文学 / ジョナサン・スウィフトさまざまな主題についての考察Thoughts on Various Subjects
文学 / ジョナサン・スウィフト
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原著・底本
- 原題
- Thoughts on Various Subjects
- 著者
- ジョナサン・スウィフト
- 底本
- ヘンリー・モーリー編、Cassell & Company、1886年版。Project Gutenberg eBook 623の旧HTML。HTML内の公開日記載は2007年1月15日。
- 編者
- ヘンリー・モーリー
- 編者
- トマス・シェリダン
- 編者
- ジョン・ニコルズ
- 出典・参照
- 原典の利用条件
- パブリックドメイン(米国)
Project Gutenberg 利用条件
英語Wikisource寄稿者 — CC BY-SA 4.0 - 収録範囲
- 1886年モーリー編英語版の見出しと本文95段落に、1801年版全集第五巻の未収録12段落、第十巻の未収録53段落と異文三段落を加えた合成版。引用・標語の導入を含む163段落。
日本語訳
- 翻訳者
- 心霊研究家ポロミン
- 利用条件
- CC BY-SA 4.0
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表紙
- 装画
- 日本人文
- 利用条件
- CC0 1.0
本書のために制作した独自装画。原刊の装丁とは異なります。
追加日: 2026-10-21 / 更新日: 2026-10-21
1886年モーリー編英語版の見出しと本文95段落に、1801年版全集第五巻の未収録12段落、第十巻の未収録53段落と異文三段落を加えた合成版。引用・標語の導入を含む163段落。
さまざまな主題についての考察
私たちの信仰は、互いに憎み合うには十分だが、愛し合うには足りない。
戦争、交渉、党派争いなど、過去の出来事を考えてみよう。私たちは、その利害にほとんど関わりがないので、あれほどはかないものに、人々がどうしてあれほど忙しく立ち回り、心を砕けたのかと、不思議に思う。今の時代を見ると、同じ気質が見つかるのに、少しも不思議に思わない。
賢い人は、あらゆる事情を考慮して、推測し、結論を出そうと努める。だが、ほんの小さな偶然が割り込むと――物事の成り行きでは、すべてを予見するのは不可能である――思いもよらない転換や変化がしばしば起こり、しまいには、もっとも無知で経験のない者と、まったく同じくらい、結果がわからなくなる。
断言する態度は、説教師や弁論家にとっては、よい資質である。自分の考えや理屈を大勢に押しつけようとする者は、自分自身が確信しているように見えるほど、他人を納得させられるからだ。
人間は警告にさえ耳を貸さないのに、忠告を聞くと期待できるはずがあろうか。
アリストが、月に見つかると言っている、なくした物の中に、忠告があったかどうかは忘れた。忠告と時間は、そこにあるべきだった。
人が耳を貸す説教師は、時のほかにない。時は、年長者たちが以前、いくら頭に入れようとしても無駄だったのと同じ、考えの筋道や向きを、私たちに与える。
何かを欲しがったり、求めたりしている間、心は、そのよい側面や事情ばかりを追う。手に入れると、悪いほうばかりを追う。
ガラス工場では、職人たちが、新しい石炭を少しずつ、しばしば炉に投げ込む。火を乱すように見えるが、たいへんよく燃え立たせる。これは、心が衰えないように、情念を穏やかに揺り動かすことを、暗示しているように思える。
信仰は、年を取るにつれて幼子に戻り、その幼いころと同じように、養ってもらうための奇跡を必要とするようになったらしい。
快楽の高まりは、どれも、それと同じだけの苦痛や倦怠で差し引きされる。今年のうちに、来年の収入の一部を使ってしまうようなものだ。
賢い人の人生の後半は、前半に身につけてしまった、愚かさ、偏見、誤った意見を治すことに費やされる。
著述家が、後世に対してどう振る舞うべきか知りたければ、古い本の中で、何を知ってよかったと思い、何が書かれていないのを、もっとも残念に思うかを、考えればよい。
詩人が何を言おうと、彼らが不滅にするのは、自分自身だけだということは明らかだ。私たちが敬い、感嘆するのは、ホメロスとウェルギリウスであって、アキレウスやアエネアスではない。歴史家の場合は、まったく逆である。私たちの考えは、読んでいる行為、人物、出来事で占められ、著者のことは、ほとんど気にしない。
真の天才が世に現れたときは、このしるしで、それとわかる。愚か者たちが、こぞって結託し、その人に反対するのである。
人生の恵みをすべて手にしている者は、心を乱し、落ち着きを失わせる偶然は数多くあるが、喜ばせてくれる偶然は少ない、という境遇にいる。
臆病者を恥辱で罰するのは、賢明ではない。恥辱を気にする者だったなら、臆病者にはならなかったからだ。ふさわしい罰は死である。本人が、もっとも恐れているものだからだ。
羅針盤の使用、火薬、印刷術といった、もっとも偉大な発明は、無知の時代に、しかもドイツ人のような、もっとも鈍い国民によって生み出された。
幽霊や亡霊についての、よくある話がおおむね嘘だと証明する論拠の一つは、霊は同時に二人以上の人間には見えない、という通念から得られる。つまり、一つの集まりで、強い憂鬱や沈鬱に取りつかれている者が、二人以上いることは、めったにないということだ。
最後の審判の日には、賢い者の不道徳にも、無知な者の不信仰にも、ほとんど酌量は与えられないだろうと、私は思う。どちらにも、言い訳がないからである。これで、無知と知識の利点は等しくなる。ただし、賢い者の疑念の一部と、無知な者の悪徳の一部は、それぞれの誘惑の強さを考慮して、赦されるかもしれない。
物語のさまざまな細部の価値は、時が隔たるにつれて、たいへん小さくなる。とはいえ、ごく細かな事情でも、たいへん価値のあるものがある。両者を見分けるには、書き手に大きな判断力が必要だ。
聖職者が「この罪深い時代」と言うように、著述家が「この批評の時代」と言うのは、もう決まり文句になった。
今の時代が、次の時代に、なんと気軽に税を課すかを見るのは、おもしろい。後の時代は、このことを語るだろう、これは末代まで名高いものになるだろう、と言う。しかし、後世の人々の時間と思考は、今の私たちと同じく、目の前の事柄で占められるのだ。
空気以外は何も食べないと言われるカメレオンは、あらゆる動物の中で、もっともよく回る舌を持っている。
聖職貴族になると、男は姓を失う。世俗貴族になると、洗礼名を失う。
論争は、軍隊と同じである。弱い側ほど、偽の明かりを掲げ、大きな物音を立てて、実際よりも数が多く、強いのだと、敵に思わせようとする。
偏見を取り除くという考えのもとに、徳、正直さ、信仰を根こそぎにする者もいる。
よく整えられた国家では、どこでも、人々の所有財産に限度を設けるよう、配慮してきた。理由はいろいろあるが、その中には、おそらく、あまり考慮されないものが一つある。人々の欲望に境を定めれば、法律が許すだけのものを手に入れた後には、私的な利益はそこで尽き、あとは公共のことを気にかける以外、することがなくなる、という理由である。
世間の非難に仕返しする方法は、三つしかない。それを軽蔑すること、同じものを返すこと、あるいは、非難を避けられるように生きようと努めることだ。第一の方法は、たいてい、そう見せかけているだけであり、最後の方法は、ほとんど不可能である。広く行われているのは、第二の方法だ。
弁護士に対する風刺で、占星術師のするものほど見事なものを、私は聞いたことがない。占星術師は、その技術の法則によって、訴訟がいつ終わり、原告と被告のどちらに有利な結果となるかを、言い当てるという。そうして、訴えの正当性には少しもかまわず、何もかも星の影響に左右されることにしてしまうのである。
外典の、トビトと、その後をついて行く犬についての表現が、笑いものにされるのを、何度も聞いた。だが、ホメロスはテレマコスについて、同じ言葉を一度ならず使っているし、ウェルギリウスも、エウアンドロスについて、似たことを言っている。そして私は、『トビト記』には、詩的なところもあると考える。
他人にはたいへん役立つが、自分には役立たない長所を持つ人を、私は何人か知っている。家の正面に取りつけられた日時計のようなものだ。近所の人や通行人には時刻を知らせるが、中にいる家の主人には知らせない。
恋愛、政治、信仰、学問などについての意見を、若いころから老年まで、すべて書き留めていったなら、最後には、どれほど不一致と矛盾の束ができあがることだろう。
天国で人々が何をするのか、私たちは知らない。何をしないかは、はっきり教えられている。めとることも、嫁ぐこともないのである。
宙ぶらりんで暮らすのは、惨めなことだ。それは、蜘蛛の生き方である。
欲望を切り落として不足を満たすという、ストア派のやり方は、靴がないときに足を切り落とすようなものだ。
医師は、信仰について判断を下すべきではない。肉屋が、人の生死を決める陪審員に認められないのと、同じ理由からである。
幸せな結婚がこれほど少ないのは、若い婦人たちが、籠ではなく、網を作ることに時間を費やすからである。
街を歩くとき、よく気をつけて見るなら、もっとも陽気な顔は、葬列の馬車の中で見つかるだろうと、私は思う。
恥と罪悪感を伴う不幸ほど、人から賢明に行動する力を奪うものはない。
運命の力を認めるのは、不幸な者だけだ。幸福な者は、すべての成功を、自分の用心や功績のおかげにするからである。
野心は、しばしば人に、もっとも卑しい役目をさせる。上へよじ登るのも、地をはうのも、姿勢は同じなのである。
非難とは、人が抜きんでた存在であるために、社会へ払う税である。
人は自分の弱さを知らないと非難されるが、自分の強さを知っている者も、同じくらい少ないのかもしれない。人間も、土地と同じである。ときには、持ち主の知らない金の鉱脈が、隠れている。
風刺は、あらゆる機知の中で、もっともたやすいものとされる。だが、たいへん悪い時代には、そうではないと私は考える。悪徳の際立った人を、うまく風刺するのは、美徳の際立った人を、うまく称賛するのと、同じくらい難しいからである。ほどほどの人物なら、どちらも、たやすい。
創意は若者の才であり、判断力は老人の才である。だから、自分の判断力に差し出せるものが減るころには、判断力のほうは、ますます満足させにくくなる。これは、人生のあらゆる付き合いに当てはまる。年を取ると、友人たちは、私たちを喜ばせるのを難しく感じるようになり、私たちが喜ぶかどうかを、あまり気にしなくなる。
賢い人で、もっと若ければと願った者は、一人もいない。
つまらない理由を一つ出せば、それまでに挙げた、よい理由の重みを減らしてしまう。
最善の行いの動機も、あまりに厳しい詮索には耐えられない。善悪を問わず、大半の行為の原因は、自己愛に帰着させられると認められている。だが、ある人の自己愛は、他人を喜ばせるほうへ向かい、別の人の自己愛は、ひたすら自分を喜ばせることに費やされる。徳と悪徳を大きく分けるのは、この違いである。信仰は、あらゆる行動の最良の動機である。それでも信仰は、自己愛の最高の例だと認められている。
老人は、自然の目でも、理解の目でも、遠くのものが、もっともよく見える。
自分の愚かさを隠すより、自分の知恵を隠すことに、気を遣う人もいる。
アンソニー・ヘンリーの小作人は、喘息で死にかけていたとき、こう言った。「よし、この息を一度吐き出せたら、二度と入ってこないようにしてやるぞ。」
多くのものを、つまらぬこと、気取り、想像上の善にすぎないものとして退ける気風は、知恵や度量の大きさの、まったく当てにならない証拠であり、徳ある行為を大いに妨げる。たとえば、名声について言えば、大半の人々には、忘れられるのを嫌がり、ためらう気持ちがある。庶民の間でさえ、墓に銘を刻みたがるのが見られる。こうしたものに、それ自体の価値はないと見抜き、指摘するのに、大した哲学はいらない。それでも、徳を促すものとして、人間の本性に根ざしているのなら、笑いものにすべきではない。
不平は、天が受け取る最大の貢ぎ物であり、私たちの祈りの、もっとも心のこもった部分である。
多くの男と、大半の女に、ごく普通に見られる、よどみない話しぶりは、話す中身の乏しさと、言葉の乏しさによる。言葉を使いこなし、頭が考えで満ちている者は、話すときに、どちらを選ぶかで、ためらいがちになるからだ。一方、普通の話し手には、一そろいの考えと、それを着飾らせる一そろいの言葉しかなく、いつでも口元に用意されている。教会が、ほとんど空になっているときのほうが、戸口に群衆が詰まっているときより、人々が早く出てこられるのと、同じことである。
人中で光彩を放てる者は少ないが、感じのよい人になることは、大抵の人にできる。だから、今の会話がこれほど低調なのは、理解力が足りないからではない。高慢、虚栄、意地の悪さ、気取り、奇癖、独断、あるいは、そのほかの悪癖のためである。誤った教育の結果だ。
虚栄心があるのは、高慢というより、むしろ謙虚さのしるしである。虚栄心の強い者は、どんな名誉を受けたか、どんな偉い人々と付き合ったか、といった話を喜んでする。それによって、それらの名誉が、自分には過分であり、自分から言わなければ、友人たちにも信じてもらえないほどのものだと、はっきり認めているのである。それに対して、真に高慢な者は、最大の名誉でさえ、自分の功績には足りないと思うので、自慢することを軽蔑する。したがって、私は格言として、こう述べておく。高慢な男だという評判を得たい者は、自分の虚栄心を隠すべきである。
自由な国の法律は、土地に財産を持つ者たちの多数決による決定である。あるいは、そうあるべきだ。
摂理を非難するために用いられる、ある論拠は、むしろ、それを擁護する、きわめて強い論拠だと、私は考える。嵐や暴風、不作の季節、蛇、蜘蛛、蠅、そのほか有害だったり、厄介だったりする動物、さらに、そのたぐいの多くの例は、自然の不完全さを示す、と反論される。そうしたものがなければ、人間の暮らしは、はるかに楽だからである。だが、この仕組みには、摂理の意図が、はっきり見える。太陽と月の運行、要するに、学者が発見し観察できたかぎり、宇宙の全体系は、このうえなく規則正しく、完全である。だが、人間が思考や労働によって、救済策を差し挟む力を、神が残したところでは、どこでも、物事は不完全な状態に置かれている。わざと人間の勤勉を呼び起こすためである。それがなければ、生活はよどみ、いや、実際には、そもそも成り立たないだろう。「苦労は、人の心を研ぎ澄ます。」
称賛は、今ある権力の娘である。
人間は、自分自身と、なんと矛盾していることか!
公務や政策について、知恵者として大いに名のある人々が、愚かな召使いに支配されている例を、私はいくつも知っている。
才知と学識で際立っていながら、愚か者しか取り立てない、大物の大臣たちを、私は知っている。
すぐれた勇気の持ち主でありながら、妻には臆病な男たちを、私は知っている。
このうえなく抜け目がないのに、絶えずだまされている男たちを、私は知っている。
王国の会計を、正確に計算して決算できながら、自分の家計については、まったく無知な大物の大臣を、私は三人知っていた。
聖職者の説教は、よい心掛けの人々を、徳の道にとどめる助けになる。だが、悪徳に染まった者を改心させることは、めったに、あるいは決してない。
君主は、役職の配分を任せた臣下たちよりも、たいてい、賢い人選をする。私は、君主が有能な大臣を選ぶのを、一度ならず見たことがある。だが、その大臣が、自分の影響力を使って、本人がもっとも適任だと思う人物に職を与えたのは、一度も見たことがない。今の時代の、もっとも偉い大臣の一人は、このことを認め、党派の激しさと、友人たちの無理な要求を理由に、弁解した。
大きな原因が行く手にないときは、小さな原因でも、人を不機嫌にするには十分である。木の塊がなければ、藁につまずく。
尊厳、高い地位、あるいは大きな財産は、老人が若者を遠ざけておくために、ある程度必要である。そうしたものがなければ、若者は、年を取っているというだけで、老人を侮辱しがちだからである。
誰もが長生きしたいと願うが、誰も年寄りにはなりたがらない。
お世辞を好む気持ちは、大半の男では、自分への評価の低さから生じ、女では、その反対から生じる。
本と法律が、過去五十年と同じように増え続けるなら、後の時代に、どうやって人が学者や法律家になれるのか、私はいくらか心配である。
王は、よく、長い手を持つと言われる。同じくらい長い耳も、持っていてほしいものだ。
王子は、乳児、子供、若者のころには、並外れた才能と才知を示し、人を驚かせ、感嘆させることを言う、とされる。奇妙なことだ。前途有望な王子は、こんなに多いのに、恥ずべき王も、こんなに多い! たまたま若死にすると、知恵と徳の驚異となったはずだと言われる。生き延びると、確かに驚異となることは多いが、別の種類の驚異なのである。
普通に理解されている意味での政治術は、腐敗以外の何ものでもない。したがって、よい王や、よい政府には、役に立たない。それゆえ、宮廷には政治術が、こんなにはびこっている。
やたらと潔癖な男は、不潔な考えの持ち主である。
アポロンは、医術の神であるとともに、病気を送る神とされていた。もともと、この二つは同じ商売だった。今もそうである。
老人と彗星は、同じ理由で、あがめられてきた。長いひげと、出来事を予言できるという触れ込みである。
宮廷で、ある人が、刺繡とレースずくめで、お辞儀や、へりくだりや、身振りばかりの大使と、その一行をどう思うかと、尋ねられた。その人は答えた。ソロモンの輸入品だ、金と猿だ、と。
大人、子供、その他の動物の遊びは、大半が戦いのまねである。
アウグストゥスは、縁起のよい名のロバに出会って、自分の幸運を予言した。私も多くのロバに出会うが、縁起のよい名のものは、一頭もいない。
誰かが私に、距離を置くよう求めるなら、その人も同時に距離を保つというのが、せめてもの慰めである。
人々が自分の誤りを、あれほど確信し、真理への熱意から、それを守り通そうとするのを見るなら、誰もが真理を激しく愛していることを、誰が否定できよう。本人は、来る日も来る日も、自分自身と矛盾しているのだが。
ある著者の一節を読んで、その意見が自分と一致すると、私は、これは見事な観察だと言う。意見が違うところでは、この著者は間違っていると宣告する。
厳密に言えば、今を生きている人は、ごく少ない。人々は、別のときに生きるための、準備をしているのである。
このうえなく注意深く、正確に、しかも日常の言葉で書かれた法律でさえ、しばしば、誤った意味へとねじ曲げられる。では、聖書がそうされることを、なぜ不思議に思うのだろう。
人は自分の弱さを知らないと非難されるが、自分の強さを知っている者も、同じくらい少ないのかもしれない。
ある男が、果樹につるした、蜂蜜入りの瓶に、スズメバチがはい込もうとしているのを見て、こう言った。「おい、愚かな虫め、気でも違ったのか。お前より先に入った仲間が、何百匹も死にかけているのが見えるのに、どうして、その瓶に入るのだ。」スズメバチは答えた。「そのお叱りは、もっともです。でも、人間のあなた方に言われたくはありません。他人の愚かさを教訓にするどころか、自分の愚かさにも、警告を受けないのですから。もし私が、この瓶に何度か落ち、偶然逃げ出せたあげく、また落ちたとしたら、そのとき初めて、あなた方と同じになるだけです。」
年老いたけちん坊が、一羽のコクマルガラスを飼い慣らしていた。鳥は、硬貨を盗んでは、穴に隠していた。それを見た猫が、何の役にも立てられない、そんな丸い光るものを、なぜため込むのかと尋ねた。「だって」と、コクマルガラスは言った。「主人は、櫃いっぱいに持っているのに、私と同じくらいしか、役に立てていないじゃないか。」
人は、自分の機知のために笑われるのは構わないが、自分の愚かさのために笑われるのは、我慢できない。
才知と天分のある人々が、自分の作品の中では、批評家や中傷者の不平を決して言わないと決めれば、次の時代の人々は、そんな相手がいたことすら、知らないだろう。
貿易や商業に関する、あらゆる格言や体系を聞いた後では、傍観者は、世の中の仕組みは、なんとも馬鹿げて作られていると思うだろう。
十分に耕作すれば、今の住民の二倍を養えない国は、ほとんどない。それなのに、住民の三分の一が、生活の必需品にさえ、ひどく事欠いていない国は、さらに少ない。私は、一家族を一年間、パンで養える、二十樽の穀物を送り出し、その代わりに、一樽の葡萄酒を持ち帰る。気のいい仲間が六人もいれば、一か月もかからず、自分たちの健康と理性を代償に、飲み干してしまうものを。
真っ赤に焼けた鉄を、火薬の樽に突き込んでも、火がつかないところを、三ペンスで見せようと申し出たところで、見物人は、ごくわずかしか集まらないだろう。
一八〇一年版・第五巻の補遺
ヘロドトスによれば、寒い国の獣には、角があることはめったにないが、暑い国では、たいそう大きな角があるという。これは、なかなかおもしろい当てはめ方ができそうだ。
今どきの婦人たちが、誰に好意を授けるか、その選び方を見ると、クセノポンの記した、あの牝馬たちの思い出に、いくらか敬意を払わずにいられようか。あの牝馬たちは、たてがみのある間、つまり、その美しさを保っている間は、ロバとの交わりを決して許さなかったという。
「生きるがよい。だが、ふとどき者よ、宙づりのままでおれ」と告げた。――オウィディウス『変身物語』。
悪い仲間は、犬に似ている。もっとも好きな相手を、もっとも汚すのである。
世間は、一度私たちをひどく扱い始めると、その後は、ますます良心のとがめも、遠慮もなく、同じ仕打ちを続ける。男たちが娼婦にするように。
専制的な権力は、君主にとって、生まれながらに誘惑の的である。若者にとっての酒や女、裁判官にとっての賄賂、老年にとっての貪欲、女にとっての虚栄と、同じことだ。
バッカスの養父シレノスは、いつもロバに乗せられ、頭には角がある。その教訓は、酔っ払いは愚か者に導かれ、妻を寝取られる見込みも大きい、ということである。
美しく、気立てのよい婦人ウェヌスは、恋愛の女神だった。恐ろしいじゃじゃ馬のユノは、結婚の女神だった。そして、二人はいつも、不倶戴天の敵同士であった。
信仰に反対する者は、どうしても愚か者であるに違いない。だから、あらゆる動物の中で、神はロバの初子を受け取るのを拒んだ、と書かれているのである。
女には、ごくわずかな才知があっても、重んじられる。鸚鵡が二言三言、はっきりしゃべるだけで、私たちが喜ぶのと同じだ。
パウサニアスには、都市を敵に売り渡す陰謀が、ロバのいななきによって発覚した、という話がある。鵞鳥の鳴き声は、カピトリウムを救い、カティリナの陰謀は、娼婦によって暴かれた。私の記憶するかぎり、証人や密告者として、歴史上名高い動物は、この三種類だけである。
嘘をつくことは、あれほど広く行われ、あれほどたやすく見えるのに、これまでの付き合いの中で、よくできた嘘を三つ聞いた記憶さえ、私にはない。その才能でもっとも有名な人々からでさえ、そうなのである。
一八〇一年版・第十巻の補遺
イエズス会のための標語。
この世に、われわれの働きで満ちていない土地が、どこにあろうか。
問い。教会は、死者だけでなく、生者の寝所でもあるのではないか。
ハリー・キリグルーは、ウォートン卿にこう言った。「それが神の栄誉になると思っていたら、あなたは、そんなに悪態をつきはしないでしょうね。」
書斎にしまわれ、少数の友人にだけ見せる詩稿は、多くの求婚を受け、あこがれられる処女のようなものだ。だが、印刷され、公に売られると、誰でも半クラウンで買える、ありふれた娼婦のようになる。
フランスのルイ十四世は、よい名声を、大きな名声に変えることに、一生を費やした。
神性と人性の結合は、私たちの信仰の、もっとも重要な教義である。それなのに、神学を論じる著作の中で、人間らしい情けを、まったく欠いている聖職者がいるのは、おかしなことだ。
ローマでは、アウグストゥスの治世に、エピクロス派が広まり始めた。同じように、イングランドでも、チャールズ二世の治世の末ごろには、ソッツィーニ派と、さらにはエピクロス派までが、広まった。その時期は、ひどく馬鹿げたことに、わが国のアウグストゥス時代とされている。どちらも、贅沢と平和、そして礼節の衰え始めによって生じた、腐敗の姿と思われる。
私はときどき、本は楽しく読みながら、その著者を嫌悪することがある。
しばらく前、ある本屋で、『「選択」の作者による詩集』という題の本を見かけた。十数行も読むには耐えられず、一緒にいた人々に、この本を見たことがあるか、あるいは著者が自分の呼び名にした、その詩を聞いたことがあるかと、尋ねた。皆、私と同じくらい何も知らなかった。だが、こうした才知や学問の小商人たちは、最初の冒険から自分の肩書を作るのを、よくやるらしい。ドン・キホーテが、たいてい、直近の冒険から肩書を作ったのと同じである。これは、誰もが自分を、たいそう重要な存在だと思うことから生じる。
一般に批評家と呼ばれる、デニスという男は、フランスの勢力を攻撃する、三ペンスの小冊子を書いていた。田舎にいた折に、フランスの私掠船が沿岸をうろついていると聞くと、海から二十マイルも離れていたのに、町へ逃げ帰った。そして友人たちに、自分の急ぎぶりを不思議に思うには及ばない、フランス王が自分の居場所を突き止め、わざわざ捕まえるために、私掠船を差し向けたのだから、と言った。
ウェストミンスター寺院の参事会員、ジー博士は、教皇派を攻撃する短い文章を書いたことがあった。健康のために旅をせざるをえなくなり、ポルトガル、スペイン、イタリアを通る間、わざと変装し、名前まで変えていた。そして、出会うイングランド人の誰にでも、殺されたり、異端審問にかけられたりするのが怖いのだ、と話していた。パリでも同じ茶番を演じていたが、当時、大使館の書記だったプライアー氏が、意地悪くその秘密を明かし、誰一人、博士を傷つける者はいないし、博士やその小冊子を聞いたことのある者さえいないと、わが身を賭けて保証すると言い出したので、博士はすっかり面食らってしまった。
ロンドンから三十マイル離れたところに住む、私の知り合いの婦人の小間使いも、まったく同じ考え方をしていた。仲間の使用人と話していたとき、彼女はこう言った。「私がお屋敷を辞めること、もうロンドン中で評判になっているそうよ。」新婚の従僕にも、同じ例があった。自分の結婚を、町では何と言っているのか、遠慮なく教えてくれと、仲間に頼んだのである。
ある大臣に、人々が不満を抱いていると告げた者があった。「ふん」と大臣は言った。「半ダースの馬鹿が、コーヒーハウスでしゃべり散らして、自分たちの耳元の騒ぎを、すぐに世間の声だと思い込むのさ。」
一私人の死は、たいてい、世間にとって、これほど取るに足りないものなのだから、それ自体も、たいそう重要なことではありえない。それなのに、人間の実際の振る舞いを見ると、哲学も本性も、死に伴う恐怖に対して、十分な備えを与えてくれたとは思えない。また、死を受け入れる気にさせてくれるものも、激しい苦痛、恥辱、絶望のほかには、見当たらない。貧困、投獄、不運、悲嘆、病気、老年では、たいてい、そこまでには至らないからである。
女に、言い訳を探すなら、エプロンのひもを見ろと言う習慣は、どこから来たのだろう。イヴが身を覆った、いちじくの葉の前掛けからではなかったか。禁じられた実を食べたことに、女として初めて、下手な言い訳をしたときの、あの前掛けから。
人間が邪悪であるのを見ても、私は少しも驚かない。だが、恥じていないのを見ると、しばしば驚く。
私たちが、自分の行いや情念、体の弱さに至るまで、どれほどたやすく許すかは、わかっているではないか。それなら、自分の頭の鈍さを許しても、何が不思議なのだろう。
虚栄ほど、扱うのに細やかさと腕前を必要とする悪徳や愚行はない。また、扱いを誤ったときに、これほど軽蔑すべき姿をさらすものもない。
観察は、老人の記憶である。
滑らかで、切れ味のよい雄弁は、油で研いだ剃刀のようなものだ。
想像上の災いも、それについて思い巡らすに任せておくと、たちまち本物になる。憂鬱な空想にふける者が、壁や羽目板に、顔のようなものを見つけ、鉛筆で二、三筆加えるだけで、自分の思い描いたとおりに、はっきり見えるものにできるのと同じだ。
すぐれた才能の持ち主は、公務の処理で、しばしば不首尾に終わる。想像力がすばやく働くために、普通の道筋から外れがちだからである。私はかつて、このことをボリングブルック卿に話し、その役所の書記たちが、一枚の紙を切り分けるのに、刃の鈍い、象牙のナイフのようなものを使っていることに、目を向けてもらった。あれなら、ただ手をしっかりさせておくだけで、必ずまっすぐ切れる。ところが、鋭いペンナイフを使えば、その鋭さのために、しばしば折り目から外れ、紙を台無しにしてしまうのである。
聖パウロは、「自分の家族を養わない者は、不信者よりも悪い」と言っている。そして私には、自分の家族だけを養う者は、不信者と、ちょうど同じだと思われる。
嫉妬は、火と同じで、角を縮ませることはあるが、悪臭も立たせる。
従僕の帽子は、誰に対しても、さっと脱がれるべきである。だから、ユピテルの従僕だったメルクリウスは、帽子に翼をつけていたのである。
愛を装いながら、金目当てに求婚する男は、あなたのシリング貨を手品で消し、帽子の下へ、たいへん下品なものを忍び込ませる、手品師のようなものだ。
あらゆる賛辞には、芥子の煎じ薬が混ぜてある。
人をからかうことには、なかなか巧みなのに、まじめな主題では、まったく愚鈍な人々を、私は知っている。『聖職者への軽蔑』を書いた、ケンブリッジのエチャード博士は、その著しい一例だった。
パルナッソスの一方の頂は、バッカスに、もう一方は、アポロンにささげられていた。
結婚には、多くの子供がいる。後悔、不和、貧困、嫉妬、病気、憂鬱、嫌悪、その他もろもろである。
幻視とは、目に見えないものを見る技術である。
宮廷の大人物が誰しも守る、二つの格言がある。いつも平然とした顔を保つこと、決して約束を守らないこと。
ある貧しい男に、暮らし向きはどうかと尋ねた。男は、自分は丸い石鹸と同じで、いつも減っていくばかりだ、と答えた。
ヒポクラテスは、『箴言』第六節第三十二条で、どもる者は、いつも腹を下しやすいと述べている。医師に、大勢の人々の、あふれ出る言葉を、下のほうへ移す力があればよいのだが。
ある男が、妻を寝取られる夢を見た。友人は、それは悪い前兆だと言った。ウェルギリウスによれば、真実の夢は、角でできた門を通って来るからである。
恋は炎である。だから、美は人を引きつけると言う。火は、強く吸い寄せるものだと、医師たちが述べているからだ。
キウィス――ローマ人の間では、もっとも名誉ある呼び名だった。「市民」――私たちの間では、軽蔑の言葉である。
浮気を重ね、何人も子供をもうけた婦人が、夫に言った。あなたは、種をまかなかったところで刈り取る、あの厳しい男に似ている、と。
ロバの頭が、銀八十枚で売られたと、書物にある。近ごろでは、一万倍も高く売られている。それなのに、これほど豊富にあった時代はない。
よい手札が来るまでは、カードの切り方が悪いと、文句を言い続けねばならない。
本を読んでいると、それが賢明な本であれ、愚かな本であれ、生きていて、私に話しかけているように思える。
私とは町の別の端に住んでいる者は、誰であれ、この世の外にいる人々と見なしている。この世にいるのは、私自身と、身の回りの光景だけなのだ。
若いころ私は、世間の誰もが、自分と同じように、いちばん新しい芝居の話に、すっかり夢中なのだと思っていた。
クロマーティ卿は、八十歳を過ぎてから、スコットランドの田舎の屋敷へ出かけ、六年間そこにとどまって、倹約して暮らす決心をした。ロンドンで使う金を、ためるためである。
幻の中の馬について、その力は、口と尾にあると言われている。幻の馬について言われていることは、現実には、女について言える。
象は、いつも実物より小さく描かれるが、蚤は、いつも大きく描かれる。
老人たちが、若いころに仲間との間で起きた、いろいろな出来事を語ると、私たちは、当時は今より、なんと幸福だったのだろうと思いがちである。
妹が先に嫁ぐとき、姉が裸足で踊るのは、なぜだろう。背が低く見え、そのため花嫁より若いと思われるためではないか。
忠告を受け取る者は、一人もいないが、金なら、誰でも受け取る。ゆえに、金は忠告よりもよい。
いわゆる「ひょうきん者」で、愚か者でなかった人を、私はまだ知らない。
ある人が、自作の退屈な詩を読んで聞かせたので、私は、そのうち六行を、まとめて消させた。ページをめくると、インクがまだ乾いていなかったため、向かい側の、同じ数の行にも跡がついた。詩人が文句を言ったので、私は、気にするな、そちらの行も消えたほうが、もっとよくなるだろう、と言ってやった。
ウィンザーで私は、女官たちの住む塔には、カラスがずいぶん集まると、ボリングブルック卿に話していた。当時の女官たちは、あまり美しくなかったのである。卿は、腐肉の匂いがするからだ、と答えた。
異なる形で収められた断章
尊厳と地位、あるいは大きな財産は、老人が若者を遠ざけておくために、ある程度必要である。そうしたものがなければ、若者は、年を取っているというだけで、老人を侮辱しがちだからである。
政治術は、腐敗以外の何ものでもない。したがって、よい王や、よい政府には、何の役にも立たない。それゆえ、どこの宮廷も、政治術でこれほど満ちている。
本当に今を生きている人は、ごく少ない。人々は、別のときに生きるための、準備をしているのである。
訳注
第五巻では、この引用は、本編の「宙ぶらりんで暮らすのは、惨めなことだ。それは、蜘蛛の生き方である。」の直後に続く。『変身物語』で、蜘蛛に変えられるアラクネに向けられた言葉。