的な重みが減ったことに憤っています。それに、損失を被った自分は分離の基本条件を受諾したのに、利益をすべて手にする側が、その受諾に絶えず難色を示していると考えられることも、今の状況では、その頑なさを強めています。
ベルギー側が、攻撃の責めを国王に負わせられないほど十分な口実を与えれば、国王が戦争を始めようとすることは疑えません。それだけに、私たちはオランダ国王への働きかけをいっそう強めなければなりません[218]。
オランダの軍事力については、あなたも情報をお持ちです。陸軍は民兵[219]を除いて約六万人、海軍もきわめて強力です。アントウェルペン沖の巡航艦隊を構成する十四隻の軍艦のほか、その海域にはなお約三百門の砲があります。こちらでもベルギー人の勇気と勢いは知られていますが、その軍事力はオランダにはるかに及ばないと見られています。確かにオランダ王国の財政状態では、これほどの兵力を長く戦時体制に置くことはできないでしょう。しかし、それもまた、オランダ人が一刻も早い開戦を望む理由なのです……。」
「ロンドン、一八三一年六月三日。
伯爵殿、
五月三十一日付のあなたの外交報告を受け取りました。ポンソンビー卿がブリュッセルへ到着してから、ベルギーの外務大臣に送った手紙[220]に関するものです。
伯爵殿、外交に豊富な経験をお持ちのあなたが、この手紙を会議の意向によるものと一瞬でもお考えになったとは思えませんし、その起草に私が関与したのではないかと、本気で疑念を示されたとも思えません。この手紙はロンドンで用意されたものではなく、確実に会議から出たものでもありません。一読すれば、それは分かるはずです。それに、ルクセンブルク大公国についての自分の考えがわずか一週間で変わったという、ポンソンビー卿がルボー氏に書いたようなことを、会議が言うはずもありません。卿自身、この手紙はひどく急いで書いたと述べています。このことからも、ロンドンを発つ前に渡された手紙ではないことが分かります。
正式な手順としては、ベルギー政府へ送る前に、ベリアール将軍に見せるべきでした。ポンソンビー卿がこちらで将軍について語った様子からも、そうした手落ちが起こるとは思えませんでした。ただ、この手紙は私信でしたから、そのことがいくらかの説明にはなるでしょう。
ブリュッセルからこちらへ届く情報によれば、レオポルド公は間もなくベルギーの君主に選ばれそうですが、国民会議はヌムール公の選出時と同じ条件を課すつもりです。ベリアール将軍が親切にも私に送ってくださる手紙によって、この情報はさらに詳しく、興味深いものになっています。また、国民会議が分離の基本条件に何らかの同意を示すとしても、それはきわめて間接的な形で、議定書という言葉は使わないでしょう。そして国民会議は、フェンロー、マーストリヒト、リンブルクに対する要求を取り下げていません。
このような進め方では、ベルギー人が望む目標からかえって遠ざかり、差し出すつもりの王冠をレオポルド公に受けてもらうのが、たいへん難しくなるのではないかと懸念されます。ロンドンへ来た代表たちに公がした返答から、そう考えることができます。
もっとも、重大な難点はマーストリヒトとフェンローだけです。ベルギー側の言うとおり、一七九〇年以前にはリンブルクの六分の五をベルギーが所有し、オランダに属していたのは州内に散在する五十四の自治体だけだったのなら、それは国境画定委員が容易に確認できる事実です。ベルギー人自身がそれほど確実だと考えている権利が、分離の基本条件への同意を妨げる理由になるとは思えません。まして、一月二十日の議定書は領土交換の原則を定めており、それは飛び地になっているオランダの自治体にも必ず適用されるのです。
マーストリヒトに混成の守備隊や外国の守備隊を置くという案については、採用されることはないと思います。ベルギーがマーストリヒトへの主権を主張し始めたのはごく最近ですが、オランダの主権はミュンスター条約[221]にさかのぼるほど古いものです。そのうえ、ベリアール将軍が提案したようにハノーファーの部隊をこの要塞に置けば、深刻な不都合が生じるでしょう。
このように、伯爵殿、ベルギー問題には依然として重大な難点があります。ただ、国民会議の多数がレオポルド公を支持していることは、ベルギー人が、国の苦しい状態を終わらせる必要を感じていることを示しています。しかし、分離の基本条件への明確な同意を頑なに拒み、いかなる要求も譲ろうとしない態度は、私たちが長い間防ごうとしてきた不幸な結果を招くかもしれません。あなたの外交報告の末尾に示された措置に、ポンソンビー卿の退去とベリアール将軍の召還を組み合わせることが、これほど消耗を強い、ヨーロッパの主要国の和解と平和への意向にも反する状況を抜け出す、最善の道になると思います。
アスコットの競馬へ出かけた大臣たちが不在の間に、私が個別に会った会議の委員たちも、こうした考えを述べています……。」
「ロンドン、一八三一年六月四日。
今月二日付のあなたの外交報告を受け取りました。国王の政府が、ベルギー問題について会議の採択した取り決めを、いかに厳格に守ろうとしているか、よく分かります。ベリアール将軍がベルギー側に認めた期限の延長は、あくまで将軍個人の判断であると、こちらでは十分に説明しておきます。この件でポンソンビー卿と相談したはずだと考えねばなりません。将軍の指示書は、そうするよう命じていたからです。ただ、この点には多少の不安があります。将軍は、一日に定められていた期限を自分の責任で十日まで延ばすと私に知らせた際、『ポンソンビー卿も私に同意すると思います』と付け加えていたからです。
あなたと会議が出した命令の実行が遅れたのは、残念です。フランスとイギリスの使節が退去すれば、おそらく生じたであろう効果が失われたからです。使節が去ったことによってベルギー人が考え直し、自国の真の利益に立ち返ったかもしれません。それが今では、警告をますます信じなくなるでしょう……。
五月二十六日付のリスボンの知らせが、こちらへ届いたところです。お伝えするのは、その知らせをポーツマスへ運んできた蒸気船が、あなたの省や海軍省への外交報告を積んでいない可能性もあるからです。フランス艦隊はポルトガルの船を三隻拿捕しました。司令官は、イギリス領事のホップナー氏を通して商業関係者に通知し、リスボンを封鎖する命令は受けていないが、海上で遭遇するポルトガル船すべてに報復措置を取ると告げました。ドン・ミゲルは、リスボン港内のポルトガル船に出港禁止を命じましたが、中立国の船は妨げられずに出港できます。これらは政府からではなく、イギリスの商業関係者からの知らせです……。」
ここでまた外交報告の紹介を中断し、会議とベルギーの国民会議の交渉を妨げた新たな難題が、どのようなもので、何から生じたのかを説明しなければならない。
会議の権限を委ねられていたポンソンビー卿は、おそらくベルギー人を脅すつもりで、ブリュッセルの外務大臣ルボー氏への私信に、誤ったことを書いてしまった。国民会議が会議の課した条件でレオポルド公を選べば、ルクセンブルク大公国はベルギーに譲渡されるが、そうしなければ、列強はベルギーを分割すると決めている、と述べたのである。会議の内部で、このような二者択一が一度も問題にならなかったことは、言うまでもない。一方、ベリアール将軍はパリから来る策謀に動かされ、弱気になって、会議がベルギーの国民会議に定めた期限を独断で延長してしまい、さらに国民会議の指導者たちと、会議の決定を免れる手段を探ろうとした。こうして将軍は、ウェストファリアの和約以来オランダ領であったマーストリヒトの要塞に、ハノーファーの守備隊を置き、この町をベルギー側に残すという奇妙な案に行き着いたのである。こうした誤った行動が、会議にどのような影響を与えたかは、私の外交報告で見たとおりである。
そこで私は、外交報告だけでは済ませず、カジミール・ペリエ氏へ直接手紙を書いた。氏はこの件について、次のように返事を寄こした。
カジミール・ペリエ氏からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年六月二日。
公爵殿、
外務大臣があなたへ送る急使が運ぶ外交報告に添えるため、五月三十日付のあなたのお手紙へ、取り急ぎ短くお返事する時間しかありません。
公爵殿、これらの外交報告をお読みになれば、政府はベルギー問題に関する原則も、あなたのお手紙が取り上げている重大な問題への見方も、何一つ変えていないとお分かりになるでしょう。ベリアール将軍に与えた指示も、あなたが会議の審議に加わられた際の方針と、すべての点で一致しています。
あなたが察しておられたように、ベリアール将軍は、この件でベルギー政府と交渉する際、指示の範囲を越えたようです。外務大臣は、そのような軽率な行動に対し、当然の叱責を将軍に送っています[222]。これは、地位の高い者であれ低い者であれ、権威を確立するのがいかに難しいかを、さらに示すものです。
会議の決定をベルギー政府に確実に受諾させる手段については、明日お返事します。この手段に関する私の考えをすべて知る必要があると、あなたは書いておられますね……。」
「パリ、一八三一年六月五日。
公爵殿、
この手紙を運ぶ急使に外務大臣が託した外交報告は、あなたが明確にしておきたいと望まれたさまざまな問題に、すべて、きわめてはっきりと答えるものです。
公爵殿、その外交報告をお読みになれば、第二十二号議定書を承認した際の私たちの考えが、今もまったく変わっていないことがお分かりになるでしょう。その議定書に含まれる会議の決定をベルギー政府に受諾させるには、議定書に明記された手段を用いる必要があるという私たちの決意にも、変化はありません。そして、所定の場合にはポンソンビー卿とともに退去すべきだとするベリアール将軍への指示も、同じ趣旨で、完全に一致しています。
ただ、議定書の定めた最後の手段、すなわちドイツ連邦軍のルクセンブルクへの進駐が、不幸にも必要になった場合、この措置がフランスの世論に及ぼす影響を考慮しなければならないことは、ご理解いただけるでしょう。そのため、外交報告でもお伝えしたとおり、私たちはあなたの明敏な慎重さを頼りにしています。会議で軍事力の使用を審議する際には、その時々の状況に応じて、私たちも全面的に望んでいる目標を達成するには何が最善かを、こちらで判断できるように、審議へのご協力を進めていただきたいのです。公爵殿、このお願いは、私たちの決定を変更したためでは決してありません。ただ、目標へより確実に到達するのを妨げかねない難点を、あらかじめ避けるためのものです。
事態が重大であることは、隠してはなりません。しかし、外交報告でお伝えしたザクセン=コーブルクのレオポルド公の選出が、私たちの苦しい状況を改善する助けになると期待できます。もっとも、今のところ届いたのは腕木通信による報告だけで、公の選出にどのような条件が付けられたのか分からないため、この件について、まだ何も申せません。
新聞ですでにお知りになったでしょうが、国王は明日、かなり長い旅行へ出発されます。この政治上の旅は、最初の旅と同じように、フランスと、フランスが自ら選んだ君主との結びつきを強めるでしょう。ただ、国王が不在の間、私たちは陛下の力強い後ろ盾とご見識を得られなくなるため、対外的な出来事に関して、政府は一層難しい立場に置かれます。この事情もまた、先ほどお願いしたことの理由になっています。
公爵殿、次の手紙では、わが国の内情についてお話しすることをお許しください。多くの点で改善に向かっているようですが、国政を担う者の目には、なお無数の困難が見えています。この五十年間、私たちは自由を作り出そうと努めてきました。今解くべき問題は、自由を求めながら、それをほとんど理解していない人々の要求と両立できる権力を、どうすれば確立できるかを見いだすことです……。」
カジミール・ペリエ氏のこれらの手紙は、氏の揺るぎない協力を頼りにしてよいと、かなり安心させてくれるものだった。しかし、相手は氏一人ではなかった。パリには絶えず策謀の巣があり、悪意に満ちたほのめかしで、私の歩みを妨げようとしていると感じていた。例えば、セバスティアニ将軍が後援する『クーリエ・フランセ』紙は、ポンソンビー卿がルボー氏へ送った不適切な手紙は、私が書かせたものだと、平然と主張した。実際には、私はパリからの知らせでこの手紙を知ったのであり、会議はそれを厳しく非難していた。セバスティアニ将軍がこうしたことをどこまで認めていたのか、私には分からない。むしろ、国王や閣僚の周囲に代表者を置いていたボナパルト派の策謀において、将軍が策謀を主導していたとしても、少なくともそれと同じくらい、だまされる側でもあったのではないかと思う。
このころ、ダルベルク公もまた、次のように書いてきた。
ダルベルク公からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年六月五日。
親愛なる公爵殿、
会議の件は、新聞に書かれていることしか知りません。私の考えでは、問題を混乱させ、結局は戦争に至らせるだけでしょう。本当の会議はロンドンにあります。あちらで一致を保ち、こちらで新たな策謀を起こさなければ、平和は守れます。そうしなければ、守れません。
連合はすっかり維持されています。帝政の『軽歩兵』たちがボナパルトの勝利を再びもたらすと、こちらで思っているなら、間違いです。ルイ=フィリップがこういう連中を好むのは、説明のつかないことです。ロヴィゴ公は、コンスタンティノープルへ大使として行く約束を、国王から得ていると言っています。閣議ではセバスティアニとスールトが彼を支持し、他の大臣たちは、ヨーロッパに対する侮辱になるとして退けている、と私は知っています。私もその趣旨で、大臣の一人に話しました。国王は、アンギャン公の惨劇やスペインとの交渉、さらに数々の出来事を忘れてよいのでしょうか。もしロヴィゴ公を貴族院に任命するなら、品位のある人間は、そこにとどまれるものかと思います。
貴族院議員の世襲を支持する声は、日ごとに減っています。平等への熱狂が人々の心をこれほど駆り立てているため、博物館の管理者が、人混みで展示室に居ることもできない時間帯とは別の時間に使える入場券を配っただけで、あわや暴動になりかけました。気の毒な国です。ロンドンにとどまっていてください……。」
ダルベルクの最後の忠告は、まったくもっともだった。しかし私は、その忠告を待たずに、役に立ち、平和の維持を確かなものにできる限り、ロンドンにとどまると決めていた。平和は、つかめたと思うたびに、私たちの前から逃げていくようだった。この時は、ベルギー人の無謀な要求が、私たちの努力の成果を損なおうとしていた。そこで、パリへ送った私の外交報告の続きに戻ることにする[223]。
タレーラン公からセバスティアニ将軍へ
「ロンドン、一八三一年六月六日。
伯爵殿、
ブリュッセルから派遣されたイギリスの急使が、昨夜、ベリアール将軍の手紙を運んできました。それによると、四日の審議で、国民会議は賛成百五十五票、反対四十四票により、ザクセン=コーブルクのレオポルド公をベルギー国王に選びました。ジェルラシュ氏を長とする十人の代表団が、議決の結果を公に伝えるため、ロンドンへ向かうことになっています。
四日の手紙でもお伝えしたように、フランスとイギリスの使節が、両国政府と会議の指示に従い、六月一日にブリュッセルを去っていれば、その行動はおそらくベルギー人に精神的な圧力を与え、武力を使わずに済ませられたかもしれません。しかし、今では事情が別の段階に入り、別の問題を検討する必要が生じています。
ここ数日届いていたベルギーの知らせと、昨夜の急使の到着を受けて、会議が開かれました。ポンソンビー卿の善意そのものを疑う者はいませんが、その行動は指示に反するものとして全会一致で非難され、直ちに召還することが決まりました[224]。数時間後に発つ急使が卿へ届ける手紙の写しを、同封します。そこには召還の理由を記していません。理由を曖昧にしておけば、より強い効果が生まれ、各党派がそれぞれに解釈できると、会議が考えたためです[225]。
他の列強の決定とフランスをこれほど緊密に結びつけている方針と、つい最近ベリアール将軍へ改めて送られた指示からすれば、将軍がポンソンビー卿と同時にブリュッセルを去ることは、疑いありません。おそらく今パリにいるル・オン氏[226]については、その政府がわが国王の政府に正当な不満の理由を与えている以上、ベリアール将軍の退去後もフランスにとどまるのは、無理だと思われることを申し上げておきます。さらに、今日現実になりつつある出来事の一部を予見していた[227]第二十二号議定書は、ベルギー人の行動によってポンソンビー卿がブリュッセルを去らねばならなくなった場合、ロンドンにいるベルギーの使節[228]にも、遅滞なく退去するよう求めると定めています。パーマストン卿は、今朝、その要求をしました[229]。
続いて会議は、列強がベルギーに対して取った立場から、採用せざるを得なくなるかもしれない措置を検討しました。しかし、全権代表たちは、まず、いくつかの点について国王の政府の意向を知る必要があると判断しました。以下にそれらをお伝えしますので、できるだけ早くご回答くださるようお願いします。
第一の点、あるいは第一の質問は、陛下の政府が、自らに不都合を生じさせずに、ベルギー側へどのような強制措置を取れるか、ということです。
第二の質問。これらの措置は、フランス領外へ軍隊を出すことになるのでしょうか。それとも、フランスの国境に兵力を集めることになるのでしょうか。
この点については、私の考えでは、わが国境に兵力を集めるだけで十分だと申し上げておきます。第一に、こうして集結した部隊は、必要ならいつでも隣国の領土へ入れますし、第二に、その存在だけで、求める効果を生むことができるからです。また、この部隊は精鋭で編成し、毅然として慎重な指揮官の指揮下に置くべきです。
第三の質問。フランス艦隊は、ベルギーの沿岸と港の封鎖に参加するのでしょうか。
列強がこの封鎖を決定するなら、フランスも参加し、イギリスの兵力と共同で行動するのが適切だと思います。オランダ艦隊によるアントウェルペン封鎖を解除させようとしていた時、両国の海軍をそのように協力させる案を、あなたがお考えになったことを、思い起こしていただけるでしょう。
これらの質問にお答えいただければ、私は会議から受ける要求に対応できるようになります。列強の考えと意向は、完全に一致しています。すべての国が同じ立場を保ち、共通の約束を果たそうとしていますし、特に、その位置関係から、互いを拘束するこれらの約束の実行を担うフランス、イギリス、プロイセンは、自国の決定を完全に調和させようとしているからです。
ドン・ミゲルの使節がこちらへ来て、フランスとの紛争にイギリス政府が仲介してくれるよう求めました。政府はこの争いに介入するつもりはないが、ポルトガル政府へ助言するなら、フランスの要求に応じるよう勧める、と答えました。話はそこで止まっています……。」
「ロンドン、一八三一年六月七日。
ロンドン駐在のオランダ公使たちは、パーマストン卿に二通の覚書を送りました。一通は、分離の基本条件について態度を明らかにするために認められた期限が切れた時、ベルギー側がどのような決定をしたかを尋ねるもので、もう一通は、ポンソンビー卿がブリュッセルの外務大臣ルボー氏へ送った手紙に抗議するものです。この二通の覚書が会議に伝えられ、回答することが決まりました。これらの文書の写しをお送りします。ポンソンビー卿の召還に関する第二十五号議定書の写しも添えます。
オランダ公使たちの覚書に対する会議の回答をお読みになれば、その目的がお分かりになるでしょう。ウィレム国王がこれまで外れたことのない穏健な道にとどまるよう促し、ベルギー人の行動と要求によって生じた国王の憤りを鎮め、対価を受けてルクセンブルクを譲渡する案について、納得のいく説明を与えるためです。これらの覚書が、こちらで期待している効果をハーグでも生み、オランダ側からのあらゆる攻撃を防ぐと、期待してよいでしょう。
同時に、五大国の大臣が、ハーグ駐在の自国の代表へ手紙を書くことになりました。その骨子をお送りします。列強の意向と国王の権利の維持について、オランダ国王を安心させると思われる意見や理由を、一致した同じ形で国王に伝えるのが、その目的です。国王の政府も、これらの文書に基づいた指示をマルイユ男爵へ送ることを、有益とお考えになると思います。
五日付のあなたの外交報告を、ただいま受け取りました。発送の際には、レオポルド公をベルギー国王に選んだ決議の全容を、まだご存じなかったのではないかと思います。ベルギー人は、まだ確定していない領土の保全を、公に誓わせようとしています。それどころか、自分たちが所有していない都市まで、その領土に加えています[230]。ですから、公がどう決断するかは、ほとんど疑いありません。公の意向を確かめにこちらへ来たベルギーの代表たちに、公が一貫して答えてきたとおりになると思います。
ベルギー人は、最初にすべきことが、オランダとの分離の基本条件に同意することだと、理解すべきでした。あなたが写しを送ってくださった、ベルリン駐在のフランス代理公使の手紙[231]を見ると、この点でプロイセン政府も私と同じ考えであることが分かります。ベルンシュトルフ氏は代理公使に、列強の目指す目的を達成するには、まず、ベルギー人が自国の領土の境界を定めた議定書に従う義務を認めるよう、列強が働きかける必要があると述べたからです。すべての政府が、この問題を同じ観点から見ています。
リンブルクに関する取り決めは、境界を承認した後に行うことはできますが、その前にはできません。ベリアール将軍があなたへ伝え、私にも書き送った案は、ずっと以前からベルギー人がこちらで提案していましたが、受け入れられませんでした[232]。
昨日の手紙でお分かりのとおり、国王の政府が取り得る措置は、国内の事情を考えて定めるべきです。この点では、政府がお望みになるあらゆる便宜が提供されると、私は確信しています。
お送りする文書の写しをお読みになれば、ポンソンビー卿の召還に伴うものとして、私が公表してよいとあなたから認められたベリアール将軍の召還を、こちらでは誰も疑っていないことが分かるでしょう……。」
「ロンドン、一八三一年六月九日。
伯爵殿、
五日付の外交報告であなたは、国王の政府が、ルクセンブルクの要塞をドイツ連邦の要塞ではなくし、取り壊すことを望んでいるとお知らせくださいました。そして、この交渉は私に任せると付け加えておられます。
この件の重要性は、十分に理解しています。しかし、ロンドンで扱えるとは思いません。ドイツ連邦の固有の利益に関わる問題であり、会議が審議を求められている問題の範囲外だからです。会議はドイツ連邦から特別な権限を与えられてもいません。確かに、会議の委員のうち二人は連邦と継続的な関係を持ち、その決定にいくらかの影響力を及ぼしていますが、権限を委ねられてはいません。
この交渉は、ベルリンかパリで進めるべきだと思います。あなたの外交報告に添えられたフランス代理公使の手紙の写しを見ると、プロイセン政府はすでに、陛下の政府の要求に同意する意向を示しているようです。これも、その政府と直接交渉を続けるべき理由になります。この件で個別に話したビューロー氏も、私と同じ考えで、交渉はベルリンに任せておくのが適切だと思っています。
一昨日お送りした文書の中で、ポンソンビー卿がルボー氏へ書いた手紙に会議も関与していたと思わせようとした一部の新聞の主張を、会議がどのように退けているか、あなたもお気づきになるでしょう。もし疑う余地があったとしても、オランダ公使たちへ送った覚書によって、この点の疑念はすべて解消されます。
私は、今回の決定をベリアール将軍に知らせるのは適当でないと考えました。説明をすれば、そこからさまざまな解釈が生まれますし、そもそも、将軍が命令を受けるべき相手は、あなただけだからです。
レオポルド公に王冠を差し出す任務を帯びたベルギーの代表団が、昨夜ロンドンに到着しました[233]。二人の委員、ドヴォー氏とノトン氏[234]も、同時に着きました。二人はレオポルド公に会い、権限を持っていると伝えましたが、その具体的な対象は明らかにしていません。この権限が広範なものであれば、ベルギー問題を解決する[235]のが、もっと容易になるかもしれません。
レオポルド公の態度は、率直で適切です。ベルギーの二人の委員の権限によって満足できる結果が得られるなら、公はおそらくベルギー側の申し出を受けるでしょう。この権限は、代表団の人々には知らされていません[236]。昨日、公と話したところ、物事がまとまれば、ベリアール将軍を自分のもとへ派遣してほしいという希望を述べました。
ブラジルから来た商船によって、ドン・ペドロ皇帝が、自ら国民党と名乗る一派の活動を抑えられず、皇后と家族のほぼ全員を伴って、リオ・デ・ジャネイロを去らざるを得なくなったと、こちらで知りました。息子のために退位したという話もありますが、息子を誰の手に託したかは分かりません。皇帝はイギリスへ向けて船に乗ったようです。
この革命は、ポルトガルの情勢に影響を及ぼすかもしれません。ブラジルに大きな利害を持つイギリスの商業界は、こちらで不安を感じており、公債もいくらか値下がりしました。
五月二十九日付のポルトガルの知らせが、ロンドンに届きました。それによると、フランス艦隊の司令官はリスボン港の沖に封鎖を敷きましたが、対象はポルトガル船だけです。ドン・ミゲルの政府は、フランスとの争いでイギリスの仲介を得る望みを断念せざるを得ず、今度はスペインに仲介を求めるつもりのようです。
ヨークシャーとノーサンバーランドでは、かなり深刻な民衆の騒動が起きています。内閣は鎮圧の措置を取っています[237]。
追伸。この手紙を書いてから知ったことですが、リオ・デ・ジャネイロの革命は、皇帝が内閣の罷免をきっぱり拒んだため、四月七日に起きました。八日、皇帝はイギリスのフリゲート艦ウォースパイトに乗り、船上で息子に譲位する文書に署名し、摂政会議を任命しました。この文書は九日、リオ・デ・ジャネイロで公表されました。同日、ドン・ペドロは皇后、娘、その他数人を伴い、ポーツマスへ向かう予定のイギリスのフリゲート艦ヴォラージュに移りました。摂政会議は持ちこたえられず、数日後には連邦か共和国が宣言されるだろうと予想されていた、と言われています……。」
「ロンドン、一八三一年六月十二日。
今月九日付のあなたの外交報告を受け取り、そこに示された指示を十分に理解しました……。
こちらでは、まだ何も決まっていません。レオポルド公[238]は、慎重に時間をかけて返答しようとしています。確かに、熟慮の末の答えでなければならないのです。ベルギーの代表たちは、公の接し方と率直さに依然として満足している様子で、未来の君主に大きな希望を託しています。しかし、難点となっている問題については、今まで何一つ譲歩していません。
この時代に生じ得る全体の利害を考えると、ベルギーの国家体制が整い、その境界が確定し承認された時には、フランスとイギリスが特別の条約によって、その存立を保障するのが有益ではないか、という考えに至りませんか。私はこの問題を何度も検討しました。この条約を結ぶ理由の中に、その条項をさらに大きな利益へ広げる手立てが見いだせるように思います。それは、ヨーロッパの平穏を確保しながら、フランスの偉大さにも寄与するでしょう。」
「ロンドン、一八三一年六月十三日。
今朝、十一日付のあなたの腕木通信による報告を受け取りました。五日と九日に書いてくださった外交報告の内容を、確認するものです。
あなたは、会議が決めた措置の実行を急ぎすぎ、最近の事情に応じて進め方を変えるべき点を、あまりに見落としていたとお考えです。
このご指摘には、根拠がないように思います。お答えするため、次の点にご注意いただきたいと思います。平和の維持を見守ることを本来の任務とする会議は、ベルギーだけに注意を集中させるわけにはいきませんでした。オランダにも十分な注意が必要でした。とりわけ、この国では、ほんの小さな出来事からでも、きわめて不幸な決定が生じかねないほどの憤りが広がっているのです。ですから、ベルギーとオランダ、双方の憤りを鎮めようとする必要がありました。私たちが防ごうと努めている衝突を、どちらの側からも起こさせてはならなかったからです。
ベルギー側が分離の基本条件への同意を頑なに拒んだことが、会議に知らされて以来、私はこのような考えで行動してきました。その拒否は、オランダ人とその政府を、激しく刺激していたのです。こちらでオランダの全権代表に与えた回答は、ハーグで期待どおりの効果を生んだと思います。したがって、混乱と敵対行為を招く事態を、また少し先へ延ばせたでしょう。
こちらでも、ベルギーでも、オランダでも、私たちが直面する難点は、一方では、列強を戦争へ引き込もうとするハーグの政府から、他方では、列強の注意をヨーロッパ西部の問題へ強いて向けさせ、別のところからそらそうとするロシア政府から生じています。会議での私の発言は、いつもこうです。『私たちは戦争を望みません。しかし、戦う用意はあり、戦争を恐れてもいません。』なお、ベルギー政府には確定した計画がなく、私たちに難題を起こして、自国に何か有利な結果が出ないか、試しているのだと思います。
このような状況なので、私は毎日、レオポルド公とイギリスの大臣たちに会っています。考えと利害の一致を見いだせるのは、この人々との間だと確信しているからです。
結局、私の考えでは、準備をお願いした軍事措置に訴える必要は、生じないでしょう。備えは必要です。しかし、緊張を和らげ、和解を進める手段によって、一発の銃弾も撃たずに、今の難局を抜け出せると思います。これが私の確かな見通しです……。」
「ロンドン、一八三一年六月十四日。
ベリアール将軍はブリュッセルを発つ前、ベルギーの委員とオランダの委員がロンドンへ来て、境界の問題を交渉するという提案が、国民会議になされる予定だと、私に知らせてきました。将軍は、この提案が認められると思っている様子でした。
委員たちが全権を持ち、その定める取り決めを国民会議の承認に付す必要がなければ、よい結果を得られるかもしれません。しかし、そうでなければ、国民会議が異議を申し立てられる暫定的な条項にしかならないことは、お分かりでしょう。
レオポルド公は、今日、ベルギーの代表たちに会いました。代表たちは、日ごとに少しずつ歩み寄っています。
イギリス内閣は、ギリシャ問題を近いうちに再び取り上げたいと私に話した際、バイエルンのオットー公子を招く代わりに、ネーデルラント国王の次男、フレデリック・ド・ナッサウ公子をギリシャの王位に就けるのが適当かもしれない、とほのめかしました。私はこの提案を退けざるを得ませんでした。私の考えでは、それはロシアの公子を選ぶことになると述べました。この六か月間、ペテルブルクの宮廷がナッサウ家に示してきた関心を見れば、そう考える理由があるのです……。」
「ロンドン、一八三一年六月十五日。
……昨日と一昨日の手紙でお分かりになったでしょうが、ベルギー問題は少し進展しました。ただし、最終的な取り決めは、まだ何一つ確実だとは言えません。ネーデルラント国王の全権代表たちは抵抗し、私たちが乗り越えねばならない難点を、さらに増やしています。この状況では、よい結果を得られるという希望を持ち続けてはいるものの、伯爵殿、国王の政府は準備を整えておくべきだと思います。ただ、私の考えでは、実際に行動する必要はないでしょう。
こちらでは、ポーランド人にまったく好意的な意見が示され、ガリツィアで彼らに対して取られた行動が、広く非難されていると、すでにお伝えしました。オーストリア宮廷の側に国際法の侵犯があったと判断した王室の法律顧問たちの意見に基づき、イギリス政府はウィーンへ抗議しており、今後も続けるでしょう。しかし、独自に行動する予定で、この件について共同の行動を組むことにはなりません。私たちが協力できる列強は、イギリスだけだからです。国王の政府が、ドヴェルニツキ将軍と、彼の指揮したポーランド人たち[239]のために、真っ先に働きかけたと知れば、こちらの人々は皆、喜ぶでしょう。ただ、大きな努力を期待すべきではありません。イギリス政府は、いつも一つの問題にしか本腰を入れませんが、今は改革とベルギーの二つを抱えて、手いっぱいだからです。
このため、ドン・ペドロ皇帝とその家族がヨーロッパに到着しても、ほとんど関心を引きませんでした。この出来事をめぐって政治的な構想は何一つ立てられていないと、はっきり申し上げられます。ただ、後で再び取り上げ、検討することにはなるでしょう……。」
「ロンドン、一八三一年六月十六日。
私たちはベルギーの代表と委員たちとの交渉を続けています。レオポルド公も彼らに会っています。彼らはいつも私のもとを訪れ、また、好意を期待する理由のある会議の他の委員たちのもとにも行っています。要するに、歩み寄りが進んでおり、この和解への姿勢から、何らかの取り決めが生まれると期待できます。しかし、今日、商業関係者を通じて届いたベルギーの知らせは、私たちの難局をさらに深めています。ベルギー側がアントウェルペンでオランダ側を攻撃し、サン=ローラン砦を占領して、港の沖にいる船と激しい砲火を交えたという話が広まっています。幸い、シャッセ将軍[240]は十分に自制し、要塞から砲撃させませんでした。しかし、もっともな不安に駆られたアントウェルペンの住民は、急いでブリュッセルへ代表団を送りました。摂政は命令を出し、陸軍大臣はアントウェルペンへ向かいましたが、その権威は無視され、ベルギー人を止められませんでした。無政府派、戦争を望む一派が優勢になったことを、すべてが示しているようです。
この事件によって、オランダの全権代表たちから、どれほど多くの、まったく正当な指摘が出るか、お分かりでしょう。彼らは昨日の晩も、自分たちからはいかなる攻撃もしないと、きわめて明確に私へ請け合っていたのです。実際、知らせが正しければ、攻撃したのは、明らかにベルギー側です。
この出来事は、この数日間私たちが取り組んできた調整を、間違いなく難しくするでしょう。ベルギー側は、まったく平和的な任務を帯びた代表団をロンドンに置く一方で攻撃を行い、自国の独立を確保しようと努めている列強が厳守を求める休戦を、少しも尊重していないという、反論しがたい批判が出るでしょう。この行動が、秩序と平和の敵によるあらゆる活動の結果であることは、明らかです。彼らはフランスを炎上させられなかったので、ベルギーへ火を移そうとしているのです……。」
「ロンドン、一八三一年六月十八日。
六月十三日と十六日付のあなたの外交報告と、十四日夕刻の腕木通信による報告を受け取りました。
ベルギーに関して、イギリスとわが国だけで何らかの取り決めを結べるのではないかと考えたのは、いわば他に道がなくなった場合、しかも、今取り組んでいる調整が実現できなかった場合に限ってのことです。つまり、他の列強とはできなかったことを、イギリスと行うためでした。しかし、現在の交渉の進み方では、その構想に頼る必要はありません。今月十二日の手紙で述べた考えを、これ以上検討する必要もありません。
会議の委員たちは、レオポルド公とベルギーの二人の委員と相談し、ベルギー問題の解決を今なお妨げている障害を取り除こうとしています。その障害は、依然として、マーストリヒトの領有と、オランダに属する飛び地に関するものです。すでにお伝えしたように、ベルギーの委員と代表たちが、交渉にこれほど不慣れでなく、古くから確立した政府が交渉を進めるやり方をもっと知っていれば、これらの難点は、もっと容易に克服できるでしょう。それでも、かなりよい結果に到達できると期待しています。
十三日にあなたからいただいたお知らせに従い、ルーサン海軍少将[241]はリスボン到着後、イギリス国王の臣民の身体と利益を守る措置を相談するため、イギリス領事と連絡を取ると、パーマストン卿へ伝えました。卿は、わが政府のこの対応に、たいへん満足した様子でした。十六日、イギリスの商業界が抱く不安について私がお伝えした意見に、先回りして応えるものだからです……。」
「ロンドン、一八三一年六月二十一日[242]。
昨日、パーマストン卿から、ロシアの全権代表とともにギリシャ問題を協議するため、外務省へ来るよう招かれました。今月十日付のあなたの外交報告によって、この件への準備はできていました。
パーマストン卿は、最近ギリシャを揺るがした騒乱と、それがカポ・ディストリア伯爵の統治に与えた難題について話しました。そして、この不幸な国に秩序を回復させたいという、列強が抱くべき願いを述べました。特に、スーツォ公[243]への手紙でカポ・ディストリア伯爵も求めているように、ギリシャのための借款を保証するか、速やかに資金援助を与える必要があると強調しました。私は、六月十日のあなたの手紙にある説明を用い、最初の提案を退けました。列強が保証に同意したのは、レオポルド公が王位を受諾したためであり、列強が約束をしていた相手は、公一人だったことを指摘したのです。
資金援助の問題については、こちらにもレオポルド公が辞退したという事情が当てはまると理解してもらおうとし、返答を避けました。もっとも、その辞退後にも同様の援助は与えられているので、両者の事情は同じではありません。
なお、会議はこの日の審議では、何も決めませんでした。しかし、パーマストン卿は、借款の保証にはギリシャの君主の選定が必要であり、その選定には新たな境界の画定が必要だと、私に念を押しました。フランス大使がコンスタンティノープルを去れば、ロシアとイギリスの全権代表とともに大使が担当していた、この件の交渉が、いつまでも遅れる恐れがあるのです。ですから、ギリシャ問題の最終的な解決に至るには、どの方策が最も適当とお考えか、お知らせくださるようお願いします……。」
「ロンドン、一八三一年六月二十一日[244]。
イギリス国王が、今朝、議会の開会式で行った演説[245]をお送りします。
お読みになればお分かりのとおり、この演説は、きわめて穏健で、まったく平和的な精神に基づいています。国王はベルギー問題について、まだ結論には至っていないものの、ロンドンの会議を構成する全権代表を派遣している列強の間には、引き続き、最良の協調関係があると述べました。また、会議はベルギーの内政への不干渉の原則に従って進められているが、ベルギー国民が権利を行使する際、隣国の安全を脅かさないことが、その条件であると述べました。
良識ある人々は皆、この演説を支持しました……。
レオポルド公、列強の全権代表二人、ベルギーの代表たちの協議は、今も続いています。実質的な難点はもうなく、ただ細かい難癖があるだけです。本質には関わらないのに、それが、数日前には終わっているべき議論を長引かせています。私は決着をつけるため、力の及ぶ限りのことをしています……。」
実際、私は自分にできることをすべてしていた。そのため、ちょうどこのころ、とうとうかなり重い病気になった。この苦しい交渉が強いた疲労と夜更かしのせいかもしれないし、ベルギーの委員たちの煮え切らない態度に、苛立ったせいもあったかもしれない。私は数日間、床に就かねばならなかった。それでも、寝床の周りに集まって開かれた会議の審議には、引き続き参加した。ベルギーの委員たちとも交渉を続けたが、彼らには遠慮なく不満を表したことを、認めなければならない。それどころか、頑なな抵抗を続けるなら、彼らの国の分割を提起するとまで脅した。分割は戦争を起こさずにできるが、彼らの不合理なやり方は、必ず戦争へつながるからだった。パリとの文通を一日も中断しなかったので、続く手紙には、こうしたさまざまな感情の表れが見られるだろう。
タレーラン公からセバスティアニ将軍へ[246]
「ロンドン、一八三一年六月二十二日。
伯爵殿、
二十日付のあなたの外交報告を受け取りました。そこでは、ロンドンからの知らせが二日間届いていないと指摘しておられます。この非難は当たりません。私は四十八時間以上、あなたへ手紙を書かずにいたことは、一度もありません。外交報告を送らなかった日が一日あったとすれば、その日は会議がきわめて長引き、書く時間がもうなかったからです。あなたの急使が出発してから間もなく、私の手紙が届いたことでしょう。
ベルギー人は、今行っている交渉において、決着を本当に望んでいると思えるような、和解の精神を示していません。次の事実から、お分かりいただけるでしょう。数日前、彼らは自分たちの要求について、覚書を提出しました。彼らとの交渉の細部を特に担当している会議の委員二人は、この要求について意見を述べました。当然、その意見が議論されると考えていたはずです。しかし、ベルギーの委員たちは、そうはしませんでした。返答する代わりに、二通目の覚書で、すべての要求を、何一つ変えず、ほんのわずかな譲歩もせずに、繰り返したのです。
ベルギー人がこの進め方を続け、どの点でも譲らず、むしろ要求と頑迷の姿勢を固めるなら、交渉して取り決めに至ることは、不可能になります。説得と譲歩の手段を尽くし、これほど心を砕いてもほとんど成果が得られなかった以上、おそらくベルギーを分割するという考え[247]に進まねばならなくなると思います。その分割では、フランスはきっと、自国に最も望ましい取り分を得るでしょう。決着をつけられない場合、この手段が他のどの手段よりも戦争を招くわけではないことは、信じていただいてかまいません。ただ、取り決めへの希望を、まだすべて捨てたわけではありません。
あらゆる国の扇動者が期待させる支援を、ベルギー人がこれほど当てにせず、頑張り通すだけで目的を果たせるという考えを吹き込まれていなければ、もっと和解に応じていたと思います。その気持ちを強めているのは、ヨーロッパ全体の状態、ロシアの被った敗北[248]、そしてフランスとイギリスそれぞれの状況でもあります。
ル・オン氏に厳しく言い聞かせるのが、有益だと思います。フランスは、ロンドンの交渉でベルギー問題を解決する望みに協力しましたが、それは率直で、和解を目指す交渉だと考えてのことだったのです。ところが、ベルギーの代表たちは交渉する代わりに、向けられた意見に答えず、要求の枠内に閉じこもり、そこから出ようとは少しもしていません。国王の政府はそれを知り、まったく正当な不満を抱いています。時間は過ぎていきますが、ベルギー人には、それをもっと有効に使わない、何か特別な理由があるようです。
今月四日付でペテルブルクから届いた情報を知らせてくださり、ありがとうございます。ご親切に送ってくださったモルトマール氏の手紙に記された細部は、こちらで私たちが直面する難点の一部が、ロシアによって生じていることを、改めて示しています。
追伸。昨夜、レオポルド公とメルバーン卿は、すべて決着すると思っていました。今朝は難点が出ていますが、私は病気のため、寝床から様子を見ています……。」
「ロンドン、一八三一年六月二十四日[249]。
六日前から病気ですが、レオポルド公、会議の委員、ベルギーの代表団の人々に会うことを、少しもやめていません。四十時間前から協議を続けていますが、代表たちは、今扱うことになった種類の問題にあまりに不慣れで、難点をあれこれ持ち出すため、何も進まず、何も終わりません。正直に言って、私は疲れ果てています。
今日はレオポルド公のもとで協議し、八時に終わりました。今夜、私のところで再開し、おそらく夜中まで続くでしょう。何か決まれば、すぐにお知らせします。」
「ロンドン、一八三一年六月二十六日[250]。
ベルギー問題に、ようやく与えられた方向によって、今度こそ、私たちが目指してきた目的へ進めると思います。
会議とベルギーの代表たちの間で合意された条項[251]をお送りします。ベルギーとオランダの分離に伴って解決すべきすべての点を、これらの条項で取り上げています。予想される難点を除きながら、オランダ国王の権利を、受諾が不可能になるほど損なわないようにしてあります。この取り決めは、明らかにベルギーに有利です。それはフランスの影響力によるものです。マーストリヒトとルクセンブルク大公国に関する条項が、どのような書き方によってベルギーの利益に配慮し、確保しているか、お分かりになるでしょう。
レオポルド公は、今夜十時にベルギーの代表団を迎え、団長の演説に対して、お送りする返答をしました。公は、あらかじめ取り決めた条項を、団長に渡しました。
代表たちは、この条項を国民会議に提出するため、今夜ブリュッセルへ出発します。彼らは、国民会議内のさまざまな意見と、その微妙な違いを代表しているので、国民会議の賛同を得られると確信している様子です。賛同が得られれば、代表たちはロンドンへ戻り、レオポルド公に王冠を差し出します。公はそれを受け入れ、直ちにブリュッセルへ向かうでしょう。
国民会議が条項を承認した時点で、フランスは直ちに、レオポルド公をベルギー国王として承認できると思います。他の列強の承認は少し遅れるでしょうが、その遅れによる不都合は生じません。
会議のオーストリア全権代表の一人で、ネーデルラント宮廷に長く滞在したヴェッセンベルク男爵は、火曜日にハーグへ向かいます。ウィレム国王に対して得た影響力をすべて使い、私たちの条項を受諾するよう説得するためです。この任務を果たすうえで、最も成功の見込みがあるのは、ヴェッセンベルク氏です。ネーデルラント国王になおいくらかの譲歩を求めてはいますが、その承認が得られれば、ベルギー問題は、列強[252]が独立を承認できる段階に置かれます。そして、その独立は、戦争も、軍事的な準備さえも行わずに、成立することになります。
国民会議が条項を採択するよう、ル・オン氏の影響力で働きかけるため、氏にブリュッセルへ手紙を書かせ、さらには、自ら赴くよう勧めることも、適切とお考えになるかもしれません。
午前二時。レオポルド公の演説を添えます。これは、私が望み、公に提案したとおりのものではありません。この件で公と私の間に何があったかは、今、公へ書いた手紙で詳しく説明しています。その写しをお送りします……。」
演説 — レオポルド公からベルギー代表団へ[253][一八三一年六月二十六日]
「皆様、
ベルギーの国民会議が、その願いを伝える役目を皆様に託したことを、私は深く心に受け止めています。
自ら求めたわけではないだけに、この信頼のしるしを、一層光栄に思います。
人の生涯において、一つの国民の独立を守り、その自由を確かなものにするために招かれること以上に、高貴で、有益な務めはありません。
これほど重要な使命だけが、私に、自立した立場を離れ、最も神聖な絆と思い出によって結ばれ、好意と共感をこれほど多く示してくれた国を去る決意をさせ得るのです。
ですから皆様、私は、皆様の申し出を受け入れます。ただし、国民を代表する国民会議が、新国家を成立させ、それによってヨーロッパ諸国の承認を確保するために、どうしても必要な措置を採用することを、当然の前提とします。
そうしてこそ、国民会議は私に、ベルギーのために全力を尽くすことを可能にしてくれます。そして、ベルギーにとって友情が不可欠な国々で私が築いてきた関係を、その幸福と繁栄のために使い、私の協力の及ぶ限り、ベルギーの独立と幸福な存続を確保できるのです。」
タレーラン公からレオポルド公へ[254]
「ロンドン、ハノーファー・スクエア、一八三一年六月二十七日、午前一時。
殿下、
殿下が今夕、ベルギーの代表たちへなさった返答を、今しがた読みました。これをパリへ送ります。これほど難しく、複雑な問題がまとまったことを、わが政府はきっと喜ぶでしょう。しかし、殿下の演説に、フランス人の先入観を和らげるために必要な言葉が見当たらないことは、たいへん残念です。私は、ベルギー人への返答で、イギリスだけに愛着を示さないよう、殿下にお願いしていました。それなのに、和解を促し、有益で、慎重な一節を、最後になって省かれたことを、殿下ご自身の利益のためにも、たいへん悲しく思います。その一節は、フランス大使が書いてお渡しすることを殿下が許され、私が昨夜も念を押し、殿下が挿入するとお約束くださったものです。現在の事を円滑にし、将来を確かなものにしようとする時には、虚栄心や偏見を傷つけないよう、十分な注意が必要なのです。
敬具……。」
タレーラン公からセバスティアニ将軍へ[255]
「ロンドン、一八三一年六月二十七日。
伯爵殿、
私はレオポルド公に、ベルギーの代表たちへの返答に入れるべき二、三の文を渡していました。よい効果を生むと思ったからです。公はそれを入れると約束しましたが、実際の返答には、見当たりませんでした。
私はたいへん不満に思い、直ちにレオポルド公へ手紙を書きました。その写しは、昨日お送りしました。今朝、返事が届いたので、同封します。いつか役に立つかもしれない説明が、そこに含まれているからです。
ベルギー問題は、今日、できる限りよい形に整えられたと思います。国王の政府は、この件で向けられるかもしれない攻撃を、退けられるでしょう。今後、党派的な書き手がロンドンの会議を神聖同盟にたとえるなら、それは誠実な態度ではありません。この会議の成果は、ヨーロッパの平和とベルギーの独立であり、神聖同盟が得た成果とは、何の共通点もないからです。
ベルギーの代表たちは、昨夜出発しました。昨日お伝えしたとおりハーグへ向かうヴェッセンベルク男爵は、今夜ロンドンを発ちます。男爵が携えていく第二十六号議定書[256]と、与えられた指示書の写しをお送りします。この指示は内密のもので、秘密にしなければなりません。私は、ハーグ駐在のフランス代理公使に手紙を書くべきだと思い、ヴェッセンベルク氏の任務が成功するよう、できる限り協力し、氏と共同で行動してほしいと伝えました。これから行う働きかけに、フランスが関与していないように見せないためです。あなたも、この件で代理公使に指示を与えるのが適切とお考えになるでしょう。
ドン・ペドロ皇帝がロンドンへ来た理由は、まだ分かっていません。皇帝は家具付きの宿に泊まり、ブラガンサ公の称号を用いています。
ベルギー問題について合意した取り決めを、極めて厳重な秘密として扱うよう、国王の政府へ改めてお願いすべきだと思います。平和の敵がベルギーの民衆や国民会議の議員たちに働きかけ、代表たちがブリュッセルへ持ち帰る条項の採択を、妨げられるようにしてはなりません[257]……。」
レオポルド公からタレーラン公への返答[258]
「マールバラ・ハウス、一八三一年六月二十七日。
親愛なる公爵殿、
イギリスについて私が述べたのは、ただ過去の歴史的事実を語っただけです。フランスについて、もっと明確な言葉を述べたいとは思っていました。ただ、あなたの同僚たちが、あなたから出たものだと言った言葉を、私は会議の草案に入れました。
しかし、さらに何かする必要を感じたので、演説の後で、代表団の全員に、私の名において、正式に、力強く発言するよう頼みました。私にとって非常に重要な次のことを、国民会議で述べてもらうためです。
一部の新聞が、今回の取り決めをフランスに敵対するものと評していることは知っているが、これほど事実に反する話はない。現在フランスで王位にある一族とは、長年、きわめて親密な関係を保ってきた。若いころからフランスにはたびたび住んでおり、フランス以上によく知る国は、ほとんどない。そして、敵対するどころか、ベルギーにとって重要で、有益な同盟国と考えている、ということです。
代表たちが到着すれば、これは必ず広く知られ、すぐに印刷されるでしょう。私が今お伝えしたことを、あなたの政府へ知らせていただきたいと思います。政府が私に示してくださった、あらゆる信頼と好意に、心から感謝しています。
付け加えますと、代表たちは、摂政へ短い説明を伝えてほしいと頼みました。国民会議が条項を採択すれば、私にとってはそれで十分であることを、国民会議に伝える必要があるというのです。私が本当に受諾するにはオランダの採択も必要だと、国民会議に思わせないためです。
敬具……。
レオポルド」
タレーラン公からセバスティアニ将軍へ
「ロンドン、一八三一年六月二十九日。
伯爵殿、
オランダの全権代表たちは、昨夜グレイ卿を訪れ、会議に対して強い不満を述べました。ただ、噂されたような書面の抗議は提出していません。いずれにせよ、今日では、難点はもはや彼らからではなく、ハーグで生じるでしょう。このため、第二十六号議定書に添えた条項が、五大国の全権代表の署名を伴ってハーグへ届くことを、私たちは喜ぶべきです。それによって、ネーデルラント国王は、抵抗を続けても、ヨーロッパで影響力を持つどの政府からも、公然たる支持は得られないと悟るでしょう。
陛下の政府が、ブリュッセルの国民会議による条項の採択後、直ちにレオポルド公をベルギー国王として承認すると決めれば、その承認は、この国の確立に役立つと思います。また、若干の細かな問題を除き、ベルギー問題を解決済みのものに数えられるようになることは、フランスにとっても有益だと思います……。」
ベルギー問題は、この外交報告で私が述べたほどには、解決していなかった。それは、以下を読めば、嫌というほど分かるだろう。しかし私は、フランス政府がこの問題にあまり気を取られず、その手腕を使って、国民の注意を別のところへ向けてほしいと望んでいた。外交報告に忍ばせた示唆は、それを目指していたのである。ただ、認めねばならないが、それはまったく間の悪い示唆だった。この苦しい交渉の終わりに手が届くと思ったその時、さらに深刻な、新しい複雑な問題が突然生じ、決着は手から逃げていくのではないかと思われたからである。これまで、私の外交報告から、おそらく長すぎる引用をしてきた。しかし、そうしたのには、二つの目的があった。私が扱わねばならなかった問題に関係するさまざまな点を、よく明らかにすることと、いつかこの回想が手に渡るかもしれない若い交渉者たちに、忍耐が交渉術の第一の原則の一つでなければならないと教えることである。今後は、私の外交報告からの引用を、もっと控えよう。私が受け取った手紙のほうが、おそらく興味を引き、私の語ることを、よりよく裏付けるだろう。
私は最新の外交報告を、大使館の書記官の一人、カジミール・ペリエ氏の息子に託し、パリへ送った。氏は到着すると、すぐに次のように書いてきた。
カジミール・ペリエ子息からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年七月五日。
公爵殿、
よい知らせを携え、殿下のご希望どおり、誰より先に伝えたいと願って、急いで旅をしました。私が着くまで、まだ何も知られていませんでした。外務大臣と、そのすぐ後に会った父は、はっきりと満足の様子を示して私を迎えました。選挙の時期に、ベルギー問題が、解決とまではいかずとも、大いに簡単になったことを、喜んでいるようでした。運動派の新聞が何を言おうと、こちらの多数の意見は、この長く骨の折れる交渉の成果を支持しています。日々の様子を見ると信じがたいかもしれませんが、まだ良識ある人々はおり、フランスがその大使に負っているものへ、公然と敬意を表することを心得ています。
内政については、内閣は、今月の出来事の結果に対して、私が予想したほど不安を抱いていませんでした。不幸な事態を防ぐための措置が取られています。一部の人々がもう一度起こさせたいと思っている革命の記念日を祝い、民衆の気をそらすため、おそらく祝祭が設けられるでしょう。これらの計画は、まだ何も確定していません。
一方、選挙の前夜、各党派は向かい合っていますが、どこも勝利を確信できずにいます。パリの第一選挙区では、父には十分な勝算があります。ただ、他の選挙人団は、それほど穏健ではないのではないかと懸念されます。
いずれにせよ、選挙戦の結果がどうであっても、内閣は両院の前に立つ覚悟のようです。個別にはある姿を見せていた人々が、議会に集まると、しばしば別人になることを知っています。また、この勝負がどれほど重大か、十分に感じていますから、成功の可能性がすべて失われるのを見届けずに、退くことはないでしょう……。」
セバスティアニ将軍からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年七月五日。
公爵殿、
あなたは成功を収められました。その重要さを十分に理解しておられる国王の名において、お祝いし、感謝します。さらに、私が期待するとおり、一八一五年以来わが国に対抗するため築かれた要塞の撤去も実現できれば、長く名誉ある平和を確保する取り決めに、フランス全土が喝采するでしょう。レオポルド公は、これを実現してこそ、強力で、しかも切り離せない絆を結ぶことを心から望んでいる隣国の友情を、当てにできると理解すべきです。神聖同盟の侮辱に、これ以上耐えられない国の憤りを鎮めなければなりません。神聖同盟は、あなた個人の敵でもあり、あなたを国政から遠ざけることで、あの不幸な時期以来続けてきた、わが祖国を低く抑える政策の口火を切ったのです。新しいベルギー国王が、わが国の敵の憎しみを共有せず、私たちに当然の信頼を寄せていると知られた日には、フランスで人気を得るでしょう。また、ヨーロッパの社会秩序の敵に打ち勝つには、私たちへの助力が必要です。その勝利は、不当な疑いが、私たちに向けられるべき感情に置き換わった時にしか得られません。公爵殿、あなたの栄誉にかけて、この問題をお願いします。すべての中で、最も扱いが難しく、最も重要な問題です。国内の平穏は、これにかかっています。
国王は旅行に大いに満足しておられ、旅はきわめてよい効果を生みました。私たちは、選挙の結果もたいへんよいものになると期待しています。ただ、政務に不慣れな新しい議員が、多く入るでしょう。七月十四日に騒動が起きるという話もありますが、おそらく起こらないか、起きても容易に鎮圧できるでしょう。議会が開かれていることと、政府が取っている予防措置によって、二十七日、二十八日、二十九日についても、安心しています。
ロシアの将軍は、プロイセン国境の近くでヴィスワ川を渡ろうとしているようです。ポーランドの将軍は、兵力を分散させすぎました。リトアニアの蜂起は深刻になっています。ヴォルィーニとポドリアには、かなり大きな兵力を置く必要があり、ウクライナ自体も、ロシアにほとんど好意を示していません。あなたの手紙を読んで、どれほどうれしく思ったかは、お分かりいただけるでしょう……。」
セバスティアニ将軍のこの手紙には、興味深い点がある。私を酔わせようとして、不器用に振りまいた香のような賛辞の中から、ボナパルト派と共和派が、当時フランスで広めようと努めていた考えが見えてくるのである。古い激情を鎮めようとせず、呼び起こして世論を燃え立たせようとしていた。将軍がとりわけ私に任せたいと述べたベルギーの要塞の問題は、すでにその年の四月の、会議の秘密議定書[259]で決着していた。当然ながら、私は、その議定書の作成を促した以外には、何も関わっていなかった。オーストリア、イギリス、プロイセン、ロシアの四宮廷の全権代表は、ベルギーの独立と中立の宣言を受け、その要塞のいくつかを撤去すべきだと認めていた。ひとまず、それで十分であるはずだった。合意された措置は、後で必ず実行されるはずだったからである。しかし、パリでは、両院の前で華々しく発表し、人気を得る手段にするため、直ちに実行するよう求めていた。この要求を満たす方法を、何とか見つけねばならなかった。そこで私は、要塞撤去に関する決定に、国王が演説で言及してよいという了承を、会議から得た。
一般に、そしてこれが私の最大の難題だったのだが、パリでは、他の国に当然の配慮をせず、問題をフランスだけの観点から判断していた。ベルギー問題となると、ベルギー人のことしか考えず、他の政府がその利益を考慮せざるを得ない、ネーデルラント国王の存在を顧みなかった。イギリスの議会があり、イギリス政府は、自ら採用する措置をその議会で説明しなければならないことを、忘れていたか、忘れたふりをしていた。そして、フランスの代議院で何と答えるかだけを気にしていた[260]。ヨーロッパの複雑な状況の中で、このような態度は、絶えず私に際限のない難題をもたらした。できるだけうまく切り抜けるのが私の務めだったが、容易ではなかった。ここで述べている件では、フランス政府を安心させられるような保証を与えるよう、レオポルド公に迫り、次の手紙を得た。
「マールバラ・ハウス、一八三一年七月十一日。
親愛なる公爵殿、
一八一五年の諸条約に従って築かれた要塞を、今後どうするかについて、あなたからいただいたご意見に、直ちにお答えします。私の考えでは、フランスとベルギーの関係は、信頼と友情に基づくべきです。
ベルギー国民が五大国の和解を目指す考えを支持しない理由は、何もないと思います。この基盤を採用するためのあらゆる措置に、私が誠実に協力することを、当てにしていただいてかまいません。
敬具……。
レオポルド」
レオポルド公が、自身と同じく慎重で、控えめなこの手紙を私に書いた時、公はすでにベルギー人の国王だった。前日、ブリュッセルの国民会議によって選出されていたのである[261]。国民会議はそれに先立ち、会議が提案した十八か条の予備条項を、賛成百二十六票、反対七十票、五十六票の差で採択していた。この点では、大きな勝利だった。しかし、その喜びに浸る時間は、あまり与えられなかった。カジミール・ペリエ氏から届いた、次の非常に注目すべき手紙は、すでに私の注意を別の問題へ向けた。不幸にも、そこでは成功を期待するすべがなかった。
首相からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年七月七日。
公爵殿、
息子が出発する機会を利用し、少しお話しします。息子は、閣議で合意した、ポーランド問題に関する重要な外交報告を、あなたに届けます。
公爵殿、私たちの働きかけを、少し強硬すぎるとお感じになるかもしれません。しかし、ポーランド人の状況、ペテルブルクからの報告、ポーランドの大義にますます共感を寄せるフランスの人々の気持ち、さらに、『メサジェ』紙の私たちの記事に示されたフランスへの態度と、議会の開会が迫っていることを考えると、いずれにせよ、ロシア政府に対して最初に行った働きかけを、そのままにしておくわけにはいきませんでした。そこで閣議は、結果がどうなろうと、ロンドンの政府へ試みることを、よい政策だと考えました。また、私たちは速やかな返答を、非常に重視しています。この点では、あなたのご尽力と賢明なご判断に、お任せするほかありません[262]。
今しがた届いたサン=トーレール氏の腕木通信による報告によれば、共通の合意と、すべての大使の面前でなされた約束に基づき、オーストリア軍は七月十五日までに、ローマの諸領から完全に撤退するとのことです[263]。
残るのは、ベルギー問題です。今日届いた知らせは、よくなっています。百八十票中百二十票の多数によって、明日か明後日には、好ましい解決に至ると伝えられています。私はそれを期待し、さらに強く願っていますが、実際に起こるまでは、確実なものとは信じません。ただ、そうした結末になれば、レオポルド公が直ちにベルギーへ向かう決意をすることが、急務です。運動派の人々は革命精神に駆られ、秩序を守り革命に抵抗する側の人々には、指導者と支えが欠けています。
セバスティアニ将軍が、要塞についてあなたにお伝えしています。公爵殿、私たちは、この点を早く明確にしたいと思っています。
選挙は終わりに近づいています。息子が、今日の午後六時までに選ばれた議員の名簿を持っていきます。判明した結果について、世間の第一印象は好意的です。オディロン・バロー氏が予告した国民公会には、まだなりません。立法議会にもならないことを願っています。今のところ、穏健な人々が多数を占めているようです。これから判明する選挙も、同じ傾向を保つと期待しています。これらの人々が、政治的な穏健さに勇気ある愛国心を加えてくれれば、私たちはおそらく持ちこたえられるでしょう。しかし、懸念されるあらゆる災いの原因は、何よりも敵の大胆さにあります。それは、私たちの支持者の弱々しい、臆病とさえ言える態度によって、さらに強められています。いずれにせよ、すべては最初の局面にかかっています。また、国民が自らの患う病気の深刻さを、十分に感じておらず、破局の轟きで目を覚ますまで、光に目を閉じ続けるのではないかと、強く心配しています。確かに、破局はまだ先ですが、まもなく開く議会の初めから、政府が取るべき力強く、毅然とした姿勢を代議院が支えなければ、破局は避けられないと思います。
公爵殿、私が考えるわが国の情勢について、いかに率直に述べているか、お分かりでしょう。ただ、私たちの努力に絶望しているとは、思わないでください。その考えは、まったくありません。それどころか、国内問題が絶えず対外問題に左右され、逆に対外問題も国内問題に左右されるのでなければ、対処はおそらく、まだかなり容易だとさえ言えます。しかし、これほど切迫した二つの問題が互いに影響し合っています。そのうえ、対外問題をめぐる主張には、軍人勢力と、わが国民のいくらか大言壮語を好む気質の後押しもあります。そのため、私たちの置かれた深刻な状況を乗り越えることは、明らかにたいへん難しくなっています。人々は、私たちがなお皇帝の軍隊と王政復古期の財政を自由に使え、軍人の給与も公債の利払いも、同時に賄えると思い込んでいます。局地的な戦争なら、確かに軍隊には困らないでしょう。しかし、最初の一発の砲撃が全面戦争を引き起こさずには済まないことを、考えていません。過去の災いの記憶に助けられた国民の良識が、あまりに多くの頭をとらえた熱狂に打ち勝ち、国を救ってくれることを、期待しましょう。
敬具……。」
ペリエ氏がこの手紙で強く私に託したポーランドの大義に、国王の政府が関心を寄せることは、よく理解していた。この点で、私を奮い立たせる必要はなかった。一八〇七年には皇帝ナポレオンに対し、一八一五年にはウィーン会議で、ポーランドのために努めた。その努力を、今度はイギリス政府に対して行う用意は、十分にあった。しかし、そこで出会ったのは、冷淡さと抵抗だった。トーリー党は、明確にポーランドに反対していた。グレイ卿は、リーヴェン夫人に抑えられ、すでに敗れたものと見なされる大義へのイギリスの介入を、すべて避けるための口実を探していた。人道上の理由は、イギリスの政治では、あまり大きな重みを持たない。当時、ポーランドを救うためにロシアと戦争を始めるべきだと、公然と主張する者は、誰もいなかっただろう。私にはたいへん残念だったが、この立派な大義のため、イギリス政府から、多少なりとも実効のある働きかけを引き出すことはできなかった。そのことをペリエ氏と政府に知らせた後、オルレアン家のアデライード王女に、当時の状況をよく描く、次の手紙を書いた。
タレーラン公からオルレアン家のアデライード王女へ
「ロンドン、一八三一年七月二十日。
王女様は、きっとレオポルド公ご自身から、フランスの地で書かれた手紙をお受け取りになったでしょう。公は国王への敬意と愛着を示す機会をもう一つ得るため、フランスを通りたいと望んだのです。ブリュッセルへ発つ前夜、公が最後に述べた言葉は、最も直接の絆によって国王と結ばれたいという願いでした[264]。私は、公の言葉に何も答えませんでしたが、王女様には書いておくべきだと思います。
ドン・ペドロは、パリへ行くことを強く望んでいました。しかし、妻の名前を考えると、ためらう理由があり、迷惑にはなりたくないと思っています[265]。明日、私は彼を夕食に招きます。今の彼の気持ちは、すっかりフランスへ傾いています。
こちらは、まだポーランドの大義に、たいへん冷淡です。エレナ大公妃[266]とネッセルローデ夫人が来て以来、ロシア人が大勢います。彼らは、大公妃が海水浴をしているシドマスへ、二十四時間の小旅行をし、ロンドンへ戻って、ポーランドに反対する話をしています。ヴュルテンベルクのパウル公は娘を訪ねに行き、今はこちらにいます。自分ほどギリシャ国王にふさわしい者はいないと、示そうとしています。外交団に、公と同じ考えの人が一人でもいるとは、思えません。
国王の演説を、待ちわびています。ベルギーの要塞は、王女様のお気に召す形で、そこで取り上げられると思います。オランダ国王は、たいへん手ごわい態度を示しています。ヴェッセンベルク氏がハーグにいた間、そこにフランスの公使が一人もいなかったのは、非常に残念でした。氏も、たいへん残念がっていました。フランス人であれば、受諾を促すために、別の理由を示せたのです。オランダからは、まだ多くの困難を受けるでしょう。実際に被った損失と、生来の不機嫌さのため、よい助言が心に届くまでには、時間がかかります……。」
実際、ハーグからの知らせは、会議にとってかなり厄介だった。ヴェッセンベルク氏は、国王の不機嫌を克服できなかった。国王は、以前にしたすべての譲歩に、これ以上、新しい譲歩を加えたくないと考え、ベルギーの国民会議へ送られ、採択された十八か条の予備条項に含まれる譲歩への同意を、きっぱり拒んだのである。したがって、行き詰まったこの状況を抜け出すため、何らかの迂回路を探さねばならなかった。予備条項が受諾されていないにもかかわらず、最終条約を提案する以外に、道はなかった。これは、手続きとしてはたいへん不適切だった。しかし、事情が十分に異例であったため、通常の道から外れるほかなかった。ただ、オーストリア、ロシア、プロイセンが、この道に私たちとともに進むことは、期待しにくかった。認めなければならないが、それは厳密には、法にかなった道ではなかったからである。そして、間もなく見るとおり、ウィレム国王が自ら、立場をさらに悪くする過ちを犯して、私たちを助けてくれなければ、この点で会議の良好な協調を保つことは、おそらくできなかっただろう。
少なくとも、オランダ国王のこの拒否から明らかになった事実はあった。フランスの新聞と、わが代議院の反対派が主張するように、会議はベルギーの利益を犠牲にしたわけではなかったのである。その間、先に引用した私の手紙へ、アデライード王女は、次のように返事をしてきた。
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年七月三十日。
親愛なる公爵殿、一年前のこの日、私たちは、大きな、しかも当然の動揺の中にいました。あの時、兄がした寛大で勇気ある決断と、その誠実で高貴な行動の結果を、私たちは確かに喜ぶほかありません。今終わったばかりの三日間の祝祭で、国民全体が兄に抱く愛情を、これ以上なく率直に、心から表し、兄は今、そのうれしい報いを受けました。
兄に示され、人々の顔のすべてに見られた、理性に支えられた熱意、愛情、信頼のようなものを、私は一度も見たことがありません。本当の勝利です。一年が過ぎ、実際の苦しみも、この善良で勇敢な国民を誤りへ誘おうとする働きかけもあったのに、国民にはなお、自ら信頼し、選んだ人を守るため、さらに強い熱意と意志が見られるのです。これは、非常に注目すべきことで、将来にとって大きな慰めです。国民の良識と判断の確かさを、よく示しており、こちらも本当に、十分な信頼を寄せるに値します。すばらしかったこの三日間を、私はたいへん幸せに思っています。あなたも心から、私の満足を分かち合ってくださると確信しています。ですから、急いでこのことをお話しし、同時に、七月二十日と二十五日の、うれしい二通のお手紙にお礼を述べています。今日までお礼ができず、たいへん残念でした。私たちの敬愛する国王の演説に、あなたがかなり満足しておられると知り、喜んでいます。議会でも、たいへんよい効果がありました。ベルギーの要塞撤去の発表も、それに劣らずよい効果を生み、わが国には非常に必要でした。
ベルギー人が最初、これを誤って受け取ったことは、残念です。これは見当違いの神経質さで、考え直せば、きっと収まるでしょう。実際、私たちの利益であるのと同じくらい、彼らの利益にもなるのであり、そのことが分かるはずです。正直に言えば、私は心配しておらず、彼らもまもなく、この点で私たちと一致すると、確信しています。
レオポルド公は、カレーから、たいへんよい、すばらしい手紙を書いてくれました。ベルギー代表団への最初の演説で、フランスのために何も言わなかったと私が責めた手紙への返事です。今度は、フランスについて一言述べました。しかし、シュルレ・ド・ショキエ氏の、美しく、もっともな演説に答える際、なぜわが国王について語らなかったのでしょう。ベルギーの摂政は、国王をあれほど美しく、正当に称えたのです。これは大きな不手際で、正直に言って、私は驚きました。公がまた書いてくれた、たいへん親切な短い手紙に返事をする際、必ず、このことを少し伝えるつもりです。最も直接の絆によって、わが国王と結ばれたいという公の願いは、ずっと前から知っています。しかし、そのことについて私からは何も言えないのは、お分かりでしょう。
ドン・ペドロは、二十六日、私たちが食卓に就こうとした時に着きました。その日は大きな晩餐を催しており、彼のために少し遅らせました。夜には音楽があり、彼も参加しました。その後の三日間の祝祭にも加わりました。彼に見せるには、美しく、よい光景でした。わが国王の歓迎に、たいへん満足したはずです。彼が妻と、娘である幼い女王を、こちらに残してくれたらと思いました。自分の真の利益をよく理解していれば、イギリスを訪れた後、彼女とともにこちらへ戻るでしょう。しかし、しっかりした考えがないのではないかと、懸念しています。
議会をどう思うかと、お尋ねですね。国王の演説の際、議会が示した様子から、よい議会になると期待しています。あの、関心を寄せずにはいられない、勇敢なポーランド人たちの知らせを、待ちわびています。今、世論がとりわけ強く動いているのは、この問題です。イギリスが彼らにこれほど冷淡なのを見るのは、つらいことです。
さようなら、親愛なる公爵殿……。」
この手紙は、全文を紹介したかった。アデライード王女ほど賢明な人でさえ、さまざまな幻想を抱き得たことを、よく示しているからである。しかし、幻想はひとまず置こう。出来事は、あまりに早く私たちを現実へ引き戻した。ネーデルラント国王は、レオポルド公の選出と受諾によって、ベルギーの独立が固まっていくのを見て憤り、自分の抵抗がどの列強からも支持されないことに傷ついていた。そして、おそらく、ヨーロッパで全面戦争を引き起こせると期待し、突然、息子のオラニエ公が指揮する軍隊にベルギーを攻撃させるという、捨て身の決断をした。八月四日、国王は会議に休戦の破棄を知らせ、五日、その軍はベルギー領へ入った。一方、王冠を手にしたばかりのレオポルド国王は、解きほぐしようのない難題に直面していた。ロンドンを発つ前、ブリュッセルに着任したら、必要な権限を持つベルギーの委員二人を派遣し、会議の仲介のもと、十八か条を基本として、オランダとベルギーの分離に関する最終条約を交渉する、と取り決めてあった。ところが、国王の組織した内閣は、委員の派遣をきっぱり拒み、ベルギー人はオランダ人と顔を合わせなくても交渉できる、と主張した。レオポルド国王は、オランダ側の敵対行為と、フランスへ求めた援助を報告する際、この難題を直ちに会議に知らせた。まず、この新たな、不幸な複雑さがもたらす影響に、対処しなければならなかった。それほどの時に、たいへん奇妙なことだが、私は十二日間、わが政府から何の連絡も受けていなかった。しかし、決断を先延ばしにしている時間はなかった。会議は議定書を作成し、オランダ側による休戦の破棄を厳しく非難するとともに、レオポルド国王の要請によるフランス軍のベルギー進駐を、期間を限って承認した。また、イギリス艦隊がベルギーの沿岸を守り、海からのオランダの攻撃を退けると決めた[267]。この議定書は、フランスのベルギーへの武力介入が、全面的な戦火を引き起こすのを防ぐため、不可欠だった。
この重大な問題の展開を伝えるには、それによって生じた、アデライード王女と私の間の書簡を紹介するのが、最もよいだろう。
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年八月七日。
親愛なる公爵殿、オランダ国王の理解しがたい武力行動に、あなたも私たちに劣らず驚かれたと、確信しています。この行動によって、私たちの敬愛する国王とその政府が、ベルギーに対して取った、賢明で、高貴で、すばらしい行動の正しさと、それがもたらす大きな優位が、確かに、十分に明らかになりました。また、これほど重要で難しい交渉を、あなたが、あれほどの熱意、慎重さ、手腕によって進め、まとめてくださったことは、何と幸いだったでしょう。五大国の合意によって、私たちは、この不幸な国の国王の要請に応じ、オランダ国王による卑劣な攻撃から救うため、急いで赴くことができるのです。オランダ国王は、五大国が合意し、結んだばかりの諸条約を気にもかけず、非難されるべき、この理解しがたい行動について、列強に相談さえしていません。狂っていると考えなければ、私には説明できません。
ベルギー国王がイギリスに救援と援助を求めたのに、わが国王が二人の息子と軍隊をベルギーへ送った[268]ように、イギリスが直ちに艦隊をスヘルデ川へ送らないとは、考えられません。しかし、そのことをあなたから知るのを、どれほど待ちわびているか、お分かりでしょう。この予想もしなかった、理解しがたい争いを、安定した平和によって終わらせる最善の手段は、イギリスが率直に私たちと協力することだと、確信しています。正直に言って、私はそうしてくれると信じています。プロイセンは、ナッサウ家との親族関係と愛着があっても、自ら署名したばかりの諸条約と、あらゆる国際法[269]に反するこの試みを、支持することは決してできないはずです。悪かったのは、列強が最初、国王を納得させられるような、率直で毅然とした言葉で話さなかったことです。反対に、国王は、自分を復帰させ、ベルギーにとどめたいという意向を見ました。それが、この理解しがたい試みに踏み切る自信を与えているのです。国王は、それによって全面戦争を引き起こせると、期待しています。
わが国王が、特にあなたから知りたいと望み、私に直接、内密に尋ねるよう命じたのは、この事態を最終的な取り決めで終わらせるには、何をすべきとあなたがお考えか、ということです。平和か戦争か分からない状態を終わらせ、私たちの利益、ベルギー国王の利益、この国の独立を損なわずに、できる限り早くベルギーからわが軍を帰還させるには、どうすればよいのでしょう。兄は、その帰還を望んでいます。敬愛する国王がベルギー国王に書いた、あのすばらしい手紙には、あなたも満足されたでしょう……。どうか、できる限り早く、私に書いてください……。」
「パリ、一八三一年八月九日。
親愛なる公爵殿、一昨日あなたに書いた時には、レオポルド国王が、わが国王、フランス、わが軍に対して、これほど理解しがたい態度を取るとは、まったく予想していませんでした。救援を求めた三日付のレオポルドの手紙に答え、わが国王が四日に書いた、あのすばらしい手紙への返事として、今見られるのは、ベルギー憲法の一条を持ち出す貧弱な口実だけとは、どういうことでしょう。それ以上の言葉は控えますが、この口実は、少しでも筋道を立てて考えれば、成り立ちません。しかも、ベルギーの一部の新聞の、不適切で愚かな記事が、それを唱え、支えています。そして、今になっても、レオポルドからわが国王へ、一行の手紙もありません。私には理解できません[270]。その間にも、わが軍が今、ベルギーへ入り、要塞は避けながら、この不幸な国を荒らし、苦しめるオランダ軍へ、まっすぐ向かっていることを願っています。わが国王の命令は、急いで救援に赴き、オランダ軍を追い出すことです。正直に言って、国王の偉大さ、寛大さ、その行動を、私は誇りに思っています。あなたも同じように感じ、それを十分に示し、役立てて、人類とヨーロッパのためになる、名誉ある、安定した平和をもたらしてくださると、確信しています。
貴族院でのアバディーン卿の演説には、憤っています。私をよく知るあなたは、誰よりも、その気持ちを理解し、感じてくださるでしょう。しかし、グレイ卿の返答には、たいへん喜んでいます。わが国王も、深く感激しておられますから、卿にそう伝えていただくとよいでしょう[271]。イギリスの新聞によれば、艦隊はスヘルデ川へ入る命令を受け、イギリス政府と会議は、オランダ国王の無謀な行動を、それにふさわしく評価しているようです。私は、たいへんうれしく思います。しかし、これらすべてをあなたから知り、あなたの見方、ご意見を伺うまでは、十分に満足できません。ですから、最初のお手紙を、言葉にできないほど待ちわびています。気の毒なレオポルド国王が、最初の考えを素直に貫かなかったことは、たいへん残念です。二度目の考えに従うことで、どのような不手際と過ちを犯すのか、教えるよい助言者が、そばにいませんでした。悪いほのめかしによって、その考えへ引き込まれたのだと思います。わが軍のベルギー到着が遅れたため、彼の軍が危険にさらされたのではないかと、心配です。わが国王の賢明な助言にもかかわらず、戦闘に身を投じようとしていると、言われているからです。もし敗れれば、彼にとって、結果はきわめて不幸なものになるでしょう。その軍の状態について伝えられるところでは、敗北の可能性は、かなり高いのです。
さようなら、親愛なる公爵殿……。」
タレーラン公からオルレアン家のアデライード王女へ
「ロンドン、一八三一年八月十日。
王女様の七日付のお手紙を受け取り、直ちにお返事します。
王女様のお尋ねには、ノイコムが運んだ議定書が、その大部分に答えています。最終的な取り決めに至る道筋を示しているからです。この議定書は、長く、激しく議論されました。特に、ロシアの全権代表たちを、私たちの採用した方針に引き入れるのは、たいへん困難でした。一日は八時間、翌日は六時間を費やしました。あらゆる陣営の人々の心が激しく動揺していた時に、可能なことはすべて得られたと思います。オランダ国王が譲れば、残るのは細部の取り決めだけです。この厄介な問題で、これまで乗り越えねばならなかったものほど、大きな難点にはならないと期待しています。その時、わが軍は撤退できるでしょう。そして、フランスへ帰る際、自ら要塞の問題も片づけられるかもしれません。私の考えでは、それは不快に思われるでしょうが、不満を生むだけです。ここで述べているのは、神聖同盟がわが国に対抗して築いた要塞だけです。わが軍の進軍は、人々をひどく恐れさせました。しかし、皆を不安にしたのは、とりわけ前進でした。マーストリヒト方面でわが軍が行うことは、深刻な問題を引き起こすかもしれません。しかし、撤退中にすることは、我慢されるでしょう。何よりも、撤退を喜ぶからです。それによって、戦費の埋め合わせもできます。また、遅かれ早かれ行われるこのような作業は、ベルギー国王が軍の派遣を頼まねばならない私たちにさせるほうが、国王には都合がよいはずです。それほど、国王の使える軍事力は弱いのです。フランス軍自身の手で要塞を撤去すれば、フランス人を皆喜ばせ、最も神経質な人々の要求をも満たすように思います……。」
「ロンドン、一八三一年八月十一日。
今朝、グレイ卿に、王女様のお言葉を伝えました。卿はたいへん感激し、心を動かされた様子で、こう言いました。『国王が、ご親切にも伝えさせてくださったお言葉に、私がどれほど感謝しているか、いくら強くお伝えいただいても、言いすぎにはなりません。』少し黙った後、グレイ卿は、パーマストン卿が今受け取ったオランダからの外交報告を知っているか、と尋ねました。私は、まず卿を訪ねるべきだと思って来たので、ここを辞したら、二時に会議を予定しているパーマストン卿のところへ行く、と答えました。すると卿は、こう言いました。『そこで、オランダ軍を直ちにオランダへ戻す命令が出たという、ハーグの手紙をお読みになるでしょう。こちらで私たちが抱える難題は、すべてご存じですね。あなたがたの軍がベルギーへ入ったことで生じた動揺も、ご覧になったはずです。オランダ国王の命令が正式に知らされた時には、国王が軍をフランスへ戻されるよう、どうか働きかけてください。私たちには、あなたがたの側からの、こうした節度の証拠が必要なのです。私たちにも、あなたがたにも、不可欠です。私からの言葉として、国王にお伝えください。率直な一致を望む二つの政府は、事情に応じて、互いに配慮しなければなりません。繰り返しますが、あなたがたが軍を撤退させなければ、私たちはこちらで、極めて苦しい立場に置かれます。』
私はパーマストン卿のもとへ行き、卿はフェルストルク氏の手紙[272]を読んでくれました。オランダ軍の召還について、明確に書かれています。今日イギリスが求めていることを拒むのは、きわめて重大だと思います。この二十四時間で、問題が変わったからです。オランダ軍の撤退と、レオポルド国王がこちらへ知らせた要請は、二つの大きな出来事です。オランダ軍が退き、私たちがベルギーに残れば、イギリス内閣に向けて広く上がる非難の声には、到底耐えられません。オランダ問題でイギリス政府の行動を責めるのは、トーリー党だけではありません。今日の『タイムズ』紙の社説は、その兆候として、たいへん注目されています。この新聞は、内閣支持の新聞なのです。しかし、わが国の軍事行動を、フランスに何の成果ももたらさずに終わらせるわけにはいきません。ですから、ベルギーとその国王から、要塞の撤去への、無条件の、しかも正式な同意を得るか、勝ち取る必要があると思います。ジェラール元帥[273]は、去る際に、この協定を容易に結べるでしょう。レオポルド国王は、ロンドンを発つ前、この件で私に手紙を書き、私はその時、政府に送りました。公は、ブリュッセルに着くと、同じことを言わなくなりました。しかし、今は、その言葉を明確にしなければなりません。
要塞問題について、相手が四大国だけになれば、事は大いに進みます。四大国は、四月十七日の議定書によって、強く約束を負っているからです。
ベルギーで起きたことのすべてから、イギリスは、ベルギーという国は成立できず、分割の考えによってこそ、ヨーロッパが全体の平和の確かな保障を得られると、考える理由を見いだしてよいはずです。しかし、イギリスは、この考えから、たいへん遠く離れています。また、どこでも別の考えを持ち、野心は別の道へ向かっていました。この点で、フランスでは、今どうなっているのでしょうか。
たいへん長い手紙になりました。年老いた奉仕者は、いつも短く書けませんが、愛情を込めて、誠実にお仕えしています……。」
これほど複雑な事情が明らかになる状況で、フランス政府へ、他にどのような助言を与えられただろう。レオポルド国王は、昨日望んだことを、今日はもう望まなくなっていた。そして、ベルギー人の大言壮語は、オランダ軍を前にした、恥ずべき逃走に終わった[274]。確かに、ベルギーも、ベルギー人の国王も、存在しないと思いたくなってもおかしくなかった。しかし、どの側も分割を望まなかった以上、その考えは、たいへん扱いにくかった。イギリスでは、フランスの力が増すのを恐れ、フランスでは、ヌムール公を望んでいた。ロシアとプロイセンは、オラニエ公を望み、オーストリアは、フランスをこの方面で困らせておくため、混乱が続くことを、かなり好んでいただろう。そのすべてが、今の状況へ導いたのである。私の務めは、戦争なしに、ここまで導くことだった。戦争は、まだ起きていなかった。いずれにせよ、その間に、わが国は軍隊を整える時間を得た。肝心なのは、ペリエ氏が政権にとどまることだった。外国の世論は、すべて氏を支持し、フランスの平穏を望む人々と商業界も、氏についていたからである。したがって、一握りの扇動者の言いなりになってはならなかった。私は、その決意を固め、このかなり激しい危機をできる限り利用して、うんざりするこの問題を終わらせようとした。いつものように、フランス側は、ほとんど助けてくれなかった。私がロンドンで譲歩を得るたび、フランスでは新たな要求が出てきた。次の手紙が、そのことを十分に示すだろう。
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年八月十三日。
親愛なる公爵殿、
あなたはこれまで、多くのことを、見事に成し遂げてくださいました。国王も一昨日、ジェラール元帥への手紙で、そのことを伝え、さらに多くを成し遂げ、あなたの手腕によって、安定した平和に必要なものを得られると、期待を述べていました。今では、ベルギーの要塞の撤去だけでは、十分な満足とも、十分な安全とも見なされないでしょう。オランダ国王が行ったばかりの試みが、その理由です。実際、わが国王の速やかな決断と、わが軍のベルギー到着がなければ、その試みは、少なくとも一時は成功していたでしょう。このことは、十分に明らかです。レオポルド国王は、王位を失っていたはずです。私たちは、力の及ぶ限り、国王を支えたいと望んでいます。しかし、わが国王と政府がそうできるためには、あなたが、わが国の国民的な自尊心と一般の意見を満足させる、償い、補償を得なければなりません。私は、十分な確信を持ち、まったくの友情と信頼から、こう申し上げています。これは、敬愛する国王、その政府、そして、国王の大使としてのあなたご自身の立場にとって、極めて重要なのです。
今朝、腕木通信による報告で知ったところでは、私の甥たち、シャルトルとヌムールは、昨日午後二時にブリュッセルへ入りました。全住民が、待ちわびていた二人を、喝采と喜びで迎えました。住民は、オランダ軍の到着をそれほど恐れていたため、前日、アルスコット氏は、二人がもうすぐ着くと言って、アーレンベルク邸で甥たちのための食事を用意させる以外に、落ち着かせる手段を見いだせなかったのです。こちらでは、代議院で答辞の審議が続いています。十分な多数が得られると期待されています。最近の出来事が、政府に大いに役立ち、多くの力を与えたのは、確かです。しかし、その後に、わが国民を満足させる行動、補償がなければ、これらの利点はすべて失われ、それどころか、私たちは以前よりも低いところへ落ちることになるのを、見落としてはなりません。親愛なる公爵殿、これは、あなた以上に適した人に任せることはできません。難しい務めだとは分かりますが、克服してくださると確信しています。とりわけ、力と正当な権利が、あなたの側にあるのですから。」
セバスティアニ将軍からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年八月十四日。
公爵殿、
今日の正式な外交報告で、私たちの状況をお伝えしています。代議院の議論を見れば、私たちの難題がお分かりになるでしょう。ベルギーは扱いの難しい問題で、あらゆる面で、絶えず配慮が必要です。私たちの政策は変わっても、修正されてもいません。列強を傷つけかねない不合理な要求をせず、平和を守りたいと望んでいます。ただ、わが国に対抗して築かれた要塞によって侮辱されたと感じている国の、敏感な気持ちを、いたわらねばなりません。あなたが一八一五年に拒んだ条約が、依然として、私たちの大きな難題なのです。
私たちは、その条約を破棄したいのではありません。ただ、条約を私たちに押し付けた憎しみの方針が、今はもう列強を動かす感情ではないことを、フランスに証明してもらわねばなりません。この真実を有効に伝えられるのは、あなただけです。ヨーロッパとロンドンでのあなたの高い地位と、あなたが呼び起こす信頼は、協調と一致によって、社会秩序を脅かす危険から守ることのできる諸国の間に、誠実な結びつきを完成させるでしょう。ベルギー領からオランダ軍が撤退すれば、直ちに、フランス軍の二万人が帰国します。ジェラール元帥が残すのは三万人だけで、その軍はニヴェル、さらにその手前まで後退します。この兵力の削減は、私たちの意図の誠実さを示すため、急いで同盟国に与える保証です。あなたのご意見が、私たちの決定に大きな影響を及ぼしたことは、お分かりでしょう。私たちは、イギリス政府へ、配慮の証拠をできる限り示したいと望んでいます。しかし、私たちの立場は、イギリス政府よりも、さらに難しいのです。あなたがロンドンにおられることは、私たちのすべての願いであり、あなたも私たちと同じく、品位と名誉のあるものにしたいと望まれた平和の維持について、私たちを安心させてくれます。代議院は内閣に歩み寄り始めています。対外問題が扱いやすくなれば、大きな多数を得られることは確かです。私たちが維持したいのは、フランスの内閣ではなく、平和なのです。」
これは美しい言葉だった。しかし、その言葉が隠す要求を満たすより、書くほうが容易だった。私は、オランダの侵攻からレオポルド国王を救うため、フランス軍がベルギーへ入ることへの承認を、会議から得ていた。この会議の決定によって、フランス政府が両院に対して大きな力を得たことは、認められていた。今度は、ロンドンの会議に代表を送る列強が、四月にはすでに原則として認めていた要塞の撤去を、政府が求めていた。そして、列強の命令で要塞が完全に撤去されるまで、フランスによるベルギーの占領を続けたいと望んでいた。これは、明らかに得られない要求だった。とりわけ、オランダ軍が会議の命令で、自国の境界内へ引き返した時点では、不可能だった。この措置でベルギー人と新国王の安全が確保された以上、フランス軍がベルギーに居続ければ、すべての列強の疑いを招くだけであり、イギリス議会では、内閣に対して、反論できない攻撃が起こり、内閣は倒れたはずである[275]。後を継ぐトーリー党は、自らフランス軍のベルギー占領を攻撃してきたため、その立場に縛られ、この点で一切譲らなかっただろう。そして、戦争は避けられなくなっただろう。したがって、イギリス政府が持ちこたえるのを助け、フランス側から根拠の乏しい要求を持ち出さないことが、必要だった。フランス政府の一部は、有害な影響に屈していた。この件でダルベルク公が私に書いたことから、それは分かるだろう。
ダルベルク公からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年八月十三日。
親愛なる公爵殿、
今は、フランスを治める人々よりも、神の摂理のほうが、この国をよく見守っているとお伝えする時間しかありません。国家全体の問題を決めるより、一自治体の事務を取り仕切るほうがふさわしい、新しい議員二百人の教育に、皆取りかかっています。この二日間で、人々の気持ちはよくなったと思います。オランダの侵攻は、大きな優位を与え、ベルギーとフランスの革命派の口を封じ、政府が少し力強さを示す機会を与えています。また、イギリスが七月革命によって生じた利益から離れないことを、証明しています。オランダとベルギー人の最終的な取り決めを急ぎ、オランダに対しても、公正で公平な均衡を保つよう、お勧めします。オランダ国王の同意が必要です。それがなければ、何一つ終わっていません。
フランスの議場から噴き出すおしゃべりは、味気ないものになっています。一方、パレ=ロワイヤルと革命の汚物との馴れ合いは、もう終わるべき時です。ヨーロッパでは、そんなことで、どうして権威を鍛え直せるのかと、問われています。アポニー氏とポッツォ氏は、国外、イタリアとドイツで、フランスの使節たちが使っている言葉に、不満を述べています。イタリアで再び蜂起が起これば、オーストリア軍が直ちに襲いかかることは、確かです。私の考えでは、それでよいのです。
逃げられないよう、私たちが髪をつかんで引き止めた、あの立派なカジミール・ペリエは、辞任の話ばかりしています。その後を継ぐ内閣を作るため、今、最も卑劣な策謀がめぐらされています。その中心は、オディロン・バロー、サルヴェルト、そして、影響力を増すため、愚かにも元帥杖を与えられたクローゼル[276]です。どれも、理性からすっかり外れています。これほどの愚行から遠く離れていることを、幸いと思ってよいでしょう……。」
ダルベルク公はこの手紙で、ベルギー問題の現在の危機を抜けたら、私が取り組むと決めていた考えを示していた。この問題を解決する最終条約の締結を、休みなく目指すことである。ただ、オランダ国王が最終的な取り決めへの反対を続けるなら、五大国とベルギーの間の正式な条約だけで満足する、と私は固く決めていた。そのような条約が、ベルギー人をオランダの再侵攻から守り、平和の維持を確保すると、確信していたからである。しかし、その段階に至る前に、パリの興奮を鎮め、実際に難しい立場にあるイギリス政府の状況から生じる要求を、満たさねばならなかった。そのため、私はアデライード王女に、次のように書いた。
タレーラン公からオルレアン家のアデライード王女へ
「ロンドン、一八三一年八月十七日。
私が考えているのは、一つのことだけです。国王への奉仕と、多くの激情が異様なほど危うくしている、フランスの真の利益です。また、認めなければなりませんが、偶然の出来事が絶えず、私たちの計算と努力を裏切ります。今の複雑な事態は、この長く苦しい交渉の中で、間違いなく最も不幸なものだと思います。実際、わが軍がベルギーへ入ることは避けられませんでした。しかし、その撤退には、国王が周囲に置いた、賢明で、毅然として、平和を望み、見識ある内閣の存続を、脅かしかねない難点があるようです。軍事的な行動に刺激されたわがフランス人の気質は、勝利か、征服を必要とします。オランダ軍の撤退によって、勝利は不可能になりました。そして、列強の利益は、正しく理解されたものであれ、誤解されたものであれ、征服に反対しています。国王の評議でこの二者択一が問題になっている間に、こちらでも、同じく重要なことが起きています。
わが軍が国境を越えたその日に、イギリス人の心に反発が生まれ始めました。『タイムズ』紙をお読みになるとよいでしょう。そこには、顕著な兆候が表れています[277]。
この反発は、目に見えて広がっています。今の内閣の存続を脅かし、国民的なものとなり、改革さえ二の次にしています。古い嫉妬が目を覚まし、敏感な反応が至るところで現れています。この二百年間、オランダとネーデルラントの問題に深く結びついてきた、イギリス人の心の琴線があるのです。それに触れて、何も起こらずに済むはずはありません。グレイ卿と内閣全員は、内閣の存続だけでなく、平和の維持がかかっていることを、自らにも、私にも隠していません。わが軍がベルギーに居続けることを認めれば、戦争だけが改革を遠ざけられると理解しているトーリー党は、全力で戦争へ押し進めるでしょう。そして、これまで国内で得られなかった共鳴を、国民の自尊心の中に見いだすでしょう。グレイ卿の内閣が去れば、平和を保つために行われたすべてに敵対する人々が、後を継ぎます。グレイ卿がとどまるには、わが軍がフランスに帰ると言えるか、それとも、自国が望む行動を、私たちに対して取る決断をするか、どちらかが必要です。
この状況で、すべてを両立させる手段は、何でしょうか。私には思い浮かびません。どこにも不都合が見えます。しかし、その不都合が最も少ないと思われる方策は、次のものです。国王の軍がベルギーへ入ったのは、レオポルド国王の要請によってでした。私たちは、彼を救うため、迅速に動き、費用をかけました。そのことを彼は認めねばなりません。また、数時間で戦争の餌食になりかけた彼の国全体と、彼自身に、私たちが顕著な奉仕をしたことも、疑いありません。私たちは感謝のしるしを受けるに値し、多少の補償を得る権利があります。それを会議に求めるのは、実りのない働きかけでしょう。イギリス人は、自分たちは何も求めないと言い、会議の他の代表たちは、不安に思うでしょう。求めるべき相手は、レオポルド国王自身だと思います。独立した君主と独立した君主の直接の協定なら、私たちを今の難局から抜け出させるのに、適しているでしょう。そこで、ジェラール元帥とベリアール将軍が、軍事協定を結ぶ際の力強さと速さで、レオポルド公のもとへ直接行き、『わが軍の撤退は、これこれのことにかかっています。評議会の意見を聞き、秘密を守ると誓わせてください。私たちもパリとともに秘密を守ります。そして二時間で署名してください』と言えば、そこで決めたことは、既成事実となります。列強も、戦争をせずに、それに折り合いをつけるほかありません。条約は、承認された君主同士で結ばれ、自国の定めた手続きを守れば、望むことをする権利があるからです。レオポルド公は、フランスの兵力を救援に呼ぶため、国民会議に相談しませんでした。撤退させるためにも、同じく国民会議を招く必要はありません。この問題すべてを決めるのは、緊急性であるべきです。
わが軍二万人の撤退は、こちらで誰の心にも響きませんでした。ベルギーにベルギー人しかいない時には、三万人で、全土を征服するのに十分だからです。
今日の外交報告では、この手紙に書いた考えには触れませんでした。国王に対しては、あらゆる案をあえて申し上げるのが私の務めですが、内閣に対しては、慎重さの範囲にとどまらなければならないからです。今日の私の考えに価値があるかは、国王がご判断くださるでしょう。私は、切り抜ける手立てを探して、一生を過ごしています。これに価値がなければ、グレイ卿の求める方針にとどまるほうが、よいかもしれません。卿は今朝も、時が来れば要塞を撤去すると約束しました。卿は撤去を望んでいますが、私たちの手で行うことは、望んでいません。
ドン・ペドロの代理公使に、国王の手紙を渡しました。今日送ることになっています。ドン・ペドロは昨日、家族全員とともに出発しました。今回のイギリス滞在には、あまり満足していません……。」
「ロンドン、一八三一年八月十九日。
前の手紙の終わりで、レオポルド公と交渉する考えを、王女様にお話ししました。しかし、私の提案は、完全な秘密でなければなりませんでした。何かを公然としようとした時点で、失敗し、すべての列強の不興を買うでしょう。今の段階では、公が出発する際に私へ書いた手紙を、正式な文書にする以外、安全に取り組めることは、もうありません。その写しは、パリにあります。要塞が取り壊されることは、確かだとお考えください。グランヴィル卿も、国王にその保証を繰り返すでしょう。私自身も、疑っていません。実際、今それを妨げる唯一の方法は、自分たちで行おうとすることだと思います。それは自尊心の問題になり、大国同士では、そのような傷が何を引き起こすか、計算できないのです。
国王は、ドン・ペドロに、よい知らせを伝えられるでしょう。ヴィラ・フロル伯爵は、千五百人を率いてサン・ミゲル島[278]へ上陸し、その島を掌握しました。島には、多くの砲と、二千人の正規兵がいました。こうして、テルセイラにいた兵を含めて、五千人が、若い女王の使える兵力になりました。これほど冒険に満ちた人生なら、女王はもっと美人であるべきだったのですが。
イギリス内閣は、議会で敗北を喫したところです。立ち直ることを期待しなければなりません。私たちには、その内閣が必要なのです[279]……。」
会議での長い議論の間、私は、ベルギーの安全のため、フランス軍の滞在を続ける必要があると、力強く主張した。しかし、結局、オランダ国王に新たな六週間の休戦を課し、その間に、五大国の保障のもと、オランダとベルギーの最終条約を結ぶことに、合意した。これらの取り決めを含む第三十四号議定書は、同時に、このような保障があれば、ベルギーでのフランス軍の存在は、もはや不可欠ではなく、撤退すべきだと宣言した。ただし、撤退の明確な期限は、定めなかった。イギリスの大臣たちは、内閣の存続に不可欠だとして、この宣言を強く求めた。一方、パリでは、要塞の即時撤去か、将来の撤去についての新たな保障を得る前に、フランス軍がベルギーを去らねばならないなら、自分たちもまた、破滅すると考えていたことが、以下で分かるだろう。いつもは周囲の人々より冷静で、巧みだったルイ=フィリップ国王自身も、疑いと不安に流された。これから紹介する国王の手紙には、それがよく表れている。私の考えでは、その手紙は、国王の政治的な先見性よりも、愛国心と誠実さを称える材料になる。国王は、大急ぎで、息子の副官ボードラン将軍を派遣した。将軍は、次の手紙を携えて、ロンドンに着いた。
ルイ=フィリップ国王からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年八月二十七日、土曜日。
親愛なる公爵殿、あなたが署名したばかりの議定書について、内密に心を開いてお話しする必要を感じています。このような文書が、イギリス内閣の維持に役立つことは、私にもよく理解できます。しかし、それが私の政府を倒し、わが国で、すべてを再び不確かなものにしかねないことは、隠せません。私に託され、私自身の名誉でもあるフランスの名誉、私が保証し、私自身の安全にもなるフランスの安全、そのすべてによって、別の措置がこの議定書を修正し、私の大臣たちが受け入れられるものにしない限り、私はこれに拘束されるとは考えられません。このことを、自らあなたに知らせ、その措置を採用させるため、あらゆる努力をお願いしたいと思いました。それは、私への非常に大きな奉仕になります。第二段落の文面には、その余地があると思います。
親愛なる公爵殿、正直に言って、私の目には、会議の進め方に奇妙なものがあります。私は、会議が作り上げたものを守るため、ベルギーへ軍を送りました。その軍がいなければ、ベルギーは征服され、レオポルドは王位を失っていました。ベルギー人と新しい君主が、オランダ側の思いのままにされる危険がなくなれば、軍を戻すと、私は約束しました。そのように理解されていたのです。しかし、あなたの最新の議定書に従い、全軍をフランスに召還すると決めれば、何が起こり得るでしょうか。それどころか、何が起こるはずでしょうか。ベルギーとレオポルドの王位を救うため、瞬時の決断と、奇跡的に速い実行が必要だった、あの状況へ戻ることになります。再び、これほど大きな危険に身をさらすべきではありません。オランダは今、ベルギーの戸口に十万人を超える兵を置いています。ベルギー人には、それに対抗するものが何も、まったく何もありません。したがって、オランダが再び休戦の約束を軽んじ、もう一度ベルギー領へ侵攻したり、あるいは、条約が結ばれないまま休戦期間が終わったりすれば、ベルギーの王位を覆すのは、今回以上に容易で、確実になることは明らかです。こうなると、会議は、多くの配慮と努力によって、ほぼ完成へ導いたものを、本当に壊されるままにするつもりなのか、と問わざるを得ません。それとも、手段もなく、独りで放置されたレオポルドが、守りもないまま王位を失い、無政府状態に陥り、戦争と洪水という二重の災厄に苦しめられ、破壊されたベルギーが、ナッサウ家へ戻る以外に救いを見いだせなくなることを、望んでいるのでしょうか。
実際、親愛なる公爵殿、あなたへの友情から、まったく率直に申し上げねばなりません。ベルギーの状況、私の政府の状況、私自身の状況を、あなたがこれほど見落とし、この奇妙な議定書への署名に、何の異議も唱えなかったことは、理解できません。ヨーロッパの平和を、極度に脅かすこの危機から、私たちを引き出す方法を、どうしても見つけていただかねばなりません。私の内閣が一つの方法を示しており、それは容易に採用させられると思います。それを退けることは、私が退けるのに苦労していると、すでにお伝えした疑いを、正当化することになるからです[280]。
最後に、親愛なる公爵殿、人としてできることはすべてしたと、信じてください。そして、会議の同僚たちにも、そのことを納得させてください。私は、自分の意図の純粋さについて、これほど強い保証を同盟国に与えました。その後は、あなたの最新の議定書から得られるものより、実効のある保障を、自国に与える義務があります。そうしなければ、国民の怒りと激しい勢いを抑えられなくなります。この状態を、親愛なる公爵殿、私が十分に知っているからこそ、要塞の撤去を望み、強く求めてきたのです。要塞は、どちら側からも、賭けに出る者たちの手の届くところや、目の前に置いておくべきでない誘惑の対象と見られています。それが今、すべての難題の原因、すべての不安の源になっています。ここで述べたことを、よく考えてください。そうすれば、この問題を早く終わらせたいという私の願いが、ベルギーに対する私の意図の誠実さと、イギリスや他の列強に対するわが政府の政策の正しさを示す、最も明確な証拠だと、お分かりになるでしょう。また、同じ正しさと誠実さから、レオポルドの王位維持を確保する有効な措置が取られる前に、ベルギーから全軍を撤退させたくないと望んでいることも、信じてください。あなたは、この公をご存じです。私が公に抱く友情があっても、これは言わねばなりません。公の性格からして、わが軍なしではやっていけないという確信もないのに、駐留を求めることはありえません。
もう一つ、非常に重要な事情があります。オランダ国王は、十一万人の兵を集め、養い、給与を払うのに、たいへん苦労しました。しかし、この不自然に膨らませた兵力に、長く給与を払い続けることはできません。したがって、ベルギーへ侵攻するためだけに、軍を維持しているのは明らかです。ベルギーでは距離が短いため、先に入った者が、どこでも相手に先んじる可能性が、常に高いのです。この不釣り合いに大きな軍を減らすどころか、オランダ国王は増強を続け、ドイツ全土で、どんな費用をかけても兵を募っています。そこで尋ねたいのです。この軍の解散を定めないまま、国王との休戦に、どのような信頼を置けるのでしょうか。
しかし、親愛なる公爵殿、手紙が、すでに思っていたより長くなっていることに気づきました。どうか、心を開いてお話ししたいという私の願いだけによるものと、お考えください。この率直さを、私の友情と、あなたへのすべての思いの、もう一つの証拠として受け取ってくださると、信じたいと思います。
あなたに親愛の情を寄せる、
ルイ=フィリップ」
国王は、同じ八月二十七日の四時に書いた別の短い手紙で、次のように付け加えた。
「親愛なる公爵殿、この長い手紙を書いてから、長男の副官で、昨日、息子とともにベルギーから帰ったボードラン中将に託して、お送りすることにしました。将軍は、この国の状態と、軍隊も行政も持たないレオポルド国王の、苦しく、それどころか危うい立場を、十分に知っています。国王は、ひどい衝撃を受けたばかりです。わが軍の存在だけが確保できる、精神的な支えと実際の力を拒めば、国王を破滅させることになります。
私はボードラン将軍に、大きな信頼を置いています。また、一八一六年にイギリス軍と関わったことで、イギリスでは好意的に知られていると、承知しています。あなたが有益とお考えなら、将軍はそこで、フランスとベルギーの実情を、正しく説明できるでしょう……。」
ボードラン将軍は、王女とセバスティアニ将軍の手紙も持ってきた。どちらも、国王の手紙と同じ趣旨で書かれていた。私は、セバスティアニ将軍の手紙だけを紹介しよう。将軍は、おそらく国王以上に、不安を抱いていた。
セバスティアニ将軍からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年八月二十七日。
公爵殿、
第三十四号議定書によって、私たちは、結果を予測できない状況に置かれました。最も起こりそうで、最も差し迫っているのは、おそらく内閣の解体です。オランダは十万人の軍を保ち、さらに増やし、列強への約束を、これほど軽んじたばかりです。その時に、六週間の休戦以外の保障もなく、ベルギーから直ちに撤退することに、私たちの内閣が耐えるのは、不可能です。
提案された休戦が、レオポルド国王に新たな危険をもたらさず、近いうちに長続きする平和へ導くと、私たちだけが確信しても、十分ではありません。国民と両院も、その確信を共有する必要がありますが、それは期待できません。ベルギーは無政府状態にあり、その軍隊は解体しています。何らかの兵力で守られなければ、レオポルド国王は、軍隊も行政も再建できません。要塞の問題で、私たちは疑いを抱いています。あまりに多くの事情が、その疑いを生んでいるのです。
オランダ国王に向けられる、甘く、ご親切な非難は、私たちを安心させません。ルーヴェンの戦いの知らせがハーグへ届くと、イギリス大使バゴット氏[281]を含む、列強の公使全員が、オラニエ公の勝利を祝うため、公妃を訪ねました。私たちは、現在の情勢を知らせるため、ボードラン将軍を送ります。できる限り早く、送り返してください。将軍は、あなたのお使いになれます。好戦的な内閣の成立を防ぎたいとお望みなら、この問題を、私たちのためにまとめてください。私たちは、あなたの手腕と平和への愛に、すべてを期待しています。本当の危機にあるのです……。」
ボードラン将軍が、こうした危機を訴える声を私へ運んでいるのと同時に、ラトゥール=モブール氏がブリュッセルへ派遣されていた。ベルギーの国王と政府に、いくつかの要塞を撤去すると約束する協定へ署名させるためである。私は、かなり早くこの件を知らされていた。ただし、わが政府からではなかった。そのため、氏が出会う難点と、仕掛けられる罠について、ラトゥール=モブール氏に注意を促すことができた。
そこで氏は、八月二十八日、ブリュッセルから私に、次のように書いた。
ラトゥール=モブール氏からタレーラン公へ
「ブリュッセル、一八三一年八月二十八日。
公爵殿、
ご親切にこちらへ送ってくださったお手紙が、先ほど届きました。私がベルギーへ来た特別な目的は、まだ達成されていません。こちらには、臆病で、疑い深く、与えるよりも得ることに熱心で、将来、議場から向けられる攻撃に対して、自分の責任を免れることを気にしている人々がいます。パリを発つ際には、簡単なことだと請け合われましたが、到着してみると、たいへん複雑だと分かりました。パリを通して伝えられたあなたのお言葉が指摘する障害は、私も予感していました。ご指示を得られたことを喜び、注意して避けました。うまくいったと思います……。イギリス公使アデア氏[282]は、ベルギー内閣が最新の第三十四号議定書について示す不安を、不満に思っています。大臣たちは、六週間の休戦が、交渉を終えられないまま過ぎれば、敵の攻撃に対して、武力も、保障もないまま残される、と言います。フランスも、今回のように、すべての列強の承認を得て、全体の平和を危うくせずに、救援することはできなくなる、というのです。私たちは、その場合は、これまでと同じく保護を与える新たな休戦が、オランダの試みから守ると答えています。しかし、納得させられません。彼らは、ウィレム国王が徴募を続け、ライン川には、制服は着ていないが、十分な装備を持つ兵士をオランダへ運ぶ船が、ひしめいていると断言しています。彼らによれば、プロイセンが解散させた連隊から来た兵士だそうです。会議がオランダ軍の削減を実現するまでは、彼らを安心させるのが難しいことは、確かです……。」
私は、八月二十七日付の国王とセバスティアニ将軍の手紙を受け取る前から、少なくとも可能な限り、その手紙に含まれる要求を満たすため、準備していた。私が非常に強く求めたため、会議は、書面には残さず、フランス軍のベルギー駐留の延長を黙認することを了承した。私たちに必要なのは、それだけだった。会議からこの新たな譲歩を得た後、私は数日待ち、ボードラン将軍に、ロンドンの人々の気持ちを判断する時間を与えた。そして将軍に託し、ルイ=フィリップ国王へ、次の返事を書いた。
タレーラン公からルイ=フィリップ国王へ
「ロンドン、一八三一年九月二日。
陛下、
陛下ご自身がお手紙をくださるのは、そのありがたさを十分に感じる、ご親切なお扱いです。もし増す必要があるなら、陛下への愛着と、ご奉仕への熱意を、さらに強めることでしょう。その二つに導かれ、私は、フランスを発つ際、陛下から合言葉として授かった、名誉を保った平和の維持へ、力を尽くしてきました。その後、世界のあらゆる場所で相次いだ多くの出来事は、平和の必要性を少しも減らしませんでしたが、その維持を難しくする一因にはなりました。とりわけ、最近の事情によって、フランスとイギリスの利益が対立し、問題は最も扱いの難しい局面に至りました。私は、あえて、平和的に解決すると期待しています。この競合を避ければ、ようやく、しばらくヨーロッパの平穏を確保する、最終的な状態へ進めるでしょう。ただ、その最終的な状態も、あくまで相対的なものです。私たちが作るのは暫定的なものにすぎないことを、隠してはなりません。しかし、フランスが静かに本来の水準を取り戻せるほど、その暫定的な状態が長く続けば、実際の解決は、必ずフランスの利益に向かいます。私は、こちらで任されたすべてのことを、その精神で進めてきました。正直に申し上げて、第三十四号議定書によって、わが国の問題を大いに進めたと思っていました。それがパリで引き起こした不満は、理解しにくいものです。議定書に含まれるのは、休戦だけです。私は、言うことが少ないほど、よい仕事になると考えました。わが軍のベルギー滞在について、正式に何かを定めるのは、不可能だと思ったのです。
ボードラン将軍は、この点での自分の見方を、きっとお伝えするでしょう。私は将軍を内閣の全員のもとへ連れていき、その後、一人でも訪ねるよう勧めました。将軍の良識による観察を、私は十分に信頼しています。わが軍の帰還を、公然と急がせることはないでしょう。撤退の多少の遅れには、できる限り目をつぶるでしょう。しかし、イギリス政府は、滞在の延長について、書面では何も認められません。議会が毎日、大臣たちの前に突きつける、存続するか否かという問題に対しては、レオポルド国王のあらゆる働きかけも、私のあらゆる働きかけも、効力を持ちません。
陛下へのご奉仕に非常に重要と思う一つの意見を、申し上げることを、どうかお許しください。危機の際、最大の危険は、政務に不慣れな人々の熱心さから生じるということです。その熱心さは、重要な事柄と、重要性の低い事柄との区別を、妨げます。陛下がハーグに公使を置いておられないことを、残念に思っています。こちらで私が取り組んでいるのは、難点を取り除き、和らげることだけです。非公式の話や、些細な噂を伝える者たちの善意の不安に、重みを置こうとしたなら、私たちはヨーロッパ全体に脅かされ、絶えず全面戦争の前夜にいると、考えねばならなかったでしょう。幸い、その戦争は、新聞で話題になっただけです。陛下が、いつもすべてに向けられるご注意をもって、私が今日、外務省へ送る外交報告をお読みくだされば、事態と人々の心の実情を、ご覧いただけます。その内容を、信頼してくださるよう、お願い申し上げます。私は、要塞問題を公然と扱えるのは、こちらに代表の集まっている四大国だけだと、常に考えてきました。また、あまりに明白なラトゥール=モブール氏の任務は、ロシア、プロイセン、オーストリアの外交代表たちに敏感な反応を起こさせ、妨げられるだろうと思っていました。この予測が正しいのではないかと懸念しています。しかし、だからといって、列強が、四月の議定書で負い、その後、私に何度も確認した約束を守ることを、少しも疑ってはいません。
ボードラン将軍をお送りくださったことを、陛下に感謝申し上げます。今この時に、陛下が特に信頼を置く人物に、イギリスを見ていただきたいと思っていました……。」
私は、カジミール・ペリエ氏にも手紙を書いた。
タレーラン公からカジミール・ペリエ氏へ
「ロンドン、一八三一年九月三日。
長い間、お手紙を差し上げませんでした。しかし、わが国の重大な政治問題すべてに、あなたが忙しく取り組んでおられると知っていたため、読む手紙をもう一通増やしたくなかったのです。こちらで起こることはすべて、ご子息からお知らせするようにしていました。きっとよく伝えていると思い、その報告を信頼しています。よく判断できるようにしており、任せた仕事には、まったく満足しています。ただ、熱心さは抑えています。私たちの職務では、熱心さは害にしかならないからです。私の求める控えめな態度は、あまり好まれませんが、有益だと考えています。
今は、これほど重要で、慎重さを要する時点に来ています。パリから受ける指示の方向について、いくらご注意をお願いしても、足りません。冷静さを保ち、時間に働かせれば、今から六週間のうちに、実際それは長い期間ではありませんが、最終条約への署名に至ることは、明らかです。その条約は、同じくらい敏感なイギリスとフランスの虚栄心を傷つけずに、私たちが求めた平和を確保します。フランスで、対外的な利害について、今ほど無知でなければ、私たちがこの一年で得た立場は、革命の最初の一年には、一度も期待できなかったものだと、十分に納得するでしょう。しかし、何も急いで進めてはなりません。すでに認めると決まっていることでも、正式に要求すれば、拒まれるのです。要塞は取り壊されます。それは確かです。ただ、今それを述べる協定は、イギリス政府の存続を脅かすほど、害を与えるでしょう。私がお願いするのは、過度に働きかけて、相手をひどく警戒させないことです。あなたが内閣におられることは、この一年、騒ぎを起こす者たちが、あらゆる形で生み、繰り返してきた不安を鎮めるため、私に最も役立つ根拠です。あなたが内閣にいる限り、ヨーロッパが乱されると思う者はいないことは、確かです。繰り返させてください。あなたは、フランスの運命だけでなく、ヨーロッパの秩序の維持にも、不可欠なのです。諸政府を、より強くしておられます。私は、どこからもそう言われています。
さようなら。変わらぬ思いを、改めてお伝えします……。」
こうして、少なくとも一時は、パリで対外問題の指揮に絶えず入り込んでいた、尽きない動揺を鎮めた後、私は、五大国の仲介による、オランダとベルギーの最終条約の交渉だけを考えた。この仕事には、事情がより好都合になっていた。主要国の政府は、一時、全面戦争を引き起こしかねなかった、ベルギーでのオランダの軍事行動に、不満を抱いていた。したがって、オランダ国王に解決を課すことに、より応じやすくなるはずだった。一方、ベルギーは、自国の敗北と、フランスの保護を頼らざるを得なかったことを、いくらか恥じていた。そのため、決着をつけ、苦しい不確実な状態を抜けたいと、望むはずだった。そこでブリュッセルでは、最終条約を締結するため、全権を持つ使節を任命する決定がなされた。それがヴァン・ド・ヴェイエル氏で、九月初めにロンドンへ着いた。この月は、私の年齢と体力には、少し忙しすぎた。骨の折れる交渉を続ける一方で、九月八日には、イギリス国王の戴冠式があったからである。式は、たいへん美しかったが、非常に疲れた。朝八時半にウェストミンスターへ行き、夕方四時半までとどまり、その夜は、外務省の盛大な晩餐に出席しなければならなかった。同じ月の終わりには、改革法案が貴族院へ提出される予定だった。この事情は、イギリスの大臣たちを、交渉で扱いやすくするものではなかった。
この交渉という点では、一見、取るに足らないが、結果として私には重大だった出来事が、しばらく前から、パーマストン卿との関係を複雑にし、時にはかなり難しくしていた。どれほど滑稽に見えても、これには触れざるを得ない。実際、私には、たいへん不都合な結果をもたらしたからである。
イギリスには、一連の政治風刺画があり、その始まりは、聞いたところでは、チャタム卿の内閣にさかのぼるという。当時の巧みな画家が、さまざまな政治的な出来事を題材に、その時代の主要な人物たちの風刺画を描いた。風刺画にはH・Bという署名があり、この一連の作品も、その名で呼ばれるようになった。一八三一年中に発表された、その中の一枚は、『足の不自由な者が、目の見えない者を導く』という題で、パーマストン卿と私を、そっくりに描いていた。それ自体、通常の中傷や風刺画の範囲を越えるものではなかった。しかし、パーマストン卿は深く傷ついたようで、私はまもなく、意識してか、無意識にか、その気持ちを私に示そうとしていると気づいた。それ以来、一八三四年にイギリスを去るまで、私は何度も、この恨みの跡を感じた。私には、変えようがなかった。卿と交渉すべき問題の成功を損なわないためには、気にしないこと以外、手段はなかった。私は、その方針を取り、厳密に守った。しかし、時には、かなり不都合だったことは、言っておかねばならない。
幸い、パーマストン卿のこの態度は、平和の維持をしっかり確保する唯一の手段と考えていた条約の締結に向けた、私の努力を妨げなかった。卿の属する内閣にも、ベルギー問題を終わらせる利益が、私たちに劣らずあった。これから読む手紙は、当面、私の仕事を危うくしかねない難点が、主にパリから来ていたことを、示すだろう。
ルイ=フィリップ国王からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年九月三日、土曜日。
親愛なる公爵殿、私は、セバスティアニ将軍があなたへ送る地図に、手を加えました。将軍は、必要な説明をすべてするでしょうが、私たちの提案する境界線には、私の考えではどのような利点があるか、自らお伝えしたいと思います。
私が最も重視する点の一つは、わが国の提案が、イギリス政府の心からの同意を得るだけでなく、その政府が国内で受ける攻撃を退けやすくすることです。グレイ卿と同僚たちが内閣にとどまることを、私以上に望む者はいないからです。新しい境界線は、イギリスの利益と、ベルギーの自然で、公平な要求を、両立させるべきだと考えました。そこで、一方では、ベルギーには、自国の水路の水門と、洪水から守る堤防を、オランダ人の手に置かないよう求める権利があると、認めました。隣国の思い一つで、田園を浸水させ、何年も荒廃させ、ブルッヘとヘントを海中に沈められる限り、安全も独立もないからです。他方では、オランダにも、この方面に、よく守られた国境を保つ権利があると認めました。そして、イギリスを満足させ、イギリスの大臣たちの責任を、根拠ある攻撃から守る最善の方法の一つは、オランダが引き続き、ホント、すなわちスヘルデ川の本流の全流路を所有し、さらに、その領有を確保する十分な防壁を、左岸にも持つことだと考えたのです。
親愛なる公爵殿、地図を検討すれば、新しい境界線に、これらの利点が備わっていることを、お認めになると思います。ベルギーが独立するには、オランダが、一七九〇年の境界線によって得ていた、好きな時にベルギーを浸水させる権利、あるいは力を、手放さねばならないというのが正しければ、まず、次のものを放棄する必要があります。第一に、文字どおりブルッヘの水門であり、西フランドルのすべての水を握る鍵となる水門です。第二に、サス・ド・ガン、つまりヘントの水門です。サスとは水門を意味し、こちらも同じく、東フランドルの水を握る鍵なのです。したがって、ベルギーの国境を、これらの水門の先へ、つまり、堤防の向こうにある最初の運河の線へ進めなければなりません。堤防がベルギーに属さなければ、今回、実に嘆かわしい形で行われたように、いつでも切り崩すことができるからです。
ですから、提案された線まで国境を進めなければ、ベルギーの安全と独立は保障できないと、私は考えます。また、その線で止めれば、オランダが手放すのは、ベルギーへの攻撃手段だけであり、自国のために望み得る防御手段は、すべて保てると考えます。オランダは、サス・ド・ガン、フィリピーヌ、アールデンブルク、レクリューズと、十二〜十三平方リューの領土を失います。しかし、スヘルデ川の流路は、今所有する形で、すべて保てます。カドザント島全体も保てます。そこにあるブレスケンスの要塞は、北側のフリシンゲンと同じように、南側でスヘルデ川の河口を守ります。また、テルヌーズと、イゼンダイク、アクセル、フルストの要塞も保てます。これらは、分離の境界となる運河の線の背後に、防壁を作るのに十分です。運河自体も、すでにすぐれた防壁になっています。
したがって、この境界線を採用し、現地をもっとよく調べて必要と分かる、小さな修正だけを加えれば、アントウェルペンから海まで、両国の間に完全な中立関係を築けると思います。双方が互いの攻撃から守られれば、両国間の衝突は、不可能になるからです。
しかし、親愛なる公爵殿、私が心配しているのは、両国の将来より、現在の状態であることを、いくら繰り返しても足りません。皆が平和を望み、それを必要としている列強が、最新の議定書で、オランダ軍の削減を取り上げなかったことは、理解できません。十万人を超える戦闘員を持つオランダ軍は、ヨーロッパの政治秩序の中で、異常な存在だと思います。その存続を延ばすことは、極めて大きな危険なしにはできません。わが国がベルギーへ入らざるを得なかったのも、その軍だけが理由であり、完全撤退を遅らせているのも、その軍だけです。オランダの安全と財政力に見合う、妥当な規模にその軍を減らせば、誰にも安全が生まれるため、何事にも、難点はなくなります。また、これは、私が多くの理由から強く望む、全体の軍備縮小へ至る、最も有効な措置です。何よりも、ヨーロッパの平和を確保する最善の手段だと考えているからです。グレイ卿とパーマストン卿に、よくお伝えください。この軍の削減は、フランスとベルギーを安心させる最善の方法でもあり、あらゆる要求と恐れ、そして、戦争を望むという誤った考えの人々の、すべての戦争への期待をも鎮めます。ところが、不幸にも、親愛なる公爵殿、私たちが受け取るすべての報告は、逆の進み方を示しています。オランダ国王は、ヨーロッパで集められる流浪者をすべて、自軍のために募り続けているようです。そのため、最新の実兵力の表は、合計十一万四千人を示しています。
親愛なる公爵殿、私の考えでは、このような事実は、オランダ国王が平和や防御のために、これほどの重荷を負ったのではないことを証明するため、私が示し得る、あらゆる論証以上に、はっきりと物を言います。国王に、その国と隣国をこの重荷から解放させるため、一刻も失ってはなりません。この点で、イギリスの利益は、わが国の利益と十分に一致しており、他のすべての列強の利益も同じだと、私は確信しています。
セバスティアニ将軍が送る境界画定の地図について、説明の覚書をお渡しします。
もう一つ、お伝えします。あなたの報告から、それがイギリス国王と政府に喜ばれると思い、イギリス国王の戴冠式に出席するため、ロンドンへ行くよう、ドン・ペドロに勧めました。彼がどうするかは、まだ知りません。
親愛なる公爵殿、あなたへの変わらぬ友情と、すべての思いを、心から、改めてお伝えします。
あなたに親愛の情を寄せる、
ルイ=フィリップ」
セバスティアニ将軍からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年九月七日。
公爵殿、
今、五日付の、第二百十五号と第二百十六号の外交報告を拝受しました。会議とロンドンの政府は、フランスの状況に気づいていないようです。これほど心を砕いた成果が失われないよう、天に願います。ホイッグ内閣は、自らの都合のため、世界の平穏を犠牲にしてしまったかもしれません。あなたの手紙を、国王にお見せします。閣議は明日開かれます。まもなく、ペリエ氏と話す予定です。理性の助言へ立ち返らせるため、あなたの声が力を持たなかったことは、たいへん残念です。穏健で、誠実だったのは、私たちだけなのでしょうか。ベルギー問題が私たちをどこへ導くか、教えられるのは、神だけです。
心から、あなたのために……。」
「パリ、一八三一年九月十日。
公爵殿、
ベルギーからの完全撤退を今月三十日まで延ばす理由の中に、正式な外交報告には書けませんでしたが、あなたには知らせておきたいものがあります。貴族院議員の地位をめぐる議論が、議会で始まろうとしています。この議論が、再び人々の激情を動かすのは、避けられません。わが軍全体のフランス帰還を、この議論と重ねれば、激情に、もう一つの材料か口実を与えることになると、私たちは考えました。それを避けたかったのです。公爵殿、私たちが定めた撤退日について、同僚たちからの異議を防ぐために必要とお考えなら、この事情を、内密にお使いになってかまいません。
今、代議院を出たところです。反対派の数人が、ベルギー問題、ポーランド問題、プロイセンのポーランド人に対する態度を、再び持ち出しました。私たちは、その議論へ引き込まれるのを避けました。すでに十分かつ完全に反駁した意見と主張を、いつまでも繰り返すことに、代議院の大多数は、うんざりしている様子でした。そのため、相手に答えることは、一層無用だと判断しました……。」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三一年九月十五日。
こちらでフランス内閣の都合が、もっと尊重されないことに、あなたは驚いておられます。しかし、そう言う人は、あなたを欺いています。こちらの重みを持つ人々は、どの党派であれ、フランス内閣を好み、支持しています。それは確かです。ただ、私たちは活動が多すぎ、あれこれ手を出しすぎると、見られています。あれこれ手を出す新しい政府は、誰もを不安にします。私たちには、成熟した政権と思われることが必要です。行動は、その逆の効果を生みます。征服者であれば、絶え間ない行動は理解できます。しかし、国民の選択によって登場したなら、君主に求められるのは平穏です。君主が激情を抑えられるのは、平和によってだけです。平和だけを語り、あらゆる演説と、あらゆる行為に、それを入れねばなりません。体制を確立するのは、それだけです。王家の周囲の人々が抱く、あらゆる軍事的な夢想は、いくら強く退けても足りません。この人々は、それだけを望み、それだけしか知りません。決して耳を傾けないことが、私たちの利益です。好意的に接しても、力を与えてはなりません。私たち自身を、確立しましょう。国王と王家には、フランスに愛されるだけのものがあり、国は彼らを必要としています。平和があれば、幸福をもたらすのは彼らです。戦争があれば、国の虚栄心を喜ばせようとする軍人たちです。そして、その虚栄心は、一時しか続きません。国王は、基盤を築くのです。その唯一の手段は、平和です。
さようなら……。」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三一年九月十七日。
……パレ=ロワイヤルでは、パリから試みたことが、すべて、何もかも、成功しなかったことを、思い出すべきです。自分たちの要求さえ、撤回せざるを得ませんでした。こちらでは、私が行ったどのことについても、そのようなことは一度もありません。これはすべて、政務に不慣れな人々には、許さねばならない、何かをしたいという気持ちによるものです。要塞についても、結局はこちらへ戻らざるを得ません。私が三か月前から書いてきたように、こちらでは、すべてできていたのです。事情も今と違っていたわけではありません。役に立たない行動は、害になります。オランダ国王の軍備縮小は、実現するでしょう。しかし、条約を結ばねばなりません。それは十月中に結ばれます。休戦が破られると思わないでください。オランダ側からは起こらないと、はっきり断言します。列強はそれを望まず、国王には、その点で警告してあります。確かなこととお考えください。私たちは条約を結びます。そして、オランダ国王が署名できるようなものに、しなければなりません。国王自身の署名がなければ、ベルギー問題は宙に浮いたままです。これが原則です。五大国が権限を握る時には、原則の内にとどまらなければなりません。オランダは、一七九〇年の姿に、ルクセンブルクの一部を加えたものになります。新しいことをすれば、もっとよい形にできるかもしれません。しかし、策謀と要求の海へ入ることになります。ここに書いたのは、あなたが話をする際に使うためだけです[283]。
さようなら……。」
ルイ=フィリップ国王からタレーラン公へ
「ヌイイ、一八三一年九月十五日。
親愛なる公爵殿、数日前、外交報告を読むために渡す際、セバスティアニ将軍は、あなたの手紙も、きちんと渡してくれました。しかし、その手紙は、私の机を、あまりにもよく埋めている、読むべき、署名すべき書類の山に、紛れ込んでしまいました。読むのを楽しみにし、いつも非常に重視しているあなたのご意見を、早く知りたかったのに、見つけ出せたのは昨日のことでした。そこで、直ちにお礼を申し上げます。事態の様子は、すでに変わりました。あなたの言うとおり、私たちは、この大きなベルギー問題の、最も扱いの難しい局面に来ています。先遣隊としてわが軍をベルギーに残すにせよ、完全に撤退させるにせよ、どちらの方向でも、すべてを危うくせざるを得ないためです。あなたが正しく述べているように、これほど慎重さを要する問題は、かつてありませんでした。九月三十日にベルギーから撤退すると決めるためには、八月四日、その場で軍をベルギーへ入れる決定以上の、誠実さと決断力が必要だったとさえ、言ってよいかもしれません。さらに奇妙で、しかも同じくらい真実なのは、同じ理由と目的が、この二つの措置を決めたということです。私たちの時代の、思い上がった浅薄さは、この二つを矛盾として描こうとするかもしれません。最初の措置は、広く賛同を得て、成功によって、その正しさが確かめられました。二つ目も、最初は同じだけ支持されなくても、オランダ側が敵対行為を再開する場合も、しない場合も、その結果によって、初めには得られなかったかもしれない、全員の賛同を、結局は得られると信じています。
……そして認められるには、
このような企ては、成し遂げられねばならぬ。
ですから、親愛なる公爵殿、このよい結末へ至るため、あなたが十分に与えられる、あらゆる助力を、自らお願いするために、再び書いているのです。
オランダとベルギーの最終条約によって、交渉し、解決すべき主な点は、三つあると思います。債務については、ここでは取り上げません。一月に、私の考えでは、不適切に定められたその基本条件は、十八か条[284]によって、適切かつ公平に修正されたと思うからです。
その三つの点は、次のとおりです。
第一に、公平な対価と引き換えに、ルクセンブルクの地域をベルギーへ帰属させ、ルクセンブルクの要塞と周辺部は、ドイツ連邦に残すことです。
第二に、マーストリヒトはオランダに残し、リエージュ司教の権利については、別の場所でベルギーに補償することです。また、一七九〇年にはなかった、マーストリヒトとオランダをつなぐ、連続した領土を設けることです。
第三に、自国の水路の水門と、海から守る堤防の所有をベルギーへ与え、ベルギーのフランドルを、洪水から守ることです。水門と堤防の領有が、独立の鍵であり、防壁である以上、それがなければ、独立は幻想になります。
第一の点では、もはや重大な難点を恐れる必要は、ないと思います。第三の点が認められれば、第二の点についても、ベルギー国王からの異議はないでしょう。ただ、国王は、第三の点が認められると確信するまで、第二の点で譲るとは言いたくないという、強い抵抗を示しています。正直に言って、これは理にかなっていると思います。私も、国王と同じく、それを得なければ、ベルギーで持ちこたえられないと考えるからです。
マーストリヒトの要塞の領有が、ベルギーにとって大きな障害、それどころか大きな危険であることは、確かです。しかし、この方面は、条約によって有効に守れます。国境をきちんと定め、マース川を上下するベルギーの船が、要塞のところを確実に通過できるようにすれば、うまく取り決められると思います。一方、フランドル方面でベルギーの安全と独立を得るには、国境を流れのない水路まで進め、現在の領土を洪水の危険から守れる唯一のもの、水門と堤防の所有を、ベルギーへ与える以外、道はありません。赤と黄色の線の地図は、この目的を果たすため、厳密に何が必要かを定め、その譲渡が、オランダから攻撃手段だけを奪い、防御手段には実際の損害を与えないことを、示すためのものでした。オランダが失うのは、確かに要塞化されているものの、小さな都市四つ、いくつかの村、六千人に満たない住民、そして、絶えず熱病に悩まされる土地、十二・五平方リューだけです。ワルヘレンの記憶は、イギリスでそのことをよく示すはずです[285]。
親愛なる公爵殿、この構想への最初の反論が、一七九〇年にオランダはその領土を所有していた、ということなのは、知っています。しかし、当時、ベルギーのフランドルは、あの大きなオーストリア君主国の一部だったことも、公平に考える必要があります。その国の政策は、常にオランダの政策と結びついており、オランダはその支援の中に、自国には欠かせない、貴重な保護を見いだしていました。また、オーストリアはその一方で、スヘルデ川の閉鎖に同意し、アントウェルペン、ヘント、ブルッヘが、アムステルダムとロッテルダムの利益のために衰えるのを許すことで、ベルギーの商業と富を、オランダの商業と富のために犠牲にしていたことも、忘れてはなりません。
そのような状態が、もはや存在せず、存在することもできない以上、そこから生じた相互関係も、続けることはできません。独立し、中立となったベルギーは、オーストリアの一つ、あるいはいくつかの州だった時と、同じ条件や制限のもとで、存続することはできないのです。
親愛なる公爵殿、私たちが、ゼーラントのフランドル十二平方リューを、ベルギーへ譲るよう求める理由を、納得していただくため、これらの考えを、思い浮かぶままにお伝えしたいと思いました。それは、オランダへの憎しみからではありません。その感情は、私には、まったくありません。私は、誰にも劣らず、オランダの存続を望んでいます。また、ベルギーへのひいきからでもありません。ただ、両国の分離を、実行できる唯一の基盤、すなわち利益の分離と、互いの独立の上に置き、それによって、両国の衝突の原因をすべてなくすためです。この基盤のない、よい最終条約は、考えられません。だからこそ、これを採用したもの以外、認めたくないのです。しかし、紙の終わりが、私も終えるべきだと知らせています。あなたがご存じの、私の友情を、心から改めてお伝えします。
追伸。親愛なる公爵殿、商業上の観点から見ても、この十二平方リューの譲渡は、今やオランダに実質的な害を与えないことを、見落とさないでください。オランダは、スヘルデ川を閉ざす権利を、必然的に失っており、この大きな出口の開放によって、アントウェルペンには、失っていた商業が戻るからです。また、ベルギーのフランドルが、数年にわたる荒廃と破壊の中へ落とされた状態も、忘れないでください。何の正当な理由もない、この浸水[286]と、同じく何の正当な理由もない、オランダ軍のベルギー侵攻による費用や、その他の災いに対し、補償を求めるのは、公平なことです。一か月前に予告すべきところを、三日前の通知で、会議の保障を軽んじて休戦を破ったことに、何の償いもないのは、それ自体、公平でも、列強の威厳にかなうことでもないと思います。確かに、オランダの将来の存続を危うくする要求は、すべきではありません。しかし、ベルギーの存続も、危うくしてはなりません。私たちが提案し、あなたに支持をお願いする取り決めによって、この均衡は両立できるだけでなく、それが、ほぼ唯一の実現手段だと、確信しています。」
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年九月十九日、月曜日。
親愛なる公爵殿、このところ、手紙と私の筆跡で、あなたをあまりに煩わせていたため、しばらく休んでいただこうと思っていました。とりわけ、お忙しく、書くこともたくさんあると、知っていたからです。しかし今日は、こちらの知らせを伝え、起きていることをお話しすれば、喜んでいただけると確信しています。そちらには、きっと大げさに伝わっているでしょう。不幸にも、土曜の晩から、暴動が再び始まりました[287]。こちらにはポーランド人への非常に強い共感があるため、あらゆる党派の扇動者たちは、ポーランド人の敗北とワルシャワ陥落という悲しい知らせに、好機を見いだせると期待しました。そこで、自分たちの猟犬の群れを放ったのです。実際、それにすぎません。どれほど努力しても、住民は少しも加わっていません。好奇心から集まる人、野次馬、そして、無政府状態と混乱をあおる、小さな扇動者の集団がたくさんあります。シャルル十世派、ボナパルト派、自称共和派は、この点で完全に一致しています。言うことは同じで、唯一の目的がルイ=フィリップを倒すことなのは、確かです。幸い、共鳴は得られていません。住民も、国も、それを望んでいません。群衆の中には、せいぜい百人ほどの男、子供、みすぼらしい者たちが、『ポーランド万歳、閣僚を倒せ』と叫ぶのが、見えるだけです。
昨夜、多くが逮捕されました。その中には、以前の暴動にも登場した、『人民の友』の指導者二人もいます。今、この界隈は、たいへん静かです。群衆と扇動者たちは、代議院へ向かいました。議会を脅すため、そこで暴動が起きると予想されています。しかし私は、むしろ多数派に逆の効果を生むと期待しています。首相と外務大臣が行う予定の説明や演説とともに、議会の健全な部分に、団結し、国王の政府と内閣を力強く、率直に支える必要を、感じさせるでしょう。すべてを覆すことを望む、これらの党派を抑えるためです。最近の騒乱には、シャルル十世派が大いに関わっています。金を払われた者たちであり、暴動が、外国人、亡命者、犯罪歴のある者たちから成ることは、明らかです。」
「一八三一年九月二十日、火曜日。[訳注5]
昨日終えられなかった手紙を、再開します。私が予想したことは、幸い、昨日の議会で確かめられました。すばらしい審議でした。セバスティアニ将軍の演説は、完璧でした。モーガン氏の攻撃と不合理な非難に、見事に答え、完全に打ち負かしました。将軍は、首相、バルト氏[288]とともに、大成功を収めました。内閣は勝利し、議会はこの審議で、非常によい態度を示しました。一日中、集団と動揺があり、晩には、この暴動がパレ=ロワイヤルの方へ戻ってきて、閣僚を倒せという叫びが上がりました……。国民衛兵と正規軍が散らし、夜はたいへん静かでした。国民衛兵は、たいへん意気が上がり、扇動者たちに憤り、行動して終わらせたいと望み、ただ襲いかかる機会を求めています。この点でも、すべての点でも、正規軍と完全に一致しています。敵対する新聞は、昨夜のことを、今朝、最も虚偽に満ちた形で報じています。新聞同士で、兵士は酔っていたと言っています。しかし、兵士たちは一滴のワインも飲まず、与えられたのは水と酢だけでした。これもすべて、住民をあおろうとするためですが、失敗するでしょう。
今日は、今まで何もありませんでした。しかし、新しい小集団が、また作られています。彼らは、議会が自分たちの手から逃れるのを見て怒り、また多少の混乱を起こそうとするでしょう。勝負に負けつつあると分かり、力を尽くしていますが、措置はきちんと取られていますから、鎮圧されます。議会のよい態度は、大きなことです。スールト元帥は、今日話す予定です。明日か、遅くとも明後日には、この憎らしい叫びから解放されると期待しています。まだ何か起こっても、少なくとも、ごく小さなことだと確信しています。
シャルトル、つまりオルレアン公は、軍とベルギーへの短い旅から、昨日の朝戻りました。ベルギー国王は、公に対して申し分なく接しました。国王の軍は、組織されつつあります。国王は、非常に難しい立場にいるため、それは実に必要なことです。
親愛なる公爵殿、もう一つお伝えします。国王は、あなたに劣らず、オランダとベルギーの最終条約が結ばれることを、待ち望んでいます。それが、平和の保証だからです。国王は、ベルギーがそれなしでは存続できない、ゼーラントのフランドルの一部だけが心配だ、と私に言っています。つい先ほども、三十年以上、自由に行き来していたブルッヘとレクリューズの間、とりわけヘントとサス・ド・ガンの間に、オランダの税関線が置かれたらどうなるか、あなたに気づかせてほしいと、言っていました。しかし、こうも付け加えました。『わが大使には、他の誰にも、あるいはできないことを、会議から得てくれると期待していると伝えてほしい。すなわち、ベルギーのレオポルドが平和の保証であり、したがって、オランダ国王による十二平方リューの譲渡が、条約の不可欠の条件になると、十分に認めることである。それなしには、レオポルドは持ちこたえられないと、理性は教え、本人も確信しているのだから。』
ですから、親愛なる公爵殿、あれほど説得力をお持ちなのですから、雄弁を発揮してください。成功すれば、国王、フランス、ヨーロッパに、おそらく、これまでなされた中で最大の奉仕を、したことになるでしょう。
ベルギー国王は、マーストリヒトとマース川右岸についても、同じ不安を抱いています。それは諦めねばならないと、言われています。しかし、もう一方の地域も得られなければ、おそらく倒れ、持ちこたえられなくなるでしょう。もしそうなれば、身震いせねばなりません。その時には、戦争を避けられないのではないでしょうか。あなたがどうお考えか、ぜひ知りたいと思います。
さようなら……。」
このような手紙を読んだ後、会議での私の立場がどのようなものだったか、なお繰り返す必要があるだろうか。会議の代表たちも、パリで起きていることを、私と同じくらいよく知っていた。日ごとに転覆の危険にさらされる政府を代表しながら、私はなお、譲歩を得るため、要求を強く示し、すでに領土の大半を失ったネーデルラント国王から、新たな領土をもぎ取らねばならなかった。それが直ちにできないと、パリでは驚き、ロンドンに代表を送る政府はフランスを疑っている、私はその政府にだまされている、と責めた。しかし、先へ進もう。
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三一年九月二十三日。
この数日、手紙を書かなかったのは、ロンドンの町も、すべての新聞も、パリで起きた、きわめて恐ろしいことの話で、埋まっていたからです。今日、届く手紙によれば、少し落ち着いたようなので、書いています。今日の急使で、十九日に署名された議定書[289]を送ります。私の考えでは、ここ数日の弱々しさによって失った立場へ、フランス政府を戻すものです。この議定書が開いた道は、救いの道です。国王がその価値を十分に理解されることを望み、そうなさると思います。これは原則の議定書で、私たちが行ったことと矛盾せず、私たちを導いたのが秩序と平和であったことを、確立します。さらに、私たちは既存のすべての条約とも、一致しています。ベルギー人にも権利はありますが、他者の権利を侵すことはできません。
七月の出来事以来、ロンドンにこれほどの不安が生じたことは、ありませんでした。この三日間、あらゆる階層で不安があり、まだ完全には終わっていません。さようなら。私は疲れています。原則に沿って進むことでこそ、強く、名誉ある立場を得られると、王女様によくお伝えください。そうしなければ、あらゆる種類の陰謀家に囲まれます。今日の議定書は、ベルギーに関するすべての問題で、国王を楽な立場にすると思います。いつでも、『私ではない、会議である』と言えます。何も言わないほうが、さらによいでしょう。王女様に会うため、時間を無駄にしないでください。」
タレーラン公からカジミール・ペリエ氏へ
「ロンドン、一八三一年九月二十四日。
あなたは、ヨーロッパ全体が感謝する勝利を、収められました[290]。フランス人として、共通の祖国の名において、お礼を申し上げます。祖国が、輝きと名誉を取り戻して再び現れるのは、あなたのおかげとなるでしょう。こちらでは、あなたが適切に述べられた軍備縮小へ、つながると思うことをしています。もし実現すれば、主に、あなたがよい形で終えた、あの苦しい一週間のおかげとなるでしょう。
過ぎ去った不安と、今の満足については、ご子息からお話しするようにします。イギリスの良識ある人々は皆、そして、こちらには大勢いますが、私たちの心配を共有していました。
さようなら。あなたとフランスのため、願うのは、ただ健康です……。」
タレーラン公からオルレアン家のアデライード王女へ
「ロンドン、一八三一年九月二十四日。
王女様のおっしゃるとおりです。私は、セバスティアニの友情を、十分に信じています。二十二日の審議がよい結果になったことを、腕木通信で知らせてくれたのは、その新たな証拠です。この審議は、私たちの問題にとって非常に重要であり、私は、結果を待つ不安のため、昨日、熱を出しました。あえて申し上げますが、このような事情で熱が出たのは、初めてではありません。私の年齢では、神経が容易に揺さぶられます。しかし、国王の利益への献身を、この悲しい形で、もう示さずに済むことを、願っています。その利益は、代議院で、高貴に、巧みに守られました。その反響は、こちらでもよいものであり、私はできる限り、それを役立てました。
今取り組んでいる条約では、誰もが、誠意をもって取り組んでいるように見えます。皆、よい仕事をしたいと望んでいます。私たちは、双方に相手の提案を伝えました。二十六日、月曜日には、それぞれの意見を提出するでしょう。その後の議論で、国王がご親切に与えてくださった論拠を、私は用います。皆に公正かつ公平であり、決着をつけようとする意向があります。
昨日、リスボンから届いた知らせで、ドン・ミゲルの新たな残虐行為を知りました。これは、昨日、たいへんうれしく再会したパルメラ氏[291]の努力を、助けるでしょう。氏は、数日後にパリへ出発します。
イギリス内閣は、改革だけに取り組んでいます。請願は、あらゆるところから届いています。十月三日に、大きな討論が始まります……。」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三一年九月二十七日。
要塞の問題が、難題を生んでおり、私はたいへん残念に思っています。しかし実際、この問題は、ラトゥール=モブール氏をブリュッセルへ送ったことで、悪くなったのです。この一年、私たちは、他の列強、特にイギリスとの共同行動だけを考えていると、示すよう努めてきました。この点で得ていた信頼は、ラトゥール=モブール氏にブリュッセルで行わせた、別個の仕事によって、すべて壊されました。当時、私がこのことをすべてお知らせしたのを、覚えておられるでしょう。今は、それによって置かれた立場を抜け出し、私たちへの信頼を失わないようにしなければなりません。難しいことです。この問題の最終局面が、私には、まったく不愉快です。この八日間、霧に包まれています。パリから口を挟みに来なければ、おのずと片づいたはずの要塞問題で、すでにひどく具合の悪い私の頭には、よくありません。私は何よりも、策謀とは無縁だと示したかったのです。それが私の力でした。パリでは、このような簡単なやり方を望まず、脇で小さな策謀を行いました。そのため、今、他の国々は、私たちへの備えを取るようになりました。このすべてに、死ぬほどうんざりしています。
さようなら……。」
次の手紙は、セバスティアニ将軍の友人で、パレ=ロワイヤルで意見を大いに重んじられていた助言者の一人からのものである。氏は、三か月しか滞在しなかったベルリンの公使の地位を保つより、ロンドンで私の後を継ぐことを、一層望んでいた。この手紙は、住む場所の変化が、ある種の人々の考えに及ぼす影響を、かなり興味深く示している。
フラオー伯爵からタレーラン公へ
「ベルリン、一八三一年九月二十五日。
ご親切にお送りくださった第四十一号議定書を、昨日受け取りました。そのご親切がなければ、何が行われているか、私は何も知らないでしょう。外務省は、ベルリンにいる自国の公使に、何の情報も与えないからです。議定書の文面はすばらしく、スールト元帥の演説[292]によって置かれた、滑稽で、難しい立場を、修復すると思います。元帥の言葉に従って行動するには、最も明確で、最も正式な約束を、破らねばならなかったでしょう。
国王からいただいた休暇を使うため、今夜ベルリンを発つつもりです。この三週間、まったく体調がよくありません。また、自分の用事のため、パリへ行く必要もあります。そこで、あなたに会えるでしょうか。十日に仕事が終われば、とりわけあなたには、休む権利があると思います。私たちの救いは、平和にしかないというお言葉は、まったく正しいものです。戦争は、私たちを、外国人か、わが国の騒ぎを起こす者たちに、引き渡します。ポーランド人は、この後者に心から仕えており、私は、彼らから気持ちが離れ始めています。このような行動で、彼らは最良の友人たちを失うでしょう。今日では、彼らへの好意さえ、私たちの罪にしています。その間、彼らの軍は、抵抗すれば、もっとよい条件を得られると期待しています。しかし、少しずつ兵士が連隊を離れ、家に帰っているため、事情をさらに悪くするだけだと思います。パスキヴィチ[293]の好意的な意向を利用するほうが、よかったでしょう。勇気が、この戦いを好む国民の持ち味だとしても、理性によって優れているとは、言えません。
ロマリノは一万人を率いてガリツィアへ入り、モドリンの軍は、プロイセンへ逃れようとする様子だと言われています[294]。あなたもご存じでしょう……。」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三一年九月三十日。
今日、三十日の『タイムズ』をお読みください。フランスの新聞は、悪意があっても、なくても、内容をゆがめるでしょうから、原文で読む必要があります。ロンドンデリー卿[295]は、私が会議とイギリス内閣に及ぼす影響力について、私を攻撃しました。しかも、巧みさ、抜け目のなさといった、むしろ悪意のある形容を使ってのことでした。ウェリントン公は立ち上がり、私への攻撃を、力強く退けました。特に、私がフランスの利益を毅然と守っている一方で、私の性格の誠実さと率直さを、誰も一度として非難できなかったことを、強調しました。(これで、あなたに愛情を寄せるこの男が、たいへん率直で誠実だと、お分かりでしょう。)ホランド卿は、ウェリントン公の後で発言し、同じ趣旨を、たいへん力強く述べました。こうして、すべての党派が、私には非常にうれしい形で、一致したのです[296]。[訳注6]
私が身を削って尽くしているパリでは、誰も、同じだけのことをしようとは考えません。あなたが、優しい言葉を少し書いてくだされば、すべての借りを返したと思っています。そして、私は、それでよいのだろうと思う気にもなります。改革法案の行方は、まだ不確かです。しかし、法案が採択されても、否決されても、内閣が存続することは、確かです。今、私たちは毎日、五〜六時間の会議をしています。決着を望み、決着をつけます。すべての新聞や、セル氏とその仲間たちが何と言おうと、オランダ国王は攻撃しません。休戦を数日延ばす必要があっても、国王は応じると思います。私たちに任せてくれれば、十分によい結末にできます。
さようなら……。」
カジミール・ペリエ氏からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年十月一日。
公爵殿、ご親切にお送りくださった二通のお手紙を受け取りました。直接あなたの消息を得るのが、私にはどれほどうれしいか、ご存じでしょう。
先週の出来事について、ご親切な言葉をいただき、たいへん感謝しています。この時、私がしたのは、いくらか危険を伴ったかもしれませんが、混乱の深刻さと、国外の出来事を口実にした、非難されるべき計画を、打ち破る必要から求められたことだけです。
今回も、秩序を回復し、議会での悲しい議論にも影響を及ぼした害悪を、乗り越えることができました。私たちは、フランスを、ひいてはヨーロッパの文明を、その害悪の脅威から救い出すため、献身による、いかなる努力も惜しみません。公爵殿、あなたがそちらで、あれほど高貴に努めておられるのと同じく、私も、国政の先頭に立っていられる限り、自分にあるすべての力を使います。党派の攻撃で、これほど揺さぶられ、一般に、善良な人々からも、あまり勇敢には守られていない社会秩序を、据え直すという、非常に難しい仕事のためにです。
公爵殿、第四十四号議定書を添えた、最新の外交報告を拝受しました。会議は、ベルギー問題を終わらせる必要を感じ、自ら主導することに決めました。両国間の最終条約の草案を、作成すると決めたのです[297]。この措置が時宜にかなっていることは、認めざるを得ません。
確かに、私たちも同じく、この問題がようやく解決し、激情がそこに探す口実を取り除くことを、待ち望んでいます。しかし、何よりも、公爵殿、セバスティアニ将軍が、さまざまな外交報告で示した基本条件を、条約草案で認めることを、重視しています。その結果を、より完全に、より確実に得るため、十月十日の期限が近すぎるなら、十五日間、延ばせるよう望むべきでしょう。
今の私たちの立場では、ベルギー問題の解決が、政府の考えと必要の両方を満たすことが、極めて重要です。その解決には、ある程度、私たちが政権にとどまれるか、という問題も含まれています。
そのためには、公爵殿、両国の分離によって、双方から、衝突の理由も口実も取り除かねばなりません。それぞれが、必要な独立と、自国の位置に伴う利点を、平和のうちに享受できるようにする必要があります。一言で言えば、フランスが、その採用を実効的に求められる条件が必要なのです。あなたの深いご見識なら、これらの必要を、十分に理解しておられるに違いありません。
ナッサウ家の公子を、ギリシャの王位に就けるという提案が、政府へ伝えられました。その提案の行方をあらかじめ決めることはせず、オランダに関する調整を、さらに容易にする可能性として、考えられるでしょう。この観点からなら、政府は耳を傾けることに、やぶさかではありません。
敬具……。」
カジミール・ペリエ氏は、手紙の最後の段落で、ロシアが持ち出した考えに触れている。ネーデルラント国王がとりわけ好む次男、フレデリック公子に、ギリシャの王位を与えることで、国王に埋め合わせをするという案だった。しかし、国王自身が、この提案を退け、その後、進展はなかった。
ダルベルク公からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年十月三日。
親愛なる公爵殿、先月二十九日付のお手紙に、私は本当に慰められました。あまり長くお便りがなかったので、理由がわからずにおりました。お仕事がお忙しくても、ご健康や暮らしのご様子を知らせてくださる時間は、きっと見つけていただけると、ずっと期待していたのです。私ほど心からあなたの幸福を願っている者はいないことを、どうか疑わないでください。
公平な仲裁によってオランダ問題が決着するのであれば、ヨーロッパ、とりわけフランスのために喜びます。戦争が起こるかどうかが決まらないうちは、信頼を取り戻せるなどと思ってはいけません。戦争が何をもたらすかについて、誰も幻想は抱いていません。各地に大きな変動が起こるでしょうが、それが自国に有利になるとフランスが期待するのは、誤りです。イタリアやドイツの知人たちは皆、民衆は七月革命に喝采を送ったものの、こちらで犯されている過ちが何をもたらすかを見て、判断していると、私に伝えてきます。
ドイツで高い地位にある友人から、こんな手紙が来ました。『あなたがたのフランスとパリには、本当にうんざりし始めています。気をつけることです。ある日、われわれとの全面戦争になれば、あなたがたも、先日のオランダとの戦闘でベルギーが味わった運命に、あっさり陥るかもしれません。いつでも、どこでも、フランス軍が勝ち続けると、天に定められているわけではありません。ルイ十四世やナポレオンの晩年を思い出してください。いわゆる諸国民の共感は、ますます失われています。あなたがたの暴動、陰謀、一貫性のなさ、党派の侮辱的なおしゃべりには、もう疲れました』。
ケルンから戻った旅行者たちも、同じ見方を裏づけています。ケルンでプロイセン軍は、馬をつけた大砲二百門を集めています。そこにいる軍の一部を指揮するノスティッツ伯爵[298]は、名を明かせないある人に、こう語ったそうです。『われわれはフランスに対して、われわれの条約を守ります。フランス国内で何をしようと勝手ですが、隣国の情勢を乱すのはやめてもらいたい。わが軍は戦争を望んでおり、二十万の兵で出征できます。わが軍の組織と兵力が、勝利を保証しています。メッテルニヒ公は、われわれに協力すると約束しました。オーストリア軍とドイツ諸国の派遣軍は、ライン川に同数の兵を集め、イタリアにもピエモンテ軍と合わせて同数を置くでしょう。フランス国王がジャコバン主義の王でしかないのなら、舞台はヨーロッパ以外に探してもらいたい。われわれは自分たちを守ります』。
ミュンヘンでは、国王はすっかりヴレーデ公に身を任せています。六万のバイエルン兵が、ウィーン政府の意のままに動きます。プフェッフェル[299]は、こちらの外務省で聞かされる数々のくだらない話に対して、六か月ものあいだ、一言の返事も受け取っていません。ミュンヘンにはモルティエ氏[300]という人がいますが、尊大でぶっきらぼうなため、国王にも誰にも嫌われ、皆に背を向けられています。リュミニー[301]は噂好きでしたが、人を煩わせることはなかったので、あちらではその不在を惜しんでいます。
ルイ・ド・ロアンがウィーンに戻りました。あちらではフランスに関することには何にでも激怒しており、最も強力な防衛の準備ができていると言っています。スイスの一つの州を率いる私の友人は、九月二十日付で、こう書いてきました。
『われわれを揺さぶる騒動は、すべてあなたがたの政治クラブから始まっています。この夏、スイスを旅したモーガンは、人々をあおりました。パリへ行ったわれわれの指導者の何人かは、ラ・ファイエットやラマルクに励まされたと吹聴し、こちらの扇動家たちを駆り立てています。すべて嫌悪すべきことで、あなたがたに大きな災いを用意するでしょう。ヨーロッパは、このような状態では存続できません』。
ポーランドについては、親愛なる公爵殿、私がお伝えできるよりも詳しい情報を、お持ちのはずです。それでも、私の考えと知っていることをお話しします。ポーランド革命のすべては軍にあり、戦争のすべてはヴィスワ川にありました。各国政府は、ワルシャワで運動を起こすためにパリを出発した、二十七人の名を知っています。初期の成功は、装備がすべて整い、出征の準備もでき、二千万から三千万もの資金を蓄えた、優秀なポーランド軍によるものでした。立派な名を持つ人々まで巻き込まれ、こちらからの援助を信じていました。援助は約束されていたのです!!! ディービッチ元帥は、兵力の揃わないまま攻撃しました。冬はポーランド軍の味方でした。しかし、ロシア軍が集結してヴィスワ川を渡ると、勝利はいつものとおり、大軍のほうに決しました。ポーランド軍は打ちのめされ、ワルシャワは降伏しました。ニコライ皇帝が存続を認めまいとしているポーランド軍は退却し、交渉をしましたが、ペテルブルクからの返答を待つあいだに、ほとんど解体してしまいました。もはや武器を取っている兵は、一万人もいません。一日に六百人もの将校が服従しました。離反は全面的です。この革命は暗殺と犯罪で始まり、同じように終わりました。
ロシア政府は、おそらく次の方針を取るでしょう。他国政府の介入は、一切認めない。ポーランド王国の境界と名は残すものの、ポーランドの議会も軍も、もはや存続を認めない。私の考えでは、それは正しいことです。今、賢明な政策とは、強い権力を築き、それを維持することに尽きます。パレ=ロワイヤルは、政治社会を結ぶあらゆる絆を大きく揺るがしたので、もう真剣に目を向けなければならない時です。私は、わが政府に、この真実を深く理解するよう勧めています。オランダに有利なあらゆる措置を、私が支持するのも、同じ必要を感じるからです。さらに、歴史的事実に基づく見解を、一つお聞きください。強力で海軍を持つ国家としてのオランダは、おしゃべりで落ち着きがなく、今後も長くそうあり続けるベルギーより、フランスにとってはるかに重要です。数日前、私はこの見解をカジミール・ペリエ氏に伝えました。ベルギー革命へのこの気遣いは、私には不合理に思えます。オランダに返すものは、どれも正当なものとなるでしょう。少なくとも、これが私の考えです。
親愛なる公爵殿、ここまで書いたところへ、ロンドンデリー卿の愚行を伝えるイギリスの新聞が届きました。あの人は昔のままですが、この議会討論が、あなたのお立場にとって、これ以上ないほど名誉ある結果となったことをお祝いし、あなたのために喜んでいます。
親愛なる公爵殿、オランダ問題を終わらせるよう努めてください。オランダ国王が金銭に代えて領土を求めるのであれば、与えるべきです。ルクセンブルクには二十四万人の住民がいます。要塞とその周囲は残りますから、これが四万人ほどに当たるでしょう。ならば、残る二十万人に相当する分を、フェンローとマーストリヒトの周囲で与えればよいのです。ベルギーに村がいくつか多いか少ないかなど、どれほどの重要性があるでしょう。大切なのは、平和を守ることです。一昨日、この件について、セバスティアニ氏、プロイセン公使ヴェルテル[302]、ポッツォのあいだで、かなり激しい議論がありました。その場にいた人から聞きました。セバスティアニ氏は仲裁の結果に反対し、議会で擁護できないと主張しました。そればかりか、それに同意するくらいなら、フランスは代表団に与えた権限を取り消し、会議が終わっても惜しまないと言ったのです。ヴェルテル氏は反論しました。ポッツォはほとんど何も言いませんでしたが、部屋を出るとき、ヴェルテルにこう言いました。『なぜ、あの人と議論したのですか。仕事はあの人と進めるのではないことを、ご存じでしょう』。ですから、公爵殿、ペリエ氏があなたを困らせたままにしておくことはないと、私は思います。あなたがまさしくおっしゃるとおり、決着をつけなければなりません。いずれ、あなたがフランスに尽くされた大きな功績が、認められるでしょう。
わが国の両院については、お話ししません。代議院は愚かで、政府と国王は貴族院を見捨てました。日々犯される数々の筋の通らない行いのなかでも、これは最大級のものです。
敬具……」
私はダルベルク氏のこの手紙の内容を、すべて完全に正しいものとして受け取ったわけではない。しかし、真実が多く含まれていたことは、認めなければならない。
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三一年十月三日。
パリでは今、ベルギー問題を、まったく誤って受け止めていると思います。どこかから領土を取って、ベルギーを作ろうとしています。それは簡単です。誰でもできます。しかし、問題はそこではありません。オランダとベルギーの相互の位置を、一七九〇年当時の状態に戻すことなのです。それ以前、オランダはベルギーを水浸しにはしませんでした。そのような混乱を防ぐ、一七八五年の条約があったからです[303]。その条約は更新できますし、近くにあるフランスは、遠く離れていたオーストリアよりも、オランダにずっと大きな影響を及ぼせます。実のところ、パリが持ち出す難題は、どれもセル氏の頭と策謀から生まれた、取るに足りないものです。子供でも、すべて解決できます。それにしても、ベルギーへ戻ることができず、事態の収拾を恐れているセル氏のような悪党に、騙されるとは奇妙なことです。ベルギー問題は、平和か戦争かを左右する問題です。よい形で終えることができます。私がよいというのは、ベルギーに有利でありながら、オランダ国王を、同意できない立場に追い込まないことです。なぜ、誰かから奪わなければならないのでしょう。それが公正な条約でしょうか。こちらでは、フランスが望むことに同意しません。わざわざ厄介事を探しているとしか思えません。策を弄する連中に引きずられて、今の愚かな考えに留まるなら、私の理性には災いしか見えません。
さようなら。ただ腹を立てているだけならよいのですが、それ以上なのです。悲しいのです……」
「ロンドン、一八三一年十月四日。
改革法案の最初の討論は、昨日、貴族院で行われました。今日も続き、明日まで終わらないかもしれません。相変わらず見通しは不確かです。ただ、昨夜、何人かの主教が政府に歩み寄ったと見られています。議場の内にも周囲にも、驚くほどの人がいました。私はこれから会議へ行きます。パリが架空のベルギーを作ろうとしないのであれば、われわれは、もう決着の間近にいます。望むなら、現実のベルギーを持つことができるのです。水没を防ぐための規定を設け、水門にはベルギーとオランダ双方の監督官を置きます。そうすれば、その点での危険はなくなります。ベルギーは、製品や商品をドイツへ送り出すため、さらに二本の交通路を得ます。人口も五万人増え、フランスは、ラトゥール=モブール氏が指定した要塞の取り壊しを見ることになります。そのために、ゴブレ将軍[304]がこちらへ来ています。これだけあれば、満足するに足りると思います。ともかく、終わらせましょう。そして、平和のうちに新しい力を求めましょう。政府が、あらゆる種類の支えと力を見いだすのは、そこなのです……」
レオポルド国王からタレーラン公へ
「ブリュッセル、一八三一年十月四日。
親愛なる公爵殿、
あなたへの手紙をシュトックマー男爵[305]に託しましたが、男爵は病気でしたので、まだお渡しできていないかもしれません。
こちらでは、ハーグからの使者を待っています。時が迫るため、私は、戦争が確実であるかのように、軍の手配をしなければなりませんでした。しかし、ほかに何ができましょう。最後の瞬間まで待つわけにはいきません。会議に、毅然とした措置を取るよう働きかけてください。オランダ国王が、利益を得るために問題を紛糾させようとしていることは、明らかです。それでも、この戦争が起こらないことが、誰にとっても望ましいのです。私の気持ちは、ご存じのとおりですから、信頼してください。私は平和の維持に貢献してきたと自負でき、今後もそうし続けます。フランスとイギリスの良好な関係を保つことが、常に私の目的でした。これまでは成功しています。あなたの側からも支えてください。そこにこそ、ヨーロッパ全体を救う真の道があると考えています。ただ、今の危機のなかでは、会議が毅然とした態度を示さなければなりません。そうしなければ、事態は大きく混乱するでしょう。
ディノ夫人によろしくお伝えください。私にも、いくらかのご好意を持ち続けてくださいますように。敬意をこめて。
レオポルド」
ダルベルク公からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年十月四日。
親愛なる公爵殿、
モルトマール氏が、ペテルブルクから戻りました。出発の際、ニコライ皇帝から非常に厚く遇されたという噂が流れています。信じてはいけません。皇帝は礼儀正しかった。それだけです。また、ポッツォは、もはや主君の信頼を失っていると思ってください。皇帝は彼を召還しようとしました。ネッセルローデは、そうするなら、自分も外務大臣を辞めることに同意していただきたいと皇帝に求めて、彼を支えました。そこで、皇帝は決定を保留したのです。
こちらで同盟諸国との関係に、最大限の慎重さを持たなければ、春には戦争となるでしょう。オランダ問題を終わらせるべきだと、私は考えています。そうしなければ、ハーグはパンドラの箱のままです。
ベルリンでは、戦争に反対しているのは国王だけです。フラオーは、そこで冴えない姿を見せました。
こちらの貴族院の問題は、セモンヴィルが考え出した、テスト氏[306]の案を採用する方向に進んでいます。昨日はそう期待されていました。しかし、確かなことは何もないと思います。」
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年十月七日。
親愛なる公爵殿、思っていたより長く、お便りを差し上げずにおりました。テュイルリーへ移るのに、大変な混乱があったのです。今も、落ち着かず、暮らしの場もろくに整っていません。できるかぎり手を入れている親衛隊長の住居へ移れるまでは、私は文字どおり、野営をしているようなものです。それでも、ほかの用事はすべて後にして、イギリス議会でのあなたの勝利をどれほど喜んでいるか、お伝えし、心から一緒にお祝いしなければなりません。次に必要なのは、ベルギーのよい条約です。オランダ国王が気まぐれを起こしても、この不幸な国を、これまでのように簡単に水没させたり、再び侵入したりできないという、安全と確信を与える条約です。国王が軍備を縮小し、あなたも、お疲れを少しでも癒やせますように。ご健康のことをお手紙で伺い、私は胸を痛めています。私たちには、あなたの健康が、どうしても必要なのです。それでも、前のお手紙でおっしゃっていた発熱は、もう尾を引いていないと願っています。あなたご自身から、そうだと伺うのを、待ちわびています。改革法案の第二読会の結果も、待ち遠しく思っています。
この陰気で忌々しいテュイルリーへ私たちが移ったことは、聞くところでは、たいへんよい印象を与えているそうです。そんな慰めが、私たちには必要です。愛する国王にとって、あの美しく魅力あるパレ=ロワイヤル、私たちが生まれ育ち、心から愛する場所を離れ、この陰気な宮殿へ来るのは、大きな犠牲だったのです。ここは、この世で最も住みにくい場所で、大規模な改造と工事をしなければ、便利で心地よい暮らしなどできません。でも、辛抱しましょう。目指すものだけを見据え、好ましいかどうかに足を止めず、達成のためには、あらゆる犠牲を払って進まねばなりません。愛する国王は、それを、この上なく快く、見事に、胸を打つほどに実行しています。私は、その報いが十分にあると、いつも信じています。王になってからの日々が、犠牲と我慢の連続でしかないのを見ると、そう信じることが、私には本当に必要なのです。幸い、そのようななかでも、国王の健康は、とてもよく保たれています。国王からは、あなたへ幾重にもご挨拶を伝えるよう託されています。王妃からも同様です。王妃は、パレ=ロワイヤルで離れてきた住まいと、ここで与えられた住まいの差を、途方もなく大きいと感じています。まったく、そのとおりで、よいものから悪いものへの差なのです。シャルトルとヌムールは、日曜の夜、モーブージュへ出発しました。到着について、とてもよい知らせが届いています……」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三一年十月八日。
改革法案は、貴族院で否決されました。反対多数の票差は、四十一票でした。予想より、はるかに多い数です。この数字のために、おそらく、新たな貴族の任命はできなくなるでしょう。皆、宙ぶらりんの気持ちで、国王と政府がどう出るかを考えています。今朝から、閣議が開かれたままです。どのような結果になるかは、わかりません……」
「ロンドン、一八三一年十月十二日。
……会議の決定を認めないと述べたセバスティアニの手紙を掲示するという、ブリュッセルでのあまりに軽率な行動について、私は毎日、弁明を受け取っています。こちらで非常に悪い印象を与えたので、その行動を撤回し、現地の事情から、無分別な行動を防ぐために、あのような発表が必要だったと説明せざるを得なくなったのです。これでは、政府の進め方が尊重されるようにはなりません。何につけても、急ぎすぎるのです。イギリスは、そうしたやり方を評価しません。ナポレオン皇帝は、行動の人でしたが、私が実行を遅らせると、いつも感謝していました。急いで決めた方針を、取りやめる時間ができたからです。私は最後まで、自分の考え方を守ります。平和のために、できることをすべてしたい。それが私の使命です。そのために不可欠なことは、誰を傷つけ、誰を傷つけないかを顧みず、すべて実行します……」
タレーラン公からボーフルモン公妃へ
「ロンドン、一八三一年十月十三日。
……昨夜、ロンドンで、少し騒ぎがありました。ウェリントン公、ブリストル卿[307]、ロンドンデリー侯爵の屋敷の窓ガラスが割られました。今日は、すべて静かです。地方でも、多少の騒動はありましたが、数は多くありませんでした。内閣が存続するという確信が、これらの騒ぎを終わらせるだろうと思います。それでも、難しい時期であることに変わりはなく、眺めていてつらいものです。とりわけ、民衆が政治運動を自分たちのものにすると、どういうことになるかを知る人には、そうでしょう。
こちらでは毎日、会議があります。ベルギー問題は、会議の側では、八日以内に片づくと思います。しかし、その後には、オランダとベルギーの両国王の同意と、ヨーロッパの主要国政府の批准が必要です……」
タレーラン公からオルレアン家のアデライード王女へ
「ロンドン、一八三一年十月二十二日。
ようやく終わりに近づき、この難しいベルギー問題が決着するものと願っています。それが確かになった日は、私の生涯で最も美しい日となるでしょう。どの点から見ても、国王と王女様にかなう仕事に、力を尽くせたことになるからです。フランスでは、すべてがより容易になるように思えます。悪意ある人々から、攻撃のための大きな手段を奪い、平和の恵みは、あらゆる利害を王座の周囲に結びつけるはずです。私はとても幸せです。王女様が、偉大で、心安らかでいらっしゃる姿が目に浮かびます。
今こそ、活発な人々の関心を、国内の改善へ向けなければなりません。平和によって、恐れずに取り組めるようになったのです。国王がまず手をつけるべきなのは、行政の地方分権であると思います。皆に、何かすることを与える必要があります。
イギリス国王が演説[308]で示したように、会議がどれほど有益だったか、また、その仕事が、神聖同盟から生まれたあらゆるものと、どれほど異なるかを示せるのは、大きな強みです。このことについてなら、私は何巻も書けるでしょうが、王女様は、私よりずっとよくご存じです。
どうか王女様には……」
この手紙が述べるとおり、会議は、オランダとベルギーのあいだで、ほぼ一年にわたり、苦労して続けてきた調停を進めていた。事件の推移によって前提が変わったため、以前の決定の一部を、必然的に改めなければならなかった。その理由は、十月十五日の議定書で説明された。ここでは、その一部を引用するに留める。
「即時の解決が、ヨーロッパにとって必要となった問題を、これ以上、不確かなままにしておくことはできず、全面戦争という、計り知れない災いを招かぬためにも、解決を迫られている。また、争点のすべてについて、ベルギー全権代表とネーデルラントの全権代表たちから、情報を得ている。したがって、下名たちは、各自の宮廷が、自国と他国に対して果たすべき義務に従ったにすぎない。オランダとベルギーのあいだの直接和解を試みるあらゆる努力も、その義務を、いまだ果たさせるには至らなかったのである。下名たちは、ヨーロッパの最重要の利益という、最高の法を尊重し、ますます強まる必要に応じて、最終的な取り決めの条件を定めたにすぎない。平和を望み、その継続を要求する権利を持つヨーロッパは、この一年、当事者の提案、あるいは一方が順に受け入れ、他方が拒んだ提案のなかに、その取り決めを求めてきたが、無駄であった……。
……五か国の宮廷は、オランダ(およびベルギー)が、たとえ当初は拒否しても、これらの条項への同意を得る任務を自ら引き受け、約束する。さらに、その実行を保証する。そして、争う余地のない公正の原則に基づくこれらの条項が、ベルギー(およびオランダ)に、要求する権利のあるすべての利益を与えると確信し、持ち得るあらゆる手段によって、戦闘の再開に反対するという、固い決意を、ここに表明するほかない。今となっては目的を失った戦闘は、両国に大きな災いをもたらし、ヨーロッパを全面戦争の危険にさらすであろう。その予防こそ、五大国の第一の義務である。しかし、この決意が、ベルギー(およびオランダ)の将来と、今、大きな不安をもたらしている情勢について、安心を与えるものであればあるほど、五か国の宮廷は、万一、あらゆる予想に反して、ベルギー(オランダ)が拒んだ場合、前記の条項への同意を得るためにも、同じく、持ち得るあらゆる手段を用いることが、許されるのである……」
十月十五日の議定書に続いて、会議は、オランダとベルギーの分離の基礎を、二十四か条にまとめた。そして、それをハーグとブリュッセルへ送り、両政府の同意を求めた。会議のこの措置は、取り消すことのできないものだった。両国間の争いには、今やヨーロッパが裁定を下したのであり、したがって、戦闘の再開も防がれることになった。以下の書簡は、パリでも、ほかのどこでも、この意味で問題が判断されたことを示すだろう。
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ
「ロンドン、一八三一年十月十九日。
親愛なる公爵殿、この長く、複雑きわまりないベルギー問題を、これほど幸福な形で終わらせた、あなたの大きく見事な成功を、心から、喜び勇んで、一緒にお祝いします。愛する国王からも、どれほど喜び、大使に満足しているかを、十分に伝えるよう託されています。国王に代わって私が差し上げられる、最もよいお礼は、これだと思います。これによって、平和が保証されたと考えています。それこそ、すべてです。平和とともに信頼が戻り、その信頼とともに、愛する美しいフランスに繁栄が戻るからです。このよい、大きな知らせは、驚くほどの効果を上げ、皆の喜びを引き起こしています。今こそ、ご自身の成功と、その大きな成果を楽しみながら、お休みになり、ご健康を気遣っていただけると願っています。ベルギー国王の受諾は、少しも疑っていません。あちらは、当然、満足すべきです。
オランダ国王については、会議が国王のためにしてくれたことに、満足するほかないでしょう。正直に申しますと、その点では、私は気を揉んでいません。
イギリス内閣が存続し、それがもたらす当然の信頼によって、すべてが静まり、落ち着いているのも、とてもよいことです[309]。
神よ、われわれの大きな貴族院の問題が、よい形で終わりますように。その点では、イギリスで改革法案をめぐって、あなたがいらっしゃったのと、同じ不確かな状態にいます。それでも、親愛なる公爵殿、私はいつも信頼に満ちており、私たちはよく進んでいるように思えます……」
カジミール・ペリエ氏からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年十一月三日。
公爵殿、先ごろお送りいただいたお手紙を受け取って、どれほど満足したかは、申し上げるまでもありません。その最初の手紙を携えて、私の息子が戻ったときには、もう何も望むものがないはずでした。あなたのお知らせとともに、あなたの高い英知に委ねられた、この重要で難しい仕事が、ついに成し遂げられたという確信を、同時に受け取ったからです。
公爵殿、あなたは、この仕事を、われわれにとって、この上なく満足のいく形で完了なさいました。それによって挫かれた情念や、卑しい利害が攻撃しようとも、祖国への新たな、莫大な功績であり、今後もそうあり続けるでしょう。その効果は、たちまち感じられました。党派は、この大きな決定を、その直接の当事者がどう受け止めるかについて、不安を抱かせようとし、今もそうしていますが、それでも効果は現れたのです。
平和が保たれ、今後は確かな基礎に支えられるという出来事は、フランスの対外政策と国内の情勢の双方に、有利な結果をもたらすはずです。会議の有用性について、あなたの見解をこれほどよく裏づけるこの出来事は、公爵殿、あなたの高潔な努力のおかげです。われわれも、フランスも、あなたに負っているのです。このことも、私に大きな満足を与えています。社会が動揺する時代に、公の利益を担う者が、同時代の人々から期待してはならない、公正な評価のすべてを、後世があなたに与えるでしょう。
ですから、公爵殿、喜んで申し上げますが、ヨーロッパの平和が保たれることによって、われわれの状況は、疑いなく改善しています。しかし、まだ多くをなさねばならず、問題は解決しきっておらず、支えとなるものを見つけなければならないことを、見失ってはいけません。
まだ克服すべき国内の難題のなかでも、貴族院の問題は、とりわけ厄介なものです。あなたの見識であれば見逃すはずのない、いくつかの重大な事情から、われわれは、法律の成立後までは、貴族院への増員を避けたいと考えていました。しかし、それは不可能であり、直ちに新たな貴族を任命しなければならないと、わかったのです……。
昨日、ベルギーの代議院が、二十四か条を受諾したという知らせを受け取りました。上院も、直ちにそれに続くと、すべてが示しています[310]。オランダも、受諾すると信じるべきです。こうして、危険な対外問題は片づき、今のヨーロッパ諸国民の情勢において、その指導者たちに課せられた、大きな義務が果たされるでしょう。それは、諸国民のあいだのあらゆる衝突を防ぐという義務です。公爵殿、国王の政府の率直で誠実な方針に、あなたが抱かせた信頼の、幸いな成果です。
公爵殿、あなたがお疲れになったことから、ご健康を案じるところでした。最近のお便りでは、その点に触れられていないので、もうお疲れは残っていないと、願っています。それでも、国家にとって、かけがえがなく、私個人にも、とても大切なご健康を、十分にいたわってくださるよう、お勧めせずにはいられません……」
ダルベルク公からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年十一月四日。
親愛なる公爵殿、
……政府は、貴族院に自殺への同意を求める交渉を続けています。ペリエ氏は、この問題を話し合うため、二度、私のところへ来ました。私は、国王と政府が、自分たちの過ちで問題を危うくしたことを、否定するわけにはいきませんでした。ただ、両院間の対立が大きくなりすぎないよう、力を貸すことは約束しました。法律を通すには、三十人か四十人の貴族を任命する必要があります。私の知るところでは、十人か十二人が、任命を断りました。それでも、妥協には至ると思います。
セバスティアニ氏は、自分の省の仕事の進め方について、また新たな見本を見せてくれました。ギユミノ将軍に送った副本には、正本がなかったということを、もはや誰も疑っていません[311]……」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三一年十一月十日。
……オランダ国王は、ペテルブルクへ送った使者が戻るまで、受諾を引き延ばすでしょう。政府の意見を確かめるために送ったのです。国王は、それがロンドンのロシア全権代表たちの意見と、異なると考えています。返事は十二月初めに届き、続いて、国王が全権代表を通じて会議に伝える返答が来るでしょう。ですから、われわれは当然、二十日間、待たなければなりません。そのあいだに新聞は、どれも他に劣らずばかげた、あらゆる憶測を口にし、書くことができます……」
「ロンドン、一八三一年十一月十五日。
われわれの条項は署名されました。ベルギー人は騒ぐでしょうが、それは筋違いです。すべては公平に決められ、ベルギーに有利であると、私は思います。とりわけ、フランスに接する国境の側では、私が望んだとおりです。ベルギーの公債負担は、分離前よりも、ずっと少なくなります。ですから、異議を唱える理由はありません。人口は増え、国内の商業も、与えられる便宜によって、大いに利益を得るでしょう。ベルギーとドイツを結ぶ二本の商業路、国内のすべての運河の利用、スヘルデ川とライン川の接続、そして、河川航行についてマインツで決められたすべての措置が、ベルギーにも適用され、直ちにその恩恵を受けるのです。
私はひどく疲れています。昨日の会議は午前五時まで、一昨日は四時まででした。得られるものは、すべて得たと思います。フランスは、持てるあらゆる手段を使い、ブリュッセルで、われわれの優れた条項を支持しなければなりません……」
ヴォーデモン公妃への手紙で述べた結果に至るまで、会議は、次のように進めた。
ベルギーの両院は、たいへん激しい討論の後、われわれが十月十五日にオランダとベルギーの両政府へ送った、二十四か条を受諾した。しかし、ベルギー政府は、次の条件を満たすまでは、最終的な同意を与えないと約束していた。
一、条項のいくつかについて、変更を得るか、得ようと試みた後であること。
二、ベルギー人が選んだ国王が、直ちに承認されるという確証を得た後であること。
ロンドンのベルギー全権代表は、十一月十二日、これらの留保を主張する覚書を、われわれに提出した[312]。会議は、その日のうちに、二十四か条を変更することはできず、その一つでも変更に同意する権限は、もはや五大国にはないと返答した。十一月十四日の第二の覚書では、五大国とベルギーのあいだの条約によって、二十四か条を正式に確定することには、何の妨げもないと、ベルギー全権代表に知らせた。これによって、ベルギー人の選んだ国王を承認するという要求も、満たされることになった。
一方、会議は十一月十三日、ベルギーの受諾をオランダの全権代表たちに知らせ、先に条約に署名することを提案した。返答は拒否だったため、十一月十五日、五か国の宮廷の全権代表と、ベルギーの全権代表とのあいだで、条約が署名された[313]。
この条約には、まず二十四か条が再掲され、次の三か条が加えられた。
第二十五条――オーストリア、フランス、グレートブリテン、プロイセン、ロシアの各宮廷は、ベルギー国王陛下に対して、前記のすべての条項の実行を保証する。
第二十六条――本条約の規定に従い、一方のオーストリア皇帝、フランス人の王、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国の国王、プロイセン国王、ロシア皇帝の各陛下と、他方のベルギー国王陛下とのあいだ、ならびに、その相続人、後継者、各国および臣民のあいだには、永遠に平和と友好が存在する。
第二十七条――本条約は批准され、批准書は、二か月以内、可能であれば、それより早く、ロンドンで交換される。
この条約への署名後には、ほぼ一年にわたり、ヨーロッパを不安定な状態に置いていたベルギーの運命の問題も、オランダについてはともかく、少なくともベルギーと五大国については、最終的に解決したと思えたかもしれない。しかし、これから見るとおり、事態はそれほど単純ではなく、私の仕事は、まだ終わりから遠かった。これまでと同様、書簡に語らせることにしよう。新たに生じた困難を、私自身が説明するよりも、よく明らかにしてくれるはずである。
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三一年十一月十六日。
……昨日、ベルギーとの条約に署名しました。これで、レオポルド公も、その国も承認されました。大きな仕事が一つ、終わったのです。五大国がこの条約に署名した以上、オランダ国王も、必ず同意することになります。いくら意地を張っても通用せず、譲らなければなりません。条約を届けるために私が送る使者は、テュイルリーで歓迎されるだろうと思います。国王が結ぶ最初の条約であり、フランスの国境を守り、ベルギーを独立させることで、両国の役に立つのです。
パリへ戻ることなど、私はまったく考えていません。誰にも、そう言っていません。それは、フラオー夫人が作る話の一つです。夫人は、いつもイギリスへ来ることを考えていますが、ここで嫌われているので来られませんし、夫も、ロンドン大使になるには、人物としての重みが足りません。ほかの点では、適任なのですが。感じがよく、知り合いもかなりいて、英語もうまい。しかし、こちらでは、それだけでは足りないのです。
私はブライトンへ、息をつき、国王へご挨拶するために行きます。度を越して働いたところで、休息が必要です。王政復古の歴史を書いた、あの自称政治家は、誰なのでしょう。教えてください。あの本は、正しいのは年代順だけで、誤りと無知に満ちています[314]……」
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年十一月十八日。
親愛なる公爵殿、条約は昨夜、届きました。私たちの大切な国の色の上に、五大国の代表者の封印が、花輪のように並ぶのを見た喜びは、言葉では表せません。あなたが終えたのは、途方もなく大きな仕事です。一緒に喜び、心の底からお祝いを述べずにはいられません。愛する祖国、そして、まことにヨーロッパ全体の幸福にとって、これほど重要な、幸いな結果に至るには、あなたの熱意、才能、手腕のすべてが必要だったのです。
この大きな問題を、本当に終わらせるために、今、必要なのは、オランダ国王に態度を明らかにさせ、条約を実行させることです。それを速やかに行うことは、誰にとっても重要ですが、とりわけ、ベルギー国王にとって、そうです。この不確かな状態が長引けば、国王は、臣民に対して、再びたいへん困った立場に置かれます。それは、この条約に署名したばかりの五大国の威厳と約束に、まったく反するでしょう。この点でも、あなたは同じお考えであり、条約の迅速で完全な実行に、すべての努力を向けられると確信しています。それは、少なくとも私には、オランダ国王に署名させることと同じく、この上なく重要に思えます。
貴族院に関する法律も、たいへん大きな問題ですが、まだ新しい動きはありません。その点では、前にお手紙を差し上げたときと同じく、何もわからず、待っている状態です。ヴォーデモン公妃が、あなたの最近のお手紙を知らせてくれました。その内容は、しかるべき人に伝えました……」
ルイ=フィリップ国王からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年十一月十九日、土曜日。
親愛なる公爵殿、
一八三一年十一月十五日のロンドン条約は、歴史上の大きな画期となるでしょう。その成果が広がるほど、フランスは、あなたが尽くした大きな功績を評価するでしょう。私も、その評価と、この大きな成功が、あなたに対して抱かせるあらゆる思いに、どれほど深く加わっているかを、急いでお伝えしたいのです。これは、この長く、骨の折れる交渉のあいだ、私の政府とあなたの進む道を歪めようとして、無駄に重ねられたあらゆる攻撃への、見事な返答です。この長い戦いの、あらゆる段階で、あなたとセバスティアニ将軍を、変わらず、粘り強く支えてきた私にとっても、最も嬉しい報いです。ついに、確かで、名誉ある形で、戦いは終わりました。あなたが署名した条約によって、戦争ですべてを覆せると信じ、火をつける手段を増やすためにだけ、戦争は避けられないと唱えていた人々の、罪深い期待は終わったと、私は考えています。どの国でも、絶対主義者と革命の伝道者が、同じ言葉を使っていたのは、注目すべきことです。それでも、彼らの働きを完全に封じるには、オランダ国王に、できるかぎり早く条約に署名させ、実行させなければならないことを、見失わないでください。
国王が、まもなくその決心をすると、あなたは保証してくださいます。私は、そのよい兆しを、いっそう喜んで受け止めます。われわれの個別の利益、さらにはヨーロッパ全体の利益だけが、それを望ませるのではないからです。何より、国王自身とオランダの利益が、国王の傾いているらしい引き延ばしの方針を、捨てるよう命じています。その方針からは、国王自身にも隣国にも、災いしか期待できないと、私は思います。会議の全権代表たちのあいだに生まれ、あなたが、その維持に大きく貢献された、幸いな一致だけでも、今、国王に取れる最もよい道は、それであると悟らせるに足りるはずです。
親愛なる公爵殿、私の気持ちは、すべてご存じです……」
フラオー伯爵からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年十一月十九日。
とうとう目的を達せられましたね。楽なことではありませんでした。これほど多くの革命と争いのなかで、平和を維持できたとは、実に大きな成果です。フランスに敵対する、神聖同盟の作ったネーデルラント王国を、全面戦争なしに解体できるなど、誰が信じたでしょう。あなたの手腕のすべてが必要でした。今の政府は、あなたによく協力しましたが、その前には、こちらから生じる困難もありました。それでも、もう港に着いたのです。オランダからもベルギーからも、本格的な反対が出るとは思いません。昨日、ジェラール元帥をブリュッセルへ送り、決められた条件に抵抗しても、こちらからの支援は、一切期待できないと、はっきり伝えさせました。私を送ることも考えられていましたが、ジェラールのほうが、はるかに適任で、その言葉も、ずっと強い力を持つでしょう。
貴族院の法律は、代議院で、賛成多数の票差が三百四十六票となって、可決されました。これほど明確な意思表示に抵抗するのは、ほとんど無理でしょう。それでも、貴族たちが何をするかは、まだわかりません。愚かなことだろうと、私は思います……」
ダルベルク公からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年十一月二十一日。
十五日付の短いお手紙は、昨夜ようやく届きました。心の底から、お礼を申し上げます。お便りをいただくたびに、あなたは、暗闇のなかで、私のために灯をともしてくださいます。そして、会議が歩み始めた道を、あなたが力強く進んでいることが、わかります。ベルギーをオランダから分離することは、われわれの国境の、最も攻撃されやすい場所に置かれた、強力な戦争の装置を壊すことです。それは、あなたの功績です。このことが語られず、認められないのは、われわれの代議士と新聞記者のひどい無知、不誠実、情念に駆られた動機のためでしかありません。
オランダ国王が、同盟国の無礼な扱いに、強い不満を感じるのは当然です。それでも、プロイセンとロシアが、王家の縁戚関係を犠牲にすることに同意し、両政府が、ヨーロッパの平和を維持するため、誠実に行動しているように見える以上、オランダ国王は、すでに決められた取り決めに同意するでしょう。たとえ、その同意が十二月初めに届かなくても、それより、ずっと遅くなることはないと思います。そもそも、あなたは国王に、二か月の猶予を残しました。北方からの返事を受け取る時間を与えるためだったのでしょう。国王は同意するでしょうが、祖先のウィレム二世や三世と同じく、フランスの最も和解しがたい敵であり続け、自分の周囲に、こちらの現体制を倒すための陰謀の拠点を作るでしょう。そのための有力な要素は存在していますし、同じ方向を目指す、シャルル十世派とボナパルト派の同盟が、その働きを助け、支えることもできます。
今のところ、ヨーロッパの諸政府の態度は、静かです。自分たちの立場を考え、周囲を見ています。しかし、胸の内では、恨みと不信が芽生えています。ほかに、どうなり得るでしょう。われわれの議会演説、政府が止められない、あるいは止めようとしない、こちらからの革命的陰謀、新聞の無分別で侮辱的な言葉は、どれも、フランス革命に対抗して結ばれたショーモンの諸条約の結びつきを、いっそう強めるよう、彼らを刺激しています。三大国の宮廷は、そのために、再び了解し合ったと、私は確信しています。ドイツとイタリアの各国公使館は、わが国の外交官には甘い言葉を使いますが、小国に対しては、非常に扇動的です。フランスには、最も厳しい監視が必要だと説明し、こちらで革命派、急進派が再び優勢になった場合に備え、緊密な同盟の絆を、確保し、強めようとしています。ほかの成り行きは、考えられません。七月革命が安定すると、ヨーロッパが確信するまで、フランスは、どこでも歓迎されないでしょう。
ただ、二年後に今の体制が固まるなら、今この時点で、こちらでもペテルブルクでも、すでに縁組を考えているのだと信じてください。ベリー公の縁組が失敗するのを見たポッツォは、計画されるかもしれない、この縁組に取り組んでいます。ペテルブルクで、バイエルン国王からの、息子のための申し入れが断られたのも、この将来を見据えてのことです。ロンドンとウィーンで、この計画が見抜かれれば、両宮廷は妨害を試みるに違いありません。ウィーンが、ナポリからオルレアン家の王女を遠ざけようと、できるかぎりのことをしているのと同じです。親愛なる公爵殿、これらすべては、信頼を築くのが容易でないこと、そして、それを損なうものは、すべて避けねばならないことを、私に示しています。
あの出来の悪い王政復古の歴史を出版している政治家は、誰かとのご質問ですね。カプフィーグ[315]という、新聞記者で、ほかにもいくつか本を書いている者です。ミニェと親しく、モレ氏のもとで、公文書を見られるようになりました。モレやパスキエの家に出入りしており、二人は、その刊行物を読んで、訂正しています。彼は何年にもわたり、いろいろな人と話して、山ほどの逸話を集めようとしてきました。そして、金儲けのために、この計画を考えたのです。最初の二巻が刊行された後、私はビュション氏[316]を通じて、彼を知りました。彼が書いたいくつかの事実を訂正させようとしましたが、努力は無駄でした。彼は出版社のために書き、十巻にするつもりなので、それを埋めるため、手に入るものは何でも集めます。今は、ドゥカズ氏が彼を自分のものにして、自分の内閣について書かせる材料を渡しています。少し前、カプフィーグ氏は、ロンドンの、あなたと関係のある人々から来たという、覚書を持っていました。交渉中の、フランス、イギリス、オーストリアの同盟という構想が記されていました。彼は、それを、いくつかの新聞の記事にし、人々の話題となりました。しかし、事情を知る人々は、すぐに、作り話だと言いました。メッテルニヒ氏が、その可能性をほのめかしているのかもしれないが、実際には、ベルリンとペテルブルクの両宮廷との、大陸の同盟に留まるだろう、と。
今、大国のあいだに分裂を持ち込もうとしてはいけません。人間社会に広がった、精神の無秩序の打撃を受けて、世界は溶け、崩れつつあります。弊害の改革は絶えず口にし、少しは手もつけながら、権威を作り直さなければなりません。
ブリストルの事件[317]と、ロンドンを脅かすかもしれない事件は、イギリスの内部を、ひそかに蝕む、深い傷を示しています。グレイ卿と、その仲間のブルーム氏は、あまりにも大規模な改革に取りかかりました。第三身分の議席を倍増させた、あのネッケル氏と同じです。群衆が立ち上がり、騒ぎを起こす者たちや、ラ・ファイエットのような者に駆り立てられれば、誰が止められるでしょう。この観点から、ベルギー革命の成功は、悪い影響を与えており、それを打ち消す必要があります。ニコライ皇帝は、ひとまず、ポーランドでその役を引き受けました。人々の心に落ち着きを取り戻させなければ、すべてが破滅します。
ドイツでも、狂気が始まっています。ミュンヘンとカールスルーエの議場は、熱に浮かされています。ベルリンとウィーンでは、どう防ぐかを考えています。私は、フランクフルトの連邦議会によって、討論を公開しないこと、連邦全体の権利は、討議の対象にしないことを定めるよう勧めています。それが、歯止めになるでしょう。
われわれの貴族院は、ついに今日、とどめを刺されました[318]。カジミール・ペリエ氏と国王は、貴族院を死骸にしています。ペリエ氏は、一八三二年の予算が可決された後、代議院を解散しようと考えています。私は勧めません。おそらく、もっと悪い議会ができるでしょう。今の議会に、愚かさを出し尽くさせるべきです。
ヴュルテンベルクのパウル公から、不幸なカポ・ディストリアの後を引き受けてみたいという希望と意欲を、あなたに思い出していただくよう、頼まれました。公をギリシャ国王に選ぶのは、悪くないと思います……」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三一年十二月二日。
……リヨンの事件については、新聞でしか知りません[319]。こちらでも、不安を引き起こしています。ブリストルの記憶と、マンチェスターへの懸念[320]から、この国も、気がかりを免れません。事態が終わり、大工場の日当では暮らしていけない人々を、譲歩しすぎることなく、満足させる取り決めが見つかるよう、皆、強く望んでいます。解決の難しい問題です。私の考えでは、領土全体に対して人口が多すぎるのではなく、分布が適切でないのです。政府が取り組むべきなのは、この分布です。そのためには、ある場所、大都市などで、大量の援助を与える代わりに、開墾すべき土地や、干拓すべき沼地の多い県で、仕事を行わせる必要があります。その仕事には、ほかの県から来る人々へ賃金を払えばよいのです。仕事と賃金のあるところへは、必ず人が来るからです。オーヴェルニュ、リムーザン、ニヴェルネ、ベリーでは、働き手が足りません。そこへ人を呼ぶよう、努力しなければなりません。そうすれば、人口の多すぎる地方の負担を軽くし、不足している地方を豊かにします。たとえば、ベリーでは、三十万人が必要です。ニヴェルネでも、不足しています。移る人に利益を与えれば、多くの人を呼べるでしょう。これこそ、よい行政です……」
カジミール・ペリエ氏からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年十二月四日。
公爵殿、
難しい交渉の過程で、あなたが力を尽くされ、フランスの代表に、その本来の地位と影響力を確保されたことについて、われわれの感謝を、改めてお伝えしたいと、長く感じておりました。
政府は、あなたの深い経験に、それだけのことを期待していました。その経験に導かれて、条約は見事に準備され、今、大国間の関係を、政治的な平等と、もはや誰も争えない利益の共有という基礎に、据えたのです。
公爵殿、この重要な取り決めで、あなたが大きな役割を果たされたことに、国王の政府の首相、代議士、フランス人の、それぞれの立場から、お礼を申し上げられることを、喜んでいます。これは、いわば、新たな国際法の時代の始まりです。その唯一の目的は、諸国民の安寧と、文明の恵みの、平和な発展を保証することになるでしょう。
しかし、公爵殿、ヨーロッパが、この道に入った以上、誰にも障害を置くことを許せないのは、あなたも私と同じく、お感じのとおりです。ですから、オランダ国王が、大国の決定に、なお持ち出そうとしているらしい、無意味な難題を退けるため、あなたが強く求め、今も粘り強く求め続けていらっしゃることを、疑っていません。もう終わらせる時です。国王も、二十四か条の実行を保証すると、ともに約束した同盟国と同じく、心からそれを望んでいます。あなたが最も多く力を尽くされたからこそ、いっそう、その確立に心を寄せられるはずの、和平の仕事に、この最後の保証を加えるため、最も積極的なご尽力を、あえてお願いする次第です。それは、誰もが望み、誰の利益にもなる、全面的な軍備縮小に、不可欠なものです。その実行を、一つの問題だけが、これ以上、妨げてはなりません。
公爵殿、国家の利益についてお話しするときには、それによって、われわれ二人の関係が、いっそう深まったことを喜ぶ機会が、自然に見つかります。息子が、あなたのそばにいることで、その関係は、私には、とても大切なものとなっています。息子の勤勉さと熱意が、父の思いを、絶えずあなたに思い起こさせていると考えると、幸せです。どのような方のお導きで、国王と祖国への奉仕に入ったかを、いつか息子の将来が、誰の目にも示すものとなるよう、強く願っています……」
タレーラン公からカジミール・ペリエ氏へ
「ロンドン、一八三一年十二月十日。
閣下、
今月四日付で、ありがたく頂戴したお手紙には、友情からの、私にも、その重みがよくわかるお言葉がありました。しかし、わが国の行政が、強い意志と、率直な精神によって導かれるようになってからは、私の仕事が、ずっと容易になったことを、お忘れです。その精神への高い称賛を、私は毎日耳にし、それは、ヨーロッパにとって、安全の保証となっています。
オランダ国王の頑固さのため、今日、ベルギー問題は終わったとは言えません。しかし、事実としては、遅かれ早かれ、つまり、あと何週間かはともかく、国王は譲らなければなりません。われわれが従っている、順序立てた進め方は、ベルギーで成功しました。何も急がなければ、オランダでも、同じように成功するでしょう。大国間に存在し、注意深く保たなければならない一致が、結局、残る困難を取り除くでしょう。リーヴェン公によれば、ペテルブルクからの返答は、数日中に届き、ウィレム国王が、まだ抱いている幻想を、消すはずです。必要なら、待ちましょう。取るべき措置を急がないことには、大きな利点があります。急がないことは、こちらが確かな立場にある証拠となるからです。
議会には、気の済むまで、節約をさせておくよう、お勧めすることを、お許しください。毎朝、論戦を挑むほどのことではありません。今年、人気を求める心がさせたことは、やがて良識が、すべて変えるでしょう。王室費は、治世の全期間について定めるものですから、それだけが、ご努力を向けるに値します。
ご子息を、もうしばらく私のもとに置いてくださるのを、とても喜んでいます。この先の経歴でも、これほど多くを学べる機会は、あまりないでしょう。私とともに追っている政治問題だけでなく、今年の議会討論も、生涯、役に立つはずです。ご子息の人柄、勤勉さ、役に立ちたいという願い、そして、日々の知性の成長は、いくら称賛しても、足りません。
閣下、改めて……。
追伸――くじけないでください。ヨーロッパがあなたに求めるのは、ただ、それだけです。」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三一年十二月十五日。
オランダから返答が来ました。大判の用紙で四十ページもあり、私は読まなければなりません。正直なところ、あなたの悪筆を四十ページ読むほうが、よほどよいと思います。結局、オランダ国王は、国境を受け入れ、債務の分担に従い、河川の航行と運河の権利を定めるため、自分とベルギーとのあいだで条約を結び、その交渉をしたいと求めています[321]……。つまり、自分に都合のよいもの、すなわち国境は受け入れ、ベルギーに都合のよいもの、すなわち河川と運河の自由航行は、拒むということです。
すべて収まるでしょうが、苦労するでしょう。レオポルド国王は、要塞についての約束を果たそうとせず、われわれを少し困らせています。ラトゥール=モブール氏に対し、また、ルイ=フィリップ国王へ書いた手紙で、した約束です[322]。それも、怒りすぎずに、何とか収めなければなりません。取り壊しの原則は、定まり、認められています。フランスへの侮辱は償われ、同盟国が要塞に費やした四千五百万は、失われます。これこそ、条約の真の成果です。ブリュッセルで、別に行おうとした交渉さえなければ、もっとよい条約となったでしょう。その交渉は、こちらの皆を、不信に陥れたのです……」
「ロンドン、一八三一年十二月十七日。
……一昨日、外務省へ送られた、四十ページの覚書の読み上げを、これから聞きに行きます。自分が正しいときに、四十ページも書くものではありません。パリでは、要塞に関する条約に、不満を抱くでしょう。しかし、この問題は、四大国とベルギー全権代表との会議で、私を入れずに扱われています。フランスは勧告するものの、保証はせず、ほかを動かすこともありません。そもそも、ウェリントン公に支持された、アバディーン卿[323]の動議に、グレイ卿が怯えているので、そのため、要塞問題は、いっそう擁護しにくくなっています。要塞の交渉をブリュッセルへ移してから、こちらには不信が生まれました。別に扱われたこの件は、公になって以来、不評でした。私は秘密を勧めていたのに、守られませんでした……」
この手紙と、続く手紙を理解するため、ベルギーの要塞の取り壊しという問題に、もう一度、戻る必要がある。今、述べている時期に、それは私に、最も重大な困難をもたらした。十一月十五日の条約への、フランスの批准書の発送を、しばらく遅らせたからである。すでにした説明を繰り返すことになろうとも、問題の発端から、取り上げ直そう。この文章を読む羽目になる人々にも、大目に見ていただけるほど、重要な問題だったのである。
すでに述べたとおり、私の働きかけにより、オーストリア、グレートブリテン、プロイセン、ロシアの四宮廷の全権代表は、私が署名しなかった議定書によって、ベルギーのいくつかの要塞を取り壊す原則を認めた。一八三一年四月十七日付の、この議定書自体を、ここに載せるべきだと考える。
「オーストリア、グレートブリテン、プロイセン、ロシアの全権代表は会合し、一八一五年以降、四宮廷の費用でネーデルラント王国に築かれた要塞と、ベルギーのオランダからの分離が最終的に実現した際に、これらの要塞について取るべき決定に、注意を向けた。
この問題を十分に検討した後、四宮廷の全権代表は、次の点で、全会一致の見解に達した。ベルギーの新たな状況と、フランスによって承認され、保障される、その中立は、ネーデルラント王国のために採用された軍事防衛の体制を、変えることになる。これらの要塞は数が多すぎ、ベルギー人が、その維持と防衛を担うのは、困難である。また、全会一致で認められた、ベルギー領土の不可侵は、以前にはなかった安全を与える。したがって、異なる状況のもとに築かれた要塞の一部は、今後、取り壊せる。
よって、全権代表は、ロンドン会議に参加する大国が承認した政府が、ベルギーに存在する時点で、四宮廷と、その政府とのあいだに交渉を開き、前記の要塞のうち、取り壊すべきものを定めることを、将来の措置として決定した。」
この議定書は、この上なく明確で、断定的だった。私は、署名の際に、内容を知っていた。したがって、この点には、四大国の明確な約束が存在していた。レオポルド公がブリュッセルへ出発する時、私は、四大国の採用した決定を、公も確認するという、書面による宣言を得ようとしたことを、思い出していただきたい。確かに、公の返答は、かなり曖昧だった。しかし、その文言から、約束を読み取ることは、可能だった。フランス政府は、この手紙にも、四月十七日の議定書にも、満足しなかった。実際、その議定書は、公表されていなかった。政府は、フランスの両院の開会に際して、新たに招集される議会、そして、広く国内の人々に、一定の効果を与える事実を、発表したかったのである。四宮廷の全権代表は、私の求めに、再び応じ、四月十七日の議定書を公表することに同意した。そのため、七月十四日、私に公式に通知した。同じ月の二十九日には、ベルギー政府にも通知した。しかし、その通知に先立ち、ルイ=フィリップ国王は、七月二十三日の両院開会に際して、要塞の取り壊しを発表していた。そのため、ブリュッセルには大きな騒ぎが起こり、レオポルド国王は、困った立場に置かれた。ベルギー人の抗議を前に、当初、四宮廷から課された条件を果たすことに、いくらかためらいを示したのである。パリでは、私には無用と思える不安が生まれ、直ちにラトゥール=モブール氏をブリュッセルへ送り、ベルギー政府の同意を取りつけようとした。その政府は、同時に、オランダの不運な侵攻によって、ひどく危うい立場に置かれていた。情勢に迫られたベルギー国王は、ついに九月八日、宣言を出した。四月十七日の議定書に定められた原則に従い、四大国と協議して、指定された、いくつかの要塞を取り壊す措置を、取っているという内容だった。ラトゥール=モブール氏は、その宣言をパリへ持ち帰った。一方、ゴブレ将軍が、ベルギー政府の権限を携えてロンドンへ来て、四宮廷の全権代表と、四月十七日の議定書に示された交渉を進めた。
ルイ=フィリップ国王の演説によって、議定書が公になったことは、この問題をめぐる、イギリス議会の討論も引き起こした。グレイ卿は貴族院で、パーマストン卿は庶民院で、四月十七日の議定書を提出し、それは、四宮廷とベルギーとのあいだの交渉だけに関するもので、フランスは入っていないと、強調しなければならなかった。これによって、反対派の騒ぎを鎮めた。しかし、フランス軍が、まだベルギーを占領しているあいだに、ブリュッセルで、ラトゥール=モブール氏とベルギー政府との、別の交渉が進んでいると知ると、二人は不安を抱いた。議会での主張を、否定する事実だったからである。グランヴィル卿は、その不安をセバスティアニ氏に伝えた。セバスティアニ氏は、それを鎮めるため、四大国に、四月十七日の議定書を確認する、新たな議定書を作るよう求めた。それによって、ベルギー政府を、いくつかの要塞を取り壊す義務に、より明確に結びつけ、ブリュッセルで結ばれた協定に代えるというのである。それには同意が得られた。ただ、このために一八三一年八月二十九日に作られた議定書では、取り壊す要塞を、ブリュッセルで、ラトゥール=モブール氏とベルギー政府との協定に記したように、明記することが、忘れられていた。
私は、これらすべての取り決めから外されただけでなく、フランス政府自身からも、秘密にされていた。それでも、このような進め方が、四宮廷の全権代表に、当然、抱かせる不信の影響は受けた。私自身に関する、その不信を取り除くには、たいへんな苦労があった。
ロンドンのベルギー全権代表、ゴブレ将軍は、この不信を利用し、取り壊す要塞の指定に、変更を加えさせた。ベルギー国王がラトゥール=モブール氏へ与えた宣言では、シャルルロワ、モンス、トゥルネー、アト、メナンの要塞が、取り壊されるはずだった。しかし、十二月十四日、四宮廷の全権代表とゴブレ将軍とのあいだで署名された協定では、取り壊すべきものとして、メナン、アト、モンス、フィリップヴィル、マリアンブールの要塞が指定されていた。以下の書簡を生んだのは、この後の協定であり、これで、その事情は明らかになったと思う[324]。
ルイ=フィリップ国王からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年十二月十六日。
親愛なる公爵殿、
セバスティアニ将軍が、今、私に示した外交報告によって、要塞の取り壊しに関する交渉が、たいへん不安な方向へ進んでいることが、わかりました。私個人には、二重につらいことです。与えられた言質を信じ、この件について、議会と国民に、厳粛な約束をしたからです。そのため、セバスティアニ将軍が公式に伝える内容に加え、私自身が、お手紙を書くことにしました。私個人の思いを、あなたに託し、必要なら、その思いに、いくらかの重みがあると信じたい人々へも、知らせていただけるようにするためです。
ですから、親愛なる公爵殿、まず、こう申し上げねばなりません。われわれを脅かすために築かれた要塞を取り壊すという約束を、信じていなかったなら、また、中立の領土に、敵対行動の拠点を残すつもりだと、思い得たなら、私は、ベルギーに関する取り決めに署名せず、とりわけ、その永久中立を受け入れなかったでしょう。よく考えてください、公爵殿。法の観点からは、この要塞の維持は、われわれに、それを尊重しない権利を与えます。われわれへの約束があった後では、私の目には、正当な開戦理由となるのです。この場合に戦争をすると、自分を縛るつもりで述べているのではないことは、申すまでもありません。ただ、その権利は争い得ず、戦争をするか、しないかは、われわれの選択となるということです。フランスを、そうした権利があると考える立場に置くのは、イギリスにも、会議のほかのどの大国にも、望ましくないと思います。とりわけ、この夏、われわれが占領した要塞から、誠実に、約束どおり撤退した後では、そうです。
では、なぜ、ほかの要塞と同じく、フィリップヴィルとマリアンブールの取り壊しを望まないのかと、問われるでしょう。同じく率直に、こう答えます。この二つの要塞は、ほかのように大国の金で建てられたのではなく、フランスが割譲したものです。かつてフランスのものであったからこそ、国民の誇りは、その取り壊しを侮辱と受け止めるのです[325]。親愛なる公爵殿、この二つの要塞の割譲が、国民の自尊心に、今も血を流し続ける傷を残していることを、見失ってはいけません。国の声は、私と政府に、どんな危険を冒してでも、断固として返還を要求しなかったことを、責めかねません。フィリップヴィルとマリアンブールを残し、ほかの要塞を壊すこと以外に、その声を鎮める方法はないと、私は言えると思います。
しかし、私が当てにできると思っていた、この取り決めの代わりに、フランスが、フィリップヴィルとマリアンブールの取り壊しを見せられ、イープル、トゥルネー、シャルルロワが残されるなら、恐ろしい結果を招く反響が生まれるでしょう。実際、一方のイープル、他方のシャルルロワとナミュールが、中央のトゥルネーで結ばれれば、フランスに対する作戦線をなし、ベルギーの中立を、幻想にしてしまうのは確かです。また、今の状況で、この要塞を残すのは、フランスにも大国にも、よい計算ではありません。神に誓って、誰をも疑うつもりはありませんが、率直に言えば、要塞があるかぎり、裏切りや奇襲によって、いつでも、どちらかの手に落ち得るからです。したがって、その存在は、不安の原因であると同時に、手を伸ばしたくなる対象でもあり、双方とも、それを取り除くのが望ましいのです。
さらに、ベルギーの利益のためにも、ヨーロッパの利益のためにさえも、負担しにくく、おそらく負担できない支出に、ベルギーが押し潰されないことが、強く望まれます。残そうとしている要塞、とりわけ守備隊の維持は、まさに、そのような支出となるでしょう。守備隊がなければ、要塞は、われわれの意のままとなることを、ほかの誰よりも、私は言ってよいはずです。そのようなことは、まったく望んでいません。フランスは、これらの要塞が、大国からベルギー国王への預け物と見なされ、ベルギー軍が足りなければ、外国人に守備を任せようと考えられることには、決して同意できません。それは、正当な開戦理由を作るだけでなく、反対するために、フランスを戦争せざるを得ない立場へ置くからです。しかし、ベルギー国王がドイツ連邦に加わらないことは、その点での懸念を取り除くに足ります。ただ、ベルギーが、自らの費用で要塞を維持し、十分な守備隊を置けないことが明らかであればあるほど、あらゆる利益のために、その取り壊しが必要だと言わねばなりません。
親愛なる公爵殿、あなたと私の閣僚たちの意見が、今、述べた私の意見と一致することは、知っています。それでも、私個人の思いを知っていただきたいと、願いました。いつも、あなたにそれを託すのが、好きだからです。また、この難しい任務で、あなたご自身には輝かしく、フランスと私には重要な成功を収めるまでに、あなたがなされた、すべてのことを、どれほど高く評価しているか、あらゆる機会にお伝えしたいからです。今、向けられようとしているよりも、よい方向へ、要塞の交渉を進め、成功を確かなものに仕上げてくださると、願っています。ペリエ氏とセバスティアニ氏は、これまでも変わらずそうしてきたように、できるかぎり、あなたに協力するでしょう。皆の力を合わせれば、この誤った方向が生むかもしれない危険から、フランスとヨーロッパを守れます。思い違いをしてはいけません。これは重大なことです。われわれは、非常に刺激されやすい世論を、相手にしているのです。
親愛なる公爵殿、長くご存じの、あなたへの私のあらゆる思いは、心からのものであると、お受け取りください……」
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年十二月十九日。
親愛なる公爵殿、十二月十五日のお手紙を、ありがとうございます。私のお手紙を喜んでくださったのも、嬉しく思います。しかし、会議が要塞問題を終わらせようとしている、そのやり方と、この際の、約束に反するレオポルド国王の振る舞いに、どれほど驚き、悲しんだかは、申し上げられません。こちらの愛する国王と、その政府の側には、誠実さと率直さしかないだけに、すべて、悪く、見苦しいことです。このようにもてあそばれるわけにはいきません。この忌まわしい決定がされた会議に、あなたが出席していなかったことを、とても残念に思います。出席していれば、止めてくださったと、確信しているからです。今度は、あなたが、決定を覆させなければなりません。難しい任務であるとは思いますが、それこそ、あなたにふさわしいものです。このために使える、よい、立派な武器も、お持ちだと思います。この問題を通じて、愛する国王が示した率直さと誠実さのすべて、そして、八月にも、立派な約束をした人々の名誉を信じて、ベルギーの要塞から、わが軍を撤退させたことを、主張してください。親愛なる公爵殿、その約束を、実行させなければなりません。これは、愛する国王とフランスにとって、きわめて重大で、重要なことであり、あなたが果たすべき、大きく、立派な任務です。正直に言えば、国王が、この取り決めには同意しないと、会議が十分に納得すれば、フランスの威厳にかなう取り決めを、するだろうと、私は思っています。
国王が、この傾向を見ていたからこそ、モブール氏をブリュッセルへ送り、レオポルド国王と直接、この問題を扱い、約束を得ることを決めたのです。それは、あなたがロンドンからはできなかったことですし、今、それを得ておいて、たいへんよかったと、お認めになるでしょう。
私は、この問題のすべてに憤慨しています。それでも、親愛なる公爵殿、われわれの正当な権利と、愛する国王の努力を助ける、あなたの熱意と才能に、全面的な信頼を寄せています。だからこそ、国王が、この醜い問題から、有利に抜け出すと、心から確信しています。あなたからの便りと、ご意見を伺うのを、待ちわびています。ただ、今回は、すべてを終わらせ、あのオランダ国王に態度を明らかにさせ、約束されたことを、実行させなければなりません。」
タレーラン公からルイ=フィリップ国王へ
「ロンドン、一八三一年十二月二十二日。
陛下、
陛下は、われわれの敗北を思い起こさせるために築かれた、ベルギーの要塞の取り壊しを、重く見ておられ、われわれの不幸を示す、侮辱的な証を消すのは、ご自身であると感じておられます。しかし、陛下、今、起きたことを、神聖同盟への回帰によるものと考えるのは、あまりに暗い見方でしょう。
陛下の政府が、日々、ヨーロッパに示す、賢明さと節度の証は、諸国民の自由に対して結ばれた、この同盟を、永久に壊しました。
陛下は、ご好意から、こちらでは私にいくらかの影響力があるとお考えくださっています。それなのに、こちらから陛下に不安ばかりか苦痛まで生じることを、私はたいへん残念に思っています。陛下が、喜んで目を留められる成果だけを、お知らせできればと、願います。
新しく、不確かな政府の弱さが、そのまま見える、ベルギーの策謀によって、われわれが不満を抱く協定が生まれました。イギリス政府の置かれた深刻な事情と、アバディーン卿の激しい攻撃に対する、過度の恐れも、ベルギーの策謀を助けました。害はブリュッセルから来たのですから、解決も、同じところからしか来ません。このように申すのは、私が、何らかの働きかけを惜しむためではありません。会議の代表たちだけでなく、イギリス内閣に影響を持つ、すべての重要人物にも、働きかけています。夜、一日の仕事を振り返ると、私の確信は強まり、有効な行動は、ベルギーからしか出てこないと、考え続けています。ですから、陛下がお望みの変更も、陛下のレオポルド国王への影響力によってしか、実現し得ません。
この問題は、困難に満ちています。われわれにかなう解決に至るには、ベルギー政府が批准しないことが、道となるからです。しかし、その方法は、本当に有効な唯一の方法かもしれませんが、十一月十五日の条約の運命を危うくする、危険を持っています。この条約は、われわれと大国のあいだに絆を作るものであり、今のヨーロッパの情勢で、その絆が弱まるのを見るのは、たいへん不幸なこととなるでしょう。
陛下の力強く、賢明なご指摘は、グレイ卿とパーマストン卿と議論する、新たな材料を、私に与えてくださいました。私は、激した態度よりも、悲しみを示す態度で、陛下の正当なご不満を、二人に十分に理解させるためのことは、何一つ忘れなかったと思います。陛下に心から敬服しているグレイ卿は、この要塞問題のフランスでの受け止められ方に、強い痛みを感じました。パーマストン卿も、交渉が、陛下の政府の喜ばない結果を生むことを、残念に思っています。私が伝えたほどに、国王の政府が傷つく理由を、二人とも理解できないと言うとき、それは本心であると、私には思えるほどなのです。
陛下が、こうした不快な思いをなさることを、私は、本当に残念に思います。しかし、いかなる意味でも、私の過ちではないと、信じたいのです。ベルギー人が、こちらで、策謀とまでは申さぬにせよ、もう少し秘密を少なくして行動していれば、そして、おそらく、ブリュッセルでの約束を、もっと秘密にしていれば、すべて避けられたでしょう。
謹んで……」
タレーラン公からオルレアン家のアデライード王女へ
「ロンドン、一八三一年十二月二十七日。
ベルギー側の、要塞問題の進め方を考えると、今、国王の望むことを実現するのは、不可能だと思います。そのために、私があらゆる努力を尽くしたことは、王女様に、どうか確かに信じていただきたいのです。しかし、今、問題そのものを、よく見れば、重要性は、それほど大きくないとわかります。要塞は壊されるのです。われわれに近い、アトとモンスの要塞が。これで、フランスへの償いは、なされたことになります。よい面を受け止め、新しく、弱い政府を、放っておいてはいけないことを、次の機会のために、覚えておくべきです。
ヨーロッパでは、危機が絶えず脅威であり、今後も長く、そうあり続けるでしょう。そのなかでは、何らかの共通性を持つ政府が、ともに進むことが、最も重要です。ポーランド問題は、その利益によって、三つの政府を結びつけています。別の利益を持つのは、二つだけです。この二つは、結びつきを保ち、必要なら、そのために、犠牲さえ払わなければなりません。しかるべき人に伝えていただけるよう、私の意見を、王女様にお託しします……」
ルイ=フィリップ国王からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年十二月二十六日。
親愛なる公爵殿、
二十二日のお手紙には、私から、いくらか説明する必要があるように思えます。それを、私自身、急いでお伝えしたいのは、セバスティアニ将軍が重い病気で[326]、私も深く悲しんでおり、将軍は、お手紙も書けず、どの仕事にも取り組めない状態であるからです。また、この大きく、重要なベルギー問題について、私の見方を、あなたに詳しくお伝えしたいと、強く願っているからです。
われわれには、いくつかの非難が向けられています。そのなかで、とりわけ一つは、あなたにも、根拠があると思われるようです。お手紙では、いつものご親切から、私を気遣って、触れませんでしたが、外交報告では、何度も述べていらっしゃいました。ラトゥール=モブール氏をブリュッセルへ派遣したことです。その派遣に、不信の性格があったとしても、私の考えでは、レオポルド国王、あるいはベルギー政府に対してだけのことです。親愛なる公爵殿、あなたに対しては、決してそうではなく、四大国に対しても、そうではありません。あなたについては、私も閣僚たちも、どのような疑いも、不信も、持っていませんでしたし、持ち得ませんでした。四月十七日の議定書は、いわば、あなたの仕事であり、フランスが、それを得たのは、明らかに、あなたのおかげでした。さらに、あなたは、レオポルド国王に、要塞の取り壊しについての約束を含む手紙を求めるという、よい考えを持たれました。それは、ラトゥール=モブール氏の任務の目的と、ほぼ同じことです。しかし、国王が、あなたに送った手紙は、約束というより、何も約束しないという予告でした。ですから、ロンドンで、あなたに与えなかった約束を、ブリュッセルで得ようとしたのは、ごく自然でした。とりわけ、その間に、われわれが、国王に、少しばかり力を貸した後では、そうでしょう。
それは、あなたがレオポルド国王に求めたことと同じく、大国への不信の行為ではありませんでした。ただ、四月十七日の議定書で、大国がわれわれに与えたのと同じ約束を、国王からも得たいと願ったのです。両者は、われわれを入れずに、自分たちのあいだで、条約を結ぶことになっていました。その対象が、われわれに関係しないのは、金銭の点からだけです。ですから、双方とも、同じ約束によって、われわれに結びつけようとしたのです。親愛なる公爵殿、ベルギー問題の全過程でのフランスの行動、とりわけ、ベルギーの要塞からの撤退の仕方を考えれば、われわれには、大国に対し、不信を抱いていると非難しないよう、求める権利もあるはずです。われわれは、望みさえすれば、要塞を何度でも爆破できたのに、そうせず撤退したのです。この点で、私が当然と思う、公正な評価のすべてを、同時代の人々が与えてくれなくても、少なくとも、後世からは得られると、信じています。
また、あなたの外交報告の一つからは、四月十七日の議定書を、大々的に公表しすぎて、問題を損なったと、われわれが非難されていることも、わかります。
ここで、親愛なる公爵殿、思い出していただきたいのです。議会開会演説で、この件に触れると、閣議が決める前に、セバスティアニ将軍は、あなたに相談し、あなたも、われわれと同じく、そうしてよいと考えたのです。私たちは、この発表が、国民の誇りを満たすために有用だと考えましたが、同時に、大国が、その誇りを傷つけたり、フランスの利益を、何らかの形で損なったりしようとしていないことを示すのも、よいと考えました。そして、何よりも、この発表以上に、レオポルド公の選出を、世論に受け入れさせるものはないと、考えました。ご存じのとおり、フランスでは、その選出は、あまり好評ではありませんでした。一般に、公は、イギリスか、神聖同盟の手先でしかないと、見られていたからです。ベルギーでも、同様に、うまくいかなかったでしょう。われわれは、フランスとベルギーに、大国が一八一五年の体制を捨てたことを、示そうとしたのです。ネーデルラント王国の解体は、その体制を成り立たなくするに十分であり、一八一五年の要塞の取り壊し、ベルギー国王のドイツ連邦からの除外とともに、その証でした。親愛なる公爵殿、これらすべてが、平和の維持にも、国内での私の政府の支持にも、ベルギーでのレオポルド国王の政府の強化にも、非常に役立ったことを、私は少しも疑いません。
ですから、要塞の交渉を、今、われわれが嘆く方向へ進ませたのは、これらの行動自体ではありません。トーリー党の反対と、ベルギーの策謀が、同時に、おそらく、結びついて働いたからです。そのことを、イギリスの閣僚たちに感じさせたのは、とてもよいことでした。ヴァン・ド・ヴェイエル氏、あるいはゴブレ氏の条約を、署名されたままの文言で維持するのは、われわれの利益にも、彼らの利益にもかなわないと、それが示すはずだからです。レオポルド国王と、その政府は、なおさら、それを悟るべきです。この不幸な行き違いによって、五大国の会議が十一月十五日に署名した条約を、無効にしてしまえば、彼らは、どうなるでしょう。親愛なる公爵殿、あなたのおっしゃるとおりです。そして、それが、確かにオランダ国王の望みであり、おそらく、ロシア皇帝の望みでもあるだけに、いっそう恐れなければなりません。これこそ、イギリス政府に対し、あなたが、大きな効果をもって主張できることだと、私は思います。十分すぎる根拠を持つ、この懸念を、考え得るかぎり、詳しく示すのに、あなた以上の適任者はいません。
親愛なる公爵殿、イギリス政府も、フランス政府も、戦争に火をつけようなどとは考えておらず、反対に、等しく、平和の必要と、それを保ちたいという願いを感じていると、私は、ためらわず申し上げます。しかし、平和は、ベルギー問題の友好的な解決にかかり、その解決は、フランスとイギリスの緊密な結びつきによってしか実現しません。その結びつきを保つには、それを乱しかねない取り決めを、ほかの国と結ぶ前に、あらかじめ了解し合う必要があります。ところが、ロンドンとブリュッセルでは、要塞について進めていた取り決めを、われわれに隠しました。そのため、今の事態が生じたのです。前の交渉に加わらなかったので、今回も介入してほしくないというのは、自然でした。しかし、結ぼうとしている内容を、われわれに知らせていれば、彼らも、われわれも、今、あなたのあらゆる努力と手段で抜け出さなければならない、困った立場には、置かれなかったでしょう。イギリス政府が、われわれの要求に、何の裏の意図もなく、また、不可能な体制、すなわち、ネーデルラント王国を作った際の体制を、永続させたり、復活させたりしないことだけを求めていると、十分に理解すれば、オランダとロシアからの危険だけに、目を向けるでしょう。そして、レオポルド国王が、将来、五大国のうち四か国とだけ、五か国全体との関係とは異なる関係に置かれないよう、要塞の条約を変更させるでしょう。フランスには、これが、絶対に譲れない条件であるべきです。それ以外は、二次的なことです。
すでに長すぎる手紙ですが、さらに、レオポルド国王の立場を、考えていただきたいのです。四大国のうち第四の国が、この特別の条約だけでなく、国の独立を定め、レオポルドをその国王と認める、五大国の全般的な条約さえ批准しないうちに、国王が、四大国との共同の条約を批准すれば、どうなるでしょう。ですから、事実の必然として、ロシアが十一月十五日の条約に同意するまで、四大国との条約の批准は、行えないと思います。ロシアが同意しないかぎり、五大国のどの国も、もはや批准を求められないのですから、なおさらです。フランスは、要塞の条約が変えられるまでは、どの国にも増して、そうです。しかし、それが変更されれば、フランスとイギリスの共同の働きが、オランダ国王に批准を強い、ロシアも、もはや拒否しないでしょう。要塞について、五大国のあいだに、現実の利害の違いはないので、変更は可能なはずです。この一致がなければ、親愛なる公爵殿、オランダ国王が批准しないだけでなく、レオポルド国王も、ベルギーで地位を保つのに、大いに苦労するかもしれないと、信じてください。私の考えでは、フランスとイギリスの支援と、誠実な一致によってしか、その地位を保てません。私の政府は、その支援と一致を、絶えず与えてきており、今後も続けたいと、強く願っています。しかし、それを可能にしてもらわねばならず、自分たちでも受け入れないことを、われわれに求めてはなりません。
千倍も長すぎる手紙ですが、もう書いてしまったので、送ることにしましょう。封をせず、ペリエ氏へ送り、あなたへ回す前に読んでもらいます。そして、あなたがご存じの、あなたへの私のあらゆる思いを、改めて、心からお伝えします。
ルイ=フィリップ
追伸――要塞に数えられている、あのマリアンブールが、土造りの稜堡を五つ持つだけの、みすぼらしい小城で、面積は、テュイルリーの花壇と同じだということを、ご存じですか。」
カジミール・ペリエ氏からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年十二月二十七日。
公爵殿、
セバスティアニ将軍が、かなり重い病気のため、国王は、私に、臨時に外務大臣の職を託されました。その決定を必要にした、悲しい事情さえなければ、あなたと、継続して公式の連絡を交わす役に、こうして就けたことを、喜んでお祝いするところです。ともかく、この手紙は短くし、われわれの状況の詳しいことには、ここでは触れないのを、お許しください。ただ、本日の審議で、貴族院が、貴族院に関する法律の第一条を、賛成百三票、反対六十七票で採択したことを、お知らせします。明日、もっと詳しく、お手紙を差し上げます……」
ダルベルク公からタレーラン公へ
「パリ、一八三一年十二月二十八日。
親愛なる公爵殿、
あなたの幸福を願う私の思いを、あなたに寄せられるほかのすべての願いに加えずに、新しい年を迎えたくはありません。それが、心からのものであると、信じてください。
貴族院は、予想されたとおり、たった今、自殺しました。ナポレオンの元老院の行為にも並ぶ、臆病さの記念碑です。この件について、つらい意思表示が見られました。貴族たちは皆、このような事態を招いた責めは、国王だけが負うべきだと言っていたのです。いつか新たな危機が起これば、それを制する者は、世襲の原則を掲げることで、リュクサンブールで、大いに歓迎されるでしょう。これは、私の隣の席につこうとした、バッサーノ公が述べた見解です。
ベルギー問題について、ペテルブルクから来た返答に関する、私の見方は、間違っていませんでした。そこや、ベルリンから来た新たな兆候は、別の議定書によって、オランダ国王を満足させたいと思わせます。
内水航行の取り扱いは、オランダ人にとってさえ、受け入れられません。尽きることのない嫌がらせの源になるでしょう。この細かな事情を知るヴェッセンベルクは、どうして見抜かなかったのでしょう。
あなたの上司、セバスティアニは、リュクサンブールの演壇に現れた際の、滑稽な振る舞いがもとで、発作に見舞われたのです。印象を与えようと、ヒキガエルのように膨らんだので、血が頭に上ったのです。世間も外交団も、ペリエ氏が後任になることを望んでいます。ムニエ[327]を、ダルグーと組ませることが考えられましたが、ムニエは、入閣を断っています。
将来への信頼は、ますます失われています。ロシアの外交官たちの言葉が、それに大いに寄与しています。明らかに、ポッツォ将軍は、もう自国政府の秘密を知らないと、見られています。オーストリア人も、遅かれ早かれ、ベルギーをオランダへ戻さねばならないと、言っています。
ペテルブルクにも、ベルリンにも、コペンハーゲンにも、マドリードにも、コンスタンティノープルにも、公使がいないあいだ、フランスの対外的な仕事は、どう扱われているのかと、人々は問うています。これらの国で、まったく保護を受けられないことについて、役所には、不満が増えています。こうしたことを、すべて、知っておかれるとよいでしょう……」
ブレッソン氏からタレーラン公へ
「ベルリン、一八三一年十二月二十九日。
公爵殿、
今月二十日付で、お送りいただいたお手紙を、昨日、受け取りました。ベルンシュトルフ氏とアンシヨン氏には、会えませんでした。しかし、適当と判断すれば、国王に見せられるだけの時間、二人の手もとに、お手紙があるよう手配しました。さらに、それ以上のこともしました。どこへ届いても、よいことしか生まないほど、高く、賢明なお言葉ですので、ロシア皇帝自身にも、最初の段落を除いた抜粋が届くことになります。公爵殿、どうか、お認めいただけると願っています。残念ながら、プロイセン国王が働きかけると決めても、一月十五日までに、ロシア皇帝の決定に、これほど望ましい変更をもたらすだけの時間は、もう残っていません[328]。
プロイセン政府の意図は、たいへん率直で誠実です。外交代表たちが署名した、十一月十五日の重要な取り決めについて、五大国のあいだに不一致がある危険を、サンクトペテルブルクに悟らせるため、何一つ怠りませんでした。それらの申し入れが効果を上げたという望みは、今、わずかしか残っていません。プロイセン国王は、批准の約束を撤回していませんが、ベルンシュトルフ氏とアンシヨン氏は、五大国のうち一国が批准しなければ、条約は無効になると考えています。連帯が、会議のすべての取り決めの基礎であり、ネーデルラント国王の訴えも、アーヘンの議定書に従って、五大国に向けられた、というのが二人の論拠です。それでも、プロイセンの批准を、そのまま与えることが重要だと、私は考えますし、条約の確定した期限までに、あなたへ送られることを願っています。予期しない出来事が、すべてを終わらせる、この取り決めを壊してしまうのであれば、おそらく、アンシヨン氏の提案した、二つの手段に頼らなければならないでしょう。ただ、私が思うには、第二のもの、すなわち、オランダとベルギーは戦闘を再開できないという、五大国の全会一致の宣言こそ、真の出発点とすべきです。そのうえで、第一のもの、あるいは同等のもの、すなわち、二十四か条を基礎とする、オランダとベルギーの条約に向けて、会議が仲介を申し出ることを、試みればよいでしょう。
十月に、アンシヨン氏が、この二十四か条を、私に示してくださった時、私は、直ちに、ベルギー人に内水航行を認める条項を指し、すべての困難が、そこから生じると予告しました。その条項は、ネーデルラント国王と臣民を、近づける効果を持ちました。それ以前は、ベルギー問題で、両者の見方も気持ちも、一致していなかったのです……」
タレーラン公からオルレアン家のアデライード王女へ
「ロンドン、一八三一年十二月三十日。
要塞問題に、休みなく取り組んでいますが、その重要性は、今、誇張されていると思います。この問題は、ブリュッセルで誤った方向を取りました。すべてを損なう疑いと不信が、それぞれに、過度の保証を求めさせたのです。そこから、非難と秘密の議定書が生まれました。ともかく、できるかぎりよい形で、抜け出さねばなりません。グランヴィル卿の指摘と説明は、国王の心を動かしたと思います。しかし、さらに進まなければなりません。もっと事情がわかり次第、国王へ、お手紙を差し上げます……」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三一年十二月三十日。
セバスティアニの発作は、本当に残念です。時には、困ったところもありましたが、よい点もありました。手腕があり、世渡りを心得ていて、私に友好的だったことは、確かです。それは、それなりに大切なことです。よく仕えていた国王には、損失です。貴族院の問題は終わりました。内閣を揺るがすことなく終わったのです。今度は、ベルギー問題を終わらせる必要があります。何と言われようと、われわれは成し遂げるでしょう。私は、セバスティアニのように、ここで死ぬかもしれませんが、ここが私の戦場です。神よ、名誉ある戦場でありますように。あなたのベルギー人たちは、弱く、不誠実で、そのうえ、ルクセンブルクでも負けています[329]。すべて、名誉あることではありません。一月十五日までに、ベルリンの批准書が来ると、今も期待しています。それが来れば、ウィーンのものも、長くは待たないでしょう。ペテルブルクは、遅れて来ることで、その力を示すでしょう。パリでは、それで優雅さを示すのと、同じです……」
タレーラン公からカジミール・ペリエ氏へ
「ロンドン、一八三二年一月二日。
閣下、先月三十日付の、省からの外交報告を受け取りました。本日付の私の外交報告に、公式の返答を記していますが、それに加え、パリから私に書かれた内容の、事実と推論の不正確さに、注意を向けていただくことが、あなたへ寄せる、心からの友情の義務だと思います。また、熱意も、少し出すぎています。局長の筆が、その人自身の考えを語るものになってはならないとも、思います。われわれが扱う種類の問題では、一定の図式を作り上げないことが重要です。政治問題での図式は、すぐに仮定の上へ築かれ、そうなると、道を誤りかねないからです。反対に、文書のなかには、本当にそこにあるものだけを、求めねばなりません。外務省の役所で、常に神聖同盟の企てを仮定しながら、大国の行動を追うことを習慣にすれば、幽霊を作り上げ、最後には、すべてを歪め、混乱させるでしょう。あなたの優れた見識が、監督しておられる仕事を、よりよい方向へ導くはずです。
要塞問題が、はるかに重要な問題の進展を遅らせたことを、私は、たいへん残念に思います。要塞問題は、新聞が取り上げれば、政府にいくらか面倒をかけるかもしれませんが、本質的には、二次的なものにすぎません。遅れたのは、あなたが見事に進め始められた、軍備縮小の問題です。これこそ、どこにも神聖同盟しか見ない人々への、決定的な返答となります。ロシアを含む、すべての政府が、国民の負担を軽くするため、軍を減らしたいと述べているのに、そのような同盟の様子が、どこにあるでしょう。閣下、お許しいただきたいのですが、要塞問題を重く見すぎて、大国が、あなたの入閣以来、敗れたと考えていた急進派に、われわれが、少し迎合しすぎ、気を遣いすぎるように見えないかと、恐れます。四月十七日の議定書で、神聖同盟の旗は、フランスの旗の前に下りました。さらに多くを望むことはできても、求めるのは、よくありません。破壊の原則は、実施され始めています。取り壊しが始まった以上、総じて、われわれは満足すべきです。
どうか、閣下、軍備縮小を、急いで再開してください。それは、あなたのあらゆる成功に、清らかな栄誉を加え、フランスの予算を、見事に軽くするでしょう。脅かされていると思った時には、負担を増やさねばなりませんでした。しかし、最終的な結果に、さほど関わらない取り決めのために、その負担を続けるべきだとは、思いません。ベルギーに残る要塞は、朽ちるか、いつか、われわれのものになるからです。今のイギリスとの関係を保てば、フランスの体制にとって、本当に有益なものは、すべて確かなものになるでしょう。大国は、その関係を壊そうとしています。私は、その努力が失敗することを願い、そう信じています……」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三二年一月二日。
セバスティアニが、正確にどのような状態かを、知りたいものです。一方からは、重い病気だと知らせてきますが、別の人々は、数日休めば回復し、仕事に戻れると言っています。本当はどうなのか、教えてください。私が信じるのは、いつも、あなたです。好きであれば、信じるのです。時には間違えましたが、構いません。私の性分は、そうなのです。パリの人々、とりわけ、われわれの上司たちの頭を、これほど騒がせている要塞問題は、本質的には、二次的なものです。プロイセンとオーストリアの批准書を得て、イギリスと結びつくこと。それこそ、本当に肝心な問題です。あとは細かなことで、遅かれ早かれ、必ず片づきます。要塞取り壊しの原則を得る必要があり、それは得ました。ですから、国王は満足すべきです。十一月十五日の条約への批准を得るため、私は、できることを、すべてしました。届くと期待しています。大きく気にかけているのは、ウィーンとベルリンのものだけです。それが届けば、ほかも譲るでしょう。あなたの愛するオランダ国王も、そうです。私は働きすぎ、毎日書いています。やがて、セバスティアニのように、何か悪いことに見舞われるでしょう。」
カジミール・ペリエ氏からタレーラン公へ
「パリ、一八三二年一月一日。
公爵殿、
ロスチャイルド商会の使者の出発を利用し、大使たちへの返答としての、国王の演説をお送りします。この演説は、われわれの外交関係よりも、平和的です。それでも、ベルギーの要塞について、イギリス政府の方針を変えさせることに、あなたが成功すると、われわれは、今も考えています。プロイセンとオーストリアの批准書は、結局、無条件で得られると思います。
今、イギリス大使を待っています。十一月十五日の条約への批准を、ロシアが遅らせていることについて、イギリス政府がベルリンとウィーンの宮廷へ行った通告を、知らせてもらうことになっています。その通告が毅然として、すでにした約束の実行を、強く求めるものであれば、プロイセン、とりわけオーストリアの決心を促すことは、少しも疑いません。オーストリアの政治方針は、この問題では、イギリスの方針に、より近づいているようだからです。
今日、ブレッソン氏から受け取った外交報告によれば、プロイセンは、あれほどためらいながらも、ロシアが採ろうとしている方針に、最終的に従うとまでは、約束していないそうです。ですから、われわれが、当然の権利に基づいて、固く立てば、この障害を乗り越えられると、思います。
残るのは、必ず変更しなければならない、要塞の条約です。内密のお手紙でも申し上げたとおり、不可欠と考える、その変更を、あなたが得られるよう、われわれの安寧のためにも、ヨーロッパの安寧のためにも、強く願います。付け加えますと、こちらで大使たちに対し、節度を保ちながらも、力強く不満を示した、われわれの態度は、大きな印象を与えたように思えます。
われわれは、自分たちの立場を乱用するつもりはありません。しかし、すべての関係で示してきた率直さと誠実さは、尊重されると期待する権利があります。
公爵殿、どうか……」
フラオー氏からタレーラン公へ
「パリ、一八三二年一月二日。
セバスティアニの回復を、お知らせできると思います。今日は、非常によくなっており、初めには期待することさえできなかったほど、早い快復を願えます。病気は、不都合な時に起きましたが、内閣が変わるとは、思いません。臨時の後任、ダルグーが、事情を把握する時間を得るより前に、仕事へ戻れるでしょう。
十五日までに、あなたに批准書が届かないという噂が広がり、こちらは不安です。そうなれば、たいへん不幸なことで、戦争派に大きな力を与えるでしょう。一度、戦争が始まれば、問題となるのは、何百万かのフローリンや、いくつかの運河の航行ではなく、フランスの破壊か、ヨーロッパのすべての王座の転覆です。こちらの分別ある人々さえ、赤い自由の帽子を先に掲げた棒を、手に取るでしょうから。平和を守るため、あらゆる努力をした後で、外国の政府が、われわれをもてあそび、自国の大使たちのしたことを認めないなら、もはや、剣を抜くほかありません。」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三二年一月五日。
今日、膨大な書類の束を送ります。私が書くのにうんざりした以上に、読むほうも、うんざりするでしょう。国王の心を、あまりに占めすぎている、この要塞問題に、一つの道を見つけました[330]。ブリュッセルの取り決めによって、たいへん難しくされた状況で、得られるものは、すべて得ました。今や、神聖同盟と呼ぶ幽霊を、恐れることはありません。われわれがイギリスと良好な関係にあるかぎり、それは決して存在しないのです。これこそ、われわれの新しい王朝の、真の支えです。イギリスと結びついているかぎり、ヨーロッパでは、すべてが戦争なしに進むでしょう。フランスは、これまで、そのような政治方針を採ったことがなく、その価値を示す役は、国王に残されていたのです。この大きな接近に、私の名を結びつけて、私は経歴を、輝かしく終えるでしょう……」
貴族院議長パスキエ男爵がヴォーデモン公妃に渡した覚書[公妃からタレーラン公へ伝えるため]
「パリ、一八三二年一月四日、水曜日。
タレーラン氏に、次のことを知っていただくのが重要です。
今、首相のところから戻りました。現在の対外問題について、長く話しました。これらの問題での首相の立場は、本当に難しいものです。国内でも国外でも、誰にとっても、首相に留まってもらうことが利益となるので、それを知り、そのように行動するのがよいでしょう。首相は、タレーラン氏に、全面的な信頼を寄せていました。これほどの手腕を示した、この交渉の舟を、港まで導けるのは、タレーラン氏だけだと、よく感じていました。その手腕が、今ほど必要な時は、かつてありませんでした。争われている点は、二つです。批准書と、ベルギーの要塞について、四大国間で署名された条約です。それ自体では、思われるほど重大でないかもしれませんが、効果が同じなら、何の違いがあるでしょう。批准書は、多少早かろうと遅かろうと、届くはずであり、私は疑いません。要塞問題は、実際の利益よりも、自尊心に関わります。しかし、まさに、そのために、本当の重要性を持つのです。条約を、現状のまま認めねばならないなら、今の内閣も、どの内閣も、その承認には耐えられないと思います。あまりに明白な屈辱と見られ、どんな立派な説明も、その印象を消すことはおろか、覆うことさえできないでしょう。ですから、イギリスが、フランスで現体制を固めたいのであれば――実際に、その利益があると、私は思いますが――イギリス内閣は、この点で、何らかの取り決めに応じねばなりません。両国で、この問題が、同じ種類の困難と戦わねばならないことは、疑いません。イギリス内閣は、反対勢力であるトーリー党に気を遣い、フランス内閣は、自由主義派や共和主義派の反対勢力に気を遣います。しかし、勝負は対等でなく、こちらの状況は、はるかに危険なのです。
タレーラン氏は、すでに莫大な功績を挙げました。しかし、私の考えでは、今、期待されていること以上に、大きな功績は、今後も挙げられません。それが、ほかのすべてを、確かなものにするからです。その仕事とは、要塞について、新たな取り決め、とりわけ、取り決めの新しい形を、もたらすことです。私の考えでは、その内容が何であれ、五大国が同意し、署名することが、不可欠です。そうでなければ、こちらでは、いつまでも侮辱と見なされ、爆発が起こるでしょう。実際、フランスが、いくつかの要塞の取り壊しを求めるとき、その要求を、誠実さの証と見ようと思えば、十分にそう見られます。ひとたび関係が断絶すれば、これらの要塞が、フランスの手に落ちるのは明らかであり、フランスには、取り壊すより、強化されているほうがよいからです。
ですから、それ自体では、これほど無意味な問題を、関係断絶の原因にする前に、よく考えるべきです。反対に、解決してしまえば、その後、フランスとイギリスの、きわめて緊密な結びつきを妨げるものは、見当たりません。両国は、その利益を、まもなく感じるでしょう。
この仕事を進めるために、タレーラン氏は、すでに、これほど多くをなさいました。完成させてくださると、期待すべきです。そうでなければ、それ以上のことは申さぬにせよ、大きな困難が見えてくるのを、避けられません。」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三二年一月七日。
五日のお手紙と、それに添えられたパスキエ氏の手紙を、受け取りました。こちらでは、会議のたびに、モブール氏の任務を、私に突きつけてきます。それには、たいへん困っています。決まって、こう言うのです。『都合のよい時は、われわれを使い、自分たちのためになると思えば、別に仕事をするのですね』。これでは、信頼は築けません。理解されていないように見えることを、説明するため、テリエ氏をパリへ送ります。あまりに書き、口述し、話し合ったので、力が尽きました。要塞は、取り壊しの原則が採用された以上、よく理解しようとすれば、たいへん小さな問題です。実際、誰も重きを置いていません。自尊心だけが、かなり愚かに、関わっているのです。戦争がなければ、誰も修理しないので、要塞は崩れます。戦争があれば、われわれが奪います。それが真実です。覚書をくださった人に、よろしくお伝えください。」
ブレッソン氏からタレーラン公へ
「ベルリン、一八三二年一月七日。
公爵殿、
今、メッス経由で、次の報告を腕木通信によりお送りしました。
『プロイセンは、明日、ロンドンへ送る批准書を、ほかの大国が、例外なく批准した場合にのみ、交換する』。
プロイセン政府は、たいへん困っています。ロシア皇帝が、無条件で批准することを、確かに望んでいたはずです。今は、皇帝に対しても、われわれに対しても、立場を危うくしたくなく、会議の決定の性質についての、自分たちの解釈に、守られると考えています。最初から、十一月十五日の条約を、よしとはしていませんでした。それでも、政策と国王の気質を特徴づける、平和への愛から、批准するつもりでした。留保は、二つだけにするはずでした。第一は、ルクセンブルクに対する、ドイツ連邦の権利です。第二は、プロイセンが、ネーデルラント国王に対する、積極的な強制措置には、決して参加しないことです。そこへ、ペテルブルクの拒否が届き、プロイセンとオーストリアにも、同じようにするよう、強い求めがありました。応じそうだったのかもしれません。しかし、私は、直ちに、そのような場合には、わが政府は、二十四か条で定められたとおりのベルギーを、自らの保障のもとに置き、オランダも、ほかのどの大国も、それに触れさせないと、公然と宣言するほかないと、述べました。すると、より慎重な検討がされ、多くのためらいの後、曖昧な方針が採られました。それは、パリへ報告しており、あなたにも、腕木通信で、要約をお伝えしたものです。
ロシア皇帝は、プロイセン政府を、激しい決定や、敵対的な措置へ引き込むことには、成功しないでしょう。こちらでは、現状から得る利益のすべてを理解し、保ちたいと思っています。ビューロー氏は、交渉の決裂や、一国あるいは数か国の離脱を防ぐ、あらゆる折衷案と方策に応じるよう、指示されると、私は確信しています。アンシヨン氏は、はっきりと、プロイセン国王は、自らをヨーロッパの平和の守り手と考え、その政治方針は、すべて、公平さと防衛に基づき、自国の権利を尊重する国の権利を、常に尊重すると、私に述べました。
あなたの手もとには、批准書が届きます。国王が署名していますが、ほかの大国のすべてが、批准書を持ってくるまで、交換は延期されます。公爵殿、ご希望のとおりではありませんが、それでも、大きなことです。ロシア皇帝は、拒否の立場で孤立しており、もっと従ってもらえると、期待していたのです……」
パーマストン卿からタレーラン公へ
「スタンホープ・ストリート、一八三二年一月三日。
親愛なる公爵殿、
エステルハージとヴェッセンベルクが、宮廷から受け取った通告について、今、私にした報告は、あなたの政府がアポニー伯爵から受け取ったと考えているものに比べれば、ずっと穏当な内容です。ウィーンの宮廷は、会議が、オランダとベルギーのあいだを仲裁せざるを得なかったことを認め、二十四か条に示された仲裁を承認しているようです。また、これらの条項は、ベルギーが受諾した以上、ベルギー政府と五大国との厳粛な協定をなすと、考えています。条約は、実際、その条項にほかならないので、ウィーンの宮廷は、批准を決めています。ただ、ロシアの宮廷を同調させることを期待して、今のところは、批准を延期したいというのです。
ご覧のとおり、これらすべては、オーストリアが、ロシアとプロイセンの名において行った、公式の宣言のようには見えません。
あなたの宮廷が、十二月十四日の協定を好まないという理由で、十一月十五日の条約への批准を拒もうと考えているのは、たいへん残念です。しかし、完全に異なる、別々の二つの取り決めを結びつける、正当な理由が、どうして見つかるでしょう。あなたの行動を否認し、召還することなく、どうして批准を拒めるでしょう。そして、常にフランスへの疑いを、われわれに抱かせようとしてきた人々に、どれほどの勝利を与えるでしょう。政府間の厳粛な取り決めを、これほど軽く扱うやり方は、今後、フランスを相手にする人々に、信頼を与えるのに、適しているでしょうか。しかし、この不快な問題について、すでにあなたの心に浮かんだはずの、考慮すべき重大な事柄のすべてを、私から申し上げる必要はないと、確信しています……」
パーマストン卿のこの手紙から、いくつかの要塞の取り壊しに関する、十二月十四日の協定について、フランス政府の要求を満たそうとする私が、ロンドンで、どのような抵抗に遭っていたかを、判断できる。しかし、私は、協定を解釈する議定書という形で、いくらかの譲歩を得ていた。それを、大使館の一等書記官、テリエ氏を通じ、パリへ送った。同時に、詳しい説明も託した。この新たな交渉の試みの結果は、続く手紙によってわかるだろう。
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三二年一月十日。
私がした説明と、テリエ氏の携える説明のすべてによって、わが政府が、イギリスとの良好な関係を保つ決断へ、導かれることを願っています。十八か月、私が取り組んできたのは、それであり、それが、われわれを救うからです。私の考えでは、批准は遅れるでしょうが、拒否されはしません。一度、届いて、交換されれば、しばらくは、物事を自然に任せておくべきでしょう。残るのは、ギリシャ国王を選ぶことだけです。どなたか、心当たりはありますか。今の状況のギリシャには、長所も短所もある王が必要だと言われています。そのため、私が聞くところでは、ヴュルテンベルクのパウル公が、少し考慮されたようです。公には、その両方があります。長所が少しばかり、学識、機知、どれも、まずまずです。そして、短所は、ふんだんにあります……」
「ロンドン、一八三二年一月十二日。
一時間前、十日のお手紙を受け取り、そこにある情報を、たいへん注意深く読みました。問題は、今、こうなっています。三十一日には、確実に、オーストリアとプロイセンの批准書が届きます。ロシアのものは、もっと後になりますが、交換のために、それを待つことはしません。
この点が実現すれば、オランダは、いくらか説明を始めるでしょう。われわれは、できることを、すべてします。実際、すべてを収め、終わらせたいのです。困難は、ベルギーからは来ません。二重の策謀で、いつも自分の問題を厄介にする、フランスからしか来ません。事実、ラトゥール=モブール氏のブリュッセルでの任務、そして、八月二十九日の議定書を生んだ、セバスティアニとグランヴィル卿との協議がなければ――その議定書は、パリから、私に知らせることさえされませんでしたが――抜け出すのが、たいへん難しい、この一連の困難には、至らなかったでしょう。
この議定書は、私の作ったものではありません。四大国が作り、グランヴィル卿を通じて送り、卿がセバスティアニへ渡したものです。私は、その存在を、十二月末に、ベリアールが書いてきた手紙で、初めて知りました。これが、仕事をし、進めるということでしょうか。すべてを混乱させてから、私のところへ戻ってくるのです。もう、うんざりし始めています。それでも、最後まで進みます。自分が引き受けた問題を、きちんと終わらせたいのです。その後で、壊したいなら、壊せばよいでしょう……」
私がロンドンから、このような趣旨の手紙と外交報告を書いていたあいだ、パリからは、次のものが送られてきた。
カジミール・ペリエ氏からタレーラン公へ
「パリ、一八三二年一月九日。
公爵殿、
この手紙と同時に届く、私の公式の外交報告には、十二月十四日の条約と、四大国の大使たちから、あなたが受け取った外交文書による、不十分な修正が生んだ、重大な難題への、さまざまな解決策を記しています。国王の政府が、あらかじめ条約が変更されないかぎり、十二月十四日の条約に定められた原則への同意を意味する、批准書の交換に応じられない、その理由を詳しく説明するには、外交報告は適しません。そのため、兄弟のカミーユ[331]に、あなたのところへ行くよう頼みました。私との話し合いで、問題を理解しており、私が、すでに申し上げたことを確認するでしょう。大国が、批准書の交換についての方針を、あまりに長く、世論に明らかにしないという、重大な過ちを犯した、その悪い影響についてです。また、この慎重さを要する交渉を終わらせる文書には、国の名誉に関わることを、当然にも深く気遣う国民の目に、非の打ちどころのない形を、与える必要についてです。
今朝、グランヴィル卿と話し合った際、私は、両国民を結ぶ絆を強め、七月革命以来、双方の利益を一致させてきた政治方針を、守り続けるという、国王の政府の意向を、改めて伝えました。しかし、十二月十四日の条約を受け入れられない理由も、説明しました。内密の話は、それによって生じた新たな難題を解く方法にまで、及びました。卿から、その方法への異論は、一切ありませんでした。ですから、あなたは、イギリス政府の協力に、その一つを受け入れさせるための、有効な支えを見つけられると、期待しています……」
カジミール・ペリエ氏からタレーラン公へ
「パリ、一八三二年一月十一日。
公爵殿、
テリエ氏を通じて、お送りいただいた外交報告を、強い関心をもって受け取りました。私の兄弟に託した外交報告は、私が今、書いている時点で、あなたの手もとに届いているはずです。それによって、要塞に関する十二月十四日の条約が、ロンドン政府と、われわれの政府にもたらす困難から、どう抜け出すかについて、われわれの考えが、いわば、一致していたと、おわかりになったでしょう。この重要な問題を、あなたが終わらせられるよう、強く願っています。
公爵殿、本日付の、私の公式の外交報告では、兄弟の携えたものより、さらに裁量をお任せしていることが、おわかりになるでしょう。結局、私がお送りした議定書で示したとおりに、終わらせられないのであれば、あなたの第二百九十一号の外交報告で提案された、方策で満足することにしたからです。ただ、公爵殿、宣言の全内容が、われわれのお送りした議定書と同じく、明瞭で、明確であることは、不可欠です[332]。ベルギー王国と、その国王は、独立と中立を承認した、五大国の取り決めより前でも後でも、あらゆる約束から、完全に自由でなければなりません。正しかろうと、間違っていようと、国は、それを求め、望んでいるのです。この点で譲れば、味方も敵も、誰もが、われわれを見捨てるでしょう。問題の実質については、相応の重要性しか、置いていません。四月十七日の議定書の範囲に入らない、フィリップヴィルとマリアンブールを除けば、どの要塞が壊されるかは、さほど重要ではありません。しかし、四大国が、取り壊すべき要塞を定めた後は、その要塞に対し、引き続き権利を持たないことが必要です。十一月十五日の条約に署名した、五大国が共同で持つ場合は、別ですが。
わが国と、わが政府のために、この件の成功を、待ちわびます。しかし、たとえ、三大国が直ちに批准しなくても、フランスとイギリスが、双方の批准書の交換によって一致すれば、それで十分です。その決断の心理的な効果が、戦争を招きかねない、本格的な衝突の考えを防ぐからです。フランスとイギリスが一度一致すれば、ほかの政府が、この二大国の決定に同意しないのは、不可能とまでは言わずとも、難しいことが、誰にも明らかとなるでしょう。
公爵殿、われわれのイギリスに対する政策が、あなたのものと、完全に一致することは、すでに申し上げましたので、繰り返しません。いくらか詳しく話したテリエ氏に、その点を、はっきりと、改めてお伝えするよう託しました。そして、われわれが、明確に発表した軍備縮小の方針へ、率直に進めることが、ヨーロッパにも、われわれにも、どれほど急務かを、伝えさせます。すべての大使が、十一月十五日の条約に対する、自国政府の批准は、形式だけの問題だと、この上なく明確に保証した、その約束を信じて発表したのです。各国、とりわけオーストリアとプロイセンに、悪意がないことは、今も信じたいと思います。しかし、何度も保証したとおり、心から平和を望むなら、定められた時期に批准せず、それによって、平和と軍備縮小の方針を取る、わが内閣の権力と信望を揺るがしたのは、非常に大きな過ちです。われわれとイギリスのあいだで、要塞の難題が消え、批准書を交換できれば、われわれは、もう一度、この危険を防げます。わが公債の下落と、人々の心に広く漂う不安が、危険の切迫を、私の説明以上によく示すでしょう。
公爵殿、われわれの運命は、あなたの手にあります。国の平和と、世界の文明がかかるかもしれない交渉を、完結させるため、あなたの高い英知と愛国心に、留保なく信頼しています。国王陛下と私だけが読んだ、パーマストン卿の手紙を、テリエ氏に渡します。
敬具……。
カジミール・ペリエ
追伸――兄弟が、まだあなたのところにいるようでしたら、どうか、よくしてやってください。」
ルイ=フィリップ国王からタレーラン公へ
「パリ、一八三二年一月十一日。
親愛なる公爵殿、今、テリエ氏が携えてきた、八日のお手紙を受け取りました。五日のお手紙は、二日前に届いていました。あなたに会い、お話を伺い、私の話も聞いていただければ、たいへん嬉しかったでしょう。しかし、来られなかったことを、ずっとよかったと思います。この天候で、それほどの旅をする疲労や不便に加え、ペリエ氏が兄弟に託して送った外交報告が届いた時、あなたがロンドンにいないのは、本当の不幸だと考えたでしょうから。
その外交報告が、あなたのご不安を鎮め、そこにある提案は、すべての難題を解き、嘆かわしい十二月十四日の条約によって、五大国が互いに置かれた、誤った立場から抜け出させるものと、お考えになったと思います。私は強くそれを望み、イギリス政府も、私と私の政府が、この結びつきを友好的に保つことを、重んじている、新たな証と見たことを願っています。それは、ヨーロッパの平和と、社会秩序の安定を、最もよく保証するものです。ネーデルラント国王の古い約束を、ベルギー国王が引き受けず、今後、その立場、関係、約束が、五大国のすべてに対して、まったく同じものとなり、どの大国も、要塞と領土に、特別な宗主権を持たないよう、条約を整えましょう。そうすれば、イギリスとの結びつきも、したがって、全体の平和も、もう何ものにも乱されません。親愛なる公爵殿、フランスが望むのは、それだけだが、それは確かに望むのだと、断言していただけます。ペリエ氏も、さらに詳しくお伝えしていることは、承知しています。これほど正当で、単純で、穏当な要求に、ほかの何かを読み取り、疑いを起こす口実を探し、われわれに裏の意図があると非難しようとするのは、本当に奇妙です。われわれ自身の提案が、その意図を明確に否定しており、私と政府のすべての行動だけでも、その非難を退けるに十分だったはずだと、あえて申します。そもそも、この条約の署名を、われわれにも関わる十一月十五日の条約への署名の、絶対に譲れない条件としながら、内容を秘密にした人々が、われわれを疑う権利があると思うとは、実に奇妙です。少なくとも、われわれの側のものではない不誠実さが、われわれの求める信頼を損なうとは、奇妙なことです。イギリスは、その信頼の証を、こちらから、これほど多く得たように思えるのに。
さらに言えば、今のイギリス政府のベルギーに関する考えが、われわれと完全に一致すると、確信していたからこそ、要塞の交渉では、すっかり安心していたのです。イギリス側には、何の不安もなかったからこそ、四月十七日の議定書以外の約束を、得ようとしませんでした。一方、これまでの経緯から、ベルギー政府には、同じ信頼を持てなかったからこそ、特別な保証を求め、ラトゥール=モブール氏を送ったのです。その任務は、わざと大々的に公表し、グランヴィル卿と、サー・ロバート・アデアにも、詳細をすべて知らせました。二人は、われわれの要求を事前に知り、ベルギー国王に求める約束の形式と文言も、二人と合意しました。その約束は、二人が十分に承知し、さらには承認して結ばれたのです。その承認がなければ、レオポルド国王は、署名しなかったでしょう。
親愛なる公爵殿、正直なところ、その任務が起こした疑いについて、あらゆる説明を受けても、なぜ疑いが生じ得たのか、まだわかりません。しかし、過去はそこまでにして、現在と将来だけに取り組みましょう。
われわれは、ベルギーの策謀に助けられた、トーリー党の攻撃への恐れが、十二月十四日の条約の形式と文言を決めたと、確信しています。今のイギリス政府は、神聖同盟のあらゆる方針を捨てており、ベルギーをフランスに対する軍事的な足がかりにする方針にも、同じく賛成していないと、信じています。その方針に代わったのは、われわれも採用した、この新しい国家の永久中立と独立という、はるかに賢明な方針でした。
ベルギーの独立と中立という、この方針を、誠実に、十分に、完全に実行すること。それだけが、われわれの要求し、望むことです。フィリップヴィルとマリアンブールについても、何についても、裏の意図はありません。この二つの要塞には、少しの重要性も置いていません。フランスにとっての価値は、そこに結びつく記憶だけです。その記憶には、もっと配慮すべきであり、苛立ちの種にするべきではありませんでした。私の政府には、その苛立ちを鎮める以外の意図はなく、もっぱら、その目的で、この件を口にしました。要求はしたが、それが、全体の平和という大きな目的を妨げるとわかったので、取り下げたと言えるようにするためでした。実際、ご存じのとおり、その後、少なくとも、われわれからは、ロンドンでもブリュッセルでも、問題にしていません。ほかの多くの人は、逆の意味で、それを問題にしたと思いますが。十二月十四日の条約は、その十分な証拠です。
フィリップヴィルとマリアンブールの記憶を呼び起こすことは、何であれ、避けるよう気をつけていました。そのため、フランス軍がベルギーへ入った時、ジェラール元帥には、この二つの要塞を占領することを、禁じていたのです。
親愛なる公爵殿、パーマストン卿に、私からよろしくお伝えいただき、私個人も、政府も、この方針を採っていると、お話しください。さらに、卿の気を害さずにできるのであれば――それは、とりわけ避けていただきたいのですが――こう付け加えていただけます。ほかの新聞と同じく、私が読んでいない『ナシオナル』の主張を知ったのは、あなたの外交報告によってだけであり、その新聞は、私個人と政府の、最も執拗な敵なのです。もし卿が、今後も、その内容を報告させたいのであれば、『ナシオナル』『トリビューヌ』その他からの抜粋は、常に逆の意味に受け取るためであってほしいと思います。
親愛なる公爵殿、あなたへの、昔からの友情は、変わらず、心からのものであると、改めてお伝えします。
ルイ=フィリップ」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三二年一月十四日。
プロイセンの批准書が届きました。今朝、ベルリンの使者が持ってきました。これで、ベルギー問題は、強力な同意によって、固められました。オーストリアの批准書は、来週、こちらに届くと見られており、遅くとも、今月末までには来ます。大きな仕事が済みました。この難しいベルギー問題が、戦争なしに終わると、信じなければなりません。平和には、情念を和らげるという、その役割を果たさせるべきです。急進派は、平和によって、騒動を起こす手段の大半を、失うでしょう……」
「ロンドン、一八三二年一月十七日。
……要塞の取り壊しについて、パリから求められた説明を、出させようとしています。満足のいくものが得られると思いますが、非常に難しいことです。始め方を誤り、二か所で進めようとした問題が、どうなるかは、ご存じでしょう。こちらでは、作るより、修復するほうに、苦労しました。昔、使われた、『策士』という言葉が、よく頭に戻ってきます。しかし、それで折り合いをつけなければなりません。変えられない性分だからです。気の毒なセバスティアニも、そう生まれついていました。とはいえ、かなりの才気はあるのです。予算への強い攻撃が、準備されているというのは、本当ですか。誰もが、内閣が有利に切り抜けることを望むべきだと、私は願い、信じています。秩序を取り戻すため、ペリエ氏の性格の強さと能力のすべてを、われわれ皆が必要としているからです。国王は、どうしても、氏を必要としています。こちらでは、誰もが、その意見です。ペリエ氏が内閣から外れれば、すべての大国は、新たな体制になると考えるでしょう。議会は今日、再開しますが、重要なことは、来週までありません……」
「ロンドン、一八三二年一月十九日。
すべての政府が、少し、われわれに近づき、批准書も届くと思います。いくつかが、多少遅れても、決定は変わりません。遅れを起こしたのは、ほかの何よりも、オランダ国王への気遣いです。要塞について、わが政府が望むことは、実現できると思います。最も神経質な人でも、非難できない説明を、得られるでしょう……」
「ロンドン、一八三二年一月二十三日。
カミーユ・ペリエ氏は、今夜、パリへ戻ります。満足させるだろうと、私が考える文書を、持ち帰ります。十五日間、続けて努力した結果です。私は、あまり好きではない、この上なくしつこい粘り強さを使いましたが、成功しました。それ以上を得る方法は、何もありませんでした。正直に言えば、働きすぎています。しかし、名誉を保って、やり遂げるでしょう……」
カミーユ・ペリエ氏が、パリへ持ち帰ったものを理解してもらうため、四大国とベルギーとのあいだの、要塞に関する、一八三一年十二月十四日の協定の抜粋を、ここに載せなければならない。その協定の、最も重要な第一条だけを引用する。
「第一条――ベルギーの独立と中立が、この国の軍事的状況と、防衛のために利用できる手段に、変化をもたらしたことから、締約国は、一八一五年以降、全額、または一部を、オーストリア、グレートブリテン、プロイセン、ロシアの宮廷の費用によって、ベルギーに築き、修復し、拡張した要塞のうち、今後の維持が、無益な負担にしかならないものを、取り壊すことで合意する。
この原則に従い、メナン、アト、モンス、フィリップヴィル、マリアンブールの、すべての要塞施設を、以下の条項で定める期限内に、取り壊す。」
続く条項は、取り壊しの方法を定めている。
フランス政府は、この条項の文言に、取り壊す要塞への、現在と将来にわたる、特別な保護監督権を、四大国が宣言し、フランスが、その権限から外されたと、読み取ろうとした。そのため、私は、この点の不確かさを、すべて終わらせる、明確な宣言を、これらの大国の全権代表から得るため、強く求めねばならなかった。
果てしない努力の後、私は、次の宣言を採用させることに成功した。一八三二年一月二十三日付である。
「オーストリア、グレートブリテン、プロイセン、ロシアの各宮廷の全権代表は、先の十二月十四日の協定の、批准書の交換に際して、次のとおり宣言する。
一、ベルギーの政治的状況の変化による、先の十二月十四日の協定の規定は、同協定に記された要塞に対する、ベルギー国王陛下の、完全な主権を留保し、また、ベルギーの中立と独立を留保してのみ、解釈でき、また、解釈されねばならない。この独立と中立は、五大国によって、同じ資格と権利で保障されるものであり、その点で、五大国とベルギーのあいだに、同一の結びつきを定める。
二、第五条に述べる金額は、精算のためにだけ記されている。各宮廷の意図は、精算に残額があれば、第一条に記された要塞の取り壊しのため、ベルギーが負担する支出を、その残額で軽くすることである。
三、最後に、第六条で四宮廷が行った留保は、第二条と第三条にのみ関わるため、取り壊す要塞にのみ適用される。
上記三点についての、この宣言によって、オーストリア、グレートブリテン、プロイセン、ロシアの各宮廷の全権代表は、十二月十四日の協定の、すべての条項が、五宮廷によってベルギーに認められた、独立した中立国の性格と、完全に一致することを、疑いの余地なく明らかにする。」
カミーユ・ペリエ氏が、パリへ持ち帰ったのは、この宣言であり、ようやく、十分に明確であると、認められた。
カジミール・ペリエ氏からタレーラン公へ
「パリ、一八三二年一月二十三日。
公爵殿、あなたの公式の外交報告、とりわけ個人的なお手紙によって、われわれの権利に、そして、あえて言えば、威厳に反する、十二月十四日の協定について、求めた修正を得られる見込みがあると知り、大いに満足しました。
ヴァン・ド・ヴェイエル氏は、今ごろ、自国政府から、きわめて明確な指示を受けているはずです。われわれを、当然にも傷つけた条項を変更していただけるよう、あなたと協調するよう命じています。
ですから、公爵殿、十一月十五日の条約の批准書の交換を妨げていた障害を、取り除けることを願っています。それらは、われわれがお送りした議定書のひな形で、指摘したものです。すべての点について、完全な満足を得られなければ、批准できないことを、その際、この上なく明確にお伝えしました。
公爵殿、今や、われわれの困難のすべてをご存じです。お知らせくださった見込みのとおり、それが、われわれの希望と指示にかなう形で解決されたなら、今月三十一日に批准書を交換することに、何の支障もありません。あなたが果たすのは、莫大な功績となり、ヨーロッパは、あなたに、さらに恩を負うことになるでしょう。
イギリスとわれわれだけが、ほかの大国より先に批准するのであれば、航行について、オランダとベルギーの和解の道を、すべて閉ざさない手段を、残しておく必要があると思います。とりわけ、イギリスが、いつか、十一月十五日の条約への、われわれの署名を、絶対に譲れない条件として持ち出し、変更への越えられない障害にできないように、する必要があります。その変更だけが、今のウィレム国王の立場で、反対のために持ち出せる、唯一の合理的な口実なのです。
公爵殿、ほかの政府に対して、批准を、あまり大きなことにしないという、ご意見には賛成します。しかし、この行動は、彼らに考えさせるでしょう。われわれは、彼らから離れたくはありませんが、それでも、彼らなしに進めることを、示すのはよいことです。おっしゃるとおり、われわれとイギリスとの、このような一致は、実際には、攻守同盟であることを、彼らは見逃さないでしょう……」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三二年一月二十七日。
イギリス内閣は、アバディーン卿の攻撃を、たいへん見事に切り抜けました[333]。返答したグレイ卿は、演説に、フランスにとって、とてもよいことを織り込みました。ウェリントン公は、アバディーン卿を支持しましたが、卿がすべて破った礼節を、きちんと守りました。どうか、社交界の小政治家たちの話など、聞かないでください。実際、われわれの体制を固めるものは、イギリスとの結びつきから生まれるのであり、ほかからではありません。私の政策は、すべて、それに尽きます。
カミーユ・ペリエ氏を通じて送った、すべてについての知らせを、待ちわびています。私の求めることは、実行されると思います。三十一日より前に、批准書を受け取る必要があります……」
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ
「パリ、一八三二年一月二十九日。
親愛なる公爵殿、二十三日のお手紙に、急いでお礼を申し上げます。この長く、苦しいベルギー交渉の、最も大きな難題が乗り越えられたと知らせてくださり、どれほど嬉しかったかも、お伝えしたいのです。心から一緒に喜びますし、あなたにお祝いを申し上げるのが、当然です。確かに、ベルギー問題が、このような形で終わったのは、美しく、大きなことです。残念ながら認めねばなりませんが、ベルギー側の協力が、それほど悪かっただけに、なおさらです。この最後の難題は、彼らが作ったもので、あなたにとって、どれほどのものだったかは、よく理解できます。小さな虚栄心、お望みなら、国民のうわべの名誉心と言いましょうが、それが少し傷つくことには、あなたのお言葉、『これ以上、何も得られなかった』を繰り返して、慰めを得ねばなりません。確かに、フィリップヴィルとマリアンブールは、戦争をするに値しません。肝心なものは得られた。それが真実です。あなたの熱意と手腕のおかげです。
お伝えくださったとおり、来月が、あなたのお仕事の、最後の区切りになることを、期待し、強く願っています。親愛なる公爵殿、ご自身をいたわり、少しお休みになる必要が、大きいことは、わかっています。これほどの精神的、肉体的な疲労に、ご健康が、それほどよく耐えたのも、見事なことです。これからは、成功と、愛するフランス、そして、同じく休息を必要としている、愛する国王にもたらす、幸いな成果を、楽しむだけでよいようにと、心の底から願っています。
セバスティアニは、ずっとよくなり、すっかり元気です。今、難しいのは、十分な期間、療養させ、早く仕事に戻りすぎないようにすることです。回復を確かなものにするには、それが、とても重要だと思います……」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三二年一月三十一日。
今夜、フランスの批准書を、ベルギーと交換しました。すばらしいのは、イギリスも、私とまったく同じく、ベルギーと批准書を交換したことです。これで、問題が一つ、きちんと終わりました。イギリスとフランスが、同時に結びつくとは、私が期待することさえためらった以上のことです。今度は、辛抱しなければなりません。あとは来ます。何も要求せず、勝ち誇りすぎず、イギリスが、明日、大小すべてのトーリー党員から責められる、その行動で、困らせないことです。われわれとの結びつきが、イギリスに望む以上の行動をさせているとは、気づかせないようにしましょう。慎重さと振る舞いの問題です。イギリス内閣を気遣う必要があります。こちらで、大きな困難を抱えているのです。私の考えでは、プロイセンとオーストリアの批准書は、長く待たされないでしょう[334]。ロシアのものは、もっと後になりますが、来ます。それが済めば、オランダを待ち、その言うことは、誰にも影響しなくなります。スペインは、かつて、まったく同じような承認に、八十年かけましたが、ヨーロッパは、別に自分の仕事を進めており、妨げられませんでした。フランス国内のことは、何も知りません。あまりよい様子には見えませんが、国外では、今、われわれの行ったことによって、国王が望まれたはずの、しかし、あまり期待はできなかった立場に、置かれたことは、知っています。
これは、不干渉を唱え、戦争を叫び、信じていた小物の紳士たちを、さぞ驚かせ、怒らせるでしょう。われわれは、とてもよい形式を採りました。議定書を、後から参加できるよう、開いたままにしておくことです。それも、ロシア、プロイセン、オーストリアの提案によります。テュイルリーでは、この議定書の文言に、満足すべきです……」
ルイ=フィリップ国王からタレーラン公へ
「パリ、一八三二年二月四日。
親愛なる公爵殿、
若いころ、ダヴォー伯爵の才能と、ウェストファリア条約の交渉の、長さや難しさについて、よく耳にしました。それは、外交の幼年期でした。ロンドン会議の十五か月、五大国の全権代表が、いつも一致して署名した、五十五の議定書は、才能と、克服された困難について、それ以前の何ものよりも、堂々とした光景を示すと、私は思います。七月革命を経て、この大きな危機を、フランス国内の平和を乱さず、ヨーロッパも、脅かしていた大火の餌食にせず、ようやく今、得る成果へと導いたことは、あなたにも、私の閣僚たちにも、そして、あえて言えば、私にも、誇らしいこととなるでしょう。
親愛なる公爵殿、フランスとイギリスの批准書が同時に交換されたことで、残る三国の交換も保証されるという、あなたのお考えを、私も共有していると、おわかりでしょう。両国が一致すれば、ヨーロッパで戦争を恐れる必要はないというのは、ほとんど決まり文句となりました。私は、両国とも、国の名誉も政治的利益も、何一つ失うことなく、了解し、一致できると、ずっと信じていました。しかし、両国民が、その一致を承認するには、政府が、それらを何も犠牲にしなかったことを、明らかにする必要があるとも、信じていました。親愛なる公爵殿、だからこそ、交渉のいくつかの点について、私は、何度も強く主張したのです。政府には、それを正そうとする、大きな理由がありました。今、その努力と、あなたの努力には、成功の冠が与えられました。われわれ皆に向けられた、あらゆる罵倒への、最もよい返答に違いありません。
親愛なる公爵殿、ほかの大国の批准書が、あまり遅れずに届くことを、強く願っています。われわれと同じく、彼らの利益でもあるからです。交換の完了こそが、信じない人々のすべてに、戦争と動乱への期待を捨てねばならないと、納得させます。それによって、現体制の安定と、それを倒そうとする、彼らの努力の無力さを、悟らせるのです。
親愛なる公爵殿、あなたへの友情のすべてを、いつも、心から、改めてお伝えします……」
タレーラン公からオルレアン家のアデライード王女へ
「ロンドン、一八三二年二月六日。
王女様、どうか、ご様子をお知らせください。二月二日の夜は、不安の夜だったはずです。危険[335]が知られた時には、すでに去っていたとはいえ、たいへんつらい時間を、お過ごしになったでしょう。皆様が、よいことをすることしか、お考えにならないのに、一歩ごとに、難題と、あらゆる種類の陰謀に出会うのは、あまりに厳しいことです。私は、何も知らずに心配しています。誰も書いてくれません。王女様、あなたにとって、これほど大切なことについて、まったく何も知らないままに、私を置かないでください……」
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ
「パリ、一八三二年二月七日、月曜日。[訳注12]
親愛なる公爵殿、
ベルギー、イギリス、フランスのあいだの批准書の交換が済んだ、その直後、午前二時に、すぐ、お手紙を書いてくださったのは、本当に、ご親切で、ありがたいことです。どれほど深く心を動かされたか、言い尽くせません。心から、お礼を申し上げます。このよい、重要な知らせは、愛する国王が受けている、卑劣なシャルル十世派と共和派の陰謀による苦痛を、少し慰めるのに、ちょうどよい時に届きました。両派は、今、策謀と、その罪深い目的で、完全に一致しています。神のおかげで、実行の初めに止められた、あの不合理で、忌まわしい陰謀については、新聞でご存じでしょう。今回は、警察が、見事に働きました。パリには、少しの騒ぎも起こさず、すべてを行ったのです。二日の、われわれの大舞踏会のあいだに、起きたことでしたが、舞踏会は、それでも午前五時まで続きました。会場では、その夜、何か暴動の試みがあると予想されている、と小声で言われていました。しかし、これほど重大だとは、思いもしませんでした。王妃と私が舞踏会から退出した、三時になって初めて、この武装した一団が、たった今、逮捕されたと知りました。彼らには、もう街頭で暴動を起こすことができません。住民が望まないからです。そこで、ナポレオンの時の爆殺装置のような、陰謀や、恐ろしい行為に出るのです。百十人が逮捕され、皆、武器を手にしたところを捕らえられました。ですから、今回は、彼らの善意に、疑いの余地はありません。これが、よい結果につながると願い、政府に有利になると、確信しています。国王の落ち着きと冷静さは、見事です。正直に言うと、私は、いつも、安心しすぎていると思っています。それが、私たちのあいだの議論の種です……」
タレーラン公からオルレアン家のアデライード王女へ
「ロンドン、一八三二年二月十三日。
……ロシア皇帝は、オルロフ伯爵[336]をハーグへ送り、会議の条項への同意を決めなければ、どのような意味でも、どのような場合でも、皇帝の支援を当てにできないと、国王へ告げさせます。そのため、ロシアの批准書の発送は、おそらく八日か十日、遅れますが、送る決心がされているのは、確かです……」
「ロンドン、一八三二年二月十四日。
……イタリアへの派兵については、決まったこととして知っただけで、計画の段階では知りませんでした[337]。ただ、この点では、オーストリア政府と了解し合っているのでしょう。そうでなければ、利益よりも面倒の多い、紛糾が生じるはずです。ともかく、私は何も知らず、これらすべてを、いくらか手探りで考えています。ですから、あなた以外の人には、話さないでしょう。任されたことに関わるだけで、もう十分です。ほかの人の担当に口を出すのは、愚かでしょう。とりわけ、よく知らない場合には。
昨日、オルロフ伯爵のハーグ到着を、お知らせしました。この任務で、批准書は、おそらく十日か十二日、遅れますが、届くことは確かになります……」
カジミール・ペリエ氏からタレーラン公へ
「パリ、一八三二年二月十三日。
公爵殿、
ありがたく頂戴した、二通の個人的なお手紙への返答が、思ったより遅くなりました。予算の初めの討論が、私には、つらく、骨の折れるものだったからです。これまでのところ、重要な問題は、すべて勝ちました。とりわけ、政府を困らせかねない削減や節約について、議会と戦わねばなりません。ともかく、われわれは、最後まで戦い、純粋に財政だけの問題を、内閣の進退に関わる問題にはしないと、変わらず決めています。公爵殿、あなたが国外で、その確立に大きく貢献された政治方針を、国内でも固めるため、今後も、あらゆる努力を続けます。
昨日、お送りくださったベルギーの批准書とともに、……日付の外交報告を受け取りました。パーマストン卿の演説についてのお話を、たいへん満足して読み、今朝、その演説を見せてもらいました。国王の政府は、両国が、これほど幸いな成果を期待できる、見解と気持ちの一致を、大いに喜んでいます。この率直で誠実な表明は、多くのことへの返答となり、本当に、われわれの役に立ちます。われわれは、そこに、最も重要な目的で、これほどの成功によって正しさを示された、外交方針の確認を、見いだします。
公爵殿、次の私の公式の外交報告で、イタリア問題の詳しいことをお知らせします。しかし、ご希望に応じ、今日、急いでお伝えします。サン=トーレール氏の息子が持ち帰った、アンコーナの占領を許さないという拒否[338]について、教皇聖下は、われわれの強い働きかけに応じ、最終的なものにはしないと、期待する理由があります。
わが軍には、暫定的に、アンコーナへ入るよう命令が出ています。ただ、オーストリア軍が先に入っていた場合だけは、別です。その場合は、チヴィタヴェッキアへ向かい、そこを占領します。
われわれの目的は、変わりません。オーストリアに対し、ロマーニャの占領には、短期間である場合にのみ、同意できると示すこと。教皇庁に対し、大国へ厳粛に約束した譲歩を、得たいと示すことです[339]。
ともかく、この確固とした意志から、何ら退くことなく、われわれは、政治方針から外れるつもりはありません。その方針は、穏当で公正であると同時に、毅然として、フランスにふさわしいものにしようとしてきました。そして、できるかぎり長く、これまで、われわれの努力が常に防ごうとしてきた衝突を、避けるでしょう……」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三二年二月十七日。
……イギリスでは、今のところ、ポルトガル問題を、ただ眺めているだけです。どちらの側にも、これほど関心が薄いのには、驚いています。決着が近づけば、変わるかもしれません。この国の関心は、すべて、改革とベルギーに奪われています。新聞や小冊子で、私への誹謗を目にするので、パリでは、いくらか成功したのだと、思い始めています。祖国に仕え、民衆の波を止める手段を探すのであれば、そうしたことには、耐えなければなりません。ほかのものと同じく、それも過ぎるでしょう……」
「一八三二年二月二十四日。
今のところ、国際会議はありません。誰も考えていません。オルロフ伯爵は、人々を、宙ぶらりんにしています。ベルリンでも、誰にも、すべてを明かしませんでした。ポッツォが話すなら、作り話です。何も知らないリーヴェン氏以上には、知りません。オルロフ伯爵は、二十日にハーグへ着いたはずです。五日か六日、長くても八日ほど留まり、その後、こちらへ来ます。ラム[340]とエステルハージが、そうすべきだったとおり、オーストリアの批准書の発送を勝ち取っていれば、そして、メッテルニヒが、オーストリアを、ロシアに引きずられる立場へ置かないだけの良識を持っていれば、われわれには、もう、何の困難もありません。ロシアの傲慢も、譲らざるを得なくなるでしょう……」
「一八三二年二月二十五日。
モブルイユが、また舞台に現れ、一八一四年の臨時政府の議長だった私に対して、侮辱に満ちた弁論をするという知らせが来ました[341]。一、二日は、朝から醜聞が騒がれ、最後は却下となるでしょう。ともかく、私は、さほど、うんざりも、動揺もしていません。一八一四年に、レジオン・ドヌールの勲章を、馬の尻尾につけていた、一度も会ったことのない男に攻撃され、その男を、今仕立てられた自由主義者たちが支持するとは、この時代の奇妙さの一つです。」
「一八三二年二月二十七日。
……オルロフ伯爵については、噂しか知りません。しかし、何を要求しようとも、私が署名した条約の、読点一つを変えることさえ、フランスにはさせないと、わかっています。ほかの大国は、批准しなければなりません。それが済めば、私は柔軟になり、ベルギーとオランダが、合意のうえで変更することに、同意します。できるかぎり、それを助け、促します。さらに、イギリスが、われわれとともに行うことに同意するなら、オランダとベルギーの結ぶ条約を、保証する用意もあります。これが、私の進め方のすべてです。変わることはありません。望むことを実現でき、それほど長くはかからないと、考えています……」
「一八三二年二月二十八日。
……われわれは、自由主義者が合理的に求め得る譲歩のすべてを、教皇から得ました。それを得たのに、自由主義者が、また反乱を起こすのであれば、もう関わる必要はありません。教皇が、最も都合のよいと思う方法で行う、治安の問題です。しかし、教皇に働きかけ、今の時代の思想が迫る道へ、踏み出させたことで、われわれは、自ら唱える原則に対して、なすべきことをしたのです。今は、もう、われわれの問題ではありません。このような言い方こそが、ヨーロッパに信頼を与え、誰にも煩わされない確信を与えるでしょう。また、自分たちの統治の方針を知らせることにもなり、誰にとっても便利です。霧のなかで、私は、こう考えています。
ドン・ペドロの遠征は、私の中立という方針のもとで、成功の見込みが、とても高いということを、ご存じですか。リスボンから来る情報を信じれば、そうなのです。ポッツォからのものより、確かです[342]。イギリスと結びついていましょう。そうすれば、国外から邪魔されず、国内の体制を、思うままに築けます。それが、メッテルニヒを激怒させています。人々を怖がらせるために持ち出されるスペインは、一エキュもなく、靴も不足しています。まさに、あの半島と呼ばれるところに、いくつもある、跣足の修道会のような軍なのです。
こちらでは、党派が、ますます険悪になっています。各党とも、貴族院での討論では、自分たちが有利になると、考えています。内閣は、第二読会では多数を得ると思いますが、代理投票を使えなくなる委員会では、それほど確かではありません[343]。グレイ卿は、議会で、フランス政府にかなうはずの返答をし、フランスについての言葉が、辛辣で、趣味の悪かったアバディーン卿へ、大いに軽蔑を浴びせました。今の立場を、しっかり保ち、それを言い、示しましょう。そうすれば、あらゆる困難から抜け出せます。」
前の手紙と、後に続く手紙にある、イタリア問題とアンコーナの占領については、この点で、私とフランス政府の意見が異なっていたことを確認するためにだけ、少し、立ち止まろう。政府は、十八か月ものあいだ、平和を不確かにしてきた難題を解決する前に、性急に、新たな困難へ踏み込んだと、私は考えた。それは、健全な政策だとは思えなかった。オーストリア軍の、教皇領の特別行政地区への侵入について、パリで反対派が、大声で叫んでいることは、知っていた。しかし、もう少し毅然とすれば、その声に耐え、一八三一年十一月十五日の条約が、すべての大国に批准される時まで、待てたはずだと思った。その時には、フランス政府も、オーストリア軍に教皇領からの撤退を求め、領土を解放するため、フランスの遠征軍を送ると警告するのに、もっとよい立場に立てたはずである。条約と、今度こそ賢明に用いられる不干渉の原則に基づく、このような進め方であれば、イギリス政府の同意を得られたと、私は確信している。何と言われようと、この政策には、アンコーナを不意打ちで奪うことより、威厳と本当の力強さがあったはずだ。しかも、そこから出るのは、入るよりも難しくなるのである。ここで、明確に述べたかった、この意見は、各人に評価していただければよい。また、私の書簡にも、ベルギー問題に関することの合間に、記されている。私が、本当に心を砕いていた、その問題は、最も忍耐強い人でも、疲れさせるほどの紆余曲折を、なお経ていた。たとえば、二月二十三日、ブレッソン氏は、ベルリンから、こう書いてきた。ニコライ皇帝が、ロンドンの全権代表の行為を否認し、十一月十五日の条約を批准しないと決め、プロイセン政府にも告げたことを知らせるため、今、パリへ使者を送った、と。ところが、数日後、そのまったく逆を述べる、次の手紙を受け取った。
ブレッソン氏からタレーラン公へ
「ベルリン、一八三二年三月一日。
公爵殿、
使者の出発まで、わずかな時間しかありませんが、お知らせします。今朝、四時に、こちらを通ったロシアの使者は、オルロフ伯爵へ、ネーデルラント国王に、次のことを宣言する命令を携えています。『皇帝は、オランダの全権代表が会議へ示した、条約案[344]を、たいへん悲しく見た。国王が、ベルギーの政治的な分離を、合意済みと認めることを拒むのは、大国が十八か月にわたり進めた交渉のすべてを、再び問題にすることだと、皇帝は考える。そのように行動するのは、平和ではなく、戦争を望むことである。国王が、この受け入れられない提案を捨てないのであれば、皇帝も、自らを縛る約束から解かれたと考え、オルロフ伯爵の指示を、いくつかの点で変更し得る。とりわけ、ネーデルラント国王自身が承認した後にのみ、レオポルド国王を承認するという、重要な方針を、変更し得る』。
オルロフ伯爵が、すでにロンドンへ向けてハーグを出ていれば、ハーグのロシア代理公使が、この通告をします……」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三二年三月一日。
新しい知らせは、ありません。オランダの郵便は、五日、遅れています。オルロフ伯爵が、いつ来るのかはわかりませんが、リーヴェン夫妻の家では、待っています。伯爵がロンドンへ来るのを喜んでいると示すために、舞踏会を開いています。実際には、とても苦々しく思っているのです。すべては収まり、何日の差かはあれ、お伝えした時期に、そうなるという意見を、私は保っています。
バイエルン国王は、息子のオットーのために、ギリシャの王冠を受け入れます[345]。これは、大国の私益を求めない態度が示される選択であり、それを示すことは、必要でした。そもそも、ヨーロッパの君主で、ギリシャ人への好意を示したのは、バイエルン国王だけです。私が、この選択を提案したわけではありませんが、ほかによいものがないため、同意しました。ヴュルテンベルクのパウル公は、誰にも信頼を抱かせる候補ではありませんでした。ネーデルラントのフレデリック公子は望まず、ザクセンの公子[346]と、バーデンのヴィルヘルム辺境伯[347]は、断りました。ボリバル[348]は、亡くなっていました。誰を選べたでしょうか。」
「一八三二年三月六日。
このアンコーナの占領で、私は、ひどく困っています。いったい、なぜ、力ずくで入ったのでしょう。することについて、オーストリアと了解していたのではないのでしょうか。抜け出すには、教皇が約束を果たし、艦隊を指揮した士官の行為を否認し、イギリスからウィーンへ、教皇が、オーストリア、イギリス、フランスの全権代表と交わした約束を守れば、その時、われわれは撤退する用意があると、告げさせる必要があります。それを、すべて、すぐにしなければなりません。軽率な行動は、時間では直りません。人々が怒り、面倒になりかねない措置を取る前に、修復する必要があります。私がペリエ氏なら、そうしますし、そばにいれば、そう勧めます。しかし、幸い、この問題には関わらず、意見を述べる必要もありませんでしたから、この件で、私の名を口にしないでいただきたいのです。タレーラン氏は何と言っているかと聞かれたら、こうお答えください。『氏の担当ではありません。オルロフ伯爵の件だけで、十分に仕事があります。イタリアの出来事が、その仕事を容易にするとは、思えません』。
イギリスの友人たちは、途方に暮れています。議会で攻撃されるでしょうが、今、この厄介な遠征について、何と答えるべきか、わからないでしょう。内閣は、アバディーン卿の辛辣な論拠に、強く迫られるでしょう。オーストリア側も、機嫌を損ねるでしょう。このアンコーナ問題が、口実となるのです……」
「一八三二年三月七日。
……オルロフ伯爵は、九日の汽船で来る見込みです。国王にお会いになったら、私への知らせによれば、指示を外れてアンコーナへ入ったという、あの士官の行為を否認してもらう必要が、イギリスにはあると、お伝えください。何事も、重要な問題を抱えている時は、その問題と関係がなくても、害を及ぼす利害で、複雑にしてはいけません……」
カジミール・ペリエ氏からタレーラン公へ
「パリ、一八三二年三月七日、午後八時。
公爵殿、議会を出たところで、外務予算の総括討論で、今、行った演説を、急いでお送りします。政府の政策を述べた、この演説が、完全な成功を収めたことを、喜んでお聞きになるでしょう。
今朝、ウィーンから、批准書についても、イタリア問題についても、満足のいく知らせを受け取りました。ただ、まだ最初の印象のもとで書かれていたので、われわれが、いくらか変則的にアンコーナへ入ったこと、とりわけ、教皇庁の同意が、十分に明確な形で与えられていなかったことから、どのような利益を引き出そうとするかは、わかりません。
公爵殿、今日は長く書きません。本日の議会審議についての知らせを、早く受け取る人のお一人になれば、お喜びになると思うからです……」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三二年三月十三日。
ネーデルラント国王は、今、アンコーナ問題と、改革法案が通らないという期待を利用し、オルロフ伯爵の出発を遅らせています。私には、耐えがたいことです。
ウヴラール氏[349]も、ラ・ロシュジャクラン氏[350]とともに、オランダ国王のあらゆる問題に関わり、国王に与える、策謀のあらゆる手段が、受け入れられています。私は、くじけませんが、この問題は、私を殺すでしょう。オルロフ伯爵を、またハーグに留める、この新たな難題は、ひどく不快です。今となっては、イギリスの批准書を得ず、結びついていなかったなら、われわれには、何の力もなかったと、認めるべきです。今のように、イギリスと肩を寄せ合っていれば、切り抜けられます。それが、わが王朝の、堅固な基礎です。私は、それを最も重く見ています。改革法案は、第二読会では、そのまま通るでしょう。委員会へ移された際には、いくらか修正があるかもしれません。その点では、見方が一致していません。私は、その変更が、法案の原則を変えるとは、思いません……」
「一八三二年三月十五日。
不愉快であることは別として、オルロフ伯爵の遅れは、十二日ほど、さらに待つこととしか、見てはいけません。批准書は届きます。確信しています。アンコーナ問題がなければ、すでに、ここにあったでしょう。しかし、ハーグでは、これによって、ペテルブルク政府の決定が変わる、ロンドンへ行く前に、その効果を待つべきだ、伯爵の持つ指示も変わるかもしれないと、あまりに言われたので、留まることに同意したのです。しかし、われわれは、こちらで、きっぱりした態度を取りますから、来ざるを得なくなります。すべてに、十五日を見ています。海賊のようなアンコーナの占領がなければ、私が言ったとおり、十日には、全部終わっていたでしょう。新たな事件がなければ、三十日には終わります。これが、私の変わらぬ見解です。アンコーナの悪い影響については、あなたに話していただきたくありません。内閣を傷つけますし、あらゆる手段で、助ける必要があるからです……」
カジミール・ペリエ氏からタレーラン公へ
「パリ、一八三二年三月十四日。
公爵殿、
この手紙は、任地へ戻る私の息子が、お渡しします。息子から、健康のよくなったセバスティアニ将軍が、今朝、職務を再開したと、お伝えします。私が外務を引き渡すのは、フランスが、大国に対して、あらゆる点で、ふさわしい態度を取り、われわれの、すべての願いと努力の目的だった、平和と軍備縮小に至る望みが、かつてないほど高い時だと、思います。それを実現するには、公爵殿、今も、あなたの、親身で力強いご協力を頼りにしています。正直に申せば、この国に不可欠な平和を、確実にしたいという、強い願いだけが、私に、この苦しい任務を耐えさせています。まもなく終わる会期は、私には、たいへん疲れるものでした。議会には、先の選挙法が生んだ変化の、自然な、そして、われわれが予想していた結果である、気風と傾向が見られました。相手の多くは、頭で考えず、手は壊すことにしか役立たず、築くことには、まったく向かない人々です。それで、革命は容易に起こせますが、固めることはできません。ですから、議会での道のりには、多くの障害がありました。最後には、フランスには何の利益もなく、われわれには厄介な節約に、妨げられました。ただ、ためらわず、何度も大声で語った真実が、まったく失われたわけではないことは、申し上げねばなりません。国内では、秩序と統治の考えへ、戻り始めています。言いすぎだと責められることなく、今ほど、国内の立場が、堅固で、攻撃に対して強かった時は、これまでなかったと、断言できます。
公爵殿、大国との関係には、長く触れません。最近の二つの演説で、国内政策の方針については、すべてお伝えしたはずです。待ちわびている批准書の交換のほかに、今、心を砕くのは、イタリア問題を速やかに終わらせることだけです。ローマの宮廷への、大国の申し入れの助けで、実現できると、思います。
今朝、この件について、五大国の外交代表を集めました。二つの案が話し合われました。第一は、オーストリア軍とフランス軍の同時占領を続け、教皇庁と特別行政地区との争いの、速やかな解決を求めることです。第二は、今、占領している軍を、ナポリ王国から来るスイス兵と交代させることです。ただ、後の措置には、長い時間がかかるので、実施に必要な時間より前に、問題が終わることを、強く願っています。しかし、これらは、五大国の外交代表と私との、単なる話し合いにすぎませんでした……」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三二年三月十七日。
ネーデルラント国王が、あらゆる引き延ばしの手段を使っていても、今、オルロフ伯爵は、批准書とともに、遅くとも十五日以内には、こちらへ来ると、考えるべきです。オランダの公使たちは、使者と、覚書を受け取りましたが、われわれへ伝えるのに、困ると思います。国王は、一か月前に提出させた条約案に添えた覚書へ、われわれが返答する前に、新たな通告を行うのは、自分の威厳にかなわないと、考えているからです。しかし、私は、イギリスと同じく、批准書が届くまで、何も聞かないと決めています[351]。ですから、公使たちは、われわれと話を始める方法を見つけるのに、たいへん困っています。この決意こそが、批准書を届かせるでしょう。ただ、パリでは、アンコーナ問題を終わらせる必要があります。ハーグで、フランス政府に対し、好んで言われるあらゆることの、口実となっているのです。悪意ある人々は、オランダの引き延ばしの方針を、いつも、イギリスかフランスの内閣が、退陣を迫られるという期待によるものと、説明しています……」
「一八三二年三月二十二日。
このアンコーナ問題の影響は、日ごとに大きくなっています。誰もが怯え、口々に、『革命のやり方が戻ってきた』と言っています。オルロフ伯爵が、最後に使者を送った理由は、イタリア問題でした。教皇は、ガロワ艦長[352]の布告を、あらゆるところへ送りました。それは、味方も敵も、皆を刺激しています。改革法案の問題が決まる時に、この状態であったなら、何が起こるか、わかりません。正直に言えば、十八か月、難題を乗り越えた後で、良識のない、気まぐれな遠征のために、港までたどり着きながら挫折するのは、あまりに厳しいことに思えます。オーストリアがミラノ地方に六万の兵を持つ時、アンコーナの二千か三千の兵が、何になるでしょう。本当に、狂気です……」
タレーラン公からカジミール・ペリエ氏へ
「ロンドン、一八三二年三月二十二日。
閣下、私に示してくださる信頼、友情と申し上げましょうが、それによって、今の情勢の、極度の重要性へ、注意を向けていただく義務を、感じます。アンコーナの企ては、情勢を、たいへん複雑にしました。友人たちには大きな狼狽、政府の敵には強い満足を生みました。敵は、そこに、わが内閣の誠実さにまで攻撃を加える、論拠を探しています。あなたが内閣の先頭に立ってから、それは、なかったことです。あなたの大きな公正さが、内閣に力を与えました。それを失ってはなりません。正当な権利と、よい秩序の守り手として、ヨーロッパから見られなくなれば、国内の愚行と戦う力も、減るでしょう。
ですから、どうか、アンコーナ問題を終わらせ、革命時代を思い出しすぎた、何人かの部下に、責めを負わせてください。こちらでは、あらゆる党派の意見が、この問題について、困った形で表れています。イギリス政府は、説明の仕方も、正当化の仕方も、わかりません。本日の私の外交報告で、今朝、イギリス国王が、どのように、このことを私に話したかを、和らげた表現で、ご覧になるでしょう。この不幸な問題が、改革問題より前に終わらず、改革法案が、グレイ卿の内閣に不利に進んだら、われわれが、どのような状態になるか、本当に、わかりません。実際、アンコーナの三千の兵は、フランスの自尊心を満たすには、あまりに小さなものです。それでも、そこへの滞在は、南方全体に火をつけかねず、北方の問題では、困難を増し、遅れを長引かせています。
閣下、心ならずも書く、この手紙から、わが政府の利益、とりわけ、あなたの栄誉を、私が、どれほど気にかけているか、おわかりになるでしょう。
敬具……」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三二年三月二十七日。
オルロフ伯爵は、確かに、明日ロンドンへ来ます。ハーグでは、何も得ませんでした。国王は、すべて拒みました。数日以内に、プロイセンとオーストリアの批准書が届きます。それは、確かです。伯爵が出発の際に出した宣言は、ニコライ皇帝が、国王の役に立とうとしたことを、非常に強く述べています。国王が、皇帝の助言を拒んだので、皇帝からの、いかなる支援も期待できないと、言っています。物事は、私が望んだとおりに進んでいます。われわれは勝利するでしょうが、ベルギー人が、愚かな行動に出てはいけません。こちらから、ブリュッセルへ送ろうとしている公使は、誰ですか。慎重な人を、どれほど注意深く選んでも、過ぎることはありません。昨日の改革法案についての議会審議は、内閣にとって、よいものでした。法案は、四月五日、木曜日の第二読会で通るでしょう。その後、委員会となり、いくらか修正が提案されます……」
「一八三二年三月二十八日。
昨日、お知らせしたとおり、オルロフ伯爵は、昨夜、到着しました。今朝、私のところへ来ました。この最初の訪問は、終始、表敬訪問として控えめなものにとどめました。伯爵は、オランダへの旅について話し、マルイユ氏を褒めました。これは、外交報告でも述べました。私に見えたところでは、二十四か条を受け入れるか、はいか、いいえかで答えるよう、国王に明確に求めたことを、話したかったようです。国王が、いいえと答えたので、宣言を渡し、ロンドンへ出発したということでした。ファーヘル氏が、その写しを持っています。今日、わかっているのは、それだけです[353]……」
「一八三二年三月三十日。
オーストリア軍が教皇領へ入れば、フランス軍をイタリアへ送ると約束していた。あなたには、そう説明されたのですね。しかし、それは、まったく筋が通りません。誰に約束したのでしょう。教皇ですか。教皇は、フランスに何も求めていません。オーストリアですか。考えるだけで、滑稽です。では、モーガン氏やラマルク氏にでしょう。立派な約束ですね。ローマに対する、オーストリアの立場を、フランスの立場と比べられるでしょうか。特別行政地区に民衆運動が起これば、隣国のオーストリアは脅かされます。フランスは、そうでしょうか。繰り返しますが、ホランド卿、サー・フランシス・バーデット[354]、グレイ卿は、この遠征を擁護できないと、考えています。皆、とても友好的に言いますが、それが意見なのです。常に説明を必要とする問題は、確かに、とても悪い問題です。私は、できるかぎり擁護しますが、それは、政府のすることを擁護するのが、義務だからです。しかし、そこからは、困難しか生まれません。われわれが採ろうとした、革命の宣伝に反対する立場を、変えてしまうからです。実際、ヴァンデで運動が起こり、南部の多くの場所にも広がっている時に、ヴァンデや、南部のいくつもの町に影響を及ぼすローマとの問題や争いを、加えるのは愚かです。アンコーナ問題を終わらせましょう。そうすれば、あとは、すべてよく進みます。私が引き受けます。今朝も、オルロフ伯爵は、こう言っていました。『この遠征は、われわれには、納得のいく形で理解できません。ともかく、私の担当ではありません。こう話すのは、私は、ただ、自分の意志で来た旅行者なので、何についても話せるからです……』」
「一八三二年四月四日。
ロシアは、随分、待たせます。批准書を交換する命令は、まだ来ていません。おそらく、明日、届くでしょう。しかし、自分たちが待たれていると信じたいロシア人には、これが気に入っているのです。実際には、必ずしもそうではありません。もっとも、届けば、かなり都合がよいのですが。それだけのことです。もう済んだこととして、数えてよいからです……」
われわれの交渉の合間に、数か月前からロンドンにあったコレラが、パリでも発生し、首相のカジミール・ペリエ氏が感染した[355]。そのため、セバスティアニ将軍から、次の手紙が届いた。
セバスティアニ将軍からタレーラン公へ
「パリ、一八三二年四月十二日。
公爵殿、
今日は、首相の容体について、まったく確かに、安心してお話しできます。危険を脱しただけでなく、かなり近いうちに、仕事を再開できることも、もう疑われていません。私自身は、氏の健康のため、私人としての生活に戻る必要があれば、政務を辞めると、固く決めていました。フランスとヨーロッパにとって、たいへん幸いなことに、氏は、内閣の先頭に留まります。われわれの採用した方針に、これほど緊密に結びつく、最重要の利益のすべては、その方針が確実に続くことで、必要な保証を得るでしょう。
ともかく、公爵殿、ご想像のとおり、政府の敵は、首相の重い病状が、当初、当然、生んだ不確かさを利用し、新たな内閣の顔ぶれに、人々の心を備えさせようとしました。しかし、その点での彼らの無力さは、あまりに知られていたので、人心を動かすことはできませんでした。そして、世間の不安が、変わらず続くことから、自分たちの影響の小ささを知ると、まもなく、戦法を変えるべきだと判断しました。ペリエ氏が政務を続けるよう願う、と言い出したのです。自らの政策に力を注ぐうちに、後になって倒れる姿を見るためだ、と。
公爵殿、すべて、滑稽なことにすぎず、不安なものではありません。内閣は、同じ道を、確かな足取りで進み続けます。首相が、回復のため、なおしばらく、十分に自重する必要があっても、幸い、もう情勢は、一年以上も強いられてきたように、努力と仕事に身をすり減らすことを、求めていません。会期は終わりに近づいています。明日か明後日には、代議院は、事実上、閉じるでしょう。代議士たちは、終えて、家へ戻るのを急いでいます。最近の法案を可決した速さから、判断されたことでしょう。
ですから、国王の政府は、妨げが減り、より自由に進めることになります。しばしば無意味で、時には不都合でさえあった討論に、国の実際の利益のために、ほぼすべてが必要な時間を、もう失わずに済みます。平和の大義には、利益しかありません。公爵殿、すべての大国が、この期間を利用し、等しく、その存続が重要な絆を、より緊密にし、強めるよう、われわれとしては、力を尽くします。
どうか……」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三二年四月十六日。
オーストリアとプロイセンの批准書は、こちらにあります。交換する権限もありますが、ベルリンからは、できれば、ロシアの使者への返答を待ってほしいという、強い希望が示されています。これらすべての目的は、ビューロー氏とヴェッセンベルク氏に、責任を負わせることです。二人は、十一月十五日の条約に署名したので、ベルリンとウィーンでは、好かれていません。私は、二人を促しながらも、気遣っています。条約の署名の時には、自国政府の役に立つことをしていると信じ、とても立派に、勇敢に、決然と行動したのが、事実だからです。明晩には、すべて決まります。さらに三日か四日、待つのでしょうか。それとも、明日、終えるのでしょうか。まだ、私には見通しがありません……」
「十六日、夜。
今朝は、半ば眠りながら、お手紙を書きました。貴族院の会議が終わったのは、午前七時でした。床に就く前に、腕木通信で、イギリス内閣の成功を知らせたかったのです。これで、一つの問題が、きちんと終わりました。賛成が九票上回りました。ですから、この大きく重要な問題の結果を、私は、政府へ正確に予告していました。改革法案の細部を決める委員会は、復活祭の後まで開かれません。誰もが疲れ、田舎へ行きたいのです。ロシアからは、新しい知らせがありません。ほかに、どうしようもないので待っていますが、皆、ひどく苛立っています。私は最後まで、持ちこたえます。批准書が来るまでは、年齢を考えたくありません。しかし、その時には、少し考え、真剣に、それを口にするでしょう。大きな仕事と、大きな献身の証で、経歴を終えることを、喜んでいました。大きな仕事とは、平和と、イギリスとの結びつきです。献身とは、国外での、わが王朝の確立に、二年間の時間、頭を使う疲労、暮らしの変化を、捧げたことです。王朝には、何としても、堅固な基礎を与えねばなりません。それは、イギリスで見つかります。何と言われようと、困難が感じられることになるアンコーナでは、決してないと、申し上げます。反対派の喜ぶことを、何かしたと思いすぎたのです。すべて、理解が間違っていました。反対派に気に入られようとしてはいけません。決して気に入られないからです。抑えるべきであり、それはできます。権力には、何一つ関わらず、関わりたくもないので、私は、こうして、気楽に考えているのです……」
「一八三二年四月十七日、夜。
オルロフ伯爵が、ハーグにいた時、三月十四日に送った使者への返答が、ロシア大使館に届きました。しかし、最終的なものではないので、明日、われわれは、先へ進み、オーストリアとプロイセンの全権代表に、ベルギー全権代表と、批准書を交換するよう勧めます。ですから、明日、十八日の四時には、終わります。残るのは、月末には確かに来る、ロシアだけです。これ以上待つのは、ロシアへの、過度の敬意の印となったでしょう。配慮は、理解できます。しかし、優位を認めるように見える従順な態度は、われわれには、受け入れられず、受け入れたくもありません。ですから、明日、静かに、ロシアを脇に置き、ほかの二国の批准書を、交換させます。強硬になるのは、必要な時だけでよいのです。しかし、必要な時には、揺るぎないものでなければなりません……」
「一八三二年四月二十三日。
プロイセンとオーストリアの批准書について、パリの外務省が書いてきたことは、まったく理解できません。実際、両国の公使が、交換を許されていたのは、ロシアの同意を得た場合でしたが、その同意は得ていませんでした。あるいは、ロシアと同時に、という条件でした。ロシアの批准書は、まだ届いていませんから、それなら、実際に行った時よりも後になるはずでした。ビューロー氏は、直ちに交換する明確な命令を受けていたと、わざわざ言うのは、この件での私の小さな功績を、奪うためだろうと思います。ともかく、私には、さほどのことではありません。こちらでは、事情はよく知られています……」
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ
「パリ、一八三二年四月二十日。
親愛なる公爵殿、十七日付で、ヴォーデモン夫人へ書かれた手紙を、私にも伝えるよう、託してくださり、ありがとうございます。夫人は昨日、親切に、早速知らせてくれました。そして、六時には、国王が、腕木通信によって、オーストリアとプロイセンの批准書が、あなたが前日に予告されたとおり、十八日に交換されたという、この重要で、よい知らせの確認を受け取りました[356]。すぐに、満足をお伝えし、心からお祝いを申し上げずにはいられません。平和という、莫大で、計り知れない利益を、われわれに保証する、この幸いな結果は、あなたのご苦労、手腕、とりわけ、最後の状況での毅然とした態度のおかげです。私は、平和を、長く信じていました。しかし、オーストリアとプロイセンの批准の長い遅れは、すべての敵に、平和を疑わせ、その点での不安を撒く、強い武器を与えていました。それは、大きな害でした。あなたのおかげで、ついに終わりました。それも、ロシアの批准を待たずに、というのは、あなたの大きく、見事な勝利です。あなた以外の誰も、それを勝ち取れなかったと、確信しています。
このよい知らせは、国王のあらゆる苦労と気がかりを、少し慰め、償うのに、ちょうどよい時に届きました。この不幸なコレラは、こちらを、激しく、残酷に襲い、悲しみに沈めています。恐ろしい災厄です。ペリエ氏は、たいへん重くかかりました。回復期にありますが、この病気の回復期は、ずいぶん長いようです。ダルグー氏も、激しく襲われました。それで、国王が、どれほど不安に置かれるかは、お察しいただけるでしょう……
二十一日、土曜日。
昨日、終えられなかった手紙を、再び書きます。対外的な難題は、すべて片づく方向へ向かっています。国王は昨夜、オーストリア軍が教皇領に留まるあいだ、わが軍もアンコーナに留まることに、教皇が同意したという知らせを受け取りました。朝には、アルバーニ枢機卿[357]の召還の知らせも、受け取っていました。このよい知らせを、お伝えできて嬉しく思います。われわれのアンコーナ遠征と、少しは和解してくださるよう願っています。そして、何かよいことをしたとは思わなくても――あなたと私の知人の、何人かには、その見方があるのですが――少なくとも、害をしなかったとは、認めていただけるでしょう。それも、大きなことです。
イギリスの『クーリエ』には、ルイ=フィリップの王位への権利について、よい記事があり、今朝、読みました。月曜の、ブラジルの船舶拿捕についての討論で、サー・ロバート・ピールが言った、忌まわしい一言[358]に関するものです。しかし、ドン・ミゲルは摂政を引き受け、したがって、ドナ・マリアの王冠を預かっていただけなのに、それを自分のものにしたことを、はっきり示してほしかったのです。一方、ルイ=フィリップは、何の約束もしておらず、王位を、決して望んでいませんでした。愛するフランスを、無政府状態と、最大の不幸から救うには、これしかないと確信して、初めて、受け入れる決心をしたのです。その時になって初めて、満場一致の願いに応じました。当時、それは満場一致だったことを、あなたも私も、目撃しました……」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三二年四月二十四日。
……王女様から頂戴したお手紙は、アンコーナの話でいっぱいです。この問題が、正規の形を取ることになったのは、嬉しいことです。友人たちのすべてを傷つけたのは、この企ての、革命的なやり方でした。オーストリア軍は、招かれました。われわれは、招かれていません。それが、大きな違いです。
ナポレオン皇帝がスペインへ入った時――その権力の衰えの始まりとなった、忌まわしい企てですが――スペイン国王から招かれる形にし、その点が守られるよう、気を配りました。われわれは、革命を経て、今の立場にあります。そのような立場で、体制を築こうとする時は、自然に不安を抱く、すべての政府へ、自分たちが革命的でないことを、示さねばなりません。私は、こちらで、それに努めました。だからこそ、成功したのです……」
フラオー伯爵からタレーラン公へ
「パリ、一八三二年四月二十四日。
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三二年五月一日[360]。
パリで知られる前に、どうして、ロシアの批准書について話せるでしょう。私が知ったのは、パリからだけです。こちらに届いたのは、昨夜でしかないのに、パリでは、三日前から、ご存じなのです。
パーマストン卿が田舎から戻るのは、三日の木曜日です。それまでは、不確かなことしか、わかりません。三日には会議があり、その日に、省にも、あなたにも、書きます。」
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ
「パリ、一八三二年四月二十九日。
ロシアの批准書が届きました。親愛なる公爵殿、見事な勝利です。何よりも大切な平和を、われわれに保証します。国王には、この大きく、よい知らせが必要でした。ペリエ氏の病気がもたらす、新たな困難を慰め、償うためです。国王は、たいへん悲しんでいます。残念ながら、氏が回復に向かっているとは、まだ確かに言えず、結果については、非常に不確かな状態です。しかし、この状態が長引こうと、長引くまいと、国王は、同じ統治の方針を続けたいと、願っています。それが、あなたの方針でもあることは、わかっています。ですから、とりわけ今、国王に新たな苦しみを加えたくないので、国王には何も言わずに、あなたへ、ご相談します。気の毒なセバスティアニ将軍の、私には、完全には満足できない健康状態から、恐れている、新たな難題についてです。
将軍が外務省へ戻れないことになった場合、後任となり得る人物を選ぶ、この重要な問題について、ご意見はいかがでしょうか。全面的な信頼のもとに伺いますし、同じように答えていただけます。あなたと私だけの話に留まることは、確かだと思ってください。しかし、そうした事態になる前に、この肝心な、あなたが深い見識を持つ問題について、ご意見を知ることを、私は強く望んでいます。この短い手紙は、ヴォーデモン夫人に託し、確かな方法で届けてもらいます。しかし、夫人は、内容をまったく知りません。完全に、あなたと私のあいだだけの秘密とし、誰にも、この質問に気づかせないことを、どれほど重んじるかは、お察しください。将来への備えにすぎず、不用意に漏らせば、今を乱し、損なう恐れがあるからです……」
アデライード王女のこの手紙は、国王には知らされていないと書かれていても、おそらく、国王の口述によるものだった。問題となる件に、私が、どのような個人的な意向を持ち得るかを、探るためである。ほかの人々も、パリから、ペリエ氏かセバスティアニ将軍が退けば、そのどちらかの職で、入閣したくはないかと、尋ねてきた。同じ件で、さまざまな側からの申し入れを託された、何人もの使者も送られた。そのため、私は、私との仲介役を務めていた、ルイ男爵へ、次の手紙を書くことにし、役に立つと思うように、使ってもらいたいと頼んだ。
タレーラン公からルイ男爵へ
「ロンドン、一八三二年五月三日。
親愛なるルイ、あなたの筆跡を見てから、ずいぶん長い時がたちました。お手紙は、嬉しいものでした。信頼のこもった手紙であり、それによって、いつも、あなたと保ちたいと思ってきた関係へ、私を戻してくれます。
私の考えは、こうです。できることには献身し、ほかの人より、よくできる確信のないことには、決して手を出してはいけません。だからこそ、私は、あなたに財務を担当してほしかったのです。あなた以上の適任者はいませんでした。同じ理由で、私はロンドンへ来ました。誰よりも、平和を守るのに適していると、考えたからです。われわれは、二人とも正しかった。財政は、うまく進み、平和は確保されました。私の政治生活は、そこで終わりです。フランスに仕えて、五十年になります。いつも、仕えるべきなのは、フランスだったからです。あなたも、同じく考え、行動しました。どの時代にも、するべきよいこと、あるいは、防ぐべき悪いことがありました。ですから、祖国を愛すれば、祖国の採る、どの政府のもとでも、仕えることができ、私の考えでは、仕えるべきなのです。
今、申し上げねばならないのは、私の旅の目的が果たされたか、まさに果たされようとしていることを、十分に確かめるまで、こちらに留まるということです。その後、湯治と、私自身の用事のために、四か月の休暇を求めます。自分の用事は、二年間、何も知りません。ロンドンに来て以来、これほど必要とされていた成果へ導くこと以外は、一分も考えていないからです。平和がなければ、どこへ引きずられていたか、誰にも言えません。
ですから、どの閣僚の職にも、私を考えないでください。必ず断ります。外務大臣のお話ですが、選べるのは、リニー氏とサン=トーレール氏の二人だけです。ほかの誰も、今の情勢では、悪い選択となり、外国を、ペリエ氏と私の働きで改められた、フランスへの不信の姿勢に戻してしまうでしょう。バッサーノ氏は、破滅的な選択です。あなたや私のような、かつて皇帝に仕えた者こそ、それを、誰よりも深く理解すべきです。結局、氏は、主君を滅ぼしたからです。無能で、敵意があると、当然にも見られています。さようなら。どのような決断をするつもりなのか、書いてください。
心からの友情をこめて……。
タレーラン」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三二年五月五日。
午前三時、ロシアとの批准書の交換が済みました。ロシアの批准が、無条件ではなかったため、非常に長く、難しい仕事でした[361]。補強する必要があり、それは、できたと思います。三十六時間、それだけに取り組んでいました。今日は、物事が、よく収まっています。オルロフ伯爵は、昨夜、出発しました。私は、公式に、また個人的にも、四か月の休暇を求める手紙を書いています。最も適当と思う時期に、使う自由を添えてです。休息が、どうしても必要です。二十か月、昨日、到達したところへ至るためにだけ、生きてきました。脚や目のことを考え、自分の用事を見に行く必要があります。こちらでの代役には、デュラン・ド・マルイユ氏を求めています。昇進を妨げない形で、この難しい仕事に適している、唯一の人として、指名します……」
「ロンドン、一八三二年五月八日。
改革法案の第一の付表は、特権を失う、いくつかの選挙区を指定するものです。第二の付表は、選挙の権利を得る、いくつかの大都市を指定します。
リンドハースト卿[362]は、第二の付表を、先に討議するよう提案しました。この動議には、大法官、ホランド卿、グレイ卿が反対し、ハロビー卿と、同じ側の何人かが賛成しました。百五十一票対百十六票、つまり、内閣に反対する側が三十五票の多数で、採択されました。
エレンバラ卿[363]は、提案という形で、自由主義派よりも急進的な立場から、法案への異論を述べました。内閣の人気を落とすためでした。普通選挙を唱える、わが国の『ガゼット・ド・フランス』と、同じように行動したのです。自由主義者になるのを恐れて、どの国でも、これらの人々は皆、急進派になります。エレンバラ卿が、ジュヌード氏[364]に、政治のやり方を求めるとは、奇妙ではありませんか。何という時代でしょう。グレイ卿と大法官は、今朝、六十人の貴族の任命を求め、それができなければ辞職するとして、ウィンザーへ出発しました。戻るのは夜です。今、物事は、そうなっています……」
「ロンドン、一八三二年五月九日、午前十時。
国王は、閣僚たちの辞表を受け入れました。新内閣を作るためには、まだ誰も呼んでいません[365]。
わが国では、大きな落ち着きを示し、同じ道を進み、同じ閣僚を保ち、ペリエ氏の健康が戻るのを待つべきです。そして、イタリアで取り決めを結んだこと、すべての批准書が交換されたことを、喜びましょう……」
「一八三二年五月十日。
……こちらでは、まだ何も決まっていません。話し合いが続き、おそらく、一日が、そのまま過ぎるでしょう。どうか、わが国では、イギリス内閣の変更について、好奇心だけを示すようにしてください。落ち着いている必要があります。落ち着きの利点は、揺るぎないからこそ、不安がないと、ほかの人々の目に映ることです。
ベリー公妃の件は、シャルル十世派が、いかに小さなものかを、示しています[366]。危険な党派は、共和派だけです。その党派は、どこから来る運動も、自分たちにとってよいと考えていますが、それは正しいのです。反対に、わが政府は、どこでも安定を望むべきです。それが、自らを、よく確立する方法です。これについては、多くを言いたいのですが、手紙には多すぎます……」
「一八三二年五月十二日。
完全に済んだことは、何もありません。確かなのは、ウェリントン公とリンドハースト卿が任命され、受け入れたことです。
このような時に、わが国で、革命家に力を求めれば、すべてが難しくなります。急進派から選んだ人々では、どの困難も、取り除けません。われわれが静かであれば、ヨーロッパは、われわれと折り合えますし、十分にそうするでしょう。われわれが革命の伝道者であれば、決して折り合いません。その考えから、抜け出さなければなりません。その側へ傾けば、何もできません……」
ルイ=フィリップ国王からタレーラン公へ
「パリ、一八三二年五月十二日。
確かに、親愛なる公爵殿、こう言えるのを喜んでいますが、あなたは、私が託した大きな任務の、主要な目的を、見事に達成なさいました。何度も、われわれから遠ざかるように見えた、この成功は、新聞記者たちの、あらゆる罵倒への、圧倒的な返答でもあります。彼らの不合理な予言を、否定したのです。ヨーロッパ外交が、かつて裁定しなければならなかった、最も難しく、厄介な問題の一つを、こうして解くには、あなたの忍耐、手腕、献身に、何一つ欠けてはなりませんでした。今、求めておられる休暇で、少し休むのは、当然です。あなたに再会し、話し、昔から変わらぬ友情をお伝えする喜びが、私にも得られるので、なおさら嬉しく、その休暇を認めます。
あなたが、不在のあいだの臨時の担当を、マルイユ氏に任せたいと、お伝えくださった希望には、閣僚たちも、全面的に賛成です。不在は一時的なもので、時期の適当さは、ご希望どおり、あなたが判断されます。マルイユ氏は、ハーグに、ふさわしい後任を置ければ、あなたのところへ行きます。その任地の重要性は、きっと、お感じのはずです。そこから届くのは、悪い知らせか、悪い兆候だけです。
あの政府は、戦争に火をつける希望を保っています。オランダ国王が、拒否を長引かせるかぎり、大国間の衝突の可能性が残ると、信じています。ですから、戦争の可能性が、完全に消えるのは、オランダ国王がベルギー国王と条約を結び、とりわけ、アントウェルペンの城塞を明け渡し、十一月十五日の条約が、完全に実行された時だけだと、私は考えます。それを得るには、なお、苦労するかもしれません。グレイ卿の内閣の崩壊が、おそらく、オランダ国王の期待を、再び活気づけるだけに、なおさらです。それでも国王は、イギリスが外交方針を変えず、五大国の一致も乱れないことを、知るべきでしょう。
しかし、親愛なる公爵殿、物事が安定を取り戻すまで、ロンドンを離れることは、考えてはならないと思います。それは、新たな犠牲ですが、私は、ためらわずにお願いしています。内閣が再編されれば、会議は、オランダ国王の返答を、扱わねばなりません。トルン氏[367]について、今、答えたことから判断すれば、また拒否でしょう。この逮捕と、尊大な返答は、ベルギーを戦闘に引き込み、戦争を起こすことに成功したいという期待によると、私は確信しています。その破滅的な企てを挫くことを願っていますが、挫かれるまでは、ロンドンで、あなたを、たいへん必要とします。繰り返しますが、オランダ国王がベルギー国王と条約を結び、アントウェルペンの城塞を明け渡すまで、問題は終わりません。できるかぎり早く、そうなるよう努めましょう。
それまで、親愛なる公爵殿、改めて……」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三二年五月十六日。
グレイ内閣は留まります。今、お手紙を書いている時に、取り決めの細部が進められています。危機は、収まってきました。確かに、われわれは、どの国の歴史に照らしても、最も奇妙と思える三日間を、たった今、過ごしました。今夜、誰もが、元の地位に戻ります。起きたすべてのことが、パリでも、よく理解されるよう、強く願っています。よく理解されれば、ウェリントン公の、人としての品性を、傷つけるものではありません。私は休暇を得ました。デュランは、私が書けば、ロンドンへ出発します。公式に任命されました。グランヴィル卿は、パリへ戻ります。こちらの物事が、十分に安定し、いつもの進み方を取り戻してからでなければ、私は、休暇を使いません。
昨日の国王の晩餐は、奇妙でした。閣僚も、高官も、いませんでした。辞任は、夜十時まで、なお撤回されていなかったのです……」
セバスティアニ将軍からタレーラン公へ
「パリ、一八三二年五月十六日。
公爵殿、
悲しい知らせを、お伝えしなければなりません。ペリエ氏は今朝、名誉ある、労苦に満ちた生涯を終えました。
公爵殿、この高潔な市民の、見識ある献身を評価していた、すべての人々とともに、あなたも、私たちと、この早すぎる死がもたらす、深い悲しみを、分かち合われるでしょう。とりわけ今、その損失を強く感じるのは、よい結末を期待していた病状の転機によって、最後の日々まで、氏が政務と祖国へ戻る望みを、保っていたからです。
これほど高貴な生涯が、これほど悲しく絶たれたことを、惜しむばかりの、この最初の時には、公爵殿、あなたにお知らせするほど重要なことは、まだ何も決められていません。
喜んで敬意と愛情を寄せていた人々が、少なくなる時には、残る人々に、さらに近づきたくなるものです。この手紙の主題となる、悲痛な知らせを、公爵殿、私の親愛の思いと、あなたからも親愛を寄せていただいているという信頼を、改めて述べる機会とさせてください。」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「一八三二年五月二十三日。
昨日の貴族院の審議は、予想したとおりに進みました。反対派の多くの貴族が退席し、多くが投票しませんでした。そのため、決められた、かなり重要な問題で、内閣は五十五票の多数を得ました[368]。ほかの条項も、おそらく、同じようになり、問題は、三十日の水曜日に終わると思います。
ペリエ氏の死は、こちらでも悲しみをもたらし、あらゆる形で、あらゆる階層に表れています。オルレアン公が、葬列の天蓋の紐の一つを持たなかったことは、驚きをもって受け止められました。こちらでは、重要な人々のために、何度か、ウェールズ公やヨーク公が、その役を務めました[369]。確かに、国ごとに習慣があります。しかし、われわれには、まだ習慣がなく、前例はイギリスにあるのです。ともかく、重要なことではなく、むしろ、非難を好む人もいる、社交界の見方でした。セバスティアニが、いつ湯治に行くか、知らせてください。出発より前に着きたいと思いますし、それが自然だと思います。」
「ロンドン、一八三二年五月二十四日。
貴族院に、トーリー党員は少なく、法案の審議は、たいへん穏やかに進んでいます。昨日の討論は、それまでの日々ほど、険しくありませんでした。党派の、非常に激しい憎しみは、和らぎませんが、それを行動に移すことは先送りされます。国王は、法案の採択を望むと伝えさせました。採択されるでしょう。反対する人々は、欠席します。
レミュザ氏[370]が、夫人とともに、こちらへ来て、パリの手紙を持ってきました……。オランダについては、新しいことがありません。こちらのオランダの公使たちは、会議からハーグへ伝えるよう託された、最近の通告への返答を、受け取っていません。ベルギー人に、私は好意も敵意も持っていません。彼らのために誰よりも働いたことは、疑いありませんが、全面戦争に導きかねない愚行は、してほしくありません。しかし、彼らには、それを理解するだけの頭が、足りないのです……」
「一八三二年五月二十五日。
ペリエ氏の死後、わが外務省の外交報告の調子が、気に入りません。明らかな変化があります。気づかないふりをしますが、そのため、出発を遅らせたくなくなります。コンピエーニュへの訪問が心配です[371]。ベルギー人を、もっと頑なにするでしょう。彼らの側にも、いくらかの融通がなければ、何も収まりません。少し難題を持ち出せると、とても有能だと思うのです。立派な学問ですね。それなら、誰でもできます。しかし、必要なところまでしか抵抗せず、止まるところを知る人は、ごくわずかです。オランダ国王は、遅らせる理由を作りたいだけです。国王を無理に従わせるのは、解決策にはなりません。まず容易でないうえに、公正でも、得でもないからです。フランスの仕事を任されているかぎり、私は、この方針を守ります。不在のあいだも、同じようにしてもらいたいと思いますが、確かではありません。ともかく、デュランは、任せておけば、誰よりも、私の路線を続けるのに適しています。
われわれは、奇妙な時代にいます。どこでも奇妙です。この十五日間、どれほど多くのことを、目にしたでしょう。一年も話せるほどです。イギリスは、テージョ川を見守るため、艦隊を送ります。わが国も、同じことをするでしょう。どこかに騒乱の恐れがあれば、危険にさらされ得る、自国の人々を守る必要があります……」
「ロンドン、一八三二年五月二十七日。
八日以内に、改革法案の第三読会が行われ、法案は、提案された、そのままで通るでしょう。トーリー党の不機嫌のため、討論で実現したはずの、いくつかの改善を、彼ら自身が失うことになります。毎日、レミュザ夫人と話します。夫人は、ペリエ氏の友人のすべてに代わり、パリで、首相の職を受けるよう迫ります。その評価は、とても嬉しいのですが、何も引き受けないと決めています。決意が変わらない時のように、穏やかに、静かに答えています……」
「五月二十八日。
今朝、国王の誕生日を祝うため、宮廷で、大きな集まりがありました。宮廷は、たいへん華やかでした。両党とも出席し、最上の社交界の礼儀を守っていました。オランダについては、何も知りません。国王は、ベルギー人を不安にさせたいのです。それによって、何らかの戦闘、少なくとも、自分の領土へ、何歩か踏み込ませれば、責められることなく、何らかの敵対行動を起こす理由になると、期待しています……」
ルイ=フィリップ国王からタレーラン公へ
「サン=クルー、一八三二年五月二十七日、日曜日の夜。
公爵殿、
フランスと私に、これほど大きな功績を挙げた、重要な任地を離れるにあたり、慎重さと配慮を尽くすおつもりだと、詳しく言ってくださる必要は、ありませんでした。不在による、不幸な可能性がなくなってからしか、離れないことは、十分に確信していました。その時が、あまり遅くならないよう、強く願っていますが、まだ来ていないと思うことは、認めます。セバスティアニ将軍は、コンピエーニュで開く、私とレオポルド国王の会見について、知らせたはずです。理由はご存じで、目的も、お察しでしょう。大国の批准書が交換された以上、会見を、これ以上遅らせるべきではなく、オランダ国王の批准を早めるためにも、重要だと考えました。娘は、一人もコンピエーニュへ連れていきません。長女の運命に、会見が影響し得るだけに、娘たちを連れていくのを、いっそう避けねばならなかったことは、おわかりでしょう。ですから、王妃、妹、次男だけと行きます。
私は、レオポルド国王へ、長い手紙を書き、オランダ国王との交渉に入る用意があると宣言して、会議の提案に同意するよう促しましたが、残念ながら、成功しませんでした。国王は、まったく逆のことをしました。あるいは、少なくとも、閣僚たちが、そうさせたのです。オランダ国王が、自分で引き受けてくれそうだった、拒否の不利益を、たいへん不器用に、自ら引き受けています[372]。それでも、取り返しがつかないものではなく、コンピエーニュへ来るセバスティアニ将軍の助けで、入り込んだ誤った道から、国王を引き戻せると願っています。しかし、親愛なる公爵殿、それだけに、会議がオランダ国王に働きかけ、できるかぎり早く、抵抗をやめさせることが、いっそう急務です。とりわけ、アントウェルペンの城塞を、明け渡させなければなりません。そこが、問題の核心だからです。決定的な一撃を加えるべきなのは、イギリスです。それが、どの意味でも、われわれ自身に最も都合がよく、ヨーロッパ全体の利益にも、最もかなうと、思います。
当然ながら、改革法案という、巨大な問題に没頭しているイギリス政府は、法案が通るまで、大陸の利益には、ほとんど取り組めません。しかし、終われば、オランダ国王に、決着を決心させられる、明確な言葉を向けるのに、一刻も失ってはなりません。シャッセ将軍がアントウェルペンの城塞を出て、国王がレオポルドと条約を結んで初めて、ヨーロッパの平和が完全に保証されることは、国王も、われわれと同じく、深くわかっていると、信じてください。ですから、この点に、外交のあらゆる砲火を向けるべきです。おそらく、最も難しい、この最後の成功を得て初めて、これほど献身して引き受け、才能と手腕で進めてきた、大きな任務が、終わるのです。
親愛なる公爵殿、これ以上は申しません。あなたへの、心からの友情を、改めてお伝えするに留めます。
ルイ=フィリップ
追伸――ご希望どおり、マルイユ氏の信任状に署名しました。ダルマティア侯爵[373]がハーグに着き次第、あなたのところへ行きます。」
セバスティアニ将軍からタレーラン公へ
「パリ、一八三二年五月二十八日。
公爵殿、
数時間後、コンピエーニュへ出発し、夕方に着くつもりです。明日、そこでレオポルド国王を迎え、その訪問の理由となる問題を、話し合います。この会見の価値は、きっとご評価くださったでしょう。ベルギー国王の意向に、仲介を通さず、直接働きかける貴重な機会となります。わが君主は、新たな絆で、わが国の運命をベルギーに結びつけることに同意しています。そのベルギーの安泰は、わが内閣と同盟国の計画を心から信頼し、全面的に受け入れることにかかっている、と国王に納得してもらおうと思います。それは、あなたがロンドンで、見事に進めた仕事を、コンピエーニュで続けることです。あなたに関わる、すべての結果は、正確にお知らせします。
国の問題の後には、公爵殿、われわれ自身のことも、少しお話ししなければなりません。医師は、ブルボンヌの湯治を命じ、私は、来る七月二日ごろ、行く計画です。健康に必要と思う旅を、その時期まで遅らせることにした、いくつかの理由のなかには、公爵殿、パリで、あなたを待ち、お会いしたいという願いも、数えていただきたいのです。短い期間なのに、事件によって、これほど長く感じられた不在の後で、あなたと話す数時間を、どれほど大切に思うか、お察しでしょう。ここにお受け取りいただきたい親愛の言葉を、直接、改めてお伝えできる喜びも、そうです……」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三二年六月二日。
デュランが来る時、オランダとの問題が、歩み寄れる状態にあるよう、努めています。実際、オランダの利益が、国王に交渉を強いると思います。期待していた支援は、すべて失われました。私は、デュランが着いた後まで留まり、仕事に就かせます。こちらでは、私に、とても親切で、戻ると、名誉にかけて約束するよう求められます。約束はしますが、フランスの状態次第です。それが、私の決断を左右します。ほかの人にはできなかったこと、すなわち、五大国の一致を保つことを、私はしました。今も、その一致は保たれています。ですから、私が望めば、任務は果たされています。難しいどころではないと、思われていたものです。国王が、国内ではペリエ氏の方針、国外では私の方針を続けることを、ヨーロッパ全体に、明確に示す行動をなさるよう、期待しています……」
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ
「サン=クルー、一八三二年六月二日。
親愛なる公爵殿、この八日間、あまりに慌ただしくて、望んでいたのに、お手紙を書けませんでした。昨夜、コンピエーニュへの小旅行から戻ったので、早速、知らせをお届けします。あらゆる点で、たいへん満足のいく旅でした。愛する国王は、道中、どこでも、ふさわしい、強い愛情の証によって迎えられました。コンピエーニュでも、いつものように、その存在と話が、最もよい効果を上げました。もっと旅ができないことを、本当に惜しく思います。国王の言葉がもたらすよいことは、何にも代えられないからです。レオポルド国王には、完全に満足しています。国王は、今、どの点でも申し分ありません。完璧で、立派でした。ですから、結婚という大きな問題が、今、決まりました。私が、最初にお知らせしたいのです。ただ、時期は、まだ決まっていませんが、遅くとも八月中となります。政治の点で、これほどふさわしい結婚は、レオポルド国王の人柄、われわれへの友情、両国の近さによって、愛するルイーズの好みからも、最も幸福の見込みを与えるものです。しかし、かわいそうに、あのよい子は、父、母、われわれ皆と別れる見通しに、たいへん悲しんでいます。それも無理のないことです。今、この結びつきの安全と幸福を確かにするため、必要なのは、オランダ軍のアントウェルペンからの撤退を、あなたが実現することです。軍がいるかぎり、いつも不安なベルギーだけでなく、われわれにも、非常に重要なことです。フランスでもベルギーでも、大多数は、オランダ国王が道理に従い、十一月十五日の条約に服するまで、本当に平和を信じないからです。なお、この大きく、よい仕事を、完成させていただく必要があります。全体の安寧のため、速やかであることが、肝心です。
幸い、シュアンとヴァンデについては、とてもよい知らせがあります。政府の措置と、その地方の民衆や、すべての国民衛兵の、よい意向のおかげで、全面蜂起の計画は、完全に挫かれ、不可能だと示されました。もちろん、惜しむべき局地的な不幸はあります。このように内戦を煽る者たちは、まことに罪深いのですが、結局、災いが福になることは、疑っていません。信じ難いものの、残念ながら事実なのは、ベリー公妃が、フランスにいるのか、スペインにいるのかさえ、まだ、はっきりわからないことです[374]。この不確かさは、とても困ったものです。公妃のなし得ることのためではなく、不安と動揺を残すためです。
シャルトル公については、とてもよい知らせがあります。旅のなかで、たいへんよくやっており、今、南部で、とても役立つと思います。戻るのは、今月末か、来月初めです。親愛なる公爵殿、あなたの計画は、いかがですか。お手紙を受け取り、イギリスの出来事についても、どうお考えか伺うのを、待ちわびています。この手紙を、できるかぎり早く、出したいので、今日は、ここまでにします。親愛なる公爵殿、改めて、どうか……」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三二年六月七日。
急使が着きましたが、町全体が、パリの嘆かわしい知らせでいっぱいの今日、あなたからの手紙がありません。ひどく心配しています[375]……」
レオポルド国王からタレーラン公へ
「ブリュッセル、一八三二年六月五日。
親愛なる公爵殿、
コンピエーニュへの出発の少し前に、バクール氏を通じて、ご親切なお手紙を受け取りました。戻ってから、お話ししようと思っていました。私と王家を、長く結んできた友情の絆は、ご存じですから、何日か、ご一緒に過ごす幸せは、容易に、お察しでしょう。国王、王妃、アデライード王女は、皆、あなたに、心から親愛を寄せています。私たちは、あなたのことを、たくさん話しました。
こうして、ルイーズ王女との結婚は、皆が満足して、最終的に決まりました。フランスでも、喜ばれているようです。思うようには動かせない民衆も、私に、大きな好意を示しました。ヴァンデの事態は、いくらか不安を与えていましたが、政府に力を与えることにも、なり得ると思います。どうか、あなたの英知から、力強く行動するよう、助言をしてください。国王が、これまで、この党派に与えた、きわめて寛大な扱いは、国王に、そうする権利を、なおさら強く与えています。
一週間、不在で、かなり遠くにいたのに、ベルギーでは、最も小さな騒ぎさえありませんでした。これを、大いに誇る権利があると思います。しかし、もう終わらせる時です。軍と、熱烈な愛国者たちは、強く戦争を望んでいます。私にも、抑えられない時が来るかもしれません。
イギリスは、終わらせると決めています。これほど容易なことはありません。英仏海峡に小艦隊を置き、ある日以降は、オランダが債務の未払分を失い、さらに、日ごとに元本の一部を差し引くと、知らせればよいのです。この二つの措置は、危険を生まず、大きな影響を持つでしょう。オランダの最近の返答は、条約の実行を急務にしています。
私については、平和の維持のため、できることをするのは、確かです。その点で、私は、忠実に任務を果たしてきました。しかし、今後、私を倒そうとすれば、私は最後まで抵抗し、ほかの多くの者も倒すことを、よく理解してもらいたいのです。この点では、最大限の冷静さをもって、決意を固めました。
フランスの安寧のために、ベルギー問題を完全に終わらせることは、この上なく重要です。ルイ=フィリップ自身、フランスに信頼が戻るのは、この決着を見てからだけだと、私に言いました。それは正しいことです。
ヴァン・ド・ヴェイエル氏に与えてくださる評価は、私に大きな喜びを与えました。氏には、それに値するものがあり、こちらでは、たいへん不当に扱われてきました。
ディノ夫人が、私を、すっかり忘れてしまっていないのであれば、よろしくお伝えください。そして、私が、いつも、あなたへ敬意と、心からの友情を寄せることを、確かに信じてください。
レオポルド」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三二年六月八日。
パリの知らせが来る前に、手紙を書き始めます。六日の午前九時以来、何も知りません。私の苦しみを、お察しください。権力の側に有利に終わり、権力が、その成果を使って、強力で、憲法にかなう手段によって、ひどく乱された秩序を、取り戻すよう願っています。国民の支持は、憲法に従って定められた秩序のなかに、求めるべきです。そこでこそ、よいものなのです。無頼の徒を甘やかしても、大胆にさせる以外に、何の効果もありません。
国王は、五日の夜、そして、馬上で過ごした六日の一晩中、たいへん落ち着き、毅然としていたと言われています。こちらでは、大いに評価されています……」
ルイ=フィリップ国王からタレーラン公へ
「パリ、一八三二年六月七日、金曜日。[訳注12]
親愛なる公爵殿、
セバスティアニ将軍が、パリを舞台に、今、起きた事件について、詳しく知らせたことは、知っています。フランス人の血が流れた悲しみは、あなたも共有するでしょう。しかし、この戦いを、何ら招かなかったことと、フランスと私にとって、幸いに、名誉ある形で終えるためのことを、何一つ怠らなかったことを、誇れる、正当な満足も、分かち合ってくださるでしょう。七月の王座は、シャルル十世派と共和派の結合の前に、ギデオンのラッパの前の、エリコの城壁のように倒れると、国内外で、繰り返し言っていた人々は、今、認めねばなりません。国民との率直で全面的な一体感、誓った信義と、国の制度、法律、自由への、敬虔な尊重は、取り巻きの群れと、すべての従者を伴う絶対権力より、王座にとって、よい防壁なのです。
しかし、この大きな勝利を得た後は、それを固める必要があります。勝利の与える力を使い、対外的な安全を危うくし、全体の平和を乱しかねない、国外での、あらゆる不確かさと引き延ばしを、終わらせるのです。
親愛なる公爵殿、五大国が揃って、十一月十五日の条約を批准するという、大きな成功を得たことを、私は、心からお祝いしました。しかし、すでに行われた五大国の批准書の交換に、批准された条約の実行が、直ちに続くことは、大国の威厳に関わると同時に、フランスとイギリスにとって、絶対に必要です。正直に言うと、この点での、第六十三号議定書の、薄弱さには驚きました[376]。ともかく、オランダ国王へ、さらに、この配慮が示された以上、それを受け止めた態度は、別の言葉を用い、アントウェルペンの城塞を、ベルギー国王へ渡す、明確な期限を定める、新たな理由となります。イギリス政府も、われわれと同じく、オランダ国王へ、この明確な宣言を行う意向だと思います。そして、ネーデルラント国王陛下に、この城塞を明け渡すよう強いて初めて、ベルギーの独立を認めさせ、レオポルド国王との条約に署名させられることも、われわれと同じく、承知しているでしょう。
プロイセン、オーストリア、さらにはロシアの三大国も、フランスとイギリスが結びつき、オランダ国王に、この宣言を行うと予想し、妨げようとはしないと、私は確信しています。その宣言だけが、オランダ国王の抵抗をやめさせ、ヨーロッパの平和を乱す者になるという、国王の保ち続ける、不幸な期待を奪う手段だと、われわれと同じく、知っているからです。また、われわれに、オランダ国王を攻撃しないでほしい人々には、それを防ぐ、唯一の手段は、われわれの指定した日に、アントウェルペンの城塞を明け渡さなければ、攻撃されることを、国王に、少しも疑わせないことだと、容易に理解させられるでしょう。こちらの側については、城塞の包囲に軍を送らずに済むことを、強く望んでいるが、指定した日の撤退を強いる、ほかの手段がなければ、実行すると決めていると、イギリス政府と会議に、確かに保証していただけます。その日は、来る七月一日が、適当だと思います。
ほとんど疑っていませんが、イギリス政府が、私の政府と一致し、この進め方を採るなら、パーマストン卿と協力して、オランダの全権代表に、次の宣言をするのがよいでしょう。国王が、アントウェルペンの城塞からの撤退によって、五大国の考えに同意する意思を示すまで、代表たちから、何の通告も受け取らない。そして、七月一日に撤退が実行されなければ、両国の合同艦隊によって、オランダの港を封鎖する、と。
この方法は、イギリスにかなうと、私は理解しています。われわれも、はるかに費用のかかる、わが軍をベルギーへ戻す方法より、ずっと好ましいと思っています。軍を戻せば、われわれが、あらゆる方法で避けようとしている、複雑な事態に、さらされるからです。それでも、これ以上、耐えるべきでも、耐えられるものでもない引き延ばしを、続けられるなら、その危険を冒すと、決めています。
親愛なる公爵殿、ご覧のとおり、ありふれた言い方をすれば、私は、胸の内を、すべて明かしたかったのです。あなたが、それを、よいようにしか使わないと、よく知っており、いつまでも保ちたい、昔からの習慣に従い、全面的な信頼をもって、あなたに心を開くのを、いつも好んでいるからです。今、克服した危機の後で、状況が重大であるだけに、いっそう急いでいました。そして、あなたが、まだロンドンにいる、短い時間を利用し、この問題を望ましい方向へ導いていただきたいのです。そのための手段は、あなたが誰よりも多く持っているのです。
コンピエーニュでの、レオポルド国王との会見について話す時間は、もうありません。ただ、そこで、長女との結婚を決めたこと、また、国王が、非常によい意向を持っていたので、求めると予告していた、すべてを、容易に得たことだけを、お伝えします。さらに、直ちに、ヴァン・ド・ヴェイエル氏をロンドンへ戻すことも、約束しました。
おやすみなさい、親愛なる公爵殿。あなたへの、私の友情のすべては、ご存じです。
ルイ=フィリップ」
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ
「テュイルリー、一八三二年六月八日、金曜日。
親愛なる公爵殿、時間ができたので、すぐに、私たちの様子をお知らせします。今、起きたような、重要な出来事の後ですから、強く望んでいらっしゃると、確信しています。流された血によって、たいへんつらく、悲しい、夕方と、一夜と、一日がありました。今や一つとなった二つの党派、シャルル十世派と共和派が、長く準備していたことです。この陰謀は、疑いなく、南部とヴァンデのものに、結びついています。愛する国王は、いつものように、自らこちらに姿を現し、決意、勇気、力強さによって、勝利を決め、勝ち取りました。火曜の夜、サン=クルーで、パリの事態を知ると、すぐに馬の用意を命じ、王妃、ヌムール、ジェラール元帥、私が、ともに馬車へ乗りました。道中のあらゆる人々、すべての荷車、乗合馬車が、『国王万歳』の叫びで響きました。パリへの到着時も、同じでした。カルーゼル広場にいた軍と国民衛兵の熱狂は、とても、お伝えできません。国王は、閲兵に行き、別れ際に、『また明日、親愛なる仲間たち、君たちを頼りにしている』と言いました。この言葉は、歓喜して繰り返されました。『はい、はい、また明日、明日』と。そして、実際、皆、見事でした。国王は、再び励ますため、パリ全体に姿を見せ、止めようとするロボー元帥の意見に反して、まだ弾丸が飛び交う場所へも、行きました。天のおかげで、弾丸は、国王を傷つけませんでした。同行したジェラール元帥は、国王の後へ群がり、『国王万歳、シャルル十世派を倒せ、共和派を倒せ』と叫ぶ、すべての住民ほどの熱狂は、見たことがないと、私に言いました。また、『パリに戒厳令を』とも言い、多くの人が、できるかぎり国王へ近づいて、『何よりも、シャルル十世派には赦免を与えないでください』と言いました。この時ほど、国王が、愛情と献身の証を受けたことは、ありませんでした。直ちに、郊外のすべての国民衛兵が到着し、驚くべき働きをしました。獅子のように戦ったのです。昨日は、セーヌ=エ=オワーズ県の、すべての国民衛兵が着き、ル・アーヴルの国民衛兵も、事件を知ると、出動しようとしました。ああ、愛するルイ=フィリップは、とても強く、われわれの、よい、愛する国民と一体なのです。これは、地位を保ち、党派と戦う力があることを、疑っていた、すべての人々への、よい返答です。今や、ヨーロッパの大国が、その点で安心し、ルイ=フィリップは、祖国を救うために必要な時、強く、力強くなれると、納得するよう願っています。
この罪深く、卑劣な陰謀は、血を流させました。われわれは、それを嘆いています。しかし、成果は莫大です。会議に、オランダ国王との問題を終わらせ、国王を道理に従わせ、五大国が署名した条約を実行させるには、よい時だと思います。実際、これほど有害で、フランスとベルギーの利益に反する、不確かな状態を、これ以上長引かせる理由も、言い訳も、もう与えられません。あなたの熱意と手腕が、その決断を勝ち取るはずです。親愛なる公爵殿、このよい知らせを、お持ち帰りくださると、願っています。
国王は、お手紙を書きたいと願い、時間が見つかれば、すぐ書くつもりです。アントウェルペンの城塞からの撤退を、たいへん急いでいます。その点では、会議が、もう遅らせず、オランダ国王に実行させる手段を取ることを、望んでいます。進んで応じてもらえないなら、力によってでもです。
シャルトル公については、とてもよい知らせがあります。旅に、たいへん満足しています。腕木通信によって、六月七日の三時、途方もない群衆と、熱烈な歓呼のなかで、マルセイユへ着いたと、わかっています。私たちは皆、健康です。あなたも、同じようにおっしゃってくださると、願っています。これで、改革法案も通りましたね。
親愛なる公爵殿、どうか……」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ
「ロンドン、一八三二年六月十日。
今ではこちらの誰もが、パリでは民衆の方から攻撃を仕掛けたと確信しています。そのため、皆が政府の対応を支持しています。政府はこの機会から十分な力を得て、同じような危機が二度と起こらないようにしなければなりません。国王には、権力が勝った危機の後には必ず選挙の結果も良く、権力が敗れた危機の後には必ず選挙の結果も悪かったことを、覚えておいていただきたいのです。さらに、亡命者は例外なく全員、パリから立ち退かせるべきです。あそこでは何の役にも立ちません。小さな集団に分けて、各地方に分散させるのです。南方の亡命者は北部の町へ、北方の亡命者は南部の町へ。ロワール川を境界とします。スペイン人とポルトガル人はノルマンディーとピカルディーへ、ピエモンテ人はフランドルへ、ポーランド人はアルジェへ。そこで戦うか、植民に従事するでしょう……」
六月十一日。
「パリの暴徒に金が、それも大金が配られたのなら、その金の出所が突き止められないはずはないと思います。五フラン、十フラン、二十フランを受け取るような人々が、口を堅く閉ざしていることは滅多にありません。オランダの件では、私は決断を促すつもりですが、何事も拙速に進めるべきではないと思っています。とりわけ今のわれわれの立場では、行動の上で他の四大国から離れてはなりません。これまで以上に、それが大切です。そこにこそ国王と王朝の力があります。このことを片時も忘れてはなりません。今日ならイギリスはわれわれについてくるだろうと、私は考えていますし、そう信じています。しかし、間もなく各国政府は、イギリスをわれわれから引き離そうとするでしょう。イギリスがそれに抵抗するという確信はありますか。長く抵抗するという確信はありますか。こちらで内閣が交代したら、どうなるでしょう。ここにわれわれに反対する有力な一派がいないなどと、考えてはなりません。どれも考えさせられることです。早急な決断は、われわれを思いがけず遠くまで連れていきかねません。われわれはもう一度、働きかけを行います。それが済めば、和解の手段はすべて尽くしたことになります[377]。その時には、行動しない大国から、われわれは自由に行動してよいと言ってもらう必要があります。これが私の考えです。どうかお分かりください。国外から見ると、騒乱は、どれほど見事に鎮圧された騒乱でも、後になって別の時にまた騒乱が起こるかもしれないと思わせるものです。それでは全面的な信頼は得られません。ですから、他の四大国から離れるのはやめましょう。離れるとしても、彼らの同意を得てからにしましょう……」
六月十二日。
「デュランの到着を待っています。彼には、申し分のない状態で仕事を引き渡せると考えています。五大国の結束は確立され、それは原則と財産を守ることを基礎にしています。今の文明を破壊し、空想上の文明に到達しようとする時代の風潮を、食い止められるのはこれだけです。国王はいつ私をお待ちでしょうか。お知らせください。こちらで私が必要でなくなるまでは、決して発ちません。それは確かです。しかし、いつ戻ることを期待されているのかは知りたいのです。私はフランスで何の地位にも就きたくありませんので、物事が完全に秩序を取り戻し、すべての役職や立場が定まってから帰る方が、むしろ気楽です。私が役に立つのは、ここだけです。人は自分の務めを果たさなければなりません。ですから、人が何と言おうと、私はここへ戻ってきます。遅くとも二十一日にはこちらを発ち、二十四日にはパリに着くつもりです……」
ロンドン、一八三二年六月十五日。
「それでは、十七日の日曜日にデュランを待つことにします。十八日と十九日は、彼の紹介にあてます。それを済ませ、幾つかの指示を与えてから、ゆっくりパリに向かいます。必要な配慮を尽くした後は、イギリスとわれわれが思うとおりに行動でき、それによって他の大国との関係が冷え込むこともないよう、事態を整えています。私は自分の判断で六月三十日までの猶予を認めました。三大国の一致を最も大切なことと考えているからです。彼らが望んだこの延期を認めれば、その後フランスとイギリスが共同で海上行動を起こしても、彼らは当然のこととして受け止めると確信しています。フランス内閣はもっと急ぎたがっていましたが、ル・オン氏を通じてわが国の内閣をせき立てる、ベルギー側の性急さに、少し引きずられていたのだと思います。ロンドンにいるゴブレ将軍も、ブリュッセルにいるヴァン・ド・ヴェイエル氏も、同じ考えです。ですから、私は方針を変えません。率直に言って、この譲歩によってわれわれに対して約束を負っている大国の同意を確実に得られるのなら、十五日遅れることなど、大したことではありません。しかも、もう決まったことですし、私は良い決着だったと確信しています。今朝の会議の休憩中に、この手紙を書いています。この会議では、トルン氏の処遇を決めることになっています[378]。われわれはドイツ連邦に、彼の釈放を命じ、オランダ国王が設ける障害に構わず進めるよう促しています。デュランに残されるのは、私の方針に従うことだけです。イギリスとの結束、五大国の一致、そしてイギリスと協調した軍備によって、オランダ国王にベルギーの領土を返還させ、とりわけアントウェルペンから撤退させることです。この方面でのフランスの仕事は、良い状態に整えて引き渡せると思っています。」
実際、私は六月二十日にロンドンを発った。出発の数時間前に、パーマストン卿から次の短い手紙を受け取った。
パーマストン卿からタレーラン公へ
「外務省、一八三二年六月十九日。
親愛なる公爵殿、
三通の通告書を受け取りました[379]。署名しましたので、すぐに発送いたします。
もう一度、お別れを申し上げます。お帰りになる先で、良い助言をなさってください。健康には十分お気をつけください。われわれの会議で長く積み重なった疲れを早く癒やして、どうぞ間もなくこちらにお戻りください。何より、戻ってきてくださることをお願いします。
心を込めて。
パーマストン」
私は六月二十二日にパリに着いた。
第十部 終わり
付録
前巻と同じく、特に興味深いと思われる私信や機密の書簡を幾つか、付録に収めた。これらの書簡はすべて、タレーラン氏の文書から採ったものであり、公爵の文書に現存する自筆原本から書き写した。
アデライード王女からタレーラン公へ[380]
「パリ、一八三一年一月三日。
親愛なる公爵殿、この困ったベルギーの問題が、私たちの大切な国王をどれほど悩ませているか、言葉ではお伝えできません。国王は、どう抜け出せばよいのか分からない苦境に陥っています。コーブルク公に対する私たちの友情と愛着は、よくご存じでしょう。あらゆる点で、国王にとって最も望ましいのは、確かにあの方です。しかし残念なことに、こちらではただイギリスの手先としか見られていませんし、率直に言って、極端に評判が悪いのです。もし国王の娘たちの一人を妻としてベルギーの王位に就けば、あの国をイギリスに売り渡したと思われるでしょう。それによってこちらでの人気をすべて失いかねない危険に、国王は身をさらすこともできませんし、そのつもりもありません。同じ理由で、おそらくベルギーにも好ましくないでしょう。ベルギーが望んでいるのはヌムールか、フランスへの併合です。後者は必ず戦争を招きますから、これも避けなければなりません。ヌムールも、大国はきっと望まないでしょう。たとえ彼らが同意したとしても、非常に大きな難しさがあり、国王は決してそれを望んでいません。摂政を置く必要がありますが、どうやって、誰を選べばよいのでしょうか。この子に誰を付き添わせて送ればよいのでしょうか。この子に待ち受ける将来を思うと、父親としても国王としても恐ろしくなります。確かな利益は何も見えず、困難や障害、厄介事ばかりなのです。さらに、ルクセンブルクという困った問題が、難しさをいっそう増しています。ベルギー人はこの件での連邦議会の決定を認めようとせず、ますます気持ちを高ぶらせ、戦争を引き起こしたがっています。その上、オランダ国王は絶えず人を欺き、不誠実な態度を取り、自分の側からも戦争を引き起こそうと、できることをすべて行っています。ベルギー人に対する恥ずべき振る舞いによって、この不幸な国全体を憤激させているのです。ナポリのカール公子は、誰も望んでいません。国王はこの困った問題に、全く途方に暮れています。どんな手を打てばよいのか、どうしても見えてこないので、心を痛めているのです……
……どうか遠慮なく、ご意見をお書きください。何をするのが最善だとお考えか、お聞かせください。ただ、こちらにはベルギーの問題への強い苛立ちがあり、わが国民はベルギーが再びフランス領になることを、はっきり望んでいると、よくお考えください。この件で慎重な配慮をしているのは国王だけであり、人々を待たせるには、国王への信頼と愛情のすべてが必要なのです。しかし、取り決めの中に、外国の大国の利益になるよう結ばれた合意があると思われたら、国王自身にも、わが国の国内の平穏にも、非常に大きな危険となります。どうかこのことを心に留めてください。これが実情なのです。」
アデライード王女からタレーラン公へ[381]
「パリ、一八三一年一月五日。
こちらの急進的な一派は、ベルギーから併合を要請させ、フランスの三色の記章を掲げさせることで、私たちをベルギーの問題に巻き込み、フランスを戦争に引きずり込みたがっています。そうなれば、その勢いには逆らえないと期待していますが、無駄な期待です。兄は、その勢いに屈するつもりはなく、平和か戦争かを決めるべきなのは国王なのか、それともパリの学生なのか、はっきりさせようと宣言しました……
一昨日、兄は大変悩んでいました。どの案ならベルギー人が受け入れるのか、もはや見当がつかず、一案を見つけるために、あなたの助言を求めていたのです。しかし、ブレッソン氏の外交報告から、ベルギー人がバイエルンのオットー公子を迎える意向だと知ると、直ちに他の考慮をすべて脇に置き、この糸口を採り上げました。ただし、この公子であれ、他の誰であれ、ベルギーに押し付けようとしていると言われるような形ではありません。何の反対もなく、早く決着をつける必要があると考えているので、この選択なら喜ばしく思う、と伝えるためでした……」
ブレッソン氏からタレーラン公へ[382]
[私信]
「ブリュッセル、一八三一年一月十三日。
公爵殿、
一昨日の夕方、今月九日付でお送りくださったお手紙と、同封の文書を受け取りました。ご不興を買った悲しみを深く感じていますので、会議には受け入れられない案だったと、今では私もよく分かっている、あの急な案が生まれた事情を、ご理解いただくことが、何より大切だと思っています。共和派とフランス派は、あらゆる準備を整え、われわれは間近まで追い詰められていました。民衆の騒動か、リエージュやヴェルヴィエ方面からの、フランスへの併合宣言が起こるのではないかと、恐れていたのです。少しでも事態がこじれれば、国民会議はヌムール公を選ぶだろうと、考えられていました。こうした危険は差し迫っており、わが国政府が最も恐れていたものでもありました。人々の目を他へ向け、穏健で良識ある人々に、何らかの目標を示す必要がありました。バイエルンの公子を選ぶ案が持ち出されました。パリから、ヌムール公か併合以外なら何でもよいと書き送られていましたし、私には四十八時間の猶予もないと思えたので、その考えに異議はないと判断し、成り行きに任せました。しかし、公爵殿、この件で行われたことは、戦争を望む一派の絶え間ない策略に対抗するためであり、他の目的も、隠れた意図もなかったと、会議に十分理解していただきたいのです。私の行動をすべて知っていたポンソンビー卿は、それを証言できるでしょうし、必ず証言してくださると確信しています。
なお、公爵殿、お手紙を受け取るとすぐ、私はその案を支持する議員たちに、ご指摘の非常にはっきりした不都合を説明するため、あらゆる努力をしました。その結果、彼らは案を取り下げました。今は、状況を見極める時間が得られます。確かに、国民会議は今日の審議で、国家の長の選択を容易にするための特別委員を、ロンドンにもパリにも派遣しないと決定しました。しかし、交渉は引き続き、あなたのお近くにいる代表たちに委ねられていますし、十日前にわれわれを脅かしたような、突然の性急な決定を、もはや恐れる必要はありません……」
セバスティアニ将軍からタレーラン公へ[383]
[大臣官房]
「パリ、一八三一年一月十四日。
公爵殿、
……あなたの外交報告によって、あの方〔ブレッソン氏〕に示された新しい方針は、国王を驚かせました。また、ポンソンビー卿が自国政府から受け取った方針は、ベルギー問題の行方について、われわれを深く不安にさせています[384]。彼の助言は、数の極めて少ないオラニエ公の支持者を励まし、カトリック派、共和派、立憲派を苛立たせています。革命状態は長引き、苦い実を結ぶでしょう。敵対行動の再開は、もはや防げなくなります。それがどこまで進むか、予測するのは難しいでしょう。隠して準備を進め、期待をかけているのは、コーブルク公なのですか。
その案は、もう不可能になっています。われわれは、成功の見込みが幾らかあると考えていた間は、ナッサウ家の公子を選ぶ案を率直に支持していました。コーブルク公の案も、同じように誠意と熱意をもって迎えました。しかし、時の経過が真実を教えてくれました。ベルギー人には、カトリックの王族が必要なのです。ザクセン家、ナポリ王家、バイエルン王家のどこから選ぼうと、われわれには大した問題ではありません。無政府状態を終わらせ、直ちに正常な統治を始めてくれさえすればよいのです。イギリスの内閣が世論を尊重するのは、正しいことです。しかし、われわれも世論を尊重しなければならないと、理解するべきです。フランスは寛大さ、誠実さ、私益を求めない態度を十分に示してきました。ですから、自国のすぐ隣を統治する君主の選択に、ある程度の影響を及ぼしてもよいはずです。ベルギーの問題は、イギリスや他の大国の政策に関わりますが、われわれにとっては政策と、自国の安全の両方に関わるのです。ロンドン会議は、ベルギーへの影響力を過大評価していました。そのゆっくりした慎重な進め方は、古い外交や、ウェストファリア条約の難航した交渉を、少し思い出させすぎたのかもしれません……
公爵殿、あなたも、フランスに押し付けようとされている、この従順な役回りに、嫌気が差してこられたと思います。力ある国王と偉大な国民にふさわしい役割だけを、引き受けたいとお考えのはずです。ヨーロッパがわれわれの政策を十分に理解するのは、われわれをとどめているのが、戦争そのものへの恐れではなく、ヨーロッパの社会秩序が覆り、あらゆる嵐が解き放たれ、至る所で国民と政府が争うことへの恐れだと、分かった時です。われわれにふさわしいのは、この恐れだけです。それは道徳にかなうものであり、政治的で、先を見通したものだからです。国民の願望に対してわれわれが及ぼせる働きにも限界があり、その限界を越えることは、われわれにとって無分別であり、ヨーロッパにとって破滅を招くことになると、あまりにも忘れられています……」
タレーラン公からアデライード王女へ[385]
「ロンドン、一八三一年一月十六日。
王女様のご関心を引くと思われる文書を、お送りいたします。国王と王女様以外には、誰にも知らせてはならないものです。オラニエ公の名で作られていますが、本当の起草者はグレイ卿です。卿はこれを非常に重く見て、大きな期待をかけているため、われわれも、この新たな試みを行うことに、反対できませんでした。成功すれば、国王が初めに望まれたとおりに事が運びます。効果がなければ、われわれが適切で有益だと考えることを提案し、実現する余地が、いっそう広がるでしょう……」
前の書簡に同封された文書。
オラニエ公から……への書簡[386]
「ベルギーでの最近の出来事は、私と私の家族、そして国民に、嘆かずにはいられない不幸をもたらしました。
しかし、この災いの中にあっても、私は心の慰めとなる希望を、捨てたことはありません。いつか私の意図の純粋さが認められ、私自身が、分裂を鎮め、平和と繁栄を取り戻すという幸いな事業に、協力できる時が来るという希望です。その国と私は、永遠に神聖な義務と、最も深い愛情の絆によって結ばれています。
オランダから分離して以来、ベルギーの君主の選択には、ここで述べるまでもない困難が伴ってきました。今、私の存在こそ、その困難の最善で最も満足のいく解決になると考えるのは、思い上がりでしょうか。
疑いなく……その信頼を得ることがこれほど必要な五大国も、このような取り決めの中に、国内の平穏を固め、ヨーロッパ全体の平和を確保する、最も確実で、迅速で、容易な方法を見いだすでしょう。
疑いなく、ベルギーの主要都市や幾つもの州から最近届いた、詳細な報告は、国民の大部分が、今も私に信頼を寄せていることを、はっきり示しています……
私に関する限り、過去は忘れることにします。政治的な行動を理由に、個人を区別することは認めません。才能と経験によって、公の務めを最もよく果たせる人々を、排除することなく、過去の行動にもとらわれず、国のために力を合わせさせることに、絶えず努力します。
カトリック教会とその聖職者が、政府の行き届いた保護を受け、国民の尊敬を受けられるようにするため、最も熱心な配慮を注ぎます……
国家の独立を基礎とする取り決めを完成させるため、立法府の努力に力を合わせることは、私の最も強い願いの一つであり、最初の務めの一つです。そうした取り決めは、われわれの対外関係に安全を与え、同時に国内の繁栄を支える手段を、改善し、広げるものとなるでしょう……
こうして私は、われわれに共通する立場が求める率直さと誠実さを尽くして、ベルギー国民の前に立ちました。国の必要を判断する際の、国民の良識と、自由への愛着に、私の大きな希望を託しています。最後に、今日のこの行動では、私自身の利益よりも、ベルギーがなお苦しんでいるあらゆる災いを、回復の措置、平和と和解の措置によって、永遠に終わらせたいという、強く変わらぬ願いに従ったことを、お伝えするだけです。」
ブレッソン氏からタレーラン公へ[387]
[私信]
「ブリュッセル、一八三一年一月二十日、午前一時。
公爵殿、
ロイヒテンベルク公の支持者は、この四十八時間のうちに大きな一手を打つため、すべてを整えていました。バッサーノ公とメジャン氏[388]が、この嘆かわしい計画の主な推進者です。この差し迫った危険を防ぐため、私は大きな責任を引き受けざるを得ませんでした。それを正当化できるのは、大きな不幸を防ぎたいという、私の強い願いだけです。
私は、もしロイヒテンベルク公が選ばれたら、直ちにベルギー政府との連絡をすべて断ち、二十四時間以内にブリュッセルを発つと、宣言しました。この宣言は、われわれにとって大いに役立ちました。
ナポリの公子と、バイエルンのオットー公子についての、われわれへの指示が、あなたに知らされていないとは、思えません。ですから、ここで詳しくは述べません。
ナポリの公子には、ロイヒテンベルク公に対抗するだけの力はありませんでしたが、人々の目を他へ向けるには、十分な力がありました。われわれは、こうした策略の中に、中間の案を投げ入れることで、それを図りました。中央部会の報告は、今日にも君主を選ぶ手続きを行おうとするものでしたが、その結論は、優先して扱われることにはなりませんでした……」
タレーラン公からアデライード王女へ[389]
「一八三一年一月二十四日。
フラオー氏の到着は、大変うれしく思いました。私のすべての質問に答え、パレ=ロワイヤルやパリについて、うれしい話をしてくれたからです。彼は、ベルギーの件が予想以上に進んでいることを知りました。苦労して得られたこの中立が、現在のあらゆる議論の中で、良識ある人々すべてにとって、大きな問題の唯一の解決と映っていることも、すでに確かめることができました。王女様の素早く繊細なご判断は、その利点をすべて見抜いておられると、確信しています。実際、平和を保ち、イギリスの優位を確立させずに、その国の利害を満たせるのは、この措置だけだったと思います。イギリスにベルギーでの実際の拠点を譲ることは、北方に新しいジブラルタルを与えることです。われわれはいつか、イギリスに対して、イベリア半島と同じような立場に置かれるでしょう。そのような方策は、現在のために将来を、あまりにも危険な形で犠牲にします。その代償は、十度の敗戦の後に、ようやく認めるかどうかというほどのものです。ベルギーの残りの地域を併合したとしても、イギリスが大陸に最初の足場を得ることへの代償としては、不十分でしょう。もしフランスが拡張する必要があるのなら、目を向けるべきは、ライン川の線です。そこにこそ、本当の利益がわれわれを招いています。そこには、実際の力と有用な国境を得る余地があります。しかし、今は平和が、そのすべてにはるかに勝ります。ベルギーは、利点より多くの厄介事をわれわれにもたらすでしょう。そして利点のほとんどは、中立によって確保されるのです……」
アデライード王女からタレーラン公へ[390]
「パリ、一八三一年一月二十八日。
親愛なる公爵殿、
……確かに、フラオー氏は、こちらを発つ時、あなたのもとに着いて、あれほどのことが成し遂げられているとは、思っていませんでした。見事な成功です[391]。それを実現するには、あなたほどの熱意と才能が必要だったでしょう。その成功を二重に喜ばれる理由にも、私たちは深く心を動かされ、よく理解しています。おっしゃるとおり、考え、思いを巡らせる人はすべて、この中立がわれわれにもたらす、非常に大きな利点を感じています。昨日の代議院での議論も、非常に良く、政府にとって全面的に有利だったことが、お分かりになるでしょう[392]。代議院が政府を支持するのは、主に極左の内閣を恐れ、それを避けるためです。というのも、フランスの多数の人々が、ほとんど全体と言ってもよいほど、ベルギーの併合を望んでいることは、隠してはならないからです。イギリスがベルギー国民会議に君主を選ばせるまで、もたもたと時間をかけたため、われわれはフランス国民に対しても、ベルギーに対しても、非常に困った立場に置かれています。しかも、イギリスがそうするのは、オラニエ公を復帰させたいという、隠れた意図のためです。受け入れられないロイヒテンベルク公の案が、持ち上がりました。われわれには拒絶する以外ありませんでした。イギリスもそれを理解し、認めていますが、同時にポンソンビー卿は、この件では指示を受けていないと言っています。これで問題はまた、非常に苦しく悩ましい形で、複雑になりました。これは誰のせいでしょうか。率直に、誠実に、真っすぐ進んできたわれわれのせいでは、決してありません……」
一月二十九日、土曜日の朝。
「追伸。ブリュッセルでは、もうヌムールかロイヒテンベルクの二者択一しか残っていないと、知りました。この状況で、ポンソンビー卿がはっきりロイヒテンベルクを推しているなど、信じられるでしょうか。全く、信じられない話です。しかし、確かなことなのです。それほど確かではありませんが、そう言われていて、ポンソンビー卿の発言からすると、十分ありそうなのは、ヴァン・ド・ヴェイエル氏がロンドンから、ロイヒテンベルクが選ばれれば、イギリスは承認するとの確約を持ち帰ったということです[393]。」
ブレッソン氏からタレーラン公へ[394]
「ブリュッセル、一八三一年三月八日。
公爵殿、
会議から私についての決定を得られないので、こちらから先に行動することにいたしました。会議のベルギー派遣委員の職を辞任する旨、謹んでお届けします。同時に、ポンソンビー卿を通じて、会議にも伝えます。
会議に宛てた書簡を同封しますので、どうかご提出ください。ポンソンビー卿とヴァン・ド・ヴェイエル氏に宛てた書簡の写しも、お付けします。
金曜日か土曜日に、パリへ発つつもりです。滞在は短くするつもりです。何より望んでいるのは、間もなくまた、あなたのおそばに戻ることです[395]。」
セバスティアニ将軍からタレーラン公へ[396]
「パリ、一八三一年三月二十日。
公爵殿、
内閣の成立について、新たにお知らせすることはありません。構成する閣僚たちのことは、私と同じようにご存じです。平和を支持する側の力は強く、ほとんど全員一致と言えるほどです。カジミール・ペリエ氏に、一言お書きになるとよいと思います。あなたからのお手紙を、喜んで受け取るでしょう。彼は政府の行動を一つにまとめ、無政府主義者と力強く戦う決意を示しています……
……ラフィット氏は、つらい思いで政務を去り、少し苛立ちを見せています。彼の財産の状態が、政治的な敗北の主な原因です。証券取引所で上がった非難の声は、議会にも響いていました。
今の大きな課題は選挙です。穏健で、秩序と政府の真の支えとなる代議院を、もたらしてくれると思います。
戦争は避けられると思います。オーストリア軍が教皇領に入らなければ、平和は確かなものになります。私は、その維持に身を捧げています。」
[機密]
「コンスタンティノープル、一八三一年三月三十一日。
閣下、
二十五日付の前回の機密の外交報告の後、レイス=エフェンディから、フランス大使がオスマン政府に通告書を提出したと、確かな知らせを受けました。口頭での申し入れより控えめではありますが、次の三つの重要な点が含まれています。
一、フランス政府の原則は、ロシアとオーストリアが掲げる原則と、真っ向から相反しているため、フランスとこの二大国との戦争は、避けられない。
二、その戦争では、イギリスは中立を保つか、フランスの同盟国となることを表明する。
三、フランス大使は、自国政府の名で、オスマン政府に、オスマン帝国の独立を確保するために必要な措置を取るよう、強く求めている。また、反対にフランス国民の原則と意図に敵対する側に立った場合には、戦争の必然的な結果として被る損失を、後になって免れようとしても、無駄であると警告している。
謹んで……
署名:R・ゴードン」
タレーラン公からオルレアン家のアデライード王女へ[399]
「一八三一年六月二十七日。
今日の使者に、夜中に交わした書簡の写しを託して、王女様を煩わせたばかりですが、たった今届いた、レオポルド公の返事も、お伝えしなければなりません。それは、フランスの立場からの私の要求を、すべて満たすものではありませんし、正式に述べていただければ、はるかに役立ったことも、会話で述べたというだけでは、十分な代わりにはなりません。しかし、今となっては不満を示しても意味がありませんから、満足したものとしなければなりません。それでも、昨日の私の手紙によって、公から、いささか弁解めいた、書面での説明を引き出せたことは、良いことです。公は、会議の他の代表から言われたかもしれないことを持ち出して、弁明しようとしています。私が自筆で書いて、レオポルド公の手元に残した一文だけに従う方が、もっと簡単で、誠実だったでしょう。
今は、秘密を漏らしがちなベルギー人が、レオポルド公から伝えられた、フランスへの献身の約束を、忘れないことを願いましょう……
この数日、私が書き送ったすべてのことについて、最初の知らせはブリュッセルから来るべきだと、王女様にはお心に留めていただきたいのです。
ヴェッセンベルクは、ネーデルラント国王を、もっと譲歩しやすくするでしょう。われわれは、彼に大変な仕事を課したものです。」
パーマストン卿からタレーラン公へ[400]
「一八三一年七月九日、土曜日。
親愛なる公爵殿、
六日の夜付の、ブリュッセルからの手紙が届いています。すべて順調で、非常に大きな多数を得られると、期待されていました。投票する百七十四人のうち、百二十五人が賛成するだろうと考えられていました。しかし、提案が受け入れられる何より確かな証拠は、ヴァン・ド・ヴェイエルが、賛成演説をするため、名乗りを上げたことです。われわれのかわいい友人は、カトーの神々のように、勝つ側にいるのが好きです。勝利が提案とレオポルド公の側に来るという、強い予感がなければ、立場を変えなかったでしょう。
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ[403]
「一八三一年七月十五日。
オランダ国王は、まだ返答していません。しかし、ヴェッセンベルクの力で得られたのは、数日の猶予だけでした。返答は木曜日の夜にしか出ないので、ヴェッセンベルクは金曜日、つまり今日、出発することになります。幾つかの説明は与えられましたが、国王の返答は、良くないものになると、私は思っています。あの不機嫌さを、何に役立てるつもりなのでしょう。私には分かりません。事態は、もう譲歩の余地がないところまで来ているからです。説明で気持ちを和らげることはできますが、それ以上はできません。レオポルド公は、それでも明日十六日に出発します。そちらへ伺えば喜んでいただけると思い、カレーを経由して、そうするつもりです。わが王家の王女の一人と結婚したいと、熱心に望んでいて、今朝もまた、私にそう言っていました。フランスでレオポルド公をイギリスの王族に仕立てようとする人々は、全く愚かです。あの方は、それとは正反対です。オランダ国王のこの最後の難題は、われわれにとって非常に不愉快であり、国王自身にとっても、全く役に立たないと思います。まず届く手紙を待たなければなりません。それで、国王の意向が、最も正確に分かるでしょう……」
リニー提督からタレーラン公へ[404]
「パリ、一八三一年十二月二十八日。
公爵殿、
昨日、貴族院の問題を、われわれがどう切り抜けたか、ご覧になったことでしょう。もう一方の議院には、革命の兆しのようなざわめきがあります。それを見れば、法案の否決が伝えられていたら、何が起こったか、十分に分かります。これがわが国なのです。
セバスティアニは、卒中に似た発作を起こしました。良くなっていますが、しばらくは政務を扱えないだろうと、考えられています。本人も、そのことを明らかに心配しています。ポッツォは、隠しもせず喜び、今後は仕事がもっと進めやすくなると、約束しています。明日、ベルギーの計画について、外交団を集めることになっています。昨夜、彼は私に、フィリップヴィルとマリアンブールの要塞の代わりに、トゥルネーの要塞を取り壊すことになるよう、話すと約束しました。この取り決めが適当だと思われるなら、ディノ夫人を通じて、一言お知らせください。それに従って、こちらで動きます。今は、私も動きやすくなっています。
どうぞ……
ド・リニー」
ブレッソン氏からタレーラン公へ[405]
「ベルリン、一八三二年一月二十六日。
公爵殿、
……十二月二十日付のあなたの手紙が、プロイセン国王陛下の目に触れたと、知りました。国王は皇帝に、同盟国の見解に歩調を合わせるよう、促す手紙を送りました。ベルンシュトルフ氏によると、その言葉は、穏やかすぎるどころか、むしろ強すぎるほどだったそうです。ですから、公爵殿、あなたが望んでおられた効果は、得られました。
批准書の交換が一月三十一日まで延期されたと知ると、こちらでは、三月一日まで延ばさなかったことを、大いに残念がっていました。昨日、私は十一月十五日の条約を、無条件で批准するよう、改めて強く求めましたが、成果はありませんでした。自国政府から同様の働きかけを命じられた、イギリス公使も、成功しませんでした。プロイセンは、ロシア皇帝の拒否以来取っている立場を、維持しています。延期によって、考えが変わったわけではありません。ただ、ビューロー氏への指示には、かなり重要だと思われる変更があります。一月三十一日に、一つ、あるいは幾つかの大国が、ベルギー全権代表と批准書を交換するのが適当だと判断した場合には、他の国のために、例えば三月十五日という、定めた期日まで、議定書への署名を可能なままにしておくよう、会議に提案することになったのです。ただしプロイセンは、その期日になっても、すべての大国が順次、正式に批准した場合に限って、条約が有効になるという留保を、保っています。これは延期の別の形であり、欠点も利点もあります。アンシヨン氏は、この期間を有効に使えば、ロシアを会議の決定に従わせるか、ネーデルラント国王を説得して従わせるか、あるいは満足させることができると、考えています。オランダとベルギーの間の最終条約案を作り、両者に提示するのです。あるいは、二十四か条に、追加や説明の規定を幾つか加え、ハーグ政府に受け入れを決意させるか、ロシアに、オランダへのあらゆる約束や配慮から、自由になったと考えさせることもできます。これがベルリン政府の考えです。公爵殿、それをお知りになることには、意味があると思いました。
アデライード王女からタレーラン公へ[406]
「テュイルリー、一八三二年三月四日。
……こうして、われわれはアンコーナに入りました。しかも、全く誠実に、率直に行ったことです。教皇もオーストリア人も、もう一度教皇領に入れば、われわれはアンコーナに行くと、知っていたからです。それは、ずっと前から伝えてありました。内々のお話ですが、オランダ国王が、われわれはベルギーに入るまいと期待していたように、彼らも、われわれにはあえてそれをする勇気はないと、期待していたのでしょう。ですから、親愛なる公爵殿、まさにその理由から、他のすべてのことと同じく、この件でも約束を守ったのを、私は喜んでいると、申し上げます。遠征隊に出発命令が出たのと同時に、すべての大使へ知らせました。われわれは決してイタリアで革命を望んでおらず、それどころか、革命を避けるあらゆる手段を取るよう、促したいのです。そのことは、非常にはっきり説明されるでしょうし、きっともう説明されています。ですから、この遠征の結果を、思い悩む理由はありません。この遠征は、われわれが言ったことを守ると、大国に示すものです。それは、私には非常に大きな利点に思えます。」
パーマストン卿からタレーラン公へ[407]
「スタンホープ・ストリート、一八三二年三月十五日。
親愛なる公爵殿、
昨夜、わが国の内閣は、オランダから来ると伝えられている提案に対し、どのように進めるのが最善か、検討しました。政府の意見では、私が会議で言い、あるいは行えるのは、三大国の全権代表に、『批准するのですか、しないのですか』と尋ねることだけです。最も重要な批准の問題について、五大国が同じ立場に立たない限り、会議はオランダの申し入れに答えることも、オランダに何らかの申し入れを行うことも、できないと、われわれは考えています。
もしわれわれが、二十四か条の受け入れについて、定めた期日内に、明確な回答をするよう、オランダ国王に要求すれば、それは当然、期日が過ぎれば、オランダが望もうと望むまいと、条約の実施に進むという意味になります。しかし、三大国は、強制手段を協議するため、われわれと協力する用意があるでしょうか。少なくとも、そうは見えません。ですから、同じ要求でも、すべての国にとって同じ意味にはなりません。われわれにとっては強制措置を意味しますが、三大国にとっては、オランダを見放しはするものの、行動はしないという意味です。したがって、われわれが二大国なのか五大国なのか、確かに分かるまでは、今の立場にとどまり、会議としてのいかなる議論や共同行動にも、引き込まれないようにするのが、よいと思います。
今日、三時から四時の間に、役所へおいでになれるなら、この件についてのご意見を、その時にお聞かせください。」
タレーラン公からパーマストン卿へ[408]
[私信]
「一八三二年三月十七日。
親愛なるパーマストン卿、
これほど長く待った以上、オーストリアとプロイセンの全権代表に、批准書の交換について、どのような決定をしたのか、尋ねるための会議を開くべきだという、あなたのお考えに、私も同感です。あらゆる配慮を尽くし、当然認めるべき猶予は、十分すぎるほど与えました。事は、もう限界に来ていると思います。ベルギーを悩ませている不安から解放する時を、さらに遅らせるのは、われわれのベルギーへの影響力を、不当に使うことになるでしょう。
今日、さらに期日を延ばすのは、過度の譲歩です。それには、別の呼び名さえ付けられるかもしれません。
明日、国王の朝の拝謁の後、あなたのお宅へ伺います。あなたが適当と思われることを、何でも行い、われわれの二国が結束して保つべき威厳を、損なうことなく守る用意があります。」
パーマストン卿からタレーラン公へ[409]
「スタンホープ・ストリート、一八三二年四月五日。
親愛なる公爵殿、
三時に役所へおいでください。ビューローは、まだ許可を受けていません。会議で、先にお話しした要求を、しなければならないと思います。三大国の全権代表に、次のように言うことを、提案したいのです。『一月三十一日から二か月が過ぎましたが、批准書交換の議定書は、まだ締め切られていません。季節も良くなり、道路も乾きました。皆さんは、それぞれ批准書を受け取り、交換する用意ができていますか。用意のできていない方は、どうか、それを妨げている理由を、議定書に記してください』。オルロフ伯爵にも来てもらい、話せるようにします。」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ[410]
「一八三二年五月一日、夜。
批准書が届きました。条件付きですが、私が整え、ロシア側から得る宣言によって、無条件のものにします。このことは、誰にも、全くお話しにならないでください。どんな内容であれ、誰からであれ、命令を受ければ、私の妨げになりますし、私は金曜日には終わらせたいからです。しかし、そのためには、私に手紙が来てはなりません。ですから、完全に、徹底して沈黙を守ってください。来月あなたに会えるという希望が、若い時の力と、これまでの経験のすべてを、今任されている仕事に注ぐ力を与えてくれます。私は、その仕事を立派に終えたいのです。さようなら。命を縮めているのかもしれませんが、成功してみせます。平和を確かなものにするため、政府に勤めるすべての人が、同じようにしてくれればと思います。
さようなら、親愛なる友よ。」
付録および第四巻 終わり
原注
[1] タレーラン公からアデライード王女へ(一八三一年一月三日)。
[2] セバスティアニ将軍が、ベルギーの分割案をタレーラン氏に提案するため、フラオー伯爵をロンドンへ派遣していたことを、思い出していただきたい。(第三巻、四一〇ページ参照。)
[3] ヌムール公の選出についての、国王と王室の考えは、付録四八一ページの、アデライード王女からタレーラン氏への書簡を参照。
[4] この件については、アデライード王女からタレーラン氏への書簡を参照。(付録、四八二ページ。)
[5] この公表に加え、アルスコット伯爵は一月八日、国民会議の演壇で、ジャンドビアン氏とロジエ氏の二通の書簡を読み上げた。その中で、パリ駐在のベルギー代表たちは、セバスティアニ氏から、マリー・ドルレアン王女と結婚するオットー公子を承認すると、正式に約束されたと述べていた。(一月十一日の『デバ』紙参照。)オットー公子の擁立は、実現に至らなかった。支持していた一派は、間もなく、その代わりにロイヒテンベルク公を推した。
[6] タレーラン公からセバスティアニ伯爵へ。公文書の本文では、この書簡の日付は一月七日となっている。これまでと同じく、二つの本文の異同を示していく。タレーラン氏がここに収めたセバスティアニ氏との往復書簡は、たいてい断片にすぎないことに注意されたい。外交報告の全文を注に補うことは、われわれの方針には含まれていないので、引用された部分の異同にとどめた。省略箇所は、三点リーダーで示す。
[7] 異文。「……そしてブリュッセルでは、王を選ぼうとしています。しかし、その名によって……という顧問たちに取り巻かれて王位に上がるしかないのであれば、おそらく誰の賛同も得られないでしょう」など。
[8] 異文。「……すでにギリシアの王位に就くことが予定されていた、若いバイエルンのオットー公子について」。
[9] 付録四八三ページの、ブレッソン氏からタレーラン氏への書簡を参照。
[10] この書簡は、付録四八一ページに収められた、アデライード王女の一月三日付の書簡への返事である。
[11] ブリュッセルで起こった幾つかの出来事を指す。八ページ参照。二五ページの、セバスティアニとロジエの一件も参照。
[12] タレーラン公からセバスティアニ将軍へ。(すでに公表された外交報告。)
[13] この書簡は、付録四八四ページ参照。
[14] カルロ=フェルディナンド、カプア公。この『回想録』では、主にカール公子の名で登場する。
[15] ナポリのカール公子は、一八一一年十月十日に生まれた。[訳注8]
[16] 実際、フランスでは、コーブルク公は極めてイギリス寄りと見られ、それが非難されていた。付録四八一ページの、アデライード王女からタレーラン公への書簡を参照。[訳注9]
[17] 一八三一年一月九日の議定書。
[18] 一月二十日の議定書には、決定の柱が二つあった。一七九〇年当時の状態を基準として、ベルギーとオランダの境界を定め、続いて、次の言葉で、新国家の中立を宣言した。
「……全権代表は……一致して、次のように考える。五大国は、自らの利益を正しく理解し、その結束と、ヨーロッパの平穏を守り、十二月二十日の議定書に記した意図を実現するため、厳粛な意思表示と、明白な証拠を示す必要がある。すなわち、ベルギーに関する取り決めにおいても、今後起こりうるあらゆる事態においても、領土の拡張、排他的な影響力、個別の利益を、一切求めないという、確固たる決意を示し、ベルギー自身と、その周囲のすべての国に、平穏と安全について、最善の保障を与える必要がある。この原則に従い、こうした有益な配慮から、全権代表は、前掲の条項に、以下の条項を加えることを決定した。
第五条。本議定書第一、第二、第四条の基準に従って決定され、画定される境界内のベルギーは、永久中立国を形成する。五大国は、その永久中立と、上記の境界内での領土の完全性および不可侵を、保障する。
第六条。公正な相互関係により、ベルギーは、他のすべての国に対して、同じ中立を守り、それらの国の国内および対外の平穏を、一切害さない義務を負う。」
[19] この件については、アデライード王女からタレーラン氏への書簡を参照。(付録、四八九ページ。)
[20] すでに公表された公式の外交報告。
[21] 同じ一月二十一日、パーマストン卿は、グランヴィル卿に次のように書いていた。
「親愛なるグランヴィル殿、
お送りする議定書は、丸二日にわたる仕事の成果です……タレーランは、ルクセンブルクも中立に含めたいと望んでいました。しかし、それに対して、この公国は独立した君主に属し、その公国が加盟する連邦にも属すること、ルクセンブルクの戦争や平和を決める権利は、会議にはなく、その国の君主と連邦だけに属することを、指摘しました……
……タレーランは、獅子のように抵抗し、ルクセンブルクがその中立に入らないなら、ベルギーの中立にも同意しないと主張しました。そして最後には、その代わりに、フィリップヴィルとマリアンブールを欲しいと言い出しました……結局、われわれは、陪審員を全員一致にさせる方法、すなわち空腹によって、彼を合意に引き入れました。九時から十時の間に、彼はわれわれの提案に屈しました。心の底では、ベルギーの中立が確立されたことを、非常に喜んでいたと、私は確信しています……」(オーギュスト・クレイヴンによるフランス語訳『パーマストン卿私信集』、第一巻、九ページ。)
[22] タレーラン氏は、オラニエ公を支持するため、イギリスがベルギーに介入している証拠を、パリへ送っていた。(付録、四八六ページ。)
[23] マクラガン氏は、当時、オステンド選出の議員だった。一月十二日の会議で、オラニエ公を支持する動議を提出し、激しい騒ぎを引き起こした。
公式の議事記録は、この一件を、次のように伝えている。
マクラガン氏は、提示された案〔ロイヒテンベルク公とオットー公子〕を望んでいない。「大国は、われわれに命令する権利を、自分たちに留保しています。われわれは独立していません。オラニエ公なら、リンブルフ、ルクセンブルク、スヘルデ川左岸を、われわれに取り戻してくれます。そして大国は……」(「オラニエ公」という言葉に、至る所から「規則を守れ!」「引っ込め!」という声が上がる。議場は、激しい興奮に包まれる……。)
議長――「マクラガン氏に申し上げます。国民会議がオラニエ家全体を、永久に排除したことを、お忘れなのでしょう」(「そのとおり、そのとおり!」騒ぎの中から、A・ド・ローデンバッハ氏の声が聞こえる。「あの人はイギリス人だ、マクラガン氏はイギリス人だ! ベルギー人ではない。規則を守れ!」)
議長――「私の務めは承知しています。マクラガン氏に、規則を守るよう求めます……」
マクラガン氏は、国民会議の委員たちに、完全な自由を与えるため、排除の決定を取り消す必要があると、主張する。(叫び声が再び上がり、マクラガン氏は、ついに演壇を去る。)
[24] フィルマン・ロジエ、ベルギーの外交官。一七九一年生まれ。初め、フランスの大学組織で教授を務めた。一八一五年以後、新聞の世界に入り、ウィレム国王の政府と戦った。一八三〇年、パリ駐在公使館の書記官に任じられ、しばらく臨時代理公使を務めた。その後、全権公使となり、一八六四年になって退任した。
[25] この時、あまり適切でない一件が、フランス内閣とベルギー政府の間に、幾らか険悪な空気をもたらしていた。セル氏が、ロイヒテンベルク公の候補に関する、フィルマン・ロジエ氏とブレッソン氏の書簡を、演壇で読み上げたのである。本来秘密である文書を、ベルギー政府が公にし、ロジエ氏との気軽な会話で述べた言葉が、公式に報告されたことに、セバスティアニ伯爵が不満を抱いたのは、当然だった。伯爵はロジエ氏に、強く抗議し、次の書簡を送った。
「パリ、一月十四日。
拝啓、
数日前、あなたは、臨時政府に宛てたご自分の書簡が、新聞で不正確に伝えられたと、私に話しました。しかし今日、新聞は、あなたが新たな外交報告を送ったとしています。そこには、先日のわれわれの会談で述べられたことが、私には見いだせません。
大臣として、私は国王に、王室に関する取り決めについて、お話ししたことは一度もありません。したがって、求められていないことについて、国王が認めたり、拒んだりするはずはありません。さらに申し上げれば、一個人としても、国王のお考えを伝える者としても、国王がその思い出を尊重し、私自身もその指揮下で、フランスの栄光と独立のため、長く戦ったことを誇りとする、あの君主の家族について、それほど軽率に語ることは、決してしなかったでしょう。
問題の手紙は、あなたが書いたものではないと、信じたいと思います。もしそうでなければ、今後はあなたとのやり取りを、書面だけに限らざるを得ません。
謹んで、以下略。
オラース・セバスティアニ」
[26] ナミュール州知事のスタッサール氏は、当時、国民会議の副議長だった。
[27] エクセルマン伯爵将軍(一七七五〜一八五二年)。ナポレオンの最も優れた騎兵将軍の一人。当時は、フランス貴族院議員だった。一八四九年、レジオン・ドヌール勲章の総裁となり、フランス元帥、元老院議員となった。
[28] ファブヴィエ男爵将軍。一七八二年生まれ。一八〇四年に軍に入り、帝政下では、トルコ、次いでペルシアで、さまざまな任務を担った。一八一四年、パリの降伏文書に署名しなければならなかった。王政復古期には待命となり、一八二三年、ギリシアへ渡って、独立戦争に従軍した。一八三〇年、少将となってパリの駐屯地司令官を務め、その後、中将(一八三九年)、フランス貴族院議員(一八四五年)となった。一八四八年、代議士に選ばれ、コンスタンティノープル、次いでコペンハーゲン駐在大使に任命された。一八五五年に死去した。
[29] シャルル・ラルマン将軍。一七七四年生まれ。一七九三年に入隊し、一八一五年には准将だった。第二次王政復古で、欠席裁判による死刑判決を受け、アメリカへ渡った。一八三〇年にフランスへ戻り、貴族院議員となった。一八三九年に死去した。
[30] 一八一四年八月十三日付の協定により、イギリスは、戦争中に占領した植民地を、ネーデルラント国王に返還すると約束した。ただし、ケープ植民地と、ギアナ沿岸およびマラバール沿岸の幾つかの領地は、除かれた。
[31] ブレッソン氏からタレーラン公への書簡を参照。(付録、四八七ページ。)
[32] すでに公表された公式の外交報告。
[33] 付録四八八ページの、タレーラン氏がアデライード王女に、同じ趣旨で書いた書簡を参照。
[34] カジミール=ルイ=ヴィクトゥルニアン・ド・ロシュシュアール、モルトマール公。一七八七年生まれ。一七九一年に亡命し、統領政府期にフランスへ戻り、皇帝の伝令将校となった。王政復古に際して、フランス貴族院議員(一八一四年)、少将に任じられ、後にロシア駐在大使となった。一八三〇年七月二十九日、シャルル十世から組閣を命じられたが、努力は実を結ばず、ルイ=フィリップに従った。ペテルブルクへの特別任務を与えられ、一八三一年、正式にその駐在大使となった。一八五二年に元老院議員となり、一八七六年に死去した。
[35] コランクール氏は、帝政下で大使を務め、当時のフランスの体制に、ロシア人の世論を引き寄せるという、難しい任務を担っていた。(バクール氏の注。)
[36] ヴュルテンベルクのパウル公。一七八五年生まれ。一八〇五年、ザクセン=アルテンブルク公の娘、カトリーヌ公女と結婚した。一八五二年四月十六日に死去。ヴュルテンベルク国王とは兄弟だった。
[37] すでに公表された公式の外交報告。
[38] この一月二十七日の議定書は、決定ではなく、会議の単なる提案を収めたもので、実行を強制する効力はなかった。二国間の債務分割案を示し、ベルギーに、オランダの植民地貿易に参加する権利を与えていた。タレーラン氏が後に再び取り上げる、この事情を、忘れてはならない。
[39] 国民会議は、ベルギーに関わる問題を、会議が自ら決めようとしたことに、強く憤っていた。特に、一月二十日の議定書の、次の一文が、国民会議の自尊心を刺激した。「オランダとベルギーは、それぞれの領土内に飛地を持つため、五大国の配慮により、二国間で、領地が完全に連続するという相互の利益を保証するための、交換や取り決めを行う……」などである。さらに、ルクセンブルクの問題が、議員たちの愛国心を刺激した。そのため、一月二十九日の会議で、議定書の読み上げは、激しい抗議を引き起こした。ある議員、ノトン氏は、「国民の主権は、ブリュッセルからイギリス外務省へ移された」と述べた。三十日には、百六十三票対九票で、抗議が可決された。
[40] すでに公表された公式の外交報告。
[41] すでに公表された公式の外交報告。
[42] 次のことを指摘しておくのも、無駄ではないだろう。タレーラン氏は、書簡が書かれた日時の順に従っているため、返事を元の書簡のすぐ後に、正確に置くことはできなかった。当時、ロンドンからブリュッセルやパリへ、また逆方向に、手紙が届くには、海の状態により、二日から三日かかったのである。(バクール氏の注。)
[43] オラニエ公が、ニコライ皇帝の姉妹であるアンナ大公女と結婚していたことを、思い出していただきたい。
[44] 二月二日、ブルッヘとヘントで、オラニエ派の動きが起こった。グレゴワール中佐は、ブルッヘに駐屯する自分の連隊を蜂起させ、その先頭に立ってヘントへ入り、知事にオラニエ公を支持する宣言を、強いた。しかし、すぐに市内で攻撃され、敗れて逮捕された。この動きは、それ以上広がらなかった。
[45] すでに公表された公式の外交報告。
[46] ブリュッセルでのブレッソン氏の立場が、とりわけ難しかったことを、ここで明らかにする必要がある。会議とセバスティアニ将軍の両方に従属していたため、ロンドンとパリの命令に、同時に従うことは、しばしば非常に困難だった。例えば、フランス内閣は、初め、一月二十日、二十七日、二月七日の議定書を、承認しなかった。第一は、オランダとベルギーの境界を定め、第二は、分離によって生じた、幾つかの商業・財政問題を規定し、第三は、ヌムール公に申し出られた王冠を拒むという、ルイ=フィリップ国王の、すでに表明された決意を確認するものだった。タレーラン氏は、これらの議定書に署名し、ベルギー政府に伝えるため、ブレッソン氏に送っていた。ところが、ほとんど同じ日に、パリでタレーラン氏と反対の方針を通した、セバスティアニ将軍は、ブレッソン氏に、次のように書いていた。
「パリ、二月一日。
拝啓、
私が望むとおり、まだベルギー政府に、一月二十七日の議定書を伝えていないのであれば、その伝達を止めてください。国王の政府は、その規定に同意していないからです。債務の問題でも、ベルギーとオランダの領土の範囲と境界を定める問題でも、われわれは一貫して、両国の協力と自由な同意が、必要だと考えてきました。ロンドン会議は仲介であり、その性格を決して失わせないことが、国王の政府の意図です。
敬具、以下略。
オラース・セバスティアニ」
ブレッソン氏は、この手紙を、外交委員会の委員長、ヴァン・ド・ヴェイエル氏に伝えた。同氏は二月三日、国民会議でそれを読み上げた。タレーラン氏が二月六日の書簡で言及しているのは、当然驚きを与えたはずの、この一件である。
[47] すでに公表された公式の外交報告。
[48] この議定書は、大国がいかなる場合も、ロイヒテンベルク公を、ベルギー国王として承認しないと、宣言していた。(バクール氏の注。)
[49] すでに公表された公式の外交報告。
[50] すでに公表された公式の外交報告。
[51] すでに公表された公式の外交報告。
[52] すでに公表された、二月十日付の二通目の公式の外交報告。
[53] この代表団は、シュルレ・ド・ショキエ、フェリックス・ド・メロード、アルスコット、ジャンドビアン、ル・オン、ド・ブルケール、マルレ、ブクォー神父、バルテルミー、ド・ロードの十人で構成されていた。代表たちは二月六日、パリに着いた。公式に迎えられ、国王から拒絶を伝えられたのは、十七日になってからだった。(二月十九日の『デバ』紙参照。)
[54] すでに公表された公式の外交報告。
[55] すでに公表された公式の外交報告。
[56] この議定書には、タレーラン氏が、自国政府の名で、国王はヌムール公に申し出られた王冠を受け取らないと、改めて断言したことが、記されていた。また、ロイヒテンベルク公の候補については、五大国のどの国も、この公爵を承認しないと付け加えていた。ブレッソン氏は、あのように行動することで、パリから受けた命令に、従っていたにすぎない。(この件については、五三ページと原注四六を参照。)
[57] つまり、二月一日付の、セバスティアニ将軍からブレッソン氏への書簡は、ロンドンで流れた噂から、タレーラン氏が考えたように、街頭に貼り出されたわけではなかった。国民会議で読み上げられ、当然、その会議の議事記録に印刷されただけだった。
[58] これらの一件の後、ブレッソン氏は、ブリュッセルを去らなければならなかった。(その際、タレーラン氏に送った書簡は、付録四九〇ページ参照。)
[59] 二月十四日、ベリー公の命日に際して、パリで暴動が起こった。サン=ジェルマン=ロクセロワ教会で、追悼の礼拝が行われていた。民衆は、この教会と大司教館を荒らした。
[60] 二月三日、モデナで革命が起こった。公爵は逃亡を余儀なくされ、一人の独裁官と三人の執政官からなる臨時政府が成立した。二月四日には、ボローニャでも蜂起が勝利した。教皇の代理使節は退去せざるを得ず、臨時政府が置かれた。
[61] アンリ・ゴーティエ、リニー伯爵。一七八二年生まれ。一七九八年に海軍へ入った。一八一六年に大佐、一八二五年に少将となり、フランス艦隊を指揮したナヴァリノの海戦の後、中将となった。一八三一年三月十三日、海軍大臣に任命され、一八三四年、外務大臣に移った。翌年、この職を去ったが、死去する一八三五年まで、国務大臣の称号を保った。
[62] 革命的な反対派の中でも、最も過激な意見を掲げる新聞、『クーリエ・フランセ』の所有者。(バクール氏の注。)
ルネ・テオフィル・シャトラン。一七九〇年生まれ。帝政の軍隊に従軍した。一八三〇年に軍を去り、新聞の世界に入った。『クーリエ・フランセ』と『ナシオナル』に、長く寄稿した。一八三八年に死去した。
[63] 政府を支持していた『ジュルナル・デ・デバ』の所有者。(バクール氏の注。)
ルイ=フランソワ・ベルタン・ド・ヴォー。一七六六年生まれ。一七九三年には新聞の仕事を始め、『ジュルナル・フランセ』『エクレール』『クーリエ・ユニヴェルセル』で、革命派と戦った。ブリュメール十八日後、『ジュルナル・デ・デバ』を創刊した。初めは、ほとんど文学と芸術だけを扱っていた。王党派の陰謀に関係したとして、ベルタンはタンプルで八か月を過ごし、その後、エルバ島へ追放された。ほどなくパリに戻って、新聞の経営を再開したが、政府は間もなく、この報道機関を自らのものにした。新しい主筆、フィエヴェを押し付け、新聞の名を『ジュルナル・ド・ランピール』に変えた。それにもかかわらず、一八一一年、『ジュルナル・ド・ランピール』は差し押さえられ、所有権は国のために没収された。ベルタン氏が取り戻したのは、一八一四年になってからだった。一八一五年、国王に従ってヘントへ行き、そこで『モニトゥール・ド・ガン』を編集した。王政復古期には、穏健な反対派に加わった。一八三〇年、新しい王政を、熱心に支持した。当時、『ジュルナル・デ・デバ』は、王政派の第一の新聞であり、七月王政の全期間を通じて、その地位を保った。ベルタンは、一八四一年に死去した。
[64] すでに公表された公式の外交報告。
[65] 異文。「ベルギーの独立の」。
[66] 異文。「債務の問題については、単に提案を行っただけであり、それをもとに、公正で公平な道へ導いてもらうことを、求めています」。
[67] 公文書の本文では、削除されている。
[68] セバスティアニ将軍は、リーヴェン公に派遣されたクリューデネル氏が、ブリュッセルで、公然とオラニエ公を推し、ポンソンビー卿も強く支持していると、タレーラン氏に知らせていた。クリューデネル氏は、元ロシア外交官だった。公式の任務なしにブリュッセルに滞在し、ロシアがその利益を擁護するオラニエ公のため、活発に働いていた。氏は、オラニエ公を、その家族に対して決められた排除の対象から、除外するよう提案していた。クリューデネル氏は、国民会議の命令で追放された。(ジュスト『ブリュッセル国民会議』、第一巻、二七五ページ参照。)
[69] すでに公表された公式の外交報告。
[70] 第十五号議定書には、そのような規定は一切ない。(六四ページ参照。)タレーラン氏が考えているのは、むしろ、一月九日の第九号議定書(一七ページ参照)、あるいは二月八日の第十六号議定書ではないだろうか。(六〇ページ参照。)
[71] 二月十五日の庶民院の会議。パーマストン卿は、ベルギーの問題、特にノール県へのフランス軍の集結についての質問に、答えている。
[72] すでに公表された公式の外交報告。
[73] この書簡は、パラン氏の書簡集にはない。
[74] 二月七日、ドン・ミゲルの政府は、政治犯の裁判を急ぐよう、命じた。二月九日の布告は、そのために、過大な権限を持つ軍事委員会を設けた。このやり方は、暴動と、ドナ・マリアを支持する動きを引き起こした。鎮圧は厳しく、流血を伴った。二人のフランス人が逮捕され、アフリカへ追放された。
[75] バシャソン・ド・モンタリヴェ伯爵。一八〇一年生まれ。一八二三年、世襲によって貴族院に入った。一八三〇年、内務大臣(十一月二日)となり、その後、公教育・宗教大臣(一八三一年三月十三日)、カジミール・ペリエの死後、再び内務大臣(一八三二年)となった。一八三二年十月十日に退任し、王室費の総監となったが、一八三六年と一八三七年、さらに二度、内務大臣を務めた。一八四八年、私人の生活に戻った。一八七九年、終身元老院議員に任命され、翌年、死去した。
[76] オディロン・バロー。一七九一年生まれ。同名の国民公会議員の息子。王政復古期には、破棄院付きの弁護士だった。一八三〇年、市政委員会の書記を務め、その立場で、シャルル十世に付き添う委員の一人となった。その後、代議士、セーヌ県知事となった。二月十四日の暴動に対し、何もできなかったか、何もする気がなかったため、当時の内務大臣モンタリヴェ氏から、公然と非難され、数日後、罷免された。代議院の議席は、一八五二年まで保った。一八四八年二月、国王から、ティエール氏とともに組閣するよう命じられたが、成功しなかった。十二月、大統領に就任したルイ=ナポレオン公子の最初の内閣に入った。一八五二年、公職から退いた。一八七二年、国務院の副議長となり、翌年、死去した。
[77] すでに公表された公式の外交報告。
[78] 二月十九日の議定書は、会議がベルギーへ介入することを決めた理由を説明する、長い原則の宣言にすぎない。それは、各国の内部体制にどんな変化が起きても、条約は効力を失わないと宣言している。特に、一八一四年の条約の精神は、ネーデルラント王国の分裂後も存続し、ヨーロッパの均衡を回復する措置を考えるのは、大国の役割であること、ヨーロッパ諸国全体の平穏と安全が、各国の権利に限界を設けること、大国には、全面戦争に発展しかねない、あらゆる紛争の原因を防ぐ権利と義務があることを、述べている。
これらの原則に従い、会議は、次のように決定する。
一、一月二十日の議定書で定めた取り決めは、基本となるものであり、取り消すことはできない。
二、ベルギーの独立は、同議定書の条件に従う場合にのみ、承認される。
三、ベルギーの中立の原則は、五大国を拘束する。
四、五大国は、次のことを宣言する十分な権利を持つと認める。ベルギーの君主は、個人としての立場によって、ベルギーが存立する原則にかなう者であり、他国の安全に支障がなく、一月二十日の議定書を受け入れ、ベルギー人がその取り決めを自由に享受できるようにする力を持つ者でなければならない。
[79] 実際、ポンソンビー卿は、グレイ卿の義理の兄弟だった。
[80] トマス・レヴェソン=ゴア、グランヴィル伯爵。一七七三年生まれ。二十二歳で庶民院に入り、一八〇〇年に財務委員、一八〇二年に財務大臣、一八〇四年にペテルブルク駐在大使となった。一八一五年、貴族院に入り、ハーグ駐在公使に任命された。その後、パリへ移り、一八二八年にその職を去ったが、一八三一年から一八三四年、さらに一八三五年から一八四一年、再び派遣された。一八四六年に死去した。
[81] すでに公表された公式の外交報告。
[82]
グレイ卿からタレーラン公へ
「ダウニング・ストリート、一八三一年二月十九日。
親愛なるタレーラン公爵殿、
ベルギーの代表たちに対する、あなたの国王の返答を、お送りくださったことに、心からお礼を申し上げます。断っている王冠に対して、遺憾の言葉の下に、あまりにも強い欲望が示されているとして、おそらく批判されるだろうと思います。しかし、この返答の本質そのものを見れば、私は全面的に満足しています。
ただ、平和を保とうとするわれわれの努力を、無駄にするようなことが、何も起こらないよう、心から強く願うと、付け加えておきます。
敬具……
グレイ」
[83] すでに公表された公式の外交報告。
[84] モデナ、パルマ、ロマーニャの蜂起。
[85] 異文。「保険料は、日ごとに上がっています」。
[86] サー・ジェームズ・マッキントッシュ。一七六五年生まれ。イギリスの雄弁家、政治評論家。一八〇二年に庶民院に入り、ボンベイの陪席判事に任じられた。イギリスに戻ると、再び議会に入り、ホイッグ党の最も影響力のある雄弁家の一人となった。一八三〇年、インド担当委員として、ホイッグ内閣に加わった。一八三二年に死去した。サー・ジェームズ・マッキントッシュは、優れた法律家だった。その名は、文学と哲学の分野でも輝いていた。
[87] すでに公表された公式の外交報告。
[88] すでに公表された公式の外交報告。
[89] モルトマール公が、両国政府の接近を交渉する任務を帯び、特別大使としてロンドンへ派遣されていたことを、思い出していただきたい。
[90] ベルギー憲法の可決と、ヌムール公の王冠の拒否の後、国民会議は、君主の選択について、国民と五大国の合意が得られるまで、国を統治するため、摂政を置くと決定した(二月二十三日)。翌日、国民会議は、シュルレ・ド・ショキエ氏を、百八票で摂政に選んだ。メロード氏は四十三票、ジェルラシュ氏は五票だった。
[91] ベリアール伯爵将軍。一七六九年生まれ。一七九二年に入隊し、革命期と帝政期のすべての戦役に参加した。一七九六年から将軍を務め、一八一四年三月、近衛騎兵の総監となった。ルイ十八世は、フランス貴族院議員、参謀総長に任じた。百日天下では再び軍務に就き、第二次王政復古期には、世間から離れて暮らした。一八三一年、ブリュッセル駐在全権公使に任命された。その後間もなく、一八三二年一月二十八日に死去した。
[92] 二月二十三日の議会審議である。セバスティアニ将軍は、議院で外交政策について報告し、国王がヌムール公のための王冠を拒絶した理由を説明していた。ラマルク将軍とモーガン氏は、この件での内閣の行動に、激しく反対した。前者は、次のように結んだ。「ベルギーの王位を拒んだことは、悲しむほかない。とりわけ、公になった不確かな歩み、ためらい、矛盾によって、われわれの外交が、誇るべきでないほどの裸の姿をさらしたことを、嘆くほかない」
[93] パリでの、二月十四日と十五日の暴動。
[94] サヴォワで騒乱が起こった後、フランス国境に大勢いたサルデーニャの亡命者たちは、奇襲を試み、武装して故国へ戻ろうとした。そのうち五百人から六百人が、リヨンの国民衛兵を何人か引き込み、この計画を実行しようとした。二月二十五日、一個騎兵中隊によって追い散らされ、事件はそれ以上広がらなかった。
[95] フランソワ=マクシミリアン・ジェラール、レーヌヴァル伯爵。一七七八年生まれ。ストックホルム、ペテルブルク、リスボン、再びペテルブルクの大使館書記官、シャティヨン会議でのフランス使節団の書記官、ロンドン駐在総領事(一八一四年)、外務省の文書局長(一八一〇年)、国務次官(一八二一年)を、順に務めた。その後、ベルリン、ベルンの公使、次いでウィーン駐在大使(一八二九年)となった。一八三〇年に召還され、パリで引退生活を送っていたが、タレーラン氏の推薦により、カジミール・ペリエがマドリードへ派遣した。そこで、一八三六年に死去した。
[96] 二月二十八日の『クーリエ・フランセ』参照。フランス内閣とタレーラン氏が戦わなければならなかった、共和派の反対勢力の考えが、どのようなものだったかを示すため、この記事の一部を引用しよう。
「昨日、われわれが目にした、二十四日付のロンドンからの手紙は、署名されたばかりの議定書について述べていた。それは、これまでわれわれの政策を導いていたと思われる、すべての原則を覆すものだった……その行動がヨーロッパ全体に知られるはずの外交会議が、一八一五年の条約は、国民と国民の間で結ばれたと、あえて宣言するなど、ほとんど理解できない。まさに今、囲い込まれ、切り刻まれ、分けられ、卑しい家畜のように扱われた国民が、その利益と本性に反する状態から抜け出そうと、ヨーロッパの半分で立ち上がっている時なのだ。しかし、そこにはタレーラン氏がいる。その存在によって、彼が関与した条約を維持するためなら、どんな企てもありうると思えてくる……ヨーロッパの政策も、フランスの政策も、ロンドンで、われわれの利益に反する形で進められていることは、確かだ。そこで主導しているのが、タレーラン氏だからだ……もし、『タン』紙が伝えるようなものが、ロンドンで署名されたのなら、内閣に残されたことは、大使を召還し、全面戦争という代償で、ようやく残してもらえる自由を行使することだけだ。まず、タレーラン氏に、もはや代表されないという利益が得られ、次に、独立を取り戻す利益が得られる……外交は、フランスとは何か、何をしてきたか、まだ何ができるか、そして望めばヨーロッパに、どれほどの推進力を与えられるかを、あまりにも忘れがちなようだ。それを思い出させるには、一言で足りる。大変動が望みなら、結構だ! 合図を出すだけでよい。一年もたたないうちに、誰が立っているか、分かるだろう。」
[97] ジュールダン元帥は、当時六十九歳。七月王政の最初の日々に、一時、外務を担当した。八月十一日には退任し、廃兵院の総裁に任命された。一八三三年十一月二十三日に死去した。
[98] カジミール・ペリエ。一七七七年、グルノーブル生まれ。初め、工兵将校だった。軍を去った後、兄弟とともに大きな銀行を設立し、急速に重要な存在へ成長させた。一八一七年、代議院に入り、一八三〇年まで反対派に属した。七月の事件の後、代議院議長となり、八月十一日の内閣で、担当省を持たない大臣となった。三月十三日の内閣の首班となったが、権力を保ったのは一年だけで、一八三二年五月十六日、コレラで死去した。
[99] 三月十三日の内閣は、次の構成だった。カジミール・ペリエ、首相兼内務大臣。バルト、国璽尚書。セバスティアニ将軍、外務大臣。ルイ男爵、財務大臣。スールト元帥、陸軍大臣。リニー提督、海軍大臣。モンタリヴェ伯爵、公教育・宗教大臣。ダルグー伯爵、商業・公共事業大臣。新内閣の成立が、イギリスに与えた影響を確かめるのも、興味深い。パーマストン卿は、グランヴィル卿に、次のように書いていた。
[私信]
「外務省、一八三一年三月十五日。
親愛なるグランヴィル殿、
われわれは、カジミール・ペリエの任命を、心から喜んでいます。この出来事が、フランスとヨーロッパに平和をもたらすものとなることを、願っています。どうか新しい大臣と親しくお付き合いになり、イギリス政府は彼に大きな信頼を寄せ、その任命を、平和の保証と考えていると、伝えてください……」(『パーマストン卿私信集』。)
[100] 新内閣の成立を、セバスティアニ将軍がタレーラン公に知らせた書簡は、付録四九一ページ参照。
[101] ジョン・ラッセル卿。ベッドフォード公の三男。一七九二年生まれ。二十一歳で庶民院に入り、ホイッグ党に属した。一八三〇年、陸軍給与総監に任命された。内閣の一員ではなかったが、三人の閣僚とともに、選挙制度改革法案の準備を任された。この問題では、それ以前、一般の議員として、動議を提出していた。
法案は、一八三一年三月一日、庶民院に提出され、第一読会で一票差の多数により可決されたが、第二読会で否決された。議会が解散され、新しい議員が選ばれた後、三百四十五票対二百三十六票で可決された(九月二十一日)。九月二十二日、貴族院に送られたが、否決された。十二月、わずかに修正され、再び提出されたものの、貴族院は審議を三か月先送りした。ついに一八三二年六月四日、貴族院で可決された。この結果は、大部分、ラッセル卿の働きによるものだった。一八三五年、内務大臣となり、一八三九年、植民地大臣となった。一八四六年、第一大蔵卿に任命され、一八五二年まで政権の首班であり続けた。同年十二月、外務大臣に移り、その後、担当省を持たない大臣、枢密院議長、植民地大臣(一八五五年)を、順に務めた。同年、政権を去ったが、議会でのホイッグ党の指導者であり続け、一八六〇年、フランスとの通商条約に署名し、一八六一年、貴族に叙された。パーマストン卿の後を継いで、内閣の首班となり(一八六五〜一八六八年)、一八七八年に死去した。
[102] 一八三一年二月二日、ボローニャは教皇政府に反旗を翻した。ロマーニャ全体とウンブリアも、それに続いた。ルイ・ボナパルトの二人の息子、シャルル公子とルイ公子は、この動きに参加した。前者は、フォルリで病死し、後者も、後にナポレオン三世皇帝となったが、アンコーナで危うく命を落とすところだった。
[103] すでに公表された公式の外交報告。
[104] 異文。「および、それに同封された文書」。
[105] 異文。「審議は、七日の会議で終わると考えられています。その後すぐ、パーマストン卿に会います」。
[106] ウィン氏の後任には、サー・ヘンリー・パーネルが就いたが、次の会期に、同じ理由で退任した。
[107] 異文。「……あなたが二十二日付のお手紙で、私に話しておられる」。
[108] 公文書の本文では、削除されている。
[109] フランソワ=エメ・メリネ。一七六九年生まれ。同名の国民公会議員の息子。一七九三年に大佐となり、一八〇〇年に軍の査閲副監となった。百日天下では、新親衛隊の参謀長を務めた。一八三〇年まで引退して暮らし、その年、志願兵の一隊を率いてベルギーへ渡った。九月の事件では、ブリュッセルの砲兵を指揮し、その後、マーストリヒトを封鎖する部隊の指揮を任された。摂政に指揮権を取り上げられると、ブリュッセルに定住し、共和派の指導者となった。一八四八年、革命運動を起こし、逮捕され、拘禁刑を受けた。その後間もなく、一八五二年に死去した。
[110] 連邦議会は、ルクセンブルク大公としてドイツ連邦に加盟する、ウィレム国王から、援助の要請を受けたばかりだった。三月十八日の会議では、大公国内でネーデルラント国王の権威を回復するため、二万四千人の部隊の編成を決定しようとしていた。同時に、連邦の要塞に物資を供給し、備えを整えるよう、命令を出していた。
[111] すでに公表された公式の外交報告。
[112] すでに公表された公式の外交報告。
[113] ジャン・ヴァトゥー。一七九二年生まれ。帝政下で、県の行政に入った。一八二二年、オルレアン公の家政に加わり、一八三一年、代議士に選ばれ、一八四八年まで代議院の議席を保った。七月王政下では、公共建築評議会の議長に任命された。一八四八年、アカデミーに入ったが、同年に死去した。
[114] マリー=テオドール・ド・ゲユイ、リュミニー伯爵。一七八九年生まれ。一八〇五年に軍へ入り、一八一四年に大佐だった。王政復古期に、オルレアン公の副官となった。一八三〇年、准将に任命され、ヴァンデとブルターニュの平定を任された。アントウェルペン遠征に参加し、一八三一年、代議士に選ばれた。一八四八年、ルイ=フィリップの亡命に同行し、臨時政府によって退役とされた。一八六〇年に死去した。
[115] すでに公表された公式の外交報告。
[116] 三月五日、ネーデルラント国王によって、ルクセンブルクへ総督として派遣された、ザクセン=ワイマールのベルンハルト公は、服従を表明する大公国の住民すべてに、恩赦を約束する、国王の宣言を公表した。それに答えて、ベルギーの摂政、シュルレ・ド・ショキエ氏も宣言を出し、ルクセンブルクの人々に、ベルギーと結びついたままでいること、国王の誘いを拒むことを、強く求めた。次のように結んでいる。「ベルギーの名で、あなたたちの兄弟は、決してあなたたちを見捨てないと、お約束します」。会議の決定へのこの挑戦は、ヨーロッパに大きな動揺を起こし、ロンドンの全権代表たちを、とりわけ苛立たせた。
[117] 異文。「……ベルギー人の」。
[118] すでに公表された公式の外交報告。
[119] 一一一ページ参照。
[120] 三月二十二日の夜に、このように可決されたのは、改革法案そのものではなく、第二読会に進むことだけだった。法案の原則は認められたが、内閣の案は、第二読会で敗れることになった。
[121] フランス内閣が、オーストリアの介入を防ぐため、イタリアで協調して行動するよう、イギリスに求めていたことを、思い出していただきたい。(一〇〇ページと一〇三ページ参照。)
[122] チェーザレ・ビアンケッティ伯爵。ナポレオン皇帝の元侍従で、ロマーニャの蜂起の指導者の一人だった。
[123] すでに公表された公式の外交報告。
[124] ウィリアム・アコート、ヘイツベリー男爵。一七七九年生まれ。一八一七年、庶民院に入り、一八二〇年、マドリード駐在大使、次いでリスボン駐在大使(一八二四年)に任命された。ロンドンに戻ると、イギリスの貴族に叙され(一八二八年)、ほどなくペテルブルク駐在大使となった。一八三三年まで、その地にとどまった。十年の引退生活の後、アイルランド総督に任命された(一八四四年)が、在職は二年だけだった。
[125] アルスコット=スホーンホーフェン伯爵。一七七一年生まれ。基本法の改訂を担当する委員会の委員(一八一五年)、一八二五年から一八三〇年まで、全国議会第一院の議員を務めた。レオポルド一世の治世に、宮廷大元帥、上院議員となった。一八四六年に死去した。
[126] リエージュは、かつて独立した司教領の中心だった。司教は、帝国諸侯だった。一八〇一年、リュネヴィルの和約によって、司教領はフランスに併合された。一八一五年、ネーデルラント国王に譲渡され、一八三一年、ベルギーに帰属した。
[127] すでに公表された公式の外交報告。
[128] ブイヨン公国は、当時、ルクセンブルク大公国の一部だった。一八三一年、ベルギーに与えられた。
[129] 三五七ページ、三六三ページと、それぞれの注を参照。
[130] すでに公表された公式の外交報告。
[131] 一八三一年三月三十日、代議院で行われた演説。
[132] すでに公表された公式の外交報告。
[133] 公文書の本文では、削除されている。
[134] 異文。「ベルギーの」。
[135] 公文書の本文では、削除されている。
[136] エドゥアール=ヨアヒム・ミュンヒ=ベリングハウゼン伯爵。オーストリアの外交官。初め、行政の仕事に入り、プラハの市長を務めた。一八二三年、ドイツ連邦議会への全権代表に任命された。周知のとおり、オーストリアが連邦議会の議長を務めていたため、その全権代表は、非常に重要な地位にあった。ミュンヒ氏は、一八四一年、国務大臣となり、一八四八年に退任した。
[137] 四月四日の会議で、ラマルク将軍は、内閣の外交政策を激しく攻撃した。タレーラン氏も非難され、ウィーン会議の成果を擁護していると、責められた。
[138] フランスの外国軍による占領を、フランスからの金銭的な賠償と引き換えに、終わらせたのは、アーヘン会議(一八一八年九月〜十月)である。さらに、正式な条約によって、一八一五年には除外されていたフランスが、神聖同盟に加わった。
[139] 一八二一年、オーストリアはナポリへ介入し、フリモン将軍が、フェルディナンド四世国王の絶対権力を回復した。スペイン戦争(一八二三年)では、フランスがフェルナンド七世を助け、立憲派に勝利するのを支えた。
[140] 四月二十日の勅令によって、議院は六月十五日まで休会となった。
[141] すでに公表された公式の外交報告。
[142] アントワーヌ=リュドルフ・アポニー伯爵は、当時、パリ駐在のオーストリア大使だった。一七八二年生まれ。それ以前に、フィレンツェ、ローマ、ロンドンに駐在した。パリに二十年以上とどまり、その地を去ったのは、一八四九年になってからだった。一八五二年に死去。アポニー伯爵は、メッテルニヒ公が、最も親しく心を打ち明ける相手の一人だった。
[143] ルイ・クレール・ド・ボーポワル、サン=トーレール伯爵。一七七八年生まれ。皇帝の侍従、ムーズ県知事(一八一三年)を務めた。第一次王政復古期には、オート=ガロンヌ県知事だった。一八一五年、代議院に入ったが、一八一六年、年齢制限が四十歳と定められたため、議席を失った。しかし、一八一八年に再選され、穏健な反対派に属した。一八二三年の選挙で敗れたが、一八二七年、議会に戻り、代議院副議長、次いでフランス貴族院議員(一八二九年)となった。一八三〇年、外交の仕事に入り、ローマ(一八三一年)、ウィーン(一八三三年)、ロンドン(一八四一年)に駐在した。一八四七年に退任し、死去する一八五四年まで、引退して暮らした。サン=トーレール氏は、アカデミー・フランセーズの会員だった。その娘は、一八一八年、ドゥカズ公と結婚していた。
[144] 公文書の本文では、削除されている。
[145] ナポレオンの像の復元を命じる勅令に先立つ、カジミール・ペリエの報告を参照。(四月十二日の『ジュルナル・デ・デバ』。)
[146] 四月十九日に実施された、一億二千万フランの、利率五パーセントの公債。当初、公募によって調達しようとしたが、二千万フランしか集まらなかった。そこで、パリの有力な金融業者たちをすべて集めた会社が作られ、八十四フランの価格で、公債を引き受けた。こうして、事態を救った。
[147] すでに公表された公式の外交報告。
[148] 異文。「……あなたが今月十二日付で、お送りくださった外交報告。この外交報告の目的は……」。
[149] ポーランド軍は、グロフフで勝利していた(二月十九日)。決着のつかなかったプラガの戦い(二月二十五日)の後、ヴァヴェル、デンベ=ヴィルケ(三月三十日と三十一日)、インガニ(四月十日)で、再び優勢となった。ワルシャワの包囲は解かれ、ロシア軍はブク川の向こうへ押し返された。同時に、リトアニアが蜂起し、ポーランド軍の一隊が、ヴォルィーニで蜂起を起こそうとしていた。
[150] 異文。「初めには、かすかに見通せていた」。
[151] この書簡は、パラン氏の書簡集にはない。
[152] 数か月前から、イギリスは、ポルトガルの侮辱的な行為を非難する理由を持っていた。一八三〇年の秋にはすでに、イギリス船が、ポルトガルの船に捕らえられていた。リスボンでは、イギリス人居留者が、あらゆる嫌がらせの的となっていた。一八三一年四月、イギリス内閣は、テージョ川に艦隊を送った。ポルトガル政府は屈服した(五月二日)。フランスは、この例に従い、リスボンで二人のフランス商人が受けた、ひどい扱いへの償いを求めた。ポルトガルが拒否したため、フランスの港にいた、同国の船が差し押さえられた。さらに、ルーサン提督指揮下の艦隊が、テージョ川河口へ出発する準備をしていた(七月九日)。
[153] すでに公表された公式の外交報告。
[154] サモス島は、カンディアと同じく、トルコ領のままにされた。しかし、会議は、これらの島の住民の自由を守るため、適切な条件をオスマン政府に課すことに、取り組んでいた。
[155] 法案が再び庶民院に現れたのは、四月十九日である。そこで、イングランドとウェールズの議員数を同じままに保つ、つまり、すべての腐敗選挙区を維持しようとする、ガスコイン将軍の修正案が議論された。内閣は、この修正案に反対したが、それでも、二百九十九票対二百九十一票で可決された。
[156] すでに公表された公式の外交報告。
[157] ジェームズ・ステュアート、ウォーンクリフ卿。一七七六年生まれ。初め軍に入ったが、一八〇一年に軍を去り、庶民院に選ばれ、トーリー党に属した。一八二六年、父の跡を継いで貴族院に入った。一八三一年、改革法案の反対者の一人だった。一八三四年、ピール氏の内閣で、王璽尚書となった。一八四一年、枢密院議長として政務に戻った。一八四五年に死去した。
[158] 異文。「……そして陛下は、解散前に、王妃が未亡人となった際の財産に関する法案を可決することだけを望んでおられました。それによって……」、以下略。
[159] シャルル=イポリット・ヴィラン十四。ベルギーの外交官。一七九六年生まれ。西フランドルの州議会に議席を持ち、一八三〇年、国民会議に選ばれた。レオポルド国王の治世に、フィレンツェ(一八四〇年)、トリノ、ナポリ(一八五五年)の公使を務めた。
[160] レオン・ド・フォエール。一七八七年生まれ。ブルッヘの助任司祭だった。一八一五年から政治に関わり、「国民精神を呼び覚ますため」の雑誌を創刊し、それによって、たびたび訴追された。一八三〇年、ブルッヘ選出の議員となった。国民会議では、反フランス派の指導者の一人だった。一八四八年まで、続けて再選されたが、その年、公職から退き、一八五一年に死去した。
[161] アンリ・ド・ブルケール。一八〇一年生まれ。一八三〇年には、国王の検察官だった。革命を熱心に支持し、代議士に選ばれた。一八四〇年、アントウェルペンの文官知事となった。一八四七年に国務大臣、一八五二年に首相に任命された。一八五五年に退任した。一八五七年、議院に戻ったが、政務には、もう復帰しなかった。自由党の指導者だった。
[162] 公文書の本文では、削除されている。
[163] すでに公表された公式の外交報告。
[164] 異文。「カジミール・ペリエ氏によって」。
[165] 第二十一号議定書(四月十七日)は、フランスが一月二十日の議定書に、公式に同意したことを確認し、ベルギーとオランダの間で行う領土の取り決めについて、幾つかの細部を定めていた。同じ日に署名された第二十二号議定書は、両国の分離の基礎を定める、一月二十七日の議定書を、ブリュッセルにいる会議の委員が、ベルギー政府に伝えるよう命じられると、決定した。また、ベルギーに、ルクセンブルクへのあらゆる要求を放棄するよう求め、この文書への正式な同意を求めることとした。拒否された場合、委員は直ちにブリュッセルを去るよう命じられ、大国はベルギー政府に、武力でベルギー軍をオランダ領から撤退させる権利を、留保すると警告した。
[166] 異文。「……は、非常に正当で、慎重さの教えにもかなっているため、会議も、おそらく自然に受け入れる気になるでしょう」。
[167] 異文。「……この点について、私に異議を唱えるであろう全権代表たちの、考えを変えること」。
[168] 異文。「この文書を修正するために」。
[169] サー・フレデリック・ラムは、メルバーン卿の兄弟だった。
[170] すでに公表された公式の外交報告。
[171] この一件については、コンスタンティノープル駐在イギリス大使の外交報告を参照。(付録、四九一ページ。)
[172]
グレイ卿からタレーラン公へ
「ダウニング・ストリート、一八三一年四月二十六日。
親愛なる公爵殿、
コンスタンティノープルのフランス公使の行動について、わが国政府に届いた情報の写しを、同封してお送りします。
これほど誠実さに反する行動が、フランス国王に認められたはずはないと、私は確信しています。また、首相の人柄からも、このことが耳に入りさえすれば、最も直接的で効果的な方法で、否認してくださると、確信しています。
ですから、同封した文書の性格については、あれこれ述べるのを控えます。お読みになった後、お返しいただければ幸いです。
心からの敬意をもって……
グレイ」
[173] この件については、三四〇ページ参照。
[174] すでに公表された公式の外交報告。
[175] 異文。「今日は七十九です。今では、すべて元の秩序に戻っています」。
[176] すでに公表された公式の外交報告。
[177] この書簡は、パラン氏の書簡集にはない。
[178] すでに公表された公式の外交報告。
[179] 異文。「いつ終わるか、予測できない」。
[180] 「さらに彼らに、この同意によって……となれば、すぐに」と、伝えた。
[181] すでに公表された公式の外交報告。
[182] 実際、パーマストン卿は、ケンブリッジでは落選したが、ブレッチングビーの選挙区で選ばれた。
[183] 異文。「以前からの約束を受けている、セフトン卿も同じく」。
[184] パーマストン卿が、ポーランドに対して、どのような政策を取るつもりだったかについては、グランヴィル卿へ送った次の書簡を、興味深く読めるだろう。
[私信]
「外務省、一八三一年三月二十九日。
……ポーランド人は勇敢に戦っており、ロシア軍は、考えられている以上の損害を受けています。しかし、最後には皇帝が勝つでしょう。私は、ヴィエロポルスキとワレスキと話し、われわれは条約に従わなければならないと、伝えました。ロシアがウィーン条約を逃れようとすれば、われわれは抗議するのですから、他方で、ポーランドが完全に独立するのを助け、われわれ自身が同じことをするわけにはいかないのです。」(『パーマストン卿私信集』、第一巻、三二ページ。)
したがって、パーマストン卿は、イギリスの積極的な介入を引き出したがっていた、ポーランドの代表たちの要求に、応じるつもりは、全くなかった。
[185] すでに公表された公式の外交報告。
[186] 公文書の本文では、削除されている。
[187] すでに公表された公式の外交報告。
[188] 五月十日の議定書(第二十三号)は、四月十七日の第二十二号議定書を確認し、補足するもので、ベルギーに、それを受け入れるために与える期限を、六月一日と定めた。その期限が過ぎれば、大国は、ベルギーとの関係を断ち、ドイツ連邦がルクセンブルクで、望むとおり行動する、完全な自由を認めると、宣言した。また、ベルギー人がオランダとの休戦を破れば、大国は、それを開戦の理由と見なすと、付け加えていた。
[189] すでに公表された公式の外交報告。
[190] ポール=イジドール・ドヴォー。一八〇一年、ブルッヘ生まれ。早くから、自由派の新聞記者として名を知られた。一八三〇年、国民会議の議員となり、シュルレ・ド・ショキエ氏の摂政下で、担当省を持たない大臣を務めた。一八三一年五月、会議への委員としてロンドンへ行き、帰国すると、大臣の職を辞した。しかし、一八六三年まで代議院に在席した。この時、視力を失い、政治活動から退かざるを得なくなった。
[191] ウィーン会議の元全権代表。ノアイユ氏は、王政復古期の最後の代議院の議員として、新政府に宣誓したが、一八三一年の選挙では、再選されなかった。
[192] マルク=ジャン・ドマルセー。一七七二年生まれ。非常に若くして軍に入り、一八一〇年、准将として退役した。王政復古期に、ドゥー=セーヴル選出の代議士(一八一九年)となり、反対派の最も活発な議員の一人となった。一八二四年の選挙では敗れたが、一八二七年、セーヌ県で選ばれた。一時、七月王政を支持したものの、ほどなく反対派へ戻り、死去する一八三九年まで、その立場を保った。
[193] クロード・ド・コルセル。一七六八年生まれ。一七八九年には、騎兵将校だった。一七九二年に亡命し、フランスへ戻った後、一八一四年まで引退して暮らした。百日天下で、ローヌ県の国民衛兵の大佐に任命されたが、第二次王政復古後、逮捕された。釈放されたものの、フランスを去らなければならず、帰国は一八一八年になった。一八一九年、ローヌ県選出の代議士となり、代議院で、政府に激しく反対した。一八三〇年以後も、反対派にとどまった。一八三五年、公職から退き、一八四三年に死去した。
[194] アンヌ=ジョゼフ=ウゼーブ・バコニエール=サルヴェルト。一七七一年生まれ。非常に若くして、シャトレの弁護士となった。革命期には、何の役割も果たさなかった。総裁政府期、王党派の反動運動に関わったとして、ヴァンデミエール十三日後、欠席裁判で死刑を宣告されたが、自ら裁判官の前に出頭し、無罪となった。帝政下では、世間から離れ、哲学と文学の仕事だけに取り組んだ。王政復古期、自由派の論客として名を知られ、一八二八年、代議院に選ばれ、反対派の最も熱烈な人々に加わった。一八三一年と一八三四年、パリで再選され、七月王政に対しても、同じ姿勢を保った。一八三九年に死去した。
[195] セモンヴィル氏は、当時、貴族院裁判所の文書総監だった。
[196] モデナ公と、パルマ女公〔元皇后マリー=ルイーズ〕は、暴動に屈して、退去していた。
[197] ジュスト・ド・ファイ、ラトゥール=モブール侯爵。一七八一年生まれ。統領政府期に外交の仕事に入り、コペンハーゲン、次いでコンスタンティノープルの大使館書記官を務めた。後者では、一八一二年まで、臨時代理公使としてとどまった。そこからシュトゥットガルトへ、公使として移った(一八一三年)。王政復古期には、ハノーファー駐在公使、次いでドレスデン(一八一九年)、コンスタンティノープル(一八二三年)駐在大使となった。七月王政は、ナポリ(一八三〇年)、次いでローマに派遣し、死去する一八三七年まで、その地にとどまった。ラトゥール=モブール氏は、一八三一年、世襲権によって貴族院に入った。
[198] ジャン=アンドレ=ティビュルス、セバスティアニ子爵。一七八六年生まれ。一八〇六年に軍へ入り、一八二三年に准将となった。待命とされ、一八二八年、代議院に入った。一八三一年には、コンスタンティノープルの大使職を得られなかったが、中将、フランス貴族院議員に任じられた(一八三七年)。一八四八年、コルシカへ退いた。
[199] 実際、レオポルド公は、ギリシア国王に任じられるところだった。大国にもギリシアにも受け入れられたが、会議が課した条件には、従うことを望まなかった。会議は、一八三〇年二月三日の議定書で、アイトリアとアカルナニア、さらにカンディア島とサモス島を、オスマン政府のもとに残す形で、ギリシアの境界を定めていた。レオポルド公は、会議に抗議した(二月十一日の書簡)。会議が決定を維持したため、レオポルド公は、最終的に王冠を拒絶した。
[200] 四月十三日の勅令は、前年十二月十三日の法律に従って、七月の戦闘に参加した者のため、特別な勲章を設けた。受章者は、国王への忠誠と、憲章への服従を宣誓しなければならなかった。十字章には、「フランス国王から授与」と刻まれていた。この二つの規定、すなわち宣誓と銘文は、勲章を受ける市民たちから、憲法違反と判断された。彼らは抗議し、従うのを拒んだ。事件は、ヴァンドームの記念柱の周囲で、多くの騒ぎや幾つかの示威行動を起こした後、ようやく収まった。この時、ロボー伯爵は、消防ポンプの放水によって、示威運動の参加者を解散させた。
[201] ベルギー憲法は、二月七日に可決された。第一条は、国民会議が要求する領土を列挙していた。すなわち、アントウェルペン、ブラバント、西フランドル、東フランドル、エノー、リエージュ、リンブルフ、ナミュールの各州と、ドイツ連邦との関係を留保したルクセンブルクである。
[202] ベルギーの要塞の問題は、三五七ページ、三六三ページと、それぞれの注を参照。
[203] オルタンス王妃が、亡命中に用いた名である。その長男、シャルル・ナポレオン公子が、一八〇七年にフォルリで死去したことを、思い出していただきたい。[訳注10]
[204] ここから二〇一ページまでの外交報告はすべて、外務省への公式の外交報告であり、すでに公表されている。
[205] デュラン・ド・マルイユ男爵は、一八三〇年からハーグ駐在公使だった。それ以前にも、一八二一年、最初にハーグへ派遣され、その後、ワシントン(一八二三年)、リオ・デ・ジャネイロ(一八二九年)に駐在した。一八三二年、ナポリ駐在大使となった。
[206] 異文。「ギリシア会議の委員たち」。
[207] アントワーヌ・シュネデール。一七八〇年生まれ。一七九九年に工兵へ入った。一八一五年に大佐となり、一八二三年、スペイン戦役に参加した。一八二八年、准将としてモレアへ派遣され、メゾン元帥の出発後、最高司令官となった。フランスへ戻ると、中将(一八三一年)となり、一八三四年、代議士に選ばれ、死去する一八四七年まで、代議院に在席した。一八三九年から一八四〇年、一時、陸軍大臣を務めた。
[208] 一八三ページの、五月十八日の外交報告を参照。
[209] 異文。「考えるようになるだろう」。
[210] ベルギーの政治状況についての、ポンソンビー卿の報告を受け、五月二十一日に署名された、この議定書は、二つの事柄を扱っている。
一、ベルギーが、対価を支払ってルクセンブルクを取得すること。二、レオポルド公が、王冠を受け入れる可能性について。
第一の点について、会議は、「ネーデルラント国王との交渉を始める。その目的は、可能ならば、公正な代償によって、ベルギーにルクセンブルクの領有を確保することである。ルクセンブルクは、ドイツ連邦との現在の関係を保つ」と、約束した。また、「このように行動する目的は、あらゆる事情からそう考えられるように、レオポルド公にベルギーの王権が申し出られた場合、その受け入れを妨げる困難を、取り除くことである」と、付け加えている。
[211] 異文。「満足のいく」。
[212] 異文。「今日、われわれは新たな道を作りました。それによって……へ進めることを、私は願っています」。
[213] 異文。「決して」。
[214] 一八三〇年十二月からフランクフルトに住んでいた、T・ミヒールスは、大臣の非公式の代理人にすぎず、連邦議会には認められていなかった。
[215] ジャン=ルイ=ジョゼフ・ルボー。ベルギーの政治家。一七九四年生まれ。ウィレム国王の治世では、弁護士、新聞記者を務め、政府に激しく反対していた。一八三〇年、リエージュの検事に任命され、同時に、この町から国民会議へ送られた。そこで、フランスへの併合に反対し、ヌムール公の選出を避けるため、ロイヒテンベルク公の候補を推す人々の一人となった。一八三一年、外務大臣となり、その立場でレオポルド公を支持した。レオポルド公に王冠を申し出る代表団にも加わった。一八三二年、代議士に再選され、司法大臣、次いでナミュール州知事(一八三四年)となった。一八三九年、連邦議会への代表に任じられ、一八四〇年、外務大臣兼首相となった。一八四一年に退任したが、議院の議席は保ち、自由党に属した。
[216] ジュール・ヴァン・プラート。一八〇六年、ブルッヘ生まれ。一八三一年、ロンドン駐在公使館の書記官だった。ほどなく、国王の執務室の秘書、次いで一八四〇年、宮内大臣となり、レオポルド二世の治世に至るまで、その職を保った。
[217] 異文。「求める」。
[218] 異文。「私は思います」。
[219] 公文書の本文では、削除されている。
[220] ポンソンビー卿は、ロンドンから戻るとすぐ、ルボー氏に私信を書いた。そこでは、会議の考えを誇張し、歪めていた。ルボー氏が五月二十八日、国民会議で読み上げたこの手紙は、ベルギーに大きな動揺を引き起こした。ポンソンビー卿は、国境の問題では会議の決定に従い、ベルギーの名そのものの消滅に至りかねない困難へ、飛び込まないよう、ベルギー政府に強く勧めていた。また、国民会議が一月二十日の議定書を受け入れれば、報いとして、ルクセンブルクが譲られると、付け加えていた。「一週間前には、会議は、この公国をナッサウ家に残すことを、必要とまではいかなくても、極めて望ましいと考えていました。しかし今では、ベルギーの君主に、この公国を得させるという、明らかな意図をもって、仲介する用意があります」と、述べていた。
実際、会議は、この取り決めを考えていた。しかし、ポンソンビー卿は、それほど断定的な言葉を述べることも、ベルギー人に、取引を受けるか拒むかという選択を迫ることも、許されてはいなかった。(五月三十一日の『デバ』紙にある、ポンソンビー卿の書簡参照。)
[221] マーストリヒトは、一六四二年、ナッサウのアンリ=フレデリック公によって占領された。公は、一六四八年、それをオランダに譲った。オランダは、その後ずっと保持しており、一七八四年、ヨーゼフ二世皇帝が、返還を要求した後も変わらなかった。
[222] セバスティアニ将軍からベリアール将軍へ。
「……会議がベルギー人に、その決議へ同意するために与え、今月一日と定めた期限を、あなたが自分の判断で十日延ばしてよいと考えたと知り、私は非常に驚いています。繰り返し与えられた訓令が、会議の代表の働きかけを支持するよう命じているだけに、この措置は、いっそう異例に思えました。五月三十一日付の私の書簡は、ベルギー人が会議の決定への同意を拒み、そのためポンソンビー卿が退去しなければならなくなった場合、卿と同時にブリュッセルを去るよう、命じています。この命令を、最も明確な形で、速やかに繰り返します。この外交報告が届く時に、ベルギー人の頑なさによって、ポンソンビー卿が退去を余儀なくされていたなら、あなたも直ちにブリュッセルを去らなければなりません。ベルギー政府には、いかなる書面の連絡も、送ってはなりません。」
ベリアール将軍は、この外交報告を受け取った当日、すなわち六月十一日、ブリュッセルを去った。実際、ベルギーの大臣は、国民会議の命令によって、会議の議定書に同意する代わりに、新しい交渉を始めたばかりだった。
[223] ここから二三六ページまでの外交報告は、外務省への公式の外交報告であり、すでに公表されている。
[224] ポンソンビー卿は、五月十日の議定書(第二十三号)を、ベルギー政府に提示することを拒んでいた。その議定書は、会議が課した境界を、ベルギー人が受け入れるための最終期限を、六月一日と定めていた。また、卿がルボー氏に書いた、奇妙な手紙も、思い出していただきたい。
[225] 異文。「それを特定の理由によるものと考える」。
[226] シャルル・ル・オン伯爵。一七九二年生まれ。初め、リエージュで弁護士を務め、その後、この町の代表として、ネーデルラント全国議会の議員となった。一八三一年、ヌムール公に王冠を申し出る代表団に加わり、ほどなく、パリ駐在公使に任命された。一八五二年まで、その職を保った後、ベルギーへ戻り、代議士となった。一八六八年に死去した。
[227] この議定書は、一四九ページ参照。
[228] 異文。「パリ」。
[229] 異文。「なお、パーマストン卿が……と、お知らせしなければなりません」。
[230] 異文。「まだ正式に確定しておらず、ベルギー人の考えでは、自分たちが領有してさえいない都市まで含むべき領土について、その完全性を判断するよう、彼に強いようとしています。私には、ほとんど疑いがありません……」。
[231] 公文書の本文では、削除されている。
[232] 異文。「そして、何の成功も得ませんでした」。
[233] このベルギー代表団は、団長のジェルラシュ氏、F・ド・メロード氏、ヴァン・ド・ヴェイエル氏、ド・フォエール神父、アルスコット氏、H・ヴィラン十四氏、オジ氏、デストーヴェル氏、デュヴァル・ド・ボーリュー氏、トルン氏から構成されていた。
[234] ジャン=バティスト・ノトン。一八〇五年生まれ。初め、ルクセンブルクで弁護士を務め、『クーリエ・デ・ペイ=バ』の政治記者だった。一八三〇年、憲法委員会の委員となり、国民会議の議員となった。そこで、フランス派の指導者の一人だった。外務省の事務総長となり(一八三一年二月)、レオポルド国王の選出後、ロンドンへ行き、十八か条の条約を交渉した。一八三六年まで、外務省の職を保った。その後、公共事業大臣(一八三七〜一八四〇年)、フランクフルト駐在全権公使(一八四〇年)、内務大臣(一八四一年)、外務大臣兼首相(一八四三年)となった。一八四五年、政権を去り、その後、ドイツでのさまざまな外交任務を担った。
[235] 異文。「……彼らは、ベルギーの問題の決着を、容易にできるかもしれません」。
[236] 異文。「委員たちは、この権限を、代表団の人々に知らせていません……」。
[237] 選挙によって高まった興奮から生じた、地方の暴動だった。
[238] 異文。「結局、伯爵殿、まだ何も決まっていません。そして、レオポルド公が……と、お分かりでしょう」。
[239] ユゼフ・ドヴェルニツキ。ポーランドの将軍。一七七九年生まれ。フランス軍の一員として、帝政期の大部分の戦役に参加し、一八一四年に大佐となった。一八一五年、ポーランドへ戻った。一八三〇年に将軍となり、蜂起した軍の一部隊の指揮を任された。初めは勝利し、ヴォルィーニの蜂起を指導する任務を与えられたが、ついには包囲され、数の優勢に圧倒され、ガリツィアへ退いた。オーストリア政府は、彼と兵士たちを逮捕し、戦争捕虜として扱った。戦争の終結後、自由を取り戻し、フランスへ退いた。その後、レンベルクに定住し、そこで一八五九年に死去した。この時のオーストリア政府の行動が、フランスとイギリスの介入を招いたのである。
[240] シャッセ男爵。オランダの将軍。一七六五年生まれ。初め、一八一四年までフランス軍に仕えた。オランダへ戻ったのは、一八一五年になってからだった。一八三〇年、ウィレム国王のため、アントウェルペンの総督を務めていた。一八三二年、フランス軍に対して、この都市を守ったのは彼である。一八四九年に死去した。
[241] ルーサン男爵。一七八一年、ディジョン生まれ。十二歳で海軍に入り、一八一五年に大佐、一八二二年に少将となった。一八二八年、リオに対する遠征を指揮し、一八三一年、テージョ川へ派遣された艦隊の司令官となった。中将に昇進し、一八三四年、コンスタンティノープル駐在大使、一八四〇年、海軍大将となった。また、一八四〇年と一八四三年に、海軍大臣を務めた。一八五四年に死去した。
[242] この書簡は、パラン氏の書簡集にはない。
[243] フランスにおけるギリシア政府の代理人。翌年、正式にパリへ派遣された。
[244] すでに公表された公式の外交報告。
[245] この演説は、六月二十三日の『ジュルナル・デ・デバ』に転載されている。
[246] すでに公表された公式の外交報告。
[247] 異文。「それは、私が最も好む考えです……」。
[248] ポーランドの戦争で。
[249] すでに公表された公式の外交報告。
[250] すでに公表された公式の外交報告。
[251] 七月九日に国民会議で採択された、この条約案が、十八か条の条約の名で知られている。ルシュールの『年鑑』、またはマルテンスの『条約集』を参照。
[252] 公文書の本文では、削除されている。
[253] この演説は、パラン氏の書簡集にある。
[254] この書簡は、パラン氏の書簡集にある。
[255] すでに公表された公式の外交報告。
[256] 会議が、オランダとベルギーに、和平の予備条件として提案した十八か条を収めたのは、六月二十六日の議定書である。
[257] この書簡で、ロンドンにおけるタレーランの大使職についての、パラン氏の第一巻が終わる。この時点で刊行されているのは、この一巻だけなので、われわれによる二つの本文の比較も、ここで終えざるを得ない。
[258] この書簡は、パラン氏の著作にある。この返答を送る際、タレーラン氏がアデライード王女に書いた書簡は、付録四九二ページ参照。
[259] 四月十七日の議定書。
四大国の全権代表は、一致して、次のように考えた。ベルギーの新しい状況と、フランスが認めたその中立は、軍事的な防衛体制を変えるはずである。要塞は、効果的に守るには多すぎる。ベルギー領土の不可侵は、以前にはなかった安全をもたらす。したがって、異なる事情のもとで建てられたこれらの要塞のうち、一部は解体できる。
そのため、全権代表は、解体すべき要塞の数と、その選択を定めるため、ベルギーと四大国の間で、交渉を行うと決定した。
エステルハージ、ヴェッセンベルク、パーマストン、ビューロー、リーヴェン、マトゥシェヴィチ。
この議定書に続いて、一八三一年十二月十六日、四大国の代表とベルギーの間で、協定が結ばれた。それは、メナン、アト、モンス、フィリップヴィル、マリアンブールの要塞の解体を、命じていた。残る要塞は、ベルギーが良い状態に維持することとされた。
[260] 「……フランス政府は、フランスの世論を満足させるため、あることを行い、あることを行わない必要があると、絶えずわれわれに繰り返しています。しかし、フランスと同じく、イギリスにも国民感情があることを、思い出すべきです。その感情は、フランスの世論ほど、些細なことで容易に刺激されるわけではありません。しかし、幾つかの問題、ベルギーもその一つですが、そこでは非常に敏感であり、一度呼び起こされれば、鎮めるのは容易ではありません。」(パーマストン卿からグランヴィル卿へ、一八三一年八月十一日。『パーマストン卿私信集』。)
[261] この件についての、パーマストン卿からタレーラン氏への書簡は、付録四九三ページ参照。
[262] 六月中に、フランスはすでに、ポーランド人のため、実効性のない働きかけを、皇帝に対して行っていた。結果は得られなかった。そこで、ますます激しくなる世論の圧力のもと、フランス内閣は、共同の仲介を受け入れさせるため、イギリスとプロイセンに、フランスと力を合わせるよう提案した。ここでカジミール・ペリエ氏が述べている外交報告は、この点について、国王の政府の計画を説明するものだった。ベルリンでもロンドンでも、介入は拒絶された。
[263] 教皇領で蜂起が起こった後、オーストリア軍がボローニャに入ったことを、思い出していただきたい(三月二十一日)。テュイルリーの内閣は、撤退を求めた。オーストリアは、大国が教皇の世俗の権力を保障するよう、要求した。一方、フランスは、教皇が蜂起した人々の求める自由主義的な改革を認めた場合にのみ、そのような約束に同意すると、宣言した。オーストリアは、ついに譲歩し、七月十五日、軍を撤退させた。
[264] タレーラン氏は、ヴォーデモン夫人への書簡で、この点を強調していた。(付録、四九三ページ参照。)
[265] ドン・ペドロ皇帝は、二度目の結婚で(一八二九年)、ウジェーヌ公の娘、アメリー=オーギュスタ=ウジェニー・ド・ボアルネ公女を妻に迎えていた。
[266] フリーデリケ=シャルロッテ=マリー〔エレナ・パヴロヴナ〕。一八〇七年生まれ。ヴュルテンベルクのパウル公の娘。一八二四年、ニコライ皇帝の兄弟、ミハイル・パヴロヴィチと結婚した。
[267] 第三十一号議定書(一八三一年八月六日)。
会議はさらに、フランス軍は、オランダ軍をベルギー領外へ押し返すだけにとどめ、オランダには入らないことを、決定した。また、ドイツの国境に近づかないため、マーストリヒトもフェンローも、包囲してはならないとした。最後に、フランス政府は、敵対行動が終わるとすぐ、軍を召還すると、約束しなければならなかった。
この議定書について、会議の同意を得るのは、容易ではなかった。フランス軍がベルギーに入ることは、イギリス内閣に、言いようのない動揺を与えていたからである。パーマストン卿は、フランスがオランダと、ひそかに示し合わせていると、非難するほどだった。八月五日、グランヴィル卿に、次のように書いていた。「ネーデルラント国王は、ずいぶんな冒険をしたものです。何に駆られたのか、私には見当がつきません。われわれは、少しフランスを疑っています……覚えておいでなら、タレーランは、少し前、オランダ人を刺激して休戦を破らせ、彼らに対する非難の声を上げ、ベルギー全土に軍隊を配置し、その後、われわれの望むとおりに、すべてを整えることを、私に提案していました。陰謀の第一幕が、実行されたのでしょうか」(『パーマストン卿私信集』。)
[268] オルレアン公とヌムール公。前者は、騎兵旅団を、後者は、槍騎兵連隊を指揮していた。軍は、ジェラール元帥の指揮下にあった。
[269] アデライード王女は、ここで間違えている。ネーデルラント国王は、まだ誰とも、何の条約にも署名していなかった。国王の過ちは、八か月前、五大国の仲介で結んだ休戦を、破ったことだった。(バクール氏の注。)
[270] ベルギーには、救済をフランスに負うという考えに、我慢できず、オランダ軍を撃退する栄誉を、自分たちだけのものにしたがる一派があった。同じ考えを持つ外務大臣、ド・ミュルネール氏は、憲法によれば、法律に基づく場合を除き、いかなる外国軍も、ベルギー領を占領できないと述べ、フランス軍が国境を越えるのを認めないよう、レオポルド国王に懇願した。国王は譲歩し、その趣旨をパリへ書き送った。しかし、マース軍が潰走すると、考えを改め、ジェラール元帥に、進軍を急ぐよう求めた。
[271] 貴族院、八月六日の会議。
アバディーン卿は、リスボンへのフランスの介入と、イギリスが何もしなかったことを、激しく非難する。内閣に、ドン・ミゲルの独立を守るよう、迫る。「政府が気にするべきなのは、ポルトガル国王の人柄ではなく、事実上、その国の君主が誰であるかだ。ドン・ミゲルに対するわれわれの立場は、フランス国王に対して取った立場と同じである。フランス国王は、自分の若い甥が継ぐはずだった王位を奪った。その甥のために、シャルル十世は退位していたのである。さらに言おう。現在のオルレアン公の代わりに、あの怪物エガリテが選ばれていたとしても、われわれの政策は、やはり同じであるべきではないか……」
グレイ卿――「高貴なる伯爵が、フランス国王は、甥が継ぐはずだった王位を奪ったと述べた時の、言葉については触れない……」
アバディーン卿――「奪ったとは言わなかった。占めたと言った」
グレイ卿――「答えるにも値しない。それより、アバディーン卿ご自身と、以前の同僚たちが、現在のフランスの君主を速やかに承認したことを、称える方がよい。ポルトガルの問題での、フランスの行動は、率直さと誠実さに満ちていた……」
[272] ヤン・ヒルベルト・フェルストルク・ファン・ズーレン。オランダの政治家。一七七七年生まれ。一八〇一年、ロッテルダムの判事、その後、ヘルダーラントの行政長官だった。フランスの支配下では、フリースラントの知事に任命された。一八一五年、ルクセンブルク大公国の行政官となり、次いでペテルブルク駐在公使となった。一八二五年、外務大臣となり、一八四〇年まで在職した。一八四五年に死去した。
[273] モーリス=エティエンヌ・ジェラール伯爵。一七七三年生まれ。一七九一年、志願兵として入隊し、一八一二年に師団将軍となった。特に、一八一四年と一八一五年に、功績を挙げた。王政復古期に軍を去り、代議士に選ばれた。一八三〇年、フランス元帥、陸軍大臣となり、一八三一年、北方軍の指揮を任された。一八三五年、レジオン・ドヌール勲章の総裁に任命された。一八五五年に死去した。
[274] ベルギー軍は、八月八日にハッセルトで、十二日にルーヴェンで、敗れていた。
[275] フランス軍の撤退と、要塞の解体について、イギリス内閣が保とうとしていた立場は、パーマストン卿からグランヴィル卿への、次の書簡にはっきり現れている。
[私信]
「外務省、一八三一年八月十七日。
親愛なるグランヴィル殿、
今、タレーランと話してきました。彼は、セバスティアニが十四日に送った私信を、読ませてくれました。そこでは、二万人のフランス兵を帰国させ、残りをニヴェルへ退かせると、伝えていました。しかし、要塞についての、好ましくない一節があり、フランス軍がベルギーから完全に撤退する前に、取り決めを結ぶ必要があると、ほのめかしていました。
タレーランは、この手紙をどう思うかと、尋ねました。私は、要塞の問題と、ベルギーからの撤退の問題を、われわれが結び付けると思っているなら、フランス政府は間違っていると、答えました。フランス政府は、ベルギーから撤退すると約束しており、われわれは、その約束が果たされると考えるのが当然だ。要塞については、フランス軍がベルギーの外へ出るまで、解体の問題を検討することさえできない。われわれには、これらのベルギーの要塞のうち、幾つかを解体する、確固たる意志がある。しかし、この件で、フランスが銃剣を突き付け、われわれに命令することは、決して認めない、と。」(『パーマストン卿私信集』。)
[276] ベルトラン・クローゼル。一七七二年生まれ。一七九二年、ピレネー軍団の大尉となり、一七九九年に准将となった。帝政期のすべての戦役、特にスペイン戦役に参加した。百日天下での行動によって、一八一五年、欠席裁判で死刑を宣告され、アメリカへ逃れた。恩赦の後、フランスへ戻り(一八二〇年)、一八二七年、代議士に選ばれた。一八三〇年、アルジェリア軍の指揮を任され、一八三一年に召還され、フランス元帥に任じられた(七月三十日)。一八三五年、総督に任命されたが、コンスタンティーヌ遠征の失敗により、翌年、フランスへ戻った。一八四二年に死去した。
[277] 「……フランスに対する『タイムズ』紙の激しい言葉を、ご覧になったでしょう。われわれには、止められません。『タイムズ』紙は、時折激しい調子で、好きなように言い立てます。しかし、最近取った調子は、大きな害を与えたはずはありません。ベルギーの問題で、イギリス政府の言葉は、国民全般の感情を越えることなく、もっと強くなりえたと、フランス人に納得させるのに、役立ったはずだからです。」(パーマストン卿からグランヴィル卿へ、八月二十六日。『パーマストン卿私信集』。)
[278] サン・ミゲル島は、アゾレス諸島で最も重要な島である。ヴィラ・フロル伯爵は、テルセイラの摂政政府の名で、八月一日に占領した。ドン・ペドロ軍の最高司令官、ヴィラ・フロル伯爵は、一七九〇年生まれ。十八歳で入隊し、内戦が始まった一八二六年には、准将だった。ドン・ペドロの側に立った。一八二九年、テルセイラへ渡り、一八三一年、そこから遠征隊を率いて出発した。その遠征は、ドン・ミゲルの失脚と、ドナ・マリアの即位を決定づけた。一八三六年、数か月、首相を務めた。長くポルトガルを揺るがした騒乱の全期間を通して、ドナ・マリア女王と、自由主義的な憲章を、一貫して擁護した。一八六〇年に死去した。ヴィラ・フロル伯爵は、一八三三年、テルセイラ公に叙されていた。
[279] 八月十九日の庶民院の会議で、シャンドス侯爵は、一年以上、価額五十ポンド・スターリングの土地を借りている、すべての農業者に、選挙権を与える修正案を提出した。この修正案は、内閣が反対したものの、二百四十二票対百四十八票の多数で、可決された。
[280] 内閣が提案した方策は、ベルギー政府から、要塞の解体を進めるという正式な約束を得た後でなければ、フランス軍をベルギーから出さない、というものだった。そのため、タレーラン氏は、フランス軍の撤退を、過度に急がせないという同意を、イギリス政府から得た。同時に、テュイルリーの内閣は、ラトゥール=モブール氏をブリュッセルへ送り、要塞の問題について、レオポルド国王と、秘密の取り決めを交渉させた。
[281] サー・チャールズ・バゴット。一七八一年生まれ。枢密院議員、ハーグ駐在全権公使、後にカナダ総督。一八四三年に死去した。
[282] サー・ロバート・アデア。イギリスの外交官。一七六三年生まれ。非常に若くして議会に入り、ホイッグ党に属した。一八〇六年、ウィーンへの特別任務、次いでコンスタンティノープルへの任務を担った。一八三一年から一八五一年、ブリュッセルに駐在した。帰国すると、枢密院議員に任じられた。一八五五年に死去した。
[283] アデライード王女との会話。王女は、それを国王に伝えていた。(タレーラン公の注。)
[284] オランダとベルギーの債務分割について、会議は、二つの方式から選ばなければならなかった。一つは、「共同で負担する仕組みを残し、債務を一体とし、各国に連帯責任を負わせる」こと。もう一つは、債務の発生した事情に応じて分け、ベルギーが自ら借り入れたのではない債務は免除し、一八一五年以来、共同で生じた負担を、二国間で公平な割合に分配することだった。一月二十七日の議定書は、共同で負担する仕組みを定めた、一八一四年七月二十一日の議定書に基づき、第一の方式を採った。十八か条の条約は、ベルギー国民会議が一貫して支持した、第二の方式を採用した。続く十月六日の議定書は、この原則に従って、債務の分割を定めた。
[285] 一八〇九年、アントウェルペンに対して試みられた遠征。スヘルデ川河口のワルヘレン島で、イギリス軍は、熱病によって甚大な損害を受けた。残存兵も、ベルナドットに襲われ、再び船に乗って退くほかなかった。
[286] オランダ軍は、敵対行動が始まるとすぐ、ベルギー軍の動きを止めるため、アントウェルペン周辺の堤防を、幾つも壊していた。
[287] 九月十六日から十九日の蜂起。
[288] フェリックス・バルト。一七九五年生まれ。王政復古期にパリの弁護士、一八三〇年にパリ裁判所の検事総長を務めた。代議士、次いで公教育大臣(一八三〇年十二月)、国璽尚書(一八三一年)、フランス貴族院議員、会計検査院の第一院長(一八三四年)、再びモレ内閣の司法大臣(一八三七〜一八三九年)となった。一八五二年、元老院議員に任命され、一八六三年に死去した。
[289] 第四十一号議定書。署名されたのは、九月十九日ではなく、十五日である。タレーラン公が、フランス政府は、ベルギーから最後の部隊を撤退させると述べたことを、確認している。その部隊は、同国の君主の明確な要請によってのみ、残されていたものであり、撤退は九月二十五日に始まり、三十日には完全に終わるという。
この宣言に答えて、四大国の全権代表は、「フランス全権代表に、それを喜んで受け取ると伝えた。フランスが政策を導く、高い原則と、平和への愛を、新たに示すことを、同盟国は全面的な信頼をもって、待っていた。全権代表は、各国政府が、フランス政府の決意を、その価値にふさわしく評価すると、タレーラン公に確信していただくよう求める」と、述べた。
[290] 九月十九日、二十日、二十一日、二十二日の会議で、内閣は、反対派の幾人もの議員から、次々に質問を受けなければならなかった。ワルシャワの出来事が人々を興奮させていたため、特に外交問題が、議論の中心となった。国内政策も、激しく攻撃された。モーガン、ラマルク、ティエール各氏の長い演説と、カジミール・ペリエ、セバスティアニ両氏の答弁の後、代議院は九月二十二日、二百二十一票対百三十六票で、決議を可決した。そこでは、「大臣たちの説明に満足し、対外的なフランスの威厳を守るための、彼らの配慮を信頼する」と、宣言していた。
[291] パルメラ侯爵は、当時、ロンドン駐在の、ドン・ペドロの大使だった。ほどなく、テルセイラの摂政政府の首班となり、その後、外務大臣兼首相となった。パルメラ氏は、以前、ウィーン会議で、ポルトガルを代表していた時、タレーラン氏と知り合っていた。
[292] スールト元帥は、ベルギーの独立が、厳粛に宣言され、承認されるまで、フランス軍は同国にとどまると、述べていた。
[293] イヴァン・フェドロヴィチ・パスキヴィチ。ロシアの元帥。一七七七年生まれ。一八〇五年、一八〇六年、一八一二年、一八一三年の戦役に参加した。一八二六年、コーカサス軍の指揮を任された。一八三一年、ディービッチ元帥に代わって、ロシアのポーランド方面軍の指揮を執り、和平後、元帥の階級と、ワルシャワ公の称号を受けた。同時に、ポーランド総督に任命された。一八四九年、ハンガリーへ派遣されたロシア軍を指揮した。最後に、一八五四年、ドナウ軍の指揮を任され、シリストラの前で重傷を負った。一八五六年に死去した。
[294] ワルシャワの和平後、ロマリノ、リビンスキ両将軍に率いられた、ポーランド軍の残存部隊は、モドリンへ退いた。必死に抵抗した後、散り散りになり、プロイセンとオーストリアへ逃れた。ロマリノ将軍は、九月十六日、ガリツィアへ入った。
[295] チャールズ=ウィリアム・ステュアート、ロンドンデリー侯爵。キャッスルレー卿の兄弟。ウィーン会議で、ステュアート卿の名ですでに登場した人物である。次に、その演説のうち、タレーラン氏に関する部分を示す。貴族院、九月二十九日の会議。ロンドンデリー侯爵――「フランスは、イギリスの影響力を弱め、自分の優位に屈服させるため、あらゆる方法を探している。ここでフランスを代表する、あの狡猾な外交官は、一つの持ち場で敗れるとすぐ、別の持ち場へ退く……今、わが国でフランスの交渉を指導している人物について、私は強い言葉を使った。世界中を探しても、あの人物のような性格は、見つからないと思う。彼は、ナポレオン、ルイ十八世、シャルル十世の大臣を、順に務めた。イギリスの大臣たちが、次々に、そのような人物に相談に駆けつけるのを見ると、当然の嫌悪を覚える。諸卿が、タレーラン公についての私の意見が、どんな根拠に立つか知りたければ、共和暦十一年ブリュメール十五日、彼が第一統領に送った覚書を、読むことをお勧めする」
[296] この箇所で述べられている、『タイムズ』紙の抜粋と、その翻訳を、次に示す。
貴族院
貴族院
一八三一年九月二十九日、木曜日。
一八三一年九月二十九日、木曜日の会議。
ロンドンデリー卿がタレーラン氏を攻撃した後、ゴドリッチ卿は、演説の中で次のように述べた。
ロンドンデリー卿がタレーラン氏を攻撃した後、ゴドリッチ卿は、続く演説で次のように述べた。
彼が取り上げようとした、高貴なる友人の演説の、もう一つの部分は、タレーラン公についてのものだった。その友人は、タレーラン公が、この国の政府の判断に、大きな影響を及ぼすと考えていた。そして、その考えと、この著名な人物の過去の人生の一部を根拠に、友好国の大使であるにもかかわらず、最も辛辣な非難を浴びせてもよいと、考えていた。(「聞け」という大きな声。)公平を期して言えば、高貴なる友人は、以前の時ほど深く、矢を苦い胆汁に浸してはいなかった。それでも、今回でさえ、友好国の大使に対して、公人が陥りうる、最も軽率で、最も思慮のない言葉を、使ったと言わなければならない。(喝采。)彼は、高貴なる友人の演説の、この部分には、できれば触れたくなかった。早く忘れられるほどよいと、考えていたからである。しかし、これについて黙っていれば、政府も、その非難は的外れではないと考えていると、思われかねない。もしそうなら、当然の結論は、タレーラン公を、ここにとどめておくべきではないということになる。政府が、高貴なる友人と同じ意見を、タレーラン公について抱いているなら、そのような人物とは仕事を進められないと、フランス国王陛下に伝える義務がある。そのため、その地位によって、このような攻撃から守られるべき人物の、人柄への中傷について、今述べたように語る必要を、感じたのである。(喝采。)彼が、この思慮を欠き、軽率で、正当化できない言葉に抗議したため、高貴なる友人は、政府がフランスにへつらっていると言うだろう。それは承知している。しかし、その友人に思い出してもらいたい。タレーラン公は、フランスの直近の二人の国王の大臣であった。また、ウィーン会議の審議にも、大きく重要な役割を果たした。その審議の結果を、高貴なる侯爵は、賢明で良いものと考えている。(喝采。)高貴なる侯爵は、きっと、これらの事実に思いを向けることができたはずだ。しかし、そうしていたなら、タレーラン公の人生の隅々まで探り、それを不公正で、悪意のある非難の材料にすることは、なかっただろう。フランスの事情が全く違い、誰も理性や心の傾くままに行動できず、強く、抑えようのない情勢の流れによって、自らの進路を定めざるを得なかった時の行動を、今の行為、今日の出来事であるかのように、裁きにかけることは、なかっただろう。
高貴なる友人の演説には、もう一つ、私が取り上げたい点があります。タレーラン公についての部分です。友人は、公爵が、この国の大臣たちに、大きな影響を及ぼすと考えています。この考えと、この著名な人物の過去の幾つかの出来事に基づき、友好国の大使であるにもかかわらず、最も辛辣な非難を浴びせてもよいと、考えたのです。(「聞け」という声。)公平のために、友人が今日は、以前の時ほど深く、矢を苦い胆汁に浸さなかったことは、認めなければなりません。しかし、それでも今回、友好国の大使に対し、公人が使いうる、最も軽率で、最も不適切な言葉を、使ったと言わなければなりません。(拍手。)私は、高貴なる友人の演説の、この部分には、できれば触れないでおきたかったのです。早く忘れられるほどよいと、考えるからです。しかし、この攻撃について黙っていたら、政府も、その非難に根拠がないとは思っていないと、受け取られかねません。もしそうなら、当然の結論は、タレーラン公がここにいることを、認めるべきではないということになります。政府が、彼について友人と同じ意見なら、そのような人物とは仕事を進められないと、フランス国王に伝える義務があるからです。したがって、その立場によって守られるべき人物の、人柄への攻撃について、今述べたように語る必要があると、判断しました。(拍手。)この不適切で、軽率で、正当化できない言葉に、私が抗議するため、友人は、政府がフランスに従属していると言うでしょう。しかし、思い出していただきたい。タレーラン公は、フランスの直近の二人の国王の大臣であり、ウィーン会議の審議でも、大きく重要な役割を果たしました。その結果を、高貴なる侯爵は、良く賢明なものと考えています。(拍手。)高貴なる侯爵は、これらの事実を、確かに考えることができたはずです。しかし、考えていたなら、不公正で、憎しみに満ちたやり方で、タレーラン公の人生のあらゆる時期を、探りはしなかったでしょう。そして、フランスの事情が全く違い、誰も理性や心の傾くままには行動できず、情勢の強く、抵抗できない流れに、行動を定められていた時の出来事を、現在の出来事や、今日の行為についての、判断の基礎にはしなかったでしょう。
ウェリントン公。問題〔ベルギー軍にフランス将校を用いること〕についての見解を述べる前に、彼は、近くに座る高貴なる友人から、あれほど強く非難された著名な人物〔タレーラン公〕について、少し述べることを許してもらいたいとした。その人物が、友人の亡くなった親族から、極めて深い信頼を受けていたことは、事実である。また、ウィーンとパリで決定された、どの大きな措置も、その人物の関与なしには、協議も実行もされなかったことも、事実である。彼は、ためらわずに言える。当時行われたすべての大きな交渉でも、それ以来、タレーラン公と関わったすべての交渉でも、最初から最後まで、タレーラン公ほど、自国に関して確固とした態度と手腕を示し、他国の大臣とのあらゆるやり取りで、誠実さと名誉を保って行動できた人物は、いなかった。最後に関わった交渉は、先のフランス革命の後、彼〔ウェリントン公〕が、短い間、陛下の政府にいた時のものだった。すべての交渉について、彼は、そのようにためらわず宣言できる。(喝采。)タレーラン公については、さまざまな方面から、多くのことが語られてきた。しかし、その著名な人物ほど、公人としても私人としても、その人柄について偽りを言われた者は、いないというのが、自らの誠実な、良心に基づく確信だと、宣言する義務を感じる。(大喝采。)その行動と人柄を判断する機会を、十分に持っていた人物について、公平を期すため、これだけは述べる必要があると、考えたのである。
ウェリントン公。問題となっている件〔ベルギー軍にフランス将校を用いること〕についての見解を述べる前に、近くに座る高貴なる友人から、あれほど強く攻撃された、著名な人物について、少し述べることを、お許しいただきたい。その人物が、友人の亡くなった親族、キャッスルレー卿から、極めて深い信頼を受けていたことは、事実です。また、ウィーンとパリで採択された、どの大きな措置も、その人物の関与なしには、協議も実行もされなかったことも、事実です。私は、ためらわず宣言します。当時の大きな交渉でも、それ以来、私がタレーラン公と進めた交渉でも、その最後は、先のフランス革命の後、私が短い間、陛下の政府にいた時のものでしたが、どの交渉でも、最初から最後まで、タレーラン公ほど、自国の利益について確固とした態度と手腕を示し、他国の大臣とのあらゆるやり取りで、誠実さと名誉を保って行動できた人物は、いませんでした。(拍手。)タレーラン公については、さまざまな方面から、多くのことをお聞きになったでしょう。しかし、この著名な人物ほど、私人としても公人としても、その人柄を歪めて伝えられた人は、いないというのが、私の誠実な、良心に基づく確信だと、宣言しなければならないと感じます。(大きな拍手。)私は、その行動と人柄を判断する機会を、数多く持っていた人物について、公平のため、これだけのことを述べる必要があると、考えたのです。
ホランド卿。高貴なる公爵の演説には、彼を大いに喜ばせ、公爵にこの上ない名誉をもたらす部分が、一つあった。タレーラン公について、高貴なる侯爵が述べたことを、公爵がどれほど節度を持ち、堂々と、寛大に批判したかを、指していると、言うまでもないだろう。公の立場からも、個人の立場からも、その演説の部分について、公爵に感謝する。われわれのもとに駐在する、友好国の大使について、厳しく侮辱的な言葉で語ることが、不公正で、寛大さを欠くという点では、ほとんど意見の違いはないだろう。一方で、諸卿の集まりのような場で、知人の徳や功績を長々と述べるのは、品の良いことではないと、彼も感じている。それでも、言及された高貴な人物と、四十年の交際があるため、次のことを証言できると、述べるのは、許していただけると信じる。その四十年は、あらゆる種類の中傷に、とりわけ満ちた時代だった。しかし、タレーラン公ほど、私人としての人柄を、恥ずべき形で中傷され、公人としての人柄を、誤解され、歪めて伝えられた者は、いなかった。
ホランド卿。高貴なる公爵の演説には、私を大いに喜ばせ、公爵にこの上ない名誉をもたらす部分が、一つあります。高貴なる侯爵がタレーラン公について述べたことを、公爵が、どれほど立派な心と、毅然とした態度、寛大さをもって退けたかを、指していると、ほとんど言うまでもないでしょう。公の利益のためにも、私人としても、その演説の部分について、公爵に感謝します。われわれのもとに駐在する、友好国の大使について、厳しく侮辱的な言葉で語ることが、不公正で、寛大さを欠くという点では、異なる意見はないでしょう。一方、諸卿の集まりのような場で、私の知人の長所や功績について、長々と述べるのは、品の良いことではないと感じます。しかし、次のことを言うのは、許していただけると思います。言及された高貴な人物との、四十年にわたる交際によって、私は、このことを証言できます。その四十年は、あらゆる種類の中傷が、とりわけ多い時代でした。それでも、タレーラン公ほど、私人としての人柄を、恥ずべき形で中傷され、公人としての人柄を、誤解され、偽って伝えられた人は、いませんでした。
ウェリントン公のよく知られた誠実さと、真実を語る姿勢、そして、ホランド卿とタレーラン公の四十年にわたる友情を考えれば、最も偏見の強い人でも、イギリス貴族院のこの会議が、タレーラン氏にとって、特に名誉あるものだったと、認めざるを得ないだろう。ウェリントン公は、攻撃を加えたロンドンデリー侯爵も属する、反対派の指導者であり、ゴドリッチ卿とホランド卿は、内閣の一員だったことを、忘れてはならない。(バクール氏の注。)
[297] 十八か条の予備条約を実施するため、会議は九月二十四日、最終条約案を提示し、オランダとベルギーの全権代表へ送った。両者は二十六日、全く異なる二つの対案で答えた。会議は、両者に任せておけば、決して合意できないと判断した。そこで、議定書(九月二十六日の第四十四号)を作り、自らの権限で、条約案の条項を定めると決定した。この議定書に続いて、二十四か条の条約が定められた。
[298] ノスティッツ=リーネック伯爵。騎兵将軍。一七七七年生まれ。一八〇六年、一八一三年、一八一四年、一八一五年の戦役に参加した。和平後、近衛騎兵を指揮した。一八三〇年、国王の兄弟、ヴィルヘルム公が、文官・軍の総督として、ライン地方へ派遣されると、ノスティッツ伯爵は、参謀長として同行した。一八四八年に軍を去り、一八五〇年、ハノーファー駐在公使に任命された。一八五九年に退任し、一八六六年に死去した。
[299] クリスティアン・フーベルト、プフェッフェル・ド・クリゲルシュタイン男爵。かつてヴェルジェンヌ氏の役所に勤めた、同名の歴史家・外交官の息子。一七六五年生まれ。バイエルンに仕えて外交の仕事に入り、一八三五年、同国の全権公使として、パリで死去した。
[300] エクトール・モルティエ男爵。トレヴィーゾ公元帥の甥。一七九七年生まれ。王政復古期に、ベルリンで一等書記官を務めた。七月革命後、ミュンヘン駐在全権公使、次いでリスボン(一八三三年)、ハーグ(一八三五年)、ベルン(一八三九年)、パルマ(一八四四年)の公使に任命された。一八四五年、フランス貴族院議員となった。一八五一年、ジェローム・ナポレオン公の第一侍従となり、一八六四年に死去した。
[301] リュミニー氏は、国王の副官である、同名の将軍の兄弟だった。
[302] パリ駐在のプロイセン公使。その息子も、後にパリ駐在のプロイセン大使となった。戦争が起こった一八七〇年にも、なお駐在していた。
[303] ネーデルラントと皇帝の間の、一七八五年十一月八日の条約、第六条。
[304] アルベール=ジョゼフ・ゴブレ、ダルヴィエラ伯爵。ベルギーの将軍。一七九〇年生まれ。一八一一年、理工科学校を卒業し、一八一五年までフランス軍に仕えた。その年、ネーデルラント国王への奉仕に移った。一八三〇年、ベルギー臨時政府を支持し、准将、陸軍大臣に任命された。一八三一年、会議への委員として、ロンドンに派遣された。一八三二年、外務大臣となった。一八三六年、代議士に選ばれ、翌年、全権公使としてリスボンへ派遣された。ベルギーへ戻ると(一八四三年)、再び外務大臣となった。一八四五年に退任した。何度も代議士に選ばれ、常に自由党に属した。一八七三年に死去した。
[305] クリスティアン=フリードリヒ・フォン・シュトックマー男爵。一七八七年、コーブルク生まれ。その町で医師をしていた。そこでレオポルド公に知られ、レオポルド公は一八一五年、身近に仕えさせ、ロンドンへ連れていった。レオポルド公がイギリスに滞在していた間、ずっとそばにいた。王室の医師として選ばれ、特に、ヴィクトリア女王の父、ケント公と、親しい間柄で暮らした。その立場は、やがて重要になった。ヴィクトリア女王に強い影響を持ち、その言葉をよく聞き入れられる、助言者、腹心となった。そのため、彼が残した回想や歴史の覚書は、この時代の歴史にとって、非常に貴重な情報源である。サン=ルネ・タイヤンディエ氏は、それを材料に、一八七六年から一八七八年の『両世界評論』に掲載された、一連の記事を書いた。長年ロンドンにとどまった後、シュトックマー氏は、コーブルクへ退き、そこで一八六三年に死去した。
[306] テスト氏は、貴族院議員の地位を長男に伝えるには、選挙人団が、ふさわしいと認めることを条件とする、修正案を提案していた。この修正案は、否決された。
ジャン=バティスト・テスト。一七八〇年生まれ。パリ、次いでニームで弁護士を務め、百日天下では、リヨンの警察総監だった。第二次王政復古で追放され、リエージュへ逃れ、一八三〇年までとどまった。その年、パリへ戻り、一八三一年、代議士に選ばれた。代議院副議長、次いで国璽尚書(一八三九年)、公共事業大臣(一八四〇年)、フランス貴族院議員、破棄院の第一院長(一八四三年)となった。一八四七年、キュビエール将軍に対する訴訟に関わったとして、貴族院裁判所に引き渡され、三年の禁錮刑を受けた。一八五〇年に死去した。
[307] フレデリック=ウィリアム・ハーヴィー、ブリストル侯爵。一七六九年生まれ。一七九六年から一八〇三年まで、庶民院議員だった。その年、父の跡を継ぎ、貴族院に入った。一八〇一年から一八〇三年まで、外務大臣を務めた。ブリストル卿は、トーリー党の最も熱烈な議員の一人で、改革法案に反対していた。一八五九年に死去した。
[308] 議会を閉会するため、十月二十日に行われた演説。
[309] 改革法案を否決した貴族院の投票を受け、イギリス内閣が退陣するのではないかと、懸念されていた。
[310] 二十四か条の条約は、十一月一日、代議院で五十九票対三十八票の多数により、十一月三日、上院で三十五票対八票により、採択された。
[311] コンスタンティノープル駐在大使、ギユミノ将軍の召還を招いた理由を、思い出していただきたい(一五三ページ参照)。パリへ戻ると、将軍は貴族院で発言し(十一月二日の会議)、弁明のため、フランス政府から一度も訓令を受けていない以上、それに背いたと非難されることはできないと、述べた。確かに、召還命令とともに、以前送られたはずだという外交報告の控えを受け取ったが、その外交報告は、一度も受け取っていなかったという。セバスティアニ将軍は、その外交報告を送ったと主張した。問題は、解明されなかった。
[312] 十一月十二日の通告書で、ヴァン・ド・ヴェイエル氏は、第一の点について、次のことを求めていた。
一、オランダとベルギーの債務を分割する際、会議が基礎とした計算の、見直し。
二、国境線が製錬工場と、その操業に必要な鉱石を隔てている場所で、ベルギーに有利となるよう、国境を修正すること。
三、ルクセンブルクの住民に、モーゼル川への自由な出入りと、自由な航行を認めること。
[313] この条約は、ルシュールの『年鑑』、またはマルテンスの『条約集』を参照。
[314] 三五〇ページ参照。
[315] バティスト=オノレ=レイモン・カプフィーグ。一八〇一年、マルセイユ生まれ。新聞記者、政治評論家。王政復古期に、多くの新聞、特に、マルティニャック内閣を擁護する『メサジェ・デ・シャンブル』に寄稿した。また、多くの歴史書でも名を知られた。初めの頃は、普通、「ある政治家」という筆名を用いていた。一八七二年に死去した。
[316] ジャン=アレクサンドル・ビュション。新聞記者、政治評論家。王政復古期には、『サンスール・ユーロペアン』と『コンスティテュショネル』に書いた。歴史にも取り組み、四十七巻からなる『フランス国民年代記』を刊行した。
[317] 十月二十九日、ブリストルで、流血を伴う暴動が起こった。改革法案に特に強く反対した、庶民院議員サー・チャールズ・ウェザレルが、この町に到着したことが、きっかけだった。二日間、町は暴徒に支配され、公共建築の大半が焼かれた。
[318] 三十六人の新しい貴族院議員を任じた、十一月二十日の勅令を指す。この勅令の目的は、上院の多数派を変え、代議院で可決された、貴族院議員の世襲を廃止する法案に、賛成させることだった。実際、続く十二月二十七日、貴族院は、三十三票の差で、世襲に反対した。
[319] 十一月二十一日、絹の価格の下落によって、リヨンで蜂起が起こった。この運動には、政治的な性格はなかった。二日間の戦闘の後、軍は都市から撤退しなければならなかった。再び入るには、スールト元帥とオルレアン公が指揮する、三万二千人の軍を、待たなければならなかった。
[320] マンチェスターで、ブリストルのような事件が繰り返されるのではないかと、懸念されていた。
[321] 十二月十四日付のこの覚書は、スヘルデ川の水先案内、航路標識、取締りを、共同で監督することに抗議している。この川の、オランダ領内を流れる区間は、オランダの所有物だと主張し、スヘルデ川とライン川の間の水路の航行に、ベルギー人が参加することにも、反対している。
[322] ベルギー政府は、九月八日、次の約束に署名していた。「ベルギー国王陛下は、下記署名者である外務大臣に、ラトゥール=モブール侯爵を通じ、フランス政府へ、次のことを伝える権限を与えた。陛下は、一八三一年四月十七日の議定書に定めた原則に従い、一八一五年以来、ネーデルラント王国に建てられた、シャルルロワ、モンス、トゥルネー、アト、メナンの要塞を、速やかに解体する措置を取ることに同意し、その実行に取り組んでいる。その措置は、建設費の一部を負担した四大国と、協調して行う」。
ところが、この要塞の問題について、ロンドンで進められた交渉の中で、ベルギー全権代表のゴブレ将軍は、会議がトゥルネーとシャルルロワの解体を認めたがらないのを見て、はるかに重要性の低い、フィリップヴィルとマリアンブールへの置き換えを、認めてしまった。フランス内閣は、九月八日にベルギー政府が行った、正式な約束を根拠に、強く抗議した。レオポルド国王は、それに対し、この協定は、確定した約束ではなく、何の拘束力もない、単なる予備的な取り決めだと、答えた。フランスは、既成事実を受け入れるほかなかった。ベルギーと四大国の間の、十二月十四日の協定は、この置き換えを正式に認めた。以下のページで、この交渉の続きを述べる。また、この重要な要塞の問題については、ゴブレ将軍の『一八三一年、ロンドンでの任務』を参照。
[323] アバディーン卿は、この時すでに、二十四か条の条約と、十二月十四日の協定に反対する動議を、貴族院に提出しようと考えていた。しかし、支持を約束したウェリントン公が体調を崩したため、クリスマス休暇の後まで、動議を延期した(十二月十六日の会議)。提出されたのは、一月二十六日だった。グレイ卿は、内閣の政策をうまく擁護し、貴族院は百三十二票対九十五票で、卿を支持した。
[324] 十二月十四日の協定から、問題が最終的に決着するまでの、要塞をめぐる交渉の各段階をまとめ、この説明を補うのも、無駄ではないだろう。実際、この協定は、議論を終えるどころか、再び活発にした。以下の書簡から、議論の紆余曲折を知ることができるが、あらかじめ大筋を知らなければ、その流れを追うのは難しいだろう。
フランス内閣は、二つの理由から、十二月十四日の協定に不満だった。第一に、フィリップヴィルとマリアンブールの代わりに、シャルルロワとトゥルネーを解体させたかった。第二の、より重要な理由は、第一条の文言によると、大国が「解体する要塞について、現在と将来の、ある種の監督権」を、自分たちに与えたように見えることだった。しかも、フランスは、この協定から除外されていた。すでに見たとおり、協定は、四大国とベルギーの間だけで、署名されていた。
タレーラン氏は、この二点について、協定を変更する同意を、大国から得るよう命じられた。テュイルリーの内閣は、フランスが満足するまで、十一月十五日の条約の批准を待たせるとも、付け加えた。タレーラン氏は、この問題で、内閣とは意見が違っていた。副次的なことだと、自分では考える細部のために、それまでの仕事のすべてが危うくなるのを、恐れた。そのため、フィリップヴィルとマリアンブールの議論を延期する案を出し、時間を稼ごうとした(三八八ページ参照)。しかし、迅速で率直な解決を求めるパリでは、この回り道は、あまり歓迎されなかった。何度も先延ばしをした後、一月二十三日になって、ようやくタレーラン氏は、四〇七ページに再録した宣言を、大国から得て、議論を終わらせた。しかし、フィリップヴィルとマリアンブールの問題では、フランス内閣の要求は、認められなかった。
[325] フィリップヴィルとマリアンブールの二つの要塞都市は、ピレネー条約(一六五九年)によって、フランスに併合されていた。一八一五年の条約が、フランスからそれらを奪った。
[326] セバスティアニ将軍は、卒中の発作を起こしたばかりだった。この件については、リニー提督からタレーラン氏への書簡を参照。(付録、四九四ページ。)
[327] クロード・ムニエ男爵。一七八四年生まれ。一八〇六年、国務院審議官となり、その後、ザクセン=ワイマールとシレジアの行政官、王室建築の管理官、国務院議員(一八一五年)、フランス貴族院議員(一八一七年)となった。一八二〇年、大臣職を断ったが、地方行政総局長に任命された。七月王政下でも、死去する一八四三年まで、貴族院に在席した。
[328] プロイセン国王が、ロシア皇帝に直接働きかけ、十一月十五日の条約を批准するよう、促すことだった。(バクール氏の注。)
[329] 十二月二十日、ルクセンブルクで、トルカノ男爵に率いられた、オラニエ派の蜂起が起こった。初めは勝利し、ウィレム国王の復位を宣言した。市民衛兵とベルギー軍は、間もなく、この運動を鎮めた。
[330] タレーラン氏は、十二月十四日の協定が、パリで反対に遭っていること、また、大国が、フィリップヴィルとマリアンブールを、トゥルネーとシャルルロワに置き換えるのを拒んでいることから、次の文言を提案していた。「四大国の全権代表は、まず、モンス、アト、メナンの解体を決定し、他の要塞都市の処遇を、後に定める権利を留保した」。フランス内閣は、この解決を認めなかった。それではなお、ベルギーの要塞を、将来、大国が主権者のように処分する権利を、フランスが認めていると、思われかねなかったからである。
[331] カミーユ・ペリエ。帝政期と王政復古期の、元国務院審議官、元県知事。一八二八年から代議士。一八三七年、貴族院議員に任じられた。
[332] テュイルリーの内閣は、大国がベルギーの要塞について、いかなる宗主権も保つつもりはないという、明確な宣言を得たいと望んでいた。この点では、タレーラン氏の要求が認められた。(四〇七ページ参照。)
[333] アバディーン卿は、ベルギーの問題について内閣に質問し、フランスの介入に激しく反対していた。(一月三十日の『デバ』紙参照。)
[334] この件についてのベルリンの内閣の考えは、付録四九五ページの、ブレッソン氏からタレーラン氏への書簡を参照。
[335] ここでタレーラン氏が指すのは、プルーヴェール街の陰謀と呼ばれる事件である。正統王党派の工作員ポンスレが、王室への襲撃を試みるため、二千人から三千人を雇っていた。警察は、二月一日から二日にかけての夜、プルーヴェール街の家で、陰謀の首謀者たちを逮捕し、動きを抑え込んだ。
[336] アレクセイ・フョードロヴィチ・オルロフ。伯爵、後に公爵。一七八六年生まれ。帝政期の戦争で、ロシア軍に仕えた。一八二八年に将軍となった。一八二九年、オスマン政府と、アドリアノープル条約に署名し、一八三〇年、コンスタンティノープル駐在大使に任命された。一八三二年、ハーグとロンドンでの重要な任務を担った。ロシアへ戻ると、イブラヒム・パシャに対抗して、トルコへ送られる軍の指揮を任され、ユンキャル=スケレシ条約に署名した(一八三三年)。その後、国務院議員、秘密警察長官となり、ベルリンとオルミュッツの会議(一八五三年)に参加し、パリ会議(一八五六年)でロシアを代表した。ほどなく、公爵の称号を受け、帝国評議会と閣僚会議の議長に任命された。一八六一年に死去した。
[337] アンコーナ遠征のことである。この都市は、一八三二年二月二十二日に占領された。一八三一年七月、ペリエ氏が、教皇領からのオーストリア軍の撤退を得たことを、思い出していただきたい。しかし、数か月後、教皇領で新しい蜂起が起こった。教皇はオーストリア軍を呼び、軍はすぐに駆けつけた(一八三二年一月)。ペリエ氏は、この事実を、フランスの威厳への侵害と見て、教皇庁を守る栄誉を、フランスもオーストリアと分かち合うことを望んだ。そこから、アンコーナ遠征が生まれた。オーストリアの怒りは激しかったが、何もできず、他国の内閣も動揺した。ポッツォ氏は、オーストリア大使が旅券を求めたら、パリを去るよう命じられた。ロンドンでは、トーリー党の反対派が、激しい非難の声を上げた。しかし、すべて言葉だけに終わった。タレーラン氏は、この件についての国王と内閣の考えを説明した、アデライード王女の書簡にもかかわらず、この遠征を非難した。付録四九六ページ参照。
[338] キュビエール将軍は、フランス軍のアンコーナ占領を、教皇に知らせるため、ローマへ送られていた。教皇は、初め、この強硬措置に非常に憤り、サン=トーレール氏に、強く抗議した。テュイルリーの内閣とローマの教皇庁の間で協定が結ばれ、教皇がフランスの占領を認めたのは、四月十六日になってからだった。
[339] 一八三一年七月にオーストリアの占領が終わったのは、教皇が、仲介者のフランスと、オーストリアに対し、恩赦と自由主義的な改革を約束したためだけだった。
[340] ウィーン駐在のイギリス大使。
[341] モブルイユは、数年前から、すっかり忘れられていたが、タレーラン氏に対する訴訟を起こして、再び注目を集めようとした。三月一日、パリ裁判所で敗訴した。なお、この事件は、全く話題にならなかった。
[342] ドン・ペドロは、ポルトガル遠征に出発したばかりだった。二月十三日にベル=イルを発ち、三月三日、テルセイラに着いた。七月八日、ポルトの前に現れた。
[343] 周知のとおり、イギリス議会の手続きでは、すべての一般法案は、庶民院と、委員会として集まった庶民院で、順に審議されなければならない。ここでいう「委員会」は、法案を審議するため、議院が選ぶ委員の集まりを、全く意味しない。委員会は、議院全体を含む。委員会を開くと決まると、議長は席を離れる。その時から、慣例で認められた建前により、議院の会議は中断し、委員会の会議が始まるのである。
[344] 一八三二年一月三十日付で、ネーデルラントの全権代表が、会議に内密に伝えた条約案。マルテンス、第二十三巻、三四九ページ。
[345] 会議は、一月中に、オットー公子にギリシアの王冠を申し出ていた。父は、公子の名で受け入れ、続く五月七日、バイエルンと、フランス、ロシア、イギリスの間で、この趣旨の最終協定が、ロンドンで署名された。
[346] ザクセンのヨハン公子。一八〇一年生まれ。一八二二年、バイエルンのマクシミリアン国王の娘、アメリー王女と結婚した。一八五四年に王位に上がり、一八七三年に死去した。フランスは、ギリシアの王位の候補として、この公子を推していた。
[347] ヴィルヘルム=ルートヴィヒ=アウグスト、バーデン辺境伯。一七九二年生まれ。ヴュルテンベルクのエリーザベト公女と結婚した。一八五九年に死去した。
[348] シモン・ボリバル。名高い南アメリカの解放者(一七八三〜一八三〇年)。一八一九年、コロンビアとベネズエラの独裁官に任命された。死去する数か月前に、その職を辞していた。
[349] ジュリアン・ウヴラール(一七七〇〜一八四七年)。革命期と帝政期に財を築いた、名高い金融業者。一八三〇年以後、その時代のあらゆる政治的な策略に関わり、オランダ国王、ドン・ミゲル、ドン・カルロスに仕えた。
[350] アンリ・ド・ラ・ロシュジャクラン侯爵。名高いヴァンデの将軍の甥。一八〇五年生まれ。王政復古期にフランス貴族院議員、一八四二年に代議士、帝政下で元老院議員。
[351] この点では、パーマストン卿とタレーラン氏は、完全に同じ歩調で進んでいた。(それを示す三通の書簡は、付録四九六、四九七、四九八ページ参照。)
[352] ガロワ海軍大佐は、アンコーナへ派遣された艦隊を指揮していた。一八三五年、海軍少将となった。
[353] 次に示すのが、かなり決定的な、その宣言である。
「ネーデルラント国王陛下が、王冠の威厳と、なお忠実である臣民の利益の両方にかなう、友好的な取り決めによって、ネーデルラント王国の二つの大きな部分の分離を確立できるよう、皇帝は、あらゆる説得の手段と、すべての和解の道を尽くして助けてきた。しかし、今後は、いかなる支援や援助も与えられないと、認める。
国王が、自らを置いた状況が、どれほど危険であろうと、その孤立が、どのような結果をもたらそうと、皇帝陛下は、言いようのない遺憾の思いを抱きながらも、心の情愛を抑え、この状態から生じうる出来事の責任を、オランダだけに負わせるべきだと、考える。
皇帝陛下は、自らの原則に忠実であり、武力によって、ネーデルラント国王に二十四か条への同意を強いることを目的とする、強制手段には加わらない。しかし、この条項だけが、ベルギーとオランダの分離を実現できる基礎であることを考え……ベルギーが、同条項から得る利益を、現に享受したままでいること、特に、ネーデルラント国王自身も、すでに原則として認めた中立を定める条項の利益を、保つことが、公正で必要だと認める。この原則の当然の帰結として、オランダが敵対行動を再開して、この中立を侵した場合、会議が、中立を保障し、守るために取る、制裁措置に、皇帝陛下は反対することができない……。」
[354] サー・フランシス・バーデット(一七七〇〜一八四四年)。一七九六年、庶民院に入り、ホイッグ党の主要な指導者の一人となった。一八三一年、ウェストミンスターの選挙区を代表し、改革法案を力強く支持した。
[355] 一八三一年末頃、コレラがヨーロッパに広がった。一八三二年一月、ロンドンに到達した。三月二十九日、パリでも報告され、直ちに恐ろしい勢いとなった。四月三日、カジミール・ペリエ氏は、オルレアン公とともにオテル=デュー病院を訪れた後、感染した。六週間、病と戦ったが、ついに五月十六日、命を落とした。
[356] オーストリアの批准には、リンブルフの一部と、ルクセンブルクの一部の交換に関する条項について、ドイツ連邦の権利を留保する条件が、含まれていた。さらに、議定書に入れられた宣言で、オーストリアの全権代表は、二十四か条に、五大国が認める修正を加えた条約を結ぶため、オランダとベルギーの間で、今後交渉する必要があると、していた。
プロイセンの批准は、文言の上では、無条件だった。しかし、ビューロー氏は、口頭でオーストリアの留保に同意した。さらに、自国政府がハーグ政府に、深い共感を寄せていること、また、オランダの立場を改善する、追加条項が、後に条約へ加えられるのを望んでいることを示す宣言を、議定書に入れさせた。
[357] ジュゼッペ・アルバーニ。ローマの同名の名家の出身。ロマーニャの教皇委員で、過度に厳しいやり方で知られていた。召還は、その地方の緊張が緩み、平穏が戻る合図となった。枢機卿は、一八三四年に死去した。
[358] 四月十六日の庶民院の会議で、ブラジル政府がアルゼンチン共和国との戦争中に、イギリスの商船を捕らえたことについて、イギリス臣民の賠償請求をめぐり、議論が起こった。ブラジルは、補償金を約束していたが、一度も支払われていなかった。サー・ロバート・ピールは発言し、すぐに問題を政治の分野へ移した。イギリスがドン・ペドロを支持することに抗議し、ドン・ミゲルをルイ=フィリップと比較した。「彼の権利が、ルイ=フィリップのフランス王冠への権利に劣るというのは、どの点なのか。確かに、正統性の点ではない……」と、述べた。
[359] ブルセ博士、パリの医学部教授(一七七二〜一八三八年)。生理学派の指導者。この学派は、非常に流行した後、全く信用を失っていた。
[360] タレーラン氏は、この日の夜、ヴォーデモン夫人に、別の手紙も書いていた。それも、興味深く読めるだろう。付録四九八ページ参照。
[361] ロシアの批准には、重要な留保があった。ニコライ皇帝は、「オランダとベルギーの最終的な取り決めにおいて、第九、第十二、第十三条に加えられる修正と改正を留保する」という条件でのみ、批准した。ところが、中間水路の航行と債務の分割に関する、これらの条項こそ、ハーグの内閣が承認を拒んでいたものだった。
[362] ジョン・シングルトン・コプリー、リンドハースト男爵。一七七二年生まれ。初め、庶民院議員だった。ウェリントン内閣で、大法官を務めた。一八三〇年、トーリー内閣の倒れる時に辞任し、一八三四年と一八四一年、再びこの職に就いた。一八六三年に死去した。
[363] エドワード・ロー、エレンバラ伯爵。一八一八年、父の跡を継ぎ、貴族院に入り、トーリー党に属した。一八三四年と一八四一年、インド問題局長、一八四一年、インド総督、一八四六年、海軍大臣、一八五八年、インド監督局長を務めた。
[364] アントワーヌ=ウジェーヌ・ジュヌード。一七九二年生まれ。初め、大学の教授だった。その後、王政復古期に、超王党派の政治評論家、新聞記者として名を知られた。一八三〇年以後も、自らが所有者、主な編集者である『ガゼット・ド・フランス』で、正統王政のための戦いを続けた。一八四六年、代議士に選ばれ、一八四九年に死去した。ジュヌード氏は、一八三四年、聖職に入っていた。選挙法の審議の際、『ガゼット・ド・フランス』は、二百フランの納税資格を求める内閣に反対することだけを目的として、普通選挙を要求していた。
[365] 国王は、五月八日、グレイ卿とブルーム卿が求める、六十人の貴族院議員の新設を拒否した。大臣たちの辞任を受け入れる方を選び、ウェリントン公が、新内閣の組閣を任された。しかし、交渉は失敗し、同時に、世論の中に、あらゆる内閣交代への、強い反対が現れた。結局、十日間の危機の後、グレイ卿は辞表を取り下げ、内閣が再び組まれた。
[366] ベリー公妃は、四月二十九日、プロヴァンスの海岸に上陸した。翌日、マルセイユで、蜂起の試みが起こったが、直ちに鎮圧された。公妃は、南部で自らの企てが危うくなったのを見て、ひそかにフランスを横断し、ヴァンデへ向かった。五月十五日頃、サントンジュのダンピエール城に到着した。そこで、六月三日から四日にかけての夜、西部で起こることになる蜂起を準備した。
[367] ベルギー国王のもとで、ルクセンブルク州の知事を務める、上院議員トルン氏は、一八三二年四月十七日、オランダ政府の命令で逮捕されていた。ウィレム国王は、五月七日の通告書で、釈放の条件として、革命以来、ベルギーで逮捕された人々の釈放と、出廷せずにいる被告人へのあらゆる訴追の取り下げを、求めた。トルン氏が釈放されたのは、続く十一月二十三日になってからだった。
[368] 議院は、ロンドン郊外の一地区に、選挙権を与える法案の条項を、可決していた。この条項は、人口の多い都市の代表者を増やすすべての条項と同じく、トーリー党の反対派から、激しい抵抗を受けていた。
[369] フレデリック、ヨーク・オールバニ公。ジョージ三世国王の次男。一七六三年生まれ。プロイセン王太子の娘、フリーデリケ王女と結婚した。一八二七年に死去した。
[370] フランソワ=マリー=シャルル・ド・レミュザ伯爵。一七九七年生まれ。カジミール・ペリエの甥。当時、ミュレ選出の代議士だった。一八三六年、内務省の国務次官、一八四〇年、内務大臣となった。帝政下では、引退して暮らした。一八七一年、外務大臣に任命され、一八七五年に死去した。
[371] ルイ=フィリップ国王は、ベルギー国王と会い、同国王とルイーズ・ドルレアン王女の結婚の、予備的な取り決めを相談するため、コンピエーニュへ向かっていた。(バクール氏の注。)
[372] 会議は、五月四日、最終条約に署名するため、直ちに交渉を始めるよう、ベルギーとオランダに求める議定書に、署名していた。レオポルド国王は、この要請に、五月十一日付の通告書で答えた。十一月十五日の条約の実施が始まらなければ、交渉には応じないと、述べていた。ベルギー領、特にアントウェルペンからの撤退と、マース川の自由な航行を、要求した。秘密が漏れ、会議へ正式に渡される前に、この通告書が新聞に載ったため、ベルギー内閣は、別の通告書に署名し、ゴブレ将軍が、六月初めにロンドンへ持参した。それは、五月十一日の最初の通告書を、断定的な言葉で繰り返すものだった。オランダ政府も、五月七日付の通告書で、会議へ答えた。そこでは、「五大国の全権代表が、十一月十五日の条約を、ベルギーの分離、独立、領有状態の、変えることのできない基礎と見なしていることを、限りない遺憾の思いで見ている。一方、我が国は、この条約が、一八三一年一月二十七日の議定書に、本質的に反するものと、一貫して考えなければならない」と、述べていた。
[373] ナポレオン=エクトル・スールト。ダルマティア侯、のちにダルマティア公。スールト元帥の息子。一八〇一年に生まれ、軍に入り、砲兵大尉となったが、一八三〇年に退役して外交官となった。その後、ストックホルム(一八三一年)、ハーグ(一八三二年)、トリノ、ベルリンに順次派遣された。一八一三年に代議士に選ばれた。一八五七年に死去した。[訳注11]
[374] ベリー公妃が、当時、ヴァンデにいたことは、知られている。
[375] ラマルク将軍の葬儀の後、パリで、恐ろしい暴動が起こった。六月五日に始まり、六日の昼頃まで続いた。この二日間は、歴史上、「六月の事件」と呼ばれている。(バクール氏の注。)
[376] この議定書は、新しい提案を含む、オランダ全権代表から会議への通告書に答え、五月三十一日に作られた。
会議は、この議定書で、「この通告書の提案は、二か月以上前、ハーグのオルロフ伯爵に送られ、伯爵の去る三月二十七日の宣言を引き出した提案と、何も異ならない」と、述べていた。
したがって、会議には、同通告書を考慮する理由はなく、「残されているのは、事態の重大さが求める決議に、取り組むことである」とした。
[377] 実際、会議は、六月十一日の第六十五号議定書によって、ネーデルラント国王との交渉を再開していた。そこには、会議がネーデルラントに認められると考える、譲歩が含まれていた。六月三十日、オランダの全権代表は答えたが、その返答でも、まだ争いは終わらなかった。これらの文書はすべて、マルテンスの条約集の第二十三巻、四一五ページ以降にある。
[378] ベルギー臣民のトルン氏は、オランダ当局によって、ルクセンブルクの要塞都市で逮捕されていた。その領土は、オランダ国王のものだったが、要塞は、連邦の要塞だった。(バクール氏の注。)
[379] 六月十九日付で、フランスとイギリスの全権代表から、オーストリア、プロイセン、ロシアの全権代表へ送られた、三通同文の通告書。
この通告書は、次のように述べていた。フランスとイギリスの全権代表が、ネーデルラント国王との新しい交渉に応じたのは、五大国の行動の統一を、壊さないためだけだった。この新しい交渉の結果、十一月十五日の条約の実施は、停止している。三大国の全権代表が、訓令を欠くため、この停止に期限を設けられなかったのは、遺憾である。しかし、下記署名者は、三大国の全権代表に、この停止を無期限とは見なせないと、知らせる必要があると考える。八月三十一日に、ベルギー国王が、十一月十五日の条約の実施を要求した場合、両国政府は、その要求に応じることを、拒めない。
[380] 六ページ、一二ページ、一六ページ参照。
[381] 八ページ参照。
[382] 一一ページ参照。
[383] 一四ページ参照。
[384] 当時、タレーラン氏とフランス内閣の間にあり、ブレッソン氏が、その影響を受けていた意見の不一致については、五四ページ参照。一方、ポンソンビー卿も、オラニエ公に有利な訓令を受けていた。
[385] 二二ページ参照。
[386] この書簡は、オラニエ公が、ベルギーで自分の側に忠実だと考える人々へ、書いたものである。(タレーラン公の注。)
[387] 二八ページ参照。
[388] エティエンヌ・メジャン伯爵。一七六六年生まれ。革命期に、弁護士、次いで新聞記者を務めた。ブリュメール十八日に、セーヌ県庁の事務総長となった。その後、ウジェーヌ公に従ってイタリアへ行き、公の命令を扱う秘書、次いで国務院議員となった。一八一六年、公から、子どもたちの養育係に選ばれた。一八四六年に死去した。
[389] 三一ページ参照。
[390] 一九ページ参照。
[391] ベルギーの中立を保障し、テュイルリーで、非常に好意的に受け止められた、一月二十日の議定書。
[392] 一月二十七日の会議。モーガン氏は、ポーランドの問題に対する政府の姿勢について、セバスティアニ将軍に質問していた。
[393] ヴァン・ド・ヴェイエル氏は、間違っていた。八日後の二月七日、ロンドン会議は、ロイヒテンベルク公を除外する議定書に、署名したからである。
[394] 六九ページ参照。
[395] ブレッソン氏は、ロンドンへ戻らなかった。フランスでの短い滞在の後、ベルリンへ派遣され、数か月後、正式に駐在公使となった。
[396] 九八ページ参照。
[397] サー・R・ゴードンは、アバディーン卿の兄弟で、オスマン政府に駐在する、イギリス大使だった。
[398] 一五三ページ参照。コンスタンティノープル駐在フランス大使、ギユミノ将軍が、この外交報告で扱われる一件の後、召還されたことを、思い出していただきたい。
[399] 二三〇ページ参照。
[400] 二四四ページ参照。
[401] アレクサンドル・ローデンバッハ。一七八六年生まれ。ベルギーの政治家、文学者。ウィレム国王の治世に、自由派の新聞記者として名を知られていた。そのため、一八三〇年、代議士に選ばれた。一八六六年まで議院に在席し、一八六九年に死去した。ローデンバッハ氏は、十一歳から目が見えなかった。
[402] 国民会議の議員。会議で、最も血気盛んな議員の一人。
[403] 二四八ページ参照。
[404] 三七二ページ参照。
[405] 四一二ページ参照。
[406] 四一七ページ参照。
[407] 四三二ページ参照。
[408] 四三二ページ参照。
[409] 四三二ページ参照。
[410] 四四六ページ参照。
電子本文は議定書を第四十二号と記しますが、一八九一年刊本四十四頁は第十二号と印刷しています。ここでは電子本文の番号を残し、刊本との違いを示しました。
投票者一九一人、得票八九・六七・三五票、必要な過半数一〇一票という数字は、一八九一年刊本四十五頁にもあります。投票者数と過半数の記載が一致しないため、数字を推測で直さず残しました。
直前には三月十九日の書簡が示されますが、ここで「前日」に書いたと述べる次の書簡は、三月二十八日付です。一八九一年刊本百十二頁にも「前日」と二十八日の両方があるため、相対日付と書簡の日付をそれぞれ原著どおり残しました。
電子本文では membres の直前に星印がありますが、一八九一年刊本百五十五〜百五十六頁の該当箇所にはありません。訳では刊本に従って星印を付していません。
電子本文の日付は「火曜日、九月十日」ですが、一八九一年刊本三百四頁は「火曜日、九月二十日」と印刷しています。訳文の日付は刊本に従いました。前段の十九日付の手紙を翌日再開したという記述にも対応します。
電子本文の人名は Lord Rolland ですが、一八九一年刊本三百十四頁は Lord Holland と印刷しています。人名は刊本に従い、「ホランド卿」としました。
電子本文では、ブルセの名の後に注番号三五九が二重にあります。一八九一年刊本四百四十六頁の呼出番号は一つで、同頁下のブルセを説明する原注に対応します。訳文の注への参照は刊本に従って一つにしました。
電子本文では生年の後に「$1」がありますが、一八九一年刊本十五頁の原注は「1811.」と印刷しています。訳では刊本の句点に従いました。
電子本文は「on France」と記しますが、一八九一年刊本十五頁は「en France」と印刷しています。訳は刊本の「フランスで」という読みを採りました。
この原注の「一八〇七年」「シャルル・ナポレオン」「フォルリ」は、一八九一年刊本百七十九頁にもあります。一方、原注一〇二は一八三一年の蜂起とフォルリでの兄の病死を述べ、同じ百七十九頁の本文は長男を失った場所をフィレンツェと記します。刊本の中にも記述の食い違いがあるため、年号・人名・地名を推測で直さず、それぞれの記載を残しました。
この原注は、スールトの生年を一八〇一年、外交官としてストックホルムとハーグに派遣された年を一八三一年と一八三二年、その後の代議士当選を一八一三年と記します。一八九一年刊本四百六十三頁にも「1813」と印刷されているため、前後の年代と合わない当選年を推測で直さず残しました。
一八三二年二月七日は火曜日、六月七日は木曜日ですが、一八九一年刊本四百十五頁は「二月七日、月曜日」、四百七十頁は「六月七日、金曜日」と印刷しています。日付と曜日のどちらが誤りかは確定できないため、両方を原著どおり残しました。
第四巻の目次
第十部(続き)
一八三〇年の革命(続き) 三ページ
付録 四八一ページ
パリ、シェ印刷所、ベルジェール街二〇番地。14876-10-91。
電子版の翻刻者注。植字工によることが明らかな誤りは修正した。原著の綴りは保ち、統一していない。この電子書籍では、白紙のページの番号は再録していない。