芸術 / Irving Babbitt新ラオコーンThe New Laokoon: An Essay on the Confusion of the Arts
芸術 / Irving Babbitt
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原著・底本
- 原題
- The New Laokoon: An Essay on the Confusion of the Arts
- 著者
- Irving Babbitt
- 底本
- 1910
- 原典の利用条件
- パブリックドメイン(米国)
- 収録範囲
- 一九一〇年版の標題・刊記、目次、序文、全二部七章、原注、索引、印刷所表示を収録。
日本語訳
表紙
- 画像
- 標題紙
- 利用条件
- パブリックドメイン(米国)
日本語訳と同じ一九一〇年版の標題紙。
追加日: 2026-10-10 / 更新日: 2026-10-10
一九一〇年版の標題・刊記、目次、序文、全二部七章、原注、索引、印刷所表示を収録。
新ラオコーン
新ラオコーン
諸芸術の混同についての一考察
著
アーヴィング・バビット
すべてをよく、さもなくば何もしない
Motto on publisher device; absent from OCR; transcribed from image.
ボストン・ニューヨーク
ホートン・ミフリン社
ケンブリッジ、リヴァーサイド・プレス
一九一〇年
著作権 一九一〇年、アーヴィング・バビット
すべての権利を留保する
原版の著作権表示を訳したもの。現在の権利状態を示す表示ではない。
一九一〇年五月刊行
目次
序文 vii
第一部
擬古典主義における諸芸術の混同
第一章 模倣の理論 三ページ
第二章 詩の言葉遣い 二〇ページ
第三章 レッシングと『ラオコーン』 三五ページ
第二部
ロマン主義における諸芸術の混同
第四章 自発性の理論 六一ページ
第五章 プラトン主義者と擬似プラトン主義者 八七ページ
第六章 ロマン主義芸術における暗示の力
一 言葉による絵画 一一五ページ
二 標題音楽 一五九ページ
三 色聴 一七二ページ
第七章 結論
一 自然主義の限界 一八六ページ
二 形式と表現 二一七ページ
索引 二五三ページ
序文
本書につけた題名は、私が何を成し遂げたと主張するかというより、何を成し遂げる必要があると考えているかを表している。題名を選ぶにあたっても、主題そのものを論じるにあたっても、私は英語の批評用語のある種の貧しさに悩まされた。ジャンルという語は、英語でもいくらか通用するようになってきたらしい。しかし、メランジュ・デ・ジャンル、つまりジャンルの混交という表現については、とても同じことは言えない。それでも私の議論の中心にあるのは、このジャンルの混交と、それに結びつく諸問題なのである。ナポレオンは、私が取り組んだのとよく似た問題についてゲーテと話していたとき、こう述べたという。「あなたほどの大きな知性の持ち主が、はっきりと区別されたジャンルを好まないとは驚きです。」適切な英語の言い換えがないため、私もしばしばナポレオンの言葉を借り、ジャンル・トランシェ、すなわち明確に区分されたジャンルという言い方をせざるをえなかった。
レッシングが『ラオコーン』を刊行したのは一七六六年、新古典主義の運動がまさに終わりに近づいたころだった。それ以来、一世紀半近くのあいだに、十九世紀全体を満たすロマン主義と自然主義の大きな運動が興り、今ではその運動もまた老衰の兆しを見せている。この時期に生じた、諸芸術の適切な境界、とりわけ絵画と言語表現の境界をめぐる問題に、『ラオコーン』は本当に答えているだろうか。おそらく大半のドイツ人は、答えていると言うだろう。彼らはレッシングを自国の偉大な古典的作家の一人として、いわば型どおりの称賛で取り囲んできた。『ラオコーン』の標準的な校訂版を編んだフーゴー・ブリュムナーも、この型どおりの称賛からけっして自由ではない。たとえば彼はこう言っている。「描写詩へ向かう傾向は……この著作[『ラオコーン』]によって致命的な打撃を受けた。……詩人は絵を描いてはならないという法則が、今日では誰もが認める教説になったとさえ言ってよい。」[1]これがドイツについてさえ本当なのか、私たちは疑わしく思う。他の国々について本当でないことは、確かである。ブリュムナーが私たちに信じさせようとするほど、『ラオコーン』が問題の全域をくまなく覆っているのなら、これほど故意に無視された教えはかつてなかった、と言うほかない。十九世紀には、世界がそれまで見たこともないほど、描写的な文章への耽溺が広がった。しかも、個々の芸術の内部にあるさまざまなジャンルの混同だけでなく、諸芸術そのものの全般的な混同も起きた。ほとんど無作為に例を挙げるだけでも、ゴーティエの「芸術間の移し替え」、ソネットを絵に描き、絵を言葉に書こうとしたロセッティの試み、言葉で交響曲を作ろうとしたマラルメの野心がある。この種の混同は、レッシングの死後まだ数年しかたたないうちに、ノヴァーリス、ティーク、フリードリヒ・シュレーゲルの著作ですでに猛威を振るっていた。
1 『ラオコーン』、H・ブリュムナー編、一八八〇年、一三八ページ。
そこで私が試みたのは、『ラオコーン』を第一にドイツの古典として扱うのではなく、比較文学上の問題として研究することである。レッシングが扱っている混同は擬古典主義的な混同であり、それをはっきり理解するには、ルネサンスの批評家たちに始まる、この運動全体の発端までさかのぼらなければならないことを示そうとした。そして、この擬古典主義的な混同と対比しながら、ルソーやディドロのような作家のなかに、まったく別種の芸術の混同の始まりをたどった。それはいわばロマン主義的な混同であり、レッシングは『ラオコーン』でこれに答えていないし、答えようともしていない。私はさらに、このロマン主義的な混同が十九世紀にどう展開したかを、ある程度まで追ってみた。とりわけ、言葉によって音楽や絵画の効果を生み出そうとする試みを追ったのである。最後に、この近代の混同に対抗しうる原理を探った。全体を通じて、美学理論の「暗い森」に迷い込まないよう、できるかぎり努め、具体的な実例からなるべく離れないようにした。少なくとも、ジャンルの性質や芸術の境界を探究することが、あらゆる方向へ枝を伸ばし、文学だけでなく人生に対する姿勢にまで関わることは、明らかにできたのではないかと思う。
とりわけこの探究には、いくつかの大きな文学運動を慎重に定義することが求められる。詩と絵画の混同に異議を唱えるなかで、レッシングは、自分が真に古典的だと考えるものと、擬古典的なものとを、鋭く区別するに至った。今日、同じように異議を唱える者には、むしろ真に古典的なものとロマン主義的なものとを区別する必要がある。この問題の古い側面と新しい側面をともに考え合わせるなら、古典的、擬古典的、ロマン主義的といった語について、これほど慎重な定義を要する問題は、ほかにないかもしれない。正直に言えば、それも私がこの問題にひかれた理由の一つである。こうした語をもっと深く掘り下げて定義することが、急いで必要とされているように思う。比較文学が自らの存在意義を示す道の一つは、このような定義を、より広い視野と、より高い正確さの両方を備えたものにすることである。多くの人は、この新しい学問の人気を、大学の一時的な流行にすぎないと見がちである。それが出典や影響や細かな相互関係を際限なく調べる以上のものになれないなら、その見方も大きくは間違っていないだろう。新古典主義もロマン主義も、世界的な運動である。比較文学を学ぶ者は、一国の文学だけでこの二つの運動を定義しようとする試みが、どれも一面的で知識の足りないものに見えるようにすることを、目指すべきなのである。
とりわけロマン主義的という語を定義しようとする試みの多くには、視野が狭いだけでなく、党派的でもあるという問題がある。定義を作る人々自身が、定義しようとしているものの一部に、あまりにも深く組み込まれていたのである。彼らは、自分たちのロマン主義観に対置する古典主義観として、まともな擬古典主義者でさえ認めそうにないものを持ち出した。実際、この一世紀のあいだに古典主義の立場が公平に耳を傾けてもらえた機会は、アン女王時代のコーヒーハウスやルイ十四世の宮廷でロマン主義の立場が耳を傾けてもらえたであろう機会と、たいして変わらない。比較文学が開く視野によって、十九世紀にはほとんど誰も成し遂げられなかったこと、すなわちロマン主義と自然主義の運動を外側から眺めることが、より容易になるだろう。
比較文学の助けを借りなくても、それを成し遂げることはすでにいくらか容易になりつつある。ロマン主義的、自然主義的なある種の見方が、初めて力強く表現されたのは、フランスのルソーの著作においてだった。そして今、ルソー主義の基本的な前提に対する反発の始まりが見られるのも、近代の諸国のなかで知的に最も敏感なフランスなのである。ラセール氏による才気に富んだ辛辣なフランス・ロマン主義批判は、[1]すでに数版を重ねている。氏は、自分の狙いは、この運動の花や実を攻撃することより、その根元に少し毒を注ぐことだと言っている。残念ながら、ラセール氏の本は極端に走りがちで、フランスでいう意味での反動的な傾向がある。一年ほど前、私はたまたまサン=ジェルマン地区に沿う細い通りを散歩していて、反動的な文献ばかりを扱う書店に出くわした。その店先には、王政復古を勧める本と並んで、ラセール氏の本や、ほかの反ロマン主義的な出版物が置かれていた。十九世紀の生活や文学のある傾向に対する正当な抗議が、到底実現できないと思われる政治上・宗教上の反動と、このように混ぜ合わされることを、私としては残念に思う。ラセール氏とその友人たちがフランスで始めようとしているものより、いくらか否定に偏らず、もっと本当に建設的な運動が必要ではないだろうか。十九世紀を最も厳しく問い直すときにも、ある種の均衡と節度、知識と共感の広がりを保ち、それゆえ後退ではなく前進と見えるような運動が求められるように思う。ただし、この留保はあっても、ロマン主義的、自然主義的な見方に対するラセール氏の攻撃が、まことに時宜を得たものだと認めなければならない。印象主義が広まるにつれ、文学は規準と鍛錬を失い、同時に力強さと真剣さも失ってきた。文学は、ロマン主義の最後の衰弱した代表者たちである耽美家やディレッタントの手に落ちた。彼らは、科学的実証主義者に対して文学の偉大な伝統を守るという仕事には、まったく力不足だったのである。人文学の希望は、レッシングのように力強く行動を重んじ、単なる夢想を軽蔑するところのある擁護者たちにかかっている。象牙の塔から、いくらか耳に快い調子で嘆いているだけでは満足しない擁護者たちに、である。
1 P・ラセール『フランス・ロマン主義』(一九〇七年)。
本書で述べたことの多くは、拙著『文学とアメリカの大学』ですでに述べたこと、とりわけ、そこで試みた人文主義という語の定義を、さらに展開したものである。また、以下のページでロマン主義運動について述べる見解の多くは、もっと十分に展開する必要がある。これについては、いずれ『ルソーとロマン主義』と題する本で取り組みたいと考えている。なお、この八年ないし十年ほどのあいだ、本書の主要な結論は、ハーヴァードで私が担当する講義の一つで、学生たちにすでに伝えてきたことを付け加えておきたい。
マサチューセッツ州ケンブリッジ
一九一〇年三月十五日
第一部
擬古典主義における諸芸術の混同
新ラオコーン
第一章
模倣の理論
十六世紀半ばから十八世紀半ばまでに書かれた、美術または文学についての批評書を通読して、ホラティウスの「絵画がそうであるように、詩もそうである」(ut pictura poesis)という比喩への賛同が見当たらないことは、めったにない。ホラティウスへの言及がなければ、それと同じ意味の、シモニデスの「絵画はもの言わぬ詩であり、詩はもの言う絵画である」という言葉が出てくる。マムブラン神父は、一世紀以上にわたる批評文献を振り返って、一六五二年にこう書いた。「詩と絵画を比較するこの言葉を、喜んで受け入れなかった者は一人もいない。」[1]新古典主義の時代の初めには、おそらくシモニデスの言葉のほうが好まれ、終わりに近づくとホラティウスの言葉のほうが好まれた。しかし、この二つの言葉によって正当化されると考えられた、詩を絵画と同じものとして扱う見方は、この時代を通じて根本的なものとして強調されていた。
1 『叙事詩に関する逍遥学派的論考』、四一ページ。二八四ページも参照。
しかし、「絵画のように詩も」という教説が根本的だったのは、それがさらに根本的な教説から導かれる帰結だったからにすぎない。その教説が何であるかを理解するには、この運動全体が始まったイタリア・ルネサンスにまで、さかのぼる必要がある。そこでは、ホラティウスのいわゆる『詩論』とアリストテレスの『詩学』という二つの文献が、比較的短いあいだに、批評における最高の権威を獲得していく過程をたどることができる。ホラティウスの絶大な影響は、おおむね有益だった。ただし、それが育てたのは、優れた詩というより優れた散文だった。その影響は十七世紀のフランスで頂点に達し、[1]ほかの影響とともに、近代フランス散文を生み出す力となった。それは芸術的にきわめて大きな達成であり、他の諸国が健全な散文の伝統を獲得できたのも、フランスに学んだかぎりにおいてだけだったように思えることさえある。大勢の注釈家が知恵を絞っても、ホラティウスの健全な良識をひどく曇らせることはできなかった。あるいは、ホラティウスの意味がねじ曲げられたことがあるとしても、それは「絵画のように詩も」という格言の場合のように、注釈家たちがアリストテレス的、あるいは擬似アリストテレス的な意味を、その言葉に読み込もうと躍起になりすぎたためだった。
1 いうまでもなく私は、健全な散文を生み出した影響のなかに、ボワローを数えている。ボワローは、いわばアリストテレスが一割、ホラティウスが九割という人物だった。
この点でホラティウスとアリストテレスがいかに対照的だったかは、近代最初の『詩学』注釈書、ロボルテッロの著作(一五四八年)の標題紙を見るだけでも察せられる。そこでは『詩学』が、「きわめて難解で不明瞭な、これまで誰にも解き明かされなかった書」とうたわれている。ロボルテッロは序文でさらに、アリストテレスの『詩学』はあまりにも難しく、誰にも理解できないと、学者のあいだではつねに考えられてきた、と述べている。それゆえ、自分がこれを説明しようと試みるだけでも、出すぎたまねをする思い上がった者と思われはしないかと恐れた、というのである。そのうえで彼は、アリストテレスがこれほど不明瞭に書いたのは、鈍く怠惰な人々には読む気を失わせ、その一方で、才知に富む人々を刺激して喜ばせるためだったのではないかと、思い切った推測を述べる。そこで才知に富む人々は『詩学』に頭を働かせ、ルネサンス後期の、あの恐ろしく大部な注釈版を次々に作り出した。そこでは細い小川のような本文が、広大な注釈のなかにほとんど埋もれてしまっている。ゲーテは、アリストテレスのほかの著作に示されている教えの全体的な精神から切り離して『詩学』が解釈された場合には、ほとんどつねに害をもたらしたと指摘している。しかし、そうした解釈のもとにあってさえ、『詩学』には深遠で本質的なものが豊かに含まれている。そのため、本文が断片的で確定しがたく、無味乾燥で、細かな論理の詮索に陥りがちだとしても、それがもたらした害には、どうしても善いものが奇妙に入り交じらずにはいなかった。たとえば、ラシーヌはいくつかの戯曲において、単に構成を整えただけでなく、古今の文学のいかなる作品にも劣らないほど、劇作の技法を完成させている。そしてラシーヌが、ヘインシウスの『悲劇の構成について』(一六一一年)のような著作を、いかに細かく研究したかを忘れてはならない。この本自体、ルネサンス期のアリストテレス研究の精髄を集めたものにほかならないのである。
そこまでは認めたうえで、『詩学』が衒学者たちに、どれほど好都合な機会を与えたかも認めなければならない。彼らは、趣味の問題において個人の良心を圧制する道具を作り上げようとしていたのである。総じてこれらイタリアの批評家たちは、際限なく理論をこねまわす。十九世紀のドイツの美学者の多くに劣らず、形式はしばしばとっつきにくく、内容は抽象的である。二世紀ほど早く生まれていればスコラ哲学者になっていたであろう人々が、ほかの分野でアリストテレスの権威が衰えつつあるのを受けて、その権威を美術と文学に押しつけようとしているように見える。彼らは、対抗宗教改革とイエズス会の活動によって新たな勢いを得ていた、決疑論の精神を批評に持ち込んでいる。実際、新古典主義の運動を研究すればするほど、その一面全体が、単に美術と文学の領域に表れたイエズス会的精神にすぎないことが見えてくる。イエズス会士たちは、権威の原理を強め、一か所に集めるために、道徳上の個々の「事例」について細かな判断をいくらでも増やそうとした。宗教生活の自発性を抑え込み、純然たる形式主義に行き着く危険さえいとわなかった。同じように、アリストテレスの注釈家たちは、文学に対して権威を集中させる作用を及ぼし、自発的な判断を純粋に形式的な規則で置き換える傾向があった。この類比は、さらに先へ進めることができる。イエズス会士たちは、ひとたび外からの権威を受け入れた者には、内なる敬虔さの熱意が欠けていても、たいへん寛大だった。同じように、文学の決疑論者たちは、「規則」に従う者に対して、特別な霊感がなくても、たとえば優れた叙事詩や悲劇を書けるだろうという希望を与えたのである。[1]
こうして、詩の目的、適切さ、もっともらしさ、悲劇や叙事詩などの法則について、ルネサンス期に広く繰り広げられた思索は、文学の決疑論者たちの影響のもとで、純然たる形式主義へと向かった。さらに詳しく調べると、形式の問題をこれほど重んじ、今日なら芸術の主観的な側面と呼ぶものを軽んじるために用いられたのは、模倣についてのある考え方だったとわかる。私たちはついに、探し求めていた教説にたどり着いた。新古典主義の運動全体を支配し、「絵画のように詩も」という考えさえ、その帰結にすぎないとされる教説である。フェヌロンはフランス・アカデミーへの書簡で、「詩は、疑いなく模倣であり絵画である」と述べている。模倣こそ、すべてがそこにかかっており、すべてをそれに合わせなければならない、一大標語なのである。バトゥー師の『一つの原理に還元された諸芸術』(一七四七年)という題名を読めば、彼があらゆる芸術を還元するその唯一の原理とは、模倣の原理だと、読む前からわかる。さて、模倣にこの決定的な役割を与えた点では、十六世紀のイタリア人たちからバトゥー師に至るまで、新古典主義者たちは、ある程度までは真のアリストテレス主義者だった。模倣は『詩学』の軸となる言葉である。アリストテレスにとって、詩はただ模倣するだけではない。人間の行為を模倣するのであり、それも行き当たりばったりにではなく、明確な構想や目的に従って模倣するのである。詩人は自分自身や自分の感情から目をそらし、画家のように、対象に目を据えて仕事をしなければならない。つまり、アリストテレスは詩人に徹底して客観的であることを求めるが、だからといって詩人を慣習や伝統墨守の型にはめようとしたわけではない。ところが周知のように、新古典主義や擬古典主義の理論家たちが傾いていったのは、この後者の方向だった。
1 たとえばシャプランは、『ラ・ピュセル』によって、叙事詩の理論を身につけた者なら、「格別に精神が高揚していなくても、それをうまく実作に移すことができる」と示したかった、と述べている。
これらの理論家たちが、アリストテレスに従うと称しながら、実際にはどうして擬似アリストテレス主義者になったのかを理解するには、模倣という考えの、別の重要な側面をいくつか検討しなければならない。芸術家は、物事をあるがままにではなく、あるべき姿で模倣すべきだ、とアリストテレスは言う。私たちに真実を示すべきだが、それは選び取られた真実でなければならない。局地的、偶然的なものすべてを超え、異常なものや風変わりなものをすべて取り除いて、最も高い意味で典型を示す真実でなければならないのである。芸術家は、自然そのものから得た手段によって、自然をさらによいものにしなければならない。ダンテの言葉を借りれば、自然は手の震える偉大な職人に似ている。[1]芸術家は、自然が示唆しながら実際には果たしていない、この奥深い意図を実現するよう努めるべきなのだ。理想的模倣についてのこの深遠で難解な教説が、近代に初めて言及されたのは、おそらくダニエッロの『詩学』(一五三六年)においてである。[2]そして、ダニエッロによるこの教説の解釈が、すでにひどくねじ曲がっていることは重要である。たとえばダニエッロによれば、歴史と詩の違いは、より低い形の真実と、より高く典型性に富んだ真実との違いではなく、事実と虚構との違いなのである。詩を心地よい偽りとみなすこの考え方が、擬古典主義的な形での詩と絵画の混同と結びついて、ワーズワスが英語の詩で攻撃したような言葉遣いを促したことは、あとで見ることになる。ここでついでに一つ指摘しておきたい。画家たちと絵画の理論家たちは、文筆家や文学理論家よりも、アリストテレスの意味をはっきりと理解するに至った。[1]ジョシュア・レノルズ卿の『美術講話』は、おそらく古典主義の立場を英語で最もよく述べたものだが、それが生まれたのは偶然ではない。その背後には、イタリア・ルネサンスまでさかのぼる長い伝統があり、多くの点で健全な伝統があったのである。[2]
1 『神曲』天国篇、第十三歌、七六行。
2 『詩学』、四一ページ。
ともあれ、文筆家たちもついには、アリストテレスの意味を少なくともここまでは理解するようになった。模倣すべきなのは、ありふれた自然ではなく、選び抜かれ、美しく整えられた自然、フランスの批評家たちがいう「美しい自然」なのだ、と。しかし、その理想的な模倣に至るためには、いったいどんな手本や規準に照らして選び取ればよいのか。心のなかにある完全さの像を頼りに選ぶなら、模倣が適切かどうかを判断する読者や鑑賞者にも、同じように自分の内側を見ることを求めることになる。だが、新古典主義者にとって、そうすることは漠然とした主観の世界に迷い込むことだった。外的な規範の代わりに内的な規範を立てること、まさに何より避けようとしていたことになるからである。そこで、自然を直接模倣しようとするのをやめ、自然の理想化された姿をそこに見いだせると、広く共有された伝統の声が教えてくれる偉大な作家たちを、模倣してはどうか。そうすれば、この難問全体をうまくかわすと同時に、ふさわしい謙虚さを示すこともできるではないか。[1]スカリゲルは、ウェルギリウスという第二の自然を手にしているのだから、自然そのものに直接向かう必要はほとんどない、と言う。[2]文筆家は、自分の心のなかにある、つかみどころのない完全さの像を追いかける必要がなく、ただウェルギリウスを写せばよい。そして読者も内面を見つめる手間を省け、ウェルギリウスとその模倣作を比較するだけでよくなるのである。
1 「絵画のように詩も」という格言が、とりわけ画家たちにどう用いられたかについて、W・G・ハワード氏が行ったたいへん丹念な研究を読み、この問題についての私自身の印象は裏づけられた。(『アメリカ近代語学文学会紀要』第二十四巻、四〇〜一二三ページ参照。)ハワード氏は、この論文の主要な論点を、いま刊行しようとしている『ラオコーン』の校訂版に取り入れている(ニューヨーク、ヘンリー・ホルト社)。私はその版を利用できなかったことを残念に思う。
2 レノルズがこの伝統を学んだのは、イタリア滞在(一七四九〜五二年)によってだけではない。デュ・フレノワの『絵画術』をドライデンが訳し、序論として「詩と絵画の比較」を添えた著作(一六九五年)などを読んだことによっても学んだのである。レノルズは、模倣の理論に強い異議を唱えていた。『講話』第十三を参照。
1 ここで概略を述べたのと似た議論は、パルテニオの著作『詩的模倣について』(ヴェネツィア、一五六五年)の冒頭に見られる。
2 「模倣すべきこれらのものはすべて、第二の自然、すなわちウェルギリウスのなかにある。」スカリゲル『詩学』第三巻第四章。ポープが『批評論』で述べるように、ウェルギリウスは、自分の自然をホメロスに求めた。
だが、一つひとつを調べ始めたとき、
自然とホメロスは同じものだと彼は悟った。
など。
このように、アリストテレスが模倣という語に与えたさまざまな意味、また与えたと受け取られたさまざまな意味に、比較的アリストテレスらしくない意味、すなわち手本を模倣することが付け加わる。模倣という語のアリストテレス的な意味と、非アリストテレス的な意味とが合流したことによる、とりわけ重要な結果の一つは、別に論じることにしよう。ここでは、これによって注意がいかに徹底して芸術の形式的な要素へ向けられ、個人的な感情という要素からそらされたかを、指摘するだけでよい。アリストテレス自身、感情の音楽的な脈動が最もはっきり感じられる韻律は、詩の本質ではないと言っていた。詩の本質はむしろ模倣にある。ただし、それは日常生活のありふれた事実の模倣ではない。アリストテレス独特の専門用語とでも呼びたくなる彼の言い方をすれば、「蓋然性または必然性に従って」選び出し、配列した事実の模倣なのである。
この模倣の理論は、アリストテレスがとりわけ適用する演劇については、それほど不都合なく働く。演劇は文学形式のなかで最も客観的であり、厳密な動機づけと論理的な構成から最も大きな恩恵を受ける形式だからである。しかし、ほかの文学形式、たとえば抒情詩に、同じようにこの理論をうまく適用するのは難しいと、擬古典主義者でさえ感じていた。抒情詩を、何か外的な対象を描くことだけに向けられたものとみなし、それを個人の感情につなぎとめている絆を断ち切ることなど、どうしてできようか。バトゥー師は言う。「次のように反論する人もいるだろう。『なんと!……詩は、喜び、賛嘆、感謝に鼓舞されて生まれる歌ではないのか。心の叫びではないのか。自然がすべてをなし、技巧は何もしない熱情のほとばしりではないのか。そこに私は、描写も絵も見いださない。ただ炎、感情、陶酔だけを見いだす。したがって、二つのことが真実である。第一に、抒情詩は真の詩である。第二に、それは模倣ではない。』」[1]
バトゥーが続けて、「ここには、この反論がもつ力のすべてが示されている」と言うとき、私たちは彼に同意できる。その反論を巧みにかわし、抒情詩も結局は模倣にすぎないと証明する彼の手順を、ここで追う必要はない。ただし、その手順は、形式的なものを重んじて自発的なものの価値を落とし、芸術を作為と同一視しようとする擬古典主義の試みを、たいへん興味深いかたちで示すだろう。とはいえ彼も、預言者たちは神から直接霊感を授けられたのだから、模倣する必要はなかったと認めている。これはもちろん、大きなことを認めたことになる。真のロマン主義の詩人、ヴィクトル・ユゴーがいう目を見開いた狂熱の魔術師は、霊感に満たされた瞬間には、自分が少なくとも預言者たちと同じ高さに、ことによると神そのものと同じ高さにさえいると感じるのである。
1 『一つの原理に還元された諸芸術』、二四四ページ。
バトゥーがその本を刊行したころ、ルソーはまさに、感情の名において、形式的、伝統的なものすべてに戦いを挑もうとしていた。感情を高く掲げるにあたり、ルソーがとった方法は、手探りで始まりまでさかのぼり、起源に訴える議論を最大限に使うことだった。バトゥーはすでに、起源へのこの訴えに言及し、反駁する必要を感じている。彼によれば、芸術が完成した状態でどうあるべきかを定義しようとしているのに、その最初の状態、幼児のたどたどしい片言にすぎないところまでさかのぼるべきではない。[1]起源に訴える議論を、もっと早い時期にアリストテレス主義者への反論に用いた例にも、少なくとも一言は触れておかなければならない。模倣の理論がまだイタリアで形づくられつつあったころ、パトリッツィは、[2]詩を縛る拘束衣をこのように織り上げ、自発性を形式主義のもとで窒息させる方向へ進む批評家たちに異議を唱えた。パトリッツィによれば、詩は宗教的な熱狂から生まれ、リズムはその存在に不可欠であり、第一に模倣なのではない。彼の文章からは、ワーズワスによる詩の定義、「力強い感情が自然にあふれ出すこと」を先取りしているように見える箇所を、引用することができる。それどころか、原始的なものの奥深くを掘り下げ、共同体に共有される共感の律動に詩の起源を求める、もっと近年のルソー主義者たちを思い起こさせる箇所さえある。しかし、そうした箇所を挙げると、誤解を招くだろう。パトリッツィは、ルソー主義の先駆者というよりプラトン主義者なのだ。つまり、詩の始まりを、理性よりも下にある本能の領域ではなく、理性を超えたものに結びつけているのである。
1 『一つの原理に還元された諸芸術』、二四六ページ。
2 『論争の十書』(フェラーラ、一五八六年)を参照。
アリストテレスから根本的に離れたことで、パトリッツィはルネサンス批評の最大の異端者となった。彼の途方もない異説に、多くの人は驚きを交えた賞賛を抱いたが、彼が深い影響を及ぼしたとは言えない。むしろ、感情のうちにある詩の根が、ますます見失われ、模倣という語に与えられた解釈を通じて、詩を形式のうえで絵画と同一視する方向へ進んでいった。バトゥー師をさらに引用して、この点を明らかにしよう。すでに見たように、抒情詩さえ含めたあらゆる詩の形式を模倣に還元したあと、バトゥーはこう続ける。「したがって詩が、心の感情を歌おうと、行為を演じようと、物語を語ろうと、神々や人間に話をさせようと、それはつねに、普遍的な自然、すなわち美しい自然を描いた肖像であり、人の手で作られた像であり、一枚の絵画である。その唯一の長所は、適切に選び、配列し、真に似せることにある。絵画がそうであるように、詩もそうである。」
このように、擬古典主義者の理論がある段階に達すると、ホラティウスの言葉が必ず現れる。しかし、その言葉から彼らが展開した議論は、鋭敏で、理論にこだわらないホラティウス自身には、明らかに見いだせない。アリストテレス自身なら、詩と絵画の擬古典主義的な混同をほとんど認めなかっただろう。だが、その混同の出発点が、『詩学』に与えられた全般的な解釈だけでなく、特定の箇所にもあることは明らかである。たとえば、「詩人は画家やそのほかの芸術家と同じように模倣者である」と述べる箇所がそうだ。また、劇詩において筋がほかの要素より重要であることを、最も美しい色を無秩序に塗り重ねても、チョークで描いた肖像の輪郭ほどの喜びは与えない、と述べて証明する箇所もそうである。こうして、文章における筋は、絵画における構図に対応する。新古典主義の批評家たちは、絵画のほかの要素、光、色彩、表情などに、文章の技法のどんな要素が対応するかを、好んで論じる。ただし、その対応についていつも意見が一致するわけではない。それでも、詩に彩りを与える要素が何かについては、最終的にかなりの一致を見るに至った。すでに見たように、アリストテレスの模倣の教説から生まれた、この詩の彩りという考えは、やがてもう一方の、非アリストテレス的な教説、すなわち手本の模倣と結びついた。そしてそれは、ワーズワスが英語の詩で攻撃した、あの詩の言葉遣いを促したのである。[1]その同類は、ヨーロッパのほかの言語にも見いだされる。[2]詩と絵画の擬古典主義的な混同、あるいは形式上の混同と呼んでもよいものから生じた、この重要な結果については、レッシングも十分に注意を払っていないし、私の知るかぎり、ほかの批評家もそうである。したがって、ここで、先ほど別に論じるとしておいたこの問題を、取り上げることにしよう。
1 詩のこうした言葉遣いは、古典古代から伝えられてきた「修飾」についての理論全体によっても促されていた。B・クローチェ『美学』、七〇〜七六、四五〇〜四六五ページ参照。
2 フランス語については、E・バラ『詩の文体とロマン主義革命』(一九〇四年)を参照。
第二章
詩の言葉遣い
アリストテレスの理想的模倣の教説が、すでにダニエッロのころから、どのように誤った方向へねじ曲げられたかについては、多少述べておいた。詩と散文の違いは、高次の真実と低次の真実との違いではなく、虚構と事実との違いだとされたのである。人間はつねに、多かれ少なかれ言葉に振り回されるものだから、筋を指すアリストテレスの言葉、ミュートスが「作り話」と訳されたことも、この詩の見方を助長した。作り話や虚構をこれほど強調するのは、一見すると、詩人に翼のある幻獣ヒッポグリフに乗れと勧めるように思われる。しかし、新古典主義のヒッポグリフには、つなぎ縄がついている。自由に虚構を楽しめという誘いに詩人が応じたとたん、彼の前には「蓋然性または必然性に従って」という恐ろしい文句が立ちはだかる。たしかに、詩人は嘘つきであるべきなのだが、筋道の通った嘘つきでなければならない。ライマーが言うように、「ありそうもない嘘ほど憎むべきものが、ほかにあるだろうか」。新古典主義の理論家は、想像力には、理性の知らない独自の理由があることを認めようとしない。何かをもっともらしく、今の言い方なら説得力のあるものにするには、論理や事実感覚に訴える以外にも方法があることを、認めようとしないのである。それを認めれば、彼が懸命に取り除こうとしている、人間性のなかの自発的で予測できない領域を、認めることになるからだ。あらゆることが意図的に、あらかじめ仕組まれていなければならず、原因と結果の明確なつながりには、どこにも切れ目があってはならない。もっとも、詩をこのように純粋に合理的、形式的なものにするには、一つの障害があった。新古典主義者が尊重しなければならない古代の権威者たちは、詩は推論とは関係がなく、一種の神的な狂気であると宣言していた。そこで、形式主義の時代には、詩的な熱狂そのものが、形式上の要件となった。いわば蛇口を開くように、頃合いを見計らって流し出すものになったのである。新古典主義の詩人が、自分の「激情」や「炎」を、いかにも事務的に語る様子ほど、おかしなものはそう多くない。批評家のなかには、詩的熱狂を受け入れなければならないとしても、せめてそれを狭い範囲にとどめようと努める者もいる。たとえばマムブラン神父は、叙事詩人は筋を構成するにあたって熱狂してはならないと言う。ただし、「挿話には、少量の詩的熱狂を振りかけてもよいことを、否定はしない」のだという。[1]
想像力の権利を否定しようとするうちに、新古典主義の理論家たち、いや、むしろイエズス会流の決疑論者たちと呼ぼう、彼らは、詩の神的な幻を、心地よい偽りへと変えてしまった。詩人は虚構を作るときにも、あらゆることを悪意をもって計画ずくで行うはずなのだから、嘘を製造すると言うほうが正確かもしれないが、直接に模倣してはならず、自分自身の力に頼ってはならなかった。そんなことをすれば、「奇怪だ」と呼ばれる危険に身をさらすからである。新古典主義者は、あまりに意外なことをする者に対して、つねにこの言葉を用意していた。詩人はむしろ、模倣のもう一つの主要な形、手本の模倣に頼り、古代の詩人たちの作品にすでにある虚構を写し取るべきだった。言い換えれば、神話のけばけばしい衣装が詰まった衣装部屋から、好きなだけ取り出して使うべきだった。しかも多くの理論家は、この虚構さえ、それ自体のために用いてはならず、何か道徳的な真実を教え込むため、もっぱら寓意として用いるよう要求した。
したがって詩人は、模倣者であり、画家である。そして構図を描く際、すなわち題材とその扱い方を選ぶ際には、自発性を抑え、伝統に従わなければならない。詩の色彩を塗る際にも、同じように自発性を抑え、伝統に従うべきなのである。新古典主義者が詩の色彩と呼ぶのは、言葉、優美な言い回し、比喩などのことだ。[1]すでにホラティウスも、ほぼこの意味で、言葉を詩の色彩と呼んでおり、[2]この表現はワーズワスにさえ見られる。新古典主義者は、言葉もイメージも、外側から絵の具のように塗りつけるものと考える。それらは、ワーズワスの言葉を借りれば、力強い感情が自然にあふれ出たものではない。作為的になることから救ってくれる、生きた震えを欠いているのだ。それでも、詩人が対象を見つめながら描いたのなら、結果はそれほど悪くなかったかもしれない。ところが、ここで模倣のもう一方の理論が介入する。パレットに詩の色彩、すなわち言葉、巧みな言い回し、比喩などをそろえる際、詩人は自然ではなく、手本に目を向けなければならないのである。ワーズワス[1]とコールリッジはともに、詩の言葉を個人の感情から切り離されたものとみなし、むしろ手本から摘み集めた言葉や美辞麗句から成るものと考える習慣を助長したのは、学校でギリシア語やラテン語の詩を作ることだった、と述べている。韻文作成用辞典から拾い出した言葉や句をつなぎ合わせて詩を作っていた者には、母語で書く場合でさえ、詩が作為的な作業と思われるようになったのである。
1 前掲書、二六九ページ。
1 バトゥーは、「韻律と調和」が詩の彩色を、「模倣」がその構図をなすと言う(前掲書、一四四、一四六ページ)。一般的な見方は、A・ドナトゥスが『詩法』(ケルン、一六三三年)で示したものだ。「詩の色彩とは、言葉や言い回しである」などと述べている。ドライデンは、詩の彩色のうちに、「言葉、表現、転義と修辞、韻文の作り方、そのほか音に関わるあらゆる優美さ」などを含めている。『評論集』、カー編、第二巻、一四七ページ。
2 ドライデン(カー編、第二巻、一四八ページ)を参照。「作品の色彩という言葉は、言葉や優美な表現を意味するために、ホラティウスがまさしく用いている言葉である」など。
ジョンソンは、英詩の言葉遣いの父としてドライデンを称賛し、ローウェルは、まさに同じ理由でドライデンを非難する。もちろん、詩のこの言葉遣いが、ドライデンの時代ごろ、フランスからの影響全体とともに入ってきたことは事実である。また、十八世紀の普通の詩人が、詩の絵の具を仕入れるために頼った手本は、ドライデンではなく、ポープ、とりわけそのホメロス訳だったことも事実である。詩から「けばけばしさと空疎な言い回し」を取り除くには、明らかに二つのことが必要だった。第一に、詩人は手本や伝統的な詩の色彩の蓄えではなく、対象を見つめて書かなければならない。第二に、自発的でなければならない。そうしてこそ、一つ一つの言葉や句が作為から救われ、真の感情に応えて響くことができる。この二つの要件のうち、少なくともイングランドでは、第一のほうが第二より先に満たされた。たとえば、ワーズワスが称賛するウィンチルシー夫人の『夜の夢想』は、真のロマン主義的な震えよりも、自然のある光景や音を、偽りの飾りや美辞麗句なしに正確に描き出している点で、際立っている。クーパーや、十八世紀のほかの幾人かの詩人についても、同じことが言える。しかし、この種の作品がときおり現れたからといって、詩の従来の言葉遣いが信用を失ったわけでは、決してなかった。その最もはなはだしい実例が、エラズマス・ダーウィンの『植物園』である。もっとも、ウィリアム・ワーズワスの初期の詩は、その上を行くかもしれない。これらの詩からは、若い詩人がすでに対象を見つめていたことがわかる。それにもかかわらず、作為的な優美さや、お決まりの装飾に満ちているのである。[1]エラズマス・ダーウィンにとって、詩とは、目に訴える絵を描く作業だった。実際、その理論[2]も実作も、起源をルネサンスの文学上の決疑論にさかのぼる、詩と絵画の混同が行き着いた結果にすぎない。詩のこの言葉遣いを生んだ混同は、新古典主義運動の根本にあり、この言葉遣いへの反動もまた、ロマン主義の根本にある。ロマン主義運動は、おそらく、健全な散文の基準を高めたのと同じくらい、それを危うくもした。しかし、作為と慣習の拘束衣から詩的想像力を解放するという、正当な仕事を担っていた。したがって、イングランドで詩の従来の言葉遣いをついに押し流した感情の波が、フランスから来たことは、注目に値する。ワーズワスが初めて、生き生きとした率直さと誠実な表現に達した詩、『罪と悲しみ』は、主としてバラッドやミルトンやスペンサーの影響のもとに書かれたのではなく、フランス革命がもたらした感情の激しい圧力のもとに書かれた。そしてワーズワスこそ、十九世紀の英詩の父なのである。十八世紀のイングランドに見られたある種の傾向は、批評家のなかにはイギリスのロマン主義運動の原因としてたいへん重視する人もいるが、なお慣習的で、新古典主義的な意味での模倣に属するものを残している。たとえば、スペンサーやミルトンの復興は、詩の言葉遣いの新たな型を生んだにすぎなかった。人々は、詩の絵の具を一通りそろえるにあたり、ポープの代わりに、スペンサーやミルトンのところへ出向いたのである。
1 ワーズワスは、自分が言葉の価値を見誤ったのは、次のような事情によると言う。
若さにありがちな経験不足のためだけではなく、
古典語の細かな技巧を扱う商売のためでもあった。
意味を、生まれながらの人間の心へと運ぶ
生きた声を欠いた言語から、
語や句を摘み集める、あの危険な技のために。〔以下略〕
『序曲』第六巻、一〇七行以下。コールリッジ『文学評伝』第一章も参照。
1 ルグイの『ワーズワス』、一三一ページ以下参照。
2 ダーウィンの詩論については、その詩の各歌に続く「間奏」、とりわけ第二部『植物の恋』(一七八九年)の第一歌に続く「間奏」を参照。フランスでもイングランドとほぼ同じ時期に、ドリール師の『庭園』(一七八二年)で、詩の作為性が頂点に達した。この作品は、トムソンの『四季』に触発されたものである。
とはいえ、私の目的は、詩の言葉遣いを細かく研究することではない。詩と絵画を形式上同一視すれば、どれほど必然的にその言葉遣いが生じるかを、示したかっただけである。この同一視は、詩の言葉遣いだけでなく、言葉による絵画や描写文の全般的な氾濫をもたらすだろうと、予想できたはずだ。だが実際には、この理論がその方向に開く可能性は、なかなか発展しなかった。その理由を見つけるのは難しくない。たしかに詩は模倣であり、絵画である。しかし正統派のアリストテレス主義の理論家は、すぐさまこう付け加えるだろう。それは、外界の事物ではなく、人間の行為を描く絵画なのだ、と。もっとも、批評家たちの意見が、初めからこの点で完全に一致していたわけではない。後期ルネサンスや十七世紀初頭の文学上の事例集を調べると、詩人は何を模倣してよいのかという問いの両側に、重々しい権威者たちの言葉が引用されているのがわかる。ちょうど、イエズス会の神学上の事例集で見られるのと同じようにである。模倣の教説を解釈する際、アリストテレスに厳格に従いすぎると、いくつか困った結果が生じた。詩が人間の行為しか模倣できないなら、『農耕詩』は詩ではないことになる。ところがウェルギリウスは、新古典主義にとって最高の手本ではなかったか。悲劇と叙事詩のどちらがより高い地位にあるかという、それほど重大な問題で、アリストテレスの判断が覆されたのも、ウェルギリウスへの崇敬によるものではなかったか。ルネサンスの最良の批評家たちのように、知的な力量を疑いえない人々が、これほど純粋に形式だけをめぐる探究を行ったことは、私たちには奇妙に思われる。私たちに理解できるのは、主観による判定だけだ。何かが本当に私たちの心に届けば、形式やジャンルの格について、それほど気にかけない。芸術作品が現実に訴えてくる力は、「演劇であるか叙事詩であるかといった形式を、意識から消し去る」とエマソンは言う。「それを問題にするのは、王の伝言が書かれた紙を問題にするようなものだ。」しかし、私たちの優越感には、歯止めをかける必要がある。新古典主義の形式主義は、明晰で論理的な区別を好むという長所と、密接に結びついていた。他方、現代の私たちがさまざまなものを好意的に鑑賞する態度は、しばしば、輪郭の定まらない熱狂や空疎な感情主義を大目に見すぎるという短所の、愛想のよい一面にすぎないのである。
明確な区別と、くっきり定義された型を好む新古典主義の作家は、その理論からすれば許されるはずの混合を、避けることになった。散文による詩がそれである。詩の本質が韻律ではなく模倣にあるのなら、散文で詩的に模倣して、なぜいけないのか。すなわち、当然ながら文字どおりの事実に従ってではなく、「蓋然性または必然性に従って」、人生の絵を描けばよいではないか。フェヌロンは、『テレマック』を書くにあたり、こうした考えをたどったに違いない。これは真正の新古典主義的な散文詩であり、ロマン主義運動を通じて私たちが親しんできた詩的な散文とは、ごく遠い関係しかない。それでも、明確に区分されたジャンルをよしとする先入観は強く、『テレマック』も非難を免れなかった。ヴォルテールの『趣味の殿堂』では、悔い改めたフェヌロンに、散文による真の詩はありえないと告白させている。[1]
本題に戻ろう。新古典主義の時代の前半に描写文が比較的少なかったのは、一つには人間とその行為に関心が集中していたためであり、一つには批評家の明確な教えによるものだったと考えられる。たとえば、どこかの宮殿やその庭園を長々と描写するために物語の流れを中断する者たちを、ボワローが嘲笑するとき、彼は先行する批評家たちの言葉を繰り返しているにすぎない。「全部の終わりにたどり着こうと、私は二十ページを飛ばす」とボワローは言う。「それからようやく、庭園を抜けて逃げ出すのだ。」[2]しかし十八世紀の初めになると、変化を認めることができる。新古典主義の形式主義の、自己満足に浸った表面の下では、世紀末に爆発することになる感情の要素が、すでに集まり始めていた。時代の気質は、しだいに人文主義的ではなくなり、科学の面でも感情の面でも、外界の自然への関心を強めていった。後者の関心を示す注目すべき実例が、トムソンの『四季』である。この作品自体をどう評価するにせよ、影響という点から見れば、トムソンの『四季』は擬古典主義の文献である。そこから描写的、絵画的な詩の一派が生まれた。ただし、擬古典主義的な意味で絵画的なのである。つまり、言葉や句を、外側から塗りつける絵の具と考えるのだ。そしてこの一派は、ほどなく「絵画のように詩も」という格言に訴えて、自らを正当化した。
1 ヴォルテールは、『哲学辞典』の「叙事詩」の項でこう言う。「散文による詩についていえば、この怪物が何なのか、私にはわからない。そこに見えるのは、韻文を作る力の欠如だけだ」など。ただし、デュ・ボス師も参照。彼は、十分に新古典主義的な根拠に立って、散文詩を認めている(『詩と絵画についての批判的考察』、第一巻、五一〇ページ)。
2 ドービニャック『演劇の実践』、五一ページ参照。「詩人が、ある神殿の円柱や柱廊や装飾を……正確に描写したとしたら、それは場違いだろう」など。ボワローがその風刺でとりわけ念頭に置いていたのは、スキュデリーの『アラリック』第三歌にある魔法の宮殿の描写だった。それ自体、アリオストなどの先行する描写から着想を得たものである。
同時に、やや異なる影響も、絵画と詩の基準を混同させる方向に働いていた。十七世紀末から十八世紀初めのイングランドでは、ヴィルトゥオーソと呼ばれる好事家たちについて、盛んに語られている。[1]彼らは、貨幣から蝶に至るまで、何でも収集する人々であり、当時の才人たちから、意味もなく手当たり次第に働く好奇心の実例として、絶えず嘲笑されていた。そこに現れた正確な観察と分類への傾向は、直接には王立協会の設立(一六六二年)と、もっと広くいえばベーコンの伝統と、結びつけることができる。振り返ってみれば、こうした好事家の一部は、本格的な古物研究家になる途上にあり、古物研究家たちはさらに、ヴィンケルマンと近代考古学への道を開いていたことがわかる。ところで、古代の品々を集めて収蔵室を作った者は、自然と、古代の伝説などが美術のなかでどう扱われているかを、詩人たちによる同じ伝説の扱いと比べるようになった。そしてここで、例によって「絵画のように詩も」が登場する。誰も他人のものを写さずには何もできないという、新古典主義の考えが、それを後押しした。レッシングが不満を述べるように、この種のことを最初に奨励した人々の一人が、『メダルについての対話』(一七〇二年)を書いたアディソンだった。
1 好事家たちについてのN・ピアソンの興味深い論文が、『ナインティーンス・センチュリー』誌、一九〇九年十一月号に載っている。
一方の絵画・彫刻と、他方の詩との並行関係を展開した、ほかの著者たちのうち、おそらく最も重要なのは、『ポリュメティス』(一七四七年)のスペンスと、最後に『ホメロスから取った絵画』(一七五七年)のケイリュス伯爵だろう。レッシングは、スペンスの「本は、趣味をわきまえた読者には、誰にとってもまったく耐えがたい」と断言する。これは、当時のイングランドの貴族たちにとって、ありがたい評言ではない。その最も著名な人々の多くが、この本の予約購読者や後援者の一覧に名を連ねているからである。これらの本が全般に示唆しているのは、詩と造形芸術の基準は相互に置き換えることができ、優れた詩的な絵であれば、画家や彫刻家が同じように扱っても、有益な結果が得られるということだ。たとえばスペンスは、次のように述べるとき(三一一ページ)、レッシングの格好の攻撃目標となる。「彫像や絵に表したとき滑稽に見えるようなものが、詩の描写では優れているなどということは、まずありえない。」しかし同時に、これらの著者を直接読んでみると、レッシングの攻撃から想像するより、はるかに分別があることに驚くだろう。実際、ケイリュスは重要な点で、レッシングを先取りしている。「レッシングは、ケイリュスから一つ考えを借りるたびに、そのお返しとして、彼に一つ非難を浴びせる」と、ロシュブラーヴ氏は言う。[1]
これで私たちは、『ラオコーン』が書かれるに至った状況を、理解する用意ができたはずだ。そこには、主としてトムソンの『四季』を模倣する、描写詩の一派があった。また、十八世紀の新しい博識と古物研究があり、[1]それが芸術や文学と結びついて、描写詩の一派と同じく、「絵画のように詩も」という格言を盛んに使っていた。全体の背景には、ルネサンスの批評家たちが練り上げた、模倣の理論全体があった。これらの要素のなかで、群を抜いて重要なのは模倣の理論であり、しかも、それこそドイツの人々が一般に最も少ししか語ってこなかったものである。[2]
1 S・ロシュブラーヴ『ケイリュス伯爵論』、二二〇ページ。
1 十八世紀におけるこのギリシア研究の復興、および古物研究と文学との接近については、L・ベルトラン『古典主義の終焉と古代への回帰』を参照。
2 レッシングの直前の時代については、F・ブライトマイアーの本『「画家たちの談話」からレッシングに至る詩論と批評の歴史』(一八八八年)が、退屈ではあるものの、かなり網羅的である。
第三章
レッシングと『ラオコーン』
レッシングの文章のなかでも、とりわけ重要なのは、批評を擁護した一節である。彼が批評と呼ぶのは、明確な基準と合理的な規律を打ち立てることだ。それが独創性や天才を抑圧すると主張する人々に対し、彼は擁護を行った。この一節でレッシングは、自分の内には生きた泉を感じたことがなく、何もかも「管と圧力」によって、自分から無理に押し出さなければならなかったと断言する。「他人の宝をいくらか借り、他人の火で身を暖め、技法という眼鏡で目の力を補うことを学ばなかったなら、私は貧しく、冷たく、近視眼的な人間だったろう」と、彼は続ける。「だから私は、批評をけなすものを聞いたり読んだりすると、いつも気恥ずかしく、あるいは腹立たしくなる。批評は天才を抑圧するというが、私はそれによって、天才にきわめて近いものを得たと、ひそかに自負していたのだ。私は足の不自由な人間であり、自分の松葉杖を罵られても、とうていありがたい教訓にはならない。」
したがって、レッシング自身の評価によれば、彼は自発性よりも、他から取り入れ、自分のものにする力によって際立っている。さらに遠い古典古代の背景はひとまずおくとしても、ルネサンス以降、彼の仕事への道を開いた資料を研究すればするほど、私たちは、この自己評価に同意したくなる。彼が意見を同じくする人々だけでなく、ヴォルテールのように、まさに信用を落とそうと努めているフランス人たちにさえ、いかに多くを負っているかがわかるからだ。とりわけ『ラオコーン』をこのように研究すればするほど、厳密な意味で独創的なものは、そこには少なく見えてくる。明らかに、ドイツの人々が、批評家としてのレッシングに与える高い評価を正当化するには、彼の知的な独創性や趣味の繊細さとは別の根拠に、それを置かなければならない。レッシングについての決定的な言葉を、実際に述べたのはゲーテだった。レッシングのような知性の持ち主は、また現れるかもしれない。しかし、あのような人格の持ち主を見るまでには、長く待たなければならないだろう、と彼は言ったのである。
レッシングを正しく称賛するなら、何よりも強調すべきなのは、この点だ。ある意味で彼は、ルター以来ドイツが生んだ、最も雄々しい人物である。あまり空想に走らずとも、ルターの果たした役割と、まったく別の分野でレッシングが果たした役割とのあいだに、いくつかの類似をたどることができる。ルターは、聖書の明白な真理を独自の伝統で色づけ、決疑論で歪め、偽りの儀式や典礼で覆ったカトリック教会に抗議した。それと同じように、レッシングは、一つの批評上の信条に抗議した。その基礎は十六世紀のイタリアで築かれたが、実際に練り上げ、世界に押しつけたのはフランス人たちだった。それは、いわば文学のカトリック教会となった正統説である。レッシングには、それが健全な古典の教説を独自の伝統で色づけ、決疑論的な解釈で歪め、法の真の精神を、単なる作為的な規則や慣習に変えてしまったように見えた。またルターは、真のキリスト教と偽りのキリスト教を区別しようとして、聖書の本文を、いわば目に見える絶対者、宗教上の問題における真実で完全な試金石として掲げることになった。同じようにレッシングは、真に古典的なものと擬古典的なものを区別するにあたり、アリストテレスの『詩学』を、いわば目に見える絶対者、文学、とりわけ演劇に関わるすべての事柄の完全な判断基準として掲げた。『詩学』は、それ自身の領域ではユークリッドの『原論』と同じく誤りがない、とレッシングが断言する一節は、誰もが知っている。さらにルターは、ドイツをローマへの精神的な隷属から解放するとき、廃したものに代わる明確な規律を打ち立てようとし、新たな自由を利用して、ただ律法を否定する立場へと陥る人々を、恐れをもって見た。同じようにレッシングも、ドイツをフランスへの知的、文学的な隷属から解放するとき、廃した偽りの規範に代えて、真の規範を据えようとした。そして、あらゆる規範を取り除き、その代わりに道筋の定まらない感情主義を掲げようとする、疾風怒濤運動の若い反規範主義者たちを、嫌悪をもって見たのである。最後に、ルターはローマの形式主義を攻撃しながら、聖書の本文を重んじる点では、自らもある種の形式主義者だった。同じようにレッシングも、新古典主義の形式主義を攻撃しながら、アリストテレスの無謬性を主張することによって、自らも多かれ少なかれ形式主義者のままだったのである。
ある観点からすれば、レッシングは、アリストテレス主義の形式主義者のうち、最後にして最大の人物と定義できる。『ラオコーン』も『ハンブルク演劇論』も、その批評の仕事の根底にある統一は、真に古典的なものと擬古典主義的なものとを区別しようとする努力にある。そして実際には、すでに述べたように、これはほとんどつねに、真のアリストテレス主義と偽りのそれとを見分けることを意味する。彼は、自分の議論が体系的だとはいっさい主張しない。しかし少なくとも、きわめて論理的、分析的である。実際、論理を芸術の基礎とみなしているという、ニューマン枢機卿がアリストテレスに向けた非難は、彼にも向けられうる。一般に彼は、境界や区別、明確に定義された型を好む。ただし、もちろん、狭量に、あるいは学者ぶってそうするのではない。ある箇所では、ジャンルの混合さえ正当化している。その論拠はやや意外で、ラバは馬でもロバでもないが、それでもたいへん役に立つ獣だ、というのである。
付け加えるなら、レッシングには、人文主義的というより人道主義的な、もう一つの大きな側面がある。この側面は、ちょうど始まったばかりの、知識と共感の大規模な拡張に彼を結びつけ、とりわけディドロのようなフランス人の影響につながっている。しかしローウェルが、ディドロを「放蕩にふける」レッシングと呼ぶとき、その言い方は大いに誤解を招く。実際には、違いははるかに根本的なのだ。気質全体から見て、レッシングは単に合理的なだけでなく、規律を重んじる。一方ディドロは、おそらくいっそうきらめきがあり、確実にいっそう自発的な天才だが、このように導き、制御する判断力を欠いている。ディドロは、自分の言い方によれば、「横隔膜に振り回されて」生きる。思考と感情のあらゆる境界を無理に押し広げる傾向があり、こうして、近代の私たちの解放を特徴づける、あらゆる種類の巨人的な自己拡張への道を開くのである。
これに対してレッシングは、その批評の方法において、十九世紀へ前を向くより、ルネサンスへ後ろを向いている。先入観や、お決まりの賛美を抜きにして彼の批評を読めば、私たちの観点からすると、どこか異質で、遠く、戸惑わせるものがあることを、認めるだろう。彼はたいてい、直接受けた印象からではなく、ある固定した法則や原理によって判断し、次いでその根拠をアリストテレスに求める。ここで少し脇道にそれることを許してもらうなら、この点で彼は、ボワローよりも実際には私たちから遠い。ボワローは、ロマン主義のある種の思い込みによって、形式主義者の権化と見られるようになったが、実際には、形式主義への反動を率いた人物だったからだ。真のボワローと、ロマン主義がこしらえたお化けとしてのボワローほど、驚くべき対照は、実際そう多くない。ボワローは、要するに機知と世故を備えた人物であって、とりわけ論理的でも、想像力豊かでも、深遠でもなかった。しかし、見事な人格の高潔さと、並外れて鋭く確かな感受性を備えていた。新古典主義の処方箋どおりに機械的に作り出される文学作品、とりわけ叙事詩や悲劇は、とうとう耐えがたい退屈を生んでいた。そして、少なくともボワローは、もう我慢できないと決めたのである。アリストテレス主義の形式主義者たちの頭領、シャプランを攻撃し、打ち倒したのも、この精神からだった。シャプランの叙事詩『ラ・ピュセル』は、完全に「規則どおり」であり、ボワローによれば、誰も読み通せないということ以外には、何の欠点もなかった。同時代の作家たちに向けたボワローの言葉は、単純だった。規則に従うのは適切であり、実際に必要でもある。だが、規則がもつ効用は、よくても欠点を防ぐという消極的なものにすぎない。本当に大切なのは、私たちの興味を引くことだ、と。彼は、自らのこの教えに、ロンギノス『崇高について』の翻訳を付け加えた。この書は一貫して、形式的な完成度ではなく、感情を揺り動かす力によって文学を測る。ボワローの訳によって、ロンギノスは、ホラティウスやアリストテレスと並ぶ、批評上の最高の権威となった。以後、規則よりもむしろ趣味に訴えるようになる。言い換えれば、私たちなら主観による判定と呼ぶものが、いっそう重視されていく。ただし、十八世紀初頭にすでに認めた感情の底流、ディドロに至って実際に巨人的な無制約へ流れ込むその底流は、ロンギノスの真の精神とは、まったく異なるものだと考えられる。
モリエールは、規則がもつ消極的な効用さえ、あまり信じてはいなかったが、ほかの点ではボワローと同じ立場だった。ヴァディウスとトリソタンの有名な場面を書いた精神は、友人がシャプランを攻撃したときの精神と、ほぼ同じである。しかし、ルイ十四世時代の機知に富む人々の多くと同じく、モリエールも、衒学への攻撃を押し進めすぎた。そのため、健全な学問を脅かし、上品な浅薄さを奨励するところまで行ってしまった。ヴァディウスは、フランスの誰よりもギリシア語を知っているために笑われる。しかしジョンソン博士なら、それ自体は、最も尊敬に値する教養だと教えてくれたはずである。
さてレッシングは、フランスの伝統のなかの作為的、表面的なもの、慣習や作法や優雅な社交の振る舞いを退けた。しかしその際、一つの真の長所まで失う危険を冒した。それは、最良のフランス人たちが実際に達成していた、洗練をきわめた都会的な品位である。古代人は礼儀など知らなかった、とレッシングは言う。そして、ルネサンスの論争の口調に立ち戻り、不運なクロッツを激しく打ち据えるのである。その結果、今日でもドイツの学者たちは、互いに「丁重な」言葉を交わす際、しばしば私たちにヴァディウスとトリソタンを思い出させる。要するに、ドイツは、衒学に対するフランスの大きな反動から、十分な恩恵を受けそこね、今もその不利益を被っているのだ。実際レッシングは、趣味と都会的な品位を重んじる流派が現れる前に栄えた学者の型を、絶えず思い起こさせる。学識のリヴァイアサンとでも呼べる型である。十八世紀のほかの二人の偉大な人物、ジョンソン博士とベールも、ある意味では、この先行する時代の生き残りのように見える。レッシングがフランスの才人や廷臣に感じた反感は、ジョンソンがチェスターフィールドに抱いた反感と、似ていた。
レッシングには、ロンギノス的な気質はほとんどなく、十八世紀の新たな感受性も、それに支配されるほどには備わっていない。『ラオコーン』に見いだされるのは、主として趣味や感情への訴えではなく、アリストテレスの理論と、精密な言語研究、古物研究との混合である。そのため、ルネサンスの批評家たちを通して読むことは、彼を理解するうえで、非常に役に立つ。パトリッツィを除くほぼすべての批評家たちと同じく、彼は、詩を含む芸術は模倣であると言い張る。そのなかの最も正統的な人々と同じく、単なる模倣ではなく、人間の行為の模倣と考える。筋や全体の目的という意味での行為に、性格、思想感情、言葉遣いなど、詩のほかの要素をすべて従属させようとする。ちょうど絵画において、光、色彩、表情など、ほかの要素すべてを構図に従属させようとするのと同じように。このアリストテレス主義の正統性がもたらす結果のいくつかは、すでに述べたように、彼を私たちにとって遠く、異質な存在に見せるのである。
マシュー・アーノルドは、ある詩のなかで、友人とハイド・パークを散歩するうちに、「名高いレッシングの『ラオコーン』」の話になったと語っている。その教説の一部を、アーノルドは次のように要約する。
「見たまえ」と私は言った。「これが画家の領分だ!
その技の限界が、ここに現れる。
通り過ぎる一群の人、夏の朝、
草、ニレの木々、あの花咲くサンザシ。
横たわる牛たち、あるいは立ち上がるときの、つやめく脇腹、潤んだ瞳。
こうしたもの、あるいは、はるかに偉大なものでも、
これらのように捉え、一つの姿にまとめねばならない!生あるものの一瞬の命を、
外に現れた姿で示さねばならないのだ。ならば、その一瞬をよく選び、
神のような力で、その物語を語らせよう。」[1]
最後の二行は見事だが、アーノルドが例をうまく選んだとは、まず言えない。レッシングのような人にとって、牛やニレや草に何の意味があるだろう。彼の関心は、人間の行為を描くことだけにある。それも、普通の人間の行為ではなく、アリストテレスのいう理想という意味での、理想的な行為である。すなわち、関係のない細部をすべて取り除き、すべてが「蓋然性または必然性に従って」結び合わされ、ある劇的な目的に従属している行為だ。彼は、この高次の統一に寄与せず、全体の効果へ向かって収束しないものには、何に対しても苛立つ。「目的が、何よりも主要なものである」というアリストテレスの偉大な言葉を、彼ほど強く解釈した者はいない。彼が関心を抱くのは芸術の目標であり、そこへ至る途中で空想や感受性が楽しくさまようことではない。表現それ自体だけを目的とする表現も、色彩の喜びだけを求める色彩も、認めようとしない。道が美しければ、それがどこへ通じるかは問うまい、とアナトール・フランスは言う。レッシングには、美しいという言葉のそんな使い方は、理解さえできなかっただろう。ある箇所では、油彩画など発明されなかったほうが、よかったのではないかとさえ問うている。色彩には、画家の注意を散らし、逸らし、目的への集中を妨げる傾向があるからだ。[1]また別の箇所では、「単なる彩色と一時的な表情には、理想がない。自然はそれらにおいて、何も明確なものを自らの目標としていないからである」と言う。[2]もちろん、「単なる彩色と一時的な表情」は、現代の詩や絵画の多くの流派にとって、美のすべてとなっている。しかしレッシングにとっては、古典主義者一般と同じく、美は第一に表現にあるのではない。悲劇の真の筋と同じように、人間的な何らかの目的へ道を示す、内側から形を与える一定の均整と釣り合いにあるのだ。レッシングが、美という言葉の現代的な使い方からだけでなく、理想という言葉の使い方からも、どれほど遠いかは、次の一節から明らかになる。
1 「レッシングの『ラオコーン』への跋詩」。
1 『ラオコーン』、ブリュムナー編、四六九ページ(遺稿D)。
2 同書、三九九ページ(遺稿A)。
「最高の身体美は、人間にしか存在しない」とレッシングは言う。「そして人間においてさえ、理想によってのみ存在する。
「この理想が働く余地は、動物ではすでに小さくなり、植物や無生物の世界では、まったくなくなる。
「ここから、花や風景を描く画家の地位を推し量ることができる。彼が模倣する美は、理想をもちえない美である。したがって、彼はただ目と手で働くのであって、その仕事には天才がほとんど、あるいはまったく関与しない。」[1]
それでもなお、美に主な目的を向けず、美に表現を従属させることなく、単なる表現によって器用さを誇示しようとする歴史画家よりは、風景画家のほうがよい、とレッシングは続ける。
理想と美についてのこのような見方は、トムソンの『四季』の模倣者たちが、詩の風景画をうまく描いていたとしても、彼らに高い地位を与えないことは明らかだ。しかもレッシングは、彼らが成功したとは認めなかった。詩は絵画であり模倣であるということなら、彼はルネサンスのどの批評家にも劣らず、進んで認める。しかし「絵画のように詩も」を認めるのは、そこまでである。次の一歩を踏み出して、詩の言葉や修辞と、絵画の色彩とのあいだに、形式的な類似を打ち立てることは、認めようとしない。実際、レッシングがしたことは、ラ・フォンテーヌの次の詩句を展開したことを、それほど大きく超えるものではない。
1 ブリュムナー編、四四〇ページ(遺稿C)。
言葉と色彩は、同じものではない。
目もまた、耳ではない。
新古典主義の時代には、詩と絵画の形式上の混同が育っていた。レッシングは、両者が形式上は異なることを示そうとする。彼自身の言葉では、こうだ。
「どちらも模倣の芸術であり、模倣という概念から導かれる規則は、すべて共通している。ただし、その模倣にはまったく異なる手段を用いる。そしてこの違いから、それぞれの芸術に固有の規則が生まれるのである。」[1]
実際、彼は標題紙の時点で、プルタルコスから取った題辞によって、本の主調をすでに響かせている。
「両者〔すなわち絵画と詩〕は、模倣の素材においても、その方法においても異なる。」さて、詩人が用いる素材は言葉であり、言葉は必然的に、時間のなかで一つずつ続いていく。何か目に見える対象を、言葉で直接描こうとする者は、その各部分を一つずつ列挙せざるをえない。そして、このように細部をばらばらに挙げ、同時に存在するものを、順々に続くものによって表そうとすれば、必然的に、ぼやけて混乱した像が生じる。詩人が真に描くことのできるものは、行為である。したがって、行為ではないものを表す際には、それを行為の形に置き換えるよう努めるべきだ。たとえばホメロスは、ヘレネの美しさを直接描こうとはせず、その美しさを行為のなかに置き、トロイアの城壁の上にいる老人たちに、それが及ぼす効果を示す。これに対しアリオストは、詩節を丸ごといくつも費やして、アルチーナの魅力を特徴ごとに描写する。しかし、そうした描写の細部をいくら集めても、私たちのなかで、生きた女性のはっきりした像にはまとまらない。この描写で最も成功している詩句は、行為の要素を含むものなのである。
1 ブリュムナー編、三五三〜三五四ページ(遺稿A)。
詩人には切り離してしか扱えない細部を、画家はすべて、空間のなかで実際に共存する姿のまま表すことができる。画家の限界が現れるのは、行為を描こうとするときだ。その芸術が自由にできるのは、ただ一つの瞬間である。ある行為の二つの瞬間を描こうとすれば、絵画として誤りを犯す。また、寓意を用いて物語を語ったり、文学的な意図を追い求めたりすれば、詩によって言葉の絵を描く者の、ぼやけて混乱した像に対応する、不明瞭さへ陥る。したがって、造形芸術家にとって、瞬間こそが決定的に重要である。レッシングの言い方では、「最も多くをはらんだ瞬間」を選ばなければならない。それは、行為のそれ以前の段階を最もよく照らし、これから来るものへの道を最も明確に示す瞬間だ。この点でレッシングは、その方法の客観的な厳格さを緩め、絵画を、外的な実現手段だけでなく、想像力に及ぼす効果の面からも考えているように見える。
「実り豊かな瞬間は、想像力に自由な余地を与える瞬間だけである。私たちが見つめる時間が長くなるほど、想像力は多くを付け加えなければならない。そして想像力が多くを付け加えるほど、私たちは、それだけ多くを見ていると感じるようになる。一つの感情の全過程のなかで、その最高潮ほど、この利点を欠く瞬間はない。その先には何もないからだ。極限を目に示すことは、空想の翼を切り、感覚の印象を超えて飛び立つのを妨げ、それより弱い像にかかずらわせるのである」など。[1]
言い換えれば、画家は、その芸術の限界によって、行為の一つの瞬間に限定されるが、ほかの瞬間を暗示することはできる。したがって、その暗示する力を最も多く備えた瞬間を選ぶことを、目指すべきなのだ。客観的には像に限定されていても、見る者に動きや行為を夢想させることはできるのである。
これと逆の教説を、レッシングが十分に展開したとは、まず言えない。すなわち詩人は、客観的には動きや行為を描くことに限られていても、読者に暗示を与え、像を夢想させることができる、という教説である。[2]レッシングはあまりにも人文主義的なので、真の芸術の幻がもたらす、目覚めたまま見る夢のような状態でさえ、私たちには行為を夢見させようとする。いや実際、レッシングに夢想や暗示といった言葉を適用すること自体、誤解を招くかもしれない。たとえば彼は、現代の私たちの考えからすれば、言葉の暗示する力に、十分な注意を払っていない。言葉を、いわば受動的な素材とみなしすぎ、その組み合わせにおいて、詩人を意識的、意図的な存在とみなしすぎるのである。私たちはむしろ、真の詩人が触れることで言葉が帯びる神秘と魔力、その言葉が私たちの感情にかけうる、ほとんど催眠に近い呪力に、思いをとどめたくなる。
1 ブリュムナー編、一六五ページ(第三章)。
2 『ラオコーン』で、このように像を夢想することへの言及が最も明確なのは、第十四章と、その末尾の注である(ブリュムナー編、二四七〜二四八ページ)。
あらゆる詩神のあらゆる魅力が、しばしば、たった一語のなかに花開く。
このように、言葉を感情から切り離し、無意識的なものや自発的なものを十分に考慮せず、要するに芸術をあまりにも分析的に扱う傾向において、レッシングは、自ら攻撃した流派と接点をもつ。彼が目指したのは、擬古典主義の批評家たちによる誤った分析に、正しい分析を対置することにすぎなかった。この分析の主な成果、すなわち『ラオコーン』の中心をなす大きな一般化は、詩が時間的な関係を、絵画が空間的な関係を扱い、詩が継起するものを、絵画が共存するものを扱う、というものだ。しかし、すでに述べたように、この問題についての先行文献に親しんだ者には、それがきわめて独創的だとは思われないだろう。ブリュムナーは序論で、レッシングに示唆を与え、ときには部分的に先取りした著者たちの一覧を挙げている。この一覧は長いが、私自身の読書から証言できるように、完全ではない。たとえば、レッシングの主要な区別のすぐ近くまでケイリュス伯爵が迫っている一節について、ブリュムナーは何も述べていない。[1]実際、この区別は、擬古典主義の公式に従って諸芸術を混同しようと、最も力を尽くしていた人々の一部にも、否応なく認められた。私は、その著しい実例を、ブリュムナーがやはり言及しそこねた著者、カステル神父に見いだす。よく知られているように、現在の形の『ラオコーン』は、断片にすぎない。レッシングが執筆を計画した三部のうちの、一部なのである。第三部では、音楽と舞踊の芸術を論じるつもりだった。この未完成の部分に向けた、わずかな散在する覚え書きからしか、これらの芸術についての彼の考えを推し量ることはできない。しかし、音楽を扱う場合も、詩や絵画を扱う場合と同じく、境界と限界を定めることに、何より関心を抱いただろうことは明らかだ。楽長テレマンへの言及から判断すれば、音楽による絵画を好まず、音の領域と、色彩や視覚の領域とを混ぜ合わせることを、いっさい非難しただろう。
1 この一節は、ロシュブラーヴ、前掲書、二一八ページ以下に引用されている。
さて、この種の混同で、十八世紀にカステル神父ほど有名だった者はいない。当時の文献には、彼の色彩クラヴサン、あるいは視覚クラヴサンへの言及が、絶えず見つかる。つまり、音を目に見えるものにし、色彩によって表すために、彼が組み立てた一種の楽器である。カステル神父は、一七二五年十一月の『メルキュール』誌で、色彩鍵盤楽器の理論を示した。彼自身の話によれば、この新しい楽器の最初の模型を完成させたのは、一七三四年十二月二十一日だった。この発見への道を教えてくれたのは、キルヒャーの『ムスルギア』で読んだある箇所だったという。[1]キルヒャーは書いている。「見事な演奏会の最中、声や楽器から伝えられるあらゆる振動によって、空気が揺さぶられている様子を見ることができたなら、きわめて生き生きと、また美しく混ざり合った色彩で満たされているのを見て、私たちは驚くだろう。」[2]カステルが目指したのは、この類比による色彩を見えるものにすることだった。音と同じ調和的な比率で一連の色彩を配列し、それを鍵盤につなぎ、指で特定の鍵を押すと、その鍵に対応する音と同じように、色彩が順序立って現れ、組み合わされるようにすることである。だが、どの色がどの音に対応するのか。「緑はレに対応する」とカステル神父は答える。「それはきっと、聴衆に、このレという音が自然で、田園的で、快活で、牧歌的だと感じさせるだろう。ソに対応する赤は、戦闘的で、血なまぐさく、怒りに満ち、恐ろしい音という観念を与えるだろう。ドに対応する青は、高貴で、威厳があり、天上的で、神々しい音という印象を与えるだろう、等々。[1]こうして、耳の聞こえない人も、耳の音楽を見ることができ、目の見えない人も、目の音楽を聞くことができる。そして目も耳も備えた人は、両方を楽しむことで、それぞれの音楽をいっそう楽しむだろう。」[2]
1 アタナシウス・キルヒャー(一六〇二〜一六八〇年)は、ドイツのイエズス会士だった。『普遍的音楽論、すなわち協和と不協和の大いなる技法』は、一六五〇年に刊行された。
2 『カステル神父の精神、機知と奇異な点』(一七六三年)、二八〇ページ参照。カステルは一六八八年に生まれ、一七五七年に没した。
1 カステル神父には、いくらか色聴があり、それが擬古典主義的な理論づくりを助けたのかもしれない。後で触れる、アルチュール・ランボーのソネットを参照(一八三ページ)。
2 前掲書、三二九ページ。カステル神父の理論は、おそらくキルヒャーだけでなく、ニュートンにも負うところがある(『光学』第一巻、第二部、命題三および六参照)。この問題全体についての議論は、エラズマス・ダーウィンの『植物の恋』(第二歌への間奏)に見いだされる。ダーウィンは、カステルの試みを改良する可能性を考え、次のように結論する。「もし目に見える音楽を快いものとして作り出せるなら、移り変わる色彩のなかに、木立やキューピッドや眠るニンフたちを描くことによって、そこに情趣を加えるほうが、耳に聞こえる音楽に歌詞によって情趣を加える通常のやり方より、容易だろう。」
しかしカステル神父は、色彩が単に全音階に配列され、鍵盤に触れると、音符をまねて素早く現れたり消えたりするだけでは、満足しない。彼は、色彩の演奏会にもっと持続性を与え、自分の言い方では、「音楽と音を描く」ための、さらに容易な手段へ到達したいと望む。そこで、「音楽的、調和的なタペストリー」と呼ぶものの構想を、練り始める。「リゴドンやメヌエット、サラバンドやパッサカリア、カンタータやソナタ、さらにお望みなら、一つのオペラの音楽全体をたいへん完全に表したものまで、壁一面に掛けた部屋が、どんなものになるか、想像できますか」と、彼は問う。[1]このように絵画が、音楽の調和的な効果をすべて類比によって再現することに成功すれば、それを声なき音楽と呼ぶ理由は、これまで以上に強まるだろう、とカステルは、シモニデスの言葉を少し変えて言う。「しかも、騒音や騒ぎをあまり起こさずに心へ忍び入るだけ、それだけいっそう効果的な音楽なのだ」と、彼は付け加える。[1]カステル神父は、キーツの「聞こえる調べは甘美だが、聞こえぬ調べはいっそう甘美だ」という言葉に、きっと同意しただろう。
1 前掲書、三〇九ページ。
音と色彩を混同するだけでは満足せず、カステル神父は、さらに別の混同も企てた。たとえば、香りのクラヴサンを組み立てる方法を示している。一種の全音階に並べた香りの箱の開口部を、鍵盤を押すことで開閉し、こうして芳香の演奏会を奏でるというのである。[2]実際、カステルの考えは、擬古典主義のある傾向を突き詰めたときの、不条理を示している。というのも、彼が芸術を混同するのは主観のうちではなく、それを実現する手段において、客観的、形式的になのである。そして、この外的、形式的な混同を試みるなかで、不思議にも、レッシングを先取りすることになった。「色彩と音のあいだに一つの違い」があり、それが、この十二、三年のあいだ、両者の「あいだの類比が完全なものかどうかについて、彼を疑念のなかにとどめていた」と、彼は言う。彼はその間ずっと、両者の類比を立証しようとしていたのだ。その違いとは、色彩が空間のなかに固定されるのに対し、音は時間のなかで消え去るということだった。彼は何度か、この難点を、レッシングにほとんど劣らぬ力強さで述べている。[1]しかし、自分の類比は正しいのかという疑念は、カステル神父を苦しめはしたものの、自説に熱中し、ヴォルテールの嘲笑の的になることを、思いとどまらせはしなかった。
1 前掲書、三一三ページ。
2 同書、三六九ページ。
カステル神父は、文学運動がまさに終わろうとするときに、よく現れる種類の人物である。この点で、その色彩鍵盤楽器は、後の章で論じる、デ・ゼッサントの口のオルガンに劣らず、特徴的な徴候を示している。ただしカステルは、擬古典主義の観点が極端に誇張されたところを示し、デ・ゼッサントは、ロマン主義の観点が極端に誇張されたところを示す。したがって、カステルに触れたところで、諸芸術の擬古典主義的な混同についての、このきわめて不完全な概観を終えるのは、適切だろう。[2]
1 同書、二九四ページ参照。「色彩は場所の広がりに従う。場所は固定され、持続する。しかし音は時間の広がりに従う。そして時間は、本質的に順々に続くものであり、同時には結びつかない。」
2 完全な概観を試みるなら、バロックやロココの様式などの、ある側面にも目を向ける必要があるだろう。このような広い概観を行えば、諸芸術を形式的、客観的に、通常は絵画の観点から混同する、擬古典主義の傾向について、さらに新たな実例が得られるだろう。絵画の基準を彫刻や建築の基準と混同させることに、誰よりも大きく寄与した人物は、もちろんベルニーニである。レッシングは、それに反発して逆方向へ進みすぎたため、彫刻の基準を絵画へ持ち込んだとして、もっともな非難を受けている。
第二部
ロマン主義における諸芸術の混同
第四章
自発性の理論
新古典主義の時代に、詩と絵画を比べたホラティウスの言葉、あるいはそれに相当するシモニデスの言葉が、どのような役割を果たしたかを、私たちは見てきた。ホラティウスの比喩が新古典主義の時代に対してもつのと、実際に同じ関係を近代に対してもつ言葉は、実際の流行の度合いでは劣るものの、フリードリヒ・シュレーゲルの次の言葉である。建築は凍れる音楽だ、と。[1]新古典主義者たちは、「絵画のように詩も」を、キケロが語る諸芸術の「共通の絆」は、[2]純粋に形式的なものだという意味に受け取っていた。それに対し、ロマン主義者を代表するフリードリヒ・シュレーゲルは、この共通の絆を、形式ではなく感情に求めようとする。諸芸術のなかで最も形式的に見える建築でさえ、もともとは律動的な震えに応じて生まれたのであり、要するに、凝固した感情にすぎないのだ。ウォルター・ペイターよりはるか前に、ドイツの人々は、音楽が諸芸術のなかで最も芸術的なのは、最も形式に縛られないからであり、ほかの芸術も、音楽に近づくほど、その完成へ向かうと宣言していた。
1 この言葉の作者は、十分確かではないようだ。F・シュレーゲルのほかに、主として作者とされるのはシェリングとゲレスである。ビュヒマン『翼ある言葉』(第二十三版、一九〇七年)、三五六〜三五七ページ参照。もちろん、この言葉の考えは、後で引用するA・W・シュレーゲルの一節にも含まれている(一二四ページ)。
2 「人間の教養に関わるすべての学芸は、ある共通の絆をもち、いわば一種の親族関係によって互いに結ばれている。」『詩人アルキアース弁護』。スペンスは、この一節を『ポリュメティス』の題辞に用いている。
さて、詩と絵画を比較し混同する新古典主義の議論すべてが、さらに根本的なもの、すなわち模倣の教説から導かれる一つの結果にすぎないことを、私たちは見た。それと同じように、音楽を高く掲げることも、ロマン主義のいっそう根本的なもの、すなわち自発性の理論から導かれる一つの結果にすぎない。芸術を純粋に模倣とすることで、新古典主義者は、自発的なもの、予測できないもの、独創的なものの役割を小さくした。あらゆるものを、できるかぎり冷静で意図的な知性の支配下に置こうとし、ある理性的な水準より上にも下にもあるものすべてを、なおざりにしたのである。驚異の感覚だけでなく、畏れや神秘の感覚もそうだった。彼は、すべてが論理的で、慣習上正しく、無味乾燥に教訓的であり、常識と日常の事実という基準で試されたとき、明確に自己を説明できるものであることを望んだ。無意識的なものや、前もって考えてはいないものを認めようとしないために、芸術を作為と同一視し、詩の神的な幻を、一種の優美な偽りへと変える傾向を示したのである。
もちろん、これは新古典主義の観点を極端な形で述べたものだ。シャプランやライマーやゴットシェートでさえ、あらゆる点でそれを体現していたわけではない。また、新古典主義の時代そのもののなかで、純粋な形式主義に対抗していた影響も、忘れてはならない。たとえばボワローとそのロンギノス訳、そしてその時以来、個人的、感情的な要因がますます重視されるようになったこと、要するに趣味を重んじる流派の台頭である。それと密接に結びついていたのが、女性たちとサロンの影響だった。彼女たちは、芸術的創造のなかに、自発的な要素とまではいかなくとも、少なくとも定義できない要素、好んで呼んだところの「何とも言えないもの」を認めた。また、あらゆるものを知性の硬く乾いた光にさらそうとする傾向は、決して新古典主義だけの現象ではないことも、忘れてはならない。いわゆる啓蒙の時代を生み出すうえでは、ほかにもさまざまな原因が働いていた。たとえば、デカルトの哲学と、それがドイツで、ライプニッツやクリスティアン・ヴォルフの体系のうちに遂げた発展である。
どのように説明するにせよ、十八世紀初頭には、精神が分析過剰の乾燥した状態に達し、それが社会的慣習と結びついて、人間のきわめて自然な本能をいくつも抑圧していたことを、否定する人は少ないだろう。現代の心理学者の一部によれば、人間性の本質的な一面が、このように否定され、飢えさせられると、それは完全に消えるのではなく、単に潜在意識へ押し込められる。そして、そこである期間蓄積されると、一種の「意識の閾下からの噴出」によって、再び表面へ出てくる。慣習と乾いた合理性の時代には、ついにマシュー・アーノルドの言う、「嵐、情熱、発露、そして解放」への欲求が生じる。十八世紀の表面の下で、こうした感情の要素がしだいに蓄積していく過程を、私たちはたどることができる。そして最後に起こる、閾下からの噴出、感情の氾濫もまた、たどることができる。それは、ドイツの疾風怒濤運動、イングランドのウェスレー運動、フランス革命という、互いに異なる形をとった氾濫だった。
この感情的な反動のなかで、個人として最も重要な人物、独創的なものと自発的なものの偉大な使徒として、私たちは必然的にルソーを思い浮かべる。ルソーがいなかったとしても、このような反動は起こっただろうことは確かだ。しかし、それに初めて力強い表現を与え、それがとる形に深い影響を及ぼしたのが彼だったことも、同じく確かである。「ドイツの疾風怒濤運動全体の根は、ルソーの自然の福音である」とヘットナーは言う。A・W・シュレーゲルとスタール夫人も、模倣的、慣習的なものを激しく攻撃するとき、ルソーを繰り返していることを、それほど大きく超えてはいない。[1]詩は力強い感情が自然にあふれ出すことだというワーズワスの定義も、ルソーの主張を、一つの特別な形で応用したものにすぎない。シェリングは、本書の第一部で概観した模倣の理論全体を、体系的に攻撃する。[2]ドイツのある権威者によれば、宇宙全体をロマン主義化しようとした哲学者には、いかにもふさわしいことだった。しかしルソーは、彼より先に、宇宙をロマン主義化していたのである。
1 たとえば、『新エロイーズ』第二部、第十四〜第十七書簡を、『ドイツ論』第一部、およびA・W・シュレーゲル『演劇芸術と文学』の各所と比較されたい。
2 シェリングは、『造形芸術と自然との関係について』(一八〇七年)において、機械的模倣という考えに、創造的自発性という考えを対置した。この講演は、コールリッジに影響を与えた。
フランスで発展した新古典主義は、アリストテレスと舞踊教師との混合と定義できるかもしれない。運動の初めにはアリストテレスが、終わりには舞踊教師が、より目立っていたのである。一見すると、ルソーが争っている相手は、アリストテレスよりも舞踊教師であり、文学上の慣習よりも、社会上の慣習を取り除くことに、関心があるように見える。礼儀作法の圧政とサロンの作為に対して、彼は、新鮮さ、自然さ、自発性の世界を対置する。「私は、立派な部屋、噴水、人工の木立や花壇、そしてそれらを見せびらかす、さらに退屈な人々に、すっかりうんざりしていた」と彼は書く。「パンフレット、トランプ、音楽、愚かな冗談、味気なく気取った様子、豪勢な晩餐に、疲れきっていた。そのため、みすぼらしいサンザシの茂み、生け垣、農家、牧草地を見かけるたびに、あるいは小さな村を通り抜けて、おいしそうなチャービル入りオムレツの香りをかいだり、羊飼いの歌の素朴な節回しを遠くから聞いたりするたびに、紅やひらひらした飾りのたぐいなど、何もかも悪魔に持っていかれればよいと思ったものだ。」[1]
1 『告白』第九巻(一七五六年)。
しかし、この第一印象はいくらか誤解を招く。ルソーのより根深い対立の相手は、結局のところ舞踊教師ではなく、アリストテレスである。とりわけアリストテレスを、古典的模倣の圧政だけでなく、広く、人生への論理的、分析的な態度を代表するものと受け取るなら、そうなのだ。人間は推論したり分析したりするべきではなく、感じるべきだ、とルソーは言う。感じる、ゆえに私は存在する、と。実際、知性の活動は、得になるどころか、退廃の源である。知性は人間を内側から分裂させ、原始の人間が享受し、子どもが今も享受する、本能の統一、新鮮さ、自発性を壊したのだ。ルソーは、新種の反啓蒙主義者である。人間が知恵の木の実を食べたことに、自然からの転落の原因を見る。それは、神学者が同じ出来事に、神からの転落の原因を見るのと、よく似ている。合理的なものへの反発、分析する知性への攻撃、「区別を増やす、偽りの二次的な力」への攻撃が、彼とともに始まり、ロマン主義運動全体に行き渡る。新鮮で自発的な感情のアルカディアへ戻りたければ、考えるのをやめるべきなのだ。「考える人間は、堕落した動物である」とルソーは言う。それは、それなりの意味で、グレゴリウスの「無知は信心の母である」という言葉に並ぶものである。
芸術や文学を扱う際には、とりわけ「おせっかいな知性」を取り除くよう、ルソーは私たちに強く勧める。スターンと同じく、「なぜかも知らずに喜び、そのわけを気にもしない」人間の側に立つ。「フランス人が舞台に求めるのは、自然さや幻ではなく、機知や思想だけだ。芝居に魅了されることを求めはしない」と、ルソーは不満を述べる。[1]「魅了されることを気にかけない」。この短い言葉に、近代の方針全体が含まれている。芸術的創造が人をとりこにする力、今の言い方なら、その暗示する力だけが、ルソーの関心事だった。芸術が彼を魅了できるのなら、論理や合理性についての問いは、すべて引っ込めてもよかった。何かについて最初に問うのは、それが「もっともらしい」かどうかではなかった。いや、むしろ、その言葉にまったく別の意味を与えていたのだ。「ひとたび何かに私の想像力が燃え立てば、それを手に入れるために思いつく、どれほど突拍子もなく子どもじみた計画も、私には実現しそうに思える」と、彼は言う。要するに、文学に、さらには人生そのものに彼が求める唯一の論理は、夢の国の論理なのである。
1 『新エロイーズ』第二部、第十七書簡。
自分ほど、行動もものの見方も、気質だけから完全に生じている人間はいなかった、とルソーは述べている。そして自分の気質と同時代人の気質との対照を、意識していた。彼らと比べることで得た、自分は唯一無二で、特異だという感覚は、彼にとって誇りの源だった。同時に、それが彼を孤独へ追いやるかぎりでは、苦しみの源でもあった。「フランス人についていえば、彼らはつねに自分たちの理性によって足を止められるだろう」とゲーテは言う。とりわけ新古典主義の時代のフランス人を、念頭に置いているのである。「想像力には独自の法則があり、それは理性から独立していてもよく、また独立していなければならないことを、彼らは認めない。」ある意味でフランス人も、想像力を認めてはいた。ただし、パスカルの言葉でいう「理性に敵対する、傲然たる力」としてだけだった。新古典主義の理論が想像力をとりわけ優遇しなかったとすれば、デカルト主義の理論は、それを積極的に退けた。想像力は、その幻によって、人間を理性と現実から誘い出してしまうからだ。マルブランシュ神父が、想像力に対する有名な攻撃を行ったのも、いくぶんこの精神からだった。さて、ルソーは、少なくとも一つの点で、マルブランシュに似ている。想像力と理性が本来対立することを、彼も認めるのだ。ただしルソーは、想像による幻を得られるなら、理性を手放してもかまわない。「理性そのものより千倍も輝かしい、理性の神的な逸脱よ!」と彼は叫ぶ。[1]彼が望むのは、現実から逃れて夢の世界へ入ることだった。自分で言うとおり、そこだけが住むに値する世界なのである。[2]もちろん彼は、理性の信用を失わせようと努めるとき、しばしば見事に推論する。それは、ヴォルテールによればマルブランシュが、想像力を攻撃するとき、見事な想像力を発揮するのと同じだ。合理性を犠牲にしてでも、進んで自発性を高く掲げる結果、ルソーの想像力の理論全体は、熱病のような赤みを帯びる。彼は、発熱して寝込んでいたとき、最良の曲のいくつかを作った経緯を語っている。ただし、もちろん書き留めることはできなかった。そして、譫妄のなかの崇高な想像を記録できないことを、惜しんでいる。[3]ある同時代人によれば、ルソーが最良の文章を書いたのは、熱に浮かされた状態のときだけだった。ルソー自身も、最大の著作を書いた時期を、「熱と譫妄の十年間」と呼ぶ。[1]自分の想像力の活動について語るとき、ルソーが譫妄という言葉を繰り返し使うことは、文学上の後継者であるフランスのロマン主義者たちに与えられた、「譫妄の愛好家たち」という呼び名を思い起こさせる。デカルト主義者たちは、想像力をいっさい認めまいとした。ルソー主義者たちは、想像力の狂乱でなければ満足しない。新古典主義者たちは、詩的な能力を規則の拘束衣に閉じ込めようとした。ある種のロマン主義の詩人、たとえばヴィクトル・ユゴーを読むと、ときには拘束衣がないことを惜しまずにはいられない。新古典主義者たちは、知性にとってもっともらしいものだけを認めることで、幻の役割、驚異や驚きの要素を、不当に小さくしたのである。
1 『新エロイーズ』第二部、第二書簡。
2 「夢想の国こそ、この世界で唯一、住むに値する国である」など。『新エロイーズ』第六部、第八書簡。
3 『告白』第七巻。
他方、ロマン主義者たちは、あまりにもしばしば、常識を消し去ることによって、驚異の復興を達成した。彼らは、セインツベリー教授と同じく、良識が戸口から入ってくると、詩と想像力は窓から飛び去る、と考えがちだった。これは、新古典主義の見方を、単に上下逆さま、あるいは裏返しにしただけだ。そしてサント=ブーヴが言うように、くぼみに最もよく似ているものは、ふくらみなのである。
1 『第一の対話』。
想像的なものと合理的なものとの関係、あるいはアリストテレス主義の理論家なら言ったであろう、驚異的なものと蓋然的なものとの関係については、しばらく立ち止まって考えてよい。それは、古典的芸術とロマン主義的芸術を正しく区別するうえで、まさに中心にあるからだ。読むものに、まず合理性と厳密な因果関係を求める人と、まず冒険と驚きを求める人とのあいだには、根本的な違いがある。コールリッジによれば詩を信じることを成り立たせる、自発的に不信を一時停止する態度を、なかなか取ろうとしない人、自分の合理的な基準にあまりに固くしがみつき、この意味での蓋然性をくどくどと持ち出す人は、想像力が欠けていると疑われても、仕方がない。たとえばライマーが、スペンサーについて、次のように不満を述べるときの欠点は、それである。「驚くべき冒険のなかを、やみくもにさまよい続け、蓋然性など少しも気にしない。すべて空想的で、荒唐無稽であり、何の統一もなく、真実に根ざすところもない。その詩は、まったくのおとぎの国なのだ。」[1]逆に、詩をあまりにもたやすく信じ、どんなありそうもないことにもためらわない人の場合もある。子どもや、子どものような人がそうであることは、明らかだ。しかし合理性に無頓着で、驚異を好むことが、子どもらしさではなく、むしろ洗練の過剰を示す場合もある。たとえば、本物の古いアイルランドのサガの作者と、現代のケルト復興論者の一部とのあいだに、私たちはその違いを感じる。前者では、本当に素朴な人が素朴な時代へ語りかけている。後者では、唯美主義者が象牙の塔に閉じこもっているだけだ。また、アプレイウスのような後期ラテンの作家には、原因と結果のつながりが、いくらか子どもじみた驚きの連続に取って代わられるのを見る。ルキアノスが嘆くように、衰退期のギリシア人も、多少それと似た精神に身を任せ、異なる文学ジャンルのあいだにある、確かな線引きを消してしまった。要するに、驚異の復興は、必ずしも頽廃のしるしではないにせよ、いずれにしても両義的な出来事である。それが詩的な獲得を意味するのか、合理性の喪失を意味するのか、想像力の活力のしるしなのか、弱った知性のしるしなのかは、つねに問われなければならない。蓋然的なものは、驚異的なものの大敵だ、とボワローは言う。そして、まさしくそうなのである。多くの新古典主義者のように、散文的で分別があり、同時に想像力に乏しいことは、比較的容易だ。現代の多くのロマン主義者のように、純粋な想像の幻の世界へ乗り出すことも、さほど難しくはない。しかし、真の人文主義者であることを示すこと、すなわち、この両極のあいだを取り持ち、そのあいだの空間をすべて占めること、想像力にも知性にも、もっともらしく、説得力のあること、散文の基準を損なわずに詩の基準を満たすこと、これは、偉大な詩人たちだけが成し遂げた奇跡なのである。
1 ラパンへの序文。
最も頑迷な新古典主義の批評家たちでさえ、少なくとも理論上は、創造的な芸術には驚異の要素が必要だと認めていた。しかし一般に、中世の人々は、驚異をあまりにも安易に楽しんでいたように、彼らには思われた。中世の物語に満ちている冒険や驚きは、「蓋然性または必然性に従って」、十分に結びつけられていなかった。蓋然性という考えを、中世の物語を攻撃する武器として用いることは、十六、十七世紀の批評論では、ごく普通に見られる。マムブラン神父の叙事詩論(一七三ページ)からの、次の一節を実例にしよう。「私は少年のころ、『フランクス・サギッタリウス』という本で、ゼルビヌスが乙女フロリゼルに恋をし、彼女を得る望みをすっかり失って、海へ身を投げた話を読んだのを覚えている。海のニンフたちは、その若者の美しさに心を奪われ、愛情深く迎える。しかし彼は彼女たちの誘惑に応じようとせず、怒った彼女たちは、彼を波のただなかへ投げ出す。ちょうどそのとき、女王フロリゼルが、たまたま浜辺を歩いていた。さらに、漁師たちが、たまたまゼルビヌスを網で捕らえ、魚だと思って浜辺に横たえた。驚いたことに、ゼルビヌスはしだいに気を取り戻し、水を吐き出す。そして、自分が生きて正気でいるのか、まだ波のなかにいるのか、海のニンフたちの宮殿にいるのかもわからないまま、フロリゼルへの愛を語る言葉を、彼女のまさに目の前で、数多く口にするのである。」
なるほど胸躍る冒険ではある。しかし、これほど蓋然性に欠けるのだから、真剣な詩ではなく、老婆の昔話にしかふさわしくない、とマムブラン神父は結論する。ライマーなら、それには「老婆めいた味」がすると言うだろう。しかし、この種の問題では、退屈なほど論理に忠実であることと、想像による幻とのあいだに、マムブランが思うよりも、はるかに繊細で難しい調整があることは、明らかだ。彼に可能なのは、明らかに論理を信じることであって、詩を信じることではない。彼が退ける冒険も、真の詩人、たとえば『エンディミオン』の作者には、それほどありそうもないとは思われなかっただろう。目的が何よりも主要だ、とアリストテレスは言う。しかしキーツの関心は、目的よりも、旅の途中の出来事や喜びにある。黄金の国々を旅する機会さえ与えてくれれば、物語の論理的なつながりは、ほとんど気にかけない。このように理解された詩は、特定の目標への前進というより、美しい言葉や美しい瞬間の、いくらか脈絡を欠いた連なりである。もちろん、これはマムブランやライマーとは反対側の行き過ぎに陥ることだ。しかし、その行き過ぎは、おそらく、人間性の通常の本能には、よりよく合っている。そもそも最善の場合でさえ、明確な目的による規律をもどかしく思う人間性は、いつでも「勇ましく新しい冒険」へ出かけたくて、うずうずしているからだ。
「真実以外に美しいものはない」とボワローは言う。「真実だけが愛らしい。」それに対して、大多数の人に訴えるには、誤りの愛らしさによるほうが容易だと主張しても、少なくとも同じくらいもっともらしいだろう。実際、エラスムスは、その賢明な書物『痴愚神礼讃』で、それを行っている。ボワローの同時代人で、彼より詩心に富むラ・フォンテーヌは、創造的想像力についての魅力的な説明のなかで、自分自身の夢によって自分を魅了する人間の力について、こう言う。
人は、真実には氷のように冷たく、
嘘には、炎のように熱くなる。
新古典主義の理論は、人間のこの飽くことのない幻への欲求、事実ではなく虚構に飢えていることを、ある意味では認めていた。ただし、冷静で打算的な知性の監督下で、その虚構を少しずつ与えようとしたのである。三一致の理論に、きわめて明瞭に見られるように、創造する芸術家を、魔術師ではなく、計画的に人を欺く者、想像力を魅了するより知性をだますことを仕事とする者と考えた。[1]文学運動は、しばしば物理学の法則、作用と反作用は大きさが等しく、向きが逆であるという法則を思い起こさせる。新古典主義者は、散文の基準を詩に押しつけようとした。ルソーとロマン主義者たちは、詩の基準を散文に持ち込んだ。新古典主義者は、幻なしの論理と現実を望んだ。ロマン主義者は、現実なしの幻を求めた。ルソーは、文学からだけでなく、人生からも、「規則と青白い思慮」を追い払いたかった。トリノにいた若いころ、グーヴォン伯爵の屋敷で、すばらしい職を得ていたと、彼は語る。その職は、確かな段階を踏んで、立派な将来へ彼を導いたはずだった。しかし、そうしたことすべてが、彼にはあまりにも原因と結果の匂いがした。あるいは彼の言い方では、そこには「何一つ冒険が見えなかった」。そこで、「苦労して」自分を解雇させ、ある晴れた朝、友人バクルと放浪の喜びを味わうために、ふらりと出ていったのである。
1 絵画における対応する考えについては、バトゥー『一つの原理に還元された諸芸術』(二五八ページ)を参照。「絵画のすべての規則は、何に帰着するのか。似せることによって目をだまし、単なる像にすぎないのに、対象が実在すると信じさせることにである。これは明らかだ。」
のちにエルミタージュにいたころには、「魅惑の世界へ出発」しようとする、まさにその瞬間に、地上へ引き戻す訪問客に対して、無作法に振る舞ったと語っている。「現実の対象に到達できないことが、私を夢想の国へ投げ込んだ。自分の譫妄に値する現実の対象が見当たらなかったので、理想の世界でそれを養った。私の創造的想像力は、たちまちその世界を、心にかなう存在たちで満たしたのだった。」[1]このように創造的想像力は、ルソーにとって、心の望む国、まったく非現実の世界へ逃れる手段である。ホラティウスが語る、古代のある人物に、ルソーは共感しただろう。その男には、空っぽの劇場で、華麗な見世物を見る才能があった。しかし、ヘレボルスを大量に飲まされて正気に戻ると、おせっかいな友人たちに向かって、こんなふうに自分を退屈な現実へ戻し、楽しい夢を奪うことで、お前たちは自分を救ったのではなく、破滅させたのだ、と叫んだのである。実際、この古代人は、生まれる時代を誤ったロマン主義者にすぎなかった。キーツも、その物語で呪いの言葉を向ける相手は、蛇の女ではなく、「賢者、老アポロニオス」ではなかったか。魔法の幻、心にとってこの上なく快い錯誤を消し去る、憎むべき合理性の典型であり、そして、
そのために、
柔らかな体のラミアを、影へと溶かしてしまった者ではなかったか。
ロマン主義者は、「冷たい哲学」に服するくらいなら、偽りの魔女の腕にさえ飛び込む用意がある。めまいや譫妄や酩酊による幻であろうと、単なるアヘンや酒の酔気であろうと、散文的なものを忘れさせてくれさえすれば、どんな幻でも求めるべきものとなる。
1 『告白』第二部、第九巻(一七五六年)。
ヴォルテールは、想像力が合理性や判断力から切り離されているとき、それを高く評価すべきではないと言う。たとえば、おとぎ話は想像力にあふれているが、「秩序と良識」に欠けるために、私たちはそれを軽んじる。それからそれほど年もたたないうちに、ノヴァーリスは、おとぎ話が論理的な一貫性を欠き、世界を「魔法の夢の絵、音楽的な幻想」に変えるからこそ、芸術の最高の形式だと宣言した。[1]このように、蓋然的なものを驚異的なものへ全面的に犠牲にするとき、ロマン主義者は自然と、子ども時代を高く掲げるようになる。ジョンソン博士は、驚異とは「理性の一時停止」だと言う。しかし子どもにとっては、それは理性の一時停止でさえない。理性は、まだ始まったとさえ言いがたいからだ。子どもたちのいるところには、どこにでも黄金時代がある、とノヴァーリスは言う。子どもにとって、人生はまだ冒険であり、それぞれが前の瞬間から独立した、美しい瞬間の連続であり、絶えず新鮮な驚きの連なりである。子ども時代は、反省を知らない幸福、生き生きとした自発的な感覚の時代だ。
1 R・ハイムが、この問題についてのノヴァーリスの発言を集め、論じている(『ロマン主義派』、三七八ページ)。
あの時、
草には輝きが、花には栄光があった。
この子ども時代の詩から、ロマン主義者がしばしば幸運な霊感を得ることは、認めなければならない。ルソーは、何にもまして自発性の使徒だっただけではない。多くのほかの使徒とは違い、自分の説くことを、実際に成し遂げたのである。作為や「おせっかいな知性」からの脱出を祝い、自然の懐のすぐ近くでの、アルカディア的な夢想を描く文章のいくつかには、今も比類ない新鮮さと魅力がある。また、最良のワーズワスの詩ほど、必然的に生まれたように感じられる詩句はない。マシュー・アーノルドが言うように、「自然が彼の手からペンを取り、自らのむき出しの、純粋で、貫くような力で、彼に代わって書いているように見える」。ほとんど任意に、もう一つ例を挙げるなら、ブレイクの短い詩のいくつかは、素朴で子どものような驚異の感覚によって、見事なものとなっている。同時に、驚異の復興へのこの渇望は、どれほど綿密に吟味してもしすぎることはない。すでに述べたように、それは、真の自然さや単純さのしるしではなく、しばしば洗練の過剰の最終段階を示すからだ。たとえばウォルト・ホイットマンは、自然で素朴な人々の詩人であるどころか、むしろ文明化されすぎた人々の詩人である。実際、この問題を考えれば考えるほど、ルソー主義者の原始主義と、個人あるいは人類の幼年期に現れる、本当に原始的な特徴との隔たりは、大きく見えてくる。ロマン主義の原始主義は、ほかの多くの混同と同じく、近代の諸芸術の混同の源である。したがって、網羅することを目指しはしないものの、そのいくつかの側面を、注意深く考察しなければならない。
まず第一に、子どもは自意識にとらわれていない。これに対しロマン主義者は、理性を覆い隠すことで驚異の復興を買おうとしても、薬を飲ませて麻痺させようとする努力にもかかわらず、理性がしばしば、覆い隠されるのを拒むことに気づく。理性は、素朴で原始的になろうとする自己の一部を、嘲るように見下ろす。こうして、ルソー以来、ロマン主義運動のなかでさまざまな形をとる、頭と心との対立が生じる。その一つが、いわゆるロマン的イロニーの自己戯画化である。もちろん、ハイネのように、強烈に感傷的であると同時に、鋭く知的な作家では、ロマン的イロニーは最大になる。さらに、子ども時代は遊びの時期である。そこでロマン主義者たちは、芸術や文学も、明確な目的による規律を受け入れるべきではなく、やはり単なる遊びの形であるべきだと宣言した。[1]しかし、ロマン主義の原始主義者は、その遊び方において、本物の子どもと奇妙に異なる。子どもたちの遊びには規則がある。そのなかには、実際、十七世紀の悲劇とほぼ同じくらい、厳しく規則づけられたものもある。子どもたちは、こうした外的な形式を守ることで、自分たちなりに境界の神テルミヌスへ敬意を表している。実際、子どもや未開の人々は、多くの点で、最も慣習に忠実な存在である。他方、ロマン主義の原始主義者を何より動かすのは、慣習的なものから逃れたいという欲求だ。とりわけ芸術や文学を扱う際、彼は、古い形式上の区別をすべて捨て去ろうとする。そして、より高い規律を求める代わりに、あらゆる境界や制限を何もかも取り払ったという、快い感覚のなかに安住するのである。
1 芸術の遊戯説の最も重要な表明は、シラーの『美的教育書簡』に見いだされる。この作品は、ルソーとカントの両者から、またカントを通じたルソーから、影響を受けて書かれた。
「すべての詩の始まりは」とフリードリヒ・シュレーゲルは言う。「合理的に進む理性の法則と方法を廃し、私たちを再び、空想の魅惑的な混乱、人間性の原初の混沌のなかへ投げ込むことにある。」物事はもはや、「退屈で生気のない切り離された状態」のなかで、分析的に見られない。一種の感情的な統一のなかで見られる。そこでは、すべてが固く結びついているため、一つの感覚が鮮やかな印象を受けると、ほかの感覚も共鳴して震える。あらゆる境界が消え去り、はっきりした輪郭はすべて、曖昧で官能的な夢想のなかで溶け合う。おとぎ話を芸術の規範に据えたノヴァーリスの言葉を、もう一度聞こう。「夢のさまざまな段階ほどのつながりしかない物語、調べが美しく、美しい言葉に満ちているが、意味やつながりを欠いた詩を、想像することができる。せいぜい、ときどき理解できる詩節があるだけで、まったく無関係な物事の断片のようなものだ。この真の詩は、もちろん、象徴的な意味と、音楽のような間接的な効果しかもちえない。」この一節が述べているような芸術は、普通の子どもには、決して訴えないだろう。しかし、ノヴァーリス自身からフランスの象徴主義者たちに至るまで、十九世紀の多くの芸術家が実際に試みたことは、驚くほどよく言い表している。
この種の芸術は、幻そのものを目的とする幻、精神のための単なる忘憂の薬と定義できる。現実と折り合うためではなく、そこから逃れるための手段なのだ。それでも、このように夢想の国へ逃げ込む作家や芸術家の多くは、同時に、神秘家やプラトン的な理想主義者をもって任じようとする。実際、アリストテレスの権威や新古典主義の規則から離れるとき、プラトンの庇護下に身を置くことは、ロマン主義者にとって、ほとんど当たり前である。たとえばA・W・シュレーゲルは、「規則として刻印された解剖学的な考えが、詩の本質的な要件に、どれほど遠く及ばないか」を示そうとする。それらは知性に訴えることしか許さないため、真の詩的な幻の性質を、完全に見失ったのだという。そしてシュレーゲルは、この真の幻について、多くの点で見事な説明を与える。「それは、私たちが自ら進んで身を委ねる、目覚めたまま見る夢である」と、彼は言う。続いて、芸術のこの感情的な要因を正当に扱わず、想像力を働かせるべきところで分析的だったとして、アリストテレスとレッシングをともに厳しく非難する。そして、こう付け加える。「古代の哲学者たちのなかから導き手を選ぶなら、間違いなくプラトンだろう。彼は、決して美の観念を与えられない解剖によってではなく、直観的な霊感によって、それを得たのである」など。[1]これは典型的な一節だ。実際、私たちは、新古典主義の作家たちが真のアリストテレス主義者だったのかと問うことになったのと同じように、ロマン主義の作家たちが真のプラトン主義者だったのかと、問わざるをえない。この問いは、私たちの主題に欠かせないものであり、独立した一章で扱うに値する。
1 『演劇芸術と文学』第十七講。真の幻についてのシュレーゲルの考えには、いくらか意外な先駆者がいた。『シェイクスピア序文』のジョンソン博士である。シュレーゲルは、ジョンソンに負うところを、きちんと認めている(ボーン版英訳、二四九ページ)。
第五章
プラトン主義者と擬似プラトン主義者
「人は誰でも、アリストテレス主義者かプラトン主義者として生まれる」とコールリッジは言う。重要な意味で、この言葉は真実だ。もっとも、実際の人間性は、もちろんそれほど単純ではない。まず、プラトン主義者ともアリストテレス主義者とも呼ぶのは、あまりに過分な賛辞になる人々が、大勢いる。カーライル風に言えば、単なる特許つき消化機械である。次に、すでに述べた擬似アリストテレス主義者と、これから述べる擬似プラトン主義者がいる。混合した型や中間の型、あるいは同じ人が、気分や時に応じて一方の観点から他方へ移るさまざまなあり方については、言うまでもない。プラトン自身も、この語にしばしば与えられる意味でのプラトン主義者ではなかったし、アリストテレスもアリストテレス主義者ではなかった。つまり、アリストテレスが乾いた分析で満足しなかったのと同じく、プラトンも単なる崇高な熱狂者ではなかった。プラトンとアリストテレスは、ほかの分別ある人々と同じである。どのように「生まれた」にせよ、自分の思考の分析的要素と総合的要素とのあいだに、何らかの釣り合いを保とうとするのである。
それでも、プラトンが最も分析的で、アリストテレスが最も総合的なときにも、私たちは気質の違いを感じる。したがって結局のところ、アリストテレスとプラトンを、それぞれ分析的精神と総合的精神の最高の実例とみなすのは、正当である。ゆえに、新古典主義の時代に誤った分析から生じた、ある種の混同を、擬似アリストテレス主義と呼んだことも、正当だった。そして、誤った総合から生じ、近代の芸術や文学だけでなく、近代の生活にも行き渡る、別のいくつかの混同を、擬似プラトン主義と呼ぶことも、正当だろう。
プラトンの名をみだりに用いることは、もちろん新しくない。たとえばルネサンスのペトラルカ主義者たちの多くは、現代のどのロマン主義者にも劣らず、プラトン主義者をもって任じることを好んだ。その根拠のほども、ほぼ同じだった。真のプラトン主義と偽りのそれとの違いという、これほど広大な主題を、完全に研究しようとすることはできない。現在の主題に必要な主要な区別に、限らなければならない。そしてその区別に至る最良の方法は、おそらく、プラトンを、ヨーロッパのロマン主義を最もよく代表するルソーと比較することだろう。二人には、ある表面的な類似がある。どちらも、自意識のきわめて強い時代に生きていた。分析が伝統的な基準を溶解させ、行為の基盤そのものを脅かしているように見えた時代である。ルソーが啓蒙思想家たちを攻撃したさまは、プラトンがソフィストたちを攻撃したさまと、かなり似ている。どちらも文学や劇場に疑いの目を向け、同時代の腐敗に対して、一種の理想のスパルタを対置する。しかし、進んだ文明の病を診断する際に、いくらか一致があるとしても、その治療法には、まったく一致がない。ルソーはサン=ジェルマンの森へ散歩に出かけ、黄金時代の夢にふける。そしてそれを、原始の人間の生活についての真実の幻視だと主張する。その人間は、まだ無知を失わず、自分自身や仲間と一つであった。知性の成長が共感の絆を弱め、初めにあった「自然の憐れみ」によって和らげられた平和な利己心を、争う利己主義へ変える前の、人間である。したがって彼は、人間がそこから転落した「自然状態」を、懐かしい憧れをもって振り返る。そして、それに応じた不信を、本能のこの自発性を壊し、共同体的な共感の絆を弱め、人間を自己や他者との争いへ導いた、精神の諸能力に向ける。オリノコ川流域のある部族が、子どもの頭を板で締めつけ、こうして知的発達を止め、原初の幸福のいくらかを確保しているのは、賢明なのではないか、とさえ問うのである。
これに対しプラトンは、自然への回帰など夢見ない。伝統的な基準が弱まるとともに現れた、贅沢、利己主義、放縦を目にし、失われた外的な基準に代わる、内的な基準を探し始める。ルソーのように規律を取り払い、共感の初めの温かさへ戻ることで、利己心を克服しようと望むのではない。プラトンは、知性の諸能力そのものを足場として使い、より高い規律へ向かって、前へ進もうとする。そしてその規律は、新たな統一の感覚へ導く。ルソーの本能の統一に対して、洞察の統一と呼べる感覚である。ルソーの人生観は、何よりも感情的であり、プラトンのそれは、徹底して規律を重んじる。実際、『法律』のような後期の作品では、規律を行き過ぎたものにしたと、もっともな非難を受けうる。プラトンの統一は意志の集中と、ルソーの統一は感情の拡張と結びついている。近年のあるギリシア哲学史家は、[1]プラトンには、ショーペンハウアーが憐れみに与える役割は理解できなかっただろうし、この点でショーペンハウアーはルソー主義者なのであるが、ルソーが描く感受性の魅力など、まったく軽蔑しただろう、と述べる。これらの指摘は、ルソー主義者とプラトン主義者の違い、理性より下にあるものに主な関心を抱く人々と、理性より上にあるものに主な関心を抱く人々との違いを、明確にするうえで大きな力をもつ。
この二つの集団の根本的な隔たりは、知性の諸能力への態度に、つねに現れる。ルソーによれば、ソクラテスは無知を称賛する。ルソーがこれほど恥知らずな詭弁を弄することは、そう多くない。もちろん、ソクラテスが実際に主張したのは、人は何かを知っていると思っていても、実際には無知だ、ということだった。つい先ごろ、何についても誰一人、一パーセントの十億分の七を超えては知っていないと嘆いたアメリカの科学者は、何世紀も前、アテネでソクラテスが語ったことを、繰り返していたにすぎない。しかしソクラテスは、このわずかな知識がどれほど微小であっても、人々にそれを、またそれを得るために用いた諸能力を、大切にしてほしかった。いつかそこへ、さらに一パーセントの十億分のいくつかを加えられるかもしれない、という希望をもってである。「区別を増やす、偽りの二次的な力」について、ワーズワスやルソー風の話を聞かされたら、ソクラテスがどれほど皮肉をもって応じただろうかは、想像できる。それどころか、彼は生涯を通じて区別を増やすことに努めたのであり、実際、形式論理学の創始者とみなすことができる。
1 T・ゴンペルツ『ギリシアの思想家たち』、第三巻、一一六ページ参照。
ここには、プラトン主義者と擬似プラトン主義者だけでなく、真の神秘家と偽りの神秘家を見分ける試金石もある。すでに述べたように、ルソー主義者の一部がプラトン主義者をもって任じた一方、別の人々は、自分を神秘家とみなしたからである。しかし真の神秘家は、単なる夢想にそれほどふけらない。しばしば、際立って鋭敏かつ実際的だったことは、歴史上の事実である。いずれにせよ、自分の知性と良好な関係を保っている。さらに高い力へ身を委ねなければならない地点へ、知性が連れていってくれるまで、進んでそれに従う。その瞬間をダンテは、『煉獄篇』で、ウェルギリウスが導き手の役目を終え、ベアトリーチェに譲る箇所によって、象徴した。合理性を否定することによってのみ幻視に達する人を見たなら、私たちはすぐに、擬似神秘家を相手にしているのではないかと疑ってよい。サンタヤーナ教授は書いている。「伝統と理性が設ける区別を、自信と新たな活力の感覚をもって振り捨てるとき、人は、感覚と本能という低い水準へ心地よく沈み戻りながら、自然へ帰るのだ、あるいは無限へ逃れるのだと感じるかもしれない。神秘主義は、思考においても生活においても、知性の働きを放棄することを、私たちに誇らしく、幸福なものと感じさせる。そして、不完全にしか人間でないままでいることによって、神的なものになるのだと信じ込ませる。」[1]しかし、この一節は真の神秘家の記述ではまったくなく、単にルソー主義者の記述である。そしてその記述としてなら、見事なのである。
もちろん、具体的な人間性のなかでは、私たちの定式ほど、物事はくっきり分かれていない。理性より上にあるものの感覚が、理性より下にあるものの感覚へ、戸惑うほどに溶け込むこともある。たとえばワーズワスには、真の神秘的な洞察の現れがある。その一方で、それと同じほど賢明とはいかなくとも、詩としてはほとんど同じほど見事な箇所もある。しかしそうした箇所は、いずれにせよ、プラトン的というよりルソー的なのだ。かの有名な頌歌は、そのように、プラトンとルソーを奇妙に混ぜ合わせている。前世の存在を想起するというプラトンの教説と、新鮮さと自発性の時代として子ども時代を回想するルソー的な考えとの混合である。「私たちの誕生は、眠りと忘却にすぎない」という信念には、もちろんプラトンも同意しただろう。しかし、六歳の子どもが「力ある預言者、祝福された見者」であるという主張は、恐らく彼には、とんでもないたわごとと見えたに違いない。そして、プラトンに同意する人々も、きっとまだいくらかは残っている。実際ワーズワスは、理性の上にあるものと下にあるものを混ぜ合わせ、子どもを理想化するだけでなく、超自然的な存在にしてしまった。これはおそらく、プラトンだけでなく、ルソーをも不満にさせただろう。
1 『詩と宗教』、一八七ページ。
無意識的なもの、自発的なもの、本能的なものと比べて合理性を軽んじる、その程度に正比例して、人は非プラトン的、擬似神秘的になる。メーテルリンクは、あらゆる賢者の言葉を合わせても、通り過ぎる子どもの無意識の知恵には及ばない、と言う。「黙っている子どもは、語っているマルクス・アウレリウスより、千倍も賢い。」これは真の神秘家の言葉ではない。理性より上にあるものにだけふさわしい敬意を、理性より下にあるものに払う、ルソー主義者の言葉である。子どもをいくら賛美しても、真に子どもらしいものには届かない。合理的な制御から、意識の閾下にある自己を解放することで生じる、混沌とした夢想や奇異な感覚を得るだけなのだ。洞察は、このように潜在意識と超意識を混同し、その過程で知性の区別をすべて廃することはない。それは、ルソー主義者が消そうとする、まさにその線、人間と自然のあいだの線を、とりわけ鋭く引く。自然への回帰を促すどころか、むしろアーノルドの言い方のように、人間と自然は決して固く結ばれた友にはなれない、と感じさせる。洞察が神秘的になるほど、この感覚は強まるだろう。それは、外界の自然に対して、単に無関心なだけでなく、禁欲的な態度へ導くことも十分にありうる。そしてもちろん、これはルソー主義者とは反対側の行き過ぎである。「確かに、私たちの内には神性の一片がある」とサー・トマス・ブラウンは言う。「諸元素よりも前に存在し、太陽にも敬意を払う義務のない何ものかが。」感傷的自然主義者、すなわちルソー主義者が宣言する新たな統一は、正反対のことを前提とする。ルソー主義者によれば、サー・トマス・ブラウンが語る、人間と自然の隔たりの感覚を克服し、むしろ両者に共通する本質についての「崇高な感覚」へ達するべきなのだ。ワーズワスが続けて言う、「沈む太陽の光に、そして人間の心のなかに住む」何ものかの感覚である。かつては、プラトン主義者や神秘家だけでなく、普通の人文主義者も、外界の自然を、人間の最高の関心事とは異質なもの、少なくとも関わりのないものと見ていた。実際プラトン自身が、『パイドロス』の冒頭で、自然に対する人文主義的な態度を、見事に表している。それは、無関心や禁欲的な不信からも、ルソー主義者の崇拝からも、同じように遠く離れた態度である。そこに記されるソクラテスは、書物を「むなしく果てしない争い」とみなすどころか、本を読めるという期待によって、パイドロスに誘われ、田園へ出かけている。ちょうど「飢えた群れが、その前で葉や果実を振る人に導かれる」ようにである。しかし、いったん田園へ来ると、ソクラテスはその新鮮さと魅力を鋭く感じ取り、巧みに描き出すので、パイドロスは、なぜもっと頻繁に来ないのかと驚く。するとソクラテスは答える。「野原や木々は私に何も教えてくれないが、町の人々は教えてくれるのだ。」プラトンのソクラテスと、「森や小川を日々の教師としていた」、ワーズワスの賢者とを比べれば、古い型の人文主義者と、近代の感傷的自然主義者との隔たりがわかるだろう。
この人文主義的な観点が、どれほどたやすく極端に走るかは、すでに見た。風景画に対するレッシングの態度が、その実例である。少なくとも芸術の目的からすれば、レッシングは、風景が魂の一つの状態であることを認めようとしなかった。レッシングにとっては、あらゆる真の古典主義者と同じく、芸術で最も高いものは筋や構図であり、それ以外のすべてを、その秩序ある展開に従属させることである。明確な目的へ向けた、この意志の集中と、近代のロマン主義者たちがこれほど培ってきた、自然のなかへ溶け込む気分とのあいだには、明らかに対立がある。ハズリットがラファエロについて言うことは、レッシングにも等しく当てはまる。「ラファエロは、風景を描けなかっただけではない。風景のなかの人物を描くこともできなかった。……彼の人物には、つねに室内にいるような様子がある。すなわち、自らの情念、あるいは他人の情念への警戒から生じる、固定した、断固とした、意志的で、劇的な性格である。そして自然の偶然や天候の変化と結びつく、あの奔放で定まらない表情を欠いている。彼にはロマン的なところが何もない。」
自然と人間性が互いに浸透し合うこと、夢想のなかで、存在の異なる次元だけでなく、まもなく見るように、身体の次元での異なる感覚印象までが、溶け合うこと。これが、近代特有の私たちのあらゆる混同の出発点である。存在の諸次元のあいだに、知性が確立し、意志が守る、確かな区別を犠牲にすることを拒む。この点が一般に、プラトン主義者とルソー主義者との主要な違いだ。この違いが、とりわけ明瞭に現れるのは、ルソー主義者がふつう、自分こそ最もプラトン的だと主張する、その点、すなわち愛の捉え方においてである。バイロンは、ルソーは「理想の美」を愛した人だったと言う。すると私たちは、すぐプラトンを思い浮かべる。しかし、立派な言葉にだまされてはならない。愛を扱うときも、ほかの何を扱うときも、プラトンはつねに、ワーズワスなら「区別を増やす、偽りの二次的な力」の「おせっかいな奴隷」と呼ぶであろう者であることを示す。彼は、地上のアフロディテと天上のアフロディテを区別する。そして前者が後者への足場になりうることは認めるが、両者を実際に混同することは決してない。それに対して、ロマン主義運動で愛という語が無差別に使われていることには、誰もが驚いたはずだ。たとえばアルフレッド・ド・ミュッセは、神への愛と、若い働く娘への愛とのあいだに、明確な線を引かない。個々のロマン主義者がこの誤りを免れるとしても、それは、その哲学よりも、気質の冷静さや、教育・環境の偶然のおかげである。
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの伝記作家によれば、ロセッティが世界へ伝えたものは、次のような詩句に要約される。
愛しい人よ、いつも私はこうなのだと伝えたい。
あなたの魂と体を、あなたと私を、
私たちの愛と神を、私は見分けられない。
地上の愛と天上の愛を分けるどころか、ロセッティは明らかに、それらを一つの酔わせる酒へと混ぜ合わせる。この近代の混合の究極の起源は、疑いなく中世にある。しかし、私たちの主題に関わる形については、ルソーより前へさかのぼる必要はない。存在の次元についての、この独特の混同が、ルソーのなかにどれほど行き渡っているかを、最初に指摘したのは、おそらくジュベールである。
「ルソーは官能的な精神をもっていた。その著作では、魂はつねに肉体と混ざり合い、決して区別されない。肉が精神に触れる感覚と、その結婚の喜びを、彼ほど生き生きと描いた者は、かつていなかった。」
さてジュベールは、別の箇所で、精神と物質は、幻を媒介としてしか関わり合うことができないと述べている。そして、人間の低い本性と高い本性を取り持つ、想像による幻の役割について、どの作家の言葉と比べても、最も鋭いものに数えられる見解を、続けて述べる。付け加えるなら、ジュベールは、擬似プラトン主義がはびこった時代の、真正のプラトン主義者だった。ただし、ときには微妙さに行きすぎ、あまりにもおぼろげで、浮世離れする傾向がある。ジュベールは、感覚と理性のあいだを取り持つ想像力の役割を、その魔力と輝きを理性に貸すこと、いわば本質的な真実に、神的な幻のヴェールをかけることと考える。最高の芸術の目的について、これ以上適切に述べることは、おそらく難しい。ただし、それが生命のない寓意へ陥る口実にもなりうるのは、明らかだ。[1]真の象徴に見られる、幻と洞察の生きた融合、それに伴う無限の感覚に達するには、想像力が真に自由で自発的でなければならず、真実そのものも、あまりに厳密に定式化されていてはならない。
想像力と理性、幻と知恵とのこの同盟は、あらゆる規則を超えるものである。そして実際、あまりに難しいため、偉大な思想家たちにさえ、不可能に思われてきた。想像力に対するパスカルの攻撃については、すでに述べた。想像力は「誤りと偽りの女主人」であり、「理性に敵対する、傲然たる力」だと、彼は言う。その幻によって、感覚の情動や印象をこれほど強めるため、神の啓示という形で、いわば機械仕掛けの神の助けを得ないかぎり、理性は必ず敗れる。この理論は、もちろん、人間性の通常の事実についての深い洞察を示しており、芸術のための芸術についての、どんな空疎なおしゃべりよりも、はるかに深い。しかし、そこには陰気で禁欲的なものもある。キリスト教の詩だけでなく、異教の詩にも、最高の詩のなかに実際に見いだされる、幻と合理性との同盟、アリストテレス風に言えば、驚異的なものと蓋然的なものとの同盟を、否定しているように見えるからだ。いずれにせよ、この理論は、近代人にそれほど多くの希望を与えない。近代人はむしろ、ベーコンが『学問の進歩』で概説した、想像力の注目すべき理論に、自分の目的に合うものを、より多く見いだすだろう。そこで彼は、学問の体系のなかで修辞学と修辞による説得が果たす役割を、論じている。「説得の雄弁が働きかけて、想像力を情念の側から勝ち取り、情念に対抗する理性と想像力との同盟を結ばなければ、理性は捕らえられ、隷属することになる」と彼は言う。「情念も、理性と同じく、つねに善への欲求をもつ。違いは、情念が現在だけを見るのに対し、理性は未来と時間の全体を見ることにある。したがって、現在のほうが想像力を多く満たすため、理性はふつう敗れる。しかし、雄弁と説得の力が、未来のものや遠いものを、現在のもののように見せると、想像力の寝返りによって、理性が優勢になるのである。」
1 中世における、いくらか似た芸術観からも、しばしばこの結果が生じた。ペトラルカの言葉、「事物の真実を、美しい覆いで飾る」を参照。
ロンギノスなら言うように、偉大な詩が人に働きかけるのは、説得によってではなく、忘我によってである。それを除けば、ベーコンの理論には、ジュベールの理論との明らかな類似点がある。ジュベールの求める幻と洞察との融合を、プラトンの「神話」のいくつかほど、よく示す実例は、おそらくないだろう。実際、プラトンは、最も想像力に富み、自発的な作家の一人であるだけではない。その自発性は、理性の働きの否定ではなく、むしろその完成なのだ。したがって、プラトン的な洞察の統一と、ルソー主義者が夢見る本能の統一を区別したのと同じように、ルソーの自発性に対して、より高い自発性を対置できる。そこでは幻を生み出す力が、感覚ではなく理性に仕える。この幻をめぐる問題全体が、芸術の中心問題であるとわかることも、十分にありうる。新古典主義の理論家は、芸術の合理的な要素に不当に偏り、幻の計り知れない可能性には、できるかぎり小さな余地しか認めなかった。ロマン主義者たちは、私たちに豊富な幻を与えた。しかし、それは合理的な目的から切り離された幻であり、あまりにもしばしば、肉の偽りの幻だった。すでに見たように、ルソーは、現実の世界から純粋な幻の世界へ、飛び去る用意があった。だが、彼が描く夢の世界は、ある点では、地上を思い起こさせすぎる。彼は、自分の夢想の国で、「天女たちの後宮」に囲まれる。そして、その官能的な幻は、実際に知っていた女性たちの顔立ちをしている。そうした情熱的な思い出に、彼の「血は燃え立つ」。ここにあるのは、明らかに、ベーコンが望むものの正反対である。ルソーの想像力は、理性に対抗して情念と同盟を結び、現在の感覚だけでなく、過去の感覚にも、その黄金の輝きを投げかける。このような洗練は、ベーコンの計算には、ほとんど入っていなかった。実際、ルソーは、夢想によって楽しみを強め、長引かせるエピクロス主義を完成させた。このように魂と感覚を融合できれば、「未来と時間の全体」は、気にかけない。ルソー自身、「感覚の逸脱を、甘美なヴェールで覆う」ことを語っている。[1]そして、バイロンがルソーを理想の美を愛した人と呼ぶ、まさにその一節で、こう書いている。
彼は、狂気を美しくするすべを知り、
誤った思いや行いに、
天上の色合いを投げかけた。
狂気を美しくするために想像の幻を用いる、このやり方を、その後へたどっていけば、ついには現代の頽廃派の一部に見られる、いわゆる燐光を放つ粘液に至るだろう。物質的な衝動に天上の色合いを与える技は、十九世紀の偽の理想主義や擬似的な精神性のなかで、さまざまな姿をとる。ついには官能の泥沼へ人を落とす、「神秘的」「プラトン的」な陶酔がある。友愛についての立派な感情の吐露が、富や成功への嫉妬と憎悪を隠す、もっともらしい仮面にすぎないことがある。「ニューソート」は、物質の存在さえ否定するほど高遠なのに、なぜか、身体の健康を保つことにしか関心がないとわかる。そういった具合である。
1 『新エロイーズ』第一部、第五十書簡。
しかし、文学と芸術の問題へ戻ろう。今述べてきた傾向は、原始的なものや子どもらしいものについてのルソーの理論に、いくらか奇妙なかたちで付き添うものに見える。それでも、ほとんどすべての場合に、実際にそうであることを示せる。子どもが享受し、原始の人間も享受していたとされる、感情と本能の統一を得るために、あらゆる障壁や境界を壊すことは、つねに、肉と精神のある種の混合をもたらす。ドイツの人々が、表現力はあるが不快な言い方で、魂の持続勃起と呼ぶものに、いつも達するとまではいわないにせよ、そうなのである。自分の境界を守ることで満足する芸術は、なお硬い形式主義に捕らわれ、原初の愛がもつ拡張の力を、まだ感じていないのだ、とルソー主義者は言うだろう。ロマン主義のこの側面全体は、リヒャルト・ワーグナーと、その楽劇の理論に、最もよく表れているのかもしれない。ワーグナーによれば、純粋な音楽と純粋な詩、すなわち、それぞれ自分の境界の内にとどまる音楽と詩は、どちらも無力である。実りのない抑制や自己制限を取り払い、神秘的で官能的な抱擁のうちに溶け合って、初めて力を得る。邪魔な知性偏重から解き放たれた詩は、「花嫁〔音楽〕とともに沈み、深みの隠れた驚異を学び」、「無意識的なもの、本能的なもの、純粋に人間的なものを知る」。そしてついに、真に創造的になる。[1]「詩と音楽、言葉のことばと音のことばとの、この結婚の子、両芸術の愛の瞬間が形をとったもの」が、詩句旋律である。[2]そして、音楽と詩の結合から生まれるこの最高の果実は、両芸術の原初の親縁関係への回帰、原旋律の回復にすぎない。[1]
1 エリス訳、ワーグナー散文著作集、第二巻『オペラとドラマ』、二〇一、二八六、三五二、三五三、三五六ページ参照。
2 同書、三一三ページ。
要するに、ワーグナーのオペラの理論ほど、ルソー的なものは考えられない。人々は共通の規律ではなく、共通の共感において結びつき、愛が抑制に勝利するべきであり、この感情的な結合に達するかぎり、人々は原初の幸福へ戻っているにすぎない。この全般的な考え方だけが、ルソー的なのではない。それを音楽に具体的に適用する仕方も、ルソー的なのだ。ルソーによれば、言語と音楽は、原初には一つだった。そしてこの原初の、語ることと歌うことが一つになったものは、同時に詩でもあった。[2]無意識の時代、区別のない感情的な統一の時代は、明確で意識的な知的区別の時代より、好ましいとされる。ルソーやワーズワスと同じく、ワーグナーにも、自発性を殺すものとして、おせっかいな知性への恐れが行き渡っている。しかし、こうした観点が自分を神秘的、あるいはプラトン的だと主張するとき、それをどう考えるべきかは、すでにわかっているはずだ。プラトン主義者の高次の統一と自発性は、すでに述べたように、意志の集中、畏れ、高揚、抑制の感覚と結びついており、感受性の拡張とも、その刺激とも結びついてはいない。プラトン主義者は、存在の次元を混同しない。とりわけ、肉と精神の次元を溶け合わせるというより、むしろ鋭く分けすぎるという非難を受けやすい。ナポレオンの評言とは裏腹に、しばしば明確に区分されたジャンルの擁護者となるゲーテは、正当な音楽には二種類しかない、人を踊らせるものと、祈りへ導くものだ、と言う。他方、現代の象徴主義者や頽廃派がワーグナーにおいて称賛したのは、聖なる要素と俗なる要素の混合、その一人が「官能的な宗教性」と呼んだものだった。
1 『オペラとドラマ』、二八二、二九三ページ。
2 『言語起源論』参照。この論考では、ルソーは、ギリシア人に原始主義を押しつけようとするワーグナーの試みまで、先取りしている。ルソーがワーグナーに直接影響したと主張しているのではない。二人を仲介した一人は、E・T・A・ホフマンだった(『オックスフォード音楽史』第六巻、三五一〜三五二ページ参照)。ホフマンとルソーについては、一七六ページを参照。
この章ではここまで、プラトン的な観点と、私が擬似プラトン的、ルソー的、あるいはロマン主義的と、さまざまに呼んできた観点とを、区別しようとしてきた。私のロマン主義的という語の使い方は、きっと苛立ちを招いたことだろう。慎重な思索家と思われたい人が、この語を使うには、それだけで勇気がいる。実際、ロマン主義という語を完全になくすための協会を設立することは、慈善事業になるだろう、と提案した人がいる。私の考えでは、それをいっそう正確に定義する協会を設立するほうが、さらに慈善にかなう。この語をめぐって育った混乱は、大部分、ロマン主義者自身と、彼らの「区別を増やす、偽りの二次的な力」への嫌悪に帰せられる。そもそも、この語を完全に廃するのは、たとえばダチョウとミソサザイのあいだに、ある違いがあるからといって、「鳥」という総称を廃するのと、同じくらい賢いことだろう。さて私は、ロマン主義者のある種類が、別の種類と、少なくともダチョウとミソサザイほど異なることを認めるだけではない。現在の主題のためには、そうした違いのいくつかを、実際に強調する必要がある。
しかし、ロマン主義者たちを分ける特徴に入る前に、彼ら全員に共通する特徴は何かを問うのが、適切だろう。アリストテレス主義者なら、それは、蓋然的なものよりも驚異的なものを愛することだ、と答える。驚くべきもの、冒険や驚きへの渇望は、アリストテレスの言うとおり、ある程度、すべての人に存在する。原因と結果をたどることよりも、驚くべきもの、冒険や驚きに関心を抱く、その程度に応じて、人の気質はロマン的になる。中世の人間は、しばしばこの意味でロマン的だった。冒険、まれで尋常でない出来事という考えに、とりつかれていたのである。この冒険の追求が極端な形をとると、『ドン・キホーテ』に見られるものに似た結果、夢の国の論理と、日常の事実の論理との、現実の衝突が生じた。
冒険への愛が強く、分析や論理の能力が眠っているか、別のことに向いているときには、芸術は、アリストテレスのいう「蓋然性または必然性に従って」、明確な目標へ働きかけることよりも、楽しい放浪とみなされるようになっても、不思議はない。そして、芸術をこのように見るほど、人々は、明確に定義された型に無頓着になりやすい。たとえば演劇では、ポローニアスが列挙するもの以上に、多くの混合を許容しがちになる。「悲劇、喜劇、牧歌喜劇、歴史牧歌、悲劇歴史劇、悲喜歴史牧歌劇」等々である。さて、イギリス人は、その芸術や文学において、つねに形式や論理よりも想像力を重んじてきた。ギリシア人やフランス人と比べて、イギリス人が明確に区分されたジャンルに無頓着だったのは、疑いなくこれも一つの理由である。
しかし明らかに、明確に定義された型へのこの無頓着さは、ロマン主義運動の、ルソーにつながる側面に見られる混合や混同とは、まったく違う。実際、このルソー的なロマン主義は、ある点でほかの種類とは大きく異なるため、別の名を与えられなかったことを惜しむ人々に、私たちも部分的には共感できる。ルソー主義者も、目的へ向かうことより冒険を好む点では、ほかのロマン主義者と似ている。しかし、その冒険、新奇なもの、驚異や驚きの震えへの渇きは、新たな形をとった。それは、まれで尋常でない出来事を探し求めたり夢見たりすることより、まれで尋常でない感覚を求めることなのだ。精神の態度というより、感受性の状態なのである。あるいはむしろ、精神そのものが、感覚の印象へ光輪を投げかけ、想像の幻で包み、一種の無限の反響を与えるように用いられる。ボードレールは、他の人々が音の暗示する力によって得る無限の感覚を、自分は香りによって得る、と言う。彼の魂は、芳香の上を「泳ぐ」のである。[1]
しかし、夢想のなかで肉と精神を混ぜ合わせるこの技については、すでに述べた。これをほかにどう考えるにせよ、感覚の生活を豊かにし、深めたことは、確かだ。しかし、その危険もまた、最初の偉大な達人に、すでに見えている。ヒュームは、ルソーについてこう書いている。「彼は、生涯を通じて、ただ感じてきた。そしてこの点で、その感受性は、私がほかに例を見たことのない高さに達している。しかしそれでも、快楽より苦痛を、さらに鋭く感じさせるのである。彼は、服だけでなく皮膚まで剥ぎ取られ、その姿で、荒々しく騒がしい自然の力と戦うために放り出された人間のようだ。」[2]
ほとんど病的なこの感覚の鋭さ、いわば知覚過敏は、それをもっていた多くの人々の告白から判断するなら、いくらか疑わしい神々の贈り物である。いずれにせよ、その持ち主たちを、ほかの型のロマン主義者から区別する。たとえばキーツは、生まれる時代を誤ったエリザベス朝人と、ときに呼ばれる。しかしキーツは、自分の「気質の恐ろしい病的傾向」を嘆いている。[1]そして少なくとも私は、エリザベス朝の人々が、まさにこの種の病的傾向に苦しんだとは思わない。[2]あの時代の偉大なロマン的作家たちは、近代のこの種の人々の多くのように、世間の荒々しい争いから身を引く、単なる人間のオジギソウではなかった。コールリッジが自分について嘆くような、「行動に対する、最も惨めで、気力を奪うためらいと萎縮」に、悩まされてはいなかった。彼らは、現実の冒険に関心を抱き、象牙の塔のなかでの、魂と感覚との神秘的な戯れには、ほとんど関心がなかったのである。
1 シェリー『アラスター』の「魂を溶かす芳香」を参照。
2 ブレア博士への書簡、一七六六年三月二十五日。
他方、近代の流派は、しばしばこの戯れに、ロマン的な型であれ古典的な型であれ、行動そのもの以上の関心を抱く。言い換えれば、第一に冒険を求める行動にも、第一に目的を求める行動にも、それほど関心がないのだ。
注 1 / 注 21 ここやほかの箇所でキーツについて述べることで、彼をおとしめるつもりはない。彼には、「恐ろしい病的傾向」に釣り合う、本質的に雄々しい気質があったと私は思う。実際、ルソー的な気質は、キーツよりもシェリーにはるかに強く現れていた。
2 もちろん、エリザベス朝後期の作家の一部、たとえばフォードは、彼らなりの種類の病的傾向に苦しんでいた。この流派が文学や芸術で目指す最高のものは、行為を描くことよりも、夢想を誘うことである。私たちは、この夢想がルソーの原始主義、「自然」への回帰によって、子どもらしいものや自発的なものをよみがえらせようとする試みの産物であること、そしていずれにせよ、それをプラトン的とも神秘的ともみなすべきではないことを、示そうとしてきた。こうした予備的な説明と定義をすべて経た今、ロマン主義の夢の宮殿へ入り、この一世紀、その住人たちが用いてきた、暗示の魔術の秘密を、より詳しく調べる用意ができたはずである。
第六章
ロマン主義芸術における暗示の力
一 言葉による絵画
すでに見たように、新古典主義の理論によれば、詩人は自己の外にあるものを描く画家であるべきだ。言い換えれば、純粋に客観的であるべきなのである。ホメロスは、自分自身を持ち出して私たちを楽しませるのではなく、どの詩人よりも模倣者である、とアリストテレスは言う。さて詩人が、このように外界を模倣するのであれば、それについて広い知識をもたなければならない。ムツィオは、[1]「至高の詩」、すなわち叙事詩は、「宇宙を描く絵画である」と言う。したがって叙事詩人は、あらゆるものに通じているべきなのである。他方、ロマン主義者によれば、詩人に必要なのは、叙事詩人であっても、感情だけだ。たとえばラマルティーヌは、叙事詩を書くための、どんな備えをもっていたのか。サント=ブーヴの次の詩句から、推し量ることができる。
自分の魂しか知らぬ、無知なラマルティーヌ。
そして、忘れてはならないのだが、ロマン主義の言葉遣いでは、「魂」は、感受性のほとばしりと、ほぼ同義なのである。
1 『詩法』(ヴェネツィア、一五五一年)。
詩人の目を自分自身からそらし、人間の行為を描く画家にしようとする理論には、とりわけ演劇や叙事詩のような形式にとって、利点がある。しかし、さらに一歩を進めて、言葉をこのように切り離し、客観的に扱い、詩人が絵を描くための色彩にすぎないとみなすことには、明らかな危険がある。言葉を色彩に同化させることから生じた混同を論駁したレッシングも、言葉を客観的に扱いすぎるという非難は、免れない。言葉は、たしかに時間のなかで一つずつ続く。しかし、レッシングの理論が示唆するほど、不活発で受動的なあり方ではない。いやむしろ、想像力を欠いた用いられ方をする、その程度に応じてのみ、不活発で受動的なのだ。想像力は、言葉を変容させ、その周囲に揺らめく炎のように戯れ、[1]新たな能動的な力を吹き込むことができる。『ラオコーン』の刊行からわずか三年後、ヘルダーは、レッシングの言葉の見方が不十分であることを指摘した。ヘルダーの観点は、私たちが際立ってロマン主義的と呼ぶものだ。「詩の本質は、言葉に宿る力、空想と記憶を通じて私の魂に働きかける、魔法の力にある」と、ヘルダーは言う。[1]そしてレッシングが、絵画と対比するにあたり、「私たちの魂への働きかけ、すなわち活動力」を、詩のまさに中心に据えなかったことを、惜しむ。[2]ヘルダーは続ける。詩は、単なる音の継起を通じて耳に作用するのではなく、精神の内なる諸力、とりわけ想像力に活力を与え、総合的な活動へ駆り立てる。このことを、特にホメロスから学んだ、と。要するにヘルダーは、私たちが暗示の力と呼ぶものを、擁護しているのである。
1 ジュベールを参照。「詩人の指が、その燐光を言葉に通わせると、言葉は光を放つ。」
ホメロスを称賛するにあたり、ヘルダーは、レッシングにも重要な影響を及ぼした一つの作品、ディドロの『聾唖者書簡』(一七五一年)から、影響を受けていたかもしれない。このディドロの作品は、「横隔膜に振り回されて」生きる人に、予想される種類のものだ。考えが豊かに流れ出すが、いくらか濁っている。私たちは、それぞれ異なる観点を示す、何人もの話を聞いているように思われる。ある瞬間には、カステル神父[1]とその色彩鍵盤楽器の賛美者、別の瞬間には、諸芸術に客観的な境界を定めようとする鋭い分析家、またあるときには、諸芸術が感情のうちで溶け合うあり方に、むしろ関心をもつロマン主義者である。レッシングは、鋭く分析的な箇所を活用し、残りを顧みなかった。これは注目に値する。一般にドイツの人々は、ディドロとレッシングの親近性を、大いに誇張してきたからだ。すでに述べたように、レッシングに優勢なのは人文主義の観点であり、ディドロにおいては、自然主義と人道主義の観点である。ディドロはすでに、自然主義が科学的な形でも感傷的な形でも生み出してきた、人文主義的価値のあらゆる混同へ、向かいつつある。科学者としても、印象を重んじる者としても、ディドロは、個人の感情の深みにおいて、感覚が神秘的に通じ合うことに関心をもつ。ある人物について、彼は問う。「長いあいだに、異なる二つの感覚のあいだに、一種の対応が育ったのだろうか。」[2]盲目の数学教授サンダーソンは、「皮膚で見ていた」と彼は言う。[3]また、さまざまな布の色を、触れて見分けられた別の盲人、[1]さらに、人の声の響きを「金髪」や「黒髪」として区別した、もう一人の盲人にも触れる。[2]ディドロ自身の印象主義は、あらゆる境界をはねつける、感情の無制約から生まれる。「ディドロの批評と、芸術理解全体の本質そのものが、ジャンルの混同である」とファゲ氏は言う。「……いくらか意地悪を言うなら、彼はサロンでは優れた演劇批評家であり、演劇を扱うときには優れた美術批評家だった、と言えよう。」[3]そしてファゲ氏は、ディドロを称賛し、その方法の弱さだけでなく、強さも指摘する。しかし、その強さも弱さも、レッシングの強さや弱さからは、等しく遠い。実際、レッシングに、とりわけ造形芸術で適切な瞬間を選ぶ重要性について、これほど大切な示唆を与えた、まさにそのページで、ディドロは、レッシングではなくヘルダーを先取りする仕方で、ホメロスを論じている。彼を驚かせるのは、ホメロスやほかの偉大な詩人たちが、ごく小さな言葉や句にも与えられる魔法の力、それらを私たちの感受性の深みに響き渡らせる力である。
注 1 / 注 21 『第一批評の森』、ズーハン編、一三九ページ。
2 同書、一五七ページ。注 1 / 注 2 / 注 31 『ディドロ全集』、アセザ編、第一巻、三五六ページ。
2 同書、三三九ページ。
3 同書、三〇六ページ。注 1 / 注 2 / 注 31 『ディドロ全集』、アセザ編、第一巻、三三二ページ。
2 同書、三三四ページ。
3 ファゲ『十八世紀』の「ディドロ」の章。彼がホメロスに関心を抱くのは、行為を描く者としてではなく、像を暗示する者としてである。詩は目に向かって絵を描けなくても、想像力に向かっては描けるし、散文を超えようとするなら、そうしなければならない、と宣言する。明晰さ、純粋さ、精密さを備えることはできる。言葉の選択や、文のまとまりを丹念に整えることに、趣味のよさを示すこともできる。しかし、それらすべてを備えても、優れた散文の文体に達するだけで、なお詩には遠く及ばない、と彼は言う。「詩人の言葉のなかへ、その一つ一つの音節を動かし、生気づける精神が入り込む。この精神とは何か。私はときどき、その存在を感じたことがある。しかし、それについて知っているのは、これによって、物事が同時に語られ、描かれることだけだ。知性がそれを捉えると同時に、魂はそれに動かされ、想像力はそれを見、耳はそれを聞く。そして言葉は、思想を高貴かつ力強く示す、勢いのある句の連なりではなく、それを描く、密集した象形文字の織物となる。この意味では、すべての詩は表象的である、と言ってもよいだろう。」[1]〔今なら、象徴的と言うだろう。〕
これこそ、レッシングもおそらく否定はしなかっただろうが、『ラオコーン』では確かにほとんど語っていない、真の詩的な絵画である。ディドロがとりわけホメロスを称賛するのは、魔法のような暗示の力をもつ言葉や句を、数多く備えているからだ。それらは「象形文字による絵画」、すなわち目ではなく、「想像力に向けた」絵画である。[1]ディドロは、想像力に絵を描くこの技が、限りなく難しいことを認める。彼の推測では、象形文字は、ギリシア語やラテン語では長短の音節の微妙な組み合わせを通じて、近代語では母音と子音の特定の配列を通じて、暗示の力を得る。この象形文字は、したがって真の詩は、ほとんどつねに翻訳できない。それを感じ取る人にも、それを生んだのと同じ詩的精神が、いくらか必要である。詩心のない者には、意味をなさないのだ。
1 前掲書、三七四ページ。
詩における、暗示的な言葉の絵画についてのディドロの理論は、すでに触れたルソーの論考、『言語起源論』[2]における暗示の理論と、興味深く比較できる。この作品は、おそらくディドロの『聾唖者書簡』ほど着想が豊富ではないが、そのぶん混乱も少ない。少なくとも執筆という行為においては、ルソーは「横隔膜に振り回されて」はいなかった。要するに、彼は偉大な作家であり、単に天才的な即興家なのではない。さて、この論考においてルソーは、古いものと新しいものを、刃物で切るように分ける。一つの芸術で他の芸術の効果を得ようとする、擬古典主義の試みを退けると同時に、この二重の効果を得るための、真の手段を示すのである。音楽を描こうとしたカステル神父のように、芸術を外面的、形式的に混ぜ合わせるべきではない。しかし感情のうちでなら、混ぜ合わせることができる。カステルを攻撃するとき、ルソーは『ラオコーン』の中心的な一般化を、先取りする。「私は見たことがある」と、[1]彼は言う。「色彩によって音楽を奏でられるという、あの有名な鍵盤楽器を。しかし、色彩がその持続性によって、音がその継起性によって効果をもつことがわからないなら、自然の法則の働きについて、まことに乏しい知識しかないことになる。……このように、それぞれの感覚には、それに固有の領域がある。音楽の領域は時間であり、絵画の領域は空間である。同時に鳴る音を増やしたり、色彩を一列に並べて順に現れさせたりすることは、それぞれの仕組みを変えることであり、耳の代わりに目を、目の代わりに耳を置くことである」など。
1 『ディドロ全集』、アセザ編、第一巻、三七七ページ。
2 この作品が書かれた正確な時期は不明だが、一七五四年より後ということは、まずないだろう。写本である程度流通したが、実際に刊行されたのは一七八一年だった。
1 ルソーとカステルとの個人的な関係については、『告白』第七巻(一七四二年)を参照。
しかし、音楽が直接には描けない絵も、暗示によっては描ける。「音楽家の大きな利点の一つは、耳に聞こえないものを描けることにある」とルソーは言う。「画家には、目に見えないものを描くことはできないのに。[1]そして、運動によってしか作用しない芸術の最大の奇跡は、静止の像をも含め、あらゆるものの像を示せることだ。眠り、夜の静けさ、孤独、沈黙そのものが、音楽の絵に入ってくる。」ルソーは続ける。音楽がこれらの絵を描くのは、「一つの感覚を通じて、別の感覚が呼び起こすものと似た感情を呼び起こすことによってであり、……対象の生気のない像に代えて、その実際の像が、見る者の心にかき立てる感情を置くことによってである。
注 11 もちろん、現代の私たちの観点から見れば、ルソーは、絵画の暗示する力を大幅に過小評価している。ウォルター・ペイターの「ジョルジョーネ」論、および後で引用するハズリットの一節を参照。
音楽は、海の荒れ、火災の炎の轟き、小川の流れ、雨の降るさま、増水した急流を表すだけではない。恐ろしい荒野の恐怖を描き、地下牢の壁を暗くし、嵐を鎮め、空気を澄んで穏やかにし、オーケストラから木立へ、新たな爽やかさを広げることができる。これらの対象を直接表すのではなく、それらを見るときに私たちが経験するのと同じ感情を、魂のなかに呼び覚ますのである。」
今引用したルソーやディドロのような一節には、暗示の理論が、すでにかなり完成した形で現れている。ロマン主義の批評家たちは、レッシングとは異なり、ディドロやルソーと同じく、芸術を分析的、形式的に区分し、限界を定めることよりも、新しい総合に、すなわち諸芸術が感情のなかで溶け合い、互いに浸透するあり方に、関心を抱くようになる。『アテネーウム』の次の一節は、ドイツについて典型的である。「私たちは再び、諸芸術を互いに近づけ、一つから他への移行を探すべきだ。彫像は、もしかすると活気づいて絵画となり、絵画は詩となり、詩は音楽となるかもしれない。そして、誰にわかろう、同じように、荘厳な教会音楽が、再び大聖堂となって、天へそびえ立つかもしれないのだ。」[1]
イングランドでは、コールリッジとハズリットが、暗示の力について、たいへん的を射たことを書いている。ただし内容としては、ルソーとディドロを、それほど大きく超えてはいない。
コールリッジはまず、レッシングが『ラオコーン』で非難した種類の、言葉による絵画を退ける。「天才がそこにいることは、絵を精緻に仕上げることで示されるのではない」と、彼は言う。「近代の詩には、この種の仕事の実例が数多くある。ごく細かな筆致によって、すべてが、こういう言葉を許してもらえるなら、オランダ絵画風になりすぎていて、読者は自然と、なぜ絵画ではなく言葉を使うのか、と問う。……詩の力は、もしかするとただ一語によって、精神に活力を吹き込み、想像力に絵を生み出させることにある。プロスペローはミランダに、こう言う。
1 A・W・シュレーゲル「絵画」(『アテネーウム』第二巻、四九〜五〇ページ)。『断章』の多くには、シュレーゲルに対するディドロの影響が顕著である。たとえば次のものだ。「真の詩人の文体には、何一つ装飾はない。すべてが必要な象形文字である。」「詩は、内なる耳への音楽であり、内なる目への絵画である。しかし、それは抑えられた音楽であり、漂い消える絵画である。」「空想を妨げられないよう、目を閉じて絵を眺めるのを何より好む者もいる。」(同誌、第一巻第二分冊、四五ページ。)シュレーゲルは、実物の絵よりも、ディドロがそれについて書いた、音楽のような暗示をもつ描写を好んだに違いない。「この点でディドロは達人である。彼は、フォーグラー師のように、多くの絵画を音楽にする。」さらに、「ディドロのような人に絵画展を描写してもらうのは、まさに皇帝の贅沢である。」(同書、四六〜四七ページ。)
ある真夜中、
その企てのため定められた時に、アントーニオは、
ミラノの門を開いた。そして深い闇のなか、
その企ての手先たちは、私と、泣いているお前を、
そこから急いで連れ出した。
ここでは、最後の行に『泣いている』という、たった一つの的確な修飾を入れることで、完全な絵が心に示される。こうした絵を生み出すことにこそ、天才の力がある。」[1]別の箇所でコールリッジは、この暗示的な言葉の絵画の理論を、想像力と空想の区別に結びつける。「詩人は、空想ではなく想像力に向かって描くべきだ。この二つの能力の区別を例示するのに、これ以上うまい例を、私は知らない」と彼は言う。前者の詩的な描き方の例を、ミルトンから引用したのち、こう付け加える。「これは、描くというより創造である。あるいは描くとしても、太陽が暗箱のなかで描くように、絵全体が同時に、一瞬で目の前に現れる描き方なのである。しかし詩人はまた、ベーコンが感覚の共通の痕跡と呼ぶもの、それぞれのなかにすべてが潜んでいることを、理解し、自在に扱わなければならない。とりわけ、魔法の二枚羽根によるかのように、音と、音を表すものによって、視覚を刺激することを、である」など。[1]
1 『シェイクスピア講義』、ボーン版、一三八ページ。
ハズリットは、「ガストー」についての評論で、コールリッジとよく似た結論に達している。ただし、とりわけ絵画に適用している。ハズリットは、私たちが活力、表現、暗示の力と、さまざまに呼ぶものを、ガストーという一語にまとめる。ガストーは「内なる原理」、生きた情熱、微妙に行き渡る力であり、あらゆる形式的な障壁を跳び越え、見る者の感覚と想像力へ、総合的に働きかける。すでに引用した一節からわかるように、[2]風景画における総合は、人間と外界の自然とのあいだにある。「一言でいえば、絵画におけるガストーとは、一つの感覚に与えられた印象が、親和性によって、ほかの感覚の印象を呼び起こすところにある」と、ハズリットは、ルソーによく似た言葉で述べる。しかし、絵画にこれほどの暗示の力、音楽的な暗示の力さえ認める点で、ハズリットはルソーを超える。たとえば、こう書いている。「ティツィアーノの風景画には、色彩にも形にも、驚くべきガストーがある。何年も前、オルレアン・ギャラリーで見た、アクタイオンが狩りをしている絵を、私たちは決して忘れない。茶色がかった、柔らかな秋の趣があった。空は石の色をしていた。風は、ざわめく木の枝々を抜けて歌うようであり、入り組んだ森の迷路のなかに、弓弦の鳴る音が響くのを、すでに聞くことができた。」クロードの風景画については、ハズリットは不満を述べる。「一つの感覚だけで知りうる自然を、〔ほかのどの画家の作品よりも〕多く示すが、一つの感覚を、ほかの感覚によって読み解くことはしない。……つまり彼の目には想像力が欠けていた。ほかの能力と強く共鳴しなかったのである。彼は風景を見たが、それを感じはしなかった」など。
1 『文学評伝』第二十二章。
2 九七〜九八ページ参照。
この一節でハズリットは、クロードを、知的な広がりや優れた構図によって客観的に評価しているのではなく、ある微妙な感情への訴えという観点から、評価している。このロマン主義の影響のもとで、芸術家が主に評価されるのは、合理的な全体を慎重かつ首尾一貫して作り上げることではなく、個人の感受性を魅了する力によってとなる。アリストテレス的な意味での模倣者ではなく、「魔法と呪文を織る者」になるのだ。芸術と文学は、ますます行為の領域から、夢想の領域へ移っていく。芸術は暗示へ還元され、暗示は「弱められた催眠」と定義される。[1]ベルクソン氏の言葉では、こうである。「芸術は、私たちの人格の能動的な諸力を眠りにつかせ、完全に従順な状態へ導くことを目指す。その状態では、暗示された観念を実現し、表された感情に共感する。芸術の方法には、通常催眠を生じさせる方法が、洗練され、ある意味では精神化された形で見いだされるのである。」[2]
ベルクソン氏が述べる種類の暗示の力は、確かに芸術家が自在に使えるべきものだ。しかし残念ながら、ロマン主義者は、あまりにもしばしば、そこから先へ進まない。催眠そのもののための催眠、あるいは別の箇所で言ったように、幻そのもののための幻に、とどまってしまう。芸術に関心を抱くのは、感覚に関わるかぎりであって、知性や人格や意志に関わるかぎりではない。キーツの純粋な唯美主義は、ある種の擬古典主義者の無味乾燥さや教訓癖に対する、正当な反動だったのかもしれない。彼らは、複数の感覚に同時に暗示を与える方法を知らないどころか、一つの感覚にさえ正しく訴える方法を知らなかった。しかし、この唯美主義を最終的なものとして受け入れるなら、詩を一種の忘却の実を食べる営みへ変えてしまうことになる。過去の偉大な詩人たちも暗示を用いたが、芸術の一要素としてのみであり、近代のロマン主義者たちより、はるかに節度をもって用いた。この点で、彼らの誰かが、キーツの「見事な過剰」に匹敵できるかは疑わしい。ディドロの語を借りれば、これほど多くの「微妙な象形文字」、内なる目の前に何かの対象を呼び出したり、聞こえない旋律で耳を魅了したりする、これほど多くの言葉や句を、誰かが考え出しただろうか。要するに、それらは強烈な美的観照へと誘うのである。マシュー・アーノルドが言うように、おそらく『イザベラ』という物語一編だけでも、ソフォクレスの現存する全戯曲より、この種の表現は多い。「しかし、行為は、物語はどうか」と、アーノルドは問う。そして、キーツの物語が、ボッカッチョの語る同じ物語より、どれほど劣るかを示していく。ボッカッチョは、「何よりも対象を描き、表現を、それが表そうとするものに従属させる」のである。文学を、合理的、あるいは劇的な目的から、暗示的な言葉の絵画へそらすことは、ロマン主義運動の一つの側面全体を、顕著に特徴づけた。そしてそれは、私が原始主義と定義したものと、密接に関わっている。理性と理性より上にあるものへの軽蔑に、自然へ帰り、こうして本能の統一を取り戻したいという欲求が結びつくことだ。ロマン主義者にとって第一の長所は、新鮮で自発的な感覚をもつこと、あるいは、過去の感覚の新鮮さと鮮やかさを記憶によってよみがえらせ、それを暗示によって他者へ伝えることである。忘れてはならないが、ロマン主義の言葉による絵画は、他人に像を暗示する技であるだけでなく、何よりまず、自分自身に暗示する技なのだ。たとえばワーズワスは、初めに「黄金のスイセンの群れ」を見て、その後には、
1 この観点の展開については、P・スーリオ『芸術における暗示』を参照。
2 『意識に直接与えられたものについて』、一一ページ。
孤独の至福である、あの内なる目に、
それらがぱっと輝く。
そして最後に、その光景を、新鮮さを少しも失わずに、私たちへ伝えることに成功する。
ワーズワスが語る内なる目は、前世紀までは、人々のなかで比較的眠っていた。それ以来、それは発達し、一種の新しい感覚となった。想像の幻を媒介として、外界の自然の対象を魂に触れさせ、その過程で対象を洗練し、人間の感情に調和させる感覚である。この新しい感覚は、それ自体、快く、正当なものだ。それと結びつく夢想にも、独自の効用がある。ロマン主義の誤りは、この夢想を、生活をときおり慰めるものではなく、その真剣な実質にしてしまったことにある。理性より下にあるものを、理性より上にあるものの代わりに据えたこと、要するに、自然崇拝を宗教にしたことなのである。
より進んだ形では、自然崇拝が新しい象徴主義へ導くことに、注目しなければならない。コールリッジによれば、想像力は偉大な統一の力である。そして、今述べた新しい感覚を通じてそれが統一するものは、人間と物質的自然だ。外界の対象は、もはや人間にとって異質な、疎遠なものには見えず、自分の心のなかの何かに、似通ったものに見える。「世界は、精神の普遍的な比喩である」とノヴァーリスは言う。「森を構成するどの対象も、魂の森にある、何か似た対象に対応する」とユゴーは書く。[1]このような直観が生じる、理性より下の領域へ深く潜るほど、人は、自分と外界の自然との対応だけでなく、自分の内の異なる感覚どうしの対応を、強く感じるようになる。ついには、ボードレールのいう「暗く深い統一」に達する。そこでは、「香りも色も音も、互いに応じ合う」のである。[2]ロマン主義の象徴で最も際立っているのは、その主観的な性格だ。
人は、自分と外界の自然とのあいだに、いくらでも対応を発見できる。しかし、それによって自分とほかの人々との対応を、育てるとは限らない。むしろ逆だ。この象徴化する気分に身を委ねるほど、本人以外の誰も入れない、おぼろげな領域、あるいは「ウィアの神秘的な中つ国」へ、遠ざかっていきやすい。実際、この傾向全体の極端な形については、「そちらへ進めば狂気がある」と言えるだろう。文学において曖昧で影のようなロマン主義の象徴は、絵画では、その曖昧さがさらに倍加する。極端なロマン主義の画家のなかには、たとえばロセッティのように、レッシングが不満を述べる擬古典主義の寓意にも、不明瞭さでは十分に匹敵する象徴表現に、ふけった者がいる。[1]
1 森を構成するどの対象も、
魂の森の、何か似た対象に応じ合う。
『内なる声』第十九篇。
2 ボードレールのこのソネットは、その後のフランスの作家や芸術家、とりわけ象徴主義者たちに大きく影響したので、引用するに値する。
照応
自然は神殿であり、生きた柱たちは、
ときおり、入り混じった言葉を漏らす。
人はそこを、象徴の森を通ってゆく。
それらは親しいまなざしで、人を見つめる。
遠くから長いこだまが溶け合うように、
夜のように、また光のように広大な、
暗く深い統一のなかで、
香りも色も音も、互いに応じ合う。
子どもの肌のように新鮮な香りがある。
オーボエのように甘く、草原のように緑の香り。
また、腐敗し、豊かで、勝ち誇る香りもある。
無限のものの広がりを備えた、
龍涎香、麝香、安息香、乳香のように、
精神と感覚の陶酔を歌う香りが。
しかし、ロマン主義者たちのために、象徴そのものまで、すっかり嫌いになってはならない。想像力は偉大な統一の力だが、人間と外界の自然との結びつきだけでなく、人間と理性の真実、あるいは理性を超えた真実との結びつきを促し、象徴するためにも、用いることができる。要するに、想像力には、自然主義的な使い方だけでなく、人文主義的な使い方もあるのだ。ワーズワスさえ、二つの型の想像力に気づかずにはいられなかった。一方を「熱狂的で瞑想的」、他方を「人間的で劇的」と呼んでいる。人文主義的な想像力と、それが作り出す象徴の具体例としては、プラトンの『パイドロス』の、魂の馬車を挙げられる。自然主義的な想像力と、その象徴化の例としては、ヴィクトル・ユゴーの『諸世紀の伝説』にある詩、「サテュロス」を挙げられる。プラトンの象徴は、通常の理性を超えるものを扱うため、畏れ、敬虔、抑制を呼び起こす。他方、ユゴーの「サテュロス」は、私たちが研究している近代の運動全体と、きわめて密接に関わっているので、しばらく立ち止まって考える価値がある。
1 造形芸術と音楽との混同から生じうる、謎めいた象徴化の例として、マックス・クリンガーのベートーヴェン像を挙げられる。『ガゼット・デ・ボザール』第三期、第四十巻、五〇九、五一六、五一七ページ参照。
醜く毛むくじゃらのサテュロスが、あまりに慎みを踏みにじるため、ついにヘラクレスによって、ユピテルとほかのオリュンポスの神々の前へ引きずり出される。しかし彼は、万物に共感の震えを伝える神秘的な歌を歌う。そして歌いながら、膨張し続けると同時に、外界へ溶け込んでいく。ついにパン神であることが明らかになり、ユピテルはその前に縮み上がる。この詩が象徴するのは、原始的なもの、無意識的なもの、本能的なものの深みに働く、原初の愛の力によって、あらゆるもの、とりわけ肉と精神が、溶け合って一つになることだ。それは広大な感情の拡張へ、同時に反逆へと誘う。あらゆる形の権威や規律に対してだけでなく、およそすべての境界や制限を悪そのものとみなして、それに反逆するよう誘うのである。
象徴主義は、ロマン主義の暗示の力に、必ず伴うものではない。もっぱらというわけではないが、近代芸術の、絵画的というより音楽的に暗示しようとする側面に、最も頻繁に現れた。この一世紀に栄えた種類の、言葉で絵を描く者は、たいてい、現在の印象か、あるいは夢想のなかで内なる目にひらめいた過去の印象を、想像力へ鮮やかに描くことで満足してきた。ルソーには、この後者の描写の、注目すべき実例がある。「私には、覚えているものしか、はっきり見えない」と、彼は言う。そして、最も喜びをもって思い出すのは、感覚が最も新鮮で自発的だった、若いころの年月である。ボセーでの少年時代の経験について、彼は言う。「あのころの、ごく些細なことまで私を楽しませる。まさに、それがあのころのものだからだ。……窓から飛び込むツバメ、私が課題を暗唱しているとき、手にとまったハエが、今も見える。私たちが座っていた部屋の配置が見える。右側にはランベルシエ氏の書斎、歴代教皇を描いた版画、気圧計、大きな暦。そして、家の裏から急な斜面を上がる庭に育った木イチゴの茂みが、窓に影を落とし、ときには部屋のなかまでつるを伸ばしていた。」
光景全体が、「魔術師の杖の一振りによるかのように」、私たちの前に立ち現れる。ここには、トムソンの『四季』の模倣者たちとは、やや異なる言葉の絵画がある。ルソー以前には、少なくとも文学上の記録に残るかぎり、印象を受け取るにも呼び戻すにも、これほど超自然的な鋭さを示した者は、誰もいなかった。ルソーのこの敏感さは、あらゆる印象、とりわけ視覚、嗅覚、聴覚に及んだ。〔ディドロによれば、[1]ルソーは、パリの花売り娘たちに、花束の色の取り合わせ方を教える学校を、開こうと考えていた。〕
注 11 ディドロ『全集』、第一巻、三三二ページ。
少年時代の別の光景を描きながら、彼は言う。「私が覚えているのは、時、場所、人物だけではない。周囲のあらゆる対象、空気の温度、その匂い、その色、そこでしか感じられない、ある土地固有の印象まで覚えている。その鮮明な記憶が、私を再びそこへ連れ戻すのだ。」そして彼は、並外れた強烈さと暗示の力をもつ、もう一つの言葉の絵を描いていく。「土地固有の印象」という表現のほうが、ロマン主義者たちが、結局は画家の専門語から借りた「地方色」よりも、ある点では適切だっただろう。さまざまな感覚を表すことを、たとえば味覚や嗅覚の場合、「地方色」と呼べるのは、無理な比喩によってだけである。これらの感覚と、それを暗示によって表す技を、「土地固有の印象」と呼べば、この傾向全体を、それが一つの側面にすぎない、近代の印象主義へ結びつけられただろう。
詩人グレイは、考える手間を省くために植物学を始めた、と言う。この言葉は、地方色に向かった多くのロマン主義者にも、少なくとも同じくらいよく当てはまるだろう。アルフレッド・ド・ミュッセは、「白いクロウタドリ」という物語で、子ども時代の光景の細部にいつまでもこだわることは、知性の消費を最小にして、原稿を最大限に作る便利な方法だと、ほのめかしている。この物語では、仲間のロマン主義者たちを鳥に変装させて、からかう。「白いクロウタドリ」は、奥まった庭の奥の、古い木の鉢に母が作った巣から追い出されると、ロマン主義の詩人として身を立てようと決め、四十八歌からなる詩を刊行する。その主題は、自分自身だった。「この詩で私は、魅力的なうぬぼれをもって、過去の苦しみを語った。読者には、最高に興味深い家庭の細事を、千も知らせた。母の鉢の描写だけで、なんと十四歌を費やした。私は、その溝、穴、出っ張り、傷、ささくれ、釘、しみ、さまざまな色合いやきらめきを数え上げた。内側、外側、縁、底、側面、傾いた面、垂直になったところを示した。中身に移ると、そこにあった草や藁の切れ端、枯れ葉、小さな木片、小石、水滴、ハエの残骸、折れたコガネムシの脚を、調べ上げた。それはうっとりするような描写だった。しかし、一度に全部印刷したと思ってもらっては困る。そこを飛ばしてしまう、不届きな読者もいるのだから。私は巧みに切り分け、何一つ読み落とされないよう、物語に混ぜ込んだ。だから、最も面白く、最も劇的な瞬間に、突然、鉢が十五ページ分、現れるのである。」
この一節に現れているのは、原稿を量産したいという欲求を別にしても、ロマン主義の文章が、観念から感覚へ、行為から夢想へ流れていく傾向である。ロマン主義者にとって、人生はもはや明確な目的をもつ劇ではなく、その気分が外界の自然に映し出される夢である。そのため、外界の自然を描くことは、自己描写の別の形にすぎなくなる。人間がこのように自然へ溶け込むと、その語彙も、ともに自然へ溶け込み、自然の多彩な色合いを帯びる。フランス語は、あまりに抽象的、知的になっていた、とサント=ブーヴは言う。ルソーは、そこへ「緑を入れた」のだ。「エニシダの黄金とヒースの紫」というような句は、[1]フランス散文に一時代を画した。ルソーのこの描写文の魅力は、なお一定の節度を保っていることにある。その文体には、知的要素と感覚的要素の釣り合いが、まだある。ルソーの直接の弟子、ベルナルダン・ド・サン=ピエールになると、知的要素は、絵画的で描写的な形容を、いっそう豊富かつ精密に使うことへ、道を譲る。同時に、異国趣味が現れる。ベルナルダン・ド・サン=ピエールからロティまで、[1]「土地固有の印象」を求めて、地球全体がくまなく探られてきた。近代のこの描写の流派が目指したのは、どの対象も、ほかのあらゆる対象との究極の違いにおいて表すことだった。そのために、ますます細かく微妙な陰影づけに頼り、きらめきや中間の色調を捉えようとした。その標語は、ニュアンスを、いつもニュアンスを、だった。サン=ピエールは、言葉による絵画の技の直接の後継者、シャトーブリアンについて、想像力が強すぎると不満を述べた。「私は色を繊細に置くが、彼は太い筆の一振りで塗る」と言ったのである。しかしシャトーブリアンは、色の飛沫と同じくらい、微細な陰影づけでも際立っている。すでに「真珠灰色の月の光」と語っている。ただし、このニュアンスさえ、目の欲望を究極の洗練へまで進めたゴンクール兄弟のような後の作家たちには、きっと曖昧で、おおよそにすぎるものに思われただろう。
1 「エニシダの黄金とヒースの紫」(マルゼルブ氏への書簡、一七六二年一月二十六日)。
1 アルヴェード・バリーヌは、ベルナルダン・ド・サン=ピエールの伝記(四八〜五五ページ)で、サン=ピエールによる嵐の描写と、ピエール・ロティによる同様の描写を、興味深く比較している。彼女はこう結論する。「今読んだ文章のあとには、もはや成し遂げるべき進歩は残っていない。試みるべき唯一のことは、ホメロス、ルクレティウス、ウェルギリウスの力強い単純さへ戻り、二、三行で同じ感動を与えることだろう。」
近代の描写文のあり方を論じるなら、シャトーブリアンは、中心的な位置を与えられるべき人物である。彼はジャン=ジャックの長男であり、同時に十九世紀フランス文学の父である。ブルターニュ人だった彼の芸術に、ケルトの魔力をいくらか見ることは、それほど空想に走ることではないだろう。彼は、ディドロのいう象形文字による絵画、通常は分析をすり抜け、翻訳を拒む、神秘的で抗いがたい魅力をもつ言葉や句の達人である。スタンダールによれば、自分の連隊では、そうした句の一つ、「森の定かならぬ梢」をめぐって、決闘が行われた。この句は、マシュー・アーノルドが描写の魔法の例に選んだものでもある。暗示的であろうとなかろうと、言葉の絵画より合理性を求める、旧派のフランス人が、このような句の優勢を、けしからぬことと感じたとしても、よく理解できる。実際、シャトーブリアンでは、文体の知的要素と感覚的要素との均衡が、すでに失われつつあることは明らかだ。サント=ブーヴが彼を、頽廃の最初の偉大な作家と呼んだのは、これが主な理由の一つである。描写文の適切な限界について、シャトーブリアンのこの側面を論じたサント=ブーヴの文章のいくつかを超えるものは、おそらくこれまで書かれていないだろう。
「詩的で絵画的な散文は」とサント=ブーヴは言う。「いわば散文の辺境の一州にすぎない。その最も豊かで華やかな州、古代人なら小アジアと呼んだだろう地域である。言語がこの州だけに腰を据え、集中するなら、堕落し、本来の性格を失う危険を冒す。」彼は続ける。真に偉大な散文作家は、ある意味で、思考のまさに源と中心に住み、そこから必要に応じて、望むどの方向へも動く、と。「物語る必要があれば、物語る。推論し、議論する必要があれば、議論する。描写し、絵を描く必要があれば、色彩をもっている。彼はいたるところに、広大な帝国のあらゆる地点に、ほとんど同時に存在する。ビュフォンやジャン=ジャックの散文は、高貴で、的確で、力強く、しなやかで、輝かしい。あらゆる用途に耐え、いくつかでは抜きんでており、どこで用いられても、場違いや窮屈には見えない。シャトーブリアンの散文や、ベルナルダン・ド・サン=ピエールの散文についてさえ、同じことが言えるだろうか。彼らは純粋に絵画的なものの領域に居を定め、いわばその風土に慣れてしまった。そのこと自体のために、主題がこの領域を離れるよう促し、あるいは強いるとき、自然に、楽々とそうすることができない。もっと遠くまで行かなければならないのである。……どの言語にも、その特質、広がり、限界がある。その中心を移そうとし、あえて首都を変えようとするのは、コンスタンティヌスであっても危険だ。シャトーブリアンは、自分が称賛した偉大な皇帝に、いくらか似ていた。散文の中心を、ローマからビザンティウムへ移したのである。……ところで、このように最果ての国境へ押しやられた言語の首都は、蛮族とたいへん近い。」[1]
1 『シャトーブリアンとその文学的集団』、第一巻、二五一〜二五六ページ。二四二〜二四三ページも参照。
ここには、レッシングのどの言葉よりも、この問題についての現代の私たちの感覚を、よく満たすものがある。暗示的な言葉の絵画は、適切な範囲内では、まったく正当な技である。しかしその範囲を踏み越えるとき、像が観念の代わりに差し出されるとき、言葉が純粋に官能的な用途へ転じ、合理的な目的から切り離されるとき、その結果は真の進歩ではなく、むしろ頽廃の始まりとなる。キーツは、まだ青かったころ、「思考よりも感覚の生活」を願った。近代の多くのロマン主義者たちは、この生活を目指し、しばしばかなりの成功を収めた。感覚の肥大と観念の萎縮へ、絶えず拡張する感覚機構と、縮小する知性へ向かうこの傾向は、十九世紀フランスのロマン主義に、とりわけ明瞭にたどれる。どんな基準で判断しても、ルソーは知的な力量をもつ人であり、シャトーブリアンと比べると、この点で特に偉大に見える。今度はシャトーブリアンが、ラマルティーヌと比べれば、知の巨人に見える。ラマルティーヌの思想も、ユゴーのそれと比べれば、真剣なものに見え始める。ユゴー自身も、ポール・ヴェルレーヌと比べれば、知的に活発という印象を与える。後の象徴主義者たちの一部と比べれば、ヴェルレーヌにさえ、頭脳の活動の痕跡は見つかる。この流派の、最後の貧血的な代表者たちに至ると、ほとんど純粋な知的真空に近いもの、虚空のなかでロマン主義のキマイラが羽音を立てるだけのものへ、私たちは到達する。文学を合理的な目的から切り離し、感覚の追求へ還元すると、この結果になる。というのも、その追求が、ときにどれほど天上の理想主義を装うとしても、運動全体の底にあるのは感覚の追求だからだ。サント=ブーヴは、十九世紀のフランス作家に、官能の二つの主要な形を区別する。「一方は、ルネの弟子たちであり、いわば神秘主義の雲の背後に、その官能を隠してきた。他方は、その仮面を率直に剥ぎ取った」と、彼は言う。[1]
しかし、ロマン主義者たちが想像の幻を独特な仕方で用いたことについては、すでに述べた。それは、独創的なものと自発的なものについてのルソー特有の考え方に、合理性への軽蔑が結びついた、自然な帰結である。ルソー型の作家は、もはや思想家でも、目的をもって行動し、その思想や目的を他人へ説明しようとする者でもない。印象を記録し、暗示によって伝える、精巧に組織された装置なのだ。残念ながら、感覚そのもののための感覚の追求に成功すればするほど、印象は強烈で局所的になる。そして人間や外界の自然の、移ろい消え去る側面に、ますます密接に結びつきやすく、永続的に訴えるもの、正常なもの、代表的なもの、人間的なものから、ますます遠ざかりやすい。この点について、感覚の流派に自ら属する作家から、興味深い証言を得られる。ただし彼自身の文体では、フランス人が芸術家の文章と呼ぶものの洗練には、達しなかった。「最悪なのは」とエミール・ゾラは言う。「私たちの時代の奇妙な言葉遣いが、フランス語の最もひどいものの一つとして知られるだろうと、確信するに至ったことだ。……ヴォルテールを見たまえ。乾いた文体、力強い文章、形容詞を欠き、描くのではなく語る文章。それによって彼は、永遠に若い。私たちの父であるルソーを見たまえ。そのイメージ、情熱的な修辞を。彼には、まったく耐えがたいページがある。……ルソーを上回ろうとした私たちには、愉快な運命が待っている。文学の上に、ほかのあらゆる芸術を積み重ね、文章を描き、歌わせ、大理石の塊のように彫り、言葉に事物の香りの再現まで求める私たちには、である。それはみな、私たちの神経をくすぐる。私たちは、それを精妙だ、完璧だと思う。しかし、ひ孫たちは何と言うだろうか。」
1 『月曜閑談』第二巻、四五九ページ。サント=ブーヴ自身も、小説『官能』では「ルネの弟子」だった。「『官能』では、エピクロス主義を色づけ、雲で包むために、私は神秘的な幻を自分に与えた」と、彼は言う。(同書、第十六巻、四三ページ。)
この一節は、完全に的を射ているわけではない。ルソーには、ヴォルテールのどの文章にも劣らず不朽であることが確かで、しかも色彩とイメージに満ちたページがある。芸術は、新鮮で鮮やかな印象を豊富に受け入れられるし、実際それを必要とする。ただし、それらは、それ自身より高い何かに従属しなければならない。偉大な芸術家に見いだされるのは、感覚を知的なものにすることであって、ゾラが言及する作家たちのように、知性を感覚的なものにすることではない。テーヌは、エドゥアール・ベルタンについての評論で、ロマン主義の風景画家たちが、広い知的な目的や全体の効果よりも、細かな土地固有の印象を表すことに熱中したのを、惜しんでいる。そして、このように発達させた目の特殊な敏感さが、前の章で私が知覚過敏と呼んだものへ、傾いていったことを指摘する。「終わりごろには、巨匠たちでさえ、神経と精神の均衡は、もはや保たれていなかった」と彼は言う。後継者たちでは均衡はさらに完全に失われ、それはつねに、「心を奪う、身体的、個人的な感覚」に有利な方向だった。「実験が行われた今、一八三〇年以来たどってきた道は、急速に、急な坂を下っていたことがわかる。今日、私たちはその道をつまずきながら進んでいる。そして、筆で描くことよりも、言葉で描くことに、なおさらそれが当てはまる。」理由は明らかだ。画家が絵画を純粋に網膜の問題として扱うことが誤りなら、詩人が詩を純粋に網膜、あるいは耳の問題として扱うのは、いっそう重大な誤りだからである。ゴーティエが、調べてみればすべて固有名詞からできているユゴーのある詩句を、フランス語で最も優れたものとして称賛するとき、明らかにこの誤りを犯している。過去のどの偉大な詩人でも、ユゴーの場合のように、目の特殊な構造を第一に重視しなければならないことはない。彼は、望遠鏡的であると同時に顕微鏡的な、ほとんど奇跡的な視力をもっていた。しかし、その絵画的な細部の並外れた豊富さと精密さは、あまりにもしばしば、精神に対する物質の優位のしるしである。ユゴーでは、観念は、まったく欠けているのでなければ、たいてい像の影にすぎず、本来そうであるべき魂ではない。これほど取るに足りない主題に、これほど壮大な管弦楽的表現を与えた詩人は、ほかにいない。ユゴーの詩は、知的でないにせよ、少なくとも絵画的であると同時に、感情的でもある。それに対しゴーティエの詩は、ほとんど純粋に絵画的だ。古今の誰よりも、意図的に芸術間の移し替えを行い、言葉で画家のパレットに張り合おうとした作家かもしれない。自分の短詩の一つについて、完全な絵にするには、額縁と掛けるための鉤だけあればよい、と言っている。その詩は、知的には空無であるのと同じくらい、視覚への暗示の力において、並外れている。
ゴーティエの言葉による絵画は、『ラオコーン』の主な論旨が誤りであることを証明する、という主張がなされている。この主張は、部分的にしか認められない。レッシングは確かに、問題の一つの重要な側面、想像の幻の役割を、正当に扱っていない。芸術が生み出す弱い催眠よりも、知性や行為に関わる芸術に、関心があった。しかし、それでも彼の主な議論は、暗示的に言葉で描く者の場合でさえ、有効性をすべて失うわけではない。その描き手にできるのは、他人の心に、意識的に、あるいは潜在意識のうちに、すでに存在する像を、活動へ呼び起こすことだけだ。その場合でさえ、それは似通った像にすぎず、描き手自身が夢見たり、実際に目の前に見たりしているのと、同じ像ではない。たとえば描き手が、一つの山を暗示的に描写すると、読者の内なる目にも、山がひらめくかもしれない。しかし、描写する者の実際の目、あるいは内なる目の前にあったのと、同じ山ではない。描き手が、ある特定の山、たとえばモンブランを暗示的に描き、読者もモンブランかその絵を見たことがあるなら、描き手と読者の心の像は、同一に近づくかもしれない。他方、優れた画家でも、中国へ行ったことも、中国の事物の絵を見たこともないなら、ロティの『北京最後の日々』の言葉の魔法を尽くしても、実際に頤和園に似たものを描けるようになるだろうか。また、Aが、ある実在する女性を、その女性を見たことのないBに、言葉で暗示的に描こうとするとしよう。成功したとしても、せいぜいBの内なる目の前に、夢の女性を呼び出すことだ。さらに、Bが優れた画家で、自分の見た像を描くとしよう。その絵が、実在の女性の真の似姿にならないことは、明らかではないか。しばしば描き手は、夢の像を呼び出すことにさえ成功せず、レッシングがアリオストのアルチーナの肖像に向けた非難を、受けることになる。
ゴンクール兄弟と、その描写の名人芸について書きながら、サント=ブーヴは、「一つの芸術による、ほかの芸術への、この恐るべき侵入、純粋な絵画による散文への、この途方もない侵攻」に対して、なされうる異論に触れる。実例に挙げるのは、六人の女性が一人ずつ舞踏室へ入る、ゴンクール兄弟の描写である。この六つの顔を、明瞭に、一つずつ描こうとする作家たちの努力にもかかわらず、自分にそれを見せることには成功していない、とサント=ブーヴは不満を述べる。「どうしても、私は混同してしまう。六人は、私のいくらか弱い想像力には、多すぎる。散文の手には余る。対象そのものを、目の前に置く必要があるだろう。ここには明らかに、一つの芸術の表現手段と、別の芸術の表現手段との混同がある。」[1]
別の種類の感覚から例を挙げよう。キプリングが、「岬の巨大な砕け波の盛り上がり、焼けたカルーの匂い」と言うとき、この詩句の前半は、海を知っている誰にでも、像を暗示しうる。しかし、焼けたカルーの匂いは、キプリング自身には、疑いなく非常に強烈な土地固有の印象であっても、南アフリカへ行ったことのない者には、実際には何も暗示しないだろう。
よくても、言葉による暗示の技は、ディドロがすでに述べたとおり、限りなく微妙で不確かであり、二重に主観的である。ある表現は、特定の読者にとって、書き手にはなかった暗示の力をもち、ほかの読者にもそれをもたないかもしれない。「ローマ執政官」という単純な語句が、アヘンの助けもあって、トマス・ド・クインシーに、どれほど華麗な幻を呼び起こしたかを考えてみればよい。また、作家が暗示の力を込めたつもりの「象形文字」が、働かない場合もある。そうなると、二つの感覚に同時に訴える言葉、ロスタンのいう「耳で読み、目で聞く」言葉の代わりに、[1]不活発に一つずつ続く言葉があるだけとなり、レッシングが非難する言葉の絵画と、何も変わらなくなる。要するに、言葉の魔法をもつ人々でさえ、しばしば失敗する。そして一人の真の魔術師に対して、二十人のまがいものがいるのである。
1 『新月曜閑談』第十巻、四〇七〜四〇八ページ。
ここまでは、絵画的な暗示と音楽的な暗示を、あまり厳密に区別しなかった。しかし、色彩や像を暗示する技が、音を暗示する技とは、明らかに大きく異なる。一人の作家に二つの技が共存することもあるが、別々に見られるほうが普通だ。たとえばシャトーブリアンの散文は、両方の暗示の力を備えている。しかし、より後のフランス作家へ下ってくると、たいてい一種の専門化が起こったことがわかる。たとえばラマルティーヌの魂は、彼自身の言葉を借りれば、「悲しく旋律豊かな調べのように、自らを吐き出す」。その詩は、視覚への暗示の力には比較的乏しい。他方、ルコント・ド・リールと、いわゆる高踏派の大多数は、多かれ少なかれゴーティエの先導に従い、詩句を彫り、あるいは描き、驚くほどの造形的な精密さを達成する。「散文であれ韻文であれ、書く者が第一に心を配るべきなのは、外界の対象の絵画的な側面を際立たせることだ」と、ルコント・ド・リールは言う。おそらくエレディアが、この彫金師たちの一群の、最後の傑出した人物だろう。そして、描写の大名人たちが形や色を精密に呼び出したあと、音楽的夢想の無限への渇望が生じる。それは、ヴェルレーヌやマラルメのような作家に、象徴主義運動として表現される。「何よりも音楽を」と、ヴェルレーヌは、この派の信条とされる詩の冒頭で言う。マラルメは、音楽と詩の混同にふける。その度外れたさまは、一世紀前のドイツの、ノヴァーリスの理論やティークの実作にも匹敵する。[1]ここで、興味深い問題が生じる。韻文の正当な音楽性と、姉妹芸術の領域へ踏み込むことで得る音楽性とは、どう違うのか。ある意味では、マレルブに始まるフランスの新古典主義の詩人たちほど、調和的に書こうと努めた詩人はいない。デポルトへの注釈で、マレルブは、並外れて細部にこだわる技術家であることを示す。そして、まさに詩的な調和の問題ほど、その細かさが現れるものはない。母音の連続を攻撃するだけでなく、母音と子音のさまざまな組み合わせを、非音楽的として排除する。三流のウォラーが、ほとんど一流の名声を得たのは、マレルブがフランスの詩に行ったことを、英詩に行ったとされたからだった。[1]英詩の韻律を磨き、「甘美に流れる」ことを教えたというのである。詩の技巧において、古今もっとも完成された名手の一人であるラ・フォンテーヌは、マレルブの教えから益を得た。今定義した意味で音楽的な韻文、つまり母音と子音を微妙に混ぜ合わせ、不協和を疑わせるものさえ避ける韻文の、英語での最良の例は、おそらくグレイの『墓畔の哀歌』だろう。明らかに詩人が、グレイのしたことを超え、自らの芸術固有の調和を超えて、音楽家の調和へ達するには、夢想を呼び起こし、暗示の技を尽くすしかない。たとえば『鐘』では、反復によって、ほとんど催眠のような魔力を、心にかけようとする。[1]この詩のポーは、詩が無事に行いうることの、危険な外縁にすでに立っている。マラルメや、ポーを称賛したほかのフランス人たちは、音楽的な暗示の黄金郷へ、さらに進もうとし、その試みのなかで、混沌へ転落した。[2]おそらく付け加えるべきなのは、いわゆる詩的散文は、散文と詩との混同からだけでなく、散文が絵画や音楽の領域へ手を伸ばすことからも生じうる、ということだ。想像力豊かな散文とは区別される詩的散文の、英語における最初期の例の一つは、『オシアン』である。そこでは、詩の言葉遣いや抑揚を、散文のそれらと、いくらか粗雑に混ぜることで、この効果が得られる。はるかに真にロマン主義的なのは、音楽の調和を暗示しようとする、ド・クインシーの詩的散文である。レズリー・スティーヴンは言う。「ド・クインシーの文章の最も精妙な箇所は、すべて多かれ少なかれ、『夢のフーガ』という題名が表す考えを、実現しようとする試みである。それらは音楽作品であることを意図しており、言葉が音符の役割を果たさなければならないのである。」
1 神秘的で美しい言葉の、
その驚くべきところは、
耳で読み、
目で聞くことにある。
1 たとえば、今は廃刊となった『コスモポリス』誌、第六巻、四一七〜四二七ページに掲載された、マラルメの言葉による交響曲を、ティークの喜劇『あべこべの世界』の「序曲」と比較されたい。
1 ソームによるボワロー『詩法』の翻訳〔ドライデン改訂〕では、マレルブの代わりにウォラーが置かれ、「硬い不協和を、柔らかな調和に変えた」と称賛されている。
1 この魔力をかけようとして、音楽的な暗示を目指す詩人は、通常の詩的調和の観点からすれば、恐ろしい不協和に陥ることがある。よい例は、悪魔に連れ去られるヴルフ卿を歌う、ティークのウ音のロマンスである。ブランデスが言うように(『ドイツのロマン主義派』、一一九ページ)、「読者の神経が、〔一つの母音のこの反復によって〕半時間も麻痺させられ、耳にはウ・トゥ・トゥしか響かなくなると、彼は頂点に達している。言語は音楽となり、感情の気分の流れに乗って、漂い去るのである」。
2 フランスの頽廃派が音楽と詩を混同するにあたり、ワーグナーの理論と実作の両方が与えた励ましを、見落としてはならない。J・コンバリュー『音楽と詩の関係』、三四一〜三四三ページ参照。
強烈な絵画的暗示の力によって、詩的である、ほかの散文作家も挙げられるだろう。ロマン主義型の詩的散文は、ほかのあらゆるロマン主義の混同と同じく、形式上の境界をすべてあふれ出そうとする、感情の圧力から生じる。より洗練された形では、私が、象牙の塔のなかでの魂と感覚との戯れと呼んだものの、直接の産物なのである。「私たちの誰が、詩的散文の奇跡を夢見たことがないだろう」とゴーティエは言う。[1]「律動も脚韻もなく音楽的であり、魂の抒情的な衝動、夢想のうねりに合わせられるほど、しなやかな散文を。」そして彼は、この奇跡がボードレールの『小散文詩』に実現されていると考える。それらは、「私たちを現実の世界から遠くへ運ぶ、催眠の眠りの感覚」を生み出す力において、ウェーバーの音楽に比べられるのである。[1]
1 近代的な意味での詩的散文の、フランス語における最初期の例の一つである、ルソーの『ピグマリオン』が、音楽的夢想の産物であることに、注目すべきだ。
ここまでは主として、前世紀の文学が、音楽や絵画の仕事をしようとして、暗示のあらゆる手段を活用したあり方を、研究してきた。ここでは、同じ時代に音楽が、詩的、絵画的になろうと示した熱意についても、いくらか述べるべきである。音楽は、平凡に家にとどまる気質を示すどころか、ほかの芸術と歩調を合わせ、自分の中心から離れ、何か別のものへ移り変わる寸前の、あの疑わしい周縁へ向かって、落ち着きなく進み続けてきたのだから。
二 標題音楽
標題音楽の問題を取り上げるには、いくらか不安を覚える。一つには私自身の力量不足のためであり、一つには、この主題全体を取り巻く論争の空気のためである。定義にさえ、一致がない。たとえば『オックスフォード音楽史』は、とりわけベルリオーズとリストが発展させた標題音楽を、「奇妙な混成物、すなわち、不満足な種類の詩を装う音楽」と定義する。[1]別の権威者は、定義を非常に広くとり、「標題音楽こそ、唯一の高級音楽である」と結論する。[2]どう定義するにせよ、標題音楽が現在の主題に関わるのは、音楽がほかの芸術とともに印象主義へ流れていく傾向を、最も明瞭に示すからだ。実際、前世紀の音楽の発展は、文学の発展を、たいていはかなりの間隔をおいて、単に追ってきた。たとえば、リヒャルト・シュトラウスやドビュッシーの音楽の多くは、文学で表されたなら、すでにいくらか古めかしく見える気分を映している。ほかの分野と同じく、音楽でも、十九世紀は広大で混沌とした拡張の時代だった。求められたのは、集中の長所ではなく、拡張の長所だったのである。
1 ボードレール『悪の華』への序文。
1 『オックスフォード音楽史』、第六巻〔E・ダンロイター著〕、一一一ページ。
2 フレデリック・ニークス『標題音楽』、五三七ページ。
音楽における近代主義と、私がルソーに結びつけた種類の感情の拡張とのつながりは、容易にたどれる。ルソーが文学者であるだけでなく、作曲家、音楽理論家でもあったため、なおさら容易だ。ほかの分野と同じく音楽でも、彼が新鮮さと自発性の名において、形式的、規律的なものすべてに抗議する姿を見られる。ほかの分野と同じく音楽でも、人文主義的、宗教的な観点が、感傷的自然主義者の観点へしだいに道を譲るのを見る。個別的なもの、特徴的なもの、表現的なものが、同じように重視されていく。独創的なものを、奇怪なもの、逆説的なもの、風変わりなものと混同する、同じ傾向がある。ロマン主義の作家が精神の無垢を、画家が目の無垢を保とうとするように、音楽家は耳の無垢を保とうとする。しかし実際には、それがしばしば意味するのは、自分の芸術の偉大な伝統についての無知と、真剣な省察の欠如である。独創性についてのこの考えを、ロシアのある作曲家たち以上に押し進めた者は、おそらくいない。慣習的なものや作為的なものから離れようと熱望するあまり、ロマン主義の音楽家は、作家と同じく、正常なもの、代表的なもの、人間的なものからも離れる危険を冒す。音楽にも文学にも、個人的な特異性だけでなく、土地や国の特異性を、自己満足的に内輪で培養する傾向がある。次のソナタはノルウェー色を少し薄めるよう助言されたグリーグは、「いや、次はもっと濃くする」と、反抗的に答えた。地方色は、民族主義的な形でも、たとえばウェーバーの『魔弾の射手』(一八二一年)でも、奇異で異国的なものの追求でも、たとえばフェリシアン・ダヴィッドの『砂漠』(一八四四年)でも、勝利した。何より音楽は、典型的に近代的な気分、外界の自然へ溶け込む気分を、表そうと努めてきた。また音楽は、あらゆる感覚印象が、暗示によって互いに作用し合うことも映している。シューマンはケルン大聖堂に、リヒャルト・シュトラウスはニーチェの哲学に、リストはユゴーやシラーの詩に、音楽的な表現を与えようとした。フーバーは、アルノルト・ベックリンの絵の一つを、管弦楽化しようとした。ベックリン自身も、その絵において、色彩で「汎神論的な自然の詩」を書くことを目指していた。このように、印象が一つの芸術から別の芸術へ跳ね返るさまを、たどることができる。音楽は、自分に固有の調和よりも、暗示の奇跡を起こすことに、関心を抱くようになる。音の絵を描き、音の詩や交響的な頌歌、バラッドを書き、楽器による物語を語ることに、である。
今挙げた音楽の諸傾向に共通する要素は、音楽の形式に比べて、音楽の表現をますます重視すること、と要約すれば、十分に正確だろう。この近代の運動の結果、音楽がはるかに表現豊かになったことには、おそらく誰もが同意する。ルソーについて語る際に定義した種類の自発性を、十分に獲得したのである。その自発性は、グリーグによく見られるような民衆の素朴な気分の表現にも、シューマンやショパンのような個人の気分の、抒情的に強烈な表現にも現れる。二人は、それぞれのあり方で、ハイネやシェリーに劣らず自発的だった。すでに述べたように、自発性を追ううちに、ロマン主義の音楽家は作家と同じく、混沌とした感情的総合へ導かれた。人間と外界の自然との対応を、また異なる感覚印象どうしの対応を感じ、したがって暗示によって、すべてをほかのすべてによって解釈するようになった。近代音楽の表現力の増大は、実際には大部分、音楽が暗示の力を増したことを意味する。そして、この新しい暗示の力の活用と濫用が、最も明瞭に現れるのが、標題音楽なのである。
音楽史家が十分に注目していない、著しい事実がある。すでに引用した一節(一二三ページ)で、ルソーは、音楽の暗示する力を、おそらくそれ以前の誰にもないほど強調しただけでなく、今なお凌駕されていないかもしれない標題音楽の定義を与え、音楽が暗示しうるものの具体例まで添えているのだ。ドイツにおけるルソーの大きな影響を考えれば、J・H・クネヒトが一七八四年に刊行した、『自然の音楽的肖像』という標題付き交響曲は、ルソーの考えのいくつかを実践しようとしたものかもしれない。そしてクネヒトの標題もまた、ベートーヴェンが『田園交響曲』を作曲する際に、いくらか影響を及ぼしたのだろう。ルソーは、音楽でも文章でも、牧歌的な単純さの夢を表そうとしたが、十分に成功したのは文章においてだけだった。ルソーの最も詩的なものすべての魂である、アルカディアの夢想は、音楽ではベートーヴェンの『田園交響曲』に至って初めて、絵画ではコローの風景画に至って初めて、十分な表現を得る。外界の自然の光景や音を、暗示によって表すにあたり、ベートーヴェンは、自分の芸術の中心、絶対音楽から、その境界へ向かって進む危険について、いくらか不安を抱いていたらしい。『田園交響曲』のある写しの副題に、「絵画というより感情の表出」と書いた。また、ある覚え書きには、「器楽におけるあらゆる描写は、行きすぎれば失敗となる」とある。しかし、『田園交響曲』では適切な限界を越えていないという点で、私たちは彼に同意してよいだろう。だが、ロマン主義運動の巨人たちが、音楽形式と、いっそう豊かな表現への憧れとの、この釣り合いを保つとは、期待しがたかった。文学ですでに見たように、彼らは、感情のなかで音楽とほかの芸術を溶け合わせる傾向がある。
感情のこの無制約の実例として、また典型的なロマン主義的人格の実例として、エクトル・ベルリオーズを挙げられる。彼はまた、リストを除けばという留保はありうるが、標題音楽の歴史で最も重要な人物でもある。まず注目すべきなのは、ベルリオーズ、また広く近代の流派全体が、信仰の音楽において弱いことである。すなわち、理性を超えたものと、それに伴う畏れ、高揚、抑制の感覚を表すことにおいて、弱いのだ。たとえば、一八三六〜三七年に作曲された『レクイエム・ミサ』は、大部分、騒音と扇情性である。ダンロイターによれば、「バスティーユ陥落以来、パリでこれほどの音量が聞かれたことはなかった」。[1]死者の安息に役立つどころか、死者を起こすのに十分な音だったのである。
ベルリオーズに明らかに見いだされるのは、上からの照明ではなく、下からの反乱である。そして最も彼らしいのは、反乱的な音楽とでも呼べるもの、たとえば『イタリアのハロルド』の「山賊の饗宴」〔狂乱するアレグロ〕においてだ。ベルリオーズは、身振りで自分を演出する、真のロマン主義的な本能をもつ。舞台の前へ進み出て、自分の感情生活のなかで最も強烈だったものを、描き、演じ始めるのである。こうして、その標題音楽のうち最も有名な作品、『幻想交響曲』〔ある芸術家の生涯の一挿話〕を作曲するに至った。その挿話が何だったかは、音楽による告白を補う、彼の日記の箇所から推し量れる。そこでは、イングランドの、いや正確にはアイルランドの女優、ヘンリエッタ・スミスソン嬢への「地獄のような情熱」が、次のような二人の場面を引き起こしたことを、語っている。
1 『オックスフォード音楽史』、第六巻、一七四ページ。
「彼女は、私が彼女を愛していないと責めた。そこで、すべてに疲れた私は、彼女の目の前で毒を飲むことで答えた。ヘンリエッタの恐ろしい叫び。崇高な絶望! 私の側の、凄惨な笑い。彼女の、すさまじい愛の訴えを見て、生き返りたいという願い。催吐剤!」
同時代人のユゴーと同じく、ベルリオーズも、醜いものとはいわないまでも、巨大でいびつなものを偏愛すると、非難されてきた。詩人と作曲家の両方に、「ポリュペモス的」という形容が与えられている。明らかなのは、これら近代の作曲家の多くにおいて、構造の法則が緩み、音楽の調和と均整が、嵐のような印象主義の犠牲となっていることだ。ベルリオーズに見いだした、表現力に比べて美を軽んじる同じ態度は、リストにも見られる。二人が音楽形式にかける負担は、音楽の領域へ直接には入らないものを表したいという欲求による。ダンロイターには、こうある。「ベルリオーズの『幻想交響曲』の最初と最後の楽章、交響曲『イタリアのハロルド』の最初と最後の楽章、ユゴーの詩によるリストの交響詩『山上で聞いたこと』、シラーの詩による『理想』などでは、聞き手は、音楽構成のどんな原理でも説明できない、驚くべき管弦楽的効果の連続に、戸惑わされる。」[1]それは、これらの効果を生み出すにあたり、作曲家が第一に音楽構成を目指してはいなかったからだ。実際には、「象形文字」、すなわち象徴を作り出していた。それらは、何よりまず音楽としての価値で評価されるものではなく、詩や絵画、歴史や演劇、さらには哲学を、人に夢想させる力で評価されるものなのだ。たとえば、『幻想交響曲』の「断頭台への行進」で、犠牲者の首へ斧が落ちるのを、ベルリオーズが象徴する音の激突には、どんな音楽的価値があるのか。あるいは、リヒャルト・シュトラウスの音詩『ドン・ファン』で、致命的な剣の一突きを表す、耳を刺すような不協和の高いトランペット音には、どんな価値があるのか。このような問いは、問うこと自体が答えなのである。
1 『オックスフォード音楽史』、第六巻、一一ページ。
そのうえ、音楽の暗示する力は、文学のそれより、なお不確かで主観的である。シューベルトのある行進曲を聞いて、十八世紀のスペインについて、ほとんど同じ像を見た二人の話を読むことがある。しかし、非常に詳しい標題説明が伴わないかぎり、音楽が異なる個人に似た像を暗示することは、例外的である。極端な印象主義の流派全体を、絶えず脅かしているのは、理解不能な象徴主義だ。リヒャルト・シュトラウスが、ある音詩で風車の羽根のあいだを吹き抜ける風の音を再現した、その見事さに熱狂した人の話に、多くの人が共感するだろう。ところが彼は、その箇所で巨匠が実際に表そうとしたのは、羊の群れの鳴き声だと、教えられたのである! 一般に、音楽で暗示の力を第一に置くと、人は主観性の深淵へ沈んでいく。ある人には無意味な一曲が、別の人には、夢の宮殿を開く魔法の鍵となるかもしれない。モーツァルトは、それ自体で美しい。しかしジェラール・ド・ネルヴァルは、ある古い旋律のためなら、モーツァルトのすべてを、さらにロッシーニとウェーバーも付けて、差し出すと宣言する。その旋律は、彼の内なる目の前に、十七世紀の城館と、前世でそこで会ったかもしれない女性とを、呼び出したのだった。[1]
音楽が、つねに多かれ少なかれ標題的で暗示的だったことは、容易に示せるだろう。ロマン主義者たちは、音楽の暗示する技を限りなく発展させ、とりわけ人間を外界の自然へ結びつけるために用いた。しかし、決してそれを発明したわけではない。過去の偉大な音楽家は、衒学者や形式主義者ではなかった。そして、詩的、絵画的な暗示を完全に排除するほど「絶対的」な音楽を望むのは、衒学者や形式主義者だけだろう。音楽における暗示は、文学におけるそれよりさらに難しいが、それ自体は、成功すれば快く、正当なものである。しかし成功したとしても、どの程度用い、何の目的に向けるのかという問いは残る。近代の多くの音楽家は、表現豊かだが目的がない、という非難を受けうる。彼らは、望むことなら何でも表現できたが、不幸にも表現すべきことが何もなかった、と評された作家に似る危険がある。あるいは、色彩には熟達しているが、構図をもたない画家に比べられるかもしれない。あまりにもしばしば、色彩や印象に酔い、それらを何か高いものに従属させようとしなかった。この点で、ロマン主義の言葉の画家たちと同じ無節度を示し、同じ批判に身をさらした。自分の芸術の中心ではなく、その辺境の一州に住みすぎたのである。サント=ブーヴなら言うように、彼らは音楽の首都を、ローマからビザンティウムへ移した。そして帝国の首都が、このように最果ての国境へ押しやられると、蛮族にたいへん近くなる。さらに、ほかの芸術とともに近代音楽を脅かす野蛮は、しばしば最も危険な種類、過度の洗練から生じる野蛮なのである。
1 ジェラール・ド・ネルヴァルが音楽の暗示する力を描いた詩句は、その詩的な魅力と暗示の力のために、引用する価値がある。
幻想
ある調べのためなら、私は差し出そう、
ロッシーニも、モーツァルトも、ウェーバーも、すべて。
とても古く、物憂く、弔いのような調べ、
私にだけ、ひそかな魅力をもつ調べ。
それを耳にするたびに、
私の魂は二百年、若返る。
ルイ十三世のころだ……目の前には、
夕日に黄色く染まる、緑の丘が広がる気がする。
次には、隅を石で固めた煉瓦の城館、
赤みを帯びた色に染まる窓ガラス。
広い庭園に囲まれ、一筋の川が、
花々のあいだを流れて、その足もとを洗う。
次には、高い窓に立つ一人の貴婦人、
金髪で、黒い目をもち、昔の衣装を着て……
もしかすると、別の生で、
私はすでに会ったのだ!……そして今も覚えている。
三 色聴
ロマン主義の言葉による絵画や標題音楽の、より極端な形は、実際、暗示のより極端な形の大部分は、色聴と密接に結びついている。たとえばフェリシアン・ダヴィッドの『砂漠』にある、有名な夜明けの音の絵は、光と音を本能的に結びつける人、太陽がいつも「雷鳴のように昇る」と感じる人に、[1]いっそう十分に味わわれるだろうと考えられる。近年の小説の主人公は、[2]道徳律とその命令を含め、あらゆるものから、類比的な色彩を帯びて並ぶ音を感じる人物であり、いかにもふさわしく、標題音楽の作曲に携わる。また、暗示的な言葉の画家のなかには、母音には自分にとって明確な色があると主張し、自分と同じような読者に向けて書く者がいる。その読者たちの感受性の深みでは、これらの母音が、音楽的な虹色をなして響くというのだ。少し前、ボストンで展示された、シューマンやベートーヴェンの音楽の一部を描いた彩色画も、[1]もし本当に題名に見合うものであれば、強い色聴を前提としているように見える。実際、色聴は、近代の唯美主義者が夢見る、あらゆる異なる印象が溶け合う、あの神秘的な総合感覚に、明確な生理学的基盤を与えるように思われる。「見る、聞く、味わう、嗅ぐ、触れる、それらをすべて一つにする」感覚である。[2]ワーグナーの「未来の芸術作品」、別々の芸術すべてが官能的に溶け合う、その総合芸術を楽しむには、疑いなく、この感覚が必要なのだろう。
1 キプリングの言葉を、昇る太陽についてのボードレールの描写、「爆発のように、私たちに朝の挨拶を投げかける」と比較されたい。アングロ=サクソン的なたくましさの典型と、しばしばみなされてきた作家に、進んだルソー的感受性の痕跡を見いだすのは、興味深い。
2 フォン・フッテン男爵夫人『ヴィオレット』。
最新の音楽辞典は、色聴を、次の評言でそっけなく片づける。「ルソーの『言語起源論』は、……音と色彩のあいだにあるとされる類似について、その後の不条理な説の芽を与えている。」[3]ルソーがこの論考で、「音が最も力を発揮するのは、色彩の印象を生むときだ」と言っているのは、確かだ。そしてディドロと同じく、近代のあらゆる混同へ向かっていることも、明らかである。それでも少なくとも私は、この特定の問題で、ルソーのせいだと言うのはためらう。ロックは、トランペットの音が緋色である盲人について語っているし、私が見落とした、それ以前の言及も、おそらくあるだろう。実際、色聴が、ときに主張されるほど確かな生理学的基盤をもつのであれば、人間性そのものと同じほど古くても、不思議はない。色聴一般をどう考えるにせよ、それが文学上の重要性をもち始めるのは、近代の印象主義が現れてからだけである。そこで自然に生じるのは、この運動全体にしばしば見られる知覚過敏と、どの程度結びついているのかという問いだ。色聴がつねに、異常に高まった感受性のしるしだと、主張するつもりはない。これは専門家に任せておきたい問題である。私自身の観察のかぎりでは、音を色彩として解釈する習慣は、特別な知覚過敏なしにも存在しうるが、光や色彩を音として解釈する習慣は、ほとんどつねに神経の障害のしるしだ、と言いたい。しかし、すでに述べたように、色聴が文学的な表現を得たのは、神経症的な流派とでも呼べるものに属する人々においてだけである。それは、ドイツのロマン主義者たちの音楽狂、音楽を崇拝するだけでなく、ほかの芸術をすべて音楽へ還元しようとする傾向と結びついて、現れる。たとえばティークの著作には、すでに非常に強い形で見られる。『ツェルビーノ』では、花々について、「その色は歌い、その形は響く。……色、香り、歌は、自らが一つの家族だと告げる」と書いている。『マゲローネ』では、音楽は「青い光の流れのように」消えていく。E・T・A・ホフマンには、さらに明らかに病的な、感覚印象の混同が見られる。この混同は、とりわけ眠りと目覚めのあいだの状態で起こった。そうしたときには、と彼は書く。「とくに音楽をたくさん聞いたあとには、私のなかで、色、音、香りの混同が起こる。それらはみな、同じ一筋の光から神秘的にいっしょに湧き出て、それから結びつき、すばらしい演奏会を形づくるようだ。濃い赤のカーネーションの香りは、並外れた魔法の力で私に作用する。私は思わず夢の状態へ落ち、そのとき、はるか遠くからのように、角笛の音が高まり、消えていくのを聞く。」「クライスラーの音楽詩的クラブ」と題した小品では、音と色彩との対応を、詳しく描き出そうとしている。その一節では、「香りが」〔つまり音楽の香りが〕、「燃え立ち、神秘的に絡み合う輪のなかで、きらめいた」と言う。
色聴や神経症に関する評価は、一九一〇年刊の原著の歴史的な見解であり、現代の医学的説明として提示するものではない。
1 私のもっているこの展示の目録の第二十番には、いかにもふさわしく、「この道は狂気へ通じる」という題がついている。
2 シドニー・ラニアー。
3 L・J・ド・ベッカー編『ストークス音楽百科事典』、五六七ページ。
ついでに述べれば、ホフマンは公然たるルソー主義者だった。まだ二十九歳のころの日記〔一八〇四年二月十三日〕に、こう書いている。「ルソーの『告白』を、たぶん三十回目に読んでいる。」〔初めて読んだのは十四歳のときだった。〕「自分は、彼にたいへん似ていると思う。」実際ホフマンや、ほかのドイツ人たちは、ルソー主義から極端な帰結を引き出し、こうしてフランスの頽廃派を先取りした。
初期のフランスのロマン主義者たちには、色聴やそれに類する現象は、それほど多く現れない。アルフレッド・ド・ミュッセが色を音に結びつけていたことを、私たちはほとんど偶然に知る。この特性が、その詩に影響したとは、まず言えない。ただし、その詩に知覚過敏の証拠が豊富にあるのは、もちろんだ。ジョベール夫人への手紙では、ファは黄色、ソは赤、ソプラノの声は金髪、コントラルトの声は黒髪だと証明するために、家族と議論しなければならないことを、ひどく残念に思ったと書いている。彼には、こんなことは言うまでもないことだった。しかし、この感覚印象の混同が重要性を帯びるのは、ボードレールにおいて初めてである。ボードレールは、「すべての感覚が一つに融合する、神秘的な変容」を夢見て、その実現に手の届くところまで近づく。たとえば、すでに引用したソネットでは、こう言う。「子どもの肌のように新鮮な、オーボエのように甘い、草原のように緑の香りがある。また、腐敗し、豊かで、勝ち誇る香りもあり、無限のものの広がりを備え、龍涎香、麝香、安息香、乳香のように、精神と感覚の陶酔を歌う。」この一節で、ボードレールが香りを味わってもいないのは、残念だ。そうしていれば、五感すべてに、肉と精神まで加えた、完全な混ぜこぜに達しただろうから。ボードレールは、つねに色彩によって音を象徴することを、探し求めていた。こんな話がある。ワーグナー本人がパリを征服しようと努めていたころ、この新しい音楽に全面的に共感していたボードレールは、そのピアノ演奏を聞くよう招かれた。ワーグナーは、青いガウンで弾き始めた。しばらくすると黄色に着替え、最後には緑に替えた。演奏が終わると、ボードレールは心から満足を示したが、遠慮がちに、一つ質問したいと付け加えた。ガウンの色の変化は、音楽の何かを象徴していたのだろうか。ワーグナーは、そのフランス人がからかっているのかと、鋭く見つめた。しかし本気だとわかると、弾いているうちに体が熱くなるので、厚いものから薄いものへ着替えられるよう、ガウンを手近に置いていたのだと説明した。色は単なる偶然だったのである。[1]
ボードレールは、洗練された感覚の「はるかな、おぼろげなトゥーレ」に、ほとんど到達したように見える。しかし弟子たちの一部は、まれで遠いものの領域へ、さらに進んだ。この運動の最後の段階を代表するものとして、J・K・ユイスマンスと、その小説『さかしま』(一八八四年)を挙げられる。この小説を書くにあたり、ユイスマンスは明らかに、ボードレールだけでなく、ポーからも強い影響を受けていた。実際この作品は、フランスに重要な影響を与えたアメリカの作家が、なぜポーだけなのかを、私たちに明らかにする。単にロマン主義的なのではなく、極端にロマン主義的であり、ルソーとその後継者たちに見てきた種類の感受性をもっていたアメリカの作家が、彼だけだったからだ。たとえば『モノスとウナの対話』で、すでに呼吸をやめたが、まだ完全には感じることをやめていない人の経験をポーが描く、次のような一節に、ボードレールとその仲間が魅了されずにいられただろうか。「実際、感覚は」と、この経験を語る霊は言う。もちろん、別の存在状態から語っているのである。「感覚は、異様ではあったが、並外れて活発であり、互いの働きを、でたらめに引き受けていた。味覚と嗅覚は、ほどきがたく混ざり合い、一つの、異常で強烈な感覚になった。死者の部屋に置かれた蝋燭の光は、私には音としてしか作用しなかった。いくつもあった灯火の、それぞれの炎から、旋律を帯びた単調な調べが発し、絶え間なく私の耳へ流れ込んでいた。」
1 この逸話は、『ネーション』紙〔ニューヨーク〕、一九〇八年十二月十七日号から借りた。
したがって、すでに述べたように、ユイスマンスに『さかしま』を書かせたのは、ボードレールだけでなく、ポー、とりわけ『天邪鬼』という物語と、オーギュスト・デュパン氏の習慣についての記述だった。『さかしま』という題は、主人公デ・ゼッサントが、あらゆる意見と振る舞いにおいて、世間のほかの人々と正反対であることを意味する。彼の情熱には二つの面がある。第一に、ブルジョワにあかんべえをすること。第二に、ポーの言い方では、「奇異なものの精妙な感覚で、自分を包む」ことだ。人生を芸術へ、芸術を感覚へ還元し、さらに感覚そのものを、さまざまな感覚印象を、夢想のなかで一種の音楽的総合へまとめようとする努力へ、還元する。このため、パリの寂しい郊外に、自分のための「夢のあずまや」をしつらえる。異なる感覚で交響的な変奏を奏で、そこから洗練された楽しみを最大限に取り出せるよう、組み立てられた場所である。たとえばデ・ゼッサントは、食堂の壁に戸棚をはめ込み、小さな樽を横に並べた。それぞれの下には、銀の小さな栓がついている。これらの栓を結び合わせ、一種の鍵盤を作り、口のオルガンを弾けるようにする。「オルガンは、ちょうど開いていた。フルート、ホルン、天の声という札のついた小さな引き出しが、操作できるよう引き出されていた。デ・ゼッサントは、あちらで一滴、こちらで一滴と飲み、自分のために内なる交響曲を奏で、音楽が耳に注ぐものと似た感覚を、喉に得ることに成功した。」さらにデ・ゼッサントによれば、どのリキュールの味も、ある楽器の音に対応する。キュラソーはクラリネットに、キュンメルは鼻にかかったオーボエに、ミントとアニゼットは、刺激的であると同時に甘いフルートに、キルシュはトランペットの激しい響きに、ジンとウイスキーは、甲高いコルネットやトロンボーンに対応する、等々。さらに、リキュールの音楽には、調性の関係もある。たとえば、ベネディクティンは、緑のシャルトリューズという酒の長調に対し、その平行短調に位置するのである。
「これらの原理を認めたうえで、デ・ゼッサントは、学識を尽くした実験によって、自分の舌の上に、無音の旋律、壮麗な光景を伴う声なき葬送行進曲を奏でることに、成功していた。口のなかで、ミントの独奏、ヴェスペトロとラムの二重奏を聞くことに、成功していたのである。」
しかし、その晩のデ・ゼッサントには、「音楽の味を聞く」気はなかった、とユイスマンスは結ぶ。それでも後には、香りの演奏会を楽しむ。それぞれの香りが、内なる目に、それにふさわしい光景を呼び出すのである。デ・ゼッサントは、こうした対応が一般的に成り立つと、自信をもって語る。しかし本当にそうなのか。同じ香りが、どんな二人にも同じ光景を暗示する、あるいは、そもそも何かを暗示すると、当てにできるだろうか。ここが問題全体の核心である。一九〇二年、ニューヨークのカーネギー・ライシーアムで、「アメリカ初の実験的な香りの演奏会」が開かれた。その呼び物には、一連の匂いで聴衆に伝える、「十六分間の日本旅行」も含まれていた。しかし、この種の試みによって、集団的な夢のあずまやを作り、聴衆全体に、嗅覚への暗示へ似たように応じさせようとしても、失敗する運命にある。訴えるのは聴衆の嗅覚ではなく、はるかに健全な感覚、ユーモアの感覚になりそうだ。そして私の聞いたところでは、ニューヨークの実験で起こったのも、そのことだったのである。
音で色を、あるいは逆に色で音を暗示しようとする同様の試みも、同じ運命をたどるだろう。これらの対応とされるものは、どうしようもなく主観性に巻き込まれている。音を見たり、色を聞いたりする習慣をもつ人々の証言を調べると、ある人にはフルートが赤く、別の人には空色に見え、ある人にはトランペットが緋色で、別の人には緑である、といった具合だとわかる。アルチュール・ランボーは、有名なソネットで、母音のAは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青だと宣言する。[1]しかしルネ・ギルにとって、母音はまったく異なる色を暗示し、彼が主張するには、Oは青ではなく赤なのである。アナトール・フランスの呼ぶ、これら「精妙な病人たち」は、「マラルメ氏の寛大なまなざしの下で」、この点を争う。ここでもほかと同じく、ロマン主義の暗示の最後の段階は、理解不能な象徴主義である。数年前パリで行われたような、色聴に基づいて芸術の一派を作ろうとする試みは、永遠にむなしいままだろう。色聴や似た現象は、芸術の、より高く、より人間的な目的には、ほとんど関わらない。美術や文学の批評家にとって、それらは興味深く、珍しいものではあるが、それ以上とはまず言えない。もっと直接に関わるのは、心理学や医学の研究者であり、場合によっては神経の専門医なのである。
実際、ユイスマンスの主人公は、自分自身へのあらゆる「学識を尽くした実験」のあと、本の終わりで、ついに神経の専門医の腕のなかへ崩れ落ちる。デ・ゼッサント自身は、ルメートル氏の言うとおり、ただ「非常に複雑な阿呆」にすぎない。しかし、その愚かさにおいて、並外れた意味をもつ。デ・ゼッサントは、感覚の追求を超えることを拒み、想像の幻の輝きをかけて感覚を強めようとする芸術の行く末を示す、ふさわしい象徴なのである。その流派の極端な行き過ぎを示すものとして、彼の口のオルガンも、別の箇所で述べたように、カステル神父の色彩鍵盤楽器と同じくらい、特徴的な徴候である。すべてを暗示へ還元するとき、デ・ゼッサントは、ますます普遍的になる傾向を、自分なりの仕方で表しているにすぎない。私たちは、芸術から治療に至るまで、あらゆるものにおける暗示の力に、夢中になった時代に生きている。舞踊の芸術さえ、この熱に感染し、単なる舞踊であることでは満足せず、何かほかのもの、たとえばギリシアの壺やベートーヴェンの交響曲の、象徴や暗示でなければならなくなる。すべての芸術が、このように落ち着きなく、印象主義的であるなら、その理由は遠くにない。これらの芸術を行う人々も、それを受け取る人々も、自ら、印象に揺れ動く状態で生きているからだ。芸術に威厳、中心、安らぎがないとすれば、それは現代の人々に中心がないからである。現象の流動や印象の奔流に対抗して、自分の内にも外にも、何か固定した、永続するものがあるという感覚が、ないからだ。一言でいえば、芸術に混同が入り込んだとしても、それは、より一般的な病の、一つの特殊な側面にすぎない。その病とは、私の診断が正しければ、いま西洋世界を苦しめている、感傷的、科学的な自然主義の過剰である。[1]したがって残るのは、この自然主義に適切な程度で対抗する手段があるかどうかを、考えることだ。生気や自発性を失わず、いかなる意味でも形式主義へ戻らずに、人文主義の基準を取り戻す手段が、あるかどうかを。
1 黒いA、白いE、赤いI、緑のU、青いO、母音たちよ、
いつの日か、私は語ろう、お前たちの隠れた誕生を、等々。
1 これらの用語の定義は、『文学とアメリカの大学』で試みた。〔「ベーコンとルソー」の論考。〕
第七章
結論
一 自然主義の限界
この本で検討してきた芸術や文学の理論は、振り返ると、両極のあいだの、一種の往復運動に見える。形式主義の極端に、印象主義の極端が続き、擬似アリストテレス主義者のあとに、擬似プラトン主義者が現れるのを、私たちは見た。新古典主義者が、通常は絵画の観点から、客観的に諸芸術を混同し、ロマン主義者が、しばしば音楽の観点から、主観的に混同するのを見た。「何ごとにおいても、多すぎもせず、少なすぎもしないのが、古代人の特権である」とレッシングは言う。人間は、自分を真実を愛する者とみなすのが好きだ。しかし、このような主題を歴史的にたどると、むしろ半面の真実を愛する者だ、と言いたくなることが多い。もちろん、大多数の人々は、実効性のある意味では、半面の真実すら愛するとは言えず、何より幻に飢えている。その幻も、たいへん複雑である必要はない。通常は、感覚の最も単純な幻で足りる。ある軽蔑的なフランスのモラリストによれば、普通の人間を作っているのは、少しの虚栄心と少しの官能、ほぼそれだけだ。それでも、普通の人間の観点にも、弁護すべきところはある。人生の幻、エラスムスならその痴愚と呼んだであろうものへ、率直に身を委ねることで、哲学者が真実を苦労して手探りするより、多くの満足を得ることが、しばしばある。「痴愚の杯では、喜びの泡が、なお笑う。」
たとえ哲学者が、ほとんど貫けない幻のヴェールの向こうを、少し見たとしても、よくて半面の真実にすぎないものを、真実そのものと受け取り、一面的で狂信的になりがちだ。その半面の真実は、しばしば定式化され、世界へ専制的に押しつけられる。そして人々は、それが役目を終え、むしろ真実の反対の側面を強調する必要が生じた、ずっとあとまで、固執し続ける。これこそ、偉大なギリシアの詩人たちが明瞭に見た、人間性の盲目の主要な形である。半面の真実に必死にしがみつき、近づくネメシスの影を見ようとしない、あの執拗さだ。実際、この意味では、人間は、その長所の過剰から救われさえすれば、悪徳から身を守るのは、それほど難しくないと言えるだろう。
人間が半面の真実にしがみつく執拗さは、確信だけでなく、怠惰にもよる。人はつねに、たまたま流行している半面の真実への、一途な忠誠を正当化する用意があった。昔からの怠け心を慰めてきた、数えきれない詭弁のどれかによって、である。実際、サー・ジョシュア・レノルズの言うように、「真の労働、考えるという真の労働を避け、巧みに逃れる」ために、人間が用いない手立ては、ほとんどない。レノルズ自身は、模写を避けたと語るとき、新古典主義の怠惰を警戒していたことを示す。模写は「精神の努力を要せず」、「選ぶことなく模倣し、明確な対象もなく働くという、危険な習慣」を身につけさせるからだという。新古典主義の、機械的な模倣という怠惰に代えて、ロマン主義者は、夢想という怠惰、ただ身を放任すればよい自発性を置いた。ワーズワスは、賢くなるには、「古い灰色の石」に腰かけ、「時を夢見て過ごす」だけでよいと、私たちに信じさせようとする。もちろん、彼はそこで、重要な半面の真実をかいま見ている。しかし、それ自体では、手本を写すことについての新古典主義の半面の真実に、少なくとも劣らず危険なものだ。さらに、ロマン主義の怠惰は、「明確な対象」がなく、真に選択することをしない点でも、新古典主義の怠惰に似ている。
したがって、人間は生きた逆説である。熱意と確信をもって半面の真実に固執しながら、全体を見渡す見方に達した程度に応じてしか、完全にはなれないのだ。真の人文主義的な方法の本質は、両極のあいだを取り持つことである。それには、もちろん、実効性ある思考だけでなく、実効性ある自己規律も必要だ。そして疑いなく、真の人文主義者が、つねにこれほど稀だったのは、そのためである。対立する長所や、半面の真実どうしを取り持つうえで、いくらか進歩したからといって、それゆえ真実に到達した、と考えてはならない。大文字で書かれる〈真理〉は、必然的に無限であり、したがって人間のような、哀れな有限の存在の手には届かない。人ができるのは、せいぜい真理へ向かうことだ。どんな時点でも、得た部分は、まだ残るものに比べれば、つねに一瞥にすぎず、無限小の断片でしかない。この一瞥を定式化しようとすれば、偽りの最終的な結論へ凍結してしまう危険がある。真理を一組の公式のなかに、ついにしまい込んだと思う者は、神学者、科学者、哲学者のいずれを名乗ろうと、知性主義の誤り、あるいは形而上学的な幻と呼べるものに、苦しんでいるだけである。しかし、真実を最終的に定式化できなくても、人間は公式なしでは済ませられない。真実はつねに範疇をあふれるが、それでも範疇を必要とする。したがって、公式や範疇をもちながら、それらを流動的に保つべきなのだ。言い換えれば、基準が必要だが、それは柔軟でなければならない。法への信頼が必要だが、それは生きた信頼でなければならないのである。
本書の初めで研究した新古典主義の理論家たちは、明らかに、法への信頼が硬直的で、字義にこだわりすぎていた。流動と相対性の世界で、不変の公式を打ち立てようとした。たとえばボワローは、文学のジャンルを、永遠の昔から永遠の先まで固定しているかのように語る。またレッシングも、アリストテレスの『詩学』はユークリッドと同じく誤りがないと主張するとき、法を硬直的に捉えすぎている。少なくとも、非ユークリッド幾何学の可能性を認めるべきだった。レッシングによる演劇の法則の理解は、定式化が硬直的すぎるものの、それなりに生きている。それに対し、それ以前の多くのアリストテレス主義者に見たのは、神学的な精神を、いくらかイエズス会流に仕立て直し、文学へ適用したものだった。この影響のもとで、法の概念は、流動的で生きたものでなくなり、機械的な規則へ石化したのである。
新古典主義の規則の大部分は、それ自体としては、非常に重要な一組の半面の真実を指し示す。古代の均整をかいま見たとき、ルネサンスの人々に明けそめた、半面の真実である。ギリシアやローマの傑作と、中世の作品との対照は、ルネサンスには、形と無形との対照に見えた。レオナルドさえ、古代の均整を取り戻せなかったことを惜しんだ。しかし少なくとも彼は、古代人を生きた仕方で模倣した。他方、多くのアリストテレス主義の決疑論者は、古代人を外面的、機械的に模倣すれば、古代の均整を取り戻せるという希望を、差し出したのである。
自分たちの理解する形式の名において、決疑論者たちは、中世の物語に対する攻撃を進めた。この攻撃は、正確な学識と思想の両方を備えた人によって、これまでよりも注意深く研究されるに値する。[1]その要旨は、物語には、決疑論者たちの理解する意味での統一、節度、目的が欠けている、というものだ。物語は、どこからともなく始まり、どこででも終わる。省略や選択の技がなく、出来事を明確な目的へ従属させることもない。たとえばアリオストは、一人の英雄の一つの重要な行為を扱う代わりに、詩の冒頭で、貴婦人たちや騎士たち、武器、そのほか何やらわからないものを歌うと約束する。要するに、ロマン的な冒険の、単なる寄せ集めなのだ。そこで、多くの決疑論者がアリオストを非難し、タッソを、古代の均整により近いとして称賛する。しかし、この種の問題で価値のある唯一の判定、心理的な判定によれば、もちろんアリオストのほうが、タッソよりはるかに古代人に近い。言い換えれば、決疑論者たちは表面の下へ進まなかった。芸術や文学が、慎重に抑制され、高度に統一され、徹底して目的を備えることを望んだ。しかし、抑制、統一、目的を解釈する際、形式と形式主義を区別できなかった。さらに、新古典主義の信条が明確な形をとったのは、集中の時代だった。その集中自体、生きたものというより形式的だった。したがって古代人の模倣では、ほとんど全面的に集中の長所が重視され、初期ルネサンスならそうなったかもしれないように、拡張の長所も重視されることには、ならなかったのである。
1 スピンガーン教授は、『ルネサンスの文芸批評』一一二〜一二四ページで、叙事詩と物語の支持者たちの、この論争を要約している。別の箇所〔七四ページ〕で指摘したように、物語を攻撃し、その目的の欠如を証明する武器の一つが、「蓋然性」という考えだった。
そのため、拡張の力が再び優勢になると、新古典主義の規則は、単なる作為と慣習、生きて自発的なものすべてを殺す束縛、と感じられるようになった。一組の半面の真実から、別の一組へ激しく揺れる、人類の歴史では珍しくない、あの振動が起こったのである。ルターは、それを、馬に乗った酔った農夫の揺れにたとえる。ロマン主義運動は、ほかの多くの運動にも増して、それまでのすべてのものの正反対になろうという野心に、鼓舞されていた。新古典主義派は、統一、節度、目的、そして法そのものの考えを、単なる形式主義へ変えてしまった。ロマン主義者たちは、形式主義を取り除く際に、統一、節度、目的、法そのものの考えまで、同時に取り除こうとした。目的も法もなく、絶えざる逆説のなかで生きようとしたのである。たとえばティークの芝居は、異なる芸術を混ぜ合わせ、叙事詩、抒情詩など、さまざまなジャンルを混合する。それは、演劇を支配するとされてきたすべての法則への、意図的な挑戦である。理論上は、これらの法則は絶対ではないと認めるにせよ、実際、真の劇的効果を目指す人が、ティークのようにそれらへ真っ向から逆らうのは、重力の法則へ逆らうのと、ほぼ同じくらい賢明だ。最新の物理学派によれば、重力の法則も、絶対的に受け取るべきではないのだから。
とりわけドイツのロマン主義者たちの、無法則と無目的については、多くが語られてきた。しかし、ほかの多くの点と同じく、この点でもルソーが先取りしていた。近代文学に広く行き渡る放浪の気分、どんな明確な目的からも解放される喜びを、すでに表していたのである。しかも、多くの弟子たちより、いっそう完成された技によって。「私は好きなのだ」とルソーは言う。「何でもないことにかかずらうこと、百のことを始めて一つも終えないこと、気の向くままに行ったり来たりすること、刻々と計画を変えること、ハエのあらゆる動きを追うこと、石を裏返してその下を見ること、十年かかる仕事に熱烈に取りかかり、十分後には惜しげもなく捨てること。要するに、秩序も順序もなく一日中思いにふけり、何ごとにおいても、その瞬間の気まぐれだけに従うことが。」この一節に、目的が何よりも主要だというアリストテレスの言葉を対置すれば、人生と芸術について、考えうるかぎり最も隔たった二つの見方が、得られるだろう。
ルソーは、繰り返し飽きずに語るとおり、自分の感情の衝動への、どんな制約も恐ろしく嫌う。特定の障壁や限界だけでなく、あらゆる障壁や限界を、はねつける。自由というとき、典型的なイギリス人、たとえばバークが意味するような、法によって定められ、限られる自由を、意味してはいない。輪郭の定まらない自由であり、それを和らげるのは共感だけだ。そして、その共感を和らげるものは何もない。限定されない自由と、選別しない共感は、ルソーが始めた運動の二つの主要な側面、そのあいだで揺れ動く両極である。ルソー主義者のある者は、自由をほとんど排除するほど共感を高め、ある者は、共感をほとんど排除するほど自由を高め、また別の者は、共感と自由の両方を高めた。愛や自由という語が響くだけで、私たちは熱狂の波に足をさらわれるべきだと考え、これらの語を冷静に吟味することを、ほとんど冒瀆とさえみなす。しかし、あらゆる法、とりわけ人間が有限ながら知る最高の法、節度の法の上に、自らを置こうとする愛と自由を、どう考えるべきなのか。この愛と自由の考えは、長所でなくなり、病になることも十分にありうる。無政府状態という語は、いくらか特殊な意味合いをもつようになったので、ほかに適切な語がない以上、この病を、自由狂と呼んでおこう。
自由狂とは、単に外的で作為的な制限だけでなく、あらゆる制限を振り払おうとする本能、と定義できる。たとえば、フリードリヒ・シュレーゲルは、「詩人の気まぐれは、その上にいかなる法も認めない」と言うとき、自由狂である。過去のどの偉大な詩人、たとえばダンテにとっても、このような発言は、恐ろしい冒瀆と思われただろう。そして、ダンテはそれほど間違っていなかっただろう。またトルストイは、その共感の観念において、ニーチェはその自由の観念において、自由狂である。実際この二人は、私がルソー主義の両極と定義したところに立つ。もちろん、特定の人が、愛や自由を強調することで、どれほど行きすぎに陥ったかを定めるのは、限りなく微妙な仕事だ。バイロンの自由の観念には、シェリーの共感の観念と同じく、明らかに自由狂がある。しかし、この自由狂には、当時の社会にあった、反対側の行きすぎ、トーリー主義の過剰への抗議として、少なくともいくらか正当な理由があった。今日の行きすぎは、まったく違う種類だ。社会は明らかに、規律や抑制の過多よりも、その不足に苦しんでいる。ユゴー、ワーグナー、イプセンなど、近代の最も偉大な芸術家の多くは、自由狂だった。一世紀以上、世界は反逆を常食として与えられてきた。誰もが自由狂に染まりつつあり、義務より権利に心を奪われ、制限をますます受け入れたがらなくなっている。現代の女性に、何らかの「領分」があると示唆することが、どれほど危険かは、誰もが知っている。実際、男が自由狂であるなら、女に同じ特権を認めない理由は、見つけがたい。今の見通しでは、社会は、真の自由や友愛と、狂気を美しくするルソー的な技の特殊な形にすぎない自由や友愛とを、区別できるようになるまでに、ひどい火傷を負うだろう。
同時代の意見の大部分に抗しても、人は、普遍的な共感の名においてではなく、より高い法の名においてのみ、外的な法を振り払える、と断言する勇気をもつべきだ。この点で、リヒャルト・ワーグナーの芸術と、彼がその精神をよみがえらせると称する、ギリシア人の芸術との違いに、注目すべきである。すでに見たように、ワーグナーによれば、芸術は自由の精神に鼓舞され、官能的に溶け合うべきなのだ。ギリシア劇で実際に見られるのは、精妙な抑制に支配された、異なる芸術やジャンルの、しなやかな相互作用である。アンドレ・シェニエがギリシア芸術について語るように、「定められた境界を抜け出して、他のジャンルの限界へ侵入しようとするジャンルなど、なかっただろう」。[1]ワーグナーが、アンティゴネーの物語を人道主義の象徴に変えようとするのは、厚顔に近いものを示す。[1]彼によれば、アンティゴネーは、国家の厳しい法に対し、全人類への愛を対置する。しかし実際には、アンティゴネーがクレオーンの布告に背くのは、彼女自身が主張するとおり、さらに高く、さらに神聖な法に従うためにすぎない。
1 自然は二十の異なるジャンルを定め、
ギリシアでは、細い糸がそれらを分けた。
定められた境界を抜け出し、
ほかの領域へ侵入するものは、なかっただろう。
『創意』。
天に永遠にある、書かれざる法。
今日や昨日に生まれたのではなく、
永遠の昔から生き、その起こりを、
誰も知らない。[2]
要するに、ソフォクレスが描くアンティゴネーは、自由狂ではなく、文明を身につけた女性である。外的な権威とも、気質の衝動とも異なるものとして、生きた法を感じ取る感覚は、一般に、文明の最高の、もしかすると唯一の真の試金石とみなせる。
もちろん、内なる法と外なる法の両方への意図的な反逆が、近代の運動全体を特徴づけたと、主張するつもりはない。この運動のうち、私がルソーに結びつけた一面だけが、意図的に無政府的だった。そしてこの運動は、あまりに広大で、一人の人や一群の人々によって、完全には代表されえなかった。それでも、この百年間、そして実際にはルネサンス以来、多かれ少なかれ見られる、自然主義的な人生観への流れがもたらした、いくつかの結果を、見落としてはならない。その一つが、人間性のための法を、物理的自然のための法とは異なるものとする考えの、弱まりである。「二つの法がある。分かれ、調和していない」とエマソンは言う。「人間のための法と、物のための法が。」しかし純粋な自然主義者には、ただ一つ、物のための法しかない。さて、科学的であれ感傷的であれ、このように人間を現象としての自然と同一視する者は、ほとんど必然的に、拡張の長所だけを重んじるようになる。自然の法によれば、成長とは拡張だからである。同時代人たちは、ディドロを拡張的な人物と呼んだ。この点でディドロは、ルソーと同じく、十九世紀の真の祖先だった。典型的な十九世紀人は、すべて拡張的な人物だった。たとえばディケンズの人生観が、どれほど純粋に拡張的だったか、そして疑いない天才にもかかわらず、その芸術が、この拡張性の過剰から、どれほど害を受けるかを考えてみればよい。感傷的自然主義者は、感情的に拡張したいと望み、感情に限界を設けるものを嫌う。科学的自然主義者は、知識と力を永遠に増やし続けようとし、その増大に限界を定めるように見えるものへ、疑いの目を向ける。
1 『オペラとドラマ』、エリス訳、一八三ページ以下。
2 『アンティゴネー』四五三行以下。『オイディプス王』八六五行以下も参照。
しかし、科学的であれ感傷的であれ、自然主義者たちに抗して、私たちは主張しなければならない。物のための法だけでなく、人間のための法もあるというだけでなく、二つの法が分かれ、調和していない実際の理由も、示せるのである。自然現象としての人間が拡張によって成長するなら、人間としての人間は集中によって成長する。人間が自然の上に立つことを証明するのは、行動する力よりも、行動を控える力である。エマソンによれば、東洋の人々は、神そのものを「内なる抑制」と定義する。私は、この正確な言葉が出てくる東洋の書物を、たまたま知らない。しかし、その考えは、東西を問わず、これまで書かれた、ほとんどすべての真に宗教的な書物に見いだされる。
知識や共感をどれほど広げるにせよ、その主な役割は、人間が、自分に固有の能力を行使する最高の瞬間、集中と選択の瞬間に、いっそう十分に備えられるようにすることでなければならない。さて、正しく選ぶには正しい基準が必要であり、正しい基準をもつことは、実際には、自分の衝動につねに限界を設けることを意味する。人間は、抑制と自制における成長に、ほぼ正比例して、その本性にふさわしい完成へ近づく。最高の法を、集中の法、統一、節度、目的の法とみなした点では、新古典主義の人文主義者たちは、結局正しかった。ただし、その法を単なる形式主義に変えたことが、誤りだった。しかし感傷的自然主義者たちは、さらに重大に誤った。形式主義を取り除くとき、統一、節度、目的も同時に取り除き、単なる感情の拡張へ身を委ねたからだ。これは実際には、人間性に固有の法という考えそのものを取り除くことだった。法という語は、実際には、いくつかの孤立した事実や現象のあいだに、因果的なつながりを確立することを意味する。そして、人間性の事実のあいだに、真剣に因果的なつながりを確立しようとする者は、すぐに、拡張以外の力も認めるようになる。さらに、過去のすべての経験が、それをきわめて不完全に定式化した多くの信条や体系を通じ、千の舌で叫ぶように、人間の最高の法は集中の法だと訴えている。だから感傷的自然主義者は、この経験を受け入れたくない。「自分より前には誰も生きたことがない」かのように生き、純粋に拡張的であり続けようとして、理性より下にあるものを、理性より上にあるものの代わりに据えようとする。私は実際、『コロノスのオイディプス』を理由に、ソフォクレスをロマン主義的だと呼ぶのを聞いたことがある。しかし、子どもの驚異と、この劇の後半全体を覆う宗教的な畏れに、どんな関係があるのか。このような区別を見失うのは、子どものように純真なのではなく、子どもじみていることを示すのである。
前世紀のロマン主義のすべてが、決してルソー型だったわけではない。その多くは、人間精神の正常なロマン性と呼びたくなるもの、原因と結果をたどるよりも、虚構、驚異、冒険、驚きへ向かう傾向に、すぎなかった。しかし、ロマン主義のあらゆる形は、自然主義の運動から、巨大な刺激を受けた。サンタヤーナ教授は、「過敏な冒険者に、偶然が、意味のない幸福や不幸をもたらす、ロマン的な演劇」について語る。さて、ロマン的な演劇は、もはや重要なジャンルではなくなった。しかしサンタヤーナ教授の言葉は、今日まで力と生命を保ってきた、ただ一つの文学形式、小説にも、ほとんどの場合、同じくらい適切に当てはまる。
小説は、新古典主義者たちが規則を定めなかった、唯一のジャンルである。一つには、疑いなく、その手間をかけるほどのものと考えなかったからだ。形式的な法や限界がなかったので、ルソーが『新エロイーズ』で示したように、自由な感情の拡張に、まことによく適していた。小説は、文学形式のなかで最も目的性に乏しく、感情のあらゆる曲折、ロマン主義的な意味での「魂」の広大な氾濫に、最も自然に適応するだけではない。写真のような写実、つまり選択を欠いた芸術を、最も容易に受け入れるものでもある。小説の勝利は、形に対する無形の勝利とはいわないまでも、少なくとも集中に対する拡散の勝利だった。フリードリヒ・シュレーゲルが、小説を、ほかのあらゆる文学形式の一種の混同、[1]自分の夢見た人間性の混沌を、目に見える形にしたものとして高く掲げたのは、その観点からは正しかったのである。
感傷的自然主義と、十九世紀における小説の驚異的な発展との関係は、明らかだ。この発展は、それほど明瞭ではないが、科学的自然主義とも関わっている。十九世紀は、最もロマン的だっただけでなく、最も分析的な世紀でもあったからだ。人生を純粋に冒険と受け取るどころか、原因と結果を追い、その結果、法の観念に達することに、きわめて活発に取り組んでいた。しかし、そうしてたどっていたのは、現象としての自然の法、「物のための法」だった。この自然の科学的な探究と、ルソー主義者による、自然との感情的な交わりは、一見、根本的に異なるように思える。ルソー自身に始まる、多くのロマン主義者たちの科学への攻撃を思い出せば、なおさらだ。しかし、この隔たりは、実際のものというより、見かけのものである。第一に科学者は、分析が幻滅をもたらすと、ロマン主義者が嘆くことを、それほど真剣に受け取ってこなかった。ロマン主義者が何人いようと、自分の優位は脅かされない、自分のほうが強く、雄々しい人間だと、知っている。また、ロマン主義者の主張に、真実の要素があることも認めている。分析は乾燥させ、物事の瑞々しさを奪う、と認めるのだ。その瑞々しさを取り戻し、自発的で無意識的なものへ飛び込み、素朴で原始的なものを培う必要を感じる。もちろん、分析へ適切に従属させたうえでである。ジョン・スチュアート・ミルがワーズワスの詩を読んだのも、この精神からだった。[1]これは実際、科学者だけでなく、近代人一般が、芸術や文学に対してもつ、普通の関係なのである。近代人は、物質の征服と、そのために必要な厳密な因果関係を追うことに、熱中している。文学へ来るころには、分析や原因と結果には、すでに飽きている。むしろ心を緩め、くつろがせるもの、素朴で、非論理的で、予測できないものを望む。しばらく人生を、不思議の国のアリスの角度から眺めてもよい。あるいはピーター・パンの観点へ落ち着き、おもちゃの国の子どもたちの一人になってさえよい。軽い小説、奇想劇、音楽喜劇を受け入れる準備ができており、ロマン主義者は、それらを供給する用意がある。たしかに、ロマン主義者は、しばしば自分を崇高な理想主義者と称する。しかし、明確な人間の法と、それが伴う基準や規律の感覚を失ったため、実際には、分析から休みたい人々、疲れた科学者、くたびれた文献学者、消耗した実業家に、楽しみを供給する役割へと縮小されている。ここに、今日の小説の巨大な流行の説明があり、芸術や文学が、ますます女性と、男性が雄々しくない気分にあるときにだけ、訴えるようになる理由がある。
1 シュレーゲルは、自作の小説『ルツィンデ』で、意図的にジャンルを混同しようとした。
1 ヘフディング『近代哲学史』、第二巻、三九九ページ参照。
科学的自然主義と感傷的自然主義の、この奇妙な相互作用をたどらずに、十九世紀を理解することは望めない。この世紀を代表する偉大な人物の一人、近代の文献学者を、おそらく最もよく代表するエルネスト・ルナンによって、具体的に示そう。「人は知的に発展するほど、反対の極を夢見る」とルナンは言う。「つまり、非合理的なもの、完全な無知のうちの安息、ただ女でしかない女、おぼろげな意識の衝動だけで行動する、本能的な存在を夢見るのだ。推論に焼かれた頭脳は、砂漠が清水に渇くように、単純さに渇く」など。言い換えれば、知的な無制約を、無制約な感情主義で和らげるのである。「乾燥の瞬間、不毛の時間」を生む「弁証法の放蕩」は、「そのなかに自然が生き、微笑んでいる、素朴な存在の接吻」によって、埋め合わされるべきなのだ。[1]これは、知性のペリオン山に、感情のオッサ山を積み重ねて、天へ登ろうと望む、十九世紀の巨人の夢である。すべてに、知への欲望にさえ、節度を課す法を認めるくらいなら、何でもするという夢だ。軽薄と思われる危険を承知で付け加えたくなるが、宗教的な抑制の代わりとしての、「素朴な存在の接吻」についての、こうした話はすべて、頽廃の匂いがする。さらにルナンのいう、ただ女でしかない女というのは、今後ますます稀になりそうな、明確に区分されたジャンルである。すべてのルソー主義者が、師と同じくらい幸運に、テレーズ・ルヴァスールを見つけられると、期待することはできない。
ルナンが自然の法の研究に結びつける乾燥や不毛は、少なくとも部分的には、その法をあまりに厳格に解釈するためかもしれない。というのも、十九世紀の人々について、注目すべき一つの点がある。人間の法をゆるく、あるいはまったく認めなかったとすれば、しばしば、それを埋め合わせるように、自然の法をあまりに硬く捉えたことである。言い換えれば、この時代の人間は、自分自身の存在の法については印象主義者であり、物理的自然の法については独断主義者だった。人間の法と物の法は、ほかの点でどれほど違っても、一つの重要な類似をもつ。どちらの法も、最終的に定式化できない。それぞれが無限に触れているという、単純な理由によってである。一方は無限に大きなものへ、他方は無限に小さなものへ触れている。これがパスカルの語る二つの無限だ。パスカルによれば、人間は、無限にまで届く塔を建てられる、確かな基礎を見つけたと思う。しかし、まさに希望が最も高まったとき、基礎はひび割れ始め、深淵へ向かって裂け開く。十九世紀の科学的独断主義者たちは、この種の塔を建てたと思い込んだ。そのなかには、私が知性主義の誤り、あるいは形而上学的な幻と呼んだものの、中世のどの神学者にも劣らぬ実例がいる。公式への陶酔と呼べるものを、テーヌ以上に進めた神学者が、かつていただろうか。[1]科学の思弁の多くは、永遠に逃れ去るもの、無限に小さいものについての最終的な真実を、その本質においてつかみ、定式化しようとする、人間精神の必死のあがきにすぎない。ちょうど、ある種の神学が、無限に大きいものを、その本質においてつかみ、定式化しようとする、同じくむなしい試みであるように。ただし、一つの幸いな違いに注目しなければならない。かつて三位一体について正統でないために火刑に処せられたように、イオンや電子について正しい見解をもたないために、火刑になる人は、まずいないのである。
1 引用したすべての箇所については、『幼年時代と青年時代の思い出』の序文を参照。十九世紀の自然主義者の型としてのルナンは、私の編んだ『思い出』の序論で、より詳しく論じている。〔ボストン、D・C・ヒース社。〕
さらに、科学者たち自身のあいだにも、より独断的でない気質が見え始めている。十九世紀半ばの人々には、これほど確かに見えた知性主義の塔の基礎は、すでに目に見えてひび割れ始めた。実際には、科学者たちが、法という考えを、より流動的に捉えるようになっていることを意味する。たとえばポアンカレ氏は、フランスで人気小説のように売れている『科学の価値』で、科学は決して本質へ到達できず、「科学法則」は、せいぜい関係の暫定的で近似的な表現にすぎない、と述べる。[1]ポアンカレ氏の本を、ヘッケルの『宇宙の謎』のような本と比べれば、科学的独断主義がある程度減ったことを感じるだろう。もっとも、改善の余地はまだある。物理的自然についての人間の知識も、人間性についての知識と同じく、つねに一瞥、無限小の断片にとどまる運命だ、という認識が広まれば、科学的な巨人主義とでも呼べるものに対抗する、希望があるかもしれない。ほとんど失われた長所の一つになっている、あの真の謙虚さ、精神が自分より高いものへ内側から頭を下げる態度も、いくらか取り戻せるかもしれない。
1 極端な例として、テーヌが、明確に定式化した一つの法から、ローマ史全体を導く一節に注目できる。「数えきれない細部の膨大な集積は忘れたまえ。公式をもてば、残りも手に入る。それらは半行のなかに、ゆったり収まる。千二百年と古代世界の半分を、掌のくぼみに閉じ込めるのだ。」〔『十九世紀の古典的哲学者たち』、三六七〜三六八ページ。〕この本は、自然の真実全体を含むはずの、単一の巨大な科学的〈公式〉の幻で、終わる。
1 H・ポアンカレ『科学の価値』、二六七ページほか。
もちろん、科学的知性主義への信頼の低下が、単にルソー的な極への揺れをもたらすだけかもしれない。実際、ジェイムズ教授やベルクソン氏のような現代の哲学者に見られるのは、それである。ベルクソン氏の観点は、ある科学的独断主義者たちが人間精神へ課そうとする、硬く窮屈な決定論への抗議である。同時に、創造的な自発性の擁護でもある。しかしベルクソン氏自身は、自然主義の境界を越えない。その自発性は、プラトン的ではなく、ルソー的なのだ。つまり、生きた集中ではなく、生きた拡張を目指す。この点で、ベルクソン氏の最も広く流通する言葉そのものが、意味深い。たとえば「生の躍動」や「内なる推進力」といった言葉である。プラトン主義者の主な関心は、人間の存在の最奥から出てくるように見える、あるものへ向けられただろう。それは、衝動としてではなく、むしろ衝動への規範や抑制として感じられるもの、「生の躍動」ではなく、むしろ「生の制動」である。科学的真実についての、分析過剰で機械的なある考えが、自然や人間性を閉じ込めようとする、その硬直した決定論へのベルクソン氏の反逆は、ドイツのあるロマン主義の哲学者たちを思い起こさせる。ただし、ほかの違いとともに、次の点も指摘できる。ベルクソン氏の思考のルソー的要素、生きたものや自発的なものを高めることは、シェリングやシュライアマハーにしばしば見られるような、擬似プラトン的な仮面をかぶらない。この間に世界は、すっかり「強靱な精神」になり、統一という口実さえ捨てた哲学を、受け入れる気になったのである。
科学の精神のある行きすぎに対する、今述べた反動は、明らかに、人文主義者を完全に満足させるものではない。この点は、誇張された科学、あるいは擬似科学とでも呼ぶべきものが、ジャンルの性質と、諸芸術の適切な境界についての、現在の問題に、どう関わるかを少し考えれば、明らかになる。付け加えれば、科学が誤ったものになるのは、自らの法をあまりに独断的に捉えることによっても、その法を、人間の法の代わりに据えようとすることによっても、である。両種の擬似科学の、際立った実例となる本、ヘッケルの『宇宙の謎』には、すでに言及した。ヘッケルのような本は、かつて人々が、まったく逆のことをして誤ったのと同じくらい、今日の私たちが、物理的自然によって人間性を解釈して誤りやすいことを、示唆する。たとえば古代人には、エトナ山の下に押さえつけられた巨人エンケラドスが、寝返りを打とうとすると、シチリア全体が震える、という説があった。ヘッケルの理論の一部が人間性を説明するのは、この古代の説が地震を説明するのと、ほぼ同じ程度である。またミルトンは、彗星が「恐ろしい髪から、疫病と戦争を振り落とす」と語る。しかし今や彗星は、人間の希望や恐怖から独立した法に関係づけられる。こうして凶兆ではなくなり、「ありふれた物事の退屈な目録」に登録された。これは獲得である。しかし、それによって人間性の軌道も、彗星に用いるのと似た方法で計算できると思い込むなら、まったく無条件の獲得ではない。
感傷的であれ科学的であれ、自然主義者は、すべてを運動に還元する傾向がある。あらゆるものが、ほとんど感知できない段階を経て、ほかのあらゆるものへ移ると見て、確かな境界線を受け入れようとしない。ドイツのロマン主義者たちが、あらゆる芸術がほかのあらゆる芸術へ流れ込むのを、感情的に感じ取ったことは、すでに見た〔一二四ページ〕。科学的自然主義者も、同じ観点をもつ。科学的であると同時に感傷的な自然主義者だったディドロは言う。「すべては永遠の流動である。どの動物も、多かれ少なかれ人間であり、どの動物も、多かれ少なかれ植物であり、どの植物も、多かれ少なかれ鉱物である。自然には、何もはっきりしたものがない。」属や種が、物理的な次元でこのように進化し、溶け合うからといって、次の一歩へ進み、文学のジャンルも同じように進化し、溶け合うと思い込むのは、容易だ。これが、生物学的類比と呼ばれるものである。しかし、自然の属と文学のジャンルとのこの比較を、多かれ少なかれ有用な比喩以上のものにしようとする者は、ただちに擬似科学へ陥る。たとえばブリュヌティエールは、その文学的ダーウィン主義、ジャンルの進化論において、擬似科学的である。理由は明らかだ。ジャンルは、自然の法だけでなく、はるかに大きな程度で、「人間の法」に関わるからである。この問題全体は、アリストテレスの含蓄ある一節に要約される。[1]「悲劇は、多くの変化を経たのち、ついにその真の本性を見いだし、そこで止まった。」この真の本性、停止と完成の地点は、人間の法と、それが求める統一、節度、目的に照らしてのみ、判断できる。物理的な法に照らしてはできない。それ自体では、終わりない流動と相対性しか与えられないからだ。自然は〈多〉の領域である。芸術を人間的なものにするには、自然とともに流れるだけでなく、〈一〉をいくらか感得することによって、抑えられ、調整されなければならない。そのため、人文主義の観点からすれば、自然主義運動の両極のあいだで揺れ動き、科学的、分析的な極端に、ルソー的な極端を対置しても、あるいはその逆でも、特別な獲得はない。私たちを悩ます混同は、感情の無制約と擬似科学という、二つの主要な源へたどれる。そして、混同のこの二つの源は、ともに自然主義の過剰から生じる。したがって、これらの混同から逃れるには、自然主義の長所を保ちながら、人間の法も主張し、重要な点で、自然主義的な観点全体を超える必要がある。言い換えれば、人文主義の復興が実効性をもつには、ロマン主義と科学の両方に、前世紀に特有だった印象主義と独断主義の両方に、ある程度対抗することを、含まなければならないのである。
1 『詩学』第四章。
残るのは、自然主義の限界について今概説した理論と、本書で論じてきた個別の問題とのつながりを、さらに密接にすることである。同時に、理論そのものにも、まだ欠けている明確さと具体性を、いくらか与えたいと思う。
二 形式と表現
ここまでの分析が正しければ、十九世紀は自然主義が過剰になった時代であり、したがって、拡張の長所だけを偏って好む傾向があった。過去が設けた形式上の境界や限界はすべて、人間精神が自由に広がるために、断ち切るべき枷としか感じられなかった。この拡張の傾向が、芸術や文学のあらゆる創造的な努力の根底に、多かれ少なかれあるはずの観念、美の観念に与えた影響を、少し考える必要がある。美の抽象的な定義を試みるつもりは、毛頭ない。美学の著作の圧倒的多数から判断すると、それは悪魔の誘惑だ。しかし、人々がさまざまな時代に、何かを美しいと呼ぶとき、実際に何を意味していたかを研究すれば、興味深い結論をいくつか引き出せる。ある時点でたまたま流行した半面の真実に合わせるため、美という語が、どのように奇妙に歪められてきたかに、注目するのである。
たとえば、ある種の新古典主義者にとって、美はほとんど全面的に均整と釣り合いにあった。しかし、彼の考える均整と釣り合いは、生きたものではなく機械的だった。ルネサンスの理論の一部を額面どおり受け取れば、造形芸術の美は、定規とコンパスで組み立てられるものだ、と結論しなければならない。形式を形式主義と混同する、新古典主義のこの絶えざる傾向については、別の箇所で研究した。十九世紀へ近づくと、美のなかの形式的要素への強調は減り、生きた、特徴的な、絵画的な、個別的な、といった形容で表される要素への強調が、増していく。要するに、表現的という語にまとめられる要素である。絵画では、線に比べて色彩が好まれるようになる。あらゆる芸術で、運動の原理が静止の原理に、暗示的な細部が構図や構成に、ますます優越する。つまり、表現が形式に勝利する。実際、この二、三世紀の、美を定義しようとする試みをたどると、形式的な要素は次第に消え去り、ついには純粋な表現だけが残ったことがわかる。〔ついでに言えば、チェシャ猫に起こったのも、まさにこれだった。〕極端なロマン主義者は、さらに進む。美は表現へ還元されるだけでなく、その表現自体が夢想に呑み込まれる。美は一種のキマイラの追求となる。たとえばポーにとって最高の美は、女性の目の、移ろう一瞥、しかも夢の女性の一瞥なのである。
私の日々はすべて忘我となり、
夜ごとの夢はすべて、
あなたの灰色の目が光り、
あなたの足どりがきらめく、その場所にある。どんな空の踊りのなかに、
どんな永遠の流れのほとりにあるのだろう。
ポーが思い描き、ときに自らの詩で幸運に実現した美は、音楽的な憧憬と定義できる。この考えを、彼の詩の定義、「律動による美の創造」に結びつければ、[1]詩の本質は、「蓋然性または必然性に従って」人間の行為を模倣することにある、というルネサンスの観念との、興味深い対照が得られる。
実際、近代の美学理論のうち最も極端なものは、ポーやほかの多くの作家、芸術家が、この百年実践してきたことを、定式化しようとする試みにすぎない。実例として、現在のドイツでおそらく最も著名な美学者、テオドール・リップス教授を挙げよう。[2]リップスは、芸術についてのルソー的な見方を、これが最後の行きすぎであってほしいと思うほどに、誇張する。静止より運動を高め、忘我のような幻と純粋な暗示を重視するのである。彼は、美を単なる「感情移入」の過程へ還元する傾向があり、[3]この主観性全体に限界を設ける、包括的な均整の法を、事実上取り除いてしまう。実際、外的な規則とも個人の衝動とも異なるものとしての法の感覚は、すでに述べたように、近代の運動全体において、著しく欠けている。たとえば新古典主義者は、韻文の法を、狭い規定の集まりへ変える傾向があった。[1]その結果、とりわけ小才の人々の手では、韻律は機械的で、融通がきかず、表現力に乏しくなった。英語では、二行連句の「シーソー」に馴染みがある。この形式主義への反動で、自由詩の支持者の多くは、反対の極端へ走り、まったくの無法則に陥った。広々とした夢に対しては、障壁の影さえ認めようとせず、夢想のあらゆる曲がりくねりに合わせて、詩をしなやかにしたあげく、しばしば形のないものにしてしまった。ジュールダン氏の分類にもかかわらず、韻文でも散文でもないものを、生み出したのである。ジャンルの混同というより、どんなジャンルもないものだ。ルメートル氏は、ある程度腐敗した人間の死体についてのボシュエの言葉を借り、それを、「何とも名状しがたいもの、もはやどの言語にも名のない、何とも名状しがたいもの」と呼ぶ。[1]これが自由狂の最終段階である。詩の自由狂は、自分の「幻視」を正当に表すには、最も疑いない構図の法則さえ破らざるをえないのだと、私たちに信じさせようとする画家と、同じ仲間である。あるいは、実際には人類の普遍的な経験を便利に要約したものを、単なる慣習だと軽く片づける劇作家と、同じ仲間なのだ。
1 美と詩についてのポーの定義は、その評論『詩の原理』を参照。
2 『美学、美の心理学』、第一部・第二部、一九〇三年、一九〇六年。
3 リップスの感情移入の過程は、別の章で論じた、一種の夢想のなかで、人間が外の対象へ溶け込むことと、密接に関わっている。リップスと、彼が代表する傾向全体についての論文は、『エディンバラ・レヴュー』一九〇八年十月号に、「美と表現」という題で載っている。
1 エドワード・ビッシュ『英詩作法』〔第三版、一七〇八年〕は、通常、英語におけるこの傾向の最も極端な表明とみなされる。
美を純粋に印象的、あるいは表現的なものにしようとする人々によって、その観念がどのように損なわれたかを、すべて取り上げていては、終わりがない。この種の最も興味深い試みの一つは、ナポリの批評家ベネデット・クローチェによるものだ。その美学の著作は、[1]イタリア語で何版も重ね、つい最近、英語にも翻訳された。実際、ある熱心な人々からは、長く待たれた美学の救世主として、迎えられている。クローチェ氏は、美を純粋な表現へ還元する。[2]そのやり方は、形式を取り除くというより、形式という語に、独自の意味を与えるというものだ。[3]アリストテレスやスコラ学の意味でもなく、また日常の用法の意味でもない。彼の定義する形式は、真の表現の一つの側面、いわば必然的な結果にすぎない。芸術が関わるのは、感覚の新鮮な直観だけである。[4]知性がこの直観に介入することは、望ましくないとされる。高次の、いわゆる知的直観を、クローチェ氏は否定する。[5]芸術における選択という考えを認めない。受け取った印象が変容し、ついに独創的な表現として現れる過程は、純粋に直観的、自発的であり、意志の制御を超えているのである。[1]
1 ほかの多くの点と同じく、韻律の実験においても、フランスの象徴主義者たちは、ドイツのロマン主義者に先取りされていた。ヘットナーは、ドイツのロマン主義についての本〔五九ページ〕で、「とりわけティークが迷い込んだ、いわゆる自由詩による詩は、まったく耐えがたい」と述べている。
1 『表現の科学および一般言語学としての美学』、一九〇二年。参照は初版による。
2 『美学』八一ページ。「美とは成功した表現、いや、むしろ端的に表現そのものと定義できる」など。
3 同書、九八ページ。
4 同書、一三七ページほか。
5 同書、六八ページ。
要するに、クローチェ氏は自発性の使徒である。しかしそれは、低次の自発性、洞察ではなく本能の自発性だ。その観点は、すでに述べた、独断的で機械的な科学への反動の、あの特殊な形と密接に関わっている。科学的知性主義への攻撃では、彼自身、最も鋭い知性主義者の一人であることを示す。現在の私たちがまさに必要とする、鋭い区別を、数多く行っている。だからこそ私は、根本において彼とこれほど重大に意見を異にしなければならないことを、残念に思う。彼が採用した美の理論によって、全世界を愚か者扱いする用意がある、とドライデンが語る種類の人々に属するのではないかと、ほとんど必然的に疑われることを、残念に思う。美を純粋な表現とする考えは、実際、非常に近代的である。それを維持するため、クローチェ氏は、プラトンやアリストテレスと袂を分かち、一般にギリシア人を、美の理論について無能として退けなければならない。自分に現れた巨大な光の、最初のかすかな明かりを見いだすのは、比較的近年にまで下ってから、初めてなのだ。[1]美を拡張的に捉える彼は、文学や芸術のジャンルを設けようとする試み全体を、美的な自発性に対する、知性の不当なおせっかいとみなす。[2]芸術の適切な境界や、芸術の混同について、過去に行われたすべての議論は、彼の言い分によれば、単なる言葉の争いなのである。[3]
1 『美学』、五四ページ。
何と魅力的で、もっともらしく、新しい教説だ!
これが本当なら、父祖たちは何と愚かだったことか。
擬古典主義者と、今論じている種類の近代理論家との、重要な類似を見落としてはならない。彼らはみな、美を何か一つのものへ還元する点で、一致する。擬古典主義者は、形式だけを求め、そのため形式主義に陥った。他方、近代人の多くは、擬古典主義者が小さく扱い、あるいは否定した、あの表現的な要素のなかに、美のすべてを見いだす。バトゥー師とクローチェ氏は、ともに美学的一元論者である。違いは、バトゥーがあらゆる芸術に模倣だけを、クローチェが表現だけを見ようとすることだ。しかし、あらゆる種類の一元論者と同じく、美学的一元論者に対しても、健全な不信を抱こう。一元論とは、自分自身の怠惰、一面性、現実の多様で対立する側面のあいだを取り持ちたくない気持ちに、人間がつけた立派な名前にすぎない。擬古典主義者に劣らず、ロマン主義者や自然主義者も、形式と形式主義を区別できず、美を何か一つに還元しようとしたとしても、私たちまで彼らと同じになる理由はない。美の健全な分析は、つねに二つの要素を認める。一つは、拡張的で生きた、表現という語にまとめられる要素。もう一つは、それに対して、むしろ限定し、囲いを定める法として感じられる、形式の要素である。
1 クローチェ氏によれば、「詩と芸術の真の本性を見抜いた」最初の人物〔『美学』二二八ページ〕は、同郷のナポリ人、ジャンバッティスタ・ヴィーコ〔一六六八〜一七四四年〕だった。自発的なものや原始的なものについての考えのいくつかにおいて、ヴィーコは、ルソーやヘルダーの先駆者とみなせる。
2 『美学』、三八〜四一、一四七、四六五〜四八〇ページ。
3 同書、一一五ページ。
しかし、形式がこのように限定し、囲いを定めるからといって、それを不活発で、機械的で、外的なものと考えてはならない。擬古典主義やロマン主義にならって、集中を、狭さや収縮、伝統や慣例へのおとなしい服従と、同義にしてはならない。自然の法とは異なる、人間性の法そのものが、集中の法なのである。ただし、この法は形式的にではなく、柔軟に保たれなければならない。この難しい仕事も、クローチェ氏が冷笑する、あの高次の直観の助けがあれば、不可能ではない。もちろん芸術は、高次の直観だけで、あるいはそれを主としてさえ、栄えることはできない。最も鋭い感覚の直観を必要とする。しかし芸術が人間的な目的をもつには、これら感覚の直観は、高次の直観の制御下に入らなければならない。そうでなければ、芸術は目的のない表現、レッシングのいう、奔放な表現へ陥る危険がある。他方、真の目的と選択があれば、芸術は形式と本質的な均整を達成しうる。エマソンは、形式が魂に即座に依存することを語り、スペンサーも、やや似た調子で、「魂こそ形であり、肉体を作る」と言う。魂が高次の直観の領域を指すなら、エマソンやスペンサーに同意できる。しかし今日では、「魂」だけでなく、「理想」や、ほかの似た語も、奇妙に変わってしまったことは明らかだ。知性の上にあるものではなく、下にあるもの、私が低次の自発性と呼んだものに、結びつくようになった。レッシングにとって理想は、明確な基準に照らす、いくらか厳しい選択と自己規律の過程を意味したことを、私たちは見た。ルソー以来、「魂」や「理想」は、感情の拡張以上のことを、ほとんど意味しない。感情のほとばしりにふけるだけで、「魂」をもつと証明でき、熱意を解き放つだけで、理想主義者として通る。要するに、「魂」と「理想」という語は、すでにあまりにも女性化されてしまい、慎重にしか使えず、ついには使用不能になるかもしれない。実際、抑制の原理を取り除くことで、感傷的自然主義者は、人間性の高次の価値と、それを表す語を、最後にはすべて失墜させ、粗暴な実証主義しか立っていない状態に、してしまうかもしれないのである。
今引用した言葉では、スペンサーもエマソンも、意識的にプラトンに倣っている。そして私自身も、高次の直観をプラトンに結びつけてきた。しかし、アリストテレスに結びつけても、同じようによかった。総合の巨匠に劣らず、分析の巨匠も、最後にはこれらの直観を重んじている。この事実は、私たちを立ち止まらせるはずだ。実際、この洞察がアリストテレスにおいてとる形は、とりわけ芸術や文学に関するすべてのことで、プラトンにおける形より、しばしば私たちの目的に合う。たとえば、通常の知性を超える領域を述べるにあたり、アリストテレスは、それ自身は動かないが、生命と運動の源であると言う。[1]この考えは、ギリシア彫刻の最良のものに、実際に実現されていると言えるだろう。動きを暗示する技のほとんどすべてを完成させると同時に、その動きに、生きた安らぎの背景を与えたからだ。アリストテレスの言葉は、それ自体見事なだけでなく、ロマン主義や自然主義の、もう一つの主要な混同を、警戒させてもくれる。ロマン主義者は、集中を狭さや収縮と同義にするのと同じように、安らぎにも、生命のなさや停滞しか見ようとしないからだ。たとえばヘルダーは、レッシングが表現にこれほど鋭い境界を設けることで、「芸術を死んだ、魂のないものにしてしまう。それは、中世の修道士しか喜ばない、不活発な静止のうちに失われるだろう」などと、不満を述べる。[2]もちろん私も、レッシングの安らぎの考えが、ある点であまりに学究的であることは、否定しない。しかし芸術が完全であるには、表現だけでなく、その表現を囲い定める形式も、必要だ。そして形式が真正であるほど、安らぎを暗示する。少しも不活発で、魂がないわけではないのに、それでも運動と変化の領域の上へ、高められた何ものかを、暗示するのである。形式と表現の、この完全な結合は、もちろん稀だ。しかし過去の芸術や文学には、不可能ではないことを示す証拠がある。たとえばモーツァルトは、音楽の法に自発的に従う。その点で、独創的で表現豊かであることを口実に、骨を折って法を破ることにしか成功しない、近代のある芸術家たちとは、正反対にある。真の芸術が、言うべきことをもち、それを単純に言うことにあるなら、この近代芸術の特徴は、言うべきことがなく、それを神秘的で複雑な仕方で言うことにある。
1 自ら動かずに動かすもの。〔『形而上学』第十二〔第十三〕巻、第七章。〕もちろん、この考えは、アリストテレスのほかの多くの箇所にも見いだされる。
2 『第一批評の森』、ズーハン編、七六ページ。
拡張が集中に、遠心が求心に変わりえないのと同じく、表現が形式に、形式が表現に変わることは、決してない。しかし形式と表現は、実際に融合できないとしても、ここまで述べたことすべてから、それらは衝突する二律背反としてではなく、調和した対立物として関わるべきだと、明らかになる。コールリッジは、「美について」の評論で、私たちにはとくに関わりのない、抽象的な美の定義を与えたのち、こう付け加える。「具体的な美は、形の整ったものと、生きたものとの結合である。」これは、私たちの目的にたいへんよく合う。示そうとしてきたように、ある意味では、形の整ったものも生きていなければならない。それでもコールリッジの言葉は、美に必要な二元性の、適切な表明、おそらく英語では最良の表明であり続ける。一方には表現の外へ押し出す力、他方には囲いを定める法がある。この二つを取り持つ問題は、無数の仕方で解けるだろう。しかし、本当に人間に関わる美を実現するなら、何らかの仕方で解かなければならない。この問題は、芸術について正しく考えた人々には、つねに存在してきた。たとえばホラティウスも、次のように書いたとき、こうした対照を考えていた。「詩は磨かれているだけでは足りない。魅力も備え、読者の心を、望むところへ導くようであれ。」[1]今日なら、ホラティウスが描く仕方で私たちを魅了する詩は、それだけで美しいと呼ぶだろう。しかしホラティウスは、そのような一面性に陥るには、あまりに文明を身につけていた。極端は野蛮だからである。芸術家が、形の整ったものか、生きたものかの、どちらかへ一面的に傾きすぎれば、人間的でなくなる危険がある。今日、私たちがどの極端へ傾いているかは、疑いない。イギリスのある評論誌は、最近、この四半世紀で最大の天才の作品として、トマス・ハーディの『覇王たち』を称賛した。三部、十九幕、百三十場からなる劇であり、同時に散文と韻文の、しかも非常に下手な韻文の、寄せ集めである。さて『覇王たち』は、疑いなく天才の作品だが、確かに規律を欠いた天才の作品である。生きてはいても、形が整っているとは、決して言えない。実際、このような作品がもう少し続けば、多少のアリストテレス的な形式主義も、受け入れたくなるかもしれない。別の分野から例を挙げれば、ロダンの『かつて兜作りの妻であった美女』は、生きているかもしれないが、形が整っているとは、まず言えない。一般にロダンや、ほかの印象主義的な彫刻家は、生き生きと表現豊かであろうとするあまり、自分の芸術の境界を越え、その固有の形式や均整を破る危険がある。[1]こうして、生命や運動の表現を、十分な安らぎの暗示によって調整することに、失敗する危険がある。均整というこの問題で、世界全体がますます野蛮になっているように見える。私は実際、摩天楼に、美しいという形容が使われるのを聞いたことがある。さて、摩天楼は絵画的かもしれないし、生き生きとしているかもしれないし、好きに呼んでもよい。ただし通常は、誇大妄想と商業主義の混合以上のものでは、ほとんどない。しかし、いま私たちを握っている産業と金融の巨人族を、十分に表現していたとしても、なお美しいというには足りない。巨人主義は、あまりに節度と抑制を欠き、真の美で調和されねばならない二つの項のうち、よくても一方しか表せないからだ。ニューヨークの南部を、パリのコンコルド広場から開ける眺めと、比べてみればよい。パリの均整は、十分に微妙ではないかもしれない。なお、定規とコンパスで組み立てられる種類の均整を、思い出させすぎる。それでも、その均整によって、パリのこの地区は、ニューヨークの南部の何ものよりも、美へはるかに近づいているのである。
1 詩は形が美しいだけでは足りない。甘美でもあれ。
聞き手の心を、望むところへ導くようであれ。
ラテン語のプルケル〔美しい〕は、形式上の長所を指す。
1 レッシングや、これほど多くの論者のあとでも、それぞれの芸術に、その固有の技法、扱う素材、時間や空間との関係などが課す境界については、なお言うべきことがある。もちろん私は、まったく別の角度から主題に近づいている。もう一方の近づき方に関心をもつ人には、ルートヴィヒ・フォルクマン『諸芸術の境界』〔一九〇三年〕が、よい材料を提供するだろう。この本は、近年のほかのドイツの理論家、とりわけA・ヒルデブラントとA・シュマルゾーの結論を活用している。フォルクマンは、ロダンがときに絵画と彫刻の基準を混同するとして、攻撃する〔八一ページ以下〕。この絵画と彫刻の印象主義的な混同は、少なくとも技術的な訓練を受けていない目には、身をよじるような芝居がかった効果を生む点で、しばしば両芸術の擬古典主義的な混同と似ている。
しかし、純粋な拡張主義者に、形式や均整を語ってもむなしい。すでに述べたように、彼は安らぎを不活発さと、集中を狭さと、同一視する傾向がある。芸術はもっぱら生きたもの、表現的なものを目指さなければ、模倣の轍にとどまり、同じ型にはまった形式を繰り返し続ける運命なのだと、私たちに信じさせようとする。これは、ルナンの非常に有名な文章、「アクロポリスの祈り」の底にある誤謬である。ここでルナンは、それ自体が形式の模範である言葉によって、形式上のあらゆる長所を否定する思想を表している。ロマン主義の常どおり、まずパルテノン、アテネの人々、パラス・アテネへの共感と理解を、ほとばしらせる。ところが、熱意はやがて思案へ道を譲る。結局、アテネや古典的な完成の追随者たちは、人間精神を、ある特定の形式の囲いに閉じ込めるだろう。ほかの種類の芸術の、無限の表現力や暗示の力を、なおざりにするだろう。理性と良識のほかは、何も知らないだろう、と。しかし世界は、彼らが思うより大きい。だからいつの日か、「倦怠の弟子たち」とみなされるようになるだろう。「もし、極地の雪と、南天の神秘を見ていたなら」とルナンはアテネに言う。「つねに静かな女神よ、あなたの額も、それほど穏やかではなく、より広くなった頭は、さまざまな種類の美を抱いていただろう。」
実際には内なる規律であるものを、外的な形式とみなす、言い換えれば形式と形式主義を混同する、ロマン主義の傾向について、これ以上よい例は望めない。パルテノンに価値があるとすれば、それは、それ自身や、いかなる数の個々の形式よりも高いもの、統一、節度、目的の法を、かすかに示すものとしてだけである。外的な形式を取り払うとともに、ルナンは、内なる規律も、拡張や、知性と感受性の無限で定まらない放浪に対立するものすべても、取り払おうとする。首尾一貫した自然主義者なら誰もがそうであるように、彼は純粋な変容論へ達する。つまり、あらゆるものが、ほとんど感知できない段階を経て、ほかのあらゆるものへ移ると見るのだ。この過程には、鋭く引かれた境界線も、確固たる区別も、居場所がない。明確な基準は、普遍的な相対性に呑み込まれる。「疑いなく倒錯した哲学が」とルナンは言う。「善と悪、快楽と苦痛、美と醜、理性と狂気は、鳩の首の色合いほどにも気づかれない濃淡によって、互いに変わると、私に信じさせた。」したがって、思想を扱う際のルナンの標語は、感覚を扱うヴェルレーヌの標語と同じ、ニュアンスを、いつもニュアンスを、である。ジョンソン博士は、「ごく微細な区別は無視し」、「チューリップの筋を数えない」ようにすべきだと言う。しかし近代の流派全体がしてきたのは、まさにジョンソンが戒めた、微細な違いを弁別してチューリップの筋を数えることなのだ。これは実際には、人格の男性的な力に対して、女性的な力を高めることを意味した。そのため、それ自体は必要で正当な能力の行使が、頽廃の様相を帯びた。ラセール氏の呼ぶ、
「人間性の高次の部分の、全面的な腐敗」の様相を帯びたのである。
こうして、おそらく十九世紀後半に書かれた、最も輝かしい散文である「アクロポリスの祈り」も、人文主義の観点から調べると、誤謬を含むことがわかる。ここで、ルナンの誤謬に密接に関わるものとして、ある進歩観が芸術や文学に及ぼす、計り知れない害に注目しよう。進歩の教説は、しばしば、人間は一方向へ進むことで成長するという意味に解釈される。しかし実際には、同時に異なる方向へ動くことで、すなわち、さまざまな半面の真実や、現実の部分的な一瞥のあいだを取り持つことで、成長するのである。たとえば、リヒャルト・シュトラウスの音楽は、ワーグナーからの進歩であり、さらに大きな表現力をもち、さらに広い自由を示すと、宣言される。この喜ばしい知らせを聞くと、数えきれない流行追随者の軍勢が、急いで行列に加わる。しかし、ただ行列についていくことでは満足せず、どこへ向かっているかも知りたい人が、なおいくらかはいるかもしれない。人間的な目標へ向かっているのか、それとも単に、サント=ブーヴがロマン主義のカムチャツカと呼ぶものの、極端な先端へ、ますます遠ざかっているだけなのか、と。さて、現在の主題は、一種の物見台であり、そこから広い地平を見渡して、同時代の運動とその方向について、いくらか見当をつけられる。ここまで述べたことすべてから明らかなように、私自身は、このような展望によって、芸術、哲学、教育、人間の努力のほとんどあらゆる分野で、いま目にしているのは、激しい極端、科学的および感傷的自然主義の極端だ、と結論するだろう。もちろん、現在の運動は、どこまでも続くかもしれない。急進的な自由選択制よりも、さらに規律を欠いた教育論が現れ、ほかの文学ジャンルを排して、さらに病的に小説が氾濫し、ロダンやその弟子たちよりも印象主義的な彫刻、ドビュッシーよりも倍音や虹色の追求に身を委ねた音楽、プラグマティストよりも合理性に無頓着な哲学、リップスやクローチェよりも、美の均整の要素を破壊する芸術観が、現れるかもしれない。要するに、人生と文学を非人間化する過程は、永遠に続くかもしれない。続くかもしれないが、それを当てにすべきではない。良識は人類の天才である、というフランスの言葉が真実なら、なおさらだ。過去には、この種の極端への反動が、起こることもあり、ときには突然だった。したがって流行追随者でさえ、行列についていこうという熱意を、どんな運動でも、その終わりぎりぎりに加わる危険への配慮によって、和らげるべきである。スペインの諺によれば、最後の猿は溺れるのだから。いまや一世紀以上、ほとんどもっぱら遠心力が働き、自然と人間性の、遠く周縁の領域が探られてきた。いつの日か、それも遠くないかもしれない日に、中心へ向かう反対運動が起こるかもしれない。要するに、すでに用いた心理学の理論へ戻れば、世界はいま、常識の「意識の閾下からの噴出」に脅かされているのかもしれない。この見通しが、バーナード・ショー氏とその追随者たちに、どれほど恐ろしく映ろうとも。
しかし、このような予言はすべてむなしい。すべては指導者にかかっており、適切な人々が、わざわざ生まれてくれるかどうかは、決してわからない。この意味では、未来は神のものだというヴィクトル・ユゴーに、たまには同意してよい。もちろん、世界が再び人文主義の時代を見るかは、決して確かではない。たとえば、人文主義者としても自然主義者としても卓越していたサント=ブーヴは、フランスはすでに古典期を終え、いまや頽廃の下り坂にあり、真の美をかいま見ることはすでに難しく、まもなく不可能になるかもしれない、と考える傾向があった。[1]彼は、この古典期という考え、国も個人のように、幼年期、青年期、成熟期、老衰期をもつという考えに、とらわれすぎていたのかもしれない。これは、少なくとも私が深く疑う、もう一つの「生物学的類比」である。もし理論が必要なら、古典期の理論よりも、救いを担う少数の残存者という理論のほうが、私たちの目的に合うかもしれない。人間的で、生きた集中を擁護する者は、おそらく、通常よりいくらか少ない幻をもって、自分をこの残存者の一人と見てもよいだろう。少なくとも、ごく微小な少数派であることは、確かだ。マシュー・アーノルドなら「象のような主力集団」と呼ぶであろう大多数は、人間が完全になるには、十九世紀の計画をいつまでも続けるだけでよいと、ますます確信しているように見える。つまり、さまざまな拡張に励み、必要なら、過去のあらゆる形式への騒々しい反逆で、それを支えるのだ。違う見方をする者は、すぐに単なる遅れた者、反動家とされる。しかし、人間的な集中を促す者は、むしろ自分を、先駆者、望み薄い先鋒隊の指導者とみなせるかもしれない。他方、真に遅れた者、しかも危険な遅れた者は、永遠の拡張の使徒、自分を完成させようとしない十九世紀と定義できる種類の人間だと、わかるかもしれない。というのも、この種の人間が不可避にしているのは、人間的ではなく、頽廃の時代に特有の軍事的、帝国主義的な集中だからである。伝統的な抑制や制止がついに消え、生の躍動が、それを釣り合わせる生の制動なしに、大規模に動き出すと、どの国、どの個人が、生き生きと、抑えられずに拡張するかを決められる唯一の法は、狡猾さの法か、力の法である。[1]純粋な自然主義の、必然的な結末は、これなのだ。
1 この問題についてのサント=ブーヴの考えは、とくに『シャトーブリアンとその文学的集団』の各所を参照。古典期という考えをフランスへ適用した、最初の影響力ある例は、ヴォルテールの『ルイ十四世の世紀』〔第一章、第三十二章〕である。ヴォルテール自身は、おそらくデュ・ボス師の影響を受けていた。デュ・ボスは、ウェッレイウス・パテルクルスの末尾にある、お決まりの箇所を訳し、この理論全体を、長々と説明している。〔『批判的考察』第二部、第十二〜第十四節。〕
人文主義者にとって見通しは暗いが、それでも、自然主義の波がすでに頂点に達し、これからは引き始めると期待できる、いくつかの兆候がある。感傷的な側面では、自然主義運動は、自発的なものと原始的なものの理論に、初めて重要な表現を得た。そして少なくとも一つの分野、叙事詩の起源では、ロマン主義の原始主義は、明らかに衰えつつある。すでに見たように、新古典主義の行きすぎは、ほかのジャンルと同じく、叙事詩を、知性が冷静に計画して作る混合物にしてしまうことだった。
たとえばバッキンガムは、叙事詩についての新古典主義の第一の権威、ル・ボシュが、ホメロスの「強大な魔法」を解明したと確信していた。これに対するロマン主義者の反対側の行きすぎは、意識的、意図的な技の要素を取り除き、ホメロスの詩を、民衆の魂から、ほとんど無意識に流れ出るものにしてしまうことだった。いまや、『イリアス』と『オデュッセイア』は、原始的なのではなく、完成された技の作品だという意見が、広まりつつある。ただし、もちろん、技という語は、ル・ボシュとまったく同じ意味には理解されていない。中世叙事詩の起源に関する最新の理論にも、原始主義への反動の始まりが見られる。
1 人道主義者は、もちろん、この拡張はすべて、利他心の増大によって十分に和らげられる、と答えるだろう。残念ながら、未来の人間性が過去の人間性と、これほど根本的に異なるだろうという証拠は、まだかなり乏しい。具体的にいえば、国際的な好意の増大も、ドイツの生きた拡張について、イギリス人を完全に安心させるものでは、ないようだ。
原始的なものや自発的なものについての、ロマン主義の理論の衰退は、重要な可能性をもつ。この理論は、近代の運動の一つの側面全体に明らかな、知性、人格、意志の致命的な衰弱に、少なからず責任がある。ロマン主義のこのルソー的な側面が、最後の哀れな代表者たち、オスカー・ワイルドやポール・ヴェルレーヌにおいて、どうなったかは、誰もが知っている。最後期のロマン主義者たちが、自分の信用を失ったことは、それほど重大ではないかもしれない。しかし、芸術や文学にも、ある種の不信を招いた。こちらははるかに重大だ。「芸術家気質」という語に、世間でどんな意味がつき始めているかを考えてみればよい。いま最も差し迫った仕事は、ルソー主義でさまざまな形をとる、知性と、知性より上にあるものとの、相対的な軽視に対抗することだ。文学者は、分析の鋭さと知的な雄々しさを、すべて科学者に譲るほど、控えめであってはならない。芸術は知性主義だけでは生きられない。しかし、私たちが必要とする種類の創造的芸術への道は、知性を通る。「区別を増やす、偽りの二次的な力」を避けるどころか、できるだけ多く、できるだけ明確に区別し、それを鮮やかな日差しのように、ロマン主義の薄明へ差し込むべきだ。実際、いま批評が果たすべき機能は、広く、雄々しく、力強い区別を、再び尊ばれるものにすることだろう。そうすれば、第一に女性や、男性が雄々しくない気分のとき、疲れた科学者、くたびれた文献学者、消耗した実業家に向けられるのではない、一つの文章の型を、得られるかもしれない。
確固とした男性的な区別を復活させることだけが、近代の生活と文学に忍び込んだ混乱から、私たちを救いうる。その主な源を、私は感情の無抑制と擬似科学という二つに求めてきた。ほとんど手当たり次第に例を挙げるなら、ゾラの小説の理論と実践に、この両方がどれほど入り込んでいるかを考えてみればよい。擬似科学者は、物理的な次元だけでなく人間的な次元にも、流動と運動しか見ず、どこにも明確な境界を認めない。こうして彼は、感情の無限の拡張を求めるロマン主義の自由狂と、ある意味で協力する。しかし、すでに述べたように、感情が人間的なものになるには、選択を伴わなければならない。そして選択を伴うのと正比例して、感情は不定なものではなくなる。狙いと目的、形式と均整を獲得するのである。表現が外へ押し出そうとする力だけでは、十分ではない。表現が力を注ぐ対象には、それ自体の価値がなければならない。そしてこの点は、個人の感情とは別の、より高い根拠によって判断されなければならない。ここには、新古典主義の最悪の衒学の一つに見えるもの、すなわちジャンルの序列の底にある真理がある。ジャンルの順位は、その扱う事柄がそれ自体にもつ価値と、人間にとっての重要性に応じて定められるべきなのだ。新古典主義者がこの真理を単なる慣例に変えたからといって、繰り返すが、私たちも彼らにならう理由はない。アリストテレスは悲劇について、肝心なのはよい筋を得ることであり、よい筋は容易には得られないと言う。ロマン主義者によれば、十分に強く感じさえすれば、外的な出来事はほとんど何でもよい。感情の反応が適切なら、ワーズワスが諭すように、私たちは「何にでも物語を見いだす」だろう。そうなると、つるはしで木の根をむなしく切りつけている老人も、私たちには、次のようなものと同じく詩にふさわしい題材に見えるだろう。
テーバイ、あるいはペロプスの家系、
あるいは神々しいトロイアの物語。
ワーズワスの逆説には、ほかの多くの逆説と同じく、それなりの真理と有用性がある。しかしそれを奉じる人は、ラセール氏がロマン主義的な大言壮語と呼ぶものに、陥りやすい。それは、感情と、その感情が注がれる外的な対象や出来事との、甚だしい不釣り合いと定義できる。ヴィクトル・ユゴーには、この種の大言壮語がいたるところにある。音楽における大言壮語のよい例は、リヒャルト・シュトラウスの『家庭交響曲』である。ここでは表現と表現されるものとの不釣り合いがあまりに明らかなので、ある批評家は、好意的にも精神の錯乱をほのめかしている。この曲についてのある説明によると、演奏には通常の弦楽器に加えて、「ハープ二台、フルート四本、オーボエ二本、オーボエ・ダモーレ一本、クラリネット四本、バスクラリネット一本、ファゴット四本、コントラファゴット一本、サクソフォン四本、ホルン八本、トランペット四本、トロンボーン三本、バスチューバ一本、ティンパニ四台、トライアングル、タンバリン、グロッケンシュピール、シンバル、大太鼓」が必要だという。
しかも、そのすべてが赤ん坊の入浴時の出来事を描くためなのである![1]
結局、この問題にそれほど大きな謎はない。
ジャンルと芸術の境界という問題を、形式的にではなく、生きたものとして考えれば、次のことに帰着する。輪郭の明確な人、感情にも知性にも混乱のない人は、通常、輪郭の明確な芸術や文学を好む。したがって、芝居がかった説教や、説教をする芝居には、あまり興味をもたないだろう。多くの歴史小説では、歴史が歪められているのに、小説の側にはそれに見合う利益がないと感じるだろう。まず何よりも音楽である音楽、何よりも詩である詩を好むだろう。ある絵画や詩に照らして初めて理解できる交響曲には、不信を抱くだろう。ソネットを象徴的に移し替えただけの絵画や、絵画を象徴的に移し替えただけのソネットには、普通、関心をもたないだろう。それぞれの芸術、それぞれのジャンルが、何よりもまずそれ自身であり、アリストテレスが悲劇について言うように、それに固有の喜びを与えることを望むだろう。これこそ悲喜劇に対する唯一の重みある反論である。悲劇と喜劇の双方に固有の喜びを与えようとして、印象の十全な統一を達成しそこなうかもしれないからだ。ある程度の集中、主題との関連、目的がなければ、統一された印象は得られない。芸術の男性的な要素をこのように主として重んじることは、女性的な長所を軽蔑することを意味する必要も、色彩を欠く構成を学究的に偏重することへつながる必要もない。適切な構成が第一の要件だが、それに色彩、運動、幻影、そして一般に表現力が加わるべきであり、多いほどよい。各芸術ジャンルは、自らの形式と均整に忠実でありながら、ほかの芸術やジャンルをできるだけ豊かに暗示してよい。しかし、構成よりも色彩を、形を与える目的よりも幻影を、均整よりも暗示の力を上位に置くなら、男性的な長所に対する女性的な長所の優越を促すことになる。それこそが、この一世紀の文学と芸術の腐敗の主因であり、実際、ロマン主義の、あるいはルソー主義のと言うほうが正確かもしれない、あの大きな誤謬なのである。
1 赤ん坊の入浴を描いているという点については、シュトラウスの賛美者が全員一致しているわけではないことを、付け加えておこう。しかし『家庭交響曲』をどう解釈しても、表現される事柄それ自体の重要性に比べて、ここには非常に多くの表現があるという、私の主な論旨には、ほとんど影響しないだろう。
輪郭の明確な人は、輪郭の明確な芸術、くっきりと区別されたジャンルへ傾くだろう。しかし、何が十分に明確で、何が正当化できない混成物かを判断するにあたっては、杓子定規の規則ではなく、機敏な判断力と節度の感覚に導かれる。マシュー・アーノルドは、ワーズワスが新しい方式で自分の詩を分類しようとして混乱を招いたことについて論じ、ギリシア人はこの種の区別をする際、ほとんど誤らない判断力を示したと述べている。付け加えれば、彼らは設定したジャンルだけでなく、その分類を柔軟に保つことにも、判断力を示した。たとえばギリシア悲劇では、さまざまな芸術とジャンルが自由に作用し合い、協力している。アンドレ・シェニエの言うように、それらを隔てるのは細く曲がりくねった糸にすぎないが、決して切れない糸なのである。
要するに、最良の時期のギリシア人は、人間的な基準をもち、それを柔軟に保った。こうして彼らは、一と多との間を取り持つという、人生の最高の知恵を、ある程度実現した。人間のように半面の真理を愛する者にとって、これはあまりに難しい達成なので、それがそもそも可能であるという主な証拠を、私たちは今なおギリシアに求めなければならない。ギリシア人が両極端の調停を具体化した実際の形式は相対的なものであり、そのまま復活させる必要はない。しかし、個々の形式はつねにそうであるように相対的でありながら、それらは絶対的な法への道を指し示している。ギリシアの生活の教訓を本当に学んだ現代人は、パルテノンにも、ソフォクレスの劇にも、プラトンの対話篇にも、外見はほとんど似ていない作品を生むかもしれない。それでもその作品は、生きた統一、生きた節度、生きた目的をもつ点で、これらギリシアの形式に似るだろう。もちろん私は、ギリシア人への盲目的な崇拝を勧めているのでも、古典古代以来、人間の生活を広げ、豊かにしてきたすべてを過小評価しているのでもない。全体として見れば、ギリシアの生活は、模範であるのと少なくとも同じくらい、警告として役立ちうる。しかし、その警告も模範に劣らず、現代世界に関わっている。ギリシアの生活の危機的な時期は、現在と同じく、自然主義的な解放の時期だった。多数者は基準なしに生きることに満足し、少数者は、失った外的な基準に代わる内的な基準を手探りで求めていた。ギリシアの問題は、私たちの問題と同じく、無抑制の問題だった。というのも、現代社会の科学的進歩という上塗りの下に目を向ければ、いたるところに見えるのは、節度の法に対する野蛮な違反だからである。ギリシア社会は自然主義の過剰によって滅びたし、現代社会も同じように滅びるかもしれない。しかし最良のギリシア芸術は、人間的な抑制の勝利である。それゆえギリシア、とりわけソクラテス、プラトン、ソフィストたちのギリシアは、その失敗と成功の双方において、私たちに豊かな教訓を与える。過去のどの時代よりもそうなのではないかと、私は思う。そして私たちがギリシア語の研究から背を向けようと選んでいるのは、まさに今なのである。ギリシアの模範を捨てる前に、少なくとも、ギリシアの偉大な時代と同じほど明瞭に、人間は精妙な節度と完全な自発性を結び合わせることができ、徹底して規律を身につけると同時に、徹底して霊感に満ちることもできると示す、別の時代が世界に現れるのを待つほうが、賢明ではないだろうか。
本書によって、少なくとも冒頭で述べたことは裏づけられたと願っている。すなわち、ジャンルの性質と芸術の境界を探究することは広い射程をもち、文学だけでなく人生に対する態度にも関わるということである。この問題を余すところなく扱うには、一般原理の把握とともに、個々の芸術とその歴史についての知識が必要だが、少なくとも私には、それを備えていると主張するつもりはない。この意味で網羅的であろうと試みたことさえない。私がせいぜい目指したのは、完結して閉じた体系を築くためではなく、認識の発酵の種をまくために努力したレッシングの、ささやかな模倣者となることだった。
索引
アカデミー・フランセーズ、 8。
アディソン、 『メダルについての対話』、 32。
アプレイウス、 73。
アリストテレス、 5以下、 9以下、 13、 17、 20、 38以下、 45、 66と翌ページ、 76、 85、 87と翌ページ、 110、 115、 195、 215、 224、 228と翌ページ、 246、 248; 『詩学』、 4以下、 17、 37と翌ページ、 190。
アセザ、 118注。
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バクル、 78。
バラ、E、 18注。
バリーヌ、アルヴェード、 141注。
ベール、P、 43。
ベッカー、J・ド、 173注。
ベルニーニ、 58注。
ベルタン、エドゥアール、 148。
ベルトラン、L、 34注。
ブレア博士、 112注。
ブレイク、ウィリアム、 81。
ボッカッチョ、 130。
ベックリン、アルノルト、 162。
ボシュエ、 222。
ブライトマイアー、F、 34注。
ブランデス、G、 157注。
ブラウン、サー・トマス、 95と翌ページ。
ブリュヌティエール、F、 215。
ビュヒマン、 61注。
バッキンガム、 242。
ビュフォン、 144。
バーク、E、 195。
ビッシュ、エドワード、 221注。
チェスターフィールド、 43。
ショパン、 163。
キケロ、 61。
クロード、 128。
コンバリュー、J、 157注。
コンスタンティヌス、 144。
コロー、 165。
対抗宗教改革、 7。
クーパー、ウィリアム、 25。
ドービニャック、 30。
ドリール師、 26注。
デカルト、 64。
デポルト、 156。
ディケンズ、チャールズ、 200。
ドナトゥス、A、 23注。
ファゲ、エミール、 119。
フォード、ジョン、 113注。
フランクス・サギッタリウス、 75。
ギル、R、 183。
ジョルジョーネ、 123注。
ゴンペルツ、T、 91注。
ゲレス、 61注。
ゴットシェート、 63。
グーヴォン伯爵、 78。
教皇グレゴリウス、 68。
グリーグ、 162と翌ページ。
ハーディ、トマス、 『覇王たち』、 232。
ハイム、R、 80注。
ヘインシウス、 『悲劇の構成について』、 6。
エレディア、 155。
ヒルデブラント、A、 233注。
ヘフディング、 206注。
ハワード、W・G、 11注。
フーバー、H、 162。
ユゴー、ヴィクトル、 15、 71、 132、 145、 149と翌ページ、 162、 167と翌ページ、 197、 240、 246; 「山上で聞いたこと」、 168; 『諸世紀の伝説』、 135。
ヒューム、 112。
フォン・フッテン男爵夫人、 172注。
イプセン、 197。
ジェイムズ教授、ウィリアム、 212。
ジョベール夫人、 177。
イエズス会士、 7。
カント、 83注。
カー、W・P、 23注。
クリンガー、マックス、 134注。
クロッツ、 43。
クネヒト、J・H、 『自然の音楽的肖像』、 164。
ランベルシエ、 137。
ラニアー、S、 173注。
ル・ボシュ、 242と翌ページ。
ルコント・ド・リール、 154と翌ページ。
ルグイ、E、 26注。
ライプニッツ、 64。
レオナルド・ダ・ヴィンチ、 191。
レッシング、 viii以下、 xiv、 19、 32以下、 38以下、 42以下、 50以下、 57と翌ページ、 85、 97、 116以下、 125、 134、 145、 150、 152、 154、 186、 190と翌ページ、 227以下、 233注、 252; 『ハンブルク演劇論』、 38; 『ラオコーン』、 vii以下、 11注、 34以下、 38、 43、 52と翌ページ、 116、 121と翌ページ、 125、 150。
ルヴァスール、テレーズ、 208。
ロック、 174。
ルイ十三世、 170注。
ルキアノス、 73。
メーテルリンク、 94。
マルブランシュ神父、 60と翌ページ。
マルゼルブ氏、 140注。
マレルブ、 156。
マルクス・アウレリウス、 94。
『メルキュール』、 54。
ミル、ジョン・スチュアート、 206。
モリエール、 42。
ムツィオ、 115。
ニューマン枢機卿、 39。
ニュートン、アイザック、 55注。
ニークス、フレデリック、 160注。
オシアン、 158。
パルテニオ、 12注。
ピアソン、N、 31注。
ペトラルカ、 101注。
プルタルコス、 48。
ポアンカレ、H、 『科学の価値』、 211。
ラシーヌ、 6。
ラファエロ、 97。
ロボルテッロ、 5。
ルソー、 ix、 xii、 15、 65以下、 78と翌ページ、 81と翌ページ、 83注、 89以下、 94、 98と翌ページ、 103以下、 107、 111と翌ページ、 114、 121以下、 127と翌ページ、 136と翌ページ、 140以下、 144以下、 158注、 161、 163と翌ページ、 173、 176、 179、 194と翌ページ、 199と翌ページ、 204と翌ページ、 225注、 228; 『言語起源論』、 121、 173。
ロッシーニ、 169。
ロスタン、 153。
セインツベリー教授、G、 71。
サンダーソン、 118。
スカリゲル、 12。
シュライアマハー、 213。
シュマルゾー、A、 233注。
ショーペンハウアー、 91。
シューベルト、 169。
スキュデリー、G・ド、 30注。
ショー、バーナード、 239。
スミスソン、ヘンリエッタ、 167。
ソーム、 156注。
王立協会、 32。
スーリオ、P、 129注。
スピンガーン教授、J・E、 192注。
スタール夫人、 65。
スタンダール、 142。
スティーヴン、レズリー、 158。
スターン、ローレンス、 68。
テーヌ、H、 210。
タッソ、 192。
楽長テレマン、 53。
ティツィアーノ、 128。
トルストイ、 196。
ウェッレイウス・パテルクルス、 240注。
ヴィーコ、 225注。
フォルクマン、L、 233注。
ウォラー、 156。
ホイットマン、ウォルト、 81。
ワイルド、オスカー、 243。
ウィンチルシー夫人、 「夜の夢想」、 25。
ヴィンケルマン、 32。
ヴォルフ、クリスティアン、 64。
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リヴァーサイド・プレス
アメリカ合衆国マサチューセッツ州ケンブリッジ
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