歴史 / Charles-Maurice de Talleyrand-Périgordタレーラン公回想録 第五巻Mémoires du prince de Talleyrand. V.
歴史 / Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord
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原著・底本
- 原題
- Mémoires du prince de Talleyrand. V.
- 著者
- Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord
- 底本
- Paris, Calmann Lévy, 1892, Volume V
- 編者
- ブロイ公
- 編者
- バクール氏
- 出典・参照
- 原典の利用条件
- パブリックドメイン(米国)
Project Gutenberg 利用条件 - 収録範囲
- 1892年版第五巻の編者のことば、第十一部・第十二部、付録、ショワズール公論、全五巻の人物索引、原注406件、巻末目次・刊記、図版2点。原著の年月日や人名表記の不一致は原文に従って保持しています。
日本語訳
表紙
- 画像
- 収録挿絵
- 利用条件
- パブリックドメイン(米国)
1892年版の収録肖像を表紙として使用しています。
追加日: 2026-10-12 / 更新日: 2026-10-12
1892年版第五巻の編者のことば、第十一部・第十二部、付録、ショワズール公論、全五巻の人物索引、原注406件、巻末目次・刊記、図版2点。原著の年月日や人名表記の不一致は原文に従って保持しています。
タレーラン公回想録
アカデミー・フランセーズ会員、ブロイ公による序文と注を付して刊行
第五巻
パリ カルマン・レヴィ出版 オベール通り三番地、イタリアン大通り十五番地 ヌーヴェル書店

一八九二年
スウェーデン、ノルウェーを含むすべての国において、複製権と翻訳権を留保する。
タレーラン公回想録

タレーラン公 一八三八年(アリ・シェフェールの作品による)。
編者のことば
タレーラン公の『回想録』は、この第五巻、最終巻をもって刊行を終える。公爵の遺言執行者たちは、自ら選んだ代理人にその刊行を委ねていた。編者は、いま印刷された本文の元となった手稿の各巻を国立図書館長へ引き渡し、かねての約束を果たす。印刷本文は手稿を正確に再現したものである。したがって、私たちが預かった資料に、いかなる変更も削除も加えていないことは、容易に確かめられるだろう。
もっとも、このように公衆の閲覧に供される手稿は、本人の自筆ではなく、遺言執行者が真正であると証明した写しである。この確認は、編者が細心の注意をもって誠実に仕事をしたことを示すには十分でも、ほかの証言がなければ、『回想録』そのものの性格をめぐって起きた論争に、それだけで決着をつけることはできない。しかし幸い、この論争をきっかけに行われた検討によって、疑いはすでにすべて解消されている。
実際、タレーランの『回想録』が真正かどうかという問題は、新聞や雑誌で徹底的に論じられた。そして、すぐれた批評家や、最も確かな権威を認められる識者たちによって、本人の著作であることが明白なまでに立証された。ソレル氏は『ル・タン』で、シュケ氏は『ルヴュ・クリティック』で、ギュスターヴ・モノー氏とファルジュ氏は『ルヴュ・イストリック』で、近現代史に関わるあらゆる文書を比較研究してきた専門家として、その判断を示した。同じ判断を裏づけるため、ピエール・ベルトラン氏は『ルヴュ・アンシクロペディック』に、タレーラン公が文章をまとめる際の方法について、興味深い詳しい説明を寄せた。公爵の未刊書簡をいくつか刊行した際に、自ら確かめることのできた事柄である。
それゆえ、すでに論じ尽くされたと思われるこの問題を、私が今日あらためて取り上げるのは、これほど決定的な立証に何かを付け加えるためではない。論争の経過を追うことができず、いま全巻を手にするこの著作の本当の価値を知りたいという読者に、その立証をあらためて示し、要点をまとめるためにすぎない。
何が争われ、争点がどの範囲に限られていたのかは、少し述べれば足りる。タレーランの『回想録』を、わが国の文学に数多く見られる偽作と同列に扱おうとした者はいない。そうした偽作は、職業作家が一から作り上げ、ある著名人の名を冠して世に出す、実質的には歴史小説である。資料の出所が確かであること、また、ところどころに並外れた精神の刻印がはっきりと認められることから、この種の想像が入り込む余地はなかった。主張されたのは、元の本文が切り刻まれ、書き直され、原形を見分けられないほど改変された末に、ようやく公表されたということだけである。その根拠として、公爵の公私の生涯の記述に、後から別人の手で削った結果と思われる欠落や、事実・人名の取り違えがあると指摘された。本人が直接関わった出来事や、じかに知っていた同時代の敵や友人に関する誤りなのだから、著者自身が見逃すはずはないというのである。この見方では、自筆手稿が残っていないのは、書き写した者たちが、あえて加えた改変の跡を消そうと決めていたためだということになる。
確かに、著者の伝記にとうに取り上げられてきた生涯の出来事が、すべて同じ詳しさ、同じ重みで『回想録』に記されているわけではない。この点は認めなければならない。タレーランの政治家としての出発、憲法制定議会で果たした役割、当時の舞台を占めた著名人たちとの関係、革命の最初の時期に担った任務や公職については、記述がきわめて足早で、あまり立ち入っていない。単に分量を比べても、若い時代の数年に充てられたわずかな章と、一八一四年、一八三〇年の大交渉を漏れなく詳しく説明するために割かれた長い記述との間には、大きな隔たりがある。だが、この違いに驚くどころか、むしろ予想して当然であり、私たちにはごく自然なことにしか見えない。ほぼ一世紀に及ぶ生涯を通じ、ヨーロッパとフランスがこの動乱の時代に経験したあらゆる盛衰に関わったタレーランは、自分の周りで世界の姿が変わるのを、まさしく目の当たりにした。これほど長い経験と、繰り返される失望のため、同じ世代の多くの人々と同様、かつて同時代の最も分別ある人々の多くと共有した気持ちや考え方を、自分の中にほとんど見いだせなくなっていても不思議ではない。大きく力を尽くした王政復古の直後、筆を執ったときのタレーラン公は、ヨーロッパが一堂に会したウィーンで正統王朝を代表したばかりだった。その彼と、憲法制定議会の左派席に座っていたペリゴール師との間には、共通する考えも特徴も、もはやほとんど残っていなかった。遠い過去を振り返っても、ほぼ消えかけたその姿を、自分自身のものと認めるのは難しかったはずである。彼は多くを学び、おそらく少しは忘れもした。希望と幻想、嵐のさなかに支持した多くの決定は、抵抗しきれずに流された結果とまでは思わないにせよ、やむなく受け入れたものと映ったに違いない。自らの歴史のこのページを急いでめくり、つい先ほど祖国のために果たした大きな功績が記されたページへ進もうとするのは、当然ではないか。自身もその記憶を失いかけていたかもしれず、いずれにせよ呼び起こしたいとは思わなかった印象を、後世のために満足げに描き直すことに、どうして長々と時間を費やしただろうか。
タレーランほど、その時代の政治に大きな影響を及ぼした人物は、普通の語り手のように、若い日の思い出をたどって老年の余暇を楽しむことだけを目的に、文章を書き始めるものではない。絶えず念頭にあるのは、託された利益に奉仕するため、どれほど努力したか、そして自ら得たと誇る成果が何かを、正当に評価してもらうことである。その観点からすれば、一七八九年はタレーラン氏に、実を結ばずに終わった活動しか思い出させなかった。一八一四年と一八三〇年に果たした役割の、疑いのない偉大さと有益さに心を向けるほうを好んだとしても、驚くことだろうか。また、自分の世紀にこれほど大きな位置を占めた人間が、数多くの非難や批判を受けずに済むはずもない。そうなると回想録の目的は、知られていない事実を明かすことではなく、歴史の法廷で審理されるべき裁判の証拠を整えることになる。歴史の側も、そこに求めるのは新しい情報というより、自ら下すべき判断のための材料なのである。
今日ようやく全容が知られた『回想録』から実際に受ける印象と、人々がタレーランの『回想録』についておおむね抱いていた想像とは、まったく違っていたことは、私もよく承知している。遺言執行者たちが、早すぎる公表を防ぐため、過剰だったかもしれないほどの用心をした。そのため人々は、これほど長く秘密が守られたのは、扱う事実が微妙で謎めいているからに違いないと、進んで想像した。ひとたび覆いが取り払われれば、刺激的な暴露や、風刺を利かせた人物評、意地悪な逸話が現れるだろう。もしかすると、旧体制の社交好きな聖職者たちに、風紀の緩みがどのような楽しみを許したかという内輪話さえ出てくるかもしれない、と。扱われる主題によくふさわしい重々しい語り口は、この軽薄な好奇心を当惑させた。そして、その好奇心を満たせるものは、すべて意図的に削られたのだと疑うまでには、一歩しかなかった。しかしタレーラン氏本人を知る必要はなく、彼の身近にいた人々と暮らしただけでも、そのような想像を抱かずに済み、したがって、そのような幻想を捨てる必要もなかったはずである。彼に向けられたあらゆる非難のうち、気配りや趣味のよさを欠くという非難だけは、おそらく浴びせられなかったと思い出すだけでも十分だった。真面目な著述家が、彼の『回想録』にその種の面白さを求め、見つからないことに驚いたのだとすれば、それは判断力の欠如を示すもので、歴史家と名乗る資格を失わせる。
原資料に基づいて歴史を書くことに、少しでも慣れている人が、タレーランの『回想録』で指摘された年代や人名のいくつかの誤りを、本当に重大視できるのか。それも理解しがたい。それを偽作の印と見るのではなく、世の中で最もありふれたこと、すなわち、さまざまな境遇をくぐった長い生涯の末に避けられない記憶の衰えと認めるべきである。私はあえて断言する。知られている回想録は、真正であることにほとんど疑いのないものさえ含め、どれもこれより重大な誤りを含み、虫眼鏡で調べれば、検証に耐える程度はさらに低い。この点では、さまざまな事情のもとで得た私自身の経験を挙げることができる。
たとえば私は仕事の過程で、十八世紀に大臣、将軍、大使として重要な役割を果たした人々の残した回想録を、詳しく研究する機会を得た。ベル=イル元帥やダルジャンソン侯爵などが、その例である。その後、回想録の記述と、彼らが任にあったころに書いた往復書簡を比較すると、引退してから振り返った事実の細部と、その出来事の直後に書いた手紙に見られる細部との間に、食い違いや、見かけ上は両立しない矛盾さえ、何度も見つかった。偶然一度見つかったというのではなく、至るところで見つかったのである。そうした違いの多くは、確かに、ある非難に対して自己を弁護したい、ある功績の価値を大きくしたいという願いから生じたのだろう。しかし、意図しない物忘れや混同でしか説明できないものもある。
さらに、わが国の近現代史で大きな位置を占めた二人の政治家が、そのうち一人はすでに亡くなっているが、未刊の回想の全部、または一部を、親切にも私に見せてくださった。私は、彼らが主要な当事者として関わった出来事の記述に、不正確な箇所があると指摘させてもらった。確かに害も悪意もない誤りだったが、タレーランの『回想録』について非難されている誤りより、はるかに大きなものだった。二人とも、私が一言指摘しただけで、すぐにその誤りを認め、直してくださった。
付け加えるなら、私自身、父の『回想』を刊行する役目を担った際に、父の証言そのものから、いかに良心的な人でも、長い年月の後に文章を書くときには、自分の記憶の確かさを疑い、記憶に裏切られないよう用心しなければならないかを、確かめることができた。
よく知られているように、父の政治家としての生涯の最初の行動であり、また最も父らしい行動の一つは、一八一五年、ネイ元帥の裁判において貴族院に出席すると決めたことである。審議に加わるための法定年齢にはまだ達しておらず、ようやくその年齢に達するのは、判決が下る当日だった。私は、父が初めて出席した会議の詳しい様子を、何度聞かされたことだろう。目の前に広がる光景の重大さと、初めて経験するものであったことから、その印象は消えない線を刻むように、父の心に残っていたはずである。父によれば、その日の議論は、この裁判でおそらく最も重要な問題、パリの降伏協定によって反乱者に約束された恩赦を、元帥にも適用するかどうかという問題の決定だった。だから、『回想』の中に同じ詳しい記述を見つけながら、そこに次のような留保が添えられていたとき、私はどれほど驚いたことか。
「十二月四日」
と父は書いている。
「私は出席した。午前十一時、すでに会議が始まっていた審議室に入った。審議室とは、貴族院が傍聴人のいないところで審議する部屋のことで、それは絵画の展示室だった。知っている議員たちがどこに座っていたか、自分が最後列のどの席に着いたか、いまもありありと見える。不思議でならないが、求められたなら私は、この日の議題が、ネイ元帥にパリの降伏協定を根拠とする弁護を認めるかどうかという問題だったと、宣誓してもよい。周知のとおり、この点で被告人の口を封じたことは、貴族院の過ち、大きな過ちであり、ほとんど罪と言ってもよい。モレ氏が一方の立場から話し、ランジュイネとポルシェ・ド・リシュブールが、その反対の立場から話す声が聞こえる。この会議は、私の生涯の画期となった。いったいなぜ、私は間違えているのか。しかし、間違いだと認めるほかない。議事録では、この会議は裁判の初日ではなく、弁論が終わった最終日に置かれているからだ。それでも、自分の誤りを認めながら、従うのは私の理性だけで、記憶は頑として譲らない。ここでもう一度言う。私は議事録に反して宣誓できるだろう。」
では、この語り手が貴族院の議事録を調べることができず、覚えているままに回想を書き留めたとしよう。この日付の誤りだけで、著者の誠実さや、本文の真正さを疑うことができるだろうか[1]。
最後に、公人の身分を取り違えただけで文章の誠実さを疑ってよいのなら、私たちが持っている少数のタレーラン氏自身の自筆書簡に、『回想録』で指摘されたものよりも大きな、この種の間違いが見つかることを、どう説明するのだろうか。たとえば、アレクサンドル皇帝に話す際、確かにきわめて名高い家門ではあるが、プロイセン王家とはずっと遠い親族関係しかない家の当主を、フリードリヒ・ヴィルヘルム国王の義兄弟と呼んだのは、どう説明するのか[2]。そして二日後、その誤りを直すどころか、ルイ十八世に会談を報告するときにも、同じ間違いを繰り返したことをどう説明するのか。君主たちと暮らし、語り合い、自分に関わることを取り違えられるのを彼らがどれほど嫌うか知っている廷臣、外交官にとって、それは確かに、一七九六年の総裁カルノーに、一八一三年に初めて授けられた将軍の階級を付けて呼ぶより、はるかに大きな不正確さ、あるいは不手際だった。
したがって、このような細かな事柄に関する避けがたい誤りを利用して、『回想録』全体に寄せるべき信頼を損なおうとしても、無駄である。残るのは、遺言執行者たちが残した手稿が、なぜ自筆の本文ではなく、真正と証明された写しなのかという説明である。答えはきわめて簡単だ。そのような自筆の本文は、少なくとも人々が想像するような形では、おそらく一度も彼らの手に渡っていない。そしてタレーラン氏の習慣を知っていた彼ら自身は、それを少しも不思議に思わなかったのである。
実際、タレーラン氏の身近で暮らした人々は皆、筆を動かす作業が彼を疲れさせることを知っていた。自筆で書いたのは、親しい相手への手紙、または、相手への敬意から、秘書の筆を通すべきでないと考えた手紙だけだった。もっと長い文章は口述した。口述が済むと読み直し、表現が自分の考えによりよく合うよう訂正を加える。そして、そうして見直した文書をもう一度書き写させ、自分の書類の中に整理した。ときには、思いつくままにいくつかの考えを紙に走り書きし、そのばらばらの断片をつなぐ仕事を秘書に任せた。また、その協力者の理解力と手腕を全面的に信頼している場合には、伝えたい考えの中身を知らせるだけにとどめ、文章の形を直して力強く優雅にする仕事は、自分の役目として残した。バクール氏が預かったのは、このように準備された文章だった。おそらくそのどれも、著者本人の自筆ではなかった。そしてバクール氏は、それをあらためて書き写しても、文章の性格を少しも変えず、まして、その正確さや真正さを保証するものを失わせることはないと考えた。実際、この最初の文章を目の前に置けたとして、何が得られるだろうか。私は「元の文章」とは言っても、「原本」とは決して言っていないことに注意してほしい。それも、私たちが受け取ったものと同様の写しなのである。違うのは、同じ人の筆跡で冊子にまとめられている代わりに、筆跡の異なるかもしれない、ばらばらの帳面であるということだけだ。削除や書き込みは同じように起こり得るし、同じように疑われやすい。結局、それを信用するには、遺言執行者たち、とりわけ最後まで生き残ったバクール氏の誠実さを信じるほかないのである[3]。
私は、バクール氏を知る人々の一致した評価に反することも恐れず、まさにその誠実さが、ためらいなく疑われたことを知っている。その際に引き合いに出されたのは、タレーラン氏がバクール氏に示した信頼が、彼に寄せられた初めての同種の信頼ではなかったということだった。何年も前に刊行された、ミラボーとルイ十六世の宮廷との関係に関する重要文書集にも、すでに彼の名が掲げられている。その関係の仲立ちをしたのは、後にアーレンベルク公となったラ・マルク伯爵だった。ラ・マルク氏は亡くなる際、一般に誤解されていると彼が考えたミラボーの秘密の関係の性格を、正しく明らかにするため、この文書を公表するようバクール氏に委ねた。そしてバクール氏は、その委託を果たすにあたり、十分に慎重でなかったと非難されている。跡をたどれる文書のうち、いくつかは削除され、闇に置かれたはずだというのである。そこから、タレーランの『回想録』の刊行でも、バクール氏は同じような選別を行ったのだと結論づけられている。指摘された事実が仮に本当だったとしても、それをここで論じる必要はないが、似ても似つかない二つの状況を同一視して、どのような結論を正当に引き出せるのか、私にはわからない。ラ・マルク氏は、日付も出所も異なる大量の書類を集めていた。ミラボー本人が書いた手紙や覚書も、彼に宛てられたものも、彼の死後に書かれたものもあった。そのやや入り組んだ資料全体から、自分が相談相手であり友人でもあった、この偉大な人物を擁護する材料を引き出そうとしたのである。しかし、その目的を達成し、望む効果を生むため、あるいは単に資料の並びにいくらか秩序と明晰さを与え、意味と重要性を読者に理解してもらうためだけでも、整理が、したがって取捨選択が必要だった。ラ・マルク氏はその仕事に取り組んだが、健康が衰えて最後まで進められなくなった。そのため、自分の考えと意図を知るバクール氏に、それに沿って仕上げる役目を託した。代理人がどのように委託を果たしたとしても、それは与えられた権限を行使したのであり、何より、誰も欺いていない。遺言で渡すものを、区別なくすべて公表せよと、ラ・マルク氏が命じた形跡は、どこにもないからだ。またバクール氏自身も、手元にあったものをすべて手放したなどとは、どこにも主張していない。最後に、今回の問題ではこれが最も重要だが、バクール氏が自分の文章を他人の名と権威の陰に隠して通用させるつもりで、印刷に回した文書のどれかを自ら捏造したなどとは、誰も言っておらず、疑ってさえいないのである[4]。
ところが、いまバクール氏に向けられている嫌疑を認めるなら、彼の記憶に与える損害、いや侮辱は、それとはまったく違い、はるかに深刻なものになる。知られているとおり、タレーランの『回想録』の手稿は、どの巻にも最後のページに、内容が真正で完全であるという、バクール氏自身の署名入りの証明がある。では、容易には理解しがたい良心の理屈によって、名誉ある人物が、自ら改変し、切り刻んだ資料集の完全さを証明してよいと考えたと、仮に認めよう。しかし、削除や改変を済ませた後、語りのつながりと筋道に生じた、あまりに目立つ断絶を隠すには、筆を執り、空所を埋め、途切れたつなぎを直す必要があったはずだ。ひと言でいえば、一人称で話す著者に、芝居の登場人物のように、実際には口にしなかった言葉を語らせなければならない。バクール氏を批判する人々は、この仮説をためらわずに唱えた。いくつかの章の全体に、タレーランの優雅で繊細な筆致が認められないとさえ言い、それを書いたのは、彼の名を盾にした人物だと、平然と断定している。ここには、どんな言い逃れの余地もない。もし本当なら、それは紛れもない偽造であり、情状酌量の余地のない虚偽である。
それなら、バクール氏のそばで暮らしたすべての人々による、一致した証言と憤った抗議を、どうして無視できるだろうか。彼らは一人残らず、彼の人柄の最も際立つ特徴は、細心の慎重さにまで達する繊細さだったと証言している。また、彼が敬愛する主人に寄せた賞賛は、深く、ほとんど崇拝に近かった。そのため、主人の代わりを務め、その名で話すという考えは、あまりに思い上がったことで、彼の頭をよぎるはずもなかった。読者が一瞬でもだまされるなどとは、彼も思わなかっただろう。
したがって、結論は確かである。タレーランの『回想録』は、わが国の文学が誇る豊かな歴史回想の集成の中で、高い位置を占めてよい。そして、手稿が一つも知られていないのに、今日では誰も真正さを疑わないリシュリューの『回想録』や、原稿が残っていないセヴィニェ夫人の書簡の四分の三と、同じだけの信頼をもって読むことができる。
ブロイ公。
第十一部 一八三〇年の革命(続き) 一八三二〜一八三三年
一八三〇年の革命(続き) 一八三二〜一八三三年
私は一八三二年十月初めにロンドンへ戻った。その地で大使を務めた間の出来事を、ふたたび語り始める前に、私の不在中に起きたいくつかのことを振り返っておきたい。
六月にパリへ着くと、カジミール・ペリエ氏の死後、フランスの内閣はひどく弱体化していた。人員を補うことも、多少なりとも堅固な基盤の上で力を取り戻すこともできずにいた。大臣の席をめぐって、あらゆる種類の策謀が入り乱れていた。少数の者の野心よりも、誰もが抱く思い上がりのほうが、いっそう厄介だった。大勢の人々の立場を入れ替える革命は、このようなところへ行き着くのである。私は急いで湯治へ出かけた。自分には何の用もない、こうした光景を眺める気はなかった。しかし、すぐにそこまで追いかけてこられ、ただちにイギリスへ戻るよう求められた。この催促には、別の策謀が絡んでいた。セバスティアニ将軍が強く推すフラオー氏ではなく、デュラン・ド・マルイユ氏を私が選んだため、私の代理を務めるデュラン氏は力量不足だ、と認めさせようとしたのである。私は、この騒ぎにまったく心を動かされなかった。ブルボン=ラルシャンボーから返事を送り、ロンドンでは物事が自然な経過をたどっており、私の出席を要する緊急事態はない、急げば助けになるより、事を損なうだろうと伝えた。急ぐ前に、何より理性的でなければならない。その理性は、自分が置かれた立場の重大さと難しさを見渡すところに求めるべきで、急いでいる様子すら見せてはならない。最後に、私たちの立場はすでに定まっている。それはイギリスと良好な関係を保ち、イギリスとともに歩むことであり、そのためにはすべてを犠牲にすべきで、ほかは二の次にすぎない、と述べた。それでも相手はまた迫ってきた。ベルギー議会でロンドン国際会議への不満が激しく表明されていることを恐れ、それが戦闘の再開につながりかねないと主張した。
こうした噂を鎮め、策謀を終わらせるため、私は休暇を短くし、八月にはロンドンへ戻るつもりだと知らせた。もっとも、本当にそうする気はまったくなかった。ブルボンでの湯治の後、休息が必要だと感じていたからである。それだけでフラオーとセバスティアニの策謀は失敗し、私は静かに過ごせるようになった。同時に私は、ベルギー人の尊大さを強く非難した。彼らは、私たちの政府がそのために自らを危うくするに値する人々ではない。道理にかなう譲歩をするよう、彼らに強制してほしいと求めた。この点で私の忠告はほとんど聞き入れられず、逆に、私に言わせれば大きな誤りだったが、オルレアン家のルイーズ王女とレオポルド国王との結婚を急いでまとめ、八月九日にコンピエーニュで挙式させた。この結婚を性急にまとめれば、ベルギーとフランスの革命派の要求が強まり、私たちの交渉が難しくなるだけだということは、明らかだった。幸い、オランダ国王が、ロンドン国際会議との交渉で不誠実な態度を取ったため、私たちは窮地を脱することになった。会議は、オランダ全権代表と文書でも口頭でも長く議論したが、何の結果も得られず、一八三二年十月一日付の議定書で、「五大国とベルギーの間で調印された条約の条件を履行させるため、オランダに対して強制措置を用いることが必要となった」と宣言せざるを得なくなった[5]。確かに、この宣言の後、どのような強制措置を採るかについて、会議の構成国の間に意見の違いが生じた。オーストリア、プロイセン、ロシアの全権代表は、金銭上の措置への参加しか認めなかった。それに対して、イギリスとフランスの代表は、「すでに何か月も前に両国の宮廷が批准し、長く履行されないことによってヨーロッパの平和が絶えず増大する危険にさらされている条約を実施するため、より有効な措置に協力する」権利を留保した。このように原則が定まった以上、そこから当然の行動を導き出さなければならなかった。私が一八三二年十月初めにロンドンへ戻る決心をしたのは、その行動を実現するためだった。ただし、出発する前に、パリでようやく、安定して長く存続できる内閣が組織されたという確証が欲しかった。ロンドンへ向けて出発する前日の、一八三二年十月九日に、私は国王ご自身の口から、その保証を得た[6]。
新しいフランス内閣の状況と、それによってロンドンで私が置かれた立場を伝えるには、内閣の主だった閣僚たちが、私の出発の翌日、十月十一日に送ってくれた手紙を、ここに収めるのが最もよいと思う。
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三二年十月十一日。
公爵殿、
出発されたときには、事態がまたも変わったことをご存じだったと思います。昨日の夕方五時、スールト元帥が来て、国王が私の提案を受け入れたと知らせてくれました。七時には新しい内閣の閣僚予定者が集まり、今朝の『モニトゥール』に、その顔ぶれが掲載されています。
この内閣が、秩序、平和、合法で正常な統治を守る陣営の中で、最も確固とした人々によって構成されていることは、申し上げるまでもありません。私の願いと期待は、詳しくお話ししました。この内閣を確かなものにし、対立する陣営の勝利が招く危険に終止符を打つことは、ヨーロッパ、とりわけイギリスにかかっています。その危険は、ヨーロッパにも相当な割合で及ぶに違いありません。私たちは文明のために戦おうとしています。そして、文明の側も、私たちを助けるべきです。議会の会期を華々しく開くには何をすべきか、それを伝える役目は、公爵殿、あなたにあります。イギリス内閣があなたの言葉に耳を傾けてくれれば、最も臆病な人々の言い分によってさえ、私たちの勝利は確実です。私自身のことは申しません。あなたに対する私の気持ちも申しません。ただ助言と援助をお願いしています。必ずいただけると信じ、いま私たちの将来が、どなたの手に託されているかを知っているからです。
温かな、心からの親愛の情を、あらためてお伝えさせてください。
追伸――急いで書いたこの短い手紙に、グレイ卿への手紙とパーマストン卿への手紙を添えます。ご覧のとおり、あなたのご指示を忘れておりません。それに従うことを、とても嬉しく思っています。
おそらく今日中に、ご承知の重大な案件について、私から外交報告もお届けします。時間がありません。この件を、あなたの友情と、周囲のすべての人に及ぶあなたの影響力に、もう一度お任せいたします。」
ギゾー氏からタレーラン公へ。
「パリ、一八三二年十月十一日。
公爵殿、
昨日、あと十分お話しできなかったことを、とても残念に思いました。あなたの最も積極的で決定的な協力が、私たちにどれほど必要か、もう一度お伝えしなければなりません。私たちはいま、大きな戦いに踏み出しました。秩序、平和、正当で正常な利益、真の社会原理を守ること、文明とヨーロッパの安全を守ることの名誉と重荷を、私たちは引き受けます。そのために、休むことなく、何一つ惜しまず、全力を尽くします。私は大きな希望を抱いています。フランスも、私たちと同じように、この美しく正しい主張の勝利を望んでいるからです。しかし公爵殿、私たちの立場が十分に理解されるよう、お力添えください。国外でも国内でも、分別ある人々、誠実な人々の信頼が私たちの力であり、その信頼を示すのは、どれほど早くても、どれほど明確でも、早すぎること、明確すぎることはないと、よくわかってもらわなければなりません。その信頼を受けるなら、あえて申し上げますが、私たちは多くを成し遂げられます。それが不十分で、遅く、おずおずとしたものなら、そして、その実りを祖国にもたらせなければ、私たちは途方もない困難にぶつかるでしょう。私自身は、それに立ち向かう覚悟ができています。しかし、その困難は、最初の一歩から取り除くことができる、少なくとも、大幅に減らすことができます。公爵殿、あなたが助けてくださるでしょう。その成功のためなら、多少の犠牲を払う価値は十分にあります。私がどれほど心からあなたにお仕えしているかは、ご存じのとおりです。」
リニー伯爵提督からタレーラン公へ。
「パリ、一八三二年十月十一日。
公爵殿、
ディノ夫人が出発する前に、新しい内閣の顔ぶれと、その将来について一言お伝えしておきたいのです。
この内閣の将来、つまり、どれほど存続できるかは、ヨーロッパ全体にとって重要だと思います。そしてヨーロッパは、ある程度まで、その存続に影響を及ぼすことができます。
これから議論がどれほど激しくなっても、ベルギー問題の妥当な決着を発表できるなら、私たちは勝ちます。私たちにとって、その決着は、アントウェルペンからの撤退に尽きます。その城壁の下まで赴いて撤退を求め、翌日には私たちが引き揚げることを、認めてもらわなければなりません。
そのためには、ロンドンの内閣の同意が必要です。ほかの内閣は、その後を追って沈黙するでしょう。しかし、それがなければ、議会の争いが私たちを押し流すかもしれず、私たちとともに、最後の防波堤も失われます。
公爵殿、あなたの大きな影響力だけが、私たちを助けられます。この仕事は、あなたにふさわしいものです。イギリスとの結びつきは壊せないものとなり、ヨーロッパの文明は、またも救われるでしょう。
政令に署名されたのは、昨夜の十二時半だったと、ディノ夫人からお聞きになるでしょう。
敬意をこめた献身の気持ちを、あらためてお伝えいたします。」
ティエール氏からタレーラン公へ。
「パリ、一八三二年十月十一日。
公爵殿、
国王がいま行った人事は、私の手紙よりずっと前に、腕木通信でお知りになるでしょう。私たちは長く就任を断ってきました。国王の決意が堅いことを十分に確かめるため、そうすべきだったのです。今日では、国王の不動の意志を当てにできると思います。国王は、憲法上認められたあらゆる手段を用いて、いま組織した新しい政府を支えるでしょう。閣僚となる人々を、ペリエ氏の方針を支える最後の柱と見なし、内政でも外交でも穏健を守るこの方針だけが、フランスとヨーロッパの平穏を確保できると確信しています。しかし、国王の決意だけでは十分ではありません。あらゆる方面から、私たちを助けてもらわなければなりません。公爵殿、あなたは誰よりもそれをおできになります。イギリス内閣に、彼らの利益と私たちの利益を明らかにすることで、おできになるのです。今日、その二つは一致しています。すべてを決めるのは、アントウェルペンの問題です。内閣の誰も、過大な要求をするつもりはありません。しかし、長すぎた不確かな状態を終わらせ、人々の心を落ち着かせる必要があると、皆が感じています。決着によって最も得るところが大きい二国は、イギリスとフランスです。どちらも、ベルギー問題に潜む、この先の見えない状態を終わらせ、明確な結果によってすべての疑いに決着をつける必要があります。フランスではいま、誰もが、とりわけ穏健派の誰もが、ベルギー問題の解決を求めるところまで来ています。どの内閣が成立しようと、課される任務は同じでしょう。結果を出すことです。いまやこの言葉は、口から口へと伝わる決まり文句になっています。デュパン氏[7]も、オディロン・バロー氏も、ペリエ氏が生きていたなら彼も、皆、同じことをしなければならなかったでしょう。オランダの計算ずくの抵抗には、どの内閣であれ決着をつけなければならない以上、問題は、ほかの人々と決着させるより、私たちと決着させるほうがよいかどうかです。ほかの人々より私たちと交渉するほうが有利だと、相手も認めることを、私は疑いません。たとえば、私たちがアントウェルペンの城塞を取ったとしましょう。私たちの約束は信じていただけます。占領から三日後には撤退します。閣議の全員がそれを約束するでしょう。ブロイ公の言葉は、どの約束よりも安心できるものだと思います。私自身も、大臣として、誠実な人間として、約束します。大きな仕事をうまく成し遂げる唯一の方法は誠実さである、というのが私の信条だと、あなたもご存じでしょう。私たちの約束自体は疑われないと思います。しかし、私たちにその約束を守れるのか、まもなく後任者が現れ、私たちの引き受けた義務を投げ捨てるのではないかと、問われるかもしれません。それには、決定的だと思う答えがあります。近いうちに結果を国民へ示せるなら、私たちの多数派は確実です。うまく自らを弁護すれば多数を得られると期待させてもらっていますが、アントウェルペン問題が終われば、それは間違いなく得られると約束されています。これは、もはや抵抗できなくなった議会の要求であり、どうしても満たさなければなりません。そのうえ、イギリスとフランス双方の威信も、同じくそれを求めています。この仕事が済めば、私たちはすべてに責任を持てます。した約束を守る役目も、私たち自身が担うでしょう。そうでなければ、私たちは議場の演説と投票の、あらゆる不確かな成り行きに委ねられます。ところで、私たちの後には、オディロン・バローと組んだデュパンしかいません。この二人の要求が私たちより少ないことは、確かにないでしょう。そして私たちの要求のように、両国の正しく理解された利益を、いつも根拠にするとは限りません。ですから公爵殿、持てる才能と影響力を尽くして、私たちを助けてください。問題は、次の点に尽きます。
誰もがアントウェルペンを求めるでしょう。
私たちがそれを手に入れれば、多数派を確保でき、私たちとともに穏健な政策を確かなものにするという利益が得られます。私たちがそこを欲しいのは、三日間だけなのです。
公爵殿、私よりよくご存じのことを申し上げるのを、お許しください。しかし、こうしたことは、あらゆる人に、いつでも繰り返す必要があるのです。
深い敬意と、心からの友情をお伝えいたします。」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三二年十月十二日。
公爵殿、
同封の外交報告をお送りするにあたり、私たちの立場、必要としていること、期待していることを、あなたの記憶と、変わらぬ友情に、もう一度お訴えさせてください。
現在の内閣の半数は、カジミール・ペリエ氏の同僚たちです。残る半数は、秩序と平和を守るため、彼自身よりもさらに深く身を投じ、彼が、よりよい時のために控えさせていた政治上の友人たちです。
その時が来たのです。
フランスの状態は、あなたもご自分の目でご覧になったとおり、十分に満足できるものです。国土のすべての地域で静けさが保たれ、どこでも秩序が戻り、人々の心は落ち着きつつあります。補欠選挙は、どれも賢明で穏健な選択を示しています。都市でも農村でも、商売や仕事は、目に見えて回復しています。収穫もたいへん豊かでした。
乗り越えなければならない困難は、一つだけ残っています。
それは、昨年、私たちがあれほど心を砕き、努力して作り上げた多数派を、維持することです。ご存じの政治上の対立が、その多数派を壊してしまいました。ばかげた先入観、ただ文学上の対抗心、くだらない嫌がらせが、敵に私たちを上回る有利な立場を与えようとしています。そのためにヨーロッパは、おびただしい血と、幾年にも及ぶ計り知れない災厄を支払うことになるでしょう。
いまの内閣が政務の重荷を引き受けなかったなら、公爵殿、あなたもご承知で、実際にご覧になったとおり、権力は別の人々の手に渡っていたでしょう。そしてその人々は、そうとは知らず、おそらく望んでもいなかったでしょうが、避けられず、戦争と無政府状態を求める陣営へ、権力を渡すことになったでしょう。
いまの内閣が争いに敗れれば、その敗北は、いっそう確実に、いっそう直接に、同じ結果を招くでしょう。
それを防ぐ確実な方法があることは、私たち二人で確かめ合いました。
私たちがオランダ軍からアントウェルペンの城塞を奪い、ベルギー人の手に渡すことを、イギリスが不安を抱かずに見守ってくれることです。次の会期が、そのような幸先で始まるなら、目覚ましい勝利を確信してください。逆に、外交の遅延、延期、引き延ばしを、議場でまた弁護しなければならないなら、私たちの立場はきわめて危うくなります。待ち受ける先入観の重みも、ひどくつらい形で増すでしょう。耐えられるかどうか、私にはわかりません。
あなたの同席のもとで、この考えをグランヴィル卿に説明したとき、卿は異論を述べました。
『しかし、ヨーロッパがあなた方の約束を信じるとして、それを守れるだけの期間、権力の座にとどまることを、誰が保証するのでしょうか』
と。
それに対する私の答えは、次のとおりです。
イギリスが同意すれば、私たちは二十日から二十二日の間にベルギーへ入れます。軍隊は準備ができています。すでに準備ができているのです。二十六日か二十七日には、アントウェルペンの城下に着きます。十一月八日から十五日の間には、城塞は私たちのものとなり、十六日から二十日の間には、軍隊はフランス領内へ戻ります。議会が開くのは十九日です。国王への奉答文が審議されるのは、十二月一日より前にはなりません。したがって、この方面には何の危険もありません。
グランヴィル卿は、さらに言いました。
『しかし、包囲の途中でオランダ軍が攻撃してきたら、どうしますか』
と。
この問いへの答えも、同じように簡単です。
オランダ軍が攻撃してきたら、ベルギー領の境界まで押し返します。それより先へは一寸も進まないと約束します。
軍隊のベルギー進入を伝える『モニトゥール』では、私たちの軍隊はアントウェルペン市内にすら入らないこと、城塞は降伏と同時にベルギー人の手へ渡すこと、その日から私たちの撤退を始めることを、発表するでしょう。
グランヴィル卿は、プロイセンが介入する可能性も心配しているようでした。しかし第一に、これほど迅速に行う遠征なら、各地に大きく分散している軍隊を、彼らが集める時間はありません。第二に、ご存じのとおり、いまベルギー人が占領しているフェンローとオランダ領の全地域を、プロイセンが占領してはどうかと、私たちは提案しています。この提案への返事は、三週間より前には届きません。プロイセン軍を集める命令が将軍たちに届くにも、必ず同じだけの時間がかかります。彼らが本格的な軍事示威を行える態勢になる前に、私たちの遠征は終わっているでしょう[8]。
イギリス政府がこの提案を断ったなら、何が起きるかを考えてください。
第一に、ベルギー人を抑えておけるかどうか、きわめて疑わしくなります。レオポルド国王には、いま、政府と呼べるものがまったくありません。国王が強力な措置を採る決意をしないかぎり、どの大臣も政務を引き受けようとしません。ゴブレ将軍ただ一人が、内閣のすべてを担い、その将軍も、数日のうちに辞任したいと言っています[9]。レオポルド国王は、否応なく行動させられるでしょう。ベルギー人が攻撃し、オランダ国王が応戦する。私たちは、どうしてもベルギー人を守らなければならなくなります。それこそ、本当の戦争です。
仮にそれが起きないとしても、私は、それを避ける方法があるとはほとんど思えないのですが、議会が開けば、フランス内閣の立場はきわめて危うくなります。私たちが争いに敗れれば、権力は戦争を求める陣営に渡り、アントウェルペン遠征などは、その企ての中で最も小さなものにすぎなくなるでしょう。
したがって、アントウェルペン遠征は、ヨーロッパが本当に行うかどうかを選べる問題ではないと思います。問われるのは、それが行われるかどうかではなく、誰が行うかです。ベルギー人か、フランス人か。戦争を求める陣営か、平和を守る陣営か、ということです。
このように問題を示せば、答えに疑いの余地はないと思います。
遠征は、海上封鎖を少しも妨げません。条約の受諾や、スヘルデ川問題の解決を、私たちの撤退の条件にするつもりはありません。そうした点は、引き続き交渉で、あるいは必要なら海上の強制措置や金銭上の強制措置によって、決着させればよいことです。城塞の降伏の直後にベルギーから退くという私たちの約束には、いかなる条件も付けません。
公爵殿、あなたがこの一点を実現してくだされば、その成立をあなたがご覧になり、親切にも望んでくださった内閣は、確実に基盤を固められます。そして基盤を固められれば、フランスの平穏も、ヨーロッパの平穏も確保されます。逆の場合、私に見えるのは、数も規模も予想できない不幸ばかりです。
最後に付け加えますが、私たちの軍隊は、いま、十分に集結しており、行動できる態勢です。遠征が行われなければ、軍隊を分散させなければなりません。私たちは、軍中でコレラが発生するのではないかと、絶えず恐れています。もし軍隊を分散させざるを得なくなったら、私たちに対して、どれほど多くの非難が起きることでしょう。
公爵殿、こんな長い手紙をお許しください。よく考えて書く時間もなく、読み直す時間もありません。軽率に言ったことがあればお許しいただき、書き落としたことは補っていただけるよう、あなたのご親切と寛大さを頼みにしています。私たちの運命は、あなたの手にあります。
いつものご厚意をもって、私の誠実で深い親愛の気持ちをお受け取りください。」
つらい船旅の末、私は十月十四日にロンドンへ着き、託された国益のために、一刻も無駄にせず仕事に取りかかった。到着したその日、パーマストン卿と長く会談し、私の出発以降の案件の経過を確かめるとともに、そのときロンドンとパリの両内閣に重くのしかかっていた重大な問題、十一月十五日条約の履行を取り上げた。デュラン・ド・マルイユ氏が、たいへんよく下準備をしてくれていたことがわかった。すでに述べたように、国際会議は十月一日に集まり、オランダへの強制措置が必要になったかどうか、また、どのような措置にするかを決めようとしていた。強制措置の必要を疑った者は、一人もいなかった。ただ、措置には金銭上のものと実力によるものの二種類があり、その点について全権代表の間に意見の違いがあった。オーストリア、プロイセン、ロシアの代表は、金銭上の措置にしか参加できないと宣言した。一方、フランスとイギリスの全権代表は、それでは不十分だと考え、両国の宮廷は、もっと有効な措置に進むつもりだと告げた。この状況を確認する議定書が作られた。それは、国際会議がその後も長く、それまでに得た大きな影響力を行使し続けたとはいえ、国際会議の最後の公的な行為と見なしてよいものである。
フランスとイギリスの全権代表が、十月一日の議定書で定めた原則を、この二大国の新しい交渉によって具体化することが、課題だった。両国は、どのような、より有効な措置を採る決心をするのか。フランス内閣は、フランスとイギリスの艦隊でオランダ沿岸を封鎖する一方、軍事力を用いてアントウェルペンの城塞からオランダ軍を撤退させることを提案した。イギリス内閣は、後に説明する理由から、沿岸封鎖だけにとどめるほうを望んでいた。私はまず、パーマストン卿とグレイ卿をフランス政府の考えに賛同させなければならず、長い努力の末に、それを成し遂げた。まもなくわかるとおり、イギリス内閣の中で私が出会った困難は、パリを中心とし、わが内閣に敵対する策謀によって、さらに大きくなっていた。これから、私が送った外交報告と手紙、そして受け取ったものの抜粋を示そう。それによって、交渉の進み方がはっきりと理解できると思う。
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三二年十月十六日。
公爵殿、
昨日、マルイユ氏はベルリンから手紙を受け取りました。ブレッソン氏からのもので、十月一日の議定書を携えたデーンホフ伯爵[11]が到着した後、ミントー卿[10]と自分がアンシヨン氏と交わした会話について、あなたに報告した内容を知らせてきたのです[12]。
私はマルイユ氏に、パーマストン卿のところへ行き、卿もミントー卿から同じ報告を受け取っていないか、また、それをフランスとイギリスの両内閣の決定を早める新しい理由と考えないか、尋ねてほしいと頼みました。マルイユ氏は、いま、その会談の結果を報告してくれました。パーマストン卿は、私に対して示したのと同じく、マルイユ氏に対しても、いまの重大問題について、迅速で十分な決定を必要とする切迫した事情を、深く理解している様子でした。昨日の朝に開かれた閣議でも、この問題のあらゆる面が、あらためて検討されました。その席では、アントウェルペンの城塞を強襲して、すぐに成功できるかどうかに、多少の疑いが示されたようです。というのもパーマストン卿は、全面的な信頼を置けるような確かな情報を、この点について何か持っているかと、マルイユ氏に尋ねたからです。また、つい先ほど、ダラム卿が来て、同じ懸念を私に伝えました。マルイユ氏は、ふさわしい程度を超えて断言することはせず、パリでも、ブリュッセルでも、さらにはハーグでも、この城塞の強いところも弱いところも知る軍事の専門家たちが、適切に指揮された攻撃には持ちこたえられないと確言するのを聞いた、と答えました。ただし、城塞が防戦した場合には、市街に相当な損害を与えずに攻略することは、おそらくできないだろうと付け加えました。そしてそのことから、市街の損害は賠償させると、オランダに正式に告げる必要があることを、重ねて述べました。パーマストン卿は、この意見をふたたび受け入れたようでした。また、今夜、遅くとも明朝には、政府の決定の全容を私に伝えるという、すでに私に与えていた期待を、あらためて確かなものにしました。
この会談の途中、パーマストン卿は、内閣がいくらか驚いたという出来事に触れました。メゾン元帥のいくつかの発言が、サー・フレデリック・ラムには時期尚早と思われ、メッテルニヒ公からかなり強い抗議を招いたことは、グランヴィル卿がお伝えしたはずの、ウィーンからの外交報告によって、すでにご存じでしょう。
さらに、ハノーヴァーの公使オムプテーダ男爵[13]からの知らせで、ハノーヴァー駐在のフランス公使が、フランスとイギリスの両政府によるオランダへの即時行動を、公式に告げていたと知り、内閣は、おそらくもっと驚いたのでしょう。実際、両国の協力の原則と形について、二つの王冠を兼ねる君主のもとでまだ審議中なのに、イギリス国王の決定をハノーヴァー国王へ通告するというのは、奇妙に映っても不思議ではありません。しかしパーマストン卿は、まったく嫌味をこめずに、この点をマルイユ氏に指摘しました。そしてそこから引き出した結論も、すでに私に述べていた考えと同じでした。すなわち、フランスとイギリスの決定について新聞に知らせが出た以上、その実行へ速やかに進むことが急務だということです。」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ。
「ロンドン、一八三二年十月十六日。
私はここで、フラオー夫人の絶え間ない策謀に取り囲まれています。夫人はグレイ夫人のそばを離れず、そこで、いまのわが政府について、ひどい悪口を言っています。
『これは長続きしません。内閣は持ちません。多数を得られません。誰もが嫌っています……。』
どこへ行っても、こんなことを言うのです。今日はホランド卿の邸で、彼女の法廷を開いています。難しい交渉を進めなければならないうえに、毎時のように新しくなる社交界の中傷まであるのですから、たまりません。実際、パリでは夫が、ロンドンでは妻が、新しい内閣に本当に害を与えています。まったく、非難されるべきことです。この件で聞かされていたことを、私はとても全部は信じられませんでした。いまでは、この夫婦について耳にする話をすべて中傷だと退けていた自分が、愚か者だったと認めざるを得ません。言い忘れていましたが、フラオー夫人は、セバスティアニを大仰に褒めたたえ、
『国王も、結局はまた彼に頼らざるを得ません』
と付け加えています……。」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三二年十月十七日。
公爵殿、
この数日、ロシア、プロイセン、オーストリアの全権代表は、オランダに対して採る措置を議論するため、国際会議を開いてほしいと、パーマストン卿に何度も求めています。私にも、同じ趣旨の働きかけをしてきました。しかし私は、いま議論をしても望ましくない結果しか生まれないこと、その不都合を卿に理解してもらい、この要請を断るよう勧めました。パーマストン卿は、この点で私と同じ考えになりました。私たちの決定が最終的に固まり、それを国際会議へ伝えられるようになるまで、国際会議を開かないでしょう。」
「十月十八日、夜。
……今朝、パーマストン卿に会いました。閣議が済んだら、内閣の決定を確かな形で知らせてもらえるという期待を持たせてくれました。しかし、この時刻になっても、大臣は、私があれほど切望している決定を、まだ知らせてくれません。確かに、今日ロンドンへ来るはずだった国王は明日まで来ず、最終的な承認には、国王のご出席が必要です。しかし私は、パーマストン卿とかなり長く話した内容から、それについては詳しくご報告しますが、別の事情もあると思わざるを得ません。内閣の議論が長引くうちに、条約を履行すること自体への反対が生じたのではなく、その点では全員が一致していますが、フランスとイギリスが共同で強制手段を用いた場合に起こり得る結果を、最後の最後まで検討しなければならないという思いが生じたのです。さらに、明日の手紙で説明する国内情勢についての話も、もう少し時間を稼ごうという考えにつながっているようです。閣僚の何人かには、その傾向があります。私は反対してきましたし、これからも反対します。そして、勝てると期待していますが、まだ期待にすぎません。明日は国王にお会いし、閣議の後にパーマストン卿と詳しく話します。その内容は、すぐにお知らせします。
この長引く議論には、あなたが心配しなければならないことはなく、これから下される決定の重みを増すだけだと、私はなお確信していることを、お伝えしておきます……。」
「十月十九日、朝。
前日に約束されたことが、また翌日に延期されたと、毎日あなたに繰り返すのは、本当に気が引けます。
国王は昨日ウィンザーからお越しになり、私は拝謁する栄誉を得ました。セント・ジェームズには閣僚全員がいて、何人かに、十一月十五日条約を履行するための英仏協力について、確定的な決定に至ることがどれほど急を要するか、あらためて伝えることができました。皆、その必要を認めました。それにもかかわらず、国王のもとで四時から七時半まで開かれた会議は、この数か月に下された刑事判決についての司法官(レコーダー)の報告と、それに続く議論だけで、終わってしまいました。昨晩、パーマストン卿は、いまの政治問題は取り上げられもしなかったと、私に断言しました。その問題は、今日、イースト・シーンにあるグレイ卿の邸で、閣僚全員が集まって夕食を取る際の審議へ回されたというのです。
ただ、この遅れの事情は、お伝えしなければなりません。少なくとも、パーマストン卿との最近の会話から私が得た説明をお知らせします。昨夜も卿は、この点で前に話してくれた内容に、さらに詳しい説明を付け加えました。
一方では、内閣は、協力するという原則と、陸海の戦力を順次、また同時に用いるという方針について、完全に決心した態度を示した後、閣僚の何人かが、新しいフランス内閣は当然の信頼を寄せられるものだと認めながらも、その存続を不安視していることに気づいたようです。パリから届いた報告が、もっと慎重だと思っていた人々の口から、ここで言い広められ、反対論をふたたび勢いづかせたのです。同時に、より分別ある人々さえ、イギリスとフランスが共同でオランダに対して行う強制措置が全般的な戦争を招いた場合、パリで内閣が交代し、その戦争が政治思想を広めるための戦争となって、イギリスには共同で続ける意志のないものになるのではないかと、恐れるようになりました。
他方、この内閣のためらいは、詳しく説明しなければならない、いくつかの国内事情にも関わっています。
アメリカ大陸の植民地とモーリシャス島で、黒人をめぐる問題がふたたび難題を生み、その対策を講じる必要があって、すでに長い審議の時間が費やされています[14]。パーマストン卿が別々の二度の会談で繰り返して言ったのですから、この事情は、初めに思われていたよりも重要なのに違いありません。さらに、問題を終わらせる必要があること、フランスとベルギーは、議会が開くときには、決定を発表し、少なくとも実行を始めていなければならないことを、私が強く訴えると、パーマストン卿は、イギリス政府にはほぼ反対の事情があり、数週間の延期は、イギリスにとって有利だと認めざるを得ませんでした。その説明は、次のとおりです。現在の議会は、十二月十一日まで会期が停止されています。政府は、これを解散するつもりです。ふたたび招集することは、好ましくないと考えています。しかし、オランダへの強制措置をただちに用いる場合、それが正式な戦争行為ではないので、議会を招集せずに済むでしょう。ところが、それに対してオランダ国王自身が明確に宣戦すれば、憲法により、現在の議会を招集するか、それを解散して新しい議会を招集するか、どちらかが必要になります。前の場合には、きわめて激しい反対を予想しなければなりません。オランダ国王が宣戦へ踏み切るとすれば、とりわけその反対を期待するためだろうと、考える理由があります。後の場合、解散が宣言されれば、次の事情を知っておかなければなりません。新しい法律に基づく有権者登録が、まだ十分には進んでいないのです。そのため、ただちに選挙を行えば、危険な人選を恐れずにはいられません。それが特に危険なのは、選挙法改正の実施によって投票権を失うはずの人々が、その権利を最後に行使して選ぶことになるからです。
これは、イギリス内閣が置かれた状況に特有の事情であり、認めなければなりませんでした。わが内閣の安定について示された不安に反論するほうが、私には容易でした。彼らがわが内閣に抱いている評価を出発点として、この内閣の立場を助けることが、両内閣の政策にどれほど有益かを説けたからです。したがって私は、こちらで行われ、グランヴィル卿もあなたに確認した提案が、速やかに、十分に実現されるよう、強く求めています。その希望を捨てるには、ほど遠い気持ちです。ハーグからの最新の手紙、議会開会時のオランダ国王の演説、オランダ内閣の意向を受ける新聞の激しい言葉遣いは、ここでは、抵抗がますます頑固になる明白な兆候と判断されています。ですから、ベルリンの内閣の働きかけと、デーンホフ氏が携える手紙によって、ハーグの態度がすっかり変わらないかぎり、その点は二日以内にわかりますが、イギリス政府が自らの提案から退こうとはしないと考える根拠があります。また、スピットヘッドの停泊地で、わが国の艦船をイギリスの艦船と合流させることに、政府がいま明確に同意したことを、私は喜んで、その意志が変わらない証拠として受け取っています……。」
「十月十九日、午後八時。
今日、たいへん遅い時刻に、パーマストン卿から国際会議への招集の知らせを受け取りました。この会議は、封をした書類を国際会議宛てに送ってきた、オランダの全権代表の要請によるものでした。パーマストン卿は、私たちが申し合わせたように断ることができませんでした。三国の全権代表の一人が求めたのではなく、それに、オランダからの、たいへん重要かもしれない説明を聞くためだったからです。
ザイレン男爵の封書が開かれ、長い弁駁書が読み上げられました。第六十九号と第七十号の議定書を論駁しようとするものです。注意すべきなのは、後の議定書は、オランダの全権代表には伝えられていなかったことです。しかし、この長い論争文には何の価値もありません。国際会議に影響を与えるはずもなく、実際、何の影響も与えませんでした。オランダの議会へ提出しようとしている文書であることは、明らかです。私たちもそのように受け取り、何の決定も下さずに別れました……。」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三二年十月十八日。
公爵殿、
あなたの手紙は、マルイユ氏の外交報告とグランヴィル卿との会話から得ていた期待を、確かなものにしてくれました。私たちは、明日来るあなたの使者を、たいへん待ち遠しく思い、どんな成り行きにも備えています。内閣の政治上の立場は、発足したときに私たちが期待できた以上に、ずっとよくなっています。大騒ぎの末、人々もようやく真実に戻り、これほど騒いで何の役に立つのかと、問い始めています。世間の気持ちは、まだ好意的ではなくても、注意を向けるようになってきました。いま最もよく言われるのは、
『この内閣が何をするか、見なければならない』
という言葉です。ですから私たちの運命は、議会の会期が始まるまでの仕事に、ますますかかっています。そして、あらゆる仕事のうち、本当の仕事、世間の注意をひとえに集めている仕事は、アントウェルペン遠征です。この点について、世論の要求は日ごとに強くなっています。迫っているのは、騒々しい少数派ではなく、良識ある多数派です。したがって、イギリス内閣がいま採った方針を、私はますます喜んでいます。たとえイギリスが私たちの遠征に反対する決定をしていたとしても、それを避けられたとは思えないからです。遠征を行えば、議会での成功は確実です。予想外の難題をあまり生まないよう、私たちはあらゆる手を尽くしています。艦隊は、完全に準備ができています。その士官の大半は、イギリス人とともに任務に就いた経験を持っています。正直に申し上げますが、二つの艦隊がともにスヘルデ川の河口へ進み、イギリス軍とフランス軍へ同時に何発かの砲弾が飛んでくるようなことがあれば、ここでは非常によい効果を生むでしょう。同盟はますます国民に支持され、私たちは、イギリス内閣の望みに沿って行動する自由を、さらに得られるからです。
公爵殿、最後に、私たちのすべての利益を、もう一度あなたの手にお預けします。あなたがロンドンにいらっしゃると知ることが、私のすべての希望、すべての安心です……。」
「十月十九日、午前十時。
……いま十六日付のあなたの外交報告を受け取りました。求められるあらゆる説明をあなたがおできになるよう、一分も待たず、急使で返事を送ります。
北部国境に集結しているフランス軍は、四万八千人です。約一万八千人がアントウェルペンの包囲に当たります。三万人は、その包囲を守るため、ベルギー領内で、ベルヘン・オプ・ゾームとブレダへ通じる道に布陣します。
軍事作戦の範囲全体で、フランス軍がベルギー軍の各哨所を引き継ぎます。
ベルギー国王には、トゥルンハウトの後方に軍を集めるよう求めます。オランダ軍が私たちの警戒軍へ向かえば、その側面を脅かすためです。同じように、オランダ軍がベルギー領内でベルギー軍に向かえば、私たちの警戒軍が、その側面を脅かすことになります。
城塞の攻略の容易さについて、ジェラール元帥は、十日より長くは持ちこたえられないと考えています。この点で必要な情報は、すべて集めました。準備は整っています。その点では、少しも不安を抱く必要はありません……。」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三二年十月二十二日。
公爵殿、
十月二十日付まで、あなたがお送りくださった外交報告は、すべて受け取りました。この困難な時期に、国王の政府が焦るお気持ちは、よく理解できます。ベルギー問題について、長すぎた不確かな状態を終わらせたいという願いを、私も共有していることは、おわかりいただけたでしょう。それでも、イギリス内閣のためらいは、問題の重大さだけに帰するべきです。グレイ卿とパーマストン卿は、できるだけ多くの閣僚を集め、事情からしてきわめて重要な決定を、全会一致で得たいと考えていました。私がこの点を強調しなければならないのは、この二人の大臣に対して、そう述べる義務があるからです。彼らが絶えず私に示してきた以上に、私たちに好意的な態度を取ることは、不可能です。その証拠は、公爵殿、私がいまパーマストン卿と調印し、お届けする協定に見いだしていただけるでしょう。国王の政府の意向を満たすものだと、願っています。
いま真夜中です。この協定の各条項を詳しく説明する時間はありません。これ以上を得ることは不可能だった、としか申し上げられません。
批准書は、二十五日木曜日の夜にパリを出発し、二十七日の日中にロンドンへ届くことが、どうしても必要です。この協定を厳重に秘密にしていただくよう、お願いするまでもないでしょう。私たちは、国際会議の三大国の全権代表へ知らせるまで、協定を公表しないことを望んでいます。その通知は、批准書の交換の翌日に行います。
フランスの利益を危うくしないよう、国王の領事たちにあらかじめ知らせるのが適切だと、あなたもお思いになるでしょう……。」
この外交報告で伝えたように、私は十月二十二日の夜、イギリスとの間で、フランス政府が切望していた協定に調印した。その協定によって、ベルギー国王の要請に基づき、両国は自らの約束に従って十一月十五日条約を履行することが決まった。領土の相互撤退を、その実行の第一歩とする。オランダとベルギーの両政府には、十一月十二日までに、それぞれ撤退を行うよう求める。十一月二日までに同意しない政府には、実力を用いる。オランダが拒否した場合には、オランダ船舶に出港禁止と抑留の措置を採り、十一月十五日にフランス軍がベルギーへ入って、アントウェルペンの城塞を包囲する、というものだった。パリでは大きな不安が広がっていた。私に届く手紙は、どれも、私がようやく得たこの結果を、人々がどれほど待ち焦がれていたかを示していた。この焦りは、ときに私にとって厄介だった。そこで私はこのころ、ヴォーデモン公妃に、次のような手紙を書いた。その一部を引用しておきたい。
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ。
「ロンドン、一八三二年十月二十五日。
……ランズダウン侯爵[15]が、今日パリへ出発します。少し気おくれしやすいわが内閣を、勇気づけてくれるでしょう。何につけても、いつでも、急ぎすぎている様子を見せています。それでは、見ている人々が安心できなくなります。私は、こちらに来て八日で、彼らが望むことをすべて実現しました。デュランがよく準備してくれていたことです。ロンドンへ来て八日にもならないうちに、マドモワゼルから、焦る気持ちを伝える手紙が届きました。ベルギー人がオランダへ進入すると、彼らが思っていたころを覚えていますか。あれは、三か月前のことです。私は、ブロイ内閣も結局はまとまると、彼らに言っていました。信じようとはしませんでしたがね。さて、その内閣は成立しました。そして、ベリエ氏の裁判[16]のような愚かな裁判をしなければ、しばらくは存続するでしょう。アントウェルペンへ進軍する許可を得たのですから、議会へ出るための備えは整っています。いま彼らがしなければならないのは、好意的なプロイセンと、何としても親しくなることです。それができれば、後はすべて順調に運びます。」
十月二十二日の協定に調印した直後、パリから二十七日にようやく届く批准書を待ちながら、私はパーマストン卿と、その実行のための手はずをすべて整えた。そのため、批准書を交換したまさにそのとき、批准された協定を、三国の宮廷の全権代表へ送ることができた。なるべく説明を求められないよう、簡潔で短い覚書を添えた。このために準備した汽船も、すぐにロッテルダムへ向けて出発した。ハーグで英仏の代理公使がオランダ政府へ渡す通知を、運んでいたのである。その通知も、協定を根拠とする、短く断固としたものだった。最後に、オランダ政府宛てとほぼ同じ覚書をベルギー政府へ届ける使者も、ブリュッセルへ派遣した。私たちは、それによって公平さを示そうとした。また、ベルギー人がいまだ正当な根拠なく占領しているフェンローやほかの地域を引き渡すよう、要求するためでもあった。これらの地域は、オランダ国王が十一月十五日条約を受け入れた日に、国王へ返還すべきものだった。私たちは、ベルギー人に求めた返還を利用して、プロイセン政府を、オーストリアとロシアの内閣から引き離したかった。そこで、十一月十五日条約でオランダに割り当てられた、フェンローの要地と、リンブルフ、ルクセンブルクの地域を、プロイセン軍で占領するよう提案した。国王が条約を受諾するまで保持し、国王が条約の条件を履行してから返すという約束を、プロイセンに求めたのである。この提案から、ベルリンの内閣との、別個のかなり複雑な交渉が生じた。初めは受け入れそうに見えたが、結局、プロイセンは、二つの海洋大国が採る強制措置に加わったと見られることを恐れ、断った[17]。その結果、ベルギー人は、返還を求められた領土を持ち続けることになり、オランダに対する立場は、いっそう有利になった。
外交報告と手紙の続きを見ていこう。
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三二年十月二十六日。
公爵殿、
ビューロー氏[18]が、私たちに伝えることがあると知らせてきたため、その要請で、パーマストン卿は今朝、国際会議を招集しました。伝えようとしたのは、ハーグの内閣が送ってきた条約案でした。パーマストン卿と私は、すぐにこう述べました。これまで厳格に守ってきた手続き上、その提案を行う宮廷の、正式に認められた全権代表以外の仲介者を通じて、提案を聞くことはできない。ザイレン氏が、自国の宮廷から何か伝えることをお持ちなら、喜んで聞く用意がある。しかし、ビューロー氏の要請は認められない、と。ビューロー氏は、それ以上は求めませんでした。こうして私たちは、説明のやり取りを一切避けました。条約案は、読み上げられもしませんでした。この案の主要な条項は、スヘルデ川の自由航行を認める一方、レオポルド国王とプロイセンが同意した一トン当たり一シリングの代わりに、三シリングの通航税を課す権利を留保する、というものです。ザイレン氏が、その宮廷の案を私たちへ直接提出する前に、わが国の批准書が届くことを願っています。今日、この案が国際会議で大きな支持を得ることはなかったでしょう。今朝の集まりは、外務省で開かれた正式な国際会議とは見なさない、ということで、全員の意見が一致しました……。」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三二年十月二十五日。
公爵殿、
あなたの使者は、昨日の午後五時ごろに到着しました。私はただちに協定を国王へお届けし、昨晩、閣議を開きました。批准書を準備するため、夜通し作業しました。使者はいま出発しようとしています。明日の早い時刻に、お手元へ届くでしょう。
この知らせがどれほど喜ばれたかは、申し上げるまでもありません。これほどの成功に対する私たちの感謝も、言葉にしません。成し遂げるには、あなたでなければなりませんでした。祖国のために、これほど大きな働きをされたことは、これまでにもなかったでしょう。
では、この協定の実行方法について、一つか二つ質問させてください。
二十四か条によれば自分のものではない領域から撤退するよう、ベルギー国王にも、オランダ国王と同時に要求されます。
十一月二日にオランダ国王が撤退を拒否した場合、ベルギー国王は、それでも撤退する義務があるのでしょうか。その場合、フェンローやリンブルフのほかの地域を、誰に渡すのでしょうか。
オランダ国王に渡すなどとは、考えられません。
オランダ国王が提案を受け入れ、ベルギー領から退くことに同意した場合には、どうでしょうか。オランダ国王が二十四か条の残りを受け入れる前、まだスヘルデ川、財政組合[19]、両河川間の水路の航行について争っている間に、ベルギー国王は、ベルギー人がいま占領している地域を、オランダ国王へ渡すべきなのでしょうか。それは、賢明なことでしょうか。
ベルギー国王に与えるべき指示を、はっきりと定めておくため、これらの質問をしています。ベルギーの国民が、たいして分別がないことは、よくご存じのとおりです。自信を持つやいなや、実行にあたって、私たちに無数の難題を持ち込むでしょう。
これらの問題の解決をどうお考えか、どうかお知らせください。もっとも、今日にもあなたから手紙が来て、私たちの疑問がすべて解かれるかもしれないと、期待しています。
どうかお受け取りください……。」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三二年十月二十七日。
公爵殿、
今朝、第七十七号の外交報告とともにお送りくださった、十月二十二日協定の批准書を受け取りました。この協定が、国王の政府の意向を満たしたと知り、嬉しく思います。繰り返し申し上げますが、政府は、その重大な効果を日ごとにますます高く評価するだろうと、確信しています。いま、パーマストン卿と批准書を交換しました。イギリスの批准書は、次の外交文書便でお送りします。
批准済みの協定を、オーストリア、プロイセン、ロシアの三国の宮廷の全権代表へ送りました。添えた覚書の写しを同封します。
一時間後、汽船がロッテルダムへ出発します。第二号の覚書を、ハーグにいるフランスとイギリスの代理公使へ運びます。同じく今夜出発する使者は、第三号の覚書をブリュッセルへ届けます。
ベルギー人によるフェンローの引き渡しに関する協定の条項について、公爵殿、あなたが求めておられる説明ですが、十一月十五日条約が完全に履行される前に、フェンローをオランダ国王へ渡させるつもりは、一度もなかったと申し上げられます。ベルギー人に対する要求は、私たちの公平さを示すために行います。しかし、この町については、次の方針を採りました。明日、パーマストン卿と私は、ビューロー男爵に、ベルギー人からプロイセン国王陛下へフェンローを渡させることを提案します。条件は、オランダ国王が十一月十五日条約のすべての規定を果たすまで、その町を返さないと、プロイセン国王が約束することです。国王のご意向に完全に合うと知っていたので、私はこの提案を採用しました。その結果は、お知らせします……。」
ルイ=フィリップ国王からタレーラン公へ。
「ヌイイ、一八三二年十月二十五日。
親愛なる公爵へ、
いま送ってくださった重要な文書に署名するにあたり、それを実現されたことを、お祝いしたいと思います。私のために果たしていただける仕事のうち、最も大きなものの一つであり、フランスに確保できる利益のうち、最も大きなものの一つです。すべての国の平和を保証する、名誉ある証しだからです。私には、あなたが長くご存じの、あなたに対する私のすべての気持ちを、あらためてお伝えする時間しかありません。」
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ。
「ヌイイ、一八三二年十月二十五日。
いま、二十三日付のすばらしいお手紙を受け取りました。親愛なる公爵、すぐにお礼を申し上げます。とりわけ、深い不安と大きな苦しみから救ってくださったことに、感謝しています。大事な案件が決着し、協定に調印されたと、あなたが教えてくださったからです。秘密を守るよう、あまりにも強く求められていたらしく、私たちの大切な国王は、妻にも妹にも何も言わない義務があると考えていました。国王はブロイ公にもそうするよう求めており、ご自身もそれをしっかり守ったことは、私が証言します。私は、あなたの貴重なお手紙を持って、得意になって国王のところへ行きました。すると国王は笑い出し、
『私が言ったのではないよ』
と答えました。心から感謝しています。私が秘密を漏らすことはないと、申し上げるまでもありません。ただ、正直に言うと、なぜ秘密にするのか、あまりわからないのです。ともかく、それはかまいません。私の関わることではありません。しかし、私にわかるのは、このよい、大きな知らせを伝えて、あなたが私をたいへん楽にしてくださったこと、そして、心の底から、あなたと一緒に喜んでいるということです。お願いしたとおり、あなたはゴルディアスの結び目を断ち切ってくださいました。私たちの愛するフランスと、愛する国王の治世の繁栄を確かなものにする、実に大きな出来事です。これからはすべて、うまくいくと期待しています。国王からは、あなたの努力が実を結んだことを、どれほど喜んでいるか伝えるよう頼まれました。この大きな仕事は、あなたにしかできなかったと国王は言っています。そして、あなたが同じように首尾よく最後まで仕上げてくださると、期待し、信頼しています……。』
ギゾー氏からタレーラン公へ。
「パリ、一八三二年十月二十六日。
公爵殿、あなたができる限りのことをしてくださるのは、前からわかっていました。いつもそうされるからです。あなたが実現したことを、私たちがやり遂げられるよう願っています。いまや私たちには持参金ができました。きっと、結婚相手が見つかるでしょう。確かに、あなたのいる国の先入観には配慮しなければならず、イギリス内閣をイギリス人の本能と対立させてはなりません。私たちも、まったく同じ状況です。私たちには、強い偏見と、限りない無知があります。それらにも配慮していただきたいのです。何が必要か私たちに伝え、私たちに何が必要か、相手にも伝えてください。神とあなたのお力添えがあれば、こちらでもロンドンでも、私たちは成功します……。
この世では、何事も完全には終わりません。いま成し遂げてくださったことの後にも、おそらく私たちは、まだ多くの仕事をお願いするでしょう。手近には十分にないので、私たちは、あらゆるところへ理性を探しに行く必要があります。あなたはいつでも、私たちにそれを与えてくださいますね。
私は国王に、学士院の道徳・政治科学部門を復活させることを提案しました[20]。ここでは、よい効果を生んでいます。そして、そこにあなたのお名前を見つける幸運に恵まれました。これから行われる会員選挙のために、あなたがこちらにいらっしゃらないのは、たいへん残念です。しかし、学術団体がどれほど重要であっても、あなたがロンドンでなさっている仕事のほうが、大切です……。」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三二年十月二十八日。
公爵殿、
いま、ロシアの二人の全権代表から手紙と覚書を受け取りました。その写しをお送りします。彼らがこのように出てくることは、予想すべきでした。パーマストン卿にも、ヴェッセンベルク氏にも、ビューロー氏にも、何の影響も与えませんでした。彼らには、ロシアの全権代表が用心のために採った措置と思われたのです。ロシア代表は、自国の宮廷からの古い訓令に従って行動しており、以前、自らの判断で行動して叱責されたことがあるので、今回は留保をしておきたかったのでしょう[21]。
覚書をお読みになれば、きっと第四段落の初めの言葉に注目されるでしょう。リーヴェン氏とマトゥシェヴィチ氏は、国際会議への参加を一時的に止めるつもりでしかありません。したがって、関係の断絶でも、二つの宮廷に対する冷淡さでさえもありません。私たちが重視すべき肝心な点は、そこだと思います。
ロシアからの帰途、すでにパリへ着いているはずのポッツォ・ディ・ボルゴ伯爵が、ベルリン、ウィーン、ミュンヘンで、私たちの問題について、たいへんよい話をしたと聞いています。いまお伝えした趣旨で、伯爵に働きかけていただきたいと思います。私はここで、そのようにこの問題を扱います。むしろ、あらゆる事情を考えれば、ロシアの全権代表が一時的に国際会議を欠席することは、私たちが着手した実行措置を進める中で、有益だろうとさえ思います。そもそも国際会議は、長く開かれていません。オランダとベルギーの問題は、これから用いる行動手段によって、二十日以内に決着するはずです。それは、私たちの協定の通知に対する返事が、サンクトペテルブルクから届くのに必要な時間です。その間、国際会議を開くことは、もはや無用であり、不都合を生むおそれもありました。
今回ロシアが採った方針の効果は、オランダ国王の頑なな態度を、おそらく、多少は助長するだけだと思います。
オーストリアとプロイセンは、協定を送る際に私たちが行わなければならなかった通知に対して、単に受領を知らせるだけにとどめるでしょう……。
十月二十二日協定のイギリスの批准書を、お送りします……。」
「一八三二年十月三十日。
いまパーマストン卿から、今夜、ポーツマスのマルコム提督へ命令を発送すると、知らせを受けました。明日、イギリスのフリゲート艦三隻を派遣し、一隻目はテセル沖、二隻目はマース川の河口、三隻目はスヘルデ川の河口を巡航させるよう命じるものです。これらのフリゲート艦は、オランダの港へ入ろうとするイギリス商船に、そこへ行かないよう勧めます。先に戦闘を始めず、オランダの交易をいかなる形でも妨げないよう命じられています。ただし、オランダの軍艦に攻撃された場合には、防御します。
パーマストン卿は、この知らせを私に伝える際、スピットヘッドでわが艦隊を指揮しているフランスの提督にも、同じ働きかけをしてほしいと求めました。私はためらわず、デュクレスト・ド・ヴィルヌーヴ氏[22]に、その趣旨の指示を送り、このことを国王の政府へただちに報告すると伝えました。したがって、明日、マルコム提督と協力して、フランスのフリゲート艦三隻を派遣するよう求めました。イギリスのフリゲート艦と同じ場所で同じ任務に就き、イギリス艦がイギリス商船に対して行うのと同じことを、フランス商船に対して行います。
公爵殿、私が採った方針は、陛下もお認めくださると思います。パリからの命令を待つ時間がなかったので、自分の責任で行動しなければなりませんでした。」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三二年十月二十九日。
公爵殿、
すばらしいことをしてくださいました。すでにお伝えしたとおり、協定には十分に満足しています。実行にあたって採られた進め方にも、たいへん満足しています。ただ一つ、あなたのお力でぜひお願いしたいのは、わが軍がアントウェルペンへ着く前に、ベルギー国王がフェンローから実際に撤退するよう急かされないようにすることです。そうしないと、難題が生じ、ベルギー議会が騒ぎ、私たちの作戦にも支障が出るかもしれません。一日か二日の問題です。そのために、ベルギー人にひどい愚行をさせる危険を冒すべきではありません。プロイセンが私たちの提案を受け入れないなら、フェンローから撤退する約束ではなく、実際の撤退を、二、三日遅らせることに、不都合はないはずです。それどころか、その場合、撤退を行うこと自体が適切だと、あなたがお考えになるかどうか、私にはわかりません。町を誰に渡すのでしょうか。プロイセンが受け入れるなら、十一月十五日か十六日になってから来るよう、努めなければなりません。その点では、私もヴェルター氏と話して努力します。
内閣をめぐる事情は、まだ到着した議員が多くない現時点で判断できるかぎりでは、かなりうまくいっています。私たちの企てが成功すれば、私は大いに期待していますが、それはあなたのおかげです。私個人について言えば、祖国にもたらされる利益よりも、あなたが示してくださるお気持ちを、さらに大切に思っています……。」
リニー提督からタレーラン公へ。
「パリ、一八三二年十一月二日。
公爵殿、
わが艦船をシェルブールから出発させる際、デュクレスト・ド・ヴィルヌーヴ海軍少将に、到着をあなたへ報告し、さらに、あなたが必要とお考えになる指示には、すべて従うよう命じました。
その指示がパリを経由せず、ロンドンから出るのは、ごく自然なことだと思いました。時間は貴重で、無用の回り道で失うべきではありません。公爵殿、今回、時間をこれほど有効にお使いになったあなたも、私と同じようにお考えでしょう。
私たちに異を唱える人々も、少し穏やかになってきています。しかし全員がこちらへつくと言うのは、危険でしょう。デュパンが到着し、昨日、国王に会いました。反対派にはならず、議長席では中立を守ると言っています。奉答文委員会には必ず入る議員なので、ある程度の影響力を持つでしょう。反対派は、王朝の「準正統性」について、意味を含ませた言葉を奉答文へ盛り込むつもりです。
私たちは、四日か五日には、もしかするとロンドン経由で、ハーグの返事を得られると思っています。カレーの腕木通信を使って、それを知らせていただけるでしょう。『メルポメーヌ』号と『クレオール』号は、スピットヘッドへ出発します……。」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三二年十一月三日。
公爵殿、
今朝、ラトゥール=モブール伯爵から外交報告を受け取りました。ゴブレ将軍の要求によって、困った立場に置かれたと知らせてきたのです。将軍は、十月二十二日協定に基づき、ベルギー政府にフェンロー、リンブルフ、ルクセンブルクの地域の引き渡しを求める要求書を受け取ると、公式の宣言を求めたようです。その宣言は、城塞がベルギー人へ渡される前には、どのような場合にも、フェンローと、オランダへ返還される予定の地域を、外国軍が占領しないと保証するものです。
一昨日、写しをお送りした手紙でご覧になったとおり、私はラトゥール=モブール氏に、要求書をゴブレ将軍へ渡す際、内々に次のことを伝えてよいとしていました。領土は、いかなる場合にもオランダ人の手へ渡さないこと、そして、ベルギー人が最も安心できる形で、この問題を処理しようと、こちらで取り組んでいることです。
フランスとイギリスが、これほど力強くベルギーの利益を支えているいま、ベルギー政府の不安を鎮めるには、この通知で十分すぎるほどだったと思います。私が恐れたのは、ベルギー内閣が、これまで一度もためらわなかった、軽率な公表です。その懸念には根拠があると思います。ブリュッセルの新聞の記事には、すでにあまりに多くの面倒をかけられており、用心せずにはいられません。
ゴブレ将軍が求める公式の申し入れは、各国の内閣に、きわめて悪い印象を与えると確信しています。ラトゥール=モブール氏の手紙によれば、サー・ロバート・アデアは、その宣言をしてよいと考えたそうです。しかし、ブリュッセルの内閣へ渡した文書はすべて、ただちに公表されることが、なぜ彼を思いとどまらせなかったのか、私には説明できません。
いま私たちにとって、ベルギー人の子どもじみた過敏さを満足させることよりも、自らの行動によって列強を安心させることのほうが、はるかに重要です。したがって、どの場面でも難癖をつけてきたゴブレ将軍の求める宣言は、ラトゥール=モブール氏が、はっきりと断るべきだと思います。パーマストン卿との次の会談では、その趣旨を伝えます。卿は明後日まで田舎にいますが、戻り次第、会います[23]……。」
「十一月五日。
一時間前、フランスとイギリスの代理公使が行った通知に対する、オランダ国王の返事を受け取りました[24]。ハーグから直接そちらへ届いていると思いますが、写しをお送りします。この返事は、かなり穏やかな言葉で書かれた拒否です……。」
パーマストン卿からタレーラン公へ。
「外務省、一八三二年十一月六日。
親愛なる公爵へ、
今日、マルコム提督へ与える指示について海軍省を導くため、私が海軍省へ書いた手紙の写しを、極秘でお送りします。今夜、グランヴィルにも写しを送り、あなたの政府へ伝えるようにしました。それによって政府は、ヴィルヌーヴ提督へ同様の指示を与えるのが、どの程度適切か判断できるでしょう。しかし、あなたからも、この指示を内密に、そちらの提督へ知らせていただくと役に立ちます。同僚にどのような命令が出たか、提督も知っておくべきだからです。
心からの親愛をこめて。」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ。
「ロンドン、一八三二年十一月七日。
ロシア人の宣言に意味があるのは、それが噂話を生むことだけです。実際には、リーヴェン氏は宣言をしたくなく、そうするよう決心させたのはマトゥシェヴィチでした。重大な問題と見る必要はありません。ポッツォの言葉も、盛んに取り沙汰されています。誰もが、自分の利益に合わせて、彼の言葉を利用しています。リーヴェン氏などは、いまの情勢では、私たちは最終的な条件を盛り込んだ協定を結ぶほかなく、私たちの協定の表現は、たいへん適切だと思うとまで言いました。――この手紙を書いている日付からすれば、十五日までは、一戦も交えずに進むだろうと思います。その後に起きることは、私の指揮の外にあります。あらゆる用心をするのは、戦争を指揮する人々の仕事です。政治上の準備は、よく整っています。それが私に託された仕事のすべてであり、託された仕事は果たしました。パリを出るとき、私には
『多数を得るため、不可欠なのです』
と言われました。その仕事は済みました。さて、多数は得られるでしょうか。」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三二年十一月八日。
公爵殿、
これ以上は書けないことをお伝えするため、二行だけ書きます。もう使者の出発時刻です。これより早く戻ることができませんでした。昨日、ナントでベリー公妃が逮捕されたとお聞きになれば、その理由もすぐおわかりになるでしょう。私たちは午前中、公妃の身の安全を守るために必要な措置を整えることに、時間を費やしました。この出来事で、大きく確実な多数が、私たちのものになります。
どうかお受け取りください……。」
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ。
「パリ、一八三二年十一月九日。
もちろん、親愛なる公爵、あなたにも、あなたの仕事にも、今月一日付のお手紙にも、とても満足しています。心から感謝いたします。昨日、そのお礼を書こうとしたとき、ベリー公妃逮捕の大きな知らせが届きました。捕らえられたのはナントです。たいへん重要な出来事で、今朝の『モニトゥール』の、それを伝える記事も、政府がこの件について下した決定も、あなたは賛成してくださると信じています。その決定は、必要なことをすべて満たしているように思えます。ナントでは、きわめて静かに事が進みました。公妃がその家にいるという知らせがあったので、前日から家宅捜索をしていましたが、何も見つかりませんでした。そこで将軍と県知事は、軍隊と国民衛兵に、ひとかたまりとなって島のようになった家々の、出入り口をすべて囲ませました。その中に、公妃がいると考えられていた家があり、その判断は正しかったのです。知事はそこに憲兵を残していました。その憲兵たちが、四階の小部屋の暖炉で体を温めようと火を焚いたため、暖炉の鉄板がひどく熱くなりました。公妃は、その奥の小部屋に、メナール氏[25]、ギブール氏、ケルサビエック嬢とともに隠れていましたが、窒息しかけ、もう耐えられなくなって外へ出て、降伏したのです。この異常な出来事がなければ、おそらく、まだ見つかっていなかったでしょう。公妃は、ただちにナント城へ連れていかれました。この重要な出来事について、いままでに私が知っているのは以上です。急いでお知らせします。
シャルトル公とヌムール公は、日曜日に軍へ向けて出発します。長くかからず、アントウェルペン降伏という大きな、すばらしい知らせとともに、早く戻ってきてくれるよう願っています。いま私たちには、それが必要です。オランダ国王の返事は、拒否はしていますが、激しく抵抗する意志を示すものではないと思います。私たちの正しく、よく、美しい大義の前で、あらゆる困難が取り除かれていきます。大切な国王が、愛するフランスの平穏と幸福、繁栄をご覧になり、すべての苦労と犠牲への報いを受けることができるという、穏やかで揺るぎない確信を、私はますます深めています……。」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三二年十一月十一日。
公爵殿、
ザイレン男爵は、パーマストン卿と交渉を再開しようと何度か試み、無駄に終わった後、ついにグレイ卿へ話を持ち込みました。おそらく、パーマストン卿が断った譲歩を、いくらか得られると期待したのでしょう。昨日、グレイ卿のもとを訪れ、ベルリンの内閣が提案した、すでにお伝えした条約案と、写しを同封する文書を渡しました[26]。条約案の写しも添えます。昨日の夜になって、ようやく入手できたものです。
ザイレン氏との会話の後、グレイ卿は、パーマストン卿と意見をまとめるため、私を自邸へ招きました。そして、いまご報告したことを伝えてくれました。ハーグの内閣の新しい提案について、私はすぐに自分の意見を述べることができました。アントウェルペンの城塞が降伏するまでは、また、ベルギーが同意する変更を加えた十一月十五日条約を受け入れると、オランダ国王が約束するまでは、もはや交渉の基礎となるものは何もない、と述べなければなりませんでした。
グレイ卿は、私と同じ意見で、その趣旨の案を書きました。しかし、この問題はなお閣議に諮らなければならないと思う、と言いました。そして、その閣議の後、今日、パーマストン卿のところで会う約束をしました。私はそこへ赴き、同封の覚書を受け取りました。閣議で承認され、昨日の通知への返事として、ザイレン男爵へ送られたものです。
公爵殿、この覚書では、どのような新しい交渉にも欠かせない前提として、アントウェルペンの城塞からの撤退を求めることだけにとどめていると、お気づきになるでしょう。グレイ卿によると、昨日私たちが合意した案の第二の条件は、閣議で採用するのが適切でないと判断されたそうです。それは、オランダ政府に、十一月十五日条約を受け入れる義務をあらかじめ課し、条約に加え得る変更を、ベルギーの意志だけに委ねることで、後の交渉の余地をまったく残さないからです。グレイ卿の、ザイレン男爵への覚書には署名がないことにも、注意する必要があります。そのため、厳密な意味での公式文書ではありません。しかし、ザイレン氏には、それをすぐに使者でハーグへ送るほど、重要に思われたようです。
今回も、ほかのあらゆる場面と同じように、グレイ卿とパーマストン卿には、どんな賞賛も及ばないほどの誠実さと正直さがあることを、あらためて確かめました……。」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ。
「ロンドン、一八三二年十一月十三日。
十五日が近づくのを、私は不安よりも喜びをもって見ています。ひどく疲れる、この不確かな状態から、私たちを抜け出させてくれるからです。ザイレン氏は、小細工や留保、そして不誠実さと言ってもよい態度で、誰もがはっきりさせて終わらせたいと思っていた問題を、著しく損ないました。回り道を選び、トーリー党と手を結んで、イギリス内閣の敵に都合のよいことを、新聞に書かせました。ファルク氏だったなら、半年前にすべてがまとまり、オランダ国王も、ずっとよい立場にいたでしょう……。」
「十一月十四日。
わが軍がベルギーへ入る、そのときが近づいています。あと数時間で、行軍を始めるでしょう。私の側では、必要とされたことをすべて果たしました。パリでも、行動のための準備がすべて整っていることを願います。時間を少しも無駄にしてはなりません。遠征が短いほど、華々しく、ヨーロッパに不都合を生まないものになります。イギリス艦隊は、オランダ沿岸にいます。マルコム提督が率いています。
イギリスが力を示すことは、どれも私たちにとって有益です。フランスの新聞が何と言おうと、イギリスとの結束によってこそ、私たちは戦争を避けられるからです。イギリスとの協定は、攻守同盟条約にあまりにも近く、最も熱心な戦争論者でも、熱を冷まさずにはいられないでしょう。
さようなら。わが軍の行軍と、新聞が伝えるプロイセン軍の動きについて、日々、詳しく知る必要があります[27]……。」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三二年十一月十六日。
公爵殿、
フランス軍の知らせが、きわめて待ち遠しく思われています。ベルギーへ入ったのは、ようやく今朝だったはずだと言われています。これからは、そちらへ目を向けなければなりません。少しでも重要なことは、できるかぎり正確に、逐一お知らせください。こちらでは、わが軍について悪い噂を広めようとする者が、間違いなく出るでしょう。その噂を、私がいつでも否定できることが重要です。できることなら、リールからカレーへの腕木通信で、直接知らせていただきたいと思っています。私たちに最も好意的な人々も、不安を示しています。北部国境の兵力が足りず、そのためオラニエ公に、ベルギーの中心部へ突進する機会を与えるのではないかと恐れているのです。私はその不安を鎮めようとしていますが、それを裏づけるような偽りの噂が出れば、いつでも反論できることが、不可欠です……。」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三二年十一月十九日。
公爵殿、
数行書く時間しかありません。今朝の暗殺未遂が、この一日の混乱をさらに大きくしています。議会でも、パリ中でも、大きな憤りが起きています。おそらく、これは正しい大義に有利に働くでしょう。「おそらく」と言うのは、こちらの人々が、たいへん移り気だからです。国王は、こうしたときにはいつもそうであるように、たいへん立派で、たいへん落ち着き、大いに勇敢でした。ご自身が到着する前に、事件の噂が議会へ届くことを望まず、その声と姿の静けさからは、誰も何も察することができませんでした。演説の効果はよいものでした。全体の調子、断固とした態度、そして慎み深さを、あなたもよいと思ってくださることを願っています。私は、イギリスで続く交渉、郵便、ワイン、書籍について、最後に一段落を加えていました。しかし、最後の読み合わせで、演説を長くするという理由から、その段落は削られました。議会の討論の中で、必ず触れるようにします。
さようなら、公爵殿。暗殺者は、まだ誰かわかっていません[28]……。」
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ。
「テュイルリー、一八三二年十一月十九日、月曜日。
親愛なる公爵、私たちは、またも神の摂理に、どれほど感謝しなければならないことでしょう。天のおかげで、恐ろしい暗殺は失敗しました。愛する国王が、議会へ向かって馬でロワイヤル橋を下りているとき、人でなしがピストルを一発、撃ったのです。国王は見事なまでに落ち着き、何事もなかったように、そのまま進みました。議会でそのことを話すのを望まず、強く確かな声で演説をしました。すばらしい歓迎を受けました。残念ながら、人でなしはまだ逮捕されていません。この恐ろしい襲撃を知ると、貴族院も代議院も、自発的に、こちらへやって来ました。ラファイエットとデュポン・ド・ルールを除き、全員が一人の例外もなく来ました。ただ、その二人も来るかもしれません。親愛なる公爵、この文字をお読みになれるかどうか、わかりませんが、手が震えるのも当然だとお思いになるでしょう。急使で、すぐにお手紙を送りたかったのです……。」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三二年十一月二十二日。
公爵殿、
グランヴィル卿から、ベルギー政府の噂話に関するパーマストン卿の手紙を見せてもらいました。パーマストン卿は、この件を、私よりも重要に受け止めています。ベルギー人が、賠償金やペスカトーレ氏の問題[29]、そのほか何点もの問題について、卿の名を持ち出して私たちに異議を唱えていたので、その話にどれだけ本当のことがあるのか、知ることができてよかったと思いました。もっとも、こうした小さな面倒は、あまり取り合うほどのことでもありません。
今日、シャッセ将軍へ降伏を要求するはずです。防戦するでしょうか。どこまで防戦するでしょうか。それはまもなくわかりますが、いま予測することはできません。城塞を取った後にベルギーから退き、十月二十二日に結んだ約束を、文字どおり守るという決意については、あなたから念を押していただく必要はありません。誰かにその点を疑われる余地があるなら、私は三十分たりとも政務にとどまらないでしょう。
ランズダウン卿から、こちらの内閣をめぐる事情が、最もよい方向へ進み、多数派が完全にまとまったように見えると、お聞きになるでしょう。私たちの友人は、成功を疑っていません。私はそこまで楽観していませんが……。」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三二年十一月二十六日。
公爵殿、
この数日で、こちらでの私たちの立場は、たいへん改善したと申し上げられます。ウィーンとベルリンから届いた外交報告は、当初の激しい興奮の中で漏れ出た態度が、両地で改められたことを示しています。ロンドンにいるオーストリアとプロイセンの公使は、フランスとイギリスが、長く続くオランダ国王の頑固な抵抗に対して採った措置の成功を、望んでいるとまで示しています。
考えれば考えるほど、大陸の各内閣が、フランスとイギリスの結束を破ろうとすることを、確信します。しかし同時に、その結束が長く続く明白な兆しを認めるかぎり、彼らは、その結束と、それがもたらす結果を、受け入れざるを得ないと悟るでしょう……。」
「十一月二十九日。
お知らせくださった情報によれば、アントウェルペンの城塞の包囲作戦に、また遅れが生じたとのことで、残念に思っています。こちらでは、不安が日ごとに増しています。イギリス内閣は、この城塞の速やかな降伏を、新しいフランス内閣が十月二十二日協定の成立にかけていたのと、同じくらい重要に考えるとまで言っています。この言葉は、イギリス政府にとって、この問題がどれほど大切かを、よくまとめています。誇張ではありませんし、私も同じ意見です。
あなたがベルギー人について不満を持っている、怠慢の数々には、驚きません。彼らからは、どのような面倒も起こると予期すべきです。私たちが普段、彼らに対して取る、気を遣った接し方は、これほど新しく、これほど思い上がった政府には、ふさわしくないと思います。
アントウェルペン遠征の遅れは、プロイセン内閣との交渉で、何一つ性急に決めてはならないという必要を、これまで以上に感じさせます。時間は、数多くの困難を解いてくれる、偉大な師です。包囲戦の不確かな成り行きに身を委ねるときには、大きな余裕を持たせる必要があると、あなたもお考えでしょう。アントウェルペンで確実な結果に近づくまでは、ベルリンで何もまとめないよう、お勧めします。プロイセンへのフェンロー引き渡しについて、あなたが最後に定めた十二月五日という日付に固執していたら、厄介な立場に置かれていたことにも、お気づきになるでしょう。交渉は、ミントー卿の助けを得たブレッソン氏が進めています。したがって、パリとロンドンの両内閣から共通の指示を得る必要があると、適宜述べて、その進み方を遅らせるのは容易なはずです。
ベルギーへの遠征費を、ベルギー政府に請求すべきだとお考えの、第百一号の外交報告を、いまパーマストン卿へ伝えました。全文を読み上げました。卿は、たいへん注意深く聞いた後、それによって自分の意見は変わらないと答えました。国王の閣議で挙げられた理由は、すべて、そのまま成り立っているからだというのです。あなたの報告にある議論を、さらに詳しく説明してみましたが、無駄でした。正直に申し上げますが、もう変わることがないと思われる意見を、私も変えられませんでした。
続いて私は、イギリスからオスマン政府の使節へ委ねられたという任務について、パーマストン卿に話しました。卿は、確かに十月二十六日付のコンスタンティノープルからの手紙で、スルタンが親衛隊の大佐ナミク・パシャをイギリスへ送ると決めたことを、知らされたと答えました。この決定はディヴァンの賛同を得ておらず、ディヴァンは、少なくともナミク・パシャがパリを経由することは、認めさせたそうです。また、ナミクの任務が、オスマン政府とエジプトのパシャとの戦争に関わることは、よくわかっていても、イギリス政府へ何を伝えるよう命じられているかは、正確には知られていません。ただ、オスマン政府は、エジプトのパシャが必ず知ることになるこの使節派遣を、十分に目立つものにして、パシャを不安にさせようとしたのだろうと、推測されているだけだということでした[30]。
同時にパーマストン卿は、サー・ストラトフォード・カニング[31]が、イギリスからの実際の援助の申し出と受け取れるようなことを、ほのめかしたことは一度もないと、私に断言しました。そして、こうした場合に普通に用いる好意の言葉を述べただけだという、あなたの判断は、まったく正しかったということです……。」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三二年十一月二十七日。
公爵殿、
お送りする返事は、公式の外交報告に対する、公式の回答です。パーマストン卿は、必要になれば議会で答えられるよう、備えをしたのだと思います。私が主張を続けるのも、同じ理由です。
ご存じのとおり、ベルギーに臨時の支出の償還を求めることにしたのは、昨年、代議院が、一八三一年のベルギー遠征の経費を、はっきりと認めなかったからです。国庫の利益を守るため、あらゆる努力をしたと公に示せなければ、私たちは、何も答えられなくなるでしょう。もっとも、戻ってくる金で、私たちの懐が豊かになるとは、あまり期待していません。
しかし実際、私たちの立場は、イギリスと同じではありません。イギリスは、共通の目的のため艦隊を提供します。私たちも同じことをします。そのためにイギリスはベルギーに何も求めず、私たちも求めません。しかし、そのうえで私たちは、はるかに費用のかかる陸上遠征を、自費で引き受け、一国で実行するのです。
パーマストン卿は、私たちが行動するのは、ヨーロッパ全体の利益だけのためだと考えています。私はそう思いません。同時に、純粋にベルギーの利益のためでもあるという、最もよい証拠は、ベルギーの明確な要請があって初めて、私たちが進軍することです。私たちがアントウェルペンを取らなければ、ベルギー軍が取らなければなりません。そして、私たちがベルギーに求める額は、自分で攻略する場合に必要な費用を、大きく下回ります。確かに、ベルギーが支払う兵士の人数は、一人も減りません。しかし、私たちが自費で行う包囲戦の、物資などにかかる費用は、すべて払わずに済むのです。
パーマストン卿はさらに、内閣の成立、あるいは維持のために、私たち自身がこの遠征を望んだと付け加えています。これは、一般的な議論の範囲を外れています。政治の舞台裏で何が起こるかについての話です。公に挙げられる理由ではありません。こうした隠れた動機を考慮に入れるのなら、私たちにも、次のように言うことができるでしょう。ベルギー人の愚行への恐れ、彼らがオランダへの遠征を始めることへの恐れ、いま置かれている状況から彼らを救い出す必要も、私たちがアントウェルペン遠征を望んだ理由の中にある、と。この遠征を避けられないものにした事情の半分以上は、確かに、ベルギー人の挑発と、彼らがフランスの世論へ及ぼした働きかけです。
ともかく、繰り返しますが、物事は、その実際の意味以上に受け取るべきではありません。私たちの要求は、自らが責任を問われないようにするためです。パーマストン卿の外交報告も、まったく同じ性格のものだと思っています。それ以上のものを読み取ろうというつもりは、少しもないと、卿にお伝えください。
私たちの遠征は、私が望んだほど速く進んでいません。軍隊全体は、定めた日に到着しました。しかし、攻城砲と弾薬の輸送が遅れ、いまも遅れ続けています。ジェラール元帥は、拒否された場合には猛烈な砲火で応じられるよう、すべての配置が整うまで、降伏を要求するつもりはありません。要求は今日行うはずだと聞かされていますが、さらに遅れるのではないかと、なお心配しています……。」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三二年十一月三十日。
公爵殿、
パルメラ侯爵が、ドン・ペドロからイギリス政府への任務を託され、昨日ロンドンへ着きました。今月二十二日にポルトを出発したとのことです。ポルトでは、いまポルトガルを荒廃させている状況を終わらせる必要が、感じられ始めたようです[32]。そのため、パルメラ侯爵は、イギリス内閣に休戦を求めることになっています。この件で、私にも話を持ちかけてきました。休戦の提案が威力を持つのは、フランスとイギリスが同時に提案した場合だけです。
この休戦が得られれば、その後、最も利害関係の大きい国々、つまりスペイン、イギリス、フランスによる仲介を求めることになるでしょう。この三国が、ポルトガルに秩序を戻すために必要なことについて合意すれば、国内の人々が、ブラガンサ家の二人の王子に、その提案を受け入れるよう迫る可能性は、十分にあります。
パルメラ氏のイギリス政府への働きかけと、政府が採る意向を示す決定について、逐一お知らせします。こちらでパルメラ氏の提案が受け入れられた場合、私がどう話すべきか、お知らせください……。」
「十二月一日。
親愛なる公爵へ、
私たちは、いまだ同じところにいます。この状態は、イギリス内閣にはますますつらく、私にはますます厄介になっています。ベルリンからも、困難がさらに加わるのではないかと心配しています。私たちは、フェンローの交渉をベルリンへ移しました。距離とアンシヨン氏のためらいのおかげで、アントウェルペンを取るまでの時間が得られ、それによって難題の最も大きな部分を、一挙に解けると期待したのです。ところが、わが軍の作戦に必要だとあなたがお知らせくださった期間は、残念ながら足りませんでした。アントウェルペンではまだ何も始まっていないのに、ベルリンで協定が結ばれる、その直前まで来てしまいました。アントウェルペンが取れるまでは、フェンローをプロイセンへ渡さないぞという、ベルギー人の愚かな虚勢は、ヨーロッパの平穏にとって、本当に致命的な形で、すべてを複雑にしかねません。では、いま何を試みるべきでしょうか。新たな延期を得ること以外には、何もありません。交渉に属することはすべて長引かせ、軍隊に属することはすべて急がせる。そして何より、ベルギー人の悪意ある態度と、ばかげた要求を、力強く抑えなければなりません。こちらでは彼らを励ますどころか、私たちも同じように取るべき、高圧的な態度で接しているという証拠を、私は手にしました。ですから親愛なる公爵、ブレッソン氏には、きわめて曖昧な指示しか送らず、私たちが最も必要としていないのは、交渉の決着だと、理解させてくださるよう、切にお願いします。さらに、これは外交報告に書くこともできず、書くべきでもなかったのですが、プロイセンにもっと積極的な役割を求めることなく、その好意的な中立を確保できるなら、ベルギーとオランダの決着は、もっと容易になるとさえ思います。近いうちにアントウェルペンを掌握でき、ベルリンでは交渉だけを続け、決してまとめないようにできるなら、それは不可能ではないと思います。
この方向で、価値のありそうな手立てを見つけたと思っています。ただ、お伝えする前に、もう少し考えを練らなければなりません。今日は、すべての交渉を続け、どれ一つとして終結させないでくださるよう、お願いするだけにとどめます。
プロイセンとの交渉がベルリンへ移されたことについて、イギリスが、多少残念に思っている様子を見せたことを、忘れてはいけません。そのためにも、ブレッソン氏には、ミントー卿と最も緊密に協力することなく、何も行わせないよう、ますます注意すべきです。しかし、繰り返しますが、何より必要なのは、いまは何も決めず、きわめて慎重な言葉を用いることです……。」
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ。
「テュイルリー、一八三二年十二月二日。
親愛なる公爵へ、
わが軍から届いた知らせを、急いでお伝えします。十一月三十日午後四時付で送られてきたものを、書き写します。
『昨日、城塞の前で塹壕を掘り始めました。指揮を執ったのはオルレアン公です。初めて砲火にさらされ、本格的に戦わなければならなかったこの機会に、王太子は、たいへんな冷静さ、あらゆることを見通そうとする注意深さ、何事にも備えようとする熱意を示しました。絶えず作業する兵の列を巡り、前哨を訪れ、予備兵を確かめました。要するに、経験豊かな軍人がするようなことを、行ったのです。夜がたいへん暗く、雨が降っていたおかげで、この慎重さを要する作業を、敵に気づかれずに行えました。敵が私たちを見たのは、朝になってからです。そのときには、すでに長さ二千七百トワーズの平行塹壕に守られ、敵の砲火を避けられるようになっていました。そのため、正午ごろ、敵が榴弾や砲弾を投げ始めたのは、オルレアン公を喜ばせるためだけだったのではないかと、私は思います。わずかな時間で包囲はこれほど進みましたから、国王がまもなく城塞の鍵を受け取ると、期待できます。』
親愛なる公爵、それが、あらゆる意味で、私たちの切なる願いです。私たちの心がどれほど揺れているか、お察しくださるでしょう。シャルトル公と塹壕にいたジェラール元帥は、それ以上冷静に、それ以上見事な勇気をもって振る舞うことは不可能だったと、国王へ知らせています。報告を運んできた元帥の副官によれば、最初の砲弾が頭上を通ったとき、シャルトル公は喜びで跳び上がり、兵士たちは皆、踊り始めたそうです。
司法当局が、十一月十九日の恐ろしい襲撃の根源までたどり着くかどうかは、まだわかりません。司法当局自身は、できると信じています。確かなのは、この襲撃によって、フランスは国王という貴重な宝を持ち、国王を失えば、どれほどの危険にさらされるかを、人々が広く、これまで以上に強く感じるようになったことです。皆、国王と立憲王政に結びつきを取り戻しています。それが、議会でこの大きな多数を、私たちにもたらしています。議会は、すばらしいものとなり、たいへんよい会期を約束してくれます。
必要なのは、アントウェルペン問題を終わらせることです。私たちは、その仕事に取りかかっています。確かに、ベルギー人は感謝し、喜び、満足すべきでしょう。しかし、そうではありません。正直に言うと、彼らの恩知らずと愚かさには、腹が立っています。ベルギーでの兵力が不足しているのではないかというイギリス政府の不安を受け、国王がいま派遣した、シュラム将軍の新しい師団[33]についても、彼らはこの期に及んで、まだ文句を言っているのです。まったく、イギリス政府は、彼らの愚かさと、それによって彼ら自身がどれほど損なわれるかを、よくわからせるべきだと思います……。」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三二年十二月六日。
公爵殿、
ようやく、イギリス内閣を満足させることのできる、また、満足させるはずの、包囲戦の知らせを送ります。誤りは、約束を守らなかったことではなく、このひどい季節に準備をするために必要な時間を、十分に計算しなかったことです。軍隊は、人間の力を超えるほどの努力をしました。最後の砲台を、城塞の斜堤のすぐ下、身を隠せない場所に据えたことは、これまで行われた中でも、最も大胆な企ての一つだと言われています。八日以内、遅くとも十日以内、おそらくはもっと早く、城塞は取れると考えられています。その知らせが、イギリスの選挙の最中に届くことを願っています。
今日の外交報告でご覧になるでしょうが、フェンロー問題が、突然、この町とリンブルフをオランダへ渡すという提案で終わったと知り、私は、このうえなく驚きました。そう感じて当然だと思います。そもそも、この問題の進み方が、私にはまったくわかりません。あなたとパーマストン卿の覚書によって、ベルリンへ移されました。ロンドンへ戻った後、またベルリンへ送られました。その際、あなた自身もお書きになったとおり、パーマストン卿は、自分の同意がなかったと、多少不満を述べていました。ところが、あなたにも私にも知らされていない提案で終わり、その条件を私が知るのは、パーマストン卿からグランヴィル卿への短い手紙によってだけなのです[34]。
この提案は、実行の段階になれば、私たちを大きな困難に投げ込むのではないかと、ひどく心配しています。当面も、プロイセンに対して、私たちが不確かで、気まぐれに態度を変えるような印象を与え、それが非常に不愉快です。国王は、この提案にきわめて強く反対しています。そして、いくつもの点で、そのお考えは間違っていないと思います。
今朝、こちらのスペイン大使の職を離れ、内務大臣になるためマドリードへ戻るオファリア氏と、長く話しました。いろいろな話の末に、次の点へ行き着きました[35]。
『ドウロ川の河口でイギリスの船が砲撃されたことについて、イギリス政府が不満を訴えるべきだと考えるなら、スペイン政府は、満足な対応を得られるよう、喜んで仲介する。しかしイギリス政府が、それを口実に中立を破り、ドン・ペドロを支持すると宣言するなら、スペイン政府はただちに、ポルトガルへ軍隊を入れる』
というのです。
私はオファリア氏の話を遮り、どの資格で話しているのか、ただの会話なのか、それとも政府を代表した申し入れなのかと、尋ねました。氏は、大使として話しているのではなく、もう自分を大使とは見なしていない、と言いました。しかし、私と話すうえで、これが自国政府の考えであり、この条件があって初めて、自分はスペイン国王の大臣になるのだと、伝えておきたいのだということでした。
そこで私は、この会話を、どう扱ってほしいのか、イギリス大使へ知らせてほしいのかと、尋ねました。氏は、それを望んでいると、それとなく示しました。この主題について、長く話し続けました。長い間その話を聞いた末、私はこう言いました。公式の資格によるのではなく、ただの会話としてお話しになるのだから、私も同じ調子で続け、頭に浮かんだ一つの考えについて質問しましょう。ただし、ある仮定について、あなたのご意見を知って、私個人の関心を満たすためだけの質問です。それ以外の意味を、何も読み取らないでください、と。
もしドナ・マリアの立場を憲法の問題から切り離せるとしたら、何らかの成り行きで、憲法には触れずに彼女を王位につける話になったとしたら、それでもドン・ミゲルを支持して武力介入する決意に変わりはないのですか、と私は尋ねました。
彼は、そうではないとはっきり答えました。スペインが何より気にかけているのは憲法であり、現政府がそれを許せば、自ら滅びることになるというのです。
私はそれ以上話を進めず、この会話をグランヴィル卿に報告しました。あなたも、この会話をお知りになることを喜ばれると思います。なお、お話しになった案には、数え切れないほどの障害と困難があるように見えます[36]。必要があれば閣議で取り上げますが、その前にイギリスから明確な提案があるのを待つつもりです。
それでは、公爵殿、どうぞご快復を。ご消息を心待ちにしております……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三二年十二月十日。
公爵殿、
今月六日付の外交報告を拝受しましたが、そこに記された情報を読んで驚かずにはいられませんでした。私はただちにパーマストン卿へ知らせる必要がありました。
フェンロー問題の処理に見られる矛盾を一つ一つ追及すれば、説明を求めたり非難したりする理由はいくらでも見つかるでしょう。しかし、それでは何の成果も得られず、何よりも優先すべき、いま私たちが取り組んでいる重大な問題の帰趨さえ危うくしかねません。そこで私は、このような応酬は早々に打ち切るほうがよいと考えました。
そもそも、パリ、ロンドン、ベルリンへと順に持ち込まれた交渉で、その主な目的が猶予を得ることだったのですから、行き違いが生じてもさほど驚くにはあたりません。訓令の欠如、それなしで進めざるをえなかった事情、あるいは進めようとする意図、軽々しく発した言葉や誤って受け取られた言葉、そのほか無数の事情が、今回私たちの直面した困難の大半を生み出したのでしょう。
しかし、公爵殿、あなたのお手紙にふさわしい厳粛な態度で、私の驚きをパーマストン卿に伝えるのを怠ったわけではありません。私自身にも、そうするだけの理由がありました。六日付の第三十七号としてあなたにお送りした外交報告を私は彼に読み聞かせており、彼はそれをまったく正確だと認めていたからです。彼の求めに応じて、重要でない一文を私自身が少し直しもしました。それなのに、そのとき彼はミントー卿に送ることにした訓令について、一言も述べませんでした。
私がこの事情をかなり強い調子で思い出させると、彼は、そうした自分の行動に非があったとしても、ジェラール元帥がフランスとイギリスの両政府の名で行った最後通告については、自分にも不満を述べる理由があると答えました。その際、あらかじめ相談もせずに自国の国王の名で発言され、国王からはそのやり方に対するきわめて強い不満を示されたというのです。
重ねて申し上げますが、公爵殿、このような追及をさらに続けることはできたとしても、国王政府の利益には何の実際的な成果もなかったでしょう。ですから、険悪にならないうちに会話を終えたのは、より慎重な行動だったと思っています。あなたもこの考えに賛同され、故意ではなかったと思われる過ちはすべて忘れるべきだとお考えくださることを願います。これは今後の教訓であり、つねに正式な手続きと連絡だけによって進めることで、役立てるべきものです。そこで私はパーマストン卿に、私たちが話し合った新しい取り決めの案を、グランヴィル卿を通じてあなたに知らせるよう勧めました。この案については、これからご報告します。その前に、あなたの外交報告にあったもう一つの問いにお答えする必要があります。
あなたは、アントウェルペンの城塞の占領後に国際会議を再招集できると私が考えた理由を、お尋ねになっています。私は、またパーマストン卿も、占領が実現すれば、オランダに対する強制措置の実施によって中断された交渉を再開することに、ほかの三大国の全権代表も好意的に応じるだろうと、つねに考えていました。それはヨーロッパの平穏を大いに取り戻すことになったはずです。この期待には根拠があると思われていましたが、一昨日、サンクトペテルブルクからの外交報告をリーヴェン氏とマトゥシェヴィチ氏に届ける使者が到着して、事情が変わりました。
その外交報告には、十月二十二日の協定を知らされた際に彼らが取った態度を、皇帝が満足しているとの言葉がありました。同時に、国際会議で交渉するため彼らに与えられていた権限を撤回すると告げられていました。彼らはパーマストン卿と私に、その権限は一時停止されただけだと述べていたのです。これによって、アントウェルペンの城塞占領の直後に国際会議を招集するという、私たちの立てた計画は崩れました。
こうした状況では、ほかの三大国の参加なしにオランダとベルギーの問題を終結させることになった場合、どのような手順を採るのが適切かを、イギリスとフランスが協議しておくことが、この上なく重要になります。これからあなたに十分ご検討いただきたい新しい案の目的は、そこにあります。
フランスとイギリスは、ネーデルラント国王の頑迷な態度を武力によって打ち破るために結束しました。国際会議がもはや存在しない以上、両国は、ベルギー側の同意を得た条約をハーグの内閣に提示し、その受諾を求める義務があると考えています。その条約には、次の条件を盛り込みます。
一、ネーデルラント国王に帰属すべき領土を、同国王へ引き渡すこと。
二、同国王は、アントウェルペンに属するリロとリーフケンスフークの両砦を引き渡すこと。
三、オランダは、一トンにつき一フローリンの通航税を条件として、スヘルデ川の自由航行を認めること。
四、スヘルデ川と中間水域における航路標識料および水先案内料を定めること。
五、マース川を開放すること。
六、ベルギーとドイツの通商をつなぐ二本の道路を開放すること。
七、すべての政治犯罪について大赦を行うこと。
八、ネーデルラント国王のかつての臣民すべてを忠誠の宣誓から解放する文書を作成すること。
フランスとイギリスの間で合意したこの条約を、両国の全権代表がハーグへ届けることになります。公爵殿、この件についてご指示をお送りくださるようお願いします。
イギリス内閣は、以前お話ししたブラガンサ家の両公子の仲介を進めるため、サー・ストラトフォード・カニングをマドリードへ派遣することにしました。彼は途中でパリに数日間滞在し、あなたと協議する予定です。任務の目的に関する詳しい事情は、すべて彼からお聞きになれるはずです。そのうえで、レーヌヴァル氏に適切と思われる指示をお送りになれます……」
ラトゥール=モブール伯爵からタレーラン公へ。
「ブリュッセル、一八三二年十二月十八日。
公爵殿、
使者が出発する間際、私の書類包みもすでに封をしたところで、アントウェルペンから知らせが入りました。ここ数日の雨で作業が遅れたため、城壁を破る砲撃を始められるのは明後日になるとのことです。したがって、この点については、今朝の外交報告でお伝えした内容を訂正しなければなりません。
ジェラール元帥は、一部のイギリスの新聞に載った記事に心を痛めています。それらの記事は、わが軍の兵士が塹壕へ出るのは、ブランデーを飲まされ、将校から虐待されるからだと主張しているのです。元帥は、ロンドンのフランス大使館の手で、この虚偽を否定してほしいと望んでいます。カラドック大佐――フランス軍司令部に駐在するイギリスの軍事委員――も、この趣旨でパーマストン卿に書簡を送るはずだと承知していますので、なおさら進んで元帥の要望をお伝えする次第です……」
デュラン・ド・マルイユ男爵からタレーラン公へ。
「パリ、一八三二年十二月十五日。
公爵殿、
公爵殿、身に降りかかったことを、どのようにお伝えすればよいのかわかりません。
ロンドンから戻って以来、私はベルリン赴任の最後の準備を整えていただきたいと、大臣に繰り返し求めてきました。初め大臣は、両院の開会、奉答文の審議、両議会の最初の動きを待つよう望まれました。すべてが順調に進んだので、私はついに信任状、訓令、旅券を正式に求めました。ところが昨日、ブロイ公から、現在の状況ではブレッソン氏こそベルリンに必要な人物であり、彼をそこから去らせることには同意できないと告げられたのです。それだけではありません。私が異議を申し立て、こうした扱いがどれほどつらいかをあらゆる理由を挙げて訴えたにもかかわらず、ブレッソン氏がまもなくベルリン公使に正式任命される見込みなのだと、受け取らざるをえませんでした。
たしかに、この打撃には美しい言葉が添えられていました。私の功績を認め、能力を正当に評価し、最初に空く大使の地位を約束してくれました。しかし、いま差し出せるのはフィレンツェの公使職だけだというのです。私は、ベルリンへ派遣するのが適当だと判断されるまで、いまの立場で、いまいる場所にとどまらせてほしいと願い出ました。それもおそらく認められないでしょう。政治生活の中でつらい思いをしたことは幾度もありますが、今回は最もつらいものです。閣下のお力添えによって運が再び開け、閣下の仕事をお手伝いすることで多くの方々の支持も得られました。それだけに、このような冷遇は思いも寄りませんでした……
どうかお力添えとご助言をお願いいたします。閣下の取り組んでおられる重大な事柄の中に、こうした私事を持ち込むことをお許しください……」
タレーラン公からヴォーデモン公妃へ。
「ロンドン、一八三二年十二月二十日。
まずデュランに、それから彼の大臣に手紙を書きます。彼に対して、フィレンツェなどとはまったく違った償いをしないはずがありません。大使の異動があり、バラント[37]をトリノより大きな大使館へ送ることになれば、トリノにはリュミニー氏を任命し、デュラン氏にはスイスを与えるのが自然で、テュイルリー宮の都合にもかなうでしょう。それが最善の策です。――あなたも私も、人とのあらゆる関係に誠実さと変わらぬ心を持ち込みます。だから少しばかりお人好しになってはいないかなどと、確かめる気にはなりません。」
「十二月二十一日。
今日、デュランに手紙を書きます。あなたには言いますが、あそこでしていることは実に不適切です。行政の品位を落とします。トリノが空くなら彼に与えるよう、強く求めるつもりです。しかし、私が強く求めたところで、どれほどの力があるでしょうか。望まれたことはすべてやりました。もう私を必要としてはいません。人の影響力というものは、その人が必要とされる度合いに尽きるのです。ジェラール元帥は、イギリスの新聞が包囲戦の進みの遅さを非難し、それが兵士の士気をくじくと言っていることに不満を述べています。たしかにそう言う新聞もありますが、逆のことを言う新聞もあり、そうなれば世論にはもう何の影響もありません。トーリー派の新聞は遠征を悪く言い、ホイッグ派と急進派の新聞はよく言います。それは受け入れるしかありません。イギリスの国王も王妃も、すべての閣僚も受け入れているのです……」
「十二月二十五日。
ついにアントウェルペンが落ちました[38]!!! 腕木通信によれば、守備隊は砦が引き渡されるまで捕虜になるそうです。これでわが王子たちも、あらゆる危険から解放されました。本当にうれしく思います。この一か月、私にはまったく心の休まらないことでした。ほとんど一人きりで暮らしています。いつも不安がつきまとうときには、平気でいる人々と一緒にいても落ち着かないからです……
ポッツォがなぜこちらへ来るのか、あなたは知らせてくれません。私の考えですが、これはあなた一人にだけ言うことです。外交団の長として新年の挨拶をするのを避けたいからではないでしょうか。あの演説は彼を困らせるはずです。こんな考えが頭をよぎりましたが、当たっていると思います。私の頭に浮かぶことは、まともなことも、ばかげたことも、あなたにお話しします……
また仕事が戻ってきます。オランダ国王に何かをさせるよう試みなければならないからです。それが容易かどうかは、ご存じでしょう。その前に、明日ナミク・パシャとほかのトルコ人を何人か夕食に招きます。パシャは整った顔立ちで、フランス語をとても上手に話し、書くこともできます。服装は少しヨーロッパ風ですが、頭の装いには昔のトルコらしさがいくらか残っています……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三二年十二月二十六日。
公爵殿、
……アントウェルペンの城塞の降伏の報は、ロンドンでは平和が維持されることの新たな保証として受け取られました。その点から言えば、誰もが満足したと言ってよいでしょう。ノール県知事のご配慮で、私は降伏を最初に知らされました。この情報を、一部の新聞の誤った報道に対抗させて、有効に用いることができました……」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三二年十二月二十四日。
公爵殿、
ついに決着がつきました。あなたも私たちと同時にお知りになったでしょう。詳しいことはまだ何もわかりません。腕木通信は悪天候のため中断されました。これからのことは、いまやあなたの手にかかっています。それだからこそ、私は安心しています。
ご連絡を心待ちにしております。こちらの事態はとても順調です……」
デュラン・ド・マルイユ男爵からタレーラン公へ。
「パリ、一八三二年十二月二十五日。
この手紙は急使便で送りますので、前の手紙より先に着くかもしれないと期待しています。前の手紙はあまりに短く、私への扱いがついにすべて改められたとお伝えできませんでした。私は大使としてナポリへ行くことになりました。ベルリン公使のほうを望んだ理由はすでにお話ししましたが、これなら償い以上のものです。今回も、国王、大臣、そして閣下に、それぞれ感謝しています。これほど速やかで十分な公正さを得られたのは、閣下が大きなお力添えをしてくださったからだと、疑っておりません。
アントウェルペン問題の決着を、閣下とともに喜ぶことを忘れたなら、自分を責めずにはいられません。こちらでは大きな好ましい効果を生んでいます。きっとロンドンでも同じことでしょう……」
グレイ卿からタレーラン公へ。
[翻訳]
「イースト・シーン、一八三二年十二月三十日。
親愛なるタレーラン公へ、
うれしいお手紙をいただき、心からお礼を申し上げます。そこに記されたことは、フランス政府の賢明な政策と誠意から私が期待していたとおりです。オランダの守備隊を無条件で帰国させるという決定は、誓約を条件として釈放するよりも、さらによいものです。これからも変わらぬ私の思いをお信じください……」
アントウェルペンの城塞は陥落した。この一件はすべて首尾よく終わり、それに関心を寄せていた人々が大きな満足を味わっているとき、私には悲痛な打撃が加わり、深い悲しみに沈むことになった。ヴォーデモン公妃が数日間の病の後、十二月三十一日から一八三三年一月一日にかけての夜に亡くなったのである。私は五十年来の友を失った。公妃とは、その義母ブリオンヌ伯爵夫人の家で知り合った。私が青春の最も楽しい年月を過ごした場所である。私たちの間柄は一度も変わらず、これほど忠実な友を失った悲しみを、私は慰めることができない。公妃は死後にさえ私を助けてくれた。相続人たちが、私の送った手紙の大半を返してくれたからである。すでにご覧のとおり、私はそれらの手紙から、思い出をまとめるのに役立つ多くの細部を引き出すことができた。それがなければ、おそらく記憶から抜け落ちていたはずだ。だから、公妃の最期に立ち会うことのできた、私より幸運な人々が、その高潔な人柄について述べた証言のいくつかを、ここに掲げることをお許しいただきたい。
パスキエ男爵からタレーラン公へ。
「パリ、一八三三年一月二日。
公爵殿、
いま私たちを襲った不幸に、私の深い思いを閣下の思いに重ねずにはいられません。閣下より深い思いを抱いておられる方はいないと、確信しているからです。
ヴォーデモン公妃のご病気については、きっとお聞きになっていたでしょう。しかし病状の進み方があまりに速かったため、訃報もほとんど間を置かずに届くことになります……
公妃の友人の一人に数えていただく幸せに恵まれた者は、いま受けうる最大の喪失を宣告されたと言ってよいでしょう。公妃をたたえるには、ごくわずかな言葉で足ります。多くの友人を持ちながら、一人として見捨てることはなく、自分の過ちで失うこともありませんでした。閣下をどれほど大切に思っておられたかは、よく存じています。公妃の死が閣下にどれほど大きな空白を残すかも、わかります……」
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ。
「テュイルリー宮、一八三三年一月六日。
私があまりにも予見し、私たちのため、とりわけ親愛なる公爵殿、あなたのためにこれほど恐れていた不幸が、お手紙を差し上げてすぐに起きてしまいました。あなたにとってこれほど残酷な打撃の後、どのようにお過ごしか、一刻も早く伺いたく、あらためてご消息をお知らせいただきたいと筆を執りました。私たちは皆、あなたのことを深く案じています。あの大切な公妃を失った痛みを、強く感じています。私は公妃から真の友情を示す数々の証しをいただきましたし、公妃は私たちの大義と利害に、あれほど熱心に心を一つにしてくださいました。あなたがお感じになる、もっともな悲しみを、心の底から私もともにしています。その悲しみを少しでも和らげることができればと、心から願っています……」
この悲しい出来事によって中断した話を再開したい。アントウェルペンの城塞の占領までの書簡の抜粋は、すでに掲げた。この出来事に関する記述を途中で断ちたくなかったからである。しかし、その決着を得る前に、私たちが、そこから生じうる結果、とりわけフランスとイギリスの両政府が採るべき措置を検討しなければならなかったことは、おわかりいただけるだろう。そこで、話を少し前に戻さなければならない。
一八三二年十二月十日付の私の外交報告でご覧のとおり、そのころすでにパーマストン卿と私は、アントウェルペンの城塞占領後の進め方を考えていた。この件について私から連絡を受けたブロイ公は、問題全体を見事にまとめた、すぐれた覚書を送ってくれた。ここでは、その結論を列挙するにとどめる。
「アントウェルペンの城塞の占領後、フランス軍はただちに撤退する。
船舶の抑留は維持する。
両艦隊は合同を保ち、両政府から命令を受けるまでダウンズ泊地を出ない。
フランスとイギリスの両内閣は、次の条件を基礎として条約案を作成させる。
一、ネーデルラント国王に帰属すべき領土を、同国王へ引き渡すこと。
二、アントウェルペンに属するリロとリーフケンスフークの両砦が、城塞と同時にフランス軍の手に落ちていなかった場合、同国王はそれらを引き渡すこと。
三、オランダは、一トンにつき一フローリンの通航税を条件として、スヘルデ川の自由航行を認めること。
四、スヘルデ川と中間水域における航路標識料および水先案内料を定めること。
五、マース川を開放すること。
六、ベルギーとドイツの通商をつなぐ二本の道路を開放すること。
七、すべての政治犯罪について大赦を行うこと。
八、ネーデルラント国王のかつての臣民すべてを忠誠の宣誓から解放する文書を作成すること。
この条約案はベルギーと協議のうえ、ハーグに駐在するフランスとイギリスの代理公使から、同地の内閣に提出する。
その前にウィーンとベルリンの両内閣と協議し、フランスとイギリスの提案をネーデルラント国王に受け入れさせるため、両内閣に協力してもらうこともできる。
ネーデルラント国王は、提出された条約を、交渉を求めず、無条件に受諾しなければならない。
受諾した場合、強制措置はただちに停止し、船舶の抑留を解除する。
拒否した場合、フェンローおよびリンブルフの暫定的な占領について、プロイセンと交渉する。
以上の準備を整えた後、国際会議を招集する。オランダが融和の意向を示したなら、オランダおよびベルギーと協議して十一月十五日の条約を改める。そうでなければ、ネーデルラント国王の意志に左右されないベルギー問題の決着を求める。
その決着は、次のようなものとなる。
一、ネーデルラント国王をほどなく条約の受諾に導くような、現状維持の取り決めを定めること。
二、ベルギーの領土をヨーロッパの保証の下に置き、侵略への不安を残すことなく軍備縮小を求められるよう、ベルギーに十分な援助を保証すること。」
私はこの案をただちにパーマストン卿へ伝えることができなかった。議会の解散で選挙が必要となり、そのため彼がロンドンを離れていたからである。戻るのは十二月二十二日になると、彼から知らされていた。私はその翌日彼と会った。以下は、私たちの会談の報告である。
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三二年十二月二十四日。
公爵殿、
ようやく昨夜、パーマストン卿に会うことができ、アントウェルペンの城塞がわが軍の手に落ちた後に国王政府が採ろうとしている方針を、彼に話すことができました。その説明書の写しをあなたにお送りします。私は彼に書類を預ける前に読み聞かせました。そこに含まれるさまざまな問題を、会話の中で順に詳しく述べられるようにするためです。
公爵殿、この説明書をお読みになれば、先ごろいただいたお手紙の中であなたがたいへん的確に述べられた考えを、私がほとんどそのまま用いたことがおわかりになるでしょう。
私たちの案はパーマストン卿に好意的に受け入れられました。彼は、説明書にまとめた事実が正確であると認め、そこに示した手順も適切で、非常に役立つものとなりうると考えています。この文書を伝えたことについて私に礼を述べ、ごく近いうちに閣議の判断を仰ぎ、その場でこの案を支持するつもりだと約束しました。したがって、閣議の決定が下った後でなければ、確かな返答をあなたにお伝えすることはできません。閣議がいつ開かれるか、正確に申し上げることもできません。閣僚の何人かがロンドンにいないからです。大法官、ランズダウン侯爵、そのほか数名が留守にしています……
次に私は、ネーデルラント国王がスヘルデ川の航行を妨げる意向を示したことで生じうる懸念を、パーマストン卿に話しました。そして、その計画が実行された場合、イギリス政府はどう行動すべきと考えるか、教えてほしいと頼みました。彼の答えは、ネーデルラント政府の採る措置によって、問題には二通りの解決がありうるというものでした。
『実際、
ネーデルラント国王は、スヘルデ川をフランス、イギリス、ベルギーの船にだけ閉ざすのか、それともすべての国に対して閉ざすのかを、表明しなければなりません』
と彼は言いました。
『しかし、前者なら、
私たちへの宣戦布告になるでしょう』
と私が言うと、
『ええ、
戦争になります。しかし、宣戦布告をするのは国王の側です。その場合、封鎖と船舶抑留によって私たちの手に入った財産は、戦時の拿捕物と同じ運命をたどるおそれがあると、国王も承知しているはずです』
と答えました。
『ウィレム国王が、
スヘルデ川の閉鎖をすべての国に及ぶ一般的な措置とすべきだと考えるなら』
とパーマストン卿は続けました。
『私たちには、ウィーン会議の決議に加わった各国の内閣に協力を求める権利があります。各国とも、ウィーンで正式に承認された河川自由航行の原則に、多少なりとも利害を持っているからです。この場合にも、現在は差し押さえているだけのオランダ船舶を、没収する手続きに進むことを妨げるものは何もありません。』
公爵殿、このような行動は道理にかなっており、ハーグの内閣の決意を変えることにもなると思います。同内閣は、いまフランスとイギリスが抑留しているネーデルラント船舶が没収されれば、オランダでどれほど深い衝撃を生むかを知っています。しかも、それはオランダの利益を国王の利益から切り離す最も確実な手段の一つですから、見過ごすべきではありません……」
「一八三二年十二月三十日。
今朝、二十七日付の外交報告を拝受し、たいへんうれしく思いました。私はただちにパーマストン卿とグレイ卿に、わが軍のフランス帰還と、誓約を条件とするオランダ守備隊の釈放について、ジェラール元帥へ送られた命令を伝えました。二人とも、国王政府のこの気高く誠実な行動をどれほど重んじているかが伝わるような形で、感謝の意を述べました。
公爵殿、あなたが外交報告でおっしゃったとおり、私たち皆が有益だと考えるハーグへの働きかけは、成功するにせよしないにせよ、時間を置かずに試みるべきだと考えました。そこで、ネーデルラント国王に対する提案を盛り込んだ覚書を、いまパーマストン卿と確定したところです。今夜にも発送され、ご希望のとおり、ハーグ駐在のフランスとイギリスの代理公使から提出されます[39]。
この覚書の写しをお送りします。今月二十二日にあなたからお送りいただいた提案[40]に、ごく近い内容となっていること、またオランダの世論を私たちに反対する方向へ刺激しかねないものは、注意深く取り除いたことに、お気づきいただければ幸いです。
私たちの覚書と、あなたからお送りいただいた案との間には、一致があると考えています。また、今日拝受した外交報告に記されたご助言、さらに、ハーグから届く知らせによって、ネーデルラント政府への連絡を急ぐ必要があると感じていること――これらすべてを考慮して、私は、あなたからの新たな指示を待たずに覚書へ署名し、オランダへ発送することを決めました。この状況で私が取った方策を、ご承認いただけるよう願っております。
私たちの覚書と提案は、できるだけ簡潔な言葉で書くようにしました。論争の種をつかむことにいつも巧みなハーグの内閣へ、その材料を与えないためです。」
ハーグ駐在のフランスとイギリスの代理公使は、一八三三年一月二日、私たちの覚書をネーデルラント政府へ提出した。ネーデルラント国王は、船舶の抑留と港湾封鎖が及ぼす影響について臣民から不満を突きつけられ、国の利益にこれほど有害な状況を終わらせようと申し出る二大国との交渉を、拒むことはできないと考えたのだろう。そこで、十二月三十日付の私たちの案に対し、一八三三年一月九日、ザイレン氏を通じて対案[41]を提出した。これによって、一方のフランスおよびイギリスと、他方のネーデルラントとの間に、交渉が始まった[42]。
この退屈な交渉の細部を、ここで述べるつもりはない。交渉はほぼ五か月続き、ようやく一つの成果に至ったが、それは時を追って述べることにする。ここでは、ごく簡単に、ネーデルラント国王が引き延ばしと策略という従来の方針を守り、あらゆる手段で十一月十五日の条約を認めることを避け、自分に有利な機会が訪れたと思えば闘争を再開できるよう、暫定状態を保とうとした、と言えば足りる。
しかし、私たちは目標からそらされることはなかった。その目標は、十一月十五日の条約を全面的に認めさせるか、あるいは、ベルギーにきわめて有利でオランダに不利な暫定状態をつくり、オランダを最終的な合意へ導くか、そのいずれかだった。
ザイレン氏は、私たちを別の土俵へ引き込もうと、揚げ足取りのあらゆる手立てと詭弁を使い尽くしたが、無駄だった。ついに根負けして三月半ばごろに任地を去り、交渉は数日間中断された。しかし、封鎖と船舶抑留の影響は、オランダにとって依然としてあまりに深刻であり、国王も終わらせざるをえないと感じた。そこで新たな全権代表、S・デデル氏をロンドンに送った。この人物は前任者よりはるかに融和的で、感じのよい応対も、私たちの協議を円滑にするのに役立った。それでも、与えられた権限はきわめて限られており、五月二十一日の協定を結ぶまでに、さらに二か月以上を費やさねばならなかった。この協定については、後であらためて述べることにする。それまでは、重要性がほとんど二次的なものとなっていた、煩わしいオランダ・ベルギー問題を脇に置こう[43]。フランスとイギリスの関心は、同時にほかのいくつもの方面へ向けられていた。すでに見たとおり、東方問題[44]は、エジプトのメヘメト・アリ・パシャがオスマン帝国政府に勝利を重ねたことで、ひどく複雑になっていた。ギリシアの新政府も、政権を確立するのに困難を抱えていた[45]。他方、スペインでは、フェルナンド七世が、やがて命を奪うことになる病に衰弱しているとき、セア・ベルムデス氏が内閣の首班にいたことから難題が生じていた[46]。それは、ポルトガルでドン・ミゲルとドン・ペドロの兄弟の内戦が長引いているため、いっそう深刻になっていた。このころ、ロシアの駐仏大使ポッツォ将軍も、ロンドンを訪れるのがよいと判断していた。ポッツォ氏は、相談を望んだ皇帝の命令でサンクトペテルブルクに滞在した後、最近パリの任地へ戻ったばかりだった。帰途にはベルリン、ミュンヘン、シュトゥットガルトに立ち寄り、それぞれの宮廷で任務を果たしたと伝えられていた[47]。パリに戻るや、彼は突然ロンドンへ発った。外交団の長という地位にある以上、新年に際してルイ=フィリップ国王へ祝辞を述べることになる、その直前だった。以上の簡単な説明があれば、これから抜粋を掲げる書簡の意味と重みを、おわかりいただけるだろう。なお、イギリス政府が、マドリードで一時的に自国を代表させるため、サー・ストラトフォード・カニングを任命したばかりだったことも、思い出していただきたい。ロシア宮廷は、彼がコンスタンティノープルで取った行動[48]への恨みから、サンクトペテルブルクの大使として受け入れることを拒んでいた。パリ経由でスペインへ向かうサー・ストラトフォード・カニングは、パリに滞在してブロイ公に会い、マドリードで果たす任務について話し合うよう命じられていた。
その後、ブロイ公は次の手紙によって、この会談の結果を知らせてくれた。
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三二年十二月二十日。
公爵殿、
……サー・ストラトフォード・カニングは、こちらに二日間滞在しました。彼は私に訓令を見せてくれました。その目的は、まず休戦を成立させ、次に兄弟二人を退け、一八二六年の憲法を放棄することを条件として、ドナ・マリアの名による摂政政府を樹立し、ポルトガル問題を終結させることです。スペイン政府のいまの状態では、サー・ストラトフォード・カニングの長い説明を、最後まで聞いてもらえるとはあまり期待できません。彼の訓令にはフランスの関与への言及はありませんが、私たちの会話の最後に、彼はフランス政府もこの任務に加わってほしいと望みました。私は閣議に諮り、私の提案を受けて国王は、次のように返答することを決めました。
一、サー・ストラトフォード・カニングの任務が、いずれドン・ミゲルに対する、ひいてはスペインに対する武力行使へ至るのであれば、フランス政府はそれに加わることはできないと、あらかじめ宣言するのが誠実な態度だと考えます。ドン・ミゲルだけを相手にするなら、イギリスには私たちの援助は必要ありません。スペインが加わるなら、私たちがドン・ペドロやその娘の利益のためにスペインと戦争することはできません。そうすれば、この企てはピレネー山脈の両側でただちに革命的な性格を帯びることになるからです。それは一八二三年のわが遠征を裏返したものとなり、全般的な戦争が続くでしょう。私たちがコルテスの政府を復活させるためスペインに入るのだという考えが、すべての人の心に生じるのを防ぐ手立てはありません。
二、サー・ストラトフォード・カニングは、幼いドナ・マリアと幼いスペイン王女の立場と権利の類似を、論拠にするつもりです。私たちは、この議論にも加わることはできません。それはスペインの王位継承問題で、フランスの真の利益に反する側へ、あらかじめ立場を明らかにすることになります。サリカ法の維持に反対する立場を取り、しかも、かなり弱く、きわめて不安定で、闘争が始まれば、おそらく敗れるだろう陣営のために、そうすることになるのです。
この二つの制限の範囲内なら、私たちは喜んで、サー・ストラトフォード・カニングを助けるための訓令をレーヌヴァル氏に与えます。休戦の要求が、主要な点だと思われます。この要求には不都合がありません。成功すれば、ポルトガルに第三の勢力が形成される時間を与えられるという利点があります。その勢力は兄弟二人をともに退け、無条件でドナ・マリアを支持するでしょう。この第三の勢力の基盤が存在するかどうか、私は知りません。しかし、存在しないなら、明らかに打つ手はありません。
休戦後の和平措置については、まず話を聞いてもらうだけでも、サー・ストラトフォード・カニングは断定的な言い方を避け、さまざまな案を試す用意を示すのが賢明だと考えます。ドナ・マリアだけを立てるのか、ドン・ミゲルの下で大赦を行うのか、婚姻なのか、ほかにもあるでしょう。初めから提案を細かく限定しすぎれば、きっぱり拒絶されます。ポルトガルの状況に足場が得られるまで、一般的な話にとどめておけば、交渉が始まる可能性はあります。
私はこの趣旨の訓令をレーヌヴァルに送ります。彼は、休戦の要求と、ポルトガルの和平に向けたあらゆる措置において、サー・ストラトフォード・カニングを援助することになります。
公爵殿、この微妙な提案に対して、私たちが適切な節度を守ったと、お認めいただけるよう願っております。サー・ストラトフォード・カニングは満足したようでした……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年一月六日。
公爵殿、
……パーマストン卿は昨日、ギリシア問題を扱う国際会議の各代表を会合に招き、モレアにいる三大国の国境画定委員から届いた最新の外交報告を伝えました。それによると、委員たちが作業の基礎にせざるをえなかった地図が不正確なため、困難が生じています。この地図は誤りだらけだということです。それでも、不都合を生じさせずに正確な国境を画定できると期待されています……
国際会議の後、私はパーマストン卿と話し、あなたのご希望どおり、こちらでナミク・パシャが進めている交渉を取り上げました。彼はまず、このオスマン帝国政府の使節がイギリスへ来た経緯を、私に説明しました。ロシア宮廷は最近、エジプトのパシャに対する援軍として、一万五千人の部隊をスルタンに提供すると申し出たようです。この部隊はロシアのカフカス軍から派遣され、大宰相が指揮するシリアの軍と合流するはずでした。スルタンは、いま必要なのは海上での援助だと答え、ニコライ皇帝の申し出を断りました。こうして、イギリス政府から援助を得るために、ナミク・パシャがロンドンへ送られたのです。到着後、彼はパシャを服従に戻すため、レヴァントにおけるイギリス海軍の援助を、正式に求めました。
この要請は、次の閣議にかけられます。イギリスの閣僚が全員ロンドンに戻るのは今月末なので、それ以前に閣議は開かれません。
パーマストン卿は、この点についてまだ意見を定めていないと言いながらも、スルタンの要請には、もっともと思われる理由があると考えていることを、それとなく示しました。
『これは
イギリスがつねに反対してきたような介入ではない』
と彼は言いました。
『古くからの同盟者を、反逆した臣下に対して支援することなのです。その反乱が成功すれば、ヨーロッパの将来の平穏に、きわめて危険な結果をもたらすはずです。というのも、今日スルタンに対して実のない寛大さを見せびらかしているロシアが、裏ではパシャの反乱を支え続けるだろうからです。したがって、ヨーロッパの利益のためには、ロシアの野心とパシャの野心の間に置かれたオスマン帝国政府が、現在の衰弱した状態では、そのような闘争に耐えられないことを認識しなければなりません。オスマン帝国の存続が必要だと認めるなら、いま帝国の置かれている危機的な状態から、その滅亡を食い止めうる唯一のもの、すなわち援助を与える必要も、同じように認められるでしょう。』
パーマストン卿のこの考えは、私たちが会話の中でしばしば指摘してきた、ロシアの侵略的な政策への見解によって、強められたに違いありません。実際、私は、それをイギリスの閣僚に指摘する機会を、一度も逃さなかったと申し上げておきます。
なお、いま申し上げたとおり、パーマストン卿はスルタンの要請を閣議にかけます。その決定は、私から必ずお知らせします。それまでに、ロンドンにいる閣僚たちに個別に会い、内閣でどの意見が優勢となりそうかを確かめるつもりです。
アントウェルペンの城塞の占領がもたらした好ましい影響は、あらゆる公債の値上がりにはっきりと表れています。これは平和の兆候であり、つねに確かなわけではありませんが、ロンドン、パリ、さらにはアムステルダムでも同時に表れているだけに、注目すべきです。この出来事がベルギー、フランス、イギリスの現政府に大きな力を与えたことは、誰にも否定できません。ベルギーが独立国家として真に存在し始めたのは、アントウェルペンの城塞の降伏からだと言ってよいでしょう。フランスでは、両院の審議が進めやすくなったことに、その好ましい効果が表れています。またイギリス内閣も、新たな選挙の支持を受けて、日々力を増しています[49]。最近、その権力が固まったことを示す出来事がありました。ほかの国なら些細なことに思えるかもしれませんが、ここでは意味のあることです。
イギリス王妃陛下は昨年、閣僚たちの再三の要求によって、首席侍従ハウ卿[50]を遠ざけざるをえませんでした。彼が選挙法改革の問題で内閣に反対票を投じたからです。陛下はそれ以来、ハウ卿の後任を任命するのを拒んでおられましたが、ついに決意されました。王妃が選ばれたのは、内閣をはっきりと支持するデンビー卿[51]です。内閣はこの任命を、宮廷との接近に向けた第一歩と見ています。
ロンドン到着の数時間後、ポッツォ将軍はリーヴェン氏とともに私を訪れました。かなり長く話しましたが、彼の話は、まったく適切なものだったと言わなければなりません。彼がこう振る舞うのは、ごく自然なことです。それでもあなたにお伝えするのは、こうした場合には、ロシアの意向について私たちが抱く疑いを、すべて脇に置くべきだと思うからです。ポッツォ将軍は、イギリス内閣とその採用した政治方針を、いくらか苦々しく語っているかもしれません。イギリスの閣僚たちも、ロシアに対して疑念がないわけではありません。それでも、ポッツォ将軍には通常の礼儀をすべて尽くしています。私も同じようにしなければ、立場を誤ると思います。
この大使との付き合いで、私がきわめて慎重に振る舞うことは、言うまでもありません。しかし同時に、彼がフランスと国王政府について私に述べざるをえないと考える好意的な言葉は、すべて彼の本心として受け取るつもりです……」
「一八三三年一月十一日。
……サー・ストラトフォード・カニングのマドリードでの任務について、セア氏がレーヌヴァル氏に述べたという言葉をお知らせいただきましたが、私には驚くようなことではありません。それはセア氏の知られたこれまでの行動[52]と、よく一致するように思われます。
公爵殿、イギリス内閣がサー・ストラトフォード・カニングをスペインに送った真の目的について、求められた情報をお渡しできればと思います。しかし、この点に関しては、サー・ストラトフォード・カニング自身があなたに伝えたもの以外の情報を得ることは、ほとんど不可能だと申し上げなければなりません。私がこの件をパーマストン卿に尋ねたところ、サー・ストラトフォード・カニングには、訓令をすべてあなたに知らせるよう命じてあるとの答えでした。その後、彼は私に、この大使が、あなたとの幾度かの会談で受けたご意見を報告した際、それに満足を示し、あなたの立場に完全にふさわしいものだと述べた、と話しました。この大使は、まだスペインに入っていません。したがって、与えられた指示が変わったと推測するだけの、確かな理由を見いだすのは難しいでしょう。
サー・ストラトフォード・カニングには、行動の手段について、かなり広い裁量が与えられていると思います。ですから、セア氏が提案をどうしても受け入れない場合を想定し、イギリス内閣が、この大臣を政務から遠ざけようと試みる事態を見越していた可能性はあります。しかも、セア氏の健康状態は、もっともな口実となります。そうだとしても、私はさほど驚きません。セア氏の考えにロシア宮廷が長く影響を及ぼしてきたことは、ロンドンでも知られているからです。彼はサンクトペテルブルクで、スペイン領事、次いで公使を務め、最初にフェルナンド七世から外務大臣に任命されたのも、ロシアの働きかけによるものでした。いまの状況では、ロシアの影響力がイギリス閣僚の意図に反する方向へ用いられると思われます。そう考えれば、サー・ストラトフォード・カニングの任務に隠されていると言われる目的も、容易に説明できるでしょう。
こうした推測がどうであれ、マドリードにはレーヌヴァル氏という、たいへん有能な大使がおられます。イギリス大使の真意をほどなく見抜くはずです。私がこちらからお届けすることのできない貴重な情報を、彼が間もなくあなたへ伝えるだろうと、疑っておりません。
パーマストン卿は内密に、ニコライ皇帝がサー・ストラトフォード・カニングを自国の宮廷に大使として受け入れない意向を示した、と話しました。彼はマドリードから戻り次第、その職に就く予定でした。イギリス内閣は、この決定に対する不満を隠していません。私はこの場で意見を求められてはいませんでしたが、それでもこの機会を利用して、いくつか所感を述べることができました。それは無駄にはならないと思うだけの理由があります。」
パスキエ男爵からタレーラン公へ。
「パリ、一八三三年一月十一日。
公爵殿、
……閣下にしか成し遂げられない大事業を終えたら、そこで退こうというご決心は理解できます。その事業も、まもなく終わりに近づくと信じたいものです。しかし、閣下が与えておられる導きを失ったとき、わがフランスの政策がどうなるかは、私にはほとんど想像がつきません。ヨーロッパ情勢全体を見れば、重大な事態がごく短い間隔で生じるのを避けるのは、たいへん難しいでしょう。しかも、私たちの周囲に立ち上がりつつある新しい世界には、そうした事態を巧みに扱える人、ほとんど、理解できる人さえ、まだ見当たりません。実のところ、私の望みはすべて、成り行きが自然に道を開くことにかかっています。
こちらで私がお役に立てることがあれば、どうか遠慮なくお申し付けください。亡くなった友人[53]が、閣下にたいへん詳しく、行き届いた情報をお送りしていることを承知していたので、私から何かお知らせすることがあるとは思っていませんでした。しかし、いま事情が変わったのであれば、おっしゃってください。私はご指示に従います。
わが国の内政の状況は、目に見えて改善しています。それは明らかです。最近、代議院でベリー公妃の件を打ち切って日程へ戻る決定を取りつけたやり方は、内閣の足に刺さりうる、最も厄介なとげを抜き取るものでした[54]。ですから、いまは少しでも人並みの手腕があれば、すべてを進められることは確かです。
閣下が描いてくださったロンドンでのポッツォの姿は、私の予想どおりでした。こちらで彼があまりにも露わにした不機嫌は、皇帝から植えつけられた途方もない恐怖から来たものだと、私は疑っていません。文字どおり、恐れおののいて帰ってきたのです。これは疑いようがありません。いま彼に、一八三二年の後半六か月に行ったのと同じような旅を、もう一度決心させるのは容易ではないと思います。
公爵殿、どうか深い敬意と献身の思いをお受け取りください。お役に立つと思われる機会があれば、いつでもこの献身をお試しいただきたいと願っております……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年一月十七日。
公爵殿、
……ロンドンのオーストリア大使館からイギリス政府へ、かなり重要な連絡がありましたので、お知らせしなければなりません。ポルトガルの現状と、その国を荒廃させている内戦を終わらせる手段に関するものです。
オーストリアの代表は、自国の宮廷から、ポルトガル問題についてウィーンの内閣による仲介を、イギリス政府へ申し出るよう命じられました。彼はそのことをパーマストン卿に伝え、仲介の第一の条件はドン・ミゲルをポルトガル国王と認めることであり、そうすればドン・ミゲルは全面的な大赦を行い、私有財産に対するすべての差し押さえを解除すると約束するだろう、と付け加えました。
ウィーンの内閣はこの提案を裏づけるため、ドン・ミゲル王子が四年以上にわたってポルトガルの王位にあること、その政府に向けられた非難がすべて正当だと認めたとしても、ポルトガル国民の大多数の支持を得ていることは認めざるをえない、と述べています。さらに、必要とあればその事実を示す証拠として、ドン・ペドロの企てがこれほど成功していないことを挙げています。
オーストリアの代表は、命じられた連絡を締めくくるにあたり、自国の君主がこの働きかけを決意したのは、孫娘[55]の利益に反するものであっても、ポルトガルの和平がイベリア半島の平穏と結びつき、ヨーロッパの平和にとってきわめて重要な問題となったこと、そして、その和平を速やかに実現するには、ドン・ミゲル王子を国王と認めるほかないことを、確信しているためだと述べました。ただし、同王子に要求する大赦は、何の制限もなく、あらゆる立場の人を安心させるような形で行われなければならないとのことです。
パーマストン卿は、ただちにノイマン男爵[56]へ、今回ウィーン宮廷が示した考えは、よく理解できないと答えました。ドン・ペドロにポルトガルを去り、アゾレス諸島を引き渡し、ついには娘のための闘いまで放棄するよう求めながら、そのすべての譲歩の代わりに差し出すのが大赦だけであり、その大赦には、結局、約束を守らないことで知られた君主の言葉以外に何の保証もないというのは、控えめに言っても、たいへん奇妙に思える、と述べたのです。パーマストン卿は最後に、提示された条件でのオーストリアの仲介を、受け入れることを断りました。
以上が、パーマストン卿とノイマン氏の双方が、かなり強い調子で応酬した議論の結果です。
先ごろいただいた外交報告の一つで、サー・ストラトフォード・カニングの任務の真の目的について、マドリードで広まっている噂に、どれほど根拠があるのか知りたいとのご希望を述べておられました。今月十一日の返答で、私は正確な情報を得るのを妨げる事情をお伝えしましたが、それでも、お知らせいただいた事実のいくつかを確かめようと努めました。私がある程度信頼を置いている外交団の一員が、レーヌヴァル氏の外交報告に記されたものと、ほぼ同じ情報を伝えてくれました。ただし、彼はその話を補強する事情として、セア氏の不安についてマドリードで抱かれている見方を、裏づけそうなことを挙げました。それは、スペイン国王陛下が、イサベル王女の王位継承権に関する最初の宣言をあらためて確認し、病中に強いて取りつけられたとする決定を無効にした、正式な文書のことです[57]。この文書は、サー・ストラトフォード・カニングの工作を阻むため、セア氏が用いた手段だと考えられています。あなたがお知らせくださったとおり、カニングはイサベル王女の利益とドナ・マリアの利益を結びつけようとするはずでした。スペイン王妃がポルトガルの幼い女王を保護するなら、自国の政府が王妃の娘の権利を尊重させるために援助すると、約束するのです。セア氏は、イギリス大使が着く前に、イサベル王女の権利を支持する立場を鮮明にすることで、大使の最も有力な手段の一つを奪ったと言われています。
私が聞いた話も、もとはマドリードから来た可能性があるので、ある程度の疑いを持ちながらお伝えしています。あなたはまもなく、その正確さを確かめられる立場におられます。また、重ねて申し上げますが、半島でほどなく展開するだろうあらゆる陰謀を見抜くうえで、レーヌヴァル氏の手腕は信頼できます。
ポッツォ将軍のロンドン訪問について、いろいろな説明が試みられていますが、その中に、もっともらしく思われるものがあります。サンクトペテルブルクの内閣にはここ数か月、イギリスについてかなり矛盾する外交報告が、一方ではリーヴェン公から、他方ではマトゥシェヴィチ伯爵から届いているというのです。イギリスにいる自国の代表からの報告がこれほど異なるため、どのような考えを持つべきか迷ったニコライ皇帝は、ロンドンへポッツォ将軍を送りたいと望んだとされています。将軍は最近のサンクトペテルブルク滞在中に、皇帝の全面的な信頼を得たということです。皇帝は将軍から確かな情報を得て、それに基づいてイギリスとの政治的関係を定めようとしたのです。そうであれば、この旅行は、ポッツォ将軍がベルリンやドイツの各宮廷で果たした任務を補うものにすぎません。この説明に意味があるかどうか、あなたにご判断いただきたいと思います……」
「一月二十日。
……イギリスの閣僚たちがしばしば私に話し、彼らにとって大きな関心事となっている問題については、すでにご注意をお願いしました。こちらで実施を望んでいる、わが国の関税法の変更のことです。
この件について最近、リヨン、ボルドー、ナント、そのほかの工業都市の商業界が代議院へ出した請願は、イギリスで大きな反響を呼びました。それによって、輸入禁止法に関するフランスの世論が、大幅に変わったことが確かめられたのです。いまならフランス政府が、もっと開かれた方針へ進むのは容易だと考えられており、かなり重大な理由から、それが望まれています。
現在のイギリス内閣は、この問題を通商よりも政治の面から見ています。通商の面では、ハスキソン氏[58]の制度が、すでにきわめて好ましい成果を生んだと認められているからです。絹織物、手袋、そのほかの品物に対する輸入関税を引き下げたことで生じる減収は、消費の大幅な増加によって、補って余りあるものとなりました。したがって、イギリスの通商上の利益だけを考えれば、閣僚たちは、他国による相互的な措置がなくても、自ら支持した自由な制度から、なお大きな利益を引き出せるかもしれません。しかし、重要な政治上の利益から、フランスとの通商関係をさらに広げることが、彼らの務めとなっています。
先の選挙では、イギリスのいくつかの工業都市で演説が行われました。それらはきっとあなたの目にも留まったでしょう。そこでは、最近フランスとイギリスを結びつけた同盟に、何度も言及されていたことに、お気づきになったはずです。この同盟によって、両国の関係はまもなく、より対等なものになると、しばしば期待が寄せられています。イギリスでたいへん強い力を持つ新聞も、産業界のこの新たな傾向を、熱心に後押ししました。今日の内閣は、下院の構成がいまのようになっている以上、フランス政府との同盟から何か有益な成果を示さなければ、安定した多数も世論の支持も得られないかもしれないと感じています。求めているのは、フランスに害を与える特権ではありません。両国の産物を、より適切な形で交換することです。それによって、両国民がその有用性と重要性をいっそうよく理解する結びつきが、日々ますます強まるのです。
現在のイギリス内閣の政権を安定させることは、わずか数か月前からフランスとイギリスの間に存在している緊密な同盟を、確実に長続きさせることなのだと、忘れてはなりません。そして、この同盟こそが、ヨーロッパに新たな力を生み、北方諸国のあらゆる陰謀を抑え、社会のあらゆる利益に真の支えを与えているのです。
これほど大きな政治的意味を持つ事情は、国王政府にも重く受け止められると思います。あなたがその価値を十分に示してくださることを、疑っておりません。
すでに申し上げたとおり、ほとんどすべての閣僚が、いま述べた趣旨の希望をあなたに伝えてほしいと、私に頼みました。その希望がフランス政府の決定にどのような影響を及ぼしたか、彼らに知らせられるよう、早急にお伝えいただければ、ことにありがたく存じます……」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三三年一月二十一日。
公爵殿、
お送りする公式の外交報告に付け加えることは、ほとんどありません。その内容については、グランヴィル卿と率直に話し合いました。東方で何が起きるかは、誰にもわかりません。しかし、出来事が私たちの不意を突いたわけではありません。わが領事がメヘメト・アリから妥当な提案を取りつけ、わが代理公使がコンスタンティノープルへ伝えたからです。その提案は、帝国評議会の中の、多少なりとも分別ある人なら誰もが妥当と認めたものであり、いまはそれを基礎に交渉が進められています[59]。パーマストン卿には、ナミク・パシャをまったく信用しないよう、十分に警告することが大切です。彼は取るに足りない陰謀家で、帝国政府ではなく宮中から送られてきたのですから、何の役にも立ちません。いま働きかけるべき場所は、コンスタンティノープルです。この点でイギリス政府の利益はわが国と同じだと思いますし、時間も迫っています。両政府の意思が十分に通じ合えば、オーストリアも、ロシアが領土を広げる事態に対抗して、最後には私たちに加わるだろうと考えるだけの理由があります。
それこそ、閣下がウィーン会議で試み、百日天下によって妨げられた仕事です。それを完成させるのは、閣下のお役目です……」
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ。
「テュイルリー宮、一八三三年一月二十四日。
親愛なる公爵へ、
関税についてお知らせくださったことを、すぐに国王へ伝えました。国王は、この点についてあなたのお考えにまったく同意しており、あなたもご自身も望む結果を、十分な賢明さと理性をもって実現するため、たえずその趣旨で話していると、お伝えするよう申しています。イギリスとの同盟は、わが国にとってもイギリスにとっても、これまで以上に好ましく、重要なものなのですから。
イブラヒムの勝利[60]は、実に大きな知らせです。私たちの大切な国王は、この出来事をあなたがどうお考えか、強く知りたがっています。……どのような結果をもたらすのでしょうか。……いま何をすべきか、その結果と将来のために何を準備すべきか、あなたはどうお考えでしょうか。国王は、あなた以上によく判断できる方はいないと、もっともなことを考えています。あなたの見識を深く信頼しているので、この重要な問題について、ぜひご意見を得たいと思っているのです……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年一月二十八日。
公爵殿、
第五十六号の私の外交報告で、今月二十一日にあなたからいただいた外交報告の内容を、望んだほど早くパーマストン卿へ伝えられなかった事情は、お知らせしました。それができたのは、ようやく一昨日でした。その際パーマストン卿は、フランス政府の提案を閣議にかけると約束し、そのため翌日に閣議を招集しました。閣議は昨日の日曜日に開かれましたが、その審議の結果をお知らせする前に、先立って起きたいくつかの事情をお話ししなければなりません。
今月六日に私がお送りした外交報告を、もう一度お取り寄せくだされば、そのころすでに東方で起きている出来事を、私が強く案じていたことにお気づきになるでしょう。十日と十四日にあなたからいただいた外交報告でも、十分に安心できなかったことを、率直に申し上げます。フランスとイギリスが、そちらで何らかの行動を起こすことが、まもなく必要になるという考えを、私は保っていました。イギリスの閣僚たちとの会話では、エジプトのパシャが勝利を重ね、オスマン帝国政府がロシアの保護に頼らざるをえなくなった場合、スルタンとパシャの闘争がもたらしうる重大な結果へ、彼らの注意を向けようとしていました。
その間にあなたの第十三号の外交報告が届き、残念ながら私の予想が現実となった証拠を得ました。この外交報告には、東方の現状と、オスマン帝国を脅かす危険を食い止めるために採るべき措置が、見事に説明されています[61]。きわめてすぐれたものと思われたので、土曜日の夜にパーマストン卿と会談した際、読み聞かせるべきだと考えました。彼も私と同じように、そこで巧みに展開された議論に強く動かされ、イギリスとフランスがただちに方針を定め、まずコンスタンティノープルとアレクサンドリアへ武力を背景とした仲介を申し出て、オーストリアにも参加を求める必要があると、確信しました。
パーマストン卿と別れた後も、私は私たちの仲介をできるだけ速やかに成功させる手段を考え、昨日の朝、彼に手紙を書きました。その抜粋を、ここに記すことをお許しください。
『イギリス内閣が、私が昨夜提案した仲介案を承認するなら、その実行はきわめて迅速でなければなりません。私の考えでは、次のような手順を採ることができます。
サー・フレデリック・ラムに対する訓令を作成し、グランヴィル卿へ送ります。卿はそれをブロイ公へ伝えます。公もおそらく、パーマストン卿のものと同じ趣旨の訓令を、メゾン元帥のために作成すべきだと考えるでしょう。ブロイ公は、それをグランヴィル卿へ知らせることを、ためらわないと思われます。二人は合意のうえで、それぞれウィーンへ使者を送り、その使者たちは一緒に出発します。
訓令では、ウィーン駐在の両大使に、フランスとイギリスの仲介の申し出へ、オーストリアの申し出も加えるよう、メッテルニヒ氏に提案することを命じます。
ウィーンの内閣がこの提案を受け入れたなら、両大使は、逸脱する権限のない訓令に従って、コンスタンティノープルへ提案する仲介の条件を、メッテルニヒ氏と協議します。その後、イギリス、フランス、オーストリアの使者は、コンスタンティノープルへ向けて旅を続けます。そこで、オーストリア、イギリス、フランスの各代表へ、それぞれの宮廷からの訓令を渡します。
ウィーンの内閣が提案を拒んでも、イギリスとフランスの使者は、そのままコンスタンティノープルへ直行します。いずれの場合にも、使者たちが、オスマン帝国政府に駐在するイギリスとフランスの代表のため、パーマストン卿とブロイ公からの直接の委任と訓令を携えることは、言うまでもありません。』
公爵殿、以上が私の提案した手順です。私の考えでは、二十一日付の外交報告であなたから勧められた措置の実施を、できるかぎり早めるとともに、オーストリアの協力も促せるという利点がありました。
イギリスの閣僚たちは、私がパーマストン卿に渡した仲介案を数時間にわたって議論した末、少し奇妙な考えに落ち着きました。仲介への参加の申し出を、オーストリアだけでなく、ロシアにも広げようというのです。今回、ロシアの政策をほかの三つの宮廷の政策に結びつけることは、重要だという考えに動かされました。
パーマストン卿は、この決定をただちに私へ伝えました。私は五時間以上に及ぶ会談で、それに反対するために全力を尽くしました。その内容は明日ご報告しますが、私がロシアの参加に対して挙げるべき理由は、すべてあなたにもお察しいただけるでしょう。昨日別れるまでには、私は何の成果も得られませんでした。別れ際に、イギリス内閣の方針が私たちを巻き込むことになる厄介な問題を、よく考えるよう彼に勧め、今日また会う約束をしました。いま新たな会談から戻ったところです。たいへん長い議論の末、仲介はフランスとイギリスの名でのみ申し出る、ということを、ようやく認めさせました。その条件を定めるのは明日になります。この外交報告を終える時間さえわずかしかなく、今日これ以上詳しくお伝えできないことは、おわかりいただけるでしょう。詳細は明日に譲ります。
ただ付け加えておきたいのは、ポンソンビー卿がコンスタンティノープルへただちに出発するよう命じられたこと[62]、そして、その行動についてあなたが不満を述べておられたアレクサンドリアのイギリス領事が、召還されたことです。議会は明日集まり、五日には国王の演説が行われます……」
「一月三十一日。
イギリス政府へ伝えるようあなたから命じられた件の結果を、もっと早くお知らせしなかったことに、おそらく驚かれたでしょう。その事情を説明しておかなければならないと思っています。
こちらでは、ほかの問題がどれほど重要であっても、国内の問題が何より先に来ることを、忘れてはなりません。いま議会が集まったばかりで、内閣は、非常に頭を悩ませている措置を提出しなければなりません。アイルランドの状況、聖職者への十分の一税、財政が、最も真剣な注意を必要としています。これほど差し迫った利害が入り乱れる中から、内閣の注意を外政の問題へ戻すことは、私にはしばしば不可能です。この八日間、私の努力はすべて、私たちの介入を笑いものにしないためには、東方問題でどれほど迅速さが必要かを、理解させることに向けられてきました。私の言うことにはすべて同意し、その日のうちに取り組むと約束しながら、毎日、問題を翌日へ先送りするのです。こうした遅れは、彼らの置かれた立場から生じるにすぎないということを、あなたは誰よりよくご判断になるでしょう。
二十八日付の外交報告で、私たちの仲介についてパーマストン卿と交わした会話の詳細を、さらにお伝えすると申し上げました。
すでに申し上げたとおり、イギリスの閣僚たちの方針は、ロシアに対して友好の外観を保ちながら、その侵略的な政策を抑えたいという希望に基づいていました。彼らは、この国を私たちの仲介へ加えることで、その目的を達せられると考えていました。
私は、そのような方針に反対するにあたり、そこにあるあらゆる危険を理解させなければなりませんでした。パーマストン卿には、実行の速さこそ私たちの企てが成功するための第一の条件であり、ロシア宮廷の返答を待つ義務を負えば、その利点を失うと指摘しました。その必然の結果として、コンスタンティノープルとアレクサンドリアへの到着が遅すぎることになります。また、この時間の問題には、フランスとイギリスの行動を妨げるという、この上なく大きな不都合もあります。ロシアへ提案すること自体によって、両国は同国の返答を知るまで何の働きかけもできなくなる一方、サンクトペテルブルクの内閣は、なおしばらく何の義務にも縛られず、この遅れを必ず利用するでしょう。さらに、ムラヴィヨフ将軍がスルタンのもとへ派遣されたこと[63]によって、ロシア宮廷はトルコの同盟国という立場を取っています。そうであれば、エジプトのパシャには、ロシアを仲介者として認めることを拒む権利があるのです。
最後に私は、イギリスの大臣にとって、つねに非常に重みのある論点を、パーマストン卿に示しました。私たちの扱っている問題を、立憲政治の側から見るということです。私は、立憲政府の下にある二か国だけで行う仲介のほうが、ロシアも参加する場合より、イギリス議会とフランスの両院で、広く承認を得られると述べることができました。この論点はパーマストン卿に十分な影響を与え、閣議で下された決定を見直すべきだと考えさせました。こちらでは、あらゆることが結局は議会の問題に帰着しますから、イギリス内閣が最初の決定を変えたのも、いま述べた考慮によるものだろうと思われます。
しかし、仲介そのものを行うことは決まっていても、その形態も、採るべき手順も、まだ定められていません。この三日間、これらの問題は翌日へ先送りされています。この外交報告の初めに申し上げたとおり、私の働きかけは、いまのところ何の結果も生んでいません。スルタンがエジプトのパシャとの交渉を決意したと伝える、コンスタンティノープルからの最新の知らせによって、閣僚たちのためらいはいっそう強まると思います。最後には、何の決定も下さずに終わるかもしれません。
いずれにしても、公爵殿、国王政府はたいへん適切な立場を取り、ロシアがすでに関与し、オーストリアが仲介に加わるのを拒んでいる状況で、期待されうることをすべて行ったと、私は思います……」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三三年一月二十八日。
公爵殿、
一昨日の夜、大勢の集まりの中で、ロシア代理公使のメデム氏[64]が私に近づき、ムラヴィヨフ将軍に与えられた訓令を内密に知らせてほしいか、と尋ねました。
私は過度の熱意を示すべきではないと思い、それはたいへんありがたいと答えるにとどめました。
今朝、彼は自ら訪ねてきて、同じ申し出を繰り返しました。そして、自国の宮廷から命令を受けていないので、厳重な内密の話だと付け加えました。それから、まず、ニコライ皇帝がムラヴィヨフ将軍を派遣する一般的な理由を説明した外交報告を、ポケットから取り出しました。次いで、この将軍への訓令は大使本人にだけ知らせるものであり、フランス政府へは伝えてはならないという注意書きを出しました。それによれば、フランス政府との関係は、ロシア大使が進んで説明を与えるほど、信頼に満ちたものではないというのです。
しかし、公爵殿、お気を留めていただきたいのは、すべての働きかけは代理公使の側から行われたことです。私はその申し出にも、かなりそっけなく応じただけであり、再び持ちかけてきたのは彼のほうなのです。
この外交報告が読み上げられた後、訓令そのものが読み上げられました。その大意は、次のとおりです。
訓令は、東方の出来事と、この六か月間におけるメヘメト・アリの進出の説明から始まっています。
次いで、この進出が続けば必ず破局に至る、その結果ロシアは、アドリアノープル条約を尊重する気が、おそらくあまりない隣国を持つことになり、威嚇的な姿勢を取らざるをえなくなるが、ロシアはそれを避けたい、と述べられています。
彼はまた、メヘメト・アリが、エジプト軍の進出を予見できていたなら、ロシアはアレクサンドリアから領事を引き揚げるのを慎んだだろう、と述べたことを、皇帝も知っていると付け加えました。
ムラヴィヨフ将軍の任務は、この考えに応えることを目的としています。
将軍は、まずコンスタンティノープルへ赴き、ロシアの変わらぬ友好と、メヘメト・アリの反乱に対する嫌悪を保証する政府の書簡を、スルタンに渡さなければなりません。最後に、パシャに対して行うよう命じられた働きかけに、オスマン帝国政府が同意するよう求めます。
その同意を得たら、将軍はアレクサンドリアへ赴き、パシャへの働きかけをできるだけ厳粛に行います。パシャの暴挙がいかに大きな罪であるかを、最も厳しい言葉で述べ、義務に立ち返るよう促します。拒否した場合には、その行動の結果は自らの責任としか言えないと、宣告します。――それだけです。
メヘメト・アリがこの諫言に心を動かされ、帝国政府との間の仲介を将軍に求めたとしても、将軍は拒まなければなりません。ロシアは、自国の問題への介入を許さないのと同様、他国の問題にも介入することを望まないからです。
(注意すべきなのは、この点がおそらく今回の連絡の目的だということです。これはフランスに対する、遠回しの非難か警告でしょう。)
メヘメト・アリが過った道にとどまり続けるなら、将軍はサンクトペテルブルクへ戻り、君主に報告しなければなりません。
追伸には、将軍の任務についてオスマン帝国政府の同意が得られなかった場合、将軍はアレクサンドリアへ行かず、サンクトペテルブルクへ戻ると付け加えられています。ただし、ロシアの大臣が、ムラヴィヨフ氏の伝えるはずだったことを、メヘメト・アリに書き送ります。
ロシア代理公使は、自国の君主が、影響力と勧告という手段だけを用いる固い意志を持っていると、力の限り断言しました。さらに、ニコライ皇帝にとって、オスマン帝国から獲得した諸州は利益よりも厄介事をもたらしており、征服をさらに進めるより、獲得した領土を放棄する気持ちのほうが強いと、私に何度も言いました。
この連絡についての私の考えは、真実の半分しか含まれていないというものです。帝国政府とパシャとの争いの勝敗が定まらない場合に、ムラヴィヨフ将軍へ与えられた訓令は、たしかに説明しています。しかし、オスマン軍が敗れた場合に備えた別の訓令も与えられており、先の外交報告でお知らせしたとおり、彼はその訓令に従って行動したのです。その外交報告でお伝えした情報の出所は、この点に何の疑いも残させないだけのものです。
私はこの連絡に対し、ごくわずかな、たいへん一般的な言葉で答えるにとどめ、私たちの平和的な意図と、この争いが友好的に終わることを望んでいると、明言しました。
メデム氏は、この連絡について厳重に秘密を守るよう求めましたので、公爵殿、この情報はご自身だけにとどめてくださるようお願いします。もっとも、メデム氏が私にこれを打ち明けたことで、さほど大きな危険を冒したとは思っていません……」
レーヌヴァル伯爵からタレーラン公へ。
「マドリード、一八三三年一月二十五日。
公爵殿、
いまの状況では、サー・ストラトフォード・カニングが到着したスペインの状態について、正確な情報を直接お届けすれば、お喜びいただけるのではないかと考えました。そこで、彼が最初に送る使者に託して、この件の詳しい事情をいくらかお伝えします。私を思い出していただき、以前からのご厚情を引き続きお願いする機会でもありますので、なおさら喜んで利用する次第です。
スペインの内政の変化は、外政にも変化をもたらすと考えるのが、自然に思われました。王妃とその支持者たちが闘わなければならない陣営は、ドン・ミゲルの大義を支持し、おそらく密かに援助もしている陣営です。それだけに、スペイン内閣がこの王子に寄せていた関心は、もっと身近で、もっと差し迫った利益の前に消えるはずだと、考えられたでしょう。しかし、スペインの大臣たちは別の理屈を立てています。彼らによれば、政府が使徒派[65]を抑えられるのは、その扱いに大いに配慮しているからにほかなりません。イベリア半島全体の自由主義者の首領と見られているドン・ペドロを支援し、ドン・ミゲルと以前結んだ約束を破れば、スペインのすべての王党派を、使徒派の援軍にしてしまうと考えているのです。
ドン・ペドロと憲法を排除できるかもしれないとほのめかすと、彼らは、その支持者、大臣、助言者たちは排除できないと答えます。その中には、彼本人より危険な者もいるというのです。これがセア氏とオファリア氏の見方です。したがって、彼らが政務を指揮しているかぎり、スペインが融和の案を受け入れ、すべての大国が中立を保つよう要求するのをやめることは、期待すべきではありません。さまざまな陣営が、それぞれ別々に、しかし同じ熱意で、これらの大臣に対抗して動いています。それでも、彼らの失脚が近いとは言えません。いま王位継承問題で採っている方針が、国王と王妃の信頼と寵愛を保証しているからです。
彼らの運命を、そしておそらくスペイン王政の運命を決めるのは、実際にはポルトガルで起きることです。それを感じているため、ドウロ川でフランス船が沈められた件をめぐって、わが政府とドン・ミゲルの政府との間に生じた紛争の結果を、ひどく恐れています。テージョ川の入口でわが国旗に加えられた別の侮辱が、さらに問題を悪化させることになります。スペイン内閣は、非はわが国の側にあり、したがって償いを求める立場にはないと主張していますが、隠れた意図があるとまでは非難していません。世間の見方は、もっと厳しいものです。ソリニャック将軍[66]がポルトへ出発して以来、わが国は直接であれ間接であれ、兄弟二人の闘争に介入し、武力で終わらせようとしていると、公然と言われています。スペイン政府は、わが国の介入はイギリスの介入よりも、ドン・ミゲルと半島の平穏にとって危険だと見ています。そのため現在、フランスとポルトガルとの争いは、カニング氏の任務以上とさえ言えるほど、同政府の関心を引いています。
公爵殿、こちらの状況は以上のとおりです。これらすべてが事態を複雑にし、人々の感情を激しく高ぶらせ、人の力ではこの国を動乱から救えなくなるかもしれません。このような状況では、私に背負わされた荷は、あまりにも重いと感じます。閣下のご助言に頼ることができるなら、何を差し出しても惜しくありません。しかし、距離と、出来事が進む速さが、残念ながらそれを妨げています。それでも、半島の情勢全体について閣下のお考えを読み取れる一言でも、私にはたいへん役立ちます。それをどれほどの喜びと感謝をもって受け取るか、申し上げずにはいられません。
深い悲しみの中におられるときに、お手紙を差し上げています。ヴォーデモン公妃を失ったことは、取り戻すことのできない喪失の一つです。公妃が閣下に寄せた友情ほど、真実な友情がかつてあったとは思えません。公妃を知りながら、慕わずにいることは不可能でした。私も心からその思いを抱いていました。公妃の私へのご厚意は、一度も変わることがありませんでしたから、私がそのように思うのは当然でした。
どうか、公爵殿、私の敬意をお受け取りください……」
ここにレーヌヴァル氏の手紙を掲げられることを、うれしく思う。この手紙は、彼のすぐれた知性と判断力に劣らず、その心の立派さを示すものである。彼が描いた半島の姿からは、当時の困難を十分に理解し、さらに大きくなる将来の困難を予感することができた。彼の予想は、まれなほど正確に実現した。私がこれらの思い出をまとめているいま、スペインとポルトガルは、その終わりを予測しえない不和に苦しんでいる。フランスとイギリスの両政府が、不幸な半島を脅かす混乱を防ぐために、どのような努力をしたかは、まもなくご覧いただけるだろう。その努力が、いつかよい結果に至ることを願いたい。出来事の進みに先走るつもりはない。ただ、いま読まれた見事な手紙を書いていたときから、すでに重すぎると感じていた荷に押しつぶされて亡くなったレーヌヴァル氏の、人柄と能力について、私がつねに抱いていた高い評価を、この機会に述べるのは、心慰められることだった。この際、またこれまでの同種のすべての場合にも当てはまることとして、もう一つ付け加える必要があるだろうか。引用する手紙から、私を持ち上げ、たたえる箇所は削りたいと思っている。しかし、このような状況での賞賛そのものは、状況の反映にすぎず、人は自らが困惑し、悲しんでいるほど、他人をたたえようとするものだと考えるから、そうはしないのである。
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年二月三日。
公爵殿、
東方問題に関して、第五十九号の外交報告[67]でお伝えした困難があっても、私は、ヨーロッパにとってきわめて重要だとつねに考えてきたこの問題で、イギリス政府の協力を求め続けました。ようやく、私の努力がまったく成果のないままには終わらなかったと、お知らせできます。イギリスの決めた方策は、次のとおりです。
キャンベル大佐が、アレクサンドリア総領事に任命されました。明日出発し、大急ぎで任地へ向かいます。彼の携える訓令は、今夜の使者によってグランヴィル卿へ送られ、卿からあなたへ伝えられることになります。その内容の大体は、すでにお知らせできます。
現在の状況と距離の遠さを考えれば、キャンベル大佐がアレクサンドリアへ着くとき、スルタンとパシャの間で、まだ和平が成立していない場合と、すでに成立している場合との、二つを想定しなければなりませんでした。
前者の場合、大佐は到着後ただちに、イギリスがスルタンに寄せる関心を公然と示し、その関心によって、オスマン帝国政府がイギリスからどれほどの保護を得られるかを、メヘメト・アリに理解させるような言葉を述べなければなりません。
十分な理由から予想されるとおり、トルコとエジプトの間ですでに和平が調印されていれば、キャンベル大佐は観察者の役割にとどまります。ただし、その場合も、任務の当初の目的は示します。
どちらの場合にも、キャンベル大佐はフランスとオーストリアの領事との間に親密な関係を保ち、ロシアの代表とは良好な関係を保つだけにとどめ、話はすべて聞いても、ほかの二人と同じ信頼は示さないことになっています。
この訓令は、実際にはたいへん詳細なものですが、エジプトのパシャに対してあなたの採られた方針と一致していると、あなたも私と同じようにお考えになるでしょう。
イギリス政府は、オーストリア公使(インテルヌンツィオ)からの強い勧めを受け、スルタンがメヘメト・アリと交渉すると決めたことを、知らされています。そのため、オスマン帝国政府への直接の働きかけは、いまや不要となったと考えています。そちらについては、ポンソンビー卿のコンスタンティノープルへの出発を早めるだけにとどめます……」
「二月八日。
今月四日付の外交報告を拝受しました。そこに記され、グランヴィル卿にもお伝えくださったコンスタンティノープルからの知らせは、こちらでたいへん大きな満足をもたらしました。フランスが介入し、イブラヒムの進軍を止め、東方の平和を回復することで、さまざまな点から危険となりかねなかった紛糾を防ごうとしていることが、喜ばれています[68]。いまヨーロッパで一般に支配的な考えは、事件と呼びうるものを、すべて避けようとするものだという点に、注意しなければなりません。世の人々、そして各国の内閣にさえ見られるこの気分は、私たちにとってきわめて有利ですから、政策の方向によって後押しすべきです。それだけに、最近の状況でコンスタンティノープルのフランス代理公使が取った行動は、賞賛に値します……
毎日届くイギリスの新聞が、議会の審議をたいへん正確にお伝えしていますので、私からお話しする必要はないと思います。そこでは、グレイ卿が国王政府を立派に擁護し、内閣を支持して投票する議員たちも、よく評価していることを、ご覧になったでしょう……」
「二月十一日。
八日付のお手紙でお伝えくださった、ウィーンとベルリンの両内閣の意向についてのご見解は、十分に根拠があると思います。この両内閣がイギリス政府に向ける不満の目的を、あなたはたいへん適切に示されたと思います。あらゆる手段でフランスとイギリスを引き離そうとしていることは、疑いありません。昨年は、フランスがイギリス内閣を支配していると不満を述べ、今年はイギリスの優越を非難しています。今年の非難も、昨年の非難と同じように真実ではありません。ですから、この中に見るべきなのは、実際に存在するものだけです。つまり、フランスとイギリスをヨーロッパの先頭に置き、全般的な平和の維持を保証することで、対抗する連合をつくる望みをすべて奪う同盟が、日々強まっていることに対して、サンクトペテルブルク、ウィーン、ベルリンで感じている不快感なのです[69]。
イギリス内閣は最近、下院への対応で、たいへん慎重な態度を示しました。国王演説への奉答文の審議を、数日間続くに任せ、自らは討論に直接加わりませんでした。急進派の中でも最も極端な議員たちは、演説に何の抑制も加えませんでした。その激しい言葉遣いの結果、嫌気がさしたためか、信念からか、多くの支持者が彼らから離れ、反対派の修正案に反対し、奉答文に賛成して投票することで、政府へ近づきました……」
「一八三三年二月十八日。
……オーストリア代理公使は昨日、スイスの現在の問題について、オーストリアの考えが詳しく述べられたメッテルニヒ氏の手紙を、私に読み聞かせました。メッテルニヒ氏は、いま連邦盟約の大幅な変更を求める陣営の動きを、強く懸念しているようです。彼によれば、この企てが成功すれば、ヨーロッパのこの地域の利益と平穏に、致命的な紛糾をもたらしかねません[70]。
この意見に全面的に賛同するわけでも、全面的に退けるわけでもありませんが、ノイマン男爵から話を聞く前から、私は、いまはスイスの内政と外政のあらゆる変更に反対すべきだと、考えるようになっていたことを申し上げます。革命的な陣営がどれほど速く進むかは、ご存じでしょう。もしスイスの中立にまで手を触れることになれば、オーストリア、ピエモンテ、フランスのそれぞれの立場は、現在とはまったく違ったものに、ただちに変わってしまいます。
この点についての私の見方は、状況をかなり漠然としか知らないスイスに、単に限られるものではありません。一般にフランス政府は、改善を口実としてフランスの多くの隣国をとらえた、この革新の気風を、助長しないようにすべきだと考えています。ヨーロッパのためには、動乱を引き起こすよりも、改善を延期するほうがよいとさえ思います。
スイスの問題について、私はいま申し上げたのとほぼ同じ趣旨で、パーマストン卿と話しました。もしあなたも私の考えに賛同されるなら、グランヴィル卿にもお話しになると、役立つかもしれません。
また、来月三月初めにスイスの連邦議会が開かれれば、きっとその内部に姿を現すだろう扇動者たちの企てには、フランスはいかなる形でも加わらないということを、同国のフランス大使館を通じて、あらかじめ理解させておくのもよいでしょう……」
「二月二十二日。
今月十八日付の外交報告を拝受したのは、今朝になってからでした。ロシアの新たな意向についてお送りくださった説明は、国王の朝の接見で会ったリーヴェン公からも、いま確認されました。公は、フランスと良好な関係を保ちたいという自国政府の希望を、きわめて適切な言葉で述べました。リーヴェン公は今夜、サンクトペテルブルクから届いた最新の外交報告を、私に見せることになっています。それはおそらく、メデム伯爵があなたに伝えたものと、同じ趣旨でしょう。
朝の接見に先立ち、私は陛下の個別の謁見を賜りました。陛下は長い時間をかけて、フランス国王への親愛、その政府がよい成果を挙げていることへの満足、そして、公爵殿、あなたに寄せる格別の信頼について、お話しくださいました。あらゆる点で、陛下のお迎えと好意あるお言葉には、感謝するばかりでした……」
「三月四日。
……ポッツォ伯爵は明後日ロンドンを発ち、パリの任地へ戻ります。重ねて申し上げますが、滞在中のこの大使の発言について、私の耳に入ったものは、どれも私たちにとってきわめて適切なものでした。全体として、ポッツォ伯爵がロンドンにいたことは、フランス政府がいまこちらで進めている問題に、むしろ役立ったと、私は考えています……」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三三年三月九日。
公爵殿、
使者に何か新しい知らせを託せればと思いますが、こちらにはほとんど何もありません。内閣はまずまず順調に進んでおり、何事もなく会期末にたどり着けそうです。多数派はしっかりまとまっており、分裂するのはあまり重要でない問題のときだけです。敵対する人々は大きく分裂し、すっかり敗勢にあります。とりわけデュパンは、まったく勢いを失っています。国外については何も知りません。政策は、オランダでも、ベルギーでも、東方でも、動かず様子を見ているように思われます。――ベリー公妃は、出産する前に釈放するわけにはいかないと考えています。私たちにそうさせようとする、カルリストの一種の陰謀めいた動きがあります。いったん私たちの手を離れれば、公妃がすべてを否定できるようにするためです。その出来事が済んで初めて、この陣営はあらゆる望みを失うでしょう。ですから、大赦もそれまで延期せざるをえません。――イギリスでは内閣がたいへん順調に進んでいるように思います……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年三月十四日。
……昨日、国王の朝の接見で、グレイ卿は、アルジェ占領[71]について発言のあったフランス代議院の審議を、私に話しました。この場で述べられた言葉を、たいへん遺憾に思うと述べ、それによって、まもなくこの問題が取り上げられる貴族院で、非常に大きな困難に直面することになると、私に言いました。――彼は、国王政府がこれほど明確な約束を避けてほしかったと望んでいました。とりわけ、以前のフランス政府がイギリスに対してした約束を、昨年アバディーン卿が、あれほど敵意を込めて明かした後なのですから。
私はグレイ卿に、ご意見はあなたへお伝えすると答え、そのうえで、この問題について首相の行った演説には、かなり曖昧な表現がいくつかあり、アルジェ占領に関する国王政府の意図を、あらかじめ判断することはできないと付け加えました。また、私の考えでは、この領土は、取締りのための植民地とすることしか、これまで考えられていませんでした。
アバディーン卿によれば、ポリニャック公がしたという約束の内容を確かめるのは、有益だと思います。その記録は外務省に残っているはずです。
公爵殿、イギリス内閣がかなり難しい立場にあり、国外からのわずかな衝撃も恐れていることは、おわかりいただけるでしょう。とりわけ、関税問題で同内閣の考えに反対する姿勢を示した、わが政府からの衝撃を恐れています。内閣は新しい下院の気風を、まだ正確には知りません。不適切な時機に起こされた議論が、いま最も複雑で重要な問題を扱っている下院の審議に、悪い影響を与えるのではないかと、おそらく理由のある心配をしています。
他方、国王政府にも議会での困難があることは、よく承知しています。わが代議院がフランスの真の利益を、もっとよく理解せず、沈黙したほうが有益な問題を、不用意に持ち出すことを、私は幾度も残念に思いました。イギリス議会では、反対派でさえ、国の実際的な利益を危うくしかねない、配慮を欠いた質問で、政府を困らせようとはしません……」
「一八三三年三月十八日。
……第三十四号の外交報告の追伸に、ウィーン駐在のフランス代理公使からの腕木通信による報告があり、それを読んでたいへんうれしく思いました。そこにあるコンスタンティノープルからの知らせは、オーストリア代理公使からも確認されましたが、きわめて重要だと思われます。ルサン提督の得たような成果について、国王政府をお祝いしなければなりません。これはフランスの名誉とヨーロッパの平穏にとって、大きく立派な成功です。私たちはまもなく、その好ましい効果をすべて感じることになり、フランスの現在の政策は、各国の内閣に深い印象を残すと、確信しています[72]。
ノイマン男爵は、この件についてメッテルニヒ公から届いた外交報告を、私に知らせました。その詳細は、腕木通信の報告の後、あなたにも届いたでしょう。ただ、メッテルニヒ氏のこの手紙は、ロシアの企てが阻まれたことへの満足を表している点で、注目に値すると申し上げておきます[73]。私たちの努力の成果を受け取ることになるすべての大国が、ウィーンの内閣と同じ気持ちを抱くはずなのは、明らかです。私たち自身にとっては、フランスの問題であると同時にヨーロッパの問題でもあるものの解決に、最も気高い後援を与え、新たな結びつきによって、わが国の利益をほかの政府の利益につないだという、計り知れない利点が得られます。重ねて申し上げますが、これは国王政府を、その政府にふさわしい高い立場に置く、立派な成功です……」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三三年三月十八日。
公爵殿、
いまアルジェ問題を持ち出すことが、どれほど有害で、愚かで、幼稚かは、私も閣下と同じように感じています。しかし、私たちはあまりにも分別のない人々を相手にしているので、この厄介な問題の議論をすべて避けることはできません。ただし、イギリス内閣と私たちの間で、十分にはっきりさせたい点が一つあります。それは、アルジェについてイギリスに約束したという事実です。発言する前に、私は書簡類をすべて注意深く調べさせました。そこには一頁ごとに、いかなる約束もなかったことばかりでなく、その種の約束すべてに頑として抵抗したことが示されています。その抵抗はアルジェ占領の瞬間まで続き、フランスとイギリスの断交をほとんど招くところでした。私は、ポリニャック氏の下で政務局長だったボワ=ル=コント氏[74]を呼び、この点について徹底的に問いただしました。彼は、何の約束もしたことはないと断言しています。最後に、アルジェ問題全体について詳細な覚書を作るよう、彼に命じました。その覚書からイギリスに関する部分をすべて抜き出させ、閣下にお送りしますので、適切と思われるようにお使いになれます。ですから、一方では、私がこの問題について軽々しく発言したのではないことを、十分に確かめたいのです。他方では、こちらの文書にも、この省に勤める人々の記憶にも、何の痕跡も見つからない、約束したというその義務の重みと内容について、イギリス政府と十分に意思を通じ合わせたいのです。公爵殿、どうかこのことをパーマストン卿に、一言お伝えください。重ねて申し上げますが、たとえポリニャック氏がした約束であっても、私がそれを撤回したと、わずかでも道理があるかのように非難されるのは、たいへん不本意です……」
グレイ卿からタレーラン公へ。
[翻訳]
「ダウニング街、一八三三年三月二十一日。
公爵殿、
お預けくださった書類を、深くお礼を申し上げつつ、同封してお返しします。
そこにはブロイ公の良識と誠実さが、十分に表れています。そのため、アルジェ問題について、両政府の友好関係と、そこに関わるヨーロッパの利益にかなう形で、私たちが合意できるという希望を持っています。
どうか、私の敬意を……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年三月二十二日。
公爵殿、
……アルジェ問題に関することを、グレイ卿へ伝えました。こちらでこの問題が非常に重く見られていると、ますます考える理由があります。お知らせくださった覚書を、ありがたく拝受したいと思います。パーマストン卿は国王の法律顧問に、同じ問題について覚書を作るよう命じました。資料がないのですから、何を基礎にできるのか、私にはわかりません。口頭でのやり取りを政府に報告したスチュアート卿の手紙は、誠意ある人々にとっては、ほとんど論拠にならないと思われます。
ルサン提督がコンスタンティノープルで得た成果に対し、ロシア政府とその代表たちが不満を抱くのは、驚くことではありません。これほど重要な問題を主導した後で、私たちの介入によって解決されるのを見て、ロシア内閣が傷つくことは、容易に理解できます。もっとも、彼らにとっては自尊心の問題にすぎません。しかし、だからこそ、誰もが評価するはずの成功への満足を、私たちはさらに控えめに示すべきだと思います。」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三三年三月二十二日。
公爵殿、
……ルサン提督の行動にご満足いただけて、うれしく思います。彼への訓令は、合法的で道理にかなうあらゆる手段を用いて、オスマン帝国政府の同意を得たロシア軍のコンスタンティノープル占領を防ぐことでした。同政府の意に反して占領するのであれば、ただちにヨーロッパ全体の問題となり、追い払うために必要な数以上の同盟国を得られることは、確かです。ルサンはたいへんよく行動しました。サンクトペテルブルクから、猛烈な嵐が来ると予想しています。しかし、結局のところ、彼らに何ができるでしょうか。非難できるのは手続きだけです。そうなれば、私はその議論を彼らに返し、この一件を通じて見せた隠蔽と、ムラヴィヨフの任務を知らせた際の不誠実さを責めるつもりです……気の毒なポッツォは、召還されるのではないかと、死ぬほどおびえています。ほかの外交官たちも、かなり動揺しています。
このすべてがイギリスで承認されたことを、私はたいへん喜んでいます。東方問題について、この三か月の間に私たちが行ったさまざまな申し出を、イギリス政府がひどく冷淡に受け止めていたため、今回は見捨てられるのではないかと恐れていました。そのため、一昨日わが国の新聞に載せた短い記事には、イギリス公使館への言及を入れませんでした。私たちがこの件に巻き込もうとしていると、イギリス政府から非難されるのを恐れたのです。しかし、同政府が姿を現し、自分の役割を担いたいと望むなら、問題はありません。明日、イギリス公使館がほとんど主役となるような、別の記事を書かせます。今朝は代議院で質問を受けることを期待していました。その答弁の中で、イギリス公使館を最前面に置くつもりだったのです。しかし敵対する人々は、この問題では私たちが有利すぎると見て、地中海の軍備のために求めた予算を、一言も発せず、全会一致で可決しました。イギリス側は海軍の駐留部隊に、多少の増援を送れないでしょうか。そうするそぶりを見せるだけでも、たいへんよい効果があるでしょう……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年三月二十八日。
公爵殿、
先ごろいただいた外交報告の一つで、サー・ストラトフォード・カニングとレーヌヴァル氏との会談について、お話しくださいました。それによれば、イギリスはドン・ミゲルを国王と認めることを基礎に、ポルトガル問題を処理することも、考えているようです。
ポルトガルとスペインについて、イギリス内閣の正確な意図に関する情報を得るのを妨げる事情は、すでにご説明する機会がありました。それでも、私は幾度もパーマストン卿と半島の状態について話しており、その都度聞いた言葉から、イギリスにはポルトガルの現状を終わらせるための確定した計画がないと、確信していることは申し上げられます。サー・ストラトフォード・カニングの出発以来、とりわけ、この外交官がマドリードで進めるはずだった交渉に失敗して以来、イギリス内閣は、ポルトガル問題の解決を、ほとんど成り行きに任せているとさえ思います。内閣は彼からの情報を待っており、状況に応じて行動するようにという訓令以外は、送っていないと思います。
サー・ストラトフォード・カニングが二月三日にセア氏へ提出した覚書も、同氏の二月二十八日付の返答も、お送りしません。私は両方を持っていますが、レーヌヴァル氏が必ず写しをお送りしたものと思うからです。
ポルトガルとスペインの問題でイギリス政府が採る方針について、得られるかぎりの情報を得るために、何一つ怠らず、それを速やかにあなたへお伝えすることを、あらためてお約束します……」
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ。
「テュイルリー宮、一八三三年三月二十五日。
親愛なる公爵、まもなくロンドンでお迎えになる訪問者について、お知らせします。シャルトルです。私たちの大切な国王は、本人が希望したこの旅行は、よい効果を生むばかりだと考えています。ブロイ公から話を聞いたグランヴィル卿も、同意見です。昨夜シャルトルは、このことをあなたにお話しするよう、私に頼みました。私たちも、お考えを伺いたいと思っています。この若者にとって、よい、有益なことだと思います。本人は学ぶための旅にして、あらゆる立派な施設、進歩した仕組み、鉄道などを、よく見たいと望んでいます。あなたは、この旅行でたいへんよい案内役になってくださるでしょう。本人の計画では、復活祭の日、四月七日の夜にこちらを出発し、国王の祝日である五月一日までに戻ることになっています。国王は、シャルトルの旅行について、イギリス国王に手紙をお書きになるかもしれません。どうお考えでしょうか……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年四月九日。
公爵殿、
パーマストン卿は、健康がまだすぐれず、今日も私と会うことができませんでした。誰にも会っていません。海軍大臣サー・ジェイムズ・グレアム[75]も訪ねましたが、同じく体調が悪く、会えませんでした。しかし、グレイ卿には会うことができ、今月四日付の外交報告に記された東方問題の事実を、知らせることができました。
グレイ卿は、この重大な状況でイギリスは何もせずにいるわけではなく、テージョ川の駐留部隊と、地中海各地を巡航するイギリス艦隊のうち、使用できるすべての艦船が、ただちにアレクサンドリア沖へ向かうよう、命令を出したと述べました。この海軍部隊は、キャンベル大佐の交渉を支える任務を負います。大佐がアレクサンドリアへ向かう際に受けた訓令は、あなたにもお伝えしていますから、どのような方針で行動するか、ご判断になれるでしょう。
エジプトのパシャが、キャンベル大佐の承認した提案への同意を拒む場合、イギリス艦隊はメヘメトの軍艦を、一隻もエジプトの港から出さず、同時に、イブラヒムの軍へ送ろうとする兵員や軍需品の輸送を、すべて阻止します。
さらに、アレクサンドリアでキャンベル大佐の交渉が失敗した場合には、フランスの提督と協議するよう、地中海のイギリス海軍司令官へ命令が送られています。
以上が、パーマストン卿の不在中に、グレイ卿から受けた連絡です。
あなたがウィーンから得て、私にお伝えくださった情報によれば、メッテルニヒ氏は東方で起きている出来事に強く動揺し、ロシアの今後の計画に、密かな不安を抱いているようです。しかし、ウィーンからロンドンへ届き、内閣や外国の代表たちが受け取った情報で、私が知ったものは、同じ趣旨ではありません。むしろ、外交報告や私信は、メッテルニヒ氏が、ボスポラス海峡にいるロシア軍を恐れる人々を安心させようとしており、サンクトペテルブルクの内閣とニコライ皇帝の保証を、全面的に信頼していると伝えています。
また、あなたがウィーンから得た情報では、世論がロシアに強く反対しているとのことです。ウィーンの世論という話を聞くと、私は少し驚きます。自分の記憶と現在の交際から、ウィーンには世論などないと思っていたからです。たしかに社交界の意見はありますが、その社交界は一つにまとまり、分裂しておらず、メッテルニヒ氏が導いています。そこに世論という助け手を見つけられると期待するのは、大きな思い違いだと思います。
なお、ロンドンでは一般に、現在の東方問題は解決するだろうと考えられています。ロシアを含む四大国は、いずれも多少なりとも直接の利害を持っていますが、すべて同じ目的、すなわちオスマン帝国の存続の維持に向かっているように見えるからです……」
「一八三三年四月十一日。
……今日の郵便で、フランクフルトで起きた出来事の報告が届きました。かなり重大なものと思われます[76]。これを、私が外交報告で何度もお示しした観点、すなわち、オーストリア内閣への影響という観点から、ご判断いただきたいと思います。メッテルニヒ氏がロシアの意図を全面的に信頼しているのは、革命の気風がドイツとイタリアで引き起こそうとするかもしれない騒乱への恐れに、支配されているからにほかなりません。彼は一般に、オーストリアの内政の根本原則と考えるもののために、外政を犠牲にする傾向があります。いまロシア政府が革新の気風を公然と敵視しているので、ドイツやイタリアの扇動者たちのあらゆる企てを抑えるため、ロシアと結ぶ決意を固めています。東方問題でハンガリーとオーストリアが持つ重要な利益を、まったく顧みないわけではありませんが、彼にとっては二次的な問題にすぎません。
東方問題についてウィーンに国際会議を設けるよう、アポニー氏とヴェルター氏があなたにほのめかしたことは、驚くにあたりません。これもメッテルニヒ氏の考えです。ロンドン国際会議ができて以来、彼は、自分の直接の影響力の外で問題が扱われることへの不満を隠さず、すべての努力を、自分のところへ問題を戻すために注いでいます。これは、まったく単なる自尊心の問題だと思います[77]……」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三三年四月十二日。
公爵殿、
オルレアン公の旅行について、もっと詳しくお話ししておかなかったことを、反省しています。初めて話が出たとき、率直に言えば、そこから生じうる小さな困難を、気づくべきほどには気に留めませんでした。かなり簡単なことに思えたのです。すべて申し上げれば、決定が下される前に、ありうる可能性としてグランヴィル卿へ話してしまったのは、軽率でした。その時点では、十分に考えていなかったのです。卿は私の言葉をそのまま受け取り、イギリス国王にこれ以上喜ばしいことはないと私に保証しながら、ただちに政府へ書き送りました。しかし、さらに考えると、旅行そのものが悪いのではなく、準備を整え、うまくいくように手立てを講じるのがよいと思われました。そのため、私は旅行を延期させるよう、できるだけ努めました。オルレアン公は、王太子としての態度も、身分を隠して旅行する王族の態度も望んでいません。その中間の立場で、ふさわしい接遇をどう整えられるかが、残る問題です。私の考えが間違っているかもしれませんが、国王にも公にも、イギリスではできるかぎり貴族らしい態度を取り、公を成り上がり者として扱いたがる人々に、その口実を与えないよう、強く勧めています。よく考えたうえで、同行者の人数と、どのような人を伴うか、受け入れるつもりの礼儀作法、要するに、本人が思い描く旅行のあらゆる付随事項について、考えを私に知らせるよう頼みました。その考えを聞いたら、閣下に書き送り、不適切な点があれば直すため、ご助言をお願いするつもりです。オルレアン公は、たいへん成長しました。振る舞いはよいものになると、確信しています。イギリスへ行きたいのは、何よりもパリの何もせずに過ごす生活から抜け出したいからです。こちらでは政治からまったく離れています。自然な姿以上に遊びに流れることになるので、離れすぎかもしれません。ともかく、まだ少なくとも一か月あります。それまでに、どうすれば最もよい結果となるか、閣下のご指示を受け取る時間があるでしょう。
東方問題は少し複雑になっていますが、それでも解決できると思います。」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年四月十五日。
親愛なる公爵へ、
オルレアン公の旅行が遅れたことで、こちらで流行している小規模な疫病を避けられるという利点があります。パーマストン卿とデデル氏も病にかかりました。オランダ国王も病気で、返答がありません……
オルレアン公は、まもなくブライで決着がついてから、パリを出発してほしいと思います。これほど近い親族が、このように特別な事情の下で、まさにそのとき外国にいるのは、好ましいことではないでしょう。こちらでは、ベリー公妃への政治的な関心はありませんが、深い同情を呼んでいます。オルレアン公は時を選べるのですから、いとこの出産後まで旅行を延ばしてはどうでしょうか。
今日の外交報告は、たいへん内容に乏しいものです。この一週間は、少なくとも表面上は、ひどく動きがありませんでした。広まっている噂を信じれば、内閣の近い改造を招きかねない内部の争いに、費やされたことになります。それほど重大な結果になるとは思いませんが、それでも内閣は、議会での大きな困難だけでなく、構成する人々の意見の違いによる、内部の困難も抱えているに違いありません。外交報告の題材にするほど、そこまで事態が進んでいるとは思いません。さらに、親愛なる公爵、率直に言えば、わが国で秘密が重んじられているとは、私はあまり考えていません。この三年間、パリの閣議で起きたことが、たちまちサロンの共有する話となるのではないかと、恐れる理由が幾度もありました。こちらで鳴り始めた雷は、私の個人的な見方では、嵐にならず過ぎ去るでしょう。しかし、政府内部の困難へ私があなたの注意を向けたことが、こちらへ伝わってはなりません……」
「一八三三年四月十八日。
昨日、パーマストン卿に会いました。レヴァントの問題を話すにあたり、あなたの第四十七号の外交報告にあった考察を、有効に使いました。いまアレクサンドリアとコンスタンティノープルで進めている交渉で、イギリスとフランスの間に、見かけだけでも不一致があることの不都合を、理解させるためです。彼はその考察の重要性を認め、キャンベル大佐の訓令は、ほぼフランス総領事の行動に合わせるよう定めているので、この点で私たちの行動が足並みをそろえることは疑わない、と答えました。ただしコンスタンティノープルについては、ルサン提督が任務の初めから示した激しさを、全面的には是認できなかったとのことです[78]。訓令を持たないイギリス代理公使は、自らの補佐的な立場に、またおそらく、置かれた状況にも、よりふさわしい慎重さを示さなければならなかった、というのです。
東方問題でのイギリスの行動からあなたが抱かれたご意見を、グランヴィル卿からパーマストン卿へ伝えるよう命じてくださったことを、うれしく思います。私はすでに幾度も、イギリス内閣が、エジプト勢力の拡大への懸念にとらわれるためか、自分たちに直接関係しないと考える外政問題への無関心からか、私が繰り返し行った提案を、つねに冷淡に受け止めてきたことを、指摘する機会がありました。ですから、グランヴィル卿が閣僚たちに対し、その意見で私を支えてくれることを、喜ばしく思います。
パーマストン卿は、あなたからお知らせいただいたメッテルニヒ氏の案を、オーストリア代理公使から伝えられたと話しました。その案は、レヴァントの問題に関するさまざまな案件を、ウィーンで扱うというものです[79]。メッテルニヒ氏は、この交渉を国際会議や協議会の形にしたくないようです。きっと、ロンドンで行われたことを少しでもまねたように見られるのを、恐れるのでしょう。パーマストン卿は、四大国が協力してレヴァントの和平を定めるという点では、メッテルニヒ氏の考えを採ることも考えています。ロシアの悪意を無力化する最善の方法は、あらゆる交渉への参加を求め、それによって、引き受けることを拒みにくい約束で縛ることだと、彼は考えているからです。私もこの意見に賛成です。単独で行動するロシアには、最大限の警戒が必要です。ほかの三大国とともに行動すれば、その行動の危険は大幅に弱まります。しかし一方で、パーマストン卿は、ウィーンよりコンスタンティノープルで、この問題を扱いたいと考えています。表向きに挙げる理由は、これほど重要な問題では現地にいる必要があることと、距離による不便です。けれども、ウィーンよりコンスタンティノープルを選ぶ真の理由は、メッテルニヒ氏が、この交渉をウィーンへ引き寄せれば、ほどなくヨーロッパの問題全体をそこへ集め、つねに彼の目障りとなっている英仏の緊密な同盟の影響力を、弱めてしまうのではないかという考えだと、私は思います。私自身の考えでも、コンスタンティノープルがよいでしょう。オスマン帝国が衰弱している状態では、きわめて重大な遅延の不都合を、そこでなら避けられるからです。国王政府がルサン提督に寄せている信頼からしても、この都市を交渉の中心に選ぶことは、十分かなうものと思います……」
「一八三三年四月二十五日。
あなたからお知らせいただいた、ブレッソン氏の四月十四日付の手紙[80]を、強い関心をもって読みました。率直に申し上げれば、ネーデルラント国王との交渉を解決するうえで、マトゥシェヴィチ伯爵がベルリンにいることの成果に、大きな期待を寄せています。いまロシア内閣の働きかけに不信を示すのは、オランダ・ベルギー問題の成功にとって適切ではないと思います。むしろ、その働きかけが与えてくれる利点を、すべて引き出すべきです。長年の経験から、少し危険を伴う信頼でさえ、巧みな手段になる場合があると、私は学びました。信頼する相手の、確かな、他と区別できる利益の中に、安全の保証を見いだせるとき、この考えはいっそう強い力と価値を持ちます。
フランス、イギリス、とりわけオーストリアが、東方問題でロシアの協力を求める必要があるという考えも、私は同じ原則に基づいています。ロシアにあると見られている野心的な計画について、当面ヨーロッパを安心させることは、ロシアの真の利益にかなうと、確信しているからです。リーヴェン氏がこちらで絶えず述べている、融和的で私心のない言葉は、この考えを確かなものにするばかりでした。
ロンドンに届いたコンスタンティノープルからの最新の知らせは、不安を引き起こしました。それはいくらか過大かもしれませんし、とりわけ、出来事のこれほど速い進みに備えていなかったことから来ていると思います。各政府に先を見通す備えが欠けていたのは明らかです。今日は、その欠如を速やかに補う必要があります。
これまで、この重大な問題をかなり軽く扱ってきたイギリス内閣も、ようやくその重要性を正しく認め始めています。グレイ卿もパーマストン卿も、グランヴィル卿が到着する前から、東方の状態を懸念を込めて私に話しました。この大使がロンドンにいることで、イギリス内閣の注意が、この点にいっそう向けられることは、疑いありません。
レヴァントのために何をするのが最も役立つか、私はよく考えました。アジアで起きているような、これほど複雑で不確かな出来事に対して、策を組み立てることは、たいへん難しいものです。それでも、近い将来の危険な衝突を防いで、その悪い結果を和らげる備えを整えることは、少なくとも可能です。また、その出来事の結果が、ヨーロッパの各政府に何らかの真の保証を与えるなら、それを承認することもできます。
最近の事情によって各国が再び自由に行動できるようになったため、私は考えを重ねるほど、いま東方問題を、ヨーロッパが多少なりとも安心できる形で終わらせるには、四大国の協力が絶対に必要だという考えを固めました。この協力は何らかの取り決めで表すべきです。そこには締約国が、オスマン帝国の領土を犠牲にして、いかなる領土も獲得しないという、正式な約束を盛り込むべきでしょう。このような約束は、前例のないものではありません。ごく最近も、ギリシア問題に適用されました。一八二七年七月六日の条約に署名した三大国が、ギリシアの君主を、フランス、ロシア、イギリスの王家の一員からは選ばないと、約束したのです。
このような約束をしても、アルジェに関して困ることはありません。わが遠征の原則は、当時、ロシアとオーストリアの全面的な承認を受けていたからです。さらに、アルジェの領土を恒久的に占領するわが国の権利に、疑いを残さないような基準の日付を選べば、十分に保護されるでしょう。
いまあなたにご説明した考えを、私はパーマストン卿に伝えました。今夜、閣議にかけられます。明日には、最終的な決定をお知らせできると期待しています……」
「一八三三年四月二十五日。
親愛なる公爵へ、
東方問題は、たいへん重大になっています。ルサン提督が、アレクサンドリアの意向を確かめずに、コンスタンティノープルで請け合ってしまったのは、実際、少し奇妙です[81]。これが私たち全員を誤らせました。しかし結局、いま到達した状態を、そのまま受け止めなければなりません。こちらでは、長い眠りから、一種の恐慌へ移っています。しかし、この不安も何の方策も生みませんでした。そこで皆が私のところへ来て話し、意見を求めました。私は、個人的な考えではありますが、唯一のよい出口と思うものを、述べることができました。その詳細は、今日の外交報告に記してあります。私が口頭で述べた案は、今夜の閣議にかけられるので、明日はさらにお伝えできるでしょう。パーマストン卿は今朝、それを熱心に受け入れました。しかし、彼一人の意見では、実行を始めるには足りません。今回は、何よりも時機の問題ですから、実行が遅れないことを願っています。では、また明日……」
「一八三三年四月二十六日。
昨日の外交報告でお話しした方針は、イギリス内閣に採用されました。同内閣は、オーストリア、フランス、ロシアの各政府へ、およそ三つの条文で、次の内容を盛り込む協定を結ぶよう、提案すると思います。
一、四つの締約国のいずれかの利益のためであれ、ほかのいかなる大国の利益のためであれ、オスマン帝国の分割には同意しないという約束。
二、オスマン帝国の宗主権と領土の一体性が保たれるのであれば、帝国政府とエジプトのパシャとの間で結ばれたあらゆる取り決めに対し、四つの宮廷が承認を与えること。
三、エジプトのパシャが、前条で定めたような取り決めに同意しない場合、四つの宮廷が協議する手段によって、同意を強いるという約束を、同じく結ぶこと。
ここでは、協定案に入る三つの点をお示ししました。採用され、ただちにあなたへ伝えられる最終的な文言を、正確にお示しすることはできません。フランスに直接関係する唯一の問題については、昨日の外交報告でご安心いただけると思います。私は日付の点を強く求めました。提示される日付が適切かどうか、ご判断ください。
この提案がイギリスから出ることには、何の不都合もないと考えました。イギリスは、東方問題において、ヨーロッパ全体に関わる利益しか求めておらず、これまで積極的な役割を果たしていないため、ほかの大国に対して、わが国より公平な立場にあるからです。
オーストリアとロシアの両政府が、このような提案を受け入れないなら、その拒否の中に、隠れた意図、おそらく確定した分割計画がある証拠を、私たちは見ることができます。俗な言い方をすれば、彼らには常習のことなのですから。
昨日と今日の外交報告へのご返答を、心待ちにしております……」
「一八三三年四月二十九日。
コンスタンティノープルでルサン提督が行った交渉をめぐり、サンクトペテルブルクの宮廷とフランス政府との間で起きた議論は、終わったとお考えだと伺い、たいへん喜んでいます。紛糾に事欠かないいま、その一つが減ったのです。
公爵殿、この外交報告が届くころには、ほとんどつねに私たちの使者より早く着くイギリスの新聞が、金曜日の夜の下院の採決によって、内閣に重大な困難が生じたことを、すでにお知らせしているでしょう。この採決で、麦芽税が半額に引き下げられました。この減税は、歳入をほぼ二百五十万ポンド減らします。もし、明日、窓税の廃止も可決されれば、その可能性はありますが、歳入には突然、ほぼ五百万ポンドの赤字が生じることになります。
内閣はこの三日間、この難局に対処するため、たびたび会合を開いています。差し迫った赤字を埋めることに、きわめて大きな困難を抱えています……この出来事はかなり重大であり、そのため、こちらでは人々の間にたいへん強い動揺を起こしました。公債価格は大幅に変動し、新聞の論争はいっそう激しくなりました。しかし、内閣の敵対者たちのこの勝利によって、内閣が退陣するとは考えられていません。ただ、支持者の不信を呼び起こし、その結果として力を弱めるという、好ましくない不都合は生じるでしょう。今夜、内閣は、金曜日の採決によって採らざるをえなくなった方策を、下院に示すと考えられています。その内容はまだ知られておらず、潮の時刻の都合で、今日お伝えするのはおそらく無理でしょう。明日、この件について急使便でお手紙を送ります。
十八日付のブレッソン氏の手紙の写しを含む、あなたの二十五日付の外交報告は、私に大きな満足をもたらしましたが、残念ながら長くは続きませんでした。ベルリンからの最新の知らせによると、アンシヨン氏は、マトゥシェヴィチ伯爵と合意した覚書へ署名する直前に、突然意向を変えました。四月十六日付のハーグ内閣の覚書は、そこに含まれる休戦についての提案だけで、私たちには十分なはずだ、という口実でした。このような問題の扱い方は、私には理解できないと、率直に申し上げます。アンシヨン氏の何か新たな気まぐれにも、多少は期待しなければならないのでなければ、今後に望みを失わせるものとなるでしょう[82]。
二十二日付の私たちの覚書[83]を送って以来、ハーグから知らせがありません。いつ届くかと待っていますが、最初に届くものには、おそらく大した意味はないでしょう。アンシヨン氏の迷い、東方の状態、とりわけ、いまイギリス内閣が抱える困難が、ハーグで私たちに新たな難題を生むのではないかと、大いに心配されます……」
「一八三三年四月二十九日、夜。
親愛なる公爵へ、
私は予言を好まないので、今日の結果について予言することは控えます。しかし、この一日は、内閣と国の政治・財政の行方にとって、たいへん重要です。今日の『タイムズ』にご注意をお願いするだけにとどめます。どうか社説と金融市場の記事をお読みください。その重みをきっとお感じになり、イギリスがどのような状態にあるか、おわかりになるでしょう。
トーリー派は今日の審議で、内閣を誠実に支持するでしょう。しかし、金曜日の採決を撤回させられなければ、こちらではすべての様相が急速に変わり、昨日リーヴェン夫人が、喜びを押し隠しながら言ったとおり、
『イギリスがヨーロッパの勢力均衡で、ほとんど重みを持たなくなる』
という事態を、まもなく目にすることになるでしょう。
それでは、深い親愛を込めて。」
「ロンドン、一八三三年五月一日。
公爵殿、
昨日お伝えしたとおり、下院の審議は今朝四時まで続き、内閣を支持する採決で終わりました。下院は百五十四票の差で、麦芽税の廃止を撤回することを決めました。この出来事は、初めかなり深刻な不安を引き起こしましたが、予算の審議を容易にするものになると、期待されています。今日、公債価格は大きく上昇しました。」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三三年四月二十九日。
公爵殿、
今朝、国王の閣議で下された決定は、同封の外交報告に記してあります。私たちはイギリス内閣の提案を、原則として受け入れます。ただし、文言については届いてから検討します。オーストリアとロシアの両宮廷の返答を得る前に、コンスタンティノープルで問題が終わっていることを願っています。それでも、この取り決めはロシア軍を去らせるのに役立つでしょう。イギリスがもっと早く決心しなかったことは、たいへん残念です。本当に、私の責任ではありません。入閣以来、私はコンスタンティノープルへ大使を送るよう、求め続けてきました。この件について私が書き、また受け取る外交報告を、ほとんど毎日のように、すべてグランヴィル卿へ知らせました。警告し、頼み、急がせました。多少なりとも重要な出来事が起きるたびに、何一つ知らせずにはおきませんでした。公爵殿、閣下にも、この件について、再び働きかけていただくようお願いしました。ともかく、遅くとも、しないよりはましです。まだうまく切り抜けられることを願っています。しかし、イギリス内閣にその気があれば、アレクサンドリアでもコンスタンティノープルでも、すべて終わっていたでしょう。
ブレッソン氏の外交報告をお送りします。マトゥシェヴィチ氏がベルリンで失敗したことが、おわかりになるでしょう[84]。いまは私たちも、牙をむき始めなければならないと思います。そうしなければ、もう力尽きたと思われ、オランダに笑われるでしょう。封鎖を厳しくし、オランダの通商にもっと有効な圧力をかける手立てはないでしょうか。よい季節が過ぎていきます。それを利用しなければ、私たちは何と言われるでしょうか。それでは、公爵殿……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年五月三日。
公爵殿、
……ウィレム国王と、ついに合意へ至るために、フランスとイギリスにとって最も適切な手段は何か、私はしばしばパーマストン卿と話しています。あなたが二十九日の外交報告とお手紙で示された手段も、幾度も話題になりました。しかし、少なくともいまのところ、提案された計画の実行には、一つならず困難が見えると、申し上げなければなりません。イギリス内閣は、議会の両院で提出すると言われている、オランダ・ベルギー問題についての動議と、船舶抑留措置に対するイギリス商業界の、かなり強い抗議を懸念しています。ですから、新たに厳しい措置を加えることで、最近この問題について示されている不満を、いま増大させることを恐れているのです。グレイ卿とパーマストン卿は、アンシヨン氏がまた私たちの側へ戻り、強制措置をさらに強めるより、プロイセンの援助のほうが有益になると、まだ期待しています。ベルリンからの最新の手紙も、この考えを支えています。それらは、アンシヨン氏が、ハーグへの三つの宮廷の宣言という案へ戻ることを、考えていると伝えているからです。最後に、私たちは皆、四月二十二日付の私たちの覚書に対する、ハーグ内閣の返答を知るまでは、何か確定的なことを決めるのは不可能だと考えています……」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三三年五月四日。
公爵殿、
公爵殿、コンスタンティノープルからの知らせの概要は、公式の外交報告に記してあります。アレクサンドリアでは、決着まであとわずかです。イブラヒムは撤退しています。皆の力を合わせた努力がパシャを動かし、私たちがすべてを勝ち取れると期待するだけの理由があります。しかし、それだけに、今日からロシアへ働きかけることが、いっそう必要になっています。コンスタンティノープルからの報告によれば、ロシアは決着を妨げるために、できるだけのことをしています。レヴァントで思う存分支配者として振る舞い、しっかり居座り、幾重もの困難を経てからでなければ去らないようにするためです。閣下がお話しくださり、私も急いで返答したあの提案を妨げているのは、イギリス議会の最近の出来事だけだと思います。その勝利の後には、東方問題へあらためて取り組めることを願っています。イギリス政府を、もう一度眠り込ませないよう、切にお願いします。
ハーグでの三つの宮廷の働きかけに、こちらで何を期待すべきか、私にはわかりません。エーラグ氏[85]からの知らせは、安心できるものではありません。それでも、終わらせなければなりません。――こちらの事態は順調です。新しい会期は容易で短いものになると、すべてが示しています……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年五月六日。
公爵殿、
オルレアン公殿下は、順調に海を渡り、無事に旅を終えて、一昨日の夜十時に到着されました。
今月四日付の外交報告と私信を拝受しました。私が三日にお送りしたものが、オランダ・ベルギー問題についてあなたの述べられたご意見への返答となっています。この問題を終わらせる必要は、私も同じように感じています。しかし、こちらには、いま速やかに解決することをかなり難しくする要請があります。あなたの外交報告の最後の段落にある議論は、反論の余地があるものと思います。というのも、最初のベルギー遠征と十月二十二日の協定は、フランス内閣を強める行為であったからこそ、イギリス内閣を弱めることにつながったという点に、注意しなければならないからです。ですから、両者の状況は同じではありません。船舶抑留の措置は、イギリスでたいへん不評でした。来週の木曜日か金曜日に下院で行われる、この件の審議も、世論に好ましくない印象を与えずにはおかないでしょう。先の外交報告でお伝えしたとおり、ベルリンからの知らせは、ハーグでの三つの宮廷の働きかけの結果と、四月二十三日付の私たちの覚書に対するネーデルラント政府の返答を待つという、イギリス内閣の決意を、さらに固めています。エーラグ氏の手紙によれば、この返答はもう長く待たずに届くとのことです……」
この外交報告を書いたとき、私は、フランス政府の熱意をいくらか静めようとしていた。同政府はベルギー側に押され、オランダへの厳しい措置を増そうとしていたが、まさにそのとき私は、ネーデルラント国王が、すべての点でなくとも、少なくともベルギーにとって、したがって私たちにとっても最も重要な点では、譲歩しようとしていると確信していた。まもなくご覧いただけるとおり、私の考えが正しかったことは、ほどなく明らかになった。
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年五月十三日。
公爵殿、
サー・パルトニー・マルコムが、地中海のイギリス海軍駐留部隊の司令官に任命されたことは、お知らせしました。彼はただちに出発し、前任者よりはるかに広い訓令と権限を与えられます。アストン氏[86]から、その内容と、この件についてコンスタンティノープル駐在のイギリス大使ポンソンビー卿へ送られた指示を、お聞きになったはずです。提督と大使は、ルサン提督と協議することになっています。こちらでは、両国のこの協調によって、現在の状況でレヴァントの政策が持つべき影響力を、十分に確保できると考えられています。
イギリス内閣は、パーマストン卿が三つの宮廷へ提案すると私に約束した、協定案を放棄しました。その内容を知らされたリーヴェン公が、いくつか異議を唱えたのです。そのうち主要なものには、少し驚きました。公は、トルコの内政への真の介入となる協定に、ロシア皇帝が加わることは、決して同意できないだろうと考えています。パーマストン卿が、ロシアの艦船と兵をコンスタンティノープルへ送ることは、もっと明白な介入だと思うと指摘すると、リーヴェン氏は、その意見には賛成できないと答えました。――
『スルタンが
皇帝に援助を求め、皇帝はそれを送った』
と彼は言いました。
『帝国政府が自らの安全のために必要だと判断するかぎり、その援助を同政府の利用に委ねる固い決意を持っていますが、スルタンが望みを示せば、ただちに引き揚げる同じ決意も持っているのです。したがって、これは同盟者の援助であり、介入ではありません。』
この返答にはほとんど説得力がありませんが、パーマストン卿は、それで満足することにし、多くの困難に出会うと思われた計画を、それ以上進めないことにしました。
マルコム提督に渡された訓令が、東方問題をよい解決へ導くのに十分かどうかは、あなたご自身でご判断になったでしょう。
金曜日、下院でオランダ船舶の抑留とトルコの状態について行われた審議の結果は、イギリスの新聞でお知りになったでしょう。この結果は内閣に有利でしたが、内閣を安心させてはいません。商業界からのかなり広い不満によって、ベルギー問題を終わらせる必要を、強く感じさせられています。しかし、それでも、これまで用いたものより強力な手段に訴える決意をさせるのは、たいへん難しいでしょう……」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三三年五月十三日。
公爵殿、
こちらでは、閣下の催された祝宴の華やかさばかりが話題になっています。国王は、オルレアン公がイギリスで受けている歓迎[87]に、大喜びしています。その広く行き渡った好意の大半を、もっともなことに、閣下のお力によるものと考えています。私自身も、なおさらうれしく思います。こちらにいる大使たちがしばしば広めようとする、英仏関係が冷え込んでいるという噂への、答えとなるからです。
それにさらによく答えるのは、今朝アストン氏から見せられた、ポンソンビー卿への訓令と、海軍省がサー・パルトニー・マルコムに与えた訓令です。これらは、ごくわずかな点を除いて、私たちのものと一致しています。東方では、ようやく同じ足並みで進み始められそうです。腕木通信で到着が予告されたアレクサンドリアからの知らせを、いまかいまかと待っています。そちらの問題の決着を伝えるものであると願っています。残るのは、ロシア軍を去らせることです。
オランダとの暫定協定の問題を、名誉を保ち、有益な形で終わらせることができれば、どこへ顔を向けてよいかもわからなくなっているベルギー国王に、大きな助けとなるでしょう。いずれにしても、私たちは強制措置で、望まれるところまで進む用意があります。両院は、必要なら辛抱し、私たちが行う力強い行動をすべて承認するつもりです。国内では事態が最もよく進んでおり、これほど速く繁栄が戻ったことはありません。至る所で平穏が回復しています。国外から妨げられなければ、一年後には七月革命による動揺の跡は、何も残らないでしょう。
明日の『モニトゥール』には、ベリー公妃の声明の詳細がすべて載ります。この件は、少し滑稽な形で、期待してもよいと思われたほどには不名誉なものとならず、終わりを迎えます[88]……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年五月十七日。
親愛なる公爵へ、
あなたは友情から、ロンドンでのオルレアン公の成功を、多少は私のおかげとしたいようです。二人だけの話なら、私がまったく無関係ではないと、認めてもよいかもしれません。しかし、あらゆる点で、わが若い王子ほどよく振る舞うことは、誰にもできないというのが、本当のところです。あのカンバーランド公爵夫人[89]!!!が、日曜日の散策はキューへ向かうよう、オルレアン公を勧めてほしいと、ディノ公爵夫人に頼みました。そこで昼食をふるまいたいというのです。今度こそ、大きな鐘が鳴り響いています。ブライの囚人が自由を取り戻したことも、これほど目立つ、私が期待しようとさえしなかった心遣いと、無関係ではないと思います。
昨日、デデル氏の覚書[90]をお送りした際、ルオン氏には写しを取らせないほうがよいと、お伝えするのを忘れました。彼がブリュッセルで、早すぎる時期に公表することが心配されるからです。そのため私は、ヴァン・ド・ヴェイエル氏にも、読み聞かせるだけにしました。さらに、この覚書で期待されるとおり、まもなく予備協定に至るのであれば、ベルギー側の要求にも用心しなければなりません。それは今後も幾度となく、私たちの妨げになるでしょう。
ポンソンビー卿とマルコム提督に与えられた訓令に、ご満足いただけてうれしく思います。与えられた状況を考えれば、いま得られたことは、実際、意味のある成果だと思います。
ほとんど異議を挟む余地がないと思われる、デデル氏の最新の覚書から、ようやく安心をもたらす予備協定が生まれることを、期待しましょう。ルクセンブルク大公の称号が省かれていることに、きっとお気づきになるでしょう。意図的なのでしょうか。明日か明後日、デデル氏と会談します。何か決まり次第、お手紙を送ります……」
「一八三三年五月二十日。
第五十九号としてお送りくださった外交報告と、ギリシアの王位継承順位を定める追加条約の批准書[91]を、拝受しました。
一昨日と今日、パーマストン卿、デデル氏、私の三人で、数時間にわたる会談を行いました。幾度も裏切られてきた望みが実現すると信じてよいなら、明日にも予備協定に署名するかもしれないと、申し上げられます。いま別れたばかりのデデル氏は、私たちが提案した解釈条項について、まだためらっています。明日までに決心できなければ、ハーグへ照会するでしょう。そうなれば、また八日間の遅れになります。訓令をよく調べて、私たちの提案に同意する権限があると納得すれば、明日、協定は署名されるでしょう。
この問題の重要性は、誰よりも私が理解しています。その解決を早めるため、できることをすべて行っていると、お約束するまでもありません。明日予定している会談が終わり次第、お手紙を差し上げます……」
「一八三三年五月二十一日。
今回は、私の期待は裏切られませんでした。昨日お知らせし、いまデデル氏と署名を終えた予備協定[92]を、お送りします。そこには、私が獲得すべき不可欠なものと考えた、すべての条項が含まれています。この協定によってベルギーは最も有利な立場に置かれ、ネーデルラント国王の立場は、この上なく不利になります。そのため、国王自ら、速やかに最終条約を求めるようになることは明らかです。スヘルデ川の開放と、ベルギーが債務の利子を払わないことが、ほどなくそうせざるをえなくするでしょう。したがって、いまネーデルラント政府に求めうるすべてを含む取り決めを結ぶことで、国王政府の意図を完全に果たしたと考えています。
後に独立した条項を加えたことに、お気づきになるでしょう。これは第三条を解釈するもので、その意味に何の曖昧さも残したくなかったためです。私たちは初め、条約の中に入れるよう求めました。しかし、デデル氏にこの条項を受け入れさせること自体、たいへん難しかったうえ、彼は協定そのものに入れることには反対しました。その理由は、かなりもっともだと思われました。第三条のすぐ後に説明が続けば、ネーデルラント国王の提案した文言の誠実さを疑うように見えるというのです。私たちは、その政府とデデル氏本人に、少なくとも、このささやかな配慮を示すべきでした。彼は、私たちが望んだ形での挿入に同意すれば、君主から非難されることを恐れていました。この点はそれ自体、ごく小さな問題ですから、私たちは容易に譲歩しました。解釈条項は協定と同時に批准され、同じ効力を持つことになっているからです。
批准書の交換に定めた十日間の期限までは、協定について何も公表しないのが適切だと、お考えになるでしょう。
国王政府は、この協定が批准された後、ベルギーの軍備縮小を促すときが来たと、きっと感じるでしょう。いまからブリュッセルへ、この措置をそれとなく勧めるのも有益かもしれません。それこそ、ほかのどんな措置よりも、最終的な取り決めを早めるものです。ベルギーが軍備を縮小すれば、オランダ軍は散り散りになるか、ほどなく解散されるでしょう。それによってネーデルラント政府は、自らの存立をこれほど深刻に危うくする状態を、終わらせざるをえなくなるからです。
オルレアン公は、今朝リヴァプールとマンチェスターへ向けて出発されました。殿下は二十八日にロンドンへ戻られます……」
パスキエ男爵からタレーラン公へ。
「パリ、一八三三年五月十八日。
公爵殿、十四日付のお手紙を拝受しました。そこにある好ましい知らせを、ありがとうございます。閣下がたいへん見事に取り仕切っておられる旅行の成功は、こちらでも非常によい反響を呼ぶでしょう。わがサン=ジェルマンの貴族社会が、それほど早く道理を聞き入れると期待するからではありません。少なくとも、その悪意をいくらか妨げ、つまらない嘲笑に耳を貸す人を減らすことになるからです。
ブライの出来事は、私たちが考えていたより早く起きました。しかし、閣下と同じく、全体として結果は満足のいくものだったと思います。そちらで王子の立場に、何の困難も生じさせなかったようです。それは重要な点の一つでした。
私の大赦への希望を、うまく支えてくださったことに、お礼を申し上げます。この希望は、率直に言えば、頭から離れない考えとなりました。それが不可欠な出口であり、大きな政治的危機から、有益に、名誉を保って抜け出せる唯一の道でもあることを、なぜ誰もが理解しないのか、私にはわかりません。ベリー公妃の出発の機会を逃したら、これほど好都合な機会が、またいつ現れるのか、想像できません。
国内の問題については、お話ししません。改善は目に見えています。国外の問題は、閣下のほうが私より百倍も詳しくご存じです。
気の毒なダルベルク[93]の死に際して採られた措置に、私は決して手を貸しても、賛同してもいません。むしろ、それに強く抗議し、今後このような屈辱的な扱いを受けずに済むよう、明確な決定を求めたいとさえ考える人々の一人です。そうした扱いの欠点のうち最も軽いものを挙げても、完全に無益だということなのです。そして、それはつねに変わりません[94]。七月革命の結果については、これほど多く語られています。この結果まで否定することはできないと思います。
公爵殿、いつものご厚情をもって、私の最も誠実な親愛の思いを、お受け取りください。」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三三年五月二十四日。
公爵殿、
心からお祝い申し上げます。閣下はいつもどおり、つまり、この上なく見事に事を運ばれました。いまベルギー国王にわずかでも分別があれば、暫定協定の下に落ち着いて身を置き、軍の半分を帰し、最終条約へいつでも署名する用意はあるが、暫定状態は自分に全面的に有利なので、できるだけ遅くなることを望むと、はっきり宣言するでしょう。そう行動し、そう語れば、ほどなく最終条約を得られます。
閣下がこのように見事な成果を挙げておられる間、私たちはこちらで、本当の危険にさらされていました。ギリシア借款の審議は、きわめて困難でした。それを本気で内閣の存続にかかわる問題にして、ようやく勝つことができたのです[95]。なお、会期は終わりへ向かっており、六週間後には、すべて終わるでしょう……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年五月二十七日。
親愛なる公爵へ、
……こちらでは、代議院でのギリシア借款の保証についての審議が、強い関心をもって見守られました。公爵殿、この機会にあなたの行われた幾つもの演説について、評価は一致していたと申し上げなければなりません。ギリシアに関するすべての交渉を、あれほど正確に、しかも鮮やかに説明されたことが、広く賞賛されました。さらに、この件には、たいへん重要な立憲政治上の問題がありました。政府の結んだ外交上の取り決めに両院が関与することで、どのような権利を得るのか、どのような限界が課されるのかを、あなたはたいへん的確に定められました。
今朝ハーグから届いた外交報告を、お送りします。二十一日に署名した協定が、そこでよい効果を生んだことが、おわかりになるでしょう。この事情は、いくらか誇張された報告に、過度にとらわれることが、どれほど不都合だったかを、新たに示すものと思います。この数か月、さまざまな方面から送られた情報を信じていたら、オランダの抵抗は克服できず、北方の三つの宮廷がそれを支えていると、考えるはずでした。今日、それらの情報が、情勢と現地を深く知った結果というより、個人的な印象や、おそらく外交実務の経験不足によるものだったことが、わかります。
ハーグからの批准書は、二十九日に届くと考えられています。いま会ったデデル氏も、ハーグからたいへん満足のいく知らせを受け取り、その日に到着すると見込んでいます。
オルレアン公は、今日四時にリヴァプールから戻られました。殿下は明日、王妃の宮廷接見に出席し、その後ディールへ向かい、ダウンズ泊地に駐留するフランス艦隊を視察する予定です……」
ルイ=フィリップ国王からタレーラン公へ。
「ヌイイ、一八三三年五月二十五日。
親愛なる公爵へ、
息子がこのたびイギリスで受けた歓迎に、私がどれほど感動しているか、また、その成功を準備し、実現するうえで果たしたあなたの役割を、どれほど評価しているか、これ以上遅れずに伝えたいと思います。その成功の実際の重要性と、このすばらしい国に対する私の昔からの思いから、私はそれを何より重んじています。この成功によって、息子もその思いをいっそう確かにするでしょう。それだけでも、両国民にとって大きな益となります。息子も強くそう感じており、今回あなたがしてくれたすべてに、どれほど感謝しているかを、あなたに、そしてとりわけディノ公爵夫人に、十分に伝えてほしいと頼んでいます。私自身も公爵夫人に直接お礼を重ねるときを待ちながら、この感謝に加わることを、許していただけると願っています。
親愛なる公爵、私と王妃の名で、息子への歓迎と、与えてくださったあらゆる心遣いに、どれほど感謝しているかを、イギリスの国王と王妃に伝える機会を探し、つかんでください。同じく、王家の王子・王女たちと、そのほかのイギリスおよび外国の高位の方々にも、私の思いを忠実に伝えてください。とりわけ、息子がイギリスで受けた歓迎を、私がどれほど喜び、感動しているかを、話してください。
最後に、しかし決して小さな事柄ではありません。デデル氏との五月二十一日の協定の署名についても、お祝いを述べなければなりません。私は、この協定によって、あなたに任せたことを大いに喜んでいる、あの大事業が、平和のうちに結ばれることを確実にしたと考えています。あなたはその事業を、たいへん巧みに、成功を重ねて進めました。ブリュッセルでも満足されることを願い、またそう信じています。そして、私が問題の決定的な点と考える効果、つまり、支出を収入の範囲に抑えることが、そこで実現すると期待しています。いったんこの均衡が成立すれば、ネーデルラント国王が最終条約への署名を適当と判断するときまで、私たちは十分に辛抱し、落ち着いて待つことができます。
親愛なる公爵、あなたへの私の変わらぬ友情は、長くご存じのとおりです。」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三三年五月二十六日。
公爵殿、
急使便でお送りする公式の外交報告に、コンスタンティノープルからの最新の知らせを記してあります。五月八日までのものです。
重要なのは、スルタンがアダナをイブラヒムへ譲ると決めたことです。そして、この事実の重要な部分は、それを勧めたのがポンソンビー卿だったことです。これは、私があえて期待することもできなかったほどに、イギリス政府を関与させるものです。いまや、法的にはすべて終わり、ロシア軍が残る口実はありません。しかし、実際には違っているかもしれません。
ルサン提督からの手紙では、オルロフ伯爵が、この取り決めをすべて壊し、最終的ではないとしても、長期にわたってロシア軍をコンスタンティノープルに置こうとしていることに、強い不安を抱いているようです。ボスポラス海峡へ新たなロシア軍を呼び寄せるため、密かに準備が行われているのではないかとさえ、恐れているようです。この懸念をどれほど重く見るべきか、正確にはわかりません[96]。コンスタンティノープルという舞台は、ひどく変わりやすく、半日のうちに白から黒へ変わるほどです。それでも、手紙があまりに不安を抱かせる言葉で書かれているため、私たちも大いに考えさせられました。私は、異例ながら閣議へ提出すべきだと思いました。閣議は全会一致で、私がこの件について閣下に手紙を書き、イギリス内閣の意向を探っていただくことに賛成しました。想定するのは、ロシアがほとんど仮面を捨て、私たち共通の保証の下に結ばれた約束を、オスマン帝国政府にすべて破らせ、スルタンを保護するという外観の下で、ボスポラス海峡に居座るため、ほぼ公然と動く場合です。
閣議は、トゥーロンでさらに二隻の戦列艦を艤装し、ユゴン提督[97]へ送ることに賛成しました。この二隻は二十日後、すなわち六月十五日ごろに準備が整います。これによってフランス艦隊がイギリス艦隊を上回ることになりますが、この増強がロンドンで嫉妬を呼ぶことは望みません。ですから、パーマストン卿へお伝えになり、イギリス艦隊も同じく増強するよう、求めていただきたいと思います。
しかし、イギリス内閣と意思を通じ合わせたい最も重要な点は、提督たちへの訓令の変更です。
現在、マルコム提督の訓令は、ユゴン提督のものと完全に調和しています。エジプト側の問題はすべて終わっているので、二人はスミルナ付近で合流することになっています。いずれも、ダーダネルス海峡を通ろうとする前に、新しい訓令を待つよう命じられています。しかし距離があまりに遠いため、このような方針を続けるのは、大きな危険を伴うと、私たちには思われます。コンスタンティノープルの両大使が、どのような場合に、ロシア軍の占拠からこの地点を守るよう、提督たちに命じる権限を持つのかを、いまから、あらかじめ示したほうがよいと考えます。その権限は、次の二つの場合に与えるべきだと思います。
一、ロシア軍の動きから、ダーダネルス海峡そのものを掌握しようとしているのではないかと、恐れる理由がある場合。
二、いまのように和平が成立した後で、オデッサまたはブカレストから、新たな増援が呼ばれる場合。その増援には、難攻不落の地位を確保する以外の目的は、ありえないからです。
もちろん、ダーダネルス海峡を通過した後、両艦隊は停止し、コンスタンティノープルへは近づかず、あらゆる攻撃を避け、必要がある場合に、武力を武力で退けるだけにとどまります。
閣議はまた、サンクトペテルブルクのわが代理公使へ、節度を保ちながらも断固とした言葉で、次のことを宣言するよう命じると決めました。いま和平が成立した以上、ロシア軍が空疎な口実に頼ってコンスタンティノープルにとどまることはなく、今年ベルギーで私たちが示した例にならうものと、フランス内閣は期待している、ということです。私もポッツォ氏に対して、同じ態度を取っています。
公爵殿、この中で適切とお考えになることを、ロンドンの内閣へ伝え、その意向を引き続きお知らせください。」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年五月二十九日。
公爵殿、
東方問題について、第六十三号としてお送りくださった外交報告を拝受しました。
いま、この件でパーマストン卿と長く話したところです。彼もコンスタンティノープルから、あなたとほぼ同じ知らせを受けています。オスマン帝国政府がいったんアダナの割譲に同意した以上、それは最終的に成立したと見なしてよく、ロシア軍がボスポラス海峡にとどまり続ける口実は、もう何もないと考えています。すでにこの趣旨でサンクトペテルブルクのイギリス公使へ書き送っており、与えていた命令をあらためて伝え、さらに明確なものにするつもりです。
パーマストン卿は、フランスとイギリスの両大使からこの件について意見を述べられた後で、スルタンがロシアのそそのかしによりアダナの割譲を撤回するとは、信じようとしません。しかし、国王政府がエーゲ海へさらに二隻の戦列艦を送ると決めた措置には賛成し、イギリス政府も同じ措置を採ると付け加えました。五月二十一日の協定によって、オランダ沿岸での任務がなくなる艦船のうち二隻が、マルコム提督の艦隊と合流するため、ただちに派遣されます。
国王政府が、コンスタンティノープルのフランスとイギリスの両大使へ与えようと提案したほどの、広い権限を送ることについては、パーマストン卿は、どのような場合にも同意したくないと考えています。この点では、私も同じ意見です。
実際、あらかじめ政府へ相談することなく、戦争を招きかねない決定を下す権限を、一人の大使に与えるのは、行き過ぎと思われないでしょうか。現在の状況で、距離の不都合がどれほど大きくても、そのような方策を採ることは、決して正当化できません。私自身について言えば、そのような権限を与えたいとも、受け取りたいとも思わないことを、率直に申し上げます。
この点でパーマストン卿の意見を変えさせるものは、何もないと思われます。今朝の閣議で彼が相談した、同僚の閣僚全員も、同じ意見です……」
「一八三三年五月三十一日。
今月二十六日付の外交報告で、東方問題についてメッテルニヒ氏がサント=オレール伯爵に行った提案[98]を、私がどう考えるか、お尋ねになっています。今回、あなたが寄せてくださる信頼にお応えするには、いくらか困惑を覚えると、率直に申し上げます。この六か月、東方問題は、きわめてさまざまな、しばしば相反する観点から評価されてきました。受け入れられては拒まれる、非常に不確かで変わりやすい計画のきっかけにもなりました。また、多くの異なる利益を動かしました。そのため、この仕事に加わる大国が、一つの原則を採らないかぎり、解決に真に役立つ行動方針を定めることは、不可能になると考えます。その原則は、いま調印された和平によって、少なくともしばらくは保証される、オスマン帝国の維持です。
一つを除くヨーロッパ各国の内閣で、この点に混乱が広がったことは、それぞれを動かしていた感情を見れば、驚くにはあたりません。ロシア内閣以外のすべては、オスマン帝国の状態を、ほかの事情との関係から見ていました。こうして、オーストリアはドイツとイタリアへの不安に支配され、フランスは、おそらく自覚せずにエジプトのパシャの利益を助けた後、それを捨てました。イギリスは冷淡さを示し、無関心にさえ至りました。先ほど申し上げたとおり、ロシアだけが、明確な目標に向かって進みました。その結果、認めざるをえませんが、巧みに導かれた行動によって、ロシアに有利であるほど、ヨーロッパには危険な成果に達したのです。
公爵殿、レヴァントの問題について、私がイギリス内閣に行ってきたさまざまな働きかけを、ここで振り返っておく必要を感じます。私自身は、これらの問題のよい解決に役立ちうることを、決して怠らなかったと示すためです。
一月末ごろ、第五十七号としてお送りした外交報告[99]にも記したとおり、私は、イギリス、フランス、オーストリアの共同行動の計画を、パーマストン卿へ伝えました。この計画には大きな利点があったと思いますし、初めはイギリスの閣僚たちにも好意的に迎えられました。しかし、メッテルニヒ氏には採用されませんでした。彼は、ニコライ皇帝の誠実さと保証を、全面的に信頼していると答えました。こうして事態は、そのまま成り行きに、むしろ、眠ってなどいなかったロシアの影響力に、委ねられたのです。
二月末、ルサン提督はオスマン帝国政府と、軽率な協定を結びました。それは初め、各国に災いを招く安心感を与えました。軽率と申し上げるのは、この大使が、結ぶ前にエジプトのパシャの意向を確かめず、パシャを自分の考えに従わせることもできなかったからです。
ロシア軍はダーダネルス海峡に上陸し、オスマン帝国政府と合意のうえで、いくつかの地点を占領しました。そのとき私は、やはり各国の共同行動を内容とする、新しい計画をイギリスの閣僚たちへ提案しました。ただし今度は、ロシアの協力を求める必要があると考えました。ロシアの協力は、一月末には、そのころ私が指摘した不都合を伴っていましたが、ロシア軍がコンスタンティノープルを占領してからは、必要になったからです。公爵殿、この計画もイギリス内閣では、最初のものとさほど変わらない成果しか得られなかったことは、ご存じです。新たな訓令を送るだけにとどまりましたが、それは、主要な問題である、保護者にも敵にも縛られないオスマン帝国の維持には、ほとんど影響を与えないはずでした。
メッテルニヒ氏が、この重要な結果に至るため、協議することを幾度か提案したのは、認めます。しかし、彼の計画も、最近サント=オレール伯爵へ説明したもの以上に役立つわけではなかったと、認めなければなりません。
ようやく和平が調印されました。これまでの計画がどうであれ、今日では、スルタンとエジプトのパシャの間に和平が結ばれたという事実そのものによって、それらは無効になったと考えるべきだと思います。そして、この事実を、今後の東方問題全体を支配するものとして、基礎に据えるべきです。私たちは、この和平によってすべてが終わると見ていることを、公然と宣言し、ロシア軍の即時撤退について、わずかな疑いも差し挟まないことが必要です。
ですから、私の意見では、メッテルニヒ氏の申し出には、この問題を協議するための大国の会合は、どのような形でも不要になったと答えるべきです。もう取り決めることは、何もないからです。アダナ地区の割譲は、スルタンとパシャ、すなわち君主とその臣下の間の取り決めの結果にすぎず、各大国には、それに介入する権利がありません。
この方策が最もよいと思います。メッテルニヒ氏の提案した方策は、事態を再び不確かなものにし、スルタンの逡巡を助長し、ロシア軍がコンスタンティノープルから撤退しない口実となるからです。スルタンに残るわずかな精神的な影響力も、確実に失わせるでしょう。また、オスマン帝国がいま衰弱している中で、パシャたちの反乱を誘発し、あらゆる危険にさらすことになります。パシャたちは、ヨーロッパの介入に対して、民衆を容易に立ち上がらせられるからです。
さらに、私が提案する方針は、あなたがポッツォ伯爵とアポニー氏に述べられ、またサンクトペテルブルクのフランス代理公使へ指示された言葉と、完全に一致しています。パーマストン卿の見方とも一致します。彼は、もっともなことに、ウィーンにもコンスタンティノープルにも、国際会議を設けたくないと考えています。少し前、状況が違っていたときには、私もコンスタンティノープルに国際会議を設けることを提案しました。しかし、いまは二人とも、すべての大国が意志を表明すれば、ロシア宮廷は、コンスタンティノープルから兵を引き揚げることを、ためらわないと考えています。」
「一八三三年六月二日。
リーヴェン公は昨日、サンクトペテルブルクから手紙を受け取りました。スルタンとパシャの和平が調印されたことを知らせるとともに、スルタンから要請があり次第、兵を引き揚げるという、ニコライ皇帝の明確な意向を伝えています。これは、こちらで予想していたことと一致しています。今回は、ロシアの保証を信じようという気持ちに傾いていると、率直に申し上げます……
今日、パーマストン卿と私は、ヴァン・ド・ヴェイエル氏に覚書を渡しました。その写しをお送りします[100]。ご覧のとおり、その目的は、五月二十一日の協定のうち、ベルギーに関係する条項を、ベルギー政府にただちに実行させることです……」
「一八三三年六月四日。
パーマストン卿と私が、ロンドンにいるオーストリア、プロイセン、ロシアの全権代表へ、五月二十一日の協定を知らせた覚書の写しと、リーヴェン公から私に届いた返答の写しを、お送りします。この返答は、ほかの二人の全権代表のものと同じです。
この返答をお読みになれば、全権代表たちが何の約束もしていないことに、お気づきになるでしょう。それは、ごく自然に説明できます。昨日ロンドンに着いたオランダ大使館の書記官から、ネーデルラント政府が、五大国との交渉の再開について協議するため、ウィーン、ベルリン、サンクトペテルブルクの三つの内閣へ連絡したと、知らされたからです[101]。したがって全権代表たちは、その働きかけの結果と、それによって各自の宮廷から出される訓令を知ってからでなければ、意見を表明できません。いま表明しても、この状況では個人的な意見にすぎなかったでしょう。ただし、最近プロイセンは、三大国の名でハーグへ話していますので、ベルリンの返答だけで、三人の全権代表が国際会議へ戻る決心をする可能性はあります。
ネーデルラント国王は、北方の三つの宮廷へ連絡する際、最終交渉で提起する要求を、伝えたはずです。いずれにしても、ネーデルラントの全権代表が最初に国際会議へ伝える内容には、まだ取り決める必要のある財政上の点について、ハーグ内閣の示す数字が含まれると、私たちは当然期待できます。そうではなく、国王が新たな困難を作り出して交渉を長引かせようとするなら、延期を提案してもよいかもしれません。それはオランダではきっと嫌われますが、私たちには何の不都合もありません。いまベルギーは、最終条約によって得られるより、はるかに有利な状態に置かれており、したがって、ネーデルラント政府がもっと道理にかなう考えへ戻るまで、辛抱強く待てるからです……
今日のイギリスの新聞には、昨夜の貴族院の審議の詳細が載っています。ウェリントン公は、ブラガンサ家の両公子の闘争について、イギリス政府に厳格な中立の維持を求める、国王への上奏文の動議を出しました。大臣たちはこの動議に反対しましたが、最後には八十八票対六十八票で可決されました。これは内閣の敗北ですが、大した影響はないだろうと考えられています……」
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ。
「ヌイイ、一八三三年六月二日。
親愛なる公爵へ、
オランダ国王が五月二十一日の協定を批准したとは、何とよい、すばらしい知らせでしょう。いまは、これほど長く困難だったベルギー問題が、速やかに、よい形で最終的に終わることを、もう疑っていません。レオポルド国王の採るべき行動についてのあなたのお考えは、たいへん正しく、的確だと思います。そこで、その趣旨でブリュッセルへ手紙を書きました。しかし、向こうもよい考えを持っているようで、ただちに軍備縮小に取り組むことになりそうです……
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年六月十一日。
親愛なる公爵へ、
パーマストン卿は昨日、コンスタンティノープルから知らせを受け取り、私に伝えてくれました。ポンソンビー卿の報告によると、オルロフ伯爵との会談で、イブラヒム・パシャの撤退後ただちに、コンスタンティノープルからロシア軍を引き揚げるというニコライ皇帝の意志について、きわめて明確で満足のいく保証を得たとのことです。いまや、これらの保証は多くの方面から繰り返されており、根拠がないと見ることは不可能に思われます。ロシア内閣は、オスマン帝国の破壊のような事業が、一撃でなしうるものではないと理解するだけの、十分な巧みさを持っています。分割の時は、まだ来ていません。それを予見できる慎重な内閣には、準備する時間があります。ロシアは今回、トルコ人をロシア兵の存在に慣れさせることで、大きな精神的な影響力を得ました。当面はそこでとどまるでしょう。自国にもっと深い関係があると思われる問題でさえ、ロシアの政策が、どれほど段階を踏んで進むかは、ポーランドの例が、あまりにもよく示しています。
ポンソンビー卿はまた、オスマン帝国政府へのルサン提督の働きかけについて、パーマストン卿に報告しています。それは、時機を得たものではなかったようです。ロシア大使が、イブラヒムの撤退後にロシア軍を引き揚げさせると約束した、まさにそのとき、フランス大使は、フランス艦隊をボスポラス海峡へ入れる許可を求めたのです。この働きかけが行われたことを、残念に思います。いずれにしても、早すぎたとも、遅すぎたとも言えるからです。なお、ポンソンビー卿がルサン提督に、要請を取り下げるよう勧めたことは、おそらくすでにお聞きになったでしょう。
こちらでは、レオポルド国王の演説を受け取りました。そこでは、現在への満足より、将来への要求のほうが多いことが、注目されました[104]……」
「一八三三年六月二十四日。
イギリス内閣の困難は、隠さずお伝えしてきました。しかし二か月前、一部の人々が考えるほど危機は近くないとも、申し上げたと思います。結果は私の考えを裏づけました。とはいえ、困難は次々に解消される一方、次々に新たに生じてもきました。そして、いま非常に重大なものとなったことは、あまりにも明らかです。問題は、もはや、国王が権力の濫用として嫌う、新たな大規模の貴族任命によって、両院の調和を取り戻すことだけではないかもしれません。下院の急進派と保守派の両陣営に打ち勝つことも、必要なのです。両者とも教会法案[105]に不満を示しています。一方は削除された部分に、他方は残された部分に、不満なのです。この両陣営が結べば、下院で多数を失わせることになるかもしれません。
私は、いまの激しい動揺から、注意深く、ほとんどことさらに、距離を置いています。しかし、単なる観察者として、内閣の実際の困難は否定できないものの、内閣はもうごく短命だとする人々の予想には、まだ賛同できません。それでも、その可能性は認める必要があります。これからの三週間で、この重大な問題は明らかになるでしょう……」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三三年六月二十九日。
公爵殿、
関税法に代わるものとして考えていた修正案の、不幸な運命は、新聞でお知りになったでしょう。この修正案は印刷されるや、議院で一斉に抗議を呼び起こしました。騒ぎがあまりに大きかったため、支持すると決めていた人々も、ほとんど勇気を失ってしまいました[106]。案を説明するはずだったサン=クリクは、議場の隣の部屋にいました。ほんの一瞬席を外しただけで、議長が悪意から、予定より早く修正案を審議にかけたのだと、名誉にかけて断言しています。ともかく、修正案は説明もされないまま採決にかけられ、圧倒的な多数で、歓声とともに否決されました。これほど広い反対に対して、誰も擁護する勇気を持てませんでした。数が多く、大騒ぎをしていた利害関係者に加え、この修正案が政府に与える権限を激しく非難する、反対派全体が敵に回っていました。イギリス内閣は、これらすべてに非常に腹を立てると思いますが、率直に言えば、それを責めるわけにはいきません。実際、ティエールとユマンは、根本では強い輸入禁止論者です。関税率の変更を求める私の働きかけと努力に譲るのも、ただ私に配慮してのことです。この法律の審議の遅れと、修正案の失敗に、悪意はなかったとしても、私が自ら向けたであろう熱意を、すべて注いだわけではないかもしれません。どうか、イギリス政府の不満を和らげるよう、お努めください。その間に私は、修正案が私たちに認めるはずだったことの一部を実施する手段を、現行法の中に探し、損なわれたものを取り戻そうとしています。全力で取り組んでおり、成功を期待しています。とりわけ、公爵殿、私たちの愚かな失敗を補う、閣下の好意ある手腕を、頼りにしています。
どうか、私の敬意をお受け取りください……」
「パリ、一八三三年七月一日。
公爵殿、
先の手紙で、関税問題と、代議院に否決された修正案について、また、この議会での失敗を補う手段を、現行法の中に見つけたいという希望を、お話ししました。私たちは実際、その手段を見つけました。ただし、かなり重い責任を負うことになりました。私は同僚たちに、決心させることができました。勅令は署名され、明日か明後日、『モニトゥール』に載ります。絹については、審議されなかった関税法にあった内容を、すべて含んでいます。綿製品については、委員会の提案では、法律の公布から二年後にしか効力が生じないため、この遅れはイギリス政府にとって重要ではありません。実際、法律の効力は後日に延ばされるはずだったので、この会期で可決されたかどうかは、問題ではないのです。ただ、次の関税法の文言を定める際には、この期間が考慮されるよう注意します。イギリス政府は、私たちの努力に満足すると思います。満足しないなら、不当でしょう。実際、この点では私たちも、十分な危険を冒しているからです。後悔することになるかどうか、私にはわかりません。」
ここで、前の一月、アントウェルペンの城塞の占領を述べた後にもしたように、五月二十一日の協定に続いて、オランダとベルギーの問題が入った新たな段階を、できるだけ簡潔にまとめておきたい。そうすることで、まもなく再開され、数か月続いた長く煩わしい交渉の細部を、読者に読ませずに済む。この点を脇に置けば、書簡から抜粋するのは、当時ロンドンのフランス大使館が扱った、ほかのヨーロッパの問題に関するものだけとなる。
すでに見たとおり、ネーデルラントのウィレム国王は、五月二十一日の予備協定[107]を批准していた。それはベルギーを、オランダとの関係を最終的に定める条約の締結を望む必要がないほど、有利な立場に置いた。しかし、ほかの大国、とりわけオーストリアとプロイセンは、必ずしも同じ立場ではなかった。両国は、新たなベルギー王国の存在が承認される基礎となった、一八三一年十一月十五日の条約へ署名した際、ドイツ連邦議会の名で、ルクセンブルク大公国に対する同議会の権利を留保していた。この条約によって、ルクセンブルク公国の一部が、一七九〇年にはオランダの連邦議会(スターテン=ヘネラール)の管轄下になかった、リンブルフ州の一部と交換に、ベルギー王国へ編入されたことを、思い出していただきたい。したがってウィーンとベルリンの両内閣は、オランダとベルギーの間に最終条約を成立させるための交渉の再開に、とりわけ強い利害を持っていた。さらに、それは五月二十一日の協定にも、正式に定められていた。この協定の第五条は、次のような文言だった。
「締約国は、ネーデルラント国王兼ルクセンブルク大公陛下の諸国と、ベルギーとの関係を定めるべき最終条約に、遅滞なく取り組むことを約束する。締約国は、オーストリア、プロイセン、ロシアの各宮廷に、その協力を求める。」
フランスとイギリスは、三つの宮廷へこの参加の要請を行い、受け入れられた。こうして、強制措置の実施に伴って解散したロンドン国際会議は、再び組織された。
五大国とベルギーの間に結ばれた、一八三一年十一月十五日の条約は、オランダとベルギーの間に、直接の条約を結ぶことが残されていると、宣言していた。しかし、この直接の条約は、どのような性格を持つべきだったのか。
一八三一年十月十五日の国際会議の覚書によれば、オランダとベルギーの直接の条約は、ベルギーが一語一語受け入れたのと同じように、オランダも受け入れる二十四か条を、そのまま繰り返すものとなるはずだった。しかし、いまや、一語一語そのまま繰り返すことは、不可能だった。
一、オーストリア、プロイセン、ロシアの三つの宮廷は、十一月十五日の条約を批准する際、二十四か条の一部について、相互の合意により再検討を求める権利をオランダに与える、留保を行っていたからである。
二、これらの条項のうち、曖昧な部分を含むものには、説明を加えることが不可欠だと認められていた。
三、最後に、五つの宮廷の全権代表たちは、十分な情報がなかったため、最終的な取り決めで解決しなければならない問題を、完全には解決しないまま残さざるをえなかった。
ネーデルラント国王は、常任の全権代表デデル氏に、外務大臣フェルストルク・ファン・スーレン氏を加えることを決めた。ベルギー政府も、ヴァン・ド・ヴェイエル氏を助けるため、外務大臣ゴブレ将軍を送った。こうして新たな交渉は、決着へ至ると思われる、厳粛な性格を帯びて始まった。
国際会議は、一八三三年七月十五日に最初の会合を開き、次のことを決めた。
一、ネーデルラントとベルギーの全権代表からは、別々に話を聞き、同じように扱うこと。
二、できるだけ口頭で交渉すること。
三、十一月十五日の条約を、交渉の基礎とすること。
四、その条約の条項を、それぞれの側へ一条ずつ示し、修正の有無にかかわらず、採用された場合には仮署名すること。
領土問題が、最初の交渉の対象となった。この問題について、十一月十五日の条約で定めた取り決めには、何の異議も出なかった。しかし、付随する一つの点で、行き詰まった。
すでに見たとおり、これらの取り決めは、リンブルフ州にあるベルギー領の一部と、ルクセンブルク大公国の一部との交換という原則に基づいていた。その原則からすれば、割譲されるリンブルフの部分は、ルクセンブルクとドイツ連邦との、あらゆる関係において、ルクセンブルクの割譲部分に代わるはずだった。しかし、十一月十五日の条約は、第三条で両割譲の関連を述べながら、第四条では、リンブルフのその部分を、オランダかドイツ連邦のいずれかへ編入するという、選択を認めていた。また第五条では、その点について、国王兼大公が連邦議会と、自家の男系親族と協議する権利を留保していた。
ハーグの内閣は、マース川の右岸をオランダへ編入できるようにしたかった。そのため全権代表に、条約から第三条と第五条、および両割譲の関連を示す第二条の文言を削るよう、要求することを命じた。ベルギーの全権代表たちは、本国政府に照会した後、条約への署名前に、国王兼大公が、ドイツ連邦議会とナッサウ家の男系親族の同意を示すことを条件に、この削除に同意した。オランダの全権代表たちも、その二つの約束をする権限があると表明した。
そこで双方は、領土の境界画定に関する条項に仮署名し、次いで、第七、八、十、十五、十六、十七、十八、十九、二十、二十一、二十二、二十三、二十四条にも仮署名した。さらに、ネーデルラント国王とベルギー国王との間に平和を置くことなどを定める、第二十五条を加えた。
次に、オランダ側から異議が出た五つの条項を検討した。それらは、河川の航行に関する第九条、リンブルフを横断する道路の利用に関する第十一条、リンブルフを横断する運河または道路を設ける権利に関する第十二条、毎年の債務支払いと債務償還組合の清算に関する第十三条、そして最後に、債務支払いの滞納分に関する第十四条だった[108]。
国際会議は、しばらく双方によるこれらの問題の検討を見守った。しかし、ハーグの内閣が、ルクセンブルクの割譲に必要な二つの同意を得るために、何の働きかけもしていないことが確かになると、再び交渉を停止し、国王兼大公の引き受けた約束を果たすことを、再開の条件とすべきだと考えた。この交渉停止と、その理由については、後でまた触れることになる[109]。いまは、書簡の続きに戻ろう。
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年七月四日。
公爵殿、
……関税について国王政府が採られ、お知らせくださった決定を、パーマストン卿へ伝えました。彼はたいへん感謝し、自分とほかの閣僚たちの名で、十分に満足していることを、あなたへ伝えるよう私に頼みました。
イギリス内閣が、下院で直面した困難から抜け出すため、融和の手段を探すだろうとは、お知らせしました。内閣は、アイルランド教会の財産・財政に関する法案で、時宜を得た譲歩をいくらか行い、その目的を達しました。困難はほぼ解消され、議会の闘争につきまとう妨げがあっても、いまは無事に会期末へたどり着ける見通しがついたようです。会期は、おそらく八月半ばに終わるでしょう。
今朝、パルメラ氏とヴィラフロール氏が指揮する遠征隊が、アルガルヴェ沿岸のラゴスに上陸したという知らせを受け取りました。詳細はありません。この遠征隊は二千五百人にすぎず、内部の協力者を頼みにしていたリスボンに、あえて上陸できるほどの力はなかったのです……」
「一八三三年七月八日。
フレヴィル氏[110]がこちらへ来たことを、うれしく思います。あなたの勇気ある勅令が得た成功を、味わうことができるでしょう。あなたのご尽力によって、相互に便益を与えるほうが、報復よりよいと、まもなく知られることになります。前者は争いを生みません。いまの人々の考えの動きの中では、最も臆病な人々も、他国より安く生産し続けられる特権が、誰にも与えられていないことを、認めざるをえなくなるでしょう。土地は変わりませんが、あらゆる産業の技術は、身につけることができるのです。
デデル氏とフェルストルク氏は、明朝到着する予定です。予備条約の成立から、七週間になります。この条約の利点は、すべてベルギー側にあります。それでもオランダ国王は、相変わらず引き延ばしています。これは、たいへん説明しにくいことです。資金が足りなくなり、国会(スターテン=ヘネラール)から新たな予算を認められる見込みも、きわめて低いからです。少なくとも、一般にはそう考えられています。この方々が到着したとき、私が最初に受けた印象を、お知らせします……」
「一八三三年七月九日。
パルメラ氏とヴィラフロール氏の指揮の下、ポルトを出た遠征隊について、いま知らせを受け取りました。六月二十四日、スペイン国境のすぐ近く、アルガルヴェ王国の小港ヴィラ・レアルに上陸しました。二十八日付の手紙によれば、ミゲル派の知事の抵抗はごくわずかで、上陸後ただちにヴィラフロール氏はタヴィラへ向かい、そこからアレンテージョ州の首都ベージャへ進むはずでした。同地には多くの協力者を見込んでいました。パルメラ氏は一方、ファロへ赴き、アルガルヴェ王国の組織を整えていました。沿岸のすべての都市が、ドナ・マリアを女王と宣言していました……艦隊司令官ネイピア艦長[111]は、ラゴスで女王の即位を宣言させた後、リスボンを封鎖するため、テージョ川の河口へ向かうはずでした……」
「一八三三年七月十四日。
今朝、ロンドンに知らせが届きました。カルロス・ポンザ提督――ネイピア艦長――の指揮するドナ・マリア女王の艦隊が、今月五日、サン・ヴィセンテ岬沖でドン・ミゲルの艦隊と遭遇し、激しい交戦の後、ポンザ提督がミゲル派の戦列艦二隻、フリゲート二隻、コルベット一隻を捕獲したとのことです。この知らせはロンドンで大きな反響を呼び、内閣はたいへん満足しています。今週、議会で始まる重要な審議でも、内閣に役立つものと考えられます。
ブルモン氏の息子が、かなりの金額を携え、フランスからこちらへ来ました。大型蒸気船ユナイテッド・キングダム号を買わせました。この船は、軍需品、大砲、そして、募ることに成功したというイギリス人将校を乗せて、今週中にリスボンへ出発します。」
「一八三三年七月十五日。
……今朝、オランダとベルギーの問題について、最初の国際会議を開きました……その後、私はパーマストン卿に、あなたの先の外交報告でお知らせいただいた、ロシアとオスマン帝国政府との攻守同盟条約の計画について、話しました。ルサン提督から報告されたものです[112]。パーマストン卿も、ポンソンビー卿から同じ情報を得ていますが、ひょっとすると、もう少し不確かな形だったかもしれません。サー・フレデリック・ラムも彼に、メッテルニヒ氏へこの話をすると、そのような条約の存在が信じられていることに、ひどく苛立っていたと書いています。パーマストン卿も私も、ロシアがそのような働きかけを、あえて試みたとは信じられません。しかし、私個人の考えでは、条約が存在するなら、オーストリアも締約国の一つであるはずです。オーストリア、フランス、イギリスを、必ず敵に回すことになる条約を、ロシアが単独で結ぶとは、理にかなう推測ではないからです。さらに、その場合、ウィーン内閣の行動は、過去の多くの例とも一致します[113]……」
「一八三三年七月十九日。
アイルランド教会の財産・財政に関する法案の第二読会の審議は、貴族院で二日間続いていますが、おそらく今夜終わるでしょう。最初の審議でグレイ卿が行った演説は、大きな効果を生み、広く賞賛されました。この数日、内閣の立場は大幅によくなりました。法案が第二読会を通過することは、もはや疑いなく、委員会でも、大きな変更は受けないとさえ考えられています。いま貴族院の反対派が示している、より穏やかで融和的な態度は、ウェリントン公が示した節度によるところが大きいと、見られています……ネイピア提督の勝利の知らせ以来、ポルトガルからは何の知らせもありません……」
「一八三三年七月二十六日。
オランダ・ベルギー問題の交渉の進み具合を、あなたが追うことの重要性は、よく理解しています。そのため、交渉再開以来そうしてきたように、今後も国際会議のすべての審議を、お知らせし続けます。こちらで私たちが熱心に取り組んでいることは、これまでも、これからも、すべてお知らせします。この点では、私の手紙や外交報告の多さに、あなたはしばしばお疲れになるに違いありません。ほかの大使たちは一般に、国際会議で何らかの成果に達してから、自国の宮廷へ書き送ります。ほとんど毎日書くのは、私だけだと思います。それは、ひょっとすると、よくないことかもしれません。そうすることで、単なる草案にあなたの注意を向け、判断を曖昧なままにし、一時的には誤らせるおそれさえ生じさせるからです。
ロンドンに来て三年間、国王には、私の弱腰や軽率さについて不満を抱く理由はなかったと思います。また、いまの遅れを、経験によって日ごとにその利点がいっそう証明される融和の精神以外のもので、説明することもできないはずです。いま方針を変えるべきではないと思います。エーラグ氏がお話ししたマーストリヒトの一件も、この考えを裏づけています。ベルギー問題を終わらせるため、北方諸国の誠実な協力を、ようやく得たことをお考えください。この一時的な態度の軟化も、彼らのおかげなのです。ベルギーへの際限のない迎合によって、自然には生じにくい、彼らの好意を損なうのは、容易であると同時に有害です。ベルギー人の真の利益は実現するでしょう。しかし、人為的な要求によって、私たちの歩みを妨げ、いま非常に必要なヨーロッパの協調を損なってはなりません……」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三三年七月二十五日。
公爵殿、
多少の困難がある場合には、いつも閣下に頼らなければなりません。そこで、ポルトガル問題を早めにお話しし、リスボンが近くパルメラ侯爵に明け渡される場合、どのような方針を採るべきか、ご意見を伺いたいと思います。
そうなれば、もちろん喜ばしいことです。しかし、ほどなくかなり大きな困難を招くことも、否定できません。すでにたいへん不安定なスペインの状態は、さらに不安定となり、半島全体を革命的な状態へ導こうとする試みによって、新たな紛糾が、日々目の前に生じるでしょう。これらの困難の多さと切迫の度合いは、幼い女王の政権樹立をドン・ペドロが指揮するか、パルメラが指揮するか、また、ブラジル式の憲法が脇に置かれるかどうかによって、変わります。ドン・ペドロとその憲法を、できるだけ早くポルトガルから遠ざけることは、わが国と同じく、イギリス政府にとっても重要だと思います。そのためには、両政府が、採ろうとする方針について、早めに合意し、協議することが重要です。ポルトからの知らせによれば、ドン・ペドロはパルメラに、自分なしでリスボンへ入ることを禁じています。また、パルメラは従わない決意をしていると、知らされています。さらに、皇后には、ドン・ペドロ自身が幼い女王を送るよう書き寄こすまで、乗船させないという秘密の命令があることも、わかっています。彼がこの問題全体を独占するために講じている手立てに対処するには、早すぎるということはないと思います。その目的に最も有効で、同時にイギリス政府と最も協議しやすい措置は、何だとお考えでしょうか。この点についても、ほかのすべての点と同じように、ご助言をもってお導きください。そして、どうか私の敬意をお受け取りください……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年七月二十七日。
公爵殿、
……プロイセン国王陛下が、今月二十二日から二十四日の間に、アンシヨン氏、もう一人の大臣、内閣の書記官を伴って、テプリツへ赴くはずだったことは、おそらくブレッソン氏からお聞きになったでしょう。フェリックス・シュヴァルツェンベルク公[114]も、陛下と同時に赴いたはずです。メッテルニヒ公は、ケーニヒスヴァルトから向かいます。また、そのころボヘミアの領地にいるオーストリア皇帝陛下が、プロイセン国王を招いたようです。この二人の君主の会見は、八月二十日に行われると考えられています。ニコライ皇帝も参加するかどうかは、ロンドンではまだわかりません……」
「一八三三年七月三十日。
親愛なる公爵へ、
ポルトガルに対するわが国とイギリスの立場について、友情と信頼に満ちたお手紙をいただき、できるだけ早くお答えします。この件でパーマストン卿と会いました。彼は、ドン・ペドロを娘のための闘いから遠ざけることの大きな利点を、理解しているようです。また、ブラガンサ公を含まない摂政政府を承認し、たとえば、パルメラを中心とし、その首班とする摂政政府に対する使節として、ウィリアム・ラッセル卿に信任状を与えることにも、抵抗はないようです。ほかの二人の構成員――政務上、全部で三人しか必要ありません――は、一人がヴィラフロール氏、もう一人は、幼い女王の支持へ引き寄せられるなら、穏健なミゲル派の人物となるでしょう。そのミゲル派の人物が、カダヴァル公[115]であれば、たいへん好ましいことです。
こちらでは、スペインの人々の考えや、ポルトガルについてあなたがマドリードで述べておられる言葉を、あまりにも知りません。そのため、いま述べた方針を採ろうとされるかどうか、確信は持てません。しかし、適切だとお考えになるなら、ウィリアム・ラッセルと同じような立場にあるフランス使節を、ポルトガルへ送るのは、有益だと思います。現地で彼と協議し、ふさわしい時に摂政政府の利点を訴え、その後、フランスの名で承認するのです。この方策には、幼い女王本人の存在を必要とせず、その名で行動する政府をポルトガルに樹立するという、明らかな利点があります。いまは、継母がドン・ペドロの命令に従い、ドナ・マリアの出発を妨げるのではないかと、あなたが懸念される時期だからです。私の考えでは、摂政政府は、スペインをひどくおびえさせるドン・ペドロの憲法を放棄し、それによって、ヨーロッパのあらゆる警戒心を和らげるべきです。それは、たいへん容易でしょう。ポルトガルへ送る人物の選択は、非常に難しいものになります。何より、党派的な人物ではいけないからです。このすべてを、グランヴィル卿ときっとお話しになるでしょう。パーマストン卿は、今朝私たちが長く取り組んだこの問題全体を、今日のうちに卿へ詳しく知らせるはずです……」
「一八三三年七月三十一日。
真夜中です。貴族院の審議が終わりました。内閣は、五十三票の差で多数を得ました[116]。会期は終わったと考えてよいでしょう。内閣はもう、本格的な困難には直面しないでしょう。」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三三年七月三十日。
公爵殿、二十六日付の親切なお手紙と、すばらしいお仕事に、深くお礼を申し上げます。閣下のおかげで、ベルギー問題はたいへん順調に進んでいるようです。私は、ようやく終わりを見られると、十分に期待し始めています。ベルギー人については、私も閣下と同じように考えていることを、お信じください。彼らのことをお願いする際、私が気にかけるのは、閣下の仕事を損ない、新たな困難を招くような、愚かな行動をする口実を、彼らから取り除くことだけです。――私たちの祝祭は、見事に行われました[117]。実際、数週間のうちに、フランスへ戻って秋を少し過ごされるなら、私たちの変わりように、見違えることでしょう……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年八月二日。
パーマストン卿が、いまリスボンからの次の知らせを伝えてくれました。
七月二十四日、リスボンでドナ・マリアが女王と宣言されました。二十三日には、テージョ川の南で、ヴィラフロール将軍とテレス・ジョルダンの間に戦闘があり、後者は戦場で命を落とし、その軍は敗走しました。ミゲル派とともに戦っていたスペイン公使[118]は、ヴィラフロールに捕らえられました。二十四日の朝、カダヴァル公は守備隊とともにリスボンから退きました。住民はただちに、自発的にドナ・マリアを女王と宣言しました。同日の午後、ヴィラフロールは千五百人を率い、テージョ川を渡りました。二十五日、艦隊がテージョ川に入りました。二十六日の夜、ドン・ペドロ皇帝は、サルダーニャ[119]をポルトの民政・軍事の総督として残し、すべての大臣と蒸気船に乗って、リスボンへ向かいました。包囲軍は、撤退の動きを始めていました……」
「一八三三年八月二日。
今日ロンドンに届き、いま私が知った知らせは、あなたもすでにお聞きになっています。ロシアとオスマン帝国政府との条約が、コンスタンティノープルで調印されたことが、いまわかりました[120]。純粋に防御的なものと伝えられていますが――それさえ、私たちには認められません――こうした場合、防御の条約は、都合次第で、攻撃の条約へ変わるまで、あとわずかであると、経験は示しています。
このような出来事は、国王政府の十分な注意を必要とします。力強く迅速な行動の重要性を感じているからこそ、私は、この状況から思い浮かぶ幾つかの考えを、お伝えすることをためらいません。
フランスは、イギリスと協調して行動すべきだと思います。この点でのお考えを、グランヴィル卿へ知らせるのが適切だと、あなたもお考えになるでしょう。私の側でも、お与えになる指示を、すべて役立てるつもりです。
コンスタンティノープルからの手紙によれば、条約の批准書の交換は、二か月後になるはずです。これは貴重な時間です。活用しなければなりません。
現在の状況で、フランスとイギリスは、最近結ばれた条約の批准を妨げるため、サンクトペテルブルク、メッテルニヒ氏のいるボヘミア、コンスタンティノープルのいずれに、全力で影響力を行使するかを、選ばなければなりません。
サンクトペテルブルクでは、十分に考えた後、一貫した政策に従って、オスマン帝国政府をこの同盟へ引き込む決意をした可能性が、非常に高いでしょう。したがって、決意を固め、さらに、フランスとイギリスへ日ごろあまり好意を示さない内閣に対して、両宮廷が働きかけても、効果はないのではないかと、大いに懸念されます。
メッテルニヒ氏については、サント=オレール氏とサー・フレデリック・ラムに述べた言葉から、彼自身が欺かれているか、私たちを欺こうとしているかの、どちらかだと考えなければなりません[121]。前者なら、思い違いを解くのに、多くの時間を失うでしょう。後者なら、自分の採った政策の曲がりくねった手段によって、私たちの困難を増すことしか、求めないでしょう。彼に対する働きかけの有効性は、あまり期待しませんが、それでも、まったく怠るべきではないと考えています。
しかし、何よりも、あらゆる手段を向けるべきなのは、コンスタンティノープルです。そこでフランスとイギリスの両大使は、スルタンに、自ら飛び込もうとしている危険を示し、懇願し、必要なら威嚇しなければなりません。とりわけ、帝国評議会と大臣たちの中で、ロシアとの同盟を拒んだ有力な陣営の支持を、求めるべきです。ロシア軍がコンスタンティノープルを去ったばかりで、スルタンが、そのため、ある程度の独立を取り戻したいま、フランスとイギリスがそろって上げる声が、何の成果もなく聞き流されるとは、考えられません。
私たちの唯一の目的は、条約の批准を妨げることでなければなりません。私の考えでは、その手段は、オスマン帝国政府に援助を保証できる二大国が、迅速かつ力強い宣言をすることです。その政府は、誘われるまま犯した過ちによって、援助を必要とするようになったかもしれないのです。
イギリスとフランスの代表は、オルロフ伯爵とロシア軍が去るまで、何の働きかけもしなかった点で、慎重に行動したと思います。」
「一八三三年八月二日。
親愛なる公爵へ、
確かなものと考える、リスボンからの重要な知らせを、お送りします。ドン・ペドロは、そこへ急行したようです。いまごろは、摂政政府も成立しているはずですから、一昨日の私の意見は、もはや時機を失いました。しかし、イギリスとフランスが、実際には摂政政府の樹立に加われなかったとしても、今日、それを承認するかしないかは、両国が自由に決められます。いま、イギリスがこの点でどの方策を採るか、私には申し上げられません。また今回は、こちらで採られる方針に、わが国の方針を全面的に従わせるべきではないかもしれません。イギリスは、ポルトガルに直接の利害を持っています。私たちの直接の利害は、スペインにあります。ポルトガルは、私たちには間接的な利害なのです。したがって、わが国が摂政政府を承認するうえで適切な条件は、イギリスに適切な条件と、完全には同じでないかもしれません。決定がまもなく下されると思われるこのとき、このすべてにあなたの注意を向けるべきだと考えました……」
「一八三三年八月五日。
第八十五号としてお送りくださった外交報告[122]を拝受しました。そこにある考察から、コンスタンティノープルで起きたばかりの重大な出来事について、私の意見があなたのお考えと完全に一致していることがわかり、たいへん満足しています。
私は数日前から、この問題について、先の外交報告でお示しした趣旨で方針を定めるよう、イギリス内閣を促しています。いまは、その決めた方策を、お知らせできます。
明日、イギリスの使者が、パリ経由でコンスタンティノープルへ出発します。グランヴィル卿は、ポンソンビー卿宛の外交報告を、あなたに見せることになります。この外交報告は、オスマン帝国政府とロシアの間に結ばれた同盟を知り、イギリス政府が感じた驚きと不満を、明確かつ強く表し、それをオスマン政府へ伝え、自ら陥った状況のあらゆる危険を説明するよう命じます。ポンソンビー卿は、この条約を受け入れることで、帝国政府が独立を放棄し、今後はロシアの意志と要求に服すること、そして、その事実だけで、ヨーロッパにも、自国の民にも、帝国政府の力は失われたと見なされることを、理解させなければなりません。とりわけ、このような条約が、オスマン帝国政府と古くからの同盟者との関係にもたらす変化を、強調することになります。イギリスは、もはや帝国政府を、ロシアに従属するものとしてしか認められません。たとえばロシアとの戦争になれば、オスマン帝国を敵として扱わざるをえなくなります。このような結果は、避けられないものですが、イギリスやフランスのような、古くからの忠実な同盟者との関係をすべて無効にし、帝国政府を、昔からの敵であるロシアの支配へ引き渡すことになります。
以上が、ポンソンビー卿へ書き送られる内容の、大体の説明です。あなたも、ルサン提督へ同じ趣旨の訓令を送るのが適切だと、お考えになるかもしれません。両大使が、すべての働きかけを合意のうえで組み立て、あらゆる点で協調して行動することは、たいへん重要だと思われます。
この方針を採られるなら、ルサン提督へ送る訓令を、グランヴィル卿にも知らせるべきだと、きっとお考えになるでしょう。また、あなたの命令を携えるフランスの使者を、イギリスの使者と同時に、ひょっとすると一緒に出発させることも、有益だと思います。具体的な実行においてさえ、フランスとイギリスの考えの一致を示すためです。
ロシアとオスマン帝国政府との批准書の交換は、九月八日に行われるはずですから、時間を失ってはなりません。私たちのあらゆる努力は、その交換を妨げることへ向けなければならないのです。
これらの中で、私がオーストリアについて話していないことに、お気づきでしょう。先の外交報告で申し上げたとおり、初めの段階でオーストリアへ働きかければ、助けとなるどころか、私たちを妨げるかもしれません。しかし、二人の使者の出発後、この状況についての考えを、いくらかウィーンへ届けるのは、有益かもしれません。そうしておけば、後でオーストリア内閣に、私たちは意見を知らせることを怠らず、私たちと結ぶかどうかは、同内閣次第だったと言えるからです。妨げられることも、信頼を欠くと非難されることも、同じように避けなければなりません……」
「一八三三年八月五日。
イギリス政府は、ドナ・マリア女王の政府を、正式に承認すると決めました。この承認は、イギリス使節に摂政政府宛の信任状を与えるという形だけで、示されます。ご存じのとおり、すでにリスボンにいるウィリアム・ラッセル卿が、この任務を担い、特別使節という性格を与えられます。
パーマストン卿は同時に、マドリードのイギリス公使アディントン氏[123]へ、この承認の結果について、スペイン政府を安心させるよう、書き送るはずです。イギリスは、この行動によって、以前ドン・ミゲルを承認したスペインと、同じ権利を行使したことを、理解させるのです。アディントン氏はまた、イギリスの固い意図は、半島でのあらゆる反動を防ぐことにあると、保証することになります。
ドナ・マリア女王がポルトガルへ戻ることになったら、フランスのフリゲート一隻と、イギリスのフリゲート一隻で、護衛するのが適切ではないでしょうか。イギリス政府も、それを喜ばしく受け止めると思います……」
「一八三三年八月六日。
いまパーマストン卿に会いました。コンスタンティノープルへの使者の出発は、明日まで延期したと告げられました。東方問題の決定で、いつも遅れを生じさせるこのイギリス政府の傾向を見ると、問題の重要性を十分に感じていないのではないかと、時には思わされます。もっとも、これによって国王政府には、十分に真剣な注意を向けるべきこの問題を審議するため、もう一日の時間ができます。
ウィリアム・ラッセル卿に信任状を届ける郵便船も、明日リスボンへ出発します。あなたには、ポルトガルへの公使派遣を急ぐ必要は、何もないと思います。フランスがそうするのは、すでに現地にいる人物に信任状を与えるだけのイギリスより、はるかに明確な行動となります。また、この点についてあなたは、働きかけに適した時を、私よりずっとよく判断できる情報を、お持ちです……」
「一八三三年八月八日。
……パーマストン卿は昨日、ウィリアム・ラッセル卿へ信任状を送りました。ただし、騒乱や、そのほかの事情によって、この働きかけに不都合があると判断する場合には、使節としての資格を表明しないことも、認めています。これは、必要があれば、お役に立つかもしれない情報です。
イギリス政府は一昨日、シティの船主たちに、三百から四百トンの輸送船十五隻を、三か月間使用するために求めました。ポルトガルへ兵を送るためだという噂が広まり、かなりありそうなことと思われました。しかし、少なくとも当面は、この決定を見直したようです。船主たちの提案を受け取っただけで、確かな返答をしていないからです。差し迫った場合に、どれほど手段を得られるかを、確かめたかっただけかもしれません。
なお、イギリス政府は、マドリード内閣の意向について、たいへん安心しています。閣僚たちの話では、アディントン氏が、最近のセア氏との会話で、以前よりずっと融和的で穏健だと感じたと、書いてきたとのことです。スペインがポルトガル問題へ介入するあらゆる計画を、退けたいとさえ考えているようだというのです。
昨日こちらを出発した、ポンソンビー卿への訓令は、アストン氏からお聞きになったでしょう。パーマストン卿は、あなたがアストン氏へお伝えになった、コンスタンティノープルでの抗議の案を、受け取りました。たいへん好意的に受け止めており、イギリス内閣の考えと、完全に一致していると申し上げられます……」
「一八三三年八月十日。
今日、私たちはバイエルン公使と、ギリシア問題の最終的な取り決めのため、一八三二年五月七日にロンドンで署名した協定の、第八条を解釈し、補足する条項の批准書を交換しました[124]。
ギリシア問題を扱う国際会議の代表たちが集まったこの会合では、借款の最後の三分の一に、三大国の保証を得るため、ギリシア政府がまもなく行うはずの要請が、話題になりました。パーマストン卿とリーヴェン公は、この保証を与える権限があると述べ、私は、この点についてあなたの指示を求めると約束しました。そこで、国王政府の意向と、ギリシア政府の要請に同意する権限が、私にあるかどうかを、お知らせくださるようお願いします……」
「一八三三年八月十日。
今日ポルトガルから届いた知らせの抜粋を、お伝えします。七月三十一日までのもので、全体として、ドナ・マリア女王の側に、たいへん満足のいく内容です。
ドン・ペドロ皇帝は、二十八日にリスボンへ入りました。王国の大貴族数名を含む、上流階級の多くの人々が、進んで敬意を表し、幼い女王へ服従を示しました。リスボンの総大司教は、カダヴァル公に従うことを望まず、教会の祈りの中で、女王と摂政の名を唱えるよう、すでに命じていました……
テルセイラ公は、二十三日のテレス・ジョルダンとの戦闘で、大砲八門を奪いました。敵は兵三百人と、騎兵二個中隊を失いました。スペイン公使コルドバ氏が、この戦闘で捕虜になったことは確かです。戦闘中、ミゲル派の兵を指揮し、励ましていた姿が見られたものの、テルセイラ公は、ただちに釈放させました。リスボンへ戻ったコルドバ氏は、公使館の紋章を建物から取り外させ、コインブラへ赴きました……
ドン・ミゲルの代表、友人、後援者の動きを、たいへんよく明らかにする、外交報告などの書類が押収されました。七月二十九日付のポルトからの手紙によれば、敵は二十五日の戦闘で、五千人を失ったとのことです。死者には、ブルモン氏の息子、デュシャテル氏、カルドーゾ将軍が数えられ、そのほかにも、かなり重要な人物が殺されたと伝えられています。父のブルモン氏[125]、クルエ氏、レモス氏は、負傷しました……」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三三年八月七日。
公爵殿、
今日は、オスマン帝国政府とロシアの条約についてのご連絡に、お答えします。明日は、ポルトガル問題について書きます。それぞれの日に、それぞれの困難と心配があるものです。
この条約を読み返して、まず感じるのは、東方問題は終わりに近づいており、私たちが何をするにしても、それを蒸し返し、新たな問題を始めることは避けなければならない、ということです。閣下は、わが大使たちの行動を是認しておられます。条約の署名を妨げようとして、ボスポラスからの撤退を危うくしなかったのは、よかったとお考えです。私も同じ考えです。そこから、新たな困難を生み、コンスタンティノープルという舞台に再び紛糾を引き起こしかねない、わが国の行動はすべて、利点より不都合のほうが大きいと、結論づけています。
もう一つ、これに劣らず強く感じるのは、この条約が、現在の状態を、実際には何も変えていないということです。
オスマン帝国政府は、ロシアが求めた場合、援助を提供すると約束しています。これはまったく、笑い事にすぎません。ロシアにとって、実際の利点ではありません。ロシアは援助を必要とせず、帝国政府も、実際に求められれば、約束を果たせる状態にないからです。
ロシアは、オスマン帝国政府が求めた場合、求める量の援助を提供すると、約束しています。これも、さほど実のあるものではありません。条約があってもなくても、ロシアはいつでも、ボスポラスへ艦船を、コンスタンティノープルへ兵を、送る用意があるでしょう。条約によって、帝国政府の要請を待たずに送る権利を得るわけではなく、帝国政府も、求めるかどうか、また求める場合の援助の数と種類を定める権利を保っています。したがって、ロシアは明確な権利を何も得ません。重ねて言いますが、実際には、事態はほぼ変わらないのです。
しかし、この条約がロシアに実際の利点を保証しなくても、ロシアには精神的な効果をもたらします。それを重んじるのはもっともであり、私たちも無視してはなりません。
第一に、フランスとイギリスの目の前でこの条約を結ぶことにより、言ってよければ、最後にものを言うのはロシアになります。ロシアは自分の利益になる形で、優位を示して、この問題を締めくくるのです。
第二に、この条約は、行われたことを承認し、いわば公認するように見えます。オスマン帝国政府と、そのパシャたちの争いへのロシアの介入、ボスポラスとコンスタンティノープルの占領は、すべての目を引く、異例で前代未聞の出来事から、単純で自然なこと、オスマン帝国で日常的にありうる事柄へと変わります。
そのため、スルタンが恐れや気まぐれから、ロシアの援助を求めようとするとき、それに抵抗する帝国評議会の力が弱まります。
そのため、ロシア皇帝は、ヨーロッパの西方諸国に対して、それほど多くの用心、約束、配慮をせずに、同じことを繰り返せるようになります。
私が間違っていなければ、これが条約の真の結果です。対処すべきなのは、この点です。ただし、ロシア軍の出発によってコンスタンティノープルに生まれた平穏を、損なわないよう注意しなければなりません。
そう考えると、条約の批准を防ごうと努力した場合、成功しないか、あるいは、私たちの望む以上のことをしてしまうか、そのどちらかになるのではないかと、私は懸念します。
条約は、二か月以内、可能ならもっと早く批准されるはずです。もっと早くできる可能性は、非常に高いでしょう。私たちの訓令が到着するころには、事態はおそらく、すでに大いに進み、批准書も、まだ交換されていないとしても、その直前となっているでしょう。それを妨げる見込みは、ごく小さいものとなります。もし、その試みに賭けた後で失敗すれば、ロシアの勝利は、いっそう大きく、その支配は、より強固に、その成功は、より完全になります。
では、成功すると仮定しましょう。事態がここまで進んだいま、それは、ロシアとオスマン帝国政府を、徹底的に仲たがいさせることになります。したがって、帝国政府が直面するあらゆる困難で支え、あらゆる苦境で助け、全面的に保護する、暗黙の約束をすることになります。要するに、私たちが面倒を引き受けるのです。フランスとイギリスのように、帝国から遠く離れた大国には、重い負担です。そして、その困難は、すぐに感じられるようになります。ロシアは、トルコの問題に深く手を入れており、アドリアノープル条約によって、たいへん有利な立場を得ました。帝国政府がまだ大半を支払っていない戦争賠償、諸公国の占領、セルビアの騒乱[126]、そのほか多くの事情が、スルタンの立場を複雑にする手段を、ロシアに数多く与えています。その働きは、すぐに順調に進むでしょう。私たちは、帝国政府が自分たちのもとを逃れ、引き離したばかりの相手の腕の中へ、再び飛び込むのを見たくなければ、絶えず、帝国政府のために兵と艦船を維持しなければならなくなります。
私が間違っていなければ、それは必要以上の問題を自ら作り出すことになり、最後には、治療法のほうが病より危険になりかねません。
では、どうすればよいのでしょうか。
私には、おおよそ次のように見えます。
フランスとイギリスの両公使館が、同じ日に、次のような内容の覚書を、オスマン帝国政府へ提出します。条約を知ったことを告げた後、帝国政府が、つねに感謝すべき理由を持ち、絶えず関心と友情を示され、今後もそれを示す用意のある政府に対して、信頼を欠いた行為だとして、不満を述べます。ただし、帝国政府に対する言葉は、十分に抑制します。帝国政府の存在を脅かす外国政府はなく、むしろ、帝国の存続と領土の一体性は、関係するすべての大国が訴え、支持し、求めていることを、指摘します。したがって、この条約の目的は一つしかありえません。それは、オスマン帝国の内政への、日常的なロシアの介入を公認し、事実として定着させることです。つまり、帝国をロシアの保護下に置き、ボスポラスの占領を、恒常的とはいかなくても、ありふれた、何ら異常でない状態にすることです。次に、そのような取り決めを、フランスもイギリスも認められないと示します。個人には独立を放棄する権利があっても、国家は同じではありません。国家の独立は、ほかの国家にも重要であり、国際法の一部だからです。あらゆる国の武装船舶をボスポラスに入れないことは、条約に基づく原則です。自立した国家としてのオスマン帝国政府の存在は、共通の利益です。したがって、それを侵すかぎり、フランスもイギリスも、この条約を承認することも、尊重することもできません。条約が実施されるときには、条約が存在しないものとして行動する権利を留保します。帝国政府にもロシアにも、私たちの正当な要求に対抗するものとして、この条約を用いることは、決して認めません。私たちは、必要なら適切な方法で、その要求を支えることができます。
この覚書は、返答を求めず、単なる宣言として帝国政府へ提出した後、サンクトペテルブルクで、やはり両公使館からロシアへ伝えます。その際も、返答は求めません。
この進め方には、まず、東方問題を蒸し返し、再び始めないという利点があると思います。問題を、到達した平穏と終結の状態に、そのまま置いておけます。
さらに、この問題で最後にものを言うのは、ロシアではなく、私たちになります。何と反論されても、私たちの宣言に従うと、答えることができます。
最後に、それだけで、条約の精神的な効果を打ち消すには十分でしょう。一方では、オスマン政府の反ロシア派が、フランスとイギリスという支えを持ち、孤立する危険なく、反対の陣営に抵抗できると、知らされます。条約の文言そのものによって、ロシアの援助には要請が必要ですから、条約がない場合と同じように、要請を防ぐために闘えます。――他方では、ロシア皇帝は、ボスポラスにもう一度艦船を送ろうとするなら、以前と同じ配慮が必要であり、監視の目が開かれていて、条約という口実は認められず、条約の存在そのものが、さらに警戒と懸念の理由となることを、知らされます。
公爵殿、以上が、私の考えるこの問題と、その結果、そして採りうる対処法です。それ以上のことをすれば、障害に満ち、方向もたいへん曖昧で不確かな道へ、踏み出すことになると思います。これらの考えを、どこまで妥当とお考えか、お知らせください。また、不適切と思われる点があれば、直す手段をお示しください。
メッテルニヒ氏については、率直に言えば、あまり頼りにしていません。誠実だったとしても、怒る意欲は長続きせず、さほどの結果も生まないと思います。それでも、このようなときに、彼がサント=オレール氏とサー・フレデリック・ラムの接触から、完全に逃れてしまうのは、よくないことです。しかし、どちらも招かれていないので、オーストリア皇帝を追って、ボヘミアを走り回る手立ては、思いつきません。ただ、カールスバートにいて、オーストリア皇帝から招待を受けているメゾンを通じ、そこで行われることの知らせを、多少得ようと思います。ある種の会見の約束であり、彼はそれを利用するでしょう……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年八月十二日。
親愛なる公爵へ、
あなたの信頼に、真に役立つ形でお応えしたいと思います。多くの点ですでによい成果を挙げているあなたの内閣が、日々生じる多くの紛糾の中でも、同じようによい結果を豊かに生むことを、私は強く願っています。もし、その願いをさらに強めるものが必要なら、先のお手紙だけでも十分です。
東方の紛糾は、その広い影響の点で、間違いなく最も重大です。ほかの大国を除外して、オスマン帝国政府とロシアが条約を結ぶという事実だけで、あらゆる均衡が崩れることは、きわめて明白です。それゆえ、何よりもまず、その成立を防ぐべきだと思いました。あなたと同じく、手遅れになることを恐れました。しかし、後で世論から、なぜ試みなかったのかと責められかねないことは、少なくとも試みるべきだとも考えました。あなたのお手紙で的確に展開された、ほかの事情は、私には必然的に見えなかったのです。外務省でしか得られない多くの情報を欠いているため、私は個々の事実からしか、印象を受けられないからです。北方の、この侵略的でありながら節度を保ち、ゆっくり進む政策は、私に強い印象を与えています。一様に粘り強く慎重な行動であり、真に好適な時機を、迅速かつ巧みに利用するときだけ、速くなるのです。それこそが、文明化されたヨーロッパのために、フランスとイギリスの緊密で同時の結束を必要とする、真の危険として、私の心を占めていた唯一のものでした。
しかし、付随する事情が、この行動をある程度妨げうることは、認めます。ですから、お知らせくださった事情には、納得します。ただし、その中に、ロシアに対するスルタンの資金の困難は、含めません。ギリシア借款によって、アドリアノープル条約で課された支払いを済ませる手段が、スルタンに与えられるからです[127]。コンスタンティノープルの占領期間について、ロシア側に特別な金銭的要求があるかどうかは、知りません。
なお、距離だけでも、問題の一部は決まってしまうでしょう。イギリスの使者も、あなたの使者も、おそらく既成事実に抗議するためにしか、間に合いません。批准書が交換されている場合に、ポンソンビー卿が用いるよう命じられたイギリスの抗議は、あなたがお手紙で話されたものと、同じ精神に基づいています。こちらでは、あなたを指針とし、手本としています。ですから、当面こちらで、これ以上することはありません。コンスタンティノープルからの返答を、待たなければなりません。
ポルトガルについて、こちらで知られていることは、今日の外交報告でお伝えします。三十一日までの知らせです。
ブリュッセル内閣の反抗的な姿勢は、あまりに強いため、ウィレム国王がもう求めることをためらう猶予を、わざわざ与えたいのかと、国際会議全体に思わせるほどです……」
「一八三三年八月十六日。
ポルトガルからの最新の知らせは、イギリス政府を安心させませんでした。とりわけ、この数日、ドン・ペドロ皇帝の要求について、先ごろの外交報告の一つで、あなたが述べられた懸念を、同政府も共有しています。イギリスの閣僚たちは、この王子をポルトガルから遠ざけたいと考えていますが、目的に達する適切な手段は、まだ見つけていません。半島の平穏にとって、周囲にいる過激な人々が、ドン・ペドロの考えに及ぼしうる影響を、恐れています。ほとんど信頼を置くのは、パルメラ公とテルセイラ公だけです。アディントン氏とウィリアム・ラッセル卿へ送られ、あなたにもお伝えした訓令は、大きな慎重さを必要とするこの問題で、国王政府の行動を導くのに、役立ったでしょう……」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三三年八月十五日。
公爵殿、
八日前、グランヴィル卿の不在中に代理公使を務めるアストン氏が、パーマストン卿の名で、ウィリアム・ラッセル卿への訓令を、読み聞かせてくれました。その訓令は、たいへん賢明で道理にかない、ポルトガル問題の現状に、十分に適したものと思われました。パーマストン卿は同時に、イギリス内閣の意図を、フランス内閣へ知らせました。ウィリアム・ラッセル卿には、ドン・ペドロの摂政政府への信任を与えるが、特別で暫定的な任務を担う特派使節として、というものでした。イギリス内閣は、ドナ・マリアの政府との外交関係の樹立を遅らせない一方、通常の恒久的な使節団の設置は、ドン・ペドロが賢明さとよい行動によって、得るべき恩恵と見なさせるつもりでした。
イギリス内閣は、一八二六年の承認に依拠し、ドナ・マリアの政府を正式に承認することを避け、今回の承認は、外交関係を再開するという事実だけに、置いていました。
イギリス内閣は、行動の性質と、任務を担う代表の選択および資格の両面で、フランス政府にも同じ方針を採るよう求めました。
私はただちにアストン氏へ、イギリス政府には、すでに現地にいて、準備も整った代表がいるという利点がある一方、わが国がウィリアム・ラッセル卿と同じ地位と立場の人物をポルトガルへ送ることは、もっと重大で、さらに深く関与する行動になると、指摘しました。しかし、アストン氏が強く求めたので、この件について国王の指示と、同僚たちの意見を伺うと、約束しました。
閣議の意見は、できるかぎりイギリス政府を満足させることでした。イギリス政府が承認するなら、ドナ・マリアを承認し、同政府と同じく、外交関係の再開という形で承認を示し、特別で暫定的な任務を担う公使として、ウィリアム・ラッセル卿と同じ地位と立場の人物を、ポルトガルへ送るというものです。ただし、イギリス政府以上のことをしないため、私は、その人物に肩書きを与えず、ドナ・マリアを送り届け、敬意を表するだけの形で、同行させる方策を提案し、閣議も採用しました。信任状を送るのは、リスボン到着後、すでに別の理由で現地にいる状態になってからとし、それまでは送付を留保するのです。
国王は、このためにフラオー氏を、すでに選んでおられました。イギリスとポルトガルとの関係から、ほかの人物より適任と思われたためです。
その間に、ドン・ペドロの使いとしてルーレ侯爵[128]がブレストに到着し、十日ほど検疫のためとどまることになったと、知らされました。二、三日後には外交報告を送り、何のために来たのかがわかると、期待していました。しかし、昨日の夜まで、彼は、むしろ周囲の人々は、その任務の目的について、厳重に秘密を守りました。ただ、何か謎めいたことがあるのは、容易にわかりました。国王がブラガンサ公爵夫人を訪ね、望むなら、ポルトガルへ運ぶためにフランスのフリゲートを提供すると申し出たとき、夫人はたいへん冷淡で、よそよそしかったのです。
ついに昨夜、王妃を訪ねたブラガンサ公爵夫人は、何気なく、こんなことを口にしました。すぐに出発するつもりであり、二十五日にはポルトガルの船がル・アーヴルへ迎えに来るので、フランスのフリゲートは必要ない、さらに、兄弟のロイヒテンベルク公を同行させるつもりで、ル・アーヴルへ来るよう、すでに手紙を書いたというのです。これが、謎の答えでした。
ドン・ペドロとその妻が、ただちに、公然と、ロイヒテンベルク公とドナ・マリアの婚姻を進めるつもりであることは、明らかです。
公爵殿、この計画がどれほど無分別で、このやり方がどれほど国王を侮辱するものか、指摘するまでもありません。
ドナ・マリアの大義が勝利するのに、これほど苦労し、ポルトガルではいまも成り行きが不確かなのは、ポルトガル人がドン・ミゲルを愛しているからではないと、いまは明らかです。それは、ドン・ペドロが、この大義を自分自身、自分の愚行、気まぐれ、愚かな憲法と同一視させ、ヨーロッパのあらゆる騒動屋、扇動者、亡命者の大義と混同させることで、その性質を変え、国民的な、ポルトガルらしいものを、すべて失わせようと努めたからです。ところが、ポルトガル人の心の中でこの大義にとどめを刺し、穏健な人々も民衆も、ともに嫌気を起こさせるのに、これほど直接で避けようのない方法は、ほかにないでしょう。ドン・ペドロが、ヨーロッパのどの王家からも縁組を望まれなくなり、窮余の策として妹と結婚した、あの冒険家に、ドナ・マリアを嫁がせようというのです。このような身分不相応の結婚ほど、ポルトガル人の誇りを傷つけ、多少なりとも平穏な将来への、あらゆる望みを壊すものはありません。
さらに、そのような場合、スペインに何と言えるでしょうか。
私たちは一八三一年、ロイヒテンベルク公がベルギーの王位に就くことは、認められないと宣言しました。その王位は、あらゆるボナパルト派と、王位請求者につき従う、あらゆる混乱の仕掛け人の陰謀の温床に、必ずなるからです。では、ロイヒテンベルク公がポルトガルの王位に就くことを、平然と見ていればよいと、スペイン政府へどうして言えるでしょうか。その王位は、半島のあらゆるジョゼフィーノ[129]と不満を抱く人々が集まる、中心に必ずなるのです。そこへ、憲法、出版の自由、議会の演壇、亡命者を加えてください。自国の存立をこれほど明白に脅かす状態から、スペイン政府が自らを守る権利を、どうして否定できるでしょうか。
最後に、別の観点からも、このことは重大です。ドン・ペドロが、自分の思うままにしか行動せず、援助を必要としている大国を何ら顧みず、あらゆる気まぐれを満たし、娘の問題をでたらめに運んで、自分自身の問題をあれほど見事に導いたのと、同じところまで持っていこうとする意図を、示しているからです。いまイギリスとフランスが譲り、ただちに、きわめて強い態度で彼に向かわなければ、彼にわずかでも影響を及ぼす機会は、すべて失われると思います。
国王に対しては、このような決定を、知らせもせず、相談もせず、何気なく偶然にしか伝えないとは、何と不適切で、ほとんど無礼と言ってもよい行為ではないでしょうか。
この状況で、公爵殿、フランス政府は、これほど愚かで破滅的な計画に対し、ともに力強く行動するよう、イギリス内閣に求めるべきだと考えています。両政府が共同で、ドン・ペドロへ働きかけることを望みます。その内容は、最も明確で断定的な言葉で書かれ、この計画の危険と愚かさを、余さず示す外交報告を、彼に読み聞かせることです。結論では、フランスとイギリスの両政府が、ドナ・マリアの大義に関与して危険を負うのは、それを指揮する人々の分別ある行動によって、理にかなう成功の見込みが示される範囲だけだと、通告します。両政府から期待する精神的・物的な援助は、賢明さと理性に基づく助言に対して示す敬意に、応じるものとなります。最終的な結論は、ロイヒテンベルク公を遠ざけ、婚姻計画を完全に放棄するよう、求めることです。
このようにイギリス政府へ共同の働きかけを提案しても、公爵殿、ドン・ペドロの摂政政府との外交関係を、いまから樹立することを、放棄するわけではありません。しかし、今回のブラガンサ公のやり方は、国王にとってあまりに侮辱的であり、ドナ・マリアに高い地位の人物を同行させたり、フランスのフリゲートで護衛したりすることは、もはやできません。国王は、自らの尊厳のために、侮辱に憤り、それを公然と示す義務があります。私たちは、ポルトに派遣されている公使館書記官リュルド氏[130]に、信任状を与えるだけにとどめます。彼は一時的にリスボンへ駐在し、恒久的な任務を示す代理公使という厳密な資格ではなく、フランスの外交事務を担う者という資格を持ち、ドン・ペドロを抑え、穏健にするため、ウィリアム・ラッセル卿の行うすべてを助けます。イギリス政府が、先に述べたように働きかけるべきだと考えるなら、私はリュルド氏への外交報告を、アストン氏に見せ、内容をパーマストン卿へ知らせてもらいます。その写しは、公爵殿、あなたにもお送りします。言葉は、できるだけ同じものにするのがよいと思います。
なお、ドナ・マリアの婚姻の問題を、イギリスとフランスの間で扱うのは初めてではないと、申し上げるまでもありません。イギリス政府は、ロイヒテンベルク公を認めることはできないという点で、すでに私たちと一致しています。また、フランス政府と同じく、ドナ・マリアをナポリの王子と結婚させるよう努めるという意見です。集めた情報によれば、それはまったく不可能ではないようです。いずれにしても、わが国の王子の一人と結婚させることは、考えられません。ベルギーを守るだけで十分です。二度と同じような任務を負うことがないよう、神に願うばかりです[131]……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「一八三三年八月十七日。
今朝、急使便で、第八十九号としてお送りくださった外交報告を拝受しました。今日、パーマストン卿と会う約束があったので、その機会を利用し、ご注意を求められたさまざまな点を、彼に話しました。
ロイヒテンベルク公の旅行と、ドン・ペドロ皇帝が義兄弟を呼び寄せる目的かもしれない、ドナ・マリア女王との婚姻計画を話すと、パーマストン卿は、ためらわずに答えました。イギリスは、このような計画を決して承認できず、その実行にフランスとイギリスが反対すべき理由として、あなたがたいへん的確に示された考えを、すべて採るというのです。さらに、ウィリアム・ラッセル卿へ、内容としては、あなたが示されたとおりの訓令を、すぐにも与える用意があると付け加えました。ポルトガルに対するフランスとイギリスの立場の違いから、形式では、あなたが送られるものと異なるかもしれません。しかし、それは結果に何の影響も与えるはずがありません。これらの訓令はアストン氏と協議され、ポルトガルへの使節として信任状を与える、どの代表へでもお送りになれます。ウィリアム・ラッセル卿も、その代表と協議し、同時に働きかけるよう、命じられます。
この会話でのパーマストン卿の言葉から、ドン・ペドロの行動に対して、イギリス内閣が抱く不満について、昨日の外交報告でお伝えした情報には、十分な根拠があったと、確かめられました……」
「ロンドン、一八三三年八月十七日。
親愛なる公爵へ、
十五日付のお手紙が、今朝届きました。それと、添えられた、たいへんよくできた書類を、十分に読み、よく考えた後、パーマストン卿のもとへ行きました。今日の外交報告で、会話の全体として満足のいく結果を、お知らせします。ここでは、さらに幾つかの詳細をお伝えします。
ベルギー問題は十日前から止まっており、皆がうんざりしています。ブリュッセルは、この状態を延ばすことを、少しもためらいません。有利な暫定状態を頼みとし、フランス王家との縁戚の結びつきを、必要以上に信頼しているベルギー人は、最終的な取り決めによってしか真に得られない、平穏、均衡、承認された存在を、あまり重んじていません。ベルギーの沈黙に対して、国際会議はかなり愚かな姿をさらしています。その沈黙は、誰もが言うとおり、オランダ側の罵言と同じほど、無礼なのです。外交政策に接ぎ木された、こうした王家の利益をすべて退けるあなたは、まったく正しいと思います。それがナポレオン皇帝を滅ぼし、今日ブリュッセルで私たちを妨げているのです。わが国の王子をポルトガルで結婚させようとしていたなら、同国を、フランスにとっての傷口にしたでしょう。ベルギー人に対して、あなたの力をすべてお使いになるよう、切にお願いします。事態は切迫しています。
イギリスは、ロイヒテンベルク公への私たちの嫌悪も、ブラガンサ公夫妻の不適切な行動に対する、正当な憤りも、十分に理解しています。パーマストン卿も私たちと同じく、このような婚姻という不安な光景を、スペインに見せるべきではないと考えています。この計画に重大な障害を設けるため、イギリスの覚書がラッセル卿へ送られます。ドン・ペドロがいなくなれば、この婚姻も憲法も消えるでしょう。しかし、この点では、もっと断固とした足取りで進み、賢明で有能な摂政政府に対する外交代表にしか、信任状を与えるべきではありませんでした。パルメラとヴィラフロールは、ドン・ペドロに脇へ追いやられたようです。なお、この数日、リスボンから知らせがなく、何が起きているかを正確に知ることは、不可能です。イギリス側は、当面リュルド氏で、代表として十分だと考えています。問題がもう少し明らかになれば、フラオー氏が、きっと見事に役割を果たすでしょう。
スイスについて、あなたがベルリンとウィーンへ送られた外交報告は、パーマストン卿にたいへん説得力があると思われたため、この件に関する彼の手紙は、ほとんどあなたのものを言い換えるだけになるでしょう[132]……」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三三年八月十七日。
公爵殿、
出来事は速く続いています。しかし、日々の進展は、ポルトガル問題で、慎重さと決断をもって行動する必要を、ますます明らかにしていると思います。自然の成り行きに任せれば、ほどなく、最も巧みな人でも抜け出すのが難しいほど、すべてが混乱するでしょう。
私が間違っていなければ、目指すべき目的は、次のとおりです。
一、ドン・ペドロとドン・ミゲルを、ポルトガルから排除すること。
二、一八二六年の憲法の施行を、より平穏な時期に、それを見直し、ポルトガルの慣習と、すべての陣営の利益に合わせられるようになるまで、延期すること。
三、スペインの不安も、誰の嫉妬も呼び起こさない王子と、ドナ・マリアを結婚させること。
この目的のためには、セア氏がレーヌヴァル氏へ行った申し出を、まったく顧みる必要がないとは、考えられません[133]。
ドン・ペドロの排除と、後で見直すことを前提とした憲法の延期を保証することで、スペイン政府に、ドナ・マリアを承認し、この王女とナポリの王子との婚姻交渉を助ける約束を、得られるなら、賢明であり、不可能でもないことを行うのだと思います。
スペイン政府が、大いに困惑していることは明らかです。ドン・ミゲルを支える見込みは、ほとんどなく、ドン・カルロスに関する彼の行動にも、不満を抱いています。また、王位継承問題によって、ほとんど仲たがいしたナポリ宮廷と、関係を修復する必要があります。ナポリ王家の第二、第三の王子に王冠を差し出すことは、関係を結び直す手段になるでしょう。
フランスとイギリスの両政府が、この道へ進めば、スペインだけでなく、ヨーロッパ全体、さらにポルトガルの圧倒的多数も、味方につけるでしょう。厳密に言えば、敵は、ドン・ペドロと、それにつき従う、一握りの騒動屋だけになります。
残る問題は、ポルトガルの問題へ、公然と武力介入せずに、両政府がどのようにドン・ペドロから権力を取り上げ、ドン・ミゲルを完全に追い払うかです。
ドン・ミゲルについては、スペインに見放されれば、失脚が著しく早まるでしょう。それは事態の成り行きと、敵対する陣営の成功から、自然に生じるはずです。
しかし、ドン・ペドロについては、もっと難しい問題です。
私が判断できるかぎり、真の手段は、ドン・ペドロを憲法の大義から切り離し、言ってよければ、彼の憲法を、彼自身に向けることです。この憲法の第九十二条によれば、摂政の職は、現在の君主に次いで最も近い継承者に与えられます。ドン・ペドロはポルトガル人ではなく、継承者でもありません。彼の摂政職は、簒奪です。摂政の職は、ドン・ミゲルがいない場合、一八二六年にそれを務めていた、マリア・イザベル王女に属します[134]。
この立場に立つことができます。
両政府が、ドン・ミゲルを総督に迎えたことで、すべてが壊された、その直前の状態に戻すと、正式に宣言し、当時存在した形のドナ・マリアの政府にしか、精神的・物的な援助を与えないと表明すれば、リスボンに、ドン・ペドロを抑え、最後には政務から退くことを強いる、ポルトガルの陣営を作れるでしょう。このように行動すれば、絶対に必要な場合、皆の承認を得て、中立の方針から多少逸脱することもできます。両政府の努力が、二人の王子に同時に向けられ、スペインに有利な決着を目指す以上、反対者はいないと、確信できるでしょう。ベルギー問題で、国際会議の仲裁が全面的に事実上受け入れられたように、両政府の仲裁も受け入れられるはずです。
ドン・ペドロがいったん追放されれば、憲法について合意し、半島の平和に役立つ方向へ改めることは、容易でしょう。
公爵殿、今朝から考える余裕がなかったので、頭をよぎるままに、急いでこれらの考えをお送りします。閣下の経験にお諮りし、むしろお委ねします。望まれるものを引き出してください。実行できそうに思われなければ、何も引き出さなくても構いません。なお、ロイヒテンベルク公に関する計画に際して下した決定は、維持しています。一昨日の手紙で申し上げたすべてを、ここにあらためて確認します……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年八月十九日。
今朝、第九十号の外交報告を拝受し、急いでパーマストン卿に会い、その内容と、レーヌヴァル氏の手紙の一部[135]を伝えました。彼も、アディントン氏から受け取った最新の外交報告を、私に読ませてくれました。十一日付、つまりレーヌヴァル氏のものより一日後のものです。アディントン氏は、いま交わしたセア氏との会話を報告していますが、その言葉は、レーヌヴァル氏に述べたものと、たいへん違っていたようです。
セア氏は、レーヌヴァル氏には、合意する手段を探し、融和によって半島の平和へ至るよう試みることを提案しました。しかし、アディントン氏には反対に、スペインは、ポルトガル問題でこれまで採ってきた方針から、まったく離れず、自分自身も、それを守る決意だと、宣言したとのことです。
パーマストン卿も私も、それぞれの政府が当然、全面的に信頼する二人の大使の報告が、このように矛盾していることに、驚かずにはいられませんでした。そして、セア氏には二通りの言葉があり、大使の一人を欺こうとしたのだと、結論せざるをえませんでした。
それでも私は、リスボンとマドリードへの連絡で、イギリス内閣がもっと決然とした態度を取るよう、パーマストン卿に強く求めました。
第百五十九号の私の外交報告で、ラッセル卿が、あなたがリスボンへの使節として信任状を与える代表と協調し、ドン・ペドロ皇帝の婚姻計画に反対することは、お知らせしたでしょう。パーマストン卿はまた、ドナ・マリア女王とナポリの王子との婚姻計画を支援する決意であり、あなたが有益で適切とお考えになる、あらゆる働きかけを行います。
ドン・ペドロのポルトガルからの追放と、一八二六年の憲法の停止[136]については、彼もあなたのお考えに全面的に賛同しています。ためらわせているのは、暴力に訴えずに目的へ達する手段を見つける難しさだけです。国の内政への介入と、表面上見えるものは、すべて恐れています。あなたの提案のように、ドン・ミゲルの簒奪前にポルトガルにあった状態を、両政府の指導の下で復活させようとする、両政府の正式な宣言さえ、望まないのです。
パーマストン卿は、ドン・ペドロがポルトガルにいることの不都合も、悪い一八二六年の憲法が、半島全体の平穏へ及ぼす危険な作用も、十分に承知しています。しかし、申し上げたとおり、目的は望みながら、その手段にはひるんでいます。あなたが幾つもの手紙で示された論拠は、一つも用い忘れませんでした。それでも、このような場合に、イギリスが採るべき大胆な決断の一つへ、彼の考えを定めることは、できませんでした。
次にパーマストン卿は、アディントン氏の報告からすれば、セア氏がイギリス政府へ、最近レーヌヴァル氏に行ったものと、ほぼ同じ種類の新たな申し出をするまでは、マドリード内閣に何らかの働きかけをすることは、不可能だと述べました。この点では、かなり決意が固いと見えたので、それ以上迫ることはしませんでした。ただ、グレイ卿にも話すつもりで、パーマストン卿との会話の後、そのもとへ向かいました。不在でしたので、明日また行きます。しかし、マドリードへ伝えるのに、役立つかもしれない情報を、あなたへお送りするのは、遅らせたくありませんでした。」
グレイ卿からタレーラン公へ。
「ダウニング街、一八三三年八月二十一日。
公爵殿、
お預けくださった、ブロイ公の興味深い手紙を、深くお礼を申し上げつつ、お返しします。
公の見解と議論には、たいへん的確な点が多いと思います。ただし、ロイヒテンベルクとの婚姻についての懸念を、すべて共有するわけではありません。ウィンザーから戻ったら、このことを閣下と話す機会が得られれば、うれしく思います……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年八月二十二日。
……グレイ卿とは、ポルトガル問題について、ごく短くしか話せませんでした。相変わらず議会にかかりきりで、そのうえ、ウィンザーで一日過ごしていました。ドン・ペドロが娘のために計画していると思われる婚姻への、あなたの嫌悪は、確かに共有しています。しかし、その婚姻が半島の将来にもたらす重大な結果を、すべて十分に認めていないかもしれません。ポルトガル問題で、グレイ卿にもパーマストン卿と同じく、無関心とまではいかなくても、ためらいと、不確かな考えが見られました。それが続けば、たいへん悪い結果を生みかねません。この点を、アストン氏へ率直にお話しになるよう、お勧めします……」
「一八三三年八月二十三日。
……パーマストン卿は、ロイヒテンベルクとの婚姻への私たちの嫌悪を、よく理解しているようでした。しかし、ほかの閣僚数名が、この問題で、私にはたいへん場違いに思える、一種の感傷的な政治に支配されているのを見て、残念に思いました。その間、役立つことは何も行われません。ドン・ペドロは、自ら与えた摂政の職に、ますます根を下ろしています。でたらめに政務を運び、残念ながら日ごとに、遠ざけることは難しくなります。いまでは、内戦が彼を引き倒す役割を担うのではないかと、懸念されます……」
「一八三三年八月二十六日。
……リュルド氏へ送られる訓令は、たいへんすぐれた精神で書かれており、私たちがすでに知る事実にも、賢明に考え抜かれた予測にも、適していると思われます。
国王政府が、スペインとの関係で採った政策について、私はますますお祝いを述べなければなりません。レーヌヴァル氏へのあなたの外交報告は、その新たな証拠を示しています。私もあなたと同じく、セア氏が、マドリードのわが大使に行った申し出は、それを実行し、フランスとイギリスとの合意によって、半島の平穏を確保する意図から出たと、考えるようになっています。マドリード内閣のこの新たな言葉が、リスボンの最近の出来事への恐れから出たのか、ほかの感情から出たのかは、あまり気にすべきではないと思います。そのため、皆に有利な形でポルトガルの将来を定めるには、スペインと協議する必要があるという考えを、イギリスの閣僚たちに認めさせるため、あらゆる論拠を用いました。
アディントン氏の最新の報告が、こちらで生んだ悪い効果は、お知らせしました。しかし、イギリス内閣のスペイン政府への好意の乏しさを、その報告だけのせいにすべきではないと思います。とりわけセア氏への敵意に支配されており、それがたいへん悪い紛糾を生みかねないとさえ、推測されているからです。最近、アディントン氏の後任にジョージ・ヴィリアーズ氏[137]を任命したことにも、こちらでは、その気風が少し表れているように見えます。この新たな使節の立派な人柄は認められていますが、アディントン氏よりはるかに明確な意見が、マドリード内閣の政策と一致しえない方向を向いていることが、恐れられています。ヴィリアーズ氏の任命が、なおさら時宜を欠くのは、セア氏が、少し前まで、アディントン氏にマドリードへとどまってほしいと、望んでいたからです。
イギリス政府への非難を裏づける事実として、リスボンで押収した手紙の公表も、挙げなければなりません。公爵殿、私もあなたと同じく、この公表を残念に思いました。イギリス内閣は、正当化するのに大いに苦労するでしょう[138]。これらの手紙は、イギリス議会の議員に対しても、その中で多少なりとも問題のある関与を示された外国政府に対しても、有効に使えたはずです。不用意な暴露への恐れは、外国政府に、もっと抑制と配慮を促したでしょう。また、この軽率な公表を、いま惜しむべき理由は、イギリス政府が、それによって得られる唯一の利点を、ポルトガル問題で断固とした態度を取ることに、役立てられなかった点です。これらの手紙に基づいて、リスボンへ介入し、ドン・ペドロを追放し、ドナ・マリアの政府とスペインの政府との接近を助ける権限があると、考えることができたはずです。その内政への介入を、何らかの形式の下に隠すのも、容易だったでしょう。さらに、この種の問題では、成功がすべてを正当化します。それによって、すべての内閣を満足させ、議会のトーリー派を沈黙させられました。ポルトガルに平穏を回復し、たとえばドナ・マリアが成年に達するまで、一八二六年の憲法を停止したとしても、最も過激な意見を支持する議会の一派に対し、強力な弁護の手段が得られたはずです。
お認めくださったとおり、私はいま、リュルド氏へ送られる訓令を、パーマストン卿に見せました。この信頼の証しに、彼はたいへん感謝し、その訓令を全面的に承認しており、ウィリアム・ラッセル卿へ、行動において一般にリュルド氏と協議するよう勧める手紙を、これから書くと、あなたへ伝えるよう頼みました……」
「一八三三年八月二十六日。
親愛なる公爵へ、
ここに外交報告を――上に掲げたものです――お送りしますが、公式の形式は取り除きました。適当とお考えなら、私信としてだけ扱っていただけるようにするためです。その中にある情報は、政府に伝える義務があると思いました。また、そこには、当然、私の名を出さずに、アストン氏に対して役立てられる論拠も、幾つかあるでしょう。この外交報告の内容を、直接漏らすことから生じる不都合が、どれほど重大かは、申し上げるまでもありません。
イギリス政府は、サンクトペテルブルクの自国公使に、たいへん不満を抱いています。何の理由もなく、ベルリン内閣に対するミントー卿の立場を、危うくしたからです。私は、同僚の一人の不用意な漏洩によって、ミントー卿の立場が損なわれないよう、全力を尽くしました。私の考えでは、内閣は、この一件を収め、ミントー卿をベルリンにとどめるため、できるかぎりのことをするでしょう……」
「一八三三年八月二十七日。
今日、リスボンとポルトからロンドンに届いた知らせを、お伝えします。
ウィリアム・ラッセル卿は、十五日、リスボンで摂政に信任状を提出しました。
十六日、サルダーニャはポルトの前面でミゲル派を破りました。同市の包囲は完全に解かれ、多数の商船がドウロ川に入港するまでになっています。コルテスはリスボンに召集され、選挙は十月一日に始まる予定です。
今朝、同じくロンドンに届いたもう一つの知らせは、誰も予想していなかったものですが、ロシア皇帝がシュテッティンに到着したということです[139]。リーヴェン公のもとに到着した急使によって、私たちもこれを知りました。」
レーヌヴァル伯爵からタレーラン公へ。
「マドリード、一八三三年八月十九日。
公爵殿、
七月二十七日のお手紙を、厚く御礼申し上げます。今のパリでの滞在が、閣下にとってほとんど魅力のないことは理解できます。私自身についても、パリを離れていることを少しも不自由とは思っていないと、率直に申し上げます。それでも、時には顔を出してみたいと強く思うことがあります。たとえば、今がそうです。そこでは閣下にお会いでき、それは私にとって大きな喜びであるとともに、大きな助けともなるでしょう。絶えず頭に浮かぶ数々の疑問を、閣下なら必ずや解いてくださり、私が現在の立場でますます増してゆく困難から抜け出すために、進むべき道を示してくださることでしょう。内閣が、ほんの数日でもよいから私を呼び寄せるという、よい考えを抱いてくれればと思います。この国の問題には、書面だけでは足りず、話し合いを必要とする点があるように思われるのです。
ドン・ペドロが舞台から姿を消すことに甘んじていたならば、隣国で演じられている劇も近く結末を迎えると考えられたでしょう。しかし彼は、人々が自分なしで済ませることにかなり傾いていると察知し、手を打ったのでしょう。ドン・ミゲルとその支持者は、ほぼ戦う力を失っています。新たな争いが起こり、国がドン・ペドロとドナ・マリアの間で二つに割れる恐れはないでしょうか。スペインは、多少渋った後、この王女の治世なら受け入れるだろうと思います。しかし、その父親を恐れています。彼が聖職者に対してとったばかりの性急な措置によって、当地では彼を、きわめて激烈な革命家と見なしています[140]。それでも、彼がスペインに配慮するならば、スペインは彼をまったく放っておくでしょう。この政府は自分の弱さを知っており、絶望に追い込まれない限り、何もしないでしょう。イギリスの意図については、安心することがなかなかできません。アディントン氏の召還は、予想していたとはいえ、不吉な前兆と映っています。その後任が、激情的で先入観にとらわれた人物になるのを恐れているのです。配慮をもって接すれば、スペイン人をかなり遠くまで導くことができます。しかし、乱暴に扱ったり脅したりすれば、彼らは反発します。そして、こちらの望むことを何一つしないばかりか、きわめて危険な愚行へと追い込むことさえありえます。
セア氏は、閣下がお心にかけてくださったことに感謝しています。パーマストン卿はスペインにあまり好意的な感情を抱いていないと考えており、その気持ちを和らげるよう、閣下のお力添えをお願いしています。
フェルナンド王の容態は、きわめて痛ましいものです。九月を越せないのではないかと恐れられています。戦争とコレラにもかかわらず、ドン・カルロスがポルトガルにとどまり続ける真の理由は、王の健康についての知らせにあると思います。現在の状況のもとで王が死去すれば、この国は間違いなく大混乱に陥るでしょう。閣下のご尽力によって、これまで奇跡的なほど保たれてきたヨーロッパの平穏が、その衝撃に耐えられるかどうか、私にはわかりません……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年八月二十九日。
公爵殿、
……本日、議会の閉会に際してイギリス国王陛下が行われた演説を、お送りします。オランダ、ポルトガル、トルコの問題に関係するくだりに、ご注目ください。大法官は今夜、二か月の予定でロンドンを離れます。グレイ卿も数日後、イングランド北部にある自分の城に出発し、やはり二か月をそこで過ごす予定です……」
レーヌヴァル伯爵からタレーラン公へ。
「マドリード、一八三三年八月二十四日。
公爵殿、
当地は今、ある種の危機のさなかにあります。パーマストン卿は、イギリスは中立を守るという保証をマドリード内閣に繰り返し伝えさせながら、スペインにも、これまで以上に強い態度で中立を要求しています。スペインの兵士が一人でもポルトガルの領土に足を踏み入れれば、イギリスはその行為を宣戦布告と見なす、と言っているのです。その一方で、ウィリアム・ラッセル卿は、イギリス臣民を保護するためだとして、パーカー提督の艦隊に乗っている兵士を、一人どころか二千人上陸させ、テージョ川の河口を守るサン・ジュリアン砦だけでなく、リスボン市を見下ろすサン・ジョルジュ砦にも駐屯させる決意をしたと伝えています[141]。ラッセル卿は、十三日付でコルドバ氏に宛てた手紙を通じて、この決定を知らせました。ご想像のとおり、それはこの政府にきわめて強い衝撃を与えました。政府は、私が先に述べた安心させる内容の通告を、わずか二日前に受け取ったばかりだったのです。イギリス軍を上陸させるという考えが、ウィリアム卿自身から出たものか、それとも政府から出たものか、こちらにはわかりません。政府は、後者よりも前者の推測を信じています。後者は、イギリス内閣が伝えてきたことと、あまりに直接的に矛盾するように思えるからです。このように確信を持てないなかで、セア氏は急いでロンドンへ急使を送り、イギリス政府に対し、自ら定めた限界を越えないこと、また、イギリスの要求に応じてこれまで忠実に守ってきた行動方針を、スペインが意に反して捨てざるをえないようにしないことを求めています。彼によると、この件についてパーマストン卿に渡される覚書は、悪く受け取られる余地がまったくない言葉で書かれているそうです。彼は、わが政府がこの平和的な働きかけを支持するよう求めており、どのような結果を招くか実際には計り知れないこの決定を変えさせるために、閣下が個人的な影響力を行使してくだされば、ありがたく思うでしょう。しかし、この願いは遅すぎるのではないかと、私は強く懸念しています。十六日、ブルモン氏は、リスボンへ進軍している自軍に合流するため、コインブラを出発しました。その軍勢は、テージョ川沿いやトレス・ヴェドラス方面にいる幾つかの別働隊を除いても、一万五千から一万六千人にのぼります。この兵力ならば、彼は確かに首都の奪取を試み、それに成功することができます。ウィリアム卿は、おそらく自国政府の指示を待たずに、自分の計画を実行するか、それを断念するか、決めざるをえなくなるでしょう。したがって、半島の将来すべてが、彼の頭に浮かぶ考え一つにかかっているのです。
ポルトガルのこの悲しい問題が、考えられるかぎり最も不幸な方向へ進んでいることは、否定できません。血なまぐさい無秩序が国中に広がっています。そしてドン・ペドロは、絶え間なく発するあらゆる布告によって、すべての意見を傷つけ、すべての利害を損ない、秩序の回復をほとんど不可能にしています。あとはイギリスとスペインがこの争いに加わるだけで、われわれは、半島だけでなく、ヨーロッパ全体についても希望を失わざるをえなくなるでしょう……」
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ。
「サン=クルー、一八三三年八月三十日。
親愛なる公爵、ティエール氏がロンドンへ出発するのに、私からあなたへの一筆を持たせないわけにはまいりません。昨晩、本人から頼まれました。私たちの大切な国王が、彼をどれほど高く評価し、その才知と献身に満足しているかを、お伝えできてうれしく思います。彼は実によくやっています。立派な小柄な人です。
国王の旅行について、たいへん満足のゆく知らせが届いています[142]。まさに凱旋です。私は、王妃と姪たち、そしていちばん年少の甥二人とともに、シェルブールへ国王を迎えに出発するところです。そこから、私たちの様子をお知らせするよう努めましょう。今にも馬車に乗り込むところなので、急いで書いています……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年九月四日。
公爵殿、
先月二十九日と三十一日付であなたから頂戴した外交報告を受け取ったのは、ようやく昨日、三日のことでした。悪天候のため、到着がひどく遅れたのです。
数日前、レゼンデ侯爵がル・アーヴルからロンドンに到着しました。ブラガンサ公妃陛下から、自分とドナ・マリア女王が、リスボンへ赴くためのポルトガル船をイギリスで待つことについて、イギリス国王陛下の許可を求める任務を託されたのです。レゼンデ侯爵は、イギリスの閣僚に自分の使命の目的を伝えるとともに、ブラガンサ公妃がル・アーヴルで受けたという待遇、とりわけロイヒテンベルク公が同地の当局から受けたという冷遇について、きわめて激しく訴えました[143]。
レゼンデ氏の使命について私に話したグレイ卿は、ロイヒテンベルク公がル・アーヴルを去る前に作成し、郡長に手渡した抗議書の写しを受け取ったと述べました。その文書の書きぶりに、卿はたいへん強い印象を受けたように見えましたが、国王のもとに置いてきたため、私に見せることはできませんでした。グレイ卿はさらに、ブラガンサ公妃からの申し出について陛下のご指示を仰いだところ、国王は、ドナ・マリア女王と皇后をイギリスに迎えることを喜んでおり、使える船があれば、お二人が利用できるようル・アーヴルへ送る、とレゼンデ氏に伝えるよう命じられた、と付け加えました。
グレイ卿が、今お伝えした話を私にしたときには、ロイヒテンベルク公に関してル・アーヴルで起こったことの説明を含む、あなたの三十一日付の外交報告は、まだ届いていませんでした。それでも私は、レゼンデ侯爵の話には大きな誇張があるはずだと、卿に断言することができました。ブラガンサ公と公妃、そしてドナ・マリア女王の各陛下は、フランスに二年間滞在され、その間、絶えず敬意をもって迎えられ、最上の待遇を受けておられました。その方々と別れる際に、フランスの宮廷にまったくそぐわない無礼な振る舞いがなされたなど、誰にも信じられないでしょう、と申し上げたのです。なお、このときも、これまでの幾度かの機会と同じく、グレイ卿は、私たちがロイヒテンベルク公の排斥に強くこだわることに驚いていました。ここで問題となっているのは、ポルトガルの尊厳と半島全体の平穏であるということを、理解しようとしないのです。この点については、私はいつも、とりわけ強く念を押しています。
今日、パーマストン卿と話をした際、イギリス軍によるリスボンの砦の占領について、スペイン政府から卿に送られるはずの覚書を取り上げました。卿はその覚書をまだ受け取っていませんでしたが、国王の謁見の席で、スペイン公使ヴィアル氏から、その到着を予告されていました。私は、それでもこの機会をとらえ、イギリスとスペインが接近する必要について、これまで幾度も行ってきた働きかけを、再び卿に向けることができました。半島で革命的な騒乱が起こるのを防ぐためにマドリード内閣と協調して行動すれば、最近の策謀によってイギリスから離れかけたかもしれない大陸の諸内閣を、再び近づけることになるでしょう。それによって、ヨーロッパの平和に役立つ影響力を確保できるのです。また、今、スペインを満足させる最善の方法は、リスボンの砦の占領を断念し、ドナ・マリアとロイヒテンベルク公の結婚をためらわずに退けることだと申し上げました。その結婚は、ポルトガルとスペインの内戦を招くことにしかならないからです。
パーマストン卿は、これらの意見を関心をもって聞き、スペイン内閣の覚書が届きしだい、そのなかに、スペインとの友好関係へ戻るためのあらゆる手立てを探すと約束しました。卿はその重要性を十分に理解しているように見えました。さらに、アストン氏がすでにあなたに伝えたとおり、イギリス軍にリスボンの砦を占領することを認めた許可は撤回され、ウィリアム・ラッセル卿には、最初に送られた指示に従うよう命令が出されている、と卿は私に明言しました。その最初の指示は、あなたもご存じのものです。」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三三年九月五日。
公爵殿、
今朝、マドリードから受け取った外交報告をお送りします。私が期待していたほど満足のゆく内容ではありません。ポルトガルの問題がまだ危機のさなかにあるため、スペイン政府はドン・ミゲルの成功に期待をかけすぎており、私たちに十分心を開こうとしません。一方、イギリス政府は、ドン・ミゲルの敗北を相変わらず確実と見なして、イギリスの真の利益よりも、スペインに対する遺恨を思い返しています。このことは明らかです。リスボンが強襲によって奪われる場合にも、ドン・ミゲルが攻撃で壊滅する場合にも、それぞれの政府は自分の傾向に従い、頑なな態度をとり続けるのではないかと、私は恐れています。しかし、私の考え違いかもしれませんが、この二つの出来事は、どちらも起こりそうには思えません。ドン・ペドロが完全に正気を失ったのでなければ、野戦で打ち負かされに出てゆくことはないでしょう。そして、多少なりとも守勢を維持するならば、ブルモンの一万五千ないし二万人の兵では、リスボンのような都市に力ずくで入ることはできません。悪い季節が近づくなかで、この不幸な国に待ち受けているらしいのは、二つの主要都市をペドロ派に占領され、残りの領土をミゲル派に占領されるか、その略奪にさらされるという状態です。しかも、終わりは見えず、近いうちの決着も、決着がつく見込みもないのです。
こうした状態が続くことは可能なのでしょうか。また、続くべきなのでしょうか。
そう考えることは難しいと、私は告白します。私は、不干渉の原則をたいへん尊重しています。各自が自分のために、各自が自分の国で行動する。それ以上に公正なことはありません。しかし、この原則にも、すべての原則と同じく限界があります。この原則は、その適用される国が、無秩序から抜け出し、内戦を脱するための手段を、自らのうちに備えていることを前提とします。また、その国に多数派と少数派が存在することを前提とします。その多数派は、少数派が抵抗する間はこれを制圧するに足る力を持ち、少数派が敗れた後は、その相手と取引することなく、これを保護できなければなりません。しかし、長く、忍耐強く、誠実に試みた結果、問題の国には、自国内の秩序を回復するために必要な手段が何一つないことが明らかになった場合には、どうでしょうか。いずれの側にも、はっきりとした勢力をなし、人々を従わせることのできる実質的な多数派が存在しない場合、また、誰かの完全な勝利によって争いを終わらせることができないのが明白な場合には、どうでしょうか。その場合、人道、理性、常識が求めるのは、その国の平定に何らかの利害を持つ隣国が協議し、介入して、戦う者たちに武器を置かせることだと、私には思われます。そのうえで、各勢力のそれぞれの強さに、相互の利益をできるかぎり釣り合わせながら、対立する党派の間に妥協を成立させるのです。
これが、私の考えるポルトガルの状況です。
考えを深め、よく見つめるほど、この不幸な問題は、フランス、スペイン、イギリスの友好的な介入によってしか終わらせられないと、私はますます確信しています。その介入の程度、直接性、積極性は、事態の要求と状況の性質に応じて、大きくも小さくもなるでしょう。しかし、介入がなければ、問題はスペインとイギリスの戦争へと悪化するでしょう。両国は、それぞれ自分の庇護する者を支えるために、ますます深く関与し、日々、自国の世論に新たに訴えかけることになります。ついには世論を高ぶらせ、選択する自由も、別の方向へ動く自由も、すべて自ら失ってしまうでしょう。
公爵殿、これらの考えを打ち明けるのは、今、何らかの働きかけをしていただくためというよりも、情勢によって近く必要になるかもしれない働きかけを、あらかじめ準備していただくためです。この問題で同時に行動するための、ある種の合意が三つの政府の間に成立することになれば、その基礎を据えるのはあなたです。イギリス政府が信頼するのは、あなたの賢明さと経験なのです。私一人では、耳を傾けてもらえる望みは、ほとんどありません。さらに私は、何よりもまずあなたの助言によって考えを明らかにし、あなたの同意なしには何一つ性急に進めたくないのです……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年九月九日。
公爵殿、
ドナ・マリア女王とブラガンサ公妃陛下は、昨日、ドン・ペドロの代理人が借り上げた汽船でル・アーヴルから来られ、ポーツマスに上陸されました。若い女王は、上陸の際に最高の栄誉をもって迎えられました。ポーツマスにいた海軍本部の卿たちは、すべての文官・武官の当局者とともに、急いで敬意を表しに赴きました。女王はウィンザーに招かれており、そこに三、四日滞在されるようです。全体として、イギリスでは、ドナ・マリアを歓待することを、どこかことさらに見せつけています。その目的は容易に推察できますし、今朝の『タイムズ』紙の記事も、この点について何の疑いも残していません……」
「一八三三年九月九日。
親愛なる公爵へ、
議会は解散され、イギリスの閣僚たちは田舎にいます。そして会議は、オランダ王が返答し、譲歩する気になるまで、事実上延期されています。王は、そのどちらにも応じる様子がありません。私たちは、こちらで何一つ有益なことをしていないのです。
ですから、私のひどい風邪を治すには転地が必要だと考えている医師たちに従うのに、今はよい時期だと思います。家族は、パリへ来るよう私に強く求めています。弟の痛ましい状態のため、対処しなければならないことがあるのですが、私なしではそれができないと考えられているのです。さらに、二十五年間私の身の回りの事務を管理していた人が亡くなって以来、それらの事務もひどく滞っており、これ以上放置することはできません。
現在の情勢は、私がここにいることを特に必要とはしていないように思われますので、休暇をお願いする次第です。その長さは、政治上の問題の重要性に応じて決めることになるでしょう。私たちの友情に免じて、遅滞なくこれを認めていただければと思います。私の健康には、多少の休養が必要だと感じているからです。
ネーデルラント王は、その決断を長く待たせる手立てを見つけるだろうと、私は思っています。しかし、たとえ近いうちに王が受け入れることになったとしても、もはや、巧拙いずれの交渉も、その決心をさせるものではありません。事態の成り行きと、五月二十一日の協定によって私たちがベルギー人に確保した明白な利益、しかも暫定状態の続くかぎり持続するその利益だけが、ウィレム王に署名を決意させることができるのです。フランクフルトの連邦議会がハーグで行った働きかけと、ネーデルラント王が隠れた意図を持ち込むかぎり、こちらで無益な交渉を続けることを私たちが拒否したこと。この二つは、すぐれた措置でした。したがって、すべての準備は整っています。難しく、しかも有益な、なすべきことはすべてなされました。今、仕上げをするのは時間であり、時間だけなのです。私がここにいても、その進みも働きも早めることはできません。
万一、ありそうもないことですが、オランダからの最初の返答が十分に好意的で、九月中に最終条約を結べるとの確信を私に与えるならば、条約に署名してから休暇を取ることを、義務と考えます。しかし、その可能性はあまりに低く、考慮に入れることも、ほとんど無益です……」
「一八三三年九月十一日。
……あなたがお送りくださった、レーヌヴァル伯爵の八月三十日付の外交報告の写しを、大きな関心をもって読みました。その内容は、こちらでの会話に、すでに活用しています[144]。
ジョージ・ヴィリアーズ氏は、スペインへ向かう途中、パリを通った際に、半島の状況についての自国政府の考えを、あなたにお伝えしたことでしょう。パーマストン卿から、その指示を受けていました。彼は、セア氏の最後の覚書に対するイギリス内閣の返答を携えています。その覚書は、ご存じのとおり、二つの点だけを扱っていました。イギリス軍によるリスボンの砦の占領と、リスボン市内での争いの結果、イギリス臣民に保護が必要になった場合、これらの軍隊を上陸させて彼らを守ることです。最初の点については、スペイン内閣が完全に満足する回答を得たことを、あなたもご承知です。二つ目について、パーマストン卿は、イギリスの利益が脅かされた場合、イギリスの提督が、自分の持つあらゆる手段を用いてそれを保護することは、何によっても妨げられないと答えました。そして、この点について提督には明確な指示が出されている、と述べています。セア氏は、上に挙げた二項目に、友好の気持ちを表明する言葉を添えており、パーマストン卿も、同じような保証で応じました。なお、これらの問題については、私が書簡でお伝えするよりも、ヴィリアーズ氏との会話によって、はるかに詳しくお知りになることでしょう。
今日のイギリスの新聞でご覧になるポルトガルの知らせは、同国の情勢が、決定的とまではいかなくとも、少なくともきわめて重要な危機に近づいていることを示しています。ドン・ペドロとドン・ミゲルの勢力は、ほぼ釣り合っており、争いの結末がどうなるか、予測することはできません。ドナ・マリア女王は、十五日の月曜日までウィンザーに滞在し、そこからポーツマスへ戻られます。その港からリスボンへの出発は、間近だと伝えられています。しかし、おそらく、自分の首都で何らの危険にもさらされないという保証が届くまでは、出発されないでしょう……
ニコライ皇帝の旅行に過大な重要性を与えることはしないまでも、その結果を注意深く見守ることは、無益ではないと思います。メッテルニヒ氏がウィーンへ、アンシヨン氏がベルリンへ戻れば、サント=オレール氏とブレッソン氏は、この件について幾らかの情報をあなたにお伝えできるようになるでしょう。その情報を私にもお知らせくだされば、特にありがたく存じます……」
「一八三三年九月十八日。
陛下がフランスへ赴く許可をお与えくださったと知らせる、あなたのお手紙を受け取りました。私はすぐにその許可を利用したいと思い、二十日に出発するつもりでした。しかし、イギリス国王陛下が、ウィンザーで三日間過ごすようお招きくださったので、出発を遅らせなければなりませんでした。ウィンザーから戻るのは二十二日の日曜日になりますので、二十四日に出発し、二十七日にパリへ着く予定です。ロンドンを離れる前には、あなたのお勧めのとおり、バクール氏を代理公使としてパーマストン卿に紹介するようにいたします。
ロンドンには、フランス経由で来たもの以外、ポルトガルについての知らせはありません。今日で二十一日間、ロンドンとリスボンの間には直接の連絡が何一つありませんでした。リスボンの状態がわからないにもかかわらず、ドナ・マリア女王の乗船は妨げられませんでした。女王は、一昨日の晩、たいへんな悪天候のなか、ポーツマスを出発されました……」
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ。
「サン=クルー、一八三三年九月十六日。
親愛なる公爵、こちらに着くと、あなたの九日付のお手紙が届いていました。私はすぐに、こちらへ戻りたいというあなたの希望を、国王にお話ししました。国王は、あなたのお喜びになることをできるのを、いつも楽しみにしており、すぐにブロイ公とその件を話されました。今ごろは、ご希望の返事を、公から受け取っておいででしょう。あなたをパリへ呼び戻す理由の一つが、あなたにとってどれほどつらいものか、よくわかります。あなたに関わるすべてのことと同じく、私も心からお気持ちをお察ししています。それでも、再びお会いし、あなたと心ゆくまで話すことができるのは、たいへんうれしいでしょう……オランダ王の抵抗によって、ベルギー問題の決着がなお遅れていることを、私はたいへん残念に思います。ただ、ベルギー人は私と同じ考えではありません。負債の支払いを義務づける最終的な決着よりも、五月の協定のほうが、自分たちに有利だと考えているからです。確かに、これは彼らにとって賢明な考え方ではないと思います。
今、イギリスには、幼いポルトガル女王とブラガンサ公妃がおいでですね。公妃とドン・ペドロが、わが国王に対してとった行動は、理解しがたく、ひどく恩知らずで、礼を失したものでした。ドン・ペドロのリスボン入城の知らせを受けて、国王は、公妃と若い女王をそこへお送りするため、フリゲート艦を提供すると申し出ていました。しかし公妃は、その申し出に礼を述べず、出発を政府に知らせることもなく、こちらを去りました。ドン・ペドロも、リスボンに入って以来、国王に手紙を書いていないばかりか、自分自身の用件で国王のもとに来たルーレ氏に、国王への一言の伝言さえ託しませんでした。国王がその家族に払ったあらゆる心遣いについて、感謝を伝えることもなかったのです。ドン・ペドロの妹であるルーレ夫人が、パリ滞在中に六万フランを受け取っていたことも、お知らせしておくべきでしょう。夫人は、このことをたいへん感謝しています。しかし、ドン・ペドロもまた、国王に多少の恩義を感じるべきだと、私には思われます。どれもよいことではありませんが、それでも私は、幼い女王の大義が成功するよう、心から願っています。
親愛なる公爵、近いうちにまたお会いしましょう……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年九月十九日。
……今朝、あなたがお知らせくださったコンスタンティノープルの消息についてパーマストン卿と話した際、ロシア内閣がオスマン政府と結んだ七月八日の条約に関して、同内閣に対してどのような行動をとるべきかを検討しました。フランスとイギリスの大使がオスマン政府に提出した声明に続いて、ペテルブルクでも何らかの働きかけを行うべきだと、私たちはともに考えています。問題は、その働きかけを、コンスタンティノープルで行ったことの単なる通告とするべきか、それとも、オスマン政府に送ったものとほぼ同じ種類の声明とするべきか、ということです。私は後者を支持します。そのほうが明確で率直であり、同時に、私たちの政策に、より高い性格を与えるように思われるからです。いずれにしても、北方の三君主の会合の後で、フランスとイギリスの結束を、はっきりと示す証しを掲げることは、確かに適切で有益でしょう。グランヴィル卿と協議し、この状況において両政府がとるべき方針を、卿とともにお決めになるよう、お勧めします。
ポルトガルからは、相変わらず何の知らせもありません……」
「一八三三年九月二十三日。
……パーマストン卿から、ジョージ・ヴィリアーズ氏を温かくお迎えくださったことに対する、心からの感謝をあなたにお伝えするよう頼まれました。卿は、あなたがレーヌヴァル氏に送った最新の訓令にも、たいへん満足していました。それは、マドリード内閣にたいへんよい効果をもたらすはずだと考えています。私は、予定どおり明日ドーヴァーで泊まり、明後日の朝、船に乗るつもりです。」
私は実際に九月二十四日にロンドンを去り、二十六日にパリに到着した。
第十一部終わり。
第十二部 一八三〇年の革命(続き) 一八三三年―一八三四年
一八三〇年の革命(続き) 一八三三年―一八三四年
九月にロンドンを離れたとき、私は、もうそこへ戻らないことを、ほぼ決めていた。私がその場にいる必要のない状態に、仕事を整えてきたと考えていたし、他方では、高齢と体の不自由、それに長い不在のため大きく乱れていた私自身の身の回りの事務の状態から、引退する時が来たと思ったのである。パリへ呼び戻そうとする強い要請がなければ、私はおそらく、この決意を守り通しただろう。こうした要請は、十一月の初めから始まっていた。初めは、上に述べた理由を挙げて抵抗した。しかし、国王と内閣が熱心に説得を続けたため、十二月の初めにはパリへ赴き、なぜ私がロンドンの職務に戻ることを、それほど強く望むのか、その理由を聞かなければならなかった。
問題は、ベルギー情勢に関する交渉だけではなかった。その交渉については、ネーデルラント王が、ロンドン会議の課した条件への同意を得るため、フランクフルトの連邦議会と王家の男系親族に働きかけたので、近く再開されるだろうという期待を抱いていた[145]。国王とその政府は、秋にボヘミアで行われた、プロイセンとオーストリアの君主の会合を懸念していた。それと少なくとも同じくらい、スペインとポルトガルで起こっている出来事を心配していたのである。そこでは、革命的な蜂起、あるいは内戦の長期化が恐れられていた。いずれも、ピレネー沿いのわが国境にとって、厄介であり、おそらく危険でもあった。
パリに到着するとすぐ、私は国王と閣僚たちと長い話し合いを行った。また、この三つの問題に関するすべての書簡が私に示され、不在の間に起こったことを知ることができた。
最初の点について、私は、ベルギー問題をめぐるロンドンでの交渉が本格的に再開されるという、人々の抱いた期待には、あまり賛同しなかった。この問題だけだったならば、私がイギリスへ戻ることが急を要するとは考えなかっただろう、と認めておこう。残る二つの問題のほうが、重大に思われた。まず、ロシア、オーストリア、プロイセンの君主の会合と、それが私に残した印象について述べたい。
この会合は、もともとメッテルニヒ公の働きかけによって実現したらしい。オーストリアの宰相は、アンコーナへの遠征の記憶を気にかけ、干渉の権利についてフランスとイギリスの唱える主張が、イタリアでのオーストリアの行動の自由にもたらす結果を恐れていた。そのため、この点についてロシア政府と了解を結び、両宮廷がこの権利の行使を規律しようとする原則を、共同で表明する準備を進めることを、ロシア政府に提案したのである。
この点を確定したいという願いから、シレジアかボヘミアで会合しようという考えが生まれた。ペテルブルク内閣が持ち出したこの考えは、ウィーンで熱心に受け入れられた。プロイセンの協力は確実だと考えられていた。ニコライ皇帝は、会見のために定められた場所へ向かう途中、義父の領国を通ることになっており[146]、その同意を得られることを疑っていなかった。
しかし、皇帝はそれに完全には成功しなかった。予備会合が開かれたシュヴェートでは、皇帝の打診は一部失敗した。プロイセン王は、ドイツの人々の目に、自国政府の立場を危うくしかねない正式の約束を結ぶことを断った。王は、ドイツの自由主義的な傾向を知っていたのである。ニコライ皇帝は、一人でボヘミアへ向かい、ミュンヘングレーツでオーストリア皇帝と会わなければならなかった。そこで、まず両国に関わる一般的な政治問題、すなわち東方とポーランドの問題が共同で検討された。オーストリア内閣は、ドイツの動向とイタリアの不安定な状況から生じる恐れに支配され、従来の一貫した伝統を捨てて、コンスタンティノープルでのロシアの、ほぼ独占的な優位を、原則として認めることに同意したという。また、ポーランドから、民族として独立した存在の残滓を奪うためにロシア政府がとった措置にも、承認を与えたという。
この二点について合意した後、メッテルニヒ氏は、オーストリアが以前に勧めた基礎に立って、新たな干渉権の原則を定める協定を結ぶことを提案したという。この原則によれば、いかなる国も、他国から正式に要請されない限り、その内政に干渉することは許されない。しかし同時に、援助を求められた国には独占的な干渉権が保障され、他のいかなる内閣にも、その干渉に加わったり、反対したりする権利は認められないのである。
ロシア内閣は、この協定によって、オスマン政府と結んだ先の七月八日の条約が許しているとおり、コンスタンティノープルで意のままに干渉できることが保証されると見て、ためらわずに協定を結んだという。
メッテルニヒ氏は、自分の側でもイタリアに干渉する権利と、その場合にロシアの支持を受ける確実な見込みを得ただけでは満足せず、さらに、ドイツ連邦の各国の内閣の長をウィーンに召集することを提案したという。そして、共同で定める決議によって、一八一五年以来、ドイツの幾つかの立憲国家が認めてきたすべての譲歩を、取り消させようとしたというのである。これらの譲歩は、革命思想の広がりに対して用いようとする抑圧措置を妨げていた。ニコライ皇帝は、この計画に進んで承認を与えたという。
ロシアとオーストリアの君主の間で、これらすべての点が合意され、確定すると、ネッセルローデ氏とフィケルモン氏がベルリンに派遣され、プロイセン政府を二つの同盟国の考えに従わせようとしたという[147]。かなり長い抵抗と、多くのためらいの末、プロイセン王は、ついにこうした働きかけに屈し、協定に署名したという。ただし、それを秘密にしておくことを、明確な条件としたのである。
これが、私に示されたわが外交官たちの書簡に含まれる情報の、おおよその要約である。その完全な正確さを、私があえて保証することはできない。しかし、確かで真実だったのは、まず、ロシアがオスマン政府に押しつけた、一八三三年七月八日の条約であり、次に、十月の末にパリでオーストリア、プロイセン、ロシアの公使が行った共同の働きかけであった。彼らは、相次いでブロイ公を訪れ、自国宮廷の外交報告を読み上げた。その要旨は、次のようなものであった。ここでは、オーストリアの外交報告を引用する。
メッテルニヒ氏は、この外交報告の初めに、ボヘミアに集まった三君主は、互いに行った説明のなかに、彼らを結ぶ友情の絆の強固さと、他の諸国に対して、いずれも抱いている好意的な意向について、最も疑いのない証拠を見いだした、と述べていた。
この前置きの後、オーストリアの宰相は、ヨーロッパの平穏を保障しうる唯一のものとして、君主たちが認めることに合意した原則の説明へと移った。
メッテルニヒ氏によれば、あるいはむしろ、彼がここで代弁する諸内閣によれば、各政府は、その存立の基礎となる主義の普及を望み、助長する傾向を自然に持つ。このように自らの主義を広めようとする働きは、あまりに自然なので、平和的な方法により、精神的な影響力だけを通じて行われる限り、非難しようと考えることはできない。しかし、ヨーロッパ全体にその活動を広げ、至る所で現行の制度を覆し、暴力的に危険な新制度を導入しようとする宣伝の体系については、同じことは言えない。そのような体系は、すべての正規の政府に等しく敵対するものであり、必然的に、それらの政府の共同の努力によって打ち倒されなければならない。フランス政府は、革命家の攻撃から自らを守ることに、これほど見事に成功した。しかし今後、革命家がフランス領内で外国の国家に対して行う策謀を、同じように阻止することに成功しなければ、それらの国の一部に動揺と内乱が生じ、同盟国の支援を求めざるをえなくなるかもしれない。その支援は拒まれないだろう。そして、それに反対することを目的としたいかなる試みも、三宮廷は、それぞれに向けられた敵対行為と見なすだろう。
ロシアとプロイセンの公使が行った通告は、主義の説明において幾らかの細かな違いを見せていた。しかし、その結論では両者とも一致しており、彼らの行った働きかけに、三内閣の間の真の連帯があることを示していた。
ブロイ公は、これらの通告に、巧みであると同時に毅然とした態度で答えた[148]。公は三人の外国公使に対し、今読み聞かされた文書を、程度の差はあれ議論の余地のある信条の表明とだけ見なすべきならば、それを論じることは無用だと考える、と述べた。しかし、この通告は、無益な原則の表明以上のものだと推測せざるをえないので、その目的が何かを探ることになる、と続けた。
公は、フランス政府が革命宣伝を助長しているとほのめかすつもりなのか、と問うた。そうは思わないが、もしこの点に少しでも疑いがあるならば、そのような非難らしきものは、最も明確な否定をもって退けるだろう、と述べた。国王の政府は、それを、理由もない侮辱と見なし、決して許さないと決意している。ストックホルム宮廷駐在のフランス公使が、公の送った命令に従い、カール・ヨハン王に辞去の挨拶をすることなく、同地を離れたことが、まもなく知られるだろうとも述べた。この君主が、国王の政府の政策について、今公が言及したのと同じような当てこすりを、公使に述べてもよいと思ったからである[149]。
三通の外交報告の結論が予告しているように見えた、ある種の干渉については、公は次のように答えた。
「ベルギー、スイス、ピエモンテについて、すでに私たちが宣言したとおり、フランスが、いかなる代償を払っても外国軍の干渉を許さない国々があります。また、その干渉を承認はしないものの、ある特定の状況では、別の状況でとるほど絶対的には反対しないこともある国々があります。オーストリア軍がロマーニャに入った際に、このことが見られました。そこから導かれるのは、外国が独立国の領土を占領するたびに、私たちは、自国の利益が要求する行動方針に従う権利を持つと考える、ということです。こうした場合には、一般の法の規則はもはや適用できず、双方とも、各自の危険と責任において行動するのです。」
三内閣に伝えられたこの返答は、いずれからも反論されることなく受け取られた[150]。私がパリへ戻ったとき、すなわちブロイ公の返答から一か月余り後には、情勢はこのような地点にあったのである。
私がロンドンを離れている間に、フランスとイギリスの政府が、ペテルブルクの自国代表を通じて、一八三三年七月八日にロシアとオスマン政府の間で署名された、いわゆるウンキャル・スケレッシ条約に対し、正式な、同一内容の抗議を提出していたことも、忘れずに述べなければならない。その抗議は、パリとロンドンの両内閣にとって、この条約は存在しなかったものとして扱われる、という宣言で結ばれていた。
フランスとイギリスは、オランダ・ベルギー問題で、オーストリア、ロシア、プロイセンの三宮廷から離れ、その共同行動によってネーデルラント王の頑固さを屈服させることに成功した。三宮廷は、そのことで傷ついていた。だから、これらの三宮廷が、自分たちの政策の敗北を覆い隠すための示威を行おうとしたことは、明らかであった。それは示威にすぎなかったのか。それとも、起こりうる特定の場合に、積極的に共同で行動するという決意が、実際になされていたのか。私は疑っている。しかし、このような兆候を見過ごすべきではなかった。脅しに脅しで答えるか、それとも、三宮廷が、平和の維持にとって危険な道をさらに進むのを防ぎ、同時に、彼らの側からのいかなる攻撃的な行為にも抵抗する意思を示すことのできる、何らかの措置を選ぶ必要があった。前者は、幼稚で、何の役にも立たなかっただろう。
この問題を十分に考えた後、私は、国王とブロイ公に、イギリス政府を私たちとの同盟条約締結へ導くことを試みるよう提案した。その条約は、両政府を不都合な形で拘束しないほどに一般的な言葉で構成しながら、必要に応じて、状況に従い、望む帰結を引き出せるものとするのである。この点について、私は、オスマン帝国の不安定な状況と、半島の状態を例に挙げた。半島では、先に述べたように、スペインでの王弟ドン・カルロスとイザベル女王の争い、ポルトガルでのドン・ペドロと弟ドン・ミゲルの争いが引き起こす混乱によって、今、きわめて強い不安が生じていた。すべてが予告しているように、こうした混乱が長引けば、スペインに関わるフランスの利益と、ポルトガルに関わるイギリスの利益のために、両政府が、内戦を終わらせるべく、半島で何らかの行動をとらざるをえなくなる時が来ることは、否定できなかった。私の考えでは、この行動は、両政府の間で調整されるべきだった。そして、あらかじめ条約に結びつけておくことが有益だと思った。その条約には、同時に、フランスとイギリスの緊密な結束を、すべての者の目に明らかにする利点もあった。私にとって、それは、ロシアの七月八日の条約と、北方の三宮廷の異例な通告に対する、最善の返答であった。
私は、国王とその政府に、私の意見を受け入れさせることができた。すると彼らは、私がイギリスへ戻るよう、いっそう強く求めた。私は、その要請に応じることに同意しなければならなかった。ただし、イギリス政府に私の考えを採用させられるとは、とうてい確信していない、と明言した。それでも、その成果は、獲得を試みる労に値するほど、十分に重要なものになるだろうと思っていた。
そこで私は、イギリス政府に締結を提案しようとする条約について、ブロイ公から、その考えを詳しく述べた説明を送ってもらうことを取り決めた後、ロンドンへ出発した。そのために、公は次の手紙を私に送ってきた。長い手紙ではあるが、私は全文を引用したいと思う。祖国のために、イギリスに採用させることがきわめて重要だと私に思われた、この政治的な措置を支持する、すべての論拠を、見事にまとめているからである。その後に、私の書簡の続きを掲げる。
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三三年十二月十六日。
公爵殿、
フランスとイギリスの防衛同盟という考えは、あなたのものです。二重の意味で、あなたのものなのです。二か月前、パリにお立ち寄りになった際に、最初にこのことを私にお話しになったのは、あなたでした。最初にグランヴィル卿に、そのことを幾言かお話しになったのも、あなたでした。それ以来、私は、あなたご自身の論を考え、展開したにすぎません。それでもあなたは、私があなたの不在中に述べた論拠を、まったく内密の手紙にまとめることを望んでおられます。ここから何かたいへん新しいことをお知りになるわけではないでしょう。しかし、そのお望みに応じることは、あなたに対する私の、せめてもの務めです。
問題となっているのは、防衛同盟です。
問題となっているのは、両国のいずれかが、何の理由もなく、挑発もしていないのに攻撃された場合に、一方の国の敵が、他方の敵にもなるという条約です。いかなる場合にも、たとえば、フランスがいずれかの国に対して行う攻撃から生じうる危険を、その攻撃が正当であれ不当であれ、イギリスに負わせることは考えられません。また、フランスが自ら招いた報復の結果を、イギリスに負担させることも考えられません。
純粋に防衛的な同盟を想定すると、一見したところ、フランスがそれを望むのと同じ理由を、イギリスがそれに同意するために持っているのか、という疑問が生じます。両国に等しい利益があるか、すなわち危険は同程度か、イギリスはフランスと同じように脅かされているか、と問うことができます。この観点からは、答えは好意的なものとはならないでしょう。明らかに、フランスの安全は、イギリスの安全よりも強く脅かされています。両政府は根本的には同じ起源を持っています。つまり、原理において公正で、結果において穏健な革命です。また、両国の制度の間には、しばしば同一性にまで至る類似があります。それでも、フランスは、イギリスにはない危険にさらされています。わが政府は新しいものです。イギリスの政府は百五十年前にさかのぼります。私たちには、戦わなければならない王位請求者がいます。イギリスの王位には、もう請求者がいません。私たちは大陸の国であり、したがって、多くの地点で攻撃を受けえます。イギリスは島であり、イギリス人は海の支配者です。相違点の列挙は、さらに続けることもできるでしょう。
しかし、私の考えが間違っていないならば、この見方は、まったく表面的です。
二つの国が同盟条約によって結びつくために、等しい利益を得る必要はありません。同じ利益を得る必要もありません。単に必要なのは、それぞれが自分にとっての利益を見いだすことです。一方の利益が、他方より大きくてもかまいません。程度だけでなく、性質が異なっていてもかまいません。利益が存在し、それが十分であるならば、相違にこだわり、それを拒否の根拠とするのは、幼稚で理にかなわないことです。それは、他人のためになることを恐れて、自分自身を害することになるでしょう。
問題の条約がフランスの利益になることは、あまりに明白ですから、それを証明するために立ち止まることはいたしません。
イギリスにも利益があり、しかも大きく真実の利益があるということは、考えれば考えるほど、私は確信を深めます。その理由は、次のとおりです。
まず、同盟は存在する、ということを、私は事実として述べます。それを文書にするかしないかは、関係ありません。フランスが、何の理由もなく、挑発もしていないのに侵略を受ける対象となった場合、すなわち、一八二三年にスペインがフランスから受けたのと同じように、フランスがヨーロッパ北方から攻撃された場合には、イギリスは、おのずから、本能的にフランスを守り、そのために立ち上がるでしょう。これも事実として述べます。イギリス政府は、そう望んだとしても、その国をこの行動から引き離すことはできないでしょうし、できたとしても、そう望むことはないでしょう。
一八三〇年の革命は、その始まりから、イギリスで支持されました。あまりにも支持が強かったため、スチュアート卿が、確かに最も不利な姿で、アバディーン卿とウェリントン公にそれを伝えても、両者とも、あえてそれを非難したり、拒絶したりしませんでした。彼らも、その革命を、それほど好意的に見るはずではなかったのです。しかも、一八三〇年の革命は、イギリスで単に人気を得ただけではありませんでした。人気というものは、はかないものです。それは、イギリスで国民的なものとなったのです。つまり、革命の基礎となる思想と感情に一致する心のあり方が、イギリスにあったということです。そこでは、人々の考えは、大きな政治的変革を迎えるまでに熟していました。その危険を引き受ける用意があり、同時に、公正さと慎重さをもってのみ進め、激情にも偶然にも、何一つ委ねないと決意していたのです。フランスが革命の危険をくぐって獲得せざるをえなかったものを、イギリスもまた望んでいました。しかし、より幸運なイギリスは、合法的な秩序を離れずに、それを得ることができました。目標は同じであり、両国ともそれを達成しました。一八三〇年の革命は、議会の革命の原因ではありませんでした。その合図だったのです。そして、その合図が与えられると、両国民は、同じ歩調で、同じ道を進みました。両者の願い、利益、行動は一致しました。一方の敵は、国内であれ国外であれ、他方の敵となりました。そして、この深い連帯の前で、古くからの敵意も、昔からの嫉妬も、根深い偏見も、すべて消え去りました。これは、特定の誰か一人の仕事ではありません。いかなる人物も、いかなる内閣も、その功績を自らのものとすることはできません。フランスとイギリスは、ヨーロッパの他の諸国に向かい合って、自然に肩を並べる立場をとったのです。それは、政治的自由を享受する大国が、この二国だけであるからというだけではありません。何よりも、両国が同時に、政治的自由への道で大きな一歩を踏み出したからです。さらにもう一つの大きな一歩を、ともに踏み出したのです。この二重の出来事が、両国に対して、絶対主義の政府の猜疑と敵意を、同じ程度に呼び起こしたからです。また、そうした政府に、両国の内部で援助者を生み出したからです。その者たちを抑えることは、私たち双方にとって等しく重要です。フランスでは敗れたシャルル十世派、イギリスでは政権を失ったトーリー党が、それに当たります。
したがって、繰り返しますが、一八三〇年の革命によって形づくられたフランスが、その名誉と安全を攻撃されて、議会改革によって形づくられたイギリスが、自国の名誉と、ある程度までは自国の安全も攻撃されたと感じないことは、ありえないと、私は確信しています。そのような場合には、いかなる内閣も、フランスの防衛へと引き込まれるでしょう。そして、神がそのようなことをお許しにならないよう願いますが、そのときアバディーン卿がイギリスの外務省を率いていたとしても、好むと好まざるとにかかわらず、その方針に従わざるをえない条件でしか、その地位に就いてはいないでしょう。卿は、一八三〇年の革命を承認せざるをえなかったとき以上に、必然的に、それを守ることを強いられるでしょう。このことも、私は確信しています。
さらに付け加えると、そのような場合に、世論の動き、国民的な衝動が、いかなる内閣にも行うことを強いるであろう行動は、ごく普通の常識と、最も明白で正しく理解された利益もまた、その内閣に勧めるであろうものなのです。
イギリスの利益は、ヨーロッパの現状の維持にあります。
イギリスは、一八一五年に、自分の取り分を定めました。それを大きくしたのです。それは、公正なことにすぎませんでした。ヨーロッパのすべての国がナポレオンのくびきの下に置かれたのに、イギリスだけは抵抗したからです。その抵抗は、ヨーロッパを、世界君主制と暴政の災厄から守りました。しかし、繰り返しますが、イギリスは自分の取り分を大きく定めたのです。ヨーロッパで自ら築いた地位は、相対的に大きく、強いものです。今後、ヨーロッパで起こりうる、多少とも重要なあらゆる変化は、とりわけイギリスの協力なしに行われる場合には、同国にとってたいへん不利であり、必然的にその利益に反するものとなるでしょう。
さて、フランスがヨーロッパの他の国々から攻撃されたと仮定すると、起こるのは、二つのうちの一つです。私たちが勝つか、負けるかです。
私たちは勝つでしょう。私はそう固く希望しています。しかし、勝つためには、フランスの内外で、恐ろしい激情を動かさざるをえなくなるでしょう。私たちは、厳しい犠牲を払い、大きな危険を冒すことになるでしょう。その激情を満足させる必要が生じ、私たちには、犠牲と危険への償いが必要になるでしょう。私たちは、必然的に征服の道へ戻ることになります。そして、この仮定のもとで、私たちのために何もしなかったイギリスには、それに反対する権利も力もないでしょう。
反対に、私たちが敗れた場合には、方向が逆になるだけで、結果はまさに同じです。フランスは切り刻まれ、分割され、奪われずに残ったすべての地域を、軍事占領されるでしょう。
イギリスが、そのような光景を、動かずに見ている姿を想像できるでしょうか。打ち砕かれ、滅ぼされた七月革命から奪ったものを、自分にも分けるよう求めに来る姿を想像できるでしょうか。
根本において、実際には、同盟は存在しているという、この大きな事実を認めましょう。フランスとイギリスの防衛同盟条約は、イギリスが、すでに必然的に、事態そのものの力によってさらされている危険以外の、いかなる危険にも同国をさらさず、すでに必然的に、事態そのものの力によって負っている約束以外の、何一つ新たな約束を負わせないのです。残る問題は、起こりうるこうした危険を避け、完全には免れることのできない危険な事態を防ぐために、イギリスにとって最も確実な道は何か、ということです。
その手段は、条約そのものだと、私は申し上げます。
その手段は、出来事を待つことではなく、それに先んじることだと、私は申し上げます。
フランスとイギリスの結束が存在するかぎり、それが、根本と実際においてだけでなく、外面的にも、見える姿においても存在するかぎり、北方の諸国によるいかなる敵対的な示威も、不可能です。フランスの持つ六十万の兵士に、イギリスの陸軍が加わること。フランスの海軍に、イギリスの海軍が加わること。フランスの信用に、イギリスの信用が加わること。そして、イタリア、ドイツ、ポーランドに対する、両政府の行動の手段。これらは、北方の諸国が、あえて立ち向かおうとはしないものです。しかし、イギリスとフランスの実際の結束は、根本的には壊せないものであっても、単に見かけの観点からは、無数の形で損なわれえます。各国の内部では、どの方向であれ過激な党派が、国外では外国政府が、関係を冷却させるすべての原因を引き起こし、育て、利用するために、何一つ手を惜しまないでしょう。自由な国では、政治は多かれ少なかれ変動します。前の会期中、ロンドンとパリの内閣は、幾度も解体の瀬戸際に立ち、別の人物たちに席を譲りかけました。人物が変われば、体制も変わる。少なくとも、そう信じられるでしょう。関係が冷却したように見えるすべての兆候は、新聞の激しい言葉によって、大きく誇張されるでしょう。取るに足りない無数の出来事が、その兆候を生むかもしれません。関税の問題、アルジェの問題、あるいは何であれ、口実を与えるかもしれません。そして、その口実が、少しでも実体を持つようになれば、真の不和へとすり替えられるでしょう。繰り返しますが、こうしたことは、実際には何でもありません。行動する時が来れば、これらのつまらないことはすべて、避けられない連帯と、明白な利益の共通性の前に消え去るでしょう。しかし、その間に、行動しなければならない時が来てしまうのです。北方の諸国は勇気を取り戻し、自らにとって破滅的となる道へ踏み出しているでしょう。そして、その道は、フランスとイギリスにも、全面戦争の災厄を負わせるのです。
これに対して、同盟条約が結ばれたとしましょう。五年、八年、十年、あるいはそれより長くても短くても、かまいません。ミュンヘングレーツの神聖同盟は、この種の気まぐれをすべて捨てるでしょう。両政府の秘密の敵にも、公然の敵にも、国内であれ国外であれ、すべての希望が奪われるでしょう。出来事が偶然に生むかもしれない困難は、すべて正当な大きさへと縮められます。その解決は、誰にも予見され、人々の心は、すっかり安らぐでしょう。
しかし、それだけではありません。
フランスへの武力攻撃だけが、今、ヨーロッパの現状を脅かしている危険ではありません。それを損なう手段は、一つではないのです。まったくの平時に、ほんの一息で完成するような変化を、準備しておくことができます。
説明いたしましょう。
北方の三国の間には、フランスとイギリスの間にあるのと同じような、利益の連帯が存在します。ただし、その基礎となる原則は、正反対です。この連帯が彼らを結びつけており、私たちは毎日、その結束の証拠を得ています。過ぎたばかりの一年は、その証拠を豊富に示しています。
この状況は、二つの結果をもたらしえます。
第一は、拡張というあらゆる考え、領土や優位のあらゆる増大を、一時的に断念することです。純粋にプロイセン、オーストリア、ロシアだけのための政策をすべて犠牲にして、ヨーロッパの保全のための政策に従うことです。革命の危険が大きく、差し迫っていた一八三〇年、一八三一年には、これが起こりました。
第二は、三国の野心と要求の間に、ある種の妥協を設けることです。ヨーロッパのある部分、また別の部分を、互いに譲り渡し、双方がその見返りを与えるという取引です。
不安が薄らぎ、拡張への期待が、再び多少優勢になりうる今日、起こっているのは、このことです。
ロシアは、オーストリアに言います。
『どうか争うのはやめましょう。共通の敵に対して、結束を保ちましょう。ただ、その間、トルコについては、私の好きなようにさせてください』
と。オーストリアは答えます。
『承知しました。争うのはやめましょう。しかし、トルコをあなたの好きなようにさせるならば、私がイタリアで確立しようとする支配を助けてください』
と。そして、取引が成立するのです。
今度は、プロイセンがオーストリアに言います。
『イタリアでのあなたの計画に、喜んで力を貸しましょう。しかし、私に関税制度を確立させてください[151]。関税の境界をボーデン湖畔まで延ばし、連邦全体に私の関税率を課し、反抗的なすべての国の抵抗を屈服させ、やや後に実を結ぶであろうドイツ統一の基礎を据えさせてください』
と。
そして、オーストリアはプロイセンのするに任せるのです。
トルコでも、イタリアでも、ドイツでも、まだ優位の増大、保護国化、後見、強権的な行為の段階にすぎません。しかし、歴史を読んだ者、出来事の進展を多少とも理解する者ならば、それがどこへ行き着くか、保護国が何になるかを知っています。
さて、二つのうちの、いずれかです。
フランスとイギリスは、このヨーロッパの均衡の大きな変化、この次々に進む中規模の国家の独立の消滅を、平静に眺めているか、それとも、それに反対する機会をとらえるかです。前者の場合には、両国の力は著しく弱められるでしょう。その選択にとどまるべきではありません。後者の場合には、両国は共同で行動せざるをえなくなります。実際、すでにトルコの問題では、両政府は、コンスタンティノープルに向けられた企てを抑えるため、協議する段階に来ていることがわかります。両政府が共同で行動するならば、その共同行動がもたらしうる結果について、互いに保障しなければならなくなります。防衛同盟条約は、このようにして、必然的に再び姿を現すのです。しかし、この場合もまた、条約は、戦争の結果を規律するためにしか到来しません。今すぐ結ばれ、公表されていれば、戦争を防ぐ効力を持つのです。
実際、フランスとイギリスの間に、今日、この今、防衛同盟条約が存在すると仮定しましょう。その条約には、双方が条約の文言に該当すると判断した場合に、互いに支援するという約束以外、何も規定する必要はありません。この一般的な規定の背後に、ほかの各国は、自国がもくろむ侵食を阻むための、ありとあらゆる秘密条項を、想像のなかで置くでしょう。イギリスが声を上げるたびに、その背後には、フランスの持つ六十万の兵士が見えるでしょう。フランスが声を上げるたびに、その背後には、イギリスの力と威信が見えるでしょう。別の行動方針をとれば、戦って退けざるをえなくなるかもしれない計画を、両国は、語るだけで挫くことができるのです。
さらに、この同盟は、抵抗しようという気持ちを多少でも持つ、すべての君主にとって、自然な支えとなるでしょう。イタリアでは、オーストリアの支配に対するナポリ王。プロイセンの関税に対するバーデン公国、フランクフルト市、ナッサウ公国。連邦議会の強権に対する、ドイツのすべての小君主たち。この同盟は、利益をともにする新しい集団の核となるでしょう。私の考えでは、これだけが、北方の三大君主国の結束に対する、有効な対抗勢力なのです。
最後にもう一つ、考慮すべき点があります。副次的なものではありますが、それでも、やはり重要です。
フランスとイギリスの結束が、事実としてだけ存在し、見かけの上では変動と偶然に左右される余地があるかぎり、一方では、各政府は、将来起こりうるすべての危険の重荷を、単独で負わなければならないかのように、あらゆる事態に備えることを強いられます。他方では、各国の商業と産業は、慎重に、おずおずとしか、その自然な営みに身を委ねられません。これに対して、結束が公然としたもので、解くことができず、条約を基礎としていると仮定すれば、その事実だけで、両政府のそれぞれの力は倍増します。そして、何の不都合もなく、陸海軍の規模を縮小することができるでしょう。各政府の国内政治においては、このような縮小が可能になることだけでも、軽視してはならない事実です。同時に、すべての人々の心は落ち着き、将来への信頼は、ほとんど限りなく増し、支出が減る一方で、国民の富は増大するでしょう。代表制政府のもとで、そのような成果がどれほど価値を持つかを知らない内閣は、ありません。
公爵殿、これらが、私のグランヴィル卿に示した考えです。私への友情によるのか、フランスへの関心によるのか、どちらの気持ちにより深く心を動かされるのか、私にもわかりませんが、卿は、これらを十分に熟考する価値があると見たようでした。卿が最も強く感じた障害は、これらの考えをイギリスの人々に浸透させ、今の段階で議会の多数に受け入れさせる難しさです。その障害がどれほど大きいかは、私には判断できません。それを克服する手段を示すことは、なおさら私にはできません。公爵殿、あなたは現地におられます。この点についてフランス政府に見通しを与えるのは、あなたです。私の考えがイギリス内閣に受け入れられるという希望を、あなたからいただくまでは、私は同僚たちにそのことを話すのも、いかなる正式の働きかけをするのも控えます。これは、あなたと私の間の秘密といたしましょう。敬具……」
ブロイ公の高い政治的能力の証しを、ここに掲げられたことを、私はうれしく思う。ここに記す回想が、いつか世に出ることがあれば、この手紙を生み出した考えの明晰さと確かさは、正当に評価されるだろう。また、この手紙には、フランスとイギリスの緊密な同盟の、真の基礎も見いだされると、私は信じている。この同盟は、私の政治的生涯の初めにも、終わりにも、最も切実な願いであった。世界の平和、自由主義思想の確立、真の文明の進歩は、この基礎の上にしか成り立たないと、私は確信しているからである。
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三三年十二月二十四日。
公爵殿、
パリを出発する前に、あなたとの最後の数回の会談で、主要な話題となった問題について、私は旅の間、そしてこちらへ到着してからも、ずいぶん考えました。国王の政府にとって、イギリスと防衛同盟条約を結ぶことが重要で有益だという、私の意見は変わっていません。私は、そのような条約の根拠を最も有利に示し、イギリス政府に受け入れさせるための成功の見込みを最も大きくし、同時に、大陸の幾つかの内閣の考えにも十分近く、いつかその参加を期待できるような原則を、探すことに努めました。
あなたが先ごろ示してくださった、すべての考えを十分に検討し、それを、このように重大な問題において、最もよい指針となりうると私自身の経験が教えた事実と突き合わせた後、私は、今日ヨーロッパに存在する現状を、私たちの出発点とすべきだという考えに落ち着きました。そして、その維持こそが、フランスとイギリスの防衛同盟条約のために選ぶべき、最善の原則だと考えました。
フランスにとって、現状には、自国が認め、受け入れていないものは何一つありません。それは、どの点でも、私たちの真の利益を傷つけません。それに、現在のフランス政府が、その発足以来支持してきた方針の一部を、常に成してきたものです。
イギリスについては、ヨーロッパの現在の状態の維持を望むはずであることに、疑いはありません。それは、一八一五年の諸条約の利益を、すべてイギリスに保障します。そして、あなたがきわめて的確にご指摘になったように、その利益は莫大でした。一八三〇年以来、それらが力を何一つ失っていないことは、言うまでもありません。私が間違っているのかもしれませんが、イギリス政府が、ヨーロッパの現状の維持を基礎とする防衛同盟条約を、私たちと結ぶ場合に、議会でどのような困難が起こりうるのか、私には見えません。この条約は、あらゆる面で正当化できるように思われます。この点について意見を変えるには、今のところ私の予想していない異論が示されるのを、待たなければなりません。
大陸のさまざまな内閣に目を向けると、私の述べる条約には、それらを恐れさせるものが何もないことを、認めずにはいられません。それどころか、そのなかの最も理性的な内閣の考えにも合致するでしょう。現状維持は、いわばメッテルニヒ氏の固定観念ではありませんか。プロイセン内閣も、存在するものの安定によって、全般的な平和が保障されることを望むと、絶えず表明していませんか。ロシア自身も、オスマン政府との七月八日の条約が、オスマン帝国の存続を願う自国の意図の、最も明白な証拠だと、声高に宣言していませんか。ヨーロッパの現状維持を掲げて公表される、フランスとイギリスの結束に対して、これらの国のどこが、ほんのわずかでも理屈の通るような姿で、あえて敵意を示すでしょうか。より穏健な政策によって接近の手段を見いだせる内閣を、引き戻す希望がまだ幾らか残っているならば、私のここで示す原則に基づいて構成された条約は、それらが私たちのもとに戻ることを早めるだけだと、ためらわずに信じます。
ですから、あなたとお話しした条約案を、グレイ卿とパーマストン卿に勧めるために、私はこの基礎に立つべきだと考えました。この二人の閣僚は、その件について私が展開した意見を、たいへん注意深く聞きました。そして、それが彼らに印象を与えたように思われました。しかし、私が予想していたとおり、彼らが約束できたのは、この案を検討し、同僚たちと討議し、その後、イギリス政府の決定を知らせる、ということだけでした。
私は、イギリスの二人の閣僚に、その決定が情勢にふさわしいもの、すなわち大きく、高い見地に立つものであるよう、強く求めました。私はこう言いました。
『単なるその場しのぎの策は、たいへん危険です。それは、策謀の結果にすぎないか、私たちの不快感を遠回しに表したものにすぎないと、見えるでしょう。何よりも避けるべきなのは、それです。私たちが成功するための真の手段は、脅しも隠れた意図もない、率直で力強い行動にあります。』
この問題におけるイギリス内閣の考えについて、しばらくは、確かなことをお伝えできる状態にはならないと思います。グレイ卿とパーマストン卿は、二人とも今日か明日、田舎へ戻ります。他の閣僚たちがロンドンに来るのは、一月の初めです。そのときになって初めて、この問題を閣議で扱うことができるでしょう……」
この外交報告と同じ日付の私信で、私は次のように付け加えた。
「私はこちらに、あなたの十六日付のお手紙と同時に到着しました。その手紙を、最も注意深く読み、内容を十分にのみ込んでから、グレイ卿のもとへ、そして後にパーマストン卿のもとへ赴きました。私が行った打診から、この二人の閣僚が受けたと思われる印象は、外交報告でお伝えしています。その打診には、彼らにとって、予想外というささやかな長所があったように思われました。条約そのものの考えについては、そうでなかったとしても、少なくとも、その形についてはそうでした……」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三三年十二月三十日。
公爵殿、
ご希望に従い、条約案をお送りします[152]。これは単なる草案であり、国王は、これについてあなたの意見を求めておられます。私は、あなたご自身の考えに従って起草するよう努めました。できるかぎり広い意味を持たせ、その背後に、何であれ望むものがあるのではないかと想像させるため、前文と一つの条文だけに絞りました。この条文は、防衛同盟という単純な事実以外は何も述べず、したがって、すべての実施の手段を、必要が生じた際に結ぶ特別の協定に委ねています。一方、この一条だけでも、人々は多数の秘密条項があると必ず想像するだろうと、私には思われました。他方では、イギリス政府を、この措置の本質だけに拘束し、それ以外のすべてについて完全な自由を残すので、その原則を受け入れやすくするはずだとも思われました。条約を精神的な効果に限定することで、私たちに向けられうる異論の、大部分を取り除くのです。
ご希望どおり、前文は現状維持を基礎としました。しかし、この現状維持には、『条約への信義』という名を付けるべきだと考えました。フランスでは、私たちが失った諸県を放棄すると、公然と約束することは、たいへん不人気でしょう。しかし、条約への信義を破るべきだ、あるいは、それを尊重してはならないとまで、あえて言いに来る者はいません。前文の残りは、融和的な調子で、外国の諸国から見ても、非難の余地がないように思われます。
別条項は、イギリス政府との交渉の手段にすぎません。私たちは、それを条約に挿入することを望んではいません。しかし、イギリス政府が、東方問題について、私たちに多少の約束をさせたいと望む場合、また、ロシア人がコンスタンティノープルへ戻った際の条件付きの約束を、自国の同意の代価とする場合には、このように起草された条項に、不都合はないと考えます。それは両当事国に大きな自由を残し、その調子も、防衛条約そのものの性格に合致しています。ともかく、繰り返しますが、これは、あなたの助言を求めるための草案にすぎません……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三四年一月三日。
親愛なる公爵へ、
お手紙と、それに添えられた条約案を、ありがとうございます。条約案は、すばらしいものだと思います。しばらくすれば、私たちの役に立ち、その利益をイギリス政府に理解させることができるだろうと、強く期待しています。今のところは、それを休ませておく必要があると思います。少なくとも、ここ数日の間に、グレイ卿とホランド卿と幾度も話して、私に残った印象はそうです。この二人は、ロンドンにいる唯一の閣僚です。特定の、明確な目的を持たない結びつきによって自らを束縛することに、イギリスの閣僚たちが常に示してきた嫌悪は、あなたもご存じです。
こちらでは、外交政策の問題について、議会での困難がたいへん大きくなるでしょう。そのこととは別に、ウィーンとベルリンから届いた最新の外交報告も、何事も性急に進めたくないというイギリス政府の思いを強めています。
ウィーンからは、メッテルニヒ氏が、自分の会議にたいへん困惑しており、何を討議の議題として提案すべきか、わからずにいると伝えられています[153]。グレイ卿は、そこから、もし今、何らかの種類の英仏間の協定を公表すれば、ウィーンで何かをするための材料を与え、メッテルニヒ氏を困惑から救い出すことになる、と結論しています。この結論は、正しいように私には思われます。私にはたいへんもっともに思えるこの異論は、もし、ベルリンからミントー卿が書いてきたように、オーストリアとロシアが、フランスとイギリスの不興を買いかねない東方問題についての何らかの合意を提案した場合には、プロイセンは両宮廷から離れる意向を見せている、というのであれば、いっそう強いものになるでしょう。
ですから、親愛なる公爵、今は、イギリス政府をせき立てるのによい時ではないと思います。私が、政府のあらゆる意向を注意深く見守り、好機と判断したときには、進んでその機会をとらえることを、どうか確信してください。
来月の議会の召集は、必然的に東方問題についての討議を生むでしょう。王の演説が、それに言及せざるをえないだろうからです。この事情によって、内閣は最終的な決断を下すことを迫られるかもしれません。それに、そのころには、メッテルニヒ氏の会議も終わっており、私たちは、もうその討議を心配する必要がなくなるでしょう……」
「一八三四年一月七日。
……パーマストン卿がロンドンに来たのは、今朝のことで、まだ会うことができていません。しかし、私は今、グレイ卿のもとから戻ってきたところです。卿とは、東方問題、とりわけこの問題に関するオーストリアとイギリスの関係について、かなり長く話しました。この最後の点は、あなたが今月二日付の外交報告で、特に私にご指摘くださったものです。
グレイ卿の話によると、実際に、エステルハージ公は、最近幾度か、特に十日前にも、今ヨーロッパのすべての内閣を強く引きつけている、この重要な問題について、自国宮廷の名で卿に話すために訪れたそうです。そして、メッテルニヒ氏の目的は、イギリスのそれと同じく、オスマン帝国の維持以外にないと断言し、きわめて満足のゆく言葉を述べたそうです。
エステルハージ公が、この件で、イギリス内閣はロシアに対し疑い深くなりすぎているのではないかと懸念される、と付け加えると、グレイ卿は、オーストリアの側も、信用しすぎているのではないかと懸念されるかもしれない、と答えたということです。さらに、イギリス政府は、まもなく議会で東方問題について質問されるかもしれません。イギリスの世論は、ロシアの野心的な計画に対して、きわめて激しく反対を表明しています。そのため、自分、すなわちグレイ卿には、根拠がないわけではないと認めるこの憤激を鎮めるため、ロシアの穏健さについて、きわめて明白な証拠が必要だ、と述べたというのです。
この返答を受けて、エステルハージ公は、どのような証拠が、ペテルブルク内閣の繰り返す保証に価値を与えうるのか、と尋ねました。グレイ卿が私に語ったところでは、卿は、それらをすべて具体的に定めようとはしなかったものの、モルダヴィアとワラキアからの即時かつ完全な撤退と、アドリアノープル条約の結果、トルコがなおロシアに支払うべきものを、ロシアの側で放棄することを示した、ということです。
エステルハージ公は、この会話の詳細をメッテルニヒ氏に知らせると約束し、さらに、自国政府は、これほど理にかなっていると自分に思われる考えに賛同するだろうと期待している、と付け加えました。この情報をウィーンへ運ぶ、エステルハージ公の急使は、数日前に出発しています。
その後、サー・フレデリック・ラムから外交報告が届きました。それは、私が聞いたところでは、この大使がサント=オレール伯爵に語った言葉と、完全に一致しています[154]。これらの報告によると、ラムは、メッテルニヒ氏と話した際、メッテルニヒ氏は、ロシアが何度も繰り返してきた穏健さの保証を、再び述べながらも、トルコがロシアに、たった一つの村を割譲することにさえ、オーストリアは決して同意しないと決めている、と明言したと伝えています。公爵殿、メッテルニヒ氏の口から出たこの宣言には、多くの価値があると、私には思われます。とりわけ、サー・フレデリック・ラムが書いたというように、最も断固とした調子で述べられたのであれば、そうです。
付け加えなければならないのは、私が聞いたところでは、これらすべてのなかに、フランスをイギリスから引き離そうとする考えは、少しもなかったということです。国王の政府への言及が少なかったのは、名誉ある平和の維持に向かうすべてのことについて、ウィーン内閣は、フランス政府の協力を確実だと見ていたようだからです。また、最近、東方問題への憤激が、よりはっきりと示されていたのは、ロンドンだったからです。そして、繰り返しますが、私たちをイギリスから引き離すという考えは、一度も表明されていません。
グレイ卿は、数日前に、ペテルブルク駐在のイギリス公使ブライ氏から受け取った外交報告も、私に知らせてくれました[155]。この公使は、最近、皇帝、ネッセルローデ氏、そして主要な有力者たちから、盛んに交際を求められていたようです。そして、皇帝は東方問題において、私利をまったく求めていないという保証を、ロンドンに伝えるよう求められたそうです。その際、七月八日の条約について、以前になされた宣言が繰り返されました。その条約を求めたのは、トルコだけだったというのです。また、皇帝の考えはすべて、オスマン帝国の存続の維持を目的としていた、とも述べられました。
先ほどのブライトン滞在中に、私が幾度も会ったリーヴェン公も、まったく同じ言葉を述べました。そして、ロシア宮廷は今、自分たちに帰せられている侵略計画について、フランスとイギリスを安心させることを、たいへん重視していると、私は認めることができました。
これらすべての事実から、ロシアに対するメッテルニヒ氏の盲目的な信頼をともにすることはしないまでも、ロシアが試みている歩み寄りを、退けないほうがよい、と結論できるように思われます。
なお、リーヴェン氏は、最近、イギリスとフランスの新聞に掲載された反ロシアの記事が、ペテルブルクでもたらす効果を、たいへん恐れていることを、私に隠しませんでした。この点について、彼は私にこう言いました。
『皇帝は若く、この種の侮辱に耐えることに、あまり慣れていません。これらの新聞が届いたとき、モスクワにいたかもしれません。そして、この都市には、戦争を促す党派の最も強力な中心がありますから、これらの新聞の侮辱が、理性的な党派に大きな困難を生じさせたのではないかと、恐れられるのです。その党派の先頭には、常に穏健さへ引き戻そうと努めている、ネッセルローデ伯爵がいます。』
私は、ロシアでは出版の自由がこれほど理解されていないことを、リーヴェン氏とともに嘆くしかありませんでした。公正に見るならば、出版の自由のもとでは、立憲政府が報道に及ぼせる影響力はごくわずかでしかないと、わかるはずなのですが……」
「一八三四年一月十日。
第二号としてお送りくださった外交報告と、それに添えられていたサント=オレール氏の報告の写しを、大きな関心をもって読みました[156]。後者には、興味深い詳細と、貴重な手がかりが含まれています。昨日から、パーマストン卿とグレイ卿との会談で、その幾つかを慎重に用いました。東方問題における、こちらの政府とオーストリア政府との関係の状態を、さらに正確に知ろうと、この二人の閣僚に強く求めたことで、私には満足のゆくものと思われる説明を引き出すことができました。
これらの説明から、私は次のことを完全に確信しました。この三か月間、ロンドン内閣とウィーン内閣の間では、多くの話し合い、接近の試みがあり、東方問題がその主な対象となっていました[157]。しかし、私が前の外交報告でお伝えした、グレイ卿とエステルハージ公との最後の会話までは、両政府が共有する考えに、具体的な形を与えようとはしていなかったのです。
私は、最近サー・フレデリック・ラムとメッテルニヒ公の間で、より親密な関係が生まれていたことを知っていると、パーマストン卿に、それとなく示しました。すると卿は、この大使の最新の外交報告を、私に知らせてくれました。そして、会話の後、私の目の前で、それらの報告の写しをグランヴィル卿に送るよう命じました。グランヴィル卿から、あなたにお見せするでしょう。そこには、サント=オレール氏のものと似た報告が見られるでしょう。
この率直さに満ちた態度には、この件では、すべてを完全にフランスと協調して行うという、繰り返しの保証が伴っていました。この点について、私は、グレイ卿とパーマストン卿の、それぞれから個別に約束を受けました。サント=オレール氏が、サー・フレデリック・ラムからオーストリア皇帝に持参されたと述べている文書は、ポンソンビー卿に送られた指示の写しである可能性が、かなり高いように思われます。それによって、東方に関するイギリスの考えが、オーストリアの考えに近いことを、皇帝に納得させようとしたのでしょう。
なお、この件の最初の働きかけは、ロンドンから出たのかもしれないと、私はかなり考えています。そう推測するのは、メッテルニヒ氏と、東方問題について氏が長く示してきた冷淡さに対する不満を、私が聞かされてきたからです。氏は、その問題のすべての主導権を、ロシアに委ねようとしているように見えました。また、各国の内閣から、幾つかの場合に、やや高慢な言葉を用いたと非難されているパーマストン卿が、ウィーン内閣への接近を適切だと判断したことも、ありえないわけではありません。ウィーン内閣は、卿の通告の調子に、強く憤っていた内閣の一つでした。他方で、イギリス内閣は、昨年のトルコ問題での自国の行動について、今向けられている非難の正しさを認めていると、私は思います。ロシア人がコンスタンティノープルに到着する前に、私たちの提案した計画を採用していれば、多くの災いを防げたはずだと、内閣は感じています。この計画は、ご存じのとおり、当時スルタンを脅かしていた不幸を食い止めるための、私たちの共同の努力に、オーストリアを加えるものでした。一八三三年一月八日、二十八日、三十一日付の私の外交報告に、その跡を見いだされるでしょう[158]。
今、イギリス政府は、この政治的な過ちを自覚する気持ちに促され、東方で採用した方針を、より熱心に、より粘り強く守るだろうと、私は信じたいと思います……
エステルハージ公の通告に答えてグレイ卿が行った打診は、必然的に、メッテルニヒ氏に、自分自身の意図を明確に説明させることになるでしょう。氏は、イギリスの働きかけの価値を、きっと認めるでしょう。それは、申し分のない配慮から出たものでした。グレイ卿は、ロシアに要求する保障の申し入れを、ウィーン内閣経由で行いたいと、オーストリア大使に率直に述べたからです。この間接的な経路をとれば、その要求から、ロシアの自尊心を傷つけるような外観が、すべて取り除かれるからでした。
公爵殿、ペテルブルクで、グレイ卿の挙げた幾つかの点について、譲歩する決断がなされれば、私たちは喜んでよいように思われます。たとえば、ワラキアとモルダヴィアにいる軍の解散、クリミアにいる軍の配置の分散です。国王の政府は、両院で攻撃された場合に、これらの事実のなかに弁護の手段を見いだすでしょう。イギリス内閣が、議会でそうするのと同じです。それに、これらは、私たちに一息つく時間を与えます。その間に、東方の不確かな状態が、いずれ必然的に必要とする措置を、よりよく協議できるでしょう。
今日からすでに、私たちは、この問題でオーストリア、イギリスとともに行動する意図を、オーストリア宮廷に確信させるための、いかなる機会も逃すべきではないと思います。そして、私たちの知らないところで、何らかの提案がなされたと考えているかのように、受け取られないようにすべきです。サント=オレール氏の外交報告によると、メッテルニヒ氏は、四宮廷の共同協調に加わる意向を持っているようです。おそらく後には、今要求されている保障について、ロシアが譲歩を拒否した場合、それによって宰相は三国同盟に同意することになるかもしれません。私たちは、たいへんよい道にあります。この道は、よくなる一方であるはずです……」
「一八三四年一月十二日。
今月九日のフランスの新聞を読んでいて、五日付の『アウクスブルク新聞』から転載された記事に気づきました。あなたも見逃されなかったでしょうし、イギリスのすべての新聞にも転載されています。『アウクスブルク新聞』の通信員は、たとえ現在の王朝が途絶えることになっても、オスマン帝国の存続を保障するため、ロシアとオーストリアの間で条約が結ばれたことに触れています。ただし、メヘメト・アリーは除外されるというのです。そして、メッテルニヒ公は、この条約の規定をサー・フレデリック・ラムに知らせ、ラムは、最も明確な言葉でそれを承認した、と付け加えています[159]。
私の最新の外交報告でお伝えした、イギリスの閣僚たちの宣言によって、私は安心してよいはずでした。しかし、メヘメト・アリーを除外するという条件が、私の心に幾らかの疑いを生みました。その条件は、イギリス内閣の関心に触れる性質のものだと、知っていたからです。そのため、パーマストン卿とグレイ卿に、さらに新たな説明を求めるべきだと考えました。そこで昨日、両者に再び会いました。その言葉は、前の会談のときと同じく、正確で明確だったと、繰り返し申し上げなければなりません。最近、私たちの間で、エジプトのパシャが話題になったわけではありません。それでも、国王の政府が、このパシャと結びうる関係の性質について、イギリス政府からすべての疑いを取り除くためには、いくら配慮しても足りない、ということを、お伝えしないわけにはいきません。こちらでは、この点について、私たちに常に隠れた意図があると見ていることを、私はほぼ確信しています。
パーマストン卿は、あなたにお見せするはずの、サー・フレデリック・ラムの外交報告を、パリに送ったと述べました。しかし、さらに、今朝届いた新しい報告を、私に読ませてくれました。そのなかで、この大使は、自分とサント=オレール氏がメッテルニヒ公と行った会話から、宰相は、フランスとイギリスの宮廷を互いに引き離すことだけを狙っていると確信するに至った、と伝えています。サー・フレデリック・ラムのこの見解が、どこまで根拠を持つのか、私にはわかりません。しかし、無益ではないかもしれない手がかりだと、私には思われます。
昨晩の『グローブ』紙には、長い記事が載っています。その全体の内容は、この三日間に私が受けた保証の誠実さについて、新たな証しを示しています。この政府支持の新聞は、実に目覚ましい力強さで、イギリスとフランスの結束の必要を強調しています……」
[内密。]
「ロンドン、一八三四年一月十三日。
親愛なる公爵へ、
新聞は、あなたが病気だと伝えています。『ル・タン』紙は、辞任についてまで語っています。ご健康について、私を安心させてください。辞任は信じていませんし、望んでもいません。グレイ卿に見せられるよう、幾行かお書きください。卿は、議場であなたとビニョン氏の間に起こったことに、少し驚いているようなのです[160]。イギリス内閣は、東方問題について、パリとロンドンで述べられる言葉が、完全に同じでないために、議会で困難に陥ることを恐れています。ですから、『ジュルナル・デ・デバ』紙のものよりも適切な説明によって、私がグレイ卿を納得させられることが、どうしても必要です。その説明は、議場でなさるよりも、私を通じてお伝えになるほうが、あなたにとっても都合がよいでしょう……」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三四年一月十六日。
公爵殿、
事実は次のとおりです。あなたの賢明なご判断に委ねます。
先週の水曜日、一月八日に、奉答文の第十六項の討議に入りました。この項は、特に内閣を狙ったものだと、私たちには伝えられていました。しかし、私の考えでは、それとは逆に、この項が、この三年来の私たちの方針に対する、最も明白な承認を含んでいることを示すのは、この上なく容易でした。ビニョン氏は、委員会の名において、この項を、まったく理にかなった、私の意見に完全に一致する意味で説明しました。その後、ヨーロッパの全般的な状態について、長い演説をしました。その演説には、あなたもご覧になったように、多くの理にかなったことと、ほかにも多くの、途方もなく誇張されたことが含まれていました。
私は、その後に演壇に上がり、氏が委員会の名で述べたことに同意し、それを確認しました。翌日、それを利用して、私たちの方針が、通常私たちに反対する者たちの方針に対し、共通の合意によって優位を得ていることを、証明するつもりでした。ビニョン氏の演説そのものについては、政府への攻撃を何一つ含まないので、私からの返答は何一つ求められない、と述べた以外には、何も言いませんでした。最後に、私たちに対する言葉が穏健だったことについて、ビニョン氏に感謝しました。
翌日、私はひどく具合が悪く、議会へ行くかどうか、長くためらったほどでした。それでも、自分を奮い立たせました。着いてみると、議場全体が騒然としていました。私が委員会の説明に与えた同意が、広げられていたのです。繰り返しますが、私が何も述べなかったビニョン氏の演説にまで、広げられていたのです。人々の想像は燃え上がり、誰もが、八日後には私たちがヨーロッパ全体と戦争になると、確信していました。モーガン氏から激しく攻撃されたため、私は、全般に広がった誤りを訂正し、自分が何に同意したのかを指摘し、人々を安心させざるをえませんでした。不幸にも、繰り返しますが、私は、あまりに病気が重く、自分の頭をしっかり働かせることができませんでした。発言し始めたとき、目がくらむほどのめまいに襲われ、演壇にしがみつかなければならず、あやうく倒れるところでした。この状態で、私は最も急ぐことから取りかかりました。自分が何を言っているか、あまりわからないまま答えました。とりわけ、多くの愚かなことが述べられていた七月八日の条約を説明しました。しかし、その意味も射程も理解されていないことは示せたものの、その真の危険が何であり、真の性格がどのようなものかは、十分に示せませんでした。繰り返しますが、私は短く切り上げ、自ら終わらせざるをえませんでした。そうしなければ、完全に意識を失って中断されたでしょう。演壇から下りると、私は床に就き、大量の瀉血を受けました。
このすべての結果が、私にとっても、政務にとっても、たいへん不幸なものであることは、隠しません。私は、明確に非難されるべきことを、何一つ行っても述べてもいません。それでも、国王の手元に、別の外務大臣がいたほうがよいだろうと思います。しかし、そうではありません。そして、私が退けば内閣全体が崩れるので、私はとどまることに同意しました。九日と十日の『モニトゥール』紙を取り寄せてお読みになれば、今では、何が起こったかを完全に理解されるでしょう。八日にはすでに具合が悪いと感じていたのですから、ビニョン氏が委員会の名で示した説明を、自分の論に取り込まないほうがよかったのでしょう。いかなる討議も避けたほうがよかったのでしょう。これが私の過ちです。言い訳をしようとは思いません。それ以外のすべては、不運で、避けられないものでした。翌日、私が自分を保つことができていれば、討議は、私の失敗に終わる代わりに、長い間に私たちの反対者が受けた、最も目覚ましい敗北に終わっていたでしょう。
公爵殿、これらの詳細は、どのようにお使いになってもかまいません。私には、隠すことも、偽ることも、弁明することもありません。すでに具合が悪いと感じていたのに、大きな勝負に出たのは、誤りでした。負けたのも、誤りでした。私が言えるのは、それだけです……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三四年一月二十日。
親愛なる公爵へ、
本当に率直だからといって、巧みでないとは限らない。そういう率直さもあります。あなたの十六日付のすばらしいお手紙は、その最もよい証拠です。その手紙がグレイ卿に与えた効果は、卿が今、私に寄せた短い手紙に見いだされるでしょう。それをお送りします。
二月四日のイギリス国王の演説には、フランスについて、たいへんよい一節が入るだろうと考える根拠があります。そのために、私はあらゆる努力を払いました。あなたの影響下にあるすべての新聞に働きかけ、奉答文の一件を、いつまでも繰り返し取り上げないようにしていただきたいと、いくらお願いしてもしきれません。これからは、あの件を忘却に委ねなければなりません……」
(前の手紙に添えられた短い手紙。)
グレイ卿からタレーラン公へ。
[訳文。]
「ダウニング街、一八三四年一月二十日。
親愛なる公爵へ、
昨晩、私にお預けくださったブロイ公のお手紙を、厚く御礼申し上げつつ、お返しします。
公の説明には、その率直さと、誠実で名誉ある人柄の、新たな証しが認められます。あの一件は、確かに不幸なものでした。今後のわれわれとの議論で、ロシアに多少の有利な立場を与えるのではないかと、私は恐れていました。しかし、公が自ら認めているもの以外に、いかなる過ちも公に帰すことはできません。とはいえ、両政府が、その間にこれほど幸いに確立された緊密な結束を保ち続けるかぎり、このことは大した結果をもたらさないでしょう。
ブロイ氏が、もはや辞任を考えていないことを、たいへん喜んでいます。辞任は、フランスにとっても、氏の忠実さと名誉を全面的に信頼しているわれわれにとっても、取り返しのつかない損失をもたらしたでしょう。
敬具……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三四年一月二十日。
公爵殿、
一昨日、急いでお手紙を差し上げ、イギリス内閣の退陣について世間に広まっている噂には根拠がないと、確信をお伝えしました。この点についての私の意見は、変わっていません。しかし、内閣の交代が問題となっていないとしても、その構成員の幾人かの間に、かなりはっきりした意見の相違が生じたことは、確かです。その原因は、イギリスによるポルトガルへの干渉だったようです。数人の閣僚は、即時の干渉が急務となったと考えていました。しかし、多数がこの措置に反対したため、当面は見送られました。グレイ卿の先日のブライトン行きは、この事情によるものでした。私が聞いたところでは、国王も、自分の評議会の多数の意見に賛同したということです。なお、本日の『タイムズ』紙には、ポルトガルへの干渉を支持する人々が拠り所とする原則の説明が載っています。かなり忠実なものだと、私は思います……」
これらの外交報告の抜粋から、フランスとイギリスの防衛同盟の締結を得るために、イギリス内閣に向けて行っていた私の働きかけを、中断せざるをえなかったことがわかるだろう。私の出会った困難は、一種類だけではなかった。最初に持ち出されたのは、オーストリアとの接近への期待であった。このような条約は、必ずやオーストリアを怯えさせ、ロシアとの同盟へ、さらに深く押し戻すというのである。プロイセンについても、ほぼ同じ異論を向けられた。しかし、私の出会った障害は、それだけではなかった。イギリスの対外関係に関わるものもあれば、内閣の内部事情に関わるものもあった。こうして、私たちと約束を結べば、ポルトガル問題で、同じ独立性を保てなくなることが恐れられていた。イギリスは、ポルトガルを嫉妬深い目で見守り、半島のこの部分では、私たちなしで行動するという固い決意を持っていた。また、私たちがその点で完全な自由を認めれば、いつかイギリスも、スペイン問題で、私たちに同じ行動の自由を認めざるをえなくなるのではないか、とも恐れていた。そして、ユトレヒトの和約以来、イギリスが、スペインにおける私たちの影響力に、常に対抗しようとしてきたことは、よく知られている。それは一種の政治上の公理であり、オックスフォードやケンブリッジの大学で教えているのではないか、とさえ思いたくなる。最後に、イギリス内閣自身の存立が揺らいでいた。その構成員の間には、幾つかの問題について意見の相違があった。また、私の提案した同盟の形成を妨げうる理由を、何一つ隠さないためには、フランス内閣がどれだけ長く存続するかについても、イギリス内閣は十分に安心していなかった、と言わなければならない。ブロイ公に起こった一件が、この最後の点についての不信を持続させていた。私は、同盟構想を断念するとまではいかなくとも、少なくとも、東方か半島での何らかの出来事によって、イギリスにその同盟の重要性が理解されるのを、待たなければならないことを、はっきり悟った。
それに、このころ、ヨーロッパの政治には、複雑な事態が相次いで生じていた。自国政府の名で私が示した計画に、イギリス内閣がより好意的になるには、まずそれらが明らかにされなければならなかった。
マドリードでのセア内閣の倒壊は、イギリスの成功と見なされた[161]。イギリスは、この内閣がフランスに完全に従属していると考えていたからである。したがって、自分の意のままに動かせると期待するマルティネス・デ・ラ・ロサ氏が、その後任となったことを喜んだ[162]。
他方で、ロシア政府は、このときフランス、とりわけイギリスへの接近を試みた。それは、イギリスが私たちと、あまりに緊密に結びつくことを思いとどまらせるはずであった[163]。これから読む書簡の続きによって、今述べたことの意味と、それに関わる出来事が、よりよく理解されるだろう。
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三四年一月二十五日。
公爵殿、
……ニコライ皇帝とペテルブルク内閣が、最近、国王の政府に行った歩み寄りについて、イギリスの閣僚たちは、あなたの意見に全面的に賛同しています。フランスに対する、これほど新しい態度の目的は、パリとロンドンの内閣を引き離すこと以外にはないと、あなたとともに認めています。私たちが、こうした態度に欺かれていないことを、こちらでは喜んでいます。そして、機会があれば、そのことを評価してくれるだろうと考える根拠があります。
ストックホルムでのロシア政府の働きかけと、バルト海方面で必要と判断してとった予防措置は、ロシアの不安を示しています。その不安を解消するために、こちらでは何もしないでしょう[164]。
今朝、グレイ卿は、マルティネス・デ・ラ・ロサ氏を、スペインの政務を最もうまく導ける人物として語りました。マルティネス氏に惜しみなく与えられる賛辞には、セア氏に対するイギリス政府の不満が、大きく関わっていると思います。このことは、あなたにとって意外ではないでしょう。
「一八三四年一月二十八日。
昨日、グレイ卿とパーマストン卿が、サルダーニャ将軍のレイリア入城を知ったとき、私はその場にいました。こちらでは、そのあらゆる結果が重要な出来事だと見ています。しかし、細部には残虐さが認められ、そのため、ポルトガルを舞台とするこの争いが終わることが、強く望まれています[167]。サルダーニャ将軍が、この成功にとどまらず、テルセイラ公の軍団と行動を合わせるため、すぐにコインブラへ進むことは、確かなようです。これらの知らせは、ご存じのとおり、しばらくの間、イギリス内閣を強く悩ませていた問題の解決にとって、最もよい前兆です。ポルトガルへの即時の干渉を支持する人々の懸念に答えるものであり、その結果、今のところ、イギリス内閣は、この国の情勢に直接、実力をもって働きかけるという、あらゆる考えを断念しました……」
「一八三四年二月一日。
昨晩十時に、私は、朝の外交報告でお伝えしていたとおり、パーマストン卿のもとへ赴きました。卿は、リーヴェン氏が前日に受け取り、原本を卿に預けた外交報告を、私に読ませてくれました。私は二度読み、その後、幾らかの覚え書きをとることを許されました……
この外交報告は、十二月二十七日に、ロシア大使がロンドンから書いたものへの返答と思われます。リーヴェン氏は、その報告で、パーマストン卿が、ロシアとイギリスの間で率直な説明に至りたいという希望を示した、と伝えていました。この、まったく融和的な打診に対して、ロシアは、平和と親善の関係を保ちたいという気持ちを表明して答えています。数行後には、
『イギリスはロシアの自然な同盟国である』
という言葉があります。続いて、ロシアはイギリスとの関係で、これまで段階的にとられてきた対応の仕方に、今までも従ってきたし、今後も従うと述べています。その際、十月二十七日の覚書に触れています[168]。ロシアは、その覚書に対して、自国の考えでは、その尊厳が許す唯一の返答を行ったというのです。そして、弁明するように、これらの覚書を引き起こしたのは、ロシアではないと述べています。そう述べた後、イギリス政府から、内容が穏健で、形式も融和的な通告が現れるとすぐ、同じ性格を持つ返答を急いで行ったことを、強調しています。また、イギリスが、より詳しい情報を求める希望を示したので、ロシアは、両国の関係を複雑にし、良好な了解を損ないかねないものをすべて取り除くため、喜んでそれに応じる、としています。
この観点から見れば、イギリス政府の要求は、ロシア政府にとって何の不都合もなく、進んで答えるというのです。
ネッセルローデ氏は、そこで、幾つかの軍事的な配置について、正確な情報を示しています。氏は、イギリス政府が得た情報は正確でないと主張し、その誤りを示そうとしています。イギリスに伝えられた軍事措置は、いかなる場合にも、ロシアの攻撃的な方針のしるしとはなりえず、他のいかなる国に対するよりも、イギリスに対するものでは、なおさらありえない、というのです。
ここで、幾らかの詳しい説明が続きます。次のように保証しています。
第一に、黒海のロシア艦隊は、コンスタンティノープルから戻ったときと同じ状態にあり、その時以来、新たな軍備は何も整えられていないということです。
この点について、パーマストン卿は、遠征が終わったのに、なぜそれほど大きな兵力を保つのかが説明されておらず、そのため、何らかの後の意図があると、自然に考えられるはずだ、と私に指摘しました。
第二に、クリミアに駐屯する師団は、昨夏、ロシア艦隊に乗ってコンスタンティノープルから戻ったものにほかならず、この地点に増援は何も送られておらず、帝国の南部諸州に集められた部隊の数も、十五年来そこに駐屯している部隊の数を超えていないということです。
第三に、ロシア政府は、バルト海で自国の海軍力を増大させているという噂には、根拠がないことを、ためらわずに保証しています。ネッセルローデ氏は、艦船の数を二十七隻としています。この数は、同じ海域でエカチェリーナ女帝が持っていた数には、遠く及ばないと述べています。また、オーランド諸島の施設は、二個大隊を収容できる、要塞化された兵舎だけであるということです。海軍施設は、何も設けられていません。それに、この島々には、誰にとっても助けとなる避難港しかなく、これを恐れうる唯一の国であるスウェーデンを、不安にすることはできないというのです。
第四に、ポーランドの要塞は、帝国自身の安全だけを目的とするものであり、二年前に見られたように、その安全は、要塞を建設している方面から脅かされうるということです。
政府は、パーマストン卿自身の言葉のなかに、きわめて正当な懸念の理由を見いだせる、としています。外交報告によれば、その言葉は次のとおりです。
『スルタンの王座にメヘメト・アリーが就くのを望むほうが、イギリスの利益になるだろう。この変化は、オスマン帝国をアラブの勢力に置き換えることになる。』
この引用には、大きな不正確さがあります。パーマストン卿が言ったとしても、それは、ロシア皇帝が王座に就くのを見るよりも、メヘメト・アリーが就くのを見るほうを望む、ということでしょう。これが、パーマストン卿の用いた言葉の意味であることは、確かです。そして、卿が私に語ったところでは、用いた言葉そのものも、それだったということです。
ネッセルローデ氏は、次に、パーマストン卿が述べたとされる言葉について、幾らかの考察を行っています。そして、その言葉に含まれる方針は、ロシアの同盟国を、東方の平和の維持にとって敵対的で危険な権力に置き換えることを、目的とするだろうと述べています。しかし、根拠なくイギリスに帰された方向に、同国が行動したわけではないことは認めています。それでも、そのような考えが存在しえたという告白は、ヴィスワ川の砦がイギリスの利益に示すよりも大きな敵意を、ロシアの利益に対して示している、としています。
そこから、七月八日の条約は、ロシアの手に置かれた攻撃的な武器というよりも、アラブの勢力が、ヨーロッパ側のトルコにまで広げようとする侵略と征服の計画に対する、精神的な保障と見なされるべきだ、と述べるに至っています。
これらの議論に続いて、七月八日の別個の協定は、ロシアの軍艦旗に、他の諸国を犠牲にした独占的な特権を設けるものではなく、この点について、オスマン政府の定めた慣行に、いかなる変更も加えられていない、と保証しています。なぜなら、ロシアは、自らその慣行を破ろうとする考えから遠く離れているのと同じく、他のいかなる国にも、それを無視させないことに利益を持っているからだ、と付け加えているのです。
続いて、この条約について、他の宮廷に対して秘密を守ったという非難への、幾らかの説明があります。ネッセルローデ氏の挙げる理由は、秘密はロシアのものではなく、オスマン政府だけのものだった、ということです。条約の必要を認め、この取り決めに直接の利益を持っていたのはオスマン政府であり、したがって、この文書を正式に公表するのに適した時期を判断するのも、同政府だったというのです。ロシアは、これを公表するか、秘密にしておくかについて、ディヴァンに最も完全な自由を残していた、としています。次に、オランダに対する英仏の共同措置についての、一八三二年十月二十二日の協定を引用しています。しかし、引用の選び方は適切ではありません。このときには、五宮廷の全権代表が集まり、そのうち二人が他の三人に、強制措置に参加する意思があるかを尋ね、拒否されたため、フランスとイギリスは、別個に行動する自由があると考えると宣言したことを、忘れているのです。これは、確かに秘密ではありませんでした。
この覚書で最もよいのは、末尾の部分です。そこでは、オスマン政府の代表者を交えた、ペテルブルクでの現在の交渉について述べています。その言葉は、おおよそ次のとおりです。
『オスマン政府の使節の使命の成果は、近く得られると考えてよいものですが、ロシアが、オスマン帝国に対して採用した保全の方針を守り、その領土の一体性と独立をともに尊重することを心にかけ、スルタンの権威を、少しでも損なう代わりに、強めようとしていることを、はっきり証明するでしょう。私たちがアフメト・パシャと協議している取り決めは』
――これがネッセルローデ氏の最後の言葉です――
『本外交報告の対象となっている率直な説明に、新たな重みを与えるでしょう。』
公爵殿、以上が、ネッセルローデ氏からリーヴェン公への外交報告の、たいへん長い分析です。しかし、もしポッツォ伯爵から、まだお聞きになっていないのであれば、レヴァントでの政策の動きについて向けられた非難に、ロシアがどのように答えているかを、あなたにお知らせする機会を逃したくなかったのです。
要するに、このロシアの長い文書が、本質的には、ロンドンとパリの内閣の不安を鎮めるためのものであることは、明らかに思われます。両内閣を満足させようという、ある程度の意向さえ示しています。これらの態度に、どの程度の信頼を与えるのが適切かを測るのは、難しいでしょう。しかし、それらを全面的に疑うことは、不用意に思われます。ニコライ皇帝の性格がそうであるように、信頼を示されれば示されるほど、自分が義務を負ったと感じる性格というものがあります……
ハーグからの外交報告を、お送りします。そこには、オランダ王が、引き延ばしの策略を、まだ使い尽くしていないことが見られるでしょう。また、会議の一員が、最後の数回の会合で全員の負った約束に、明らかに反する言葉を述べたと、王が主張していることもわかるでしょう。パーマストン卿がデーデル氏に行った説明に、曖昧さがあったはずはありません。そして、北方の三宮廷を代表する全権代表たちが、いつもの融和的な態度以外のものを示したとは、私には信じられません。
会議は、散会の際、オランダ王から、最終的な取り決めについて、明確で受け入れられる打診を受けたときか、全権代表の一人が提案したときにだけ、再び集まると決めていました。交渉を再開するために選ばれたのは、この後者の道です。おそらく、水曜日か木曜日に会合があるでしょう。あらゆる様子から見て、何の成果もないでしょう……」
ペテルブルク内閣の外交報告から、この長い抜粋を掲げなければならなかったのは、それが後に、かなり重大な影響を生み、別の機会にすでに指摘した、パーマストン卿の性格の一面を明らかにするからである。つまり、卿が政務の扱いに、あまりにしばしば持ち込んだ、個人的な激情である。このロシアの外交報告は、卿を激しく苛立たせ、ある措置をとるよう促した。それ以上は言わないとしても、私には少なくとも拙劣と思われる措置だった。このころ、イギリス宮廷は、健康を理由に召還を求めたダラム卿に代わる、ペテルブルク駐在の大使を任命しなければならなかった[169]。パーマストン卿は、その後任にサー・ストラトフォード・カニングを指名した。この人選が、ロシア宮廷にとって、自分のなしうる最も不愉快なものであることを、よく知っていたのである。実際、ネッセルローデ氏にその知らせが届くと、氏は、皇帝が、サー・ストラトフォード・カニングをペテルブルクへ送ることを、たいへん不快に思うだろうと、すぐにロンドンへ知らせた。その理由は、この外交官が、コンスタンティノープルでイギリス大使を務めていたとき、ロシアに対して、きわめて敵対的な感情を抱いていることを示していたからであった。したがって、皇帝は、両宮廷の間に確立されることを望む良好な関係を保つのに、カニングはあまり適していないと考える、というのである。パーマストン卿は、いつもの頑なさで答えた。イギリス大使が、良心的に自分の職務と政府の指示を果たすなかで、皇帝の不興を買ったことは、ありうる。しかし、それは、その人が立派な功績によって任されるべき任務を、与えないための十分な理由とは思われない。そして、この人選が認められないのであれば、イギリス政府は、ペテルブルクの大使職を空席のままにしておく、という返答だった。今度はニコライ皇帝が、この態度にひどく傷つき、一八一二年以来ロンドンに駐在していた、自国の大使リーヴェン公を召還することに決めた。両国の大使職は、長い間空席となり、当然ながら、両宮廷の関係は、その影響を受けた。
私は、パーマストン卿の見方、あるいはむしろ、その激情に賛同しなかった。ロシアの説明は、その価値に応じて受け入れ、ロシアを監視しなければならないが、真剣に戦争をする決意がないかぎり、関係を悪化させるべきではないと考えていた。そこで、私は次のように書いた。
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三四年二月三日。
公爵殿、
第八号の外交報告を受け取りました。添えられていた文書をお知らせくださり、ありがとうございます。それを読んで、ロシアが接近の道にあるように見える今、国王の政府が同国に対してとるべき行動について、私の抱いていた意見への確信が、一段と強まりました。私たちの立場は良好です。ロシア政府の表明の誠実さを、信じるべきです。ロンドンとパリで大使たちが、ペテルブルクでロシアの閣僚たちが用いる、一様な言葉は、私たちを納得させたいという希望、ほとんどその必要をさえ示しています。これほど事情を知っている私たちが、納得したように見せることで、何の危険を冒すというのでしょうか。
事実として、ロシアの動きは、今、止められています。オスマン帝国の情勢に、直接介入する機会を作るためには、長い間、新たな口実を探さなければならないでしょう。私たちが監視を向けるべきなのは、その点です。私がそう考える根拠を持っているように、国王の演説が、トルコについて次のように述べるならば、イギリス政府も、同じ道にあるように見えます。
『メヘメト・アリーとの取り決め以来、トルコの平和は破られておらず、他のいかなる危険によっても脅かされないだろう。政府は、この帝国の将来の安定と独立に関心を持ちうる諸国との関係に、いかなる変化も生じないよう、注意を払う。』
また、この演説には、私たちだけに関する一節があり、おおよそ次のような言葉で構成されていると考える根拠もあります。
『私の政策の一貫した目的は、わが国民に、平和の恩恵を引き続き享受することを保障することにあった。この点では、わが政府とフランス政府の間に、幸いにも確立された良好な了解に助けられてきた。大陸の他の諸国の友好的な意向について、引き続き受けている保証は、私の努力の成功への確信を与えている……』
」
「二月四日。
国王臨席の議会から戻ったところです。たいへん華やかなものでした。イギリス国王が行った演説を、急いでお送りします。フランスは、そのなかで、他の諸国とは別に名を挙げられています。国王は、特に私たちに関するくだりを読み上げる仕方によって、そのことを感じさせようとなさいました。
『私が受けた保証』
という言葉を発する前には、間を置きさえしたのです[170]……」
「二月七日。
オランダ問題についての私たちの会議は、パーマストン卿の召集に応じて開かれました。さまざまな意見を論じるなかで、過去のことを長く振り返ることになったため、長時間に及びました。
オーストリアの全権代表たちが、最初に発言し、自国宮廷は、オランダ・ベルギー問題を速やかな決着に導くため、何一つ手を惜しむつもりはなく、長く中断されすぎている交渉の再開を望むと、他の宮廷の全権代表たちに伝えるよう、自分たちに命じた、と述べました。その要求の理由として、ネーデルラント王が、約束したとおり、領土の取り決めについて、関係者の同意を得るための、取り決められた働きかけを行ったことを挙げました。さらに、争点として残っている問題の交渉を再開するため、ネーデルラントの全権代表に、新たな指示も送った、と述べました。
そこで、パーマストン卿が発言し、会議が散会した八月三十日に、問題の残されていた地点へ話を戻し、その時以来、何も変わっていないことを示しました。ドイツ連邦は、ネーデルラント王の要求を認めていません[171]。オーストリアとプロイセンの公使は、自分たちの影響力を信頼し、この働きかけが成功すると、私たちに信じさせる方向へ導きました。しかし、彼ら自身が見込みを誤り、国境という重要な困難は、取り除かれていませんでした。したがって、これがなければ交渉の決着を予見できない、最初の保障は、まだ与えられておらず、与えられるには、ほど遠いように見える、というのです。ネーデルラントの全権代表の権限についても、同じことだと述べました。卿は、デーデル氏に会い、連邦議会の遅延によって、領土の取り決めの決着に至るため、会議が要求した保障が失われていることを、氏に指摘しました。そのうえで、三年来、困難が絶えず相次いできた以上、ついに私たちに与える保障を持っているかを、尋ねなければならない、と言ったのです。たとえば、フェルストルク氏自身が仮署名した条項、とりわけ第九条と、そこに含まれる各項に、署名する権限を持っているか、と尋ねました。デーデル氏は、その権限を与えられておらず、自分の責任で署名することはできない、と答えたそうです。パーマストン卿は、新たな会議を開いても、何の結果にも至らず、交渉は今日、五か月前に残された地点に、まさにとどまっていると結論せざるをえなかった、と付け加えました。
プロイセン公使ビューロー氏は、返答を試み、会議の開催を強く求めました。その決定的な理由として、ネーデルラント王は、私たちの拒否を、オランダ人とヨーロッパの各内閣に対し、交渉の決着を妨げる理由として利用するだろう、と挙げました。
そこで私は、パーマストン卿がたいへんよく展開した幾つかの論拠を取り上げ、最終的な決着に至る希望がないまま、さらに交渉することは、会議を不適切な立場に置くやり方だと、示すことができました。私たちは常に、自分自身と矛盾しないようにすべきです。ベルギー王国の第一の基礎となる領土の分離は、諸国のいかなる留保もなしに決定されました。したがって、この点では、私たちは約束を負っています……。デーデル氏に、私たちが行うと約束したことを、私たちとともに署名する権限がないならば、有益に続けられる交渉はありません。ですから、私の意見も、パーマストン卿と同じく、当面は、物事を現在の状態に置いておくべきだというものでした。行動が成功をもたらさなかった以上、何もしないことの力を信頼すべきなのです。
しばらくの沈黙の後、私たちは散会しました。この会議は、私が予見し、あなたにもお伝えしたとおり、何の結果にも至りませんでした。オーストリアとプロイセンの全権代表は、自国政府の命令を正確に実行しました。私たちの述べる意見に屈したように見えることは、できなかったのです。しかし、その沈黙から、彼らは、私たちの理由に反論の余地がないと認めている、と考えてよいでしょう。私たちは、断念された事柄の後でするように、次回を定めずに散会しました……」
「一八三四年二月十四日。
ギリシャの代理公使スヒナス氏の要求に応じて、会議は今日開かれました。氏が私たちに提案するよう命じられていた、ギリシャ借款の第三回分に、私たちの保証を与えることを検討するためです。スヒナス氏は、ギリシャ財政の困窮した状態を説明し、それについて多くの詳細を述べました……。パーマストン卿と私は、リーヴェン公が、求められた保証を与えることに同意するのを禁じる命令を受けていたことを、知っていました……。そこで、保証の獲得に対して、公の政府が挙げる困難を、公自身に述べさせておきました。それらの困難は、形式上のものです。ロシアは、ギリシャ財政の真の状態について、詳細な会計報告を要求することを望んでいます。そして、スヒナス氏が、ごく短い期間でそれを提出すると約束したため、私たちは、遅延以外の何も負わせないリーヴェン氏の意見に、従いました。
リーヴェン公の意見に表れているものは、その意見の真の根拠ではないと、あなたに指摘する必要はありません。ロシアは、ギリシャ問題について、まだ残っている影響力の手段を失いたくないのです。おそらく、特別の計画があり、現在の困難によって、その実行が容易になるのかもしれません。あなたがお持ちのはずの情報によって、こちらで私たちが立てている推測の価値を、誰よりもよくお判断になるでしょう。また、一年前には、三国の保証を最初に要求したロシアが、なぜ今日、この点で難しい態度を見せているのかも、おそらく説明されるでしょう……」
「ロンドン、一八三四年二月二十三日。
……一月二十九日、ペテルブルクでオスマン政府とロシアの間に結ばれた、新たな協定について報告する、メゾン元帥の外交報告を、お知らせくださり、ありがとうございます[172]。この協定は、アドリアノープル条約によってトルコに課された条件を、幾つかの点で緩和します。しかし、ロシアの放棄したものが、見かけほど広範ではないことも、認めずにはいられません。トルコは、ロシアにとって、支払い能力のない債権者です。ロシアが金額の一部を免除しても、その犠牲は大きくありません。諸公国からの撤退は、不完全な措置です。なぜなら、シリストリアの占領と、撤退するはずの諸州を横切って維持される軍用道路は、一月二十九日の条約でロシアが放棄したものと、ほぼ同等の保障だからです。これらすべてには、寛大さも自己放棄も、多くはありません。何よりも残念なのは、オスマンの全権代表が、シリストリアの守備隊を構成する兵士の数を、協定のなかで定めなかったことです。これは、オスマン政府とオーストリアが、共通の利益に従って規定させることを、怠るべきでなかった重要な点です。八年間の占領が、どのようなものかは、ご存じです。オーストリアは、二か月前には、ロシアがトルコの一村を奪うことすら決して許さないと述べていたのを、忘れたようです。八年間の占領が所有とならなかった例を、自国の記録から見つけるのは、たいへん難しいでしょう。私の意見では、フランスとイギリスの政策を合わせ、オスマン政府に借款を組ませて、直ちに債務から解放し、諸公国とオスマン政府自身を、その主権の権利に復帰させるために協議することは、有益で、偉大なことでしょう。わが国とイギリスの信用が、これほど高潔に、これほど政治的に用いられたことは、かつてなかったでしょう……」
「二月二十四日。
オスマン政府が、最近ロシアに対して負った義務から、借款によって解放されることの有益さについて、昨日の外交報告でお伝えしたことを、今日読み返しました。そして、この考えを完全にするには、私の提案した計画に、オーストリアを加えることを試みなければならないと考えました。その東方の国境の安全、シリストリアによって制御されているドナウ川の航行の自由、また、ドイツに関する利益も、ロシアが諸公国で保とうとしている地位を奪うため、あらゆる努力を払うことを、オーストリアの義務としているように、私には思われます。ですから、その提案を行うのに、今は適した時だと思います。そして、オーストリアが受け入れれば、私たちの側には、この三年間、北方の三国が従ってきた政策の統一を破るという、莫大な利益が得られるでしょう。この問題は、あなたのあらゆるご配慮に値するものと思われます。
スウェーデン公使が昨日、ストックホルム駐在のロシア大使スフテレン将軍から、自国政府に行われた働きかけについて話してくれました[173]。フランス、イギリス、ロシアの間に戦争が起こった場合、スウェーデンがどのような行動をとるのかを知るためのものでした。スウェーデン政府は、覚書で、中立を守ると答え、ペテルブルクの自国公使に、それをロシア内閣へ通告するよう命じました……。私は、この事実をあなたにお知らせしなければなりませんでした。後の展開はないだろうとは思っていますが……」
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ。
「テュイルリー、一八三四年二月二十七日。
……マルセイユ、リヨン、サン=テティエンヌ、そして先ごろパリで起こったことは、同じ一つの事柄でした。同じ党派、共和派、結社、秘密結社によって仕組まれた企てだったのです[174]。幸いにも、リヨンとサン=テティエンヌの労働者たちは、騒擾にまったく加わろうとしませんでした。そして、これら三都市では、今、すべてが秩序に戻っています。当地では、住民は、非難されるべき騒乱の試みに、何の役割も果たさなかっただけでなく、それに憤っていました。国民衛兵も、正規軍も、それに激しく怒っています。実際、それは、深刻な不安を与えることのできない、一握りのならず者の仕業にすぎませんでした。結局、これらの結社と秘密結社を抑える法律の必要を、一般に感じさせ、誰もがその法律を望むようにしたことで、悪いことがよいことをもたらしました。この法律が議会を通過することは、疑われていません[175]……
国王は、あなたと同じく、新しいロシア・トルコ条約は大きな改善であるものの、ロシアとトルコの相対的な立場、すなわち、力のある側と、何の力もない側という関係を、実質的に変えることはできないと考えています。ですから、国王が最も重要だと考えるのは、黒海艦隊の武装解除です。艦隊が武装しているかぎり、ロシア人を三日間でコンスタンティノープルへ運ぶことができるからです。この艦隊が武装解除されれば、迅速な移動は、もう不可能になります。諸公国からの撤退については、もちろん、たいへんよいことです。しかし、軍用道路とシリストリアが残るならば、それは、実際よりも見かけの上での撤退です。
この問題の重要な点、解くべきゴルディオスの結び目は、オーストリアの政策です。ロシアは、オーストリアの同意がなければ、動かないでしょう。私が同意と呼ぶのは、オーストリアが何もしないことの確実な見込みです。問題は、この点で何が行われているかを知ることです。それを探り出すには、あらゆる点で、イギリスのほうが私たちより有利な立場にあり、私たちに知らせるのは、イギリスの役目です。ですから、そうしてもらうよう努めてください……」
レーヌヴァル伯爵からタレーラン公へ。
「マドリード、一八三四年二月二十一日。
公爵殿、
フランスへのご旅行の間は、休養をお望みなのだろうと思い、それを尊重してまいりました。半島の問題を少しお忘れいただくことを、お怒りにはならないだろうと考えたのです。しかし、今日、フロリダブランカ氏の出発が、それを再びお伝えする機会を与えてくれました[176]。これは、あまりに魅力的な機会なので、抵抗できません。
ドン・ペドロがイギリス政府に求めた援助に対する、パーマストン卿の返答を、当地で正式に知ったのは、昨日のことでした。イギリスが、何もしないという方針を捨てるつもりはないと確かになったことで、スペインの新内閣が感じたのは、一種の狼狽でした。スペインは、ポルトガルに効果的に干渉できる状態になく、まだ長い間、そうあり続けるでしょう。そして、ドン・ミゲルとドン・カルロスが持ちこたえているかぎり、女王の政府には、平穏も安全もありません。
フロリダブランカ氏は、この点を詳しく説明し、イギリスの決定を変えさせるよう努める任務を帯びています。こちらでは、もしイギリス政府が、どうしても自国の同盟者ドナ・マリアの援助者にはなれないのであれば、少なくとも、スペインに補助金を与えることで、間接的に女王の役に立てるのではないか、という考えが出ています。しかし、補助金の時代は過ぎたと、私は思います。
コルテスの召集が、真剣に考えられています。それは、危険な試みです。その結果を予見できる者はいません。しかし、行わずに済ませることも、もう不可能となっています。この国を治める人々の果たすべき仕事を考えると、実際、絶望しかけます。彼らに課されている仕事の一部を、列挙しましょう。王位継承の順序を変えること、政府の形態を変えること、財政と行政を改革すること、内戦を鎮めること、隣国を平定することです。そして、そのすべてを、摂政のもとで行わなければなりません。しかも、女性に託された摂政のもとでです!
フロリダブランカ氏は、閣下がご厚意を賜り、助言によって導いてくださることを望んでいます。その価値を十分に知っており、自分に託された難しい使命で、幾らかでも成功を期待できるのは、それに従うことによってのみだと、深く確信しています[177]……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三四年三月四日。
公爵殿、
イギリス内閣は、ポルトガルからの知らせを受け取りました。それによると、サンタレンの近くで、ドン・ペドロの軍とドン・ミゲルの軍の間に、大きな戦闘があったということです[178]。モルティエ男爵からあなたへの外交報告を、今日お送りします。それには、私がお伝えできるものよりも、おそらく詳しい事情が記されているでしょう。しかし、イギリス内閣に届いた報告、さらには、ドン・ペドロ派に属する人々の手紙さえも、初めはこれほど誇られたこの戦いが、決定的なものには、ほど遠かったと、一致して述べていることを、お知らせしなければなりません。最新の知らせによると、ドン・ミゲルの軍は、サンタレンの前方四リューの地点にいたからです。
ドン・ペドロの支持者は、その兵力が、若い女王の大義を成功させるに十分だと考えています。それでも、ロンドンでは、まだ多くの兵員募集と、武器・弾薬の購入が行われています……」
「ロンドン、一八三四年三月十日。
第十九号の外交報告を受け取りました。フロリダブランカ氏がロンドンに着けば、私が喜んで協力することを、あなたは疑われる必要はありません。イギリス政府が、半島の真の利益について、よりよく事情を知り、イギリスの国内問題の課す束縛から解かれて、ポルトガルで保ってきた中立を断念する必要を、ついに認めることを、期待したいと思います。私は、常に政府をこの道へ導こうと努めてきました。フロリダブランカ氏の到着後も、そうし続けます。しかし、スペインの現政府が強く望む目標に、私たちが達するという希望は、これまでのところ、ほとんど持っていないと、認めなければなりません……」
「三月十八日。
「三月二十七日。
……オランダ軍に起こったという動きについて、ザイレン男爵に説明を求めるよう命じた、ハーグのフランス代理公使宛のあなたのお手紙を、パーマストン卿に読み聞かせました[183]。卿は、この働きかけに完全に賛同したため、同じ種類の働きかけを、ハーグで行わせることにし、ザイレン氏に提出すべき覚書を、すでにイギリスの代理公使へ送っています。この覚書は、あなたが写しをお送りくださった手紙の言葉を、おおよそ再現しています。
ハーグへの申し入れに、卿が選んだ形式を与えることを、私は思いとどまらせませんでした。しかし、ドゥルーアン・ド・リュイス氏へのあなたのお手紙のほうが、好ましいと考えます[184]。そして、その重々しさが、ときには相手を傷つけることのある外交覚書を用いないほうが、よいことが多いと思います。ちょうど目にしたばかりの例から、そう考えるようになっています。ルクセンブルクで起こった出来事に関する、イギリス大使の覚書に対し、ウィーン内閣が、ベルリン内閣のものとほぼ同じく、曖昧な返答をしたことは、ご存じでしょう[185]。しかし同時に、メッテルニヒ氏は、ロンドンのオーストリア大使館に、イギリス内閣へ、より詳しい説明を行うよう命じました。この説明は、アンノ氏の逮捕の口実となった二つの事実、すなわち、民兵の徴集と、ルクセンブルク要塞の戦略上の範囲内での森林伐採権の売却を扱っています。最初の点について、メッテルニヒ氏は、ベルギー政府に非があったと主張しています。民兵の徴集は、軍事当局に関わる問題であり、そのため、要塞の司令官は、ベルギー行政の措置に反対することができた、というのです。森林伐採権の売却については、宰相は、ベルギーにその享受を求める権利があったと考えています。そして、この点では、討議の初めにベルギー人の要求を非難していたパーマストン卿の意見には、賛同できないと、かなり皮肉に付け加えています。メッテルニヒ氏は、この最後の事情を挙げて、事実の評価における自分の公平さを示しています。最後に、イギリス内閣がウィーンで行った働きかけへの、驚きを表明しています。この働きかけには、何の理由もなかったというのです。イギリスはフランクフルトに公使を、ベルギーはウィーンに公使を置いているので、外交上の礼儀からすれば、行動を命じられるべきなのは、この二人の代表のいずれかであり、オーストリアのイギリス大使館ではなかった、としています。メッテルニヒ氏のこの通告の全体には、イギリス政府、あるいは、おそらくパーマストン卿だけに対する、好意的でない意向を、相変わらず露わにする調子が通っています。そして、宰相が、サー・フレデリック・ラムによって、おそらく多少軽率にオーストリア内閣へ提出された覚書を非難する機会を、喜んでとらえたことがわかります[186]。
あなたがお知らせくださったマドリードの消息を、パーマストン卿に伝えました。卿は、八千人のスペイン軍団のポルトガル入境を知って、満足だけを示しました。私は、それ以上の説明を引き出すべきだとは思いませんでした[187]。イギリス内閣は、この件に、ポルトガルの問題だけを見ており、その解決をもたらしうるものは、すべて有利だと考えています。それでも、私たち二人は、スペインの摂政が、現在の立場で、八千人の軍団を動かせることに、驚いています。あなたの外交報告そのもののなかに、この意見を修正する理由を、幾つも見いださなかったならば、これは、その困難が、実際には見かけほど大きくないと、考えさせるものでしょう……」
「三月三十一日。
グレイ卿とパーマストン卿が田舎へ出発する前の、最後の会見で、両者は、受け取ったばかりのウィーンからの外交報告について、私に話しました。そのなかで、サー・フレデリック・ラムは、メッテルニヒ公と行った会話を、両者に報告していました。この会話では、宰相が、自分の好んで主張し、展開する論の一つを、持ち出したようです。今回は、オスマン帝国についてで、その崩壊が近いと告げたということです。その原因は、イスラム教にあると、氏は言いました。周囲のヨーロッパの人々は、すべて、絶えず変わってゆこうとしているのに、この宗教は、トルコ民族を、あらゆる進歩に敵対する、愚かな狂信のくびきの下に置いている、というのです。メッテルニヒ氏は、この見解をアラブ民族にも適用し、エジプトのパシャの大胆な企てに見られる矛盾を気にも留めず、この民族も、同じ理由によって、トルコの勢力を有益に継承する能力がないと断言しました。そして、東方で準備されている破局を食い止めるため、あるいは、少なくともその結果を利用するために、新たな組み合わせを探さなければならない、と付け加えました。
少なくとも、その日は、宰相の打ち明け話は、そこまでにとどまったということです。しかし、イギリスの二人の閣僚は、その考えをさらに探ろうとして、ウィーン内閣が、トルコの現在の状態に代えて、何を提案するのかを見つけようとしました。そして、コンスタンティノープルにヨーロッパの君主を据えるという、実行不可能に思われた考えを退けた後、オスマン帝国の分割こそ、メッテルニヒ氏の主要な隠れた意図なのだろう、という考えに落ち着きました。私は、グレイ卿とパーマストン卿のこの確信を、打ち消そうとはしませんでした。メッテルニヒ氏が、おそらく、その人特有の軽さで述べた言葉に、二人が多少影響されすぎているように、私には思われますが。しかし、宰相の会話と、それがイギリス内閣に与えた印象を、あなたにお伝えすべきだと考えました。
復活祭の休暇のため、閣僚たちは、四月七日までロンドンを留守にします……」
私たちの仕事が、この段階にあったとき、不幸な一件が、イギリス政府がようやくわが内閣に寄せるようになったと思われる信頼に、一時的な動揺を投げかけた。私の言うのは、フランスとアメリカ合衆国の間で結ばれた条約を、代議院が否決した結果、ブロイ公が、提出せざるをえないと考えた辞表のことである[188]。この条約は、帝政期の戦争中、フランス海軍が行ったとされる略奪について、合衆国が二十年来提出していた請求を処理するものであったことは、知られている。フランスは、合衆国に二千五百万フランを支払うと約束していた。そして、この条項のために、条約は代議院に提出されたのである。条約は、セバスティアニ将軍が外務大臣だった時期に、将軍によって署名されていた。しかし、ブロイ公は、寛大にも、その責任を引き受けた。政府の提案を失敗させるため、議会では策謀が仕組まれていた。その策謀は成功し、ブロイ公は辞表を提出した。この機会にパリから受け取った幾つかの手紙は、ここに場所を与えるべきだと思われるほど、興味深いものである。
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ。
「パリ、一八三四年四月二日。
親愛なる公爵へ、
今、あなたは私からの手紙を望んでおいでだと、確信しています。そこで、会議で何が決まるのかは、まだ何も知りませんが、私は、議会の嘆かわしい採決と、昨日の審議を、あなたとともに嘆くために書いています。国王は、昨晩も真夜中まで会議をした後、今朝十時半から会議に出ておられます。そして、今は二時半です。おそらく、この今、決定がなされているのでしょう。これは、たいへん重大で、たいへん不幸なことです。ブロイ公とセバスティアニが、とどまりたくない気持ちは、理解できます。そして、このアメリカとの条約の否決は、どれほど悲しい結果をもたらすことでしょう。結社法については、これほどよい態度を示していた議会の、何という無知、何という愚かさでしょう!……
三時。国王はまだ会議中ですが、そこから出てきたセバスティアニ将軍が、リニー氏が外務大臣に任命されることになるだろうと、今、私に告げました。誰が海軍大臣としてリニー氏の後任となるのかは、まだ知りません。それ以外は、内閣は同じままです。現在の状況では、そうすることが望まれていました。
議会では、昨日の採決への反発と後悔が、もう生じているそうです。不幸にも、もはや遅すぎます……」
「四月四日。
内閣の編成が、私が二日にあなたへ書いたときに考えていたように、終わったと、昨日お知らせできることを期待していました。それは、できるかぎり小さな変更でした。確かに、その理由だけでも、とりわけ現在の状況では、最もよいものでした。スールト元帥とセバスティアニも、初めは評議会の大多数も、同じ意見でした。最初の障害はモレ氏でした。あなたとイギリスへの配慮から、彼には異論が出たのです。実際、あなたがお手紙で私におっしゃるように、これまで内閣を一つに保ってきたのは、私たちの大切な国王の権威、辛抱強さ、融和的な精神だけです。人々は、ともにいることに疲れ、初めは満足していたことも、しばらくすると、もう満足ではなくなるのです。最も難しい仕事は、大臣たちの考えを調整し、一つにまとめなければならない国王の仕事です。しかし、ありがたいことに、そして祖国にとって幸いなことに、国王自身には、どんな事態にも対応できる頭があります。それに耐えるには、国王の忍耐、精神の強さ、固い意志が必要です。内閣については、まだ何もできていません。その間は、それぞれが自分の職にとどまっています……」
「四月五日。
内閣の重大な問題は、昨晩、ようやく決着しました。新しい構成をすべて知らせる『モニトゥール』紙を、ここに添えます[189]。有能な人々ですから、うまく進むことを期待しています。終わったことを、たいへん喜んでいます。国王には、この数日間に受けた、あらゆる種類の疲れから、少し休むことが、たいへん必要だからです。お送りする『モニトゥール』紙には、一つ載せ忘れがありますが、訂正されるでしょう。それは、セバスティアニが、ナポリの大使職に任命されたということです。そこで、きっとたいへんよく務めるでしょう。
私たちが不快に感じるのは、多くのイギリスの新聞、また、ほかの新聞も、フランスとイギリスの結束と、同盟の考えの功績を、国王とあなた以外の人、また、別の原因に帰そうとしていることです。それなのに、国王が言うように、その父親は国王であり、名付け親はあなたなのです。あなたご自身のためにも、国王のためにも、この名誉を要求しなければなりません……」
ホランド卿からタレーラン公へ。
「ホランド・ハウス、一八三四年四月四日。
何と不幸な知らせでしょう! ブロイ氏が、再び閣僚の職を引き受けることは、期待できないのでしょうか。次のように言った、昔の修道士の賢明な助言に、なぜ耳を傾けようとしないのでしょう。
『あらゆる思案において、辞任については、常に慎重であれ。』
どうか、この件についてご存じのことを、お教えください。」
ブルーム卿からタレーラン公へ。
「一八三四年四月四日。
親愛なる公爵へ、
パリの、われわれのすぐれた友人の辞任に、心からお悔やみ申し上げます。今ほど、不適切な時はありません。しかし、両国の間に、これほど幸いに確立された結びつきを、何一つ損なわないよう、われわれの努力を倍にしなければなりません。私の外交政策の、ほとんどすべてが、この点を軸に回っています。そして、閣下の政策もそうであることを、私はよく知っています……」
ブロイ公からタレーラン公へ。
「パリ、一八三四年四月六日。
公爵殿、
ようやく抜け出したこの危機が続いている間、私は、あなたに書くことを延ばしてきました。その勇気がなかったのです。どれほど決意していても、自分のとる方針が不可欠だと、どれほど確信していても、権力が、私たちの敵にそれを引き渡すはずの人々の手に移りかけているのを見ると、私の苦悩は大きなものでした。それをあなたに隠せないのではないかと、恐れていました。ありがたいことに、すべては終わり、幸いな形で終わりました。評議会は再編成されました。前のものよりも結束し、強く、安定しています。そこで方針が変わることは何もなく、すべてが、よりよく統一され、力強く、一貫して進められるでしょう。私たちの反対者の無力さは、もう一度明らかとなりました。彼らは、たいへん恥じ、困惑しています。
ですから、私は、自分のしたことを喜ぶしかありません。しかし、たとえ出来事が別の方向へ進んでいたとしても、後悔することはできなかったでしょう。
外務大臣は、毎日、自国政府の名で約束をすることを求められます。多くの場合、同僚に相談せず、国王の命令を仰ぐこともなく、自分一人で約束するのです。その言う言葉は、一つ残らず、すぐに拾われ、ヨーロッパの四方へ送られます。その言葉は、誠実であるだけでなく、確実なものでなければなりません。率直さだけでなく、現実としても、それを当てにできなければならないのです。大臣には、約束したことを守る意志だけでなく、力も必要です。さて、外務大臣が、政府の名で与えた約束を、両院に尊重させられる立場にないと、正式に明らかになった瞬間、大臣は退かなければなりません。国の利益がそれを求め、その人自身の名誉がかかっています。アメリカとの条約の否決に最も強く寄与した理由の一つが、政府は内心では、議会に押し切られることを喜ぶだろうという見方だったからこそ、私は、この恥ずべき言い分に、最も明白な否定を与えることを、ためらえなかったのです。
さらに別の理由も、私に選択の自由を残しませんでした。議会は、自分のすることがどこまで影響を及ぼすか、わかっていませんでした。何を言われても、条約を否決するのは、まったく単純なことだと信じていました。地方の利益に関する法律の修正案を扱うように、条約を扱ってよいと考えていたのです。その結果を警告する私は、いわば、大げさに値をつり上げているのだと思っていました。議会の採決に、自分の閣僚としての存続、そして、おそらく内閣全体の存続も結びつけると告げるのは、一つの言い方にすぎないと思っていました。議会は私を、まるでスールト元帥のように、退くと脅しておきながら、結局は議会がどんな処遇をしても受け入れる人物だと思っていたのです。私は、その逆を証明し、この世には、軽率に扱って無事で済むものではない事柄と人物があることを、議会に知らせるのを、ためらえませんでした。教訓は厳しく、数日間、多数派の不安は、たいへん大きなものでした。この不安が実を結ぶことを、期待しています。ともかく、今、議会は自分の行動をたいへん恥じており、条約は、今であれば、五分の四の票で可決されるでしょう。
公爵殿、あなたは、いつも、特にこの十八か月間、私にたいへんよくしてくださいましたので、私を導いた理由を、お知らせしたいと思います。後任については、あなたも私と同じくらい、よくご存じです。国王と同僚たちは、いわば、私自身が彼を指名することを要求しました。あなたのお導きと助言のもと、私がこれまで従ってきた行動方針を、彼が続けることは、完全に確信しています。それは、彼の固い決意です。彼には、多くの才知と手腕があります。私に心から愛着を持っていると思います。いや、そのことは確信しています。私が行えた、よいことはすべて、彼も行うでしょう。そして、私よりもうまく行うでしょう。デュシャテル氏が商務大臣となったことで、そのための手段が与えられるからです[190]。私は、この若い人のすぐれた原則と意向に、フランスとイギリスの同盟をいっそう緊密にするため、大きく期待しています。たいへんすぐれた知性の持ち主です。私の唯一の、真の悲しみは、あなたとの、また、あなたを通じたイギリス内閣との、日常の関係が途切れることです。その内閣には、私の友人たちがいます。彼らが、私を多少なりとも覚えていてくれ、私が入閣したときも、在任していたときも、退くときも、彼らの私について抱いた評価を損なわなかった、と見てくれることを、期待しています。
公爵殿、どうか、ディノ夫人に私のことをお伝えください。そして、私の誠実で変わらぬ献身を、永遠にお頼りください。」
リニー伯爵提督からタレーラン公へ。
「パリ、一八三四年四月六日。
公爵殿、
政治の嵐が、まったく私の意に反して、自分の力量の不足を認める舞台へ、私を投げ込みました。そこで何が待っているか、予見しています。
私の抵抗する気持ちを克服させるためには、私が閣下ご自身にとって不快な人ではなく、閣下の周囲でも、悪く見られることはないだろうと、幾度も言って聞かせる必要がありました。
逃げ場のない窮地に追い込まれ、同僚たちに迫られ、私が断れば、国王には絶望的な手段しかないことを見て、私は、この重荷を引き受けました。間もなく始まる急を要する討議を思うと、この重荷は恐ろしいものに感じられます。
閣下の支持と助言を頼りにすることを、お許しください。その保証をいただけば、勇気づけられるでしょう。そして、私には、その励ましが必要です。
今日は、この数日間の細かなことをすべてお伝えすることはできません。しかし、正式な通知に、新たな敬意の表明を添えるのに、一瞬も失いたくありませんでした……」
タレーラン公からブロイ公へ。
「ロンドン、一八三四年四月七日。
親愛なる公爵へ、
あなたの退任ほど、名誉あるものはありません。しかし、この考えだけで十分に満足できるのは、あなただけでしょう。私たちには、なお大きな惜別の思いが残ります。イギリス内閣全体の感じている惜別の思いは、あらゆる形で言葉や態度に表れています。私個人の思いと、心からの友情を、あなたが疑われることはないでしょう。どうか、ブロイ夫人に、私の温かい、敬意を込めたご挨拶をお伝えください。
では、また……」
「ロンドン、一八三四年四月十日。
親愛なる公爵へ、
六日付のすばらしいお手紙は、あなたが今、政務を退かれることへの、私の惜別の思いを、さらに強めました。しかし、その手紙は、私に大きな喜びの機会も与えてくれました。グレイ卿、ブルーム卿、ホランド卿に読んでもらい、その手紙が彼らに与えた、鮮明で深い印象を見ることができたのです。三人とも、そのなかに、あなたを尊敬するための新たな理由と、こちらですでに高く評価され、重んじられているリニー氏の名を、好意的に受け入れるための新たな理由を見いだしました。わが政府の方針、感情、原則が変わらないことについて、あなたが伝えてくださったことを、彼らは喜んで受け止めました。親愛なる公爵、公共の利益のためにも、あなたご自身の満足のためにも、このことをお知りになるのを、あなたは、私がそれを確言できるのと同じくらい、うれしく思われるでしょう。私へのお手紙を、まったくやめてしまわないでください。ご自身の消息をお知らせになる際には、ときどきフランスについてもお話しください。あなたの手紙は、私にとって、たいへん役に立つことがあります。お暇なときに、お書きくださるようお願いします。
心からの温かい友情を込めて。
追伸。これから申し上げることは、ご自分だけの秘密にしておいてください。あなたのすばらしく有益なお手紙は、ウィンザーにも行き、あらゆる点で、すばらしい効果を生みました。」
タレーラン公からリニー伯爵へ。
「ロンドン、一八三四年四月七日。
伯爵殿、
確かに間接的な形ではありますが、国王が閣下を外務省の指揮に任じられたと、今、知りました。この知らせが私に与える喜びをお伝えするのに、正式な確認を待ちたくありません。イギリス政府にも、同じ効果を与えることを、私は疑いません。また、イギリス国王陛下との、さまざまな会話でうかがった、閣下についてのご意見から、現在の状況では、国王のこの人選が、イギリス国王ご自身にとって、たいへん喜ばしいものであると、確信しています。
イギリスの閣僚たちは、まだ町に戻っていません。したがって、ブロイ公が第二十六号と第二十七号の外交報告で、私に託した問題について話すため、今日、パーマストン卿に会うことはできません[191]。これらの報告のなかで、スペイン、ポルトガル、ドイツ連邦議会に関することについて、私の働きかけの結果を、順次、必ずお知らせします。しかし、閣下の十分なご注意に値すると思われる問題へ、そのご注意を向けるのに、時間を失いたくありません。私の言うのは、トルコの情勢と、とりわけ、この件についての、私たちとイギリスの関係です。
伯爵殿、閣下は、ギリシャの群島で、たいへん名誉ある重要な指揮官の任務を、長く果たされました。東方の各国の利益と状況について、深い知識を得られました。また、数年来、政府で占めておられる地位によって、フランスのすべての政治的関係について、情報を保ってこられました。ですから、閣下の記憶に完全に残っている事実と出来事を、私が繰り返す必要はありません。そこで、より最近起こったことだけを、取り上げましょう。
先の十二月二十四日、ブロイ公にお送りした外交報告を、取り寄せてお読みいただければ[192]、私がイギリス内閣に提出した、防衛同盟条約案の説明を見いだされるでしょう。このフランスとイギリスの条約は、私の意見では、ヨーロッパの現状の維持を基礎とすべきもので、東方問題だけでなく、ほかから生じうる、あらゆる複雑な事態にも適用できるという利点を持っていました。今挙げた外交報告に、その詳しい説明が含まれています。提案は、イギリス政府に受け入れられませんでした。そして、そのときは、それを通すために強く求めるべきではありませんでしたが、私は、その有益さを、なお確信し続けていました。
その時から、三か月以上が過ぎました。その間に起こった出来事は、私たちの構想したような防衛同盟条約が、フランスだけでなく、イギリスにとっても、いわば必要なものとなったという私の意見を、いっそう確かなものにするだけでした。実際、イギリスの議会とフランスの代議院の討議は、ロシアの説明も、オスマン政府の説明も、完全には鎮めることのできない不安を、明らかにしました。一方では北方の政府が、他方では新聞や雑誌が、フランスとイギリスの間にある緊密な結束を、破るか、少なくとも弱めるために、努力を倍増させています。そして、これらの試みが、この国で幾らかの影響を及ぼしたことを、認めなければなりません。フランス内閣に起こったばかりの変更も、すでに同じ意味に解釈されています。こうした理由をすべて合わせて、私は、先の十二月の成果のなかった試みを、今、再び行い、イギリスに、私たちとの防衛同盟条約の締結を提案することが、有益だと考えています。
それは、まず、ロシアに接近するため、イギリスとの同盟から退いたと、私たちを非難する人々への、最善の返答となるでしょう。また、もしイギリス内閣が、たまたま、私たちの誠意について不信を抱いたのであれば、それを払拭する最善の手段ともなるでしょう。
イギリス政府が、今回は、よりよい考えに導かれて、私たちの見解を受け入れるならば、大きな利益を得ることは、疑いありません。両政府の同盟条約は、ヨーロッパでの私たちの立場を固めるでしょう。それは、すべての者に、安全と平和の維持の保証を与えるでしょう。私たちを引き離そうとする、他の内閣のすべての策謀を終わらせるからです。
伯爵殿、国王の政府をこの道に置くことで、私は、ヨーロッパで政府を孤立させるつもりも、正当であれ不当であれ、イギリスのすべての争いを引き受けさせるつもりも、まったくないことを、どうか十分にご理解ください。そのような結果は、私の考えの、まったく逆です。両国の結束を明白に示す証しは、他の内閣を、私たちに近づける方向に働くにすぎないと、私は深く確信しています。それらの内閣は、既成の事実を受け入れざるをえなくなり、自らに及びうる結果を弱めることに、いっそう価値を置くようになるからです。
今示した考えが、私にとってと同じくらい、閣下の心を動かし、国王の政府に、イギリス政府との同盟の新たな試みを決意させるだけの価値を持つならば、グランヴィル卿に、さらに、パリ滞在中のダラム卿にも、遅滞なくそのことをお話しになる必要があるでしょう。私の側でも、閣下から許可をいただいた後は、こちらで提案を通すため、何一つ努力を惜しみません。その場合には、条約に盛り込みたいとお考えの条件の、全般的な案を、私に送ることも必要になると、よくご理解いただけるでしょう。
いずれにしても、コンスタンティノープルのルサン提督の後任を、急いで選ぶことを[193]、また、その人選を、有能で慎重で、政務に熟達した人物に向けることを、閣下に強く求めるのを、お許しください。それによって、ポンソンビー卿のコンスタンティノープルへの出発が遅れた際に、イギリス内閣が受けたような非難を招くことを、避けられるでしょう……」
「一八三四年四月九日。
昨日、閣下からの外交報告を受け取りました。そして、フランス内閣に起こったばかりの変更について、そこに含まれる説明を、パーマストン卿とグレイ卿との会話に、すぐに用いることができました。この説明は、二人の閣僚に、たいへん好意的に受け入れられました。一昨日の外交報告で、私がすでに予見していたように、両者は、閣下の外務省への就任が、国王の政府は、これほど有利な成果を得てきた、同じ穏健さと毅然さの方針を続けるという保証を、自分たちに与えると判断しました。
パーマストン卿との会談では、オスマン政府の最新の覚書が話題になりました。卿は、この点について、イギリス政府が最終的な決定を何も行っていないことを知らせ、この問題を、なおしばらく休ませておき、後になって、コンスタンティノープルか、ほかの場所で必要となりうる働きかけを、私たちで協議するのが有益だと考えた、と述べました。一昨日の私の外交報告への、閣下の返答を知る前に、この点を強く求めたくはありませんでした。
……最近到着したフロリダブランカ伯爵が、私と同時にパーマストン卿のもとにいたことで、半島の状況について卿に話す、自然な機会が得られました。卿は、ポルトガル公使サルメント氏がマドリードに到着した後、同地で起こったことについて、ブロイ公の第二十六号の外交報告の内容と、ほぼ一致する詳細を伝えてくれました[194]。それでも、ヴィリアーズ氏は、ドン・ミゲルに対する、スペイン政府の率直で公然とした宣言を、マルティネス・デ・ラ・ロサ氏から得ることを、まだ断念していなかったようです[195]。パーマストン卿は、フロリダブランカ氏に、自国宮廷へ、同じ方向で書くよう求めるつもりでした。そこで私は、ハワード・ド・ウォールデン卿が、最近、ドン・ペドロの政府に行った通告について、卿に尋ねることができました[196]。パーマストン卿の返答によると、ポルトガルの平定計画は、リスボンで推測されていたほど進んでいないということです。また、モルティエ氏がわが外務省へ送った各条項は、イギリス公使が、ドン・ペドロの政府を打診するよう命じられた点を、示したものにすぎないということでした。イギリス内閣は、ポルトガルの閣僚たちへの非公式な働きかけに、依然としてとどまることを望んでおり、半島への派兵によって干渉することからは、まだ遠いというのです。
パーマストン卿のこの言明が、どこまで真実かは、私にはわかりません。今は手元にない、ほかの手段によって、その正確さを確かめるよう努め、その調査の結果を、閣下にお伝えします……」
リニー伯爵からタレーラン公へ。
「パリ、一八三四年四月十日。
公爵殿、
ご親切なお言葉に、深く感謝しています。閣下の助言と支持が、どれほど必要かは、よくわかっています。これからも、常にそれをお願いするでしょう。
メゾンの外交報告は、イギリスに対するロシアの苛立ちが、増していることを示しています。私が間違っているのかもしれませんが、この状況によって、イギリス内閣は、閣下がある時期に抱かれた考えを、よりよく理解するようになるのではないでしょうか。ウィーンの新しい会議も、その考えを再び活気づけるかもしれません。
私たちの国内事情は、リヨンで起こっていることの影響を受けるでしょう。今朝、知らせを待っています。昨晩の知らせでは、軍が本格的に攻撃し、バリケードを奪ったということでした[197]。ストラスブール、ディジョン、シャロンで企てられていたことを防ぐために、この成功が続くことは、絶対に必要です。その後は、結社法の施行が、より容易になるか、あるいは必要性が薄れるでしょう。
会期は、おそらく五月十日ごろ、速やかに終え、選挙は六月に行われるでしょう。デュパンは、その時期まで待つことにしています。
軍隊の存在が、なお抑えていなければ、ブリュッセルの騒ぎは、再び始まるでしょう[198]。ラトゥール=モブールは、ブリュッセルのこの無関心な市民たちに、多少の衝撃を与えるためには、新たな騒乱が必要とする、何らかの働きかけについて、サー・ロバート・アデアと協議できることが必要だと考えています。そのために、イギリス公使と協議することを、許可されるでしょう……」
ブロイ公の閣外への退任が、フランス政府にもたらした困難を、ようやく乗り越えたかどうかというとき、激しい蜂起がリヨンに、続いてパリに起こった。それを鎮圧するため、速やかにあらゆる手段がとられ、私は、成功することを疑わなかった。しかし、この嘆かわしい出来事は、ロンドンでの私の交渉を容易にする性質のものではなかった。このような事件が、外国の政府に信頼を抱かせるには、いかに不向きかを、これらの回想のなかで、すでに幾度も確かめる機会があった。このときも、半島の情勢によって、イギリス政府が、私たちに接近せざるをえない立場に置かれていなければ、おそらく、さらに不幸な結果を受けていただろう。これから読む書簡は、この見方を裏づけるものだと思う。
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ。
「パリ、一八三四年四月十一日。
公爵殿、
この十五日間、心痛は、私たちを休ませてくれません。内閣の問題に、リヨンの問題が続きました。今朝届いた知らせは、完全な成功を告げるものですので、急いでお伝えします。軍隊は、すべての拠点を押さえています。九日の晩、知事が知らせてきたところによると、結果は確実です。しかし、このような勝利については、その犠牲となる不幸な人々のことを、常に嘆かなければなりません。蜂起した人々は、まだ幾つかの小さな街路に退き、囲まれていました。しかし、そこで意のままに捕らえられるでしょう。持ちこたえることは不可能です。彼らは、リヨンの次の中継所の腕木通信機を壊しに行ったようです。昨日の朝から、腕木通信による報告がないので、そう推測されています……」
タレーラン公からリニー伯爵へ。
「ロンドン、一八三四年四月十三日。
伯爵殿、
パーマストン卿は、ある問題について話すため、今朝、自分のもとへ来るよう、私を招いていました。その問題は、私たちの十分な関心に値すると、卿は書いていました。かなり長かったこの会見から、今戻ったところです。急いで、その内容をお伝えします。
パーマストン卿は、数日前、スペインの新しい公使フロリダブランカ伯爵から、覚書を受け取ったと告げました。卿が見せてくれたこの覚書には、スペインの現在の状態の説明と、ドン・ミゲルとドン・カルロスに対し、共同で積極的に戦争を行うことで、半島に広がった動揺を終わらせるため、イギリス政府がスペイン政府と結びつくことを求める申し入れが含まれています。これは、ポルトガルにおける、イギリスの武力干渉を正式に求めるものです。
パーマストン卿は、この文書を私に読ませた後、ロンドン駐在のポルトガル公使サルメント氏も、マドリード内閣のこの働きかけを支持したと、付け加えました。確かに口頭ではありましたが、イギリスの武力干渉の必要を、同じように強く求めたということです。
パーマストン卿は、私にこう言いました。
『スペインとポルトガルからの、この同時の要求を前にして、
イギリス国王陛下の政府は、情勢によって命じられる方針をとることを、これ以上遅らせられないと考えました。そして、私は、フロリダブランカ氏とサルメント氏の打診に、イギリス、スペイン、ポルトガルの間で署名すべき条約案をもって答えるよう、命じられています。この条約によって、スペインは、自分の力の及ぶ、あらゆる手段を用いて、ドン・カルロスとドン・ミゲルのポルトガルからの追放を積極的に進め、この目的が達せられればすぐに、ポルトガル領から撤退することを約束するでしょう。ドナ・マリアの政府は、その側で、スペインの企てに協力し、争いの終わりに、ポルトガルでの大赦と、ドン・ミゲル王子への適切な給付を与えることに同意するでしょう。最後に、イギリスは、スペイン軍とドン・ペドロの軍を援助するため、ポルトガルとスペインの沿岸へ艦船を送ることを約束するでしょう。ただし、半島のどの地点にも、イギリス軍を上陸させることを、決して求められないという制限を付けます。』
パーマストン卿は、続けました。
『すでに起草されたこの条約案には、
さらに、三国が協議して、フランスに参加を提案するという条項が含まれています。そのために、私は、ここへお越しになるようお願いしたのです。この提案について、閣下の意見を知り、ここで問題となっている条約に、参加する意向がおありかを知るためです。』
伯爵殿、私は、一瞬もためらわずに、パーマストン卿に答えました。イギリス自身が、私が先の十二月末に提案した種類の条約に署名し、今後、ほかのすべての条約が、その自然な帰結にすぎなくなることに同意するならば、わが政府は、このような条約への参加を拒まないでしょう。しかし、私自身としては、一方なしに他方はありえないと考えます。そして、国王の政府を相対的に劣った立場に置く協定に、参加するのを思いとどまらせるため、あらゆる努力を払うでしょう、と述べました。
この意見に対して、パーマストン卿は、ポルトガルに対するイギリスの立場が、私たちの立場とは、まったく異なることを、私たちも知らないはずはないと述べました。イギリスは、ポルトガルと特別の諸条約で結ばれており、この理由が、私たちのこの取り決めへの関与の度合いが異なることを、説明するというのです。
しかし、今度は私が、私たちとスペインの関係も、同じであることを指摘しました。私たちは、この国と、隣国として、国境について、王家の関係について、共通の利益を持っています。そして、どの観点からも、私たちの尊厳にも、ヨーロッパでの影響力にも、ふさわしくない役割を演じることで、それらの利益を、明らかに危うくするでしょう、と述べました。
そこで私は、イギリス政府に、フランスとの全般的な防衛同盟条約の署名を決意させるはずの、あらゆる強い論拠を、再びパーマストン卿に示しました。その条約から、半島の平定のための、完全で最終的な取り決めを導くことは、この上なく容易なのです。卿は、わが内閣と約束を結ぶことで、イギリスが冒す危険を盾に、退こうとしました。卿によると、わが内閣の存立は、まだ確実でなく、次の選挙の後には、維持できないかもしれないというのです。しかし、それは無駄でした。私は、後に別のイギリス政権を相手にしなければならなくなるかもしれない私たちにとっても、危険は同じだと答えました。それに、今日のように構成されているフランス政府は、イギリスに対する政策を決して変えられません。そして、その形態が変われば、その事実そのものによって、イギリス政府は、別の状況のもとで結んだ約束から解放されるでしょう、と述べました。このようにして、私は、見かけの上でも、実際にも、取るに足りないと思われる、この最後の異論に反駁しました。
しかし、パーマストン卿の打診を完全に退け、半島の平定を期待できる取り決めに反対しているのは、私たちだという疑いが、マドリードに届くようにはしたくありませんでした。そこで、私の案が、卿の政府に完全に退けられるならば、卿の案と私の案の中間の道をとることを、最後に提案しました。この手段は、フランス、イギリス、スペイン、ポルトガルの四国の条約とするものです。各国が、自分に属する行動の役割を保つように、この協定を起草することは可能だと、卿に理解させました。
私たちの会話は、この点で終わりました。卿は、閣議へ赴くところであり、私たちの間で話されたことを、正確に報告すると約束しました。しかし、私の構想したような同盟条約には、個人的に多くの異論があることを、隠しませんでした。私は、この条約が、ヨーロッパの平和にとって必要だったことが、日ごとに確かめられるのではないかと恐れているだけに、それをいっそう強く残念に思う、と答えました……」
「四月十四日、午後十時。
昨日お伝えしたとおり、パーマストン卿との私の会話の後、閣議が開かれました。私の提案した形での、イギリスとフランスの全般的な防衛同盟条約は、イギリスの閣僚たちに採用されませんでした。この点について私の示した理由の強さを、どれほど認めているように見えても、そうだったのです。彼らは、イギリス、スペイン、ポルトガルの宮廷の間で結び、私たちには参加を提案するという、条約案を維持しました。
今日、私はパーマストン卿に二度会いました。最初の会見で、卿は、自国政府の決定を伝えました。前日、私たちの間で再び話題になった防衛同盟条約については、その方向には、成功の希望をもう保てませんでしたので、それ以上、強く求めたくはありませんでした。ですから、卿が今、知らせてくれた条約案に、考えを絞りました。その案を卿と討議し、そのままの形では署名することを拒みました。私の述べた意見に応じて、卿は、案に、私の求める変更を加えるため、同僚たち、また、スペインとポルトガルの公使と、再び協議しなければなりませんでした。この変更によって、フランスは、条約に同意して加わるだけの国ではなく、条約を締結する当事国となるのでした。この譲歩を得るまでには、長い争いを続けなければならなかったことを、お伝えすべきでしょう。
先ほど、再びパーマストン卿に会いました。卿は、新しい案を渡してくれました。その写しを、閣下にお送りします。
私は、この案が国王の政府の承認を得るとは、約束していません。ただ閣下に送ることだけを約束しながら、幾つかの変更を加えさせました。とりわけ、第四条の一部について、二通りの文案が示されていることに、お気づきになるでしょう。フランス政府が、私のこの条約への署名に同意する場合には、第四条の二つの文案のうち、より満足のゆくほうを選ぶことが、取り決められました。現在の状態では、国王の政府が、この条約に、そのままの形で入ることに、真の困難は見いだせない、と認めます。むしろ、大きな利益を与えるように思われます。
この単純な報告に、考察を添える時間はありません。急使の出発を遅らせることはできません。グランヴィル卿は、閣下と協議するための指示を受けています。ですから、承認を与えるか、拒むかの理由を、卿にお知らせになれるでしょう。
お伝えすべきことがあります。フロリダブランカ氏とサルメント氏は、自分たちの指示と完全には一致しない、この条約に、自分の責任で署名することとして、パリのスペイン大使にも、ポルトガル公使にも、それを知らせないよう求めました。そして、それは約束されました。マドリードかリスボンで、時期尚早の公表が行われれば、条約の成功が危うくなると、彼らは恐れています。フランスとイギリスの全権代表が署名すれば、もう批准を拒むことはできなくなる、と彼らは言っています。
こちらでは、結果に至ることを、たいへん急いでいますので、最初のご返答を、できるかぎり速やかに、腕木通信でお送りくださるようお願いします。」
「一八三四年四月十五日。
……今朝、リーヴェン公は、ペテルブルクから受け取ったばかりの外交報告を、私に読んで聞かせました。そのなかで、ネッセルローデ伯爵は、東方問題について、イギリスとフランスが最近与えた説明に、ロシア帝国政府は完全に満足していると、公に伝えています。副宰相は、また、この数か月間、不幸にもこの問題について生じたすべての議論を、忘却に委ねたいという希望を示し、自分の主君である皇帝は、その記憶を保つことを、まったく望んでいないと、保証しています……」
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ。
「テュイルリー、一八三四年四月十四日。
親愛なる公爵、昨日、リヨンではすべてが終わったと、あなたに書いたときには、その数時間後、パリの一角にバリケードができるとは、ほとんど思ってもいませんでした[199]。どのバリケードも持ちこたえなかったのですから、それは、殺人を行うための罠にすぎませんでした。殺人者と卑怯者の一団が、パリに放たれたのでした。私たちは、恐ろしい夜を過ごしました。そして、今まで、私たちの大切な国王、シャルトル公、ヌムール公の巡回の間、残酷な不安にさらされていました。二人の公爵は、今朝、サン=マルタン街へ行き、これらの恥知らずな者たちが、一軒の家の窓から、二人に発砲したのです。ありがたいことに、今では、すべて終わりました。代議院は、先ほど、議員一同で国王のもとへ来て、議長を通じて、憤りを示し、国王ご自身への愛着を、改めて表明しました。貴族院も来るところです。住民は、すばらしい態度で、憤っています。国民衛兵も正規軍も、見事でした。不幸にも、そのなかには、これらの怪物たちの犠牲となった人々がいます……」
リニー伯爵からタレーラン公へ。
「パリ、一八三四年四月十四日、十一時。
公爵殿、
十一時です。一晩中、武器を手にして過ごしました。蜂起した人々は、家々に立てこもり、軍隊に対して、各自で発砲しています。それは、個別の殺人へと変わっています。それ以外に組織された抵抗はなく、砲兵を使うこともできませんでした。軍隊と国民衛兵は、特に幾人かの将校を失いました。将校が選んで狙われるからです。ですから、公共の危険はなく、個々人への殺人があるのです。今日も、このように過ぎるでしょう。兵士たちは、極度に激昂しており、入った場所では、どこでも容赦しませんでした[200]。今、私たちは、両院へ提案する幾つかの措置を、審議しています。
リヨンでは、すべてがほぼ終わっています。そこでは、血なまぐさい処刑がありました。シャロン、ディジョン、サン=テティエンヌには、幾らかの試みがありましたが、どこでも軍隊は揺らぎませんでした。パリの国民衛兵も、同じでした。しかし、ほかの場所では、同じことは言えません。
全体として、この出来事、あるいは、これらの出来事は、政府に多少の力を与える性質のものです。速達使が出発する時刻まで、引き続き、状況をお知らせします。」
「同日、午後三時。
街路では、すべてがほぼ終わっています。まだ幾つかの家を捜索しています。一つずつしか集められない、多くの詳細をお伝えすることはできません。
これを利用して、これほど大きく揺らいでいるすべてを固めるための手段に、私たちは、たいへん忙しく取り組んでいます。不幸にも、新聞に対しては何もできません。明日、何かを両院へ提出するでしょう。何を提出するかは、今晩にならなければ決まりません。おそらく、陸軍兵力の増強となるでしょう。
軍隊と国民衛兵は、極度に激昂しています。あらゆる方面に急使を送り出しています。至る所で予防しなければならないからです。これほど短く、慌ただしいことを、お許しください……」
タレーラン公からリニー伯爵へ。
「ロンドン、一八三四年四月十七日。
これまでの私の外交報告によって、私たちとの防衛同盟条約の締結に導くため、イギリスの閣僚たちに自ら働きかけ、閣下が第三十号のお手紙で示された指示に、先んじていたことを、ご覧になったでしょう。半島の問題に関する条約という機会は、とらえずにはいられないほど重要に思われました。そして、私の試みが成功しなかったとしても、少なくとも、国王の政府の尊厳を損なわなかったことは、確信しています。四国の条約への署名を提案されたときには、政府の指示を受け取る時間がなかったのです。こちらでは、この最後の条約について、閣下が下された決定を、待ちわびています。今朝会った、すべての閣僚は、この件について熱心に私に尋ねました。私は、速やかな決定を約束するしかありませんでした。
リヨンとパリの出来事が、たいへん気にかけられており、今のところ、他のすべての関心をかき消しています。私は、第三十一号の外交報告に含まれる情報を、すでに利用しました。リヨンで行われたような暴挙の、速やかで力強い鎮圧から、おそらく他のいかなる国以上に、イギリスが得るであろう利益を、理解させるのは容易でした。数日前から、イギリスの幾つかの工業地区の労働者の間に、かなり深刻な動揺があり、フランスで私たちが滅ぼそうとしているものと、同じ性質の結社によって生じているだけに、その効果は、こちらで、いっそう有益となるでしょう。幾つかの新聞や雑誌が、何と言おうと、こちらで重みを持つ世論は、この件で私たちの側にあると、お伝えできます。賢明な人々は、まずフランスを無秩序に陥れることで、ヨーロッパの平和を乱すことしか求めない者たちの革命的な意向を抑える、国王の政府の努力を、ありがたく思っています……」
リニー伯爵からタレーラン公へ。
「パリ、一八三四年四月十七日、四時。
公爵殿、
明確な承認の代わりに、意見をお送りすることは、私にとって、困惑であるとともに、悲しみでもあります。
同僚たちの間には、多くの懸念がありました。本質についてではありません。防衛同盟という閣下の考えは、全員に採用されています。形式についての懸念です。国王も、その懸念を共有し、条約の途中で再び現れる前文に自分の名が置かれていることを、不本意に思っておられました。
この協定が、しばらくの間、どれほど秘密に保たれても、嗅ぎつけられるでしょう。そして、第五条から、三宮廷の要請に応じて、私たちが武器と兵士を提供することが、あまりにはっきり見えるならば、何を言われうるかは、おわかりでしょう。確かに、閣下の文案によって、私たちが約束を負うわけではありません。しかし、結局、そのことで非難されかねないのです。その非難は、不当ではありますが、この協定の効果を、そこから得るべき成果そのもの、すなわち、イギリスとの、より明白な結束という点で、弱めるでしょう。
最初の譲歩を得るため、閣下が乗り越えなければならなかった重大な困難は、こちらでも十分に認めています。その時期は、私たちに不利でした。将来も同じように見えました。リヨンの情勢、パリの情勢、人々の印象、すべてが逆風でした。今日、状況はよくなっています。しかし、公爵殿、それを利用できると、あえて申し上げられません。ロンドンでは、私たちがこちらで自らを評価するようには、まだ評価されていないかもしれないからです。
これらすべては、選挙に著しい影響を与えるでしょう。こうした動揺によって脅かされているのは、とりわけ選挙権を持つ市民階級だからです。その人々は、それを感じています。そして、その効果は、パリでは疑いありません。ですから、議会の終了と召集を早めることができれば、体制は強まるでしょう。これが、思慮深い人々の意見です。
今、グランヴィル卿と別れたところです。今朝、評議会で述べられたのを聞いた、すべての理由を、卿に伝えました。卿は、私たちの速達使に託して、パーマストン卿へ書いています。私たちの理由を理解したように見えました。
正式の外交報告では、パーマストン卿に見せられるように書くことで、閣下のお助けとなるよう努めました。
私たちの考えの本質を採用したうえで、対案で同じ位置に残る二つの条文の文案を、変更したり、別の言い回しにしたりするだけであれば、公爵殿、事の緊急性から、この場合に、それらをこちらへ再び送る義務があるとは、お考えにならないことを、理解します。
これは急ぐことであり、スペインに対するイギリスの行動を、単独で進ませてはならないと、私たちは見ています。私たちは、マルティネス・デ・ラ・ロサの以前の覚書を利用しました。これは、ギリシャ政府の要求によって、私たちも参加した、ギリシャに関する一八二七年七月六日の条約の際に起こったことを、ほぼ思い出させます。
結局、どのようなものであれ、条約は北方で騒ぎを起こすでしょう。国内で、私たちにとって弁護できるものにすることができれば、私たちは、それを恐れません。公爵殿、閣下だけが、この問題を解くことができます。そして、国王は、閣下の高い影響力とご配慮に、信頼して身を委ねておられます……」
タレーラン公からリニー伯爵へ。
「ロンドン、一八三四年四月十九日。
伯爵殿、
昨日、十七日付でお送りくださった腕木通信の報告を、そして今朝、四国の条約の修正案を添えた、第三十二号の外交報告を受け取りました。
昨日は、閣下の腕木通信の報告によって、三宮廷の全権代表の焦りを、かろうじて抑えました。彼らは、閣下の同意は疑いないと、思い込んでいたのです。
今朝、急使が着くとすぐに、グランヴィル卿からパーマストン卿に宛てられた包みを送り、午前中の会見を求めました。卿は、一時間後、手紙で返答しました。私が出会うはずの反対の性質を、閣下にお判断いただくため、その写しをお送りしました。三七七ページ、第一号の文書をご覧ください。私は、卿の示した時刻に、そのもとへ赴きました。この件について、卿が熱くなっていることを、どれほど覚悟していても、その手紙から予想させられた以上に、卿は熱くなっていました。思いがけない困難が、私の困惑を増しました。パリから、国王の政府は、私が送ったとおりの条約を承認しており、私の述べる異論は、私一人から出たものと見てよい、と書き送られていたのです。そのため、私は、閣下の第三十二号の外交報告を用いなければなりませんでした。その一部をパーマストン卿に読み、含まれる考えを展開しながら、閣下の課された条件でしか署名しないという決意を、はっきりと盾にしました。私個人に関わる指摘については、それが正確ではありえないと述べました。この条約のなかで、フランスに関するすべては、世論の領域に属するため、私の置かれた立場では、その不都合を判断できなかったからです。それを評価できる状態にあったのは、国王の政府だけでした。
私がパーマストン卿と別れたとき、卿は閣議へ向かっていました。そこでは、討議がたいへん激しく、私たちの意見は、容易に受け入れられなかったと知りました。この閣議の後、私は、パーマストン卿とグレイ卿のもとへ、順に赴きました。両者とも、私たちの異論の重要性を、納得しているようには、まだ、ほど遠い態度でした。しかし、二時間以上の会話の末、ようやく、条約の文案に大きな変更が行われることを、得ました。晩に受け取ったパーマストン卿の手紙と、それに添えられていた覚書の写しを、お送りします。第二号と第三号の文書をご覧ください。これによって、すでに私の得た進展を、おわかりになるでしょう。前文は、もう一つだけとなり、そのなかで、スペインに対して、フランスとイギリスは、同じ立場に置かれていました。伯爵殿、これは、私の目には、そして、おそらく閣下の目にも、最も重要な点でした。しかし、まだ二つの困難が残っていました。条約のなかで、私たちに関わる条項は、ポルトガルの大赦と、ドン・カルロス王子への給付に関する条項の後、末尾に追いやられていました。しかし、より重大なのは、その条項を、次のように書こうとしていたことです。
『フランス国王陛下は、本条約によって目指す目的を達成するため、陛下と他の三締約国の共通の合意によって定められる援助を、それらの国から、その実施を求められたときに、提供することを約束する。』
先ほど、条約案を返送して、パーマストン卿に書きました。
『それらの国から、その実施を求められたときに』
という言葉は、同じ条文のなかで同じ考えを繰り返すものなので、削除を求めました。また、ほかにも幾つかの訂正を要求しました。午後十一時ですので、返答を得られるのは、明日の朝になります。そのため、おそらく明日中には終わるであろう交渉の、最終的な結果をお知らせするため、急使の出発を遅らせることにします。」
「四月二十日。
今朝、パーマストン卿から、その写しを添えた短い手紙を受け取りました。第四号の文書をご覧ください。私は、昨日求めた言葉の削除、あるいは、少なくとも条文の別の文案を、なお強く求めると、急いで答えました。卿は、先ほど、この外交報告に添えた条約の写しに見られる文案を、送ってきました[201]。私は、それを採用しました。不都合がないと思われ、また、礼節を守って提起できる困難の、限界に達していたからです。お送りする形で、条約は確定したと見ていただいてかまいません。ウィンザーにいる国王の承認に付し、四つの言語で清書しなければなりません。そのため、明日にも、まだ署名できないのではないかと、懸念しています。署名されしだい、お送りします。しかし、スペイン公使がマドリードに届ける時間を得る前に、同地で知られることを恐れますので、広めないでください。
パーマストン卿の手紙をお知らせしたのは、交渉の進み方を正確にお知りいただくためだけであることを、申し上げなければなりません。これらの手紙は、完全に秘密にしておくことが、きわめて重要です。この点について、ほんのわずかでも不注意な漏洩があれば、イギリスとの私たちの関係を危うくし、こちらでの私の立場を、極度に不快で困難なものとするでしょう。お読みになった後、手紙の写しを破棄してくださることを、閣下にお任せします。」
前の手紙の添付文書。
第一号 パーマストン卿からタレーラン公へ。
「スタンホープ街、一八三四年四月十九日。
親愛なる公爵へ、
今朝お送りくださった包みを、たいへん残念な思いで受け取りました。予想していなかったところで、これほど多くの困難に出会うのは、不幸なことです。問題となっている条約の原則と目的が、パリでは誤解されているようです。そして、われわれに提案されている変更は、この取り決めの性質を変える方向に向かうでしょう。
われわれの政府は、ミラフロレス氏が私に提出したものと同じ内容の覚書を、マルティネス・デ・ラ・ロサから受け取ったと、聞かされています[202]。それには、驚いていると認めます。まず、ミラフロレス氏の覚書は、そのための自国宮廷の指示に従って提出されたものではなく、私の要求によるものであり、私と氏との会話に続いて、氏が口頭で私に用いた論拠を、より忠実に同僚たちへ伝えられるようにするためのものだったからです。次に、ミラフロレス氏の覚書の目的は、何だったでしょうか。それは、ポルトガル政府が、ドン・ミゲルに対する実力による援助を、われわれに求めたことを知っているスペイン政府は、われわれがポルトガルへの派兵に同意すれば、喜ばしく思う、と伝えることでした。ドン・カルロスがポルトガルにいることによって、スペインの利益が損なわれているからです。しかし、ポルトガル政府は、閣下の側には、同じような要求を向けていません。それならば、マルティネス氏は、われわれに行われていない要求に応じるよう、どうして閣下の側に求めることができたのでしょうか。
閣下の政府は、スペイン問題へのフランスの干渉について、以前、セア氏から受け取ったように、マルティネス氏から、何らかの通告を受け取ったのかもしれません。しかし、今問題なのは、スペインの内政ではなく、ポルトガルの問題です。それでも、閣下の政府が考えているように、スペイン問題への外国の干渉が問題なのであれば、われわれは、ためらわずに宣言するでしょう。マルティネス氏が、閣下の側に、そのような干渉を求めるならば、スペインの真の利益を理解していないのであり、閣下の政府が、それを認めるならば、われわれには、フランスの真の利益を理解していないように思われます。しかし、いずれにしても、今日提案されているように、そのような要求に加わったり、条約の条文によって承認したりするどころか、すべての当事者に有害なものとして、われわれは、それに抗議するでしょう。
したがって、条約の本質について、パリで行おうとする変更は、われわれには採用できないことを、公爵殿、どうかよくご理解ください。
文案の変更については、スペインとポルトガルの公使たちも、私も、多言語の文書の調和をとるために、十分な労を費やしました。新たな仕事を課さないよう、お願いしたいと思います。時間が迫っています。宮廷の用事のために、水曜日と木曜日の二日間を失いました。そして、閣下が、そのままの文書に署名する権限をお持ちであることを、期待しています。二時に閣議がありますので、おできになるなら、一時前にこちらへお越しください。
心より、敬意を込めて。」
第二号 パーマストン卿からタレーラン公へ。
「外務省、一八三四年四月十九日。
親愛なる公爵へ、
条約案の現在の段落を、私がお送りする案の段落に置き換えることに、同意するつもりです。そうすれば、最後の条項にも、私の加えた小さな変更が行われることになります。これでご都合がよければ、この変更を国王と、スペインおよびポルトガルの全権代表に提案します。どうか今晩、ご返答ください。」
第三号 前の短い手紙の添付文書。
「この合意に従い、両摂政陛下は、フランス国王陛下とイギリス国王陛下に申し入れを行った。そして、これら国王陛下は、スペイン王国の安全に、常に持つべき関心を考慮し、さらに、ヨーロッパの他のすべての地域におけると同じく、半島に平和を確立することに寄与したいという、強い願いに動かされ、また、イギリス国王陛下は、ポルトガルとの古くからの同盟に由来する約束をも考慮して、両陛下は、提案された約束の当事者となることに同意した。」
第四号 タレーラン公からパーマストン卿へ。
「ハノーヴァー広場、一八三四年四月十九日、午後九時。
親愛なるパーマストン卿へ、
閣下の新しい案を、たいへん注意深く読みました。前文の最後の部分について、フランス内閣の文案を望まないというお考えを維持されるのであれば、この点では、閣下の見方に従います。
第六条については、まず、その位置がよくないと思います。第三条の後に来て、したがって、条約の第四条となるべきです。閣下の案の第四条と第五条は、付随的なものにすぎないからです。それに、行動を定める条文が、単にその結果を定める条文よりも前に置かれるのは、論理的であり、条約の適切な書き方でもあります。
同じ第六条について、もう一つ意見があります。それに関しては、幾語かを消すだけですから、容易に私を満足させられるでしょう。ですから、
『それらの国から、その実施を求められたときに』
という言葉を削り、単に、
『陛下と尊い同盟者の共通の合意によって定められる援助』
という言葉で終えるよう、お願いします。ここで求めている削除は、文法上のものです。最初の文案には、重複があるからです。それに、同じ考えがすでに定められている、文案全体の趣旨にも沿うものです。
私のごく小さな修正をお受けになるならば、明日、署名したいとお考えの時刻を、お知らせください。ご指示に従いましょう。その場合には、自分の責任で、内閣に照会しないことにするからです。
心より、敬意を込めて。」
第五号 パーマストン卿からタレーラン公へ。
「スタンホープ街、一八三四年四月十九日、午後十一時。
親愛なる公爵へ、
第六条の位置を移すというご提案は、たいへん喜んで受け入れます。この変更は、あらゆる点で改善になると、閣下と同じく考えます。
この条文の最後の言葉の削除については、われわれが閣下の側の敏感な気持ちに配慮したように、われわれの敏感な気持ちにも、ご配慮いただくようお願いします。これらの言葉が、条文の意味に、きわめて重要な何かを加えるわけではなく、その内容が、すでに前の部分で表されていることは、閣下と同じく認めます。しかし、われわれは、その言葉をたいへん重んじています。そして、われわれと言うとき、私が指しているのは、幾人もの人々です。条約で問題となっているのは、ポルトガルの情勢への武力干渉だけであり、この点では、われわれに先入観があることを、思い出してください。
われわれ自身については、特に招かれずに干渉しなかっただけでなく、受けた招請にも応じていません。ですから、この件で、多少原則論にこだわることを、悪く思わないでください。
閣下の短いお手紙が届いた瞬間、私は、閣下が満足されたと考えていた変更を、国王に報告しているところでした。その変更には、国王の裁可が必要なのです。しかし今は、この手紙へのご返答を待たなければなりません。したがって、ウィンザーへの急使を送れるのは、明日になります。これで、また一日が失われます。公爵殿、どうか、この案に加えられた大きな変更で、ご満足ください。この案は、今や、私の子というよりも、閣下の子と見るべきものです。
心より、敬意を込めて。」
第六号 タレーラン公からパーマストン卿へ。
「ハノーヴァー広場、一八三四年四月二十日、午前八時。
親愛なるパーマストン卿へ、
私たちの自尊心が閣下に求める、三語の削除を除いて、すべての点で合意に達しています。この問題に、閣下の側の自尊心が関わるはずはないように思われます。その三語がなくても、半島の情勢について、閣下の側と他の二国との協調によらずに、私たちが何もできないことは、明らかなままだからです。同じ条文で同じ考えを繰り返すことは、不信しか表しえないでしょう。両国の利益のためにも、両政府の相互の関係のためにも、避けなければならないのは、そのことです。条約に、ほんのわずかでも不信の跡があれば、その事実そのものよりも、結果によって危険となるでしょう。公表されたときには、閣下の国でも、私たちの国でも、反対派の人々は、必ずそれを取り上げるからです。そして、これほど大切に保つことが有益な、緊密な結束を、確かに損なうでしょう。ですから、私の主張には、私たちの出発点に一貫して従いたいという願いだけを、ご覧ください。閣下のすぐれた知性は、それを理解し、最初にいただく短いお返事が、何時に閣下のもとへ署名に行くべきかを伝えるものとなるよう、すべてを整えてくださるでしょう。指示によって重要性を与えざるをえない、これらの細事には、私も、ほとんど困惑しています。
心より、敬意を込めて。」
第七号 パーマストン卿からタレーラン公へ。
「スタンホープ街、一八三四年四月二十日。
親愛なる公爵へ、
いやはや、閣下を満足させるのは、たいへん難しいものですね! しかし、結束と信頼を示す代わりに、不信と疑いを宣言することになれば、条約の主要な目的の一つを逃すことになるという点では、閣下と同意見です。そこで、すべての当事者を満足させるように、第四条を起草することに努めました[203]。閣下にご満足いただけるものになったかどうか、お知らせください。
閣下は、条約の準備が、手紙を書くのと同じほど単純なことであるかのように、今日、署名に来ると提案されています。しかし、閣下のすべての変更を、ウィンザーにいる国王の裁可に付さなければなりません。その後には、スペインとポルトガルの公使の賛同を得て、変更をスペイン語とポルトガル語の本文に組み込まなければなりません。かなりの仕事です。
心より、敬意を込めて。」
第八号 タレーラン公からパーマストン卿へ。
「ハノーヴァー広場、一八三四年四月二十日、午後二時。
親愛なるパーマストン卿へ、
私がどれほど難しい人間であっても、閣下には降参します。今回は、まったく文法上の意見一つに、とどめます。不要な挿入句によって意味を中断しなければ、条文は、よりよいフランス語で表されると、お考えになりませんか。ですから、条文の最初の部分を途中で切り、その意味を曖昧にする、
『各締約国によって』
という言葉を、削るべきだと思います。ヴォルテール氏は、友人たちから、自分の著作に行うよう提案された、すべての変更のうち、決して後悔したことがないものは、削除だったと言っていました。私が必要なときに、お呼びください。
心より、敬意を込めて。」
第九号 パーマストン卿からタレーラン公へ。
「スタンホープ街、一八三四年四月二十日。
親愛なる公爵へ、
たいへん残念ですが、これ以上、閣下に歩み寄ることはできません。ご提案の変更は、おそらく文体を美しくするでしょうが、意味を損なうでしょう。ヴォルテールの言葉は、書物については真実です。しかし、条約については、むしろ逆を言うべきだと思います。条約が、より注意深く、より詳しく起草されていれば、国家間の多くの紛争は、決して起こらなかっただろうと、言ってよいでしょう。この条文を、そのまま国王の承認のために送ってよいでしょうか。『よい』と、急いでお知らせください。本当に、時間が迫っていますので。」
タレーラン公からリニー伯爵へ。
「ロンドン、一八三四年四月二十三日。
伯爵殿、
今日お送りする条約を、昨日、外交文書便でお送りすることは、不可能でした[204]。それぞれ四言語で書かれる、四通の原本の清書には、多くの時間を要しました。そして、署名できたのは、わずか一時間前でした。
この条約の交渉で、どのような困難があったかは、私の書簡によって、おおよそご存じです。今は、それらを完全に忘却に委ね、結果だけに取り組むべきだと、私は思います。
四国の間で結ばれたばかりの条約の利益を、国王の政府が評価していることは、確信しています。しかし、この同盟に私たちを加えることを、私に決意させた理由を、簡潔にお伝えするのを、どうかお許しください。私は、同盟をさまざまな観点から検討しました。そして、十分に考えた後で、何の危険もなく、真の利益を与えるものだと判断したのです。
この四国同盟は、確かにヨーロッパで、多少の騒ぎを起こさずにはいないでしょう。北方の大国から、幾らかの嫉妬を招かないとは、申しません。しかし実際には、それらの国が、この三年間してきた以上の困難を、私たちに与えるほどに、気にかけるとは思いません。むしろ、私たちをイギリスから引き離すことに、より熱心になり、したがって、私たちに好意的な態度を示そうとするだろう、と考えるほうに傾いています。ウィーン、ベルリン、ペテルブルクの内閣を結ぶ絆を強めるのは、私たちの条約ではありません。その絆が、これ以上ないほど強いことは、最近、見ることができました。半島の状態は、特に英仏の政策の領域に属する問題でしたので、四国同盟の原則と目的を、それらの国に正当化することは、容易でしょう。全体として、イギリスとの親密さを強め、いわば、スペインとポルトガルを、私たちへの依存のなかに置く、この結ばれたばかりの同盟が、北方の内閣に、多少の敬意を抱かせるものでないとは、どうしても信じられません。彼らは、心のなかで、同盟の輪に、ベルギーと、おそらくスイスも加えるでしょう。そして、これらすべてに、今、革命精神によって動揺している諸国民の集合だけを見ようとするならば、それ自体によっても、他のすべての国民との間に保つ共感によっても、十分に恐るべき集団の攻撃を招くことを、いっそう恐れるに違いありません。
条約を、特にスペインとの関係で考えると、特に私たちに託されていた、この国の利益を損なわなかったことを、正当に自負できます。実際、条約は、スペインにとって有益で名誉ある条件しか定めていません。そして、これらの条件が、私たちの期待する結果を生まないとしても、現在のスペインの状態では、その可能性は十分ありますが、内戦に外国との戦争を加えることによって、この不幸な国に、もう一つ災厄を引き寄せたと非難されるのは、私たちではありません。スペインの領土は、侵されないままでしょう。そして、それは、半島での私たちの政策の、確固とした原則の一つであるべきです。
この条約への私たちの関与に、イギリス内閣が与える重要性を、形式について生じさせた困難によって判断するならば、かなり大きなものと考えるべきでしょう。そして、そう考えても、誤りではないように思われます。今日、イギリス内閣が、半島での自国の政策すべてを、私たちの監督に服させたことは、明らかだからです。たとえ実際には、内閣が考えるほどにそうなっていなくても、世論のためには、見かけの上でそうなっていれば、私たちには十分です[205]。
条約の検討で、なお見過ごすべきでない観点がありました。それは、私が最も重要だと考えていた、フランスへの影響という観点です。この点でも、他のすべての点と同じく、非難の余地がないように思われる、と認めます。私たちの実利についてはどうでしょうか。私たちは、事実上、何も約束していません。同盟国が条約の実施への協力を求めても(イギリスが同意してそのような要請がなされるかどうかは、少なくとも疑ってよいのですが)、私たちは自分たちで判断できます。そして、どんな不利を招くか計り知れない武力干渉への参加を、すべて拒むこともできます。国民の自尊心だけが問題ならば、兵士を一人も増やさず、一スーも支出せずに、イギリスと政治的に対等な役割を果たす条約によって、それが傷つけられることなど、あるでしょうか。
伯爵殿、繰り返しますが、四国同盟の条約には、敵に対しても、友人に対しても、正当で名誉あるものとして示せないことは、何一つ見いだせません。その結果によって、私たちの期待する有益さを、すべては持たないとしても、少なくとも、国王の政府が、そのことで非難されることは、決してないでしょう。そして、私たちは、情勢の許すことを、すべて行ったことになるでしょう。
批准書は、一か月以内に、可能ならば、より早く交換することになっていると、お気づきになるでしょう。スペイン語、英語、ポルトガル語の三言語で、三通の批准書を送る必要があることを、忘れてはなりません。
今日のうちに、協定の写しを、マドリードのレーヌヴァル伯爵へ、もう一通を、リスボンのモルティエ男爵へ送ります。」
[タレーラン氏のロンドン大使としての活動の結末となった、四国同盟への署名の時点で、『回想録』の原稿は終わっている。
しかし、タレーラン氏がフランスに戻ったのは、八月になってからであり、その最後の数か月間にも、重要な問題を扱わなければならなかった。そのため、氏自身が、それまでの年月について行っていた仕事を、大使としての活動の終わりまで続けるべきだと、私たちは考えた。材料は、すべてそろっていた。正式の外交報告と、私信である。私たちは、タレーラン氏が最後の数巻について行ったように、それらを合理的な順序に従って並べるだけに、とどめた。
この時期の公の私信は、二年前、ミラボー伯爵夫人の尽力によって、すでに刊行されている[206]。ここで再刊することは、無用だっただろう。しかし、交渉の進み方を、できるかぎり明確に示すため、それらの手紙の幾つかを、ここにも再録せざるをえなかった。四〇五、四〇六、四二三、四三六、四七四、四七六、四七八、四八〇ページに、見いだされるだろう。]
リニー伯爵からタレーラン公へ。
「パリ、一八三四年四月二十七日、日曜日。
公爵殿、
フリアス公の送る急使を、利用します[207]。マドリードからは、十九日までの知らせが届いています。新聞の論調は悪く、世論は一般に、王室憲章を支持していました[208]。ブルゴス[209]は、モスコソ・デ・アルタミラ[210]に交代しました。
全般に、ドイツからの知らせは、北方の宮廷が、今では、すべての遅延の責任を、ナッサウ公に負わせ、ウィレム王を免れさせる、ある種の意向を示しています。それらは、会議を再開しないという決意を、ロンドンとパリの内閣に翻させようとしており、ブリュッセルの出来事について、激しく不満を述べています。
スイスには、覚書が雨のように降っています。しかし、ベルン州は、サヴォワへの行動に加わった亡命者たちについて、要求に従うことになるでしょう[211]。
国内では、一八三五年について求めた兵力の追加を、最初の六か月分しか得られません。残りは、新しい立法府から得なければならないでしょう。一八三五年について、三か月分しか与えようとしなかった委員会と、妥協せざるをえませんでした[212]。
ケサーダは、スマラカレギ[213]に敗れ、パンプローナへ戻ることを強いられたばかりです。二、三百人を失いました。
ロディルは、危うくドン・カルロスを捕らえるところでした。カルロスは、荷物を失うだけで逃れました。公爵殿、条約がこちらで、どれほどよく受け止められ、それを結ばれた閣下が、どれほど称賛されているかを、何度お伝えしてもしきれません。外国人のなかで、まだ条約について話していないのは、アポニーだけです。私は、幾らかの説明の最後に、ドナ・マリアがフランツ皇帝の孫娘であることを、私たちは忘れていなかった、と彼に言いました。
ポッツォは、機嫌が悪いようです。しかし、彼らのとった一般的な態度は、差し当たり、この件を、あまり重要ではないものと見ることのように、私には思われます。」
タレーラン公からリニー伯爵へ。
「ロンドン、一八三四年四月二十八日。
伯爵殿、
パーマストン卿は、二、三日、ウィンザーに滞在しています。そのため、閣下の外交報告のうち、ルクセンブルク問題と、ゴブレ将軍に対するプロイセン政府の行動に関することを、望んでいたほど早く、卿に話すことができません[214]。
外務大臣が戻りしだい、会って、この二点についての閣下の意見を伝え、この状況で、フランスとイギリスの政府がとるのに適した措置を、卿と協議します。
プロイセン政府の態度は、伯爵殿、閣下と同じく、私にも説明しがたいものに思われます。それ以上に、許しがたいものだと思います。それを見過ごせば、ベルギーに対する、理由のある、あるいは理由のない、新たな侮辱が、毎日のように現れることを、覚悟しなければなりません。そして、それは結局、ベルギーを特に保護する両政府に、跳ね返るでしょう。ベルリンへの使節に、ゴブレ将軍を選んだことは、拙劣だったかもしれません。しかし、その場合には、長い前から知られていた、将軍のブリュッセル出発よりも前に、プロイセン政府は、将軍を迎えることへの抵抗感を、示すべきだったのです。現在の状態では、ベルリン内閣に、その持ち出すような、これほど侮辱的な口実で、ベルギーの使節を退ける権利を、認めることはできません。とりわけ、ブリュッセルには、正式の信任状を持つプロイセン公使がいて、ベルギー政府から、常に敬意をもって扱われているのです。
パーマストン卿が、この点で、どの方針を採用するかは、まだ予測できません。しかし、速やかに方針を決めるよう、強く求めます。
ルクセンブルク問題について、プロイセンとオーストリアが行った、新たな取り決めの提案に関しては、それに加わることが、私たちに適しているとは思いません。閣下がたいへん的確に指摘されるように、それらは、一八一五年の諸条約を変更することになります。さらに、オランダ・ベルギー条約の領土問題について、討議を再開するという不都合もあります。この問題は、十一月十五日の条約によって、取り消しようもなく解決され、終わったものと、私たちが考え、他の諸国にも、そう考えさせることが重要なのです……
……私たちの側では、条約の秘密を守ったのは、たいへん適切だったと、確信しています。イギリスの新聞による、時期尚早の公表は、非難するしかありません。このような場合には、不注意な漏洩について、自らを責める必要がないほうが、常に、はるかに適切です。国王の政府が、多少の影響力を持つ新聞には、公表の時が来れば、この条約の、フランスにとっての精神的・政治的な利益を強調することが、命じられるだろうと思います。」
リニー伯爵からタレーラン公へ。
「一八三四年五月一日、木曜日。
公爵殿、
五月一日の忙しさのなかで、幾言か書きます。ゴブレは召還されました。メロード氏の覚書は、毅然としています[215]。ブレッソンは、この件について、ベルリンで、やや強い調子をとりました。それは適切でした。レオポルド王の過ちは、ゴブレを派遣する前に、プロイセン王の私信に返事をしなかったことにあったと思います。この手紙の内容を、グランヴィル卿に知らせました。
今日、メゾン元帥は、黒海での準備について、私に説明を与えています。オデッサのわが領事が、それを伝えたということですが、実際にはありません。ブライ氏も、同じ情報を信じて、同様の知らせをロンドンへ送ったかもしれませんので、その誇張について、パーマストン卿に知らせておくのが、よいかもしれません。
スイスは、自国にいる亡命者に対して措置をとっています。『デバ』紙で、ベルン警察の布告をお読みになったでしょう。あれは、私が向こうで示唆した考えです。今では、外国の公使館は、チューリヒへ追いやられて、うまくやられたと思っているのではないでしょうか。
わが国の新聞は、条約について騒ぎ始めています。外交界は、まだ、私たちに話しません。しかし、動揺していることは、知っています。特に、シャルル十世派は、地団駄を踏んでいます……
ケサーダの敗北を除いて、バルセロナ、バレンシア、ムルシアからの知らせは、たいへんよいものです。王室憲章は、どこでも大きな成功を収めています。二十三日付の『マドリード官報』は、マドリードとリスボンの間で、信任状を持つ正式な公使を、互いに派遣し、受け入れたことを伝えています。これが、正式な承認です。
ドン・カルロスは、二度目も間近まで追い詰められ、また幾らかの装備を失いました。
タレーラン公からリニー伯爵へ。
「ロンドン、一八三四年五月一日。
伯爵殿、
……昨日、パーマストン卿に会い、閣下の第三十三号の外交報告の主な対象となっている、二つの問題について話すことができました。ゴブレ将軍に対するプロイセン政府の行動について、卿は、あらゆる点で、閣下の意見を採用しています。そして、ミントー卿に抗議の申し入れを命じるため、ベルリンへ書きました……
最近、ルクセンブルクについて、非常に多くの、さまざまな提案が持ち出されていますので、パーマストン卿は、この問題を、あまり気にかけているように見せるのは、私たちに適していないと考えています。そして、何らかの明確な案が示されるのを、待つべきだということです。フランスとイギリスは、その案を受け入れるか、拒むかの自由を、常に持つでしょう。
その後、パーマストン卿は、ウィーンから受け取った外交報告を知らせてくれました。そのなかで、サー・フレデリック・ラムは、オランダ・ベルギー問題を終わらせるための、ロンドン会議の再開について、メッテルニヒ公と行った幾つかの会話を報告しています。これらの会話は、すべて、会議を召集する必要を証明するための、宰相による、長い一連の論にすぎませんでした。結局、たいへん新しいものを示すわけではありませんが、パーマストン卿は、サー・フレデリック・ラムに、その返答を命じるつもりです。また、ネーデルラント王が、十一月十五日の条約の、最初の七条に署名することに同意すると確かになれば、イギリス政府は、オーストリア内閣の希望に従うつもりである、と伝えさせるでしょう。これらの条項については、オーストリア、プロイセン、ロシアの政府は、かつて少しも異議を唱えたことがありません。卿は、私と同じく、ネーデルラント王の拒否か受諾によって、王が終わらせたいのか、そうでないのかが、決定的に明らかになると考えています。
パーマストン卿の外交報告は、パリ経由でウィーンへ送られます。グランヴィル卿が、閣下にお知らせすることになっています……」
リニー伯爵からタレーラン公へ。
「パリ、一八三四年五月三日。
公爵殿、
……スペインの北部国境では、すべてがたいへん錯綜しています。それでも、マドリードはそれほど動揺していないように見えます。レーヌヴァルは、それについて、ひと言も触れていません。
ポッツォは、今朝、国王との会見の約束があったはずです。私は、国王に十分に注意を促しました。特に、ポッツォに弁明しないよう、強く勧めました。まして、半島でイギリス人だけに行動させず、彼らを監視する機会を得るためだった、と言わないようにしました。
国王は、そのように話すつもりだったと、私は思います。しかし、それを控えていただくため、私は、できるかぎりの手腕を尽くしました……」
タレーラン公からリニー伯爵へ。
「ロンドン、一八三四年五月九日。
伯爵殿、
……四月二十二日の条約の批准書を、できるかぎり早くお送りいただくことが、有益だと思います。ポルトガルのものは、いつ届いてもおかしくありません。マドリードのものも、確実に得られると考えてよいので、おそらく、ポルトガル公使との最初の交換が、行われるでしょう。ただし、こちらの幾人かが恐れているように、ドン・ペドロの政府が、条約の批准を拒まなければ、ですが。もしそうなれば、その政府が、これまで非難されてきたすべての行為以上に、大きな愚行になると、認めます。
黒人奴隷貿易に関する条約の締結に必要な指示を、コペンハーゲンへ送ることを、これ以上遅らせないよう、パーマストン卿に求めます[218]。
イギリスの新聞で、モンフォール伯爵、すなわちジェローム・ボナパルト氏のロンドン到着を伝える記事に、お気づきになったでしょう。この知らせは、真実です。リュシアン・ボナパルト氏とジョゼフ・ボナパルト氏も、引き続き、こちらに滞在しています。」
「ロンドン、一八三四年五月十五日。
フイエ氏が、四月二十二日の条約の批准書を、私に渡しました。
……ここに写しを添えた二つの文書は、ドン・ペドロの政府が、自国の全権代表によってロンドンで署名された条約を、批准することに決めたことを、示すでしょう。ポルトガルの批准書が、こちらへ着く日は、まだわかりません。しかし、ポルトガルの摂政が、この条約について、どのような意図を持つのかを知っている今、それは、以前ほど重要ではありません。それでも、三、四日中には、すべてがそろうと思います。ただし、ポルトガルとスペインの批准書に形式上の不備があれば、別です。これらをマドリードとリスボンへ再送しなければならなかった慌ただしさからすると、そのことは懸念されます。
今日は、パーマストン卿に会えませんでした。次の会見では、スイスの問題についての閣下のご希望を、必ず伝えます……」
「ロンドン、一八三四年五月十八日。
四月二十二日の条約の第五条で扱われている、宣言案について、注意深く考えました[219]。マルティネス・デ・ラ・ロサ氏は、それを、四人の全権代表が署名した共同の文書によって行うことを望んでいます。私は、そこに幾つかの不都合を認めました。すでにパーマストン卿にも、それとなく伝えましたが、閣下にも示さなければなりません。まず、私は、半島の純粋な内政への、直接干渉という事実を見ます。そして、最初の一歩から、条約そのものが義務づける以上に、深く関わることになるように思われます。なぜなら、この協定で、私は、私たちが、第五条の条件の保証者にすぎず、その実施を担当するものではないことを、重んじたからです。半島で行われているような戦争の、避けられない結果によって、両派が順々に占領する都市や拠点で、四宮廷の宣言が、戦っている二つの陣営の一方の名で作成された文書と、同じ不利な運命をすべて受けることになれば、どうでしょうか。両国の発した宣言に、直接向けられる侮辱によって、フランスとイギリスの尊厳が、損なわれることにはならないでしょうか。
それに、この状況で、マドリード内閣が求める働きかけの必要を、私は認めません。条約の公表に続いて、ポルトガル政府が、第五条で述べられ、保証されている宣言を行えば、それで十分なはずだと思います。
伯爵殿、以上が、パーマストン卿に伝え、閣下のご注意を向けたいと考える意見です。この件について、最終的なご意見をお知らせになる時間は、あるでしょう。宣言の形式を扱えるのは、数日後にしか行われない、批准書の交換の後だからです……
パーマストン卿は、黒人奴隷貿易に関する交渉を終えるために必要な指示を、コペンハーゲンへ確実に送るつもりだと、私に言いました……
この手紙がお手元に届くころには、フランクフルトの問題について、イギリス内閣が、閣下のご希望に先んじていたことを、すでにお知りになっているでしょう[220]。パーマストン卿が、同市で起こった最近の出来事と、連邦議会に帰されている計画について、抗議の申し入れを命じるため、同市のイギリス公使に書いた外交報告を、グランヴィル卿が、お知らせしたはずです。パーマストン卿の手紙は、やや激しすぎる言葉で書かれていると思いました。そして、目的を越えてしまうのではないかと、恐れています。それが、閣下にも私と同じ印象を与え、国王の政府が、第四十二号の外交報告で、閣下がたいへんよく述べておられる賢明な考えを保ち、苛立ちを生まないほど穏健な調子で、留保を示すだけに、とどめてくださることを、願っています。
私たちは、できるかぎり、ドイツの小国の政府の敏感な気持ちに配慮し、それらへの穏健さそのものによって、自分たちの力を示すべきです。最近、ドイツでイギリスの代表たちが用いた、ときに挑発的な調子が、私たちの利益を有益に助けなかったことは、ご存じでしょう……」
リニー伯爵よりタレーラン公へ。
「パリ、一八三四年五月十九日。
公爵殿、
ルサンは、今、断りました[221]。おそらく、ジャコブ提督が、その後任となるでしょう。私は、外務大臣を任命するか、海軍大臣を任命するかについて、評議会に完全な自由を残しました。
コンスタンティノープルとウィーンから、多くの手紙を受け取っています。ルサンは、ロシアの海軍の準備が、莫大な規模で、急いで進められていると伝えています。皇帝のクリミアへの旅行が、予告されています。メヘメト・アリーは、長椅子の上で落ち着きを失い、脅かされていると思っています。しかし、シリアとカンディアでは、かなり困っており、オスマンのディヴァン内部での策謀による以外には、もはや先へ進もうと考えていません。
サント=オレールは、会議が再開されなければ、北方の三宮廷は、オランダと別個の取り決めをするだろうと考えています。
メッテルニヒ氏は、条約を快く思っていませんが、見かけの上では、この件を、かなり穏やかに受け止めています。アンシヨン氏は、もっと激しい態度です。われわれは、内閣の小さな動揺の時期にあります。尾を引くことはないでしょうが、これに時間を取られ、閣下にお伝えしたかったことも、幾らか書けなくなってしまいます……
ラファイエット氏は、死にかけています。今晩か、明日、遅くとも明後日でしょう[222]……」
タレーラン公よりリニー伯爵へ。
「ロンドン、一八三四年五月二十二日。
伯爵殿、
……ポルトガルの批准書は、まだ届いていません。この遅れは、ここ数日、ポルトガルからの到着に好都合でなかった、海の状態によってしか説明できません。
この二十年間、ロンドンでロシア大使を務めていたリーヴェン公は、先ごろ、ペテルブルクで成年に達したと宣言された、皇太子大公の養育官、あるいは、ロシアの表現によれば、後見人の職に就くため、自国宮廷に召還されました。リーヴェン氏に任命を知らせる手紙は、最も称賛に満ちた、名誉ある言葉で書かれています。
この知らせは、昨日、ロンドンの取引所で、かなり強い反響を引き起こしました。幾人かは、そこに、ロシアとイギリスの間の断交が近いことの証拠を見ようとしました。今日には、すでに、この根拠のない不安は収まっています。
リーヴェン公は、イギリスで、たいへん惜しまれるでしょう。この長い年月の間に、その性格の高潔さと気高さを知る機会のあった、すべての人々の尊敬を、得ていたのです。
今朝、私はパーマストン卿に、黒人奴隷貿易に関する協定への、サルデーニャの参加について、トリノのフォスター氏に送った案のことを話しました[223]。卿は、閣下がその案を受け取らなかったのは、失念によるものだと認めました。そして、グランヴィル卿を通じて、その案の写しをお渡しすることで、できるかぎり速やかに、この失念を償うと約束しました。
一八三三年に、オランダ船の抑留を解除した枢密院令を、次の急使でお送りできることを、期待しています。」
リニー伯爵よりタレーラン公へ。
「パリ、一八三四年五月二十六日。
公爵殿、
国王は、ベルギーで王位継承の順序を定める計画を知らせる、レオポルド王からの手紙に、たいへん心を動かされました[224]。
ルオンは、昨日出発しました。私は、決定だけでなく、できれば、この件についてのいかなる討議も延期させるよう、強く頼みました。この件は、フランスでは、あまり好まれていません。
グランヴィル卿は、この点について、ロンドンから何も受け取っていません。レオポルド王の、この最初の決意は、わが内閣と同じく、ロンドン内閣も驚かせただろうと、考える根拠があると思います。
マドリードからは、十四日以来、何も届いていません。ナバラの蜂起は、いっそう激しくなっています。しかし、他の諸州は、同じようには加わっていません……」
オルレアン家のアデライード王女よりタレーラン公へ。
「ヌイイ、一八三四年五月二十三日。
親愛なる公爵、誰が信じるでしょうか。レオポルド王は、まだ四十三歳で、若く、完全に健康な妻がいるのに、わが子を失った苦しみに引きずられ、一人で、自分の判断だけによって、ベルギーの王位継承を、甥たちに保障しようとしているのです。その結婚の時にも、その前にも、考えていなかったことです。そして確かに、私たちが嘆いている、あのいとしい小さな子が生まれる前よりも、今、それを行う理由は、少ないはずでした。私たちのルイーズは、子を産めることを示しました。そして、二十三歳で、あれほど若々しく健康なのですから、また子を持つことは、ありそうなことです。わが国王が、写しをお送りする手紙によって、まず、このような性質と重要性を持つ決定は、あらかじめイギリスとフランスと協議せずに、一人で、自分の判断だけによってとることはできない、と王に気づかせることに、あなたは驚かれないでしょう。また、ベルギーをドイツ化することも、すでに私たちに、あれほど多くの困惑と困難を与えてきた、ルクセンブルクのもののような、一連の男系親族を、ベルギーに押しつけることも、私たちは認められません。親愛なる公爵、このことは、あなたが誰よりもよくご存じです。国王は、この件について、あなたが事情を知っていることが、有益で必要だと考えています。イギリスで話が進み、あなたがそれを耳にされた場合に、生じうる、全般的な平和への危険と困難を、イギリスで、その全体にわたって認識させ、あなたの賢明さによって防ぐためです。そのために、私たちは、あなたのきわめて正確な判断と、フランスのための熱意に、お任せします。」
ルイ=フィリップ王よりレオポルド王へ。
「パリ、一八三四年五月二十二日、木曜日。
最も親愛なる兄弟、すぐれた友よ、
今受け取った、あなたの十九日付の手紙の、重要な部分について、別に返事を書きます。あなたが伝えてくれたことは、あまりに重大なので、私が他の人から聞かないようにするためだけに知らせてくれた、というのが、理解できません。この性質の決定は、イギリスとわれわれとの間で協議されるべきであるだけでなく、われわれの協力と承認なしには、あなたがとることはできません。あなたを王位に招く文書も、ベルギー憲法も、その王位を保障した諸条約も、この権利を与えてはいません。ですから、この奇妙な事柄を、これ以上進める前に、あなたの政府とわが政府との、正式の交渉の対象にしなければなりません。親愛なる兄弟、私が奇妙と言うのは、本当に理解できないからです。あなたの年齢で、あなたのような妻がありながら、私たちが先ごろ受けた喪失の苦しみに引きずられ、王位継承の可能性に備えることが急務だと思い込み、ルクセンブルクのもののような、一連の男系親族を、ベルギーに押しつけようとすることが、理解できないのです。
一、このような措置が、あなたの王位の安定を保障するとは、とうてい思いません。むしろ、それが生むかもしれない、あらゆる種類の困難のために、その安定を望まない人々が、この考えを喜ぶだろうと、思うほうに傾いています。ナッサウ家の復帰や、共和国の樹立の危険について、ベルギーを安心させるために、それが必要だとは、思いません。フランスが、そのどちらも決して許さないことは、誰もが知っているからです。
二、われわれの望むのは、ベルギーの、名ばかりではない、真の独立だということは、誰もが知っています。われわれは、ベルギーが、われわれにも、イギリスにも、両国にも、依存することを、まったく望みません。しかし、プロイセン、ドイツ連邦、ドイツに依存することは、なおさら望みません。われわれは、ベルギーが独立することを望んだだけでなく、そのような結びつきに引き込まれないよう、永世中立とすることも定めました。ベルギーの独立は、あなたがよく知っている、別の点でも、われわれに重要です。それは、われわれにとって、これほど大切であり、平和と社会秩序の保障である、イギリスとの同盟の、基礎であり、結び目だということです。ですから、ドイツ連邦に入るか、その構成国の一つに依存するかして、それを損ない、ベルギーをドイツ化しかねない、あらゆるものに、われわれは抵抗します。
ですから、親愛なる兄弟、あなたが話している、両院への通告を止め、ロンドンとパリの内閣に、この件を話し、返答を受け取る前には、この計画を、少しも先へ進めないことを、期待しています。
では、兄弟よ、心から抱擁を送ります。私は、ヌイイへ戻るところです。いつも、そして生涯、変わらず、
あなたの善き兄弟、深い愛情を持つ義父、忠実な友である、
ルイ=フィリップ。」
タレーラン公よりリニー伯爵へ。
「ロンドン、一八三四年五月二十六日。
伯爵殿、
昨晩、グレイ卿に会い、レオポルド王が、ベルギーの両院と協議して、ベルギーの王位継承を定めようとしていた計画について、話しました。このような計画に反対する理由を、卿に示すのは、容易でした。レオポルド王の計画が生む、幾種類もの不都合を、閣下と同じように理解したことを、グレイ卿のために、正当に述べなければなりません。卿は、フランスとイギリスの協力なしに、王位継承を定めることに、イギリスは反対する、と明確に保証してくれました。こちらから、ブリュッセルへ、その方向で書くでしょう。さらに、この件について私が話し、その助言を、一般にレオポルド王が受け入れているダラム卿も、王位継承の計画の実行に対し、イギリスで出会うであろう反対を、王に知らせるつもりであると、付け加えることができます。」
「ロンドン、一八三四年五月二十六日。
私は、一般に、特に国内事情に関わる、イギリスの議会の討議について、閣下にお話しすることを控えています。こちらから送られる新聞が、その点について、私にできるよりも、はるかに正確で速やかに、望ましいすべての詳細をお伝えしていると、知っているからです。しかし今日は、庶民院での法案の討議が引き起こした、たいへん重大な一件を、お伝えしなければなりません。
この法案は、十五日以上前に第一読会が行われたもので、アイルランドのプロテスタント聖職者の十分の一税の買い取りに関するものです。法案の生む財政上の結果によって、最終的に余剰が残り、その使途を定める必要が生じると、計算されていました。庶民院で法案を支持していた閣僚の一人、ジョン・ラッセル卿は、第一読会で、おそらく少し時機をわきまえずに、残る資金は、政府の意向に従って用いるべきだと、述べていました。この提案は、内閣に、たいへん激しい意見の相違を引き起こしました。幾人かの閣僚は、この点について、庶民院のかなり大きな一派、そして確かに貴族院の多数と、意見を同じくし、それを採用できないと述べました。ジョン・ラッセル卿の提案に、最も強く反対した閣僚は、スタンリー氏とサー・ジェイムズ・グレアムです。彼らは、そこに、国教会の聖職者の財産の剥奪を見る、と言いました。そして、法案のすべての処理が実施された後、何らかの資金が残れば、その資金は、アイルランドの国教会の聖職者に渡し、その使途を定めさせるべきだと、主張しました。
ジョン・ラッセル卿は、その側で、述べた意見を維持し、それが採用されなければ、辞任すると申し出ていました。しかし、その辞任を撤回させることには、成功していました。そして、内閣が、この困難を終わらせる手段を探していたとき、ウォード氏が、明日、庶民院で行う予定の動議が[225]、解消したいと期待していた、すべての困難を、再び生じさせました。ウォード氏は、問題の資金を、アイルランドの非国教会とカトリック教会のために用いることを、提案するでしょう。そして、この動議の結末は、まだ予測不可能です。
どのような結末でも、数人の閣僚の退任を招くはずだと、言われています。ウォード氏の提案が、議会で多数を得れば、スタンリー氏とサー・ジェイムズ・グレアムは、退くという明確な意向を示しています。逆の場合には、ジョン・ラッセル卿と、おそらく、ほかの閣僚たちが、去ることになるでしょう。
三日前から、閣議が相次いで開かれています。しかし、そこで示される相違した意見を調整する手段は、まだ見つかっていません。スタンリー氏の退任は、内閣にとって、たいへん痛い損失となるでしょう。庶民院では、氏が、その最も堅固な、疑いなく最も有能な支えだからです。ラッセル卿と他の閣僚たちの退任も、予想しない結果を、幾らか生むかもしれません。
結局、伯爵殿、ご覧のとおり、今は重大な局面です。そして、何らかの調整が実現しなければ、現在の内閣の存立は、危うくなります。
この内閣の後任となるかもしれない政権について、ここで予言を述べないことを、お許しください。いつ起こるとも知れない、これほど変わりやすく、不確かな状況を前にしては、少なくとも、そのような予言は、無益でしょう。ですから、私の知ることとなったすべてを、正確にお伝えすることに、とどめます。」
「ロンドン、一八三四年五月二十七日、午後十時。
ウォード氏の動議は、先ほど、庶民院で提出されました。グロート氏が、それを支持しました[226]。財務大臣オールソープ卿は、巧みな演説で、この問題の審議と、議会そのものを、月曜日まで延期することを提案しました。グロート氏は、その提案に関わる重大な事情をほのめかしながら、急いで大臣の提案を支持しました。議会は、たいへん熱烈で明確な喝采とともに、それを採用しました。したがって、この方面では、物事は宙に浮いたままです。しかし、これが、内閣の多数派に与えられた、大きな精神的な支援であることは、確かです。そして、スタンリー氏、サー・ジェイムズ・グレアム、リッチモンド公、そして、おそらくリポン卿は、退かざるをえないようです。
国王は、グレイ卿と、卿とともに進む閣僚たちを支持することを、決めているそうです。」
「ロンドン、一八三四年五月二十九日。
……ポルトガルの批准書が、今朝、ついにロンドンに到着しました。交換は、今晩か、明朝、行われると思います。イギリス、スペイン、ポルトガルの批准書を受け取りしだい、フイエ氏に渡します。
イギリスに駐在する外国の公使館へ、四国同盟条約の締結を伝えるため、パーマストン卿が送ることになっている覚書の写しを、お送りする光栄に浴します。
リッチモンド公とリポン卿は、明確に辞任を申し出て、それは受け入れられました。そのため、内閣の新しい編成は、より難しくなります。しかし、それでも、庶民院の活動再開の日に定められた月曜日には、終わると考えられています[227]。
私は、東方問題を見失っていません。新しい内閣の編成が済み、両者がこの問題に取り組めるようになりしだい、再びパーマストン卿とグレイ卿に話します。」
「午後六時。
追伸。批准書の交換を行うために赴いた外務省から、戻ったところです。リスボンから送られた文書が、受け入れることがほとんど不可能なほど不正確だったため、交換は行えませんでした。不備のうち、前文が削除されていることだけを、お伝えしておきます。
この困難に対処する手段を探していますが、今のところ、何も見つかっていません。われわれにとって不快なこの遅延は、どうか秘密にしていただきたいのですが、来週の月曜日に、条約を議会へ提出できる状態になることを期待していたイギリス内閣にとって、重大な困難です。」
「ロンドン、一八三四年五月三十一日。
この外交報告をお届けする光栄をいただくフイエ氏は、同時に、四月二十二日の条約の、三通の批准書を持参します。
この条約の批准書の交換が遅れることで生じる不都合を、十分に検討した後、われわれは、どれほど不正確であっても、ポルトガルの文書を受け入れることに決めました。
また、ここに写しを添える光栄をいただく、二つの文書によって、われわれの決定の、悪い結果を防ぐよう努めました。
第一は、ロンドン駐在のポルトガル公使による、できるかぎり明確な宣言です。第二は、三宮廷の全権代表による対抗宣言です。それによって、ポルトガルの批准書の作成で犯された誤りを、できるかぎり速やかに訂正させるという、ポルトガルの全権代表の負った正式な約束を、確認しています。
伯爵殿、この二つの文書をお読みになれば、与えられた状態で、われわれには、それ以上のことはできなかったと、私と同じく、きっと確信されるでしょう。
われわれが批准を拒めば、一か月より短くはできない遅延を、招いたでしょう。その間、スペイン軍の作戦は中断されたままとなります。そして、その後も、長い間、そうであったでしょう。スペイン政府が行動するのを認めるために必要な命令を、ロンドンから待たなければならなかったからです。それに、リスボンのスペイン、フランス、イギリスの三公使へ送った要請によって、訂正された批准書を、彼らが手にしたときにだけ、スペイン政府へ前進の命令が与えられることは、確かです。
また、この件について、先ほど、モルティエ男爵に書いた外交報告の写しも、添えました。閣下の命令を待たずに、氏へ指示を送ったことを、正当なものと認めていただけると、あえて期待します。この状況では、迅速さが、他のすべての考慮に優先しました。
批准書の交換の後、われわれは、条約の第五条で言及されている大赦の案を論じ、写しをお送りする光栄をいただく案の文面を、確定しました。
伯爵殿、今ご報告した取り決めに同意するよう、特に私を決めさせた理由は、四月二十二日の条約に、完全な効力を与えることが、急務だと思われたことです。この数日間に、こちらで起こった内閣の困難は、今のところ、幸いに調整されたものの、再び起こる可能性があります。そのため、この条約が、現在の内閣によって批准されること、あるいは、少なくとも、批准されたものと認められることが、われわれにとって、きわめて重要となっていました。
国王の政府は、この点を評価し、私のとらざるをえなかった決定を、承認するだろうと思います。
イギリス内閣の退任者に代わって就任する人々の名は、新聞を通じて、すでにご存じです。お伝えしていたとおり、グレイ卿が政務の先頭にとどまることが確かになれば、新しい閣僚の名は、もはや、同じ関心を引くものではありませんでした。
今、残る問題は、内閣の編成が、議会の両院に、どのような効果を与えるかです。最も広く行き渡っている意見は、内閣は、自分たちのなかへ招いた人々の加入によって、強まったわけではない、というものです。この意見には、かなりの根拠があると思います。」
リニー伯爵よりタレーラン公へ。
「パリ、一八三四年六月一日。
公爵殿、
ブリュッセルのペリエ氏への、新たな指示の写しを、なぜお送りするのかを、よくお知りいただくためには、次のことを申し上げなければなりません。ヴァン・ド・ヴェイエル氏との会話に応じて、パーマストン卿は、レオポルド王に私信を書き、そのなかで、後継者を指名する計画を承認しています。レオポルド王は、この手紙の写しを義父に送り、義父は、昨日、それを私に見せました。そこで、われわれは、ブリュッセルへ書きました。この、きわめて内密の情報に基づいてではなく、この計画の再開を知らせていた、ペリエの最後の手紙に基づいて、書いたのです。
ここから、グレイ卿とパーマストン卿が、異なる方向で話したことになるので、この情報をお伝えするべきだと考えました。どうか、閣下と私だけの間のこととして、扱ってください。国王さえ、私が閣下に話すことは、知りません。
ロンドンの内閣の編成を、待ちわびています。
ポルトガル人は、短縮された批准書を持ち出す、奇妙なほど不器用な人々です。われわれが、それを乗り越えて進めないのではないかと、強く恐れています。」
レーヌヴァル氏よりタレーラン公へ。
「アランフェス、一八三四年六月二日。
公爵殿、
ポルトガルの戦争の出来事について、閣下にお送りする新聞は、おそらく、これが最後となるでしょう。つい数日前まで、終わりのないものと見られていた、この戦争が、魔法のように終わったからです。この場面で、真の勝者は、閣下です。
条約が、すべてを成し遂げました。スペイン人の協力も、確かに幾らかの効果を生みました。しかし、彼らの背後に、予備軍のようなわれわれの姿が見えていなければ、ミゲル派の手から、これほど速やかに武器が落ちることは、確かになかったでしょう[228]。
ドン・カルロスについて、ポルトガルのイギリス公使館の書記官と、ドン・ペドロの将軍たちが署名した合意は、ドン・ミゲルに要求された条件を、この王子には、何一つ課していません。これは、ちょうど、スペインの王位請求者に乗船を許す前に、その退去を認める場所を、四月二十二日の協定の署名国の間で定めるよう要求していた、こちらの内閣を、ひどく不満にしています。そのような希望は、おそらく、この協定に反していたのかもしれません。しかし、こちらでは、それでも受け入れさせることを期待していました。今では、遅すぎるのではないかと、強く恐れています。しかし、この点で満足を得られなければ、保障されている年金を受け取るためには、ドン・ミゲルと同じ約束を行うよう、ドン・カルロスに義務づける必要を、いっそう強く求めるでしょう。このほうが、受け入れやすいものです。しかし、それだけではありません。スペイン内閣は、同時に、半島を平定するために、同盟国の結束を必要とさせたのと同じ事情が、再び現れたならば、条約は、その瞬間に、すべての効力と力を取り戻すと宣言することを、同盟国に提案しています。
マルティネス・デ・ラ・ロサ氏は、今述べた三点を扱う覚書を、急いで起草し、ヴィリアーズ氏と私に送りました。その結論は、スペインが、将来の平穏のために不可欠なものとして求める保障を、フランスとイギリスが、スペインに与えることを要請するものです。閣下とパーマストン卿が、審議することになる、この文書を、お送りしたかったのですが、時間がないため、その大臣に、文書をお知らせするよう求めていただくことを、お願いせざるをえません……」
タレーラン公よりリニー伯爵へ。
「ロンドン、一八三四年六月五日。
伯爵殿、
……今朝、パーマストン卿に会えたのは、ほんの短い間だけでした。しかし、特別の措置によって、ベルギーの王位継承の将来の可能性に備えるという計画の再開について、話すには、十分な時間がありました。卿は、初めはこの点について、レオポルド王の考えを受け入れたものの、この問題を無期限に延期するほうがよいという意見に、従うことにしたと認めました。そして、明日、サー・ロバート・アデアに、その方向の指示を送ると約束しました。それに、卿は、この大使から受け取ったばかりの、三日付の手紙を見せてくれました。その手紙は、われわれの望む延期が、ブリュッセル内閣自身によって、採用されたようだと、幾行かで伝えていました。
伯爵殿、パーマストン卿が、こちらの外交団に、四国同盟の条約を知らせるための覚書の写しを、お送りした際、この通告は、直ちに行われるはずだと、お伝えしました。しかし、そうはなりませんでした。国王の法律顧問の示した意見に従い、イギリス内閣は、リスボンから新しい批准書を受け取るまで、条約の公表を遅らせることに決めました。まだ間に合うならば、私が時期尚早にお勧めしてしまった公表を、閣下も停止なさるのが、よいと思います……
マルタを離れたイギリス艦隊には、毎年夏に占める停泊地へ戻るため、スミルナの水域に赴くというもの以外、指示はないと、お伝えできます。
今日、五月二十七日付のリスボンからの手紙を受け取りました。それによると、ドン・カルロス王子は、ドン・ミゲル王子と、同じ船には乗らないということです。この二人のうち、前者は、プリマスへ、そこからオランダへ運んでもらうことを、求めたようです。
月曜日の庶民院の会議で、内閣が得た成功は[232]、まだ世論を完全には安心させていません。グレイ卿自身も、かなり強い不安を抑えられずにいます。その跡は、卿の演説にも、内閣にとどまるよう求める申し入れ書を差し出した、庶民院議員百五十人の代表団に宛てた手紙にも、見いだされます。」
リニー伯爵よりタレーラン公へ。
「パリ、一八三四年六月十一日。
公爵殿、
こちらでは、グラント氏が、ドン・カルロスについて、たいへんお節介で、性急だったように思われます[233]。あと二十四時間、ロディルに脅かされるままにしておけば、ドン・ミゲルが署名したものと、ほぼ同じ協定を、カルロスとも結べたでしょう。
いずれにしても、条約は、二人の王位請求者の追放という目的を、十分に達成しました。そして、ドン・カルロスは、何かが文書にされているかどうかを除けば、ドン・ミゲルと、まったく同じ状況にあるように思われます。
条約で、彼らの将来の居住地を定めることは、できませんでした。条約の補足によっても、それ以上にできるわけではありません。条約を恒久的なものとすることについては、マルティネス・デ・ラ・ロサが、ドン・カルロスの支持者に対する、持続的な精神的作用として、それを望むことは、理解できます。しかし、それが、われわれにとって、持続的な干渉の必要や義務にも、なってはなりません。それは、厄介なことでしょう。それでも、レーヌヴァルとヴィリアーズは、何かを追加すべきだという点で、一致しているようです。ロンドンで、それを望むならば、われわれは妨げません。しかし、閣下が、その時宜を、これほどよくとらえ、効果を計算された条約の文言の外に、われわれへの新たな義務が、何か生じることは、望みません。
フリアス公は、この点について、われわれを促すよう命じられました。今朝、私は、これはロンドンで扱うべき問題だ、とだけ答えました……」
タレーラン公よりリニー伯爵へ。
「ロンドン、一八三四年六月十二日。
伯爵殿、
……四月二十二日の条約の批准書の交換について、フランスの幾つかの新聞の攻撃を、国王の政府が退けざるをえなかったことは、完全に理解しました。ほかの行動はできませんでした。それに、これが、イギリス政府に、何か不都合を与えるとは思いません。今までのところ、この件について、少しも意見を向けられていません。そして、向けられうる、すべての意見に答える準備は、十分にできています。
一昨日、ミラフロレス侯爵がパーマストン卿へ送った覚書の写しを、私が知らされた、その日のうちに、お送りしました。その覚書に行うのが適切な返答について、まだ考えを固めておらず、パーマストン卿と話すこともできていませんでした。それについて話したのは、昨日のことでした[234]。
私は、スペイン政府のこの通告には、われわれの配慮に委ねようとする問題に関与することを拒む、という形以外で答えるべきではないと、卿に指摘しました。この問題について、四月二十二日の条約では、少しも拘束されていません。ですから、ドン・カルロスとドン・ミゲルの両王子が、すでに半島から追放された後に、彼らの将来の運命を定めようとすることは、フランスとイギリスの政府にとって、何か憎むべきものを持つだろうと、私は考えています。
この二人の公子は、今日、スペインとポルトガルに対して、その権利を主張する国に向き合う、すべての王位請求者と、同じ状況にあります。イギリス、フランス、スウェーデンは、自国を不安にさせえた王位請求者に対する保障を、他の諸国に求めたことはありません。そして、スペインとポルトガルの政府が、この二人の王子について、将来への正当な恐れの理由を持つと考えるならば、彼らが後に行うかもしれない、半島の平穏を乱す性質の試みに対する厳しい措置は、コルテスに求めるべきです。
パーマストン卿は、この問題について、私の見方に賛同しているようでした。それに、卿は、自国の内閣の意見を求めるでしょう。私の側では、お送りいただくようお願いした指示を、待ちます。」
オルレアン家のアデライード王女よりタレーラン公へ。
「テュイルリー、一八三四年六月十二日。
…………………………追伸。兄は、先ほど、四国同盟の条約について、新たな宣言を行うという、マドリードで出た考えについて、私に話しました。兄によれば、条約の力と効果を保つためには、とりわけ、その効力が、今これほど明白に示されたときには、何も言ってはならず、確認や説明のための、いかなる宣言も控えなければならない、ということです。この種の措置は、すべて、確認する代わりに弱めるからです。さらに、フランスの部隊や軍隊を必要とせずに、問題が解決したことへの後悔、あるいは、後に、それらを進軍させる口実を準備したいという願いに、帰されかねないからです。
兄から、あなたに伝えるよう頼まれました。昨日、グランヴィル卿と、この件について話し、卿は、私たちの大切な国王が示した意向に、たいへん満足したようです。国王が私に言ったように、それは、いっそう時宜にかなっていました。マドリードでは、この問題が誤った方向へ進み、遅延のたびに、それを消し去ることが、いっそう難しくなっていたからです……」
タレーラン公よりリニー伯爵へ。
「ロンドン、一八三四年六月十三日。
伯爵殿、
この外交報告と同時に、腕木通信の報告を送りました。ドン・カルロスのポーツマス到着をお知らせするものです。それについて、今までのところ、ほかの詳細は、お伝えできません。
今朝、十一日付でお送りくださった外交報告を受け取り、その扱う各点について協議するため、急いでパーマストン卿とグレイ卿に会いました。両者は、ヴィリアーズ氏からの手紙を受け取っていました。その内容は、閣下が写しをお送りくださったレーヌヴァル氏の外交報告と、完全に一致しています。ですから、私がこの件を話しに行ったとき、二人の閣僚は、スペイン政府の希望と要求を、知っていました。
われわれは、この状況で可能なことを、すべて一緒に検討しました。そして、間もなく、閣下の予見が実現し、イギリス政府は、四月二十二日の条約の規定を越えて進むつもりがないと、認めることができました。パーマストン卿は、ポルトガルの新しい批准書が交換されたならば、条約は、その形式と同じく、実施の面でも完成したと考え、イギリスの行動が、四月二十二日の協定によって負った約束の先にまで、及ぶべきだとは思わない、と明言しました。卿は、さらに、ミラフロレス氏の覚書と、マルティネス・デ・ラ・ロサ氏がヴィリアーズ氏へ向けた要求には、イギリス政府は、提出された問題に干渉できないと宣言して答えるつもりだ、と付け加えました。そして、スペイン政府が、ドン・カルロス王子と交渉する取り決めを、何か必要と考えるならば、王子と直接交渉するよう命じるべきなのは、スペイン人の交渉者である、と述べるつもりだということです。
閣下からいただいた指示に従い、スペインの要求を支持するため、イギリスの二人の閣僚に、強く求めるべきだとは考えませんでした。ただ、両者との会話を、閣下にご報告すると述べるに、とどめました。
伯爵殿、昨日の外交報告によって、すでに察していただけたであろう私の意見は、認めますが、グレイ卿とパーマストン卿の意見に一致しています。そして、ドン・カルロスに、もっと明確な条件が課されなかったことを、閣下とともに残念に思うとしても、今日、この公子と交渉できるのは、双方の自由な合意による場合だけだと、なお確信しています。」
レーヌヴァル氏よりタレーラン公へ。
「マドリード、一八三四年六月十四日。
公爵殿、
摂政は、四月二十二日の条約について、閣下への感謝を示したいと望みました。フロリダブランカ氏は、摂政の名で、カルロス三世勲章の徽章を、閣下にお渡しする任務を帯びています。これによって、騎士として閣下の仲間となることを、たいへん名誉に思います。しかし、誰からも、その人に属するものを奪ってはなりませんので、この王室の決定には、私は何も関わっていないと、明言しなければなりません。その功績は、陛下ご自身のものでないならば、すべてマルティネス・デ・ラ・ロサ氏に帰します。
この大臣も、同時に、同じ勲章を受けます。
ポルトガルの批准書に関する文書を、お送りくださり、ありがとうございます。そこには、無知があったのでしょうか。それとも、不誠実さがあったのでしょうか。幸いにも、ポルトガルで演じられていた悲しい劇の、速やかな終結によって、この問題を論じずに済みます。エヴォラ=モントで合意された大赦が、ロンドンで閣下の定められた案に、たいへん近いものであったことを、ご覧になったでしょう。
スペイン軍は、すでにスペインへ戻り、ビスカヤへ向かわせられています。その接近によって、ミゲル派の手から落ちたように、蜂起した人々の手からも、武器が落ちることは、期待するよりも、願うべきことでしょう。もしそうなれば、それもまた、条約による奇跡となるでしょう。
再編された内閣が、庶民院で得た成功を、今日、知りました。よい前兆です。こちらでも、わが国と同じく、選挙の話ばかりです。両国で、よい選挙となりますように!
トレノ伯爵が、ごく近いうちに、財務大臣となると思います[235]。」
タレーラン公よりリニー伯爵へ。
「ロンドン、一八三四年六月十六日。
伯爵殿、
……マドリード内閣の最新の提案について、国王の政府が、イギリス内閣の考えと完全に一致する方針を採用したことを、喜んで知りました。この点について、私が常に、閣下の定められる限界のなかにとどまっていたことは、私の外交報告によって、おわかりになったでしょう。その限界のなかに保ち続けることが適切だと、なお考えています。
ミラフロレス氏からの覚書に答えて、私の第六十三号の外交報告で、閣下にお伝えした意見を、氏に知らせていました。スペイン公使は、パーマストン卿からも、同じ種類の返答を受けていたため、ドン・カルロスと直接交渉するために、ポーツマスへ赴くことに決めました。
自国政府の名で、この公子に行うはずの申し出は、年金三万ポンド・スターリングでした。その代わりに、王子は、ドン・ミゲルに署名させたものと、同じような約束を負うことになります。さらに、スペインの王位請求者は、ローマへ住みに行くことを、断念しなければならないはずでした。今そこで滞在すれば、すでにスペインに、たいへん好意的でない教皇政府へ、悪い影響を与えるのではないかと、恐れられているからです。
ミラフロレス氏は、その使命を果たすため、一昨日、出発していました。パーマストン卿も、自分の側で、外務次官の一人、ブラックハウス氏を、ポーツマスへ送りました。氏は、イギリス政府の力でできる、あらゆる便宜を、ドン・カルロスに提供する任務を帯びていました。ただし、金の貸し付けは除きます。政府は、それを拒む点では、揺るぎません。同時に、氏は、ミラフロレス氏の提案について、王子の意向を探ることになっていました。王子と、六十人以上からなる従者たちは、まったくの窮乏にあると推測されていたので、金を拒むことが、イギリス内閣が、スペインの交渉者に与えられる、最善の支持だと考えられました。
しかし、そうはなりませんでした。ブラックハウス氏は、今、パーマストン卿に、ドン・カルロスは、当面、旅を続けることを望んでいないと、伝えてきました。それどころか、直ちに上陸し、しばらくイギリスにとどまるつもりだというのです。ミラフロレス氏の提案については、聞こうとしません。その言葉によれば、何も放棄せず、決して自分の権利の主張をやめない、ということです。そして、何らかの制限を伴う約束に従うという条件で、一エキュを受け取ることにも、同意するつもりはありません。
パーマストン卿は、王子のこの抵抗を、ドニゴール号に乗っている、ベイラ王女とレオン司教の助言によるものだと考えています。そして、スペイン北部で蜂起した人々に与えうる、悪い効果を認めながらも、それほど大きな重要性を与えていません。
ドン・カルロスからブラックハウス氏への返答に従い、ミラフロレス侯爵は、公子に会うことを断念し、ロンドンに戻っています。侯爵が公子へ書き送っていた手紙と、取り決め案の写しを、ここに添えます。
ドン・カルロスは、ドン・ミゲルの総領事の職務を果たしていた、サンパイオ氏をポーツマスに呼びました。ポーツマスで、十五日間のための家を確保し、ロンドンの近くで田舎の住まいを探すよう、命じたのです。しかし、最も注目すべきで、確かと思われる事実は、王子が、ロンドン駐在のドン・ミゲルの公使サライヴァ氏の手元に、ブラカ氏から送られた、百万フランの信用資金を持っていることです。そこから、事態が起こった場合に備えて、すべては準備されており、ドン・カルロスが、少なくともしばらくは、住まいを定めるのは、イギリスなのだと、結論すべきでしょう。イギリス政府が、それに少しも反対しないことは、当然です。むしろ、王子の行動と、支持者たちの策動を、より容易に監視できるという考えから、それほど不満なく、この決意を見ています。
幾つかの新聞が、大々的に伝えた、リスボンの共和革命の知らせは、取引所の投機家が用いた詐欺にすぎませんでした。彼らは、劇場で、ドン・ペドロの目の前で、ドン・ミゲルを逃がしたことについて、その政府に向けて発せられた、幾つかの叫びを利用したのです。ポルトガルの人々の側の、これほど激しい敵意が、ポルトガルと、そのすべての領有地で、すべての修道院を廃止する布告を、正当化するかどうかは、私にはわかりません。この布告は、それ自体として、どれほど有益であっても、時期尚早に出されたように思われ、国内に、新たな騒乱を生むかもしれません。政府は、ようやく固まったばかりなのに、今、政府への憎しみで結束している、聖職者全体を挑発することで、少なくとも、不用意なことをしました。そして、ドン・ペドロのこの新しい行為にも、この二年間、彼を導いてきた、悪い精神を認めずにはいられません。
パルメラ公が、近くイギリスに到着すると伝えられています。公は、テージョ川の駐留艦隊の指揮を離れるパーカー提督とともに、リスボンから来ます。その指揮は、サー・ウィリアム・ゲージに引き継がれます[236]。
幾人かは、パルメラ公の旅行の目的は、私事だけだと言っています。しかし、政治的な理由によるものでないとは、なかなか信じられません。」
パーマストン卿よりタレーラン公へ。
「スタンホープ街、一八三四年六月十六日。
親愛なる公爵、
ブラックハウスは、ドン・カルロスが、当面、旅を続けたくないと、伝えてきています。それどころか、直ちに上陸し、『しばらく』こちらにとどまるつもりだというのです。ミラフロレスの提案については、聞こうとしません。何も放棄せず、決して自分の権利の主張をやめず、おとなしくしているという条件では、一エキュも受け取らないとのことです。ビスケー湾が、自分とロディルの間に横たわるようになってから、勇気が、驚くほど回復したようです。
これはすべて、かなり自然で、たいへん重要性の低いことです。唯一の結果は、スペインが年に三万ポンド・スターリングを節約し、その国内の平穏は、少しも損なわれないということでしょう……
心から、あなたのものです。
パーマストン。
追伸。ドン・カルロスの返答は、ただ次のことを意味しています。『レオン司教とベイラ王女は、私とともにいる。』」
リニー伯爵よりタレーラン公へ。
「パリ、一八三四年六月十八日。
公爵殿、
ルアンは、五月二十八日付で、イギリス艦隊がナフプリオンにおり、千五百人の兵士と、六門の野砲を載せていたと、伝えています[237]。提督は、ダーダネルス方面へ行くと話していましたが、なお数日、マルタからの知らせを待つとのことでした。
この中途半端な措置は、奇妙に思われます。しかし、五月三十日まで、コンスタンティノープルでポンソンビー卿が用いていた言葉と、一致します。その後、卿は、その言葉を変え、さらには、アジアの沿岸に艦船を集めないよう、提督に勧めたのではないかと、私は考えています。いずれにしても、ロシアは、それを口実に、武装を保つことになり、われわれは、常に妨げられるでしょう。
こちらで自分の仕事をしている、マイエンヴォルトというロシア人が、メデムから保証を受けたと、至る所で言っています。それは、イギリスの艦船が、さらに一隻でも地中海に入れば、ロシア人はボスポラスへ行く、というものです。黒海でのロシアの海上の立場は、ボスポラスの城砦によってしか保障されていないことを、知っておかなければなりません。セヴァストポリは、海からの防御を整えていないからです……」
リニー伯爵よりタレーラン公へ。
「パリ、一八三四年六月二十三日。
公爵殿、
サント=オレールからの報告では、エーゲ海に姿を現したイギリス艦隊をめぐって、ウィーンで大きな騒ぎになったとのことです。ポッツォもこの件をひどく気にしており、私は、この艦隊の行動を本来の意味で捉えてもらおうと、懸命に説明しました。新任の提督が、政治的な目的を持たずに、自分の権限と義務に属すると考えて行った航海にすぎないのです。少なくとも、私はそうだと考えています。
スイスの問題は複雑になってきています。リュミニー[238]の処置は、いつも巧みとはいえません。サルデーニャの公使は昨日、使節団の言葉に自国の内閣が満足したと表明した以上、すべて自然に収まるはずだったのに、新たな覚書が届いて、問題を再燃させたと私に話しました[239]。
私たちはエジプトに対し、オスマン政府に負った約束を履行する決心をして、この件で口実を与えないようにと書き送っています。この騒ぎ全体は、結局、ロシアに黒海で軍備を維持する口実を与え、こうしてその方面で私たちを牽制させることになるでしょう。
わが国の選挙は、たいへん順調です。現時点で判明している百三十人の当選者のうち、反対派は二十四議席を失い、そこには適切な人物が選ばれました。マルセイユでは正統王朝派が二人当選する見込みです[240]。」
タレーラン公からリニー伯爵へ
「ロンドン、一八三四年六月二十六日。
伯爵殿
……今朝、私はパーマストン卿を訪ね、たった今、彼との会談を終えました……。
彼は、モリアー氏[241]がスイスにおけるわが大使館の方針には同意しているものの、とるべき手順についてはリュミニー氏と完全に意見が一致しているわけではないと認めました。モリアー氏は、スイス連邦議会が近隣の列強に対してとった立場を維持させるには、十分な慎重さと巧みさが必要だと考えています。
パーマストン卿は、モリアー氏の述べた理由を力説しながらも、現在の情勢では、あらゆる問題においてフランスとイギリスが一致していることを示すのが、どれほど重要かは理解していると私に話しました。この点で、あなたの外交報告に展開されている考察の価値を認めていることを、あなたに十分に確信していただきたいとのことです。
同時に彼は、スイスだけでなく、トリノ、シュトゥットガルト、ミュンヘンのイギリス公使にも書簡を送り、各々の駐在先の政府に対し、私たちの望む趣旨で申し入れを行わせると約束しました。
ミントー卿の報告から、とりわけアンシヨン氏がスイスの問題について、ひどく誤った考えを抱いていると彼には思われたため、ベルリンにも意見を伝えるつもりであり、それが好ましい効果をもたらすことを期待しています。今挙げた各公使に対するパーマストン卿の訓令は、明日の公用郵便で発送されるものと考えています……。
……彼、すなわちパーマストン卿は、ポンソンビー卿からの最新の書簡を私に見せてくれました。その内容は、わが大使の書簡とほとんど完全に一致しています。これらの外交報告で伝えられた知らせが、イギリス政府をひどく心配させていることが、私にもわかりました……。
……私はパーマストン卿から、メヘメト・アリに対して、オスマン政府への要求をこれ以上続けるべきではないと理解させるため、アレクサンドリアに訓令を送るとの約束を得ました。スルタンが支払いを求めている滞納金の問題については、副王を説得するのは容易ではないでしょう。というのも、この件についてはキュタヒヤ協定に何も書かれておらず、滞納金に関する取り決めは口頭でなされたようだからです。しかし、キャンベル大佐には、この点と、イブラヒムが引き渡しを要求している地区の問題とを併せて、強く要求するよう命じられるでしょう。
私はパーマストン卿に、エーゲ海におけるイギリス艦隊の動きについて、改めて説明を求めました。彼の返答は、先日あなたにお伝えしたものと同じでした。彼の言葉によれば、イギリスは、東方の現在の情勢において、自国の安全のためにエーゲ海に艦隊を置く必要があると考えています。
マルタで冬を越すこの艦隊は、毎年夏に演習航海を行っており、今年も、従来の慣行を変える理由は何もありませんでした。もっとも、イギリス政府は、この艦隊にかかる莫大な費用と、その維持の負担から解放されるなら、喜んでそうするでしょう。そのためには、東方を揺り動かしている策謀に終止符を打ちさえすればよいのです。
リスボンから届いた最新の外交報告は九日付で、四月二十二日の条約に対するポルトガルの批准書にあった誤りは、不誠実さによるものではないと断言しています。私たちが要求する権利を持つ、完全に整った新たな批准書は、間もなく受け取れるでしょう。」
「ロンドン、一八三四年七月六日。
前回の外交報告でお知らせしたとおり、私は、地中海におけるイギリス艦隊の動きがいくつかの内閣に及ぼしている影響について、あなたが伝えてくださった意見を活用するつもりでした。
昨日、私はパーマストン卿とかなり長い時間会い、あなたの考察と、ルサン提督の外交報告にある詳しい事情を伝えた後、現在、すべての内閣が当然ながら懸念している東方問題について、もう一度率直に話を持ち出すべきだと考えました。この問題のさまざまな段階を彼とともに振り返った後、私は、自分の意見では、今日のフランスとイギリスには、次の二つの道のいずれかをとる必要があると結論づけました。一つは、ルサン提督が示した措置を採用し、黒海のロシアの海軍施設を攻撃することであり、これは戦争を意味します。もう一つは、全般的な平和の維持のために、あらゆる努力を続けることであり、その場合には、できるかぎり中途半端な措置や、他の列強が懸念を抱くもっともな理由となる行動を避け、断固としていながらも、穏健で融和的な方針を保つ必要があります。
第一の道については、今ここで論じる必要がなく、また、何よりもまず、イギリスとフランスの間で攻撃同盟条約を結んでからでなければとれない道ですので、私はこれを脇に置きました。
そこで私は主として第二の方針に力を入れ、地中海におけるイギリス艦隊の動きをめぐって、以前の会談ですでに述べていた考察を思い起こさせました。このような動きがサンクトペテルブルクの内閣に及ぼす効果は、きわめて疑わしいものでしかありえず、結局は、その帰結を容易に見通せる示威行動にすぎないこと、また、この種の問題では、結果を伴わない中途半端な措置は、役立つどころか、むしろ害をもたらすと述べました。
最後に、純粋にフランスの利益という観点からこの問題を捉え、私はパーマストン卿に次のことを理解してもらいました。国王の政府は、今私たちが扱っている問題について、パリに駐在するオーストリア、プロイセン、ロシアの代表からの質問に、絶えず答えなければならない以上、黒海で起こされ、ライン川で責任を負わされることになる、いかなる行動にも、多少の懸念を抱かずにはいられません。私たちは、わが国とイギリスとの間の純粋な防衛条約が、艦隊の遊弋よりもはるかに有効に、ロシアとその同盟国を威圧するだろうと考えていました。しかし、現時点ではイギリスの内閣がそれを嫌うので、この手段は断念せざるをえませんでした。それなら、わが国にとって重大な結果をもたらす問題に、私たちが慎重さと抑制をもって臨むことを、その内閣も不思議に思うべきではありません。たとえば、今年、わが艦隊をエーゲ海に派遣する必要はないと私たちが考えたとしても――この点について、私はわが政府の意向を承知していませんが――、イギリス政府は、わが国がすでに非常に大規模な陸軍を維持することで尽くしている努力に、その理由を見いだすべきなのです。
パーマストン卿はまず、私がたびたび彼に話してきた条約の締結を、これまで妨げ、今なお妨げている困難について、遺憾の意を表しました。
彼の説明の仕方から、すでにお手紙でお伝えしたとおり、この困難は彼自身から生じているのではなく、むしろ内閣の内部で彼が抵抗に遭っているのだと、私には判断できました。イギリス政府が、ことによると遠くないうちに、繰り返してきた拒否を撤回し、利点がこれほど明白な条約の締結に同意したとしても、私は驚きません。
次いで、イギリス艦隊の動きが無益であるという私の意見に戻り、パーマストン卿は、私が前回の外交報告で伝えた考察を繰り返しました。それは、ロシアとオーストリアが表している懸念こそ、この両国がイギリスの海上示威行動を重視している十分な証拠だというものです。彼は依然として、こうした示威行動の有効性を確信しており、夏の終わりまでにイギリス艦隊が呼び戻されることはないだろうと、私は考えています。
ただし、パーマストン卿は、私が述べたフランスの特別な立場についての説明が正確であること、また、ある状況において、わが国がイギリスと同じ行動をとらない理由を持ちうること、その逆もありうることを認めました。私たちにとって肝心なのは、この問題で行動の自由を保つことだと私は考えました。そのため、彼の政府は、今年、わが艦隊もエーゲ海に姿を現すことを望んでいるのかと、はっきり尋ねました。
彼の返答は、全般的な効果という点では、わが国のそのような行動がどれほど喜ばしいものであろうと、彼の政府が明確にそれを要求しているわけではない、というものでした。伯爵殿、この問題についての話は、そこで終わりました。この会談の結果、イギリスは現時点で地中海の海軍兵力を維持することを決めているものの、わが国には、その例に従う義務はまったくないことが、私にはわかりました。
私は、この最後の点を強調しておきます。実際、地中海にあるわが艦隊は、今の季節には出航しなくても、差し支えないのではないかと考えるからです。
イギリスの内閣には、このことで不満を述べる理由はないでしょう。わが艦船を出航させるよう、私たちを正式に招いたわけではありませんし、加えて、わが国は大規模な陸軍を維持しており、後に東方で公然たる断交に至ることになれば、それは力の釣り合いを決める大きな重みになるからです。少なくとも、イギリス艦隊に相当する力となるでしょう。そのときには、戦争が黒海だけでなく、ライン川でも行われることは、疑いないからです。
イギリスに対して、私たちの立場を十分に正当化するこの理由は、両院やフランスの世論に対しても、同じだけの説得力を持つはずだと、私には思われます。
さらに、私たちがこの行動を避けることに、北方の諸内閣も多少は感謝するだろうと期待すべきです。今日、イギリスとフランスの結合は、ヨーロッパの目にこれほど鮮明に示されているのですから、それを示すために、この行動をとる必要は、そもそもないのです。」
「ロンドン、一八三四年七月七日。
……スイスの問題が好転したと知り、私はたいへん満足しています。スイス連邦議会が最終的な決議を下すことで、オーストリアの内閣による嫌がらせが止むことを期待すべきです。その決議は、オーストリア、サルデーニャ、バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンの各政府が、これまで掲げてきた奇妙な要求を、面目を保ちながら取り下げられるほど、十分に融和的な表現でまとめられることでしょう。
パーマストン卿が、オーストリアの代理公使に対し、この問題においてイギリスがわが国と歩調を違えていないと納得させるように話したことは、あなたもご承知です。伯爵殿、あなたがまったく的確に指摘されたとおり、ここで問題になっているのは、フランスとイギリスの同盟を支える原則だということを、パーマストン卿は理解しました。オーストリアは、われわれ両国の内閣が、その要求をどこまで容認するかを試そうとしたのです。この最初の試みに際して、わが両国が断固とした姿勢を示したのは、有益でした。
私は、六月十二日付の覚書への返答として、あなたがアレー氏[242]に命じてドイツ連邦議会に提出させた覚書を、パーマストン卿に伝えました。彼は、それを知らせたことにたいへん感謝し、その覚書が完全に適切だと判断して、カートライト氏[243]にも、ほぼ同じ表現で返答させるつもりでいます。
アルマンスペルク伯爵[244]と摂政団の他の構成員との争いに対するあなたの見方は、イギリスの内閣も全面的に共有しており、今後も全力でアルマンスペルク伯爵を支持するでしょう[245]。バイエルン王自身も、伯爵を摂政団の首位にとどめるだろうと、私は考えています。王は、その外務大臣ギーゼ氏と同じく、アルマンスペルク氏を、できるかぎり長くバイエルンから遠ざけておきたいと望んでいるからです。
ロンドンのポルトガル公使から、六月二十一日に、四月二十二日の条約に対するポルトガルの新たな批准書が、モルティエ男爵に渡されたとの知らせを、たった今受け取りました。伯爵殿、その批准書があなたのお手元に届きましたら、古い批准書を、ポルトガルへの返送を委ねられているリマ卿[246]にお渡しください。私たちの用いた手段によって、この件が無事にまとまったことを、喜ばしく思います。批准書の交換の際には、この件でたいへん困らされました。
ドン・カルロス王子は、家族全員とともに、ロンドン近郊の新しい住居に落ち着いています。両シチリアの公使[247]や、多数のトーリー党員が、そこを訪れました。彼に会った人々の大半は、自分自身の立場や利益に対する彼の無知に驚きました。近づく人々は皆、彼には国王の称号を、その長男にはアストゥリアス公の称号を用いています……。
国王がご親切にも私に休暇をお許しくださったとの、あなたからのお手紙を、たった今受け取りました。ただし、私がその休暇を利用するのは、おそらく議会の閉会後になるでしょう。」
タレーラン公からリニー伯爵へ
[腕木通信による外交報告。]
「ロンドン、一八三四年七月九日。
グレイ卿とオールソープ卿は、国王に辞表を提出しました。辞任は認められました。国王はメルバーン卿を召し出しており、彼が新内閣の組閣にあたることになるようです[248]。」
タレーラン公からリニー伯爵へ
「ロンドン、一八三四年七月十四日。
伯爵殿
……数日前から、ドン・カルロスがスペインへ出発したという噂が、ロンドンに広まっていました。しかし、その出来事について伝えられる詳しい事情は、あまりに曖昧で矛盾していたため、信じることが困難でした。その事実が疑いなくなった今日でさえ、どのようにしてそれが行われたかについて、意見は一致していません。一方では、王子がイギリス船ユナイテッド・キングダム号に乗り、スペイン北部の港へ向かったと主張されています。これはイギリス警察の報告です。しかし他方で、スペイン公使は、次の事実を裏づける証拠があると考えています。王子は、イギリスの新聞が、家族全員とともにイタリア劇場の公演を観覧したと報じたその日に、ロンドンを出発しました。モレノ将軍と、この企てのすべてを組織したフランス人一人[249]を伴ってパリへ行き、そこから王子と二人の同行者は、スペイン国境へ向かって旅を続けました。その国境では、カロマルデ氏[250]があらかじめ通じていた人々の手配により、彼らは妨げなくスペインに入ることができたはずだ、というのです。
私は、パーマストン卿とミラフロレス侯爵から伝えられた事実をご報告していますが、そのうち、どれが本当に正確なのかをお示しすることはできません。この種の、ほとんどもっぱら警察にかかわる問題では、すぐに真実を見分けることは難しいからです。
新しいイギリス内閣の編成は、ほぼ決まってはいるものの、まだ最終的には完了していません。国王はまず、メルバーン卿に連立内閣を組むよう命じました。この組み合わせが失敗したため、陛下はグレイ卿に働きかけ、政務に復帰するよう促しました。しかし、繰り返しの懇請によっても、引退するというグレイ卿の固い意志を変えることができず、メルバーン卿が、第一大蔵卿として彼の後を継ぐことになりました。内閣の他の構成員は、その地位にとどまるようであり、今夜の閣僚会議で、内務省におけるメルバーン卿の後任を選ぶ予定です。また、辞任の意向を変えないと伝えられるランズダウン侯爵の後任も、選ばなければならなくなるかもしれません。オールソープ卿を説得して、再び大蔵大臣となり、その結果として庶民院の指導も再び引き受ける気にさせることができたのは、グレイ卿ただ一人でした。」
「ロンドン、一八三四年七月十五日。
……国王が、第一大蔵卿としてグレイ卿に代わる人物にメルバーン卿を選んだことで必要になった調整について、意見をまとめるため、閣僚たちは夕方に集まりました。たった今知らされたところによれば、彼らはメルバーン卿の後任として、ダンキャノン卿[251]を内務省に迎えることで合意したとのことです。ダンキャノン卿は、閣議に加わらない森林・国有地委員でしたが、その後任はサー・ジョン・ホブハウス[252]となり、こちらは閣僚になる見込みです。
メルバーン卿は、この案を国王に提出するため、今朝ウィンザーへ出発しました。陛下がこれを承認されることに、疑いはありません。
したがって、内閣は再編成されたものとみなし、現在の姿について、判断を下すことができます。
伯爵殿、まずお伝えしなければならないのは、今回の内閣の変更によって、フランスとイギリスの間にある現在の関係が、少しも損なわれることはないということです。ダンキャノン卿もサー・ジョン・ホブハウスも、この点で国王の政府を十分に安心させるはずの考えを、常に表明してきました。
国内の問題に関するイギリス内閣の現在の立場を検討すると、グレイ卿を失ったことが、取り返しのつかない損失であるのは、否定できません。彼の高潔な人柄と、誰もが認める誠実さは、支持者ばかりか、政敵にさえ信頼を抱かせていました。内閣に加わる二人の新しい構成員の、より明確で、より改革を志向する意見が、グレイ卿の退陣を埋め合わせるとは、信じがたいことです。彼は、自国とヨーロッパの目から見て、あれほど高い地位にあったのです。
党派心が猛威を振るうさなかにあって、望みうるかぎり公平な人々から、私は次のような意見を聞いています。この数週間に、スタンリー氏、サー・ジェイムズ・グレアム、リッチモンド公、リポン卿、そして最後にグレイ卿が、次々に退陣したため、内閣は、今後どれほど持続するか、ほとんど保証できないほど弱体化した、というのです。この意見がどこまで根拠を持つかを判断するには、今なお内閣の内部にあるといわれる分裂の芽について、私にできる以上に、よく知っている必要があるでしょう。疑いないと思われるのは、会期が終わる前に、アイルランド教会に関する法案を貴族院で可決させる必要があるため、政府がこれほど長く恐れてきた両院の衝突が、ほとんど避けられなくなるということです。そのとき、新たな貴族の任命が行われるでしょうか。この問いに、行われるという答えが出れば、さらに他の閣僚が辞任を決意するかもしれません。行われないという答えが出れば、相反する両院の意向の間で、どうして政務を進められるのか、もはやわかりません。
伯爵殿、この折の私の見解が、最も機密に属するものであり、そのいかなる部分も軽率に漏らさないことが、国王への奉仕のために役立つのは、申し上げるまでもありません。
繰り返しますが、このように再編成されたイギリスの内閣は、フランスに対して友好的な姿勢を保つでしょう。これこそ、私たちにとって肝心な点であり、予断を持つことが軽率であるような、別の事情によって、方針を変える必要が生じるまでは、この点を私たちの政策の指針とすべきです……。
追伸――たった今入った知らせによれば、ドン・カルロス王子は、今月二日にロンドンを離れ、九日にビスケーのある港に上陸して、たいへん好意的に迎えられたとのことです。同行者は、フランス人一人だけだったといわれています。この知らせは、確実だと保証せずにお伝えします。これほど速く、さまざまな情報が次々に入るなかでは、正確な真実を見極めることが不可能だからです。ただし、この最後の知らせは、イギリス政府にも届いており、政府はそれを信用しています。今朝もなお、ミラフロレス氏は、ドン・カルロスがナバラへ赴くために、フランスを通過したに違いないという証拠を、手元に持っていると、私に繰り返し断言していました。」
リニー伯爵からタレーラン公へ
「パリ、一八三四年七月十七日。
公爵殿
あなたのお手紙に記された見解は、イギリス内閣の構成について、私たちがこちらで行っている考察と、完全に一致しています。私たちにとって最も重要なのは、両国の良好な協調関係が維持されるという保証です。現在の情勢では、それが大いに必要になっています。
ジェノヴァからの報告によれば、ドン・ミゲルは、自分が署名した約束を破ることを望んでいないものの、やがて、さまざまな情報を与えられ、あれこれそそのかされるあまり、兄の死や病気に好機を見いだせば、イベリア半島への帰還を考えるようになるだろう、とのことです[255]。ドン・カルロスが彼を呼び寄せ、ポルトガルで彼から受けたもてなしを、ナバラで返そうとすることに、疑いはありません。
私は十五日付の『グローブ』で、四月二十二日の条約に続いて行われうる措置に触れた記事を読みました。
スペイン側から、わが国に要請がなされることは、疑いありません。公爵殿、私はこの点について、あなたがあらかじめイギリス内閣の意向を探れるようにしておきたいと思いました……。
……スールト元帥は今朝、辞表を提出しました[256]。本気であり、最終的な決断です。今、国王はジェラールに承諾させようとしていますが、彼は、議会での演説と職務の重荷を恐れて、まだためらっています。思うに、彼は、自分一人で入閣する不都合も考えているのでしょう。ジャコブの弱さを口にしています。ティエールとの内々の話で、それ以上のことまで述べたかどうかは、私にはわかりません。私は、自分としては、調整を円滑にする用意が十分にあります。長い開会演説を行い、それによって奉答文をめぐる議論を始めようという、優勢な意見に反対なのは、私一人なのですから、なおさらです。私には、この議論は無用であり、ただ動揺を生み、対外問題をいっそう扱いにくくするだけのものと思われます……。
ディノ夫人がこれを読み解けるなら、シャンポリオンよりも優れていることになります。しかし、今は少し熱があり、手がひどく震えているのです。」
タレーラン公からリニー伯爵へ
「ロンドン、一八三四年七月十七日。
伯爵殿
たった今、スペイン公使から受け取った書簡の写しを、お送りいたします。その書簡には、この公使がパーマストン卿に宛てた覚書が添えられており、それも写しを同封しました。この覚書には、思うに、少々早まって行われた働きかけの、軽率さが全体ににじんでいます。そのため、スペインがこれから置かれる新たな状況において、ロンドンとパリの内閣がどう行動すべきかについて、イギリス政府は、必然的にわが国と相談せざるをえなくなるでしょう。伯爵殿、この点に関する国王の政府の意向をお知らせいただき、これほど重要で、フランスの利益にこれほど密接に結びついている問題において、私に絶対に必要な指示をお与えくださるよう、お願いいたします。
私はミラフロレス氏に対して、ただ、覚書を受領したことだけを通知しました。この覚書が彼自身の作成したものであり、自国の宮廷から命令を受け取る時間がなかったことは明らかですので、決定的な方針をとるには、スペイン政府がこの点についての考えを、直接伝えてくるのを待つべきだと、あなたもお考えになるでしょう。
奴隷取引の抑止のため、フランスとイギリスとの間で締結された協定の実施に関して、前回の議会会期中に制定された法律を、一部お送りいたします。」
リニー伯爵からタレーラン公へ
「パリ、一八三四年七月十八日。
公爵殿
私は、閣議の場から直接、あなたに書いています。スールト元帥に代えて、ジェラール元帥を任命する勅令に、たった今、署名がなされました。明日の『モニトゥール』に、スールト元帥に配慮した適切な説明とともに掲載されるでしょう。結局のところ、彼の退陣は、自ら望んだものなのです。
国境からの知らせは、両側で兵力の集結が進み、近く交戦が始まる兆しがあること以外、何もありません。」
リニー伯爵からタレーラン公へ
「パリ、一八三四年七月二十一日。
公爵殿
ドン・カルロスのスペイン到着によって、私たちがどれほど困った立場に置かれているかは、申し上げるまでもありません。
女王はスペインでかなり信用を失っており、その陣営は、女王とその妹との間で分裂した状態で、今や軍の先頭に立つ王位請求者に向き合っています。
他方、トレノの財政計画は、スペイン国債の利息の引き下げを予告しています。これは、パリの無数の小口の投資家に影響を及ぼすため、彼らは声を張り上げて抗議し始めています。
こうしたさまざまな事情の影響を受けながら、私たちは公開の討議を始めようとしています。そこでは、四月二十二日の条約が、その約束したこと、その当初にもたらした結果、そしてまた、防ぎえなかったことによって、大きな役割を果たすでしょう。
条約はなお有効なのか、それとも、もはや有効ではないのか。――もはや有効でなければ、女王の政府に対する私たちの立場は、最初の状態、すなわち、正式な承認と、支援および援助の約束に戻ります。そして、その趣旨で私たちに要請がなされることは、疑いありません。ドン・カルロスがわが国の領土を端から端まで通過したことになるだけに、要請はそれだけ強く、ことによると、それだけもっともなものとなるでしょう。
条約がなお有効であれば、おそらく第三条と第四条[257]に訴えることになるでしょう。ミラフロレス氏の働きかけは、マドリードの内閣が行うであろう働きかけの、前触れです。
したがって、まず原則を決めなければなりません。その結果については、後で検討しましょう。
公爵殿、演説の一節を、次いで奉答文を起草することが、どれほど難しくなるかは、おわかりでしょう。討議では、ポルトガルに関するイギリスの用事は済み、ドン・ミゲルは出国して権利放棄に署名したのだから、私たちはイギリスのために火中の栗を拾ってやった挙げ句、置き去りにされたのだ、などと、必ず言われるでしょう。
さらに、わが国の南部国境での、こうしたカルリスタたちの動きや、スペインでのカルリスタによる王政復古を、お考えください。ベリエがトゥールーズとマルセイユで代議士に選ばれている、この時にです。こちらへ来る政府支持の代議士たちのうちに、私はすでに、この問題に対する刺々しい態度を見ています。そして、議会では、二つの党派が手を結び、私たちの弱腰を非難すると同時に、イベリア半島北部で私たちがもっと活発に行動するのを妨げることになるでしょう。私たち自身の党派も、穏健で、移り気で、愚かで、国の威厳についての、あらゆる誤った考えに流されやすく、私たちの不作為を責めるでしょう。――国王が北方の列強を恐れていることは、私も承知しています。国王は戦争を恐れ、ほんの数歩踏み入れるだけであっても、スペインへ入ることを恐れています。私も戦争を恐れていますが、反対の道にも、大いに恐れるべきことがあるのです。なお、スペインからは、まだ何の要請も受けていません。ただ、その要請が届く前に、私たちの意見を一致させておきたいのです。内閣に新たな分裂が生じないようにするためです。この重要な問題については、かなり近いうちに分裂が生じると、私は予想しています。」
タレーラン公からリニー伯爵へ
「ロンドン、一八三四年七月二十一日。
伯爵殿
昨日、私はパーマストン卿と、スペインの問題、および、王子ドン・カルロスが反乱の起きている諸州に現れたことによって生じた、新たな複雑な事態について話しました。彼は私と同様、四月二十二日の条約の目的が達成されていないことを認めました。特に、あなたの第六十三号外交報告にある指摘に、強い印象を受けたようでした。すなわち、条約以前には、バスク諸州へ入る道が、王子にはほとんど閉ざされていたのに、今や支持者のただ中へ運ばれたことになり、条約の結果は、結局、王子の利益となったという指摘です。
私はパーマストン卿に、条約の目的が果たされていないことを、私たちとともに認める以上、われわれ両国の宮廷が、条約締結の際に目指していた事業を完成させるため、何らかの手段を採用する必要も、彼には明らかなはずだと指摘しました。
この点について、彼は私に言いました。『私たちも、スペイン女王の大義を助けるために、何かしなければならないと考えるに至りそうです。しかし、その何かを決めるには、マドリードからパリとロンドンになされる要請の範囲を、知る必要があります。私たちは、反乱軍の動きを監視するため、スペイン北部の沿岸に、小型の艦船を数隻派遣する予定です。この方面にわが国旗が現れることは、スペイン政府にとって、役に立たないことはないでしょう。そして、マドリードの内閣が、もっと直接的な援助を求めるまでは、これが私たちにとれる唯一の措置です。』
四月二十二日の条約は、文言どおりには実行されたものの、その原則においては実行されておらず、その実現のためには何かしなければならないという点を、パーマストン卿が認めたので、私はそれ以上、強く求めようとはしませんでした。マドリードから明確な要請が届くまで、この話を再び彼に持ち出すのを待とうとしていたところ、数時間前に、あなたが書いてくださった第六十六号の外交報告を受け取りました。
この外交報告を読んで、その内容は重大すぎるため、パーマストン卿に、昨日の発言を確認しないわけにはいかないと、私は判断しました。その発言は、あなたが私に寄せられた問いに、まさに答えるものだったからです。国王の政府が、サン・セバスティアン、ビルバオ、サンタンデールなどの沖合に艦船を派遣したことも、イギリス政府の措置と一致しており、昨日の会談の話に戻る、よい機会を与えてくれました。
パーマストン卿は、ためらわずに、先の発言を私に繰り返しました。すなわち、四月二十二日の条約の目的が達成されたとは考えず、この取り決めの実行を確実にするため、わが政府と彼の政府の側で、何かしなければならない、ということです。私がこの同じ表現を繰り返すのは、昨日も今日も、パーマストン卿が用いたのが、まさにこの言葉だったからです。
彼はさらに、ミラフロレス氏から、二通目の覚書を受け取ったばかりだと、私に知らせました。その覚書で、ミラフロレス氏は、最初の覚書にあった要請を繰り返し、締結する必要のある新たな条約、または追加協定に盛り込むべき条項の一部を、具体的に示しています。
ミラフロレス侯爵は、とりわけ、ポルトガルで二人の王位請求者を追撃したスペイン軍への返礼として、ポルトガルの援軍をスペインに入れてほしいと望んでいます。
パーマストン卿は、この覚書にも、最初の覚書と同じように、マドリードの内閣の意向がわかるまでは、その内容について、いかなる方針もとることを控えると返答するつもりだと、私に話しました。私は、とりわけ、ポルトガル軍をスペインへ入れる問題について、マドリードの内閣の希望を知ることが重要だと、それとなく示しました。このかなり微妙な点については、あなたも、すでにリマ卿の意向を探ることができるように思われます。イギリス政府が、スペイン北部の沿岸に艦船を数隻置くことにした措置は、必ず好ましい効果をもたらすでしょう。あなたが私に伝えてくださった同種の措置と協調して実施されれば、最初から、女王の大義を支えるために、私たちの意見が一致していることを示すからです。
伯爵殿、あなたが書いてくださった最近の外交報告への返答として、私がお伝えできる情報は、以上のものだけです。
これに、一つだけ考察を付け加えます。私の意見では、イギリス政府は、わが国によるスペインへの、いかなる武力介入にも、強い不満を抱くでしょう。しかし他方で、女王の大義を助けるために、同政府が採用に同意する手段は、おそらく、それを十分に支えるものにはならないでしょう。もっとも、これらはすべて、まだ仮定の域を出ません。」
リニー伯爵からタレーラン公へ
「パリ、一八三四年七月二十五日。
公爵殿
マドリードからの外交報告は、安心できるものではなく、そこに首を突っ込もうという気には、あまりさせてくれません。
あなたに知っておいていただきたいのは、こちらの外国公使たちが、国王個人の意向を察知できる場合に、それをドン・カルロスのために利用し、この点について彼に情報を与え、励ましていることです。私たちには、具体的な証拠があります。
彼らは内々の会話で、私たちが武力介入によって女王を支えれば、全面的な戦争になると、しきりに言っています。この件について、自国の宮廷から明確な覚書を出させようとしており、それによって、私たちをぴたりと止められると述べています。ですから私は、そのような言葉を聞く前に、どちらかの方針が決まっていてほしいと思うのです。
何よりよいのは、スペインがわが国に何も求めないことであり、私は、この件について、レーヌヴァルに何らの期待も抱かせていません。
イギリスの艦船はスミルナを離れました。それはよいことです。そこにいることが、ほとんど無益に、コンスタンティノープルと、そこの通訳官たち全体を、再び動揺させていたからです……。」
オルレアン家のアデライード王女からタレーラン公へ
「ヌイイ、一八三四年七月二十五日。
私の手紙を読み聞かせましたところ、全面的に賛同された、私たちの敬愛する国王は、スペイン問題について、どのような言葉を述べておられるかを、あなたに伝えるようお望みです。国王は、若い女王の頭上の王冠を支え、その政府に力と安定を与えるため、自分にできるかぎりの道義的な支援を与えるつもりです。この道義的な支援は、武力介入よりも有効だと考えておられます。そのため、この種の介入をすべて避けられるよう、あらゆる努力をなさるでしょう。しかし、人間の運命の変転について、あまりにも経験を積んでおられるので、介入が決して行われないと約束することはできません。それどころか、国王は、どれほどの代償を払うことになろうとも、自分の行動と思考の唯一の動機であるフランスの利益のために、情勢が必要としていると思われる大胆な措置を、いつでもとる用意があると、知られることをお望みです。
国王はさらに、次のことをあなたに伝えるよう、私に命じられました。フランス軍の一万、一万二千、あるいは多くても一万五千人の部隊があれば、ドン・カルロスを捕らえてフランスへ連れて来て、その全軍を直ちにフランス領へ引き揚げることができると考えている人々がいることは、承知しているとのことです。国王は、そのような企てが行われても、成功するとは考えておられません。
山中でドン・カルロスを包囲し、追跡して捕らえることほど、困難なことはないでしょう。しかし国王は、たとえ成功したとしても、フランス人に連れ去られたドン・カルロスの名は、本人がその場にいるよりも、いっそう手ごわいものになると考えておられます。そこにいる本人は、支持者たち、とりわけ、彼を守らなければならない人々にとって、絶え間ない厄介事の源になるでしょう。国王は、この連行は、スペインでは、ナポレオンによるフェルナンド七世の連行と同じものと見なされ、同じように、彼の大義に害を与えるよりも、むしろ利益をもたらすとおっしゃっています。――これに対して、スペイン側の行動の結果、ドン・カルロスの力が弱まり、スペインが彼を望まないために、彼がフランス領へ追いやられるなら、その大義は失われるでしょう。そのときには、彼が後に帰還することでスペインに生じうる危険を防ぐための、安全上の措置を、差し支えなく彼に対してとることができるでしょう。親愛なる公爵殿、以上が、国王があなたの慎重な取り扱いに委ねる考えの一つです。国王は、あなたがそれを適切に活用されることを承知しておられ、このように重大で複雑な問題について、あなたのお話を聞くことも、ご自分の意見をすべて伝えることもできないのを、たいへん残念に思っておられます。
国王はまた、万一に備えて、次のことを忘れないよう、あなたに求めておられます。フランスがスペインに介入すれば、必然的にライン川とアルプス方面での力が弱まるため、北方の列強は、その介入を恐れるどころか、望むでしょう。したがって、介入は、それらの列強に戦争を決意させることにもなりうるので、イギリスが同盟によって、フランスと共同の立場をとることを約束していないかぎり、フランスは決して、そのような介入に乗り出すことはできないのです。
親愛なる公爵殿、以上はすべて、最も厳重な秘密としてお伝えします。」
タレーラン公からリニー伯爵へ
「ロンドン、一八三四年七月二十日。
伯爵殿
……昨日、私はパーマストン卿に会いました。スペインの現在の状況について、かなり長く話し合った際、議会の召集によって、イベリア半島の問題でどのような政治的行動をとるかを説明しなければならなくなる、その時に、この問題が国王の政府にもたらす困難のすべてを、彼にそれとなく示しました。同時に、四月二十二日の条約にどのような価値を認めているかについて、イギリス内閣の意見を知ることが、私たちには絶対に必要だと述べました。また、パーマストン卿自身が二日前に私に話したことに基づいて、フランス政府は、フランスとイギリスの双方が、条約の目的が達成されていないこと、したがって、その実行を確実にするために、何らかの新しい措置をとらなければならないことを認めていると、正式に宣言してよいのかを、知る必要があるとも述べました。最後に私は、イギリス内閣が、四月二十二日の条約が実行されていないことを、私たちとともに認めるのであれば、マドリードの内閣からの援助要請が伝えられる前であっても、スペイン女王の大義を助けるため、イギリスはどのような手段を提案すべきと考えているかを、今日のうちに私に知らせることが、おそらく可能だろうと付け加えました。
私はパーマストン卿に、これらの点のすべてについてとはいかなくても、少なくとも四月二十二日の条約に認めるべき価値に関する点について、明確な返答を望む理由を、すべて詳しく説明しました。彼は今日の午前中に、私の見解を内閣の他の構成員に示すと約束しました。たった今、彼が伝えてくれたのは、同僚たちとの協議の結果であり、私はそれを、急いであなたにお送りします。
イギリス政府は、議会の開会演説に、おおむね次のような一節を入れてよいと考えています。
『イギリスは、四月二十二日の条約の目的が達成されていないという考えを、わが国と共有している。現在、この条約に署名した四か国は、今の情勢においてとるべき措置を定めることに取り組んでいる。』
伯爵殿、以上が、私がパーマストン卿の目の前で起草し、彼がその内容のすべてを承認した一節です。ただし、国王の政府は、この一節の文言そのものに拘束されるわけではありません。しかし、その趣旨を外れれば、イギリス政府が承認する範囲を超えるおそれがあります。
とるべき措置について、パーマストン卿は、マドリードの内閣からの要請を受け取るまでは、それに取り組むことはできず、イベリア半島での事態の展開によって、このように重要な行動が必要になる前に、わが国によるスペインへの武力介入の問題を、今ここで論じても無益だと、繰り返しました。
たった今お示しした一節は、現時点では、国王の政府に課されている必要を十分に満たすように思われたので、私はそれ以上、強く求めようとはしませんでした。実際、四月二十二日の条約の結果について、代議院で討議が起これば、署名国は、条約の目的が達成されていない以上、今後とるべき措置に取り組まなければならないと認めているが、その措置は交渉の対象であり、詳しい内容を明らかにするのは適切ではない、と述べるだけでよいでしょう。
伯爵殿、この点について、あなたも私の意見に賛同されると考えています。この外交報告へのお返事を、待ち遠しく思いながらお待ちします。
付け加えておかなければならないのは、パーマストン卿が、自分自身と同僚たちの名において、わが国の開会演説の一節で、フランスとイギリスの結合に改めて触れてほしいという強い希望を、私に表したことです。それを、イベリア半島の出来事に関する一節と結びつけるのは、容易だろうと思います。
ロンドン駐在のギリシア公使トリクピス氏から、数日前に、ロシアの新しい代理公使が、自国の政府の名において彼に行ったという、いくつかの提案について聞きました。その一つは、ギリシア政府自身に、同盟の三つの宮廷に対して、ギリシア王国の中立を認める宣言を求めさせようというものでした。トリクピス氏は、おそらく、この申し入れを自国の政府に伝えることを引き受けたのでしょうが、メデム伯爵に対しては、伯爵の提案するような宣言によって、ギリシア政府は、戦争の場合に、イギリスとフランスの艦船に対して港を閉ざさざるをえなくなるだろうと答えた、と私に話しました。
第二の提案は、オトン王に関するものでした。ロシアの内閣は、王がギリシア正教に改宗するか、少なくとも、自分の子供たちをその宗教で育てるという固い意向を表明してほしいと望んでいました。トリクピス氏は、オトン王はまだ成年に達していないので、この点について意思を表明する義務はないこと、いずれにしても、これは良心の問題であり、条約によって決められることではないこと、また、若い王の子供たちの宗教に関しては、王には子供がおらず、結婚さえしていない以上、今取り上げても無益だと答えたはずです。」
「ロンドン、一八三四年七月二十九日。
たった今、パーマストン卿に会いました。彼は、四月二十二日の条約について、フランスとイギリスの両政府の見解を述べた、私がお伝えした一節に関し、閣議で決められた変更を知らせてくれました。彼の説明では、私に会った時には、同僚のうち数人にしか相談していなかったので、その後、この件は重大すぎるため、閣議で扱わなければならないと判断したとのことです。そして、閣議全体の意見に基づいて、その一節を修正し、あなたに提出するため、グランヴィル卿に送ったとのことでした。
パーマストン卿は、その一節を読み上げてくれました。私には、表現は明確さを欠くものの、私がお送りした一節の実質を含んでいるように思われます。私はこの点について、自分の考えをパーマストン卿に述べ、グランヴィル卿からの通知があなたに届いた時には、国王の演説が、すでに閣議の承認を受けている可能性があり、そのため、何らかの修正を加えるには、遅すぎるかもしれないと付け加えました。
あなたがそちらをお望みであれば、私を通じてお手元に届いた最初の文案を維持しても、何ら差し支えないというのが、私の意見であると、申し上げてよいと思います。」
リニー伯爵からタレーラン公へ
「パリ、一八三四年八月三日。
公爵殿
何が起きたのか、私にはよくわかりました。パーマストンは、あなたが不在の機会をとらえ、あなたがロンドンにいれば、もっと困難だったはずのことを行ったのです。
ともあれ、こうしたことは、すべて終わりました。こちらでは、意見が大きく分かれています。私たちが言いすぎたという人もいれば、言い足りないという人もいます。
デュパンは、あらゆる武力介入に反対しています。『ジュルナル・デ・デバ』は、あらゆる武力介入に賛成です。この件について、私には、その新聞の勢いを弱めることしかできず、黙らせることはできません。
山間の辺境地帯では、ドン・カルロスとロディルが何をしているのかを、私たちが十分に知ることは不可能です。私は、ロディル本人の態度ではなく、その周囲の人々の態度に、懸念を抱かずにはいられません。マドリードでの修道士の虐殺[258]は、反乱に再び勢いを与えました。また、マドリードで進められ、発覚した数々の陰謀は、女王の陣営が分裂していることを示しています……。
カタルーニャからの知らせは、もっと良好です。貴族院でのロンドンデリー卿の発言[259]を、臨時の急使で送っていただければ、ありがたく思います。今週末に始まる、こちらの討議に、ちょうど間に合うでしょう。」
「八月四日。
アリスプ[260]の報告によれば、ロディルはスマラカレギに対して、確かに大きな勝利を収めたとのことです。ドン・カルロスは、わが国の国境を背にしたままであり、アリスプは、彼が間もなく国境を越えて戻らざるをえなくなることを、ほとんど疑っていません。
これがマドリードからの要請です。パーマストン卿にも、ヴィリアーズとミラフロレス氏を通じて、その写しが届きます。
議会では、武力介入に乗り気ではありません。国王は、宣言を出すことに、あまり関心を持っておられませんし、実際、私たちは、演説の一節を、それと同等のものとみなすこともできるでしょう。
他方、トレノは、ロンドンで借款を募り、わが国の小口の国債保有者に対して、支払いを打ち切ろうとしているため、私たちとしては、彼への支援を正当化できません。五分の二まで減らすといわれています。私たちは、この件について強い調子で書き送りましたが、スペインは支払い停止を望んでおり、そうするほかないのだろうと、私は考えています。これによって、トレノは、こちらで不人気になるのと同じだけ、マドリードでは人気を得るでしょう……。」
リニー伯爵からタレーラン公へ
「一八三四年八月四日、午後九時。
公爵殿
バイヨンヌから、本日付の、次の腕木通信による外交報告を受け取りました。
『反乱軍は、一日以来、あらゆる方面で敗れている。ロディルは、精力的に攻撃している[261]。』
今夜、詳しい事情がわかるでしょう……。」
タレーラン公からリニー伯爵へ
「ロンドン、一八三四年八月五日。
伯爵殿
すでにご承知の文書の写しを、お送りいたします。それは、ロンドンのスペイン公使が繰り返した働きかけに対して、パーマストン卿が先月二十八日に返答した覚書です。同時に、ミラフロレス侯爵が、たった今パーマストン卿に送った新たな覚書の逐語訳も添えます。その覚書で、侯爵は、四月二十二日の条約の追加条項に盛り込むことを、スペイン政府が望んでいる、さまざまな点を示しています。
同種の通知は、フリアス公からも、間違いなくあなたになされているでしょう。それに、あなたも十分な注意を払われたはずですので、マドリードの内閣の五つの新たな提案について、国王の政府の意向をお知らせいただければ、たいへんありがたく思います。
第一の提案が表している希望には、フランス政府がすでに先んじて応じていますので、何らの困難も生じえません。第二の提案も同様だと考えています[262]。第三の提案は、ポルトガル軍の部隊を入れることに関するものですが、現在の情勢では、私たちがそれに反対することは、ほとんど不可能と思われます。
しかし、とりわけ第四の提案については、確実で、正確で、できるかぎり詳しい情報を必要としています。国王の政府が、スペインへの提供を約束しようとする物的援助の種類、数量、金額について、私は何も判断できません。したがって、伯爵殿、この点については、私には、ほぼ他の全権代表の署名を求めるだけで済むよう、完全に起草された条項を、お送りいただきたいと思います。
また、スペイン政府の第五の提案で求められている、一種の保証と道義的支援に、どのような形式を与えたいとお考えかについても、教えていただきたいと思います。
伯爵殿、この最後の二点には、私には解決できない問題が含まれていることを、おわかりいただけるでしょう。スペインのために、国王の政府が用いるつもりの手段と、イベリア半島の問題において負おうとしている約束の範囲とを、私にできる以上に、よく知っている必要があるからです。
四月二十二日の条約に加える追加条項について、間もなく私の意見を求められる可能性が、きわめて高いので、あなたからお待ちしている指示と命令の発送を、できるかぎり急いでいただくよう、あえてお願いいたします。」
「ロンドン、一八三四年八月七日。
……たった今、私はパーマストン卿と、マドリードの内閣が最近フランスとイギリスの両政府に行った要請について、話し合いました。彼は、これらの要請を慎重に検討した結果、浮かんだ考えを、私に伝えました。それによって彼は、四月二十二日の条約にいくつかの条項を追加すること、さらには新たな条約を結ぶことさえ、可能かどうかを疑うに至ったのです。実際、彼は言いました。『マドリードの内閣の要請は、条約の規定には、ほとんどなじまない事項に関するものです。しかし、それらは、各政府が常に自由に採用できる、取締り上の措置の対象にはなります。たとえば、フランス政府には、陸の国境を通じて、スペインの反乱軍に向けた、いかなる種類の援助も、スペインへ入れることを禁止する権利があります。イギリス政府と協力して、スペインの沿岸を監視させ、国際法によって定められた範囲内で、軍需品の密輸を阻止することもできます。しかし、このような措置を、条約によって規定する必要はありません。中立国の権利を認めずに、そのような規定を設けることは、むしろ不可能でしょう。したがって、武器や弾薬などを反乱軍に届けるため、スペインに接岸しようとする外国船に対する、あらゆる取締りを、あらかじめ無効にすることになってしまいます。フランスとイギリスが、ドン・カルロスに対して正式に宣戦布告しないかぎり――それを要求するのは、合理的ではありませんが――、この両国が、スペイン沿岸の封鎖を他の政府に認めさせることは、困難でしょう。したがって、スペイン政府が自国の港の封鎖状態を宣言し、フランスとイギリスの艦船が、その封鎖を維持するために援助を与えるほうが、適切と思われます。ただし、その場合も、中立国の権利によって定められた範囲内で行動することになります。』
マドリードの内閣による物的援助の要請については、それに応じるために条約は必要ありません。この点で、各政府は、自分が適当と考えることを自由に行えますし、条約なしに与えられたからといって、援助の実質が減るわけではありません。
最後に、四月二十二日の条約の署名国の政府が行うことを、スペイン政府が望んでいる正式な宣言については、イギリス内閣は何ら反対しません。しかし、そのような宣言は、必要ならマドリードで公表される、外交覚書だけの形で行えばよいと考えています。
ポルトガル軍をスペインに入れることは、問題にできません。マドリードの内閣は、イギリス政府に送った要請で、この計画にまったく言及せず、反対に、ポルトガルの国境に集結するポルトガル軍の警戒線が、スペイン領内へ入らないよう、強く求めているからです。
パーマストン卿と、これらのさまざまな考察をまとめた後、私たちは、明日、スペインとポルトガルの全権代表と会合を持つことで合意しました。その席では、このような文書に適切に盛り込める要請を含んだ、正式な覚書を私たちに提出するよう求めます。同時に、その覚書に対し、イベリア半島の現在の状況についての、わが両政府の見解を示し、事情が許す時には支援を与えるという確約を含んだ、返答の覚書を出す意向を伝えることになっています。この返答の覚書は、その後、マドリードで公表することができ、スペイン政府がわが両国に求めている道義的支援を、間違いなく与えるでしょう。
伯爵殿、以上が、私たちの決めた案です。変更されることはありえますが、いずれにしても、四月二十二日の条約に加える協定や追加条項を、締結せずに済むものです。
この案が、あなたと国王の政府の承認を得られたかどうかを、お知らせいただければ、特にありがたく思います。」
「ロンドン、一八三四年八月九日。
……パーマストン卿、スペインとポルトガルの両公使、および私の間で、何度か協議を行いました。その間、ミラフロレス氏とサルメント氏は、四月二十二日の条約に追加条項を加えるよう、強く主張しました。そこで私たちは、今お送りする追加協定案に合意しました。この案は、イギリス内閣の承認を受けています……。
しかし、私は、この追加条項に署名する用意があると表明するのは適切でないと判断し、自国の政府に照会することを求めました……。
伯爵殿、お送りする案を慎重に検討されれば、あなたも私と同様、国王の政府にとって、実際の不都合は何もないと納得されるでしょう。ドン・カルロス王子の軍への援助を、わが国の国境から通過させないという約束以外、新たな義務は何も含んでいないからです。この点については、私たちはすでに、第一条の規定に先んじて行動しています。
ただ一つ、根本的には重要でないと思われるものの、私をためらわせる考慮があります。
第二条によって、イギリス政府は、武器と弾薬の援助を提供することを約束し、その代金は、後にスペインから返済されることになっています。
この最後の規定は、わが国の代議院や新聞において、誤った解釈を招くおそれがないでしょうか。国王の政府が、イギリスからスペイン政府に供給される品々の販売機会を、フランスの商業から奪ったと非難されるのではないでしょうか。
確かに、その非難には、まったく根拠がありません。このような場合にはいつもそうであるように、イギリスは、支出することになる金額を、結局、何も回収できないことが明らかであり、私たちにとって、そのような支出を避けることには、はっきりした利益があるからです。しかし、フランスの内閣が、この意見を認めさせられる立場にあるかどうかは、私にはわかりません。それが、この条項への同意を保留することにした理由です。
全体として、追加協定案は、わが国が承認しても、何ら危険がないほど、ささやかなものです。もし、マドリードの内閣が行った要請のすべてを含んでいると、私たちが常に断言できないのであれば、むしろ、そのささやかさのために、不都合があるほどでしょう。
この案で価値があるのは、ただ一つの点です。それは、フランスとイギリスが、四月二十二日の条約の目的が達成されていないと認めることです。
私は、この事実の証しは、議会の開会にあたってのフランス国王の演説と、今週末に、議会の閉会にあたってイギリス国王が行う演説の中で、同じように有効に示されるはずだったと、今なお考えています。必要であれば、フランスとイギリスを一方とし、スペインを他方とする外交覚書の交換だけでも、これほどわずかな義務を定める協定の、いささか大げさな前文に代えるには、十分だったでしょう。
しかし結局、私たちは、ミラフロレス氏とサルメント氏の繰り返しの懇請に、譲歩しなければなりませんでした。特に前者は、マルティネス・デ・ラ・ロサ氏からの外交報告の一節を、私たちに見せました。彼によれば、その一節によって、四月二十二日の条約への追加条項を得るため、強く要求する義務を負っているとのことです。」
「ロンドン、一八三四年八月十二日。
……私の外交報告に添えた追加条項案は、あなたが国王の政府の名において伝えてくださった意向に、合致しているように思われます。
各条項の前文に記されている宣言は、重大な異議を生じさせないほど、十分に曖昧な表現で書かれています。
昨日の外交報告でお伝えしたとおり、私は、国王の演説の一節にとどめることを望んでいました。しかし、四月二十二日の条約に追加条項を設ける以上、何らかの形で、その理由を示さないわけにはいきません。そのために用いられた一節は、可能なかぎり、述べることを少なくしていると考えています。
第一条の規定が、あなたの承認を得た以上、残るのは、第二条について、私があなたに示した、重要でない異議だけです。
アルジェの外人部隊をスペインの海岸へ輸送することについて、国王の政府がマドリードの内閣に行った提案を、新たな追加条項にすることを、あなたがお望みとは思いません。あなたから命令を受けた場合にのみ、私はそれを持ち出すつもりです……。
この外交報告を書き終えようとしていた時、私はパーマストン卿に会いました。彼は、ミラフロレス氏の要請と、閣議の全会一致の意見に基づき、昨日お送りした条項に、次の条項を追加することを提案すると、私に伝えました。『新たな事情によって、新たな措置が必要となる場合には、高位の締約者は、この件について、共同の合意によって定めることができる事項を、実行することを約束する。』
私はパーマストン卿に、この条項を、内容の点でも形式の点でも承認しないことを、隠しませんでした。その形式は、スペイン政府の力を、あらかじめ疑うことになるため、同政府を傷つけるものですし、三つの宮廷が、そのような疑念を公表すれば、マドリードで悪い効果を生みかねないからです。最後に私は、この条項をあなたに伝える際、自分が認めた不都合も、あなたに述べるつもりだと付け加えました。――あなたがその採用を拒まれるなら、私が人に示せるよう、十分な理由を記した外交報告をお送りいただくことが、有益だと思います。」
「ロンドン、一八三四年八月十五日。
……イギリス国王が、議会を来る九月二十五日まで休会とするにあたり、たった今行われた演説を、お送りいたします。国王は、演説を読み上げる際、対外政策、とりわけフランスに関する一節を、外交官席の人々の心を動かしたと思われる調子で、読み上げられました。」
「ロンドン、一八三四年八月十九日。
たった今署名した追加条項を、急いでお送りします。国王の政府は、その内容に、満足せずにはいられないと思います[263]。昨日お知らせしたとおり、これらの条項の原案に、いくつかの変更を加えたことにお気づきでしょう。最も重要なのは、第二条の末尾に加えた変更です。この条項によって、イギリスは摂政女王に対し、はるかに明確な政策を約束する一方、第一条は同じままで、フランスには、すでに進んで履行してきた義務しか定めていません。第二条の最後の部分を削除したことで、四月二十二日の条約への、この追加協定が、純粋に政治的な性格を持つようになったことを、私は喜ばしく思います[264]。伯爵殿、こうすることで、四月二十二日の条約と、それを結ぶ際に各宮廷が抱いていた目的に、いっそうよく結びつくことに、きっとお気づきでしょう。」
タレーラン氏は、自らの任務の終わりに達していた。四国同盟条約への追加条項に署名してから数日後、彼は与えられていた休暇を利用し、フランスへ戻った。その三か月後、大使の職を辞する決意を固め、国王、アデライード王女、そして外務大臣に、以下の書簡を書いた。
タレーラン公からアデライード王女へ
「ヴァランセ、一八三四年十一月十二日。
……王女殿下は、私が長い間、自分のことを申し上げず、国王を疲弊させることになった、あの苦しい危機[265]から、一瞬たりとも殿下の注意をそらさなかったことに、お気づきだったでしょう。しかし今日、その危機が終わった今、私は、試練を経た臣下としての、十分な信頼をもって、殿下のご厚情の新たな証しをお願い申し上げます。私が外務省に宛てて書く手紙を、国王が好意的にお読みくださるよう、お取り計らいいただきたいのです。その手紙は、私の辞表です。オルレアン公殿下は、そのお考えでは、私はもはやロンドンで役に立つことはできないと述べられましたので、国王も、それをお受け取りになるお気持ちだと、私は考えるべきでしょう。公殿下のおっしゃるとおりです。私は老い、体が弱り、自分と同じ世代が、これほど急速に姿を消していくのを見て、悲しくなります。別の時代の人間である私は、この時代から遠ざかっていくのを感じています。
また、王太子が十分に感じ取られたことを、殿下にも繰り返し申し上げることを、お許しください。それは、この四年間で、イギリスから得られる有益なものを、私たちはすべて引き出したということです。どうか、有害なものは何一つ、わが国に伝わってこないように。イギリスは、驚くほど変わりました。新たに進んでいる道で、立ち止まることができるとは、私は思いません。正直に申せば、私は、それについて行くよう求められているとは感じません。さらに、ここには、方針の相違に加えて、人物の問題もあります。パーマストン卿と私は、もはや意見が合わず、互いに、さほど好感も持っていません。この不和によって、国王への奉仕が損なわれてはなりません。これが私の理由です。私は、それが道理と礼節にかなっていると考えており、国王の優れた洞察力によって、ご自身の利益への私の献身にふさわしいものと判断されることを、確信しています。ですから、国王への私の愛着については、これ以上申し上げません。しかし、人生を終える前に休息をとる必要があることについて、もう一度、申し上げたいと思います。また、五十年以上にわたって、フランスが経験してきた限りない変転の中で、幸いにも私が果たすことのできた奉仕の記憶を、傷つけないことは、歴史が私に与えるであろう位置に対する義務でもあると考えています。
もはや目的を失った自分の活動を長引かせても、祖国の役には立たず、ただ、私個人の尊厳を損なうことしかできないでしょう。
同じ件について、これほど長く殿下に申し上げたことを、お詫びするつもりはありません。殿下の高貴な友情は、私が信頼のすべてを打ち明けるほど、いっそう深まるばかりのものだと、私は承知しているからです。これほど高い精神と、これほど優しい心は、私にとって最も大切な慰めである、殿下の思い出とご厚情を、保ってくださるでしょう……。
タレーラン。」
タレーラン公から外務大臣へ[266]
「ヴァランセ、一八三四年十一月十三日。
大臣殿
四年前、国王のご信任によって、ロンドン大使の職に任ぜられた時、任務の困難さそのものが、私を従わせました。私は、フランスと国王のために、有益に任務を果たしたと考えています。この二つの利益は、常に私の心にあり、私の考えの中で、密接に一つとなっていました。
この四年間、全般的な平和が保たれたおかげで、わが国のあらゆる対外関係は、簡明なものとなりました。孤立していたわが国の政策は、他の国々の政策と交わり、すべての国の誠実な人々と、良識ある人々によって、受け入れられ、評価され、尊重されました。イギリスから得た協力のために、わが国の独立も、国民の誇りにかかわる感情も、少しも犠牲にしていません。また、私たちは、各国の権利を十分に尊重し、率直に行動してきたため、不信を抱かせるどころか、今日では、古いヨーロッパを不安にしている、ある種の動向に対して、わが国の保証が求められているのです。
これほど満足すべき結果は、確かに、国王の高い叡智と、大きな手腕に帰すべきものです。私自身については、誰よりも先に、国王の深いお考えを察し、後に私の言葉が真実であったと確信するに至った人々に、そのお考えを伝えたこと以外に、功績を求めません。
しかし今日、ヨーロッパが国王を知り、敬服し、それによって、最大の困難が克服された今、イギリスも、わが国と同じだけ、相互の同盟を必要としているかもしれず、また、イギリスが進もうとしているらしい道によって、私ほど古い伝統を持たない人物を、同国が好むことになる今、私は、国王とフランスへの献身を欠くことなく、陛下に、私の辞任をお認めくださるよう、謹んでお願いできると考えます。大臣殿、どうか、この願いを陛下にお届けください。
私の高齢、それに自然に伴う衰弱、年齢が勧める休息、年齢が呼び起こす思いは、私のこの願いを、きわめて当然なものとし、十分すぎるほど正当化し、それどころか、義務にさえしています。国王の公平なご厚情によって、そのように判断していただけると、信頼しています。どうか、お受け取りください……。
タレーラン公。」
タレーラン公からルイ=フィリップ国王へ
「ヴァランセ、一八三四年十一月二十三日。
陛下
陛下の新たなご厚情、ご信任、ほとんど、ご友情と申し上げたいほどのものに対する、お礼が遅れたことを、お許しくださったことでしょう。私は、もっとよくお応えしたいのですが、出席しなければならなかった、あの悲しい儀式で受け取った、重大な警告を、退けることはできません[267]。
私はそこで、自分の決意を貫く勇気を得ました。その決意で、私の心にとって本当に苦しいのは、国王のお気に召さないことです。高齢にもかかわらず、この四年間、どれほど献身してお仕えしてきたかを、国王が思い出してくだされば、私をお許しになるでしょう。そして、古い友人たちの死と、年齢の重みのために、私の行動が、もはや熱意に応えられなくなった今でも、その献身に、多少は感謝してくださるでしょう。
外務大臣に宛てた私の手紙の、最後の数行で示したもの以外に理由を探すとすれば、それは、まったくの誤りです。私の辞任を、イギリスであれフランスであれ、特定の人物の問題にしようとするのは、誤りでしょう。陛下のおかげで、私は七月革命のために、ヨーロッパで認められる権利を得ました。私の任務は果たされました。今日、退くことを強く願うのは、その権利と必要があるからです。
もし、このように真実で、単純な考えを離れ、さらに別の理由が必要だとすれば、私は国王に、次のように申し上げるでしょう。ウェリントン公を、私以上に尊敬している者はいません。なお可能であるならば、イギリスの衰退を食い止める名誉は、彼一人に帰するものと、私は確信しています[268]。しかし、彼の人格、力、慎重さを、どれほど尊敬していても、彼が政務に復帰したという事実だけを理由に、これほど重大な根拠があり、多くの日々にわたって公にもなっている私の辞任を、取り消すことはできません。そうすれば、その瞬間に、私は両国にとって、党派の人間となり、それによって、国王によくお仕えする力を、かえって失うからです。
私は、党派の人間であったことは一度もありません。そうなろうと思ったことも一度もなく、それこそが、私の力となってきました。四年前にイギリスへ出発した時、国の誇りに関して、あれほど敏感なフランスの目に、私は、常に自分がそうありたいと願ってきた者として映っていました。フランスのための人間としてです。今日なら、フランスにとって、私はウェリントン公のための人間となるでしょう。
国王は、寛大なご厚情のあまり、私の高齢を、しばしばお忘れになります。八十歳の老人には、慎重さを欠くことが許されないのを、お忘れです。老年の過ちを、これほど悲しいものにするのは、それが取り返しのつかないものであることだからです。
ロンドンのために、適切な人選をすることは、国王にとって容易だろうと考えます。サント=オレール氏なら、ローマとウィーンでそうしたように、自国の政府を尊重させ、自分自身にも敬意を得ることができるでしょう。経験に富み、巧みな慎重さを備えたレーヌヴァル氏は、現在の情勢では、さらによい人選かもしれません。彼は、イベリア半島の利害と困難を、誰よりもよく知っているからです。その運命は、間違いなく、新しいイギリス内閣が、第一に取り組む問題となるでしょう。
なお、調整すべき、少なくとも討議すべき、さまざまな利害が、あまりにも多く見受けられますので、私は、近く国際会議が開かれることを、ますます考えるようになっています。陛下が、私をそこへ派遣するのが適当だとお考えなら、この一時的な任務において、喜んで、最後に自分の力を試してみるつもりです。すべてを考え合わせると、なお国王のために、有益に働くことができるかもしれないのは、そこだけです。年齢による衰えと、人生の疲れのために、陛下から責めを受けることはないはずです。
陛下、私は……。
タレーラン公。」
ルイ=フィリップ国王からタレーラン公へ
「パリ、一八三四年十一月二十五日。
親愛なる公爵殿
たった今、あなたから受け取った手紙ほど、完璧で、高貴で、名誉ある、優れた表現のものを、私は見たことがありません。私は深く心を動かされました。確かに、ロンドンへ戻らないという、あなたの理由の大半が正しいことを認めるのは、私にとって、たいへんつらいことです。しかし、私はあまりにも率直で、友人たちを大切に思っているため、あなたが正しいと認めずにはいられません。ただ、率直さを最後まで貫くために申せば、あなたを打ちのめしている悲しみの重さによって、あなたが年齢の重みや、警告と受け止めたものを、実際以上に大きく考えておられるのではないかと、私は心配しています。あなたが私とフランスのために果たされた、大きな奉仕を高く評価すればするほど、今なお、あなたにしか果たせない奉仕があると感じることを、信じてください。そして、どれほど十分な理由があろうとも、あなたの決意が、私の困難を、どれほど増すことになるかを、あなたも決して見過ごしてはおられないでしょう。イギリスの内閣が再編成されるまでは、何も決めることはできません。しかし、私は、あなたのお考えをよく理解しています。将来に備えることに取り組まなければなりません。そのため、親愛なる公爵殿、私は、あなたができるかぎり早くパリへ戻られることを、強く望んでいます。あなたのお話を聞き、私の話をあなたに聞いていただくのを、待ち遠しく思っています。あなたの経験による助け、とりわけ、私にとってたいへん大切な、賢明な友情からの助言が必要だと感じています。あなたが、私の友情と、これほど長くあなたに抱いてきた、すべての思いを、どれほど頼りにしてよいかを、喜んで繰り返し申し上げます。
ルイ=フィリップ。」
ロンドン大使の任務は、タレーラン公の政治的生涯の、最後の出来事である。彼はまた、人生の終わりに近づいていた。辞任後、わずか四年しか生きなかったからである。その四年間を、ヴァランセの領地、またはパリのサント=フロランタン街の邸宅で、完全な隠退のうちに過ごした。彼はそこで、一八三八年五月十七日に死去した。死の当日の朝、教会の譴責を招いた、自分の生涯の誤りを、厳粛に撤回する文書に署名し、恭順の書簡とともに、教皇グレゴリウス十六世に送った。タレーラン氏が公的な生涯について書いた『回想録』を締めくくるには、この二つの注目すべき文書を、ここに収めることに勝る方法はないと、私たちは考える。
タレーラン公の撤回声明
「重大な考察によって、ますます心を動かされ、すべてを押し流し、五十年間続いてきた革命の結果を、冷静に判断するに至った私は、高齢の末に、長い経験を経て、自分の属した時代の行きすぎを非難し、この長い年月の間に、カトリックの、使徒継承の、ローマの教会を乱し、悲しませ、私も不幸にもかかわってしまった重大な誤りを、率直に断罪するに至りました。
私に対する教皇聖下のご好意を、親切にも伝えさせてくださった、わが家の尊敬すべき友人、パリ大司教閣下が、私の望むとおり、謹んで申し上げる感謝と、教会の教義および規律、フランスの教会問題に関する教皇庁の決定および裁定への全面的な恭順を、聖下に届けてくださるなら、聖下がそれを好意をもってお受け取りくださることを、私は、あえて希望いたします。
後に、尊いピウス七世によって、聖職の務めを免除された私は、長い政治的生涯の中で、宗教と、カトリック聖職者のうちの、名誉ある優れた多くの人々のために、自分のできるかぎりの奉仕を行う機会を求めました。私は、自分を教会の子とみなすことを、一度もやめていません。教会を悲しませた、自分の生涯の行為を、改めて悔やみます。そして、最後の祈りを、教会と、その最高の首長のために捧げるでしょう。
シャルル=モーリス、タレーラン公。
一八三八年五月十七日、パリにて署名。」[一八三八年三月十日に執筆。]
タレーラン公から教皇グレゴリウス十六世への書簡
「教皇聖下
老いた私を、このうえなく心のこもった優しい世話で包んでくれている、若く信心深い娘が、聖下が彼女に与えることをお認めくださった、祝福された品々を、どれほど喜んで待っているかを話しながら、聖下が私について述べてくださった、ご好意の言葉を伝えてくれました。パリ大司教閣下が、それを初めて私に伝えてくださった日のように、私は深く心を動かされています。
今かかっている重い病気によって、力が弱まる前に、教皇聖下、私は、感謝のすべてと、同時に、自分の思いをお伝えしたいと願っています。聖下が、それらを好意的にお受け取りくださるだけでなく、公正なお心によって、私の行動を導いた、すべての事情をお考えくださることを、あえて希望いたします。ずっと以前に完成していますが、私の意志により、死後三十年を経て初めて刊行されることになっている『回想録』が、革命の嵐の間の私の行動を、後世に説明するでしょう。今日は、聖下をお疲れさせないため、自分の属した時代に広く及んでいた迷妄に、ご注意を向けていただくことに、とどめます。
また、私に命を与えてくれた人々に対して払うべき敬意も、私の若い時代のすべてが、生まれつき向いていなかった職業へと導かれた、と申し上げることを、禁じるものではありません。
ともあれ、この点でも、他のすべての点でも、教会と、その尊い首長の寛大さと公平さに委ねること以上に、よいことは、私にはできません。
教皇聖下、私は、謹んで、聖下の、このうえなく謙虚で従順な子であり、しもべであることを、申し上げます。
シャルル=モーリス、タレーラン公。
一八三八年三月十日作成。同年五月十七日、パリにて署名。」
第十二部 終わり
付録
ここには、『回想録』の本文に収められなかった、いくつかの文書を掲載する。それらは、交渉のうち、特に重要な出来事のいくつかに関係するものである。一部はタレーラン公の書類から、他はブロイ城の文書庫から採った。すべて、原文書に基づいて刊行する。
ブロイ公からブレッソン氏へ[269]
一八三二年十月八日。
私たちは引き続き、海上の措置が、ウィレム王の心に十分に強く作用し、その最後の幻想を打ち砕くことを期待しています。
この期待が実現すれば、すべての困難は消え去ります。
しかし、この君主が、会議で不幸にも現れた不一致の様相によって、頑なさをいっそう強め、今日認められる唯一の妥協を、なお拒み続けることも、不可能ではありません。自国に新たな犠牲を強いる危険を冒しても、この二年間、むなしく待ってきた、より好ましい機会を、なお将来に期待しようとするかもしれないのです。
その場合には、封鎖の措置だけでは不十分となるかもしれません。まず申し上げておきますが、その不十分さが、最も疑いのない形で証明されて初めて、私たちは、それを自分たちの計算と予測の土台として認めることを、決意するでしょう。
しかし、いったんその事実が認められれば、明らかに、もっと有効な手段に訴えなければなりません。その時に、そして、その時に限って、フランスとイギリスは、オランダにアントウェルペンからの撤退を強いるために、両国の力を合わせるべきです。そのような状況で、同盟国が全面的に同意しないことは、私たちには考えられません。
さらに、ロシアの敏感な感情に配慮し、同盟各国の行動に、実際にも常にそれを導いてきた、完全な公平さの外観を、すべて与える手段があります。オランダが、いずれベルギーに帰属すべきアントウェルペンを占領しているのと同様に、ベルギーは、十一月十五日の条約によってオランダに割り当てられた、フェンローと、ルクセンブルクおよびリンブルフの一部を占領しています。私たちがアントウェルペンを占領するのと同時に、プロイセン政府が、ベルギー側からフェンローと、今述べた領土を受け取り、暫定的に預かっておき、ウィレム王がついに十一月十五日の条約を受け入れる決意をした時に、それらを王に引き渡す、と取り決めることができるでしょう……。
ブレッソン氏からブロイ公へ[270]
ベルリン、一八三二年十月二十四日。
私たちが弱気になり、新たに譲歩すれば、相手は、たった今したように、それを利用して、私たちにとって不可欠となった結着を、数日でも、たとえ数時間だけでも、先延ばしするでしょう。悪意があるのではなく、自分で作り出した幻影を、子供のように恐れているのです。そのため、私は当初、フェンローに関する提案を、残念に思いました。その後、この提案が好ましい効果を生み、たいへん歓迎され、安心を与えたことを、確信するようになりました。しかし、それにもかかわらず、この提案には、プロイセンの内閣を、多少とも駆り立てることはできませんでした。この方面について、あなたには、何も恐れることはありません。お求めなら、私の命を懸けて保証します。まっすぐに進み、遠征を成功させることができます。こちらは、あなたにそれをさせておくでしょう。ロシアが、この機会を利用して、こちらにわが国への偏見を植えつけたり、敵意を煽ったりしようとしても、時間を無駄にするだけです。こちらでは、完全に諦めがついています。そして、認めようとはしませんが、私たちが正しいことをしていると感じており、後には、感謝することになるでしょう。
ですから、公爵殿、一刻も無駄にしないでください。正しい大義と、健全な原則に、成功を用意することで、それらを強固なものにしてください。残念ながら、どこでも、それらはあまりにも危うくなっています。大きな善をなすことで、あなたは大きな栄光を得るでしょう。信じていただきたいのですが、私は、これらの言葉の一つ一つを、よく考えて述べています。平和か戦争かは、プロイセンの意向にかかっていること、そして、もし私が誤っていれば、自分が招く災厄のために、永遠に恥じ、嘆くほかなくなることを、私は承知しています。しかし、私は誤っていません。自分のいる土地を、よく知っているのです。
タレーラン公からブロイ公へ[271]
[私信。]
一八三二年十月二十七日。
親愛なる公爵殿
たった今、批准書の交換が行われました。あなたが満足しておられることを、喜ばしく思います。そして、私が好み、あなたがその中心的な魅力となっている内閣のために、働くことができたことを、大いに喜んでいます。
私は、行うべきあらゆる通知に、遅滞なく取りかからなければなりませんでした。そして、情勢が要求する慎重さを、十分に尽くせたと願っています。フェンローをプロイセンの手に預けることで、ゴルディオスの結び目が解かれるでしょう。
これには不都合がなく、北方の列強の要求からも、私たちを解放してくれます。プロイセンが満足すれば、これらの列強も、わが国の誠意を疑おうとはしないでしょう。また、これは、プロイセン国王ご自身に対する敬意の表明でもあります。国王の好意は、大いに大切にすべきものです。それは防壁であり、乗り越えられないものにしなければならないからです。ヴェルター氏に、この趣旨で自国の宮廷に書き送るよう、強く促されることを、お勧めします。私の側では、ビューロー氏を促しましょう。したがって、おわかりのとおり、オランダ国王が拒否しても、ベルギー国王は、自分に属さない領土の部分から撤退しなければならないと、了解されているべきです。これによって、オランダ国王の非はいっそう明らかとなり、わが国には何ら危険がありません。オランダ国王が十一月十五日の条約に同意し次第、プロイセン国王がフェンローから撤退すると、規定することになるからです。
では、心からの友情を、幾重にもお送りします。
タレーラン。
ルイ=フィリップ国王からブロイ公へ[272]
ヴァランシエンヌ、午後十一時。一八三三年一月九日、水曜日。
親愛なる公爵殿
ご希望に従い、お送りいただいた一月七日および八日付の外交報告の抜粋を、急いで返送します。ご自身で、これほど明快かつ正確に抜粋を作る労をとられたことに、厚く感謝します……。
……あらゆる事情を考え合わせると、わが国のアントウェルペン遠征は、国外でも国内でも、私たちが期待しえたものより、はるかに強い印象を与えていると、私は考えます。ハーグが拒否したのは、わが国の力に屈したように見られないためであり、戦争を避けたいという私たちの望みが、プロイセンのほのめかしや願いに、私たちを譲歩させるかどうかを見極めるためです。まさにそのことから、私たちが提案を行い、それが拒否された今、新たな提案は控え、オランダ国王が、こちらに提案をしてくるまで、待つべきだと思います。長く待つことになるとは、私は考えていません。王がスヘルデ川を閉鎖する勇気を持たず、自国の世論が、その抵抗の方針から王を遠ざけているだけに、私たちが提案をする理由は、いっそう見当たりません。ですから、今度は、私たちが高く構える番だと考えます。わが両政府は、フランスとイギリスで、しっかり落ち着きを取り戻しています。私たちの結合は、勝利と、誠実に帰還したことによって、いっそう強まりました。したがって、兵士の言葉でいえば、武器を手にして構えたまま、相手の出方を見ようではありませんか……。
ルイ=フィリップ。
ブロイ公からタレーラン公へ[273]
パリ、一八三三年一月十六日。
公爵殿
前回の外交報告で、オランダの覚書と、それに添えられた対案を読んで受けた印象を、お伝えしました。国王は不在です。首相も、国王に従って軍に赴いています。私は、他の同僚たちを集めて、十分に話し合うことが、まだできていません。したがって、現時点では、内閣の考えを、あなたにお伝えすることができません。この手紙に書き記す考察は、私個人のものであり、あなたの助言によって、自分の考えを明らかにするために、お示しするにすぎません。
オランダ国王の返答は、私の予想したとおりです。王は、私たちの提案をかわし、時間を稼ごうとしています。調子は融和的ですが、目的は逃げを打つことです。私たちがそれに従えば、その結果は、私たちがベルギーを置こうとし、また、置こうとするのが正しい立場に、まさにオランダを置くことになるでしょう。その結果は、オランダに有利な現状を確立することになり、ウィレム王は、そこに無期限に腰を据え、ベルギーの独立を認めず、際限なく交渉を続け、全面戦争の何らかの好機を待つことになるでしょう。
十一月十五日の条約によって割り当てられた領土のすべてを保有し、スヘルデ川とマース川で通行料を徴収し、シッタルトとマーストリヒトを通る通過権という新たな要求も満たされ、ベルギーの債務の利息負担から解放され、私たちの強制措置を免れた王は、中間水域の問題、財政組合の問題、水先案内と航路標識の問題を、言いがかりをつけて決着させないための口実として、手元に残しておきながら、私たちを自分の意のままにするでしょう。
ですから、難しいのは、これらの提案を私たちが受け入れるかどうかではなく、その真価を見定めた後に、どのような行動をとるべきかということだと、私には思われます。
私たちが最初に努めるべきなのは、現在の立場をしっかり確保し、それに、いかなる損害も加えさせないことだと思います。
私たちは、十月二十二日の協定に従い、十一月十五日の条約の署名国として、また保証国として行動しています。この条約の二、三の条項について、再開に同意した交渉が、オランダ国王の目には、条約を無期限に延期し、ついには無にするためのものとしか映っていなかったため、私たちは、この条約を強制によって実行する方針をとりました。この方針をとったのは、オランダ国王の不誠実さを確信しているからです。アントウェルペンを攻略した後、私たちは、王に決着の意志があるかを、もう一度試すことに同意しました。王に求めたのは、きわめて単純なことです。すなわち、自分が異議を唱えていない、条約のすべての部分を認め、実行することです。この条件で、私たちは、強制措置をやめると約束しました。この条件は受け入れられていません。したがって、私たちの強制措置は続けなければなりません。私たちの尊厳にかかわることです。成功のあらゆる見込みにかかわることです。条約の四分の三、あるいは五分の四が実行される前に、強制措置をやめれば、私たちは何も成し遂げておらず、何も確保していないことになります。アントウェルペン遠征は無益となるでしょう。それどころか、以前よりも厄介な立場に置かれるでしょう。私たちの力と決意の限度を、見せてしまうことになるからです。その後、脅そうなどと思いつけば、笑われるでしょう。
それに劣らず重要な第二の点は、三国の介入でした。
オランダ国王は、イギリスとフランスだけを相手に交渉するのを、嫌がっているようです。会議全体の参加を求めています。私たちには、それを拒む理由はありません。しかし、プロイセン、オーストリア、ロシアは、強制手段の使用は不当で時宜にかなわないと思われる、という原則に立って、私たちと袂を分かちました。私たちの意見は変わっておらず、行動も同じままなのですから、望むのであれば、これらの列強のほうから、私たちに近づくべきです。ある意味で、ヨーロッパに向かって非難された私たちのほうが、彼らを迎えに行き、その腕に飛び込むべきではありません。オランダ国王が彼らの介入を望むのであれば、彼らを私たちのもとに戻し、私たちがやめようとしていない強制措置の使用を、受け入れさせるべきです。あるいは、私たちの提案を受け入れ、自分が異議を唱えていない条約の部分のすべてを、まず実行して、自ら、強制措置の使用を不要にすべきです。
問題そのものの実質については、私の考えは、次のとおりです。私たちの提案は、難点を単純にし、条約のうち争われていない部分と、争われている部分を分け、それによって、争点の重要性がわずかであることを明らかにするのが目的でした。そして、その重要性のわずかさを浮き彫りにした後、良識の名において、要求しているものの価値の百倍にもなる支出を、自分たちに課すのをやめ、軍備を縮小し、ヨーロッパの平和を、もはや脅かさないよう、両当事者に求めることが目的でした。
オランダ国王は、予備協定という考えを受け入れています。しかし、その協定に、争われている事項の二、三を、再び入れようとしています。それなら、先行する協定に何の意味があるのでしょうか。王とベルギー人たちと交渉しなければならないのであれば、なぜ全面的に交渉し、最初から最終的な決着を目指さないのでしょうか。
私たちは、王に、こう言うべきだと思います。あなたは予備協定を望んでいない。つまり、双方があらかじめ同意した事項だけからなり、すでに完成していて、受け入れるか否かを、はい、いいえで答えられる協定を、望んでいないのですね。結構です。交渉したいのですね。それなら、よいでしょう。交渉しましょう。ただし、本気で交渉しましょう。合意したことは、最終的な合意とするのです。そして、そのために、あなたの要求のすべてを、同時に示してください。一つの同じ取り決めによって、すべてを解決しましょう。終わりに近づいた時に、懐から取り出して、すべてを再び延期するために、要求を手元に残しておかないでください。
私は、次の三つの考えについて思うのです。
私たちは、交渉することを望んでいます。ただし、強制手段を中断しないことが条件です。
私たちは、オーストリア、プロイセン、ロシアと協力して交渉することを望んでいます。ただし、この三国が自ら参加を申し出て、強制措置の放棄を、あらかじめ私たちに要求しないことが条件です。
私たちは、交渉することを望んでいます。しかし、争われているすべての事項を同時に交渉し、一度で、きっぱり決着をつけたいのです。強制措置の停止を望むなら、異議を唱えていない条約の部分を実行してください。部分的な協定を望むなら、双方がすでに同意した事項だけを扱い、交渉の対象とはならない協定としてください。
繰り返しますが、これらの考えを、穏健で融和的ながら、断固として決意のこもった言葉で表せば、オランダ国王にも、その友人たちにも、今後、私たちを翻弄しようという希望を、すべて捨てさせることができ、決着も、長くは待たずに得られるだろうと、私には思われます。反対に、私たちが罠にはまり、まず強制措置を犠牲にし、次いで交渉の道に戻るよう、引き込まれれば、出口のない隘路に入り込むことは、確実です。
しかし、最後にもう一つ、私の意見では、他のすべての事項とは別に扱うべき点があります。
スヘルデ川の閉鎖のことです。これは新しい事実であり、何よりもまず、十分に意思を明らかにすることが、重要です。
スヘルデ川の自由な航行は、オランダとベルギーだけの問題ではありません。ヨーロッパの問題です。
ヨーロッパのすべての国、特にフランスとイギリスは、この問題に、直接、それぞれ自国の利害を持っています。
ヨーロッパのすべての国は、ウィーン会議の条項に従い、スヘルデ川の自由の維持に対して、権利を、それぞれ直接かつ固有の権利を持っています。
十一月十五日の条約に署名した五つの列強は、それについて特別の権利を持っています。五か国は、一八三〇年の、この件のための議定書によって、スヘルデ川を閉鎖しようとする、いかなる企ても、オランダ国王による敵対行為とみなすと通知しました。そして、オランダ国王は、スヘルデ川の自由を保ち、オランダとベルギーの問題が決着するまでは、そこで起きることの、単なる傍観者にとどまる意向を、正式に宣言しました。
したがって、列強は、スヘルデ川の自由だけでなく、暫定的な現状の維持と、当分、いかなる通行料も課さないことに対して、明確な権利を持っています。
私は、イギリスとフランスは、スヘルデ川が開かれるまでは、あらゆる交渉を拒むべきだと考えています。それどころか、この点で拒否された場合には、両国がとるべき行動を検討すると付け加え、閉鎖を敵対行為とみなして、その報復として、まず、差し押さえた船舶を没収し、その収益を、スヘルデ川の閉鎖によって、特に被害を受けるベルギーへの補償に充てると、ほのめかすのがよいとさえ思います。
この問題を、他のすべての問題より先に片づけることに、私たちが注意を払わなければ、スヘルデ川の自由は、新たな何らかの譲歩を代価として、私たちに売りつけられるに違いありません。この問題には、直ちに、非常に強い態度で臨まなければならないと、私は思います。
公爵殿、以上が、私の心に浮かんだ考えです。それらに、どれほどの価値を置くべきかを、あなたからお知らせいただくまでは、さらに考えを固めることを控えます。プロイセンとオーストリアについて集める情報は、すべて、私たちが踏みとどまれば、彼らが私たちの側に来るだろうと、私に思わせます。しかし、私たちは今、重大で決定的な局面に達しており、私たちが主導権を握るのか、それとも相手に従うのかは、私たちの行動にかかっています。
公爵殿、私の献身の証しを、お受け取りください。
ヴィクトル・ブロイ。
ブロイ公からタレーラン公へ[274]
パリ、一八三三年一月二十一日。
公爵殿、コンスタンティノープルから、たいへん重要な知らせを受け取りました。先月二十一日、イブラヒム・パシャが、コンヤの近くで、スルタンの軍を完全に破りました。
……オスマン政府を救い、ロシアの介入を阻止することが、明らかに、今のフランスとイギリスの政策に課されている、二つの目的です。その達成を確実にするには、両政府の積極的で即座の協力が必要です。公爵殿、私たちには、どのような措置によって、この協力を実現すべきと思われたかを、これからお示しします。
何よりもまず、ポンソンビー卿が直ちにコンスタンティノープルへ出発することが、肝要でしょう。彼が速やかに到着することだけでも、オスマン帝国を襲っている危機のさなかに、何もしないままでいるつもりはないという、ロンドンの内閣の固い意志を示すことになるでしょう。ルサン提督と協調して、彼はオスマン政府に、フランスとイギリスが、スルタンの王座の保全を保証する責任を負うと宣言するでしょう。ただし、両国がこのように独立を守るオスマン政府自身が、外国の軍隊を自国の領土に受け入れ、帝国の真の鍵であるボスポラスとダーダネルスの通路を、その軍隊に引き渡すことで、自ら独立を犠牲にしないことが、明確な条件です。
同時に、両国の宮廷は、メヘメト・アリに対し、自軍の進撃を止めるよう、正式に要求するでしょう。また、彼が妥当な譲歩を得られるよう、調停を申し出るでしょう。しかし、彼が自分の優勢を濫用して、スルタンを廃位したり、受け入れがたい要求を押しつけたりしようとする場合には、両国の利益と両立しない破局を阻止するため、介入せざるをえなくなることを、理解させるでしょう。
このような意思表示だけで、おそらく、メヘメト・アリに、その野心を私たちの望む限界の内側に収める決心をさせるには、十分でしょう。しかし、それらが成功しない場合も、予想しておかなければなりません。このような状況で、私たちの最優先の利益、私たちを導くべき原則は、ロシアが、オスマン政府の援軍という名目で、コンスタンティノープルと二つの海峡、そして小アジアの諸州を占領するための、もっともらしい口実を、何も持たせないことであるのは、明らかです。したがって、公爵殿、フランスとイギリスの内閣が、必要ならシリアの沿岸、さらにはエジプトの沿岸で行動するために、とるべき措置を、今から調整しておくのは、適切かもしれません。これほど強力な牽制によって、自らの存続に安心を得たコンスタンティノープルの政府が、ロシアの武力による保護に身を委ねようとはしないようにするためです。
公爵殿、この重要な問題について、一刻も失わずに、パーマストン卿と協議してください。わずかな遅れも、きわめて悪い結果をもたらしかねない状況で、ロンドンの内閣の決定を、私たちがどれほど待ち遠しく思っているかを、おわかりいただけるでしょう。
私たちがとることになる決定を、サンクトペテルブルクの内閣に通知すべきかどうかを、検討していただく必要があります。この点について、あなたの見解を形づくる考慮のうちには、東方の情勢から生じうる複雑な問題に、あらかじめ過度の懸念を示すことで、その重大さを、さらに増してしまう危険についての考慮も、きっと含まれるでしょう。
コンスタンティノープルからの報告では、プロイセンとオーストリアの外交使節は、ムラヴィヨフ将軍の申し出を支持したとのことです。オーストリアによるこの支持が、本当に誠実なものだとは、信じがたいことです。予想されたとおり、メッテルニヒ氏は、トルコの問題へのロシアの介入の可能性に、ひどく心を乱している様子です。そして、ヨーロッパの現在の情勢では、それを阻止するため、フランスとイギリスと同じ列に立つことは、期待できないにしても、私たちがいったん行動を起こせば、彼は、私たちの努力を妨げるどころか、何らかの形で助ける可能性が、非常に高いでしょう。公には、非難するかもしれませんが。この大臣は、ロシア人をコンスタンティノープルから遠ざけることという、オーストリアにとって死活的で恒久的な利益を、一時の組み合わせのために犠牲にするような人物ではありません……。
ブロイ公からタレーラン公へ[275]
パリ、一八三三年二月八日。
公爵殿
昨日の外交報告で、その前日にアポニー伯爵と交わした会話について、お話ししました。詳しい内容は、次のとおりです。この話は、あなたにとって、関心のないものではないと思います。
ご承知のとおり、六週間ほど前、メッテルニヒ公はイギリス政府に対し、一種の国際会議を開いて、ベルギー問題を解決することを、提案させました。その会議では、この問題に関するあらゆる事項が、初めから改めて討議されることになるようでした。この提案は、曖昧で、及び腰でした。会議はロンドン以外の場所で開くこともできると、ほのめかされており、ドイツでは、アーヘンかフランクフルトで開かれるはずだという噂さえ、流れました。
ともあれ、パーマストン卿は、この歯切れの悪い、結論のはっきりしない申し入れに、たいへん力強い返答をしました。それは、読むのに二十分ほどかかる外交報告で、グランヴィル卿が私に、その内容を伝えました。この外交報告では、ベルギー問題を二十四か条から振り返り、きわめて厳密な論理によって、次のことが立証されていました。ベルギー問題に関するすべての事項は、十一月十五日の条約によって、最終的に解決されたこと。フランスとイギリスは、その解決をベルギーに受け入れさせたこと。他の三国は、オランダ国王に同じ方向で働きかけるどころか、批准を遅らせることで、反対に、その抵抗を励ましたこと。その後、三国の要請によって、いくつかの事項が再び討議されたにしても、それは、利害を持つ両当事者の自由な同意によらなければ、いかなる変更も行わないという条件つきだったこと。新たな交渉を六か月続けても、その同意を得られなかったため、オランダを公然たる武力によって強制し、ベルギーが説得によって導かれるのを受け入れたのと同じ結果へと、導くほかに道は残っていなかったこと。イギリスとフランスは、他の三国が拒否したため、この方針をとったのであり、経験、または同盟国の助言によって、オランダ国王が、もっと道理にかなった考えに戻り、ベルギーに適う提案を、私たちに行わないかぎり、両国にすべきことは、この方針を貫くことだけであること。パーマストン卿は、すでに解決され、あとは実行されるだけの事項を処理するために、新たな国際会議を開こうとする、いかなる提案も拒否する、という結論を述べていました。
この外交報告が、アポニー伯爵との会話のきっかけとなったのです。
……彼は、メッテルニヒ氏が、ベルギー問題の状況も、フランスとイギリスの意向も、もはや何も理解できないと、激しく不平を述べている外交報告を、読み聞かせました。メッテルニヒ氏は、決着の可能性が見えなくなったと嘆き、すべてを放棄する気持ちを示しています。特に、イギリス、パーマストン卿、その頑固さと無謀さについて不平を述べ、パーマストン卿が自分の提案を歪めたと非難しています。その提案は、新しい国際会議をつくるのが目的ではなく、オランダとベルギーの全権代表を迎え入れて、会議を再開することだけを目指していたのだといいます。十一月十五日の条約の領土に関する部分を、そこで再び問題にするつもりはなく、オランダ国王が異議を唱えた点だけを扱うつもりだった、ロンドン以外の場所で会議を開くことは、考えていなかった、などというのです。長い嘆きの後、メッテルニヒ氏は、パーマストン卿よりも穏健で融和的な人物として、私に語りかけます――ここで、ふんだんに褒め言葉とお世辞が並びます――。ベルギー問題について、実際に私がどう考えているか、イギリスの意向は何か、私たちが共同で交渉する時、イギリスは、オーストリアに対するのと同じように、わが国に対しても、言っていないことに返答し、伝えた考えを歪め、議論のどの論点からも逃げるのかを、知るためです。
この朗読の後、私信が読まれました。そこでは、同じ話題が冗談の形で扱われ、パーマストン卿は、黒といえば白と答え、こんばんはといえば、こんにちはと答えると、非難されていました。
私は、アポニー氏を遮らずに、これらをすべて、ごく静かに聞きました。彼が読み終えると、私は口を開き、まず、この外交報告で問題とされている提案は、オーストリア政府から、わが国には伝えられていないと指摘しました。この指摘に、アポニー氏は、白目まで赤くなるほど赤面しました。私は続けて、その提案が、どのような表現で書かれているかを知らないので、パーマストン卿が正しく理解したか、誤って理解したか、また、正しく、あるいは誤って理解したことが、どこまで正当で、どこまで不当だったかを、判断することはできないと述べました。要請の妥当性を判断できない以上、返答の妥当性も判断できず、したがって、わが政府とかかわりのない論争への、いかなる介入も辞退すると述べました。
「ただし」と、私は続けました。「ベルギー問題の状況と、その今後について、フランス政府の考えを知りたいのであれば、お知らせすることに、何の差し支えもありません。メッテルニヒ氏がパーマストン卿に向けている非難を受けないよう、十分に明快に説明するよう努めましょう。」
そこで私は、パーマストン卿の外交報告の論旨全体を――もっとも、それには、少しも言及せずに――、論証の順序を一つ一つたどって繰り返しました。そして最後に、以上がフランス政府の考えであり、この点について、フランス政府とイギリス政府との間に、わずかな意見の相違も、わずかな誤解も、これまで一度もなかったと述べました。
私は時折、説明を止めて、アポニー氏に、自分の言っていることが十分に理解できるか、もっと説明が必要か、自分の言葉に、十分に明快でない部分があるかを、尋ねました。
パーマストン卿の外交報告を、おそらく伝えられていたアポニー氏は、私がそれを、フランス政府の名で繰り返すのを見て、両政府を引き離し、両者の間に分裂をつくろうとする自分の試みには、成功の見込みがないことを、よく理解しました。そして、そのことを十分に承知しました。
そこで彼は、戦法を変え、この件について命令を受けていないので、もはや自国の政府の名においてではなく、自分個人の名において、会話として話すつもりだと述べました。
「あなた方が強制措置を続けるかぎり、私たちは、あなた方に合流できません」と、彼は私に言いました。「この措置の使用に反対する立場を、あまりにも深くとっているからです。しかし、あなた方がそれを放棄する気になれば、会議は自ずと再結成され、メッテルニヒ氏の提案どおり、オランダとベルギーの全権代表を加えることで、すべて速やかに終わるでしょう。」
「オランダ国王が、過去よりも今のほうが、決着させる気になっているという、どのような保証を、私たちに与えられますか」と、私は答えました。「強制措置を放棄することは、王に勝利を与えることです。望むだけ抵抗しても、不利益は何も生じないと、王に告げることです。王の全権代表を会議に迎え入れ、同時にベルギーの代表も迎えることは、王が持っていなかった利点を与えることです。すべてが再び討議されると思わせることです。すべてを妨げ、絶えず邪魔をする手段を与えることです。どうして、事態がよりよく、より速く進むと期待できるのでしょうか。」
「いや、しかし」と、アポニー氏は続けました。「フランスとイギリスが、ベルギー問題を解決したいという望みと、平和への愛情について、これほど大きな証しをヨーロッパに与えれば、三国は、心から両国と一つになるでしょう。私たちは全力であなた方を助け、オランダ国王に譲歩を決意させるために、いかなる努力も惜しまないでしょう。」
「何ですって」と、私は言いました。「それでは、昨年の夏、あなた方は、心から私たちと一つになってはいなかったのですか。全力で私たちを助けてはいなかったのですか。オランダ国王を決心させるために、何かを怠っていたのですか。過去にしたことよりも、将来は、さらに多くのことができるというのですか。」
アポニー氏は、二度目の赤面をし、返答しませんでした。
少しの沈黙の後、会話が終わりそうなのを見て、私は再び口を開き、彼に言いました。「今度は、私もここで、フランス政府の代弁者として話すのではありません。私たちは、打ち解けて話し、単なる仮定を論じているのです。イギリスとフランスが、他の三国の勧めに従ったと仮定しましょう――私は、この『勧め』という言葉を強調しました――。両国が、強制措置を放棄し、会議の再結成を認め、そして、その試みを行ってみても、オランダ国王が、過去と同じだけ反抗的だったと仮定しましょう。その時には、強制措置の使用を認めますか。それを使用するために、私たちに合流しますか。」
「しかし」と、アポニー氏は、いくらか困った様子で私に言いました。「私たちは、金銭上の強制措置には、反対していませんでした。」
「反対しましたよ」と、私は答えました。「会議が分裂したのは、まさに、その拒否のためです。第七十号議定書をご覧ください。その後、それに同意したのは確かですが、個別にであり、アントウェルペンの包囲を防ぐためでした。ところで、金銭上の強制措置では不十分だったら、どうしますか。」
「海上の強制措置には、実質的に同意していました。」
「ええ、しかし、繰り返しますが、それは、私たちがアントウェルペンの攻略を決意しているのを見て、包囲を防ぐためでした。それに、ロシアは、一度も同意していません。」
「私たちは、そこまでは進むだろうと思います。」
「この件について、あなたの政府の側から、私に何らかの提案をされることがあれば」と、私は最後に続けました。「私も、その時までに、自分の側で考えておくでしょう。現時点では、私たちの間で、互いに公式に言うべきことは、何もありません。」
会話は、このように終わりました。
昨日、ヴェルター氏が来ました。メッテルニヒ氏の外交報告と同じ調子で、同じ目的を目指していますが、もっと短く、イギリスに行った提案には触れない外交報告を、私に読み聞かせました。その後、会話が続きましたが、それも、もっと短く、そこで私は、同じような非公式のほのめかしを受けました。その外交報告にも、パーマストン卿とイギリス政府を貶めながら、私個人を褒める言葉や、お世辞が含まれていました。
最後に、この二人は、私が、こちらに到着したばかりのサント=オレールと、どれほど親しく結ばれているかを知っているため、彼を打ち明け話の相手に選び、同じ話題について、彼と交わした会話を、私に繰り返して伝えるよう委ねました。それどころか、私に伝えた外交報告を、彼にも読み聞かせるところまで行きました。
これらの働きかけを、ポッツォがあなたに見せた、メゾン元帥に関するサンクトペテルブルクの外交報告の調子と、合わせて考えてみてください。この外交報告は、純粋に公式の通知に対して、友情の表明で答えたものです。それも、私が、アポニー伯爵に対し、およそ六週間前、ロシアは、わが国との関係を、平和的には保ちたいが、友好的には保ちたくないようだと、わざと言った、その時のことでした。そう考え合わせると、私がそこから導く教訓は、次のとおりです。
三国は、自分たちの仲介なしに、ベルギー問題が決着するのを、ひどく恐れています。春が近づいています。艦隊の巡航は、再び活発になるでしょう。オランダの世論も動き始めています。三国は、何としても交渉に戻りたいのです。将来の強制措置の使用を、認めるところまで進みさえするでしょう。しかし、現在の強制措置については、自尊心がかかっています。その反対の表明は、あまりにも公然たるものだったため、後には退けません。名誉を保つ、何らかの便法が必要なのです。
他方、この状況を知るオランダ国王は、五か国の参加なしには、最終的な交渉を拒むことで、それを利用しています。
もし、私たちが現在の立場を失わず、三国の意のままになることもなく、自己矛盾の屈辱を避けながら、私たちに合流する手段を、彼らに与えることができ、それによって、彼らをオランダ国王から引き離し、わが国の側に置くことができるなら、考えてみるのが、よいかもしれません。
私が、おおむねどのように考えているかを、次に示します。
会議は、もはや存在しません。しかし、会議を構成する人々は、ロンドンにいます。五か国の全権代表は、今なおそこにおり、日々顔を合わせています。
争われている三、四の問題に与えるべき、妥当な解決について、ビューロー氏、ヴェッセンベルク氏、リーヴェン氏、そしてヴァン・ド・ヴェイエル氏の意向を、個別の会話で、同時に探ってみることを、何が妨げるでしょうか。
合意、または、ほぼ合意に達したら、パーマストン卿が、昨年八月にしたことを行うのです。計画と条項を起草し、それを、あらかじめ意向を探った人々に、非公式に伝えます。
その計画が、内々に承認されたら、フランスとイギリスは、予備協定と称する協定を起草します。しかし、その中では、すべての難点を解決しておき、特別の条項で、オランダとベルギー、フランスとイギリスが承認した、その予備協定は、ロシア、オーストリア、プロイセンの全権代表の承認と署名によって、最終条約へと転換され、その時、十一月十五日の条約に取って代わる、とだけ示すのです。
条項を起草する際には、ビューロー氏に関心を持たせるため、できるかぎり、プロイセンの案に近づける必要があります。
協定を起草したら、ブリュッセルとハーグへ正式に送り、同時に、十月二十二日の協定の時と同じように、三国の全権代表にも正式に伝えます。
三国は、ハーグ駐在の自国の公使を通じて、英仏の提案を支持し、それを最終条約に転換する用意があると表明します。そして、オランダ国王に対し、これほど道理にかなった規定を拒み続けるなら、三国は、フランスとイギリスに合流し、王を従わせる手段を検討するため、会議を再結成すると、警告します。
こうすることで、三国は、あまりにも公然と自己矛盾に陥ることなく、交渉に戻ることができます。私たちの強制措置を中断せずに、三国の現在の好意を活用でき、オランダ国王は、自分自身の罠にかかることになります。
公爵殿、これらの考えをお示しするのは、あなたの知見によって、自分の考えを明らかにするためであり、それ以外の重要性を認めているわけではありません。あなたは現地におられます。たとえ現地におられなくても、私の百倍はご存じでしょう。この問題の処理のすべてを、あなたの慎重な判断にお任せし、この長いおしゃべりを、お許しくださるようお願いいたします。
私の献身の証しを、お受け取りください。
ヴィクトル・ブロイ。
アデライード王女からタレーラン公へ[276]
テュイルリー、一八三三年二月十三日。
……ポルトガルと女王ドナ・マリアについて、あなたが知らせてくださったことを、私たちの敬愛する国王に伝えました。率直に申し上げますが、私たちは、親愛なるヌムールにも、子供たちの誰にも、この微妙な立場を、一度も望んだことはありません。子供たちは、フランスにとどまり、今のままでいるほうが、はるかに幸せだと、私は確信しています。したがって、この点で、私たちの考えが、イギリス政府に不安を与えることは、決してないでしょう。『決して』という言葉には、私は悲しみを感じます。その事柄そのもののためではなく、それが示す感情のためです。つまり、何があっても、なお私たちに対して存在する、偏見、隔たり、不信のためです。私は、それを、両国の利益にとって不幸なことだと考えます。しかし、このポルトガルの件については、繰り返しますが、私たちは、子供たちの誰についても、それを考えても、望んでもいません。けれども同時に、相手が大公であり、この取り決めによってオーストリアが、イタリアですでに持ちすぎているのと同じ種類の影響力を、スペインに対して得るのは、私たちの利益にはならないように思われます。この考えをあなたにお示しし、別の人選を考えて、そこに就くのが最も望ましく、私たちが支持すべき王族について、あなたのご意見をお書きくださるよう、お勧めします。私は、ナポリの王族を考えるかもしれません。正直に申し上げれば、とりわけ避けなければならないオーストリア人より、そのほうが、はるかによいと思います……。
パーマストン卿からタレーラン公へ[277]
スタンホープ街、一八三三年四月十六日。
親愛なる公爵殿
これが、デーデル氏が、たった今、私に提出した覚書です。彼にも指摘したとおり、これほど長く考えた後のものとしては、きわめて乏しい内容です。
休戦についての新たな文案には、理解不能という長所があります。むしろ、二通りに解釈できるのです。というのも、私たちは常に、昨年十一月以前にも、期限のない戦闘停止が存在していたと主張してきましたが、他方、オランダ国王は、いつでも自由に戦闘を再開できると、常に宣言していたからです。
この点で、覚書は、私たちを前進させるものではありません。
そこには、中立について何も述べられていません。この点で注意すべきなのは、休戦は双方の約束だということです。もし、オランダ側が、ベルギー側を挑発して、国境で何らかの小規模な攻撃を行わせたり、ベルギー側による何らかの違反を主張したりすれば、休戦は破られたと、言うことができるでしょう。しかし、ベルギーの中立を尊重するという、オランダ側の約束であれば、オランダが、それほど容易には逃れられない拘束となるでしょう。
この覚書には、マーストリヒトの市街を通る商業上の交通の開放について、何も述べられていません。しかし、河川を開放する時に、街路を閉ざし続けることはないだろうと、私は思います。
当然ご存じのとおり、メッテルニヒ公は、オランダが採用する気になれば、優れたものとなる取り決めを、提案しています。すなわち、私たち両国とオランダとの間の協定で、船舶抑留を解除し、無期限の休戦を結び、スヘルデ川を昨年十一月の状態に戻し、マース川を開放するというものです。同時に、五か国とオランダとの間で条約を結び、それによってオランダは、留保の対象ではない二十一か条を、最終的に受け入れます。残る三か条は、直ちに交渉の対象となるでしょう。
私としては、この提案には、よい点しか見当たりません。
しかし、ウィーンを出たとおりの形で、ベルリンから、私たちのもとへ届くかどうかを、見なければなりません……。
アデライード王女からタレーラン公へ[278]
ヌイイ、一八三三年七月二十日。
……私たちにとって、これほど関心の深い会議の知らせを、早速伝えてくださったことに、お礼を申し上げます。お伝えしなければならないのは、五か国が採択し、批准した二十一か条を、再び討議に付させないために、あなたが、もっと強く主張されなかったことを、私たちの敬愛する国王が、たいへん残念に思っていることです。イギリスの支持もあっただけに、なおさらです。――国王は、会議が、最初に、そのことをオランダの全権代表に宣言し、留保された三か条だけを扱うだろうと考えていました。ところが、そうする代わりに、二十一か条のうち、オランダ案と一致するものだけに仮署名し、他の条項は再び討議に付すことになると知り、驚いています。それは、五か国が正式に批准した条約によって、ベルギーに対して負った約束と、直接矛盾するように思われます。あまりにもそうなので、国王ご自身としては、この矛盾を帯びた文書を、どうして批准できるのか、わからないとおっしゃっています。私たちの敬愛する国王の、こうした考察は、あなたにも強い印象を与えるでしょうし、あなたの才覚と熱意によって、この不幸な始まりを修復する手段を、見いだされると確信しているので、急いでお知らせします。この始まりは、私たちを大いに悩ませています……。
ブロイ公からタレーラン公へ[279]
パリ、一八三三年八月一日。
公爵殿、あなたが書いてくださった第百四十六号および第百四十七号の外交報告を、受け取りました。そこで得た、交渉の進行と、その姿勢についての情報に、私は強い関心を持ちました。
ルサン提督からの公用郵便で、ロシア軍の撤退を知りました。この喜ばしい知らせは、これまで、できれば疑っていたいと思っていた、もう一つの事実の、ほぼ確実な確認とともに届かなかったなら、もっと十分な満足を、私たちに与えたでしょう。その事実とは、オスマン政府とロシアとの間の、防衛同盟の締結です。わが大使の通訳官が、レイス・エフェンディの口述に従い、急いで書き取ることができた、この条約の本文を、お送りします。
この同盟が公表されることになるかどうかは、こちらでは、まだわかっていません。このような出来事の事情を、すべて知る前に、その結果に対処するため、私たちが何をすべきかについて、決定を下そうとするのは、確かに、あまり賢明ではないでしょう。しかし、フランスとイギリスは、これほど予想外で重大な行為の理由と目的について、オスマン政府に説明を求めないわけにはいかないと、私は考えます。すべての列強が、オスマン政府を守ることで一致している時に、国外の敵に対して支援を得る必要があるという理由では、オスマン政府の側の、この行為を説明することはできません。それは、オスマン帝国の内部の騒乱に、外国の政府が介入する準備を整えることになるように見えます。また、ボスポラスの航行について、これまで認められてきた原則を変え、この点で、ロシアのために、他の宮廷が決して認めることのできない特権をつくるものと、みなすことができます。このような理由を示した説明の要求は、実際の抗議となるでしょう。その利点を強調する必要は、ありません。
この件について、パーマストン卿とお話しください……。
ブロイ公からブレッソン氏へ[280]
パリ、一八三三年八月十三日。
あなたがこの外交報告を受け取る時には、スイスで起きたばかりの出来事を、すでにご存じでしょう。そこでは、三年来、スイス連邦を分裂させてきた党派の間の和解へと、すべてが向かっているように見えました。連邦盟約の改正を望み、バーゼルの農村部と、シュヴィーツの外側の地区の解放を決定した党派は、すでに多くの譲歩を行い、さらに新たな譲歩をする姿勢を示していました。穏健で融和的な人々だけの影響下にある、チューリヒの連邦議会では、極端な意見は、すべての信用を失っていました。他方、ザルネンの集会も、最近は、平和と良識の精神に動かされているようでした。争われているいくつかの事項について、協議が始まろうとしていました[281]。
残念ながら、これほど満足すべき姿勢が誠実だったのは、片側だけでした。ザルネンに代表を送っている諸州が、最後にとった態度は、少なくとも、その指導者の一部の考えでは、信頼しすぎた相手の警戒を眠らせる手段にすぎなかったことが、間もなく、事実によって証明されました。そして、キュスナハトとバーゼルの農村部で、これほど不意に企てられた攻撃は、誠実で祖国を愛する人々が、疑うことすらなかった計画を、明らかにしたのです。
このような状況で、連邦議会は、力強さと慎重さを、等しく備えて行動しました。この内戦の試みを、初めに抑え込むことで、思いがけない暴発が示した危険を、全面的な措置によって取り除くための手段を、検討し、用意する時間を得たのです。残された任務は、確かに困難です。義務を怠らないためには、賢明な強さと、慎重な用心深さを、結び合わせる必要があります。盲目な党派による攻撃を、今後不可能にするために働くと同時に、反対の党派の情念も抑えなければなりません。最近の出来事が、それまで十分に静まっていた熱情を、再び呼び覚ましたからです。連邦議会は、秩序を壊す者たち、つい最近まで、あれほど意気消沈していたのに、今回の出来事によって、多少の機会を取り戻した、体系的な変革論者たちを、抑えなければなりません。繰り返しますが、このような任務は、きわめて微妙です。それでも、過去の例から、私たちは、スイス人の良識に支えられて、連邦議会が、これらの障害に打ち勝つことを、固く期待しています。
しかし、外国の介入への恐れが、人々の心を動揺させ、国民の誇りを傷つけ、ある者たちには、破滅的な懸念とともに、それに続く怒りと過激さを抱かせ、他の者たちには、根拠が乏しいだけでなく危険でもある期待を抱かせるなら、これらの障害は、乗り越えられないものとみなさなければならなくなるかもしれません。確かに、今日、そのような介入は不可能です。そう確信するには、ヨーロッパの状況を考えるだけで十分です。それでも、党派の争いの時代には、最も不合理な想定が、しばしば最もよく受け入れられます。また、そのような想定は、大衆を動揺させるためにそれを用いる、秩序を乱す人々の間に、あまりにも多くの反響を見いだします。そのため、国王の政府は、スイス連邦の平穏に寄与する最も有効な手段は、この国に対して、決して離れないと決めている原則を、言葉と態度によって、明確に示すことだと考えました。その原則とは、直接利害を持つのがスイス人だけである争いを解決するのは、スイス人だけの権限に属するということです。そして、どのような外国の干渉も、必要なく、それらをヨーロッパの問題にしてしまうことで、ほとんど解決不能にするということです。
ウィーンとベルリンの内閣は、十分に賢明ですので、介入の不可能性について、根本では、私たちの見方を共有しているはずです。しかし、この件について、スイスで抱かれうる恐れと期待を取り除く必要を、十分には理解していないと、私は考えています。それどころか、不正確な報告に欺かれ、曖昧で両義的な脅しの調子をとることによって、変革論者たちを穏健にし、抑えられると、思い違いをしているのではないかとさえ、疑っています。少なくとも、オーストリアとプロイセンの使節の言葉、働きかけ、絶え間ない動揺は、この推察によらなければ、私には説明できません。それは、きわめて危険な誤りでしょう。穏健な措置の支持者たちは、外国の命令に屈していると非難され、すべての信用を失うか、あるいは、その非難を避けるために、これまで抑えることのできた極端な意見に合流するよう、強いられることになるでしょう。それを招く、ほとんど確実な手段となるでしょう。
アンシヨン氏に、今詳しく述べた考察の明白さを示すため、あらゆる努力を尽くしてください。プロイセンの使節にも、ヌーシャテルの当局にも、情勢が要求する良識と慎重さの精神に沿った訓令を、送るよう、強く促してください。私は、リュミニー氏にも、同じ趣旨で書き送っています。そして、今後、スイス連邦に駐在する列強の代表たちが、この方針で進むことを、期待しています。
ボンベル氏[282]が、一八一五年の連邦盟約に、わずかな変更でも加えることの危険について、私がオーストリアの大使または代理公使に、同国の政府の見解と完全に一致する意見を述べたという会話の噂を広めていると知り、私たちは驚きました。この主張は、あまりにも不正確であり、あまりにも重大な結果をもたらしかねなかったため、私は、リュミニー氏に訂正を命じないわけにはいきませんでした。しかし、全体の利益のためには、これほど重大な問題について、列強の間にある意見の不一致を明らかにするよう、わが国が強いられないことを、望んでいたのです。
ブレッソン氏からブロイ公へ[283]
ベルリン、一八三三年十二月十七日。
公爵殿
これほど明確で、誠実で、国の利益に沿った政策の代弁者にしてくださったことに、感謝します。アンシヨン氏は、自分を欺くために用いられた、卑劣な策謀について、もはや思い違いをすることはできません。最初に行ったほのめかしを、悔やんでいるに違いありません。私は、彼を最後の逃げ場にまで追い詰めようとはせず、苦しい論争を終わらせるため、その説明を受け入れました。あなたが書いてくださった私信を、彼に読み聞かせました。彼は、メッテルニヒ氏に対して、怒りを爆発させることはしませんでしたが、憤りの表現を、かろうじて抑えていました。彼自身、率直さを欠き、しばしば、自分の言葉や約束を翻しますが、それは二枚舌のためではなく、弱さのためです。彼には、あらかじめ計画した裏表のある行動は、できません。メッテルニヒ氏について、裏切りの巧妙さと、不器用さの、どちらに、より驚くべきか、私にはわかりません。自分自身の罠に、これほど見事にはまることは、不可能でしょう。この一件のすべてが、ベルリンで無駄にならず、忘れられないよう、気をつけるつもりです。
アンシヨン氏は、あれほど軽率に、自国の政府をかかわらせた働きかけの不都合を、さらに増さないためには、自分の行動に一貫性があるように見せ、それを否認すべきではないと、考えました。おそらく、ウィーンとサンクトペテルブルクから、その役を吹き込まれているのでしょう。しかし、あなたの力強さに気圧された国王の側近たちは、否認に等しい説明と弁解を、惜しみなく述べています。とりわけ、あの善良なヴィトゲンシュタイン公は、愉快です。彼を不安にさせるのは、私にとって、あまりにも容易なので、今は、安心させることに気を配っています。彼はミントー卿に言っていました。『どうして、私たちが戦争など考えるでしょうか。国王が軍の先頭に立たなければならなくなります。それが、国王の日常の習慣を、どれほど乱すことか、お考えください。』こうした側近は、皆、立派な人々で、確かに、たいへん平和を好み、ただ、穏やかに余生を終えたいと願っているだけです。よほど露骨な挑発だけが、彼らを動かすでしょう。国王の後には、事情は変わるでしょうし、王太子については、誰も確かな判断を下すことはできません。しかし、ありがたいことに、私たちは、その時から、まだ遠いところにいます。父のほうが、息子より長生きすることも、十分ありえます。プロイセンでは、それに不満は出ないでしょう……。
どうか……。
ブロイ公からタレーラン公へ[284]
パリ、一八三四年一月二日。
公爵殿
……バクール氏は、少し前、東方の問題について、オーストリアとイギリスとの間で、接近の試みがあったらしいと、私に知らせていました。私は、この点について、サント=オレール氏の注意を促しました。この大使も、メッテルニヒ氏とフレデリック・ラム氏との間で、普段より頻繁で、親密なやり取りがあることに、気づいたと考えています。特に、十二月二十日にラム氏が受け取った、公用郵便の到着後のことです。オーストリアの宰相は、サント=オレール氏に、それ以上詳しく説明することはありませんでしたが、この公用郵便で伝えられた知らせに、非常に強い満足を表しました。イギリスを落ち着かせるための、フランス政府の努力のおかげで、今日、ロンドンの内閣は、東方問題を、ウィーンとパリの内閣と同じ目で見ている、と彼に述べたのです。サー・フレデリック・ラムも、サント=オレール氏に、おおむね同じように話したようです。これらは、すべて、きわめて不明確です。イギリス政府と親密に意思を通じていると、わが国にほのめかすことで、私たちの考えに不確かさを投げ込むのが、メッテルニヒ氏の政策の一部だとは思いますが、こうした接近の様子に、どこまで根拠があるかについて、あなたから情報をいただければと、望んでいます。ロシア政府の野心的な計画に対する保証の仕組みに、オーストリアを加えるような組み合わせを、私たちが悲しむどころか、現在の情勢では、喜ぶ理由としかみなせないことは、申し上げるまでもありません。
ブロイ公からタレーラン公へ[285]
パリ、一八三四年三月二十七日。
公爵殿、ドン・カルロスの支持者たちを散らすことだけを目的として、スペイン政府が、ポルトガルへ軍を派遣する決意をしたことは、お伝えしました。ヴィリアーズ氏は、この点について、支援を求めたレーヌヴァル氏の助けを受け、マルティネス・デ・ラ・ロサ氏を説得して、この遠征を、ドン・ミゲルとドン・カルロスの双方に向け、もっと広い目的を持たせようとしましたが、無駄でした。スペインの大臣は、絶対の必要がないのに、両王国の国境を越えようとしている、兵力の乏しい部隊に、新たな障害をつくりたくないと述べて、拒否しました。マルティネス氏の決定には、北方の列強を不快にさせる恐れが、大きく働いたと、私たちは考える理由を持っています。ヴィリアーズ氏も、同じ意見です。
また、スペイン軍は、いったんポルトガルに着けば、事態の力によって、ペドロ派と共同の立場をとるよう、引き込まれうることは、容易に予想できます。この考慮は、マドリードの内閣も見逃していませんでした。そのため、マルティネス・デ・ラ・ロサ氏が、自分がとるべきと考えた立場を保つために、ドン・ペドロの使節サルメント氏の、あらゆる申し入れを拒んでいた一方で、同僚の陸軍大臣は、この使節と、表向きは共同計画と見えないようにした、国外移住の計画を論じていました。それは、スペイン軍の動きを容易にすると同時に、ドン・ミゲルを、兄の軍に対して、厄介で危険な立場に置くことになるものです。
スペイン人たちが、その結果を長い間恐れているように見えた企てに、踏み切ったのは、イギリスがポルトガルに実力で介入することへの抵抗感を、克服させる望みを失ったからです。しかし、リスボンから受け取る知らせは、その抵抗感が、もはや以前ほど絶対的ではないと、私たちに思わせるかもしれません。
ハワード卿は、ウィリアム・ラッセル卿が持っていたものより広い権限を、ロンドンから受け取った後、ポルトガルを平定するための協定案を起草しました。モルティエ氏と、満足を示したドン・ペドロの大臣に、その案を伝えた後、パーマストン卿に送りました。その主な条項は、次のとおりです。
女王の政府は、定められた期間内に、女王への忠誠を誓う、すべての敵対者に、全面的な恩赦を与える。それを拒む者は、ポルトガルを去り、自分の財産を売却することができる。
ミゲル派の将校には、半給とともに、その階級を保証する。
ドン・ミゲルは、個人の財産、さらには王族としての給付も保持するか、それに相当するものを受け取る。彼を国外へ輸送するため、ポルトガル、フランス、イギリスの船を、その自由に使えるようにする。
この条約の規定の意味について生じる、あらゆる争いは、フランスとイギリスの公使、およびスウェーデンの代理公使からなる委員会が、裁定する。
最後に、ドン・ミゲルが、これらの条件を拒否した場合には、イギリス政府は、戦闘を終わらせるため、女王ドナ・マリアが自由に使えるよう、上陸部隊と軍艦を提供する。
ハワード卿がリスボンの内閣に伝えた内容では、この最後の条項には、まったく言及されておらず、イギリスの使節が、それをモルティエ氏に知らせたのさえ、おそらく不注意によるものにすぎないことを、指摘しておかなければなりません。公爵殿、このことから、パーマストン卿との会談では、この条項への言及を避けるのがよいと、あなたも、きっと結論されるでしょう。
私たちが知らず、知ることが重要なのは、ハワード卿が示した考えが、どこまで彼個人のものであり、あるいは、彼が受けたかもしれない指示に結びついているのか、ということです。この点について、あなたから、いくつか説明をいただければと、望んでいます。現在、イベリア半島を血に染めている二つの争いにおいて、フランスとイギリスの利益は、同じです。したがって、健全な政策は、両政府が、その行動を調整することを求めています。わが国としては、ポルトガルの平定のため、ロンドンの内閣が採用する計画を、同内閣がわが国に伝え次第、あらゆる手段で助ける用意があります。
付録 終わり
ショワズール公について
一八一一年、ブルボン=ラルシャンボーで書き始め、一八一六年、サン=ジェルマン近郊のシャトーヌフにある、クールラント公爵夫人の邸宅で書き終えた。
ショワズール公について[286]
ショワズール公には、生まれつきの才気があったが、学識は乏しく、自信は豊かだった。名門の名を持ち、かすかな異国風の色合いも帯びていたため、フランスとドイツの大貴族の、どちらにも数えられていた。彼の属したショワズール家の分家は、ロレーヌ公に仕えていた。父のスタンヴィル伯爵は、ロレーヌ最後の公で、トスカーナ大公となり、その後、マリア・テレジアとの結婚によって、ドイツ皇帝となったフランソワの、大侍従長だった。一七五七年に、父のスタンヴィル伯爵が、金羊毛騎士団員で、パリに駐在する皇帝の公使であり、息子のスタンヴィル伯爵が、聖霊騎士団員で、同じ皇帝の宮廷であるウィーンに駐在するフランス大使であったのは、かなり奇妙なことだった。同じ頃、スタンヴィル伯爵の、他の二人の息子も、一人はフランスの名義修道院長で、ルイユの修道院の院長であり、もう一人は、ハンガリーの奥地で、クロアチア人連隊の少佐だった。
一七三六年の条約[287]によって、ロレーヌがフランスに組み込まれたため、ショワズール家は、祖先の故郷へ戻らなければならなくなった。若いスタンヴィル伯爵は、王連隊の少尉として出発し、間もなく、ナヴァール連隊を与えられた。大佐として、戦争では立派に働いたが、社交界では、さらに華々しく現れた。そこでの最初の成功は、たいへん目覚ましかった。スタンヴィル氏は、ゴントー夫人[288]の恋人となり、しかも、激しく愛された恋人だった。夫人は、一七四〇年の戦争で彼がその下に仕えた、陸軍中将で、赤い綬章を持つ、クロザ=デュシャテル氏[289]の長女だった。グーフィエ家に生まれたデュシャテル夫人は、毎晩、自分の家に、デュ・デファン夫人[290]、ポン・ド・ヴェル[291]、キュルタン卿[292]のような、優れた才気の持ち主を何人か集めていた。スタンヴィル氏は、ゴントー夫人に対して、数多くの浮気を重ね、それに気を取られながらも、そこに短い時間顔を出すことは、ほとんど欠かさなかった。少しの心配りを、きちんと行うことが、彼の原則の一つだった。ルイ十五世のお気に入りの一人であったゴントー氏は、陽気で気楽な性格で、才気はかなり乏しく、ポンパドゥール夫人の社交の場にいるには、まさに適した人物だった。彼は、スタンヴィル氏と、たいへん親しくなったが、まだ、この最上位の内輪の集まりに、彼を入れることはできていなかった。そこでは、スタンヴィル氏の人柄について、あまり好意的でない評価がなされていた。ポンパドゥール夫人の周囲では、グレッセ[293]が喜劇『悪人』を書く際、主なモデルの一人に、スタンヴィル氏を選んだという話が流れていた。そのこと、いくつかの警句、かなり明白な野心のために、彼は危険な男と思われていた。そして、本来なら、彼が近づくことへの不安を増すはずの出来事が、反対に、彼を抜きんでさせるのに役立たなかったなら、おそらく、その華々しい出世は遅れていただろう。国王は、王太子の侍従であるショワズール=ボープレ伯爵[294]が、結婚したばかりの、たいへん美しい女性に、いくらかの好意を示した。ポンパドゥール夫人は、それに嫉妬を見せていた。ヴェルサイユでは、この恋愛関係を後押しする、一種の党派が、すでに形成されつつあった。そして、ポンパドゥール夫人に、かなり冷遇され、ショワズール夫人の親族でもあったスタンヴィル氏は、自然に、この寵愛を求める女性の側に立つことになった。彼が夫人に言い寄った後、自分が演じさせようとした役を果たすほどの巧みさを、その才知に認めなかったため、夫人を犠牲にし、彼女が恋情の最初の時期に、自分に宛てて書いた手紙を、国王に見せるため、ゴントー氏を通じて、ポンパドゥール夫人に送った、と推測されている。そして、ショワズール夫人が、その少し後に、まったく予期されない形で死んだため、彼がその死にも無関係ではなかったと、主張された。スタンヴィル氏について、あえて抱かれた、この種の疑いは、それだけではない。どの疑いにも根拠がなかったと、私は、どれほど確信していても、その確信の理由を、彼の生涯の道徳性から引き出せず、性格の軽薄さに求めなければならないことに、一種の困惑を覚える。安心したポンパドゥール夫人は、新たな手先をつくろうとし、彼への最も明白な嫌悪から、間もなく、証しを与えることになる関心へと、直ちに移った。それは、スタンヴィル氏の評判にとっては、あまりに急だったかもしれない。そのような状況で、ゴントー夫人は重い病気になり、死の床で、まだ十四歳にすぎない妹に、スタンヴィル氏と結婚するよう懇願した。死に際して、自分の恋人の財産を確保したという満足と、興奮した心が、妹の幸福として思い描かせていたものを、持っていきたかったのである。スタンヴィル氏が、この家族全体に及ぼしていた、一種の魅惑によって、母も娘も、間もなく決意した。そのため、ほとんど直ちに、年収十二万リーヴルをもたらす財産の主となった彼は、生まれ、才気、活動力、そして、最上位の地位にいる人々の凡庸さによって、多くの有利さを得られる出世の道に、入る手段だけを考えればよくなった。彼の目は、ローマ大使の職に向けられた。外務大臣ルイエ氏[295]への、いくつかのお世辞、義兄ゴントー氏の支援、ポンパドゥール夫人の好意の回復、さらには、国王が彼に対して、なお抱いていた嫌悪さえも、多少は働いて、この華やかな遠ざけ方を、彼に得させた。そして、ニヴェルネ氏に代わるため、彼は出発した。ローマでの華麗な登場は、前任のすべての大使を、かすませた。入市の際の途方もない豪華さ、邸宅の華やかさ、私的な交際相手の選び方によって、彼は間もなく、すべての聖職者の任命を左右するようになった。彼は、ベネディクトゥス十四世[296]の友情を得ることができた。教皇は、彼を、ただ『親愛なる息子』と呼び、頻繁で、まったく打ち解けた会談では、彼の求めるものを、一度も拒むことができなかった。この時期、スタンヴィル氏は、後にイエズス会の解体へとつながる、最初の印象を受けた。教皇から受けていた寵愛によって、この修道会の主要な人物たちの、内々の話に加わることになった。そして、総長の補佐役の一人が、会が、すべての教え子の名を、若い時に知りえた性格と感情についての注記とともに記す、秘密の名簿を、彼に開いて見せるという、不注意を犯した。そこで彼は、自分の項目に、重要な地位に就くことがあれば、会を愛さず、決して愛することもない人物とみなすべきだ、と書かれているのを読んだ[297]。
スタンヴィル氏とポンパドゥール夫人との接近は、彼と同じ道で、彼より先に進んでいる人物がいないほどのものではなかった。もっと古く、もっと親密な寵臣であったベルニ師[298]は、ヴェネツィア大使の職で、かなり退屈な歩みをもって、将来の昇進への段階を踏んでいた。
スタンヴィル氏は、両者の職務の関連や、ヴェネツィア共和国が、その頃、教皇との間に抱えていた、いくつかの争いを利用し、二人の間に書簡のやり取りを始めることを怠らなかった。それは間もなく、一種の親密さを形づくった。そのため、ベルニ師は、有名な一七五六年の条約の、表向きの全権代表となり、その後、ルイエ氏の近い引退を待ちながら、大臣として評議会に加わるため、フランスへ戻った時、スタンヴィル氏を、ヨーロッパの政治的均衡に起きようとしていた、大きく急激な変化における、将来の協力者の一人とみなしていた。
他方、スタンヴィル氏は、教会に関する交渉に、そろそろ飽き始めており、準備されつつあった大きな問題の舞台へ移りたいという望みに、心を焦がしていた。ポンパドゥール夫人と定期的に文通し、イタリアで、この寵姫のために調達できる、珍しい品々その他の、あらゆる注文に心を配り、夫人を通じて、一七五六年の末に休暇を得た。それによって、ヴェルサイユに再び姿を現すことができた。
続く冬、内閣に大きな変更が起きた[299]。それに立ち入るのは、私の主題の範囲外である。しかし、通りがかりに、ダルジャンソン氏[300]とマショー氏[301]の罷免が、一七五七年に始まった戦争の出来事に、たいへん不幸な影響を及ぼしたことを、言わずにはいられない。ベルニ師は、その頃、ウィーン大使に任命されていた。それは、シュターレンベルク氏[302]と署名した条約に、自然に続く恩恵だった。女帝マリア・テレジアは、フランスの公使が到着するよう、強く求めていたが、善良なルイエ氏は、なお、いくらか自分の地位を守ろうとしていた。そのため、ベルニ師は、その場も、その出世の道も離れないよう、急いで扱う問題のない、マドリード大使の職に任命されるようにした。そして、スタンヴィル氏が、彼に代わって、直ちにウィーンへ赴くことになった。準備は速やかだった。大使としての華麗な装いのすべてを、ローマから直接移し、自身も、八月の初めに到着した。少し前まで、あれほど悲嘆に暮れていた皇帝の宮廷は、ダウン元帥[304]が勝ち、プラハの包囲を解かせる結果となった、コリンの勝利[303]と、デストレ元帥[306]が、カンバーランド公[307]に対して、たった今収めたハステンベックの勝利[305]が与える希望で、満ちていた。二か月後であれば、スタンヴィル氏は、ウィーンの内閣に、最大限の敬意を表す態度を見いだしただろう。しかし、この時期の内閣は、尊大な態度をとる癖がついていた。それでも、フランス大使は、女帝から、たいへんよい待遇を受けた。また、彼をロレーヌ人と見なし、現在フランス宮廷に駐在する、自分の公使の息子でもあると見ていた、善良な皇帝フランツ一世からは、特別に歓迎された。しかし、カウニッツ伯爵[308]は、もっと冷たく迎えた。最初の会見で、わざと示した威厳は、彼が、教皇宮廷の国務長官とは、まったく違う相手であることを、スタンヴィル氏に予感させた。ハステンベックの戦いの、さほど大きくない結果を、コリンの大きな戦いに続いた、いくつかの成功や、カール公[309]とともに、プラハに閉じ込められていた四万人を自由にした、包囲の解除と比べることで、オーストリアの大臣は、フランス大使にとって、たいへん不愉快な調子と態度をとっていた。しかし、十一月になると、プロイセン国王が、自ら指揮して、五日の間隔で勝った二つの戦いによって、すべての高慢は打ち砕かれた。一つは、フランス軍に対するロスバッハ[310]、もう一つは、オーストリア軍に対する、ブレスラウの城壁の下での戦い[311]である。フランス軍とオーストリア軍は、あまりにも完全に敗れたため、二つの同盟国のうち、どちらが、より屈辱を受けるべきなのか、わからなくなった。そこで、無能さを責める言葉が、双方で増えた。生来、皮肉好きのスタンヴィル氏は、ダウン元帥を容赦なく攻撃し、カウニッツ氏も、フランスの将軍たちを、少しも容赦しなかった。元陸軍中将のキュルタン卿は、スタンヴィル氏と同時に到着して、ウィーンにいた。彼は軍事上の任務を帯びていた。その目的は、スービーズの軍が、ヒルトブルクハウゼン公[312]の指揮する帝国軍と共同で、ザクセン選帝侯領を奪回することだった。キュルタン卿は、優秀な軍人と評されており、その時代の、最も感じがよく、最も機知に富む人物の一人であったことは、確かである。下位の任務であった彼の使節としての仕事は、起きたばかりの大きな戦争の出来事によって、終わっていた。しかし、本人は、ほとんど気にしていなかった。彼は、帝国軍がどうなったのかを、絶えず尋ね、その返答として、スービーズの軍について、同じ問いを返された。そのため、ドイツにおける影響力の、多少の変更や、いくつかの州の割譲で終わるはずではあっても、まだ、いずれかの君主の退位や、王国または帝国の破壊には至らない、こうしたすべての災厄[313]の中で、ウィーンでは、かなり耐えられる冬を過ごすことができた。カウニッツ氏の不平が、いくらか強くなると、スタンヴィル氏は、モンタゼ伯爵を遣わした。伯爵は、このうえない熱意による、相手を困らせるような態度で、オーストリアの大軍について、最も細かな情報を求め、そこに加わるための、過度の意欲を示した。本人の言によれば、その軍で奉仕する名誉を受けることになっていたからである。
その軍を編成するため、各地で新たな徴兵が行われていた。カウニッツ氏は、女帝が、その寵愛するダウン夫人のために支持していた、気の毒なダウン元帥を批判しながら、偶然に出会った、控えめな人物を、ひそかに出世させていた。その人物は、数か月後、オルミュッツの包囲を解かせることによって[314]、オーストリアの力を救う者となった。ラウドン氏[315]は、この有名な七年戦争の間に、オーストリアが用いたすべての人物の中で、実際に、最も優れた人物だった。というのも、ヨーゼフ二世が、死に際して書き送った美しい手紙によって、その名を不朽のものとされたラシー氏[316]は、実行よりも内閣での仕事に才能があり、軍を率いる偉大な将軍よりも、偉大な陸軍大臣となるのに適していることを、示したからである。
集結していた多数の兵力、形を整え始めた新しい軍事組織、そして、こうした努力と変化に続く希望によって、カウニッツ氏は、間もなく、無頓着な態度を再開することができた。その態度で、スタンヴィル氏の自尊心を、ひどく傷つけていたのである。ある時には、劇場で、二人の桟敷は完全に隣り合っていたのに、カウニッツ氏は自分の桟敷に着くと、大使の桟敷に背を向ける席を選び、第五幕になって初めて、スタンヴィル氏が自分の隣にいることに気づいた。またある時には、フランス大使の正式な晩餐に招かれながら、二時に来る代わりに、身分や生まれからすれば、皆、多少の配慮を受けてよいはずの三十人ほどを、容赦なく六時まで待たせた。そして、晩餐の最中に、突然、自分の皿を脇へやり、食器が置かれていた場所を整え、ポケットから小さな筆記具か鉛筆を取り出し、テーブルに半ば伏せるようにして、書き始めた。あるいは、身づくろいの道具入れを広げ、歯を掃除した。毎晩、この大臣の家に集まるのが習慣だった。そこでは、彼の姉妹のクエステンベルク伯爵夫人が、かなり気立てのよい女性として、客間の女主人を務めていた。どの公使も、そこに行くことを欠かさなかった。カウニッツ氏は、かなり規則的に十一時頃に姿を現し、何らかの問題について彼と話すにも、軍から日々届く知らせを彼から聞くにも、よい機会だったからである。彼は、フランス大使の到着を、ひそかに報告させていた。そして、大使が彼に話すことを、最も必要としていると知る時に、大使を午前一時まで待たせ、何らかの言い訳を考える労さえとらずに、自分は姿を現さないと、従僕に伝えさせた。すると、スタンヴィル氏は腹を立てて帰宅し、聞こうとする人には誰にでも、こんな男と仕事を進めるのは不可能だと言った。内々の報告によって、スタンヴィル氏の不満を知っていた女帝は、カウニッツ氏が、自分自身にも示す、数えきれない無頓着さを、彼に話す機会を逃さなかった。しかし、この大臣を、それほど必要としていると信じ、また、そう述べていたので、彼のあらゆる気まぐれを許していた。女帝の寛容さが、あまりにも多くの試練にさらされたため、一時は、カウニッツ氏が、この君主と、政務以上に親密な関係にあると思われるほどだった。この見方が、広く定着するのを防ぐには、オペラの踊り子をめぐる出来事の、あらゆる騒ぎが必要だった。劇場には、タリアッツィという名の、かなり美しいイタリア人女性がいた。カウニッツ氏は、公然と、その恋人だった。宮廷の厳格な道徳家の何人かと、医師ワザ=シヴィーテンが、信仰心から、また、おそらくは、ひそかに気に入られたいという望みからも、この醜聞について、女帝の良心を、あまりにも強く刺激したため、女帝は、さらに大きな醜聞を起こした。ある朝、踊り子を連れ去らせ、ウィーンに再び現れることを絶対に禁じたうえで、イタリアの国境へ送らせたのである。侮辱されたと思ったカウニッツ氏は、辞表を手に女帝のもとへ赴き、その決定を変えさせた。そして、タリアッツィは、この一件のあらゆる栄誉を伴って帰ってきた。その勝利を、誰も疑うことができないよう、カウニッツ氏は、帰着の翌日、彼女を幌付きの馬車に乗せ、ウィーンのすべての遊歩場へ連れ出した。この君主が、オドンネル将軍[317]に抱いていたと推測された感情も、同じように、信じるべきではない。女帝は、美しい皇帝を愛していた。そして、絶えず子供をもうけていたため、皇帝とアウエルスペルク侯妃[318]との、ささやかな浮気も許していた。
しかし、私は主題から、あまりにも離れている。両大臣が、それぞれ不機嫌だったのは、根本には、両宮廷が、大きな同盟の成果に、まったく満足していなかったためである。兵員よりも、さらに資金が不足していたウィーンの宮廷は、軍を組み合わせる仕組みを、もはや望んでいなかった。別々に行動することで合意し、その結果、オーストリアは、相互の援助を二万四千人の兵員、または二千四百万と定めた条約の実行において、その選択肢を選ぶ権利を求めた。スタンヴィル氏に対し、あらゆる魅力を働かせることを、一日もやめなかった女帝は、補助金を勝ち取れると期待した。この機会には、スタンヴィル氏を、常に同郷の者として親しく扱い、自分は彼に大きな影響力を持つと信じていた皇帝にも、助けてもらった。女帝はポンパドゥール夫人に手紙を書いた。シュターレンベルク氏は、ベルニ師の気のよさによって、この点を認めさせる寸前だった。しかし、この点についてのスタンヴィル氏の意見が、決定を遅らせた。その時代、二千四百万は、たいへん大きな補助金だった。その後、莫大な補助金を惜しみなく与えたイギリスも、フリードリヒ二世には、わずか五万ポンド・スターリングしか与えていなかった[319]。そして、彼は、その金額に、十分見合う働きをしたといえる。フランスが、同じ代価で彼を同盟国として保っていたなら、ドイツにおけるオーストリアの影響力は、あれほど長く続かなかっただろう。なお、双方とも、こうした軽い口論が、同盟を損なうことを望んでいなかったので、当時、まだ揺り籠にいた、幼いマリー・アントワネット大公女と、フランス王冠の将来の継承者との結婚計画によって、もっと親密で、もっと堅固な結合を図る案が、この時期に採用された。
この機会に、スタンヴィル氏は、満足の華々しい証しを受けた。彼は世襲の公爵に叙され、ショワズール公の称号をとった。同時に、義兄のゴントー伯爵も、終身公爵に叙された。それは、ゴントー氏にとって、十分な栄誉だった。後に、常に華やかなローザン公の名で知られた彼の息子、いや、むしろスタンヴィル氏の息子は、当然、叔父のビロン元帥[320]の貴族位を継ぐことになっていたからである。二人の友人に、同時に与えられた、この二重の恩恵は、ポンパドゥール夫人の働きによるものだった。そして、ゴントー氏の足繁い奉仕の成果であると同時に、スタンヴィル氏の、きちんとした文通の成果でもあった。彼は、公用郵便を発送するたびに、寵姫に宛てた私信の中で、自分の外交報告の短い要約を、必ず伝えていた。ショワズール氏の私的な文通が、どれほど広範で、どれほど打ち解けたものかを知っていたなら、ポンパドゥール夫人も、それほど気をよくしなかっただろう。どの公用郵便も、初めはロベック夫人[321]に、その後はリュクサンブール夫人[322]に、さらに、寵姫との文通では、その影響力を弱めようとしていたベルニ師、ゴントー氏、スービーズ氏、プララン氏[323]、カステラーヌ伯爵[324]、デュ・シャトレ氏[325]、ボートヴィル卿[326]に宛てた手紙を運んでいた。そして、彼はその返事を受け取り、ヴェルサイユとパリという、陰謀の二つの舞台で起きていることを、正確に知っていた。
その頃、ショワズール氏の頭を、宮廷の大きな職を得たいという考えが、一時よぎった。しかし、ゴントー氏は、そのような地位には、後継者の予約が、どれほど詰まっているかを、彼に示した。彼自身も、健康がたいへん弱いショワズール夫人との間に、子供ができない可能性を考えた。彼は、夫人が女性として成熟する時期よりも、ずっと前に関係を持つことで、その体質を、自ら損なっていた。そして、この軽率さのため、夫人には、しばしば長椅子に横たわらなければならない、健康上の不都合が生じていた。恋愛小説のような空想に満ちた心は、体の力の十倍も熱烈だった、この小柄で病弱な女性は、それでも、夫婦としての心配りを、たいへん強く要求し、夫が多少でも好意を示すように見える、あらゆる女性に、ひどく嫉妬した。そのため、ショワズール氏は、ウィーン滞在中、この種の企ての、ほとんどすべてに失敗した。
ポンパドゥール夫人が、ベルニ師に嫌気がさし始めていることを、ゴントー氏から知らされたショワズール氏は、この新たな事情が求める方向を、自分の私信に与えた。ベルニ師は、枢機卿になろうとしており、その能力では、ほとんど支えきれない要求を、ちらつかせていたのである。ショワズール氏は、ポンパドゥール夫人からは、ベルニ師の対抗者で、後継者として頼れる人物と見られようとし、ベルニ師からは、ひそかに望んでいた大きな飛躍を遂げた時に、使うことのできる忠実な協力者と見られようとした。枢機卿の帽子を確実に得られると知ったベルニ師は、体調の悪さを話し始めた。しかし、とどまるよう懇請された後、評議会の最高の指揮権を与えられるなら、感謝と献身を示す用意があると、それとなく言った。それこそが、相手の待ち構えていたところだった。ショワズール氏の帰還について、相談がまとまり、将来の枢機卿が、占めることを軽んじている職を、彼に与える手段が、その時から考えられた。他方、ベルニ氏は、全部局の活動全体を、強い手で掌握する首相が必要であることを、国王に示そうとする、長い覚書を起草し始めた。政務の危機的な状況は、この考えに、かなり好都合だったかもしれない。しかし、この種の後見に対する国王の嫌悪を、ポンパドゥール夫人は、よく知っていた。また、自分には、称号の不都合を伴わずに、その役だけを果たすことが残っていたので、それを奪われる気は、少しもなかった。このような策謀のすべてには、二か月で十分だった。十一月の初め、枢機卿の帽子がローマから届く間に、ショワズール氏は、枢機卿が去ることになる地位を占めるため、ウィーンから到着した。ショワズール氏の突然の到着と、関係者のさまざまな意向の間にあった、一種の不一致は、奇妙な矛盾を生まずにはいなかった。こうして、同じ週に、『ガゼット』の公式記事では、枢機卿の指揮のもとで外務省を運営するため、枢機卿が選んだ補佐役としてしか紹介されていなかったショワズール氏が、国王から、さほどよく迎えられなかったにもかかわらず、最初の評議会の開会にあたって、貴族位を与えられた。デストレ元帥が、貴族位を持たない公爵よりも、フランス元帥を上席に置くべきだと主張したためである。また、枢機卿が、国務卿の住居を去り、ヴェルサイユ宮殿の、最も大きな居室の一つに移るのも見られた。そこで彼は、大使たちの謁見の日である、最初の火曜日から、新しい大臣と並んで、厳粛に大使たちを迎えた。その後、大使たちが新大臣のところへ行く様子は、まるで筆頭書記のもとへ行くようにしか見えなかった。そして、外務大臣で、フランスの公爵かつ貴族であるショワズール氏は、こうしたあらゆる恩恵の中で、二次的な地位しか占めていないように見えた。枢機卿は、国王に直接、覚書を渡し、自分が確保したと信じる高い地位を、力ずくで奪うかのように、掌握しようとしていた。国王は何も言わず、なすがままにさせていた。そして、ポンパドゥール夫人が加わらなければ、きっと従っていただろう。夫人には、国王の手から覚書が戻り、それによって、いっそう気分を害していた。夫人は、スービーズ氏、ゴントー氏、ベル=イル氏[327]と手を組み、覚書の筆者を、決して再び設けるべきでない地位を、奪おうとする野心家として描いた。その地位の復活は、国王個人の威信、この点についての、よく知られた国王の意見、そして、フルーリー枢機卿[328]の最後の助言によって、防がれるべきものだった。国王ご自身の原則を思い出させる、このやり方は、その御身と栄光への、最も真実な愛着の証しとして示され、確かに効果を上げた。ベルニ枢機卿は追放された[329]。
こうして、政務の最高の指揮から、この温厚で感じのよい人物が取り除かれた。大臣の高い地位をめぐる陰謀よりも、社交界の魅力に、はるかに適した人物だった。その後、彼の生涯は、聖職者という身分、大きな財産、そして、それを立派に用いる心得によって与えられた手段で、いくらかの輝きを取り戻した。彼が幸福に生涯を終えたというのは、最後の時期を、恩人の徳の高い娘たちに、世話をし、敬意を示し、ほとんど援助といえるものを与えるために、使ったからである。歴史は、彼について、ほとんど語らないだろう。
ショワズール氏は、一人で外務を担当することになった。その権力の用い方と、ヨーロッパの宮廷に対して、フランスをどのような立場に置いたかを知るのは、関心のないことではないだろう。
彼の政務の主な行為の一つは、オーストリアとの、一七五九年一月の条約だった。この条約によって、フランスは、一七五六年の条約で合意した補助金を、二千四百万から千四百万に減らした。しかし、正当化できない矛盾によって、国家の、しかも第一級の利益のために動員するのと同じほど、大きな兵力を、オーストリアの意のままにした。フランスが受ける、あらゆる種類の災厄に驚いたショワズール氏が、イギリスとの単独講和によって、その期間を短くしようとしたのは、一七六一年になってからだった。彼は、それがドイツとの講和をもたらすと考えていた。最初の接近の言葉は、ロンドン駐在のサルデーニャ大使、ソラール代官[330]によって伝えられた。その後、ビュシー氏[331]が、ピット氏[332]のもとへ派遣される資格を与えられ、スタンリー氏がフランスへ来た。イギリスとの交渉で、ショワズール氏が、どれほど譲歩する姿勢を見せても、最初の土台を築くことができなかった。チャタム卿は、戦争になお、あまりにも多くの好ましい機会を見ていたため、本気で講和しようとはしなかった。人気を得るために交渉し、政治家であったために、何も決着させなかったのである。あらゆる試みの後、この考えを放棄しなければならなかった。ショワズール氏が、この時期に得た唯一の政治的成功で、歴史において、ある種の位置を彼に与えるものは、スペインとの家族盟約[333]である。これによって、フランスは、大陸における立場を弱めず、むしろ強め、重い義務も負わずに、平時にも戦時にも、当時、最も優れた海上の資源と、アメリカおよびインドの豊かな富を持っていた国との、持続的な協力を、確実に得たといえる。このスペインとの合意が、ウィーンの宮廷とのヴェルサイユ条約と同時に結ばれていたなら、イギリスは、一七六三年の、あの破滅的な講和をもたらした成功を、決して得なかっただろうと思われる。
わが国の歴史の、この時期は、きっと公法学者たちに――数年後にも、そのような人々が、まだ見つかるのであれば――、一般的な理論として、恒久的な同盟条約は、それを結ぶ列強にとって有益かどうかを、検討させるだろう。この種の取り決めは、一般に、最も多くの有利な結果を得られると考えられているものである。しかし、経験は、各国が、力の釣り合いを自分の側へ傾けようとして、この種の合意に、警戒と利己心の精神を持ち込み、共同の大義を損なうことを、証明している。良好な協調と、定められた援助による支援の規定が合意されると、すべての努力は、条項を解釈し、要請をかわし、ついには、負った約束の結果から逃れる手段へと向けられる。そして、同盟の義務が発生する事態が、否定できないほど明白になると、今度は、無数の事情が、準備を遅らせ、最も明快な条項の実行を複雑にする口実になる。攻撃された同盟国は、あらゆる種類の援助を惜しみなく与えるはずだった相手から、兵士一人、エキュ一枚を受け取る前に、すでに領土を失ってしまっていた。フランス革命以来、次々に形成された四つの連合は、各締約国が、共同の大義の利益のために、誠実に、適時に、あらゆる手段を用いていたなら、あれほど速やかに壊滅しただろうか。
介入が必要になった同盟国に、誠実さがあると仮定しても、自然の障害、距離、徴兵の遅さ、ある季節の道路の状態だけで、援助を無益なものにするには、十分ではないだろうか。その半分が、間に合って到着していれば、重要な出来事に、別の方向と別の結果を与えることもできたのに。たとえば、イエナの戦いの前に、アレクサンドル皇帝の司令部がキュストリンにあったなら、プロイセンは、確かに、もっと力強く抵抗しただろう[334]。
同盟における熱意の乏しさの理由には、自国の兵員、大砲、軍需倉庫が、不適切に用いられるのを見る不満も、いくらか数えなければならない。自国の連隊が、最も危険な場所に置かれるのを見て、兵を失い、国庫を費やし、しかも、協力によって得る利益が、しばしば、同盟国の得た征服地の占有を、見届けること以外に、何もないのである。
大陸の列強の間の同盟条約に伴う不都合の大部分は、海洋国家の間の合意では、消えるかもしれない。そのため、スペインとの一七六一年の条約は、あまりにも遅く結ばれたとはいえ、なお、ショワズール氏の内閣の、最も巧みな行為である。実際、たとえ価値の小さな援助でも、海上輸送によって、共通の敵の領土を、さまざまな場所で、ほとんど同時に脅かすことができれば、直ちに重要になることは、容易に理解できる。そして、その後、講和の条件を定め、成功した戦争の成果を分ける段になれば、一方の国の利益を、それほど損なわずに、他方の国への取り分を定めることができる。
なお、これほど重大な関心を持つ問題で、慎重に、詳しく扱うに値するものについて、今述べたわずかなことは、ご覧のとおり、条約を結んですぐに戦争が起き、締約国が、その条項を実行しなければならなくなる場合にしか、当てはまらない。というのも、第一級の列強の間で、ゆっくりと賢明に組み立てられた同盟を、政治の最も美しい仕事とみなさない者は、いないはずだからである。それは、どこでも戦争を防ぎ、恒久的な平和の状態を確立するという、高潔な目的を持つ同盟である。そして、その唯一の目的は、全般的な均衡を乱そうとする、落ち着きがなく、野心的で、通商を禁じようとする、いかなる権力にも、公正で威厳ある調停によって、平穏、節度、そして、さまざまな国の産物の、自由で容易な交換を、強いることである。
しかし、このような協約には、大きな用心が必要である。それは、ヨーロッパ社会の利益のため、すべての人々の利益のために、結ばれなければならない。したがって、その利益は、十分に確かめられ、十分に明白でなければならない。そして、その利益にかかわる人々、すなわち諸国民が、自分たち自身の利益のために取り組まれたのだと確信していないなら、十分にそうなっているとはいえない。なぜなら、もし諸国民が不信を抱くことになれば、内閣のいかなる同盟も、空虚なものとなり、それどころか危険になるからである。ヨーロッパが到達した文明の状態では、諸国民は、どこでも共通の水準に達しようとしている。そして、その道からそらされていると感じれば、間もなく、自国の政府を責め、抵抗できない力で、政府に向かって行動するだろう。
アンリ四世[335]のキリスト教諸国同盟の計画や、サン=ピエール師[336]の永久平和の計画は、政府だけが、国民の信頼のすべてを得ていた時代に、熟考された。国民は、その頃、自分たちの運命を予見し、導く仕事を、君主の手に委ねていた。他方、君主は、これほど大きな利害を導くために必要な権威を、すべて持っていた。国家の大きな諸団体は、権力の補助者にすぎなかった。そして、時に、その作用を弱めようとしても、権力が国民の意のままになる危険にさらすほどのことは、決してなかった。人々の心の中には、主権という観念が、そのまま完全に保たれていた。そして、それは、どこでも、いかなる抵抗も正当とはならない、保護の力として現れていた。
そのような時代には、政治的な体系をつくることができた。そして、アンリ四世の偉大な魂が思い描くことのできた体系も、実行することができただろう。
しかし、文明の進歩は、国民の中間層を高めることで、政府との間を隔てていた距離を縮めた。その時、政府の仕組みと行為を、吟味し始めたのである。間もなく、批判が現れ、不信へと導いた。そのため、今日、国民を統治するには、かつて必要だった以上の誠実さと明敏さが求められる。したがって、このような状況で、全般的な平和を保証することだけを目的とする、こうした同盟の一つを形づくるには、多くの巧みさと先見性が必要だろう。
私はここで立ち止まる。とどまっていたかった限られた主題から、自分を連れ出した一般的な考察の魅力に、抵抗できなかったことに、驚いている。
ショワズール氏の生来の尊大さ、広く、抑制のない権力、生活態度の軽薄さは、文明が現れ始めたばかりの新しい国々を、あまりにも軽んじさせた。彼は、その頃、北方で準備されつつあった変化に取り組むことを、軽視した。そして、ロシアの方へ目を向けることができなかった。しかし、この国は、一種の本能によって、ヨーロッパの中心へと向かう政策を、取り始めていた。その傾向は、まだ定まった計画はなかったにしても、いつか、大陸の問題に、優越的で危険な影響力を行使するに至ることを目指していた。彼は、イギリスがこの国と持ち始めていた有益な関係が、どこまで進むかを見なかった。そして、この点についての盲目さのため、スウェーデンとデンマークとの間に、不和を保とうとした。本来なら、この二つの小国を結びつけようとすべきだった。フランスの支援を受け、事態の必然によって、ロシアとイギリスを親密に結びつけるはずの商業上の交通を、望む時に閉ざすことのできるのは、この二国だけだったからである。同時に、彼は、サンクトペテルブルクの宮廷への軽蔑を、侮辱的な形で示した。女帝エリザヴェータ[338]から、かなりの敬意、さらには寵愛さえ受けていた、老いたロピタル侯爵[337]を、この首都から呼び戻した。そして、単なる全権公使のブレトゥイユ男爵と交代させ、冷淡な訓令を与えた。その訓令は、イギリスの公然たる支持者で、おそらく、その金を受け取ってもいたベストゥージェフ伯爵[339]の失脚から期待できる利点を、利用する可能性を、まったく残さないものだった。それでも、女帝エリザヴェータを怒らせるには至らなかった。女帝自身、受けている配慮の不足に、理由をつけて解釈しようとしたからである。しかし、その思いがけない死によって、ロシアの王座は、ピョートル三世[340]に委ねられた。彼の意向は、叔母のものと、完全に反対だった。彼は、ひそかにプロイセン国王の軍務に従事しており、仲介者を一切通さず、直接、神秘的な形式で、大尉と大佐の階級を与えられていた。即位の際、辞令を受け取り、直ちに、その軍服を着た将軍の階級は、彼には栄光の頂点と思われた。同時に、彼は、プロイセン国王と戦っていた自軍の将軍に、国王の側に立ち、その指揮のもとで、オーストリア人に対する戦争を続けるよう、命令を送った[341]。
この途方もない政策は、この君主にとって不幸なことに、もう一つの、もっと危険な狂気と結びついていた。それは、有名なエカチェリーナ二世である妻を離縁する意向を、明らかにしたことだった。妻は、乱れた頭が導いたであろう、あらゆる気まぐれに、彼が長く身を任せることを許さなかった。
ロシアで起きていることに対する、ショワズール氏の無関心は、ピョートル三世が暴力的な死を遂げた時、サンクトペテルブルクに、正式に資格を与えられたフランス人が、ブレトゥイユ男爵の秘書で、男爵が代理公使として残していた、デュプラ師しかいなかったほどだった。ブレトゥイユ男爵とともに、その頃ワルシャワにいたリュリエール氏が、目撃者として私たちに伝えた、すべての詳しい事情を、現地で集めたのは、この司祭だった。リュリエール氏は、それを、一つの著作、いや、むしろ、優雅に書かれた一種の物語にまとめたが、そこでは、正確さは、常に二次的なものでしかなかった。
しかし、新しい治世、新しい内閣、積極的な女帝によって、フランスは、サンクトペテルブルクに、本当の外交代表を置かざるをえなくなった。ショワズール氏は、休暇で帰ってくる途中だったブレトゥイユ男爵に、その任地へ戻るよう、命じなければならなくなった。しかし、君主を辱めながら、その国の政策を抑えるためには、何もしないという、自分の採用した方針に忠実だったので、ブレトゥイユ氏には、新しい女帝に、返書の送付を求めること以外、何の訓令も与えなかった。その返書によって、女帝エリザヴェータは、フランスから女帝の称号を認められた際、フランスに対しては、モスクワのツァーリに認められたもの以外の地位を、要求しないことを承諾していたのである[342]。
ここで私が書いているのは、出来事の歴史的な絵図というよりも、一つの時代を全体として捉えた素描である。そのため、私が残そうとする印象において、ショワズール氏の権力が完全ではなかった時期と、彼がフランスの絶対的な支配者だった時期を、混同しないことだけに、私は拘束される。
平和は、ヨーロッパ全体の必要となっていた。そして、その頃、条約は誠実に守られていたので、それまで戦っていた国々の間にも、良好な関係を速やかに回復することができた。敗れた国の占領は、後に見られたように、講和の後まで続くことがなかった。そのため、各国の独立は、再び完全となり、戦争の破壊的な結果も、戦争とともに終わった。
イギリス国王ジョージ二世[343]の死によって、平和を真剣に考えることができるようになった。後継者のジョージ三世[344]は、ウェールズ公であった間ずっと、自分の教育係だったビュート伯爵[345]と、このうえなく親密な関係に慣れていた。そのため、即位すると、伯爵に、あまりにも大きな信頼を寄せ、直ちにチャタム卿の地位に就けた。首相となったビュート伯爵は、自分がその栄誉を得る講和によって、戦争がイギリスにもたらした莫大な利益を確定することが、個人的な利益になると考えた。そこで、合意の可能性を話した。そして、すでに述べた、同じソラール代官の勧めによって、自分の行う申し入れへの信頼を与え、ベッドフォード公[346]をフランスへ送ることで、新たな交渉に、輝きさえ与えた。これに対し、ニヴェルネ公がロンドンへ送られた。前者の公使館書記官はヒューム氏[347]であり、後者は、同じ資格で、デオン卿[348]を連れていった。こうした小さな不釣り合いは、常に、ショワズール氏の軽率さを思い起こさせるが、それでも、条約は、一七六三年九月初めには、署名できるまでに、かなり速やかに進んだ。スペインの全権代表グリマルディ氏[349]が、イギリス軍はハバナで大きな敗北を受ける直前だと信じて反対しなければ、その時、署名されていただろう。敗北は起こらなかった。イギリス軍はハバナを占領した。そして、それを取り戻すためには、フロリダを与えなければならず、ショワズール氏は、ルイジアナの割譲によって、スペインを補償した。すべてに同意し、一七六三年十一月二日、フォンテーヌブローで講和に署名した[350]。
これほど重要な交渉に、ソラール代官が介入したことは、今日では、ほとんど信じがたい。彼が代表した政府は、今の時代には、ヨーロッパのどの内閣からも反対を受けずに、列強の数から消されたのである。
プロイセン国王との講和は、イギリスとの講和から、数週間後に続いた。そして、それによって、ほどなく、プロイセン国王とウィーンの宮廷との講和も、もたらされた[351]。こうして、有名な七年戦争は終わった。私たちの父の世代は、出来事に、あれほど満ちていると考えていたが、現在の世代にとっては、自分たちが目撃した大きな戦いと比べ、すっかり色褪せてしまった戦争である。
翌年、ポンパドゥール夫人が死んだが、国内にも国外にも、何の変化も起きなかった。これほど長い間、首相の役を演じていた女性の死。フリードリヒ二世が、彼女に対して漏らした、いくつかの言葉や詩への恨みから、フランス王家とオーストリア王家の同盟の、真の立案者となった女性の死。その同盟の結果は、プロイセンが、ヨーロッパの問題で、かろうじて持ち始めていた釣り合いの重みを、無にすることだったかもしれない。治世の初めに、フレジュス司教[352]が占めていた地位に就くことを、一瞬考えられたという罪のために、ベルニ枢機卿を、一息で倒した女性の死。繰り返すが、この女性の死は、フランスにとっては、ほとんど知らせにさえならず、国王の内輪の生活では、不都合ですらなかった。
五年来、ショワズール公の優越的な力に従わされ、あらゆる享楽に飽き、疲れ、これほど高く引き上げた相手から、時には反抗も受けていた。彼は、夫人が自分に引きつけた、身分の低い二人の女友達、ダンブリモン夫人[353]とデスパルベ夫人[354]のうち、一人を誘惑し、他方を公然たる侮辱によって遠ざけたのである。さらに、国王の私的な集まりでは、グラモン夫人[355]とボーヴォー夫人[356]が、一種の優位を占め、ポンパドゥール夫人には、ただ、女主人を務めるという、悲しい特権しか残っていなかったため、いっそう屈辱を受けていた。また、長い間、ルイ十五世を、その寝床から遠ざけ、そこで財産を求めた人物さえ、退けるような衰弱に打ちのめされ、ポンパドゥール夫人は、未練なく人生を去った。国王は無関心なままだった。習慣を失ったというよりも、それから解放された様子だった。習慣は、君主たちの間で、通常、自然な愛情に取って代わる、一種の絆なのである。体裁のために、一人で過ごす時間は、わずか二晩だけ与えられた。三日目には、ランブイエで狩りをし、その後、いつものように、靴を脱ぐ折に廷臣たちを迎えた後、国王は、再びポンパドゥール夫人の居室へ上がった。部屋は同じで、寝台だけが取り除かれていた。そこには、グラモン夫人、ボーヴォー夫人、ショワズール氏、ショーヴラン氏[357]、ゴントー氏、その他の私的な交際相手たちがいた。この居室を十八年間占め、国王の内輪の集まりを形づくる人々を、すべてそこに入れた女性の名は、そこで、もはや口にされなかった。
この時期から、すべてがショワズール氏の王笏の下で屈した。その大胆さと意志は、失敗にも反対にも遭わなかった。その時、彼の運勢は頂点にあった。大臣を交代させ、大使を呼び戻し、ヨーロッパの内閣を不安にさせ、王位継承者に逆らい、高等法院の判決を破棄し、評議会の裁定を下し、勅令をつくり、封印王状を与え、あらゆる種類の恩恵を得て、フランスを友人たちに引き渡した。地平線の小さな雲が、遠くから彼を脅かし始めたのは、一七六八年になってからだった。ほとんど無名の男が、確かに、そのつもりはなかっただろうに、これほど堅固な運勢を揺るがすことに、取り組んでいた。
トゥールーズ出身の小貴族デュ・バリー氏[358]は、かなり恥ずべき手段を頼りに、パリで暮らしていた。当時の汚い陰謀のすべてに通じ、それによって、放蕩と、わずかな贅沢の日々の暮らしを、手に入れようとしていた。
彼は、娼婦を集めた夜食の宴の主催者となっていた。常に一人か二人を囲い、何らかの利益を引き出せると思えば、容易に他の男たちに渡した。この種の交際の輪は、初めは、大臣たちの役所の範囲を、ほとんど超えなかった。その世界であれば、容易な小さな恩恵や、さらに容易な約束を得ることができ、それを、首都には常に大勢いる、地方から来た、お人よしの者たちに、金を払わせる材料にできたからである。あらゆる種類の斡旋役として、リシュリュー元帥[359]とデュラス公[360]の家に、入り込んでいた。それどころか、もっと選りすぐった夜食の宴のいくつかに、二人を招き寄せてもいた。そこには、ティアール氏[361]、デュルフォール卿[362]、ビシー伯爵[363]、マスタン師、ラ・トゥール・デュ・パンの諸氏[364]、そして、モンクリフ[365]、アルノー師、カイヤヴァ[366]、物語を語らせていた同郷のロベ[367]のような、陽気な文人たち、当時のことわざ劇の演じ手たち、マイロード・ゴワの名で、よりよく知られたゴワがいた。要するに、かなり楽しい夜の集まりをつくりうる、あらゆる人々がいた。
恋愛の世界の新人を見つけることに、熱心だったため、彼は、有名なルベルと接触することになった。ルベルは、国王の筆頭従僕で、いわゆる『鹿の園』への、いつもの供給者だった。この二人の密猟者は、しばしば同じ道で出会っていた。そして、デュ・バリー氏は、主たる請負人の指揮下に入ることを、少しもためらわなかった。一七六七年から一七六八年にかけての冬、時勢の厄介さや、自分たちの仕事をうまく行おうとする時の困難について、かなり沈んだ会話を交わした後、デュ・バリー氏は、四年来、自分の家に住んでいた若い女性を、ルベルに紹介しようとした。ただし、国王の年齢が求める、初心な物腰を、数日で取り戻させる責任を負うとした。ルベルは、心が動いたためか、手持ちが乏しかったためか、彼についていき、ランジュ嬢[368]に会った。彼女は、最初から、そう呼ばれていたのである。人目のない時間に、続けて何度か訪問したことで、間もなく、彼自身の意図は決まった。この種の小さな企ての、当然の打ち明け相手だったデュ・バリーは、ルベルが協力できる種類の、出世の計画を組み立てるため、時間を無駄にしなかった。ランジュには、あまり美しくはないが、姿がよく、気立てのよいいとこがいた。同じ家に住み、家の内でも外でも、彼女の連れとなっていた。コルシカの司令官アルカンバル侯爵が、そのいとこに恋していた。アルカンバル氏と、陸軍省の役所の何人かの書記を通じて、デュ・バリー氏は、ナレという者に、コルシカの糧食供給の請負を得させていた。かなりよい仕事であり、彼自身、デュ・バリーも、二年来、その収益に、自分の支出を頼っていた。彼はランジュに、ルベルの望みに応じる様子を見せ、国王のもとに連れていき、彼女と結婚するナレに、徴税請負人の地位を得させてくれるなら、その望みをかなえると約束するよう言った。そして、その地位から、各人の取り分を調整することになる、とした。この件に夫を入れたくなかったルベルは、いとこにしておけば十分だと言った。しかし、デュ・バリー氏は結婚にこだわり、ナレはコルシカにいたので、国王には、結婚した女性として紹介するものの、宗教上の式を行っただけで、夫とは同居していない、とすることで合意した。そこでルベルは、彼女を、いとことともに、ヴェルサイユの自分の家での夜食に来させた。国王は、テーブルから、さほど離れていないガラス扉を通じて、彼女を見て、声を聞く時間を、十分に得た。それは、きっと、新人の際の国王の習慣だったのだろう。最初の印象は、たいへん好ましいものだった。物腰も話す内容も、巧みな手で整えられており、各人が、自分の役を完璧に果たしていた。結婚しているが、なお処女である女性への欲望が、国王に、もう一度彼女を来させるよう、ルベルに命じさせた。この時、デュ・バリー氏は、リシュリュー元帥に、この一件を打ち明けた。元帥は、ランジュをナレ夫人にする代わりに、デュ・バリー氏自身の弟、ギヨーム・デュ・バリー氏の妻にするよう勧めた。根本では、かなり粗雑な小さな作り話を使うのだが、後に実際そうなったような展開も、可能だと、元帥には思われたのである。こうして、国王に紹介されたのは、もはや『鹿の園』に入ろうとする者ではなく、身分のある女性だった。そして、貧しい様子さえ見せないようにしようとした。デュ・バリー氏は、目的も将来の役割も、まだ十分には定まっていない女性のために、優雅な衣装、豪華な馬車、豊かな仕着せを整えるため、コルシカの糧食の金庫を使い果たした。この軽率な華やかさのうちに、彼女をコンピエーニュで登場させた。彼女は町に宿をとり、昼間は自宅に、ひどく引きこもっていた。そして、毎晩、真夜中を過ぎて初めて出かけ、宮殿へ行って泊まり、毎朝、二人の召使いを従え、同じ小型の馬車で戻ってきた。この策謀のすべてを、国王に明らかにすることもできた警察の報告は、おそらく、ルベルによって遠ざけられたのだろう。あるいは、国王の気まぐれが、はっきりした情熱となった後でしか、知らせが届かなかったのかもしれない。起きていることのすべてを知っていたショワズール氏は、少し不安を感じた。しかし、それを、ただ見下した態度と、侮蔑的な言葉でしか表さなかった。その言葉は、デュ・バリー夫人自身から、国王に伝えられた。彼女の用いたやり方は、君主の情熱を強め、その弱さが、すでに近づいてくると見ていた障害に対して、君主を苛立たせるだけだった。ルベルの死は、寵姫の影響力を、いっそう強めた。彼女は、この腹心から、いくらか独立していることを国王に示し、自分が連れてこられた、低い経路よりも上の存在であるように見せる術を持っていた。そのため、ルベルが最後の時まで、彼女に有利に述べていたことのすべては、国王の心の中で、最も忠実な臣下の良心が語った、一種の臨終の遺言へと変わった。デュ・バリー氏の家に残っていたいとこは、国王の考えでは、人々の話している、あのランジュ嬢となった。こうして、この気の毒な君主の頭の中に、混乱が生じ、彼を完全に盲目にし、示そうとした、あらゆる真相の光を、不合理なもの、あるいは中傷として退けさせた。コンピエーニュへの滞在は、このように終わった。ギヨーム・デュ・バリー伯爵夫人は、パリへ戻り、義兄となったジャン伯爵の家へ帰った。王である恋人の気前のよさの証しは、何一つ、最もささやかな贈り物さえ受け取っていなかった。そのため、彼女の無欲ぶりと、行動のすべてに与えることのできた情熱の様子は、彼女のうちに、自分自身のために愛されるという、最高の幸福を見いだしたのだと、国王を、ついに確信させた。数週間後、コルシカの供給請負からの資金が、減り始めた。義兄に勧められ、デュ・バリー夫人は、パリのショワズール公を訪ね、庇護しているナレのために、資金の前払いを求めるという大胆さを示した。その要請に、いくつかの良好な関係への申し入れも添えた。ショワズール氏は、誇りと無秩序な態度に忠実に、二重の不器用さを示した。自分の部局の外で起きていることは、何も知らないと言って、そのほのめかしを退けると同時に、彼女の要請以上のものを与えたのである。この小さな助けがなければ、すべては崩れていた。デュ・バリー氏から、事情を知らされていたリシュリュー元帥は、その時、大きな宮廷の一件が準備されつつあると判断した。そして、前面に出ても、もはや自分の評判にも財布にも危険はないと考え、デュ・バリー夫人の宮廷への紹介の願いを、成功させることを引き受けた。デュ・バリー家は、自分の知る家で、よい家柄であり、自分が統治する地方では、その国の第一級の家々と同じだけ尊重されていると、国王に述べたのである。
わずかな金額と、いくつかの立派な約束によって、新しい寵姫を宮廷に紹介する、身分のある女性、ベアルン伯爵夫人を見つけることができた。しかし、寵姫は、その日だけ、ヴェルサイユに公然と姿を現し、その後は、フォンテーヌブローへの滞在の時期に、寵愛を大きく爆発させるため、ひそかに働くことだけに努めた。他方、国王は、自分の好みに引かれ、予想外に成功した紹介から自信を得て、場所を変えれば、大きな新しいことも受け入れられるだろうと考えた。宮廷宿舎総監のラ・シュズ氏との仕事で、フォンテーヌブロー宮殿の部屋の割り当てにおいて、国王は、説明せずに、ポンパドゥール夫人が使っていた居室を、自分のために取っておいた。建築家たちには、国王の居室の側で閉じられていた、連絡用の扉を開き直させた。そして、この新しい滞在先に到着した翌日から、何人かの召使いと、デュ・バリー伯爵夫人の侍女たちが、目立たずに、そこに住み始めた。二日後には、夫人自身も、完全に落ち着いていた。その夜、内輪の夜食に招かれたグラモン夫人とボーヴォー夫人は、何らかの口実を使って、断った。それは予想されていた。ポンパドゥール夫人には、あれほど寛大だったこの女性たちが、新しい寵姫について、どのような侮蔑的な言葉を述べていたかを、知っていたからである。そして、自分の行動に、もっと一貫性があり、それほど堅苦しくない、何人かの女性を、確保しておいた。まず、ベアルン夫人、ミルポワ元帥夫人[369]、そして、亡き王妃の親族だった、老いたタルモン公妃[370]である。廷臣たちにも、不足はなかった。こうして、新しい愛人、『鹿の園』に向けられていたランジュ、一時はナレ夫人で、その日のうちにデュ・バリー伯爵夫人となった女性は、ポンパドゥール夫人の地位を占めることになった。ルベルの死は、『鹿の園』の残りの仕組みを崩していた。彼女は、競争相手もなく、国王の心の、平穏な女主人となった。そして、国王は、新しく、もっと心地よい暮らしを見つけたと思った。フォンテーヌブローから戻ると、同じ取り決めが自然なものに見えた。ショワズール氏の友人の、ほとんどすべては、彼女を、国王の内輪の生活によく通じさせておくためだと称して、毎晩、デュ・バリー夫人のもとへ行き続けるという、都合のよい、もっともらしい立場をとった。他方、ショワズール氏は、ポンパドゥール夫人の、かつての集まりの女性たちとともに、自分の家へ引きこもり、事態は、このように進むだろうと自分に言い聞かせた。そして、デュ・バリー夫人が享楽の女主人である一方、自分は政務の主人であり続けられると、信じた。
見た目には、かなりよいが、続くはずのない、この状況は、それでも、しばらく保たれた。しかし、陰謀が生じた。リシュリュー元帥が、デギヨン氏[371]を引き入れ、ショワズール氏の政務への批判が、現れ始めた。彼の行使する絶対的な影響力に嫉妬する大臣たちも、寵姫の小さな宮廷を、膨らませに来た。最初に来たのは、ラ・ヴリリエール氏[372]とベルタン氏[373]だった。テレー師[374]のマントと、モープー大法官[375]の法衣も、彼女の身づくろいで舞う粉を、楽しげに受けに現れた。間もなく、ショワズール氏に対する、ひそかな戦争が始まったが、デュ・バリー夫人は、まだ、それにまったく加わっていなかった。彼女は、これらの人々の訪問に、気をよくし、楽しみさえしていたが、そこに、いくらかの卑しさを認めるだけの分別は持っていた。政務への関心はなく、持とうとも思っていなかった。目的は達し、地位はできており、ただ、それを楽しみたいだけだった。時折、以前の集まりの女性たちを失ったことへの、いかなる未練からも国王を解放するため、彼女たちへの皮肉を、口にし、また、奨励することはあった。しかし、ショワズール氏に対しては、まだ、何もしようとはしていなかった。彼を取り巻く華やかさに、気圧されていた。そして、多少の配慮があれば、彼女が、完全にその気でいた中立に、とどめることができただろう。この時期、国王が狩りに出ている間に、十分間訪問するだけで、彼女は、目がくらみ、喜んだだろう。国王の帰還後、彼女は、必ず、そのことを話しただろうし、国王も、たいへん喜んだだろう。そうすれば、両者の間には、適切な境界が引かれ、陰謀を、揺り籠のうちに消すには、それで十分だった。ショワズール氏は、この行動をとる気を示していた。しかし、彼を取り巻く女性たちの尊大さが、別の決定をもたらした。何の関係も築くことができなかった。党派の分離は明らかとなった。そして、飾り、楽しいこと、享楽だけにかかわりたかったデュ・バリー夫人は、政務にかかわり、不本意ながら、政治の教えを受けなければならなくなった。それを後で、できるかぎり不器用にならないよう、繰り返そうとしたのである。ほぼ二年が過ぎても、ショワズール氏の敵たちは、前進しなかった。彼らは毎日、寵姫を疲れさせる、絶え間ない教えを、十分に理解せず、さらに悪く伝えると、彼女を責めた。事態が、このようなところにあった時、一七七〇年の半ばに、大きな争いが起き、宮廷の、これらすべての利害が出会う戦場を、つくることになった。
あるフランス人の航海者が、長い間放棄されていたフォークランド諸島を、占有した[376]。スペインは、それを自国のものと主張し、彼がつくった拠点の費用を払い戻し、小さな守備隊を送ることで、自国の所有権を確定しようとした。その守備隊は、誰の商業にも、確かに、何の影響も持たないはずだった。しかし、この種のことには、何にでも不安を抱くイギリスは、ユトレヒトの講和の、かなり曖昧な条項を援用して介入し、この島々は自国に属すべきで、自国だけが、そこを占領させる権利を持つと主張した。スペインを脅し、いくらかの軍備を始めた。その最初の費用は、争われている所有地の十倍もの価値があったが、スペイン海軍とフランス海軍の再建を止めたいという、ひそかな望みを明らかにしていた。とりわけフランス海軍は、不幸な一七六三年の条約で終わった七年戦争によって、無にされた状態から、出始めていた。ショワズール氏は、自分の仕事である家族盟約を実行するため、ためらわず、強い態度を示した。そして、五年来、海軍の再建に、休まず、成功をもって取り組んでいた、いとこのプララン公も、評議会で彼に合流し、最も激しい措置を促した。その措置は、フランスの財政状態にも、スペインの財政状態にも、ほとんど適していなかった。マドリードの宮廷も、そのことを十分にほのめかしていたが、従順ではあった。一七六一年の条約以来、ヴェルサイユの内閣の指導に、完全に身を委ねていたからである。戦闘の再開と、金のかかる戦争の中に、地位にとどまり、テレー師を倒す確実な手段があると考えたショワズール氏は、マドリードの宮廷自身よりも熱心に、スペインの大義を支持した。そして、スペインの内閣に、要求や懇請を吹き込み、その後には、それを避けることは不可能だと主張した。不誠実さを帯びた措置によって、借款の源を枯らしていた財務総監は、手段を使い果たしていた。海軍大臣が浴びせる資金の要求に、どう応じればよいか、わからなかった。国王の評議会は、一種の闘技場となり、二人の有力な大臣が、日々、敵対者を打ち負かしていた。デュ・バリー夫人は、評議会が終わるたびに、その議論の結果を尋ねた。国王は、いつも、ショワズール氏の意見に従って戻ってきた。すでに、テレー師の解任が、ひそかに話題となっていた。そして、きわめて確実で、気づかれない経路によって、寵姫は、ひそかに、彼を見捨て、その後任に、陸軍と海軍の財務局長である、国務評議官フーロンを置こうとする、ショワズール氏の提案を、認める気になっていた。フーロンは、この二つの大きな部局の資金を振り替える技術を、かなりよく心得ており、一種の謎めいた言葉遣いによって、考えと手段を持っていると、人々に思わせる人物だった。デュ・バリー氏が、この二部局で後押しした供給請負の仕事を通じて、フーロン氏は彼と関係をつくり、そのわずかな支持を、確実に得ていた。
ショワズール氏への、繰り返しの攻撃が、何の効果も生まなかったため、デュ・バリー夫人の周囲に、多少の不安が生じた。半ば従属的な立場で、夫人のそばに置かれ、起きていることのすべてを知っていた、いとこのションは、戦争と新しい財務総監が、ショワズール氏に与えるかもしれない力を恐れ、パリへ行って、デュ・バリー氏に相談した。彼は、絶えず、その場しのぎで生きてきた中で、政務について、多少の習慣を身につけていた。親族の女性たちが、自分の助言を頼りに戻ってきたことに、すっかり得意になったデュ・バリー氏は、外務省の筆頭書記の一人、ラ・ヴィル師[377]を、ひそかに訪ねることを思いついた。彼は元イエズス会士で、野心を隠す人物だった。イエズス会派の、何人かの司教が、いつか大臣になれるという期待を、しばしば彼に抱かせていた。その小さな役割は、ショワズール家の人々の、華々しい信用に消されていた。彼は、彼らに、修道士のような服従を示していたが、ショワズール公は、それに、完全に欺かれていたわけではなかった。陰謀と権力を携えていたデュ・バリー氏には、大臣になる希望を、ラ・ヴィル師の目の前で輝かせる必要さえ、ほとんどなかった。師は、フォークランド諸島の問題に、たいへんよく通じており、新たな、確実に費用のかかる戦争が、フランスにもたらす困難を、強調する気でいた。『理由は、たいへん軽いものです』と、師は言った。『真の目的は、ショワズール家の人々の、大臣としての利益でしかありえません。今の事態では、それを防ぐ手段は、一つしかありません』と、付け加えた。『国王が、ご自身で、カトリック王陛下に、内密の手紙を書く必要があります。その返答によって、これほど騒ぎの種となっているフォークランド諸島を放棄し、戦争を避ける気持ちがあることを、間違いなく、証明できるでしょう。』デュ・バリーには、それだけで十分だった。直ちに弟の妻のもとへ赴き、この考えを、自分の発案として国王に説明できるほど、十分に教え込んだ。そして、自分の頭のよさへの信頼を、さらに固めるため、彼女は国王に言った。『ラ・ヴィル師を呼び、スペイン国王への、この直接の働きかけが成功するかについて、本当のことを言うよう、お命じになる勇気があれば、きっと、彼も賛成せずにはいられないと思います。それによって、ショワズール氏から受けていると信じておられる、あの大きな忠誠が、どれほどのものか、お測りになれるでしょう。』愛人の知性に、ますます感心した国王は、彼女に言った。『しかし、どんな口実で、その司祭を呼べばよいのか。ショワズール公が知るだろう。』『なんて素朴で、お人よしなのでしょう』と、彼女は答えた。『私は、彼を知りません。一度も会ったことがありません。でも、ここに来させることを、お引き受けします。もっと気楽にしていただくため、日暮れに、俗人の服を着て、かつらに袋をつけ、脇に剣を差して来させるつもりです。』最も滑稽な手段が、最も重大な政務に混ぜられるのを見る楽しみに心を動かされ、国王は同意した。直ちに知らせを受けた司祭は、その晩のうちに、灰色の服を着て、この名誉ある、謎めいた会見の場へ赴いた。少し後に国王が来た。そして、衣装について、いくつか冗談を言った後、主人の調子に、それも、信頼を寄せる主人の調子になった。国王は司祭に、スペイン国王に手紙を書く計画があり、その忠誠によって、カトリック王陛下の実際の意向と、この手紙について、どう考えるかを、率直に述べるよう求めると言った。ラ・ヴィル師は、君主たちが、このように、自分たちの問題を交渉するようになれば、間もなく解決し、大臣や大使の仕事は、ほとんど不要になるだろうと、すかさず答えた。満足した国王は、その後、ショワズール氏の政務について、いくらか非難した。司祭は、自分も同じ意見であることを、うかがわせる慎重さをもって、自分の大臣に反対することは控え、国王への敬意から、擁護することも控える、と述べた。会話は、長く続かなかった。国王は、最大の好意を示して司祭を帰らせ、司祭は、幻想で頭をいっぱいにして立ち去った。こうして、国王は、スペイン国王に手紙を書く決意を、完全に固めた。多少の自尊心が妨げ、ラ・ヴィル師に、手紙の草案を作るよう言わなかったため、国王は、どう書けばよいかを、自分の頭の中で考え始めた。最初の一文が、なかなか出てこなかった。『それでは、すっかり間違ってお書きになりますよ』と、デュ・バリー夫人は言った。『私に、草案を作らせてください。』国王は、笑いながら同意した。直ちに、ション嬢の使者が送られ、放蕩者と呼ばれていたデュ・バリー氏を、その夜のうちにリュシエンヌへ呼び寄せ、この重要な作文をさせることになった。デュ・バリーは、真夜中に出発した。夜は、ひどく暗く、水があふれていたため、乗り物が横転し、マルリーの水飲み場で、溺れかけた。しかし、ついに到着し、体を乾かし、その後、できるかぎりで、小さな仕事を行った。手紙の内容は、おおむね次のとおりだった。
『治世の間に、すでに、あまりにも多くの戦争に耐えてきたので、平和のうちに生涯を終え、その最後の時期を、国内の政務、とりわけ財政に秩序を戻すために使うこと以外、もはや望むもののない年齢に達した今、この望みを、親しく従兄弟に打ち明ける。ただし、スペイン王国の利益、または、ご自身の名誉のために、この大きな考慮を超える必要があると思われるなら、送る私的な使者を通じて、その返答を受けたうえで、それに従うことをためらわない、と保証する。』
デュ・バリー夫人は、この手紙の草案を、自分の手で写した。翌朝、国王に、自分の机の上で、それを清書させた。そして、髪結いが、この大きな任務を帯びて出発し、わずか十八日で、それを果たした。カルロス三世[378]の返答は、特に信頼を寄せていた人物、オライリー[379]によって書かれ、望んだとおりのものだった。その中で、カルロス三世は、従兄弟である国王に、その行動を導く人道の感情について、最大の賛辞を与えた。個人的な望みが、完全に一致していると断言し、国王の決定に、全面的に身を委ねた。
その時、国王には、ショワズール家の人々の策謀ほど、明白なものはなかった。同じ時期に、高等法院をめぐる争いもあり、彼らは、そこで大法官に反対する側に立っていた。そのため、過度の野心に、国外の問題だけでなく、国内の問題も犠牲にする人物として描かれた。親しい集まりでの言葉は報告され、誇張され、あらゆる形で悪意を加えられた。使者が旅をしている間、国王は、彼らに冷たさを示し始めていた。それは、使者の帰還後、嫌悪へと変わった。そして、失脚に先立つ三、四日の間、彼らは、国王と話すことも、仕事をすることもできなかった。その結果、ショワズール公は、手元の書類に、一七七〇年の二部局の支出の計算を持っていたのに、国王に承認と署名を得ることができなかった。それによって、国王が、慣例に従い、各業務の終わりに、謝礼として与えていた、未使用の資金、百五十万フラン近くを失った。
ついに、一七七〇年十二月二十三日、勇気を出した国王は、狩りへ出発する時に、ラ・ヴリリエール氏を送り、ショワズール氏に、シャンテルーへ追放するという、たいへん冷淡な手紙を届けさせた。また、プララン氏には、直ちにプラランへ退くよう命じる、いくらか厳しさの少ない手紙を送った。国王は、その日ずっと、あまりにも物思いに沈み、何度も時計を取り出したため、何か異例のことが起きているのは、容易にわかった。ヴェルサイユへ戻った時、自分の命令が正午前に実行され、三つの部局を与えることができると知って初めて、少し気楽になった様子を見せた。この時から、デュ・バリー夫人は、本当に、寵姫としての大きな役割を演じ始めた。コンデ公の影響力によって、陸軍省を、元陸軍中将のモンテナール氏[380]に与えさせた。凡庸な軍人で、大臣としては、さらに凡庸だった。海軍省は、モープー大法官の庇護によって、高等法院を大評議会で置き換える案を出していた、国務評議官ボワーヌ氏[381]に委ねられた。そして、いきなりデギヨン公に与えさせることはできなかった外務は、暫定的に、ラ・ヴリリエール氏の弱い手に移った。役所の窓から、これらすべての異動と出発を見たラ・ヴィル師は、なお、完全には希望を失わなかった。しかし、二か月後、デュ・バリー夫人が、デギヨン氏に対する国王の嫌悪に打ち勝つと、彼は、報酬として、トリコニウムの名義司教職と、一つの修道院を受け取ることに、たいへん満足することになった。国王は、彼が必要だと考えていた役所を、去ることを望まなかった。
こうして、十一年間の治世とも呼べる、この内閣は終わった。歴史には、いくつかの人名と、ごくわずかな事実を残した。一つの簡単な総括と、この時代の政務に、多少の影響力や役割を持った人物たちの特徴が、わが国の年代記で、この時期に与えるべき重要性を定める助けとなるだろう。
そこで大きな位置を占める、一七五六年の条約は、考えられないほどの性急さで結ばれた。そのすべてに、前の一月に、イギリスとプロイセンとの間で署名された条約への苛立ちが与えた、衝動が見られる。すべての条項に、思慮の欠如が表れている。確かに、一七五六年の条約が熟考され、もっと落ち着いた精神によって結ばれ、このような時期に、大陸で、これほど多くの争いの種を持つ国と、自国の大義を結びつけることで、フランスが負う危険を、十分に理解していたなら、条約の主要な条件によって、フランスとイギリスとの間で、まさに起ころうとしていた戦争を、同盟の義務が発生する事態から除外することに、同意しなかっただろう。相互の保証がつくる、相互性の外観に、欺かれることはなかっただろう。その保証は、締約国がヨーロッパに持つ領土だけに及ぶため、オーストリアには、その領土のすべてを保証し、フランスには、大陸の戦争にかかりきりで消耗する間、何の違反も犯されずに、最もすばらしい植民地を失うことを、許していたのである。しかし、ショワズール氏が相談を受けず、この有名な条約の規定を定めた、どの会議にも出席しなかったことは、公正に述べるべきである。ベルニ師とシュターレンベルク氏が、ヴェルサイユで交渉していた時、彼はローマにおり、ロタ裁判所の問題や、イエズス会士たちの争いに、すっかりかかわっていた。ショワズール氏がローマから戻ったのは、同じ一七五六年の末だった。したがって、条約への署名の責めは、彼の記憶から取り除くのが適切である。ただし、その後の多くの出来事と、不幸な結果の非難の重みは、なお彼に残しておくべきである。
ポンパドゥール夫人の愛着と利害の渦に、そのように巻き込まれていた彼は、新しい仕組みと自分を一体化させた。しかし、絶え間ない監視によって、その危険を止められると期待していた。そのような監視は、彼の性格の軽薄さが、完全に不可能にするものだった。彼には、常にフェッフェル氏[382]が、そばにいる必要があった。この種のことに巧みなウィーンの宮廷が、ドイツの国制にかかわる、あらゆる問題に、自国の要求を優先させ、日々、その影響力を増していた、気づかれない侵害に、絶えず注意を向けさせるためである。その間、この大きな憲章の保証者、ウェストファリア条約の擁護者、要するにフランス国王は、ほとんど気づかずに、この段階的な野心の企てと成功の道具になっていた。
なお、一七五六年の条約で、私が最も非難するのは、それがつくった新しい同盟の仕組みと、それがフランスの政策に与えるはずだった新しい方向だと考えるなら、誤りである。長い間、オーストリアを、競争相手で、生来の敵であり、フランスが常に恐れるべき国とみなすことに慣れたフランス人たちは、同国との同盟を、異常で、まったく自然に反するものと考える。この見方には、偏見が大きく影響している。その起源は、物事の性質に基づく二国の競争よりも、イタリアの支配を争った君主たちの、個人的な競争に求めるべきかもしれない。しかし、今日でも、この偏見は、あまりにも強く、あまりにも広く行き渡っているため、この件について、自分の考えをすべて説明する必要を、感じずにはいられない。
征服を目的とする同盟は、有害である。まず、それが向けられる相手にとって、そして、結局は、それを結んだ者たち自身にとっても。しかし、どのような結果になっても、無数の理由によって、決して長続きしない。その理由のいくつかは、上で述べた。したがって、このような同盟は、いかなる場合にも、政治的な体系をつくることはできず、それを論じるのは、主題から外れる。
しかし、同盟は、戦争を行うためではなく、平和を回復し、維持するために、領土を得るためではなく、各締約国が、自分の領土を保つことを確実にするために、他の国々の平穏を危うくするためではなく、どの国も、他国の安全を脅かせないようにするために、結ぶことができる。この目的を達するよう、すべての条件が計算された同盟が、計り知れない利益をもたらすことを、誰も否定しないだろう。しかし、そのような同盟を結べる列強は、ごく少ない。大国、いや、むしろ第一級の列強だけが、それを行うことができる。
次に、その地理的な位置が、影響力を働かせる手段の展開を、妨げてはならない。したがって、スペインは、この種の同盟に、有効に加わることはできない。同盟が、特に海上の関係と利害に適用されるのでなければ、スペインが持ち込む影響力は、その絶対的な力から期待されるものより、はるかに小さくなるからである。
その影響力さえ、実際には、ほとんど無に等しいだろう。――プロイセンは、地理的に、あまりにも悪い形をした国なので、征服の精神に動かされずにはいられず、従属も避けられない。かなり広い海岸を持ちながら、限られた歳入は、陸軍の維持を、かろうじて賄うだけなので、軍事的な海軍をつくれない。そのため、この点では、常にイギリスの意のままとなる。イギリスは、一瞬にして、プロイセンの商業のすべてを破壊できるからである。長く細い帯状の土地に、兵力を分散して置かなければならず、常にロシアに従属することになる。ロシアは、プロイセン軍が集結する前に、ポーゼン公国とシレジアに侵入できるからである。
それでも、静穏を命じるはずであり、そこから出るには、外国の働きかけによるほかないような状況にもかかわらず、自己保存の感情が、プロイセンに、常に征服を目指す、一種の必要を課している。一つの戦いの結果によって、いくつかの部分に切り分けられ、それらの間の、あらゆる交通を遮断されうるような形の国は、あまりにも危険で不安定な立場にあるため、絶えず、それを変えようとせずにはいられない。そして、プロイセンの力が、近く滅びるか、ドイツのかなり大きな部分を、その支配の下にまとめるかの、いずれかは避けられないように思われる。私たちが論じている時期、ポーランド分割[383]の前には、同じ地位を占めていなかったため、同じ危険にさらされていなかったことは、確かである。しかし、今日占める地位を得させた、有名な君主の野心によって、いっそう華々しくなったとしても、その君主によって、恒久的な存続が、もっと堅固に保証されたわけではない。
ロシアは、ヨーロッパの政治的な体系の中に位置を占める前、フランスとの間に、持続的な関係を、一度も持ったことがなかった。ヨーロッパに入り込んでからも、親密な関係を持ったことはなかった。ただし、最近のある時期だけは別である。その時、さまざまな国の自然な関係が、すべて破壊され、大陸で完全な状態に残っていたのが、この二国だけになったため、両政府は同盟した。一方は、もっと容易に、新たな征服を行うために、他方は、その分け前を得る望みからだった[384]。このような目的は、必然的に、二つの同盟国を、速やかに争わせることになった。始まった戦いで、ロシアの負う危険は小さかった。フランスがさらされた危険には、今も、まだ接している。現在、フランスは、ロシアに近づかせた野心の罰を受けている。将来、両国を結びつけることができるのも、なお、同じ動機だけであろう。ヨーロッパのさまざまな国の間の、以前の関係は、回復されたか、新しい関係に置き換えられた。しかし、フランスとロシアには、依然として、共通の利益がない。かつて両国を分けていた、すべての利害は、今後も、できれば、いっそう両国を分けることになる。そして、慎重さのあらゆる助言に反して、いつか、フランスが二度目の、この同盟を求めることがあれば、その避けられない、直ちに生じる効果は、オーストリアとプロイセンを、親密に近づけることだろう。両国は、かつて落ちた地位に戻り、今日、自らの存続を守れる状態にある。そして、もはや、偶然の不確かな組み合わせによる救済を、諦めとともに待つだけではなくなった。プロイセンとの同盟が、どれほど安全に乏しくても、オーストリアには、選択の余地がなくなり、それで満足せざるをえなくなるだろう。その時、フランスは、あまりにも不適切な立場に置かれるため、最も恐れるべきことは、オーストリアとプロイセンが倒れることになるだろう。なぜなら、そうなれば、互いに、あまりにも適さない同盟国を、すでに敵へと変えた、同じ原因が、間もなく、再び両国を分けるからである。そして、両国の間で始まる新たな戦いの勝敗は、フランスが、ほとんどヨーロッパ全体の兵力を、その旗の下に引き連れて始めた、最初の戦いよりも、はるかに疑いのないものとなるだろう。北方の三国は、必ず、フランスを犠牲にして接近することになり、一八一三年と一八一四年の出来事が、繰り返されるのが見られるだろう。そして、おそらく、さらに不幸な結果を伴うことになる。
すべてを考え合わせると、私が示した目的で同盟を結べるのは、フランスとオーストリアだけだと思う。その広さ、力、富は、誰も羨む必要がなく、自分の持つものを保つこと以外に、何も望む必要がないほどである。両国には、その合意によって、周囲のすべてを平穏に保つために必要な力がある。ヨーロッパの中心部で、最も強い列強である両国は、この一世紀の間に、北方に一つの国が台頭しなかったなら、ヨーロッパ全体でも、最も強い列強だっただろう。その恐るべき、急速な進歩は、すでに、それによって目立った、あれほど多くの侵略も、なお増大し続け、ついにはすべてを呑み込む侵略の、前触れにすぎないのではないかと、恐れさせる。この国が、オーストリアとフランスを脅かす、共通の危険は、両国にとって、もう一つの絆となるべきであり、それどころか、両国を結ぶべき絆のうち、最も強いものとなるべきである。一方は、より近く、その危険にさらされている。しかし、その国が倒れれば、他方も、必ず、続いて倒れることになる。そして、その国とともに、ヨーロッパの残りのすべても倒れるだろう。
このことから、オーストリアを、ロシアの腕の中へ飛び込むよう強い、その国が得る支配を、おそらく数世紀も早めた人物が、とりわけ将来に対して、どれほど害をなしたかがわかる。どうか神よ、ヨーロッパの内閣が、その支配を間近なものにしないほど、十分に賢明であるように。
前の世紀には、ロシアが姿を現し始めると、その巨人の歩みに、あまりにも注意を払わなかった。何世紀もの間、その名が、いわば知られずにいたため、すでに恐れるべきものだとは、想像されなかった。その広さと、広大な無人地帯、そして、気候の厳しさによって、あらゆる侵入から守られている国は、他国に対して、計り知れない利点を持つことが、見抜かれなかった。防衛のために、何もする必要がないので、すべての努力を攻撃へ集められることも、見抜かれなかった。そこに住む、まだ完全に野蛮な国民は、獰猛な勇気と、その力を倍加させる粗野な身体のつくり、絶対的な服従と、受動的な従順を併せ持ち、必要とするものは少なく、最も厳密な必需品の限度を超えないため、政府の手の中で、扱いやすいと同じだけ恐ろしい道具であることも、見抜かれなかった。これらすべては、明白だったのに、何も疑われなかった。何人かの哲学者の、ちっぽけな虚栄心がくすぐられると、それだけで、彼らは、エカチェリーナ二世も、その政府も、その国も、征服さえも、褒め始めた。人々は、吟味せずに、その言葉を信じた。そして間もなく、知らず、ただ恐れだけを抱くべきものを、賞賛するのが流行となった。しかし、十八世紀の哲学者たちが、これほど軽率に称揚し始めた、この国家、この国民、この政府は、何だったのか。そして、今も何なのか。同じ時に、彼らは、文明化されたヨーロッパの、すべての政府を告発し、それらを、専制的で、抑圧的で、国民の権利を奪ったものとして描きながら、自分たちの賛辞のすべてを、本性から専制的な政府のために取っておいた。そのことは、たいへん奇妙である。また、古い隷属の絆から、すでに長い間解放されていた、文明化された国民の、いわゆる奴隷状態には、心を痛めながら、国民全体が農奴である、その運命については、何も言うことを見つけなかったことも、奇妙である。というのも、ロシアには中間階級がなく、わずかな主人と、無数の奴隷しかいないからである[385]。それだけで、この国と他国の間に、どれほどの距離があるかを判断するには、十分である。
そこには、国家の真の栄光をつくるものは、何もないはずだと感じられる。臣民のほとんどすべてが、少数の他の者たちの所有物であるところには、寛大さも、感情の高貴さもありえない。実際、この国民には、主人の間にも、農奴の間にも、高い感情は見られない。前者の善良さ、農民への優しさ、農民に享受させる幸福については、多少語られる。しかし、この優しさ、この幸福は、農奴が、あまりにも大きな苦しみによって、生活の形を変える可能性を考えるようにならないために、ちょうど必要なだけのものである。それは、確かに、きわめてささやかな賞賛の理由である。なお、このような社会組織に伴う美徳と悪徳について、どのような意見を持とうとも、誰にとっても確かなのは、まだ完全に野蛮な国家が、ヨーロッパの残りの国々に影響を及ぼすことは、その政府が、どのような形、どのような色合いをとろうと、大きな災厄になるということである。それなら、その支配は、どうなるだろうか[386]。
ご覧のとおり、一七五六年の条約で、私が非難するのは、オーストリアとの同盟そのものではない。私の意見では、そのような同盟は、この災厄を防ぎ、あるいは、その時期を遅らせる唯一の手段だからである。私が非難するのは、この条約を結ぶに至らせた、ちっぽけな動機、それを導いた、ちっぽけな考え、用意した、ちっぽけな結果、そして、自らを導かせた、ちっぽけな情念である。この際には、すべてが、ちっぽけだったからである。
ショワズール氏が、自分のつくったものではない、この条約を存続させたことを、私が非難しているのでもない。長く、全能の力を持つ、その政務の期間のすべてを通じ、この新しい同盟の仕組みに、真に有益な方向を与えることを、一瞬も考えなかったことを、非難している。いや、むしろ、この仕組みを採用しながら、どのようにすれば有利になりうるかを、かすかにさえ見なかったことを、非難している。ショワズール氏が受けるに値した、最も重大な非難の一つは、確かに、北方で起きていたことを、何も見ず、そこで準備されていたことを、何も予見せず、したがって、何も備えなかったことである。それだけで、彼の軽率さ、先見性の欠如、見解の浅さについて、私が述べたことのすべてを、正当化するには十分だろう。
しかし、軽率でも、才気のある人物には、細かな苦労を、あまりかけないものであれば、時には有益な考えを持ち、あるいは採用することが、不可能なわけではない。ショワズール氏は、自分への歴史の判断を予感し、いくらかの輝きがあり、オーストリアとの同盟と釣り合うように見える、政治的な行為で、自分の内閣を記そうとした。そのために、スペイン国王と、ブルボン家の他の君主たちとの、家族盟約の計画を考えた。一七六一年八月十五日に署名された、この盟約は、真に政治家にふさわしい構想だったことを、私たちは喜んで認める。この重要な行為によって結ばれる国々に、大きな利益をもたらすものだった。フランスには、ピレネーの国境の安全を、すべて確実にすることで、他の国境での行動を、はるかに自由にした。また、スペイン海軍の支援を与え、スペイン海軍も、フランス海軍の支援を受けた。そして、両海軍は、ナポリとシチリアの港に、資源を見いだした。最後に、ブルボン家の三つの分家の、この結合は、地中海に対する、ほとんど独占的な支配を与えた。
しかし、家族盟約が、結ばれた三国に、本当に利益を与えるためには、七年戦争の始まりに結ばれていなければならなかった。この戦争の災厄によって、すでに消耗したフランスが、スペインを、自らの破滅に引き込み、それによって、この国の衰退を早めることになった時期に、結ばれるべきではなかった。また、すでに述べたとおり、この時期、フランスにとって、スペインとの親密な同盟の、最も明白な結果は、フロリダの喪失を補償するため、ルイジアナを、スペインに譲らなければならなかったことである。
歴史が拾い上げた、ショワズール氏の内閣の、他の行為を探すと、まず、アヴィニョン伯領の占領が見つかる。役にも立たず、栄光もない行動である。気まぐれが、それを奪わせ、悪魔への恐れが、それを返させた。侵入も返還も、何らかの理由によって正当化する労さえ、とらなかった[387]。
同じ時期のコルシカ征服[388]は、それを行うために失った人命と、それを保持するために費やした金を、忘れるのであれば、重要なものとみなすべきである。海軍のために期待した利点は、これまで、ほとんど無に等しかった。しかし、マルタを占領する前には、イギリス人が、たいへん羨んだ、地中海のフランスの一州である。この領土が、将来、わが国に役立つ見込みはある。
国内の規律に関する問題でありながら、ショワズール氏の内閣を特徴づけることにもなったのは、イエズス会の解体である[389]。彼は、教会の問題や、高等法院をめぐる争いで、しばしば、その影響力に出会ったと思っていた。フランスの聖職者のように、見識があり、上流社会に深く混じっている聖職者のもとでは、イエズス会士の活動は、見識も地位の確かさもない聖職者のもとほどの不都合を持たなかったとはいえ、この修道会の信用を弱めようとすることは、よかったかもしれない。それを解体しようとすることも、ありえただろう。この問題を検討すると、主題の範囲を、あまりにも超えてしまうので、私は、それを検討しない。しかし、この時期のフランスのような君主制の政府にとって、家族の精神、そして、ある程度まで公共の精神を導くことが、イエズス会士の手に残っているのは、危険よりも有用さが大きかったといえることは、確かである。この見解の裏づけとして、一七八九年の貴族の少数派の構成員には、イエズス会士に教育された者が、一人もいなかったことを、指摘できるだろう。しかし、極度に軽率で、自分に由来しない、あらゆる権力の敵だったショワズール氏は、自分が会に対して、第一の影響力を持つとは思わなかったという理由だけで、イエズス会を解体した。それは、国家の問題だったのに、彼は陰謀の問題にした。ラ・ヴォーギヨン公[390]と王太子殿下[391]が会を支持していたので、彼の陰謀は、それを攻撃することだった。後には、パリソ[392]に作らせた喜劇で、哲学者たちにも戦争を仕掛けた。彼らが、自分一人で時代に対して行使したかった支配の、いくらかを奪っていたからである。彼を決意させたのは、高い次元の理由ではなかった。多くの意見を掌握した人々を見て、自尊心の利益のために、そのすべてを、意のままにしたかったのである。
一七六四年の初めの、破滅的なカイエンヌ遠征の主な動機も、ショワズール氏の、イエズス会士への憎悪だった。彼は、プレフォンテーヌ氏[393]が提出した覚書に従い、すべての細部を命じた。この人物は、才気と陰謀の人であり、いくつかの博愛の言葉と、イエズス会士への、いくつかのほのめかしによって、自分の計画のすべてを採用させることができた。ショワズール氏は、植民地における、会の広大で豊かな財産を、奪おうとしていたのである。
一七六三年の条約によって、フランスは、カナダとアカディア[394]を、永久にイギリスへ割譲した。これらの植民地の住民、とりわけアカディア人は、フランスへの大きな愛着を示していた。他方、黒人たちの境遇も、多少の関心を呼び始めていた。ショワズール氏は、国王の評議会で、黒人のいる植民地の中に、耕作には白人だけを用いる拠点をつくることを、決定させた。この目的で、サン=ドマングへ、およそ三千人のアカディア人を、マルティニークへ二千人、グアドループへ八百人を移送した。大きな遠征は、カイエンヌへ向けられた。あらゆる大きさの船、二百十三隻がフランスを出発した。一万五百人を運んでいた。アカディアからは八千人が来ており、同時に、さまざまな植民地から、さらに二隻が到着した。シャンヴァロン氏[395]が行政監督官、ベアーグ氏[396]が軍司令官、相談を受けていたテュルゴー卿[397]が総督に任命されていた。先見性の欠如と軽率さが、これほどまで進められたことはなかった。およそ二万人が、一つの海岸に投げ出された。そこには、家も、倉庫も、薬品を備える場所も、病院も、太陽の激しい熱を避ける場所さえなかった。四度五十五分の位置では、経験によって求められる用心の、いくつかを怠れば、その熱は、気候に慣れていない人々に、死をもたらす。そのため、十五日後には、上陸した者の半分が死んでいた。そして、五か月後には、遠征のうち、三百人も残っていなかった。しかし、それは遠くで起きていた。そして、ショワズール氏を取り巻く流行が、真実への、あらゆる入り口を閉ざしていた。
陸軍の管理で、ショワズール氏は、部隊を疲れさせる動揺を持ち込んだ。毎年、変更を行った。新しい訓練の種類、新しい演習、新しい戦術、新しい軍服。これらはすべて、常に移り気で勇敢な、フランスの若い貴族たちを喜ばせた。彼らは、古い考えを捨て、プロイセン軍が、それによって栄光を得たと考えられている戦術を、改良しているといわれた大臣を賞賛した。まるで、軍事上の成功も失敗も、常に将軍の才能にかかっているのではないかのように。ヨーロッパの戦争の技術は、十年ごとに変わる。ある時は、ある国の歩兵が優れており、ある時は、騎兵が戦いを決し、あるいは、砲兵という兵種に優位がある。この点に、固定した原則はない。すべては、指揮する者の天才にある。
ショワズール氏の影響力は、国王に行わせた無能な人選によって、財政に、破滅的に及んだ。オルレアン公への好意から、シルエット氏[398]を推した。この大臣は、すべての私人の食器、それどころか、国王の食器まで、造幣局に運ばせることから始めた。その間、わが国が、そのために破産したウィーンの宮廷は、金の食器を作らせ、ヨーゼフ大公とパルマの公女[399]との、豪華な婚礼で、それを見せることを楽しんでいた。国王の評議会の最中に、正気を失ったシルエット氏は、ラヴェルディ氏[400]と交代した。高等法院の単なる評定官で、一般に嫌われていた財政勅令の登録に、最も強く反対した者の一人であることだけを理由に、選ばれた。自分の属する集団に、信用があると思われていた。宮廷に反対していた時には、それを持っていたが、宮廷に仕えようとすると、もはや、それは見つからなかった。役に立たなくなったラヴェルディ氏は、解任された。ショワズール氏は、後任にダンヴォー氏[401]を任命させた。そして、軽い態度で、この人選の理由として、いつも彼を好いており、学校で一緒だったことを挙げた。
ショワズール氏の影響力によって行われた、すべての人選のうち、よいものは、プララン公の人選、一つだけだったと主張することは、可能である。この機会には、彼の幸運が役立った。この種の共同関係で、気まぐれに従う補佐役だけを求めたのだと、広く思われていた。反対に、プララン氏は、精神の質が強く、高貴で堅固な性格を持ち、健全な考えを、多少の粗ささえ伴って表す人物だった。しかし、その美点は、ひどい健康状態によって、絶えず無益にされた。一日のうち、十五分間でさえ、完全に仕事に専念できる時間はなかった。調子のよい時には、いとこに、意見の対立を示すことも、しばしば、かなり厳しい非難をすることさえ、惜しまなかった。一族では、彼は尊敬され、恐れられていた。グラモン夫人も、彼の前では、自分の性格を曲げることを知っていた。そして、厚い眉と、醜く、厳しい顔にもかかわらず、根底には感受性があったので、ショワズール公を、あまりにも愛するようになっていた。そのため、誤りを示した後、ショワズール氏がそれを改めると、このうえない感謝を覚えた。同じように、ショワズール氏が固執すると、プララン氏は、その誤りを許し、擁護する気持ちを保っていた。
今描いたプララン氏の姿は、自然に、ショワズール氏の外見を語ることへ、私を導く。自然は、彼も醜くつくっていた。赤毛だったが、身づくろいの多少の技巧で、ほぼ金髪に変装していた。顔と頭の形は、平凡だった。目には才気があり、体の形は、かなり整っていた。小さく、細長く、白く、美しい爪に飾られた手の美しさから、大きな利点を得ていた。その大胆な物腰、丸い顔、高い額は、プララン氏の、前に張り出した前髪、やつれた顔色、控えめな様子と、完全に対照をなしていた。精神でも身体でも、二人の男が、これほど似ていなかったことはない。
ポンパドゥール夫人には、才気がなかった。輝きも活気もない青い目は、頭の空虚さを明らかにしていた。当時、かなり洗練されていた、パリの金融界の社交の場で育ち、暮らしていたのに、品が悪く、粗野な話し方があり、ヴェルサイユに来てさえ、それを直せなかった。もっと教育が乏しかったのに、かなり整った言葉遣いを身につけることができたデュ・バリー夫人とは、あらゆる点で違っていた。デュ・バリー夫人の目は、それほど大きくなかったが、才気があった。顔は整い、髪は、このうえなく美しかった。話すことを好み[402]、かなり陽気に物語る術を身につけていた。嘘をつく技術は、二人とも第一級だった。
一族らしい顔立ちのグラモン夫人には、若い時、いわゆる、若さゆえの美しさがあった。肌が白く、ふくよかで、生き生きしていた。性格は高く、精神は自由で強かった。声の響きが悪くても、それが可能だったなら、雄弁だっただろう。文章はうまかった。物腰には、引きつけるところがありながら、同時に、絶対的なところもあった。自分の部屋では、一つの意見しか許さなかった。ショワズール氏を愛する者は、皆、よく扱われ、それ以外は入らなかった。兄を崇拝し、友人たちに献身していた。恋愛が、若い時の時間を占めたのは、ほんのわずかだった。社交界に入った日から、その第一の位置を占め、生涯の終わりまで、その位置を保った。
ショワズール氏の内閣のもとで、大きな役割を演じた人々のうち、モープー大法官は、別の位置を与えるに値するように思われる。工夫、才気、悪意に、同時に満ち、嫌悪を催すほど、愛想を振りまく人物だった。俗で、品の悪い人々は、皆、彼に魅了された。よい社交界の人々すべてには、嫌われた。彼には、それも同じことだった。一度、自分に定めた線を、決して離れずに進んだ。ルイ十一世の時代に生きていたなら、その首相となり、最も親密な臣下となっただろう。
デギヨン氏は、ショワズール氏と同じように、恋愛の成功によって出世の道を始めた。華々しい成功があった。彼は、この種の成功については、もっと有利な条件をもって社交界に入った。富んだ家に生まれ、すでに得られた高い身分を持ち、たいへん美しい顔立ちだったからである。しかし、性格には、高貴さも高さもなかった。政治の問題には、まったく通じていなかった。読むことも少なく、旅もしておらず、ヨーロッパは、パリの会話を通じてしか知らなかった。地方三部会を持つ地域の争い、高等法院の争い、そして、いくらかの軍事の学習が、その生涯の仕事のすべてだった。
彼になされた大きな政治上の非難は、第一回ポーランド分割を、それが完了するまで知らなかったことである。しかし、この無知は、彼より前から続いていた。ウィーンの宮廷の、謎めいた策謀が、前任者の内閣のもとで知られていなかったことに由来する。そして、ショワズール公にとって、あと六か月、地位にとどまらなかったのは、幸運の一撃だった。彼も、それ以上のことを知らなかった可能性が、きわめて高いからである。
ショワズール氏の失脚は、ルイ十五世の治世に起きた、他の大臣の失脚と、非常に注目すべき違いを示した。彼以前、この君主に追放された大臣は、家族以外から、慰めも、愛着や感謝の証しも、何一つ受け取らなかった。それでも、短い訪問をする許可を求める時には、慎重に、しかも、病気の場合だけに限ることを、義務とされていた。ソワソンのベルニ枢機卿、レ・ゾルムのダルジャンソン氏、アルヌーヴィルのマショー氏、ブールジュのモールパ氏、さらに遡れば、シャンティイの『公爵殿』[403]さえ、最も完全な孤立の中にとどまっていた。国王の前では、誰も、もはやその名を口にする勇気がなかった。国王は、誰もが、この絶対的な沈黙を守ることの中に、自分がとった決定への、全体の承認を見るのを楽しんでいた。ショワズール氏の場合は、同じではなかった。その長い内閣の間、よい社交界の態度は、国王の廷臣であるよりも、大臣の廷臣であることだった。
彼の信用と、寵姫の信用との間の争いが起きた時、その利益と自分を一体化させることが、流行だった。デュ・バリー夫人の集まりは、ポンパドゥール夫人の集まりの高さに、達することができなかった。彼女の女性たち、男性たち、恩恵、大臣たちは、ショワズール氏の、広大で強力な社交の世界のそばでは、ごく鈍い輝きしか与えなかった。
国王の名を、敬意なく口にするようになった習慣と、罰を受けずに、デュ・バリー夫人の友人たちに浴びせるのに慣れた軽蔑は、人々の心に、一種の独立をつくり出していた。国王の年齢と弱さが、それを許していた。
ショワズール氏の、何人かの友人や、早すぎる恩恵を与えられた、何人かの若者は、シャンテルーへ会いに行く許可を、あえて求めた。寵姫の周囲の人々は、この最初の要請に対し、見せかけるよう助言すべきだと考えた、一種の軽蔑において、判断を誤った。要請の数は増え、もはや、どれ一つ拒むこともできなくなった。何人かの女性は、許可なくシャンテルーへ行く、手本を示した。宮廷と、いかなる奉仕の絆も持たない、多くの男性も、危険を冒して、それに倣った。そのため、シャンテルーには、ヴェルサイユの人々と宮廷に、対抗するように見える群衆と宮廷があった。新しい大臣たちの凡庸さ、とどまった大臣たちへの、評価の低さ[404]、最も重要な政務に、国王が示した無関心は、評議会のあらゆる決定から、持続性という性格を奪った。その時、不服従の流行が生まれ、権威の威光を破壊した。それは、次の治世で、これほど華々しく現れた抵抗の精神の、起源とみなすことができる。
シャンテルーの庭園に、ピラミッドを建てるところまで行った。その上に、虚栄心が、この著名な追放者に、流行に従う敬意を払いに来た、すべての者の名を刻んだ。そして、その同じ名が、二十年後、有名な亡命者の名簿に再び現れることを、観察しようとすれば、この時代のフランス貴族の行動には、多くの矛盾と、多くの軽率さがあり、その後の判断には、多くの不公正があると、おそらく思うだろう。
なお、フランス貴族の、この嘲笑的で、軽く、無思慮で、いつも自分に酔っている精神は、わが国の歴史に、しばしば再び現れる。ロングヴィル夫人のもとにも、コブレンツにも見いだされる。しかし、社会の別の階級に属するからといって、フランスらしさの劣らない、もう一つの精神がある。パリの市民である、古い同盟派の者たちを静めるには、アンリ四世が必要だった。一七九一年には、彼らが支配者となることができた。
ショワズール氏の個人的な財政も、間もなく、この種の栄光が強いた莫大な支出の影響を受けた。ヴェルサイユで暮らした、豪華な無秩序は、華やかな隠退にもついてきた。そして、陸軍省と外務省からの収入、スイス兵総隊長の職や、郵便総監の職からの収入、毎年、自分に与えさせていた特別の恩恵が、収入から失われたため、わずかな相続財産と、ショワズール夫人の財産の売却によって、それを補わなければならなかった。夫人の献身は、彼の死後、借金を払うことで、彼の記憶のために、その財産をすべて捧げる喜びによって、報いられた。
ルイ十五世が死ねば、その失脚が、これほど広く非難されたように見えた大臣を、政務の首位に呼び戻すよう、世論が新しい国王に強いるだろうと、予想されていた。そして、すべてが、そのように思わせていた。しかし、五年間の宮廷からの隔離は、この民衆の好意を疲れさせていた。政府への批判、それどころか反対の精神は、ショワズール氏の追放の際に、自らの力を試して成功した後、それによって、さらに自信を得ていた。ますます強固になっていたが、その方向は変わっていた。
目的が、もっと不定で曖昧になった反対派は、遠くを見て、もっと高いところを狙っていた。ショワズール氏への関心は、もはや何でもなかった。そのため、ルイ十六世の弱さ、王妃の信用、そして、ショワズール氏の希望と野心に、王妃が与えようとした支援にもかかわらず、懇請によってできたのは、追放を終わらせることだけだった。
叔母である王女たち[405]が保ち続けさせた、若い国王の偏見が勝った。宮廷の精神と利害は、もはやルイ十五世の治世の末と同じではなかった。新しい大臣、新しい希望、生まれたばかりの野心が、あらゆるところに現れた。古い廷臣たちは、去るか、死んでいた。王妃は、首相の人選について、相談を受けていなかった。その人選が、いったん行われると、もはや元に戻し、ショワズール氏が占めるのに適した、唯一の地位に、彼を呼ぶことはできなくなった。
そこで、この華々しい出世の輝きは消えた。真の功績と、確かな栄光を特徴づけるものによって、歴史に記されるよりも、社交界の成功によって、目立った生涯だった。ショワズール氏は、債権者に追われ、その攻撃を退けることだけにかかりきりの人物に伴う、不評のうちに終わった。悲しみが、軽い病気を悪化させ、墓へと導いた。人々の惜しみもなく、騒ぎもなく死んだ。歴史にとって、ショワズール氏は、流行の専制によって、十一年間、フランスを統治した人物にすぎなくなるだろう。その名は、勝った戦いも、栄光ある条約も、有益な勅令や規則も思い出させない。そして、さまざまな行政に、恣意を確立したことと、生涯の終わりまで、王権への批判と軽視の精神を励ましたことによって、今日まで感じられる大きな害を準備した人物である。
ショワズール氏は、恣意的な政府において、法的な出口を持たない、この批判の精神が、そのようにして、分解の最大の要素となることを、感じ取らなかった。本来なら、革命を防ぐことができ、また、そうすべきだった、あらゆるものによって、これほど長い間準備された革命は、その恐るべき証しである。アンリ四世は、必要な時に、譲り、抵抗することを知っていた、わが国の最後の国王である。
ショワズール公について 終わり
本回想録に登場する人物のアルファベット順索引
A
ABERDEEN|アバディーン伯爵(ジョージ・ゴードン)、イギリスの政治家。—III, 331*[406], 335, 336, 337, 340, 342, 343, 346, 351, 352, 363, 369, 371, 373, 392, 398, 406, 449, 452.—IV, 258*, 358*, 369, 410*, 423, 427.—V, 132, 133, 282, 283.
ABSAC|ダブサック、ペリゴールの貴族。—I, 10.
ACHMET PACHA|アフメト・パシャ、オスマン帝国の外交官。—V, 323 .
ADÉLAÏDE D'ORLÉANS|オルレアン家のアデライード王女。—I, 162,164.—III, 388, 429, 451, 453〜455, 457〜460, 464, 466, 467, 469.—IV, 4, 9, 12, 13, 48, 50, 86, 104, 106, 124, 171, 176, 177, 248, 250, 253, 255, 257, 259, 260, 270, 273, 280, 297, 302, 304, 308, 309, 330, 333, 336, 344, 307, 371, 381, 410, 414〜417, 442, 444, 447, 448, 461, 465, 468, 474, 481, 482, 486, 488, 489, 492, 496.—V, 32, 38, 49, 55, 64, 80, 109, 140, 186, 253, 264, 334, 346, 347, 362, 368, 405, 423, 456, 474, 501, 503.
AGAR|アガール、モスブール伯爵(ミシェル)、フランスの政治家。—II, 13*.
AGOULT|ダグー(ヴァンサン)、フランス衛兵隊の副官補佐。—I, 206*.
ALBANI|アルバーニ(ジョゼフ)、イタリアの枢機卿。—IV, 444*.
ALBARET|ダルバレ氏。—I, 50.
ALBUFÉRA|アルブフェラ公。—SUCHET(スーシェ)を参照。
ALEMBERT|ダランベール(ジャン・ル・ロン)、フランスの著述家。—I, 83*.
ALEXANDRE Ier|アレクサンドル一世、ロシア皇帝。—I, 139, 279, 294, 298, 305, 306, 314〜316, 319〜321, 386, 387, 393〜400, 404, 408, 412〜414, 422〜425, 428, 432, 434, 437〜440, 443, 446〜451.—II, 5, 7, 147, 149, 150, 152, 153, 162〜166, 170, 209, 210, 246, 249, 257〜260, 286, 292, 303, 308, 309, 312, 316, 317, 325, 326, 328, 329, 338, 340, 349, 355, 357, 359, 362〜367, 370, 375, 377, 378, 386, 398, 400, 403〜406, 408〜411, 413, 416, 418, 420, 426, 429, 430, 434, 436, 438〜441, 443〜445, 448, 454〜462, 464〜468, 471, 473, 474, 476, 478, 485, 487, 489〜492, 499, 500, 509〜515, 517, 522, 523, 525〜528, 531, 532, 535, 538, 546, 547, 549, 553, 566, 567.—III, 4, 5, 17, 19, 22, 28, 29, 32, 33, 38, 39, 41, 44, 51, 53, 58, 64, 67, 69, 86, 93, 95〜97, 106〜108, 115, 118, 120, 121, 128, 132, 139, 162, 163, 167, 172, 173, 175〜178, 186, 197, 239, 240, 276, 298, 404, 405, 439.—V, 537*.
ALIX|アリックス、フランスの将軍。—III, 252.
ALTIERI|アルティエーリ師。—III, 162.
AMBLIMONT|ダンブリモン伯爵夫人(マリー=アンヌ・ド・ショーモン=キトリ)。—V, 547*.
AMEILLE|アメイユ。—III, 251.
AMÉLIE-AUGUSTE-EUGÉNIE DE BEAUHARNAIS|アメリー=オーギュスト=ウジェニー・ド・ボアルネ、ブラジル皇后。—IV, 216, 249*, 252.—V, 203, 206, 229, 235, 254, 256, 259, 265.
AMMÉCOURT|ダメクール、高等法院の評定官。—I, 186.
ANCILLON|アンシヨン(ジャン=ピエール=フレデリック)、プロイセンの政治家。—III, 358*, 400.—IV, 380, 381, 392, 496.—V, 15*, 20, 63, 156, 157, 159, 160, 204, 263, 403, 434, 507, 508, 509.
ANGE|ランジュ嬢。—DU BARRY(デュ・バリー)を参照。
ANGLÈS|アングレス伯爵(ジュール)、警視総監。—III, 148*.
ANGOULÊME|アングレーム公(ルイ=アントワーヌ・ド・ブルボン)。—II, 140*, 141, 143, 144, 146, 147, 150, 257.—III, 130, 146, 155, 167, 178, 189, 250.
ANNE D'AUTRICHE|アンヌ・ドートリッシュ、フランス王妃。—I, 166.
ANNE|アン、イギリス女王。—II, 253.
ANTOINE|アントニウス、ローマの三頭政治の一員。—III, 8.
ANZELY|ダンゼリ氏。—I, 47.
APPONY|アポニー伯爵(アントワーヌ=ロドルフ)、オーストリアの外交官。—IV, 138*, 269, 393.—V, 144, 183, 273, 393, 436, 495, 496, 497, 498, 499, 500.
ARCAMBAL|アルカンバル侯爵、陸軍中将。—V, 551.
ARENBERG|アーレンベルク公(プロスペル=ルイ)。—II, 219*.
ARENEMBERG|アレネンベルク伯爵夫人。—HORTENSE(オルタンス)を参照。
ARGENSON|ダルジャンソン伯爵(マルク=ピエール・ド・ヴォワイエ)、フランスの政治家。—V, 522*, 585.
ARISTOPHANE|アリストファネス、ギリシアの詩人。—I, 64.
ARNAULT|アルノー、フランスの詩人・政治家。—III, 252.
ARNOLD|アーノルド、アメリカの将軍。—I, 231*.
ARNOULD|アルヌー(ソフィー)、オペラの女優。—I, 166*.
ARRIGHI|アリギ、パドヴァ公、フランスの将軍。—III, 252.
ARTOIS|アルトワ伯爵。—CHARLES X(シャルル十世)を参照。
ARUNDEL|アランデル卿。—III, 451.
ASSELINE|アスリーヌ(ジャン=ルネ)、フランスの神学者。—II, 38*.
ASTURIES|アストゥリアス公。—FERDINAND VII(フェルナンド七世)を参照。
ATHALIN|アタラン男爵、フランスの将軍。—III, 455*.
AUBRY|オーブリ、ヴァランセの番人。—I, 383.
AUERSPERG|アウエルスペルク侯爵夫人(ヨゼファ・フォン・トラウトゾン)。—V, 528*.
AUERSPERG|アウエルスペルク侯爵夫人。—III, 97.
AUGEREAU|オージュロー、カスティリオーネ公、フランスの元帥。—I, 273.
AUGUSTE|アウグストゥス、ローマ皇帝。—I, 420.
AUGUSTE II|アウグスト二世、ザクセン選帝侯、ポーランド王。—II, 399.
AUGUSTE II|アウグスト二世、ザクセン王。—FRÉDÉRIC-AUGUSTE II(フリードリヒ・アウグスト二世)を参照。
AVAUX|ダヴォー伯爵、フランスの外交官。—IV, 413.
AWINOFF|アヴィノフ、ロシアの海軍代将。—III, 363.
B
BACIOCCHI|バチョッキ公妃(エリザ・ボナパルト)。—II, 167.
BADE|バーデン大公世子、のちの大公(カール・ルートヴィヒ・フリードリヒ)。—I, 418*, 495, 499.
BADE|バーデン公(ヴィルヘルム)。—IV, 426*.
BAGOT|サー・チャールズ・バゴット、イギリスの外交官。—IV, 281*.
BALIVIÈRE|ド・バリヴィエール師。—I, 60.
BARANTE|ド・バラント男爵(アマーブル=ギヨーム=プロスペル・ブリュジエール)、フランスの外交官。—V, 75*.
BARBÉ-MARBOIS|バルベ=マルボワ侯爵(フランソワ)、フランスの政治家。—I, 299*.
BARCLAY DE TOLLY|バルクライ・ド・トリ公爵(ミハイル)、ロシアの将軍。—III, 124*.
BARRÈRE|バレール、国民公会議員。—III, 252.
BARRY|デュ・バリー(ギヨーム)。—V, 552.
BARTHE|バルト(フェリックス)、フランスの政治家。—IV, 304*.
BASSANO|バッサーノ公および公爵夫人。—MARET(マレ)を参照。
BAUER|フォン・バウアー氏。—I, 418.
BAUFFREMONT|ボフルモン公妃(ロランス・ド・モンモランシー)。—V, 187*.
BAUFFREMONT|ボフルモン公爵夫人(カトリーヌ・ド・パテルノ=モンカダ)。—IV, 333.
BAVIÈRE|バイエルン公(ヴィルヘルム)。—I, 417.
BAYANNE|ド・バヤンヌ公(アルフォンス=ユベール・ド・ラリエ)、フランスの高位聖職者。—II, 109*.
BÉARN|ド・ベアルン伯爵夫人。—V, 554, 555.
BEAUHARNAIS|ウジェーヌ・ド・ボアルネ公、イタリア副王。—I, 402*, 403.—II, 4, 16, 99, 121, 147, 152, 155, 257, 259, 521.—III, 71, 162,378.
BEAUHARNAIS|ウジェーヌ・ド・ボアルネ公妃(アメリー・ド・バヴィエール)。—III, 71.
BEAUHARNAIS|ステファニー・ド・ボアルネ。—BADE(バーデン)を参照。
BEAUMONT|ファロ・ド・ボーモン(エティエンヌ=フランソワ)、フランスの高位聖職者。—II, 109*.
BEAUSSET|ド・ボーセ(ルイ)、皇帝宮殿の宮務官。—I, 407*.
BEAUTEVILLE|ド・ボートヴィル騎士(P・デュ・ビュイソン)、陸軍少将。—V, 531*.
BECHTOLSHEIM|フォン・ベヒトルスハイム男爵夫人。—I, 437.
BEDFORD|ベッドフォード公爵(ジョン・ラッセル)、イギリスの政治家。—V, 545*.
BEHAGUE|ド・ベアーグ伯爵(アントワーヌ)、陸軍中将。—V, 580*.
BELLE-ISLE|ベル=イル公(ルイ・フーケ)、フランスの元帥。—V, 533*.
BELLIARD|ベリアール伯爵、フランスの将軍・外交官。—III, 252.—IV, 93*, 112, 166, 167, 181, 182, 188, 193, 194, 197〜202, 204, 207〜209, 213〜215, 219, 272, 396.
BENOÎT XIV|ベネディクトゥス十四世、教皇。—V, 520*.
BENTHAM|ベンサム(ジェレミー)、イギリスの著述家。—I, 226*.
BERG|ベルク大公。—MURAT(ミュラ)を参照。
BERNADOTTE|ベルナドット。—CHARLES XIV(カール十四世)を参照。
BERNADOTTE|ベルナドット元帥夫人(ウジェニー・クラリー)。—EUGÉNIE(ウジェニー)を参照。
BERRY|ベリー公爵夫人(マリー=カロリーヌ=テレーズ・ド・ブルボン)。—III, 39*.—IV, 452, 453, 467*.—V, 49, 50, 101*, 111, 147, 165*, 166, 170, 187.
BERTAZZOLI|ベルタッツォーリ、教皇ピウス七世の礼拝付司祭・侍従。—II, 110.
BERTHIER|ベルティエ(ナポレオン=アレクサンドル)、ヴァグラム公、フランスの貴族院議員。—III, 253.
BERTIN|ベルタン(アンリ)、財務総監。—V, 557*.
BERTIN DE VAUX|ベルタン・ド・ヴォー(ルイ=フランソワ)。—III, 450*.
BERTRAND|ベルトラン、フランスの将軍。—III, 251.
BERTRAND|ベルトラン師。—I, 46*.
BESSIÈRES|ベシエール(ジャン=バティスト)、イストリア公、フランスの貴族院議員。
BESTUCHEFF-RUMINE|ベストゥージェフ=リューミン(アレクセイ)、ロシアの政治家。—V, 541*.
BETHMANN|ベートマン。—I, 414.
BIANCHETTI|ビアンケッティ伯爵(チェーザレ)、イタリアの政治家。—IV, 117*.
BIANCHI|ビアンキ、オーストリアの将軍。—III, 98*.
BILLECOCQ|ビルコック、フランスの外交官。—V, 216*.
BINGHAM|ビンガム。—I, 238.
BIRON|ビロン公(ルイ=アントワーヌ・ド・ゴントー)、フランスの元帥。—V, 530*.
BISSY|ビシー伯爵(クロード・ド・ティアール)、陸軍中将。—V, 550*.
BJOERNSTJERNA|ビョルンシェルナ伯爵、駐ロンドン・スウェーデン公使。—V, 333.
BLACAS D'AULPS|ブラカ・ドールプ公、フランスの政治家。—II, 312, 384, 435, 472, 503.—III, 84, 129, 131, 143, 145, 177.—V, 429.
BLANCHARD|ブランシャール師(ピエール=ルイ)。—II, 42*.
BOIS-LE-COMTE|ド・ボワ=ル=コント伯爵(シャルル=ジョゼフ=エドモン)、フランスの外交官。—V, 135*.
BOISGELIN|ド・ボワジュラン師。—I, 50*.
BOLINGBROKE|ボリングブルック子爵(ヘンリー・ポーレット・ド・サン=ジャン)、イギリスの政治家。—I, 38*.
BOLIVAR|ボリバル、アメリカの政治家・将軍。—IV, 426*.
BOMBELLES|ド・ボンベル侯爵(マルク=マリー)、フランスの外交官。—III, 179*.
BOMBELLES|ボンベル伯爵(ルートヴィヒ)、オーストリアの外交官。—V, 508*.
BONALD|ド・ボナル、フランスの著述家。—I, 30,
BONAPARTE|ボナパルト。—NAPOLÉON(ナポレオン)を参照。
BONAPARTE|ボナパルト(ジョゼフ)、ナポリ王、のちのスペイン王。—I, 282, 283, 302, 387, 439, 447, 448.—II, 7, 12, 27〜32, 48, 162, 167.—III, 108*, 110, 113.—IV, 180.—V, 399.
BONAPARTE|ボナパルト(エリザ)。—BACIOCCHI(バチョッキ)を参照。
BONAPARTE|ボナパルト(レティツィア)。—II, 167.
BONAPARTE|ボナパルト(ポーリーヌ)。—BORGHÈSE(ボルゲーゼ)を参照。
BONIFACE VIII|ボニファティウス八世、教皇。—II, 70.
BONIFACE|聖ボニファティウス、教皇ステファヌス三世の使節。—II, 47.
BORY|ボリ。—III, 252.
BOSE|ボーゼ伯爵(フリードリヒ・ヴィルヘルム)、ザクセンの外交官。—I, 415*.
BOUCHER|ブーシェ、タレーランの料理人。—I, 383.
BOUFFLERS|ド・ブフレール騎士、陸軍少将。—I, 62*.
BOUGAINVILLE|ド・ブーガンヴィル(ルイ=アントワーヌ)、フランスの航海者。—I, 259*.
BOUILLÉ|ド・ブイエ伯爵、フランスの外交官。—IV, 34.
BOUILLON|ド・ブイヨン公妃(マリー=クリスティーヌ・ド・エス=ラインフェルス=ローテンブルク)。—I, 161*.
BOULAY DE LA MEURTHE|ブーレ・ド・ラ・ムルト氏、フランスの政治家。—III, 252.
BOUQUET|ドン・マルタン・ブーケ、ベネディクト会士。—I, 26*.
BOURBON|ブルボン公(ルイ=アンリ)、首相。—V, 586*.
BOURBON|ブルボン公爵夫人(ルイーズ=テレーズ・ドルレアン)。—I, 178.
BOURBON|ド・ブルボン師。—I, 50*.
BOURGOIN|ブルゴワン嬢、コメディ=フランセーズの女優。—I, 405.
BOURGOING|ド・ブルゴワン男爵(ジャン=フランソワ)、フランスの外交官。—I, 415*.
BOURJOLLY|ド・ブルジョリ嬢。—I, 418.
BOURJOT|ブルジョ、フランスの外交官。—IV, 134.
BOURRIENNE|ド・ブーリエンヌ、フランスの政治家。—III, 248*.
BOYER|ボワイエ、フランスの将軍。—I, 406.
BOYNES|ド・ボワーヌ(エティエンヌ=フランソワ・ブルジョワ)、海軍大臣。—V, 565*.
BRAGANCE|ブラガンサ公。—PEDRO I(ペドロ一世)を参照。
BRAGANCE|ブラガンサ公爵夫人。—AMÉLIE(アメリー)を参照。
BRAYER|ブレイエ。—III, 251.
BRESSON|ブレッソン伯爵(シャルル)、フランスの外交官。—III, 346*, 375, 383, 393, 442, 461, 462, 468.—IV, 7, 8, 10, 12, 21, 24, 28, 38, 41, 44, 49, 50, 53*, 55, 60〜64*, 65, 66, 69*, 77, 81, 85, 93, 99, 124, 129, 136, 379, 386, 391, 424, 483, 484, 487, 488, 490, 491, 495.—V, 15, 19, 58, 64, 74, 150, 155, 156, 158, 204, 263, 395, 485, 486, 505, 508.
BRETEUIL|ド・ブレトゥイユ(フランソワ=ヴィクトル・ル・トヌリエ)、フランスの高位聖職者。—I, 25*.
BRETEUIL|ド・ブレトゥイユ師(テオドーズ)、オルレアン公の尚書。—I, 197*.
BRIENNE|ド・ブリエンヌ伯爵(エティエンヌ・ド・ロメニー)、フランスの高位聖職者・政治家。—I, 28*, 49, 59, 92, 99, 102, 106〜110, 171, 182, 191, 196, 202, 205*, 207.
BRIENNE|ド・ブリエンヌ伯爵(ルイ=マリー・ド・ロメニー)、陸軍中将。—I, 109*.
BRIONNE|ブリオンヌ伯爵(ランベスク公ルイ=シャルル・ド・ロレーヌ)。—III, 86*.
BRISSOT DE WARVILLE|ブリソ・ド・ヴァルヴィル(ジャン=ピエール)、フランスの政治家。—I, 221*.
BRISTOL|ブリストル侯爵(フレデリック・ウィリアム・ハーヴェリー)、イギリスの政治家。—IV, 333*.
BROGLIE|ブロイ公(ヴィクトル)、フランスの政治家。—III, 360.—IV, 151.—V, 6, 11, 12, 19, 22〜24, 27〜30, 34, 35, 37, 39, 40, 42, 43, 45, 49, 51, 54, 56, 57, 60, 62, 63, 66, 69, 74, 77, 78, 81, 83, 85, 92, 94, 98, 102, 105, 108〜112, 114, 117, 124〜126, 128, 130〜154, 157〜168, 171, 172, 175, 178, 180, 183, 184, 187〜191, 197〜218, 225〜227, 233, 234, 236, 240, 242, 243, 247, 251, 254, 257, 259〜265, 274〜279, 291, 294〜298, 302, 306, 308〜318, 326, 327, 330, 331, 333〜340, 343, 345*, 346, 348, 349, 352〜355, 358, 361, 485〜488, 493, 495, 504, 505, 508〜510.
BROUCKÈRE|ド・ブルケール(アンリ)、ベルギーの政治家。—IV, 148*.
BROUSSAIS|ブルセ、フランスの医師。—IV, 446*.
BRUGES|ド・ブリュージュ子爵(アンリ=アルフォンス)、レジオン・ドヌール勲章の大総裁。—III, 215*.
BRUIX|ブリュイ(ウスタシュ)、フランスの提督。—I, 254*.
BRUNSWICK-ŒLS|ブラウンシュヴァイク=エールス公(フリードリヒ・ヴィルヘルム)。—II, 221*.
BRUTUS|ブルートゥス。—I, 445.
BUBNA|ブブナ伯爵(フェルディナント)、オーストリアの陸軍元帥。—III, 127*.
BUCHOLZ|ブッホルツ伯爵。—I, 419.
BUCHOLZ|ブッホルツ伯爵夫人。—I, 419,
BUCHON|ビュション、フランスの新聞記者・歴史家。—IV, 350*.
BUCKEBURG|ビュッケブルク侯。—II, 427.
BUFFON|ビュフォン伯爵夫人(ド・セポワ嬢)。—I, 202*.
BÜLOW|ビューロー男爵(ハインリヒ)、プロイセンの外交官。—III, 353, 373, 402*.—IV, 20, 80, 101, 115, 132, 138, 142, 214, 392, 440, 442, 495, 497, 498.—V, 5, 22, 34, 35, 37, 38, 41, 57, 184, 185, 328, 329, 330, 487, 500, 501.
BÜLOW|ビューロー男爵夫人。—III, 402.
BUNBURY|サー・ヘンリー・エドワード・バンベリー、イギリスの陸軍中将。—II, 140*.
BURDETT|サー・フランシス・バーデット、イギリスの政治家。—IV, 437*.
BURGHERSH|バーガーシュ卿(ウェストモーランド伯爵ジョン・フェーン)、イギリスの外交官。—III, 99*.
BURGOS|ドン・フランシスコ・ハビエル・デ・ブルゴス、スペインの政治家。—V, 391*.
BUSSY|ド・ビュシー(フランソワ)、フランスの外交官。—V, 535*.
BUTE|ビュート伯爵(ジョン・ステュアート)、イギリスの政治家。—V, 544*.
C
CADORE|カドール公。—CHAMPAGNY(シャンパニー)を参照。
CADOUDAL|カドゥーダル(ジョルジュ)。—III, 303.
CAGLIOSTRO|カリオストロ伯爵(ジュゼッペ・バルサモ)。—I, 165*.
CAILHAVA|カイヤヴァ(ジャン)、劇作家。—V, 550*.
CALOMARDE|カロマルデ(フランシスコ・タデオ)、スペインの政治家。—V, 443*.
CALVIN|カルヴァン。—I, 80.
CAMBRONNE|カンブロンヌ、フランスの将軍。—III, 251.
CAMPOMANEZ|ドン・ドミニゴ・フェルナンデス・デ・カンポマネス。—I, 352.
CANAVERI|カナヴェーリ(ジョヴァンニ・バッティスタ)、イタリアの高位聖職者。—II, 52*.
CANNING|サー・ストラトフォード・カニング、イギリスの外交官。—II, 425*.—V, 59*, 73, 91〜94, 98〜100, 104, 105, 120, 122, 139, 140, 225.
CAPO D'ISTRIA|カポ・ディストリア伯爵(イオアンニス)、ロシアの政治家、のちのギリシア大統領。—II, 425*, 500, 548.—III, 432, 433*, 435, 436, 437.—IV, 34, 184, 225, 352.
CAPOUE|カプア公。—NAPLES(ナポリ)を参照。
CARADOC|カラドック、イギリスの大佐。—V, 74.
CARAMAN|カラマン公(ヴィクトル・リケ)、フランスの外交官。—II, 445*.
CARDOZO|カルドーゾ。—V, 218.
CARLOS|ドン・カルロス、スペイン王子。—I, 318, 366*, 367, 374.—II, 341.—V, 237, 250, 278, 336, 363, 376, 378, 417, 419〜422, 424, 425, 427〜431, 441, 442, 446, 447, 450〜457, 462, 463, 467, 469, 510.
CAROLINE|カロリーヌ、ナポリ王妃。—MURAT(ミュラ夫人)を参照。
CASABIANCA|ド・カサビアンカ伯爵、フランスの貴族院議員。—III, 252.
CASENOVE|カズノーヴ。—I, 232.
CASSIUS|カッシウス。—I, 445.
CASTELCICALA|カステルチカラ公、ナポリの外交官。—III, 455*.
CASTELLANE|ド・カステラーヌ伯爵(ミシェル)、陸軍少将。—V, 531*.
CASTLEREAGH|カスルレー子爵(ロンドンデリー侯爵ロバート・スチュアート)、イギリスの政治家。—II, 269, 279*, 308, 313, 317〜322, 330〜333, 335 a 337, 339, 345, 346, 351, 352, 354, 357, 363〜367, 372, 374〜376, 378, 381, 387, 389, 394〜401, 404〜406, 409, 413〜416, 418, 421〜424, 427〜431, 433, 435, 436, 438, 441, 443, 444, 446, 449, 451〜454, 458, 469〜472, 476, 477, 484〜487, 489〜491, 493, 499, 500, 503, 508, 509, 512〜514, 521, 523, 526, 529, 532, 534〜536, 538, 539, 543, 545, 546, 548, 550, 552, 555, 556, 557.—III, 3, 4, 5, 8, 11, 13, 16, 21, 22, 26, 28, 31, 32, 39, 41〜45, 47, 49, 52, 54, 56, 57, 61, 66〜69, 73〜75, 79, 82, 84, 85, 87, 89, 90, 94, 172, 204, 210, 220, 236, 264, 270, 272, 273, 297, 298.—IV, 315.
CASTRO|カストロ。—I, 383.
CATHERINE-PAULOWNA|エカチェリーナ・パヴロヴナ、ロシア大公女・オルデンブルク公爵夫人、のちのヴュルテンベルク王妃。—II, 340*, 341, 353*, 405, 510, 540.
CATHERINE DE WURTEMBERG|カタリーナ・フォン・ヴュルテンベルク、ヴェストファーレン王妃。—III, 320.
CATILINA|カティリナ。—I, 84.
CATINAT|ド・カティナ(ニコラ)、フランスの元帥。—I, 120*.
CATON|カトー。—I, 84.
CAULAINCOURT|コーランクール(ルイ・ド)、ヴィチェンツァ公、フランスの将軍・外交官。—I, 320*, 395〜401, 413, 423, 434, 438.—II, 136, 149, 166, 265, 268〜271, 566.—III, 141, 168, 183, 309, 310, 312, 315.—IV, 34.
CAVANAC|ド・カヴァナック夫人。—I, 50*.
CAVENDISH|キャヴェンディッシュ(ヘンリー)、イギリスの物理学者。—I, 84*.
CELLES|ド・セル伯爵(アントワーヌ=シャルル・フィアクル・ド・ウィシェール)、ベルギーの政治家。—III, 372*, 411, 439, 443, 444*, 445.—IV, 4, 72, 106, 317, 326.
CELLES|ド・セル伯爵夫人。—III, 445.
CHABANNES|ド・シャバンヌ伯爵夫人(マリー=エリザベート・ド・タレーラン)。—I, 107*.
CHABROL|ド・シャブロル伯爵、モンテノッテ県知事。—II, 77*.
CHALABRE|シャラブル。—I, 60.
CHAMILLARD|ド・シャミヤール氏、ペリゴールの貴族。—I, 10.
CHANVALON|ド・シャンヴァロン(ジャン=バティスト・ティボー)、植民地総監。—V, 580*.
CHAPTAL|シャプタル(アントワーヌ)、フランスの学者・政治家。—I, 288*.
CHARLEMAGNE|シャルルマーニュ嬢。—I, 8.
CHARLES-QUINT|カール五世、ドイツ皇帝。—II, 60.
CHARLES VI|カール六世、ドイツ皇帝。—II, 230.
CHARLES X|シャルル十世、フランス王。—I, 60, 62, 102, 104, 123, 125, 137〜141.—II, 147, 152, 169, 175, 259, 260, 262, 290, 302.—III, 130*, 151, 155, 158, 178, 238, 247, 326, 327, 348, 357, 422, 429, 434, 451, 453, 454, 458, 459.—IV, 82.
CHARLES III|カルロス三世、スペイン王。—IV, 561, 562, 563.
CHARLES XII|カール十二世、スウェーデン王。—II, 399.
CHARLES XIV|カール十四世、またの名をカール・ヨハン、スウェーデン王。—II, 11, 147, 152, 155, 257, 259.—III, 15, 48, 50, 54, 55, 73, 77.—V, 276*.
CHARLES-FÉLIX|カルロ・フェリーチェ、サルデーニャ王。—II, 228*.
CHARLES-FRÉDÉRIC|カール・フリードリヒ、バーデン大公。—BADE(バーデン)を参照。
CHARLES-LOUIS-FRÉDÉRIC|カール・ルートヴィヒ・フリードリヒ、バーデン大公。—BADE(バーデン)を参照。
CHARLES-THÉODORE|カール・テオドール、バイエルン公子。—BAVIÈRE(バイエルン)を参照。
CHARLES DE LORRAINE|シャルル・ド・ロレーヌ。—LORRAINE(ロレーヌ)を参照。
CHARLES DE NAPLES|ナポリのカルロ王子。—NAPLES(ナポリ)を参照。
CHARLOTTE D'ANGLETERRE|イギリスのシャーロット王女。—III, 434.
CHARTRES|シャルトル公および公爵夫人。—ORLÉANS(オルレアン)を参照。
CHARTRES|シャルトル嬢。—Adélaïde D'ORLÉANS(オルレアン家のアデライード)を参照。
CHASTELLUX|ド・シャステリュクス騎士、陸軍中将。—I, 48*.
CHASTRE|ド・ラ・シャトル伯爵、駐ロンドン・フランス大使。—II, 518.
CHATEAUBRUN|ド・シャトーブラン(ジャン=バティスト=ヴィヴィアン)、オルレアン公の家政長。—I, 150*.
CHATELET-LOMONT|デュ・シャトレ=ロモン公(ルイ=フロラン)、フランスの外交官。—V, 531*.
CHAUVELIN|ド・ショーヴラン騎士(ベルナール)、フランスの外交官。—V, 548*.
CHAUVERON|ド・ショーヴロン氏、ペリゴールの貴族。—I, 10.
CHÉNIER|シェニエ(マリー=ジョゼフ)、フランスの政治家・著述家。—I, 247*.
CHEVERT|ド・シュヴェール(フランソワ)、陸軍中将。—I, 120*.
CHEVREUSE|シュヴルーズ公爵夫人(フランソワーズ・ド・ナルボンヌ・プレ)。—I, 300*.
CHILDÉRIC III|キルデリク三世。—II, 47.
CHOISEUL-STAINVILLE|ショワズール=スタンヴィル公(エティエンヌ=フランソワ)。—I, 43*, 60, 146.—V, 515〜527, 529〜531, 533〜536, 538, 540, 542, 544〜548, 553, 554, 556〜562, 564, 565, 567, 575〜585, 587〜590.
CHOISEUL-BEAUPRÉ|ショワズール=ボープレ伯爵(フランソワ)。—V, 518*.
CHOISEUL-BEAUPRÉ|ショワズール=ボープレ伯爵夫人(ド・ロマネ嬢)。—V, 518*.
CLAIRAULT|クレロー(アレクシ)、フランスの学者。—I, 83*.
CLAPARÈDE|クラパレード伯爵、フランスの将軍。—I, 406*.
CLARENDON|クラレンドン。—VILLIERS(ヴィリアーズ)を参照。
CLAUDE|クラウディウス、ローマ皇帝。—I, 444.
CLÉMENT VII|クレメンス七世、教皇。—II, 60.
CLÉMENT DE RIS|クレマン・ド・リス、フランスの貴族院議員。—III, 252.
CLÉOPATRE|クレオパトラ。—III, 8.
CLERMONT-GALLERANDE|クレルモン=ガルランド侯爵(シャルル)、陸軍少将、フランスの貴族院議員。—I, 128*.
CLOUET|クルエ。—V, 218.
CLUYS|クリュイス、フランスの政治家。—III, 252.
CODRONCHI|コドロンキ、イタリアの高位聖職者。—II, 102.
CODRUS|コドロス。—I, 445.
COLBERT|コルベール、フランスの政治家。—I, 146.
COLCHEN|コルシャン伯爵、フランスの貴族院議員。—III, 252.
COLLOREDO|コロレド伯爵(ヒエロニムス)、オーストリアの将軍。—III, 98*.
CONDILLAC|ド・コンディヤック(エティエンヌ・ボノ)、フランスの哲学者。—I, 85*.
CONÉGLIANO|コネリアーノ。—MONCEY(モンセー)を参照。
CONINGHAM|コニンガム侯爵夫人。—III, 404.
COOK|クック(H)、イギリスの大佐。—II, 145.
COPPENS|ド・コッペンス氏、ベルギーの政治家。—IV, 494*.
CORCELLES|ド・コルセル(クロード)、フランスの政治家。—IV, 168*.
CORNUDET|コルニュデ伯爵、フランスの貴族院議員。—III, 252.
CORNWALLIS|チャールズ・コーンウォリス卿、イギリスの将軍・政治家。—I, 282*.
CORSINI|コルシーニ氏。—II, 493.
COURLANDE|クールラント公女(ドロテア)。—DINO(ディノ)を参照。
COURTIN|クールタン、フランスの政治家。—III, 252.
COUTURIER|クチュリエ師、サン=シュルピス神学校長。—I, 22*.
CHEIDEMANN|シェイデマン、ロシアの国務参議。—I, 414.
CREUTZ|クロイツ伯爵(グスタフ)、スウェーデンの外交官。—I, 46*.
CROIX|ド・クロワ伯爵、フランスの貴族院議員。—III, 252.
CROMWELL|クロムウェル。—I, 258.
CROZAT DU CHATEL|クロザ・デュ・シャテル侯爵夫人(マリー=テレーズ・グーフィエ・デュ・エイイ)。—V, 516.
CROZAT DU CHATEL|クロザ・デュ・シャテル侯爵(ルイ=フランソワ)、陸軍中将。—V, 516*.
CRUSSOL|ド・クリュソル代官。—III, 233.
CUVELIER|キュヴリエ、オーストリアの軍需監督官。—III, 258.
CUMBERLAND|カンバーランド公爵(ウィリアム・オーガスタス)。—V, 523*.
CUMBERLAND|カンバーランド公爵夫人(フリーデリケ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ)。—V, 166*.
CURTEN|ド・キュルタン騎士(モーリス)、陸軍中将。—V, 517*, 524.
CZARTORYSKI|アダム・チャルトリスキ公。—II, 309*, 329, 389, 390, 443, 500, 511, 515, 525, 528, 536, 547.—III, 51, 96, 115.
CZERNICHEFF|チェルニシェフ(A)。—II, 352.
D
DALBERG|ダルベルク男爵、のちの公爵(エメリヒ=ヨーゼフ)、フランスの政治家。—I, 418*.—II, 135, 149, 163, 168, 207, 208, 257〜260, 303, 359, 369, 400, 414, 423, 430, 432, 479, 492, 494, 508, 520, 540, 546.—III, 113, 188, 212, 285, 333.—IV, 33, 70, 71, 82, 94, 97, 109, 139, 140, 169, 206, 207, 267, 269, 320, 325, 329, 339, 347, 378.—V, 171*.
DALHOUSIE|ダルハウジー卿、イギリスの将軍。—II, 142.
DALMATIE|ダルマチア公。—SOULT(スールト)を参照。
DAMAS|ダマ、コメディ=フランセーズの俳優。—I, 405.
DAMOUR|ダムール、フランスの外交官。—III, 26.
DANTE|ダンテ。—I, 373.
DANTZIG|ダンツィヒ公。—LEFEBVRE(ルフェーヴル)を参照。
DARBERG|ダルベルク氏。—I, 388.
DARMSTADT|ダルムシュタット公世子、のちのヘッセン=ダルムシュタット大公(ルートヴィヒ)。—I, 418*.
DARU|ダリュ伯爵、フランスの政治家。—I, 407*.
DAUDÉ|ドーデ。—I, 58.
DAUN|ダウン伯爵(レオポルト)、オーストリアの陸軍元帥。—V, 522*, 524, 525.
DAUN|ダウン伯爵夫人。—V, 525.
DAWKINS|ドーキンス、ギリシアにおけるイギリスの委員。—III, 436.
DEBELLE|ドベル氏。—III, 251.
DECAZES|ドカーズ公(エリー)、フランスの政治家。—IV, 350.
DECHEN|フォン・デーヒェン氏。—I, 419.
DEDELEY D'AGIER|ドドレー・ダジエ伯爵、フランスの貴族院議員。—III, 252.
DEFFANT|デュ・デファン侯爵夫人(マリー・ド・ヴィシー=シャンロン)。—V, 517*.
DEFERMONT|ドフェルモン、フランスの政治家。—III, 252.
DEJEAN|ドジャン男爵(フランソワ=アンドレ)、フランスの高位聖職者。—II, 76*.
DEJEAN|ドジャン(フランソワ)、フランスの将軍。—III, 252.
DEJEAN|ドジャン伯爵(オーギュスト)、フランスの将軍。—III, 252.
DEMARÇAY|ドマルセ(マルク=ジャン)、フランスの将軍・政治家。—IV, 168*.
DENBIGH|デンビー伯爵(ウィリアム=バジル・パーシー=フィールディング)、イギリスの貴族。—V, 97*.
DENON|ドノン男爵、美術館総監。—I, 310*.
DERBY|ダービー。—STANLEY(スタンリー)を参照。
DESAIX|ドゼー(ルイ=アントワーヌ)、フランスの将軍。—I, 280*.
DESCARTES|デカルト。—I, 82.
DESFOURNEAUX|デフルノー伯爵(エティエンヌ)、フランスの将軍。—III, 249*.
DESPORTES|デポルト(フェリックス)。—III, 252.
DESPRÈS|デプレ、コメディ=フランセーズの俳優。—I, 405.
DESSAU|デッサウ(アンハルト侯レオポルト)。—I, 417*.
DESSOLLES|デソル(ジャン)、フランスの将軍。—III, 154*.
DESSOLLES|デソル男爵(イレネ=イヴ)、フランスの高位聖職者。—II, 104*.
DIGEON|ディジョン子爵、フランスの将軍。—III, 110*.
DILLON|ド・ディロン伯爵(アルテュール)、フランスの将軍。—I, 160*.
DINO|ディノ公爵夫人、のちのタレーラン公爵夫人・ザーガン公爵夫人(エドモン・ド・ペリゴール伯爵夫人ドロテア・フォン・クールラント)。—II, 5*, 208.—III, 333, 337, 342, 459, 462, 465, 466.—IV, 172, 179, 181, 329, 469, 495.—V, 9, 166, 174.
DINO|ポーリーヌ・ド・ディノ嬢。—V, 483.
DION CASSIUS|ディオン・カッシウス。—I, 444.
DIRAT|ディラ。—III, 252.
DOLGOROUKI|ゲオルギー・ドルゴルーキイ公、ロシアの将軍・外交官。—I, 418*.
DOMBROWSKI|ドンブロフスキ(ヤン)、ポーランドの将軍。—I, 309*.
DROUOT|ドルーオ、フランスの将軍。—III, 251.
DROUYEN DE L'HUYS|ドゥルーアン・ド・リュイス(エドゥアール)、フランスの外交官・政治家。—V, 340, 341*.
DUCHATEL|デュシャテル伯爵(シャルル=マリー・タンギー)、フランスの政治家。—V, 351*.
DUCHATEL|デュシャテル。—V, 218.
DUCHESNOIS|デュシェノワ嬢、コメディ=フランセーズの女優。—I, 405*.
DUCREST|デュクレスト。—VILLENEUVE(ヴィルヌーヴ)を参照。
DDUFRESNI|デュフレニ。—I, 308.
DUKA|ドゥーカ伯爵(ペーテル)、オーストリアの将軍。—II, 428*.
DUMOLARD|デュモラール。—BOUVIER(ブヴィエ)を参照。
DUMONT|デュモン(ピエール)、スイスの評論家。—I, 226*.
DUNDAS|ダンダス(メルヴィル卿)、イギリスの政治家。—I, 230*.
DUPONT DE L'EURE|デュポン・ド・ルール、フランスの政治家。—V, 56.
DUPORTAIL|デュポルタイユ、陸軍大臣。—I, 68*.
DUPRAT|デュプラ師。—V, 542.
DUPUIS|ローズ・デュピュイ嬢、コメディ=フランセーズの女優。—I, 405.
DURANT|デュラン。—MAREUIL(マルイユ)を参照。
DURAS|デュラス公(エマニュエル・ド・デュルフォール)、フランスの元帥。—V, 549*.
DURAS|デュラス公爵夫人、元帥夫人(アンジェリック・ド・ブルノンヴィル)。—I, 5*.
DURAS|デュラス公(アメデ・ド・デュルフォール)、フランスの貴族院議員。—II, 169*.
DURBACH|デュルバッハ。—III, 252.
DURFORT-BOISSIÈRES|デュルフォール=ボワシエール騎士(ジョゼフ)。—V, 550*.
DURFORT|エティエンヌ・ド・デュルフォール夫人。—II, 259.
DUVAL|デュヴァル(ピエール)、大学総長。—I, 82*.
DUVOISIN|デュヴォワザン男爵(ジャン=バティスト)、フランスの高位聖職者。—I, 51*.—II, 44, 52, 64, 71, 78, 80, 84〜86, 88〜105, 108, 113, 116.
DWERNICKI|ドヴェルニツキ、ポーランドの将軍。—IV, 221*.
DZIALINSKI|ジャウィンスキ、ポーランドの貴族。—I, 310.
E
EGLOFFSTEIN|エグロフシュタイン男爵(アウグスト)、ザクセンの将軍。—I, 416*.
ELISA|エリザ。—BACIOCCHI(バチョッキ)を参照。
ELISABETH|エリザベス、イギリス女王。—II, 253.
ELISABETH DE BOURBON|エリザベート・ド・ブルボン王女。—I, 383.
ÉLISABETH FARNÈSE|エリザベッタ・ファルネーゼ、スペイン王妃。—III, 88*.
ELLENBOROUGH|エレンバラ伯爵(エドワード・ロウ)、イギリスの政治家。—IV, 451*.
ELLICE|エリス(エドワード)、イギリスの政治家。—V, 420*.
EON DE BEAUMONT|デオン・ド・ボーモン騎士(シャルル)。—V, 545*.
ERLON|デルロン。—DROUET D'ERLON(ドルーエ・デルロン)を参照。
ESPARBÈS|デスパルベ伯爵夫人(トワナール・ド・ジュイ嬢)。—V, 547*.
ESSLING|エスリンク公。—MASSÉNA(マセナ)を参照。
ESTERHAZY DE GALANTHA|エステルハージ・ド・ガランタ公(パール=アンタル)、オーストリアの外交官。—III, 353, 373, 401*, 402.—IV, 79, 80, 103, 115, 116, 133, 138, 142, 143, 393, 421, 498.—V, 5, 22, 37, 57, 184, 298, 299, 303, 305, 328, 330.
ESTERHAZY DE GALANTHA|エステルハージ・ド・ガランタ公妃(マリー=ヨゼフィーネ・フォン・リヒテンシュタイン)。—III, 96*.
ESTISSAC|デスティサック公爵夫人(マリー・ド・ラ・ロシュフーコー)。—I, 5*.
ESTRÉES|デストレ公(クールタンヴォー侯爵ルイ・ル・テリエ)、フランスの元帥。—V, 523*, 533.
ETIENNE III|ステファヌス三世、教皇。—II, 47.
ETIENNE V|ステファヌス五世、教皇。—II, 47.
EUGÈNE|ウジェーヌ公。—BEAUHARNAIS(ボアルネ)を参照。
EUGÉNIE BERNADOTTE|ウジェニー・ベルナドット、スウェーデン王妃。—III, 50.
F
FABERT|ファベール(アブラアム)、フランスの元帥。—I, 120*.
FABRE DE L'AUDE|ファーブル・ド・ロード伯爵、フランスの貴族院議員。—III, 252.
FABVIER|ファブヴィエ男爵、フランスの将軍。—IV, 26*.
FAIN|ファン男爵(フランソワ)、国務参議、皇帝執務室の秘書。—I, 406*.
FALKENSTEIN|フォン・ファルケンシュタイン少佐。—I, 417.
FAUCHE-BOREL|フォーシュ=ボレル(ルイ)、フランスの政治工作員。—III, 164*.
FAVIER|ファヴィエ(ジャン=ルイ)、フランスの外交官。—I, 58*.
FELTRE|フェルトレ公。—CLARKE(クラーク)を参照。
FERCOC|フェルコック、ヴァランセ城の司書。—I, 383.
FERDINAND VII|フェルナンド七世、アストゥリアス公、のちのスペイン王。—I, 318, 331〜336, 339, 340〜344, 346, 351〜353, 357, 359〜372, 374, 375, 377, 379〜381, 386, 389, 390.—II, 34, 341.—III, 72, 258.—V, 90*, 99, 104, 250, 457.
FERDINAND 1er|フェルディナンド一世、両シチリア王。—I, 265*, 302.—II, 225, 237, 240, 241, 254, 293, 294, 306, 312.—III, 57, 67, 68, 85, 95, 119, 180, 206, 220.
FERDINAND II|フェルディナンド二世、両シチリア王。—V, 289.
FERIA|フェリア侯爵。—I, 367.
FERRAND|フェラン伯爵(アントワーヌ=フランソワ=クロード)、フランスの政治家。—II, 173*.
FICQUELMONT|フィケルモン伯爵(カール・ルートヴィヒ)、オーストリアの将軍・外交官。—V, 273*.
FITZ-JAMES|ド・フィッツ=ジェームズ氏。—I, 160.
FITZ-JAMES|フィッツ=ジェームズ公爵夫人(マリー・ド・ティアール)。—I, 24*.
FLAHAUT|フラオー伯爵夫人、のちのソウザ侯爵夫人(アデライード・フィユール)。—I, 248*.
FLAHAUT DE LA BILLARDERIE|フラオー・ド・ラ・ビヤルドリー伯爵、フランスの将軍・外交官。—III, 163*, 410〜412, 417.—IV, 5*, 28, 29, 59, 62, 64, 74, 311, 329, 344, 347, 387, 446, 488, 489.—V, 4, 22, 229, 236.
FLÈCHE|ド・ラ・フレーシュ夫人。—II, 25.
FLÉCHIER|フレシエ、フランスの高位聖職者。—II, 80.
FLEURY|ド・フルーリー氏。—I, 59.
FLEURY|フルーリー師(クロード)、ルイ十五世の聴罪司祭。—II, 40*.
FLEURY|フルーリー公爵夫人(アンヌ・ドクシ・ド・モンソー)。—I, 5*.
FLEURY|フルーリー侯爵夫人(クロディーヌ・ド・モンモランシー=ラヴァル)。—I, 161*.
FLORIDA-BLANCA|フロリダブランカ、ミラフロレス侯爵。—V, 336*, 337〜339, 358, 362, 363, 367, 377, 378*, 379, 380, 384, 422*, 425, 427, 428, 430, 443, 447, 449, 451, 454, 464, 465, 468, 469, 471, 472.
FONCEMAGNE|ド・フォンスマーニュ(エティエンヌ)、オルレアン公の副教育係。—I, 150*.
FONTENILLE|ド・フォントニーユ侯爵。—I,128*.
FORBIN-JANSON|フォルバン=ジャンソン、フランスの政治家。—III, 252.
FORELL|フォン・フォレル男爵、ザクセンの外交官。—I, 361*.
FORNIER|フォルニエ。—I, 95.
FOUCAULT|フーコー、タレーラン氏の馬係。—I, 383.
FOUCHÉ|フーシェ、オトラント公、警察大臣。—I, 269*.—II, 7, 9, 147, 257, 262.—III, 229, 233〜236, 238, 239, 249〜251, 254, 255.
FOUQUET|フーケ、財務卿。—I, 172.
FRANCK|フランク夫人。—II, 300.
FRANCKLIN|フランクリン。—II, 264.
FRANÇOIS II|フランツ、ドイツ皇帝としては二世、オーストリア皇帝としては一世。—I, 223, 277, 281, 298, 321, 424, 438, 439, 449.—II, 10, 68, 150, 152, 258, 260, 283, 287, 310, 327, 329, 351, 376, 397, 404, 408, 410, 411, 421, 422, 428, 461, 467, 498, 509, 510, 527, 530, 538, 546, 547, 555.—III, 8, 24, 31, 32, 42, 47, 56, 63, 67, 72, 81, 94, 120, 125, 163, 181〜183.—V, 204, 224, 270〜274, 304, 393.
FRANÇOIS Ier|フランチェスコ一世、両シチリア王。—III, 455.
FRÉDÉRIC-GUILLAUME III|フリードリヒ・ヴィルヘルム三世、プロイセン王。—I, 298*, 303, 304, 315, 396.—II, 150, 152, 162, 258, 286, 385, 386, 393, 395, 404, 440, 443〜445, 465, 469, 476, 538.—III, 52, 197, 274, 400, 402.—IV, 329, 380, 391, 392, 495.—V, 38, 204, 271, 273, 274, 395, 487, 509.
FRÉDÉRIC II|フリードリヒ、公としては二世、ヴュルテンベルク王としては一世。—I, 294, 296, 304, 419*, 428, 446.—II, 388, 510, 511*, 530, 540.—III, 118, 163.
FRÉDÉRIC-AUGUSTE 1er|フリードリヒ・アウグスト一世、ザクセン王。—I, 310, 317*, 415, 446.—II, 204, 219, 245, 246, 250, 283〜285, 289, 290, 304, 306, 312, 313, 332, 342〜344, 350, 357, 387, 392, 393, 396, 397, 440, 441, 450, 454, 461, 467, 472, 474, 480, 522, 525, 543, 544, 547, 553, 553.—III, 4, 5, 8, 14, 16, 48, 53〜55, 58, 61, 76, 84, 93, 101, 102, 104*, 105.
FRÉDÉRIC-GUILLAUME-CHARLES|フレデリック・ウィレム・カレル、オランダ王子。—PAYS-BAS(オランダ)を参照。
FRÉDÉRIQUE-CATHERINE|フリーデリケ・カタリーナ、ヴュルテンベルク王女、ヴェストファーレン王妃。—I, 419.
FRESSINET|フレシネ。—III, 252.
FREVILLE|フレヴィル氏、フランスの国務参議。—V, 198*.
FUNCK|フォン・フンク男爵、ザクセンの将軍。—I, 415*.
G
GABLENZ|フォン・ガブレンツ氏、ザクセン王の侍従。—I, 415.
GABRIELLE|ガブリエッリ(ジュリオ)、イタリアの枢機卿。—II, 49*.
GAGARIN|ガガーリン公、アレクサンドル皇帝の副官。—I, 414.
GAGE|サー・ウィリアム・ホール・ゲージ、イギリスの提督。—V, 430*.
GAGERN|フォン・ガーゲルン男爵(ヨハン)、ドイツの歴史家・外交官。—I, 279*.
GALITZIN|ゴリツィン公。—I, 414.
GALL|フォン・ガル男爵。—I, 416.
GALLEBOIS|ガルボワ氏、ベルティエ元帥の伝令将校。—II,270.
GALLES|ウェールズ公妃(キャロライン・オブ・ブラウンシュヴァイク)。—CAROLINE(キャロライン)を参照。
GARNIER DE SAINTES|ガルニエ・ド・サント、フランスの政治家。—III, 252.
GARRAU|ガロー。—III, 252.
GASCHET|ガシェ師。—II, 42.
GASCOYNE|ガスコイン、イギリスの将軍・政治家。—IV, 145*.
GASSENDI|ガッサンディ伯爵、フランスの政治家。—III, 252.
GENDEBIEN|ジャンドビアン(ジャン=フランソワ)、ベルギーの政治家。—III, 442*.
GENLIS|ド・ジャンリス伯爵夫人(シルリー侯爵夫人フェリシテ・デュクレスト・ド・サントーバン)。—I, 162*, 163, 164, 171, 179, 248, 299, 300, 448; III, 372, 445.
GENOUDE|ド・ジュヌード(アントワーヌ=ウジェーヌ)、フランスの新聞記者。—IV, 451*.
GENTZ|フォン・ゲンツ(フリードリヒ)、オーストリアの外交官。—II, 279*, 280, 282, 315, 318, 328, 340〜342, 346, 347, 350, 429, 444; III, 30, 32, 47.
GEOFFRIN|ジョフラン夫人。—I, 48.
GEORGEL|ジョルジェル師(ジャン=フランソワ)。—I, 92*.
GEORGE II|ジョージ二世、イギリス王。—V, 544*.
GEORGE IV|ジョージ四世、摂政王太子、のちのイギリス王。—II, 146, 301, 396, 418, 436, 550, 551; III, 4, 168, 265〜271, 404, 449.
GEORGES|ジョルジュ。—CADOUDAL(カドゥーダル)を参照。
GÉRARD|ジェラール、フランスの元帥・政治家。—III, 445; IV, 262*, 264, 266, 271, 347, 474, 475; V, 30, 62, 65, 70, 73; V, 76, 85, 448, 450.
GÉRARD|ジェラール元帥夫人。—III, 445.
GERLACHE|ド・ジェルラシュ男爵(エティエンヌ=コンスタンタン)、ベルギーの政治家。—IV, 207.
GERVAIS|ジェルヴェ、ロシアの国務参議。—I, 414.
GILLY|ジリ、フランスの将軍。—III, 251.
GIRAC|ド・ジラック(フランソワ・バロー)、フランスの高位聖職者。—I, 59*.
GIRAC|ド・ジラック夫人。—I, 58*.
GISE|フォン・ギーゼ氏、バイエルンの政治家。—V, 441.
GIULAY|ジュライ伯爵(イグナーツ)、オーストリアの将軍。—I, 301*.
GLEICHEN|フォン・グライヒェン氏。—I, 417.
GLENELG|チャールズ・グラント、グレネルグ卿、イギリスの政治家。—III, 460*.
GLUCK|グルック。—I, 50.
GOBLET D'ALVIELLA|ゴブレ・ダルヴィエラ伯爵、ベルギーの将軍・外交官。—IV, 327*, 361, 362, 375, 479.—V, 16*, 45, 46, 393*, 394, 395, 397.
GODOÏ|ゴドイ(ドン・ディエゴ)。—I, 334.
GOGEL|ホーヘル(アレクサンデル)、オランダの政治家。—II, 20*.
GOHIER|ゴイエ、総裁政府の総裁。—I, 269.
GOISLARD|ゴワラール。—MONSABERT(モンサベール)を参照。
GOLDBERG|ホルトベルフ、オランダの政治家。—II, 20.
GONTAUT|ド・ゴントー公爵夫人(アントワネット・クロザ・デュ・シャテル)。—V, 516*, 517, 519.
GORLITZ|フォン・ゲルリッツ男爵。—I, 419.
GOURNAY|ド・グルネ氏。—I, 106.
GOURVILLE|ド・グルヴィル氏、ペリゴールの貴族。—I, 10.
GOUVION|グーヴィオン(ジャン=バティスト)、フランスの将軍。—I, 68*.
GOUVION-SAINT-CYR|グーヴィオン=サン=シール(ローラン)、フランスの元帥・政治家。—III, 238*.
GOY|ゴワ卿。—V, 550.
GRANT|グラント(チャールズ)。—GLENELG(グレネルグ)を参照。
GRANVILLE|グランヴィル伯爵(トマス・ルーソン・ゴア)、イギリスの外交官。—IV, 85*, 91, 274, 362, 381, 385, 395〜397, 402, 456.—V, 14, 15, 21, 27, 28, 48, 67〜69, 71, 108, 111, 112, 124, 125, 130, 140, 145, 148, 151, 158, 206, 209, 212, 213, 227, 265, 279, 290, 304, 357, 367, 373, 374, 395, 398, 401, 404, 405, 423, 461, 495.
GRÉGOIRE LE GRAND|グレゴリウス大教皇。—II, 53.
GRÉGOIRE XIV|グレゴリウス十四世、教皇。—II, 70,
GRÉGOIRE|グレゴワール、ベルギーの大佐。—IV, 52*.
GRESSET|グレッセ、喜劇詩人。—V, 517*.
GREY|グレイ伯爵(チャールズ)、イギリスの政治家。—III, 391*, 394, 396, 397, 406, 407, 410, 414, 416, 418, 438, 466.—IV, 12, 14, 15, 24, 56, 88, 132, 152〜154, 237, 248, 258, 260, 271, 273, 289, 292, 351, 358, 361, 370, 410, 423, 434, 437, 451, 455, 456, 486.—V, 7, 19, 24, 30, 51, 52, 78, 85, 126, 132, 136, 137, 141, 142, 151, 159, 201, 242, 243, 251, 255, 256, 293, 294, 296〜299, 301, 304, 305, 307〜309, 311〜313, 317, 343, 344, 353, 358, 375, 408, 412, 413, 415, 416, 420, 424, 425, 442〜446.
GREY|グレイ伯爵(ヘンリー=ジョージ・ホーウィック)。—V, 445*.
GREY|グレイ夫人。—V, 22.
GRIMALDI|グリマルディ公(ドン・ヘロニモ)、スペインの外交官。—V, 545*.
GRIMALDI|グリマルディ(ジュゼッペ・マリア)、イタリアの高位聖職者。—II, 103*.
GROLMANN|フォン・グロルマン(カール・ヴィルヘルム)、プロイセンの将軍。—III, 58*.
GROS|グロ嬢、コメディ=フランセーズの女優。—I, 405.
GROTE|グロート(ジョージ)、イギリスの歴史家・政治家。—V, 411*.
GROUCHY|ド・グルーシー侯爵(エマニュエル)、フランスの元帥。—III, 251.
GUIBOURG|ド・ギブール氏。—V, 50.
GUILLAUME IV|ウィリアム四世、イギリス王。—III, 340〜342, 369, 371, 375, 379, 391, 459.—IV, 13, 29, 147, 148, 226, 288, 293, 334, 434, 452, 458.—V, 21, 23, 24, 71, 130, 141, 145, 174, 251, 254, 255, 263, 312, 313, 327*, 354, 377, 380, 382, 384, 412, 420, 442〜444, 470, 472.
GUILLAUME 1er|ウィレム一世、オランダ王。—II, 221〜223.—III, 128, 265, 334, 339, 340, 345, 363, 364, 371〜373, 381, 384, 393, 399, 400, 411, 418, 422, 424, 431, 442, 444, 445, 449, 468, 469.—IV, 3, 16〜18, 27, 30, 35, 61, 78, 81, 99, 106, 150, 160, 172, 178, 183, 191, 194, 195, 211, 231, 232, 238, 249, 250, 253, 255, 259, 261, 264, 268, 270, 275, 278, 279, 281, 283, 287, 292, 296, 306, 307, 317, 324, 328, 330, 337, 340, 343, 345, 346, 348, 354〜356, 368, 375〜381, 385, 392, 406, 409, 416, 425, 428, 429, 432, 435, 454, 455, 459〜462, 466, 471, 472, 475, 476, 482, 493〜497.—V, 5, 16, 26, 27, 36, 38, 42, 47, 53, 57, 72, 77, 84, 86〜88, 146, 150, 159, 162, 168, 169, 175, 185, 186, 192〜198, 226, 260, 261, 264, 270*, 277, 323, 328*, 329, 391, 397, 485〜487, 488〜492, 495, 496, 498〜501, 503.
GUILLAUME|ウィレム、オラニエ公、オランダ王太子、のちのウィレム二世。—III, 355, 372, 373, 377, 378, 381, 386, 389, 390, 409, 416, 461, 463.—IV, 12〜14, 16, 22〜27, 39〜41, 50, 51*, 53, 62, 77〜79, 86, 92, 116, 121〜123, 253, 263, 484, 486, 490.
GUILLAUME|ウィレム、オラニエ公、のちのオランダ王ウィレム三世。—III, 385.
GUILLAUME IX|ヴィルヘルム九世。—HESSE-CASSEL(ヘッセン=カッセル)を参照。
GUILLAUME|ヴィルヘルム、バイエルン公。—BAVIÈRE(バイエルン)を参照。
GUILLAUME DE BADE|ヴィルヘルム・フォン・バーデン。—BADE(バーデン)を参照。
GUSTAVE III|グスタフ三世、スウェーデン王。—I, 93*.
GUTAKOWSKI|グタコフスキ、ポーランドの貴族。—I, 310.
GUTSCHMIDT|フォン・グートシュミット男爵、ザクセンの将軍。—I, 415.
H
HAMMERSTEIN|ハンマーシュタイン男爵(ハンス・デトレフ)、オルデンブルク公の大臣。—I, 416*.
HANNO|アンノ、ルクセンブルクにおけるベルギーの委員。—V, 341*.
HARDENBERG|ハルデンベルク公(カール・アウグスト)、プロイセンの政治家。—II, 149, 279*, 280, 285, 319*, 320, 323, 345, 422, 431, 444, 457, 472, 491, 493, 499, 523, 527, 528, 533, 539, 548.—III, 18, 20, 53, 113, 188, 204.
HAREL|アレル。—III, 252.
HARLAY|デュ・アルレー、フランスの司法官。—II, 64.
HARPE|ド・ラ・アルプ(J・フランソワ)、フランスの著述家。—I, 135*.
HARVELAY|ダルヴレ夫人。—I, 107.
HASTINGS|ヘースティングズ(ウォーレン)、イギリスの政治家。—I, 226.
HAVRÉ|アヴレ公(ジョゼフ=アンヌ=オーギュスト=マクシミリアン)、フランスの貴族院議員。—III, 249*.
HÉLÈNE PAULOWNA|エレナ・パヴロヴナ、ロシア大公女。—IV, 249*.
HELVÉTIUS|エルヴェシウス(クロード=アドリアン)、フランスの哲学者。—I, 84*.
HÉNAULT|エノー(シャルル)、パリ高等法院の院長。—I, 66.
HÉNIN|デナン公妃(ド・モンコンセイユ嬢)。—I, 62*.
HENRI II|アンリ二世、フランス王。—I, 65.
HENRI VIII|ヘンリー八世、イギリス王。—II, 253.
HENRI DE PRUSSE|ハインリヒ・フォン・プロイセン。—PRUSSE(プロイセン)を参照。
HERDA|フォン・ヘルダ男爵。—I, 416.
HESSE-HOMBOURG|ヘッセン=ホンブルク公。—I, 417.
HESSE-PHILIPPSTHAL|ヘッセン=フィリップスタール公(フランツ)。—I, 419*.
HESSE-RHOTENBURG|ヘッセン=ローテンブルク公。—I, 417.
HILL|ヒル子爵、イギリスの将軍。—III, 460*.
HINCMARD|ヒンクマール、元ランス大司教。—I, 19.
HINUBER|ヒニューバー、ドイツの将軍。—IV, 163.
HITROFF|ヒトロフ、ロシアの将軍。—I, 414.
HOCHE|オッシュ、フランスの将軍。—I, 261*.
HOFF|フォン・ホフ(カール)、ザクセン=ゴータ公国の国務大臣。—I, 416*.
HOFFMANN|フォン・ホフマン(ヨハン・ゴットフリート)、プロイセンの外交官。—II, 540*.
HOHENLOHE|ホーエンローエ公。—I, 419.
HOHENZOLLERN-HECHINGEN|ホーエンツォレルン=ヘヒンゲン侯。—I, 418.*
HOHENZOLLERN-HECHINGEN|ホーエンツォレルン=ヘヒンゲン侯世子。—I, 418.
HOHENZOLLERN-SIGMARINGEN|ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯(アントン)。—I, 417*.
HOLBACH|ドルバック男爵(P・ティリ)、フランスの哲学者。—I, 85*.
HOLLAND|ヘンリー=リチャード・ヴァソール・フォックス、ホランド卿、イギリスの政治家。—III, 397*.—IV, 314, 316, 317*, 437, 451.—V, 22, 296, 348, 353.
HOOGWORST|オーホフォルスト男爵(エマニュエル・ヴァンデルリンデン)、ベルギーの将軍。—III, 390*.
HÔPITAL|ロピタル侯爵(ポール・ガルッチョ)、フランスの外交官。—V, 541*.
HOVEL|ホヴェル氏。—I, 418.
HOWE|ハウ伯爵(リチャード・ウィリアム・ペン)、イギリスの貴族。—V, 97*.
HOWICK|ホーウィック。—GREY(グレイ)を参照。
HULLIN|ユラン、フランスの将軍。—III, 252.
HULLOT|ユロ、タレーラン氏の教育係。—I, 16.
HUMANN|ユマン、フランスの政治家。—V, 191.
HUMBOLDT|フォン・フンボルト男爵(ヴィルヘルム)、プロイセンの政治家。—II, 279, 319, 323, 335, 346, 350, 354, 356, 412.—III, 113, 358, 402.
HUME|ヒューム(デイヴィッド)、イギリスの哲学者・歴史家。—V, 545*.
HUSKISSON|ハスキソン(ウィリアム)、イギリスの政治家。—V, 106*.
I
INFANTADO|インファンタード公。—I, 335*, 336, 337, 339, 340, 352, 353, 359, 362, 364, 365, 370, 374, 375, 377, 378.
INNOCENT XII|インノケンティウス十二世、教皇。—II, 46*.
INVAULT|ダンヴォー(エティエンヌ・メノン)、財務総監。—V, 583*.
ISABEAU|イザボー、高等法院書記官。—I, 200.
ISABELLE DE PARME|イザベラ・ディ・パルマ、ドイツ皇后。—V, 582.
ISABEY|イザベー(ジャン=バティスト)、フランスの画家。—III, 25*.
ISENBOURG|イーゼンブルク侯。—II, 220.
J
JAUCOURT|ド・ジョクール侯爵(フランソワ)、フランスの政治家。—II, 168*, 305*, 310, 314, 330, 347, 351, 356, 379, 383〜385, 400, 408, 414, 417, 419, 440, 451, 474, 479, 507, 513, 515, 519, 530, 532, 537, 553.—III, 6, 9, 10, 14, 15, 17, 26, 41, 47, 48, 57, 76, 79, 83, 90, 115, 131, 135, 141, 143, 145, 164, 165, 187, 238.
JAURÉGUI|ドン・トマス・ハウレギ、スペインの将校。—I, 334.
JEAN VI|ジョアン六世、ポルトガル王。—III, 350.
JEAN|ヨハン、オーストリア大公。—II, 352*.
JENISSON-WALLEVORT|ジェニソン=ヴァルヴォルト伯爵(フランソワ=オリヴィエ)、駐ロンドン・バイエルン公使。—V, 216.
JÉRÔME|ジェローム、ヴェストファーレン王。—BONAPARTE(ボナパルト)を参照。
JERSEY|ジャージー夫人。—III, 457.
JEPHERSON|ジェファーソン。—II, 264.
JOINVILLE|ジョワンヴィル公。—IV, 174.
JORDAN|フォン・ヨルダン、プロイセンの国務参議。—II, 540.
JOSEPH|ジョゼフ、ナポリ王、のちのスペイン王。—BONAPARTE(ボナパルト)を参照。
JOUBERT|ジュベール、フランスの将軍。—I, 270.
JOURDAN|ジュールダン、フランスの元帥。—IV, 97*.
JUDA|ジュダ、サン=ペの主任司祭。—II, 139.
JULES II|ユリウス二世、教皇。—II, 70.
JULIE|ジュリー。—I, 36.
K
KALITCHEFF|カリチェフ氏、ロシアの外交官。—I, 278.
KALKREUTH|カルクロイト伯爵(フリードリヒ・アドルフ)、プロイセンの陸軍元帥。—I, 314*.
KANTZOW|フォン・カンツォウ騎士、駐リスボン・スウェーデン代理公使。—V, 511.
KELLER|フォン・ケラー伯爵(ルートヴィヒ・クリストフ)、プロイセンの外交官。—I, 418*.
KELLERMANN|ケレルマン(フランソワ=エティエンヌ)、フランスの将軍。—I, 280*.
KERSABIEC|ド・ケルサビエク嬢。—V, 50.
KERSALAUN|ド・ケルサラン伯爵、ブルターニュの貴族。—I, 172.
KETTELHUTT|ケッテルフット氏。—I, 417.
KLÉBER|クレベール、フランスの将軍。—I, 271.
KNESEBECK|クネーゼベック男爵(カール・フリードリヒ)、プロイセンの陸軍元帥。—III, 120*.
KOLLI|コリ。—I, 388.
KOTZEBUE|フォン・コツェブー(アウグスト)、ドイツの著述家。—I, 428*.
KRUDENER|クリューデネル男爵夫人(ユーリエ・フォン・フィーティングホフ)。—I, 80*.
KRUDENER|クリューデネル男爵(アレクセイ=コンスタンチン)、ロシアの外交官。—III, 108*.
L
LABENSKI|ラベンスキ氏。—I, 414.
LABORDE|ラボルド。—III, 251.
LABRADOR|ラブラドール侯爵(ペドロ・ゴメス・カヴェロ)、スペインの外交官。—I, 370*, 378, 379.—II, 279, 282, 314, 318〜324, 331, 335, 338, 372, 381, 385, 452, 475, 493, 519, 531.—III, 10, 11, 16, 113.
LACAVE|ラカーヴ、コメディ=フランセーズの俳優。—I, 405.
LACÉPÈDE|ド・ラセペード伯爵、フランスの博物学者・政治家。—III, 252.
LACROIX|ド・ラクロワ(コンスタン=シャルル)、フランスの政治家。—I, 252*.
LA FAYETTE|ラ・ファイエット侯爵(ジルベール・モティエ)、フランスの将軍・政治家。—I, 68*, 69.—III, 385.—IV, 21, 34, 94, 322, 351.—V, 56, 403*.
LAGRANGE|ド・ラグランジュ(ジョゼフ=ルイ)、フランスの学者。—I, 134*.
LALLEMAND|ラルマン男爵(アンリ=ドミニク)、フランスの将軍。—III, 251.
LALLY-TOLLENDAL|ラリー=トランダル侯爵(ジェラール)、フランスの政治家。—III, 148*.
LAMB|サー・フレデリック・ラム、イギリスの外交官。—III, 461*.—IV, 151*, 420.—V, 21, 111, 200, 209, 224, 300, 303〜308, 341〜343, 397, 509, 510.
LAMBALLE|ランバル公。—I, 158.
LAMBERT|ランベール(シャルル=ギヨーム)、財務総監。—I, 189*.
LAMBRUSCHINI|ランブルスキーニ、駐パリ教皇大使。—IV, 140.
LANGSDORF|ド・ラングスドルフ男爵(エミール)、フランスの外交官。—III, 415*.
LANNES|ランヌ元帥夫人、モンテベロ公爵夫人。—II, 10.
LANNES|ランヌ(ナポレオン)、モンテベロ公、フランスの貴族院議員・外交官。—III, 253.
LANSDOWNE|ランズダウン侯爵(ウィリアム・ペティ)、イギリスの政治家。—I, 225*.
LA RÉVEILLÈRE-LÉPEAUX|ラ・レヴェリエール=レポー、総裁政府の総裁。—I, 269.
LASCY|ラシー伯爵(ヨーゼフ)、オーストリアの陸軍元帥。—V, 526*.
LA TOUR-MAUBOURG|ラ・トゥール=モブール伯爵(マリー=シャルル=セザール・ド・フェ)、フランスの将軍・貴族院議員。—III, 252.
LATOUR-MAUBOURG|ラトゥール=モブール侯爵(ジュスト・ド・フェ)、フランスの将軍・外交官。—IV, 170*.
LATOUR-MAUBOURG|ラトゥール=モブール伯爵(アルマン=シャルル=セプティム)、フランスの外交官。—IV, 282, 285, 310, 327, 357, 361〜363, 368, 372, 373, 390, 395, 402.—V, 45, 46, 73, 361.
LAUDON|ラウドン男爵(エルンスト)、オーストリアの陸軍元帥。—V, 526*.
LAUNAY|ローネ(ジュールダン・ド)、バスティーユの司令官。—I, 125*.
LAURAGUAIS|ローラゲ(レオン・ド)、ブランカ公、フランスの貴族院議員。—I, 36*.
LAURISTON|ド・ローリストン侯爵(ジャック=ベルナール・ロー)、フランスの元帥。—I, 405*.
LAUZUN|ローザン。—BIRON(ビロン)を参照。
LAVAL|ド・ラヴァル子爵(マチュー=ポール=ルイ・ド・モンモランシー)。—I, 160*.
LAVOISIER|ラヴォアジエ(ローラン)、フランスの学者。—I, 134*.
LAWOESTINE|ラヴォエスティーヌ侯爵夫人。—III, 445.
LEBEL|ルベル、ルイ十五世の近侍。—V, 551, 552, 553, 556.
LEBRUN|ルブラン(ドニ・エクシャール)、フランスの詩人。—I, 103*.
LEBRUN|ルブラン(マリー=ルイーズ・ヴィジェ)、画家。—I, 50*.
LECOCQ|ルコック氏。—I, 419.
LEFEBVRE|ルフェーヴル、ダンツィヒ公、フランスの元帥。—III, 252.
LEFEBVRE|ルフェーヴル元帥夫人、ダンツィヒ公爵夫人。—I, 13*.
LEFEBVRE|ルフェーヴル、オーストリアの外交官。—III, 141*.
LEHOC|ルオック、アルクール学院の医師。—I, 15.
LEIKAM|フォン・ライカム氏。—I, 417.
LELORGNE D'IDEVILLE|ルロルニュ・ディドヴィル。—III, 252.
LEMOS|デ・レモス(ジル)。—I, 362.
LEMOS|レモス。—V, 218.
LÉON III|レオ三世、教皇。—II, 47.
LÉOPOLD DE SAXE-COBOURG- SAAFELD|レオポルド・フォン・ザクセン=コーブルク=ザーフェルト、ベルギー王。—I, 414*.—II, 396, 523.—III, 421, 434, 435, 438〜440, 463, 466〜468.—IV, 3, 11, 15, 26, 41*, 121, 122, 131, 148, 151, 152, 159, 160, 163, 164, 166, 172*, 174, 177, 179, 186〜190, 198, 199, 201, 205, 207, 212, 214, 215, 217, 220, 222, 223, 225, 226, 230〜234, 236, 238, 240〜244*, 248, 252〜267, 272, 273, 276〜281, 285, 299, 305, 306, 328, 337, 343, 345, 357, 360〜362, 366〜377, 402, 425, 454, 455, 459, 461, 463〜467, 471, 473, 481, 485, 492, 494.—V, 5, 16, 29, 31, 35, 36, 43, 165, 171, 187, 189, 196, 395, 404, 405*, 406, 408, 409, 416, 418, 437.
LÉOPOLD|レオポルド・ルイ=フィリップ=ヴィクトル=エルネスト、ベルギー王太子。—V, 405.
LÉOPOLD|レオポルド。—NAPLES(ナポリ)を参照。
LEPELLETIER|ルペルティエ(フェリックス)。—III, 252.
LEPELLETIER|ルペルティエ(サン=ファルジョー伯爵ルイ=ミシェル)、パリ高等法院評定官。—I,—193*.
LERCHENFELD|フォン・レルヒェンフェルト伯爵。—I, 418.
LEROND|ルロン夫人。—I, 15.
LESSART|ド・レサール(アントワーヌ・ド・ヴァルデック)、フランスの政治家。—I, 220*.
LESSING|レッシング、ドイツの詩人。—I, 426.
LEUCHTENBERG|ロイヒテンベルク公(アイヒシュテット公アウグスト・カール・オイゲン・ナポレオン)。—III, 378*, 386, 390, 467.—IV, 6, 26, 28, 35, 39, 41, 45, 55, 58, 59, 62, 67, 487, 488, 490.—V, 229〜235, 239, 242, 243, 255*, 256.
LIANCOURT|リアンクール。—LA ROCHEFOUCAULD(ラ・ロシュフーコー)を参照。
LIEVEN|リーヴェン公(クリストフ・アンドレエヴィチ)、ロシアの将軍・外交官。—III, 367*, 368, 403, 404, 418, 419, 425, 437, 456.—IV, 78, 80, 92, 121, 187, 224, 259, 355, 420.—V, 5, 22, 37, 40, 41, 48, 71, 97, 105, 130, 151, 163, 183〜185, 217, 248, 301, 302, 318, 323, 325, 326, 331, 368, 403, 404, 500.
LILLE|リール伯爵。—LOUIS XVIII(ルイ十八世)を参照。
LIPPE|リッペ伯爵夫人。—II,427.
LIVERPOOL|リヴァプール伯爵(ロバート・ジェンキンソン)、イギリスの政治家。—III, 45*.
LOBAU|ロボー。—MOUTON(ムートン)を参照。
LOBO|ロボ、ポルトガルの外交官。—III, 113.
LONDONDERRY|ロンドンデリー侯爵(チャールズ=ウィリアム・スチュアート)、イギリスの政治家。—II, 349* 353, 374, 409, 429, 539, 544, 545.—III, 21, 113, 172, 175, 298.—IV, 313, 314, 317*, 324.—V, 463*.
LONGUEVILLE|ロングヴィル公爵夫人。—V, 588.
LORRAINE|ロレーヌ公(シャルル)、オーストリアの陸軍元帥。—V, 524*.
LORRAINE|ロレーヌ公女(シャルロッテ)。—I, 93.
LOUIS IX|ルイ九世(聖王)、フランス王。—IV, 105.
LOUIS XI|ルイ十一世、フランス王。—V, 585.
LOUIS XIV|ルイ十四世、フランス王。—I, 4, 53, 66〜68, 98, 116, 117, 146, 149, 166, 172, 227, 420, 428.—II, 11, 46, 76, 129, 164, 269, 313, 354.—IV, 321.
LOUIS XV|ルイ十五世、フランス王。—I, 4, 66, 146.—II, 12, 269.—V, 517, 518, 532〜534, 547, 548, 551〜554, 556, 561〜565, 582, 585, 588〜590.
LOUIS XVI|ルイ十六世、フランス王。—I, 23*, 24, 34, 67, 72, 97, 99, 101〜106, 111, 124, 128, 130, 137, 138, 140, 146, 148, 156, 171, 172, 175, 183〜185, 187, 189〜193, 196〜200, 203〜205, 221〜224, 274, 292.—II, 164,283.—V, 529, 589.
LOUIS XVIII|ルイ十八世、フランス王。—138, 260, 287.—II, 39, 131, 146, 165, 169, 172, 173, 204, 206, 211, 212, 214, 238, 249, 252, 255, 263, 277, 281, 290, 298〜300, 306, 307, 310〜312, 317, 326, 335, 350, 355, 359, 360, 363, 372, 380, 382, 389, 398, 403, 409, 418, 421, 422, 427, 434, 443, 450, 457, 463, 473, 483, 492, 494, 495, 501, 503, 505, 508, 514, 516, 518, 521, 530, 533, 536, 542, 550, 551, 554, 566.—III, 3, 4, 7, 10〜13, 16, 19, 23, 31, 32, 39, 42, 46, 50, 51, 56, 61, 76, 77, 80, 84〜87, 93, 98, 102〜104, 109, 113, 115, 117, 118, 121, 123, 125, 127, 129, 131, 132, 134, 139, 140, 142, 143, 145, 146, 149, 151, 153, 155〜161, 164, 166, 167, 180, 182, 184〜186, 188, 189, 194, 228〜238, 243, 250, 253 258, 265, 268, 274, 275, 277, 289, 296, 298, 299, 316, 319, 345.—IV, 82.
LOUIS-PHILIPPE|ルイ=フィリップ、フランス王。—I, 164.—II, 155.—III, 150〜155, 157, 159*, 160, 174, 327〜330, 342, 360, 369, 372, 376〜378, 380, 387, 393, 411, 421, 429, 430, 440, 441. 451, 454, 457, 459, 464.—IV, 5, 7, 9, 11〜13, 29, 31, 34, 41, 48, 50, 52, 55, 60, 68, 71, 75, 86, 88, 94, 97, 105, 106, 132, 173, 175, 179, 205, 206, 243, 249, 251, 252, 255〜259, 261, 264, 273〜275, 283, 289, 296, 297, 303, 305, 307, 308, 312, 321, 325, 331, 336, 340, 345, 352, 354, 357, 360, 361, 363, 368, 369, 371, 372, 378, 381, 382, 388, 400, 405, 411, 413, 415, 416, 427, 442〜448, 453, 459*, 461, 464, 465, 468〜470, 474〜478, 481〜484.—V, 6, 10, 22, 35, 38, 39, 45, 55, 65〜67, 78, 91, 109, 130, 141, 164, 174, 229, 231, 253, 254*, 263〜265, 269, 270, 278, 279, 295, 311, 335, 346〜348, 352, 354, 369, 372, 374, 398, 404, 406, 416, 423, 424, 441, 448, 452, 455〜457, 464, 470, 475, 477, 478, 480, 488, 489, 503, 504.
LOUIS|ルイ、フランス王太子。—V, 579*.
LOULÉ|ルーレ侯爵夫人(アナ・デ・ブラガンサ)。—V, 265.
LOUVOIS|ルーヴォワ、フランスの政治家。—I, 146.
LOUVOIS|ルーヴォワ侯爵(オーギュスト=ミシェル)、フランスの貴族院議員。—III, 249*.
LUCAIN|ルカヌス、ラテン語の詩人。—II, 532.
LUCIEN|リュシアン。—BONAPARTE(ボナパルト)を参照。
LUDOLF|ルドルフ伯爵、ナポリの外交官。—V, 441.
LUIS|ドン・ルイス、スペイン王子。—I, 333.
LUXEMBOURG|ド・リュクサンブール騎士(アンヌ・ド・モンモランシー)、陸軍少将。—I, 165*.
LUYNES|リュイヌ公爵夫人(マリー・ブリュラール・ド・ラ・ボルド)。—I, 5*.
M
MACHIAVEL|マキアヴェリ。—II, 160.
MACK DE LIEBERICH|マック・フォン・ライベリヒ男爵(カール)、オーストリアの将軍。—I, 296*.
MACKINTOSH|サー・ジェイムズ・マッキントッシュ、イギリスの著述家・政治家。—IV, 90*.
MACLAGAN|マクラガン、ベルギーの政治家。—IV, 22*.
MADINIER|マディニエ、証券仲買人。—I, 95.
MAHMOUD II|マフムト二世、オスマン帝国のスルタン。—59, 95, 115, 116, 118, 124, 125, 163, 175, 176, 179, 182〜184, 210, 211, 226, 305, 321, 434, 493, 494.
MAISON|メゾン侯爵(ジョゼフ)、フランスの元帥。—III, 236, 362*, 371, 373, 376, 378, 380, 398.—V, 21, 112, 224, 315, 331*, 360, 395, 500.
MALACHOWSKI|マワホフスキ、ポーランドの貴族。—I, 310.
MALMESBURY|マームズベリー伯爵(ジェイムズ・ハリス)、イギリスの外交官。—I, 256*.
MALOUET|マルエ男爵(ピエール=ヴィクトル)、フランスの政治家。—I,70*.
MARBOIS|マルボワ。—BARBÉ-MARBOIS(バルベ=マルボワ)を参照。
MARBOT|ド・マルボ男爵、フランスの将軍。—III, 252.
MARC-AURÈLE|マルクス・アウレリウス、ローマ皇帝。—II, 327.
MARCHAND|マルシャン伯爵(ジャン=ガブリエル)、フランスの将軍。—III, 111*.
MARCOLINI|マルコリーニ伯爵、ザクセンの政治家。—I, 415*.
MARET|マレ夫人、バッサーノ公爵夫人。—I, 300*.
MAREUIL|デュラン・ド・マルイユ男爵、フランスの外交官。—IV, 184*, 212, 235, 435, 451, 454, 456, 459, 463〜465, 478, 479.—V, 4, 18〜21, 28, 32, 74〜78.
MARIA II|マリア二世、ポルトガル女王。—III, 349*, 350.—IV, 216, 252, 274, 445.—V, 69, 92, 94, 103*, 104, 199, 203, 205〜207, 214, 215, 217, 228〜230, 232〜234, 237, 239, 241, 243, 246, 249, 254〜256, 259, 260, 263〜265, 336, 393, 501, 512.
MARIA-THÉRÉSA|マリア・テレサ、スペイン王女。—I, 333.
MARIE-AMÉLIE-AUGUSTE DE BAVIÈRE|マリア・アマーリエ・アウグステ・フォン・バイエルン、ザクセン王妃。—III, 105.
MARIE-ANTOINETTE|マリー=アントワネット、フランス王妃。—I, 23, 60, 63, 90, 91*, 92, 93, 95, 103, 108, 176, 177, 222.—V, 529, 589, 590.
MARIE-ISABELLE|マリア・イザベル、ポルトガル摂政。—V, 238.
MARIE LECZINSKA|マリー・レシチンスカ、フランス王妃。—I, 4*.
MARIE-LOUISE|マリー=ルイーズ、フランス皇后。—II, 6, 10, 99, 117, 146, 150, 154, 155, 162, 167, 307, 351, 424, 442, 475, 498, 519, 535.—III, 22, 59, 63, 65, 86〜88, 127, 147, 163, 174, 182, 183.
MARIE-LOUISE-BÉATRIX D'ESTE|マリア・ルドヴィカ・ベアトリーチェ・デステ、オーストリア皇后。—II, 283, 307, 310, 397.—III, 19, 23, 41.
MARIE-LOUISE|マリア・ルイサ、エトルリア王妃。—I, 328, 361, 368, 381.—II, 225, 240, 242, 432, 452, 475, 493, 498, 535, 552.—III, 62, 63, 87, 88, 220.
MARIOTTI|マリオッティ騎士、フランスの領事。—II, 512*.
MARMONTEL|マルモンテル(ジャン=フランソワ)、フランスの著述家。—I, 46*.
MARSAN|ド・マルサン伯爵夫人(マリー=ルイーズ・ド・ロアン・スービーズ)。—I, 5*
MARTIN Ier|マルティヌス一世、教皇。—II, 53.
MARTIN|マルタン、警察署長。—II, 258.
MARTIN|ド・マルタン男爵。—I, 540,
MARTIN|マルタン氏、駐ハノーヴァー・フランス公使。—V, 21.
MARTINEZ DE LA ROSA|マルティネス・デ・ラ・ロサ(フランシスコ)、スペインの政治家。—V, 315*, 317, 359, 373, 378, 379, 400, 418, 421, 425, 426, 471, 510, 511.
MARXHANSKY|マルクハンスキ氏。—I, 415.
MASSERANO|マッセラーノ公(カルロ・フェッレーロ=フィエスキ)、ジョゼフ王の式部長官。—I, 345*.
MASTIN|ド・マスタン師。—V, 550.
MASUYER|マズュイエ嬢。—IV, 180.
MATHIEU|マチュー(モーリス)、ラ・ルドゥート伯爵、フランスの将軍。—III, 107*.
MATUSIEWICZ|マトゥシェヴィチ伯爵(アンドレ=ジョゼフ)、ロシアの外交官。—III, 358*, 363, 368, 373, 403, 415, 456, 457.—IV, 35, 92, 187, 259.—V, 40, 41, 48, 71, 105, 150*, 156*, 158.
MAUPERTUIS|モーペルテュイ(モロー・ド)、フランスの著述家。—I, 83*.
MAURRIQUE|ドン・ホセ・マウリケ。—I, 331.
MAXIMILIEN-JOSEPH IV|マクシミリアン・ヨーゼフ、公としては四世、バイエルン王としては一世。—I, 294*, 304, 403, 419, 446.—II, 302*, 376, 381, 412, 413, 473, 547.—III, 79.
MAYENWORTH|マイエンヴォルト。—V, 431.
MAYNON|メノン。—D'INVAULT(ダンヴォー)を参照。
MECKLEMBOURG-SCHWERIN|メクレンブルク=シュヴェリーン公(フリードリヒ・フランツ)。—I, 416*.
MECKLEMBOURG-STRELITZ|メクレンブルク=シュトレーリッツ公世子、のちの公爵(ゲオルク・フリードリヒ)。—I, 416*.
MEERVELDT|メーアフェルト伯爵、オーストリアの外交官。—II, 441.
MÉHÉE-LATOUCHE|メエ=ラトゥーシュ。—III, 252.
MÉHÉMET-ALI|ムハンマド・アリー、エジプトのパシャ。—V, 59, 90, 95, 96, 108, 115〜119, 124, 125, 141, 142, 180〜184, 306, 307, 321, 326, 344, 402, 434, 493, 494.
MÉJAN|メジャン伯爵(エティエンヌ)、フランスの政治家。—IV, 488*.
MELZI D'ERIL|メルツィ・デリル(フランチェスコ)、イタリア王国の大法官・国璽尚書。—I, 289*.
MÉNANDRE|メナンドロス、ギリシアの詩人。—I,64.
MÉNEVAL|メヌヴァル男爵(フランソワ)、ナポレオンの執務室の秘書。—I, 406*.
MERCY|メルシー氏。—II, 328.
MERLIN DE DOUAI|メルラン・ド・ドゥエ夫人。—I, 261.
MESNARD|ド・メナール伯爵(ルイ=シャルル)、ベリー公爵夫人の主席馬係。—V, 50*.
METTERNICH-WINNEBOURG-OCHSENHAUSEN|メッテルニヒ=ヴィンネブルク=オクセンハウゼン公(クレメンス・ヴェンツェル・ロタール)。—II, 15, 151, 152, 163, 259, 265, 269, 270, 278〜280, 289, 290, 304, 307〜309, 314〜321, 328〜338, 341〜346, 351,357, 358, 361, 365, 375, 376, 379, 381, 386〜388, 395, 397, 400〜402, 406, 408, 410, 411, 416, 418〜424, 427〜433, 435, 439, 441, 443〜450, 453〜458, 461, 466〜477, 484, 488, 491, 493, 498〜500, 509〜513, 524〜528, 531〜535, 538, 539, 542〜548, 551, 556, 557, 562, 566, 567.—III, 3, 5, 8*, 11, 12, 16, 17, 20, 21, 28, 31, 32, 42, 49, 59, 63〜65, 67, 68, 75, 79〜82*, 83〜85, 87, 89, 90, 94〜106, 113, 114, 119, 139, 162, 165, 172, 175, 181, 183, 188, 204, 227, 238, 239, 276, 297, 358, 400.—IV, 138, 140, 321, 350, 421, 422.—V, 21, 112, 128, 129, 134, 142, 143, 144*, 148, 149, 180〜183, 200, 204, 209, 224, 263, 271〜275, 293, 297*, 298〜308, 341〜344, 397, 403, 494〜499, 503, 508〜510.
METTERNNICH|フォン・メッテルニヒ嬢。—III, 97.
MICHIELS|ミヒールス、ベルギーの外交官。—IV, 191*.
MIGNET|ミニェ(フランソワ=オーギュスト=マリー)、フランスの歴史家。—IV, 350.
MIGUEL|ドン・ミゲル、ポルトガル王子。—III, 349*〜352.—IV, 81, 109, 145, 181, 201, 210, 216, 310, 445.—V, 63, 69, 73, 91〜93, 102, 103, 120〜122, 139, 186, 199, 214, 218, 230, 236〜241, 249, 257, 263, 278, 336, 338, 359, 361, 378, 417〜422, 427, 429, 447, 451, 510, 511.
MINA|ミナ、スペイン戦争時のゲリラ部隊指揮者。—II, 384.
MIOLLIS|ミオリス伯爵(フランソワ)、フランスの将軍。—II, 49*.
MIRABEAU|ミラボー伯爵夫人。—V, 390*.
MIRAFLORÈS|ミラフロレス。—FLORIDA-BLANCA(フロリダブランカ)を参照。
MIREPOIX|ミルポワ公妃(アンヌ・ド・ボーヴェ・クラン)。—V, 555*.
MOLÉ|モレ(マチュー)、フランスの司法官・政治家。—III, 253*.
MOLÉ|モレ伯爵(マチュー=ルイ)、フランスの政治家。—III, 253*, 329, 330, 333, 335, 342, 344, 346, 348, 352, 353, 357, 359, 361, 363, 368, 371, 373, 449, 452, 454, 457.—IV, 350.—V, 347.
MOLLENDORF|メレンドルフ伯爵、プロイセンの陸軍元帥。—I, 309*.
MOLTKE|フォン・モルトケ男爵。—I, 419.
MON|ドン・アリアス・モン、カスティーリャの総督。—I, 352.
MONCRIF|ド・モンクリフ(フランソワ・パラディ)、フランスの著述家。—V, 550*.
MONGE|モンジュ(ガスパール)、フランスの学者。—I, 135*.
MONSABERT|モンサベール(ゴワラール・ド)、パリ高等法院評定官。—I, 206.
MONTAIGNE|モンテーニュ、フランスの著述家。—I, 81.
MONTALIVET|ド・モンタリヴェ伯爵(バシャソン)、フランスの政治家。—IV, 82*.
MONTAZET|モンタゼ、フランスの高位聖職者。—I, 25*.
MONTAZET|ド・モンタゼ伯爵、フランスの外交官。—V, 525.
MONTESQUIOU-FEZENZAC|モンテスキュー=フェザンサック伯爵(ピエール)、フランスの貴族院議員。—I, 402*.
MONTEYNARD|ド・モンテナール侯爵(ルイ=フランソワ)、陸軍中将、陸軍国務長官。—V, 565*.
MONTFORT|モンフォール伯爵。—JÉRÔME BONAPARTE(ジェローム・ボナパルト)を参照。
MONTGELAS|フォン・モンジェラ男爵(マクシミリアン・ガルネラン)、バイエルンの政治家。—I, 419*.
MONTHION|モンティオン、フランスの将軍。—I, 368*.
MONTHOLON|ド・モントロン夫人。—SÉMONVILLE(セモンヴィル)を参照。
MONTMORENCY|ド・モンモランシー伯爵夫人(ヴァランティーヌ・ド・アルシ)。—I, 300*.
MONTMORENCY|ド・モンモランシー(マチュー)、憲法制定国民議会議員。—I, 13*.
MONTMORENCY|ド・モンモランシー公(ラウール)。—V, 187*.
MONTROND|ド・モンロン伯爵(カジミール)。—III, 162*.
MONVILLE|ド・モンヴィル(トマス・ボワセル)、フランスの貴族院議員。—I, 160*.
MOREAU|モロー、建築家。—III, 25.
MORENO|モレノ、スペインの将軍。—V, 443.
MORIER|サー・ロバート・モリアー、イギリスの外交官。—V, 433*.
MORNARD|モルナール、タレーラン氏の秘書。—I, 387.
MORRIS|ロバート・モリス夫人。—I, 239.
MORTEMART|モルトマール侯爵夫人(エレオノール・ド・モンモランシー)。—I, 300*.
MOSBOURG|モスブール。—AGAR(アガール)を参照。
MOSCOSO DE ALTAMIRA|ドン・ホセ・マリア・デ・モスコソ・デ・アルタミラ。—V, 391*.
MOULINS|ムーラン、総裁政府の総裁。—I, 269.
MOUNIER|ムニエ男爵(クロード)、フランスの行政官。—IV, 379*.
MOUTON-DUVERNET|ムートン=デュヴェルネ、将軍。—III, 251*.
MUCEY|ミュセ、亡命者たちの工作員。—III, 304.
MÜLINEN|フォン・ミュリネン(フリードリヒ)、スイスの政治家。—III, 102*.
MUNSTER|ミュンスター伯爵(エルンスト・フリードリヒ)、ハノーヴァーの政治家。—II, 256*, 354, 367, 379, 399, 427, 508, 509, 512, 524, 525, 536, 539.
MURAT|ミュラ(ジョアシャン)、ベルク大公、のちのナポリ王。—I, 304, 309, 311, 360〜365, 367, 369, 378〜381.—II, 9, 12, 14〜17, 121, 137, 204, 225, 239, 241*, 242, 257, 293, 323, 332, 341, 344, 361, 423, 424, 432, 433, 441, 442, 456, 473〜475, 488, 498, 512〜515, 520, 521, 529〜531, 536, 537, 549.—III, 8*, 15, 40, 49, 57, 66〜69, 73〜76, 80, 81, 85, 87, 90, 95, 99, 100, 104, 114, 118, 119, 128, 133, 140*, 164, 165, 167, 179〜184, 208.
N
NALET|ナレ、糧食監督官。—V, 551, 552, 554.
NAPLES|ナポリ王子(カプア公カルロ・フェルディナンド)。—III, 387*, 390, 440.—IV, 4, 13, 14*, 15*, 16, 31, 39, 48, 55, 61, 70, 72, 79, 80, 121, 122.—V, 237.
NAPOLÉON Ier|ナポレオン一世。—I, 94, 214, 255〜263, 268〜277, 280〜321, 325〜331, 333*, 339〜344, 346, 351, 354, 355, 361, 363, 365〜371, 373〜382, 384〜390, 393〜405, 407, 408, 410〜414, 420, 422〜453.—II, 3〜7, 8〜14, 16〜22, 24〜30, 32〜36, 43〜51, 55, 58, 61〜87, 93〜97, 99〜102, 104〜106, 108, 110〜117, 119〜125, 129〜167, 173, 174, 178, 203〜205, 209〜212, 226, 233, 251, 257〜260, 262, 265, 268〜271, 280, 284, 285, 288, 289, 296, 298, 299, 331, 352, 355, 361, 379, 382, 417, 418, 442, 446, 463, 475, 486, 497, 512, 515, 521, 522, 529, 530, 537, 566.—III, 22, 33, 35, 65, 72*, 98〜101, 103, 106*〜108, 111, 112, 115〜119, 121, 123, 127〜129, 132, 134, 135, 139〜145*, 149〜156, 160〜163, 166, 169〜176, 180〜183, 187, 201〜203, 206, 207, 210, 212, 216, 223, 224, 228, 234, 250, 256, 263, 279, 288, 290, 297, 302〜311, 317, 319〜321, 345, 404, 427, 444, 458.—IV, 82, 140, 181, 206, 248, 321, 332, 378, 416, 445.—V, 235, 284, 457, 572,
NAPOLÉON II|ナポレオン二世、ローマ王、ライヒシュタット公。—II, 51, 74, 98, 162, 352, 424, 442.—III, 22, 63, 120, 125, 174, 183.—IV, 140, 170, 171.
NARBONNE-LARA|ナルボンヌ=ララ伯爵(ルイ)、フランスの将軍・外交官。—35*, 37, 45.
NARBONNE-LARA|ナルボンヌ=ララ伯爵夫人(ド・シャリュ嬢)。—I, 97*.
NASSAU-SIEGEN|ナッサウ=ジーゲン公(オットー)、ロシアの海軍中将。—I, 263*.
NASSAU|ナッサウ公(ヴィルヘルム)。—V, 391.
NASSAU|ナッサウ公子(フレデリック)。—PAYS-BAS(オランダ)を参照。
NEMOURS|ヌムール公(ルイ=シャルル)。—III, 386, 389, 411, 440, 443, 445, 464, 467, 468.—IV, 3〜6, 28, 39, 41〜52, 55〜59, 62, 67〜70, 88, 198, 255, 263, 264, 331, 461, 464, 482〜484, 490.—V, 50, 369, 502.
NESSELRODE|ネッセルローデ伯爵、ロシアの政治家。—I, 321.—II, 149, 151, 152, 162, 163, 166, 258〜260, 278, 279, 292, 308, 320, 325, 335, 338, 345, 390, 408, 423, 430, 446, 449, 457, 465, 472, 479, 500, 520.—III, 113, 123, 162, 188, 363.—IV, 329.—V, 273, 301, 302, 319〜325, 368.
NESSELRODE|ネッセルローデ夫人。—IV, 249.
NEUFCHATEL|ヌーシャテル公。—BERTHIER(ベルティエ)を参照。
NICOLAÏ|ド・ニコライ(ルイ=マリー)、フランスの高位聖職者。—I, 25*.
NICOLAÏ|ド・ニコライ(エマール=クロード)、フランスの高位聖職者。—I, 25*.
NICOLAS 1er|ニコライ一世、ロシア皇帝。—III, 357, 358, 363〜368, 403, 455, 464, 465.—IV, 3, 51, 107, 323, 329, 351, 373, 375, 380*, 391, 392, 425, 435, 495.—V, 72, 91, 95, 100, 105, 117〜119, 142, 163, 181, 184, 188, 204, 220, 224, 248, 263, 270, 271*〜274, 301, 316, 321, 323, 325.
NIVERNAIS|ニヴェルネ公(ルイ=ジュール・マンチーニ=マザラン)、フランスの外交官。—I, 190*.—V, 519, 545.
NOAILLES|ド・ノアイユ子爵(ルイ=マリー)、フランスの将軍。—I, 209*
NOAILLES|ジュスト・ド・ノアイユ伯爵夫人(フランソワーズ・ド・タレーラン=ペリゴール)。—II, 4*.
NOAILLES|ド・ノアイユ伯爵(アレクシ)、フランスの政治家。—II, 208*, 419, 421, 424, 427, 443, 451, 473, 475, 476, 491, 507.—III, 24, 47*, 50, 113, 179, 184, 185, 212.—IV, 168*.
NOSTITZ-RIENECK|ノスティッツ=リーネック伯爵、プロイセンの将軍。—IV, 321*.
NOTHOMB|ノトン(ジャン=バティスト)、ベルギーの政治家。—IV, 215*.
NYON|ド・ニヨン氏、フランスの将校。—III, 127.
O
OCHS|オクス(ペーター)、スイスの政治家。—I, 285*.
O'DONNEL|オドンネル伯爵(カール)、オーストリアの将軍。—V, 528*.
O'REILLY|オライリー伯爵(アレハンドロ)、スペインの将軍。—V, 564*.
OLAZABAL|オラサバル氏。—I, 372.
OLDENBOURG|オルデンブルク(ペーター・フリードリヒ)、リューベック侯。—I, 416*.
OLDENBOURG|オルデンブルク公(ペーター・フリードリヒ・ゲオルク)。—II, 353*.
OLDENBOURG|オルデンブルク公爵夫人。—CATHERINE PAULOWNA(エカチェリーナ・パヴロヴナ)を参照。
OMPTEDA|オンプテダ男爵(ルートヴィヒ・カール・ゲオルク)、ハノーヴァーの政治家。—V, 21*.
ORANGE|オラニエ公。—GUILLAUME Ier ET GUILLAUME II(オランダ王ウィレム一世・ウィレム二世)を参照。
ORLÉANS|シャルトル公、のちのオルレアン公(ルイ=フィリップ=ジョゼフ)。—I, 49, 109, 145*, 146〜152, 150〜173, 175〜180,183,187, 190〜198, 200〜204, 206〜210, 213, 214*.—II, 155.—V, 582.
ORLÉANS|オルレアン公(フェルディナン)。—IV, 255*, 264, 305, 331, 458, 467, 476.—V, 50, 65, 140, 141, 145〜147, 161, 164*, 165, 166, 170, 173, 174, 360, 475.
ORLÉANS|オルレアン公。—LOUIS-PHILIPPE(ルイ=フィリップ)を参照。
ORLOFF|オルロフ伯爵、のちの公爵(アレクセイ・フョードロヴィチ)、ロシアの将軍・外交官。—IV, 416*, 418, 420, 425, 427〜430, 432, 433, 435, 437, 441, 450, 499.—V, 175, 188, 211.
ORMESSON|ドルメソン(アンリ・ルフェーヴル)、フランスの政治家。—I, 55*.
ORVILLIERS|ドルヴィリエ伯爵(ルイ・ギヨネ)、フランスの海軍軍人。—I, 166*.
OSMOND|ドスモン氏、フランスの外交官。—III, 187*.
OSMOND|ドスモン男爵(アントワーヌ)、フランスの高位聖職者。—II, 76*.
OSMOND DE MEDAVY|オスモン・ド・メダヴィ(シャルル)、フランスの高位聖職者。—I, 49*.
OSZAROWSKI|オジャロフスキ伯爵(アダム・ダルカンタラ)、アレクサンドル皇帝の副官。—I, 414*.
OTHON DE BAVIÈRE|オトン・フォン・バイエルン、ギリシア王。—III, 387*, 390, 437.—IV, 8*, 11, 13, 14, 34, 39, 41, 220, 426, 483, 484, 488.—V, 460, 461.
OTRANTE|オトラント公。—FOUCHÉ(フーシェ)を参照。
OTTERSTEDT|フォン・オッターシュテット男爵、駐ベルン・プロイセン公使。—V, 507.
OUBRIL|ウーブリル氏、ロシアの外交官。—I, 305.
OULTREMONT|ドゥルトルモン氏。—III, 390.
OUVAROFF|ウヴァロフ伯爵(フョードル)、ロシア皇帝の首席侍従武官。—I, 414*.
OUVRARD|ウヴラール(ジュリアン)、フランスの金融家。—IV, 429*.
P
PACCA|パッカ、イタリアの枢機卿。—II, 119.
PAIX|平和公および公妃。—GODOÏ(ゴドイ)を参照。
PALISSOT DE MONTENOY|パリソ・ド・モントノワ(ベルナール)、フランスの著述家。—V, 579*.
PALMELLA|パルメラ伯爵、のちの公爵(ドン・ペドロ・デ・ソウザ=ホルシュタイン)、ポルトガルの政治家。—II, 317, 319, 324, 331, 334, 337, 400.—III, 27, 113.—IV, 310*.—V, 62, 63, 198, 199, 203, 205, 227, 235, 430.
PALMERSTON|パーマストン子爵(ヘンリー・ジョン・テンプル)、イギリスの政治家。—III, 394*, 396, 401, 406〜408, 414, 416, 418, 424, 426, 435, 437, 438, 466, 467.—IV, 19, 20, 24, 44, 56, 62〜64, 76, 77, 79*, 85, 103, 104, 107, 108, 115, 117, 144, 149, 152, 153, 161, 188, 209, 211, 224, 225, 260, 261, 288, 289, 292, 361, 370, 393, 394, 400, 404, 418, 446, 472, 479, 480, 491, 493, 497, 498.—V, 5, 7, 18〜25, 27, 30, 33, 34, 37〜43, 46, 47, 51, 52, 56〜61, 67, 70〜72, 74, 81〜85, 94〜96, 99, 100, 103, 104, 108〜116, 130, 136〜142, 146〜153, 159, 163, 167, 177〜184, 187, 188, 197, 200, 205〜207, 214〜217, 227, 233〜236, 240〜243, 246, 250〜252, 256, 257, 262, 264, 265, 293, 294, 298, 303, 304, 307, 317〜321, 324〜331, 336, 339, 340*, 342〜344, 354, 358, 359, 362〜367, 373〜384, 393〜404, 412, 413, 416〜419, 422〜430, 433〜440, 443, 449, 452〜454, 458〜468, 472, 475, 494, 502, 505, 511.
PASKIEWICZ|パスキヴィチ(イヴァン・フョードロヴィチ)、ロシアの陸軍元帥。—IV, 312*.
PATKUL|パトクル、リヴォニアの貴族。—II, 399*.
PATRAT|パトラ嬢、コメディ=フランセーズの女優。—I, 405.
PAULINE|ポーリーヌ公妃。—BORGHÈSE(ボルゲーゼ)を参照。
PEDRO 1er|ペドロ一世、ブラジル皇帝。—III, 344, 349*, 350.—IV, 215, 221, 235, 236, 249, 252, 273, 274, 293, 422*.—V, 62*, 63, 68, 73, 91〜93, 103, 121, 186, 203〜208, 211, 217, 227〜238*, 241*, 243, 246〜253, 256, 257, 263, 265, 278, 336, 338, 429, 430, 447*, 511.
PEDRO II|ペドロ二世、ブラジル皇帝。—IV, 216.
PEISSONEL|ペソネル、フランスの領事。—I, 72.
PENN|ペン(ウィリアム)、ペンシルヴェニアの創設者。—I, 234*.
PÉPIN LE BREF|ピピン短躯王、フランス王。—II, 47.
PÉRIER|ペリエ(カジミール)、フランスの政治家。—IV, 98*, 109, 110, 112, 115, 124〜127, 130, 131, 134, 135, 139, 155, 167, 170, 179, 202, 203, 205, 239, 240, 244, 247, 248, 263, 269, 286, 294, 304, 308, 317, 320, 324, 325, 337, 339, 352〜355, 367, 377, 379, 382, 385, 388, 396〜398, 401, 405, 408, 418, 427〜430, 433, 438*, 439, 443, 446〜449, 452, 456〜460, 465, 491.—V, 3, 10〜12.
PÉRIER|ペリエ(オーギュスト=カジミール=ヴィクトル=ローラン)、フランスの政治家。—IV, 127, 239, 244, 246, 286, 309, 337, 354, 356, 430.—V, 396*, 415, 416.
PÉRIGORD|ペリゴール伯爵夫人(マルグリット・ド・タレーラン)。—I, 5*.
PÉRIGORD|エドモン・ド・ペリゴール伯爵および伯爵夫人。—DINO(ディノ)を参照。
PÉRIGNON|ペリニョン侯爵(ドミニク)、フランスの元帥。—II, 15*.
PERREY|ペレ、タレーラン氏の秘書。—II, 207.
PESCATORE|ペスカトーレ、ルクセンブルクの民政総督。—V, 56*.
PÉTION|ペティオン(ジェローム)、パリ市長。—I, 222*.
PETTY|ヘンリー・ペティ卿。—LANSDOWNE(ランズダウン)を参照。
PFEFFEL|フェッフェル(クリスティアン・フリードリヒ)、フランスの外交官、のちにツヴァイブリュッケン公に仕官。—V, 567*.
PFEFFEL DE KRIEGELSTEIN|フェッフェル・フォン・クリーゲルシュタイン男爵(カール・フーベルト)、バイエルンの外交官。—IV, 322*.
PHILIPPE LE BEL|フィリップ美王、フランス王。—II, 70.
PIE VII|ピウス七世、教皇。—I, 94, 284.—II, 34〜36, 39〜50, 55〜58, 61, 66〜69, 72〜82, 84, 87〜91, 93〜95, 97, 100, 102〜106, 110〜123, 433, 475.—III, 264.—V, 482.
PIE VIII|ピウス八世、教皇。—III, 455.
PIERRE 1er|ピョートル一世、ロシア皇帝。—I, 264.
PIRÉ|ピレ、フランスの将軍。—III, 252.
PLAISANCE|ピアチェンツァ公。—LEBRUN(ルブラン)を参照。
PLINE|プリニウス。—I, 64.
PLUTARQUE|プルタルコス。—I, 64.
POIX|ポワ公(フィリップ・ド・ノアイユ=ムーシー)、陸軍中将。—I, 62*.
POMMEREUIL|ポムルイユ。—III, 252.
PONSONBY|ポンソンビー子爵(ジョン)、イギリスの外交官。—III, 420*, 421, 438, 443.—IV, 11, 12, 24, 40, 41, 53, 62, 64, 68, 69, 77, 81, 85*, 86, 91, 99, 181〜184, 186, 188〜190, 193〜201, 204, 205, 208*, 209〜214, 484, 490.—V, 113*, 125, 162, 164, 166, 175, 179, 187, 188, 200, 210〜213, 216,226, 265, 304, 357, 431, 434, 493.
PONSONBY|ポンソンビー(フレデリック)、イギリスの大佐。—II, 145.
PONT|ド・ポン伯爵。—I, 150.
PONT DE VEYLE|ポン・ド・ヴェル伯爵(アントワーヌ・ド・フェリオル)。—V, 517*.
PONZA|ポンザ(カルロス)。—NAPIER(ネイピア)を参照。
PORTALIS|ポルタリス伯爵(ジョゼフ)、フランスの司法官・政治家。—II, 75*.
POTOCKI|ポトツキ(アレクサンデル)、ポーランドの貴族。—I, 310.
POTTER|ド・ポッテル(ルイ=ジョゼフ=アントワーヌ)、ベルギーの評論家・政治家。—III, 385*.
POZZO DI BORGO|ポッツォ・ディ・ボルゴ伯爵(シャルル=アンドレ)、ロシアの将軍・外交官。—II, 213*, 260, 355, 378, 511.—III, 4, 5, 14, 23, 32, 48, 55, 72, 76, 80, 98, 107, 139, 147, 148, 164, 227, 239, 242, 348, 358, 368, 415, 419, 457, 458, 465.—IV, 74, 269, 325, 379, 349, 420, 421, 495.—V, 41, 48, 77, 91*, 97, 98, 101, 105, 131, 138, 178, 183, 273, 275, 323, 326, 393, 398, 432, 436, 500.
PRADA|ドン・ベニト・アリアス・デ・プラダ、スペイン宮廷の裁判官。—I, 352.
PRADEL|ド・プラデル伯爵、王室大臣。—III, 243.
PRASLIN|プララン公、フランスの貴族院議員。—III, 252.
PRÉFONTAINE|ド・プレフォンテーヌ氏(ブリュルトゥ)。—V, 579*.
PRÉVAL|プレヴァル。—I, 165.
PRICE|プライス(リチャード)、イギリスの哲学者。—I, 226*.
PRIESTLEY|プリーストリー(ジョゼフ)、イギリスの学者。—I, 226*.
PRUSSE|プロイセン王子(ヴィルヘルム)。—I, 419*.
PRUSSE|プロイセン王子(ハインリヒ)。—I, 62*.
PUYSIEUX|ド・ピュイジュー侯爵(ルイ・ブリュラール)、国務大臣。—I, 163*.
PUYSIEUX|ド・ピュイジュー侯爵夫人。—I, 163.
Q
QUELEN|ド・ケラン伯爵(イヤサント)、フランスの高位聖職者。—V, 482.
QUESTEMBERG|クエステンベルク伯爵夫人。—V, 527.
R
RABELAIS|ラブレー。—I, 81.
RACINE|ラシーヌ。—I, 444.
RADET|ラデ男爵(エティエンヌ)、フランスの将軍。—II, 50*.
RADETZKY|ラデツキー、オーストリアの将軍。—III, 98*.
RADZIWILL|ラジヴィウ公(アントニ=ヘンリク)。—III, 71*.
RAGUSE|ラグーザ公。—MARMONT(マルモン)を参照。
RAMPON|ランポン伯爵。—III, 252.
RAVEZ|ラヴェ(シモン)、フランスの政治家。—II, 143*.
RAYMOND|レーモン、バラスの副官。—I, 251.
RAYNEVAL|レーヌヴァル伯爵(フランソワ=マクシミリアン・ジェラール)、フランスの外交官。—IV, 96*.—V, 73, 93, 94, 98*, 100, 104, 105,120, 123, 140, 237*, 240, 242, 244, 249, 251, 261, 262*, 265, 336, 390, 398, 416, 421, 424〜426, 479, 510.
RECHBERG|レヒベルク伯爵(ヨーゼフ)、バイエルンの将軍・外交官。—III, 248*.
REGGIO|レッジョ公。—OUDINOT(ウディノ)を参照。
REGNAULD|レニョー・ド・サン=ジャン・ダンジェリ。—III, 252.
RÉMUSAT|ド・レミュザ伯爵(フランソワ=マリー=シャルル)、フランスの政治家。—IV, 458*.
RENAUDES|デ・ルノード(マルシアル・ボルジュ)、フランスの政治家。—I, 51*.
REPECAUD|ルプコー、フランスの大佐。—IV, 194.
REUSS|ロイス伯爵。—I, 419.
REUSS XLI|ロイス侯(四十一世)。—I, 418.
REUSS-EBERSDORFF|ロイス=エーベルスドルフ侯。—I, 417*.
REUSS-GREIZ|ロイス=グライツ侯。—I, 417*.
REUSS-LOBENSTEIN|ロイス=ローベンシュタイン侯。—I, 417*.
REUSS-SCHLEIZ|ロイス=シュライツ侯。—I, 417*.
RÉVEILLON|レヴェイヨン、壁紙製造業者。—I, 208*.
RICCÉ|ド・リセ氏。—I, 248.
RIGNY|ド・リニー伯爵(アンリ=ゴーティエ)、フランスの提督・政治家。—IV, 73*, 83, 95, 449, 494.—V, 9, 44, 346, 352〜354, 358, 360, 362, 366, 368〜372, 374, 376, 385, 391, 393, 395, 396, 398〜400, 402, 404, 408, 409, 411〜413, 415, 418, 420, 421, 424, 427, 432, 433, 435, 439, 442, 444, 447, 449, 450, 452, 455, 458, 461, 462, 465, 466, 469, 471, 472.
RILLET|リリエ、銀行家。—I, 56.
RIPON|リポン。—GODERICH(ゴドリッチ)を参照。
RIVIÈRE|ド・リヴィエール公(シャルル=フランソワ・ド・リファルドー)。—III, 14*.
ROBBÉ DE BEAUVESET|ロベ・ド・ボーヴゼ(ピエール)、フランスの著述家。—V, 550*.
ROBECQ|ロベック公妃(アンヌ・ド・モンモランシー・リュクサンブール)。—V, 530*.
ROBECQ|ド・ロベック夫人。—I, 107.
ROCHECHOUART|ド・ロシュシュアール伯爵。—I, 50.
ROCHEFOUCAULD|ド・ラ・ロシュフーコー(ドミニク)、フランスの高位聖職者。—I, 31*.
ROCHEFOUCAULD|ド・ラ・ロシュフーコー伯爵(ポリドール)、フランスの外交官。—III, 408*.
ROCHEFOUCAULD|ド・ラ・ロシュフーコー伯爵(イポリット)、フランスの外交官。—III, 456*.
ROCHEFOUCAULD-SURGÈRE|ラ・ロシュフーコー=シュルジェール子爵(ジャン=フランソワ)。—SURGÈRE(シュルジェール)を参照。
ROCHEJAQUELEIN|ラ・ロシュジャクラン侯爵(ルイ・デュ・ヴェルジエ)、陸軍少将。—II, 141*.
ROCHEJAQUELEIN|ラ・ロシュジャクラン侯爵(アンリ)、フランスの政治家。—IV, 429*.
RODENBACH|ド・ローデンバッハ(アレクサンデル)、ベルギーの政治家。—IV, 494*.
RODOLPHE DE HABSBOURG|ルドルフ・フォン・ハプスブルク。—II, 9.
ROGIER|ロジエ(フィルマン)、ベルギーの外交官。—IV, 25*.
ROHAN|ド・ロアン公(ルイ=ルネ)、フランスの枢機卿。—III, 427.
ROHAN|ド・ロアン(ルイ)。—IV, 322.
ROHAN-GUÉMÉNÉ|ロアン=ゲメネ公(フェルディナン・メリアデック)、フランスの高位聖職者。—I, 27*.
ROMANS|ド・ロマン嬢。—I, 50*.
ROMARINO|ロマリノ、ポーランドの将軍。—IV, 312*.
ROMILLY|ロミリー(サミュエル)、イギリスの法律家。—I, 226*.
ROSARI|ロザーリ(ジョヴァンニ)、イタリアの教授・政治家。—II, 549*.
ROUILLÉ|ルイエ(アントワーヌ)、ジュイ伯爵、フランスの政治家。—V, 519*, 521, 522.
ROUSSEL-D'URBAL|ルーセル=デュルバル(ニコラ=フランソワ)、フランスの将軍。—III, 111*.
ROUSSIN|ルサン男爵(アルバン・レーヌ)、フランスの提督・外交官。—IV, 224*.—V, 134*, 137, 138, 148, 149, 152, 154, 163, 175, 179, 181, 188, 200, 210, 211, 213, 265, 357*, 402, 434〜436, 493, 504.
ROUX-LABORIE|ルー=ラボリー(アントワーヌ)、臨時政府事務総長。—III, 320*.
ROVERELLA|ロヴェレッラ、イタリアの枢機卿。—II, 109.
ROVIGO|ロヴィゴ公。—SAVARY(サヴァリ)を参照。—III, 319.
RUFFO|ルッフォ(ファブリツィオ・ディオニジオ)、イタリアの枢機卿。—II, 109*.
RUMIGNY|ド・リュミニー伯爵(マリー=テオドール・ド・グーユイ)、フランスの将軍。—IV, 111*.
S
SAGAN|ザーガン公爵夫人(カタリーナ・ヴィルヘルミーネ・フォン・クールラント)。—II, 336*.
SAINT-AUBIN|ド・サントーバン嬢。—GENLIS(ジャンリス)を参照。
SAINT-CRICQ|ド・サン=クリク氏、フランスの政治家。—V, 190.
SAINT-GERMAIN|ド・サン=ジェルマン伯爵(クロード=ルイ)、陸軍大臣。—I, 121*.
SAINT-LAURENT|サン=ローラン(ルイ)、フランスの将軍。—I, 406*.
SAINT-LEU|サン=ルー公爵夫人。—HORTENSE(オルタンス)を参照。
SAINT-LOUIS|聖ルイ。—LOUIS IX(ルイ九世)を参照。
SAINT-MARS|サン=マルス、外務省の翻訳官。—III, 26*.
SAINT-PIERRE|ド・サン=ピエール師(シャルル・カステル)。—V, 539*.
SAINT-SIMON|ド・サン=シモン。—II, 145.
SAINT-SIMON|ド・サン=シモン侯爵、フランスの外交官。—V, 276*.
SAINT-VINCENT|ド・サン=ヴァンサン(ロベール)、高等法院評定官。—I, 188*.
SAINT-VINCENT|ド・サン=ヴァンサン。—III, 252.
SAINTE-AULAIRE|サント=オレール伯爵(ルイ=クレール・ド・ボープワル)、フランスの外交官。—IV, 139*, 245, 449;—V, 180, 182, 209, 224, 263, 300*, 302*, 304, 306, 308, 403, 432, 479, 499, 509, 510.
SAINTE-AULAIRE|ド・サント=オレール氏、フランスの外交官。—IV, 419.
SAINTE-FOY|サント=フォワ、外交代理人。—I, 58*.
SALDANHA DE GAMA|サルダーニャ・ダ・ガマ(アントニオ)、ポルトガルの外交官。—III, 113.
SALES|ド・サール伯爵、サルデーニャの外交官。—V, 432.
SALIERI|サリエリ(アントニオ)、イタリアの作曲家。—III, 25*.
SALM-KYRBOURG|ザルム=キルブルク侯(フリードリヒ五世)。—II, 220*
SALM-REIFERSCHEID-DYCK|ザルム=ライファーシャイト=ディーク伯爵、のちの侯爵(ヨーゼフ)。—I, 419*.
SALM-SALM|ザルム=ザルム侯(コンスタンティン・アレクサンダー)。—II, 220*.
SAMPAYO|サンパイオ氏、ロンドン駐在のドン・ミゲルの総領事。—V, 429.
SAPIEHA|サピェハ公(アレクサンデル)、ナポレオン皇帝の侍従。—I, 402*.
SARAIVA|サライヴァ氏、ロンドン駐在のドン・ミゲルの公使。—V, 429.
SAUNIER|ソニエ嬢、シャレー公妃の侍女。—I, 11.
SAVARY|サヴァリ(ルネ)、ロヴィゴ公、フランスの将軍。—I, 366*, 367, 370〜372, 378, 405; II, 135, 150; III, 251, 301〜303, 310, 316, 318, 319; IV, 206.
SAXE|ド・サックス伯爵(モーリス)、フランスの元帥。—I, 261.
SAXE|ザクセン王子アントンの妃(オーストリア大公女マリア・テレジア・ヨーゼファ)。—II, 342*.
SAXE-COBOURG|ザクセン=コーブルク公(フェルディナント・カール・アウグスト)。—II, 522*.
SAXE-COBOURG|ザクセン=コーブルク公(レオポルド)。—LÉOPOLD(レオポルド)を参照。
SAXE-COBOURG|ザクセン=コーブルク公女(ユリアーネ・ヘンリエッテ・ウルリケ)、ロシア大公妃。—II, 522*.
SAXE-GOTHA|ザクセン=ゴータ公(アウグスト)。—I, 415*.
SAXE-HILDGURGHAUSEN|ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公(ヨーゼフ)、オーストリアの陸軍元帥。—V, 524*.
SAXE-HILDGURGHAUSEN|ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公爵夫人。—I, 417*.
SAXE-TESCHEN|ザクセン=テッシェン公(アルベルト)、オーストリアの陸軍元帥。—III, 93*.
SCHILLER|シラー。—I, 426.
SCHNEIDER|シュナイダー、フランスの将軍。—IV, 184*.
SCHÖNBERG|フォン・シェーンベルク氏。—I, 415.
SCHOUWALOFF|シュヴァロフ伯爵(パーヴェル)、ロシアの将軍。—I, 414*.
SCHRAMM|シュラム伯爵(ジャン=ポール=アダム)、フランスの将軍。—V, 66*.
SCHRAUT|シュラウト、駐スイス・オーストリア公使。—III, 128.
SCHRÖDER|シュレーダー氏、ロシアの外交官。—I, 414.
SCHWARZBURG-RUDOLSTADT|シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯。—I, 417*.
SCHWARZENBERG|シュヴァルツェンベルク公、オーストリアの陸軍元帥。—II, 150, 162, 178, 260, 428, 465, 466, 490.—III, 21, 31, 86, 100, 101, 120, 124, 181, 227.
SCHWARZENBERG|シュヴァルツェンベルク公(フェリックス・ルートヴィヒ・ヨハン・フリードリヒ)、オーストリアの将軍・政治家。—V, 204*.
SÉBASTIANI|セバスティアニ伯爵(オラス)、フランスの元帥・政治家。—I, 399*.—III, 398, 410〜412, 419, 423, 425, 426, 429, 437, 439, 443, 462, 468.—IV, 6, 7, 8, 10, 14, 18, 21, 25*, 28, 29, 35, 43, 45, 53, 56, 59〜64, 67, 68, 72, 74, 77, 79, 81, 83, 87, 89, 91, 92, 95, 98, 100, 102, 107, 110, 111, 115, 118, 120, 123, 125, 131, 134〜137, 141, 149, 152, 155〜161, 165, 167, 170, 181, 186, 188, 190〜196, 200, 202, 203*, 205〜207, 213, 217〜224, 227, 229*, 230, 234, 237〜241, 246, 265, 280, 283, 289, 293, 294, 297, 304, 309, 311, 319, 325, 332, 340, 346, 362〜364, 367, 372*, 374, 377, 379, 382, 384, 385, 387, 395, 396, 405, 411, 430 438, 446〜448, 456, 458, 461〜463, 470, 484, 491, 495.—V, 4, 22, 345〜348.
SÉBASTIANI|セバスティアニ子爵(ジャン=アンドレ・ティビュルス)、フランスの外交官。—IV, 170*.
SÉGUIN|セガン、オルレアン公の財務官。—I, 166.
SÉGUR|ド・セギュール侯爵(フィリップ=アンリ)、フランスの元帥。—I, 120*.
SÉGUR|ド・セギュール伯爵、皇帝宮廷の式部長官。—III, 252.
SÉLIM|セリム、オスマン帝国のスルタン。—I, 262.
SÉMÉLÉ|ド・セムレ男爵、フランスの将軍。—III, 110*.
SÉMONVILLE|モントロン伯爵夫人、のちのセモンヴィル侯爵夫人(ド・ロスタン嬢)。—I, 174*.
SENAC DE MEILHAN|セナック・ド・メイヤン。—MEILHAN(メイヤン)を参照。
SERS|セル、フランスの外交官。—III, 26.
SÉVIGNÉ|セヴィニエ夫人。—I, 66.
SHEIL|シール(リチャード・レイラー)。—V, 339*.
SHELDON|シェルドン。—I, 160.
SIDMOUTH|シドマス。—ADDINGTON(アディントン)を参照。
SILHOUETTE|シルエット(エティエンヌ)、財務総監。—V, 582*.
SILLERY|ド・シルリー夫人。—GENLIS(ジャンリス)を参照。
SIMIANE|ド・シミアーヌ伯爵夫人(アデライード・ド・ダマ)。—I, 61*.
SIX|シックス、オランダの政治家。—II, 20.
SMITH|スミス(ロヘルト)。—I, 226.
SMITH|スミス。—I, 239.
SOBIESKI|ソビエスキ(ヤン)、ポーランド王。—I, 312.
SOLANO|ソラノ(ドン・フランシスコ)、デル・ソコロ侯爵、スペインの将軍。—I, 353*.
SOLAR|ソラール、スペインの政治家。—I, 359.
SOLAR DE BREILLE|ソラール・ド・ブレイユ代官(イニャツィオ)、サルデーニャの外交官。—V, 535*, 545, 546.
SOLIGNAC|ソリニャック、ポルトガルに仕官したフランスの将軍。—V, 122*.
SOLLES|ド・ソル男爵(イレネ=イヴ)。—DESSOLLES(デソル)を参照。
SONGEON|ソンジョン(ジャン=マリー)、フランスの将軍。—III, 127*.
SONTAG|ソンタグ、フランスの外交官。—V, 396*.
SOPHIE DE BOURBON|ソフィー・ド・ブルボン王女。—V, 589.
SOPHIE-DOROTHÉE|ゾフィー・ドロテア、ロシア皇后。—III, 71.
SOULT|スールト、ダルマチア公、フランスの元帥。—I, 405.—II, 31, 32, 139, 326, 502, 505, 558, 559.—III, 47, 151*, 252, 335.—IV, 33, 97, 206, 305, 312*, 463*.—V, 6, 132*, 347, 350, 448*, 450.
SOURCHES|ド・スルシュ伯爵(ルイ=フランソワ・デュ・ブショ)、フランス大警務官。—I, 5*.
SOUTZA|スーザ公、ギリシアの外交官。—IV, 225*.
SOUZA-BOTHELO|ソウザ=ボテーリョ侯爵(ジョゼ)、ポルトガルの外交官。—I, 248*.
SOUZA|ソウザ夫人。—FLAHAUT(フラオー)を参照。
SPERANSKY|スペランスキー氏。—I, 414.
SPINA|スピーナ伯爵(ジュゼッペ)、イタリアの枢機卿。—II, 103*.
SPENGTPORTEN|スペングトポルテン男爵(ヨーラム)、スウェーデンの将軍。—I, 278*.
SPRING RICE|スプリング・ライス(トマス)、モンティーグル男爵、イギリスの政治家。—V, 419*.
STAHREMBERG|シュターレンベルク公(ゲオルク・アダム)、オーストリアの外交官。—V, 522*, 529, 567.
STAINVILLE|ド・スタンヴィル公(エティエンヌ=フランソワ)。—CHOISEUL STAINVILLE(ショワズール=スタンヴィル)を参照。
STALA|スタラ師、サン・イシドロの司書。—I, 334.
STANISLAS II|スタニスワフ二世、ポーランド王。—II, 392*.
STANLEY|スタンリー氏。—V, 535.
STÉPHANIE|ステファニー。—BADE(バーデン)を参照。
STEWART|スチュアート卿。—LONDONDERRY(ロンドンデリー)を参照。—II, 545.
STOCKMAR|シュトックマー男爵(カール・フリードリヒ)、ヴィクトリア女王の医師・顧問。—IV, 328*.
STROGONOFF|ストロガノフ伯爵(グリゴリー・アレクサンドロヴィチ)、ロシアの外交官。—I, 358*.
STUDNITZ|フォン・シュトゥドニッツ氏。—I, 416.
SUARD|シュアール(ジャン=バティスト)、フランスの著述家。—I, 435*.
SUCHTELEN|スフテレン伯爵(ピョートル・イワノヴィチ)、ロシアの将軍・外交官。—V, 334*.
SURGÈRE|ド・シュルジェール伯爵(ジャン=フランソワ・ド・ラ・ロシュフーコー)。—I, 61*.
SYLLA|スラ。—I, 432.
T
TAGLIATZI|タリアッツィ、ウィーン歌劇場の女優。—V, 528.
TALLEYRAND-PÉRIGORD|タレーラン=ペリゴール公(シャルル=モーリス)、ベネヴェント公。—I, 3*、ほか各所。
TALLEYRAND-PÉRIGORD|ド・タレーラン=ペリゴール(シャルル=ダニエル)、陸軍中将、王太子の侍従。—I, 6.
TALLEYRAND|ド・タレーラン男爵(ルイ)、フランスの外交官。—I, 104*.
TALLEYRAND|タレーラン男爵(アレクサンドル=ダニエル)、フランスの外交官・貴族院議員。—III, 178*.
TALLEYRAND-PÉRIGORD|タレーラン=ペリゴール伯爵夫人(アレクサンドリーヌ=マリー=ヴィクトワール=エレオノール・ド・ダマ)。—I, 44.
TALLEYRAND|タレーラン侯爵夫人(マリー=エリザベート・シャミヤール)。—I, 6.
TALLEYRAND|タレーラン男爵夫人。—II, 295.
TALMA|タルマ夫人、コメディ=フランセーズの女優。—I, 405.
TALMONT|タルモン公妃(マリー=ルイーズ・ヤブウォノフスカ)。—V, 555*.
TARENTE|タラント公。—MACDONALD(マクドナル)を参照。
TATITSCHEFF|タチシチェフ、駐ウィーン・ロシア大使。—V, 302*.
TAUBE|タウベ伯爵。—I, 419.
TAVANNES|タヴァンヌ(シャルル、ソー伯爵)、陸軍中将、王妃の名誉騎士。—I, 5*.
TAYLOR|サー・ブルック・テイラー、イギリスの外交官。—IV, 117.
TERCEIRA|テルセイラ公。—VILLAFLOR(ヴィラフロール)を参照。
TÉRENCE|テレンティウス、ラテン語の詩人。—I, 64.
TESTE|テスト(ジャン=バティスト)、フランスの政治家・司法官。—IV, 330*.
THÉVENOT|テヴノ。—MORANDE(モランド)を参照。
THIARD|ド・ティアール伯爵(アンリ)、陸軍中将。—V, 550*.
THIBAUDEAU|ティボードー、フランスの政治家・行政官。—III, 252.
THOMASSIN|ド・トマサン(ルイ)、オラトリオ会士。—II, 41*.
THÜMMEL|フォン・テュンメル男爵。—I, 416.
TIBÈRE|ティベリウス、ローマ皇帝。—I, 444.
TILLEMANS|ティルマンス(ジャン=フランソワ)、ベルギーの法律家・政治家。—III, 385*.
TINSEAU|タンソー(ジャン=アントワーヌ)、フランスの高位聖職者。—I, 27*.
TITE-LIVE|ティトゥス・リウィウス、ラテン語の歴史家。—I,444.
TOLSTOÏ|トルストイ伯爵、ロシア宮廷大元帥。—I, 414.
TORRÈS|ドン・セバスティアン・デ・トレス。—I, 352.
TOUR DU PIN GOUVERNET|ラ・トゥール・デュ・パン・グーヴェルネ侯爵(フレデリック)、フランスの外交官。—II, 208*, 400, 520, 535.—III, 19, 113, 128, 187, 212.
TOUR DU PIN|ラ・トゥール・デュ・パン伯爵(ルイ)、陸軍少将。—V, 550*.
TOUR DU PIN|ラ・トゥール・デュ・パン侯爵(フィリップ)、陸軍中将。—V, 550*.
TOUR ET TAXIS|トゥルン・ウント・タクシス侯(カール・アレクサンダー)、帝国郵政長官。—I, 417*.
TRAVANET|トラヴァネ。—I, 60.
TREILHARD|トレイヤール、総裁政府の総裁。—I, 269.
TRÉVISE|トレヴィーゾ。—MORTIER(モルティエ)を参照。
TRIDENT|トリダン、ケールの郵便局長。—III, 304.
TROUBETZKOI|トルベツコイ公。—I, 414.
TRUCHSESS|トルフゼス伯爵。—I, 419.
TRUCHSESS|トルフゼス夫人。—II, 25.
TRUDAINE DE MONTIGNY|ド・トリュデーヌ・ド・モンティニー(シャルル)、財務総監督官。—I, 107*.
TUDO|ドニャ・ホセファ・トゥド。—I, 355*.
TURGOT|テュルゴー(エティエンヌ騎士)、コンスモン侯爵、ギアナ総督。—V, 581*.
V
VAINES|J・ド・ヴェーヌ夫人。—I, 47*.
VANDAMME|ヴァンダム、フランスの将軍。—III, 252,
VAN DER NOOT|ヴァン・デル・ノート(アンリ=シャルル=ニコラ)、ベルギーの政治家。—III, 384*.
VAN DE WEYER|ヴァン・ド・ヴェイエル(シルヴァン)、ベルギーの外交官。—III, 438, 463, 464, 468.—IV, 12, 52, 68, 106, 288, 342, 375, 409, 469, 473, 479, 490, 498.—V, 166, 184, 194, 416, 500.
VAN EUPEN|ヴァン・オイペン師。—I, 384*.
VAN STYRUM|ヴァン・スティルム。—II, 20.
VARENNES|ヴァレンヌ、コメディ=フランセーズの俳優。—I, 405.
VARENNES|ド・ヴァレンヌ氏、フランスの外交官。—V, 126*.
VATOUT|ヴァトゥ(ジャン)、フランスの政治家。—IV, 111*.
VAUDÉMONT|ヴォーデモン公妃。—III, 448, 449, 456〜458.—IV, 105, 295, 296, 307, 310, 313, 325, 327, 332, 340〜345, 352, 356, 358, 382, 384, 387, 388, 390, 394, 395, 404〜406, 410, 412, 420〜422, 425〜429, 432, 435, 437, 440〜442, 445〜447, 450〜453, 456〜460, 464, 467, 469, 476〜478, 494, 499—V, 22, 32, 48, 52, 53, 75, 76, 79, 80, 101, 123.
VAUDREUIL|ド・ヴォードルイユ子爵(ヴィクトル=ルイ・リゴー)、フランスの外交官。—III, 333*.
VAUGUYON|ラ・ヴォーギヨン公(アントワーヌ=ポール=ジャック・ド・ケラン)、フランス王家の子女の教育係。—V, 579*.
VAULABELLE|ド・ヴォーラベル、フランスの歴史家。—II, 163.
VAUPALLIÈRE|ド・ラ・ヴォーパリエール氏。—I, 60.
VENNINGEN|フォン・ヴェニンゲン夫人。—I, 418.
VERGENNES|ド・ヴェルジェンヌ伯爵(シャルル・グラヴィエ)、フランスの政治家。—1, 40*, 97, 99, 101〜103, 440.
VERHUEL|フェルヒュル、駐マドリード・オランダ公使。—I, 361.*
VERMOND|ド・ヴェルモン師(マチュー)。—I, 95*.
VERNÈGUES|ド・ヴェルネーグ騎士。—II,439.
VERTEUIL|ド・ヴェルトゥイユ氏、ペリゴールの貴族。—I, 10.
VESMERANGES|ド・ヴェムランジュ、郵政監督官。—I, 107*.
VIAL|ヴィアル、スペインの外交官。—V, 256.
VIANES|ド・ヴィアーヌ氏。—I, 60.
VICENCE|ヴィチェンツァ公。—CAULAINCOURT(コーランクール)を参照。
VICQ D'AZYR|ヴィック・ダジール(フェリックス)、マリー=アントワネット王妃の主席医師。—I, 135*. .
VICTOIRE DE BOURBON|ヴィクトワール・ド・ブルボン王女。—V, 589.
VICTOR EMMANUEL Ier|ヴィットーリオ・エマヌエーレ一世、サルデーニャ王。—II, 34, 203, 204, 227, 228, 232, 254, 446, 450, 452, 537*.—III, 100, 207.
VIGURI|ドン・ルイス・ビグリ、スペイン軍の監督官。—I, 334.
VILLAIN XIV|ヴィラン十四(シャルル=イポリット)、ベルギーの外交官。—IV, 148*.
VILLARS|ヴィラール公爵夫人(ガブリエル・ド・ノアイユ)。—I, 5*.
VILLIERS|ヴィリアーズ(ジョージ=ウィリアム=フレデリック)、クラレンドン伯爵、イギリスの外交官。—V, 244*, 245, 262, 263, 265, 359, 418, 421, 424, 425, 464, 510.
W
WALDECK|ヴァルデック侯。—1, 417.
WALEWSKA|ヴァレフスカ伯爵夫人(アナスターズ)。—I, 312.
WANGENHEIM|フォン・ヴァンゲンハイム男爵。—I, 416.
WASA|ヴァーサ公、スウェーデン王太子、オーストリアの陸軍元帥。—III, 15*.
WASA-SIVIETEN|ワザ=シヴィーテン、オーストリア宮廷の医師。—V, 528.
WALTERSTORFF|ヴァルターシュトルフ(エルンスト・フレデリク)、デンマークの将軍・外交官。—III, 182*.
WATTEVILLE|フォン・ヴァッテンヴィル(ニクラウス・ルドルフ)、スイスの政治家。—III, 102*.
WEISSE|ヴァイセ氏。—I, 417.
WELLESLEY|ウェルズリー侯爵、イギリスの政治家。—III, 460*.
WELLESLEY POOLE|ウェルズリー・プール(ウィリアム)、イギリスの政治家。—III, 148*.
WELLINGTON|ウェリントン公爵(アーサー・コリー・ウェルズリー)。—II, 30〜32, 138〜145, 147, 150, 289, 290, 356, 381, 399, 435*〜438, 472, 484〜486, 493, 503, 517.—III, 39*, 41, 45, 47〜49, 51〜54, 57, 59, 67, 68, 73, 76, 80, 81, 84, 99〜101, 104〜106, 113, 118, 120, 121, 123, 124, 126, 135, 139, 144, 145, 147, 148, 163, 167, 172, 178, 182. 222, 228, 233, 234, 230〜239, 273〜275, 277, 331, 336, 343, 347, 348, 351, 353, 354, 356, 359, 361, 363, 364, 366, 373, 376〜378, 391. 393〜395, 406, 449〜460.—IV, 313〜315, 317*, 333 358, 410, 453, 456.—V, 186, 201, 282, 479*.
WESSENBERG-AMPFINGEN|ヴェッセンベルク=アンプフィンゲン男爵(ヨハン・フィリップ)、オーストリアの外交官・政治家。—II, 400*, 551, 539, 548.—III, 113, 139, 401, 402.—IV, 35, 101, 103, 159, 161, 231, 235, 249, 250, 378, 440, 494.—V, 41, 328, 500.
WINDISCHGRÆTZ|ヴィンディシュグレーツ公(アルフレート)、オーストリアの陸軍元帥。—340*.
WINTZINGERODE|ヴィンツィンゲローデ男爵(フェルディナント)、ロシアの将軍。—II, 153*.
WITTGENSTEIN|ヴィトゲンシュタイン(ザイン公)、プロイセンの政治家。—V, 509.
WRÈDE|ヴレーデ公(カール・フィリップ)、バイエルンの陸軍元帥。—III, 333, 335, 358*, 361, 369, 376, 381, 410, 412, 421, 466, 472, 484, 490, 509, 510, 538.—III, 79,105, 248.—IV, 322.
WURMSER|ヴルムザー伯爵、オーストリア軍の総監督官。—III, 256.
WURTEMBERG|ヴュルテンベルク王女。—FRÉDÉRIQUE-CATHERINE(フリーデリケ・カタリーナ)を参照。
WURTEMBERG|ヴュルテンベルク伯爵。—I, 419.
WURTEMBERG|ヴュルテンベルク王太子。—GUILLAUME(ヴィルヘルム)を参照。
WYRICKI|ヴィリツキ伯爵。—I, 309.
WYNX|ウィンクス、イギリスの政治家。—IV, 101*.
X
XIMÉNÈS|ヒメネス、枢機卿。—I, 19.
Y
YORK|ヨーク公爵およびオールバニ公爵フレデリック。—IV, 458*.
YVON|イヴォン師。—I, 152*.
Z
ZASTHOW|フォン・ツァストウ、フリードリヒ・ヴィルヘルム三世の副官。—I, 308.
ZEA BERMUDEZ|セア・ベルムデス(フランシスコ)、スペインの政治家。—III, 359*.—V, 90, 98, 99, 104, 105, 121, 140, 216, 237, 240, 242, 244, 245, 250, 252, 262, 263, 315*, 317, 378.
ZESCHAU|フォン・ツェシャウ、ザクセンの将軍。—III, 77*.
ZEUGWITZ|フォン・ツォイクヴィッツ、ザクセンの将校。—II, 396.
ZIGESAR|フォン・ツィーゲザル。—I, 416.
ZURLO|ズルロ伯爵(ジュゼッペ)、イタリアの政治家。—II, 13*.
原注
[1] この種の日付の誤りのために、プロイセン側がイエナ橋を爆破しようとした計画に関する、ルイ十八世からタレーラン氏への書簡の真偽が、一時疑われたことがある。タレーラン氏は『回想録』(第三巻236頁)でこの書簡を引用する際、その前に「パリ、一八一五年七月十五日、土曜日、十時」と記している。だが、書簡の述べる出来事は七月十五日の土曜日ではなく、七月八日の土曜日に起こったので、この日付は正確ではありえなかった。幸い、書簡の原本が現存し、その写真は『回想録』第一巻の巻頭に掲載されている。そこには「この土曜日」とあるほかには、日付は記されていない。したがって、誤りはもっぱら『回想録』の著者によるものである。著者は記憶に頼って書簡の日付を確定しようとし、一週間取り違えたのだ。それ自体さほど重要ではない出来事について、この程度の誤りが起こるのは、別に不思議ではない。
[2] 第三巻71頁参照。
[3] ベルトラン氏は、外務省に保存されているタレーラン氏の書簡や、氏のもとから出された文書を研究することによって知りえた、その執筆方法を詳しく説明したうえで、『回想録』そのものについての見解を、次のように要約している。
「私的な手稿と『回想録』の性格は、バクール氏が残した写本について、その遺言書に添えられた書類目録に記された次の一節によって、きわめてよく示されている。
『革装の四巻。これらはタレーラン公がその使用を指示した手稿、口述筆記および写本に基づいて作成された、タレーラン公の『回想録』の唯一真正かつ完全な写本である。』
ご覧のとおり、ここで述べられているのは、手稿、口述筆記、そして写本である。手稿とは、明らかに、さまざまな人物の手になる文書すべてを指している。その原本はタレーランが所蔵していたもので、現在はブロイ公の手にあり、その一部をバクール氏が『回想録』の写本に挿入したのである。目録にいう写本とは、国の文書館または個人が所蔵する文書を、タレーランのために写したものと考えてよいだろう。残るのは口述筆記である。しかし、この口述筆記が『回想録』の原手稿以外の何でありえようか。」
[4] このくだりは、バクール氏に向けられた非難に対して同氏の潔白を立証したピエール・ベルトラン氏の論考が、一八九二年三月一日号の『歴史評論』に掲載される前に書かれたものである。バクール氏が削除したと非難されていた文書が、あるドイツ語の著作に存在すると指摘されていた。ところが、それらの文書は、ドイツ語の翻訳者が付した日付とは異なる日付で、バクール氏の史料集にも収められていたのである。しかも、このドイツ語の著作は、バクール氏の同意と協力のもとで作られた同氏の史料集の翻訳にすぎず、その巻頭には同氏の承認の辞も載っている。これほど完全な取り違えは、かつてなかった。
[5] この宣言をしたのはイギリスの全権代表であった。フランスの全権代表の言明は、さらに断固たるものだった。彼は、この宣言にあらゆる点で同意すると述べ、さらに「ベルギーと結んだ条約の履行のため、その条約によって得た権利に従い、自国の約束の内容とフランスの利益が要求するところに応じて行動する、全面的な自由を自国政府に留保する」とした。
少し後で述べられているように、会議が合意した金銭上の強制措置については、ベルギーが一八三二年一月一日以降オランダに対して負っている支払期日の過ぎた未払金を免除すること、そして、これから定める期限が過ぎても、その未払金の抹消が期待された効果を生まない場合には、ベルギーのオランダに対する債務額から毎週百万フローリンを差し引くことから成っていた。
[6] これは、いわゆる十月十一日内閣である。その構成は次のとおりだった。首相兼陸軍大臣、スールト元帥。外務大臣、ブロイ公。内務大臣、ティエール氏。財務大臣、ユマン氏。公教育大臣、ギゾー氏。バルト、ダルグー、リニーの各氏は、それぞれ司法、商業、海軍の各大臣に留任した。
[7] アンドレ=マリー・デュパンは一七八三年生まれ。王政復古期の弁護士で、一八二七年に代議士、一八三〇年に破毀院検事総長、一八三二年から一八四〇年まで代議院議長を務めた。一八四八年に再選され、一八五一年には国民議会議長であった。オルレアン家の財産を没収する政令を受けて検事総長を辞任したが、一八五七年には復職し、元老院議員にもなった。一八六五年に死去。
[8] フランスとプロイセンの関係は、アントウェルペン遠征の続いた期間、かなり危機的な時期を迎えた。この『回想録』でも、それに何度か言及している(33頁、63頁以降参照)。そこで、この点について若干説明しておくのが有益だと考える。プロイセンは、フランスのベルギー介入を、深い嫉妬をもって見ていた。個人的にもフランスに敵意を抱いていたアンシヨン氏は、激しい苛立ちを隠さず、ブレッソン氏はその反響を、通信によってパリに伝えていた。たとえば、アンシヨン氏は、フランス軍がベルギーに入れば、プロイセンは予防措置を取らざるをえず、その措置はオランダ側の抵抗を必ず勇気づけるだろうと述べていた(アンシヨン氏とミントー卿の会談を報告する、十月十四日付ブレッソン氏の外交報告)。十月十三日、ブレッソン氏はさらに、フランスが介入した場合、プロイセンはマース川に軍を集結させ、フランス兵が一人でもオランダに入れば、プロイセンはそれを開戦の理由とみなすだろうと伝えた。ブレッソン氏は威嚇に屈しなかった。プロイセンは、どれほど不満であっても、フランスの行動にあえて反対することはあるまいと、パリに請け合ったのである(十月二十二日および二十四日付の外交報告。十月二十四日にブレッソン氏がブロイ公へ送った、きわめて立派な書簡も付録486頁参照)。ベルリン内閣の苛立ちを鎮めるため、フランス政府は、十一月十五日の条約によってオランダに割り当てられながら、ベルギーが不当に占領していた領土、すなわちフェンローと、リンブルフおよびルクセンブルクのいくつかの地区を、保証として占領するよう、プロイセンに提案することを考えついた(ブロイ公からブレッソン氏への十月八日付外交報告。この書簡は付録485頁参照)。意見を求められたタレーラン氏は、この案を承認した(タレーラン氏からブロイ公への十月二十七日付書簡、付録487頁)。ブレッソン氏も、ルクセンブルクに関する部分を除いて承認した(十月十七日付外交報告)。プロイセン内閣は大いに迷った。アンシヨン氏は受け入れる意向を見せたが、そのうえリエージュも求め、これは拒絶された(十月二十四日付外交報告)。結局、オランダに対する強制措置に同調しているように見られて、ロシアとの仲が悪くなることを恐れたため、彼は後退し、係争中の領土を自国へ引き渡す代わりに、直接オランダ王へ委ねるよう求めた。フランス内閣は、イギリスがこれに同意しそうに見えていたとはいえ、この提案を受け入れることはできなかった。実際、パーマストン卿はミントー卿に、五大国が合意して、それらの領土をウィレム王に差し出すべきだと書き送っていた(ブレッソン氏の十二月十九日付外交報告)。要するに、何の解決も得られず、この長い交渉の成果は、時間を稼ぎ、フランス軍がプロイセンの反対を受けずにアントウェルペンを占領できるようにしたことだけだった。そしてそれこそが、もともとフランス内閣の本当の目的であった。
[9] ゴブレ将軍は九月十八日に外務大臣に任命され、その後の九月二十七日に退任した。
[10] ギルバート・エリオット、ミントー伯爵は一七八二年生まれ。一八〇六年に庶民院議員となり、一八一四年、父の死に伴って貴族院に入った。ホイッグ党に属していた。一八三二年にベルリン駐在大使に任命された。一八三五年四月には郵政総監となり、次いで海軍卿となった。一八四一年に退任し、一八四六年には王璽尚書となった。一八五二年に政界を退き、一八五九年に死去した。
[11] プロイセン公使館参事官。
[12] ブレッソン氏からブロイ公への十月十一日付外交報告(15頁参照)。
[13] ルートヴィヒ・カール・ゲオルク、オンプテダ男爵は一七六七年生まれ。ハノーヴァーの政治家・外交官である。一七九一年にはドレスデン公使館書記官、一七九五年にはベルリン駐在代理公使だった。ハノーヴァーがプロイセンの支配下に入ると、オンプテダ氏はプロイセンに仕官し、ドレスデンでその代表を務めた。一八一五年、再びハノーヴァー臣民となり、ベルリンに派遣された。一八二三年に国務大臣となり、次いでロンドンで国王直属の大臣となった。一八三七年に退任し、一八五四年に死去した。
[14] イギリスでは、黒人の奴隷制の問題によって、人々の感情が激しく昂ぶっていた。周知のとおり、この制度は一八三四年に廃止されることになる。一八三二年の時点で、政府はすでにその解決へと向かっており、植民地の奴隷の境遇を規制する一連の措置が議会で論じられていた(十一月二日付枢密院令)。こうした議論の引き起こした動揺は、植民地でかなり深刻な騒乱を生んだ。ジャマイカでは、一八三一年の反乱は凄惨なものだった。トリニダードとセントルシアでは、植民者たちが本国の命令に従うことを拒んだ。モーリシャスでは、検事総長が黒人の自由を支持する小冊子を刊行したことで、植民者たちの暴動を引き起こした。
[15] ランズダウン侯爵は、イギリス内閣の枢密院議長であった。関税率に加える変更について交渉するため、パリへ赴くところだった。
[16] 内閣は、ベリー公爵夫人との共謀の容疑で、ベリエ、シャトーブリアン、イド・ド・ヌーヴィル、フィッツ=ジェームズの各氏の逮捕を命じていた(六月七日)。後の三人は、彼らに不利な証拠が何も見つからなかったため、まもなく釈放された。ベリエ氏については、十月十六日、ブロワの重罪裁判所で審理された。訴訟の立て方があまりに不適切だったため、検察は起訴を取り下げざるをえず、被告は無罪判決を得て、それは彼の凱旋となった。
[17] 15頁参照。
[18] プロイセンは、決裂を防ぐために最後の試みを行っていた。ベルリン内閣は、会議の要求する譲歩の一覧をハーグに送っていた。十月二十三日、オランダの外務大臣は、国王がいくつかの修正を除いてこの案に同意すると、ロシア、プロイセン、オーストリアの各公使に告げた。条約はすぐさまロンドンへ送られた。会議でどのように迎えられたかは、すでに見たとおりである。数日後の十一月九日、ロンドン駐在のオランダ公使は、それをグレイ卿に伝えた。グレイ卿は、この条約はすべての困難を取り除くものではなく、しかも提出が遅すぎたのであって、いまやアントウェルペンからの撤退が、あらゆる新たな交渉に不可欠な前提となっていると答えた。
[19] この財政組合の問題は難解なので、若干の説明が必要である。
一八二二年十二月二十七日の法律によって、オランダ王国には、オランダ財政組合と債務償還基金に代わる債務償還組合が設立されていた。この債務償還組合には二億五千万フローリンが与えられた。ところが、会計の欠落や不備のため、一八三二年にはこの資金の使途を判断することができなくなっており、したがってオランダの債務額を正確に定めることもできなかった。ベルギーとオランダの全権代表は、この問題について果てしなく議論した。二十四か条条約は債務の分担を定めていたが、オランダ王は会議の示した数字を認めることを拒んでいた。
[20] ギゾー氏の国王宛報告参照(十月二十八日付『ジュルナル・デ・デバ』)。共和暦四年ブリュメール月三日の国民公会の法律によって設置された道徳・政治科学部門は、共和暦十一年プリュヴィオーズ月三日の統領政府の命令によって廃止されていた。
[21] 十月二十二日の協定を知らされたことに対する返答として、ロシアの全権代表がタレーラン氏とパーマストン卿へ送った覚書は、次のとおりである。
「下記署名者は、わが君主たる皇帝の明確な命令に従って、次の宣言を行う。
フランスとグレートブリテンがオランダに対して取ることを決定した強制措置が採用されたため、ロシアの全権代表が、与えられた訓令に従って会議から退く必要に迫られる事態が生じた。その訓令の内容は、他の内閣の全権代表にも知られている。
彼らは、自分たちが参加を求められた平和的仲介の性格を変え、もはや同僚たちの作業に加わることを許さなくなった重大な事情について、直ちに自国の宮廷へ報告する。
会議への参加を中断するにあたり、ロシアの全権代表は、いま行っているこの宣言を必要とした事情の重大さに基づいて、自国の宮廷が今後下す決定を待つものである。
リーヴェン。マトゥシェヴィチ。」
[22] アレクサンドル=ルイ・デュクレスト・ド・ヴィルヌーヴは一七七七年生まれ。十四歳で見習いとして入隊し、一八一四年には海軍大佐であった。一八三〇年には海軍少将で、トゥーロン艦隊の参謀長を務めていた。一八三二年、スヘルデ川に派遣された戦隊を指揮した。一八三四年にはロリアンの海事長官に任命され、一八三八年に退役し、一八五二年に死去した。
[23] この外交報告と同時に、タレーラン氏はブロイ公へ、次の私信を書き送った。
十一月三日。
「今日筆を執るのは、ゴブレ将軍との関係において、あなたがどのような相手を扱っているのか、よく知っていただくためです。ゴブレ将軍はオラニエ派です。彼は、ベルギーの急進派の人々に気に入られ、誤った措置へと彼らをけしかけるために、できる限りのことをしています。そうして問題を複雑にし、それによってオラニエ派に半ば開かれた入口を残しておこうとするのです。私はここで彼を見定める機会がありました。彼が傲慢にも持ち出す難題は、絶えず私たちを困らせていたのです。彼はブリュッセルで、ほぼ、共和主義者を装うわが国のシャルル十世派と同じ役割を演じています。セバスティアニとの通信の中で、私は、彼に信頼を寄せるべきではないと、何度も警告しました……」
[24] オランダ内閣は、十月二十二日の協定の命令に従うことを拒んだ。十一月十五日の条約の批准書を交換する前に自国の軍をベルギーから撤退させることは、交渉の趣旨に反すると宣言し、さらに、アントウェルペンを放棄することで、分離に際して公平な条件を得るために役立つはずの担保を手放さないことこそ、オランダの絶対的な義務だとした。
[25] ルイ=シャルル、ド・メナール伯爵は一七六九年生まれ。一七八九年にはコンティ連隊の大尉であった。亡命し、コンデ軍に従軍したのち、王政復古までイギリスにとどまった。その後、大佐となり、ベリー公の副官、次いで公爵夫人の主席馬係となり、フランスの貴族院議員にもなった(一八二三年)。一八三〇年の革命後、ベリー公爵夫人に随行してイギリスとイタリアへ行き、フランスにも同行した。逮捕され、裁判にかけられたが、無罪となった。フランスを去り、一八四二年に死去した。
[26] この条約案についてグレイ卿がザイレン氏へ行った返答は、34頁とその注を参照。ここで問題とされている文書は、その返答を詳しく述べた書面の覚書である。
[27] フランス軍がベルギーに入ると、プロイセンはマース川に監視軍を集結させたが、攻撃的な動きは何一つ行わなかった。
[28] 暗殺の実行犯はついに見つからず、そのため反対派は、この襲撃は警察の仕組んだものにすぎないと言った。やがてベルジュロンという者が逮捕されたが、無罪となった。
[29] ペスカトーレ氏は、ルクセンブルク民政政府の一員で、トルン氏の逮捕に対する報復として、一八三一年十月にベルギー憲兵隊に逮捕されていた。二人の囚人は一八三二年末に交換された。
[30] ナムク・パシャの使節については、95頁および108頁参照。
[31] サー・ストラトフォード・カニングは、元イギリス駐オスマン帝国大使で、一八三一年十一月、特別な使命を帯びてコンスタンティノープルへ派遣されていた。ギリシアのために国境の拡張を求めることになっていた。
[32] ご承知のとおり、ドン・ペドロは一八三二年三月三日、テルセイラ島に上陸していた。七月八日にはポルトに入り、同地は立憲政府の中心となった。一方、ドン・ミゲルはリスボンで絶対主義の体制を維持していた。兄弟の間で激しい争いが始まった。
[33] ジャン=ポール・アダム、シュラム伯爵は一七八九年生まれ。一八〇三年に入隊し、一八一三年に陸軍少将となった。王政復古期には引退生活を送り、一八三二年にアントウェルペンの戦役に参加し、陸軍中将となり、フランスの貴族院議員にもなった(一八三九年)。一八五〇年に陸軍大臣となり、一八五二年に元老院議員に任命された。一八八四年に死去した。
[34] 15頁参照。
[35] ドン・ナルシスコ・デ・エレディア、オファリア伯爵は、スペインの政治家で、一七七七年生まれ。一八〇〇年にワシントン大使館書記官となった。ジョゼフ王の即位時に公職を退いた。一八二三年に司法大臣に任命され、次いでロンドン駐在特命公使(一八二七年)、パリ駐在大使(一八二八年)となった。一八三二年にはセア・ベルムデス内閣の内務大臣となった。一八三七年に首相兼外務大臣となり、一八三八年に退任し、一八四三年に死去した。
[36] タレーラン氏が十一月三十日付書簡でブロイ公に話していた仲介案のことである(62頁参照)。
[37] アマーブル=ギヨーム=プロスペル・ブリュジエール、ド・バラント男爵は、一七八二年リオン生まれ。一八〇六年に国務院参事官補となり、副知事、次いで県知事を務めた。百日天下の際に辞職し、その後、国務参議、次いで代議士、さらにフランスの貴族院議員となった(一八一九年)。七月革命後にはトリノ駐在大使に任命され、次いでペテルブルクに赴き、一八四八年までとどまった。一八六六年に死去した。
[38] シャッセ将軍は、攻城塹壕が開かれてから二十五日、砲撃が始まってから十九日を経た十二月二十三日、降伏していた。
[39] デレーグ侯爵がフランスとイギリスの名において、オランダ政府に提出した協定案。
第一条。オランダ王は、リロおよびリーフケンスフークの両砦から自国の軍を撤退させることを約束する。
第二条。オランダ王は、批准後直ちに、マース川とその支流を商業に開くことを約束する。
第三条。最終的な講和が成立するまで、スヘルデ川の航行は自由とする。
第四条。ベルギー側は、フェンロー、リンブルフのオランダ側の部分、およびルクセンブルクのドイツ側の部分から撤退し、これらをオランダ王へ引き渡す。
第五条。ベルギー側は、リンブルフを通ってドイツへ至る道路、およびマーストリヒトとシッタルトの道路を自由に使用できる。
第六条。オランダ王は、完全かつ全面的な大赦を約束する。
第七条。オランダ軍とベルギー軍は平時の編制に戻す。
第八条。フランスとイギリスにおけるオランダ船の抑留を解除する。
[40] この訓令は81頁参照。
[41] オランダ側の対案は、フランス・イギリス案にかなり近いものだった。ただし、第二条で述べられていたのはマース川だけで、その支流については触れられていなかった。スヘルデ川について、オランダ政府は、船のトン数に応じた税を徴収する権限を求めた。追加条項には、フランスとイギリスが、ベルギーからオランダへ、年額八百四十万フローリンを支払わせることを約束するとあった。軍備縮小については何も述べられていなかった。最後に、リンブルフの道路には通行税を設けることになっていた。
[42] 付録には、ルイ=フィリップ王からブロイ公への書簡(488頁)、およびブロイ公からタレーラン氏への私信が収められている。これらの書簡では、アントウェルペン遠征に続くこの交渉の時期に、フランス政府が従おうとしていた行動方針が説明されている。
[43] オランダ・ベルギー問題についてのこの説明を補うには、さらにいくらか述べておく必要がある。一月九日の対案と、フランス、イギリス、ベルギーの船舶にスヘルデ川の航行を禁じるというオランダの要求のため、両者の間に決裂が生じた。しかし、ハーグ内閣が譲歩したため、交渉は再開された。会議は一月九日の対案を退け、前の案にかなり近い第二の協定案を提示したうえで、全権代表は、提示された条件を基礎として最終条約に署名する用意があると付け加えた。ザイレン氏は拒絶し、オランダ側の第二の対案が出された(二月五日)。会議の構成員はきわめて激しく応答し、全面的な受理拒絶を突きつけた(二月十四日)。オランダは譲歩するように見えた。ザイレン氏は召還され、デデル氏が後任となり、オランダ外務大臣は議会演壇で、この交代は融和措置に好意的な意味に解すべきだと述べた。しかし、デデル氏が最初に提出した案には、ベルギーの中立を認めないなど、なお奇妙な要求が含まれていた(三月二十三日)。四月二日付の会議の返答。デデル氏の再答弁(四月十六日)。ついに、四月二十二日付の会議の断固たる威嚇的な覚書を前に、ハーグ内閣は屈服し、五月十日に、受諾されて五月二十一日の協定の対象となった条件を提案した。156頁および168頁参照。
[44] 東方問題は、ロンドンにおけるタレーラン氏の最大の関心事となってゆく。十年近くにわたってヨーロッパ外交をこれほど深く揺さぶった出来事は、スルタン・マフムトとエジプトのパシャ、ムハンマド・アリーとの対立であった。後者は一七六九年生まれで、かつては一介のアルバニア人兵士だったが、エジプト副王となり(一八〇六年)、その称号はオスマン帝国政府から認められていた。彼は巧みな手腕と精力によって、エジプトに陸軍、海軍、行政組織を作り上げた。同時に、上エジプト全域、ヌビア、アラビアの一部を征服し、トルコ帝国を犠牲にしてエジプト帝国を築こうという意図を隠さなかった。宗主と臣下との間には、必然的に決裂が起こるはずだった。ムハンマドは一八三一年、ギリシア独立戦争への協力の報酬としてシリアを与えることをスルタンが拒んだのを、口実とした。彼は直ちに息子イブラヒムをこの地方へ侵攻させた(一八三一年十一月)。イブラヒムはガザ、ヤッファ、サン=ジャン=ダクルを占領し、ホムスとベイランでトルコ軍を破った。シリアからアナトリアへ進んだイブラヒムは、そこでコニアの大勝利を収めた(一八三二年十二月二十一日)。ヨーロッパが介入したのはこの時である。ロシアはトルコに援助を申し出た。この働きかけが、当然ながらフランスとイギリスの疑念を呼び起こし、外交界のすべての目をボスポラスの岸辺に向けさせたのであった。
[45] オトン王は一八三三年一月十四日、ナフプリオンへ向けてブリンディジで乗船していた。新政府には、あらゆる種類の困難が押し寄せていた。住民の中でも最も騒がしく大胆な一群であるパリカーレたちと、その先頭に立つ恐るべきコロコトロニスが政府に敵対していたうえに、ほとんど文明化されず、財政資源もほぼない国で、行政組織全体を一から作り上げなければならなかったのである。
[46] スペイン王位継承の問題は、半島全体を深く揺さぶっており、ヨーロッパも無関心ではいられなかった。フェルナンド王は四度目の結婚で、一八三〇年十月十日生まれの王女イサベルをもうけた。スペインでは、かつて女性も王位に就いていたが、ブルボン家最初の王フェリペ五世が一七一四年に定めた王位継承法によって、女性は王位から排除されていた。したがって、サリカ法によれば、フェルナンドの死後、王位は弟のドン・カルロスに帰するはずだった。しかし、フェルナンドは一八三〇年に一七一四年の法律を撤回した。一度はこの撤回を取り消したのち、再びそれを確認し、その後、一八三三年九月二十九日に死去して、母マリア・クリスティーナの摂政のもと、娘イサベルに王冠を残した。こうして、ドン・カルロスの支持者とイサベル女王の支持者の間で、長年にわたる戦争が始まった。ドン・カルロスは絶対権力を代表していた。マリア・クリスティーナは、彼に抵抗するため、立憲派を頼りにせざるをえなかった。そのため、絶対主義的な思想に完全に従属していた大臣セア・ベルムデスとは、まもなく決別することになった。スペインの危機は、その頃ポルトガルを襲っていた危機と密接に結びついていた。というのも、リスボンに絶対主義政府が成立するか、立憲政府が成立するかは、必ずマドリードに反響を及ぼすはずだったからである。それゆえ、フェルナンド王は生きている間、ドン・ミゲルを支持していた。これに対し、摂政王妃はドナ・マリアに好意を寄せるはずだった。さらに、ドン・ミゲルが勝利すれば、ドン・カルロスはポルトガルで避難先とあらゆる種類の援助を得られた。このことから、ヨーロッパ外交の目には、スペインの王位継承とポルトガルの王位継承が一つの同じ問題を成していたこと、そして、とりわけフランスとイギリスが、立憲的な内閣を伴うイサベル女王の治世に利害を持っていたことが理解できる。
[47] どうやらポッツォ伯爵は、ヨーロッパ旅行の途中で、ロシアとの同盟案を、オーストリアとプロイセンの両内閣へ送っていたようである。この案はまず、フランスとイギリスの十月二十二日の協定と、それから生じうる危険のために、三宮廷にはヨーロッパの平和維持に向けて協議する義務があると宣言していた。それに従って、フランス軍がベルギーに入れば直ちに、プロイセン軍が前進し、フェンロー、およびリンブルフとルクセンブルクのうちオランダに割り当てられた部分を占領する、と定められていた。プロイセンは、三締約国の名において、その権限のもとでこれらの領土を保持し、アントウェルペンの占領後にオランダ側へ引き渡すことになっていた。ロシアとオーストリアは、プロイセンの軍事行動に加わると宣言し、それに連帯して責任を負うことを受け入れ、全力でプロイセンを支持することを約束した(一八三三年二月十四日付、ブレッソン氏から外務省への外交報告の抜粋)。
[48] サー・ストラトフォード・カニングのコンスタンティノープルへの使節については、59頁とその注を参照。
[49] 選挙は内閣にきわめて有利な結果となっていた。圧倒的多数がホイッグ党員で占められた新しい議院には、反対派は二つの弱小集団しかなかった。一方はトーリー党、他方は急進派である。
[50] リチャード・ウィリアム・ペン、ハウ伯爵は、同姓の提督の孫で、一七九六年生まれ。一八二〇年、カーゾン子爵の称号で貴族院に入り、十五年間、イギリス王妃の大侍従を務めた。
[51] ウィリアム=バジル・パーシー=フィールディング、デンビー伯爵は一七九六年生まれ。祖父を継いで貴族院に入り、トーリー党に属した。王妃の大侍従を務めた。
[52] マドリード駐在フランス大使レーヌヴァル氏は、この件について次のように書いていた。「セア氏がサー・ストラトフォード・カニングの使命について詳しく話すのを、何も妨げることはできなかった。セア氏は、王位を占めている君主に対し、その君主を相手とする戦争を促した国が休戦を提案するというのは、非現実的なことだと考えており、中立の侵害には、あらゆる手段を用いて反対するという、固い決意を示していた。」レーヌヴァル氏によれば、サー・ストラトフォード・カニングは、セア氏を倒すまでは、その使命を成功させることはできなかった(一八三二年十二月二十九日付、レーヌヴァル氏から外務省への外交報告の抜粋)。
[53] 亡くなったばかりのヴォーデモン公妃。
[54] 一月五日の議事。この日は、ベリー公爵夫人に関して代議院に寄せられた請願についての、サペ氏の報告が討議された。一部は公妃の釈放を要求し、他のものは国民投票によってその処遇を決めるよう求めていた。どれも七月革命に対する抗議を含んでいた。代議院は、長く騒然とした議事ののち、政府が求めた、何の決議も加えず単に次の議事へ移ることを可決した。こうして政府は、行動の自由を保った。
[55] 実際、ドナ・マリアは、ドン・ペドロが最初の結婚で妻とした大公女レオポルディーネを母として、フランツ皇帝の孫にあたる。
[56] ロンドン駐在オーストリア大使館書記官。大使エステルハージ公の不在中は、代理公使を務めていた。
[57] 90頁参照。
[58] ウィリアム・ハスキソン(一七七〇―一八三〇年)は、一八二三年の商務院長であり、その職務にあって、自由貿易を最も熱心に擁護した人物の一人だった。
[59] ムハンマド・アリーは、一月初めに自分の提案をスルタンへ届けていた。次の条件を基礎として交渉することを申し出ていたのである。
貢納を条件として、オスマン帝国政府がシリアのパシャ管区と、アダナ地区を譲渡すること。
エジプトとオスマン帝国政府を結ぶ関係を変更し、エジプトのパシャを、かつてのアルジェの太守と同じ立場に置くこと。
[60] コニアの戦い(一八三二年十二月二十一日)。トルコ軍はこの戦いで壊滅した。この戦いのあと、上で述べた交渉が開始された。
[61] この外交報告(一月二十一日付、外交報告第十三号)で、ブロイ公はタレーラン氏に、東方における共同仲介案をイギリス内閣へ提案するよう求めていた。この外交報告は付録493頁参照。
[62] ポンソンビー卿は、駐オスマン帝国大使に任命されたばかりだった。
[63] ムラヴィヨフ将軍は、ムハンマド・アリーに対抗する援助をスルタンへ申し出る任務を、ロシア皇帝から与えられていた。コニアの敗北の衝撃のもとにあったスルタンは、はじめは喜んで受け入れ、さらに、ムハンマドに自軍を停止するよう要求するため、ムラヴィヨフ将軍がアレクサンドリアで遂行することになっていた使命にも同意した。
ニコライ・ニコラエヴィチ、ムラヴィヨフ=カルスキー公は一七九三年生まれ。入隊して一八一二年から一八一五年の戦役に従軍し、一八二九年に少将、ポーランド戦争(一八三一年)のあとに中将となった。一八三二年にトルコとエジプトへ派遣された。一八三八年から一八四八年まで不興を被り、一八五四年にコーカサス軍の総司令官、次いで国務参議となった(一八五五年)。一八六六年に死去した。
[64] パリのロシア大使館参事官であるメデム伯爵は、大使ポッツォ・ディ・ボルゴ伯爵の不在中、代理公使を務めていた。
[65] 絶対主義派、すなわちカルリスタに与えられた名称。
[66] フランスのソリニャック将軍は、ポルトでドン・ペドロ軍の一部を指揮していた。
[67] 一月三十一日付外交報告、114頁参照。
[68] コニアの戦いが引き起こした最初の恐怖が過ぎると、スルタン・マフムトは、ロシア人をトルコへ呼び寄せた自分の行為が軽率だったことを、まもなく理解するようになった。そこで考え直し、フランス代理公使ド・ヴァレンヌ氏の助言を受け入れて、パシャと交渉することに決めた。彼は元海軍総司令官ハリル・パシャをエジプトへ派遣した。一方、ヴァレンヌ氏は、この交渉の申し出を受け入れるよう説得するためムハンマド・アリーへ、進軍を停止するよう求めるためイブラヒムへ、書簡を送った。後者はキュタヤで停止した。同時に、トルコの全権代表が一月二十一日にアレクサンドリアへ上陸した。アクル、トリポリ、ナブルス、エルサレムの各統治職への任命をパシャへ提案する任務を帯びていた。ムハンマドは、シリア全域とアダナを要求した。スルタンは、続く五月五日に、この条件を受け入れた。
[69] イギリス・フランスの協調は、大陸の諸内閣を著しく恐れさせていた。とりわけアンシヨン氏は、深い苛立ちを隠さず、ブレッソン氏も通信の中で、フランスとイギリスがオランダと独自に交渉することへの、ベルリンの不満を強調していた。「たとえばベルンシュトルフ氏のような、この国の善意ある人々は、私たちとオランダ王との交渉が満足な結果を得ることを望んでいます。しかし、それはアンシヨン氏の望むところではありません。彼は、何らかの影響力、少なくともいくらかの重要性を取り戻そうと、困難が起こることを当てにしているのです。ハーグ内閣に引き続き譲歩を促していると私たちに言う時、彼は私たちを欺いていると、私は確信しています」とブレッソン氏は書いていた(二月十日付外交報告)。プロイセン政府の敵意は、とくにイギリスに対して激しかった。「イギリス内閣の侮辱的な傲慢さは、おそらくパーマストン卿個人の性格によるものでしょう。しかし、それにも終止符が打たれなければなりません」とアンシヨン氏はブレッソン氏に語っていた(ブレッソン氏の一月十七日付外交報告)。一方、ミントー卿は、プロイセンの大臣との会談を終えたあと、ブレッソン氏へ次のように書いた。「どれほど不誠実なことをされても驚きはしません。しかし、昨夜彼の中に見いだした、罪深いほどの愚かさには、備えができていなかったと認めます。彼は、私たちが知り合って以来ベルギー問題について私に語ったことを、すべて否認したのです」(ブレッソン氏の二月十日付外交報告)。ウィーンでも、苛立ちと不安は同じほど激しかった。そのため、ドイツの二宮廷は、西方の二大国の間に疑念の種をまいて、その結束を揺るがそうと努めていた。オーストリアとプロイセンが、この時期にフランスとの接近を試みたのは、このためである。アポニー氏とヴェルター氏はブロイ公を訪れ、強制措置を停止することを条件として、ベルギー問題に関する会議の交渉を再開しようと提案した。公爵は、この情報をタレーラン氏に伝える際、次のように付け加えた。「ウィーンとベルリンの両内閣の働きかけを、その現在の態度全体や、ロシア宮廷が最近になって示している、より穏健な発言と照らし合わせると、この三政府は、自分たちが参加しないままベルギー問題が解決されるのを恐れて、軽率な苛立ちのあまり自らを追いやった受動的な役割から、早く抜け出したがっていると考えられます。この傾向は、とりわけベルリンで支配的です。そこでは、アンシヨン氏の政策が、ほとんど満場一致の不賛成を招いています。おそらく、この接近の試みには、フランスとイギリスの間に分裂の種、少なくとも不確実さの種をまく目的もあるのでしょう。その仮定に立てば、イギリス政府の革命的傾向と、優越した力を誇示する態度について、オーストリアとプロイセンが絶えず私たちに訴えてくる不満を、十分に説明できます」(ブロイ公からタレーラン公への二月七日付外交報告。二人の大使との会話を述べたブロイ公の長い書簡も、付録495頁参照)。
[70] 二年来、深刻な騒乱がスイスを揺さぶっていた。七月革命に続いて、いくつかの州で反乱が起こり、新しい州憲法が制定された。そのため、連邦規約を各州の改革と調和させる必要が生じた。連邦議会は一八三二年七月二日に開会し、規約を改正すべきだと決定した。ロッシ氏の提出した案は、多くの修正を加えられながらも可決され、各州の承認に付された。これをきっかけに、いくつかの州では深刻な騒乱が起こり、本当の内戦へと発展した。そのため連邦議会は、住民投票を延期した。改正憲法は適用されず、すべてが未決のままになった。
[71] 三月八日の議事。アフリカ軍のために求められた予算に関連して、首相スールト元帥は、次のように述べていた。「……アルジェに関して外国列強との間に何の約束もないことは、すでに申し上げました。フランスは、その政策に従って適切と判断することを、この国について何でも行うことができます。政府の取った措置も、皆さんに求めているこの資金そのものも、私たちがこの国を放棄しようと考えているなどとは、ほとんど信じられないことにしているのです……」
[72] コンスタンティノープルでは、次のようなことが起こっていた。
フランス大使ルサン提督は、ロシア艦隊がボスポラスに入った時、すなわち二月十七日に、コンスタンティノープルへ到着していた。彼は直ちに、オスマン帝国政府がロシア艦隊の退去を求めないなら、自分はその場で去ると宣言した。スルタンは、ロシア艦隊こそ、イブラヒム軍から自分を守る唯一の保障だと答えた。提督は、ムハンマドに講和を強制し、ハリルが持参した条件を受け入れさせることができると請け合った(126頁とその注を参照)。フランスがこれほど熱心に自国の利益を擁護するのを喜んだ帝国の評議会は、直ちにロシア側の退去を求め、ロシア艦隊は数日後に撤退した。この撤退は、初めフランスの勝利とみなされた。しかし、翌月、ムハンマドは提督の強い要請にもかかわらず、ハリルの条件をはっきりと拒んだ。そこでスルタンはロシア側を呼び戻し、軽率にも約束をしてしまったわが国の大使の立場は、きわめて困難になった。
[73] パーマストン卿が弟のサー・ウィリアム・テンプルに書いたことを信じるなら、それはイギリス内閣の考えでもあった。「ルサンは、トルコ側とエジプト側との争いを、見事に終結させました。ロシアの提督を、尻尾を巻いて追い返したのも、よくやりました」と彼は三月二十一日付書簡で述べている(『パーマストン卿私信集』)。
[74] シャルル=ジョゼフ=エドモン、ド・ボワ=ル=コント伯爵は一七九六年生まれ。一八一四年に外交官となり、ウィーン、ペテルブルク、マドリードへ赴いた。一八二九年に外務省政務局長となった。七月王政下では、ポルトガル、オランダ、スイスの公使となり、一八四五年にフランスの貴族院議員に任命された。一八六三年に死去した。
[75] サー・ジェイムズ・グレアムは一七九二年生まれ。庶民院議員で、グレイ内閣では海軍卿を務めた。一八四一年に内務大臣、一八五二年に植民地大臣となった。一八六一年に死去した。
[76] 四月三日、フランクフルトで流血を伴う反乱が起こっていた。これは、七月革命がドイツ全土で引き起こした動揺と騒乱の最後の出来事であった。運動は連邦議会の軍によって鎮圧され、この共和国の領土は、オーストリアによって軍事占領された。
[77] 実際、メッテルニヒ氏は、とくに東方問題について、交渉の中心をロンドンの外へ移すことを、きわめて強く望んでいた。すでに一月には、その意向をセント・ジェームズ内閣へそれとなく伝えさせていたが、拒絶されていた。二月初め、ベルリンとウィーンの両宮廷がフランスへの接近を図った時(127頁とその注を参照)、根底では同じ目的を持つ働きかけが、テュイルリー内閣にも試みられた。東方の出来事が急展開し、コンスタンティノープルでスルタンとエジプトのパシャとの間に合意が成立すると(175頁参照)、メッテルニヒ氏の憤懣は、さらに増した。彼はサント=オレール氏に、すでにパーマストン卿とブロイ公に行った提案を繰り返した。ブロイ公は、タレーラン公へこれらの出来事を知らせる際、次のように付け加えた。「メッテルニヒ公は、サント=オレール氏から今月五日に結ばれた取り決めの条件を聞くと、かなり激しい動揺と不安を示しました。彼はアダナの領土に、非常な重要性を認めています。そのため、列強は、オスマン帝国政府とパシャの間で合意された取り決めを維持するために力を合わせるべきだと考えている一方で、この点については変更することが不可欠だと信じています。東方問題について意思を合わせ、そのためにウィーンへ、国際会議でもなく、正式な協議会ですらなく、審議の中心を設ける必要があると、彼は漠然と語っています。これらすべては、まことに曖昧で、東方の出来事についてウィーン内閣が自らを置いた、誤った不確かな立場を、著しく反映しています」(五月二十六日付外交報告)。テュイルリー内閣は、オーストリアの要求を受け入れることを拒んだ。「私たちは、オーストリアの提案に何の対応も取りません」と、八日後にブロイ公は書いた。「サント=オレール氏は、オスマン帝国の状況に関して、宰相が自分に示すべきだと考えるどのような提案についても、宰相と論じる権限を与えられている、とメッテルニヒ氏へ伝えるだけにします」(六月三日付外交報告)。
[78] 134頁参照。
[79] 144頁参照。
[80] この外交報告でブレッソン氏は、マトゥシェヴィチ伯爵が、四月二日の覚書にプロイセン内閣も加わるよう促す任務を帯びて、ベルリンへ到着したことを知らせていた。ご承知のとおり(89頁参照)、この覚書は、三月二十三日の案でデデル氏が示した、受け入れがたい提案への返答として、タレーラン公とパーマストン卿がデデル氏に送ったものである。ブレッソン氏は、マトゥシェヴィチ氏の働きかけについて報告し、同氏がプロイセン王を説得したと述べた。彼は、とくに自国の宮廷へ事前に諮ることなく行動した、その大胆さを称賛した。また、同じ目的でオーストリア公使にも求めたが、公使は返答せず、ウィーンに訓令を求めたことも述べていた。
[81] 134頁参照。
[82] ベルリンでのマトゥシェヴィチ伯爵の使命は、多くの紆余曲折を経ていた。当初は成功するように見え、ブレッソン氏は、マトゥシェヴィチ氏が、二つの場合にオランダ内閣へ提出される共同覚書の文言をアンシヨン氏と定めたうえで、ハーグへ発つと知らせることができると思ったほどである。第一の場合は、四月二日の覚書に対する返答が、否定的、曖昧、または引き延ばしを図るものである時。第二の場合は、妥当な期間内に返答しない時であった。返答が好意的であれば、この働きかけは行わず、ベルリン内閣は、最終条約の締結を早めるため、他の宮廷の努力に加わることになっていた。すべてが整ったと思われた時、突然アンシヨン氏は考え直し(ブレッソン氏の四月二十二日付外交報告)、もはや共同覚書を送る必要はないと述べた。しかし、フランス公使は再び働きかけ、イギリス公使ミントー卿の協力によって、ついに国王を説得した。結局、五月六日にブレッソン氏は、覚書が前日にハーグへ送られたと、パリに書き知らせることができた。彼は、オランダ王が拒否した場合、プロイセンは彼を独力に委ねる決意であると、アンシヨン氏が自分へ述べたことも付け加えていた(ブレッソン氏の公式通信)。
[83] ご承知のとおり(89頁参照)、デデル氏は四月十六日の覚書によって、会議へ新たな提案を行っていた。ロンドンで受け入れがたいと判断されたこれらの提案は(この件については、パーマストン卿からタレーラン氏への書簡、付録502頁参照)、会議から、ハーグ内閣宛の共同書簡という形で、きわめて激しい返答を引き出した。ここで述べられているのは、この四月二十二日付書簡である。
[84] 153頁参照。
[85] デレーグ侯爵はフランスの外交官で、この時はハーグの大使館書記官であり、一八三二年以来同地に滞在していた。最初に派遣されたのは、一八二七年のコペンハーゲンである。一八三五年、第一書記官としてコンスタンティノープルへ赴き、その後、特命全権公使としてカールスルーエ(一八三八年)、次いでドレスデン(一八四五年)へ派遣された。
[86] サー・アーサー=イングラム・アストンはイギリスの外交官で、一七九八年生まれ。一八三三年にはパリの大使館書記官だった。一八四〇年にマドリード駐在公使に任命された。
[87] 「オルレアン公が到着し、私は昨日、タレーランのところで彼と食事をしました。一八三〇年にパリで会った時と比べ、驚くほど美しくなっています。その頃からすでに、とても立派でした。しかし、それ以来、彼は大人の男に成長し、たいへん端正な青年となりました。身分にふさわしい物腰と態度を備え、王位継承者らしい、実に見事な風貌です。彼と交わした会話から判断して、知性も、身体と同じほど発達したように思われました……」(パーマストン卿からサー・ウィリアム・テンプルへ、一八三三年五月七日、前掲書)。
[88] ベリー公爵夫人は、ルケージ=パッリ伯爵と結婚していると公表したばかりだった。
[89] フリーデリケ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツは、プロイセン王妃ルイーゼの姉妹で、一七七八年生まれ。一八一五年、イギリス王ジョージ三世の息子で、のちにハノーヴァー王となる、カンバーランド公爵アーネスト・オーガスタスと結婚した。カンバーランド公爵夫人は、一八四一年に死去した。
[90] 長い議論ののち、デデル氏が「最終条約が署名されるまで、オランダ国王陛下は、ベルギーに対する敵対行為を再開せず、スヘルデ川の航行を完全に自由のままとすることを約束する」と宣言した、五月十六日の覚書。
[91] 一八三三年四月三十日に署名されたこの補足条約は、ギリシア王位の継承を定めた五月七日の協定の、第八条の規定を明確にし、補完することを目的としていた。オトン王の系統においても、場合によってはオトン王子の系統に代わることになっていた、ルイトポルト王子とアーダルベルト王子の各系統においても、王冠の継承は、長子相続の順序に従い、男子から男子へと定められるべきだと規定していた。女性が王冠を継承する資格を持つのは、この三系統の正嫡の男子相続人が、すべて絶えた場合だけであった。
[92] この協定によって、ウィレム王は、休戦の維持、スヘルデ川とマース川の航行の自由、およびマーストリヒト、ブラバント、ドイツの間の通行の自由を約束した。一方、オランダ船の抑留は解除され、戦争捕虜は釈放された。数行後に述べられている解釈条項は、次のようなものであった。
「締約当事国は、本日付協定の第三条に含まれる、敵対行為の停止に関する規定が、ルクセンブルク大公国、およびベルギー軍が暫定的に占領しているリンブルフの部分を含むことに合意する。また、本日付協定の同第三条にいう最終条約の締結まで、スヘルデ川の航行は、一八三二年十一月一日以前に存在したとおりに行われるものとすることも、了解される。本条は、同一の効力と価値を持つ……」
[93] ダルベルク公は四月二十七日、ヴォルムス近郊のヘルンスハイム城で、五十九歳で死去していた。
[94] ダルベルク公の死後、政府は、公爵の務めた職務を理由に、その書類を自国のものと主張し、封印させた(バクール氏の注)。
[95] オトン王にギリシアの王位を与えた一八三二年五月七日の協定に従い、署名した列強(フランス、ロシア、イギリス)は、若い国王が借り入れる六千万の借款を保証することを約束していた。ギリシアの歳入は、まず専らこの借款の利息と償還基金に充てられることになっていた。一八三三年一月二十四日、フランス内閣は、保証を与える権限を求める法案を提出した。四月四日、ペクサンス大佐がこれを支持する報告を行った。審議に入ったのは、ようやく五月十八日のことである。反対派から激しく攻撃されたこの案には、四日間の討議を要した。ついに賛成百七十五票、反対百十二票で可決された。十五日後には、貴族院でも賛成九十一票、反対九票の多数で可決された。
[96] 実際、五月五日にスルタンとエジプトのパシャとの間で取り決めが成立し、それに従ってイブラヒムは、タウルス山脈のこちら側へ撤退した。すべての計画を狂わせるこの知らせを受け、ニコライ皇帝は、非常に広範な権限を与えてオルロフ伯爵をコンスタンティノープルへ派遣した。ルサン提督の示した懸念は、あまりに十分な根拠があった。この叙述の続きで見るように、ロシアの全権代表は、トルコとの防衛同盟条約の締結に成功したからである(七月八日)。実際にはトルコをロシア皇帝ニコライの意のままに置く、この条約の署名が済んで初めて、ロシア艦隊はボスポラスを再び通過した。
[97] ユゴン男爵は一七八三年生まれ。一七九五年に入隊し、海軍大佐としてナヴァリノの戦役に参加した。一八三一年に海軍少将に任命され、東方におけるギリシアの海賊行為を鎮圧する任務を与えられた。一八四〇年に海軍中将となった。一八五二年に元老院議員となり、一八六二年に死去した。
[98] 144頁とその注を参照。
[99] 一月二十八日付外交報告、110頁参照。
[100] 六月一日の覚書。ヴァン・ド・ヴェイエル氏は、六月十日、パーマストン卿とタレーラン氏宛の覚書で、五月二十一日の協定を受け入れると宣言して返答した。
[101] この時、ハーグ内閣と大陸の三宮廷、とりわけベルリン宮廷との間で、きわめて明瞭な接近の試みがあった。アンシヨン氏もそれに同調していた。六月十一日、ブレッソン氏は、オランダのフレデリック王子がベルリンへ突然到着したことを、驚きに不安を交えながら知らせていた。十三日には、この件についてアンシヨン氏と交わした会話を、外務省へ報告した。「フレデリック王子は、家の中へ爆弾が落ちるように、ベルリンへやって来ました。国王自身ほど驚いた者はいませんでした」と、プロイセンの大臣は彼に語っていた。アンシヨン氏によれば、王子は、父である国王から遣わされ、暫定協定の締結に果たした役割について、プロイセン王に、そしてその人を通じてオーストリアとロシアの両皇帝に、謝意を伝えるために来たと述べた。ブレッソン氏は、ベルリン宮廷に変化が見られるとも付け加えていた。同宮廷は、会議が仲裁者の性格を捨て、仲介者の性格を取ることを望んでいる、と彼は述べた。また、数か月前(ブレッソン氏の三月十二日付外交報告)、すでにこの考えへの最初の示唆を含む、メッテルニヒ氏からベルリンのオーストリア代理人クラム氏への書簡に、フランス内閣の注意を向けていたことを指摘した。この書簡はクラム氏がアンシヨン氏に伝えていたものである。彼はこの計画に、オランダ王のために介入しようとする、大陸の諸宮廷の固い意志を見ていた。ブロイ公は直ちにこの知らせをロンドンへ送り、会議の性格を変質させることを目指す、あらゆる提案と示唆を退けるよう、タレーラン氏に求めた(六月二十日付外交報告)。
[102] ロランス・ド・モンモランシーは、フランスの貴族院議員アンヌ・ド・モンモランシーの娘で、一八〇二年生まれ。一八一九年にテオドール、ボフルモン公と結婚した。一八六〇年に死去した。
[103] ラウール、モンモランシー公は、スペイン大貴族で、一七九〇年生まれ。一八〇七年に入隊し、ダヴー元帥の副官、次いで皇帝の侍従となった。王政復古期には、オルレアン公の副官となった。一八六二年に死去した。
[104] 両院の開会に際してベルギー王が行った演説。
[105] 二か月前から議会で激しい討論の対象となっていた、アイルランド国教会改革法案。
[106] 大幅な関税率引下げを含み、イギリスで待ち望まれていた新しい関税法が可決されないまま、代議院の会期は終わろうとしていた。そのため、会期末の議事の一つである六月十八日、内閣はサン=クリク氏に、次のような財政法への追加条項を提出させた。
「国王の勅令は、次の両院の会期までの間、一八一四年十二月十七日の法律の第三十四条によって認められた権限を拡張して、昨年十二月三日に代議院へ提出された関税法案の規定のうち、商業、農業および工業の利益のため緊急性を持つものを、暫定的に施行することができる。本規定に基づいて発せられた勅令は、法律に改めるため、次の会期に両院へ提出されるものとする。」
この条項の朗読は、代議院で激しい抗議を引き起こし、討議されることなく退けられた。それにもかかわらず、内閣は実行に踏み切り、六月二十九日には早くも、多くの減税を定める国王の勅令が『モニトゥール』に掲載された。ティエール氏がこれに副署していた。
[107] 批准書は五月二十九日、ロンドンで交換された。
[108] この進め方は、パリでは承認されなかった。テュイルリー内閣は、十一月十五日の条約によって解決済みと思われる問題について、交渉をやり直すことを望んでいなかった(この件については、アデライード王女の書簡、付録503頁参照)。
[109] 会議が無期限に会合を中断したのは、八月二十四日である。
[110] ブロイ公の七月一日付書簡で言及されている関税に関する国王の勅令の適用を検討するため、ロンドンへ派遣されたフランスの国務参議(バクール氏の注)。
[111] ネイピア艦長は、ドン・ペドロの艦隊を指揮していた。ポルトガルではカルロス・デ・ポンザの名を名乗っていたが、それは、一八一三年にナポリ沿岸の小島ポンザを、華々しく占領したことによる。
サー・チャールズ・ネイピアは一七八六年生まれ。一八〇九年に海軍大佐となり、一八一〇年にポルトガルの戦役に参加し、一八一五年までに何度も功績を挙げた。その後、非現役となった。一八二九年にはドン・ペドロに仕官し、その大義の勝利に貢献した。一八三四年に庶民院議員に選出された。一八三九年に代将、一八四六年に海軍少将、一八五三年に海軍中将に任命された。一八五四年、クロンシュタットの攻略に失敗してイギリスへ戻り、同地で一八六〇年に死去した。
[112] 176頁とその注、および208頁参照。
[113] 208頁および210頁参照。
[114] フェリックス・ルートヴィヒ・ヨハン・フリードリヒ、シュヴァルツェンベルク公は、オーストリアの将軍・政治家である。一八〇〇年生まれで、軍人と外交官の両方の道を進み、一八二四年にはペテルブルクの大使館付となり、次いでロンドン(一八二六年)、リオデジャネイロ(一八二七年)、パリ、ベルリンに赴いた。その後、トリノ駐在公使に任命され、そこからパルマ、ナポリへ移った(一八四六年)。一八四八年にオーストリア内閣の首班となり、死去するまで、この高い地位にあった(一八五二年)。
[115] ヌノ=カエタノ=アルヴァレス・ペレイラ・デ・メロ、カダヴァル公は一七九八年生まれで、ブラガンサ家の分家の出であった。ドン・ミゲルは、一八二八年に彼を首相に任命した。彼は精力的に絶対主義の大義を支持し、ドン・ペドロの勝利後はパリに逃れ、同地で一八三八年に死去した。
[116] アイルランド国教会改革法案についての採決のことである。貴族院では、賛成百三十五票、反対八十一票の多数で可決された。
[117] 七月革命の日々の記念祭。この年の特徴は、ヴァンドームの円柱に皇帝の像が再び据えられたことだった。
[118] ルイス・フェルナンデス・デ・コルドバは、スペインの将軍・外交官で、一七九九年生まれ。フェルナンド七世の最も忠実な支持者の一人であり、常に立憲派に対抗して国王を支えた。一八二五年にパリの大使館書記官となり、次いでプロイセン駐在公使となった。一八三二年にドン・ミゲルのもとへ派遣され、その大義を精力的に擁護した。スペインの内戦に参加し、イサベル女王の側に立った。一八四〇年に死去した。
[119] ジョアン・カルロス、サルダーニャ・オリヴェイラ・エ・ダウン公は、ポルトガルの政治家・将軍で、ポンバル侯爵の孫。一七八〇年生まれで、一八一〇年にフランスの支配を受け入れ、イギリス軍の捕虜となった。その後ブラジルへ渡り、ポルトガルへ帰国すると、ジョアン六世の外務大臣となった。国王の死後、自由主義派の指導者となり、ドン・ペドロの大義を支持した。一八三四年に元帥となり、一八三五年には陸軍大臣兼首相となった。一八三六年に政権を去り、十五年間、ポルトガルのあらゆる内戦に関わった。一八五一年に政権を掌握し、五年間保持した。元帥は、のちにロンドン駐在特命全権公使となった。一八七五年に死去した。
[120] 七月八日にオルロフ伯爵とオスマン帝国政府との間で署名された、ウンキャル・スケレッシ条約である。この条約によって、ロシアとトルコは、どのような性格のものであれ、外から、または内からのあらゆる攻撃に対する防衛同盟を結んだ。ロシアはトルコに、陸海で必要となるすべての援助を与えることを約束した。最後に、補足条項によって、必要な場合にはオスマン帝国政府がダーダネルス海峡を閉鎖する、すなわち、どのような口実でも、いかなる船もそこへ入ることを許さない、と合意された。
この条約は、八年間を期限として署名された。
[121] サント=オレール氏は、東方問題についてメッテルニヒ氏と交わしたばかりの会談を報告するため、七月五日にブロイ公へ書いていた。「メッテルニヒ氏は、この条約(ウンキャル・スケレッシ)について何も知らないと主張しています。しかし、もしこの文書が存在するなら、それは、オーストリアが関与しなかっただけでなく、ウィーン内閣が事前に察知するきっかけとなるような事情も一切ないままに、考案され、実行されたものだと断言しています。さらに彼によれば、それは、今後共同行動を取るべき理由を、もう一つ加えることになります。オスマン帝国政府の独立に対する、この新たな危険を重く見るほど、フランスとイギリスには、オーストリアとロシアに加わり、排他的な保護に共同の保護を代える理由がある、というのです。メッテルニヒ氏は、ロシアによる領土の拡張も、オスマン帝国政府に対する排他的な保護も、オーストリアは許さないと、繰り返し保証しています。メッテルニヒ公のロシアに対する不信と反感は極度に強いものです。それでも、いかなる代償を払っても、突然決裂する決意はしないでしょう。しかし、共同交渉を組織することを、強く望んでいます。」続く七月十四日、サント=オレール氏は、四大国がいずれも等しくオスマン帝国政府の存続に関心を持ち、その領土の保全を守る意向であることを、同政府に通告する必要について、メッテルニヒ氏と意見が一致した、と付け加えた(サント=オレール氏の公式通信)。
[122] 八月一日付外交報告、付録504頁参照。
[123] ヘンリー・アンウィン・アディントンは、同姓の大臣のいとこである。一七九〇年生まれで、外交官となり、ベルンとコペンハーゲンで公使館書記官、ワシントンで代理公使(一八二二年)、次いでフランクフルト(一八二八年)とマドリード(一八二九年)で特命公使を務めた。一八四二年にイギリス外務省次官となり、一八五四年に枢密院議員となった。
[124] 167頁参照。
[125] ルイ=オーギュスト=ヴィクトル、ゲーヌ・ド・ブルモン伯爵は一七七三年生まれ。革命の頃にはフランス衛兵隊の将校であった。亡命してコンデ軍に従軍し、次いでヴァンデへ赴いた。統領政府のもとで逮捕されたが脱走し、一八一〇年にフランスへ戻って軍務に就いた。陸軍中将となった。一八一五年の彼の行動は、周知のとおりである。一八二九年には短期間、陸軍大臣を務め、一八三〇年にはアルジェ遠征を指揮して、元帥の杖を得た。彼はルイ=フィリップ王への宣誓を拒み、一八三二年にはベリー公爵夫人に従ってヴァンデへ赴き、その後、ドン・ミゲルに仕官して、その軍を指揮した。一八四〇年にフランスへ戻り、一八四六年に死去した。
[126] アドリアノープル条約によって、トルコはセルビアのいくつかの地区を得ていた。この編入は、抗議なしに進んだわけではなかった。譲渡された地区の住民は蜂起し、セルビア軍の援助を得て、トルコ側を追い払った。
[127] アドリアノープル条約は、トルコに一億三千七百万の貢納金を課していた。これに対し、ギリシアがトルコに負っていたのは、北部国境を修正した一八三二年九月十六日の協定によって課された、千二百万だけであった。確かに、一八三三年一月二十九日の条約によって、トルコの貢納金は大幅に減額されていた。しかし、オスマン帝国政府がロシアに負う額と、ギリシアから受け取るはずの額との隔たりは、なお大きかった。
[128] ドン・ペドロの大臣。同王の姉妹であるアナ王女と結婚していた。
[129] フランス占領の時代、ジョゼフ王を支持するスペイン人が、こう呼ばれていた。のちに意味が広がって、自由主義者や革命派にも、この語が用いられるようになった。
[130] リュルド伯爵は、一八三三年以来ポルトガルの公使館書記官で、それ以前にはリオデジャネイロで任務に就いていた(一八三〇年)。一八三八年にコンスタンティノープルの大使館第一書記官となり、次いで一八四一年にブエノスアイレス駐在公使となった。
[131] おそらくこの問題についてパリの意向を探っていたタレーラン氏は、すでにその前の二月の時点で、アデライード王女から、きわめて断固たる返答を受け取っていた(この書簡は付録501頁参照)。
[132] ここで述べられている、ブロイ公がブレッソン氏へ送った外交報告は、付録505頁参照。
[133] スペイン内閣は、ドン・ペドロに対して激しい敵意を抱いていた。イギリスが公然と彼のために武器を取ることを恐れ、そうした行動は宣戦布告とみなす、と宣言していた。ドン・ミゲルの失脚は、スペインの現在の王政の失脚を招く、というのであった(レーヌヴァル氏の七月十三日および二十五日付外交報告)。八月二日、ドン・ペドロがリスボンへ入ったという知らせを受けると、マドリード政府はいよいよ強く迫るようになった。セア氏はレーヌヴァル氏に、ドン・ペドロを排除し、父を除いた摂政のもとでドナ・マリアを即位させよう、と提案した(八月十二日付外交報告)。アディントン氏の意向も、この点について探られた。八月九日、レーヌヴァル氏は、それまでの情報を確認し、ドン・ペドロとその憲法に対するあらゆる保障を与えられるなら、セア氏はドナ・マリアを承認することに、明確に同意している、と付け加えていた(レーヌヴァル氏の公式通信)。
[134] ブラジルはポルトガルから分離していたので、ドン・ペドロは、もはやポルトガル人ではなかった。また、ブラジル皇帝の称号を取るにあたり、ポルトガル王冠に対する権利を放棄していたので、ジョアン六世の相続人でもなかった。したがって、摂政は実際、ジョアン六世の娘で、ドン・ミゲルの姉である、王女マリア・イザベルに帰すべきだったのである。
[135] 237頁参照。
[136] ジョアン六世の死後、娘ドナ・マリアの名において摂政権を掌握した際、ドン・ペドロがポルトガルに与えた憲法。立法権を二つの議院に与え、一方は選挙、他方は国王の任命によるものとしていた。
[137] ジョージ=ウィリアム=フレデリック・ヴィリアーズ、クラレンドン伯爵は一八〇〇年生まれ。一八三三年にマドリード駐在公使に任命された。一八三九年に王璽尚書、一八四〇年にランカスター公領尚書、一八四七年から一八五二年までアイルランド総督、次いで外務大臣となった。一八五八年に辞任し、一八六四年に再びランカスター公領尚書となり、一八六五年に外務大臣に復帰した。
[138] ポルトガルの戦争中、ドン・ミゲル政府宛の書簡のいくつかが途中で押収され、イギリス内閣に伝えられていた。『タイムズ』紙は、それを知って掲載した。これらの通信の中で最も興味深いのは、ロンドンにおけるドン・ミゲルの秘密公使、アントニオ・リベラ・サライヴァという者が、カダヴァル公とサンタレン子爵に送った報告である。これらは、トーリー党の有力な構成員数名と、大陸のさまざまな宮廷の代表を、著しく危うい立場に置くものだった。一八三三年七月十四日付の書簡(八月二十日付『ジュルナル・デ・デバ』に転載)は、ブルモン元帥がロンドンで、ベレスフォード卿、オーストリア代理公使ノイマン氏、スペイン公使ヴィアル氏と行ったという秘密の会談を述べている。このポルトガルの代理人は、次のように書いていた。「ノイマン男爵は、彼自身だけでなく、多くの他の人々、とりわけウェリントン公も、ブルモン元帥がポルトガルへ向かうと聞けば喜ぶだろう、と私に語りました。彼は、三大国が、元帥を召し抱えるという陛下の決意を称賛しており、結局ブルモンは、ポルトガルへ赴くにあたり、ポルトガルの大義を救うだけでなく、半島全体における、ヨーロッパにおける、そして世界における、正統性の大義を救う使命を持つものと考えるべきだ、と付け加えました。」七月十七日、ドン・ミゲルの艦隊が壊滅したという知らせを受けて、リベラは再び書いた。「もはや、何の希望も持っていません。この件について、大国の大使たちや他の有力者と話しました。皆、私たちの大義は、完全に失われたとまでは言わなくても、少なくとも非常に危うくなったと考えています。私たちに関心を寄せる人々の唯一の希望は、ブルモン元帥が陸軍の指揮を引き続き執らなければならない、ということです……」
この通信の公表は、イギリスで大きな反響を呼んだ。庶民院でマレー氏は、この件についてパーマストン卿に質問し、これらの書簡が本物なのかどうかを尋ねた。「私の判断する限り、この通信はまったく奇妙なものです。また、かつてないほど忌まわしい政府の代理人として、ある人々がそこに名を挙げられているのを見るのは、遺憾なことです。これらの書簡が真実であるなら、イギリス人の品性をほとんど称揚するものにはなりません。しかし、尊い子爵がこれを否定することがおできになると、私は信じたいのです」と、その議員は付け加えた。パーマストン卿は質問者への返答を拒み、そのため、公表された文書の真偽についての疑いは、ほとんど残らなかった。
[139] ロシア皇帝はミュンヘングレーツへ向かっており、九月十九日にそこでオーストリア皇帝と会うことになっていた(271頁参照)。ポッツォ氏は、それを正式にブロイ公へ知らせに来て、公爵は国王へ報告した。「ポッツォ氏は、この旅の理由を説明するネッセルローデ氏の長い外交報告を、私に読み聞かせました。それによると、三君主は以前から、再会し、互いに友情の証を示したいと望んでいたのです。これまでは、政治上の事情、ポーランド戦争、コレラ、人々の心の動揺が、それを妨げてきました。いまはヨーロッパが完全に平和であり、ポーランドは穏やかで、東方問題は終わり、ベルギー問題も終わろうとしており、他のあらゆる問題は、ヨーロッパの平和を乱すには、あまりに小さなものです。ですから、三君主の意図を妨げるものは、もはや何もなく、その会談を不安を抱かせるような意味に解することはできません。そこに、秘密の計画や、彼ら自身に固有の目的を達するための協調を探してはいけません。彼らが互いに示そうとしているのは愛情の証であり、それ以外のものを探してはいけないのです。陛下、これが、この外交報告の要旨です。私は、フランスには関係のないこととして、賛成も非難もせず、会談の細部について少しも好奇心を示さずに聞きました。この会談が、何か深い秘密を隠しているかどうかは、時が教えてくれるでしょう。私は、そうは思いません。それでも、警戒を怠らず、すべてを観察するのがよいでしょう」(ブロイ公からルイ=フィリップ王へ、八月三十日)。
同様の働きかけが、リーヴェン氏からパーマストン卿にも行われた。パーマストン卿は、この件について弟に次のように書いている。「ボヘミアで三君主が会う理由は、あとで明らかになるでしょう。ネッセルローデは、私に見せるようリーヴェンに書き送って、ただ心を打ち明け合うためであり、政治は何の関係もないと言っています。このような愚かなことを、わざわざ書くとは、どういうことでしょう。まるで、彼らの言うことを一言でも私たちが信じるのを、本気で妨げたいかのようです……」(パーマストン卿からサー・ウィリアム・テンプルへ、一八三三年九月三日)。
[140] 七月二十八日にリスボンへ入ったドン・ペドロは、直ちに政府の手綱を握った。戦争が終わるまで憲章を停止し、フランスとイギリスの信頼を得ていたパルメラ公を内閣から退けて、民主主義的な思想の激しさで知られる人物を周囲に集めた。ドン・ミゲルの最も強固な支柱であった聖職者たちにも、厳しく対処した。教皇大使は、強制的にイタリア行きの船に乗せられ、イエズス会士は追放された。修道会への納付金の支払いは禁止された。政令によって、ドン・ミゲルが任命したすべての司教が罷免され、現在修道院にいる修練者が叙階を受けることを禁じられた。最後に、ドン・ペドロは、聖職禄への推薦権のすべてを王権に帰属させた。
[141] サー・ウィリアム・パーカーは一七八一年生まれ。ごく若くして海軍に入り、一八一〇年に海軍大佐、一八三〇年に海軍少将となり、その資格で、この頃イギリスがテージョ川河口へ派遣した戦隊の指揮を任された。一八三四年に海軍本部委員に任命され、一八四一年に再び任命された。同年、中国の海域におけるイギリス海軍を指揮し、一八六三年に海軍大将に昇進し、一八六六年に死去した。
[142] 国王は八月二十六日、ノルマンディーへの旅行に出発していた。シェルブール通過の際には祝祭が行われ、王室一家もそこで国王と合流した。国王は九月十二日にサン=クルーへ戻った。
[143] 「……ロイヒテンベルク公は、偽名でル・アーヴルへ到着していました。国王の政府は、彼が不正な旅券によって入国した以上、支障なくフランス滞在を延ばすことはできない、と彼に申し入れさせました。彼は初め、この要請に応じる意向をあまり見せませんでしたが、まもなく考え直しました。副知事へ書き送り、直ちにル・アーヴルへ来たのは、ドン・ペドロの家族をポルトガルへ運ぶ船が、そこにあると思ったからであり、その船の到着が遅れているようなので、自分はミュンヘンへ出発すると伝えたのです」(ブロイ公からタレーラン公へ、八月三十一日)。
[144] この外交報告でレーヌヴァル氏は、ポルトガルにおけるフランス・イギリスの仲介の可能性について、セア氏と交わしたばかりの会談を報告している。わが国の大使は、仲介する二大国が、スペイン内閣の誠実さについて、いくらか疑いを抱いていたことを、セア氏に隠さなかった。大臣は激しく抗議した。しかし、ポルトガルで行われる取り決めに際して、自分が提案する条件を示すことは拒んだ。ドン・ミゲルが勝利した場合、スペインは、イギリスの利益が少しも侵害されないようにすることを約束したが、ドン・ペドロが成功した場合には、イギリスから同等の保障を求めた。セア氏は、スペイン政府の節度を強調した。数千の兵だけで、自国の候補に有利に天秤を傾けることができる、というのであった。レーヌヴァル氏は、ドン・ミゲルの成功が確実と思われるため、スペイン内閣は、兄弟二人を同時に排除する考えを断念していた、と結んでいた。
[145] 実際、オランダ王は、ロシア、オーストリア、プロイセンの各宮廷の強い要請によって、この行動を取る決意をしていた。この目的で、フェリックス・シュヴァルツェンベルク公が、三君主の親書を持ってハーグへ派遣されていた。それは、「さらに抵抗を続けることの無益さと危険について」国王に理解させるためのものだった(ブレッソン氏からタレーラン氏への、一八三三年九月二十九日付書簡)。そこで、続く十一月、オランダ王は、ルクセンブルク大公国のワロン側の部分を、場合によって譲渡することについて、それぞれの同意を得るため、ナッサウ家の男系親族と連邦議会に働きかけた。連邦議会は、代わりに同等の領土を求める、と答えた。国王は、自分はすでに過大な犠牲を払っており、ドイツ連邦はルクセンブルクを守れなかったのだから、いかなる補償を求める権利もない、と答えた。そのため、この問題は未決のままとなった。ナッサウ公は、明確に同意を拒んだ。したがって、交渉は両方の点で失敗していた。
[146] ニコライ皇帝は、一八一七年、フリードリヒ・ヴィルヘルム三世の娘で、一七九七年生まれの王女フリーデリケ・ルイーゼ・シャルロッテ・ヴィルヘルミーネと結婚していた。
[147] カール・ルートヴィヒ、フィケルモン伯爵は、オーストリアの政治家・将軍で、一七七七年生まれ。マレンゴで戦死したフランス人亡命者の息子であった。オーストリア軍の少将となり、ストックホルム、フィレンツェ、ナポリ、ペテルブルクの特命全権公使を務めた。一八四〇年に陸軍大臣、次いで外務大臣となった。一八四八年には短期間、首相となった。一八五七年に死去した。
[148] 三宮廷の大使がテュイルリー内閣に働きかけたのを受けて、ブロイ公は、国外のフランスのすべての代理人へ回状を送った。以下のくだりは、その要約であり、ときには逐語的な転載でもある。この回状は、ドーソンヴィル氏の『フランス政府外交政策史』第一巻47頁に掲載されている。
[149] スウェーデン王カール・ヨハンは、七月革命を激しい苛立ちをもって迎えていた。新しいフランス公使サン=シモン氏が到着すると、他の列強に対するフランス政府の行動について、苦々しく不満を述べた。フランス政府が革命的宣伝を助長していると非難し、国王自身も誠実さと真心を欠くと責めた(サン=シモン氏の一八三三年十月六日付外交報告)。テュイルリー内閣は直ちにサン=シモン氏へ、旅券を求めるよう命じた。スウェーデン王は、かなり困惑したままとなり、決裂をもたらした発言を否認した。しかし、関係が回復したのは、ようやく一八三五年、モルネ氏がストックホルムへ派遣された時であった。
[150] とりわけ、メッテルニヒ氏に不本意ながら引きずられていたベルリン内閣は、ブロイ公の返答によって大いに動揺し、当惑した(この件についてのブレッソン氏の書簡、付録508頁参照)。
[151] 周知のとおり、この時期のプロイセンは、ドイツの関税同盟、すなわちツォルフェラインを設立するため、長い一連の交渉に入っていた。一八三三年三月二十二日には、すでにプロイセンと、バイエルンおよびヴュルテンベルクを含む八か国との間で、最初の条約が署名されていた。ザクセンは三月三十日に加入した。ドイツの他のすべての国も、徐々にこの同盟へ入り、それは一八七一年以来、帝国の憲法上の制度となっている。
[152] この案は、純然たる防衛同盟を定めていた。さらに、ヨーロッパの平穏と、それを構成する国々の独立が危うくなったと思われる、あらゆる場合に、両当事国は協議することを約束する、と付け加えていた。
[153] メッテルニヒ氏によって、ドイツ連邦の全般的な利益を審議するため、ドイツ諸国の代表による国際会議がウィーンに召集されていた。この会議は、五つの問題群を扱うことになった。
第一、主権は全面的に君主に属し、国民には属さないという原則。
第二、立法議会の会合の公開。
第三、学校と大学。
第四、新聞。
第五、各国の法と全般的な法との調和。
サント=オレール氏は、この国際会議の進行をフランス内閣へ知らせていた。ただし、その審議は、あまり反響を呼ばなかった。「オーストリアとプロイセンの間で、何らかの計画が定められていることは、疑われていません。しかし、この二大国、とりわけオーストリアは、発議が小国から出ることを望んでいます。そうすれば、小国の独立を尊重しているように見えるからです。一方、小国の政府は、自国の憲法を軽く扱うことに、きわめて乗り気ではありますが、それでも、自ら進んで憲法を犠牲にしたという非難を避け、自国民に対する責任から身を守ろうとしています」と、彼は十一月二十八日に書いている(サント=オレール氏から外務省への外交報告)。
[154] サント=オレール氏の外交報告は、実際、サー・フレデリック・ラムが自国政府へ送っていた報告を裏づけている。彼は十二月十二日、オーストリア内閣がパーマストン卿の申し出に非常に満足したと書いていた。オーストリア側は、東方問題におけるオーストリアとイギリスの利益と見解は同じだが、オーストリアは、イギリスが信用していないロシアと行動を共にしており、イギリスは、オーストリアがあまり信用していないフランスと行動を共にしている、と答えた。そのため、イギリスは、ロシアについてオーストリアの保証を受け入れるべきであり、そうすればオーストリアも、フランスについてイギリスの保証を受け入れる、というのであった(サント=オレール氏の公式通信)。
[155] サー・ジョン・ダンカン・ブライは一七九八年生まれ。初めは、一八二〇年にウィーンの大使館付となり、フィレンツェの公使館書記官を務めた。その後、ハーグ、次いで代理公使としてペテルブルクへ赴き、ストックホルム駐在公使、最後にハノーヴァー駐在公使となった(一八三八年)。
[156] 十二月二十五日付、サント=オレール伯爵の外交報告。大使は、メッテルニヒ氏と交わしたばかりの会談を報告している。メッテルニヒ氏は、ロシアとオスマン帝国政府の七月八日の条約が、恐るべき破局を準備していると考えている。ヨーロッパは、その防止に努めるべきであり、あらかじめ共同の協議を行ったうえでの共同行動によってのみ、防止できるという。そのため、会議の開催を提案している。これに対してタチシチェフ氏は、ムハンマド・アリーを威嚇するため、アレクサンドリアで共同行動を取ることしか聞こうとしない。サント=オレール氏は、このことから、東方問題について、オーストリアとロシアの意見は完全に食い違っていると結論づけている。オーストリアは、ヨーロッパに援助を求めており、最初に差し出される支持を受け入れるだろう、と彼は付け加えている。メッテルニヒ氏は、タチシチェフ氏の前で、彼にこう述べた。「私たちの間には少しも意見の相違がなく、東方問題におけるオーストリアの政策は、フランスの政策と完全に一致していると、ルサン提督に断言してください。」続いてサント=オレール氏は、サー・フレデリック・ラムが、東方問題に関する四大国の共同見解の表明に参加することを、自国政府へ提案するよう、メッテルニヒ氏から求められたと知らせている。それは、条約または共同宣言の形を取り、ヨーロッパ公法の基礎となるものだった。
[157] サント=オレール氏も、ウィーンにおけるサー・フレデリック・ラムの影響力の増大を、パリに知らせていた(十二月十二日付外交報告)。彼は、イギリス大使が、自国政府の命令に従って、イギリスをフランスとオーストリアの間に置こうと努めている、と断言していた(十二月二十五日付外交報告)。最後に、一月五日には、サー・フレデリック・ラムとメッテルニヒ氏の間で、自分に隠そうとしている何かが起きている、と述べた(この点については、ブロイ公からタレーラン氏への、一月二日付外交報告も、付録509頁参照)。
[158] 110頁および114頁参照。一月八日の外交報告は、『回想録』には掲載されていない。
[159] その記事は、次のとおりである。「東方問題は最近、ヨーロッパの平穏を深刻に脅かすような展開を見せた。ロシアとオスマン帝国政府との間で結ばれた条約は、主として商業と工業の利益に政策を向けているイギリスに、激しい不安を与えた。一方、フランスは、ルサン提督の精力的な示威行動によって、コンスタンティノープルで獲得した影響力を失うことを恐れた。このため、ロシアとイギリス、フランスの関係には、冷却が生じた……。このような衝突を避けるため、近年、全般的な平和とヨーロッパの現状を維持しようと、これほど精力的に行動してきたウィーン内閣は、ペテルブルク内閣に働きかけた。両者は、ミュンヘングレーツの交渉以来、ナポレオンとの戦争時に存在した関係を思い起こさせるような、親密な関係にある。ロシア内閣の返答は、あらゆる点できわめて満足なものであった。そして、両宮廷の間に、トルコ帝国の存続を、現在の王朝が絶える場合にも保証する一方で、ムハンマド・アリーを絶対に排除する条約が、いま結ばれたという。メッテルニヒ公は二日前、この条約の規定をイギリス大使サー・F・ラムに伝え、大使は、きわめて明確な言葉でこの交渉を承認したという。この交渉は、最も幸福な結果をもたらさずにはおかないものであり、ヨーロッパの諸問題をこれほど賢明に処理し、これほど長く私たちを、無政府状態と戦争の恐怖から守ってきた偉大な政治家に、秩序と平和を愛するすべての人々が感謝する、新たな理由を与えるものである。」
[160] ルイ=ピエール=エドゥアール、ビニョン男爵は一七七一年生まれ。早くから外交官となり、一七九七年にはベルン、一七九九年にはミラノ(チザルピナ共和国)、一八〇〇年にはベルリンの公使館書記官となった。一八〇二年に代理公使、次いでカッセル駐在公使となった(一八〇四年)。一八〇六年にプロイセン諸州の行政を任された。一八〇九年にオーストリア総行政官に任命された。ウィーンから、特命全権公使としてワルシャワへ赴いた。百日天下の間は外務次官で、六月二十二日には、数日間、この省の指揮を任された。ビニョン氏は一八一七年に代議士に選出され、一八三七年まで常に再選された。その後、フランスの貴族院議員に任命され、一八四一年に死去した。
[161] セア氏は、数人の総司令官の働きかけを受けて失脚した。彼らは摂政王妃に、内閣を罷免するよう懇願する陳情書を送っていた。王妃はこの問題を摂政評議会へ諮り、評議会はセア氏の退任が必要だと決定した。そのため、内閣は一月十六日に退任した。
[162] フランシスコ・マルティネス・デ・ラ・ロサは一七八九年生まれ。一八一二年にコルテス議員となり、自由主義派の最も有力な構成員の一人となっていた。一八二二年に内閣の首班となったが、絶対権力の復活後、追放された(一八二三年)。一八三〇年に祖国へ戻り、一八三四年に首相となった。一八四〇年にパリ駐在大使、次いでローマ駐在大使となった(一八四二年)。一八四四年にナルバエス内閣に加わり、一八四七年から一八五一年まで、再びパリへ派遣された。その後、コルテス第一院議長、次いで第一国務長官(一八五七年)、国務院議長(一八五八年)となった。一八六二年に死去した。
[163] メゾン元帥は、通信の中で、ペテルブルク内閣のこの方針転換へ政府の注意を促していた。十二月三十一日、ネッセルローデ氏が、東方問題でフランスの取った態度に対する全面的な満足を、自分に述べたと書いていた。「これほど合意に近いのですから、最後には歩み寄るべきです」と、ネッセルローデ氏は言った。一月三日、元帥は同じ考えに戻り、フランスが自国政府を安定させ、革命的宣伝を抑えるために行っている努力についても、ネッセルローデ氏が満足を示した、と記している。一月六日、大使は、皇帝と交わしたばかりの会談を報告している。その中で皇帝は、きわめて激しい言葉でイギリスを語った。彼は、ロシア政府が、十八か月前にはイギリスをフランスと仲たがいさせようとしたのに対し、いまはフランスをイギリスと仲たがいさせようとしている、と考えている(メゾン元帥の公式通信)。
[164] ペテルブルク内閣は、一方のイギリスおよびフランスと、他方のロシアとの間で戦争が起こった場合、どのような態度を取るのか、スウェーデン政府の意向を探っていた(280頁参照)。ストックホルムに駐在するわが国の代理公使ビルコック氏は、この件について、スウェーデン外務大臣ヴェッテルステット氏と会談し、一月四日付の外交報告でパリへ知らせた。ヴェッテルステット氏は、「並々ならぬ動揺」を見せながら、スウェーデンは何の約束もせず、いかなる同盟にも入っておらず、ロシアから、最も厳格な中立を維持する自由を認められている、と述べた。数日後、大臣は、そのような戦争が起こった場合、スウェーデンは両陣営の船に港を開くだろう、と断言した(一月十日付外交報告)。二か月後、ヴェッテルステット氏は、イギリス代理公使との会談で、スウェーデンはロシアから、フランスとイギリスに対する同盟への参加を正式に求められていたが、中立しか約束しなかった、と認めた(ビルコック氏の三月七日付外交報告)。
[165] 一八三三年九月、ナフプリオンで、ギリシア政府に対する陰謀が発覚した。陰謀者は、摂政政府を倒し、国王の成人を宣言し、その名のもとで政権を掌握しようとしていた。犯人たちの逮捕によって、企ては失敗に終わった。
[166] スピリドン・トリクピスは一七九一年生まれ。ギリシアの政治家・歴史家である。独立戦争中、積極的な役割を果たした。オトン王の即位時にロンドンへ派遣され(一八三五―一八三八年)、一八四一年に再び赴いた。一八四三年に外務大臣となり、次いでパリ(一八五〇年)、さらに再びロンドンへ派遣された。一八五五年から一八六二年の間、何度か公使を務め、一八七三年に死去した。
[167] サルダーニャ将軍は一月十五日、リスボンとポルトから等距離に位置するレイリアの要塞を占領した。守備隊は千五百人いたが、勝者の手から逃れられたのは、ごく少数の兵士にすぎなかった。
[168] 一八三二年十月二十七日付の覚書。十月二十二日の英仏協定をロシア政府に通知したものである。ロシアはこれに対して、フランスとイギリスの両内閣に覚書を送った。その文面は四十一頁の原注に掲げてある。
[169] ダラム卿はペテルブルク駐在大使ではなかった。伝えられるところでは、ポーランド人のためにイギリスが仲介することを皇帝ニコライに提案する目的で、特別使節として派遣されていたのである。いずれにせよ、この使節は何の成果も得なかった。当時、大使が空席になっていた在ロシアのイギリス大使館は、代理公使のブライ氏が管理していた。
[170] 議会開会の会議で国王が述べた演説。タレーラン氏が言及している箇所の文面は、次のとおりである。
「私の政策の変わらぬ目的は、わが民が平和の恩恵を途切れることなく享受できるようにすることでした。この点で、わが政府とフランス政府との間に幸いにも築かれた良好な関係が、私を十分に助けてくれました。また、大陸のその他の列強から受け取った友好的な意向の保証によって、私の努力が今後も成功を収め続けるものと、確信しています……。」
[171] オランダとベルギーの問題に関する交渉は、前年八月に中断されたことを思い起こしていただきたい。ウィレム国王が、二十四か条条約でベルギーに割り当てられたルクセンブルクの一部を同国へ譲渡する許可を得るため、連邦議会とナッサウ家の諸侯に必要な働きかけを行うことを拒んだからである。オランダ国王は、ついに行動を決意したが、双方から拒絶された。それでも、善意のこの証しを見れば、国際会議は交渉の再開に応じるだろうと考え、その趣旨で全権代表たちに訓令を送った。この提案がロンドンでどう受け取られたかは、この先に記されている。
[172] 一八三四年二月一日付の外交報告。一月二十九日の協定は、ロシア軍が諸公国から撤退し、同年五月末までに撤退を完了することを定めていた。また、この諸地方の組織、オスマン帝国政府へ支払う貢納金の額、公国君主の任命方法を定めていた。公国君主は、ボヤールたちが提出する候補者名簿の中から、スルタンが選ぶことになっていた。諸公国は、独自の陸軍、艦隊、旗を持つことになっていた。チェルディルとパスケンの両県は、最終的にトルコへ併合されることになっていた。
アドリアノープル条約によってオスマン帝国政府に課せられた賠償金六百万ドゥカートのうち、二百万ドゥカートの減額が認められた。残る四百万ドゥカートは八年で支払うものとされ、トルコが全額を払い終えるまで、ロシアはシリストリアの要塞を占領することになっていた。この要塞とロシア帝国との交通は、諸公国を通る軍用道路によって確保されることになっていた。
[173] ジャン=ピエール・ド・スフテレン伯爵。一七五九年生まれ。もとはオランダの将校で、一七八三年にロシアの軍務へ移り、将軍、次いでストックホルム駐在大使となった。一八一三年の戦役には、ベルナドットの参謀部で従軍した。講和後、ストックホルムへ戻り、死去するまでその地にとどまった(一八三六年)。
[174] 街頭の呼び売り人に関する法律をきっかけに、国内の各地で騒動が起きていた。二月十六日の法律が、彼らに事前の許可を求める義務を課したことは、周知のとおりである。二月二十一日、二十二日、二十三日には、とりわけパリとリヨンで、騒乱が生じた。
[175] 実際、この法律は続く三月二十五日、賛成二百四十六票、反対百五十四票で、代議院において可決された。
[176] フロリダブランカ伯爵は、派遣の信任を受けたばかりの任地ロンドンへ向かうところだった。
[177] ブロイ公は同じ時に、タレーラン氏へ次のように書いていた。
「……スペイン内閣は、今もなお、この闘争〔ポルトガルでの闘争〕が長引くことを、イサベル女王の王座にとって、この上なく大きな危険の一つと見ています。そして、それを終わらせられるのは、イギリスの介入だけだと考えているため、ついにはロンドン内閣に中立を捨てさせるという希望を、捨てていません。いつパリに到着してもおかしくないフロリダブランカ氏は、この件でパーマストン卿に強く働きかけるよう、命じられています。公爵殿、あなたがスペイン公使館の何かのお役に立てるとお考えになる場合には、いつでも援助と助言をお与えくださるよう、お願いするまでもありません。」
[178] この戦闘が行われたのは二月十八日である。ミゲル派の軍は、激しい戦いの末に退却した。
[179] リチャード・レイラー・シール。一七九一年生まれのアイルランドの作家、政治家。庶民院議員に選ばれ、一八三九年に商務委員会副総裁、一八四六年に造幣局長となった。一八五〇年にはフィレンツェ駐在公使に任命され、翌年に死去した。
[180] シール氏の動議は、内閣に対する不信任投票の意味を持つはずのものだったが、サー・ロバート・ピールが支持の発言をしたにもかかわらず、否決された。
[181] エドワード=ジェフリー・スミス・スタンリー、ダービー伯爵。一七九九年生まれ。当初はスタンリー卿として知られていた。若くして庶民院に入り、一八三〇年に枢密顧問官、アイルランド担当国務長官となり、一八三三年には植民地相となった。一八三四年に辞任し、政務に復帰したのは一八四一年で、サー・ロバート・ピール内閣の植民地相を務めた。一八五二年には内閣を率いたが、数か月しか続かなかった。一八五八年に再び第一大蔵卿となり、最後に一八六六年から一八六八年までその職を務めた。一八六九年に死去した。
[182] パーマストン卿。「フランスとイギリスを結ぶ関係は、日に日に親密になっています。両国政府は、互いをよく知るほどに、いっそう高く評価し合うようになります。両国を隔てていた偏見が、ほとんど完全に消え去ったことを思うと、それが私にとって、実に誇らしく、満足のいくことだと、認めずにはいられません。」
[183] この事件は、それ以上の問題にはならなかった。実際、ブロイ公は三月三十一日、次のように書いていた。「……ベルギー人が表明した懸念は、確かな事実に基づくものからは、ほど遠いものでした。今日、それらは完全に消え去り、ブリュッセル内閣自身も、自分たちの使節の報告を、あまりにも軽々しく信じてしまったと認めています。」〔ブロイ公からタレーラン氏への外交報告。〕
[184] エドゥアール・ドゥルーアン・ド・リュイス。一八〇五年生まれ。一八三〇年にマドリード大使館の随員に任命され、その後、三年間ハーグで代理公使を務め、一八三六年にマドリードで一等書記官となった。一八四〇年に外務省通商局長、一八四二年にムラン選出の代議士となった。一八四八年に再選され、同年に外相、一八四九年にロンドン駐在大使、一八五一年に再び外相となり、その後、元老院副議長となった。一八五二年から一八五五年、さらに一八六二年から一八六六年に、再び外務を担当した。一八七〇年に政界を退き、一八八一年に死去した。
[185] ルクセンブルクで、重大な事件が起きたばかりだった。ベルギー政府は、ベルギーの領土上の現状維持を確立した五月二十一日の条約を根拠として、ルクセンブルクのドイツ側の地域で、用材林の伐採権を売却し、民兵を徴集しようとした。ルクセンブルクの要塞を指揮していたデュムラン将軍がこれに反対したため、政府はあらゆる衝突を避けようとして、計画を延期した。しかし、二つの自治体で民兵徴集に関する掲示が張り出されたことから、プロイセンのデュムラン将軍は、地区のベルギー行政官アンノ氏を連行させ、投獄させた(二月十五日)。アンノ氏は、要塞の軍事上の管理区域の外にいたにもかかわらず、捕らえられたのである。ベルギー内閣は、フランスとイギリスに訴え、両国は連邦議会に抗議を行った。議会は直ちに、ベルギー行政官の釈放を命じ、デュムラン将軍の行動を否認した。
[186] イギリスと同じ時に、フランスも、この事件についてウィーンへ働きかけていた。サント=オレール氏の報告によれば、メッテルニヒ氏は、サー・F・ラムから受け取ったばかりの覚書によって、たいへん不機嫌になっていた。メッテルニヒ氏は、オーストリアに、この件で他の列強以上のことができるわけではないと主張した。大使に迫られると、ついにデュムラン将軍のやり方は非難に値すると認め、もし将軍がオーストリアに仕えていたなら、直ちに召還されるだろうと述べた。〔サント=オレール伯爵から外務省への三月九日付外交報告。〕
[187] スペインのポルトガル介入を引き起こしたのは、ドン・ミゲルの態度だった。両国の国境近くへ逃れたミゲルは、イサベル女王の承認を拒み、ドン・カルロスをスペイン国王として迎え、闘争を続けるためのあらゆる手段を彼に与えていた。スペイン政府は、これらの事実を根拠として、ドン・ペドロを援助する命令とともに、ロディル将軍をポルトガルへ派遣した(四月十六日)。
[188] 一八三一年七月四日の条約。この条約が決着させた問題は、一八一二年以来、未解決のままだった。合衆国は七千万を要求していたが、結局、フランスが提示した二千五百万という額を受け入れ、さらに、フランスのワインと絹に対する若干の関税引き下げを認めた。この条約は三月二十八日に代議院へ提出され、五日間の審議の後、反対百七十六票、賛成百六十八票で否決された。ブロイ公は直ちに辞任した。
[189] 新内閣は四月四日に成立した。スールト元帥、ユマン氏、ギゾー氏は従来の職にとどまり、ティエール氏は商工・公共事業省から内務省へ、リニー氏は海軍省から外務省へ移った。デュシャテル氏が商工相に就任し、ペルシル氏が国璽尚書に任命された。海軍相の職を提示されたルサン提督が辞退したため、ジャコブ提督が海軍相となった。
[190] シャルル=マリー・タンギー・デュシャテル伯爵。一八〇三年生まれ。一八三〇年に国務評定官となり、一八三三年に代議士に選ばれた。一八三四年から一八三六年まで商工相を務め、次いで財務相となった(一八三六年九月)。一八三九年に再び入閣し、最後に一八四〇年から一八四八年まで内務相を務めた。二月革命後は引退生活を送り、一八六七年に死去した。
[191] これらの外交報告は、スペインの情勢に関するものだった。〔付録、五百十頁の外交報告二十六を参照。〕
[192] 二百九十一頁を参照。
[193] ルサン提督は、コンスタンティノープルにとどまった。提督は海軍相に任命されていたため、タレーラン氏は、彼が任地を去るものと考えていた。しかし、周知のように、提督は大使の職を保持するため、閣僚の職を辞退したのである。
[194] この外交報告は、付録の五百十頁を参照。
[195] サルメント氏はスペイン内閣に、ドン・ペドロを助けるためにポルトガルへ介入するよう求めていた。マルティネス・デ・ラ・ロサ氏は、援助を拒んだが、ポルトガルへ逃れ、ミゲル派と行動を共にしていたカルロス派の軍を追い散らすため、ポルトガルへ一部隊を派遣していた。要するに、形を隠し、効力を弱めてはいたものの、これはサルメント氏が求めた介入だった。
[196] チャールズ=オーガスタス・エリス、ハワード・ド・ウォールデン男爵。一七九九年生まれのイギリスの外交官。外務政務次官(一八二四年)、ストックホルム駐在公使(一八三二年)、次いでリスボン駐在公使(一八三四年)、ブリュッセル駐在公使(一八四六年)を務めた。
[197] この時期、国内の各地で再び蜂起が起きた。リヨンの労働者のゼネストを受けて、主な指導者六人が逮捕されていた。その裁判の開始(四月五日)が合図となって、五日間にわたる戦いが始まった。軍は、ようやく市内の秩序を回復した。同じ時に、共和派の運動が、マルセイユ、サンテティエンヌ、ペルピニャン、シャロン、その他のいくつかの都市を混乱させていた。パリでは四月十二日に暴動が起きた。サン=メリー修道院の回廊は、血なまぐさい戦いの舞台となった。十四日に平穏が戻った。
[198] 最近、ベルギーでオラニエ派の示威運動が起きていた。ただし、さほど大きなものではなかった。この知らせでブリュッセルの人々の気持ちが高ぶり、同市は四月五日と六日、深刻な騒乱の舞台となった。略奪者の一団が、オラニエ公の支持者として知られている人々の家を荒らした。鎮圧は迅速かつ強力に行われた。
[199] 三百六十頁を参照。
[200] 実際、この闘争の最中に、トランスノナン街の血なまぐさい事件が起きたのである。
[201] 三百八十五頁を参照。
[202] ドン・マヌエル・デ・パンド、ミラフロレス侯爵、フロリダブランカ伯爵。一七九二年生まれ。当時はロンドン駐在特命公使で、一八三八年にパリ駐在大使となった。その後、内閣の首班、王領管理長官、上院議員となった(一八四八年)。
[203] 最終案となったこの第二稿(三百八十六頁)を、パーマストン卿の最初の案(四百七十六頁)と比較されたい。
[204] 一八三四年四月二十二日にロンドンで署名された条約の文面は、次のとおりである。
「スペイン摂政女王陛下……と、皇帝陛下ブラガンサ公……は、両王家の利益と安全のためには、互いの力を直ちに力強く用いて、敵対行為を終わらせることが必要だと、深く確信している。この敵対行為は、当初はポルトガル女王陛下の王座を覆すことを目的としていたが、今日ではスペイン王国の臣民と不満を抱く者たちに、援助と保護を与えている。両陛下は、平和と国内の幸福を回復するために必要な手段を同時に整え、相互の堅固な基盤の上に両国の将来をいっそう緊密に結びつけることを望み、スペイン王子ドン・カルロスとポルトガル王子ドン・ミゲルを、後者の王国の領土から退去させるため、両国の兵力を結集することに合意した。
この合意に従って、両摂政陛下は、フランス人の国王陛下と、グレートブリテン及びアイルランド国王陛下に働きかけた。この両国王は、スペイン王制の安全について常に抱くべき関心を考慮し、イベリア半島とヨーロッパの双方における平和の確立へ貢献しようという、最も熱烈な願いに動かされ、さらにイギリス国王陛下は、ポルトガルとの古くからの同盟から生じる特別な義務も考慮して、当該条約の当事者として行動することに同意した。この目的のため、これらの陛下は、全権代表を任命した……。そして、全権代表は、次の条項に合意した。
第一条。皇帝陛下ブラガンサ公は、ドナ・マリア二世女王の名において、王子ドン・カルロスをポルトガル領から追放するため、自己の有するあらゆる手段を行使することを約する。
第二条。スペイン女王陛下は、皇帝陛下ブラガンサ公から要請と招請を受け、加えて、ポルトガル王子ドン・ミゲルがスペイン王子ドン・カルロスに援助を与えたことに対し、きわめて正当かつ重大な非難の理由を有することから、スペインのドン・カルロスとドン・ミゲルをポルトガル領から退去させるため、女王陛下の軍と協力するのに十分かつ必要な数のスペイン軍を、ポルトガル領へ進入させることを約する……。
第三条。グレートブリテン国王陛下は、本条約によって必要とされる作戦と措置を支援するため、海軍兵力を用いて協力することを約する。
第四条。締約国君主が、フランスの協力を必要と認めた場合、フランス人の国王陛下は、ご自身と尊厳ある同盟諸君主とが共同の合意によって定めるすべてのことを、行うことを約する。
第五条。締約国君主は、前条までに定められた任務に従い、本条約の原則と目的をポルトガル国民に告げる宣言を、直ちに行うことに合意した。また、皇帝陛下ブラガンサ公は、過去の記憶をすべて消し去ろうという誠実な願いに動かされ、娘の王座の周りに全国民を結集することを望んで、定められる期限内に再び服従するポルトガル女王陛下のすべての臣民に対し、完全かつ全面的な恩赦を公布する意向を宣言する。また、当該摂政は、王子ドン・ミゲルがポルトガル領外へ出次第、その名と生まれにふさわしい年金を保障する意向を宣言する。
第六条。スペイン女王陛下は、本条により、王子ドン・カルロスがスペインとポルトガルの領土から退去し次第、その身分と生まれにふさわしい年金を保障する意向を宣言する。
第七条。本条約は批准され、批准書は一か月以内に、あるいは可能であればそれより前に、ロンドンで交換されるものとする。
フロリダブランカ、タレーラン、パーマストン、モラエス=サルメント。」
[205] パーマストン卿の次の書簡は、タレーラン氏のこの外交報告と比べると、皮肉の利いた対照をなしている。卿は四月二十三日、弟サー・ウィリアム・テンプルに書いていた……。「今月四日以来、カルロスとミゲルを追放するための、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガルの間の、私の四国同盟を作り上げることに、ひどく忙しくしていた……。私は閣議で、奇襲によってこれを通した。異議を述べる暇を、彼らに与えなかったのだ。老タリー〔原文のまま〕とフランス政府については、そううまくはいかなかった。彼らは大量の異議を申し立てたからだ。だが、その異議はすべて、私が彼らに、われわれの仲間に加わるよう提案した形式に関するものだった。結局、私は、彼らが望んでいるように見えた地位を、われわれの間で与えることによって、その自尊心を満足させることに成功した。私は、これを大きな成果だと考えている。まず、これでポルトガルの問題に決着がつき、スペインの問題を整えることにも、いくらか役立つだろう。だが、恒久的かつ全般的な重要性を持つのは、これが西方の立憲諸国の間に四国同盟を成立させ、東方の神聖同盟に対する、大きな対抗勢力となることだ……。」〔『パーマストン卿私信集』。〕
[206] バクール氏の姪、ミラボー伯爵夫人は、叔父の死去に際し、その書類を相続した。ただし、タレーラン氏の『回想録』に関する書類は、特定遺贈の対象になっていたため、除かれていた。しかし、タレーラン氏のロンドン大使在任最後の数か月に関する文書は、バクール氏に整理し、分類する時間がなかったため、『回想録』の遺贈に含まれず、従って相続人の手に渡った。これらの書類は、明らかに『回想録』の自然な続編であったので、ミラボー夫人は今回の刊行に際して、進んでそれを編集者たちへ引き渡した。編集者たちが『回想録』の当初の内容を補い、タレーラン公の公的な生涯の終わりまで記述を進められるのは、この厚意によるものである。
[207] 当時のスペイン駐仏大使。
[208] マルティネス・デ・ラ・ロサ内閣がスペインに制定した憲法。六月十二日に公布された。
[209] ドン・フランシスコ・ハビエル・デ・ブルゴスは、一七七八年に生まれた。ジョゼフ国王の下でいくつかの職に就いていたため、フェルナンドの復位時に国外へ追放された。一八一七年にスペインへ戻り、自由主義派の論客として名を上げた。税関評議会の監督官(一八二七年)、次いで財務上級顧問、フェルナンド死去時に内相、最後に財務相となった。
[210] ドン・ホセ・マリア・デ・モスコソ・デ・アルタミラは、すでに一八二二年にも内相を務めていた。数か月後、同僚たちとともに罷免され、投獄された。一八三四年に再び内相となり、一八三五年一月にドン・ディエゴ・メドラノと交代した。
[211] この時期のスイスは、ヨーロッパのあらゆる革命家の避難所であり、集合の中心地だった。一八三四年一月ごろ、各国から来た約千人の亡命者が、サヴォワへ入り、そこで共和国を宣言する目的で、ヴォー州に集まった。ポーランドのロマリノ将軍が、この運動を率いていた。二月二日、武装したいくつかの集団が国境を越え、アヌシーまで達したが、住民の間に何の運動も引き起こさなかった。彼らは、ほどなくサルデーニャ軍に攻撃され、敗走した。この小競り合いを受けて、サルデーニャはスイスに、亡命者に対する措置を要求した。指導当局に対し、彼らを追放し、遠征に加わったスイス人を裁判にかけるよう求めたのである。いくつかの国が、それぞれの立場からサルデーニャ内閣の働きかけを支持し、スイス政府は、オーストリア、バーデン大公国、バイエルン、ヴュルテンベルク、ドイツ連邦、ナポリ王国、プロイセン、さらにはロシアからも、同様の要求を受けた。スイス政府は当初、抵抗し、このような要求はスイスの独立を侵害するものだと宣言した。しかし、ついには、少なくとも外国人の追放に関しては、要求を実行した。最も抵抗するかに見え、ポーランド人の亡命者を好意的に迎えていたベルン州でさえ、彼らを領内から退去させた。一時、外交界を動揺させたこの事件が終わったのは、七月ごろになってからだった。
[212] 陸相は四月十五日、軍の実員を三十六万人に戻すための法案を提出していた。そのため、一八三四年と一八三五年の両年度について、追加予算を要求していた。委員会は要求額の半分しか認めず、代議院は委員会の決定を承認した(五月十三日)。
[213] トマス・スマラカレギ。一七八八年生まれ。フランスの侵攻時、一八〇八年に入隊した。フェルナンド七世の死後、ドン・カルロスを支持し、反乱軍の最も優れた将軍の一人となった。二年間、戦闘を続け、数多くの戦果を上げて、遊撃部隊の指導者として名をはせた。しかし、ビルバオ包囲戦で致命傷を負った(一八三五年六月)。
[214] ゴブレ将軍は、ベルギーのベルリン駐在公使に任命されていた。しかし、プロイセン国王は、その任命をすでに了承していたにもかかわらず、伝えられるところではハーグ内閣の働きかけによって、将軍の接受を拒否した。
[215] フェリックス・ド・メロード伯爵。当時の外相。
[216] ロンドン大使館の二等書記官。
[217] オーギュスト=カジミール=ヴィクトル=ローラン・ペリエ。ペリエ氏の息子で、当時のブリュッセル公使館書記官。
[218] 当時、一方のフランス及びイギリスと、他方のデンマークとの間で、交渉が行われていた。黒人奴隷の売買を取り締まるために、パリとロンドンの両内閣が一八三一年十一月三十日に締結した条約〔一八三三年三月二十二日の協定で補完〕に、コペンハーゲン内閣の加入を得ることが目的だった。デンマークは一八三四年七月二十六日に加入した。
[219] 第五条。「締約国君主は、前条までに含まれる規定に従い、本条約の取り決めの原則と目的をポルトガル国民に告げる宣言を、直ちに公表することに合意した。」
[220] 一八三三年四月五日の暴動の後、連邦議会は、オーストリア兵とプロイセン兵が半数ずつの守備隊による、フランクフルトの占領を命じていた。これが、市の民兵との日々の争いや衝突の原因となっていた。五月二日に再び深刻な騒動が起きると、連邦議会は第二の決定を行い、警察とすべての軍事権限を、オーストリア人司令官の手に集中させた。フランクフルトの参議院は、共和国の独立をほとんど残さないこの措置に、強く抗議した。列強の介入を引き起こしたのも、連邦によるこの権力の濫用だった。
[221] 海軍相の職。
[222] ラファイエット氏は五月二十日に死去した。葬儀は二十二日、非常に多くの人々が参列する中で行われた。
[223] オーガスタス=ジョン・フォスター。一七八〇年生まれ。イギリスのサルデーニャ駐在全権公使。
[224] ベルギーの王太子が、生後わずか数か月で、五月十日に死去したばかりだった。ほかに子供のいなかったレオポルド国王は、自分の一族による王位の世襲を確保しようとして、親族に当たるコーブルク家の諸公子の、将来生じ得る継承権を、ベルギーの両議院に宣言させようとした。ベルギー国王のこの決意が、ルイ=フィリップ国王の介入を引き起こした。
[225] ヘンリー=ジョージ・ウォード。一七九八年生まれのイギリスの政治家、外交官。ストックホルム、ハーグ、マドリードで順次、公使館書記官を務め、一八二五年にメキシコ駐在公使に任命された。一八三二年には代議士に選ばれた。一八四九年にイオニア諸島の高等弁務官、次いで一八五〇年にセイロン総督となり、一八六〇年に死去した。
[226] ジョージ・グロート。イギリスの歴史家、政治家。一七九四年生まれ。一八三二年に庶民院議員となり、ホイッグ党に属した。一八四一年に引退し、以後は歴史研究だけに専念した。大部の『ギリシア史』を著し、その名声を確立した。一八六八年には、ブルーム卿の後任として、ロンドン大学評議会議長となった。一八七一年に死去した。
[227] この改造の結果、イギリス内閣は四人の閣僚を失った。植民地・陸相のスタンリー卿に代わり、スプリング・ライス氏が植民地相、エリス氏が陸相となった。海軍本部第一卿サー・J・グレアムに代わってオークランド卿、郵政長官リッチモンド公に代わってコニンガム侯爵、王璽尚書リポン卿に代わってカーライル伯爵が就任した。
[228] 実際、ポルトガルの内戦は終わりに近づいていた。サンタレンの戦い(二月十八日)と、北部におけるネイピア提督及びヴィラフロール伯爵の相次ぐ勝利の結果、ミゲル派の軍は、完全に統制を失った。スペインの介入は、事態の進展をさらに早めた。ドン・ミゲルは、トマール付近で完全に敗れ(五月十六日)、エヴォラへ退いたが、そこで包囲され、無条件降伏を余儀なくされた(五月二十六日)。彼の軍と合流していたドン・カルロスも、同じ運命をたどった。翌日(五月二十七日)、ドン・ペドロは全面的な恩赦を公布した。ドン・カルロスは、無条件で自由に退去することを認められた。彼は家族とともにアルデイア・ガレガで船に乗り、イギリスへ向かった。ドン・ミゲルについては、イベリア半島を去るという約束に署名しなければならず、その代わりに三十七万五千フランの年金を受け取った。ドン・ペドロの死後、ポルトガル内閣は、王位請求者ミゲルに厳しい措置を取った。彼のあらゆる市民的・政治的権利は剥奪され、ポルトガルへ再入国しようとすれば、二十四時間以内に死刑に処されることになった。しかし、コルテスは、これらの措置の過度に苛酷な部分の承認を拒んだ。
[229] オークランド卿は、すでに前の内閣にも、商務委員会総裁として加わっていた。
[230] トマス・スプリング・ライス。一七九〇年生まれ。一八二〇年に庶民院議員、一八二七年に内務政務次官となった。一八三〇年にはグレイ内閣の大蔵省政務官、一八三四年には植民地相となった。一八三五年に大蔵大臣に任命された。一八三九年に辞任し、モンティーグル男爵の爵位を与えられて、イギリスの貴族となった。同時に、大蔵省の会計監査官の職を得た。
[231] エドワード・エリス。一七八一年生まれのイギリスの実業家、政治家。ハドソン湾の毛皮会社で高い職に就いた後、政界に入り、一八三〇年に代議士に選ばれた。グレイ内閣で大蔵省政務官を務め、次いで一八三四年六月から十一月まで陸相を務めた。一八三六年にパリへの特別使節を命じられた。その後は、死去するまで公務を退いて暮らした(一八六九年)。
[232] ウォード氏の動議が審議されたのは、この会議である。オールソープ卿の演説の後、本案を審議しないとする先決動議が、三百九十六票対百二十票で可決され、ウォード氏の動議は退けられた。
[233] サー・ジョン・グラント(一八〇四〜一八五〇年)は、ポルトガル駐在公使館の書記官だった。公使ハワード・ド・ウォールデン卿の不在時に、代理公使を務めていた。エヴォラの降伏条件は、彼と、ミゲル派の軍の総司令官、サルダーニャ伯爵の三者の会議で審議された。
[234] マドリード内閣は、四月二十二日の条約の署名国が合意して、追放された両王子、ドン・カルロスとドン・ミゲルがイベリア半島へ戻ることを禁じ、必要であれば、その身柄を確保することを望んでいたという。これが、ミラフロレス氏の働きかけの目的だった。
[235] ホセ・マリア・ケイポ・イ・リャノ、トレノ伯爵。スペインの政治家、歴史家。一七八六年生まれ。一八〇八年にアストゥリアスで独立戦争の指導者の一人となり、カディスのコルテスに選ばれた。一八一四年に追放され、フランスへ逃れた。数年後にスペインへ戻り、一八二〇年に代議士に選ばれたが、一八二三年に再び国外へ去らなければならなかった。一八三三年に財務相、次いで一八三五年に外相兼首相に任命されたが、わずか数か月で辞任した。一八四三年にパリで死去した。
[236] サー・ウィリアム・ホール・ゲージ。一七七七年生まれ。十九歳で海軍に入り、この上なく輝かしい経歴を重ねた。一八四一年に海軍本部委員となり、一八六二年に大将へ昇進し、一八六五年に死去した。
[237] ルアン男爵は、当時のフランスのギリシア駐在公使だった。
[238] リュミニー伯爵。当時のフランスのスイス駐在公使。
[239] サルデーニャ国王がサヴォワを旅行している間に、スイスの代表団が国王のもとへ赴き、二月の小競り合いについて、スイス政府の遺憾の意を伝えていた〔三百九十二頁の原注を参照〕。国王は代表団をたいへん好意的に迎えた。しかし、それでもトリノ内閣は六月二十日、スイスの指導当局へ覚書を送り、取られた警察上の措置が不十分であると抗議した。
[240] 六月二十二日の総選挙。共和派の反対勢力は、選挙によって大きく議席を減らした。一方、正統王朝派は二十議席ほどを得た。
[241] サー・ロバート・モリアー。イギリスの文筆家、外交官。一七九〇年生まれ。当時のスイス駐在公使。
[242] アレー・ド・シプレ男爵。当時のフランスのドイツ連邦駐在公使。
[243] イギリスのドイツ連邦駐在公使。以前は、ロンドン国際会議の委員としてブリュッセルにいた。
[244] ヨーゼフ・ルートヴィヒ・フォン・アルマンスペルク伯爵(一七八九〜一八五三年)。バイエルンの政治家。一八一四年にはウィーン会議でバイエルンの全権代表を務め、一八三二年にバイエルン国王から、ギリシア摂政評議会の議長に任命された。
[245] オットー国王の未成年期間に統治を行うため、バイエルン国王がギリシアに摂政評議会を任命していた。構成員は、議長のアルマンスペルク伯爵、顧問官マウラー、ハイデック将軍だった。評議会の内部では、ほどなく不和が生じた。アルマンスペルク伯爵には、あらゆる権限を自分の手に集中させ、イギリスの影響力を過度に助長し、すべての職にバイエルン人を任命して世論を敵に回しているという非難が向けられた。五月二日、ハイデック将軍とマウラー氏は、一種のクーデターを企て、議長から財政の管理と外交の指揮を取り上げる、一連の決定を行った。しかし、バイエルン国王はアルマンスペルク氏を支持し、マウラー氏を召還して、バイエルンの国務評定官コーベル氏を後任とした。ハイデック将軍は譲歩せざるを得ず、アルマンスペルク氏は、自らに付与していたすべての権限と特権を保持して、評議会議長の職へ復帰した。
[246] ルイス=アントニオ・デ・アブレウ・イ・リマ、カレイラ子爵。ポルトガルの外交官。一七八五年生まれ。ウィーン会議で全権代表を務め、ペテルブルクで公使館書記官及び代理公使、次いで一八二四年から一八三〇年までハーグ駐在公使を務めた。一八三三年にパリ駐在公使として信任を受けた。
[247] ルドルフ伯爵。
[248] イギリス内閣は、前回の改造以来、深く動揺していた。そのため七月、アイルランド強制法案の更新について、庶民院で激しい論戦が始まると、大蔵大臣オールソープ卿は、政府の法案を議員たちに採択させるための権威を、もはや自分が持っていないことに気づき、採決で敗れるのを待つことさえせず、辞任することを選んだ。数か月前から引退を望んでいたグレイ卿は、この機会を利用して政務を退いた。
[249] オーゲ・ド・サン=シルヴァン氏。
[250] フランシスコ・タデオ・カロマルデ。スペインの政治家。一七七五年生まれ。初めカスティーリャ評議会の書記官となり、次いで一八二四年に法相となった。一八三二年までその職にとどまり、絶対権力の熱心な支持者として、立憲派を積極的に迫害した。フェルナンド国王の死去に際し、ドン・カルロス側についたため、政権を去らなければならなかった。フランスへ逃れ、そこからしばらく王位請求者のために活動したが、ほどなく政治生活への関心を失い、トゥールーズへ退いて、一八四二年に引退生活の中で死去した。
[251] ジョン・ウィリアム、ベスバラのダンキャノン男爵(一七八一〜一八四七年)。
[252] ジョン・カム・ホブハウス。一七八五年生まれ。一八二〇年に庶民院議員に選ばれた。一八二一年に陸軍省長官、次いでアイルランド担当国務長官となり、一八三四年には森林・土地委員、一八四六年にはインド庁長官となった。一八五一年にブロートン卿の爵位を与えられて貴族となり、一八六九年に死去した。
[253] ヘンリー=ジョージ・ホーウィック、グレイ伯爵。一八〇二年生まれ。一八二六年に庶民院議員、一八三〇年に植民地政務次官、次いで内務政務次官、一八三五年に陸相兼枢密顧問官となった。一八三九年に辞任したが、一八四六年から一八五二年まで、再び植民地相を務めた。一八四五年に父の後を継いで貴族院に入り、それ以来、グレイ伯爵を名乗った。
[254] さらに、数日後には、王璽尚書カーライル伯爵も辞任し、マルグレイヴ卿と交代したことを付け加えなければならない。こうして再編された内閣は、トーリー党が政権へ復帰する十一月まで続いた。
[255] ドン・ペドロは、以前から長く病を患っていた。八月以降、容体が急速に悪化し、九月二十四日に三十六歳で死去した。
[256] 内閣では、スールト元帥と、いく人かの同僚、とりわけギゾー氏及びティエール氏との間に、はっきりした敵意があった。元帥を辞任させるため、一種の陰謀が組まれた。元帥がアルジェリアでの軍政の維持を支持していることは、知られていた。ギゾー氏とティエール氏は、これを文民統治へ切り替える話を持ち出した。スールト元帥は反対し、辞任すると迫った。彼らはその言葉を受け入れ、辞表は受理された。この際に口実として用いられた文民統治の設置については、その時点では話題にさえならなかった。
[257] これは、フランスとイギリスが必要に応じて介入することを定めた、四月二十二日の条約の条項であった。スペイン内閣が正式にその援用を求めたのは、翌年になってからだった(一八三五年五月十七日)。
[258] 実際、殺戮がマドリードを血で染めていた。首都ではコレラが広がっていた。パリの場合と同様、民衆は病気の存在を信じようとせず、流行を毒によるものと考え、その犯行を修道者に帰した。七月十七日、武装した一団が市内の修道院を襲い、そこにいた修道者の大半を虐殺した。
[259] ロンドンデリー卿は、イベリア半島の情勢について動議を提出すると予告していた。八月四日、卿は貴族院で発言し、内閣の政策を激しく攻撃した。フランスについては、次のように述べていた。
「フランスとの同盟について言えば、この国をほかの国々より優遇することが正しいとは、私は思いません。また、七月の三日間に対して、これほどたびたび惜しみなく与えられてきた賛辞を、認めることもできません。
ルイ=フィリップは、武力の原則に従って統治しています。地方にも首都にも自分の軍を満たしました。その勅令と行動全般は、シャルル十世のものと同じほど恣意的です。ただし、ルイ=フィリップは、より率直に、より巧みに行動したというだけです……。四国条約について言えば、この条約を交渉する際にポルトガルに対して取ったやり方ほど、卑劣で、ひどいものを、私は本当に想像できません。われわれは、明確な中立を約束していたのです……。ところが、中立という仮面の下で、政府は強力な同盟国と協力して、武力介入を準備していたのです。大国にとって、このような行動はひどいものだと、私は本当に思います。」ロンドンデリー卿は、イギリスはこの政策から何も得ていないと付け加え、最後に、次の要求をして結んだ。「四月二十二日の条約の交渉と締結に至る、すべての往復書簡と報告の写しを、議院の机上に提出するよう命じてくださることを、陛下に願う謙虚な申し入れ書を、奉呈すべきであります。」この動議は、大差で否決された。
[260] ジャン=イジドール・アリスプ伯爵。一七六八年生まれ。一七九二年に志願入隊し、一八〇七年に准将となり、とりわけスペインで戦った。百日天下の間に皇帝を支持したため、王政復古期には待命に置かれた。一八三〇年に復職し、フランスの貴族に叙せられた。一八三四年には、ピレネー国境で一個師団を指揮していた。一八五一年にフランス元帥に任命され、一八五五年に死去した。
[261] ロディル将軍は、強大な兵力の指揮を任されたばかりだった。エブロ川沿いのログローニョへ到着すると、ドン・カルロスが反乱地域に到着した知らせを聞いた。将軍は、カルロスの身柄を捕らえるために、あらゆることを行おうと決意し、各地に防備を固めた拠点を配置し、目覚ましい戦果を上げた。しかし、王位請求者は、この上なく危険な状況の中でも、常に将軍の手を逃れた。
[262] 第一の提案は、フランス内閣がピレネー国境で取るべき措置に関するものだった。第二の提案は、イギリスがイサベル女王の政府に提供すべき援助に関するものだった。
[263] 一八三四年八月十八日に確定し、署名された、四国同盟条約の追加協定の文面は、次のとおりである。
「フランス人の国王陛下、スペイン摂政女王陛下、……グレートブリテン及びアイルランド連合王国国王陛下、ポルトガル及びアルガルヴェ王国摂政、皇帝陛下ブラガンサ公は、一八三四年四月二十二日の条約の締約国君主として、イベリア半島で最近起きた出来事に真剣な注意を払い、この新たな情勢の中で、当該条約の目的を十分に達成するためには、新たな措置が必要となったことを深く確信している。
下記署名者〔全権代表の氏名が続く〕は、それぞれの政府の許可を受け、一八三四年四月二十二日の条約に追加する、次の条項に合意した。
第一条。フランス人の国王陛下は、スペインと接する自国の領土において、人員、武器、軍需品のいかなる援助も、フランス領からスペインの反乱者へ送られることがないようにするため、最も適切な措置を取ることを約する。
第二条。グレートブリテン及びアイルランド王国国王陛下は、スペイン女王陛下が求める武器及び軍需品のあらゆる援助を提供し、さらに必要となった場合には、海軍兵力によって女王陛下を援助することを約する。
第三条。ポルトガル及びアルガルヴェ王国摂政、皇帝陛下ブラガンサ公は、……尊厳ある同盟諸君主の意向を全面的に共有し、スペイン摂政女王が一八三四年四月二十二日の条約の第二条で約した義務に、正当な返礼をもって報いようと望み、必要が生じた場合には、後に両陛下の間で合意される形式と方法に従い、自己の有するあらゆる手段によって、スペイン女王陛下を援助することを約する。
第四条。前記の諸条項は、同じ効力と価値を有するものとする、等々。
タレーラン、ミラフロレス、パーマストン、C・P・デ・モラエス・サルメント。」
[264] この条項の最初の案の文面は、四百六十九頁を参照。加えられた変更について、タレーラン氏は八月十七日付の外交報告で、次のように評価していた。
「……われわれは、三つの条項の署名にとどめることに合意しました。ただし、第二条のいくつかの表現は改めました。それらが商取引を思わせることによって、同条に定められた措置の力と威厳を弱めるからです。」
[265] 一八三四年十一月の内閣危機。バッサーノ公が率いた三日間の内閣の後、十月十一日の内閣が、メゾン元帥を首班として政権へ復帰した。
[266] 内閣の解散後、二、三人の臨時の外相が相次いで任命されたため、タレーラン氏はこの書簡を、個人名を記さず、単に外相宛てに送らなければならなかった。〔ミラボー伯爵夫人の注。〕
[267] ポニャトフスカ公女として生まれた、ティシュキェヴィチ伯爵夫人の葬儀。〔ミラボー伯爵夫人の注。〕
[268] メルバーン卿の内閣は、辞任したばかりだった(十一月十四日)。国王は、当時旅行中だったサー・R・ピールに新内閣の組織を命じようとしており、その到着を待つ間、ウェリントン公が臨時に政権を任されていた。一か月近くの間、ウェリントン公は、ただ一人でイギリス政府のすべてを代表した。公は、サー・R・ピールの内閣でも、外相の職を保持した。
[269] 十五頁を参照。
[270] 十五頁を参照。
[271] 十六頁を参照。
[272] 八十七頁を参照。
[273] 八十七頁を参照。
[274] 百十一頁を参照。
[275] 百二十八頁を参照。
[276] 二百三十三頁を参照。
[277] 百五十六頁を参照。
[278] 百九十六頁を参照。
[279] 二百十二頁を参照。
[280] 二百三十六頁を参照。
[281] 一八三一年、バーゼル市とその支配下の農村部との間で、内戦が起きた。市の大評議会が、農村の住民に従来の自治権を戻すことを拒んだためである。連邦議会は介入し、職権によってバーゼルの領域を、バーゼル市とバーゼル農村の二州に分割した。同じようにシュヴィーツでも、もとの州と、そこへ付け加えられていた地区、すなわちマルヒ、アインジーデルン、キュスナハト、プフェフィコンとの間に、分裂が生じていた。バーゼル市とシュヴィーツは、ウーリ、ウンターヴァルデン、ヌーシャテル、ヴァレーの五州と結び、自分たちの利益を守るため、別個の同盟を作ろうとした。離反した六州は代表を送り、代表たちはザルネン、次いでシュヴィーツで会議を開いて、チューリヒの連邦議会からの独立を宣言した。連邦と離反諸州の間で戦争が起きた。離反側は、初めキュスナハトを占領したが、ほどなく敗れた。八月四日に連邦軍がシュヴィーツを、十日にバーゼルを占領した。
[282] ルイ・ド・ボンベル伯爵。オーストリア皇帝の枢密顧問官、オーストリアのスイス駐在全権公使。
[283] 二百七十七頁を参照。
[284] 三百三頁を参照。
[285] 三百五十四頁と三百五十八頁を参照。
[286] ショワズール公に関するこの文章は、タレーラン氏の書類の中で、『回想録』に添えられていた。しかし、『回想録』とは、まったく独立したものである。日付が示すとおり、公が『回想録』を書こうと思い立つより数年前に書き始めた、独立した一篇なのである。それでも、この文章には特別な興味があるため、今回の刊行に加えられた。年代順では全体の冒頭に置くべきものを、最終巻の末尾に置いた理由は、すでに序文〔第一巻、十五頁〕で述べてある。実際、『回想録』の連続性と統一性を損なわず、公自身の思い出と、単なる歴史の一章との間に、いかなる混同も生じないようにすることが、望ましいと考えられたのである。
[287] ポーランド継承戦争を終結させたウィーン条約。この条約は、アウグスト三世の名で戴冠したザクセン選帝侯の権利を承認した。フランスが支持していたスタニスワフ・レシチニスキには、補償としてロレーヌが与えられた。ただし、彼の死後、この公国がフランスへ帰属するという条件が付いていた。スタニスワフは一七六六年に死去したため、ロレーヌがフランスの一地方となったのは、この年である。
[288] アントワネット・クロザ・デュ・シャテル(一七二八〜一七四七年)。同名の中将と、マリー=テレーズ・グーフィエ・ド・エイイの娘。一七四四年に、ビロン元帥の弟、シャルル・ド・ゴントー公と結婚した。この結婚から、ローザン公が生まれた。
[289] ルイ=フランソワ・クロザ、デュ・シャテル侯爵は、富裕な金融業者の一族に属していた。この一族の一人が、少し前にブルターニュのデュ・シャテル侯領を買い取って、貴族となっていた。
[290] マリー・ド・ヴィシー・シャンロン。一六九七年にブルゴーニュの旧家に生まれ、若くしてデュ・デファン侯爵と結婚したが、ほどなく別れた。彼女のサロンは、四十年にわたって、優雅で機知に富む社交界の中心だった。一七八〇年に死去した。
[291] アントワーヌ・ド・フェリオル、ポン・ド・ヴェル伯爵。一六九七年生まれ。父はメッスの高等法院長だった。本人は海軍の船員徴募総監を務めた。いくつかの喜劇と、多くの軽妙な詩を作った。五十年にわたってデュ・デファン夫人の友人であり、一七七四年に死去した。
[292] モーリス・ド・キュルタン。フランスの軍務に移ったスイスの一族の出身。一六九二年生まれ。一七〇六年に入隊し、一七四三年に少将、一七四八年に中将、一七五七年にサン=ルイ勲章大十字章を受けた。一七六六年に死去した。
[293] グレッセ。喜劇詩人。一七〇九年にアミアンで生まれ、一七七七年に死去した。最も優れた喜劇『悪人』は、一七四七年の作品である。
[294] フランソワ・ド・ショワズール=ボープレ伯爵は、中将で、王太子のメナンだった。〔メナンという名称はスペイン語に由来し、王太子の身辺に特に仕える六人の貴族を指していた。〕一七五一年、ポンパドゥール夫人の姪、ロマネ嬢と結婚した。
[295] アントワーヌ・ルイエ、ジュイ伯爵。一六八九年に古い法服貴族の家に生まれ、一七一一年に高等法院評定官、海軍国務長官(一七四九年)、次いで外務国務長官(一七五四年)となった。一七五七年に辞任し、郵政総監に任命された。一七五八年に引退し、一七六一年に死去した。
[296] ベネディクトゥス十四世〔プロスペロ・ランベルティーニ〕は、一六七五年にボローニャで生まれた。聖職に入り、アンコーナ司教、次いでボローニャ大司教に任命された。一七二六年から枢機卿だった。一七四〇年に、教皇クレメンス十二世の後継者として選ばれた。一七五八年に死去した。
[297] 実際、イエズス会がフランスから追放されたのは、ショワズールの在任中である(一七六二〜一七六四年)。
[298] フランソワ=ジョアシャン・ド・ピエール、ベルニ伯爵。フランスで最も古い家系の一つの出で、ヴィヴァレのサン=マルセル城に生まれた(一七一五年)。早くから聖職者になることが予定されていた。しかし、若い間ずっとアベの称号を名乗っていたにもかかわらず、誓願を立てたのは四十歳になってからだった。ポンパドゥール夫人の庇護によって、ヴェネツィア駐在大使に任命された(一七五二年)。一七五五年にパリへ戻り、何の正式な肩書もないまま、皇帝の大使と一七五六年の条約を交渉した。ほとんど直後に外務国務長官、次いで枢機卿に任命された。一七五七年に寵を失って追放されたが、一七六四年に隠棲を終え、アルビ大司教、次いでローマ駐在大使に任命された(一七六九年)。聖職者民事基本法への宣誓を拒んだため、一七九一年二月に罷免され、一七九四年に死去した。
[299] 国王の快復に際して起きた、内閣の変動を指している。国王がダミアンの襲撃の後に病床にあった間、マショーとダルジャンソンは、自らの判断でポンパドゥール夫人を遠ざけていた。戻って来た夫人は、二人の罷免を求めた。マショーはペイラン・ド・モラスに、ダルジャンソンは甥のポールミー侯爵に、職を譲った(一七五七年二月)。
[300] マルク=ピエール・ド・ヴォワイエ、ダルジャンソン伯爵。一六九六年生まれ。十七世紀と十八世紀に大いに名声を上げた、トゥーレーヌの旧家に属していた。一族の七人が、国の最も高い職に就いた。本人は、警察総監(一七二〇年)、国務大臣(一七四二年)、陸軍国務長官(一七四三〜一七五七年)を務めた。失脚後、ほどなく一七六四年に死去した。
[301] マショー氏は、当時、海軍国務長官だった。
[302] ゲオルク=アダム・フォン・シュターレンベルク公。一七二四年にロンドンで生まれた。オーストリアの旧家の出。一七五五年にパリ駐在大使となった。一七六六年にウィーンへ召還され、国務大臣、次いでネーデルラント総督となった。一八〇七年に死去した。
[303] コリン。ボヘミアの、エルベ川沿いの町。人口六千人。オーストリア軍の勝利は、一七五七年六月十八日のことである。
[304] レオポルト・フォン・ダウン伯爵。一七〇五年にウィーンで生まれ、一七四八年には元帥だった。七年戦争の間、皇帝軍の総司令官を務めた。コリンとホッホキルヒで勝ったが、ロイテンとトルガンで敗れた。一七六六年に死去した。
[305] ハステンベック。ハノーヴァー選帝侯領の村。フランス軍の勝利は、一七五七年七月二十日のことである。
[306] ルイ・ル・テリエ、クールタンヴォー侯爵、デストレ公。一六九七年生まれ。著名なルーヴォワの孫だった。母は、フランス元帥ヴィクトル・デストレ伯爵の姉妹だった。伯爵が一七三七年に、子供のないまま死去したため、甥がその名と爵位を継いだ。この伯爵、後のデストレ公は、一七四四年に中将、一七五七年に元帥となった。宮廷の陰謀によって、ドイツでの指揮権を失い、一七七一年に死去した。
[307] ウィリアム=オーガスタス、カンバーランド公。一七二七年生まれ。ジョージ二世国王の三男だった。大陸のイギリス軍の指揮を任されたが、絶えず敗れた。スコットランドでは、より幸運に恵まれ、王位請求者チャールズ=エドワードを破った。一七六五年に死去した。
[308] ヴェンツェル=アントン・フォン・カウニッツ=リートベルク。伯爵、後に公爵。一七一一年生まれ。一七三五年に宮廷顧問官となり、カール六世の下でレーゲンスブルクの帝国議会における皇帝の委員、マリア=テレジアの下でローマ駐在大使、次いでトリノ駐在大使を務めた。国務大臣(一七四九年)、パリ駐在大使。帰国すると、宮廷及び国家の宰相に任命された。一七九四年に死去した。
[309] カール・フォン・ロートリンゲン公。一七一二年生まれ。皇帝フランツの弟だった。元帥、皇帝及びハンガリーの軍の総司令官として、オーストリア継承戦争と七年戦争に参加した。
[310] ロスバッハ。メルゼブルクに近い、ザクセン選帝侯領の村。フランス軍を指揮していたのは、スービーズだった。
[311] この戦いは、ブレスラウから七キロメートルの、ロイテン、別名リッサの村の近くで行われた。
[312] ヨーゼフ・フォン・ザクセン=ヒルトブルクハウゼン。ドイツの領邦君主。一七〇二年生まれ。一七三五年にオーストリア軍の元帥に任命された。一七三九年に対トルコ戦役を指揮したが、成功しなかった。七年戦争にも参加したが、大した成果はなく、一七八七年に死去した。
[313] 後にナポレオンが押し付けた条約を指している。
[314] オルミュッツ。オーストリア〔モラヴィア〕の町。包囲したプロイセン国王は、占領できず、退却しなければならなかった。
[315] エルンスト・フォン・ラウドン男爵。十四世紀に移住した、スコットランド出身の一族の子として、リヴォニアのトーツェンで生まれた。八年間、ロシアの軍務に就き(一七三一〜一七三九年)、その後、フリードリヒ二世に仕官を願ったが、拒まれた。そこでオーストリアへ移り、一七五七年に将軍、一七五八年に元帥となった。七年戦争で、輝かしい働きをした。一七八八年、対トルコ戦役の指揮を命じられ、勝利を重ねる中で死去した(一七九〇年七月七日)。
[316] ヨーゼフ・フォン・ラシー伯爵は、一七二五年、アイルランド出身の貴族の家に、ペテルブルクで生まれた。父はロシア軍の将軍だった。本人はオーストリア軍に入り、七年戦争で輝かしい勝利を収めた後、一七六〇年に元帥となった。講和後、宮廷評議会に入り、長年にわたって皇帝ヨーゼフ二世と協力して働いた。一七八八年に対トルコ戦争を任されたが、敗れ、個人的な敵であったにもかかわらず、ラウドンとの交代を求めた。一八〇一年に死去した。
[317] カール・オドンネル伯爵、将軍。一七一五年にアイルランドで生まれ、一七三六年にオーストリアの軍務に就いた。一七五七年に陸軍中将、講和後にネーデルラント総督、次いで騎兵総監となった。一七七五年に死去した。
[318] ヨゼファ・フォン・アウエルスペルク公妃は、ヨハン・フォン・トラウトゾーン公の娘だった。一七三四年生まれで、一七四四年に、ドイツの領邦君主カール・フォン・アウエルスペルクと結婚していた。
[319] 百二十五万フラン。
[320] ルイ=アントワーヌ・ド・ゴントー、ビロン公。元帥ビロン公の息子。一七〇一年生まれ。軍に入り、少将としてボヘミア戦役に参加した。一七四三年に中将、一七五七年にフランス元帥、一七七五年にラングドック総督となった。一七八八年に死去した。
[321] アンヌ・ド・ロベック公妃は、元帥モンモランシー=リュクサンブール公の娘だった。スペイン大貴族で中将の、アンヌ・ド・モンモランシー、ロベック公と結婚した。一七六〇年に三十二歳で死去した。
[322] マドレーヌ=アンジェリック・ド・ヌーヴィル=ヴィルロワ、元帥夫人リュクサンブール公爵夫人(一七〇七〜一七八七年)。
[323] セザール・ド・ショワズール伯爵は、一七六二年に公爵と貴族位を授けられ、以後、プララン公として知られた。一七一二年生まれ。中将となり、一七五八年にウィーン駐在大使、一七六〇年に外務国務長官、一七六六年に海軍国務長官となった。一七七〇年に追放され、一七八五年に死去した。
[324] ミシェル・ド・カステラーヌ伯爵。ニオール総督、オスマン帝国駐在大使。一七六二年に少将となった。
[325] ルイ=フロラン、デュ・シャトレ=ロモン公。一七二七年にスミュールで生まれた。ヴォルテールとの関係でよく知られる、著名なデュ・シャトレ夫人の息子だった。少将、ウィーン駐在大使を務めた。
[326] P・デュ・ビュイソン、ボートヴィル騎士。フランドル軍の兵站総監補佐(一七四五年)、少将(一七五八年)、スイス駐在公使(一七六二年)。
[327] ルイ・フーケ、ベル=イル公は、名高い財務総監フーケの孫だった。一六八四年にヴィルフランシュ=ド=ルエルグで生まれ、早くから軍に入り、大佐としてスペイン継承戦争を戦った。一七一九年に少将となった。収賄の罪に問われた陸軍国務長官ルブランの裁判に巻き込まれ、バスティーユに投獄された。一七三二年に中将となり、一七三六年にメッス及び三司教領の総督職を得た。一七四一年にフランス元帥となり、皇帝カール七世の選出を準備した。ほどなく、ボヘミア戦役とプラハからの撤退によって名声を上げた(一七四三年)。一七四四年にハノーヴァーで捕虜となり、一年間イギリスに拘留された。一七五七年に陸軍国務長官に任命された。一七六一年に死去した。
[328] アンドレ=エルキュール・ド・フルーリー枢機卿は、ラングドックの古い貴族の出だった。一六五三年六月二十二日にロデーヴで生まれた。王妃の礼拝司祭を務め、一六九八年にフレジュス司教に任命された。ルイ十四世の死去に際し、新国王の教育係に任命され、ほどなく国王に対して、この上なく大きな影響力を持つようになった。一七二六年六月、フルーリーは国務大臣兼郵政総監に任命され、その後、ほどなく枢機卿となった。死去するまで政務の指揮を保ち続けた(一七四三年)。
[329] 一七五八年十一月。
[330] イニャス・ソラール・ド・ブレイユ。ソラール代官の名で知られていた。一七一五年生まれ。マルタ騎士団大十字章を持ち、サルデーニャのフランス駐在大使を務めた(一七五八〜一七六五年)。一七六三年の講和後、ソワソンのサン=ジャン=デ=ヴィーニュ修道院を得た。
[331] フランソワ・ド・ビュシー。一六九九年生まれ。一七二五年、ウィーン駐在代理公使として外務に入り、次いでロンドンへ移った(一七三七年)。ロンドン駐在全権公使(一七四〇年)、外務省首席事務官(一七四九年)。一七八〇年に死去した。
[332] ウィリアム・ピット、チャタム伯爵。イギリスの最も偉大な政治家の一人。一七〇八年生まれ。二十七歳で議会に入った。一七四六年まで反対派の指導者を務め、その年にニューカッスル内閣の下で、アイルランド副大蔵官兼枢密顧問官となった。首相(一七五五〜一七六一年)。一七六六年にチャタム伯爵に叙せられて貴族院に入り、同時に短期間、政務へ復帰した。一七七五年に死去した。
[333] 家族協約は、一七六一年八月十五日、フランスの代表ショワズールと、スペインの代表グリマルディとの間で、パリで署名された協定である。これによって、ブルボン家の君主、ルイ十五世、スペイン国王カルロス三世、両シチリア国王フェルディナンド〔カルロス三世の息子〕、パルマ公フィリッポ〔カルロス三世の弟〕は、互いの領土を保障するため、防御及び攻撃の同盟を結んだ。この同盟は、フランス王制が続く間、存続した。
[334] イエナの戦いの時、ロシア軍は、まだドイツの国境を越えていなかった。ナポレオンは、ポーランドの奥地へロシア軍を探しに行かなければならず、一月、すなわちイエナの戦いの三か月後になって、ようやく追いついた。
[335] タレーランはここで、アンリ四世が長年、思い描いていた、ヨーロッパ再編の大計画を思い起こしている。アンリ四世は、まずヨーロッパに持続的な均衡状態を成立させようとし、そのために、それぞれの国を自然の国境の中へ収めようとした。こうして、国力と広さがほぼ等しい、いくつかの国に分けられたヨーロッパは、大きなキリスト教共和国となるはずだった。すべての国の代表から成る最高評議会が、紛争を解決して戦争を防ぐ役割を担うはずだった。アンリ四世がシュリーと好んで話し合ったのは、キリスト教徒のすべての民を連合させる、この計画についてだった。しかし、彼にはその実現に着手する時間がなく、もしかすると、その意図もなかった。
[336] シャルル・カステル、サン=ピエール師(一六五八〜一七四三年)。永久平和の計画で知られる。アンリ四世の思想を引き継ぎ、生涯を通じて、多数の改革案を、歴代の閣僚へ提出した。
[337] ポール・ド・ガルッチオ、ロピタル侯爵。ナポリ出身の貴族の家系の子として、一六九七年に生まれた。軍に入り、一七四五年に中将となった。一七三九年にナポリ駐在大使となり、そこからペテルブルクへ移った。一七七六年に死去した。
[338] エリザヴェータ。ピョートル大帝の娘。一七〇九年生まれ。一七四一年に女帝アンナの後を継ぎ、一七六一年に死去した。
[339] アレクセイ・ベストゥージェフ=リューミン、別名ベストゥシェフ。一説によれば、十五世紀にロシアへ移住したイギリス出身の一族の子として、一六九三年にモスクワで生まれた。初めハノーヴァー選帝侯に仕えた。選帝侯はイギリス国王になると、彼を大使としてペテルブルクへ派遣した。その後、ロシアの勤務へ移り、コペンハーゲン駐在公使、次いで女帝アンナの下で国務大臣、女帝エリザヴェータの下で大宰相となった。一七五七年に追放されたが、一七六二年にエカチェリーナによって召還され、一七六六年に死去した。
[340] ピョートル三世。女帝アンナの息子で、エリザヴェータの甥。一七四六年に、後にエカチェリーナ大帝となる、ゾフィー・フォン・アンハルト=ツェルプストと結婚した。一七六二年一月五日に即位し、わずか数か月後に廃位され、逮捕されて、牢内で絞殺された(一七六二年七月)。
[341] プロイセンとロシアの間の講和条約は、一七六二年五月五日のものである。
[342] エリザヴェータの治世まで、ロシアの君主は、正式にはモスクワのツァーリという称号だけで知られていた。一七四五年、エリザヴェータは、外国の宮廷に女帝の称号を認めさせようとした。このため、一七四五年三月、フランスと「返書」と呼ばれる文書に署名した。この文書によって、ルイ十五世は、「友情と、彼女へのまったく特別な配慮から、皇帝の称号の承認に応じた」のである。その返礼として、女帝は、フランスに対して、モスクワのツァリーツァとしての席次以外の優先順位を要求しないと宣言した。一七六二年十二月三日、エカチェリーナは、皇帝の称号は昔からツァーリに属しており、自分を女帝と認めない国との関係に入ることを拒むと宣言した。ブレトゥイユは、一七四五年の「返書」を確認し、エカチェリーナが忘れようとしているように見える、その解除条件を思い起こさせるよう命じられた。スペインも同様の対応を取った。〔この件については、マルテンス『条約集』の一連の文書を参照。〕
[343] ジョージ二世。イギリス国王。ジョージ一世の息子。一六八三年にハノーヴァーで生まれ、一七二七年に即位し、一七六〇年に死去した。
[344] ジョージ三世。イギリス国王。ジョージ二世の孫。一七三八年生まれ。祖父の後を継いだ。一八一〇年に精神の病を発し、一八二〇年に死去した。
[345] ジョン・ステュアート、ビュート伯爵。一七一三年にスコットランドで生まれ、一七三七年にスコットランドの貴族代表議員に選ばれた。後のジョージ三世の侍従で、その教育を任されていた(一七五一年)。教え子の即位時に枢密顧問官に加えられ、その後、国務長官及び大蔵卿に任命された(一七六一年)。一七六三年の条約に署名し、絶大な権力を持つかに見えた時、突然辞任した。一七九二年に死去した。
[346] ジョン・ラッセル、第四代ベッドフォード公(一七一〇〜一七七一年)。一七四四年に海軍本部第一卿を務めていた。一七五一年に辞任し、一七六一年にアイルランド総督兼王璽尚書に任命された。パリ条約の交渉に赴いていたヴェルサイユから戻ると、グレンヴィル内閣に入り、死去するまでその職にとどまった。
[347] デイヴィッド・ヒューム。イギリスの哲学者、歴史家。一七一一年にエディンバラで生まれた。ウィーンとトリノで大使館書記官を務めた。パリへ来たのは、本文で述べられたように、一七六一年にベッドフォード公と一緒にではなく、一七六三年にイギリス大使ハートフォード氏の書記官としてだった。一七七六年に死去した。
[348] シャルル・デオン・ド・ボーモン、通称デオン騎士。一七二八年にトネールで生まれた。その名には、特異な名声が付きまとっている。性別は長く不明とされ、今日では、実際には男性だったことが確証されているが、世論は、虚偽の告白を信じて、長い間、女性と考えていた。デオン騎士は、ルイ十五世の秘密外交で、最も活動的な使節の一人だった。ロシアでの任務と、短期間の軍務(一七五八年)の後、一七六二年にロンドン駐在の臨時公使に任命された。新任大使ゲルシー伯爵に職を譲ろうとしなかったことが、果てしない一連の冒険と紛争の出発点となった。国王の秘密を握っていたため、数年間、国王とその閣僚を翻弄し、ロンドンでこの上なく華やかな暮らしを送り、最後には国王を屈服させた。ルイ十六世は、彼がフランスへ戻ることを許した。ほどなく再びイギリスへ渡り、一八一〇年にそこで死去した。
[349] ドン・ヘロニモ、グリマルディ公、スペイン大貴族。一七二〇年にジェノヴァで生まれた。外交に入り、一七六一年にパリ駐在大使となった。一七六四年に外相となり、一七七六年に辞任し、一七八六年にイタリアで死去した。
[350] この破滅的な条約によって、フランスは、ほとんどすべての植民地をイギリスへ譲渡した。カナダ、サン=ローラン湾のすべての島と沿岸、インド全域である。また、ダンケルクの要塞を再び取り壊し、ハノーヴァー、ヘッセン、ブラウンシュヴァイクから撤退した。
[351] プロイセンとオーストリアの間の講和条約は、一七六三年二月十五日、ライプツィヒ近くのフーベルツブルク城で署名された。
[352] フルーリー枢機卿。
[353] おそらく、一七五四年にクロード・ド・フュクサンベルク、ダンブリモン伯爵と結婚した、マリー=アンヌ・ド・ショーモン=キトリー。
[354] トワナール・ド・ジュイ嬢。少将、モントーバン総督のデスパルベ・ド・リュサン伯爵と結婚した。たいへんな高齢まで生きた。
[355] ベアトリクス・ド・ショワズール=スタンヴィル、グラモン公爵夫人。ショワズール公の姉妹。
[356] マリー=シルヴィー・ド・ロアン=シャボー、元帥夫人ボーヴォー=クラオン公妃。
[357] ベルナール・ド・ショーヴラン騎士。一七四四年に准将、一七四九年に中将、コルシカの司令官、次いでジェノヴァ駐在公使、一七五三年にトリノ駐在大使、一七六五年に王室家政長官となった。一七七三年に死去した。
[358] ジャン・デュ・バリー=セール伯爵。トゥールーズ近くのレヴィニャックで、無名の家に生まれた。パリへ来たものの、外交官にはなれず、物資と食糧の納入契約によって、大きな財産を築く道を見いだした。兄弟に、デュ・バリー夫人の夫となった、ギヨーム・デュ・バリー伯爵がいた。ルイ十五世の死去に際し、急いでフランスを去ったが、ほどなく戻り、トゥールーズに定住した。一七九四年にそこでギロチンにかけられた。
[359] アルマン・デュプレシ、リシュリュー公。大枢機卿の兄弟の孫に当たる。一六九六年生まれ。一七一二年、ドナンでは銃士だった。ウィーン駐在大使(一七二四年)。一七四四年に中将となり、フォントノワとロクーで功績を上げた。ドレスデン駐在大使、フランス元帥(一七四八年)、ギュイエンヌ総督(一七五五年)。ミノルカ遠征(一七五六年)とハノーヴァー軍(一七五七年)を指揮した。一七八八年に死去した。
[360] エマニュエル・ド・デュルフォール、デュラス公。一七一五年、ギュイエンヌの旧家に生まれた。父はフランス元帥だった。本人は、中将(一七四八年)、スペイン駐在大使(一七五一年)、首席侍従(一七五七年)を務め、一七七五年に元帥となり、一七八九年に死去した。
[361] アンリ・ド・ティアール伯爵。ビシー枢機卿の甥。一七二六年生まれ。少将(一七六〇年)、中将兼オルレアン公首席侍従(一七六二年)。プロヴァンス(一七八二年)、次いでブルターニュ(一七八七年)で指揮を執った。一七九三年に逮捕され、共和暦二年テルミドール九日にギロチンにかけられた。
[362] ジョゼフ・ド・デュルフォール=ボワシエール騎士。一七四五年生まれ。シャルトル連隊の大尉だった。
[363] クロード・ド・ティアール。ビシー伯爵の名で知られ、ティアール伯爵の兄弟だった。一七二一年生まれ。一七六〇年には中将で、ラングドックの司令官だった。一八一八年に死去した。アカデミー会員だった。
[364] ラ・トゥール・デュ・パン家は、ドーフィネの貴族だった。フィリップ侯爵は、一七二三年生まれで、一七八八年には中将だった。王妃の裁判で証言を強いられ、その証言によって容疑者として逮捕され、ほどなくギロチンにかけられた(一七九四年)。弟のルイ伯爵は、一七二六年生まれで、少将、オルレアン公の侍従だった。亡命し、王政復古までフランスへ戻らなかった。
[365] フランソワ・パラディ・ド・モンクリフ。イギリス人だった母の姓、モンクリーフから、このように呼ばれた。ダルジャンソン伯爵、次いでクレルモン伯爵の書記官、マリー・レシチニスカ王妃の読書係、オルレアン公の書記官を務めた。いくつかの小説、喜劇、オペラを書き、一七三三年にアカデミーへ入り、一七七〇年に死去した。
[366] ジャン・カイヤヴァ。トゥールーズ近くのエスタンドゥーで生まれた(一七三一年)。生涯を通じて演劇のために働き、喜劇、戯曲、オペラなど、多くの作品を残した。一八一三年に死去した。
[367] ピエール・ロベ・ド・ボーヴゼ。ヴァンドームで生まれた(一七一二年)。軽妙な詩を書いたが、とりわけ不敬で好色な物語を書いた。一七九二年に死去した。
[368] マリー=ジャンヌ・ゴマール・ド・ヴォーベルニエ、デュ・バリー伯爵夫人。一七四六年にヴォークルールで生まれた。ルイ十五世の死去に際し、モー近くのポン=オー=ダム修道院へ追放された。ほどなくそこを出て、リュシエンヌの別邸へ退いた。一七九三年にギロチンにかけられた。
[369] アンヌ・ド・ボーヴォー=クラオン。一七〇七年生まれ。初めジャック・ド・ロレーヌ、レクサン公と結婚し、再婚で(一七三九年)、フランス元帥ピエール・ド・レヴィ、ミルポワ公と結婚した。
[370] マリー=ルイーズ・ヤブウォノフスカ公女。一七〇〇年生まれ。一七三〇年に、アンヌ・ド・ラ・トレモイユ、タルモン公と結婚した。一七七三年に死去した。父はスタニスワフ国王のいとこだった。
[371] アルマン・ヴィニュロ・デュプレシ=リシュリュー、デギヨン公。枢機卿の一族に属していた。一七二〇年生まれ。アルザス総督、次いでブルターニュ総督となり、後者の任地では、レンヌ高等法院と長い闘争を続けなければならなかった。ショワズールに強く敵対し、一七七〇年にその後任として外務を担った。ポーランド分割が行われたのは、その在任中である。ルイ十六世の即位に際して追放され、一七八二年に死去した。
[372] ルイ・フェリポー、サン=フロランタン伯爵、ラ・ヴリリエール公。一七〇五年生まれ。父の後を継ぎ、王室担当国務長官となった(一七二五年)。一七五一年に国務大臣、一七七〇年に公爵となった。一七七五年に閣僚を辞し、二年後に死去した。
[373] アンリ・ベルタン。一七一九年、古い法服貴族の家に生まれた。高等法院評定官(一七四一年)、大評議会議長(一七五〇年)、ルシヨンの監督官、次いでリヨンの監督官、警察総監(一七五七年)、財務総監(一七五九〜一七六三年)。高等法院の敵意によって財務総監の職を去ることを余儀なくされたが、それでも国務大臣にとどまった。一七七四年には、一時、外務国務長官を務めた。一七九二年に死去した。
[374] 当時の財務総監。
[375] ルネ・ド・モープー。一七一四年生まれ。高等法院評定官、部長評定官(一七四三年)、院長(一七六三年)。一七六八年に大法官に任命された。王権を、高等法院の絶えざる敵意から解放しようとした。旧高等法院を追放し、まったく新しく設けた別の高等法院に置き換えた。歴史上、モープー高等法院として知られているのは、これである(一七七一年一月)。モープーは、ルイ十六世の即位に際して追放され、一七九二年に死去した。
[376] フォークランド諸島、別名マルイーヌ諸島は、南大西洋の、パタゴニア東岸沖に位置する。十六世紀に発見されたが、長く、認められた領有者がいなかった。一七六三年、ブーガンヴィルがフランス人の植民団を率いてそこへ渡ったが、二年後に彼らはスペイン人によって追い出された。その後、イギリス人が介入した。一七七一年、スペインは、この諸島を最終的にイギリスへ譲渡した。今日、諸島は、異議を唱えられることなく、イギリスに属している。
[377] ジャン=イニャス・ド・ラ・ヴィル師。一六九〇年生まれ。フランスのハーグ駐在公使(一七四三年)、外務省首席事務官(一七五五年)、トリコニアの名義司教兼外務局長(一七七四年)。一七七四年に死去した。一七四六年にアカデミーへ入っていた。
[378] カルロス三世。スペイン国王。フェリペ五世とエリザベッタ・ファルネーゼの息子として、一七一六年に生まれた。初め、母から相続したパルマを治め(一七三一年)、次いで両シチリア王国を治めた(一七三四年)。一七五九年、兄フェルナンド六世の死によって、スペインの王位に就いた。一七八八年に死去した。
[379] アレクサンダー・オライリー伯爵。一七三〇年ごろにアイルランドで生まれた。初めスペイン軍に入り、そこからオーストリアへ移って、同郷のラシーの指揮下で戦った(一七五七年)。その後、フランスの軍務に就き、再びスペインへ戻って、大佐の階級を得た。順次、マドリード総督、歩兵総監、アンダルシア総司令官となった。カルロス三世の死によって失脚した(一七八八年)。対フランス軍の指揮を執ろうとしていた時に、死去した(一七九四年)。
[380] ルイ=フランソワ・ド・モンテナール侯爵。一七一六年、ドーフィネの旧貴族の家に、その地方のラ・ピエール城で生まれた。少将(一七四八年)、歩兵総監、中将(一七五九年)、陸軍国務長官(一七七一〜一七七四年)。
[381] エティエンヌ=フランソワ・ブルジョワ・ド・ボワーヌ。請願審査官、王室法廷の検事総長(一七五三年)、フランシュ=コンテ監督官、ブザンソン高等法院長(一七五七年)、国務評定官(一七六一年)、海軍相(一七七一年)。一七七四年に辞任し、一七八三年に死去した。
[382] クリスティアン=フリードリヒ・フェッフェル。フランスの法律家、外交官ジャン=コンラート・フェッフェルの息子。一七二六年にコルマールで生まれた。初めザクセンに仕え、大使館書記官を務めた(一七五四年)。一七五八年、ベルニ枢機卿によってパリへ招かれ、レーゲンスブルク駐在公使館の参事官、次いで帝国議会駐在の臨時代理公使に任命された。一七六一年には、ツヴァイブリュッケン公に仕え、バイエルン駐在使節に任命された。一七六八年に再びヴェルサイユへ招かれ、国王の法律顧問として外務省に配属された。革命まで、この職にとどまった。一七九二年に罷免され、再びツヴァイブリュッケン公に仕え、一八〇七年に死去した。
[383] ポーランド分割は、一七七二〜一七七三年、一七九三年、一七九五年の三回行われた。一七七三年、プロイセンは、ヴァルミア地方、ポメレリア及びクルムの両県を得た。一七九三年には、ダンツィヒ、トルン、チェンストホヴァ、大ポーランドの最も良い部分を得た。一七九五年には、ブク川の右岸にあるポドラシェ及びマゾフシェ両県の一部を得て、北ではニェマン川まで領土を広げた。
[384] ティルジット条約。
[385] ロシアで農奴が解放されたのは、一八六一年になってからである。皇帝アレクサンドル二世の事業である。
[386] この一篇を書いた一八一六年には、オーストリアは、実際、迫り来る野蛮に対して設ける、最も自然な防壁のように見えた。しかし、その時以来、あらゆる場所で起きた、恐ろしいほど多くの出来事と、領土ばかりでなく精神も解放した、新たな組み合わせの中で、オーストリアは立ち止まったままだった。ヨーロッパの中で、古い姿のまま孤立していた。一方、北方は、実際に進歩した。ついに、行政と政治的関係のあらゆる部門へ、自由が入り込んでいる。プロイセンは、保護される国から、保護する国へ変わった。フランスは、オーストリアが拒んでいる、あらゆる自由を確立する政体を、自らに与えた。従って、自然な同盟は、もはや同じではあり得ない。今後、持続的な条約のすべての基礎となるべきものは、文明の恩恵を呼び込み、広げ、確立するものだからである(一八二九年)。〔タレーラン公の注。〕
[387] アヴィニョンは、一七六八年にフランス軍によって占領された。ショワズール氏は、当時、イエズス会の件でローマの宮廷と争っていた。教皇クレメンス十三世は、イエズス会をカトリック諸国から追放した勅令を、教会の自由、神の大義、聖座の権利を侵害するものとして非難していた。すべての列強が、互いを支持して抵抗した。ナポリはベネヴェントとポンテコルヴォを占領し、フランスはアヴィニョンを占領した。クレメンス十三世の後継者クレメンス十四世が、イエズス会廃止の小勅書に署名すると、直ちにアヴィニョンからの撤退が行われた(一七七三年)。
[388] ジェノヴァ人は、二百万の支払いと引き換えに、コルシカの主権を全面的にフランスへ譲渡した。一七六二年五月十五日のヴェルサイユ条約。
[389] 十八世紀末、イエズス会は、すべてのカトリック列強から攻撃を受けた。ポルトガルが先陣を切り(一七五九年)、次いでフランス(一七六二〜一七六四年)、スペイン(一七六六年)、ナポリ、パルマ(一七六七年)、ヴェネツィア、モデナ、バイエルンが続いた。最後には、マリア=テレジア自身も、この動きに従った。ほどなく(一七七三年七月二十日)、教皇クレメンス十四世が、修道会の廃止を命じた。フランスでは、偶発的な事件をきっかけに始まった闘争を、ショワズールと高等法院が強く推し進め、国王は彼らに従うに任せた。一七六二年、パリ、ルーアン、ボルドー、レンヌ、メッス、ポー、ペルピニャン、エクス、トゥールーズの高等法院は、イエズス会の会則を焼くよう命じ、会員に各高等法院の管轄領域から出るよう命じた。最後に、一七六四年十一月、国王の勅令が、修道会を全面的に廃止した。
[390] アントワーヌ=ポール=ジャック・ド・ケラン、ラ・ヴォーギヨン公。一七〇六年一月十七日生まれ。一七三三年に大佐となり、プラハからの撤退中に優れた行動を取ったことで、一七四三年に准将となった。フォントノワの後に少将となり(一七四五年)、一七四八年に中将となった。一七四五年には、王太子のメナンに任命されていた。一七五八年に王太子の長男ブルゴーニュ公の養育係となり、続いて、ほかの三人の息子の養育係も務めた。王太子は、一七六五年、彼の腕の中で死去した。本人は一七七二年に死去した。
[391] 王太子ルイ。ルイ十五世の息子。一七二九年生まれ。一七五五年に早世した。二度結婚している。一七四五年にはスペインのマリア=テレサと結婚したが、妃は翌年、子供のないまま死去した。一七四七年にはザクセンのマリー=ジョゼフと結婚し、四人の息子をもうけた。若くして死去したブルゴーニュ公と、ルイ十六世、ルイ十八世、シャルル十世となった三人の王子である。
[392] シャルル・パリソ・ド・モントノワ。フランスの詩人。ナンシーで生まれた(一七五〇年)。父はロレーヌ公の顧問官だった。いくつかの喜劇と、さまざまな詩を残している。一八一四年に死去した。著者はここで、パリソが哲学者たちに対して続けた攻撃に言及している。パリソは、舞台と詩の中で、絶えず彼らを攻撃した。とりわけ、ルソーを攻撃した喜劇『サークル』(一七五五年)、『哲学者たち』(一七六〇年)、ディドロを攻撃した『大哲学者たちについての小書簡』(一七五七年)、風刺詩『ダンシアッド、あるいは愚者たちの戦争』(一七六四年)などである。
[393] ブリュルトゥー・ド・プレフォンテーヌ氏は、ギアナに二十年間住んでいた。一七六二年にパリへ来て、ショワズール公に、この地方に農業植民地を作る計画を提示した。大臣は計画を受け入れ、中佐の辞令を与えて、彼をカイエンヌへ送り返した。この試みは失敗し、彼は一七八六年に死去した。
[394] アカディアは、ユトレヒト条約以来、イギリスに属していた(一七一三年)。
[395] ジャン=バティスト・ティボー・ド・シャンヴァロン。一七二五年にマルティニークで生まれ、レオミュールとジュシューの弟子だった。一七五七年に総監督官としてギアナへ派遣された。フランスへ戻った時に逮捕され、不正行為を理由として終身刑を宣告された(一七六七年)。再審を得ることができ、一七七六年に無罪となった。植民地総委員に任命され、一七八三年に死去した。
[396] アントワーヌ・ド・ベアーグ伯爵。ネーデルラントの貴族の家に属していた。一七六一年に中佐、ギアナ軍司令官(一七六三年)、少将(一七七一年)、中将(一七九一年)、マルティニーク総督となり、革命によって乱れた秩序を回復した。一七九三年に島を去ることを余儀なくされ、イギリスへ渡った。そこから、アルトワ伯爵によって、反乱を指揮するためブルターニュへ派遣された。一八〇二年ごろ、イギリスで死去した。
[397] エティエンヌ・テュルゴー騎士、コンモン侯爵。著名な政治家の兄弟で、ノルマンディーの旧家に属していた。父はパリの商人頭だった。初めマルタ騎士団に属し、ガレー船を指揮した。一七六四年に准将となり、ギアナ総督に任命された。監督官シャンヴァロンをフランスへ召還させたのは、彼である。本人もフランスへ戻った時に逮捕されたが、ほどなく釈放された。以後は引退生活を送り、一七八九年に死去した。
[398] エティエンヌ・シルエット。一七〇九年七月五日にリモージュで生まれ、一七六七年に死去した。メッス高等法院評定官、請願審査官、命令書記官、次いでオルレアン公の大法官、インド会社における国王の委員、一七五九年に財務総監となった。国への債権の支払いを一年間停止したことによって、自らに前代未聞の激しい非難を招き、在任八か月で辞任しなければならなかった。顔の影の輪郭をなぞって描く横顔の絵に、この大臣が名を与えたことは、あまり知られていないかもしれない。実際、彼の主な楽しみの一つが、城の壁にこのような肖像を描くことであり、壁はほどなくそれらで埋まったという。社交界は、このささやかな滑稽さを見逃さず、それらの絵に作者の名を付けた。
[399] 女帝マリア=テレジアの息子で、後の皇帝ヨーゼフ二世となるヨーゼフ大公は、一七六〇年十月六日、パルマ公の娘で、スペイン国王カルロス三世の姪に当たる、パルマのイザベラ公女と結婚した。彼女は一七六三年、子供のないまま死去した。
[400] クレマン・ド・ラヴェルディ、別名ラヴェルディ。一七二三年生まれ。高等法院評定官、一七六三年に財務総監となった。わずか数か月しか在職せず、その後は引退生活を送った。一七九三年十一月、処刑台で死去した。
[401] エティエンヌ・メイノン、ダンヴォー領主。一七二一年生まれ。高等法院評定官(一七四一年)、財務総監兼国務大臣(一七六八年)。在職は短期間だった。
[402] さらには、書くこともできた。彼女が書き、『甲冑を着た新聞記者』の著者モランドに託した、数頁の回想は、短いながらも、優美さにも興味にも欠けていない。〔タレーラン公の注。〕
[403] ルイ=アンリ、ブルボン公。大コンデの孫。ルイ十五世の未成年期間に摂政評議会の長を務め、摂政の死後、首相となった(一七二三年)。一七二六年、若い国王によって、シャンティイへ追放された。
[404] 在職し続けた閣僚は、ラ・ヴリリエール、テレー、モープーだった。新たな閣僚は、デギヨン、モンテナール、ボワーヌの各氏だった。
[405] ルイ十五世には、八人の娘がいた。
ルイーズ=エリザベート(一七二七〜一七五九年)、パルマ公と結婚。アンヌ(一七二七〜一七五二年)。マリー(一七二八〜一七三三年)。アデライード(一七三二〜一八〇〇年)。ヴィクトワール(一七三三〜一七九九年)。ソフィー(一七三四〜一七八二年)。テレーズ(一七三六〜一七四四年)。ルイーズ(一七三七〜一七八七年)。
ルイーズ王女は、カルメル会の修道女となった。アデライード、ヴィクトワール、ソフィーの各王女は結婚せず、甥のルイ十六世の宮廷で生涯を過ごした。本文で言及しているのは、この王女たちである。
[406] ローマ数字は巻数、アラビア数字は頁数、アステリスク(*)は人物及び歴史に関する原注を示す。
巻末
第五巻、最終巻終わり。
第五巻目次
編者のことば I
第十一部
一八三〇年の革命(一八三二〜一八三三年) 1
第十二部
一八三〇年の革命(一八三三〜一八三四年) 267
付録 485
ショワズール公について 513
『回想録』に登場する人物名のアルファベット順索引 593
刊記
パリ、シェ印刷所、ベルジェール街二〇番地。17796-7-91。